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雑学の世界・補考   

 
謝罪の歴史 

大東亜戦争 開戦の詔勅 (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
今の憲法では国の交戦権を認めていませんし、天皇が勅令を出すこともありませんが、日本が戦争を起こすときは天皇が開戦の詔勅を発し、講和あるいは終戦の詔勅で、戦争が終結したことを知らせてきたのです。開戦の詔勅には、日本がなぜ他国と戦争するのかという記述が簡潔に書かれてあります。さて、日本はなぜ戦争をしたのでしょうか?日本人から見た答えがここにあります。太平洋戦争の開戦を布告した詔書です。開戦時に官公庁や地方の役所に配付されたもの
太平洋戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)  
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ 勵艶E務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル 皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ 帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ 逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ搴ュシテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復 セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ拐~ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ  u々經濟上軍事上ノ脅威ヲ搗蜒V以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル 帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ~靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ 遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
<読み下し文>   
天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ばんせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に  
忠誠(ちゅうせい)勇武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に示(しめ)す。  
朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せいせん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんことを期(き)せよ。  
抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(かくほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)かざる所(ところ)。  
而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ)と為(な)す所(ところ)なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざし)ならんや。  
中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至(いた)らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜんりん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけい)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。  
米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。  
朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。  
斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。  
皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上(かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せんじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
太平洋戦争開戦  
昭和16年の開戦を人々が知ったのはラジオだった。その年の12月8日は日曜日だった。その日の日本放送協会は、午前6時40分から「武士道の話」という番組を放送していた。それが終わると同7時から開戦を知らせる臨時ニュースを流した。  
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部発表。12月8日午前6時、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり」  
館野守男アナウンサーが緊迫した声で放送した。この日、午前中だけでも開戦を知らせる臨時ニュースが5回放送されている。  
午後は勇壮な音楽放送が行われていた。午後6時半から30分間、「合唱と管弦楽」と題して、軍艦行進曲や海ゆかば、敵性撃滅、遂げよ聖戦などが放送されている。  
同7時になると君が代の後、日本放送協会の中村茂業務局告知課長が、詔書奉読、内閣総理大臣の東条英機陸軍大将が録音で「大詞を拝し奉りて」とした放送が行われている。引き続いて奥村喜和男情報局次長が「宣戦の布告に当りて国民に愬う」と題して、防衛参謀長の小林浅三郎陸軍中将が「全国民に告ぐ」と、開戦の正当性の訴え、戦意高揚をねらった放送が立て続けに行われた。  
この日は開戦関連の放送を聞こうと人々の多くは、ラジオ店の前などに集まっていた。この頃、ラジオの普及率はまだ四五・八%で六六二万四千台余であった。前年の五月に、五〇〇万を突破したばかりだった。またこの年のラジオの生産台数は、八七万六千台でピークに達していた。翌年から終戦まで激減していくことになる。  
この日を境にラジオ放送は、急速に国に統制されていく。そのひとつが放送は原則として東京発の全国中継となり、気象通報や天気予報は中止された。また電波の発信地を解らなくするために周波数を一〇〇〇キロサイクルにしたり、全国を軍管区地域別の5群に分け、空襲警報などの軍情報を地域別に伝達することになった。これらはいずれも、戦争が始まった12月の間に実施されている。  
また軍情報を伝達する目的から、ラジオ放送を一人でも多くの人たちに聞かせようと、同放送協会は「放送局型受信機」(通称・国民型ラジオ)を斡旋している。価格は61円70銭程度だった。  
開戦時、放送協会の放送局は67局あり、職員数5950人にもなっていた。
大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)  
大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。大東亜戦争(対米英戦争)開戦の日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された。  
1942年1月2日に閣議決定され、同月8日より実施。これに伴い、1939年9月から毎月1日に行われていた興亜奉公日は廃止となった。大詔奉戴日は大東亜戦争中は継続するものとされていた。  
大詔奉戴日の趣旨は「皇國ノ隆替ト東亞ノ興廃トヲ決スベキ大東亞戰爭ノ展開ニ伴ヒ國民運動ノ方途亦畫期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戰ノ大詔ヲ渙發アラセラレタル日ヲ擧國戰爭完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス」とされ、興亜奉公日より一層戦時色の強いものとなった。国旗掲揚、君が代吹奏、宮城遥拝、詔勅・勅語の奉読などの他、学校では御真影の奉拝や分列行進なども行われた。  
興亜奉公日で推奨されていた、児童・生徒の日の丸弁当は引き続き実施されたが、戦争末期になると食糧事情が悪化し、日の丸弁当ですら容易に作ることができなくなっていった。  
大詔奉戴日設定ニ関スル件  
昭和17年1月2日 閣議決定  
一、趣旨 / 皇国ノ隆替ト東亜ノ興廃トヲ決スベキ大東亜戦争ノ展開ニ伴ヒ国民運動ノ方途亦画期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラレタル日ヲ挙国戦争完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス  
二、名称 / 大詔奉戴日  
三、日 / 八日  
四、実施項目 / 趣旨ニ基キ大政翼賛会ニ於テ政府ト密接ナル連絡ノ下ニ設定スルモノトス  
五、実施 / 昭和十七年一月ヨリ大東亜戦争中継続実施シ大政翼賛会之ガ運用ノ中心トナルモノトス  
六、昭和十四年八月八日閣議ノ決定ニ依リ設定セラレタル興亜奉公日ハ之ヲ廃止シ其ノ趣旨トスル所ハ大詔 奉戴日ニ発展帰一セシムルモノトス  
天罰発言事件 (天佑天罰事件、天罰天佑事件)
1945年(昭和20年)6月9日に帝国議会で鈴木貫太郎総理大臣によってなされた演説に不適切な語句が含まれるとして、後日の議会で議員より質問がなされ、それに対する鈴木の答弁をめぐって会議が紛糾した事件。
1945年6月9日、第87回帝国議会が招集された。その目的は義勇兵役法と戦時緊急措置法の採択である。議会の招集を推進した内閣書記官長の迫水久常によると、鈴木や海軍大臣の米内光政は当初開催に反対であったという。迫水は、法治国家として今後新たな立法が必要となる一方、交通通信手段に対する戦争の影響で議会を開けなくなることが予想されるため、開会可能な状況で臨時議会を招集し、広範な立法権を政府に委任させるべきと考えた。すでに国家総動員法で行政府に広範な立法委任が認められ、さらに大日本帝国憲法第31条においては天皇による非常大権の規定も存在したが、迫水は「法律によって議会の委任を受けるほうが、民主的である」と考えたと記している。
この日午前10時30分より開かれた貴族院本会議および11時9分から開かれた衆議院本会議で、鈴木は発言を求め、戦争継続を訴える演説をおこなった。その中で、鈴木は「米英の非道」に言及した文脈で以下のように発言した(原文のカタカナをひらがなとし、一部漢字をカナ表記に変更。引用部分全体では貴族院と衆議院で助詞等の細部に違いがあるが、太字の部分はまったく同一である。以下の引用は貴族院での発言)。
「今次の世界大戦の様相を見まするのに、交戦諸国はそれぞれその戦争理由を巧みに強調しておりますけれども、畢竟するに人間の弱点として誠に劣等なる感情である嫉妬と憎悪とに出づるものに他ならないと思うのであります。私はかつて大正七年、練習艦隊司令官として米国西岸に航海いたしました折に、「サンフランシスコ」におきましてその歓迎会の席上、日米戦争観につきまして一場の演説をいたしたことがあります。その要旨は、日本人は決して好戦国民にあらず、世界中最も平和を愛する国民なることを歴史の事実を挙げて説明し、日米戦争の理由なきこと、もし戦えば必ず終局なき長期戦に陥り、誠に愚なる結果を招来すべきことを説きまして、太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告したのであります。しかるにその後二十余年にして米国はこの真意を諒得せず、不幸にも両国相戦わざるを得ざるに至りましたことは、誠に遺憾とするところであります。しかも今日我に対し無条件降伏を揚言しておるやに聞いておりますが、かくの如きはまさにわが国体を破壊し、わが民族を滅亡に導かんとするものであります。これに対し我々の取るべき途は唯一つ、あくまでも戦い抜くことであります。帝国の自存自営を全うすることであります。」— 鈴木貫太郎、『官報』号外1945年6月9日
サンフランシスコ訪問に関する話題は、迫水が演説原稿を起草するに先立ち、鈴木に「何か特別に仰せになりたいことはないか」と尋ねた際、鈴木が「別段、特にないが」と返答しつつ語ったエピソードであった。迫水はこれを、鈴木が「終戦への意図の片鱗を示す一つの機会と考えて」いると解して、演説原稿の中に取り入れた。6月7日の閣議で原稿を提出するとこの箇所に対して議論が起き、下村宏(国務大臣・情報局総裁)・左近司政三(国務大臣)・太田耕造(文部大臣)・秋永月三(内閣綜合計画局長)と迫水の5人で改訂を協議することとなった。その結果、「必ずや(日米)両国ともに天罰を受くべし」という文言を「天譴必ずや至るべし」と変更することでアメリカのみが天罰を受けていると解せる形への修正が決まる。しかし、翌8日以降に演説原稿は元の内容に戻され、そのまま本会議で用いられた。
会議録には両院とも、演説中に不規則発言があったという記録はなく、鈴木が「我らは速やかに戦勢を挽回し、誓って聖慮を安んじ奉るとともに、これら勇士(引用者注:将兵や英霊)に酬(むく)いんことを期するものであります。以上私の信念を披瀝しまして、諸君のご協力を冀(こいねが)う次第であります」という言葉で演説を締めくくると拍手が起きたと記されている。本会議ではこのあと、阿南惟幾陸軍大臣と米内光政海軍大臣による戦況報告に続き「陸海軍に対する感謝決議案」の採択(全会一致)、政府提出の戦時特別法案(両院で対象は異なる)の説明と、議案を審議する特別委員の選出をおこなった。貴族院では質疑や答弁はなかった。一方、衆議院では鈴木・米内・阿南の演説や議案への質疑がおこなわれ、太田正孝・森田重次郎・濱田尚友が質問に立ち、このうち濱田は鈴木が演説において世界の中で昭和天皇ほど世界平和と人類福祉を希求している者はいないとした点を、「神聖な」天皇を他の国の指導者と比較しているように見えると問題視する発言をしたが、「天罰」については言及していない。迫水の戦後の回想では、ある議員は迫水に「総理の真意は判った。しっかりやってくれ」と涙ぐみながら話し、護国同志会所属のある議員は「総理はけしからぬことをいった。内閣をつぶしてやるぞ」と語ったという。迫水は、護国同志会は「軍との連絡が多い立場に立っていた」と記している。
議員からの質問と鈴木の答弁
会議録によると、鈴木の演説から2日後の6月11日に開かれた衆議院戦時緊急措置法案(政府提出)委員会において、質問に立った小山亮が「質問に入ります前に極めて重大なことだと考えておりますので、真面目に厳粛な気持ちでお尋ね申し上げたいことが一つあります」と前置きして鈴木の発言を取り上げ、天皇の詔勅には常に「天佑を保有し」「皇祖皇宗の神霊上にあり」といった発言があり、天佑神助を受けると確信して戦争に臨んでいる国民は「どんなことがあっても天罰を受けようなどという考えは毛頭持っておらないだろうと思う」と述べ、戦争を仕掛けた国が天罰を受けるというのを間違えたのではないか、この発言を残すのでは国民に悪い影響を与えるから打ち消すだけのご釈明を一つ願いたい、と鈴木に求めた。鈴木は答弁に立ったが、後述のように後から発言を取り消したため、会議録は線が引かれているのみである。答弁に対して会議録には「『不敬だ』『御詔勅ではないか』『委員長委員長』と呼び、その他発言する者多く聴取することあたわず」とあり、議場が騒然としたことが記録されている。小山は「ただいまの総理大臣の御言葉は、そのまま聞き逃すことはできない」とし、不穏な言辞を一般国民が口にしたら刑罰を受けかねないのに、総理大臣が演説に引用してそれを問題ないと釈明するのでは国務を任せられない、国体を明徴にするため、総理の国家に対する信念を伺いたいと述べた。委員長の三好英之が質問や答弁を「相当重大なること」として、「責任ある答弁を政府に求める」ために休憩を宣言、約6時間後に再開した。休憩となって国会内の控室に戻った閣僚の多くは「不敬」呼ばわりされたことで意気消沈していたが、鈴木だけは泰然とした態度をしていたという。迫水はこの休憩中に護国同志会をはじめとする議会内各派との交渉や閣内の意見整合を図り、鈴木が発言を取り消して改めて答弁する方向での合意を得た上で再開できたと記している。
休憩後、鈴木は「こと皇室に関することでありまして、非常に大切なことでありますが、言葉が足りませなんだために、大変誤解を生じましたことは、まことに恐懼いたしております」と述べて、答弁につき「全部これを取り消し」、改めて「小山の言うように戦争挑発者(米国)が天罰を受けるという意味だ」「詔勅の『天佑を保有し』という言葉は通常の『天佑神助』と異なる崇高深遠なものだというのが真意で、天罰と並べて使われるようなものではない」と釈明し、そこで再び約30分の休憩となった。
再開した委員会で小山は改めて当日の自分と鈴木の発言をたどり、最初の自分の質問に対する答弁がなされない上、自分は「天佑」と「天罰」を並べて使っていないのに「並べて使ったからこういう答弁をしなければならない」と受け取れるような曖昧な答弁をするのは何事かと食い下がった。小山は鈴木が取り消した発言を再度取り上げ、国体に疑念を抱かせるような発言を取り消しで済むのは問題だと述べたが、委員長の三好から「取り消した発言に議論を重ねるのは議事進行上考慮願いたい」と要求を明確にするように諭されると、「天罰と天佑を並べたと自分がどこで言ったか、という質問への答弁」だと返答した。政府側が答弁しないと三好が伝えると、小山は、立法の一部を政府に委ねるような法案を出そうとしているときに国体問題すら満足に答弁できない内閣では委任できないと述べ、勝ったと言いながら敗勢濃厚になっているようなごまかしを国民は求めていない、答弁できない内閣に質問はしないとして議場を退席した。
小山が所属していた護国同志会は、鈴木の演説や答弁を非難する声明書を出し、その中で「(鈴木の)不忠不義を追及し、もってかくの如き敗戦醜陋の徒を掃滅し、一億国民あげて必勝の一路を驀進せんことを期す」と記した。閣僚内では、議会召集に最初から反対していた和平派の米内海相は内閣を反逆者扱いされたことに怒り、議会の閉会を主張した上、議会への反発から辞意を表明した。迫水によると、米内は護国同志会の罵倒のほかにも議会が法案への修正要求などによって内閣の動揺を誘っているのだから打ち切るべきだと主張し、会期延長による法案成立で閣議がまとまると「皆さん、そんならそうしなさい。私は私は私で善処する。しかし、皆さんには迷惑はかけません」と断言したことで、他の閣僚は辞意と受け止めたという。大日本帝国憲法では首相に閣僚の任免権はなく、海軍大臣が辞職して後任を海軍が指定しなければ総辞職せざるを得なくなる(軍部大臣現役武官制を参照)。このため、阿南惟幾陸軍大臣や鈴木が米内を説得して翻意させ、内閣総辞職は免れた。迫水の回想では阿南のほかに閣内の海軍出身者(左近司政三や豊田貞次郎、八角三郎ら)が説得に当たったが、阿南の慰留が「特に有効に作用した」という。
なお、言論統制と紙面の制約下にあった日本の新聞では、演説の紹介では「両国ともに天罰を受ける」という文章は省略され、小山の質問と鈴木の答弁で委員会が紛糾したことは具体的に報じられなかった(内容に触れずに「質問と答弁のみで休憩に入った」と記された)。
演説と質問の背景
保阪正康は、鈴木は終戦に導いていくために、議会の力を借りるべく、演説のこの発言で和平に向けた真意の理解を求めたのではないかと記している。
半藤一利は、日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて連合国の無条件降伏の主張を変えさせることが演説の目的だったとし、込められた意図が前駐日米大使であり米国国務次官であるジョセフ・グルーや戦争情報局で日本の和平派に向けたメッセージ放送(ザカライアス放送)を短波ラジオで流していたエリス・M・ザカライアスに、同盟通信の古野伊之助や井上勇(ザカライアスの放送に対する質問を、対米短波放送でおこなっていた)によって伝えられていたとしている。
ザカライアス放送では7月7日の第10回で鈴木の演説について取り上げたが、それは「天罰」を含む箇所ではなく、国力の現状について率直に述べた箇所で、その事実に対して演説が「徹底抗戦が唯一取るべき道」という「全く矛盾した結論を引き出した」と指摘し、絶望的な状況を終わらせるために鈴木に対して「日本国民の絶滅や奴隷化を意味しない無条件降伏」を速やかに受け入れるべきだとする内容であった。
小堀桂一郎によると、鈴木の演説はアメリカのワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズにも要約されて紹介されたが、そのいずれにおいてもサンフランシスコ訪問に関する箇所は省略され、「無条件降伏は拒否する」という点に焦点が当てられていた。一方、ニッポンタイムズはその部分を訳出し、またラジオ・トウキョウを通じて演説が伝えられたため、日本側は海外に対して発表を伏せていないという。この点に関して小堀は、米紙がその部分を訳出しなかったのはむしろ国内の戦意低下を恐れて公表を控えたのではないかという平川祐弘の推論を踏まえ、鈴木の真意は和平の意思をアメリカに伝えることだったが、ザカライアスも含めてその意図はアメリカ側とかみ合わなかったと評している。
一方、護国同志会をはじめとする議会側は、徹底抗戦派の陸軍幹部がこの機会に鈴木内閣を倒閣することを望んでいた。護国同志会の一員だった中谷武世は戦後の回想録で「内閣と護国同志会とが、首相の演説をめぐって激突した時点に於て、機を逸せず終戦派との対決姿勢を打ち出し、手遅れにならぬ中(うち)に和平降伏への動きを封ずべきだった」と記している。  
 
終戦の詔勅 (玉音放送)

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク  
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ  
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ  
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス  
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。  
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。  
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。  
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。  
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。  
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。 考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。  
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。  
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。  
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。 
『昭和天皇独白録』書評  
戦後の昭和21年(1946年)3〜4月にかけて、昭和天皇が大東亜戦争の原因と経過、終戦についてご自分の記憶だけを元に語られた独白を、外交官(書記官)の寺崎英成(てらさきひでなり)が書き留めて記録していたものである。  
遠慮なく話せる極めて近しい側近だけを集めた非公開の場での昭和天皇の発言であり、ここだけの話の“内輪の述懐”として語った本音が含められているだけに、主権者とされた天皇自身が先の大戦をどのように認識していたかだけではなく、個別の政治家・軍人の判断や行動についてどう思っていたのかという『戦時中には決して語られなかった対人評価の思考・感情(率直にいえば人物に対する好き嫌いも含む)』が残されているのは興味深い。  
本書第1巻の冒頭では、『合計五回、前后八時間余に亘り大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を松平宮内大臣(慶民)、木下侍従次長(道雄,藤田侍従長は病気引篭中)、松平宗秩寮総裁(康昌)、稲田内記部長(周一)、及寺崎御用係の五人が承りたる処の記録である、陛下は何も「メモ」を持たせられなかった』と本書が作成された昭和天皇へのインタビューの由来が記されてある。  
大日本帝国憲法下における天皇は主権者(軍統帥権の総覧者)であり、人間を超越した宗教的な現人神(神聖不可侵の血統者)として国民に教育されていたため、現代からの印象としては政治家であろうと軍人であろうと天皇が命令を下せば簡単に服属させられるようにも思う。  
だが、国家の政情を支える根本が『国民感情・国民教育・世論』であること(国民の大多数が好戦性・軍礼賛・反米意識・現状の不満を持っていれば天皇であってさえもその国内世論に反対することは不可能なこと)を天皇は知悉していた。  
それもあって、日独伊の三国軍事同盟+日米開戦に対して天皇はそれに全面的賛同はしかねるといった懸念・注意・示唆を臣下に幾度か示しながらも、はっきりとした戦争反対の意思表明を敢えてしなかったのではないかと感じられる。  
1930年代からは特に国家が総力を上げて、“国民皆兵・富国強兵・滅私奉公・アジア進出”を可能とする『戦争・戦死に適応可能な国民の愛国教育』を続けてきたのだから、天皇がいくら現人神としてのオーラをまとっていても個人として急に『アメリカやイギリスとの戦争は回避すべき(ドイツやイタリアに接近し過ぎてアメリカとの不可避な決戦図式を強調することは危険である)・軍や内閣が行おうとしている軍事政策は朕の意思に背いているので阻止したい』と発言すれば、国内情勢をクーデターが起こりかねない非常に不穏な空気にする危険性が十二分にあった。  
無論、昭和天皇が対話重視の協調主義的な外交戦略(特に英米との戦争の回避・日中戦争の早期講和)をすべきと本心では思っていたのに、どうしてそれを実際の政治に反映させる強い意思を示さなかったのかの最大の理由は、戦時中にあっても明治維新以来の天皇の位置づけは『専制君主・君主親政』ではなく『立憲君主・内閣と議会の決定の正当性を担保する権威』であったからである。  
昭和天皇は東条英機内閣が日米開戦の決定(真珠湾攻撃の追認)をした時にそれを速やかに裁可したが、このことについて立憲君主である天皇の承認・裁可の作業が原則として『拒否権を持たない事務的作業』であることを訴えてやむを得なかったのだと語っている。  
現代日本の日本国憲法下の立憲君主的な天皇制に置き換えても明らかだが、天皇が首相・内閣・国政・議会の決定などに対して、『それは朕の意思に沿わないから改めよ』と命令する権限は戦前の天皇であっても基本的にはないのである。  
一方、戦前の天皇は絶対権威者としての『現人神』に位置づけられており、政治家・軍人の上層部であってもそのご発言に対して軽々に否定・批判することはできなかったし、天皇が本気で『お前の政策や行動は絶対に許されない』と言えば、前近代的な宣旨・綸旨としての効力を持ち得た可能性はある。天皇自身は『現人神のフィクション』について拒絶的であり、私は普通の人間と同じ解剖学的構造を持っているのだから神などではなく人間であるという科学的(常識的)な自己認識についても語られている。  
昭和天皇は前近代的・人治的な専制君主としての像・力を自ら否定して(現神としての宗教的な神聖君主像の流布にも冷ややかな態度であり)、近代的な立憲君主としての権威・責任の役割を果たさなければならないという意識を強く持っていたことが本書の複数のエピソードから伺われるのは趣き深いところではないかと思う。
昭和天皇が臣下の首相・軍人に対して例外的に自分の意思を示して命令や指示、賛否表明をした事例としては、『張作霖爆殺事件(1928年)に対する軍法会議の処分を怠った田中義一内閣の総辞職』『上海事件(1932年)における白川義則大将に対する停戦・戦線不拡大の指示』『ポツダム宣言受諾と終戦決定の御前会議における御聖断(1945年)』などがある。  
天皇は『満州事変』を拡大して日中全面戦争に突入する契機になりかねなかった『上海事件(上海占領)』において、軍部上層の命令には従わず自分の私的な停戦命令(勝っていても軍を進めない戦線不拡大の命令)を忠実に履行した白川義則大将を忠臣として賞賛する歌を贈っているが、当時は天皇が中国進出の戦争に否定的であるという誤解が広まってはならないとして、この歌の存在は侍従武官によって隠匿されることになった。  
天皇は『満州事変の拡大+日中戦争の広域化』を非常に警戒して陸軍(関東軍)を何とか牽制したいとも思っていたが、その理由は中国大陸の懐の深さもあるが、それ以上に満州という北部の田舎だけへの進軍に留まるならまだしも、北京・南京・天津といった中国主要都市への進出を強引に進めれば必ず英米の強力な干渉を招いて、中国だけでなく英米も敵に回した泥沼にはまる(そういった日本の大陸進出・占領拡大を英米は戦争の大義名分として逆に手ぐすね引いて待ち受けている可能性がある)との警戒であった。  
満州事変を主導した石原莞爾は、事変の拡大による日中戦争への突入に反対していたが、陸軍省・軍務課長だった武藤章は石原に対して『かつて閣下が行った事変と同じことをしているのです』と嘯いて、事変を南京攻略・漢口攻略へと段階的に拡大していってしまった。  
この辺りの日中戦争泥沼化につながっていく歴史の転換点において、昭和天皇は一貫して蒋介石政権との早期講和を希望していてドイツのトラウトマン工作による『日本有利な日中講和』に期待をかけていたが、松井石根(まついいわね)軍司令官の強硬論に陸軍・参謀本部はのっかってしまい、引き返すことのできない『南京攻略』へと更に中国進出の度合いを深めてしまったのである。  
この時点で、トラウトマン仲介における日中講和が実現していれば、蒋介石も乗り気であったと伝えられる所から、現在日中関係の歴史認識の対立の原因になっている『南京虐殺』も起こらなかったといえる。その意味においても後付けにはなるが、松井石根司令官の勢い・好機を逸せずに南京を攻略すべしの意見具申は、中国人の抗日戦争のナショナリズムに着火して、戦線の収拾を困難にする正に歴史の転換点となった。  
東条内閣における日米戦争の決定については、アメリカ主導のABCD包囲網による石油輸出禁止の締め上げが日本を戦争に駆り立てる主な誘因となったが、『陸軍の主戦論+東条英機・杉山元・永野修身の戦争論』は当時の日本の圧倒的なマジョリティの世論と国粋主義の後押しを受けていたもので、対米戦争に抑制的であった近衛文麿や豊田貞次郎、米内光政などはその意見を大々的に述べることも困難であった。  
昭和天皇は東条英機という陸軍に影響を振るい得る主戦派の人物に対して、『天皇に対する忠誠心』を過大に評価したところもあるが、ポスト近衛文麿の首相となった東条に対して『時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふということ=戦争やむなしに傾いた9月6日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になるように極力尽力せよ・陸海軍の協調体制を築いて日米開戦を回避せよ』という大命を含ませていたという。  
だが結局、東条は元々が主戦派でもあり天皇の内意に従うことはできず、陸軍の圧力もあったが日米開戦不可避の政局に流されて真珠湾攻撃で戦端を開くのである。  
戦前の日本の政治体制の問題点としての『シビリアンコントロール(文民統制)の機能不全・議会の前線への影響力低下・大本営の独断専行と報道統制・極端に敵愾心や滅私奉公を煽った国民教育(国民精神総動員)』なども合わせて考える必要がある。  
また議会政治が軍部によって実質的にのっとられてしまったような恰好になった原因の一つが『現役武官制(陸軍省・海軍省の大臣には今で言う制服組の現役武官しかなれないルール)』における陸海軍の大臣の出し渋り(軍の意向に従わないのであれば内閣を構成する大臣を出さずに議院内閣制を停滞させるという脅し)にあったことも留意しておきたい点である。  
昭和天皇は日本人の国内世論について、『多年にわたって錬磨してきた精鋭なる日本軍を持ちながら、米国の強硬な要求(近代日本の戦争成果の多くの放棄の要求)に対して戦わずしてむざむざと不利な妥協(国民には屈服と映る妥協)をしたほうが良いという平和論を唱えたならば、国内のナショナルな与論が沸騰して必ずクーデター(政権転覆ないし天皇暗殺)が起こっただろう』と述べている。  
この日米開戦と天皇の本音のエピソードについては、ジョン・ガンサー『マッカーサーの謎』に以下のような記述があるのだという。  
「天皇は今度の戦争に遺憾の意を表し、自分は『これを防止したいと思った』といった。するとマッカーサーは相手の顔をじっと見つめながら、『もしそれが本当とするならば、なぜその希望を実行に移すことができなかったか』とたずねた。裕仁の答は大体次のようなものだった。『わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押しこめておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう』と」  
似た内容になるが、なぜ昭和天皇が基本的には『戦争反対+三国同盟反対の英米協調主義(交渉戦略重視の平和主義)』の理念を内心に抱えながらも、アメリカとの太平洋戦争の開戦に際して明確に“ノー”と言わなかったのかの理由について、本書では天皇自らが“ベトー(天皇大権に依拠した絶対拒否権)”という概念を用いて以下のように述べている。  
今から回顧すると、最初の私の考は正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し『クーデター』様のもの(=注記。終戦反対・玉音放送阻止・録音盤強奪のための陸軍の徹底抗戦派による宮城襲撃事件)が起こった位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が『ベトー(拒否)』を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。  
日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍ら愈々(いよいよ)と云ふ時に蹶起(けっき)を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作って之に補給しよーとすれば、日本の産業を殆ど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。  
開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であったのだから、私が若し開戦の決定に対して『ベトー』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであらうと思ふ。  
反米から親米へと価値観が180度転換してゆく戦後において昭和天皇の口から語られたことであるので、『昭和天皇独白録』に記録された内容がすべて客観的な史実や中立的な人物評価であるという保証もないとは言えるが、立憲君主制下における天皇(君主)の影響力・役割の限界と葛藤・苦悩が伝わってくる内容である。  
近年は自公政権下(安倍政権下)において、集団的自衛権・積極的平和主義(自衛隊の海外派遣による国際支援活動・武器使用要件・機雷撤去要件の緩和)を中核とした『安保法制の大改革』が進められており、実質的な改憲と言っても良いほどの安全保障体制の急転換が起こっている。  
昭和の戦争の歴史や軍部の振るった政治への影響力を、昭和天皇の言行録を下に振り返ってみた時に思うのは、“専守防衛・災害救助・国際協力(平和維持活動)”に徹してきた戦後日本の自衛隊のあゆみは理念としても国民の安全保護においても概ね正しかったということであり、“日米安保条約による抑止力”の恩恵を受けていた側面はあっても日本自身が『敵対国に定めた国の人々を殺傷する軍事作戦』に直接的に関与しなかったことの国際的信用は大きいということである。  
自衛隊を軍隊(国防軍・日本軍)に変更したい、自衛隊は国際的には軍隊として認識されているのだから自衛隊という名称にこだわる必要はないという論調は、安倍政権の安保法制に関心の強い議員に多く見られるが、自衛隊と軍隊との違いは『国際的・法律的な他律の定義』にあるというよりも、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)を経験した日本が『武力による問題解決(武力で外国人を威圧・殺傷することによる問題解決)』を放棄して国際協力を進めるという決意・意識の転換にあったと見るべきではないだろうか。  
外国に合わせて自衛隊から軍隊への名称変更を進めたり、自衛隊の武器使用要件を弱めたり戦闘に参加しやすくしたりして戦場の前線(形式的には後方支援とされるが)に出ることよりも、戦後日本が外国に対する威圧・殺傷を一切してこなかった自衛隊のような『軍隊の持つ役割・使命の平和化』を国際的に広めていくことのほうが本質的に価値のあることだろうと思うのだが。  
反省  
一般的には自分がしてきた行動や発言に関して振り返り、それについて何らかの評価を下すこと、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること。あるいは自己の心理状態を振り返り意識されたものにすること。  
自分が正しいと思ったとき人は反省しない。軽い気持ちかもしれないが、 人にはそういう紛争の種が潜んでいはしないか。放っておくと危険だろう。  
ジョン・ロックは反省を、外的対象に向けられる感覚に対して、意識の働きに向けられた内的感覚と考えた。  
哲学史において、アリストテレスは感覚を五感に制限して内的感覚を否定したが、プラトンは、「精神の目」を認めていた。カントは、これを「内的直観」と呼び、ヘーゲルは反省を、相関的な関係を持った二つのものの間にある相互的反射関係を示すために用いた。  
「振り返って考えることのほかに、過去の自分の言動や行動、考え方に対して、その過去から現在までに得た知識・情報を元に過去の自分のありかたを鑑み、将来に渡って、悔い改め改善しようとする気持ち、これがなければ人間的成長はない。」
謝罪  
自らの非を認め、相手に許しを請う行為である。謝罪する側される側共に個人単位、団体単位、国家単位など様々な規模があり、謝罪する理由は本心からのものと、戦略的なものに分けられる。一般的には頭を下げるなどをして謝罪の意思を表す。謝罪は謝罪をする人の社会における地位や影響力、性格、価値観、土地の風習、文化、国際的であるかどうかなどで、具体的な行為は種々さまざまである。  
歴史問題における謝罪 / 歴史問題における謝罪は主に国家が行った戦争や紛争、政策による被害者とされる側への謝罪である。不祥事等と較べ謝罪の必要性や加害者、被害者の定義が曖昧である為、加害者とされる側が謝罪を示したとしても被害者とされる側からは「謝罪ではない、謝罪が十分ではない」と批判されることがある。逆に加害者とされる側は謝罪すること自体を「弱腰、自虐的なこと」と批判することがある。
遺憾  
一般には、「思い通りに事が運ばなくて残念だ」という意味で、期待したようにならずに、心残りに思うこと。残念に思うこと。英語では、regret、shame、indifferentなどの表現で表される。「遺憾の意を示す」ということは「残念である」という意味で、謝罪をしているわけではない。  
外交における「〜は遺憾である」という声明は「〜は為されるべきではなかった」という見解の表明として使われている。相手の行為に対する言及であれば非難となり、第三者の行為に対する言及であれば旗幟の表明となる。ただし、いずれの場合も劇的な対処を行わず事態を収拾せんとする意向を暗示するものであることが多い。  
本来の意味とは違い、英語の表現では、express regret、あるいはexpress concernなどが用いられるため、外交表現においては、その言葉の中に直接語られていないものの、暗黙の内に示唆されている部分に真意が隠されていることが多く、これを読み誤ると外交関係の中での対話の意味を取り違えることになる。  
特に政治関係において都合よく多用される表現であるが、本来の意味で解釈すれば、かえって相手に不快感を与えるものであるため、注意が必要である。  
もともとこの用語は日本政治の慣用語であり国際外交の場では意味不明なものでしかなかったが、昭和40年代に日本が表明として使ったことがあり、この言葉の微妙さが話題になった。現在では他の国の表明においても、遺憾の意を表したなどと伝えられることも多い。  
懺悔1  
宗教における神、聖なる存在の前にて、罪の告白をし、悔い改めることをいう。  
仏教における懺悔  
仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。  
天台宗懺法  
天台宗の法要儀式には懺法(せんぼう)と言うものがある。懺法とは、自ら知らず知らずの内に作った諸悪の行いを懺悔(さんげ)して、お互いの心の中にある「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒を取り除き、自分の心をさらに静め清らかにする儀式である。12世紀中頃には宮中行事の一つでもあった。  
『吾妻鑑』の記述には、12世紀終わりの正治2年(1200年)2月2日条に、頼朝没後、将軍家北条政子が法華堂において法華懺法を始行せられる、という記事が見られる。武家の政道が始まり、約15年後には懺法が行われていた事になる。  
法華懺法 - 法華経を読み儀式を行う。天台宗懺法もこの分類に入る。  
観音懺法 - 観世音菩薩を本尊として儀式を行う。  
阿弥陀懺法  
吉祥懺法  
また、懺法と同様に、懺悔する儀式に悔過(けか)がある。記述例として、『日本書紀』皇極天皇元年(642年)6月25日条に悔過を行った記録があるが、その理由は、雨乞いのために牛馬を生贄に出したが効き目がなかったので、仏の教えに従って悔過をして雨乞いしたというものである(道教的儀礼から仏教的儀礼を採用した形である)。  
修験道  
仏教の影響を多分に受けた修験道においても懺悔は行われ、山祇(山神)の好む秘密告白と祓えとの一分岐である。懺悔をする対象が直接的であり、修行の一環でもある(この点において、仏教ともキリスト教とも異なる)。  
キリスト教における懺悔  
キリスト教では「ざんげ」と読み、その影響からか、現在では「懺悔」の読み方は一般的には「ざんげ」となっている。  
「懺悔」は聖公会などで多用される語彙であるが、キリスト教の全ての教派で日常的に使われる表現ではない。カトリック教会での秘跡は「ゆるしの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。  
懺悔2  
仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来は「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。
懺悔3  
真の懺悔の行いとは、単なる罪の告白ではなく、仏性を洗い出し、仏性を磨き上げることです。  
仏教ではすべての人に仏性があり、どんな悪い人でも仏の心をもっていると説いています。しかし、残念なことに人がよい行いを続けるのは容易なことではありません。思い違い、心得違いで知らずにたくさんのあやまちを犯し、欲の心、愚痴、不平や怒り、そして怠けなどで人はまわりに心配や迷惑をかけてしまいます。人間はよい行いよりも、つい悪い行いをしてしまい、せっかくの素晴らしいこころを持っていても、しだいに汚れてしまうのです。こころが汚れてくると人の話に耳を貸さず、人の悪口を平気で話し、悪い考えや行いなどをしてしまいます。人と人との関係に不協和音を生じさせ、争いや苦しみをつくってしまうのです。そして、自分やまわりの人たちを不幸にしてしまいます。  
そのような原因になる心の汚れを落とし、輝きをよみがえらせることが出来れば自分やまわりの人たちも幸せになり、さらには神仏の御心にかなうことができるのです。そのためには、悪いことをしたら、見栄や体裁を捨てて、自らの非を率直に認め、素直にわびることです。そして、汚れの元がなににあるのか、自分の心を省みて、自覚し、あやまちを繰り返さないことが大切なことです。  
仏教の「懺悔」 4 
法(ダルマ)という概念はとっても多岐に渡っているので、所謂法律もダルマだし、仏法 もダルマですね。ところで仏法における法律は何かというと、戒律です。 法律は犯せばもれなく罰則(ペナルティー)がついてきますが、戒律はそうとは言えませ ん。  
仏教の戒律において最も思い罪は「波羅夷罪」です。 これには4つありますので、四波羅夷と言います。この筆頭に来るのが「婬戒」です。 あとは「盗戒」「断人命戒」「妄説得上人法戒(=大妄語戒)」と続きます。仏教の戒律は破っても罰則と言うほどのものはありません。 布薩で懺悔すればいいのです。 敢えて言うなら、衆僧の前で告白して懺悔するのが罰ということになりましょうか。しかし、波羅夷罪は不可悔罪で、懺悔を許されません。 波羅夷罪を犯した比丘は不共住、つまり僧伽を追放されます。但し、婬戒には例外があります。  
この「懺悔」(が罰則である)という思想は、仏教の特徴をよく表していると思います。  
第1項 贖罪  
欧米でしたら罪を犯したときに求められるのは「贖罪」です。簡単にいうと「目には目を、歯には歯を」というヤツです。要するに、相手に詫びるために、その損害に代わる何らかの代償を提供することによって、相手の許しを得ます。こういった考えが近代法学の出発点になっていると思います。ですから法律を違犯すれば、慰謝料や罰金を払ったり、応報刑(ではないと主張する人もいるけれど、実質的には応報に相当するのではないでしょうか)を受けることになります。  
第2項 懺悔  
懺悔(デーサナー)には、損害を与えてしまった相手に対して許しを請うというような意味はありません。自己の犯した罪を他人の前に告白して、それによって罪を清めるのが目的です。戒律を犯してしまった場合、損害を与えた相手に対して懺悔をするのではなく、罪に穢れていない「清浄な比丘」の前で懺悔をします。自己の罪を発露し、再び犯すまいとの決心を表明すれば、懺悔を受ける「清浄比丘」は犯戒比丘の懺悔を受け入れます。それによって懺悔は成就します。布施が見返りを求めない施しであるように、懺悔もまた罪に対して代償を要求しないのです。  
第3項 懺悔の目的  
これはどういうことかというと、罪を犯してそれを隠しておくということは一種の苦痛です。心の重荷になっています。誰かに言ってしまえば楽になることってありますよね?そして心を汚す行為です。よって、自己の犯した罪を清浄な他者に告白し罪を公にすれば、私している(自分だけの秘密にしている)ことによって重荷になっている罪を解消することができるのです。それによって罪の汚れから自己の心が開放されます。  
心の開放ということが仏教の目的の一つですから、犯戒する(罪を犯す)ということは相手に迷惑をかけたかどうかということよりも、自分の心が汚れたかどうかに重点があるということになります。ですから、相手にどう償うかということは問われないのではないでしょうか。あくまで、犯戒した自分をまず認め、そしてその自分がどうあるべきか、ということが主眼なのでしょう。   
戦争責任論争
 帝國憲法第五十五條と昭和天皇の御聖断
昭和20年(1945)8月14日午前10時50分から始まった御前会議において、昭和天皇に対し、鈴木貫太郎内閣総理大臣は、閣議では約八割五分がポツダム宣言およびバーンズ回答の受諾に賛成しているものの全員一致を見るに至らず、重ねて叡慮を煩わせる重罪を陳謝した後、改めて反対の意見ある者より親しく御聞き取りの上で重ねて御聖断を仰ぎたい旨を申し上げた。
昭和天皇は内閣国務各大臣の輔弼に依り大権を行使する立憲君主であったから、鈴木総理大臣の助言を受け容れ、御自身の御考えを述べられた上でポツダム宣言およびバーンズ回答の受諾を表明された。
しかし昭和天皇の御聖断が我が国の国家意思として確定するには、昭和天皇が臣民に我が国がポツダム宣言を受諾し連合国に有条件降伏することを告げる所謂「終戦の詔書」に鈴木内閣閣僚全員の副署(同意のサインつまり承認)が必要であった(大日本帝國憲法第五十五條および内閣官制第五條)。 
そこでソ連の勢力拡大に奉仕する革新将校の巣窟であった陸軍省軍務課の竹下正彦中佐が御前会議の終了後、阿南惟幾陸軍大臣の元に駆けつけ、阿南陸相に「辞職して副署を拒んでは如何」と進言した。この進言に動揺した阿南陸相は、林三郎秘書官に辞職の用意を命じたものの、すぐに翻意して辛うじて辞職を思いとどまり、同日午後7時20分から始まった閣議において他の閣僚とともに詔書に署名した。
かくして昭和天皇の御聖断は終戦の詔書として実施の効力を得、我が国の国家意志として確定したのであった。まさに我が国の土壇場であった昭和20年8月14日の昭和天皇の御聖断ですら、輔弼を担当する内閣国務大臣の副署を得なければ、我が国の国家意志として国策の最終決定として有効にならなかったのである。
「大臣の副署は二様の効果を生ず。一に、法律勅令及び其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の効力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく、外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。二に、大臣の副署は大臣担当の権と責任の義を表示する者なり。蓋し国務大臣は内外を貫流する王命の溝渠たり。而して副署に依て其の義を昭明にするなり。」(伊藤博文著大日本帝國憲法義解第五十五條解説)
帝國憲法第五十五條「国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず 凡て法律勅令その他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す」はこれほど厳重に天皇の統治権行使を制限するのである。
だから帝國憲法はその代償として天皇を無答責(法的政治的無責任)の地位に置き(憲法第三條、天皇の神聖不可侵)、天皇を輔弼(助言)し、天皇が裁可し公布する法律勅令その他国務に関る詔勅に副署(同意)する国務大臣に天皇に対する直接的責任と人民に対する間接的責任を負わせるのである。
従ってポツダム宣言受諾の責任は、昭和天皇に御聖断を仰いだ内閣総理大臣と終戦の詔書に副署した内閣閣僚に有り、昭和天皇には無い。開戦の責任も同様である。
帝國憲法の第四條と第五十五條が立憲君主制と国務大臣輔弼副署制を明規している以上、昭和12年3月に文部省が発行したパンフレット「国体の本義」が天皇を現人神と尊称しようが、昭和天皇は独自に如何なる法律勅令その他国務に関る詔勅も制定できない立憲君主であった。
そして帝國憲法の第三條と第五十五條が天皇の無答責と国務大臣の責任を明規している以上、戦時中に昭和天皇が臣下の者と如何なる質疑応答を交わそうが、昭和天皇は敗戦責任を負わない。
支那事変を大東亜戦争に発展させ我が国を敗戦に導いた責任は、1937年7月7日の盧溝橋事件の勃発から1945年9月2日のポツダム宣言の正式調印まで天皇を輔弼する国務大臣に就任した政治家および軍人に有るのである。とくに近衛文麿の責任が最重大であることは筆者が論証した通りである。
「大臣政事の責任は独り法律を以て之を論ずべからず、又道義の関る所たらざるべからず。法律の限界は大臣を待つ為の単一なる範囲とするに足らざるなり。故に朝廷の失政は署名の大臣其の責を逃れざること固より論なきのみならず、議に預かるの大臣は署名せざるも亦其の過を負わざることを得ざるべし。専ら署名の有無を以て責任の在る所を判ぜむと欲せば、形式に拘り事情に戻る者たることを免れず。故に副署は以て大臣の責任を表示するべきも副署に依って始めて責任を生ずるに非ざるなり。」(伊藤博文著大日本帝國憲法義解第五十五條解説)
敗戦責任の所在は明白であり、帝國憲法第五十五條の解釈は無法で不毛な戦争責任論争に終止符を打つのである。
 
謝罪の歴史1 1965〜1969

 

1965年6月22日 - 椎名悦三郎外務大臣
(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)  
[通称、日韓基本条約 / 1965.06.22署名 / 1965.12.18発効] 
日本国及び大韓民国は、両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望を考慮し、両国の相互の福祉及び共通の利益の増進のため並びに国際の平和及び安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、一九五一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び一九四八年十二月十二日に国際連合総会で採択された決議第百九十五号(III)を想起し、この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よって、その全権委員として次のとおり任命した。  
日本国   日本国外務大臣 / 椎名悦三郎 ・ 高杉晋一  
大韓民国 大韓民国外務部長官 / 李東元 ・ 特命全権大使 / 金東祥  
これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。  
第一条【外交・領事関係の開設】  両締約国間に外交及び領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。  
第二条【旧条約の無効】  千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓民国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。  
第三条【大韓民国政府の地位】  大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。  
第四条【国連憲章の原則】 (a)  両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。(b) 両締約国は、その相互の福祉及び共通の利益を増進するに当たつて、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。  
第五条【通商交渉の開始】  両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、条約又は協定を締結するための交渉を実行可能な限り速やかに開始するものとする。  
第六条【民間航空交渉の開始】  両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限り速やかに開始するものとする。  
第七条【批准・効力発生】  この条約は、批准されなければならない。批准書は、できるだけ速やかにソウルで交換されるものとする。この条約は、批准書の交換の日に効力を生ずる。  
以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。  
一九六五年六月二十二日に東京で、ひとしく正文である日本語、韓国語及び英語により本書二通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。  
日本国のために    椎名悦三郎 高杉晋一  
大韓民国のために  李東元   金東祥  
日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 [通称、日韓基本条約]  
1965年(昭和40年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。日本の韓国に対する莫大な経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化などが取り決められた。なお竹島(韓国名独島)問題は紛争処理事項として棚上げされた。
条約交渉までの経緯  
「対日戦勝国」としての請求  
1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。  
日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。  
1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した。  
また韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結時も戦勝国(連合国)としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた。  
1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問は梁駐米韓国大使に対して「日本と戦争状態にり、かつ1942年1月の連合国共同宣言の署名国である国のみが条約に署名するので、韓国政府は条約の署名国にはならない」と述べた。梁駐米韓国大使は「大韓民国臨時政府は、第二次世界大戦に先立つ何年も前から日本と戦争状態にあった」と反論した。アメリカは「朝鮮は大戦中は実質的に日本の一部として日本の軍事力に寄与した」ため、韓国を対日平和条約の署名国からはずした理由とした。  
韓国側はこうしたアメリカ側の判断を受け入れがたいとみなし、韓国側は「韓国の参加を排除したことは非合理性が犯す非道さの極まり」と非難した。兪鎮午日韓会談代表は1951年(昭和26年)7月30日に発表した論文で「韓国を連合国から除外する今次の草案の態度自体からして不当だ。第二次世界大戦中に韓国人で構成された組織的兵力が中国領域で日本軍と交戦した事実は韓国を連合国の中に置かねばならないという我々の主張の正当性を証明している。」と主張した。  
1951年9月8日の日本国との平和条約調印式に韓国の参加は許可されなかった。  
一方、参加リストから外された後も韓国はアメリカに使節団を派遣し、解放後の朝鮮における日本の公共私有財産の没収について書かれた米軍政庁法令33号「朝鮮内にある日本人財産権取得に関する件」の効力を確認するなど、対日賠償請求の準備をすすめていた。  
韓国の主張に対し日本側は、韓国を合法的に領有、統治しており、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対して戦争賠償金を支払う立場にないと反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル、大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル)の返還を請求する権利があると主張した。  
しかし、1951年7月25日付け大韓民国駐日代表部政務部作成の「説明書」には、「大韓民国が日本に要求する賠償は、上記のような戦闘行為を直接原因とした点は至極少ない」とあり、また「韓国併合条約が無効であるとして、そこから発生した当時までの被害を一括して賠償というのも難しい」とされていた。  
アメリカ合衆国の仲介  
日韓交渉の背後には1951年7月頃からアメリカ政府の主導があったことが知られており、当時の李承晩大統領が韓国を「戦勝国」としてサンフランシスコ講和条約に参加することを求めたものの、第二次世界大戦当時には既に朝鮮半島が日本の統治下にあり、日本と交戦する関係になかったために「戦勝国」として扱う根拠がないことからアメリカやイギリスをはじめとした連合国側から拒絶され、「当事国」になることができなかった。  
1951年9月の日本国との平和条約調印後、サンフランシスコ講話会議に参加することが許可されなかった李大統領は、日本政府との直接対話を希望し、アメリカの斡旋で日韓は国交正常化交渉に向けて、1951年10月20日に予備会談を開始した。会談は東京の連合軍最高司令部(SCAP)でシーボルド外交局長の立会いのもとに行われた。
日韓会談  
昭和26年(1951年)10月20日の交渉から1965年の日韓基本条約締結までの会談を日韓会談、日韓国交正常化交渉という。交渉では、日韓併合により消滅していた国家間の外交交渉の回復方式、「李承晩ライン」以降韓国が不法占拠を続けていた竹島(独島)をめぐる漁業権の問題、戦後補償(賠償)の問題、日本在留の韓国人の在留資格問題や北朝鮮への帰国支援事業の問題、歴史認識問題、 文化財返還問題など多くの問題を含んでおり、独立運動家として日本を敵視し続けていた李大統領の対日姿勢もあり予備交渉の段階から紛糾した。しかし、最終的には冷戦での安全保障、アメリカの希望もあり、合意にいたった。韓国は当時「戦場国家」であり、日本は「基地国家」であった。
会談直前  
予備会談  
1952年1月9日、日韓会談直前の予備会談で日本側から「日韓の雰囲気をよくするため」の文化財返還が提示された。  
李承晩ライン  
李承晩は対話の前提として、まず日本の謝罪、「過去の過ちに対する悔恨」を日本側が誠実に表明することが必要であり、そうすることで韓国の主張する請求権問題の解決にうつることができるとした。しかし、日本側は逆に日本も韓国に対して請求権を要求できるとのべ、反発した李承晩は報復として、日韓会談直前の1952年(昭和27年)1月18日、韓国は一方的に日本海に軍事境界線の李承晩ラインを宣言する強硬政策に出た。
第1次会談  
第1次会談は1952年2月15日-4月25日に行われた。請求権問題、日韓併合条約(旧条約無効問題)、文化財返還などが議題となった。  
1952年2月20日の第1回請求権委員会で韓国の林松本代表は「日本からの解放国家である韓国と、日本との戦争で勝利を勝ち得た連合国は、類似した方法で、日本政府や日本国民の財産を取得できる」と述べ、日韓会談は日本側がこの主張を認めるか否かにかかっていると日本に警告し、韓国は連合国と同等の権利を持ち、朝鮮半島に残された日本財産没収の正当性を主張した。韓国は、日本国との平和条約第14条の「日本国が、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきこと」、また各連合国が日本の財産を差し押え、処分する権利を有することなどを請求権の根拠とし、自らを連合国の一員と位置づけることで日本から利益を得ようとしていた。  
1952年2月21日の第1回財産請求権委員会で韓国側が韓日財産及び請求権協定要綱で「韓国より運び来りたる古書籍、美術品、骨董品、その他国宝、地図原版及び地金と地銀を返還すること」と提示された。これについて韓国側は2月23日、「不自然な方法、奪取のごとき、韓国民の意思に反して搬出された」と規定した。  
1952年3月5日の第4回基本関係委員会で韓国「大韓民国と日本国間の基本条約(案)」を提出したが、その第3条は「大韓民国と日本国は1910年8月22日以前に旧大韓帝国と日本国の間で締結されたすべての条約が無効であることを確認する」となっていた。  
1952年3月10日の第5回請求権委員会で日本側がインドは独立後もインド国内にあった英国の財産を認めたと述べたところ、韓国側は「太平洋戦争で日本が無条件降伏したことにより韓国が解放されたのだからインドと英国の関係とは違う」と述べ、イギリスとの合意の下に独立したインドと、日本の敗戦によって解放された韓国は違うし、韓国は日本と敵対した結果独立したと主張した。  
1952年3月12日の第5回基本関係委員会で日本側は、「日本と大韓帝国との間のすべての条約と協定はすでに消滅しているのだからこのような条項を挿入することは無意味である。」などとして削除を要請した。韓国側は「1910年以前の条約は意思(民族の総意)に反して行われたものであるので遡って無効としなければならない」が、法理論上は問題があるとも認めていた。日本は旧大韓帝国が国際法上の主体として消滅している以上、大韓民国は別個の国でcontinuityはなく、すでに消滅した条約の無効をいまさら問題とすることは意味がないと述べた。これに対して韓国は大韓民国は「韓半島にはなくとも海外にあって、三一宣言にもあるごとく民族として継続している」と大韓民国は大韓帝国の継承国であることを主張した。ただし、大韓帝国の消滅は1910年であり、上海での大韓民国臨時政府成立は1919年であり、両者の継続性はなく、また「1910年以前の条約が民族の総意に反した」という主張も事実に基づく主張ではなかった。  
1952年3月22日の第6回基本関係委員会で日本は「日本国と大韓民国との間の友好条約(案)」を提出した。その第1条「国際連合憲章の目的及び原則に、且つ、両国間の善隣関係に即応する方法によって」を韓国は削除を求めた。また韓国側林松本代表は英国とインドの例について、韓日と英印は根本において差異があり、インドが英国の合意下に独立した大英帝国の一連邦であるという事実を忘れてはならず、韓国は日本への併合に合意していなかったと述べた。  
1952年3月26日の第7回基本関係委員会で日本は(これまでの)「条約や協定は現在は効力を有しない(at present ineffective)」と提案したが、韓国は「最初から無効(null and void from the beginning)」とすべきと主張した。  
1952年4月2日の第8回基本関係委員会では日本側は前文に「日本国と旧大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定が日本国と大韓民国との関係において効力を有しない(ineffective)」としるされた。日本の記録では「韓国側から第一条の一部につき留保を付したほか、全条文について意見の一致」をみたとある一方、韓国の記録『韓日会談略記』では「旧条約無効問題」について妥協できなかったとある。ただし、韓国の記録は一部が不自然に削除されている。  
同日1952年4月2日の松本俊一と梁代表との非公式会談で、日本側が訂正案を出したところ韓国から異議は出されなかった。  
1952年4月16日-18日の松本俊一と梁代表との非公式会談で、韓国側は、日本が朝鮮半島に残した畏友財産に対する請求権を放棄しない限り、審議はすすめられないと申し出た。  
1952年4月21日の松本俊一と金代表との非公式会談で、韓国側は基本条約前文について蒸し返し、「無効(null and void)」との記載を要求、日本側は「効力を有しない(ineffective)」が「最善である。この点は絶対に譲れない。」と反論、金代表は韓国政府内では「illegal(非合法、不法、違法)」に置きかえようとの強硬論もあったと抗弁した。
第2次会談  
第2次会談は1953年4月15日-7月23日に行われた。しかし、第2次会談直前の日韓関係は険悪化し、1953年1月5日から7日までの非公式訪日のさいの吉田茂と李承晩の直接会談も非常に険悪なものであったとされる。  
第2次会談では、韓国は韓国国宝などの目録を提示し、日本は調査中と答弁した。1953年4-7月の非公式会談で広田アジア局第2課長は日本渡来の経緯に種々あり、古く渡来したものもあれば正当な価格で購入したものもあるので、これを網羅的にとりあげることは困難と答弁した。  
韓国軍による日本漁船銃撃と竹島上陸  
また第2次会談と平行して、韓国が一方的に宣言した李承晩ラインの問題も深刻化し、会談直前の1953年2月4日には韓国海軍によって日本の民間の漁船が銃撃され、船長が死亡する第一大邦丸事件が発生した。また、第2次会談が開始直後の4月20日には韓国の民兵独島義勇守備隊が島根県の竹島に駐屯した。なお、1953年7月27日には朝鮮戦争が休戦した。
第3次会談  
第3次会談は1953年10月6日-10月21日に行われた。日本側首席代表の外務省参与久保田貫一郎によれば、10月6日の第3次会談以前までは、原則的なことではなく、未払い給料、文化財、水産関係の事案などの事務的な交渉を行ったいたが、第一大邦丸事件や韓国の民兵による竹島上陸などの実力行使を背景に、10月以降の会談では韓国側は既成事実の圧迫の前に全問題を一気に解決しようと図り、事務的なことから本質的な議題へと移ったところ、後に「久保田発言」として知られる10月15日会談での韓国併合などの歴史認識問題にいたった。  
1953年10月13日の会談で久保田参与は、日本は戦争中、東南アジア諸国で掠奪や破壊をしその賠償をしようとしているが、韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない、万一あるなら賠償すると述べた。  
久保田発言  
1953年10月15日の会談で、韓国側が、日本の在韓財産はアメリカが接収したのであり本来なら韓国は36年間の日本の支配下での愛国者の虐殺、韓国人の基本的人権の剥奪、食料の強制供出、労働力の搾取などへの賠償を請求する権利を持っていると述べたところ、久保田貫一郎が日本は植林し、鉄道を敷設し、水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろうと反論し、また米国による日本人資産の接収は国際法に違反していないと考えるし、違反してたとしても米国への請求権は放棄したと回答した。この久保田の発言に対して、「植民地支配は韓国に害だけを与えたと考えている」韓国側からは、妄言として批判され、日韓会談は中断した。  
久保田参与による説明(1953年10月27日参議院)や、韓国側の記録によると会談は以下のような内容であった。 
日本の請求権問題、在韓日本人財産の扱い  
[韓国の主張] 請求権の問題について日本側の要求は認められない、日本側の請求権はなく、韓国側から日本に対する請求権の問題だけがある。併合時代の韓国は奴隷状態の地域であり、そこに所在していた日本人財産は、元来権力的搾取によって不法に取得したものであるから、没収された。奴隷地域を解放させるという第二次世界大戦後の新しい高次的理想は、私的所有権尊重よりももっと高次的で、より強いもので、そうした理想を実現させるために没収されたのである。  
/ [久保田貫一郎参与の主張] 私有財産の尊重という原則に基いた対韓請求権は放棄していない。また韓国にあった日本の私有財産が没収されていないという解釈ではアメリカ軍政府の措置は国際法に合致しているが、韓国のように日本の私有財産は没収されたという解釈では米国が国際法違反をやつたということになり、日本としてはそういう解釈はとりたくない。連合国が中立国に所在する日本人財産まで没収したのは不当である。  
朝鮮総督府の政治  
日本の請求権の要求は多分に政治的であり、もし日本がそのような政治的な要求をするのなら、韓国としては韓国併合36年間の賠償を要求。  
/ もし韓国併合36年間の賠償要求を出していれば、日本としては、総督政治のよかった面、例えば禿山が緑の山に変つた、鉄道の敷設、港湾の建設、米田が非常に殖えたことなどをあげて韓国側の要求と相殺したであろう。  
カイロ宣言問題  
朝鮮総督政治は警察政治で以て韓国民を圧迫搾取し、自然資源も枯渇せしめ、そうであればこそカイロ宣言に韓国の奴隷状態ということを連合国が明記した。  
/ カイロ宣言は、戦争中の興奮状態において連合国が書いたものであるから、現在は、今連合国が書いたとしたならば、あんな文句は使わなかつたであろう。  
朝鮮(韓国)独立  
韓国側は、第二次世界大戦後の処理で国際法が変つて、被圧迫民族の朝鮮民族の独立と解放の原則が出て来たが、朝鮮の独立にしても講和条約を待たずに独立したが、これは国際法違反かと質問した。  
/ 韓国の独立はサンフランシスコ条約の効力発生時点だから、それ以前の独立は、たとえ連合国が認めていても、日本から見れば異例措置である(10月15日会談)。韓国独立は国際法違反の問題ではなく、ある新しい国家が独立した場合、それを他の国が承認するかしないかの問題がある。講和条約以前に独立した韓国について国連はじめ多数の国家が承認した事実を日本は認定するものであるが、この承認を時期尚早とも見ないし、国際法違反とも思わない。日本はカイロ宣言に明示された韓国の独立方針を承認し降伏文書に署名したが、その後の日本は連合国に占領され完全主権国家ではなかったので韓国独立を自ら進んで承認できなかった。日本は平和条約発効時点で韓国独立を承認したが、連合国の承認日付と発効日付に間隔があったので、これが国際法上異例であるという発言であった(10月21日会談での説明。韓国側記録による)  
日本人の強制送還  
終戦のときに日本人が朝鮮から強制送還されたことは国際法違反かと質問した。  
/ 久保田参与は、それは占領軍の政策の問題であり、国際法違反であるともないとも言わないと答えた。  
 
1953年10月20日の会談で金代表は、10月15日の会談で日本側は、次のように発言したと確認を求め、日本による朝鮮統治は強制的占領であったし、日本は貪慾と暴力で侵略し自然資源を破壊し、朝鮮人は奴隷状態になったと述べた。  
韓国が講和条約の発効の前に独立したことは国際法違反である、と日本はいった。  
日本人が終戦後朝鮮から裸で帰されたことが国際法違反である、と日本はいった。  
請求権について米国と韓国が国際法違反をしている、と日本はいった。  
カイロ宣言の奴隷状態というものは興奮状態で書いたものである、と日本はいった。  
久保田参与は、韓国独立は日本から見れば異例であつたが国際法違反かという問題ではない、日本人送還も国際法違反であるともないとも言わなかつた、米国側の軍政府も国際法違反を犯したことにはならない、カイロ宣言の効力は戦争中の興奮状態で書かれたものである。朝鮮統治は、悪い部面もあっただろうが、いい部面もあつたと答えた。金代表は「日本代表の発言は破壊的である」と同じことを繰返すのみであった。  
1953年10月21日の会談で韓国側は久保田発言を撤回し、悪かったと認めなければ会談の続行は不可能と述べた。久保田参与は、韓国は日本が非建設的であるというが、韓国は1952年の日韓会談直前に李承晩ライン宣言を強行したり、日本の漁船を拿捕し、雰囲気を悪化させたし、これは国際法違反であり、国際司法裁判所に提訴するのが原則であると述べ、国際会議で見解を発表するのは当然のことであるし、まるで暴言したかのように外国に宣伝することは妥当ではないし、撤回はしない、また発言が誤りであったとは考えないと答えた。韓国側は会談に今後出席できないが、これは完全に日本に責任があると述べ、会談は終了し、韓国は「久保田妄言」への報復として李承晩ラインを設定し、竹島を占領した。  
10月27日の参議院で久保田参与は、韓国側は日本に対して「戦勝国」であると錯覚しており、また、「被圧迫民族の独立という新らしい国際法ができたから、それにすべてが従属される」ため、韓国は国際社会での寵児であるという認識があるが、いずれも「根拠がございません」と答弁している。また、久保田貫一郎外務省参与は1953年10月26日付の極秘公文書「日韓会談決裂善後対策」 で韓国について「思い上がった雲の上から降りて来ない限り解決はあり得ない」と記述し、韓国人の気質について「強き者には屈し、弱き者には横暴」であると分析した上で、李承晩政権の打倒を開始するべきであるとの提言を残しており、この公文書の存在を2013年6月15日に報道した朝日新聞は久保田発言について日韓交渉を決裂させた原因とした。  
久保田発言は1957年12月31日、藤山愛一郎外相と金裕沢大使との会談で撤回された。
第4次会談  
第4次会談は1958年4月15日-1960年4月15日に行われた)  
1958年4月16日、日本は東京国立博物館の106点の文化財を韓国に返還したが、韓国側は資料的価値の低いものと評価して、韓国には歓迎されなかった。1958年6月4日、日本は韓国側の気持に同情的であると述べたが、10月には全文化財の引渡は不可能とのべた。  
四月革命以降の韓国  
1960年4月19日には韓国で四月革命が発生、4月26日に李承晩は大統領を辞任した。  
1960年8月23日に成立した張勉政権は日韓正常化を掲げた。
第5次会談  
第5次会談(1960年10月25日-1961年5月15日)では専門家会議がはじめて実施され、韓国の不法に持ち去られたという主張と日本の反論が繰り返された。日本側が正当な手段で入手したと主張すると、韓国側は「正当な取引であるとしても、その取引自体が植民地内でなさえた威圧的な取引であった」と答えた。  
1961年5月16日、韓国で朴正煕らが5・16軍事クーデターを起こし、日韓会談は中断した 。韓国のクーデター直後、池田ケネディ日米首脳会談では民政移管を条件として韓国軍事政権の支持が合意された。
第6次会談  
第6次会談(1961年10月20日-1964年12月2日)。  
1962年3月の会談にあたっての韓国内部文書では、請求金額について無償援助は最低2億6000万ドル、債券4600万ドルは日本が放棄することを前提に、交渉では始め8億ドル、次いで6億ドルを順次提示、5億ドル、最悪4億ドルでの妥結も可能だが、最低2億6000万ドル以上は絶対に無償援助によるもので、最大限の努力を尽くすこととあった。  
大平-金外相会談  
1962年10月、11月に大平正芳外相と金鍾泌大韓民国中央情報部(KCIA、現大韓民国国家情報院)部長による外相会談が開催された。会談で韓国側は妥協金額を6億ドル、日本は1.5億ドルを提示し、アメリカの仲介で3-3.5億ドルに収まっていった。  
10月21日会談で大平外相は3億ドル、年2500万ドルで12年の支払いとのべ、この年2500万ドルについては、日本がフィリピン、インドネシア、ベトナム、タイ、ビルマ、台湾に7600万ドルを毎年賠償として支払ってきたがこのなかで最多の額がフィリピンで2500万ドルと説明した。金KCIA部長は、フィリピンが2500万ドルといってもそれに従う必要があるのか、フィリピンの場合と韓国の場合は異なるとのべ、また12年はあまりに長いとのべた。大平外相は、国会や国民に合理的に納得してもらうために独立祝賀金といった名目などの理由を加えたり、請求権についてもなぜ韓国にあげなけれなばならないのかといいう国民の声もあり、6億ドルは到底ありえないと答えた。  
10月22日の池田首相と金KCIA部長会談で、池田首相は法的根拠に基づいた純弁財額はいくら厚く計算しても7000万ドルであり、相当な考慮によって1.5億ドル、またはそれ以上を提示した。  
11月11日会談で無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上という条件が提示され、大平外相が40分ほど考えた末合意し、合意内容をメモし、金KCIA部長に渡した。このメモは「金・大平メモ」とよばれる。  
また韓国側は、韓国の軍事力が日本の国防に貢献しているため負担金を要求、日本は「韓国の防衛力は韓国自体を守るために存在している」のであり、もし日本を守るために存在するなら韓国国民のプライドが許さないはずだと反論した。  
朴正煕議長の来日  
国家再建最高会議議長朴正煕が1961年11月に訪日し池田勇人と会談し、朴議長は請求権問題は賠償的性格でなく法的根拠を持つものに限るとのべ、池田首相も、法的根拠が確実なものに対しては請求権として支払い、それ以外は無償援助、長期低利の借款援助を示唆し、経済協力方式による解決が提示された。しかしこれが報道されると、韓国内で朴政権が妥協したと批判されたため、朴政権は請求権問題と「経済協力」は別々の問題であると説明した。  
この日韓首脳会談が契機となり、歴史認識問題や竹島(独島)の帰属問題は「解決せざるをもって、解決したとみなす」で知られる丁・河野密約により棚上げとなり、条約の締結に至った。  
1963年には韓国国内政治の混乱があったが、朴正煕が大統領に当選すると、李承晩ライン撤廃に向けての漁業協定に問題が集約していった。しかし1964年6月3日には日韓条約反対デモが警察を占領する6.3事態が発生し、戒厳令が韓国で宣布され、交渉も凍結された。のちに大統領となる李明博もこの時逮捕され、懲役刑を受けた。  
これ以降、進展しない日韓交渉に苛立ったアメリカはベトナム戦争の激化もあり、露骨に介入するようになっていった。
第7次会談  
第7次会談(1964年12月3日-1965年6月22日)  
1965年6月22日に文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定が締結された。
日韓会談での争点  
旧条約無効問題  
本条約は締結されたとは言え、これ以前に締約された日韓併合条約や協定に対する「もはや無効であることが確認される」という条文に対して日韓両国の解釈が異なるなど、歴史認識論議が絶えない。  
韓国側は、本条約の締結により「過去の条約や協定は、(当時から)既に無効であることが確認される」という解釈をしているのに対し、日本側は本条約の締結により「過去の条約や協定は、(現時点から)無効になると確認される」という解釈をしている。これは、特に韓国併合に対して、韓国側は「そもそも日韓併合条約は無効であった」という立場であるのに対し、日本側は「併合自体は合法的な手続きによって行われ、併合に関する条約は有効であった(よって、本条約を持って無効化された)」という立場をとるという意味である。これは、韓国側が主張した "null and void" (無効)に already を加えて "already null and void" (もはや無効)とし、双方の歴史認識からの解釈を可能にしたもので、事実上問題の先送りであった。  
藤井賢二はこうした感情的で、歴史的事実とは乖離した旧条約無効の主張は、韓国が自らを連合国(戦勝国)として位置づけようとしたことと密接な関係があると述べている。韓国側公開文書「1950年10月 対日講和条約に関する基本態度とその法的根拠 対日講和調査委員会」に添付された駐日韓国代表部政務部による1951年10月25日付の説明文には、「韓国が対日平和条約に署名できなかったのは、韓国が対日戦争に参加しなかったという事実に起因すると言えるが、韓日合併条約無効論の立論が不十分であったためでもあると記されおり、旧条約無効の主張は韓国が自らを連合国として位置づけるためにも妥協は許されなかったと藤井は指摘している。  
文化財の返還問題  
朝鮮半島から流出した文化財の返還問題については付随協定として「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結んだ。これにより日韓間における文化財の返還問題に関しては法的に最終的に決着した。  
日本は「正式の手続きにより購入したかあるいは寄贈を受けたか、要するに正当な手続きを経て入手したもので、返還する国際法の義務はない」との立場をとっていたが、およそ1321点の文化財を韓国側へ引き渡した。椎名悦三郎外相は「返還する義務は毛頭ないが、韓国の文化問題に関して誠意をもって協力するということで引き渡した」と説明した。当初、韓国側は「返還」、日本側は「贈与」という表現を用いるよう主張し、最終的に「引渡し」という表現で合意した。  
個人への補償  
韓国が日韓交渉中に主張した対日債権(韓国人となった朝鮮人の日本軍人軍属、官吏の未払い給与、恩給、その他接収財産など)に対して日本政府は、「韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行う」と提案したが、韓国政府は「個人への補償は韓国政府が行うので日本は韓国政府へ一括して支払って欲しい」とし、現金合計21億ドルと各種現物返還を請求した。次の日韓交渉で日本は韓国政府へ一括支払いは承諾したが21億ドルと各種現物返還は拒否し、その後、請求額に関しては韓国が妥協して、日本は「独立祝賀金」と「発展途上国支援」として無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び融資を行った。  
この時、韓国政府はこの供与及び融資を日本に対して債権を有する個々人にはほとんど支給せず、自国の経済基盤整備の為に使用した。現在この点を批判する運動が韓国で起きている。また、交渉過程で、日本が朝鮮を統治している時代に朝鮮半島に残した53億ドル分の資産は、朝鮮半島を占領した米ソによってすでに接収されていることが判明しており、この返還についても論点のひとつであった。交渉過程ではこれら日本人の個人資産や国有資産の返還についての言及も日本側からなされたが、最終的に日本はこれらの請求権を放棄した。  
日本の対韓請求権  
日本の対韓請求権に関しては、韓国が米国に照会して日本の対韓請求権は存在しないことが確認されている。1945年12月の米軍政法令第33条帰属財産管理法によって、米軍政府管轄地域における全ての日本の国有・私有財産を米軍政府に帰属させることが決定された。また日本国との平和条約第二条(a) には「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。  
「強制徴用」・「強制連行」問題  
韓国政府は交渉の過程で、「強制徴用、徴兵被害者など多大な被害を受けた」として日本政府に対し資料の開示と賠償を要求したが、日本政府は「韓国政府に証明義務がある」と主張した。韓国政府は関連資料をすべて日本側のみが持っていると主張した上で強制徴用、徴兵被害者などの被害者数を「103万人余」とした。なおこの数値については、当時交渉に参加した鄭一永元外務次官自身が「適当に算出」したと証言している。2009年の韓国政府の発表では約12万人の強制動員が確認された。
条約の内容  
条約は7条からなる。  
第2条では、両国は日韓併合(1910年)以前に朝鮮、大韓帝国との間で結んだ条約(1910年(明治43年)に結ばれた日韓併合条約など)の全てをもはや無効であることを確認した。  
第3条では日本は韓国が朝鮮にある唯一の合法政府であることを確認し、国交を正常化した。また日本の援助に加えて、両国間の財産、請求権一切の完全かつ最終的な解決が確認され、それらに基づく関係正常化などの取り決めを行った。  
条約は英語と日本語と韓国語(朝鮮語)で二部ずつが作られ、それぞれ両国に保管されている。  
この条約によって国交正常化した結果、日本は韓国に対して莫大な経済援助を行った。政府開発援助 (ODA) もその一環である。  
付随協約  
日韓基本条約締結に伴い、以下の協定及び交換公文形式の約定が結ばれた。  
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定)  
日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(在日韓国人の法的地位協定)  
日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定(日韓漁業協定)  
文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定  
日本国と大韓民国との間の紛争の解決に関する交換公文  
財産及び請求権に関する協定  
最終的に両国は、協定の題名を「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」とした。この協定において日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することに合意した。  
両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する(個別請求権の問題解決)。  
一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする(相手国家に対する個別請求権の放棄)。  
「経済協力金」とその使途  
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定によって日本は韓国に次のような資金供与及び融資をおこなった。  
3億ドル相当の生産物及び役務 無償(1965年)(当時1ドル=約360円)  
2億ドル 円有償金(1965年)  
3億ドル以上 民間借款(1965年)  
計約11億ドルにものぼるものであった。なお、当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。  
また、用途に関し、「大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。」と定められてあった。  
韓国政府はこれらの資金を1971年の対日民間請求権申告に関する法律及び1972年の対日民間請求権補償に関する法律(1982年廃止)によって、軍人・軍属・労務者として召集・徴集された者の遺族に個人補償金に充てた。しかし戦時徴兵補償金は死亡者一人あたりわずか30万ウォン(約2.24万円)であり、個人補償の総額も約91億8000万ウォン(当時約58億円)と、無償協力金3億ドル(当時約1080億円)の5.4%に過ぎなかった。また、終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らは補償対象から除外した。  
韓国政府は上記以外の資金の大部分は道路やダム・工場の建設などインフラの整備や企業への投資に使用し、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展に繋げた。
反対運動  
条約締結に際し、日韓両国で激しい反対運動が起こった。韓国では南北分断が固定化され、冷戦に日本が巻き込まれることで、「日本の平和」が奪われ、日本が戦争に参加するようになるとして批判された。  
1965年8月14日、韓国国会は条約批准の同意案を可決した。日本での反対運動は学生活動家や旧社会党などによって展開された。そこでは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を無視した韓国との単独国交回復に反対するものが主であった。これは、当時の社会党、共産党などは、北朝鮮を朝鮮半島の唯一正統な政権と認識していたからであり、韓国を唯一正統な政権と認める本条約は受け入れがたい内容だったからである。  
結局、衆参両院の日韓特別委員会に於いて与党の自民党がこの条約の委員会採決を強行。本会議でも自民党と民社党のみが出席(他党は審議拒否)して条約の承認を可決した。一方で韓国側の反対運動は感情的な反日論特に歴史認識、請求権、李承晩ライン破棄等で、韓国側は従来の主張を大幅に譲歩させたためこれに対して「売国奴。」「豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の日帝侵略の償いをはした金で許すのか。」「屈辱的譲歩。」というものが大勢ではあったがその他にも朴政権【当時の朴政権は軍事独裁政権であった。なおこの種の開発独裁に関する不正蓄財やODAに関する批判はフィリピンやペルー等反日感情がとりわけ強くない国でも起きておりこの視点の批判が韓国特有のものというわけではない。】の不正蓄財に日本側の資産が流用されると言った韓国国内の政治事情にからむ反対意見や日本資産の直接流入による貿易赤字や失業率の増大低賃金労働の固定化等経済的事情を主張する意見もあった。  
なお日本の左翼はこの時点ではさほど韓国には肩入れしておらず、前述のように北朝鮮を朝鮮半島の正統な政権と認識する前提で、あるいは少なくとも南北対等の前提で反対していた。そのため、後年のような歴史認識の相違等は主たる反対理由にはしていなかった。韓国側は最終的に戒厳令を敷いてデモを鎮圧している。
北朝鮮の立場  
北朝鮮は '日本・南朝鮮「協定」' とよび、日本からの「強盗さながらの要求」によってむすばれた無効なものであると主張する。  
北朝鮮政府は「日本はまだ北朝鮮に対して、戦後賠償や謝罪をしていない」と、北朝鮮による日本人拉致問題の解決の交渉の上で再三述べ、日朝国交正常化と日本の北朝鮮に対する戦後賠償と謝罪が何より先決だと主張している。  
日韓両国は日韓基本条約第三条にて韓国政府の法的地位を「国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの」として朝鮮にある唯一の合法的な政府とすることで合意した。この国連決議は韓国の単独選挙を行うことに関する決議であるが、韓国の単独選挙は米軍政府管轄区域(38度線以南)のみで行われ、ソ連軍政府管轄区域である38度線以北は除外された。  
日本は現在、このような解釈をもとに、北朝鮮による日本人拉致問題の解決と日本の北朝鮮に対する国交正常化後の経済協力を包括した日朝国交正常化交渉を行っている。
条約締結後も繰り返される対日請求  
日韓請求権並びに経済協力協定によって韓国の日本に対する一切の財産及び請求権問題に対する外交的保護権は放棄されているが、その後も韓国議会、司法、韓国民による対日請求が出されており、日本側の主張と対立が生じている。慰安婦問題、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題、日本に略奪されたと主張される文化財の返還問題などが争点となっている。  
個人請求権に関する日本政府答弁と訴訟  
日本国内においては、財産、権利及び利益については外交的保護権のみならず実体的にその権利も消滅しているが、請求権については、外交的保護権の放棄ということにとどまっている。また、約11億ドルの無償資金と借款を援助することと、韓国が対日請求権を放棄することに法的な直接のつながりがないとされている。  
1991年8月27日、柳井俊二条約局長として参議院予算委員会で、『(日韓基本条約は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ』と答弁。これ以降、韓国より個人請求権を根拠にした訴訟が相次ぐようになった。  
この第二条の一項で言っておりますのは、財産、権利及び利益、請求権のいずれにつきましても、外交的保護権の放棄であるという点につきましては先生のおっしゃるとおりでございますが、しかし、この一項を受けまして三項で先ほど申し上げたような規定がございますので、日本政府といたしましては国内法をつくりまして、財産、権利及び利益につきましては、その実体的な権利を消滅させておるという意味で、その外交的な保護権のみならず実体的にその権利も消滅しておる。ただ、請求権につきましては、外交的保護の放棄ということにとどまっておる。個人のいわゆる請求権というものがあるとすれば、それはその外交的保護の対象にはならないけれども、そういう形では存在し得るものであるということでございます。1993年5月26日の衆議院予算委員会 丹波實外務省条約局長答弁
盧武鉉政権以降の再請求(2005年)  
韓国政府や韓国メディアはこの協定による賠償請求権の解決について1965年当時からも韓国国民に積極的に周知を行うことはなく、民間レベルでも日本政府への新たな補償を求める訴えや抗議活動がなされ続けていた。賠償請求の完全解決は、韓国側議事録でも確認されており、日本政府もこの協定により日韓間の請求権問題が解決したとしているが、韓国政府は2005年の盧武鉉政権以降から、慰安婦、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題は対象外だったと主張をはじめた(#韓国政府における議事録の公開参照)。また2005年4月21日、韓国の与野党議員27人が、日韓基本条約が屈辱的であるとして破棄し、同時に日本統治下に被害を受けた個人への賠償などを義務付ける内容の新しい条約を改めて締結するように求める決議案を韓国国会に提出した。とともに、日韓両政府が日韓基本条約締結の過程を外交文書ですべて明らかにした上で韓国政府が日本に謝罪させるよう要求した。  
韓国政府による対日補償要求終了の告知(2008年)  
2009年8月14日、ソウル行政裁判所による情報公開によって韓国人の個別補償は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないことがようやく韓国国民にも明らかにされてから、日本への徴用被害者の未払い賃金請求は困難であるとして、韓国政府が正式に表明するに至った 。補償問題は1965年の日韓国交正常化の際に日本政府から受け取った「対日請求権資金」ですべて終わっているという立場を、改めて韓国政府が確認したもので、いわゆる慰安婦等の今後補償や賠償の請求は、韓国政府への要求となることを韓国政府が国際社会に対して示した。  
韓国最高裁、日本企業の徴用者に対する賠償責任を認める(2012年)  
2012年、日韓併合時の日本企業による徴用者の賠償請求を韓国最高裁が認めた。韓国最高裁は「1965年に締結された韓日請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するための交渉ではないため、日帝が犯した反人道的不法行為に対する個人の損害賠償請求権は依然として有効」とし「消滅時効が過ぎて賠償責任はないという被告の主張は信義誠実の原則に反して認められない」と述べている。原告(請求訴訟者)の同一趣旨による日本における訴訟は原告側の敗訴が確定しているが、韓国最高裁ではこれを認めることはできないとしている。  
李明博大統領による天皇謝罪要求(2012年)  
2012年8月14日に李明博大統領は天皇による謝罪を要求する演説を行い、日韓の外交摩擦が生じた。ただし本条約は両締約国及びその国民の間の財産、権利及び利益並びに請求権に対する外交的保護権放棄についての規定であり、上記のようなそれ以外の要求について何ら言及するものではない。  
日本政府側の対応  
日本は請求権協定により「完全かつ最終的な解決」をみたとの立場をとり続けている。  
岸田外務大臣(安倍第二次内閣)は、2013年5月22日の衆院外務委員会で、旧日本軍慰安婦への補償について、日韓国交正常化時の請求権協定により「解決されたと確認されている。紛争は存在しない」と述べた。協定の解釈や実施をめぐる「紛争」は外交的に解決するよう3条で定めるが、補償問題は対象外との日本政府の立場を明らかにした。
個人請求権に関する日本政府の主張に対する異論  
慰安婦国連報告  
1996年1月から2月にかけて国連人権委員会に報告されたクマラスワミ報告では、本条約に言及したうえで個人請求権に関する日本政府の主張に対して以下の通り反論している。  
104.さらに日本政府は、特別報告者に手渡した書面で、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(1965年)/20第2条第1項は、「両締約国及びその国民の財産、権利及び利益に関する問題が、………完全かつ最終的に解決されたこととなること」を確認していると主張する。第11条(3)は、「一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって………他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置……に関してはいかなる主張もできないものとする」としている。実際、総額5億米ドルが支払われたと,日本政府は指摘する。  
107.国際法律家委員会は、1994年に公表された「慰安婦」に関する調査報告(21)の中で、日本政府が言及する諸条約は、非人道的処遇に対して個人が行う請求権を含む意図はまったくなかったと述べている。「請求権」という言葉は、不法行為による請求権を含まず、また合意議事録または付属議定書でも定義されていない、と国際法律家委員会は論じる。また、戦争犯罪及び人道に対する犯罪から生じる個人の権利の侵害に関して,なんら交渉はなされなかったとも主張する。国際法律家委員会はまた、大韓民国の場合、日本との1965年協定は、政府に対して支払われる賠償に関連するもので、被った損害に基づく個人による請求権は含んでいないと断言している。  
日本政府はこのクマラスワミ報告に対する再反論を行っている。  
日本の市民団体による請求権未解決説  
日本の団体強制動員真相究明ネットワークは、当時の日本政府内で「完全かつ最終的に解決された」ことは曖昧なままで請求権は未解決であったことが認識されていたと大蔵省の内部資料などで明らかになったと主張している。また、日韓会談文書・全面公開を求める会は文書の全面公開を要求している。
韓国政府における議事録の公開  
2005年1月17日、韓国において、韓国側の基本条約、及び、付随協約の議事録の一部が公開された。韓国政府は、公表と同時に、「政府や旧日本軍が関与した反人道的不法行為は、請求権協定で解決されたとみられず、日本の法的責任が残っている」との声明を発表した。韓国側の議事録が公開されると、日本と韓国間の個人賠償請求について当該諸条約の本文に「完全かつ最終的に解決した」と「1945年8月15日以前に生じたいかなる請求権も主張もすることができないものとする。」の文言が明記されている事が韓国国内に広く知られるようになった。また、韓国では2005年8月26日に追加公開を行った。公開前に、国益に著しく反すると判断されるごく一部については非公開とされた。公開における文書の分量は、156冊で、3万5354ページである。韓国側の議事録が明らかになったことで、日韓交渉時における韓国政府の交渉に不満を持つ一部の韓国国民は、再交渉して条文の補填を要求している。韓国のインターネットで東北亜歴史財団、東亜日報などが公開し、日本語の部分訳もある  
日本政府は、(議事録、メモなどの日韓会談に関する文書の公開は)日朝交渉への影響を及ぼすとして、公開しておらず、韓国政府に対しても非公開を随時要請していた。韓国側の文書公開に対しても、町村信孝外相(当時)が、特段のコメントをする必要はないと述べている。  
日韓基本条約2  
1951年の講和会議では、1910年の日韓併合以来植民地となった朝鮮は排除されました。当時の吉田首相やイギリスが、朝鮮は対日参戦国ではないという理由で招請に反対したことなどが理由です。しかし、45年のポツダム宣言の受託によって日本の植民地支配は終了していたことに鑑みると大きな疑問を残しました。結局、終戦から20年も経過したこの年、日本と大韓民国政府との間で日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)の批准書が交換され、関連する協定とともに発効しました(12月18日)。条約は日本の植民地支配が終わっていることを法的に確認し、両国間の国交を正式に樹立するものでした。  
条約の交渉は15年の長きに及ぶ難交渉でしたが、この年に多くの問題を先送りして急遽締結されました。その背景として、この年北ベトナムの爆撃を開始したアメリカ、ベトナム派兵を決めた韓国、そして日本の3国の軍事的な関係の強化をアメリカが急いだことが指摘されました。そのため、朝鮮の南北分断を固定化させることへの懸念とあいまち、条約締結に対して日韓双方で激しい反対運動が起きました。しかし、両国とも条約の締結が強行されました。  
問題点として、1韓国を朝鮮半島全域における唯一の合法的な政府としました。そのため、現在に至るも、朝鮮人民民主主義共和国との国交は樹立されないという極めて異常な事態が続いています。21910年の日韓併合条約については、日本は韓国の独立時に失効、韓国は当初から無効と主張しました。この点も現在でも歴史認識の問題として争われています。3在日朝鮮人のうち、韓国籍を持つ者についてのみ永住権等が認められました。4対日戦勝国として戦争賠償金を求める韓国に対して日本は、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対してそれを支払う立場にないと主張しました。結局韓国が妥協して、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が締結されました。内容は、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び貸付です。これによって、国民の請求権に関する問題は、「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とされました。しかし、同時に協定には、「供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない」と規定され、事実大部分はインフラの整備等軍事政権の基盤の強化に使われました。軍人・軍属・労務者に対する補償は僅か(日本円にして3万円)でした。終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元性奴隷の方々には全く補償がありませんでした。  
そのため、1990年代以降、冷戦体制が崩壊し民主化が進んだ韓国からは、他のアジア諸地域からと同様に、軍事政権の正統性を問うことと並行して、日本の戦争責任の追及・個人からの対日補償要求が台頭し、重大な問題となっています。 
日韓基本条約3  
日韓基本条約(正式名:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)とは、1965年6月22日に日本(佐藤栄作首相)と韓国(朴正煕大統領)の間で締結された条約であり、簡単に言うと戦後保証問題は解決済みであり、韓国・韓国人は日本・日本国民に対して賠償を要求することが一切できないことの根拠である。同時に複数の協約が結ばれた。  
概要  
この条約は日本と韓国の間の国交正常化、および戦前の両国関係の清算や戦後補償について取り決めている。ただし戦後補償については付随協約(韓国との請求権・経済協力協定)による。また第二次日韓協約・韓国併合条約の合法性に関する問題や竹島帰属問題は、事実上「棚上げ」された。  
条約制定当時、日本と韓国の間には賠償問題のみならず、前述の竹島問題など課題が山積しており、韓国内では激しい条約締結反対運動も起こった。それでも両国が妥協し国交を回復したのは、同1965年にベトナム戦争を始めたアメリカが日韓の戦争協力を得るべく、「資本主義陣営として団結し社会主義に対抗する」よう両国に圧力をかけたためだと言われている。  
第二条  
1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。  
注)1910年8月22日:韓国併合条約(韓国併合ニ関スル条約)の締結日。  
韓国併合条約及びそれ以前に日韓間で結ばれた条約・協定は無効であることが規定されているが、重要なのは「もはや」の3文字である。条約作成時、戦前の日本の朝鮮植民地支配を清算するにあたって、日本側は、「日韓併合条約とそれ以前の条約・協定は、当時は合法であったが、日韓基本条約締結以後は無効になる」とする立場をとった。一方韓国側は、「それらの条約・協定は、当初から無効・不法である」とする立場をとっていた。  
結局両者の間で折り合いがつかず、韓国側が求めていた、  
It is confirmed that all treaties or agreements concluded between the Empire of Japan and the Empire of Korea on or before August 22, 1910 are null and void.  
という英語条文の表現に、"already" の一語をつけ加え  
It is confirmed that all treaties or agreements (中略) are already null and void.  
とし、日韓どちらの解釈にも合うよう妥協的措置がとられ、解釈は「棚上げ」された。現在においても、この問題に関する議論、特に外交権を接収した第二次日韓協約や韓国併合条約(詳細は韓国史を参照)の合法性に関する議論は収束していない。  
第三条  
大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号(V)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。  
注)国際連合総会決議第195号(V):大韓民国が朝鮮半島における唯一の合法政府であることを認める国連決議。上記日韓基本条約のPDFの末尾に内容が載っている。  
社会主義陣営の一員であった北朝鮮が、合法的政府と認められていなかったことを示している。
韓国との請求権・経済協力協定  
正式名は「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」  
第一条  
1. 日本国は、大韓民国に対し、  
a.現在において1080億円に換算される3億合衆国ドルに等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたって無償で供与するものとする。各年における生産物及び役務の供与は、現在において108億円に換算される3000万合衆国ドルに等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかったときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与の限度額は、両締約国政府の合意により増額されることができる。  
b.現在において720億円に換算される2億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従って決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から十年の期間にわたって行なうものとする。この貸付けは、日本国の海外経済協力基金により行なわれるものとし、日本国政府は、同基金がこの貸付けを各年において均等に行ないうるために必要とする資金を確保することができるように、必要な措置を執るものとする。  
前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。  
ここでは、日本政府が韓国政府に対し事実上の賠償金(厳密には「経済協力金」であって賠償金とは書かれていない。これは日本政府が「日本は戦前朝鮮を合法的に領有しており、大戦においても韓国と交戦状態にあった訳ではないので、日本は韓国に賠償を支払う立場にない」としているためである)として3億ドルを無償で支払い、2億米ドルを低利融資することが定められている(当時は固定相場制で1ドル=360円)。この他にも、3億ドル以上が民間借款として韓国政府に低利融資された。  
ちなみに1965年度の日本の一般会計予算は3兆7千億円、同年の韓国の国家予算は3.5億ドルであり、無償供与の賠償金3億ドル=1080億円は、日本の国家予算の1/40、韓国の国家予算とほぼ同額であった。今の価値に直すとおおよそ1兆〜2兆円程度であろうか。  
第二条  
1.両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。  
2.この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執つた特別の措置の対象となったものを除く。)に影響を及ぼすものではない。 a.一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益  
b.一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって1954年8月15日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいつたもの  
3.2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。  
まず1.では、韓国政府・国民の日本に対する賠償請求問題は、この協約で規定された日本政府による韓国政府への経済援助をもって完全に解決されることが定められている。なお、日本政府による韓国国民への直接賠償が規定されていないのは、韓国政府が自国民への個別保障をするので日本政府は韓国政府へ一括して賠償金を支払って欲しいという、韓国政府の要請によるものである。  
ついで3.では、今後韓国政府・国民は日本に対し一切の賠償請求ができないと定められている。しかし韓国政府は後になって、日本軍の従軍慰安婦への賠償や当時広島・長崎で被爆した韓国人への賠償は、この規定に含まれないとする主張をし始めた。これに対し日本政府は、韓国に対する全ての賠償問題は同協約で解決済みだとの姿勢を貫いている。 
日韓請求権協定  
1965年に結ばれた「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」のこと。略称は「韓国との請求権・経済協力協定」ともいう。両国の国交正常化のための「日韓基本条約」とともに結ばれ、日本が韓国に5億ドルの経済支援を行うことで、両国及び国民の間での請求権を完全かつ最終的に解決したとする内容。  
日本の太平洋戦争敗戦後、韓国はサンフランシスコ条約の当事国に含まれなかったため、国交は成立しないままとなっていた。52年の同条約発効直前に、韓国は一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占領するなど日韓両国の関係が悪化した。後に、クーデターによって政権についた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、日米など諸外国との関係改善を急ぎ、65年には「日韓基本条約」が締結された。これに付随して交わされたいくつかの協約の一つが日韓請求権協定である。  
この協定は、日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与することなどで、両国及びその国民の間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認する内容である。したがって、戦時中などに生じた事由に基づく請求権は、いかなる主張もすることができない。また、この協定に関する紛争があれば外交経路で解決するものとし、解決できない時は第三国を交えた仲裁委員会に付託することになる。  
韓国政府は条約内容を長らく国民に明らかにしていなかったが、2009年には徴用工の未払い賃金等もこれに含まれていたと公式に弁明。同国内では、国民が受け取るべき補償を、韓国政府が一括で受け取り費やしたとの批判もある。近年になって、戦争中に徴用された韓国人らによる訴訟で、韓国の裁判所から日本企業に対する賠償命令が相次いで出された。韓国の最高裁判所に当たる大法院で賠償が確定すれば、これに対して国際司法裁判所に提訴すべきだなどの意見が日本側から出ている。韓国側では請求権の具体的な内容が協約に記されていないことなどから、従軍慰安婦や在韓被爆者などについてはこの協約の対象とはならないとする意見もある。
1966年 
1967年 
1968年 
1969年 
 
謝罪の歴史2 1970〜1974

 

1970年 
1971年
1972年9月29日 - 田中角栄総理大臣  
(日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明)  
日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。  
毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。  
田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。  
日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。  
日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。  
日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。  
一 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。  
二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。  
三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。  
四 日本国政府及び中華人民共和国政府は、千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。  
五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。  
六 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。  
七 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。  
八 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。  
九 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。  
千九百七十二年九月二十九日に北京で  
日本国内閣総理大臣 田中角栄   日本国外務大臣 大平正芳  
中華人民共和国国務院総理 周恩来 中華人民共和国外交部長 姫鵬飛
日中国交正常化  
1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国とが国交を結んだことであり、戦後27年、中華人民共和国建国23年を経て戦後の懸案となっていた日中間の不正常な状態を解決した。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄、周恩来両首相が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国に断交を通告した。  
前史・戦後の日中関係  
二つの中国  
1945年の第二次大戦の終了で日本軍が降伏して、その後国共内戦が始まり、1949年10月1日、中華人民共和国が建国された。大陸では中国共産党が勝利して、それまで少なくとも中国を代表していた中華民国政府・中国国民党は台湾を支配するのみとなった。ここに中国を代表すると主張する政府が北京と台北で対峙することになった結果、世界各国は中国を承認するに際して、どちらの政府を中国を代表する政府と見なすかという中国代表権問題に直面することとなった。この時は日本はまだ戦後4年でGHQの統治下に置かれ、外交権の無い時期であった。西側でもイギリスは1950年1月に、台湾との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して、中国代表権問題については最初からアメリカとは違うスタンスを取った。  
そして同じ年1950年に、朝鮮戦争が始まり、1952年4月に日本が戦後の独立を果たした頃には、すでに朝鮮半島では国連軍の主力である米軍と中国の人民解放軍が砲火を交えて東アジアは緊張と混乱の中であった。この東西対立の激しい時代に入って日本はアメリカの保護の下に西側陣営に属し、国内に対立を残しながら台湾の中華民国政府を支持する立場に立ち、北京の中華人民共和国とは国交断絶の状態が結局1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を促進する動きのみが続いた。  
日中民間貿易協定  
中華人民共和国が建国されて以降、日本と中華人民共和国との交流は友好関係にあった日本共産党や日本社会党以外は細々とした民間交流に過ぎなかった。  
1950年10月1日には日中友好協会が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。この時期は台湾と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。  
吉田内閣と日華平和条約  
吉田茂首相は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも台北の中華民国政府(国府)を承認するとは明言しなかった。西側でもイギリスが北京を承認しつつ台湾とも関係を保っていることに注目して、国府を承認するにしても上海に貿易事務所を開設することに言及していた。むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて、結果として国府承認に踏み切らざるを得なかった。そして講和条約が発効された4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中国との国交正常化で最も難しい問題となった。  
鳩山内閣と政経分離  
吉田茂の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に石橋湛山通産相は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中国は注目していた。1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した周恩来総理は、平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望すると表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た。翌1956年9月には、日本人の戦犯およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。  
こうした動きには中国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。  
岸内閣とアジア外交  
1957年2月に石橋首相の病気辞任の後岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に台湾に立ち寄り、蒋介石総統と会談して台湾との関係を強化した。岸政権は必ずしも中国との経済関係の進展に消極的であったわけではないとされている。そして1958年3月に第四次日中民間貿易協定が結ばれた。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に台湾とアメリカから反発が出て、台湾では予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中国側が態度を硬化。険悪なムードが漂う中で1958年5月2日に長崎国旗事件が起きた。これに中国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。  
そしてこの年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、日中間はしばらく膠着状態となった。中国は岸首相が台湾の蒋介石の大陸反攻に一定の支持をしたことを重く受け止めていた。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中国側の「政経不可分の原則」と相対して国レベルでは断絶であった。1959年に訪中した石橋湛山前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。 しかし民間レベルでの接触は続き、友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は60年代も続くのである。  
池田内閣と二つの中国政策  
1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸首相が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田首相は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。池田首相は国連中心の外交方針で、中国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、台湾の国府の議席を維持したまま中国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし北京も台北も「一つの中国」を原則としており、多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた。  
池田首相は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾)にその地位を限定することで国府の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても国府の議席は守られると考えていた。そのためには国府を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は中国の国連加盟に対する国内の抵抗が大きいとするものであった。この問題はこの時で終わってしまった。  
そして1964年1月に突然フランスのドゴール大統領が中国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中国との国交正常化をしても国府が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に国府が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田首相は、中国の国連加盟が実現すれば日本も中国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に国府は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した。  
友好貿易とLT貿易  
1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三、古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周恩来首相から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い団体や企業が中心的な役割を果たしていた。  
そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日空社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保障や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中国側代表廖承志と日本側代表高碕達之助の頭文字からLT貿易と呼ばれている。しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後台湾へ希望先を変えて、その後もとの中国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中国へ強制送還したが、国府が反発して日台関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田元首相が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田首相の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。  
さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。  
文化大革命と覚書貿易  
1964年秋に池田首相が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争、沖縄返還、日米安保延長があり、そして中国では原爆保有、文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。  
1966年3月には日本共産党の宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した。この直後、中国では文化大革命が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。  
国交正常化の経緯  
米中接近  
中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1962年頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。  
1971年3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にヘンリー・キッシンジャー米国大統領補佐官(当時。後に国務長官)が北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。  
この当時アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、また膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中国訪問が実現した。  
このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中国のものでなく、日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであることをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった  
佐藤内閣  
佐藤首相は、池田前首相の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、国府を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤首相が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時先進国で中国との国交が正常化していない国は日本と西独だけで他の英仏伊加がすでに承認していたことは、日本外交が取り残されているとの認識が一般にも広がっていった。一方当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国(台湾)を支持する勢力が多数であり(石原慎太郎や浜田幸一なども親台湾派であった)、様々な権益が絡んでいた。また当然のことながら、中華人民共和国、中華民国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎氏は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫氏は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」ことで右往左往することになった。  
71年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし台湾を排除することは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案」と中国・台湾両国とも議席を認める「複合二重代表制決議案」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めたアルバニア案の採決で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしており、日本はただ反対するだけで何の対応も出来ない状況に置かれて佐藤外交の無策ぶりが目立った。中国の国連加盟が実現して台湾が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛ての親書を託したが、中国側の対応は冷ややかであった。中国側は佐藤内閣には何ら期待しておらず、もはや次の内閣が日中間の正常化をめざすことは誰の目にも明らかになった。  
田中内閣  
1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入委員長が訪中して27日から3日間延べ10時間に渡って周恩来首相と会談して、中国の考え方の内容が示された。帰国後の8月4日に田中首相と大平外相にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中首相はこれを読んで北京に赴くことを決意した。  
この時から中国側も田中内閣での日中国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中首相と会談する場が設けられて、その場で田中首相は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え、中国側から正式に田中首相を本国へ招待することが伝えられた。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。  
日中国交正常化交渉  
ここで田中首相は、アメリカよりも早く日中国交回復を果たすことを決断した。  
このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中首相は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった。  
1972年9月25日、田中首相は秋晴れの北京空港に降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、田中首相、大平外相、二階堂官房長官、高島条約局長、橋本中国課長、栗山条約課長など8名。中国側は、周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志会長、韓念龍外交部副部長、張香山顧問など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が台湾との日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めることで中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中首相は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶した。  
26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した。午後の首脳会談で周恩来首相から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、台湾は中国の一部とする中国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」旨の案を提示した。  
27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中首相から出されたが周首相から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中首相・大平外相・二階堂長官の3氏は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。  
28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平外相から日本と台湾の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周首相は黙認する姿勢を示した。  
そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄と外務大臣:大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第2次大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。  
なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている。  
それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。
1973年 
1974年 
 
謝罪の歴史3 1975〜1979

 

1975年 
1976年 
1977年 
1978年 
1979年 
 
謝罪の歴史4 1980〜1984

 

1980年 
1981年
1982年8月24日 - 鈴木善幸首相  
「過去の戦争を通じ、重大な損害を与えた責任を深く痛感している」「『侵略』という批判もあることは認識する必要がある」
1982年8月26日 - 宮澤喜一内閣官房長官

 

(歴史教科書に関する宮沢内閣官房長官談話) 
一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において 「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する 」との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。 
二、 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。 
三、 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。 
四、 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。
1983年
1984年9月6日 - 昭和天皇

 

(大韓民国全斗煥大統領歓迎の宮中晩餐会のおことば) 
このたび、大韓民国大統領閣下が、国務御多端の折にもかかわらず、令夫人とともに、国賓として、我が国に御来訪になったことに対し、私は、心から歓迎の意を表します。大統領閣下の御来訪は、貴国元首の初めての公式御来日として、両国の関係史上、画期的なことであり、両国の友好増進のため、誠に喜ばしいことであります。ここに、御一行をお迎えして、宴席をともにできるのは、喜びに堪えません。  
顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国であり、その間には、古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。我が国は、貴国との交流によって多くのことを学びました。例えば、紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し、学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります。永い歴史にわたり、両国は、深い隣人関係にあったのであります。このような間柄にもかかわらず、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。  
今日、両国の努力と協力により、将来に向かって益々友好と親善が深められ、ともに繁栄する時代が開かれつつあることは、私の深く喜びとするところであります。このたびの大統領閣下の御来訪が、新しい日韓関係の一層の発展と強化をもたらす大きな契機となることを希望いたします。  
閣下が、大統領御就任以来、貴国民の期待を担い、国運の進展のため内政に外交に日夜努力しておられることに対し、私は、深く敬意を表します。また、大統領閣下の卓越した御指導の下に、貴国が、政治、経済、文化、社会等の各分野においてめざましい発展を遂げていることは、国際社会から高い評価を受けております。先般のロスアンゼルス・オリンピックにおける貴国選手の活躍は、貴国の国運隆昌の象徴であり心から祝意を表します。四年後には、ソウルで、平和の祭典オリンピックを開催されると伺っておりますが、その御成功をお祈りいたします。  
閣下御夫妻の御滞在は極めて短く、また、御多忙の御日程でありますが、どうか快適に、また、有意義にお返しになりますよう希望いたします。  
ここに杯を挙げて、大統領閣下並びに令夫人の御健康と御多幸をこい願い、併せて、大韓民国国民の繁栄を祈ります。
大韓民国全斗煥大統領の答辞  
天皇陛下、総理大臣閣下ご夫妻、ならびに、内外貴賓のみなさん。  
私は本日、私たち夫妻と私たち一行を心から歓迎して下さり、かつ、このように盛大な晩餐会を催して友誼にみちたお言葉を賜わりましたことに対して、衷心より感謝の意を表するものであります。  
合わせて、貴国政府の指導者と国民が、私と私たち一行をあたたかく迎えて下さったことに対しても、深い感謝の意を表するしだいであります。  
私は、有史以来初めて貴国を公式訪問した大韓民国の国家元首として、陛下とともに交歓する歴史的な機会を得ましたことを、なによりも意義深いものと考えております。  
歴史的な韓日関係の新たな幕開けに際して、陛下が過ぐる日の両国関係史における不幸だった過去について述べられるのを、私はわが国民とともに厳粛な気持ちで傾聴しました。  
われわれ両国には、「雨降って地固まる」という共通のことわざがあります。  
親しい仲どうしは、一時争うことがあっても、その瞬間が過ぎたらたがいに胸襟を開きあい、前よりももっと親しくなる、という意味に使われることわざであると私は承知しております。  
われわれ両国のあいだにあった不幸な過去は、今や、より明るく、より親しい韓日間の未来を開拓していくうえで、貴重ないしずえにならねばならないと信じております。  
われわれ両国を結束させる原動力は、平和を目指すわれわれの意志にあります。  
わが国は近世以降だけでも、数多くの戦争の惨禍を経験しました。  
もっとも最近の例だけをあげても、一九五〇年から三年間、私たちは同じ民族どうしの戦争を体験しました。  
戦争の被害による苦痛が人一倍大きく、その傷痕がいまなお治らずに続いているため、わが大韓民国は平和がすなわち信仰であり、それを守るための実践意志もまた、だれに劣らず強烈であると申し上げることができます。  
私と大韓民国政府が非暴力平和主義を国家指標の一つとし、また、民族統一問題においても平和的達成のために努力しているのは、そのような歴史を通じて鍛えられた平和意志に基づくものであります。  
日本は、その憲法に明示された平和主義に立脚して、今日の富強な国を建設しました。  
そのため、平和の理想は、世界のどの民族よりも切実な韓日両国の共同の理想として、それを指向する韓日両国の真摯な献身が要求されているのであり、このような事実は、われわれ両国と国民を善隣と相助で結束させる強力な絆になっている、と私は確信しております。  
私は、戦後の日本が今日の自由と繁栄を享受するようになるまで、貴国の政府と国民が一致団結、勤勉と誠実で忍苦し努力してきたのをよく承知しております。  
その結果として日本が成し遂げた驚くべき発展相を直接目にしながら、私は短期間のうちにこのような偉大な業績を積み上げた日本国民の努力に対して、深い敬意を表するとともに、汗を流さずにはいかなる幸福も手に入れることはできないという真理を、あらためて吟味しております。  
わが大韓民国は今、五千年の歴史の正統性を継承、民族の底力を躍動させるべく、あらゆる努力を傾けております。  
私たちは祖国の発展と平和的統一のための前進に拍車を加えており、世界の平和と繁栄に寄与する国際社会の責任ある一員として、献身的な努力を尽くしています。  
今や、われわれ両国は自由と民主、そして平和と繁栄という共通の理念のもと、この地球村でもっとも親しい隣人どうしとして、全世界の亀艦となる善隣関係を樹立していかねばなりません。  
そのようにして、両国の国民がともに未来を開拓していく新たな同伴者時代を強力に築いていかねばなりません。  
地球の生成とともにはじまった両国の近隣関係は、この地球が消滅しないかぎり変えることのできない宿命なのであり、また、今日のわれわれはもちろんのこと、われわれの遠い子孫に拒否できない摂理でもあります。  
したがって、われわれは地球の堅固さを信じているのと同様に、両国同伴者時代の開幕に対する当為性をわれわれの確信たらしめてともに努力することを提言しながら、きょうのこの席がそのような約束の場となるよう、心から祈ってやみません。  
内外貴賓のみなさん。  
天皇、皇后両陛下の万寿と日本国の無窮な繁栄のために、そして、新たな韓日両国同伴時代の開幕のために、ともに祝杯を挙げましょう。  
1984年9月7日 - 中曽根康弘首相

 

「貴国および貴国民に多大な困難をもたらした」「深い遺憾の念を覚える」
 
 
謝罪の歴史5 1985〜1989

 

1985年 
1986年 
1987年 
1988年 
1989年 
 
謝罪の歴史6 1990〜1994

 

1990年4月18日 - 中山太郎外務大臣
「自分の意思ではなしに、当時の日本政府の意思によってサハリンに強制移住をさせられ就労させられた方々が、戦争の終結とともにかつての祖国に帰れずに、そのまま現地にとどまって暮さざるを得なかったという一つのこの悲劇は、まことにこの方々に対して日本としても心から済まなかったという気持ちを持っております。」
1990年5月24日 - 今上天皇  
(大韓民国盧泰愚大統領歓迎の宮中晩餐会のおことば)  
この度、盧泰愚大韓民国大統領閣下は、国務御多忙の折にもかかわらず、令夫人とともに、我が国を訪問されました。貴国のめざましい発展を導いてこられた大統領閣下を、国賓として我が国にお迎えできますことは、誠に意義深く、また、喜ばしいことであります。御一行を心から歓迎申し上げます。  
朝鮮半島と我が国は、古来、最も近い隣人として、密接な交流を行なってきました。我が国が国を閉ざしていた江戸時代においても、我が国は貴国の使節を絶えることなくお迎えし、朝野を挙げて歓迎いたしました。しかしながら、このような朝鮮半島と我が国との長く豊かな交流の歴史を振り返るとき、昭和天皇が「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない」と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません。  
このような時代を経たのち、日韓友好の再生を願う両国各界各層の方々の強い熱意によって、両国関係が回復し、あらゆる分野で友好と協力の関係が見られるようになりました。関係者の方々に対して深く敬意を表します。  
いまや日韓両国は、ともに、世界の平和と繁栄のため、大きな役割を果たすことを求められる国となりました。私は、今後両国民がますます相互理解を深め、両国関係の一層の成熟を図り、力を合わせて、この課題にこたえていくことを切に希望いたします。  
特に、次代を担う若者たちの交流が活発化し、そこに両国を結ぶ新たな友情が生れつつあることを、私は心強く思います。この新たな友情は、今後両国が力を合わせて人類の将来に対して大きな貢献をしていくための礎となりましょう。  
今回の大統領閣下の御訪日は、二十一世紀に通ずるこのような新しい日韓関係の礎となるものと信じます。  
大統領閣下は関西地方にも赴かれると聞いております。幸いに新緑の爽やかな季節でもあります。御滞在が快適で、有意義なものとなりますよう心から願ってやみません。  
それでは、ここに杯を挙げて、大統領閣下御夫妻の御健康と御多幸、並びに、大韓民国国民の皆様の一層の御繁栄を祈念いたしたいと存じます。
大韓民国盧泰愚大統領の答辞  
天皇陛下ご夫妻、天皇ご一家のみなさま、部総理大臣ご夫妻、そしてご参席の貴賓のみなさま、私ども夫妻と一行を歓迎し、このように暖かく盛大な晩餐会を催して下さったことに感謝いたします。  
同時に、わが国と国民に対して友誼に満ちたお言葉を賜りましたことに謝意を表するものであります。  
日本は陛下のご即位によって、平成の新しい時代を迎えました。本日、陛下と歴史的な交歓をもち、天皇ご即位の祝賀の挨拶を直接お伝えできますことを意義深く考えます。  
また、日本が戦後の廃虚から立ち上がり、全世界が羨む平和で繁栄する国家を築いたことに、讃辞を送ります。  
私は平成時代が日本ばかりではなく、私どもが生きる東アジアと世界の平和と繁栄、友誼を増進する時代になるものと確信いたします。  
遥かな古代から今日に至るまで、韓日両国は最も近い隣人として親しんで来ました。  
わが両国の国民は狭い海峡を越えてお互いに往来し、相手国の文化形成に大きな影響をおよぼし合いました。  
両国間には歓迎すべきことも数多くありました。  
しかしわが国民は近世に入り、苦痛を受ける一時期を経験しなければなりませんでした。  
両国間の長い善隣友好の歴史から見るとき、暗い時代は相対的に短い期間でした。  
歴史の真実は消されたり忘れられたりすることはありませんが、韓国国民はいつまでも過去に束縛されていることはできません。  
われわれ両国は真正な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し、友好協力の新たな時代を開かねばなりません。  
日本の歴史と新しい日本を象徴する陛下がこの問題に深い関心を示されましたことは、きわめて意味深いことです。  
今やわれわれ両国が近くて近い隣人、信頼する友邦として、両国関係を発展させるのに障害となってきた過去の歴史の陰を消し、残滓を取り除くためにわれわれすべてが努力しなければなりません。  
そうすることによって、わが両国間の望ましい関係をわれわれの子孫に受け継がせなければなりません。  
陛下、われわれはいま世紀的激変の中で二十一世紀を迎えようとしています。  
自由と繁栄を志向する人間の熱望は冷戦体制を崩壊させ、世界の版図さえ変えつつあります。  
韓日両国が共に追求してきた自由と民主主義は、この世界の普遍的価値になろうとしています。  
二十一世紀はアジア・太平洋時代になるものと予見されてきました。  
今日の世界において、韓日関係はたんにわが両国間においてのみ重要なのではありません。  
東と西の文化が調和をもたらすアジア・太平洋地域が、人類の新しい文明を牽引し、平和と繁栄を増進するのに主導的役割を果たさなければならないのです。  
さらに、わが両国はより良き世界と人類の繁栄のために、大きく貢献しなければなりません。  
それはまさに、人類と歴史に対する私どもの責務であります。  
二百七十年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、<誠意と信義の交際>を信条としたと伝えられます。  
かれの相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。  
今後のわれわれ両国関係もこのような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう。  
世界のなかの韓日関係を志向する巨視的視点に立ち、誠意と信頼に基づいて共に努力すれば、韓日関係の未来は限りなく明るくなるにちがいありません。  
「君子の交わりは水のごとく淡し」(君子之交淡如水)という諺がございます。  
われわれ両国の友好関係も、そうあらねばなりません。  
貴賓のみなさま、天皇陛下ならびに皇后陛下のご健勝と、平成時代を迎えた日本国の無窮の繁栄を祈願しつつ、ともに祝杯をあげたいと思います。  
ありがとうございました。
1990年5月25日 - 海部俊樹首相

 

(大韓民国大統領盧泰愚閣下ご夫妻歓迎晩餐会での海部内閣総理大臣の挨拶)  
盧泰愚大統領閣下、令夫人、並びにご列席の皆さま  
私は総理就任以来、大統領閣下とお目にかかることを強く願っておりました。このたび閣下のご来日が実現の運びとなり、その願いがかなえられましたことは、私にとって大きな喜びであります。国務ご多忙の中、ご来日頂きましたことを感謝申し上げますとともに、ご一行に対して心から歓迎の意を表します。  
我が国と朝鮮半島は一衣帯水の地にあり、最も近い隣人という関係は、いかに国際情勢が変化しようとも、未来にわたって変わることはありません。このような両者の間に、密接な友好と善隣の関係が保たれることこそ、そこに住む人々の幸せとこの地域の平和の重要な基盤であります。  
にもかかわらず、数千年にわたる我が国と朝鮮半島の交流の歴史は、決して平らかとばかりは申せませんでした。  
私は、大統領閣下をお迎えしたこの機会に、過去の一時期、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます。  
我が国は、戦後、厳しい反省に立って平和国家の道を選択し、その後一貫して貴国をはじめ広く国際社会全体の信頼を回復することに努めてまいりましたが、私は、我が国は、今後ともこの姿勢を変えることなく、更にその努力を強めていかなければならないと考えます。日韓両国の悠久の善隣友好関係も、先ず我が国のかかる努力が貴国民に納得されてはじめて揺るがぬものとなるのでありましょう。  
論語に、「言必ず信あり、行い必ず果す」という言葉がありますが、私はこの人間としての道徳の第一歩は、国家が信頼をかちとるうえにも不可欠な要件であると考え、内政外交にわたる政治運営を進めてまいる決意であります。  
日韓国交正常化以来、既に四半世紀が経過しました。この間、両国関係で飛躍的な発展を見たことを、私は誠に喜ばしく存じます。特に交易や人的往来の面ではその前進は著しいものがありました。近年の交易量についてみると、我が国は貴国の貿易相手国として第二位、貴国は我が国の貿易相手国として第二位となりました。また、貴国からの我が国への訪問者はその数においてアメリカ人を抜き、第一位になったと聞きます。  
しかし、我々はこの量的交流の拡大に満足していてはなりません。貴国は、近年の目覚ましい成長を通じて、広く国際社会から、その貢献を期待される国となっており、我が国もまた、世界から大きな役割を果すことを求められる国となりました。しかも、両国は、単に隣国であるのみならず、自由と民主主義という価値観を共有しております。このような両国は、その協力関係の次元を更に高めて、世界の要請にこたえていかなければなりません。  
思い起こせば、両国間の交流の歴史は、遠く古代にまでさかのぼるものでありますが、我が国国民は、古代よりの貴国の文化に対し深い尊敬の念を抱いておりました。我が国に伝来する様々な芸術作品に、百済や新羅あるいは高麗という名称を冠したものが少なくないことを見てもこの事実は明らかだと申せましょう。  
本日、このたびの大統領閣下のご来日を慶賀して、雅楽と韓国国楽との交流演奏会が行われましたが、そこにおいて宮内庁楽部により演奏された曲目の中にも、高麗楽と呼ばれるもののうちの代表的な曲目が入っていたと聞いております。  
このような交流の伝統の上に立って、これからもますます多くの両国国民がお互いの文化に接する機会を持つことと思います。そして、私は、このような文化交流を通じ、両国国民間の相互理解と尊敬が更に増進されることを期待してやみません。  
大統領閣下のご滞在が短期間であることは誠に残念でありますが、薫風爽やかなこの五月は、日本の一年中で最もよい季節であります。閣下が有意義で、快適な旅行を楽しまれますよう、心からお祈り申し上げる次第です。  
ご列席の皆さま、盧泰愚大統領閣下と令夫人のご健康、大韓民国の益々のご発展を願い、日韓友好の末永い発展を祈念して、ここに杯を挙げたいと存じます。
1991年
1992年1月16日 - 宮澤喜一首相

 

(大韓民国大統領盧泰愚閣下ご夫妻主催晩餐会での宮澤内閣総理大臣のスピーチ)  
盧泰愚大統領閣下、令夫人、並びにご列席の皆様  
私は、総理となって初めての外国訪問に、大統領閣下のご招待を受け、貴国、大韓民国を訪れることができました。心から嬉しく思います。今夕は、このように盛代な晩餐会にお招き頂き、また只今は、大統領閣下から懇切なお言葉を賜りました。一行を代表して厚く御礼申し上げます。  
私は、我が国の戦後の歩みに幾分なりとも携わってきた人間として、我が国と緊密な関係にある貴国の力強い発展に、かねてから強い関心を抱いてまいりました。本日、久しぶりに当地に降り立って、市中の目ざましい変わりようを目のあたりにし、改めてその感を深くいたしました。貴国の国民各位が、南北分断という困難を克服して、このように立派な国づくりをされましたことに、深い敬意を表します。  
また、貴国は昨年、長年の念願であった国連加盟を実現され、さらに先の南北総理会談では、南北間の和解と不可侵、交流協力が盛り込まれた合意書を採択されるなど、画期的な成果を収められました。心から祝意を表しますとともに、朝鮮半島に住むすべての方々が願っておられる平和統一が、一目も早く実現されますよう祈念いたします。  
世界は今大きな激動のさなかにあります。冷戦の解消は人類にとって新たな時代を開くための大きな前進でしたが、東西緊張のかげにひそんでいた問題が浮上し、新たな紛争も生じています。未来は楽観を許さぬものがあります。今や世界でも有力な国家となった貴国と我が国の協力関係は、そのような世界の平和と安定の重要な柱の一つです。価値観を共有する日韓両国は、両国だけでなく、アジアと世界のためにも、その協力の関係を一層深めていかなければなりません。  
このような協力の基礎として、私は、両国間の信頼関係をこれまでにも増して確固たるものとしていくことが必要だと思います。信頼関係を支えるのは、相互理解であります。その際、私たち日本国民は、まずなによりも、過去の一時期、貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し、反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います。  
私は、我が国と貴国が、相互に理解し合える土台として、文化に多くの共通点を持っていることを心強く思っています。その理由は、言うまでもなく、我が国が古来、貴国との密接な交流の中で、貴国の文化の恩恵を受けつつ、自らの文化を築いてきたことにあります。  
もとより両国の文化には共通点ばかりがある訳ではありません。多くの相違点を理解し合うことも相互理解の大切な条件であります。お互いがお互いの文化を学び、高め合うとともに、相互理解を深め、信頼関係を高めていくならば、それは、来たるべき時代を建設し、両国の協力関係を確固たるものとするための重要な糧となるに違いありません。  
私は若い頃から書に親しんでまいりましたが、書もまた、両国が共有する文化の一つであります。昔から、書は人なりと言い、書を見れば、その人の人格や奥深い心を知ることができるとされてきました。このような考え方は、貴国においても同じではないでしょうか。江戸時代、唯一の外国使節であった朝鮮通信使の一行には、貴国の秀でた文人が多数含まれていましたが、我が国の文人は、至るところで競って書画を請い、また、詩文の唱酬など華やかな交歓がなされました。言わば書は、日韓間の深い心の交わりの一つの象徴と言えるのではないかと思います。  
日本では昔から、正月に自分の願いや決意を大きく墨書する「書き初め」という習慣がございます。私は、年のはじめにあたり、また新たな時代のはじめにあたり、永きに亘る日韓友好を願いつつ、次のように書き初めを致しました。  
「至誠天に通ず」と。  
大統領閣下、並びに御列席の皆様  
私は、明後日、皆様のお世話で、貴国の古都、慶州を訪れる予定になっております。我が国の文化の故郷の一つとも言うべきこの由緒深い土地に杖を引いて、これまでの日韓の交流に思いをいたし、さらに今後の展望について思索の羽を延ばすことができるものと、今から楽しみにしております。  
それでは、最後に、盧泰愚大統領閣下、令夫人、並びに関係各位のご厚情に感謝し、皆様方のご健康とご繁栄、貴国の一層のご発展をお祈りして、杯を上げたいと思います。  
コンペ! カムサハムニダ。
1992年1月17日 - 宮澤喜一首相

 

(宮澤喜一内閣総理大臣の大韓民国訪問における政策演説)  
(アジアのなか、世界のなかの日韓関係)  
尊敬する朴浚圭{朴浚圭にパクチュンギュとルビ}国会議長、そして御列席の大韓民国国会議員の皆様、私は、本日、大韓民国を代表する皆様に、そして皆様を通じて韓国国民の方々に、こうしてお話する機会を得たことを、大変うれしく存じます。国会閉会中にもかかわらず、私にこのような機会を与えて下さった議長閣下、各党の指導者と議員の皆様に、心から感謝の意を表したいと思います。  
世界は今日、まさに激動の最中にあり、ここ朝鮮半島にも大きな変化の波がおし寄せています。貴国は昨年秋、ついに40数年来の念願だった国連への加盟を果たされ、また、去る12月の南北首相会談では、画期的な合意書が署名されて南北の関係に大きな進展が見られました。まさに慶賀すべきことであり、隣国としても喜びにたえません。  
私は、かねてから貴国の力強い成長ぶりに注目し、是非とも貴国を訪問して盧泰愚大統領閣下をはじめ貴国の要路の方々と忌憚のない意見交換を行いたいと考えておりました。このたび総理としての初の外国訪問に、お祝いの言葉を携えて、歴史的な時期の只中にある貴国を訪れることができましたことは、私にとって大きな感激であります。  
(新しい平和秩序を求めて)  
御列席の皆様、冷戦の終焉は、平和を切望する世界のひとびとにとって朗報でした。私たち人類は新しい世界に大きく一歩を踏みだしたと言うことができます。しかし、湾岸危機をはじめ、旧ソ連邦の混乱やユーゴスラヴィアの内戦など、冷戦後の世界は激しい流動を続け、新しい平和秩序の確立が容易ならぬものであることを示しています。  
このような時代に対処するには、世界のあらゆる国々が、積極的にその力を合わせ、新たな秩序づくりに向けて努力を行わなければなりません。世界の諸国が国連を中心に結集し、世界の平和と安定のために、それぞれの国力と国情に応じた貢献を行わなければならない時代が来ています。いまこそ国連がその創設時の理想の実現に邁進すべきときではないでしょうか。  
私は、この意味からも、貴国が、正式に国連の仲間入りをされたことを、誠に心強く感じます。日韓両国は、アジアと世界のダイナミズムの牽引車としての役割を果たすことを求められています。両国が、これを契機に、国連という場においても、相談し合い、協調し合っていくことが大切です。日韓の協力関係は、国際社会に対して新たな意義を持つこととなるでしょう。  
世界の平和と安定に貢献する際に我が国は、過去の教訓を踏まえ、平和憲法のもと専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国にならないとの基本方針を堅持してまいります。そして、この方針をむねに、国際の平和と安全の維持のため、経済的貢献の強化に加え、政治的、さらには人的貢献の強化をはかってまいります。とくに、多大な貢献をしている国連の平和維持活動に対しては、平和維持隊への参加も含め、一層の人的協力を可能にするよう、現在国内体制の整備を進めており、国際社会の期待に応えていく決意です。  
(アジア・太平洋地域)  
御列席の皆様、昨年10月のパリ会議において、カンボディア問題の包括的政治解決のための合意が達成されました。我が国は、アジアの一国として、また、カンボディア問題についての東京会議を開催する等の努力を行ってきた国として、このたびの和平の到来を心から喜んでいます。カンボディアは、今回の合意をもって長く苦しい戦火に終止符を打ち、国家再建に取り組んでいくことになりました。それは、東南アジアで最も不安定な地域だったインドシナ全体が、アジア・太平洋地域の活力ある経済発展に参加することを意味するとともに、私たちが強く関心を抱いているアジア・太平洋地域の平和と安定に明るい希望を投げかけるものでもあります。  
そして今、アジア・太平洋地域は、近年のめざましい成長によって、国際社会から大きな注目を集めるようになっています。21世紀の世界を引張っていくのはこの地域だと言う人もいます。私は、このようなアジア・太平洋の活力は、この地域の人種、宗教、文化、伝統、価値観、経済の発展形態等が極めて多様であることに起因すると思います。かつては、その多様性と、それゆえの複雑性は、アジアの発展を遅らせている原因だとされました。しかし、時代の大きな変化の中で、いまそれが自ずと補完し刺激し合うようになり、たくましいエネルギーが生み出されているのです。  
したがって、私たちは、この地域の発展をはかるに当たって、それが持つ多様性を尊重しつつ、域内の協力と対話を、この地域に適する、開かれた形で強化していかなければなりません。域内の協力と対話の場としては、既にアセアン拡大外相会議があり、この会議に貴国が昨年から参加されるようになったことは、心強いかぎりです。私はまた、1989年のアジア・太平洋経済協力閣僚会議、すなわちAPECの発足を極めて意義あることと考えています。特に、昨年秋、貴国で開催された第3回APEC閣僚会議において、中国、台湾、香港の参加が実現し、APECの理念、指針等を示す宣言が採択されたことを高く評価したいと思います。APECにおける我が国と貴国との協力がますま重要になっていくことは疑いありません。  
さらに、私は、朝鮮半島と中国とロシアと我が国とを包含する北東アジアの大きな発展の可能性に注目したいと思います。この地域には、豊富な労働力と資源があり、日韓の経済力と技術力があります。今まで政治の壁にはばまれ、必ずしも十分な交流、協力が行われなかったこの地域ですが、冷戦の終焉に伴い、それぞれの経済の長所、短所を補い合い、生かし合える素地ができつつあります。日韓両国を中心に、また、米国等他の関係諸国の協力も得つつ、この地域を「緊張」の地域から「協力」の地域に変え、繁栄する開かれた北東アジアを創造することは、努力次第で実現の可能な私たちの夢と言えましょう。私は、この夢の実現の成否は、我が国と貴国との今後の協力にかかっていると申しても決して過言ではないと思います。  
(朝鮮半島情勢)  
日本国民は、朝鮮半島に平和的な統一が実現する日が来ることを心から願っています。それは、何よりも朝鮮半島の平和と安定が東アジアの平和と安定の要であるからです。また、その平和的統一を求めてやまない皆様の民族的な願いは、ここに多くの友人を有する隣人として、私たちにも痛いほどよくわかるのです。同じ家族でありながら、離れ離れになって暮らさなければならない朝鮮半島の離散家族の話を耳にするたびに、私は、胸を締めつけられる思いがいたします。日本人の中にも、配偶者と共に北朝鮮に移住したひとびとがおり、日本にいるその父母や親類縁者は再会を望んでいますが、なかなか実現いたしません。多くは高齢になったこれらのひとびとから、私たちに寄せられる手紙には、北朝鮮に移住した娘や妹に一目会いたいという思いが切々と綴られています。分断の悲劇は一日も早く終わらせなければなりません。その際、朝鮮半島の平和的統一は、南北間の対話を通じて達成されるべきものであることは言うまでもありません。  
昨年の南北首脳会談で署名された合意書の中で、私が特に注目しましたのは、貴国の主張によって南北間の交流と協力がうたわれたことであります。イソップ物語にもあるように、人がマントを脱ぐのは、北風に吹かれたときよりも、暖かい太陽の光を浴びたときであります。私は、異なる政治、経済、社会体制の中で半世紀近くも過ごしてきた人々に、同胞としての変わらない愛情をもって接しようとする貴国の暖かい心に感銘しました。同時にまた、北朝鮮を孤立化させるよりもむしろ外の世界に迎え入れた方が、その改革と変化、特に開放を促し、朝鮮半島の平和と安定に資するという貴国の考え方に共鳴しました。貴国が、北朝鮮の国連加盟を支持されたのも、そのような気持の現われと言えるのではないでしょうか。私は、北朝鮮が、貴国の真意を理解し、国際社会の責任ある一員として行動するよう強く希望いたします。  
我が国が現在北朝鮮と行っている国交正常化交渉は、これまでに5回の会談を重ねました。この交渉において、我が国は、日本と北朝鮮との間の不正常な関係を正すという側面だけでなく、日朝間の国交正常化が朝鮮半島の平和と安定に資するべきであるという側面をも重視しています。これは、北朝鮮を責任ある一員として国際社会に迎え入れた方がよいという貴国の考えと軌を一にしています。また、私は、これまでの会談で、我が国がこうした考え方に立って、朝鮮半島の平和と安定にとって特に重要な南北対話の促進を、常に呼びかけてきたことを申し上げておきたいと存じます。  
ただし、かなり活発な議論の結果、双方の立場についての理解は進んだものの、日朝両者間の基本的立場の隔たりは依然としてさほど狭まってはおりません。とくに私は、核開発問題はこの地域の安全にとって重大であり、日朝の国交正常化までにどうしても解決しておくことが不可欠だと考えます。唯一の被爆国たる日本の国民は、朝鮮半島において核兵器が開発されることがないよう心から念願しています。そのため、我が国は、従来から、北朝鮮が国際原子力機関の査察を受け入れることに加え、再処理施設を保有しないよう求めてきたのです。  
我が国は、貴国がこの問題の解決に向けてとってこられた非核化宣言、南北同時査察提案、核不存在宣言等の一連の措置を高く評価してきています。また、昨年末に南北間で非核化に関する共同宣言の案文に仮署名が行われたことは、この問題の解決に向けての大きな前進であり、心から歓迎します。我が国としては、今後この宣言が早期に実施に移されることを期待するとともに、北朝鮮がその言葉通りに、一刻も早くIAEA保障措置協定を締結、完全履行し、核開発に関する国際的な懸念を解消するよう引き続き強く求めてまいります。  
我が国は、近い将来に朝鮮半島のすべてのひとびとの幸福を保障する平和的統一が実現することを期待し、今後とも貴国とは緊密に連絡をとりつつ、引き続き北朝鮮との交渉を粘り強く進めていきたいと考えます。  
(日韓関係)  
御列席の皆様、日本国民は、貴国が世界の平和と自由と繁栄のため、努力してこられたことを知っています。1988年のオリンピックも、湾岸危機における多国籍軍への協力も、先般のアジア・太平洋経済協力閣僚会議の開催も、その一例だったと思います。日本国民は、貴国のそのような努力を高く評価し、その成功を心から喜んでいます。  
貴国は今や世界の有力な国家であります。世界が貴国に期待する国際的役割もますます大きなものとなるでしょう。新しい世界への困難な航海をするに当たって、我が国が、そのような貴国を、歴史的、文化的な共通点の多い隣国として持っていることを、私は実に心強く感じます。そのような貴国と我が国との間のゆるぎない関係は、両国はもとより、アジア、ひいては世界を大きく裨益するでありましょう。そして、そのようなパートナーシップを、私は、「アジアのなか、世界のなかの日韓関係」としてとらえたいと思います。  
このような重要なパートナーシップの基礎として、私たちは、何よりも両国間の信頼関係を確固たるものとしなければなりません。我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に、我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが、私は、このようなことは実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております。  
さらに私は、先の大戦時に生きた人間の一人として、21世紀を担う次の世代に、私たちの世代の過ちを過ちとして伝え、これを二度と繰り返すことのないよう、歴史を正しく伝えていかなければならないと感じています。それは、私を含めて、私たちの世代の責任です。我が国はこれまでも日韓関係の正しい理解の普及に努めてまいりましたが、今後ともこのような努力を重ねてまいりたいと考えております。私は、過去の事実を直視する勇気、被害を受けられたひとびとの感情への理解、そして、二度とこうした過ちを繰り返さないという戒めの心を国民のあいだ、とりわけ青少年たちのあいだにさらに培ってまいる決意です。
 
今日、日韓両国の交流・相互依存関係は、飛躍的に高まっています。それに伴って、新たな摩擦や問題が生じてきていることも否定できません。しかし、これらの問題は、率直な話合いによって、理解や協調という解決を求めることができるでしょう。貿易不均衡についても、両国の協力により、貿易の拡大均衡の方向で解決されていくものと信じています。そのため、私は、盧泰愚{盧泰愚にノテウとルビ}大統領閣下に両国経済人を中心としたフォーラムを設置することを提案いたしました。私は、このフォーラムを、自らの直接の関心の下におき、そこで、貿易不均衡の原因と対策を忌憚なく議論して頂きたいと思います。フォーラムの提言については政府としても前向きに取り組んでまいります。  
私たちは、常に明日の世界を見つめつつ、二国間の調和と協力に全力を尽くさなければなりません。それが、未来志向的な日韓関係を深め強化して、新しい世界をつくっていくための重要な道程です。  
二国間の相互協力の土台は相互理解です。相互理解を推し進めていくには、双方が相手の歴史、文化、社会等をよく知らなければなりません。一昨年の盧泰愚{盧泰愚にノテウとルビ}大統領閣下の御訪日以来、我が国では、両国間の古くからの交流について、また、貴国の歴史、文化等について、新たな関心が高まりを見せています。  
私は、こうした関心の高まりを活かすため、新たに次のような措置をとっていきたいと考えます。一つは、我が国の大学等における朝鮮半島の文化、言語等に関する教育研究と日韓両国の大学等の共同研究の一層の推進です。これを通じて両国の学術的、知的な交流が発展することが期待されます。もう一つは、貴国の歴史、文化、思想、伝記等の優れた書物を日韓共同で日本語に翻訳した上、我が国で出版し、我が国国民の幅広い層に貴国に対する理解を深めることです。また、これまでもいろいろな施策を講じてきた青少年交流については、明年度から5年間にわたり、さらに500名の貴国の青年を我が国に招聘したいと思います。これに加えまして、私は、単に二国間だけでなく、近隣国を含めた幅広い交流を進めていくため、日本、韓国、中国、旧ソ連邦等の青年を対象とする多角的な青年交流計画を検討しているところです。  
他方、貴国におかれても、我が国の歴史、文化、社会等に対し理解を深めていただくことを希望いたします。このような双方の努力が進むならば、人的、文化的な交流はさらに進み、両国の友好協力の関係は、ますますゆるぎないものとなるにちがいありません。  
御列席の皆様、「漢江の奇跡」と呼ばれる貴国の経済成長は、すでに世界の知るところとなりました。日本がアジアで唯一の先進工業国であった時代は既に過去のものになりつつあります。両国が手を携えて、アジアで、また国際社会で行っていくべきことは、多くの分野に広がっています。  
私はまず、我が国は、いまや援助供与国となった貴国と協調しながら、経済的貢献を進めていきたいと考えています。双方の豊かな経験を生かして、開発途上国への経済協力を推進していけるとは、実にすばらしいことではありませんか。  
また、私は、自由貿易体制の恩恵を受けてきた日韓両国は、その体制の維持と強化に共に努力していくことが必要であり、ウルグァイ・ラウンドの成功のため協力していきたいと思います。  
さらに私は、新しい協力分野として、日韓間の環境協力を挙げたいと思います。明るい21世紀をつくり、次の世代の子供たちに美しい自然の遺産を残していくため、共に国境を越えた課題としてこれに取り組んでゆこうではありませんか。  
(むすび)  
御列席の皆様、私の地元の広島県福山市には、鞆浦{鞆浦にとものうらとルビ}という古くから海上交通の拠点として栄えた港町があります。それは、江戸時代の貴国からの通信使が上陸した寄港地で、私も幼いころはよく遊びに行きました。この地の福禅寺には、通信使一行の宿舎が今も残っており、「対潮楼」という宿舎の名を書した木額がかかっています。この木額は、この宿舎を「対潮楼」と名付けた、通信使の正使洪啓禧{洪啓禧にホンケフイとルビ}が、息子の洪景海{洪景海にホンギョンヘとルビ}に書かせ、福禅寺の住職に与えた文字をもとにつくられたといわれております。靹浦{鞆浦にとものうらとルビ}から島々の浮かぶ海は瀬戸内海でも絶景の一つであります。御出席の皆様も、日本にお出でになるとき、ぜひ一度、この古き日韓交流の跡を訪ねていただきたいと思います。  
私は、日韓両国の先人たちが残してくれたこのような交流の歴史の上、「アジアのなか、世界のなかの日韓関係」として何百年、何千年と続く両国の友好協力関係が築かれることを願ってやみません。このたびの私の貴国訪問が、そのような両国の関係の進展にいささかでも貢献できるものとなることを願いつつ、私の話を終わりたいと思います。  
御清聴ありがとうございました。
1992年7月6日 - 加藤紘一内閣官房長官

 

(朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表)  
朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題については、昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果について配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。調査の具体的内容については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、許しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。  
政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未架に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。  
この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。
1993年8月4日 - 河野洋平内閣官房長官

 

(慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話) [いわゆる河野談話] 
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
1993年8月23日 - 細川護煕首相

 

(所信表明演説)  
このたび、私は、内閣総理大臣に任命され、国政を預からせていただくこととなりました。  
我が身に課せられた責任の重さはまことにはかり知れないものがございます。と申しますのも、この内閣は、歴史の一つの通過点ではなく、新しい歴史の出発点を画するものと私は受けとめているからでございます。このような認識から私は、このたびの内閣を新しい時代のための変革に着手する内閣と位置づけ、「責任ある変革」を旗印に、心魂を傾けてその職責を遂行してまいる決意でございます。  
長らく続いた米ソ両大国を二つの極とする東西対立の時代が終わり、国際社会では今、旧来のシステムにかわる新たな国際秩序を模索して、さまざまな試みが検討され、また、必死の努力が行われております。ひとり我が国だけが時代の大きな流れに逆らえるはずもなく、冷戦の終えんとともに、冷戦構造に根差す日本の政治の二極化の時代も終わりを告げました。今回の総選挙の結果は、多くの国民が保革対立の政治に決別し、現実的な政策選択が可能な政治体制の実現を期待されたものと受けとめております。ここに一つの時代が終わりを告げたことを国民の皆様方とともに確認し、二十一世紀へ向けた新しい時代が今、幕開きつつあることを明確に宣言したいと思います。  
このところ、鹿児島を中心とする豪雨災害や北海道南西沖地震、雲仙岳噴火など自然災害による被害が相次ぎました。国政についての所信を申し述べるに先立ちまして、これらの災害で亡くなられた方々とその御遺族に対し謹んで哀悼の意を表しますとともに、負傷された方々や避難生活を続けておられる方々に心からのお見舞いを申し上げます。  
先般、私も鹿児島の被災地を訪れ、自然の猛威の恐ろしさを目の当たりにしてまいりました。災害の復旧と今後の安全の確保に全力で取り組むことは言うまでもありませんが、避難生活を強いられている方々が不安な毎日を送られていることを思い、一日も早く平常時の生活に戻られるよう、政府、地方公共団体が一体となって住居の確保や被災施設の早期復旧など生活環境の整備を急いでまいりたいと思います。また、災害復旧後のこれらの地域の活性化に必要な措置についても積極的に展開してまいりたいと思っております。  
私はまず、この政権がいわゆる「政治改革政権」であることを肝に銘じ、政治改革の実現に全力で取り組んでまいります。  
我が国が終戦以来の大きな曲がり角に来ている今日ほど、政治のリーダーシップが必要とされているときはなく、一刻も早く国民に信頼される政治を取り戻さなければなりません。歴代の内閣が抜本的な政治改革の実現をその内閣の最優先の課題として取り組んでこられましたが、いまだ実現を見るに至っておりません。政治改革のおくれが政治不信と政治の空白を招き、そのことが景気の回復など多くの重要課題への取り組みの妨げとなり、これからの日本の進路に重大な影響を及ぼしつつあることを私は深く憂慮してまいりました。今回の選挙で国民の皆様方から与えられました政治改革実現のための千載一遇のチャンスを逃すことなく、「本年中に政治改革を断行する」ことを私の内閣の最初の、そして最優先の課題とさせていただきます。  
そのため、選挙制度については、衆議院において、制度疲労に伴うさまざまな弊害が指摘されている現行中選挙区制にかえて小選挙区比例代表並立制を導入いたします。また、連座制の拡大や罰則の強化などにより政治腐敗の再発を防止するとともに、政治腐敗事件が起きるたびに問題となる企業・団体献金については、腐敗のおそれのない中立的な公費による助成を導入することなどにより廃止の方向に踏み切ることといたします。これらの改革案の詳細については、現在、連立与党各党の間で精力的に検討作業が進められておりますので、私といたしましては、その結論を待って、できるだけ早い機会に国会に御審議をお願いし、これらを一括して何としても本年中に成立させる決意でございます。  
政治改革は、単に政党や政治家だけの問題ではございません。法律や制度を変えるとともに、国民、有権者の皆様方にも、いわゆる金権選挙や利権政治を根絶する決意をお持ちいただかなければ、政治改革を真に成功に導くことは困難であろうと思っております。ぜひとも国民の皆様方の御理解と御協力をお願い申し上げる次第でございます。  
また、私は、政治腐敗の温床となってきた、いわゆる政・官・業の癒着体制や族議員政治を打破するために全力を尽くしてまいります。直接、間接を問わず、行政が政治家の票や資金の応援をすることがあるとすれば、その弊害は政治や行政の根幹にまで及ぶことになるだけに、政治と行政との関係改善や、綱紀の粛正に毅然たる態度で臨んでまいりたいと思います。  
冷戦終結後の国際社会や国民の多様な要請にこたえていくためには、行政の面でも、より一層柔軟性や機動性を高めていくことが不可欠であります。まずは緊急の課題である政治改革の実現に全力を投入することといたしますが、行政改革にも本格的に着手しなければならないと思っております。率直に申し上げまして、規制緩和や地方分権の推進、縦割り行政の弊害是正などの課題は、利害が錯綜し、また、さまざまな障害もあって、これまで大きな前進を見ないままに今日に至っております。しかしながら、これらの課題は、国民の目から見て透明で公正な行政を実現するためにも、そして東京一極集中を是正し、地域の特色や自主性が反映される活力に満ちた地域行政を展開していくためにも、何としてでもなし遂げなければならない課題であり、私としても具体的な成果を上げるべく強い決意でこれに取り組んでまいりたいと思います。  
我が国は今、政治ばかりでなく経済の分野においても依然として厳しい局面にあり、一日も早く長期化した不況を克服してまいらなければなりません。国内景気は、一連の経済対策の効果もあってバブル経済の崩壊による最悪の状態からは脱しつつあるとも見られますが、最近の急激な円高や異常な天候不順は内需拡大の動きに悪影響を与えかねず、今後の景気回復には予断を許さないものがあります。私は、景気の先行きに対する不透明感を払拭するためには、円高の国内経済への影響や景気の状況を注視し、厳しい財政状況を十分踏まえつつ、時期を失することなく必要かつ効果的な対策を講じることが肝要であると考えます。そこで、今年度予算の執行や四月に決定した総合的経済対策の実施に万全を期していくことはもとより、規制緩和や円高差益の問題を初め、幅広い観点から現下の緊急状態に対応するための諸施策を早急に取りまとめ、実行に移してまいりたいと思います。  
また、日本経済の潜在的な活力を高めていくためには、長期的視野に立って経済構造の変革を図り、民間の活力がより自由に発揮されるための環境を整備していくことが重要であると考えております。  
現在、国家財政は、依然続く構造的な厳しさに加えて、バブル経済の崩壊に伴いまことに深刻な状況に立ち至っておりますが、来年度予算編成に際しましては、特例公債を発行しないことを基本に財政改革を強力に推進しつつ、従来にも増して財源の重点的効率的配分に努めてまいります。特に、公共事業のシェアの抜本的な変更に取り組み、国民生活の質の向上に資する分野に思い切って重点投資するなど、本格的な高齢化社会の到来する二十一世紀を見据えて、社会資本整備の着実な推進を図ってまいりたいと思います。  
また、税制については、平成元年度に抜本的な税制改正を行って以来、約五年が経過しておりますが、その間、バブルの発生とその崩壊、高齢化の一層の加速などの事態が生じております。私は、このような経済社会情勢の変化に現行の税制が即応したものになっているのかどうかを点検し、公正で活力ある高齢化社会を実現するため、年金など国民負担全体を視野に入れ、所得、資産、消費のバランスのとれた税体系の構築について、国民の皆様方の御意見にも十分耳を傾けながら総合的な検討を行ってまいりたいと存じます。現在、税制調査会では、このような方向で御審議をいただいているところであり、その検討の成果を尊重してまいりたいと考えております。  
我が国は、これまで経済的発展に最大の重点を置き、その本来の目的であるはずの国民一人一人の生活の向上や心の豊かさ、社会的公正といった点への配慮が十分ではなかったことを率直に反省すべきであります。最近になって政府は、生活者のためのさまざまな対策を講じてきてはおりますが、必ずしも政策の重点が変わったというふうに国民の皆様方が肌で実感されるまでには至っておりません。私は、豊かな生活環境を求め新たなライフスタイルを指向する動きが見られることを念頭に置いて、ここでいま一度、生活者・消費者の視点や環境の保全、男女共同参画型社会の実現といった視点に立って、従来の制度や政策について徹底的に見直しを行っていくことが必要であると考えております。直近の問題で申し上げるならば、輸入品を中心として円高の効果がより速やかかつ円滑に還元され、円高のメリットを国民が確実に享受できるよう対応してまいりたいと存じます。  
今、我が国は急速に高齢・少子社会へと移行しておりますが、二十一世紀までに残りわずかな期間しか残されていないことを考えるならば、今のうちに福祉の充実を始めとする対策を積極的に打ち出し、美しい快適な環境の中で、都市勤労者も農山漁村で暮らす方々も生き生きと多様な価値観を実現できる社会の実現を目指してまいらなければならないと考えます。  
思えば内閣が発足したこの八月は、我が国にとって永遠に忘れられない月であります。十二支をちょうど四回さかのぼった昭和二十年八月、我々は終戦によって大きな間違いに気づき、過ちを再び繰り返さないかたい決意で新しい出発を誓いました。  
それから四十八年を経て我が国は今や世界で有数の繁栄と平和を享受する国となることができました。それはさきの大戦でのたっとい犠牲の上に築かれたものであり、先輩世代の皆様方の御功績のたまものであったことを決して忘れてはならないと思います。我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べるとともに、今後一層世界平和のために寄与することによって我々の決意を示していきたいと存じます。
 
世界は今、地球的規模のさまざまな課題に直面しておりますが、私は、平和と国際協調という憲法の精神を尊重しつつ、国際国家としての我が国の立場と責任を十分に自覚し、これらの世界的な課題の解決に従来にも増して積極的な役割を果たしていく決意であります。  
現在、国連を中心として冷戦後の新たな世界平和秩序を構築するための懸命の努力が行われておりますが、私は、より平和で、そして人権が尊重される世界を目指して、国民の十分な理解を得つつ、国連による国際的な努力に対する人的貢献を着実に展開していくとともに、冷戦後の世界に対応できるような国連改革、国連強化のためにも積極的に寄与してまいりたいと思います。  
大量破壊兵器の不拡散は、我が国を含む国際的な安全保障を確保する上で緊急の課題であり、私としては核不拡散条約の無期限延長を支持してまいりたいと考えております。さらに進めて究極的に地球上から核兵器を廃絶し、国際的軍縮を達成することこそが世界の平和をもたらすゆえんであり、そのため、より積極的な外交努力を展開してまいる決意であります。  
世界全体の平和と繁栄のためには日米安保条約を中核とする日米両国の緊密な協力が不可欠であります。私は、米国がアジア・太平洋地域における米国の存在と関与を継続する決意を示していることを歓迎するとともに、良好かつ建設的な日米関係を維持、構築していくことを日本外交の基軸として最善を尽くしてまいりたいと思います。  
また、私は、アジア・太平洋地域の一員としての我が国の役割を重視し、常に謙虚な姿勢を忘れずに相互の信頼を醸成しながら、この地域の平和と繁栄のために可能な限りの貢献を行ってまいりたいと考えております。そこで、これらの国々との間の経済・政治両面にわたる対話と協力をこれまで以上に緊密に進めるとともに、中国、韓国、ASEAN諸国等近隣諸国との一層の関係改善に努めてまいります。  
ロシアとの関係については、北方領土問題を解決し、国交の完全正常化が実現するよう努力するとともに、ロシア国内の改革に対し応分の支援を行ってまいりたいと考えております。  
さらに、統合を進め国際社会における役割をますます高めつつあるヨーロッパ諸国などとも引き続き一層緊密な協力関係を築いてまいりたいと思います。  
戦後から今日に至るまでの我が国の経済的繁栄は、国際的に市場経済が機能し、多角的自由貿易体制が維持されて初めて可能であったと申し上げても過言ではありません。現在、世界経済の低迷を背景に保護主義的な動きの高まりや国際経済摩擦が激化する様相を見せていることはまことに懸念すべき状況であり、このようなときにこそ我が国が自由貿易体制を維持、強化するための国際協調に率先して取り組んでいくことが重要であります。  
ウルグアイ・ラウンド交渉が不調に終わるようなことがあれば、世界経済に深刻な影響を与えることは確実であり、先般の東京サミットにおいて確認されたように、交渉の年内終結に向けて、我が国としても引き続き全力を尽くしてまいる決意でございます。なお、農業については、各国ともそれぞれ困難な問題を抱えておりますが、我が国としても、これまでの基本方針のもと、相互の協力による解決に向けて最大限努力してまいります。  
米国やEC諸国を初め、幾つかの国々から我が国の大幅な経常黒字が国際経済に与える影響を懸念する指摘がなされていることを真摯に受けとめ、私は、良好な対外経済関係を維持するのみならず国民生活の向上を図るためにも、内需拡大努力や市場アクセスの改善、内外価格差の是正、規制緩和等消費者重視の政策を積極的に推進し、経常黒字の縮小に向けて努力してまいりたいと考えております。このため、各方面からの意見も拝聴して、我が国の経済社会構造の変革も視野に入れた今後我が国がとるべき対応策について、早急に取りまとめを行いたいと考えております。九月にも日米包括経済協議が開始されますが、自由貿易主義や市場経済原則に従って日米双方が努力することにより対外不均衡の改善を図り、安定的な日米経済関係を築いていくことが重要であると認識いたしております。  
また、ODAの積極的な活用などによる資金面、技術面等での協力を通じた地球的規模の問題の解決、開発途上国や旧社会主義国の改革努力への支援など、国際社会の期待にこたえ我が国の国力にふさわしい国際社会への寄与を行ってまいりたいと思います。特に、近年、世界各地で異常気象が常態化しつつあることもあって、地球環境問題への関心はますます高まってきております。地球環境問題は遠い将来の問題ではなく、いっときの猶予も許されない緊急の課題であり、私は、我が国が有する経験と能力を十分に生かしながら、地球環境問題の解決に向けた国際的な努力に対し率先した役割を果たしてまいりたいと思っております。  
私は、今後の政治運営に当たって、質の高い実のある国づくり、言ってみれば「質実国家」を目指してまいりたいと思います。  
かつて小泉八雲は第五高等学校の生徒に向かって、「日本にはすばらしい精神がある。日本精神とは、簡潔、善良、素朴を愛し、日常生活において無用の贅沢と浪費を憎む精神である。その精神を維持、涵養する限り、日本の将来は期して待つべきものがある」と申しました。  
私は、若いころこの言葉を知ったのですが、今や我が国は、国も国民も背伸びをせずに、自然体で内容本位の生き方をとるべき時代を迎えていると感じております。外に向かっては大国主義に陥ることなく、内にあっては、文化の薫り豊かな質の高い実のある生活様式を編み出し、美しい自然と環境を将来のために残していくことが何よりも大切だと思っております。  
政治や行政はもちろん、経済や国民生活においても、できる限り虚飾を排して質と実を追求していくことを私の政治理念の根本に据えてまいりたいと思っております。  
このたびの内閣は、八党派によって樹立されたいわゆる連立政権でありますが、私どもは政権の樹立に際し、外交、防衛、経済、エネルギー政策などの基本重要政策について、原則として今までの国の政策を継承することを確認いたしました。新しい時代のために、政治の刷新のために、あえて立場の違いを乗り越えて国民の負託にこたえようと努力したそのこと自体が大きな歴史的意義を有していると考えている次第であります。  
今何よりも重要なことは、国民の政治に対する信頼を回復することであります。そのためには、政治改革を早急に実現することが必要なことは言うまでもありませんが、私は、冷戦時代が国内政治にもたらした傷跡をいやすための「国民的和解」の観点に立って、与野党間の関係も「対立から対話へ」、「相互不信から相互信頼へ」そして「反対のための反対から建設的提案競争の時代へ」と転換していくことが何よりも肝要だと思っております。わだかまりやこだわりを捨て、ともに力を合わせて、常に国民に目を向けた政治が我々の原点だということを忘れずに、国民生活の向上と安定につながる施策を大胆に打ち出していくことこそが重要であります。  
我々は、国民の皆様方が示された歴史的審判が正しい選択であったことを証明するため、一致協力して国政の運営に取り組んでまいる決意でございます。  
何とぞ、国民の皆様方、議員各位の深い御理解と御支援を賜りますよう心よりお願いを申し上げます。 
1993年9月24日 - 細川護煕首相

 

「私が侵略戦争、侵略行為という表現を用いましたのは、過去の我が国の行為が多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたとの同一の認識を率直に述べたものでございまして、改めて深い反省とおわびの気持ちを表明したものでございます。」
1994年8月31日 - 村山富市首相

 

(「平和友好交流計画」に関する村山内閣総理大臣の談話)  
明年は、戦後五十周年に当たります。私は、この年を控えて、先に韓国を訪問し、またこの度東南アジア諸国を歴訪しました。これを機に、この重要な節目の年を真に意義あるものとするため、現在、政府がどのような対外的な取組を進めているかについて基本的考え方を述べたいと思います。  
1 我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です。戦後五十周年という節目の年を明年に控え、このような認識を揺るぎなきものとして、平和への努力を倍加する必要があると思います。  
2 このような観点から、私は、戦後五十周年に当たる明年より、次の二本柱から成る「平和友好交流計画」を発足させたいと思います。第一は、過去の歴史を直視するため、歴史図書・資料の収集、研究者に対する支援等を行う歴史研究支援事業です。第二は、知的交流や青少年交流などを通じて各界各層における対話と相互理解を促進する交流事業です。その他、本計画の趣旨にかんがみ適当と思われる事業についてもこれを対象としたいと考えています。また、この計画の中で、かねてからその必要性が指摘されているアジア歴史資料センターの設立についても検討していきたいと思います。なお、本計画の対象地域は、我が国による過去の行為が人々に今なお大きな傷痕を残しているアジアの近隣諸国等を中心に、その他、本計画の趣旨にかんがみふさわしい地域を含めるものとします。この計画の下で、今後十年間で1千億円相当の事業を新たに展開していくこととし、具体的な事業については、明年度から実施できるよう、現在、政府部内で準備中であります。  
3 いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。なお、以上の政府の計画とあいまって、この気持ちを国民の皆様にも分かち合っていただくため、幅広い国民参加の道をともに探求していきたいと考えます。  
4 また、政府としては、女性の地位向上や女性の福祉等の分野における国際協力の重要性を深く認識するものであります。私は、かねてから、女性の人権問題や福祉問題に強い関心を抱いております。明年、北京において、女性の地位向上について検討し、21世紀に向けての新たな行動の指針作りを目指した「第四回世界婦人会議」が開催されます。このようなことをも踏まえ、政府は、今後、特にアジアの近隣諸国等に対し、例えば、女性の職業訓練のためのセンター等女性の地位向上や女性の福祉等の分野における経済協力を一層重視し、実施してまいります。  
5 さらに、政府は、「平和友好交流計画」を基本に据えつつ、次のような問題にも誠意を持って対応してまいります。その一つは、在サハリン「韓国人」永住帰国問題です。これは人道上の観点からも放置できないものとなっており、韓国、ロシア両政府と十分協議の上、速やかに我が国の支援策を決定し、逐次実施していく所存です。もう一つは、台湾住民に対する未払給与や軍事郵便貯金等、長い間未解決であった、いわゆる確定債務問題です。債権者の高齢化が著しく進んでいること等もあり、この際、早急に我が国の確定債務の支払を履行すべく、政府として解決を図りたいと思います。  
6 戦後も、はや半世紀、戦争を体験しない世代の人々がはるかに多数を占める時代となりました。しかし、二度と戦争の惨禍を繰り返さないためには、戦争を忘れないことが大切です。平和で豊かな今日においてこそ、過去の過ちから目をそむけることなく、次の世代に戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを語り継ぎ、常に恒久平和に向けて努力していかなければなりません。それは、政治や行政が国民一人一人とともに自ら課すべき責務であると、私は信じております。   
 
謝罪の歴史7 1995〜1999

 

1995年6月9日 - 衆議院決議  
(歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議。いわゆる戦後50年衆院決議)  
本院は、戦後五十年にあたり、全世界の戦没者および戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。  
また、世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。  
本院は、日本憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。  
右、決議する。 
1995年7月 - 村山富市首相

 

(「性のためのアジア平和国民基金」発足のご挨拶)  
ごあいさつ 「女性のためのアジア平和国民基金」の発足にあたり、ごあいさつ申し上げます。今年は、内外の多くの人々が大きな苦しみと悲しみを経験した戦争が終わってからちょうど50年になります。その間、私たちは、アジア近隣諸国等との友好関係を一歩一歩深めるよう努めてまいりましたが、その一方で、戦争の傷痕はこれらの国々に今なお深く残っています。  
いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います。  
このたび発足する「女性のためのアジア平和国民基金」は、政府と国民がともに協力しながら、これらの方々に対する国民的な償いや医療、福祉の事業の支援などに取り組もうというものです。呼びかけ人の方々の趣意書にも明記されているとおり、政府としても、この基金が所期の目的を達成できるよう、責任を持って最善の努力を行ってまいります。  
同時に、二度とこのような問題が起こることのないよう、政府は、過去の従軍慰安婦の歴史資料も整えて、歴史の教訓としてまいります。  
また、世界の各地で、今なお、数多くの女性が、いわれなき暴力や非人道的な扱いに苦しめられていますが、「女性のためのアジア平和国民基金」は、女性をめぐるこのような今日的な問題の解決にも努めるものと理解しております。政府は、この面においても積極的な役割を果たしていきたいと考えております。  
私は、我が国がこれらのことを誠実に実施していくことが、我が国とアジア近隣諸国等との真の信頼関係を強化、発展させることに通じるものと確信しております。  
「女性のためのアジア平和国民基金」がその目的を達成できるよう政府は最大限の協力を行う所存ですので、なにとぞ国民のみなさまお一人お一人のご理解とご協力を賜りますよう、ひとえにお願い申し上げます。 
1995年8月15日 - 村山富市首相

 

(戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話。いわゆる村山談話) 
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。  
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。  
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。  
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。  
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。  
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。  
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
談話を発表したあとの記者会見での質疑応答  
ご質問をいただく前に、私の方から一言申し上げておきたいと思いますが、イギリスのメージャー英首相あて書簡について、イギリスのいろいろな報道がなされておりますが、このことについて一言説明を申し上げたいと存じます。  
私はメージャー首相の保守党党首再選に対し、お祝いの書簡をお送りいたしました。他方、今年は戦後五十周年という年でもありますが、戦争捕虜の皆さんが先の戦争中の日本軍の捕虜収容所で受けた待遇等について、依然、激しい感情を抱いていると言うようなことも聞いております。したがって、その書簡の中で従来より私が明らかにしている気持ちを改めて表明をさせていただいた次第であります。  
すなわち、我が国の過去の行為が戦争捕虜を含め、多くの人々に深い傷を与えたことに対し、深い反省とお詫びの気持ちを有しているということについて申し述べたところでございます。また、この気持ちを本日の総理談話でも、一層、明らかにしたところでございますから、そのようにご理解を賜りたいと存じます。以上です。  
記者質問 ‐ 談話の中で総理は、「国策を誤り」という表現、更に「侵略」と「植民地支配」ということを明確に表現されてますが、この表現から当時の政策決定全体に何らかの責任があるというふうに、我々は読めるのですが、この表現の持つ意味、それから当時、日本の元首であり、統治権を総攬する立場にあった天皇も含めて、責任の及ぶ範囲をどのようにお考えか。お伺いできますか。  
○総理 天皇の責任問題につきましては、戦争が終わった当時においても、国際的にも国内的にも陛下の責任は問われておりません。今回の私の談話においても、国策の誤りをもって陛下の責任を云々するというようなことでは全くありません。天皇陛下がひたすら世界の平和を祈念しておられ、先の大戦に際しても、解除をするための全面的に努力もされており、また、戦争終結のご英断を下されたことは良く知られているところであると思います。私は、植民地支配と侵略といったようなことにつきましては、あの戦争によって、多くの国々、取りわけアジア近隣諸国の国々に対して、多大の損害と苦痛を与えてきたという認識については、明確に申し上げておいた方がいいと、同時にそのことについて謙虚に反省もし、国民全体としてお詫びの気持ちを表すということが、五十年の節目にとって大事なことではないかというふうに考えて申し上げたところであります。  
記者質問 ‐ 次に、諸外国から戦争被害者、個人の方から、日本政府に対して賠償請求が相次いでおりますが、従来、日本政府は、これに対して裁判所の判断に任せるという対応を取っていますが、今回の談話でこれだけ明確に責任の所在を表明された以上、今後、訴訟や各種要求に対して、どのような対応を取られていくのか、変更があるのか、お伺いしたいと思います。  
○総理 従軍慰安婦の問題を始めですね、諸外国の人々から損害賠償や国家補償を求める訴訟が提起されていることは承知をいたしております。しかし、先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題につきましては、日本政府としては、既にサンフランシスコ平和条約、二国間の平和条約及びそれとの関連する条約等に従って誠実に対応してきたとこでございます。したがって、我が国はこれらの条約等の当事国との間では、先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題は、所謂、従軍慰安婦の問題等も含めてですね、法的にはもう解決が済んでいるというふうに思っておりますので、今お話のございましたような個人補償を国として行う考えはございません。このような立場に立って、所謂、従軍慰安婦の問題等、現在取り組んでおる戦後処理の問題についてはですね、これからも誠意を持って対応していきたいというふうに考えておるとこであります。  
記者質問 ‐ 「国策を誤り」とありますけれども、これだけ断定的に言われる以上は、どの内閣のどの政策が誤ったかという認識があるか、明確にお示しください。  
○総理 戦後五十年の節目の年に、あの当時のことを想起してまいりますと、やっぱり、今申しましたようにアジア近隣諸国、多くの国々において、多大の損害とその苦痛を与えてきたというこの事実はやっぱりきちっと認識をする必要があるというふうに思いますから。どの時期とかというようなことを断定的に申し上げることは適当ではないのではないかというふうに考えています。  
記者質問 ‐ 侵略について。これまで侵略行為と言ってきたことを侵略と言い換えた理由は何ですか。  
○総理 これは先程来申し上げておりますように、過去の一時期に、そうした行為によって、多くの国々、取りわけアジア近隣諸国の皆さんに多大の損害と苦痛を与えてきたということを認識をする、その認識を表明したのでありまして侵略行為とか侵略とかいう言葉の概念の使い分けをしている訳ではございません。  
○総理 どうもありがとうございました。
歴史的事実を積極的に示し、謝罪外交と決別する機会だった  
河野談話・村山談話を行う前に、近隣諸国の歴史・国民性・外交方針を十二分に研究しておくべきであった。国内問題を取り扱うような安易さで近隣諸国と外交を行った事が大きな過ちである。十分な調査・準備を怠った事が、現在の"土下座外交"と揶揄される外交を招いている。  
現在での研究しなくても判っている近隣諸国の外交の特徴 •我国からの謝罪を認める意思が無い  
• 国家間で結んだ条約より、司法が優越する事を認めている。(戦時徴用で住金・三菱重工に賠償命令)  
• 国家間で結んだ条約を無視し、解決済事項の謝罪・賠償を求める(慰安婦問題)  
• 二国間の外交問題を無関係の国でロビー活動を行い、我国の名誉を貶める(慰安婦の像)  
• 自国の歴史認識での、極端な内政干渉(靖国問題)  
• 自国の歴史認識での、極端な教育(反日教育)  
• 歴史的事実の捏造・改竄(尖閣・竹島問題)  
• [親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法]で、日韓併合条約を締結した李完用の子孫9名から154筆、約25万4906平方メートル(36億ウォン相当、日本円で約4億8000万円)の土地を没収し、韓国政府に帰属させる旨の決定を下した。  
• 自国民への言論弾圧・偏ったマスコミ報道(韓国における言論統制政策)  
• 他国の災害・事故を喜び、軽薄な満足感・優越感を感じる国民性  
国家間の外交パワーでは、日本は押し込まれている。多少の軋轢・摩擦が起こる事を覚悟して、中間地点まで押し返すべきであった。問題を先延ばしにした結果、多少の軋轢・摩擦では済まない程に問題が大きくなっている。1977年吉田清治の[朝鮮人慰安婦の強制連行証言-自らの証言を創作と認める]から始まる慰安婦問題だが、35年経つが一向に解決が出来ていない。同じ外交姿勢では、今後同じ年数の35年掛けても解決は出来ないであろう。謝罪を受け入れる意思のない国に謝罪を続ける事は無意味である。今後は、無関係の国でロビー活動を行い我国の名誉を貶める事が、最大の外交損失となってくる。我国は、毅然とした強い姿勢を示さなければいけない時期に来ている。同じ過ちを繰り返すことは許されない。
「国策を誤り」の文言が、初めて挿入された  
「国策を誤り」云々の文言が、初めて挿入された。「国策を誤り」を明確に認めたため、その後、責任の主体や対象となる具体的な政策・時期について活発な議論が行われる事となった。  
国際外交を進める上で、問題解決する為に謝罪を行い、外交問題解決に向かう区切りとしなければいけない時に、「国策を誤り」と談話に導入した事が、逆に問題を提起している。  
この「国策を誤り」が結果的に、慰安婦問題などの議論を進めさせる事に少なからず関与している。
村山談話においては、天皇責任の不問化が確認された  
村山談話においては、天皇責任の不問化が確認されています。  
天皇の責任問題については「戦争が終わった当時においても、国際的にも国内的にも陛下の責任は問われておりません。」として、「今回の私の談話においても、国策の誤りをもって陛下の責任を云々するというようなことでは全くありません。」と、その存在を否定した。  
天皇という日本の象徴が責任を負うという形式的な責任論を求める海外勢力に対し、村山談話はある意味では、国体擁護を確定した意味があると評価できる。  
想定内の質問なので答弁の準備が出来ていたのであろう。天皇責任を否定している。ここで、失言・肯定を含む発言をしていたら今頃は、靖国問題・慰安婦問題・教科書問題と同じように天皇の責任が外交問題になっていた可能性がある。  
余談ですが、昭和天皇は三度退位を覚悟されています。  
一回目は昭和20年(1945年)8月29日、昭和天皇は木戸幸一内大臣に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍びがたきところとなるが、自分一人引き受けて、退位でもして収める訳には行かないだろうか」と述べられています。当時、言われていたのは天皇は皇太子に譲位して高松宮を摂政とするものでした。しかし、木戸内大臣は退位を言い出せば共和制論議がおこったり、戦争犯罪者と認めたとして訴追される可能性があるとして反対し、鈴木貫太郎も「今、退位すれば日本は混乱する。在位のまま戦争責任(道義的責任)を負っていかねばならぬ」と考え、結局思いとどまることになります。  
二回目は東京裁判の判決のときで、このときはGHQ総司令のマッカーサーの反対にあいます。これは朝鮮半島情勢や東ヨーロッパの情勢で共産勢力が台頭しており、マッカーサーは日本をアジアの反共の砦にしたかったため、この時期の退位は共産勢力を助長することになると考えたためと言われています。  
三回目はサンフランシスコ講和条約のときで、「皇室だけなんら責任をとらないのは割り切れぬ空気を残すことになる」という論調のもとによるものです。しかしこのときは吉田茂首相の反対にあってかないませんでした。国会で中曽根康弘が天皇退位について吉田茂首相に質問したところ、吉田首相は中曽根を"非国民”呼ばわりしたそうです。
『損害賠償や国家補償は、法的にはもう解決が済んでいる』と言及  
『先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題につきましては、日本政府としては、既にサンフランシスコ平和条約、二国間の平和条約及びそれとの関連する条約等に従って誠実に対応してきたとこでございます。したがって、我が国はこれらの条約等の当事国との間では、先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題は、所謂、従軍慰安婦の問題等も含めてですね、法的にはもう解決が済んでいるというふうに思っておりますので、今お話のございましたような個人補償を国として行う考えはございません。』と賠償・補償を否定している。
村山談話以降の内閣は、村山談話を継承する事を確認される事となった  
橋本内閣 1996年(平成8年)1月24日  
橋本龍太郎内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において本談話の今後の取り扱いを問われ、本談話の意義を踏まえて対アジア外交を進めていく旨、答弁した。  
小渕内閣 1998年(平成10年)8月11日  
小渕恵三内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において歴史認識について問われ、本談話の基礎の上に立って外交を行っていく旨、答弁した。  
森内閣 2000年(平成12年)11月22日  
森喜朗内閣総理大臣は、参議院予算委員会において「かつての戦争」についての認識を問われ、「95年の村山内閣総理大臣談話というもの、これが我が国の過去の問題についての政府としての正式な見解でございます。これに基づいて、特に周辺近隣アジア諸国とはこの精神をしっかり受けとめて、そして外交交渉を進めていくということが大事だと考えております。」と答弁した。  
小泉内閣 2005年(平成17年)8月15日の終戦の日  
小泉純一郎内閣総理大臣は、村山談話を踏襲した『小泉内閣総理大臣談話』を発表して、再びアジア諸国に謝罪した。  
第1次安倍内閣  
小泉の後を受けた安倍晋三内閣総理大臣は、保守派として知られ、首相就任以前に村山談話に対し批判的な発言をしていたため、首相就任後、村山談話にどのような態度を取るかが注目されていた。  
2006年(平成18年)10月5日  
安倍首相は、衆議院予算委員会で、村山談話について「アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実」であることは「国として示した通りであると、私は考えている」とし、これを1993年(平成5年)の河野談話とともに、「私の内閣で変更するものではない」と明言した。  
福田康夫内閣 2008年(平成20年)5月7日  
福田康夫内閣総理大臣は、中華人民共和国の胡錦濤国家主席の日本訪問を受け、日中首脳会談に臨んだが、首脳会談後の共同声明では村山談話について一切言及しなかった。福田は自由民主党総裁選挙における総裁候補だった2007年(平成19年)9月19日、日本外国特派員協会での記者会見にて「首相が言ったことだから正しいものと考える必要がある」と述べ、同じく候補者の麻生太郎も「歴代内閣は皆、同じことを申し上げてきている」と発言している。  
麻生内閣 2008年(平成20年)10月2日  
麻生太郎内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において、村山首相談話を受け継ぐのかどうか問われ、村山談話や小泉談話は「さきの大戦をめぐる政府としての認識を示すものであり、私の内閣においても引き継いでまいります。」と答弁した。なお、同年11月、政府見解と異なる認識を示した論文を発表したとして航空幕僚長を更迭され、退職した田母神俊雄は、参考人として招致された参議院外交防衛委員会の席で、「いわゆる村山談話なるものを公然と批判したことは全くありませんし、論文の中でも全く触れておりません。」とした上で、「村山談話と異なる見解を表明したということで更迭をされた」との認識を示した。  
鳩山由紀夫内閣 2009年(平成21年)9月21日(日本時間22日)  
アメリカ合衆国のニューヨークにおいて、中華人民共和国の胡錦濤国家主席と会談した鳩山由紀夫内閣総理大臣は、「互いの違いを乗り越えられる外交をするのが友愛の外交だ」とした上で、「村山富市首相談話を踏襲する」と表明した 。
村山談話の評価  
外交として強い態度で押し返すのでは無く、謝罪する事により一歩後退し、天皇責任の不問・損害賠償や国家補償の法的解決済みを、談話と記者との質疑応答に盛り込んだ事になります。結果として、名誉・プライドを捨て実を取った事になりますね。言い換えると、謝罪は繰り返すが天皇責任と賠償は認めない事になります。  
以降の内閣が村山談話を継承するのは、絶対に譲れない[天皇責任の不問・損害賠償や国家補償の法的解決済み]を継承している事になります。  
不安定な政治が続いている中での、社会党・自民党の連立政権です。将来を見据えた毅然とした外交政策を求める事は無理があったでしょうね。立場・考え方により歴史認識は違います。村山談話の評価は次世代の歴史学者が行うでしょう。  
1996年6月23日 - 橋本龍太郎首相

 

(橋本総理大臣・金泳三大統領共同記者会見)  
(金大統領)   このたび橋本総理の初の御訪韓に当たり、我々両国首脳は昨日の晩餐、今朝の朝食会 、そして先ほど終わったばかりの首脳会談を通 じて、お互いの関心事について忌憚なく意見を交わしました。橋本総理と私は、2002年のワールドカップの韓日共催決定が両国関係の発展にとって極めて望まし いということに認識を共にし、今後2002年のワ ールドカップが史上最も成功した大会になるよう積極的に協力していくことにしました。  
我々2人は、アジアで初めて開かれるワールドカップ大会が、両国関係者の共同作業によって成功 裏に開催され、両国民間の友情が更に深まるこ とを期待するとともに、このため両国政府間においても緊密な連絡体制を維持していくことにしまし た。  
我々両国首脳は、最近の北韓情勢について意見を交わし、韓半島の平和と安定のためには隣国であ る日本の役割が重要であるということで認識を 共にし、北韓が一日も早く四者会談提案に応じることによって、韓半島に恒久的な平和体制を築くた めの協議が始まるよう緊密に協力することにし ました。  
その上、橋本総理と私は、北韓核問題の解決のため堅持してきた韓日米三国の連携体制が、韓半島 の平和と安定のため緊要であるということに認 識を共にし、今後この体制をより強固にしていくことに合意しました。  
我々両国首脳は、両国の相互理解の増進のためには、両国において相手国、及び両国関係の歴史に 関する研究は、一層活発化し、深まることが望 ましいということにつき、認識を共にしました。  
また、このような研究を支援、奨励するため、韓日両国の民間の知識人による歴史研究に関する会 議を早期に構成することが望ましいということ に見解が一致しました。  
橋本総理と私は、次世代の主人公となる青少年交流の重要性を再確認すると同時に、今後、学生、 社会人等、青少年交流をより一層拡充するため 、実務レベルに協議機関の設置を検討させることにしました。  
我々両国首脳は21世紀を控え、両国間の経済関係が更に発展することが重要であるという点に認識 を共にし、投資促進、産業技術協力等の分野に おいて共通の利益を増進するため、引き続き努めることにしました。  
橋本総理と私は、国連、APEC、ASEM、WTOといった国際機関等においての両国間協力の 重要性を勘案し、今後このような国際機関等に おいての協力をより一層強化していくこととしました。  
我々2人は最も近い隣国である韓日の友好協力関係の増進のため、両国の首脳が可能な限り頻繁に 合い、隔意なく意見を交わすことが重要である という点について見解を共にし、今後より活発に首脳交流が行われるよう協力していくことにしまし た。  
ありがとうございました。  
(橋本総理)   では、続いて私の方からも、冒頭のごあいさつをしたいと思います。  
今回、私は金泳三大統領の御招待をいただき、このチェジュ島に参りました。滞在時間は短いもの でしたけれども、大統領閣下とお会いし、くつ ろいだ雰囲気の中で率直、しかも幅の広い意見交換をすることが出来たことを大変うれしく思います 。そして、温いおもてなしをいただいた大統領 閣下始め、韓国の皆さんに心からお礼を申し上げたいと思います。  
まず、今回のワールドカップ・サッカーの日韓共同開催の決定を契機として、大会を本当に成功に 導くために、関係者間の協力を通じて、日韓友 好協力のきずなを一層強めていく、そうした思いを大統領と共にすることが出来たこと。私としても 誠に意を強くしたことであります。  
金大統領と私は、国連海洋法条約の締結に関連し、先般のASEMの際の日韓首脳会談における合 意内容というものを再確認し、その合意にした がって、領有権問題と切り離して排他的経済水域の境界確定や漁業協定交渉を促進していくとともに 、秩序のある操業を確保するなど、交渉の促進 のための環境づくりにもお互いに努力していくことについて意見の一致を見ることが出来ました。  
大統領閣下と私は、また、国際情勢一般についても、有意義な意見交換を行うことが出来ました。 両国の友好協力の関係というものは、アジア太 平洋地域にとどまらず、国際社会全体の安定と繁栄にとって重要だということが再確認されました。  
また、北朝鮮の動向を中心に、北東アジア情勢についても忌憚のない意見交換を行いました。この 地域の平和と安定のためには、今後とも日韓両 国が、これにアメリカを加え、日米韓三国の緊密な連携が重要だという点も改めて確認されました。  
そして最後に私の方から、双方の都合のよいとき、大統領閣下に日本を是非訪問していただきたい 、お越しをいただくことを提案をし、金大統領 から御快諾をいただきました。これからも金大統領といつでも気軽に、しかも忌憚のない意見交換を 行い、お互いの信頼に根差した友好協力関係を 構築していきたいと思います。  
21世紀を目前に控えた今、両国の国民が一層相互理解を深め、共に手を携えて未来を切り開いてい くことを心から願っております。
(質疑応答)  
(質問) 韓日両国が未来志向的な関係を構築するためには、日本が過去の歴史に対して正しい認識 をし、真の反省がなければならないと思います 。まず、この問題についての橋本総理の御意見を伺いたいと思います。また、韓日両国関係におきましては、歴史問題を含め、独島とか従軍慰安婦問題等の微妙な問題が ありますけれども、まだ解決されていない懸案 問題がありますけれども、今回の首脳会談においてこの問題についても話し合われたかどうか。また 、話し合われたとしたらその内容をお伺いした いと思います。  
(橋本総理)   首脳会談そのものの模様については、今、大統領閣下、そして私から申し上げたこと で尽きています。  
私は丁度1965年、日韓条約の署名が行われた、奇しくも昨日がその日でしたけれども、その 署名が行われた後、当時の佐藤自由民主 党総裁の指示を受けて、日本の学生たちを連れて、お国の学生諸君との対話をするために初めて韓国 を訪問しました。  
その旅行のときに、実は当時は野党の議員でおられた金大統領閣下と仲介をしてくれる方があって 、初めてお目に掛かることが出来た訳ですが、 それ以来随分長い日時が経ちましたけれども、その旅行のことを今も私は記憶の中に鮮明にとどめて います。  
実は私は敗戦のとき小学校2年生でしたけれども、その初めての韓国訪問の際に、我々が教育の中 で学ばなかった長い両国の歴史の不幸な部分を 現実に触れる、そして教えられる機会を持ちました。  
例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありまし たし、そうしたことがいかに多くのお国の方々 の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります。  
私は総理に就任して以来、繰り返して、過去の重みからも、未来への責任からも、我々は逃げるこ とは出来ないということを繰り返し申し述べて きました。  
我々は今まさに、過去の重みを背負いながら、このワールドカップサッカーというものを契機に して、未来への責任と夢をつくり上げていこう としています。  
また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた 問題はないと思います。そして、心からおわび と反省の言葉を申し上げたいと思います。
 
(質問) 金泳三大統領にお伺いいたします。  
今回の首脳会談では、未来志向的な観点から様々な分野について、新しい日韓関係をいかにつくる かということにお話しなったと思います。未来 志向的な日韓関係を考える際に、いわゆる日韓の友好関係を考える際に、大きな懸案として天皇陛下 の訪韓の問題がいまだ残っていると思います。 就任以来、天皇訪韓について強い意欲を持っていらっしゃると聞いております金泳三大統領が、この 問題に基本的にどのように考え、対処されよう と考えていらっしゃるのか、まずお伺いしたい。  
2つ目には、金泳三大統領の任期中にこの問題が実現する可能性があるのかどうか。  
また、現状においてこの問題を妨げている障害として何があるのか、大統領がどうお考えかお伺い したいと思います。  
(金大統領)   まず、今回の首脳会談におきましては、この問題は話し合われませんでした。天皇の 御訪韓は両国の友好関係を新たに確認するよい 契機となり、非常に重要な象徴的な意味がありますので、両国の国民が歓迎する雰囲気の中で行える のが重要であります。両国はこのような雰囲気 醸成のためお互いに努力をしなければなりません。  
この問題は、両国の国民の努力いかんにかかっている問題であり、早く行うことも、遅くなること もそれにかかっていると言えます。  
(質問) 橋本総理大臣にお聞きしますが、今回の会談のテーマの最も大きな一つが北朝鮮を巡る情 勢の分析だったと思いますが、今回の首脳会談 でこの問題について新たに進んだ認識が得られたのかどうか。新しい理解が得られたのかどうかとい う点が1点と総理は間もなくリヨンでのサミ ットに出席されますけれども、今日の話し合いの成果を具体的にどのような形でサミットでの討議に 生かしていくお考えなのか。その点についてお 伺いします。  
(橋本総理)   首脳会談の中では、北朝鮮情勢を中心にして、北東アジア情勢の様々な角度からの意 見交換を行うと同時に、この地域の平和と安定 のためには、今後ともに日韓両国にアメリカを加えた日韓米三国の緊密な連携が重要だということを 改めて確認しました。  
同時に、金大統領とアメリカのクリントン大統領がまさにこのチェジュ島で発表された四者会合提 案、これはその発表の直後に私は支持の声明を 出しましたけれども、その姿勢は今も変わっておりません。そして、この四者会合提案に対して北朝 鮮が依然としてこれを受け入れるという回答を まだ行っていない訳ですけれども、この四者会合の早期実現に向けて、今後共に緊密に協力をしてい くことでお互いの意見は一致しました。  
そして、リヨン・サミットには当然ながら中東、あるいはボスニア問題その他と併せて朝鮮半島の 情勢というものも議論に出てくると思います。  
今回、金大統領との間で率直に行ったお互いの意見、そしてそれを踏まえた基本的な認識というも のを持って参加各国の首脳たちと忌憚のない意 見交換を行いたい、私はそう考えております。  
そして、同時にそのチャンスを何としてもつかみたいと思っていますけれども、KEDOに対して 一層の協力を各国にも求めたい。そのようにも 思っております。  
(質問) 北韓のことにつきまして大統領に伺いたいと思います。  
先ほど橋本総理が四者会談を実現させるための韓日間の連携体制についてお触れになりましたが、 まず、北韓に四者会談を受け入れさせるための 日本の役割について、また、日本の努力について話し合われたことがありましたらお聞かせ願いたい と思います。  
また、日朝正常化交渉及び日朝関係改善について、またもう一つ、韓日間の北に対する食糧支援問題に ついての意見調整等が今回の首脳会談において 行われたかどうか、御説明を願いたいと思います。  
(金大統領)   橋本総理は、私とクリントン大統領が去る4月16日、ここチェジュ島で四者会談を提 案した直後、直ちにこれに対する支持を表明さ れました。総理は今回の首脳会談において、四者会談に対する支持を再確認されると同時に、その実 現のための協力を約束されました。  
韓半島の平和と安定のためには日本の役割が大変重要であり、我々は対北韓政策に関する韓日米の 三国間の連携の枠組みの中で、日本と緊密に協 議していきたいと思います。  
日本政府も、対北韓政策について、我が政府との協議を密にしていく旨約束されました。 
1996年10月8日 - 今上天皇

 

(大韓民国金大中大統領歓迎の宮中晩餐会のおことば)  
このたび、大韓民国大統領金大中閣下が令夫人とともに、国賓としてわが国をご訪問になりましたことに対し、心から歓迎の意を表します。ここに、今夕をともに過ごしますことを誠に喜ばしく思います。  
一衣帯水の地にある貴国とわが国の人々の間には古くから交流があり、貴国の文化はわが国に大きな影響を与えてまいりました。八世紀にわが国で書かれた歴史書、日本書紀からはさまざまな交流の跡がうかがえます。その中には、百済の阿花王、わが国の応神天皇の時、百済から経典に詳しい王仁が来日し、応神天皇の太子、菟道稚郎子に教え、太子は諸典籍に深く通じるようになったことが記されています。この話には、当時の国際社会の国と国との関係とは別に、個人と個人との絆が固く結ばれている様が感じられます。後には百済から五経博士、医博士、暦博士などが交代で来日するようになり、また、仏教も伝来しました。貴国の多くの人々がわが国の文化の向上に尽くした貢献は極めて大きなものであったと思います。  
このような密接な交流の歴史のある反面、一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております。  
両国の間には、様々な局面を持つ長い歴史があります。私たちは、このような関係にある両国の歴史を、常に真実を求めて理解することに努めるとともに、両国の人々の努力によって芽生えつつある相互の評価と敬愛の念を、未来に向かって育てていかなければならないと思います。日韓両国が、共通の目的としてよりよい民主国家としてのあり方を求め、互いに心して、あるべき今後の関係を築いていくことを切に念願いたします。  
近年、幸いなことに、両国の人々の熱意と努力によってさまざまな分野で交流が進み、相互理解と友好関係が増進していることは喜ばしいことであります。特に若い世代の人々の交流が盛んになってきていることは、今後の両国関係の発展に大きな期待をもたせるものであります。先日も政府の主催する日本韓国青年親善交流事業の一つとして貴国を訪問した青年韓国派遣団に会いましたが、団員が貴国の人々の心に触れ、貴国への理解と親しみを深めてきたことをうれしく感じました。また、昨年五月、大阪において開催された「日韓青少年交流ネットワークフォーラム」は、さまざまな分野で国際交流に携わる日韓の青少年が一堂に会し、自らの手で今後の交流のあり方を論議し、展望を開いていく上で大変に意義深い試みでありました。今後とも、両国民が、共に、揺るがぬ信頼と友好をはぐくみ、豊かな友好協力の関係を築いていくことを切に願ってやみません。  
大統領閣下がこのたびわが国をご訪問になったことは、両国関係の将来にとって極めて大きな意義を持つものであります。短く、ご多忙なご滞在ではありますが、わが国各界の人々と広くお接しになるとともに、深まりゆくわが国の秋の風物をお楽しみいただきたく思います。この度のご訪日が、秋の実りのごとく、大統領閣下並びに令夫人にとって実り多く快適なものとなりますよう希望いたします。  
ここに大統領閣下並びに令夫人のご健勝と大韓民国国民の幸せを祈って、杯をあげたく思います。 
1997年8月28日 - 橋本龍太郎首相

 

(新たな対中外交を目指して / 読売国際経済懇話会における橋本総理スピーチ)  
・・・前略・・・ 第二は、日中間の対話の強化であります。勿論これまでにも日中の多くの先人達が対話を増やすべく努力をしてこられました。私も、一九七九年に訪中してから、公式にも、山登りという個人的な趣味を含めましても、繰り返し中国を訪問し、個人的に日中対話の拡大に努めてまいりました。人の往来交流の面では、一九七二年にはわずか九千人であった両国間の人的往来は、昨年は、百万人をはるかに超えるに至りました。我が国への中国人留学生も二万三千人と、日本に学ぶ外国人留学生全体の四〇%以上に達するまでになっています。  
しかし、今後の日中関係の重要性を考えれば、現状ではまだ決して十分な交流があるとは言えず、相互の対話の機会を一層拡大していく必要があります。  
冒頭申し上げたように私は来週訪中しますが、この訪問を、単に一度の首脳訪問として終わらせるのでなく、できるならば、今後日中首脳レベルの相互訪問をより頻繁に行うこととし、そのキック・オフと位置付けることができればと願っております。私の訪中の後、本年は李鵬総理の訪日、明年には江沢民主席の訪日が予定されておりますが、こうした往来が定着し、隣人同士として頻繁に普段着で話し合える関係、そして、場合によっては両国間での懸案がある時期ほどより頻繁に対話をするという関係、を築いていくことが大切であると思います。  
勿論、対話拡大の必要性は首脳レベルだけのものではなく、むしろ多種多様なレベルで実現する必要があります。政府間の対話について言えば、首脳間で高い優先順位を与えた案件については、責任を有する閣僚のレベルで、例えば定期的に会合を開催し、問題の解決を図ることも有用でしょう。また、こうした政府間の対話とは別に、日中双方の先人の時代の交流に倣って、政治家個人のレベルの交流を活発化させることも重要です。更に長期的に日中関係にとって重要なことは、草の根レベル、特に次世代を担う青年レベルの対話の機会を拡大していくことだと思います。  
こうした日中間の対話のチャネルを多層化することと合わせて、対話の対象となる分野も幅を広げていくことは当然のことであります。  
さて、日中間の対話で現在最も必要とされる分野は、安全保障の分野であることに誰も異論がないと思います。  
先程も述べましたように、冷戦の終わりは残念ながら平和と安定を保証するものではありません。アジア各国は、紛争を防止し、平和と安定をもたらすメカニズムを自らの努力で作り上げなければなりませんし、これこそが、冷戦終了後のアジア諸国の最大の課題でもあります。日中間でもこのような考え方から工夫を重ねていくことが必要であります。  
御承知の通り、中国の一部には「日本が軍事大国の道を歩むのでないか」という声がありますし、他方、日本の一部にも「中国の軍事力の脅威」を指摘する人々がいます。  
私は、我が国が、歴史の教訓を学び、まさに、「前事を忘れず、後事の戒めとする」という視点が広く国民の中に定着していると確信しております。私自身も一昨年村山前総理が発表した内閣総理大臣談話、すなわち「植民地支配と侵略によって、多くの国々、取り分けアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」た「歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明」するとの考えと同じ考えを持っています。この内閣総理大臣談話を決定したとき、私も内閣の一員でございました。日本国内の一部に中国側の感情を刺激しかねない発言があったとしても、日本という国が将来、軍事大国にならず平和国家としての道を歩み続ける決意であることは、我々日本人にとっては、自明なことであると考えます。しかしながら、自らに明らかなことではあっても、中国を始めとするアジア諸国に不信が生まれないような努力は弛まなく続けていく必要があります。昨年来、我が国の安全保障の根幹である日米安全保障体制につきましても、中国側から様々な形で見解が表明されているわけですが、この問題もやはり対話を重ねることにより、中国側の懸念を解いていく努力が不可欠でありますし、現在進めている「指針」見直しの作業も引き続き透明性をもって行ってまいりたいと考えております。日米安保共同宣言において明確に述べられておりますように、日米両国は、アジア太平洋地域の安定と繁栄にとり中国が肯定的かつ建設的な役割を果たすことが極めて重要であると考えており、この関連で、中国との協力を更に深めていかなければなりません。  
他方、中国の軍備の問題について、中国政府は、中国の軍備はあくまでも防衛のためであり、中国は覇権を求めるものではないと強調しています。そして、中国には、客観的に中国の軍事力の水準を評価すれば、これが脅威となることはあり得ないし、中国は和を尊ぶ伝統があり、この点からも他国に脅威を与えることはないとの主張もあります。私は、このような主張を疑うものではありません。しかし同時に、国際的に広くこうした主張が受け入れられるための最良の道は、やはり、我が国が為さなければならないと同様に、中国も他国に対して透明性を高めていくよう努めるべきではないかと思います。その点では、現在日中間で行われている安全保障対話や防衛関係者の交流を一層活発にしていくことが重要な役割を果たすと思います。  
こうした安全保障を巡る対話は、二国間や多国間、政府レベルや民間レベルなど様々な多元的・重層的な交流・対話が重要であり、ARFなど既に実施されているものもありますが、更なる交流・対話が試みられるべきでしょう。  
こうした対話を通じて、日中間の誤解の発生を避けるとともに、アジアの平和・安定は、対話・協議によってより良く確保出来るという確信を日中両国が持ち得る体制を作っていかなければなりません。・・・後略・・・ 
1997年9月6日 - 橋本龍太郎首相

 

(総理内外記者会見記録 / 北京シャングリラホテル)  
1.総理冒頭発言  
本日はどうもありがとうございます。  
まず、この記者会見にあたって、今回の中国訪問は非常に素晴らしいかつ有意義なものであったということを申し上げたいと思います。日中国交正常化25周年という記念すべき年に、中国政府のお招きによって、我が国にとって最も重要な国の一つである中国を訪問できたことは、それ自体が私にとって大きな喜びでありました。昨日、一昨日と、江沢民主席、李鵬総理をはじめ中国首脳の方々と、実りある意見交換が出来ました。この後、私は、東北地方の瀋陽、大連の二つの都市を訪れます。そしてここでは、地方部の発展の状況を自分の目で見せて頂くと同時に、改めて過去の歴史を直視しながら、将来の日中関係に思いを至す良い機会にしたいと考えています。  
翻って昨年来の日中関係の状況を見ますと、11月、マニラでの江沢民主席と私との会談を行いました。この会談を経て、国交正常化25周年をともに祝う環境が整ってまいりました。私は、こうした望ましい方向というものを確たるものにしていく、そして日中関係を安定的に発展の軌道に乗せることを強く望んで今回中国を訪問したわけです。この度、私は、中国の政府首脳の方々との間に日中関係から国際情勢、更には地球規模問題に至る日中間の協力、幅広い話題について意見交換を行うことができました。これを通じて、両国関係発展の基礎を確認するとともに、首脳間の一層の信頼関係を築きあげ、新たな四半世紀に向けての、対話と協力の関係を強化していくための基礎を築くことができたと確信しています。両国は今後は少なくとも毎年1回、いずれかの側の首脳レベルが相手国を訪問することになりました。これを受けて、11月、李鵬総理の訪日、さらに明年の江沢民主席の訪日に向けて関係を一層強固なもの、堅固なものとすべく努力を払っていきたいと考えます。  
私は、昨日の国家行政学院での講演の中で、日中関係の一層の発展を目指す上で、両国間の対話と協力を推進していくことの重要性を述べました。そして、日中両国が来世紀に向けて、アジア太平洋地域、そして世界のことを考え、幅広い問題について話し合い、協力していくべきであることを強調しました。両国が対話と協力を進めて行くべき面、分野というものはたいへん広範なものになるはずですが、私は特に、安全保障面で対話を進めながら信頼関係を築いていくことが重要と考えています。  
最近、中国側から日米安保の問題、なかんずくいわゆる「指針」の見直しに関わる問題について、強い関心が表明されてまいりました。一昨日の首脳会談において、私から李鵬総理に対し、日本の基本的な考え方についての説明を行いました。また、他の要人の皆さんとの会談でもこうした問題は常に話題になり、その度に日本の基本的な考え方を申し上げてきたところです。こうした会談はお互いの立場に対する理解を進める上で、また深める上でも、一定の成果を得たものと確信しております。  
また、地球規模問題に向けられる日中間の協力として、今回の訪中で、「21世紀に向けた日中の環境協力」という構想を私の方から提案し、基本的な賛同を得ました。環境情報ネットワーク、モデル都市構想の二つの柱からなる構想でありまして、両国が協力して他国にも影響を及ぼしうる大気汚染などの地球規模の問題に対処していきたいと考えています。そしてこうした日中双方の努力の結実を心から期待しています。  
また、今次訪中を直前に、新たな漁業協定の実質合意、中国のWTO早期加盟に向けた議論の大きな進展が見られました。いずれも日中双方が誠実な交渉を積み重ねてきた結果であり、双方の交渉担当者に対して改めて私は敬意を表したいと思います。更に一昨日、本年度分の円借款の交換公文署名も行われ、加えて文化面での協力についての話し合いも進んでいます。こうした実務面の協力は、相互信頼の基礎でもありますし、今後益々発展させていきたいと考えています。  
最後になりましたが、今回の訪問に際し、中国側からたいへん温かい歓迎を示していただいたこと、その周到な準備と接遇すべてに心から謝意を表したいと思います。  
2.質疑応答  
(報道官)これから質疑応答を行います。質問のある方は挙手をお願いします。どうぞ。  
(問)総理は、今回中国を訪問されるに当たり日・米・中の三角形のうちの日・中の一辺を強化したいとおっしゃってましたが、江沢民国家主席、李鵬総理ら首脳との会談で本音をぶつけ合うことができたとお考えですか。  
(総理)今、あなたからも触れられたように、私は、本当にアジア太平洋地域の平和と繁栄を確保し、より堅固なものにしていこうとするとき、これは日・米・中の3カ国が良好かつ安定的な関係を築いていくことが不可欠と思っています。そしてその意味で日米、日中、米中のそれぞれの2国間関係が前進し発展しうるプラス・サムの関係にあると考えています。そしてまさに今回の訪中では、その三角形の一辺である中国と我が国のあいだをより前進させたい、そんな思いでこちらにまいりました。昨日、一昨日と、江沢民主席、李鵬総理をはじめ、中国の首脳の方々と先程申し上げたように幅広い議論をすることができた。そしてそれはお互いが相手のいうことに理解を示しながらも、問題によっては意見の違うところも率直に認め合う、そういった意味で、私は本音の対話ができたと思っています。そしてこれは、日中の関係の発展の基礎を確認した上で、将来に向かって幅広い日中関係を形作っていく上で、その基礎として大きな役割を果たし得る、それだけの本音の議論ができた、私はそう思っています。  
(問)現在、国交を正常化して25周年になりますが、この安定に対して影響を与えるものは、台湾の問題、そしてまた歴史認識の問題が存在しております。日本政府はこれらの問題について、どのような措置を講じたのでしょうか。日本の閣僚が、歴史の問題につきまして、歴史を歪曲し、また中国国民の感情を傷つけるような発言が出てきております。総理はこれらの問題について、何か良策、良い方法はありませんでしょうか。  
(総理)まずこれは、申し上げたいことですけれども、日本をはじめ各国の中には、いろいろ異なることをいう人がいる。それが日本の制度だということは、是非私は理解していただきたいと思うんです。その上で、それが日本政府の、多くの、圧倒的に多くの日本人国民の本意でないということを明確に申し上げたいと思います。日本政府は、第二次世界大戦敗戦の日から五十周年の1995年、内閣総理大臣談話という形をとりまして、我が国として、過去の日本の行為が中国を含む多くの人々に対し、耐え難い悲しみと苦しみを与えた、これに対して深い反省の気持ちの上に立ち、お詫びを申し上げながら、平和のために力を尽くそうとの決意を発表しました。私自身がその談話の作成に関わった閣僚の一人です。そしてこれが日本政府の正式な態度である、立場であることを繰り返し申し上げたいと思います。そしてこのことは首脳間における論議の中でも、中国側に私も率直に申し上げ、李鵬総理も私の発言に完全に同意すると、そう言って頂きました。そして、ここで一つ申し上げたいことはこの記者会見が終わりますとすぐに、私は戦後の日本の総理として初めて東北地方を訪問させていただきます。そして、9・18事変記念館の博物館も見せて頂くつもりでいます。これはまさに過去の歴史を直視した上で、将来にむけての友好協力の実をあげたい、そうした思いからこういう日程を選んである、そういう点も、是非ご理解いただきたいと思います。  
(問)ガイドラインの見直し問題についてお伺いします。今回の一連の会談で、中国側から強まっておりましたガイドライン見直しに関する懸念、これは払拭、あるいは和らげることができたかどうか。それから、李鵬首相はこの問題については最終報告がまとまった段階で判断したいということで、いわば判断留保という形になっていますけれども、今後この見直し作業をどのように進めていくのか、以上2点お願いします。  
(総理)今回の首脳会談、そして要人会談の中では、私から「指針」の見直し、そして台湾に関する問題について、我が国の立場を一所懸命ご説明をしてきました。そして、我が国の立場に対する中国側の理解というものは私は深めて頂けたと思います。しかしそれは、その理解をされた上で、これを了解されたというものではありません。なお、私は中国側には懸念が存在しているであろうことを、自分でも感じています。この指針の今後の策定に向けても、まず私たちが心がけるべきことは、それは透明性を確保して、どこから見てもきちんと特定の問題に向けてのものでないということを理解して頂けるよう、透明性を確保することの重要性に十分留意しながら作業を進めていく、同時にその作業の結果については、中国側にも説明を行いたい。またそういう意志を申し上げたところ、そういう説明を十分待って、判断をしたいと言われたことはあなたの言われたとおりです。そういうやりとりができるようになったこと自体が、私は今度の日中首脳会談の、一つの成果だったと思っていますし、懸念を完全に払拭していくためには、私は両国間の安全保障対話、そしてその中で直接の防衛担当者どうしの交流といったものを積み重ねていきながら、事実をもって、その懸念を払拭していく努力をこれからも続けていかなければならないと思っています。・・・後略・・・ 
1998年7月15日 - 橋本龍太郎首相

 

(橋本総理発 コック首相宛書簡要旨)  
我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。  
私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います。  
そのような気持ちを具体化するため、貴国の関係者と話し合った結果、貴国においては、貴国に設立された事業実施委員会が、いわゆる従軍慰安婦問題に関し、先の大戦において困難を経験された方々に医療・福祉分野の財・サービスを提供する事業に対し、「女性のためのアジア平和国民基金」が支援を行っていくこととなりました。  
日本国民の真摯な気持ちを表れである「女性のためのアジア平和国民基金」のこのような事業に対し、貴政府の御理解と御協力を頂ければ幸甚です。  
我が国政府は、1995年の内閣総理大臣談話によって、我が国が過去の一時期に、貴国を含む多くの国々の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことに対し、あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたしました。現内閣においてもこの立場に変更はなく、私自身、昨年6月に貴国を訪問した際に、このような気持ちを込めて旧蘭領東インド記念碑に献花を行いました。
 
そして貴国との相互理解を一層増進することにより、ともに未来に向けた関係を構築していくことを目的とした「平和友好交流計画」の下で、歴史研究支援事業と交流事業を二本柱とした取り組みを進めてきております。  
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。 
1998年10月8日 - 小渕恵三首相

 

(日韓共同宣言 / 21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ)  
1.金大中大韓民国大統領夫妻は、日本国国賓として1998年10月7日から10日まで 日本を公式訪問した。金大中大統領は、滞在中、小渕恵三日本国内閣総理大臣との間で会談を行った。両首脳は、過去の両国の関係を総括し、現在の友好協力関係を再確認するとともに、未来のあるべき両国関係について意見を交換した。  
この会談の結果、両首脳は、1965年の国交正常化以来築かれてきた両国間の緊密な友好協力関係をより高い次元に発展させ、21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップを構築するとの共通の決意を宣言した。  
2.両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。  
小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。  
金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。  
また、両首脳は、両国国民、特に若い世代が歴史への認識を深めることが重要であることについて見解を共有し、そのために多くの関心と努力が払われる必要がある旨強調した。  
3.両首脳は、過去の長い歴史を通じて交流と協力を維持してきた日韓両国が、1965年の国交正常化以来、各分野で緊密な友好協力関係を発展させてきており、このような協力関係が相互の発展に寄与したことにつき認識を共にした。小渕総理大臣は、韓国がその国民のたゆまざる努力により、飛躍的な発展と民主化を達成し、繁栄し成熟した民主主義国家に成長したことに敬意を表した。金大中大統領は、戦後の日本の平和憲法の下での専守防衛及び非核三原則を始めとする安全保障政策並びに世界経済及び開発途上国に対する経済支援等、国際社会の平和と繁栄に対し日本が果たしてきた役割を高く評価した。両首脳は、日韓両国が、自由・民主主義、市場経済という普遍的理念に立脚した協力関係を、両国国民間の広範な交流と相互理解に基づいて今後更に発展させていくとの決意を表明した。  
4.両首脳は、両国間の関係を、政治、安全保障、経済及び人的・文化交流の幅広い分野において均衡のとれたより高次元の協力関係に発展させていく必要があることにつき意見の一致をみた。また、両首脳は、両国のパートナーシップを、単に二国間の次元にとどまらず、アジア太平洋地域更には国際社会全体の平和と繁栄のために、また、個人の人権が尊重される豊かな生活と住み良い地球環境を目指す様々な試みにおいて、前進させていくことが極めて重要であることにつき意見の一致をみた。  
このため、両首脳は、20世紀の日韓関係を締めくくり、真の相互理解と協力に基づく21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップを共通の目標として構築し、発展させていくことにつき、以下のとおり意見の一致をみるとともに、このようなパートナーシップを具体的に実施していくためにこの共同宣言に附属する行動計画を作成した。  
両首脳は、両国政府が、今後、両国の外務大臣を総覧者として、定期的に、この日韓パートナーシップに基づく協力の進捗状況を確認し、必要に応じこれを更に強化していくこととした。  
5.両首脳は、現在の日韓関係をより高い次元に発展させていくために、両国間の協議と対話をより一層促進していくことにつき意見の一致をみた。  
両首脳は、かかる観点から、首脳間のこれまでの緊密な相互訪問・協議を維持・強化し、定期化していくとともに、外務大臣を始めとする各分野の閣僚級協議を更に強化していくこととした。また、両首脳は、両国の閣僚による懇談会をできる限り早期に開催し、政策実施の責任を持つ関係閣僚による自由な意見交換の場を設けることとした。更に、両首脳は、これまでの日韓双方の議員間の交流実績を評価し、日韓・韓日議連における今後の活動拡充の方針を歓迎するとともに、21世紀を担う次世代の若手議員間の交流を慫慂していくこととした。  
6.両首脳は、冷戦後の世界において、より平和で安全な国際社会秩序を構築するための国際的努力に対し、日韓両国が互いに協力しつつ積極的に参画していくことの重要性につき意見の一致をみた。両首脳は、21世紀の挑戦と課題により効果的に対処していくためには、国連の役割が強化されるべきであり、これは、安保理の機能強化、国連の事務局組織の効率化、安定的な財政基盤の確保、国連平和維持活動の強化、途上国の経済・社会開発への協力等を通じて実現できることにつき意見を共にした。  
かかる点を念頭に置いて、金大中大統領は、国連を始め国際社会における日本の貢献と役割を評価し、今後、日本のこのような貢献と役割が増大されていくことに対する期待を表明した。  
また、両首脳は、軍縮及び不拡散の重要性、とりわけ、いかなる種類の大量破壊兵器であれ、その拡散が国際社会の平和と安全に対する脅威であることを強調するとともに、この分野における両国間の協力を一層強化することとした。  
両首脳は、両国間の安保対話及び種々のレベルにおける防衛交流を歓迎し、これを一層強化していくこととした。また、両首脳は、両国それぞれが米国との安全保障体制を堅持するとともに、アジア太平洋地域の平和と安定のための多国間の対話努力を一層強化していくことの重要性につき意見の一致をみた。  
7.両首脳は、朝鮮半島の平和と安定のためには、北朝鮮が改革と開放を指向するとともに、対話を通じたより建設的な姿勢をとることが極めて重要であるとの認識を共有した。小渕総理大臣は、確固とした安保体制を敷きつつ和解・協力を積極的に進めるとの金大中大統領の対北朝鮮政策に対し支持を表明した。これに関連し、両首脳は、1992年2月に発効した南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書の履行及び四者会合の順調な進展が望ましいことにつき意見の一致をみた。また、両首脳は、1994年10月に米国と北朝鮮との間で署名された「合意された枠組み」及び朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を、北朝鮮の核計画の推進を阻むための最も現実的かつ効果的なメカニズムとして維持していくことの重要性を確認した。この関連で、両首脳は、北朝鮮による先般のミサイル発射に対して、国連安全保障理事会議長が安保理を代表して表明した懸念及び遺憾の意を共有するとともに、北朝鮮のミサイル開発が放置されれば、日本、韓国及び北東アジア地域全体の平和と安全に悪影響を及ぼすことにつき意見の一致をみた。  
両首脳は、両国が北朝鮮に関する政策を進めていく上で相互に緊密に連携していくことの重要性を再確認し、種々のレベルにおける政策協議を強化することで意見の一致をみた。  
8.両首脳は、自由で開かれた国際経済体制を維持・発展させ、また構造問題に直面するアジア経済の再生を実現していく上で、日韓両国が、各々抱える経済上の課題を克服しながら、経済分野における均衡のとれた相互協力関係をより一層強化していくことの重要性につき合意した。このため、両首脳は、二国間での経済政策協議をより強化するととともに、WTO、OECD、APEC等多国間の場での両国の政策協調を一層進めていくことにつき意見の一致をみた。  
金大中大統領は、日本によるこれまでの金融、投資、技術移転等の多岐にわたる対韓国経済支援を評価するとともに、韓国の抱える経済的諸問題の解決に向けた努力を説明した。小渕総理大臣は、日本経済再生のための諸施策及びアジア経済の困難の克服のために日本が行っている経済支援につき説明を行うとともに、韓国による経済困難の克服に向けた努力を引き続き支持するとの意向を表明した。両首脳は、財政投融資を適切に活用した韓国に対する日本輸出入銀行による融資について基本的合意に達したことを歓迎した。  
両首脳は、両国間の大きな懸案であった日韓漁業協定交渉が基本合意に達したことを心から歓迎するとともに、国連海洋法条約を基礎とした新たな漁業秩序の下で、漁業分野における両国の関係が円滑に進展することへの期待を表明した。  
また、両首脳は、今般、新たな日韓租税条約が署名の運びとなったことを歓迎した。更に、両首脳は、貿易・投資、産業技術、科学技術、情報通信、政労使交流等の各分野での協力・交流を更に発展させていくことで意見の一致をみるとともに、日韓社会保障協定を視野に入れて、将来の適当な時期に、相互の社会保障制度についての情報・意見交換を行うこととした。  
9.両首脳は、国際社会の安全と福祉に対する新たな脅威となりつつある国境を越える地球的規模の諸問題の解決に向けて、両国政府が緊密に協力していくことにつき意見の一致をみた。両首脳は、地球環境問題に関し、とりわけ温室効果ガス排出抑制、酸性雨対策を始めとする諸問題への対応における協力を強化するために、日韓環境政策対話を進めることとした。また、開発途上国への支援を強化するため、援助分野における両国間の協調を更に発展させていくことにつき意見の一致をみた。また、両首脳は、日韓逃亡犯罪人引渡条約の締結のための話し合いを開始するとともに、麻薬・覚せい剤対策を始めとする国際組織犯罪対策の分野での協力を一層強化することにつき意見の一致をみた。  
10.両首脳は、以上の諸分野における両国間の協力を効果的に進めていく上での基礎は、政府間交流にとどまらない両国国民の深い相互理解と多様な交流にあるとの認識の下で、両国間の文化・人的交流を拡充していくことにつき意見の一致をみた。  
両首脳は、2002年サッカー・ワールドカップの成功に向けた両国国民の協力を支援し、2002年サッカー・ワールドカップの開催を契機として、文化及びスポーツ交流を一層活発に進めていくこととした。  
両首脳は、研究者、教員、ジャーナリスト、市民サークル等の多様な国民各層間及び地域間の交流の進展を促進することとした。  
両首脳は、こうした交流・相互理解促進の土台を形作る措置として、従来より進めてきた査証制度の簡素化を引き続き進めることとした。  
また、両首脳は、日韓間の交流の拡大と相互理解の増進に資するために、中高生の交流事業の新設を始め政府間の留学生や青少年の交流プログラムの充実を図るとともに、両国の青少年を対象としてワーキング・ホリデー制度を1999年4月から導入することにつき合意した。また、両首脳は、在日韓国人が、日韓両国国民の相互交流・相互理解のための架け橋としての役割を担い得るとの認識に立ち、その地位の向上のため、引き続き両国間の協議を継続していくことで意見の一致をみた。  
両首脳は、日韓フォーラムや歴史共同研究の促進に関する日韓共同委員会等、関係者による日韓間の知的交流の意義を高く評価するとともに、こうした努力を引き続き支持していくことにつき意見の一致をみた。  
金大中大統領は、韓国において日本文化を開放していくとの方針を伝達し、小渕総理大臣より、かかる方針を日韓両国の真の相互理解につながるものとして歓迎した。  
11.小渕総理大臣と金大中大統領は、21世紀に向けた新たな日韓パートナーシ ップは、両国国民の幅広い参加と不断の努力により、更に高次元のものに発展させることができるとの共通の信念を表明するとともに、両国国民に対し、この共同宣言の精神を分かち合い、新たな日韓パートナーシップの構築・発展に向けた共同の作業に参加するよう呼びかけた。  
日本国内閣総理大臣 小渕恵三  
大韓民国大統領   金大中   (1998年10月8日、東京) 
1998年11月26日 - 小渕恵三首相

 

(平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言)  
日本国政府の招待に応じ、江沢民中華人民共和国主席は、1998年11月25日から30日まで国賓として日本国を公式訪問した。この歴史的意義を有する中国国家主席の初めての日本訪問に際し、江沢民主席は、天皇陛下と会見するとともに、小渕恵三内閣総理大臣と国際情勢、地域問題及び日中関係全般について突っ込んだ意見交換を行い、広範な共通認識に達し、この訪問の成功を踏まえ、次のとおり共同で宣言した。  
一  
双方は、冷戦終了後、世界が新たな国際秩序形成に向けて大きな変化を遂げつつある中で、経済の一層のグローバル化に伴い、相互依存関係は深化し、また安全保障に関する対話と協力も絶えず進展しているとの認識で一致した。平和と発展は依然として人類社会が直面する主要な課題である。公正で合理的な国際政治・経済の新たな秩序を構築し、21世紀における一層揺るぎのない平和な国際環境を追求することは、国際社会共通の願いである。  
双方は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵、平和共存の諸原則並びに国際連合憲章の原則が、国家間の関係を処理する基本準則であることを確認した。  
双方は、国際連合が世界の平和を守り、世界の経済及び社会の発展を促していく上で払っている努力を積極的に評価し、国際連合が国際新秩序を構築し維持する上で重要な役割を果たすべきであると考える。双方は、国際連合が、その活動及び政策決定プロセスにおいて全加盟国の共通の願望と全体の意思をよりよく体現するために、安全保障理事会を含めた改革を行うことに賛成する。  
双方は、核兵器の究極的廃絶を主張し、いかなる形の核兵器の拡散にも反対する。また、アジア地域及び世界の平和と安定に資するよう、関係国に一切の核実験と核軍備競争の停止を強く呼びかける。  
双方は、日中両国がアジア地域及び世界に影響力を有する国家として、平和を守り、発展を促していく上で重要な責任を負っていると考える。双方は、日中両国が国際政治・経済、地球規模の問題等の分野における協調と協力を強化し、世界の平和と発展ひいては人類の進歩という事業のために積極的な貢献を行っていく。  
二  
双方は、冷戦後、アジア地域の情勢は引き続き安定の方向に向かっており、域内の協力も一層深まっていると考える。そして、双方は、この地域が国際政治・経済及び安全保障に対して及ぼす影響力は更に拡大し、来世紀においても引き続き重要な役割を果たすであろうと確信する。  
双方は、この地域の平和を維持し、発展を促進することが、両国の揺るぎない基本方針であること、また、アジア地域における覇権はこれを求めることなく、武力又は武力による威嚇に訴えず、すべての紛争は平和的手段により解決すべきであることを改めて表明した。  
双方は、現在の東アジア金融危機及びそれがアジア経済にもたらした困難に対して大きな関心を表明した。同時に、双方は、この地域の経済の基礎は強固なものであると認識しており、経験を踏まえた合理的な調整と改革の推進並びに域内及び国際的な協調と協力の強化を通じて、アジア経済は必ずや困難を克服し、引き続き発展できるものと確信する。双方は、積極的な姿勢で直面する各種の挑戦に立ち向かい、この地域の経済発展を促すためそれぞれできる限りの努力を行うことで一致した。  
双方は、アジア太平洋地域の主要国間の安定的な関係は、この地域の平和と安定に極めて重要であると考える。双方は、ASEAN地域フォーラム等のこの地域におけるあらゆる多国間の活動に積極的に参画し、かつ協調と協力を進め、理解の増進と信頼の強化に努めるすべての措置を支持することで意見の一致をみた。  
三  
双方は、日中国交正常化以来の両国関係を回顧し、政治、経済、文化、人の往来等の各分野で目を見張るほどの発展を遂げたことに満足の意を表明した。また、双方は、目下の情勢において、両国間の協力の重要性は一層増していること、及び両国間の友好協力を更に強固にし発展させることは、両国国民の根本的な利益に合致するのみならず、アジア太平洋地域ひいては世界の平和と発展にとって積極的に貢献するものであることにつき認識の一致をみた。双方は、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであることを確認するとともに、平和と発展のための両国の役割と責任を深く認識し、21世紀に向け、平和と発展のための友好協力パートナーシップの確立を宣言した。  
双方は、1972年9月29日に発表された日中共同声明及び1978年8月12日に署名された日中平和友好条約の諸原則を遵守することを改めて表明し、上記の文書は今後とも両国関係の最も重要な基礎であることを確認した。  
双方は、日中両国は二千年余りにわたる友好交流の歴史と共通の文化的背景を有しており、このような友好の伝統を受け継ぎ、更なる互恵協力を発展させることが両国国民の共通の願いであるとの認識で一致した。  
双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる。  
双方は、両国間の人的往来を強化することが、相互理解の増進及び相互信頼の強化に極めて重要であるとの認識で一致した。  
双方は、毎年いずれか一方の国の指導者が相手国を訪問すること、東京と北京に両政府間のホットラインを設置すること、また、両国の各層、特に両国の未来の発展という重責を担う青少年の間における交流を、更に強化していくことを確認した。  
双方は、平等互恵の基礎の上に立って、長期安定的な経済貿易協力関係を打ち立て、ハイテク、情報、環境保護、農業、インフラ等の分野での協力を更に拡大することで意見の一致をみた。日本側は、安定し開放され発展する中国はアジア太平洋地域及び世界の平和と発展に対し重要な意義を有しており、引き続き中国の経済開発に対し協力と支援を行っていくとの方針を改めて表明した。中国側は、日本がこれまで中国に対して行ってきた経済協力に感謝の意を表明した。日本側は、中国がWTOへの早期加盟実現に向けて払っている努力を引き続き支持していくことを重ねて表明した。  
双方は、両国の安全保障対話が相互理解の増進に有益な役割を果たしていることを積極的に評価し、この対話メカニズムを更に強化することにつき意見の一致をみた。  
日本側は、日本が日中共同声明の中で表明した台湾問題に関する立場を引き続き遵守し、改めて中国は一つであるとの認識を表明する。日本は、引き続き台湾と民間及び地域的な往来を維持する。  
双方は、日中共同声明及び日中平和友好条約の諸原則に基づき、また、小異を残し大同に就くとの精神に則り、共通の利益を最大限に拡大し、相違点を縮小するとともに、友好的な協議を通じて、両国間に存在する、そして今後出現するかもしれない問題、意見の相違、争いを適切に処理し、もって両国の友好関係の発展が妨げられ、阻害されることを回避していくことで意見の一致をみた。  
双方は、両国が平和と発展のための友好協力パートナーシップを確立することにより、両国関係は新たな発展の段階に入ると考える。そのためには、両政府のみならず、両国国民の広範な参加とたゆまぬ努力が必要である。双方は、両国国民が、共に手を携えて、この宣言に示された精神を余すところなく発揮していけば、両国国民の世々代々にわたる友好に資するのみならず、アジア太平洋地域及び世界の平和と発展に対しても必ずや重要な貢献を行うであろうと固く信じる。 
1999年 
 
謝罪の歴史8 2000〜2004

 

2000年8月17日 - 山崎隆一郎外務報道官  
「本記事では、日本が第二次大戦中の行為について、中国に対して一度も謝罪をしていないと書かれているが、実際には日本は戦争中の行為について繰り返し謝罪を表明してきている。とりわけ、1995年8月に、村山総理(当時)が公式談話を発表し、日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ、「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」を表明し、また、1998年に、小渕総理(当時)が、日本を公式訪問した江沢民主席に対して、村山談話を再確認している。」
2000年8月30日 - 河野洋平外務大臣

 

(真の友好協力パートナーシップを求めて / 於:中国共産党中央党校[北京])  
1.前言  
本日、中国共産党幹部の最高研修機関として著名な当中央党校において、日本と中国の関係について私の所感の一端をお話する機会を与えられたことは、大変名誉なことであります。このような機会を設けて下さった胡錦濤校長、鄭必堅常務副校長を始め、関係者の方々に厚く御礼申し上げます。  
私は、当中央党校が中国国内でも最も率直かつ自由に議論が行われる場の一つであると伺っています。そこで、私は耳障りの良い話だけをするのではなく、日本の政治家としての意見を率直に申し上げたいと考えています。そして、これは日本と中国との関係を大切にしたいとの私の気持ちから出ていることを、是非ご理解頂きたいと思います。  
2.日中両国の現状と課題  
日中両国は、1972年、当時の両国指導者の英断により、国交正常化を果たしました。私も当時、30歳代の若手議員として、正常化推進の立場から、日本国内の激しい議論の応酬の渦中にいたことを思い出します。  
以来28年、日中両国は、体制の違いと過去の歴史が残した様々な問題を克服しながら、安定した友好協力関係を構築するために、たゆまぬ努力をしてまいりました。私はかねがね、地域の大国である中国の発展は地域の平和と安定の基礎であり、中国の発展に協力することは日本の国益にもかなうものであると考えてまいりました。現在、日中両国の関係は、貿易、投資、人の往来等、いずれの指標をとっても、全体の傾向としては年を経るごとに拡大しており、お互いの相互依存性はますます増してきております。  
そして、98年に江沢民主席が訪日された際に合意された「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」と33項目の協力プロジェクトは、昨年7月の小渕前総理の訪中を経て加速され、その後の日中共同作業を通じ着実に進展しつつあります。このように日中関係は、大きな流れとして、正しい方向に向かって発展していると言っていいでしょう。  
しかし、率直に申し上げて、日中間の信頼感を更に高めるためには、まだまだ私たちが多くのことを成し遂げなければならないことも、また事実です。  
日中関係において、時折頭をもたげる諸問題の背景には、私たちが国民レベルにおいて、お互いに相手のことをまだまだ良く知らないという現実があると思います。  
例えば、本年度の我が国の「防衛白書」における中国関連の記述振りを巡って、中国の多くの報道が、日本の「軍拡」や、ひいては「軍国主義復活」への懸念を表明されたと聞いています。また、我が国が新たなミサイルの脅威に対処するため米国と協力して進めている弾道ミサイル防衛(BMD)に関する共同技術研究に関しても、将来、開発・配備するか否かについては如何なる決定もなされていないのですが、既に中国においては、地域の安定に悪影響をもたらすものとして批判があることも承知しています。更に、過去の歴史の問題を巡る日本国内の極く一部の人々の言動により、中国の人々の間にしばしば対日不信の感情が呼び起こされています。  
しかし、よく「百聞は一見に如かず」と言われるように、実際に日本に来られた方、住んだことがある方にはお分かりだと思いますが、日本人自身も軍国主義による被害を受けた当の本人であり、日本において軍国主義の復活を許そうなどという人は、まず、おりません。私は、このことを自信を持って断言できます。専守防衛を防衛政策の基本とする日本が中国と軍拡競争をするなどといったことは、友好関係にもある日中間では、あり得ないことと思います。  
私は、歴史認識については、戦後50周年に閣議決定を経て発出された村山総理談話で我が国の考え方ははっきりしていると考えています。私も閣僚の一人として、この談話の作成に携わりましたが、これはその後の歴代内閣にも引き継がれ、今や多くの日本人の常識であり、共通の認識であると言えます。  
一方で、昨年、中国建国50周年の記念式典パレードによって国内外に示された中国が保有するミサイルの現状及び年々増加する軍事費にも、日本国民は強い疑問を持っています。いわゆる「中国脅威論」といった見方を取る人は、こうした点に着目しているのです。また、毎年総額300億元を超える我が国からの対中経済援助が中国の国民に良く知られておらず、正当な評価もされていないとの報道があり、日本国民の間に当惑が広まっております。  
このように、日本国内においては、中国の人たちにもっと日本の国の実状について分かってもらいたいという強い気持ちがありますが、他方において、皆さん中国の側においても、「日本人には、中国についてこんなことも分かってもらえないのか。もっと中国を理解してほしい。」との気持ちがあろうかと思います。  
私たちがお互いに理解し合い、共に協力する必要があるわけですが、そのためにも、特定の立場や考えにとらわれない国民各界各層の間の交流を一層活発にしていくことが大切だと思います。活発な交流なくして相互理解は進みようもなく、相互理解がないところに相互信頼は成り立ちません。今年5月、江沢民主席が日中関係に関する重要講話の中で言われた通り、日中友好は最終的には両国国民の友好であり、両国国民の利益であります。この意味で、私は、最近、中国の方々に日本への団体観光旅行の道が開かれたことは前進であり、日中の相互理解の促進にとっては重要な一歩であると考えます。今後、この事業が順調に拡大できるよう努力を続けたいと思います。  
一昨年、江沢民主席が訪日された際、両国間で未来を担う若い世代の相互交流につき合意しましたが、こうした考え方に沿って、本年5月、日本から5000人に上る文化・観光交流使節団が訪中し、江沢民主席を始め中国の方々に温かく迎えられました。また、同じ5月に、中国の高校生約100名が訪日され、私自身、その代表の方々と直接お会いする機会がありました。中国の若い世代の方々の日本への関心には目を見張るものがありました。インターネットの発達もあり、こうした若い世代の間での知識の伝播のスピードは決して軽視できません。双方の若者達を含む多くの人が更に交流を深め、お互いに相手の国をしっかりと見つめていくことが大事であると思います。  
1972年、日中国交正常化の偉業を成し遂げた周恩来総理は「中国と日本の民族はいずれも偉大な民族であり、中日両国人民は、子々孫々友好的にしていかなければならない」と述べられました。それに応えて田中角栄総理は、「我々は、偉大な中国とその国民との間に良き隣人としての関係を樹立し、両国がアジアひいては世界の平和と繁栄に寄与することを念願する」と語りました。私たちの先輩が決断した日中国交正常化は、しっかりとした大局観及び相手国とその国民に対する尊敬を基礎に実現したものです。日中共同声明は、その原点です。  
台湾問題についても、これまで日本政府は日中共同声明に基づいて、台湾との間では非政府間の実務的な関係を維持してきており、きちんとした対応を行っていると断言できます。台湾を巡る問題は、中国の皆さんもおっしゃる通り、当事者同士が話し合いを通じて平和的に解決を目指して頂くべき問題であります。台湾海峡の平和と安定は、我が国の国益にとっても死活的に重要であり、日本政府も国民も、一貫して、台湾問題の平和的解決を強く願っています。そのためにも、現在中断されている両岸の間の対話が一刻も早く再開されることを強く希望しております。  
江沢民主席は5月の重要講話の中で、「両国国民の間の善隣友好は主流である」と述べられました。今こそ、我々も、この精神に立ち戻るべきであり、大きな流れを決して見失ってはなりません。日中友好の大きな幹さえしっかりしていれば、枝葉の問題で木全体が揺らぐことはないと、私は確信しています。  
3.21世紀に向けた真の友好協力パートナーシップの構築  
日中両国は、毎年、首脳の訪問を行うことを約束しております。この首脳の相互訪問は、日中関係の重要性を再確認しながら、日中関係を着実に前進させるための、大切な機会を提供しております。江沢民主席の訪日と小渕前総理の訪中を経て、21世紀の日中協力の大きな方向は定まりました。そして、本年10月には、いよいよ朱鎔基総理の訪日が予定されております。私は、来るべき朱鎔基総理の訪日を、21世紀に向けて日中関係を大きく飛躍させる重要な契機にしたいと考えております。  
私は、朱鎔基総理の訪日をも念頭において、日中関係をより深く幅広いものとするために、次の提案をしたいと思います。  
第一に、先に述べた、日中間において今なお度々顔を出す問題に正面から向き合う必要があります。そのためには、お互いの国情の基礎的な部分に対する理解を深めた上で、その違いを認め、尊重し合うことが大切です。この心構えこそ、周恩来総理がよく言われた「小異を残して大同につく」ということにほかなりません。更なる信頼関係の構築へ向け大きく踏み出すために、既に述べた活発な交流ということに加え、以下の努力をしたいと考えます。  
(1) まず、日中間の信頼関係の障害となる個々の具体的な問題を、小さな芽の間に摘み取っていくシステムを早急に確立する必要があります。この関連で、日本では、最近、中国の海洋調査船や海軍艦艇が我が国近海での活動を一方的に活発化させていることが多くのマスコミによって報道され、広範な国民の懸念を呼び起こし、強い反発を引き起こしています。中国海軍の艦艇が、我が国の領海近くを航行し、我が国を一周したり、更には本州と北海道の間にある津軽海峡を通過し情報収集するという状況は、日本国内の注目を集めました。この問題は、日中関係全体に悪影響を及ぼしかねないものとして懸念し、今回、私と唐家?外交部長との間で、海洋調査船の相互通報の枠組みを作ることで一致しました。このことは、意味のある一歩を踏み出したものではないかと考えています。また、既に準備が始まっている日中首脳の間のホットライン開設のための作業も、このような考え方に沿ったものと言えましょう。  
このような早期処理の成否は、前線で仕事をする両国外交当局の努力に負う部分が大きいことは事実です。しかし、それに加え、政府全体、更には国全体が、重層的かつ多様なチャネルを生かし努力をしていく必要があります。こうした官民挙げての取り組みを推進していくためにも、日中両国のシンクタンクの間で、政府関係者の参加も得て、効果的な早期処理システムの構築に向け、早急に検討を開始することを提案します。  
(2) 二国間の問題として、もう一つ指摘しておかなければならないのは、経済協力の問題です。我が国はこれまで20年にわたり、中国の改革開放政策を政府開発援助(ODA)等を通じて支援してまいりました。今後とも、このような我が国の基本的姿勢に変わりはありません。我々は、中国の発展は、アジア太平洋地域、ひいては世界の平和と繁栄にとって不可欠と考えています。しかし、先にも述べました通り、日本の中国に対する経済協力のあり方につき、特に日本国内で様々な議論が行われています。今後の対中経済協力の実施に当たっては、これまで以上に日中両国民の十分な理解と支持を得ることが必要となっているのです。そうした観点から、我が国では、本年7月に各界有識者による懇談会を設置し、今後の対中経済協力のあり方につき、本年末を目途に提言を取りまとめてもらう予定です。そして、その提言等を踏まえ、中国に対する援助計画を年度末までに策定する予定であり、その過程においては、貴国の関係者の方々とも意見交換を行いたいと考えています。  
第二の提案は、アジア太平洋、ひいては世界的視野の中で日中関係をとらえることについてであります。21世紀を目前にして、これからは多国間関係の領域でも、日中協力を一層重視していくべきです。私はこの機会に、この面で以下の三つのことを提唱したいと思います。  
(1) まず、北東アジアの平和と安定のために、北東アジアにおける関係国の間の対話の枠組み作りを提唱します。朝鮮半島を中心に、この地域に平和と発展を求める機運が高まっている今日、これまで必ずしも十分進展してきたとは言えない北東アジア地域における対話の枠組みを強化できる可能性が出てまいりました。対話の枠組み作りに当たっては、柔軟かつ現実的なアプローチが適切であると考えます。例えば、我が国がかねてより主張してきた日米中露に韓国、北朝鮮を加えた6者会合も一つのアイデアと思います。日米中、日中韓といった対話の強化も、この流れの中で位置付けることができます。これらの対話は、アセアン地域フォーラム(ARF)の活動の強化を図りつつ、北東アジアの信頼醸成に役立つよう、関係国の意向も十分踏まえながら進めていく必要があります。対話の中身も、柔軟にこれをとらえ、環境や経済、そして人材交流といった比較的取り組みやすい分野から始め、将来的には政治分野も含む包括的な対話に発展させていくことも視野に置けば良いと考えます。  
(2) 次に、日中両国が協力してアジアにおける持続的な経済発展に向けて積極的に貢献することを提唱します。この点に関しては、アジア地域の環境改善のための協力が殊の外重要です。日中両国間では、現在、大連、重慶、貴陽の三都市において「日中環境開発モデル都市構想」を推進し酸性雨対策等の大気汚染防止に努めているほか、中国国内の100の都市を結ぶ「環境情報ネットワーク」の具体化に向け準備を着実に進めているところです。こうした環境面での協力は、日中両国間のみの協力に止まらず、韓国の参加も得て、日中韓三ヶ国の環境大臣による会合が既に2回開かれ、三ヶ国の協力のあり方につき有意義な意見交換が行われています。  
更に地域的な広がりを持つものとして、ユーラシア・ランド・ブリッジ構想と言われるものがあります。東アジアから中央アジアに至る交通・物流の整備を目指すこの壮大な構想に対し、日中両国が将来に向けて協力し、東アジアから中央アジア全域の開発に貢献することも大いに意義のあることです。エネルギー、インフラ、情報通信、観光等、両国が協力できる分野は数多いと思われます。  
これに加え、メコン河流域開発も既に緒についており、日中両国がアジア開発銀行を中心とする多国間の枠組みの中で協力し、経済発展を促進していくことができるでしょう。  
二つの国が関係を深めるためには、一つの目標に向かって一緒に協力していくことが大変効果的であると考えます。これは、人と人との関係と同じです。かつて村山内閣当時、我が国と韓国の関係が若干ぎくしゃくした時期がありましたが、その時私は副総理兼外相として、韓国の外相に対し、「とにかく何か一緒にやろう。両国が招致に名乗りを上げているサッカーのワールドカップを共同開催したらどうか」と提案しました。  
昨今、金大中大統領ら日韓首脳を始めとする関係者の努力により、日韓関係は劇的とも言える改善を見ています。ワールドカップの共同開催が決まったことも一つの契機に、国民レベルでの友好関係が一層強化され、このことが現在の両国関係全体の発展につながっているとも言えるのではないでしょうか。  
(3) 最後に、地域を超えてグローバルな課題に対する日中協力を提唱します。  
現在、経済のグローバル化が世界経済を一体化させ、その結果、市場メカニズムに基づく世界経済の枠組みを維持し発展させることが、全ての国の利益となりました。この関連で、中国は近いうちにWTOに加盟されることになりましょうが、我が国が中国のWTO加盟を強く支持してきたのも、中国のWTO加盟が、そうした世界経済のグローバル化を進展させていく上で、必要不可欠であると考えたからです。日本政府は、中国のWTO加盟につき、世界の主要国に先駆けて二国間交渉を妥結し、現在、中国の国内法制度の整備等につき具体的な技術支援を行うことを検討しています。  
また、気候変動を含む地球環境の問題について、急速な近代化を遂げつつある中国は重要な役割を担っています。立場の差はありますが、これを乗り越え、日中両国が共に積極的な貢献をしていきたいと考えます。  
このほか、中国との間では、とりわけ最先端技術分野での協力、例えば情報通信技術(IT)分野での知的交流等を通じて、世界に向けアジアの活力を発信したいものです。今回、唐家?外交部長からも、この分野における日中間協力が、日中両国のみならず、世界経済の発展にとっても有益である旨の御指摘がありましたが、私も全く同感です。  
更に、軍備管理・軍縮・不拡散は世界の平和にとり、決してゆるがせにできない問題であり、この分野における日中間の対話と協力を強化したいと考えます。今春の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議で、全面的核廃絶に向けた明確な約束を含む現実的な核軍縮措置につき全会一致で合意されたことは極めて重要です。これを現実のものとしていくために、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効が必要です。そのためには、CTBTに一早く署名された中国が同条約を早期批准されることによって、世界全体の流れを引っ張っていくことが求められていると考えます。更には米露が戦略兵器削減交渉(START)の中で、更なる核兵器の削減を行うと共に、中国を含む他の核兵器国が、一方的あるいは交渉を通じて核兵器削減の努力を行うことが是非必要です。国家ミサイル防衛(NMD)を巡っては、「核・ミサイル開発を新たに進めている国がある」との声がある一方で、「NMD配備を見過ごせば、核戦略で決定的に不利になる」といった意見もあり対立が見られますが、お互いが勝手に戦力強化を進めるのではなく、良く話し合って解決の道を探ることが何よりも重要である点を、強調しておきたいと思います。  
更に、グローバルな課題の受け皿として重要なものは、国連であります。「国連を敗者にしてはならない」という思いは、日中両国に共通していると思います。国連改革、とりわけ安全保障理事会の改革は、この文脈において喫緊の課題です。また、改革実現のために途上国の意見を反映させることが、日中双方の主張にも沿っており重要と考えています。国連には「正統性」と「実効性」が備わっていなくてはなりません。我が国の常任理事国入りは、それ自体が目的ということではなく、あくまでも国連安保理の強化という観点から議論されるべきものと思っております。そこに誤解がないことを期待致します。  
また、世界を見渡せば、民族紛争や地域紛争が今だに頻発しており、この面での対立が如何に根深いものであるかを、まざまざと見せつけております。21世紀においては、文化的、言語的、社会的、宗教的背景の異なる各国、各文明間の対話を繊細さと寛容の精神で進めていかねばなりません。我が国は、紛争を未然に防ぐことの重要性を認識し、特に「予防の文化」を育んでいく必要性を提唱しています。こうした面でも日中両国間の協力に向けた潜在力は大きなものがあると言えるでしょう。  
4.結語  
私は、1967年に政治家になりました。私も、政治の道を志して以来、日本にとって重要な隣国である中国と、安定的で良好な関係を作り上げることが自分の政治家としての使命と心得、努力してまいりました。  
20世紀も最後の数ヶ月となり、時代が変わり、社会が変わり、人も替わり、両国を取り巻く環境も大きく変わる中で、私たちは、今一度原点に立ち戻って、日中関係を真剣に考える転換点に立っていると思います。  
「時には喧嘩をすることで真の友となる」。これからの時代は、率直にお互いの本音をぶつけ合い、時には激しいやりとりを行ってでも、必死になって相手を理解し、説得する気構えを持たなければならないと感じております。私の叔父、河野謙三は、時には中国の指導者と激しいやりとりをすることもありましたが、そのことでかえって多くの友人を作り、沢山の方々と固い友情を築きました。  
本日の私の講演が、これまでの両国指導者の講演のトーンと若干異なるものがあったとすれば、それは、私の以上のような日中関係についての思いつめた認識と日中友好に対する強い信念に基づくものであることを、ご理解頂きたいと思います。ご清聴有難うございました。 
2001年4月3日 - 福田康夫内閣官房長官

 

(平成14年度より使用される中学校の歴史教科書について)  
1. 平成14年度より使用される中学校の歴史教科書について、今般、文部科学大臣は、申請のあった計8冊について検定決定を行った。  
2. 我が国の教科書検定制度は、民間の著作・編集者の創意工夫を活かした多様な教科書が発行されるとの基本理念に立つものであり、国が特定の歴史認識や歴史観を確定するという性格のものではなく、検定決定したことをもって、その教科書の歴史認識や歴史観が政府の考え方と一致するものと解されるべきものではない。教科書検定制度は、あくまでも当該図書が検定基準に照らして教科用図書として適切なものであるか否かとの観点から、検定の時点における客観的な学問的成果や適切な資料等に照らして、明らかな誤りやバランスの欠如などの欠陥を指摘し修正を求めることを基本としている。  
3. 今般の教科書検定にあたっては、その過程で近隣諸国から種々の懸念が表明されたが、検定は、学習指導要領、並びにいわゆる「近隣諸国条項」を含む検定基準に基づき、厳正に行われてきた。  
因みに、我が国政府の歴史に関する基本認識については、戦後50周年の平成7年8月15日に発出された内閣総理大臣談話にあるとおり、我が国は、遠くない過去の一時期、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止め、そのことについて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するというものである。こうした認識は、その後の歴代内閣においても引き継がれてきており、現内閣においても、この点に何ら変わりはない。  
我が国としては、今後とも、近隣諸国との相互理解、相互信頼の促進に努め、アジアひいては世界の平和と発展のために貢献していく考えである。
 
2001年9月8日 - 田中眞紀子外務大臣

 

(サン・フランシスコ平和条約署名50周年記念式典における田中外務大臣演説 / 於:サン・フランシスコ、オペラハウス)  
シュルツ長官、パウエル国務長官、宮澤総理、ブラウン市長、その他ご列席の皆様、  
50年前のこの日に、このオペラハウスでサン・フランシスコ平和条約が署名されました。太平洋が真に平和の海となるようにとの願いを込めてサン・フランシスコが選ばれたと言われています。私は、つい先程ハーツバーグ・カリフォルニア州下院議長から、9月8日を平和条約記念日と名付けるカリフォルニア州議会決議の写しを頂いたことを嬉しく思います。本日、心を開いて友好的に私どもを歓迎してくださるカリフォルニア、特にサン・フランシスコの方々に心より感謝いたします。また、シュルツ名誉会長及び「日米21世紀プロジェクト」関係者の皆様に、改めて敬意を表するとともに、御礼を申し上げます。  
サン・フランシスコ平和条約により、日本は完全な主権と平等と自由を回復しました。また、この条約により、日本は戦後の国際社会に復帰することができました。日本側全権代表であった吉田総理は演説の中で、この条約は、「和解と信頼の文書である」と述べましたが、まさにその通りとなりました。この平和条約への署名と同じ日にプレシディオで日米安全保障条約が署名されました。こうして日米両国はかけがえのないパートナーとなったのです。歴史はこれらの決断が正しかったことを証明しています。また、沖縄の返還が1972年に実現したことを強調したいと思います。  
サン・フランシスコ平和条約は、日本の戦後の発展の礎となったのみならず、国際社会の平和と繁栄の基盤となりました。この条約により、日米両国を始めとする締約国の間で戦後処理に係るすべての問題は解決され、日本及び連合国は、過去に区切りを付け、将来に向けて新たな一歩を踏み出すことができたのです。日本は、この条約上の義務を誠実に履行してきました。  
日本は、先の大戦において多くの国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えたことを決して忘れてはおりません。多くの人々が貴重な命を失ったり、傷を負われました。また、元戦争捕虜を含む多くの人々の間に癒しがたい傷跡を残しています。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、1995年の村山内閣総理大臣談話の痛切な反省の意及び心からのお詫びの気持ちをここに再確認いたします。  
ご列席の皆様、終戦直後、日本は食糧不足と経済的困難に直面しました。日本国民が苦しんでいるとき、寛大な支援を差し伸べてくれたのは米国でした。 多くの日本の若者達が、ガリオア・プログラム、フルブライト交流計画等の下で米国で勉強し、彼らが学んだことは、その後の日本の経済発展に貢献しました。また、米国は日本の多角的自由貿易体制への仲間入りを支持してくれました。日本国民はこのような米国の寛大な支援と支持を決して忘れません。  
本日、東京で、日本の戦後の復興のために米国が果たした役割に感謝の意を表することを目的として、民間イニシアチブによるA50式典が開催されました。A50の代表の方が、この式典にも出席されています。  
ご列席の皆様、50年という月日は、日米関係の歴史の三分の一にあたります。過去50年の間、国際社会は劇的な変革を経験し、数々の課題に直面してきました。日米両国も時には、貿易分野などにおける摩擦を経験しました。日米両国はこれらを乗り越えて、「比類のない、最も重要な二国間関係」を構築し、発展させてきました。これが可能であったのは、日米両国が自由、民主主義、市場経済という価値を共有しているからです。私どもはまた、友情と相互信頼という絆により結ばれています。世界の歴史において、かつて戦火を交えた二つの国が、これほど迅速に、これほど強固なパートナーシップを築いた例が他にあったでしょうか。将来、時に両国間で問題が生じることもあるかと思います。しかし、私は、日米両国が協力の精神に基づいて緊密な対話を通じ、これらの挑戦を乗り越えていくことができると確信しています。  
ご列席の皆様、新たな千年紀に入り、私どもは日米関係の新たなページをめくりつつあります。  
今日、アジア太平洋地域には依然として不確実性、不安定性が存在しています。国際社会は多くのグローバルな課題に直面しています。世界第一、第二の経済力を有する日米両国は、こうした課題に取り組んでいく責務があることを十分認識しています。  
世界は、米国が経済、地球環境や、安全保障及び軍備管理といった問題への取組みにおいて、引き続き主導的役割を果たすことを期待しています。また、世界経済の発展のため、世界は日本が自らの経済を再活性化させることを期待しています。小泉内閣は、このために構造改革を断行する決意です。また、日本は国際社会においてより積極的な役割を果たす用意があります。  
私たちは政治・安全保障における同盟国であり、また、緊密な経済的パートナーです。 私はさらに文化の面においても相互交流を深めていかなければならないと考えます。 これほど異なる歴史、文化を有する日米両国は、夫々の社会について学び続けなければなりません。 お互いの社会を構成する人々のあり方を理解して、はじめてお互いの社会を理解することができるのです。  このような考えに基づいて、私は来年から米国の高校生25名を一年間、日本に招待する計画をはじめます。 この計画が日米の相互理解を促進させ、日米関係を発展させるための小さな一歩となることを願っております。 そしてこの計画をJapan-US Mutual-understanding Programと名付け、この頭文字をとってJUMPと呼びたいと思います。  
ご列席の皆様、今日の日米両国間の友情、協力及び信頼は、全て半世紀前、この場から始まりました。 私たちの先達が、これまでの50年間行ってきたように、これからの50年間の平和と繁栄を進めることを誓い合おうではありませんか。 そして、今日この日に新しいスタートを切って手を携えてまいりましょう。ご静聴ありがとうございました。 
2001年10月15日 - 小泉純一郎首相

 

「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った。」
2001年 - 小泉純一郎首相

 

(元慰安婦の方々に対する 小泉内閣総理大臣の手紙)  
拝啓 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。  
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。  
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。
 
末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。 敬具
2002年9月17日 - 小泉純一郎首相

 

(日朝平壌宣言)  
小泉純一郎日本国総理大臣と金正日朝鮮民主主義人民共和国国防委員長は、2002年9月17日、平壌で出会い会談を行った。  
両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。  
1.双方は、この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注することとし、そのために2002年10月中に日朝国交正常化交渉を再開することとした。  
双方は、相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意を表明した。  
2.日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。  
双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施し、また、民間経済活動を支援する見地から国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、この宣言の精神に合致するとの基本認識の下、国交正常化交渉において、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。  
双方は、国交正常化を実現するにあたっては、1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄するとの基本原則に従い、国交正常化交渉においてこれを具体的に協議することとした。  
双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、国交正常化交渉において誠実に協議することとした。
 
3.双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した。  
4.双方は、北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、互いに協力していくことを確認した。  
双方は、この地域の関係各国の間に、相互の信頼に基づく協力関係が構築されることの重要性を確認するとともに、この地域の関係国間の関係が正常化されるにつれ、地域の信頼醸成を図るための枠組みを整備していくことが重要であるとの認識を一にした。  
双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した。また、双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。  
朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明した。  
双方は、安全保障にかかわる問題について協議を行っていくこととした。  
日本国 総理大臣 小泉純一郎  
朝鮮民主主義人民共和国 国防委員会 委員長 金正日  
2003年8月15日 - 小泉純一郎首相

 

(全国戦没者追悼式 内閣総理大臣式辞)  
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者御遺族及び各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し式辞を申し述べます。  
先の大戦が終わりを告げてから、58年の歳月が過ぎ去りました。苛烈を極めた戦いの中で、300万余の方々が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは戦後、遠い異郷の地に亡くなりました。私たちは、現在享受している平和と繁栄が、戦争によって心ならずも命を落とした方々の犠牲の上に築かれていることを、ひとときも忘れることはできません。戦没者の方々の御冥福を心からお祈り申し上げるとともに、衷心より敬意と感謝の誠を捧げます。  
また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに深い反省の念を新たにし、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。  
我が国は、戦後、平和を国是として、国民のたゆまぬ努力により、幾多の困難を乗り越え、平和で豊かな日本へ、めざましい発展を遂げてまいりました。  
私は、過去を謙虚に振り返り、二度と戦争を起こしてはならないという不戦の誓いを堅持するとともに、我が国が、世界各国との友好関係を一層発展させ、国際社会の一員として、世界の恒久平和の確立に積極的に貢献するよう全力を尽くしてまいります。  
終わりに、戦没者御遺族の今なお変わることのない深い苦しみ、悲しみに思いを致すとともに、皆様の今後の御多幸を心からお祈り申し上げます。 
2004年 
 
謝罪の歴史9 2005〜2009

 

2005年4月22日 - 小泉純一郎首相  
(アジア・アフリカ首脳会議における小泉総理大臣スピーチ)  
議長、御列席の皆様、半世紀ぶりに、アジアとアフリカの諸国が一堂に集うこの歴史的会議に出席することはこの上ない光栄であり、会議を主催頂いたインドネシア及び南アフリカの両共同議長に深甚なる謝意を表します。私は、この50年間我々を結びつけてきた強い絆を改めて実感し、我々が共に歩んできた道を振り返るとともに、21世紀においてアジアとアフリカの国々が世界の人々の安寧と繁栄のために何をなすべきか率直に議論するために、この会議に出席しました。  
(過去50年の歩み)  
50年前、バンドンに集まったアジア・アフリカ諸国の前で、我が国は、平和国家として、国家発展に努める決意を表明しましたが、現在も、この50年前の志にいささかの揺るぎもありません。  
我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。今後とも、世界の国々との信頼関係を大切にして、世界の平和と繁栄に貢献していく決意であることを、改めて表明します。
 
(アジア、アフリカ支援の実績)  
議長、過去50年の我が国の発展は、日本国民の不屈の努力の賜でありますが、国際社会の支援があって初めて実現できたものです。日本はこのことを忘れません。戦後の荒廃から立ち上がった国民とその世代の代表として、私は生活の向上へ向け、額に汗をし懸命に働こうとするアジア・アフリカの人々と共に歩んでいきたいと思います。  
我が国は、こうした考えに立って、アジア・アフリカ地域の開発のために人づくりやインフラ整備、水・感染症対策といった保健衛生分野の支援に力を入れるとともに、貿易・投資環境の改善に努めてまいりました。  
(将来に向けての平和的な国際協力の遂行への決意)  
本日、私は、今後我々が手を携えて進めるべき3点、すなわち、第一に経済開発、第二に平和の構築、第三に国際協調の推進に絞って発言します。  
我が国は、貧困との闘いや開発におけるパートナーシップの強化を重視します。国造りのためには、自らの意思と努力により発展を実現しようとする各国自身の決意が何よりも重要です。我が国はこのような努力を尊重し、支援します。ミレニアム開発目標(MDGs)に寄与するためODAの対GNI比0.7%目標の達成に向け引き続き努力する観点から、我が国にふさわしい十分なODAの水準を確保していきます。また、後発開発途上国の自立を支援するため貿易面でも、これらの途上国産品に対する市場アクセスの拡大に努めます。  
アジアは過去50年、大きく前進しました。しかし、開発格差の是正、経済連携の推進、先のスマトラ沖大地震及びそれに伴う津波の経験に基づく防災対策、海賊対策など、重要な課題が山積しています。具体的施策を打ち出し、アジアにおける新たなパートナーシップを構築していく考えです。防災・災害復興対策については、アジア・アフリカ地域を中心として今後五年間で25億ドル以上の支援を行います。  
本年は「アフリカの年」です。我が国は、これまでTICADを通じて、アフリカと国際社会の連帯による対アフリカ協力を進めてまいりました。この場を借りて、2008年にTICAD IVを開催すること、今後3年間でアフリカ向けODAを倍増し、引き続きその中心を贈与(grant aid)とする考えであることを表明します。  
この場に最もふさわしいテーマは、アジアとアフリカの間の協力強化です。我が国は、そのため、アジアの若者がアフリカの青年と出会い、交流し、未来に向けた人づくりを推進するアジア青年海外協力隊の創設を提案します。また官民を挙げてアジアの生産性運動の知見をアフリカに活かすための支援を実施します。こうした取組を通じて、今後4年間でアフリカにおいて1万人の人材育成への支援を行うことを表明します。  
第二に、平和の構築が重要と考えます。平和と安定こそが経済発展の不可欠な基盤です。我が国は、これまで大量破壊兵器等の拡散やテロの防止に力を注ぐとともに、カンボジアや東チモール、アフガニスタン等において平和の構築のために努力してまいりました。今後、中東和平推進のためのパレスチナ支援や、平和に向けてダイナミックな動きを示しているアフリカに積極的な支援を行ってまいります。無秩序な兵器の取引の防止、法の支配や自由、民主主義といった普遍的価値の普及は我々すべてが積極的役割を果たすべき課題です。  
第三に、我が国は、グローバリゼーションを迎えた世界が新しい国際秩序を模索する中、我々アジアとアフリカとの一層の連帯を図りつつ国際協調を更に進めていく考えです。国連は引き続き国際協調の中心的役割を果たすべきですが、今日世界が直面する諸問題に効果的に対処するためには、国連、特に安保理を今日の現実を反映した組織に改革することが必要です。アナン国連事務総長が提案しているように、九月までに安保理改革について決定を行うため協力します。  
(文明間の対話)  
アジアとアフリカの連携を強化する上では、文明間・文化間、そして人と人との対話によって経験と知見を共有することが何より大切となります。我が国は、伝統を維持しつつ近代化に取り組む各国の経験を共有すべく、七月に世界文明フォーラムを開催します。  
(結び)  
議長、昨年のノーベル平和賞はアフリカの女性として初めてケニアのマータイ女史が受賞しました。植林活動を通じて持続可能な開発に貢献したことが評価されたのです。マータイ女史は、現在日本で自然の「叡智」をテーマに開催されている愛・地球博の開会式にも出席され、日本語の「もったいない」という言葉を引用して、資源の有効利用と環境保全の重要性を訴えられました。物を大切に使おう、使える物は出来るだけ使っていこう、再使用しようという「もったいない」の精神を理解してくれたのです。アジアとアフリカは豊かな自然に恵まれ、大きな可能性を有しています。科学技術の進展によって、環境保全と持続的発展が両立する活気のある力強い社会を創り出すことは可能と信じます。我が国は、そのための努力を惜しまない決意をここに表明し、結びの言葉と致します。御静聴ありがとうございました。 
2005年8月15日 - 小泉純一郎首相

 

(内閣総理大臣談話)  
私は、終戦六十年を迎えるに当たり、改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し、二度と我が国が戦争への道を歩んではならないとの決意を新たにするものであります。  
先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷の地に亡くなられています。  
また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。  
戦後我が国は、国民の不断の努力と多くの国々の支援により廃墟から立ち上がり、サンフランシスコ平和条約を受け入れて国際社会への復帰の第一歩を踏み出しました。いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を貫き、ODAや国連平和維持活動などを通じて世界の平和と繁栄のため物的・人的両面から積極的に貢献してまいりました。  
我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。  
我が国にあっては、戦後生まれの世代が人口の七割を超えています。日本国民はひとしく、自らの体験や平和を志向する教育を通じて、国際平和を心から希求しています。今世界各地で青年海外協力隊などの多くの日本人が平和と人道支援のために活躍し、現地の人々から信頼と高い評価を受けています。また、アジア諸国との間でもかつてないほど経済、文化等幅広い分野での交流が深まっています。とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。  
国際社会は今、途上国の開発や貧困の克服、地球環境の保全、大量破壊兵器不拡散、テロの防止・根絶などかつては想像もできなかったような複雑かつ困難な課題に直面しています。我が国は、世界平和に貢献するために、不戦の誓いを堅持し、唯一の被爆国としての体験や戦後六十年の歩みを踏まえ、国際社会の責任ある一員としての役割を積極的に果たしていく考えです。  
戦後六十年という節目のこの年に、平和を愛する我が国は、志を同じくするすべての国々とともに人類全体の平和と繁栄を実現するため全力を尽くすことを改めて表明いたします。
2006年
2007年4月28日 - 安倍晋三首相

 

「慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した。」(日米首脳会談後の記者会見にて)
2008年 
2009年 
 
謝罪の歴史10 2010〜2014

 

2010年8月10日 - 菅直人首相  
(内閣総理大臣談話)  
本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。  
私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
 
このような認識の下、これからの百年を見据え、未来志向の日韓関係を構築していきます。また、これまで行ってきたいわゆる在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を今後とも誠実に実施していきます。さらに、日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くこれらをお渡ししたいと思います。  
日本と韓国は、二千年来の活発な文化の交流や人の往来を通じ、世界に誇る素晴らしい文化と伝統を深く共有しています。さらに、今日の両国の交流は極めて重層的かつ広範多岐にわたり、両国の国民が互いに抱く親近感と友情はかつてないほど強くなっております。また、両国の経済関係や人的交流の規模は国交正常化以来飛躍的に拡大し、互いに切磋琢磨しながら、その結び付きは極めて強固なものとなっています。  
日韓両国は、今この二十一世紀において、民主主義や自由、市場経済といった価値を共有する最も重要で緊密な隣国同士となっています。それは、二国間関係にとどまらず、将来の東アジア共同体の構築をも念頭に置いたこの地域の平和と安定、世界経済の成長と発展、そして、核軍縮や気候変動、貧困や平和構築といった地球規模の課題まで、幅広く地域と世界の平和と繁栄のために協力してリーダーシップを発揮するパートナーの関係です。  
私は、この大きな歴史の節目に、日韓両国の絆がより深く、より固いものとなることを強く希求するとともに、両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意を表明いたします。 
日本の謝罪外交を米国人学者が「不毛」と指摘 2010/8/25  
菅直人首相が韓国に対して謝罪した。日本が朝鮮半島を併合した過去を「悪」として謝ったのである。8月11日のことだった。だが、その余波はなお広がっている。  
「植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、改めて痛切な反省と心からのおわびを表明する」  
日本の総理が謝罪するということは、日本という国家が謝罪したことになる。さらには日本国民が韓国に謝ったことにもなる。  
だが、今の日本国民がなぜ日韓併合の責任を問われるのだろう。そもそも日本の朝鮮半島の領有は、当時の国際的な条約や規範に沿って実行されたものだ。  
正当な国際取り決めとして当時の世界で認められたのである。それを今になって「不当」と見なし、「罪悪」と断じて「おわび」をする。不可思議なことである。  
戦争に関して対外的に謝罪することは「危険」  
この菅首相の謝罪のように、国家が他の国家や国民に対し「謝る」という行為は国際的に見るとどう映るのだろうか。米国ではどう認識されているのか。  
首都ワシントンでは、今もなお日本の戦争行為の各部分をとらえて糾弾し、「日本は反省をしていない」「日本はまだ謝罪を十分にしていない」と詰問する向きもある。  
しかし「日本はもう謝罪をすべきではない」とする意見も確実に存在する。日本の謝罪に反対する識者たちが米国にいるという現実は、日本側でも認知されてしかるべきだろう。  
2009年5月には、大手外交政策雑誌「フォーリン・アフェアーズ」に「謝罪の危険」という論文が発表された。同論文は日本に対し、戦争に関して対外的に謝罪をすることはもう止めるよう訴えていた。タイトルから明白なように、謝罪は危険だというのだった。  
筆者はダートマス大学助教授のジェニファー・リンド氏、日本と朝鮮半島の歴史や安保を専門とし、2004年に博士号を取得した新進の女性学者である。その論文の主要なポイントは以下のようなものだった。  
「日本が戦争での非道な行為をこれからも対外的に謝罪することは非生産的であり、止めるべきだ。まず謝罪は日本国内でナショナリストの反発を招き、国民の分裂をもたらす」  
「日本の総理の再度の公式謝罪声明や国家決議による謝罪というジェスチャーは、日本国民同士の衝突や分裂を招くため、避けるべきだ。その代わりに日本政府も指導層も、戦前、戦時に日本がアジア各地で不当な弾圧や残虐を働いたことを認め、反省せねばならない」  
リンド氏の主張には日本側からの反論もあろう。日本の首相のたびたびの謝罪に反発するのは、単に「日本国内のナショナリスト」だけなのか。「アジア各地での不当な弾圧や残虐」といちがいに断じられるのか。  
韓国、中国はなぜ謝罪を求め続けるのか  
リンド論文はさらに次のように述べていた。  
「日本はその上で戦後の目覚ましい復興、民主主義の活力ある確立、経済と技術の世界最高水準の発展を対外的に誇示すべきだ。現在と未来の平和的、民主的な役割を他の諸国に対して強調すべきだ」  
日本は過去ではなく、現在や未来を世界に向かって示すべきだというのである。  
この部分の主張に異存のある日本人は少ないだろう。その上でリンド氏は歴史問題の和解では一方に謝罪があれば、他方に謝罪を受け入れる前向きな対応がなければ意味がないと指摘していた。  
「韓国の指導層は自らの統治の正統性を示すために日本を叩く必要はもうない。中国共産党も自らの統治の正統性を支えるために国内の反日感情をあおってきたことは知られており、国民の日本嫌悪は本来それほど強いわけではないのだ」  
要するに韓国も中国も日本の態度にかかわらず、自国の政権の統治が正しいのだということを自国民に誇示するために、日本を非難し、謝罪を求めてきたという構図を指摘しているのだ。  
だから、そんな自国の政治事情からの日本への謝罪要求に日本側が何度も何度も謝ることは、不毛だという意味である。  
米国も英国もフランスも植民地支配の謝罪はしない  
日本の謝罪の不毛については、実は米国の別の学者も1冊の学術書で説いていた。ミシガン州のオークランド大学講師で日本研究学者のジェーン・ヤマザキ氏が2006年に出版した『第二次世界大戦への日本の謝罪』と題する書である。  
ヤマザキ氏は日本現代史研究で博士号を得た女性学者で、日本での研究や留学の体験も長い。日系ではない欧州系米国人だが、日系人と結婚したため、ヤマザキという名になったのだという。  
ヤマザキ氏は同書でまず一般論として「主権国家が過去の自国の間違いや悪事を認め、対外的に謝ることは国際的には極めて稀だ」と述べる。  
国家が過去の好ましくない行動を謝罪しない実例として、「米国による奴隷制やインディアンの文化破壊、フィリピンの植民地統治、英国によるアヘン戦争、インド、ビルマの植民地支配」などを挙げていた。  
そして「現代世界では国家は謝罪しないのが普通であり、過去の過誤を正当化し、道義上の欠陥も認めないのが一般的だ」と記していた。  
確かにフランスがベトナムやカンボジアを植民地にしたことに「おわび」を表明したという話は聞いたことがない。同様にオランダがインドネシアを植民地支配したことへの公式謝罪というのもないのだ。  
またヤマザキ氏は、もし国家が自国の過去の行為を謝罪すれば、次のような弊害が起きるとも論じるのだった。  
「過去の行動への謝罪は国際的にその国の道義的な立場を低くし、自己卑下となる」  
「国家謝罪はその国の現在の国民の自国への誇りを傷つける」  
「国家謝罪はもう自己を弁護できないその国の先人と未来の世代の両方の名声を傷つける」  
日本の謝罪外交は「失敗」である  
ヤマザキ氏は特に日本の謝罪を1965年の日韓国交正常化にまでさかのぼって詳細に紹介し、その総括を「不毛」とか「失敗」だと特徴づけていた。日本の謝罪外交の決算は失敗だというのである。  
その理由は次のように記されていた。  
「日本は首相レベルで中国や韓国に何度も謝罪を表明してきた。だが、歴史に関する中韓両国との関係は基本的に改善されていない。国際的にも『日本は十分には謝罪していない』という指摘がなお多い。これらの現状が、日本の謝罪が失敗だったことの例証となる」  
こうなると、ひたすら「おわび」を繰り返してきた菅首相はじめ日本の歴代首相は哀れである。いくら謝罪をしても、その効用が何もないからだ。その理由の大きな部分についてヤマザキ氏は以下のように総括していた。  
「謝罪が成功し、効果を生むためには、謝罪の相手がそれを受け入れる用意があることが不可欠だ。だが、韓国や中国にはその意思はなく、歴史問題で日本と和解する気がないと言える」  
だから日本の首相の「おわび」はただ虚しく自虐の暗渠に消えていく、ということなのだろう。 
2011年 
2012年
「和解」を困難にする「謝罪外交」は見直す時期ではないのか? 2012/8/20  
どうして中国や韓国の世論は、日本に対して領土ナショナリズムによる攻勢をかけてくるのでしょうか? それは、中国側から見た日本、韓国から見た日本というのは他の二国間関係とは異なり、第2次世界大戦の終結以降も、正常な関係が持てていないからです。  
正常でないというのは、日本が常に謝罪要求の対象だということです。これは、二国間関係としては異常です。では、どうして日本と周辺国との間には、こうした異常な関係が続いているのでしょうか?  
まず、中国と韓国は、日本の「国体=国のかたち」が戦前戦後を通じて一貫していると考えています。戦前の国体が「護持される」ということが、戦争終結の条件として連合国に認められた以上、国体の一貫性は明白であり、したがって現在の日本の国体は過去の責任を継承しており、すなわち謝罪の主体となるという考え方です。  
これに対して、日本の世論の半分は同調していると言っていいでしょう。「日本国は周辺国に対して永遠に謝罪を続けるべき」だと考えており、それが倫理的に正当だと考えているのです。一歩引いて考えると、日本国の国民が日本国の名誉を貶めて日本国が謝罪に追い込まれることが正義と考えているように見えます。自虐史観とか、反日的という批判がされるのも分からないではありません。  
ですが、こうした考え方を持つ人は大真面目なのです。自分たちは国家に裏切られて倫理的敗者の汚名を着せられたので、二度と国家を信じず、国家が悪行をせぬよう、また過去への謝罪を履行するよう監視すべきと考えているのです。つまり、最後の世界大戦に敗北したまま国体が護持されたという偶然を利用して、国家性悪説を前提とした心情的な無政府論とでも言うべき「理想主義の実験」を行なっているというわけです。  
この「個人が国家に優越する」という思想は、同時に「国家に依存する人間を蔑視する」という尊大な姿勢を伴っていますが、敗戦というのは精神的にも物理的にも、それだけ巨大な喪失であり、その喪失感の反映としてそのような稀有な思想が長期にわたって多数派となっていたという事実を軽々に否定はできないと思います。  
残りの半分は、日本国が永遠の謝罪者であれという立場には強く反発しています。直接の動機は自然なもので、「現代の世代が過去の問題に対して謝罪する必要はない」という直感的なものに発しています。ですが、これに続く思考回路に問題があるのです。  
それは「第2次大戦の敗戦により国を失う結果となった戦前の歴史は国際情勢の被害者として不可避であった」という史観を抱えていることです。この史観の延長上には「日韓併合と独立運動への弾圧」や「南京入城時の非戦闘員殺害」などの個別の問題について、一つ一つ事実関係に別の視点を持ち込んで過去に遡って名誉回復を図ろうという態度が伴っています。  
この考え方は、日本を一歩外に出れば国際社会では孤立するだけです。ですが、国体が一貫しているという立場からは、現在形の謝罪を拒否するためには過去の事件について一つ一つ正当化が必要になる、これは論理的にも心情的にも自然な流れではあります。まして「謝罪を拒否すると現在形での断罪が突きつけられる」という中では、それを理不尽だと思う反骨心が事実関係の再評価への一方的な情熱に向かうのも仕方がないわけです。  
私はこの3つの考え方のいずれも修正が必要と思います。こうした三つ巴の関係があるかぎり、日本は周辺国とは永遠に和解できないからです。何故かというと、日本の両極端の立場が、周辺国の謝罪要求を反対方向から煽る構造から脱せないからです。  
ところで、この3つの考え方には共通点があります。それは、「日本の国体=国のかたち」が戦前戦後を通じて「護持」された結果「不変である」という前提に立っているということです。  
その結果として、周辺国は「現在の日本は過去の責任を継承している」と信じて疑わず、日本の左派は「戦前の国体が護持された以上は日本国は永遠の謝罪者であるべき」という考えにとらわれ、右派は「戦前の国体と現在の国体が一貫しているのだから、現在の国の名誉を確保するためには戦前の歴史も肯定しなければならない」という考え方に囚われているわけです。  
私は発想を転換して、この考えを捨ててはどうかと考えます。つまり戦前には様々な国家レベルの判断ミスを重ねて「国体は傷ついた」ものの、戦後日本の官民挙げた努力の結果、全方位外交の平和国家としての実績を70年近く積み上げて、今は日本の「国体は修復されている」と考えてはどうかと思うのです。  
言い換えれば、現代の日本人の世代は、世代から世代へと国体を修復してゆく努力を継承し、修復された「日本国」という「国体=国のかたち」を基礎として国家としての統合を果たしているわけです。  
そのように考えれば、現代の日本人は、戦争や侵略や植民地化の行動に関しては「現代における周辺国への謝罪者となる必要はない」のです。つまり、今の世代は「生まれながらにして、永遠の謝罪を義務付けられた悪玉国家」に生まれたのでもなければ、「謝罪要求に反発するついでに、戦前の歴史についてまで無理に正当化をしなくてはならない」と思い詰める必要もないのです。  
勿論、民族を意識した個人としてといった私的なステイタスでは、自然な罪障感ということはあって良いのです。日本人であれば真珠湾なり、南京というような場所では恭順の表情で振舞わねばならないという個人的な義務感は当然であり、継承の努力もされるべきとすら思います。ですが、国家として、現在の国民の生存権を保護し、法治を行い、領土を保全する法人格として公的な謝罪者である義務はないのです。  
では、謝罪する義務がないのであれば、国家として何もしなくてもいいのでしょうか? そんなことはありません。余りにも巨大な戦争の犠牲に関しては、メリハリの利いた和解の儀式が何としても必要です。そのためには「共同での追悼」という行動がふさわしいと思います。現在の日本人が現在の中国人や韓国人に対して謝罪する代わりに、静かに日中、日韓での共同の追悼の儀式を行えば良いのです。  
追悼と謝罪の違いは単純です。追悼というのは過去の膨大な犠牲に対して、時空を越えてストレートに誠意を捧げる行為です。一方で、謝罪というのは当事者間で行うべきものであり、中国や韓国の現在の世代はこれを受け取る権利はなく、現代の日本人はこれを捧げる義務はありません。過去の悪しき行動のパターンや悪しき価値観を残すことで、現在も具体的な脅威を与えているのであれば別ですが、国体が修復された以上、そんな懸念は自他ともに不要です。  
ちなみに、国体が修復されたというロジックであれば「第2次大戦の懲罰として北方領土の占領は正当化できる」というロシアの論理にも対抗できると考えられます。  
いずれにしても、国家として戦前の行動の責任を継承し、無関係な世代に永遠の謝罪者であれと強制する不自然からは解放されるべきです。政権が謝罪を強要される中で、外交交渉上の心理戦に引きずられることも止めるべきです。そうでなくては、対等で安定的な現在形での2国間関係は不可能です。謝罪外交は一刻も早く修正されるべきと思います。 
2013年
2013年1月3日 - 安倍首相 
「勝てば官軍」早くも「脱原発」「原発ゼロ」無力化「卒原発」死語化  
安倍晋三首相が就任してまだ、1週間にもならないというのに、「脱原発」「原発ゼロ」という言葉が、早くも無力化、日本未来の党の嘉田由紀子代表(滋賀県知事)が発明したかと思われる「卒原発」は、すでに死語化してきている感がある。マスメディアの批判はもっと手厳しい。これらの言葉を「言葉遊びだった」とこき下ろしている始末だ。「脱とかゼロとか言っても、いつまでに実現するのか、工程がはっきりしない」というのが、最大の理由だ。ドイツが、メルケル首相の下で、「2022年原発ゼロ」の大方針を定めて、実現に向けて全力を上げている実例には、一切耳を傾けないという状況である。そのドイツは、日本の福島第1原発大事故が起こる前までは、「2033年原発ゼロ」の方針で計画を進めていた。これは、旧ソ連のチェルノブイリ原発大事故の際、欧州大陸に放射能や放射性物質が飛散してきた経験から、自国の原発をゼロにしようと決心した。  
ところが、日本の福島第1原発大事故の報を聞いて、恐怖感を強めて、「原発ゼロ」の実現目標を10年前倒ししたのである。  
10月16日から20日の日程でドイツを訪問して、このドイツが行っている「2022年原発ゼロ」の実施状況を視察した小沢一郎元代表の「視察団」は、ドイツが全政党一致したこの計画に取り組んでいるのを聞いて、感心したという。これに反して、日本の国会では、「国民の生活が第一」しか、「原発ゼロ」を決めていないと聞き知ったドイツの人々が、大変ビックリしていたという。さすがに、これには、小沢一郎元代表も、二の句がツケげなかったらしい。  
それからわずか2か月の間に、総選挙があり、原発推進に熱心な自民党が大圧勝し、「脱原発」「原発ゼロ」を訴える抗議の声を無力化、あるいは、死滅化してしまったのである。  
いまや原発推進派は、官軍であり、「脱原発」「原発ゼロ」派は、賊軍である。どちらが、盛儀なのか。それは、言うに及ばす、勝った方が、正義である。正義の「正」という文字は、「一」と「止」という文字の組み合わせで成り立っているけれど、「一」は、「都市国家の城壁」を表わし、「止」は、外敵が進軍してくる様子を表わしている。「止」は、「止まる」とは読まず「進む」と読む。従って、「正」は、外敵に侵略されて、侵略した外敵の勝利したるけれど、「一」は、「都市国家の城壁」を表わし、「止」は、外敵が進軍してくる様子を表わしている。「止」は、「止まる」とは読まず「進む」と読む。従って、「正」は、外敵に侵略されて、侵略した外敵の勝利した姿を示している。  
負けた側は、いかに百万語を費やして、正当性を訴えようとも、勝利者からは、まったく相手にされない。  
総選挙後の日本のいまの様子は、「原発推進派」が勝利しているので、「脱原発」「原発ゼロ」派の言説は、敗軍の言葉として説得力を持たない。いま発言力を持っているのは。自民党、読売新聞、産経新聞、夕刊フジなどの原発寿推進派である。  
その読売新聞が12月31日付け朝刊が「1面」で「首相、原発推進を明言 事故原因究明の上で」という見出しをつけて、安倍晋三首相が、本格的に原発新設を進めていく決意をしたことを報じている。これは、丸で誇らしげな「勝利宣言」である。  
しかし、可愛そうなのは、福島第1原発大事故の被災地から避難している人々である。  
住み慣れた故郷に帰れない現実を認めて、諦めざるを得なくなった人々が、故郷に「中間貯蔵施設」が建設されるのを仕方なく認めようとしているのだ。  
朝日新聞12月31日付け朝刊「1面」で「中間貯蔵施設の調査候補地住民 7割『建設計画に理解』 本社アンケート305人回答」という見出しをつけて、報じている。  
しかし、原発推進を続けていると、また再び福島第1原発のような大事故が、絶対に起こらないという保証はない。万が一、大事故が起きた場合、政治家はもちろん、原発推進を煽り立ててきた読売新聞はじめマスメディアは、責任を取れるのであろうか。あるいは、責任を取る覚悟はあるのであろうか。 
安倍首相の東南アジア訪問で示された日本外交の新5原則 2013/1/23  
安倍首相の東南アジア歴訪  
1月16〜18日、安倍晋三首相は、最初の外遊先として、ベトナム、タイ、インドネシアを歴訪した。  
ベトナムではグエン・タン・ズン首相と会談、原発建設計画や高速道路などのインフラ整備、レアアース開発などの貿易投資で協力を進展させることを合意するとともに、尖閣諸島問題、南シナ海の領有権問題で圧力を強める中国を念頭に「全ての地域の紛争と問題を、国際法の基礎に基づき平和的交渉を通じて解決すべきだ」という点で一致した。そして南シナ海問題では「力による現状の変更に反対する」との認識を共有するとともに、政治・安全保障分野でも協力を進めることを確認した。安倍首相はまた、「日中関係は日本にとって最も重要な2国間関係のひとつだ。引き続き冷静に対応し、中国との意思疎通を維持・強化して、関係をしっかりマネジメントしていく」と述べた。  
安倍首相は翌17日にはタイのインラック・チナワット首相と会談した。インラック首相は共同記者会見で、安倍首相がタイの治水事業、高速鉄道計画、ミャンマーのダウェイ経済特区開発といったインフラ事業への日本企業の参入に関心を示したと述べ、ダウェイについて、タイ、ミャンマー、日本の3カ国で近いうちにハイレベルの協議を行うべきだとした。  
安倍首相はさらに18日にはインドネシアでスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領と会談を行った。安倍首相は共同記者会見で、東南アジア諸国連合(ASEAN)との関係を日本外交の「最も重要な基軸」と確認するとともに、「日本外交の新たな5原則」について述べた。これは日本のASEAN外交、さらには東アジア外交の原則として非常に重要であるため、以下、少し長くなるが、当初予定されていた安倍首相による演説の原稿から引用しておきたい。(演説は、アルジェリア人質事件により、安倍首相が急きょ日本に帰国したため、実現しなかった。)  
日本外交の新たな5原則  
「第1に、2つの海(編注=太平洋とインド洋)が結び合うこの地において、思想、表現、言論の自由――人類が獲得した普遍的価値は、十全に幸(さき)わわねばなりません。  
第2に、わたくしたちにとって最も大切なコモンズである海は、力によってでなく、法と、ルールの支配するところでなくてはなりません。わたくしは、いま、これらを進めるうえで、アジアと太平洋に重心を移しつつある米国を、大いに歓迎したいと思います。  
第3に、日本外交は、自由でオープンな、互いに結び合った経済を求めなければなりません。交易と投資、ひとや、ものの流れにおいて、わたくしたちの経済はよりよくつながり合うことによって、ネットワークの力を獲得していく必要があります。メコンにおける南部経済回廊の建設など、アジアにおける連結性を高めんとして日本が続けてきた努力と貢献は、いまや、そのみのりを得る時期を迎えています。(中略)  
第4に、わたくしは、日本とみなさんのあいだに、文化のつながりがいっそうの充実をみるよう努めてまいります。  
そして第5が、未来をになう世代の交流を促すことです。(中略)  
いまから36年前、当時の福田赳夫総理は、ASEANに3つの約束をしました。日本は軍事大国にならない。ASEANと、『心と心の触れ合う』関係をつくる。そして日本とASEANは、対等なパートナーになるという、3つの原則です。  
ご列席のみなさんは、わたくしの国が、この『福田ドクトリン』を忠実に信奉し、今日まできたことを誰よりもよくご存知です。いまや、日本とASEANは、文字通り対等なパートナーとして、手を携えあって世界へ向かい、ともに善をなすときに至りました。大きな海で世界中とつながる日本とASEANは、わたくしたちの世界が、自由で、オープンで、力でなく、法の統(す)べるところとなるよう、ともに働かなくてはならないと信じます」  
ASEAN、オーストラリアとの連携を重視  
念のために確認しておけば、安倍首相の東南アジア歴訪に先立ち、1月3日には麻生太郎副総理がミャンマーを訪問し、テイン・セイン大統領と会談して、ミャンマーの対日債務5000億円の一部を放棄する意向をあらためて示すとともに、ティラワ経済特区開発支援の意思を確認した。  
また、1月9〜14日には、岸田文雄外相がフィリピン、シンガポール、ブルネイ、オーストラリアを訪問した。岸田外相は、1月10日付のフィリピン地元紙への寄稿で「ASEANとの関係強化を重視する」と述べるとともに、フィリピンとの連携強化の重要性を強調、海洋安全保障分野において「支援と協力は惜しまない」と表明した。また、ブルネイでは、同国が2013年のASEAN議長国であることから、「ブルネイが議長国の責任を果たし、成果につながるよう日本も努めたい」と述べた。さらに13日には、オーストラリアでボブ・カー外相と会談し、安全保障分野などにおける関係強化を確認するとともに、日豪経済連携協定(EPA)交渉の早期妥結を目指すことで合意した。  
つまり、まとめて言えば、安倍政権は、政権発足1カ月以内に、総理、副総理、外相がASEAN加盟10カ国中7カ国(ベトナム、タイ、インドネシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、ブルネイ)とオーストラリアを訪問し、日本が、日米同盟と並んで、ASEAN、オーストラリアとの連携を重視していることを行動で示すとともに、外交の原則を明らかにした。近年、特に3年余りの民主党政権下、日本外交が漂流していただけに、これは重要であり、大いに歓迎である。  
「中国封じ込め」の見方はピント外れ  
今回の安倍首相の東南アジア歴訪について、韓国の『東亜日報』、中国の『人民日報』などは、これは、中国を「封じ込め」、中国包囲網を強化する試みだ、と報じている。しかし、このような「力の政治」の「色眼鏡」で21世紀の東アジアの国際関係と日本のアジア外交を理解しようとするのは、ピント外れも甚だしい。中国がこれほど世界経済に統合され、中国が、日本も含め東アジア/アジア太平洋の多くの国々の主要貿易パートナーとなっている現在、中国「封じ込め」などできるわけがないし、誰の利益にもならない。いま東アジア/アジア太平洋の課題となっているのはそういうことではない。  
中国、インド、ブラジル、インドネシア、トルコなどの「新興国」の経済成長によって、世界的にも、東アジア/アジア太平洋においても、富と力の分布は急速に変化しつつある。特に中国の台頭は目覚ましい。では、こういう富と力の分布の急速な変化に応じて、世界的に、また東アジア/アジア太平洋において、どのような政治経済秩序を、どのような原則の下、いかに作っていくか。それが現在の課題である。  
中国が台頭したからといって、中国が東アジアの盟主となり、周辺諸国は政権交代のたびに特使を中国に派遣し、その祝福を求めるようなことは、ほとんどの国は望まないだろう。まして、東アジアにおけるルール作りにおいて、中国が一方的にルールを決め、周辺諸国はそれをただ受け入れるとか、中国と周辺諸国の領土問題やその他の紛争において、中国が力によってその意思を周辺諸国に押し付けてそれで良いということにはならない。  
法の支配の原則の下、国際法と整合的な形で、当事者全ての合意の上にルールを作り、ルールができれば、全ての当事者はそのルールを順守する、これはごく当たり前のことである。国際公共財としての海洋における法とルールの支配の確立、そしてASEAN加盟国間の連結強化によって、ASEANの国々がいかなる国の勢力圏にも囲い込まれることなく、世界に開かれた形で発展するのが望ましいこと、これも当たり前のことである。  
21世紀の東アジア/アジア太平洋の秩序づくりのため、日本はこうした原則にのっとり、日米同盟を基軸としつつ、地域協力のハブとしてASEANを重視し、その統一性を支持するとともに、ASEANの国々、さらにはオーストラリアなどのパートナーの国々と協力していく。そして中国が国際的に責任ある役割を果たすよう、中国に関与していく。それが、今回の安倍首相らの東南アジア訪問で示された日本外交の方針である。 
NYタイムズのための「慰安婦問題」入門  
年頭からNYタイムズが取り上げた慰安婦問題  
今年の1月2日、ニューヨークタイムズ(電子版)は「日本の歴史を否定する新たな試み」という社説を出した。新年早々、アメリカとはほとんど関係のない日韓関係についてNYタイムズがコメントするのも奇妙だが、そのトーンは次のように日本の新聞にも見られない強いものだ。  
日本の新しい首相、安倍晋三は、日韓の緊張を高めて協力を困難にする間違いを犯そうとしているように見える。彼は第二次大戦についての日本の謝罪を修正しようと試みる兆しを見せているのだ。そこには韓国などの女性を性奴隷に使ったことも含まれる。(中略)  
1993年に日本は、ようやく日本軍が数千人のアジアやヨーロッパの女性を強姦して奴隷にしたことを認め、そうした残虐行為を初めて正式に謝罪した。犯罪を否定したり謝罪を薄めたりするどんな試みも、太平洋戦争で日本の圧政下に置かれた韓国や中国やフィリピンの人々を怒らせるだろう。(中略) 安倍氏の恥ずべき衝動は、北朝鮮の核兵器についての東アジアの重要な協力を阻害する可能性がある。そうした歴史修正主義による過去の漂白は、長期的な経済低迷の脱却に専念すべき日本にとって邪魔になるだろう。   
国内には、もう慰安婦の強制連行を問題にするメディアはほとんどない。この発端となった朝日新聞でさえ、社説でも1993年の(慰安婦問題について謝罪した)河野談話の見直しは「枝を見て幹を見ない態度だ」という表現で、強制連行が行なわれたという報道を事実上撤回している。  
そんな中で、なぜかアメリカでは日本政府に謝罪を求める決議案がニューヨーク州議会に提出されるなど、慰安婦が執拗に取り上げられている。そのほとんどは「20世紀最大の人身売買」などという荒唐無稽なものだが、NYタイムズまで「軍が強姦して性奴隷にした」などというのは困ったものだ。  
慰安婦問題については韓国人を説得することは不可能なので、アメリカが重要な役割を担っている。本来は彼らが日韓の橋渡しをしてくれればいいのだが、国務省は「今さらこの問題を蒸し返して河野談話を見直すと日韓問題がこじれる」という見解だ。NYタイムズの社説も、こういうアメリカ政府の方針を反映したものだろう。  
これは政治的には妥当な判断かもしれない。この問題で韓国の誤解を解くことは不可能だと思うが、せめて欧米人には事実を理解してほしい。だから遠回りではあるが、欧米メディアの誤解している(というより根本的に知らない)事実関係をおさらいしておこう。  
詐話師」の嘘から始まった慰安婦騒動  
日本軍が「慰安婦」を従軍させていたという都市伝説は古くからあったが、1965 年の日韓基本条約でも賠償の対象になっていない。「従軍慰安婦」という言葉も日本のルポライターの造語で、戦時中にそういう言葉が使われた事実もない。  
ところが1983 年に吉田清治という元陸軍兵士が『私の戦争犯罪』という本を出し、済州島で「慰安婦狩り」を行なって多数の女性を女子挺身隊として戦場に拉致した、と語った。これは「勇気ある証言」として多くのメディアに取り上げられたが、彼の話は場所や時間の記述が曖昧で、慰安婦狩りをどこで誰に行なったのかがはっきりしない。そこで済州島の地元紙が調査したところ、本の記述に該当する村はなく、日本軍が済州島に来たという事実さえ確認できなかった。  
吉田以外にはこういう証言をした人物はいないため、これは彼の捏造ではないかとの疑惑が出て、歴史学者の秦郁彦氏などが彼を問いただしたところ、吉田は1996 年に「フィクションだった」と認めた。常識的には、自分が犯罪を犯したと名乗り出る人がいるとは思えないが、戦争体験については誇大に「懺悔」することで注目を引き、本や講演で稼ごうとする「詐話師」がいるのだ。  
本来なら話はこれで終わりだが、吉田の話が韓国のメディアにも取り上げられたため、1990 年に韓国で「挺身隊問題対策協議会」という慰安婦について日本に賠償を求める組織ができた。これに呼応して高木健一氏や福島瑞穂氏などの弁護士が、日本政府に対する訴訟を起こそうとして原告を募集した。それに応募して出て来たのが、金学順だった。  
彼女は1991 年8 月に来日し、訴訟の原告として裁判を起こすとともにメディアにも登場し、伝説の存在だった「慰安婦」が初めて名乗り出たケースとして話題になった。私は当時、NHK 大阪放送局で終戦記念番組を制作していたが、そこに金を売り込んできたのが福島氏だった。  
金は「親に売られてキーセンになり、義父に連れられて日本軍の慰安所に行った」と証言し、軍票(軍の通貨)で支払われた給料が終戦で無価値になったので、日本政府に対してその損害賠償を求めたのだ。  
われわれは強制連行の実態を取材しようと、2 班にわかれて韓国ロケを行なった。私の班は男性で、もう一つの班が女性の慰安婦だった。現地で賠償運動をしている韓国人に案内してもらって、男女あわせて50 人ほどに取材したが、意外なことに1 人も「軍に引っ張られた」とか「強制的に働かされた」という人はいなかった。  
当時の朝鮮半島は日本の植民地だったが、賃金は内地の半分ぐらいで貧しかったため、本土に出稼ぎに行く人が多かった。そこに朝鮮人の「口入れ屋」がやってきて、炭鉱などの職を斡旋して手数料を稼いでいたのだ。  
その労働者を運ぶ船は、軍の船だった。慰安婦の場合も、慰安所の管理は軍がやっていることが多かった。だまされて「タコ部屋」から逃げられない事件も多かったが、監禁したのは業者である。もちろん好ましいことではないが、これは商行為であり、国家に責任はない。  
どう調べても強制という実態がないため、番組はインパクトの弱いものになった。慰安婦が初めて実名で名乗り出て来たことは話題を呼んだが、それは当時は合法だった公娼(公的に管理された娼婦)の物語に過ぎない。NHKは、この話を深追いしなかった。  
慰安婦の「強制連行」は朝日新聞の大誤報  
ところが朝日新聞は金学順が出て来たとき、「戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかった」という植村隆記者の「スクープ」を掲載した。  
続いて朝日新聞は、1992年1月の「慰安所 軍関与示す資料」という記事で日本軍の出した慰安所の管理についての通達を報じた。このとき慰安婦の説明として「女子挺身隊として軍に強制連行された」と書いたため、その直後に訪韓した宮沢喜一首相は韓国の盧泰愚大統領に謝罪した。  
しかしこの通達は「慰安婦を誘拐するな」と業者に命じたものだ。軍が慰安婦を拉致した事実はなく、そういう軍命などの文書もないが、韓国政府が日本政府に賠償を求めたため、政府間の問題になった。  
日本政府は1992年に「旧日本軍が慰安所の運営などに直接関与していたが、強制連行の裏づけとなる資料は見つからなかった」とする調査結果を発表したが、韓国の批判が収まらなかったため、1993年に河野談話を発表した。そこでは問題の部分は次のように書かれている。  
慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  
ここで「官憲等が直接これに加担した」という意味不明の言葉を挿入したことが、のちのち問題を残す原因になった。この問題については2007年に安倍内閣の答弁書が閣議決定され、ここでは「調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」と明記されている。  
つまり政府としては「強制連行はなかった」というのが公式見解なのだが、この答弁書で「官房長官談話のとおり」と書いたため、「官憲が加担した」という河野談話を継承する結果になった。このときNYタイムズ紙のノリミツ・オオニシ支局長が慰安婦問題を取り上げて「元慰安婦」の証言を報じ、安倍首相は訪米で謝罪するはめになった。  
誤解と行き違いが重なって問題が拡大した  
同時進行で見てきた私の印象では、この問題はいろいろな行き違いが重なって思いがけず延焼が広がってしまったという感が強い。そもそも朝鮮半島の労働者を酷使したという意味なら、慰安婦よりも男性の労働者のほうがはるかに大規模で深刻な問題である。  
たとえば第二次大戦の末期に秋田県の花岡鉱山で中国人労働者が過酷な労働環境に抗議して蜂起し、暴行や虐殺で400人以上が死亡した「花岡事件」のように、強制労働の実態はあった。ただ、この場合も遺族などが戦後補償訴訟を起こした相手は鹿島だったことでもわかるように、強制労働の責任者は民間企業だった。  
60万人ともいわれる男性の強制労働に比べると、慰安婦の規模は数万人とはるかに小さく、賃金も二等兵の20倍以上もらっていたといわれる。その慰安婦だけが脚光を浴びたのは、吉田清治がこれを猟奇的な強姦事件として描いたためだ。彼は小遣い稼ぎのための作り話ぐらいのつもりだったようだが、それを利用して集団訴訟を行なおうとした日本の弁護士が問題を拡大した。  
私が最初に金学順の話を聞いたときは「親に売られた」といい、訴状にもそう書かれていた。それが朝日新聞の報道のあとで「軍に連行された」という話にすり替わった経緯は今も不明だ。  
植村記者の義母は日本政府に対する慰安婦訴訟の原告団長だったので、彼の記事は訴訟を有利にするための捏造だった疑いもあるが、「女子挺身隊」という吉田の嘘を踏襲しているところから考えると、単純に吉田証言を信じてその「裏が取れた」と思い込んだ可能性もある。  
朝日新聞の取材に協力したのが、吉見義明氏(中央大学教授)である。彼の『従軍慰安婦』(岩波新書)は英訳されているため、海外ではこれが唯一の参考文献になっていることも誤解の原因である。  
吉見氏がこの問題を調査し始めたのは、朝日新聞が強制連行を報じたあとなので、最初から強制連行の証拠をさがすというバイアスが入っていた。前述の通達も誘拐を禁じる文書なのに、吉見氏がそれを誘拐の命令と誤読したことが混乱の原因になった。  
昨年、橋下徹大阪市長が「吉見氏も強制連行がないと認めた」と述べたのに対する吉見氏の抗議声明で「日本・朝鮮・台湾から女性たちを、略取・誘拐・人身売買により海外に連れて行くことは、当時においても犯罪でした。誘拐や人身売買も強制連行である、と私は述べています」と書いている。  
つまり彼は韓国では軍が慰安婦を拉致した実態がないことを認めた上で、民間人による誘拐や人身売買を「強制連行」と呼んでいるのだ。このように定義すれば、強制連行があったことは明らかで、政府も最初から認めている。つまり吉見氏と朝日新聞は、国家の責任問題を女性の人権問題にすり替えたのである。  
拙劣な政府の対応が世界に誤解を拡大した  
朝日新聞が火をつけた問題を決定的に大きくしたのが、政府の拙劣な対応だった。河野談話で「官憲等が直接これに加担したこともあった」と書いたのは、河野氏のブリーフィングによれば、インドネシアで起こった軍紀違反事件(スマラン事件)のことだ。これは末端の兵士が起こした強姦事件で、責任者はBC級戦犯として処罰された。  
ところが河野談話ではこの点を明記しなかったため、朝鮮半島でも官憲が強制連行したと解釈される結果になった。このように誤解を与える表現をとった原因を、石原信雄氏(当時の官房副長官)は、産経新聞の取材に答えて次のように明かしている。  
当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診してきた。日本側は強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないかとの期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えた。  
強制を示す文書は出てこなかったのに、あたかも強制があったかのような曖昧な表現をとることで、外務省は韓国政府と政治決着しようとしたのだ。ところが結果的には、これが「日本は強制を認めた」と受け取られ、韓国メディアが騒いで収拾がつかなくなった。その後も国連人権委員会のクマラスワミ氏がまとめた報告書では、慰安婦を「性奴隷」と規定して日本政府に補償や関係者の処罰を迫ったが、その根拠が河野談話だった。  
政府は財団法人「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立して元慰安婦に「償い金」約13億円を渡し、歴代首相が「おわびの手紙」を送った。このように政府が「強制はなかったが悪かった」という態度表明を繰り返したため、世界に誤解が定着してしまったのだ。  
海外メディアが関心をもつようになったのはこの時期だから、彼らはそもそも慰安婦が「軍の奴隷狩り」として問題になった経緯を知らない。彼らにとっては最初から慰安婦は女性の人権問題なので、「強制連行はなかった」というのは言い訳としか映らない。元慰安婦が「私は強制連行された」と弁護士に教えられた通り答えると、何も証拠がなくても信じてしまう。  
私がNYタイムズ東京支局のタブチ・ヒロコ記者とこの件についてツイッターで会話したとき、私が「元慰安婦の話には証拠がない」というと、タブチ記者が「彼らが嘘つきだというんですか?」と反論したことが印象的だった。彼らにとっては慰安婦は被害者で日本軍は犯人なのだから、気の毒な被害者が嘘をつくはずがないのだ。  
このように自分の先入観を確証する事実しか見なくなる心理的な傾向を確証バイアスと呼ぶ。海外メディアは最初に「日本軍が大規模な人身売買を行なった」という誤解から入ったため、公権力の行使があったのかどうかという問題の所在を取り違え、慰安婦=人身売買=強制連行という図式で報道してきたのだ。  
必要なのは批判ではなく治療  
このように何を「慰安婦問題」と見るかによって、その答は違う。当初は軍が「慰安婦狩り」で誘拐したことが問題だった。たとえば第二次大戦末期のナチスには、親衛隊や強制収容所の看守のための国営売春施設があったといわれる。これは戦意昂揚のために親衛隊指導者のヒムラーが創設したもので、オーストリアのマウトハウゼン・グーゼン強制収容所をはじめ、12の強制収容所に売春施設があったとされる。  
日本軍がこのような組織的な国営売春を行なって女性を連行・監禁したとすれば、たとえ法的な賠償責任がなくても、日本政府は韓国政府に謝罪すべきだ。朝日新聞が最初に報じたのは、これに近いイメージだったから大事件に発展したのだ。  
ところが政府の調査でも、軍が連行したという証拠がまったく出てこない。単に文書がないというだけではなく、元慰安婦と自称する女性の(二転三転する)身の上話以外に、連行した兵士もそれを目撃した人も出てこないのだ。慰安婦の大部分は日本人だったが、その証言も出てこない。  
最近では吉見氏も、日本の植民地だった朝鮮や台湾から軍が女性を誘拐して海外に連れて行った事実は確認できないことを認めている。彼は「中国や東南アジアでは強制連行があった」というが、その証拠はスマラン事件の裁判記録しかない。これは軍紀違反として処罰されたのだから、むしろ日本軍が強制連行を禁じていた証拠である。  
このように少なくとも韓国については、日本軍が韓国から女性を連行した証拠はないというのは歴史家の合意であり、問題はこの事実をどう解釈するかである。吉見氏のように「民間業者による誘拐や人身売買も強制連行である」と定義すれば、それが一部で行なわれたことは事実だが、それは日本軍の責任ではない。  
ところがNYタイムズは「日本軍がアジアやヨーロッパの女性を強姦して奴隷にした」と書き、日本軍が主語になっている。彼らの表現は曖昧だが、日本軍が韓国女性を強制的に「性奴隷」にしたと考えているようだ。  
当初の吉田の話では、韓国女性を「奴隷狩り」したことになっていたのだが、それが嘘だとわかると、朝日新聞や吉見氏が「民間の人身売買も強制連行だ」と拡大解釈してごまかし、NYタイムズなど海外メディアがこれに追随したことが混乱の原因だ。アメリカ議会などの決議も、人身売買を非難しながら強制連行を問題にするのも矛盾している。日本軍が暴力で拉致したのなら、人身売買なんかする必要はない。  
日本政府が責任の所在を明確にしないまま河野談話で謝罪したのは、取り返しのつかない失敗だった。今ごろ「狭義の強制と広義の強制」などと言っても、言い訳がましくなるだけで世界に通じるとは思えない。アメリカ国務省の「日本が弁明しても立場はよくならない」という情勢認識は残念ながら正しい。  
こうした行き詰まりを打開する第一歩として、この問題が嘘と誤解と勘違いで生まれたことを海外メディアに理解してもらう必要がある。しかし彼らは「日本軍は凶悪な性犯罪者だ」という強迫観念にとりつかれた患者のようなものだから、「あなたの考えは間違っている」と批判しても効果はない。  
必要なのは、彼らのバイアスを自覚させる治療である。慰安婦問題がどのように発生し、どこで誤解が生まれ、どういう行き違いでここまで大問題になったのかという経緯を説明して、彼らに刷り込まれた先入観を解除することが相互理解の第一歩だろう。  
ブッシュに慰安婦問題で謝罪した安倍首相  3/16  
自称保守派の言論人が、慰安婦問題に関して、全然気づいていない安倍首相のミスがある。第1次安倍政権時代の2007年(平成15)4月27日、訪米した安倍首相とブッシュ大統領(当時)の共同記者会見で、「従軍慰安婦問題について、ブッシュ大統領に説明したのか。またこの問題について改めて調査を行ったり、謝罪をするつもりはあるのか」と質問されて、安倍はこう答えた。  
「自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と(議会で)述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した」  
続けてブッシュが言った。  
「私は安倍総理の謝罪を受け入れる。自分は、河野談話と安倍総理の数々の演説は非常に率直で、誠意があったと思う」  
ブッシュ大統領とアメリカ人は、この時点で安倍首相が「謝罪」したという認識なのである。  
7年前にこう謝罪したのに、第2次政権で河野談話の見直しができると安倍が思っていたこと自体がどうかしていたのだ。どうやら安倍は、上記の発言は「謝罪」ではないと本気で思っていたらしい。  
2010年(平成22)の対談で、安倍はこう言った。  
「私がアメリカで慰安婦問題について謝罪をしたと書いた新聞もありますが、私は謝罪なんかしていないんです。向こうで申し上げたのは、『20世紀は戦争の時代だったし、人権も抑圧されたことがある。日本も無関係でなかった。しかし21世紀はそうではない時代にしたいと我々も考えている』ということです」  
ではなぜブッシュが「安倍総理の謝罪を受け入れる」と言った時に「謝罪ではない」と言わなかったのか? 目の前で「謝罪を受け入れる」と言われて黙っていたのだ。全世界がこれを謝罪と受け取った。そう取らない者などいるわけがない。  
それを安倍は後になって「謝罪じゃないやい!」と駄々をこね、それが国際社会で通用すると思っていたのだ。  
安倍晋三のこういう空気を読まない感覚は、アメリカの真意が読めない、国際社会の評判が読めない感覚に繋がっており、日本国にとって案外リスクの高い人物であることを、知っておいた方がいい。 
安倍首相 ブッシュ米大統領(当時)に「慰安婦謝罪」の意外な真相  6/1  
「慰安婦謝罪」の意外な真相 (産経新聞 2013/5/23)  
筆者にも責任の一端があるため、この際きちんと整理しておきたい。安倍晋三首相が第一次政権時代の平成19年4月のブッシュ米大統領(当時)との会談で、慰安婦問題に関して大統領に「謝罪した」とメディアが一斉に報じ、いまなお国会などでこの問題が取り上げられる件についてだ。実はこの報道は誤解に基づいており、真相は異なった。  
きっかけは、会談後の共同記者会見で慰安婦問題について両首脳が、それぞれこう答えたことだった。  
首相「極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ない気持ちでいっぱいだ。20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と(米議会で)述べた。このような話を本日、大統領にも話した」  
大統領「私は安倍首相の謝罪を受け入れる」  
この場面を見たメディアは「慰安婦問題 大統領『謝罪受け入れ』」(産経新聞4月28日付)などと筆者も含めて書いた。だが、よく考えれば、そもそも論理的にヘンな話だっだ。  
元慰安婦に「申し訳ない気持ち」を抱くのはともかく、当事者でもない米大統領に謝るのは筋が通らない。疑問に思った筆者が5月1日の同行記者団との内政懇で「意味が分からない」と質問すると、首相は明確に謝罪を否定した。  
「米国に謝罪したということでは全くない。当たり前の話だ」  
メディアはこちらの発言はほとんど取り上げなかったが、首相は今月20日の参院決算委員会でも、改めて「私が大統領に申し訳ないという立場では全くない」と明言している。  
それならばなぜ、6年前の共同記者会見で大統領は「謝罪を受け入れる」と述べたのか。その後、首相本人を含む複数の関係者に取材して判明した事実は意外なものだった。首脳会談の冒頭で、大統領からこんな申し出があったのだ。  
「ミスターアベ、きょうは慰安婦問題と米国産牛肉の対日輸出の件は、話をしたことにしておこう」  
つまり、双方にとって難しい話題は実際は避けながら、対外的には協議した形をとりたいというわけだ。結局、慰安婦問題は話題にしなかったのに、質問を受けた大統領が適当に話を合わせようとして「なぜか『謝罪』と言っちゃった」(政府筋)のが真相だ。  
大統領は18年11月、ベトナムで日米韓3カ国首脳会談が行われた際にも事前に首相にこう持ちかけた。  
「面倒だから、盧武鉉韓国大統領とは朝鮮半島の話はしないでおこう」  
盧大統領と朝鮮半島情勢を議論すると、すぐに歴史問題を持ち出して対日批判を展開するので大統領はへきえきして避けたのだろう。首脳会談の機微を示すエピソードだ。  
こうした事情と外交的配慮もあってか、政府が今月17日に閣議決定した19年4月の日米首脳会談に関する答弁書は「ややこしい書きぶり」(首相周辺)だ。  
首相が慰安婦問題で大統領に謝罪や釈明をしたとは一切認めない一方、公式には「話をした」ことになっているため、「説明」は行ったことにした。その内容については、共同記者会見での首相発言(つまり議会での言葉)を引用した。  
以上、経緯を反省を込め記した。ともあれ、首相がいくら否定しても米大統領に「謝った」「屈服した」と信じたがる人が少なくないのは、日本人の対米認識・感情を考える上で興味深い。  
「河野洋平と朝日新聞を国会に喚問しろ」山際澄夫 (WiLL 2013/5/30 抜粋)  
安倍氏ほど「慰安婦」問題に熱心に取り組んだ首相はいない。「慰安婦」問題は、首相にとっては原点ともいうべき問題だからだ。総ての教科書に「従軍慰安婦」が掲載されるのに危機感を覚えて、中川昭一氏らと「日本の前途と歴史教育を考える会」をつくって河野談話否定に取り組んできたのである。  
第1次安倍政権では、「いわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする答弁書も閣議決定した。  
そんな首相にとって最大の誤算が、当時のブッシュ米大統領との日米首脳会談で「慰安婦」問題で謝罪をする羽目に追い込まれたことだった。  
安倍氏は、日米首脳会議では実際には「慰安婦」問題は論議されず、その後の共同記者会見でブッシュ大統領に「安倍首相の謝罪を受け入れる」と一方的に語られたものだと証言しているが、共同会見を見ると首相は「慰安婦の方々が非常に困難な状況で辛酸をなめられたことに対し、人間として首相として心から同情し、申し訳ない思いだ。20世紀は人権侵害の時代だった。21世紀を人権侵害のない素晴らしい世紀にするため、日本が貢献したいと大統領に話した」と述べている。  
首相としては一般的な人権問題を語ったつもりかもしれないが、否定しなかった以上、第3者からみれば謝罪したも同然だろう。これが結果的に、その後の「慰安婦」を「20世紀最大の人身売買」とする米議会でのマイク・ホンダ決議を許すことに繋がったといえなくもない。  
この決議によって米国では、「20万人もの女性が強制連行されて性奴隷にされた」というのが「慰安婦」に対する米メディアでの一般的な認識になってしまったのだから、悔やんでも悔やみきれない。  
いま、韓国系米国人によって米国内に「慰安婦」碑が相次いで建設されていることも、この決議と無縁ではない。決議には、日本が「慰安婦」問題で公式謝罪することが盛り込まれているが、「慰安婦」碑の建立は日本が謝罪していないことを理由にしているのである。(略)  
今回、中国、韓国は戦線をどんどん拡大させた。特に韓国は朴槿恵統領が米国でのオバマ大統領との首脳会談で「日本は正しい歴史認識を持たなければならない」と日本非難に踏み切った。 
中国の活発な首脳外交と「インド太平洋」の地政学 2013/11/14  
APEC、TPP、「ASEANプラス」首脳会議開催  
10月上旬、インドネシア・バリ島でアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議と環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉首脳会合、ブルネイで東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議をはじめ、日本・ASEAN首脳会議、ASEANプラス3(日中韓)首脳会議、東アジア首脳会議などの一連の「ASEANプラス」の首脳会議が開催された。  
その首尾はほぼ予想通りだった。APEC首脳会議はアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)実現をめざす方針を確認した。しかし、TPP交渉の首脳会合では「大筋合意」が見送られた。広く報道された通り、その一つの理由は、政府機関の一部閉鎖で米国のバラク・オバマ大統領がアジア歴訪を取りやめたことにあるだろう。一方、東アジア首脳会議はASEANを中心とする東アジア地域包括的経済連携(RCEP)交渉の早期実現で一致した。また、南シナ海の領有権問題について、中国とASEANの合意に基づいた「行動規範」の策定作業を「歓迎」するとともに、2002年の「行動宣言」の履行を重視することを強調した。(関連記事1)(関連記事2) (関連記事3) (関連記事4)  
中国の首脳外交は地政学を変えるか  
中国はこの前後、極めて活発に首脳外交を行った。習近平国家主席は10月2日、ジャカルタでインドネシアのスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領と会談し、軍事協力の強化で合意した。10月4日にはマレーシアでナジブ・ラザク首相と会談、ここでも軍事も含めた関係の強化で合意した。10月13〜15日には李克強首相がベトナムを訪問し、中越両国で南シナ海共同開発に関する協議のための作業グループを設置することで合意した。さらに李首相は10月23日、訪中したインドのマンモハン・シン首相と国境防衛協力協定に調印した。  
中国のこうした活発な首脳外交を見て、メディアでは、中国と東南アジア、インドの地政学的関係が変わりつつある、といったコメントが散見される。しかし、そういう結論を出すのはまだまだ早計である。南シナ海の領有権問題についても、それ以外の問題についても、中国がこれからも大国主義的に力によって現状変更を試みようとする限り、これに対応、対抗する動きがなくなることはない。  
ベトナムはカムラン湾に外国海軍艦船の補給・整備施設などをロシアと共同で建設しているほか、ロシアから潜水艦を購入し、潜水艦基地の建設も決めている。また、今回のAPECにあわせてバリ島で開かれた日越首脳会談で、安倍晋三首相とベトナムのチュオン・タン・サン国家主席は、海洋安全保障分野における連携推進で合意した。インドネシアは太平洋とインド洋を結ぶシーレーンの要衝であるスラウェシ島のパルに潜水艦基地を整備し、今年末から運用する。また、現有2隻の潜水艦を2024年までに10隻以上に増やすとともに、米国から攻撃用ヘリコプター8機を購入する計画である。インドは2012年にロシア製原子力潜水艦を配備し、今年8月には初の国産空母を進水させた。11月中には、ロシア製空母がインドに引き渡される。また、シン首相は10月下旬、モスクワでロシアのウラジミール・プーチン大統領と会談し、次世代戦闘機の共同開発推進など、軍事協力の一層の強化についても合意した。  
さらに、オバマ大統領が今回、アジア歴訪を取りやめたからといって、それで米国がアジア重視の戦略を転換するわけでもない。米国は「リバランス」の名の下、アジア太平洋地域における米軍のプレゼンス拡大のために、太平洋と大西洋に50対50の割合で展開する米海軍艦船の比率を2020年までには60対40とするとともに、攻撃型潜水艦、第5世代戦闘機、新型巡航ミサイルなどを新たにアジアに投入する予定である。これに伴い、米国は太平洋に展開する空母については6隻体制を維持し、対潜水艦戦能力などを備える沿岸海域戦闘艦(LCS)を配備しつつあり、また、太平洋地域における共同軍事演習、米艦船の各国への帰港なども増やしている。(関連記事)  
日本も、フィリピン、マレーシア、ベトナムに対し、巡視船供与など、海上保安機能の強化のための支援を行っている。これは「戦略的政府開発援助(ODA)」の一環として実施されており、2012年の米軍再編計画見直しに関する日米共同文書にアジア太平洋地域沿岸国に対するODAの「戦略的な活用」が明記されている通り、米国の「リバランス」と密接に連動している。  
アジア太平洋あるいは最近使われるようになった「インド太平洋(Indo-Pacific)」の地政学的変化を理解するには、こうした動きを見る必要がある。そうした観点からすれば、最近の中国の首脳外交は、2008年以降の中国の大国主義的行動が引き起こした問題に対する弥縫(びほう)策、またはダメージ・コントロールと考えた方がよい。  
日米、5年後に原発事故リスク評価統一基準  
日本経済新聞(10月31日付朝刊)によれば、日米両政府は原子力発電所の事故のリスクを評価する統一基準をつくるため、11月上旬に会合の予定という。東京電力福島第一原子力発電所の事故を教訓に、日米原子力協定に基づいて連携策を話し合い、2018年に協定の見直し期限が来ることに鑑み、5年後を目標に、津波、地震、火災など、原発事故をめぐるリスクの評価に数値基準を取り入れ、データの共有も目指すという。課題は「確率論的リスク評価(PRA)」の導入で、米国ではすでに1995年から活用されており、評価方法について米国政府との擦り合わせが済めば、今年7月に原子力規制委員会が定めた原発の規制基準もこれに照らして見直すことになるという。  
わたしはこれまで「論点」において、日本のエネルギー政策を原子力規制委員会が事実上決めていること、原子力発電所の安全性は日本特有の問題ではなく世界的課題であることを指摘してきた。ここでまた、そういう議論を繰り返すことはしない。しかし、次の一点は指摘しておきたい。原子力規制委員会設置法には、原子力規制委員会は「確立された国際的基準を踏まえて原子力利用における安全の確保を図るため必要な施策を策定」するとある。わたしとしては、PRAの導入時期は、5年後でなく、もっと早い方がよいと思うが、米国政府としても日本政府、特に原子力規制委員会の安全審査の動向が及ぼす世界的影響をずいぶん懸念したのであろう、こういう形で原子力発電所の安全基準が定められることは大いに歓迎である。 
暴走する隣国のドン 習近平、この男大丈夫!? 2013/11/25  
「戦争の準備をせよ」「逆らうものはタイホせよ!」「尊敬するのは毛沢東」  
中国共産党の重要会議「3中全会」を終え、革命に明け暮れた毛沢東路線をひた走る習近平主席。だが恐怖政治に不満が渦巻き、その影響は日本にも飛び火してくる。中国でいま何が起こっているのか。  
カリスマ歌手が突然消えた  
習近平政権の中長期の政策を決める「3中全会」(中国共産党第18期中央委員会第3回全体会議)が、11月9日から12日まで北京で開かれた。  
その最終日に採択されたコミュニケ(声明)に、「国家安全委員会」なる新組織の設立が盛り込まれたことが、内外の話題を呼んだ。コミュニケには、〈国家の安全体制と安全戦略を完全なものにするため、健全な公共安全システムを新設する〉と書かれている。  
取材にあたった産経新聞中国総局の矢板明夫特派員が解説する。  
「国家安全委員会は、習近平主席が、公安部や国家安全部など国内の警察・情報機関、及び人民解放軍を完全掌握するために新設する機関です。  
周知のように、3中全会直前の10月28日には天安門広場前で、また11月6日には山西省の共産党庁舎前で、2度の爆破テロが起こりました。習近平政権に対する国民の不満は、頂点に達しているということです。また3中全会に合わせて、全国から10万人が陳情のため北京へ押し寄せたという話も聞きました。  
そんな中、習近平は今後、弱者を切り捨て、富国強兵の道に突き進もうとしている。そうなると、知識人たちの激しい抵抗が予想されます。そこで国家安全委員会を創設し、逆らう者は迷わず拘束して、一罰百戒にしようという狙いなのです」  
実際、この夏以降、習近平政権による容赦ない知識人への弾圧が始まっている。一例を挙げれば、次の通りだ。  
・7月22日、若者のカリスマである女性歌手・呉虹飛が、身に覚えのない国家騒乱罪で逮捕された。呉虹飛はそのまま、北京市朝陽区の拘置所に、11日間も勾留された。呉虹飛が突然、失踪したことで、ファンたちが騒ぎ出し、ようやく拘束を解かれた。ゲッソリして帰宅した呉虹飛は、拘置所に自分と同様の逮捕者が約20人もいたことを明かした。  
・8月24日、広州一の人気紙『新快報』の劉虎記者が、「馬正其・国家工商総局副局長が重慶市の幹部時代に多額の賄賂を受け取っていた」と書いたことで、社会紊乱罪が適用されて逮捕された。10月19日には、同紙の陳永洲記者が、湖南省の国有企業「中聯重科」の批判記事を書いたとして、「商業名誉毀損罪」で逮捕された。  
・8月25日、著名な慈善家の薛蛮子氏が、突然逮捕された。薛蛮子氏は、米シリコンバレーでIT企業「UTスターコム」を立ち上げて大成功を収めた後、帰国。「多発する幼児誘拐事件は中国の恥だ」として、自らのミニブログを使って、誘拐された子供たちの救援活動を行っていた。ミニブログのフォロワーは、逮捕時の段階で1202万2924人に達し、歯に衣を着せない政府批判で知られていた。  
・9月13日、やはりミニブログで1000万人以上のフォロワーを持つ投資家の王功権氏が、公共秩序紊乱罪で逮捕された。かつて「北京の不動産王」と言われた王功権氏もまた、政府を恐れない大胆な風刺詩をネット上に発表することで人気を博していた。  
日本を悪者にする  
前出の矢板特派員が語る。  
「3中全会を終えた習近平は、毛沢東と同様の手段で国民を統制するつもりです。つまり、中国国内で意見を主張できるのは自分だけという体制を作ろうとしているのです。だから知識人がモノを言えばすぐに捕まえる。  
だが、二世政治家の習近平には、毛沢東のようなカリスマ性はないし、いまはインターネットもあって前世紀とは時代が違う。そのため、国民の反発がエスカレートし、暴動となり手がつけられなくなる可能性があります」  
在中国ドイツ大使館の外交官も、次のように嘆く。  
「私が得ている情報では、中国はインターネット警察官の採用を増やしていて、いまの2倍の100万人態勢を目指しているようです。一体こんなことをして何になるのでしょう? 中国政府は日本に対して、『ナチス時代の反省を繰り返すドイツに学べ』と喧しいが、ドイツに学ぶべきは中国の方でしょう。旧東ドイツはシュタージ(秘密警察)が10万人以上に膨れ上がり、その重みに耐え切れなくなって崩壊したのですから」  
実際、市民の間では、習近平政権に対する失望感が溢れている。  
「3中全会のコミュニケは、『改革』という言葉を59回も並べただけの空疎なものでした。国民が期待していた国有企業の独占禁止や民営化、農地売買の自由といった諸政策は、ことごとく骨抜きにされたのです。この絶望的なコミュニケを見た国民は、ガックリです」  
11月6日には、北京経済管理職業学院国際貿易学部の王錚副教授が、収賄の罪で無期懲役刑が確定している薄煕来元中央政治局員を終身主席とする「中国至憲党」の結党を宣言。習近平政権に、憲法に定めた結社や表現の自由を守るよう求めた。王副教授は直ちに当局に拘束された模様だ。  
このように、習近平の恐怖政治が始まった中国は、不安定な情勢だ。  
そうなると、気になるのが日中関係だ。周知のように昨年9月に日本が尖閣諸島を国有化して以降、中国とは険悪な関係が続いている。習近平主席は、中南海の会議などで、「日本が国有化を撤回しない限り、友好関係は築かない」として、強硬姿勢を貫いているという。前出の矢板特派員が続ける。  
「習近平は、国内問題がいよいよ対応不能になった場合は、独裁者の常として、近隣諸国を悪者に仕立てようとするでしょう。すなわち、尖閣問題を再燃させるのです。  
具体的には、人民解放軍の艦艇を繰り出し、海上保安庁の巡視船に対して、『直ちにわが国の領海から出なければ攻撃する』と威嚇します。すると、中国との衝突を恐れるいまの日本は、引いてしまう可能性が高い。尖閣における日本の支配を崩せば、習近平は国民的ヒーローとなり、政権の求心力は一気に高まるというわけです」  
実際、3中全会のコミュニケにも、次のような不気味な記述が見られる。  
〈戦争ができ、戦争をすれば勝利する強軍の目標を定め、中国の特色ある現代的な軍事力のシステムを構築する〉  
習近平主席は、昨年12月に広東軍区を視察した際、艦艇に乗って、この言葉を強調した。以来、軍関連の視察を行うたびに、必ずこの訓話を述べている。これは、近未来の日本との戦闘に備えよという意味なのか。  
折しも、11月13日の中国外交部の定例会見では、日本人記者が、「国家安全委員会は、安倍政権が設立を目指している国家安全保障会議を意識したものなのか」と質問した。すると秦剛報道局長は、次のように答えたのだった。  
「国家安全委員会の設置は明らかに、テロ組織や国家の分裂主義者、カルト集団たちを緊張させた。日本も、その部類に入りたいのか?」  
マーケットは失望した  
ところで、3中全会のコミュニケは、中国の経済界を大いに失望させた。  
上海浦東新区の証券取引所近くに店舗を構える、中国の大手証券会社幹部が、肩を落として語る。  
「3中全会を終えた翌13日朝から、株価の下落が止まらず、上海総合株価指数は、あっという間に2100を切ってしまいました。結局、終値で前日より1・82%もの暴落となりました。習近平主席は、正直言って完全に疫病神です」  
証券会社幹部の恨み節は続く。  
「実はこれで5度目の習近平暴落≠ネのです。1回目は、'07年10月の第17回共産党大会で、当時の胡錦濤主席の後継者が、習近平に事実上決定した時でした。それまで6429ポイントという史上最高値をつけていた上海総合株価指数は、『経済オンチがトップに就く』ということで、急降下を始めたのです。  
2回目は、昨年11月の第18回共産党大会で習近平が党トップの総書記に就任した時で、ついに上海総合株価指数が2000ポイントを割りました。3回目は今年3月に、習近平が国家主席に選出された時で、一日で3・65%もの大暴落です。  
4回目が、習近平が還暦の誕生日を祝った今年6月。そして5回目が、今回の『3中全会』が終わった翌日です。習近平にとっての重要な節目ごとに株価が暴落するのは、彼が中国経済をダメにする疫病神と見られているからに他なりません」  
同じく3中全会の取材を行った中国人ジャーナリストの李大音氏によれば、政権内部でも、習近平主席への不満が渦巻いているという。  
「習近平主席は中国という国を、尊敬する毛沢東主席のガチガチの社会主義時代に戻したい。一方、ナンバー2の李克強首相は、中国を西側先進国のような資本主義体制に変えたい。この両者が、ガチンコでぶつかったのが、今回の3中全会でした。  
李克強首相は、政府のシンクタンクである国務院発展研究センターに、『383方案』と呼ばれる新たな開放政策を出させたり、『市場経済の父』と呼ばれる経済学者の呉敬lに『政治の民主化』を叫ばせたりしました。また、3中全会の初日には、秘密会議の自分の演説を、わざわざテレビで生中継させることまでしたのです」  
結局、このナンバー1vs.ナンバー2の権力闘争は、最高権力者の習近平が押し切ってしまった。  
「コミュニケでは、『社会主義』という単語が28回も連発されました。また、『社会主義文化強国』という単語が現れました。これは、5000万人もの犠牲者を出した毛沢東時代末期の文化大革命を想起させます。  
そんな中で、李克強首相が唱えていた経済改革『リコノミクス』など、どこかへ消し飛んでしまったのです。まさに、改革派の完敗です」(李記者)  
バブルは終わった  
だが、こうした「改革派の敗北」は、すでに9月の時点で、その予兆が出ていたという。李記者が続ける。  
「李克強首相は、毛沢東亡き後、中国の最高指導者となって改革開放政策を指揮したケ小平を尊敬していて、『現代のケ小平』になりたい。そこで、かつてケ小平が始めた深圳経済特区のマネをして、上海に自由貿易区を作りました。  
そして、9月29日に行われた自由貿易区の除幕式に出席すべく、上海へ出張に行きました。しかし習近平主席は、自らが昨年末に定めた贅沢禁止令に違反するとして、李首相の除幕式参加を禁止したのです。  
そのため李首相は、北京へトンボ返りせざるを得ませんでした。首相としての面目は丸潰れです。しかも李首相は帰郷するや、9月30日の国慶節の祝賀パーティで、今度は読みたくもない社会主義色あふれる習近平主席の祝賀メッセージを代読させられたのです。明らかに不機嫌顔でした」  
このような体たらくなので、李首相自ら音頭を取って、大々的に上海自由貿易区への外資系銀行の誘致を図ったにもかかわらず、これに応じたのは、米シティバンクとシンガポール開発銀行だけだった。上海にそれぞれ1000人以上ものスタッフを置いている大手邦銀各行も、とりあえずは様子見の状態だ。  
3中全会の「不本意な結果」を受けて、中国の不動産バブルの崩壊も懸念され始めた。中国初の国策投資会社である中国国際金融有限公司は11月11日、「まもなく不動産バブルが崩壊し、来年は7%成長が不可能になるかもしれない」という緊急声明を発表した。  
BTT大学の田代秀敏教授が語る。  
「日本はかつて、不動産バブルが崩壊したことによって、『失われた20年』となりました。いま中国経済がクラッシュしたら、中国で稼いでいる『ユニクロ』のファーストリテイリングを始め、中国で稼いでいる数多くの日本企業は甚大な損失が出ます。そうなれば日本の税収も減り、国債や年金など多方面に影響が出てきます」  
習近平主席の危険な政権運営は、日本も対岸の火事では済まないのである。 
2014年  
韓国に謝罪せよという村山氏の呼びかけに、安倍首相は従うだろうか? 2/12  
村山富市元首相は韓国の議会で演説したなかで、日本の安倍首相が、第2次世界大戦中の日本軍の犯罪を認めた独自の声明に即した行動をとることを希望する発言を行った。  
1995年、当時、社会党党首から連立内閣の首相となった村山氏は、第2次世界大戦中に日本軍が行った犯罪および、韓国の植民地化を行ったことについて謝罪した。当時、日本の多くの人にとってこの認識は大きなショックを与えるものにうつったが、その代わりこれによって1998年に採択された日韓の首脳らによって和解と協力の共同宣言への道が開かれた。確かに、村山氏のあと、安倍晋三氏も含め、複数の日本人政治家らが日本側から過去の過ちとアジアの民族の前に行った罪を謝罪する必要性を口にしたが、それでも「平和の道」を歩いていくことは容易いことではなかった。  
韓国では、こうした謝罪では不十分だ、これは実のこもったものではない、占領と韓国人女性の従軍慰安婦に対する損害賠償を支払うべきだという声明が盛んに出されていた。歴史の正義を回復しようとする韓国人活動家らにインスピレーションを与えたのはユダヤ人だったと思われる。ユダヤ人らはドイツからホロコーストの犠牲者に対する多額の賠償金を得ただけでなく、ナチズムを肯定するあらゆる試みに対し、刑事事件として訴追する法を制定させた。  
だが、「より心のこもった」謝罪とより多額の賠償金を得ようとする韓国の執拗な試みは日本国内に苛立ちを呼んだ。なんど謝罪し、どれだけ払ったら気が済むのだ?という発言が出されたのは国粋主義者の間からだけではない。インテリ、ジャーナリストらからも「慰安婦は自発的に働いたのであり、それに対する報酬も受け取ったのだ」というような批判が聞かれもした。日本は朝鮮を併合し、より発展した農業メソッドを導入し、朝鮮産業の発展を促し、道路をつくり、朝鮮人の若者には日本で大学教育を受ける権利まで与えたのだ。だから日本は謝ることは何もない。  
もちろんこうした批判は韓国内で嵐のような憤りを呼び、新たに謝罪と賠償を要求する声が上げられた。  
一部にはまさにこれが原因で、日本国内で「日本固有の」領土、竹島を返還せよという要求があげられるようになってしまった。  
互いに繰り広げるクレーム合戦が二国間防衛協力拡大についての、また中国を加えた三国の自由貿易ゾーンの創設についての日韓交渉を著しく複雑化させた。  
今日村山氏が安倍首相に対し、アジアに対する罪を認めるよう呼びかけたことは、韓国の議会、社会からの支持を受けた。安倍氏自身も韓国と未来を見据えた関係を構築するためであれば、こうした懺悔を十分行なうかまえであっただろう。韓国との関係は安倍氏にとっては、日本をますます脅威と捉え始めている中国との、最高レベルでの対話を開く期待を失ってしまったことから、より重要なものとなっている。それを証拠付けるのは、安倍氏の靖国神社参拝が中国のみならず、韓国にも憤りを呼んだ点だろう。参拝には米国、ロシアも批判の声を上げた。  
靖国神社参拝とそれに対する中国、韓国の反応は今、将来に主眼をすえた関係修復をという村山氏のよびかけに応じることが簡単にはいかないことを表している。これは日本側からも、韓国側からも妥協の準備を求めるものだ。過去の事実を認めろという村山氏の発言を文字通り捉えれば、日本人は竹島の返還要求を引き下げねばならなくなる。というのはこの島が韓国の管轄に移行したのは「過去の事実」であるからだ。それにこれは現在に事実でもある。ついでに言えば「北方領土」、つまり南クリル諸島がロシアの管轄に移行したことも同じだ。  
村山ロジックに従うと、韓国人もおそらく、歴史の財産、日本の占領とそれに付随したものを認め、謝罪と慰謝料請求を引っ込めざるをえなくなる。日本と韓国がこうした歩みを進めるならば、日本側には中国との尖閣諸島(釣魚諸島)についての交渉に論拠が現れるはずなのだが。  
とはいえ、率直に言えば、これを期待するのは望み薄だ。 
「集団的自衛権行使は合憲」砂川判決、根拠は「暴論」 4/17  
厚い扉を開く鍵か、それとも「我田引水」の典型か。これまで違憲とされてきた集団的自衛権行使を巡る議論で、安倍晋三首相らが砂川事件最高裁判決(1959年)を根拠として「行使は合憲」と主張し始めた。だが法曹界を訪ね歩くと、一国の宰相が唱えるにはどうにもお寒い「新解釈」のような−−。  
「徹頭徹尾『個別的』の話」 判例「好き勝手に読み替えできない」  
「砂川判決が集団的自衛権を否定していないことははっきりしています」。8日、民放BSの番組に出演した安倍首相、集団的自衛権への考えをキャスターに問われ「砂川事件最高裁判決から見ても違憲ではない」との持論を早口で展開した。  
砂川事件。少なからずの人が「ハテ何だっけ?」と首をかしげたのではないか。おさらいしておこう。57年に東京都砂川町(現・立川市)の駐留米軍基地拡張に反対するデモ隊が基地内に立ち入り、メンバーが日米安保条約に基づく刑事特別法違反罪で起訴された事件のことだ。  
裁判では駐留米軍の存在と戦力不保持を定めた憲法9条2項との整合性、つまり事実上「日米安保の合憲性」が問われた。59年3月の1審判決は「米軍の駐留は違憲」と無罪を言い渡したが、同年12月の最高裁判決は「わが国が存立を全うするために必要な自衛のための措置をとることは国家固有の権能として当然」と、米軍駐留や日米安保は必要な自衛措置であり合憲と判断。1審判決を破棄した。  
安倍首相が判決を引用して強調するのは、「必要な自衛措置」に自国への武力攻撃に対処する個別的自衛権だけでなく、他国への攻撃を日本が阻止できる集団的自衛権も含まれる−−という点だ。  
「全く理解できません。砂川判決からは集団的自衛権が合憲だという結論はとても導き出せない」。苦笑いするのは憲法学が専門の長谷部恭男早稲田大教授だ。昨年11月の衆院国家安全保障特別委で特定秘密保護法について「特別な保護に値する秘密を政府が保有している場合は、漏えいが起こらないよう対処することは必要」と賛成意見を表明し、一部から「御用学者」などと批判された。  
その長谷部さん、「判決文を見れば実に単純な話です」と続ける。憲法の平和主義は日本を守るための自衛権を否定していない。ただし9条2項があり、2項が指すような戦力は持つことができない。すると日本の平和と安全を維持するために必要な防衛力が不足する。これを補うために外国に安全保障を求めることまでは9条は禁じていない。だから日米安保に基づく米軍駐留は戦力に当たらず違憲ではない−−判決には、そうとしか書いていないというのだ。「徹頭徹尾、日本を守るための個別的自衛権がテーマであり、米国など他国への武力攻撃に対処する集団的自衛権とは何ら関係ない話なんです。集団的自衛権を否定する文言はありませんが、だから『否定していないことははっきりしている』と言われても……」。ちなみにこのような砂川判決の“解釈”は「私は聞いたことがありません。まともに反論したり、議論したりすることが恥ずかしくなるほどの暴論です」と首を振った。  
もともと「砂川判決=集団的自衛権行使容認論」を自民党内で最初に言い出したのは高村正彦副総裁だ。3月31日の党安全保障法制整備推進本部の初会合で「判決は個別的、集団的という区別はせず、固有の権利として自衛権を持っていると言っている。必要最小限(の武力行使)には集団的自衛権に入るものはある」と講演。安倍首相の主張はこの見解に沿ったものだ。  
高村氏は弁護士でもある。日本弁護士連合会の憲法委員会副委員長を務める伊藤真弁護士は「政治家以前に、弁護士としてあり得ない発言です」と切り捨てる。安倍氏も高村氏も判決や判例の読み方自体が間違っている、と続けるのだ。  
「判決や判例はある事件に対してこのような判断が下された、とセットで考えることが前提です。あるフレーズや言葉だけを取り出して一般化し、好き勝手に読み替えることはできない。砂川判決で語られている自衛権が『個別的とか集団的とか区別されていない』などと拡大解釈するのは無理です」。最高裁判決が集団的自衛権行使容認を意図したものでないことは、2カ月後に岸信介首相が国会で「集団的自衛権は憲法上許されない」と答弁したことからも明らかだという。  
高村氏らの見解は「高村さんらが唐突に思いついたものではなく西修・駒沢大名誉教授の影響だ」(自民党ベテラン議員)との見方が永田町で広がっている。西氏は第1次政権時から安倍氏の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)のメンバーで、唯一の憲法専門家だ。  
日本は砂川判決の3年前に国連加盟したが、国連憲章51条では「個別的、集団的自衛権は固有の権利」とされている。このことから西氏は「砂川判決が言う自衛権も当然、双方が含まれると解すべきだ」と主張し、高村氏も「砂川判決に国連憲章が視野に入っていなかったということは考えられない」と自身のブログで述べている。  
伊藤さんは「砂川判決を書いた最高裁判事も51条を把握していたことは間違いない。しかし、判事が意識したことと、判決が集団的自衛権を認めているかという議論は全く別です」と言う。長谷部さんも「条約に類する国連憲章より憲法が上位だと考えるのが通説。そもそも国連憲章を前面に出すなら砂川判決を言い出す必要はない」。連立を組む公明党も、弁護士出身の山口那津男代表や北側一雄副代表から「論理に飛躍がある」と疑問視する声が相次ぐ。  
ではなぜ今、異端とも言える考えが浮上したのか。前出のベテラン議員は「年末の日米防衛協力指針(ガイドライン)改定に集団的自衛権行使を反映させたい、という焦りもあるが、行使容認に踏み切って米国への一方的な依存を是正し、『戦後レジーム脱却』の一歩にしたいというのが本音だろう。支持率の高い今やるしかないと、なりふり構っていられないのだろう」と皮肉る。  
伊藤さんは「改憲して行使を容認したいが、改憲要件を定めた96条を緩めようとしても世論の反発が強くうまくいかない。憲法解釈を変えればまた立憲主義の否定だと批判される。ならば最高裁判決だ、と。こんな猫の目のようなことをやっていては国民の視線はますます冷めてしまうでしょう」と手厳しい。  
歴代政権や法曹界が積み上げてきた見識とかけ離れた論理を展開する安倍政権。集団的自衛権行使が是か非か、という以前の問題ではないか。 
河野談話の政府検証 6/21  
河野談話作成過程等に関する検討チーム / 検討会における検討  
1 検討の背景  
(1)河野談話については、2014年2月20日の衆議院予算委員会において、石原信雄元官房副長官より、(1)河野談話の根拠とされる元慰安婦の聞き取り調査結果について、裏付け調査は行っていない(2)河野談話の作成過程で韓国側との意見のすり合わせがあった可能性がある(3)河野談話の発表により、いったん決着した日韓間の過去の問題が最近になり再び韓国政府から提起される状況を見て、当時の日本政府の善意が生かされておらず非常に残念である旨の証言があった。  
(2)同証言を受け、国会での質疑において、菅官房長官は、河野談話の作成過程について、実態を把握し、それを然るべき形で明らかにすべきと考えていると答弁したところである。  
(3)以上を背景に、慰安婦問題に関して、河野談話作成過程における韓国とのやりとりを中心に、その後の後続措置であるアジア女性基金までの一連の過程について、実態の把握を行うこととした。したがって、検討チームにおいては、慰安婦問題の歴史的事実そのものを把握するための調査・検討は行っていない。  
2 会合の開催状況  
2014年4月25日(金)準備会合 / 5月14日(水)第1回会合 / 5月30日(金)第2回会合 / 6月6日(金)第3回会合 / 6月10日(火)第4回会合  
3 検討チームのメンバー  
秘密保全を確保する観点から、検討チームのメンバーは、非常勤の国家公務員に発令の上、関連の資料を閲覧した。  
弁護士(元検事総長) 但木敬一(座長) / 亜細亜大学国際関係学部教授 秋月弘子 / 元アジア女性基金理事、ジャーナリスト 有馬真喜子 / 早稲田大学法学学術院教授 河野真理子 / 現代史家 秦郁彦  
4 検討の対象期間  
慰安婦問題が日韓間の懸案となった1990年代前半から、アジア女性基金の韓国での事業終了までを対象期間とした。  
5 検討の手法  
(1)河野談話にいたるまでの政府調査および河野談話発表にいたる事務を当時の内閣官房内閣外政審議室(以下「内閣外政審議室」)で行っていたところ、これを継承する内閣官房副長官補室が保有する慰安婦問題に関連する一連の文書、ならびに、外務省が保有する日韓間のやり取りを中心とした慰安婦問題に関する一連の文書および後続措置であるアジア女性基金に関する一連の文書を対象として検討が行われた。  
(2)秘密保全を確保するとの前提の下、当時の政府が行った元慰安婦や元軍人等関係者からの聞き取り調査も検証チームのメンバーの閲覧に供された。また、検討の過程において、文書に基づく検討を補充するために、元慰安婦からの聞き取り調査を担当した当時の政府職員からのヒアリングが内閣官房により実施された。  
(3)検討にあたっては、内閣官房および外務省から検討チームの閲覧に供された上記(1)の文書ならびに(2)の聞き取り調査およびヒアリング結果に基づき、事実関係の把握、および客観的な一連の過程の確認が行われた。  
6 検討チームの検討結果  
検討チームの指示の下で、検討対象となった文書等に基づき、政府の事務当局において事実関係を取りまとめた資料は別添のとおりである。検討チームとして、今回の検討作業を通じて閲覧した文書等に基づく限り、その内容が妥当なものであると判断した。 
河野談話検証で手詰まりとなった日韓両国 2014/6/29
河野談話検証の評価  
2014年6月20日、日本政府は『慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯 〜河野談話作成からアジア女性基金まで〜』を発表した。いわゆる「河野談話の検証結果」である。  
この報告書を検証するための資料は外交文書扱いということで公開されていない。そのためこの文書を直接我々は検証できないが、談話を発表した河野氏自身が正しいと発言していることから、妥当な内容だと思われる。  
河野洋平元衆院議長は21日、山口市内で講演し、いわゆる従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官談話の作成過程を検証した政府の報告書について、「足すべきものはなく、正しく全て書かれている。引くべきこともない」と述べ、検証結果は妥当だとの考えを示した。  
それに対する反応だが、日本国内では政治的ポジションによって完全に分かれ、関係国(韓国、アメリカ)もそれぞれ全く違う反応をみせている。  
(1) 慰安婦は売春婦であり慰安婦問題は捏造から生じたという立場  
この立場の代表的な意見として、古森義久氏のJBPressでの『慰安婦問題「濡れ衣」の元凶は誰か』をあげておく。この機会に河野談話を見直すべきだと主張している。  
慰安婦についての河野談話を検証する有識者の新報告は、不当な非難によって日本が国際的にいかに傷つけられてきたかを改めて浮かび上がらせた。戦時の日本の官憲が組織的に女性たちを無理やりに連行するという「強制」はなかったことが裏づけられたからだ。  
(2) 河野談話の見直しに反対する立場  
この立場の代表的意見として、日本共産党の赤旗から以下の記事を引用しておきたい。  
日本が「自主的に河野談話を作成した」ということを明示したことを評価し、河野談話を見直さないという方針を評価している。  
報告書は、談話作成時に韓国側と文言調整したが、「それまでに行った調査を踏まえた事実関係を歪めることのない範囲で、韓国政府の意向・要望については受け入れられるものは受け入れ、受け入れられないものは拒否する姿勢で調整した」として、日本側が自主的に行ったとの見方を指摘。作成過程については「その内容が妥当なものであると判断した」と明記しています。  
(3) 韓国(および日本国内の韓国の主張に対してシンパシーを持ったり主張の正当性を認める人)  
予想されたこととはいえ、韓国はこの検証そのものに強く反発している。日本国内の韓国の主張に対してシンパシーや主張の正当性を認める人も同様の反応を示す。  
2014.7.2 当初、韓国(および日本国内の韓国シンパ)としていたが、韓国シンパが粗雑な言葉だという指摘があったので、日本国内の韓国の主張に対してシンパシーを持ったり主張の正当性を認める人と表現を変更した。  
韓国外交省の趙太庸(チョテヨン)・第1次官は23日、別所浩郎・駐韓国大使を呼び、安倍政権が公表した河野談話の検証結果について抗議した。韓国側は「強制性を認めた談話を無力化させようとしている」と分析。今後、慰安婦の実態に関する白書を発行するなど国際社会への訴えを強める方針だ。  
河野談話検証に対抗する目的だと思うが、韓国は外務省ホームページで従軍慰安婦の証言動画を公開した。  
政府は、いわゆる従軍慰安婦の問題を巡って謝罪と反省を示した平成5年の河野官房長官談話について、20日、談話の作成に当たって韓国側と事前に綿密に調整していたなどとした有識者による検討結果を公表しました。  
これに対して、「政治的妥協の産物だと印象づけて談話の価値をおとしめている」などと反発している韓国政府は、27日夜、元慰安婦だとする女性らの証言などからなる英語のドキュメンタリー作品2つを韓国外務省のホームページに掲載しました。  
(4) アメリカ(政府)  
一方アメリカは、河野談話を維持するという日本の決定を支持しつつも、河野談話や従軍慰安婦などの問題について、日韓双方から距離を置き、日韓の対話を促す立場をとっている。  
この問題についてアメリカ政府は、談話を継承するという安倍政権の方針を支持する姿勢を示しており、今回の会談でバーンズ副長官は、韓国側に対し、対話を通じて問題の解決を図るべきだというアメリカの立場を伝えたものとみられます。  
正直言って、どの立場、どの国も、予定調和的反応だと思う。口悪く言えば、新鮮味がなく面白みがない。つまり、この河野談話検証は、衝撃の事実などないインパクトに乏しいものだったということだろう。*1
慰安婦問題の構造  
私は、慰安婦問題の本質は「戦時における性暴力の廃絶」という世界がいまだ解決できていない人道上の難問題だと考えている。  
しかし、今、現実に我々の目の前に存在している慰安婦問題は、  
•人道上の問題を盾に日本に対して外交上の成果をあげようとする韓国政府  
•韓国のナショナリズムを背景に、数の力を武器にしてアメリカ社会に日本批判の世論を作ろうとする韓国系社会  
•韓国系ロビーに呼応し韓国の主張をそのまま主張するアメリカの議員団  
と、アメリカを巻き込んだ政治・外交問題となっている。  
その状況に対し、  
•慰安婦は売春婦であり韓国から不当な非難を浴びていると批判する国内のグループ  
が強く反発し、韓国からの慰安婦問題に関する日本非難の根拠となっている『河野談話』を見直すよう安倍政権に圧力をかけた。安倍政権もそのようなグループ(ナショナリスト)の政治的支持を政権運営上必要としているし、安倍首相自身も『河野談話』に強く疑問を持っていることから、今回の検証は行われることになった。  
ここにあるのは、人道問題という本質はとうの昔にどこかへ行ってしまい、日本も韓国も両国とも、この問題を国内政治と外交の問題として捉えているという構図だ。両国政府は建前上この問題を人道問題としているが、そんな言葉は空虚にひびく。それが現実だ。
慰安婦問題を解決できるのか  
最善の方策=政治問題を完全に分離し人道問題として解決を図る  
慰安婦問題を解決する最善の方策は、慰安婦問題の原点に立ち返り、政治問題を完全に分離した上で、人道問題として解決を図ることだというのは、異論がないのではないかと思う。但し、この方策の実現可能性は?と問われると、実現可能性は限りなくゼロに近いとしかいいようがない。  
その理由を端的にいえば、韓国の立場としては、「現在韓国が主張していることは人道問題であって政治問題ではない」という主張を韓国は撤回できず(撤回は朴大統領の政治的な死を意味する)、政治問題ではないという立場に立てばそもそも分離すべき政治問題などないからだ。そうすると、日本の立場としては、「韓国の日本に対する請求権は完全かつ最終的に解決された」という条約に基づいた立場を続けるだけになる。  
私の国際関係の分析は現実主義(リアリズム)によるものを基本にしている。この考えの基本になるのは、国益であり、プラグマティック(実利主義的)な考え方だ。  
実利主義的に考えれば、実現可能性がない方策を追い求めるのは無意味だ。前述の通り、慰安婦問題を純粋な人道問題として解決するのは不可能になっている。だからその試みはもう行われないし、もし万が一、なにかの拍子にその試みが行われてもそれは徒労に終わるだろう。*2  
次善の方策=政治問題と割り切って解決を図る  
日韓両国が、慰安婦問題をプラグマティックな政治問題だと割り切ってしまえば、慰安婦問題解決に向けた微かな道のりが見えてくる。  
その場合、目指すのは、日韓両国の国益の許す範囲内での妥協だからだ。  
日韓双方の主張は、大きく相違しているだけに、妥協がなりたつのか?という点は確かに疑問符がつくが、それでも全く可能性ゼロとも思わない。  
なお、この方策は、アメリカ政府の立場=「対話を通じて問題の解決を図るべきだ」と同じだと思う。この方策の可能性がゼロではないと思う理由のひとつが、日韓の調停者としてのアメリカ政府の存在があるからだ。*3
慰安婦問題の解決を阻害するもの  
日韓両国のナショナリズム  
ひとつは、日韓両国のナショナリズムだ。  
韓国のナショナリズムは、「旧日本軍によって行われた性暴力の賠償を求めるのは当然だ」という被害者の正義に基づく。  
日本のナショナリズムは、「慰安婦は当時許容されていた売春婦制度であって現在の基準で性暴力扱いするのは不当だ」とか「条約によって請求権がなくなったものを何度も求めるのは不当だ」とか「当時の軍の強制が証明されない以上、国としての賠償はできない」とか、法の正義というべきものに基づいている。でも、本音レベルでいえば、「性暴力は日本だって受けたし、後日韓国だってやった。なぜ日本だけが責められるのか」という不公正に対する反発という弱者の正義に基づいていると考えるべきかもしれない。  
後述するが、どれが正しいかいうメルクマール(基準)を私たちプラグマティックな現実主義者は重視しない。この場合、日本と韓国のナショナリズムのどちらがより正しいかという判断はしない。  
複数の立場で複数の正義が主張され、その正義同士が真っ向からぶつかるという状況は、国際関係では別にめずらしいことではないし、逆に国際関係で問題になっているものは、ほとんど全てそれぞれがそれぞれの正義を主張しているといっても過言ではない。*4  
私たち現実主義者は、そのような主張がぶつかっている状態で、何が正しいかというアプローチが紛争を解決しないことを知っている。正しさを競い合っても、問題はこじれていくばかりだ。  
非妥協的なリベラル、マスコミ  
一方、人道上の解決を強く訴える人たち(その主張はリベラル的なもの)の中で、非妥協的な人もいる。こういった人たちも、解決策が不完全であるからと言う理由で、慰安婦問題の政治的解決を阻害する。  
特にいわゆる韓国から「良識的」と評価されるマスコミは、解決よりも批判を優先する。  
すでに経済状態も厳しく、フラストレーションがたまっている日本国民にとっては、「100%満足のいくものではないかもしれなけれど、真摯に謝り、精一杯の誠意を示した。なのに、ゼロ回答か…」という失望感が広がりました。そこから、「中韓に謝ってもいいことない。かえって居丈高な態度をとられるじゃないか。欧米もなんだ。自分たちだって植民地支配をしていたし、性の問題で後ろめたいことがあるのに、善人ぶってお説教か」という怒りが出てきた。  
この怒りは、正当なものだと思います。日本の有力なメディアも、政治家も、私たち専門家も、そういう国民の思いを、韓国や中国や欧米に伝えることを怠ってきました。特に、政府の責任は大きいと思います。担当者は、自分が担当している期間は波風立てたくないと、首をすくめて嵐が過ぎるのを待つだけ。「私たちはここまでやってきたんだから、堂々と発信して、韓国のメディアとも戦いましょう」と何十回言ってもダメでした。  
日本のいわゆる「良識的な」メディアも、韓国のメディアの問題点は、まったく取り上げない。むしろ、「国家賠償を行わず、法的責任は取らなかったのは不十分」という論調でした。  
正しさ、正義というメルクマール(基準)  
「私の主張は正しい」「私たちこそ正義だ」  
こういった発言を真顔で発言する人を思い浮かべてみてほしい。それはナショナリストだろうか? それとも善人ぶったマスコミだろうか?  
自分の意見と異なる人への批判はあっていいのだけど、日韓のナショナリズム、すなわちナショナリストの主張の全部が間違いとはいえないし、善人ぶったマスコミにもそれぞれ主張できる正当性がある。しかし、慰安婦問題の場合、その主張は真っ向から対立している。何を持って正しい、正義だというのは、その人の考え方次第という状況だ。  
そこで、仮に、両者が歩み寄り、その正当性を双方が認め合って、五分五分で決着しようとした場合、それぞれの主張する正しさ、正義ってどう変えたらいいのだろうか? 本当に両方の主張を半分ずつ取り入れて合意できるような正しさとか正義とかは成り立つのだろうか?  
こじれた国際問題の場合、その多くは、当事者が非妥協的な立場をとり続けている。  
私は、正しさ、正義というメルクマールを全否定しているわけではない。ただ重視していないだけだ。なぜならそのメルクマールには限界があり、両者が正しさや正義を主張するこじれた関係を改善するには向いていないという負の側面があるからだ。たとえその当事者が当事者でない立場だと理解できないような正しさや正義を主張していたとしても、当事者の主張を否定すると解決どころか関係はこじれるだけになる。  
慰安婦問題も、世界にゴロゴロしているこじれた国際問題の例に違わず、当事者(日本と韓国)の非妥協的な態度が解決の最大の阻害要因になっている。問題を解決するためにふさわしいメルクマールとは、より妥協可能なものであるべきとは思わないだろうか?
慰安婦問題に対する3種類のアプローチ  
日本のナショナリストのアプローチ  
今回の河野談話の検証作業は、「河野談話は正しくないから見直すべきだ」という圧力から行われたものだ。ここにあるのは「正しさ」というメルクマールだ。それは慰安婦問題について「慰安婦とは売春婦のことだ。政府や軍が組織として関与した強制はなかった。だから謝罪など必要なく河野談話は撤回すべきだ」という主張に繋がる。これは彼らなりの「正しさ」が根底にあるアプローチだが、そのアプローチをとった場合、その行き着く先を冷静に想像してほしい。  
欧米を含めて、戦場における性暴力の問題を解決できた国は存在しない。ほとんどの国がうろめたい過去を持っている。月日が経ち、せっかく忘れ去ろうとしているそんなパンドラの箱を開けたがる国があるだろうか。それよりも門前払いで、日本は戦場における性暴力を正当化する国というレッテルを張り、それを厳しく批判する自国という構図を作りたがるだろう。それが、当事国でない他国の「正しい姿勢」だ。  
重ねて言いたい。  
どんなに日本の旧軍が組織として慰安婦運営に関わっていないという資料を出しても、日本は免罪だという国は現れない。それどころか日本は非難の集中砲火を浴びる。その理由は「自国が現在になっても解決できていない戦場の性暴力の問題を70年前の日本の旧軍が解決できているはずがない。つまり日本は重要な事実や資料を隠していると考えられる」という考えを各国とも覆さないからだ。それを覆すと東京裁判そのものの是非にまで行き着く。そんな大事を抱えてまで、日本を擁護する国があるだろうか?  
河野談話の発表当時のリベラルなアプローチ  
では、彼らが批判対象としている河野談話はどうだったのだろうか。皮肉なことに、今回の検証報告にそれが明確に示されている。  
河野談話は、日韓両国が文言をすりあわせて作られたものである。では、なぜ日韓両国は文言をすりあわせたのか? それは日韓両国とも、この問題が両国の政治、外交問題であると認識していた証左だ。  
外交問題だと認識しているのであれば、なぜそれを正式に外交の俎上に上げ、補償(償い金)や謝罪の方法、文まで含めて、日韓の正式な合意ができるまで交渉しなかったのだろうか? 日本側の自主性にまかせたいという韓国側の主張をなぜそのままうけとってしまったのだろうか?  
私のような、プラグマティックな現実主義者にとっては、それが最大の失策だと思える。  
元慰安婦への「措置」について日本側が,いかなる措置をとるべきか韓国政府の考え方を確認したところ,韓国側は,日韓間では法的な補償の問題は決着済みであり,何らかの措置という場合は法的補償のことではなく,そしてその措置は公式には日本側が一方的にやるべきものであり,韓国側がとやかくいう性質のものではないと理解しているとの反応であった。  
もし、河野談話の発表と同時に、日韓両国の共同声明を発表し、将来に向けて慰安婦問題の解決を宣言できていたとしたら、その後の日韓関係はどうなっていただろうか。  
一方、慰安婦問題の解決について共同声明を出せない=日韓の正式な合意がない状況で、謝罪の文言をすり合わせた事実すら隠し、謝罪と償い金支払いを優先した場合はどうだったかは、20年経った今、明確に答えはわかっている。それでも当時謝罪を強行したのは、「日本は戦争における被害について謝罪すべきだ。悪いことをしたのだから謝罪するのは当然だ」という正義のメルクマールがその根底にあったからではないか? これは慰安婦問題について解決の合意はなかろうと「誠意を示せば日韓関係は改善する」という思い込みにも似た善意のアプローチといえると思う。そしてそれがもたらした現状を思い返してほしい。特に国民の善意からはじまった償い事業が、どう潰されていったかを直視してほしい。  
このアプローチが行われたのは、日韓関係をよくしたいという善意であったことは間違いない。ただその結果は、日韓関係をもっとこじらせて解決を困難にし、先の世代につけを回しただけになった。善意だからといって免責されない。外交問題である以上結果責任は当然ある。  
なによりもこのアプローチを阻害したのは、当の韓国自身であったことを忘れてはいけない。  
現実主義的なアプローチ  
私たちプラグマティックな現実主義者は、こんな場合、日韓の合意=実利がない場合、謝罪すべきでないという結論を出す。謝罪は最終的な解決の合意と同時でなくてはならない。だから合意ができるまでひたすら交渉する。何年経とうともだ。当時であれば、人道的に「慰安婦が高齢になってしまい時間切れになる」というリベラルやマスコミから大きな批判をうけただろうが、それに動じずただひたすら合意をめざすだけ。交渉が難航すれば時間を置く。これがプラグマティックなアプローチだ。  
3種類のアプローチのどれを選ぶか  
さて、ここにあげた3つのアプローチ、どれが正しいかとは問わない。私たち現実主義者が問うのは、20年前、3つのうちどのアプローチだったら、20年後の今、今よりもよい日韓関係を導く可能性が高かったかということだ。  
例え現在に至るまで、20年以上交渉が続き、韓国から非難があったとしても、交渉している事実を公開していれば、国際社会で一方的に日本が非難されることはなかっただろうと思う。一進一退の状況が続けば、日韓双方とも解決を先延ばしする利益がなくなっていくので、妥結の可能性は高まっていっただろう。私はそう考えている。
慰安婦問題と日韓関係の今後の展望  
韓国政府から慰安婦問題で妥協的な反応を引き出すには?  
歴史に if を問うてもあまり意味はないのはよくわかっているつもりだ。少しif論を書きすぎた。本当に大事なのは、今後であるという点は異論がないだろう。  
慰安婦問題は、日韓両国とも妥協的な態度にならない限り解決しないと書いた。では、どうすれば韓国を妥協的な態度に変えられるのだろうか?  
日本が韓国の主張する通りの誠意を見せるべき? これも河野談話を発表したアプローチと同じ=善意のアプローチだね。2度同じ失敗をしてはいけない。  
相手国が妥協的な態度になったから、自国も妥協的になる。それがプラグマティックなアプローチだと重ねて言いたい。  
韓国政府はプラグマティックか?  
韓国政府は、妥協的ではないとして、プラグマティック(実利的)なのだろうか? もしそうでなければ、実利で韓国と交渉しても結果は得られない。  
私は、韓国政府は十分にプラグマティックだと考えている。  
韓国は、慰安婦問題を解決しないことが韓国の利益になっている。「人道」という錦の御旗でいつでも好きなときに日本に対して非難を浴びせられ、日本からの譲歩を勝ち得る材料となるからだ。解決すると、その外交カードを失う。そんな合理的な判断があり、日本に対し、日本が飲めないとわかっている要求をつきつけている。それは韓国の立場からすると、当然のことだと思う。  
では、日本はどうすれば、韓国政府から慰安婦問題で妥協的な反応を引き出せるのだろうか?  
韓国政府が十分にプラグマティックである以上、そのためには、合理的、実利的な理由で、慰安婦問題の解決を先延ばしすると韓国が不利益になる状況を作るしかないだろう。  
(1) アメリカの圧力を利用する  
アメリカは、アジアへのリバランスを指向している。いくら名に実が伴っていないとはいえ、方針は方針だ。  
その前提はアメリカ軍を削減しつつ、アジアでのプレゼンスを維持することだ。この難題に対する回答が、日米同盟、米韓同盟を発展させ、日米韓軍事同盟にすることだろう。そのためにアメリカは日韓両軍(自衛隊)の共同運用を実現したい。そこでその一歩として「日韓秘密情報保護協定」を締結する。この協定は、締結の一歩手前までいったのだが、当時の韓国の李明博政権が締結の直前でキャンセルした。その理由の一つにあげたのが、日本軍慰安婦記念碑の撤去運動を日本側が行ったことだった。  
韓国は、安全保障問題と慰安婦問題をリンケージした。これを慰安婦問題の政治的な利用と呼ばずしてどう呼べばいいのだろうか?  
当然、アメリカも韓国が「日韓秘密情報保護協定」の締結ができない本当の理由が慰安婦問題にあると思っているはずがない。ただし、安全保障問題と慰安婦問題という本来関係のない2つの国際問題を韓国がリンケージした以上、この2つはセットで考える必要がある。*5  
アメリカは、安全保障問題を前進させるために、慰安婦問題の前進を必要としている。その動機があるため、アメリカは日韓両国に慰安婦問題の解決に向けた取り組みを行うように圧力をかけ続けるだろう。それを日本は利用すべきだ。  
(2) 時間をかける  
慰安婦が生きている間になんとかしたいという取り組みは本当に残念なことに頓挫した。国際関係では善意の関係など信じていない現実主義者の私だが、例え自説が誤っていることになろうと、それでもできることをまずやろうとした償い事業が日韓関係の改善に役に立っていたらよかったのにと本当に思う。でも現実は、国際関係では本当に簡単に国益のため善意は踏みにじられ、善意からはじまった行動は頓挫させられる。そんなありふれた事例の一つになった。  
償い事業のホームページで、次のようなくだりが紹介されている。日本人として、このような話を見聞きすると、やはり心が揺さぶられる人は多いのではないだろうか?  
人が受けた痛みは、人でなくては癒せない。本質は人道問題だという慰安婦問題の本当の姿がかいま見られると思う。人道的に見れば、元慰安婦本人に対する謝罪は本当に必要だと思う。*6  
そしたら、彼女がわんわん泣きながら、「あなたには何の罪もないのよ。」って。「遠いところをわざわざ来てくれて、ありがとう。」というような趣旨のことを言って、でもずっと興奮して泣いていて、しばらくお互い抱き合いながらお互いそういう状態でいて・・・  
私は、「でも私はあなたは私に罪がないって言って下さったけど、でも私は日本人としてやはり罪があるんですよ。」と言いました。「日本の国民の一人として、あなたにおわびしなきゃいけないんです。」というような、そういうやりとりがあって。  
しかし、韓国政府の考えは、やはり国益優先であった。韓国政府は、日本の国としての謝罪を要求し償い事業を拒否した。償い事業を受け入れることは、韓国の外交交渉力をそぐことになるので、真っ向からこれを否定し、償い事業をつぶす方策を実施した。以下を読んでもらえれば、かなり露骨なやり方で償い事業ををつぶしにきたのは、よくわかると思う。  
同年3月、金大中大統領が就任しました。新政府は、同年5月、韓国政府として日本政府に国家補償を要求することはしない、その代わりにアジア女性基金の事業を受けとらないと誓約する元「慰安婦」には生活支援金3150万ウォン(当時日本円で約310万円)と挺対協の集めた資金より418万ウォンを支給すると決定しました。韓国政府は、142人に生活支援金の支給を実施し、基金から受けとった当初の7名と基金から受けとったとして誓約書に署名しなかった4名、計11名には支給しませんでした。  
外交交渉は、国益優先である。その現実は認めなければいけない。韓国政府のこのやり方を非難するのは容易ではない。どの国も国益を第一に考えている。私たちがここから学ぶべきは、やはり相手も国益優先で外交をすすめている以上、日本も国益優先で対応する必要があるということだ。正義というものさしで外交を見るのではなく、そんなプラグマティックな考え方を受け入れてほしいと思う。  
ただし、そのように国益優先の当時の韓国政府ですら、国家賠償を要求していない。それは日韓基本条約とその付随条約*7によって、韓国の請求権は完全かつ最終的に解決されていることがわかっていたという点は指摘しておきたい。  
ここから、更に時間が経ち、慰安婦問題には、安全保障問題などその他の分野の国際問題がリンケージした。いろんなものでがんじがらめになっている。そんな20年のツケがある。例え慰安婦問題が解決できたとしても、その解決には時間がかかる。必要な時間をかける覚悟を日本は持つべきだ。  
今、既に高齢になった元慰安婦の女性もいつまでも生き続けるわけではない。ひどい言い方なのはわかっているが、もう彼女らが生きている間にこの問題が解決できる見込みはほとんどない。  
一方、韓国側は、元慰安婦の女性が全員亡くなってしまったら、その後この問題について求心力を失ってしまうという心配を持っているように思える。  
そこで彼らは、新たな装置を作った。いわゆる「慰安婦像」である。  
元慰安婦の最後の生存者が亡くなった時、その「恨」はこの慰安婦像に象徴され、慰安婦像は韓民族統合の(慰安婦問題だけでなく)全ての日本に対する「恨」の象徴になるだろう。そして、日本の要人が訪韓する度にこの像の前にひざまづき謝罪することを、民族の悲願とするようになるだろうと思っている。そして日本に対する新たな「恨」が統合され続け、韓国のナショナリズムの象徴として、意味合いを少しずつ変えながら残り続けるだろうと思う。  
そして韓国は、今やその象徴を人道の名のもとに世界各国へ輸出しはじめた。  
慰安婦問題は、早々短い年月で風化はしない。  
(3) 韓国軍慰安婦に対する対応を見極める  
1990年代に外交問題になってから始まったとはいえ、日本軍慰安婦について、韓国政府は毎月一定の生活費を支給している。  
一方、韓国政府が国として運営していた朝鮮戦争後の韓国軍慰安婦については、女性団体が韓国政府に対応を求めていたし、何度か国会で左派野党が問題にするものの進展はなく放置されていた。  
今回、日本の河野談話検証結果の発表の直後、韓国軍慰安婦たちが集団提訴を行った。*8  
河野談話検証結果の発表と時期が重なったのは偶然ではなかろう。この提訴もまたとても政治的なものだ。  
女性らは1957年から韓国国内の米軍基地周辺で米兵を相手に売春をさせられた。韓国政府は米軍を相手にした売春を認める「特定地域」を設け、女性たちを管理。性病の検査も強要し、感染者の収容所も設けていたという。  
これがどう日韓関係に影響するかは、ネットで多く見られる発言のように単純ではないと思うが、一般的に言ってどんな事案にも有利な点、不利な点がでてくるものだ。  
この問題を韓国の司法がどう裁くのか。特に韓国の憲法裁判所が『元「慰安婦」の対日損害賠償請求権問題を解決するために政府が具体的な努力をしないのは請求者たちの基本権を侵害するもので憲法違反である』とした判決内容との差を詳細に分析し、日本が外交交渉上有利になるものを把握すべきである。  
また、韓国国内の世論、特にマスコミの論調の分析も必要だ。  
慰安婦問題は既に人道問題に名を借りた韓国のナショナリズムの現れとなっていると思われるが、日本としては韓国のマスコミの言論や世論からその証左を得たいところだ。  
この裁判には、韓国の左派系野党の朴槿恵政権への攻撃という側面もあるので、人道問題よりも韓国国内の政治問題の方がクローズアップされがちになろうと思うが、注目はしておきたいと思う。  
日本の左派の中では、この裁判で韓国が人道的な対応を行うことを期待する向きもあるようだが、この裁判の韓国国内の真の姿は韓国の左派対朴槿恵政権というものであり、そうそう日本の左派が期待するような竹を割ったような人道的な決定は行われないだろうと思う。  
それでも朴槿恵政権が死中に活を求めて人道的な対応を行い切ったとしたら、それはそれで朴槿恵政権を高く評価すべきであり、日本のこの問題=慰安婦問題に対する対応は変化せざるを得ないと思う。まあお手並み拝見である。  
(4) 韓国のいやがる外交を行う  
なんだかマキャベリズムを全面に出した言い回しになってしまったが、真意としては、韓国がいやがろうと必要な外交を日本は粛々と行うべきというものに近い。  
韓国がいやがる外交とは、こんなものがある。
北朝鮮との外交交渉  
日本にとっては、北朝鮮との問題を解決する動きをとるのは当然だし、交渉内容をなぜ事前に韓国に説明しなければならないのか理解に苦しむ意見なのだが、なぜか韓国には焦りがあるようだ。  
国交正常化まで言及された29日の北朝鮮・日本の会談の結果、発表は韓国政府にとっては突然の内容だった。日本は、韓国側に事前に具体的な説明をしなかった。悪化の一途をたどっている韓日関係の現状を物語るものだ。  
集団的自衛権の行使の容認と法整備  
アメリカか中国か、日本の集団的自衛権行使容認は、韓国の二股外交の矛盾をえぐる。中国にいい顔をしようとすれば日本の集団的自衛権行使に反対したいし国民感情もそれに近い。一方で日本の集団的自衛権行使は日米同盟を強化し、それは間接的に米韓同盟にも好影響がある。  
韓国が二股外交を行い、態度を鮮明にしない状況は、アメリカも日本も自国の国益を損ねる状況である。韓国に旗幟を明らかにするよう迫る外交は必要だ。  
韓国メディアの報道は「総理が思いのままに憲法解釈を変える日本は民主国家なのか」「戦争ができる国に生まれ変わる」(朝鮮日報)といった厳しい批判ないし警戒の論調が目立つ。  
一方、韓国外務省は安倍晋三首相が記者会見した5月15日に論評を出し、日本の安保防衛論議につき「平和憲法精神堅持、透明性維持、地域の安定と平和維持に寄与する方向で」と注文を付けた。朝鮮半島の安保と韓国の国益に影響を与える事項は韓国の要請か同意がない限り決して容認できず、日本は過去の歴史に起因する周辺国の疑念と憂慮を払拭(ふっしょく)していかねばならないとも言及した。一見、「断固反対か」とも思えてしまう。  
だが注目すべきは韓国政府が公式には反対とも賛成とも明言していない点だ。あまりに複雑で悩ましい現実があり、態度を鮮明にしかねるのである。  
しかし、韓国自身がリンケージしたからとはいえ、慰安婦問題を考える上で、安全保障問題まで考えねばならない状況は異常だ。  
こんな馬鹿げたリンケージは、早晩韓国に解かせねばならないし、二度と安全保障問題と慰安婦問題を韓国にリンケージさせてはいけない。安全保障問題と慰安婦問題のリンケージは、慰安婦問題の解決に役立たないばかりか、東アジアの安定を損ねるだけである。日本はこの件について厳しく韓国を批判すべきだと思う。
日韓両国とも手詰まりになっている  
前項で日本がとるべき方策を考えたが、そのうちどれか決定打=これをやれば慰安婦問題を解決できるというものがあっただろうか?  
自分で書いていてそれを否定するのも申し訳ないのだが、そういったものはないと思う。  
だからといって、ナショナリストが主張するように河野談話を否定するのも、韓国が主張するように先に日本が誠意を見せるべきだという言に乗っかるのも、失敗するのが見えている。  
日本は手詰まりになっている。  
では、韓国の方はどうか。  
朴槿恵大統領は、告げ口外交と日本では散々に批判されている外交、各国を精力的に外訪し外訪先で日本批判を行う外交を展開してきた。  
さて、その外交の成果はあがっているだろうか?  
どんな国も、日本と韓国の二国間の歴史問題など興味がないんだ。少なくとも優先順位は低い。(但し、中国は除く)  
朴大統領の外訪によって外訪先の国にもたらす国益があるので、外訪時の会見では外訪先国の首脳は韓国に対しリップサービスをするだろうが、それをうけて何か動いた形跡があるだろうか。  
更にこの河野談話の検証結果の発表だ。これは外交上秘密にしようと日韓両国で同意した内容の暴露でもある。  
それは日本の外交上、秘密を漏らす国としての外交上のダメージをもたらすが、一方で秘密であることをいいことに態度を豹変させた韓国の外交の身勝手さも表面化させた。  
韓国もこれまでのように一本調子の日本への非難を行いにくくなった。  
結局韓国も手詰まりに陥ったといえる。  
韓国は外交の秘密を河野談話検証で公開したことに憤っている。  
一方、日本は韓国で政権が変わるたび、態度を変え、外交の秘密を盾にして韓国のナショナリズムを全面に出した外交に辟易としている。  
当面、慰安婦問題で日韓は対話なき対立関係が続くのだろう。でも、それは李明博前大統領が竹島に電撃上陸して以来続いていることであり、これが日韓関係の普通の姿だ(だってもう2年近く続いている)と割りきってしまえば、日本の外交上、そこまで大きな問題ではないともいえる。  
私は、李明博前大統領の竹島上陸で、日韓関係は壊れたと思っているが、少なくとも日韓双方とも不信と冷ややかな視線を相手に投げる新しい日韓関係の時代に突入したというのは間違いないと思う。  
でもそれは、私のようなプラグマティックな現実主義者にとっては、対価を求めない理想主義的な外交、そしてどんどん相手の要求が高くなり理想と現実が乖離していくばかりの外交よりも、対峙を恐れず国益を重視する実利的な外交の方が望ましいと思っている。日韓関係がそのような関係になるためには、通らざるをえなかった反駁の時代なのだろう。
韓国をめぐるアメリカと中国の綱引き合い  
結局、慰安婦問題については、韓国がアメリカ側に残るのか、中国圏に入るのか、旗幟を鮮明にするまでは韓国の姿勢は変わらないと思う。韓国がアメリカ側に残ると決断した場合のみ、韓国は妥協的になると予想する。今週、7月3〜4日に、中国の習近平国家主席が国賓として韓国を訪問し、朴槿恵大統領と首脳会談を開く。そこでどのような動きがあるか、まずはそれを見極めたい。  
「中国へベットすべきでない」とアメリカもかなり露骨に韓国へ圧力をかけているようだ。米国政府が韓国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)加盟の動きにブレーキをかけた。(AIIBとは、中国が自国中心の新しい国際金融秩序を構築するという目標で設立を推進している機構。) 東アジアでの綱引きは続く。
 
*1 / つまりみんな知っていた。公然の秘密だったということと思う。この検証はただ公然の秘密を公開しただけの効果しか持たないと思う。それを大層なものとして河野談話の否定まで持って行こうとする日本のナショナリストも、強硬に反駁する韓国と韓国のシンパたちも、主張は真っ向からぶつかっているが同じ水準の反応に見える。  
*2 / 慰安婦に対する「償い事業」は、日本の立場の許せる範囲で人道的解決を目指したものとして、一定の評価はできるが、その事業は、日韓関係においては残念ながら新たな軋轢を生むことになった。日韓関係は、当時よりも更にこじれてきており、このような事業を行ってもその結末は容易に想像できる。  
*3 / 韓国政府も日本政府も慰安婦問題解決の意欲は薄いと思われる。韓国は中国との関係の兼ね合いがあり、アメリカが望む日韓秘密情報保護協定を締結したくないのだが、その交渉ができない理由のひとつがこの慰安婦問題で日本が誠意をみせないからとしている。慰安婦問題の交渉が進展しはじめると、そういった日韓秘密情報保護協定の締結交渉ができない理由が失われてしまう。一方日本政府も、韓国政府の変化がなければ、慰安婦問題に対する請求権は解決済みという立場を変える理由がなく、解決に積極的と思えない。アメリカ政府が圧力を加え続けないと、この問題を解決しようという動きは活性化しないだろう。  
*4 / はてなでは、慰安婦問題について、韓国の主張を補完する投稿がときどきホットエントリにあがる。こういった人たちの投稿の意図は不明だが、その投稿の効用は韓国のナショナリズムの補完にしかならない。今のところ大きな力にはなっていないが、それらは日本のナショナリズムを刺激し、対立を深めるだけで、慰安婦問題の解決の阻害要因になると分析している。  
*5 / 関係のない2つの問題をセットで考えるとかおかしいと考える人は多いかもしれない。正しさのメルクマールだとそうだと思う。しかしリンケージとは頻繁に使われる外交交渉のテクニックであり、このこと自体を批判することはできない。問題は、リンケージというのは、問題解決を容易にするために行う場合と、問題解決をわざと難しくするために行われる場合と2つあり、韓国の今回のリンケージは明らかに後者、問題解決を難しくするために行ったということだ。  
*6 / 韓国という国に対する謝罪は、それは人道問題ではなく外交問題であって、今のところ河野談話だけで十分と思う。これ以上の謝罪を韓国が要求するなら、プラグマティックにそれに見合う韓国からの譲歩を要求すべきだ。  
*7 / 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定  
*8 / 報道では米軍慰安婦となっているが、詳細な内容がまだわからないので、米軍慰安婦よりも概念の広い韓国軍慰安婦の用語を使った。もっとも私はその2つを区別することにそれほど意味がないと思っている。両方とも女性の人権に対する侵害であることは変わらない。
「河野談話」検証報告を米国はどう受け止めたか 7/7  
慰安婦碑設置の動きを止める、との狙いは逆効果に?  
河野談話作成過程等に関する検討チーム(座長・但木敬一元検事総長)が「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯〜河野談話作成からアジア女性基金まで〜」と題する報告(以下、「検証報告」)を公表してから2週間がたった 。外務省は検証報告を公表すると同時に英語仮訳を配布。その内容は米政府関係者や米メディアにも同時に知れ渡った。  
韓国政府は激しく反発。チョ・テヨル第2外務次官は、「河野談話を検証すること自体、同談話の形骸化を意図したものであり、韓日国交正常化以降、韓日関係の根幹となってきた河野談話、村山談話という2大談話の一方を日本政府は有名無実化しようとしている」と断じている。韓国政府は韓国版「慰安婦白書」作成にも踏み切った。韓国国会は7月上旬にも「検証糾弾決議案」を採択する。そうした中で米国は検証報告をどう受け止めているのだろうか。  
国務省記者会見で食い下がる韓国人記者  
米国務省で6月20日に開かれた定例記者会見で、検証報告を受けて、韓国人記者が米政府の受け止め方を質そうとサキ報道官に執拗に迫った。  
サキ報道官のコメントは既に、新聞などが部分的に報じている。だが、若干長くなるが、同報道官と韓国人記者とのやりとりの詳細を「再現」してみたい。従軍慰安婦問題に対する安倍政権の対応を米政府がどう見ているか、そのニュアンスが手に取るように分かるからだ。  
開口一番、韓国人記者がこうただした。「米政府は検証報告の結論に同意するか」。これに対してサキ報道官は用意されたメモを読み上げた。  
「元首相(村山富市)と河野(洋平)元官房長官が示した謝罪は、近隣諸国との関係改善を目指した日本にとって重要な一つのチャプター(第一章)だというのがわれわれの見解だ。われわれは『この河野談話を維持・確認することが安倍政権の立場である』とした官房長官(菅義偉)の20日の談話に留意する。われわれはこの問題あるいは過去に生じたその他の問題に対する日本のアプローチが、近隣諸国とのより強固な関係の構築に資する方法で行われるよう、継続的に勧めている。この点についてのわれわれの立場は変っていない」  
この答えに満足しない韓国人記者は、「そうした(米国の)見解を日本政府も受け入れることが必要だと思わないか。この問題は韓国及び中国にとってセンシティブな論題だからだ」とさらに質問した。  
サキ報道官:「オバマ大統領がアジア諸国を歴訪した際に述べた通り、韓国と日本は多くの共通の利害を有している。両国が未来志向で、お互いが分かち合う諸問題を解決するために一緒に行動するか、それが重要である」  
韓国人記者:「オバマ大統領は日本滞在中に、日本はこの問題を解決するためにより先取的な措置を取るよう呼びかけた。日本政府はその後、大統領のアドバイスを受け入れたと思うか」  
サキ報道官:「大統領が滞日中に述べたのは、彼ら(日韓双方)が過去を振り返り、未来を見据えるべきだということだと思う。ここで言う未来志向とは、(日韓双方が)一緒になって問題を解決し、過去の出来事を過去のこととして忘れ去る(Put events of the past behind you)という意味だ」  
韓国人記者:「しかし日本政府は過去を振り返り、将来を見ようとはしていないように思えるが…」  
サキ報道官:「われわれは日本に対し未来を見据えるよう勧めている」  
「検証報告は河野談話を傷つけるものだ」  
韓国人記者:「ということは、米政府は検証報告は河野談話を傷つけるものではないと考えているのか」  
サキ報道官:「河野談話を継承するという安倍政権の立場は菅官房長官の談話で示されている。この点については既に述べた通りだ」  
韓国人記者:「河野談話の作成に当たって韓国政府と日本政府は協議したと、検証報告は結論付けている。その結論自体、河野談話に疑惑を生じさせると考える者もいる。そうした意見に同意するか」  
サキ報道官:「日本政府の立場は既に指摘した通りだ。(菅官房長官談話が)明確に表明している」  
韓国人記者:「検証報告は(慰安婦問題解決には)役に立たない措置(Unhelpful step)ではないのか」  
サキ報道官:「われわれが重点を置いているのは、日韓双方が関心を共有する問題について日韓が一緒になって解決するよう勧めることにある」  
韓国人記者:「韓国政府は検証報告の公表を踏まえて独自の検証をし、国際社会とともに(対日)行動を取ると言明している。こうした動きを米政府は支援するか」  
サキ報道官:「米政府は、日韓両国は広範囲にわたる諸問題と関心事を共有していると考えている。日韓両国がこれらの問題を前向きに解決することに重点を置くよう勧めている」  
米政府のホンネは「検証報告は無用の長物」  
上記の質疑応答で仄見えてくるのは、安倍首相が第1期政権以来、言明していた河野談話見直しに対する米政府の警戒心だ。ワシントンからの強い説得を受けて、見直しを一応撤回したものの、安倍首相周辺には「見直し」論が燻り続けている。そうした中で、河野談話を作成した経緯を検証する検討チームが出てきた。「国務省は当初から、安倍首相肝いりの検討チームに不快感を示していた」(米有力紙の国務省担当記者)という。  
サキ国務省報道官が6月20日に示した公式見解は、日本政府への配慮から、不快感の部分は“伏せ字”にしていた。韓国人記者とのやりとりで、検証報告自体について一切コメントしていないのはそのためだった。その一方で、検証報告を受けて菅官房長官が行った「河野談話見直しせず」発言を評価した。  
検証報告に対する米国の苛立ち  
既に公表されている米議会調査局の報告書を読むと、「河野談話」を作成する過程で日本が韓国側に事前に相談し、意見聴取していたことが、当時、米政府に伝えられていたことが分かる。  
このため、朴槿恵政権に代わってから、これまでの経緯を一切無視する韓国政府の対応に米政府は困惑していた。もっとも、安倍首相周辺が第2期政権になっても河野談話「見直し」論を蒸し返したことが韓国側を刺激したことは否めない。  
いずれにせよ、2013年5月7日の菅官房長官談話で「見直し」を否定したというのが米政府の認識だった。それでもなお、安倍首相は検討チームによる検証に固執。そして今回、鳴り物入りで検証報告を公表したのだ。  
国務省OBの一人はこうコメントしている。「日本が何を言おうと『謝罪せよ、保証せよ』と反日批判を続ける韓国に、嫌気が差したのも分からないわけではない。しかし大人気なく外交上の儀礼を破って、裏交渉の内幕を暴露してなんの益があるのだろう。日本の品位を貶めるだけだ。一方、これだけ過去の経緯が公にされると、韓国は立つ瀬がなくなってしまう。韓国の政府高官が直ちにワシントンに急行したのはその表われだ。日韓関係はこれでさらに険悪になる」。  
こうした「外交上の儀礼破り」に対する批判、不満もさることながら、米国内には検証報告が示した結論にもある種の苛立ちがある。「歴史から目を逸らす日本人たち」と題する、米ニューヨーク・タイムズが6月22日に掲載した社説はその一つだ。  
「もし安倍首相が韓国との緊張関係を和らげる目的で同検証報告を公表したのだとすれば、それは逆効果になった。なぜならこの報告は1993年8月4日の河野談話の正確さについて疑問を生じさせる結果になっているからだ。同検証報告は、河野談話に書かれた謝罪は韓国との精力的な裏交渉の結果であると述べ、これが確固たる証拠に基づいたものかどうかに疑問を呈しているからである」  
同紙の社説はさらに、安倍首相が2006〜07年に首相だった当時、「慰安婦たちは売春婦であり、当時の日本当局が強制的に奴隷扱いしたものではない」とするナショナリストの立場を支持していたことや、12年に首相に返り咲いた時に「河野談話」の修正を公言していた点を指摘。その後、安倍首相が慰安婦たちへの悲痛な思いを表明しても、韓国人の不安は少しも和らいではいないとしている。  
「今回の検証報告は、1993年の河野談話は草案作りの段階で日韓両政府が協議したことを暴露している。そして日本政府による慰安婦への謝罪が誠心誠意のものではなかったことを示す結果となっている。協議というものは2国間関係で死活的に重要だ。特にセンシティブな事案においてはなおさらである。両者の協議(の内容)を否定的な論理構成のために公表するのは誤りである」  
ホンダ議員は佐々江駐米大使に非難の書簡  
検証報告は、慰安婦碑の設置を阻止する役に立つのだろうか。そのリトマス試験紙になりそうなのが、慰安婦碑設置の旗振り役である日系のマイク・ホンダ下院議員(民主、カリフォルニア第17区)の動向だ。ホンダ議員は6月27日、声をかけた同僚議員と連名で、佐々江賢一郎駐米大使あてに検証報告を非難する書簡を突きつけた。  
今回ホンダ議員の呼びかけに応じた下院議員は17人。慰安婦問題で日本批判を繰り返しているアダム・シィフ議員(民主、カリフォルニア第29区)、ロレッタ・サンチェス議員(民主、第47区)といった「常連」だ。  
この書簡の趣旨は以下の通り。  
1. 検証報告の公表とそのタイミングは遺憾であり、不幸なことだ  
2. 日本政府が衆院予算委員会の要求に応えて検証報告を提出することは議会人として理解できる。が、その内容を公表し、慰安婦たちの苦しみに対する関心を不必要に逸らそうとしている  
3. 検証報告は従軍慰安婦に対する旧日本軍の強制性が確認されていないことを示唆する結論になっている。これは到底受け入れられるものではない  
ホンダ議員の書簡はその上で、菅義偉官房長官の「河野談話は見直さない」との発言を評価、「官房長官がこの公約を遵守し、同発言を覆すことのないよう最善を尽くすよう希望している」とクギを刺している。  
本題から少し外れるが、この書簡を読んでいて気になるのは、菅義偉(Yoshihide Suga)の名前をYoshihida Sugaとミススペリングしていること。米国にいる、外務省の関係者は「揚げ足をとるようだが、一国の大使に出す書簡において、その国の官房長官の名前の綴りを間違えることで、ホンダという日系議員の脇の甘さをいみじくも露呈した」と指摘する。ホンダ議員は申し開きできないところだろう。  
韓国系団体はホンダ書簡を手にさらに運動を活発化?  
いずれにせよ、米国内の慰安婦碑設置運動を展開している韓国系団体は、このホンダ議員の書簡を金科玉条のごとく扱い、今後の運動に利用するという。これは韓国系団体に近い筋から筆者が得た情報だ。となると、慰安婦碑の設置を止める目的で作成された検証報告は、むしろ逆効果になる可能性がある。  
一方、カリフォルニア州グレンデールに設置された慰安婦像撤去を求めて在米邦人団体、「歴史の真実を求める世界連合」(=GATH、目良浩一代表)が起こした裁判への影響はどうか。同連合や韓国系団体の動向を定点観測しているロサンゼルス在住の今森貞夫・近現代研究会主宰は筆者とのインタビューで次のように指摘した。  
「現時点では、日本政府が前面に出ることは、かえってやぶへびになる。慰安婦碑の設置を阻止する取り組みはやればやるほど逆効果だ。慰安婦の正確な数字にしろ、軍による強制性にしろ、米国内ではある種の固定観念が出来上がってしまっている。ブレインウォッシュ(洗脳)されてしまっている。これを覆せるのはアメリカ人のまともな知識人、学者、ジャーナリストしかいない。日本はこうしたアメリカ人に地道にアプローチしていく以外にない。長期戦だ」  
日韓関係は沈静化するどころか、今後より熱くなっていきそうな気配がする。 
慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策 10/14  
日本政府は、慰安婦問題に関して、平成3年(1991年)12月以降に調査を行い、平成4年(1992年)7月、平成5年(1993年)8月の2度にわたり調査結果を発表、資料を公表し、内閣官房において閲覧に供している。また、平成5年(1993年)の調査結果発表の際に表明した河野洋平官房長官談話において、この問題は当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとして、心からのお詫びと反省の気持ちを表明し、以後、日本政府は機会あるごとに元慰安婦の方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを表明してきた。  
慰安婦問題が多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であることから、日本政府及び国民のお詫びと反省の気持ちを如何なる形で表すかにつき国民的な議論を尽くした結果、平成7年(1995年)7月19日、元慰安婦の方々に対する償いの事業などを行うことを目的に財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」(略称:「アジア女性基金」)が設立された。日本政府としても、この問題に対する道義的な責任を果すという観点から、同年8月、村山内閣にてアジア女性基金の事業に対して必要な協力を行うとの閣議了解を行い、アジア女性基金が所期の目的を達成できるように、その運営経費の全額を負担し、募金活動に全面的に協力するとともに、その事業に必要な資金を拠出する(アジア女性基金設立以降解散まで、約48億円を支出)等アジア女性基金事業の推進に最大限の協力を行ってきた。なお、基金は平成17年1月の時点で、インドネシア事業が終了する平成18年度をもって解散するとの方針発表を行っていたこともあり、右インドネシア事業が終了したことを受けて、平成19年3月6日に解散発表をおこない、平成18年度をもって解散した。  
1.アジア女性基金への協力  
日本政府はアジア女性基金と協力し、慰安婦問題に関連して各国毎の実情に応じた施策を行ってきた。アジア女性基金のフィリピン、韓国、台湾における償い事業は平成14年9月までに終了している。また、アジア女性基金は、オランダ及びインドネシアにおいてもそれぞれ国情に応じた事業を実施しており、オランダにおける事業は平成13(2001)年7月に、また、インドネシアにおける事業は平成19年3月にそれぞれ終了した。  
解散後、同基金の対象事業であった元慰安婦へのケア等については、元アジア女性基金関係者・団体を通じてフォローアップ事業として行っている。  
(1)フィリピン、韓国、台湾  
アジア女性基金は、各国の政府等が元慰安婦の認定を行っているフィリピン、韓国、台湾においては、既に高齢である元慰安婦個々人の意思を尊重し、事業受け入れの意思を表す方に対して事業を実施するとの基本方針の下、元慰安婦の方々に対し、国民の募金を原資とし日本国民の償いの気持ちを表す「償い金」をお届けするとともに、日本政府からの拠出金を原資とし元慰安婦の方々の医療・福祉分野の向上を図ることを目的とする医療・福祉支援事業を実施した。その際、日本政府を代表し、この問題に改めて心からお詫びと反省の気持ちを表す内閣総理大臣の手紙が元慰安婦の方々に届けられた。これらの国・地域における事業は平成14年(2002年)9月末に終了した。事業内容については以下のとおり。  
なお,最終的な事業実施数は285名(フィリピン:211名,韓国:61名,台湾:13名)。  
(ア)総理の手紙  
日本政府は、これまで様々な機会に、慰安婦問題について、心からお詫びと反省の気持ちを表明してきたが、以下(イ)、(ウ)のアジア女性基金の事業が行われる際に、この問題に関し、総理が日本政府を代表して、改めて心からのお詫びと反省の気持ちを表す手紙を直接元慰安婦の方々にお届けしてきた。(別添参照)  
(イ)国民的な償いの事業  
日本政府は、慰安婦問題について、国民の啓発と理解を求める活動を行い、アジア女性基金が行ってきた国民的な償いを行うための民間からの募金活動に協力を行ってきた。  
その結果、アジア女性基金は、国民個人、民間企業、労働団体さらには、政党、閣僚などからの共感を得て、基本財産への寄附を含め、総額約6億円の募金が集まった。アジア女性基金は、それらの募金を原資とし、平成8年(1996年)7月、韓国、フィリピン、そして台湾における元慰安婦の方々に対して、一人当たり200万円の「償い金」をお渡しすることを決定し,また政府拠出金を原資とする医療・福祉支援事業300万円(韓国・台湾),120万円(フィリピン)を実施(一人当たり計500万円(韓国・台湾),320万円(フィリピン))した。  
上記「償い金」をお渡しするに際しては、総理の手紙とともに償いの事業の趣旨を明らかにしたアジア女性基金理事長の手紙及び国民から寄せられたメッセージを併せて届けた。  
(ウ)政府資金による医療・福祉支援事業  
日本政府は、道義的責任を果す事業の一つとして、韓国、フィリピン、台湾における元慰安婦の方々に対するアジア女性基金による医療・福祉支援事業に対して、5年間で総額約7億円規模(最終的な事業実施総額は5億1200万円)の財政支出を行うこととした。本事業の内容は、例えば、(a)住宅改善、(b)介護サービス、(c)医療、医薬品補助等であるが、元慰安婦の方々の置かれている実情に沿うものとすべく、相手国政府、さらには関係団体等とも協議の上で実施してきた。  
(2)インドネシア  
日本政府は、アジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すためにインドネシアにおいてどのような事業を行うのが最もふさわしいかにつき検討してきたが、インドネシア政府が、元慰安婦の特定が困難である等としていることから、元慰安婦個人を対象とした事業ではなく、同国政府から提案のあった高齢者社会福祉推進事業(保健・社会福祉省の運営する老人ホームに付属して、身寄りのない高齢者で病気や障害により働くことの出来ない方を収容する施設の整備事業)に対し、日本政府からの拠出金を原資として、10年間で総額3億8千万円規模(最終的な事業実施総額は3億6700万円)の支援を行うこととし、平成9年(1997年)3月25日にアジア女性基金とインドネシア政府との間で覚書が交わされた。  
なお、同施設への入居者については、元慰安婦と名乗り出ている方や女性が優先されることとなっており、また、施設の設置も、元慰安婦が多く存在したとされる地域に重点的に設置されることとなっている。最終的には69カ所の高齢者福祉施設が完成した。  
(3)オランダ  
オランダにおいては元慰安婦の方々の認定が行われていないことを踏まえ、日本政府は、アジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すために如何なる事業を行うのがふさわしいかにつきオランダ側の関係者と協議しつつ検討してきた。その結果、平成10年(1998年)7月15日、アジア女性基金とオランダ事業実施委員会との間で覚書が交わされ、慰安婦問題に関し、先の大戦中心身にわたり癒しがたい傷を受けた方々の生活状況の改善を支援するための事業を同委員会が実施することとなった。  
アジア女性基金は、この覚書に基づき、日本政府からの拠出金を原資として、同委員会に対し3年間で総額2億5500万円規模(最終的な実施総額は2億4500万円)の財政的支援を行うこととし、同委員会は79名の方に事業を実施した。この事業は、平成13年(2001年)7月14日に終了した。  
(4)歴史の教訓とする事業  
アジア女性基金は、このような問題が二度と繰り返されることのないよう歴史の教訓として未来に引き継いでいくべく、日本政府と協力しつつ、慰安婦問題に関連する資料の収集・整理等を行った。  
2.女性の名誉と尊厳に関わる今日的な問題への積極的な取り組み  
日本政府は、女性に対する暴力などの今日なお存在する女性問題を解決すべく積極的に取り組んでいくことも、将来に向けた日本の責任であると考えており、アジア女性基金が行っている今日的な女性問題の解決に向けた諸活動に政府の資金を拠出する等の協力を行ってきた。  
アジア女性基金は、このような活動として既にこれまでにも、以下のような事業などにも積極的に取り組んできた。今日的な女性問題に関する国際的な相互理解の増進という観点からも、このような活動は大きな意義がある。  
(1)今日的な女性問題をテーマとする国際フォーラムの開催。  
(2)今日的な女性問題に取り組むNGOが行う広報活動の支援。  
(3)女性に対する暴力など今日的な女性問題の実態や原因究明及びその予防についての調査研究事業。  
(4)このような問題に悩む女性へのカウンセリング事業及び効果的なカウンセリングを行うためのメンタルケア技術の研究、開発事業。 
朴政権の日本批判、「大衆迎合」「不合理」と海外メディアが批判  11/7  
韓国政府は1日、竹島に建設を予定していた避難施設「独島入島支援センター」の建設を「保留」した。これが日本に配慮した結果だと受け止められ、韓国内の政界やメディアから非難の声が上がっている。また、このタイミングで、韓国のこれまでの「ジャパン・バッシング」を批判する論説が、複数の海外メディアに掲載されている。  
実態は日本に配慮した「中止」だと批判  
中央日報などの韓国メディアによれば、建設計画の撤回は、1日の関係閣僚会議で決まった。6日に公表された資料によれば、安全管理、環境、景観などの点で検討すべき課題が残ったため、建設を保留することにしたという。  
この「保留」という表現に対し、朝鮮日報政治部のアン・ジュンホ記者は、コラムで「(建設の)撤回そのものも問題だが、その後の政府のあいまいな対応が問題をさらに大きくしている」と批判している。  
同記者は、政府発表の公式な理由は「事実とは異なる」とし、実際は外交部(外務省)が「支援センター建設は日本との外交摩擦を招く」などとして、日本側に配慮した事実上の中止だと主張。それを伏せてあくまで「保留」とする政府を、「納得しがたい言い訳を並び立てるばかりでは、国民からの信頼は一層遠のく」と強く批判している。  
一方、中央日報は、政府が決定に至った内幕を明らかにしないのは、「領有権強化」と「国際紛争化の可能性」の間のジレンマのためだと記す。同紙は、日本が施設建設による環境汚染などを理由に国際海洋法裁判所(ITLOS)に提訴すれば、日本の思惑通りに竹島の領有権問題が国際紛争化する恐れがあると分析。「保留」はそれを避けるための戦略だと、一定の理解を示しているようだ。  
韓国の反日感情は「自国を北京の搾取に晒す」  
今回の動きは、韓国の対日姿勢の軟化を示すものなのか?オーストラリアのwebメディア『ビジネス・スペクテイター』は5日付で、韓国のジャパン・バッシングは、戦略的な代償を伴うという記事を掲載している。  
記事によれば、数週間前にシンガポールで開かれた会合で、ある韓国高官が筆者のジョン・リー記者に「韓国は中国がどれだけ核武装しようが北朝鮮が核開発を進めようが、日本が核保有国にならない限りは気にも止めない」と、自嘲的に発言したという。リー記者は、目の前の脅威である中国と北朝鮮よりも日本に敵意を燃やすメンタリティを「不合理な国粋主義的な感情」と表現。それによって「勝者」となるのは中国と北朝鮮だと記す。  
また、昨年、南スーダンで平和維持活動をしていた韓国軍が自衛隊から提供された弾薬を国民の非難を受けて返却した問題を取り上げ、「これによって、韓国の一般人の中では、自国の部隊に十分な弾薬を与える要求よりも日本への敵意の方が大きいという事が証明された」と皮肉を込める。  
そして、自国のハルビン駅に韓国で抗日活動の英雄とされる安重根(アン・ジュングン)の記念館を作ったように、中国は韓国を引き入れて日米韓の同盟に「楔を打ち込もうとしている」と指摘。「(韓国は)日本をバッシングすることで一時的に歴史的な痛みを癒やすことができるかもしれない。しかし、それは自国を北京の搾取に晒すことにつながる」と警告している。  
印研究者「朴政権は袋小路に向かっている」  
デリー大学の東アジア研究家、サンディップ・ミシュラ助教授も、オピニオンサイト『ユーラシア・レビュー』で、朴槿恵(パク・クネ)政権の外交政策に疑問を投げかけている。  
同助教授は、朴政権は一見巧みに軍事的パートーナーのアメリカと経済的パートーナーの中国とのバランスを取った「二面外交」を展開しているように見えるが、「結果的には前政権と同じ道を同じゴールに向かって歩んでいる」としている。そのゴールとは、北朝鮮問題を始めとする韓国の外交課題が何一つ進展しない「袋小路」だという。  
また、朴大統領が再三にわたる安倍首相からの2者会談の要請を断っていることについて、「そのジェスチャーは韓国内の大衆の支持を得るのには有効かも知れない。しかし、外交面では戦略的な態度だとは言えない」と批判。『ビジネス・スペクテイター』のリー記者も同様に、「大衆迎合主義は韓国の戦略的利益に資することはない」と述べている。  
2014年11月9-11日 - 安倍首相

 

(北京APEC首脳会議) 
平成26年11月9日、APEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議のため北京を訪問している安倍総理は、カナダのスティーブン・ハーパー首相と会談を行いました。  
また、ロシア連邦のプーチン,ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ大統領と会談を行いました。  
11月10日、APEC首脳会議のため北京を訪問している安倍総理は、インドネシア共和国のジョコ・ウィドド大統領と会談を行いました。また、ペルー共和国のオヤンタ・ウマラ・タッソ大統領と会談を行いました。  
午後には、中華人民共和国の習近平国家主席と会談を行いました。  
総理は、会談後、次のように述べました。「日中両国が戦略的互恵関係の原点に立ち戻って、関係を改善させていく第一歩となったと思います。  
今回、このAPECの場を活用して、まず対話をスタートする。首脳間の対話をスタートする。そのための静かな努力を重ねてきたところでありますが、先般、正式な外相会談が成立いたしました。そして、今回、習近平主席と首脳会談を行うことができた。これは、アジアの国々だけではなくて、多くの国々が、日中両国で首脳間の対話がなされることを期待していたと思います。そうした期待に応える形において、関係改善に向けて第一歩を記すことができたと思います。  
また、海上連絡メカニズムにつきましても、実施について要請をしたところでありますが、実施に向けて具体的な事務作業に入ることとなると思います。」  
その後、TPP首脳会合に出席し、夜には、習近平中国国家主席夫妻による歓迎式典に出席しました。  
11月11日、APEC首脳会議のため北京を訪問している安倍総理は、習近平中国国家主席による出迎えを受けた後、首脳会議(議題「地域経済統合の進展」)に出席し、首脳記念撮影に臨みました。続いて、記念植樹を行いました。  
午後には、ワーキングランチ、首脳会議(議題「革新的な発展、経済改革及び成長の促進」)に出席した後、内外記者会見を行いました。 
日・ミャンマー首脳会談  
安倍晋三総理大臣は、11月12日、ASEAN関連首脳会議へ出席のため訪問中のミャンマー・ネーピードーにてテイン・セイン大統領と会談を行ったところ、概要は以下のとおりです。両国首脳は同会談に先立ち、本年が日・ミャンマー外交関係樹立60周年という節目の年であることにかんがみ、日本とミャンマーの緊密な関係を象徴するものとして、60周年の記念貨幣(PDF)の最初の一枚をテイン・セイン大統領に渡しました。また、ティラワ経済特別区の新規開発区域に関する覚書及び汚職撲滅宣言の交換に立ち会いました。  
1 冒頭発言  
(1)冒頭、安倍総理から、ASEAN議長国としての采配振りに敬意を表しました。また、ミャンマーにおける諸改革の進展に向け、日本は今後も支援していく旨表明しました。  
(2)これに対し、テイン・セイン大統領からは、日本からの経済分野をはじめとする多大な支援に感謝しており、今後も協力をお願いしたい旨述べました。  
2 政治・安全保障  
安倍総理から、ミャンマー政府と少数民族との国民和解に向け、「積極的平和主義」の下、本日同席の笹川陽平・国民和解担当日本政府代表とも連携し、国内和平への関係者の取組を強力に支援していく、全国規模の停戦合意の早期実現を強く期待している旨述べました。これに対し、テイン・セイン大統領からは、笹川代表をはじめとする日本からの支援には感謝しており、引き続き国民和解を推進していきたい旨述べ、現状の説明がありました。また、安倍総理から、ミャンマー西部ラカイン州の情勢改善に向けた更なる取組を働きかけ、テイン・セイン大統領からは、外国の協力も得つつ情況の改善に努力したい旨の発言がありました。さらに、安倍総理からは、国軍から防衛大学校への留学など、防衛交流進展への期待を表明しました。  
3 経済関係・経済協力  
(1)安倍総理から、今般、邦銀3行に参入許可が付与されたことを歓迎した上で、金融部門全体の発展に貢献したい旨述べ、テイン・セイン大統領からは、これを契機に日本からの投資が増加することへの期待が表明されました。また、安倍総理は、投資拡大のため租税条約の早期締結を目指したいとの認識を伝えました。  
(2)テイン・セイン大統領から、これまで官民を挙げてティラワ経済特別区の開発を支援いただいていることに感謝しており、ミャンマー政府としても必要な協力を惜しまない旨述べました。  
(3)安倍総理から、今般、総額260億円の円借款3件の供与(PDF)を決定したこと、これも活用して、中小企業向け金融、配電網、ティラワ港などの整備に協力したい旨述べました。また、郵便・通信・放送、建設などの分野において協力するほか、日本の官民の知見を活かし、保健・医療分野の拠点整備や人材育成など支援していく考えである旨述べました。テイン・セイン大統領からは、日本からの幅広い支援に改めて謝意の表明がありました。  
(4)また、両首脳は、ダウェー開発についても今後、日本、ミャンマー、タイの3カ国間で協議していくことで一致しました。  
4 遺骨収集  
安倍総理から、戦時中ミャンマーで亡くなった日本人の遺骨収集についても重視しており、協力を要請したのに対し、テイン・セイン大統領から、人道的観点からできる限りの協力をしたい旨述べました。  
5 地域・国際情勢  
両首脳は、今回のASEAN関連首脳会議等において「海における法の支配」、北朝鮮問題等の地域・国際情勢についても連携を深めていくことで一致しました。  
日・フィリピン首脳会談  
11月12日、安倍総理大臣は、ASEAN関連首脳会議出席のために訪問中のミャンマーにおいて、アキノ・フィリピン共和国大統領と会談を行ったところ、概要は以下のとおり。  
1.冒頭  
安倍総理から、フィリピンは基本的価値と戦略的利益を共有する戦略的パートナーであり、関係を一層強化し、共通の課題に取り組みたいと述べた。これに対し、アキノ大統領からは我が国における御嶽山の噴火災害や台風被害に対するお見舞いとともに、昨年のフィリピンにおける台風被害に際しての我が国からの支援に対して謝意が述べられ、さらに両首脳は、ともに自然災害を頻繁に経験する両国間で防災・災害対応において協力を深めていくことで一致した。  
2.二国間関係  
(1)政治・安全保障関係  
(ア) 安倍総理から、アキノ大統領から繰り返し力強い支持を得ている「積極的平和主義」の取組を引き続き推進しているとして、本年7月に安保法制整備の基本方針を閣議決定したことなどにつき説明した。そして、両首脳は、二国間の安全保障・防衛協力の一層の強化につき一致した。  
(イ) ミンダナオ和平について、安倍総理から、2016年の自治政府設立に向けた移行プロセスの着実な進展を期待するとともに、日本は引き続き支援を惜しまない旨述べた。アキノ大統領からは、改めて日本の支援(注:日本は2006年以降で150億円以上の支援を実施)に対する謝意の表明があった。  
(2)経済関係・人的交流  
(ア) 安倍総理から、日本企業の投資を一層活発化させるため、フィリピンの投資環境の改善を重視しているとして、一層の環境整備につき働きかけを行いました。アキノ大統領からは、フィリピン側で行っている投資環境改善努力につき説明があった。  
(イ) 安倍総理から、成長の基盤整備に支援を惜しまないとして、運輸・交通インフラ整備案件(注1)及び洪水対策案件(注2)に対して総額約200億円の円借款供与を決定した旨を伝達した。アキノ大統領からは、これらの支援につき、深甚なる謝意が表明されるとともに、都市交通網を始めとするインフラ整備への引き続きの支援に高い期待が示された。  
(ウ) 安倍総理から、「観光立国実現に向けたアクション・プログラム」の下で、本年9月からフィリピンへの更なる査証緩和措置を開始した旨説明した。アキノ大統領からは、日本の措置に対し歓迎の意が示されました。  
3.地域情勢・国際場裡での協力  
(1)両首脳は、現下の地域情勢についても意見交換を行い、南シナ海を含む海洋における「法の支配」の重要性について、改めて確認した。  
(2)安倍総理より、日中首脳会談の実施を含め、日中関係改善の流れにつき説明した。  
(3)アキノ大統領より、フィリピンは日本の安保理常任理事国入りを支持していると述べた。  
(注1)メトロマニラ立体交差建設計画(第6フェーズ)(供与限度額:79.29億円)  
マニラ首都圏の交通渋滞が著しい交差点において、立体交差を建設することにより、交通渋滞の緩和を図り、もってマニラ首都圏の輸送効率の向上及び都市環境改善に寄与するもの。具体的にはマニラ首都圏の幹線4地点の立体交差道路の建設。  
(注2)洪水リスク管理計画(カガヤン・デ・オロ川)(供与限度額:115.76億円)  
ミンダナオ島カガヤン・デ・オロ川の河川改修を実施することにより、河川流域の洪水被害の軽減を図り、もって同地域の安定的な経済の発展に寄与するもの。具体的には、堤防及び洪水擁壁の建設、橋梁の改良、避難道路のかさ上げ、住民啓発等。  
日豪首脳会談  
11月12日、ASEAN関連首脳会議出席のためミャンマーを訪問中の安倍内閣総理大臣は、トニー・アボット・オーストラリア首相(The Hon Tony Abbott、 Prime Minister of Australia)との間で日豪首脳会談を行ったところ、概要は以下のとおりです。  
1 冒頭  
(1)冒頭、アボット首相から、日豪の「特別な関係」を更に強固に、そして広範囲で多元的な関係にしていきたい、防衛・防衛装備品の協力も今後ますます強化していきたい、日豪の友好協力関係は、両国間の貿易投資や、人と人とのつながりに象徴されており、豪州の戦後の繁栄は日本の協力なしには考えられないとの発言がありました。  
(2)これを受け、安倍総理からは、アボット首相からの御嶽山噴火についてのお見舞いへの御礼、我が国の海自護衛艦「きりさめ」も参加した11月1日のアルバニー船団100周年記念式典成功に対する祝意を伝達しました。また、G20ブリスベン・サミットの議長としてのアボット首相の指導力を評価し、サミットで具体的成果が得られるよう最大限貢献したい旨述べました。  
2 二国間関係  
(1)共同運用や訓練を円滑化する協定など安全保障・防衛分野の協力に関して、両首脳間で前回(9月)のニューヨークでの首脳会談以降の進捗が確認されました。  
(2)来年のアボット首相の訪日について、双方の都合が良い時期に実現すべく、具体的な調整を進めることで一致しました。  
(3)安倍総理から、両国関係について有識者が議論する「日豪会議」を再編・強化したい旨提案し、今後、その詳細を検討していくことになりました。  
(4)経済関係に関しては、日豪EPAの早期発効を目指して両国の国内手続を促進すること、また、TPPについては早期妥結、RCEPについては2015年末までの交渉完了を目指して日豪が連携することを確認しました。またエネルギー分野での一層の協力についても意見交換を行いました。  
3 地域・国際場裡における協力  
(1)北朝鮮や南シナ海等の地域の平和と安定に関する問題、エボラ出血熱、ISILといった国際的課題への対応等について東アジア首脳会合(EAS)の場を含め、日豪で連携・協力することが確認されました。  
(2)また、日豪米3か国首脳会議の成功に向けて、更には来年創設70周年を迎える国連の改革においても、協力していくことを確認しました。  
(3)さらに、安倍総理から、10日に北京で行われた日中首脳会談を含む日中関係に関する最近の一連の動きに言及し、日中両国が「戦略的互恵関係」の原点に立ち戻り、関係を改善させていく第一歩を記すことができた旨述べました。これに対しアボット首相からは、今回の会談をきっかけにして、日中間の対話が更に進むことを期待する旨発言がありました。  
日・マレーシア首脳会談  
11月13日安倍総理大臣は、ASEAN関連首脳会議出席のために訪問中のミャンマー・ネーピードーにおいて、ナジブ・マレーシア首相と会談を行ったところ概要は以下のとおり。  
1. 安倍総理から、ナジブ首相とは頻繁にお会いしているが、引き続きマレーシアとの幅広い協力関係を深めたい旨を述べたところ、ナジブ首相からも、安倍総理との会談を通じて既に良好な両国関係が更に強化されることを歓迎する旨述べた。  
2. マレーシア・シンガポール間の高速鉄道整備計画に関しては、安倍総理から、日本の新幹線導入についての期待を改めて伝達したところ、ナジブ首相からは計画の現状についての説明がなされた。  
3. またこの機会に、安倍総理からは、海洋安全の分野に関し、マレーシアの海上法令執行庁(MMEA)の支援を継続していく旨を改めて伝達した。  
日・タイ首脳会談  
13日、ASEAN関連首脳会議に出席のためミャンマー・ネーピードーを訪問中の安倍晋三内閣総理大臣は、プラユット・ジャンオーチャー首相(H.E.Mr.Prayuth Chan-o-cha)と会談を行いました。概要は以下のとおりです。  
1.冒頭、安倍総理から、10月のASEM首脳会議に続きプラユット首相と会談できうれしい、先週はプラウィット副首相兼国防大臣が訪日され、我が国閣僚との間で有意義な会談が行われた、引き続き交流と対話を推進していきたい旨述べました。  
2.また、安倍総理から、早期民政復帰に対する期待を表明するとともに、タイ国内の高速鉄道をはじめとするインフラ整備における関心を伝え、東日本大震災後の放射性物質に係る食品輸入規制の早期完全撤廃、タイで活動する日本企業にとって重要な公正・透明な投資環境の重要性を訴えました。  
3.これに対し、プラユット首相からは、民政復帰に向けた諸改革の取組みにつき説明があり、日本からも支援を得たい旨発言がありました。また、食品輸入規制については一部緩和を決定したとしつつ、残る規制についても安全性を確認しつつ検討したい、投資環境整備にもしっかり取り組みたいとの説明がありました。さらに、タイ国内の鉄道分野の整備計画につき説明があり、今後、両国の当局間で協力につき協議していくことで一致しました。このほか、プラユット首相からは、観光、治水、エネルギー分野での両国間の協力への期待が表明されました。 
習近平主席、一度も笑顔なく…安倍首相と25分間、二言三言の対話 11/11  
会いはしたが、両国首脳には笑いどころか微笑もなかった。日本の安倍晋三首相と中国の習近平・国家主席は10日午前11時50分から約25分間、北京の人民大会堂で初めての首脳会談を行った。日本の首相と中国の国家主席の間での首脳会談は、2011年12月の野田佳彦首相と胡錦濤主席以来、約3年ぶりだ。だが格式や内容面は、1時間前に開かれた韓中首脳会談とは相反した姿だった。  
まず習主席は安倍首相よりも遅く現れた。アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の主人である習主席が、客人を先に来させて待たせたのだ。安倍首相は立ったまま10秒余り、戸惑いながら待たなければならなかった。一歩遅れて現れた習主席は、安倍首相が差し出した手を握ったのだが、いら立ったように終始かたい表情だった。安倍首相が握手したまま何か挨拶の言葉をかけ、そばにいた通訳者を通そうとしたが、習主席は頭をくいっと回して写真撮影に応じた。心苦しくなった安倍首相の顔が瞬間固まった。ぎこちない雰囲気が流れた。以後メディアに公開された場面の中で2人は一度も視線を合わせなかった。習主席がやむを得ずに安倍首相に会うということを加減なく見せているようだった。まるで3月のハーグでの韓米日首脳会談当時の朴槿恵(パク・クネ)大統領と安倍首相の姿を見るようだった。  
会談場所も意外だった。人民大会堂というのは格式を備えているが、日中会談は懇談会のようなものだった。通常の公式の首脳会談の場合、双方が両国の国旗が置かれたテーブルを間に置いて一列に向かい合って座って進める。普通、テーブルには花と参席者の名札が置かれる。  
しかしこの日の日中首脳会談は、テーブルなしで馬蹄形に配置されたソファに座ったまま行われた。日本側の倍席者も3人に制限された。国旗も特になかった。隔意ない面会や面談で使われる方式だ。習主席が先に待って朴大統領を明るく笑って迎え、テーブルを間に置いて双方の参席者が向かい合って行われた韓中首脳会談とは対照的だ。  
外交消息筋は「中国が対内外的に『公式の首脳会談ではない』という印象を与えるために意図的に演出をしたと見られる」として「APEC主催国なので会うけれども、日本との関係改善には積極的に取り組む意向がないということを見せたもの」と解釈した。実際、中国政府は会談後にホームページにあげた発表文で「日本側の要請によって実現した面会」と意味を縮小した。  
本会談でも双方は7日に発表した「日中間の4つの合意文」を確認する程度で、二言三言やりとりしたまま終わったという。習主席は「最近2年間、中日関係がかなり難しい状況に置かれた『是非曲直』は明らかだ」として日本の歴史認識を狙った。進んで「歴史問題は13億人の中国人民の感情問題だ。日本が両国間で合意した政治文書や村山談話など歴代政権が明らかにしてきた約束を遵守する時に初めて友好関係を結ぶことができる」と圧迫した。靖国という単語を取り上げなかったが「政治的困難を克服することに若干の認識の一致を見た」という合意文に、安倍首相の靖国参拝の中断の意味が含まれていることに釘を刺したわけだ。安倍首相は「日本は積極的平和主義のもとで歴代の日本政府が歴史問題に関して明らかにしてきた『認識』を持続的に堅持する」としながら「4項目の共同認識を実現して関連問題を適切に処理する」と答えた。  
安倍首相は会談後「日中関係改善のための第一歩になった」として意味を付与した。会談に同席した加藤勝信・官房副長官は習主席の「固い表情」についての質問が相次ぐと「習主席は非常に自然に対応したと見ている。安倍首相が『(先月東京で)中国の上海歌舞団の公演“朱鷺”を観賞した』と話すと同調するように深く首を縦に振った」と反論した。
「韓国は完全に取り残された」 日中首脳会談受け、“焦り”広がる韓国メディア  11/11  
安倍晋三首相と中国の習近平国家主席が10日、北京で初の首脳会談を開いた。これを受け、韓国メディアには「韓国は完全に取り残された」(ハンギョレ新聞)など、焦りとも取れる反応が溢れている。  
また、北朝鮮が8日、スパイ容疑で拘束していた2人のアメリカ人を釈放したことも、米朝関係の前進=韓国の孤立を示す要素として関連づけて論じられている。  
「中国が日本批判の共同戦線から離脱」  
安倍首相と習主席の初の会談は、日中両国にとっても約2年半ぶりの首脳会談となった。会談に先立ち、両国は尖閣問題について「双方は異なる見解を有していると認識」、歴史認識問題で「双方は歴史を直視」するなどとした合意文書を発表。尖閣周辺海域での不測の事態を回避するため、危機管理メカニズムを構築することなどでも合意した。  
一方、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は就任以来、日本側からの再三に渡る首脳会談の要請を拒否し続けている。その背景には、メディアの論調を含む国民の反日感情への配慮があると識者らは指摘している。しかし、ここにきて韓国の各大手メディアの社説は、首脳会談開催を是とする論調に一気に傾いているようだ。  
中央日報によれば、韓国政府は日中首脳会談に先立ち、「(日中首脳会談の)成功の可否と関係なく(韓国は)毅然と対処する」方針を表明したという。しかし、同紙は会談前日の社説で、内心は違うと指摘。「中国と日本の接近で韓国だけ疎外される可能性を懸念し、苦心を繰り返すほかない立場になった」と記す。ハンギョレ新聞の社説も「中国が日本批判の共同戦線から離脱した今、韓国は完全に取り残された」としている。  
脱「親日コンプレックス」を促す社説も  
中央日報の社説はさらに、「韓国政府は北京の気流を直視して韓日首脳会談が実現する環境作りとタイミングをつかむことに全力を傾けなければならない」と、中国に倣って首脳会談を開くべきだと明言している。そして、国民は「親日コンプレックス」から抜け出し、国益を最優先する現実路線に転換すべきだと主張している。  
とはいえ、同社説は、「歴史暴走を中断する日本の努力が先行しなければならない。特に安倍首相が慰安婦問題に前向きな立場を見せなければならない。それでこそ早い時期に韓日首脳が会う条件を作ることができる」と、従来の政府見解と同様の前提条件を掲げる。一方、安倍首相は6日、別所浩郎駐韓国大使に託した親書を通じて、「前提条件なし」での全面的な日韓対話の再開を改めて求めたという。  
上記の親書に触れた韓国英字紙『コリア・ヘラルド』の社説もまた、「建設的で意味のあるサミットを開催するため、正しい雰囲気作りをしなければならない」と、日韓首脳会談開催の必要性を認めている。両首脳が顔を合わせる直近の機会で首脳会談が実現する可能性は低いものの、その間に実務者協議を積極的に進めるべきだとしている。  
米朝接近で北朝鮮問題でも「取り残される」  
一方、朝鮮日報とハンギョレ新聞の社説は、北朝鮮が8日、スパイ容疑で拘束していた2人の米国人を釈放した件にも触れている。拘束されていたもう一人の米国人は既に先月釈放されており、「北朝鮮による米国人拘束問題は全て解決した」と朝鮮日報は記す。  
ハンギョレ新聞によれば、韓国政府は、これによって6ヶ国協議などアメリカの北朝鮮政策は何も変わらないという見解を示しているという。しかし、同紙は最近のアメリカの北朝鮮外交が積極性を増している例を複数挙げ、北朝鮮問題でも韓国が取り残されることを懸念している。  
朝鮮日報の社説も同様の見方を示している。日中関係についても「両国の対立が一気に解消することはないはずだ」としながら、「対話の窓口が開かれたことだけは間違いない」と記す。そして、「問題はこれまで中国と歩調を合わせ、安倍首相との首脳会談に応じないことを重要なカードと見なしてきた大韓民国の外交政策だ」批判。「突然の米朝雪解けムードと中日接近を横目で見ながら、国民は一層の不安を感じざるを得ないだろう」と結んでいる。 
 
謝罪の歴史11 2015

 

日中韓の歴史問題、今年が正念場―第2次大戦終結70年 2015/1/3  
今年は第2次世界大戦の終結から70年の節目の年となる。世界の大半では、記憶から薄れゆく戦争を振り返る好機となることだろう。ところがアジアでは、戦争の歴史は今も生きている。それゆえに、2015年は困難な年になるかもしれない。  
戦後70周年を迎えるタイミングは、アジア地域の大国同士――中国、日本、韓国――の関係がここ数年間で最も険悪な時期と重なってしまった。アジア地域ではめったに見られないような政治的手腕が発揮されないと、暴動や意図せぬ衝突が起こる可能性も否定できない。  
そうした不幸な出来事が起きるとすれば、それは3カ国それぞれにまかれた積年の反感、不信感、恨みの種の結実と言えるだろう。この3国間にはまだ解決できていない領土問題があることから、国家主義的な感情の高まりは大惨事の原因になり得る。特に中国と韓国の両国と反目している日本国民には懸念すべき理由がある。  
まずは歴史問題でアジアと欧州を比べてみよう。欧州では主な戦争記念日にかつての兵士たちが一同に会し、戦死者たちを追悼している。ところがアジアの人々は、いまだに互いの戦争責任を追及し合っている。70周年は許しと和解のチャンスにもなり得るが、激しい批判や反日感情の爆発につながる可能性の方が高い。  
中国の習近平国家主席は昨年12月、初となった南京事件国家追悼式典に参加することで、2015年の基本姿勢を示した。中国はこの日を含め、日中戦争に関連して新たに3つの国民の休日を制定した。中国の政府高官たちは対立の歴史を乗り越えようとせず、それを国家主義的な誇りの中心に据え、自国民に今日の日本を事実上の敵国と思わせようとしている。  
日本からの挑発的な発言は中国の国家主義的な指導部の追い風になった。一例が、物議を醸した2013年の安倍首相の「侵略という定義は学界的にも、国際的にも定まっていない」という発言である。南京大虐殺その他の虐殺が起きたこと自体を否定する日本の国家主義者たち、戦争犯罪に関する過去の日本政府の謝罪が訂正されるかもしれないという同国政府当局者の曖昧な発言は火に油を注いだ。  
特に冷え込んでいるのが日韓関係で、戦時中の「従軍慰安婦」問題は、最も基本的な水準を除く両国政府高官による協力の主な障害となっている。  
戦後70年が経過しようとしている今も東アジアという地域は歴史に捕らわれており、永続的な憎悪のようなものに陥りかけている。そうした状況は中国と韓国で実施された世論調査でも裏付けられた。両国の国民は民主国家である日本を最大の脅威と位置付けている。  
こうした冷え込んだ関係だけでも懸念に値するが、国家主義的な感情がこの地域の海にまで流出する恐れもある。東シナ海では、日本による尖閣諸島の実効支配に中国が積極的に反論している。日本海の竹島については、日本政府と韓国政府のあいだで領有権をめぐる見解が食い違ったままだ。両国の船舶の衝突といった小さな事件でさえ、あっという間に手に負えない事態に発展しかねない。  
戦後70周年となる今年に必要なのは、東アジアにこれまでなかったような政治的手腕である。3カ国のリーダーは、感情を落ち着かせ、将来に目を向ける上で、それぞれが重要な役割を果たすことができる。  
米国政府の腹を探ってきた安倍政権は、戦争に対してこれまでで最も包括的な謝罪を行うことを検討すべきである。安倍首相はすべての関係国が知る具体的な事実を挙げ、日本の戦争犯罪をはっきりと認めることで、新たな時代を切り開くことができる。そのあとで、アジアにおける協力関係と市民社会を強化するための大胆な計画に軸足を移せばいいのだ。  
習主席は、中国政府の外部の世界に対する疑念を脇に追いやり、リベラルで民主的な日本はアジアの平和の脅威ではないということを認めて、ニクソンの電撃訪中のような方針転換を図ることができる。そのあとで協力の新たな時代を約束すれば、日本政府も即座にこれに報いるはずだ。  
一方、韓国の朴槿恵大統領は、リベラルな価値観を共有できる日本をアジアにおける最も緊密なパートナーとして受け入れ、北朝鮮への対応から日米韓3カ国同盟の活動まで、さまざまな問題における実質的な協力を確約すべきだろう。  
こうしたことすべてが必要だが、いずれも実現する可能性は低い。必要とされているリーダーシップが発揮されなければ、反日暴動が勃発したり、海洋事故が地域の危機に発展したりしたとしても全くおかしくない状況にある。憎悪という感情の種は、長くかかったとしてもいずれは苦い果実を実らせてしまうものだ。  
その一方で、東アジアの主要国が今年をうまく乗り切ることができれば、より協力的で安定的な未来が待っているという合図になりそうだ。 
「中国旋風」は弱まらない―緊張緩和はみせかけ 2015/1/7  
中国の周辺国との関係に目立った変化が現れているようだ。地域のいじめっ子は支援者に変わった。  
ここ数カ月、威嚇は数百億ドルの投資に取って代わられている。爆発寸前だったベトナムとの領有権争いは突然静まった。日本との関係も好転している。  
全てを締めくくるかのように、中国の汪洋副首相は数週間前のシカゴでの会合で、同国の広範な外交政策上の熱望には米国主導の世界秩序をひっくり返そうという意図は含まれていないとし、中国がこの地域で力を誇示する中で米国の外交政策陣の間で強まっていた見方に反する発言をした。同副首相は、米国は依然として「世界を導いている」と述べたのだ。  
緊張緩和のように見えるが、これは持続するのだろうか。  
当てにしない方がいい。中国は領有権の主張を少しも緩めていない。ジョージ・ワシントン大学エリオット国際関係大学院の中国政策プログラム・ディレクター、デービッド・シャンボー氏は、中国外交政策の大きなシフトと見られるのは「大体が戦術的、レトリック的なものだ」と指摘した。  
同氏は「今年は(中国の)周辺国と米国に対するより厳しい戦術に舞い戻ることになるだろう」と話している。  
同氏や他のアナリストは、東アジアの運命を方向付けるという長期的な野望、それに、この目標達成のために習近平国家主席が行っている前例のない外交的努力に引き続き注目している。  
こうした野望のスケールは大きい。習主席が「アジア太平洋の夢」について語る時、同主席は18世紀に中国が最盛期を迎えたころに同国王朝が手にしていたものさえ上回るような地域支配を心に描いているのだ。  
これが実際に何を意味するのか理解するためには、資金の流れを見るといい。中国の資金は地域のコンテナ港、工業団地、アジア大陸を走る高速鉄道、ハイウエー、エネルギーパイプライン、その他のインフラに回されている。北京はこうした努力を表現するのに「包括的連結性」という言葉を作りだした。  
中国の資金の全てが約束通りに実体化するかどうかは議論の余地がある。ただ、その中核部分に中国とネットワークで結ばれたアジアを置くという戦略的目標は明確だ。  
話はこれにとどまらない。習主席は大規模自由貿易圏も構想しており、これは世界最速のペースで成長しているアジア地域全体に中国の市場を拡大しようとするものだ。  
習主席と李克強首相はこれらの全てを達成するために、熱狂的な外交攻勢に乗り出した。2人は過去2年間に少なくとも17回外遊し、5大陸の50カ国以上を訪れ、外国の国家元首や政府首脳と500回近く会談した。  
思い起こしてほしい。彼らは世界第2位の経済をオーバーホールし、共産党のために食うか食われるかの汚職撲滅運動を進めながら、この外交攻勢を優先的に行ってきた。  
王毅外相は、習主席と李首相は世界に「中国旋風」を巻き起こしたと誇らしげに口にしている。これは空威張りではない。実際、同外相の言葉は、2014年の最大の外交政策上のシフトにスポットライトを当てている。つまり、中国は今や「機会を待ち、能力を隠そう」というかつての最高指導者、ケ小平氏の行動原理から決定的に脱却したのだ。  
しかし、戦闘機や艦隊という形でこれ見よがしに示されるこれらの能力は、中国の周辺国を神経質にさせた。このことは、中国の連結プロジェクトが軌道に乗る前に、これをだめにしてしまう恐れがあり、東アジアでの米国の影響力を弱めるのではなく、逆に強固なものにする。米国は自国には東アジアの防衛者の役割が振られていると考えるようになり、これは中国の意図するところとは正反対の結果だ。  
これが、北京の新たな友好的外交攻勢の背景だ。中国が昨年、領有権紛争が起きているベトナム沖合の海上に巨大な石油掘削リグを作り、大胆な領有権主張を展開した時、ベトナムの大衆は中国企業を狙って暴れ回り、流血の事態となった。しかし中国は今では融和的な言葉を遣っている。中国の高官は12月、今や「メガフォン外交」に終止符を打つべき時だと述べた。  
答えの出ていない大きな問題は、習主席は東アジアの新秩序の中で米国によるどのようなリーダーシップの役割を予想しているのか、ということだ。表面的には、米国は依然として世界の覇権者だという汪洋副首相の認識―謙遜でないとしたら―が、第2次世界大戦後に主として米国が形作ってきた同地域を再構成する中国の能力に関する新しい現実をうかがわせるのかもしれない。同副首相は「中国には米国の立場に挑戦する野心も能力もない」と述べたのだ。  
融和的レトリックのより可能性の高い説明は、周辺国はよみがえった中華思想の秩序の中に強制的に引き込まれることを望んでいないことを中国が認識するに至った、ということだ。  
このことが、「連結性」と「旋風」の外交が平和的手段で目指すものであるようだ。中国が東アジアをその拡大する経済の中に取り込む時には、同地域における米国の地位は弾丸が一発も発射されることなく、小さくなっていることだろう。 
戦後70年、日本が謝罪しても東アジア情勢は改善せず 2015/1/14  
第2次世界大戦の終戦から70年を迎える今年、「懺悔(ざんげ)のモデル」のドイツのように振る舞うよう日本に求める声が一段と高まる公算が大きい。  
ドイツほど深い悔恨を鮮明にした国はかつてない。史上最も破壊的な戦争のあと、ドイツは苦しみながら自己反省して謝罪した。それが再び平和が脅かされるとの恐怖を沈静化させる一助となった。安心した欧州は、和解が可能になった。  
これとは対照的に、日本が戦争という過去を振り返るとき謝罪していると感じられないことが多い。これが、日本の軍国主義によって辛酸をなめた中国と韓国との関係が依然としてとげとげしい理由だとされている。また、尖閣諸島(中国名は釣魚島)をめぐる日中両国の緊張の高まりが武力衝突につながるのではないかとの現実的な懸念にもつながっている。  
日本はきっぱりと全面謝罪すべきだとの議論がある。東アジアの緊張緩和のためだというのだ。そして東アジア地域の政治家、学者、そして戦争犠牲者のグループの間では、安倍晋三首相が日本の降伏70周年の8月に何を言うかに既に期待が高まっている。  
そんな簡単な話ならどんなに良いことか。  
だが第一に、日本がこれまで公式の謝罪を出し惜しみしてきたというのは事実ではない。  
日本が戦時中の自らの苦しみにひたる傾向があると批判することはできる。同様に、学校の教科書で戦時中の旧日本軍の残虐行為を過小評価する一方、広く行われた奴隷労働、南京大虐殺、そして旧日本軍のために性奴隷とされた「慰安婦」の強制徴用といった諸事実を公的な立場にある人々が声高に否定していることも批判できる。  
しかし日本の指導者たちが謝罪しないと非難することはできない。この数十年間、彼らは繰り返し謝罪してきたからだ。  
例えば1991年、当時の宮沢喜一首相はアジア太平洋で日本が与えた「耐え難い苦しみと悲しみ」に許しを請うた。また降伏50年目の1995年に当時の村山富市首相は植民地支配と侵略について「痛切な反省の意」を表し、「心からのおわび」を表明した。  
だが、日本の指導者で、ドイツ(当時西独)のウィリー・ブラント首相が1970年にワルシャワ・ゲットー蜂起の記念碑前でひざまずいた象徴的な行動に匹敵することを行った人は皆無だ。2001年に当時の小泉純一郎首相が韓国で花輪をささげ、植民地支配を謝罪したぐらいだ。  
第二に、安倍首相が本格的に謝罪するとしても、それが大いに役立つかどうか全く明白ではない。それはかえって事態を悪化させるかもしれない。  
「謝罪する国々:国際政治における謝罪(Sorry States: Apologies in International Politics)」の著者ジェニファー・リンド氏は、謝罪は和解のために必要であるとの広く浸透した考えに異議を唱える。同氏は、ドイツとフランスは、ドイツが実際にナチの残虐行為を償い始める以前ですら仲直りしていたと指摘している。一世代(20-30年)という年月が必要ではあったが。  
加えて、謝罪は政治的にリスキーだ、とリンド氏は言う。それは謝罪する国において反発を引き起こしかねないからだ。  
それこそ日本で起こっていることだ。日本では、公式謝罪は右翼のナショナリストやその他の過激主義者から否定の声が一斉に出てくる引き金になっており、謝罪に込められた誠意を台無しにしている。  
安倍首相につきまとう問題は、同首相がこの種の人物を重要なポジションに任命してきたことだ。それが、安倍氏の真意がどこにあるのかという疑念が持ち上がるきっかけになっている。安倍首相は2013年、A級戦犯が他の戦没者とともに合祀(ごうし)されている靖国神社を参拝し、同首相を批判する陣営に攻撃材料を提供した。それが中国と韓国をして安倍氏は悔い改めない軍国主義者とのレッテルを貼らせることになったのだ。  
これは厄介な事態だ。もっと謝罪をしても、それは東アジアにおける真の問題を解決しないだろう。歴史をめぐる議論は、同地域の政治家たちによってそれぞれの国内目標のために利用されているのだ。  
歴史論議は、この地域では競合するナショナリスト的なアジェンダ(目標)をあおる。それらは領土紛争をかき立て、実際的な外交上の解決を排除してしまう。  
中国では、反日感情がレジーム(体制)を支える不可欠なつえと化した。日本を悔い改めない悪漢として描くことは、中国の軍事的増強を正当化する一助になっている。  
同じように、日本では多くの人々が中国の経済的な興隆を日本の存立を脅かす脅威としてみるようになった。有権者にとっての安倍氏の魅力は、少なくとも部分的には、同氏が日本の強力な隣国である中国に対峙(たいじ)してくれるだろうという期待があるためだ。安倍氏をひざまずかせれば、北京とソウルでは万事うまく行くだろうが、東京では恐ろしいことになるだろう。  
世界のどこでも真の和解にこぎつけるのは極めて難しい。このため、政治家は追い込まれなければ和解しようとしないのが常だ。そこでは共通の脅威の存在が役に立つ。欧州ではそうだった。つまり、冷戦への対応という至上命題が欧州(西欧)の和解を促したのだ。  
しかし、残念ながら、東アジアにおける政治的な力は、おおむね正反対の方向に作用している。一層の敵意という方向だ。  
そこで、安倍氏は8月15日の終戦70年にあたり何を言うべきだろうか。安倍氏は「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たしていくのか」を新たな談話に書き込むことを約束した。同氏はまた、これまで(歴代政権)の公式謝罪から後退させるつもりはないことを強調した。  
これらはすべて、世界的なステーツマン(政治家)としての安倍氏の立ち位置を改善するのに不可欠だ。しかし、安倍氏が何を言おうと、日本の近隣2国(中国と韓国)をなだめられる公算は小さい。リンド氏は「魔法の言葉」というものはないと述べ、「それでも、中国は不満だろう」と語った。  
たとえ日本がドイツをモデルとし、アジアにおける第2次世界大戦の傷を癒やそうとした場合でも、問題は、中国と韓国がその後、「赦(ゆる)しのモデル」であるフランスのように行動するかどうかなのだ。 
第三次安倍内閣の課題 2015/2  
昨年十二月に行われた衆院選での勝利をうけて、第三次安倍内閣が発足した。新たなスタートを切った安倍政権は、懸案の景気問題など日本の抱えている様々な課題に対して、この一年、どう向き合っていくべきか。ゲストの発言を踏まえて、キャスター二人が語り合った。  
アベノミクスへの「期待」  
「(衆院選で)安倍首相はアベノミクスという具体的な政策を示して戦った。それに対抗するビジョンが野党から出てこなかったのが大きい」=世耕弘成・官房副長官(昨年十二月十五日)  
近藤 昨年末の衆院選では与党が圧勝し、安倍首相が引き続き政権を担当することになりました。国民の最大の関心事は経済問題でしたから、与党の経済政策は、一応の信任を得たものといえます。  
玉井 ただ、国民の多くはアベノミクスのもたらす果実を実感できていなかったようです。実際、安倍首相も「アベノミクスは道半ば」と言っているわけですし、「現状には満足していないが、今後には期待している」というのが、今回の選挙で示された民意だったのではないでしょうか。  
近藤 これに対して、野党はアベノミクスに代わる経済政策を打ち出すことができなかった。世耕氏の指摘にはもっともなところがあると思います。  
玉井 民主党は小選挙区の六割にしか候補者を立てられず、政権の受け皿になるという野党第一党の役割を放棄した。選挙の緊張感を失わせた民主党の罪は重い。  
「(消費税率が一〇%に引き上げられる)二〇一七年四月までに景気が回復していないと、国民から厳しい審判を受けることになる」=山際大志郎・経済産業省副大臣(昨年十二月十七日)  
近藤 安倍首相は、昨夏頃からの景気減速などを受け、当初は今年十月に予定していた消費再増税を延期したわけですが、二〇一七年四月には必ず引き上げると明言しています。それまでに何としても景気を浮揚させねばならないわけで、今年はいよいよアベノミクスの成果が問われる年になります。  
玉井 来年七月には参議院選挙も控えています。国民の期待にこたえるために残された時間はそれほどありません。アベノミクスの成果を目にみえるかたちで示すことが重要です。  
カギ握る今春の春闘  
近藤 その意味では、今年の春闘に注目しています。二月中旬には労組側が要求を経営側に提出し、賃金交渉がいよいよ本格化します。焦点は物価上昇分を上回る賃上げが実現するかどうかですが、その点、大企業に関してはかなり期待ができそうです。問題は労働者の七割以上が働いている中小企業で、その業績は地域や業種によって「まだら模様」というのが実態です。アベノミクスの恩恵をどれだけ多くの国民に行き渡らせることができるかは、引き続き大きな課題です。  
玉井 政府、労働界、経済界の代表による「政労使会議」は、昨年の春闘に続いて賃上げに向けた努力をしていくことで合意しています。いわば首相官邸が労組の主張を代弁する異例のかたちとなっており、安倍首相の強い意気込みが読み取れます。  
「(農業、医療など規制の残る分野で、今年は)成長戦略の具体化が見える年にしないといけない」=甘利明・経済再生大臣(一月五日)  
近藤 もうひとつ重要なのは、アベノミクスの「第三の矢」である成長戦略の成否です。昨年後半から株式市場は荒っぽい値動きを見せていますが、市場は日本の成長戦略に本当に推進力があるのかを見極めようとしています。もちろん関連する法改正などにはある程度時間がかかりますが、与党は選挙で大勝して大きな政治的パワーを得たのですから、早急に規制緩和を進め、成長戦略を強力に推進する姿勢を打ち出さねばならない。さもなければ、失望が市場を覆ってしまい、景気回復はさらに遠のいてしまうでしょう。  
玉井 そこで安倍首相は、既得権益をもつ旧来の支持団体の応援を得て当選してきた自民党議員を抑え込むことができるのか。かといって、かつての小泉首相のように、党内の議員を抵抗勢力呼ばわりするような「劇場政治」も望ましくない。安倍首相の政治手腕が問われるところです。  
「(地方にあって)今まで日本経済を回してきた公共事業と企業誘致の陰に隠れて力を落としてきたものの潜在力をいかに伸ばすか」=石破茂・地方創生担当大臣(昨年十二月二十六日)  
近藤 疲弊した地方の再生も引き続き大きなテーマです。現在の改正地域再生法では、自治体サイドが政府に新たな支援策を提案する仕組みがもうけられています。こうして地方の自主性を引き出すのは大事なことですが、現実には観光資源や人的資源なども乏しく、有効なアイデアを打ち出せない自治体も多い。すべての地域がうまくいくような施策は存在しないことは直視しなければなりません。  
集団的自衛権で対立も  
「(与党の勝利は)決して『積極的に信任を受けた』と胸を張れるほどではなかった。多様な民意を受け止めていくには、謙虚な姿勢が必要だ。数におごらないよう自ら戒めなければならない」=公明党の山口那津男代表(昨年十二月十八日)  
玉井 最大の懸案である経済問題以外にも、今年注目すべき政治的課題は幾つかあります。集団的自衛権の限定行使を可能にする自衛隊法改正案などの関連法案は、四月の統一地方選後に国会に提出される見通しとなっており、与野党の対立は必至の状況です。  
近藤 今春にはこれと並行して日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定も行われるので、安保関係で国会審議が白熱していくことが予想されます。玉井 国民の安全を守るため集団的自衛権の限定行使を可能にしようという与党の論理には説得力があると思いますが、ここでひとつ注意したいのは、外交・安保政策というのは仮に政権交代があっても揺らがないことが大事だということです。与党側は数の力に頼らず、野党を巻き込んでいくような政治の技術を見せてほしい。  
近藤 春闘の結果なども含め、安倍政権がこの春をうまく乗り切れるかどうかは、重要なポイントになりそうです。  
玉井 八月には戦後七〇年の首相談話も発表されます。安倍首相は、アジアへの侵略を謝罪した戦後五〇年の村山首相談話などの立場を「全体として引き継いでいく」としていますが、内容次第では国際社会の反発を買って国益が損なわれる恐れもある。賢明な判断を期待したいところです。 
2015年2月12日 - 安倍首相

 

(第百八十九回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説)  
まず冒頭、シリアにおける邦人殺害テロ事件について、一言、申し上げます。事件発生以来、政府はあらゆる手段を尽くしてまいりましたが、日本人がテロの犠牲となったことは、痛恨の極みであります。衷心より哀悼の誠を捧げるとともに、御家族に心からお悔やみを申し上げます。非道かつ卑劣極まりないテロ行為を、断固非難します。日本がテロに屈することは決してありません。水際対策の強化など、国内外の日本人の安全確保に、万全を期してまいります。そして食糧、医療などの人道支援。テロと闘う国際社会において、日本としての責任を、毅然として、果たしてまいります。
一 戦後以来の大改革  
「日本を取り戻す」  
そのためには、「この道しかない」  
こう訴え続け、私たちは、二年間、全力で走り続けてまいりました。  
先般の総選挙の結果、衆参両院の指名を得て、引き続き、内閣総理大臣の重責を担うこととなりました。  
「安定した政治の下で、この道を、更に力強く、前進せよ。」  
これが総選挙で示された国民の意思であります。全身全霊を傾け、その負託に応えていくことを、この議場にいる自由民主党及び公明党の連立与党の諸君と共に、国民の皆様にお約束いたします。  
経済再生、復興、社会保障改革、教育再生、地方創生、女性活躍、そして外交・安全保障の立て直し。  
いずれも困難な道のり。「戦後以来の大改革」であります。しかし、私たちは、日本の将来をしっかりと見定めながら、ひるむことなく、改革を進めなければならない。逃れることはできません。  
明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。  
「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。」  
明治の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。
二 改革断行  
(農家の視点に立った農政改革)  
戦後一千六百万人を超えていた農業人口は、現在、二百万人。この七十年で八分の一まで減り、平均年齢は六十六歳を超えました。もはや、農政の大改革は、待ったなしであります。  
何のための改革なのか。強い農業を創るための改革。農家の所得を増やすための改革を進めるのであります。  
六十年ぶりの農協改革を断行します。農協法に基づく現行の中央会制度を廃止し、全国中央会は一般社団法人に移行します。農協にも会計士による監査を義務付けます。意欲ある担い手と地域農協とが力を合わせ、ブランド化や海外展開など農業の未来を切り拓く。そう。これからは、農家の皆さん、そして地域農協の皆さんが主役です。  
農業委員会制度の抜本改革にも、初めて、踏み込みます。地域で頑張る担い手がリードする制度へと改め、耕作放棄地の解消、農地の集積を一層加速いたします。  
農業生産法人の要件緩和を進め、多様な担い手による農業への参入を促します。いわゆる「減反」の廃止に向けた歩みを更に進め、需要ある作物を振興し、農地のフル活用を図ります。市場を意識した競争力ある農業へと、構造改革を進めてまいります。  
「変化こそ唯一の永遠である。」  
明治時代、日本画の伝統に新風を持ち込み、改革に挑んだ岡倉天心の言葉です。  
伝統の名の下に、変化を恐れてはなりません。  
農業は、日本の美しい故郷を守ってきた、「国の基(もとい)」であります。だからこそ、今、「変化」を起こさねばならない。必ずや改革を成し遂げ、若者が自らの情熱で新たな地平を切り拓くことができる、新しい日本農業の姿を描いてまいります。  
目指すは世界のマーケット。林業、水産業にも、大きな可能性があります。昨年、農林水産物の輸出は六千億円を超え、過去最高を更新いたしました。しかし、まだまだ少ない。世界には三百四十兆円規模の食市場が広がっています。内外一体の改革を進め、安全で、おいしい日本の農水産物を世界に展開してまいります。  
(オープンな世界を見据えた改革)  
オープンな世界へと果敢に踏み出す。日本の国益を確保し、成長を確かなものとしてまいります。  
最終局面のTPP交渉は、いよいよ出口が見えてまいりました。米国と共に交渉をリードし、早期の交渉妥結を目指します。欧州とのEPAについても、本年中の大筋合意を目指し、交渉を更に加速してまいります。  
経済のグローバル化は一層進み、国際競争に打ち勝つことができなければ、企業は生き残ることはできない。政府もまた然(しか)り。オープンな世界を見据えた改革から逃れることはできません。  
全ての上場企業が、世界標準に則った新たな「コーポレートガバナンス・コード」に従うか、従わない場合はその理由を説明する。その義務を負うことになります。  
法人実効税率を二・五%引き下げます。三十五%近い現行税率を数年で二十%台まで引き下げ、国際的に遜色のない水準へと法人税改革を進めてまいります。  
(患者本位の医療改革)  
患者本位の新たな療養制度を創設します。世界最先端の医療を日本で受けられるようにする。困難な病気と闘う患者の皆さんの思いに応え、その申出に基づいて、最先端医療と保険診療との併用を可能とします。更に、安全性、有効性が確立すれば、国民皆保険の下で保険適用としてまいります。  
医療法人制度の改革も実施します。外部監査を導入するなど、経営の透明化を進めます。更に、異なる機能を持つ複数の医療法人の連携を促す新たな仕組みを創設し、地域医療の充実に努めます。  
(エネルギー市場改革)  
電力システム改革も、いよいよ最終段階に入ります。電力市場の基盤インフラである送配電ネットワークを、発電、小売から分離し、誰もが公平にアクセスできるようにします。ガス事業でも小売を全面自由化し、あらゆる参入障壁を取り除いてまいります。競争的で、ダイナミックなエネルギー市場を創り上げてまいります。  
低廉で、安定した電力供給は、日本経済の生命線であります。責任あるエネルギー政策を進めます。  
燃料輸入の著しい増大による電気料金の上昇は、国民生活や中小・小規模事業の皆さんに大きな負担となっています。原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた原発は、その科学的・技術的な判断を尊重し、再稼働を進めます。国が支援して、しっかりとした避難計画の整備を進めます。立地自治体を始め関係者の理解を得るよう、丁寧な説明を行ってまいります。  
長期的に原発依存度を低減させていくとの方針は変わりません。あらゆる施策を総動員して、徹底した省エネルギーと、再生可能エネルギーの最大限の導入を進めてまいります。  
安倍内閣の規制改革によって、昨年、夢の水素社会への幕が開きました。全国に水素ステーションを整備し、燃料電池自動車の普及を加速させます。大規模な建築物に省エネ基準への適合義務を課すなど、省エネ対策を抜本的に強化してまいります。  
安全性、安定供給、効率性、そして環境への適合。これらを十分に検証し、エネルギーのベストミックスを創り上げます。そして世界の温暖化対策をリードする。COP二十一に向け、温室効果ガスの排出について、新しい削減目標と具体的な行動計画を、できるだけ早期に策定いたします。  
(改革推進のための行政改革)  
各般の改革を進めるため、行政改革を、併せ、断行いたします。  
歴代内閣で肥大化の一途を辿(たど)ってきた、内閣官房・内閣府の事務の一部を各省に移管し、重要政策における内閣の総合調整機能が機動的に発揮できるような体制を整えます。  
十七の独立行政法人を七法人へと統合します。私たちが進める改革は、単なる数合わせではありません。攻めの農業を始め諸改革を強力に進めていくための統合であります。金融庁検査の導入など、法人毎の業務の特性に応じたガバナンス体制を整備し、独立行政法人の政策実施機能を強化してまいります。  
四月から日本医療研究開発機構が始動します。革新的ながん治療薬の開発やiPS細胞の臨床応用などに取り組み、日本から、医療の世界にイノベーションを起こします。  
日本を「世界で最もイノベーションに適した国」にする。世界中から超一流の研究者を集めるため、世界最高の環境を備えた新たな研究開発法人制度を創ります。ITやロボット、海洋や宇宙、バイオなど、経済社会を一変させる挑戦的な研究を大胆に支援してまいります。  
(改革断行国会)  
「知と行は二つにして一つ」  
何よりも実践を重んじ、明治維新の原動力となる志士たちを育てた、吉田松陰先生の言葉であります。  
成長戦略の実行。大胆な規制改革によって、生産性を押し上げ、国際競争力を高めていく。オープンな世界に踏み出し、世界の成長力を取り込んでいく。為すべきことは明らかです。要は、やるか、やらないか。  
この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。「行動」です。「改革の断行」であります。日本の将来を見据えながら、大胆な改革を、皆さん、実行しようではありませんか。
三 経済再生と社会保障改革  
(経済の好循環)  
この二年間、全力で射込んできた「三本の矢」の経済政策は、確実に成果を挙げています。  
中小・小規模事業者の倒産件数は、昨年、二十四年ぶりの低い水準となりました。就職内定を得て新年を迎えた新卒予定者は、八割を超えました。大卒で六年ぶり、高卒で二十一年ぶりに高い内定率です。有効求人倍率は、一年以上にわたって、一倍を超え、仕事を探す人よりも、人を求める仕事の数が多くなっています。正社員においても、十年前の調査開始以来、最高の水準となりました。  
この機を活かし、正規雇用を望む派遣労働者の皆さんに、そのチャンスを広げます。派遣先企業への直接雇用の依頼など正社員化への取組を派遣元に義務付けます。派遣先の労働者との均衡待遇の確保にも取り組み、一人ひとりの選択が実現できる環境を整えてまいります。  
昨年、過去十五年間で最高の賃上げが実現しました。そしてこの春も、企業収益の拡大を賃金の上昇につなげる。更には、中小・小規模事業の皆さんが原材料コストを価格に転嫁しやすくし、経済の好循環を継続させていく。その認識で、政労使が一致いたしました。  
デフレ脱却を確かなものとするため、消費税率十%への引上げを十八か月延期し、平成二十九年四月から実施します。そして賃上げの流れを来年の春、再来年の春と続け、景気回復の温かい風を全国津々浦々にまで届けていく。そのことによって、経済再生と財政再建、社会保障改革の三つを、同時に達成してまいります。  
来年度予算は、新規の国債発行額が六年ぶりに四十兆円を下回り、基礎的財政収支の赤字半減目標を達成する予算としました。二〇二〇年度の財政健全化目標についても堅持し、夏までに、その達成に向けた具体的な計画を策定いたします。  
(社会保障の充実)  
消費増税が延期された中にあっても、アベノミクスの果実も活かし、社会保障を充実してまいります。  
難病の皆さんへの医療費助成を大幅に広げます。先月から、小児慢性特定疾病について、新たに百七疾病を助成対象としました。難病についても、この七月を目指し、三百疾病へと広げてまいります。先月から高額療養費制度を見直しました。所得の低い方々の医療費負担を軽減いたします。  
認知症対策を推進します。早期の診断と対応に加え、認知症の皆さんが、できる限り住み慣れた地域で暮らしていけるよう、環境を整えてまいります。国民健康保険への財政支援を拡充することと併せ、その財政運営を市町村から都道府県に移行することにより、国民皆保険の基盤を強化してまいります。  
所得の低い高齢者世帯の皆さんの介護保険料を軽減いたします。介護職員の皆さんに月額一万二千円相当の処遇改善を行い、サービスの充実にも取り組みます。他方で、利用者の負担を軽減し、保険料の伸びを抑えるため、増え続ける介護費用全体を抑制します。社会福祉法人について、経営組織の見直しや内部留保の明確化を進め、地域に貢献する福祉サービスの担い手へと改革してまいります。  
子育て世帯の皆さんを応援します。子ども・子育て支援新制度は、予定通り、四月から実施いたします。引き続き「待機児童ゼロ」の実現に全力投球してまいります。幼児教育や保育に携わる皆さんに三%相当の処遇改善を行い、小学校の教室を利用した放課後児童クラブの拡大や、休日・夜間保育、病児保育の充実など、多様な保育ニーズにもしっかりと応えてまいります。
四 誰にでもチャンスに満ち溢れた日本  
(女性が輝く社会)  
その担い手として、これまで子育てに専念してきた女性の皆さんの力にも、大いに期待しています。「子育て支援員」制度がスタートします。子育ても一つのキャリア。そのかけがえのない、素晴らしい経験を活かしてほしいと思います。  
私は、女性の力を、強く信じます。家庭で、地域社会で、職場で、それぞれの場で活躍している全ての女性が、その生き方に自信と誇りを持ち、輝くことができる社会を創り上げてまいります。  
「女性活躍推進法案」を再び提出し、早期の成立を目指します。国、地方、企業などが一体となって、女性が活躍しやすい環境を整える。社会全体の意識改革を進めてまいります。  
本年採用の国家公務員から、女性の比率が三割を超えます。二〇二〇年には、あらゆる分野で指導的地位の三割以上が女性となる社会を目指し、女性役員などの情報の開示、育児休業中の職業訓練支援など、女性登用に積極的な企業を応援してまいります。  
(柔軟かつ多様な働き方)  
高齢者の皆さんに、多様な就業機会を提供する。シルバー人材センターには、更にその機能を発揮してもらいます。障害や難病、重い病気を抱える皆さんにも、きめ細かな支援を行い、就労のチャンスを拡大してまいります。  
あらゆる人が、生きがいを持って、社会で活躍できる。そうすれば、少子高齢社会においても、日本は力強く成長できるはずです。  
そのためには、労働時間に画一的な枠をはめる、従来の労働制度、社会の発想を、大きく改めていかなければなりません。子育て、介護など働く方々の事情に応じた、柔軟かつ多様な働き方が可能となるよう、選択肢の幅を広げてまいります。  
昼が長い夏は、朝早くから働き、夕方からは家族や友人との時間を楽しむ。夏の生活スタイルを変革する新たな国民運動を展開します。  
夏休みの前に働いた分、子どもに合わせて長い休みを取る。そんな働き方も、フレックスタイム制度を拡充して、可能とします。専門性の高い仕事では、時間ではなく成果で評価する新たな労働制度を選択できるようにします。  
時間外労働への割増賃金の引上げなどにより、長時間労働を抑制します。更に、年次有給休暇を確実に取得できるようにする仕組みを創り、働き過ぎを防ぎ、ワーク・ライフ・バランスが確保できる社会を創ってまいります。  
(若者の活躍)  
日本の未来を創るのは、若者です。若者たちには、社会で、その能力を思う存分発揮し、大いに活躍してもらいたいと願います。  
若者への雇用対策を抜本的に強化します。三割を超える若者が早期離職する現実を踏まえ、新卒者を募集する企業には、残業、研修、離職などの情報提供を求めます。若者の使い捨てが疑われる企業からは、ハローワークで新卒求人を受理しないようにいたします。  
非正規雇用の若者たちには、キャリアアップ助成金を活用して正規雇用化を応援します。魅力ある中小企業がたくさんある。そのことを若者たちに知ってもらうための仕組みを強化します。  
(子どもたちのための教育再生)  
「娘は今、就職に向けて前向きに頑張っております。」  
二十歳の娘さんを持つお母さんから、手紙を頂きました。娘さんは、幼い頃から学習困難があり、友達と違う自分に悩んできたといいます。  
「娘はだんだん自己嫌悪がひどくなり『死んでしまいたい』と泣くこともありました・・・学校に行くたびに輝きが失せていく・・・しかし、娘は世の中に置いて行かれまいと、学校に通いました。」  
中学一年生の時、不登校になりました。しかし、フリースクールとの出会いによって、自信を取り戻し、再び学ぶことができました。大きな勇気を得て、社会の偏見に悩みながらも、今は就職活動にもチャレンジしているそうです。その手紙は、こう結ばれていました。  
「子どもは大人の鏡です。大人の価値観が変わらない限りいじめは起こり、無くなることはないでしょう。・・・多様な人、多様な学び、多様な生き方を受け入れ、認め合う社会を目指す日本であってほしいと切に願っております。ちっぽけな母親の願いです。」と。  
否(いや)、当然の願いであります。子どもたちの誰もが、自信を持って、学び、成長できる環境を創る。これは、私たち大人の責任です。  
フリースクールなどでの多様な学びを、国として支援してまいります。義務教育における「六・三」の画一的な学制を改革します。小中一貫校の設立も含め、九年間の中で、学年の壁などにとらわれない、多様な教育を可能とします。  
「できないことへの諦め」ではなく「できることへの喜び」を与える。地域の人たちの協力を得ながら、中学校で放課後などを利用して無償の学習支援を行う取組を、全国二千か所に拡大します。  
子どもたちの未来が、家庭の経済事情によって左右されるようなことがあってはなりません。子どもの貧困は、頑張れば報われるという真っ当な社会の根幹に関わる深刻な問題です。  
所得の低い世帯の幼児教育にかかる負担を軽減し、無償化の実現に向け、一歩一歩進んでまいります。希望すれば、高校にも、専修学校、大学にも進学できる環境を整えます。高校生に対する奨学給付金を拡充します。大学生への奨学金も、有利子から無利子への流れを加速し、将来的に、必要とする全ての学生が、無利子奨学金を受けられるようにしてまいります。  
誰にでもチャンスがある、そしてみんなが夢に向かって進んでいける。そうした社会を、皆さん、共に創り上げようではありませんか。
五 地方創生  
(地方にこそチャンス)  
地方で就職する学生には、奨学金の返済を免除する新たな仕組みを創ります。東京に住む十代・二十代の若者に尋ねると、その半分近くが、地方への移住を望んでいる。大変勇気づけられる数字です。  
地方にこそチャンスがある。  
若者たちの挑戦を力強く後押しします。一度失敗すると全てを失う、「個人保証」偏重の慣行を断ち切ります。全国の金融機関、中小・小規模事業の皆さんへの徹底を図ります。政府調達では、創業から十年未満の企業を優先するための枠組みを創り、新たなビジネスに挑む中小・小規模事業の皆さんのチャンスを広げてまいります。  
地方にチャンスを見出す企業も応援します。本社などの拠点を地方に移し、投資や雇用を拡大する企業を、税制により支援してまいります。地域ならではの資源を活かした、新たな「ふるさと名物」の商品化、販路開拓も応援し、地方の「しごとづくり」を進めてまいります。  
地方こそ成長の主役です。  
外国人観光客は、この二年間で五百万人増加し、過去最高、一千三百万人を超えました。ビザ緩和などに戦略的に取り組み、更なる高みを目指します。  
日本を訪れる皆さんに、北から南まで、豊かな自然、文化や歴史、食など、地方の個性あふれる観光資源を満喫していただきたい。国内の税関や検疫、出入国管理の体制を拡充いたします。全国各地と結ぶ玄関口、羽田空港の機能強化を進めます。地元の理解を得て飛行経路を見直し、国際線の発着枠を二〇二〇年までに年四万回増やします。成田空港でも、管制機能を高度化し、同様に年四万回、発着枠を拡大します。アジアとのハブである沖縄では、那覇空港第二滑走路の建設を進めます。二〇二一年度まで毎年三千億円台の予算を確保するとした沖縄との約束を重んじ、その実施に最大限努めてまいります。  
(地方目線の行財政改革)  
熱意ある地方の創意工夫を全力で応援する。それこそが、安倍内閣の地方創生であります。  
地方の努力が報われる、地方目線の行財政改革を進めます。それぞれの地方が、特色を活かしながら、全国にファンを増やし、財源を確保する。ふるさと納税を拡大してまいります。手続も簡素化し、より多くの皆さんに、地方の応援団になってほしいと思います。  
地方分権でも、霞が関が主導する従来のスタイルを根本から改め、地方の発意による、地方のための改革を進めてまいります。地方からの積極的な提案を採用し、農地転用などの権限を移譲します。更に、国家戦略特区制度を進化させ、地方の情熱に応えて規制改革を進める「地方創生特区」を設けてまいります。  
(安心なまちづくり)  
伝統ある美しい日本を支えてきたのは、中山間地や離島にお住まいの皆さんです。医療や福祉、教育、買物といった生活に必要なサービスを、一定のエリアに集め、周辺の集落と公共交通を使って結ぶことで、小さくても便利な「まちづくり」を進めてまいります。  
安全で安心な暮らしは、何よりも重要です。ストーカー、高齢者に対する詐欺など、弱い立場の人たちを狙った犯罪への対策を強化してまいります。児童虐待から子どもたちを守るため、SOSの声を「いち・はや・く」キャッチする。児童相談所への全国共通ダイヤル「一八九」を、この七月から運用開始いたします。  
御嶽山の噴火を教訓に、地元と一体となって、観光客や登山者の警戒避難体制を充実するなど、火山防災対策を強化してまいります。近年増加するゲリラ豪雨による水害や土砂災害などに対して、インフラの整備に加え、避難計画の策定や訓練の実施など、事前防災・減災対策に取り組み、国土強靱化を進めてまいります。  
昨年は各地で自然災害が相次ぎました。その度に、自衛隊、警察、消防などの諸君が、昼夜を分かたず、また危険も顧みず、懸命の救助活動に当たってくれました。  
「たくさん雪が降っていて、とっても、こわかったです。」  
昨年十二月の大雪では、徳島県でいくつもの集落が孤立しました。災害派遣された自衛隊員に、地元の中学校の子どもたちが手紙をくれました。  
「そんなとき、自衛隊のみなさんが、来てくれて、助けてくれて、かんしゃの気持ちでいっぱいです。・・・わたしたちも、みなさんに何かしなくては!と思い、手紙を書きました。」  
私たちもまた、彼らの高い使命感と責任感に対し、今この場から、改めて、感謝の意を表したいと思います。
六 外交・安全保障の立て直し  
(平和国家としての歩み)  
昨年十月、海上自衛隊の練習艦隊が、五か月間の遠洋航海から帰国しました。  
「国のために戦った方は、国籍を超えて、敬意を表さなければならない。」  
ソロモン諸島リロ首相の心温まる御協力を頂き、今回の航海では、先の大戦の激戦地ガダルカナル島で収容された百三十七柱の御遺骨に、祖国へと御帰還いただく任務にあたりました。  
今も異国の地に眠るたくさんの御遺骨に、一日も早く、祖国へと御帰還いただきたい。それは、今を生きる私たちの責務であります。硫黄島でも、一万二千柱もの御遺骨の早期帰還に向け、来年度中に滑走路下百か所の掘削を完了し、取組を加速してまいります。  
祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、お亡くなりになった、こうした尊い犠牲の上に、私たちの現在の平和があります。  
平和国家としての歩みは、これからも決して変わることはありません。国際情勢が激変する中で、その歩みを更に力強いものとする。国民の命と幸せな暮らしは、断固として守り抜く。そのために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする安全保障法制の整備を進めてまいります。  
(戦後七十年の「積極的平和主義」)  
本年は、戦後七十年の節目の年にあたります。  
我が国は、先の大戦の深い反省と共に、ひたすらに自由で民主的な国を創り上げ、世界の平和と繁栄に貢献してまいりました。その誇りを胸に、私たちは、これまで以上に世界の平和と安定に貢献する国とならなければなりません。次なる八十年、九十年、そして百年に向けて、その強い意志を世界に向けて発信してまいります。  
幾多の災害から得た教訓や経験を世界と共有する。三月、仙台で国連防災世界会議を開きます。「島国ならでは」の課題に共に立ち向かう。五月、いわきで太平洋・島サミットを開催します。二十一世紀こそ、女性への人権侵害が無い世紀とする。女性が輝く世界に向けて、昨年に引き続き、秋口には、世界中から活躍している女性の皆さんに、日本にお集まりいただきたいと考えています。  
本年はまた、被爆七十年の節目でもあります。唯一の戦争被爆国として、日本が、世界の核軍縮、不拡散をリードしてまいります。  
国連創設から七十年にあたる本年、日本は、安全保障理事会・非常任理事国に立候補いたします。そして、国連を二十一世紀にふさわしい姿へと改革する。その大きな役割を果たす決意であります。  
本年こそ、「積極的平和主義」の旗を一層高く掲げ、日本が世界から信頼される国となる。戦後七十年にふさわしい一年としていきたい。そう考えております。  
(地球儀を俯瞰する外交)  
今後も、豪州、ASEAN諸国、インド、欧州諸国など、自由や民主主義、基本的人権や法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携しながら、地球儀を俯瞰する視点で、積極的な外交を展開してまいります。  
その基軸は日米同盟であります。この二年間で、日米同盟の絆は復活し、揺るぎないものとなりました。日米ガイドラインの見直しを進め、その抑止力を一層高めてまいります。  
現行の日米合意に従って、在日米軍再編を進めてまいります。三月末には、西普天間住宅地区の返還が実現いたします。学校や住宅に囲まれ、市街地の真ん中にある普天間飛行場の返還を、必ずや実現する。そのために、引き続き沖縄の方々の理解を得る努力を続けながら、名護市辺野古沖への移設を進めてまいります。今後も、日米両国の強固な信頼関係の下に、裏付けのない「言葉」ではなく実際の「行動」で、沖縄の基地負担の軽減に取り組んでまいります。  
日本と中国は、地域の平和と繁栄に大きな責任を持つ、切っても切れない関係です。昨年十一月、習近平国家主席と首脳会談を行って、「戦略的互恵関係」の原則を確認し、関係改善に向けて大きな一歩を踏み出しました。今後、様々なレベルで対話を深めながら、大局的な観点から、安定的な友好関係を発展させ、国際社会の期待に応えてまいります。  
韓国は、最も重要な隣国です。日韓国交正常化五十周年を迎え、関係改善に向けて話合いを積み重ねてまいります。対話のドアは、常にオープンであります。  
ロシアとは、戦後七十年経った現在も、いまだ平和条約が締結できていない現実があります。プーチン大統領とは、これまで十回にわたる首脳会談を行ってまいりました。大統領の訪日を、本年の適切な時期に実現したいと考えております。これまでの首脳会談の積み重ねを基礎に、経済、文化など幅広い分野で協力を深めながら、平和条約の締結に向けて、粘り強く交渉を続けてまいります。  
北朝鮮には、拉致、核、ミサイルの諸懸案の包括的な解決を求めます。最重要課題である拉致問題について、北朝鮮は、迅速な調査を行い、一刻も早く、全ての結果を正直に通報すべきであります。今後とも、「対話と圧力」、「行動対行動」の原則を貫き、拉致問題の解決に全力を尽くしてまいります。
七 二〇二〇年の日本  
(東日本大震災からの復興)  
昨年末、日本を飛び立った「はやぶさ2」。宇宙での挑戦を続けています。小惑星にクレーターを作ってサンプルを採取する。そのミッションを可能とした核心技術は、福島で生まれました。東日本大震災で一時は休業を強いられながらも、技術者の皆さんの熱意が、被災地から「世界初」の技術を生み出しました。  
福島を、世界最先端の研究、新産業が生まれる地へと再生する。原発事故によって被害を受けた浜通り地域に、ロボット関連産業などの集積を進めてまいります。  
中間貯蔵施設の建設を進め、除染を更に加速します。東京電力福島第一原発の廃炉・汚染水対策に、国も前面に立ち、全力で取り組みます。福島復興再生特別措置法を改正し、避難指示の解除に向けて、復興拠点が円滑に整備できるようにします。財政面での支援も拡充し、故郷に帰還する皆さんの生活再建を力強く後押ししてまいります。  
三月には、東北の被災地を貫く常磐自動車道が、いよいよ全線開通いたします。多くの観光客に東北を訪れていただきたい。被災地復興の起爆剤となることを期待しています。  
高台移転は九割、災害公営住宅は八割の事業がスタートしています。住まいの再建を続けると同時に、孤立しがちな被災者への見守りなどの「心」の復興、農林水産業や中小企業など「生業(なりわい)」の復興にも、全力を挙げてまいります。  
「はやぶさ2」は、福島生まれの技術がもたらした小惑星のサンプルと共に、二〇二〇年、日本に帰ってきます。その時には、東北の姿は一変しているに違いありません。いや、一変させなければなりません。「新たな可能性と創造」の地としての東北を、皆さん、共に創り上げようではありませんか。  
(オリンピック・パラリンピック)  
その同じ年に、私たちは、オリンピック・パラリンピックを開催いたします。  
必ずや成功させる。その決意で、専任の担当大臣の下、インフラ整備からテロ対策まで、多岐にわたる準備を本格化してまいります。  
スポーツ庁を新たに設置し、日本から世界へと、スポーツの価値を広げます。子どもも、お年寄りも、そして障害や難病のある方も、誰もがスポーツをもっと楽しむことができる環境を整えてまいります。  
(日本は変えられる)  
私たち日本人に、「二〇二〇年」という共通の目標ができました。  
昨年、日本海では、世界に先駆けて、表層型メタンハイドレート、いわゆる「燃える氷」の本格的なサンプル採取に成功しました。「日本は資源に乏しい国である」。そんな「常識」は、二〇二〇年には、もはや「非常識」になっているかもしれません。  
「日本は変えられる」。全ては、私たちの意志と行動にかかっています。  
十五年近く続いたデフレ。その最大の問題は、日本人から自信を奪い去ったことではないでしょうか。しかし、悲観して立ち止まっていても、何も変わらない。批判だけを繰り返していても、何も生まれません。  
「日本国民よ、自信を持て」  
戦後復興の礎を築いた吉田茂元総理の言葉であります。  
昭和の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません。私は、この議場にいる全ての国会議員の皆さんに、再度、呼び掛けたいと思います。  
全ては国民のため、党派の違いを超えて、選挙制度改革、定数削減を実現させようではありませんか。憲法改正に向けた国民的な議論を深めていこうではありませんか。  
そして、日本の未来を切り拓く。そのために、「戦後以来の大改革」を、この国会で必ずや成し遂げようではありませんか。  
今や、日本は、私たちの努力で、再び成長することができる。世界の真ん中で輝くことができる。その「自信」を取り戻しつつあります。  
さあ皆さん、今ここから、新たなスタートを切って、芽生えた「自信」を「確信」へと変えていこうではありませんか。  
御清聴ありがとうございました。 
日本は中国に25回も「戦争謝罪」をした 
 ――それでも対日批判を強める理由は? 2015/3/12  
人民日報元評論員・馬立誠氏は「日本は中国に25回も謝罪した。もう謝罪する必要はない」と書いている。日本は極東国際軍事裁判により裁かれ、以降、平和憲法を守っている。中国の終わりなき対日非難を考察する。  
日本は世界で最も多く謝罪し続けている国  
中国共産党の機関紙「人民日報」の元高級評論員(解説委員)だった馬立誠氏は、2002年12月に中国のオピニオン誌『戦略と管理』(2002年6号)の中で、「対日関係の新思考――中日民間の憂い」という論考を発表した。それ以来、馬立誠は、「日本はもう十分に謝罪した。中国はこれ以上日本に戦争謝罪を求めるべきでない」と書き続けている。2013年9月、香港にある「鳳凰網」(網:ウェブサイト)の取材に対して、「日本は中国に対してすでに25回も戦後謝罪をしている」と、具体的回数まで挙げている。  
筆者自身は、回数は数えていないが、少なくとも1972年9月29日の日中国交正常化調印式において当時の田中元首相が謝罪して以来、日本の多くの首相が中国の国家主席あるいは国務院総理(首相)と会談するたびに、「お詫び」の言葉を述べているのは確かだ。  
天皇陛下さえ、「お詫び」の言葉を述べている。  
そもそも日中国交正常化は、中国(中華人民共和国)と日本が戦後初めて国家同士として公的に発表した共同声明で、それを受けて78年に締結された日中平和友好条約は、ある意味、「終戦4年後に誕生した国家」との「終戦協定」に相当する。  
それまで「中国」を代表する国として国連に加盟していたのは蒋介石・国民党の「中華民国」だったので、国家間としての対話は「中華民国」とするしかなかった。  
この共同声明あるいは日中平和友好条約における中国側の最大の要求は「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法的な政府であることを承認する」ということだった。だから「中華民国」との国交を断絶せよと日本に迫った。日本国内には反対論もあったが、日本は中国の要求を重んじて「中華民国」と国交を断絶し、以後、「台湾」と呼ぶようになっている。  
日中国交正常化において中国は自ら戦後賠償を放棄した  
この共同声明において注目すべきもう一つの点は、中国側が自ら戦後賠償を放棄したということである。  
日本側は準備していたのに、中国側は、終戦直後、「中華民国」総統だった蒋介石が日本に対する戦後賠償を放棄したことにならい、自ら放棄したのである。  
その理由は、「一つの中国」を主張しているスタンスから、蒋介石・国民党政府と同じ主張を表明したことと、もう一つは長年にわたる毛沢東(共産党軍)と蒋介石(国民党軍)との対立から、毛沢東には、それなりの意地と体面があったものと考える。  
しかし日本は戦後賠償の代わりに1979年から巨額の対中ODA(政府開発援助)による支援を開始し、北京空港や地下鉄など、150項目以上の巨大な大型プロジェクトの経費を負担してきた。2008年になってようやく「新たな」円借款支援は停止したが、2007年までに約束した円借款支援は今もなお続いており、それが終了するのは2017年である。  
さらに、対中ODAのうちの無償資金協力や技術協力は今もなお撤廃されておらず、これまで通り中国に捧げ続けている。  
中国は2010年にGDPが世界第二位になり、日本を凌駕したというのに、それでも日本国民の血税を中国に注ぎ続けているのである。中国人の富裕層が日本で爆買いしている一方、日本国民の中には貧困で命を落としていく人が後を絶たない。東日本大震災の復興事業もままならない。  
その日本国民の、限りなく増税されていく血税を、日本政府は中国に今もなお注ぎ続けているのだ。  
それでいて、中国の教科書には日本の侵略行為に関する記述は膨大にあり、抗日記念館の授業見学は義務付けられているが、日本の総額3.6兆円にのぼるODA支援に関しては、ただの一文字たりとも触れていない。  
それに比べて、たとえばシンガポールの教科書などでは日本の侵略行為を明記すると同時に、戦後の日本が対シンガポールODA支援をしてきたことをも明記している。  
今もなお続いている対中ODAが、中国の軍事力強化に貢献していないとは言い難い。中国は少なくとも、その分だけ多く、軍事費に予算を注ぐゆとりが生じるからだ。その強化された中国の軍事力に対抗するために日本の防衛力強化をしなければならないとしたら、日本は何という矛盾を抱えていることだろう。  
日本の戦後謝罪は国際法的には決着している  
日本は終戦直後に設けられた極東国際軍事裁判において戦争責任を裁かれ、戦争責任者を犯罪人として処刑あるいは懲役刑という形で罰せられ、それを受け入れた。それによって戦争への罪を認め、反省を表明したのである。  
1951年9月には、連合国諸国との間で締結されたサンフランシスコ平和条約によって戦争犯罪を認め謝罪し、占領軍アメリカの「指導」によって制定された平和憲法を順守して、それ以降、二度と戦争を起こしていない。  
サンフランシスコ平和条約には、「中華民国」(国民党)と「中華人民共和国」(共産党)の両方が「自分こそが『中国の代表だ』」と主張したので、連合国側は「中国」を「連合国諸国」から外した。  
そのため同年「中華民国」とは日華平和条約によって戦後処理を行い、日米同盟の中でアメリカの制約を受けていた日本は、「中華人民共和国」が国連に加盟したあとで、アメリカにならい、日中国交正常化共同声明および日中平和友好条約によって、「中華人民共和国」との戦後処理も法的に終わらせたのである。  
この時点で国際法上、日本の戦後処理は終わっている。  
しかもトウ小平は、「国家賠償を放棄することを人民に相談しなかった」とする、被害を受けた中国人民の民間賠償要求を退けた。  
国家に決定権があり、国家間では解決済みとしたのだ。  
その民間賠償要求が中国でも認められるようになったのは、2013年のことである。  
なぜ今になって対日批判を強めるのか――台頭するナショナリズム  
1991年12月のソ連崩壊によって、米ソ冷戦構造は消滅した。それに伴い、全世界的にナショナリズムが台頭し始めたのは事実だ。だから中国のナショナリズム台頭だけを責めることはできない。  
しかし中国ほど愛国主義教育の名の下に「日本の侵略戦争」の被害のみを強調して、日本がどれだけ絶えることのない援助を中国にしてきたかを公表しない国も少ないだろう。  
軍事情報を主として伝えるウェブサイト鉄血網のソーシャルサイト「鉄血社区」が2012年12月28日に、日本のODA援助に関して書いたところ、売国奴と罵られるほどのバッシングを受けたことがある。  
このような心情に関して冒頭の馬立誠氏は「中国が愛国主義教育を実施したため、ナショナリズムが高揚して若者が非常に好戦的になっている。その若者たちに『中国政府がいかに日本に対して強硬的な姿勢を取っているか』を見せないと、中国政府自体が『売国政府』と罵られるのだ」という趣旨のことを書いている。  
この言葉は筆者がかつて多くの書籍の中で書いて来たことと、ほぼ完全に一致している。  
馬立誠氏はさらに、このスパイラルは中国を国際社会で孤立させていき、中国自身にとって良くないと警告している。  
いま中国のメディアでは、安倍政権の右傾化を激しく批判し、日本が軍事大国になろうとしていると報道しているが、日本の「不戦の誓い」は、そうたやすく破られるものではないし、日本国民の多くは、二度と戦争を起こしてほしくないと思っている。戦争を起こすような選択を日本国民は絶対に選ばないと信じている。  
そのためにも、中国が終わりなき対日批判を、これ以上激化させていかないことを祈る。なぜなら、それは日本国民の心に反中感情を巻き起こし、それゆえに「軍事力で中国をやっつけろ」といった言論を生みかねないからである。  
反省している人間を責め続ければ(いや、批判がますます激しくなれば)、それは逆効果であることを、人間関係においても人類は知っているはずである。  
戦後70周年に当たり、客観的事実を冷静に見ていかなければならない。  
追記 / サンフランシスコ平和条約締結時においては、日本がまだ十分には戦後復興しておらず戦後賠償請求をしても支払い能力なしとして、多くの関係国(主として大国)が請求を放棄している。その直後に「中華民国」と結ばれた日華平和条約においても、蒋介石はそれにならった。しかし、1972年の日中共同声明公布時点では、日本のGDP成長率は9%という高度成長期にあり、文化大革命中の中国から見れば比較にならない復興を遂げている。したがって日本に支払い能力がなかったとは思えない。筆者は日中国交正常化交渉に関係した人物から、当時の田中角栄が本当は何を考え覚悟していたかを直接聞いている。この人物の考え方は栗山尚一氏の見解と全く異なっていた。一方、中国側は表面的には「A級戦犯に全ての罪を負わせて、さらに日本人から賠償を取るのは忍びない」という趣旨のことを述べて賠償を放棄したとされている。しかし交渉場面に直接関係していた老幹部でかつて筆者の友人だった者から、毛沢東が何を考えていたかを直接聞いている。このコラムに書いた中国側の本音に関する根拠は、この老幹部の証言に基づく。 
日本離れできない隣国が受けた大きなショック 2015/3/23  
韓国は毎日のように日本、日本、日本だ。日本のことが気になって気になって仕方がないという風景だ。よく世論調査の結果に出るように「いちばん嫌いな国は日本」が本当なら、これはたまらなく不愉快だろう。「われわれはもう日本の属国ではない!」「日本のことなどもう見たくも聞きたくもない!」と叫ぶに違いない。  
今年は韓国が日本の統治から解放されて70年。しかし「日本のことはもういい」という声はどこからも上がらない。「日本離れできない韓国」とは筆者が10年ほど前に書いた本のタイトルだが、相変わらず日本、日本、日本なのだ。  
20日の韓国紙の1面トップも「敗戦70年ぶりに安倍(晋三首相)が米議会で演説」(中央日報)である。韓国では日本の首相が訪米して議会で演説するという話に異様な関心を示している。「安倍演説実現」に対しては、いまいましい雰囲気がありありで、ついでにミシェル・オバマ米大統領夫人の日本訪問にも嫉妬(?)がうかがわれる。  
安倍首相の米議会での演説への関心は、歴史への反省に言及するかどうかなのだが、日米は70年前に戦争したのだから当然、そうした歴史には触れるだろう。関係ない韓国が騒ぐのは、慰安婦問題で日本に反省させようということだが余計なことだ。そこまでの関心と“干渉”は日本人の反韓感情を刺激するだけということが分かっていない。  
韓国(のマスコミ)は日米関係が深まることに、どこか不安と嫉妬を抱いているように見える。  
結果的に安保関係で日本の役割が増大することに伝統的な警戒心を働かせるということは分からないでもないが、この地域の安全保障問題で日本抜きの米韓安保協力はありえないという現実を見ようとしない。  
先ごろシャーマン米国務次官が米国内の講演で「政治指導者が過去の敵を非難することで安上がりな拍手を受けることは難しいことではない」と述べたと大騒ぎしたのもそうだ。  
特定の国を挙げたわけではないのに、韓国で一斉に不満と非難の声が上がったのは、韓国のことを言われたと思ったからだ。この裏には、過去にこだわった韓国の対日外交に米国が不満と批判を抱いているという話が伝わっていたことがある。  
韓国マスコミは「日本の肩をもった」と嫉妬(?)する前に、米国向けに慰安婦問題などで日本非難に熱を上げるという、日米韓3国関係の中での自らの特異さ、異様さを振り返ってみるのが先だろう。  
先に大騒ぎしたメルケル独首相の訪日では「歴史で日本に厳しく注文」などと我田引水して大喜びしたが、これも不思議だ。韓国はもう十分に大きく強い国になったのだから、日本のことで一喜一憂することはないと思うのだが。  
いや、韓国への日本の影響はいまだそれほど大きいのだろうか。その意味で最近の一喜一憂の中で韓国側に最もショックだったといわれているのが、安倍首相の国会演説や外務省のホームページなどで、韓国を「日本と自由民主主義などの価値を共有する国」と明示しなくなったことだ。  
これは「反日無罪」をはじめ日本批判なら何でもありという韓国の対日姿勢に対する日本人の嫌気の反映である。日本と価値を共有する米国も韓国のそういうところにいらだっているのだ。 
安倍首相、米議会演説に韓国メディア“歯ぎしり”自国の外交力不足に批判 3/24  
安倍晋三首相が大型連休中に予定している米上下両院合同会議での演説に対し、韓国メディアが神経をとがらせている。「対米外交の危機」(中央日報)と焦りをあらわにすると同時に、自国の外交力不足に批判の矛先を向けているのだ。  
「安倍首相が演説する場合、終戦70年と韓日国交正常化50周年を迎えることを踏まえ、歴代内閣の歴史認識をそのまま継承し歴史問題に対する心からの省察を見せるべきだ」  
韓国・聯合ニュース(日本語電子版)は20日、韓国外交部当局者の話として、安倍首相の演説にこう注文をつけた。  
演説は、4月下旬からの大型連休中の首相訪米に合わせて行われる。日本の首相による米議会での演説は1961年の池田勇人首相(当時)以来54年ぶりで、過去には、安倍首相の祖父、岸信介首相(同)も演説に臨んでいる。上下両院での演説は初めてだ。  
安倍首相の演説をめぐっては、在米韓国系団体が反対の署名活動をするなどロビー活動を展開したが、米議会内で理解を得られなかった。それだけに、韓国メディアの報道には、歯ぎしりしながら自国の外交力不足を嘆く国内世論がにじみ出ている。  
前出の聯合ニュースは「韓国政府は、あらゆる外交ルートを使って(演説の中で)歴史問題に関し前向きなメッセージが出されるよう、働きかけを強める」との見通しを示す一方、「演説を阻止できなかったことは、対米外交の失敗ではないか」と指摘した。  
中央日報(日本語電子版、20日)は「金・人脈がつかんだ『議会演説』」との記事を掲載し、「日本がお金と人脈で米議会と政府に働きかける間、韓国外交は『メディア発表用外交』に集中した」「韓国外交は声ばかり大きく、いざ米政府・議会を相手には力を発揮できない外交力の不在を表した」と伝えた。夕刊紙の文化日報も20日、「韓国外交の惨めな失敗」と報じた。  
『ディス・イズ・コリア』(産経新聞出版)がベストセラーになっているジャーナリストの室谷克実氏は「背景にあるのは、韓国が勝手に『歴史修正主義者』とレッテル貼りしてきた安倍首相が、米国から理解を得つつあることへの焦りだろう。ただ、米議会での演説に日本政府がそれほど執心したとは思えない。『負けた』『負けた』と騒ぐ韓国人の感覚は、日本人には理解しがたい」と語っている。 
韓国元大統領「昭和天皇」に遺憾と反省求める… 韓国外交文書で発覚 3/30  
1984年9月に韓国の全(チョン)斗(ド)煥(ファン)大統領(当時)が国賓として初訪日した際、韓国政府が日本側に対し、昭和天皇が日本の朝鮮半島統治などについて反省を示すよう事前に求めていたことが30日、分かった。韓国外務省が同日公開した当時の外交文書の内容として、聯合ニュースなどが報じた。  
韓国政府は84年初めに全氏の訪日を計画。昭和天皇の反省表明が訪日の「大前提」だと規定したという。  
反省については「(韓国の)国民感情を考慮し、最大限強い言葉で反省を確かに示さなければ、訪日への納得が得られない」とし、公式に「過去の不幸な歴史を認め、遺憾表明と深い反省を示すよう」求めた。一方で、昭和天皇の発言が「過去を完全に清算するものではない」とし、日本側に具体的な行動も求めた。  
韓国側は当時、昭和天皇の歴史への言及について日本側は「不可避」との立場だと分析。しかし、発言内容は外交の対象でないとし交渉はしなかったという。  
昭和天皇は84年9月6日、全氏が出席した宮中晩さん会で「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはならない」と述べた。 
ドイツ紙特派員が安倍政権の圧力を告白! 
 在独日本総領事を通じて外国人記者に注文!外務省も安倍批判に猛抗議! 4/11  
ドイツの日刊紙「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」の東京特派員だったカールステン氏(Carsten Germis)が、安倍政権になってから報道規制が厳しくなったと暴露する旨の記事を掲載しました。  
これは2015年4月2日に掲載された記事で、カールステン氏は「2012年に安倍政権が勝利を収めて以降、事態は一変した」と述べ、この数年は報道に対する検閲が強化されていることを明らかにしています。  
カールステン氏が安倍政権を批判する記事を書いたところ、在フランクフルト日本総領事が彼のところにやって来て、こうした記事の内容が「中国によるプロパガンダ」に利用されていると東京からの抗議を伝えました。  
また、日本総領事がカールステン氏らの記事を「誤報」と指摘したことから、カールステン氏が誤報の根拠を要望したところ、総領事は「(中国などと)金が絡んでいるのでは?」というような侮蔑の言葉を発言。  
その上で、日本政府側は「(カールステン氏ら外国人記者が)ビザ取得のために中国のプロパガンダを書かざるを得ないのだろう」等と哀悼の意を勝手に表明していたことを暴露しました。  
カールステン氏の暴露記事には、安倍政権が外国メディアの記者たちを高待遇で接待しようとしていた事も記載されています。安倍政権の前の民主党はこのような規制行為はせず、紳士的に政策などを分かり易く説明しようと努力していたようです。  
Confessions of a foreign correspondent after a half-decade of reporting from Tokyo to his German readers  
But things seem to have changed in 2014,and MoFA officials now seem toopenly attack critical reporting.In 2013, with Abe’s administration in charge, I was called in once again after I wrote about an interview with three comfort women. This also included a lunch invitation, and once again I received information to help my understanding of the prime minister’s thoughts.But things seem to have changed in 2014, and MoFA officials now seem to openly attack critical reporting. I was called in after a story on the effect the prime minister’s nationalism is having on trade with China. I told them that I had only quoted official statistics, and their rebuttal was that the numbers were wrong.  
安倍政権、在独日本総領事を通じて外国人記者に圧力?:ドイツ紙特派員の告白が話題に  
外務省からの攻撃 / そしてついに、5年前には考えられなかった、外務省からの攻撃(attacks)もはじまった。Germis氏による、安倍政権の歴史修正主義に関する記事が報道された後、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙編集長のもとに、在フランクフルト日本総領事が訪れたというのだ。総領事は東京からの抗議を伝えた上で、こうした記事の内容が「中国によるプロパガンダ」に利用されていると述べたそうだ。  
記者や新聞社を侮辱 / Germis氏による強い憤りはつづく。同紙編集長が、領事に対して記事の内容が誤報である事実の提示を求めたところ、総領事は「金が絡んでいるのでは?」とまで述べて、同氏や編集長、そして新聞社を侮辱(insulting )したというのだ。また総領事は、ビザ取得のために中国のプロパガンダを書かざるを得ないのだろう、と哀悼の意すら示したのだという。こうした驚くべき姿勢に、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙が屈することはなく、むしろその批判的な論調は強まった。  
強まる高圧的態度 / しかしGermis氏によれば、ここ数年で高圧的な態度は強まっている。2014年になると、外務省は明らかに安倍政権に対する批判記事を攻撃しはじめ、「歴史の歪曲」や安倍政権の国粋主義的な立場によって「東アジアのみならず世界から日本は孤立する」といった表現に対して抗議がはじまったという。ほかにも同氏が、中国から賄賂を受け取っているという領事のコメントについて正式に抗議した際には、「誤解だ」という回答のみがくるなど、外務省からの姿勢は厳しいものになる一方のようだ。 
2015年4月22日 - 安倍首相

 

(アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議 安倍内閣総理大臣スピーチ) 
バンドン会議60年の集まりを実現された、ジョコ・ウィドド大統領閣下、ならびにインドネシアの皆様に、心から、お祝いを申し上げます。アジア・アフリカ諸国の一員として、この場に立つことを、私は、誇りに思います。  
共に生きる  
スカルノ大統領が語った、この言葉は、60年を経た今でも、バンドンの精神として、私たちが共有するものであります。古来、アジア・アフリカから、多くの思想や宗教が生まれ、世界へと伝播していった。多様性を認め合う、寛容の精神は、私たちが誇るべき共有財産であります。その精神の下、戦後、日本の国際社会への復帰を後押ししてくれたのも、アジア、アフリカの友人たちでありました。この場を借りて、心から、感謝します。60年前、そうした国々がこの地に集まり、強い結束を示したのも、歴史の必然であったかもしれません。先人たちは、「平和への願い」を共有していたからです。  
そして今、この地に再び集った私たちは、60年前より、はるかに多くの「リスク」を共有しています。強い者が、弱い者を力で振り回すことは、断じてあってはなりません。バンドンの先人たちの知恵は、法の支配が、大小に関係なく、国家の尊厳を守るということでした。卑劣なテロリズムが、世界へ蔓延しつつあります。テロリストたちに、世界のどこにも、安住の地を与えてはなりません。感染症や自然災害の前で、国境など意味を持ちません。気候変動は、脆弱な島国を消滅リスクに晒しています。どの国も、一国だけでは解決できない課題です。  
共に立ち向かう  
私たちは、今また、世界に向かって、強い結束を示さなければなりません。その中で、日本は、これからも、出来る限りの努力を惜しまないつもりです。 “侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない。” “国際紛争は平和的手段によって解決する。” バンドンで確認されたこの原則を、日本は、先の大戦の深い反省と共に、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました。そして、この原則の下に平和と繁栄を目指すアジア・アフリカ諸国の中にあって、その先頭に立ちたい、と決意したのです。 
60年前、インドの農家と共に汗を流し、農機具の使い方を伝え、スリランカの畜産者たちを悩ませる流行病と共に闘うことから、私たちはスタートしました。そして、アジアからアフリカへ。日本が誇るものづくりの現場の知恵や職業倫理を共有してきました。エチオピアでは、「カイゼン」のトレーニングプログラムにより、生産性が大幅に向上しています。1993年には、アフリカの首脳たちを日本に招き、互いの未来を語り合う、TICADをスタートしました。 暦はめぐり、世界の風景は一変しました。最もダイナミックで、最も成長の息吹にあふれる大地。それこそが、アジアであり、アフリカであります。アジア・アフリカはもはや、日本にとって「援助」の対象ではありません。「成長のパートナー」であります。来年のTICADは、初めて、躍動感あふれるアフリカの大地で開催する予定です。人材の育成も、インフラの整備も、すべては、未来への「投資」であります。   
共に豊かになる  
アジア・アフリカには、無限のフロンティアが広がっています。  
オープンで、ダイナミックな市場をつくりあげ、そのフロンティアを、子や孫にまで、繁栄を約束する大地へと変えていかねばなりません。TPP、RCEP、FTAAPは、更にアフリカに向かって進んでいく。私は、そう考えます。成長をけん引するのは、人材です。それぞれの国の多様性を活かすことは、むしろ力強いエンジンとなるはずです。日本は、女性のエンパワメントを応援します。手と手をとりあって、アジアやアフリカの意欲あふれる若者たちを、産業発展を担う人材へと育てていきます。アジア・アフリカの成長を、一過性のものに終わらせることなく、永続的なものにしていく。その決意のもとに、日本は、これらの分野で、今後5年で35万人を対象に、技能の向上、知識習得のお手伝いをする考えです。  
私たちの国々は、政治体制も、経済発展レベルも、文化や社会の有り様も、多様です。しかし、60年前、スカルノ大統領は、各国の代表団に、こう呼び掛けました。私たちが結束している限り、多様性はなんらの障害にもならないはずだ、と。私たちが共有している様々なリスクを再確認すれば、多様性のもとでも、結束することなど簡単でしょう。直面する様々な課題を解決するために、私たち、アジア人、アフリカ人は、結束しなければなりません。  
この素晴らしい多様性を大切にしながら、私たちの子や孫のために、共に、平和と繁栄を築き上げようではありませんか。 
ありがとうございました。
新局面開く首相のバンドン演説  
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議での安倍晋三首相の演説(以下、安倍演説と略)は、高い関心を寄せられるべき演説であった。  
第二次世界大戦後70年の節目に日本の「大義」や「信条」を表明する機会としては、此度の安倍演説や米国連邦議会上下両院合同会議での演説は、今夏に発出されると伝えられる「安倍談話」よりもはるかに重大な意義を持つ。この2つの演説に対する反響や評価は、先々の日本の国際社会における対外「説得性」に直接に関わってくる。  
東南アジア諸国に示された配慮  
然るに、安倍演説の注目点として語られたのは、「植民地支配と侵略に対する謝罪と反省」に絡む認識が、どのように扱われるかということであった。  
特に満州事変以後の対中進出や第二次世界大戦勃発前後の対東南アジア進出は、客観的には「侵略」と表する他はないのであるとすれば、それに対する反省を忘れないでおくのは、特に東南アジア諸国との「縁」を紡いでいく上での前提である。  
安倍演説中、「先の大戦の深い反省」という言葉が示されたのは、東南アジア諸国には必要な配慮であった。この配慮の上でこそ、「侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない」という原則を守る趣旨の日本の誓約は、その「説得性」が担保されるのである。  
もっとも、安倍演説に対する評価に関して、中国や韓国、そして東南アジア諸国でニュアンスの違いが見られたのは、留意に値しよう。たとえば、安倍演説の後、洪磊中国外務省報道官は、「国際社会は日本が侵略の歴史を直視し、近隣諸国との和解だけでなく国際社会からの信頼を獲得するために、それ(歴史)を注意深く見直すことを期待している。われわれは日本が国際社会からの正義を求める声に真剣に耳を傾けてくれることを願う」と語っている。  
また、習近平中国国家主席は、5カ月ぶりに行われた日中首脳会談の席では、「歴史問題は中日関係の政治的基礎に関わる重大原則問題だ。日本側は真剣にアジアの隣国の懸念に対応し、歴史を直視する積極的なシグナルを対外的に発出してほしい」と語った。  
「最厳冬期」が過ぎた日中関係  
習主席以下、中国政府の反応は、「前の戦争に対する反省が示されれば、今後、特段の謝罪の言葉を要しない」という線で落ち着きつつあることを示している。それは、日中関係における「最厳冬期」が既に過ぎている事情を反映しているのであろう。  
しかも、『朝日新聞』記事が伝えた東南アジア諸国の反応が暗に示すように、事有る度に日本に謝罪を迫るという姿勢は、国際社会全体の「常識」に照らし合わせて異形なものになっている。  
東南アジア諸国要人の反応を列挙すれば、たとえば、「(お詫(わ)びがなかったことに)大きな意味は見いだしていない」(マレーシア通信マルチメディア相)、「特にわれわれが言うべきことはない」(ミャンマー外相)、「(お詫びなどの言及は)安倍首相が判断すること」(カンボジア外相)、「演説で触れられていない言葉についてコメントはない」(インドネシア外務次官)といったあんばいである。  
記事が伝えるように、東南アジア諸国においては「主な関心は日本によるアジア・アフリカ地域への積極的な経済関与だ」ということである。そして安倍演説で強調されたものこそ、こうした関与における「従来の実績」と「今後の意志」であったのではないか。  
韓国に災厄もたらす「硬直」  
事実、此度のバンドン会議記念会議の成果として確認されたのは、貧困や格差の解消に向けた協調、さらには途上国の相互協力を通じた経済発展であった。これが、会議に集まったアジア・アフリカ諸国の最大公約数的な「要請」である。  
他方、韓国政府からは、「深い遺憾の意」が漏れている。安倍演説中、「植民地支配と侵略に対する謝罪と反省」という表現が消えたことを指してのことである。  
今月初頭、韓国外務省高官の発言として報じられた「日本は100回でも詫びるべきだ」という発言に重ねるとき、韓国政府の姿勢に「硬直」の二文字をみるしかないのは、もはや致し方ないことかもしれない。  
そして、安倍演説に対する中国や東南アジア諸国の反応に照らし合わせるとき、この「硬直」は、韓国にとっては先々の災厄になるであろう。  
そうであるとすれば、安倍演説で示された「反省したとしても謝罪はしない」という方針は、歴史認識案件での日本政府の姿勢の新たな「デフォルト(既定値)」になるのであろう。その意味では、この演説は、日本の対外政策における一つの局面を開いたものとなろう。次はワシントンでの演説が「鍵」となる。 
安倍首相、バンドン会議の演説に"お詫び"なし 韓国メディア「我が国の外交の失敗」  
安倍晋三首相は4月22日、インドネシアで開かれているアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で演説した。第2次世界大戦への「反省」を表明した。一方で「お詫び」には触れなかった。この演説に対して、海外メディアからは「弱々しい演説」との指摘や、「韓国外交の失敗」などの懸念の声が出ている。  
安倍首相は、60年前のバンドン会議で採択された平和十原則のなかから、「侵略、武力行使によって他国の領土保全や政治的独立を侵さない」「国際紛争は平和的手段によって解決する」の2つを引用。その上で、「バンドンで確認されたこの原則を、日本は先の大戦の深い反省と共に、いかなるときでも守り抜く国であろうと誓った。この原則の下に平和と繁栄を目指すアジア・アフリカ諸国の中で、その先頭に立ちたいと決意した」と述べた。  
しかし、「心からのお詫び」などの文言はなく、また、小泉元首相が2005年に演説した際に使った「いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持」などの言葉は見られなかった。代わりに、「法の支配が、大小に関係なく、国家の尊厳を守る」「世界に向かって強い結束を示さなければならない」などの表現が使われた。  
世界から注目が集まった安倍首相の演説  
今回のアジア・アフリカ首脳会議は、1955年4月、当時のインドネシアのスカルノ大統領の呼びかけで、反植民地主義を掲げて開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の開催から60周年を記念して行われた。この演説を巡っては、8月の終戦記念日に合わせて発表する戦後70年の首相談話(安倍談話)の「原型」になるとの見方もあり、歴代の首相談話の内容に、どの程度触れるのかに注目が集まっていた。  
これまでの首相談話では、1995年に当時の村山富市首相が発表した戦後50年談話(村山談話)が、日本軍のアジア諸国への植民地支配と侵略を認め、アジアの人々に「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ち」を表明。戦後60年の2005年には、小泉純一郎首相(当時)が村山談話をほぼ踏襲した「小泉談話」を出し、「改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」とした。  
これらの談話について、安倍首相は4月20日、BSフジの番組に出演した際に「植民地支配と侵略」「心からのお詫び」などの文言を使うかどうかを問われ、これまでの首相談話を引き継ぐとしながらも、「同じことを入れるのであれば談話を出す必要はない」と述べていた。  
安倍首相の演説の演説を海外はどう報じたか  
この安倍首相の演説に対し、ロイターは安倍首相が「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」と述べたことを挙げ、中国の明らかな軍備増強を意識した発言だと報じた。AFP通信は「日本の首相は第2次世界大戦について反省を表明したが、詫びるのはやめた」との見出しで報じた。記事は、安倍首相のことを「国家主義者」とした上で、この演説が小泉氏のものと違って「弱々しい」と指摘した。  
聯合ニュースは「バンドンで期待を裏切った」との見出しのついた記事で、安倍首相の演説が「残念なレベルに留まった」と批判した。記事は、「アメリカのメディアも安倍首相に対し歴史認識について反省を促しているが、安倍首相の“マイ・ウェイ”は続いている」と表現した。  
しかし、一方で、「韓国政府はアメリカを通じて安倍首相に対し圧力をかけ続けているとしているが、安倍首相に変化はない」とした上で、「アメリカに、日本へ真の反省と謝罪を促す役割ができないなら、韓米関係にも悪影響が及ぶ」「歴史問題では進展が得られず、外交の失敗との懸念も出ている」とも指摘している。さらに、安倍首相と習近平・中国国家主席の日中首脳会談が実現することにも触れ、「韓国だけ外交で疎外されているではないかという観測も出ている」としている。 
安倍首相の「おわび」なき「反省」について 4/23  
安倍首相がバンドン会議で、日本の侵略行為に対し、「深く反省」していると表明したが、「おわび」の言葉はなかったそうだ。政治的にはそれでいいと思う。「反省」だけでは足りない、「謝罪」もしろというのは、執拗すぎる。  
平和条約を結んだあとなのに、永久に「謝罪」しろと言われるのは正直うんざりするし、全然、建設的ではない。政治の世界では、「反省」を口にしただけでも謙虚すぎるくらいで、一国民であるわしは反省すらしない。  
帝国主義の時代には、侵略も植民地支配も善悪の基準では行われていない。イギリスは清国にアヘンを売って、人民を退廃させ、銀を吸い上げた。これが原因でアヘン戦争が起こったが、イギリスは清国を打ち負かし、香港島を占領した。まったく無茶苦茶である。  
イギリスは毎年、中国に対して「反省」と「謝罪」を繰り返してはいないし、中国もイギリスには「反省」も「謝罪」も要求してはいない。  
中韓が日本にだけ「謝罪」を要求するのは、「中華思想」の影響だろう。  
アヘン戦争の結果を見た日本の幕末の志士たちは、日本の近代化が必要だと悟り、明治維新を起こした。ペリー来襲から大東亜戦争までは日本の運命である。  
安倍首相のように「深く反省」していたら、靖国神社の英霊を「顕彰」することが出来ない。どういう意図で真榊を奉じたのかわからない。  
だが、大東亜戦争に負けたことについて、わしは当時を生きた国民ではないにしても、「反省」をしている。朝鮮併合の道義的側面も、支那事変の泥沼化も「反省」している。  
これは戦前からの連続性を持った国民として、日本が失敗したことについての「反省」である。 
安倍首相演説、“スカルノの魂見習う”と現地報道 「反省」「おわび」とは異なる着目点 4/24  
先日インドネシアで開催されたアジア・アフリカ会議60周年式典は、文字通りの地域の首脳が勢揃いする一大外交イベントでもあった。各首脳がこの場でどのような内容の演説をするかで、その国の今後の方針が明らかとなる。  
安倍晋三首相の演説については、当然ながら以前からニュースの種となっていた。過去、すなわち第二次世界大戦の「反省」には触れるのか触れないのか。この点はスタンスの違いこそあれ、日中韓のメディアの間では最大の関心事だった。  
では、開催地インドネシアのメディアは「安倍演説」をどのように報道しているのか?  
スカルノの言葉を語る安倍首相  
実のところ、一国の首脳の演説に関する報道はどのメディアも大差ない。安倍総理が言った言葉を要約して書けば、それが記事になるからだ。  
ただし、ある一部分だけ各メディアごとに大きな差異がある。それは見出しだ。互いが互いをリライトしたような記事が並んでいたとしても、「安倍首相、過去の過ちには一切触れず」や「日本政府、未来志向の姿勢表明」と見出しがつけばそれぞれのスタンスの違いがよく分かる。  
インドネシアのメディアも、それは同じだ。現地紙シンドニュースの場合、安倍総理の演説を伝える記事に「日本の首相、スカルノの言葉を引用」という見出しをつけている。野党系メディアのビバの記事も「日本首相、スカルノの懇願を会場で取り上げる」とあり、大手ニュースサイトのオーケーゾーンも「スカルノの魂を見習う、日本首相の演説」と書いている。安倍首相がスピーチの冒頭と結びに、1955年の第一回アジア・アフリカ会議開催を呼びかけたスカルノ大統領の発言を引用したからだ。インドネシアメディアの視点は、やはり日中韓のそれとは全く違う所にある。  
「安倍首相は演説の終わりに、アジアとアフリカの諸国民が1955年の先駆者のように手を取り合うよう呼びかけた(オーケーゾーンの記事より)」  
日本は「後悔」している  
一方で、安倍首相が過去の戦争に対する反省を表明したと伝えるメディアもある。現地テレビ局のメトロTVは、安倍演説のこの部分を取り上げている。  
「『侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない』、『国際紛争は平和的手段によって解決する』 。  
バンドンで確認されたこの原則を、日本は、先の大戦の深い反省と共に、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました(日本語訳は外務省ホームページより引用)」  
ちなみにこの記事の見出しを直訳してみれば、「日本の首相、式典を通して第二次大戦の行為を後悔する」となるだろうか。これが中韓のメディアならば、安倍首相が口にした文言についてさらなる追求があるかもしれないが、少なくともメトロTVは上記の演説内容を「日本の後悔」と位置付けているようだ。それ以上の追求・言及は見当たらない。  
インドネシアの立場  
このように開催地メディアの報道は、我々に新鮮な見方をもたらしてくれる。  
インドネシアは世界有数の親日国ではあるが、現政府は日本と中国のどちらにも過度に寄らない姿勢を見せている。この国の場合は外国からの投資が成長の鍵になっているということと、オーストラリアとの外交的対立を抱えているためアジアの経済大国とは常に友好的でありたいという要素がある。もっと平たく言えば、日中のどちらかに肩入れすることはできないのだ。  
微妙な立ち位置にいるインドネシアだが、それが故に今年はアジア各国との積極的外交へ舵を切る動きが非常に目立った。ジョコ・ウィドド大統領は先月、日中を歴訪し莫大な額の投資を両国の財界人に約束させた。さらに帰りがけにはシンガポールを訪れ、リー・クアンユー元首相の葬儀に参列している。  
そのような最中で開催された、今回のアジア・アフリカ会議。60年前にスカルノ初代大統領が撒いた種は、確かに芽を出しているのだ。 
韓国、米PR会社と契約 慰安婦問題、世界に訴える 日中会談・安倍演説受け危機感 4/24  
インドネシア・ジャカルタで22日に行われた日中首脳会談と安倍首相の演説を受け、韓国メディアが韓国の「孤立化」を心配している。大手紙・朝鮮日報は、日中の関係修復によって「反日本陣営」に韓国だけが留まることになると懸念。ハンギョレ新聞も、世界が日本の「反省」を受け入れれば、謝罪を求め続ける韓国が「逆に異常扱いされかねない」と不安を訴えている。  
安倍首相は、29日にも米議会で演説をし、改めて過去の戦争について反省の意を表明すると見られているが、韓国はこれにも対抗意識を燃やしているようだ。ウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ)は、韓国政府が慰安婦問題などに関する自国の主張を世界に訴えるため、アメリカのPR会社と契約したと報じている。  
日中の雪解けで韓国が「反日本陣営」に取り残される?  
朝鮮日報は、ジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年首脳会談の演説で、安倍首相は「日本の侵略という事実にのみ言及し、植民地支配に関する文言を外した」と記す。その背景には「韓国を外交的に孤立させようという意図がある」としている。  
「つまり、日本は侵略の事実だけを認めれば、日本の歴史認識問題解決を促す韓中両国のうち、中国を納得させられると考えた可能性があるということだ。この場合、植民地支配についても謝罪を要求している韓国だけが『反日本陣営』にとどまることになる」と同紙は主張。また、10年前のバンドン会議50周年演説で、当時の小泉純一郎首相が「深い反省の文言を入れたのとは対照的なものだ」とし、安倍演説を批判している。  
朝鮮日報は、日中首脳会談についても、韓国の「孤立化」を懸念する記事を掲載している。それによれば、習近平国家主席が中国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)について、「既に国際社会であまねく歓迎されている」と述べると、安倍首相は「中国側とAIIB問題について話し合うことを望んでいる」と応じたという。これについて、同紙は「中・日関係がAIIB協力をきっかけに和解局面に転じるのでは、との見方がある。このため、日本と今も確執を抱えている韓国の孤立を懸念する声が出ている」と記している。  
「謝罪」にこだわる韓国が「逆に異常扱いされかねない」  
ハンギョレ新聞も、安倍首相のバンドン会議演説について、韓国への「植民支配に対する謝罪」には触れず、広く「先の大戦への深い反省」だけに言及したと、不満を表す。そして、日本の識者(和田春樹・東京大学名誉教授)へのインタビューを通じて、「植民地支配に対する反省」が初めて含まれた1995年の村山談話に比べて不十分だったとしている。また、木村幹・神戸大学教授の「韓国が願う植民支配に対する言及を除くことによって、今後日本は韓国と中国を分離して、韓国を孤立化させていこうという意思を明確にした」というコメントを掲載している。  
さらに同紙は、29日の米上下両院合同会議の演説で、安倍首相が今回同様「先の大戦への深い反省」だけに言及したとしても、「日本が戦争に対する謝罪をしたので、植民支配や日本軍慰安婦問題に対して明確に謝らなくとも問題にはしない」という空気が米国内に生まれると予想。そして、「安倍首相の歴史認識を巡って韓米間の溝が深まる状況が予想される」と心配する。  
ある韓国政府関係者は、「もし安倍首相が米国上下両院合同演説で第2次大戦当時の真珠湾攻撃のような内容を取り上げて戦争に対する反省の意向を示すならば、おそらく米国議会は拍手を送るだろう」「そのようなムードの中で韓国が過去に対して謝罪がないとして問題提起するならば、逆に異常扱いされかねない」と、ハンギョレ新聞に話したという。  
英識者は安倍演説は過去の謝罪を踏襲したと評価  
安倍首相の米議会演説を巡るこうした懸念の下、韓国政府はワシントンDCを拠点とするある米PR会社と契約を結んだという。これを報じたWSJによれば、韓国政府は特に慰安婦問題について、世界に向けて自国の立場を主張することに重点を置いているようだ。企業名の非公開と匿名を条件にWSJの取材に応じたPR会社幹部は、「安倍氏の演説を聴いた記者団に、彼が言わなかったことを理解させる」ことが自分たちの任務だと話したという。  
一方、韓国の解釈とは別に、日中首脳会談と安倍演説に対する客観的な評価も出始めている。ドイツメディア『ドイチェ・ヴェレ(DW)』は、その成果について、アジア情勢を専門とするロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)のクリスティン・スラク氏にインタビューしている。スラク氏は大筋で、今後日中の緊張関係がいくらか改善に向かうと見ているようだ。  
同氏は今回の首脳会談は、日中関係が冷えきっている中で行われた公式会談であり、両国にとって「重要なものだった」と評価。尖閣問題や歴史認識問題といった課題は積み残されているものの、両首脳が両国の貿易関係を良好に維持する事の重要性を揃って認識したことは意義深かったとしている。また、安倍首相の演説については、「深い反省」を表明したことで、1995年の村山談話を含む「日本が過去に行った謝罪を再度行った」と評価している。 
「謝罪とおわび」がなかった安倍首相の演説 評価したのは産経だけ / 社説読み比べ  
アジア・アフリカ諸国の指導者が反植民地主義などを打ち出した「バンドン会議」から60年が経ったのを記念して、インドネシアの首都ジャカルタで首脳会議が開かれた。  
安倍晋三首相は22日に演説。大手メディアは、安倍首相が先の大戦中の日本による「アジア諸国に対する植民地支配と侵略へのお詫び」を演説に盛り込むかどうか注目していたが、安倍首相は「反省」を口にしても謝罪には踏み込まなかった。  
演説は大手メディアにとって期待外れに終わったと言える。各紙が安倍首相の演説に批判的な社説を掲載し、評価したのは産経のみだった。  
毎日、朝日 / 村山談話は日本外交の土台  
毎日新聞は、安倍首相が「先の大戦の深い反省」に触れたことを紹介。の同日行われた日中首脳会談を引き合いに、日中関係の改善を訴えた。  
日中が角を突き合わせていては地域の平和、繁栄にはつながらない。昨秋に続く首脳会談で、両国が戦略的互恵関係に基づき、世界の安定と繁栄に貢献する必要性を確認したことは歓迎できる。(毎日新聞 社説 / 「バンドン会議 日中は原点を忘れるな」 2015/04/23)  
演説について触れたこの社説では、安倍首相の歴史観については深く言及しなかったが、前日に掲載した戦後70年の首相談話についての社説では、「侵略」などの文言を盛り込むように首相に釘を刺している。  
首相談話は「先の大戦への反省」を踏まえた未来志向のものにしたいと首相は言う。あの戦争は国内にあっては310万人の死者を出し、外に向かっては侵略によっておびただしい数の人命を犠牲にした。したがって「先の大戦の反省」とは、国際的には侵略の事実を認めることと同義だと言ってもいい。過去において日本が中国を侵略したことは、首相談話を検討する有識者懇談会(21世紀構想懇談会)の座長代理である北岡伸一国際大学長らの発言にもある通り、歴史的に明らかである。侵略という言葉は戦後50年の村山談話と戦後60年の小泉談話に盛り込まれ、国際的にも確立された日本の公的な認識となっている。これをゆるがせにしない姿勢を明確にしてこそ、戦争の反省と未来への歩みは意味を持つ。「過去の談話を全体として引き継ぐ」だけでは、伝わらないものがある。過去の談話にあるのだから繰り返す必要はない、というのが安倍首相の考えだ。だが、首相は第2次政権になってから、侵略の定義は「学界的にも国際的にも定まっていない」「(国の)どちらから見るかにおいて違う」と語り、侵略をはっきり認める姿勢を見せていない。それが首相の本心なら、70年談話に入れる入れないは枝葉末節どころか、日本の国際社会での立ち位置を左右する問題ということになる。(毎日新聞 社説 / 「侵略という言葉 『枝葉の議論』ではない」 2015/04/22)  
朝日新聞は、安倍首相が演説におわびの言葉を盛り込まなかったことを強く批判。戦後50年の「村山談話」、同60年の「小泉談話」で政府が表明したように、「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」ことを認めるべきだと論じた。  
首相は会議に発つ前夜のテレビで、村山談話について「引き継いでいくと言っている以上、もう一度書く必要はないだろう」と述べ、戦後70年の安倍談話には「植民地支配と侵略」「おわび」などは盛り込まないことを示唆した。きのうの演説はこれに沿った内容だ。この考えには同意できない。「侵略の定義は定まっていない」といった言動から、首相は村山談話の歴史観を本心では否定したいのではと、アジアや欧米で疑念を持たれている。引き継いでいるからいいだろうとやり過ごせば、疑念は確信に変わるだろう。表立って批判されなくとも、国際社会における信頼や敬意は損なわれる。それがいったいだれの利益になるというのか。一部の政治家が侵略を否定するような発言を繰り返すなか、村山談話は国際的に高く評価されてきた。その後のすべての首相が引き継ぎ、日本外交の基礎となった。率直に過去に向き合う姿勢が、「未来への土台」となったのだ。それをわざわざ崩す愚を犯す必要はない。(朝日新聞 社説 「70年談話へ 未来への土台を崩すな」 2015/04/23)  
東京 / 平和国家のはじまりは戦争への反省  
東京新聞も、安倍首相が「植民地支配」「侵略」「おわび」を語らなかったことを指摘し、「負の歴史も受け入れ」よと批判した。  
安倍首相は、〔村山、小泉の〕二つの首相談話を含めて「歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」と述べてはいるが、「基本的な考え方を引き継いでいくと言っている以上、もう一度書く必要はない」とも語っている。首相としては敗戦までの過去の歴史よりも、焦土の中から復興を遂げた戦後日本の歩みや、今後の国際貢献に焦点を当て、「未来志向」の談話としたいのだろう。しかし、二つの首相談話で言及している「植民地支配と侵略」への「反省とおわび」は歴史認識の根幹だ。全体として引き継ぐのだから、その都度言及しなくても国際社会の理解は得られると考えるのは、あまりにも独善的である。戦後日本の平和国家としての歩みは誇るべき歴史であり、先人の努力と知恵に敬意を表したい。同時に、平和国家としての立脚点が先の大戦への反省にあることを忘れてはなるまい。一国の歴史には誇るべきも反省すべきもあるだろうが、負の歴史も受け入れてこそ、国を愛するということではないか。未来志向に魂を入れるためにも、首相自身の言葉で「侵略」「おわび」を語るべきだ。言葉を省いて国際社会の誤解を招く愚は犯すべきでない。(東京新聞 社説 「侵略とおわび 自身の言葉で語らねば」 2015/04/23)  
読売、日経 / 「物足りない」「玉虫色」  
この問題に関しては、読売新聞も安倍首相の歴史認識への言及が「物足りなかった」とやんわりと批判。日中の歩み寄りを求めた。  
物足りなかったのは、首相の歴史認識への言及である。約6分間の演説とはいえ、侵略の否定などバンドン会議の原則に触れたものの、先の大戦については「深い反省」を示すにとどめた。前回の50周年首脳会議では、当時の小泉首相が過去の植民地支配と侵略を認め、「痛切なる反省と心からのお詫わび」を明言した。この表現を、約4か月後の戦後60年談話にも反映させた。安倍首相は今夏、戦後70年談話を発表する。日本が過去の反省を踏まえ、世界の平和と繁栄にどんな役割を担うのか。談話では「深い反省」の中身が問われよう。(中略) 習氏は、「歴史問題は中日関係の重大な原則問題だ。歴史を直視する前向きなシグナルを出してほしい」と注文したという。首相は、歴史認識に関する歴代内閣の立場を引き継ぐと説明した。歴史認識を巡る日中間の溝は深い。中国主導のアジアインフラ投資銀行、尖閣諸島周辺での中国の領海侵入など、懸案も多い。過去の問題を乗り越え、未来志向の関係を築くには、日中双方が歩み寄る努力が欠かせない。(読売新聞 社説 「バンドン演説 首相70年談話にどうつなげる」 2015/04/23)  
日経は、「明確な謝罪」を述べず、国内の支持者層とアジア諸国の双方に配慮した安倍首相の言い回しは、「玉虫色」で分かりにくいと疑問を呈した。  
先の大戦の評価はひとそれぞれだが、アジアに多大な被害をもたらしたことは否定できない。10年前、当時の小泉純一郎首相はバンドン会議演説で村山談話に沿って「反省」と「おわび」を語り、そのまま小泉談話に盛り込んだ。それと比べると今回の演説の書きぶりは複雑だ。「侵略」を非難した60年前のバンドン宣言を紹介したうえで、「バンドンで確認された原則」を守り抜くと誓う。ほかにも、ある文章に他の文章を引用する入れ子構造の箇所がいくつかある。先の大戦が「侵略戦争」であったことを否認したのかと問われれば「侵略に触れている」と反論できる。だが、直接の言及はない。首相の支持基盤である保守派とアジア諸国との外交関係の双方に配慮した結果なのだろう。玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか。いまのままでは、戦後70年を平穏に終えるのは容易ではあるまい。(日経新聞 「アジアの人々の心に響いたか」 2015/04/23)  
産経 / 文言よりも実際の外交成果が重要  
今回、安倍首相が演説で訴えた「未来志向」を積極的に評価したのは、産経1紙だった。演説の文言よりも、実際に周辺国との絆を深められるかが重要だと論じた。  
未来に軸足を置いた訴えを評価したい。安倍晋三首相が、アジア・アフリカ(AA)会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議の演説で、戦後の日本のAA諸国との協力を振り返りつつ、今後も共に平和と繁栄を築いていく決意を表明した。首相は演説で、先の大戦への深い反省を表明し、そのうえで、1955年のバンドン会議での「先人の知恵」に言及した。「他国の内政に干渉しない」「侵略や武力行使で他国の領土保全や政治的独立を侵さない」などの「平和10原則」を念頭に置いたものだ。この日の演説は、今月末に予定されている米議会での演説、8月の戦後70年談話の前段と位置づけられる。今後の一連の演説、談話を通じて、日本が一貫して平和国家の道を歩んできたことや、将来も積極的に貢献していく決意を全世界に発信してほしい。(中略) 首相演説でもうひとつ重要だったのは、「強い者が弱い者を力で振り回すことはあってはならない。法の支配が、大小に関係なく国家の尊厳を守るということだ」と強調したことだ。経済、軍事両面で台頭する中国を想定した発言であろう。この日行われた日中首脳会談で双方は関係改善に触れたが、中国の動向を見る限り、大きな前進は望めまい。(中略) 文言の変化を、反省や謝罪姿勢の後退などと決めつけるのは、公正な態度とはいえまい。問われるのは関係諸国との絆を強められるかである。(産経新聞 主張 「首相バンドン演説 『未来志向』を評価したい」 2015/04/23)  
29日に控えている米議会上下両院合同会議での演説、終戦記念日に予想される「戦後70年談話」がどのような内容になるのか。安倍首相は、90年代から顕著になった日本の「謝罪外交」を打ち破ることができるのか。今後もしばらく、安倍首相の発言に国内外の注目が集まるだろう。 
日中首脳会談・安倍首相は戦後謝罪なしでも、日中首脳が笑顔で握手の「怪」  
インドネシアのジャカルタでアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催された。前回、インドネシアでバンドン会議が行われた時は、私はまだ国会新聞に所属しており、その取材で私も出かけたことを記憶している。確か、その時は小泉純一郎内閣であり、小泉首相の靖国神社参拝に反対して日中関係が悪化していたと思う。そして小泉首相がバンドン会議で「戦争の謝罪」を行うことによって、胡錦濤と握手をするということになるのである。  
その光景に対して、アフリカのとある国(というかどの国だか忘れたのであるが)が、私とたまたまジャカルタ空港のラウンジで会った時に「なぜ小泉はアジアアフリカ会議で、アフリカもいたのに、あんなところで謝罪をしたのだ。日本のおかげでみんな独立してよ転んでいるに」といった話は、いつか、ブログで紹介したと思う。  
さて、今回もなぜか「日本の謝罪」ということがアジアアフリカ会議で問題になった。しかし、小泉内閣の時とかなり事情は異なっている。小泉内閣の時は「靖国神社に参拝しただけ」であったのに対して、今回は「靖国神社の参拝などは当たりまえ」で、とっくの昔にそのことは行っているのである。  
そしてそのうえで、日中関係の悪化を安倍首相はそのまま容認していたのである。基本的には日本の景気対策優先党いうことであり、日本は円安路線を行いつつ、中国や韓国の「物まね」や「技術スパイ」を否定し、日本の技術力や日本の企業力の復帰に努めた。もちろん、まだ道半ばであるが、このことによって、中国や韓国の経済状態がかなり悪化したことは間違いがない。結局「日本が離れると、中国や韓国が疲弊する」という結論になる。少なくとも現象としてそのようになるのだ。その事に関し、中国の習近平は、昨年御APECで日中首脳会談を行った。その仏頂面での20分は、中国が経済的な事情で日本と首脳会談をやらざるを得なくなったということと、その本人の意思に反しているということ、もっと言えば中国の外交および経済的敗北を意味していると、多くの評論家や世界の外交関係者がささやくようになったのである。  
そして、今回、「謝罪無きバンドン会議での安倍演説」のあと、日中首脳会談がどのような状況で行われたのか、ということが非常に注目された。あにはからんや、習近平は、笑顔で安倍首相と握手したのである。  
日中関係改善で一致、戦略的互恵推進…首脳会談  
安倍首相は22日夕(日本時間22日夜)、インドネシアのジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の60周年記念首脳会議に合わせ、中国の習近平シージンピン国家主席と約5か月ぶりに首脳会談を行い、日中関係の改善を図る方針で一致した。  
日中首脳会談は首脳会議の会場で約25分間行われ、両首脳は日中関係改善に向け、政府間対話や民間交流を進めることで一致した。中国主導で設立準備が進むアジアインフラ投資銀行(AIIB)や、歴史認識問題についても議論した。  
会談の冒頭、習主席は「最近、両国民の共同努力の下で、中日関係はある程度改善できた」と評価した。安倍首相も「昨年11月の首脳会談以降、日中関係が改善しつつあることを評価したい」と応じ、戦略的互恵関係を推進し、地域や世界の安定や繁栄に貢献していくことで一致した。  
習主席は「中国は(巨大経済圏構想の)『一帯一路』の建設とAIIBの創設を呼びかけており、国際社会から歓迎されている。AIIBでここまで各国の理解が得られたのは想定外だった。安倍首相も理解してくれると信じている」と続け、日本の参加を促した。  
首相は「アジアのインフラ(社会資本)需要が増大し、金融メカニズムの強化が必要だとの認識は共有する」と応じる一方、「ガバナンス(統治)などの問題があると聞いている。事務当局間で協議してもらい、報告を待ちたい」として、慎重姿勢を崩さなかった。  
歴史認識問題について、習主席は「歴史を直視してこそ相互理解が進む」とし、「9月(3日)の抗日戦争勝利記念日でも、今の日本を批判する気はない」と述べ、記念行事に招待した。  
これに対し、首相は「村山談話、小泉談話を含む歴代内閣の立場を全体として引き継いでおり、今後も引き継いでいく」と述べた。「先の大戦の深い反省の上に、平和国家として歩んできた姿勢は今後も不変だ」とも語り、理解を求めた。  
日中首脳会談のポイント (4/23 読売新聞)  
▽両首脳は日中関係が改善傾向にあることを評価  
▽戦略的互恵関係の推進で一致  
▽日中間の対話と交流の促進で一致  
安倍首相の「謝罪なし」演説が日中関係修復に影落とす=仏メディア報道「2人とも顔がこわばっている」「今、誰が謝罪すべきだと思う?」―米国ネット  
2015年4月22日、AFP通信は、インドネシアのジャカルタを訪問中の安倍晋三首相と中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席が約5カ月ぶりに首脳会談を行ったが、会談に先立って安倍首相が行った演説によって両国の関係修復への努力が損なわれたと報じた。  
安倍首相と習主席の約30分の会談は、第二次世界大戦に関する認識や領土問題をめぐり悪化していた両国の関係修復を模索する中で行われた。昨年11月の会談時よりは和やかな雰囲気の中、会談前に安倍首相と習国家主席は握手を交わしたが、ぎこちなさのある握手だった。  
日中首脳会談に先立ち、安倍首相は22日午前、バンドン会議で演説を行った。その中で、第二次世界大戦に対する反省の念については言及したが、謝罪の言葉は述べなかった。さらに、この日、日本では100人以上の国会議員が靖国神社を参拝した。中国と韓国は靖国神社参拝について、日本が過去の侵略について悔恨しようとしていないことの表れだと見ていると伝えている。  
この報道に、米国のネットユーザーがコメントを寄せている。  
「会談で何を話したかは重要ではない。ただビジネスを続け、中国がお金を稼ぎ、人生が続いていくということだ。日本が戦争に対してどう思っているかなんて重要なことではない。日本は米国によって原爆を落とされたが、今は米国の友好国だ。だから同じようにすればいいんだ」  
「日本はもっと円高にするべきだ。1ドル=75円くらいにね」  
「日本には外交政策はないが、内政においては強いシステムを持っている。そしてそれだけだ」  
「第二次世界大戦での日本を支持するわけではないが、中国はチベットに対して謝罪を表明したことがあるのか?」  
「中国よ、もう先へ進むべきだ。あなたたちは他の国々を苦しめているだけだ」  
「2人とも顔がこわばっているな」  
「私たちの同盟国である日本は、ただ中国を無視すべきだったのに」  
「どれだけの人々が日本製のテレビを見ているんだ?謝罪は受け入れられた」  
「何度、謝罪が必要なんだ?日本は今、問題を起こしているのか?答えはノーだ。中国は今、戦前の日本のように軍事力を強化して領有権を主張しているのか?答えはイエスだ。では誰が謝罪すべきだと思う?」  
【社説】韓国外交に孤立化を避ける戦略はあるのか  
中国の習近平国家主席と日本の安倍晋三首相が22日、バンドン会議(1955年にインドネシアのバンドンで行われたアジア・アフリカ会議)60周年を記念してアジア・アフリカ諸国の首脳会議が行われたインドネシアのジャカルタで、2国間の首脳会談を行った。昨年11月に中国・北京で首脳会談を行ってからわずか5カ月で、2度目の会談を行ったことになる。2012年12月に安倍政権が発足してから1年11カ月にして行われた前回の会談を突破口とし、今回の会談で対話の流れをつくり上げたものと考えられる。  
習主席は昨年7月に韓国を訪問した際、安倍内閣の歴史に逆行する動きを真っ向から批判し、韓中両国が共同で立ち向かうことを提案した。日本を「盗賊」と呼んだことさえある。そんな習主席がわずか数カ月の間に2度も安倍首相と会談した。今回の会談が30分にも満たない短いものだったという点を差し引いても、中国と日本の関係が正常化の段階に差し掛かっていると受け止めざるを得ない。  
安倍首相は今回のアジア・アフリカ会議の演説で、1955年のバンドン会議で採択された「平和10原則」に盛り込まれた「侵略または侵略の脅威、武力行使によって他国の領土保全や政治的独立を侵さない」という項目を取り上げ「日本はこの原則を、先の大戦の深い反省とともに、いかなるときでも守り抜く国であろうと誓った」と述べた。しかし、植民地支配や侵略戦争を引き起こしたことに対する謝罪は一言もなかった。中・日首脳会談がこの演説の直後に行われたという点で、中国は安倍首相の演説内容を受け入れたか、あるいは容認したと解釈できる。日本はまた、米中関係の変化の隙を縫うように、18年ぶりに米国との同盟関係を大幅に強化することで合意し、今月29日には安倍首相が日本の首相として初めて、米国の上下両院合同会議で演説を行う。  
韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部(省に相当)長官は最近、米中両国の板挟みとなっている韓国のジレンマについて「両国からラブコールを受けている状況は、厄介なことではなく、祝福と受け止めるべきだ」と語った。韓国外交のトップがこのような発言をしながら、日本との首脳会談を3年も避け続けている間に、中・日首脳会談が相次いで実現した。韓国政府は日本の歴史に対する後ろ向きな姿勢について原則的な対応をしつつも、安全保障や経済の問題については、より柔軟で現実的な打開策を示す必要がある。  
日中首脳会談のポイント (朝鮮日報 2015/4/23)  
▽両首脳は日中関係が改善傾向にあることを評価  
▽戦略的互恵関係の推進で一致  
▽日中間の対話と交流の促進で一致  
ということになる。しかし、これらの内容に関して、いったい何が問題なのであろうか。実はこの話し合いは、「今まで日中関係で行ってきたこと」で「安倍首相になって止まっていたこと」を再度進める、要するに今までと同じにするということを言ったに過ぎない。逆に言えば、「謝罪」がなくても、日中関係は、謝罪があった時と同じ推移で物事が進むということを安倍首相は証明したことになる。  
さて、もう一つの「反日国」である「韓国」はどうなったのであろうか。  
上記の記事の一段落をそのまま抜き出す。  
韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部(省に相当)長官は最近、米中両国の板挟みとなっている韓国のジレンマについて「両国からラブコールを受けている状況は、厄介なことではなく、祝福と受け止めるべきだ」と語った。韓国外交のトップがこのような発言をしながら、日本との首脳会談を3年も避け続けている間に、中・日首脳会談が相次いで実現した。韓国政府は日本の歴史に対する後ろ向きな姿勢について原則的な対応をしつつも、安全保障や経済の問題については、より柔軟で現実的な打開策を示す必要がある。 (上記より抜粋)  
さて、「具体的な策無き韓国の反日政策」がこの一文に見て取れる。米中の間に挟まれているが、そもそも尹炳世外相の言うとおり「ラブコールが両方からきている」のか、それとも「厄介者を押し付けあっている」のか、その部分をもう少し考えるべきであるし、また、その内容をしっかりと考えるべきである。そのうえで、「客観的な事実を踏まえた」上での「安全保障や経済の問題については、より柔軟で現実的な打開策」が必要なのではないか。もちろん、韓国の国民性や今の政府の能力では、そのようなことは非常に難しいのであろう。ましてや次々とスキャンダルが出てきている状態で、朴槿恵政権にそのような話をすることはかなり難しい。実際に、「能力の上限を超えた政治判断はできない」というのが通説であり、そのために混乱し、損害を被るのは、韓国の朴槿恵政権でも、日本の民主党政権でも、いつも国民なのである。  
そのような状況を、韓国の国民を代表して、今まで一緒になって反日を行っていた朝鮮日報が社説でこのような文章を掲載したことには、中な興味深いと思うものである。  
さて、今後の対応であるが、日本は、日中・日韓というような二か国間ではなくもっと大きな地球規模で物事を考えるべきである。そろそろ、「二か国間外交」ではなく「グローバル外交」を行うべきではないか。 
2015年4月30日 - 安倍首相

 

(安倍首相米議会演説。安倍総理大臣は日本時間の30日未明、アメリカ議会上下両院の合同会議で、日本の総理大臣として初めて演説しました。)  
議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、1957年6月、日本の総理大臣としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国総理として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。申し上げたいことはたくさんあります。でも、「フィリバスター」をする意図、能力ともに、ありません。皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベイカー。民主主義の輝くチャンピオンを大使として送ってくださいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。  
私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル・フランシア夫人、寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日頃、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。デル・フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方なら躊躇なく採用する。――この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だとずいぶん言われました。  
私の名字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主主義の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。  
先刻私は、第二次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐な場所でした。耳朶を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。その星の一つ、ひとつが、倒れた兵士100人分の命を表すと聞いたときに、私を戦慄が襲いました。金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海…、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました。親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。  
みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、仰っています。「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」。もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のお祖父さんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。本当に、ありがとうございました。  
戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。みずからの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。みずからに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。焦土と化した日本に、子どもたちの飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました。米国がみずからの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、ASEAN諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。  
こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。その営為こそが、TPPにほかなりません。しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。経済規模で、世界の4割、貿易額で、世界の3分の1を占める一円に、私たちの子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。  
実は、いまだから言えることがあります。20年以上前、GATT農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。世界標準に則って、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍の穂先となりこじあけてきました。人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。  
親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心からよかったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父のことばにあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。  
私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。日本はオーストラリア、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は各段に安定します。日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。第一に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第二に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第三に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私たちには、その責任があります。日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外務大臣、中谷防衛大臣と会って、協議をしました。いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。きのう、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に合意をしたのです。  
1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。人間一人一人に、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。私たちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまや私たちに、新しい自己像を与えてくれました。いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢さを備え、深い信頼と友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。  
まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。「落ち込んだ時、困った時、目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子どもたちに、支援の手を差し伸べてくれました。私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれました。――希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかによい場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。 
“従来通り謝罪を”英紙 “米を満足させれば十分”米識者 4/29  
26日、安倍首相が1週間のアメリカ訪問の旅に出発した。イギリスのフィナンシャル・タイムズ誌(FT)は、首相の訪米は日米の対中関係にも影響を及ぼすものであり、中国に対抗するものであってはならないと指摘した。アメリカのメディアは、FTとは対照的な識者の意見も紹介している。  
首相の評価は高いが、中国に配慮を  
イギリスのフィナンシャル・タイムズ誌(FT)は、ナショナリスト的な傾向には懸念があるものの、安倍首相は、ここ数十年でもっとも理路整然としたリーダーとして、アメリカでの評価は概して高いと述べる。今回の訪米でも、首相は友達として扱われ、公式晩餐会で歓迎され、議会演説にも招かれると同誌は報じている。  
しかしながら、中国との関係を考えた場合、日米が団結して中国に対抗しているという印象は与えてはならないとFTは述べ、安倍首相の訪米中、中国に対する日米の態度が、3つの場で試されると指摘する。  
議会演説  
まず最初は、第二次大戦中の日本の行為に言及するであろう安倍首相の議会演説だ。FTは、首相は「日本は十分謝罪した」と考える保守派に属しており、従来使用されてきた謝罪の言葉を、演説では使わないことをほのめかしたと述べる。しかし、侵略者としての日本は、いつ謝罪をやめるのかを決める贅沢な身分にはないと指摘。近代史の過失や欠点の多くをごまかしている中国に説教されるのはもちろん癪に障るが、もし「普通の」国として世界から信頼されたいのなら、首相はじっと唇を噛んで、従来のやり方を踏襲すべきと述べる。  
これに対し、テンプル大学日本校でアジア問題を研究するジェフリー・キングストン教授は、「過去について、首相が誠実に、深く悔いているように話せば、人々はそれで十分と受け止める」と考えている。「中国や韓国は、細部に渡ってチェックを入れ、何を言っても彼らを満足させることはできない」ため、首相がすべきは、アメリカを十分に満足させることだと指摘している(ロサンジェルス・タイムス、以下LAT)。  
防衛協力  
2番目が、防衛だ。日米は、27日に防衛協力の指針の改定で合意しており、日本の集団的自衛権行使を前提とし、自衛隊の活動を拡大させる内容が盛り込まれている。FTは、これがアンチ中国協定のように映らなければ、害はないだろうとしている。  
一方、金融リサーチ会社『Gavekal Dragonomics』 のアナリスト、トム・ミラー氏は、中国がアジアからアメリカを追い出そうとしており、軍事力増強に努め、必要ならば経済的な影響力を政治にも使おうとしていると述べており(LAT)、これが日米を警戒させているとLATは言う。国際平和カーネギー基金のアナリスト、ジェームス・ショフ氏は、「日本のゴールは、防衛協力を進め、中国への抑止を強化することだ」と話しており(LAT)、安倍首相の訪米時に日米防衛協力が話し合われたことは、中国牽制となる意味合いが強いことを示唆した。  
TPP  
3つ目は、TPPである。TPPは貿易協定であり、それを装った地政学上の協定ではないことを明確にする必要があるとFTは述べる。同誌は中国には可能な限り早い参加を促し、ルールに基づいたシステムに統合していくべきと述べている。  
これに対し、ワシントン・ポスト紙に記事を寄せた共和党下院議員のポール・ライアン氏は、中国は世界中で貿易協定を交渉中で、自国に有利なルールにしようとしていると指摘。日米は、「世界経済のルールを描くのは、中国?それとも我々?」と自問してきたと述べる。同氏は、日米が組めば、アジア太平洋で弱い者いじめに走り、覇権を再主張する中国に対抗できると述べている。  
FTは、日米が中国を国際社会に引き入れることが、安倍首相訪米の背後にある意義であるべきとしているが、異論もあるようだ。今回の訪米が中国を含めた国際社会にどのように受け止められるのか、注目して行きたい。 
安倍首相のアメリカ議会演説内容 4/30  
歴史認識問題  
安倍首相は「戦後の日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に歩みを刻んだ。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない。思いは歴代首相と全く変わらない。第2次世界大戦の米軍の犠牲に「心に深い後悔」を抱いている。日本と日本人を代表して、第2次世界大戦で失われた全てのアメリカの人の魂に深い敬意を込めて永遠の追悼を捧げます」などと述べ、先の大戦への痛切な反省を示しました。  
一方で中韓が求めていた、村山談話にあるような「心からのおわび」といった謝罪の言葉は用いませんでした。また、従軍慰安婦問題についても「紛争下、常に傷ついたのは女性だった。私たちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけない。」と言及したのみで、慰安婦問題そのものには言及しませんでした。  
そのため、韓国メディアからはさっそく批判されています。  
韓国の聯合ニュースは30日、安倍晋三首相の米議会上下両院合同会議での演説について、「『植民地支配と侵略』などの表現や明確な謝罪の言葉がない上、慰安婦問題には全く言及しなかった」と指摘した。  
その上で、「歴史に対する謝罪と反省を求めた周辺国の期待に遠く届かなかった」と批判した。  
聯合は「第2次安倍政権が、第2次大戦に関して『アジア諸国民に苦しみを与えた』と言及したのは初めて」と指摘。一方で、慰安婦問題に言及しないまま「女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけない」と強調したと皮肉った。  
さらに、「韓国などアジアへの謝罪をせず、太平洋戦争と米国人には強い言葉で反省を示す矛盾した態度を見せた」と批判した。   
安全保障政策  
安倍首相は、アメリカのリバランス(再均衡)政策への支持を表明。またアジアの海洋政策について、以下の三つの原則に基づく平和主義を唱えました。  
第一に国家が何か主張するときは国際法に基づいてなす。第二に武力や威嚇は用いない。第三に紛争解決は平和的手段による。太平洋からインド洋にかけての広い海を、自由で法の支配が貫徹する平和の海にしなければならない。そのためにこそ日米同盟を強くしなくてはならない。-引用元は最下部に記載  
さらに、日米新ガイドラインとそれを実現するための法改正(集団的自衛権含む)をこの夏までに国会で成立させると明言しました。  
これに対し、民主党の小西議員が「この発言は国会を軽視するもの」だとして猛反発しています。  
TPPについて  
安倍首相は「環太平洋連携協定(TPP)には、単なる経済的利益を超えた長期的な安全保障上の大きな意義があることを忘れてはならない。日米間の交渉は出口がすぐそこに見えている。米国と日本のリーダーシップでTPPを一緒に成し遂げよう。」と発言し、TPPには安全保障政策上からも利益があると唱え、TPPの早期妥結への決意を表明しました。  
感想  
内容としては事前に予想されていたものとほぼ同じだったので特に驚くものはありませんでしたね。(安全保障法制を夏までに成立させると言及したことぐらいか?)  
歴史認識問題での「謝罪・お詫び」については、先のバンドン会議でも言及しなかったので、今回の演説でも言わないだろうなというのはありました。韓国メディアが発狂してますがいつものことなので気にするほどのことではないと思います。  
集団的自衛権の関連法案を含む安全保障法制について「夏までに成立させる」と明言したのは大きいですね。非協力的な公明党への脅しでしょうか?  
TPPについては安倍首相がこのように自信を持って明言したので早晩妥結されるでしょうね。日本国内でも反TPP派の統制経済大好きさんたちが交渉失敗を祈ってるみたいですが、幸いにしてその希望はかなわないでしょう。(交渉が難航しているように見えるのも各国の交渉用のブラフであって、あとは細かいところの詰めの作業に入っているものと思われます。) 
安倍首相の米国議会演説、各国で評価が割れる 4/30  
4月30日午前0時にアメリカ議会で安倍首相が行なった演説について、各国も大々的に取り上げていました。中国や韓国などは慰安婦問題などに言及しなかったことを指摘し、「謝罪がなかった」と強く批判しています。ただ、韓国は朴槿恵大統領の訪米を控えていることからやや控え目の反応でした。  
欧米のメディアも「全面的な謝罪には至らなかった」と安倍首相の演説を評価しています。米NBCニュースは「韓国と一部米議員は謝罪を求めてきたが安倍首相は表明しなかった」と取り上げ、ウォール・ストリート・ジャーナルも「韓国系米国人や退役軍人らが求めていた用語は使わなかった」と報じました。  
いずれも慰安婦問題などの戦争犯罪に対する具体的な謝罪が無かった事を指摘していますが、アメリカの議会議員からは「安倍首相は謝罪したと思う」「完璧だった。言うことを言っていた」と賞賛の声も多いです。  
バイデン米副大統領は「歴史問題で責任が日本の側にあることを非常に明確にした」と述べ、演説の内容に好意的なコメントをしました。  
訪米中の安倍晋三首相は29日、米議会の上下両院合同会議で日本の首相として初めて演説した。米国では歴史に関する言及に注目が集まり、演説を評価する見方と不十分という声の両方が上がった。  
安倍首相は演説で、ワシントンの第2次世界大戦記念碑を訪れたことを紹介し、米軍の死者に対して「深い悔悟を胸に、黙禱(もくとう)を捧げた」と述べた。演説を聞いた議員からは、「第2次世界大戦が引き起こした不幸を認識したもので、適切だった」(スティーブ・コーエン下院議員)などの声が上がった。ただ、元米兵捕虜の遺族団体「バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のジェン・トンプソン代表は、「旧日本軍による捕虜への虐待に言及しなかったことに失望した」と話した。  
米欧メディアは29日、安倍晋三首相の米議会上下両院合同会議での演説について相次いで報道した。安倍氏が先の大戦への「痛切な反省」を表明したことについて、AFP通信は「全面的な謝罪には至らなかった」と指摘した。米NBCニュースは「韓国と一部米議員は謝罪を求めてきたが安倍首相は表明しなかった」と報じた。  
米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は、安倍氏が演説で「韓国系米国人や退役軍人らが求めていた用語は使わなかった」と報じた。ロイター通信は韓国や中国が「安倍首相は歴史をもみ消そうとしている」と批判したと指摘した。そのうえで、安倍氏が演説で「日米同盟の未来と、環太平洋経済連携協定(TPP)に懐疑的な議員への要請に焦点を当てることを選んだ」と解説した。  
バイデン米副大統領は29日、安倍晋三首相が米上下両院合同会議での演説で「先の大戦に対する痛切な反省」を表明したことについて、歴史問題で「責任が日本の側にあることを非常に明確にした」と述べた。演説終了後、共同通信などの取材に答えた。  
オバマ政権として首相の歴史問題への言及を評価した発言。同時に、日本の「責任」に言及することで、韓国や中国との関係改善に向けたさらなる取り組みを促したともいえそうだ。 
安部首相演説に関して一部日本メディアの報じ方の偏り 4/30  
海外メディアでは安倍首相の演説には評価する声が流れており、特にアメリアとの関係をよりよいものにする「希望の同盟」という言葉は感銘を受ける人が多かったようだ。特にスタンディーングオーベーションで大きな拍手が流れたのは硫黄島で戦った元アメリカ海兵隊員と旧日本軍の守備隊司令官の孫の新藤前総務大臣との握手の時であった。これを安部首相は「元敵同士だった人たちが手を取り合うことを奇跡と言わずなんという」とコメント、大きな拍手が流れることとなった。  
しかし、米議会のすぐそばでは反日議員のマイク・ホンダが元慰安婦達に「日本に謝罪を要求する」運動をするようによびかけ嫌がらせをするように支持しており、これには米国ネットでも「米議会を利用するな」と痛烈に批判の言葉が流れた。  
各報道機関は「首相演説に関して評価する声」という記事とともに「一部(元従軍慰安婦とマイク・ホンダ議員)は批判」というような記事の見出し等で報じた。  
しかし、一部メディアや朝日新聞は「演説に賛否両論」「評価が二分した」と記事の見出しで内容を掲載、少数派の議員の意見を「大半」と印象操作を行い安部首相の演説を貶めようとする事となった。  
また、米議会ではアメリカと日本との歴史に関する言及に注目が集まりその点は硫黄島の内容等で大喝采をえたはずなのだが、朝日新聞らは「歴史認識が不十分」と掲載。日本と中韓の歴史認識をまるで「日本と各諸国の歴史認識」とミスリードを誘うような記事内容で掲載した。  
米国での演説で日米関係をよりよくするためのスピーチに関して中国韓国との歴史認識に関して言及する報道機関が多く疑問を感じる人が多数いるようだ。  
朝日新聞 / 「前向き」「失望した」 安倍首相演説、米で評価二分  
訪米中の安倍晋三首相は29日、米議会の上下両院合同会議で日本の首相として初めて演説した。米国では歴史に関する言及に注目が集まり、演説を評価する見方と不十分という声の両方が上がった。  
安倍首相は演説で、ワシントンの第2次世界大戦記念碑を訪れたことを紹介し、米軍の死者に対して「深い悔悟を胸に、黙?(もくとう)を捧げた」と述べた。演説を聞いた議員からは、「第2次世界大戦が引き起こした不幸を認識したもので、適切だった」(スティーブ・コーエン下院議員)などの声が上がった。ただ、元米兵捕虜の遺族団体「バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のジェン・トンプソン代表は、「旧日本軍による捕虜への虐待に言及しなかったことに失望した」と話した。  
産経新聞 / 安倍首相、米議会演説で「希望の同盟」を強調  
安倍晋三首相は29日午前(日本時間30日未明)、日本の首相として初めて米上下両院合同会議で演説した。題名は「希望の同盟へ」。戦後70年の節目に、敵対国から同盟関係となった日米の「心の紐帯(ちゅうたい)」を訴え、日米同盟の発展が世界の平和と安定に貢献するという「未来志向」の考えを前面に打ち出した。 
「拍手は免罪符にならず」=安倍首相演説を批判―韓国各紙 4/30  
安倍晋三首相の米議会演説について、30日付の韓国主要各紙は1面で「謝罪どころか自賛だけ 安倍の詭弁(きべん)」(東亜日報)などと批判的に報じた。同紙は社説で「米議会の拍手が(韓国などの被害への)免罪符にはならない」とくぎを刺した。  
中央日報は、演説で「侵略、植民地支配という言葉や慰安婦問題への言及がなかった」と指摘。一方で、戦時の米国への犠牲には「礼を尽くして哀悼の意を示した」と、対応の差に不快感をあらわにした。  
東亜日報の社説は「反人倫的な戦争犯罪をのらりくらりとごまかし、歴史的な舞台での率直な謝罪を望んだ国際社会の期待をまた裏切った」と失望感を示した。その上で「日本が植民地支配と侵略を十分に謝罪する前に、戦犯国家の汚名をそそぎ、世界平和への責任を負う役割を果たすことに賛成できない」と主張した。  
一方、朝鮮日報社説は、首相が演説で強調した日米同盟強化について「日本を通じて中国をけん制するという(米国の)戦略が込められており、米日と中国の覇権争いの構図が朝鮮半島周辺でつくられている」と懸念を表明。「韓国外交が無能と無気力から目を覚まし、国家生存戦略を打ち立て、行動する時だ」と訴えた。 
歴史的な機会を逃した安倍首相の米議会演説 4/30  
安倍晋三首相は歴史的な機会を逃した。アジア諸国との不幸な過去を整理し、未来に進むことができる絶好のチャンスを失った。安倍首相は昨日、歴代の日本首相で初めて米議会上下両院合同会議で演説し、スピーチのほとんどを米日関係に使った。日本の侵略と植民地支配でアジア諸国が受けた苦痛には一言述べる程度で終えた。終戦70年を迎えて周辺のアジア諸国と和解できる機会を自ら蹴った格好だ。  
安倍首相の昨日の演説はかなり以前からアジア各国国民の耳目を集めてきた。口からどんな言葉が出るのか誰もが注目した。米議会でする演説であるだけに両国関係に焦点を合わせるのが当然かもしれないが、それでも終戦70年に米上下院でする初めての演説であるだけに、より大きな意味を込めるものと期待した。戦争に対する反省を土台に世界の平和に寄与するという確約が真正性を帯びるには、日本のために苦痛を受けた隣国の人々に対する謝罪と反省の心が込められるべきだった。  
しかし安倍首相は「みずからの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた」とし「戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に歩みを刻んだ」と簡単に言及した。歴代首相が表明した立場を堅持すると述べたが、村山談話や河野談話の具体的な内容は一言も口にしなかった。侵略と植民地支配という表現もなく、お詫びという表現もなかった。慰安婦問題には全く触れなかった。日本との戦争で犠牲になった米国人に対しては最大限の礼を尽くして哀悼を表しながらも、日本のために犠牲になった隣国の人々に対する哀悼はなかった。  
安倍首相は米国のアジアリバランス(再均衡)政策を積極的に支持し、隙のない米日軍事協力を通じて積極的に平和主義を実践すると強調した。しかし過去の過ちに対する謝罪はなかった。過去のない未来はない。8月15日に発表される終戦70年談話までこのような状況が続けば、どうやって日本と共同の未来を図るのか。韓国の外交の大きな宿題だ。  
安倍首相は「謝罪拒絶」=米議会演説を批判−中国メディア 4/30  
中国国営新華社通信は30日、安倍晋三首相の米議会演説について「侵略の歴史と慰安婦問題への謝罪を拒絶し、一部米議員の強い批判を招いた」と報じた。その上で「歴史への直視を拒否したことは、アジア・太平洋の20万人の慰安婦への侮辱だ」とするマイク・ホンダ米下院議員のコメントを伝えた。  
新華社は、今年が日本の敗戦から70周年に当たると指摘した上で、「安倍首相は集団的自衛権の解禁を追求しながら、一方で歴史を直視したがらず、日本の侵略行為を粉飾し、国内外の憂慮と抗議を引き起こしている」と批判した。 
安倍首相演説「非常に遺憾」=「真の謝罪示されず」−韓国外務省 4/30  
韓国外務省報道官は30日、安倍晋三首相の米議会演説について、「正しい歴史認識を通じて周辺国との本当の和解と協力が行える転換点になり得たのに、そのような認識も真の謝罪も示されなかったことを非常に遺憾に考える」と批判する声明を発表した。 
安倍首相の米議会演説 韓国政府から声明「非常に遺憾」「逆に進む矛盾犯した」 4/30  
韓国政府は30日、安倍晋三首相の米議会上・下院合同演説の内容を問題にして遺憾を表明した。  
韓国政府は同日、外交部の魯光鎰(ノ・グァンイル)報道官名義の声明で「日本の安倍首相の米議会演説は正しい歴史認識を通じて周辺国との真の和解と協力を成し遂げられる転換点になりえたにもかかわらず、そういった認識も、真の謝罪もなかったことを非常に遺憾に思う」と明らかにした。  
続いて「日本が米議会演説で明らかにした通り、世界平和に寄与するには過去の歴史を率直に認めて反省することを通じて国際社会との信頼および和合の関係を成し遂げていくことが重要だが、行動はその逆を進むという矛盾を犯している」と指摘した。  
魯報道官は「日本は植民支配および侵略の歴史、旧日本軍の慰安婦被害者に対する残酷な人権蹂躪の事実を直視する中で、正しい歴史認識を持って周辺国との和解と協力の道を進まなければならない」と促した。 
安倍首相演説:米メディア、TPPや安保に焦点 4/30  
安倍晋三首相が29日に行った米議会演説に関する米主要メディアの報道は、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の売り込みや、日本が安全保障分野でより国際的、積極的役割を果たすとの説明に注目したものが目立った。一方で、歴史問題で明確な謝罪がなかったことに触れる記事もあった。  
ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は「安倍首相が議会演説で貿易協定を支持」との見出しで記事を掲載。米国で組合などを支持基盤に持つ与党民主党にTPPに対する強硬な反対論があることに触れ、「首相の売り込みに懐疑派説得の効果があったかは不明だ」とした。韓国系米国人団体から慰安婦問題での謝罪要求があることも紹介し、演説や訪米中の公式発言では「新たな謝罪はなかった」と報じた。  
ニューヨーク・タイムズ(電子版)もTPPに焦点をあて、日米間で難航している交渉に関し「具体的な妥協策を示さなかった」と指摘。慰安婦問題でも演説には具体的説明がなかったとの評価を示した。  
AP通信は安倍首相が第二次世界大戦での米兵死者に哀悼の意を表したが大戦中の旧日本軍の残虐行為には謝罪がなかったとの記事を配信。ワシントン・ポスト(電子版)は、日米同盟強化を安倍首相が演説で強調したと伝え、「(日本が)世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく」との発言を紹介した。 
安倍首相演説:元従軍慰安婦の支援団体が批判「責任回避」「謝罪を」 4/30  
安倍晋三首相は29日の演説で、第二次世界大戦に対する「痛切な反省」を表明しアジア諸国に「苦しみ」を与えたなどと述べたが、直接的なおわびの言葉はなく、旧日本軍の元従軍慰安婦を支援する米国の韓国系団体や一部議員、元米軍人団体からは「責任回避だ」「謝罪すべきだ」との批判も聞かれた。  
安倍首相は歴史問題で歴代内閣の立場を引き継ぐと表明したが、会場の米連邦議事堂付近で抗議活動をしていた「ワシントン慰安婦連合」の徐玉子(ソオクチャ)顧問は「首相が代われば立場が変わるかもしれない」と指摘、国会決議などによる確認を求めた。  
元慰安婦の李容洙(イヨンス)さん(86)を傍聴に招いたマイク・ホンダ下院議員(民主党)は、慰安婦問題で謝罪がなかったと指摘した上で「安倍首相が日本政府の(戦争)責任から逃れ続けていることに衝撃を受けた」と反発。安倍首相が女性の人権擁護の必要性に言及したことに触れ、「(まずは)過去の罪を認めなければ歴史は繰り返す」などと批判した。
韓国の国益 安倍首相を抑え込むには 4/30  
米国訪問中の日本の安倍晋三首相のスケジュールの中で目につくのは、29日の笹川財団基調講演だ。韓国と日本ではこれを「米国内の代表的な日本の広報機関」と報道した。だが笹川の正体を知ると、あきれ返って鳥肌が立つ。歴史歪曲に組織的に関与してきたという疑惑がある右翼の大物、笹川良一(1899〜1995)氏の名前をとった団体だからだ。  
笹川氏は自他共に認めるファシストだ。太平洋戦争前イタリアのファシストであるベニート・ムッソリーニの熱烈な崇拝者だった。1931年日本版ファッショ政党である国粋大衆党を立ち上げて総裁をつとめた。39年にはイタリアに飛んでムッソリーニと会見して有名になった。飛行機と飛行場を軍に献納して愛国運動を主導し、42年衆議院議員に当選した。「1人の命を1機の飛行機に乗せて敵の軍艦1隻と変える」という概念を主張して神風自爆攻撃の理論的背景を提供したという。終戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯の容疑者に指定されたが3年間収監された後、不起訴処分を受けた。  
釈放された笹川氏は競艇事業で富豪になり、これを基に62年日本財団(The Nippon Foundation)の前身である日本船舶振興会をつくった。日本財団は約2660億円の資産から発生する年間220億円程度の収益を予算に使う日本最大の財団だ。笹川氏は74年、米国の時事週刊誌タイムとのインタビューで「私は世界で最もお金持ちのファシストだ」と遠慮なく話したほどだ。  
日本財団は船舶調査・民間交流・日本広報・貧民支援などを手がけるが実状は各国の知識人・学者・政治家に食い込んで笹川氏の戦犯行跡と日本の戦争犯罪を歪曲することを主としてきたという評価だ。代表的なものがこの財団が出資した東京財団が南京大虐殺を虚構だと歪曲するパンフレットを世界中にばら撒いたことだ。安倍首相がこうした団体で演説した理由は「支持基盤の手なずけ」とみるほかはない。日本が民間団体を前面に出して民間交流という名分でどれほど長く体系的に、しつこく歴史歪曲活動を繰り広げてきたのか垣間見える部分だ。安倍首相が今回、米国を訪問して見せてくれる歴史蹂躪的な行動がすでにかなり前から徹底して準備されてきたという話だ。  
日本政府も米国の広報・ロビー企業を雇用して水面下で米国の政策立案者に緻密に事前の整地作業を行っていたことが明らかになっている。日本政府は米国の大手広報企業「ダシュル・グループ」やロビー専門ローファームの「エイキン・ガンプ」「ホーガン・ロヴェルス」「ポデスタ・グループ」などと契約したという報道がこれを後押ししている。米主流社会とつながっている広報・ロビー企業を雇用して米国の政策立案者・意志決定権者・水面下の実力者・シンクタンク・メディアなどを相手に日本に肯定的なイメージを与えることのできるノウハウやアイデア、人脈を提供してもらったと考えられる。韓国も接触する国務省や国防省ではなくて、最高位層を動かせる非公式のインナーサークルに直接食い込んだ可能性が大きい。  
要するに日本政府は広報・ロビー企業を雇用して積極的に米国の首脳部に接近し、ファシストを公言する極右者が生前に作った民間団体は歪曲された歴史認識を米国にまき散らすために波状攻勢をかけたという話だ。これに対抗して韓国政府と民間は声明発表・公務員接触・デモ・抗議書簡・新聞広告などで大衆を相手に日本の歴史歪曲の行為を必死に告発した。だが、このように米国の心臓部にひそかに食い込んだ日本を相手にしては力不足だったのかもしれない。  
今こそ国益を守るために対米アプローチのパラダイムを根本的に切り替えなければならない時だ。費用がかかっても米国を動かす人に公式・非公式的に接近して心を動かせる手堅い広報とロビー戦略が必要だ。そんな人物を探して外交の全面に配置する案もある。果敢に外国広報・ロビー・戦略・マーケティング企業を雇用する案も積極的に考慮しなければならない。韓国の外交官たちがいかに有能で忠誠心にあふれていても、彼らだけでは日本に敵対し韓国の国益を守ることが容易ではないということを、安倍首相の訪米成果が見せているのではないだろうか。  
「安倍首相の演説に深く失望…謝罪の次の機会は終戦記念日」 5/1  
ロイス米下院外交委員長が先月29日(現地時間)、旧日本軍慰安婦被害者に対する謝罪をしなかった安倍晋三首相の米上下院合同演説を批判した。ロイス委員長はこの日、中央日報との電話インタビューで、「安倍首相が慰安婦被害者に対して謝罪する次の機会は米国と韓国、全世界が祝う8月の第2次世界大戦終戦70周年記念日」と強調した。ロイス委員長は「きょう安倍首相の演説内容を聞いて深く失望した」とし、このように明らかにした。共和党所属で代表的な知韓派のロイス委員長はこの日、「安倍首相が東アジアの外交関係を悪化させる過去の問題を適切に扱う機会を活用できず、非常に残念だ」とし「安倍首相は域内の協力に寄与する治癒と和解のメッセージを送る機会を逃さないよう希望する」という声明も発表した。以下は一問一答。  
−−安倍首相の演説をどうみるか。  
「安倍首相は慰安婦問題を取り上げて、この人たちに謝罪するべきだった。マイク・ホンダ議員と私を含む多くの議員が安倍首相側に接触し、歴史問題、特に慰安婦問題を正直に明らかにするよう要請しただけに、安倍首相の演説には失望した。(慰安婦になった)少女は捕まり、性的奴隷生活を経験した。今回の演説は、メルケル独首相の言葉のように安倍首相が正面から歴史を直視する機会だった。しかし安倍首相はそのようにせず、本当に失望した」  
−−外交委員会レベルで慰安婦問題を扱う計画はあるのか。  
「委員会ではしたし、最近では地域で扱っている。私が暮らすカリフォルニア州フラートンでは昨年、元慰安婦女性を招待し、市民が彼女たちの話を聞いた。カリフォルニア州グレンデールの慰安婦碑には私も行った。最近ここで記念式が開かれた。また慰安婦問題を知らせるために、カリフォルニア州で教科書に関して我々がするべきこと(慰安婦関連記述)が重要だ。次世代を教育するためだ。同じ教育が日本でも許され、生徒に戦争に関する真実を知らせなければいけない。日本の生徒は全体の歴史を学ばなければいけない。戦争の歴史全体、戦争に対する客観的な歴史だ。しかし(慰安婦募集の強制性を否認した)大阪市長のように一部の政治家の話を聞くと、日本には歴史を否定しようとする一部の努力があることが分かる」  
−−一部では、安倍首相の訪米と議会演説で米日がさらに近づき、韓国が疎外されるという心配がある。  
「米国と韓国は韓国戦争(朝鮮戦争)当時から特別な関係だ。両国は非常に親密だ。多くの米国人が、その父親が、韓国で服務した。それで個人的に韓国に対して親近感と共感がある。私が共同発議して通過させた韓米自由貿易協定(FTA)もあり、8年前には下院がすべての議員の支持の中、全会一致で日本軍慰安婦決議案を通過させた。米国は日本とも同盟だ。しかし我々には安倍首相に対し、歴史を否定する日本国内の政治家に対抗して慰安婦に加えられた不当な行為について謝罪するべきだと話してきた」  
−−安倍首相が米国には深い反省を表明した半面、韓国にはそうしなかったという批判がある。  
「我々が話すイシューがまさにそのイシューだ。第2次大戦中に被害にあって苦痛を受けた幼い少女に関するイシューだ。彼女たちの苦痛は謝罪を受けるべきものだ。議会は8年前、マイク・ホンダ議員が発議し、私が共同発議した(日本軍慰安婦)決議案を通過させたほど、これをはっきりと感じている」  
−−日本政府に助言することがあれば。  
「8月の第2次世界大戦終戦70周年記念日には、全世界が各国首脳の話に注目する。(この日は)欧州と全世界の人々が全体主義とファシスト政府から解放された日だ。日本政府が慰安婦問題を明らかにする機会だ。日本政府が慰安婦生存者に彼らがしたことを謝罪すれば、国際的に治癒に大きく役立つだろう」  
この日、民主党のエリオット・エンゲル(下院外交委幹事)、マイク・ホンダ、ジュディ・チュー、チャールズ・レングル下院議員らも声明とインタビューで、旧日本軍慰安婦に対する謝罪が抜けた安倍首相の演説を一斉に批判した。ニューヨークタイムズはこの日、「安倍首相に対し、戦争中の日本軍の残虐行為を認めるべきだという要求が驚くほど強かったが、安倍首相は具体的に述べなかった」と報じた。英ガーディアンも「第2次世界大戦中に犠牲になった米国人には謝罪したが、慰安婦問題には言及しなかった」と指摘した。 
独断で謝罪を拒んだ安倍首相、再び世界の信用を失う羽目に―中国メディア 5/1  
2015年4月30日、新華社は安倍晋三首相が29日に米国議会で行った演説が世界を再び失望させたと批判した。以下はその概要。  
安倍首相は29日午前(日本時間30日未明)、米議会上下両院合同会議で演説したが、「侵略」や「侵略戦争」「アジアの人びとに多大の損害と苦痛を与えた」といった言葉はなかった。安倍首相は侵略の歴史や慰安婦問題に対する謝罪を拒否している。米国議会議事堂前には善良な人びとが安倍首相に対する抗議活動を行った。中国政府は日本政府に対し、これまでに何度も歴史を直視し、慰安婦問題を含めた歴史問題に関して責任ある態度で善処するよう求めてきた。  
反ファシスト戦争勝利70周年の今年は、日本にとって戦後70周年の年でもある。この大切な時期に安倍首相とその政府が歴史を反省し、心からの謝罪を行えば、日本とアジア諸国との関係は大いに改善されることだろう。しかし、安倍首相はこうした人びとの期待や希望を裏切り、自らの言動で国際社会を失望させた。安倍首相のこうした姿勢は驚くべきものではない。母方の祖父はA級戦犯(訳者注:正確にはA級戦犯被疑者。不起訴で釈放)だ。  
米国は自らが主張する「アジア太平洋リバランス」に日本の協力が必要なため、安倍首相の発言を黙認するどころか、支持する姿勢を示している。時代の流れに逆らった安倍首相の発言は将来の日本に深刻な影響を及ぼすだろう。米国は日本の真珠湾奇襲攻撃を忘れずにこれを教訓としなければ、いつか日本に足元をすくわれるだろう。 
謝罪しない安倍首相…試される韓国外交 5/1  
安倍晋三首相の米議会演説をきっかけに、韓国の対日外交戦略に批判が出ている。日本は過去の問題を巧妙に避けながら米国と急速に親密になったが、韓国はこれに対応できていないという指摘だ。  
海外メディアは30日、安倍首相が米議会演説で直接的な謝罪をしなかったとして批判した。フィナンシャルタイムズは「日本の行動を謝罪する意向がないという一貫した立場を見せた」とし「8月の安倍談話でも植民地支配と侵略に対する歴代内閣の謝罪を薄めるおそれがある」と評価した。しかし韓国政府は直接的な批判を自制しながら「遺憾」という立場を明らかにした。魯光鎰(ノ・グァンイル)外交部報道官は30日に発表した声明で、「日本は植民地支配および侵略の歴史、日本軍慰安婦被害者に対する残酷な人権じゅうりん事実を直視する中、正しい歴史認識を持ち、周辺国との和解と協力の道に進むべきだ」と述べた。  
一部の人は、米国に頼る韓国の消極的、受動的な外交戦略に問題を提起している。米国と日本、中国は国益により敏捷に離合集散するが、韓国は消極的な態度で一貫しているということだ。ワシントン内の韓国外交官は、ホワイトハウスと米議会を相手に安倍首相が直接謝罪を表明するようロビー活動をしたことが分かった。しかしこの戦略が失敗し、結果的に日本を変えられなかったという指摘が出ている。外交専門家は日米新同盟時代を迎えて韓米日関係を再設定し、対日、対米戦略を新たに組む必要があるという意見を出している。  
朴母、(パク・チョルヒ)ソウル大教授は「韓日関係は過去の解決策が通用しない新しい段階に入った」とし「以前とは違う日本に我々が期待できることが変わったという点を認識し、お互いテストする段階を経て、新しい均衡点を見いださなければいけない」と述べた。  
政府・与党は1日、外交安保対策会議を開き、対策を調整する予定だ。朱鉄基(チュ・チョルギ)青瓦台(チョンワデ、大統領府)外交安保首席秘書官は「(日本と)今年中に過去の問題を解決しようと努力中で、過去の歴史と安保問題を区別して扱いながら韓日関係を必ず解決する」と述べた。  
安倍首相の謝罪は東アジアの問題を解決しうるか? 5/3  
東アジア諸国の政治家の多くは、日本の安倍首相がアメリカ議会の演説で、近隣諸国における第2次世界大戦中の旧日本軍の行動について謝罪することに期待を寄せていました。  
この謝罪は、これらの政治家の見解では、地域的な対立を解決するための重要な歩みと見なされていましたが、安倍首相はこうした期待には注目しませんでした。  
国際的な慣例では、国際的な問題の解決のための「謝罪の文化」が受け入れられていることに、全く疑いの余地はありませんが、第2次世界大戦をめぐる日本と近隣諸国の因縁の対立が、謝罪によって解決されるだろうというこの期待は、東アジア地域に対する面識のなさを物語っているように思われます。  
安倍首相は先月26日、アメリカ訪問を開始しました。彼は、29日にはアメリカ議会で演説し、第2次世界大戦中に日本が否定的な役割を果たしたことには軽く触れ、遺憾の意を表しています。  
アメリカ議会での安倍首相の演説は、一部の近隣諸国の反発に直面しました。韓国外務省は声明において、「アメリカ議会での安倍首相の演説で、歴史に対する正しい認識に基づいた誠実な謝罪が全く見られないことは、甚だ遺憾」と表明しました。この声明ではさらに、「安倍首相の演説は、歴史の正しい認識に基づき、近隣諸国と日本が和解、協力するための転換点となりえるものだったが、安倍首相はこの機会を活用しなかった」とされています。  
韓国は、第2次世界大戦中の旧日本軍による従軍慰安婦問題を理由に、また中国は当時の日本による侵略行為を理由に、常に日本に対し謝罪を要求していました。中国と韓国の一部のメディアも、今回の安倍首相のアメリカ訪問について、「アメリカは、安倍首相に対し、議会で謝罪するよう求めるべきだ」と報じています。  
アメリカは、第2次世界大戦で人類史上初の原子爆弾を使用した唯一の国です。この歴史的な経験の犠牲となった国の国民は、まさに日本人でした。もっとも、アメリカは決して、広島と長崎への原爆投下を理由とした謝罪を行っていませんが、日米関係は常に戦略的なものとなっています。  
さらに、謝罪だけですべての問題が解決できたなら、これまでに東アジア地域内の対立は解消されていたはずです。日本の岸信介元総理は、1957年に第2次世界大戦中の日本の行動を理由に、当時はビルマと呼ばれていた現在のミャンマー国民に対し、謝罪しました。これまでに、日本の政府関係者は演説の中で、少なくとも51回にわたり近隣諸国に謝罪しており、それらの多くは中国と韓国に対するものでした。  
1998年11月26日には、小渕首相がこの両国の政府関係者との会談について声明を発表し、「日本は、過去に中国国民に苦痛と損害を与えたことによる責任を感じており、このために中国側に対し、深い反省を示した。中国側は、日本が歴史から教訓を得て発展の為の道を歩むよう希望している。これに基づき、両国は友好関係の発展に向けて努力していく」とされています。  
2010年12月7日、菅首相は、日本による韓国併合100周年に際し、「日本の帝国主義は朝鮮半島の人々の意思に反して、朝鮮半島を植民地化した」と強調しました。また、「遺憾の意を表明し、日本の植民地主義体制のために生じた苦痛や被害についてお詫びする」としています。  
日本の政府関係者は、この数十年間に何度も全てのアジア諸国、さらにはオーストラリアにも謝罪しました。しかも、欧米諸国はこうした慣例的な謝罪を歓迎しており、その理由はこのようなプロパガンダにより、アメリカによる日本への原爆投下を、日本の悪行を停止させるためのものとして正当化できるからです。  
もっとも、謝罪は主な対立が解決した後の、1つの象徴的な行動であり、いずれの対立も謝罪によって解決されていません。東アジアの現実もこれと同様です。日本と韓国が、竹島の領有権を巡る日本の主張を検討するときには、確実に両国の対立はおのずと解決されると思われます。  
さらに、日本と中国が尖閣諸島の領有権に関する主張を検討すれば、日本と中国の問題も解決されるでしょう。  
さらに北方領土問題も存在します。この地域は、第2次世界大戦末期に旧ソ連軍に占領され、(ソ連崩壊後は)依然としてロシアに占領されています。これらの島々の領有権を巡る主張は非常に真剣であり、日本とロシアは第2次世界大戦の終戦以来、これまで平和条約を締結していません。ロシア政府が、旧ソ連軍の行動に関して何度も謝罪したとしても、北方領土問題が決着しないうちは、この謝罪は受け入れられないと思われます。  
逆もまたしかりです。つまり、日本はロシアの石油と天然ガスを必要としているために、またロシアは日本の投資と技術を必要としていることから、これまでに何度も北方領土問題について協議し、これを解決する用意があると表明しています。この場合、この問題は解決されると思われます。 
朴大統領「日本、歴史直視できず過去の歴史に埋没」 5/4  
朴槿恵(パク・クネ)大統領が安倍晋三首相の米国上下院での演説に関して「日本が歴史を直視できず自ら過去の問題に埋没しつつある」と批判した。  
朴大統領は4日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)首席秘書官会議で「安倍政権が過去の問題について心からの謝罪で近隣諸国との信頼を強化できる機会を生かせないのは、米国でも多くの批判を受けている」と伝えた。  
朴大統領は「日本が過去の問題に埋没しつつあったとしても、これは私たちに解決できない問題」と強調した。それと共に「韓国の外交は過去の歴史に埋没せずに、過去の歴史は過去の歴史のとおり明確に指摘して行かなければならない」と話した。  
朴大統領はさらに「韓米同盟や韓日関係・韓中関係などの外交問題は、また別の次元の明確な目標と方向性を持って推進しなければならないだけに、各事案にともなう韓国外交の目標達成のために所信を持って積極的な努力を傾けてほしい」と関係部署に注文した。  
「6月の朴大統領訪米、外交的孤立を突破する機会に」 5/4  
日本の安倍晋三首相の米国訪問(4月26日〜5月2日)は「日米新蜜月時代」を開いたとの評価を受けている。バラク・オバマ大統領との首脳会談を通じ両国の同盟をさらに強化し、日本の首相としては初めて上下両院合同会議で演説をした。両国はまた、米軍と自衛隊の共同対応範囲を現在の「日本周辺」から「全世界」に拡大する内容の日米防衛協力指針(ガイドライン)改定にも合意した。1980年代初めのロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘首相の「ロン・ヤス蜜月」が再現されている状況だ。「バラク・晋三蜜月」という言葉まで出てきている。東アジアの外交舞台で韓国の立ち位置がますます狭まるような局面だ。日米の密着が東アジア情勢に及ぼす影響と韓国に必要な戦略を陳昌洙(チン・チャンス)世宗(セジョン)研究所日本研究センター長、キム・ジュンヒョン韓東(ハンドン)大学国際地域学科教授、ソ・ジョンゴン慶熙(キョンヒ)大学政治外交科教授に聞いた。  
――改定された日米防衛協力指針を評価するなら。  
▽陳昌洙=この指針は当初日本が軍事攻撃を受けた場合に日米が共同対応することから始まり、97年に韓半島有事の際に日本が後方支援をするという内容に改定された。今回の改定は日本の役割をさらに拡大したことが核心だ。大きく3つに要約できる。まず、米国が軍事攻撃を受けた場合に日本が対応できるという点だ。2番目に、日本の支援範囲が北東アジアではなく全世界に拡大したということ。3番目に尖閣諸島(中国名・釣魚島)のようなグレーゾーン(中間地帯)の防衛のために警察ではなく軍隊を動員できることになったということだ。これで世界の警察としての米国の役割に日本もともに参加できる道が開かれた。もちろん中国に対する対応もさらに積極的にできることになった。今回の改定で韓国には得失がある。肯定的な側面は韓半島有事の際に米軍のほかに自衛隊が介入できるようになり戦争抑止効果が大きくなったということだ。だが、同時に多者が介入することにより状況が韓国の望まない方向に流れかねないという懸念もある。このため韓半島が関連した事案では緊密な協力と透明性が要求されている。また他の否定的影響は日米と中国間の緊張が高まりかねないということだ。こうした場合、中国との関係を無視することができない韓国の立場では悩みがさらに深まることになる。  
▽キム・ジュンヒョン=日米防衛協力指針改定の方針はすでに2013年10月に発表されていた。韓国政府はこれまで自衛隊が韓半島有事に介入する場合「韓国の主権尊重」という表現を具体的に明示しなければならないと要求したが結局貫徹されなかった。韓国政府の外交力が残念だ。  
――安倍首相は米議会での演説で旧日本軍慰安婦問題などに言及しなかったが。  
▽陳昌洙=過去の問題には核心キーワードがある。植民地支配、侵略、反省、謝罪などがそれだ。安倍首相はこれまで植民地時代の侵略を認めずにいる。今回も「アジアに相当な苦痛を与えた」という言及だけした。事実この言葉も言いたくなかっただろう。だがそれなりに妥協したのだ。したがって安倍首相の過去史に対するマジノ線はこの水準だろう。8月の談話にも謝罪はないと予想される。彼は慰安婦問題に対しても「人身売買」という表現を使った。政府レベルではない民間業者による不道徳な行為という主張だ。このために今後も韓日関係は困難を経験するものとみられる。  
▽キム・ジュンヒョン=安倍首相の発言は徹底して計算されたものだ。彼の発言は韓国と中国には満足できないが米国の指導者らには受け入れられる水準であるためだ。ジョー・バイデン副大統領は「安倍首相は日本の責任を明確にした」と評価した。結局安倍首相が念頭に置いた点は被害を受けた周辺国ではなく米国だったということだ。韓国は米国が日本を圧迫し謝罪を受けられるとの希望を持ったが結局意味ある結果を得ることはできなかった。安倍首相の8月の談話でも大きな変化はないだろう。  
▽ソ・ジョンゴン=韓国の戦略をもう少し洗練させるようにするにはこれを他の側面から見つめる必要もある。米国議会に対する理解だ。安倍首相の過去史否定を批判したマイク・ホンダ議員、エド・ロイス議員らは全員下院所属だ。事実米国の外交を牛耳るのは上院だ。韓国の意見をもう少し強くアピールし貫徹させるためには上院を狙った積極的な外交が必要だ。  
――日米首脳会談が残したものは。  
▽陳昌洙=自衛隊の役割拡大に向けた集団自衛権の解釈変更とこれを通じて憲法を改正しようとする安倍首相をオバマ大統領が認めたものだ。その代価として米国は日本の役割拡大を通じて北東アジアの均衡を維持するのに必要な軍事費負担を減らせるはずだ。日本の外交が成功を収めているとみることもできるが、詳細に見れば第2次世界大戦以降の戦後体制への回帰ともみることができる。安倍首相の構想は米国に依存する日米同盟体制を通じ北東アジアと国際社会での影響力を拡大するというものだ。このため日本国内メディアでも偏向的な外交に対し懸念の声が出てきている。  
――習近平中国国家主席が先月22日にインドネシアで開かれたアジア・アフリカ首脳会議(バンドン会議)で安倍首相と首脳会談をしたが。  
▽陳昌洙=中国の戦略的利益追求の断面を見せる事例だ。韓中関係と日中関係をゼロサムゲーム式で見てはならない。片方の利益が必ずしも他方の損にはならない。現在では韓日関係が北東アジアで最も重要な変数のひとつだ。中国は韓国を日米密着に対するバッファーゾーン(緩衝地帯)として活用しようとする。今後韓日関係が改善されれば韓米日同盟はさらに強力になるだろう。こうした場合バッファーゾーンとしての韓国に対する期待も減るほかない。バンドン会議での習主席の態度はこれをあらかじめ考慮した戦略に従ったものだ。  
▽ソ・ジョンゴン=習主席の態度は国家指導者として首脳外交の重要性を見せている。彼のうっすらとした微笑が中国と日本の関係改善に対する期待を膨らませている。だが、徹底した計算に基づく行動なのでより綿密に中国の意図を把握することが必要だ。  
――国際外交舞台での立ち位置が狭くなる朴槿恵(パク・クネ)政権に注文したいことは。  
▽ソ・ジョンゴン=朴大統領は任期の半分を過ぎる時点を迎えている。政府が危機意識を痛感しなければならない。ともすると朴大統領は退任後に南北関係と韓日関係を断絶させた大統領と評価されるかもしれない。朴大統領は6月に米国を訪問する予定だ。訪米は韓国の大統領が国際政治で最もスポットを浴びられる舞台だ。これを効果的に活用できる戦略と大きなビジョンが必要だ。例えば「日本は過ちを犯したがこれ以上謝罪に執着しない」「北朝鮮に対しても北朝鮮制裁のための5・24措置に固執せず進んでいく」などの積極的な外交を展開しなければならない。より適切な表現とタイミングを研究し来月の訪米を良い機会に活用するよう望む。特に北朝鮮と関連しては72年のリチャード・ニクソン元米大統領の中国訪問が良い事例になるだろう。ニクソン大統領が徹底した反共主義者だったために逆説的に中国との関係改善が可能だったという評価がある。だれも彼の思想的指向を疑わないので積極的な外交を展開することができたということだ。朴大統領もこれと類似した外交を展開できるはずだ。  
▽キム・ジュンヒョン=朴槿恵政権の問題点のひとつは、韓国には「プランB」がないということだ。最善にならない場合には次善策が必要だが、こうした準備がしっかりとされていない。「真正性フレーム」にはまっているのも問題だ。「原理主義の罠」にはまって常に真正性だけ問い詰めているのだ。こうした場合、北朝鮮や日本と対話することはできない。これに対し米国に対しては過度に神話的・宗教的な観点を持っている。絶対に米国は裏切らないという信頼だ。こうした態度では実用的な利益を勝ち取りにくい。こうした脈絡から韓国の外交政策を厳しく評価するならば、国内用ポピュリズムのためのものとも言える。  
▽ソ・ジョンゴン=現在韓国は相手方の態度変化だけを強力に要求している。変化がない場合には何もできない状況に陥っているのだ。残念な状況だ。  
▽陳昌洙=批判に対しすべて同意はしないが一理ある。北朝鮮や日本に関連した現状を見ればもどかしい。原則を守ることも必要だ。だがもっと重要なのはその原則を具体化し成果を出さなければならないということだ。今年は朴槿恵政権に本当に重要な時点だ。  
――ロシアが最近中国・北朝鮮との関係を強化しているが。  
▽キム・ジュンヒョン=ロシアは欧州での孤立から抜け出すために北東アジアに関心を向けている。また、極東地域開発に対する関心も大きい。このためロシアは北東アジア諸国が手を差し出す場合には積極的に反応している。最近のロシアの動きもこれに伴うものだ。9日にはロシアで第2次世界大戦戦勝記念行事が行われる。朴大統領が直接参加できなくても他の高官を代わりに送る方法もあったはずだが残念だ。米国に対する影響力を拡大できる機会を逃したようだ。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記がロシア訪問を断念したのは破格の行動を見せても得るものがあまりないという判断からだ。中国訪問に先立ちロシアを訪れることも負担になっただろう。  
▽陳昌洙=ロシアとの協力強化を北朝鮮に対する圧迫用とだけ考えてはならない。米国との同盟強化とともに他の強大国との関係も増進させなければならない。自立的で独自の外交空間を確保しなければならない必要性があるためだ。大きな構図で国際関係を把握しなければならない。  
――日米首脳会談でオバマ大統領が日本の国連安保理常任理事国入りを支持したが。  
▽キム・ジュンヒョン=オバマ大統領は2010年11月に日本を訪問した時も支持の意向を明らかにした。今回も日本に対する配慮レベルの発言だけのこと。日本が常任理事国になる可能性はほとんどない。 
日本はなぜ謝罪しないのか 2015/5/6 中央日報  
日本はなぜ日帝の蛮行を率直に認めないのか。同じ戦犯国のドイツは熱く謝罪するのにだ。  
ドイツ人は良心的だが日本人は無作法だからか。中国・南京で30万人を殺戮した日本だ。だが、ドイツ民族の方が正しいというにはまったく苦しい。しらふで600万のユダヤ人を虐殺したのはだれなのか。  
敗戦後に日本の政治学会ではファシズム研究がブームとなった。日帝時代に軍部や官僚がなぜ無謀な戦争を行ったのかの診断があふれた。アジアの被害国に対する謝罪が不十分なことも研究対象に上がった。結論はこうだった。  
まずドイツは責任を転嫁する対象があった。ほかでもないナチスだ。ドイツ人の多くが狂気の集団ナチスのポピュリズムにだまされあらゆる悪行を犯したので許してほしいという論理が可能だった。実際にナチスの核心はみんな非正常な人だった。アドルフ・ヒトラーは誇大妄想症患者であり、ナチス突撃隊長のヘルマン・ゲーリングはモルヒネ中毒者、ゲシュタポ総帥のハインリッヒ・ヒムラーは男色狂だった。  
日本は違った。20世紀始めから社会の主流である官僚と軍部全体がファシストに変化する。東京大学、陸軍士官学校を出た完全な最高エリートたちだ。彼らが植民地侵略と戦争を主導したのでだれのせいにできるだろうか。  
自分の考えより多数派の意見に従う日本人の特性が別の背景に挙げられた。法廷に立った日本の戦犯は自身の決定が「当時の状況では仕方なかった」と主張した。そうするつもりはなかったが周辺の状況が、全体意見が圧迫してきて極端な選択をしたという弁明だった。ナチスの核心は無謀でも卑怯なことはなかった。法廷に立ったゲーリングは「オーストリア合併はヒトラーの反対まで押し切って100%私の責任で行われた」と堂々と述べる。  
日本軍部に蔓延した「皇道主義」も大きな原因と指摘された。これは天皇の力を天下に広めるのが正義だと考える盲信的思想だ。捕虜虐待で法廷に立った日本軍看守の弁明は同じだったという。全員「あれだけ捕虜によくしてやったのにこうするのか」と悔しがった。捕虜を軍靴で踏みにじったことは悔いなかった。ただ自身が収容所の施設改善にどれだけ努めたのか強弁した。捕虜虐待すら天皇の栄光をより高めるために当然な行為と信じたのだ。さらに南京虐殺の責任者だった上海駐屯軍司令官松井石根はこうした話までする。「アジアはひとつの家族で、中日戦争も兄が誤った弟を愛していて殴ったもの」と。罪のない30万人虐殺まで愛から出た行為という詭弁だった。  
こうしたゆがんだ認識が日本社会にとぐろを巻いている限り真心からの謝罪が出てくるわけがない。軍国主義復活を試みる安倍晋三首相が退いても大きく変わりはしないだろう。日本国内の良心派勢力さえ「だれが首相になっても慰安婦問題を政府レベルで公式に謝罪する確率は0%」と口をそろえる。  
独島(ドクト、日本名・竹島)問題もそうだ。香港の著名な歴史学者馮学栄は最近「中国の歴史と関連した笑い話」という文をインターネットに載せ話題を集めた。中国の歴史と関連し彼が皮肉った事案は5種類だった。  
まずモンゴルの地を強奪した中国が各国の独立を支持すると宣伝し、ベトナム戦争と韓国戦争の時にベトナムと韓半島で戦争を行っても外国を侵略したことがないと自慢するのは欺瞞だと書いた。台湾が古代から中国の領土だったと言い張ることや清国末期に朝鮮を飲み込もうとしたのに帝国主義政策を展開したことがないと主張することすべて失笑を買うと彼は指摘した。  
最後に尖閣諸島(中国名・釣魚島)を中国の領土だと無条件に強弁するのも笑わせることに挙げた。尖閣諸島がなぜ自分たちの領土なのか根拠も挙げられないのに中国人みんなが興奮するということだ。  
韓国や日本だと大きく異なろうか。独島領有権をめぐり相手方の論理に細かく反撃できる両国の国民が何人いるだろうか。ほとんどがやみくもにもともと自分たちの領土だと主張するのは明らかだ。こうしたとこに「過去史解決優先」に固執しても何を得られるだろうか。ある日本専門家は韓日間の慰安婦、独島紛争を高血圧や糖尿のような成人病に例える。常に治癒に努力しなければならないが完治も難しく、どうかすれば一生ともに生きなければならない事案ということだ。ゆえに慰安婦・独島問題解決が優先だと言い張り続けるのは日本と共存しないということと同じだ。  
安倍首相登場後に韓国内の対日感情は悪化した。中国はもっと深刻だ。今年初めの世論調査で韓国人の74%が「日本に好感が持てない」と答えた。これに対し昨年末「日本が嫌いだ」と答えた中国人は83%だった。そんな中国が先月日本との首脳会談を電撃断行して実利を狙い始めた。日本を無視するには経済的利害があまりに大きいためだ。  
韓国も同様だ。成人病のような過去の問題と政治・経済的協力を別に議論する「ツートラック」という話が出るのもそうしたことからだ。  
このままでは北東アジアで仲間はずれにされるという懸念があちこちから聞こえる。まだ活路はある。韓中日首脳会談を韓国主導で開催するのも方法だ。体面を傷付けることなく対日関係を改善する道を探さなければ韓国外交の将来はますます暗くなる。 
「中国の文化で重要なのは自己反省」最高指導部 安倍首相演説に不満表明 5/8  
中国共産党序列4位の兪正声・人民政治協商会議主席は8日、北京の人民大会堂で自民党の額賀福志郎元財務相らと会談し、安倍晋三首相の米議会やジャカルタでの演説について「中国人は侵略を受け、犠牲を与えた(日本は)教訓を酌むべきなのに、その部分が淡々としており不満だ」と述べた。  
「中国の文化で重要なのは自己反省だ。他国にこれほどの災難を与えたのに反省しないのであれば、日本が過ちを繰り返すのでは、と懸念せざるを得ない」とも指摘した。中国最高指導部メンバーが、米議会演説などへの態度を表明したのは初めて。  
首相は、米議会で先の大戦への「痛切な反省」を示したが、中国としては、「侵略」や「おわび」に触れなかった米議会演説をベースにした戦後70年の首相談話では受け入れがたいとの意思を示した形だ。 
大衆迎合政治に翻弄される韓国 5/8  
ナポレンオン3世がプロシアに大敗したように、国を亡ぼしてしまうのか・・・  
最近の韓国メディアは、今までの感情的・扇動的な反日一辺倒の論調を忘れてしまったかの様に、「日本との首脳会談を3年間も避けているうちに、中・日首脳会談が相次いで開かれてしまった。もう少し柔軟で現実的な打開策を考える必要があるのでは」と、手のひらを返したようなコメントをし始めました。韓国マスコミの変わり身の早さはいつもの驚かされますが、この様な扇動的なメディアや扇動的な世論に迎合してきたパク政権は、いよいよ苦しい立場に追い込まれそうですね・・・。  
韓国の反日は、メディアが先頭にたって誘導している感があります。パク大統領になって以降、特に感情的な反日記事が多い気がします。客観的な論調が少なく、「安倍が内外で四面楚歌に陥っている」と、期待を込めた偏向報道が当たり前の状況になっている様です。日本では週刊誌レベルの記事が、国を代表する新聞で報道される状況なんですよね。  
もう一つの問題点は、扇動メディア、感情的な世論に「迎合してしまう大統領」なんですよね。指導者が扇動的なメディアや世論に迎合する事が危険なことは、歴史が証明してくれています。普仏戦争を引き起こし、フランスをプロシアに大敗北させてしまったナポレオン3世。現実を冷静に考えず、感情的な国民に迎合して起こしてしまった戦争なんですよね。  
パク大統領の大衆扇動に流されやすい気質(韓国の指導者は、皆ですが・・・)で思い浮かぶのは、セウォル号に関連した海洋警察がスケープゴートとして解体されてしまったり(解体されたら、原因究明や再発防止もできません)、北朝鮮には条件なしで対話を提案する一方、友好国であるはずの日本には条件付きでしか対話を許さなかったり(国民の反日感情が国益よりも優先される国ですし)、・・・・。色々、思い当たることが多いですよね。韓国世論は、元々感情的になり易いのですが、法(法治)を無視してでも、情(人治)を大切にしないと成り立たない、前近代的な社会なのかもしれませんね。  
その結果、常識を超えて暴走する韓国に、日本はほとほと呆れており、アメリカもやっと気付きだしてくれたのかもしれません。今後も、「国全体が情緒に振り回される」という韓国の思考構造がある限り、傍からみると奇妙な外交・内政も、韓国にとっては当たり前であり続けるのでしょうか。例えそれが、韓国の国益に沿っていない行動だとしても・・・。  
以下の鈴置さん(日本経済新聞社編集委員)は、「今の韓国を人間に例えれば、信念がありそうで実は自信がなく、情緒が不安定な人と考えておくべきです。そういう人との付き合いは、適度の間合いを置くのが常道です。」と、コメントされています。・・・その通りですよね。  
ナポレオン3世に擬された朴槿恵  
「扇動メディアが国を亡ぼす」と悲鳴を上げる大物記者たち  
朝鮮日報は扇動メディアだ  
――前回は、韓国で朴槿恵政権の外交が「無能」と批判されている、という話でした。  
鈴置 / 保守派指導者の1人、趙甲済(チョ・カプチェ)氏は朴槿恵政権がスタートした2013年から「米中等距離」や「親中反日」外交は反米につながる危険なものだ、と繰り返し主張してきました。その意見が韓国でようやく理解され始めた時、趙甲済氏は「国内外で見捨てられる朴槿恵の親中反日路線」(4月23日、韓国語)を自身のネットメディアに載せました。この記事が興味深いのは朴槿恵政権だけではなく、「反日」を扇動した主犯として、最大手紙の朝鮮日報を厳しく批判したことです。  
趙甲済氏はまず、朝鮮日報の社説「5カ月ぶりにまた開いた中・日首脳会談、孤立避ける戦略はあるのか」(4月23日、韓国語版)を引用します。この社説も朴槿恵外交への批判が目的でした。趙甲済氏が引用したのは以下の部分です。  
・「米中双方からのラブコール」などと外交当局のトップが言い、日本との首脳会談を3年間も避けているうちに、中・日首脳会談が相次いで開かれた。  
・政府は日本の歴史に関する退行的な言動に対しては原則を持って対応しつつも、安保や経済問題についてはもう少し柔軟性のある現実的な打開策を考える必要がある。  
手のひら返しで「反日の失敗」と批判  
この社説を引用した後、趙甲済氏は返す刀で次のように朝鮮日報に筆誅を加えます。  
・朝鮮日報をはじめとする韓国メディアの一方的、感情的、非戦略的な反日報道に迎合し、親中反日の外交路線を堅持してきた朴槿恵大統領が、この社説を読んだらさぞ複雑な思いにとらわれたであろう。  
・もし、朴大統領が条件なしで安倍首相と会談しようとしたら、歴史戦争をそそのかしてきた朝鮮日報などのメディアは「自尊心のない外交」と猛烈に非難したことだろう。  
・(朴大統領の反日外交は)中国のラブコールと韓国メディアの反日報道に忠実に従ったものだ。しかし、日中和解ムードと米日の蜜月関係の進展によって韓国が孤立した姿を見せるや否や、その事態の展開に責任のあるメディアが朴大統領の反日外交に背を向け始めた。  
確かに朝鮮日報は、先頭に立って韓国を「反日」に誘導してきました。それなのに反日路線が破綻すると、突然に手のひらを返し「反日政権」を批判したのです。「いくら何でもご都合主義ではないか」と趙甲済氏は問い質したのです。  
世界を知らない韓国人  
――朝鮮日報にことさらに厳しい感じですね。  
鈴置 / 「反日」に限らず内政に関しても、朝鮮日報の扇動的な報道がひどくなる一方だ――と、保守層の一部は問題視していました。趙甲済ドットコムでも、しばしば話題になります。趙甲済氏はこれまでも、韓国メディアの無責任さを厳しく追及してきました。例えば「安倍が勝ち、韓国言論人が負ける日!」(2014年12月13日、韓国語)です。日本の総選挙での自民党大勝に韓国人は驚く。韓国紙が「安倍は内外で四面楚歌に陥っている」と偏向報道してきたからだ。韓国メディアの感情的で偏った反日報道により、韓国人は世界がどう動いているか知らないのだ――との内容でした。この記事に関しては「『慰安婦』を無視されたら打つ手がない」で引用、解説してあります。  
実利より人気、事実より扇動  
趙甲済氏の「国内外で見捨てられる朴槿恵の親中反日路線」の批判は「扇動メディア」だけではなく「それに迎合する大統領」に及びます。以下です。  
・指導者が扇動的メディアや扇動的な世論に従うことほど危険なことはない(ナポレオン3世はそうして普仏戦争を起こし、プロシアに大敗北したのだ)。  
・朴大統領は実利よりも人気、事実よりも扇動に弱い体質を見せてきた。セウォル号に関連した海洋警察の解体、いったんは首相に内定した文昌克(ムン・チャングク)氏の処遇。いずれもメディアの(事実と異なる)攻撃を基にした判断だ。  
・朴大統領は核武装した北朝鮮の政権に対しては条件なしでの対話を提案する一方、友好国の日本には条件付きの対話を提議した。誰が見ても従軍慰安婦問題は、韓国人の生存自体を脅かす北の核問題よりも優先順位が低いはずなのだが。  
朴槿恵大統領を、おじの七光りで権力を握り大衆迎合で国を治めようとして失敗したナポレオン3世になぞらえる韓国人に会ったことがあります。でも、それは私的な席での発言でした。しかし今や、読者の少ないネットメディアとはいえ、公開の場で語られるようになったのです。  
強面だから信念がある?  
なお、保守系大手紙は政権を「無能外交」と批判しても、さすがに大統領本人を追い詰めるような攻撃はしません。「大統領は外交に明るくない。そこで周辺の人々が外交をやっているのだろうが、この人たちが間違っている」的な書き方が多いのです。  
――大統領の意向を忖度して新聞が「反日」記事を書くのではなく、新聞が「反日」だから大統領がそれに引っ張られる、という趙甲済氏の分析は興味深いですね。  
鈴置 / そこです、この記事の面白い点は。いつも強面で他人を非難する朴槿恵大統領は、何やら確固たる信念があるように見えます。韓国の指導層も外国人にそう説明しますし、米国や日本のアジアハンズにもそう見る人が多い。でも実は「反日」を含め、この大統領の激しい言動はメディアや中国に煽られているに過ぎないのだ――と趙甲済氏は断じたわけです。そして大統領を煽る韓国メディアも、ご都合主義的にくるくると主張を変える、と批判しているのです。  
「信じたいこと」を書く新聞  
趙甲済氏のメディア批判に応えたかのように、朝鮮日報の金大中(キム・デジュン)顧問が2月17日「李首相承認の敗者はメディアだ」(韓国語版)を書きました。金大中顧問はもちろん同名の元大統領とは別人で、韓国保守言論の大御所的存在です。  
李完九(イ・ワング)前首相の就任を巡る騒動から書き起こしていますが、本質はメディア批判――自己批判です。ハイライトは以下です。  
・メディアの最も危険な要素は「虚偽報道」である。自分の信じたいこと、したいことだけに執着し、事実から目を背け、国民を誤った道に導く「虚偽メディア」は「権力に迎合して書けないメディア」よりも害が大きい。  
金大中顧問は「虚偽メディア」の具体例として「安倍首相の歴史認識に同調する日本の右翼メディア」と、虚報を繰り返した米NBCのアンカーを挙げています。  
ネットと過激さ競う韓国紙  
――日本のネットも、既存メディアと比べ過激で感情的です。でも、既存メディアの主張がネットに引っ張られているという話は聞いたことがありません。  
鈴置 / 韓国ではものごとが理屈よりも感情で決まりがちです。既存メディアが“ネット世論”以上の社会的影響力を保とうとすると、それに負けない激しい感情論を展開せざるを得ないのです。もともと韓国の新聞やテレビは日本や西欧と比べ、論理よりも感情を基に主張します。それがインターネットとの競争で、ますます感情的、情緒的になったのです。趙甲済氏と金大中顧問という、韓国の2人の超大物記者は立場は異なります。が、情緒的になる一方のメディアが国を誤らせる、との危機感では期せずして一致したのです。2人の記事を補助線に、韓国という国の「今」を描くと以下の図式が浮かびます。大衆迎合的な指導者が登場した。この指導者は民意に極めて敏感で、過激な“ネット世論”と、それに引きずられる既存メディアに動かされている。その結果、韓国は時に常識を超えて暴走する――。  
日本の産業遺産登録も阻止  
――確かに「反日」を見ても、最近の韓国の行動はこれまでの「争い方の常識」をはるかに超えています。  
鈴置 / 産経新聞の前支局長を在宅起訴して8カ月も出国禁止にする。盗んだ仏像を日本に返さない。戦時徴用者への補償など、国交正常化時に完全に解決した問題を再び蒸し返す。安倍晋三首相の米議会演説は国を挙げて邪魔する。明治日本の産業遺産が世界遺産に登録されそうになると、外交部が「全力で阻止」と宣言――。こうした常軌を逸した行いの数々には首をひねらざるを得ません。韓国人の気分は一時的に満足させるでしょうが、長期的には韓国の国益に大いに反するからです。ただ「日本をやっつけろ」という激しい“ネット世論”と、それに影響された既存メディアが、大衆迎合的な指導者の背中を押していると考えると、納得がいきます。少なくとも「朴槿恵大統領は頑固だから」といった単純な説明よりは説得力があるのです。  
強硬路線を変える素振り  
――その韓国が日本との関係改善に動く、との報道があります。  
鈴置 / 「2トラック戦略」などと称し、韓国は日本に対し「歴史問題では対日要求を降ろさないが、安保や経済では協力しよう」と言い出しています。「外交的孤立から脱せよ」との“世論”が韓国に充満したからです。“世論”に敏感なこの政権は、少なくとも路線を変える素振りは必要と判断したのでしょう。日本に対しては、慰安婦での強硬姿勢は変えないが、通貨スワップは結んでほしいし、北朝鮮の軍事情報は持ってこい――と言ってくるのではないかと思われます。  
情緒不安定な人との間合い  
――日本はどう対応すればいいのですか?  
鈴置 / 日本の悪口を世界で言いつつ「仲良くしようぜ」と言い出す韓国の虫のよさは、とりあえず横に置きます。先ほどからくどいほど述べたように、韓国という国はますます感情や情緒で動く国になりました。今現在は「外交的孤立を恐れる」情緒で動いています。しかし、中国から少し優しくされたら「やはり中国は我が国の味方だ」とそっくり返って、対日協調路線などはすっ飛ぶ可能性があります。反対に、中国から「日本などと仲良くするな」と脅されても、韓国の世論は縮み上がり、再び日本叩きに乗り出すかもしれません。今の韓国を人間に例えれば、信念がありそうで実は自信がなく、情緒が不安定な人と考えておくべきです。そういう人との付き合いは、適度の間合いを置くのが常道です。米国も韓国の、特にこの政権の性格を見切ったのでしょう、非常に慎重に――距離感を持って、韓国を取り扱うようになっています。ことに米大使襲撃事件以降は。 
“日本憎し”報道の果てに反省… 気の毒な韓国国民 5/11  
先の安倍晋三首相訪米に際し「アベが歴史で謝罪しない!」といって連日、非難報道を繰り返していた韓国マスコミがこのところ多少、正気を取り戻しつつある。興奮の後に反省といういつもの反日報道のパターンではあるが。  
反省点の一つとして出ているのが、日米同盟強化の中で「韓国外交は孤立しているのでは」という不安だ。政府の外交姿勢が過去に執着し過ぎた結果だと批判しているが、慰安婦問題を押し立て日本批判をあおってきたのは韓国マスコミだから、政府批判の前にまず自己批判すべきだろう。  
その意味で4日付の東亜日報の「米国が見る韓国と日本」という1ページ特集は自己批判かもしれない。米国の世論調査を引用し「“日本を信頼”が68%で“韓国を信頼”は49%…米国民は当然視」と伝え、さらにアジアで日本を好感していない国は韓国と中国だけで、東南アジアなど他の国々は軒並み80%前後が日本に好感と紹介している。  
つまり韓国マスコミは安倍氏の訪米で米国の日本批判の話ばかりを伝え、“日本憎し”の報道をしたが「実は実際の米国民は韓国より日本の方を信じている」と軌道修正しているのだ。日本との過去の問題に目をくらまされ、世界や国際情勢がちゃんと見えなくなっている韓国国民は気の毒である。 
韓国国会「反省のない安倍糾弾決議案」全会一致で可決 5/13  
12日付け韓国は中央日報の記事から。  
韓国国会、安倍首相米演説糾弾決議案を採択 5/12  
韓国国会は12日に開催した本会議で「反省のない安倍糾弾決議案」を採択した。韓国国会は同日午後に本会議を開き、侵略の歴史および慰安婦に対して反省のない安倍首相糾弾決議案が在籍議員238人の全員一致で可決された。この決議案は、日本の安倍首相が米国上・下院合同演説をはじめ、あらゆる場で侵略と植民支配、旧日本軍慰安婦問題に言及せず、「人身売買」などの巧妙な表現でこの問題の本質を曇らせようとする反人権的形態を示していると強く糾弾している。また、靖国神社への参拝、集団的自衛権の行使、独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の侵害など、一連の非常識行動が韓日関係に否定的な影響を及ぼすおそれがあることを厳重警告した。  
 
「侵略の歴史および慰安婦に対して反省のない安倍首相糾弾決議案」が、「在籍議員238人の全員一致で可決」であります。全会一致とはお見事です。  
もちろん「親日」のレッテル貼られたら韓国社会では生きていけません、ですから一人でも反対したら国会議員でいられなくなることでしょう、その意味では全会一致は当然のことなのであります、しかしなあ、これで民主主義国家なのでしょうか、全体主義的で少し怖い感じ(苦笑)でございます。  
気になるのが糾弾理由。日本の安倍首相が米国上・下院合同演説をはじめ、あらゆる場で侵略と植民支配、旧日本軍慰安婦問題に言及せず、「人身売買」などの巧妙な表現でこの問題の本質を曇らせようとする反人権的形態を示している。  
なんで日本の総理大臣が「あらゆる場で侵略と植民支配、旧日本軍慰安婦問題に言及」しないといけないのでしょうか。だいたいよその国の首相がさらによその国の議会でその当事国用の演説をするのに、なんでその演説の中で韓国に謝らなければいけないのでしょうか? 韓国的にはいけないんでしょうねえ。これが韓国の民意ということでしょうか。・・・ 
「外国」の議会で演説する内容を批判する韓国という国家の「外交的非常識」  
韓国は、自分たちの国家のアイデンティティとして「日本に対抗する」ということを行ってきた。実際に、「敗戦国」である「日本」が「韓国そのものよりも上にいる」という感覚が許せず、それらの諸悪の根源をすべて日本に持って行くというようなアイデンティティで動かしてきた。  
しかし、元来責任感のあまりない韓国人の動きは、そのまま「韓国」として「エゴイズム」をそのまま表に出してしまったような感じになってしまう。  
まさに「差別の構造」がここにある。差別の構造とは、ある意味で「差別」する側の絶対的な悪を訴えているように見える。しかし、同時に「差別される側の差別されていることの特権」を優遇するというような状況に繋がる。韓国は「一人前の国家」を主張しながら「差別されている国の特権」をそのままにしようとしているいびつな国家であるといえる。その国家の「いやらしさ」は、基本的に「一人前の国家」がしないような非常識を平気で行ってしまうということになってしまうのである。  
今回は安倍首相がアメリカ議会で行った演説、その演説に対して、外交ではありえないことをしているのである。  
安倍首相の米議会演説に猛反発 韓国サイドいやがらせの異常さ  
安倍晋三首相(60)が4月29日(日本時間同30日)米連邦議会で行った演説に、村山談話が言及した「植民地支配や侵略」や「心からのおわび」が盛り込まれなかったことについて、韓国、中国両政府は同日、遺憾の意や不満を相次いで表明した。  
韓国外務省は演説について「正しい歴史認識を通じ、周辺国と真の和解と協力を成し遂げる転換点になり得たにもかかわらず、そうした認識も心からのおわびもなかった」との報道官声明を発表。侵略や慰安婦問題などに言及しなかったことを批判したが、具体的にどの部分が遺憾なのかは示さなかった。  
一方、中国外務省の報道局長は、演説の具体的な内容については論評を避けた。  
特に韓国メディアはヒステリックな批判報道を繰り返している。「韓国呪術と反日」などの著作がある但馬オサム氏はこう語る。  
「安倍首相の訪米に関して、韓国サイドは常軌を逸した妨害、いやがらせ行動を仕掛けていました。2007年に下院で可決したいわゆる“慰安婦決議”の提案者であるマイク・ホンダ議員は、演説の日のために韓国から来た元慰安婦の李容洙氏をわざわざ帯同し、会場入りした。演説終了後の満場の拍手に肩透かしを食った形でしょう」  
その李氏を前面に押し出した在米韓国人による抗議デモもあった。安倍首相の訪米に合わせ、韓国の大学教授がニューヨーク・タイムズに「真珠湾攻撃を忘れるな」との広告を掲載。日本はいまだ米国の敵というわけだ。  
「ハーバード大での質疑応答では案の定、韓国留学生から慰安婦問題をどう思うかと切り出された安倍首相は、慰安婦を『人身売買の被害者』と表現し『胸が痛む』と語りました。慰安婦を“性奴隷”と認識させたい韓国に対する現時点での精一杯の切り返しです。同時に慰安婦問題を過去、戦時に起きた不幸の一つと一般化したのは見事。なぜなら、慰安婦問題は女性一般における人権問題と主張していたのは他ならぬ韓国なのですから」と但馬氏は指摘した。  
2015年4月30日、韓国・聯合ニュースによると、韓国政府と与党セヌリ党は、日米が新たな「蜜月時代」を迎えたことについて議論する緊急対策会議を開く。環球網が伝えた。  
同会議は新たな段階を迎えた日米同盟が東アジアの外交、安全保障に及ぼす影響を議論するもので、尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部長官や韓民求(ハン・ミング)国防長官らが出席する。  
セヌリ党の関係者は、「揺るぎない日米同盟」が地域に与える影響について韓国政府は研究を進めているが、外交上の孤立を回避し、国益の最大化を目指すために研究のスピードを加速すると述べている。また、同党の劉承(ユ・スンミン、=「日」に「文」)院内代表は、「一方にはより強固になった日米同盟、もう一方には中国という状況。韓国は生き残りのために慎重に戦略を選ばなければならない」と指摘し、対米、対日外交戦略の調整案を策定中だと語った。  
さて、単純に、日本と韓国ということではなく一般論として。一つの主権国家の首相が、別の主権国家の議会に呼ばれて演説するという事は、当然に、二国間の関係に関する内容であり、その二国間の関係が中心に演説されることになる。その内容に関しては、当然にそのほかの国に関しても配慮されることになるが、そのことが中心になることはない。ましてや、その演説内容に関しては事前に様々な打ち合わせが行われることになり、その打ち合わせの中において、さまざまなことが含まれる高度に外交的なものである。その内容に関して第三国が何らかの苦情を言ったり、ましてやその内容に関して政府の報道官が政府のコメントとして批判するのは「内政干渉」でありなおかつ「二国間の外交に関する干渉」であって、許されるものではない。  
いや、このようなことが許される外交関係が一つだけある。まさに「宗主国が属国に対して行う」場合である。さて、韓国は日本やアメリカの宗主国にいつからなったのであろうか。ここに「アメリカ」を含めることが最も重要である。単純に安倍首相が演説をしたのはアメリカの議会である。要するに韓国の非難コメントは、「安倍首相」というスピーカーと同時に、その演説に拍手を送りその演説を行わせた「アメリカ」の議会に対しても批判を行ったことになる。要するに「韓国は日本やアメリカに、そして日米二か国間の外交に批判をする権利がある国」というような、壮大な「思い違い」があることが明らかになるのである。  
なんとバカな国であろうか。まさに「差別漁れる側の構造」要するに「差別されていたのであるから自分たちには特権がある」かのように考えていて、一人前の自主的な、そして個別のアイデンティティを持った国家としての自立した外交ができない国家、もっと言えば「半人前の勘違い国家」でしかないというような感覚を、世界各国ン自分で表明したかのような内容になっている。  
そしてこのような韓国の「勘違い」をそのまま報道し、また日本において、まったくお暗示様なことを言っている、議員たちのあまりにも「おろか」で「外交の無知」が東アジアの外交関係をおかしくし、東アジアの平和を妨げている元凶なのである。  
そのようなことをしっかりと、さまざまな人にわかっていただきたいものである。 
2015年5月13日 - 核兵器不拡散条約(NPT)の文書

 

NPT最終文書 被爆地訪問提案を削除、中国大使が提案 5/13  
核拡散防止条約(NPT)再検討会議で交渉中の最終文書について、中国の傅聡軍縮大使は12日、国連本部で毎日新聞の取材に応じ、世界の指導者らの広島、長崎の被爆地訪問という日本提案の削除を求めたことを明らかにした。大使は理由を「提案は日本が第二次大戦の犠牲者であるかのように歴史をゆがめることが目的だからだ」と述べた。  
日本の提案は8日配布の初回の最終文書草案に盛り込まれていたが、大使は11日の非公開会合で削除を要求。12日配布の2回目の草案から削除された。韓国代表も大使の発言を支持したという。  
大使は「広島、長崎へのいかなる言及も受け入れないと日本側に伝えた」と述べ、こうした文言が盛り込まれた最終文書には同意しないことも明言した。再検討会議は全会一致が原則。歴史認識問題が核軍縮の議論にも影を落とす形となった。  
指導者らの被爆地訪問の提案は、岸田文雄外相が会議初日の先月27日、一般討論演説で発表。初回草案には「被爆70年にあたり、核兵器使用に伴う破壊的な人道的結末の実相を目撃し、被爆者の証言を聞くという提案に留意する」と書かれた。  
傅大使は「生存者(被爆者)の状況には同情するし(核兵器反対という)人道的な理念には異議は唱えない」と述べる一方で「日本は第二次大戦の加害者だ」と強調。従軍慰安婦問題や南京大虐殺を指摘した上で「日本政府は朝鮮、中国、東南アジアでの日本軍の残虐行為を何度も否定している」と非難し「第二次大戦の部分的な説明や解釈を国際社会に押しつける権利はない」と主張した。 
NPT最終文書案 中国大使「歴史の歪曲が日本の目的」 5/13  
核拡散防止条約(NPT)再検討会議の最終文書案を巡り、日本が提案した世界の指導者に広島・長崎の被爆地訪問を求める文言の削除を中国が求めていたことが12日明らかになった。傅聡・中国軍縮大使は「第二次大戦の被害者であるかのように歴史をゆがめることが日本の目的」と述べ、「歴史の歪曲(わいきょく)」という文脈から日本の提案を批判しており、安倍晋三首相の戦後70年談話を念頭に置いた日本へのけん制といえそうだ。  
中国外務省の華春瑩(かしゅんえい)副報道局長は13日、最終文章案について「理性的で実務的で協力的な態度で臨むべきであり、複雑で敏感な問題を入れるべきではないからだ」と削除を要請した理由を説明。「機会があれば中国の指導者が広島と長崎を訪れるのか」と問われると、華副報道局長は南京大虐殺記念館を挙げて「日本の指導者がいつ訪れるのか聞いてみたい」とも反問した。  
中国は2009年に習近平国家主席(当時は国家副主席)が訪日した際には日本の国民に平和、友好のメッセージを伝えるため、広島、長崎の訪問を一時検討したとされている。だが昨年7月には重慶市の週刊の地方紙「重慶青年報」が「日本は再び戦争をしたがっている」との表題で、日本地図の広島と長崎の場所に原爆のきのこ雲とみられるイラストを描いた記事を掲載した。  
今年は中国にとり「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70周年」であり、9月3日の「抗日戦争勝利記念日」には習指導部初の軍事パレードが北京で行われる。昨秋から2度、日中首脳会談が開かれたが、習主席は歴史問題に繰り返し言及。安倍首相の米議会での演説にも、中国外務省は直接的な評価を避け、植民地支配を謝罪した「村山談話」にあえて触れている。  
菅官房長官「歴史問題とは関係なく、理解に苦しむ」  
一方、菅義偉官房長官は13日の記者会見で、「核兵器のない世界に向けた思いを共有することは、核不拡散の推進に資する」と文言の意義を強調。中国側の「日本が第二次大戦の被害者であるかのように歴史をゆがめている」との指摘に対し「そもそも歴史問題とは関係なく、理解に苦しむ」と強く批判した。 
日本が各国指導者の「被爆地訪問」を提案するも中国反対で全文削除に 5/14  
国連本部で開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議で日本が各国指導者達の被爆地訪問を提案したところ、中国の反対で該当する文章が全て削除されることになりました。  
5月12日に開催された核軍縮を扱う委員会で全文削除が判明し、中国側も削除を求めたことを認めています。当初案では世界の指導者らが被爆地を訪ねて、被爆者の証言を聞くように提案していましたが、それが全て丸ごと削除されました。  
中国側は「会議はいま重要な段階に入っており、複雑で敏感な問題を持ち込むべきではない」と述べ、会議を混乱させる恐れがあることから反対だと表明しています。  
ただ、韓国を含む数十カ国が日本の提案に賛同していたことから、批判の声も多く見られました。  
記者会見では中国政府高官に対して、「長崎、広島に中国の指導者が訪問するかどうか」という質問が飛び出て来ますが、「中国の指導者が行くかどうかを聞く前に、日本の指導者がいつ中国の南京大虐殺記念館を参観するのか聞きたい」と中国の担当者はコメント。  
長崎や広島は日本を戦争被害者として正当化する可能性があるとして、中国政府は訪問を強く拒んでいます。  
被爆地訪問の提案を全削除 中国の要求受け NPT会議  
国連本部で開催中の核不拡散条約(NPT)再検討会議で、核軍縮を扱う委員会が12日、最終文書の素案第2稿を加盟国に配った。当初案は世界の指導者らに被爆地を訪ね、被爆者の証言を聞くよう提案していたが、今回は丸ごと削除された。中国が削除を求めたことを認めた。〜省略〜12日付の第2稿から被爆地訪問の提案が削除されたことについて、中国の傅聡軍縮大使が12日、記者団に対し「日本政府が、日本を第2次世界大戦の加害者でなく、被害者として描こうとしていることに私たちは同意できない」と述べ、11日のNPT会合で削除を求めたことを明らかにした。韓国を含め「少なくとも12カ国」が賛同したという。中国外務省の華春瑩副報道局長は13日の定例会見で、この件について「会議はいま重要な段階に入っており、複雑で敏感な問題を持ち込むべきではない」と日本の動きを強く批判。さらに、長崎、広島に中国の指導者が訪問するかどうかとの質問には「中国の指導者が行くかどうかを聞く前に、日本の指導者がいつ中国の南京大虐殺記念館を参観するのか聞きたい」と述べ、中国の歴史認識問題に絡めて日本を牽制(けんせい)した。  
外相 「NPT文書に被爆地訪問の文言を」 5/13  
岸田外務大臣は記者団に対し、NPT=核拡散防止条約の再検討会議の合意文書の草案から、中国の働きかけで世界の指導者に広島・長崎への訪問を呼びかける文言が削除されたことを受けて、合意文書に文言が盛り込まれるよう、みずからが先頭に立って働きかける考えを示しました。 
中国要求に日本困惑 NPT案「被爆地訪問要請」削除 5/14  
国連本部で開かれている核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、最終文書の素案をめぐって、日本と中国などの間で激しい攻防が続いている。世界の指導者や若者に広島と長崎の被爆地を訪問するよう要請する部分が、当初案には盛り込まれていたものの、十二日に各国に配布された修正案からは削除されていた。歴史認識問題で日本と対立する中国の要求を受けた措置とみられ、日本政府は「理解に苦しむ」と反発している。   
削除されたのは、八日作成の素案にあった「世界の指導者や若者らに直接、核兵器がもたらす被害の実相を見て、被爆者の証言を聞くよう要請するという提案に留意する」との項目。十二日配布の修正版では丸ごと削られていた。  
中国の傅聡軍縮大使は十二日、国連本部で記者団に「日本が第二次大戦の犠牲者であるかのような表現で、加害者としての歴史をねじ曲げようとしていることに同意できない」と述べ、十一日の会合で削除を求めたことを明らかにした。  
これを受けて、菅義偉官房長官は十三日の記者会見で「世界の政治指導者や若者による被爆地訪問という提案はそもそも歴史問題と関係がないものだ」と反論。最終文書の作成に向けて交渉に臨む日本の代表団は「日本の提案が盛り込まれるよう引き続き努力を続ける」と文言の復活を求めていく方針だ。 
NPT文書案から日本の要請が削除される、中国の要求か / 韓国 5/14  
2015年5月13日、韓国・文化日報によると、米ニューヨークで開催された核兵器不拡散条約(NPT)の再検討会議で、日本は各国指導者の広島・長崎訪問の必要性を主張したが、最終的な合意文書案にはこの内容は入らなかった。  
NPT再検討会議の主要3委員会(核軍縮、核不拡散、原子力の平和利用)がまとめた会議の最終合意文書草案には、日本の要求により「世界の指導者たちが広島と長崎など日本の被爆地を訪問する必要がある」との文言が含まれる見通しだったが、最後日の12日に参加国に配布された草案改訂版にはこの内容は入っていなかった。日本メディアは、中国の傅聡(フー・ツォン)中国軍縮大使が日本の被爆地訪問の要請文章に対して、「歴史を歪曲(わいきょく)する」と削除を求めたことを伝えている。中国の削除要求が受け入れられたために草案から削除された、との見方だ。  
この報道に、韓国のネットユーザーから多くの意見が寄せられている。  
「削除されてよかった。(日本は)第2次大戦時の自国の被害を大々的に宣伝しようとしているようだ」  
「今回は防止できたが、日本は弱いふりをしてずる賢い陰険なことを企んでいる」  
「日本はそんな要請をしていたのか?日本が戦争の被害国だということを強調したいんだろう。本当にどうしようもないやつらだ」  
「日本は自分たちが被害者だとし、広島、長崎を前面に押し出そうとしているが、原子力発電とプルトニウム精製技術を放棄しようとしない。はっきり言って、次に核兵器を使う国があるとしたら、それは日本だ」  
「日本の提案は理解できる。実際に多くの日本人が自分たちは被害者だと信じているのだから。日本のアニメを見ても、そのような感情が読み取れる。まあ、その目論見は外れたが」  
「いまだに、被害者意識を持ち続けている日本が理解できない」  
「このような提案をしていたということは、そろそろ米国を裏切る準備か?」  
「日本が原爆を持つと考えている人もいるようだけど、そんなことはあり得ない。なぜそういう考え方になるんだ」 
アメリカ人の6割強が「日本は戦争謝罪の必要ない」  2015/5/15  
中国、韓国の“執拗な”要求は的外れ? 
4月29日、安倍晋三首相が日本の首相として初めて、アメリカの上下両院合同会議で演説を行った。アメリカの議員の琴線に触れるキーワードを散りばめた演説は、党の区別なく絶賛された。  
この演説は、日本のメディアでも大きなニュースとなったが、歴史的な出来事にもかかわらず、国民の関心度は低いように感じられた。それは、「政治的無関心」の空気が、日本全体を覆っているからではないだろうか。  
インターネット調査会社のマクロミルが定点観測している「MACROMILL WEEKLY INDEX」のデータから、「政治関心度」を見てみよう。昨年11月第3週時点の65.9ポイントを頂点に減少傾向にあり、安倍首相の演説直前(4月第4週)では、56.4ポイントと9.5ポイント減少していた。  
さらに、同データの「政治テーマ」(関心のある国の政策テーマ)を見てみると、「外交・安全保障政策」は今年2月第1週の35.9ポイントから減少傾向にあり、4月第4週で24.1ポイントと、実に11.8ポイントも下げていた。  
政治的無関心が顕著に表れたのは、2014年12月に行われた衆議院議員総選挙だ。小選挙区の投票率は52.66%と、戦後最低を記録した。4月に行われた統一地方選挙の投票率も、前半戦は38の道府県で過去最低を記録、後半戦も市長選、市議選、町村長選などで過去最低が相次いだ。  
安倍政権が長期政権となる可能性が高まった一方、国民の政治的関心はさらに低くなっていきそうだ。安定的な政権が誕生したから関心が低くなったのか、関心が低くなったから安定的な政権が誕生したのか。「卵が先か鶏が先か」のような話になるが、いずれにしても、政治的関心の低下は権力チェックの緩みにつながり、政治的暴走を許しかねない。  
我々国民は、安定的な政権の時こそ、政治的関心を高めるように努力しなければならないのだ。  
さて、ここでもう一つ興味深い統計データを見てみよう。アメリカのピューリサーチセンターが4月7日に発表した、アメリカ人の日本に対する印象の調査である。  
「第二次世界大戦中の行いについて、日本は十分な謝罪をしたか」という質問について、「日本はすでに十分な謝罪をした」が37%、「謝罪は必要ではない」は24%で、合計61%のアメリカ人が、日本について「十分な謝罪をした、あるいは謝罪は必要でない」と答えているのだ。  
普段、我々は中国や韓国が「日本は謝罪していない」と主張するニュースに触れることが多いため、アメリカ人も同様の考えをしていると思いがちだ。しかし、実際はそうではないのである。安倍首相の歴史的演説によって、この数字がどのように変化するか、注目だ。  
いずれにせよ、今回の安倍首相の訪米によって日米関係の潮目は変わった。今後の政治の動きに、私たちはこれまで以上に関心を持つべきである。 
各国驚かせた中国「歴史認識」攻勢 NPT最終文書案「被爆地訪問」削除 5/22  
NPT再検討会議の最終文書案で、被爆地の広島、長崎への訪問を世界の指導者に促す文言は復活しなかった。日本は巻き返しを図ったものの、「歴史認識」をからめて攻勢に出た中国に押し切られた格好だ。一方、最終文書案は、主要争点をめぐって核保有国と非核保有国との“溝”が埋まらないまま議長裁量で各国に提示され、決裂やむなしとの悲観論が大勢を占めつつある。  
「歴史の歪曲だ」「日本は戦争の被害者の立場を強調している」−。核兵器の惨禍を世界に訴えようと、「被爆地訪問」実現を求めた日本側に対し、中国の傅聡軍縮大使が今月中旬、「過去」を持ち出して日本を批判したことは、議場の各国代表団を驚かせた。  
今年は中国にとり、「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70周年」。今夏に安倍晋三首相が戦後70年談話を出すことも念頭に置いた牽制だったとはいえ、日本には予期せぬ“冷や水”となった。  
最終文書採択は全会一致が原則だ。「被爆地訪問」への支持は着実に広がり、日本は20日、中国と少なくとも2回交渉を行ったが「立ちはだかる壁」(外交筋)を前に、対処のしようがなかったという。  
一方、最終文書案の内容をめぐっては、核保有国と非核保有国との対立が解消されないままだ。  
「核兵器禁止条約」の文言が最終文書案で削除されたのは、文言の言及に慎重姿勢を見せる米英両国に加え、強く反対するフランスに配慮した結果だ。ただ、オーストリアなど非核保有国側からは批判が出ている。  
核兵器がもたらす「非人道性」をめぐる記述についても異論が多い。「核兵器は使用されてはならない」と記述したことや、核軍縮教育の重要性を盛り込んだことが非人道性の認識を高めることにつながり、「前回会議より前進した」と考える国が多い半面、核保有国側は懸念を強めている。  
事実上の核保有国であるイスラエルを念頭に置いた中東地域の「非核化」問題では、アラブ諸国が今年11月末までの「国際会議」開催を目指していた。  
これに対し、イスラエルの友好国の米国などは「早期開催」にとどまっていた。最終文書案では開催時期について、折衷案の「2016年3月まで」となったが、双方に不満が残る内容だ。 
政治化する日中韓歴史問題 5/23  
韓国 / 朴大統領の「正しい歴史認識」発言  
歴史問題が政治的にますます制御不能になりつつある。  
韓国メディアの報道によれば、5月6日、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は、米国のオバマ大統領との首脳会談において、「北東アジア地域の平和のためには日本が正しい歴史認識を持たなければならない」と述べたという。また、朴大統領は、同8日には、米議会上下両院合同会議で演説して、「北東アジアでは国家間の経済依存が高まる一方で、歴史問題に端を発した対立が一層深刻になっている。歴史に正しい認識を持てなければ明日はない」とも述べた。  
わたしには、なぜ朴大統領が日韓の歴史認識の問題を米国で取り上げるのか、米国の政治指導者に「日米同盟をやめろ」とでも言いたいのか、全く分からない。しかし、朴大統領の言う「正しい歴史認識」とはもちろん韓国政府が主張する歴史認識であり、1990年代以降、日韓両政府がこの問題の政治的処理にいかに努力したか、その歴史について、大統領がどれほど「正しく」認識しているか、大いに疑問である。  
昨年9月の「論点」でも述べたことであるが、1998年、小渕恵三首相と金大中(キム・デジュン)大統領は「日韓共同宣言―21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」において、次のように宣言した。  
 
両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。  
 
また、2002年から2010年にかけては、小泉純一郎首相と盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の合意(2001年)に基づき、日本と韓国の多くの歴史専門家の参加を得て、日韓歴史共同研究が2期にわたって実施された。報告書も提出されている。このように、歴史認識の問題については、日韓の間に多くの積み重ねがある。「正しい歴史認識」というからには、朴大統領としても、こういう歴史を踏まえて、発言すべきである。  
日本 / 閣僚の靖国参拝と歴史認識発言  
一方、日本では、4月21日、麻生太郎副総理が春季例大祭に合わせて靖国神社に参拝した。麻生副総理はこれまで、靖国問題ではA級戦犯の分祀(ぶんし)を主張していただけに、これは理解できない。しかし、「盟友」の麻生副総理が靖国に参拝すれば、安倍晋三首相としては、「(前回の)首相在任中に靖国参拝できなかったのは痛恨の極み」と述べていただけに、閣僚の自由意志と言って済ますわけにはいかず、擁護しないわけにはいかなかった。首相は4月24日の参議院予算委員会で、閣僚らの靖国神社参拝について「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ。わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保している」と述べた。  
安倍首相はまた、すでにこれまでにも、戦後70年の節目となる2015年には、過去の「植民地支配」と「侵略」を認めた「村山談話」(1995年)を見直し、未来志向の「安倍談話」を出す意向を示していた。おそらくそのためだろう、4月22日の参議院予算委員会では、安倍内閣として、村山談話を「そのまま継承しているわけではない」と表明し、翌23日には「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と述べた。しかし、5月15日の参議院予算委員会では村山談話に対する認識を軌道修正し、「過去の政権の姿勢を全体として受け継いでいく。歴代内閣(の談話)を安倍内閣としても引き継ぐ立場だ」と述べるとともに、「歴史認識について(自身が)述べると外交・政治問題に発展していく。歴史家に委ねるべきだ」との考えを示した。  
歴史認識問題で日本の一部にある修正主義史観を支持する声は国際的にはほとんどない。政治家が発言すればするほど、この問題は政治化する。また、安倍内閣の副総理、閣僚が靖国に参拝すれば、問題はさらに政治化する。その結果、1998年の日韓共同宣言の精神、2000年代の日韓、日中の歴史共同研究の試みなどはますます失われていく。安倍首相自身が結局のところ述べたように、歴史認識の問題は歴史家に委ねた方がよい。同時に、歴史問題についての政府要人と政治家の発言と行動が、日本に対する国際的信頼を傷つけていることも忘れない方がよい。  
また、政府として、それ以上のことをしたい、というのであれば、歴史家の間でその知的誠実さ(integrity)を国際的に高く評価される人たちを選考委員として、英語、日本語、韓国語、中国語のうち、少なくとも3つの言語で、専門家の査読を経た上で、その研究成果をアカデミック・ジャーナルに発表することを条件に、20世紀のアジアにおける植民地支配と戦争と革命と反革命について、歴史研究助成プログラムを作り、研究を奨励するのがよい。  
中国 / 『人民日報』の「沖縄帰属問題」論文  
中国では、5月8日、中国共産党中央委員会の機関紙『人民日報』に、張海鵬・中国社会科学院学部委員と李国強・中国社会科学院中国辺彊史地研究センター研究員の連名で、「馬関条約と釣魚島問題を論じる」と題する論文が掲載された。この論文は、濱川今日子著「尖閣諸島の領有をめぐる論点」(『調査と情報』565号[国立国会図書館、2007年])の都合の良いところをつまみ食いしつつ、日本が尖閣諸島(中国名:釣魚島)を「掠(かす)め取り」、これを下関条約(馬関条約=日清戦争[甲午戦争、1894〜95年]の講和条約)によって「合法化」した、しかし、中国は、尖閣諸島を台湾の管轄下に組み込み、長期にわたって実効性ある管轄を実施してきた、と主張する。これは驚きではない。  
しかし、この記事は、中国の「歴史認識」と領土権について、パンドラの箱を開けかけている。それが日本でも世界的にも、この記事が多くの関心を呼んだ理由であるが、なかなか注意深く書かれており、沖縄は中国の領土だ、と真っ向から主張しているわけではない。その議論を少し丁寧に紹介すると、次のようになる。  
 
日本が釣魚島列島を沖縄県の管轄下に組み入れたことは、甲午戦争と関係し、日本の「琉球処分」とも関係する。沖縄は元々琉球王国のあった地だ。琉球王国は独立国家で、明初から明朝皇帝の冊封を受けた、明・清期の中国の藩属国だ。明朝以降、中国は歴代冊封使を琉球に派遣した。明治維新後、日本が琉球、朝鮮、中国を侵略する出来事が発生した。台湾征伐と琉球侵略は同時に進行した。1875年、天皇は清朝との冊封関係の断絶を琉球に命じた。1877年、清朝政府の何如璋駐日公使は「朝貢阻止では止まらず必ず琉球を滅ぼす。琉球が滅べば朝鮮に及ぶ」と指摘した。1879年、日本政府は琉球王国を併吞し、沖縄県と改称した。清政府はこれに抗議し、中日間で琉球交渉も行われた。しかし、1887年、総理衙門大臣が日本の駐中国大使に琉球問題が未解決であることを提起したときには、日本はこれを顧みず、1895年の馬関条約で、台湾およびその附属諸島(釣魚島諸島を含む)、澎湖諸島、琉球は日本に奪い去られた。中国は1941年に対日宣戦し、馬関条約を破棄した。日本はカイロ宣言とポツダム宣言の日本の戦後処理に関する規定を受諾し、これらの規定に基づき、台湾およびその附属諸島、澎湖諸島が中国に復帰するのみならず、歴史上懸案のまま未解決だった琉球問題も再議できる時が到来した。(張海鵬・李国強「馬関条約と釣魚島問題を論じる」、『人民日報』[2013年5月9日])  
 
琉球は明、清の時代には「中国」の藩属国だった。日本の「琉球処分」(沖縄県設置)の後も、琉球の帰属は日中の懸案だった。下関条約で「奪い去られた」が、中国は1941年にはこの条約を破棄した。カイロ宣言とポツダム宣言で日本はその戦後処理に関する規定を受け入れた。だから、中国は、主張しようと思えば、琉球の領有権を主張できる。まして尖閣諸島は明らかに中国のものだ。これがその主張である。  
しかし、ポツダム宣言には、「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない」とあり、この「諸小島」には沖縄も含まれている。だから、沖縄の施政権は1972年に米国から日本に返還された。この問題について、論文は全く何も言わない。また、その根っこには、かつて明、清の時代に「中国」が冊封した「藩属国」の領域について、中国は、主張しようと思えば、その領有権を主張できる、という考えがある。さて、それでは、明、清の時代に「中国」に朝貢し、冊封を受けた現在のタイ、ベトナム、ミャンマーなどはどうなるのか。さらに、1880年代になって冊封・朝貢国が実質的に朝鮮一国となり、ソウルに駐在した袁世凱が自らをイギリスのインド駐在官になぞらえてResident(総理朝鮮通商交渉事宜)と称しつつ、「朝貢国」ではなく、「保護国」として位置付けた現在の北朝鮮と韓国の領域はどうなるのか(川島真・毛利和子『グローバル中国への道程―外交150年』[岩波書店、2009年]参照)。ここでは、韓国、日本とは違う形で、中国政府は歴史研究をつまみ食いして政治的に使っている。  
沖縄県民約9割が中国に否定的印象  
なお、インターネット上では、こういう議論に反論して、タイ、ベトナムなどと沖縄は違う、他国はすでに独立している、したがって、沖縄も独立すべきだ、という議論がある。それに関連し、参考までに述べておけば、沖縄県庁が実施した県民の中国と台湾に対する意識調査結果(2012年11月〜12月)が5月9日の『沖縄タイムズ』で紹介されている。これによれば、沖縄県民の中では、中国への印象が「良い」「どちらかといえば良い」は合計9.1%にとどまったのに対し、「良くない」「どちらかといえば良くない」で合計89.0%に達した。対照的に、台湾については、肯定的な印象が計78.2%に上り、否定的な印象は計19.2%だった。比較のために「言論NPO」の日本全国調査(2012年4〜5月実施)の結果を見ると、中国への印象が「良い」「どちらかといえば良い」の合計が15.6%、「良くない」「どちらかといえば良くない」の合計が84.3%だった。 
2015年5月23日 - 二階総務会長が率いる約3千人の訪中団

 

習式揺さぶりの術? 5/24  
二階氏ら「正義と良識ある日本人」、安倍首相が「諸悪の根源」  
中国の習近平国家主席は23日夜、自民党の二階俊博総務会長が率いる約3千人の訪中団(財界や日中友好団体の関係者らで構成)と面会した際、安倍晋三政権の歴史認識を暗に批判する一方、訪中団のメンバーを「正義と良識のある日本人」などと褒めたたえた。日本政府と一般の国民を切り離す「二分論」を展開し、日本の世論に揺さぶりをかけようとする思惑があるとみられる。  
日中関係をめぐっては、3月末から5月初めにかけて自民党の谷垣禎一幹事長や高村正彦副総裁、額賀福志郎元財務相ら日本の要人が相次いで訪中し、それぞれ習主席との面会を求めたが実現しなかった。  
2012年11月に中国の最高指導者となった習主席は対日強硬姿勢を崩さず、日本政府要人と会うことを極力避けており、今回の二階氏訪中に関しても、「習主席には会えないのでは」との見方が出ていた。  
ところが、習主席は人民大会堂で開かれた日中の交流式典に突然登場し、関係者を驚かせた。ある中国共産党関係者は「別に二階氏の力で面会できたのではなく、習主席は日本の民間人に対し『日中関係悪化の原因は全て安倍政権にある』と直接強調するのが目的だ」とした上で、「日本の世論を分断し、8月に発表される戦後70年の首相談話や憲法改正の動きを牽制(けんせい)したい思惑もある」と指摘する。  
日本政府と国民を区別する二分論は毛沢東時代からの対日工作の常套(じょうとう)手段だ。「諸悪の根源は軍国主義の復活を図る右翼政治家にあり、日本国民は政府に洗脳された被害者だ」という論法で、日本のリベラル勢力などを味方に付けることを目的にしているという。  
習主席はこの日の講演で、唐代の詩人、李白と、唐で学んだ阿倍仲麻呂との友情などを例に挙げ、日中交流には長い歴史があり、今後も民間交流を展開する必要性を強調した。その上で、日中戦争が中国国民に大きい災難をもたらしただけではなく、「日本国民もあの戦争の被害者だ」と主張し、訪中団に「歴史を歪曲(わいきょく)する動きに一緒に反対しよう」と呼びかけた。 
「人民網」報道 5/24  
習近平国家主席は23日、北京の人民大会堂で中日友好交流大会に出席し、重要な講演を行った。習主席は講演の中で、「中日双方は歴史を鑑とし、未来志向で、中日関係の4つの政治文書を基礎として、平和発展をともに促進し、子々孫々の世代に至る友好関係をともに考え、両国が発展する美しい未来をともに作りだし、アジアと世界の平和に貢献しなければならない」と強く訴えた。  
習主席は、「中日は一衣帯水の隣国であり、2千年あまりにわたって平和発展が両国国民の心にある主旋律だった。両国国民は互いに学び合い、互いに相手を鑑とし、それぞれに発展を促進し、人類の文明の進歩に向けても重要な貢献を行ってきた。近代以後は、日本が対外侵略を拡張する路線を歩んだため、中日両国は一時期、痛ましい歴史を刻み、中国国民には深刻な災難がもたらされた。両国の旧世代の指導者たちは高度な政治的な知恵に基づいて、重要な政治的決断を行い、幾重にもわたる困難を克服して、中日の国交正常化を実現するとともに、平和友好条約を締結し、両国関係の新たな時代を切り開いた。中日両国の見識ある人々はかつて両国関係のために積極的に奔走し、たくさんのことをしてくれた。歴史が照明するように、中日友好事業は両国と両国国民にとってプラスであり、アジアと世界にとってプラスであり、私たちがもっと大切にし、注意深く守る価値のあるものであり、これからも努力を続けていく」と述べた。  
習主席は次のように指摘した。「(「論語に」)『徳は孤ならず、必ず隣あり』とあるように、中日両国の国民が真心で友情を結び、徳をもって隣国に接すれば、必ず子々孫々の世代に至る友好関係を実現することができる。中国は中日関係の発展を高度に重視している。私たちは日本とともに、中日関係の4つの政治文書を土台として、両国の善隣友好協力を推進していきたい」。  
また習主席は次のように強く訴えた。「今年は中国人民抗日戦争勝利70周年および世界反ファシズム戦争勝利70周年にあたる。当時、日本の軍国主義が犯した侵略の罪を覆い隠すことはできないし、歴史の真相をねじ曲げることもできない。日本の軍国主義による侵略行為を歪曲・美化しようとするいかなる発言や行動も、中国国民とアジアの被害国の国民はこれを認めないし、正義と良心をもった日本国民もこれを認めないことを信じる。前事を忘れざるは後事の師なりだ。歴史をしっかりと胸に刻むことは、未来を切り開くためだ。戦争を忘れないことは、平和を守るためだ。日本国民もあの戦争の被害者だ。中日双方は歴史を鑑とし、未来志向で、平和発展をともに促進し、子々孫々の世代に至る友好関係をともに考え、両国が発展する美しい未来をともに作りだし、アジアと世界の平和に貢献しなければならない」。  
習主席は、「中日友好の土台は民間にあり、中日関係の前途は両国国民の手の中にある。中国政府は両国の民間交流を支援し、両国各界関係者が、特に若い世代が中日友好事業に勢いよく飛び込むことを奨励し、両国の青年が友好の信念を固め、積極的に行動し、友好の種を継続的にまき、中日友好を大きな木に育て、さらに木々が生い茂る森林に育て、中日両国国民の友好を子々孫々の世代へと引き継いでいくことを期待する」と述べた。  
日本の自民党の二階俊博総務会長はあいさつの中で、「このたびの日中友好交流大会は非常に重要なものであり、日本の各界からたくさんの参加があった。中国政府がこのように重視し支援してくれたことに感謝している。習近平主席の講演は非常に重要なものであり、私たちは日中関係の発展推進に向けてさらに努力しなければならない。日中関係の土台は民間にある。両国国民の民間・文化交流を維持すること、特に両国の青少年の相互理解と相互往来を促進することは二国間関係の長期的発展を維持するために非常に重要であり、双方がこうした分野での交流協力を強化することを願う。私たちは中国とともに、両国関係の長期的発展に向けて絶えず努力していきたい」と述べた。  
今回の中日友好交流大会はここ数年の中日両国の民間交流における一大イベントで、政治、経済、観光、文芸など日本の各界の友好の士約3千人が集まった。大会では、両国が民間の交流協力を強化し、中日の子々孫々の世代に至る友情のために手を携えて努力することを呼びかける「中日友好交流大会提起書」が、中日各界の人々により共同で発表された。 
中国各紙 日本訪中団に好意的 民間交流の推進 5/24  
24日付中国各紙は、習近平国家主席が23日に北京で二階俊博自民党総務会長ら約3100人を前に語った発言の内容を大きく伝えた。記事は日中間の民間交流の推進を好意的に伝える内容が目立つ。日本の文化、観光などの分野での協力を強め、民間交流を歴史問題など政治分野の対立とは切り離す中国側の意向が反映された模様だ。  
共産党機関紙「人民日報」は、習氏の演説を1面トップで掲載。二階氏が率いた訪中団について「民間交流の推進は両国関係改善にプラスのエネルギーになる」と伝えた。  
また北京紙「京華時報」は、北京で買い物をする日本人観光客を1面写真で掲載。訪日する中国人観光客が増えているが、中国を訪れる日本人観光客が増えることを期待しているようだ。  
一方、二階氏は24日、北京の日本大使館で記者会見し、日中経済交流を活性化させるため、新たな機構を創設する方針を明らかにした。さらに中国の次世代リーダーと目される胡春華広東省共産党委員会書記と会談したと明かし「信頼に足る人物だった」と振り返った。  
二階氏は北京滞在中、清華大での講演やNHK交響楽団の北京公演(10月31日を予定)の調印式にも臨んだ。 
訪中団を称賛 世論分断の思惑 習主席、安倍政権批判と使い分け 5/25  
中国の習近平国家主席(61)は23日夜、自民党の二階(にかい)俊博総務会長(76)が率いる約3000人の訪中団(財界や日中友好団体の関係者らで構成)と面会した際、安倍晋三政権の歴史認識を暗に批判する一方、訪中団のメンバーを「正義と良識のある日本人」などと褒めたたえた。日本政府と一般の国民を切り離す「二分論」を展開し、日本の世論に揺さぶりをかけようとする思惑があるとみられる。  
日中関係をめぐっては、3月末から5月はじめにかけて自民党の谷垣禎一(さだかず)幹事長(70)や高村(こうむら)正彦副総裁(73)、額賀(ぬかが)福志郎元財務相(71)ら日本の要人が相次いで訪中し、それぞれ習主席との面会を求めたが実現しなかった。  
「二階氏の力ではない」  
2012年11月に中国の最高指導者となった習主席は対日強硬姿勢を崩さず、日本政府要人と会うことを極力避けており、今回の二階氏訪中に関しても、「習主席には会えないのでは」との見方が出ていた。  
ところが、習主席は人民大会堂で開かれた日中の交流式典に突然登場し、関係者を驚かせた。ある共産党関係者は「別に二階氏の力で面会できたのではなく、習主席は日本の民間人に対し『日中関係悪化の原因はすべて安倍政権にある』と直接強調するのが目的だ」とした上で、「日本の世論を分断し、8月に発表される戦後70年の首相談話や憲法改正の動きを牽制(けんせい)したい思惑もある」と指摘する。  
毛時代からの常套手段  
日本政府と国民を区別する二分論は毛沢東時代からの対日工作の常套(じょうとう)手段だ。「諸悪の根源は軍国主義の復活を図る右翼政治家にあり、日本国民は政府に洗脳された被害者だ」という論法で、日本のリベラル勢力などを味方につけることを目的にしているという。  
習主席はこの日の講演で、唐代の詩人、李白(701〜762年)と日本人留学生の阿倍仲麻呂(698〜770年)との友情などを例に挙げ、日中交流には長い歴史があり、今後も民間交流を展開する必要性を強調した。その上で、日中戦争が中国国民に大きい災難をもたらしただけではなく、「日本国民もあの戦争の被害者だ」と主張し、訪中団に「歴史を歪曲(わいきょく)する動きに一緒に反対しよう」と呼びかけた。  
二階氏「首相も成果喜んでいる」  
自民党の二階(にかい)俊博総務会長は24日、北京市内で記者会見し、安倍晋三首相の親書を中国の習近平国家主席に手渡した今回の訪中について「(電話で報告した)首相も喜んでおり、一応の成果を挙げた」と強調した。  
二階氏は、23日に北京の人民大会堂で開かれた中国政財界との交流会の最中、首相と複数回電話でやりとりしたことを紹介。「首相からは、ねぎらいの言葉があった。帰国後に(詳しく)報告したい」と語った。  
また、二階氏は「(日中間で)これからよく知恵を出し合おうという中、日本も真摯(しんし)に応えていくことが大事だ」とも指摘。政府側に日中関係改善に向け、さらなる努力を促した。同席した日本経団連の御手洗冨士夫(みたらい・ふじお)名誉会長(79)は「有意義で充実したミッションだった」と総括した。  
習氏は交流会で「日本軍国主義を美化・歪曲(わいきょく)しようとする言動も許されない」などと述べ、安倍首相が今夏に出す戦後70年談話を牽制(けんせい)。これについて二階氏は「日中は環境が違う」としたうえで、「世界が注目している。日中問題がいかに重要か十分に分かったうえで、首相は考えている」と語った。  
現地紙、好意的に報道  
5月24日付の中国各紙は、習近平国家主席が23日に日中観光交流イベントであいさつし、日中友好協力の推進に意欲を示したことを大きく伝えた。自民党の二階(にかい)俊博総務会長が率いる約3000人の訪中団を好意的に取り上げている。  
共産党系の人民日報や中国青年報、軍機関紙の解放軍報などは「中日友好交流大会」の文字を背景に話す習氏の姿や北京市内を観光する訪中団の写真を1面に掲載。関係が悪化した2012年秋以降、中国の主要メディアが両国関係を前向きに捉えて大々的に報じるのは珍しい。  
人民日報は「中日間の平和で友好的な関係を維持することは、両国人民の利益に合致し、アジアと世界の平和と安定の維持にもつながる」と指摘した。北京青年報は、3000人の訪中が「両国の民間交流の重要な活動だ」とする中国の観光当局者の声を紹介。“親中派”の二階氏がこれまでも日本の各界の関係者を率いて訪中してきたと伝えた。 
日本を毛嫌いする中国人、それでも訪日旅行に熱を上げるのはなぜ? 5/16  
2015年5月13日、中国メディア・九個頭条に「中国人は日本が嫌いなのに、なぜ日本旅行に熱を上げるのか」と題する記事が掲載された。「日本人の93%が中国を嫌っている」という調査結果が中国のインターネット上で取り沙汰されているが、それでも日本を訪れる中国人観光客は増加を続け、日本経済を動かす力になっている。  
英BBCが調査会社を通して行った意識調査でも日中の国民が互いに友好的な感情を持っていないことが明らかになり、「中国は世界に悪い影響を与えている」と回答した日本人は73%、「良い影響を与えている」はわずか3%だった。一方、「日本は悪い影響を与えている」と回答した中国人は90%に上り、「良い影響を与えている」は5%にとどまった。中国人の日本に対する評価には、領有権問題や歴史問題などが大きく影響している。また、日本人も中国との領有権争いや中国の急成長、訪日中国人のマナーの悪さなどを快く思っていない模様だ。  
しかし、14年に日本を訪れた中国人観光客は241万人で、前年と比べ84%も増えた。悪い印象を持つにもかかわらず増加した背景には、円安、免税対象品の拡大、ビザ発給要件の緩和がある。また、日中関係改善が必要だと考える両国民は多く、両国のこれまでの複雑な歴史を考えると「好感」「反感」という簡単な言葉で考えるのはふさわしくないのではないだろうか。  
日本の社会や実際の生活をよく知れば、日本の大部分の市民は中国に対して偏見など持っていないことに気付く。「93%の日本人が中国嫌い」という調査結果も、両国民の多くが現状を改善すべきだと考えている点が見過ごされている。かつて日本によって大きな苦痛を味わった中国人にとって、当時の日本政府の非道な行為と日本国民を分けて考えることは難しいだろう。しかし、これを乗り越えてこそ中国人の懐の深さが示される。感情論ではなく冷静な姿勢で両国の国民が向き合うことを期待する。 
習近平が3000人訪中団を熱烈歓迎した現実が意味すること 5/26  
習近平の演説に隠された意図  
5月24日、朝7時、北京時間――。  
中国共産党中央で外交政策の立案に携わる幹部から、ショートメールが送られてきた。そこには前日の夜、習近平国家主席が、訪中した自民党の二階俊博総務会長に同行した約3000人の日本人訪中団を前に、演説を行ったことを受けたコメントが記されていた。  
「故郷と歴史を大切にする習主席が、地元の陝西省を引き合いに出しながら、西安が中日交流史の窓口になった歴史、しかも日本の使節を代表する阿倍仲麻呂と唐代詩人を代表する李白や王維らが深い友情を築いた歴史を、自らの言葉で振り返った。日本との外交関係を高度に重視している証拠だ。現に習主席は演説の内容や文言にとことんこだわっていた」  
共産党機関紙である『人民日報』は、5月24日付の一面トップで、習主席が日本の3000人訪中団の前で演説をしたことを報じた。写真には、紅字で記された「中日友好交流大会」という壁をバックに、青いネクタイを着用した習主席が比較的穏やかな表情で映っていた。  
「中国は中日関係の発展を高度に重視している。中日関係は困難な時期を経てきているが、この基本方針は終始変わらないし、これからも変わらない。我々は日本側と手を携えて、4つの政治文書の基礎の上、両国間の善隣、友好、協力関係を推進していきたいと願っている」  
このように、対日関係重視という基本方針がこれまでもこれからも変わらない政治的立場を自ら主張した習主席の「中日友好交流大会」への出席と演説を大々的に報じたのは、前述の『人民日報』だけではなかった。共産党のマウスピースと称される国営新華社通信は5月24日、“習近平:中日友好的根基在民間”と名づけた記事をヘッドラインで配信した。習主席が演説のなかで最後の主張として口にした「中日友好の根幹と基礎は民間にある」という一節である。  
党中央でプロパガンダを担当する宣伝部の知人に確認してみると、「習主席があそこまで対日関係を重視されている。我々の立場も、中日友好の重要性を全面的に宣伝する方向で一致した」とのことであった。  
確かに、私が本稿を執筆している2015年5月25日4時(北京時間)の時点で、新華網(新華社通信ウェブ版)、人民網(人民日報ウェブ版)、央視網(中国中央電視台ウェブ版)、鳳凰網(香港フェニックスグループのウェブメディア)、そして中国の4大ポータルサイトと称されることもある新浪、網易、捜狐、騰迅すべてのサイトにおいて、習近平国家主席が中日友好交流大会に出席し、演説をした旨がヘッドライン(トップ記事)として報じられていた。  
習近平国家主席の対日関係重視を象徴するケースを扱ってきたが、本稿の目的は“日中友好”をプロパガンダすることにはない。標的はあくまで、本連載の核心的テーマである中国民主化研究である。そして、中国民主化研究とは相当程度において中国共産党研究であり、とりわけ昨今の政治情勢に基づいて見れば、中国共産党研究とは相当程度において習近平研究である。  
習近平研究という視角に考えを及ぼした場合、習近平国家主席が、日本の主要新聞に“異例”とまで言わせるほど(『日中、進む対話…二階氏訪中、異例の歓迎』:読売新聞5月24日、『習主席の訪中団への演説、異例の1面トップ 人民日報』朝日新聞5月24日)約3000人の訪中団を熱烈に歓迎し、対日関係重視を鮮明に打ち出したという現実は、重要な参考材料となるはずだ。  
習首席と対日関係を解き明かすケーススタディ  
習近平研究を対日関係というケーススタディを通じて掘り下げることを主旨とする本稿では、1つの結論と3つの留意点を提起し、検証する。  
結論を述べる。  
国内の反対勢力、タカ派、そして排外的なナショナリズムに満ちた一部の大衆世論から“日本に弱腰過ぎる”と非難されかねないような“異例”の対日重視と友好ムードを大胆不敵に打ち出した事実から判断して、習近平の共産党内外、および中国政治社会における権力基盤と威信は相当程度強固になっていると言える。  
この現状は、習氏自身の意図や信条に基づいて、周りに無駄な遠慮をすることなく政策や対策を打ち出しやすいという文脈において、対日関係にとってだけでなく、政治・経済・社会レベルなどにおける改革事業にとって有利に働くと言える。そして、現状から判断する限り、具体的なアプローチや優先順位はさておき、習主席が対日関係の改善だけでなく、改革事業の促進に後ろ向きだと断定する根拠を見出すことは難しい。  
党内で権力基盤を固め、社会で威信を築いてきた源泉は、本連載でも度々扱ってきた“反腐敗闘争”にあるだろう。闘争を通じて党内における政敵や政権運営にとって邪魔な勢力を打倒し、と同時に、お上の腐敗に対して極めて敏感、かつ憤慨的な反応を示してきた大衆に対して「習近平は人民に味方する素晴らしい指導者だ」という印象を抱かせた。大衆のあいだでニックネーム化して久しい“習大大”(習おじさん)という呼称が、その印象を可視化している。  
私は個人的に、都市部の道端で暇そうに雑談をしている住民や(拙書『われ日本海の橋とならん』(ダイヤモンド社)/第四章“「暇人」のエレガントな生活”ご参照)、就職先が見つからず、日々ネット上で不満をぶちまける大学生たちだけでなく、北京大学の教授や市民派ジャーナリストといった知識層までもが“習大大”という呼称を口にしながら習主席の存在と業績を絶賛していたことに、驚きを隠せなかった。  
中国共産党の最近の対日外交を振り返ってみよう。昨年11月、北京で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に際して行われた安倍晋三-習近平会談を皮切りに、4月下旬にはインドネシアで開催されたバンドン会議に際して、安倍—習体制となって2回目となる日中首脳間の会談が行われた。習主席に笑顔がなかった1回目に比べて、2回目の会談では、習主席もわりと和やかな表情で、ソファに座り込んで安倍首相と語り合った。この間、3月には日中安保対話が4年ぶりに、日中韓外相会談が3年ぶりに再開されている。日中間のハイレベル対話は、多角的に機能しつつある。  
中国国内には、「安倍首相はバンドン会議での演説で“植民地支配”や“侵略”という言葉を使わず、“お詫び”もしなかったのに、習主席はなぜ安倍晋三に会ったのだ?そこまで日本側の面子を立てる必要はどこにあるのか?」といった猜疑的な見方も存在した。実際に、中国の知識人たちからも、私の元にそのようなコメントが飛んできた。  
「親日的」という雑音を浴びても跳ね返すだけの権力基盤がある  
しかしながら、である。  
周永康・元政治局常務委員や徐才厚・元中央軍事委員会主席といった大物を政治的失脚に追い込み、何より無産階級の政党である中国共産党にとって、どんな勢力よりも味方につけておきたい“群衆”という勢力が習近平を“全体的”に支持している状況下において、習近平のやり方に公然とノーを叩きつけたり、習近平の政策を公の場で名指しで批判したりする知識人は、一部の“異見分子”を除いて限りなくゼロに近いという状況である。  
冒頭の党中央幹部は言う。  
「確かに、ここ半年における習主席の対日政策は“親日的”に映る。実際にそうかもしれない。しかし、仮にそのようなレッテルを誰かに貼られたとしても、そんな雑音を平然と無視し、跳ね返すだけの権力基盤がいまの習主席にはある」  
実際、習主席は“反腐敗闘争”でモノにした権力基盤と威信を武器に、トップダウンで改革を推し進めるための“改革小組”といったワーキンググループなどを活用しつつ、経済・社会レベルの構造改革を中心にダイナミックな政策を打ち出している。政策がどこまで果実となるかはいまだ定かではないが、少なくとも「習近平政権=改革派政権」というイメージは先行している。  
結論部分を簡単にまとめると、習近平の対日重視→権力基盤が強固な根拠→改革事業に有利、という構造になるであろう。これは、以前【全3回短期集中考察:“民主化”と“反日”の関係(3):中国の民主化を促すために日本が持つべき3つの視座】で指摘した「中国共産党のガバナンス力が強化・健全化することが、トップダウン型の民主化政策につながり、その過程でこそ健全な対日世論・政策環境が生まれる」というロジックともつながっている。  
もちろん、本連載でも度々検証してきたように、習近平は「改革重視=政治改革に意欲的」とは必ずしもならないし、「政治改革に意欲的=民主化への布石」という具合に方程式が成り立つほど、中国共産党を取り巻く政治的・歴史的情勢は単純ではない。習主席は西側発の自由民主主義を“輸入”することには否定的な態度を示してきており、西側の政治制度を“真似る”類の政治改革に突っ込む可能性は極めて小さいと言わざるをえない。  
ただ、それでも改革事業を重視し、物事を変えていくこと自体に大胆かつ意欲的な習近平政権には、引き続き政治レベルの改革という世紀ミッションが現実味を帯びるであろうし、本連載で度々主張してきたように、私自身は、仮に中国共産党が民主化も視野に入れた政治改革を実行するのであれば、習近平政権が最大、そして最後のチャンスだと見ている。  
習近平の権力が強大化することは重大な政治&統治リスクにもなり得る  
ここからは3つの留意点である。これは、前述の結論に対する、あるいは結論を受けた上で、それでも留意すべきポイントという意味である。  
1つ目。習近平国家主席の権力基盤と威信が強固になるプロセスは、対日政策にとっても改革事業にとっても、相当程度有利に働く局面が増えていくことを意味するが、と同時に、習主席の権力や威信そのものが強大化、肥大化し過ぎることは、それ自体が、中国共産党体制にとって重大な政治&統治リスクになる点に留意したい。  
私から見て、習近平に権力が集中する状況下での共産党という組織形態は、内政も外交も、政治も経済も、軍事も社会も、すべての分野で習近平が自ら決定し、実行しなければ物事が進められない。誰も習近平に代わって、あるいは習近平を凌駕する形で物事を決定し、実行することができない一種の“恐怖政治”が党内外の構造と空気を覆っている。このような状況下において、仮に習近平国家主席の身に何か不測の事態が起きたとしたら……。  
私は共産党という組織は、機能不全に陥るリスクに見舞われると予測する。また、私がワシントンDCで話をうかがった複数の中国問題専門家や対中政策立案者が、「習近平に権力が集まりすぎるのはリスキー」という観点から、太平洋の向こう側の政治情勢を眺めている。日本でも、朝日新聞国際報道部の峯村健司・機動特派員が著書『十三億分の一の男:中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』(小学館)のなかで、“頂層設計(トップダウンによる政策設計)の弱点”として、「私が想定する最大のリスクは“強大になり過ぎる習近平”だ」と主張している。  
2つ目。【全3回短期集中考察:“民主化”と“反日”の関係(2):中国共産党の正当性としての“反日”は弱まっている】のなかで“反日→反党・反政府→中国共産党一党独裁体制の崩壊→民主化”というシナリオを、具体的事例を挙げながら検証したが、習近平主席も“行き過ぎた反日感情は人民のナショナリズムを狭隘・排他的なものへと膨らませ、社会不安とガバナンスリスクを煽る”という懸念を念頭に、対日関係をマネージしようとしているように見える点に留意したい。  
2005年と2012年に中国各地で大規模かつ連鎖的に勃発したような反日デモ運動が再来し、それらを制御できなくなり、共産党の統治力や正統性そのものに疑問が投げかけられるリスクを懸念しているのだろう。私自身は、習主席は、前述のシナリオにあるように、“反日”は結果的に“中国共産党一党独裁体制の崩壊”をももたらし得る破壊力をもったファクターだと認識している、と考えている。  
ちなみに、対日政策が“親日的”になりすぎることによって、党内の保守派やタカ派、一部の一般大衆から叩かれる可能性については、前述したように、現時点での権力基盤をもってすれば抑え込めると踏んでいるだろう。  
“懐柔政策”は中共にとっての十八番 対中慎重派を取り込むための抑止構造か?  
3つ目。これは日本の対中政策にも直結してくるポイントであるが、日本政府・社会・国民としては、習近平国家主席が、日中関係が“友好的”だったとされる1980年代の胡耀邦時代を想起させるような約3000人の訪中団を熱烈に歓迎し、異例の待遇を施したことに鼻の下を伸ばしている場合では決してない現実を、心に留めたい。二階俊博・自民党総務会長を含めた対中友好派を戦略的に取り込むという“懐柔政策”は、中国共産党にとっての十八番だ。内政、外交を問わず、である。  
習主席を含めた党指導部の脳裏には、友好派を取り込むことによって、対中慎重派、あるいは強硬派を牽制するという抑止構造が描かれているだろう(本来、日本の対中的な立場や見方は“友好派・慎重派・強硬派”のように単純にカテゴライズできるものでも、されるべきものでもないが、現実問題として、中国共産党が自らの政治的立場に端を発し、日本の対中勢力を分裂的に捉える傾向があるため、あえてこのように記したー筆者注)。そして、その構造のなかの中心人物が安倍晋三首相であり、中心アジェンダが9月3日に予定されている“中国人民抗日戦争勝利70周年式典”であることは、言うまでもない。  
習主席は中日友好交流協会での演説で、次のように述べている。  
「当時、日本軍国主義が犯した侵略の罪を覆い隠すことは許さない。歴史の真相を歪曲することも許さない。日本軍国主義による侵略の歴史を歪曲・美化しようと企む如何なる言動を中国人民とアジアの被害国は受け入れない。そして、正義と良心を持った日本国民もそれを受け入れないと信じている」 
まるで孔明の罠。習近平が「反日戦略」を方向転換してきたワケ 2015/5/27  
中国が今度は日本にすりよってきた!? 先日、3000人の日本人訪中団の交流式典で「熱烈歓迎」とも取れる演説を行った習近平国家主席。この「すりより」の意味するものは? 無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』著者で国際関係アナリストの北野幸伯さんはここに、中国の「日米分断戦略」の次なる作戦を見て取ったといいます。  
中国は、なぜ日本にすりよりはじめた? どうする、日本  
2010年9月の尖閣中国漁船衝突事件。2012年9月の尖閣国有化。これで、「戦後最悪」になってしまった日中関係。ところが、中国側が、日本に「すりよって」きました。  
夕刊フジ5月25日。「朋(とも)あり遠方より来る、また楽しからずや。3000人余りの日本各界の方々が遠路はるばるいらっしゃり、友好交流大会を開催する運びになった。われわれが大変喜びとするところだ」習氏は23日夜、北京の人民大会堂で開かれた交流式典に突然姿を見せ、孔子の言葉を引用しながら笑顔であいさつした。会場では二階氏とも面会し、安倍首相の親書を受け取り、「戦略的互恵関係を進めていけば、日中関係はいい結果になると期待している。安倍首相によろしく伝えてほしい」と語った。  
これ、「中国はようやくわかってくれた!これで日中友好は進む!」と考えるのはナイーブすぎます。  
個人で考えてみてください。昨日まで、社内でも社外でもあなたの悪口をいいまくっていた男。彼が、突如豹変し、にっこり微笑んですりよってきたら? 普通は、「なんか裏があるんじゃないか?」と疑うでしょう?そして、疑ってみるべきなのです。  
大国の言動は「戦略」にそっている  
皆さん、人生に「戦略」ありますか? 「戦略」はなくても、少なくとも「目標」はありますか? その「目標」を達成する「目的」ははっきりしていますか?  
ひょっとしたら、あなたには、「目標」も「目的」も「計画」もないかもしれません。しかし、あなたの「会社」には「目標」があるでしょう? その目標を達成するための「計画」もあるでしょう? なかったら、そうとうヤバいですね。  
国家だって同じです。  
自分の国を「こうしたい」という目標があって、計画をたて、それにむかって前進していく(日本は、しばしば「行き当たりばったり」なので、他国の行動が理解できない)。  
では、中国の目標ってなに?  
まずは、日本に勝って「アジアの覇権国」になることでしょう。  
こちらをごらんください。  
習近平主席 太平洋には米中両大国を受け入れる十分な空間 Bloomberg 5月18日配信 / (ブルームバーグ):中国の習近平国家主席は17日、ケリー米国務長官に対し、米中双方は両国の関係に影響しない形で意見の相違を管理する必要があると述べた。米国は中国による南シナ海への進出について自制を促している。国営新華社通信などによれば、習国家主席は人民大会堂でケリー国務長官と会談し、両国の関係は「全体的に安定している」と評価。「両国の新たな関係は初期の成果を得ている」と述べた。さらに、「広い太平洋は中国と米国の両国を受け入れる十分な空間がある」とも語った。  
これって、「中国は太平洋の東半分を支配する。アメリカは西半分を支配するってことでどう?」といっているように感じますね?  
歴史をみれば、•スペインとポルトガルの覇権争い / •スペインとオランダの覇権争い / •オランダとイギリスの覇権争い / •イギリスとフランスの覇権争い / •イギリスとドイツの覇権争い / •アメリカとソ連の覇権争いなど、ナンバー1とナンバー2は常に覇権争いをしてきました。だから、中国だけが例外になって、「覇権争いをしない」と考えるのは、「平和ボケ」なのです。  
まず、「アジアの覇権」を奪い、そしてアメリカを蹴落として「世界の覇権を狙う」ということでしょう。  
アメリカのリベラル派は、「いや、中国はアメリカがつくった世界秩序の中で台頭したいだけ。アメリカの脅威にはならない」といっていた。しかし、「AIIB」を見て、中国は明らかに、「アメリカとは別の世界秩序をつくろうとしている」ことに気がついた。それで、アメリカのリベラルも、慌ててるのです。  
中国、最重要戦略は、「日米分断」  
では、どうやって、アジアの覇権、ついで世界の覇権を得るのか?これ、簡単で、まず日本を叩き潰す。日米を分断し、日本が米国債を買わなくなれば、アメリカをつぶすことも容易になるでしょう。それで、2012年11月、中国はモスクワで、ロシアと韓国に「反日統一戦線構築」を提案した。毎回書いていますが、その骨子は、  
1.中国、ロシア、韓国で、【反日統一戦線】をつくろう!  
2.日本には、北方4島、竹島、そして【沖縄】の領有権もない(つまり、沖縄は【中国領】である)  
3.【アメリカ】を反日統一戦線に引き込もう  
どれもすごいですが、特に3番目は重要です。  
この戦略に沿って、中国は、全世界、特にアメリカで大々的に「反日プロパガンダ」を展開してきた。安倍総理訪米前に、アメリカ政府から、「議会演説では中韓にきっちり謝罪しろ!」と圧力がかかるほど、プロパガンダは浸透していた。  
ところが、3月に(日本以外の親米国が全部アメリカを裏切った)「AIIB事件」が起こった。これで、アメリカは、「わが国最大の脅威は、ロシアではなく中国である」と理解した。そこに安倍総理がやってきて、「希望の同盟」演説をし、日米関係は非常に良好になった。これで、「反日プロパガンダ」による「日米分断工作」はいったん挫折したのです。  
しかし、「戦略」は不変  
いままで、アメリカに日本の悪口をいいつづけることで、日米分断をはかってきた。それがうまくいかなかったらどうするか? 別の方法を考えればいい。たとえば、日中関係を改善する。するとどうなります? 実を言うと、結果は同じ「日米分断」になるのです。たとえば、鳩山ー小沢政権のとき、日中関係はとてもよかった。それで、日米関係はどうなりました? そう、「戦後最悪」になった。「日本の悪口を、アメリカにいいつづける」「日本との関係をよくする」この2つは全然違うように見えますが、「戦略」からみると、「まったく同じこと」なのです。何が違うかというと、戦略を達成するための【作戦】が違う。  
では、日本はどうするべきか?  
日中関係については最近、アメリカに利用されないよう、「中国を挑発するな」という記事を書きました。 そしたら、今度は中国がすりよってきた。日本はどうすればいいのでしょうか?これは簡単で、アメリカに、「中国がこんなこといってきましたが、どうしたらいいでしょうか?」ときけばいいのです。「やはり、北野は『従米主義者だ!!!』」こんな意見も出ることでしょう。しかし、私たちの目標は、あくまで「アメリカを中心とする中国包囲網の形成」でしょう? 日本としては、アメリカに利用されて、「日本 対 中国」の対立構造になりたくない。そのためには、「いつもアメリカが主人公」でいてもらったほうがいいのです。これは日本が主体的に、「アメリカを主人公にする」のですから、まったく「従米」ではありません。  
日米関係をさらに「盤石」にするために  
それに、日米関係は、AIIB事件と安倍総理の米議会演説でよくなったとはいえ、「強固」「盤石」というには、ほど遠い状況です。日本は、わずか2年半前まで「反米親中」民主党が政権にあった。そして、安倍総理も、4月末まで、「右翼」「軍国主義者」「歴史修正主義者」と思われていた。もし日本が、アメリカを味方につけて中国に圧勝しようとすれば、「日米関係をさらに強化する」言動をとっていく必要があります。そのために必要なのは、「一貫性」です。  
台湾は、1年365日、しかも何十年も「日本が好きです!」といいつづけている。つまり「一貫性」がある。だから、日本人は台湾が好きです。  
しかし、中国は、「反日統一戦線をつくろう!」といったり、「仲良くしよう」といったり、全然一貫性がない。だから、信用できない。  
日本も、少なくとも中国が沖縄侵略をあきらめるまでは、一貫して「アメリカが好きです」といいつづけなければなりません。安倍総理も、毎日オバマさんに電話して、「報連相」するぐらいでちょうどいいのです。 
南シナ海で何が起きようとしているのか? 「日米欧vs.中ロ」は一触即発 2015/5/29  
南シナ海の緊張が激化している。5月20日には中国による岩礁の埋め立て・軍事基地化を警戒し偵察飛行していた米国の対潜哨戒機に対して、中国海軍が8回にわたって退去するよう警告する事件も起きた。米中はどうなるのか、そして日本は…。  
前CIA副長官が「中国との戦争やむなし」発言  
米中間の緊張はいまや「戦争も避けられない」といった過激な声まで飛び出すほどだ。米中央情報局(CIA)のマイケル・モレル前副長官は20日、CNNのインタビューに答えて「南シナ海で中国の攻撃的行動が引き起こしている米中間の対立は、まさしく将来いつかの時点で戦争に突入する危険性を示している」と語った。  
するとその5日後、今度は中国の共産党系新聞「環球時報」が「米国が中国に人工島の建設停止を要求するのをやめなければ、米国との戦争は避けられない」という論説記事を掲載した。米国と戦うことも考えて、中国は「注意深く準備すべきだ」とも指摘した。  
まさに売り言葉に買い言葉のような展開である。米国の偵察飛行は公海上だったが、米国は近い将来、埋め立て現場から12海里以内にも進入する構えだ。そうしなければ「12海里以内は我々の領海」という中国の主張を認めた形になって、それは絶対に認められないからだ。  
私は日米首脳会談直後に書いた5月1日公開のコラムで「今後の焦点は尖閣諸島ではない。むしろ南シナ海だ」と指摘した。それから、わずか3週間でこの展開である。  
中国は26日に発表した国防白書で米国の名指しを避けながらも「地域外の国の南シナ海への介入」を指摘して「海上軍事闘争への準備」を呼びかけた。この調子だと、南シナ海を舞台にした米中の対立は一段と激化していくだろう。  
緊張の現場は「南シナ海」だけに限らない。習近平国家主席はロシアの対ドイツ戦勝70周年記念式典に出席し、プーチン大統領と肩を並べて軍事パレードを観閲した。その直後、中国とロシアの艦隊が地中海で合同軍事演習を実施した。  
地中海は欧州の裏庭である。ロシアによるクリミア侵攻以来、欧州はロシアを脅威とみなして、北大西洋条約機構(NATO)の軍用機を東欧やバルト諸国に派遣し厳戒態勢を敷いてきた。「これ以上のロシアの無法は許さない」という決意の表れである。  
中ロ海軍がまもなく日本海で軍事演習  
一方で、英国をはじめ独仏など欧州各国は相次いで中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加を表明した。なぜかといえば、4月1日公開コラムで指摘したように「欧州にとって中国は脅威ではない」という認識だったからだ。欧州は中国を相互に利益を得るウインウイン関係のビジネス・パートナーとみなしてきたのだ。  
ところが今回、わずか3隻とはいえ中国の艦隊が地中海に登場した。こともあろうに、欧州の敵であるロシアの艦隊(6隻)と初めて合同軍事演習を繰り広げたのだ。欧州が受けた衝撃は少なくない。  
もはや中国が欧州を脅かす可能性がゼロとはいえなくなったからだ。ロシアの立場で考えれば、欧州をけん制するうえで「中国の援軍」はだれより頼もしく映っただろう。  
地中海だけにもとどまらない。中ロ両国海軍は8月、日本海で合同軍事演習をする予定だ。こちらは中国にとって願ってもない展開である。尖閣諸島をめぐって日本に圧力を加えるうえで「ロシアの援軍」を期待できるからだ。中ロの異常接近は双方が欧州と日本をにらんで、だれにも明らかなけん制のデモンストレーション(示威活動)になった。  
ゴールデンウィークの首脳会談で安倍晋三首相とオバマ大統領が日米同盟の緊密さを高らかにうたい上げたと思ったら、中国とロシアは直ちに反応し、米国を出し抜くように地中海で欧州を飛び上がらせ「次は日本海だぞ!」と日本を脅かしているのだ。  
こうした展開は中ロvs日米欧の冷戦復活を思わせる。  
かつての冷戦は共産主義勢力が活発に動いたトルコ、ギリシャに対する米国の援助(トルーマン・ドクトリン、1947年)から始まり、旧ソ連が道路と鉄道を封鎖したベルリン危機(48年)で後戻りできなくなった。  
同じように、いまの南シナ海の岩礁埋め立て・軍事基地建設問題は1つ間違えれば、中ロと日米欧のグローバルな対立に発展しかねない危険性を秘めている。というより、むしろ「南シナ海はクリミア半島を含めてグローバルに広がりつつある緊張状態を象徴するホット・ポイント」と理解するほうが正確ではないか。  
だからこそ、いまは局地的に見えても、南シナ海の扱いがグローバルな緊張の行方を左右する鍵になる。そんな南シナ海危機に日本はどう対応するのか。  
自衛隊は南シナ海でどこまでやるのか  
先の5月1日公開コラムで触れたように、日米が合意した防衛協力の指針は南シナ海を念頭に置いて「平時からの協力措置」の1番目に「情報収集、警戒監視及び偵察」を挙げて次のように記した。  
〈自衛隊及び米軍は、各々のアセットの能力及び利用可能性に応じ、情報収集、警戒監視及び偵察(ISR)活動を行う。これには、日本の平和及び安全に影響を与え得る状況の推移を常続的に監視することを確保するため、相互に支援する形で共同のISR活動を行うことを含む〉  
注意深く「アセットの能力及び利用可能性に応じ」、つまり「できる範囲でやりますよ」と書いているが、まさに今後は「自衛隊は南シナ海でどこまでやるのか」が焦点になる。中谷元防衛相は最近の日本経済新聞のインタビューで「日本を取り巻く情勢、日米間の議論などを踏まえて不断に検討していく課題だ」と答えている。  
政府内には「尖閣諸島を抱えて南シナ海まで手を広げられるのか」という慎重論もあるが、実は自衛隊はすでに「下見」を始めている。海上自衛隊の対潜哨戒機P3Cが南シナ海周辺を飛んでいるのだ。  
P3Cが初めて海外に出たのは2009年だ。ソマリア沖の海賊対策に自衛隊法で認められている海上警備行動として出動し、隣のジブチに設営した基地を拠点に警戒監視活動にかかわった。ジブチは事実上、自衛隊初の海外基地になっている。  
ソマリア沖で活動を続けてきたP3Cは5月13日、日本に帰国途中、ベトナムのダナンに立ち寄った。この件は産経新聞が報じている。ほぼ同じ時期に外洋航海の演習中だった海上自衛隊の護衛艦2隻、直前には米海軍のミサイル駆逐艦もダナンに寄港している。  
この飛来は中国の埋め立てに対する警戒監視活動と銘打ってはいないが、実質的に自衛隊による警戒監視の下見とみて間違いない。  
P3Cは高性能を誇るが、いかんせん航続距離は6600キロにとどまる。日本最南端の沖縄・那覇基地から南シナ海までは2000キロだ。那覇から飛んで任務を遂行するには遠すぎる。どうしても現地近くに基地を設けて補給する必要が出てくる。  
P3Cはなぜベトナム・ダナンに立ち寄ったのか  
そこで注目されるのが、ベトナムやフィリピンなど中国の脅威にさらされて、日米の支援を求めている国々なのだ。ベトナムやフィリピンの基地を自衛隊が活用できれば問題はなくなる。そういう展開をにらんで今回、P3Cがダナンに立ち寄ったとみていい。  
日本はフィリピンとの間で1月29日、防衛協力強化を目指して覚書を交わしている。フィリピンのガズミン防衛相はその際、中谷元防衛相との会談で「強く日本の対応、姿勢を支持するとともに全力で協力する」と発言している。  
フィリピンは1992年に米軍を追い出した後、中国の岩礁占拠を目の当たりにして2014年4月、米国と軍事協定を結び直した。クラーク空軍基地やスービック海軍基地を再び米軍に提供する。  
そうなれば、自衛隊のP3Cがクラーク空軍基地を使えるようになるかもしれない。そもそもフィリピン自身が1月の防衛相会談で日本に中古の自衛隊P3Cを供与してくれないか、と打診しているのだ。このときはフィリピン側の運用能力の問題で日本が断っているが、自衛隊が来てくれるのなら、自分たちの技術習得に役立つのだから大歓迎だろう。  
国会では安保法制見直しをめぐって「武力行使の例外拡大がどう」とか「自衛隊員のリスクがどう」とか議論されている。それが大事でないとは言わないが、現実に進行している南シナ海危機と水面下の自衛隊の対応こそ国民が知りたい話ではないか。 
2015年6月7-8日 - G7 エルマウ・サミット

 

安倍首相、対中「G7共通の価値観」構築狙う 6/7  
7日にドイツ南部エルマウ城で開幕した主要国首脳会議(サミット、G7)で、ウクライナ情勢と並び注目を集めるのが中国による南シナ海での岩礁埋め立て問題だ。安倍晋三首相は、オバマ米大統領とともに「国際法を無視した行動は許されない」と問題提起し、中国寄りの姿勢が目立つ欧州の首脳とも中国非難の「共通の価値観」構築を狙う。  
「日本はG7唯一のアジアの国だから、アジア情勢についてもしっかりと議論したい。その上で、G7の結束を示すサミットにしたいと思う」  
安倍首相は5日、今回の外遊出発に先立ち、羽田空港で記者団にこう語った。「アジア情勢」の一番の念頭にあるのが中国問題だ。  
中国は南シナ海のスプラトリー(中国名・南沙)諸島で大規模な埋め立てを進めており、中国人民解放軍幹部が埋め立ては軍事目的であることを公言するようにもなった。中国の野心的な試みに対する国際社会の懸念の高まりを受け、以前から尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺への中国の海洋進出に対し脅威を訴え続けてきた安倍首相への共感は広がりつつある。  
ただ、地理的に中国とは距離のある欧州諸国は、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に相次いで参加表明するなど、巨大な人口を抱える中国との経済的な結び付きは強めたいのが本音でもある。中国を欧州の経済成長に欠かせない市場とみており、深刻な対立は避けたいのだ。  
安倍首相はサミットの討議で、中国に対する欧州の“ダブルスタンダード”を突き、対中非難を強める日米への同調を訴える構え。同行筋は「安倍首相は、欧州首脳に『南シナ海と経済で、中国への対応が違うのではないか』と指摘するつもりだ」と明かす。  
6日に北京で開かれた「日中財務対話」では経済・金融分野での協力推進で日中両国は一致したが、安全保障面での中国の脅威が増せば、日中の「戦略的互恵関係」は根底から覆されかねない。安倍首相は欧州首脳を味方に引き込み、中国に対抗したい考えだ。 
■Leadersʼ Declaration G7 Summit
7-8 June 2015  
We, the leaders of the G7, met in Elmau for our annual Summit on 7 and 8 June 2015. Guided by our shared values and principles, we are determined to work closely together to meet the complex international economic and political challenges of our times. We are committed to the values of freedom and democracy, and their universality, to the rule of law and respect for human rights, and to fostering peace and security. Especially in view of the numerous crises in the world, we as G7 nations stand united in our commitment to uphold freedom, sovereignty and territorial integrity.  
The G7 feels a special responsibility for shaping our planet’s future. 2015 is a milestone year for international cooperation and sustainable development issues. The UN Climate Conference in Paris COP 21 is crucial for the protection of the global climate, the UN summit in New York will set the universal global sustainable development agenda for the years to come and the Third International Conference on Financing for Development in Addis Ababa will support the implementation of the Post-2015 Development Agenda. We want to provide key impetus for ambitious results. “Think ahead. Act together.” – that is our guiding principle.  
We have today agreed on concrete steps with regard to health, the empowerment of women and climate protection, to play our part in addressing the major global challenges and to respond to some of the most pressing issues in the world. Furthermore, in addition to fostering trade as a key engine for growth, putting these concrete steps into action, will help us to achieve our pivotal goal of strong, sustainable and balanced growth as well as job creation. We call on others to join us in pursuing this agenda.  
( 2015G7エルマウ・サミット首脳宣言  
我々G7 首脳は、年一回のサミットのため、2015 年6 月7日及び8 日にエルマウで会合を開催した。我々は、共有された価値と理念に導かれ、現代の複雑で国際的な経済的及び政治的諸課題に対処するために緊密に協働することを決意する。我々は、自由及び民主主義の価値、これらの普遍性、法の支配及び人権の尊重、並びに平和及び安全を促進することにコミットしている。特に世界の多数の危機に鑑み、我々は、G7諸国として、自由、主権及び領土の一体性を堅持するとの我々のコミットメントにおいて一致団結する。  
G7は、地球の将来を形成する上で特別な責任を感じている。2015年は、国際協力及び持続可能な開発課題にとって、節目となる年である。パリでの気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)は、世界の気候の保護にとって極めて重要であり、ニューヨークでの国連サミットは、今後にわたる、普遍的で、地球規模で、持続可能な開発アジェンダを設定し、アディスアベバでの第3回開発資金国際会議は、ポスト2015年開発アジェンダの実施を支持する。我々は、野心的な結果のための重要な推進力を提供することを望む。「先を見越して考え、共に行動する。」、これが我々の指針である。  
我々は、本日、主要な世界的課題に対処する役割を果たすために、また、世界で最も喫緊の諸課題に対応するために、保健、女性の能力強化及び気候保護に関する具体的な措置について合意した。さらに、貿易を成長の主要な原動力として促進することに加えてこれらの具体的な措置を実施することは、強固で持続可能かつ均衡ある成長及び雇用創出という我々の重要な目標を達成することを助ける。我々は、他の国々に対して、このアジェンダの追求に参加するよう要請する。)
■Global Economy  
State of the Global Economy  
The global economic recovery has progressed since we last met. In some major advanced economies growth is strengthening and prospects have improved. The decline of energy prices has supportive effects in most of the G7 economies. However, many of our economies are still operating below their full potential and more work is needed to achieve our aim of strong, sustainable and balanced growth. Overall G7 unemployment is still too high, although it has decreased substantially in recent years. We also continue to see challenges such as prolonged low inflation rates, weak investment and demand, high public and private debt, sustained internal and external imbalances, geopolitical tensions as well as financial market volatility.  
We commit to addressing these challenges and to continuing our efforts to achieve growth for all. Stronger and inclusive growth requires that we confront the vulnerabilities in our economies. To ensure that G7 countries operate at the technological frontier in the years ahead, we will foster growth by promoting education and innovation, protecting intellectual property rights, supporting private investment with a business friendly climate especially for small and medium-sized enterprises, ensuring an appropriate level of public investment, promoting quality infrastructure investment to address shortfalls through effective resource mobilization in partnership with the private sector and increasing productivity by further implementing ambitious structural reforms.  
We agree to deliver on past reform commitments in these areas which will increase confidence and lift sustainable growth. We will continue to implement our fiscal strategies flexibly to take into account near-term economic conditions, so as to support growth and job creation, while putting debt as a share of GDP on a sustainable path. We concur that monetary policies should maintain price stability and support economic recovery within the mandate of central banks. We reaffirm our existing G7 exchange rate commitments.  
A sound economic basis is a cornerstone for a better life for all people. Putting the world on a sustainable growth path in the long run will require in particular the protection of our climate, the promotion of health and the equal participation of all members of society. Therefore, the G7 commits to putting these issues at the centre of our growth agenda.  
Women’s Entrepreneurship  
Women’s entrepreneurship is a key driver of innovation, growth and jobs. However, across G7 countries and around the world far fewer women than men run their own businesses often due to additional barriers that women face in starting and growing businesses. We agree on common principles to boost women’s entrepreneurship, as set out in the annex, and invite other interested countries to join us in this effort. In particular, we will make girls and women aware of the possibility of becoming entrepreneurs. We will address the specific needs of women entrepreneurs, e.g. by promoting their access to finance, markets, skills, leadership opportunities and networks. We ask the OECD to monitor progress on promoting women’s entrepreneurship. We welcome the G7 Forum for Dialogue with Women to be hosted by the Presidency on 16 and 17 September 2015. We also reaffirm our commitment to continue our work to promote gender equality as well as full participation and empowerment for all women and girls. We welcome the “World Assembly for Women: WAW!” to be hosted by Japan, G7 Presidency in 2016.  
Financial Market Regulation  
A sound international financial system is key to putting growth on a sustainable path. Core reforms have been agreed to tackle the root causes of the global financial crisis, and important progress has been made on building a stronger and more resilient financial system, in particular by strengthening the soundness of the banking sector. However, the job is not yet finished, and following through on regulatory reform continues to be key. Going forward, we have identified the following priorities: full, consistent and prompt implementation of agreed reforms will be essential to ensuring an open and resilient global financial system. We will continue to address the “too-big-to-fail” problem on a global level to protect taxpayers from bearing losses generated by the failure of global systemically important financial institutions. In particular, we remain committed to finalizing the proposed common international standard on total loss absorbing capacity for global systemically important banks by November, following the completion of rigorous and comprehensive impact assessments.  
We also remain committed to strengthening the regulation and oversight of the shadow banking sector, appropriate to the systemic risk posed. Timely and comprehensive implementation of the agreed G20 shadow banking roadmap is essential. In addition, we will monitor and address any newly evolving systemic risks from market-based finance, while we will work to ensure that it is able to fulfil its role in supporting the real economy. To help reduce systemic risk and increase transparency, we also stress the importance of enhanced cross-border cooperation in financial regulatory areas to enable regulations to be more effective, particularly in the areas of resolution and derivatives markets reform, where swift implementation is required. We encourage jurisdictions to defer to each other, when justified in line with the St Petersburg Declaration. Finally, we will also continue to monitor financial market volatility in order to address any emerging systemic risk that could arise.  
Tax  
We are committed to achieving a fair and modern international tax system which is essential to fairness and prosperity for all. We therefore reaffirm our commitment to finalize concrete and feasible recommendations for the G20/OECD Base Erosion and Profit Shifting (BEPS) Action Plan by the end of this year. Going forward, it will be crucial to ensure its effective implementation, and we encourage the G20 and the OECD to establish a targeted monitoring process to that end. We commit to strongly promoting automatic exchange of information on cross-border tax rulings. Moreover, we look forward to the rapid implementation of the new single global standard for automatic exchange of information by the end of 2017 or 2018, including by all financial centres subject to completing necessary legislative procedures. We also urge jurisdictions that have not yet, or not adequately, implemented the international standard for the exchange of information on request to do so expeditiously.  
We recognize the importance of beneficial ownership transparency for combatting tax evasion, corruption and other activities generating illicit flows of finance and commit to providing updates on the implementation of our national action plans. We reiterate our commitment to work with developing countries on the international tax agenda and will continue to assist them in building their tax administration capacities.  
Moreover, we will strive to improve existing international information networks and cross-border cooperation on tax matters, including through a commitment to establish binding mandatory arbitration in order to ensure that the risk of double taxation does not act as a barrier to cross-border trade and investment. We support work done on binding arbitration as part of the BEPS project and we encourage others to join us in this important endeavour.  
Trade  
Trade and investment are key drivers of growth, jobs and sustainable development. Fostering global economic growth by reducing barriers to trade remains imperative and we reaffirm our commitment to keep markets open and fight all forms of protectionism, including through standstill and rollback. To that end, we support a further extension of the G20 standstill commitment and call on others to do the same. At the same time, we remain committed to reducing barriers to trade and to improving competitiveness by taking unilateral steps to liberalize our economies. We will protect and promote investment and maintain a level playing field for all investors. International standards for public export finance are key to avoiding or reducing distortions in global trade, and we emphasize our support for the international working group on standards for public export finance.  
We are committed to strengthening the rules-based multilateral trading system, including by contributing to full and swift implementation of the WTO Bali package. The focus in 2015 should in particular be on the entry into force of the WTO Trade Facilitation Agreement (TFA). To that end, G7 members commit to making every effort to complete their domestic ratification procedures in advance of the Tenth WTO Ministerial Conference (MC 10) in Nairobi this December. We also call for swift agreement by July of a WTO post-Bali work programme that secures a prompt conclusion and balanced outcome of the Doha Round and we fully support ongoing efforts in the WTO to this end. Both the implementation of the TFA and agreement on a post-Bali work programme should lay the ground for a successful MC 10, the first WTO Ministerial to be held in Africa. We stand ready to continue our support to developing countries to help implement the measures agreed in the TFA. We must build on the success of the 2013 WTO Ministerial, which reinvigorated the negotiating pillar of the WTO, and demonstrated that flexibility is achievable within the consensus framework of the WTO. We look forward to the discussions at the G20 on ways to make the multilateral trading system work better, based on input from the WTO.  
While strengthening the multilateral trading system remains a priority, we also welcome ongoing efforts to conclude ambitious and high-standard new bilateral and regional free trade agreements (FTAs) and look forward to swift progress in plurilateral negotiations, including the Trade in Services Agreement (TiSA), the expansion of the Information Technology Agreement (ITA) and the Environmental Goods Agreement (EGA). We will work to conclude the expansion of the ITA without delay. These agreements are able to support the multilateral system, contribute to stronger global trade and to more growth and jobs and can act as building blocks for future multilateral agreements. To this end, FTAs need to be transparent, high-standard, and comprehensive as well as consistent with and supportive of the WTO framework.  
We welcome progress on major ongoing trade negotiations, including on the Trans-Pacific Partnership (TPP), the Transatlantic Trade and Investment Partnership (TTIP) and the EU-Japan FTA/Economic Partnership Agreement (EPA), aimed at reaching ambitious, comprehensive and mutually beneficial agreements. We will make every effort to finalize negotiations on the TPP as soon as possible as well as to reach agreement in principle on the EU-Japan FTA/EPA preferably by the end of the year. We will immediately accelerate work on all TTIP issues, ensuring progress in all the elements of the negotiations, with the goal of finalizing understandings on the outline of an agreement as soon as possible, preferably by the end of this year. We welcome the conclusion of the negotiations on the Comprehensive Economic and Trade Agreement (CETA) between Canada and the EU and look forward to its timely entry into force. We will work to ensure that our bilateral and regional FTAs support the global economy.  
Responsible Supply Chains  
Unsafe and poor working conditions lead to significant social and economic losses and are linked to environmental damage. Given our prominent share in the globalization process, G7 countries have an important role to play in promoting labour rights, decent working conditions and environmental protection in global supply chains. We will strive for better application of internationally recognized labour, social and environmental standards, principles and commitments (in particular UN, OECD, ILO and applicable environmental agreements) in global supply chains. We will engage with other countries, for example within the G20, to that end.  
We strongly support the UN Guiding Principles on Business and Human Rights and welcome the efforts to set up substantive National Action Plans. In line with the UN Guiding Principles, we urge private sector implementation of human rights due diligence. We will take action to promote better working conditions by increasing transparency, promoting identification and prevention of risks and strengthening complaint mechanisms. We recognize the joint responsibility of governments and business to foster sustainable supply chains and encourage best practices.  
To enhance supply chain transparency and accountability, we encourage enterprises active or headquartered in our countries to implement due diligence procedures regarding their supply chains, e.g. voluntary due diligence plans or guides. We welcome international efforts, including private sector input, to promulgate industry-wide due diligence standards in the textile and ready-made garment sector. To promote safe and sustainable supply chains, we will increase our support to help SMEs develop a common understanding of due diligence and responsible supply chain management.  
We welcome initiatives to promote the establishment of appropriate, impartial tools to help consumers and public procurers in our countries compare information on the validity and credibility of social and environmental product labels. One example is the use of relevant apps, which are already available in some countries. Moreover, we will strengthen multi-stakeholder initiatives in our countries and in partner countries, including in the textile and ready-made garment sector, building upon good practices learned from the Rana Plaza aftermath. We will continue supporting relevant global initiatives. Furthermore, we will better coordinate our bilateral development cooperation and support partner countries in taking advantage of responsible global supply chains to foster their sustainable economic development.  
We support a “Vision Zero Fund” to be established in cooperation with the International Labour Organization (ILO). The Fund will also add value to existing ILO projects with its aim of preventing and reducing workplace-related deaths and serious injuries by strengthening public frameworks and establishing sustainable business practices. Access to the Fund will be conditional: the Fund will support those recipients that commit themselves to prevention measures and the implementation of labour, social, environmental and safety standards. We agree to follow up on the matter and look forward to the Fund reaching out to the G20.  
We also commit to strengthening mechanisms for providing access to remedies including the National Contact Points (NCPs) for the OECD Guidelines for Multinational Enterprises. In order to do so, the G7 will encourage the OECD to promote peer reviews and peer learning on the functioning and performance of NCPs. We will ensure that our own NCPs are effective and lead by example.  
We welcome the closing of the funding gap in the Rana Plaza Donor Trust Fund for compensating the victims of the tragic accident in 2013.
■Foreign Policy  
Acting on Common Values and Principles  
We, the G7, emphasise the importance of freedom, peace and territorial integrity, as well as respect for international law and respect for human rights. We strongly support all efforts to uphold the sovereign equality of all States as well as respect for their territorial integrity and political independence. We are concerned by current conflicts which indicate an erosion of respect for international law and of global security.  
Based on our common values and principles we are committed to:  
Finding a Solution to the Conflict in Ukraine  
We reiterate our condemnation of the illegal annexation of the Crimean peninsula by the Russian Federation and reaffirm our policy of its non-recognition.  
We reiterate our full support for the efforts to find a diplomatic solution to the conflict in eastern Ukraine, particularly in the framework of the Normandy format and the Trilateral Contact Group. We welcome the OSCE’s key role in finding a peaceful solution. We call on all sides to fully implement the Minsk agreements including the Package of Measures for their implementation signed on 12 February 2015 in Minsk, through the established Trilateral Contact Group and the four working groups. We are concerned by the recent increase in fighting along the line of contact; we renew our call to all sides to fully respect and implement the ceasefire and withdraw heavy weapons. We recall that the duration of sanctions should be clearly linked to Russia’s complete implementation of the Minsk agreements and respect for Ukraine’s sovereignty. They can be rolled back when Russia meets these commitments. However, we also stand ready to take further restrictive measures in order to increase cost on Russia should its actions so require. We expect Russia to stop trans-border support of separatist forces and to use its considerable influence over the separatists to meet their Minsk commitments in full.  
We commend and support the steps the Ukrainian government is taking to implement comprehensive structural reforms and urge the Ukrainian leadership to decisively continue the necessary fundamental transformation in line with IMF and EU commitments. We reaffirm our commitment to working together with the international financial institutions and other partners to provide financial and technical support as Ukraine moves forward with its transformation. We ask the G7 Ambassadors in Kiev to establish a Ukraine support group. Its task will be to advance Ukraine´s economic reform process through coordinated advice and assistance.  
( ウクライナにおける紛争解決の追求  
我々は、ロシア連邦によるクリミア半島の違法な併合への非難を改めて表明し、同併合の不承認政策を再確認する。  
我々は、ウクライナ東部における紛争の外交的解決を見いだす努力、特にノルマンディー・フォーマット及び三者コンタクト・グループの枠組みの下でのものへの完全なる支持を改めて表明する。我々は、平和的解決を見いだすことに関する欧州安全保障協力機構(OSCE)の主要な役割を歓迎する。我々は、全ての当事者に対し、設立された三者コンタクト・グループ及び4つの作業部会を通じて、2015年2月12日にミンスクにおいて署名された実施のための包括措置を含むミンスク合意を完全に履行するよう要請する。我々は、コンタクト・ライン沿いにおける最近の戦闘の増加を懸念する。我々は、全ての当事者に対し、停戦及び重火器の撤去の完全な尊重及び履行を改めて呼びかける。我々は、制裁の期間はロシアによるミンスク合意の完全な履行及びウクライナの主権の尊重に明確に関連されるべきことを想起する。制裁は、ロシアがこれらのコミットメントを履行したときに後退され得る。しかし、我々はまた、ロシアの行動に応じ必要ならば、ロシアのコストを増大させるために、更なる制限的措置をとる用意がある。我々は、ロシアが、分離派武装勢力への国境を越えた支援を停止するとともに、ミンスク合意のコミットメントを完全に履行させるよう分離派武装勢力に対し大きな影響力を行使することを期待する。  
我々は、ウクライナ政府が包括的で構造的な改革を実施するためにとっている措置を賞賛及び支持し、ウクライナの指導部がIMF及びEUのコミットメントに沿って必要な基本的変革を断固として継続することを要請する。我々は、ウクライナが変革を前進させるに当たり、資金的及び技術的な援助を提供するために、国際金融機関及び他のパートナーと協働することに関するコミットメントを再確認する。我々は、キエフのG7大使に対し、ウクライナ・サポート・グループを設立するよう求める。その任務は、協調された助言及び支援を通じて、ウクライナの経済改革プロセスを前進させることにある。)  
Achieving High Levels of Nuclear Safety  
Achieving and maintaining high levels of nuclear safety worldwide remains a major priority to us. We welcome the report of the G7 Nuclear Safety and Security Group. We remain committed to bringing the Chernobyl Shelter Project to a successful completion in order to make the Chernobyl site stable and environmentally safe.  
Maintaining a Rules-Based Maritime Order and Achieving Maritime Security  
We are committed to maintaining a rules-based order in the maritime domain based on the principles of international law, in particular as reflected in the UN Convention on the Law of the Sea. We are concerned by tensions in the East and South China Seas. We underline the importance of peaceful dispute settlement as well as free and unimpeded lawful use of the world’s oceans. We strongly oppose the use of intimidation, coercion or force, as well as any unilateral actions that seek to change the status quo, such as large scale land reclamation. We endorse the Declaration on Maritime Security issued by G7 Foreign Ministers in Lübeck.  
( ルールを基礎とした海洋秩序の維持及び海洋安全保障の達成  
我々は、とりわけ海洋法に関する国際連合条約に反映された国際法の諸原則に基づく、ルールを基礎とした海洋における秩序を維持することにコミットする。我々は、東シナ海及び南シナ海での緊張を懸念している。我々は、平和的紛争解決、及び世界の海洋の自由で阻害されない適法な利用の重要性を強調する。我々は、威嚇、強制又は武力の行使、及び、大規模な埋立てを含む、現状の変更を試みるいかなる一方的行動にも強く反対する。我々は、リューベックにおいてG7外相が発出した海洋安全保障に関する宣言を支持する。)  
Strengthening the System of Multilateral Treaties / Arms Trade Treaty  
We emphasise the importance of strengthening the system of multilateral treaties and commitments and in this regard stress the importance of the Arms Trade Treaty, which entered into force on 24 December 2014.  
Preventing and Combating Proliferation  
We remain committed to the universalisation of all relevant treaties and conventions that contribute to preventing and combating the proliferation of weapons of mass destruction, in particular the Nuclear Non-Proliferation Treaty (NPT), the Chemical Weapons Convention and the Biological and Toxin Weapons Convention. We strongly regret that, although agreement was reached on a number of substantive issues, it was not possible to reach consensus on a final document at the Ninth NPT Review Conference. The G7 renew their commitment to the full implementation of the 2010 Action Plan across the three pillars of the Treaty. The NPT remains the cornerstone of the nuclear non-proliferation regime and the essential foundation for the pursuit of nuclear disarmament and non-proliferation, as well as for the peaceful use of nuclear energy.  
Iran  
We welcome the political understanding on key parameters of a Joint Comprehensive Plan of Action reached by the E3+3, facilitated by the EU, and Iran on 2 April. We support the continuous efforts by the E3/EU+3 and Iran to achieve a comprehensive solution by 30 June that ensures the exclusively peaceful nature of Iran’s nuclear programme and ensures that Iran does not acquire a nuclear weapon. We call on Iran to cooperate fully with the International Atomic Energy Agency on verification of Iran's nuclear activities and to address all outstanding issues, including those relating to possible military dimensions. We urge Iran to respect the human rights of its citizens and to to contribute constructively to regional stability.  
North Korea  
We strongly condemn North Korea’s continued development of nuclear and ballistic missile programmes, as well as its appalling human rights violations, and its abductions of nationals from other countries.  
Supporting Diplomatic Solutions  
We are deeply concerned by the dramatic political, security and humanitarian situation in fragile countries and regions and the dangers originating from these conflicts for neighbouring countries and beyond. We condemn in the strongest terms all forms of sexual violence in conflict, and are committed to enhancing the role of women in international peace and security. Sustainable solutions need to be inclusive in order to reestablish effective governance and achieve sustainable peace and stability.  
We support the ongoing UN-led processes to find lasting solutions for peace and stability in Syria, Libya and Yemen. A genuine UN led transition based on the full implementation of the Geneva Communiqué is the only way to bring peace and defeat terrorism in Syria.  
Libya  
In Libya, we are deeply concerned about the growing terrorist threat, arms proliferation, migrant smuggling, humanitarian suffering and the depletion of state assets. Unless a political agreement is reached, the ongoing instability risks prolonging the crisis that is felt most keenly and acutely by the Libyan people themselves. They are already suffering as terrorist groups attempt to expand into ungoverned space and criminal networks exploit the situation by facilitating irregular migration through Libya.  
The time for fighting has passed, the moment for bold political decisions has come. We call on Libyans from all sides to seize this opportunity, to put down their weapons and work together to transform the aspirations that gave birth to the revolution into the political foundations of a democratic state. The time for political agreement is now and we commend those Libyans who have supported the dialogue process and displayed leadership by pursuing peace in their own communities.  
We welcome the progress made by all the parties to the negotiations led by UNSRSG Bernardino León. Libyan leaders must now grasp the opportunity to conclude these negotiations and to form a Government of National Accord (GNA) accountable to the Libyan people. They, and those who have influence over them, must show the necessary strength and leadership at this critical moment to reach and implement agreement.  
Once an agreement is reached, we stand ready to provide significant support to such an inclusive and representative government as it tries to build effective state institutions, including security forces, to restore public services, to expand infrastructure, strengthen, rebuild and diversify the economy and to rid the country of terrorists and criminal networks.  
Israeli-Palestinian Conflict  
On the Israeli-Palestinian conflict, we call upon the parties, with the active support of the International Community, including the Quartet, to work towards a negotiated solution based on two States living in peace and security.  
Fighting Trafficking of Migrants/Tackling Causes for Refugee Crises  
We are extremely preoccupied about the increasing and unprecedented global flow of refugees, internally displaced persons, and migrants caused by a multitude of conflicts and humanitarian crises, dire economic and ecological situations and repressive regimes. Recent tragedies in the Mediterranean and the Bay of Bengal/Andaman Sea illustrate the urgent need to address effectively this phenomenon, and in particular the crime of trafficking of migrants. We reaffirm our commitment to prevent and combat the trafficking of migrants, and to detect, deter and disrupt human trafficking in and beyond our borders. We call upon all nations to tackle the causes of these crises that have such tragic consequences for so many people and to address the unique development needs of middle-income countries hosting refugees and migrants.  
Fighting Terrorism and its Financing  
The scourge of terrorism has affected countless innocent victims. It denies tolerance, the enjoyment of universal human rights and fundamental freedoms, including religious freedom, destroys cultural heritage and uproots millions of people from their homes. In light of the Foreign Terrorist Fighters phenomenon, the fight against terrorism and violent extremism will have to remain the priority for the whole international community. In this context we welcome the continued efforts of the Global Coalition to counter ISIL/Da’esh. We reaffirm our commitment to defeating this terrorist group and combatting the spread of its hateful ideology. We stand united with all countries and regions afflicted by the brutal terrorist acts, including Iraq, Tunisia and Nigeria whose leaders participated in our discussions at Schloss Elmau. It is a task for all nations and societies to confront the conditions conducive to the spread of terrorism and violent extremism, including the spread of hatred and intolerance, also through the internet, by promoting good governance and respect for human rights. We stress the importance of implementing the necessary measures to detect and prevent acts of terrorism, to prosecute those responsible, and rehabilitate and reintegrate offenders, in accordance with international law, and to prevent the financing of terrorism.  
The fight against terrorism and terrorist financing is a major priority for the G7. We will continue to act fast and decisively, and will strengthen our coordinated action. In particular we reaffirm our commitment to effectively implement the established international framework for the freezing of terrorists’ assets, and will facilitate cross-border freezing requests among G7 countries. We will take further actions to ensure greater transparency of all financial flows, including through an appropriate regulation of virtual currencies and other new payment methods. We reaffirm the importance of the ongoing work undertaken by the Financial Action Task Force (FATF), and commit to contributing actively to this work. We will strive to ensure an effective implementation of FATF standards, including through a robust follow-up process.  
Likewise, we are committed to combating wildlife trafficking, which is pushing some of the world’s species to the brink of extinction and in some instances is being used to finance organized crime, insurgencies, and terrorism.  
Supporting African Partners  
We welcome the strengthening of democratic institutions and the growing economic opportunities across Africa, and note this progress under challenging circumstances across the continent, including progress in establishing stability in Somalia and a largely peaceful democratic transition in Nigeria. We reiterate our continued commitment to support African partners in addressing challenges to security, governance and stability, including in Mali, Sudan, South Sudan, the Central African Republic, the Democratic Republic of Congo, Somalia, Nigeria and most recently Burundi.  
Supporting Afghanistan  
We are committed to an enduring partnership with Afghanistan in support of its stability, prosperity and democratic future.  
Supporting the Reconstruction in Nepal  
We are deeply saddened by the loss of life and destruction caused by the devastating earthquakes in Nepal and are offering the people and the government of Nepal our ongoing support. We will continue to provide emergency assistance as needed and are ready to consider requests for bi- and multilateral financial and technical support as well as reconstruction assistance in alignment with the priorities of the Nepalese government. We strive to contribute to the restoration of lost and damaged cultural treasures.
■Health  
The enjoyment of the highest attainable standard of health is one of the fundamental rights of every human being. We are therefore strongly committed to continuing our engagement in this field with a specific focus on strengthening health systems through bilateral programmes and multilateral structures.  
Ebola  
We commit to preventing future outbreaks from becoming epidemics by assisting countries to implement the World Health Organization’s International Health Regulations (IHR), including through Global Health Security Agenda and its common targets and other multilateral initiatives. In order to achieve this we will offer to assist at least 60 countries, including the countries of West Africa, over the next five years, building on countries’ expertise and existing partnerships. We encourage other development partners and countries to join this collective effort. In this framework, we will also be mindful of the healthcare needs of migrants and refugees.  
The Ebola crisis has shown that the world needs to improve its capacity to prevent, protect against, detect, report and respond to public health emergencies. We are strongly committed to getting the Ebola cases down to zero. We also recognize the importance of supporting recovery for those countries most affected by the outbreak. We must draw lessons from this crisis. We acknowledge the work that is being done by the WHO and welcome the outcome agreed at the Special Session of the Executive Board on Ebola and the 68th World Health Assembly. We support the ongoing process to reform and strengthen the WHO’s capacity to prepare for and respond to complex health crises while reaffirming the central role of the WHO for international health security.  
We welcome the initiative proposed by Germany, Ghana and Norway to the UN Secretary-General to draw up a comprehensive proposal for effective crisis management in the area of health and look forward to the report to be produced by the end of the year by the high-level panel established by the UN Secretary General. The Ebola outbreak has shown that the timely mobilization and disbursement of appropriate response capacities, both funding and human resources, is crucial. We welcome the ongoing development of mechanisms including by the WHO, the World Bank and the International Monetary Fund and call on all partners to strongly coordinate their work. We support the initiative taken by the World Bank to develop a Pandemic Emergency Facility. We encourage the G20 to advance this agenda. Simultaneously, we will coordinate to fight future epidemics and will set up or strengthen mechanisms for rapid deployment of multidisciplinary teams of experts coordinated through a common platform. We will implement those mechanisms in close cooperation with the WHO and national authorities of affected countries.  
Antimicrobial Resistances  
Antimicrobials play a crucial role for the current and future success of human and veterinary medicine. We fully support the recently adopted WHO Global Action Plan on Antimicrobial Resistance. We will develop or review and effectively implement our national action plans and support other countries as they develop their own national action plans.  
We are strongly committed to the One Health approach, encompassing all areas – human, and animal health as well as agriculture and the environment. We will foster the prudent use of antibiotics and will engage in stimulating basic research, research on epidemiology, infection prevention and control, and the development of new antibiotics, alternative therapies, vaccines and rapid point-of-care diagnostics. We commit to taking into account the annex (Joint Efforts to Combat Antimicrobial Resistance) as we develop or review and share our national action plans.  
Neglected Tropical Diseases  
We commit ourselves to the fight against neglected tropical diseases (NTDs). We are convinced that research plays a vital role in the development and implementation of new means of tackling NTDs. We will work collaboratively with key partners, including the WHO Global Observatory on Health Research and Development. In this regard we will contribute to coordinating research and development (R&D) efforts and make our data available. We will build on efforts to map current R&D activities, which will help facilitate improved coordination in R&D and contribute to better addressing the issue of NTDs. We commit to supporting NTD-related research, focusing notably on areas of most urgent need. We acknowledge the role of the G7-Academies of Science in identifying such areas. In particular, we will stimulate both basic research on prevention, control and treatment and research focused on faster and targeted development of easily usable and affordable drugs, vaccines and point-of-care technologies.  
As part of our health system strengthening efforts we will continue to advocate accessible, affordable, quality and essential health services for all. We support community based response mechanisms to distribute therapies and otherwise prevent, control and ultimately eliminate these diseases. We will invest in the prevention and control of NTDs in order to achieve 2020 elimination goals.  
We are committed to ending preventable child deaths and improving maternal health worldwide, supporting the renewal of the Global Strategy for Women’s, Children’s and Adolescents’ Health and welcoming the establishment of the Global Financing Facility in support of “Every Woman, Every Child” and therefore welcome the success of the replenishment conference in Berlin for Gavi, the Global Vaccine Alliance, which has mobilized more than USD 7.5 billion to vaccinate an additional 300 million children by 2020. We fully support the ongoing work of the Global Fund to fight AIDS, Tuberculosis and Malaria and look forward to its successful replenishment in 2016 with the support of an enlarged group of donors.
■Climate Change, Energy, and Environment  
Climate Change  
Urgent and concrete action is needed to address climate change, as set out in the IPCC’s Fifth Assessment Report. We affirm our strong determination to adopt at the Climate Change Conference in December in Paris this year (COP21) a protocol, another legal instrument or an agreed outcome with legal force under the United Nations Framework Convention on Climate Change (UNFCCC) applicable to all parties that is ambitious, robust, inclusive and reflects evolving national circumstances.  
The agreement should enhance transparency and accountability including through binding rules at its core to track progress towards achieving targets, which should promote increased ambition over time. This should enable all countries to follow a low-carbon and resilient development pathway in line with the global goal to hold the increase in global average temperature below 2 °C.  
Mindful of this goal and considering the latest IPCC results, we emphasize that deep cuts in global greenhouse gas emissions are required with a decarbonisation of the global economy over the course of this century. Accordingly, as a common vision for a global goal of greenhouse gas emissions reductions we support sharing with all parties to the UNFCCC the upper end of the latest IPCC recommendation of 40 to 70 % reductions by 2050 compared to 2010 recognizing that this challenge can only be met by a global response. We commit to doing our part to achieve a low-carbon global economy in the long-term including developing and deploying innovative technologies striving for a transformation of the energy sectors by 2050 and invite all countries to join us in this endeavor. To this end we also commit to develop long term national low-carbon strategies.  
The G7 welcomes the announcement or proposal of post-2020 emission targets by all its members, as well as the submission of intended nationally determined contributions (INDC) and calls upon all countries to do so well in advance of COP21. We reaffirm our strong commitment to the Copenhagen Accord to mobilizing jointly USD 100 billion a year by 2020 from a wide variety of sources, both public and private in the context of meaningful mitigation actions and transparency on implementation.  
Climate finance is already flowing at higher levels. We will continue our efforts to provide and mobilize increased finance, from public and private sources, and to demonstrate that we and others are well on our way to meet the USD 100 bn goal and that we stand ready to engage proactively in the negotiations of the finance provisions of the Paris outcome. We recognize the potential of multilateral development banks (MDBs) in delivering climate finance and helping countries transition to low carbon economies. We call on MDBs to use to the fullest extent possible their balance sheets and their capacity to mobilize other partners in support of country-led programs to meet this goal. We thank the presidency for the publication of the Background Report on Long-Term Climate Finance and call for a further exchange in all relevant fora in view of COP 21.  
Mobilization of private sector capital is also crucial for achieving this commitment and unlocking the required investments in low-carbon technologies as well as in building resilience against the effects of climate change. To overcome existing investment barriers finance models with high mobilization effects are needed.  
To this end, we will:  
a) Intensify our support particularly for vulnerable countries’ own efforts to manage climate change related disaster risk and to build resilience. We will aim to increase by up to 400 million the number of people in the most vulnerable developing countries who have access to direct or indirect insurance coverage against the negative impact of climate change related hazards by 2020 and support the development of early warning systems in the most vulnerable countries. To do so we will learn from and build on already existing risk insurance facilities such as the African Risk Capacity, the Caribbean Catastrophe Risk Insurance Facility and other efforts to develop insurance solutions and markets in vulnerable regions, including in small islands developing states, Africa, Asia and Pacific, Latin America and the Caribbean as set out in the annex.  
b) Accelerate access to renewable energy in Africa and developing countries in other regions with a view to reducing energy poverty and mobilizing substantial financial resources from private investors, development finance institutions and multilateral development banks by 2020 building on existing work and initiatives, including by the Global Innovation Lab for Climate Finance as set out in the annex.  
We also reaffirm our ambition to make the Green Climate Fund fully operational in 2015 and a key institution of the future climate finance architecture.  
We remain committed to the elimination of inefficient fossil fuel subsidies and encourage all countries to follow and we remain committed to continued progress in the OECD discussions on how export credits can contribute to our common goal to address climate change.  
We pledge to incorporate climate mitigation and resilience considerations into our development assistance and investment decisions. We will continue our efforts to phase down hydrofluorocarbons (HFCs) and call on all Parties to the Montreal Protocol to negotiate an amendment this year to phase down HFCs and on donors to assist developing countries in its implementation.  
In order to incentivize investments towards low-carbon growth opportunities we commit to the long-term objective of applying effective policies and actions throughout the global economy, including carbon market-based and regulatory instruments and call on other countries to join us. We are committed to establishing a platform for a strategic dialogue on these issues based on voluntary participation and in cooperation with relevant partners, including the World Bank.  
Energy  
We reaffirm our commitment to the energy security principles and specific actions decided in Brussels in 2014, welcome the progress achieved since then under the Rome G7 Energy Initiative and will continue their implementation. Moreover, we welcome the G7 Hamburg Initiative for Sustainable Energy Security, in particular the additional concrete joint actions to further strengthen sustainable energy security in the G7 countries and beyond.  
Notably, we reaffirm our support for Ukraine and other vulnerable countries in their ongoing efforts to reform and liberalize their energy systems and reiterate that energy should not be used as a means of political coercion or as a threat to security. We welcome the intention of the Ukrainian government to reduce energy-related subsidies and invest in energy efficiency programmes.  
In addition, we intend to continue our work on assessments of energy system vulnerabilities. Moreover, we will work on strengthening the resilience and flexibility of gas markets, covering both pipeline gas and liquefied natural gas. We regard diversification as a core element of energy security and aim to further diversify the energy mix, energy fuels, sources and routes. We will strengthen cooperation in the field of energy efficiency and launch a new cooperative effort on enhancing cybersecurity of the energy sector. And we will work together and with other interested countries to raise the overall coordination and transparency of clean energy research, development and demonstration, highlighting the importance of renewable energy and other low-carbon technologies. We ask our Energy Ministers to take forward these initiatives and report back to us in 2016.  
Resource Efficiency  
The protection and efficient use of natural resources is vital for sustainable development. We strive to improve resource efficiency, which we consider crucial for the competitiveness of industries, for economic growth and employment, and for the protection of the environment, climate and planet. Building on the “Kobe 3R Action Plan”, and on other existing initiatives, we will continue to take ambitious action to improve resource efficiency as part of broader strategies to promote sustainable materials management and material-cycle societies. We are establishing the G7-Alliance on Resource Efficiency as a forum to share knowledge and create information networks on a voluntary basis. As set out in the annex, the Alliance will collaborate with businesses, SMEs, and other relevant stakeholders to advance opportunities offered by resource efficiency, promote best practices, and foster innovation. We acknowledge the benefits of collaborating with developing countries on resource-efficiency, including through innovative public private partnerships. We ask the UNEP International Resource Panel to prepare a synthesis report highlighting the most promising potentials and solutions for resource efficiency. We further invite the OECD to develop policy guidance supplementing the synthesis report.  
Protection of the Marine Environment  
We acknowledge that marine litter, in particular plastic litter, poses a global challenge, directly affecting marine and coastal life and ecosystems and potentially also human health. Accordingly, increased effectiveness and intensity of work is required to combat marine litter striving to initiate a global movement. The G7 commits to priority actions and solutions to combat marine litter as set out in the annex, stressing the need to address land- and sea-based sources, removal actions, as well as education, research and outreach.  
We, the G7, take note of the growing interest in deep sea mining beyond the limits of national jurisdiction and the opportunities it presents. We call on the International Seabed Authority to continue, with early involvement of all relevant stakeholders, its work on a clear, effective and transparent code for sustainable deep sea mining, taking into account the interests of developing states. Key priorities include setting up regulatory certainty and predictability for investors and enhancing the effective protection of the marine environment from harmful effects that may arise from deep sea mining. We are committed to taking a precautionary approach in deep sea mining activities, and to conducting environmental impact assessments and scientific research.
■Development  
Post-2015 Agenda for Sustainable Development  
2015 is a milestone year for international sustainable development issues. The Third International Conference on Financing for Development in Addis Ababa, the UN Summit for the adoption of the Post-2015 agenda in New York and the Climate Change Conference in Paris will set the global sustainable development and climate agenda for the coming years.  
We are committed to achieving an ambitious, people-centred, planet-sensitive and universally applicable Post-2015 Agenda for Sustainable Development that integrates the three dimensions of sustainable development – environmental, economic and social – in a balanced manner.  
The agenda should complete the unfinished business of the Millennium Development Goals, end extreme poverty, leave no-one behind, reduce inequality, accelerate the global transition to sustainable economies, promote sustainable management of natural resources, and strengthen peace, good governance and human rights. In order to mobilize appropriate action in and by all countries and by all stakeholders, we support the formulation and communication of key policy messages. We are committed to building a new global partnership based on universality, shared responsibility, mutual accountability, efficient and effective monitoring and review and a multi-stakeholder approach to our common goals of ending extreme poverty by 2030 and transitioning to sustainable development.  
To help foster this new transformative agenda, we have committed to significant measures on global health, food security, climate and marine protection, sustainable supply chains and women’s economic empowerment.  
Collectively, we commit to supporting furthering financial and non-financial means of implementation, including through domestic resource mobilization, innovative financing, private finance, official development and other assistance and an ambitious policy framework.  
We reaffirm the essential role that official development assistance (ODA) and other international public finance play as a catalyst for, and complement to, other sources of financing for development. We reaffirm our respective ODA commitments, such as the 0.7% ODA/GNI target as well as our commitment to reverse the declining trend of ODA to the Least Developed Countries (LDCs) and to better target ODA towards countries where the needs are greatest. We also commit to encouraging private capital flows.  
Food Security  
Good governance, economic growth and better functioning markets, and investment in research and technology, together with increased domestic and private sector investment and development assistance have collectively contributed to increases in food security and improved nutrition.  
As part of a broad effort involving our partner countries, and international actors, and as a significant contribution to the Post 2015 Development Agenda, we aim to lift 500 million people in developing countries out of hunger and malnutrition by 2030. The G7 Broad Food Security and Nutrition Development Approach, as set out in the annex, will make substantial contributions to these goals. We will strengthen efforts to support dynamic rural transformations, promote responsible investment and sustainable agriculture and foster multisectoral approaches to nutrition, and we aim to safeguard food security and nutrition in conflicts and crisis. We will continue to align with partner countries strategies, improve development effectiveness and strengthen the transparent monitoring of our progress. We will ensure our actions continue to empower women, smallholders and family farmers as well as advancing and supporting sustainable agriculture and food value chains. We welcome the 2015 Expo in Milan (“Feeding the Planet - Energy for Life”) and its impact on sustainable agriculture and the eradication of global hunger and malnutrition.  
Women’s Economic Empowerment  
Women’s economic participation reduces poverty and inequality, promotes growth and benefits all. Yet women regularly face discrimination which impedes economic potential, jeopardizes investment in development, and constitutes a violation of their human rights. We will support our partners in developing countries and within our own countries to overcome discrimination, sexual harassment, violence against women and girls and other cultural, social, economic and legal barriers to women’s economic participation.  
We recognise that being equipped with relevant skills for decent work, especially through technical and vocational education and training (TVET) via formal and non-formal learning, is key to the economic empowerment of women and girls, including those who face multiple sources of discrimination (e.g. women and girls with disabilities), and to improving their employment and entrepreneurship opportunities. We commit to increasing the number of women and girls technically and vocationally educated and trained in developing countries through G7 measures by one third (compared to “business as usual”) by 2030. We will also work to increase career training and education for women and girls within G7 countries.  
We will continue to take steps to foster access to quality jobs for women and to reduce the gender gap in workforce participation within our own countries by 25% by 2025, taking into account national circumstances including by improving the framework conditions to enable women and men to balance family life and employment, including access to parental leave and childcare. The private sector also has a vital role in creating an environment in which women can more meaningfully participate in the economy. We therefore support the UN Women’s Empowerment Principles and call on companies worldwide to integrate them into their activities. We will coordinate our efforts through a new G7 working group on women.  
CONNEX  
We reaffirm our commitment to the initiative on Strengthening Assistance for Complex Contract Negotiations (CONNEX), aimed at providing multi-disciplinary expertise in developing countries for negotiating complex investment agreements, focusing initially on the extractives sector. We emphasize the three pillars of: information integration and accessibility; independence and quality of advice; and capacity building among stakeholders. We endorse the Code of Conduct for multi-disciplinary advisory services and encourage support providers and other relevant stakeholders to incorporate the Code as a set of binding principles into their contracts worldwide. We encourage pilot projects to be undertaken under the banner of the CONNEX initiative in collaboration with support providers, such as the African Legal Support Facility. We welcome further coordination on mechanisms for knowledge sharing and peer learning on the subject of negotiation support.  
Deauville Partnership  
We reconfirm our strong commitment to the people of the Middle East and Northern Africa (MENA). Given the current challenges in the region, we renew our commitment to the Deauville Partnership with Arab countries in transition. We support their efforts to improve governance and the rule of law and welcome the recent agreement on the Deauville Compact on Economic Governance and the Action Plan for Financial Inclusion. We further support their efforts to strengthen democracy and human rights and implement economic and social reform to achieve inclusive growth especially for women and youth, including by fostering responsible financial inclusion and facilitating the flow of remittances. The G7 remains committed to working with governments and global financial centres to follow up on asset recovery efforts. We are convinced that, along with the Deauville partner countries, we can contribute to economic, social and political progress in the Arab countries in transition. The Transition Fund remains an important instrument for supporting country-led reform. We endorse measures to further enhance the Fund´s effectiveness, future viability, and impact. We are committed to delivering on pledges made to date and welcome additional contributions to ensure the capitalization goal is met.  
G7 Accountability  
We remain committed to holding ourselves accountable for the promises we have made in an open and transparent way. We welcome the Elmau Progress Report 2015 which demonstrates the progress we have made so far on our biodiversity commitment and shows how this progress contributes to other G7 development commitments. The report also stresses the need for continued action in this regard. We look forward to the next comprehensive progress report in 2016.  
Conclusion  
We look forward to meeting under the Presidency of Japan in 2016.  
2015年6月22日 - 韓日国交正常化50周年記念式

 

(平成27年6月22日、安倍総理は、都内で開催された韓日国交正常化50周年記念式に出席しました。総理は、挨拶の中で次のように述べました。)  
ちょうど半世紀前の今日、日本と韓国は、日韓基本条約に署名し、新たな時代を開きました。その50周年の記念すべき本日、東京とソウルで、同時に、日韓国交正常化50周年の祝賀行事が開催されますことを、心よりお慶び申し上げます。  
50年前の当時、私の祖父の岸信介や、大叔父の佐藤栄作は、両国の国交正常化に深く関与しました。その50年後の今日、私自身も総理大臣として、この記念すべき日を迎え、この祝賀行事に出席できることを、大変嬉しく思います。  
本日の祝賀行事に、韓国より、ユン・ビョンセ外交部長官、また、ソウルでの祝賀行事にパク・クネ大統領に出席していただいていることを喜ばしく思います。  
日韓国交正常化当時、両国間の人の往来は年間1万人でしたが、現在、500万人を超えるようになりました。また、両国間の貿易額は、当時の約110倍となりました。  
2002年には、サッカー・ワールドカップを日韓で共催し、近年は、日韓両国で『韓流(はんりゅう)』、『日流(にちりゅう)』といった文化ブームも見られました。  
このような活発な人的往来や緊密な経済関係、そして、お互いの文化の共有は、国交正常化以降、両国が作り上げた、かけがえのない財産と言えるでしょう。このような日韓関係の発展は、多くの方々の不断の努力により、数々の障害を乗り越えて築かれたものです。  
そこでは、日本にとっては韓国が、韓国にとっては日本が、最も重要な隣国であり、お互いに信頼し合いながら、関係を発展していかなければならない、との強い想いが広く共有されていたと思います。  
私は、国交正常化から半世紀経った本年に、これまでの50年にわたる日韓両国の発展の歴史を振り返り、両国の人々に共有されてきた、このようなお互いへの想いを、改めて確認し合うことが重要であると考えます。  
日韓国交正常化50周年のテーマは、『共に開こう 新たな未来を』です。  
我々は、多くの戦略的利益をお互いに共有しています。現在の北東アジア情勢に鑑みれば、日韓両国の協力強化、さらには、今日はキャロライン・ケネディ駐日米国大使もお見えでありますが、日韓米の3か国の協力強化は、両国にとってはもちろん、アジア太平洋地域の平和と安定にとっても、かけがえのないものです。  
私の地元である下関は、江戸時代に朝鮮通信使が上陸したところです。下関市は、釜山市と姉妹都市となっており、毎年11月には、『リトル・プサン・フェスタ』というお祭りが開催されます。日本の各地には、韓国の地方自治体と姉妹関係を結んでいる自治体がたくさんあり、今後は、このような地方交流も、一層、発展させていきたいと考えています。  
両国が、地域や世界の課題に協力して取り組み、ともに、国際貢献を進めることは、両国の新たな未来の姿を築くことにつながると確信しています。  
御列席の皆様、これまでの50年間の友好の歴史を振り返りながら、そして、協力、発展の歴史を振り返りながら、これからの50年を展望し、共に手を携え、両国の新たな時代を築き上げていこうではありませんか。そのためにも、私といたしましても、パク・クネ大統領と力を合わせ、共に努力していきたいと思います。  
本日、ここにいらっしゃる方々は、日韓関係の発展のために御尽力されてこられた、両国にとっての恩人の皆様です。改めて、心よりの敬意を表するとともに、皆様方の益々の御健勝と御発展、そして、日韓両国の新たな未来を祈念いたしまして、私の御挨拶とさせていただきたいと思います。  
「新しい未来へ」 韓日首脳が祝辞=国交正常化50年 6/22  
韓日が国交を正常化してから50年を迎えた22日、両政府はソウルと東京で記念式典を開催し、朴槿恵(パク・クネ)大統領と安倍晋三首相がそれぞれ出席した。  朴大統領は在韓日本大使館がソウル市内のホテルで開催した韓日国交正常化50周年の記念式典であいさつし、「(韓日間の)過去の歴史の重荷を和解と共生の気持ちで降ろせるようにしていくことが重要だ。両国がそれを始める時、国交正常化50周年である今年は、韓日両国が新しい未来を開く元年になるだろう」と述べた。  また「国交正常化50周年である今年を新しい協力の未来に進む転換点にすることが後世に対するわれわれの責務」と強調した。 安倍首相は在日韓国大使館が東京都内のホテルで開催した記念式典で、「50年の友好の歴史を振り返り、これからの50年を展望し、新たな時代を築いていこう」と呼び掛けた。その上で「朴槿恵大統領と力を合わせ(両国関係の発展に)努力していきたい」と語った。  
日韓首脳会談どこまで来たのか…越えなければならない山は 6/22  
22日、日韓両国で大使館が主催する日韓修好50周年記念レセプションには、両国の首脳が出席し、相手側にメッセージを伝えた。レセプションへの出席は、朴政権発足後、2年半の日韓関係の屈曲を見た時、当初の可能性は希薄だった。しかし50周年当日を一日前にした21日になって電撃的に出席が実現することになった。50周年行事をきっかけに関係改善が必要な中、共感帯が形成されるだろうという解釈が出てきた。  
日韓は週末に、外務省の杉山外務審議官の訪韓、外交部のユン・ビョンセ長官就任後初となる来日など高位級人事が両国を行き来する緊密な日程をこなした。特にユン長官は安倍首相と面会し、朴大統領の口頭メッセージを伝達するなど、両国首脳の“特使外交”も進められた。日本からは日韓議員連盟の額賀会長が安倍首相の特使として、朴大統領を表敬訪問し、安倍首相のメッセージを伝えた。一部では、週末に繰り広げられた両国のメッセージ交換が事実上の“間接的首脳会談”に違いないという解釈まで出てきている。したがって自然に残る関心は、二人の首脳が会談形態で向き合う姿がいつ演出されるかに注がれている。  
日韓は、朴政権と安倍政権発足後、過去史問題により葛藤を繰り広げてきた。これにより朴大統領が昨年の光復節(8月15日)の祝辞で「慰安婦問題を正しく解決する時、日韓関係が堅実に発展するだろう」とし、関係改善の前提条件として慰安婦問題解決を選定するほどだった。  
しかしユ・フンス駐日大使は最近「慰安婦問題解決が両国首脳会談の前提条件ではない」という立場を明らかにし、首脳会談の敷居を下げる動きを見せている。特に21日、日本で開かれたユン長官と岸田外相との日韓外相会談で、両国が長崎県の端島(通称:軍艦島)など朝鮮人が強制徴用された施設の世界遺産登録に関して「進展した合意」に達したと伝えられ、両国が過去史問題進展を通じた「首脳会談への道ならし」に出たのではないかとも分析されている。これにより、両国で開かれた日韓修好50周年記念レセプションで両国の首脳が直接口頭で提示するメッセージに込められた内容が、今後の日韓首脳会談の本格推進速度を予測できる基準になると見られる。  
これに関して大統領府は、安倍首相を表敬訪問したユン長官を通じて「もう少し努力すれば今後首脳会談を含めたいいことがあるだろう」という朴大統領のメッセージを伝えている。しかし相変わらず、日韓首脳会談への過程は順調ではないようだ。日韓が両国首脳のメッセージを交換するほど、表面的には関係の進展に至ったが、すでに関係改善の前提条件になる過去史問題の整理は足踏み状態だからだ。  
日韓修好50周年をきっかけに両国が過去史問題に対する合意も早く進展に導かれるだろうという展望が出てきているが、一部では「一時的進展」に終わる可能性もあると見ている。これは菅官房長官が18日「慰安婦問題に対する日本の基本的考えは今日まで変わらない」とし、「そういった点について韓国側に粘り強く説明し、理解を求めるという基本的考え方は変わらない」と述べた点でも予測可能な部分でもある。結局日本が、1965年の日韓請求権協定で慰安婦に関する法的問題は終結されたという主張を繰り返し、「韓国側が要求する水準」の責任ある措置をとらない可能性は相当ある。特に8月、安倍首相の戦後70周年談話に「謝罪と反省」が含まれるかなど、過去史問題に対する真心のある表現が込められていない場合、首脳会談議論は瞬く間に水面下に沈む可能性が高い。  
専門家はこのような観点で日韓がことし中に実現の可能性が提起されている日中韓での首脳会談では日韓両国の首脳が会う場面を作りながら、順次段階を踏む必要があると指摘している。会談結果がよくない場合、吹いてくる爆風に対するリスクが大きい二国間会談よりは、他者行事を通じた“自然な出会い”によって始まるのが外交的負担は少ないという観点においてである。  
日韓はまず日韓修好50周年レセプションでの首脳間メッセージの交換をきっかけに、首脳会談のための外交チャネル間での実務協議を進めると見られ、今後の推移が注目される。  
ユン外相は「慰安婦問題において初期より今の時点で意味ある進展に至ったと言える」とし、「詳しい事項について我々が望むことが入るよう努力しなければならない状況だ」と説明し、日韓が過去史問題に対するそれなりの接点も探していることを明かしていた。また「両国関係が好循環的にいくのが大事だ」とし、「日本の『明治日本の産業革命遺産』の世界遺産登録問題が円満に合意されることが、おそらく好循環の接近に相当するモメンタムになると思う」と述べ、日韓修好50周年をきっかけに広がる両国関係改善の歩みの推進力に続く意志を明らかにした。  
四つの政治戦が集中した夏 / 60年安保闘争の幸運に深く感謝する夏  
安保法制の諸法案(戦争法案)が衆院で審議入りとなった。政府は今国会での成立をめざしている。今の状況から考えれば、法案が可決成立するときは強行採決で押し切った形になるだろう。それはいつだろうか。マスコミで跋扈する政局屋たちが、国会の日程を垂れて法案の行方を講釈する幕はもう少し先だが、産経の記事を読むと、6月24日までの会期を47日間延長して、8月10日が閉会という予定になっている。この記事は少し古い情報なので、今後の審議と駆け引きの中で変動はあると思われるが、お盆の前に参院本会議で可決して成立というのが安倍晋三の基本戦略だ。必要な審議時間から考えてそのタイムラインとなり、それを前提とすると、7月初旬と予想される衆院特別委での審議打ち切り採決が攻防の一つのヤマ場となる。いずれにせよ、あと2か月後には決着はついている。審議先送りになっていれば、われわれの勝利であり、可決成立になっていれば安倍晋三の勝利だ。審議先送りになった場合、私の予測だが、単純に秋の臨時国会に再提出になるのではなく、法案そのものの作り直しになり、来年の通常国会まで持ち越しになる可能性が大きい。それだけ問題点が多く、根本的に不具合で、審議をすればするほど破綻が明らかになって混乱が広がる法案だ。まともに審議できない。安倍晋三は、最初からこの法案をまともに審議するつもりがない。  
10本の法案を一つのパッケージにして、「平和安全法制整備法」などという冗談のような名前をつけたのは、おそらく防衛官僚の智恵ではなく、安倍晋三の独断だろう。本来、一つ一つの新法案や改正法案を審議し、前と何がどう変わったのか、新しい概念(存立危機事態・重要影響事態)はなぜ導入されたのか、その説明に合理性があるのか、時間をかけて丁寧に審議する必要があるし、マスコミが報道して国民の間で議論がされなくてはいけない。安倍晋三が10本の法案を1本に纏めたのは、法案の中身に立ち入って詳しく審議させないためであり、国民に考える時間を与えず、急いで可決成立させてしまうためだ。つまり、今回の二つの戦争法案は、最初から細かな審議や説明をするつもりがなく、問答無用の強行採決での決着が想定されている。法案の修正も考えていない。報ステで立野純二が喝破したように、「決めつけ」と「すり替え」と「ごまかし」で終始する作戦であり、いわゆる「平行線」で時間を潰し、民主党を憤慨させて委員会欠席に追い込むか、混乱のまま時間切れで強行採決に持ち込む思惑だ。先週(5/20)の党首討論の様子が、まさに特別委の進行を先取りしていたと思われるが、安倍晋三は野党側の質問に答えず、壊れたレコードのように「新三要件」を何度も復唱し、対論者の持ち時間を潰していた。NHKの絵(編集映像)を作ることしか考えてない。  
この法案は、論議に足るまともな中身を持っておらず、おそらく、自衛隊の将官も意味をよく理解しておらず、従来の法制度体系との異同について整合的に納得していないはずだ。存立危機事態とか、重要影響事態とか、新三要件の歯止めとか、そういう詭弁と詐術を部下に向かって真顔で説明することは無理だろう。とりあえず彼らが意味を了解できるのは、改定された日米ガイドラインの方で、ガイドラインから現場にダウンロードされる具体的な要綱や計画の方に注意を向け、そこにコミットし、自らの隊の行動を基礎づけざるを得ない。法律から切り離される。日本国の法律体系で自らを根拠づけることができない。これは、自衛隊を官邸のフリーハンドにするという意味であり、安倍晋三の私兵にするということで、完全に米軍の指揮下に入った - 第1次大戦下のインド軍のような - ロボット的な植民地軍に完成させるということだ。法案の中身については、また別の機会に論じたいが、一つだけ言えるのは、この法案をそのまま成立させたら、もう次の法律改正はなく、戦争が始まるということであり、戦争を始めるということである。確実に戦場での戦闘で自衛隊員が死に、そうなった後、英霊として合祀するべく靖国神社の国営化法案という段階に進むだろう。実際に昨日(5/26)、法案の審議入りと同時のタイミングで、元統幕長の斎藤隆が口火を切り、それをNHKの7時のニュースが報道した。  
この夏は、重大な政治戦が目白押しの状況になっている。(1)安保法制(戦争法案)の国会審議、(2)辺野古の埋め立て工事、(3)川内原発の再稼働、(4)戦後70年談話の発表の四つがあり、それに加えて、(5)残業代ゼロや派遣法改悪の労働法制の審議がある。安倍晋三は、この五つの政局を同時期に集中させて設定していて、すべてを一気に突破する構えのようだ。強気の安倍晋三らしいし、安倍晋三の側に立って考えたとき、その戦略設計は間違っているとは言えない。合理的だ。なぜかと言うと、反対派は運動のエネルギーが分散されるからであり、一つの問題に一点集中できないという環境条件を押しつけられる。現在、川内原発の再稼働は7月下旬と言われている。戦後70年談話は、終戦の日の8月15日が発表予定である。例えば、辺野古の海への砕石とコンクリートの流し込みと同時に、衆院特別委での強行採決をやればどうなるだろう。マスコミは、安保法制(戦争法案)の方は騒ぎたてるだろうが、辺野古の方は大きく報道しないだろう。世間の関心を永田町の方に引きつけ、どさくさ紛れで辺野古の工事を強行し、全国からの反発と非難の声を殺ぐ、そういうショック戦略が考えられているのではないか。この二つを同時に突破されたら、左翼リベラルの側は、当然、その対策と挽回に回らなければならず、そうなると川内原発の再稼働を止める運動を盛り上げることが難しくなるだろう。  
戦争法案を強行採決され、辺野古の埋め立てを強行され、川内原発を再稼働されたら、その三つが重なって起きたときは、左翼リベラル勢力は呆然自失になっていて、敗北感と無力感に打ちのめされ、もう8月15日の戦後70年談話を食い止める力は残ってないだろう。安倍晋三は、戦争法案を突破し、辺野古の工事を強行し、川内原発を再稼働させて、マスコミを黙らせ、三つの政治戦の勝利者として、アウステルリッツの三帝会戦に勝利してパリに凱旋したナポレオンのように、8月15日に靖国神社に参拝して、「侵略」も「植民地支配」も「反省」も「お詫び」もない、「積極的平和主義」を謳歌する戦後70年談話を発表するに違いない。マスコミの岸井成格も、ネットの内田樹も、潰走の末に放心して絶句することだろう。2か月なんてあっと言う間に過ぎてしまう。川内原発の再稼働を止める条件は、戦争法案の国会通過を阻止し、辺野古の工事を中止させることだ。この二つの政治戦に勝利できれば、原発再稼働はできなくなり、戦後70年談話も先送りになる。畢竟、四つは一つである。来月(6月)が勝正念場だ。思い出すのは、2年前の特定秘密保護法案の政局で、11月7日から衆院で審議入りし、12月6日には参院本会議で可決成立した。スピード決着だった。審議入りしてからは、岸井成格や東京新聞などマスコミは批判の論陣を張ったが、反対運動の立ち上げが遅く、国会での野党の抵抗も脆弱だった。  
2年前と比べて、今回はテレビがひどく萎縮している。朝日が読売化している。秘密保護法案のときも、世論調査は反対が多数だった。集団的自衛権のときもそうだった。世論は反対多数なのに、安倍晋三は強引に押し切り、その後の選挙では勝利した。国民は選挙で安倍晋三にNoを突きつけなかった。左翼リベラルは、2014年の都知事選と衆院選で安倍晋三を敗北に追い込む戦略戦術を組まず、身勝手な党利党略を貫き、安倍晋三の権力を安泰にさせた。本当なら、この法案が審議入りする前に、民主・共産・小沢で協議があってよく、法案反対の国民運動が提起されてしかるべきだったのだが、期待したその場面は現出しなかった。統一戦線の結成を望む声はか細く、その斡旋に動く学者・文化人も登場しなかった。野党がどこまで、アリバイのポーズでなく、本当に可決成立を阻止する決意で臨むのか、今の時点では確信が持てない。民主と維新が、例えば労働法制の方とバーター取引に応じるとか、秋国会での冒頭採決を密約して形だけ成立を先延ばしにするとか、そういう裏切りの動きに出てわれわれを騙す展開も十分に考えられる。この2年間を客観的に正視すると、憂鬱な記憶ばかりが蘇って、今回の(四つが重なった)政治戦の行方に悲観的な気分にならざるを得ない。だが、逆もまた真で、安倍晋三が四つを一度に集中させたことは、安倍晋三が負ければ、四つが一気に吹っ飛ぶことでもある。ピンチはチャンス。  
丸山真男は、最晩年の1995年に60年安保を回顧して、「突如としてあの大爆発になった」と当時の実感を語っている。「なにしろ、国会の周辺は毎日毎日何十万という市民でしょう。いま、ああいう事態というのは、ちょっと考えられないですね。正直言って、よくあれだけ、どこからも動員されないで、自然に集まったものだと思います。社会党とか総評とか、そんなのは全体の市民から見たらほんの一部で、文字通り連日何十万という市民が国会を取り囲んだ」(第15巻 P.337)。丸山真男にとって、60年安保の市民の爆発は意外なものだった。この言葉は、一つの救いというか励ましの材料になるものだ。60年安保の反対闘争の爆発は、丸山真男にも意外であり、したがって岸信介にも意外な出来事だった。もし60年安保の闘争がなかったらと、最近はその想像をめぐらせることが多い。改憲が断行され、戦前レジームに戻り、天皇は元首に、自衛隊は国防軍になって、ニクソン・軍産複合体と謀って停戦下の朝鮮半島に介入し、台湾海峡で謀略工作をして紛争を起こし、ベトナム戦争に派兵していただろう。東アジアの中で、韓国や台湾以上に強烈な反共軍事国家となっていただろう。高度経済成長などなく、共産党は再び(三たび)非合法化されていたに違いない。日本の60年代は、実際の進行とは全く違う形になり、その後の姿も大きく変わっていた。中学校の社会科の教師が、60年安保は内乱寸前だったと言っていたことを思い出す。  
市民の爆発的闘争がなければ、それこそ、非合法化された左翼によるテロ事件(武力革命闘争)が起き、日本国憲法などとっくに吹っ飛んだ過酷な社会になっていた。60年代の高度成長期に子どもだった者として、あの、梶原一騎の少年マガジンと、永井豪の少年ジャンプと、巨人のV9と、円谷プロや東宝や大映の怪獣映画の、すなわち東京五輪から大阪万博までの、かぎりなく、かぎりなく平和で希望に満ちていた懐かしい時代を思い返したとき、その幸運と感謝を今ほど強く思わないときはない。
「戦後70年談話」の閣議決定は見送り? 安倍首相のジレンマ 7/3  
安倍晋三首相が今夏に出す「戦後70年談話」をめぐり、閣議決定を見送る方向で調整されていると報じられている。また「終戦の日」である8月15日より前倒しする案も浮上しているようだ。過去の村山・小泉談話はいずれも閣議決定され、8月15日に発表されてきた。今回の談話をめぐる報道をどう見るか。戦後50周年記念事業などに内閣外政審議室審議官として携わった美根慶樹氏に寄稿してもらった。  
村山・小泉談話では「反省」「お詫び」表明  
安倍首相は2012年末、政権に復帰したころから、戦後70周年には首相としての談話を発表する考えを表明しており、その後、国会答弁などで50周年の村山談話や60周年の小泉談話を「全体として引き継ぐ」と説明してきました。  
村山談話と小泉談話では、日本が先の大戦で近隣諸国などに対し、「植民地支配と侵略によって」「多大の損害と苦痛を与えた」ことについての「痛切な反省」と「心からのお詫び」の気持ちが表明されています。しかし、安倍首相は、これらのうち、どの部分は継承し、どの部分は継承しないか、明確な説明をしていません。  
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」が持論です。戦後に作られた制度や秩序は本来の日本のあるべき姿を歪めており、是正する必要があるという考えであり、日本国憲法についても改正が「不可欠」だと主張しています。また安倍首相は、「侵略」の定義は定まっておらず、先の大戦における日本の行為を侵略であったと断定するのは適当でないという考えです。  
このような事情から、安倍首相は村山・小泉両談話において重要な表明である、日本は近隣諸国を「侵略」したという認識を引き継がないのではないかという疑問を持たれています。  
「侵略」言及せず閣議決定避ける?  
安倍首相は談話の内容について有識者の意見を徴するため懇談会(21世紀構想懇談会)を設置し、同懇談会は6月25日に審議を終えました。そこで議論がもっとも白熱したのは日本の行為を「侵略」と位置付けるかどうかであり、「侵略」であったとする意見が相次いだ一方、侵略の定義は明確でないとして、「侵略という言葉の使用は問題性を帯びる」との声も出たと報道されました(26日付『読売新聞』)。  
懇談会の議論の結果を談話に取り入れるか、取り入れるとしてもどの程度か、決まっていません。菅官房長官は6月22日の記者会見で、「懇話会でのさまざまな意見を聞いた上で、最後は首相を中心に政府として判断する」と述べています。  
「談話」の意味やその発表要件は法律で定義されていませんが、首相として見解を表明しておいた方がよい重要問題について談話が発表されるのが習わしです。首相限りで発表されることもありますが、談話が閣議決定されると内閣全体が了承したことになり、重みが増します。村山・小泉両首相談話は閣議決定されました。  
しかし、安倍首相の談話については閣議決定しない考えがあるといううわさが出ています。そのことを質問された菅官房長官は、「まだ何も決まっていない」と答えました。これが日本政府の公式な立場です。  
このようなうわさが出るのは、安倍首相には「侵略」の意味などについてこだわりがあるからのようですが、「侵略」への言及を避けた談話については、内閣の他の構成員(国務大臣)が賛成するか必ずしも明確でありません。また対外的にも問題がありうるからです。  
70年談話を出す意味との整合性  
中国や韓国は村山・小泉両談話を積極的に評価し、安倍首相も戦後70周年談話を発表するのであれば、両談話のような歴史認識を明確に示すことを強く希望しています。先の大戦で日本による植民地支配と侵略によって多大の損害と苦痛をこうむった両国として当然でしょう。  
しかし、安倍首相の談話が「侵略」など重要な歴史認識を明言せず、避けて通れば両国が反発することは不可避であると思われます。日韓首脳会談実現の努力に悪影響を及ぼし、結局開かれなくなる恐れも排除できません。また、米国からも問題視される危険があります。米国は安倍首相の靖国神社参拝など歴史に対する姿勢に疑問を抱いているからです。  
下手をすると一種の矛盾した状況に陥る危険があります。つまり、安倍首相にしても重要な問題だからこそ談話を発表するのでしょう。しかし、安倍首相個人の歴史認識にこだわれば内外で強く批判され、ひいては政治的な問題に発展して国会運営に困難が生じ、安保法制審議にも影響が及ぶ恐れがあります。そういう事態を回避するために閣議決定しないというのは、結局談話を重要な表明として扱わないことになるのではないかと思われます。閣議決定しないことにより、反対意見を交わそうとするのはしょせん姑息な手段ではないでしょうか。  
談話は発表しなければならないものではありません。しかし、首相として談話を発表する限り、内容的にも、手続き的にも堂々とした姿勢で臨んでもらいたいと願わずにおられません。 
2015年8月14日 - 戦後70年安倍首相談話

 

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。  
百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。  
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。  
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。  
 
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。  
そして七十年前。日本は、敗戦しました。  
戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。  
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。  
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。  
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。  
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。  
 
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。  
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。  
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。  
 
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。  
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。  
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。  
ですから、私たちは、心に留めなければなりません。  
戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。  
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。  
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。  
 
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。  
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。  
しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。  
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。  
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。  
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。  
 
私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。  
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。  
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。  
終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。  
平成二十七年八月十四日 内閣総理大臣 安倍晋三  
「ありのまま受け止めて」=安倍首相、各国の理解に期待  
安倍晋三首相は14日、戦後70年談話を発表した記者会見で、「中国の皆さんには、わが国の率直な気持ちをありのまま受け止めていただきたい」と述べた。また、「アジアの国々をはじめ、多くの国々と未来への夢を紡いでいく基盤にしていきたい」と述べ、各国の理解に期待を示した。  
首相は日中関係について、「習近平国家主席との2度にわたる首脳会談を通じ、戦略的互恵関係の考え方に基づいて改善していくことで一致している」と強調。「対話のドアは常にオープンだ」と述べ、習氏との再会談にも意欲を示した。  
一方、首相はウクライナとともに東シナ海、南シナ海に言及し、「世界のどこであろうとも、力による現状変更の試みは決して許すことはできない」とけん制した。  
村山富市首相談話が日本の行為と認めた「侵略」の文言を70年談話にも記述したことに関しては、「具体的にどのような行為が侵略に当たるかは、歴史家の議論に委ねるべきだと考えている」と踏み込んだ説明を避けた。  
首相はまた、「できるだけ多くの国民と共有できるような談話を作っていくことを心掛けた。聞き漏らした声はないか、常に謙虚に歴史の声に耳を傾け、未来への知恵を学んでいく」と語った。  
談話「侵略」盛り込むも“直接言及”避ける  
政府は14日、戦後70年の安倍首相談話を閣議決定した。焦点となっていた「侵略」については、言葉は盛り込まれたものの、先の大戦における日本の行為を侵略だと直接言及することは避けた。  
安倍首相「事変、侵略、戦争、いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」  
安倍首相は会見で、「具体的にどのような行為が侵略にあたるかは歴史家の議論に委ねるべき」と述べた。  
また、談話では「お詫び」について、日本政府がこれまで心からのお詫びを表明してきたことに言及した上で、「こうした立場は今後も揺るぎない」と述べるにとどめた。  
安倍首相「(我が国は先の大戦について)繰り返し痛切な反省と 心からのお詫びの気持ちを表明してきました。こうした歴代内閣の立場は今後も揺るぎないものであります」  
その上で、談話では「あの戦争には何ら関わりのない私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」としている。  
また、「植民地支配」については「永遠に訣別(けつべつ)しなければならない」としている。安倍首相は会見で、「歴史の教訓を深く胸にきざみ、アジア、そして世界の平和繁栄に力を尽くす、そうした思いも今回の談話に盛り込んだ」と強調した。  
海外反応は様々 メディアは厳しい声も  
 米国「痛切な反省を歓迎」、台湾「歴史事実直視を」  
安倍晋三首相が14日に発表した戦後70年談話は海外の主要放送局が中継したほか通信社も速報を流し、その内容と表現を巡り世界の注目を集めている。米国やオーストラリア、フィリピン政府などが談話を評価する声明を発表する一方、欧米メディアの一部は厳しい見方を示す。各国の見方はまだら模様だ。  
米国家安全保障会議(NSC)のネッド・プライス報道官は14日、「安倍首相が痛切な反省を表明したことを歓迎する」との声明を出した。首相が歴代内閣の談話を継承する認識を示したことを歓迎するとともに、世界の平和と繁栄に力を尽くすとした安倍首相の意向を評価した。  
プライス氏は「70年にわたり日本は平和や民主主義、法の支配を実証してきた」として「世界の国々の模範となるものだ」と述べた。  
オーストラリアのアボット首相は同日、安倍晋三首相の戦後70年談話を「歓迎する」との声明を発表した。アボット氏は「第2次大戦での豪州や他国の苦しみを認識したもの」と評価したうえで、同じ地域にある国々が未来志向で「共に前進する」ことの大切さを訴えた。  
日豪が戦後70年を経て「特別な関係」を築いたと指摘し、それを可能にしたのは両国の国民や指導者が「過去の影が未来を決定づけることを拒んだ」からだと述べた。豪州は戦争での犠牲や苦難を忘れたことはないが、日本は「何十年にわたり模範的な国際市民として世界の平和や安定に貢献してきた」と強調した。  
大戦の激戦地だったフィリピンの外務省は14日夜「戦争の惨禍を繰り返さないとする日本に同意する」とコメントし、談話を評価する立場を示した。  
台湾の総統府は同日、安倍晋三首相が発表した戦後70年談話について「馬英九総統は日本政府が今後も歴史の事実を直視し、深い反省と教訓を心に刻むことを期待する」との声明を発表した。馬総統が2008年の就任後に日台友好を推進してきた成果にも触れるなど、日本側への配慮もにじませた。  
一方、欧米メディアの見方は厳しい。米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は「近隣諸国が要求していたような安倍首相自身の言葉による率直な謝罪は避けた」と解説。米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、過去の村山談話で使われていた「心からのおわび」「植民地支配と侵略」という表現をそのまま繰り返すことはなかったと指摘した。  
英ロイター通信は安倍首相が「彼自身の新しいおわびは表明しなかった」と報じた。英国放送協会(BBC)も、独自の新たな謝罪は示さなかったと分析。安倍首相は度重なる謝罪の要求にいら立ちを感じている国内の声に配慮する必要があったと解説した。  
仏AFP通信は安倍首相が、将来の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならないと語ったことを伝えた。  
ドイツのDPA通信は中国と韓国が談話の内容に関心を示していたと指摘した上で、安倍首相が「(談話で)繰り返し謝罪した」と伝えた。ただ将来も謝罪を続けるかどうかが曖昧になっていることや、歴史の真相究明が遅れていることを指摘する記事もあった。  
シンガポールの政府系テレビ局は安倍首相が談話を読み上げ始めると同時にニュース専門チャンネルで中継した。途中他のニュースを挟みつつ、同時通訳をつけて談話の紹介を続けた。カギとされた「深い反省」「心からのおわび」の言葉が含まれたことを繰り返し報じ、中国と韓国が謝罪を迫っていたことを紹介した。  
中韓米それぞれの反応  
中国外務省は、報道官のコメント発表し、「この重大な問題で曖昧な態度をとってはいけない」などと暗に批判した。  
中国外務省の張業遂筆頭外務次官は14日夜、北京に駐在する日本の木寺大使を呼び出して、中国側の厳しい立場を表明した。一方、木寺大使は「一部だけを切り取って強調するよりも、談話全体としてのメッセージを受け取ってほしい」と張外務次官に伝えたという。また、中国外務省の報道官は「日本が被害を受けた国の人々に真摯(しんし)なお詫(わ)びをして軍国主義の歴史ときっぱり決別することは当然のことであり、この重大な問題で、いかなる曖昧な態度もとってはいけない」などとするコメントを発表した。これは安倍首相が「侵略」や「お詫び」について直接言及しなかったことを暗に批判したものとみられる。  
また、韓国外務省の当局者によると、14日夜、尹炳世外相は日本の岸田外相から談話の趣旨について電話で説明を受けたのに対し、「日本の誠意ある行動が何よりも重要だ」と応じたという。ただ、談話への評価については「綿密に検討してから立場を明らかにする」と述べ、現段階での評価は避けた。  
韓国のSBSテレビは、談話には「植民地支配」や「侵略」などの重要なキーワードが盛り込まれたものの、行為の主体が不明確だと批判的に報じた。その上でSBSテレビは「過去の談話から後退したとの批判は避けがたい」と伝えている。  
一方、アメリカのNSC(=国家安全保障会議)は14日、声明を発表し、「歴代内閣の立場は揺るぎないとしただけでなく、第2次大戦中に日本がもたらした苦痛に対する『痛切な反省』を表したことを歓迎する」と述べた。また、談話が「世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献する」と述べたことも「評価する」としている。  
中国外務省がコメント  
中国の外務次官が、北京駐在の木寺大使に中国側の立場を表明し、「日本が被害を受けた国の人々に真摯なお詫びをして、軍国主義の歴史ときっぱり決別することは当然のことであり、曖昧な立場を取るべきではない」などとしている。  
戦後70年談話の評価 
安倍政権「3つの試練」  
安倍政権にとって、「試練の3連発」であった。11日の川内原発再稼働、14日の戦後70年談話、17日の4−6月期GDP速報である。  
このうち最大の懸念ともいわれていた戦後70年談話は、うまく乗り切ったようだ。共同通信社が14、15両日に実施した全国電話世論調査によると、戦後70年談話について、「評価する」との回答は44.2%、「評価しない」は37.0%だった。内閣支持率は43.2%で、前回7月の37.7%から5.5ポイント上昇した。  
4−6月期GDP速報はよくないといわれているが、政権運営としての善後策はある。GDP統計がよくない原因は、1年前の消費増税の影響が長引いているためだ。であれば、本コラムで既に指摘したように、外為特会の“20兆円”を増税の悪影響解消に使えばいい。景気対策としては、減税・給付金中心の政策がいいだろう。  
さて、最大の懸念であった戦後70年談話について触れたい。3400字程度なので、是非全文を読むことをおすすめする。この談話は、外国語訳もされている。  
中学・高校の歴史の授業で習った、日本が第二次世界大戦に突入していく経緯を復習するいい機会だ。西洋列強の植民地支配がアジアに及んで、それへの対抗で日本は道を間違ったということだ。この70年談話では、西欧列強も悪いことをした、日本も悪かった、そして今の中国も悪いことをしているという、ごく普通の歴史が書かれている。  
「カントの三角形」に従っている  
この談話を起草した人は、国際政治・関係論の素養がある。  
それを示す前に、コラム「集団的自衛権巡る愚論に終止符を打つ! 戦争を防ぐための「平和の五要件」を教えよう」において、過去の戦争データから、平和を達成するための理論を紹介したことを思い出して欲しい。  
具体的には、1 きちんとした同盟関係をむすぶことで40%、2 相対的な軍事力が一定割合(標準偏差分、以下同じ)増すことで36%、3 民主主義の程度が一定割合増すことで33%、4 経済的依存関係が一定割合増加することで43%、5 国際的組織加入が一定割合増加することで24%、それぞれ戦争のリスクを減少させる 。  
これは、1 同盟関係、2 相対的な軍事力を中心に説明する「リアリズム」と3 民主主義、4 経済的依存関係、5 国際的組織加入で説明する「リベラリズム」がともに正しいことをも示している。後者の3点は、哲学者カントにちなんで、「カントの三角形」ともいわれている。  
今回の戦後70年談話は、「カントの三角形」にほぼ従った歴史の説明になっており、この意味で、国際政治・関係論の裏付けがあり、国際社会で理解されやすくなっている。この点、国内左派が依存する憲法論議は世界ではほとんど通じない「お花畑」であることと好対照だ。  
「人々は『平和』を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」と書かれているが、政治が軍部の独走を防げなかったことにより 3 民主主義、経済ブロックで 4 経済的依存関係、国際連盟脱退で 5 国際的組織加入、つまり、「カントの三角形」の3点がいずれも崩れていったというわけだ。  
そして、日本が第二次世界大戦に進んでいったわけで、この過程は、「カントの三角形」という観点でみれば納得である。  
政治的に「無難」  
こうした国際政治の常識がバックグランドにあるので、戦後70年談話は世界から受け入れられるだろう。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」というワードがあるかどうかは、かなり矮小な観点であるが、戦後70年談話では、その点にも配慮がされている。  
そうした矮小な観点から見る人たちは、ワードが入っているかどうかだけを気にするので、逆にいえば、ワードを入れたら本格的な批判ができなくなるということだ。事実、中国も韓国もまともに、戦後70年談話を批判できていない。  
その上で、安倍首相が言いたいことは「第二次世界大戦を忘れてはいけないが、謝罪しつづけることもない」ということだ。ここはしっかり書き込まれている。当事者の子供や子孫は、事実を忘れてはいけないが、当事者の子孫としての責任を引き継ぐのではないだろう。責任問題は講和条約などで既に清算済みである。  
以上の意味で、戦後70年談話はよく書かれており、政治的に「無難」である。  
ただ、残念なのは、冒頭の世論調査で、安保関連法案の今国会成立について、反対62.4%、賛成29.2%となっていることだ。  
まだ、国民の多くは、安保関連法案の本質が理解できていない。安保関連法案について、その本質をいえば、1同盟関係の強化により戦争リスクを最大40%減らし、2自前防衛より防衛費が75%減り、3個別的自衛権の行使より抑制的(戦後の西ドイツの例)になるという点だ。  
安保関連法案と戦後70年談話の両方をみると、安保関連法案は1同盟関係、2相対的な軍事力に対応し、戦後70年談話は3民主主義、4経済的依存関係、5国際的組織加入の「カントの三角形」に対応していることがわかる。つまり、安保関連法案と戦後70年談話は、見事に先の本コラムで掲げた「平和の五条件」に対応している。  
こうしてみると、国際政治・関係論の立場から、安倍政権はきわめてまっとうかつ世界で通用する安全保障政策によって平和を追求している。にもかかわらず、安保関連法案に国民の理解が進んでいない点が気になる。  
元首相らが反対しているのは「いい兆候」  
ただし、「いい兆候」もある。マーケットでいうリバース・インディケーター、俗に言う「逆指標」「逆神」である。物事の本質をなかなか理解できないときに、あの人がいうのなら間違いに違いないと確信するのだ。  
11日、元首相5人が安保関連法案に反対を表明した。元首相とは、細川、羽田、村山、鳩山、菅各氏である。この方々は、これまでの歴史で決して名宰相とはいえない人たちであろう。その人たちが安保関連法案に反対するのであるから、おそらく安保関連法案はいいものだろうという連想だ。  
そういえば、細川政権は7%の消費増税もどきの国民福祉税をいいだした。羽田政権は戦後最短の内閣だった。村山政権は、阪神淡路大震災でまったく機能しなかったし、5%への消費増税を内容とする税制改革法案を決定した。鳩山政権は、在日米軍の抑止力を理解できずに辺野古移転で迷走した。菅政権は、福島第一原発事故で初動を間違ったし、急に消費増税を言い出した。  
勘のいい人ならば、安保関連法案についてはこうした「逆神」が反対するのであるから、賛成してもいい、となるのではないか。もちろん、世界の常識は「賛成」である。これまでのデータから、安保関連法案によって戦争リスクを減らせることが明らかだからだ。戦後70年談話とあわせてみれば、戦争リスクを減らすのには、ベストな組み合わせなのだ。 
2015年8月15日 - 戦没者追悼式 安倍首相式辞

 

天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。  
遠い戦場に、斃(たお)れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥(はる)かな異郷に命を落とされた御霊の御前に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。  
皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。  
70年という月日は、短いものではありませんでした。平和を重んじ、戦争を憎んで、堅く身を持してまいりました。戦後間もない頃から、世界をより良い場に変えるため、各国・各地域の繁栄の、せめて一助たらんとして、孜々(しし)たる歩みを続けてまいりました。そのことを、皆様は見守ってきて下さったことでしょう。  
同じ道を、歩んでまいります。歴史を直視し、常に謙抑を忘れません。わたくしたちの今日あるは、あまたなる人々の善意のゆえでもあることに、感謝の念を、日々新たにいたします。  
戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓(ひら)いていく、そのことをお誓いいたします。  
終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、末永いご健勝をお祈りし、式辞といたします。  
2015年8月15日 - 戦没者追悼式 天皇陛下のおことば

 

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。  
終戦以来既に70年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。  
ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。  
 
 
 
勝てば官軍

 

極東国際軍事裁判 
第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。  
この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東條英機元首相を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告人は7名、人道に対する罪で起訴された被告人はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこのthe judgmentsを受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している。 
戦犯裁判までの経緯 

 

アメリカの対日政策  
裁判方式  
1944年8月から終戦以降の政策方針と敗戦国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた。  
国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会  
アメリカの対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設立された。さらにその下位組織極東小委員会(Subcommittee for the Far East,SFE)が1945年1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された。戦犯裁判方式にするか、指導者の処刑方式かの検討もなされ、1945年8月9日報告書(SFE106)では対独政策を踏襲し、「共同謀議」の起訴を満州事変までさかのぼること、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので人道に対する罪を問責しても無駄であると報告された。8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた。  
連合国戦争犯罪委員会による対日勧告  
また、1943年10月20日に17カ国が共同で設立した連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)は戦争犯罪の証拠調査を担当する機関であったが、終戦期には政策提言などを行うようになっており、オーストラリア代表ライト卿が対日政策勧告を提言し、1945年8月8日には極東太平洋特別委員会を設置し、委員長には中華民国の駐英大使顧維鈞が就任し、8月29日に対日勧告が採択された。  
SWNCC57/3指令  
アメリカ統合参謀本部がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する国務・陸軍・海軍調整委員会が1945年10月2日にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における戦犯裁判所の設置準備が開始された。  
しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際裁判」には否定的で、「57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東条英機を裁く権限を自分に与えるよう1945年10月7日の陸軍宛電報でのべ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによって「戦争の犯罪化」に反対した。GHQ参謀第二部部長ウィロビーによれば、マッカーサーが東京裁判に反対したのは南北戦争で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからとのべている。  
スティムソン、マクロイ陸軍次官補らはマッカーサーの提言を採用せず、57/3指令の国際裁判方針を固守した。
イギリス  
イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった。結局英国は、1945年5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省およびイギリス連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは1945年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任した。
国際検察局の設置  
1945年(昭和20年)12月6日、アメリカ代表検事ジョセフ・キーナンが来日する。翌7日、マッカーサーは事後法批判の回避、早期開廷、東条内閣閣僚の起訴をキーナンに命じた。翌1945年(昭和20年)12月8日、GHQの一局として国際検察局(IPS)が設置された。
国際軍事裁判所憲章と特別宣言  
1946年(昭和21年)1月19日、ニュルンベルク裁判の根拠となった国際軍事裁判所憲章を参照して極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められた(1946年4月26日一部改正)。  
同1946年(昭和21年)1月19日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言を発した。この宣言は、ポツダム宣言および降伏文書、1945年12月26日のモスクワ会議(英語版)によってマッカーサーに対してアメリカ・イギリス・ソ連、そして中華民国から付与された、日本政府が降伏条件を実施するために連合国軍最高司令官が一切の命令を行うという権限に基づく。
フランス  
アメリカ国務省は1945年末にフランス政府に対し判事と検察官を指名するよう要請したが、フランスが悠長であったため翌1946年1月22日に催促した。フランスははじめインドシナ高等弁務官のダルジャンリューの意見もあり、パリ大学のジャン・エスカラを選んだ。エスカラは1920年代に蒋介石中華民国の法律顧問をつとめたこともあったが、要請を断り、他の学者を紹介するにとどめた。一方、第二機甲師団陸軍准将ポール・ジロー・ド・ラングラードらが政府に対して派遣する法律家は植民地での経験があるものがよいと提言し、マダガスカルや西アフリカの控訴院判事を歴任したアンリ・アンビュルジュが指名された。しかしアンビュルジュも出発直前になって固辞し、アンリ・ベルナールが指名された。
日本の裁判対策  
終戦後、日本では自主裁判も構想されたが、美山要蔵の日記にもあるように残虐行為の実行者のみが裁判の対象となってしまい、戦犯裁判は戦勝国による「勝者の裁き」であるとの覚悟があったとされる。  
1945年10月3日、東久爾内閣は「戦争責任に関する応答要領(案)」を作成し、その後11月5日終戦連絡幹事会は「戦争責任に関する応答要領」を作成し、天皇を追求から守ること、国家弁護と個人弁護を同時に追求すると書かれた]。  
外務省外局終戦連絡中央事務局主任の中村豊一は1945年11月20日、戦犯裁判対策を提言し、弁護団、資料提供、臨時戦争犯罪人関係調査委員会の設置、戦争犯罪人審理対策委員会を提言したが、外務省は政府指導になるという理由で却下した。  
その後、吉田茂が12月に法務審議室を設置した。1946年2月には内外法政研究会が発足し、高柳賢三、田岡良一、石橋湛山らが戦争犯罪人の法的根拠や開戦責任などについての研究報告をおこなった。 
裁判 

 

国際検察局から執行委員会へ  
1946年(昭和21年)2月2日、イギリス代表検事が来日する。2月13日に ジョセフ・キーナンアメリカ合衆国代表検事がアメリカ以外の検事は参与であるとの通達を出すと、イギリス、英連邦検事はこれに反発し、3月2日に各国検事をメンバーとした執行委員会が設立される。  
執行委員 
ジョセフ・キーナン(アメリカ合衆国派遣) - 首席検察官  
アーサー・S・コミンズ・カー(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣) - 次席検察官  
S・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)  
アラン・ジェームス・マンスフィールド(オーストラリア連邦派遣)  
ロナルド・ヘンリー・クイリアム(ニュージーランド派遣)- 裁判の進め方や未訴追戦犯の拘留が長い事に抗議し、1947年末に帰国している。  
ヘンリー・グラタン・ノーラン(カナダ派遣)  
向哲濬(中華民国派遣)  
ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)  
W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)  
ゴビンダ・メノン(インド派遣)  
ペドロ・ロペス(アメリカ領フィリピン派遣)
被告人の選定  
1946年1月、被告の選定にあたってイギリスはニュルンベルク裁判と同様に知名度を基準に10人を指名した。執行委員会の4月4日会議では29名が選ばれるが、4月8日には石原莞爾、真崎甚三郎、田村浩が除外された。4月13日にはソ連検事が来日したが、ソ連側は天皇訴追を求めなかった。そのかわり4月17日、ソ連は鮎川義助、重光葵、梅津美治郎、富永恭次、藤原銀次郎の起訴を提案し、そのうち重光と梅津が追加され、被告28名が確定した。  
被告人  
荒木貞夫 / 板垣征四郎 / 梅津美治郎 / 大川周明 / 大島浩 / 岡敬純 / 賀屋興宣 / 木戸幸一 / 木村兵太郎 / 小磯國昭 / 佐藤賢了 / 重光葵 / 嶋田繁太郎 / 白鳥敏夫 / 鈴木貞一 / 東郷茂徳 / 東條英機 / 土肥原賢二 / 永野修身 / 橋本欣五郎 / 畑俊六 / 平沼騏一郎 / 広田弘毅 / 星野直樹 / 松井石根 / 松岡洋右 / 南次郎 / 武藤章
起訴状の作成過程  
1946年4月5日の執行委員会でイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検事は起訴状案を発表、そのなかで「平和に対する罪」の共同謀議を、1931年〜1945年の「全般的共同謀議」と4つの時期におよぶ個別的共同謀議(満州事変、日中戦争、三国同盟、全連合国に対する戦争)の5つに分割した。また平和に対する罪では死刑を求刑できないので、通例の戦争犯罪である公戦法違反で裁くべきであると主張した。  
訴因「殺人」と「人道に対する罪」  
極東国際軍事裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる。このような起訴方針についてオランダ、中華民国、フィリピンは「アングロサクソン色が強すぎる」として批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での日本軍による行為を追加させた。  
ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった。南京事件は訴因のうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた]。  
昭和天皇の訴追問題  
オーストラリアなど連合国の中には昭和天皇の訴追に対して積極的な国もあった。白豪主義を国是としていたオーストラリアは、人種差別感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情が強い上に、差別していた対象の日本軍から繰り返し本土への攻撃を受けたこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった。また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた。エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。1945年8月14日に連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)で昭和天皇を戦犯に加えるかどうかが協議されたが、アメリカ政府は戦犯に加えるべきではないという意見を伝達した。1946年1月、オーストラリア代表は昭和天皇を含めた46人の戦犯リストを提出したが、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドはこのリストを決定するための証拠は委員会の所在地ロンドンに無いとして反対し、このリストは対日理事会と国際検察局に参考として送られるにとどまった。8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された。  
アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視され、さらに1946年1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった。なお、オーストラリア同様イギリス連邦の構成国であるニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した。またソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定した。  
1946年4月3日、最高意思決定機関である極東委員会(FEC)はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」ことが合意された。4月8日、オーストラリア代表の検事マンスフィールドは天皇訴追を正式に提議したが却下され、以降天皇の訴追は行われなかった。  
海軍から改組した第二復員省では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧軍令部のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった永野修身以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では軍中央への責任が天皇訴追につながりかねない為、現場司令官で責任をとどめる弁護方針の策定などが成された。さらに、陸軍が戦争の首謀者である事にする方針に掲げられていた。1946年3月6日にはGHQとの事前折衝にあたっていた米内光政に、マッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。また、敗戦時の首相である鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている。  
なお昭和天皇は「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる)。
起訴状の提出  
起訴状の提出は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われた。  
極東国際軍事裁判において訴因は55項目であったが、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれた。判決では最終的に10項目の訴因にまとめられた。
裁判官・判事  
ウィリアム・ウェブ(オーストラリア連邦派遣) - 裁判長。連邦最高裁判所判事。  
マイロン・C・クレマー少将(アメリカ合衆国派遣)- 陸軍省法務総監。ジョン・P・ヒギンズから交代。  
ウィリアム・パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)- スコットランド刑事上級裁判所判事  
イワン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)- 最高裁判所判事。陸大法学部長- 法廷の公用語である英語を使用できなかった。  
アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣)- 軍事法廷主席検事 - 法廷公用語である英語を十分使用できなかった。  
梅汝璈(中華民国派遣) - 立法院委員長代理。イェール大学ロー・スクール学位取得者だが、法曹経験はなかった。  
ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣) - ユトレヒト司法裁判所判事  
E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣)- ケベック州裁判所判事。  
エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣)- 最高裁判所判事。  
ラダ・ビノード・パール(インド派遣) - カルカッタ高等裁判所判事。判事の中では唯一の国際法の専門家であった。東京裁判では平和に対する罪と人道に対する罪とが事後法にあたるとして全員無罪を主張。  
デルフィン・ハラニーリャ(フィリピン派遣) - 司法長官。最高裁判所判事。日本の戦争責任追及の急先鋒で、被告全員の死刑を主張。
弁護団の結成  
GHQは1945年11月には戦犯容疑者が非公式で弁護人を探すことを許可していた。  
日本人弁護団  
日本人弁護団は、団長を鵜澤總明弁護士とし、副団長清瀬一郎、林逸郎、穂積重威、瀧川政次郎、高柳賢三、三宅正太郎(早期辞任)、小野清一郎らが参加した「極東国際軍事裁判日本弁護団」が結成された。しかし、日本人弁護団内部では、自衛戦争論で国家弁護をはかる鵜澤派(清瀬、林ら)と個人弁護を図る派(高柳、穂積、三宅)らがおり、さらに国家弁護派内部でも鵜澤派と清瀬派の対立などがあった。日本人弁護団の正式結成は開廷翌日の1946年5月4日であった。  
アメリカ人弁護団  
ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人しか許されなかったが、東京裁判ではアメリカ人弁護人も任命された。日暮吉延によればこれは「勝者による報復」批判を免れるためだった。  
1946年(昭和21年)4月1日に結成されたアメリカ人弁護団団長は海軍大佐ビヴァリー・コールマン(横浜裁判の裁判長)。弁護人としては海軍大佐ジョン・ガイダーほか六名であった。しかしコールマンが主席弁護人を置くようマッカーサーに求めたところ、受理されず、コールマンらは辞職する。変わって陸軍少佐フランクリン・ウォレン、陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニーらが派遣され、新橋の第一ホテルを宿舎とした。  
陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)  
陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当)  
ジョージ山岡(日本語を解した。東郷担当)  
ウィリアム・ローガン(木戸担当)  
オーウェン・カニンガム(大島浩担当)  
陸軍中尉アリスティディス・ラザラス(畑担当)  
デイヴィッド・スミス(広田担当)  
ローレンス・マクマナス(荒木担当)  
予備海軍大佐リチャード・ハリス (軍人・弁護士)(橋本担当):日本語が達者であり、弁護部管理主任も務めた。  
ジョージ・ウィリアムズ(星野担当)  
フロイド・マタイス(板垣、松井担当)  
マイケル・レヴィン(賀屋興宣、鈴木担当)  
ジョゼフ・ハワード(木村担当)  
アルフレッド・ブルックス(小磯、南、大川担当)  
ロジャー・コール(武藤担当)  
ジェイムズ・フリーマン(佐藤担当)  
陸軍大尉ジョージ・A・ファーネス(重光担当)  
エドワード・マクダーモット(嶋田担当)  
チャールズ・コードル(白鳥担当)  
ジョージ・ブルウェット(東條担当)
開廷  
1946年5月3日午前11時20分、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂において裁判が開廷した。27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。  
連合国のうち、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、ソ連の7か国と、イギリス連邦内の自治領であったオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そして当時独立のためのプロセスが進行中だったインドとフィリピンが判事を派遣した。  
同日午後、大川周明被告が前に座っている東条英機の頭をたたき、翌日に病院に移送された。
罪状認否  
1946年5月6日、大川をのぞく被告全員が無罪を主張した。この罪状認否手続きで無罪を主張するのは普通のことだが、毎日新聞記者はラジオで「傲然たる態度」と罵倒し、読売新聞記者も同様の罵倒をした。
弁護側の管轄権忌避動議  
1946年5月13日、清瀬一郎弁護人は管轄権の忌避動議で、ポツダム宣言時点で知られていた戦争犯罪は交戦法違反のみで、それ以後に作成された平和に対する罪、人道に対する罪、殺人罪の管轄権がこの裁判所にはないと論じた。  
この管轄権問題は、判事団を悩ませ、1946年5月17日の公判でウェブ裁判長は「理由は将来に宣告します」と述べて理由を説明することになしにこの裁判所に管轄権はあると宣言した。  
しかしその後1946年6月から夏にかけてウェブ裁判長は平和に対する罪に対し判事団は慎重に対処すべきで、「戦間期の戦争違法化をもって戦争を国際法上の犯罪とするのは不可能だから、極東裁判所は降伏文書調印の時点で存在した戦争犯罪だけを管轄すべきだ。もし条約の根拠なしに被告を有罪にすれば、裁判所は司法殺人者として世界の非難を浴びてしまう。憲章が国際法に変更を加えているとすれば、その新しい部分を無視するのが判事の義務だ」と問題提起をしたという。日暮吉延はこのウェブ裁判長の発言は裁判所の威厳保持のためであったとしたうえで、パル判決によく似ていたと指摘している。
補足動議  
1946年5月14日午前、ジョージ・A・ファーネス弁護人が裁判の公平を期すためには中立国の判事の起用が必要であるとのべた。またベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、戦争には国際法があり合法である、戦争は国家の行為であって個人の行為ではないため個人の責任を裁くのは間違っている、戦争が合法である以上戦争での殺人は合法であり、戦争法規違反を裁けるのは軍事裁判所だけであるが、東京法廷は軍事裁判所ではないとのべ、さらに戦争が合法的殺人の例としてアメリカの原爆投下を例に、原爆投下を立案した参謀総長も殺人罪を意識していなかったではないか、とも述べた。  
翌日の5月15日の朝日新聞は「原子爆弾による広島の殺傷は殺人罪にならないのかー東京裁判の起訴状には平和に対する罪と、人道に対する罪があげられている。真珠湾攻撃によって、キツド提督はじめ米軍を殺したことが殺人罪ならば原子爆弾の殺人は如何ー東京裁判第五日、米人ブレークニイ弁護人は弁護団動議の説明の中でこのことを説明した」と報道した。また全米法律家協会もブレイクニー発言を機関紙に全文掲載した。
検察側立証  
立証段階  
以下、立証段階の日程と項目である。  
1946年6月4日、検察側立証開始:冒頭陳述。  
1946年6月13日、一般段階:国家組織、世論指導など。  
1946年7月1日、満州事変段階。  
1946年8月6日、日中戦争段階。  
1946年9月19日、日独伊三国同盟段階。  
1946年9月30日、仏印段階。  
1946年10月8日、ソ連段階。  
1946年10月21日、一般的戦争準備段階。  
1946年11月4日、太平洋戦争段階。  
1946年11月27日、残虐行為段階。  
1947年1月17日、個人別追加立証。  
1947年1月24日、検察側立証終了。  
キーナン冒頭陳述  
1946年6月4日、首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは冒頭陳述において、この裁判を「これは普通一般の裁判ではありません」「全世界を破滅から救うために文明の断乎たる闘争の一部を開始している」、被告(日本軍部)は「文明に対し宣戦を布告しました」と述べた。キーナンは日本の不義なる体質を日露戦争にまでさかのぼって、侵略戦争をするのは国家でなく個人であると主張した。キーナンは陳述を終えるとすぐに帰国し、不在の間決定権は誰にあるのかわからない状態であった。英連邦検察陣はキーナンの尊大で自分が目立つことばかり考えていると語っていた。  
裁判の進行は遅く、ニュージーランドの判事や検事は検察のおよび裁判長の運営方法が問題であるとして辞意を示している。
証人喚問  
証人にはドナルド・ニュージェント、大内兵衛、瀧川幸辰、前田多門、伊藤述史、鈴木東民、幣原喜重郎、清水行之助、徳川義親、若槻礼次郎、田中隆吉らがなった。  
また前満州国皇帝愛新覚羅溥儀も出廷した。ハバロフスクに抑留中の溥儀は中国からは漢奸裁判にかけられるかもしれないという脅威もあり、すべて日本の責任で自分に責任はないと証言した。8月21日にブレイクニ弁護人が溥儀の書簡を出して反対尋問を行うと「全く偽造であります」といい、重光葵は歌舞伎の芝居のようであったと回想している。溥儀も後の自伝で、自身を守るために偽証を行い、満州国の執政就任などの自発的に行った日本軍への協力を日本側によると主張し、関東軍吉岡安直などに罪をなすりつけたことを認めている。また自らの偽証が日本の行為の徹底的な解明を妨げたとして、「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と回想している。アンリ・ベルナール判事は溥儀の証言について「溥儀は、満州国は最初から全て日本の支配下にあったと述べているが、彼自身がすでに、1932年3月10日に本庄に対して同意を提案する書簡を書いているではないか。この書簡の署名が強制のもとになされたものであるという事実は証明されなかったのだから、溥儀が法廷で行った興味深い供述から生じたような結果などよりも、本官はその書簡によって示されたものを信じる」と述べている。
弁護側反証  
検察側立証が終了すると、弁護団は1947年1月27日、公訴棄却動議を提出し、デイヴィッド・スミス弁護人はアメリカ連邦裁判所への提起も考えているとのべた(判決後に提訴。広田判例を参照)。1947年2月24日、弁護側反証が開始された]。  
弁護人による被告別動議は次の通り。  
被告 / 弁護人 / 内容  
荒木貞夫 / ローレンス・マクマナス / 1928年に共同謀議に参加したと検察は主張するが、満州事変勃発時に陸相ではなかった。荒木による残虐行為の証拠は提出されていない。  
土肥原賢二 / フランクリン・ウォレン / 戦争の共同謀議時期には常に出先軍で上官の命令に服していた。残虐行為の証拠は提出されていない。  
橋本欣五郎 / E・ハリス / 満州事変勃発時には参謀本部ロシア班長、日中戦争勃発時には民間人であった。桜会が共同謀議の一部であったことは証明されていない。残虐行為の証拠は提出されていない。1937年のレディバード号事件は錯誤によるもの。  
畑俊六 / アリスティディス・ラザラス / 戦争勃発時には政府諸機関と無関係。中支那派遣軍に着任したのは南京陥落から2月後で、南京はすでに平穏だった。  
平沼騏一郎 / フランクリン・ウォレン / 共同謀議に無関係。中国での残虐行為で起訴されたが証拠がない。  
広田弘毅 / デイヴィッド・スミス / 南京事件の責任を問うことが「奇妙」である。広田内閣中、日本は平和で、広田が「自存自衛の戦い」と述べたこともない、広田の起訴自体が大なる誤算。  
星野直樹 / ジョージ・ウィリアムズ / 一官吏にすぎない。告発された内容は満州への外資導入計画を誤解したものである。  
板垣征四郎 / フロイド・マタイス / 満州事変時は本庄繁関東軍司令官や軍中央に従った。広東や漢口での「殺人」時に陸相だったというだけで刑事責任を問うに不十分。シンガポールの残虐行為でも検察は「何らかの責任」があると述べたにすぎない。  
賀屋興宣 / マイケル・レヴィン / 専門行政官であり、広東や漢口での「殺人」時には蔵相を辞している。開戦、残虐行為の責任はない。  
木戸幸一 / ウィリアム・ローガン / 満州事変時は内大臣秘書官長で共同謀議には参加せず。三国同盟に責任はない。内大臣は残虐行為を犯すべき地位にない。  
木村兵太郎 / ジョゼフ・ハワード / 軍人としての義務以上をしていない。陸軍次官中の権限は陸相通達を各司令官に通達することのみ。1944年、ビルマ方面軍司令官に着任したとき、日本軍は敗走中で在任中に捕虜を管理した証拠はない。  
小磯國昭 / アルフレッド・ブルックス / 満州事変時は南陸相の命令と幣原政策に従って遂行した。太平洋戦争は自衛的合法戦争と理解する。首相には捕虜の扱いに介入する権能はない。  
松井石根 / フロイド・マタイス / 中支那方面軍司令官として軍中央の命令で南京攻撃を遂行したにすぎない。作戦中は蘇州で執務し、残虐行為について問責できる証拠はない。  
南次郎 / アルフレッド・ブルックス / 満州事変時は陸相として事件不拡大に努めた。日本の陸軍大臣の権限は非常に制約されており、海外派兵上奏権を持つのは参謀総長である。  
武藤章 / ロジャー・コール / 命令を実践に移すことが任務だった。捕虜に関係する陸軍省の証拠は歪曲されている。スマトラ近衛師団長在任中、捕虜は正式の命令系統以外で取り扱われたので、武藤に責任はない。  
岡敬純 / フランクリン・ウォレン / 真珠湾攻撃時、政策決定者ではなかった。捕虜処遇についえ命令を権限を有した証拠もない。  
大川周明 / アルフレッド・ブルックス / 告発された行動を可能にする地位になく、著書で個人的野望や犯罪的意思を唱道してもいない。満州事変関連証拠は風説的である。  
大島浩 / オーウェン・カニンガム / 政策立案者、軍司令官になったこともない。通常、外国使臣の訴追は禁じられている。ドイツ在勤中、日本政府の指令なしに交渉したことはない。  
佐藤賢了 / ジェイムズ・フリーマン / 真珠湾攻撃時、一課長にすぎず、戦争計画に参加できる地位ではなかった。1942年4月以降、軍務局長として俘虜収容所を管轄したと検察は告発したが、管轄は陸相である。  
重光葵 / ジョージ・A・ファーネス / 日中平和維持に努めた。ソ連検事が証拠もなしに主張したような、張鼓峰事件交渉でソ連領土を割譲せよと求めた事実はない。駐英大使在任中は三国同盟交渉に関与していない。捕虜問題に関する外相の権限は、政府間文書の仲介することだけである。  
嶋田繁太郎 / エドワード・マクダーモット / 真珠湾攻撃50日前に海相に就任したが、会議に参加したのは3回だけで、それ以前は軍令系統の地位になかった。残虐行為について海軍省は出先の艦隊司令官を統制できない。また海軍所管の俘虜収容所での非行は立証されていない。  
白鳥敏夫 / チャールズ・コードル / 外務省情報局長どまりの職業外交官で、満州事変時は幣原外相の侵略阻止方針に協力した。イタリア外相の日記を証拠に三国同盟を無条件受諾しなければ内閣を総辞職せしめと脅迫したと検察は主張したが、白鳥は1940年1月に大使解任されているし、また大使辞任で内閣総辞職とは荒唐無稽。  
鈴木貞一 / マイケル・レヴィン / 日中戦争勃発時には大佐だった。総動員計画は1941年に企画院総裁に就任する前からほぼ成立していた。  
東郷茂徳 / ベン・ブルース・ブレイクニー / 外務省は捕虜管理に責任はない。陸軍の照会や抗議を通達しただけである。天皇から日米和平交渉を命じられ努力した。対米通告は駐米大使に攻撃前の手交を訓令しており、結果的に手交が遅れた責任はない。  
東條英機 / ジョージ・ブルウェット / 共同謀議、残虐行為について法的証拠がない。  
梅津美治郎 / ベン・ブルース・ブレイクニー / 支那駐屯軍司令官在任中の梅津・何応欽協定締結を告発されたが、それは参謀長の仕事であり、協定は騒動を抑える了解にすぎない。関東軍司令官就任はノモンハン事件終了の一週間前でこの事件に責任はない。ソ連検事の告発は「不在証人の集積」である。  
判決

 

最終的訴因  
当初55項目の訴因があげられたが、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、1948年(昭和23年)夏には、最終的には以下の10項目の訴因にまとめられた。  
訴因1 - 1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議  
訴因27 - 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争  
訴因29 - 米国に対する侵略戦争  
訴因31 - 英国に対する侵略戦争  
訴因32 - オランダに対する侵略戦争  
訴因33 - 北部仏印進駐以後における仏国侵略戦争  
訴因35 - ソ連に対する張鼓峰事件の遂行  
訴因36 - ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行  
訴因54 - 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反  
訴因55 - 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反  
被告人別の訴因と量刑  
判決における被告人別の訴因と量刑は次の通り。大川周明は精神障害が認定され訴追免除、永野修身と松岡洋右は判決前に死去していた。  
被告人 / 訴因 / 量刑  
荒木貞夫 / 1,27 / 終身禁錮刑  
土肥原賢二 / 1,27,29,31,32,35,36,54 / 死刑  
橋本欣五郎 / 1,27 / 終身禁錮刑  
畑俊六 / 1,27,29,31,32,55 / 終身禁錮刑  
平沼騏一郎 / 1,27,29,31,32,36 / 終身禁錮刑  
広田弘毅 / 1,27,55 / 死刑  
星野直樹 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
板垣征四郎 / 1,27,29,31,32,35,36,54 / 死刑  
賀屋興宣 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
木戸幸一 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
木村兵太郎 / 1,27,29,31,32,54,55 / 死刑  
小磯國昭 / 1,27,29,31,32,55 / 終身禁錮刑  
松井石根 / 55 / 死刑  
南次郎 / 1,27 / 終身禁錮刑  
武藤章 / 1,27,29,31,32,54,55 / 死刑  
岡敬純 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
大島浩 / 1 / 終身禁錮刑  
佐藤賢了 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
重光葵 / 27,29,31,32,33,55 / 禁錮刑7年  
嶋田繁太郎 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
白鳥敏夫 / 1 / 終身禁錮刑  
鈴木貞一 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
東郷茂徳 / 1,27,29,31,32 / 禁錮刑20年  
東條英機 / 1,27,29,31,32,33,54 / 死刑  
梅津美治郎 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑
判事の個別意見書  
判決はイギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。  
判事団の多数判決に対して、個別意見書が5つ出された。同意意見としてフィリピンのハラニーニャ意見書、別個意見としてウエッブ意見書、パル、ベルト・レーリンク、アンリ・ベルナールは反対意見書を提出した。極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが、法廷で読み上げられることはなかった。  
ハラニーニャ同意意見書  
徹底した親米派のハラニーニャ同意意見書では、刑が一部寛大にすぎると批判し、原爆投下が早期決戦をもたらしたとまで述べられた。これはパル反対意見書を批判する目的で書かれたとみられている。  
パールの個別反対意見書  
イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。パールは1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。  
ベルナールの個別反対意見書  
アンリ・ベルナール判事は 梅汝璈中華民国代表判事に対して1948年7月26日に「正義は連合国の中にあるのではないし、その連合国の誰もが連合という名の下にいかなる特別な敬意を受けることができるわけでもないのだ」と述べている。また南次郎が満州事変を「自衛権の発動」と承認した時に多数派判事が非難するなかベルナール判事は満州事変は「ありふれた事件」でしかなく、また「自衛すべきであると思うときには自衛権がある」「この決まりは実際に攻撃も侵略もないケースにおいても自衛権の発動を妨げるものではない」と述べた。満州事変問題については「事変と称されている事実が起きた時点では、中国政府自身、まだ日本を敵国とみなしていなかった」として、当時の日中衝突を日本側の行為だけを非とするのはおかしいとし、また「我々は、あらゆる大国が自らにとっての生命線を自国内ではなく他の国に置いてきたことを了承してきたし、今日でも了承しているではないか。チャーチルはイギリスの生命線をライン河に置いてきた」とものべ、さらに「法的な解決、あるいは仲裁のイニシアティブをとるべきであったのは、日本によって行使される特権の廃止を求めていた中国側にあった」と主張した。また、オーウェン・カニンガム弁護人が東京裁判を「茶番劇」と批判したことについて判事たちが法廷から追放したことについては、いかなる制裁措置も適用されてはならないと批判した。共同謀議については定義が曖昧で、被告が共同謀議に成功したとする多数派判決について「疑わしく、」「正式な証拠がない限り、この疑いを消えないし、また被告を有罪とすることは許されない」とのべた。  
ベルナールの個別反対意見書では、自然法は国家の上位にあり、自然法によって侵略戦争が犯罪であることは証拠があれば可能である、しかし日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、東アジアを支配したいという希望の存在が証明されたにすぎないから平和に対する罪で被告を有罪にすることはできない。また天皇不起訴は遺憾と述べた。また東京裁判で予審が行われなかったことについて「訴追が最も重大な性質の犯罪に関したものであり、その立証が非常に大きな困難をもたらすものであったという事実にもかかわらず。被告は直接に本裁判所に対して起訴され、かれらは、予審という方法によって弁護側資料を手に入れたり、まとめたりするように努力する機会を与えられなかった。予審は、検察側からも弁護側からも独立した司法官が双方に同等に都合のよいように行うものであって、その間に被告は弁護人の援助によって利益を得たであろうと思われる。本官の意見では、この原則の違反から起こる実際の結果は、本件においては特に重大である」と主張した。また、「裁判所が欠陥のある手続きを経て到達した判定は、正当なものではあり得ない」と東京裁判について断じた。  
レーリンクの個別反対意見書  
ベルト・レーリンク判事は個別反対意見書において、侵略戦争が犯罪になったのは1928年の不戦条約でなく、1945年8月のロンドン協定からであるとした。事後法の禁止は政策の規則なので戦勝国はこれを無視できるが、平和に対する罪だけで死刑求刑には反対し、終身刑が妥当とした。  
また広田弘毅に対して「中国側の要求で、広田は南京虐殺と日本側の不法行為に責任ありとして裁判にかけられ、死刑判決を受けました。私は、広田は南京虐殺に責任ありとは思いません。生じたことを変え得る立場ではなかったのです。ですから、私の反対判決は、彼は無罪放免とすべきという趣旨でした」とのべている。被告について「彼らはそのほとんどが一流の人物でした。」「海軍軍人、それに東條も確かにとても頭が切れました」とし、さらに「一人として臆病ではありませんよ。本当に立派な人たちでした」と評価した。  
ウエッブ別個意見書  
ウエッブ別個意見書では多数派と同じく憲章の拘束力を認め、不戦条約によって侵略戦争の不法性を是認した。また天皇の責任訴追について、天皇不起訴に不満なわけではないが天皇の戦争責任を踏まえて被告の減刑を考慮すべきであると主張した。日暮吉延はこれはオーストラリア本国に向けて書かれたものとした。
判決言い渡し  
1948年(昭和23年)11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・ウェブは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された大川周明1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。
刑の執行  
7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。
未訴追者への裁判と裁判終了  
一方で戦犯容疑者に指定されたものの、訴追が開始されていない者達が未だ残っていた。1948年1月、ニュージーランドは1948年12月31日の時点で戦犯捜査を打ち切るよう主張し、アメリカ側もこれ以上の戦犯裁判継続はほとんど意味がないという見解を示していた。ニュージーランドとアメリカは捜査終了後の1949年6月30日をもって裁判を終了させるべきであるという見解を統一し、首席検察官のキーナンもこれ以上の戦犯裁判は行うべきではないという見解を示した。7月29日の極東委員会でニュージーランド代表は1949年6月30日に裁判を終了させるべきと提議した。賛成したのはアメリカとイギリスだけであり、その他の国は明確に反対しなかったが、BC級戦犯の裁判については継続を求める声が上がった。この協議中の11月12日に判決が出、極東国際軍事裁判は継続されているのかどうかという法的問題が持ち上がった。  
1949年2月18日、極東委員会第五小委員会においてアメリカ代表は、「A級戦犯」裁判は2月4日の時点で終了し、新たな戦犯の逮捕は検討されていないという見解を示した。3月31日の極東委員会において、可能であれば捜査の最終期限を1949年6月30日とし、裁判は9月30日までに終了するという決議が採択された。 
裁判以後

 

平和条約における受諾  
1951年9月8日に調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)第11条において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められているが、これは講和条約の締結により戦時国際法上の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた軍事法廷の判決が失効(あるいは無効)となり、当事者の請求により即刻釈放すべき義務を締約国に課されることを回避するために設けられた条項である。  
日本国との平和条約第11条の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の解釈を採っている。
戦犯の赦免  
日本国内においては、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は4000万人に達したと言われ、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌1953年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。また収監されていた極東国際軍事裁判による受刑者12名は、1956年(昭和31年)3月末時点ですべて仮釈放されている。
■裁判の評価と争点
この裁判については裁判中、また裁判以後も批判をふくめ様々な評価がなされており、裁判の公平性やその他の争点をめぐって歴史認識問題のひとつとなってもいる。日本政府は「日本国との平和条約」11条によりこの裁判および他の連合国法廷の裁判を受諾したため、異議を申し立てる立場にないという見解をとっている。  
アメリカやヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされた。イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
アメリカ政府・GHQ要人の発言  
GHQのチャールズ・ウィロビーもレーリンク判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」と述べたという。  
国務省ジョージ・ケナンも東京裁判について「法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある」「しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなされた」として、戦勝国が敗戦国にを制裁する権利がないというわけではないが、「そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した。ケナンはさらに国務省宛最高機密報告書のなかでこの裁判は「国際司法の極致として賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質がごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、法ではないと批判した。ただし、ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であったとものべている。  
マッカーサーの発言  
東京裁判の事実上の主催者ともいえたダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争勃発直後の1950年10月15日、ウェーキ島でのハリー・S・トルーマン大統領との会談の席で、W・アヴェレル・ハリマン大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。  
またマッカーサーは1951年(昭和26年)5月3日に開かれた上院軍事外交合同委員会において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだったのです」と証言した。この発言においてマッカーサーは、大東亜戦争が日本の自存自衛のための戦争であったことを認めたとされる。またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べた。小堀桂一郎はこの発言を「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している。
「勝者の裁き」  
首席検察官ジョセフ・キーナンの冒頭陳述「文明の断乎たる闘争」という表現に基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。  
一方、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことなどから、"勝者の裁き"とも呼ばれる。レーリンク判事も「勝者の裁き」であったとした。  
歴史学者リチャード・H・マイニアは著書『東京裁判−勝者の裁き』で「アメリカの原爆投下行為に人道に対する罪は適用されないのか」と被告の選定、すなわち連合国の戦争犯罪行為が裁かれなかったこと、また、昭和天皇の不起訴だけでなく証人喚問もなされなかったこと、判事が戦勝国だけで構成されたこと、侵略を定義するのは勝者であり従ってプロパガンダになる可能性などを問題視し、したがって侵略戦争を理由に訴追することは不可能であると主張した。  
2013年2月12日衆院予算委員会において安倍晋三首相は「先の大戦」の総括は、日本人自身の手ではなく、「東京裁判という、言わば連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされた」と述べた。中華人民共和国政府はこの発言を批判、2013年11月12日に上海で開催された「東京裁判国際シンポジウム」で華東政法大学の何勤華は「東京裁判は人類の正義の力が邪悪な勢力に打ち勝ったことに伴う重大な成果で、正義の法律が日本の罪人を処罰した正当行為」とのべた。また、粟屋憲太郎は「東京裁判の中には誤りもあるが、日本はサンフランシスコ講和条約で判決を受諾して国際社会に復帰できた。それを忘れて『勝者の裁き』というのは誤りだ」と述べた。
共同謀議  
またニュルンベルク裁判において用いられた「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導部やヒトラー内閣、親衛隊という組織」が共同して戦争計画を立てたという「共同謀議」の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている。  
しかしナチス・ドイツ体制は総統であるアドルフ・ヒトラーの指導者原理に基づくイデオロギー集団であったナチ党によって一党支配体制が構築されていたが、戦前の日本の事情とは異なっている。当時唯一の政党であった大政翼賛会は対立していた旧政党が合同してできたものであり、ナチ党のような強力な団結は持っていなかった。また陸海軍や枢密院、重臣や木戸内大臣などの宮中グループの政治的影響力も強く、これらの間での政見の統一は困難であった。実際の被告中にも互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。この状況を被告であった賀屋興宣は「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と評している。このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿や杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。  
ジョージ山岡弁護人は「共同謀議なるものは、最も奇異にして信ずべからざるものの一つである。すくなくとも最近14年間にわたる孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ、ならべたてられているにすぎない」と弁護した。  
また、1945年以前の国際法に共同謀議については記載されていなかったという反論に対してウエッブ裁判長も別個意見書のなかで「国際法は、多くの国の国内法とは異なって、純粋の共同謀議という犯罪を明示的に含んでいない」「同様に、戦争の法規の慣例も単なる純粋共同謀議を犯罪としない」と認めている。さらに「英米の概念に基づいて、純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、また各国の国内法において共同謀議とされている犯罪の共通の特徴と認めるものに基づいて、そうする権限もない」とし、もし共同謀議を犯罪とするならば、それは「裁判官による立法」となるとものべている。しかし、多数派判決では共同謀議は罪状として認められた。以前の国際法に記載がなかったにも関わらず審理するということは、法学の原則である「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし(Nullm crimen sine lege,nulla poena sine lege)」に抵触するのかどうかが問題とされていたのであった。
被告人の選定  
被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している。また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している。この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官ボナー・フェラーズ(英語版)准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている。
判事の選定  
判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝璈判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事が法廷の公用語である日本語と英語のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。
法的根拠と公平性  
極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際してハーグ陸戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動であり戦争行為に含まれる。尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。戦争犯罪の処罰についてはポツダム宣言10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の戦争犯罪概念が拡張され検討されたことに特徴がある。なお、仮に国際実定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、実定法上の根拠がない「事後法」により訴訟が提起され、また連合国側の戦争犯罪は裁かれず「法の下の平等」がなされていない問題があり、よってこの「裁判」は政治的権限によって行われた報復であるとの批判がある。  
またこの裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかった。こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い。当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。  
国際法学者ハンス・ケルゼンは「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。敗戦国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである」と敗戦国の戦犯裁判を批判した。  
国際法学者クヌート・イプセンは「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力をもっていた国際法に基づくものではなかった」とし、戦争について当時個人責任は国際法的に確立しておらず、事後法であった極東国際軍事裁判条例は「法律なければ犯罪なし」という法学の格言に違反するものであったとした。ミネソタ大学のゲルハルト・フォン・グラーンもパル判事の意見を支持し、当時パリ協定の盟約・不戦条約があったとはいえ主権国家が「侵略戦争」を行うことを禁止した国際法は存在せず、「当時も今日も、平和に対する罪など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」とのべている。  
イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は国際連合裁判所についての規定「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない」(世界人権宣言第11条第2項)を引合いに出し、「戦勝国の判事のみでもって排他的に構成された裁判所」は「独立の公平な裁判所」とはいえず、枢軸国犯罪人を早急に裁くために設定された裁判所条例や、事後になって犯罪を創設したことは、世界人権宣言第11条第2項規定と相容れず、ドイツと日本の戦犯裁判が「法の規則を設定したという価値は取るに足りぬようにおもわれる。むしろ、重大な退歩させたというべきである」と述べている。  
歴史学者ポール・シュローダーは「裁判所の構成、政治的状況、さらに戦後まもない時期の世論の趨勢が一体化して、事件についての冷静で均衡のとれた判決を不可能にした」「歴史家はもしかすると、(裁判所が達した)結論が国際法と正義の発展において多大な前進であったという点については疑わしく思うだろう」と指摘した。  
ロンドン大学のジョン・プリチャードは次のように東京裁判の問題点を摘出している。  
検察は真実の解明よりも、日本の指導者を厳しく処罰することで日本人を再教育することを目的としていた。  
判事たちの多数は検察の主張を鵜のみにして、弁護側の証拠や反証反論を一方的に却下した明確な形跡がある。  
通常の戦争犯罪(捕虜、民間人への残虐行為等)は全体の5-10%であり、ドイツよりも比率が低い。  
戦争を「侵略」と「自衛」に分けることは困難であり、日本の歴代指導層が一致して侵略戦争を企図した形跡もなく、したがって共同謀議や、「不法戦争による殺人」といった訴因は法的根拠を持っていない。  
当時存在しなかった平和に対する罪を過去に遡って適用したり、罪の根拠を1928年のパリ不戦条約に求めることには無理がある。  
事後法の観点  
ラダ・ビノード・パール判事の意見書のように、第二次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが1944年(昭和19年)秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の二つの新しい犯罪規定については事後法であるとの批判や、刑罰不遡及の原則(法の不遡及の原則)に反するとの批判がある。また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になるドワイト・D・アイゼンハワー元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている。
証拠規則  
歴史学者ジョン・ダワーは「この裁判が公正であったかどうかについての意見の相違は、軍事法廷の手続きとしてなにを適切と考えるかという前提の違いに表れる。陸軍長官スティムソンでさえ、一般の法廷でふつうにある、さらには軍法会議にもあるような、訴訟手続き上の規則や保証もなしにこのような裁判が行われるとは想像だにしなかった。軍事法廷、あるいは軍事委員会の手法が採用されたのは、そうすることで、検察側にほかの状況では許されない手続き上の裁量が、とくに証拠の証拠能力有無の裁量が可能になるからである」とし、連合国は被告の主張を正当化することを妨害するために、証拠に関して制限を加えたと指摘し、「勝者によって緩められた証拠規則が、裁判に恣意性と不公正の入りこむ余地を与えた」ことは明らかであると批判した。
協議の経過  
ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。  
オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。
「A級戦犯」  
A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介や笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内の左翼系メディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる。こうした用語法は、連合国の国民のみならず日本国民においてさえ、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。
日本での評価  
左派勢力からは、この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った『平和主義』を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)。日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という。宮台真司はこの裁判を、昭和天皇と日本国民の大部分から罪を取り除いて戦後の復興に向けた国際協力を可能にするために、もっぱらA級戦犯が悪かったという「虚構」を立てるものだったと位置づけ、A級戦犯だけが悪かったわけではないにせよ、虚構図式を踏襲するべきだと主張した。
「東京裁判史観」  
東京裁判史観とは、東京裁判の判決をもとにした歴史認識のことで、満州事変から太平洋戦争にいたる日本の行動を「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略とする点を特色とする。この史観は連合国軍総司令部民間情報教育局により昭和20年末から新聞各紙に連載された「太平洋戰爭史」によって一般に普及した。この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識として保守派から批判があり、また昭和天皇や731部隊の戦争責任が免責されたため進歩派からも問題点を指摘されている。  
秦郁彦によれば、1970年代に「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めた。東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「自虐史観」に反発の矛先を向けているという。秦は渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳・小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や、非専門家の論客がこうした主張の主力を占め、「歴史の専門家」は少ないと指摘している。  
これらの論者があげる裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。  
審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『紫禁城の黄昏』すら却下された。  
判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。  
また江藤淳によればGHQは占領下の日本においてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)、とも主張している。  
秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている。  
1.侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者の裁き」だったゆえに敗者の例だけがクローズアップされたと強調する。  
2.「パール判決書」を「日本無罪論」として礼賛する。  
3.講和条約11条で受諾したのは「裁判」ではなく「判決」と訳すべきだったと強調する。  
4.二次的所産の歴史観を批判の対象とする。  
 
勝てば官軍、負ければ賊軍

 

勝てば官軍負ければ賊軍とは、何事も強い者や最終的に勝ったものが正義とされることのたとえ。  
たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、負けた者は不正となる。物事は勝敗によって正邪善悪が決まるということ。  
「官軍」とは、時の朝廷や政府に味方する軍勢のことで、明治維新で敗れた幕府は賊軍の汚名に泣いたという。「賊軍」は「官軍」の反語で、朝廷や政府の意思にそぐわないとされた側の軍のこと。単に「勝てば官軍」とも。  
類義 / 小股取っても勝つが本 / 力は正義なり / 強い者勝ち / 泣く子と地頭には勝てぬ / 無理が通れば道理引っ込む
2  
どちらにも道理はあろうが、結局は勝ったほうが正義になり負けたほうが悪になってしまうという意味。転じて、どんな卑怯な手を使おうが勝ってしまえば(≒成功してしまえば)あとはどうとでもなるという意味。  
戦争を始めとしたあらゆる争いごとでは実際がどうであれ、結果的に勝ったほうが正義であり負けたほうが悪になってしまう。官軍とは人民を守る政府の軍隊で、賊軍とはそれに反乱する軍隊のこと。元々は幕末時に朝廷と幕府の戦いで、負けた幕府側が賊軍の名に泣いたことから来ている。  
歴史学というのは基本的に当時の史料をもとにして研究が進められるのであるが、当時の勝利者が自らの統治を確固たるものにするべく歴史書を改竄し真実の歴史を隠してしまうことは洋の東西を問わず多いことである。例えば、倒した相手に暴虐非道の王であったとか愚昧な統治者であったとかレッテルを張ることがよく見られる。そんなことされると敗者にいかな正義があろうが、正史の上でも悪人にされてしまうのだ。「勝ったほうが正義」というのは歴史を学ぶ上では重要な前提である。  
史料が改竄されなくても大抵の場合、敗者に発言権はないのでどんな卑怯な手を使っても勝てば良いという見方もできる。戦争なら核ミサイルや捕虜虐殺。スポーツならラフプレイやお行儀の悪い選手強奪など。負けた後に敗者がなにを言ってもやはり無視されたり言い訳と取られてしまうことが多い。しかし最近はネットとかがあるから悪いことするとすぐ広まってしまうことも。  
しかしこれと同時に「判官びいき(アンダードッグ効果)」という言葉も存在する。敗者への同情によって評価を得られることもあるのだ。
3 官軍  
君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指す。  
尊皇思想が根ざす日本史上において「天皇陛下の軍隊である」という意識は、軍全体の士気にも大きく影響した。対する言葉は「賊軍」。しかし、官軍・賊軍の立場はその状況次第で変動が激しく、天皇(朝廷)の勅書や後継をめぐる戦略が繰り返される傾向にある。江戸時代の民衆がこれを揶揄した狂歌「勝てば官軍 敗ければ賊よ 命惜むな 國のため」があり、後に「勝てば官軍、負ければ賊軍」といった諺も生まれている。  
戊辰戦争 / 「官軍」の呼称が用いられていた例として著名なのは、戊辰戦争において新政府軍が旧江戸幕府軍を賊軍として討伐した際のものである。1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦い後、仁和寺宮彰仁親王を征討大将軍、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じて諸道鎮撫使・諸道総督府などを各地に派遣した。この際、官軍は菊章旗(「錦の御旗」)を掲げた。鎮撫使や総督府には長州藩・薩摩藩などの雄藩の実力者が参謀などとして参加していた。官軍といっても実態は新政府側についた諸藩の軍と草莽の部隊によって構成され、大総督府がこれらの部隊を統制した。また、各地に民政局を設置して窮民保護を掲げて民衆に宣伝を行った。その一方で、窮民保護方針に基づく「年貢半減令」を伝達した赤報隊を偽官軍として弾圧したり、世直し一揆を鎮圧するなど、宣伝と矛盾する措置が行われたこともあった。 
4 賊軍  
「官軍」の対語で、日本史上その軍の正当性を否定する言葉。天皇(朝廷)の意思にそぐわないとされた側の軍(反乱軍)のこと。朝敵とほぼ同じ意味だが、多く幕末・明治維新以後に用いられた。明治政府成立後は、反政府軍の事を意味するようになった。  
「賊軍、官軍」の歴史  
平治元年(1159年)-永暦元年(1160年)、平治の乱で源頼朝・義経、源義朝とともに賊軍に。  
文治元年(1185年)、平家滅亡に伴い、源氏、官軍に。  
木曽義仲、賊軍認定を受ける。  
承久3年(1221年)、鎌倉幕府追討の院宣によって鎌倉幕府が賊軍になるものの、承久の乱で幕府軍が官軍を破ったことから、当該院宣が取り消される事態に発展、逆に官軍になる。  
足利尊氏、賊軍認定を受けるも、建武政権を滅ぼし、官軍となる。  
幕末...長州藩と会津藩が官軍と賊軍の地位を争う。  
明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い...旧幕府軍が「朝廷の意向を無視し、王政復古を行った薩摩藩の陰謀に誅戮(ちゅうりく)を加える」という討薩の表をもって大坂城から京へ進軍中に「錦の御旗事件」が発生。官軍と賊軍の地位が逆転する。  
幕末の「賊軍」  
幕末においては当初、朝廷が幕府の政策を支持したため、禁門の変などで対外強硬策を主張した長州藩及びその支持者が賊軍とされた。しかし孝明天皇の崩御後、朝廷は方針を変更し、薩摩藩・長州藩などが官軍となり、薩長軍と戦った旧幕府軍は「賊軍」となった。歴史書では長年にわたって薩長に逆らった江戸幕府軍は賊軍扱いされ、幕府軍の主力を占めた会津藩・奥羽越列藩同盟は賊軍とされた。  
明治の「賊軍」  
実質的に明治時代「賊軍」となったのは西南戦争などでの反乱士族とその同調者のみである。また明治初期に多く起こった一揆も「賊軍」とは言われない。長らく汚名を被っていた旧幕府軍に対し、西南戦争関係者の名誉回復は比較的早く、1889年(明治22年)に西郷隆盛が大赦で許されたのを皮切りに、大正時代が終わるまでに関係者の多くは名誉回復している。  
 
「勝てば官軍」か茶番の東京裁判

 

フセイン裁判と東京裁判 勝者が敗者を裁けるか  
我々はいわゆる“東京裁判”(正式には、極東国際軍事裁判)を歴史的な一つの茶番として告発するが、それは、この裁判が、帝国主義的醜悪と悪の権化であった日本の支配者たち(のごく一部)を裁判にかけ(まさに“見せしめ的に”)、その“罪”を告発したからではなく――この点についていえば、東京裁判は、この任務さえろくに果たさず、アメリカの政治的思惑と恣意によって支配されていた――、帝国主義の先頭に立っていた天皇を免罪にし、また当時最強の帝国主義国家であったアメリカの反動的な支配層を全く裁かなかったからである。今また、アメリカはイラクを侵略し、国家を転覆し、「勝者」としてフセインを裁こうとしているが、これこそ、我々がここで東京裁判を取り上げ、その意義と内容を問う一つの理由である。  
東京裁判は「永久に戦争を廃絶する」のではなく――当時、アメリカの検事の一人は日本の軍国主義や侵略戦争や不正と非道徳を告発し、裁くことによって、それが可能になると主張したが――、その不公正と恣意によって、むしろ反対に新しい反動的戦争の種を温存し、蒔(ま)いたとさえ言えるのだ。  
東京裁判とは、太平洋戦争に勝利したアメリカが、日本の戦争は不正義であり、侵略戦争であったとして、日本を裁いたもので、終戦の翌年(一九四六年)の春に始まり、延々二年間にわたって審議を続け、四八年十一月に判決がくだった、アメリカ占領軍が主催した裁判のことである。  
告発されたのは東条英機を始めとする二十八名で、このうち、死刑になったのはわずか七名であった。あとの者は二名(東郷茂徳と重光葵)を除き終身刑であったが、大部分は刑が軽減され、途中で釈放された。  
二十八名はほとんどが“侵略戦争”に責任があるとみなされた軍部と政府のトップであったが、生き残っていた右翼の一方の旗がしらの大川周明が入っていたのが、いくらか違和感を覚えさせる位だった。  
東条や大川以外のそうそうたる名簿の一部をあげてみれば、陸軍“皇道派”(急進派)の先頭に立っていた荒木貞夫(陸相、文相)であり、在満特務機関長、軍事参事官、陸軍航空総監、在シンガポール方面軍司令官の土肥原賢二であり、在満師団長、中支派遣軍最高司令官の原俊六であり、枢密院議長、首相で反動派の期待の星だった平沼騏一郎であり、関東軍参謀長、日独伊の三国同盟の主唱者の板垣征四郎であり、文相、厚相、内相などを務め、天皇のh黷フ側近で“重臣会議”を牛耳り、天皇を手玉に繰った木戸幸一であり、関東軍参謀長、拓務相であり、首相となった政治家肌の軍人の小磯国昭であり、南満鉄道総裁、外相として国際連盟脱退の立役者、また三国同盟を先導した超反動の松岡洋右であり、東条の片腕として海軍を戦争にひきずった島田繁太郎であり、陸軍次官、関東軍司令官、参謀長の梅津美治郎であり、「蒋介石を相手にせず」と声明した外相であり、首相も務めた広田弘毅等々であった。  
みな“満州事変”(一九三一年)や日中戦争(一九三七年)――日本は「戦争」と言いたくなかったので「支那事変」と呼んだが――、そして太平洋戦争(一九四一年)に“責任”ありとアメリカが認めた政治家であり、軍人であった。  
彼らは、「平和に対する罪」、「殺人」、そして「人道に対する罪」といった抽象的な罪科で裁かれ、“侵略戦争”とそのための“共同謀議”が大いに問題にされたが、しかしこのことだけでは誰も死刑にされていない。むしろ、これに加えて、司令官としての責任を問われた者の死刑が目につく、つまり「人道に対する罪」といったことが刑の軽重の差になっている。  
すなわち絞首刑に処せられた七名は、東条、広田、土肥原、板垣、木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ派遣軍司令官)、松井石根(陸軍大将、上海派遣軍司令官)、武藤章(陸軍中将、陸軍省軍務局長)であり、板垣、土肥原、武藤、松井、木村といった“軍司令官”連中が並んでいるが、この中には必ずしも“大物”と言えない顔もある。  
たとえば、広田が死刑というのは酷だという評価は最初からあったし、また終身禁固にされた者の中には、広田以上に死刑になって当然の札付きの悪党は何人もいた(否、二十八人が仮に死刑になったとしても、そんなものでは全く不十分だったろう、なぜなら、もっとはるかに多くの軍国主義者、帝国主義者、天皇制主義者、反動の悪党たちのために数百万、数千万の人々が死地に追いやられたのだから、そんなにも多くの人々の死に、支配階級の全体が“責任”を負っていたのだから)。  
二十八名が起訴され、二十五名全員が有罪ということで数があわないのは、途中で亡くなったり、大川のように精神異常ということで、裁判から除外された者がいたからである。 
なぜ1914年以降の日本だけか 「裁かれるべき」は帝国主義一般だ  
東京裁判のテーマは、先号でもちょっと触れたが、1、「平和に対する罪」であり、これは日本が侵略戦争を準備し、実行したというもの(ここではとりわけ、「共同謀議」が問題とされた)、2、国際的な戦争法規や慣例(第一次世界大戦後の“不戦条約”等々)に背いたというもの、3、「人道に対する罪」、つまり住民虐殺や捕虜虐待、奴隷化等々であった。  
裁判の根拠になったのは、ポツダム宣言第十項の次の文章である。ポツダム宣言とは、四五年七月二十六日、日本の降服条件を規定した連合軍の布告である。  
「吾らは日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、吾らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加うるものなり」  
見られるように裁判の対象者は「吾らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人」であって、重点は捕虜虐待や住民虐殺といったところに置かれていたのであるが、しかしこうした意味での「戦争犯罪人」はすでに“現地”において裁判がいくらでも行われ、死刑などが科されていたのである。これには、中級、下級の将校たちもたくさん含まれていた。  
ところが東京裁判では、東条を始めとして、むしろ侵略戦争(と、帝国主義戦争)の開始と遂行に責任を持った国家の指導者たちが裁かれたのであって、主として問題にされたのも、そうした意味での“戦争責任”であった。  
しかも“罪”の内容は単に“満州事変”や日中戦争、太平洋戦争にとどまらず、一九一四年以降の戦争と、それによる“領土”の横奪等々だというのである。  
このことは、ポツダム宣言の第六項が、「『カイロ』宣言の条項は履行せられるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州、四国並びに吾らの決定する諸小島に局限されるべし」と謳ったことと関係する。  
そしてカイロ宣言(四三年十一月、アメリカ、イギリス、中国が発した、日本の降服条件を示した宣言で、ポツダム宣言の基礎となった)は、一九一四年の第一次大戦勃発以降、日本が行った“侵略行為”を指摘し、次のように主張していた。  
「(この三国の)目的は、一九一四年以来、日本国が奪取し、また占領したる太平洋における一切の島嶼を日本より剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のごとき、日本国が清国より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することにあり、日本国は暴力及び貪欲により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。前記の三大国は朝鮮人民の奴隷の状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしめんとする決意を有する」  
また、東京裁判は日本がソ連と戦った、一九三八年と三九年の戦争――一般に、張鼓峰事件、ノモンハン事件として知られているが、“侵略”というより、“国境事件”と呼んだ方がより事実に近い――もまた“侵略戦争”として告発されているが、しかしこの戦争については、すでに日ソ間で停戦条約が結ばれ、解決されているのであって、なぜ東京裁判で問題にされなくてはならなかったのか、まさに「国際法と慣例」に即しても了解することはできないだろう。  
ただ太平洋戦争末期、ソ連もまた“参戦”したということからのみ説明されるようなことであった。  
そして一九一四年以降というなら、当然日本の“シベリア出兵”(一九一八〜二二年)も、まさに“侵略行為”として持ち出されるであろうが、しかし仮にそれが正真正銘の“侵略行為”であり、どんな正当化もありえないとしても、しかし東京裁判で“裁かれなくては”ならないという理屈にはならないであろう。  
“原告団”にはソ連も中国も加わっていたのだから、裁かれるべきは“満州事変”以降となるのは当然であり、さらには一九一四年以降となるのもまた当然であった。  
しかしなぜ日本の帝国主義が第一次世界大戦以降と区切られて“裁かれなくては”ならないのか、それ以前の帝国主義や侵略戦争の“罪”はどうなのか。  
そしてさらに、なぜ日本の帝国主義だけが“裁かれなくては”ならないのか、本家本元である欧米の強大な帝国主義国はどうなのか。アメリカもまたフィリッピンの領有など十分に帝国主義政策を強行してきたのであり、またそもそも、日本と「太平洋の覇権をかけて」激突したのも、アジアの市場、とりわけ中国の広大な、将来性のある市場を日本に“独占”され、囲い込まれることを憎んだからではなかったのか。  
日本の帝国主義が“裁かれなくては”ならないとするなら、アメリカの帝国主義も、否、帝国主義一般が“裁かれなくては”ならなかったはずである。だが、アメリカは(つまり東京裁判は)決してそのようには問題を提起しなかったし、できなかったのである。  
東京裁判が最初から茶番であり、矮小でしかありえなかった理由である。 
米占領軍の“動機” ポツダム宣言による裁判か  
東京裁判では、「何を裁くのか」、「何のための裁判か」ということは、終始一貫はっきりしなかった。  
それはこの裁判が、帝国主義戦争に勝利したアメリカが、敗北したもう一つの帝国主義国家日本の罪を問うという、本質的に限界のあるものだったからである。勝った帝国主義国家が、負けた帝国主義国家を一体どんな“罪”で裁くことができたというのか。  
まさにこのあたりを突いたのが、清瀬一郎弁護人であった。清瀬は冒頭陳述で、「日本の降伏はアメリカのいうような“無条件降伏”ではなく、この点ではドイツと違う、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏したのだから“条件付き”だ、ポツダム宣言を根拠に“裁く”というならまだわかるが、ニュールンベルグ裁判の原則を借りてきてやるのはおかしい、ポツダム宣言の『吾らの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人』という基準でのみ裁判をすべきだ」と、アメリカ占領軍に“食ってかかった”。  
「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」など、ポツダム宣言のどこにもないような項目を持ち出して、日本(の支配層)を裁く“法的な権限”があるのか、というのだ。ナチスをこうした“罪”で裁いたのはいいとしても、日本は違うのだ(日本はドイツと違って無条件降伏したのではない、ポツダム宣言を受諾して降伏した、つまり“条件付き”の降伏だ云々)と主張し、占領軍の“痛いところ”突いたのである。  
もし“合法的”を売り物にするなら、きちんと裁判の“合法性”を確認せよということであって、弁護人・清瀬の冒頭陳述は、客観的に、占領軍のいう“合法性”の見せ掛けを、つまり東京裁判のインチキ性を、それが帝国主義戦争に勝利した国家の一種の恣意でしかないことを、鋭く暴露することになったのである。  
実際、占領軍の告訴は一貫したものではなかった、つまりポツダム宣言にそったものではなかった。そもそも占領軍にも、アメリカの検事たちにも、ポツダム宣言に“忠実に”裁判をやろうという意思はほとんどなかった。彼らの意図は別のところにあった、つまりアメリカの裁判目的は、自らの戦争を正当化し、その帝国主義的意図を覆い隠すことであり、さらにまた、日本の戦争の“犯罪性”を決定的に印象づけ、日本の“古い”支配層の権威を徹底的に失墜させ、彼らから日本の国民を切り離し、アメリカの占領政策をスムーズに浸透させ、貫徹させることであった(もっとも、ここでアメリカは巧妙な術策を弄し、天皇だけを古い支配層の全体から切り離して、ただ一人“罪”がないとしたが、帝国主義戦争の先頭に最初から最後まで立っていた天皇に“罪”がないということは、ごく“常識的に”考えてもありえなかった)。  
だから、占領軍は日本の旧支配層の「国内政策」まで、あれこれと並べたてて、その“罪”を告発した。例えば起訴状は、日本の支配層の(つまりこの場合は、二十八名の被告たちの)国内政策を、「日本国民に組織的に民族的優越性の思想を植え付け、政治的に日本の議会制度にナチ党あるいはファシスト党と同様の組織を導入し、これを侵略の道具化した。また経済的に、日本の資源の大部分を戦争目的に動員した。また政府に対する陸海軍の威令と制圧を強化し、翼賛会を創設、国粋主義的膨張政策を教え、新聞ラジオに厳格な統制を加えて国民の世論を精神的に侵略戦争に備えさせた」といった“罪”を盛り込んだが、これはまさにお笑いであったろう。  
これはちょうど、不埒なブッシュが、「大量破壊兵器」を口実にイラクに攻め込んでみたが、それが見つからないからといって、今度はフセインの“国内政策”を問題にして、その「専制政治」や「弾圧政策」を持ち出したのと、同じようなもの、まさにご都合主義そのものであった。  
日本の支配層が侵略戦争をやったということなら、それを問題にすべきであって、“国内政策”などまた別のことである。一体、大政翼賛会を組織したとか、資源を戦争目的に動員したとかいったことが、東京裁判とどういう必然の関係があったというのだろうか。  
こんなことを持ち出すならアメリカはどうだったのか、ということになる。アメリカもまた、国内でいくらでも“弾圧政策”や報道統制、国家主義や愛国主義の扇動をやり、アメリカの“優越性”(つまりアメリカの“体制”の絶対性、至上性)のお説教をしていたのであって、そのことで日本を責めることができるはずもなかったのである。  
今まさに、厚かましいブッシュがアメリカのひどい反動的な“体制”(“民主主義”のかげに隠れた専制体制)を棚上げしながら、フセインの「独裁」のことをあげつらうのと同様であった。実際、トルーマンのやったことは、ブッシュのやっていることと寸分とちがわないのであって、日本の反動たちが、当時のアメリカのやったことを非難しながら、今ブッシュがイラクに対してやっていることを擁護し、夢中になっていることほどにみっともなく、自己矛盾していることはない。 
果たして「侵略戦争」か “太平洋戦争”の本質  
アメリカの告訴の根底は、日本が「侵略戦争」をやった、というものであった。この観念によれば、単に日本が中国やアジアを「侵略」したに留まらず、アメリカとの戦争、すなわち太平洋戦争もまた日本の「侵略戦争」であり、アメリカはそれに反対して決起したにすぎない、というのだ。  
アメリカは自らの行った戦争を帝国主義戦争であると言えなかったので、日本の戦争を単なる「侵略戦争」、不正の戦争として告発し――歴史的に批判されたのでなく、単に道徳的に非難されたにすぎない――、したがって自らの戦争は、それに対抗する“正義の”戦争であると公言したのである。  
主席検事のキーナンは裁判の冒頭陳述で、なぜ日本が(二十八名の被告が)告訴され、裁かれなくてはならないかを明らかにした。  
彼は日本の戦争は「文明への挑戦」であり、被告たちは「民主主義国家に対し、侵略的戦争を計画し、準備し、かつ開始した」と糾弾した。「そればかりでなく、進んで人間を動産および抵当物のごとく取り扱った。これは、殺戮と幾百万の人々の征服および奴隷化を意味する」云々。  
キーナンは、侵略戦争という犯罪行為は、国家の罪ではなく、その国家の頂点にあった首脳者の罪として、個人が罪を問われるのだ、と奇弁を述べた。  
「国家自体が条約を破るものでなく、また公然たる侵略戦争を行うものではなく、責任はまさに人間という機関〔器官?〕にある。これら被告の不法行為の結果は、あらゆる犯罪の内で最も古い犯罪である殺人を構成し、人命の不法もしくは不当なる奪取となった」  
こうした告訴そのものが、占領軍の裁判の本性を、つまりそれが“公正な”裁判といったものとはほど遠いものであったことを教えている。  
日本がアメリカに対して、侵略戦争を行ったなどということはナンセンスであった、というのは、日本がアメリカ“本土”を攻撃し、犯したことは全くなかったからである。  
辛うじてそれらしきことを探せば、開戦時、ハワイを“奇襲”したこと、一九四二年の春、アリューシャン列島のアメリカの領土であったアッツ・キスカ島を攻撃、占領したこと、あるいは戦争の初期にアメリカの植民地であったフィリッピンから、アメリカ軍を追い出したこと、等々にすぎない。日本の潜水艦が遠くアメリカ“本土”のどこかを一、二度攻撃したということもあったかもしれない(蚊が刺したほどの感覚も、アメリカには与えなかったが)。  
こうしたことをもって、アメリカは日本の対アメリカの戦争を「侵略戦争」と呼ぶのであろうが、しかしこうした評価が“無理”であり、牽強付会であるのは一見して明らかであろう。仮にそうした意味で「侵略」を問題にするなら、沖縄を「侵略」し、また日本本土を空爆で完膚なきまでに破壊したアメリカの方に言われるべきであろう。  
ハワイ等々の戦闘はすべて日本とアメリカの帝国主義戦争の一環、一部であって、日本のアメリカ“侵略”といったこととは別であろう。  
そして日本が“民主主義”や“文明”一般を攻撃した、などというのもばかげている、というのは、連合国の側にも、いくらでも“非民主的な”国家は存在していたからである。  
戦後、アメリカはスターリン下のロシアを“赤い”専制国家と呼んで激しく対立するようになるが、もしそれが真実だとするなら、当時アメリカと組んでいたロシアは決して“民主主義”国家でも、“文明”国家でもなかった、ということになる。  
また蒋介石のもとでの中国が一つの専制国家であり、それ以外でなかったことも明白である。  
そしてアメリカ自身が表面的な“民主主義”や“自由”の装いのもとで、独占資本の一つの“専制国家”として存在していることも、我々は確認できるのだ。  
とするなら、日本の戦争目的が「民主主義を葬り去るため」だなどと言うのは極端な一面化であろう。  
確かに日本は軍部独裁国家、天皇制専制国家ではあったが(そして資本の言う“自由主義”“民主主義”といったものの偽善や自己矛盾や虚偽を嘲笑してはいたが)、しかしだからといって、日本の戦争の動機が“民主主義”国を粉砕したり、“文明”を否定するためであった、などと言うのは一面化であろう。だが占領軍は(つまりアメリカは)、こうした偽りの観念を必要としたのである。  
日本が行った中国やアジアとの戦争を侵略戦争と呼ぶことは可能であろうが、しかし対アメリカの戦争まで、その概念に入れることはできないのであって、この戦争までも「侵略戦争」で片付けようとしたことは、ただそれだけで、東京裁判の正当性をあやしくするのである。  
アメリカはアメリカの戦争の帝国主義的本性を隠すために、この戦争を日本の「侵略戦争」と呼んだが、それは現在、ブッシュが自らのイラク戦争の帝国主義的性格をごまかすために、イラクの「大量破壊兵器」やフセインの「非民主主義」を持ち出すのと同様であろう。  
まして、国家は犯罪を犯さない、犯罪は国家の頂点に立つ人間の責任だと言って、東京裁判を正当化する理屈は荒唐無稽でばかげているであろう。  
こんな具合に、国家と支配階級(つまり“人間”)を切り離すのは全くお粗末ある。国家とは支配階級の“武装した”機関以外の何ものでもなく、両者は別ものではない。支配階級の“人間”が有罪だというなら、その国家もまた有罪であり、逆もまた真実である。厳密に言うなら、アメリカは個人を裁くのではなく、国家を裁かなくては決して首尾一貫しないのである。  
実際、東条などは公然と、自分は国家の政策として戦争を行ったのであって、その意味では個人としての責任はない(国家の諸機関で決定された戦争をやったにすぎない、自分の意思だけでやったのではない等々)、と主張したのである。  
そしてまた、アメリカの主張は天皇の場合、その矛盾をさらけ出している、というのは、天皇は戦後、自分の意思は戦争ではなかったが(必ずもそうでないのは、多くの証拠や証言が明らかにしている通りだが)、国家や機関にしばられて戦争の先頭に立ったのだ、と卑怯な弁解をやった(あるいは、多くの人に証言させた)からである。  
もし国家に責任がなくて、国家の中枢にいて、戦争を指導した人間に責任があるというなら、どうして占領軍は、天皇のごまかしの言い訳を聞いたのか、それを許したのか。個人の責任であって、国家の責任でないというなら、天皇こそまず第一番に“戦争犯罪人”として告発されるべきであって、国家の決定に従っただけ、という天皇の言い抜けは通用しなかったはずだ。 
「人道に対する罪」 「南京大虐殺」など暴露さる  
東京裁判はまた、戦争中、日本軍が犯した数々の残虐行為や、軍部の策謀や謀略を暴き出したのであって、それまで厳密な“報道統制”のもとでつんぼ桟敷におかれていた日本の国民をひどく驚かせたのであった。  
それらの暴露は、日本の国民に、自分たちのやった戦争の反動性や犯罪性を思い知らせ、アメリカの占領支配や、資本主義体制や民主主義の“押しつけ”や、東京裁判等々を容認する心理的な雰囲気を醸成して行ったともいえる。  
日本“国民”は、現在のイラクの人民とは違って、決してアメリカ占領軍に“テロ”を仕掛けなかったばかりか、それを「解放軍」とさえ呼んで、その“民主化”を支持し、迎合したのであった(共産党までが、この支配的流れに乗ったのはお笑いであった)。  
東京裁判では、例えば“満州”への侵略拡大が謀略の連続によるものであったこと、またその過程で三月事件や十月事件等々の軍部のクーデタ騒ぎがあったことが暴かれ、また「柳条溝事件」――一九三一年九月十八日夜半、奉天北方の柳条溝で満鉄路線が爆破され、“満州事変”が始まった――はいかにして、誰によって企まれたのかが追及され、あるいは日中戦争のさなかに起きた「南京大虐殺」や、東南アジア等々の“占領地域”での日本軍の残虐行為なども告発され、また“満州国家”の実態なども溥儀などによって明らかにされ(もっとも、溥儀の告発は自己正当化のためにのみなされ、必ずしも信用できるものではなかったが、それは戦後、すべての“おえら方”の証言がそうであったのと同様である)、日本国民に大きな衝撃を与えた。  
何しろ国民は、これまでそうした事実は一切知らされておらず、国や軍部が振りまく――そしてもちろん、マスコミやインテリたちも同罪だったが――いつわりの情報をほとんど盲目的に信じてきたからである。  
この意味で、東京裁判は、自分たちの戦争の反動的で、帝国主義的な本性を日本国民に反省させるという、大きな“学習効果”をもったということはできる。  
「南京虐殺」の事実もまた、公然と東京裁判の法廷に持ち出された。中国代表の向検事は、日本が謀略と武力と麻薬を使って中国を侵略し、民衆の大量虐殺という“罪”を犯したと告発し、その代表として「南京虐殺」を持ち出した。  
「人道に対する日本軍隊の犯罪はあらゆる占領地域にわたり全期間おこなわれた。その顕著な一事例は、一九四〇年南京陥落時に発生した。中国軍があらゆる抵抗を中止し、南京市が全く被告松井指揮下の軍隊に制御されたのち、暴行と犯罪の大狂乱が始まり、やむことなく四十余日にわたって続行された。  
この兵は、将校、東京の統帥部の完全なる了知と同意の下に残虐行為により、中国民衆のあらゆる抗戦意識を永久に滅却しようと企図したものである。  
これは殺人、虐殺、拷問、凌辱、略奪、破壊を含むもので、孤立的事例ではなく、典型である……。なお日本軍は侵略の拡大のためアヘンその他の麻薬を使用し、これによつて侵略の反抗を無感覚、無能力化されようと意図した」  
検事側は多くの証言により、微に入り細をうがって「南京虐殺」のひどい実際を明らかにしようとした。  
周知のように、「南京虐殺」によって何人が殺されたのかで、今にいたるまで大きな議論がある。数十万という数字があげられるかと思うと、多くて数万という反動派の学者もいる。  
東京裁判は、多くの証言や、紅卍会や崇善堂の記録による埋葬死体の数などから、二十万〜三十万という数字を示唆していた。この二団体が二週間に埋葬した死体が、十五万五千以上だったからというのである。  
仮に虐殺が五十万でなく五万であったとしても、占領時に大量の住民虐殺や迫害がなされたという事実は否定しがたかった。もちろん、そんなことを全く知されておらず、自分たちは“聖戦”を戦ったと信じていた日本国民は、裁判で暴露された事実に驚愕し、戦慄したのであった。  
「南京虐殺」で罪を問われたのは、松井であり、武藤であり、そして当時、外務大臣であった広田であった。広田の死刑には、「南京虐殺」が関係していたかもしれない。検事側は、「南京虐殺」は偶発的なものではなく、政府や軍部のトップはこの事件を知っていながら、決して抑制しようとしなかった、と主張したからである。  
しかし、「南京虐殺」が罪のない一般住民を大量無差別に殺す「人道に対する罪」だというなら、日本への“無差別爆撃”や原子爆弾の投下はどうだというのだろうか。これほどの“住民虐殺”もまたなかった。  
だが、アメリカは日本軍部の“罪”を暴くのに熱心だったが、自らの犯した「人道への罪」に対しては、もちろん何一つ語らなかったが、これはちょうど、今ブッシュがフセインの“罪”について語っても、自らのそれに対して、どんな反省もしていないのと同様である。 
 

 

戦争の正当性叫んだ東条 すべて「自存自衛」のためと強弁  
自殺をしそこない、その小心な本性をさらけ出した東条は、東京裁判で、自らの“信念”を臆面もなく吐露して止まなかった。彼は法廷を利用して、自らと日本国家がやったことは全面的に正しく、戦争自体、何ら反省することはない、それは正当な“自衛戦争”であり、日本が国家として自立、自存を保っていくために必要な戦争であったと開き直った。  
彼が反省し、謝罪することがあるとすれば、それは日本の敗戦に対してであって、この点については総理大臣であった自分は責任を負うと殊勝顔を装った。  
他方では、彼は天皇は十五年戦争に何ら責任はないと“かばった”が、しかしなぜ、自ら正当だと称する戦争に天皇が無関係だったなどと言うのか、奇妙な理屈ではあった(天皇は裏切り者だったとでも言いたいのか)。  
とにかく、多くの他の被告が醜い自己正当化にふけり、自分は本心では平和を望んでいたのだとか弁明したのに対し――この点では、天皇も同じであった、否、天皇ほどこうした自己正当化をしたり、やらせた日本人はいなかったと言える――、東条だけは公然と十五年戦争を擁護し、美化した。  
彼は、日本はアメリカなどによって「自衛」が根底的におびやかされたからこそ、止むに止まれず戦争したのであって、悪いのは日本を追いつめ、その国家を存亡の縁にまで追いやったアメリカである、と言いたてた。  
彼は法廷で、あるいはその「口述書」を通して、一九四〇年、四一年の日米関係を詳しく跡付け、アメリカがいかに不当であり、横暴であって、制裁や非妥協的な態度によって、日本の利益と自存をおびやかし、日本を経済的、政治的に袋小路に追い込んで来たかを“論証”しようとした。  
“満州事変”も中国への“進出”も、南北仏印(現在のベトナム)への“進駐”も、すべて「日本の自存自衛」のために行われたものであって、それをとやかくアメリカが言いがかりをつけ、日本に対して経済的封鎖や制裁を行い、あるいは軍事的、外交的に圧迫を加えて来たのだから、アメリカにこそ問題があり、すべてアメリカが悪い、という“論理”である。  
東条は口を極めて日本は妥協を望んだが、アメリカこそ戦争をやりたかったので、早くから戦争を決意して、日本との交渉に臨んでいたと強調した。だからこそ妥協が成り立たず、戦争といった事態にまで立ち至ったのだ、と。  
また東条は一九四〇年、四一年にアメリカの軍事生産が飛躍的に増大し、戦争準備が急速に進んだことを指摘し、これこそアメリカが戦争を決意し、日本を叩く準備をひたすら急いだ証拠だと強調した。それに対して、日本が備えたのは当然だ、もし備えなかったら、自分は総理大臣としての責務を果さなかったということで糾弾されただろう、というわけだ。  
戦争はアメリカのハル・ノートが提出されたことで不可避となったが、妥協を拒否し、戦争宣言とも取れる、こうした“最後通帳”の文書こそ日米戦争の直接の原因で、戦争責任を言うなら、アメリカの方にこそあった。  
また、アメリカは日本の無線を盗聴、解読することによって、日本が攻撃に出るのを知っていながら、日本に最初に攻撃させようと策動し、挑発したのであり、日本が先に(宣戦布告もなしに)攻撃した(すなわちハワイ急襲)などというのは正当ではない、とも“匂わせた”。  
しかし、“満州”国家をでっちあげ、中国全体に侵略を拡大しつつ、さらには仏印、タイなどの“南方”に進出しつつ、「この目的達成のためには対米英戦を辞さない」という決定をしていながら(一九四一年九月六日の“御前会議”)、戦争はアメリカの挑発のために起こったと言うには、相当の厚かましさと一人よがりが必要であった。  
アメリカは、日本が中国や南方アジアから撤退しなければ、もう妥協しないと決意を固めつつあったが、こうした立場はまた、アメリカの“自衛”という理屈で正当化されていたのである。  
中国や南方アジアへの日本の軍事的侵略の拡大は、アメリカにとって「重大な脅威」であった、というのは、それがアジアにおける、太平洋におけるアメリカの覇権を決定的におびやかしたからだ。  
ハワイはさておくにしても、仏印の日本軍占領は、たちまちアメリカの植民地であったフィリッピンへの「重大な脅威」になった。日本の南アジア進出は、アメリカの“自衛意識”を一挙に高めた。日本の侵略の拡大はもう、アメリカにとって“よそごと”ではなくなったのである。  
だから、日本がアメリカとの戦争を「自衛のため」と叫んだと同じくらいに、アメリカもまた憤慨して「自衛のため」とわめいたが、しかしこの両国の言う「自衛」とは、自国や自国民の「自衛」では全くなくて、アメリカにとってはフィリッピン等々の植民地であり、日本にとっては“満州”やアジアの支配地域であったにすぎない。  
日本について言えば、後に明らかになったように、本当の「自衛」――つまり“本土防衛”等々――が問題になったときには、軍隊は何の役にも立たなかったのであり、全く「自衛」などしなかったし、できなかった。アメリカの日本“本土”空襲はほとんど自由、無制限に行われたし、原爆投下を妨げるような「自衛」活動もなかった。  
ブルジョアや帝国主義者の言う「自衛」とは、こんなものであり、ただこんなものとしてのみ現実的だった。この教訓を我々は決して忘れてはならない、というのは、今また「自衛」のための軍隊の増強とか、海外派遣といったインチキがもっともらしく言われ始めているからである。  
もちろん、開戦に向けてアメリカは策動した、早くから戦争を決心していて、日本から攻撃させようとしたにすぎない、という非難もナンセンスである、というのは、同じことを東条を始めとする軍部もやっていたからである。  
ルーズヴェルトが、日本が中国等々から手を引かない限り戦争だと決意していたというなら、日本も同様で、アメリカが日本に中国等々から撤兵せよと迫り、その点で日本の立場を認めないなら、妥協を拒否するなら、戦争しかないと断言していたのである。  
アメリカは日本がすでに戦争行動に移っているのを知っていて、何ら手を打たなかったと非難してみても、日本の方こそがハワイに“やみ討ち”をかけたのだから、大した自己正当化にはならない。  
策動を張り巡らしたのは“お互い様”としか言いようがないが、それは単純に、両国が帝国主義的政治にふけっていたことを教えるにすぎない。戦争はその避けられない結果である。 
天皇の“戦争責任(上) 開戦の詔勅は「平和の意思表示」か  
東条は東京裁判で、終始一貫、天皇をかばい、天皇には“戦争責任”がない、と言い張った。  
天皇は一貫して平和主義者であって、太平洋戦争のときも戦争には反対であった、戦争開始は内閣の意思として決定したが、それは天皇の意思に反してのことであり、天皇は「とにかく私の進言、統帥部その他責任者の進言によってシブシブご同意になったのが事実」である、天皇は最後まで平和的解決を望んでいられた、それは一九四一年十二月八日の開戦のご詔勅の文句にもはっきり表れている、つまりやむにやまれぬ事情で戦争になったのだという形で、天皇の気持ちが繰り込まれている、云々。  
しかし、開戦時の天皇の詔勅に繰り込まれているという、天皇の「戦争反対の意思」とはどんなものであったであろうか。  
詔勅は、断固として米英を撃てと絶叫しつつ、そもそも悪いのは米英である、と言っているにすぎない。日本はもともと平和を愛好し、またこの間も「東亜の安定をもって世界の平和」のために一貫して努力してきたにもかかわらず、中国は「帝国の真意を理解せず、みだりに事を構えて東亜の平和を撹乱」し、帝国に対して武力に訴えてきた、そしてアメリカはそんな中国を助けただけでなく、「東洋覇権の非望をたくましく」して、帝国の周辺で武力を増強し、また経済的制裁をもって「帝国の生存に重大な脅威」を加えてきた、だから日本は「やむをえず」「自存自衛のために」戦争を開始するのだ、というのである。  
こうしたものは、「平和の意思」といったものでは全くなく、戦争の汚い自己正当化であり、卑しい責任回避でしかない。  
東条は、開戦の詔勅のこんな理屈を持ち出して、天皇の平和主義を言い張り、天皇は開戦にも、戦争自体にも何の関係もなく、またどんな責任もない、と強調したのである。  
だが、「東亜の安定」をもって世界の平和を企図したと言っても、その「東亜の安定」とは、朝鮮の植民地化であり、中国の一部、つまり“満州”の事実上の占領と植民地化であり、さらには中国全体から東南アジアへの武力進出と支配であったとするなら、それが天皇の平和への意思であると言うには、相当の厚かましさと破廉恥さが必要であった。むしろ、それは天皇の「戦争への意思」を語っていたというべきだろう。  
実際、詔勅で天皇は、自分は平和の意思を持っていたが、アメリカがそれを理解も評価もせず、踏みにじったから、戦争に訴える以外ないと独善を振りまきつつ、日本人の全体を戦争へと“駆りたてて”いるのであって、戦争に反対し、平和主義に徹底せよ、などと全く“匂わせても”いないのである。  
実際には、天皇は対米英の戦争を「ご裁可」したのであって、そのことを東条自身もはっきり証言している。すなわち、東条は、東条、両総長(杉山参謀総長と永野軍令部総長)が、天皇に『日本の自存を全うするために、ひらたく言えば、戦争以外に生きる道はありません』と申し上げ、ご嘉納いただいた」と、明確に証言している。  
つまり天皇は、戦争を“裁可”した、すなわち「御名を署し、御璽を押捺した」のであり、正式に戦争への「ゴー」の号令を発したのである。天皇がその号令を発することなくして、政府も軍部も、そして日本全体も戦争に向かって一路邁進することは決してできなかったのである。  
もし本当に、そして真剣に、天皇が戦争に反対であったというなら、どうして天皇は戦争を勅裁したのか、それを“お許しに”なったのか。天皇は自らの責任において、それにノーと言うことができたのであり、また戦争反対が信念なら、断固としてノーと言うべきであったが、それは“人間”として当然のことではなかったか。ことは極めて重要であって、あいまいな態度の余地などなかったのだ。  
しかし東条は、天皇は戦争には反対であったが、しかしノーとは言わなかったと、事実上いうのだ。  
これは一体、何であろうか、反動たちが言いはやしているように、天皇の高潔な人格を示しているというのであろうか。  
労働者にとっては、ここには単なる小心な卑怯者が見えるだけである。「本当は」戦争には反対だとか言いながら、しかし実際には、数百万、数千万の人々の命を奪うことになる戦争に反対せず、むしろ、その先頭に立って、国民全体を戦争に駆り立てる、ひどい偽善者、表裏あるペテン師がいるだけだ。戦争には反対だとか言いながら、全力をあげて戦争を阻止しようとしない卑劣漢――そうできる地位にあり、大きな影響力をもっていたにもかかわらず――がいるにすぎない。  
東京裁判では、検事側から東条に向かって、「日本の臣民たる者は何人たるも天皇の命令に従わないということは考えられないと〔東条は〕言いました。それは正しいか」という質問が出された。  
しかし東条は、この質問にまともに答えなかったし、答えることができなかった。  
「それは、私の国民としての感情を申しあげていた。天皇の責任問題とは別です」、という意味不明のごまかしが東条の答えであった。  
一九四一年九月の御前会議で、「もしアメリカが妥協しなかったら――これはつまり、日本にあくまで、東南アジアのみならず、中国や満州からの撤兵を求めて来る、ということだ――、対米戦争も辞さない」という決定がなされてから、何回かの御前会議がもたれ、最後には、十二月二日の御前会議で戦争が決まったのだが、この時間は、結局、天皇に戦争を納得させ、決意させるための時間かせぎでしかなかったと言える。  
妥協を迫る天皇をごまかし、すかし、戦争しかない(アメリカが妥協しないから、こちらもできない)という結論にもって行くのが、東条を中心とした“軍部”の筋書きであり、策したとろこだったが、それは結局成功し、天皇は戦争を“お許しになった”のである。  
天皇も、自らの帝国主義的立場の放棄、つまりアジア各地からの撤兵の意志も信念も何もなかったのだから、結局は軍部の意思に引きずられ、追随するしかなく、かくして戦争を正当化し、国民を駆り立てるために、誰よりも大きな役割を担い、“お役に立った”(“元首”としての役割を十分に果たした)のである。こんな人間が、どうして戦争に「責任がない」などと言えようか。  
太平洋戦争で日本がもし勝っていたなら、その手柄はまず天皇にこそ帰せられ、そしてこの戦争は正義の戦争であったと言いはやされたことであろう。  
だとするなら、この戦争の“責任”が問われるとするなら、天皇こそ第一に問われなくてはならないということほどに、明白なことがあるだろうか。 
天皇の“戦争責任”(中) 主席判事は「天皇有罪」を明言  
そもそも、四一年十月十八日、近衛内閣は総辞職して、東条が首相になったが、誰もが、これこそ戦争内閣だと信じ、対米戦争は不可避になったと思った。まさに東条内閣の登場こそ、日本が対米戦争を決意したことの表明でなくて何であったろう。  
実際、近衛が内閣を投げ出したのは、東条と対立したからであり、東条に、アメリカに対して妥協し、中国からの撤兵を約束させようとしたが、東条の反撃――というより、“激怒”――に会って、「嫌気がさした」からであった。  
こうした経過からしても、東条内閣の出現のもつ意味は明らかであった、だが天皇は何を思ったか――東条の登場こそ平和への道とでも勘違いしたのか――、自らひどく信頼する東条に、この重大な時期の内閣を“任せた”のである、つまり戦争に向かって進めと発破をかけたと同様のことをしたのである。大体、東条を“深く”信頼し、首相に任命しておいて、戦争への責任がない、などとどうして言えるのか。東条内閣こそ対米戦争を意味したからである。  
個人的なことを申して恐縮だが、この当時のわたしの父の書いたものを読んでいると、父は東条内閣の誕生を、正確に、そしてただちに、対米戦争のための内閣であり、体制づくりであると認識していた。そして、これこそ日本全体の一般的な見方でもあっただろう。  
天皇が、東条を「深く」信頼して、「毒をもって毒を制す」などと考えていたとするなら、つまり軍部の最強硬派、“武闘派”の東条をもって来て、陸軍の強硬派を抑えることができ、戦争を回避できる――というのは、東条は天皇を絶対視しており、その気持ちをないがしろにするようなことは決してないだろうから――、と信じていたとするなら、天皇は単なる愚昧なお人好しであり、その甘い判断によって「国を誤った」のである。  
こんな幻想によって、東条を首相の座に据え、戦争へのゴーサインを出したということ一つでも、天皇の“戦争責任”は明白であり、重大である。  
実際、天皇は東条内閣の出現を歓迎し、明白に、その後押しをしたのだ。天皇は東条が天皇ベッタリであり、ちやほやと持ち上げるのにすっかり感激し――東条ほどに、天皇に対する忠誠心が厚く、“天皇絶対主義者”はいないと言われた――、東条を“高く”評価していたのである(とするなら、天皇の“忠臣”東条が、天皇の気持ちに反して、戦争を開始した、などとどうして言えるのか、東条は天皇の意思が必ずしも平和つまり“対米屈服”ではないと知ったからこそ、開戦を決意したのではないのか。このように“解釈”しなければ、右翼の連中は決して論理的なつじつまを合わせることはできないだろう)。  
木戸日記には、木戸が東条首相を奏請したとき、天皇のご機嫌すこぶる麗しく、「極めてよろしくご諒解あり、『いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということだね』と仰せあり。感激す」とあるという。  
つまり天皇と東条はまさに“君臣一体の”盟友であり、“盟友”として太平洋戦争を戦ったのであり、東条が反動で軍国主義者の“悪玉”であり、他方天皇は、平和主義者の“善玉”であった、などというのは“後世の”自由主義者たちが描いた“善悪論”ほどに、つまらない神話はない。  
さて、天皇を弁護する陳腐な理屈の一つは、天皇は絶対君主ではなく立憲君主であり、政府の決定事項には反対しない、という原則を固く守った、あるいは守ろうとしてきたのであって、だから天皇は政府が決定した戦争には責任がない、というものである。  
しかし天皇の権力は絶大であり、東条でさえ天皇の言葉を絶対視していたと言うなら、天皇は政府の言うことをただ「裁可」していただけだ、ロボットだったにすぎない、だからどんな国家や政府の悪事にも「責任はない」などと言って、世の中に通用する話であろうか。  
公けに謳われている憲法上の地位――国の統治権は天皇にある、と明記されていた――をとっても、また軍隊の指揮が天皇の下にあるという“統帥権”の規定にせよ――この規定により、軍部(参謀本部や軍令部)は“独走”した――、天皇の法的な、あるいは事実上の権力は明白であって、都合のいいときだけ、自分は権力はなかったのだ、などと言うのは卑怯な弁解であり、自分の卑劣さを隠すごまかしでしかない。主体的な立場が全く抜け落ちており、道徳観念ゼロ、ということか。  
とにかく、天皇には少なくとも統帥権はあり、しかも「大元帥」だったのだから、軍部を抑えることはできたはずだ、参謀本部や軍令部に対して徹底的な影響力、支配力を発揮すればよかったのだ。  
東京裁判でも、天皇“無罪論”に対して、あるいは天皇を裁判にさえかけなかったことに対して、決定的な異議が提出された。それはウェッブ裁判長の「別個意見」であった。これは「少数意見」として提出されたものである。  
その中で、ウェッブは次のように、天皇問題について述べている。  
「戦争を行うには、天皇の許可が必要であった。もし彼が戦争を望まなかったならば、その許可を差し控えるべきであった。彼が暗殺されたかもしれないということは、問題の答えにはならない。この危険は、自己の義務を危険があっても遂行しなければならない統治者のすべてが冒しているのである。いかなる統治者でも、侵略戦争の開始という犯罪を犯しておいて、そうしなければ命が危うかったのであるからといって、それを犯したことについて、赦されるものと正当に主張することはできない。  
天皇は進言にもとづいて行動するほかなかったということは証拠と矛盾している。彼が進言にもとづいて行動したとしても、それは彼がそうすることを適当と認めたからである。それは彼の責任を制限するものではなかった。しかし、いずれにしても、大臣の進言に従って国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲君主でも赦されるものではない。  
〔しかし〕本官は、天皇が訴追されるべきであると示唆するものではない。それは本官の仕事ではない。彼の免責は、疑いもなく、すべての連合国の最善の利益のために決定された」  
ウェッブの言葉に、付け足すことは余りない(彼が太平洋戦争を、日本の「侵略戦争」としてのみ理解しており、したがってアメリカなどの帝国主義者はどんな“罪”もないと無邪気に信じていることを除いては)。彼は、天皇が決定的に“有罪”であること、そして彼が免責されたのは、罪がなかったからではなく、罪があったにもかかわらず、アメリカなどの「利益」といった、極めて政治的な事情が作用したからであることをはっきり語っている。 
天皇の戦争責任(下) 戦争は「ご聖断」で終わったのか  
天皇“無罪論”の根拠の一つは、天皇のヘゲモニーによってようやく戦争が終わったのであり、その結果、戦後の日本があり得たのだ、これこそ天皇の平和への意思を教えるものだ、そんな天皇に“戦争責任”などがあろうはずはない、といったものである。  
東京裁判を主催したアメリカも支配層も、また天皇の“平和主義”を信じるふりをし、またそれをもてはやしさえしたのであった。  
そして、天皇の終戦にあたっての“役割”は、戦後、自由主義者らによって高く評価され、美化されてきた。彼らは、天皇の“役割”の中に、自らの“戦争責任”を昇華させ、棚上げしてくれる何かを見出したのである。  
あの悲惨な戦争は、天皇が戦争中止を決意し、それを「ご聖断」という形で発表されたからこそ終焉を迎えることができ、日本国家と国民が滅亡から救われた、というのである。  
しかしこうした主張は二重の意味でインチキであり、あるいは幻想でしかない。  
まず第一に、戦争は天皇の「ご聖断」によって終わったのではなく、日本のブルジョア階級が、そして国民の大多数が――一部軍部の“狂信的な”軍国主義者、天皇制主義者を除いて――戦争はもう決して勝つことができないばかりか、続けることさえ不可能だ、本土決戦などとんでもない、それは一方的な大虐殺と国家体制の致命的な崩壊、解体に帰着しかねないと思い始めたからであった。  
鈴木内閣や天皇一派は、ブルジョア階級と国民のこの顕在の、あるいは潜在の意思を知ったから、ひしひしと感じたから、そしてこれ以上戦争を継続するなら、労働者人民の怒りと不満が爆発して、総反乱、革命さえありうることを恐れたから、戦争の幕引きをしたにすぎない。  
卑劣で、臆病な日本のブルジョア階級は、つまり鈴木政府は、自らの責任と主体性で、戦争を終結する勇気がなかったから、天皇の陰に隠れ、その権威を利用したのであって、天皇の「ご聖断」は単なる一契機にすぎないのだ。  
せいぜい、それは軍部の一部――“徹底抗戦”、“国体護持”をわめいていた――対する抑制作用を果たしたにすぎず、天皇の「ご聖断」があろうがなかろうが、戦争など続けられる状況になかったのである。  
天皇一派は大いに急ぎ、そして事態を“先取り”しなくてはならない十分の理由があったのだ、というのは、一九一七年のロシアや一九一八年のドイツに見らたれように、あるいはムッソリーニ“解任”後のイタリアに見られたように、敗戦の不満や怒りが戦争の先頭に立ってきた君主制に向けられ、革命によって天皇制や旧体制が打倒される可能性がますます大きくなってきていたからである。  
一九四五年、天皇が一貫して終戦のために努力したなどというのは一種の神話であって、実際には、天皇はぎりぎりのときまで軍部と同様に、「決定的な一戦を交え、はなばなしい勝利を得てから終戦の交渉を」と考えていたにすぎない、つまり東条とともに、最後の決戦に国民を動員しようとあくせくしていたのである。  
すでに日本の青年の大量虐殺以外何も意味しなくなっている戦争を終わらせる強力な意思があったなら、例えばすでに前年、サイパン玉砕で東条内閣が責任を取って辞職したときなどに、断固として終わらせることもできたのであって、もしそうしていれば、どれほど多くの日本の青年の命が救われ、経済の崩壊や産業の損失が少なくて済んだことであろうか。  
責任ある地位にあれば、もう日本がアメリカに勝つことなど全く夢物語であることははっきり分っていた(天皇も理解していたはずだ)、しかし天皇一派や軍部は、ごまかしの小磯内閣などによって七ヵ月もあたら貴重な時間を空費し――その間に何十万、何百万という日本の青年たちがむだに、無為に死んで行った!――、また鈴木内閣になってからも、徹底抗戦をわめき、七月二十六日、ポツダム宣言が出ても「無視する」と回答してその受諾、つまり終戦を遅らせ、結局は、原子爆弾やソ連参戦があるまで、何の意味もない戦争を続けたのである。  
そんなにも受諾を遅らせた理由というのが、天皇制維持がはっきり約束されていないとか、戦後の日本の政府は国民の自発的な意思によって選ばれるという条項が気に入らなかった――日本の国家体制は国民の自由意思によって決まるといったものではない、天皇制は国民の自由意思とは関係のない云々――というのだから、話にもならないのである。本当にひどい話ではあった。  
アメリカ側はこの間、はっきりと、ポツダム宣言を受諾しないから、日本があくまで戦争を継続する決意だから、しかたないから原子爆弾を投下したと明言したのであって(アメリカは「日本に対する原子爆弾の使用は、日本の無条件降伏拒絶に対する回答なり」と放送し、ポツダム宣言を受諾しないなら、この爆弾投下を継続すると通告した)、とするなら、この間の戦闘や広島、長崎で原爆によって死んだ多くの人々の「責任」は直接に、「天皇制護持」にこだわって、ポツダム宣言受諾を三週間も遅らせた、軍部や天皇一派にこそあると言って過言ではない。  
こんなゴタゴタのためにこの間に失われた数万、数十万の青年や国民の命に対し、天皇はどう「責任」をとってくれるというのか。天皇制の護持のための“犠牲”でなくて、これは何のためだというのか。天皇制論者や国家主義者、反動どもは、こうした犠牲も、また国家のためだった、必要だったと強弁するのか、できるのか。  
こうした一切のことに対して、つまり数百万、数千万の日本人、そして中国や朝鮮やその他の国の人々の死に対して、天皇と天皇制は「責任を負っている」のである。  
そして、天皇がポツダム宣言受諾を明言し始めたのが、天皇の地位がどうやら保証されそうだということが分かったからであるのだから、天皇の“平和主義”もいいかげんなものである。彼は自分の地位と命が安泰とわかってから、「国民のために戦争をやめる」などとのたまうのだから、まさに見事な偽善者、卑怯なご都合主義者というべきであろう。  
天皇といった連中は、武士階級が台頭し、実際上権力を失ってからは、強者のかげに隠れつつ、自己保身と策略に汲々とする、こうした卑劣な存在でしかなかったし、実質的権力を持たないのだから、それ以外になりようがなかったのだ。  
東京裁判は天皇を「無罪」とすることで、この裁判がそれ自体、正当であり、公平であり正義である等々が世界をあざむく見せかけにすぎず、一つのペテンであることを、決定的に暴露したというべきであろう。 
ソ連に対する「侵略」問題 一週間の戦闘で“原告”の地位に  
東京裁判では、日本によるソ連への「侵略」が問題になった。その逆ではない。  
日本の十五年戦争の全体が、したがってまたアメリカとの太平洋戦争も「侵略戦争」であったとするなら、そしてソ連が東京裁判で原告の立場に立ち、日本を告発するとするなら、日本をソ連に対する「侵略」国に仕立てあげなくてはならなかったのであり、また事実、ソ連はそうしようとしたのである。何しろソ連も、勝利した連合国のれっきとした一員だったのだから。  
ソ連はたった一週間の日本との戦争により、日本の「侵略」を告発する東京裁判の原告としての、つまり検事側の国としての資格と権利を獲得し、日本のソ連に対する“罪”をあげつらったが、しかしそれは相当に「無理」をしなくてはなしえないことであった、というのは、少なくとも、十五年戦争の間には、日本のソ連侵略といったものは見出すことができなかったからである。  
だから、ソ連のゴルンスキー検事は、日本の対ソ侵略を論証するに、一九〇四年の日露戦争から始めなくてはならず、さらに第一次世界大戦や、その後のシベリア出兵を持ち出し、また一九三一年の満州国のでっち上げは、一九一八〜二二年のシベリア出兵と同じで、ソ連極東に領土を獲得しようとする日本の野心の現れである、日本はソ連の資源を忘れることができなかったのだ等々と論じなくてはならなかったのである。  
日本はかつてソ連“侵略”と領土や資源への野望を明らかにしたのだから、その意図をもって太平洋戦争をも始めたのであり、したがってソ連への“侵略”は明らかだ、というのである。  
こうした粗雑な理屈が、東京裁判で反撃を受けたのは当然であった。  
ラザラス、カニンガム、ブレークニーらの弁護人は、ソ連の告発に対する反証を展開し、ソ連検事は腹を立てて、「連合国の侮辱だ」とわめき立てた。  
しかし、日本が“南進論”を確定し、一九四一年六月に「日ソ中立条約」を締結してから敗戦の時まで、日本がソ連を「侵略」しようとしたとか、その意図を持っていたという証拠は一切出てこなかったし、ソ連の検事もそれを見つけることができなかった。  
反対に、弁護人たちは、日本がソ連を「侵略」するという意図も、実力もなかったことを容易に証明することができた。  
実際、日本の支配階級は、アメリカとの戦争だけでも「手に余る」ようになっており、ソ連が連合国の一員として“参戦”することを極度に恐れ、ソ連を刺激しないように、まるで“腫物に触る”ように接していたのであった。  
そしてまた一九四四年ころから、強力を誇った“関東軍”を引き抜いて、“南方”(フィリッピン等々)に次々と転送するなどして、すでに“満州”にはソ連と戦うまともな戦力など残っていなかったのである。  
また、ヒトラーは再三にわたって、日本にソ連との戦争を始めるように要求して来たが――まさに三国の防共協定をタテに――、しかし日本は対ソ戦争を開始し、“満州”からシベリアに向けて軍隊を進めようとは決してしなかった。  
ソ連はヨーロッパでナチス・ドイツと血まみれの死闘を戦っていた、だから、日本がシベリアに侵攻すれば、当初はかなりの“成果”をあげることができたであろう、しかし頑迷固陋な軍部もさすがに、アメリカに加えてソ連と戦うことが自殺的冒険主義であると分かっていたのである。  
だから、日本がソ連を「侵略」したとか、しようと企図していたとか言うのは、言ってみれば“言い掛り”に近いものであった。  
ソ連はただ連合国の一員として、日本との戦争を一週間戦ったというだけで、こんな厚かましい主張を繰り返したのだが、まさに茶番であり、スターリンの愚劣さや粗野な精神を暴露しただけであった。  
ソ連はまた、ドイツなどとの防共協定や一九三八年の張鼓峰事件、三九年のノモンハン事件などをあげつらって、日本の「侵略」を論証しようとしたが、しかし弁護人は、そうした事件はゲリラ的な“領土紛争”であり、しかもすでに協定などで解決済みの問題であって、ソ連検事の主張は成り立たない、と反論した。  
弁護人はまた、ソ連が連合軍の一員として、日本を告発する側に立ったことを突いて、ソ連は日ソ中立条約を無視して参戦したのであって、日本を告発する資格があるのかと迫った。  
ソ連のワシリエフ検事は、興奮して「連合国の一員を侮辱するものだ」とか、「あいつぐソ連邦への悪意ある攻撃は許すことができない、法廷の善処を乞う」と叫んだのであった。  
この裁判の場において、ソ連の日本攻撃が一九四三年十一月のテヘラン会議において提起され、一九四四年十月の会議で、ドイツ敗北の三カ月後に日本との戦争を始めることが確認されていたこと、そしてポツダム会議では、ソ連は八月下旬に対日攻勢を開始すると通告していたことも明らかにされた。  
アメリカは明らかに、ソ連参戦以前に、日本との戦争を終えることを目指していたのだが、それは戦後、アジアでのソ連の発言権が大きくなるのを嫌ったからである。  
東京裁判における、ソ連の日本告発は一つの茶番であったが(つまりそれは、全体として茶番であった東京裁判の“有機的な”一部であった)、アメリカはそのことを百も承知で、ソ連の告発の肩を持った。というのは、当時、アメリカも似たような告発をしていたからであり(日本と同盟して戦った、第一次世界大戦における日本の“罪”を云々する等々)、またソ連とアメリカがまだ“蜜月の仲”にあったからである。 
 

 

ついに25名に有罪判決 至る所に恣意的な“基準”  
一九四八年四月十六日、東京裁判は二年間の長い審議を終えた。  
判決が下ったのは、それから数カ月が経過した、十一月十二日のことであった。  
刑の宣告を受けたのは二十五名、うち死刑が七名、終身禁固十六名、禁固二十年一名、禁固七年一名であった。  
死刑は、東条英機(首相、陸相、参謀長など)、広田弘毅(首相、外相)、土肥原賢二(在満特務機関長など)、板垣征四郎(中国派遣総司令官、陸相)、木村兵太郎(ビルマ派遣軍総司令官)、松井石根(上海派遣司令官)、武藤章(陸軍省軍務局長)であり、終身禁固には、木戸幸一(内大臣など)、平沼騏一郎(首相など)、賀屋興宣(蔵相)、荒木貞夫(陸相、文相)、小磯国昭(首相など)、畑俊六(陸相、中国派遣軍総司令官)、梅津美治郎(関東軍司令官など)、日本帝国主義、軍国主義を代表した、そうそうたる名前が並んでいた。  
死刑と終身禁固を逃れたのは、禁固二十年の東郷茂徳(外相など)と、禁固七年の重光葵(外相など)だけであった。  
「侵略戦争」の“共同謀議”の罪は、重光と松井を除いて全員が問われた。この“共同謀議”といった罪状自体あいまいであったが、裁判の課題が“戦争責任”を問うとした以上、この罪状をあげないわけには行かなかったのだ。  
しかし“共同謀議”の罪状をあげるなら、戦争に「ゴーサイン」を出した天皇が免責されたことは大矛盾であり、この東京裁判が公平でも正義でも、事実に基づくものでもないことを端的に暴露していた。  
中国侵略の罪は、東郷や重光も含めて、ほとんどすべての被告が問題にされた。また米国への「侵略」の罪も多くの被告が問われたが、これに死刑となった広田が入っていなかったのは注目される。  
「残虐行為」の罪状、いわゆる「人道に反する」罪で有罪を問われたのは、東条、武藤、木村、板垣、土井原の五名で、いずれも死刑になっているから、この罪状はとりわけ厳しい基準になったのである。  
東条がこの罪を問われたのは、戦争初期のアメリカ飛行兵捕虜の死刑の責任を問われたからである。松井は南京大虐殺の責任を問われ、木村はビルマにおける「捕虜虐待」が問題にされた。木村は、捕虜取り扱いは自分の管轄外であるなどと弁解し、松井の弁護人も、松井は自分のもとにあった軍隊に、終始「軍紀風紀を厳守せよ」と訓令していたなどと主張したが、裁判ではそうした弁解はほとんど考慮されなかった。  
広田の死刑については、オランダのローリング判事は、広田の経歴は、「本裁判によって死刑に値すると判断された侵略の巨頭連の仲間でなかったこと」を明示している、「軍事的な侵略を提唱した日本国内の有力な一派に賛同しなかった」、「彼は第一次近衛内閣――つまり中国との戦争を開始し、拡大した内閣――の外務大臣をやめた後は、二度と内閣に列しなかった」など、多くの例を示して無罪を主張したが、しかし広田自身は一言も弁解せず、「自分は有罪だ」とつぶやいたと言う。  
もちろん、広田がいかなる意味でも“無罪”だということではなく、広田以上の悪党は山ほどいたということ、広田が死刑になるくらいなら、何千、何万の軍国主義の猛者連中もまた死刑に値したということであろう。  
判決に対する反応を、一、二紹介しておこう。参議院議員の松本治一郎は、天皇の“戦争責任”を問題にして次のように語った。  
「天皇は初めから戦争を防止できる地位にいたのであり、戦争は天皇の名において開始された。この見地からすれば天皇が裁判を免れたという自体が不思議なくらいだ。東京裁判の記録は天皇がいかに無気力な人であるかを証明した。このような天皇が国家の象徴としてとどまるのは危険だ。戦後の日本は天皇制など必要としない」  
また朝日新聞は、その社説で、判決は「平和決意の世界的表現」という大層な見出しを掲げて次のように論じた。  
「さらに東京裁判設置の背景となったポツダム宣言が『我らに無責任なる軍国主義者が世界より駆逐せられざれば、平和安全および正義の新秩序が生じ得ることを主張する』と述べ、さらに東京法廷十一カ国を代表するキーナン主席検事が、『世界列強は、無責任な軍国主義をただに日本から駆逐しようと意図したばかりでなく、それを世界から駆逐しようと決意した』といい、『この長期にわたる審理は常に、全世界に対する戒めとなるように期待された』と述べた事実を想起する。モスクワ宣言、ポツダム宣言を貫き、さらにたくましい流れとなって東京裁判を貫いたものが、実にの平和確保への烈々たる熱意であることは、自ずから明らかだ」  
しかし、半世紀前、平和主義のチャンピオンをきどったアメリカが、今、軍国主義の代表として世界に君臨し、イラクに見られるように野蛮のかぎりを尽くしていることほどに、東京裁判に対する辛辣な皮肉はない。 
ピントはずれの「日本無罪論」 インドのパール判事の「判決書」  
判事の中の一人、インドのパールは「日本無罪論」を主張する「判決書」を提出したが、それは多数派判決書よりも長い、膨大なものであり、後に「日本無罪論」として出版された。  
しかし当時の日本の“世論”はそれに冷淡で、「日本無罪論」を受け入れるような雰囲気は全くなかった。大衆は、戦争中に犯された日本の支配階級の数々の犯罪をすでに知り、またこの戦争がどんなに不当な、「大義」を欠いたものであるかを深く反省し始めていたからである。  
もちろん、パールの見解が反響を呼ばなかったのは、本質的に、その見解が観念的、形式的なものであったからであった。  
彼は、国際法などを持ち出して、長々と法律談義を展開したが、そんなものに余り関心を持つ人はいなかったのである。国際法に照らし合わせて、東京裁判は有効か否か、また裁判の経過や結果は、厳密に“法律的な”正当性と適応性を有しているのか、といった議論は、大衆にとってはどうでもいいことであった。  
パールは戦勝国が正義で、敗戦国が不正といえるかと問い、またポツダム宣言に基づいて裁判をするというが、しかしポツダム宣言にそんな“法的な”根拠があるのか、「侵略」といい、「自衛」というが、しかしそれは果たして日本だけの論理だったのか、愛国主義教育や軍国主義教育を槍玉にあげるが、アメリカを始めとするすべての国も同様なことをしていたのではないか、等々、パールがあげる非難は数限りがなかった。  
もちろんそのいくつかはアメリカの痛いところをついたが、しかし大部分は形式的な法律談義であった。彼が絶対視するのは“法律的”見地だが、しかし彼はこうした立場自体が、一つの限界ある立場であること、法律もまた支配階級の道具にすぎないことを理解していないし、また世界の列強が戦う場では、諸列強が従わなくてはならない“法律”など存在していないことを“忘れて”いる。  
彼は日本が「国際法」に背いたというが、それはどの、どんな法律であるかを“詳細に”点検し、例えば日本の戦争犯罪人の罪状とされた「共同謀議」といったものが存在しなかったことを論証する。  
また、戦争は国家的行為として決定され、行われたのであって、そうした戦争に対して、いかにして「個人」の罪を問えるのかと叫ぶのである。  
パールは、東京裁判は、裁判の形を借りた、アメリカなど連合国の「復讐」である、と断じている。そして彼は、博愛と寛大と許しといった宗教的な観念を持ち出すのだから、お笑いである。  
要するに、彼は帝国主義者、軍国主義者といえども愛でもって許せ、寛大に扱え、彼らの「立場」をも理解してやれ、と説教し、日本の東条らはヒトラーのドイツと違って、そんなにも悪いことはしていない、一貫して「誠実」でさえあった、と言うのである。  
「東条一派は多くの悪事を行ったかもしれない。しかし日本の大衆に関する限り、東条一派は大衆を思想の自由も言論の自由もない恐怖におびえた道具の地位に陥れることに成功しなかった。日本の国民はヒトラーのドイツのように、奴隷化されなかった。国民は自己の信念、信仰及び行為について完全に自由を保持した。そしてこれらの者は、いかに合法的な宣伝の影響を受けたとしても、なお市民たるものの真の本質に一致するものであった。国民の意見に対して加えられた影響も、すべて他の平和愛国的民主国で行われるものと本質的に違いのあるものでない」 
実際、こうした評価は全く途方もない日本軍国主義の美化でしかなかった。パールは、日本帝国主義のやったようなことは、英米も実際にやっていると主張したが、それは日本も「無罪」だと言うためであって、英米やソ連などもまた帝国主義国家として「有罪だ」と言うためではなかった。  
パールはアメリカの原爆投下も非難し、それによって戦争が早く終わったとか、アメリカと日本の多くの生命が救われたという理屈に反論し、こうした理屈は戦争を早く終わらせることが戦争の犠牲を少なくするのだから、戦争においては残虐で徹底した手段でやらなくてはならないとわめいた、第一次世界大戦のときのドイツ皇帝と同じだと強調したが(ウィルヘルム二世はわめいた、暴虐なやり方でするなら、フランスとの戦争は二カ月で終わるだろう、しかし「人道的な配慮をすれば」戦争は数年間も長引くだろう、云々)、しかし無意味な大量殺戮である帝国主義戦争において、野蛮でないやり方とは何か、平和的な手段による帝国主義戦争とはどんなものかについて、説明することは決してできなかった。  
純粋に「ヒューマニズム」の立場に立ち、厳正な“法律的”観点を順守すべきと称したパール「判決書」は、東京裁判のあれこれの欠陥をえぐりだし、それが結局は勝利したアメリカなどの「復讐」の一種だと主張したが、本質的に観念的であり、反動的でさえあって、ピエロ的な役割以上を果たすことができず、一部のプチブル世論以外にはどんな影響も及ぼすことができなかった。  
問題は「日本が無罪」だというところになく、日本だけでなく、英米やソ連もまた「有罪」だというところにあったからである。 
公正でも正義でもなく(上) 法的根拠さえあやしかった  
東京裁判を総括するとき、まず問題になるのは、そこで問われた日本の三つの罪、つまり戦争法規、戦争慣例に違反したという通常の「戦争犯罪」、非人道的行為、迫害行為などの「人道に対する罪」――南京などの一般住民の虐殺、奴隷的虐使、等々――、そして“侵略戦争”などの計画や準備や開始や実行とそれらへの共同謀議、共同準備にたずさわったという「平和に対する罪」、が妥当であったかであり、ついで、仮に妥当であったにしても、裁判が正義に基づき、公正に行われたか、である。  
そしてまた東京裁判は、アメリカが盛んに言いふらし、一つの課題ともした、世界の恒久平和をもたらしたか、ということも問われるであろう。  
しかし東京裁判は、これらの課題のどれ一つをとっても、それを「満たしていた」とはお世辞にも言いがたいのである。  
そもそも太平洋戦争が戦争法規に違反していたか、いないかといったことが、一体どうした基準で言えるのであろうか。世界国家も世界憲法も世界警察も実在しない国際社会においては、結局は、国家の行為――戦争行為も含む――を裁くどんな法規も権力も存在していないのである。  
第一次世界大戦後には、戦争を規制するさまざまな法律が、各国の合意によって作られ数十の国によって調印されてはいる(例えば「不戦条約」等々。しかし皮肉なことに、これが調印されたのは、そんな条約が無意味なものとなりつつあった一九二八年である)。こうした国際条約が有効であり、実質的なものであったとするなら、世界中の諸国は戦争をすれば、その“罪”は厳しく罰せられるということになったであろう。  
弁護団は、罪刑法定主義(罪を定めるには、あらかじめ法律がなくてはならないとする主張)、法律不遡及の原則をもって、検事側に迫ったが、しかし主席検事のキーナンによって、戦勝国が「侵略戦争」の責任者を処罰できないという理由はありえない、日本は無条件降伏したのだ、ときめつけられただけであった。  
つまり、東京裁判の“法的”根拠といったものは、最初からあやふやであり、いいかげんなものだったのである。“法的”根拠は、アメリカが作ったとも言えるのであり、それに基づく裁判であった、ということである。“法律”に基づくブルジョア支配といったものは本質的にこうしたものであり、彼らはいつでも、必要とあれば、自らに都合のいい法律を見つけだすのであり、あるいは勝手に作り出すのである。  
単に「法律に基づく」裁判といったことがあやしかっただけではない、公平とか正義とかいった観念もまた決定的にないがしろにされ、踏みにじられたのであった。  
例えば、裁判官はみな戦勝国から選ばれたのであり、しかも結局は、アメリカの意思がまかり通るような構成になっていた。  
裁判の内容も、また結果さえも、最初からアメリカの意思によって決定されていた。例えば天皇を無罪にするというのは、“公正な”裁判の結果ではなく――否、裁判さえ行われず、戦争の先頭に立ち、だれが見ても戦争に決定的な役割を果たしていた天皇は、被告はおろか、証人としても法廷に姿を見せなかった!――、最初から、アメリカの意思として押しつけられたのであった。  
最も重要な、決定的ともいえる“戦争犯罪人”の一人、天皇を最初から除外するなど、まさに、“公正”や“正義”が聞いてあきれるような、いいかげんで、ゆがめられた裁判であった。  
裁判の根拠とされた、“罪”といったものも、ほとんど正当なものではなかった。それが正当ではなかったというのは、日本の軍部や支配階級が“罪”を犯さなかった、ということではなく、同じような“罪”を犯していたアメリカの支配階級が、日本の支配階級を“裁いた”ということであった。  
もし日本の支配階級に“罪”があり、“罰せられ”なければならないとするなら、アメリカの支配階級も同様であった。東京裁判で問題とされた“罪”のほとんどは、アメリカによってもまた犯されていたからである。  
例えば、日本は「侵略戦争」をやったという“罪”で裁かれたが、しかし「侵略戦争」をしたり、植民地を領有したり、他の民族を抑圧したりということは、アメリカやイギリスもやっていたこと、否、彼らこそがそもそも十九世紀の帝国主義の時代以来(あるいはそれ以前からも)、世界中でやってきたことであった。  
そしてまた、太平洋戦争すなわち日本とアメリカとの戦争は、果たして、日本の側から言って「侵略戦争」であり、アメリカの側からは「自衛のための戦争」などと言えたであろうか。  
アメリカの理屈は、日本が先に真珠湾を攻撃し、戦争を始めたのだから、日本は侵略者であり、アメリカは日本の侵略に対して反撃し、“自衛の”ために戦ったにすぎない、といったものであったが、しかし日本が真珠湾を攻撃したのは、アメリカの領土を犯し、占領し、支配するためではなかったから、アメリカの論理は根本からナンセンスであり、まさに牽強付会、こじつけそのものであった。  
日本はアメリカとの戦争はまさに太平洋と世界の覇権をかけた戦争であることを完全に自覚していたが、同様に、英米もまた日本との戦争が、アジア支配と深くかかわるものであることを完全に認識していた。  
この戦争はまさに、「どちらの側から見ても」帝国主義戦争であって、先にたまたまどちらが攻撃したかといったことはどうでもいいことであった。  
東京裁判では、アメリカ側が日本が中国から撤退しなければ戦争しかないと腹をくくっており、むしろ戦争を挑発さえしたことの一端が暴露されたが、しかし日本もまた、中国問題で妥協――といっても、日本が中国から手を引かないという前提のもとでの――ができなければ戦争だと決意し、実際的な戦争準備をどんどん進めていたのだから、同じようなものであった。 
公正でも正義でもなく(下) 天皇“責任”の棚上げはペテンの象徴  
戦争の通常の慣習とか、「人道」に反した行為とかいった問題でも、東京裁判は茶番でしかなかった。  
「人道に対する罪」を裁いたというこの裁判の矛盾もしくは欺瞞は、例えば、アメリカによる“無差別”空襲、とりわけ広島、長崎への原爆投下を全く問題にもしなかったことにも、端的に現れていた。  
アメリカの帝国主義者、軍国主義者たちにとっては、南京大虐殺は、非戦闘員に対する「非人道的な」行為であったが、四十五年三月十日の東京大空襲(この文字通りの“無差別空襲”によって、何百万戸が被災し、十万人の婦女子を含む“非戦闘員”が殺された)や、広島や長崎への原爆投下(同様に、二十万人もの死者が出た)は、決して“非人道的な”行為でも何でもなかったのである。  
「無防備都市に対する無差別攻撃」は、ナチスファシストによるスペインのゲルニカ市に対する爆撃以来、国際的に“非人道的”行為として糾弾され、また“非戦闘員”に対するまさに“無差別的”攻撃や殺戮は、“国際法”でも禁止されてきたのではなかったのか。  
だが東京裁判では、日本軍の蛮行は「非人道的」として厳しく追及され、罰せられながら、アメリカの無差別空爆や原爆投下は、アメリカの数十万人の軍人の生命を救った正当な作戦として――というのは、それが戦争終結を早め、アメリカが日本“本土”に上陸してやらなければならなかっただろう過酷な戦争を無くしてくれたから――、大いに美化されたのである。  
ついでに言っておくが、我々が広島、長崎への原爆投下を持ち出すのは、アメリカが南京虐殺など日本の帝国主義者の野蛮性だけを問題して、自らの野蛮性を蔽い隠しているからであって、帝国主義戦争一般の野蛮性、非人間性と切り離して、原爆だけを特別視したり、それだけを道徳的に非難するためではない。問題は帝国主義戦争自体にあるのであって、その個々の野蛮性、非人間性にあるのではない。この点で、共産党や平和主義者のプチブル活動家たちは根底から間違っている。原爆や地雷だけを“道徳的に”問題する諸君は、帝国主義の体制とその戦争自体が、そのための一切の兵器が、野蛮であるという単純な真実を“忘れて”いる。  
そして最後に、「侵略戦争」の共同謀議という“罪”についていえば、その中心に常にあった天皇が故意に(まさに“政治的に”)除外されたのは、まさに茶番であった東京裁判の総仕上げとも言えた。  
天皇の「戦争責任」は明白で、それを明らかにする“証拠”はいくらでもあった。  
例えば、開戦の直前の一九四一年十月、東条英機はまさに天皇の信任を得て、近衛に代わって首相の地位についたが、それは、それまでの対米戦を決意した御前会議の決定を白紙還元し、国策の再検討をするという条件付であった。  
そして“天皇絶対主義者”だった東条が、当時、天皇から「中国から撤兵せよ、対米戦争はいかにしても回避せよ」と明確に言われれば、それに従っただろうことも明らかだった。  
東京裁判当時、マッカーサーの意を受けた検事キーナンから圧力をかけられた弁護人神埼正義は、東京拘置所の東条に面会し、「この戦争は閣下が陛下の命令に背いて始めたものだと、法廷で証言してくれませんか」と頼み込んだ。  
しかし東条は、天皇の意向を受けて戦争回避の道をさぐったが破綻した、それでやむをえず開戦を天皇に申し出たら、「よし」と言われた(つまり容認されたから)、だから戦争を始めたと信じていたので――そして、天皇絶対主義者としての東条としては、それ以外考えられなかった――、憤然としてこの申し出をことわったという。  
彼は断固として、「それは無理な注文ですよ。陛下のご裁可があったからこそ開戦したのです。私は死を覚悟している。臣下として、一天万乗の君の御命令に背いて、この戦争を始めたなどとウソの証言をして、それで死にきれますか」と反発したという。  
しかし東条は、天皇に「迷惑をかけないために」、そして天皇を救うために、この立場を変え、また自分の“信念”をごまかして、法廷では“練習した通りの”発言しかしなかった。  
実際、天皇の言うがままにしか行動しないという忠実な“天皇の赤子”東条が、戦争を始めたとするなら、それが天皇の意思であることほどに明白なことがあろうか。天皇の意思が戦争ではなかったとするなら、自分は決して戦争を始めなかった、と東条自身が断言しているのだ。この“証言”は決定的であろう。  
また法廷でも、天皇の責任追及に熱心だったウェッブ裁判長は、東条の「日本国の臣民が、陛下のご意思に反してかれこれするということは、あり得ぬことであります」という証言を何とか引き出し、それについて、「ただいまの回答がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずであります」と、わざわざ注意を喚起している。  
つまり彼は、法廷でも天皇の“有罪”は明白に立証されたも同然だ、と言っているのだ。  
かくして、天皇問題一つ取っても、“公正”で、“正義”に貫かれた裁判が行われた、などというのは全くの空ごとであったことが了解されるだろう。  
それはまさに「勝者(アメリカの支配階級)が敗者(日本の支配階級)を裁いた」のであって、日本の労働者人民が日本の支配階級を裁いたのではなかった。だから、それは本質的に一つの欺瞞であり、ペテンでさえあった。  
そして日本の支配階級、つまりルジョア勢力(そしてもちろん、その一部であるあれこれの種類の“インテリ”、文化人も含めて)は、決定的に裁かれなかったのである。そして、彼らは戦後、自分は本心では戦争に反対であった、仕方がなかったのだ、早くから戦争の終結を考えていたのだ、などの責任回避のごまかしの言葉を並べ、自己弁護に汲々としつつ、労働者人民を瞞着し、その権力を防衛したのである。  
こうした卑怯な連中の先頭に天皇が立っていたのは言うまでもないことであった。戦後においても、天皇は彼らの“防御服”、もしくは保護色として大いに役立ったのだ。  
東京裁判の問題点(その限界、その的外れ、その欺瞞)は、さらに、それが現在のアメリカのイラク侵略にまでつながっているという意味でも重要であるろう(アメリカは東京裁判で、自らの立場を絶対化し、正当であると宣言したが、しかし今やその“思い違い”はイラクにおいて決定的に暴露されている。イラク問題では、アメリカはかつて日本を裁いたと同様に、自らを裁かなくてはならないのだ)。 
軍国主義一般の“罪”暴かず 正当化された米帝国主義の蛮行  
東京裁判に対する、日本“国民”の反応は、冷淡なものであった。かつての(直前までの)自分たちの最高指導者たち、自分たちが信じ、崇拝してやまなかった国家の頂点にあった人々が、自由を奪われ、裁判にかけられ、その“罪”――基本的に、自分たちが共有している“罪”、というのは、この裁判では、日本のやってきた戦争そのものが“裁かれた”といってもいいからだ――があばかれ、罰せられようとしているのに、日本“国民”も“世論”も、少しも被告たちに同情的でなかった。  
むしろ、彼らは裁かれ、糾弾されて当然、という雰囲気であり、マスコミは東条らがどんなにつまらない小人物であり、悪人でさえあったかを、さかんに書き立てた。  
南京事件とか、個々の戦争犯罪にとどまらず、勝つ見通しもなく、「無謀な」戦争を勝手に開始し、何百万もの国民を死と飢えに追いやった行為そのものが、許しがたいものに思われたのだ。それに戦争中、ずっと国民を偽ってきたということが、国民の怒りを買った。息子や夫、肉親や近隣の人たちの死に、彼らが責任を負っているという思いは、東条らが罰せられて当然という思いにつながり、日本の軍国主義者がやったのと同じような、もしくはそれ以上のアメリカの“犯罪”――無差別空襲、原爆等々――はその分、免罪された。それもまた結局は、東条等の“無謀な”戦争のせいではないのか、というわけである。  
もちろんアメリカの軍政下にあり、マッカーサーの意思がそのまま権力意思としてまかり通っている中で、東京裁判はおろか、アメリカ占領軍に対するどんな批判的な世論も許されなかったということはあったが、しかし、日本“国民”はいわば、それまでの日本の指導者たちに完璧にあいそをつかしたかであった。  
とするなら、東京裁判の法廷に天皇が被告として引き出されたとしても、日本“国民”の反応が、東条英機に対する反応と違っていたと言えるか、大いに疑問である。  
まだ判決が出ない四七年二月、横田喜三郎――後の最高裁判所長官――の『戦争犯罪論』が出たが、極めて特徴的であり、基本的に東京裁判を擁護し、美化するものであった。  
彼は、法学者として、仮に東京裁判が「罪刑法廷主義に反する」ものであったにしても、「大きな変動期」は別であり、またその原則を「国際裁判に適用することは、必ずしも絶対的な、無上命令的な要請ではない」、そもそも国際法そのものが「全体として不備であり」、違法な戦争を引き起こしたものを処罰するのは何ら差し支えない、戦争責任者の「罰こそ前もって定められていないが、罪は前もって定められている」等々と強調したが、こうしたものはまさに、東京裁判に対する当時の日本国民の感情や姿勢をかなり反映していたと言えよう。  
つまり、日本国民自身が、日本のかつての指導者の「罪」を認めたのであり、だから、彼らは東京裁判をある程度、当然で、やむをえないものとして受け入れたのであるが、それはまた、中国侵略から太平洋戦争にいたる十五年戦争を、擁護することも正当化することもできない“不正な”戦争として、自ら認めたことでもあった。  
ただ日本国民は、同時に、アメリカの戦争をも帝国主義戦争として告発することができなかったが、それは事実上、プチブル民主主義者に堕落した日本共産党が――他のブルジョア政党などは言うまでもないが――アメリカを“解放軍”と持ち上げ、マッカーサーに追随する“超”日和見主義的立場をとったことと、深く関連していた。彼らはアメリカを「民主主義」の守護神と信じ、その帝国主義的本性を蔽い隠したのだ。  
東京裁判に対する批判の声が上がるのが、林房雄などが「太平洋戦争肯定論」などを書いて、日本の国家主義と反動の勢力が開き直り、反撃に転じたころからであり、それ以来、彼らは執拗に、アメリカ軍の占領支配や憲法や民主主義の「押しつけ」や、そして東京裁判はみな、日本民族の尊厳や自尊心を否定し、民族としてふぬけにし、国家として骨抜きにするためのアメリカの“陰謀”みたいなものであって、断固として一掃されるべきであるとわめいて来た。  
東京裁判が開廷してから五〇年たった一九九六年十二月、神奈川県で「東京裁判を考えるシンポジウム」が開催されたが、その席でも、東大教授の藤岡信勝は、「東京裁判史観」は日本がやった戦争に対する罪悪感を日本人に植えつける思想改造の作戦計画であり、日本弱体化政策の一環であったとわめきたてた。  
そのために、今、中学、高校の歴史教育は、日本の「悪口」ばかり教え、「自国の誇り」を教えないから、ただ外国に謝罪するだけで、外国人にも尊敬をうけない、というのである。  
学生時代の“軽はずみの”急進主義者から、無内容な反動に転向した西部、『国民の道徳』なるものについてもったいぶり、知ったかぶりをして論じ、十五戦争において天皇にはどんな「責任」もなかったことを詭弁的に論証し、また東京裁判は単純に「アメリカの『見せしめ』もしくは『復讐』」のためのものであって、アメリカとしては当然であっても、それを認識できない日本人は愚かだとののしり、また日本の「一般国民」が自分の家族を戦争で失った恨みを晴らしたいと思って、東京裁判などで自国の指導者が裁かれ、死刑になっても怒らないことに憤慨して、次のようなわけの分からないことを書くのだ。  
「しかし、そうだからといって、占領軍や外国人たちによって、自分の復讐を代行してもらおうとするのは、不道徳の振る舞いと言わざるをえない。しかも責任における法律、政治そして道徳の要素を区別することすらしないのは、旧世代に対する粗暴、残虐、無慈悲に当たる。しかもそれを国家解体の方向で行うのは、売国の謗〔そし〕りを受けるところである」  
西部は日本の「一般国民」をこんな具合に、「不道徳」の罪で告発するが、全くこの男の愚劣さといやらしい反動ぶりには限度がないと言うべきだろう。  
西部のような不潔な人間は、『国民の道徳』について語る前に、自分自身の、どうしようもない偽善や「不道徳」(いな、悪徳だ!)や「道徳論の歪み」についてこそ、深く反省すべきであろう。  
東京裁判が「間違って」いるのは、日本の反動的で、軍国主義的な支配階級を“裁いた”からではない、そうではなくて、それがアメリカの、世界中の帝国主義者、軍国主義者を裁かなかったからであり、さらにはそれらを正当化しさえしたから(例えばアメリカの帝国主義戦争は民主主義や自由のためであって、正義であった等々)である。かくして東京裁判は、その限界を暴露されざるをえないのであり、また事実、暴露してきたのである。  
東京裁判の開廷に立ち会ったマーク・ゲインはその『日本日記』の中で、かつての指導者が被告人として打ちひしがれ、うらぶれて被告席につらなるのを見て、「全くわが目を疑うような光景だった」と記し、こうした被告たちの伝記を誰かが書くなら大きな意義があるだろうと言っている。  
「こうした歴史は、政治権力が人民の手からすべり出てしまって、軍部や大企業の手中に握られることがいかに危険であり、有害であるかということのいい教訓になるにちがいない。歴史には、そのパターンを繰り返すという不愉快な習慣があるのだから、昨日の日本について真実であったことが、ごくわずかな違いであっても、明日他の国でも同じく真実であり得るかもしれないからである」  
これはアメリカの現在を事前に鋭く告発した言葉として輝いている。アメリカは今、イラクでやっていることからも分かるように、かつて東京裁判等々で非難したことを、そのまま実行している。  
 
勝てば官軍

 

一年前、ある有名な優良企業に講演に行きました。営業報告はなるべく文章部分を減らし、営業情報を数値化しリアルタイムでナレッジメネージメントを行ない、営業の全体像が見えるようにすべきだと口説いたところ、マネージャークラスの方から猛反発を受けました。「うちは毎日数千文字の日報を通じて先輩が後輩を教育してきたから本日の会社がある」と言うのです。日本を代表するような会社ですから当人達から「文章をたくさん書くからこうなった」といわれると反論できないものです。  
あれから半年経ったところ、この会社は売上が減り、株価も下がりました。気になって例のマネージャーに「営業社員達が書く文章の量を減らしましたか」と訪ねましたが、「冗談がきついですね」といわれました。実は来店客数も取り扱い商品数も微増なのに売上が減りました。原因はデフレでした。  
うまく行っているときは人間は改革意欲を失い、マイナス面に目を向けなくなります。本来、黒字は結果であり、その原因には市場環境、パートナーシップ、商品力などの要素もあれば営業プロセスの要素もあります。黒字が出ているからといって営業プロセスの改革を怠ると市場環境などが悪化するとすぐに赤字に転落してしまいます。  
「勝てば官軍」、「結果は全て」という言葉はありますが、これは負けた側、これから勝とうとする側が言う言葉です。勝った側がこんなことを言っていると次に戦いに負けてしまいます。中国の兵法には「勝敗は兵家の常」とあります。勝ち負けは常にあることですが、我々の営みは限りなく続くものです。重要なのは勝っても負けても常に平常心を以ってノウハウを蓄積し体力を改善して行くことです。  
「勝てば官軍」、「結果は全て」は勝利への執着心を強めるには良いスローガンですが、科学的マネジメントと相反する部分があることに留意すべきです。極端なことを言えば、結果主義は最も安易で誰でもできる管理方法です。その延長戦には勝った時はいけいけどんどん、負けた時は自信を失ってしまう結果があります。  
したがって勝っても負けてもあくまでも一時的な結果に過ぎません。その理由であるプロセスの改革・改善は企業が存続する限り常に行なうべきことです。経営側と管理側が自らに課す言葉としては「勝てば官軍」、「結果は全て」ではなく「勝って兜の緒を締めよ」、「結果には理由がある」であると肝に銘じるべきでしょう。  
 
きみ、勝てば官軍という商売はあかんよ

 

「経営は、絶対に勝たないとダメなんだ。なんだかんだと言っても、結局は、利益なんですよ。いかなる方法であっても、結果を出すという、そういう考えがないとダメ。」と言い出したのは、松下幸之助の姻戚関係にあるS専務(当時)である。  
経営は結果が全てなのか?  
それを聞いた私は、「それは、おかしいですよ。確かに、経営は、利益をあげなければならないと思いますが、だからと言って、なんでもやっていい、いかなる方法でもいいというのは、言い過ぎではないですか」と言った。  
S専務は、私を嘲笑うような表情で「君は、経営者でないから、経営の厳しさを知らない。経営は死にもの狂いなんだ。だから、ときには手段を選ばず、ときには、法に触れない、ギリギリのこともやらなければならないんだよ。そういうことをやっても、とにかく、売り上げを伸ばし、利益を確保する、そういう結果を出す経営をすることをしないと、会社は成り立っていかないんだ」と声を大きくして言う。  
私は納得いかなかった。「そんなことまでして、売り上げを伸ばし、利益をあげても、世の中に迷惑をかける、法に触れなくとも、道義的に、人間的に反するようなことをしたら、いけないんじゃないですか。それは、勝てば官軍、ということで、許されないと思います。たとえ、道理に反しても、勝てばいい。結果を出せばいいという専務の考えは、経営者が考えることではないですよ。結果も正しく出すけれど、過程も正しくおこなっていく。それが経営者の心掛けることではないですか」と私も次第に激しい口調になっていく。S専務も一層激高し、「君、経営を知らん者が、無責任に、そんなことを言うべきではない。そうなんだよ。勝てば官軍でいいんだよ。勝てば官軍。経営はそういうもんなんだよ」と続ける。  
松下幸之助のベッドの横で、S専務とこのようなやり取りをしていたが、松下はベッドに横になり、聞いているのかいないのか、眠っているのかいないのか、ずっと目をつむったままであった。  
私は、S専務とのやり取りを、松下の前で、いささか興奮して激論したことを一瞬後悔しつつ、多分、このような議論には興味がないのかもしれないし、眠っているとすれば迷惑なことだと思い、適当なところで、S専務に「もう止めましょう」と言って、二人で部屋を退出した。  
松下の経営の支えになっていたもの  
それから、1カ月ほど経って、松下と話をしていると、松下が、遠くを見るようにして、昔話をし始めた。  
「わしがな、店を始めた頃、加藤大観さんという、真言宗のお坊さんが、縁あって、わしの側にいたんや。この人は、わしの健康長寿と店の繁栄を祈ってくれていた。まあ、わしの相談相手にもなってくれていたな。あるとき、一つの製品について、度の過ぎる激しい競争がおこなわれてな。わしは、正しい競争ならするけど、不当な乱売競争はしないと心掛けていたから、その競争に乗らんかったんや、最初はね。けど、いくつもの店が入り乱れて、まあ、乱売合戦や。さすがのわしも、腹をすえかねて、徹底的にやってやろうやないか、と考えた。そいでな、その加藤さんに言うたんや。徹底的にやろうと。そうすると、加藤さんは、静かにこう言ったんや。  
“そうですか。それはなかなか勇ましいことですな。あなたがそこまで思い立ったのであればおやりなさい。ただ、あなたは、数百人の従業員をかかえている。あなたは今、一時的な怒りにかられて、損得を超越してやろうとしているのだから、たとえそれで大きな損をしても、気分がスカッとするかもわからない。しかし、その結果生まれる経営難は、抱えている何百人もの人に及ぶのです。それは大将のすることですか。それは匹夫下郎のすることです。大将というものはそんなことをしてはいけない。  
ほかのところが乱売競争を仕掛けてきても、あなたが正しいということをやっているのであれば、決して心配はいりません。乱売しているところへは、一時的にはお客が行くかもしれません。しかし、出船もあれば入船もある、というのが世の常です。あなたが、自分の感情にかられて、やるんだというのなら、おやりなさい。しかし、それは、大将のすることではありません”と。  
まあ、こう言うんやね。わしは、うーん、なるほどと思って、乱売合戦に参加するのを止めた。結果はどうなったかというと、大観さんの言うた通りになった。」  
松下は、ここで一呼吸した。そして、今度は、私の顔を見据えながら、  
「きみ、わかるか、商売するとき、結果を出せばいい、結果だけが商売や、と考えたらあかん。その仕方やな、それも大事や、ということやね。なにをやってもいい、勝てば官軍、という商売は、あかんよ。結局は、失敗するで」  
これは、私が、研究所の経営を任される前年の話である。ちなみに、くだんのS専務(のちの社長)の会社は、8000億円の負債を抱えて、後日、2005年、倒産した。  
 
「勝てば官軍」から4年〜日本マクドナルドの苦悩 (2005)

 

 日本マクドナルド創業者の藤田氏が「勝てば官軍」と胸を張ってから2年目で赤字転落。その後2004年期に黒字回復したものの業績低迷は続いている。  
藤田氏の発言に対して私がこのメールマガジンで「企業の浮沈は世の常であり、成功は80%は幸運と思うべき」と指摘した直後から転落は始まっていたのでした。企業の成功は、与えられた物理的条件に自分の努力が合致した結果です。その物理的条件を完全に読み切ることはほとんど不可能なのです。その物理的条件を出来る限り論理的に解明しようと努力しているのが、当社の「モティベーティブ・セール(提案型販売)」なのです。  
 日本マクドナルドの失敗は「100円バーガー」と言われています。これは低価格路線を象徴しているのでしょう。つまり、“値引き合戦”に陥ったのです。  
値引きは、競合他社(他店)商品より安い値段に設定し集客を図るものです。集客拡大を狙うには最も単純な方法論であり、行き着く先は見えているのです。つまり、他店が追従した場合、効果は消えます。そのため、多くは一瞬の成功に終わるのです。『禁断の方法論』、と私は皆さんに申し上げています。  
 競合がある場合“値引き合戦”に陥り、収益が悪化し共倒れとなるのですが、「古くはダイエー、最近ではユニクロが成功したではないか?」と仰る方も多いことと思います。  
ユニクロは“価格破壊”に成功し業績を伸ばしたではないのか?ダイエーは日本を代表する企業になったではないか?どれも事実です。「値引き合戦による失敗」と「価格破壊による成功」との違いは何処にあるのか?  
 答えは?・・・「時間差」。  
価格破壊は競合他社が、追いつくのに時間がかかった、また競合他社が現れるまでに時間があった場合といえます。値引き合戦は直ぐに対抗処置を執られてしまい、価格差が直ぐになくなったのです。では何故、直ぐに他者が追いつけないことがあるのでしょうか?  
 ユニクロの場合を考えてください。  
衣料品を中国生産し、それまでの常識を破る値段設定が出来たのです。この“中国で安く、良い品質で安定して生産すること”が、直ぐには真似が出来なかったのであり、仕入れ原価の安さを生かした品揃えや商品構成を実現したこと、管理技術の開発など、政策実現のスピードが早かったことが功を奏したと考えられます。さらに、フリースなどの商品開発、カジュアルウエアーに集中したことなど、スピードと方策の良さがあげられます。  
 競合他社がユニクロのビジネスモデルに追従してからは、ご存じの通り業績は低迷してきました。これは、ビジネスモデルそのものの優位性が崩れ、商品企画、管理技術等の僅差での競合状態となり、圧倒的な差がなくなったのです。つまり、これ以上の値引きは“値引き合戦”となってしまうのです。  
 では、日本マクドナルドは低価格路線を打ち出した時、“値引き合戦”となることに気付かなかったのでしょうか?  
5年前、マクドナルドと競合するのは、その他のハンバーガーショップ、ケンタッキー、牛丼、回転寿司、コンビニ弁当・おむすび等数多く存在していました。そのどれもがマクドナルドの値引きに、即対応出来る状態であったといえます。ユニクロを追いかける場合のような、ビジネスモデルそのものの差はなかったのです。  
 それはスーパー各店舗間の安売り合戦の様に、即応出来る範囲のものでした。これでは一時的には集客が増え、売上が伸びますが、直ぐに追いつかれて集客が減り、値上げも出来ず収益率を落としてしまっただけに終わったのです。まさに、典型的な“値引き合戦”に終わったのです。  
これを見抜けなかったのには、過去の成功に対する過信が見えます。また、最近ではアメリカ本部の海外での低価格路線の成功に対する執着が見えます。  
 ハンバーガーの市場について考える時に、アメリカと日本文化の差を認識する必要があります。  
アメリカでは、ハンバーガーの生活の中に占める重要度は日本と比較すれば重いといえます。日本では、ハンバーガーやサンドイッチだけでなく、お弁当やおにぎり、どんぶりなど選択肢が多いのです。お米文化が基本にあることを無視しては市場を見誤ることになります。お客様の立場とのズレが感じられます。  
 「新しいマクドナルドの使い方は?」と問い直してみます。  
マクドナルドの日本での創業期、それはお客様に対する新しい生活スタイルの提案でありました。パン食の広がりにマッチしたのです。それを見抜いた藤田氏はさすがで、しかし、幸運でもあるのです。“パン食生活スタイルの提案”がマクドナルドの基本でした。歩きながらの食し方は、「立ち食いは行儀が悪い」とのそれまでの常識に対する新しい提案でした。余談になりますが、成田空港の建設が始まった頃、反対派農民の応援に全共闘の学生が入り、農家の縁側でお婆ちゃんから食事をもてなされた時のことです。ヘルメットに覆面、立て膝で食べ始めた学生に対し「ちゃんと座ってお食べ!!」とお婆ちゃんが一喝すると、鉄パイプや火炎瓶で闘争している学生達が、おとなしく座ったと聞きます。そんな時代に、歩きながらの食事はとんでもないことでありました。“ドライブスルー”もまた、モータリゼイションが始まって“行儀の悪さを乗り越えた”新提案でありました。  
 さて現在、マクドナルドはその当時のようなセンセーショナルな生活に対する提案が出来ていません。  
「現在のマクドナルドの新しい提案にふさわしい方策は何か??」皆さんも考えてみてください。  
 
勝てば官軍、負ければ賊軍

 

「勝てば官軍」という言葉がある。戦いには勝てばよい。手段はどうでも良いし卑怯なことだってやってもよい。とにかく勝てば正義である。という意味である。これが良いか悪いかは別として、実際にそのような考えでもって戦いに挑む人間がいることは確かであるし、そのような歴史があるのも確かである。また、なにも戦争だけに使われる言葉でもない。例えばスポーツやギャンブルなど、争いというモノがあれば同時にこの考えが自然に発生してくる。勝つということに対するメリットが大きければ大きいほど。  
「勝てば官軍」それは確かに真理の一面でもある。しかし考えなければならないことはその逆もまた存在するということである。「負ければ賊軍」である。「勝てば官軍」の意味は「勝てば無条件に正義」なのであるから、「負ければ賊軍」の意味は「負ければ無条件に悪」ということになるだろう。つまり、「勝てば官軍」という言葉を使って戦いに挑む者は、「負ければ賊軍」というデメリットも背負って戦っていることになる。まさに「勝てば天国負ければ地獄」である。  
27日に「サッカーTOYOTAカップ」が国立競技場で行われた。サッカーに興味の無い人はさっぱり分からないだろうから説明するが、これはサッカーのクラブチーム(日本では「ジュビロ磐田」とか「サンフレッチェ広島」のようなチーム)の世界一を決める大会である。ワールドカップは自国内の代表を集めてそれ同士で戦うが、クラブチームは国内リーグ等を戦うためのチームなので当然外国人もいることが多い。もちろん外国人も出場できる。人によっては、大会ごとに招集されてメンバーも固定されていなくて練習量も少ない代表チームが戦うW杯より、むしろ一年を通して固定したメンバーで練習しているクラブチームの世界一決定戦のほうがレベルが高い、という人もいる。とにかくこの「TOYOTAカップ」は歴史も長く権威も最高のモノがあり、名実ともに「世界一クラブチーム決定戦」なのである。(自虐史観が身にしみてしまっている)多くの日本人は日本でこれが行われるので、その凄さがいまいち実感できない者もいるが、W杯と全く同等のサッカーの2大タイトルなのである。これが日本で毎年行われることにオレはこの時期になるといつも幸せを感じるのである。  
前置きが長くなってしまった。そのトヨタカップが先日行われたのだ。今年の対戦は「バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)」と「ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)」今回は延長戦までもつれ込んだ白熱した試合だった。ところで、南米の選手はよく「マリーシア」と呼ばれる「卑怯なプレー」を使う選手が多い。「マリーシア」とはかみ砕いていえば「明文されたルール」にさえひっかかなければ、「審判さえだませれば」何をやっても良い、という考え方である。勝つためにはどんなことでもするということではある。「ボカ・ジュニアーズ」は昨日これを爆発させた。前半途中に一人退場してから引き分け狙い(PK戦狙い)になったことなあり、タックルに対してひっかかってないのに転んだり、痛くもないのに痛がって時間をかけたり、その選手に対してトレーナーがグラウンド中央を走り抜けて試合再開を妨害するということまでしていた。まさに「勝てば官軍プレー」である。  
元々日本のチームには出場権が無いため、毎年トヨタカップについては世界最高のチームプレーを楽しむために見ているので、どっちかを応援することはしないのだが、さすがにこの「ボカ・ジュニアーズ」のプレーがひどかったためにオレは途中から「バイエルン・ミュンヘン」を応援していた。結果、延長戦後半に「バイエルン」が得点を決め世界一を手にした。オレは「おっしゃあああああああああ」と叫んだもんだ。負けた「ボカ」はいいとこなしである。あれだけ反則ギリギリのことを繰り返し、ブーイングを浴びて、それでも勝つためだけにやってきたのに負けたのである。試合終了後、大喜びする「バイエルン」を後目に、「ボカ」の選手の多くは座り込んでしまい涙を流す選手もいた。その姿をテレビはアップで流していた。テレビ側とすればそういうシーンは視聴者が感動し視聴率を稼げるのだろうからむしろ喜んでいる「バイエルン」より長い時間「ボカ」の選手を映していたように思う。負けて悔しがる姿、というのは同情を誘える、けっこう日本人好みのシーンである。  
しかしオレは全く「ボカ」の選手に同情を感じなかった。だって「勝てば官軍プレー」をして負けたのだから、ヤツらは「賊軍」なのである。いくら涙を流したところで所詮は「賊軍」さらにいえば「死人に口なし」である。多分もし「ボカ」が勝っていたとしてその際にサッカーのページなんかに行くと  
「ボカは卑怯だ。あんなプレーをしてまで勝って、実力じゃない」「あれこそが勝つための努力じゃないか。『勝てば官軍』なんだよ」  
と、こんな会話が交わされていたんじゃないかと想像してしまう。今までもそうだった。だからこそ「勝てば官軍プレー」で戦って負けたのであれば、それなりの報いを受けるべきだろうと思う。テレビの解説者もサッカーファンも、もっと「ボカ」の選手をボロクソに言うべきなのである。「ボカ」のせいでさわやかに見れなかった。実力を十分に発揮できなかった。全く点が入らないつまらない試合展開になってしまった。これぐらい言われても当然なのではないだろうか。もしオレがそれよりひどいことをボロクソに言ったとしても、それをとがめるような発言をする人間は「勝てば官軍」を認めてはいけないはずである。「勝てば官軍」を認めると言うことは「負ければ賊軍」も認めることになる。そして「負ければ賊軍」ということは、負けたら何を言われても全てを受け入れなければならないのだ。「負ければ無条件で悪」なのだから。「勝てば官軍・負ければ賊軍」この二つは表裏一体なのである。  
最後にサッカーについて、ついでだからちょっと言わせてもらう。毎年トヨタカップのテレビ中継には、ゲストとして明石屋さんまが呼ばれるのだが、そのさんちゃんは「ボカ」のプレーを見て「これこそが世界のプレーや。日本はこんなプレーをもっと勉強してマネせなあかん」と言っていたが、オレは賛成できない。  
元々日本人は「正々堂々」を好む民族であり、「勝てば官軍」という半ば自虐するようなことわざはあるが、それを進んで実践しようとはしない。だから日本サッカーも南米の「勝てば官軍プレー」をマネしなくてもいいと思う。それよりは正当なプレーこそを磨いて「官軍」を「賊軍」にしてしまう方が、プレーヤーもファンも楽しいんではないだろうか。少なくともオレはそっちの方がいい。  
日本サッカーはまだまだ発展途上なのだから、下手な小細工をまねるよりはさらなる上を目指して頑張って欲しいと願っている。日本人には日本流の戦い方が一番あっているはずなのである。  
 
佐賀の乱 / 勝てば官軍、負ければ賊軍

 

明治新政府の英雄たちに挑み、死んでいった男がいます。  
1867年、江戸幕府が滅亡し、時代は明治時代へと移っていきます。新しくつくられた新政府は、新しい国づくりをおこなうため、さまざまな制度を整えていきます。  
この新政府の政治家として活躍したのは、みなさんもどこかで聞いたことがあると思われる超有名人ばかり。薩摩藩出身の西郷隆盛や大久保利通、長州藩出身の木戸孝允や伊藤博文など。そして彼ら超有名人以外にも、新政府には薩摩藩・長州藩出身のヤツらが多かった。  
なぜかというと、薩摩藩・長州藩は江戸幕府を倒すときに大活躍しているんですね。だから、そのあとにできた新政府では重要なポストにつくことができた。結果出してるヤツにゃあ何もいえないんですな。  
しかし、もちろんその他の藩の連中も新政府にはいます。例えば佐賀藩出身の政治家。  
超有名人でいえば大隈重信(早稲田大学をつくった人ですよ!)なんかでしょうけど、「江藤新平」という男がいます。知ってる?  
江藤はえらそうなヤツが大嫌い。だから薩摩・長州がふんぞりかえっているように見えて大嫌い。「調子のりやがって・・・この野郎(怒)」ムカムカ。  
さて、1873年、新政府では大論争が起こります。いまだ国交のひらかれていないお隣の国、朝鮮との関係をどうしようか、ということについてです。  
日本は何回か朝鮮に「国交ひらいてよ」って言ったんですけど、朝鮮はいっこうに拒否。話を聞こうとしません。  
ここで「征韓論」という考えが出る。この「征韓論」は、国交をひらこうとしない朝鮮に軍艦でせまり大砲でも1発お見舞いして、武力でおどしつけて開国させちまえという考え方で、江藤はこの論を唱えました。黒船でおどしつけてペリーが自分らの日本を開国させたのに似てますな?  
同じく西郷隆盛や、土佐藩出身の板垣退助たちもいっしょに征韓論を主張する。  
しかし大久保利通や伊藤博文は大反対。「今の日本には戦争する力などない。先に国内の制度を整えることが先決だ!」  
話し合いはず〜っと平行線だったんですが、結局大久保たちの勝ちに終わります。決着!征韓論はダメ!アウト!  
征韓論を主張していた江藤「やってられんわ、こんな政府(怒)」ムカムカ。キレた江藤は政府をやめてしまいました。このとき西郷隆盛や板垣退助たちも同じく政府をやめてしまいます。  
そして江藤は板垣退助と共に、「薩摩藩・長州藩がぎゅうじっている新政府はダメだ!国民の意見をきちんと反映させる国会が必要だ!」と、国会の開設を求める民選議員設立建白書を提出しました。(民選議員とは、国会のことです)何とか薩摩・長州の独裁政治を終わらせたい。江藤はそう願っていました。  
しかしどうも危険なニオイがする。どうやら江藤の故郷である佐賀で、新政府に対する武力による反乱が起こりそうだ。「おいおい、気持ちはわかるけどよ・・・」江藤は故郷の連中を説得するために佐賀に帰ります。新政府のやり方に不満をもつ連中は世間にごまんといたわけです。  
しかし時や遅し。佐賀の過激な連中が、政府と関係の深い商人の家を襲ってしまいました。「あ〜あ、やってもうたか・・・」江藤はその連中にかつがれます。「新政府のやり方に反対して政府をやめた江藤さんが帰ってきた!あんたがリーダーになってくれ!」わっしょいわっしょい。  
「もう、しょうがねえ。やってやるよ!」江藤、この反乱軍のリーダーになってしまいます。そして1874年、反乱を起こす。「佐賀の乱」です。  
乱の参加者は何と約1万2000人。みーんな新政府にムカムカムカムカ。  
「この江藤めが!!」反乱軍にムカムカの新政府の大久保利通は、熊本にある明治政府の軍隊「鎮台」を派遣、激しい戦いが始まりました。  
反乱軍もよく戦いました。しかし圧倒的な政府の軍勢に押され、鎮圧されました。  
捕まった江藤は、死刑になりました。「まあ、これが俺の人生よ・・・。」  
彼は新政府にいた時、司法関係の仕事をしていました。彼は江戸時代にあった「さらし首」は残虐だと反対し、禁止する法律をつくっていました。しかし彼は、自分のつくった法に適応されることなく、大久保利通たちの決定により、死後、「さらし首」になってしまいました。  
 
当時、明治政府が備えていた軍隊のことを「鎮台」といいます。この「鎮台」は、東京・大阪・熊本・仙台にあって、後に名古屋と広島が加わり6つとなり、それぞれ軍を配置していました。  
「佐賀の乱」では、熊本鎮台が中心となって反乱の鎮圧をおこないました。この乾亨院には戦いで亡くなった熊本鎮台の兵士達の墓があるんですね。  
政府軍のお墓の方が立派につくられていますよね?どちらのお墓も同年の明治7年につくられています。墓を建てたとき、新政府軍の威光をみせつけたかったんだといわれています。政府としては、反乱軍を悪役に仕立てあげねばいけませんからね。格の違いを見せつけないといけない。  
反乱軍は悪役とされますが、大正2年に恩赦(特別な許し)が出て、慰霊碑がつくられることになりました。  
「佐賀の乱」といわれる江藤新平の反乱ですが、地元佐賀では「佐賀の役」といわれることも多いんですね。あの戦いは「乱」ではないんだと。「勝てば官軍」という言葉があるように、「敗者」となった江藤をかばう地元の方も多くいらっしゃいます。  
 
勝てば官軍、負ければ賊軍

 

明治維新から語られてきたこの言葉の真の意味をどれくらいの日本人が自覚してきたでしょうか。  
今では江戸時代の市民社会もかなり見直され、自然と一体化した、士農工商の身分に関係ない共生の「パラダイス社会」だったことも徐々に理解されてきました。その象徴として、江戸市民が身につけていた「江戸仕(思)草」も紹介されてきています。傘かしげ、肩引き、お心肥やし、こぶし腰浮かせ、時泥棒などがその代表的なものです。でもそれは、「形」としてかろうじて伝え残っているもので、大切なことは、その根っこにある、自然も含む一切のものとの共生の生き方、つまり日本人本来の「こころ」「生き様」なのです。これを今では「ヤマトごころ」と言っているわけです。つまり江戸時代は、社会を構成する「人づくり」が、講や寺子屋あるいは寄り合い等でシステム的にもキチンと行われていたということです。江戸仕(思)草では、「3才こころ、6才躾、9才言葉、12で文(ふみ)、15理(ことわり)で末決まる」といわれていました。言葉というのは、あいさつだけでなく、大人と同様の世辞が自分の言葉でキチンと言えることをいいます。つまり、「おはようございます」に加え、「本日はお暑うございますね」というような人間関係を築く大人の会話力を身につけることを意味します。このために幼少時から、意味はわからなくとも古典を丸暗記させることを徹底したわけです。この「日本語(やまとことば)の語彙力」が、その後の学問、教養としてだけでなく、人間力養成の基盤となっていったわけです。12才文(ふみ)というのは、12才になれば、両親の代わりに代筆で手紙をかけるということです。さらに15才理(ことわり)というのは、世の中の仕組みをしっかり理解して、店の番台を親の代わりに勤められるようになることなのです。  
このようにして心豊かに何世代も積み重ねられて育まれた50万の市民が暮らす江戸は、まさに人間性豊かで、心温まるパラダイス社会だったに違いありません。ちなみに江戸100万人の残り50万のほとんどは、参勤交代でやってくるお登りの地方侍たちです。歴史的に文書で残っているのは、この武士たちの、いわゆる公的な書物であり、市民の文化は文書として残されなかったのです。それを唯一、絵で見せて残しているのが浮世絵と言えます。ところが明治政府は、この江戸を否定して成り立っているのですから、なんと江戸仕草そのものさえも禁止してきたのです。この為、戦後に日本を統治したGHQがこの江戸仕草を「解放」したときに、秘かに江戸仕草を伝えていた人たちがお礼にGHQを訪れたほどです。こういう面までも考えてGHQは、二重、三重にマインドコントロールを戦後の日本社会にかけていったわけです。  
ところで、江戸末期に日本を訪れた西欧人たちは、江戸の市民生活を見て、「この世のパラダイス」と手記に書き残したり、母国の家族等に手紙で送っています。彼らが江戸社会をどう感じたのか、訪れた日にち順に追体験的に見ていきましょう。もちろん、彼らは旅行の物見遊山で来たわけではありません。欧州を起点とする白人による世界の植民地化前線の東回りと西回りが巡り会う最終局面として、黄金の国・ジパングの植民地化が究極の目的でした。もっとも、彼らも世界金融支配体制者たちに使われる駒に過ぎませんが。彼らは航海上、日本に来る前に中国に立ち寄ります。その中国を「ウジ虫を知らずに踏んでしまった気色の悪い気持ち」であると書いています。居住区は汚いし、子どもたちは「ギブ・ミー・マネー」であり、「売られている製品は全てコピー製品であり、吐き気をもよおし、二度と来たくない」、とまで母国の母親に書いた随行員もいます。そこからさらに極東の地である日本に行くわけですから、あまり期待はしなかったと思われます。ところが日本に一歩踏み込んだ途端に大讃辞に変わります。まず、船からみる国土が美しい。緑豊かな野山に、綺麗に整備された段々畑や棚田がとけこんでいます。これまでの世界のどこでも見たこともない自然と人工物がシンクロした絵画そのものの立体風景です。下田あるいは横浜の寒村に着くと、浮世絵で見た色鮮やかな着物を着た健康そうな子どもたちが、「うちにおいでよ〜」と手を引きます。その農家に行って見ると、士農工商で一番貧しいはずの農家は、四辺が綺麗に生け垣で仕切られ、その中に小さないながらも見事な日本庭園と色鮮やかな鯉が泳ぐ池があります。家に入れば、土間があり、床の間には綺麗な掛け軸がかけられています。当時の欧州では、彼らの階級は「農奴」であり、文字も書けず、何世代も藁葺きの中で雑魚寝生活でした。つまり、世界でもっとも裕福な農民が暮らす国、それが日本だったのです。個人宅にもお風呂があり、さらに出される食事にビックリです。なんと陶磁器が使われています。他の国では、このような食器は貴族以上でないと使っていません。しかも海の幸、山の幸に溢れ、自然の風味を最高に活かした世界最高の美味しい健康食です。特に、欧米人さえ見たこともない醤油や味噌など健康に素晴らしい発酵食品を使っています。帰り際には、農民であるはずの彼らが書いた掛け軸までプレゼントされます。最下級の農民が芸術的な書道が出来ることに最後までビックリ仰天です。せめてお礼にペンでもと渡そうとすると、頑なに受け取りません。そうなのです。これが日本の「おもてなし」であり、日本各地のどこでも日常から旅人たちに振る舞われていた日本人の慣習そのものだったのです。ちなみに私が小さい頃の四国伊予の実家では、このおもてなしをお遍路さんたちに行っていました。  
彼らは、その後陸路で江戸に向かうのですが、街道が綺麗に整備されていることにも驚きます。キチンと歩ける道路が整備されているだけでも、世界広しといえども当時は日本しかありません。しかも街道沿いに旅人のための日陰を提供する松などの樹木が植えられています。さらに一定間隔で宿場町が整備され、飛脚や駕籠(かご)、さらに宿や飲食店なども利用できます。街道がわざと曲がっているかと思えば、遠景に富士山、近景にお城というふうに、ビューポイントを設けるなどの情緒溢れる道造り、町造りを行っています。  
さらに江戸に着くと、まさに人類史上初の大公園都市です。  
中央に江戸城を中心とした大公園があります。それを核心に300の武家屋敷の大公園があり、さらにそのまわりには1500もの寺院等の中公園が配置されています。市民の小さな家にも庭があります。鳥瞰図的に見れば、まさに地球唯一の地上の楽園自然都市です。町造りも合理的にしっかりしていて、大通りの門戸を占めると外部からの侵入は困難で、治安上も安心できます。行き交う人々は、江戸仕草の体現者であり、挨拶や話している様子も明るく、そこにいるだけで心温まります。野の鳥さえも人の肩に留まってさえずっています。一番気性の荒々しいと思われる船乗りが集まる船着き場に行ってみると、聞こえてくる言葉は、「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」ばかり。彼らは、日本人が自分たちのことを南「蛮」人という意味がよくわかったと手記にも書いています。実は、現在のUCLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)では、国際関係論で、「19世紀のパリは、江戸を見習って造った」と教えているのです。まさに、ゴッホが日本の浮世絵から江戸を学び、そこからヤパン・インプレッション(福沢諭吉が明治政府の意を汲んで「印象派」と意訳。実際は、日本浮世絵派あるいは「日本主義」)が生まれ、世界の市民が解放されて行ったのです。そういう意味でも、日本は世界の「雛形」だったのです。  
江戸の市民生活の素晴らしさのエピソードとして完全リサイクル有機農法を紹介します。  
現代の都会生活でもアパートやマンションの集合住宅が多いように、江戸でも「長屋」がありました。大家が50両払って代官から営業権を購入します。家賃はいりません。さらに「老人」や「病人」が入居人として歓迎されたと言います。住人の仕事は「用をたす」ことだったからです。ちなみに、当時、上下水道が完備していたのも、世界で江戸だけです。その下水道に、「トイレ」の排泄物を流すことは厳禁です。それだけ、衛生管理観念も進んでいました。下水道にトイレの排泄物を流すようになったのは、「文明開化」した明治維新以降なのです。欧米化が日本文明を劣化させた一つの例証です。長屋で溜められた「うんち」は、郊外の農家が買い取りに来ます。その売り上げが、現代価格で年1000万円ほどになったようです。つまり、それだけ現金を出せた農民も豊かだったのです。農家では、それを肥だめで微生物利用による完全有機肥料として活用しました。世界で初の完全有機リサイクル農法だったわけです。老人や病人は、消化力が落ちているので、排泄物の中に「有効成分」が多く、貴重な存在として大事にされたわけです。正月などには、わが子のように住人に大家さんがお餅などを配ったのです。  
このような市民のパラダイス国家を運営していたのが、侍たちです。彼らは、武道に励みながら、市民のために誠実にこの国を切り盛りしていました。なにせ300諸藩も、市民も一切江戸幕府に税金を納める必要はありませんでした。完璧な地方自治で、経済的にも独立し、幕府も各藩も、自己責任でキチンと運営しなければならなかったのです。組織・制度上からも為政者たちが、エゴの「利権」に走ることなど出来なかったのです。しかも彼らは、生まれたときから15才で元服するまで、「武士としてのこころ、躾、言葉、文、理」を、市民以上に藩校などで、専門の講師たちに徹底して訓育されました。優秀なものは、身分にかかわらず、他の藩校や幕府の昌平校などに藩費で留学もできました。この中には、商人や農民の優秀な子どもも選抜されていました。武士になれたのです。このように生まれたときから高度の人間教育を受け、いざというときは命さえ惜しまない世界最高の利他を体現する為政者、それが江戸時代の侍=武士だったのです。彼らが存在する限り、これまで植民地化した国々のように、武力で制圧することもできません。軍艦10隻持ってきても、上陸できるのはせいぜい数百人です。万単位の武士の誠の中では身動きもできません。  
この日本をいかに植民地化、つまり金融支配するか。  
それには、無私の「武士道精神」「ヤマトごころ」を徹底的に排除し、個人の「利権」を基礎にする国造りに変えるしかありません。このためには、武士階級、端的にその象徴の「江戸」を完全否定しなければなりません。そのために、武士(薩長)でもって武士(江戸)を排除する。これが明治維新の真実です。こうして見ると、明治政府が極端な欧米化政策をとった本当の理由が見えてくると思います。彼らは世界金融支配者の裏からの支援を受けて、政権に就きました。世界が称賛してモデルとした江戸のパラダイス社会を徹底して否定するしか彼らの生きる道はなかったのです。西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。引き続く、東北での戊申戦争も真実は異常です。震災後、いわき市に講演に行きましたが、東北では、戦争と言えば、大東亜戦争ではなく、いまだに戊辰戦争を指します。なぜでしょうか?ヤマトごころ、武士道で育った日本人は、喩(たと)えまがい物の錦の御旗とわかっていても、弓矢を引くことはありません。東北の武士たち、つまり15歳以上の男子は、城に集まり武装解除の準備をしていました。街には姉妹や母、祖母たちしか残っていません。そこに上陸してきた新政府軍たちは、こともあろうに残っていた子女を強姦・陵辱・殺害そして火を放ち廃墟として行ったのです。この惨状を知り、死を賭して戦わざれば、もはや武士とは言えません。こうして東北の真の武士たちは、最後の15才の白虎隊まで戦って散華していったのです。この「史実」も日本ではタブーとなっています。しかし、地元の人々のこころを消すことはできません。彼ら「官軍」が江戸に帰り、勝った勝ったとはしゃぐのを見て江戸市民は、「これで日本も500年とは言わないが、300年は時代を(つまり戦国時代に)遡(さかのぼ)ってしまった。彼らは三代もしないうちに、この国をイギリスやアメリカに経済的に売ってしまうだろう」と影で嘆いていたのです。三代後とは、まさに現代です。完璧に世界金融支配体制の忠犬ポチ公として、国民の健康と安全とを犠牲にして、彼らに国民が背に汗して稼いだ日本円(税)を貢ぐ現代の為政者たちの姿を、当時の江戸仕草の体現者たちは予言していたのです。  
ちなみに150年前の浮世絵に、現在のスカイツリーと同じ場所・高さのタワーが描かれています。新聞でも江戸時代の予言と紹介されました。私には、友人の光明氏のような当時の霊能者が、未来の日本を見て、神を憚(はばか)らぬバベルの塔として警告しているとしか思えません。亀戸という地名は、洲が亀の甲羅のようにあるから付けられた地名です。そんな海である砂州の埋め立て地に、世界最高の高層建築物を建てるなど、東京直下型などの地震の想定内として真剣に考えたのでしょうか?いずれにせよ、「征服者」であった薩長主体の明治政府は、徹底して江戸を否定しました。世界の自由民主化の原点であった浮世絵の歌川派さえ解消させたのです。つまり、日本のまごころ、ヤマトごころの否定でした。それ故、極端な欧米主義に立脚するしかなかったのです。こうして、欧米人が認めていた「世界のパラダイス・江戸日本社会」を「自己否定」したのです。  
つまり出発当初から進路を誤ってしまったのです。この明治維新の暗黒面をキチンと反省せずして、日本の再生もありえないでしょう。最近でも、明治維新は素晴らしかったが、戦後のGHQの占領政策で日本はダメになった、ときめつけています。これでは、またまた元の木阿弥になってしまいます。明治維新の反省が全くないから、ガイアの今回の警告もまったく無視して、世界金融支配体制者に影で操られた明治政府の構造と意図を引き継ぐ現為政者たちが、引き続き原発再稼働の滅びの道をまっしぐらに進んでいるのです。彼らを見ていると、後ろから何ものかに脅されているかのように、既存の原発等利権の維持拡大に顔を暗く引きつらせながら邁進しています。それが世界金融支配体制の中の核エネルギー部門であることは論を待ちません。  
いずれにせよ、とても今生の本来の目的である霊性を向上し、この地球文明を未来の子どもたちのために、5次元社会へ責任持って導くと自覚しているようには見えません。もう彼らの好きなままにさせてはいけません。原発無き、本来の宇宙エネルギーの道へ舵をいますぐ切り替えなければなりません。ガイアのレッドカードが目前に迫っています。それは、東海・東南海・南海連動型大地震、それに引き続く富士山噴火、そして壊滅的な東京直下型巨大地震となって現れるでしょう。雛形の日本がこの惨状ですから、世界はさらに、巨大火山噴火、核戦争、ウィルス感染等々で現代文明そのものの破滅へとなりかねないでしょう。  
再度問います。  
今我々は、滅びの道を歩んでいるのでしょうか。永久(とわ)の道を歩んでいるのでしょうか。あるいは、まだ引き返せる位置でしょうか。3.11フクシマをガイアの警告と認識できたのでしょうか? いえ、あなたはどの道を歩みたいのですか?  
 
偉大な企業家とペテン師は紙一重。勝てば官軍、負ければ賊軍となる

 

時は1978年。私は知人を通じて20歳半ばにしか見えないある黒人の若者に出会いました。彼が偉大な起業家だったのかそれともペテン師だったのか、今でも判断がつきません。しかし、私の印象では彼は偉大なビジネスマンだったように思えます。そのとき彼が何をやろうとしていたかをここでお話ししようと思います。  
彼は何の変哲もない黒人青年で、背広は着ずカジュアルルックで、どう見てもビジネスマンには見えませんでした。私の知人の日系アメリカ人女性はいたく彼に入れ込んでいました。別に男女関係ということではありません。彼女によると、今彼はすごいことを起こそうとしているというのです。そのときは直に本人からその話は出ず、何がすごいことなのか、私には皆目見当がつきませんでした。しかし、あとで彼女から聞いた話は、私をうならせるのに十分でした。その後、逐一彼女から途中経過を聞かされ、そのプランの成功を祈ったものです。それはかなり壮大なプランでした。  
ここでこの青年をTとして話を進めてみます。Tは誰の紹介も面識もないにもかかわらず、元ヘビー級世界ボクシングチャンピオンのところに出かけていき、「あなたに金もうけをさせてあげます。あなただっていつまでもボクシングをやっているわけにはいかないでしょう。あなたはこの書類に、私があなたの名前を使うことを了承したと書いてくれるだけでオーケーです」と言って、何のために彼のサインが必要かを説明したあと、元チャンピオンのサインを手にすることに成功してしまいました。  
次に彼は、靴墨メーカーで世界一の会社に出かけ、「あなたのビジネスを一大飛躍させてあげます。今まで以上にあなたが飛躍できないのは、競争相手を持たないからです。そこでその解決策ですが、あなたがその競争相手を作るのです。自分のものと競争相手のものと両方をあなたが作れば、それだけあなたの売上も利益も上がるでしょう。この話は、よそに持っていっても良かったのですが、あなたを見込んでチャンスをあげようと思います。この話に乗りますか。ブランド名はチャンピオンです。そして、これが元チャンピオンの同意書です」と言って、その契約書を見せたのです。  
メーカーはこの話のメリットを検討し、元チャンピオン直筆のサインを見てすぐに承諾しました。Tはさっそくサンプルをたくさん作らせました。その足で、当時小売チェーンストアで第1位の会社に乗りこみ、「あなたの会社を信じられないくらいもうけさせるプランを持っています。ほかの候補者も考えましたが、あなたを見込んでこのチャンスをあげようと思ってやってきました。どうです、乗りませんか」と言って、靴墨メーカーとの契約書と、元チャンピオンとの契約書、そして靴墨メーカーが製造した立派なサンプルを見せました。  
大手チェーンストアはすぐにこの話に乗ってきました。具体的なプランを煮詰めるため、何度もトップ役員会議が開かれるようになりました。会議はホテル、チェーン店本社、また飛行機の中と何度も開かれました。Tはホテルに宿泊するときはいつも最高級の部屋を取り、レンタカーも高級車を乗り回しました。どうしてそのように金回りが良かったかというと、実は私の知人のクレジットカードを使っていたからです。実は、彼女はこの大プロジェクトが成功したときに、全利益の一定パーセントを約束されていたので、彼に彼女のカードを使わせていたのです。  
話はどんどん進み、とうとう最終の詰めに入りました。ところがこのとき、たまたま彼女の夫が彼女のクレジットカードの請求書をみてびっくり仰天し、すぐそのカードをキャンセルしてしまったのです。うまくいっていた彼のプランはここまでで、今までのように自由に動けなくなった彼の行動に、疑問を持ち始めた各社が調査を開始。元チャンピオンがその計画の持ち主でなければ、靴墨メーカーが元チャンピオンを巻き込んだ計画でもなく、チェーン店が元チャンピオンを使っての計画でもないことが判明し、大きな名前を持ったもの同士をくっつけようとした彼の試みは、ここですべてご破算になってしまいました。  
たった一つの小さなミス、すなわち彼女の夫を巻き込むことを忘れたミス、それがこの壮大なプランを崩壊に導いたのです。彼はもう目前まで近づいていたチャンスをつかみ損ね、失意のうちに行方不明になってしまいました。一方、私の知人はその後しばらくの間、Tの使ったカードの支払いのため苦しい目にあいました。  
このプロジェクトの最中、私と彼と彼女の3人でコーヒーを飲みに行ったときに、急にTが立ちあがり、ある男性に話しかけ始めました。シャービスという、ラテン系の人々の労働環境改善のために戦っていた有名な運動家でした。見ず知らずのシャービスにTはこう切り出しました。「あなたは間違っている。あなたがやっていることはすべてのラテン系の人々に良い労働者になれと指導しているのであって、それは間違いだ。本当にあなたがラテン系の人々の力になって、生活向上を考えるならば、彼らに自分のビジネスを始めるように指導すべきだ」  
あなたは、Tをどう思いますか。もしこのプロジェクトがうまくいっていたならば、彼は大成功を収めたビジネスマンとして、世間から高く評価されていたはずです。でも失敗したため、彼はペテン師として評価されてしまいました。  
勝てば官軍、負ければ賊軍です。あなたもぜひ自分のビジネスで成功してください。さもないと、「あいつは大ボラ吹きだった」という、たったそれだけの言葉があなたのすべての努力に対する評価になってしまいます。さあ、もう成功よりほかに道はありませんね。ぜひがんばってください。  
 
「謝罪」も「反省」も「不戦の誓い」もなしで…

 

8月15日を「終戦の日」とか「終戦記念日」と呼ぶ言い方には、私は前々から違和感をもっていた。そこには、「敗戦」という事実を認めたくないとする意識が強く働いているように感じられるからである。8月15日か、降伏文書に調印した9月2日か、あるいは連合国に対してポツダム宣言受諾を通告した8月14日か、どの日をとってもいいが、いずれにせよそれは「敗戦」の日である。戦争が終わったという意味では「終戦」でもよさそうにみえるが、「勝って終わった」のと「負けて終わった」のでは、同じ「終戦」でも意味が全然ちがう。なのに、それをあえて「終戦」というどっちつかずの言葉で表現することは、「負けて終わった」という事実から目をそらすという意味をもつ。そして、現実に、日本社会にそういう効果をもたらしている。だから、いまだに過去を美化しあるいは正当化するような発言が有力政治家の口から平気で飛び出し、そしてそれを支持しあるいは煽りさえするマスコミが、とるに足りない「イエロー・ジャーナリズム」としてではなく、一人前の顔をして棲息しているのである。  
戦争は、所詮、暴力と暴力の対抗である。そこには、いかなる意味においても「正義」はない。だから、畢竟、「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということになるしかないのである。戦争というものはそういうものだと、私は思う。同じ「終戦」でも「勝って終わった」のと「負けて終わった」のでは全然意味がちがう、というのは、そういうことである。勝って「官軍」になるのと負けて「賊軍」になるのでは、大きなちがいであろう。日本は、1945年の8月に無条件降伏したことで、「賊軍」になったわけである。「賊軍」にはいかなる「大義」もないことになるから、どんな言い訳もどんな正当化も通用しない。「すべて悪かった」と謝る以外に道はない。それを認めたくない、そうしたくないという意識が、「終戦」という言い方になっているのだと思う。「勝てば官軍…」なんておかしいじゃないか、というのは、ある意味まっとうな正義感覚であるし、私もそう思う。だから戦争なんかするものじゃないのだ。が、現実に戦争をし、そしてそれに負けた以上、「賊軍」の立場は否定できないのであり、あの戦争に関しては「すべて悪かった」と認めることからしか「戦後」は出発できない。それをあいまいにしてきたことで、68年も経ったというのにいまだに、ことあるごとに中国や韓国などとの関係を悪化させているのである。  
戦争に負けて「賊軍」になった国がその後生き延びていくためには、過去の国とは完全に断絶し、まったく別個の「人格」の新しい国として再出発しなければならない。さもなくば、「賊軍」の「汚名」を晴らすためにもう一度戦争をして勝つしかない。ドイツは、憲法上も、そして現実政治の中でも、ナチスを完全に否定的存在とすることで、前者の道を徹底した。日本の場合、日本国憲法は基本的に前者の道を宣言したのだが、しかし、憲法自身が、象徴という形に変えたとはいえ天皇の存在を継承したことによって、過去の「大日本帝国」との断絶を不徹底なものにした。その代わり、徹底した非武装条項(第9条)によって後者の道を完全に断つことを企図したわけである。しかし、過去との断絶の不徹底さは現実政治の中で増幅され、それにつれて、「賊軍」の立場を受け入れがたいとする心情がじわじわと染み出してきた。そして、「汚名」を晴らす道を閉ざしている憲法9条を変え、自衛隊を普通の軍隊にして、いざとなれば戦争も辞さずという方向に、いま、この国の政治は踏み出そうとしている。  
今年の8月15日、「全国戦没者追悼式」での式辞で、安倍首相は、1993年の細川内閣とその次の村山内閣以後自民党政権の時も含めてずっと継承されてきた、アジア諸国に対する加害責任と「深い反省」・「哀悼の意」、そして「不戦の誓い」を、言わなかった。「謝罪」の言葉も「反省」の弁も一切なく、「戦争をしない」とはあえて言わず、ただ戦場に散った「御霊」への「感謝」だけを前面に出した式辞であった。これは、「賊軍」となったことを認めず「汚名」を晴らす道を選ぶ、という宣言に等しい。少なくとも、諸外国にそう受け止められても仕方がないものであった。こういう政治を続けていたら、国際社会で孤立することになるのは必至である。私は、これまで何度も、「アメリカからも見放されるぞ」と言ってきたが、先の橋下大阪市長の「慰安婦発言」、つい先だっての麻生副総理の「ナチスの手口にならってはどうか」発言、そしてこの安倍首相式辞と、こんなことが続けば、本当にアメリカからも見放される日は遠くないと思う。  
「賊軍」の「汚名」を晴らすためにもう一度戦争をやって勝つ、などというのは、空想・夢想もいいところである。誰が考えても、そんなことは不可能だということはわかりそうなものである。だが、安倍首相が「強い日本を取り戻す」というとき、どうも本気でそう考えているように聞こえる。「日本維新の会」の石原共同代表などは本気でそう考えているに違いないと思うが、首相までもがそう考えているとしたら、この国は破滅の道を進むしかないことになる。なによりも、そんな過去の「汚名」を晴らすことに現在の政治の全精力を傾けるなど、まったく馬鹿げたことである。そういう馬鹿げた政治、そして国を滅ぼしかねない政治が、安倍政権の進める政治なのである。そこを見ずに、目先の数字だけで実体も実感も伴わない「景気回復」という言葉に踊らされて安倍政権支持なんてことを言っていたら、この国は本当に滅びると思う。年寄りの杞憂に過ぎないのならいいのだが……。(2013/8/19)  
 
ソ連軍の満州侵攻

 

1945年の今日(8月9日)は、ソ連軍が満州に侵攻した日です。前日の8月8日に、ソ連は日本へ宣戦布告。その数十分後に軍隊を動かし、8月9日未明には満州に侵攻したのです。  
ソ連軍は、たくさんの戦車と機関車に乗って満州にやって来ました。その機関車の先頭には、裸にされた日本人女性が縛り付けられていたそうです。彼らが何故、そのような行動を取ったのか、詳しくは知りません。それがロシアの伝統なのか、女性を縛り付けておけば、機関車を攻撃されないと思ったのか、それとも他の理由なのか、私には分かりません。ただ、このエピソードを初めて聞いた時、私は日本人として、非常に不愉快な気持ちになったことを覚えています。当時、満州には多くの日本人が住んでいました。そして、ソ連軍によって、大勢の日本人が殺戮されたのです。  
当時、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んでいました。これは「日本とソ連は、お互いに中立を守って戦争をしない」という条約です。この条約は翌年4月まで有効であったため、ソ連軍による侵攻は、国際条約違反にあたります。その後、8月15日に日本政府はポツダム宣言を受諾。無条件降伏をしました。しかし翌16日に、ソ連軍は千島列島に侵攻を開始。既に日本は白旗を上げているのにです。結局、9月5日までこの侵攻は続き、最終的にソ連軍は北方領土を占領しました。  
たまに不思議に思うことがあります。  
日本軍による真珠湾攻撃が現在でも「闇討ち」と非難される中、何故、ソ連軍のこの行動が許されているのでしょうか?  
30万人以上の一般市民を、原爆で殺すように命じたトルーマン大統領が、何故、A級戦犯にならないのでしょうか?  
その答えは単純です。日本が負けたからに他ありません。勝てば官軍、負ければ賊軍。我々は賊軍なので、何も文句は言えません。  
誤解しないで欲しいのですが、私は「勝つまで戦え」とか「次は負けないぞ」とか言っているわけではありません。私は、太平洋戦争は愚かな戦争であると思っていますし、アジアを侵略した日本軍は悪であると思っています。ただ、この世には絶対の正義は存在しない。強い者、そして勝った者によって、正義が決定されるのだ、ということを言いたかっただけです。しかし、「強い者、勝った者が幸せか?」と言えば、必ずしも、そうとは言いきれないのが、歴史の非常に面白いところでもあります。  
 
ソ連対日参戦
満州国において1945年8月9日未明に開始された、日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘。  
日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。
背景  
19世紀の帝政ロシアの時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は世界を共産主義化することを至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。極東での日ソの軍拡競争は1933年(昭和8年)からすでに始まっており、当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進したが、1936年(昭和11年)ごろにはすでに圧倒的なソ連の国力から戦備に決定的な開きが現れており、師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站にわたって極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを大きく凌いでいた。  
張鼓峰事件やノモンハン事件において日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識したが、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争勃発で南方へと移行する。戦局の悪化は関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらした。満洲における日本の軍事力が急速に低下する一方でドイツ軍は敗退を続け、ソ連側に余力が生じたことでソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。
情勢認識  
クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じころ対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のためにソ連への対日参戦を画策していた。1943年10月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。このときソ連はドイツを破ったのちに参戦する方針と回答した。1945年2月のヤルタ会談ではこれを具体化し、ドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束。ソ連は1945年4月には、1941年に締結された5年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めないことを、日本政府に通告した。ドイツ降伏後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。  
日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとした。しかしソ連が中立条約の不延長を宣言したことやソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議において総合的な国際情勢について議論がなされ、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。  
関東軍首脳部は、日本政府よりも事態を重大に見ていなかった。総司令官は1945年(昭和20年)8月8日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していたことに、それは表れている。時の山田総司令官は戦後に「ソ軍の侵攻はまだ先のことであろうとの気持ちであった」と語っている。ただし、山田総司令官は事態急変においては直ちに新京に帰還できる準備を整えており、事実ソ連軍の攻勢作戦が発動してすぐに司令部に復帰している。なお、6月に大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい」と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢をある程度予期していながらも、重大な警戒感は持っていなかった。  
関東軍第一課(作戦課)においては、参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていたが、ソ連軍の侵攻が冬まで持ち越してもらいたいという願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。つまり、関東軍作戦課においては、1945年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも9月以降、さらには翌年に持ち越すこともありうると判断していたのだった。この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。  
関東軍の前線部隊においては、ソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。  
さらに第四軍司令官上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、7月ころから絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究したところ、8月3日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えたものの、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。  
他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大したことから、同地域における対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。が、1945年5月9日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、再び対ソ作戦に転換する。このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識されるが、兵力が限られていたことから、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しないこととした。 しかし、上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。千島においては既に制海権が危機に瀕していることから、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。  
樺太において陸軍の部隊の主力となっていたのは第88師団であった。同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から8月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、現体勢に変化なしという方面軍の回答を得たのみだった。 対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは8月6・7日の豊原での会議においてのことであった。 千島においては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。
作戦の概要  
ソ連軍  
ソ連戦史によれば、対ソ防衛戦におけるソ連軍の攻勢作戦の概要としては、第一に鉄道輸送を用いて圧倒的な兵力を準備し、第二にその集中した膨大な戦力を秘匿しつつ満州地方に対して東西北からの三方面軍に編成して分進合撃を行い、第三に作戦発動とともに急襲を加え、速戦即決の目的を達することがあげられる。微視的に看れば、ソ連軍は西方面においては左翼一部を除いて大部分は遭遇戦の方式でもって日本軍を撃滅しようとし、一方東方面においては徹底的な陣地攻撃の方式をとっている。北方面は東西の戦局を見極ながらの攻撃という支援的な作戦であった。 北樺太及びカムチャツカ方面では、開戦の初期は防衛にあたり、満洲における主作戦の進展次第で南樺太および千島への進攻を行なうこととした。  
日本軍  
関東軍  
関東軍の作戦構想とは、ソ連軍の主力部隊の来襲が予想される西方面で、逐次的な抗戦と段階的な後退行動によって敵部隊を消耗させつつ連京線以東の山岳地帯に誘導して、ここで敵主力を可能な限り叩き、最終的には通化・臨江を中心とする総複郭内に立て篭もる。また満州各地で広く遊撃戦を行い、できる限りソ連軍の戦力を破砕する。ただし一部の前進を阻止遅滞させるための玉砕的な戦闘も予想しうる。後退の際には適時交通要所や重要施設は破壊して、敵の行動を妨害する、というものだった。  
戦術理論として一定の合理性を持つ作戦であったものの、当時の情勢と関東軍の準備状況などからは遊撃戦の展開や段階的な後退は非常に実行が困難な作戦であった。西正面のソ連軍の機甲部隊に対しては、第44軍(3個師団基幹)と第108師団を配備したに過ぎず、またこれらの部隊も火力・機動力ともに機甲部隊に対しては不足しており、実戦では各個撃破される危険性が高かった。また関東軍は戦力の差を縮めるためにゲリラ戦を重視していたが、これは現実的に難しく、困難であった。東部正面においては、元来工事の準備が遅れており、陣地防御もままならない状況であった。通信網でさえ第一線の部隊と司令部間であっても通じておらず、第一方面軍司令部と第五軍司令部の通信は8月14日になってからであった。  
第五方面軍  
第88師団(樺太)においては、対米戦に対応していた時期から、第88師団は樺太を真逢と久春内を結ぶ線で二分、それぞれで自活しつつ来攻する敵の殲滅にあたることとし、状況やむをえない場合に持久戦に移ることとし、同時に北海道との連絡維持を任務としていた。北部では八方山の陣地を軸とし、その西方山地や東方の軍道(東軍道または栗山道)沿いに北上、侵攻軍の翼に反撃、ツンドラ地帯内か西方山地に圧迫撃滅を図るものであり、南部では上陸阻止を第一としていた。  
目標が対ソ戦に切り替わると、以北で小林大佐指揮下の歩兵第125連隊が八方山の複郭陣地などを活用し持久戦にあたり、南進阻止を企図するとした。以南の地域では東半部を歩兵第306連隊西半部に歩兵第25連隊をおき、師団主力は国境ソ連軍の邀撃にはあたらないとする旨が伝えられた。また、豊原地区司令部により、1945年3月25・26日には邦人7688名を地区特設警備隊要員として召集、教育しており、住民を利用したゲリラ戦をも想定していたともいえる。  
第91師団(北千島)においては、他の島嶼と同じく北千島においても水際直接配備が当初は主であったが、戦訓から持久戦による出血強要へと方針が転換された。しかし陣地構築の困難さから、砲兵については水際に重点が置かれた。極力水際で打撃を与えつつ、神出鬼没の奇襲で前進を遅滞させるという村上大隊の戦闘計画に掲げられた任務は、その好例といえよう。全体の布陣は二転三転したが、最終的には幌筵海峡重視の配備となっていた。防御に徹した教育訓練がなされたことや、徹底した自給自足により栄養不良患者をほとんど出さなかったのも特徴である。  
居留民への措置  
関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えられていた。開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。それでも、関東軍総司令部兵站班長・山口敏寿中佐は、老幼婦女や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課(作戦)に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐保持」を理由に却下している。  
状況悪化にともない、満州開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民、開拓団は悪化していく状況を深刻にとらえていなかった。 また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、「対ソ静謐保持」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかった。 ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、待避をよしとしなかった。この判断については、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々の、無敵と謳われた関東軍に対する過度の信頼と情報の不足が大きな要因であると考えられる。  
8月9日ソ連軍との戦闘が始まると直ちに大本営に報告し、命令を待った。命令が下されたのは翌日10日で、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な居留民待避の検討を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。第一列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、対立鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙として国境付近の居留民は置き去りにされた。  
これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。特に国境付近の居留民の多くは、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や(麻山事件・佐渡開拓団跡事件)、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や満州人の妻となる人々も出た。  
当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は  
軍人関係家族 2万0310人 / 大使館関係家族 750人 / 満鉄関係家族 1万6700人 / 民間人家族 240人  
この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。  
当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる「流れる星は生きている」では、避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出したと記述している。また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。
経過  
初動  
宣戦布告は1945年8月8日(モスクワ時間午後5時、日本時間午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとしたが領事館の電話は回線が切られており奇襲を伝える手段は残されていなかった。  
8月9日午前1時(ハバロフスク時間)にソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。同じ頃、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、午前6時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。この攻撃は関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後1時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。さらに総司令官は宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。皇帝溥儀は満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。  
西正面の状況  
ソ連軍ではザバイカル戦線、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。一方方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京−奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、本格的な交戦は行われなかった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に前進できた。  
第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である機甲部隊は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。  
ソ連軍は8月13日には牡丹江を占領し、16日には勃利を占領した。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。  
東正面の状況  
東方面においては日本軍は第1方面軍が、ソ連軍は極東方面軍が担当していた。日本軍の10個師団と独立混成旅団・国境守備隊・機動旅団各1個に対し、ソ連軍は35個師団と17個戦車・機械化旅団基幹であった。日本の第1方面軍は、国境の既存防御陣地を保守し、ソ連軍の主力部隊が進行した後は後方からゲリラ戦を以って奇襲を加える防勢作戦を計画していた。牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、同方面軍の任務は、侵攻する敵の破砕であったが、二次的なものとして、満州国と朝鮮半島の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。  
しかし、日本軍の各部隊の人員や装備には深刻な欠員と欠数があり、特に陣地防御に必要な定数を割り込んでいた。同方面軍の主力部隊の一つであった第5軍を例に挙げれば、牡丹江沿岸、東京城から横道河子の線において敵を拒否する任務を担っていたが、銃剣・軍刀・弾薬・燃料だけでなく、火器・火砲にも欠数が多く、銃・軽機関銃、擲弾筒は定数の三分の一から三分の二程度しかなく、また火砲は第124師団、第135師団ともに定数の三分の二以下、第124師団は野砲の欠数を山砲を混ぜて配備し、第135師団は旧式騎砲、迫撃砲で野砲の欠数を補填しているほどであった。  
実際の戦闘においては第二十五軍、第三十五軍団を主力部隊とする極東方面軍の激しい攻撃を受けることになった。天長山・観月臺の守備隊は敵に包囲され、天長山守備隊は15日に全滅、観月臺は10日に陥落した。また八面通正面では秋皮溝守備隊は9日に全滅、十文字峠・梨山・青狐嶺廟の守備隊も10日にソ連軍の圧倒的な攻撃を受けて陥落、残存した一部の部隊は後退した。平陽付近では、前方に展開していた警備隊がソ連軍の攻撃で全滅し、残りの守備隊は8月9日に夜半撤退したが、10日にソ連軍と遭遇戦が発生し、離脱したのは850人中200人であった。このように各地で抵抗を試みるもその戦力差から悉くが撃破・殲滅されてしまい、ソ連軍の攻撃を遅滞させることはできても、阻止することはできなかった。  
東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと正しく判断した清水司令官は、第124師団、その後方に第126・第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置した。穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されたが、後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了することができた。牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受けた。南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置していた。  
一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていた。羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止した。広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍は、よく善戦して各地で死闘を繰り広げたが停戦時の17日にはソ連軍が第2線陣地に迫っていた。  
北正面の状況  
満州国の北部国境地域、孫呉方面及びハイラル方面でも日本軍(第4軍)は抵抗を試みるもソ連軍の物量を背景にした攻撃で後退を余儀なくされていた。孫呉正面においては、ソ連軍は36軍・39軍・53軍・17軍及びソ蒙連合機動軍を以って8月9日に機甲部隊を先遣隊として攻撃を行ったが、当時の天候が雨であったために沿岸地区の地形が泥濘となって機甲部隊の機動力を奪ったため、作戦は当初遅滞した。日本軍は第123師団と独立混成第135旅団で陣地防御を準備していたが、第2極東方面軍の第2赤衛軍が11日から攻撃を開始した。ソ連軍の攻撃によって一部の陣地が占領されるも、残存した陣地を活用して反撃を行い、抵抗を試みていた。しかし兵力の差から後方に迂回されてしまい、防衛隊は離脱した。またハイラル正面においては、ソ連軍はザバイカル方面軍の最左翼を担当する第36軍の部隊が進行し、日本軍は第119師団と独立混成第80旅団によって抵抗を試み、極力ハイラルの陣地で抵抗しながらも、戦況が悪化すれば後退することが指示されていた。第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、戦闘ではソ連軍の正面からの攻撃だけでなく、南北の近接地域から別働隊が侵攻してきたために後退行動を行った。  
北朝鮮の状況  
北朝鮮においては第34軍(主力部隊は第59師団、第137師団「根こそぎ動員」師団、独立混成第133旅団)が6月18日に関東軍の隷下に入り、7月に咸興に終結した。戦力は第59師団以外は非常に低水準であり、兵站補給も滞っていた。開戦して第17方面軍は関東軍総司令官の指揮下に、第34軍は第17方面軍司令官の指揮下に入った。また羅南師管区部隊は本土決戦の一環として4月20日に編成された部隊であり、2個歩兵補充隊と、5個警備大隊、特設警備大隊8個、高射砲中隊3個、工兵隊3個などから構成されていた。  
第一線の状況として、ソ連軍の侵攻は部分的なものであった。咸興方面では第34軍はソ連軍に対して平壌への侵攻を阻止し、朝鮮半島を防衛する目的で配備され、野戦築城を準備していた。しかし終戦までソ連軍との交戦はなかった。一方で羅南方面では、ソ連軍の太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊・第一極東方面軍第25軍・第10機甲軍団の一部が来襲した。12日から13日にかけて、ソ連軍は海路から北朝鮮の雄基と羅南に上陸してきた。8月13日にソ連軍の偵察隊が清津に上陸し、その日の正午に攻撃前進を開始した。羅南師管区部隊は上陸部隊の準備が整わないうちに撃滅する作戦を立案し、ソ連軍に対抗して出撃し、上陸したソ連軍を分断、ソ連軍の攻撃前進を阻止するだけの損害を与えることに成功し、水際まで追い詰めたが、14日払暁まで清津に圧迫し、ソ連軍の侵攻を阻止する中15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念し、防御に転じた時に8月18日に停戦命令を受領した。
南樺太および千島の概況  
当時日本が領有していた南樺太・千島列島は、米軍の西部アリューシャン列島への反攻激化ゆえ急速強化が進んだ。1940年12月以来同地区を含めた北部軍管区を管轄してきた北部軍を、1943年2月5日には北方軍として改編、翌年には第五方面軍を編成し、千島方面防衛にあたる第27軍を新設、第1飛行師団と共にその隷下においた。 結果、1944年秋には千島に5個師団、樺太に1個旅団を擁するに至る。  
しかし、本土決戦に向けて戦力の抽出が始まると、航空戦力を中心に兵力が転用され、1945年3月27日に編成を完了した第88師団(樺太)や第89師団(南千島)が加わったものの、航空兵力は貧弱なままで、北海道内とあわせ80機程度にとどまっていた。  
他方、ソ連軍は同方面を支作戦と位置づけており、その行動は偵察行動にとどまっていた。1945年8月10日22時、第2極東戦線第16軍は「8月11日10:00を期して樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を受領、ようやく戦端を開く。しかし、準備時間が限定されており、かつ日本軍の情報が不足していたこともあり、各兵科部隊には具体的な任務を示すには至らなかった。情報不足は深刻で、例えば、樺太の日本軍は戦車を保有しなかったにもかかわらず、第79狙撃師団に対戦車予備が新設されたほどであった。北千島においてはさらに遅れ、8月15日にようやく作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島の占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。  
南樺太の戦闘  
樺太の日本軍は、1941年の関東軍特種演習から対ソ戦準備をしていたが、大東亜戦争中盤からは対米戦準備も進められて、中途半端な状態だった。第88師団が主戦力で、うち歩兵第125連隊が国境方面にあった。対ソ開戦後は、特設警備隊の防衛召集や国民義勇戦闘隊の義勇召集が実施され、陣地構築や避難誘導を中心に活動した。居留民については、1944年秋から第5方面軍の避難指示があったが、資材不足などで進んでいなかった。ソ連軍侵攻後に第88師団と樺太庁長官、豊原海軍武官府の協力で、23日までに87670名が離島できた。その後の自力脱出者を合わせても、開戦時住民約41万人のうち約10万人が脱出できたにすぎない。 なお、戦後の引揚者は軍人・軍属2万人、市民28万人の合計30万人で、残留した朝鮮系住民2万7千人を除くと陸上戦の民間人死者は約2,000人と推定されている。後述の引揚船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する。  
樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、8月9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。11日5時頃より、樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの2方向から侵入した。他方、日本軍は9日に方面軍の出した「積極戦闘を禁ず」という命令のため、専守防御的なものとなった。後にこの命令は解除されたが前線には届かなかった。日本軍は、国境付近の半田10kmほど後方の八方山陣地において陣地防御を実施した。日本の第5方面軍は航空支援や増援作戦等を計画したが、8月15日に中止となった。  
戦闘は8月15日以降も継続し、むしろ拡大していった。日本政府からの明確な指示が出ないまま、ソ連軍による無差別攻撃に対応し日本軍も自衛戦闘として応戦を続けた。16日には塔路・恵須取へソ連軍が上陸作戦を実施。20日には真岡へも上陸し、この際に逃げ場を失った電話交換女子達が集団自決する真岡郵便電信局事件が発生した。真岡の歩兵第25連隊は、ソ連軍による軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に移った。熊笹峠へ後退しつつ抵抗を続け、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。  
8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による空爆が加えられ多数の死傷者が出た。同日朝には樺太からの引揚船「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」が留萌沖でソ連軍潜水艦に攻撃され、1708名の死者と行方不明者を出した(三船殉難事件)。  
その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には豊原に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には大泊に上陸、樺太全土を占領した。  
千島列島の状況と戦闘  
アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも占守島をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初はアッツ島からの空爆に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、ある程度の数が終戦まで確保(第91師団基幹の兵力約25000人、火砲約200門)された。防衛計画は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。  
8月9日からのソ連対日参戦後も特に動きはないまま、8月15日を迎えた。方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。だが、ソ連軍は15日に千島列島北部の占守島への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示していた。  
18日未明、ソ連軍は揚陸艇16隻、艦艇38隻、上陸部隊8363人、航空機78機による上陸作戦を開始した。投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍基地の全艦艇など、第128混成飛行師団などであった。日本軍第91師団は、このソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇13隻を沈没させる戦果を上げている。  
上陸に成功したソ連軍部隊が、島北部の四嶺山付近で日本軍1個大隊と激戦となった。日本軍は戦車第11連隊などを出撃させて反撃を行い、戦車多数を失いながらもソ連軍を後退させた。しかし、ソ連軍も再攻撃を開始し激しい戦闘が続いた。18日午後には、日本軍は歩兵73旅団隷下の各大隊などの配置を終え有利な態勢であったが、日本政府の意向を受け第5方面軍司令官 樋口季一郎中将の命令に従い、第91師団は16時に戦闘行動の停止命令を発した。停戦交渉の間も小競り合いが続いたが、21日に最終的な停戦が実現し、23・24日にわたり日本軍の武装解除がなされた。  
それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日に択捉島、9月1日〜4日に国後島・色丹島の占領を完了した。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである。
ポツダム宣言受諾後のソ連の戦闘  
外地での戦闘が完全に収束する前に、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌日、終戦詔書が発布された。  
このことにより攻勢作戦を実行中であった日本軍の全部隊はその作戦を中止することになった。  
しかし、ソ連最高統帥部は「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。このため、日本軍は戦闘行動で対応するほかなかった。  
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営以下の日本軍全てに対する戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令が出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊はほぼすべてが激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたために、全く状況は変わらなかった。  
8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将がソ連側と交渉に入ったものの、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は8月20日午前まで停戦しないと回答した。関東軍とソ連軍の停戦が急務となったマッカーサーは8月18日に改めて日本軍全部隊のあらゆる武力行動を停止する命令を出し、これを受けた日本軍は各地で戦闘停止し、停戦が本格化することとなった。同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。  
8月19日15:30(極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。これを受けて、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、ソ連軍による作戦は1945年9月2日の日本との降伏文書調印をも無視して継続され、結局、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってソ連軍は初めて一方的な戦闘を終了した。
前線部隊の状況  
対ソ防衛戦は満州国各地、及び朝鮮半島北部などにおいて広範に行われた。全体的には日本軍が終始戦力格差から見て各地で一日の間に陣地を突破される事態が各地で発生し、突破された部隊は南方への抽出を受けて全体的に戦力が低下しており戦況を立て直すことができず、いとも簡単に前線陣地を突破され潰走することがほとんどであった。  
しかし、編成が終了したばかりの新兵と装備が不十分という寡弱な部隊を、強大なソ連軍が進撃してくる戦場正面に投入したが、交戦前に混乱状態に陥った部隊は皆無であった。例えば第5軍は、絶望的な戦力格差があるソ連軍と交戦し、少なからぬ被害を受けたものの、1個師団を用いて後衛とし、2個師団を後方に組織的に離脱させ、しかも陣地を新設して邀撃の準備を行い、さらに自軍陣地の後方に各部隊を新たに再編して予備兵力となる予備野戦戦力を準備することにも成功している。是には非常に優れた指揮の下で円滑に後退戦が行われたことが伺える。  
また既存陣地(永久陣地及び強固な野戦陣地)に配備された警備隊は、ほぼ全てが現地の固守を命じられていた。これは後方に第二、第三の予備陣地が構築されておらず、また増援が見込めない為である。そのため後退できない日本軍の警備隊は、圧倒的な物量作戦で波状攻撃をかけるソ連軍に対して各地で悲愴な陣地防御戦を行い、そのほとんどが担当地域で壊滅することになった。ここで注目すべき点は、戦闘力が寡弱な中隊・小隊であるにも拘らず、事前に防御すべき守備線を捨てる部隊がなく帝國陸軍発足以来の敢闘精神を発揮し、大挙満州国に侵入してきたソ連軍をみてもその戦闘開始以前において個人的に離隊した兵士が一人として見当たらないことである。
在留邦人の状況  
日本軍の一切の武力行動禁止が命じられ、ソ連軍が満州各地に進駐してくると地域の在留邦人は悲劇的な事態に追い込まれていく。ソ連軍首脳部は日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていたが、ソ連軍の現地部隊はそれを無視しており、正当な理由のない発砲・掠奪・強姦・車輛奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していった。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封殺され失われていた。このような中で、ソ連軍から支配地を引き継いだ八路軍による圧政から通化事件‎のような虐殺事件が起きた。  
ソ連軍は開拓団で退避した人々の群れを見ると、機銃掃射を浴びせた。それでも逃げる在留邦人を、今度は中国人農民が匪賊となって襲撃し、虐殺して死者の衣服まで奪い取って行った。8月14日に起きた葛根廟事件では、数千人の避難民が退避している際にソ連軍から一斉射撃を浴びた後、戦車で轢き殺された。その後生存者も死者も中国の暴民によって衣服をはがされ、強姦された。また吉林省扶余県の開拓団の事例では、親しかった中国人が暴徒襲撃の情報を教えてくれたので、竹槍などで武装して戦ったが、中国人暴徒の数は2000人にも及び、婦女子以下自決して272名が死んだという。そのほか、敦化事件、牡丹江事件、麻山事件などが起こった。  
このような逼迫した状況下で関東軍の現地責任者は、一刻も早くこの現状下に鑑み現地での状況を東京に逐次伝え、ソ連に対してこのような事態を一刻も早く改善するようにと外交的交渉を早く進展するようにと求めることが限界であった。この時点で本来なら関東軍を指揮督戦して励ます筈の上層部はすでに航空機等で本土にいち早く退避しており、満州国に残された現地の責任者等は、このような現地状況を日本政府に電報を使用して再三に渡って送り続けた。一方日本政府は聯絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するようにと本土より打電をして取り計らっていた。  
このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は中国残留日本人と呼ばれており、日中両国の政府やNPOによる日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から60年が経た後でも完全な解決には至っていないのが現状である。また、樺太では在樺コリアンの問題が残っている。 
 
近代日本の国防と外交

 

はじめに
諸君は知っているだろうか。今、我々が生活を営んでいるこの日本が、かつて外国勢力により危うく侵略されそうになったという事実を。  
それは今からたった約150年前の出来事である。よく考えてほしい。たった150年前である。  
その頃の日本人は徳川幕府260年の歴史の最後の瞬間に生きていたのであるが、西洋諸国の東洋への侵略活動も最終フェーズに入り、とうとうその仕上げとして日本、シナ、朝鮮へ侵略の駒を進めてきたのである。その侵略は西洋列強諸国による植民地拡大として歴史に刻まれている。  
シナ(当時は清国である)は、アヘン戦争に敗れ、イギリスに香港を割譲、巨大帝国である清は、地球の裏側から侵略してきた英国にその領土の一部を割譲させられたのである。この事実は侵略者である西洋諸国にとっては、巨大帝国であった清に勝利することができたことは驚異であったろうし、清国敗れるの報を聞くに及び、当時の日本人達は脅威と感じたのである。  
既知のこととは思われるが、当時の日本は所謂「鎖国」を行い、外国との交渉を一切絶っていたように思われるが、実はそうではなく、オランダを通じてヨーロッパ各国の情勢については把握していたということが近年明らかになってきている。だが、それらの情報収集もむなしく、日本は何ら具体的な対策を取ることをしなかった。あの巨大帝国である清が英国に敗れ、清の領土は少しずつ浸食されているにもかかわらずである。もっとも当時の日本にとっては具体的対策など取りようもなかったのであるが。  
その後遅れてきた帝国主義国家で新興国家であったアメリカ合衆国が、日本へ開国を求める。それ以前にもロシアは日本に開国を求めるが、徳川幕府はその要求をはねつけた。その鎖国体制の延長として米国の開国要求に対しても開国せずの判断であったが、やがてその砲艦外交に恐れをなした幕府は開国するに至った。そして不平等条約を締結させられ、日本は西洋列強に侵略される一歩手前まで来たのである。まさに植民地一歩手前の状況であり、日本は滅亡の寸前にあったと言えるだろう。  
もちろん、そのような状況に至るには様々な政治的な思惑があったことは確かである。今の日本の軍備で西洋諸国に対抗したところでとても勝てる見込みはない。ゆえにまずは開国をして貿易を行い、西洋の技術、知識を輸入し、それによって軍備、国力を充実させて西洋に侵略されないような国へと改造しなければならない。  
そうした観点から当時の幕府は様々な改革を行い、制度を導入したが、それは幕府の政策として最終的に成功に至ることはなかった。なかでも、外国勢力とどう対峙すべきかを、幕府だけでは決めることができなかったという点が徳川幕府の権威が崩壊するきっかけであったものと思われる。薩摩藩や長州藩、土佐藩、会津藩などをはじめとする雄藩に「意見」を求めてしまった。これでは幕府の権威は一気に失墜していく。今まで強力な軍事力を保持して日本を支配していた幕府が外国の脅威に対してまともな対応を行うことができないことを露呈してしまった。関ヶ原の戦い以降、冷や飯を食わされ、常にお家断絶の危機感とともにあった外様である雄藩が倒幕へと動き始めるのは時間の問題であったかもしれない。  
そして幕府を守る諸藩と倒幕へ向かう諸藩の戦い、内戦が起こった。これが戊辰戦争である。戦争は長期化することはなく、内戦中に外国勢力の介入を避けたことは幸運であったが、もう少し戦争が長引いていれば日本は米英仏あたりに分割されていたかもしれない。明治維新から始まる日本の近代は戦争により始まり、常に外国勢力との戦い、駆け引き、緊張感のもとに展開していたと言えるであろう。そしてその近代は大東亜戦争の敗北に全て結実している。  
150年前の歴史を振り返り、そして今、我々の生きるこの日本を見ればどうであろうか。  
国内においては、政治不信、経済不況、リストラという名の首切り、就職大氷河期、増加する自殺、少子化、子殺し、親殺し、外国人犯罪、振り込め詐欺、年金不信、公教育の崩壊。  
外交においては、北朝鮮の拉致、北朝鮮のミサイル問題、シナ、韓国などの内政干渉、竹島、尖閣諸島、東シナ海ガス田問題、北方四島問題、日米安全保障問題とテロリズムへの対策、そしてTPP参加問題など問題が山積している。  
が、今の政府はこれら諸問題についてせいぜい年金問題くらいについてはある程度の解決策を出しているが、殆どの問題については対処療法に止まるだけで、根本的な対策を行っているとは言えない。特に、外交、安全保障問題については無知蒙昧も甚だしい。  
特に平成21年の民主党政権の誕生により、外交については何もしないでくれとお願いしたいくらい酷い政策が行われている。こんなことではいずれ日本はシナや朝鮮の属国になってしまうであろう。  
この「維新論」は今まさに滅びようとしている我らの祖国日本の現状を認識し、我らの祖国日本を本来あるべき姿に復活させるべく、つたないながらも在野の一国士がその策の是非を世に問わんとするものである。  
本書は四部構成とし、第一部では明治維新から現在までの歴史を俯瞰し、ここ140年の歴史で我が国は何を国是とし、どう活動し、その結果我が国が現在抱える諸問題の現状とその原因を考えてみたい。第二部では我が国の国防と外交はいかにあるべきかを述べたい。次巻の第三部、第四部では第一部、第二部の内容を踏まえた上で、国内の諸問題についての「維新」を提案し、その策と意見を述べたい。  
この原稿の執筆中、平成23年3月11日、私は仙台市内において東日本大震災の被災者となった。あの数分間の恐怖の激震の中でビルの天井を見上げながら私は死を悟った。私は不幸中の幸いであの大津波に飲まれることはなかったが、仕事で知り合った人々の中には家を失い、亡くなった方もいる。この悲しみは数年経っても消えることはないだろう。あの震災の27時間前、私は津波被害にあった塩竃市にいた。もし27時間前に地震が発生したら私は津波に飲まれて死んでいたかもしれない。私は一度死んだのだ。そう思えば、もはや恐れるものなど何もないし、失うものなど何もない。  
この大災害は福島原発を制御不能の状態に陥らせ、福島県をはじめとして、東日本一帯に放射性物質をまき散らした。東京電力の隠蔽体質、民主党政府の無能、無策ばかりが責められているが、原因は今現在の権力者達にあるだけではない。今までの原発政策を推進してきたのは自民党である。そして原発政策と東電の批判を行ってこなかった大手メディアにも大きな責任がある。これら既存の権力機構の戦後60年にわたる無為無策が招いたのが今回の大惨事である。  
北朝鮮の核、シナや韓国の領土侵入、それら外患も脅威であるが、まずは国内に巣くう愚かな政治家、官僚、財界、マスコミの中にこそ我が国を滅ぼす元凶があることを自覚するべきである。そして愚かな政治家を選んだのは愚かな大衆である。これら愚かな大衆が真実を知り、真の敵がどこにあるかを自覚することで国士へと覚醒される。そして国士こそが維新を遂行する原動力となるのである。  
「真の敵は内にあり」  
維新は草莽崛起にて完遂されるであろう。  
この書を黒船来航以来の全ての戦死者達と平成23年3月11日の東日本大震災における全ての犠牲者達、そしてこのままでは日本は滅びると危機感を共有する全ての同志達、国士達に捧げる。  
 
第一部 明治維新から一四〇年の歴史を俯瞰する

 

第一章 明治維新の功罪 
本稿における現代日本の維新を述べるに当たって、腐りきった国防と外交を立て直す必要があるとの認識から、この稿の始めにおいては、近代日本の国防と外交がいかなるものであったかという基本認識を共有するために、明治維新とそれに続く近代日本の戦争の歴史、そして「戦後」について述べることとしたい。  
近代日本は緊急整備された体制  
この書の「はじめに」で述べた通り、今の我々が生きる現代の150年前、歴史上では近代と言われる時代、この時代に日本は西洋諸国に侵略される危機にあった。  
その危機をギリギリで乗り切って、明治維新を迎えて現在にまで歴史は続いている。では明治維新がもたらしたものは何だったのか。その一つは西洋近代化である。簡単に言えば今までの日本式を捨てて、西洋の真似をすることである。  
例えば、洋服である。着物をやめて、スーツを着る。草履をやめて革靴を履く。ちょんまげをやめる。帯刀をやめる。牛鍋を食べる。  
日本の近代化は形から入った。  
それらを文明開化と言ったが、要は西洋の真似をすれば、理不尽な侵略を受けることはなくなり、西洋諸国と対等に話し合いが出来ると考えた。それによって日本を護ろうと考えた訳である。  
その西洋化の基本にあったのは富国強兵政策である。経済力をつけて、強い軍隊を準備する。経済力とは何か、産業を興す、金融制度を興すなどインフラ整備を行い、西洋のような国家とすることである。そして西洋化された軍隊を整備することで侵略を防ぐ、これが明治初期の国策の根幹にあった。  
ペリー来航が嘉永6年(西暦1853年)、明治維新が西暦1868年であるから、わずか15年で日本は近代国家に生まれ変わる準備を終了した。その後、明治4年廃藩置県、郵便制度開始、明治5年鉄道開通、学制公布、明治6年徴兵令、明治9年廃刀令、日本はわずか十数年で近代国家の体裁だけは整えることが出来た。  
だが、幕末に諸外国と締結した日米修好通商条約など不平等条約を改正しなければ諸外国と対等に付き合えるわけがない。その条約改正が明治初期の日本外交の至上命題となるのである。  
岩倉使節団を欧米に派遣し、不平等条約の改正を諸外国に対し働きかけたが、憲法も法整備もなされていない日本は諸外国から相手にされなかった。明治政府は憲法をはじめとする諸外国のような法整備が必要であると痛感し、国内の法整備に乗り出すこととなる。そのような大きな流れの中で、外国からその分野の「先生」を招き民法など法整備に着手する。全て急ピッチである。緊急輸入し、日本語訳し、日本の実情に合わせ、なんとか法律を作り出した。こうした涙ぐましい努力で多くの分野における日本の近代化は進んでいった。明治22年2月11日大日本帝国憲法が発布され、日本は何とか西洋的近代国家を形式上作り上げることに成功したのである。  
なお、最終的に不平等条約改正が達成されるのは明治44年、日露戦争が日本の勝利に終わった後の話となる。  
だがここに落とし穴があった。  
日本の近代化は外圧によって必要に迫られて行われた政策であって、日本内部から自発的に行われた政策ではないという点である。この点を強調して、「日本は外圧がなければ変われない国、外圧をかければ変化させられる国」という一般論が広まることになり、日本人自身もそれを無意識の内に自覚するようになっている。  
そしてそこにはもともと日本人が持っていた、外国文化を受容した場合、ゆっくりと時間をかけて咀嚼し、自国の文化に取り込んでいくという、遣隋使、遣唐使以来の外来文化を受容するに当たっての行動がとられなくなっていたのである。黒船来航という「黒船ショック」は、元来日本人が持っていた性質さえも変質させるほどの一大事であったということである。これは明治維新以来、140年を経過した今の日本をみればおわかりになるだろう。日本人本来が持っていた文化、伝統、しきたりは忘れ去られ、なんとも無機質で透明な中身のない消費空間だけが拡大している。  
日本を欧米による植民地化から救うために明治維新が行われ、辛くも我が国は植民地化を免れた。先進的といわれる西洋文明を生存のために受け入れることによって、我が国は何とか独立国家としての道を歩めることが出来たのである。  
以上をまとめると、明治維新とは緊急整備された体制であると言ってよい。徳川時代を否定し、諸外国からの侵略を防ぐための国防のための緊急体制、これが明治時代であった。 
日清戦争(明治二十七年七月〜明治二十八年三月)  
緊急整備された体制は、言い換えれば突貫工事体制である。  
この突貫工事でまがりなりにも形が整った近代日本はやがて初めての試練に突入する。  
それが日清、日露戦争である。  
国民に人気のある司馬遼太郎の書いた「坂の上の雲」が再び脚光を浴びている。NHKにてテレビドラマ化もされ、書店では日露戦争本などのコーナーが出来上がるほどである。 この「ブーム」の中から聞こえてくるのは、「明治は青春」「生き生きとした若々しい日本」「力強い日本」など肯定的な意見である。  
一方、左翼勢力は「日本のアジア侵略の端緒」「アジア侵略を正当化するもの」などいつもの決まりきった「反日」的意見を声高に叫ぶ。  
両者の意見は実に下らない。表層しか見ていないからそういう軽い言葉で終わるのだ。  
昨今のマスコミの薄っぺらい宣伝などに惑わされない心ある国士達はそのような言説にはとらわれないとは思うが、敢えて説明すると以下の通りである。  
当時の世界常識  
・侵略は悪ではない。むしろ侵略されるほうが悪いのだ。  
・力ある国家が力なき国家を従属させるのは当然である。  
・植民地を所有し、植民地から利益を得るのは当然の権利である。  
・相手が西洋化、近代化していなければ、奴隷にしようが侵略しようが自由である。  
おおよそ以上の四点が当時の世界常識である。  
軍事力が弱い国は簡単に侵略される運命にあったのである。  
四海、皆、敵である。  
油断すればいつ殺されるか分からない。ゆえに、日本は侵略されないために如何に生き抜くべきか。このような時代においては、共産党や社民党、民主党などの反日勢力が声高に叫ぶように「平和を守ろう」「戦争反対」「教え子を戦場に送るな」などといった軽薄で空疎なスローガンを唱える者は病人扱いされるだけであろう。そんな言葉を吐いているうちに欧米列強に侵略されてお終いである。  
当時の日本人、否、我々の先祖達は、そのような戦乱渦巻く世界の中で必死の思いで、考え、行動し、戦ったのである。そしてその命のリレーのバトンを今、我々は受け継いでいるのである。そのことを絶対に忘れてはならない。  
明治維新を成し遂げた日本は、欧米列強に「侵略されないために」富国強兵策を採用する。だが、自国に引きこもって、せっせと経済発展だけにいそしんでいればいいかと言えばそうはいかない。  
昭和20年(1945年)以降の我が国のように、「米国の庇護」という完全なバリアがあれば、それは可能である。国防を米国にお任せして、日本人は経済の発展だけを考えて、国力を国内のインフラ整備などに回すことができる。これは自主防衛を放棄し、経済植民地を選択した結果である。  
だが、当時は違う。まがりなりにも独立を維持していた日本は、外交はもちろん、軍事行動も自らで考えなければならない(独立国家とはそもそもそういうものだが)。  
そういう情勢の中で、国家安全保障を考えたとき、日本の隣国には朝鮮があるが、未だ開国せず、鎖国を維持している。日本としては江戸時代からご近所づきあいをしていた朝鮮に対し、「開国して日本みたいに近代化したほうが侵略されずに済みますよ」、と、アドバイスしたつもりが、余計なお世話だということになってしまった。そして、朝鮮の宗主国であった清が出てきて、簡単に言えば、「てめえ、おいらの子分になんか用か?」ということになり、始まったのが日清戦争である。余計なアドバイスなんかしなきゃいいのに、と思われるかもしれないが、朝鮮の北には何がある?ロシアがある。さあ、世界地図、いや地球儀を頭に浮かべるのだ。  
ロシアは寒い北の国で、不凍港を求めて南下するという伝統的な南下政策を行う侵略国家である。これはロシア史をちょっと学べばすぐに分かる。ロシアが朝鮮を侵略するとどうなるか。次は日本が標的となる。これは冗談でも何でもない。今でもそれは世界の常識である。だから米国は朝鮮半島に干渉するのである。朝鮮半島がロシアの手に落ちれば、ロシアは海を渡って日本列島に到達する。日本を落とせば、大陸のハートランドパワーは太平洋へ出る。そうなると米国は三大海洋(太平洋、大西洋、そして北極)からの挟み撃ちを食らうことになる。大陸勢力を絶対に太平洋へと出してはならない。これが米国の極東戦略、世界戦略の一つである。  
さて、話を戻そう。朝鮮半島と九州、対馬の間はわずか50kmしかない。当時の日本はロシアの侵略から国家を護るために朝鮮に楯になってもらいたかった。朝鮮が日本と同じように開国して、日本のように近代国家になって欲しかった。そして西洋列強と共に戦いたかった。だが、朝鮮内部はまとまらず、近代化はうまくいかず、日本は痺れをきらした。ロシアをはじめとする列強は待ってくれない。だから朝鮮に干渉し、朝鮮半島を我が国の影響下に置こうとしたら、朝鮮の宗主国である清と戦争になった。簡単にいえばそういうことになる。  
清は弱かったのか。  
いや、これが結構強かったといわれている。  
なにせ当時から人口の多いシナである。  
兵力は多い。しかも英国から輸入した軍艦である定遠、鎮遠など、当時としては大型の最新鋭艦も装備し、生まれたての日本陸海軍にとってはかなり際どい戦いであったはずだ。  
そして歴史上、日本軍が大陸へ乗り出して勝った戦はない。豊臣軍は明に撃退されている。果たして近代日本軍は清に勝てるのか。  
また、香港を侵略されていたり、列強に食い荒らされていたにも関わらず、清はやはり巨大帝国であり、列強の侵略は沿岸部、辺境地帯に限定されていたと言えるだろう。老いた帝国である清が相手とはいえ、日本軍はその戦いにおいて約一万三千人の犠牲を出した。  
もっとも、戦闘は兵隊の数で決まるわけではない。幕末以来、数多くの実戦をくぐり抜けてきた将兵、そして政府首脳達は強者である。量より質の戦い、戦況と政治状況をよく見極めて日本は勝利を得た。  
その勝利の結果、戦後処理である下関条約により、日本は遼東半島・台湾・澎湖列島を得て、朝鮮半島を緩衝地帯とする第一歩を記した。  
ところがである。  
この日本の勝利を快く思わない国があった。  
ロシアである。  
虎視眈々と朝鮮半島を狙っていたロシアの目の前に、突如出現した新興近代国家、大日本帝国。ロシアにとってはなんとも悔しい。この新興国家が邪魔である。なんとか排除せねばならん。そこで、ロシアと共通の利益を持つ(といってもそれぞれ各国の思惑があったわけだが)、フランス、ドイツと共同して、日本に勧告という形で脅しをかけた。もうほとんどヤクザの抗争と同じである。しかしこれが今に続く国際社会の常道である。  
それが所謂三国干渉である。  
その内容を要約すれば、「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」  
これに対し我が国はは列国会議による処理を提案したが、英米が中立を宣言したため、やむなくこの勧告を受諾し遼東半島を清に返還した。新興近代国家である日本にそう簡単には清の領土を獲得させるわけにはいかないという列強諸国の思惑がここに見える。  
そして清が弱体化しているという認識をさらに深めた列強諸国は、これ以降、清の沿岸部を次々と租借させていくこととなる。  
明治維新後、初の近代戦に勝利をし、隣国の大国、清から領土を獲得したが列強の圧力に負けて返還するという屈辱。その屈辱を味わった我が国は、臥薪嘗胆をスローガンにして次なる戦いに向けて準備を進めていく。 
日露戦争(明治三十七年二月〜明治三十八年九月)  
常識ではあるが、日清戦争と日露戦争は一連の戦争として捉えなければならない。一言で言えば、この一連の戦争は、朝鮮半島と満州を巡るシナ並びにロシアとの間の覇権争いと解釈できよう。そしてそれは日本本土を防衛するための予防的措置の意味合いが大変濃いということになる。  
前半戦は日清戦争で、後半戦が日露戦争である。ロシアが朝鮮半島や清をあきらめない限り、いずれは日本と衝突することは必然であった。  
ロシアは清とは違う。当時、世界最強の陸軍国と呼ばれていたのは他でもない、ロシア帝国である。そのロシアを相手に戦端を開くということは、敗北すれば、日本が滅亡することを意味する。  
戦争を避けなければならない。様々な外交努力がなされた。だが、それらは全て失敗する。だが一方で、日本はロシアと戦端を開くに当たって、あらゆる努力をした。戦争を始めるにあたっての戦費の調達、同盟はどうするのか、そして、どこで終わらせるか。その結果、ロシアとの全面戦争に至るまでにこの戦争を終わらせる。すなわち局地戦で終わらせるという出口戦略が決定される。  
日本には元々長期の戦争を遂行できるだけの経済力がない。  
近代戦は砲弾、弾丸を消費する。弾は鉄と火薬である。明治維新から37年、日本の工業力と資源はまだまだロシアには及ばない。国家財政も脆弱であり、とても5年、10年も戦える能力がない。  
当時の日本政府の基本認識としては、ロシアに真正面の総力戦を挑めばまず負ける。特に、ロシア軍の本隊があるヨーロッパ方面からの援軍が続々と極東に振り向けられれば、日本の国力では到底持ち堪えられない。ではどうするか、陸戦においては朝鮮半島、満州付近の局地戦で決着をつける。海戦においてはロシア極東艦隊を撃滅する。その後バルト海にあるバルチック艦隊が極東に回航されてくるわけだが、それらロシア艦隊を撃滅し、ロシアの戦意を挫き、米国の仲介で講和条約を締結する。   
従って、戦争となれば短期決戦、局地戦で勝利を収めて、相手を講話の席に着かせるしかないのである。ただし、相手を講話の席に着かせるには相手にもそれなりの打撃を与え、相手の継戦意志を奪わなければならない。例えば、敵国内に厭戦気分を漂わせたり、対外戦争を止めざるをえない状況を作り出すということである。  
戦争とは表では物理的能力、すなわち打撃力で徹底的に破壊と殺戮を行い、同時に外交、情報戦、諜報戦で敵国の後方を攪乱させて継戦意志と能力を無力化させる行動を行わなければならない。例えばロシア国内で共産党の連中を煽動して敵国内を揺さぶるなど、今の日本人ならビクついて出来そうもないことを当時の日本人はやってのけた。勝利のためなら情報戦を駆使して戦う。それは何も近代化したからやれたことではない。  
戦国時代、百年間も戦った日本人には戦闘民族としての血が遺伝子に深く組み込まれている。戦国時代の戦いを見てみると現代の日本人には到底無理であろう多くの情報戦、心理戦をそこに見ることができる。  
普通、戦争とはそういうものだ。どこでどうやって終わらせるか計画を立ててからやるのが原理原則なのであって、行き当たりばったりで、その場の空気が開戦なので開戦せざるを得ないという漫画みたいな話では困るのである。  
もちろんこれは事前シナリオであって、戦局の推移に伴って変更の可能性は十分あっただろう。ただ、ここで問題にしたいのは、戦争を行うには、戦争目的をどう設定して、そのために必要な戦力をどう配備するか、戦費をどこから、どのくらい調達して、どのくらいの期間で戦争を終わらせ、どの時点で、講和するか。こういった戦争計画を立案して実行しなければならない。その読みが甘かったりすると、戦争に勝利することはできない。  
この点において明治の日本政府は明確に戦争計画を立案し、実行し、そして最終的に勝利を得た。陸戦においては、旅順攻略、奉天会戦と多くの犠牲を出しながらも、最終的にはロシアを北方に追いやることに成功し(両軍とも消耗が激しく、これはどうみても勝利とは言い難い。むしろこれはロシアの後退戦術であったかもしれない。  
そうとなれば、この先の大規模な陸戦は日本軍には不可能であり、海戦で決着を着けて、講和条約へという道筋しかなかった)、ロシアの継戦意志を挫いた。海戦においては、黄海海戦と日本海海戦において圧倒的な勝利を収めた。同時にロシア国内での謀略が功を奏して、共産主義勢力が台頭、血の日曜日事件が勃発。ロシアは対外戦争どころではなくなったのである。  
ここに講和の機会が生まれ、ポーツマス条約を締結。賠償金は取れなかったが、日露両国間での勢力圏を確定、我が国は朝鮮半島の支配権を確立、とりあえずのロシアの南下を抑えることには成功した。だが、シナ、満州の利権と市場を狙っている米国としては面白くなかった。講和の仲介をしたものの、米国はアジアへの進出の機会を得ることができなかった。これにより対日感情が悪化し、後の大東亜戦争の遠因となる。(なお、日露開戦にまで至る詳細な経過と戦闘状況などは数多くの書物が世に出ており、本書は日露戦争について論ずるものではないので、ここでは詳述することは省く)  
一通り歴史の勉強をしていれば、このような事実は常識であるが、戦争というものは自然現象のように突然発生するものではない。多くの人の営みが積み重なって、様々な思惑が重なり合って起こるものである。そして明治以降の日本の対外戦争は、列強諸国の外圧から日本を守るという一つの大きな目的があって、その流れに沿って遂行されたものなのである。  
大東亜戦争に関する見解は後ほど述べるが、その日本の行動は日本と敵対した国や地域からみれば、それは侵略行為なのである。従って、諸外国が日本は侵略国家であったと声高に叫ぶのは当然なのであって、そんなことに一々目くじらを立てていても時間の無駄である。問題なのは諸外国に騒がれることで一喜一憂し、狼狽する日本人の性質にある。そしてあろう事か、狼狽の挙句に講和条約後も諸外国に対して「どうもすいませんでした」と未だに土下座を続けている卑屈さはもはや誠意を通り越して気色が悪いくらいの精神的マゾであると言える。今風に言えば「キモイ」のである。  
精神的なマゾに加えて、カネまでむしり取られて満足しているというのは自ら虐められることを望む愚か者である。歴史上の慣習に従って、講和条約を締結すれば戦争は終わる。その後は平時の付き合いである。正々堂々と自国の思うところを主張するのが外交のあり方というものである。  
人類の歴史は戦争の歴史である。人はまだまだ戦争を乗り越えられるほどの叡智を身につけてはいない。 
日本の近代化  
日本が黒船来航以来の国策として遂行してきた近代化は、西洋が二百年かけて達成した産業革命、市民革命を数十年でやろうとするのだから当然無理も出てくるのである。明治維新は西洋の産業革命、軍事革命、市民革命全てを導入しようとした究極の詰め込み時代だったといえる。  
だが、その詰め込みの結果、我が国は植民地化されることはなく、独立を維持することが出来たのである。しかし、明治維新によって我が国はそれまで保持していた武士道精神を重んずる貴重な社会制度を廃止してしまい、現在までにつながる混迷する無責任国家日本の原因を作ってしまった。明治近代化の功罪は以上の点に集約されるのではあるまいか。  
明治という時代を俯瞰してみると、明治は植民地化の危機に始まって、多くの内戦とテロリズムによって新政権を誕生させて植民地化の危機を回避した。近代化という西洋技術、各種社会制度の緊急輸入とその整備、そして国家生存のための戦時体制の構築、続く近代戦争の体験とその勝利、という流れに沿っている。  
その流れが順調に回転し、戦争をすれば勝利し、領土と勢力圏が拡大している間は実に順風満帆、明治という時代は実に「生き生きとした時代」であったのだ。だが、外交とは常に相手があるものである。当然のことながら仮想敵国は常に日本を封じ込めようと様々な戦略を平時においても構築している。若い人の中には、国際関係というとバラ色のイメージをもった華やかなものを想像する者が多いだろうが、国際関係とは茨の道であって、弱肉強食、食うか食われるかの世界である。  
さて、この生き生きとした明治の御代が終わり、大正、昭和と続く流れの中で、今の我が国混迷の原因とも言える状況が出現してくるのである。 
軍事官僚と戦後日本の官僚制の共通点  
先に明治維新とは国防のために緊急整備された体制であると述べた。従って、国家の体制は軍事中心に動くこととなり、政府においても発言力が高くなるのは軍部となる。明治維新そのものが、当時の軍事の専門家というべき武士階級によって実行されたことから、武を重んじる傾向が当然に強くなる。尚武の気風が高まることに問題はないのだが、簡単に言えば、軍人となって出世するということが人生の目的となってしまい、軍人になることが社会的ステータスとなる。大正、昭和となり、軍人の持つ本来の意味、すなわち、有事の際には命を捨てて国家の為に死ぬこと、平時においては訓練に勤しんで、徒に政治に口出しをしてはならないこと、などの基本的な軍人の心得が忘れ去られていく。武人が軍事官僚へと変貌して、自らの権勢拡大のために内輪もめを繰り返し、やがては戦争に敗北するという武人にとっては最悪の結果を招くこととなる。  
昔の軍人達は優秀であった。知力だけではなく、体力ともに優れた者が陸海軍の士官学校に進み、厳しい教育を受けて、軍人となっていった。だが、そのように優秀な軍人達も軍隊という組織の一員となって、いつのまにか陸海軍という組織の利益を第一に考えるようになっていく。軍人の本来の目的はいざというときに国家を護ることであったはずなのに、いざというときに国家ではなく、それぞれの面子、組織、集団の利益を守り、現場の意見を無視して、現実から目を背け、やがては国民の生命と財産を奪い、降伏という無残な結果をもたらしたのである。  
これら旧日本軍の失敗については数多くの研究がなされており、それらの研究の中でも私が特に推薦したいのは、故小室直樹博士の一連の研究、慶応大教授菊澤研宗氏の一連の研究があるので是非とも参照されたい。そして、日本と戦った米軍の、特に米国海兵隊の研究においては野中郁次郎氏の一連の研究が組織論の観点から非常に参考になる。  
さて、戦後約七〇年を経過して今の日本は亡国の危機にあるわけだが、戦前の軍事官僚達と同じ組織の論理で動いているのが、今の官僚機構である。現役官僚の多くからの暴露本などで今の官僚機構の、特に上層部がいかに腐敗しているかがよくわかるし、国益よりも省益を優先する組織の論理、国民不在の行政、入省するときは優秀でも最後は己の利益、権勢を考える人間に変貌している官僚の上層部など、実に旧日本陸海軍とそっくりである。それでも、世間の人々は官僚こそが日本のトップエリートであると認識している。世のお坊ちゃま、お嬢ちゃま達は、その一員になるために幼稚園時代から親に尻を叩かれて猛勉強して東大に入り、日本を食いつぶす予備軍が拡大再生産されているというわけだ。軍事官僚は無謀な戦争を起こして国家を物理的に破壊したが、官僚は税金を無駄遣いして国家を財政的に破綻させ亡国に導く。どちらにしても最終的な被害者はいつも国民である。こういう視点で眺めて見るとこの先の我が国がどのような方向に動いていくかがよくわかる。  
ただし、ここで言っておきたいのは、個々人の官僚や軍人が悪いといっているのではない。おそらく個人的レベルでみればそう悪い人間ではないのだろう。それゆえに組織にはまるとそこから抜け出せなくなって組織のためならエンヤコーラというわけで本来の目的を見失ってしまうのだ。 
外圧がなければ変化できない日本  
日本は島国である。  
海はこの国を開き、そして閉ざした。ご存知の通り古来から、この海を通して、外国から文化を取り入れて我が国の歴史は形成されてきた。  
古くは遣隋使、遣唐使によりシナの制度や文化を取り入れ、国内整備にそれを利用した。戦国時代末期(豊臣政権時)には海を利用して明、朝鮮へ侵略を行った。江戸時代となり、長崎の出島だけで限られた国とのみ交易し、あとは一切の交流を絶った。これが鎖国である。日本は島国という地理条件を生かして、都合の良いときには隣国から優れた制度、文化を輸入し国内を刺激して、それがもう十分となれば国を閉ざす。そういうことを長いスパンでやってきた。  
ところが、幕末は違った。西洋は武力でもって開国を迫ってきたのである。別にこちら側で呼んだわけでもないのに、海の向こうからやってきた。こちらが考える暇もなく、西洋の侵攻速度は速かった。気付いた時にはシナや東南アジアは西洋に蹂躙されていたのである。待ったなしである。この「外圧」が日本を明治維新へと向かわせた原因である。つまり「外圧」という外国勢力からの政治的、軍事的な圧力、もっと直接的に言えば「侵略の危機」があればこそ、明治維新があり、日本の近代化(西洋化)があったといえよう。  
そして現代においてもその状況は変わらない。インターネットで世界中の情報を瞬時に手に入れることが出来ても、世界中の人間とコミュニケーションをとることができるようになっても、肌で、五感で実感できることと、知覚だけで実感できることの差は大きい。このネット社会において、外圧、侵略の危機は何によって実感され、我々の危機意識を揺さぶるのか。そしてその危機意識が乏しい日本人の感性は何によって支配されているのか。  
大東亜戦争終結後、日本は米国と日米安全保障条約を締結し、日本の防衛は米国の庇護の下で展開されることとなった。日本は米国によって守られている。この事実、この同盟は近隣諸国に対してどういう影響を与えているのか冷静に考えるべきである。つまり、日本を攻撃すれば、米国と戦端を開くリスクがある、ということだ。世界一強い国と軍事同盟、もっと分かり易く言えば、「守ってくれる(あげる)条約」を結んでいるのだから、よっぽどの覚悟がない限り、日本に軍事攻撃を仕掛けるという愚を犯す国はないだろう。  
この条約が大東亜戦争後の日本を守ってきた最大の盾であったのだ。これを前提に置くべきだ。  
空虚な日米安保無用論や、シナ重視政策などは軽薄で短慮であって何の意味も為さない。ベトナムで負けた米国、アフガンやイラクで苦戦する米国、米国の弱いところしかマスコミは報道しないが、そんなつまらない誇張された報道を鵜呑みにしてはならない。米国の最大の強みは自国に世界最大級の鉱物資源を保有しており(ウランも含む)、その気になれば、単独で戦争を継続できる国力を持っていることだ。  
あの国がモンロー主義に回帰して本気で戦争を始めれば世界中のどの国が全力で戦っても勝つことは出来ない。そのくらいに米国の持つ単独戦争遂行能力は高い。軍拡を続けるシナなど、本気になれば殲滅することさえ可能であろう。  
話を戻すと、この日米安保条約があることで、戦後六五年、日本人は国防に対して何の危機意識も持たずにいられたし、最低限の防衛力ということで自衛隊を黙々と整備していれば良かったのである。そして、防衛費につぎ込む予算、人員などを一般の経済活動に投入することで、世界の工場として着々と発展し、大東亜戦争に敗北したにもかかわらず、戦前以上の経済的繁栄を享受することが出来るようになったのである。  
ところがである。まるでドラマや小説の世界のように物語は展開するのである。  
そのように経済的繁栄を遂げた我が日本、その背後に、忍び寄る影があった。繁栄にうつつを抜かして平和ボケに浸る日本を揺さぶる事件が起こった。  
北朝鮮による拉致事件である。北朝鮮の工作船が国境を侵犯し、工作員を上陸させ、各種の工作活動(スパイ活動)を行っていたのである。  
実に恐ろしいことである。  
この事件をきっかけに心ある日本人、すなわち国士の一部は覚醒したはずである。その危機意識を実感したはずである。海の向こうからやって来るならず者達、北朝鮮、身近に迫る脅威に対して危機感を抱いたはずである。  
これが陸上で国境を接していれば危機意識はもっと違ったものだったはずだ。異質な者は地続きでやってくるから、防備、防衛に対する意識はもっと先鋭化され、常に警戒心を怠らないという心構えができよう。しかし、島国日本の国境線は海である。海はそう簡単には渡れない。その油断が日本人の危機意識を希薄化させてしまい、北朝鮮の横暴を許すことになってしまったのである。昔のように手こぎボートや帆船の時代ではない。周辺国も経済発展し、それに伴い造船技術も発展してきている。海は国境線であるという意識を持って領海侵犯には厳正に対処しなければならない。  
この章の最初に述べたように、「外圧、侵略の危機は何によって実感され、我々の危機意識を揺さぶるのか。そしてその危機意識が乏しい日本人の感性は何によって支配されているのか」という問いに対して、その何とは、それは「海」であると言える。  
日本の危機は常に海を越えてくるものであり、その海に対してどう身構えるのかという問題である。海は多くの恵みをもたらしてくれる一方で、危機を運んでくる媒体にもなる。  
しかし、その海を通して国家を護ることもできるし、国家繁栄の道を求めることもできる。海を国境線として明確に認識することで、海の外からは圧力しか来ないと悲観的に捉えるのではなく、逆に外国に討って出るための回廊として捉えることで、我が国の国家戦略を能動的に展開する契機としなければならない。 
武士階級を廃したことの功罪  
周知の事実であるが、明治維新後、武士階級は廃止された。社会制度上、侍は居なくなったのだ。廃刀令、断髪令、秩禄処分、廃藩置県、旧制度は廃止されていく。  
なぜ武士階級は廃止されたのか。一般的には近代化する日本において、四民平等の原則に反すること、士族への俸禄支給による財政圧迫、国民皆兵を実施する上での障害という理由において武士階級は無用とされたとするものである。  
だが、本当にそうだろうか。確かに武士階級の中にはただ威張り散らしただけで封建制度の象徴のような者も多かったろう。しかしそれを鵜呑みにするわけにはいかない。なぜなら、勝者である明治政府の見解を信ずることで、敗者である幕府側、旧体制側を盲目的に批判しては真実は見えてこないからである。  
諸説あって、明治新政府は武士が、しかも下級武士が刃でもって作った政権である。ゆえに刃によっていつ転覆させられるか不安定な状態にあった。そこで政権基盤安定化の為に敵になるかもしれない武士を廃し、日本刀を武器から美術品へと貶めてしまった、と。  
その可能性は高いと言える。幕末は人斬りが横行した時代である。まさに剣によって作られた時代であったと言えるだろう。  
そしてもう一つ、明治政府は尊皇攘夷を掲げた「志士」達の政権であったはずが、公武合体を推進する幕府側を武力によって武力でもって打倒し、結果的には尊皇攘夷の内の攘夷を捨てて、文明開化という言葉に代表される欧化政策をとることとなった。これは「志士」達の描いていた維新であったろうか。薩摩、長州の過激な尊皇攘夷派は、薩英戦争などに代表されるよう実際に諸外国と戦い、その実力を知り、西洋文明を取り入れることになったという史実がある。これもその通りであったろう。では、なぜ、薩摩長州など倒幕諸藩は大政奉還を行い、朝廷に政権を返上した徳川幕府を執拗に追い詰め滅亡の淵にまでおいやったのか。幕府の目指すところも、西洋の技術を取り入れて、諸外国と戦争をすることなく国力をつけるという方向であったはずだ。ここにおいて倒幕諸藩と徳川幕府が争うべき理由はない。  
歴史の真実はいつ明らかになるか分からない。だが、意外に真実は単純で下らないものであったりする。薩摩、長州は、関ヶ原の恨み、天下取りの野望を実現したかっただけだと言える。二六〇年前の恨みを晴らしたのである。これが明治維新の真実ではないだろうか。  
天下は取った、だが、描くべき新国家、近代国家のビジョンがない。人材もいない。だから、敵ではあったが優秀な人材、中級以上の旧幕臣を雇用して明治政府はスタートしたのである。日本の近代と呼ぶ時代はこうして始まったのである。  
そして、いつ復讐の牙をむくやもしれぬ武士達を恐れ、文明開化の名の下に「急激に」武士階級を廃してしまったのである。武士の起こりは平安時代の末期で、約九〇〇年の歴史的伝統を持っている。これをたった数年で廃してしまうのは、急進的改革というより、むしろ何かを恐れての行為だろう。それほど明治政府は武士を恐れていたのである。自分たちも元々は武士であったのに自分たちの伝統基盤を自ら廃してしまったのである。このいびつな「改革」が、現代にまで尾を引いているのではないだろうか。  
確かに武士階級を廃したことにより、禄の支給がなくなり、国家財政にゆとりはできるだろう。だが、それだけか。武士は軍人になり、農民に、商人になっていった。しかし戦うことを選択した軍人は、そのまま武士であってもよかったのではないだろうか。そして戦うことを選択したい農民、町民でも武士になることができてもよかったのではないだろうか。そして 武士は将校、下士官として軍に組み込まれ、帯刀をし、古来より続く武士道を守り続ける必要があったのではないだろうか。武士道を過去の遺物としてではなく現代にも通用する「道」として、社会制度としても生かし続けるべきではなかったのか。今のだらしのない日本の現状に喝を入れて、政治、外交、国防に緊張感を与えるのは武士道精神である。武士道については「葉隠」、新渡戸稲造著の「武士道」を参照されたい。  
武士は単なるサラリーマンではない。  
切腹は名誉であり、武士でなければ切腹は出来なかった。  
現代の政治家が、官僚が、致命的なミス、恥を晒した時に腹を切るだろうか。切れるだろうか。それだけの覚悟を持った人間はそうはいない。自らの死をもって何かを訴える。詫びを入れる。その行為を許された者達、そうするように教育されてきた者達、それが武士階級である。  
自らの命をもって国家に忠誠を尽くす。これが軍人の役目となり、明治、大正、昭和の軍人達はその伝統をわずかながらも受け継いでいた。終戦時、自決を図り、切腹した軍人達もいた。まだ武士道は生きていた時代だったのだ。しかし、それは戦後廃れ、直近で切腹した武士と呼べる者は私の知る限り三島由紀夫先生が最後である。  
文官である官僚や政治家にそんな勇気があるわけないから腹を切れとは言わないが、国家の命運と国民の命を預かっている立場の人間であれば、そのくらいの覚悟は持って欲しいものである。最近の例で言えば、政治資金疑惑をかけられ、その潔白を証明するために腹を切るくらいの潔さが欲しいものである。  
 
第二章 大東亜戦争の功罪

 

勝てば官軍、負ければ賊軍である  
大東亜戦争。  
第二次世界大戦における、我が国が戦った戦争をこう呼ぶ。日本は第二次世界大戦の中で、太平洋においてのみ戦ったわけではなく、シナ、東南アジアなど東アジア全域において戦争を行ったわけであるから、正式な呼称としては大東亜戦争を用いるべきである。  
さて、この大東亜戦争については、所謂民族系、愛国系の言論界においては多くが語られている分野である。この書をご覧になっている諸氏におかれても、それぞれ各種書物から多くの情報を得て、各々主張されたきことがあると思われる。  
つい一〇年ほど前までは、大東亜戦争について語ることは殆どタブー視されていた。話すだけで右翼のレッテルを貼られ、危険人物扱いされる始末である。私もその一人であり孤独な毎日を過ごしたものである。  
だが、インターネットの爆発的な普及が、知と情報の交流を生み、匿名であるからこそ語れるというネットの利点を生かして、大東亜戦争についてタブー視されることなく語られてきた。これは現在のネット空間におけるブログ、SNS、掲示板などを見ればおわかりになることだろう。  
その中で気になる点がある。それは、大東亜戦争を必要以上に美化しすぎることである。戦後の左翼的な教育が、あまりにも大東亜戦争をはじめとする、日本の近代史を自虐的に扱うことの反動からそういう言説が力強く、勇ましく聞こえ、鬱屈した精神を解放してくれるのは理解できる。だが、感情的に戦争反対を訴える左翼、共産勢力と同じく、感情的に日本の戦争を美化しすぎるのは、過去、すなわち歴史を分析して現在に生かすという態度から見れば非常に危険である。重要なことは、過去の戦争の原因を冷静に分析して、なぜ、戦争になったのか、なぜ負けたのか、次に負けないためには何をどうすればよいのか、という「反省」である。  
この書においては、大東亜戦争についての個々の事象を丹念に調査、分析し、評価を下すことはしない。ただ、大まかな私の大東亜戦争観を述べるとどめたい。その前に私の基本的な戦争観を述べてみたい。  
一、戦争は無くならない。  
二、平和とは戦争ではない状態のことである。  
三、人類は進化も進歩もしない。  
四、人類は戦いなしでは生きられない。  
以上四点が私の戦争観である。この四点は古今東西の歴史を学べば自然に理解できることである。この四点に嫌悪感を抱く方は、脳細胞が戦後の進歩主義的思想という共産主義思想に汚染されてしまっているといういい証明になる。  
有史以来、人類は戦争の歴史を繰り返してきた。世界史の教科書、日本史の教科書を紐解けば、そこは戦争の歴史のオンパレードである。特に世界史においては、紀元前の昔から人類は戦争の歴史を繰り返してきた。  
戦争は人を殺し、町を破壊し、物を奪い合い、人の精神、心を破壊し、傷つけ、悲しみを蔓延させる。しかし、一方で、戦争は勇者を生み、自己犠牲の精神を高揚させ、数多くの美談、伝説を残してきたのもまた事実である。  
そして戦争に勝利するための、戦略、戦術は合理的な思考方法、集団統率など現代の企業を運営する上で必要不可欠な企業戦略などを生み出す素地にもなったのである。企業活動は平和的でいいじゃないか、という意見もあるだろう。だが、企業活動のどこが平和なのか、意味不明である。企業は日々、利益を求めるために活動しているが、その動きは戦争そのものである。勝利条件を満たすための各種の目標を設定し、その目標を設定するために経営資源を投下し、営業活動(戦闘行動)に邁進するのである。負ければ企業は倒産か、買収される。役員(司令部)は全員クビ(解任)である。従業員もそうである。労働(戦闘)が出来ない者はクビ(解雇、依願退職)にされ、次々と新しい人員(兵士)が補充され戦争は続行されていく。企業活動とは銃砲弾を使用しない戦争と同じなのである。これが本質である。そして大多数の人は生きるために、日々の生活の糧を得るために企業活動に従事する。形を変えた戦争に従事しているのである。そしてその活動の中で目標を達成(撃破、殲滅)したり、出世(昇進)したりすると人は嬉しいのである。特別ボーナスが出たりするともっと嬉しくなって、もっと頑張って仕事(戦争、戦闘)をしようとするはずである。もっともその反対もあるが。  
人の本質において、人は競争して物欲や精神欲、性欲を満たすことを目指す。これは時代が変わっても決して変わらない本質である。これがないと人は人でなくなるといってもいいだろう。この欲を満たすサイクルを下地にして人間の社会は形成されているのである。この下地の上に、共産主義、社会主義、資本主義、民主主義など色々な政治と経済の制度が乗っかっているだけの話だ。その制度が目指すところは違っても下地にある人間の本質は変わらない。ただ、その制度によって人間の下地にある各種の欲はブレを起こして、それが時たま大量虐殺などの悲劇を招くこととなる。  
話を戻すと、人間の中にある闘争心、競争心、人よりも秀でよう、前に行こうという向上心、この心がある限り戦争は無くならないのである。これらの人間の精神は人間に文明と利便性の高い暮らしを保証したが、それと表裏一体で人間社会に戦争というシステム、問題解決方法をももたらしたのである。  
止まるところを知らない向上心、競争心、物欲、名誉欲、そういった欲の先にあるのは同じ欲を持った他者との衝突である。衝突回避のため様々な努力がなされるだろう。交渉、妥協、契約、そしてまた交渉と話は続く、だが、人が人である限り、己の絶対的な領域にまでは踏み込まれたくないはずだ。それを護るために戦争は起こる。最後は物理的方法で解決しようというわけである。そして勝った者が己の主張を貫徹する権利を得る。そして敗者はそれに従うことになる。その繰り返しが歴史は戦争と言われる所以であって、時代が変われば勝者と敗者は入れ替わることになる。クラウゼビッツが言う「戦争とは政治の延長である」というのはこの意味においてであり、この法則は不変の法則であるといえよう。そこに政治がある限り、戦争は決して無くならないのである。空虚な言葉で戦争の廃絶を訴える政治家や学者、評論家は嘘つきである。彼らが嘘つきではないと主張するのであれば、彼らは単なる空想的平和主義者である。  
次に重要な点を一点述べたい。それは人間は進歩も進化もしないということだ。こういうと数多くの異論が出てくるだろう。人類はサルから進化して人間になったのだ、と。では人間は進化すると何になるのか?神にでもなるというのだろうか、だとすればそれは傲慢であろう。  
私が言いたいのは、生物学的な進化論、適者生存を人間社会に応用することの愚かさである。人は段階的に進化していく、という主張は共産主義思想の根本にある思想である。原始共産社会から段階を経て、資本主義、社会主義、共産主義へと社会は「進化」「発展」していくという妄想である。  
インテリがこれにはまりやすいのは、一見論理的で、公式のように美しく見えるからだ。そしてこの公式に当てはめれば社会の諸問題が全て解決出来ると思い込ませられる。つまり社会の諸問題は合理的に解決できるという合理主義、設計主義である。これが基盤となって社会主義、共産主義思想は形作られている。そしてもちろん西洋近代主義もだ。既におわかりの通り、この近代主義を基盤として近代民主政治、資本主義は成立している。資本主義も共産主義も民主政治も共産党一党支配による独裁政治も、突き詰めていけばその根っこは同じ近代主義であって、近代合理主義がその根底にある。  
大規模戦争を解決しようとするために、第一次世界大戦以降、国際連盟、国際連合が創設されたが、いまだに有効で歴史的な働きはしていない。これらはあくまで国家間のクラブであって、それぞれの国家が持つ主義主張までを一つの理念で解決することなどは出来ないのである。国連などは分かり易く言えば、町内会のようなものである。町内会が町内の住民同士の諍いを強制的に止めさせることは出来ないのと同じように、国連も積極的、主体的に戦争を行うことはない(かつての朝鮮戦争における国連軍は事実上米軍である。)。そんな国連に幻想を抱いて国連中心主義を主張する小沢一郎など民主党の議員は、何も考えていないと言えよう。  
さて、以上が私の戦争観である。  
古今東西、戦争とは勝てば誰も文句は言わない、ただ負ければ国家を失い、君主を失い、歴史、文化を失うということである。人間は基本的に愚かで傲慢で欲深いゆえに戦争をするのだ。だが、戦争をやるからには勝たねばならない。何を当たり前のことを言っているのだ、と批判しないで欲しい。これは大変重要である。なぜならこの考えでもって大東亜戦争を考えたときに、開戦の判断は正しかったのかどうか、ということである。  
負ければどうなるか。戦争の終わりをどうするのか。終結点が見えないのであれば、はじめから戦争などしなければよかったのではないか。では戦争をせずに、国難をどう乗り切るのか、やむを得ず戦争をしなければならないとき、どこまでが限界か、それを見極めるのが、政治家、官僚、軍人の役目である。威勢のいいかけ声と気合いだけでは戦は勝てないのだ。既に述べたように日清、日露戦争時の指導者と大東亜戦争時の指導者、どこが違うかと言えば、この点である。  
「見極め」が出来なかったのである。ではなぜ「見極め」が出来なかったのか。それはひと言で言えば「現場感覚」の欠如であろう。これは「現場」で働いた(修羅場を潜った数とでも言おうか)ことのない人間にはわからない感覚である。空理空論よりも実践知と行動力が重要ということである。 
負けたことのみにおいて責任はある  
大東亜戦争の敗戦を巡ってよく語られることの一つに「戦争責任」という言葉がある。実に下らない概念だ。戦争というのは一国でやれるものではない。二国以上でないと成立しえず、結果は勝利か負けか引き分けの三つになる。そういう「ゲーム」であるからそこに責任問題などは持ち込みようがないではないか。互いに物理的に相手を屈服させるために戦闘を行うのだから双方に被害が出るのは当然のことで、そこに勝者が敗者に対して一方的に責任をなすりつけるのは論理的に破綻している。ましてや勝者が敗者を裁くという東京裁判のごとき茶番劇は単なるイジメでしかなく愚の骨頂である。さらに戦争犯罪人という呼称は戦勝国が敗戦国の首脳などに対して復讐心のためにそう呼ぶのであって、そこには勝者の奢りしか見えず、戦争に至るまでの相対的な事由を勝者の都合によってねじ曲げるという愚かな行為でしかない。戦争は講和条約を締結した時点で終了するのである。ましてやその講和の前に敵国首脳を不利な裁判で死刑にするというのは前代未聞の法の曲解である。  
敵国に対する戦争責任というのはあり得ない。責任を言うのであればそれは双方に等しく存在するとしないと論理的におかしい。仮に双方に戦争責任があるとすれば、何の為の戦争か訳が分からなくなり、これも意味を為さない。  
ただ、自国の首脳は自国に対して敗戦の責任を負わなければならない。つまり「敗戦」責任は国内的な問題であって、外国にとやかく言われる筋合いはないのである。  
そう考えれば、開戦時の首相である東條英機元首相には責任がある。日本を負ける戦に導いた責任がある。ましてや國體を危機に陥れた責任は重大である。武士らしく切腹して果てるべきであったろう。拳銃で自決を図るのは武士らしい責任の取り方とは言えまい。  
もっともここで東條元首相一人を糾弾しようというのではない。この戦争に関わった多くの政府要人、軍人、彼らの多くに責任がある。皆、切腹して果てるべきであったろう。  
さらにここで問題にしたいのは、所謂、「天皇の戦争責任」論である。畏れ多くも天皇陛下に対し奉り、戦争責任ありとは無礼も甚だしい。もちろんこんなことを言うのは共産主義思想に洗脳された愚か者ばかりである。  
大日本帝国憲法下において天皇は国家元首であったが、実際には大臣以下の臣下が実際の政治を執り行っていた。帝国憲法下においても天皇は飾り物に過ぎなかったのである。問題なのは、陛下の威光でもって政務を執り行った臣下であり、仮に「戦争」責任があるとすればそれは当時の政府首脳にあり、陛下には責任は一切ない。東條元首相に敗戦の責任はあるが、陛下を護り死刑となったその忠義の心は当然に評価されるべきであろう。国家の運営に失敗はしたが、その忠義の心に偽りはなく、最後は武士として責任を取ったのであろう、と信じたい。 
戦に聖戦も邪戦もない  
大東亜戦争を巡る言論の中の、所謂民族派と呼ばれる右派勢力の中には、大東亜戦争を聖戦視する向きがある。  
戦争には聖戦も邪戦もない。宗教的な行事で戦争を行うわけにはいかないのだ。それではかつての十字軍と同じである。戦争は基本的に破壊と殺戮の行動である。破壊と殺戮に聖なるもの、また邪なるものなどという宗教的な価値観を重ねてはいけない。  
戦争はあくまで政治的な行為であって、そこには用意周到な計算がなければならない。終わりへのシナリオを明確にし、計算された政治的行為としての破壊と殺戮、これが戦争である。この定義からいけば、いたずらに感情を煽るような、聖戦、邪戦という見方はあまりに幼稚であり、国家を滅ぼす原因となるものである。ただ悲しいかな、聖戦などと煽られると人は興奮してしまうという一面を持っているのも事実である。 
大東亜戦争の功罪  
功としては、結果的に欧米植民地時代を終焉させ、アジア各国の独立を促す起爆剤となり、現代における新たな市場の創設(インド、東南アジア諸国)へとつながることとなった。もちろんこの現象は欧米諸国から見れば実に悔しい結果となったことに違いない。特に欧州諸国、とりわけイギリス、オランダなどは300年に及ぶ植民地支配の権利をたった数年の戦争で失うことになったからだ。民族独立、そしてそれらの自治権という観点から見れば、日本が大東亜戦争によって東亜諸国を引っかき回した結果、戦後植民地は正式に独立国家となったのである。  
罪としては、大東亜戦争は米英支蘭ソの五カ国を主要敵として戦った戦争であったが、(朝鮮は入っていない、なぜなら朝鮮は当時日本の一部であったからだ。朝鮮は日本の降伏後独立することになっている。よって戦勝国ではない。もっとも植民地でもなかった。日本の一部になっていたのだから植民地ではないのである。余談であるが、いったいどこに植民地に大学などの高等教育機関を設置するお人好しな宗主国があるだろうか)日本の国力で世界の列強を相手に長期戦を戦うのは不可能であるという冷徹な分析が、実際の政治、軍事行動に生かされなかったということである。  
日本は特に対米戦(大東亜戦争のメインは対米戦である。英、蘭は開戦当初に駆逐、シナとの戦闘は泥沼化、ソ連は終戦間際のドサクサに紛れ、火事場泥棒的に参戦。まさにドラマだ)において死闘を展開したが、最終的には原爆を二発投下され、ポツダム宣言を受諾し連合国に降伏した。  
その結果、GHQにより占領政策が開始され、日本は屈辱の日本国憲法を制定、天皇制は維持できたものの、それは形骸化してしまった。武士道精神が具現化されるべき国軍を失い、日本は国家における精神的支柱を失ってしまったのである。國體を文化の粋とするのであれば、我が国はその文化の中の一つである神的(多神教的世界観)なるものへの畏怖と敬愛、そして武士道精神を喪失してしまったのである。その結果として物質主義とプラグマティズムを先鋭化したアメリカニズム的世界観にその精神を強姦されて、戦後の空虚なる繁栄の中にその身を投じたのである。  
負けると分かっていた戦争を行い、その結果、國體喪失の危機に瀕し、現在の低迷する日本の基盤を作ってしまったという点で、大東亜戦争突入は罪である。  
功罪を正義の天秤に掛けてみてどう思われるか、他国の独立(自国の力で独立を達し得ない気概のない民族と国々への支援)と我が國體消滅の危機。どちらが良かったのか、改めて考えてもらいたいものである。  
蛇足になるが、もし、大東亜戦争を行わなかったらどうなっていただろうか。  
歴史に「もしも」はタブーであると言われるが、そんなことはない。「もしも」を考えることで過去の過ちを本当の意味で反省して、今に、そして未来へとつなげることができるからだ。  
もし、大東亜戦争を行わなかったら。  
その前提として  
・三国同盟の締結を行わない。  
・ドイツと戦闘状態にある英国を援助する。  
・米国に対し満州への進出を認める。  
・シナ本土からの撤退。  
・国内のマスコミの完全統制(戦争を煽らせないことが重要である)。  
・国内の共産主義、社会主義勢力の一掃。  
上記六点を実現の後に、  
・日、米、英主体による連合国の形成。  
・連合国によるナチスドイツの殲滅。  
・ナチ殲滅後は連合国によるソ連侵攻、ソ連を殲滅。  
・毛沢東率いる中共を国民党軍とともに殲滅。  
戦争の目的をファシズムと共産主義の撲滅とし第二次世界大戦とする戦略である。  
この世界では戦後の植民地の独立という「華々しい戦果」はない。その代わりに、日本は大日本帝国憲法を維持し、帝国陸軍は健在、帝国海軍、連合艦隊も健在である。朝鮮半島は当然に日本領で、南太平洋の島々も日本の委任統治領である。満州やシナの支配権はなくとも、その代わりに殲滅したソ連領を領有し、シベリアの資源地帯を確保しているかもしれない。投資がかさむシナや満州は米国資本にやらせればいい。五月蠅いシナ人は米国人に任せておけばいい。原爆投下、特攻、東京大空襲をはじめとする本土の焦土化、沖縄の地上戦などの悲劇がない世界である。  
中には大東亜戦争で負けたから戦後のこの民主主義国に生まれ変わったんだからいいじゃないかと主張する大馬鹿者がいるが、数百万の犠牲を払ったのは、民主主義国になるためだったのか?と反論したい。民主主義とやらがそれほどの価値を持つものなのか?  
民主主義礼賛をする者は戦後民主主義に完全に脳髄を毒されている狂人である。  
我々の先人はこんな腐った自称民主主義国のために死んだのか?  
そんなことでは恥ずかしくてご先祖様に顔向けできない。  
二度とこんな惨めな負け戦をしてはならぬ、と、なぜ負けたのか徹底的に研究せよ、そして日本を真の姿に復活させよ、先人の意志はそこにある。  
ここでは、ここから先を述べることは所謂シミュレーション戦記小説の世界になり、本論の趣旨とは大きく外れるためここまでとする。  
ただ、ここで読者諸君に問いたい、果たしてどちらの世界が良かったと思われるだろうか。  
 
第三章 戦後復興期 昭和時代

 

昭和20年8月15日、日本は大東亜戦争に敗北し、米国を中心とした連合国に対し降伏した。  
米国はGHQによる占領政策を行い、日本を骨抜きにした。  
米国は日本から軍隊を一掃した。  
米国は日本の戦争指導者を復讐裁判である東京裁判で裁いた。  
そして日本国憲法を施行させ、日本の國體を破壊した。  
昭和27年、サンフランシスコ講和条約により、日本は占領状態から独立を回復した。  
日米同盟のもと、日本は軍事力負担を軽減され、その分の国力を経済復興へ充当した。  
その間、警察予備隊が発足、後に保安隊、そして自衛隊となる。  
ここに高度経済成長が始まるが、経済的繁栄と引き替えに我々は国柄を喪失したのだ。  
国柄では飯は食えない。そんなものよりゼニをよこせ。  
こういうことを言う輩が日本人の大部分だろう。しかし昔の日本人は違った。いや、武士はそうではない。日本という国を今まで守ってきたのは拝金主義ではない。  
国の危機に当たっては常に、憂国の士が出現し、亡国の危機から国を救ってきた。日本が初めて世界史に登場した元寇、このときは世界帝国である元に対し、北条時宗が果敢に立ち向かった。時代は下り、幕末、西洋列強の攻勢の中にあって、全国の武士達、志士達が日本を守るために命を捨てて戦った。それも日本という国を国柄を守るために戦ったのである。その血が染みこんだ国土の上に我々は生きているのである。 
三島由紀夫の予言  
三島由紀夫先生、言わずと知れた戦後日本文学の巨匠である。ノーベル文学賞候補とまで言われた三島先生は、戦後日本に対して多くの警鐘を鳴らし続け、警鐘ばかりではなく、最後は共産主義勢力に対し一矢報いるために私設軍隊ともいうべき「楯の会」を創設、腐敗した戦後政府と大衆社会に正義の鉄槌を下すため市ヶ谷駐屯地に突入し自衛隊に決起を促したが無念の失敗に終わった。三島先生はその責任をとって見事に切腹なされ、その偉業は永遠に語られることとなった。  
三島由紀夫は死んで神になったのである。  
読者諸君の中に三島先生を知らないという読者はいないと思うが、平成生まれの若者の中には知らないという大馬鹿者もいると思うので、図書館やインターネットなどで勉強しておいてもらいたい。  
さて、その三島由紀夫先生の残した言葉の中に、大変興味深いものがある。  
昭和四十五年七月七日付の文章である、「果たし得ていない約束 私の中の二十五年」というタイトルのその文章は、元々はサンケイ新聞夕刊に書かれたもので、新聞に掲載されたものからして、そんなに長い文章ではない。その文章はある種、遺書めいた内容ともとることができるのであるが、本書は文学、文芸評論ではないので冗長な説明は省きたい。「三島由紀夫の予言」ともいうべき文章を以下に引用したい。  
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」 引用終わり  
読者諸君はこの文章を眼にして、どう思われるだろうか。  
もう一度よくこの文章を読んで欲しい。  
昭和45年(1970年)の時点である。高度経済成長に陰りが見え始めた頃とは言え、この年の3月には大阪万博が開かれ、戦後の経済成長は頂点に達していた。一方で60年代から続く学生運動も陰りを見せ、共産主義者達の悪あがきとも言える、よど号ハイジャック事件もこの年の3月に発生している。  
だが、もはや戦後ではなくなり、物資が巷に溢れ、戦争の危機もなく、だらけにだらけきった日本、その末路が三島先生にははっきりと見えたのであろう。  
米ソ冷戦時代、アメリカが日本を守ってくれるのだろうと、安保条約があるから日本は安全だと、ただ漠然とその甘いぬるま湯に浸っている日本に対して危機感を抱いた先達である三島先生の予言は的中したのだ。まさに今の平成日本の状況を見事に言い当てているのである。  
この文章を私なりに解釈してみれば、「日本の国柄、伝統はなくなって、歴史も忘れ去られ、そして歴史から断絶された、ただ、経済活動をすることのみに意義を見いだした個人の集合体だけが日本列島に存在する。それを経済的大国と称するのだ」  
この原稿は平成23年に執筆しているが、三島先生の予言から40年を経て、さらに最悪なのは、もはや経済大国と胸を張ることさえ出来ないのである。リーマンショックによる世界同時不況、その煽りを食らって日本経済も不況となり、失業者はどんどん増加している。その不況に対して政府は無策である。戦後の経済大国は幻であったのだ。砂上の楼閣であったのだ。これが空っぽの我らの祖国の現実である。  
我々は絶望するべきである。我々には希望もそして明るい未来もないのだ。戦後何もやってこなかった巨大なツケをこれから支払っていかねばならない。  
その借金からは決して逃れることは出来ない。歴史を背負う我々国民には、自己破産や民事再生や会社更生という選択肢は存在しないのである。絶望せよ、そしてその絶望のどん底にある地獄の入り口を見よ。地獄に入りたくなければ、そこからは這い上がるしかない。 
平和教徒というカルト集団が日本腐敗の原因の一つである  
近頃よく聞く言葉にこんなのがある。  
「いつから日本はこんなになってしまったんだろう」  
それは大東亜戦争後である。そして時期を明確にすれば、今の日本国憲法が施行されたときからである。このときから日本は自己の生存を他者の善意に委ね、自己は経済的発展、すなわち欲望(金銭欲、物欲、食欲、性欲)だけを満たすために運営される国家となったのである。  
己の生存を他者に委ねるとは、外部との摩擦を避け、第三者の庇護の下に入ることである。これに加えて経済(欲望)だけを発展させれば、どんないびつな国家(モノ)になるか想像に難くない。  
「欲は誰にだってあるじゃないか。欲を否定したら経済は成り立たない。経済が発展し ないと豊かになれない。そのためにはみんなと仲良くしないといけない」  
「アメリカに守ってもらっているからそれでいいじゃない」  
「平和が一番です。冷静に話し合いで解決する努力をしましょう」  
こういう批判(的妄想)があることは想定内である。そしてこういう物言いをするのは、本質的に「平和教徒」である。平和のみを最上の価値として信奉し、平和を維持するためには血の犠牲が必要であるという事実を無視するカルト宗教に洗脳された「平和教徒」は、現実から眼をそらすだけの単なる空想的平和主義者にしか過ぎないのである。  
では問う。  
何の為の豊かさか。豊かさとは何か。GDPの数値が上がれば豊かになるのか。所得が増えれば豊かになるのか。豊かとは何だ?  
他国に生存を委ねるのはいいが、他国は所詮他国である。永遠の同盟はない。同盟が終わった時にどうするのか。  
最初から相手が話し合いを望んでいないときにはどうするのか。相手も自分と同じ考えだと考えるのはバカを通り越して狂人の部類に入る。  
これら甘っちょろい「平和教徒」どもはいつの時代にもいるが、そういう日和見主義者は世の中の中心を占めることはない。日和見主義はもっとも嫌われるべき部類の人間だからだ。  
戦うことを避け、議論することを避けて、波風を立てないようにする。小集団ではいいかもしれないが、こういうことを国家レベルや会社レベルでやると組織の活力は低下して、いずれ組織は滅びることになる。ここで組織論を云々するつもりはないのでここまでにするが、戦後の日本における平和教徒の大増殖は日本国憲法の施行がその原因の一つである。  
あの九条の条文を素直に読めば、日本は戦争をしないし、武力も持たないという解釈以外にはない。完全なる武装放棄である。それを実態と合わないからといって、国家には個別の自衛権があるから、自衛隊を保有することは否定してはいないと「解釈」して、日本には「軍隊」はないが「自衛隊」はあってもいい、とか「言葉遊び」に終始しているのがこの戦後日本の状態である。憲法解釈という名のこじつけから脱却しない限り、我々に明日はない。  
もう一度言う。何度でも言う。「おかしいと思いませんか?」  
日本人は本当に下らない言葉遊びが好きで、「解釈」という言葉遊びに終始して国家を破滅の危機に陥れているのである。  
そしてこの言葉遊びが好きな平和教徒どもは、物事の本質を考察せずに、現実から眼をそらして、その場限りの偽善に陥り、ただ欲望のままに生きているのである。  
国家を救うのは言葉遊びではなく、救国の志に基づく行動のみである。 
米国の庇護の下での経済大国 その虚像性  
戦後の日本は米国の占領から始まった。  
米国の目的は、日本を骨抜きにすることである。骨抜きにするということは、米国から見れば、米国に逆らわない国にするということである。もっと言えば、米国の属国として日本を生かすという意味でもある。  
そのためには、日本という歴史、文化を持った国から誇りを奪うこと、誇りを守るための武力である軍隊を奪うこと、日本の歴史、文化を今に伝え、その中心たる存在である天皇家の権威を貶めること。これによって日本を米国化することができるのである。表面上は日本は独立国家であるが、その内実は米国によって支配されているのである。  
アジアの大国の一角を占めていた日本が武力を奪われ、東アジアは米国の影響力下に置かれた。しかしそれは米国にとって新たな戦いの始まりでもあったのだ。  
台頭する共産主義国家との戦いがそれであった。ソ連の南下、中共の誕生、そして朝鮮戦争、その後のベトナム戦争など、大東亜戦争後の米国は日本の代わりにアジアの共産主義国家と戦端を開いた。かつて日本が戦った場所で米国も戦う羽目になったのである。  
日本という軍事大国が崩壊した軍事力の空白地帯を米国が埋めることになった。一方で日本は朝鮮戦争時に米国の指令により警察予備隊を発足させ、これが後に保安隊、自衛隊となるわけだが、占領憲法九条がある限り、「国家に自衛権があるので自衛隊は違憲ではない」という政府見解はどうみてもこじつけにしかならない。なぜこじつけが起こるのか、それは現実と占領憲法がマッチしないからであって、占領憲法は日本が主権を喪失している時期の憲法であるから、他国に軍事や外交を任せてもなんら不都合はない。しかし、形だけでも独立を果たし、自国の事は自国でやるようになれば、どうしてもそこに矛盾が生じるのは当然ではないか。それを分かっていながらそのままにしてきた今までの政府、有権者には大いに罪があると言わざるを得ない。例えていうなら、借金で火の車になっていて、このままでは破産、夜逃げは確実であるのに、無駄遣いをしてさらに借金を重ねるだらしない多重債務者と同じである。  
米国の占領が終わり、外交、防衛を自国でやらねばならないのに、それを疎かにしてきた、それが今の日本の状態を形作っている原因である。  
米国との安全保障条約によって、日本は米国の核の傘の下に入った。国内に米軍が駐留し、日本は最小の軍事力を持つだけで、ソ連と中共からの軍事的脅威から身を守ることができたのである。  
そして戦前の日本のように軍事費の増大に悩まされることなく、米国と世界という巨大市場に優秀な工業製品を輸出することによって現在の経済的繁栄を築いてきたのである。  
米国の庇護の下で温々と経済的繁栄を謳歌するとは以下のことを言う。  
己の国の防衛は他国に任せて、血を流すことを忌避して、ひたすら富を貪り尽くす。  
軍事を語ることはタブーとされ、国防力強化を唱える者は「右翼」扱いされ隅に追いやられる。  
湾岸戦争以降からPKO,PKFについて論議され、世界のどこかで紛争が起これば、「国際貢献」の名の下に自衛隊が派遣される。戦闘が終結した後に現地のインフラ工事などを行う目的で自衛隊は派遣されるが、戦闘が終結したとはいえそこはまだ戦場である。特にイラク戦争後はテロリストの攻撃などが危惧される状況であった。そういう危険地帯に派遣される軍隊は、軍事の常識として自らの身を守るための装備を自ら選択して武器を携行する。当然のことである。だが、今の日本で問題になるのは、自衛官の命を守るための装備のことが論議の中心になることはない。「こんな装備をすれば侵略になるかもしれない」とか、「憲法に違反する」など、またしても、「解釈論」や「ことば遊び」をしてまるで小学校の遠足の前の学級会と同じである。  
例えばそれは、先生が「おやつは300円までです」「おやつの範囲は、ポテトチップス、ガム、ラムネ、云々」とかいうそうレベルの話を国会議事堂で、国会議員が大まじめにやっているのである。それが「法治国家」である現代日本の子供劇場の実態である。  
そんな議論は「大人」の国である他国からみればどうでもいい議論なのである。紛争地帯に軍隊を派遣する。必要最低限の装備はこれとこれとこれ。そんなことは現場が判断することであって、銃の一つも撃ったことのない、殴り合いの喧嘩もしたこともない、おぼっちゃま、おじょうちゃま国会議員に、軍の装備についてまでいちゃもんをつける権利はないのである。  
そしてそれらの幼稚な自己満足的な議論に終始している日本は、世界最強の軍事国家である米国と安全保障条約を締結し、日本防衛の肝心なところを守ってもらっているのである。なんともいびつな状態であると言わざるを得ない。実に幼稚な国家ではないか。  
GDPはシナに抜かれ、世界第三位となった日本であるが、世界の経済大国と胸を張っていた戦後日本の正体は、国家の根幹である国防を他国任せにして安全を貪るという醜く、汚れた化け物であったということである。  
こういう戦後体制を肯定し、戦後の偽善的平和主義を美しいものとし、憲法九条を世界遺産になどどほざく一部の狂った勢力の宣伝に惑わされてはならない。  
人類は戦争を放棄できるほど善人ではない。人類から殺人や窃盗の罪が消えないのと同じように、人類は戦争を放棄出来ないのである。これは現実として認めるべきなのである。  
人は一人では生きてはいけない。ゆえに人は群れる。そこには政治が生まれ、それは否応なく権力を生み出す。権力あるところには争いが生まれ、争いは戦争という暴力と破壊を生み出す。暴力と破壊に恐れおののき、人は戦争を止めるが、戦争を収めるところには政治が必要になる。そしてそこには権力が居座り続け、再び争いが芽生え、戦争が始まる。  
人類の歴史はそういうもので、我々はそれを回避すべく色々な手段を生み出してきたが、戦争の永久放棄という段階には至っていないし、これからもそれはあり得ないだろう。お笑いのネタとしか思えないが、憲法九条を世界遺産になどとほざく連中でも自宅に鍵をかけると思うし、自家用車にも鍵をかけるだろう。なぜなら泥棒が入るからだろう。つまり外の人間を信用していないのである。しかしそういう連中が、国家としては戦争を放棄しましょうなどと言うのではちゃんちゃら可笑しいではないか。ましてやどこかの誰かのように憲法九条の世界遺産化を主張しておきながらネット上で「殺人予告」をされるとそれに恐れおののき、警察に助けを求めるというヘタレ具合である。警察が持つ逮捕権、捜査権というある種の「力」に頼らず、己らの主張する平和主義をその自称刺客に訴えて改心させればよいではないか。  
端的に言えば、憲法九条という呪文を唱えるだけで真の世界平和が達成されることはあり得ない。世界の現実をみればそれは明白である。ただし、一国だけの平和を達成することは可能である。もちろんそこには超軍事大国に守ってもらえば達成可能であるという条件がつくが。そしてそういう状態は一般的には、半人前国家、植民地、属国、属領などという蔑称で呼ばれることになるわけだ。こども店長などという言葉が一時期流行ったが、国家まで「こども国家」では日本の未来には絶望の二文字しかない。  
これが戦後の平和国家日本の偽らざる実態である。  
 
第四章 失われた二十年 

 

魂なき繁栄  
昭和末期から平成改元へとかけて日本経済は未曾有の大繁栄を遂げたが、後年その景気拡大はバブル経済と呼ばれる。戦後の経済繁栄が凝縮されたバブル経済は泡が弾けるが如く見るも無惨に崩壊した。近年バブル経済の発生と崩壊の原因について様々分析がなされているが、端的に言えば、発生の原因は過剰なカネ余りと土地と株式への投機であり、崩壊の原因は拡大しすぎた経済を急減速させようとして、土地取引への総量規制を行ったことである。  
基本的に経済というものはバブル経済のような正の循環がなければその規模は拡大しないものである。しかし、その基本にあるものが「投資」か「投機」かで経済の本質が見えてくる。  
明治維新以来、我々の祖先は「近代化」という投資事業を行い、西洋流の近代化を達成するために様々な事業を展開してきた。それは富国強兵という言葉に集約されるであろう。日清、日露、大東亜戦争、そして戦後の高度経済成長、これらのドラマティックな歴史的事象は全て「近代化投資事業」の一連の流れの中にある。鉄道、道路網などのインフラ整備、教育の普及、軍隊の創設、産業育成、法律整備、金融市場の近代化等々、我々の祖先と我々は120年をかけて、それらの事業を行ってきたのである。  
だが、その投資事業の目的は何だったのか。近代化そのものが目的だったのか?否、近代化を行うことによって西洋列強から日本を、日本の國體を護持することが目的ではなかったのか?平成に入り、いや、大東亜戦争の前から当初の目的は忘れ去られ、日本は滅びの道へと突入していくのである。そして今に至っては、國體護持の理念そのものが消滅の危機に瀕し、ただ経済的繁栄のみを追求する「経済人」だけが大手を振って歩いているのである。今や日本は、「魂なき繁栄」だけを求める愚かな「家畜」が跳梁跋扈する農場と化してしまったのである。  
それら「家畜」達は投資することを知らない。「資産運用」などというもっともらしい銀行屋や株屋、不動産屋の垂れ流す戯れ言に騙されて、「投機」に走る。食えるだけでも十分であるのにさらにゼニを増やそうと醜態を晒し続けるのである。本来手段であるべきゼニそのものが目的となって、本来であれば国家の未来へと「投資」すべき経済活動を忘れ、今と自分のことだけを考える「投機」へと走る国民が増加することで国家そのものの品位が失われてしまったのである。もっともこれは国家の品位が失われたことによって、国民の品位が失われたと言い換えてもいいだろう。確かに株式会社は利益を追求する組織ではあるが、品位なき利益に何の意味があるのか。歴史的、社会的裏付けがある経済活動による利益の積み重ねが国家の品位を形成していくのであって、そうでない利益が積み重なることによって魂なき繁栄が形成されていくのである。その象徴がバブル経済であり、つい最近のヒルズ族であり、ミニバブルなのである。  
そのような魂なき繁栄の裏には常に「投機」という名の悪魔が潜んでいるのだ。「証券化」という聞こえのいい言葉の裏には、サブプライムローンという爆弾が潜み、みんな「やばい」と知りつつもその時の「空気」に呑まれて「投機」へと走ったのである。ババ抜きというトランプゲームがあるが、本質はあれと同じである。ビジネスパーソンなどと格好をつけているが、要は巨大なゼニを使って世界規模のババ抜きをやっていたようなものである。そんなものに品位などない。  
元号は平成となったがそれに込められた意味とは反対に、日本は乱世ともいうべき時代に突入し、現在に至る。それを「失われた20年」などと呼ぶ向きもあるが、そんな哀愁を込めて言うべきものでもないだろう。我々は現在もその危機の渦中にあるのだ。もっとも失われた20年どころではない。失われた65年である。  
大東亜戦争で日本人は軍人230万人、民間人80万人、合計310万人が死んだ。310万人というと、今の横浜市の人口が約360万人であるから、巨大都市が丸ごと一つ消えたと想像できよう。そして今は年間3万人の自殺者が出ている。10年で30万人、地方の県庁所在地の人間が消えている状況である。これは戦争でもやっているのか。  
310万人の犠牲者の上に築かれた65年の経済活動の結果は、年間3万人の自殺者を出し、魂なき繁栄をこの島国に築いたという結果だけを残したに過ぎないのである。  
近代日本、そしてそれに続く現代日本の経済活動の目的は何か?経済活動の果てに我々は何を求めるべきなのか。  
この問いに対して今の政治・経済会の指導者達は即答できるのであろうか?  
もしその回答が「豊かな国民生活」とか「国民経済の健全な発展」とか「持続可能な経済的発展」などとかいう言語明瞭意味不明瞭な回答であるなら、即時自決を推奨する。  
日本国家の経済活動の目的は、外敵に侵略されない国家を作り上げるための国力の増強にあるのであって、國體を護持し、我が国の永続を図るところにその本質がある。 
食欲と物欲と性欲だけの肉塊の群れ  
戦後の、特に平成以降の典型的日本人を簡単に表現すれば右記のような表現が最も相応しいだろう。  
テレビをつければ、食欲を刺激するグルメ番組、スイーツなどという横文字を使ってのおやつの紹介番組のオンパレードである。そして電気製品、掃除関連製品、ダイエット食品、健康食品、運動器具の通信販売番組が次から次へと値下げと値下げと連呼してあらゆる商品を売りまくっている。  
健康を悪化させそうなカロリーの高いグルメを番組を放送したと思えば、痩せるための運動器具や健康食品の番組がそれに続く、我々の社会はもはや喜劇、コメディーと化しているとしか言いようがない。  
テレビドラマ、映画、漫画、小説、音楽は恋愛とセックスをネタにしないものはない。それらは性欲を刺激し、それらのスポンサーは物欲を刺激するコマーシャルを流し続ける。恋愛とセックスと消費こそが美徳であるとマスコミは放送し続ける。そして商業主義に乗せられて「行列」を作り、消費する阿呆な「大衆」こそが「国民」であると錯覚させ、錯覚させられることによって「経済大国」という共同幻想を共有し、良い気分になっている。それがここ20年の日本社会の本質であろう。  
しかし、北朝鮮やシナの侵略があればそんな享楽の世界は一瞬にして消え去り、阿鼻叫喚の地獄が訪れるというのに大衆は真実から眼をそらしたいのか、刹那の一瞬の快楽に身を委ねている。もはや己の頭で事象を考えることが出来ないただの獣と化しているのであろう。そんな獣どもに選挙権など必要ない。  
そのような時にも北朝鮮は核ミサイルの開発にいそしみ、中共は尖閣諸島へその侵略の触手を伸ばしているのである。マスコミは性欲、食欲、物欲を刺激するのではなく、国家の危機を訴えるべきである。それが社会に情報を流すという強力な力を保持している報道機関の責務であるのに、どういうわけか日本の一部マスコミは日本を貶めるような報道をし続けている。どうにも不可解である。もはや今の日本には欲に踊らされるただの肉塊しか存在しないのか。  
もっとも私はここで、全ての欲を捨てて聖人君子になれと言っているのではない。私自身にも欲はある。ただ、それが刹那のものであって、一瞬にして無くなるようなものであれば何も慌ててその欲を満たそうとしなくてもよいのではないか。私自身明日にも死ぬかも知れないという仮定だけは常に念頭に置いている。人は必ず死ぬ。それは明日かもしれないし、今かも知れない。そう心に思うだけで世界の見え方は随分と違ってくる。そしてその中で自分は何を為すべきなのか、そこから先は個々人の問題となってくる。  
それが欲を満たすことであるとそう結論づけた者は物欲、性欲、食欲のままに生きればいい、ただし徹底的にだ。それも筋の通った生き方である。 
我々は何の為に生きるのか、否、何の為に死ぬのか  
人はただ快楽、欲望を貪る為に生きているのではない。それでは子孫を残すという生殖行為だけを行う獣や植物、細菌類らとなんら変わりはない。人間だけが死に意味を見いだすことが出来、自ら「犠牲」となって死ぬことができるのである。問題は何の為に死ぬかなのである。  
生ける屍という言葉がある。今の日本にはそんな生ける屍のような人間が多い。欲のままに好き勝手に生きているかと思えば、その裏では人との繋がりを求める寂しい人間達が多い。氾濫する情報、物欲、性欲、食欲を刺激する社会構造がそこにある。  
この世に生まれ落ちた瞬間から消費マシーンとして経済社会の中に組み込まれ、会社からは消費する一個の経済主体としてしかその存在価値を見いだされない現代社会の我々は一体何なのであろうか。  
我々は消費して死ぬだけの存在ではないはずだ。我々は悠久の歴史の中で生命を得て、今、この日本という国に存在している。我々の先祖は、この美しい国土と深淵なる文化を育み、そして命を今の我々につないでくれたのである。先祖から現在の我々、そして我々は未来の子孫へと命のリレーをつなぐのである。そしてそのリレーを走り終えた時に人は死ぬ。そこには様々なリレーがあるはずだ。様々な人生があるはずだ。だがその人生は一つの共通の基盤の上に展開されうる、その基盤が日本という国で、社会で、文化的基盤なのである。それを国柄、國體とも言う。それを守っていくこと、文化や社会にある昔からの営みが、蓄積された知恵(叡智)を守り、伝えていくこと、それが保守主義である。保守の基盤にのみ安定した社会は形成されうる。  
だが今、その保守主義が破壊され、現代のような訳の分からない世の中になってきたのである。「昔の日本はこんなじゃなかった」というノスタルジックな声をたまに聞くが、それは日本にあった保守思想が破壊されてしまったからなのである。では何によって破壊されたのか、その破壊者は戦後日本に広く繁殖する「進歩的知識人、文化人」という分野に分類される連中である。  
明治時代に流入した共産主義思想は戦前から国内に蔓延し、戦後も共産主義、社会主義思想はしぶとく生き残った。戦後は政治思想の無秩序な自由化により、共産主義者達は旧共産圏と徒党を組んで、日本壊滅の陰謀を画策してきた。そして曲解された「自由思想」、本質を語らない「民主主義思想」を隠れ蓑にして共産主義者達は戦後の日本社会のあらゆる分野において急激に繁殖、増殖した。これが現在の腐った日本の原因であると断定してよい。  
連中は特に共産党、旧社会党、民主党の流れをくむ政治家、官僚、役人、評論家、出版社、マスコミ、学者、弁護士、教師、労働組合、市民団体、環境保護団体、ジャーナリスト、作家、俳優、芸能人、スポーツ選手など国内のあらゆる場所にゴキブリの如く病原菌を媒介して広範囲に繁殖、生息しているのである。  
我々、国士の任務はそれらのゴキブリ退治である。ゴキブリは一度叩いたくらいでは簡単には死なない。共産主義イデオロギーに汚染されたゴキブリは中々しぶといことで有名である。  
敵がしぶとければ我々もしぶとくなければならない。薄汚いゴキブリ共を完全消滅させるまで我々は戦い抜かねばならないのである。私の主張する維新における戦いの一つはこのゴキブリ共との思想戦争である。この思想戦争は死を覚悟した戦いでもある。  
国士諸君、美しい日本を守り抜くために命を賭してこの思想戦争を戦い抜こうではないか。我々の屍の上に美しき日本の繁栄があるなら我々国士は喜んでこの生命を捧げようではないか。  
その時、「失われた20年」などというノスタルジックな言葉は、維新胎動の20年という言葉に変わるのである。  
 
第二部 国防・外交篇

 

この第二部からは私が考える新生日本のあるべき姿を述べる。本来であればまず國體からはじまり、憲法、国防と続くべきであるが、現下の国家の危機的状況においてはまず国防と外交を最優先事項とし国の外を固めるべきである。外敵の侵入を防いでこそ、政府は内政に専念出来、国民も安心して日々の生活に勤しむことができる。よって本書の第二部においては国防と外交を主題とする。憲法と内政問題については第三部、次巻にて述べたいと思う。 
第五章 国防 
国防   
この書を読んでいる諸氏には説明するまでもないことであるが、国防とは何かと問われて即答出来ない方もいるかもしれないので、国防とは何か、ここで少々述べてみたい。  
国防とは読んで字の如しで、国を侵略してくる外敵から守ることである。  
ここでいう国とはそれぞれが所属する国家である。我々について言えば、それは日本国という国家である。では侵略とは何か。侵略されなければ国防はできないのかという疑問点が浮かぶ。つまり、具体的な侵略の事実である、領土、領空、領海への武力侵攻がなければ侵略の事実として認定できないのかという問題が出てくる。  
ここで基本的な認識を確認してみたいが、我が国の領土、領空、領海はどこまでなのか。  
領土は、その国家の主権の及ぶ範囲。日本で言えば、北海道、本州、四国、九州、沖縄、そして付属する島嶼群である。ここで大事なのは、領土はその国家がここまであると範囲を定め、なおかつ諸外国がその範囲を承認することである。  
領空は領海線から上空に線を延ばした大気圏内。  
領海は、沿岸国の基線から12海里。1海里は約1.852kmなので、約22.2kmが領海である。  
さらに、排他的経済水域(EEZ)と呼ばれる、資源掘削などを自由に行える水域が沿岸から200海里(約370km)の範囲で認められている。当然、この経済的利益をもたらしてくれるEEZも防衛する範囲内に含まれる。  
以上に述べた総称して言う領土を軍事力によって他国の侵略から防衛することが国防の第一義である。  
すなわち、我が国の基本的な国防方針は侵略してくる敵を我の勢力圏外へ排除、殲滅することであり、状況により策源地を破壊、殲滅し、敵の侵略の意志を挫くことである。そのためには一時的な占領も行う必要がある。 
日本国憲法九条と戦後欺瞞体制  
現在の日本の国防を語る上で避けて通れないのが現行憲法九条の問題である。戦争放棄を規定する戦後憲法の象徴ともいうべき条文を以下に掲げよう。  
第九条  
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。  
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。  
さあ、この条文を素直に読めば、どうひねくれて読もうが、日本は軍事力を保持することは出来ないとしか解釈のしようがない。この条文が公布されたのは、昭和21年11月3日、我が国は大東亜戦争に敗北し、米国を中心とする連合国の軍事占領下にあった。  
米国としては日本との戦争に勝利したとはいえ、日本から手痛い打撃をくらったという経験から、少なくとも軍事占領中は日本に軍隊を持たせてはいけないと考えたのであろう。米国の判断としては至極当然であるといえる。そのことに関してどうこういうつもりはない。昔から、勝てば官軍、負ければ賊軍という言葉がある通りである。  
その後、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発する。中共とソ連の援助を受けた北朝鮮が突如南朝鮮へ侵攻、国連軍(米軍)は朝鮮半島において大規模な戦争に突入せざるをえなくなった。この時、米軍の兵坦を支えたのが日本である。負傷者の治療、軍需物資の製造、輸送において日本は朝鮮戦争に参加したのである。ここではっきりさせたいのは、弾丸飛び交う戦場に行くことだけが戦争ではないということである。後方支援も立派な戦争参加であり、むしろ、後方支援なくして戦争は成り立たないのである。現代戦に限らず、古今東西、戦の趨勢を決するのは兵坦、補給、輸送である。  
さて、朝鮮戦争勃発に伴い、共産勢力が日本国内において武装放棄する恐れが高まったため、日本を占領していた連合軍(米軍)のマッカーサー元帥は日本政府に対し、警察予備隊の創設を要望、予備隊は不測の事態に備える国内治安組織として創設された。しかし、隊内の幹部などは旧軍の士官が採用され、事実上の軍隊として復活したといえよう。ただ、憲法上の制約などから自衛隊は軍隊ではないという摩訶不思議な解釈がこの時点からはじまるのである。  
この「解釈」をチマチマと日頃から行っているのが、内閣法制局である。この詭弁を弄する政府機関が戦後の欺瞞を形作ってきた元凶の一つであるが、彼らの苦労も分からぬではない。白を黒といい、黒を白と言うのはまともな人間の精神からみればそう簡単には出来るものでないからだ。  
内閣法制局のエリート官僚達の日々の素晴らしい努力と研鑽が、戦後日本に事実上の武装を行わせて、敵性国家の侵略からこの国土を守らせたという「解釈」もまた成り立つであろう。  
さてここで問題にしたいのは、「解釈」という名の下に行われる「偽装」についてである。嘘も方便という言葉があるが、戦後の日本の国防体制はこの国家的偽装によって塗り固められているのである。  
現行憲法九条における条文を素直に読めば、日本は戦争をしないし、軍隊も持たないと書いてあるのは明白である。だが、「解釈」によればこの条文は国家の自衛権までも否定はしないなどと嘯くのである。  
今風にいえば「実にイタイ」のである。この「イタイ」憲法解釈ごっこを戦後にわたって続けてきたのが日本政府であり、それを支持して、欺瞞と偽装に塗り固められた憲法学のテキストを発行し続ける大学教授達。欺瞞を商品として販売するという嘘の商売をやっているのが戦後憲法体制の一つの現れであるといえる。  
私はそのようなインチキな条文と解釈に縛られた国防論議などをするつもりは毛頭ない。結論から言えば、自衛隊が創設された時点で、憲法九条は事実上死文と化したのである。ゆえに、憲法上の問題云々などという所から始まる現在の国防論議は無意味、無駄の極みである。「そんな乱暴な!」などという声が聞こえてくるが、何が乱暴か、前述したようなインチキな解釈を半世紀にわたって堂々と行ってきたほうが十分「乱暴」ではないか。さあ、憲法学者、内閣法制局よ、貴殿らはどう考える?さあ答えよ。  
以上の私の国防に関する基本認識を踏まえた上で、以後我が国の基本的な国防方針を提案したい。 
基本方針 平時最低六十万の国防軍総兵力を整備  
戦とは数がモノをいう場合とそうでない場合もある。しかしながら、どうしても必要最低限の兵力というものがある。現在の自衛隊の兵力は以下の通りである。  
陸自 15万5千人  
海自 4万2千人  
空自 4万6千人  
これらは後方支援部隊も含めた数字であるので、実際の戦闘となり、第一線の部隊に被害が出れば、それ以上の戦闘は不可能になってしまう。我が国の仮想敵国はシナ、ロシア、韓国、北朝鮮として、それらの勢力が我が国の領空、領海を侵す場合と、本土、島嶼に上陸した場合、余裕をもって殲滅できるだけの兵力を保有しておく必要がある。  
それら勢力との戦闘がどのくらいの期間にわたって行われるかが問題となるが、日本本土に侵攻してくる敵兵力を最大100万と想定すれば、我が国の総兵力がその四分の一程度では実に心許ない数字である。現在の自衛隊は専守防衛に徹している組織であり、基本的に米軍の援軍を頼りにした編成であるので、この25万程度の兵力で良しとしているのであろうが、戦後70年を経過しようとしている今、我が国を取り巻く安全保障の状況は刻々と変化しており、特にシナの軍事力は数もさることながら、ここ数年は質の重視が見られ、今後50年はシナが最大の仮想的となることは明白である。  
シナがその気になれば、たちまち200万、300万の兵力を動員してくることは歴史とシナの人口数からみれば明白である。この脅威に対抗するためにも我が国は海空軍をもって第一の防御壁となし、最後の防壁を陸軍とする基本方針を堅持しなければならない。  
では、どのくらいの兵力が必要なのか。少なくとも平時においては、現在の二倍は必要である。  
単純に計算しても  
陸軍 30万  
海軍 10万  
空軍 10万  
海軍陸戦隊10万(新規創設)  
これが最低限の数字である。兵力を二倍とすれば、もちろん人件費を含む総額の予算も現在の二倍になることは明白である。では二倍の根拠とは何か、と問われれば、それは特に陸上兵力(陸軍30万と海軍陸戦隊10万)40万で国土面積一平方キロメートルあたり一人の兵士を配置できることと、現行の陸自兵力15万の二倍の兵力を達成できることを主眼に置き、なおかつ、米軍の援助が即得られないという最悪の事態を想定し、単独で我が国の勢力圏内を防衛するには最低でも現有兵力の二倍は想定するべきであろうということである。  
仮想敵は海空からミサイル、航空機、艦船で侵攻してくるわけだが、これを本土に直接上陸する前に撃滅するのが、海空軍の任務である。これには当然、敵基地を破壊する能力、すなわち、策源地攻撃能力が必須となることは言うまでもない。日本領土内、もしくは航空母艦から仮想敵国の基地を攻撃する能力を保有しなければ、我々の安全を確保することは出来ないのである。そして、海空で敵を撃滅できない場合、上陸した敵を本土内で殲滅するのが陸軍の任務となるわけだが、仮想敵は必ずしも正規軍にて大規模に上陸してくるわけではない。むしろ、そのような状況になった場合にはある意味絶望的な状況とも言える。仮想敵は小規模な特殊部隊で国内の中枢部を制圧し、国民を人質に取って日本の占領を少ない損害で達成しようとする可能性もある。もちろん、そのような特殊部隊を我が陸軍をもって包囲殲滅し、国民全員が一致団結して敵兵を殲滅するという覚悟が必要になってくるのである。警戒すべきは敵のゲリラ、特殊部隊による都市部への侵入による攪乱工作である。こういった新たな戦闘形態に対応するために、30万の陸軍は日本本土防衛の最後の砦として全国各地に配置しておく必要がある。まさに総力戦体制が必要となるのである。  
では、海軍陸戦隊10万人は不要ではないかと思われるが、そうではない。陸軍はあくまで本土防衛が主目的ではあるが、機動力のある海軍陸戦隊部隊、この兵力をいつでも世界中に展開できるという体制を整備しておくのが逆に大きな抑止力となるのである。 
平時志願制と有事徴兵制  
軍隊の兵力の増強については、大きく分けて志願制と徴兵制がある。  
現在の自衛隊は志願制である。  
志願制のメリットは入隊の意志が明確であり、入隊後の訓練も行い易く、士気の維持も図れることである。しかし、有事において大兵力を必要とする場合にはどうしても兵力が不足しがちで、国力を総動員する最終的な防衛作戦には不向きである。  
徴兵制は、ある一定の年齢に達した者は一定期間軍隊に入隊し、兵役に就くというものである。メリットとしては、常に兵力数を一定に保つことが出来ることである。ただし、少子化などが進む現在では今後は難しくなってくるだろう。また、兵役は義務なので、士気の低い者も入隊してくることが予想される。兵力の質という点から見ればその低下も計算に入れておかねばならない。  
そこで、私が考える新たな日本の国防軍については、平時志願制と、有事徴兵制(戦時臨時特別徴兵令)を併用することである。  
この制度は実に簡単である。戦時ではない時には志願制にて兵力を維持し、軍費の出費を最低限度に抑えることができる。だが、いざ戦時には徴兵を行い、不足する兵力を補充する。この制度の利点は平時においては下士官以上の兵士を十分に育成しておき、戦時にはその下士官の下に徴兵された新兵を大量に配置し、短時間の間に一定数の戦闘部隊を編成することができるという点である。  
徴兵の条件については様々な意見があると思うが、今の若者は成長が早く、体格もいいので一八歳から三〇歳までの男女で、徴兵検査に合格したもの(例えば、甲種、乙種は合格、丙種は不合格)とすればよい。男子は最前線配置が最低条件となるが適正についても配慮がなされる。女子については後方支援業務などに配置されることになる。なお女子については希望があれば最前線に配置されることになるし、男子と同じように前線で大砲や重機関銃をぶっ放してもらっても構わない。いざとなれば女性のほうがこういう時は強いかもしれぬ。  
徴兵期間はどの軍においても二年とする。その二年間の軍歴は誇るべき経歴として履歴書に記載することができるだろう。軍歴があれば大学に中途編入も可能であるし、軍では様々な教育を受けることが出来るので、入学後の単位互換制度なども検討されるべきだろう。もちろん学費分を貯金することもできるだろうし、老後は恩給も貰え、あらゆる面で軍歴のある者は優遇されるべきである。  
さて、この徴兵はむやみやたらに兵隊に引っ張っていくというものではない。それによって兵隊に向いていない者まで前線に送るわけにはいかない。だらしない兵士はかえって邪魔になるというものである。よって、徴兵を忌避できる制度も整備しておくべきだ。世間の中には手塩にかけて育てた息子、娘を戦場で失うのは耐えられないという親もいるだろう。そして何よりも本人が戦争反対といった信念を持っている場合である。  
そういう面倒くさい人間まで軍人にするわけにはいかない。そういう人間は徴兵を忌避すればよい。それは可能である。だがそれにはペナルティが科される。例えば選挙権が25歳からになるとか、税率が二割から五割増しになるとか、社会奉仕二年間が義務となるとか、命をかけず国家の庇護を受ける者はそれ相応のペナルティを払わねばならないだろう。そして何よりも「徴兵忌避」の烙印を一生背負って生きていけるだけの強い信念が必要になってくるであろう。  
一方、有事徴兵は若者だけではない。有事特別募兵として30歳を超える者でも志さえあれば軍務に就くことも可能である。もちろんそれ相応の訓練が必要となるが、衣食住も保証され、老後の生活が保証される優遇制度を整備するべきだろう。  
国難にあって、神聖なる国防の任務に就きたいという国民を優遇する制度が必要である。 
日本領土の完全防衛とシーレーンの確保  
先述した通り、我が国の国防方針は我が国の領土、領空、領海と勢力圏内を防衛することが第一義である。そしてそれに加えて我が国の輸出入の経路を確保することである。これは資源の輸入路と製品の輸出路を確保するという単純な話である。そのメインルートは海であり、これが所謂シーレーンと言われるものである。これが第二の意義である。  
一、領土、領空、領海とその勢力圏内を防衛すること。  
二、シーレーンを確保すること。  
右の二点を柱として我が国の国防方針は決定されねばならない。我が国が滅亡するとすれば、直接、領土内が侵略され国家の中枢部を破壊、占領されることと、シーレーンを維持出来ず、継戦能力を喪失することが予想できる。ただし、シーレーンを喪失しても即死というわけではない。国内の資源を利用しての焦土作戦という選択肢もあることはあるが、我が国のように縦深がない島国にとっては、シーレーン喪失後には全滅を覚悟した本土防衛戦しか選択できない。  
滅亡を前提とした作戦ほど愚かしいものはない。国家は永続せねばならない。そのための国防方針である。ゆえに指導者は右の二点をいかにして達成するか、そのことに全能力を傾注しなければならない。 
陸軍 本土防衛    
陸軍とは何か。陸軍とは戦場における最終的な決定戦力である。敵の領土、都市を大量に空爆し、敵国が面している海上を封鎖しても(海のない国も当然にある)、敵国の勢力を完全に排除し、その領域と国民を完全に支配するためには敵国の大地に根ざす敵の陸軍を物理的に殲滅、排除する必要がある。それを行えるのは陸軍のみである。一方で、敵が自国に攻め込んだとき、海軍が壊滅し制海権を奪われ、空軍が壊滅し制空権を失ったとしよう。敵は最終的に自国の領土に陸軍をもってして制圧下に置こうと行動するであろう。その時、最後まで抵抗しうる自国の戦力は陸軍のみである。  
我が国の基本的な国防方針は侵略してくる敵を我の勢力圏外へ排除、殲滅することで、状況により策源地を破壊、殲滅し、敵の侵略の意志を挫くことである。そのためには一時的な占領も行う必要がある。  
右のような国防方針における我が国の陸軍はいかにあるべきか、それは我が軍が空と、海において壊滅した場合、侵攻してくる敵の陸軍を本土に上陸させて殲滅するという、最後の守護神たる働きをしなければならない。  
我が国の本土を占領するには相当の陸軍兵力が必要であろう。仮に敵が100万で上陸すると仮定しよう。その100万の軍隊の補給はどうするか。膨大な量である。武器弾薬はどうするか、膨大な量である。巨大な軍はその分膨大な補給を必要とし、その物資を運搬、集積し、分配しなければならない。一度敵を上陸させた後にその補給部門をゲリラ戦にて徹底的に攪乱、破壊し、敵の継戦能力を絶つ。我が国は幸運にも四方を海という天然の防壁に囲まれている。侵略の意図をもって上陸する敵は、水際ではなく、上陸させてから徹底的に殲滅するという作戦が我が本土防衛の根幹になければならない。  
水際作戦は意味をなさない。  
大東亜戦争末期、我が帝国陸軍の島嶼防衛部隊は圧倒的な火力と航空兵力を有する米軍の上陸部隊に対して、無謀にも水際作戦をもって対抗し、無残にも敵の砲爆撃の餌食となった。この結果を受けて、硫黄島、沖縄戦では水際作戦を放棄、徹底的なゲリラ戦にて米軍を大いに消耗させたという歴史的事実に学ぶべきである。  
現代戦においても我が国に直接侵攻してくる敵勢力は圧倒的な海軍力と空軍力で我が国に侵攻してくるであろう。最悪の場合、我々は本土防衛作戦にて敵勢力と最後の死闘を展開しなければならない事態も想定しておく必要がある。その最後の戦いの主力が我が陸軍とならなければならない。そのような最悪の想定に立ち陸軍の編成、装備が整備される必要がある。  
この後に述べることとなるが、新しい陸軍はハイテク兵器を装備して、IT化された戦場で戦うことを前提として整備されるべきである。陸自の新型戦車である10式戦車のように高度に情報化が進んだ戦車がその代表例である。歩兵、戦車、大砲、兵員輸送車、攻撃ヘリ、装甲車、対空砲などあらゆる兵器が全て情報化(IT化)される必要がある。  
我が国の国防方針は、ソ連が優勢な時は北方重視、シナが蠢きだすと南方、島嶼防衛重視と、予算の都合と世の中の「風潮」せいで猫の目のように変更される。  
時代は変ったのだ。我が国の現時点での仮想敵国は左(下記)の通りである。  
シナ(中共)/ ロシア / 北朝鮮 / 韓国  
これら四カ国と我が国の位置関係から見れば、北方も南方もない。日本列島全域を重視して国防方針を立案しなければならない。決して太平洋側が安全と考えてはならない。敵は必ず隙を見つけて入り込んでくる。言ってみればゴキブリのようなものだ。  
最後に強調しておきたいのは、国民とその保有する資産に大きな被害が出るので水際作戦がいいという発想は間抜けの発想である。敵は上陸させてからじっくりと叩く、これが基本である。  
最終防衛戦である。この戦闘に負ければ、我らの國體が消滅するという戦いである。この列島を要塞と化して最後の一兵まで敵を殲滅するために戦い抜くという覚悟なくして何のための本土防衛か、何のための陸軍か。壊れた街は直せばいい。失った資産はまた稼げばいい。だが、敗北は国民の歴史、文化、伝統さえも破壊する。それらを失うと取り戻すことは不可能に近い。  
チベットを見よ、見るも悲惨な状況ではないか。民族浄化などあってはならない。これはまさに鬼畜、悪魔の所業である。こういうおぞましいことを平気でやるのが我々の仮想敵なのである。表面上の偽りの笑顔やゴマすりに騙されてはならない。このような悪鬼どもに我が神聖な国土を蹂躙させてはならない。もし敵が上陸するような時は徹底的に狡猾に敵を翻弄して殲滅するのだ。それが我らの本土防衛の根本精神である。 
海軍 領海防衛とシーレーン防衛 大潜水艦隊構想  
島国である我が国の国境線は海である。その国境線に囲まれた領海と周辺の経済水域を防衛するのが海軍の主任務である。そしてその海は我が国が外国へ出るための回廊でもある。その回廊を航行する我が国と同盟国の民間船を防衛することも任務の一つである。近年ではソマリア海において海賊が横行しているが、海洋の自由航行を脅かす賊を排除することも海軍の主要任務として明確に位置づける必要がある。これにはシーシェパードという我が国に対してテロ行為を続ける犯罪者集団の殲滅も含まれる。  
先に述べたように海軍の任務のうち重要な点は、領海防衛とシーレーン防衛であるが、これを達成するためには、現状の海自艦隊の増強とその能力を米軍の一部を担う部分から大幅に変更する必要が出てくる。  
海自は大東亜戦争敗北後、旧帝国海軍の伝統を守りつつも、対ソ連太平洋艦隊の潜水艦狩りを米軍の一部、言葉は悪いが手先として担うことを基本としてきた。近年では対北朝鮮の弾道ミサイル防衛の一翼を担うとして、イージス艦に迎撃ミサイルを搭載するなどしている。  
海自においては、現在イージス艦は6隻(金剛、霧島、妙高、鳥海、愛宕、足柄)を保有するに至り、事実上の軽空母である伊勢、日向も就役し、段々と過去の栄光を取り戻しつつあるが、相変わらずの言葉遊びに終始し、駆逐艦を護衛艦、事実上の軽空母をヘリコプター搭載護衛艦などと言い換えている状況である。ただ、過去の巡洋艦、空母の艦名が何気なくつけられており、海軍好きにはたまらない状況でもあるが、そんなことに一喜一憂していても何の進展もありはしない。  
貴重な財源を投入して艦隊は整備されるのである。真に我が国の海上防衛の方針に合致した艦隊整備が行われなければ銭の無駄使いとなろう。  
現在の海自は四個の護衛艦隊が中核であるが、これを大幅に増強する必要がある。この増強は当然、日米安保体制を今後も堅持するという方針の下に、米軍の負担を軽減するという意味において、我が国の海軍力を増強するものであるため、決して米国と対抗しようという妄想の下に整備されるものではない。ただし、有事の際に、万が一米軍との共同作戦が速やかに行えないような状況に陥った場合、我が国は独力で本土防衛に当たらなければならないため、そのための必要最低限の海軍力整備としてこの増強策を実行しなければならないのである。なお、この増強方針は海軍力だけではなく、全国防軍の増強に当てはまる理念である。今後とも日米同盟を維持するためにはメンテナンスが必要である。いつまでもアメリカにおんぶにだっこではアメリカに対して申し訳ない。少なくとも日本の領域については日本単独で防衛できるように軍備を増強することがアメリカの負担を軽減することにつながり、今後も日米の友好と同盟関係を維持できるものと思われる。  
簡単ではあるが、艦隊増強のイメージとしては左記の通りである。   
四個護衛艦隊から六乃至は七個艦隊へ増強し、内二個艦隊は空母艦隊として編成する  
第一艦隊 太平洋に展開する基幹艦隊 空母配備 母港 横須賀・仙台(塩釜)  
第二艦隊 イージス艦を中心とする日本海艦隊 母港 舞鶴 対ロシア 北朝鮮  
第三艦隊 空母を中心とする南方艦隊 母港 佐世保  
第四艦隊 空母を中心とする北方艦隊 母港 大湊・函館 対ロシア、北朝鮮  
第五艦隊 駆逐艦部隊 母港 呉  
第六艦隊 駆逐艦部隊 母港 小樽  
第七艦隊 駆逐艦部隊 母港 新潟  
次に重要なのは潜水艦隊の増強である。近年、特にシナの潜水艦隊による領海侵犯は、シナの海軍力が一〇年前に比べて大幅に増強されていることと、シナが膨張しようと蠢いていることの証左である。今まで沿岸海軍として細々と維持されていたシナの海軍が明代の鄭和以来、およそ六百年ぶりに大洋へと乗り出そうとしてきている。鄭和の大遠征は当時の日本には侵略してこなかったが、現代における中共は露骨に侵略の意図を見せつけている。  
尖閣諸島への領土的野心、東シナ海の海底油田問題があるが、この背後には石油資源などの海底からの各種資源の確保がある。だが、その野心を「もともと中国固有の領土」「もともと中国の領域」などという子供じみた言い訳で覆い隠し、正当化し、侵略の駒を進めてきているのである。  
そしてそれに対し反抗の意志を見せると、様々な外交上、通商上の脅しをかけて、邦人を拘束して屈服を要求するのである。これをどう思うか?汚いやり方だと思うか?そう思うとしたら、貴殿は相当なお人好しで、外交を論じる資格はない。  
そもそも隣国、シナはこういう国なのである。こういうことを数千年にわたっておこなってきた国で、かの国で生み出された兵法を我が国も輸入し活用したのである。また、外交とはそもそもそういうものだ。今までのシナは経済力が弱かった、ゆえに日本に対抗できる軍事力がなかった。だから日本に対しても露骨に脅しをかけてこなかったのである。しかし、ここ数十年の経済発展で軍事力が増強され、そろそろ日本に仕掛けてみる気になった。だが日本もまだまだ油断できないし、日米同盟もある。だから小出しに圧力をかけて日本の様子を見ているということだ。もちろん、シナの本音はアメリカの出方ということである。  
何を見ているのか。日本の有事対応力、マスコミや国民の付和雷同性をみている。何をすればどう反応するか。それを見ている。シナは日本を恐れている。それはそうだ。日清戦争でシナは負けた。その後五十年近くにわたりシナを荒らされたのだ。そういう意味でシナは基本的な部分で日本を恐れているだろう。だから少しずつ確実に勝てるという確証を得るまでは本気を出さない。シナ人は強かである。  
平成22年の尖閣での漁船体当たりの時の糞政府の対応はまずかった。あれでシナは相当に自信を持ったはずだ。まず、民主党政権時に仕掛ければ大きな紛争にはならないと確信したはずだ。ただ、予想外に国民がシナに対して反感を持ったのは計算外であったかもしれない。「まだまだ洗脳が足りない」そうシナの指導部は悟ったはずだ。だが、軍事力が圧倒的に日本を凌ぐようになったとき、シナはそんな面倒なことはしないはずだ。奴らは一気に仕掛けてくるだろう。友好の笑顔の裏には欲に歪んだ醜悪な顔が見えるはずだ。  
そうさせないために、また、そうなったときに、洋上艦隊と並んで重要なのは潜水艦部隊である。現在の海自の保有する潜水艦十六隻では圧倒的に数が足りない。宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡、そして琉球列島を防衛するためにはさらに潜水艦を増強しなければならない。  
潜水艦というと素人は何か陰気な感じを受けるだろうが、これほど相手に恐怖を与える兵器はない。洋上艦隊のような派手さはないが、その隠密性によって、海のあるところならばどこにでも出現し、敵艦船を攻撃することができる。潜水艦の搭載している兵器は艦船攻撃用の魚雷だけではない。潜水艦発射のミサイル、巡航ミサイル、果ては核弾頭ミサイルまで搭載可能であり、特殊部隊を乗せて作戦エリアまで密かに運ぶことさえ可能である。  
見えない敵にやられるという恐怖を相手に与えることで敵の動きを封じる。この戦術を我が国の各海峡と琉球列島において展開することで、シナが沖縄を抜き、太平洋へ進出してくるのを封じ込めるのである。現在、我が国は原子力潜水艦を保有していないので長期間の潜航は不可能であるが、その分を数と質で補うしかないだろう。幸いにも海自の潜水艦運用能力は世界でもトップレベルと言われている。この実力を十分に発揮してもらうためにも政治は潜水艦隊の大増強に取り組まなければならない。  
現在就役している「そうりゅう」型の増産と、新型の大型潜水艦、ミサイル潜水艦などこの分野においてはまだまだやるべきことがある。大潜水艦隊は日本の領海はもとより、我が国のシーレーン防衛にも必要な戦力である。また、潜水母艦も増強することで、世界規模の作戦展開が可能なように艦隊整備に力を入れる必要がある。  
現在の通常動力潜水艦を5年以内に二倍の32隻にまで増強し、その後も増強を続けて50隻程度まで整備する(実際はまだまだ足りない。シナ、ロシアを完全に封じ込めるには百隻は必要であろう)。それら潜水艦隊を常時東シナ海周辺に展開させ、不審な調査船や漁船は容赦なく撃沈する。そのくらいの覚悟がなければ相手もまともにこちらと対話しようなどとは思わないだろう。所詮、外交の本質は力と力のぶつかり合いなのである。誠意などというものは覚悟を持った者同士の間にしか存在しないのである。  
原子力潜水艦については、長期の潜航が可能という点においては実に魅力的ではあるが、原子炉のメンテナンスや核廃棄物の問題を考えれば、莫大なコストがかかるのは自明の理であるから保有はしないほうがいい。ただ、長期潜航は潜水艦にとっての重要な課題であるから、原子力機関に頼らずとも何らかの方法で長期潜航が可能になる方法を研究する必要がある。この点においては現在就役している「そうりゅう」型潜水艦に搭載されているスターリングエンジンに期待できるし、今後も更なる技術開発に邁進しなければならない。  
以上の七個艦隊と潜水艦隊等、海軍の全艦艇を連合させた場合にはこれを連合艦隊と称する。  
補足 / 海上保安庁は国交省から切り離し、海軍の一部門に位置づける。平時は「海の警察」としての任務を全うすればよいが、有事においては自動的に艦隊の指揮下に入るようにすべきだ。 
空軍 領空防衛と敵基地破壊能力の整備  
現在の我が国における空軍の位置づけは、領空防衛が主任務である。すなわち、防空識別圏に侵入する国籍不明機に対し、領空外への退避を勧告することである。いわゆるスクランブル発進という任務である。  
現在の航空自衛隊が発足して以来、旧ソ連、シナの領空侵犯行為は数多く行われてきたが、自衛隊は未だに侵犯機を撃墜したことはない。  
これを、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」結果としての行為というのであれば、実にお寒い限りだ。真実は撃墜する勇気がないだけの話ではないのか。  
領空侵犯行為に対しては断固たる措置をとる。撃墜されたくなければ、領空侵犯しなければいいだけの話である。これは世界の常識であって、こういう行為は野蛮だとか「怖い」とか、そういう弱腰と軟弱な感情を露わにする現代日本人の精神はまさに腐敗の極みにあるといえよう。  
空軍の任務は領空内侵入する国籍不明機並びに敵機を撃墜することにある。この一点につきるのである。  
次に重視すべきことは、現在の空自にはない敵基地破壊能力である。これはしばしば専門用語で策源地攻撃などと呼ばれるものであるが、要は「やられる前にやれ」の原則である。我が国に対する敵性国家は海の向こうにあり、大陸にはミサイル基地、空軍基地がある。これを敵の攻撃前か、本格攻撃の前に叩くということである。敵が攻撃する前か後かは関係なく、要は渡洋攻撃を行うか否かである。戦後の日本の防衛は専守防衛という妄想の下に自ら「矛」の部分を放棄してしまった。これを本来あるべき姿に戻そうということである。渡洋攻撃を行うに必要な軍備の拡充が必要なのである。  
具体的には巡航ミサイルの配備、弾道ミサイルについても将来的には検討する必要が出てくるかもしれない。各種戦闘機の航続距離を伸ばし、空中給油機についても今以上に機数が必要になる。装備品が増えれば、当然に国内の航空基地も拡大する必要がある。これは海軍の整備についても触れたところだが、移動式の空軍基地の性格も併せ持つ空母も必要になることは言うまでもないだろう。 
次期戦闘機問題  
戦後、ゼロから創設された空自は米国製の戦闘機を導入する慣例が長い間続いてきた。世界最強の国家が製造する戦闘機を導入することは、ソ連に対抗する意味から日米双方にとってメリットがあることだった。それは同時に米国の軍事産業にとっても日本へ高く売ることによって利益を得ることができたわけである。そして何よりも、大東亜戦争時に一時は世界中の戦闘機を圧倒するだけの戦闘機を製造できた日本の航空産業に自主開発を断念させて、米国の戦略に従属させるという戦略上のメリットがあったことは言うまでもない。輸入される戦闘機はライセンス生産されるが、戦闘機の頭脳であるメインユニットはブラックボックス化され、米国から部品を買わないと意味がない、ということである。これが兵器でもって相手国を支配するという意味である。  
そういう構造が戦後続いてきたわけだが、現在のF4ファントムの耐用年数はもはや限界である。F15イーグルにしても今後の第五世代型のステルス戦闘機の時代にはもはや時代遅れで、すぐにでも後継戦闘機を決定しなければ、今でさえも防空は限界であるというのに10年後の防空は崩壊するであろう。  
そこで問題になるのが次期戦闘機問題で、次期FX問題などとも言われている国防の最重要課題の一つである。  
周知のことではあるが、耐用年数が限界であるファントムの後継機問題と、あと10年後には主流になるであろう第五世代戦闘機の問題をどうクリアするかがこの問題のポイントである。空自を退官した田母神氏が公言するように、F22の導入、これをもって一挙に問題を解決したいようであるが、我が国の機密取扱の幼稚さや、世界最強の戦闘機を輸出したくないという米国の国防問題、そして米国の財政上の問題からF22の導入は絶望的であろう。アメリカにとっては、最新のテクノロジーを搭載した兵器を同盟国であってもそう簡単には売れるわけがないということである。これは当然といえば当然の反応である。その代わりに、多国間開発した汎用機であるFー35の導入を薦めてきているが、これは米国の同盟国が多数関わっており、まだまだ実戦配備には程遠い。性能的には問題がなく、自主開発するよりもコストは低くなる可能性はあるので選択肢の一つとして考慮するべきではあろうが、我が国の近隣には侵略の意図を持った大国が蠢いているのが現状である。いつ出来るか判らない機種に期待するわけにもいかない。  
私なりの結論を言えば、次期FXはFA18スーパーホーネットで良いのではないかと思う。その理由は我が国が空母を保有したときに艦載機にも転用できるという点に期待するからである。いつ完成するかわからないF35を待つよりも、即時に実戦投入可能な戦闘機を選択すべきだ。このFA18は改良されていて、現在では第4.5世代とも言われる戦闘機である。第五世代戦闘機までの繋ぎとしては問題ないと思われるし、我が国の当面の仮想敵である、朝鮮半島、シナ、ロシアに対抗するには十分とはいえないが、米軍との共同作戦をとる上では問題がないものと思われる。  
ユーロファイターという選択肢もあるが、日米同盟を基軸として考えれば欧州製の戦闘機では万が一の場合の整備、部品の調達に距離と時間がかかりそうなところが問題である。我が国と欧州の間にはロシア、シナという巨大な軍事国家がある。北極を越えれば近いが、物資のやりとりにはリスクがある。これは地政学的にみても問題であろう。ここは長い間同盟関係を結び、国内に基地もある米国製のほうが分があるとみるべきだろう。  
そもそも次期戦闘機問題はF4の代替機から始まった話である。そうであればF4、F15よりも新しく、改良されたFA18でも十分ではないかと思われる。早々にこの問題に決着をつけて、現場と国民の不安を払拭するのが政治の役目である。  
ただし、私は第五世代戦闘機を諦めたわけではない。  
これから10年後、先進各国の主力戦闘機は第五世代戦闘機になる。そして今後20年はステルス戦闘機の時代が続く。そして、その後、無人、人工知能を搭載した戦闘機であるの第六世代戦闘機の時代がくるであろう。我が国は今も、そしてこれからも先進国であり、先進国であり続けなければならない。そのためには最新、最強の戦闘機開発は避けて通れない道なのである。第五世代戦闘機、アメリカが売ってくれなければ、自国で作ればいいだけの話ではないか。  
そういう意図ではないと思うが、日本でも第五世代戦闘機は研究されている。それがあまり知られていない実験機「心神」である。だが、政治家と国民の無知無関心で十分な予算がつかない現状である。戦闘機の核心部分はエンジンであるが、そのエンジン開発について日本は弱い。なぜか、量産しないからだ。いくら優れた設計とコンセプトがあっても、最後は民間企業で開発するわけだから、量産という前提がないとラインが維持できない。維持すべきラインがなければ開発を行わなくなるのは目に見えている。ゆえに十分な予算と人を貼り付けて置かないと国防産業は衰退してしまう。これは一度捨ててしまった技術の復活が難しいことと同じことを意味している。  
完成機の製造、量産は極秘裏に進める必要があるだろうが、実際には不可能であろう。むしろ、日本が第五世代戦闘機の自主開発に総力を挙げているということを世界中にアピールすることは、日本の国力を世界に示す手段にもなり得る。一方でその開発が米国の国防産業と世界戦略に悪影響を及ぼすと、かの同盟国が判断すれば、我が国の「心神」は潰される可能性も大いにあり得る。むしろF22購入のためのきっかけとして、「心神」国産ステルス戦闘機の開発を進めるという手段もあり得るだろうが、それが我が国の国防にとって真に有益なことになるであろうかという疑問が残る。  
米国は依然として強大な国家である。だが、かつてのようなスーパーパワーを持つ国ではなくなった。財政も厳しく、ドルのパワーも落ちてきている。米国がF22の生産を打ち切ったのも財政上の問題からである。日本としては、ここは同盟国の財政上の問題も鑑みて、米国で出来ないのであれば我が国で第五世代戦闘機の自主開発を行い、米国の世界戦略の一助になれば、というスタンスを取るのがよいだろう。  
もちろん、「心神」完成の暁には、米国へ完成機の輸出を行ってもよいだろう。コードネーム「心神」、正式機「νーZEROニユーゼロ」とでも命名されるのだろうか。我が国は自主開発戦闘機を断念してはならない。そのためには、正式に防衛省直轄の空軍工廠を設立し、直接の開発、量産を行う体制を構築することも検討すべきである。  
補足1 / 私が居住する仙台の近くには空自の松島基地がある。私も何度か航空祭に遊びに行ったことがあるが、間近で見るF2は圧巻である。FSXとして注目され、紆余曲折の末に、最終的にはF16がベースとなった戦闘機であるが、そんなことは今更どうでもよい。新規の調達も出来なくなり、製造中止となる機種が震災の大津波で使用不能になってしまった。それでも6機はまだ使えるそうだ。実に涙ぐましい努力ではないか。現場には頭が下がる。下らない子供手当などに貴重な予算を使うくらいなら、もっと軍備に使うべきだ。国防に対する認識が腐っている民主党政権などは早々に選挙で全滅させるべきだろう。松島基地のF2は全部で18機、そのうち6機は修理して使えるそうである。修理費用は約1150億円である。  
補足2 / この原稿が運良く世に出る頃にはFXが決まっているだろう。おそらくFXはF35になると思われる。しかし現時点においてはどのような結果になろうとも私はFA18推進の立場を変えることはない。まずは防空に穴を開けてはいけないことが優先されるべきである。FA18の導入決定と配備後には時間をかけてF35ステルス戦闘機を導入してもよい。同時にステルス戦闘機の国産計画も同時進行で行うべきである。米国との同盟関係はもちろん重視し、アメリカの顔を立てるために戦闘機の輸入をしてもいいが、自国でやるべきことは筋を通して自国でやるべきで、独立国家なのだから普通の感覚で行うべきだ。 
海軍陸戦隊 外国派遣軍の先兵として整備  
世界の一部の国には海軍陸戦隊、もしくは海兵隊という名称の軍組織がある。これらは主に海軍の艦艇部隊と共に行動し、主として艦艇内部の警備や、海からの上陸作戦、そして大規模な作戦行動の際にはその先兵を務めている。言ってみれば、先鋒としての任務を帯びるわけであり、先陣の名誉と引き替えに敵の反撃を最も激しく受けるという過酷な任務を背負った軍隊である。  
周知の通り、海兵隊と言えばアメリカ海兵隊を想起するが、その一般的なイメージは荒くれ、粗暴などというイメージが強いであろう。確かに海兵隊員が日本国内、特に沖縄で起こす事件、事故を見ればそういうネガティブなイメージに支配されてしまう。  
しかし一方でアメリカ海兵隊は、大統領官邸であるホワイトハウスを警備し、各国の米国大使館を警備するというアメリカの顔でもあり、名誉ある任務を帯びているのである。そして何よりも強調すべきことは、米国の将校級の戦死者は海兵隊が最も多いということである。これは軍としての士気の高さ、将校の勇猛果敢さを示していると言える。勇猛な将校の下に勇猛な兵士は育成され、そして軍は強力になるのである。これは会社経営でも、国家の政治レベルでも同じである。上が臆病、優柔不断、言語明瞭意味不明瞭であれば、下の一般社員も国民も同じようにだらしなくなり、組織は自己欺瞞と腐敗に陥りやがては自滅するのである。  
さて、私が米国海兵隊をモデルとする海軍陸戦隊を我が国が持つべきと主張するには以下の理由がある。  
・島嶼部が多い我が国にとって、離島などの島嶼部が敵に占拠された場合の海上からの反撃部隊がない。  
・敵基地攻撃能力は遠距離からのミサイル攻撃、航空爆撃では根本的な解決にはならない。上陸して占拠することによって、敵国に与える心理的ダメージをより増幅することができる。もちろん、任務を達成すれば颯爽と引き上げるのが、陸戦隊のあるべき姿である。  
・国連の平和維持軍など、外国で活動する部隊として陸戦隊を整備するべきである。平時から外国での活動を念頭に置いて訓練を行うことで有事の際に即、展開できるという強みが出てくる。  
・平時から陸戦隊を艦艇に乗り組ませることで、テロ、ゲリラ、臨検時の対応など陸戦の備えをすることは国防上有益である。  
・陸戦隊を日本軍の陸戦部隊の最精鋭部隊として位置づけ、整備、訓練することで近隣諸国、世界各国に対する抑止力とする。  
以上が海軍陸戦隊整備の基本方針である。  
泥縄という俗語がある。領海侵犯、領土不法占拠をされてからその対策を練っても意味がないとは言わないが、実に間抜けな話ではないか。そうであれば、敵がチョッカイを出してくる前に、領土・領海・領空防衛という確固たる信念のもとに、海軍陸戦隊を早急に整備するべきである。領土、領海問題はもはや海上保安庁という警察組織では対応が不可能な事象であると全国民は認識すべきである。  
整備に当たっては、陸海空の三軍からの転籍と志願兵制度によって精強なる軍隊を組織する必要がある。なお、陸戦隊は平時はもちろんのこと有事においても志願制を採用するべきである。志願すること、これこそが精強な軍を維持する第一条件である。日本の若者は腑抜けではない。日本にはまだまだ武士の魂を持った多くの若者達がいると、私は確信している。  
十万人規模の上陸作戦や世界中に展開できる軍を保有するということは、我が国の世界に対する外交上の発言力を高めることにつながり、我が国の存在感を大いに示すことになるだろう。その先兵としての日本海軍陸戦隊である。 
日米同盟 米軍基地について  
日米同盟は現在の日本外交において最も重要な柱となるものである。  
この世界最強の国との軍事同盟は「守ってもらう」という性格が強い条約ではあるが、現状においては安全保障を考える上で大切な保険である。この保険、条約は今後も有効に機能させるべきであり、我が国がアメリカと共に戦うという真の軍事同盟へバージョンアップさせることが必要である。  
一時期、不幸にも民主党が政権を取ってしまい、鳩山某が総理大臣となってしまうという歴史上最悪の事態を迎えた時、最も恐れたことが起きてしまった。それは鳩山の日米同盟軽視の動きであった。こういう外交音痴が総理大臣になってしまうという戦後最悪の事態となってしまったが、運良く、現時点では同盟は維持されている。本当に日米同盟が破綻するような事態を避けるため、多くの関係者が奔走したことであろうと想像できる。  
同盟締結当初は、アメリカが大東亜戦争で叩きのめした日本を軍事的支配下に置くという目的があり、同時に、ソ連、シナ、北朝鮮などの共産国家に対抗するための不沈空母として日本をアメリカ側につなぎ止めるための性格であったろう。  
アメリカが日本を守る。日本も当然に自衛隊でもってアメリカに協力する。そしてアメリカ陣営として十分な経済援助を受けられ、戦後の経済発展を約束されたわけである。  
アメリカにはアメリカの世界戦略がある。それは、太平洋においては日本を同盟国として軍事的プレゼンスを維持、有事の際には日本を拠点としてアジアの敵性国家を叩くという基本方針であって、そしてそのために日本をアメリカに協力させるために各種政策を実施するというものである。  
では日本はどうか。日米同盟の維持はいいのだが、それは日本を守る保険という位置づけだけでよいのか。冷戦終結まではその考えでよかったかもしれないが、これからはそうはいかないだろう。大東亜戦争終結から約60年が経過し、ソ連は崩壊、シナは事実上の資本主義経済へと転換、北朝鮮はいまだに独裁国家として存続はしているが客観的にみれば崩壊一歩手前である。冷戦後の日本を取り巻く情勢は大きく変わった。日本はいつまでもアメリカにおんぶにだっこしているわけにはいかないのである。  
従来からの保険という考え方を継続しつつ、これからは「守ってもらう」という片務的な性格の日米安保を「共に戦う」という性質へと変更していく必要がある。  
今の日本は経済がだいぶ落ちぶれたとはいえ、まだまだ世界に対する影響力はある。とりあえず日本は「先進国」である。優秀な自動車、ハイテク機器を生産する能力はまだある。このような経済的な先進国がいつまでもアメリカに守ってもらっていていいのだろうか。所謂「思いやり予算」を拠出して駐留米軍に協力したりとか、そういうレベルで安全保障政策を行っていていいのだろうかという疑問がある。こんな状態では日本はいつまでたっても「戦後」から脱却できないし、他国からみれば半独立国家としてバカにされるだけである。他国にカネを払って国を守る。  
日本が今やっていることはそういうことだ。傭兵にカネを払って守ってもらっている情けないカネ持ち成金オヤジのようなものである。もっともカネがなくなれば成金オヤジはすぐに没落してしまう。  
真に世界の一等国、一流国として全世界に対して発言権、影響力を持ちたいというのであれば、血を流す覚悟を持たなければならない。  
「世界の一流国でなくても、平和ならいい」、そんな意見の大合唱が聞こえてきそうだが、そんな意見は想定内で、そんなことを言う軟弱な大衆にはこう言えばいい、「平和ボケ。そんな暢気ことを言っていられるのも今のうちだけだ。力なき国家はいずれ滅びる。滅びの地獄絵図の中でもまだそんなことを言えるのか?」と。  
血を流すとはどういうことか。それは外国での武力紛争に対して日本が積極的に軍事介入するということである。もっとも我が国の国益に直接結びつかないような紛争にわざわざ首を突っ込む必要はない。同盟国であるアメリカからの要請があり、その要請が我が国の国益に関わるということであれば、共に軍事行動を起こすべきだろう。ただし、それが国益に合致しない場合は、それに対し堂々と反論をすべきだ。大国を相手にするときも、小国を相手にするときも外交は「筋」を通すべきであるからだ。  
そうした「大人」の態度を自らの判断でとれるようになったときに、日本は初めて、アメリカに対して、「パートナーシップ」という言葉を使えるのではないか。そうすると、したり顔をして「そんなことをアメリカが許す訳がない」などと言う者もいよう。そういう者に限って何の建設的な意見を言わない、批評して終わりの学者頭の役立たずばかりである。血を流す覚悟を決めた時から、活路は開くのだ。  
現状のように、米国に対して盲目的に従う対米追従外交では、いつまでたっても対等の同盟関係など望めやしないし、鳩山のようにシナを重視したところで「親分」が入れ替わるだけで独自の外交など出来るわけがないのである。ましてや小沢が言うように国連中心外交など無知蒙昧の極みであろう。小沢の国連中心外交は国連で決まったことに従えば、日本の責任にならない、というレベルでの話であり何も考えていない証拠で考え方としては最下層に位置する。  
全ては血を流す覚悟である。その覚悟を決めた時から日米同盟は新たな時代に対応した同盟になるのだ。 
沖縄の基地問題  
沖縄の基地問題が騒がしい。  
小さな島に、あのように軍事基地が密集していれば、住民の生活が大変だろうことは想像できる。一部の米軍兵士の非道な行いで心と体に傷を負った住民もいるだろう。実に悲しむべきことである。  
こういう犯罪者は日本の法律で裁くべきである。  
それをアメリカに認めさせるには、日本もいつでも血を流せる同盟国であるということを相手に判らせなければならない。半人前の意見を真摯に聞く大人などいないのである。  
憲法九条を押しつけたのはアメリカでアメリカが悪いなどどいう保守派もいるが、気持ちは判るが、今まで憲法を見直さなかったのは我々の責任である。日本が国内の問題を解決できないで、アメリカが我々の意見に真摯に耳を傾けるとは到底思えない。  
沖縄の地政学的位置は非常に重要である。日本の南方を防衛すること、大陸、特にシナを大陸に封じ込めるには絶好の位置にある戦略の要衝である。アメリカがこの島を簡単に手放すことはない。もし、仮に手放すときは、それはこの島をシナに渡してもよいという戦略的判断をしたときだ。一度手放しても、アメリカは必ず、再び、この島を穫りにくるだろう。それだけ、戦略的に重要な島なのだ。  
ということは、当然に我が国にとっても重要な訳であり、そう易々とこの島をシナに渡すわけにはいかない。仮に、アメリカが沖縄から基地を全て撤去することになったとしても、その後には必ず日本が同じように基地を置くだろう。沖縄県民にとっては悲しいことであるが、沖縄から軍事基地が無くなる日は永遠にこないのである。それが宿命だと思って基地と共存共栄する方策を考えるのが沖縄にとって有益である。  
もちろん、それなりの見返りは必要である。カネで沖縄を買うのかという批判もあるだろう。しかし、それ以上の解決策を正直言って私は提示することができない。  
もし、仮に、沖縄からあらゆる基地を撤去したとしよう。そのとき、日本の南方の防衛をどうするかという問題が発生する。これを解決するには九州に航空基地を増設し、さらに琉球諸島を囲むように、航空母艦、原潜などを常時配置し、シナの動きを牽制しなければならない。費用の面でも莫大なものになるが、無防備の島となった沖縄には必ずシナが侵攻してくる。この島にシナが恒久的な軍事基地を建設すると日本列島が南側から侵略される恐れが出るし、琉球諸島はその全域にわたって一触即発の状態に置かれることになる。力の空白は勢力均衡のバランスを崩し、その崩壊地点から戦争が誘発されることになる。その戦争は沖縄の支配権を巡るものとなり、沖縄は再び戦場となろう。そして廃墟となった沖縄にはまた新たに基地が建設されることになる。シナ、ロシア、北朝鮮という好戦的な侵略国家がこの地球上に存在する限り、沖縄から基地が無くなるということはない。悲しいかなこれが現実なのである。  
過激な論者や夢想家の中には沖縄の独立を主張する者もいる。その気持ちがわからないわけではないが、残念ながら地政学的に沖縄はこの現代では独立できない。もっともそう一刀両断してしまっては元も子もないので、思考実験をしてみよう。  
一つの空想的方法としては、住民投票で日本からの独立を選択すればいい。仮に日本からの独立が投票の過半数にでも達したとして、どういうわけか、日本が沖縄の独立を認めたとしよう。独立した琉球政府は米国政府に対し、基地撤去を申し入れすればよい。ただし、米国がそれを簡単に認めるとは思えない。逆に日本から独立したことでアメリカの準州にされるのがオチだろう。  
万が一、米国が基地を撤去した場合であるが、極端な話、その翌日にシナの大部隊が沖縄に侵攻してくるだろう。沖縄は琉球自治区になり、その末路はチベットと同じく、虐殺の嵐となるであろう。琉球が独立して10年も経過すれば、住民のほとんどは漢民族になっているはずだ。  
沖縄独立派の諸君には申し訳ないが、残念ながら沖縄は日本の一部であり、これからも永遠に日本の一部であり続ける。そのために沖縄にはどのような形であれ必ず軍事基地を置く。 
偵察衛星の更なる拡充と宇宙防空システム  
偵察衛星、通称、スパイ衛星である。宇宙空間から地上の軍事施設などを監視し、情報収集を行う大変重要なシステムである。ついこの間まで日本はこの偵察衛星を持たなかった。だが、北朝鮮のミサイル発射実験という「黒船」の影響により、ここ8年あまりの間に、ようやくまがりなりにも偵察衛星を保有することができるようになった。だが、分解能はまだまだ不足しており、分解能40cm級の衛星を早期に保有しなければならないし、数も足りない。将来的には全アジアのあらゆる場所、特に、シナ、北朝鮮地域の全域を常に監視できるだけの体制を整備する必要があるだろう。そして問題はハードだけではなく、ソフト面である情報分析機関の拡充と、その情報を利用する政治の問題である。  
撮りまくった膨大な写真データから何を見つけ出すか、何が重要か、取捨選択するにはある種のセンスが必要である。こういうセンスは詰め込み暗記教育からは出てこない。そしてそのデータを活用してどう外交、国防、政治に生かすか、これも政治家のセンスにかかってくる。残念ながら今の民主党政権の政治家にはこういうセンスを持った政治家はいないだろう。市民運動家や平和運動家、スポーツ選手や元芸能人出身の政治家なんぞにはこんなセンスはない。猿に素数を理解させるのと同じくらい困難であろう。  
偵察衛星は敵性国家の基地を上空から監視するだけではなく、実際の軍事行動の際にも重要な情報を提供してくれる、まさに現代戦の目、耳となるものである。地上、海上、海中、空中部隊とのデータリンクシステムでより効率よく戦闘を行うためにも絶対に宇宙からの偵察システムは必要である。この分野における投資を惜しんではならない。宇宙の平和利用などと寝ぼけたことを言っているようなレベルでは国防は完遂できない。宇宙空間を支配するものが地上を制するのだ。近頃そのような意見が海外において散見されるようだが、これは私がまだ高校生の頃に直感的に発見したことでもある。これを「完全制空権」と名付け、以後使用することとしたい。完全制空権を持つ国家がこれからの世界の覇権を握るとここに予言しておこう。完全制空権についてはまた別の機会で述べることとする。  
偵察衛星と並んで重要なのは、弾道ミサイル迎撃システムに代表される宇宙防空システムである。一応完成はしたが、まだ未完成の部分が多いこのシステムは今後信頼性を確保するために改良を重ねていかねばならない。一部では信頼できないシステムであるとか、不可能であるとか様々な意見がある。だが、最後の最後の迎撃システムとしては保有しておくべき兵器である。今後は前述した偵察衛星とリンクしてこの最後の盾を完成させるべく努力しなければならない。  
同時に重要なのは、敵が弾道ミサイルを発射する前に叩くということである。このことを付け加えておきたい。すなわち、敵基地破壊と弾道ミサイル防衛はセットなのである。敵基地を破壊しても、生き残ったミサイルが発射された、それを破壊するのが弾道ミサイル防衛なのである。最初から弾道ミサイル防衛ありきでは、消極的な作戦行動しかできない。まず、敵の根拠地をピンポイントで叩くという発想がなければならない。 
人型機動兵器 パワードスーツの可能性  
ここではガンダムやエヴァンゲリヲンの話をするわけではない。パワードスーツ、今、米軍でもだいぶ研究が進んでいる分野である。平たく言えば、歩兵に機械をくっつけて歩兵の体力消耗を防ぎ、より大きな火器を持たせたり、行軍能力を高めたり、情報処理能力を持たせたりする次世代歩兵である。それがどういう形になるか、はっきりとはしないが、私のイメージとしては、170cmの兵士がそのスーツを着ることで2mくらいになり、力も人間の4倍、5倍となり、平均時速50kmで10時間以上行軍できるとか、そういうイメージである。携帯できる弾薬量も増え、作戦時間、作戦行動範囲も大幅に増える。そして爆風や弾丸を少々喰らったくらいでは負傷しない。コンクリの壁は素手で破壊するくらいの機動歩兵システムである。  
旧帝国陸軍の石原完爾中将はその著書、戦争史大観にてこう述べている。  
「将来の戦術は「体」の戦法にして、単位は個人なるべし」と。ギリシャやローマの重装歩兵から、近代軍の形態、そして、飛行機、潜水艦の搭乗により戦場は「体」すなわち、三次元となる。この三次元戦争の初期の形が出来上がったのが大東亜戦争であった。その後約60年、三次元戦法とIT技術が統合され、まさに戦闘単位は個人単位となっているのが現状である。今後は個々人がハイテク装備を身につけることで、一個人が戦場における重要な戦闘単位となっていくであろう。  
人類の技術発展は止まることはない。強力な兵器が開発されればそれを対抗する兵器が生み出される。だが、最初にその強力な兵器を開発し、量産し、最良の運用方法でもって使用することができた国家がその戦争の勝利者となるのである。これは技術的な奇襲ということができる。もっとも兵器の進歩は敵に対して大きな破壊力をもたらすと同時に、味方にとっても同じ脅威を与えることとなる。戦争と兵器の歴史とはそういうものである。  
今後の戦闘の一面としては、精密誘導兵器と対テロ戦、市街戦など、今までの戦争のように大規模な兵力(数百万単位)を大量に投入する戦闘から、少数対少数の戦闘が増加していくだろう。更には、先進国が抱える慢性的な少子化問題など、兵士の数を確保することにも困難が生じていくかもしれない。そういう社会情勢の中で兵士の生存能力と戦闘能力を飛躍的に高め、犠牲を最小限に抑えるためにもパワードスーツは重要な可能性を秘めているといえる。  
現段階では研究が進んでいるとはいえ、未知の領域であるこの分野において、我が国は持てるロボット技術を惜しみなく投入して世界の先端を行くべきである。  
もう一つ付け加えたいことがある。それはサイバー戦争に対する備えである。サイバー戦争などというと映画やマンガの世界の出来事であると一笑に付す輩も多い。しかし現実はそうではない。既にその戦端は開かれているのである。これは静かなる戦争である。直接的な爆発、破壊を伴わない静かなる戦争である。  
シナ軍は既に世界各国に対し、サーバーへのハッキングでその演習を行っているものとみていいだろう。米国国防総省をはじめ、我が国の治安機関、国防関連企業にもその攻撃の手は伸びている。奇しくも、この原稿を執筆中に、三菱重工業はサイバー攻撃を受けてしまい、原子力関連、国防関連のサーバーやPCがウイルスに感染したり、情報を抜き取られたとのことである。  
ハッキングを行ったのは十中八九シナであろう。情報を盗み取って己のモノにする。こういう姑息な手段を痕跡を残してまで行うのはシナの特性である。国民諸君、静かなる戦争はもう既に始まっているのだ。己の保身しか考えていない政治家、官僚、役人、マスコミ、資本家共に騙されてはならない。今の日本に本当に何が必要なのかよく考えるべきだ。  
現代社会はコンピューター無しでは機能しない。金融機関、電力供給、鉄道、高速道路などの交通インフラ、マスコミ、これら社会の基幹部分はコンピューターで機能している。そしてネット社会である現代社会の急所はサイバー空間である。ここを麻痺させれば、相手国の社会を大混乱に陥れることが可能である。何もミサイルや爆弾などを使わなくても敵国の都市機能を麻痺させることができる。加えて高度にハイテク化された現代の軍隊もコンピューターが麻痺すれば使いものにならなくなる。  
敵からのハッキングを受けても十分に耐えるシステムの構築と、ただちに反撃に転じることが可能な体制を早急に整備する必要がある。このサイバー戦争の分野はこれからの国防体制の基幹となる部分になるであろう。ITインフラは人間で言えば、神経系統の部分であるから、ここをやられればどんなに強力な物理兵器を保有していても無意味である。  
必要十分な物理兵器の保有と世界最速最強の軍事用スーパーコンピューターを保有すること、これが今後50年を生き残るための必要最低限の装備である。  
これから10年で第五世代戦闘機、パワードスーツ、ロボット兵器、サイバー戦争、この分野で飛躍的に軍事技術は変革していくだろう。特に周辺を軍事大国に囲まれている我が国がこの分野で遅れをとることは国家の存亡に関わる事態であると認識しなければならない。  
今からでも遅くはない。我々はただちにこの分野へ予算、人材、物資を集中投下して次の戦いに備えなければならないのである。 
無人兵器(ロボット兵器)部隊  
これからの最新兵器のトレンドは無人兵器である。イラク戦争において偵察の分野から配備が始まった無人兵器は、ここ十年で飛躍的に進歩を遂げた。既に軽武装をしたロボット兵器が実験的に配備されているのは周知の通りであるが、これらの無人兵器は今後さらにパワーアップして軍事の最前線に投入されていくことであろう。  
ここでは無人兵器の今後の大きな流れをつかんでおきたい。  
一つ目は偵察分野である。軍事行動において眼となり耳となる部分、これが偵察であるが、敵に発見されること無く近づき、敵情を探るために無人兵器は有効である。特に空中からの偵察は有効である。万が一発見され攻撃、撃墜されたとしても人的な被害はない。これは今後、陸上、海上(海中から領海内に侵入、もしくは敵艦船近づく)にも投入され、ほとんどの偵察は無人兵器がやってのけることになるだろう。  
二つ目は偵察分野で培われた技術で作られたロボットに軽武装をさせて簡単な威力偵察を行わせるものである。特にゲリラ、テロを相手にするような戦闘での人的損害を軽減するために用いられることになるだろう。実際、米軍では既に機関銃を装備した小型の偵察ロボットが開発されている。これらにロケット弾などを装備させ、後方の指揮部隊から無線で操縦するという方法が有効である。  
三つ目は人工知能を搭載したより高度な性能を持った無人兵器部隊の登場である。これらは後方から担当の兵士が操縦するのではなく、おおまかな目標を与えてやれば自身が破壊されるまで戦闘を継続するという兵器になる。武装については機関銃、ロケット弾、煙幕、ガスなどを装備し、場合によっては搭載された大型の爆弾を爆発させて自爆、目標付近の敵勢力を制圧するというものである。  
四つ目は無人兵器のネットワーク化である。個々の無人兵器が単独で行動するのではなく、戦場の状況変化に順応して、友軍の有人兵器と連携して作戦行動を行うというものである。  
まさにロボットアニメのような、SFのような世界であるが、いずれこれらの無人兵器が戦場を駆ける時代がくるであろう。パワードスーツの項でも述べた通り、先進各国では今後少子化が進み、生身の兵士のなり手が少なくなってくるのは目に見えている。一方で我が国の仮想敵であるシナ、ロシア等は強大なマンパワーを有しているのが現実である。これら周辺の脅威に伍して、戦いがある場合は圧倒的な無人兵器の数で対抗するしかない。無人兵器はパワードスーツ兵器を補助し、自軍の本隊が進出する前の露払い的な兵器として期待できる。我が国はロボット技術では世界トップクラスである。この分野で世界トップレベルを維持できれば、仮想敵に対して極めて有利な立場を占めることができよう。 
核武装について  
核武装。我が国の国防を考える上で核武装について議論することは避けて通ることが出来ない。核武装について考えること自体をしないなどということは、思考停止としか言いようがない。国防だけに限らず、何事についてもあらゆる選択肢について議論する姿勢は重要である。  
核アレルギーという言葉がある。核兵器について保有はもちろんのこと、保有か否かについて議論することさえ行わないという思考停止の状態を表現する言葉である。日本は広島、長崎で原爆の被害を被った唯一の被爆国であるから核兵器などという非人道的な兵器は保有してはならないし、世界に対して核兵器廃絶を訴えていかなければならないという姿勢である。そして、平成二十三年三月十一日の東日本大震災による大津波で福島第一原発の冷却機能が停止、メルトダウンと水素爆発で東日本一帯に放射性物質がばらまかれた。これによって原発そのものの安全神話が崩壊し、核兵器廃絶運動と合わせて、日本人の核アレルギーは頂点の極みに達していると言えよう。  
ここでは核武装について述べる前に私の現時点における原発に対するスタンスを明らかにしたい。その前に、私は震災前、原発に対しては推進の立場であった。これは日本の技術力に対する過信があり、日本における反原発運動は私の忌み嫌うところの共産主義者達の運動であるとの偏見があったことがその理由である。すなわち、反原発は共産主義者達の道具の一つであり、ゆえに当然にそれに反対するという思考停止の態度であったということである。このことについて私は深く反省している。  
この原稿執筆時点においては、福島第一原発の事故は収束しておらず、福島を中心とする東北エリアは放射性物質の汚染と風評被害に苦しんでいる。原発周辺の住民は自宅にも帰れず、故郷を遠く離れ苦しい生活を送っている。まさに原発が生んだ悲劇である。  
大震災発生から十ヶ月が過ぎ、段々と当時の原発事故の状況が明らかになってきた。この事故は当初から人災と指摘されていたが、特に、一部の賢明な学者の指摘があったにも拘わらず、東電が津波対策を怠ってきたことなどが段々と明らかになるにつれ、原子力発電そのものに対する安全性というより、東電はその複雑なシステムをオペレーションする能力に欠けるのではないかと確信せざるを得ないのである。操作の方法をきちんと初心に返って学ぶなどというそういうレベルの問題ではない。もはやその組織の体質的な問題なのでないだろうか。今回のような最低最悪の事態を目の当たりにすると、今後とも各電力会社が原発を安全運転するとは信じられないのである。よって私はこのような「自爆」行為を回避するためには、一度、原発の運転を停止して、古いものは廃炉とすることを主張したい。私の立場は、古い原発、地震の影響を受けやすい危険な原発は即時に停止し、廃炉に向けての準備を行う。津波の影響を受ける恐れが大きい原発については津波対策を早急に行うがこれが原発稼働の免罪符となるものではない。現状では全ての原発はいずれ停止するわけだが、これらを整備点検の後に再稼働できたとしても、我が国の原発が震災前のように稼働することはもうありえないだろう。もはや新規の原発建設など住民には受け入れられないのだ。  
不足する電力については、休止中の火力発電所の再稼働を行い、ガスタービン発電などの設置を急いで行う。新規の火力発電所の増設も合わせて行う。最悪の場合、日本経済と国民生活に大きな影響を与えることになるだろう。しかしそうであったとしても、原発をオペレーションする電力会社と政府の態度を見る限り、また福島のような事態は十分に起こりうるのだ。  
ではどうすればよいのか、ここでは軽く触れるに止めるが、地熱発電、水力発電を増設し、全原発が停止しても国内の電力を賄える体制を構築する。風力発電、太陽光発電は補助的な供給システムとして体制を構築する。同時に未来への布石として、宇宙太陽光発電、核融合、メタンハイドレートの採掘などの新規分野への投資を行い、今後50年先を見据えてエネルギー開発を行うべきである。その中で、発電と送電の分離、電力業界に明確な市場原理を導入し、今の腐りきった電力業界をぶち壊すことが必要である。  
安定した電力供給という観点から原発が必要であるとの議論もある。そうだ。たしかにその通りだと思う。現代文明は電力なしでは維持できないし、発展できない。だが、隠蔽、嘘、やらせ、などのいいかげんな体質をもった企業が原発を安全に運転できるのだろうか。そんな企業が即、変化するなどということはあり得ない。絶対にあり得ないと断言してもいい。組織の文化、体質などというものはそう簡単には変わらない。民間企業や役所などに長く勤務する読者諸兄にはよくお分かりかと思う。東電をはじめ国内の電力会社に、高度な判断能力を求める原発のオペレーションは時期尚早とみるのが正しいであろう。「いや、そんなことはない、電力会社の人々にそんな頭の悪い人間はいない」と主張する向きもあろう。そうだ。皆すばらしい大学を出て、いい記憶能力を保持しているのであろう。だが、それがどうした。その結果がこれだ。福島の現実を見てどう弁解するのだ。最高の記憶力が最悪の天災には全く効き目がなかったのだ。  
原子力発電とは何だ。ついこの間地球に誕生した新参者である人間が、神の領域である原子核分裂を制御し、湯を沸かしてその蒸気でタービンを回し、電力を発生させる。もっと簡単に言えば燃料に核物質を使ってやかんで湯を沸かしている訳である。核分裂反応を人為的に起こす、まさにこれは神の領域だ。一度、千年級の大地震が発生し大津波が起こると、あっという間に制御不能である。それも人為的ミスでそうなってしまう。これはある意味、悲劇を通り越して喜劇だ。たちの悪い冗談に付き合っているようなものである。  
原子力発電を制御するには、それを操作する人間が謙虚な心でもって、明鏡止水の境地でもって当たること、これが第一である。神の領域を侵犯して電力を起こしているのだという自然に対する畏れなくしてこの巨大システムは制御しえない。しかしそんな謙虚な心を電力会社の連中に求めること自体無意味である。原発事故後の電力会社、政府、役人、経済界の動きを見ても明らかであろう。もはや更正など不能である。今最も大事なのは、もうこれ以上、日本を放射性物質の恐怖に晒してはいけない。美しき神国日本の大地を金銭欲と権力欲に取り憑かれた連中の好きにさせてはならん、という強固な意志である。  
今の経済界に蔓延するコスト主義だけに立脚しては、最も重要であるべき安全第一原理を、悪貨が良貨を駆逐するかの如く食い荒らして、やがて今の東電のようなシステムを完成させるに至る。その終着駅はメルトダウン、放射能汚染である。そしてさらに最悪なのは、この東電と徒党を組んできた官僚、政治家、経済界である。事故後の責任のなすり付けをご覧になればわかるであろう。  
これが、今の日本経済の中心、頂点にあるモノ達の真実の姿なのである。まさに権力とカネの亡者と化して、日本を食い潰す元凶が東京を中心として蠢いているのである。  
以上のように原発を糾弾する私が、核武装についてどう考えるか、以下に述べたい。  
現代の最強の兵器、それは核兵器である。一瞬にして都市を壊滅させ、大規模な部隊を壊滅させ、なおかつ放射線という副産物でもって敵に大ダメージを与えることができる。これほど効率的な武器は他にない。そして、核兵器が持つその破壊力が抑止力を生み、それを相互が保有することで相互確証破壊を得て、世界に冷戦状態が出現したのである。事実、冷戦中、米ソは直接核兵器で対決することはなかった。  
だが、冷戦後、世界は変わった。核技術は拡散し、今や、北朝鮮のような下等国家までもが核兵器を保有するに至った。北朝鮮のような下劣な国に核保有を許してしまったことは後に世界が後悔することになるだろう。  
そして世界の国々はこうも思ったはずだ。北朝鮮が核を保有すれば、日本も核保有するのではないか。そして核保有できるだけの核物質とミサイル技術を日本は既に持っている。日本の核保有はもはや時間の問題であると。  
そう、日本には核物質がある。原発で使用した所謂使用済核燃料である(これを再処理して再度核燃料として原発で使用するための施設が六ヶ所村にあるわけだが、原発を停止してしまえばその燃料の行き場がなくなるわけである)。都合がいい処理とは言い難いが、その燃料を濃縮して核弾頭に転用することも理屈の上では可能であろう。時間はかかるが、ミサイル技術と起爆システムの研究に莫大な費用と人員を投入すれば我が国の核武装はここで完了する。などど述べてしまえば話は単純であるが、実際はそうはいかない。  
核兵器には賞味期限がある。メンテナンスが必要なのである。これにも莫大な費用がかかるし、本当にアメリカが日本の単独核武装を容認するかどうか。などの現実的な問題がある。さらに、核武装するにしても、それは大陸間弾道弾のような戦略核となり、モスクワを狙うのか、それともロシア領内の奥深くにミサイルをぶち込む中距離核弾頭にするのか、それとも我が国周辺の敵性国家にぶちこむための戦術核ミサイルにするのか、様々なオプションがある。そして我が国がどのような形態のミサイルを選択するかで世界各国の我が国への対応は変わってくるだろう。  
いや、そもそも福島原発で放射線の恐怖に晒されている我が国がなぜに核武装しなくてはならないのか。矛盾しているのではないかという意見も当然にあろう。そういう指摘は出てきて当然なのである。だが、ここで私が言いたいのは、放射線への恐怖から核兵器は持ってはいけないというある種の感傷的な態度から核武装に反対するのではなく、合理的判断から核武装は日本にとって不利益であるという点である。  
そもそも使用済み核燃料などを核爆弾に転用するにはその純度を高めなければならない。そのための施設をどこに作るのか?この狭い日本のどこに放射性汚染物質を垂れ流す危険性が高い施設を作るのか?話は横にずれるが、福島原発の電気は首都圏で使用したわけだから、その廃棄物、汚染物質は使った所で処理をすべきという理屈も成り立つだろう。そして起爆システム、運搬手段の研究、保管場所などクリアしなければならない問題はあまりにも多い。今の日本で核爆弾を製造する工場があってもいいという自治体は決してないだろう。日本独自の核武装は事実上不可能なのである。  
核兵器を開発するカネと時間、人を考えればその分を通常兵器に回した方がよっぽど効率的なのである。もし核兵器が本当に抑止にのみおいて効果を発揮できる兵器だとすれば、それは実に非効率的な兵器ではないか。兵器は使えるからこそ存在意義がある。戦場で使えない兵器などにカネをかけるわけにはいかない。  
原爆一個を製造するよりも無人兵器を数百機、数千機製造するほうが敵に対してより大きな現実的な脅威を与えることができよう。使えるか使えないかわからないような兵器でチキンレースをするよりも、使える兵器によって外交の延長としての戦争を遂行できるのである。  
ここで最後に付け加えたいのは、使えない核兵器よりも使える最強の通常兵器として、大型爆弾を開発すべきという点である。既にアメリカではMOAB(大規模爆風爆弾兵器)という大型爆弾を開発している。まだ実戦では使われてはいないが、致死半径140mと言われ、8500sの爆薬を搭載しており、このような爆弾を数百発、都市に投下すれば原爆と同じような効果を得ることができる。戦争とは詰まるところ破壊しつくせばいいだけの話なのである。実際に大都市には落とすのは難しいかもしれないが、敵基地の破壊、滑走路の破壊など用途は色々考えられよう。この爆弾はあまりにも巨大すぎて、輸送機で投下する必要があるが、このような爆弾そのものを胴体にして無人の航空機にして爆撃するという方法もあってもいいだろう。こういう爆弾は核兵器と違って放射能は出さないし、実戦で使えるというメリットがある。いずれ核兵器よりも大型爆弾の時代が来るだろう。  
※我が国は単独で核武装すべきではないが、我が国の同盟国がその戦略上、核兵器を搭載した航空機、艦船でもって我が国の基地を使用することまでを妨げるものではない。 
追記:オスプレイの件  
米軍基地問題に絡み、また面倒な問題が発生した。オスプレイの配備の件である。航空機の安全性という観点から見れば危険であるといえるのであろう。だが、それがどうしたというのか。軍用機である。そして飛行機、ヘリである。絶対安全な乗り物、特に航空機などないではないか。大体にして、安全な基地などあるものか。基地を無くせというのであれば、この地上から戦争を無くしてから言え。  
新しい技術には常にリスクが伴うというのは理解できるであろう。そしてその技術を利用しているあの機体にはそれだけの軍事的価値がある、そう米軍は判断しているのであるから、米国に守っていただいている以上、配備は認めざるをえないのだ。  
では問う、米軍と同等の軍事的役割を今すぐにできるのか?シナや朝鮮が本格侵攻をしないのは米軍の強大な戦力のおかげである。平成24年夏の騒動の後、10月2日、米海軍の二個空母打撃群が西太平洋に展開している。この意味がわかるか?この後、シナらの動きはおとなしくなるだろう。もっとも今のシナは多少挑戦的な行動を起こすかもしれないが、シナが本気で米海軍と渡り合うことはまだないだろう。いいか、これが世界の現実だ。これが日本周辺の安全保障の現状である。この現実を認識してから安全保障を語れ、馬鹿どもが。  
現状では日米安保は絶対に維持するのだ。そうしないと日本はシナに併呑される。かつて、ポーランドやチェコがナチスに呑まれたようにな。  
チェンバレンはナチスを押さえ込むことができなかった。最後に英国を救ったのはチャーチルである。それを忘れるな。  
 
第六章 外交 

 

外交とは生存のための手段である  
外交とは何であるか。  
隣国や世界の国と仲良くするために交流を行うこと、そう回答する政治家や国民がいるならば、今すぐ幼稚園へ入園することをお薦めしたい。  
国境線を越えた先は、敵地であると思ったほうがいい。異文化、異なる歴史、異なる民族、異なる価値観、それらは実に面白く、興味深い。しかし、国家間の常態は戦争であり、戦争でない状態が平和である。戦争と平和は常に裏と表である。  
他国は常に他国を喰ってやろうと虎視眈々と狙っているのだ。笑顔や握手の裏には何が隠されているか判らない。今は友達でもいつ敵になって後ろから銃を撃ってくるか判らない。これが国家間の関係というものであろう。  
外交は我が国にとって経済的、軍事的な面で有利になるように交渉を進める場である。相手国にすり寄ったり、省益のために活動する場ではない。外交の先には広い意味での国益がなければならないし、日本がどう世界で生き延びていくのかというビジョンがなければならない。  
そして外交の背後には優れた軍事力がなければならない。軍事力なき外交は外交にはならない。優れた軍事力があるからこそ、相手国はこちらの話に耳を傾けるし、世界中に影響力を与えることが出来るのである。国の外では力なき説得は意味を持たないのである。国内での「お話し合い」と外交における「交渉」とはその質が全くもって違う、ということに平和憲法にドップリつかった日本人はいつ気付くのであろうか。 
地政学的発想が必要である  
地政学と聞くと、「地政学的リスク」などという言葉が投資の分野でよく使われるが、今の日本にどの程度地政学を理解している人間がいるのであろうか。日本の大学では地政学も戦争についても学ぶ機会はなく、学べるとすれば防衛大くらいしかないだろう。外交には地政学的発想が必要である。地政学には普遍的理論体系がある学問というよりも処世術の「術」に近いものがある。いわば実学的なものであると私は理解している。  
当然のことながら、その人間が生まれた国によって適用される地政学は変わる。日本には日本の地政学があり、それによって我が国がいかに国家戦略を立てるべきかが導き出される。その戦略によって、各国との外交が組み立てられ、軍備も整備される。つまり国家戦略の柱となるべきものが地政学なのである。誤解を恐れず言えば、そこには理想も思想もない。その国が地球のある場所に存在する事実、その事実から冷徹に導かれる生存のための術がそこにはある。  
では日本の地政学的戦略はいかにあるべきか。  
地政学の教科書として推薦したいのは、日本人の書いた入門書としては曾村保信氏の地政学入門がおすすめである。これは高校生程度でも十分理解できる内容であろう。世界の地政学の泰斗としては、マッキンダー、スパイクマンの書物がある。そして私の尊敬する学者の一人である中川八洋氏の「地政学の論理」がある。中川氏の書物においては、我が国の地政学戦略が実に簡明に書かれており、我が国の国家戦略がいかにあるべきか実に参考になるものである。歴史は繰り返す。必ず繰り返す。今、日本が置かれている状況は日清戦争、日露戦争前夜か、さらに遡って、幕末であろうか。  
地政学とは学校では教えてくれない科目である。しかし地政学の面白いところは、歴史、地理、政治、文化、物理、気象、化学、そして数学などとあらゆる学問分野を動員すればするほどその深みが増す。地政学は地政学を考える者の力量に合わせて変化していく、そういう術のようなものではないかと思う。  
多くの書物から得られた知識を総合すれば、我が国が採用すべき戦略は次の通りである。  
日本戦略大原則  
・我が国はリムランドの一員としてハートランドたるユーラシア大陸の勢力を封じ込め、その海洋進出を阻止する。同時にハートランド内の巨大国家誕生を阻止する。そのためにリムランド諸国と連携、同盟し、ハートランドに対抗しうるアメリカとの同盟関係を堅持する。  
日本国防戦略八原則  
・日本は島国であり、国境は海と空である。敵は必ず海と空から侵入してくるので、海空の戦力を強化すべし。  
・日本は短期決戦で勝利を得る。長期戦は戦えない。戦争を行うとすればそれは制限戦争となる。単独で戦うよりも必ず大国と同盟を結んだ上で戦うべし。  
・巨大な敵は分断して各個撃破すべし。  
・シナとロシアを一つの勢力させてはならない。シナとロシアは常に牽制させ合う。  
・シナの辺境地区の少数民族に援助を与え、内戦を起こさせるのを常態とすること。  
・ロシアの辺境地区の反ロシア勢力には秘密裏に軍事援助を行い、ロシア辺境の安全を不安定にさせておくこと。  
・朝鮮半島は大陸との緩衝地帯として有益であるから、つかず離れずで適当に相手をしておくこと。ただし、海上への進出は断固これを阻止すること。  
・日本単独で大陸へ出兵しないこと。出兵は沿岸部に短期間を原則とする。 
領土を不法占拠する外国勢力を駆逐せよ  
我が国の地図を見て欲しい。北から順番に見てみよう。  
まず、北方領土はロシアに不法占拠されている。北方の豊富な漁業資源がロシアに収奪されている。  
日本海に目を転じれば、竹島が韓国に不法占拠されている。日本海の豊かな漁業資源が韓国に収奪されている。  
東シナ海に目を転じれば、尖閣諸島が今危ない状況になっている。東シナ海の海底油田では今日も原油がシナの手に渡っているのだ。  
そして日本の周辺海域ではシナの海洋調査船という名の軍艦が海底に眠る資源の調査を頻繁に行っている。今まさに我が国の周辺は外国勢力によって脅かされているのである。我が国の危機は常に海の向こうからやってくるのだ。幕末期、林子平が警告したように我が国は海防が重要なのである。幕末の黒船はいきなり浦賀沖にやってきたわけではない。黒船来航に至るまで日本周辺には多くの外国船が出没して我が国の領土を脅かしたのである。  
今、それと同じように外国勢力は我が国の領土、領域を虎視眈々と狙っているのである。これは決して杞憂ではない。シナや朝鮮人の友好の笑顔の裏にはかつての恨みを晴らそうとして、鬼の形相が隠れていると見たほうがいいだろう。※この表現がオーバーではないことが平成24年の夏に明らかになったことをここに明記しておく。  
いかなる理由があろうとも領土の蹂躙は絶対に許してはならない。日本は地続きの国境体験がないのでこの辺の認識が甘すぎるのである。  
特に韓国は強かである。韓流ブームなどといって、日本人の老若男女を俳優や歌手のパフォーマンスで見事に騙している。あれで日本人の韓国に対する警戒感は大いに緩んでいる。しかし、今、この瞬間にも韓国は竹島を実効支配していることを忘れてはならない!  
戦後の日本政府は、領土を不法占拠している外国勢力に対して非常に甘い。これは貧弱な戦力しか持たない国家として当然の帰結ではあるが、いつまでもそのような態度を続けていてはやがて日本本土までに侵略の手が伸びてくるだろうし、実際に土地の買い占め、水源地の買い占めなどが始まっている。武力を使わず、日本国内の法整備の隙間を縫うようにして敵は日本を侵略しているのである。  
このような事態を見過ごす訳にはいかない。国内における外国人の土地取得については厳正に対処して、取得エリアの制限、取得面積の制限、国防上、治安上の観点から精査して許可制とすべきである。  
そして領土を実効支配している地域については、不法占拠を実力でもってこれを排除するべきである。すなわち領土問題は戦争でもって解決するという態度を示すべきなのである。外交上の問題として「領土問題はない」とする表現を用いる場合がある。それは分かる。  
しかし、いつまでも実効支配を許す訳にもいかないのも理解できよう。領土問題については時間が解決してくれるわけではないのだ。国内の民法上の問題のように取得時効などという発想はない。国家間の問題は主権と主権が剥き出しでぶつかり合うものなのだ。「話し合い」で解決などという甘っちょろい学級会レベルで領土問題を論じられても困るのだ。  
日本の領土を不法占拠しても日本は何もしない、何もできない、というのが周辺各国の基本認識である。実に情けない。泥棒が家に入ってきても自分で撃退も出来ないのだ。実際には泥棒を撃退できるだけのパワーも武器を買うだけの資金もあるのにだ。何が足りないのか、それは「勇気」である。  
竹島についてはあれは明確に日本領土であるから、不法占拠している韓国の部隊を撤収するよう警告すべきだ。例えば、撤収期限は2日の後として、撤収しない場合は竹島に対して猛烈な砲爆撃を加えて不法占拠する部隊の殲滅を図る。殲滅後は軍を駐屯させ、恒久基地化を図る。  
韓国との全面戦争もありうるので、十分な戦力を蓄えた上での奪還を計画しなければならないし、日韓の局地戦に止めるため、事前に米国政府に了解を得ておく必要があろう。米国には何らかの手土産を用意して置く必要がある。  
北方四島についても同様の対処を行いたいところだが、相手は大国ロシアである。最悪の場合、核報復もありうるのでこれは慎重に対処しなければならない。現状では交渉による奪還は不可能である。今までで一番のチャンスは、ソ連崩壊後のロシアが弱っていた時期であろう。あのチャンスはもう当分来ないであろうから、ロシアが再び弱体化した時を狙って交渉を仕掛けるか、ロシアに軍事的圧力をかけて局地戦に持ち込めれば奪還のチャンスはあるかもしれない。後段で述べるが、北朝鮮を征伐した時に日本海側の領土を占領して、これを北方四島と交換するという手もあろう。ロシアにとってみれば、太平洋への出口をいくつか失うことになるが、朝鮮半島の付け根を抑えることが出来、朝鮮半島への圧力を高める機会を得ることができるので、乗ってくるかどうか面白い所であろう。シナにとっては面白くないし、シナとロシアの緊張を高めることになるが、それはこちらにとっては有益である。一方アメリカにとってはロシアの南下は面白くないが、シナがロシアと緊張を高めれば、太平洋への圧力がその分減る。韓国を緩衝地帯として引き続きアメリカが朝鮮半島に影響力を保持できればいいのではないか。北朝鮮征伐後はシナ、ロシア、アメリカ、韓国の4カ国で北朝鮮を期限付で分割統治すればよい。我が国は高見の見物でいいのだ。もちろん同盟国であるアメリカとの協力は継続するが、我が国としては失った北方領土を奪還できればそれでいい。  
尖閣諸島については、恒久基地化を図り、シナ、台湾などの干渉を排除する。領海侵犯については、武力によってこれを排除すると明確に宣言し、実際に調査船や漁船が侵入した場合は見せしめに撃沈すればよい。日本は本気であるという所を明確にしないといつまで経っても舐められっぱなしである。「何を過激な!」という非難の声が聞こえてくるが、では問う。尖閣が奪われたらどうするのか?尖閣の次は沖縄だ。沖縄も奪われたらどうするのか?例えは悪いが、いじめに例えてみると、最初は数千円のカツアゲが、数万円になり、数十万円になり、最後は預金通帳や土地建物の権利証、実印まで巻き上げられるようなものだ。ポイントは「付け上がらせるな」ということである。個人間の話であれば警察などに相談すればいいが、国家間の問題は自力救済で解決するしかないのである。  
以上の策を実行する場合、必要なのは「勇気」と前章で述べた「軍事力」である。  
この原稿の第一稿は平成23年の秋頃に書いていたものである。平成24年、とうとうシナと韓国は日本に対して領土侵攻の野心を燃やし始めた。遅かれ早かれ何らかの形で軍事衝突は起こるであろう。いや、今こそ軍事衝突を行って、日本は太平の眠りから覚醒すべきなのである!!!!  
かつて、明治維新がペリーの黒船来航から始まったように、日本の新世紀維新は尖閣と竹島から始まるのである! 覚醒せよ国士達よ! 敵はシナ、朝鮮、ロシアである! この新世紀は新世紀にふさわしい維新国士を求めているのである!  
恐れるな。着々と軍備を蓄えて、来たるべき皇国日本の防衛戦争を戦い抜くのである。薄汚い民主党政権に日本を任せていたら我らの美しい国土は崩壊していくであろう。もう一度言う。  
覚醒せよ国士! 覚醒せよ日本国民! 覚醒せよ大日本帝国! 
北朝鮮を征伐せよ  
後世の歴史家はその著書の中でこう述べるであろう。20世紀から21世紀にかけての人類史の中における史上最悪の国家四天王とは北朝鮮とナチス、ソ連、中共であると。  
その中でも最も地獄的な性格を残しているのは北朝鮮である。ここで詳しく述べるまでもなくその犯罪性については人類史上最悪のレベルである。テロ行為、テロリスト支援、麻薬製造、偽札製造、そして誘拐である。北朝鮮がやっていることはマフィアと同じレベルであり、本来であればこんな犯罪国家は早々に滅ぼす必要があるのだが、どういうわけか今まで生き残ってしまっている。  
奴らは、白昼堂々の拉致という卑劣な犯罪行為を行い、北朝鮮の工作員が国内に潜入し堂々と工作活動を行っている。ここ数年は遅すぎた経済制裁を行っているが、以前は我が国から犯罪国家へと嗜好品、ハイテク関連部品、資材、工作機械が輸出されていた。これらは犯罪行為であるし、日本人や在日朝鮮人の仕業であるが、こんなことを今まで許してきた政府は実に弛んでいる。  
戦後の経済的繁栄と引き替えに我々は何を失ってしまったのだろうか。  
犯罪国家に国を蹂躙され、人さらいが横行している。その犯罪国家が北朝鮮であることは明らかになった。そんなならず者の犯罪国家に対して我々は何を為すべきなのか。北朝鮮のやっていることは、これは我が国に対しての堂々たる宣戦布告である。  
こんな犯罪国家に人道支援、経済支援など無用、不要である。地上の悪、人類の敵は徹底的に破壊、殲滅して我が国の正義を全世界にアピールすべきである。  
拉致被害者達は必ず生きている。北朝鮮は被害者達を交渉の材料として利用するために生かしているはずである。ではこちらが交渉を打ち切ったら被害者達はどうなるのか。通常であれば殺されると考えるだろう。だが本当に殺されるだろうか。我が国が北朝鮮を滅ぼす軍事行動を発動したときに、北朝鮮の指導者連中は何を考えるだろうか。奴らはまず自分たちの亡命を考えるだろう。もはや拉致被害者達に関心など持たないはずだ。  
奪われた同胞達を救出するのが国家の使命である。  
日本政府は北朝鮮に宣戦を布告し、奪われた同胞達を救出せよ! 
辺境からシナを混乱させ共産シナを解体  
今、シナは世界の工場、市場として先進各国から注目され、多くの外資を導入して経済発展を遂げている。しかしその一方では発展は沿岸部に限られ、内陸の農村部は貧困に喘いでいる。都市では民主化の運動を主張する者が弾圧され、情報操作が堂々と行われている。世界の大勢とかけ離れた一党独裁の共産シナ帝国の有り様である。急激な経済発展の後にくる大衆の政治意識の目覚めを抑圧しておきながら、一部の特権階級を優遇した前近代的な政治、経済運営を行っているのがシナの実体である。まさに「清」「明」帝国が復活しているのである。もっとも私はシナというものは元々そういう帝国であると認識しているので、米国のように人権問題でどうこう言うつもりなどない。  
シナは国内に政治的、経済的不満が高まれば、外征をすることでその不満を反らすなどというやり方をいまだに行っている程度の低い巨大帝国である。だが、かの帝国は巨大な軍事力を持ち、実際、周辺各国に軍事的圧力をかけており、我が国もその脅威に晒されている。そういう状況はリムランドたる国々にとっては面白くない。  
我が国の勢力圏内に侵入してくるシナを撃退するのは当然として、同時に、シナに対していかに政治的工作を行うかが問題になる。  
シナの強みはその巨大さである。広大な面積と膨大な人口である。これをうまく使えば経済は発展する。しかし、その強みは同時に弱みでもある。広大な国土を持つが故に、その内部にはいくつもの異民族(漢民族から見れば)を抱え、シナ辺境の政情は不安定である。膨大な人口を抱えるが故に、その支配が辺境にまでは中々及ばないのである。チベットの悲劇のように、漢民族を送り込み、チベット民族を滅ぼすような悪魔の所業を実行しているのがシナの実体である。  
だが、そこがシナの弱みなのである。シナは内部からの崩壊に弱い。シナの歴史を見れば、常に周辺の異民族の反乱によって王朝が交代している歴史である。これは現代においても十分応用できる。  
すなわちシナ周辺の民族自治区の民族独立派に経済支援、武器支援を行い、シナの辺境を混乱させ、共産党一党独裁体制を揺さぶるのである。沿岸部においては我が国と米国の海軍力によって圧力をかけ、内陸部においては異民族のテロ、ゲリラ、蜂起によって混乱を生じさせるのである。我々が望むのは超大国たるシナではない。適当な市場と適度な工場を提供してくれるだけでよいのだ。  
強い敵は分割、分裂させ、米国のような強い者に支配させればよい。我が国は高見の見物で良いのである。 
ロシアの脅威に対抗せよ  
我が国にとっての最大の仮想敵国はロシアである。ユーラシア大陸の北方から中部にかけて、ヨーロッパからアジアにかけて広大な面積を所有するロシアはまさにハートランド帝国である。  
その広大な領域において1億4千万(ソ連時代には3億人)の人口と豊富な天然資源を擁しており、知的水準も高く、米国に次ぐ核保有大国である。かつては世界最強と謳われた陸軍を保有し、帝政ロシア滅亡後は世界初の社会主義国家を成立、社会主義とは名ばかりのソ連帝国が70年にわたって世界を脅かした。  
そのソ連帝国も滅びるべくして滅び、ロシア連邦が成立し、世界は安定するかに見えたが、ロシア人の行動原理は変わらない。自らの領土拡大を指向し常に南下しようとする性質はロシア人の遺伝子に組み込まれているのだ。極寒の地と氷に閉ざされる港から、暖かな大地と不凍港を求めてロシアは必ず南下するのである。  
経済体制が資本主義だろうが社会主義、共産主義だろうが、経済制度によって民族の行動原理は変わるものではない。ロシア人は強かである。自らが相手に勝てないと判断したときはすぐに引く、そして数十年の歳月を経て、相手が弱体化した時、油断した時を狙ってまた仕掛けてくる。この歴史を繰り返しているのである。つまりロシア人は今も北海道を狙っているし、朝鮮半島や旧満州を狙っているのである。ロシアの侵略の歴史は中川八洋氏の「地政学の論理」に詳述されているので是非とも参照されたい。  
ここで興味深いニュースを一つ紹介しよう。  
プーチン首相は旧ソ連諸国と経済統合を進めて「ユーラシア連合」なる機構を創設するという構想を発表した。一度は分離、独立した旧ソ連諸国を再び一つにしようという試みである。欧米は「旧ソ連の復活では」と懸念を表明し、それに対してプーチンは「ソビエトの復活はあり得ない」と強調している模様である。  
確かにプーチンの言う通り「ソ連」そのものの復活はありえない。今更社会主義経済体制を中心とした国家など作り上げることなど出来るわけがない。プーチンが目指すのは「ロシア帝国」の復活である。ユーラシア連合とは、旧ソ連の領土の復活を意味し、それはかつてのロシア帝国の復活を意味するのである。再びロシアが強力なハートランド国家として復活すべく行動する時がきたと見ていいだろう。  
ロシアのハートランド国家への指向を簡単に書けば次の通りである。  
ロシア帝国 → ソ連 → ロシア連邦 → ユーラシア連合(新生ロシア帝国)  
ソ連が崩壊し、ソ連の軍事力が弱体化した時、日本の防衛政策は北方重視を見直してしまった。これは大きな間違いであった。今こそ北方重視の軍備増強政策を新たに復活して北方からのロシアの脅威に対抗しなければならない。  
現在の我が国の防衛政策は、シナの海軍力増強を脅威と捉えて、離島防衛、対テロ作戦を主眼に置いているが、これは全体の見方としてはある意味正しいが、北方軽視、兵力の削減など背後にある真の脅威を見逃しているのではないか。  
財政が厳しいのは判る。しかし、国家が滅んでは財政も福祉もないではないか。まずは国家の安全保障を確立し、他国の干渉を許さないという揺るぎない信念を世界に示すことで国民の士気は高まり、世界の信頼も得られるというものである。国家存立の理念と思想を排除した背骨なき国家に繁栄などはあり得ないのだ。  
平成23年8月、民主党菅内閣の総辞職を受けて、9月に野田内閣が発足した。その間のゴタゴタなどにここでは敢えて触れないが、この時期にロシアが露骨にも挑発してきたのは特筆に値する。  
ロシア軍のTU95爆撃機は対馬付近から日本領空に接近、九州の西から沖縄本島の南を経由して太平洋上から北上、国後付近で空中給油をして再び南下しまた北上したらしい。挑発なのか偶然なのかは判らないが、野田総理が福島原発を訪問しているときに爆撃機は福島県沖を北上したとのことである。ロシア空軍機は悠然と日本列島を一周したのである。  
外交姿勢を試す意図もあるのだろう。だが、これは試しているだけではない。日本政府を舐めきっているからこそ、こういう行為をするということだ。もし、我が国に極東ロシア軍に十分伍するだけの戦力とシナを抑止できるだけの十分な戦力があれば、こうも露骨な挑発などするわけがなかろう。前章でも述べた通り、我が国は今以上に軍備を増強、充実しなければならないのである。  
リムランドである日本は今こそ、欧米諸国と手を組んでロシア、シナを封じ込める世界戦略を展開しなければならない。新たな冷戦が始まるのか、それとも第三次大戦の前兆か、我々は新たな戦争の世紀に突入するのかもしれない。冷戦後は局地紛争や対テロ作戦が中心になるだろうと多くの識者が言う。その通りに今までは動いてきた。しかし、歴史は人間が作り出すもので、その人間が構成する国家と国家間の関係は日々変化している。未来など分かりはしないのである。最も重要なことは危機を予測し、対策を考え、戦いに備えることである。その場合の最大の敵は、脳天気と平和ボケである。すなわち、国防の真の敵は日本国内にいる無能力者達なのである。 
日米同盟について  
日米同盟は重要である。ここまで読んでいただければ私が日米同盟を重要視していることは十分伝わっているかと思うが、改めてここで強調しておきたい。  
世の中には長いものには巻かれろ的な発想から日米同盟を重要視する向きもある。確かにそれは全体においては間違ってはいないが、本質を理解した考え方ではない。  
日米同盟が重要なのは以下の点においてである。  
・アメリカは世界最強の軍事力を保持していること。  
・南北アメリカ大陸はハートランドに唯一対抗できる地政学的位置を占めていること。  
・「自由」を重んじる国柄であること。  
・太平洋を挟んで日米両国という大国が存在しているという地政学的事実があること。  
ざっと上げるとこの四点である。まだまだあるだろうが、ここでは上記の四点を中心として私の考えを述べたい。私が重要視するのは、アメリカの地政学的位置である。ハートランドがある世界島と太平洋、大西洋、北極海でもって隔てられ、それを天然の障壁となし、さらに農産物生産量、天然資源、人材にも恵まれて世界をリードしているのが北米である。  
アメリカは単独でも十分生きていける国である。それは所謂モンロー主義に代表される外交政策にも見られるわけだが、一方でマニフェストデスティニーによって西部開拓からさらに太平洋へと進出し、巨大市場であるシナを席巻せんとするのがアメリカのアジア戦略の根幹にある。  
そのアジア戦略と日本の大陸政策がぶつかったのが大東亜戦争の遠因の一つであろう。つまり、この点、大陸政策において、日米は妥協点を見いだせるはずだったのだ。我々はここから学ばなければならないのである。我が国は大陸を軍事的に支配しようという野心を持ってはならないのである。これがアメリカの逆鱗に触れることとなるのである。  
我が国の大陸政策はアメリカと歩調を合わせて、アメリカの逆鱗に触れることのないよう顔色を伺いながら進めるべきだろう。我が国からシナとの軍事的友好関係やアメリカを抜きにしたシナとの経済的なパートナーシップなどを提言すべきではない。我が国はあくまでリムランド諸国最大の橋頭堡としてアメリカとの同盟関係を維持すべきなのだ。  
シナが日本を支配下に置いた場合に、次は必ず、アメリカとシナとの間で深刻な対立が起こるだろう。太平洋への出口を確保したシナは大海軍力を整備して必ずアメリカと対決する動きをするだろう。それは第三次世界大戦を引き起こすことになるかもしれない。何を大袈裟なと苦笑いをする御仁もおられるかと思うが、果たしてそうであろうか。  
我が国の地政学的位置は、大陸からの圧力を受けて弱める機能を持っているのだ。すなわち大陸の国家が太平洋へ出ないための砦としての機能を持っているのである。ゆえにアメリカは日本に軍事基地を置きたいのだ。これはアメリカ本国を防衛するためであることはもちろん、ハートランドが海洋へ進出することを妨げるための重要な任務が我々の住む列島には宿命づけられているのである。  
その点を十分に理解した上で日米同盟を論じるべきであろう。大東亜戦争で負けたとか、ABCD包囲網が悪いだとか、日本人移民を差別したとか、そういう小問題にとらわれていては戦略の本質は見えてこない。国家が生き残るにはどうしたらよいか、まずはそれを冷徹に考えて打つべき手を打つ。それが外交というものであろう。  
日米同盟を重視する者に対しては、「親米ポチだ」とか、親米保守はあり得ないとか、まあ聞けばごもっともな話ではあるが、現実にアメリカとの同盟なくして今日の日本の物質的な繁栄はあり得ないし、この先の安全保障も立ちゆかなくなるのは自明の理であろう。  
日米同盟に感情的に反論する御仁を見ていると、思春期の中学生が経済力のある親に反抗している姿を思い浮かべる。  
日米同盟は重要である。しかし、日米同盟絶対論だけでは思考停止に陥る。戦略を考える上で一番怖いのは、思考停止に陥ることである。物事の一面だけにとらわれて、重箱の隅を突くような思考方法では最後に判断を誤り、やがては滅びの道を歩むことになろう。  
外交においては、要は大人の判断というか、多角的な面から総合的に判断する能力が必要ということになろう。こういう力は才能もあるが、やはりある種の現実的な修羅場をくぐらないと身につかないチカラであろう。 
外交とは歴史と伝統を発信すること  
外交とは国益を追求して生存していくための手段という面もあるが、では何が国益なのか。外交には企業のように損益計算書があるわけではないので、数字で明確にわかるわけではない。ましてや中世の戦国時代ではあるまいし獲得した領土の数でもない。  
国益とは一面では短期的な外交成果として現れる面もあるが、一面では長い時間をかけて現れてくる面もある。  
短期的な外交成果としては、領土問題の解決によって新たな領土、領海を獲得し、それによって天然資源を得られることなどが上げられる。また、平和条約の締結、友好関係の樹立、貿易協定の締結などにより、貿易が活発化し、人や資金の動きが活発化し、観光開発が進展することなどが上げられよう。それらはもちろん国益となるが、今の我が国の外交はそういった短期的な外交成果だけを追っているようにしか見えないし、そういった外交案件は目立ち易いし、パフォーマンスに利用される傾向がある。  
重要なのは長期的な外交成果である。長い時間をかけて仮想敵の周辺に我が国と同調する集団を作り上げ、将来の危機に備えて伏兵を配しておくこと。地道な経済援助、武器援助を継続して我が国の存在感を浸透させること。カネのチカラで資源を買うだけではなく、その地に長期間根ざして現地の信頼を得ておくこと、などが必要である。これらは諜報的な面もあるが、外交工作とは本来そういうものであろう。  
何よりも重要なのは、日本という国の存在感を全世界に発信し続けることである。悠久の歴史と伝統ある日本の美しい姿を、世界に発信し続ける努力を惜しまないことである。工業製品だけの日本ではない、アニメやマンガだけの日本ではない、我々が愛してやまない美しい山河、四季の移ろい、尚武の気風、その他諸々の文化や諸芸、そういった日本の姿を日本国民一人一人が世界に伝える役割を担うべきだろう。円高になれば買い物旅行で大挙して出かけてブランド品を買い漁る浅ましい日本人だけが日本人ではない、ということを世界に示すべきであろう。 
一元化された情報機関の設置を急げ  
アメリカにはCIA、NSA、イギリスにはMI5、MI6、ロシアには連邦保安庁、対外情報庁などがあるように、各国には様々な諜報機関がある。これらは映画や小説でお馴染みのスパイ組織であるが、我が国にも当然そのような対内外諜報機関が必要なことは言うまでもない。我が国には公安調査庁、警視庁公安部などの諜報機関があり、外国のスパイ、不穏分子、左翼、右翼の活動家、カルト教団などの監視、調査などに当たっている。対外情報収集については、防衛省情報本部、内閣情報調査室などがその任務に当たっている。  
国内の不穏分子の監視、対外情報収集は当然に重要ではあるが、関係省庁にそれぞれ情報部門が存在していることで、縦割り行政の弊害はないのか不安である。いや、そこには日本の官僚組織に付きものである縦割り行政の弊害があるはずだ。特に外交部門における情報活動というものが、国策の立案に与える影響は大きい。独自で情報を収集し、情報を分析し、どう対処すべきか、という点が重要になる。  
我が国の情報組織は、将来的には国内の監視に当たる組織と対外諜報機関の二本立てとし一つの組織で統括すべきである。各省庁に分散している組織を一元化してより効率的な諜報活動を行えるよう組織改編を行うべきであると考える。  
例えば、新たに内閣府の直轄で国家情報庁を設立して、その下に国内向けの諜報機関として公安局、対外諜報機関としては、中央情報局を設置するという形である。国家情報庁の長官は国務大臣とする。  
近年ようやく我が国のスパイ衛星も打ち上がり、我が国の情報収集能力は向上してきた。今後は我が国独自の情報収集網を全世界に張り巡らせる必要も出てくるだろう。さらに、国内に潜伏する北朝鮮、ロシア、シナなどのスパイの監視などスパイ天国の汚名を返上するために徹底的な対策が求められる。こういうことを言うと、戦前への回帰だなどと大合唱が起こりそうだが、国家として当然の情報対策を行うべきだと言っているだけのことである。スパイはあらゆる形で偽装して、(例えば学生、ビジネスパーソンとして潜伏、日本人と結婚して日本に潜伏など)国内に潜伏しているのである。国際化などという空虚な言葉に踊らされて仮想敵に全てをオープンにすることほど間抜けな話はない。  
ここで重要なことは、いくら立派な省庁名を付けて立派な庁舎や優秀な人員を集めても、その情報をどう生かすかという政治家のセンスにかかってくるという問題である。これはあくまで私の想像でしかないが、我が国の官僚、役人諸君はバカでもアホでもない。少なくともあの小難しい公務員試験に合格するくらいの要領の良さと、記憶力、論理的思考力、努力する生真面目さを持っているはずなのだ。こういう人材を政治家はもっと有効に活用しなければならないのだ。仮に国家情報庁のような組織を設立したとすれば、おそらくそこには、有意義な情報が集まってくるし、その分析もすばらしいものが上がってくるはずだ、しかし、最終的に政治家がその情報をどう国策に生かすか、つまり、どう決断して、国家を動かすかという点になると、甚だ心許ないのである。 
国防外交篇 終わりに  
国家の外交と防衛における周辺の小さな変化は常に起こるものだが、大局に変化はない。国家における政府が選挙によって変更したとしても外交と国防の基本方針に異常(急激)な変化があってはならない。しかし、今の我が国の政府はその大局を見誤り国家を滅亡の淵へと追いやろうとしている。特に、鳩山、菅の民主党内閣は日本史上最低最悪の政権であった。  
まず、本書は、近代日本の始まりである明治維新から論を展開し、外交、国防を中心として、日本をいかに護るべきかを述べた。これは我が国の本来あるべき国防と外交の姿を大局から述べたものである。  
たかが一度の敗戦によってなぜ日本人の魂までを外国に売り飛ばさなければならないのか。物事の本質を見極めずに表面だけを礼賛、批判するお粗末な風潮が平成日本を覆っている。我々国士はそのふざけた風潮を一掃する努力をすべきだ。  
文中において一部敬称を略させていただきましたことご容赦願います。中華人民共和国の略称は一般的に「中国」でありますが、我が国には中国地方があり混同しやすいので、支那をカタカナ表記した「シナ」を使用しております。「シナ」という表記が気に入らない方は「中国」か「中共」「共産中国」に読み替えて下さい。  
 
武士道と日本人気質

 

日本は正確に言うならばアメリカ同様、植民地は持ちませんでした。但し、実質的には中国で満州国と言う国作りに深く関わり、当時のことをさほど知らない僕にまで台湾にもかなりの影響を与え、植民地化と変わりのない干渉をしたような印象を持たせます。韓国に対しても同様の印象を否めません。  
ことほど左様に日本の外交には馬鹿馬鹿しい歴史があるのです。  
それらの国々において鉄道を敷き、電気.電信.電話などのもとも提供しておきながら敗戦後は一切の感謝もされず、それどころかそれらの国々からは誹りだけを受けることとなり、50年を優に越える今日に至るもいまだに非難の声は絶えません。それが何であるかは言うまでもありませんが、日本人は勢いのある時は良しとしても衰えた時に乗ぜられる脆さもあるのです。その後始末さえ上手には出来ないのも日本人です。戦争は非情なもの。敵も味方も人が人であっては生き抜けない状態に陥るのが常ですが、特に負け戦は全ての責任がのしかかって来るものです。戦勝国アメリカは日本を徹底的にたたみながらも感謝すらされたではありませんか。その点でも日本は大敗です。  
ヨーロッパでは戦後ヒトラーのナチス.ドイツは当然その責任を背負うことと成りました。でもドイツ自体はさほどひどい風当たりなく、現在も大きな怨みは残しておりません。ヒトラーのナチス.ドイツが背負って消滅したからでしょうか。日本に比べ戦後処理が上手であったのかどうかは深く学んだことがありませんので判りません。そのうち機会を見付け研究して見たいと思っております。  
大平洋戦争の口火を切ったのは日本であり、国力が10倍以上の強国に挑んだ愚かな国家と自国の国民からさえ非難されたほどです。正に四面楚歌です。山本五十六元帥は開戦反対論者でありながら開戦時の最高指令長官でもあったのが皮肉です。パール.ハーバーの奇襲成功に湧いた国民を見て“今に同じ国民が私に向かって石を投げることになる”と言明したとも聞きます。当時日本の属国と双方ともに認め合った国々も敗戦後は態度をひるがえしましたが、勝てば官軍負ければ賊軍。日本のその潔さからすれば属国に責任を負わせるような無体を晒すならばその誹りは一身に受けることに甘んずる。武士道で計るとその心が日本に無かったとは言切れません。そのお陰で戦後今日に至るも、日本は近隣諸国から責め続けられているとも言えます。言い訳下手な民族なのです。正当化は武士道に反するからでしょう。  
説明させて頂きます通り、武士道にはある危うさが遠い昔から内蔵されているのです。それはその気高さを強く誇るが故に起る矜持です。矜持を持って何が悪いか。ですがサムライが持ち日本人が感じる矜持の中に潜む悪魔がいつも騒ぎ、問題をおこします。その実体とは、他を寄せ付けない大高慢(自分が優れていると信じ他をあなどる)それなのです。  
新渡戸稲造の武士道にも紹介されたお話ですが、あるサムライが歩いていると、町人が“おサムライさま、片にノミがたかっております”と親切に教えると、そのサムライはものも言わず刀を抜きその町人を一刀の下に切り捨てたのです。  
理由はサムライと言う高い位の人間に、事もあろうに犬畜生と同じノミがたかっているなど無礼千万。と言うものです。気高い筈の誇りがそれこそ畜生にも劣る行為に及んでしまう例なのです。このように個人的であればまだしも、  
国対国の国際問題では通用するはずもない理解されない反応です。  
古い昔の思想など現代人には残っていないと思いながらも、今もなおサラリーマンを含む企業人の中にそれを受け継いでいる性を残念ながら時折見受けます。  
我らは企業戦士である。利益を追求し組織を育てる。その為には滅私し、家族をも顧みず任務に没頭する。と言う信条です。それ故につい排他的になり、自分の持つ価値観のみを認め行動します。それが功を奏すると増々増長し、自尊心は矜持を超え思い上がって行くのです。これぞ正に古き悪しき武士道の最も危うい短所であることに気付く人間がどれほどいるでしょう。今の若者が受けた教育は当然昔のものとは違います。悪い表現をすれば自分を軸にした西洋人並みの個人主義を植え付けられながらも小説やドラマ、日本特有なものの本などから部分的に武将の戦略法などをつまみ取り、勇ましい生きざまを頭に描き、自分を鼓舞し頑張っているのです。悪いことでは決してないのです。しかし、それこそが日本の足をすくい、前進を阻んで来た根源であることも知って欲しいのです。  
時のヒーロー、かのホリエモンが進駐軍と言う見出しで叩かれたことがあります。戦勝国の(買収、吸収の勝ち組)“奢り昂り”を評した言葉なのですが、それであれば表現を変えねばなりません。戦後、日本へ進駐して来たアメリカ軍に戦勝国の“奢り昂り”など微塵も感じさせないものがありました。それどころか当時の日本にとって救世主として受け入れられたほどです。南方で玉砕した日本兵、本土近くの沖縄や硫黄島の無惨な玉砕。それも軍人軍属であれば別ですが、広島長崎への原爆投下、東京大空襲での一般人の大量殺害等々とアメリカ軍への怨みや嫌悪感は日本中に溢れていたはずなのです。だがしかし、一旦アメリカ軍が上陸するとその印象が一気にくつがえされました。GIの一兵卒にいたる迄、実に紳士的であり、これがあのような無惨な戦いをしたのと同じ国民とは信じられないほどでした。  
敗戦国が戦勝国の進駐を受ける心は想像に難くありません。いかなる蹂躙も理不尽も覚悟しながらも不安で迎える心です。それを見越しての進行戦略をすでにアメリカでは考えていたのでしょう。子供であった僕は町角に立ち楽器を奏でながら物乞いをする旧日本の傷痍軍人(傷付き手足を失った兵士)を見て残酷にも醜いと感じたものです。それに引き換え颯爽と闊歩する米兵はカッコ良く映りました。当時のアメリカ人は政策が上手であったばかりではなく真面目で良い人間であったように思えます。しかし、アメリカに戦勝国のノーブレス.オブリージュがあったかどうかは計り知れないところです。  
話しは少しずれてしまいましたが、武士道から来る日本人の誇りと自尊心を超えた大高慢(自分が優れていると信じ他をあなどる)。それこそが武士道のパワーであると同時に拭い切れない最も恥ずべき思い上がった感情なのです。現代の若者は武士道本来の思想も知らず、その勇ましさだけに無意識に着目し、飛んで火に入る夏の虫になってしまうのです。特に、企業に携わる若者は日本本来の大和心や風土を無視してはなりません。それではアメリカの進駐軍にもかなわないことになります。  
僕が今回この原稿のタイトルを『武士道と日本人気質』としましたのは、武士道の持つ大高慢の心を改めない限り、昨今流行りの企業の合併や買収を全う出来るはずはないと思っています。多くの実業家とお話させて頂く中、残念ながらかなり進歩的な方もこの気質まで捨て切れてはいないのです。矛盾して聞こえるかも知れませんが本来の武士道の精神を重んずる方ならば今の時代での合併や買収も勝者の大高慢を抑え、全う出来る筈と信じる所です。  
何れにしろ、どの点でも武士道本来の意味をもっと研鑽する必要性を感じます。やはり武士道.大和心こそ日本が永らく育んで来た良心と思いたいのです。日本の料理に昔から“和え物”と言うのがあります。これぞ正しく和えて各々の食材の良さを活かしたものではないでしょうか。  
いま、さらに僕は武士道の退化を受け入れず、進化を模索して行くつもりでおります。  
 
東京裁判日本の弁明 / 弁護側資料

 

東京裁判所ではマッカーサー元帥の意志が法理に優先  
検察側の立証に入る前に、昭和二十一年五月六日、清瀬弁護人から、裁判長その他個々の裁判官に対し、裁判官としてこの法廷に立つ資格を欠く者との理由で忌避申立がなされる。ウエツブ裁判長の場合、同氏が既にオーストラリア政府の命令でニューギニアに於ける日本軍の戦時国際法規違反事例を調査し、報告書を提出しているという前歴があった。ウエツブ氏は同じ事件について検察官と裁判官の二役を務めていることになる。この忌避申立は従って法律的には極めて当然のものなのだが、この裁判所では「条例」制定命令権者マッカーサー元帥の意志の力が一般的法理に優先するとの理由でこの動議は却下され、その他の裁判官に向けての忌避も具体的な名前が出ないうちに却下された形になる。
五月十四日、ブレイクニ弁護人の「爆弾発言」  
広島・長崎への原爆投下という空前の残虐(これこそ起訴状に謂う「人道に対する罪」)を犯した国の人間にはこの法廷の被告を裁く資格はない、というものだ。  
この発言の衝撃的により、「条例」に定めてあるはずの法廷に於ける日本語への同時通訳が故意に停止され、最後まで復活しなかった。日本語に通訳されればそれは日本語の法廷速記録に留められて後世に伝わるであろうし、第一法廷の日本人傍聴者の耳に入り、その噂は忽ち巷間に広がってゆくであろう。そしてその発言にひそむ道理の力は、反転してかかる非人道的行為を敢えてしたアメリカという国の国威と、欺瞞に満ちたこの裁判所の威信を決定的に傷つけ、原爆の被害を受けた日本人の憤激の情を新たに著しく刺激するだろう。そこで同時通訳は瞬時に停止、早口の英語の弁論を理解する用意のない日本人傍聴者には、現在そこで何が生じているのか見当がつかぬ、という仕儀となつた。一般に人々がその弁論の内容を知ったのは、実にそれから三十六年余を過ぎた昭和五十七年の九月、講談社の企画・製作に係る長編記録映画『東京裁判』が公開上映された時に、その字幕を通じてのことである。  
国家の行為である戦争の個人責任を間ふ事は法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるのであつて個人に対してではない。個人による戦争行為といふ新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである。  
戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。殺人行為の正当化です。たとひ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は間はれなかつたのです。キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。彼等は殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もさう思ふ。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。  
何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違反なのか。原爆を投下した者がいる! この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がいる! その者達が裁いているのだ!  
この件りは英文の速記録には載せられてある。だがそうした人は専門的研究者以外には極く少数だったであろう。だから特筆すべきこの挿話も、言論統制下の日本だったので、昭和五十七年までは一般には知られることのないままに歴史の行間に埋没していた。  
原子爆弾と共産主義の脅威は法廷の二つの禁忌として話題になるのを避けていたが、ブレイクニ弁護人は二十二年三月三日弁護側の反駁立証の段階で再びこれを法廷に持ち出した。原子爆弾投下はへーグ条約第四条への明白な違反であり、それは日本軍による同条約違反を相殺する性格のものであるが、裁判長は、この法廷は日本を裁く法廷であって連合国を裁く場ではない、との十八番の論理を以て、ブレイクニが証拠として提出した「スチムソン陸軍長官の原子爆弾使用決定」を報ずる新聞記事を却下し、証拠として受理することを拒否した。
「南京問題」の嘘八百  
これは全ての日本国民にとって寝耳に水の衝撃だった。南京問題の証言に法廷に呼び出された検察側証人達は、簡単に言えばそこで思う存分に法螺を吹きまくり、見て来た様な嘘をつき放題に言い散らす。新聞報道を通じて唯一方的にその虚構を耳に吹きこまれる一般の市民、法廷内で直接それを聞かされる弁護人、記者、傍聴人達、いずれも遺憾ながらそれに反駁する力も手段も持ち合せていない。凡そ或る事実が「あった」という証明は証拠さえあれば誰にもできるが、「なかった」という証明は極めて困難である。占領軍が意図的に作り出したものであって、強制される情報に対してのこの無抵抗状能を作り出す手段が、新聞・放送及び一切の情報・言論論機関に加えられた悪名高き「検閲」であった。  
占領軍により日本の報道機関全般に向けての検閲は、占領の開始と殆ど同時に発足した。当然(極東国際軍事裁判に対する一切の一般的批判)が、削除又は掲載・発行・放送の禁止の対象として掲げられていた。従って東京裁判法廷に於ける南京問題の検察側証言が、全て如何に悪質な捏造と誇張の所産であるか、たとえ報道機関が感知したとしても、それを報ずることはできなかった。  
南京問題の弁護側の反駁立証は昭和二十二年五月上旬のことである。すでに十箇月の月日が経過している。この間南京では日本軍による「大虐殺事件」が発生したのだという虚構の認識は普く日本国民の間に広まり、動かし難い史実と思われて定着してしまった。  
何分事件全体が虚構なのであるから、事件の不存在を直接証明する形の証拠資料もあり得ないわけで、弁護側の提出した南京問題に関係する反証は、その様な事が起り得るはずがない、そんな事実を見た人はいない、といった形の消極的なものばかりで、且つ点数も少い。従って却下されたり未提出に終ったものも点数からいえば僅少であり、本書原本の資料集も、その点では別段の新しい論拠を提出するものとはなっていない。  
検察側の立証が終ったところで、一月二十七日に弁護側から公訴棄却の動議申立がある。これは、検察側は被告の有罪の立証に失敗している故、これを以て公訴棄却の手続が取られるべきだという、弁護の戦術の一手である。もちろんこの申立が認められるはずはなく、二月三日付で動議は却下される。
東京裁判の虚構  
二十二年二月二十四日に弁護側の反駁立証が始まり、十箇月半続く。その口火を切ったのが高名な清瀬一郎氏の「冒頭陳述」で、同氏の『秘録京裁判』に収録されてる。清瀬の陳述を筆頭として、日本は「検閲」を主要手段とする占領軍の厳しい情報管理体制下に置かれ、マッカーサー憲法(現日本国憲法)の白々しい謳い文句とは裏腹に、言論・報道の自由という権利は日本国民になかった。皮肉なことに、日本国内で唯一、この自由を表向き保証されていた空間が東京裁判法廷であった。清瀬氏初め、鵜沢稔明(弁護団長)、高柳賢三、岡本敏男といった有力弁護人が、当時の法廷外の社会ではとても公表できない様な堂々たる祖国弁護、連合国糾弾の議論を展開した。  
但しこの段階に於いて「日本の言分」の正当性を裏付ける証拠資料が、裁判所によって法廷証としての受理、採用を拒否され、却下の憂目に遭うという事例が大量に発生した。この事例こそが、本書の原本をなす全八巻の資料集の編纂・刊行が企図されざるを得なかった経緯の抑々の発端である。  
清瀬弁護人の冒頭陳述に於いてさえ、法廷での朗読を禁止され、結局同氏の『秘録・東京裁判』でも復元されなかった部分があったのだし、後にふれる高柳賢三弁護人の大弁論とても、初め清瀬氏のそれに続く冒頭陳述第二弾として提出されてあったのが、二十二年二月段階では朗読を認められず、一年後の二十三年三月の弁護側最終弁論の段階に至ってやっと法廷での朗読を認められたのだが、時既に遅しであり、それは実際上の効果としては却下扱いを受けたままであるのと同じことであった。 
東京裁判で却下された弁護側資料 
裁判所自身に、弁護側提出の証拠はその(大部分)を却下した、との認識があった。この事態を弁護団側から眺めるとどの様に映ったか。  
このような事情のもとで弁護団側が準備し提出せんとした証拠のうち、その約三分の二は証明力なし、関連性なし、重要性なし等の訴訟指揮により却下される運命となり、一方では検察団側には木戸日記、原田・西園寺回顧録など多数の伝聞証拠の提出を許容し、弁護団側には最良証拠提出を要求して、このような証拠は却下するという事態にもなつたのである。弁護団はこの困難な事態にたいし、なかばあきらめつつも、その間隙をぬつて日本の立場と行動の実体を開明すべく努めたのであつた。  
日本人弁護団の副団長であった清瀬一郎氏は「日本週報」(昭和三十二年四月五日発行・第三五九号)が催した「極東裁判の五大秘密」と題する座談会の中で、(却下された証拠書類は相当の量になりますか)との司会者の質問に答えてこう語っている。  
それは膨大なものです。なかでも日本政府の声明、これはセルフ・サービング、つまり自分で自分を弁明するものだといつて初めから却下されてしまうのです。中国との戦争、これは日本では事変と言っているが、あの時分の蒋介石政府なり江兆銘政府との間の合意によつてできた声明、これも歴史上の記録ですが、みな却下です。おそらく弁護団側の出した証拠は十通のうち八通まで却下されたと思うのです。  
当時の日本政府の公的声明が全て却下というのは、この法廷が「日本の言分」には当初から耳を貸す姿勢がなかったことを物語る事実の証言として興味深い。「被告に対する審理の公正」を特に謳っている「条例」の下での審理の実態がこれであった。 
日本人弁護団の辛苦  
日本人弁護団の基本方針は、国家弁護の線を優先し、個人弁護は二の次にする、ということである。中でも天皇を証人として法廷に招請するという様な事態を絶対に避ける、という点では合意に達していた。  
当時日本人弁護人達が置かれていた生活上職務上の悪条件は、米国人の検察官・裁判官・弁護人連のそれと比べて筆舌に尽くし難いものであった。例えば代表的人物たる清瀬一郎氏自身が空襲の被災者であり、自宅焼跡近くの寮に仮住いを求め、焼跡にドラム缶をおいて風呂とし、南瓜を栽えて食糧を自給するといった生活であり、資料の蒐集・整理に助手として働いてくれる人達に日当を払いたくとも資金がなく、自らのポケットマネーで賄い得る限り遣り繰りし、企業を廻って資金援助を懇請して歩いたりした。  
それは当時の日本国として、昭和三年から二十年までの日本の政治・外交・戦争史についての日本側の言分の凝縮された集大成と評するに足るものであった。  
国内の機関と個人のみならず、米国人弁護人の努力によって集められた国際的広がりを有する情報の価値も大きい。それらは現在の視点から見れば現今の日本人研究者にも努力次第で蒐集可能な範囲のもの、と言えるかもしれないが、当時の日本人には到底入手不可能と思われた貴重な資料である。そしてその多くが、正・負いずれの方向に於いてにせよ直接被告達の行動の説明に役立つわけではないとの、「関連性稀薄」の理由を以て却下の扱いを受け、判決に影響を与え得る力とはならなかった。 
第二次上海事変  
第二次上海事変についても、その発端をなす大山海軍中尉惨殺事件、無差別誤爆靖に関する弁護側の証拠が多く却下されたのか理解に苦しむ。これは通州に於ける、酸鼻を極めた日本人居留民大量虐殺事件に関しての日本側の証拠が七割方却下されているのと同じ事例であって、結局、この裁判は日本軍の戦争犯罪を裁く場であって、連合国側のそれを問題にしているのではない、という裁判所の発想に起因するものであったろう。殺し合いを本質とする戦争である以上、「お互い様」ということもあるではないか、といった発想は封殺された。そうなると、もし仮に日本軍将兵の心理に、これまでに同胞が受けた残虐行為に対する復讐心の幾分かが混入していたとしても、それは一切情状酌量の対象とはならず、連合国側の人道に対する罪は一切不問に付し、唯日本人にのみ、神か仏に対してでもなければあり得ないほどの人道主義的完壁性を求め、その尺度を以て裁いたのがこの裁判であった。 
タブーだった共産主義批判  
この段階で審理の対象となったのは、防共協定、張鼓峰・ノモンハンの武力衝突事件、日本の対ソ軍備、日ソ中立条約の諸項目であるが、この法廷の基本的空気である共産主義批判への遠慮が、弁護側提出の書証の採否を大きく左右していた。裁判長は、欧洲の共産主義活動は東洋の問題には関係がない、との前提を公言しており、我々は全世界の共産主義理念に対して裁決を与える権利或いは義務があると考えてはいないという様な表現もした。そういうわけで、防共協定に関して弁護側が提出した二十一通の証拠文書のうち十三通はこの前提的規定に合致しない、即ち共産主義思想そのものの批判に当るからとの理由で却下された。  
ヤルタ秘密協定の暴露を含むブレイクニ弁護人の大活躍が、ノモンハン事件、日ソ中立条約に関わる審理を通じて、ソ連検察官団に対する不信の念を法廷全体に喚起するといった効果もあった。ただこのことが、共産主義の脅威とその犯罪性の黙過・曲庇といったこの裁判の最大の欠陥の一端が、辛うじて法廷に自覚された一契機であったことは注目に催するであろう。  
共産主義運動と中国共産党の脅威に関する証拠は大部分が却下扱いになった。それはソ連の検察官・判事、後に中共に走ることになる中華民国の判事が必ずこれに異議を申し立て、裁判長が又ソ連判事・検察官に迎合し、気を遭うこと甚しくこの法廷では共産主義批判が禁忌として支配する様な空気があったからである。 
却下されたハルノート  
弁護団側の提出証拠却下の問題よりも、かの最大の挑発的最後通牒文書たるハル・ノートが裁きの対象にならなかったことの方が、むしろ勝者の裁きとしての東京裁判の歪んだ性格を語るのだと言ってよいであろう。徳富蘇峰の筆になる供述書、日本の自衛戦争論も証拠資料としては却下され、今回この資料集で半世紀ぶりに陽の目を見ることになつた次第である。  
ブレイクニ弁護人の「日米交渉」の末節からハル・ノートに閲し後世甚だ有名になつた次の一旬を引用しておこう。  
即ち十一月二十六日此の覚書を手交すると共にハル長官は問題を「陸海軍」の手に移したのである。之は長官其の人の言葉である。翌二十七日長官は「会談は殆ど再開の見込なき状態に於て打切られた」旨明らかにして居る。米国の自由ある新聞もハル・ノートに就て同じ見解を示した。特別記者会見に於てハル長官は交渉に於て両政府の取つて来た方針を打捨て其の全貌を公表した。而して米国新聞はノートを受諾するや戦争に訴ふるやは日本に懸つて居る旨報道したのである。之を日本側から見ればホブソンの撰択即ち撰択の余地がなかつたのである。日本は即時降伏するか又は勝目なくとも戦に訴ふるかの何れか一を撰ばされたのである。ハル・ノートは今や歴史となつた。されば之を現代史家の語に委ねよう。  
「本次戦争に就ていへば真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた様な覚書を受け取ればモナコやルクセンブルグでも米国に対し武器を取つて立つたであらう」  
1941年11月26日、ハルノート  
1. 日本陸海軍はいうに及ばず警察隊も支那全土(満州含む)および仏印より無条件に撤兵すること。  
2. 満州政府の否認  
3. 南京国民政府の否認  
4. 三国同盟条約の死文化(※米国との交渉を有利にすること、防共協定が目的で、独の参戦要望に対して日本は拒否している。)  
公平を欠く東京裁判  
二つの側面がある。  
その一つは清瀬一郎氏の回想として引用しておいた如く、日本の政府(内閣情報局)、外務省、軍部等の公式の声明や新聞を通じての見解表明の類が、元来宣伝と自己弁護の性格を有するものとして初めから却下の枠内に入っていた、ということである。又グルー大便、クレーギー卿、ジョンストン、パウエル等の著書からの引用も、それらは或る事件についての「個人の意見」を述べたにすぎないとの理由で多くが却下されている。しかし個人の意見はその時代の見方の一斑を代表して語っているものであり、検察側の立証に於いては個人の日記や回想録や見聞の証言が重要な、時には決定的な判定資料として参考されていた事実と対比してみても著しく公正を欠く。  
二言にして言えばこの様にして「日本側の言分」は大部分が封殺され、法廷はそれに耳を籍そうとはしなかった。裁判所は「日本側の言分」を除外して、事実として顕出し記録せられた証跡のみを以てして客観的判定を下し得ると考えていた。それは如何にも「客観的」公正を装った如くであるが、被告・弁護団側の言分を掛酌せず、検察側の申立は結果として大幅に承認しているという点に於いて、明らかに公正を欠いた審理だった。  
第二の側面はパル判決書で第十の内容分類に挙げられている、中国における共産主義の運動に対する日本側の対処を根拠づける証拠である。共産主義の運動が日本に与えた脅威については、パル判決書はリットン報告書を精密に分析することにより、極めて適切な見解を提出している。それは端的に、日本人弁護団側の提出した証拠は考慮さるべき範囲内に入っていたという、検察側に向けての反駁である。それを排除してしまった以上、中国に於ける共産主義運動に関して検察側論告が述べていることは一方的な言分になつてしまい、論理的に成立を容認できないものになった、と言う。中国における共産主義の運動とその脅威については、これに対応する日本の動きが、防衛的なものであったのか、(共同謀議による)侵略的な性格のものであったのかを判定する上で重要な争点であり、従ってこれに関する弁護側提出証拠が関連性稀薄どころではない重要な判定資料であることは、法廷でローガン弁護人が力説したところであった。しかしそれらの証拠は要するに無視された。その背景にソ連裁判官・検察官に対する裁判所の極めて政治的な気兼ねがあった。  
大きく捉えてこの二つの側面を中心に、原本の資料集及びその抄本たる本書が東京裁判の「勝者による報復的私刑」たるの性格を改めて明らかにし、その根本的修正を迫る思想戦の武器として役立つことは確実であり、又この線に沿って活用されるであろうことは編者が心から期待する所である。 
冒頭陳述 
清瀬一郎弁護人 冒頭陳述  
冒頭陳述は検察側の立証の構成順序に合わせ、下記の五部構成で検察側へ反論を提示してゆく。  
•第一部は一般問題  
•第二部は満洲及満洲国に関する事項  
•第三部は中華民国に関する事項  
•第四部はソビエツト連邦に関する事項  
•第五部は太平洋戦争に関する事項  
陳述以前に清瀬氏が提出した「管轄権動議」は、本裁判所はポツダム宣言及び現時の国際法に照らして、A級被告として出廷している二十八人を裁判する権限を持っては居ないとの異議申立ては、実際に法理の上からは正しいのであって、この動議がまともに取上げられて審議にかけられた場合、その時から東京裁判そのものが成立しなくなつてしまう可能性が多分にある。そこで裁判所は、その理由は将来述べる機会があろう、との理由にならぬ理由を以てこの動議を却下した。従ってこの冒頭陳述中、ポツダム宣言と一九四五年迄の国際法の解釈を述べて裁判所の法的不備を衝いている部分は、既に法廷が却下している動議のむし返しとして朗読をさし止められた。
高柳弁護人 冒頭陳述  
検察側の国際法論に対する徹底した反論により、皇軍軍人と世界の良識を弁護し、ひいては未来の平和を守ろうとした  
全面朗読禁止措置を受けており、このことが如何に東京裁判の不正を暴いた陳述だったのかお分かりになると思います。事実この裁判は裁判とは名ばかりであり、究極的には復讐と私刑の儀式以上のものではなかったからである。  
国際法は戦争のやり方と、戦後の国家倍賞や領土轄除をある程度規定するが、個人の犯罪に対しては捕虜の取り扱いなどについて若干規定されているだけです。そして、個人の犯罪に対しては国内法で対処するのが通例でした。かつ事後法は適用しないというものです。  
ところが、米英ソ国主導の国際法(過去の国際法とは全く別物)により、事後法である「平和に対する罪」「共同謀議に対する罪」「道徳に対する罪」を適用することで、日本の国内法に優先して日本の指導者達を処刑することを目論み、実施した。勝者政府が、これまでの国際法に代わり、敗者の全てを赴くままに処罰できるように法制化したものでしかない。もし、日本側弁護団・皇軍軍人が東京裁判を断固否定しなければ、良心や知性や英知はゴミ箱に捨て去られ、軍事力が世界を支配していたことでしょう。そして、米ソは互いに聖戦だと相手をなじり合い、第三次世界大戦の悲劇に至っていたのではないでしょうか。  
○法廷での陳述(予定)  
第一回 昭和二十二年二月二十四日、第一六六回公判。  
結果 − 全文却下(全面朗読禁止)  
第二回 (弁護側最終弁論段階)昭和二十三年三月三〜四日、第三八甲三人五回公判  
結果 − 全文朗読  
高柳陳述は本文に見る通り二部に分れ、第一部は首席検察官キーナン検事が二十一年六月四日に論じた検察側冒頭陳述中の法律論に対して反駁した部分であり、即ち弁護側冒頭陳述として述べる予定だったもの。  
もう一つ、「侵略戦争」の定義をめぐつて、高柳論文が結果として一九二八年の所謂パリ不戦条約の国際法的側面の徹底的研究となっていることも重要な点である。パリ不戦条約は「事後法」による裁判であるとの弱点を自覚した裁判所がせめてもの法的論拠として大いにたよりとした条約である。戦後の日本の史家の中にもこの条約の法的効果はともかくもその道徳的な目標理念に高い評価を与え、翻って、この条約に違反した(とされる)日本帝国の行動の弾劾にとかく力が入る、といった向も少からずある。だが高柳論文が入念に解析している如く、これは法的にも道徳的にもそれほど高い評価を与え得る様な条約では到底なかった。
ローガン弁護人:冒頭陳述  
高柳冒頭陳述が全面却下となったため、弁護側反証段階での冒頭陳述第二陣はウィリアム・ローガン弁護人のそれであるという形になった。本篇は以下の本文頁で罫線に囲まれた部分が却下扱いとなっているが、それはソ連のフィンランド、バルト諸国、満洲国侵略、及びソ連とイギリスのイラン占領について証拠提出の上で論断すると述べた部分である。条約侵犯を冒している国家に、いったいこの被告を裁く資格があるのか。とかくこの種の問題のつきまとうソ連邦の検察官に対しては裁判所としては、多分に「気を遣う」ことが必要だった。そこで同じ様にソ連に対して著しいマイナスをもたらすと映ずるこの種の発言が法廷で朗読されるという事態は是非とも回避したかった。而してこの冒頭陳述はしきりに(…立証致します)(…証拠を提出致します)という表現を採って後日の書証提出を予告しているが、その陳述の裏付けとなるべき証拠が多くは却下の裁定を下されて法廷証としての取扱いを拒否されるという事態になる。これは東京裁判に於ける弁護側陳述にとって一般に広く生じた事態であり、東京裁判の法的公正を根底から疑わしめる契機でもあり、又本書原本の如き資料集が刊行されざるを得ない所以でもあった。  
なおローガン弁護人が陳述第四部で、西洋諸列強が経済的に日本を包囲し封じ込めたことが如何に日本の国民経済にとって大きな打撃であったかを論じ、日本の開戦を以て(即ち日本は純然たる必要に迫られてをりました)との説明でその節を結んでいることは、本書巻末に収録したマッカーサーの一九五一年五月米国上院での「日本自衛戦争証言」を先取りしたものとして、興味深い見解である。
マッカーサ証言:米上院軍事外交合同委員会  
昭和二十六年(一九五一年)五月三日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた、米国の極東政策をめぐつてのマッカーサー証言のことは今では日本でも世人の広く知るところであろう。それは彼がその証言の一節に於いて、日本が戦争に突入したのは自らの安全保障のためであり、つまりは大東亜戦争は自存自衛のための戦いであったという趣旨を陳述しているということが早くから知られていたからである。停戦五十周年という節目の時期が近づくにつれて、日本の国内では今更ながらに半世紀前の過去のことになった昭和の動乱の歴史的意義が再検証の俎上に上り、その意味を問い直す論議が一際活発化した。そうした風潮の中で、これも思えば遠い過去のものとなつていた、上院でのこのマッカーサー証言の有する意味も新たに想い起され、問い返されるという遭遇になったのであるが、この期に及んで、人々は問題のマッカーサー証言のその部分が、原語ではいったいどの様な表現であったのか、又如何なる文脈に於いて発言されたものであるのかを、これに論及する全ての人が正確に把握しているわけではない、ということに気付いた。  
本書の原本である資料集の収録するその部分の原文は、この間題をめぐつて議論を展開するであろう現代史研究者達のために、伝訳の日本語表現が含む不明確さから生ずるであろう不毛の論争を省く目的で、東京裁判とは直接の関係があるわけではないのにも拘らず敢えて附録として掲げることにしたものである。
東條英機宣誓供述書  
本供述書の中で、東條は国家自尊自衛の戦争であったこと、天皇に戦争責任は無いこと縷々述べている。自尊自衛の戦争であったことに関しては、マッカーサ証言と全く同一である。そして、「共同謀議」「平和に対する罪」「戦争犯罪」、世界支配を画策していないと断定している。 
 
世界が裁く東京裁判 / 外国人識者による批判

 

連合国戦勝史観の虚妄  
私が『フィナンシャル・タイムズ』東京支局の初代支局長としで、初めて日本の土を踏んだのは、1964(S39)年、ちょうど東京オリンピックが開催された年だった。以来、日本にとどまること50年、いまでは外国特派員協会でも、最古参だ。  
イギリスで生まれ育った私は、幼少のころから日本人は野蛮で残酷な民族であると、さんざん聞かされていた。ちょうど当時の日本人が 「鬼畜米英」と聞かされていたのと同じことだ。戦後になっても、日本のおかげでアジアの植民地をすべて失ったイギリスの、日本に対する憎悪の感情は消えるばかりか、強まるばかりだった。そんな環境の中で、私の中にも、日本を憎む気持ちが、ごく自然に醸成されていた。  
したがって、来日当初は東京裁判が裁いた「日本=戦争犯罪国家論」「南京大虐殺」についても事実であると単純に信じていて、何ら疑っていなかった。 しかし、二十世紀の日本とアジアの歴史を僻撤したとき、そうした見方が大きな誤りであることに気付いた。三島由紀夫氏と親交を得たことも大きかった。  
大東亜戦争は、日本の自衛のための戦いだった。それは戦後マッカーサーがアメリカに戻って議会で証言した「マッカーサー証言」によっても明らかだ。東京裁判は裁判の名にも値しない、無法の復讐劇だった。「南京大虐殺」にしても、借用できる証言は何一つとしてなく、そればかりか中国が外国人記者や企業人を使って世界に発信した謀略宣伝であることが明らかになっている。「慰安婦問題」については、論ずるにも値しない。  
だが、これまで日本人が日本の立場から、これらに抗議し糺していく動きはほとんど見られないか、見られてもごくわずかだった。いま国際社会で「南京大虐殺はなかった」と言えば、もうその人は相手にされない。ナチスのガス室を否定する人と同列に扱われることになる。残念ながら、これは厳粛なる事実だ。だから慎重であらねばならない。だが、日本が日本の立場で、世界に向けて訴え続けていかなければ、これは歴史的事実として確定してしまう。日本はこれまでこうした努力が、異常に少なかった。  
日本は相手の都合を慮ったり、追従する必要はない。アメリカはアメリカの立場で、中国は中国の立場で、日本は日本の立場でものを言う。当然それらは食い違う。だが、それでいいのだ。世界とはそういうものである。日本だけが物わかりのいい顔をしていたら、たちまち付け込まれてしまう。  
もう一つ私が声を大にして言いたいのは、「南京」にせよ「靖国参拝問題」にせよ「慰安婦問題」にせよ、現在懸案になっている問題のはどんどは、日本人の側から中国や韓国にけしかけて、問題にしてもらったのが事実だということだ。この問題をどうするか、それは日本人が自分で考えなければならない。日本人は、いまだに連合国がでっち上げた「戦勝国」史観の呪いから脱け出していない。本書が、その束縛から逃れる一助となれば幸いである。…  
戦争では誰もが敵に対して怒りを抱いて、感情的になる。しかし、チャーチルの言葉遣いは、その範噂を逸脱していた。チャーチルがそこまで口汚く日本を罵った背景には、植民地支配の体験がある。数百年にわたって栄華を極めた大英帝国日が沈むことはないと形容されたその版図が、あろうことか東洋の黄色い小人たちによっで、一瞬にして崩壊させられてしまったという悔しさと、怒りがあったのだ。イギリス人にとって、有色人種に領土を奪われ、有色人種が次々と独立したことは、想像を絶する悔しさだった。第二次大戦を戦った世代には、そうした根深い怨念が、日本人に対してあった。  
しかし、加瀬氏の話を問いて、私は違った視点を持ち、認識を改めるようになった。日本は大英帝国の植民地を侵略しただけでなく、欧米の植民地支配を受けたアジア諸民族が、独立するのに当って、大きな役割を果たしたのだった。  
日本は欧米のアジアの植民地を占領し、日本の将兵が宣教師のような使命感に駆られて、アジア諸民族を独立へ導いた。日本はアジア諸民族に、民族平等というまったく新しい概念を示して、あっという間に、その目標を実現させた。植民地支配という動機とは、まったく異なっていた。日本はアジア諸民族が独立することを、切望していた。  
これは、まぎれもない事実だ。アジアの諸民族にも、独立への期待が強くあった。西洋人はこうしたまったく新しい観点から、世界史を見直す必要があるのだが、西洋人はこうした史観を持っていないし、受け入れていない。  
それは侵略戦争が悪いからではなく、「有色人種が、白人様の領地を侵略した」からだった。白人が有色人種を侵略するのは『文明化』で、劣っでいる有色人種が白人を侵略するのは『犯罪』であり、神の意向に逆らう『罪』であると、正当化した。  
日本には「喧嘩両成敗」という便利な考え方もあって柔軟だが、欧米人はディベート思考で、白か黒か判定をつける。もし日本が正しいなら、間遠っているのは欧米側となる。だから、あらゆる手を使って、正義は自分の側にあると、正当化しょうとした。  
東京裁判は復讐劇であり、日本の正当性を認めることなど、最初からありえないことだった。認めれば、自分たちの誤りを認めることになってしまう。広島、長崎に原爆を投下し、東京大空襲をはじめ全国の主要都市を空爆して、民間人を大量虐殺した「罪」だけでなく、もっといえば、世界で侵略を繰り返してきたその正義の「誤謬」が、明らかにされることがあっては、けっして、ならなかった。それが、連合国の立場だった。
 
米国の資料にみる、日本の「慰安所」の実態  
米国国会図書館にある「朝鮮人に対する特別尋問」という資料のなかで、太平洋戦争中に米軍が捕えて尋問した、朝鮮人軍属がこう答えている。  
「太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦は、すべて売春婦か、両親に売られたものばかりである。もしも女性たちを強制動員すれば、老人も若者も朝鮮人は激怒して決起し、どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう」  
茂木弘道氏は[慰安婦の素顔 歴史通]で「誇り高い韓国人なら当然こう言うだろうし、実際もし強制連行などが行なわれたなら、間違いなく暴動が起こったであろう、と納得した」と。また、李承晩大統領は強硬な反日政策で知られるが、徴用に対する補償も含め、あらゆる要求を敗戦国日本に突きつけた。だが、その李承晩でさえも、「慰安婦に補償をしろなどという、あまりにも非常識なことは言わなかった。当たり前である。別に慰安婦のことが知られていなかったのではなく、当時は慰安婦がどういうものか、誰でも知っていたからである」と、結んでいる。  
コンフォート・ウーマン「慰安婦」という表現は、それ自体が娩曲表現のように感じられて、ストレートに受け入れ難い。日本人や韓国人は、そうした娩曲表現が自然に受け入れられるのかもしれないが、欧米人や特にジャーナリストには、うさんくさく感じられる。  
もっとも、マッカーサー元帥が厚木に着陸してすぐに、日本政府に要求して開設させた、米兵のための売春施設は、米軍によって「レクリエーション・センター」と命名されたから、同じことだ。  
むしろ、「性奴隷」という表現のほうが、真実のようでしっくりくる。これは、米黒人奴隷の女性のように、所有者が慰み物にした体験があるから、実感できる。集団レイブレイプや大虐殺も、体験があるので、ストレートに受け入れられる。「性奴隷」は、実に忌まわしい表現だが、実際に存在したので、不自然ではない。  
ところが「慰安婦」という表現は、いかにも忌まわしい実体を、誤魔化しでいるように響く、端から実体を隠しているように、聞こえる。  
そもそも、日本には、歴史を通して奴隷制度がなかった。まして、女性を「性奴隷」としたことなどなかった。  
戦争も、西洋のように大虐殺や、女性の強姦を伴わなかった。戦国時代の合戦は兵同士のもので、民衆を巻き込まなかった。  
農民は合我があると、弁当を持参で土手の上などから、見物した。  
戦国時代が終わって、ほどなくして、徳川幕府による江戸時代が始まった。日本では二六〇年におよぶ平和が、明治維新まで続いた。  
むしろ男女の大虐殺や、処女の集団強姦は、キリスト教世界のお家芸だ。たとえば、聖書の「民数記」では、神の宣託を受けたモーゼが、異教徒は、「男も女も全員虐殺」することを命じでいる。さらに、「男を知らない処女は、分かち合え」というのだから、恐ろしい。  
日本の「慰安婦」の実体は、もちろん「性奴隷」ではまったくない。売春婦だった。そのことを、米国側の資料が裏付けしている。  
米国戦争情報室の心理戦争チームの報告によると、一九四四(昭和十九)年八月、ビルマ奥地のミッチーナで朝鮮人(当時は日本国籍)慰安婦を聞き取り調査し、「売春婦にすぎない」、商売目的の「キャンプ・フォロワー」だとしている。  
ここで言うキャンプ・フォロワーとは、兵士たちを迫って、「世界最古の商売」を展開する女性たちを意味している。  
スタインベックの小説『エデンの東』にも描かれているが、西部開拓時代に、娼婦を乗せたワゴンが、男たちを迫って戦場を走り回った。  
米国の報告書は、日本軍の慰安所や慰安婦の実情を、詳細に述べている。それによると、「奴隷」どころか、慰安婦のはうがはるかに立場が上のように感じてしまう。  
慰安所の団体待合室で兵士は、サービスを受ける順番を待つ。兵士は、お互いに恥ずかしそうでもあった。需要が供給より多いので、自由時間にサービスを受けられず、がっかりして兵舎にもどる兵士もいた。酔っ払っている客は、拒否もできた。  
慰安婦は将兵とピクニックに行ったり、スポーツを楽しんだりしていた。故郷に帰ることも、自由にできた慰安婦たちもいた。  
「奴隷」と表現するのが、まったく間違いなのは、慰安婦はサービスを提供して、その対価を得ていたことである。上等兵が月一〇円の収入であるのに対し、慰安婦は、その三〇倍の三〇〇円の月収を得ていた。これは高級娼婦だ。  
では、日本はどのように対処すべきか  
朝鮮人の文玉珠は、九〇年代に東京地方裁判所で訴訟を起こした。半世紀前に慰安婦としで得たはずの収入の返還を求めるものだった。調査の結果、残高は二万六〇〇〇円だった。戦時中であれば、東京に大きな家を五軒建てられる金額に相当する。  
「史実を世界に発信する会」などから、英文で提供される資料を読むうちに、日本の将兵がいかに慰安婦を大切に扱っていたか、痛感した。さらに、慰安婦も、戦地で戦う将兵を、心と体で支えていたのだと思うようになった。  
慰安婦の名誉のために、「性奴隷」という名誉の毀損は、許されない。彼女たちも、今日、明日は命を失うかもしれない母国の戦士たちと、心情をひとつにしでいたのだ。  
一九四四(昭和十九)年の秋に、中国とビルマの国境にあった拉孟要塞で起こった出来事は、特筆に値する。  
米軍指導下の支那軍五万人が、一二〇〇名の日本将校が守る要塞を攻めた。慰安婦も、要塞へ逃げ込んだ。戦闘は四カ月に及んだが、玉砕より道はなかった。守備隊長は慰安婦に、山を降りて投降することを勧めた。  
二〇人の慰安婦のうち、日本人女性一五人は要塞に残り、全滅した。  
五人の朝鮮人慰安婦は、守備隊長に「日本人でなければ、殺されない」と諭され、山を降りで米軍に保護された。  
「性奴隷」という表現を使い出したのが日本人だった。外国メディアは、この表現に飛びついて、発信した。「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」問題も、捏造された情報の発信源は、ほかならぬ日本人だった。  
この「慰安婦問題」が大きく報道されると、日本人が邪悪だというイメージが、世界にひろめられた。「世界史で、唯一、若い女性を狩って、外地へ連れ去り、悪を犯した罪深い国民」というイメージだ。  
河野洋平内閣官房長官が遺憾の意を表明したが、事態は収束していない。日本人どうしは、「すみません」と謝ることで、帳消しにしてもらえるという文化がある。「もう謝っているのだから、許してあげようじやないか」という慣習によって、対立を解消してきた。しかし、国際社会では、謝罪することは、罪を認めることを意味し、認めた罪は償いをしなければならない。  
日本はどのように対処すべきか。答は、すべての事実を明らかにして、発信してゆくべきだ。中国や、韓国は、日本が反駁しないことをいいことに、謀略宣伝に利用している。
 
この五〇〇年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国を植民地支配した壮大なドラマでした。  
そのなかにあって、日本は前例のない国でした。第一次世界大戦の彼のパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃を提案したのです。  
会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。人種差別撤廃提案が提出されると、自家主義のオーストラリアのヒューズ首相は、署名を拒否して帰国すると言って退室しました。  
議長であるアメリカのウィルソン大統領は、本件は平静に取り扱うべき問題だと言って日本に提案の撤回を求めました。山本権兵衛内閣で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めたのです。  
イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席16カ国中11カ国の小国が賛成し、圧倒的多数で可決されました。しかしウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。牧野は多数決での採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は、従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」としました。人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決されたにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬りました。今日の文明世界では、ありえないことです。いま、アメリカの大統領は黒人ですが、当時ではそのようなことは、まったく考えられないことでした。日本人も白人ではなく有色民族です。同じ有色民族として誇りある日本人は、白人の有色民族への暴虐を看過することができなかったのです。  
インドネシアにも、触れておきましょう。インドネシアの植民地支配は、一五九六年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。  
オランダの三五〇年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、一九四二年の日本軍の進攻によるものでした。  
インドネシアには白馬に跨る英雄が率いる神兵がやっできて、インドネシアの独立を授けてくれるという伝説がありました。日本軍の進攻は、伝説の神兵の到来を思わせました。日本兵は、神話の軍隊であったのです。  
ジョージ・カナヘレは『日本軍政とインドネシア独立』という著書で、日本の功績として次の四点を掲げでいます。  
1. オランダ語、英語の使用を禁止。これにより公用語としてインドネシア語が普及した。  
2. インドネシア青年に軍事訓練を施した。これにより青年が厳しい規律や忍耐、勇猛心を植え付けられた。  
3. オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身につけさせた。  
4. ジャワにブートラ(民族結集組織)や奉公会の本部を置き、全国に支部を作り、組織運営の方法を教えた。  
日本は第二次大戦でアジアの国々を侵略したとされますが、どうして侵略する国が、侵略された国の青年に軍事教練を施すのでしょう。彼らの精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国につくり、近代組織の経営方法を教えることがあるでしょうか。  
この事実は、侵略したのが日本でなかったことを証明しています。日本はアジアの国々を独立させるあらゆる努力を惜しまなかった。  
では一体、どこからの独立でしょうか。  
もちろん、アジアの国々を侵略していた白人諸国の支配からの独立です。  
ジャカルタの中心にムルデカ広場があります。ムルデカはインドネシア語で「独立」を意味します。独立の英雄ハッタとスカルノの像とともに、高さ三七メートルの独立記念塔が立っています。地下一階には、独立宣言の実物が納められています。ハッタとスカルノが直筆でサインをしています。そこに独立の日が『一七・八・〇五』とハッキリ書かれています。  
一七・八は八月十七日の独立の日を示しています。インドネシア人はイスラム教徒ですが、この『〇五』は、日本の「皇紀」です。一九四五年は日本の「皇紀」では二六〇五年にあたるのです。初代の天皇である神武天皇が即位して建国をした時から数えた年です。ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。インドネシア独立の生みの親は日本だったのです。だから二人はインドネシアの独立宣言の独立の日を、日本の「天皇の暦」によって祝福したのでした。  
皆さん、こうした西欧の五〇〇年に及ぶ植民地支配は世界中で広く認知されたことであります。われわれは今日、植民地支配の禍の終焉をこうしでここに集い祝福しています。
■  
今日、靖国神社の境内に、インドのパル判事を顕彰して、銅板の胸像が設置されている。パル判事は東京裁判において、ひとりだけ「日本無罪論」の判決書を提出したことで、日本において有名だ。ところが、海外ではパル判事とその判決書について、ほとんど知られていない。だが、もし、パル判事が存在しなかったとすれば、日本において東京裁判が不法きわまるものだったという見方が、広まることはなかったはずである。パル判事がいなかったとしても、東京裁判が邪な報復劇でしかなかったことは、明白であるはずだ。  
この裁判≠ナ、日本は侵略国として裁かれたが、裁判が進行しているあいだに、イギリス、フランス、オランダの諸国軍が、日本が解放した旧植民地を、再び植民地として領有しょうと企てて、侵略戦争を戦っていた。アジア人は日本によって覚醒されていたから、独立を守るために立ち上がって勇敢に戦った。この事実一つだけとっても、東京裁判が不正きわまるものだったことが、わかる。  
先の大戦の「戦勝国史観」は、歴史をあざむいており、日本は侵略国家ではなかった。日本は数百年にわたった西洋による支配から、アジアを解放した「アジアの光」だった。  
いわゆる「南京大虐殺」や「慰安婦」問題はいわれのない非難こうむを蒙っている。南京事件、慰安婦問題について、日本から正しい情報が発信されることが、ほとんどないのに加えで、今日でも日本の一部の学校教科書に載っているために、外国人を説得することが難しい。  
「戦勝国史観」は、有色人種を蔑視した白人優位主義から、発している。それなのに、日本国民の多くの者が、なぜ、そのような史観を信じでいるのか。  
白人は日本が先の大戦で、西洋の覇権を覆すことによって、アジア・アフリカが解放汚れるまで、有色人種を人間以下の下等な存在として見下し、さげすんでいた。それは、酷いものだった。トルーマン大統領は、広島、長崎に原爆を投下した直後に、笑みを浮かべながら、ホワイトハウスで閣僚に対して、「獣を相手にする時には、獣として扱わなければならない」と発言したことが、記録されている。このような態度は、トルーマン大統領だけに限らず、欧米諸国民の圧倒的多数によって、共有されていたものだった。  
日本がアジアを解放し、その高波がアフリカ大陸も洗って、今日の人種平等の世界が招き寄せられたが、日本が大戦を戦った結果として、人類史にまったく新しい時代がひらかれたのだ。 
戦後の東京裁判批判
独立国家としての日本  
「文明の裁き」と称して始められた東京裁判は二年六カ月もの時間を費やし、開廷四百二十三回、総計費二十七億円をかけて十九四八年(昭和二十三年)十一月に判決を下した。我が国の戦時指導者七人に絞首刑の判決は、弁護団ばかりでなく、東京裁判の判事や連合国の政治家からも厳しい批判を浴びた。(※当時も今も、戦争は罪ではなく正当な権利として認められています。ただし、戦争の宣言と手続きが決められており、戦争中の犯罪は予め決められています。しかし、国家や戦争を指揮する個人への罪は存在しませんでした。日清、日露戦争後の講和条約のように、勝者が敗者に対して有利な講和条約を締結し、賠償金や領土の轄所が認められた。つまり、東京裁判で新たに設けられた「平和への罪」「道徳の罪」などは、日本の指導者に報復するための戦闘行為でした。裁判での犯罪の基準が不明確なこともあり、弁護側がどのような証拠を提示すべきかが明らかではなく、弁護側が提出した証拠の7〜8割は破棄されています。一方、検察側については風評や又聞きなども証拠として採用され、多くは冤罪でした。彼等冤罪者のことを、ABC戦犯者と呼ぶことは彼等に対する冒涜です。)  
国際法に基づいた公正な裁判だったと宣伝しても、真実は隠せない。「いかさまな法手続」で行なわれた「政治権力のみせしめのための道具」に過ぎなかった東京裁判を強行したことで、GHQ(占領軍総司令部)及びアメリカ政府の権威は低下することとなった。翌年一月十一日、『ワシントン・ポスト』紙は論説に次のように記した。  
《米国の声望はもとより、正義の声望までも…東京において危うくされたことが、次第に明白になりつつある。》(「勝者の裁き」)  
GHQは東候元首相らを処刑した一九四八年(昭和二十三年)十二月二十三日の翌日、準A級戦犯容疑者十九名を一度も裁判にかけることなく巣鴨拘置所から解放し、以後、法廷は二度と開かれることがなかった。なお、連合国極東委員会は翌年二月二十四日、「国際軍事裁判はこれ以上行なわない」と決定した。  
この東京裁判を、戦後独立を回復した我が国の政治家及び国民が、どのように受け止めてきたのかは、ほとんど知られていないので、「東京裁判」を受け入れることで国際社会に復帰したという誤解が流布されてしまっている。しかし、真実はそうではなかったことを紹介する。
講和会簸で東京裁判を批判したメキシコ大便  
国際法においては通常、講和条約(平和条約)の締結・発効によって戦争が正式に終結するものとされる。それまでは法的には「戦争状態」が継続していると見なされるので、いわゆるA級戦犯を裁いた東京裁判や、アジア太平洋の各地で開廷されたB・C級戦犯裁判も、連合国軍による軍事行動(戦争行為)の一種と理解されている。しかし、軍事行動は講和条約の発効と共に終結し、効力を失う。  
つまり、昭和二十七年(一九五二年)四月二十八日のサンフランシスコ講和条約の発効とともに、国際法的には日本と連合国の「戦争状態」は終焉し、独立を回復した日本政府は、講和に伴う「国際法上の大赦」を規定する国際慣習法に従って、東京裁判判決の失効を確認した上で、連合国が戦犯として拘禁していた人々をすべて釈放されたはずである。  
ところが、サンフランシスコ講和会議で署名された条約草案は、アメリカ、イギリス、日本の三カ国間交渉で起草され、最終案文は、会議の始まる僅か一カ月前に発表され、それ以外の四十九の参加国は、基本的にはそれを承認するために招請された。  
その講和条約第十一条は下記のように規定されていた。  
《日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決(裁判では無い。裁判は誤訳です。)を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。・・・》  
本来ならば、日本政府は講和条約の発効とともに、戦犯として拘禁されていた者は釈放されるはずだが、アメリカは、講和独立後も、アメリカの「審判」に従った刑の執行を日本政府に要求したのである。  
一九五一年九月五日、サンフランシスコ講和会議が開かれた。この会議で、スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相(のち首相、大統領)が「私は、前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」として、日本の独立回復を支持する格調高い演説をしたことは有名である。  
更に日本に対して懲罰的な講和条約第十一条がやはり問題となった。ラフアエル・デ・ラ・コリナ駐米メキシコ大便はメキシコ代表は下記のように東京裁判を批判した。  
《われわれは、できることなら、本条項[第十一条]が連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化しつづけることを避けたかった。あの裁判の結果は、法の諸原則と必ずしも調和せず、特に法なければ罪なく、法なければ罰なしという近代文明の最も重要な原則(「平和に対する罪」「人道に対する罪」のこと)、世界の全文明諸国の刑法典に採用されている原則と調和しないと、われわれは信ずる。》(「各法領域における戦後改革』)  
アルゼンチン代表のイポリト・ヘスス・パス駐米アルゼンチン大便も、《…本条約第十一条に述べられた法廷[東京裁判]に関しては、わが国の憲法は、何人といえども正当な法律上の手続きをふまずに処罰されない事を規定しています。》(外務省編「サン・フランシスコ会議議事録」)と語り、「正当な法手続きを踏まずに日本人指導者を処罰した東京裁判は、アルゼンチン憲法の精神に反している」として、東京裁判を間接的に批判した。しかし、両代表の発言は記録にとどめられただけで、草案の文言はそのまま条約本文となった。  
産経 / 米軍は東京大空襲を機に無差別爆撃に踏み切った。2015/03/06    
ルーズベルト大統領は、ソ連軍がフィンランドに無差別爆撃を行った際、「わが国政府並びに国民は、非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、これら卑劣きわまる戦争行為を全力をもって糾弾する」と表明。ルーズベルト氏は、昭和20年3月10日の東京大空襲直後の4月12日に死去したが、日本全国で繰り広げられた無差別爆撃、そして広島、長崎への原爆投下をどう抗弁するつもりだったのだろうか。
四千万人を越えた「戦犯」釈放署名  
一九五一年(昭和二十六年)九月八日、サンフランシスコにおいて日本と四十八カ国の連合国とが講和条約に調印し、翌昭和四月二十八日に発効。日本は独立を回復したが、講和条約第十一条に、関係国の同意なくして日本政府は独自に戦争受刑者(東京裁判で戦犯とされた軍人達の多くは、無実の罪であったことについては、後述します)を釈放してはならないと規定されていたため、講和条約の恩恵を受けることなく、巣鴨、モンテンルパ(フィリピン)、マメス島(オーストラリア)で引き続き千二百二十四名もの日本人および戦時中日本国籍を有していた朝鮮人・台湾人がA・B・C級戦犯として服役しなければならなかった。  
それを知った国民は驚いた。講和条約が発効したのに何故同胞たちは釈放されないのか。戦犯受刑者も全員釈放されるのが国際慣例ではなかったのか。  
それまでは、ポツダム宣言には言論と思想信仰の自由が保障されている(ポツダム宣言の権利と義務へ)にも関わらず、連合国、東京裁判、原爆、中韓などへの批判は全て検閲を受け、一切許されなかったのだが、朝鮮戦争の勃発に伴いアメリカの対日政策が変更され、言論の自由もある程度容認されるようになった(※明らかに、ポツダム宣言違反)。このため翌年昭和二十七年六月五日から全国一斉に「戦犯受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動が始められるや、戦犯受刑者釈放運動は大いに盛り上がった。その様子を国学院大学の大原康男教授は次のように紹介している。  
《まず日本弁護士連合会が口火を切り、二十七年「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に伝えた。これがきっかけとなって、戦犯釈放運動は瞬く間に全国的規模の一大国民運動となり、・・・政府は平和条約第十一条に基づいて関係各国に対して赦免勧告を行なうよう続々と要請した。  
署名運動も急速に広がり、共同通信の調査によれば、地方自治体によるもの約二千万、各種団体によるもの約二千万、合計約四千万に達し、また各国代表部や国会・政府・政党などに対する陳情も夥しい数にのぼっている。》(「“A級戦犯”はなぜ合祀されたか」『靖国論集』)  
こうした国民世論の後押しを受けて、政府は直ちに国内で服役中の戦犯の仮釈放および諸外国で服役中の戦犯を我が国に送還する措置について関係各国と折衝を開始した。七月下旬、政府の肝入りで日本健青会の末次一郎氏が訪米し、トルーマン大統領に戦犯受刑者の釈放について次のような要請書を提出した。(下記抜粋)  
《私は祖国日本の完全なる独立と真実の世界平和とを希求する青年の立場から、今次戦争における戦争犯罪人として今も獄舎にある人々の全面釈放について、我々の強い要請を表明する。  
今次戦争における戦争犯罪処断の目的は、一つには人類の世界から戦争を消滅させようとする人間の善意の祈りであろうが、しかし一つには勝者の敗者に対する懲罰の一つの形式であったと思う。  
従ってこの政治目的を背後にした戦争裁判の結果は、或は全く無実の人々を多数苛酷な罪名の下に拘束し、或は裁判の行われたる時期によって罪の軽重甚だしく、或は文明と人道の名の下に敗者のみが一方的に裁かれるという数々の不当な事実が発生して釆たのである。  
この様な重大な問題が、講和条約におけるとりきめが甚だしく不備であったために、条約発効複数ケ月を経た今日、なお未解決のまま放置されて居りるのである。・・・講和成立と同時に当然全面釈放が行われるものと期待した我々日本国民に、甚しい失望と不満を与え、殊に無実の罪に拘束されている多くの人々に激しい憤りをさえ持たせるに至って居る。アメリカの良識を代表される閣下が、もしも現在巣鴨に拘置中の米国関係者四百二十七名に対して、全面釈放の措置を断行されるとすれば、我々日本人が最も心を痛めている、フィリピンの死刑囚五十九名の助命、並びに同島にある百十一名の拘置者及びオーストラリアのマヌス島にある二百六名の日本人の内地送還についても、必ず喜ぶべき結果がもたらされるであろうと確信する。  
我々は、この戦争裁判の背後にある政治目的は完全に達せられたと確信するが故に、この現状が日米両国民の親善を阻害するのみならず、共産主義者たちに逆用の口実を与えることを恐れるが故に、この間題は講和発効と同時に解決されるべきだと信ずる。  
閣下が、米国関係の全戦犯者に対する即時釈放を断行されることを、ここに強く要請するものである。》(末次一郎「戦後」への挑戦』)
「戦犯」釈放に立ち上がった日本政府  
こうした世論の盛り上がりの中で、政府の対応は素早く、まず巣鴨在所者の処理について関係国の許容を得る可能性の多い仮出所の勧告を行なう方針のもとに、昭和二十七年(一九五二年)八月十一日までに二百三十二名の仮出所の勧告を行ない、八月十五日、今度は巣鴨刑務所に服役中のB・C級戦犯全員八百十九名の赦免を関係各国に要請する勧告を行なった。八月十九日には新木駐米大便がアリソン米国務次官補を訪問し、B・C級日本人戦犯釈放問題で再びアメリカ政府の好意的配慮を要請。十月十一日には、立太子礼を機会に、国内および海外に抑留されているA級を含む前戦犯の赦免・減刑を関係各国に要請したのである。  
度重なる日本政府の要請に十一月十三日、アメリカ政府はワシントンの日本大使館に対して極東国際軍事裁判所で裁判を受けたA級戦犯に関する赦免、減刑、仮出所などの処置を協議するため、同軍事裁判に参加した連合国との間に近く話し合いを始める考えであることを通告した。  
この国会決議が東京裁判を否定する意図をもって行なわれたことは、この提案の趣旨説明に立った田子一民議月の次の趣旨説明で明らかだ。  
《わが国は、平和条約の締結によつて独立国となって、すでに半歳以上が過ぎている。国民の大多数は、独立の喜びの中に、新生日本の再建に努力しております。この喜びをともにわかつことができず、戦争犯罪者として、あるいは内地に、あるいは外地に、プリズンに、また拘置所に、希望なく日を送つておりますることは、ひとり国民感情において忍び得ざるのみならず、またさらに国際友好上きわめて遺憾に存ずるところであります。  
一般国民は、戦争の犠牲を戦犯者と称せらるる人々のみに負わすべきでなく、一般国民もともにその責めに任ずべきものであるとなし、戦犯者の助命、帰還、釈放の嘆願署名運動を街頭に展開いたしましたことは、これ国民感情の現われと見るべきものでございます。  
およそ戦争犯罪の処罰につきましては、インド代表パール判事により有力な反対がなされ、また東京裁判の弁護人全員の名におきましてマッカーサー元帥に対し提出いたしました覚書を見れば、裁判は不公正である、その裁判は証拠に基かない、有罪は容疑の余地があるという以上には立証されなかつたとあります。(※つまり、適切な裁判であれば、立件は不可能で、戦犯ではなく冤罪であった)  
英国のハンキー卿は、その著書において、英米両国は大赦の日を協定し、一切の戦争犯罪者を赦免すべきである、かくして戦争裁判の失敗は永久にぬぐい去られるとき、ここに初めて平和に向つての決定的な一歩となるであろうと申しています。この意見は、今日における世界の良識であると申しても過言ではない。  
かくして、戦争犯罪者の釈放は、ひとり全国民大多数の要望であるばかりでなく、世界の良識の命ずるところである。もしそれ事態がいたずらに現状のままに推移いたしましたならば、処罰の実質に勝者の敗者に対する憎悪と復讐の念を満足する以外の何ものでもないとの非難を免れがたいのではないかと深く憂うるものであります。》(「官報号外」昭和二十七年十二月九日)  
占領中は、GHQの徹底した検閲によって東京裁判批判は一切禁じられ、東京裁判を肯定する趣旨の本しか出版されていなかった。しかし、講和独立後、言論の自由を回復するや、東京裁判を日本人の立場から批判する書籍が相次いで出された。昭和二十七年には、日本無罪を主張したパール判事の「判決書」に関する田中正明著『日本無罪論1真理の裁き』(太平洋出版)、同著『全訳 日本無罪論』(日本書房)、弁護人だった瀧川政次郎著『東京裁判を裁く 上・下』(東和社)などが出版された。更に、B・C級戦犯として無実の罪に問われた人々の遺書・手記が、『あすの朝の“九時”大東亜戦争で戦争犯罪者として処刑された人々の遺声(日本週報社編、「祖国への遺書−嶽犯死刑囚の手記』(塩尻公明編 毎日新聞社)、『死して祖国に生きん−四戦犯死刑囚の遺書』(杉松富士雄編 蒼樹社)、『モンテンルパー比島幽囚の記録』(辻豊編著 朝日新聞社)として出版された。これらの著編書を通じて、GHQによって隠蔽されていた戦犯裁判の実像が世に知られるようになっていたのである。  
こうした情況を踏まえ、改進党の山下春江議月も国会決議の趣旨説明のなかで、東京裁判を「文明の汚辱」と非難したのである。  
《…占領中、戦犯裁判の実相は、ことさらに隠蔽されまして、その真相を報道したり、あるいはこれを批判することは、かたく禁じられて参りました。当時報道されたものは、裁判がいかに公平に行われ、戦争犯罪者はいかに正義人道に反した残虐者であり、正義人道の敵として憎むべきものであるかという、一方的な宣伝のみでございました。また外地におきまする戦犯裁判の模様などは、ほとんど内地には伝えられておりませんでした。…今でも一部国民の中には、その宣伝から抜け切れないで、何だか戦犯者に対して割切れない気持を抱いている者が決して少くないのであります。  
戦犯裁判は、正義と人道の名において、歴史上今回初めて行われたものであります。しかもそれは、勝つた者が負けた者をさばくという一方的な裁判として行われたのであります。(拍手)戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして、犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であつたといたしましても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならないのであります。(柏手)……》(「官報号外」昭和二十七年十二月九日)  
晴れて独立を回復した以上、戦勝国から勝手に押し付けられた「勝者の裁き」を受け入れる必要はないではないか。何故いつまでも無法の裁判による判決に従って同胞が刑に服さなければならないのかという、勝者の無法に対する憤りとともに、歴史の自己解釈権を取り戻そうとする独立国家としての一種の高揚感がこれらの発言からは伝わってくる。  
占領軍が占領中の約七年間にわたって日本国民に贖罪意識を持たせるべくありもしない日本軍の残虐さを宣伝し、あたかも国際法に基づいているがごとくに東京裁判やB・C級裁判を強行したが、それにもかかわらず、それらの敵国の宣伝を鵜呑みにせずに、当時の日本の政治家の多くは自国の正義を信じ続けるだけの見識と信念を持ち合わせていたのである。
社会党議員・古屋貞雄氏による「東京裁判」批判  
戦争が残虐であるということを前提として考えますときに、はたして敗戦国の人々に対してのみ戦争の犯罪責任を追及するということーー言いかえまするならば、戦勝国におきましても戦争に対する犯罪責任があるはずであります。しかるに、敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追及するということは、正義の立場から考えましても、基本人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できないところであります。(拍手)…世界の残虐な歴史の中に、最も忘れることのできない歴史の一ページを創造いたしましたものは、すなわち広島における、あるいは長崎における、あの残虐な行為であつて、われわれはこれを忘れることはできません。(柏手)この世界人類の中で最も残虐であつた広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもつて戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。(柏手)  
ことに、私ども、現に拘禁中のこれらの戦犯者の実情を調査いたしまするならば、これらの人々に対して与えられた弁明並びに権利の主張をないがしろにして下された判定でありますることは、ここに多言を要しないのでございます。しかも、これら戦犯者が長い間拘禁せられまして、そのために家族の人々が生活に困つておることはもちろんでありまするけれども、いつ釈放せられるかわからぬ現在のような状況に置かれますることは、われわれ同胞といたしましては、これら戦犯者に対する同情禁ずることあたわざるものがあるのであります。われわれ全国民は、これらの人々の即時釈放を要求してやまないのでございます。…(「官報号外」昭和二十七年十二月九日)
可決された「戦争犯罪」否定の国会決議  
昭和二十八年(一九五三年)八月、自由党、改進党、社会党右派・左派による全会一致で、戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部が改正され、困窮を極めている戦犯遺族に対しても遺族年金および弔慰金が支給されることになった。  
一方、日本政府の熱心な働きかけによって、戦犯受刑者の釈放も徐々に進んでいた。一日も早く残りの戦犯受刑者も釈放しょうと、当時の国会議員たちは昭和二十八年八月三日、昨年に引き続いて再び衆議院本会議で、次のような「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を可決した。  
《八月十五日九度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに十五箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。しかしながら、講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年八月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年六月初め大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回フィリピン共和国はキリノ大統領の英断によつて、去る二十二日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。来る八月八日には濠州マヌス島より百六十五名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に、濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである。・・・  
われわれは、この際関係各国に対して、わが国の完全独立のためにも、世界平和、国際親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。  
よつて政府に、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する。右決議する。》(「官報号外」昭和二十八年八月三日)  
この決議はこれまでと比較して、独立国家としての自負心に溢れた、格段に力強いものになっている。  
提案趣旨説明に立った山下春江議月(改進党)は、下記のように切々と訴えている。  
《…結局戦犯裁判というものが常に降伏した者の上に加、えられる災厄であるとするならば、連合国は法を引用したのでもなければ通用したのでもない、単にその権力を誇示したにすぎない、と喝破したパール博士の言はそのまま真理であり、今日巣鴨における拘禁継続の基礎はすでに崩壊していると考えざるを得ないのであります。(柏手)‥「獄にしてわれ死ぬべしやみちのくに母はいますにわれ死ぬべしや」、このような悲痛な気持を抱いて、千名に近い人々が巣鴨に暮しているということを、何とて独立国家の面目にかけて放置しておくことができましよう。(柏手)》(「官報号外」昭和二十八年八月三日)  
平成五年(一九九三年)、細川首相は「東京裁判の判決を受け入れることで日本は国際社会に復帰した」と述べたが、事実は全く違っていた。戦前・戦後の歴史を検証もしてない無知にして無見識なものであった。  
ともあれ、講和独立後の日本の政治家たちは、「勝者の裁き」を敢然と拒否することこそが「わが国の完全独立」と「世界平和」につながると信じた。勝者の裁きを否定して、連合国によって奪われた「歴史解釈権」を晴れて取り戻した「完全な独立国家」として国際親交に努めたい−−これが紛れもなく戦後の日本政治の原点であった。  
なお、A級戦犯は昭和三十一年三月三十一日までに関係各国の同意を得て全員出所したが、B・C級の最後の十八名の仮出所が許され全員出所したのは昭和三十三年五月三十日のことであった。
日本は東京裁判史観を強制されていない  
最後のB・C級戦犯が釈放された頃から、六十年安保騒動を直接の契機にして反米親ソの革新勢力の台頭が見られ、世の中は「革命前夜」の様相を呈してゆく。  
このため、東京裁判否定の熱意を受け継ぐべき保守政治家たちは、米国との協調・友好を重視するあまり、米国の戦争責任追及=反米につながりかねない東京裁判否定論をトーンダウンさせざる得なかった。一方、革新勢力は、ソ連・中国のマルクス主義歴史観に強い影響を受けながらマスコミや日教組と手を組み、“東京裁判史観”の普及に努めることになった。このようにしてマスコミや革新勢力の支援の中で、GHQの協力を待て結成した日本教職員組合(日教組)が、GHQの「戦争犯罪周知宣伝計画」に基づいて作成された「歴史教科書」を使って行なう歴史授業によって、日本の若い世代が自虐史観に染まっていくことになった。  
昭和五十七年(一九八二年)、歴史教科書の記述を文部省が検定で「侵略」から「進出」に書き換えさせたとして(これは後に誤報であることが判明した)、中・韓両国から大きな反発を招いた、いわゆる「教科書事件」が起こった。近隣諸国から激しく批判され、時の宮沢喜一官房長官(自民党)は、事実関係をろくに調べないまま、批判を全面的に受け入れた上、「わが国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判(韓国、中国からの批判)に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」という談話を発表するに至った。中韓との友好のためには、東京裁判の判決に示された歴史観を受け入れるという、独立回復後の国会決議とまるで正反対の趣旨の談話が表明されたことになる。  
以後今日に至るまで、残念ながらこの談話が追認される方向で進んでいるのである。  
昭和六十一年(一九八六年)八月十九日、衆議院内閣委員会で後藤田正晴官房長官(自民党)が、東京裁判について「サンフランシスコ対日平和条約第十一条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」と述べ、東京裁判の正当性を認めることが政府の統一見解であるとの考えを表明した。  
この時期、サンフランシスコ講和会議でも問題とされた講和条約第十一条に「裁判を受諾し」との一節があることから、日本政府は第十一条のゆえに講和成立後も、東京裁判の「判決」中の「判決理由」の部分に示された、いわゆる「東京裁判史観」(※自虐史観)の正当性を認め続けるべき義務があると、一部学者たちが強硬に主張していた。その主張に、土井氏や後藤田官房長官は安易に飛びついたのだろう。  
この主張の論拠の一つが、第十一条の日本文に「裁判を受諾し」とあることである。しかし、日本政府が「受諾」したのは「裁判」ではなく、「判決」であった。それは、正文ときれる英・仏・西語で書かれている条約文を見れば一目瞭然である。日本文の「裁判を受諾し」にあたる部分は、英語では、accepts the judgment(判決を受諾する)となっている。日本が講和条約第十一条において受諾したのが「裁判」ではなく、「判決」である以上、日本は「東京裁判史観」(※自虐史観)まで受け入れたことにはならないのである。つまり、「判決」を「裁判」と誤訳したのです。  
国際法の専門家である佐藤和男教授は国際法学界でのやり取りも踏まえ、次のように指摘する。  
筆者は昭和六十一年八月にソウルで開催された世界的な国際法学会〔ILA・国際法協会〕に出席した際に、各国のすぐれた国際法学者たちとあらためて第十一条の解釈について話し合ったが、アメリカのA・P・ルービン、カナダのE・コラス夫妻(夫人は裁判官)、オーストラリアのD・H・N・ンヨンソン、西ドイツのG・レスなど当代一流の国際法学者たちが、いずれも上記のような筆者の第十一条解釈に賛意を表明された。議論し得た限りのすべての外国人学者が、「日本政府は、東京裁判については、連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはあり得ない」と語った。これが、世界の国際法学界の常識である。》(『各法領域における戦後改革』)
第二次東京裁判の開廷を提唱するセント・ジョン弁護士  
東京裁判の見直しを提起する外国の識者も存在する。インドの独立運動の指導者の一人、ヘランボ・ラル・グブタは昭和三十九年(一九六四年)に次のように語った。  
《極東国際軍事裁判、即ち東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くのアジアの国々によって見直されるであろう。そして第二回東京裁判が実現する。その頃はアジアも世界も良識をとりもど し、すべてが公正にして真理の法の前の平等に裁かれる。その時こそ東亜積年の侵略者である欧米列強の英雄達は、こぞって重刑に処せられ、かつて東京裁判で重罪をこうむった日本人、なか んずくA級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり神として祀られる日がくるであろう。  
またそのようになるべきであろう。》(草開省三『インド独立秘話』)  
このグブタの訴えが届いたわけではないだろうが、第二次東京裁判は意外なところから既に提唱されている。オーストラリアの勅選弁護士で、国際法律家協会の委員などを歴任したエドワード・セント・ジョンは、戦後、世界が核の恐怖に脅えなければならなくなった原因の一つは、東京裁判で、原爆を投下したアメリカの責任が追及されなかったことにあるのではないかと考え、その著『邦題アメリカは有罪だった』の中で、に問題提起を行なった。  
《もしも第二次世界大戦後、すべての国の戦犯を対象とした公平な裁判が開かれていたら、戦時中の連合国の指導者であったスターリン、チャーチル、トルーマンらも等しく裁かれ、有罪を宣告されていたと考えるのは、これらの国の人々にとって不愉快だが有益なことであろう。とりわけポーランド、バルト諸国、フィンランドおよび日本に対するスターリンの侵略行為は否定しようのないものであり、チャーチルは、ドイツ市民に対するたび重なる空からの殺裁行為によって有罪を宣告されていたであろう。また、トルーマンは東京に対する恐怖爆撃、および広島、長崎における原爆投下という非道をきわめていた。》(アメリカは有罪だった上』)  
この、第二の東京裁判とも言うべき架空の法廷において、セント・ジョン弁護士は、検事の口を借りて、米英仏ソという東京裁判を主導した国々が犯した戦後の多くの戦争犯罪を容赦なく糾弾した。そして、広島への原爆投下からちょうど五〇年目の一九九五年八月六日、アメリカ大統領に対して、「増大する核兵器によって全人類を大量殺戦の危険にさらした罪」で、有罪を宣告している。  
私たち日本人が戦後独立を回復した後、真っ先に叫ばなければならないことを、このオーストラリアの弁護士はある意味で見事に代弁してくれたのである。連合国の戦犯裁判で殺された一千名余の日本人の名誉回復と、誤った歴史観の払拭のためばかりではない。国際正義の観点から、私たちは東京裁判の全面的な見直しを世界に訴える時を迎えているのである。 
戦争の合法性と「決闘の法理」  
大学の法学部で毎年国際法の講義を開始するときに、英国ケンブリッジ大学のオッベンハイム教授が書かれた二巻本の『国際法』を学生諸君に示します。第一巻は平時法、第二巻は戦時法で、これは世界的に定評のある秀れた標準的解説書です。「戦争はすべて悪」としか教えられてこなかった一部の学生は、なぜ戦時の国際関係を規律する法規が平時のそれと同じくらいの分量をもって説明される必要があるのかと、いぶかります。戦争は犯罪であり、戦争を起こした者は処罰されると、少しだけ平時法の巻末に書き加えたらよいではないか、というわけです。ここに、実は、戦後日本の平和教育なるものの国際法に無知な偏った一面が看取されるのです。  
国際法では、伝統的に(これは国際法学でよく使われる言葉です)、戦争は「決闘の法理」というものに基づいて合法的制度として是認されてきたのです。(一九四五年の国際連合憲章の発効以後、多少法的状況が変わりましたが、一九九一年の湾岸戦争が例示するように、現代でも戦争は国際法上合法的に遂行されることが可能なのです。)  
近代国際法の発祥地であるヨーロッパでは、紳士や軍人が男の名誉を賭けたり意地を張って相互間で決闘を行いましたが、それは社会の法益を保護する警察官と犯罪人との格闘などとは本質的に異なっていて、人格平等な両者についての是非善悪の論断などできないものと考えられました。ところで、一般に国家は国益を追求して内外政策を展開しますが、時には他国との間で利害関係が衝突し、平和的手段によっては満足のゆく解決が得られない場合も生じます。その場合に、国際法は実力行使を通ずる国際紛争の決着を容認せざるを得ず、国家間の争闘を個人間の決闘になぞらえて可能な限りの規制を試みました。避けられない戦争の惨禍を少しでも軽減するために、戦争の人道化の名目のもとに、戦争の手段・方法を規律するルールとしての「交戦法規」が定立されました。  
交戦法規(現在では国際人道法の名で呼ばれる場合もある)は、具体的には多数ありますが、最も重要なものとして、下記が挙げられます。  
1.一般住民(民間人)ないし非戦闘員を殺傷してはならない。  
 (戦ってよいのは、交戦資格を認められた軍隊と軍隊とである)  
2.軍事目標以外の民間物や非防守都市を攻撃破壊してはならない。  
3.不必要な苦痛を与える残虐な兵器を使用してはならない。  
4.捕虜を虐待してはならない。  
日清戦争や日露戦争では、国際法顧問として大学教授が活躍し、日本軍が戦時国際法・交戦法規を厳守した徹底ぶりは、全世界の賞讃するところとなりました。第二次世界大戦中に、連合国側が交戦法規の重大な侵犯を行った事例としては、都市の無差別(軍事目標と民間物とを区別しない)爆撃、広島と長崎への原爆投下、非戦闘員への暴行(特に満州でのソ連軍の暴虐が知られている)、捕虜(戦犯容疑者を含む)の虐待などが挙げられます。  
国際法の観点からいいますと、国家は基本権として戦争権を認められてきました。戦争権は、開戦権と交戦権とに大別されますが、前者は「戦争意思」をもって他国に対して宣戦布告を行って、一方的に「戦争状態」を創設することができる権利です。事実上戦闘が行われても両国が共に戦争意思を有しない場合には、国際法上の正式な戦争は成立しませんが(例えば、昭和十二年七月以降の支那事変の場合がそうです)、交戦法規は準用されることになります。  
交戦権というのは、国際法上の特定状態としての「戦争状態」が出現した場合に、交戦国が、平時ならば禁止されている諸行為を合法的に行うことができる権利であって、具体的には下記が交戦権の主たる内容とされています。  
1.条約のいかんにかかわらず通商を禁止できる。  
2.敵国の居留民および外交使節の行動に制限を加えることができる。  
3.自国内の敵国民財産を管理できる。  
4.敵国との条約を破棄し、あるいはその履行を停止できる。  
5.敵国の兵力を攻撃・殺傷できる。  
6.防守地域および軍事目標を攻撃・破壊できる。  
7.敵国領土に侵入し、これを占領できる。  
8.敵国との海底電線を遮断できる。  
9.海上の敵船・敵貸を舎捕・没収できる。  
10.敵地を封鎖し、中立国の敵国に対する海上通商を遮断し処罰しうる。  
11,海上における中立国の敵に対する人的物的援助を遮断し処罰しうる。  
こうして戦争は永きにわたって国際社会での合法的制度として認められてきました。第二次世界大戦当時の世界の国際法的状況は、基本的にはこのようなものであったことを認識しておくことが大切です。なお、一九〇七年にへーグ開戦条約が成立する以前には、国家が開戦宣言や最後通牒の通告なしに直ちに敵対行為を開始するのが普通かつ合法でありました。西暦一七〇〇〜一八七〇年の百七十一年間に、ヨーロッパで諸国が開戦の予告を行ったのは十回で、予告なくして敵対行為を開始したのが百七回と記録されています。 
東京裁判による「平和に対する罪」は不法  
戦後のいわゆる東京裁判は、日本の戦時指導者を「平和に対する罪」という個人への犯罪を理由として断罪しました。詳しい専門的説明は省きますが、「平和に対する罪」とは、簡単にいえば、侵攻戦争を行った罪です。そして「平和に対する罪」なるものは、一九二八年に結ばれたパリ不戦条約(戦争放棄一般条約)によって成立しているというのが、連合国側の主張でした。しかし、こういう主張は諸国の多くの国際法学者が認めておらず、国際連合国際法委員含も否定しているのが実情です。  
不戦条約は、従来「決闘の法理」により共に合法とされていた防衛戦争(自衛戦争)と攻撃戦争(侵攻戦争)とを新たに区別して、実質上目的上「不当な攻撃性」を有する侵攻戦争を違法化しようと試みたものと見られています。現在でも違法化の実効はないと主張している学者(ミネソタ大学のフォン・グラーン教授など)がいますが、侵攻戦争は本条約により違法化された、つまり国際法上の不法行為とされて、侵攻国には損害賠償または原状回復の責任が課せられる、というのが一応の通説です。  
しかし、不戦条約の音頭取りだったアメリカのケロッグ国務長官は、この条約への参加を諸国がためらうのを見て、「自国が行う戦争が、自衛戦争であるか侵攻戦争であるかは、各国自身が認定すべきものであって、他国や国際機関(裁判所を含む)が決定できるものではない」旨を力説しました。これが自己解釈権といわれるものです。つまり、侵攻かどうかは当事者の国が決めることで有り、米国が日本を侵攻国だと決めることは不当なのです。  
なお、不法行為と犯罪とは国際法では厳別されるべきものであり、不法行為のうち特に悪質かつ重大で、国際社会の法益(法によって守られている利益)を侵害すること甚だしいものを、あらかじめ条約や慣習国際法の形成を通じて「犯罪」と確定したもののみが、国際法上の犯罪とされるのであり、そういう意味では、「平和に対する罪」なるものは、第二次大戦当時もまた現在でさえも成立していないというのが、多くの有力な国際法学者の見解であって、レーリンク教授(東京裁判判事)も、第二次大戦当時には平和に対する罪なるものは存在しなかったと認めています。  
従って、国際法上「平和に対する罪」を、日本の指導者個人に課すことは不法だった。 
講和条約とアムネスティ条項  
国際法においては通常、講和条約(平和条約)の締結・発効によって、戦争が正式に終結するものとされます。つまり、講和の成立によって、国際法上の戦争状態が終了するのです。日本の場合、昭和二十年九月二日に米艦ミズリー号上で連合国との間で「降伏文書」(連合国側が恣意的に命名)の調印を行いましたが、この文書はポツダム宣言の内容を条約化して、日本の条件付終戦−−日本政府が無条件降伏したというのは大きな間違いです−−を正式に実現したもので、法的には「休戦協定」の性質を持ちます。  
連合国占領軍は、日本が戦争終結の条件として受諾した事柄(ポツダム宣言六項〜十三項に列記されています)を、日本に履行させるために、およそ七年間駐留して軍事占領行政を実施しますが、サンフランシスコ対連合国平和条約が発効する昭和二十七年四月二十八日までは、国際法的には日本と連合国の間に「戦争状態」が継続しており、いわゆるA級戦犯を裁いた東京裁判と、B・C級戦犯裁判とは、連合国が軍事行動(戦争行為)として遂行したものであることを、よく理解しておく必要があります。  
日本国民の中には、大東亜戦争は昭和二十年八月十五日に終わったと思い込んでいる人が多いのですが、国際法の観点からいえばこれは間違いで、戦闘期間が終わっても軍事占領期間中は「戦争」は継続されていたと見るのが正しく、事実、連合国側は平和条約発効まで、戦争行為として軍事占領を行うという意識を堅持して、連合国の目的にかなった日本変造に力を注いだのです。  
アムネスティ条項  
戦争を終了させるものは講和ですが、第一次世界大戦以前の時代にあっては、交戦諸国は講和に際して、平和条約の中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」を設けるのが通例でした。これがアムネスティ条項と呼ばれるものですが、アムネスティとは「国際法上の大赦」を意味します。  
国際法では伝統的に戦争それ自体は合法的制度とされ、戦争の手段・方法を規律する交戦法規に違反した者だけが戦争犯罪人として、戦時敵に捕えられた場合に裁判にかけられて処罰されました。戦争を計画・遂行した指導者を犯罪人(いわゆるA級戦犯)とする国際法の規則は、厳密には今日でも存在していないと考えられています。  
アムネスティ条項の説明の実例として、アメリカの国際法学者C・G・フェンウィツタ博士が自著『国際法』(十九三四年)の中で述べているものを要約しますと、同条項は「戦争中に一方の交戦国の側に立って違法行為をおかしたすべての者に、他方の交戦国が責任の免除を認める」効果を持つものとされます。しかも、講和条約中に明示的規定としてアムネスティ条項が設けられていない場合でも、このような責任免除は講和(戦争終結)に伴う法的効果の一つであることが確認され、アムネスティ(大赦)が国際慣習法上の規則となっていることがわかります。  
ナポレオン戦争後の一八一四年五月三十日にパリで調印された英仏間の平和友好条約は、十六条で次のように規定しています。「両締約国は、欧州を震動させた不和軋轢を完全な忘却の中に埋没させようと願望して、いかなる個人も、その地位や身分にかかわりなく、(中略)その行為、政治的意見、またはいずれかの締約国への帰属の故をもって、訴追されたり、権利を侵害されたり、あるいは虐待されたりすることがないと、宣言しかつ約束する。」  
同様の趣旨の規定は、一八六六年八月二十三日にプラハで調印されたオーストリア・プロシャ間の平和条約の十条三項、一九一三年十一月十四日にアテネで調印されたギリシア・トルコ間の平和友好強化条約などに見られます。一九一八年三月三日のドイツ・ソ連条約の二十三⊥一十七条、一九一八年五月七日のドイツ・ルーマニア条約の三十一⊥二十三条は、一般的アムネスティ条項を構成しています。(第二次世界大戦後にも、連合国側が結んだ対ハンガリー平和条約三条、対ブルガリア平和条約三条、対ルーマニア平和条約四条、対フィンランド平和条約七粂に、「連合国の側に立って行われた行為」についてのアムネスティ規定が見られます。)  
以上のような諸国の慣行を基礎にして、講和の法的効果としてのアムネスティを当然のものと認める国際慣習法の成立が確認されるのです。こうして、第二次大戦以前には、平和条約中にアムネスティ条項が置かれなくても、講和がもたらすアムネスティ効果には変わりがないとの考えが一般的で、戦争犯罪の責任を負う者も、平和条約中に特別の例外規定がない限り、講和成立後に責任を追及されることがないというのが、(第一次戦後のドイツに関連して一時的に変則的事態が起こりかけたにもかかわらず)国際法学界の通説でありました。  
平和集約十一条の目的  
アムネスティ条項に関する以上の理解を前提とすれば、サンフランシスコ平和条約十一条の目的は、おのずから明らかです。すなわち、この規定がない場合に、講和成立により完全な独立を回復した日本の政府が、国際慣習法に従って、戦犯裁判判決の失効を確認した上で、連合国側が戦犯として拘禁していた人々を−−刑死者の場合はいたし方ないが−−すべて釈放するかまたは釈放することを要求するだろうと予想して、そのような事態の生起を阻止することにあったのです。長い歴史を持つ国際法上の慣例に反した十一条の規定は、あくまでも自己の正義・合法の立場を独善的に顕示しようと欲した連合国側の根強い感情を反映したものと見られますが、平和条約草案を検討した昭和二十六年九月のサンフランシスコ会議では、連合国の聞からも十一条に対し強力な反対論が噴出しました。  
要するに、十一条の規定は、日本政府による「刑の執行の停止」を阻止することを狙ったものに過ぎず、それ以上の何ものでもなかったのです。日本政府は十一条の故に講和成立後も、東京裁判の「判決」中の「判決理由」の部分に示されたいわゆる東京裁判史観(日本悪玉史観)の正当性を認め続けるべき義務があるという一部の人々の主張には、まったく根拠がありません。  
対連合国平和条約の発効により国際法上の戦争状態を終結させて完全な独立を回復した日本の政府は、東京裁判の判決理由中に示された歴史観ないし歴史的事実認定−−歴史の偽造(パール博士の言葉)として悪名が高い−−を盲目的に受けいれる義務を負わず、いかなる批判や再評価をもその裁判や判決理由に下すことが自由であり、この自由こそが、講和を通じ代償を払って獲得した国家の「独立」の実質的意味なのです。  
戦後すでに五十余年〔平成七年現在〕を経て、学界の研究成果は、東京裁判の判決理由中に示された史実とは異なる多くの真実(例えば、日本側共同謀議説の虚構性、判事・検事の立場にあったソ連こそ中立条約を侵犯した文字通りの侵略国であった事実など)を明らかにしています。戦前、戦中、日本国家の対外行動の中には政治的に賢明でないものがあったかも知れません。しかし、それをただちに実定国際法上の犯罪とすることは許されません。近年わが国ではいわゆる“冤罪”事件について再審が行われ、あらためて無罪の判決が下される事例も少なくありませんが、上訴・再蕃の機会も与えられなかった復讐劇兼似非裁判である東京裁判について、日本国民みずからの手で主体的に再審を行って、日本民族にとり歴史の真実とは何であったかを、先人ならびに児孫のために、明らかにしようではありませんか。 
ポツダム宣言に示された日本の「条件」
「ポツダム宣言」が日本政府の無条件降伏を意味しないとしたならば、当時の日本政府はどのような条件で連合国との休戦に応じたのか。  
ポツダム宣言第五項には「吾等ノ条件ハ左ノ如シ、吾等ハ右ノ条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ…」と規定され、第六項以下に相互の権利・義務を列挙している。  
東郷外相は、ポツダム宣言の提示する条件を日本国政府が受諾することについて、「(日本が連合国と)対等の立場において条件をのむ一種の条約の締結であり、連合国は日本が国家として無条件降伏をすることを要求しているのではない」と理解し、そのような説明を行なっている。
日本国の義務(連合国側の権利)  
東京裁判で弁護人を務めた菅原裕氏は、東京裁判との関連で、日本側の義務、つまり連合国側の権利を次のように説明している。  
1 「日本国国民を欺瞞し誤導して世界征服の挙に出でしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せラレザルベカラズ」(第六項)  
本項は各個人について具体的にいうものであること明らかであるから一般的、概括的に指定した追放処分の如きは本項の趣旨を逸脱した、権利の濫用ともいうべき不法な行為であったことはいうまでもない。  
2 「連合国ノ追ツテ指定スべキ日本国領域内の諸地点ハ、吾等ガ指示スル根本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ(第七項)  
本項が諸地点と明記せるにかかわらず、連合国軍は、日本の全領域を占領した。これは明らかに本条項違反であった。  
3 「“カイロ宣言”ノ条項ハ履行セラルベシ(第八項)  
“カイロ宣言”事態が虚偽ともされている。  
4 「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及び四国並二吾等ノ決定スル諸小島二局限セラルベン」(第八項)  
本項はカイロ宣言ならびにヤルタ協定の実施として日本より台湾、樺太、千島を剥奪したものであるが、日本が本来領有し、もしくは堂々たる講和条約によって取得しすでに数十年にわたり国際的に公認せられているこれらの島嶼を一方的宣言や秘密協定によって奪い去ることは明らかに国際法の蹂躙であり、かくの如く戦勝国が無制限に過去にさかのばっていっさいの公認されている現実を否認するとすれば、いずれの時にか国際秩序の安定があり得るであろうか。またこれは一九四一年八月英米が宣言した、大西洋憲章第二項の「関係国民の自由に表明せる希望と一致せざる、領土的変更の行なわることを欲せず」に違反するものである。  
5 「日本国軍隊ハ完全二武装ヲ解除セラル」(第九項)  
6 「吾等ノ捕虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人二対シテハ厳格ナル裁判ガ行ハルベシ」(第十項)  
本項に関しては東京裁判において二つの点で問題になった。一つはいわゆる「平和に対する犯罪」なるものはポツダム宣言発表当時国際法上、戦争犯罪の概念の中に入っていたかどうかということで、他はチャーター[極東国際軍事裁判所条例]の内容その他東京裁判のやり方は「厳格ナル裁判」であるかどうかということであった。  
7 「日本国政府ハ日本国国民ノ間二於ケル民主主義的傾向ノ復活強化二対スルー切ノ障礎ヲ除去スベシ」(第十項)  
ポツダム宣言受諾に際し日本政府の天皇制に関する釈明要求に対し八月十一日の国務長官の解答には明らかに天皇制ならびにその権限の存続(唯一の例外は降伏条項実施の最高司令官の権力下に服すこと)は承認されている。したがってここにいわゆる「民主主義的傾向」は従来存在しかつ認められてきたところの天皇制の下における民主的傾向−−民主王義もしくは民衆主義的傾向さらに具体的には帝国憲法所定の立憲政治議会政治を指すことは明らかである。ゆえに「主権在民」の日本国憲法を強要制定せしめたことは本条項を逸脱し日本国民をして義務なき事を行わしめたというべきである。  
8 「日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲナスコトヲ可能ナラシムル虞アル如キ産業ハ許サレズ」(第十一項)  
9 「日本国政府ハ直二全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ」(第十三項)  
無条件降伏はカイロ宣言には日本国とあったが、本項によって日本国軍隊に変更されたことはまことに明瞭である。  
10 「右ノ行動二於ケル同政府ノ誠意二付適当且ツ充分ナル保証ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス」(第十一項)(『東京裁判の正体』〕  
つまり、「ポツダム宣言」受諾に伴い日本政府は、日本軍の武装解除の義務、もともと日本に存在した民主主義的傾向を復活・強化するに際して邪魔になるような制度を除外するなどの義務、国際法上「厳格なる」戦犯裁判に応ずる義務、等を負ったことになる。  
また、連合国側は列挙された条項を、日本政府に要求できる権利を有したことになるが、それは連合国側が無制限の権利を有していたということではもちろんない。あくまでポツダム宣言に示された条項についての権利だけであり、連合国もまたポツダム宣言を逸脱することは許されないはずなのである。連合国側は国際法上「厳格なる」戦犯裁判を行なう権利があり、もし裁判が国際法上「厳格なる」裁判でなければ、それを拒否する権限を日本政府は有していた。
日本国の権利(連合国の義務)  
次に、日本政府はどのような権利を有していたのか。あるいは、連合国側はどのような義務を負っていたのか。菅原弁護人は更に次のように列挙している。  
1 「“カイロ宣言”ノ条項ガ履行セラルル」第八項の結果、同宣言中の「右連合国は自分のために、なんらの利得をも欲求するものに非ず。また領土拡張のなんらの念をも有するものに非ず」の個所は日本の利益のために援用し得るものである。ゆえにベルサイユ条約による第一次世界戦争以後日本が取得したる島や、台湾は盗取したのではなく、正当なる日清講和条約により取得したものなることが判明したならば、この後段の剥奪措置が適当であるかどうかの再検討や原状回復措置も後日に残ることになる。いわんやヤルタ秘密協定による千島、樺太の奪取の如きは明らかに本条項と抵触するもので当然無視さるべきものと信ずる。  
2 「日本国軍隊ハ完全二武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭二復帰シ平和的且ツ生産的ナル生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベン」(第九項)  
ソ連領内に移送された日本軍人及び一般人の総数は五十七万五千人に及んでいる。かくのごときはたんにソ連一国の不信はいうまでもなく、連合国全体の本条約違反というべきである。  
3 「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ズ」(第十項)  
占領統治の苛酷は本条項違反たるものが多かったが、占領憲法(日本国憲法)の強要の如きはその最たるものであった。当時わが政府も国会も一片の抗議さえ出し得ないほど奴隷化されていた。  
4 「言論、宗教及ビ思想ノ自由並二基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」(第十項)  
各般の占領政策は完全に本項に違反したことは多言を要しない。  
5 「日本ハ其ノ経済ヲ支工且ツ公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ」(第十項)  
6 「右目的ノ為メ原料ノ支配ハ許サザルモ、ソノ入手ハ許可セラルベシ」(第十一項)  
7 「日本国ハ将来世界貿易関係へノ参加ヲ許サルベン」(第十一項)  
8 「前記諸目的ガ達成セラレ、且ツ日本国国民ノ自由二表明セル意思二従イ平和的傾向ヲ有シ、且ツ責任アル政府ガ樹立セラルルトキハ、連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」(第十二項)(『東京裁判の正体』)  
「ポツダム宣言」受諾に伴い日本政府は、武装解除した日本軍将兵が無事に帰国できるように連合国が取り計らうよう要求する権利や、日本人の言論、宗教、思想の自由を確保する権利や、将来、自由な世界貿易に参加する権利「平和的傾向を有し、かつ責任ある」という条件付で日本国民の自由に表明した意志に基づいた政権を樹立する権利、などを有していたことになる。
連合国の許しがたい背倍行為  
このような日本政府の条件付終戦を意味する「ポツダム宣言」を、連合国側が日本政府に通告したのは、一九四五年(昭和二十年)七月二十六日のことであった。この宣言を日本政府は八月十四日に受諾し、翌十五日、昭和天皇の「玉音放送」を通じて日本国民は敗戦を知った。  
当然のことながら日本政府は、ポツダム宣言の受諾が我が国の敗戦を意味していたことは判っていたが、その「敗戦」はあくまで「条件付」だと受け止めていた。このため日本政府は、連合国の戦後処理がポツダム宣言の「条件」を忠実に履行するように監視し、そうでない場合には厳重に抗議すべきだと考えていた。  
ところが、ポツダム宣言を日本政府が受諾した直後から、連合国側、特にアメリカ政府の様子がおかしくなってくる。九月二日、米戦艦ミズーリの艦上で、交戦双方の政府代表が、政治的宣言であるポツダム宣言を条約化することによって法的拘束力のあるものとする「降伏文書」に調印した。日本政府は「ポツダム宣言」を受諾し、「日本国軍隊の無条件降伏」を一条件に休戦することに合意したのだから、調印したのは国際法上厳密に言、えば「休戦協定」である。それを連合国側は意図的に「降伏文書」と名付けたのである。この言葉の言い換えが何を意味するのか。アメリカ政府は九月六日、トルーマン大統領の承認を得て「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への通達」を発した。その通達にはなぜか、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高である」と記されていた。  
アメリカ政府が初めから日本政府を騙すつもりであったのかどうかは不明だが、「降伏文書」にサインし、日本側が武装解除を始めた途端、アメリカは対日姿勢を急変させた。「日本政府は無条件降伏をしたのだから、占領政策を遂行する上で、日本政府の権利に配慮する必要など全くない」と言い放ったのである。正式な国際条約を踏みにじる許しがたい背信行為と言えよう。  
この通達を受け取ったマッカーサー元帥は九月十五日、「日本政府とマッカーサー総司令部が占領行政をめぐつて交渉している印象を与えるニュースを配信した」という理由で、発行停止処分を科した同盟通信社の業務再開を許可するにあたって、次のような声明を発表した。  
《マッカーサー元帥は、連合国はいかなる点においても日本国と連合国を平等とみなさないことを、日本が明確に理解するよう希望する。日本は、文明諸国間に地位を占める権利を認められていない敗北せる敵である。最高司令官は日本政府にたいして命令する。交渉はしない。》  
この声明を聞いて驚いたのは日本政府である。ポツダム宣言受諾に伴う日本の国際的地位について十分に研究していた外務省の萩原徹条約局長は、《日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないという、そういう国として無条件降伏をしたわけではない。》(佐藤和男「東京裁判と国際法」、『大東亜戦争の総括』)と反論したが、GHQの怒りを買って左遷を命じられてしまう。連合国側は「ポツダム宣言」を遵守する気がないのか日本政府部内に暗い影が差し始めた。
「ポツダム宣言」違反の検閲  
日本を「文明諸国に地位を占める権利を認められていない」「敗北せる敵」として扱う、つまり“無条件降伏”政策を日本に適用することを表明したGHQは九月十九日、今度は、検閲指針を示した「日本に対するプレス・コード」を発令した。  
以後、昭和二十七年(一九五二年)四月二十八日の占領終了まで約七年間、「ポツダム宣言」に「言論の自由の尊重」(第十項)が謳われていたにもかかわらず、連合国批判、東京裁判批判につながる意見の一切を原則的に事前検閲で封じ込めてしまったのである。  
 1.SCAP(連合国最高司令官または占領軍総司令部)批判  
 2.極東国際軍事裁判[東京裁判]批判  
極東国際軍事裁判に対する一切の一般的批判、または軍事裁判に関係のある人物もしくは事柄に関する特定の批判がこれに相当する。  
 3.SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判  
 4.検閲制度への言及  
 5.合衆国に対する批判  
 6.ロシアに対する批判  
 7.英国に対する批判  
 8.朝鮮人に対する批判  
 9.中国に対する批判  
10.他の連合国に対する批判  
11.連合国一般に対する批判  
12.満州における日本人取り扱いについての(ソ連、中国への)批判  
13.連合国の戦前の政策に対する批判  
14.第3次世界大戦への言及  
15.ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及  
16.戦争擁護の宣伝  
17.神国・日本の宣伝  
18.軍事主義の宣伝  
19.ナショナリズムの宣伝  
20.大東亜共栄圏の宣伝  
21.その他、以上で特記した以外のあらゆる宣伝  
22.戦争犯罪人の正当化、および擁護  
23.占領軍兵士と日本女性との交渉を取り扱うストーリー  
24.闇市の状況についての言及  
25.占領軍軍隊に対する批判  
26.飢僅を誇張した記事  
27.暴力と不穏な行動を煽動する記事  
28.明白な虚偽の報道  
29.SCAP、または地方軍政部に対する不適切な言及  
30.解禁されていない報道の公表  
以上、最初の十項目だけ挙げたが、全部で三十項目からなる検閲指針には「連合国の戦前の政策の批判」(13項)、「戦争弁護の宣伝」(16項)、「大東亜に関する宣伝」(20項)、「戦争犯罪人の正当化または弁護」(22項)なども含まれている。  
しかもこの検閲は、「検閲制度への言及」を厳禁した上で実施されるという、極めて周到かつ隠微な形をとって行なわれた。戦前の日本の検閲は伏せ字であったから、国民は検閲が行なわれていることを明らかに認識することが出来た。しかしGHQの検閲は、検閲制度そのものを周到に隠したまま行なわれたのである。この検閲制度によって日本のあらゆる新聞、雑誌等のジャーナリズムは、ほぼ完全に占領政策批判の姿勢を放棄させられた。  
例えば、昭和二十六年、田岡良一博士が訪米し、前出のハンス・ケルゼン博士と意見を交換した際に、ケルゼン博士は日本が「国をあげて“無条件降伏”した」という俗説の誤謬を「笑った」が、田岡博士がその旨を「会見記」に記したところ、原稿を依頼した「朝日新聞」は、これが占領政策批判と見倣されることを恐れて自主的に掲載を見合わせたのである(江藤淳『落葉の掃き寄せ/一九四六年憲法−−その拘束』)。  
かくして検閲によって日本側の発言権を奪った上で、昭和二十年九月二十二日にアメリカ政府は、有名な政策文書「降伏後における米国の初期対日方針」を公表した。その第一部「究極の目的」には次のように記されている。  
《本国に関する米国の究極の目的にして初期における政策は左のごとし。  
1.日本国が再び米国の脅威、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること。  
2.…他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則に示されたる米国の目的を支持すべき、平和的かつ責任ある政府を究極において確立する。…》  
日本は、アメリカの植民地フィリピンを解放し、アメリカの年来の国家目的である太平洋完支配を阻んだという意味で「脅威」であった。だからアメリカは再び日本がアメリカの脅威とならないこと、すなわち「アジアによるアジア」という理想を抱いて「アメリカによるアジア支配」を覆そうという意図や能力を持たないようにすること、そのために「米国の目的を支持する」従属政権を日本に確立すること、それがアメリカの対日戦後処理の究極の目的とされたのである。(※というより、GHQの共産主義者たちは、日本に共産主義革命により革命世間を樹立しようとした。また[日本人に誤りたい]によれば、日本国の国体を彼らユダヤ人の理想だと分からずに、国民は天皇に虐待されていると思い込み、革命政権を樹立させようとした。しかし、アインシュタイン博士が訪日時に残された詩篇のごとく、日本はユダヤ人にとって理想の国体だったのです。)  
GHQは圧倒的な権力を背景に、検閲によって「日本側の言論の自由」を奪ったまま、この目的を達成すべく「民主化」「非軍事化」を名目とした政策を次々と打ち出し、日本政府に実行を迫った。その政策は、東京裁判だけでなく、神道排除を目的とした神道指令、これまでの歴史・地理・修身教育に適用しょうとしているのか、連合国は大掛かりな復讐をするつもりではないのか、という不安、不審の念が一国民の間に広がり始めた。  
九月三十日には、国際法の権威、信夫淳平博士が、来るべき戦犯裁判が戦勝国の戦敗国に対する一方的なものになるであろうことを正確に予見した上で、そのような時であるからこそ国際法学者は連合国側の国際法違反にも公平に目を注ぐべきだとして次のように説いた。  
《顧みるに大東亜戦争中、旧敵国側には国際法違反の行動が随分あつたやうである。無事の一般市民に対して行へる無差別的爆撃、都市村邑の病院、学校、その他文化的保護建物の無斟酌の破壊、病院船に対する砲爆撃等、ば例を拳ぐるの煩に堪へぬほど多々あつた。…  
これ等の残虐行為を含む謂ゆる戦律犯に間はるべき被告に対する擬律処断は、専ら戦勝国が敗戦国に対して行ふのみで、戦勝国のそれは不問に附せられる。公式の裁判記録の上には専ら日本の戦律犯人のみがその名を留めらるることになるが、国際法学者は別に双方の戦律犯を公平に取扱ひ、之を国際法史の上に伝へ残すの学問的天職を有すべく、即ち我国は惨敗を喫して完全無比の無武装国とはなつたけれども、国際法の学徒には尚ほ尽すべき任務が十二分に存するのである。》(「我国に於ける国際法の前途」、『国際法外交雑誌』)  
しかし、この信夫論文は結局GHQの検閲に引っ掛かり削除されてしまう。  
十二月二日、GHQは新たに五十九人の逮捕命令を発表したが、この発表は日本国民に更なる衝撃を与えた。平沼鶴一郎、庫田弘毅両元首相をはじめ陸海軍、政財官界のトップクラスが並んでいたうえ、七十二歳の元帥、梨本宮守正王殿下が指名されていたからである。ついに逮捕の手が皇族にまで及んだことを深刻に受け止めた近衛文麿元首相は次のように語った。  
《大局的に考えて、一体戦争犯罪人としての逮捕命令には、従うべきものかどうか、戦勝国が何でもでき、誰でも逮捕できるというなら、ヒューマニズムも法律もあったものではない。すでに指名される理由を認めずとすれば、これを拒否すべきものと思う。然るに今日のわが国の実情では、こっちにその権利は、何一つないという考え方が風をなしているし、その熱意もどこにもない。》(児島賓『東京裁判(上)』)  
この近衛元首相の言葉は、当時の日本人のGHQに対する不信感をある意味で代弁していると言えよう。前述したように、敗戦国の戦時指導者を犯罪者として裁く考え方そのものが当時極めて奇異なものであったため、日本側の不蕃の念は強まるばかりであった。  
同様の不信は実はGHQ側にもあって、マッカーサー司令官から戦犯リストの作成を命じられた対敵情報部長エリオット・ソープ准将は後に次のように漏らしている。  
《敵として見た場合、トウジョウをはじめ、ただ怒り、正義その他の理由だけで、即座に射殺したい一群の連中がいたことは、たしかである。しかし、そうせずに、日本人に損害をうけて怒りにもえる偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった。》(児島蓑1束京裁判(上)  
戦犯容疑者をリスト・アップし、逮捕する当の責任者が、自らの行動を「偽善的」だと自覚し、これから始める東京裁判も「リンチ裁判」だと認識していたのである。そんな「偽善的Lな、国際法上の根拠もあやふやなGHQの政策に対する日本側の疑念は強まるばかりであった。この不信感をそのまま放置しておけば、やがては東京裁判そのものが成り立たなくなることは十二分に予想できた。  
そこでGHQは、十月二日、さらなる“精神的武装解除”の方策を打ち出した。「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪」などを「周知徹底せしめる」べく「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(戦争犯罪周知宣伝計画)」を開始したのである。平たく言えば、日本側の戦時指導者が逮捕され、日本が犯罪国家として裁かれることについて、日本人に納得させるように徹底した宣伝を行ない、日本人をマインド・コントロールしようとしたのである。  
その計画を、明星大学の高橋史朗教授は次のように説明している。  
GHQのダイク民間情報教育局長のメモ(昭和二十年十二月二十一日付)によれば、このプログラムは「戦犯容疑者の逮捕及び裁判に関連して採用される」もので、その「目的」は以下のとおりであった。  
1. 侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行もしくは遂行に荷担せる罪の露見した者の処罰は、倫理的に正当であることを示すこと。  
2. 戦争犯罪の容疑者を訴追しっつあることは、全人類のためであることを示すこと。  
3. 戦争犯罪人の処罰は、平和的にして繁栄せる日本の再建と将来の世界の安全に必要であることを示すこと。  
4. 戦争犯罪人には日本国民の現在の苦境をもたらした一番大きな責任があるが、国民自身にも軍国主義時代を許し、あるいは積極的に支持した共同の責任があることを示すこと。  
5. 戦争犯罪を容認した制度の復活を避けるため、日本国民の責任を明確にすること。  
6. 政治家、実業家、指導的煽動家など、日本国内のさまぎまなグループに戦争責任があることを示すこと。  
7. 戦争犯罪人は公正かつ公開の裁判を受けることを示すこと。  
8. 山下奉文大将の場合のように、死刑宣告に対する予想される批判の機先を制するため、残虐行為の責任者の処罰形態の決定にあたっては、名誉を考慮するにはあたらないことを明確にすること。  
9. 日本国民に戦争犯罪と戦争犯罪人に関して議論させるように仕向けること。  
このように「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、東京裁判が「倫理的に正当」であることを示すとともに、「侵略戦争」を行った「日本国民の責任」を明確にし、日本国民に戦争頗罪意識を植えつけることを「目的」としていた。》(「検証 戦後教育」)  
GHQは開戦記念日の十二月八日、日本軍の残虐行為を強調した「太平洋戦争史」の新聞各紙への掲載を始めさせ、翌九日にはラジオ番組「真相はかうだ」の放送も開始(十週連続)させるなど、あらゆる日本のメディアを動員して、「日本は犯罪国家なのだから、公職追放を受けたり、指導者が裁判にかけられ処刑されたりしても仕方がない。広最長崎の原爆投下も、無差別爆撃も、すべて日本が戦争犯罪を犯した罰であって、悪いのは日本の方だ」と宣伝し、日本人自らがそう思うように巧妙な心理操作を加えていったのである。  
「戦後日本の社会では、「敵」という言葉はタブーとして、官民どこからも発せられなくなった。それどころか、国民の意識の中に、敵とは外国でなくて、日本の中の軍国主義者であるように思い込まされてしまった。  
敵を失った国民ほどあわれな者はない。すべてのスポーツ競技も敵があって敵慌心に燃えてこそ、闘志や勇気が湧くのである。戦後、日本社会が骨のないクラゲのように無気力になり、官民ともに毅然たる態度を失ったのは、このためである。このように戦後社会が、なにゆえに敵を失った無力の国になったかは、次に述べるようなGHQの占領政策による巧妙な仕掛けがあったからである。
神道禁止令について  
当時占領軍の検閲には、五〇〇〇人の日本人が動員された。彼らには給料として、連合国が雇傭した職員の中でも最高の日給九〇〇円から一二〇〇円が支払われた。これら検閲官への俸給は、日本政府が負担させられた。昭和二十二年三月時点の検閲作業従事者は連合国軍人軍属五三八人、連合国国籍の民間人五五四人、日本人五〇七六人で合計六一六八人であった。  
検閲は「闇の仕事」「アメリカの犬」であったが、日本人の検閲官は生活のために従事した。英語に堪能なこれら高学歴の人々は、後に革新自治体の首長、大会社の役員、ジャーナリスト、学術雑誌の編集長、大学教授になった。彼らは自らの過去を口を鍼して語らない。彼らの弟子や後継者も追随し、今なお日本の言語空間を縛っている。  
米国は硫黄島や沖縄における日本軍の勇猛な戦闘ぶりに心底から恐怖の念を覚えた。その勇猛果敢の精神の根底に「国家神道」があると考え、これを抹殺するため、昭和二十年十二月十五日に「神道指令」を発した。  
その指令の第十項には、「公文書に於て『大東亜戦争』『八紘一宇』なる用語の使用を禁止し、さらに日本語としてその意味の連想が国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離し得ざるものは、これを使用することを禁止する」となっている。  
戦後の神道禁止令により、「敵」「大東亜戦争」「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「神州日本」「大和魂」「紀元二千六百年」「四海同胞」「万邦帰一」「大東亜の盟主」「アジアは一つ」「忠臣蔵」「仇討ち」などは、公文書に於いて使用が禁止された。歴史から真実を剥奪したのだ。
NHK、朝日新聞、岩波書店が反日に走った理由  
東京裁判史観=「太平洋戦争」史観を押し付けるにあたり、GHQが最も活用したのは、情報発信の中枢であるNHKと朝日新聞、岩波書店などであった。これら重要な情報機関には検閲官が常駐し、厳重にチェックするばかりか、占領政策に都合のよい報道を積極的に流させた。  
GHQは占領政策に協力する「友好的な日本人、占領軍に利用できる人物」として数千の文化人をリストアップし、彼らを通して間接的に偏向情報を連日流させた。ここにNHK文化人、朝日文化人、岩波文化人といった、反日的戦後民主主義者が生まれ、当時はさかんにもてはやされた。  
同じ日本の文化人の口から、日本の過去の戦争はすべて侵略戦争だ、南京虐殺三〇万人だ、と百万遍繰り返されれば、ウソでも真実と思わされてしまうものである。  
占領七年間に培われたマスコミの反日偏向は「習い性」となって、それらの会社の社是となり、現在になお引き継がれている。たとえばNHKの朝の連続テレビ小説やNHKスペシャルで戦争関連のテーマを扱う時は、必ず日本だけを悪者とする東京裁判史観丸出しで、過去の日本を憎み侮蔑する偏向した内容になっている。当時GHQに育てられた局員の思想が、今もマスコミ界の中枢を占めているのは残念である。  
なお世界史上で正式に使われている「太平洋戦争」という呼称は、明治の初め頃、一八七九年から八三年にかけての五年間、南米のアタカマ砂漠の硝石(火薬の重要な原料)の利権をめぐつて、ペルーとボリビアの同盟軍とチリとの間に起こった戦争を言う。日本の百科事典でも、太平洋戦争の項を引けば、一部の例外を除き、最初に解説しているのはこのチリ、ペルーの戦争のことである。  
今日アメリカが使う「太平洋戦争」 の呼称は、正式な世界史をも歪曲して、対日戦争を日本の侵略戦争だと正当化するために捏造したデッチ上げの呼称である。戦後の国民は、戦時中の大本営発表がウソの速報だったと思い込まされたが、実はアメリカのマッカーサー大本営発表こそ「真赤なウソ」のかたまりであったのだ。
[マスコミ堕落論]の「日本=連合国(国連)自治区説」  
GHQは、略称であって、それだけでは総司令部という意味しか持たない。正式日本語名称を連合国軍最高司令官総司令部である。連合国つまり戦勝国を意味するが、正確には同盟国である。が、一般的に国際連合と呼ばれる組織の発足は、1945年の10月4日だが、40年代初期から戦後組織の構想はアメリカにあり、憲章の一部は1944年に作成されている。直後にポーランドが加わるが50カ国が憲章に署名したのは1945年の6月のことである。  
通称GHQにおいては、同盟国となつているのは、終戦直後であり明確な目的つまり日本占領の目的を持っているからである。連合国という用語については、終戦後の世界体制という大きな枠組みでの結びつきだからだ。そして、名前だけが違う同じ存在を指している。すなわち戦勝国群である。つまり、GHQの主体は連合国(国連)であって、日本は1945年から7年間、連合国(国連)の占領下にあったことになる。  
言うまでもないが、現日本国憲法は、マッカーサー主導のもとGHQが作成した。つまり現在の日本国憲法は連合国(国連)が作成した、連合国(国連)憲法ということになる。  
時代の推移で現在の連合国(国連)加盟国193国のすべてとはもちろん言わないが、連合国(国連)憲法が、発足当時の加盟国51カ国、少なくとも常任理事国5カ国、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、支那の利益を追求するために作成されたという仮説はおよそ可能性のある仮説ではないだろうか。  
とはいえ、5カ国あるということは、5カ国それぞれに国益があるのだから、それぞれの利益を図って貢献させられるということになれば、日本国憲法は実は条約なのではないかという仮説さえ成り立つ。  
昭和27年(1952年)4月28日は我が国が主権を回復した祝福すべき日だが、日本国憲法は改正されなかった。改憲は再軍備とセットになつた議論だつたが、結局、占領憲法、この項でいう連合国(国連)憲法をそのまま持ち続けた。米ソの二極構造は世界史上まれに見る平和状態を生み出し、核の傘というようなことが言われながら、日本は生産と経済成長に励む。そしてソ連の崩壊後、日本の前にやっかいな支那と韓国が現れる。  
日本の、反日マスコミを含む国内反日勢力は世界的に見てもきわめて特異なありかたをしている。アメリカのリベラルは国家の解体を望むだけだが、日本の国内反日勢力はリベラルとはまた違い、必ずどこか、日本以外の国の国益に貢献しようとする。  
それは一国に限ったことではない。きわめて分裂的で、マスコミであれば同じメディアの中で、この言説は支那の国益にかない、あの言説は韓国の国益にかない、あちらはアメリカの国益にかなうという具合に、まだら模様、あるいは重層構造をなしているように見えてならない。  
そして、そこには日本だけがないのである。日本の国益はどうやら犠牲にすべきことだと思われている。これはつまり、日本国憲法を連合国(国連)憲法と仮説した場合に立ち上がる、ひとつのモチーフになりうる。  
憲法が連合国(国連)憲法なら、列島は連合国(国連)の自治区である。かつ、一国支配の自治区ではないのだから、連合国(国連)側の情勢にあわせて多角形的に姿を変えてそれぞれの面を相応する国に見せなければならない。  
そして、これは憲法というよりやはり条約に近いかたちである。だから、アメリカも支那も韓国も平気で日本国憲法に対して言及するのである。韓国などは韓国内で、「九条を守れ」などといったデモまで行う。  
実は、彼らに内政干渉しているつもりなどさらさらないのである。日本国憲法は条約であって、かつ日本列島はみんなの、《平和を愛する諸国民》(占領憲法前文)のものだからだ。恐ろしいことに、恐らく鳩山由紀夫は、実はこの考えの中にいたのである。  
この仮説がもちろんやや強引なファンタジーであることは承知の上だが、しかし私は、外から日本を見る時のひとつのパースペクティブとして、日本にありながら実は外に存在する国内反日ファシズムの行動原理のひとつとして、様々な問題を腑分けしていくときの、思考に与える触媒のひとつとして有効なのではないかと考えている。  
現行憲法は変えなければならない。やはりこれは悪夢だからだ。  
「山下裁判」を批判したライシャワー博士  
山下弁護団のひとりで法務官のA・フランク・リール陸軍大尉は、この山下裁判の不法性を訴えるべく、裁判の過程を克明に描いた『The Case of General Yamashita』を一九四九年(昭和二十四年)にアメリカで出版し、《祖国を愛するいかなるアメリカ人も、消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさなしには、この裁判記録を読むことはできない……。われわれは不正であり、偽善的であり、復讐的であった。われわれは戦場において敵をうち破った。だが、われわれの心の中に、彼らの精神が勝ち誇ることを許したのである》(『将軍の裁判』)と、アメリカ人に訴えた。この著作は昭和二十七年、『山下裁判』上下二巻(日本教文社)として日本でも発刊された。  
その後も、この山下裁判の不法性はアメリカ人によって問題にされ、十九八一年(昭和五十六年)、弁護士であり法律関係のジャーナリストでもある口ーレンス・テイラーが、山下・本間裁判の開廷から処刑までをアメリカの公式記録等から克明にたどり、『A Trial of Generals』としてまとめ、末尾に次のように記した。  
《山下奉文と本間雅晴の裁判は、恐るべき悲劇であった。一人の輝かしい米軍指導者の記憶の陰にあって、あまりに長い間それは埋もれてきた。山下も本間もまた輝かしい指導者であったし、それに高潔な品性をも備えた人物だったのだ。彼らの記憶もまた、大いに尊ばれるべきである。  
…マニラ裁判は、戦争犯罪裁判は戦勝軍指導者による個人的または政治的仇討ちに悪用されてはならない、という教訓を突きつけているのである。》(『将軍の裁判』)  
この翻訳が翌年早くも武内孝雄・月守晋訳『将軍の裁判 マッカーサーの復讐』(立風書房)として日本でも刊行された。その日本版の裏表紙に、元駐日アメリカ大便でハーバード大学教授のエドウィン・0・ライシャワー博士が次のよ文章を寄せている。  
《アメリカが敗戦国日本に対して戦犯裁判を行なってから、早くも一世代が過ぎた。それらの裁判について“勝者の正義”がまかり通ったといわれることがあるが、とくに山下奉文および本間雅晴両将軍に対する裁きに関して、この言葉がよく当てはまる。  
軍事法廷で裁かれた山下および本間と並んで、本書ではマッカーサー将軍も裁かれている。ニ人の日本人将軍が、いずれも率直で、正直で、高貴でさえあったことが明らかにされている。そしてマッカーサーについては、その二重人格の陰の部分が浮き彫りにされ、彼がいかに狭量で、もったいぶった、そして復讐心にとらわれた人間であったかが示されている。  
本書ではまた、アメリカの正義(東京裁判)も裁かれているのである。そして最終的に敗れ去ったのは、アメリカの正義であったことを証明している。軍事法廷はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである。》  
事実を丹念に追うならば、最終的に敗れ去ったのは、アメリカの正義だった−−この印象的な一節がアメリカの元大便の口から出た意味は重い。マッカーサーの軍事裁判の不当性はアメリカの識者の中では、もはや隠しようもない事実として認識されていることを、このライシャワー博士の言葉は明らかにしている。  
無差別焼夷弾攻撃  
無差別焼夷弾攻撃の計画は一九四五年(昭和二十年)三月十日の東京大空襲を機に本格化し、日本側が「殺戮爆撃」と非難した米軍の都市無差別爆撃によって、広島、長崎を含む六十六の都市が破壊され、四十万人以上の非戦闘員が殺された。この国際法違反の爆撃にはさすがに道徳的な痛みを覚えたのか、マッカーサーの右腕の一人、ボナ・フエラーズ准将は、米軍の日本に対する空襲を「史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の一つ」と、極秘覚書に記している。  
この米軍による日本都市無差別爆撃は中立国たるスイスに異常な反響を巻き起こした。スイスの新聞『ガゼット・口−ザンヌ』紙は八月六日の社説で、スイス政府は米空軍の無差別爆撃の停止を勧告すべきだとして、次のように主張した。  
《米国の日本都市無差別爆撃はドイツのプーチェンワルド・マヌーゼン収容所の残虐にも比較すべきものであり、スイスは米国のこの暴挙の停止を勧告すべきだ、米国側の報道に依ればB29は最近日本にポツダム宣言のチラシ数百万枚を撒き、これと同時に日本の都市爆撃を予告したチラシをも投下したと言はれるが両者の間には矛盾がある、即ち前者では日本国民と指導者の離間を計つておきながら後者では苛酷な空襲を覚悟せよと言ふのだ、しかも爆撃を予告している都市は必ずしも軍需生産の中心地ではない、プーチェンワルド・マヌーゼンの収容所の閉鎖と共に欧州における「残虐時代」は過ぎた、しかし木造建築の多い日本の都市で特に多数の婦女子が爆撃によつて生命を奪はれていることを我々は忘却する権利はないはずだ、中立国としてのスイスは現在の問題を正確に理解することは困難であるが、赤十字の創設国としてこの問題を十分に考へて見る義務があるはずである。》(『朝日新聞』昭和二十年八月九日)  
国際法違反の、これら米軍による無差別爆撃もまた、「極東の戦争犯罪」を裁くべき東京裁判の法廷において全く取り上げられることがなかった。かくして、アメリカの無差別爆撃によって殺された我が国の同胞たちは、「アメリカの無法によって殺された被害者」ではなく、「戦争という犯罪を犯した罰を連合国から受けた、哀れな敗戦国民」としてしか記憶には留められていないのである。 
リンドバーグ大佐の見た「米軍の残虐行為」  
連合国は戦時中からしきりに日本軍の停虜(捕虜)虐待を非難し、「ポツダム宣言」にも敢えて、「われらの捕虜を虐待したものを含む一切の戦争犯罪人」との二言を挿入した。  
この連合国側の日本軍観に強い影響を受け、旧日本軍がいかに残虐な軍隊であったかを論証する研究が欧米諸国のみならず、日本においてもしきりに進められ、いまや戦前の旧日本軍は「世界一残虐な軍隊」であるかのような誤解を受けるに至った。  
しかし、捕虜虐待をしたのは日本だけだったのか。  
会田雄次著『アーロン収容所』には、戦後、イギリス軍が降伏した日本軍将兵に劣悪な住居、僅かな食料しか与えないまま激しい強制労働を課すことで、いかに多くの日本軍将兵を痛死、衰弱死に至らしめたかが描かれている。本田忠尚著『マレー捕虜記』によれば、ビルマ、マレー、シンガポール地区の強制労働での日本兵の死者は、実に四千名を越えるという。また、マレーシアのクアラルンプール日本人墓地には、マラヤ共産党軍掃討のために戦後イギリスによって戦争に駆り出され、無念の死を遂げた日本兵たちの粗末なお墓が並んでいる。  
一九二七年(昭和二年)に大西洋横断の単独飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグ大佐は戦時中、南太平洋の激戦地で実際に前線を視察し、『リンドバーグ第二次大戦日記』を書いたが、その中で、日本兵に対する米兵の残虐ぶりを次のように批判している。  
《一九四四年七月十三日…話が日本軍とわが軍が犯す残虐行為に及んだ。わが軍の一部兵士が日本人捕虜を拷問し、日本軍に劣らぬ残虐な蛮行をやっていることも容認された。わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが、太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う。事実、この点に関するわれわれの成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。》(『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』)  
《八月三十月…海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。激戦であった。わが方にも将兵の損害が甚大であった。敵を殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。》(『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』)  
連合軍が捕虜を一人もとらずに虐殺した例は枚挙に暇がない。 カリフォルニア大学のタワー教授はその著『人種偏見』において、連合軍側の虐殺行為を詳しく紹介している。例えば、すでに米軍の支配下にあった島に、仲間とはぐれた日本兵を一人放ち、その兵士が身の安全を求めて狂ったように駆け出すところを銃の標的として楽しんだ。ペリリユー島や沖縄の激戦地で、米軍兵士は日本兵の死体から手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯を漁る、死体のあいた口めがけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活から逃れさせてやっただけだ」と気にもとめない、といった具合である。太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは、一九四六年(昭和二十一年)の『アトランティック・マンスリー』誌に、「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ポートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ」と書いた。これらの陰湿な虐殺行為は政府によって公認されたこともあった。ジョン・ダワ一教授はいう。  
《ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。たとえば日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百、何千という生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、この虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞を与えられている。》(『人種偏見』)  
ところで、ダワ一教授は、日本側にもこうした虐殺行為はあったとも指摘し、日米は同罪だとしているが、彼は二つ忘れていることがある。  
第一に、日本側は相応の罰を受けた。戦後、東京裁判とは別に、日本を含むアジア各地四十九カ所で開かれたB・C級戦争犯罪裁判法廷では、捕虜虐待の罪や住民虐殺などで、約二万五千人の日本人が容疑者として逮捕・拘束され、五千七百人が起訴、そのうち約一千余名が死刑の判決を受けた(冤罪も多かった)。しかし、連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。  
第二に、捕虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、捕虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側がそれでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。  
防衛大学校教授の足立純夫著『現代戦争法規論』によれば、我が国は開戦と同時に捕虜収答所の開設に着手し、昭和十八年(完四三年)末には日本地域及び占領地域に合計十五カ所の収容所が設置され、約三十万人を収容していた。また、その待遇が決して悪くはなかったことを赤十字国際委月会や連合国の一部も認めていた。例えば、十九四二年十一月二十四日付の英紙デイリー・メールは「日本軍は捕虜を優遇」の大見出しの下にイギリス捕虜の生活を伝え、イギリス陸軍省は一九四三年一月六日に捕虜に関する詳細な発表を行ない、「その生活状態は満足すべきものである」と述べた。更に一九四三年十月十日、ロンドンで開催された被抑留者親族会議において、万国赤十字社極東捕虜局のキング委員は、「日本の捕虜収容所では未だ曾て虐待行為は見られず、捕虜は十分に待遇されている」と報告している。これらの事実は、日本軍に捕虜虐待の組織的企図があったわけではないことを示している。  
しかし、アメリカは物資も潤沢で捕虜を受け入れるだけの設備もあったにもかかわらず、時には米軍指揮官公認のもと、「日本軍の捕虜や投降者を射殺」し、日本人は「一人も捕虜にされなかった」のである。日本軍にも多くの落ち度はあっただろうが、捕虜や投降を一切認めず、全員殺してしまうアメリカのやり方と、果たしてどちらが残虐だというのだろうか。  
前述のリンドバーグ大佐は、日記の全編を次のような印象的な言葉で締め括っている。  
《一九四五年六月十一日…ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行なって釆たのである。…地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることには変わりがない。『汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり』。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ。)『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』)  
死の行進や泰緬鉄道「捕虜への意図的虐待は絶対ない」 2013/03/08産経  
第2次大戦中の日本軍による代表的な捕虜虐待行為とされるフィリピンでの「バターン死の行進」や、映画「戦場にかける橋」の背景となったタイ・ミャンマー間の泰緬鉄道建設をめぐり日本側が終戦後、陸軍次官をトップとする「俘虜関係調査中央委員会」を設置し、「意図的虐待は絶対にない」と連合国側に説明していたことが7日公開の外交文書で裏付けられた。  
 昭和20年10月15日付文書によると、バターンの事案で約1万7千人の死者が出たことは「遺憾に耐えざる」とし、(1)投降者が予想の約4万人を大幅に上回る約7万人に上った(2)衛生装備が貧弱でマラリア予防薬が不足−などが原因と報告した。21年5月の連合国要求に基づく報告書は、泰緬鉄道建設で捕虜を労働させ多数の死者が出たのは「工期短縮の命令を受け、周到な準備があっても至難な工事を貧弱な科学装備の日本軍が強行したことによる」と釈明した。  
「米ソによる共同謀議」を批判したプライス法務官  
キーナン検事が中心になって起草した「起訴状」を読んで最も奇異に感じる部分は、日本が「ソ連」に対する侵攻戦争を計画・実行した罪で問われていることである。  
連合国との停戦の仲立ちを日本政府から依頼され、日本が早期停戦を求めていたことを知りながら、ソ連は当時有効であった日ソ中立条約(日ソ不可侵条約とも通称される)を一方的に破り、終戦直前の八月九日、満洲、千島、北方領土に侵攻し、そのままそれらの地域を不法に占拠した。日ソ関係に限定すれば、侵攻戦争を仕掛けたのはソ連の側であり、侵攻戦争の罪に問われるべきはソ連であることは誰の目にも明らかだった。それなのに何故ソ連が裁く側に座り、日本は「ソ連に対する侵攻戦争」の罪で裁かれなければならなかったのか。  
一九四七年(昭和二十二年)五月十六日、アメリカ人のA・G・ラザラス弁護人は冒頭陳述で、日ソ不可侵条約に違反したソ連を強く批判し、日本の「ソ連に対する侵攻」を否定した。  
《日本の要請に基き本条約[日ソ不可侵条約]の継続的遵守の再三の保証がソ連邦に依つて為されたるにも拘らずソ連邦は既に一九四二年の中頃より種々な方法で違反を行つて居たのであります。一九四五年ソ連邦は条約を廃棄すると同時に一九四六年四月満期の期日まで忠実に遵守すると云ふ特別な保証を為しました。其にも拘らずソ連は米国及び英国より要請せられたるといふ以外に何等の理由なく又何等の理由あるとも見せかけずに、あたかも日本では太平洋戦争の終結にソ連の調停を求めて居り又両国間に大した未解決事件もない時期に、突然一九四五年八月日本を攻撃したのであります。》(『東京裁判日本の弁明』)  
ソ連はいかなる理由で対日参戦したのか。ソ連は対日参戦にあたり、「…連合国はソビエト政府に対し、日本の侵略に対する戦争に参加し、かくして戦争を終結せしむるに必要なる時間を短縮し、犠牲者の数を減少せしめ、世界平和の速やかなる回復に寄与せんことを提案した。ソビエト政府は連合国の標榜するところの主義に忠実に準拠し、連合国によりなされたる申合を受諾し…」という布告を出した。この布告にもあるように、ソ連を戦争に引き込んだのはアメリカであった。  
一九四五年(昭和二十年)二月の「ヤルタ会談」で、ルーズベルト大統領はソ連の早期参戦の見返りとして、南満洲鉄道の経営権及び、樺太と日本固有の領土を含む千島列島の領有権をソ連に引き渡すことをスターリンに密約した。この密約は後に一九五五年(昭和三十年)三月、ヤルタ会談の議事録がニューヨーク・タイムズ紙に公表されたことで明らかとなり、共和党議員によって強く非難されることになった。日く、「民主党のルーズベルト大統領は、国民を欺瞞して、ヤルタ会談におけるヤミ取引において、スターリンに大きな譲歩を与えた。ポーランドをタグでくれてやり、必要もないのに満洲の利権と南樺太、千島を、これもタグ同然でスターリンにくれてやった」と。  
マイニア教授は、一九四五年(昭和二十年)七月十七日から開催された「ポツダム会談」において、米ソ両国がいかにして日本侵攻のための共同謀議を謀ったかを、次のように描いている。  
《ポツダムでソ連は、連合国が公式の要請を提出するように求めた。ジェイムズ・F・バーンズ国務長官の言によれば、「ソ連政府は、アメリカ、イギリスおよび他の連合諸国がソ連政府に参戦するよう公式の要請を提出することが、最上の策だと考えている、とモロトフ[ソ連外相]は述べた」。だが、とバーンズは続けた。「この要請はわれわれに対して問題を提起した。ソ連は日本側と不可侵条約を締結していた。ソ連はヒトラーとも同種の条約を締結していたが、この場合は、ナチスがこれを破った。われわれは、アメリカ政府が他国政府に対して、後者の締結した条約を正当かつ十分な理由もなく破るように要請すべきではない、と信じていた。ソ連は二、三カ月まえに、日本に対して不可侵条約を更新しない旨を伝えていたが、同条約はまだ一年近くも有効期間があった。大統領は困惑した」。  
「正当かつ十分な理由もなく」−−これは重要な一句だった。一、二時間たつうちに、バーンズ長官は二つの口実を思いついた。一九四三年一〇月三〇日のモスクワ宣言と国際連合憲章草案中の二条文(第一〇三条、一〇六条)がそれであった。第一〇三条は、「国際連合加盟国のこの憲章に基づく義務と他のいずれかの国際協定に基づく義務とが抵触するときは、この憲章に基づく義傾が優先する」と定めていた。トルーマン大統領はソ連の介入を要請した手紙のなかで、つぎのように結論した。「憲章はまだ批准されておりませんが、サンフランシスコにおいてソ連代表は、ソ連政府が安全保障理事会の常任理事国になることに同意されました。したがって、モスクワ宣言および憲章の規定に鑑みて…ソ連が、国際社会を代表して平和と安全を維持する共同行動のために、日本と現在戦争中の諸大国と協議、協力する意図を表明されることは、適切であろうと存じます」。  
このようにアメリカ政府は、ソ連政府に対して根拠薄弱な理由付けを用意してやり、未批准の条約のために既存の条約を一方的に廃棄させたのであった。バーンズはことばを続けて、つぎのように書いた。「後になってトルーマン大統領は、スターリン元帥があの手紙に至極満足の意を表明した、と私に語った。スターリンが喜ぶのは当然であった。ソ連政府の宣戦布告声明は憲章第一〇三条に触れていないが、われわれがモロトフ氏のためにこの条文を見つけてやったために、ソ連の歴史家はソ連の対日宣戦布告が国際的な義務を忠実に履行したものである、と都合の良い主張をできることになったからである」。》(『勝者の裁き』)  
ソ連は、まだ批准もされていない国連憲章の草案によって、条約違反も、対日侵攻も、そして今なお続く北方領土の不法占拠も正当化した。その結果、満洲・樺太・千島列島に在住した日本、韓国、中国のきわめて多数の民間人が殺害され、日本政府の財産ばかりか、多数の民間企業、数十万の民間人の財産のすべてが奪われたが、それらの行為の一切は東京裁判で訴追されるどころか、「国際連合」の名において正当化されたのである。  
GHQが東京裁判の準備を進めつつあった一九四五年(昭和二十年)十二月、アメリカのプライス陸軍法法務官はニユーヨーク・タイムズ紙で、強く批判した。  
《東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを、懲罰する裁判だが、無意味に帰するからやめたらよかろう。なぜならそれを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は 日ソ不可侵条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任でなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない。》(「東京裁判の正体昌」)  
「戦勝国の判事だけによる裁判は公正ではない」  
次に「裁判官の構成・適格性」を取りあげるが、これもまた裁判の正当性を疑わせる問題を孕んでいた。  
東京裁判の「法」である極東国際軍事裁判所条例は、アメリカ大統領の命令を受けたマッカーサー司令官の指示で、アメリカのキーナン首席検事が起草した。判決を下すべき裁判官も全員が戦勝国たる連合国側十一カ国の国籍を持つ人物であった。裁判の公正さを守るためには、せめて判決を下す裁判官(判事)だけでも中立国あるいは日本からも選ばれるべきではなかったのか。公判でアメリカ人のジョージ・ファーネス弁護人は全被告に代わって訴えた。  
《此の裁判所の判事は総べて[戦勝国の]国家の代表であり、是が原告国家の代表であり、又検察官も其の国家を代表して居るのであります。我々は此の裁判所の各判事が明かに公正であるに拘らず、任命の事情に依って決して公正であり得ないことを主張するのであります。でありますから此の裁判は今日に於ても又今後の歴史に於ても、公正でなかった、合法的でなかったと云う疑を免れることが出来ないのであります。》(『勝者の裁き』)  
ニュルンベルク・東京両裁判の進行中、イギリスの元内山閤官房長官ハンキー卿も批判している。  
《未来に対して極めて重要な裁判を行う法廷を偏見の度合の少い連合国の構成国、もしくは、もつと公平な中立国の判事を参加させずに、戦争の矢おもてに立つた連合国側が指名した判事だけで構成することに決定したことは、果して正しく賢明だつただろうか。  
われわれはいま少しで負けるところだつたが、かりに負けたとしたら、われわれは日・独・伊三国だけによる裁判に納得しただろうか。また、歴史がそのような裁判の結果を受けいれると期待されるだろうか。》(『戦犯裁判の錯誤』) 
治安維持法下でも天皇の名で公正な裁判が行われていた  
治安維持法によって多くの人が警察に疑われたり、逮捕・拘留されたりしたのは、動かしがたい事実である。私の近親にも治安維持法で捕まり、二年半にわたって拘留された人がいるが、この人の場合もまったくの菟罪であった。  
ただ、日本に共産主義を入れないという点においては、治安維持法が大きな効果を上げたことは認めなければならないし、それは評価すべきだと思われる。なぜなら、ナチスの思想が人種差別とセットになっているように、共産主義イデオロギーはつねに暴力とセットになっているからである。人種偏見のないナチズムが考えられないように、暴力や大量殺人のない共産主義などありえないのだ。  
これは、共産軍命が起きた国のことを考えてみれば、ただちに理解できるであろう。ソ連ではロシア革命でロマノフ王朝一族が惨殺され、さらにスターリンの統治下では数百万人もの人が粛清されたり、シベリアの強制収容所に送られたりした。  
戦後になって、スターリンの残虐行為が明らかになったとき、日本の進歩的文化人たちの中には「あれは共産主義のせいではなく、スターリン個人の資質の問題である」とか「ロシア人の民族性ゆえに起こつた悲劇だ」というような弁護論を展開した人もいた。しかし、それが大きな間違いであるのは、毛沢東の中国革命、さらに文化大革命などで同じような大量殺人が起きたことを見れば、ただちに分かるであろう。このとき、中国で犠牲になった人の数は数百万という説もあれば、一千万を超えるという説もある。  
これはベトナムでも同じである。ベトナム戦争で南ベトナムが解放 されたあとに待っていたのは、恐るべき大虐殺であった。そして、それから逃れるために百万を超えるベトナム人が難民として海外に脱出した。  
さらにカンボジアでも、ポル・ポト派によって大量虐殺が行なわれた。今でもその詳細は分かっていないが、およそ一国で行なわれた粛清としては、史上最悪の高率で国民が殺されたという。また、北朝鮮で同様のことが今日でも行なわれているのは周知の事実である。  
こうしたことから分かるように、およそ共産軍命と名のつくもので、組織的な暴力や虐殺と無縁だった例はまったくない。革命は、つねに大量の血を欲するものなのである。  
治安維持法の目的は、このような暴力的イデオロギーの侵入を防ぐためにあった。現に日本の場合、ロシア革命直後の大正九年(一九二〇)、ニコライエフスクというアムール河口の都市で、革命ゲリラによって日本人居留民約七百人(うち軍人は二百人足らず)が一人残らず虐殺されるという事件(ニコライエフスク事件。尼港事件とも)を経験しているから、共産革命に対する恐怖感は強かったのである。革命により、天皇制・国体も破壊される。  
隣国であるソ連からそのようなテロ思想が入ってくることに村して、治安維持法という対抗措置を採った日本政府の立場は、今日から見ても理解できるものだし、また未然にそれを防げたという点については評価できるのではないか。  
だが、その一方で、治安維持法によって無事の人々が犠牲になったのも否定できない事実である。特に労働運動や農民運動、無産運動、新興宗教運動の関係者たちは大きな迷惑を被った。  
さきほど触れた私の近親も、その一人である。彼は教育者として、生活綴り方(今日の作文教育の原点)の運動をやっていたのだが、「左翼思想である」として捕らえられたのである。これはまったくの冤罪であったのに、二年以上も未決のまま拘留された。結局、放免されたわけだが、それでも特高の刑事が執拗に付け回してくるので、そのために何度も職を失った。そこで、私の近親は満洲に渡った。すると、満洲の新しい職場にまで刑事が現われたという。おそるべき執拗さではないか。  
私の近親のように、共産主義とはまったく関係ないのに治安維持法で逮捕された人は数え切れない。その中には、無罪なのに罪を認めてしまった人もいるし、取調べの途中、拷問によって命を失った人も何人かはいる。  
治安維持法の最高刑は、当初は十年以下の懲役または禁固であったが、一九二八年に改正されて、死刑または無期懲役ということになった。ところが、この法律によって死刑になった共産党員は一人もいないのである。  
私がこの事実の持つ意味を知ったのは、さきほど紹介した近親者からであった。私がこの人に「過酷な取調べを受けているあいだに、よく無実の罪を認めてしまいませんでしたね」と尋ねたところ、彼はこう答えたのである。  
「それは、警察は無茶な取調べをするけれども、裁判になれば無実が明らかになるはずだという思いがあったからだ。あの頃の裁判は天皇の名によって行なわれていたから、国民はみな正義が通ると信じていた。それに、拘留中は辛かったけれども、戦争に行っている人のことを思えば、我慢もできた。食い物だってあるし、弾も飛んでこないのだから、兵隊に取られるよりはずっとましだと思った」  
この話を聞いて、私は目から鱗が落ちるような気がした。  
なるほど治安維持法は悪法かもしれない。だが、この法律によって無実の罪で拘留された人ですら、裁判が正しく行なわれると信じていたのだ。何も彼らは「暗黒裁判」で裁かれたのではない。そこでもう一度、事実を確認してみると、「天皇の裁判」によって死刑になった共産党員が一人もいなかったことに気付いたのである。  
戦後の日本共産党においては、「非転向」ということが勲章になっていた。つまり、逮捕されても思想を捨てず、最後まで抵抗したという人が大きな顔をしていた。しかし、考えてみれば、この人たちが日本に入れようとしていた共産主義は、転向とか非転向という言葉すら許さないイデオロギーである。  
スターリン時代の粛清の話を読むと、一枚の紙切れで逮捕され、裁判もなしに銃殺された人が無数にいたという。おそらく逮捕に当たっては、反革命という罪状があっただろうが、彼らには裁判を受ける権利さえ許されなかった。  
 
「戦勝国」史観との対決 2015/2

 

歴史と文化の複合攻撃  
西尾 今日はまず、お二人に問いかけをさせていただきます。歴史問題で日本が苦しめられている。靖国神社や慰安婦問題でアメリカ、中国、韓国から謂われなき罪で批判され続けていて、日本はそれに毅然と反論できないでいる。その構図は国際政治の文脈で語られることが多いのですが、少し角度を変えて考えてみたい。  
韓国はあまりにも荒唐無稽な自国自慢をします。日本語の仮名は韓国産だ、剣道も柔道も韓国起源だと呆れ返るようなことを言い出す。相撲も歌舞伎も韓国が日本に教えたとさえ言っています。対日本だけではなく、孔子も孫文も韓国人だと言い出して中国人を怒らせたこともある。ついにピッツァもイタリア産ではなく韓国由来だそうです。  
その中国も中国で、キリスト教は中国起源であるとか、『旧約聖書』も『新約聖書』も墨子から発しているという説もあります。十九世紀には世界の文化文明はほとんどが中国起源であるというお国自慢が広がったことがありました。中国人はまだ大人ですから、表では大声で言わなかったり、それをきちんと否定する人が出てきたりします。韓国の場合は否定する人は袋叩きに遭うらしいですから、救いがない。ただ、腹の中は両国はよく似ている。  
アメリカはどうか。今や自らこそがキリスト教文明の中心であり、ヨーロッパ文明の継承者だと信じていて、ヨーロッパもそれを認めている。だから堂々と「人道に対する罪」などという概念を持ち出し、人類の名において世界を裁くということに躊躇しない。  
一方のわが国は、もともと謙虚で、そういう原理主義をとらない。戦前から文明を他国に学ぶことを隠していない。第二次世界大戦で敗北した後、戦争裁判の結果をすんなり受け入れたのはそのせいでもある。賠償もすませそれなりの償いを完了させて講和条約も結んだ。にもかかわらず、というか今述べた国柄のせいか、どこかで罪悪意識を抱き続けてきました。これは日本人に罪の意識を植え付け、二度と立ち上がれない国にしようとしたGHQ(連合国軍総司令部)の「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」によって洗脳されたせいでしょうね。占領終了後も日本を「弱い国」のままにしておきたかった左翼勢力に騙されてきただけなのに、なかなか吹っ切れない日本人が多い。  
アメリカが日本との戦争に勝ったこと、中国や韓国が戦勝国の側に自分勝手な理屈で立っていること、あるいは戦争の犠牲国として日本より国際政治的に優位に立っていることと、文明の起源は自分たちにあるといって偉そうに日本に押しかぶさってくることとは本来は別の話です。後者に関しては、われわれはきちんと文化論的対応や反論ができます。先述したような馬鹿馬鹿しい自国自慢は放っておけば消えていくことも理解しています。  
日本対西洋というドラマは、長い付き合いの中で文明論的に成熟していて、西洋人は日本が古い独自の文明を持つことを理解していました。また日本人はある時代には自らを東洋の代表としてみて、東洋対西洋という対立図式さえ堂々と語っていた。  
ところが中国人と韓国人には、西洋との精神的な対話を通して、自らを分析することなど考えもしません。ことに韓国人は西洋との対話の伝統さえあるように思えません。一方的に自らが優越していると思っています。日本は優越しているなどと考えず、西洋とは異質であるが、そこから学んで自分のものにもしなければならない西洋文明の底深さを自覚してきました。  
日本はそうしてバランスをとりながらやってきたのに、突如として中韓の異様な日本攻撃が始まった。なんの根拠もなく自分たちを高みにおいて日本に上から目線でものを言う。そこに戦勝国、戦争の問題を重ねている。文明の問題と戦争の問題とは別なのに、それが折り重なって日本に二つのウソが覆い被さってきていて、日本人はたいへん分かりにくい局面に立たされている。区別すべきはきちんと区別すべきです。日本が古代中国から影響を受けたのは韓国経由ではありません。韓国経由はごく初期だけです。宋以後の中国からはさして決定的な影響を受けていません。戦争に関しては、日本は韓国とは戦争していません。日本も敗れて韓国も敗戦国なのです。日本が中国と戦ったのは国民党軍であり、中共軍ではありません。中華人民共和国は日本がアメリカに太平洋で敗れて、大陸を撤退してから、その後で大陸の覇権国家になったのです。日本人はここで一度、日本人としての自覚、歴史の自覚を突き詰めて考え、対決すべき時が来ていると思います。  
宮崎 中国と韓国が似ているところは、まったくのジコチューで独善的であることです。韓国は朝鮮半島の食いっぱぐれが日本だと考えている。また見栄っ張りで、映らないのにサイズだけは大きいテレビを置いたり、外箱だけで中身のない文学全集を本棚に飾ったりしている。一方の中国は、史上最大のベストセラーが清朝末期に公刊された『厚黒学』だというお国柄。腹黒くなければ出世しないという人生観に染まっているのが中国人です。  
この中国人と韓国人の共通点は、山賊の論理です。「人のものは自分のもの。自分のものは自分のもの」。西洋との違いといっても、西洋もアメリカも中東も一神教ですから、自分だけが正しいと考えるのも論理的には分からないでもない。ただ中韓は一神教でも何でもないんだけれど。  
西尾 朱子学は一神教に似ています。  
宮崎 一神教は他を認めませんが、朱子学の中では、さまざまな学派が百家争鳴、という時代もあります。彼らの規範はやはり中華思想でしょう。国際秩序を守れと批判されても、彼らは彼らで中華秩序という独自の国際秩序を守っているという意識だと思います。  
西尾 困ったものですが、最近は「鄭和の艦隊」を持ち出して、現在進めている海洋覇権戦略を正当化しようとしていますね。  
宮崎 六〇〇年前の明代に、東南アジアからインド、アラビア半島さらにはアフリカにまで至る航路を開いたのが「鄭和の艦隊」。習近平は二〇一四年九月にモルディブとスリランカを訪れた際、「鄭和がモルディブを訪れ、その答礼の使者がモルディブから中国に来た記録がある」などと発言しました。スリランカでも同じことを言っています。  
西尾 「鄭和の艦隊」は平和主義だった。だから自分たちも軍事覇権や軍国主義とは無関係だというようなことを言って回っている。  
宮崎 中国はモルディブとスリランカを「真珠の首飾り戦略」に組み入れようとしています。「真珠の首飾り」とは、南シナ海からインド洋を中東へと至る中国のシーレーン戦略で、沿岸各国の港湾インフラ整備を支援し、自国の艦船が寄港する足場として確保しようとしています。これまでは商業目的と語られてきましたが、習近平がスリランカを訪れた前日には中国の潜水艦が初めて寄港し、軍事目的があることも分かってきた。  
つまり中国は、自分の仲間になりそうなところでは鄭和を持ち出す。日本やインドでは語らない。語っても無駄だからでしょう(笑い)。 
陸軍博物館の特別展示にみるアメリカの「正戦」論  
江崎 アメリカも独善という点では中国と変わらないと思います。最近ハワイのホノルルに行くことがあって、真珠湾のアリゾナ記念館やアメリカ陸軍博物館を見てきました。自分たちがホノルルを征服し、ハワイ王朝を絶滅させことについてはほとんど触れず、アジアの平和を乱したのは日本のエクスパンション、拡張主義で、アメリカはそれに立ち向かい、平和が訪れたという歴史観が語られていました。  
陸軍博物館ではちょうど戦後七十年にあわせた特別展示が行われていて、これもまた愉快ではありませんでした。戦時中の日系人によるインテリジェンス(情報収集・諜報)活動がテーマで、日系人たちがアメリカ国民として第二次世界大戦で日本を打ち負かすためにインテリジェンス活動に従事していたというんですね。日系人も最終的にはアメリカの文明に心服して、アメリカ国民として日本との戦いに加わった、彼らを称えようというストーリーです。米陸軍には当時、主に日系二世の将兵で編成された情報セクションまでありました。対日戦線で日本語能力を生かし、情報収集や分析、宣伝、捕虜の尋問などにあたり、在日占領軍でも活動しています。  
宮崎 アメリカの日系人は戦前から戦中にかけて、日米の間で揺れ動きます。アメリカ組と日本組に分かれ、日本に忠誠を誓った人たちは船で日本に帰った。戦争が始まるとアメリカ組は収容所に入れられますが、そこでもアメリカが勝つという組と負けるという組に分かれる。勝ち組は、「われわれはアメリカ人として戦う」と誓って日系人部隊に入った。アメリカ史上最も多く勲章を受けた勇猛な部隊として有名な四四二部隊も彼らですよ。  
西尾 戦後我々は、アメリカ軍に加わって日本と戦った日系人の行動を武士道として理解してきました。彼らは「郷に入りては郷に従えで、アメリカという国家に忠誠を尽くした」のだと。しかし、よく考えてみると祖国を裏切る卑劣な行動だったのではないか。そんな評価が近年出てきました。鈴木敏明さんという方が『逆境に生きる日本人』(展転社)で打ち出しています。アメリカには協力しないと背中を向けた日本人たちもいて、彼らは牢にぶち込まれた。彼らこそが立派だというんですね。  
宮崎 戦後、その問題を最初に書いたのが藤島泰輔の『忠誠登録』で、そのあと山崎豊子の『二つの祖国』がでた。日系人の心理の移ろいを描いています。  
一九八〇年にレーガン政権ができたときに、強制収容した日系人に対する補償がなされました。実はあの運動をやったのは民主党左派です。穏健な在米日本人たちは嫌がっていました。日本人のモラルとして、恥だと考えたんですね。  
西尾 あえて請求しなかったんだ。  
宮崎 従来の日本人は、そういう感覚なんですよ。  
江崎 帰属心とは別に、戦時中の在米日本人・日系人でアメリカ軍の諜報・情報活動に協力したのは、実はアメリカ共産党に属した在米日本人グループだったという側面に注目しておくべきです。有名なのはカール・ヨネダや木元伝一らですね。カール・ヨネダは筋金入りの活動家で、マルクスから名前を取っています。陸軍情報部で中国やビルマ戦線に従事し、『アメリカ――情報兵士の日記』『がんばって――日系米人革命家60年の軌跡』といった著作で知られます。木元は尾崎秀実・ゾルゲグループの宮城与徳を日本に送り込んだ人物とされ、日米戦争中はアメリカ戦時情報局(OWI)で対日心理作戦に従事しています。彼らにとっては日米戦争を煽ることこそ目的だったからです。アジア赤化のために日本をアメリカと戦わせて日本を弱体化させるのがソ連の戦略でしたから。 
中国に警戒強めるアメリカ情報機関  
江崎 一方で、ハワイの海兵隊基地では、こんなこともありました。真珠湾攻撃でその基地に突っ込んだ零戦パイロットの飯田房太大尉の記念碑が戦後アメリカ陸軍によって突入現場に建立されていて、「日本人は非常に勇敢に戦った。自分たちも顕彰している。お前は日本人なのだから、そこに行け」と海兵隊関係者から勧められました。  
西尾 そういうこともあるんだね。  
江崎 軍人として忠誠心や勇敢さ、自己犠牲の精神は敵味方の区別なく評価する。そんなフェアな一面もありますが、米軍全体としては、日系人でさえ悪い日本と戦ったのだとアメリカの正義を強調するようなプロパガンダを戦後七十年に向けて展開しているわけです。  
西尾 アメリカは、日本との戦争の評価で文明の優位については譲らなくても、戦争の可否と動機の相対化、つまり日本にも一分の理はあったことを承認する目が出てきているのではないか。カナダ在住の歴史家、渡辺惣樹さんが報告されていますが、ルーズベルト大統領が日本を開戦に追い込んだことは、刑事裁判では認められなくとも民事裁判では認定されるというところまでアメリカでは研究が進んできているようです。学界や言論界レベルの話ですが。  
江崎 確かにアメリカでは保守派を中心に、「ソ連と組み、コミンテルンのスパイたちを重用したルーズベルト外交は結果的に中国大陸を共産党に奪われるなど、失敗だった」という議論が浮上してきています。  
西尾 日本人に日本人パイロットの顕彰碑を見に行けと勧める軍人がいるという江崎さんのお話もそれに通じるところがある。  
江崎 現在の国際情勢の中で国防総省、特に海兵隊は、着々と太平洋に進出してきている中国の軍事的脅威に対して、日米が協力して戦わないといけないという危機意識が高まっていると思います。そういう中で日本のプラス面は積極的に評価しようとしている印象を持ちましたね。  
西尾 ただそれはあくまで戦争の問題で、文明の問題ではありません。軍事利用の問題で、歴史の正義を認めるか否かの問題ではない。アメリカは戦後、中国や韓国、その他の国々に対して、経済的に豊かにさえなれば民主化して法治国家になるという見通しに基づいて外交政策を立ててきました。ところが現実はまったく逆で、中国は狂暴化するし、韓国は愚昧化した。アメリカは自ら犯してきた過ちに気付いているのでしょうか。  
江崎 一般人は中国への警戒心を持ち始めています。というのも中国が金にあかしてアメリカの不動産を買いまくっているからです。ハワイでは中国人が投資のためだけにコンドミニアムを高いカネで買い漁り、地価が急騰している。地元の人たちが住みづらい地域ができてきています。  
西尾 中国人は世界各地で同じことをやっている。  
江崎 実はアメリカの軍当局やインテリジェンス機関も相当、中国の対外工作に警戒心を強めています。中国の国営テレビ局中国中央電視台(CCTV)はアメリカ本土をはじめとして世界中で放送をしていますが、軍当局は「プロパガンダ放送だ」と神経をとがらせています。  
アメリカでは、中国が世界中で開設してきた中国語教育機関「孔子学院」を閉鎖させる動きが出ていますが、その背景にもアメリカの情報機関の意向があると聞いています。そのきっかけは、中国に留学するアメリカの大学生が、中国によってスパイにリクルートされる事件が起きたことです。FBIは二〇一四年春、中国に滞在しているアメリカ人留学生らが中国の情報機関に買収され、スパイになる危険性に警鐘を鳴らす留学生向けの動画を製作してネットで公開しています。『(チェスの)歩兵のゲーム(Game of Pawns)』というタイトルです。  
西尾 経済発展しても期待していたようには民主化されず、逆の効果が出てきたということですね。そもそも豊かになれば民主化するというアメリカ人の発想の根拠は日本です。ファシズム国家だった日本を負かし、占領して民主化し、立派な国に育て上げたと考えています。アメリカが勝手にそう考えているだけですが。  
江崎 イラク戦争でブッシュ大統領が言っていましたね。  
西尾 アメリカの文明で日本を覆い尽くしたのだから、他国も教化できると考えていた。私に言わせれば、とんでもない勘違いですよ。かつての日本には確かに民主主義などという言葉こそありませんでした。しかし古の時代から、民を大事にし、他人の意見をよく聞き、相和して生きていくという、モラルあるいは一種の習俗があった。ただ戦後は、その上にアメリカの明るさとパワーを学んだ、という程度のことだと理解しています。もちろん日本からの輸出に門戸を開いてくれたことには感謝しています。  
ですから、アメリカが日本に民主主義を与えたという理解は誤りなのだということを、アメリカ人に分からせることができるのかという問題なんですよ。 
巨額不良債権の隠蔽共同体  
西尾 それにもうひとつは中国の未来です。中国が共産主義をやめて、言論の自由のある国になるか否かで日本の未来は変わってきます。あんなデタラメな経済政策をやっていて今でも何とか持ちこたえている。いつまでこんな状態が続くのですか。  
宮崎 米中は通貨や金融に関しては共犯です。紙くず同様の人民元がドルと交換できるようになって、中国は外貨をどんどん積み上げ、政治資金として使ったり、海外に投資したりしてきました。アメリカにとっても、ドルが流通するから利益になる。  
ところが西尾先生が御指摘のように、中国の経済は滅茶苦茶でバブルも破裂しているのに、なぜかまだ成長が続いている。これはアメリカも荷担して、中国の銀行がまだ機能しているというフィクショナルな虚像を世界に見せているからです。中国の銀行は破綻しています。預金準備率を引き下げ、シャドーバンキングなどを使って資金を供給し、今度は利下げです。貸出の上限利率は五・六%であるのに、一年物定期は二・七五%にまで下げて利ざやを大きくしている。これで海外からの投資が続く。年間ドル換算で九〇〇億ドルから一〇〇〇億ドルの投資がある。  
西尾 今でもまだ海外から?  
宮崎 そうです。日本からの投資は、二〇一二年の尖閣問題に端を発した反日デモ・日本企業焼き討ち以降減り始めて半減したけれども、まだ一〇〇億ドル近く投資されています。台湾からも一〇〇億ドル、ドイツも大金を投資しています。海外からの投資は相対取引で人民元になるから、銀行に資金が供給できるという仕組みになっています。  
しかもアーンスト・ヤングなどアメリカの代表的監査法人も中国に現地法人をつくり、銀行の監査に入っているのに、実態を明らかにしない。銀行が相当な不良債権を抱えていることはわかり切っているのに公表しないんです。中国の当局に握り潰されているんでしょう。その結果、中国の金融が機能しているかのように世界中が錯覚する。この不良債権問題が弾けると、ドルも連動して相当暴落してアメリカも困る。米中は隠蔽共同体ですよ。  
西尾 中国版サブプライムローンが限界に近づいているということですね。  
宮崎 おそらく円換算で一千兆円ぐらいでしょう。日本のバブル崩壊は四十兆円でしたから、その二十五倍の規模です。そうなったときは日本の反撃の最大のチャンスですけれども。  
西尾 しかし日本経済も攪乱されるでしょ。  
宮崎 一割程度は攪乱されますね。中国に大工場を持つメーカーや手広くビジネスをやっている商社は株価が大暴落するでしょう。トヨタ、コマツ、ダイキン工業、伊藤忠などです。  
西尾 アメリカも日本もそれが分かっていて半身を抜いているけれども、中国経済が破綻して自分たちもやけどを負うのが怖いから協力して投資もするというハーフ・アンド・ハーフのスタイルで付き合っているわけですね。  
宮崎 アメリカは、製造業は中国からかなりが撤退しましたが金融ではまだズブズブの関係です。 
「共産主義に汚された歴史」を問え  
西尾 アメリカが金融を握っているのは、いざとなれば中国の弱点をカネの面でつかんで抑えにかかれると思っているからではないでしょうか。アメリカ経済への波及も恐れているのでしょう。各国が金融面で痛い思いをしたくないがために、中国の独裁と腐敗を許しているという国際社会の現状をどうみるか。これは北朝鮮への対応と似ていますね。北朝鮮は規模こそ小さいけれども、暴発されたり無秩序に崩壊されたりしたら困る。その一点で国際社会が一致していて、あれほどデタラメな国に手出しをせず、そっとしておいている。暴発されたら韓国は甚大な被害を蒙るし、いざ統一となると経済的な負担が大きい。アメリカも力を行使する状況は避けたい。中国も緩衝地帯がなくなるのは嫌だし、日本だってとばっちりはごめんだと思っている。勝手なことやれるのはロシアだけでしょうが、責任は取りたくない。だから北朝鮮のような国がここまで残存してきた。同じことが巨大な規模で中国にも言えるということでしょう。  
戦後七十年で、米中が歴史戦争を仕掛けてくる。アメリカには日本の味方をする勢力もあるかもしれないというのが今日の江崎先生のお話ですが、やはりファシズム国家日本をアメリカ文明で教化したという認識原則は変えないでしょう。しかし、日本は三百年余の歴史的由来から――「東インド会社」以降の――日本の正しさを弁明すべきです。  
西洋の植民地主義は、スペインからポルトガル、オランダ、そして英仏へと主役が交代しながら侵略を拡大してきました。この大きな流れの終着点が大東亜戦争だったんです。日本は中国に対して、協力して西洋植民地主義と戦おうと呼びかけた。ところが、そこまでの認識を持てない中国と韓国が深い眠りに入ったまま動けなかった。  
そのことをアメリカに納得させたい。アメリカだけを責めているのではないのです。地球を覆い尽くしたキリスト教文明と、孤立無援の中で戦ったのが日本だった。われわれはそうして立ち上がった先人を誇りに思っていて、戦争犯罪人として断罪されるなどとんでもない。靖国神社を首相や閣僚が参拝するのは当然なのだと理解してほしい。これは大東亜戦争肯定論ではあるけれども、修正主義でもないし右翼でもありません。そもそも「修正」ではなく最初から正しかったと言っている。それをどうやったら一歩でも実現できるのか。  
江崎 ソ連と組んだルーズベルトが「悪」だったと考えるコンサバティブな人たちにも、「日本が正しかった」ということまでは理解されないでしょうね。アメリカは日本の正しさを永遠に認めないと思います。  
宮崎 絶対に認めませんね。  
西尾 認めなくてもそこに日本の「意志」があることを機会あるごとに訴え、知らせるだけでもいい。  
江崎 ただしソ連と組んだ民主党のルーズベルト外交は間違いだったというレベルまでは認めさせることは可能かもしれない。第二次世界大戦にいたる国際政治の中で、ソ連と組んだルーズベルトは外交的にも戦略としても間違っていたと理解させることはできるのではないかというのが、私の見立てです。  
アメリカ政府が一九九五年にヴェノナ文書を公開しました。第二次世界大戦期にソ連の暗号電報を傍受、解読した文書で、ルーズベルト政権にソ連のスパイである秘密アメリカ共産党員が大量に入り込んでいたことを立証する文書です。それをアメリカ政府自身が公開した。ルーズベルト政権内部にソ連のスパイがいたことがアメリカの歴史学会で話題になってきたためか、今年に入ってイギリス政府もが、アメリカの対日占領政策に全面的に協力したカナダの外交官ハーバート・ノーマンが少なくとも学生時代にはソ連のスパイだったというMI5の秘密文書を公開しました。  
ベルリンの壁崩壊から二十五年、アメリカの首都ワシントンDCに本部を置く共産主義犠牲者追悼財団が、第二次大戦後の共産主義との闘いを映像にまとめ、公表しましたが、そこでは、いまだに中国共産党や北朝鮮が人権弾圧を繰り返し、国際社会の脅威となっていることを批判しています。英米の指導者たちの中にも、自分たちがソ連と組んだことで、アジアにおいて共産主義勢力を大きくしてしまったことについて忸怩たるものがあるでしょう。その意味で、ルーズベルトの間違いを認める可能性はあると思います。  
ですから「大東亜戦争で日本は正しかった、悪くなかったのだ」と主張するのではなく、「日本は防共戦争、共産主義の膨張・南下に対する防護をしていたのだ」という形で英米諸国に対してアピールすべきだと思います。東京裁判では、日本側が弁明のための証拠として準備した共産主義関係の資料はすべて却下されています。連合国の側にソ連が入っていたからです。この対共産主義という視点を戦後七十年という節目に打ち出すべきだと思いますね。アメリカでもイギリスでもソ連や中国共産党と組んだことは間違いだったと認められ始めているではないか、と訴えるべきです。  
アジア太平洋地域に限って言えば、共産主義の問題はなにも終わっていないし、中国の脅威という形で進行形だという認識がアメリカに広がってきていますから、タイミングとしてもいい。  
西尾 私もずっとそう言ってきました。中国共産党は日本が大陸から手を引いた後、アメリカが作ったんですよ。中国戦線米軍総司令官だったウェディマイヤーの反対を押し切って国民党を排除し、毛沢東を全面支援したのは国務長官のマーシャルでした。その一、二年後に毛沢東軍は朝鮮半島を南下し、アメリカの正面の敵となりました。マーシャルの失敗はいまだに批判されていません。アメリカは余りにも愚かです。私はこうしたことをきちんと日本国民に伝える国民教育も大事だと思います。たとえば、なぜ講和条約というものがあるのか。講和条約は戦勝国にとっては報復の手段だけれども、敗戦国にとっては二重の謝罪、三重の賠償をしないための防衛策です。それが国際的ルールのはずなのに、それを今でも言い募ってくるのは、もう一回戦争しようとしていることと同義です。中国や韓国とは、講和条約と同じ意味を持つ平和条約、基本条約を結んでいるのに、そのことをいくら言っても分かろうとしない。  
従って、中国や韓国と歴史の問題を討議することはまったく意味がないということを国民に知らしめる。最近のいわゆる「嫌韓本」の出版ラッシュはいいことなのです。これ以上歴史問題を議論しても、お互いに理解しあえる言葉がもうないということを国民も分かり始めている。朝日新聞やNHKや自民党の左半分はそれでも和解ができると思い込んでいるかもしれないけども、できません。中国も韓国とまったく同じだということは、日本人も分かってきていると思います。一方で、アメリカは多少なりとも違うでしょう。他のアジアの国々も話せばわかる。  
日本人が国内で見ている戦争観と、世界が見ている日本の戦争観と、この落差があまりに大きいということについて申し上げたい。ドイツの場合にはこの落差がありません。ドイツ国内のナチス観と世界のナチス観は一致しています。そのため今のドイツ人は、ナチスは自分たちとは違う存在だ、というウソをついて逃げています。しかし日本人はウソをつく必要がありません。国民と天皇と軍は運命共同体として戦ったのです。世界の世論はそのことがまだ良く分かっていません。そのため日本国内との落差が大きい。日本国民は戦後もあの戦争自体を犯罪だと思っていない。失敗だとは思っていますが。ですから、外国の力で口を封じられると、日本人にも復讐心が燃え上がってきます。ですが、たとえばアメリカには一部だけれども分かってくれている勢力がいて、理解が少しずつでも広がっているという希望があれば、復讐心を燃え上がらせたり、恨みに思ったりはしない。正義の心に風穴を開けておくことが大切なのです。そうしないと内向化して鬱積する。  
ドイツ在住の作家、川口マーン惠美さんの『住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち』という本に同じようなことが書かれています。「謝罪の問題は既に謝りましたではなく、なかったことについては謝りませんということをはっきりと皆にわかるように言ったほうがいい。そもそも日本人が不誠実なら、日本はこれほど健全な発展は成し得なかったはずだ。皆が思いやりを持ち助け合ってきたからこそ、戦後の経済発展の果実が一人の人間の手だけに落ちることなく、国民全体の富として行き渡ったのではないか」。  
にもかかわらず、歴史問題の克服が「うまくいかないのは、先方が終止符を打つことをひたすら拒んでいる」からだと。先方というのは中韓のことで、「その上哀しいことに、日本人の罪はますます水増しされていく。ここまですべてがうまくいかないということは、日本人のこれまでのやり方、つまり穏便に控えめにというやり方が間違っていたと考えたほうがよい」「こちらが退けば退くほど、突進してくるのがあの国の人たちのやり方のようだから、このままでは和解のチャンスは永久に巡ってこない」。  
江崎 その通りですね。  
西尾 おとなしくしていてはダメなんですよ。突っ込まれるばかりで、罪はどんどん水増しされていく。  
江崎 やはり日本からアメリカに向けて働きかけていくことです。繰り返しますけど、アメリカの軍や情報機関は現在、中国のプロパガンダに警戒心を高めていて、対抗策をとろうと考え始めています。「慰安婦も南京事件も、共産中国のプロパガンダなのだから、疑問視すべきだ」と彼らに働きかける絶好のチャンスを迎えているのです。問題は、アメリカ内部のこうした動きを、日本政府がどこまで理解しているのか、ということです。  
宮崎 問題は日本に情報機関がないことでしょう。情報を取ってくる人もいるけれども、統合された情報戦略として官邸なりに上げていく組織がないことは、大変な問題だと思いますよ。  
江崎 第二次安倍政権が発足した平成二十四年当時、官邸に戦略情報室を創設する動きがあったと聞いていますが、実現しなかった。公明党や親中派の自民党政治家たちの反対を押し切れなかったようです。 
日本の世界戦略と歴史観をアピールするために  
西尾 ちょうど新しい安倍政権が発足します。何を期待しますか。  
江崎 官邸に設置した日本版NSCの下にインテリジェンスと対外広報と分析を担う実働部隊を組織すべきです。安倍政権は対外広報戦略として、これから五〇〇億円を使って米ニューヨークと欧州・東南アジア国家の主要都市に「ジャパンハウス」なるものを作るそうですが。  
西尾 なんですか?  
江崎 日本の漫画・ゲーム・アニメ・料理などを紹介する施設を世界各地に作ろうという計画です。そんなことでお茶を濁さずに、戦後七十年なのですから、日本の世界戦略と歴史観を堂々と問うてほしいですね。ソ連と組んだルーズベルトがどれだけ罪深いのか。ルーズベルトが日本を叩いたお陰で、アジア太平洋地域では共産主義の防波堤がなくなり、中国は共産党政権となり、朝鮮戦争が起きた。そしてアジアはいまだに中国共産党と北朝鮮という全体主義陣営に苦めらていると考える欧米の学者や政治家たちと積極的に連携すべきです。  
西尾 おっしゃるとおり。政府がやるべきなのはもちろんですが、それを言うと、その前にお前たち言論人がやれと言われるんです。だからかつては新しい教科書をつくれ、となったわけですけども、改めて教科書も大切になるのではないでしょうか。  
宮崎 長期的には、教科書は一番大切です。短期的に言えば、日本に天安門事件の記念館をつくりたい。  
江崎 天安門事件は中国共産党政権の残虐さを世界に知らせた事件ですし、戦後七十年の一つの記念事業として世界的な発信になりますよね。  
宮崎 もう一つ、二〇一五年四月十七日は下関条約締結百二十周年です。日清戦争勝利国民大集会を開催する。  
西尾 であれば、日露戦争のポーツマス条約締結日も祝日にすべきだよね。  
宮崎 諸外国なら当然、祝日ですよ。  
江崎 アメリカにとっても、日露戦争は、日米で連携してロシアの南下を食い止めたという意味を持ちます。今度は、日米で連携して中国の拡張主義を食い止めようという世界戦略をアピールすることにもなる。  
地道な作業ですが、長期的に取り組むべきことは、防衛研究所にあるような日本軍に関する基礎的な資料を英訳し、インターネットで公開して全世界の研究者が利用できるようにすべきです。慰安婦問題でもそうですが、アメリカの学者たちは、日本は、戦争に関する資料を隠蔽していると考えているんですよ。  
西尾 日本語を勉強しないからいけない。  
江崎 そうなんですが、欧米の学者たちに、日本軍がどれほど厳格に軍規を守って行動していたのかを示す資料が山ほどあることを知らせるべきです。そうした膨大な文献を英訳すれば、日本軍が南京大虐殺をしたり、女性を強制連行したりする軍隊ではないことが自然と世界に伝わっていきます。  
西尾 それは大変なお金が必要でしょう。  
江崎 ジャパンハウスなどに使う予算五百億円をあてれば十分です。法的根拠なく、外国人に支給している生活保護費が年間一千二百億円ですから、それを適正化すれば、英訳の予算などいくらでも捻出できます。  
西尾 それは私も大賛成で、確かに慰安婦問題をこのままで終わらせてはまずい。朝日新聞が誤報を認めたから議論は終わりとなるのが怖いですね。国内的にはよくても、国際的にはまったく効果は出ていません。一説では、韓国が国連安保理に慰安婦問題を訴えるという話もある。潘基文が事務総長ですから議論が進められる可能性があります。  
もう一つ心配なのは、憲法九条のノーベル平和賞です。戦後七十年という節目だからなどいう理由で受賞しかねませんよ。  
江崎 憲法九条がノーベル平和賞をもらってしまったら、「正論」連載の漫画「それゆけ! 天安悶」が描いていたように、安倍総理がノーベル賞のメダルなりをオバマ大統領に贈呈したらどうですかね。「立派な憲法をつくってくれてありがとう」ってね(笑い)。受賞者はアメリカだとアピールすればよい。痛烈な皮肉ですが、それくらいのことを言ってこなかったから、日本は国際社会から舐められるのです。  
西尾 ただ現実問題として、日本人には愚かなノーベル賞信仰があります。憲法改正はできなくなるでしょう。外務省はこれを阻止するための活動をしているんですかね。安倍総理には、外務省の尻を叩いてほしいですね。  
安倍総理は外交面では本当によくやってくださっていると思います。よく体がもつなと思うくらい精力的に海外を回られて、国際社会での日本の存在感は確実に高まりました。インドやオーストラリアとの関係が深まったことも、対中抑止を考えると非常に大切です。不運だったのは、関係を深めようとしていたロシアがウクライナ紛争を起こしたこと、北朝鮮の問題がなかなか進まないということですが、頭が下がる思いです。  
しかし、肝心要のところでミスをしているのではないかと思えてなりません。メイドとして外国人移民を受け入れるとか。  
江崎 それは安倍総理の問題というよりも、周囲にそうしたおかしな政策を止められる人間がいないということではないでしょうか。かつての悪しきリベラルな自民党の体質はいまだに色濃く残っていますから。  
宮崎 党内にも反安倍派がごろごろいます。衆院選が終わったら真っ先に靖国神社行ってほしいね。常に問題を起こしてほしい。  
江崎 平成二十五年十二月の靖国参拝をアメリカが批判したことに対し、日本側が反発しましたね。衛藤晟一総理補佐官や萩生田光一・自民党総裁特別補佐がアメリカを批判し、アメリカ大使館には抗議メールが殺到した。日本がそれほど反発するとは思っていなかったアメリカは慌てて、ひそかに調査団を派遣してきたんですよ。  
西尾 靖国のことで?  
江崎 そうです。なぜ安倍総理は参拝に踏み切ったのか。アメリカが批判したことになぜ日本は反発したのか、調べて回ったんです。  
ところが、残念ながら日本の外務省や政治家の対応は、ピントがずれていたと聞いています。「靖国はアメリカのアーリントン墓地と同じ位置づけだ」、「慰安婦を強制連行した証拠は見つかっていない」といった言い訳しかせず、アメリカ側はがっくりきたそうです。「俺たちは戦略の話をしているんだ。中国の台頭に対抗するためにも韓国と連携してもらいたいから、靖国に参拝して韓国との関係を悪化させることは止めてくれと言っているのに、何の戦略もなく靖国に行ったのか」と。  
私なら、「中国や韓国から言われて靖国に参拝しないのであれば、中国の言い分に屈する日本になります。中国に屈する日本になって困るのは、あなた方アメリカではないのですか。逆に靖国神社に参拝すれば、中国の恫喝に日本は屈しないという政治的メッセージをアセアン諸国やインドに送ることになります。それは、アメリカの国益にもつながるのではないか」と言いますよ。アメリカは戦略を語っているのに、日本の側は外務省も政治家たちも、弁解するだけで、戦略を語っていない。  
西尾 仰有る通りで今の貴方の論理の立て方でアメリカに訴えるのは説得力があります。アメリカは韓国が太古から支那の一部だという歴史が分かっていないのです。日本は歴史も宗教も、言語も人種も大陸とは異なり、一貫して独立した別の文明であったということが理解されていません。  
安倍総理の靖国参拝に「失望した」といった米大使館に数千通のメールが届いて、国務省はびっくりしました。ケネディ大使は人気がガタ落ち、あわてて調査団を寄越したところ外務省は無能で、日本人の真意が分からずじまいだったというお話ですが、アメリカ代表はなぜ外務省なんかに頼ったのでしょう。国民の心が分かる人、なぜ言論人の何人かに会って、日本人が何を考えているのかを知ろうとしないのでしょう。日本の言論の主なものは翻訳されていて、アメリカ政府はつかんでいるはずです。日本の外務省に聞くなんていうのは下策の下で、アメリカ外交も焼きが回っているのかもしれませんね。  
今日は外人部隊の話が出ました。日系人がアメリカのために血を流したあの一件から、日系人でさえ悪い日本と戦ったのだ、と単純なアメリカ人は一直線に考えるようですね。そんな風に考える今の日本人は一握りの左翼しかいません。こういうアメリカの戦争観をどう変えさせるか。江崎さんが中国共産党に疑問を持ち始めた新しいアメリカの空気にしっかり訴えよ、と仰有ったことはとても印象的でした。慰安婦も南京も中国のプロパガンダが基本ですから、そこを疑問視せよ、とアメリカ人に向けて言っていく戦略が必要だというのは本当にそう思いました。とりわけ慰安婦問題はこのまま放って置くわけにはいかないはずです。ウソで抑えられてきた積年の思いをぶつけるべきでしょう。  
江崎 日本人にとって靖国神社に参拝するということは、引き続きアジア太平洋の平和と安全に日本は責任をとる覚悟がある、ということです。そうした国家意思に裏打ちされた具体的な対外戦略をぶつけるとアメリカも初めて、「ああ、日本の言い分聞かなきゃ」と思うんですよ。 
 
西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『GHQ焚書図書開封1〜9』(徳間書店)など多数。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第十回「人生論集」まで配本)。  
宮崎正弘氏 昭和21(1946)年、金沢生まれ。早稲田大学英文科中退。日本学生新聞編集長などを経て、昭和57年、『もう一つの資源戦争』(講談社)で論壇へ。中国ウオッチャーとして活躍。著書に『中国・韓国を本気で見捨て始めた世界』(徳間書店)など多数。近著は『吉田松陰が復活する!』(並木書房)。  
江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。日本会議専任研究員、国会議員政策スタッフなどを経て現在、評論家。著書に『コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾――迫り来る反日包囲網の正体を暴く』(展転社)、共著に『世界がさばく東京裁判』(明成社)など。  
 
負ければ賊軍  

 

日本は侵略国家であったのか 
田母神俊雄  
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。  
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。  
我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。  
1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。  
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。  
戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。  
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。  
その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。  
李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。  
陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。  
現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥(フ)傑(ケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。  
時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む11カ国との間で義和団最終議定書を締結した。  
その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の廬溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。  
さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。  
ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。  
ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。  
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。  
さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。  
日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。  
強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。  
さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。  
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。  
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。  
日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。  
アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。  
子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。  
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。  
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。  
私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。  
私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。  
 
田母神論文への論評1

 

(一)コミンテルン謀略史観を超えて  
田母神論文は、荒唐無稽な謀略史観だという批判がある。日本がシナ事変から大東亜戦争に突入したのは、コミンテルンの策略なのか否か、結果から見れば、そう言えなくもないが、史料的に実証されたわけでもない。  
実際、シナ奥地で壊滅寸前であった毛沢東の中共軍は、日本軍と蒋介石軍との戦闘で漁夫の利を得て、中華人民共和国を創立し得た。戦後、中共の毛沢東、周恩来は、皮肉まじりに「日本軍のおかげで共産党の国を樹立できた」と語っていたことは有名だが、だからといって、共産党軍が自ら仕掛けたと言ったのでもない。しかし、日本にとってシナ事変の拡大は不本意であったのは事実である。  
また、もうひとつの分岐点、日独伊三国同盟締結について、中西輝政氏は、『正論』平成12年10月号で、次のように訴えている。  
「何をおいても決定的であったのは、1940年秋の時点で『三国同盟』に踏み切ってしまったことである。……あの時点で『新秩序』のかけ声に押され、『三国同盟』の締結へ向かった日本指導層のケタはずれの愚かさと、そうした苦しまぎれの失策へと導いた点で、コミンテルンの戦略にのってシナ事変の泥沼にはまり込むという戦略的無能力の、この二つが大東亜戦争の『決定的な誤り』として21世紀に向けた『歴史の教訓』にならざるを得ない。」  
戦争中に大本営参謀として、戦略・戦術の枢機に参画した瀬島龍三氏は、大東亜戦争回避策として、「万難を排して三国同盟を空洞化ないし廃棄し、満州以外の地域からの撤兵を断行し、日米交渉の妥結を計ることだった。……北清事変によって我が国が得た北京・天津地区の駐兵権を放棄しても、勇断をもって支那事変の解決を計るべきであった」(『幾山河』扶桑社)と回顧している。  
今回問題となったアパグループ懸賞論文の審査委員長をつとめた渡部昇一氏も、平成7年2月6日付の産経新聞〈正論〉欄で「『勝つ側』につくのが政府の使命である。『勝てば官軍』は千古の真理だ。……戦国時代に豊臣への恩顧で家康に味方せず、お家を潰された福島正則の道をとるべきではない」と、冷徹な戦略眼を記している。  
当時の日本は、世界のパワーバランス情勢を判断せずに、しかも日本の国是に反する人種差別政策を具現化したドイツと同盟してしまった。米国から同盟の破棄を言われても、〈国際信義上、それはできない〉と、福島正則の道を選んだのではなかったか。  
渡部氏はまたシナへの駐兵についても、「駐兵の権利があっても、国益に沿わないなら、その権利を凍結ないし放棄することも考えてもよかったのではないか」(『致知』平成11年12月号)と述べている。  
こうした意見に対して、航空幕僚長であった田母神氏には、シナ事変の不拡大方策や、日独伊三国同盟締結の是非について、見解を述べてほしかった。言い換えると、わが国はコミンテルンの謀略に乗せられ、蒋介石やルーズベルトの罠にはまった「被害者」であると言い募るだけではなく、その謀略を探知し、逆に相手を謀略にかけるほどの情報戦略を論じるべきなのではないだろうか。元幕僚監部として、歴史の教訓を今後に活かす提言をますます期待したい。
(二)文民統制について  
『正論』平成21年3月号では、文民統制について四つの論文を掲載している。なかでも北村惇氏は専門的視点で詳細に解説している。同氏によれば、「文民の側に責任が発生するので、責任ある決断や意思決定を速やかに行うためには、行政機関も立法府も軍事的な専門知識に精通しなければならないし、適確な判断力を備え、国防に関連する実力が備わっていなければならない」という。  
文民側の軍事知識の欠如が深刻な結果を生んだことについて、田母神氏は文民である近衛文麿首相が陸軍参謀本部の方針に反対してシナ事変を拡大したと述べる。  
西尾幹二氏は石破防衛庁長官(当時)との対談で「私は日本が戦争したことを批難するつもりはなく、負ける戦争をしたことが許せない。正確にいえば、負けると分かっている戦争を回避するための軍事的知識や合理的計略の知力が大正教養主義に浮かれた旧制高校エリートの戦前知識人に欠落していたことが許せない。軍部に責任をなすりつけてすむ話ではない」(『座シテ死セズ』恒文社)と、戦略論の欠如に憤激している。  
現在、軍事教練などまったく受けていない政府・行政官には、制服自衛官の意見を聞く度量も、それを判断する軍事的知識もないだろう。解決すべき重要な問題である。  
軍人が国防の見地から軍事機密保持の下で、政府方針を批判することは、民主主義国であれば当然の責務である。それを国民に納得させるためには、議会や記者会見など公式会見の場での発言、あるいは新聞、総合雑誌への寄稿によることも必要であろう。  
田母神論文とは、そうした点も含めて、問題の所在を知らしめ、あらためて、国民に「村山談話」の呪縛を想起させたのではなかろうか。
(三)「戦略論」と「国策の誤り」  
自由主義史観研究会会報の創刊は1995年2月である。その創刊号には、上原卓氏が藤岡信勝代表の論考「戦略論から見た日本近現代史」(『社会科教育』1995年1月号)を引用して以下のように記している。  
〈藤岡氏は「『戦略論』のメガネをかけて見ない限り、日本の『近現代史』の骨格はそもそも理解不可能だ、といって良いほどのものである」と述べている。戦略論とは、「国家の生き残りと繁栄のための最高方針を研究する学問分野である」。その戦略論から現実の政治の世界では、「相互に相手から独立した意思の存在する状況において、つまりこちらの思い通りにならない他人あるいは他国の存在を前提として、こちらの目的をどのように達成するかの方法」が生まれてくる。この方法が軍事戦略を含めた国家戦略である〉。  
「村山談話」には「わが国はある時期、国策を誤り……」とある。桜井よしこ氏によれば、村山氏は記者会見で、「談話で日本が過去に国策を誤ったと謝罪したが、具体的にどの政策をどのように誤ったと認識しているか?」と問われて絶句したそうだ(『WILL』平成21年2月号)。  
当時の日本は、「村山談話」の文脈とはまったく異なる意味で「国策を誤り」、シナ事変の泥沼から日米開戦に至ってしまった。わが国は《こちらの思い通りにならない他人あるいは他国である蒋介石、毛沢東、ルーズベルトやスターリンの存在を前提として、こちらの目的を達成するため》の国家戦略を持つべきであったと痛感する。 
 
田母神論文への論評2

 

田母神俊雄氏がアパグループの懸賞論文に「日本は侵略国家であったか」の題名で応募し、最優秀賞に入賞した。そして防衛省航空幕僚長を更迭されたことは周知の通りであり、筆者としても真に残念である。また、12月9日にはNHK「クローズアップ現代」がこの問題を取り上げたが、通例に漏れず著しく偏向した内容だった。筆者はNHKに抗議するとともに以下の文章を送付した。会員諸兄のご意見を乞いたい。田母神論文が浮き彫りにした問題点は二つある。一つは田母神氏の主張の正当性であり、今一つは政府の主張と異なる意見を高級官僚が主張することが許されるか否かである。まず、田母神論文の正当性について検証する。
田母神発言の検証  
1.アメリカの事情  
私はエンジニアである。何らかの事を行うためには、まず現状の把握、改善策の立案、実行、実行後の検証のサイクルが欠かせない。そのような観点から大東亜戦争を振り返ってみて、如何にもおかしいのは、あれだけの犠牲を払い、勝ったアメリカが、戦争目的を果たしていないことである。「アメリカは世界の覇者となったのだから、戦争目的を果たしたではないか」と言う人がいるが、世界の覇者となったのは、その後の厳しい米ソ冷戦に勝ち抜いてからである。  
1949年年中共の独立宣言に対し、アメリカは承認せず、断交した。アメリカが戦前主張していたことは、「日本は中国を支配し、中国貿易を独占しようとしている」「中国での機会均等の要求」ではなかったか。あれだけの犠牲を払った結果が、中国からのシャットアウトである。何かが間違っていたと言わざるを得ない。  
その反省が始まったのが、中国との断交の翌1950年から始まったマッカーシー旋風である。ルーズベルト大統領の側近が次々に共産党のシンパとして弾劾された。その中にはアルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、ロークリン・カリー等の名がある。アルジャー・ヒスは戦後の枠組みを決めたヤルタ会談に、大統領顧問として同行した人であり、ハリー・デクスター・ホワイトはハルノートの原案を作った人として知られ、戦後世界銀行の総裁までした人である。またロークリン・カリーはアジア問題担当大統領特別補佐官であった。田母神氏も指摘されているように、近年VENONA文書と言われるソ連との暗号通信の傍受記録が解読されてきているが、上記の事実を裏付ける資料が次々に発掘されている。  
その反省が始まったのが、中国との断交の翌年1950年から始まったマッカーシー旋風である。ルーズベルト大統領の側近が次々に共産党のシンパとして弾劾された。その中にはアルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、ロークリン・カリー等の名がある。アルジャー・ヒスは戦後の枠組みを決めたヤルタ会談に、大統領顧問として同行した人であり、ハリー・デクスター・ホワイトはハルノートの原案を作った人として知られ、戦後世界銀行の総裁までした人である。またロークリン・カリーはアジア問題担当大統領特別補佐官であった。  
田母神氏も指摘されているように、近年VENONA文書と言われるソ連との暗号通信の傍受記録が解読されてきているが、上記の事実を裏付ける資料が次々に発掘されている。  
戦後日本を統治したマッカーサー元帥は、アメリカの上院で「日本の戦いは自衛のためであった」と証言している。又東京裁判ではパール判事は「あのような立場に追い込まれたら、モナコのような国でも立ち上がらざるを得なかったであろう」と判決の中で述べている。  
さらに終戦時の中国戦線アメリカ軍司令官ウェデマイヤー将軍の回想録が『第2次大戦に勝者なし』の名で出版されている。これを見ても当時の米国が如何に共産主義に汚染され、判断を間違えていたか、明らかではないか。  
2.中国の事情  
中国についても田母神氏の主張には一理ある。1921年孫文が広東政府を樹立したが、共産党はこの政府にとりつき、ソ連からの多額の軍事支援で政府の実権を握った。孫文の死亡で重しの取れた共産党は南支で大暴れしたが、第1次南京事件で英米軍艦の反撃を受け、以降標的を日本に絞った。各地で排日デモ、反日テロを繰り返した。日本は中国政府にテロ対策を乞うが、一向に進まず、満州事変、シナ事変へと進んだ。  
盧溝橋の仕掛け人は田母神論文の通り、劉少奇である可能性が高く、実行部隊は赤い将軍・馮玉祥の残党である。また、シナ事変が本格的になったのは上海事件によるが、その原因を作ったのは、張治中将軍である。張治中は周恩来の命により蒋介石陣営に残り、戦後の国共内戦の休戦協定交渉時の国民党代表を務めながら、台湾に渡らず、共産党政権に加わった人である。  
シナ事変が始まった時、毛沢東は「これは三国志である」と語り、日本軍との戦いを極力避け、戦力を蓄え、最終的に内戦に勝利した。  
また、毛沢東は社会党の佐々木委員長に対し、「日本軍は中国に対し、大きな利益をもたらしたのだから申し訳なく思う必要はない」と語っている。すなわち現在の中国政権は戦前にはシナを統治したことがなく、日本のお陰で政権を取れたと認めた上で、感謝しているのである。  
中国共産党はシナ事変に火を付け、戦渦に巻き込んだ。戦後も大飢饉の原因を作る等、中国国民を貧困に陥れた。中国国民にとって非難すべきは共産党政権であり、日本ではない。  
3.韓国の事情  
かつての植民地で先進国の仲間入りしたのは、韓国・台湾以外どの国があったか。マルクス主義では資本家は労働者の敵であるが、近代経済学では資本家と労働者は企業間競争に勝ち抜くためのパートナーである。日本は、それと同様、宗主国と植民地は、国家間競争を勝ち抜くためのパートナーであると考えた。  
日本政府はその精神で韓国・台湾を統治したからこそ、大東亜戦争に多くの人が兵役に応募し、特攻隊となって国のために戦死したのである。朝鮮人特別志願兵の募集は昭和13年から始まった。採用人数は毎年増えていったが、応募人員はそれ以上に増え、昭和18年にはなんと57倍に達している。まさに日朝台一体となって戦ったのである。  
韓国の反日は戦後共産主義が蔓延する中で醸成された。初代大統領の李承晩は戦前よりアメリカに亡命していた人であり、徹底的な反日論者であった。朝鮮戦争があったため、戦後の混乱を早期には収拾できなかったが、若干の混乱期を経て、韓国をまとめ、今日のような世界の先進国に導いた。朴正煕が行ったセマウル運動は宇垣総督の行った農村振興運動を手本にしている。また、日韓基本条約が締結され、日本の資本や技術援助で韓国の発展が始まった。  
2003年、極めて親共的な慮武鉉政権は日本統治時代を非難し、親日的文筆家が次々に批判の的になった。しかし慮武鉉大統領の余りにも行き過ぎた容共姿勢に対する反発から、今年李明博大統領が登場すると共に、近年植民地発展論と言われる、日本の統治があったからこそ、今日の韓国の発展があったという議論が始まりつつある。  
4.日本の事情  
日本の当時の歴史で見逃せないのは、ゾルゲ事件である。  
近衛首相の側近秘書・西園寺公一(公望の孫)は、ゾルゲ事件の日本側主犯・尾崎秀美の親友であり、戦後共産党参議院議員を経て、中共に亡命している。  
軍部もまた天皇制を除けば、2・26事件に見られる如く、共産主義と紙一重であった。農林省を中心に当時の高級官僚の多くは、戦後左派社会党の中心勢力となり、米軍に先立ち農地解放の原案を作っている。極めてソ連の主張を受け入れやすい政府であった。  
1937年のトラウトマン工作の破綻、汪兆銘の引き出し工作は、戦争の継続を狙う尾崎一派の工作といわれている。また1940年から41年に起こった「南進論」か、「北進論」かの議論は、まさにソ連の生死を分ける情報戦であった。「南進論」の決定により、ジューコフ率いる大戦団はモスクワ攻防戦にとって返し、ソ連の勝利に貢献した。  
大東亜戦争は共産党の謀略により始まったものという側面は、荒唐無稽と批判されるようなものではなく、一概に日本の侵略戦争とも断じることは出来ない。  
田母神論文を機に大東亜戦争の事実論争が大きく進むことを期待する。
高級官僚の政府と異なる主張は許されるか  
田母神論文の「問題」とは、研究が許されるかという問題と、政府見解と異なる意見の発表が許されるかの、二つの問題がある。  
1.このような研究が許されるか  
何が原因で戦争になったか、それは防ぐことが出来なかったか、勝因・敗因の分析、勝敗の分岐点等、戦史の研究こそ軍人の必須科目である。その中で政府見解と異なる意見が出てきたときにどのようにするべきなのか。  
2.政府見解と異なる意見の発表が許されるか  
一般論として、農林省や文部科学省の役人が、財政問題について、政府見解と異なる主張をしても何の問題もない。財務省の役人が農林政策や文教政策について政府見解と異なる主張をしても何の問題もないだろう。防衛省のみが他省庁について、あるいは政府見解について議論することが許されないのだろうか。  
大東亜戦争が始まったのは1941年である。すでに67年前のことである。当時政策の決定に参加した人が、40才以上とすれば生きていれば107才である。現在生きている人には大東亜戦争の開始には何の責任もない。今度定年退職された田母神氏も戦後の生まれである。大東亜戦争の開戦とは全く関係がない。だからこそ、客観的に物事を判断し、また冷静な研究も可能になる。  
私は歴史を学ぶ目的は、二度と同じ間違いをしないためだと思っている。そのためには正しい歴史を知る必要がある。現在、朝日その他のマスコミの伝える歴史は勝者の歴史、つまり一面的な歴史観である。  
勝者の歴史だけを学んでいたのでは、真の歴史は分からず、歴史を学ぶ意義は半減する。戦後60年以上が経ち、さきの戦争による被害の補償は、東京裁判とその後の各国との講和条約、平和条約ですべて終わっている。(北朝鮮とは、韓国が全朝鮮を代表する立場を主張し、玉虫色の解釈となっている)いつまでも引きずるのはおかしい。  
前章で検証した如く、田母神氏の歴史認識がおかしく、政府見解、いわゆる「村山談話」が正しいというのも一面的にすぎない。ではこのような主張に文句を付けてくる国は何処だろう。アメリカに気兼ねする向きもあるが、マッカーシー旋風、VENONA文書等、アメリカ自身でも議論されている問題であり、タブーでも何でもない。  
ロシアも共産党の崩壊により、大東亜戦争時代の議論は問題ないであろう。問題は、やはり特定アジア、中国と韓国だろうか。  
しかし、中国は江沢民の引退により、大分ムードが変わってきている。韓国も慮武鉉大統領から、経済を重視する李明博大統領に代わった。また「植民地発展論」といわれる、日本統治肯定論も力を付けてきている。韓国との議論もそろそろ可能な時期に来ているはずだ。  
つまり、言論を封じるのは、外国にあらず、日本国内の一部、マスコミやアカデミズムに巣食うコミュニズムにある。「村山談話」なるものを不磨の大典にしているのは誰なのか。
結び  
この問題を巡り、国会で田母神氏を喚問し、質疑が行われた。大いに議論がなされることを期待したが、委員長は議論を許さなかったのは政府や野党の議員が、議論して勝てる相手ではないと考えたのだろう。しかし、インターネットの発達により、世論も正しい判断をし始めており、この傾向は止まらないはずだ。これを機にもっと議論を進め、正しい歴史認識が深まることこそ日本の最大の国益だと考えている。  
 
田母神論文への論評3

 

日本は侵略国家であったのか 2008/11/1  
いま話題の田母神俊雄航空幕僚長の論文は、「ハル・ノートを書いたのはコミンテルンのスパイだった」とか「盧溝橋事件は中国共産党の謀略だった」などという初歩的な事実誤認だらけで、論旨も『正論』の切り抜きみたいなものだ。制服組のトップがこんなお粗末な作文を組織の了解もなく対外的に発表するのは、軍事情報管理の観点からみて危険だが、ここには彼らの本音が出ていておもしろい。  
現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。  
これは戦前から変わらない日本の官僚機構の実定法主義を端的に示している。この論理でいけば、ヒトラーもムッソリーニも合法的に権力を掌握したので、問題はないことになる。論理的に擁護できないものを守るのに「国際法」やら「条約」やらを持ち出すのは、文化庁とよく似ている。国際法なんてenforcementのない紳士協定にすぎないのに、いまだに官僚はそれを錦の御旗にすれば、国民はだまされると思っているのだ。  
もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。  
田母神氏は、日本は侵略国家ではなかったといいたいようだが、これは逆だ。国家が「他国の主権・領土や独立を一方的に侵す」という国際法の定義でいうと、日本も列強諸国もすべて侵略国家だったのである。日本だけが侵略とされるのは、戦争に負けたからだ。歴史はつねに勝者によって書かれるもので、それを「東京裁判史観」と批判するなら、天皇家の立場から書かれた「靖国史観」も批判しなければ片手落ちだ。  
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。  
これは事実である。日本の朝鮮半島への投資がその近代化に貢献したことは、アメリカ人の研究でも明らかにされたし、元朝日新聞の田岡俊次氏もCSの番組では「朝鮮半島経営は赤字だった」といっていた。日本の植民地経営は、インドで綿工業が育たないように職人の指を切り落としたイギリスのような略奪的なものではなかった。これについては、麻生首相も過去に似たような発言をしたことがある。  
私もかつて取材した立場でいうと、毎年8月に中国と韓国にしか取材しないのは、他の国では人々は日本軍に敵意をもっていないから「ネタにならない」のだ。この二国がいまだに日帝を糾弾するのは内政的な要請によるもので、そういう事情のない台湾では日本のインフラ建設は感謝されている。首相も、そろそろ「封印」を解いて客観的事実を検証してもいいのではないか。  
 
田母神論文への論評4

 

日本は侵略国家だったのか 2008/11/15  
航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏が、世に発表した論文を咎められて更迭され、退職した。問題とされた「日本は侵略国家であったのか」と題された論文を読んでみた。  
ワープロ打ちでA4九枚の小論文は、20世紀初頭の中国や朝鮮半島と日本とのかかわりを追った内容だ。毛沢東麾下の中国共産党がコミンテルンの指導下にあったこと、国民党の蒋介石もコミンテルンに動かされていたことなど、すでに内外の多くの研究者が指摘ずみの事実を示したうえで、氏は、「コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった」と書き、近衛文麿内閣は国民党に挑発されたとして、「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」などと断じた。  
「朝日新聞」は11月2日の社説、「ぞっとする自衛官の暴走」で、「こんなゆがんだ考えの持ち主が、こともあろうに自衛隊組織のトップにいたとは。驚き、あきれ、そして心胆が寒くなるような事件である」と憂えた。  
同社説子はまた、「一部の右派言論人らが好んで使う、実証的データの乏しい歴史解釈や身勝手な主張がこれでもかと並ぶ」と田母神論文を論難した。  
この時期に、空自幕僚長が歴史をめぐって発言することの妥当性について評価が分かれるのは当然だが、氏の主張が「朝日」の言う「一部の右派言論人が好んで使う」「身勝手な主張」であるとは、思わない。前述のように、田母神論文の内容は、これまでも内外の専門家が広く指摘してきたことだ。  
1920〜30年代の中国研究における米国の第一人者の一人、ジョン・マクマリーのメモランダム、『平和はいかに失われたか』(北岡伸一監訳 原書房)が一例だ。同メモランダムは日米開戦時のグルー駐日大使や、戦略論の大家であるジョージ・ケナンら、米国のアジア問題専門家らに影響を及ぼし続けてきた。そのメモランダムでは20〜30年代の日中関係はどのように見られていたか。  
たとえば21年のワシントン会議では、太平洋地域の緊張緩和のための枠組みがつくられた。マクマリーは、「日本陸軍の現役士官達と『浪人』といわれる愛国主義の権化のようなあの無責任な連中」の存在を批判する一方で、日本政府は31年の満州事変までは、同会議の「協約文書ならびにその精神を守ることに極めて忠実であった」、「中国問題に最も深く関わっていた人々は、日本政府は申し分なく誠実に約束を守っていると考えた」ことを強調している。  
マクマリーはまた、満州事変を起こした日本の路線を「不快」と断じながらも、「日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、(満州事変は)事実上中国が『自ら求めた』災いだ」と分析しているのである。  
このように、田母神氏の主張は、国際社会でも指摘されてきた内容だ。  
田母神氏はなぜ、今、このような発言をしたのだろうか。必要なら国会での喚問も受けると氏は語っている。そこで十分に聞くのがよい。それもせずに、弁明を許さず、単に右派言論人の物する極論として切り捨てるとすれば、それは、一方的に日本が悪いという戦後の歴史解釈をそのまま受け入れることで、全体像の把握に必要な知的努力を否定するものだ。  
田母神発言の吟味は、日本加害者論で塗り込められた村山富市、河野洋平両氏の談話を、今後も守り続けていくことの是非を論ずることと、一体でなされなければならない。  
政府はしかし、今後、幹部自衛官に村山談話などの教育を徹底させていく方針だという。逆であろう。日本の間違いに留意しつつも、歴史の全体像を把握し、理解させる教育が必要なのだ。  
 
田母神論文への論評5

 

最近こんなことが話題となっています。防衛省の田母神俊雄航空幕僚長(六〇)が、過去の中国侵略や朝鮮半島の植民地支配を正当化して「わが国が侵略国家などというのはまさにぬれぎぬ」と主張した論文を発表したことが糾弾され、更迭されました。田母神幕僚長の論文は、マンション・ホテル開発企業「アバグループ」(東京)主催の懸賞論文「真の現代史観」に応募し、最優秀賞を受賞しました。それがマスコミに取り上げられ、その論調が政府見解と違うという理由で更迭され、定年退職とされました。論文のテーマは、「日本は侵略国家であったのか」でした。  
今までも、この種の議論は行われてきましたが、どちらかというと「田母神論文派」の意見は、マスコミを初め文化人と評される学者、評論家達に随分とバッシングされてきました。大東亜戦争が侵略戦争であったのかどうかということは、賛否両論で決着のつかない議論がこれまでも行われてきたし、今も行われている最中です。しかし、政府見解は、先の大戦を「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました」としています。これは、平成七年、当時の首相だった旧社会党左派だった村山富市氏の談話を閣議決定し、それを今日まで踏襲してきているものです。村山首相は、当時、社会党の党首です。社会党と自由民主党は、根本的に思想が違います。かたや社会主義思想で、かたや自由主義思想に立脚する政党です。根本的に思想を異にします。その社会主義を党是とする党首が言ったことを、今尚、政府見解としていること自体に問題があります。とんでもない話です。今日まで、村山談話を政府見解としてきた政府こそ、こうした機会に再検討し、日本に誇りを持てる近現代史を見解とすべきです。  
先の大戦を日本悪玉論にし、世界の平和を脅かしてきた罪で戦犯狩りをしたのは東京裁判です。それを実行したのはマッカーサーです。そのマッカーサーが、昭和二十五年ウェーク島でトルーマン大統領と会見し、「東京裁判は誤りであった」と告白しています。翌二十六年には、アメリカ上院で「日本は自国の正当防衛のために戦争した」と証言しています。東京裁判を執行し、判決を下した最高責任者が東京裁判は誤りだった、あの戦争(大東亜戦争)は防衛のための戦争だったと言っているのに、日本人が東京裁判史観にたって日本人を今尚裁いているのは、逆立ちしているように見えて仕方がありません。しかも、「田母神発言」がマスコミに取り上げられてからは、マスコミは挙って、政府見解と違う意見を主張した田母神氏を糾弾しています。日曜日午前中のテレビ朝日の政治討論番組では、いつも政府与党を斬るマスコミ人、評論家達が、政府見解と異にした論文を田母神幕僚長が主張したのはけしからんと、滅多斬りでした。このテレビ番組に登場するマスコミ人や評論家の人達は、これまでであると、政府及び与党自民党・公明党の施策に対して批判し、是正を求める立場に立つ人達であると思っていましたが、この度だけは政府の立場に立って田母神論文を徹底的に批判していました。政府見解で侵略国家だと言っているのに対して、防衛省の航空幕僚長が政府見解に背いて勝手な主張を公にしていくなんてとんでもないことだ、と言うのです。これまで見てきた構図と全く逆な立場で意見を展開しているのが、何とも不思議で、不可思議な思いでテレビ番組を観ていました。  
「日本は侵略国家であったのか」の田母神論文の攻防を問う  
航空自衛隊幕僚長田母神俊雄氏が更迭された。ホテルマンション経営のアバグループが募集した懸賞論文で、田母神氏の論文が最優秀賞を受賞したからだ。論文の題は「日本は侵略国家であったのか」で、「今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐え難い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし、私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある」と主張している。日中戦争については、「我が国は蒋介石により日中戦争に引きづり込まれた被害者」だとし、日米戦争を「米国に慎重に仕掛けられた罠だったことが判明している」と指摘している。東京裁判については、「あの戦争の責任をすべて日本に押し付けようとしたもの」と展開している。以上は、マスコミ報道の中から拾ったものだ。  
大東亜戦争は、東京裁判によって評価され、それが戦後日本の評価となってきた。しかし、「東京裁判は、文明史にない裁判だ」と、インドのパール判事は指摘している通り、戦勝国が敗戦国を裁く裁判だったから、敗戦国は戦勝国の都合のいいように裁かれてしまった。このことを正しく理解しないと、東京裁判の真実は見えてこない。  
東京裁判のキーナン首席検事は「東京裁判は失敗だった」と、五年後に発表している。東京裁判を実行したマッカーサーは、昭和二十五年十月、ウェーク島でトルーマン大統領と会談し、「東京裁判は誤りだった」と告白し、翌年、アメリカ上院で「日本が第二次大戦に赴いたのは、安全保障のためであった」と証言して、日本の侵略を根底から否定した。また、「真珠湾は日本に最初の一発を放たせるためのオトリであった」と、日米開戦当時、太平洋艦隊司令官セオポルト少尉が、著『真珠湾の最後の秘密』の中で証拠をあげて告白している。更に、日中戦争では、米英が蒋介石を経済的、軍事資材の面において大々的に援助し、いわゆる援蒋ルートによって泥沼に入り込んでいったことは明らかである。(田中正明著『パール博士の日本無罪論』慧文社刊、参照)  
なのに、政府見解は、特に平成七年の村山富市首相の談話、「わが国は植民地支配と侵略で(アジア諸国に)多大な損害と苦痛を与えた」をそのまま踏襲し、今日に至っている。このこと自体が問題であろう。村山首相は、自民党と思想が真っ向から対立する、当時の社会党党首である。そういう人の談話が、政府見解として今日まで来ていること自体に問題があろう。だからこそ、前安倍首相は、戦後レジームの総決算を謳い、戦後日本の立て直しを根本から図ろうとし、登場したのではないか。しかし、それが敢行されず仕舞いで、途中で頓挫してしまった。  
民放テレビに登場するコメンテーターは、一様に政府見解を無視した田母神氏の発言を許せないと、声を大にし批判している。テレビを見ながら、この場面を何とも不思議な光景だと、首を傾げ得なかった。例えば、テレビ朝日に出演する記者やアナウンサー、評論家は、政府与党を批判し現代を斬るのが売り?の筈だ。しかし、今回は、政府見解を楯にしながら田母神氏を斬っているのだ。本来であれば、「よくやった。政府見解がなんだ。思想の自由は憲法で保証されている日本国民の権利だ」、と擁護するのが自然な流れだと思うのだが。私は、この構図に素朴な疑問を抱かせられた。問題によっては政府の支持者になるという矛盾を抱えたままの革新派ということか。  
田母神氏は、「このぐらいなことが言えなくては、自由と民主主義の国ではない」「政府見解に反論できないでは北朝鮮と一緒」だと記者会見で述べている。私には健全な発言に映って見える。逆に、愚直に政府見解に従うべきだという革新派マスコミ人達の発言こそ、思考力を失った自衛隊集団を望んでいるようで、訝しく感ずる。それこそ、日本の行方を誤らせる元となろう。  
「この手の問題」にけじめを付ける意味でも、大東亜戦争がアジアへの侵略であったのか、そう裁いた東京裁判が正しかったのか、この賛否両論の学者を国会で意見陳述させ、その後に議論して貰えばいいと思う。そうして反省すべきは反省し、新たな歴史構築に取り組むべきであろう。今のままでは、いつまで経っても歴史教科書問題の混乱が止まない。そして、その被害者は、いつの時代も子供達だ。  
東京裁判を実行したマッカーサーが、大東亜戦争は日本の自衛の戦争だった、東京裁判は誤りであった、と後に反省の言葉を述べているのに、当の日本が、日本人が、東京裁判を正当化し、その判決を金科玉条の如く崇拝し、自国の近現代史を自虐的に捉えて、日本は悪うございましたと、善人を装っているのは、余りにも滑稽であろう。日本に誇りを持ち、世界の平和に貢献できる日本人の育成こそ、今の日本の重要な課題の筈だ。  
アメリカは、アフリカ系アメリカ人の民主党オバマ氏を第四四代大統領に選んだ。正に世界史的快挙だ。そして、共和党のマケイン氏は、敗北宣言で、「我々が直面する多くの課題に対処するため、我が国を導くオバマ氏を私は全力で支援すると誓った。かつて私の競争相手で、私の大統領となる人物の成功を祈る」と、オバマ新大統領を全面的に支援し、協力を惜しまないことを宣言した。この敗北宣言に、アメリカの懐の大きさを強く感じる。日本は、アメリカのこうした精神こそ学ぶべきであろう。  
 
民主党

 

第1章 累々の屍  
2012年12月16日、午後8時の開票と同時に相手候補の当確がニュースで知らされた。3年4か月前に多くの人が熱気と共に私の当確を待った風景とは一変した。私は、人影もまばらな選挙事務所で、「応援してくださった皆様に申し訳ありません」と乾いた挨拶だけをして、その場を立ち去った。  
「ああ、また落選か」。二度の落選後前回初めて当選した私は、再び「万年浪人」の自分の姿に還った。前回は、長年当たり前のように当選し続けていた二世議員を民主党の追い風で圧倒的にやぶった私が、今回は10万票以上も減らし、みじめすぎるほどの凋落ぶりを感じ取った。  
今回の選挙は、一義的には、民主党への「懲罰」であったが、私自身の選挙にも大いに非があった。選挙前2年間は徹底的な地域活動をし、お会いした有権者の数を増やし、一定の自信はつけていたはずだった。逆風でも、地域回りで得た人的財産は私を救ってくれると甘い期待をしていた。  
しかし、そもそも私は、事務所マネジメントが下手だ。元来リベラルで、人を信頼する管理職として公務員の仕事を全うした私は、過去4回の選挙はいずれも、自分のそのスタイルを通した。しかし、選挙事務所は少人数の零細事務所で、地域の持つ非合理性や独特の人間関係が私の合理性を阻んだ。事務所の力を出す方便を私は知らなかった。  
平時はこなせても、修羅場は、それぞれのポジションが指示仰ぐことなく動けなければ、仕事にはならない。今回は、修羅場での機能が完全に失われた選挙になった。掲示板のポスターが何日たっても貼られていない、出陣式の前列は全部空席、演説会の人集めに失敗する等々、選挙対策機能喪失が目で確かめられるほどだった。  
勝てば官軍、負ければ賊軍。選挙後の情報分析会議では、これらの初歩ミスへの怒りと批判が関係者の間で渦巻いたが、賊軍を率いたのは誰か、誰が誰に怒ればいいのか、結局は、選挙体制の非は、候補者である私にある。私が不甲斐ないということに尽きる。幸いにして?負け方が大きいために、混乱を招いた真犯人探しの意味はなかった。  
遊説隊は、街角の掲示板に私のポスターだけが張られていないのを見ては怒り、意気消沈した。支援者が街宣車に近づいてきて、「大泉はやる気があるのか」「今回は立候補しないのか」とまで言われた。  
毎日の演説会は、最初の日が出席者13人と、国政選挙では考えられない少人数だったが、真剣に取り組みだしてからは、徐々に人が増え、最後の方は演説の油も乗ってきた。息子の応援演説も共感を呼んだ。しかし、なぜか前回のような昂揚感や熱気は全く感じられなかった。もう負けることが前提のイベントになっていた。  
私は、つくば国際戦略総合特区を駆使した科学産業の誘致をデフレ脱却につなげることと、消費税7千億円分を子供の教育・保育の負担軽減に使うことを一貫して訴えた。マスコミが作り上げた争点である原発、TPP、消費税は時に言及したものの、選挙戦ではあまり問われることはなかった。それよりも、多くの有権者は、演説の中味にかかわらず「民主党にやめてもらう」ことをすでに心に決めていたのである。マスコミはそれを争点ボケの選挙と評した。  
私は負けた。その負け方は驚愕といってもいいくらいのものだ。自民の二世議員が9万1千、地元の無所属二世議員が4万5千、現職だった私は三番手で3万9千、しかも、新参の維新党候補にほとんど追い上げられていた。私は前回の得票数から、なんと10万票以上も票を減らしていた。普通なら、こんなに減らすのは、汚職か醜聞でもなければありえないことだ。  
その晩は何も考えずに寝ることにした。選挙翌日の新聞で、同僚議員がバタバタと倒れた事実を知る。「惨敗したのは、私だけではなかった」という一種の免罪意識も覚えたが、前線の兵士をこれだけ戦死させた無謀な戦争への怒りがこみ上げた。民主党幹部がテレビの前で言い放った言葉は、「選挙は自己責任だ(党のせいにするな)」「これで民主党は筋肉質になった(負けたやつらは無駄な脂肪だったにすぎない)」。  
累々の屍が転がっているのが私には見えた。あの顔もあの顔も国会から姿を消すはめになった。考えれば、3年前に自民党が同じ目に遭ったのだから、「お返し」を受けた? 否、である。3年前の自民党でもこんな負け方はしていない。自民党は世襲が多いから地盤は固く、「お灸を据えられて負けた」としても、惜敗率が半分を割るような負け方はしていない。しかし、我らが負けは、新たな政治集団の参戦が多かったために票が分散したとはいえ、第1ラウンドでアッパーカットを喰らって転倒してしまったようなものだ。  
約二百の死骸に対し、堂々生還を遂げた兵もいる。一兵卒ではないが、篠原孝さん(長野)と階猛さん(岩手)の生還は嬉しかった。二人とも消費税に反対し、賛成票を入れなかった。論理が明快で、学識、プロフェッショナリズム、行動力とも備えた、民主党では数少ない人材だ。死骸の中で、首藤信彦さん(神奈川)を発見した時は残念無念だった。消費税、TPP、原発の反対論を展開し、世界から情報を先取りしている優秀な人だ。  
転がっている屍は、何と叫んで死んでいったろうか。かつて戦場で死んだ兵士の多くは「お母さん」と言って息絶えたそうだ。「天皇陛下万歳」は全くない。だとすれば、「民主党万歳」と言って死んだわけではあるまい。「何でこんなことになったのだ、神様、仏様、お母さん、嫁さん、我が子よ・・・」。  
多くの兵士は赤紙が来て理不尽な戦いに狩り出されたように、民主党員は、「絶対に負ける」と言われた理不尽な選挙に臨むしかなかった。離党して別の政党に移った者もいるが、それも芳しい成績を挙げることはできなかった。理念から言うと政権交代を成し遂げた民主党の功労者である小沢派「生活第一党」も民主党の瓦解を助長した存在として惨敗に終わった。  
討ちてし止まん、の戦争に突撃した大日本帝国陸軍は、「松下政経塾」軍である。徴兵された一兵卒は、宣戦布告が突然やってきて、徒手空拳のまま皆殺しにされた。軍率いる野田佳彦は、「近いうちに解散する」という他党との約束を優先し、自国軍を犠牲にした。  
かくして倒れた屍は何を語るのか。黙って朽ちていくのか、殊勝にも、こんな民主でも息を吹き返してやり直すと言うのか。それとも、怒髪天を突き、次の命はアンチ民主の道を選択するのか。私は、早々と発言していく。腹の虫が収まらないからだ。屍が発言するというのも、論理矛盾なので、民主党の死体解剖ということにしたい。累々の死体を解剖して病理を言い当て、日本が死に絶えないように、警告の検死書としたい。  
屍となる前の私をいささか語っておきたい。私は、1972年に厚生省に入省し、医療、福祉、年金、子育て政策に勤しむうちに、いつしか政治家への転向を考え始めた。政治家となるために、厚生省の枠を越え、国連機関への出向、県副知事への出向と自ら多様な経験を選び取ってきたつもりだ。しかし、選挙という大きな壁はいつも無残に私の思いを打ち砕いた。山口県副知事を退任し出向地山口県で戦った2回の国政選挙に敗れ、居住地茨城県で出直して、前回は勝ったものの、再び敗退。1勝3敗とは、誰が見ても気の毒な経歴になった。  
一度はマニフェスト選挙で政策論争の選挙が実現できたにも拘らず、民主党のマニフェスト破りが、「地盤、看板、鞄」選挙に先祖帰りさせた。そうなると、将来の戦いの目途は再び暗い。現に、今回は、地元の無所属候補の参戦で、私の陣営は根こそぎ崩れた。嘘っぽい政策論争より地元の仇花が選ばれる。  
戦い済んで、翌日からあいさつ回りや片づけを淡々と始めた。私の政治活動も「もはやこれまでか」と心では覚悟していた。しかし、時間をかけて結論を出そうと決めた。なぜなら、私は、いつも短絡で、自らを窮地に追い込む癖があるからである。  
改めて知ったのは、あれだけ地域活動はしたが、私自身に入った票は少なく、地元出身でなければ、いつでも、足元は崩れるということだ。国会議員は学歴、職歴を十分に持ち、討論会と演説で勝負すべきと考えてきたが、そんなものは、自己満足でしかないということだ。それが日本。良くも悪くもそれが日本。  
若いときは、そんな日本が嫌いで、きちんと自分の言葉で答弁できない世襲政治家の大臣を横で見ながら、こんなつまらぬ日本でないところで生きたい、と何度も思った。実際に、日本を飛び出すこと3回。アメリカ2年、インド3年、オーストラリア1年。しかし、やはり、その度ごとに日本に帰ってきた。なぜなら、その日本を、生活する喜びがあって話の通じる国にしたいと思い、研鑽を積んできたのだから。一番恵まれた時期を生きた団塊の世代が次の世代に良き日本を用意して死ぬべきと考えたのだから。  
その思いが変わらなければ、私は政治から引退はできないはずだ。選挙直後のストレスのため働かなくなった頭で、これから自分はどこへ行くのかを見出そうと、これまで辿ってきた道を反芻し始めた。選挙に敗れた我が屍は、死んだふりしていただけだ。私は、まだ生きたい。なぜなら、健康で、世界を渡り歩き、行政知識を携えた身と自負し、そして、何よりも志半ばだから。 
第2章 小泉改革、政権交代、そして、二大政党制の死  

 

もはや戦後ではないと経済白書が宣言したのは1956年、東京タワーや東海道新幹線が完成して迎えた東京オリンピックは1964年、日本は1973年のオイルショックまで高度経済成長で突っ走った。その後も1980年代は、世界経済がスタグフレーションの中で、省エネやアジアへの生産拠点化で勝ち続けた日本。日本はまさに奇跡をやってのけた国だったのだ。地図上は小さい国でも、一人当たり国内総生産の世界一を成し遂げた日本は、アメリカに戦争で「勝った」ベトナムと並んで20世紀の世界の英雄だったのだ。  
ソ連が崩壊し、世界が大きく変わった1991年、日本はバブル経済が崩壊し、その後今日まで続くデフレ不況に見舞われる。ソ連の崩壊で共産主義に対する脅威がなくなったせいもあって、ヨーロッパでは社民系の政権が主流となった。日本でも、1993年、細川護煕率いる日本新党を核として非自民政権が成立。しかし、未熟さゆえの瓦解も早かった。翌年には、自民と社会という本来なら対立すべき政党を中心に奇妙奇天烈な連立政権が登場。そして、2年後には、自民が本格復帰する。即ち、本命橋本龍太郎内閣が1996年に発足。  
デフレ不況が深化する中で、橋本総理は6つの改革を進めた。経済、財政、金融、行政、社会保障、教育。財政改革では、国家予算の編成に「シーリング」を設け、借金を増やさないように仕組んだ。税収の不足は厚生年金特別会計からの超法規的な繰り入れなども行った。相次ぐ金融機関の倒産を受けて、銀行は合併を重ね、メガバンクだけが生き残るようになった。  
行政改革は、2000年の省庁再編へとつなげ、2000年の地方分権推進法では、中央・地方の上下関係を改めるため機関委任事務を廃止した。しかし、結果的には、中央省庁再編は単なる「糊付け」に終わり、省や局の数が減った分、参事官などの名称で独立官が増え、官職の責任範囲がわからない組織になった。  
地方も、のちに民主党政権がいわゆる紐付きでない、一括交付金の制度をつくるまでは、機関委任事務が法定受託事務という名前に代わっただけの有名無実の改革に終わった。安倍政権はこの一括交付金を見直すそうだ。中央集権に戻す、というメッセージに他ならない。中央集権の軍事国家づくりが安倍の主旨だから、むべなるかな、である。しかも、「民主党主導でやったものは全て憎し」ということだが、一括交付金は地方に喜ばれた制度であり、民主のやったことを悉く否定するのは早計だ。  
1997年、橋本内閣は、消費税を3%から5%に引き上げることを断行し、墓穴を掘った。上向きかけた景気は冷水を浴びせられ、その後引き継いだ小渕内閣は、徹底的な財政出動へと政策転換した。小渕の死後の森喜郎内閣も公共事業への投資を続けた。1990年代はリストラや給与減額で人々は疲労してきた。税収は落ちるばかりで、国家予算はシーリングの下、完璧に大蔵省主導になっていった。税収豊かな1970年代なら、大蔵省から各省に「もっと知恵を出して新規政策を考えろ」とはっぱをかけられていたのが、新規査定ゼロに泣く省庁の姿が普通になった。  
私自身も厚生省の課長として、予算の説明に大蔵省の主計局に赴けば、書類を投げつけられたり、臭い息(多忙で不規則な生活のため食事をきちんと摂っていないせい)を吹きかけながら罵倒されたりした。ちなみに、このときの主計局主査のひとり、岸本周平は民主党議員。今回選挙区で勝ったたった二人の一期生の一人だが、彼は例外的に紳士だった。しかし、彼は、野田佳彦を代表選で推し、消費税推進派として活躍した「やはり大蔵の人」だったのは残念だ。  
この状況の中で、高齢社会は深刻さを増し、2000年に介護保険法が成立した。これだけは、日本社会の暗い見通しの中で新たなビジネスを生み出す積極的な制度創設と言える。同時に成立した社会福祉法とともに、それまで社会福祉法人にほぼ独占されていた社会福祉事業に民営化の道筋がつけられた。もちろん、背後にアメリカの要求があった。  
他方で、少子化の進行も甚だしかったが、大きな手が打たれることはないまま放置された。1989年の1.57ショック(合計特殊出生率の低下問題)から検討され始めた少子化対策は、1994年12月のエンゼルプランを皮切りに概ね保育対策を中心に策定された。2000年代に至っても、子供の問題は「保育所待機児童ゼロ」という矮小化された問題に止まり、ゆとり教育の弊害の見直しも遅きに失した。  
2001年、鳴り物入りで登場した小泉純一郎内閣。デフレ不況10年を経て、自民党政権への風当たりが強くなり出したこの時に、旧態然とした自民党を「ぶっ壊す」と言ってのけて、人々の熱い支持を得た。「痛みを伴う改革」とは何かが人々には分かっていなかった。国債発行を30兆円に抑える緊縮財政の方針を出し、2003年からは医療の窓口負担を3割に引き上げた。後には、社会保障費年間2,200億円の削減が始まった。非正規雇用を推進し、企業のコストを下げるのに努めた。  
極め付きは、郵政民営化である。表向きは、公務員を減らす、銀行や保険会社と競争させる、と言うが、アメリカが自国の会社の参入を意図して要求したものであることは今日では常識になっている。しかも、郵政職員は税金ではなく、郵政事業の収益で給料が支払われていたので、公務員を減らす意味がない。  
社会保障の切り捨て、非正規雇用の増加、アメリカ流の市場原理の跋扈などが小泉改革の鎧の下に見えてくると、その後3代にわたる安倍、福田、麻生が務めた総理大臣の統治能力の低下に伴って、人々は自民党の為政者に疑問を持ち始めた。景気も雇用もよくならないばかりか、社会保障への不安も高まり、はけ口が求められるようになった。  
そのはけ口の受け皿となったのが民主党である。長いデフレ不況の中で徐々に与党として力をつけ、与党経験者である小沢自由党と合併してからは、国民の思いを掬うマニフェストづくりや地方に通用する選挙体制づくりも出来上がった。  
忘れてならないのは、政権交代を成し遂げたのは小沢一郎である。小沢さん以前の民主党は、小泉改革と同じことを考えていたのだ。都市型でありアメリカ型であり、小さな政府を主張する政党だったのだ。それが、先に「小泉改革にしてやられた」ため、立つ瀬がなくなった。新たなイデオロギーを以て政権交代を狙ったのは小沢一郎である。小泉の失敗に学び、国民生活第一、即ち、ディマンドサイド・エコノミクスという概念を導入したのである。アメリカの市場原理主義を小泉改革のベースと仕立て、それに対立する概念を見事に打ち出した。  
地方でも、従来自民党の支援を続けてきた茨城県医師会が、原中勝征会長の下に反旗を翻し、医療現場の崩壊を食い止めるため、民主党政権の樹立を支援することとなった。このことは、全国的に波及していった。民主党政権は、医師会という巨大な影響力を持つ「お産婆さん」の力で、国民の期待を背負って生まれてきたのである。  
2009年9月、特別国会で選出された鳩山由紀夫総理大臣が所信表明演説を衆議院本会議場で高らかに行ったとき、308人の民主党議員は誰彼となく立ち上がり、スタンディングオベーションに参加した。鳴り止まぬ拍手は、新たな政治の始まりを告げた。この時の鳩山の演説は、恐らくは小泉就任の時の演説と並んで、議会史上名文として残るであろう。  
しかし。恰も小泉改革の化けの皮が剥がれ、人々を苦しめる市場原理の姿が徐々に露わになったように、新たな民主党政治のメッキはほどなく剥がれていくことになる。政治主導と言いながら統治機構そのものを変えず、三代にわたる総理の職は強面ではないものの、独裁者にあてがわれた。与党は機能せず、官僚とぎくしゃくしながら内閣だけが議論を尽くさぬ政策を発信し続けた。しかも、末期には、与党よりも野党との協力で進めることになった。いい例が消費税の法案である。  
官僚とぎくしゃくしつつも、特別の官僚はむしろ特別席を与えられた。言うまでもない、財務官僚である。政治家を扱い慣れ、情報に長け、弁舌に優れる。凡庸な才で野心ばかりの政治家は手玉にとられる。「消費税引き上げこそ国家を救う道、この道筋をつければ、あなたは歴史で評価される」。財務省のささやきは心地よく耳に入っていった。  
財務官僚は、他省の役人には威張り散らすが、政治家を持ち上げるのは天才的だ。能力に自信のない政治家をくすぐる方法を体得している。財務官僚が優秀なのは、公務員試験の成績がトップだからではない、政治家を手玉に取る方法を体得しているからなのだ。ちなみに、私は、消費税導入を未来永劫反対するのではない。2014年の引き上げならば2013年の通常国会で議論すればよい筈であり、そもそもマニフェストで引き上げないと約束したのだから、民主党政権2期目の課題にすればよかったのだ。  
ところが、まずは菅総理が参議院選挙前に消費税10%への引き上げを口にし、参議院選挙は惨敗。野田総理は、民主党代表就任直後から「消費税の引き上げを不退転の決意で行う」と宣言。あああ、もうだめだ、と思った民主党の議員はどれほどいたか。当時の毎日新聞の社説は、この状況を皮肉って「なんら政策を持たぬ政治家は増税に走る」と断言した。  
民主党瓦解の極め付きは消費税であるが、もう少し時系列でその砂上の楼閣が崩れていく過程を見てみよう。まずは事業仕分け。私も厚生省出身のため、最初の事業仕分けグループに入れられた。しかし、数日して、当時の小沢幹事長が「一年生に仕事をさせてはならない、一年生は選挙区に帰って地盤固めをしろ」という命令が下り、強制的に辞めさせられた。  
しかし、携わったのは短い時間だったが、事業仕分け開始後直ぐに疑問を感じた。政府の事業をよく知らない連中が「コピー代が高すぎる」などの枝葉末節な項目を拾い出して面白おかしく役人を揶揄する発言を聞いて、「こんな素人が、一定の基準や自らの仕分け技術を持たずに何ができるのだろう」と怒りすら覚えた。事業仕分けをする者は、事業を熟知し、少なくとも事業者を凌駕するだけの知識を持たねばなるまい。無資格者が会計監査をするようなものであってはならないはずだ。  
そのことが象徴的に伝えられたのが、蓮舫さんの「(コンピュータは)一番でなく、二番ではいけないのか」という言葉だ。科学技術は一番を目指すというコンセプトを見事に外したコメントだった。私は、事業仕分けに期待しないことにした。案の定、事業仕分けで公約の「16兆8千億円」の無駄遣いは出てこなかった。  
 そもそも16兆8千億円が何だったのかも当初定義されていなかったし、事業仕分けがプロの手で行われなかったことも問題だったのである。事業仕分けが財源を出す「打ち出の小槌」だったはずが、役に立たなかった。それが最終的に消費税引き上げにもつながっていく。もちろん、事業仕分けという手法そのものは、政府の事業を一般の人々に明らかにし、国民が取捨選択を考える機会をもたらしたことは評価できる。しかし、民主党政権にとっては、財源が出てこなければ意味はなかった。  
事業仕分けは、国家予算を国民に解剖してみせる優れた手段だが、方法論は未熟だった。民主党が必ずしも成功しなかったことを理由に安倍政権は事業仕分けの廃止をしたが、それは、バラマキ公共事業の実態を隠ぺいするのに好都合な理由を見出したのである。  
「普天間の移転は最低でも県外」と鳩山由紀夫総理大臣は豪語。しかし、この話を裏付けるものは何もなかった。理想であり、希望だった。アメリカや沖縄以外の他県がそっぽを向いた。一体何が起きたのか、民主党内でもわからないうちに、鳩山総理と同じく金の問題を抱える小沢幹事長を道連れにした派手な辞任劇となった。  
鳩山さんは松下政経塾ではないが、民主党に多い「職歴がほとんどない」「大きな組織を動かしたことがない」というカテゴリーに入る。実は、自民党が世襲議員ばかりで、せいぜい父親の秘書を務めたくらいの職歴であり、その結果、官僚に頼らねば何もできなかったことを批判していたが、民主党にも、驚くなかれ、職歴がまともにない人が多い。就中、松下政経塾グループは、学校出てから塾に行き、一般的には県会議員から国会議員に上がってくるルートだから、「部外者、評論家」の人生で国会に到達している。  
職歴や組織人としての経験のない人が権力を持つと、「朕は国家なり」になる。組織に支えられて意見を集約していくべきところを、「朕がこのボタンを押せば、物事は決まる」と思い込んでしまう。哀しいかな、民主党の総理3代とも、「朕は国家」で、やたらにボタンを押したが、回路は繋がっていなかった。回路を繋ぐためには、まずは一番手ごわい利害関係者であるアメリカと協議を進めていなければならなかったはずである。スケープゴートとなる県を打診していなければならなかったはずである。  
残念だ。私は、西松事件で、代表が小沢さんから鳩山さんに代わったとき、「お坊ちゃま君で、大丈夫か」と内心思ったが、あの卓越した所信表明演説で「いけるかも」と思い直した。しかも、鳩山さんはスタンフォードのPhDだ。世界に通用する。戦後の総理大臣でまともに英語ができたのは、吉田茂、宮沢喜一くらいで、鳩山さんは三人目だ。アジア外交とバランスをかけるという意味で、東アジア共同体構想を掲げたのも魅力的だった。  
しかし・・・。こんなに早く躓いて、一体どうするのだ。民主党議員は、ここで政権交代のお祝い気分をすっかり払拭した。このあとは、いばらの道が待っていた。それも、永遠の下り坂という道だ。下り坂の最後は、むろん、崖下の戦場での無残な死である。  
2010年6月、代表選が行われた。私は菅直人に与した。管直人とはつながりが大きい。まず、厚生省時代に厚生大臣と課長という関係で仕事をしている。特に記憶に残っているのは、宮城県と熊本県で行われた「一日厚生省」のイベントに随行して、新幹線の隣の席で議論を交わした。県の会議で菅大臣に答弁メモを渡すと、感心して「官僚がいると便利だ」などと褒められもした。薬害エイズの問題で官僚不信に陥っていた菅さんに褒められた管理職は私だけかもしれない。  
初めての国政選挙が、山口県副知事として出向した山口一区での衆議院選。2003年2月、もともと山口県で育った管直人が公認発表の席に並んだ。その後、山口、茨城のどの選挙にも応援に駆け付けてくれた。管直人夫人伸子さんには、実に2泊3日で応援してもらったこともある。その意味で管直人は恩人だった。  
しかし、菅直人は政権交代後の民主党代表となってから、意外な行動をとり始めた。先ずは、「小沢さんは、静かにしていてもらいたい」という発言。私は、いわゆる小沢派ではないが、政権交代の立役者に対して、あまりにも礼を欠いた発言だと思った。それは多くの人が共有した感情だろう。ただし、アンチ小沢を鮮明にしている、前原率いる凌雲会や野田グループは溜飲を下げたかもしれない。この非礼さが民主党の本質を暴露したものになった。討ち死にした一期生議員に「選挙は自己責任」という切り捨て御免の言葉を投げつけるのもこの本質のなせる業だ。  
続いて、参議院選挙前に突如出てきた「消費税10%に引き上げ」の発言。1994年に細川護煕総理大臣が前の晩に大蔵省と協議して独断した「国民福祉税創設」が政権崩壊につながったことを忘れてしまったのか。あるいは、橋本龍太郎が消費税を3%から5%に引き上げたことによって、参議院選挙の惨敗を招いたことを忘れてしまったのか。一体、なぜ唐突な発言が出てきたのだ。  
今にして思えば、唐突ではなかった。なぜなら、マニフェストは小沢さんの下で作られたのであり、小沢以前の民主党は、前述したように、小泉改革に近い考えで、小さな政府を標榜していた。小沢さんが社民主義に近づけた国民生活が第一、つまりディマンドサイド・エコノミクスの立場はもともと民主党のものではなかった。  
もし、マニフェストを政権与党民主党のベースにしないのならば、場当たり的な政策になってしまう。財政再建が必要なのは事実だが、それを財務省から強調されて、よし、消費税を引き上げるしかないという政策に至るのは、政治の根本哲学に立つ必要性がなかったからだ。民主党は党の綱領が明確にされていないから、そもそも根本哲学がない。だからこそ、政権をとった以上は、国民への約束であるマニフェストに立ち返ることが必須だったのだ。  
菅総理の時からマニフェスト破りは意識的に始まった。小沢以前の民主党に戻そうとしたのだ。小沢色を消すということはマニフェストを尊重しないということに他ならない。それほど小沢が憎かったのか。だが、小沢崩しは、国民崩しになることを考えなかったのか。  
2011年3月11日。土浦で地域活動をしていた私は、揺れが尋常ではない地震が長く続くので、手近の太い木につかまっていた。ようやく収まって歩き出すと、瓦が飛び散り、家々や塀、車の破損を目にした。子供を抱いて外に飛び出した女性がぶるぶると震えていた。信号が壊れていたため、徐行しながら帰途についたが、夕刻になると街の灯りが停電で消えていた。この地震が東日本大震災であり、ただでさえ、政治のベースを失った民主党政権に、新たな課題を突き付けることとなった。  
与党慣れしていないと言えばそれまでの話だが、現場主義で知られた菅総理が原発事故現場に直行して陣頭指揮を執ったのは裏目に出た。原発事故の真実を把握していたのは限られた人であり、真実解明以前に官邸の指示が出されてはかなわない。  
津波の悲惨さは、私自身も5月の連休に宮城県気仙沼市を訪れて目の当りにした。対応が遅いとマスコミや自治体が政府を突き上げた。何か月たってもその論調は変わりなかった。むろん、被災地の廃棄物処理を引き受けたはずの他県の自治体が、直前になると住民の反対でできなくなったというように、政府の側にも口実はあった。しかし、政府の対応に否定的な報道が続き、民主党は「せっかくの活躍のチャンス」をここでも逃した。  
菅直人は退陣を迫られた。野党は、予算の執行に不可欠な赤字国債を発行する法案を人質にとった。「辞めなければ、法案は通さぬ」。野党の激しい詰め寄りに対し、与党議員もまた菅総理の退陣を期すようになった。与党議員は、地元で民主党批判の攻撃の的になっていたのである。赤字国債発行の特例公債法、第2次補正予算、再生可能エネルギー特別措置法の3法が退陣条件となり可決された。  
あろうことか、鳩山辞任から1年。2011年9月、民主党はまたまた代表選を行う。私は、鹿野道彦を選んだ。1992年、私は総務庁に出向して高齢者問題担当参事官をしていた。その時の総務庁長官が当時自民党清和会のプリンスと言われた鹿野道彦であった。鹿野大臣は腰を痛めて座布団を重ねて座し、その状態のまま、私は行政説明をした覚えがある。  
鹿野さんは1994年自民党を離党し、のちに小沢さんと新進党の党首争いもしたが、最終的に民主党に入り、当選10回を重ねていた。政策マンというよりは、「党内融和」を掲げ、混沌とした民主党の建て直しを図ろうとしていた。自民党を離れた後、離合集散、カオスの政治を生き抜いたその体験を以て、党の再建にあたってほしいと考えた。支える議員はベテランで年齢が高く、一期生でも私のような団塊の世代にとっては、価値観を共有するところが大きい。  
鹿野は敗れ、野田と海江田の決選投票になった。私は迷った。消費税を仄めかしていた野田だけは嫌だと思ったが、海江田は小沢に操られてか、発言が二転三転し、およそ信頼かなわぬ演説内容であった。どっちも入れたくないと思いつつ、消極的に野田を選択した。後に後悔してやまぬことになった。「ノーサイドにしようよ、もう」「私は金魚になれない、不格好などじょう」という彼の発言は党内融和を優先し、持論の財政規律第一を封じるかのように思えた。  
2011年9月、民主党3人目の総理大臣に野田佳彦が就任。国民だけではない、当の民主党もうんざりであった。それでもお祝儀支持率は65%に達していた。野田のどじょうに模した絶妙の自己表現が「真面目できちんとやってくれる人」という評価をもたらした。現に真面目さは誰も否定しない。真面目さの向かうところが間違っていただけだ。  
2011年の大震災で一時は中断された社会保障改革は、野田総理の就任以降、消費税との一体改革として、急激に日程が早められた。民主党の政権運営はいつも同じで、政府が先行し、決断を迫られる直前になって党に議論を求めてくるのだ。社会保障と消費税の一体改革も例外ではない。つまり、閣議決定の日程まで決まっていて、形式上与党が議論し、政府の方針を追認しろ、という方法である。  
2011年6月に党でまとめられた社会保障改革の議論は、低調な内容であったが、その年の秋から始まった消費税との一体改革となると俄然、党内の議論は高まった。社会保障の議論では、私を含め社会保障を専門的にやってきた人間の発言が主であったが、年明けて、話が消費税に移るや、喧喧諤諤の議論になった。  
議論の中心を務めたのは、実務をよく知る良識派とマニフェストを守るべきと主張する小沢派である。なぜか消費税推進派は発言をせず、たまに発言をする近藤洋介(山形)や津村啓介(岡山)は反発のヤジでかき消された。小沢派(鳩山派も含む)は、舌鋒鋭い大谷啓(大阪)、中村哲治(参議院)、松崎哲久(埼玉)、川内博史(鹿児島)、初鹿明博(東京)などが中心で、多くは出席すれど語らずじまいであった。そこが小沢派の弱さであり、正しい議論をしているのだが、職歴が不十分で議論を展開できない議員も多く、全体としての力不足になっていた。  
実務家としては、小林興起(東京)、福島伸享(茨城)などが鋭く議論に加わった。私は、厚生省出身の社会保障専門家として実務家の意見を主張した。社会保障と税の一体改革と言いながら、社会保障の部分は、法案としては総合こども園と年金の一部改善の2種類しかなく、医療・介護はかなり精緻な政策内容であったものの法案は間に合わない状況だった。子供政策は相変わらず就学前児童に限定した法案であり、年金の抜本改革を示さない、医療・介護法案が間に合わないとなれば、消費税との一体改革など早すぎる。社会保障の全容を示してから一体改革に進むべきだ。私は、そう唱えた。  
小沢派の主張する「マニフェストの書かれていないことをやるべきでない」は正しい。入り口論だけでシャットアウトすべき消費税法案だったのだ。しかし、なし崩し的に、議論は、低所得者対策や逆進性対策や経済条項(引き上げ直前の経済指標により引き上げを行わないと定めた附則)などに進んでいった。  
最後の極め付きは、前原政調会長出席の下、「議論を尽くす」ことが宣言された。しかし、むろん、それは嘘である。深夜に及んだ議論は、前原の「これで議論を打ち切る」の一言で締めくくられた。その後、前原を押し戻そうと揉み合いはあったが、彼はするりと会場を抜けた。  
どこから見ても不備そのもので、かつ党内の反対を強引に押し切った社会保障と税の一体改革法案は2012年の通常国会に提出された。野田佳彦は前原誠司に党内議論を一任したため、ついぞ最後まで党内会議に姿を現さなかった。  
何を恐れたのか。  
2012年7月、衆議院の消費税増税法案に反対票を投じた小沢派は民主党離党を決めた。これを高笑いしたのが他でもない、自民党である。自民党政治と対立軸をつくり、政治は数という自民党と共通の観念を持つ脅威「小沢」が民主党にいなくなれば、あとは、国会解散に持ち込むのは、赤子の手をひねるよりも簡単、と大笑いしたのである。  
もしかしたら、もうひとつの勢力も大笑いしたかもしれない。松下政経塾を中心とする野田派、前原派である。忌み嫌うものが出て行ってくれた、せいせいすると言って笑っただろう。現に、総理側近の一人がそう発言したと報道もされている。  
野田総理は、党内の不穏な空気を察してか、もともと消費税推進だった自民と公明に近づき、3党合意で消費税案を通すことに漕ぎ着けた。しかも、それと引き換えに、わずかばかりの社会保障法である総合こども園法案と年金改善法案を白紙に戻し、医療、介護、年金、子育て支援の法案作りは国民会議に委ねられた。消費税を通すことが優先され、消費税引き上げの唯一の大義である社会保障改革は曖昧にしてしまった。  
小沢派が49名出て行ったことで、二大政党制の死期は迫った。その後も、民主党の次期選挙の惨敗が予想されるようになると、出ていく人は後を絶たなくなった。この外、党の原発政策に反発して出て行く者もあった。総選挙をやる前から民主党はやせ衰え、やがて無謀な選挙に突っ込んでいく。  
「新高山登れ」が真珠湾攻撃開始の暗号だったそうな。11月16日を突如解散日と決めた、党首討論中の野田の言葉は、語気荒く、「ニイタカヤマノボレ」と聞こえた。後に田中真紀子さんが「自爆テロ解散」と名付けたが、まさに、自爆テロに向かう人への「激励の言葉」にも思えた。前線で戦わなくてよい大将は、一兵卒に力強い激励をする。  
選挙の結果は、3年前に民主党議員308人を当選させたのに対し、今回は57人。個々の死体の多さは政党の死を意味する。それも、民主党の長年の夢は政権交代であり、非自民の政権としてリベラル中道の政治を行い、10年かけて地盤を作ろうとしていた。その結果、日本にも二大政党制を作り上げ、政策の選択が可能な民主主義国家としたかったのである。だが、鳩山退陣以降、政権交代の意義は捨て去られ、自民政治をなぞらえた理念無き政治へと堕してしまった。ここに、二大政党制への道は閉ざされた。  
たとえ民主党が少数政党として残っても、二大政党制という政治体制は回復不能になった。政策選択の選挙も回復不能になった。この国は、もともとモノトーンの国であり、かつて「巨人、大鵬、卵焼き」に象徴された、大衆好みは一本化されているのだ。「巨人、大鵬、卵焼き、自民党」が正しいのかもしれない。これに対立する好みは作れないのかもしれない。もっとも、この4つの比喩は多くの若い人にはピンと来ないであろう。今なら「なでしこジャパン、イチロー、ピザ、アパシー(政治的無関心)」というところか。  
二大政党が何だ、せっかくチャンスを作ってやったのに、民主党は自らの身の丈を大きく縮めたではないか。もう知らないよ、もう知らない。日本が危機にあることは、布団を被って知らんふりし、自分が不利な立場に置かれていることも敢えて忘れたふりをし、面倒くさい選択などは素知らぬ顔で通り過ぎるよ。なぜなら、民主党のペテン師が言ったことは信じられないから。  
心から二大政党制の死を悼む。 
第3章 死因は分裂病  

 

社会保障と税の一体改革の党内議論の最後の日、前原政調会長と仙石由人氏がひな壇に並んでいた。何人かの発言の後、私も、これが最後かと思って、語気荒く意見を叩き付けた。「消費税引き上げを強行して党の分裂を招いたら、それこそ自民党の思うつぼ。民主党のやり方は、タネツケだけで終わりのオス的なやり方だ。母親になって落ちこぼれを一人も出さないようにすべきだ」。この表現に皆笑ったが、前原政調会長の反応はなかった。  
分裂は決定的になった。篠原孝議員が再三、分裂を避けるために、「両院議員総会を開いて、多数決で決めよう」と提案したにもかかわらず、多数決となれば否定されるのが明らかとみて、執行部は応じなかった。その結果、消費税増税法案は閣議決定され、2012年6月28日、衆議院を通過する。7月11日、小沢グループは「国民の生活が第一」党を結党し、出て行った。一足先に出た新党「絆」と、その後合流する。  
地域を歩くと、人々は好き嫌いで判断をするのがよくわかる。「私は、小沢が大嫌い。出て行ってよかったんじゃない」「俺は小沢ファン。小沢のいない民主党はだめだ」。その中で、もっとも多かった意見は「内部分裂するような民主党はあきれたね」だった。民主党は、この時点で重傷を負ったのだ。幹部は重篤の「患部」を気づいていないようだった。  
野田総理は庶民的で言葉がわかりやすく、その点では、鳩山、菅よりも支持している人が多いと感じていた。しかし、それはあくまで前任者二人に比べた相対的なもので、消費税を掲げ、党の分裂をもたらした後は、口を極めて批判する人が多くなった。そして、そのことは、野田自身への批判と言うよりも、有権者の眼前に立つ私自身と民主党そのものへの批判に代わっていった。  
政党を保つには、何を譲歩してもよいから分裂だけは避けるべきだった。自民党は政権政党の時間が長いために、権力の求心力で一体性を保ってきた。自民とて一枚岩ではないが、いつかおいしいポストが巡ってくる政権与党であれば、おいそれとは離党しない。その例外は、小沢一郎である。小沢は、1993年、宮沢内閣の不信任案に賛成し、党を割って二大政党制をめざした。これは、まさに政治家として政治理念を実現するための稀な行動であった。  
細川護煕旋風の時も自民党から数々の少数政党が独立し、90年代に離合集散を繰り返す。脆弱な細川政権が、「国民福祉税の創設」なる発言によって、あっという間に終えてしまうと、自民と社会という永遠の対立政党が連立内閣を組み、自民は政権政党に返り咲く。今回は、民主党が国民福祉税ならぬ消費税で負け、自民党に政権奪還を許したのと状況が酷似している。民主党はこんな近い歴史にも学ばなかったのか。  
民主党の死体解剖をすれば、死因は主に「分裂病」であることは明明白白である。身体が切り取られて出血多量で死んだとも言えるし、精神分裂病(今なら統合失調症)で、自分のやっていることの訳が分からなくなって自傷行為に及んだという解釈も可能だ。むしろ後者の方が正解かもしれない。  
民主党は、労組出身組、世襲自民党に入り込めなかった第二志望組(松下政経塾が中心)、政権めざすリベラル志向組など、確かにいくつかの集団から成り立っていた。一期生はそのカラーの意味を十分には理解していなかった。一期生の多くは、硬直した長年の自民政権に代わるリベラル中道もしくは常識派の政治を目指していた。その意味では、民主党の独自性よりも、自民党があったから対立軸が出来た。既得権を切り崩すことが民主党の命題と考えたのが普通の一期生だ。  
戦後を立て直した自民党の一世政治家は識見、経験共に十分な迫力ある人々だった。二世三世に世襲した結果、人物が小さくなり、学力も低く、職業経験も父親の秘書くらいが関の山になり、政治は腐り始めた。特に90年代のデフレ不況には有効な手を打つことができなかった。  
民主党は、そもそも小さな政府を主唱し、構造改革に積極的だった。ところが、彗星のように現れた小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」と叫んで民主党の構造改革をいち早く取り上げその旗手となったのである。民主党は、小泉出現のときには拍手喝采したはずだ。  
拍手喝采したのは、間違いなく世襲自民党に入れない第二志望組の松下政経塾グループであろう。小泉よりも小泉的な人々だ。コミュニケーション能力に長け、選挙戦術はうまく、さわやかな印象である一方、実体的な職業経験が浅く、机上の空論に堕する、いわば評論家集団である。  
そのとき、労組出身組がどういう反応をしていたのかはわからない。しかし、松下政経塾組に比べると、出身母体を振り返らねば決断ができず何事にも対応が鈍くなることは否めない。民主党の中心は労組グループではなかったのである。また、労組出身は参議院に多く、衆議院は限られていた。  
分裂を自ら望んだのは、松下政経塾組だと断定できる。野田さんが党首となり総理となったことによって、小沢さんは切られることになっていたのだ。その前の菅さんは、松下政経塾出身ではないが、小沢さんと代表を争ったときに松下政経塾グループの支援を得た。それに、もしかすると、個人的には小沢さんが嫌いだったのかもしれない。小沢、鳩山、菅の三人が力を合わせた形になっている政権交代のトロイカ体制は、所詮張り子の虎だったわけだ。  
もうひとり、小沢さんを切ったのは岡田克也副総理である。岡田さんは、かつては美男子でありシャープで、そのぶれない姿勢の原理主義も好意的にとられていたが、2005年の郵政民営化選挙で民主党代表として党の惨敗を導いた後は、なぜか人気と勢いを失った。外観もとても老け込み、考えも硬直化したように思う。小沢さんとの関係は私が知る由もないが、松下政経塾組や仙石さんと足並みをそろえたことは結果からすれば明らかだ。  
岡田さんは、かつては、藤井裕久元財務大臣と並んで、党内の良識派だったはずだ。しかし、民主党政権成立後、藤井さんの発言も180度転換して大蔵省OBでしかない消費税推進派に変遷していたし、岡田さんは大臣答弁などでジェントルマンシップを失う場面をよく目撃した。元通産官僚らしく、構造改革派であることは明らかだった。それにしても、あの眉目秀麗の岡田さんが今はフランケンシュタインに酷似するまでになってしまったのは、民主党代表を下りた後、心の変化があったのではないだろうか。  
松下政経塾組に加えて、多くの有力者が小沢切りに参加したのは、民主党の歴史を知らない一期生の私にはわからない。小沢一郎なかりせば、地方重視の選挙戦略やマニフェストを駆使して政権交代に結びつけることはなかったであろう。自由党から来た者に牛耳られることを嫌ったのであろうか。またぞろ、排他的な日本社会の一番嫌な部分だ。  
かく言う私は、小沢派でもないし、代表選で一度も小沢さんに入れたことはない。選挙で応援を受けた小沢ガールズとは一線を画している。それでも、小沢さんのやったことは正しいと思っている。自分の演説に自分で聞き惚れている松下政経塾の連中とは異なり、「目には目を、歯には歯を」の精神で自民党つぶしをやってくれたのが小沢さんではないか。  
そういう人をなぜ切ろうとしたのか。政権一期めで基盤づくりをしなければならない大切な時に、その要となる人を切ろうとはどういうつもりなのだ。確かに、収支報告に不正表記があったらしいが、こんなことは自民党のベテラン議員ならいくらでもやっていて、なんだか無理に捻出したような刑事告発だ。しかも、最終的に無罪になっている。  
民主党は、政権交代劇で主役を務めた小沢一郎が気に入らなくて、小沢派から政権を奪還した菅総理のときから、小沢のつくったマニフェストつぶしを自ら始めたのである。マニフェストにない消費税の引き上げは、以前から構造改革派だった元祖民主党組は当然のこととして着手することにしたのだ。  
「消費税を引き上げ、財政規律を守ることを不退転の決意で行う」と野田は言った。デフレはどうする? 経済成長はどうする? 大震災はどうする? 原発事故はどうする? 新エネルギー政策はどうする? 社会保障制度の立て直しはどうする? 「いやいや、何よりも財政再建が大事。(これができれば、私も総理として歴史に残るだろう)」。  
かくて、経済政策よりも、行政刷新よりも、国会議員定数削減(身を切る改革)よりも、大震災や原発事故よりも消費税導入が第一課題の政治が始まった。消費税引き上げは、不覚にも、政権交代を目指す小沢が封じてしまった「政策」であり、小沢が封じたからこそ憎い、どうしても実現させたい政策になってしまったのである。あわれ、私怨をば政策の動力とする党とあっては、有権者が泣く。  
ただ、若干弁護すれば、総理大臣とて人間、一国の最高権力者の志とは、何のことはない、個人の経験から湧き出てくるものであるから、私怨や個人の感情がその大きなエネルギーになるのは一般的である。たとえば、小泉純一郎も、厚生大臣時代に、我々官僚を目の前にして「郵政官僚は、俺にきちんとレクもしなかった」と言っては涙をこぼした。郵政官僚への私怨があったと思う。  
安倍晋三は、「お祖父さん(岸信介)は不平等条約を是正しようとして安保改定をやったんだぞ、それを知らない国民の馬鹿が・・・俺は絶対にアメリカがつくった憲法を改正してやる」。アメリカ追従の人がアメリカ製憲法を憎む、その矛盾を悟っていない。志を立てたのではなく、志を継いだのならば、木に竹を接ぐようなもので、論理矛盾は避けられない。  
一期生は、当選する前の民主党内部の確執など知る由もない。民主党が党を挙げてマニフェストをつくったと信じ、積極的に評価できる内容だと思っていたのだ。細かいところでは、私は、たとえば、子ども手当のような金銭給付よりも現物給付の方が効果的だと思い、敢えて子ども手当を宣伝はしなかった。しかし、マニフェスト全体としては上出来であった。小沢の功績である。人々の求めているものを掬いあげたのである。  
一期生は、党内人間関係の険悪さを認識しないまま傍観していたが、あれよあれよと思う間に初めから入っていた亀裂が簡単に裂け、分裂を余儀なくされた。今になって、一期生は「いったい我々の存在は何だったのか」と問うているが、答えは「お前らは、ヒトラーユーゲントか、戦前の日本の軍国少年と変わりない、操られ集団だったのだ」。ああ、屍よ、もう日の目を見ることはなさそうだ。  
死体の解剖医いわく、「精神分裂病、いや、今は統合失調症と言いますが、ま、統合かなわぬ病気でしたね、民主党さんは。安らかに眠りたまえ」。 
第4章 マニフェスト選挙の死  

 

最近の新聞記事で、つくば市の研究機関に勤める人の約3分の1は、何らかの心の障害を抱えていると書かれていた。私は、驚かない。中央官庁も同じだったからだ。私が1996年、児童福祉法の改正を担当課長として従事した時、我が課からは4人もの精神病者を出してしまった。国を背負うという自負を持ちながらも、人々は仕事の方向や多忙や人間関係に心を苛む。  
心を病むのはエリート集団も何も関係ないように思う。身の回りでもうつ病は風邪ひきよりも多くなっているような気がする。私自身も壁にぶつかっては、うつ病に近いものを感じている。病名を拒否して強がりを言っているだけの自分が常にある。特に1990年代は、デフレ不況の中で、予算編成の仕事でも、民営化を強要される社会保障制度の改革でも、明るい心で行えるものは見当たらなかった。  
話は私事になるが、その頃より10年前の30歳代の私は、ユニセフのインド事務所に行きたくて、厚生省に無理を言って出向させてもらい、世界を股にかけた明るいイメージで仕事をしていた。ユニセフで3年働いた後、ユニセフに残るか厚生省に帰るかで悩んだ末帰ってきたが、厚生行政よりもっと広いところで活動したいという気持ちにいつもとらわれていた。  
具体的には、政治に出たい、との気持ちが強くなっていた。日々会う世襲大臣の知識の低さやユーモアも何もない乾いた人柄を見つつ、「私でも、これよりはましにできるのではないか」と思って憚らなかった。しかし、当時は、「地盤、看板、鞄」がなければ選挙に出ることはできないというのが一般の常識であった。  
地盤、鞄がなくても、何かで有名になれば看板は作れる。タレント議員が誕生するのは、ひとえに看板の大きさである。私も、意識して本を書き、黒子である官僚から、多少は名の知れた人になろうと試みた。私の出した単行本は、インドでの体験や、戦後のアメリカ志向や、女性の生き方などを読み物として発行に漕ぎ着けたが、いずれも売れずじまいであった。  
1995年、看板になるかもしれないチャンスが巡ってきた。横山ノックさんが大阪知事になった時に、私に副知事をやらないかと声をかけた。私は、千載一遇のチャンスと思ったが、厚生省は、大阪府議会はノック反対派で占められ、そもそもノック氏自体がまともな知事になりえないという見方で乗り気ではなかった。私は禿げ頭をぺこりと下げたノック氏に承諾の返事をしたが、府議会で副知事人事が否決されるという珍事に見舞われた。  
ノックさんに対する否決であってあなた自身の否決ではないと慰められもしたが、私は、すぐさま立ち直って、ならば、厚生省で本気になって社会保障改革に取り組もうと心に決めた。政治に出るのは、少なくとも、一人息子が大学に入ってからでいいから、時間はまだ十分にあると思い直した。  
だが、もう一度、チャンスが巡ってきた。今度は山口県副知事である。私は、迷うことなく赴任を決めた。もしかしたら、これは私の不幸の始まりかもしれない。自らの非才を省みず、野心の塊のような自分に、良くも悪くも暗雲が垂れ込めてきたのを気づかなかった。新天地での仕事に思いを馳せ、自分が受け入れられるものだと信じてやまなかった。  
山口県副知事を無事務めた私は、これで「看板ができた」と思った。地盤も知名度がある山口にある程度できた・・・と思ったのは実は大間違いだった。早とちりの私は、退任後、厚生省にも辞表を出して、山口の地で選挙に出ようと思い立った。否、思い立ったというよりは、そうしようと思って人生を計画してきたのだ。のちに、篠原孝(民主党議員 長野)氏が来県した折に、「絶対に当選しない地を選ぶなんて、どういう神経か」と言われたことがある。事後、後悔の念に付きまとわれた。  
早く言えば、私は、選挙とは何かを実体的に知らなかったのである。にもかかわらず、極めて楽観的だった。当時、自民党の評判は下降線を辿り、小泉純一郎で急上昇したものの、それは「自民党をぶっ壊す」というパラドックスを利用した人気にすぎない。人気の落ちた自民党の自虐的な発信が受けたのである。それは小泉の人柄によるもので、消え入る前の線香花火のようなものだったはずだ。自民党の命運は尽きていたと言っても過言ではない。私はそう思っていた。  
しかし、都市部や全国傾向としてはいざ知らず、山口県のような自分の殻の強い土地柄では、殻そのものが自民党で出来上がっていて、一般論が通る世界ではなかった。そんなことも知らず、無謀な選挙に出た私の無知を今も恥じる。  
それでも、全国的に民主党は上昇を続け、政策論争での選挙ができそうな状況が醸し出されていった。「地盤、看板、鞄」の選挙から、どうやって、国の無駄遣いをなくし、天下り天国をなくし、医療現場や年金などの社会保障を立て直すかについて、民主党は与党に対峙し、マニフェストを作っていった。  
ついに、2009年の選挙で戦後初めての政策論争での選挙が行われた。マニフェスト選挙と呼んでもよいだろう。マニフェストは、サッチャー夫人が政権交代を成し遂げるときに使った手段であり、日本でも30年遅れで政権交代の最大の武器になったのである。  
私は居住地茨城県に選挙区を変えての選挙だったため、知名度がなく、ハンディは大きいと思ったが、人々は民主党のマニフェストを次々に取りに来た。3年後の今回の選挙では、「民主党のマニフェストだけは要らない」と言われたのとは真逆だ。  
人々は、マニフェストに期待をかけた。デフレ不況からの脱却、就職難、社会保障の不安にマニフェストは答えたのである。民主党は明確な綱領を掲げていないが、社民・共産ほど左翼ではなく、穏健リベラルで、政権を取らしてもいい、ましてマニフェストが日本の立て直しを実現できるならば・・・と多くの人は考えた。  
言わずもがなだが、民主党は鳩山総理辞任以降、そのマニフェストをかなぐり捨てた。人々の期待はマニフェストにあったのを知らなかったのか。これほど愚かなリーダーはあるまい。人々からうそつきと言われ、期待外れと言われ、政権担う資格なしと言われても、その声はリーダーに届かなかった。  
決定打は、もちろん、野田の消費税導入である。マニフェストでは、「任期中に消費税は引き上げない」としていた。2014年の引き上げは任期中でないからマニフェスト違反ではないというのは詭弁だ。任期中に、「消費税引き上げが最大の課題」とぶち上げたのは、無駄遣いの見直しや行政刷新で努力して財政悪化を食い止めるとしたマニフェストの方針と相反するのだ。  
しかも、無駄遣いの見直しや行政刷新で成果を挙げていないではないか。この議論は、社会保障と税の一体改革の中でも反対論の核として何度も行われた。それに対して、有効な反論はついぞ聞かれなかった。反論できまい。ならば、なぜそんなにまでして消費税引き上げにこだわったのか。  
既述のとおり、小沢さんの作ったマニフェストをつぶすこと、財務省に「歴史に残る仕事はこれです」と言われたことがこだわりの原因である。そこに、国民への意識はなく、永田町の論理だけで、即ち、コップの中の嵐で決定されたということだ。  
このことは、民主党の凋落だけでは終わらないということを為政者は知るべきである。マニフェストが嘘の塊となった以上、人々はもう政策論争の選挙を信じなくなったことの方が後世に与える影響は大きい。今回の総選挙は、再び「地盤、看板、鞄」の選挙に戻してしまったのだ。もう政策論争は要らない、もとのままでいいよ、ということになった。  
私は、今回の選挙のマニフェストづくりを笑止千万とみていた。一体、幹部は人々の総意に気づかないのだろうか。マニフェストを作ること自体が「また嘘で固めようとしている」との誹りを受けていたのだ。案の定、選挙期間中、マニフェストはまったく誰も持っていかなかった。こちらから届けると、支援者からも「マニフェストは持って帰ってください」とまで言われた。民主党がマニフェストの名を借りて詐欺を働いたと思う人々の当然の感情である。  
この結果から、今回の選挙は、有権者がマニフェストを基準にすることなく、新勢力に期待の一票を投じたか、あるいは自民党を消極的に選択した。今回の選挙からは、政策を高らかに掲げる「詐欺師」ではなく、地に足の着いた、多少頭は悪くても嘘のない人の方がいいという選択に陥るのも目に見えている。  
民主党の罪の中で、このことは、もしかしたら、一番大きいかもしれない。もう一度政策論争の選挙をやろうとしても、後遺症が10年は続くのではないか。政策政党としての民主党は永遠に認められず、ほかの政党もそのあおりを受けて、政策論争そのものが否定され、日本独特のしがらみ選挙へと時代は後戻りしたのである。  
その意味で、民主党自身が立ち直るのはなかなか難しい。むしろ、民主党の中で実務派が離れて、新たな理念をもって政策論争に挑む方が受け入れられやすい。極右維新党と最右翼安倍自民党にバランスをとる新たな勢力は、今のままの民主党では無理だ。民主党は、贖罪ができていないので国民に許してもらえないと思う。 
第5章 消費税、TPP、原発の真相 

 

消費税については縷々書いてきた。民主党内の議論では、野田総理の真意が不明のまま議論は打ち切られ、党の分裂を招いて、自民、公明の協力のもとに法案が成立した。改めて言うまでもなく、消費税は総選挙における民主党敗退の主たる原因になった。党内議論は、消費税に限ったことではなく、その他の課題についても同じような方法で、同じような対立を生むこととなった。  
まずはTPPについてである。2010年秋、オバマ大統領は日本で開かれるAPECの会議前に、菅総理に対しTPP(環太平洋パートナーシップ)の参加を求めたと言われる。この事実については、菅総理の成長戦略を考える上での独断であったという見方もある。  
TPPの参加とは、アメリカを含む環太平洋9か国の自由貿易協定への参加である。もともとは、シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランド4か国で始まったが、アメリカ、マレーシア、ベトナム、ペルーが加わった。最近では(2013年現在)、カナダ、メキシコが交渉に入った。厳しいルールの自由貿易協定で、例外なき関税撤廃を掲げていた。  
菅総理は2010年10月1日、衆議院本会議において所信表明演説をし、「TPP参加の検討」を表明。並み居る衆議院議員の中でTPPと聞いて咄嗟に理解した者がどれだけいただろうか。  
冗談ではなくトイレットペーパーのリサイクルだと思った人も多い。内容がしだいにわかってくるにつれ、民主党議員は青ざめていった。なぜなら、自由貿易協定は、民主党の方針では、ASEANプラス3(日中韓)あるいはASEANプラス6(既述の3国にインド、オーストラリア、ニュージーランドを加える)との原則二国間協定を進めながら、最後は、APEC加盟国全部に拡大してFTAAPという大きな枠組みの自由貿易協定にしていくことを目指していたからである。ちなみに、アメリカは、APECの加盟国である。  
つまり、日本あるいはアジア主導で進める予定であった自由貿易協定を急にアメリカ主導に変える、ということだ。そんな大きな政策変換ならば、与党議論を経てから言及すべきではないか。あたかもTPPに参加するのが当たり前のような所信表明であった。  
考えてみれば、これも消費税と根っこは同じである。小沢―鳩山路線では、東アジア共同体の構築という発想もあって、アジア中心に物事を決めていこうとしていたのだが、またぞろ小沢路線継承の拒否だったのだ。その上に、鳩山の普天間移設発言でアメリカの不評を買った引け目から、オバマの申し出を押し頂いてしまったのだ。  
民主党マニフェストでは日米を基軸にすることは原則としつつも、アジアの経済社会の発展に日本は積極的に関わっていくことを記している。まして、初代総理は、東アジア共同体構想をぶち上げた。そこへTPP参加では、朝令暮改もいいところではないか。  
一説によれば、小沢−鳩山のアジア寄り外交路線に危機感を抱いたアメリカが小沢と鳩山のカネの問題を必要以上に喧伝する方法をとったとも言う。アメリカ陰謀説を鵜呑みにするわけではないが、確かに、鳩山の理想主義は時期尚早のきらいもあり、どこかで潰されるようにはなっていた。それはあたかも戦前、宮崎滔天、北一輝、大川周明などの「右翼」が描いた中国革命成就の夢のようであり、青年将校の突撃とともに消されることになっていたのかもしれない。  
アジア主義を唱えるのは、戦前は右翼、戦後は左翼であるというのは面白い。大東亜共栄圏、八紘一宇、岡倉天心の「アジアはひとつ」という哲学は、欧米の模倣によって近代化を遂げた日本の劣等感の裏返しから発しているようにも思われる。鳩山さんの東アジア共同体はどこまで精緻なものかは知らないが、哲学よりも先に、日本の経済発展には人口の多いアジアの市場を使っていかねばならないという功利的攻略的発想がある。そして、それは日本とって必須とも言うべきもので、避けて通れない。  
日本は、日支事変から太平洋戦争に至るまで、アジアを侵略して資源を手に入れようとした。そのときの大義名分としてアジアを欧米支配から解放することを掲げた。いち早く近代化を遂げた日本がアジアの盟主として君臨すればアジア自体の繁栄が望めるとの思想を普及させた。  
アジアの国々も一時期は日本の進出に期待したところもあった。インドの独立運動家が日本に亡命した事実もそのひとつの証左である。しかし、マレーシアでもフィリピンでもアングロサクソンに代わった日本は、結局黄色い顔をした植民地支配者でしかなかったことを現地の人々に悟られるのである。アジアには、仏教文化や華僑がもたらした儒教文化など共通の文化もあるが、西洋におけるカント、マルクス、マックス・ウェーバーといった近代の思想的リーダーがアジア全域に影響を与える形では登場しなかった。  
ガンジーや毛沢東は、自国の独立に重きを置いた。長い間、アジアはアングロサクソンの植民地支配から抜け出すことが第一の課題であり、アジア全域の共同繁栄というのはあくまで頭の中の哲学でしかなかった。日本は、アジアの国々の独立を助ける名目で大東亜共栄圏を描いたが、その実、後発の植民地支配者になりたかっただけだ。  
近年では、マレーシアのマハティール首相がルックイースト政策で日本を目標にした時期もあったが、20年余に及ぶ日本のデフレ不況の状況を見て「既に日本に学ぶことはない」と結論付けたと伝えられる。その一方で、アジアの大国である中国、インド、日本を外に置くASEAN(東南アジア連合)は、今後のアジアの自由貿易や共通の問題への取り組みに中心的役割を果たしている。  
つまり、東アジア共同体構想は、EU(ヨーロッパ連合)とは発達段階がはるかに遅れていて、スローガンにはなっても具体的には一挙に進展する要素は見られない。ただし、世界の人口の半分を占めるアジアが世界の経済の牽引力となるのは事実であり、自由貿易協定によって、人、物、金の流れを円滑にすることが、技術や資源を効率的に使い、世界経済に寄与すると考えられる。その意味で、例えば通貨統合あるいは通貨バスケットのような方式までは論ずるに値する。  
また、1997年のアジア経済危機に学び、ヘッジファンドやIMFに外から支配されるアジアではなく、当時宮沢大蔵大臣がアジアIMFを作ろうとしたのは極めて妥当な考えであると思われる。これは宮沢イニシアチブと呼ばれるが、日本がアジアで主導権を握ることを潔しとしないアメリカと中国に阻まれ、実現しなかった。  
前置きが長くなったが、自由貿易協定を推し進めるに当たっては、こうした流れの中から、アジアの国々とそれぞれ交渉し、日本の役割を明確に持つことが今後の日本の発展につながる。ところが、その動きが始まろうとした矢先に、アメリカ主導のTPPに乗り換えようとしているのである。  
このことは、宮沢イニシアチブがアメリカに潰されたことを即座に思い起こすではないか。アメリカにとっては、世界最大の市場アジアの貿易ルールづくりに自国が関与しないわけにはいかない。否、アメリカがつくったルールにアジアを載せなければならない。アメリカはいずれ中国によってアジアへの進出を阻害されることを十分に予想している。だから、その前に、まだ世界3位の経済規模を持つ日本を招じ入れて環太平洋で貿易ルールをつくり、中国をはじめとするアジアの国々を自分の土俵に引き入れたいのである。  
オバマ大統領の意図はそこにあった。経団連をはじめ経済界ではTPP参加を政府に促しているが、真意を読み取ってのことだろうか。誰も自由貿易という方向性を否定はしない。ルール作りをアジア中心でいくかアメリカ中心でいくかの違いである。日本の貿易額は、対アメリカよりも対中国の方がはるかに大きくなり、国益はアジアの経済を日本に取り込むことにある。日本がアメリカから受けてきた年次報告書方式の市場開放の強要はもう対応する必要はないではないか。  
そもそもは、WTOが機能しないから、個別の自由貿易協定がはやるようになった。世界は、統一ルールではなく、まるで戦前のように、地域経済ブロック化に勤しんでいる。日本は環太平洋ブロックに入るのかASEANプラス6ブロックに入るのか選択を迫られているということだ。  
ルール作りと言えば、もちろん、契約社会を築き上げた欧米が優っていると思う。アジアはネポティズム(血縁主義)やら収賄やらがルールを蹂躙する要素の多い地域で、日本がリードしてアジアの自由貿易協定が作れるかどうかは不明だ。しかし、今、アジアには、全域で極めて早いスピードで向かう少子高齢化という共通課題があり、この課題に人、物、金の流れを結集させて経済社会の発展をもたらさねばならない。  
ゆるやかに高齢社会に到達した欧米と違い、人口構造の変化のスピードが異常なほど早いアジアでは、医療や介護分野での貿易が重要になってくるだろう。アジアでは、日本以外に、韓国、台湾、シンガポール、香港、中国の上海などで社会保障制度が存在するが、まだ萌芽的な内容である。日本のような社会保障の大きなシステム構築には時間がかかる。システム構築前に、特にアメリカのような民間主体の社会サービスが入り込むことは国の制度づくりの障害になると危惧される。  
かつてイギリスはインドに綿を作らせて本国で衣料品に加工し、付加価値をつけてインドに輸出した。インドは一次産品の生産国に止まり、工業化の道を阻まれた。これと似て、アメリカは、アジアの富裕の年寄りの介護天国を作り、その利益擁護のために国の社会保障づくりを阻むかもしれない。こういうのも植民地支配と変わらない。日本は、社会保険制度を持ちながら、非関税障壁と言われてアメリカから数々の民営化を要求されてきた。それと同じことがアジアの国々で起きるであろう。  
私は、哲学的にアジアをアメリカに優先させろというのではない。日本の国益にとって、はっきり言えば、どう貿易ルールを作ったら、世界最大の市場アジアとともに発展できるかを優先すべきと考えるだけである。アジアは経済社会的にも、近代政治という観点からも、欧米に後れをとっている。同じ土台でルールは作れない。アジアの中で唯一欧米と並ぶ発展を遂げた日本が関与して、乗り切る方法を考えるべきだ。  
既にハブ空港や貿易港のアジアにおける競争で敗れた日本は、新たな役割を見つけなければならない。対アジアならば、アジア諸国が一様に向かっている少子高齢化社会を前提としたサービス貿易で優位に立つことができよう。少子高齢化を問題にしていない対アメリカとは異なる役割をアジアで演ずることができる。  
さて、TPPの議論の中心は日本農業の壊滅である。コメなど農産物が輸入農産物に押されて、さらに食料自給率を低下させ、やがて農業廃業となると考えられている。農水省も危機感を露わにし、一次産業の撤退による国内総生産の喪失を試算している。他方で、経産省が自由貿易による比較優位産業の国内総生産押し上げ効果を試算し、両省で数字を競っている。今のところ、両省で出した数字には疑問符がつけられているが、農業の壊滅については相当な危機感が持たれている。  
TPP反対の烽火を真っ先に挙げたのはJAである。JAの反対集会には超党派の議員が参加した。農業県である茨城県出身の私を含む国会議員はみな参加した。また、JA以上に反対を唱えたのは、日本医師会である。以前から日本の堅固な社会保険制度に阻まれてアメリカの保険会社が市場参入できないことを幾度も日本に申し入れてきたが、TPPでその動きを本格化する可能性がある。アメリカは持論の混合診療解禁を強要するかもしれないし、病院の株式会社化も迫ってくるであろう。郵政もまた、簡保生命保険が標的になることから、TPPに反対である。  
野田政権の不可解なところは、マニフェストを支持した国民をないがしろにしただけではなく、政権交代の大きな原動力となった医師会や郵政政策研究会にも冷たく対応したことだ。「我々は利権政治を行っているのではない」と豪語するのはいいかもしれないが、ならば、支援を受けるな。政党が丸裸で選挙に勝つことはできない。少なくも、支援者の意見を顧みる必要があろう。郵政改革法を長らく放置したことだけでも郵政政策研究会を怒らしたが、TPPの対応もまた民主党への不満をますます募らせることになったのである。  
菅総理を引き継いだ野田総理は、当初からTPPに積極的だった。党に慮って、参加表明ではなく、事前情報収集と言いながら、総選挙が差し迫った11月には、「TPP参加を争点にする」とまで言い出した。鳩山氏を公認から降ろすのが主目的だったかもしれないが、およそ党内意見を無視したやり方に腹が立った。この時は、私もいよいよ無所属で出馬するかと思ったが、鳩山氏の自らの引退で話はうやむやになった。  
一説には、オバマ大統領から、「TPPを争点にするな、国民の反対が明らかになると困るから」と指示を受けたとも言われる。オバマ大統領はこの時既に民主党惨敗の予測情報を得ていたのであろう。惨敗する方の公約に使われたのではかなわないとの判断であろう。  
消費税とTPPへの姿勢は、野田総理の目指す政治とは自民の尻尾役だったことを明らかにした。野田氏は「本来なら自民党」から出馬したかったが、世襲に占領されてできなかっただけだということが明らかになった。地盤、看板、鞄を持たずに始めた政治は、松下政経塾という看板と船橋駅前常勤演説屋という地盤を築いて、「政治とは保守にかぎる」を貫いた。  
自民の尻尾役は、自民が総選挙に勝つと今度は自民の盲腸になった。尻尾を振って自民を応援し自民の積年の課題である消費税引き上げを成し遂げたが、今は無用の長物になった。かつての党首に申し訳ないが、この表現が一番あてはまると思う。売国奴ならぬ売「党」奴として、軍法会議にかけられるべきであろう。  
消費税もTPPもポストマニフェストの課題だ。マニフェストも実現させず何故余計なことに取り組まねばならなかったのか。ポストマニフェストで最も重要なのは、東日本大震災と原発への対応ではなかったのか。もし、マニフェストが遅々として捗らなくても、大震災と原発対応に不退転の決意で臨む、と野田総理が就任の挨拶で宣言したとしたら、国民はここまで怒らなかったであろう。  
さて、もう一つの課題である原発の対応。大飯の原発再稼働で、国民は荒れた。マスコミがあおった部分もあるが、国民の多くは、調査によれば脱原発かアンチ原発であった。野田総理はここでも自民の従来路線を踏襲しようとしていた。荒井聡率いる民主党の原発プロジェクトチームは野田総理との対決姿勢を強めた。  
選挙の争点として「一つくらい自民党との対立軸が必要」と思ったのだろうか、2030年代再稼働ゼロの方針が、いつもと同じく、突然出た。原発を再生可能エネルギーに切り替えていくのは新たな技術開発を猛烈な勢いで進めるために、大きなインセンティブとなろう。しかし、素人でも、再生可能エネルギー比率はどうするのか、使用済み核燃料を再使用しない場合の処理をどうするのか、戦力の国内需要をどう見積もっているのかなどの具体的な工程表を欠く方針に問いたい課題が多い。  
結局、原発プロジェクトチームを精力的に運営していた女性議員が、政府の方針に飽き足らず、離党して緑の風なる新たな政党を起こした。私自身は、政府が明確な工程表をもって臨むならば2030年代再稼働ゼロに与しようとは思っていたが、判断材料に乏しく確信は持てなかった。  
せっかくの方針も明快さを欠いたため、原発はそれほどの争点にはならなかった。それに、自民党でさえ「原発推進」の言は避け、どの党も温度差はあれ、脱原発の方向を出していた。維新党は、原発をやると言ったりやらないと言ったり右顧左眄したし、原発反対の旗手嘉田滋賀県知事は小沢さんに引っ掻き回されて本人が埋没する始末だった。  
結局、消費税、TPP、原発はマスコミが争点といったものの、今回の総選挙の明快な争点にはならなかった。なぜなら、争点は「民主党にやめてもらう」の一点に尽きていたからである。あとは、付属物だった。この選挙に臨んだ民主党員全員が笑えないピエロだったにすぎない。 
第6章 安倍政権を許すのか  

 

私は、2003年、衆議院議員選挙で山口一区から民主党公認で出馬して敗れ、引き続き2004年、突然引退した民主党松岡満寿男に代わって、参議院選挙で山口県選挙区を戦ったが、これも敗退した。  
2007年、今度は居住地の茨城県第6区に公募して再び衆議院選挙に出馬する際、当時民主党の選対委員長だった赤松広隆氏は、私に、「民主党の考える3大保守県は山口、群馬、茨城だ。あなたはそのうち2つも挑戦するのだね」と言って笑った。何も笑うことはないのにと思いつつ、自分の結果的な選択にみじめさを感じた。つまり、勝てそうもない所で戦わねばならないよ、という指摘だと思った。  
山口県では、民主党平岡秀夫が佐藤信二をやぶって議席を維持し続けたが、残りの3選挙区は徹底的に自民党で占められていた。山口4区安倍晋三の選挙区も誰が出ようと歯が立たないところであった。私は、厚生省時代、自民党の社会部会に属していた安倍晋三に説明をしに行ったことがあるが、当時は印象の薄い、理解度の低い若い議員であった。山口県副知事に赴任してからは、当時の知事が林義正と縁戚にあり、安倍とは距離があったために、安倍のパーティーは私が代理で出る役目だった。  
地元のパーティーでもあまり印象の残る人ではなかった。岸家から安倍家にわたって三代仕えたというお手伝いさんの話では、「晋ちゃんは高校生の頃、とても美男子だった。でも、体が弱くて持病があって」と聞いていたので、大腸炎で総理の職を投げ出したときは驚かなかった。  
安倍の祖父岸信介が東京帝国大学法学部を出て農商務省に入省したときの直属の課長が私の祖父大泉勝吉だった。わが父も幼少のころに会った岸信介を覚えていると言った。岸は跳びぬけて優秀だったそうだ。農商務省が農林省と商務省に分かれるときに岸は商務省を選んだので、勅任技師で農林省に残った祖父との縁は切れた。その話を安倍にしたところ、極めてつまらなそうに、「ふん」と言っただけだった。名家の御曹司にとって、馬の骨のような人間との縁は語るに落ちる。あるいは、戦前の選良の世界を理解していなかったのかもしれない。  
正直なところ、この影の薄い人が総理になるとは思ってもいなかった。学問は好きでないようであるし、留学した南カリフォルニア大学も単位ゼロ、つまり勉強した形跡がないということだ。小泉政権になって官房長官に抜擢され拉致問題に執念を燃やし、岸信介がやり損ねた「自主憲法」制定に意欲を燃やし、愛国心の言及やら日教組つぶしが目的の教員免許更新制度やらを教育基本法に求めた。  
もっとも、これらのことは、岸信介の孫でなくても、長州山口の土壌を想えば、現今でもわりとある考えなので、驚くに当たらない。なにせ、2000年に当時は全国的に当たり前と思われていた男女共同参画条例を制定しただけで、私はアンチ長州思想を持つとして、右翼新興宗教に脅迫されたり、今は廃刊になった右翼誌「諸君」に批判されたりと、東京の感覚では信じられないことが起こる「日本のチベット」の地だからだ。  
その山口県は、伊藤博文以来、8人の宰相を出している。もっとも、8人目の菅直人は高校から東京に転校したので、自民党籍を持つ当時の知事は菅を山口県出身とは認めようとしなかった。伊藤博文も通算4回総理になっているが、安倍も戦後では吉田茂の例から途絶えていた、返り咲きを果たした異色の総理ということになる。しかも、自ら総理の職を擲って、自民党の中からも批判を受けていたにもかかわらず、だ。  
自民党も人材がないのであろうか。客観的に見れば、総選挙直前の総裁選で、知能指数からいえば林義正が群を抜いていたが、そういう理由では選ばれないのだ。また、かつて、「加藤の乱」で失脚した加藤紘一は、自ら著書を表し、中曽根康弘の著書と並んで、優れた見識を披歴していたが、結局総理にならずじまいだった。  
見識は総理になるための十分条件ではないが必要条件ではある。もちろん、学問だけではだめで、職業生活が見識を見識たらしめる、と私は考える。世の中で、押したり引いたりしながら、また、組織を率い組織の決定を別次元で達成していくことを学びながら、政治家としての質を完成していくものと私は信じる。  
だから、職業生活をほとんど送らず、世襲だったり、地方議員から国会議員へと上がってきたりした人々に疑問を呈してやまない。「自分は大政治家のDNAを継いでいる」「後援会作りをしっかりやって票を出してきた」ということが国会議員になった理由であるとすれば、NEATと変わらない。つまり、ノーエデュケーション、ノートレーニングであることを証明しているようなものだ。  
自民党だけの問題ではないが、こうした国会議員が多いのは自民党である。安倍総理も例外ではない。2012年の総裁選に出た四人が四人とも世襲であったのには呆れる。相撲や歌舞伎が世襲であっても構わないが、政治の世界の「志の世襲」はあり得ないし、やめてもらいたい。  
安倍さんの場合は、2世代前の志の世襲なので、いかに何でもその志は古すぎる。戦後レジームはアンシャンレジームなどと言っても、日本はレジームを利用したり、乗り越えたりしながら経済社会を発展させてきた。戦後レジームが固定化したような議論は通用しない。  
憲法9条ですら、解釈で自衛隊を違憲としていないのだ。日本の今日までの繁栄は、アメリカが日本を戦争できない国にしてくれたおかげで、経済社会への投資を思う存分やってくることができた。これが軍需産業中心だったら、日本は北朝鮮のようになっていたかもしれない。  
国防軍をつくる、愛国心教育を復活させるのは、戦後レジームが気に入らないからなのか。国防軍と愛国心教育が「美しい国」をつくるというのか。では、美しい国とは何? もっとも、安倍さんは、今回はあいまいな「美しい国」という表現をしてはいない。日章旗の歌のように、「ああ、美しい、日本の旗は」と押し付けても、戦前とは教育レベルが違いすぎて、今や「なぜ美しいか」を説明できなければ誰も納得しない時代になったのだ。そのことを安倍さんはようやく分かったのではないか。  
安倍さんはそもそも経済の人ではない。強さに憧れる軍国主義とそれを思想に  
支える教育の普及を考える人である。経済政策は、自分の本領に持ってく露払いである。それにしても、露払いの仕事にアベノミクスという名誉ある名前もつけてもらった。  
インフレターゲット2%の金融政策、公共事業中心の財政出動、成長戦略は6月に財政諮問会議がまとめる、と禁じ手及び従来手法の入り混じった経済政策が出された。これに対し、市場がよく反応して、株価上昇と円安をもたらした。少なくも、この秋までに経済成長率で成果を挙げることができれば、2014年の消費税引き上げの「経済条項」をクリアし、実現することになる。  
この一連の経済政策の推進役はエール大学名誉教授の浜田宏一内閣官房参与である。小泉純一郎が竹中平蔵一辺倒であったように、安倍さんは浜田宏一(新たなハマコウ)一辺倒となりそうだ。浜田参与も喜んで受け入れている。現に浜田参与は、最近の著書のあとがきで、安倍さんの「美しい国」を称賛している。  
浜田参与のようなマネタリストを経済政策の中枢に置くのは斬新と言えば斬新である。ミルトン・フリードマンが「経済恐慌は、金融引き締めのせい」と言ったように、金融政策のやれる余地はまだあるのかもしれない。ただし、浜田参与の頭脳を安倍政権が共有しているかどうかはわからないので、 政治判断が思わぬ方向に行く可能性は十分ある。  
5兆円の公共事業を含む2013年度補正予算は、いかにも自民党らしい政策だが、「これまでとは違う、例えばトンネルの壁が崩れ落ちることのないように国民の不安を払拭する公共事業を優先する」と強調すればするほど先祖返りに聞こえる。なぜならば、年度末に5兆円もの大規模な公共事業を予算化したところで消化できない。ということは、またぞろ不要な公共事業で埋め合わせをすることになろう。そもそも10年かけて減らしてきた公共事業の世界に専門的な公共事業を受注できる企業が十分にあるのかも疑わしい。  
東日本大震災の復旧・復興も公共事業の人材不足と高止まりの被災地価格の問題があると聞く。そういう中で、全国版公共事業を始めたならば、ますます被災地の復旧・復興が遅れるではないか。現に、茨城県では、瓦業者はここ2年間、供給が間に合わず、西日本から業者が入っている。その専門性は低く、クレームも多いが、これらの業者ですら地元に公共事業が始まればわざわざ被災地にまで来て働かないであろう。  
山口県出身の宰相が東北に思いを馳せるのか。東北地方は明治維新のときに東北諸藩連盟で幕府側についたために、その後140年間にわたって藩閥政治の犠牲になってきた。インフラ整備や社会サービスの政府投資は、西日本に比べると格段に少ないままで推移してきた。一人あたりの医療費が西高東低であったり、新幹線が西日本から整備されてきたりしたのは、もともと東北地方は意図的に置き去りにされてきたからである。  
東日本大震災の後の総理はできるだけ東北に理解ある人であってほしいと思い、私は、民主党の代表選では2回にわたって山形出身の鹿野道彦衆議院議員を推したが、既述のごとく、震災よりもマニフェストよりも消費税に力を入れたドジョウに、総理の職を掬われた。  
初代伊藤博文以来、総理大臣は長州である山口県が最多であるのを筆頭に、西日本出身が圧倒的に多い。東北は、原敬のような例外もあるものの、「地域階級制度」とでも呼べるような暗黙の基準で総理輩出に不利な条件を擁していた。2012年の総選挙前の自民党総裁選は、山口県(安倍)と鳥取県(石破)の間で行われた。両県とも、東京から遠い、なじみの薄い県であるにも拘らず、だ。  
東北地方は、単なる復旧ではなく、140年にわたる政府投資における不利を覆すべく、徹底的なインフラ整備を行うべきと考えている。その中には、国際リニアコライダーの誘致、先進医療施設、健康の街づくりなどのアイディアが採り入れられねばならないが、聞くところによれば、遅々として捗らずだと言う。新たな公共事業の全国展開よりも、まずは東北復興であることは、一体どうしたのだ。  
さて、アベノミクスの三番目である肝心の成長戦略は、小泉自民党の肝いりで作った経済財政諮問会議と今般創設した日本経済再生本部(竹中平蔵がメンバーとして返り咲いている)で6月頃に政策策定されるという。この動きの遅さには誰も気づいていないのか、あるいは、新参者民主党ではなく長老自民党のことだからマスコミも下手に書かないということか。  
ここまでのアベノミクスは、ハイパーインフレの恐れや、銀行に金はあれど借り手がいない、公共事業は消化できない、財政赤字は拍車をかけて巨大化するなどの危惧もあるが、諸刃の刃と分かっていながら推し進めるのには理由がある。成長戦略で新たな成長産業を作り、金の借り手も、所得を得て消費する人も増えるという「皮算用」を前提にしているのだ。  
その成長戦略をこれからひねり出そうとしているのだ。しかし、これが前提で金融政策と公共事業が決められているのに、成長戦略を半年後に策定とは聊か訝しく感じる。それもそのはず、成長戦略の決定打などないからだ。ごく一般的には、深尾京司氏の著書「失われた20年と日本経済」によれば、ICTの投資で生産性を向上させる、生産性の低い企業の退出を促し大企業の国内回帰を図る、対日直接投資を拡大させる、企業内トレーニングなどの人的資本を投下するなどが挙げられているが、さて、実際の効果はいかに。  
民主党の成長戦略もこれらの政策の百花繚乱であり、斬新さを欠いていたが、ケ小平の経済特区に学んだ国際戦略総合特区は期待していいと思う。全国7か所で日本の成長産業を作り、日本の経済牽引の役割を果たそうとした。つくばではロボットなどの科学産業を、名古屋では国産飛行機製造の航空産業を、北九州ではリサイクル産業を、北海道では高品質の農業をと、全国7か所でアジアのマーケットに攻勢をかけながらの戦略が練られた。  
しかし、民主党政治主導で行われた政策は悉く否定されるらしく、すでに、高校事業量無償化の所得制限導入、農家の戸別保障制度の見直し、事業仕分けの廃止、地方公共団体への一括交付金の廃止が決まっている。この国際戦略総合特区もつくばで僅かに今年度予算がついただけで、他の6か所は予算がついていない。  
むろん、特区は、予算化よりも規制緩和の方が手法としては大きいが、しかし、公共事業に5兆円も予算を計上するならば、「国策会社」に大きな資本を投じ、経済成長を早めることを考えないのだろうか。ケ小平と中国を見習ってほしい。安倍さんの一番嫌いなことかもしれないが。  
先日、日本一の技術を持つカーボンナノチューブの研究者から、「日本の企業はこの技術を製品化するのに及び腰だ」という話を聞かされた。逆に、アジアの国々は日本の技術を奪い取って産業化したいと虎視眈々と狙っている。日本は20年のデフレ不況の経験から、前に進む活力を失っているのではないか。このままでは日本はもうだめかもしれない。  
もちろん、国際戦略総合特区は民間の力を信じて指定されたものであろうが、日本が意気消沈し、脆弱になりすぎて、設備投資や新商品の開発に意欲を示さないとすれば、政府が後押しするしかあるまい。いい例ではないが、戦前は、国策会社満州鉄道を進めるために、多くの日本人が大志を抱いて中国大陸に渡ったではないか。政府が国策会社をつくって日本の技術を売って歩くのも民間への呼び水効果として悪くはあるまい。  
どんな成長戦略を立てても、日本の高度経済成長時代を知らない、低成長の時代認識だけで生きてきた人が多くなれば、日本全体のチャレンジ精神は失われる。もしかしたら、それが今の日本の生産性の低下や消費の縮小を生んでいる最大の原因かもしれない。  
2013年6月に成長戦略が策定されるそうだが、日本のボトルネックを乗り越えるようなものでなければ、ありきたりの成長戦略の組み合わせであるのならば、まあ、期待はできない。これに期待できないとすると、先行する金融政策と公共事業中心の財政出動も、前提の経済成長なしでは、インフレ下のデフレ、つまりスタグフレーションと国の借金を膨大に増やす結果だけが残って、いよいよ日本は没落する。  
もちろん、私がそれを望んでいるのではない。むしろ、勢いよく、インフレターゲット2%や財政出動を決めた安倍さんにエールを送りたいくらいだ。少なくも、民主党もインフレターゲットをはじめ経済政策はさまざまの議論をしたが、結果的に検討倒れで、それに比べれば、信念をもって始めた安倍さんは立派だ。ただ、失礼だが、安倍さんが考えたことではなく、浜田参与をはじめとするブレインであるとすれば、安倍さんは本気で自ら責任をとる覚悟があるかどうか、それを聞きたい。  
夏までに、株価も円安も期待に沿い、名目成長率も上がる兆しがあるならば、7月の参議院選挙でも勝ち(少なくとも、民主党も維新党も伸びる要素はない)、いよいよ、安倍さんの世界が始まる。国防軍、徴兵制、教育勅語の復活、男女不平等制度、・・・歴史は繰り返すから、戦前を知らない人の戦前のノスタルジアを満足させる世界が広がろう。  
今の時点でも、思わぬところにネックがあるのを安倍政権は知らないかもしれない。まず、国防軍になった途端、自衛隊のようには求職する若い人はいなくなるだろうし、幹部自衛隊員も辞職が相次ぐであろう。せっかく災害救助などで自衛隊のイメージを上げてきたのに、憎い隣国から国土を守るのが任務となったときに、戦前のような洗脳教育を受けてこなかった日本人は逡巡するはずだ。  
そのために軍国少年をつくる教育勅語復活が先行しなければならないはずだ。現在では、子供は親の老後保障のための存在ではなく、育てる喜びのための「贅沢財」という位置づけになってしまったために、ますます出生率が下がると思われる。「国を守るために子供を産むなんてできない」。  
今の日本人を前提にした国防軍や経済成長政策がいかに難しいかを安倍さんに認識してもらいたい。お祖父さんである岸信介の志を継ぎたいと言っても、時代背景があまりに違う。それよりも、自分自身が志を立てることを考えるべきではないか。遅きに失するであろうが、世襲を正当化する安倍総理に、自己認識と自分の論理で積み上げた政治を見せてもらいたい。  
そうでなければ、安倍さんを受け入れられない。 
第7章 国会議員の条件  

 

本来ならば、議員というのは、もともと職業を持っていて、夜に議会を開き、地域や国のために政策どうあるべきかを決定していく存在であったろう。それが今や議員は職業になってしまった。議会に就職して給料(歳費)をもらうのである。  
どの国もそうかと言えばそうではない。特に地方議員は、韓国や欧州のいくつかの国では、無給で夜の議会に出席し物事を決める名誉職的な存在である。国会議員でも、日本の戦前の貴族院は、高い納税者が順番に就任したというから、名誉職だったのである。  
民主主義の方法として、議員と首長は選挙で選ぶというのが近代国家である。しかし、この方法は裏目に出ることが多い。つまり、年齢制限があるくらいで、資質を一切問わないのが選挙であるから、政策に習熟し、公共の精神に富む、というような、普通の職業なら課せられる応募条件は何も問われないからである。  
普通に考えれば、まともな人は先ずは職業生活で自己実現と社会貢献を果たそうとするであろう。その中で、政治が決める方向性や制度的制約に違和感を持ち、制度の改正や社会の変革に向かっていくのが政治への目覚め、政治志向というものであろう。地に足の着いた政治とはそういうプロセスを経るものと私は思う。  
戦前は総理大臣もその他の大臣も天皇の勅命で決まっていたのが、戦後は選挙を経なければ政治ポストに就くことができなくなった。ごく一部の人しか習熟していない選挙という方法は、一部の人に独占されることになった。一部の人とは、世襲の集団である。結果的に、そもそも政治とは志であるはずなのに、選挙という難しいハードルのために世襲の家業と化してしまった。  
世襲の壁にぶつかって、民主党を選択した人も多い。ただ、その中に、職業上の論理的帰結ではなく、「政治家になりたい」だけの志望者が入っていた。世襲が持つ三種の神器「地盤、看板、鞄」には事欠くが、新たな神器を考案するようになった。若さ、海外留学、それに松下政経塾である。新たな神器は、教育水準が高く、世襲を快く思わない都会で威力を発揮できた。だから、民主党はそもそも都会型政党なのである。  
私が初めての衆議院議員選挙を山口一区で戦おうとしたとき、民主党の都会の選挙区は入りどころがなかったが、田舎選挙区はより取り見取りで、受かりそうもないために競争なく公認を得ることができた。公認乱発時代だったと思う。   
当時は、公認審査が不十分だったのであろう、学歴詐称事件も起きた。特に海外留学は本人の自己申請に基づいていたためか後で議員辞職に追い込まれるケースも出てきた。もっとも、海外留学の学歴詐称は、民主党だけではなく、自民党も同様で、小泉純一郎や安倍晋三までもが「単位ゼロ」の留学を学歴と称していたのだから、学歴不十分の人の常套手段だった。  
そもそも「留学」という学歴はない。学位が取れなければ学歴にはならない。アメリカは、入学試験ではなくアドミッション方式だから、入学できても卒業は努力しなければできない。しかも、入学の条件に、TOEFLなどの英語力の証明が必要で、単位ゼロの多くは、英語試験に受からなかったために本科に入れなかったというケースである。  
「中退」もまた定義のない学歴である。入学式だけ行って辞めたという人もいる。民間の就職試験では、中退が学歴として評価されることはないのだから、定義のない中退は学歴にならないとも言える。  
民主党は、公党としての地位を確立するまでは、かなりいかがわしい人材が入っていたことを示唆している。学歴もさることながら、職歴も何をやっていたかよく分からない人も多い。せっかく、脆弱な世襲に対抗しようとしたのに、哀しいかな、野党は人材を集めにくかったのである。  
2009年には、民主党に風が吹き、にわか仕立ての比例単独候補も大量に衆議院議員になったが、国の仕事に習熟する人材不足は政権運営に直接に表れた。民主党政権の最大の難点は、内閣の「不適材不適所」にあったと思う。自民党の方法を踏襲して当選回数を頼りにポストを決めたために、不適切発言が相次いだ。3年3か月に実に64人の閣僚を任命したというから、「どうせ政権は短い、閣僚人事をバブルで行おう」としたのではないかと疑いを持つ。  
中には、優れた閣僚もいる。江田五月法務大臣は、さすがに司法界が長いせいか、すべて答弁は自分の言葉で、しかも見識と品位を備えていた。街頭での演説はうまくないと思ったが、プロの場での実力は凄いものがあった。川端達夫総務大臣は、地方自治は素人かもしれないが、東レの研究職だったその緻密さを遺憾なく生かし、政治を間違いのない方向に導いたと思う。  
優秀な人材を宝の持ち腐れにしている事実もあった。たとえば、首藤信彦氏(神奈川)は国際政治学者であり、語学もすぐれ、世界中に人脈を持っている。なぜ彼を外務大臣にしなかったのか。消費税反対、TPP反対、原発反対の人で左寄りのイメージがあり敬遠されたのかもしれないが、彼を閣内に取り込めば官僚も交えた質の高い議論が行われたであろう。早とちりの政治にならないで済んだはずだ。  
党内運営においても、人材の活用は下手だ。例えば、年金のワーキングチームは出席者が数人と極端に少ない。年金を本格的に議論できる人が少ないからである。そのせいか、長妻さんの意見が絶対になっていて、私は、社会保険制度を前提にした「最低保障年金」には反対だったが、最低保障年金は長妻さんの発想であり、それに反する意見は一顧だにされずに終わった。民主党の中で抗うことのできない「絶対」という人ができてしまっているのだ。その「絶対」の塊が今回の負けを決定的にした。  
党内で議論をリードした人々の中にも優秀な人はいる。農水の篠原孝(元官僚)、郵政改革法と国際戦略総合特区を推進した大塚耕平(元日銀、参議院議員)、行政改革を引っ張った階猛(元長銀、弁護士)などである。こういう人は副大臣や政務官ではなく、大臣にすべきだった。ところが、民主党の中で「絶対」となるためには、垢だらけの長い野党経験がなければ認められない。与党自民党を打ちのめした長妻さんのようでなければ「絶対」つまりカリスマになれないのである。  
しかし、政権をとれば、野党的体質ではやっていけない。実務家としての能力、組織を率いる能力が求められる。菅総理は、野党の党首としてはカリスマ性を持っていたが、首相になったならば、相手を罵倒して物事を進めることはむしろ控えねばならなかった。野党の時に称賛された現場主義も、国のトップとなれば認識の間違いにならざるを得なかった。  
民主党は政権交代を目標としてきた政党だ。そして、それを成し遂げた。ならば、政権交代した時に、野党的カリスマから実務家集団に仕事を引き渡さねばならなかったのだ。中国で、革命を成し遂げたのは毛沢東であっても、実務は周恩来に任さねばならなかったのだ。毛沢東が自ら行った大躍進政策や文化大革命は大失敗に終わっている。革命家は実務に向かないのだ。  
「革命未だ成就せず」。しかし、国民はもう民主党に期待しない。野党的カリスマだけが残った残骸にもう一度政権を担わせるほど国民は甘くはない。新しい革袋をつくらねばならない。今度は、実務家に主導権を持たせよ。  
民主党はこぞってアベノミクスの失敗を期待しているかもしれない。確かに失敗の確率は50%以上だ。しかし、インフレターゲットも財政出動も新たな成長戦略も民主党は検討したが、検討倒れで何も発信できなかったではないか。アベノミクスとて薄氷を踏む思いでやっているだろうが、発信はしている。マスコミのひきつけ方も民主党より数段上手だ。しかも、日銀の総裁も官僚も(いやいやながら)ついてきているではないか。  
民主党はマスコミに説明をしたのか。民主党は官僚に指示を与えたのか。民主党は支援団体に相談したのか。みんなノーだ。「朕は国家、ボタンを押せば仕事は始まる」。ゲームの世界に没頭している独断の政治家を周囲は距離を置いて冷淡に観ていただけだ。少なくとも安倍のエコノミクスの発信力だけでも民主党は持ちたかった。  
55年体制以来万年野党だった社会党は、1994年、社会党党首の村山富一を首相とする連立政権に就く。絶対ありえない与党の地位に、しかも宿敵自民党に担がれて上った。目を白黒させながら、長年の主張をかなぐり捨てて自衛隊は違憲ではないとまで言い、アイデンティティを失って没落を余儀なくされた。社民党も新社会党も共産党よりも少ない存在だ。民主党の運命はこれを辿る可能性が高い。  
国会議員の質を問うとき、政権政党の政治を目指すのか、それとも万年野党でいいのかによって、人材も違う。たとえば、社民主義はヨーロッパでは常に一定の支持を得られる政治思想であり、政権政党を目指すのが当然である。日本の社民党も、もう少し現実路線を採り入れて政権政党を目指して打って出ないのか。あるいは、共産党は、大資本と大企業ばかりを攻撃するのを控え、階級闘争の後に理想の社会が実現するという夢物語を捨てて、二極化した経済社会階層の生活を守るという視点に絞って党勢を大きくしたらどうか。  
マイノリティの意見を言えばいい、という社民党や共産党では、万年野党に甘んじるしかない。政党たるもの、政権を目指せ。みんなの党も行政改革だけのプロセス党だ。外交や防衛も含めた政治を主張するか、他党と合体する必要がある。公明党は「背後霊」の存在が国民的支持を失わせている。自民党は政権を独占することが目的だが、世襲党でもあり、民主党と同じく実務家を欠く集団だから、いくらなんでも終末は近い。他の政党が育たないので、老骨に鞭打って従来方法を「鳴物入り」でやり続けるだけだ。  
維新党は、今のところ、極右思想であるというだけで、政策の発信が支離滅裂なのでコメントのしようがない。ある者は原発推進と言い、ある者は反対と言う。共同代表の二人の考えが違うのだから、分裂は必至であろう。分裂すれば、民主党の例を待つまでもなく、衰退に向かう。そのときに改めてコメントしたい。  
国会議員は、いかなる政党に属するにせよ、政権をとった時に、国の運営ができる知識と組織を動かす能力が必要だ。政権をとる気がない万年評論家だったり、職業生活をしたことのないプータローだったり、政治家家業の継承者だったりならば、辞めてもらいたい。有権者にお願いしたい。どう考えても国会議員の条件を満たさぬ輩に投票しないでほしい。それが無理ならば、日本はもっともっと転落の道を辿るであろう。 
第8章 民主党に残された道  

 

民主党衆議院議員は前回308人の当選から今回57人にまで落ちた。ここで参議院選挙に勝たないと真に中小政党となる。今回の衆議院選挙では非自民の票が多様の政党にばらばらに入ったことが自民の圧勝をもたらした。ならば、野党が一つにまとまって共闘することが必要だが、どうも民主党は他党から嫌われてしまっている。  
それもそのはず、既述したように、民主党の最後は、自民党の尻尾となり、今や自民党の盲腸と化したからである。こんな自民党まがいの政党とほかの野党が組むことはできない。  
ここに、民主党に残された道が隠されている。先ずは「脱」自民をやることだ。綱領を作るのも一つの手だが、総選挙直前の綱領検討会では、驚いたことに「日本は、天皇制の下で一貫した国・・・」という前文で始まる綱領案を知った(正確な文章は記憶があいまいだが)。党の綱領にあえて天皇を入れなければならぬ奇妙さに、改めて民主党の立ち位置の不明さを悟った。  
綱領に天皇の件を入れることを主張したのは中野寛成だというから、彼は今回引退したので、幸いにも現在の案からは天皇の件ははずれた。それよりも、リベラル中道なのかリベラル保守なのか、まずは立ち位置を決めることだ。維新が極右、安倍自民が最右翼となれば、それより軸は中心か少し左にならねばなるまい。社民や共産ほど左にいくと政権は難しくなる。  
そして、マニフェストで採り入れた「国民生活第一」、つまり、国民の需要に基づいた政治を標榜すべきである。今回のアベノミクスで表れているように、自民は基本が供給者ベースの政治だからである。インフレターゲットで日銀が紙幣を刷り、その金を借りて事業をする人のための政治、公共事業5兆円を請け負う人のための政治、それが安倍自民党の従来手法を駆使した政治である。  
これに対立する「国民の生活第一」の概念を作ったのは小沢一郎であり、彼はこの点から見れば天才だ。今や、小沢つぶしなどやっている暇はない、民主党はこれを素直に綱領に掲げ、文句は「国民の需要に基づいた政治」にすればいい。もしくは、ディマンドサイド・エコノミクスとでも言えばよい。  
この軸さえ守れば、あとは現実的な政治をしてもいい。気が早いかもしれないが、生活党と社民党に一緒にやらないかと声をかけてはどうか。ただし、社民党は「現実的政治」の部分も肯定し、政権をとるという気概を持たねば無理だが。  
自民に対抗するには、ヨーロッパ流の社民主義は必要だ。アメリカのオバマでさえ、大統領二期目は、中産階級に照準を当てている。照準をぼかせば八方美人と思ったら大間違いで、政治の世界では八方不美人になってしまう。8割が中産階級意識を持っていた昭和の全盛期のように、8割の人が中産階級になれるように照準を当てるべきだ。  
今、その8割は、100円ショップで物を買い、就職できない息子に小遣いを渡し、外食もおしゃれ着も買い控えている階層になっていることを念頭に置かねばならない。消費税の引き上げが生活に及ぶ階層が拡大していることを無視した政策をとったために敗れたことも再認識する必要がある。  
中産階級を作り出すのは、経済が回復して雇用が拡大し、その過程で自然に実現することだという議論が多いだろう。確かに、社会保障だけで、あるいはばらまき政策や景気浮揚政策だけで中産階級の回復はない。どうすればよいのか。公共事業に頼って、再び借金財政だけが残る自民政治の手法を真っ向から対決するつもりなら、新たな産業構造を作らねばならない。  
それは、科学技術を駆使した新たな産業である。民主党政治では、科研費だけは守ってきた。国際戦略総合特区を7か所指定し、新たな産業へと歩み始めた。しかし、民主党主導のものがこれから発展強化されるかどうか疑わしい。  
実際に今の時点では、特区の予算はわずかしか計上されていない。  
安倍政権では、いち早くノーベル賞受賞者山中伸弥教授のiPS細胞研究に補正予算を計上したが、この技術は山中先生自身も言っているように、実用化に最低10年はかかる。また、細胞のがん化などの困難な問題を抱えているため、実用化の道は険しい。iPS細胞の研究ひとつにだけ期待するのではなく、すでに実用化段階までこぎつけたナノテクやロボット、バイオエネルギーなどを産業化することを急がねばならない。  
日本は政府の決定の遅さで世界的に有名だ。経済成長しているアジアの国々では、「日本の新たな科学技術をください、産業化は私たちがします」と手ぐすねを引いて待っている状態だ。もはや逡巡しているときではない。新たな産業は、工場を日本で作って日本人の雇用を増やさねばならない。それには、「小さな政府」を今更標榜して、民間が動き出すまで黙っていては遅いのである。  
明治に殖産興業をやったように、平成の殖産興業をやらねばならない。その原資を考えるとき、再び財政投融資の制度を復活させるべきと思う。民主党の財金の会議でそう発言した時、良い反応があって、後日事務局の財務省が説明に来た。これから日銀にどんどん紙幣を刷らせるつもりなら、国債は日銀任せにし、郵貯や年金を原資に財政投融資の制度を復活し、産業化を政策的に進めていくべきではないか。  
その仕事を民主党が背負っていくならば、元祖構造改革の民主党としては面目躍如である。こういう前向きの発信をしないで、事業仕分けと消費税だけを発信した民主党は、いかにも後ろ向きだった。安倍自民は、危ない橋とは知りつつも、大胆なインフレターゲットを発信し、マーケットが反応して株価に響いたではないか。同じ大風呂敷というやり方だが、自民の方が民主よりも巧妙だ。  
もうひとつ、農業という産業をどうするかという難問がある。民主党は戸別補償を軸として、農家直接の所得補償制度を始めたが、これは法制化したのではなく予算措置だったために、すでに自民党は「見直す」と宣言している。自民党の長年の支援団体だったJAを通さずに、農家の直接補償をすることは、ディマンドサイド・エコノミクスの原則からくるものだ。むろん、自民党には受け入れられない。  
しかし、戸別補償は、大農家には大きな収入をもたらしたが、零細農家には、耕作放棄の条件などが厳しく、対象にならない場合が多い。直接の生産者に支払われるため、貸していた農地を取り戻すことも行われた。この新制度を喜んだ人もいれば、批判的な人もいるという事実から、その政策哲学を洗い直した方がいいと思う。転作を目的とするのか、大農家に土地を集約していくのかを明確にし、農家の生き残り政策ではなく、産業としての発展をもたらさねばならない。  
民主党が明らかに力を入れたのは、子供政策だった。しかし、子ども手当のような金銭給付では効果・効率ともに乏しい。金銭給付は公明党のお家芸であり、過去に幾度も批判されてきた。たとえ所得の再配分を狙ったとしても、政策の対象である子供が便益を受けるようにしなければ、「子供を増やす、将来の立派な労働力を育てる」という政策目的にはかなうまい。  
社会保障と税の一体改革法案の中で、廃案になった総合こども園も、幼保一体改革と待機児童ゼロという子供政策のほんの一部だけを取り上げた案であり、これでは子供政策にはならない。明確に人口を増やすという観点から、スウェーデンやフランスの子供政策をこぞって取り入れるようでなければなるまい。子供政策というと、就学前児童に偏りがちだが、むしろ、教育費、職業教育、産業・労働市場との連携などをしっかり制度化すべきである。  
以上述べたことをまとめ上げると、民主党が行くべき道として、まず、中産階級8割をつくることを目標とし、政策は、これまでも力を入れてきた3分野、科学、農業、子供で日本を持続できる国にしていく道筋をしっかり発信することである。エネルギー対策や外交は、民主党が前向きに発信してこなかったのだから、先ずは3分野での対立軸をつくることに力点をおくべきである。  
ただし、ここに大きな障害がある。それは、3年前に比べ4分の1規模になった民主党の中でまだ不協和音があることである。小沢派は出て行ったが、実務派と松下政経塾派は相容れない。野田前総理のあのヒステリックな国会解散宣言を一部の野田派は知らされていたと藤村前官房長官は後日語っている。党の常任幹事会や素行会など別グループは、何も知らずに「解散反対」を総理に申し入れていた。  
野田さんのやったことは、他人との約束(近いうちに解散)を優先し、家族を皆殺しにしたことだ。その野田グループが反省の色もなく残っているのは実務家グループには許せぬことであろう。「参議院逆転勝利」と言って気勢を上げているそうだが、寝ぼけているのではないかと思われる。新潮45の記事に、「キャリアが十分でないまま総理になり民主党議員をここまで減らした人に将来はない」と断言されたのを知っているのか。  
代表選に野田さんの側近の蓮舫が出馬しようとしたことひとつとっても反省がない証拠だ。代表が海江田氏になったことは、野田・松下政経塾派でないだけ救われるが、いずれ小所帯の再分裂がおきるであろう。もし、参議院選挙に負ければ分裂は必至であり、旧社会党の運命と同じになるかもしれない。  
先日の新聞記事に、民主党長島昭久氏(東京)とともに綱領づくりをし、今回落選した吉良州司氏(大分県)が、自民との対立軸を作るにあたって左寄りになるのを恐れ、「次は民主党から出ないかもしれない」と発言をしていることからも伺える。吉良氏は右系で野田総理を擁護した人であるが、党内の右からも、左からも互いの妥協はできないというところまで来ている。  
離婚だって、経済事情がいいときは我慢するが、貧乏になると踏み切ってしまうものだ。貧相になった民主党にポジティブ・イメージを描けなくなった元民主党議員が多くいることは間違いない。なら、どうすればいいのか。  
維新・自民による右傾化に対抗する勢力として、新しい革袋が必要なのかもしれない。実務家が集まっての政策集団を作り、政党化していく方がわかりやすいだろう。しかし、それとても時間のかかる話であり、下手すれば、憲法9条が改正され、国防軍ができ、徴兵制が敷かれ、教育勅語が復活し、「格好いい軍国主義日本」が登場した後のことになるかもしれない。そのあと、中国や韓国との戦争に負けるまでは、新たな政党は国民の支持を受けないのかもしれない。  
否、その前に、アベノミクスが早々に失敗して、銀行は金でいっぱいになったが借り手がなく、新産業は起こらないのに公共事業の大盤振る舞いで起きたインフレが人々を苦しめ、いよいよ国の借金は外国に頼るようになったとしたら・・・万が一の場合は、人々は維新党に次を託すのかもしれない。維新党もまた、外交では、安倍と同じことをやるであろう。内政では、原発やるのやらないので決められない政治が続く。維新党の主導権を石原慎太郎が握り続けるのか、橋本徹に代わるのかによって全く異なる政党になろう。  
どの場合でも、民主党がたちまちにして息を吹き返す余地はない。有権者は、「お前だけは許さない」と意思表示をしたのだから。看板を書き換え、これまで主導権を握っていた連中ではない勢力が、つまり、松下政経塾ではない実務派が、時間はかかるが回復の道を探るしかあるまい。その間、日本の国際的地位はどんどん下がっていくことになろう。  
今回の総選挙は民主党が負けただけで終わったのではない。一旦は死にかけた既存の保守の半永久的な延命、姑息なしがらみの復活、リベラルへの侮蔑、1・5大政党時代への回帰をもたらし、まさに時計の針を元に戻した。その大きな責任を誰が負うべきかは言わずもがなである。 
第9章 一番の課題は少子高齢社会  

 

終戦後の1950年に生まれた私の子供のころの記憶は、やたらに子供は多いが年寄りは少ない情景ばかりだ。その頃、80歳を過ぎた年寄りに会えば、皆目を丸くして、「へー、長生きですね」と感嘆したものだ。その頃の80歳過ぎと言えば、江戸時代末の生まれだった。  
日本は、1970年に65歳以上人口が7%を超えて国連の定義する高齢化社会になり、1994年には、14%を超えて高齢社会になった。今は24%になって、世界一の超高齢社会だ。おまけに、1989年の合計特殊出生率1.57以来命名された「少子化」と合わせて、少子高齢社会と呼ばれるようになった。  
少子と高齢は比例関係にあると言ってもよい。高齢の指標である平均寿命が上がるのは、先ず第一番目に乳幼児死亡率が下がるからである。子供が死なないと知った時、人々は必要な数の子供を産む。戦前の日本や開発途上国では、乳幼児死亡率が高いので、子供を余計に産み、一定の数を確保する。医療や衛生水準が上がった先進国では、余計に子供を産まなくなるのである。したがって、出生率が減少することによって、相対的に高齢者が増え、高齢社会が必然的に生まれるのである。  
日本は、平均寿命、乳児死亡率ともに世界トップの水準である。戦後、経済発展とともに国民の栄養状態や衛生状態がよくなったのが何よりも寿命を伸ばす原因になった。加えて、アクセスのよい医療保険、イギリスから導入した保健所システムなどが功を奏した。  
平均寿命の伸びは、厚生労働省の機関である社会保障・人口問題研究所の予測をはるかに上回った。上位、中位、低位推計と3通りの指標を分析しつつ予測を立て、年金などの社会保障の将来設計には中位推計が当てられた。しかし、出生率の低下と平均余命の増加はとどまるところを知らず、そのことが社会保障制度の持続可能性を脅かした。  
今の社会保障制度は、1950年の総理の諮問機関である社会保障制度審議会の答申に基づき、社会保険制度を基礎として構築された。1961年には、農家、自営業者を含む全国民対象の国民皆年金・皆保険を実現させた。  
福祉と生活保護は狭い意味では社会保障制度とは別体系に扱われるが、仮にこれらも含めて社会保障制度とすると、戦争直後、生活困窮者救済の生活保護法、孤児・浮浪児救済の児童福祉法、傷痍軍人救済の身体障者福祉法の緊急を要する3法から始まり、やがて経済社会が上向くに従って、1960年代には、老人福祉法、母子福祉法、精神薄弱者福祉法(知的障害者)などテーマ別の福祉制度が出来上がっていった。ヨーロッパにあって日本にない制度の最後と言われたのが児童手当法であり、1971年に導入された。  
1973年、年金法の大改正が行われた。それまでの積み立て方式の年金から、世代間の扶養という考え方、つまり賦課方式に移行することになった。団塊の世代がすでに労働市場に組み込まれ、すそ野の大きい人口ピラミッドを前提にし、年金給付の大盤振る舞いの制度ができたのである。平均労働賃金の6割の給付水準や物価スライド制度が仕組まれた。  
この年、それまで東京都や他の地方公共団体が実施していた70歳以上老人医療無料化が施行された。1973年の厚生白書は、この年を福祉元年と名付けた。しかし、好事魔多し、である。この年、中東戦争の煽りで第一次石油危機が起きた。燃料ばかりでなく、物価は高騰し、流言飛語でトイレットペーパーの買い占めが起きるなど、大混乱が起きたのである。  
そして、日本の高度経済成長期は終わった。年金制度をはじめ社会保障制度が高度経済成長を前提に作られていたため、潤沢な保険料と税収が見込まれなくなった社会保障制度はどこかで破綻することを意味していた。特に1973年の年金制度改正と老人医療無料化は、結果的に大きな爆弾を作ったことになった。いつか爆発して制度がもたなくなる。  
問題は先に老人医療無料化から明らかになる。老人医療の無料化が始まってすぐに老人の患者はうなぎのぼりに増加した。病院が老人で占められるようになり、病院が老人のサロン化した現象を「A爺さんは、今日病気だから病院に来ないんだって」という笑話が流行した。  
制度は10年で廃止になる。1982年、老人保健法が成立し、低廉ではあるが、年寄りの自己負担が導入された。一方、年金の方は、団塊の世代をはじめ大きな生産年齢人口が保険料を納め続けたため、賦課方式とは言いつつ実質的に積立金が増大していった。団塊の世代の退職が近づくまでは、「何とかなっていた」ために、すぐに改正される動きはなかった。  
その間も、平均寿命が伸び、合計特殊出生率が下がり続けたが、「出生率はいつか回復する」という根拠のない期待で、年金制度の根幹を変える作業は先延ばしになっていた。また、同時に、1973年から大蔵省資金運用部に認められた年金積立金の自主運用制度によって、厚生省傘下の年金福祉事業団が巨大な積立金をグリーンピア事業なるリゾート地の開発などに投資するようになった。  
グリーンピア事業は、政治家の利権となり、選挙区に誘致するため、岩手県の山奥など誰も好んで行かない場所が選ばれるなどして、結果的にすべて赤字運営の失敗に終わった。保険料の無駄遣いが行われていたのである。しかし、日本は1980年代には、世界のスタグフレーション下で先進国中唯一勝ち残り、安定成長を続けていたため、まだ問題の深刻さは認識されていなかった。  
一方で、1980年代には、OECD諸国では年金制度や医療制度の財政破綻問題が論じられるようになった。日本も、他国と競うようにして、1986年、従来制度が職制によってばらばらであったのを、すべての人が共通の基礎年金制度に加入するように改正した。その上で、厚生年金や共済年金制度が上乗せされるが、自営業の場合は、基本的に基礎年金、即ち国民年金だけである。ただし、さらに上乗せの厚生年金基金にならって、自営業者は国民年金の上に国民年金基金の上乗せを選択できる。  
この改正は、同時に行った専業主婦の年金権確立とともに、高齢社会を控えての制度整備に重点があり、年金財政という観点からの改正とは必ずしも言えない。1991年3月から、バブル経済がはじけ、日本はその後今日迄の20年を超えるデフレ不況に突入していった。藻谷浩介氏は、この長期に渡るデフレ不況は経済政策や金融政策の問題よりも、人口構造に問題があると指摘している。   
確かに、80年代の地価の異常な値上がりに対して、日銀が金融引き締めを行ったのがデフレの始まりだったとしても、内需が戻らないまま20年を過ぎたのは、日本の構造的な問題である人口オーナス(人口ボーナスの反対で生産年齢人口の減少)のせいであると藻谷氏は指摘し、誠に正しい。  
その意味では、アベノミクスはインフレをもたらし、金をジャブジャブに流通させてかつての日本の成功物語を夢見ているようだが、内需がそもそも「ない」かぎり、企業も投資しなければ、誰も物を買い漁らないということになり、ジャブジャブのお金は銀行で眠っているか、海外に投資先を求めていくかになってしまう。国の立て直しには本末転倒というべきだ。榊原英資氏はもっと明確に「デフレのどこが悪い、安いものが手に入る生活すべてが悪いわけではない」と言い切っている。  
つまり、人口構造上、内需を作り出せない社会になってしまった日本が過去の成功物語にしがみつくことは無駄なのだという指摘が正鵠を得ているにも拘らず、まだ国民を騙して「いやいや、まだ儲かる商売がありますよ」とインフレターゲットなどの禁じ手をちらつかせるのはもうやめた方がましということだ。同様に、人口構造を変えることができないならば、社会保障制度は、高齢者の給付を削るか、若い人に大きな負担を課すか、いずれかしかないということを早く悟るべきだったのだ。  
いつか出生率は回復するという根拠ない期待で人口予測の中位推計から低位  
推計に切り替えをせず、社会保障制度の立て直しが遅れたのは政策決定者の怠  
慢と言うべきだろう。早くから人口オーナスを意識し、社会保障制度改革を始めていれば、もう少しなだらかに給付と負担の関係を調整できたであろう。「伸びすぎた」平均寿命と「意外に回復しなかった」出生率のふたつは、政策決定者の指標の読み間違いだったと言える。  
いや、それ以前に、アベノミクスにも表れているように、日本は、「過去の成功物語」の夢から未だに醒めないのが原因だ。日本人の根性を以てすれば経済が成長しないはずはない、日本人は一時的に子供を産み控えているだけだ、という戦時中さながらの日本精神論がどこかに残っていないか。小泉改革を経てからは、さすがに若者の非正規雇用の増大が結婚を阻み、出生率の低迷につながっているとの理解が進んだが、1990年代には、まだ生産年齢人口の減少が始まっていなかったために、人口構造と社会保障制度の相関関係と危機感が今ほど認識されていなかった。  
団塊の世代の退職が2010年に迫り、ついに2004年の年金法の改正では、給付水準を下げ、保険料を段階的に引き上げていくことを決めた。それまでの単純な物価スライドに代わってマクロ経済スライドという高齢化や被保険者数などを考慮した指標を使って年金額を決定していく仕組みも導入された。  
本来ならば、5年ごとに年金の財政再計算器がめぐってくるので、2004年以降、新たな年金改正が行われていなければならない。しかし、政権交代があり、また、年金記録紛失問題、国民年金納付率の低下、社会保険庁の廃止などで、いまだ改正は行われていない。年金制度は国民の信頼を甚だしく損ねたが、いかなる場合でも制度成熟に40年かかるため、大きな改革はよほど慎重でなければならない。  
私は、最低保障年金と言う考えは反対である。年金はそもそも社会保険制度による所得保障制度であって扶助制度ではない。自己資本のない労働力を提供して人生を送ってきた人のための、働けなくなった時に備えて本人と事業者が積み立てていくのが本来の主旨である。リスク意識を前提に、本人と仲間が共助し合う制度である。  
憲法25条で保障する生存権は、国や地方公共団体が保障しなければならない義務なので、最低生活の保障は必要ならば財源は税金であるべきだ。つまり、最低保障とは公助の概念であり、共助の社会保険に課せられる問題ではない。年金で暮らせない人には、別途公助で補完する制度を作らねばならない。  
どのみち、財政問題を抱える年金制度だが、既得権を剥奪するような給付水準の引き下げなどを大々的に行うことはならない。それこそ財産権の侵害であり、我々の生きる資本主義社会の否定にもなる。むしろ、高齢者が消費税を負担することにより、基礎年金の半分は税財源であることから、自らの年金に貢献することとなるし、高額の年金を受け取っている人にはそれなりの課税制度があればいい。  
年金は小さな改善の積み重ねで良とし、老後の悪平等を追求するのではなく、現役時代と同様に、合理的な格差の是正を行っていくのが筋だ。  
それでは世代間の格差がなくならないという意見がある。前述の1973年の年金改正で世代間の扶養という考えを採用して40年経った。若い世代がこれほど激減するとは当時考えていなかったわけだが、逆に若い世代と高齢者の世代には大きな教育格差と生活環境格差がある。若い世代は、両親の世代、祖父母の世代よりも大きな教育投資がなされ、豊かさの享受もし、さらに、ほとんどが長男長女であるため、親から土地家屋を相続し大きな自己財産投資が不要である。  
年金だけではなく、生涯にわたって、公共部門、社会、私的関係から受けた便益と損失を積み上げると、実は若い世代が受け取った便益の方が大きいはずである。世代間格差とは生涯にわたるバランスシートを以て測らねばならないものだろう。むろん、ここに私がそのバランスシートを示していないので、抽象論になってしまうが、究極は、「お爺さんに比べて自分は損した」というような些末な議論に拘泥するよりも、時代によって享受できるものが違うという認識を持つべきと考える。  
スウェーデンのような人口950万の国では、1992年のエーデル改革のように、年金を積み立て方式に変え若い人に負担を背負わせないという大改革が可能だった。しかし、日本の1億2,700万人の利害調整はそう簡単にはできない。それに、大改革とは言えないが、世代間格差是正の改善の積み重ねはすでに行われている。たとえば、介護保険料を年金から天引きすることもその一つだ。  
若者対策としては、雇用の確実性、スタートラインの給料を高くするなど、消費を楽しみ、人生に夢を抱けるようにするのが一番ではないか。少子高齢社会は、人口構造の問題であって、現在の社会保障制度そのものが悪いのではない。平均寿命と出生率の動向をもう少し早く意識してなだらかに制度を修正してくればよかったのだが、世襲だらけの政権が長く続き、世襲人間の特技である先送りをしてきたことで、今になって事柄の重要性に驚いているだけだ。  
根本的に解決するなら、むしろ人口構造を自然のピラミッドに戻すことを考えた方がよい。つまり、出生率の回復を図ることだ。長期的には、それが一番いい解決方法である。ただし、最近の現象では、若者が異性に興味を持たない、結婚・家庭に夢を持たない、セックスレス夫婦が増加している、精子が少ない、不妊率が高い等生物的問題が多く指摘されるようになっている。非正規雇用が増えて結婚しにくい社会的理由が反映しているにすぎないと言えれば幸いだが、真相は不明だ。  
フランス、スウェーデン、イギリスなどは合計特殊出生率が人口置換率(一般的に2.08)に近いところにある。ドイツや南欧は日本と同じく1.3前後だ。近年では、韓国、台湾、シンガポールなどアジアの国の出生率の落ち込みも激しい。フランスやスウェーデンは子育て政策が発達しているから、人為的に出生率を上げることができたと考えてよい。ならば、日本も、生物的問題をはるかに超える子育て支援のラッシュで、出生率の回復を図ればいいだけではないか。  
さて、高齢者の方はどうか。膝が痛い、腰が痛い、と言いながらも、接骨院でマッサージを受け、畑の野菜作りに励む人は、異口同音に「いつお迎えに来てもいいよ」。勤労者の退職者は年金額がまずまずだから、夫婦二人のときは旅行に出掛けたり、それぞれの趣味で仲間と過ごしたりができる。一人になったときは孤独に苛まれる。  
足腰の痛みや孤独よりも問題なのが認知症になったときだ。家族は悩み、やがて、デイケアや施設の生活を選択するようになる。1963年に老人福祉法が出来たときには、老人ホームは基本的に生活保護対象の養護老人ホームが中心であったから、多くの人が施設ケアを求めるようになったのは、今の世代の老人からである。言うまでもなく、2000年に成立した介護保険法によって、サービス費用の一割が自己負担であること、サービスインフラの整備ができたことによる。  
しかし、医療機関から終のすみかの特別養護老ホームに移るのは、保育所の待機児童よりも難しいものになった。ひとつには、介護度が高いのが入居条件になるからである。そのために特養には胃瘻の入居者が多い。胃瘻により長く延命できるが、「食べる」喜びを失うことが引き換えになる。今、高齢者のQOLを考えるとき、この胃瘻と人工呼吸器は問題にされている。人工呼吸器も延命できるが、食べることも話すこともできなくなる。  
むろん、生命をどう考えるか、特に自分の生命をどうしたいかは、個人の問題として解決すべきものである。QOLは所詮人間が考え出した基準だから、どんな状況にあっても、生きるだけ生きたいという考えの人があってもおかしくはない。  
今の日本では、自然に生まれて自然に死ぬことが少なくなったのだ。子育て支援政策を徹底的にやらねば子供は生まれてこないし、9割の人間が病院で死ぬ現状は死期も変えられるということになる。人為に委ねられた人の生と死。ならばこそ、政策で人口構造をピラミッド型に近づけるのは政治に与えられた命題ではないか。 
第10章 私がやろうとしたこと 科学殖産興業  

 

明治の日本は凄かった。富国強兵に殖産興業。軍国づくりと産業づくりに猛烈な勢いで邁進した。維新クーデターに至る道筋では、尊皇攘夷を掲げていたにも関わらず、攘夷どころか、お雇い外国人をどんどん受け入れて、技術や制度を採り入れることに腐心した。  
ドイツ医学やフランス民法、時代は下るがドイツ流の健康保険法など、日本は欧州を手本にした。福沢諭吉の脱亜欧入が実行された。太平洋戦争後になってアメリカ流デモクラシーと英米手続法が日本を席巻したように思えるが、核となる考え方は明治以来の欧州が手本であることに変わりはない。  
八幡製鉄のように、官から民に払い下げられた産業を始めとして、日本はすさまじい勢いで産業革命を遂げた。太平洋戦争後、日本が廃墟の中から立ち直れたのは、すでに技術や人材や設備などが存在していたからである。戦後は、駐留軍に見たアメリカの豊かさと技術に追いつき追い越せが動機となって、実際に80年代には追い越したと思われるときも来た。  
今はどうなのか。アメリカはもう物を作らない国だ。アップルコンピューターは、ソフトで勝負しているのであってハードは自前ではない。ICTもバイオテクノロジーも金融支配も、物つくりをやめたアメリカがトップに立った。アメリカは、今度はシェールガスの生産でエネルギー革命を起こしている。常に新たな産業を興すのがアメリカなのだ。  
日本は、これまで首位に立っていたものの多くをアジアの国に奪われている。半導体も家電製品も韓国にかなわない。原子力技術も福島の事故以来頓挫している。残っているのは車だ。新幹線の技術も世界一だ。車も新幹線も中国のような大きな市場をとらえなければならないが、小泉政権時代の日中関係の悪化によって、ドイツの後塵を拝するようになっている。今度は野田政権とそれに続く安倍政権がもたらす日中関係の再度の悪化が懸念され、市場を失う可能性が大きい。  
実は、技術からいえば、日本が世界一なのはたくさんある。ロボット、ナノテクノロジーがその例である。あるいは、宇宙太陽光発電、深海エネルギー開発なども、初期投資ができれば日本の新たな強みとなるはずである。問題は、日本が決断できないところにある。初期投資が1兆円でも、将来の日本の主たる産業となっていくのであれば、機を投ずるべきである。しかし、日本はできない。政治家の頭が悪いか、先陣を切る国民性がないかのどちらかである。  
明治は欧州にキャッチアップ、戦後はアメリカにキャッチアップが目標だった。日本は先陣ではなく、キャッチアップならば得意中の得意だ。しかし、中国・韓国をはじめアジアの国々が日本にキャッチアップしているのだから、今度はアメリカのように、新しいことに先陣を切らねば、比較優位の産業を育成することができない。  
科学技術でトップの種をたくさん持っている日本は、今こそ先陣乗りで科学産業を起こさねばならぬ。初期投資の大きいものばかりだから、政府が投資すべきだ。平成の殖産興業、そうだ、科学殖産興業をすべきなのだ。宇宙太陽光発電も、深海エネルギーも踏み出すべきだ。  
ヒッグス粒子の存在が確実視されて、素粒子研究が全世界的にさらに進もうというときに、素粒子の研究に不可欠の国際リニアコライダー(加速器)を日本が手を上げて誘致すべきなのだ。30キロメートルもある国際リニアコライダー建設の立地条件に適合した場所は、日本では2箇所考えられるが、その1箇所である岩手県を選び、東日本大震災からの復興を賭けて大プロジェクトにすべきだ。  
日本は湯川秀樹博士に始まり、朝永振一郎博士、小柴昌俊博士と、この分野でのノーベル賞受賞者が続いている。素粒子論はお家芸ではないか。国際リニアコライダーに1兆円の初期投資が必要ということだが、ここに、世界中の学者が集まり、新たな価値を創造していくことを考えれば、ぜひ進めるべきである。経済効果は4兆円という試算もある。  
日本が世界のアカデミズムの中心になることをめざせば、その中から新たな産業の種が生まれてくる。従来、日本は世界のアカデミズムの中心になった試しがない。東大が秋入学に移行したからと言って、すぐさま世界の優秀な学者や学生が集まるわけではない。  
その東大は、世界ランクではせいぜい15−30位くらいだ。私は、米ミシガン大学大学院とオーストラリア国立大学大学院の2つで修士号を取得したが、これらと東大とは世界ランクはほぼ同じだ。日本のフラッグキャリア大学が世界のランクの一桁に入らねば、世界第3位の経済大国が泣く。もっとも、世界の大学ランキングはイギリスで行われているので、アングロサクソン系の大学が贔屓目に位置づけられているのは否めないが。ならば、日本のアカデミズムを世界の場で挑戦させ、島国日本を変えていくべきだ。国際リニアコライダーの誘致は願ってもないチャンスであろう。  
私は、民主党政権が誇れるものとして、科学、医療、子供、地方の4つの政策はあると思う。財政難の中で科学予算を減らさないできたのは、誰よりも文科省が知っているはずだ。医療崩壊から医療機関の経営改善を果たし、子供に着目した政策を進め、一括交付金で地方行政を向上させた(安倍政権はこれを止めるそうだが)。この4分野は評価されてよいと思う。  
もうひとつ、民主党政権が策定した成長戦略の中での国際戦略総合特区は優れものだ。全国7か所に新たな産業を興し、政府投資と規制緩和を集中させて、日本経済の牽引を図ろうとするものだ。たとえば、名古屋は国産飛行機産業、関西はiPSを使ったライフサイエンス産業、北九州は都市鉱山のリサイクル産業、北海道は上質農産品をアジア市場に輸出する産業と、いずれも日本の技術で世界をリードできる新産業である。  
その中でも、つくば国際戦略総合特区は、1963年より研究学園都市として国立研究所の半数を集め、科学技術の成果を出してきたつくばがその成果を科学産業として作り上げる役割を持つ。先行する4分野は、生活支援ロボット、藻エネルギー、ナノテクノロジー、BNCTという新たな癌の放射線治療である。すでに実用段階にまで漕ぎ着けた科学技術であり、従来「研究のための研究」「国立研究所の横のつながりがない」等の批判を一気に解消するプロジェクトでもある。  
私は、2009年の当選直後から、つくばで生み出される研究成果を日本経済の牽引力にしようと狙いを定め、研究所、大学、行政の有志からなる科学グループを結成し、特区をはじめとする政策をバックアップしてきた。フィンランドのオウル市が小さな大学街からクラスターづくりをし、世界のノキア(携帯電話)を生み出したと同じことが日本にできないわけはない。  
つくばでは、環境やエネルギーを掲げて超組織で活躍する3Eフォーラム、ナノテクノロジーを経済界とも連携して進めるTIA(つくばイン・アリーナ)などの大学、研究所、行政、民間などが協力する体制ができ始めていた。国際戦略総合特区はこれらの集大成になろう。しかも、特区では、外国人研究者の最も多いつくばの国際都市化も図られる。  
人口21万のつくば市に、研究者が2万人、博士号取得者が8千人いる。つくばエクスプレスのつくば駅を降り立てば、東京のオフィス街と変わらぬ洗練さが感じられる。そのスマートさをさらに、ここならば全ての生活事項を英語で済ますことができるという地域にしたいのである。日本もそんな所があって然るべきだが、第一番目に「英語圏」市になれるのは、つくば以外にあるまい。  
科学産業化を目指せば、研究所と大学中心の街から、民間企業と外国人がますます活発に往来する街に変わっていくはずである。それがノキアを生み出したオウル市である。奇しくも、オウルは英語でフクロウのこと、つくばを象徴する市の鳥はフクロウなのである。これは偶然だが、近い将来につくばブランドが世界を跋扈する時代が来る。日本経済への貢献は凄まじいものになるはずである。  
私は、このことを先の総選挙で訴えたが、多くの人に理解していただくまでには至らなかった。前回選挙で「後期高齢者医療制度の廃止」の訴えはよく届いたが、科学産業の推進派すぐさま目に見える政策ではなかったので、分かりにくかったと反省している。その上、「民主党が言うことは信頼できない」が前提にあったからなおさらであろう。現に、先の公約である後期高齢者医療制度の廃止もできないままだ。有権者の皆様に申し訳ない。  
しかし、つくば特区は、間違いなく日本の夢を実現していくはずである。にも拘らず、「民主党主導の政策はやめる」というのが現政権の方針だ。現に、高校授業料の無償化は所得制限を設け、農家の戸別補償制度は名称を変え、再来年度には見直し、都道府県一括交付金の制度も廃止、事業仕分け廃止と次々に民主党の政策は潰されていく。  
国際戦略総合特区も、つくばで9億余の予算がついたくらいで、ほかの6特区は予算がついていない。折角の国策プロジェクトを政争の道具にしてしまうのは残念だ。民主党は反省するところは反省するが、国益になる政策については主張していかねばならない。  
安倍政権は、マネタリストの持論を採用してマーケットとコミュニケーションができ、株高・円高をもたらしている。高らかに政治主導をアピールしている。これは、民主党政権が当初の子ども手当や高校授業料無償化の創設の勢いを程なくして失い、次第に官僚に主導権を奪われていったのを学習したと思われる。政策を矢継ぎ早に打ち、マスコミを味方につけ、政策のマイナス面を書かせない。誠に、民主党は学ぶべきである。小泉政権の後の3代にわたる「不作」を繰り返すまいという姿勢が強く反映している。  
そして、今なら、民主党を諸悪の根源にして誰も否定はしない。民主党の政策つぶしは正義の仕事だ。しかし、アベノミクスの成長戦略は6月にならないとできない。ならば、民主党主導の国際戦略総合特区を粗略に扱わないことだ。そう叫んでも絶望と思いながらなお叫ぶ。  
民間の投資や海外からの投資でも特区を進めることはできるが、将来日本の基幹産業になるものだとすれば、情報の流出や国益の損失が脅かされないとも限らない。また、事業を素早く展開していくには、規制緩和が必要だが、これだけは政府の姿勢によるので、民間の肩代わりができない。  
私は、民間で特区を完成させる方法を模索しているところである。中国天津のサイエンスパークに行ったときは、中国の高官はなべて「中国を見学しなくていいですよ。日本の科学技術はずっと優れている。だから、技術と人材を下さい」と情熱的に語った。つくば特区の成果を中国でクラスター化するのは簡単だが、それでは、日本の優位性と雇用が失われてしまう。今、しきりに知恵を巡らせているところだ。 
第11章 私がやろうとしたこと 人口政策  

 

2050年には、日本の人口は1億を切る。現在生産年齢人口3人が高齢者(65歳以上)1人を支える姿を騎馬戦型と言うが、2055年には、1人が1人を支える肩車型になる。これは、どこにでも見かける文章である。もう聞き飽きて、馬鹿馬鹿しくもなる。  
前述したが、人口推計は当たらない。平均寿命や合計特殊出生率が予想をはるかに超えて現在の少子高齢社会をもたらした。人口は、経済成長と停滞、疾病構造の変化、自然災害、家族観、移民政策など予測不可能な未来の推計だから、当たらないのは当たり前だ。  
だから、むしろ、望ましい人口とは何かを考え、日本の国をどうしたいか、超マクロ的政策が必要なのだ。ただ、出生率と死亡率で人口推計をしていても、今の日本の数値から発する限り、人口減の活力ない社会しか導き出せないのは当然である。  
若者の雇用を確実にし、若者に結婚と子育ての希望を持たせることが必要である。オランダのように、ワークシェアリングを実行し、正規・不正規に関わらず同一労働同一賃金にして若者の経済安定を図るのも一つのやり方だ。全体の給与水準を犠牲にしてもよいから、終身雇用を復活させるのも一つのやり方だ。  
労働流動性の高い、つまり転職などの多い国が一概に労働生産性が高いとは言えない。アメリカのように今も移民が人口を支え、出生率も高い国では、次から次へと転職する労働流動性の高い市場でもよいのかもしれない。しかし、日本は同質で、定住を好み、身分重視の社会であり、良くも悪くも転職を続けるのは、社会的差別すら生みかねない。  
アメリカのようにダイナミックに移民を引き受けるか。多分、否である。失業率が高い(少なくとも80年代までの3%以下に比べれば)中で、なおさら日本人の労働の場を失うという意見が多い。ただし、農業と介護の分野は人手不足で、研修生や一定の就労枠などで外国人労働者が使われている。  
終身雇用は頑張る人には損で、怠け者は怠け放題になるという意見もある。しかし、どの社会もすべての人が100%の力を出し切るようにはできない。  
徴兵されて軍隊に入って、突然国の目的のために働くことになった大日本帝国の男児は、働きが悪いとビンタを食らったが、それでも100%が力を出し切るのは無理だった。ビンタを食らわせた上官にフケ飯を食わせたり、膝を抱えて一晩中泣いていたり・・軍の仕事に合わない人間はたくさんいた。  
社会は歩留まりを考えつつ、チームで発展を遂げていくことの方がいいのではないか。意見の衝突や足手まといで本来のエネルギーが削がれることはあっても、チーム、グループ、地域、日本へと発展を広げていくには総力戦で行くべきではないのか。  
過去の成功物語に捉われるのは間違いかもしれないが、しかし、高度経済成長期と安定成長期を生きた団塊の世代としては、長い幸せの日々を若い人たちにも味あわせてやりたいと思ってやまない。我々より一昔前の世代は、植木等のスーダラ節に乗せられてサラリーマン無責任時代を築いたが、それは一種のパラドックスであって、責任を負ってサラリーマンをやっている人々の存在とそのおこぼれに預かる人々がともに豊かさを享受していることを知らしめているのである。  
政治家とは、究極、日本人を信じ、日本を信じ、日本の国益を守り、国粋主義者になることである。日本のチームワークを信じて、給与水準とバーターでもよいからかつての終身雇用を復活させたい。終身雇用は、給与所得者がエリートだった戦前には少数のための制度であったし、また、最近のデフレ不況のためのリストラや就職氷河期には高嶺の花になりつつある。ところが、団塊の世代はほとんどがその庶民の幸せを与えられたのだ。  
雇用が安定すれば、次は、家庭や子供に希望を持つようになる。団塊の世代も60年代、70年代のうるさいくらいの恋の歌に乗せられた。流行歌のほとんどが、愛だの恋だの、幸せだの別れだの、そういう類の内容だった。まるで、恋しなければいけないみたいで、その頃、恋愛結婚が見合い結婚を抜いていった。  
歌に乗せられたかどうかは別としても、1973年には第2次ベビーブームが到来した。この年に生まれた人は既に40歳になるのだが、残念ながら第3次ベビーブームは作ってくれなかった。第2次ベビーブーマーの過去20年、つまり、就職、結婚、家庭づくりにあたる時期はまさにデフレ不況で、親の世代である我々団塊の世代に比べると、何をするにも苦労が必要だった。もっとも、苦労したくない人も多くいて、甘い団塊世代の親の下で、パラサイトシングルを謳歌し、今は親の年金の実質的な被扶養者になっている者もいるという。  
「やる気のない奴は放っておけ」という意見がある。しかし、やる気とチャンスは正の相関関係がある。団塊世代が生きた時代は、チャンスがそこら中にあって、少しだけやる気を出せば、チャンスが近づいてきてくれたのだ。今、ありきたりの就職にありつくことも、ありきたりの異性との出会いも、難しいことになってしまったのだ。  
だから、おせっかいかもしれないが、若者の人生を「市場原理」に任せてはいけない。チャンスを作るのが政治や社会の役割となったのである。先ずは雇用だが、上述の科学産業、労働集約的な医療、福祉、教育などの社会サービス、農業などにおける雇用について、若者を優先し、たとえ消費者の負担に跳ね返ってもより多くを雇うことを制度的に確保すべきである。雇用を昔に戻すとしても、産業構造は変えねばならない。物つくり中心から知的財産を駆使した産業へ、参入できる農業へ道を作るのが政治である。  
そのために、若者の教育機会の平等をもう一度確たるものしなければならない。機会の平等は競争を否定するものではなく、また、結果の平等を保障するものでもない。その意味では、団塊の世代の時代は、制度がよくできていたと思う。公立の高校が私立よりも優れ、国立大学は授業料月千円だった。安くてよい教育が一生懸命勉強する者には与えられていた。  
受験戦争という言葉は団塊の世代のために作られたが、それでも4年制大学進学率は20%台だったから、小中学校から進学塾に通う子供はいなかった。塾は、むしろ勉強の遅れた子供たちのための商売であった。受験技術に特化した中高一貫教育などを否定するつもりはないが、私立や家庭教師に金をかけなくても公教育だけで十分に教育が受けられるはずであり、その体制ができていればよい。  
教育と直結する労働市場での機会は、日本は、アメリカとヨーロッパの間に位置している。つまり、アメリカでは、社会人になってから大学に入り直したり大学院に通ったりして、より専門的な職業に代わっていくことができるが、ヨーロッパでは、小学校卒業時の成績で高等教育に進んだり、早くからの職業教育に進んだりと、若年期に決められたコースを歩むことになり人生のやり直しが難しい。  
イギリスでは、11歳で人生選択の試験があり、パブリックスクールに入れなければ、大学に進めずプロフェッショナルな職業には就けない。ドイツでは、小学校卒業時に、大学進学のためのギムナジウム、リアルシューレ(職業学校)、ハウプトシューレ(一般学校)に分かれ、特にハウプトシューレは落ちこぼれとみられることが多い。  
日本は、最近では、工業高校、商業高校、農業高校などの職業高校が激減し、多くは普通科に進学するようになっている。日本人の多くは大学や専門学校で人生の選択に入る。しかし、就職が新卒中心の採用であるため、その後の人生のやり直しが困難を伴う。また、4年制大学が750以上もあってレベルはさまざま、大卒としての就職難はデフレ不況となってからは当たり前になっている。  
アメリカのように労働流動性を前提とした教育の在り方がいいのか、人生の早い時期に、「身分」が固定してしまうヨーロッパの制度でいいのか。あるいは、教育から労働市場に直行しなければ不利になる日本の制度でいいのか。それぞれが背景の文化を背負っていると思われる。アメリカは自由社会、ヨーロッパは階層社会、日本はその中間である。  
教育と職業は、日本は所得階層で概ね決まっていく傾向がある。親の所得階層が高く社会的に認められた職業である場合には、子供もまた学歴がよく社会的に認められた職業に就く傾向がある。ある意味では、ヨーロッパに近い階層社会になりつつあるかもしれない。  
極端な例を考えると、政治家と医師は、世襲が多い。いずれもお金がかかるからである。優秀な子供であれば国立大学医学部で教育を受け、さほど金がかからないで医師になれるが、数が限られている。私大医学部はサラリーマン家庭では授業料が支払えない。政治家は、地盤、看板、鞄を親から引き継げば楽に当選できるが、ゼロから始める政治家志望は極めて難しい。  
我々の住む社会は、自由主義、資本主義であるから、所得階層の高い者が子孫を医師にしたり政治家にしたりするのに対し、文句を言えない。日本はアジアの他国と比べればよほど近代化しているものの、アジアに蔓延する「ネポティズム」(親族・友人重視)も厳然として残っている。外務省、日銀、NHK,電通、読売新聞、日経新聞などは、明らかに政治家の子供や世襲の採用がある。これも各組織の意向だから文句は言えないようだ(表向きは、世襲はないと言うだろうが、現実にその人数が多いのだ)。  
地域を回っていると、息子を市役所に入れてくれ、教員に採用してくれ、いくら出せばいいのか相場を教えてくれ、という頼みごとをされる。教員採用については、現実に数年前、大分県でコネ採用が行われていたことが明るみになった。工事の一般入札方式と同じで、入札方式でありながら談合めいたものが行われてしまう。  
教育の機会を保障するならば、次には労働市場に入りやすい社会を作らねばならない。アメリカは労働力の流動性の高い国であるが、転職のための民間会社のサービスも徹底している。応募すべき会社、履歴書の書き方など懇切丁寧なサービスをしていると聞く。何せ、転職ならぬ転婚(離婚して再婚する)の場合の離婚学校もあるというくらいだから、何でもサービスに変えて売り物にしてしまうお国柄だ。日本も公的機関ハローワークがこのままでいいかどうか一考すべきだ。  
以上のように、端的に言うと、若者には、教育の機会平等を公教育で実施すること、就職の機会の保障、そして、産業構造の変化を科学産業でもたらし雇用を増やすこと、それらが人口政策で子供を増やす、あるいは結果的に増えていくことに繋がるであろう。  
人口政策は、子供を増やすことが第一であるが、70歳までの高齢者、主婦という女性の潜在労働力をもっと活かすことも人口減少から増加へのプロセスでは重要なことである。実質的に生産年齢人口を増やすことで、騎馬戦型だの肩車型だのと悲観するには及ばない。支えられるよりも支える人口を増やせば、人口増加に転ずる過程でも、経済社会の活力を取り戻せる。  
科学産業、介護産業、農業は人手不足だ。アジアの拠点と結ぶ海外ネットワークも人手を必要としている。これらを活かし、若者はもとより潜在労働力である女性や高齢者の仕事に結び付けることが政治の仕事だ。  
人口構造がピラミッド型であれば、社会保障は何も心配が要らない。支える人より支えられる人が相対的に多くなっている今日から脱するには、経済成長し、仕事のチャンスにあふれ、公教育で競争力を身に着けた若者たち、社会サービスの分野で子育て経験などを社会化する女性たち、まだ老後は早いと第二の人生を農業に勤しむ高齢者たち、こういう人々が活躍する日本をつくることである。  
東京の西葛西にはICT産業のインド人が多く住む。高い技術を身に着けた外国人労働者の労働ビザや移民政策も人口構造を変える選択肢の一つであろう。日本の活力が失われたのは、今ある優秀な人材を外国人であるがゆえに拒否する体質があるからだ。このことも、女性、高齢者の活用の次に考慮していかねばなるまい。  
日本は世界一の高齢社会で、これから急速に老いゆくアジアの高齢社会の制度やサービスの模範になっている。日本がアジアの高齢者サービスの展開に大きな役割を担っていると思う。その日本が人口構造を長年かけて変えることができたならば、これもまたアジアのモデルとなろう。  
安倍政権に足りないのは人口政策と社会保障だ。何も発信していないどころか、無視している。金融政策促進をマーケットに語りかけて株価上昇、円安をもたらした。ここまでは、安倍政治への期待が応えたと言える。実体経済はこれからだ。成長戦略もまだできていない。経済の刺激は常套手段の公共事業。さて、お手並み拝見だが、その次にくるのが憲法改正、国防軍、戦前教育の復活では、若者、女性、高齢者は逡巡する。  
戦前の産めよ増やせよ(兵隊になれ)、80−90年代の産む産まないは女性の権利と言っていた時代は去った。人口政策はもはやタブーではない、日本の未来のために実行しなければならない喫緊の政策なのである。  
 
会津人 山川健次郎

 

会津の山川三兄妹  
先年、会津を訪れた際、山川三兄妹の存在を知った。  
再度の訪問も含めて、その後彼らに関する資料を集めたり、書物で読んだりした。幕末の会津は過酷な運命に翻弄された。武士道の精神が他のどの藩より徹底され、日常的に厳しい鍛錬を受けた会津武士団。かれらが正義と信じて戦った戦だが、どこでどうなったのか分からないうちに逆賊の汚名を着せられていた。  
往々にして幕末と明治維新は薩長土肥の英雄伝として語られることが多い。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、坂本竜馬、伊藤博文・・・・・。  
しかし勝てば官軍、負ければ賊軍という結果を単純にインプットされてしまうと、歴史認識を誤らせることが多い。したがってここでは、薩長・維新政府の立場ではなく、会津側に立って会津の悲劇と、その逆境にもめげずに活躍した三兄妹のことを少し書いてみたい。  
もう1年早く生まれていたら、謹厳な教育者山川健次郎の後半生はなかった。  
幕末の会津に誕生した山川は他の会津の武家がそうであったように自己犠牲の精神を徹底的に教育された。あの会津戦争における白虎隊の飯盛山の惨劇もその結果だといえる。山川も、その当時1歳若かったために白虎隊に入隊できず(後に入隊するが)、地団駄踏んで悔しがった。がその結果彼は生き残った。神が生き残って世のため人のためにがんばれ、と彼を救ったのかもしれない。
山川健次郎・概略  
明治、大正から昭和の初期にわたり『星座の人」と呼ばれた教育界の大御所がいる。社会を導く人という意味である。その人の名前を、山川健次郎という。生地は会津若松で、嘉永7年(1854)の生まれ。幼少の頃はあの有名な白虎隊の隊士だった。17歳のときアメリカ留学の機会に恵まれ、名門エール大学に学び、長じて東京帝国大学に奉職し、薩長藩閥政府の中で二度も総長を務めた。これは異例中の異例といってよい。  
日本人初の東京大学の物理学科の主任教授であり、湯川秀樹、朝永振一郎ら日本の物理学者は皆、健次郎の流れをくむ。  
山川健次郎の生家は、会津鶴ヶ城の北出丸に面した本二ノ丁にあった。山川家は代々、3百石の中級武士の家柄だったが、祖父兵衛の時代に家老に取り立てられ、以来、家老職の家格だった。父重固は郡奉行を務めたが、安政7年に病没し、以来、兄大蔵(おおくら)が家督を相続したが、兄は不在がちで、この家は祖父が家長といってよかった。祖父はもう80になっていたが矍鑠(かくしゃく)たるもので、杖を突いては城下を歩き回り、昨今の動きを聞きまわる日々だった。  
健次郎も兄弟は多かった。母は子供12人を生み、5人が夭折したが、健次郎を入れて7人が育った。一番上の姉双葉(25)、その下が兄の大蔵(23)、二番目の姉美和(20)、三番目の姉操(17)、健次郎は15歳で下に妹が二人いた。常盤11歳、咲子9歳である。咲子は後に捨松と改名する。
会津藩と幕末という時代  
慶応4年の正月から会津藩は未曾有の困難に遭遇していた。“京都守護職”という聞きなれない役職は、京都で騒乱を起こす脱藩の浪士たちを取り締まるべく新たに編成された武力集団だった。家老西郷頼母はこれに反対した。「薪(たきぎ)を背負って、火の中に飛び込むようなものだ」 と。しかし幕命であり、断ることは出来なかった。それから6年、事態は意外な結末となった。薩摩長州が同盟を組んで倒幕に転じ、将軍慶喜が大政を朝廷に奉還した。  
幕末の会津藩の行動は純粋無垢のものだった。薩摩や長州が台頭して、反幕運動を繰り広げ、京都が騒乱状態になったとき、会津藩は家訓の存在によって京都に上る羽目になった。担ぎ出したのは徳川慶喜や越前藩主の松平春嶽だった。「松平容保は魂の清らかな、立派な人だった。藩祖保科正之公(家光の異母弟)の家訓を守り、京都守護職として懸命に努力したのだ」しかし歴史は残酷だった。徳川慶喜らは情勢が悪化すると、すべての責任は会津にあると罪をなすりつけ(会津からはそう見える)、自分たちは生き延びた。  
西郷や大久保ら薩長新政府首脳は慶喜恭順で、振り上げたこぶしのやり場に困り、徹底的に会津を討伐する方針を固めていた。会津が恭順する条件は主君容保の死罪、城の明け渡し、領地の没収であった。飲めるはずもない過酷な要求だった。なにが何でも会津を戦争に追い込むというのが、薩長のやり方だった。  
(徳川幕府は会津一人に罪を負わせてしまった。慶喜は水戸の出身で、黄門様が始めた水戸学〈≒中華思想〉の信奉者だったがために、“天皇への逆賊”の汚名を着せられるのを避け、戦わずして逃げた。会津の立場に立てば、黄門にも結果責任がある。)  
会津が京都に上った頃、勤皇の志士を称する彼らの行動は“支離滅裂”なものだった。尊皇攘夷を掲げ、京都の町を荒らしまわっていたが、その理屈たるや日本は神国であり、大砲や軍艦などなくても大和魂で突っ込めば、外国など怖くはないという(太平洋戦争に似た)子供じみたもので、笑止千万だった。  
にもかかわらず開国を主張した幕府、会津を腰抜けとこき下ろし、誹謗中傷の数々を行った。  
ところが下関や鹿児島湾で外国の軍艦と戦い、その威力を知るやころりと態度を変え、たちまち開国に転じた。それならそうと挙国一致で新生日本の建設〈公武合体〉に協力すべきなのに、今度は天皇を担ぎ上げて、幕府を倒し、やり放題の体制を作り上げた。〈悲しいかな、革命というのは悲劇とわかっていても、血を血で制する結果がないと終わらない。坂本竜馬は薩長をつつくことで、結果、演繹的に言えば太平洋戦争敗北にいたる種をまいた。)  
会津にすれば、「吾々だけが、幕府に殉じ、何千という人々が戦死し、国を失ったのだ」。
会津戦争の惨劇  
健次郎の兄大蔵(おおくら)は大砲隊員だった。慶応2年幕府の外交使節小出大和守の随員としてヨーロッパ、ロシアに派遣され、西洋文明を学んで帰国したばかりだった。  
「孝明天皇は会津に最も信頼を寄せていた。それが朝敵の汚名を着せられてしまった。薩長の奸賊め、目にものを見せてくれん」  
会津の軍制は洋式で、年齢別に区分されていた。18歳〜35歳の最強部隊を朱雀隊、36歳〜49歳を青龍隊、50歳以上を玄武隊、15歳〜17歳を白虎隊とし、これに砲兵隊、遊撃隊などを加え3000人で正規軍を編成した。  
奥羽列藩同盟が結成され、仙台藩や米沢藩も会津の強さを頼んで同盟を結成した。そのころは勝てるという自信もあり、意気盛んであったろう。また同じ東北人への同情の精神もつよかっただろう。しかし、その会津が劣勢に立たされるや彼らは及び腰になり、弱腰の本来の東北人に成り下がってしまう。  
大蔵は4月下旬、日光口で旧幕府陸軍の大鳥圭介と会った。お互いに一目見て好きになった。「山川氏は会津藩の若年寄で、小出に従ってオロシャに行ったり、西洋文化を一見してきた人物である。学問もあり、性質が怜悧で、余は一見してともに語れる人物と判断し、百事打ち合わせを行い、大いに力を得た」と日記に印象を記している。  
6月24日、白川に近い棚倉城が敵の手に落ちた。7月29日には二本松城も落ちた。同じ日、会津がもっとも頼りとする越後の長岡城が陥落した。  
健次郎の姉たちは白八巻、たすきがけで長刀(なぎなた)の稽古を始めた。  
「ええい、やああ」  
長姉の双葉の掛け声がとくに凄かった。  
祖父は健次郎に「会津の男は卑怯であってはならぬぞ、敵の一人も叩き切ってお殿様のために尽くすのじゃ」  
「卑怯な振る舞いをしてはならぬ」  
それが会津武士の鉄則だった。たとえ15歳であろうが、国家存亡の危機に立つ今日、死ぬ覚悟が必要だった。どこの家からも黄色い声やしわがれた声が響いた。成人男子は皆戦場に出ており、留守を預かるのは老人と女子供である。老人も婦女子も子供も刀や槍、なぎなたを手に悲壮な覚悟で訓練に励んだ。  
会津には、女は敵に恥をさらしてはならないという教えがあった。仮に敵兵に陵辱されるようなことがあれば、それは末代までの恥であり、その前に自決することが武士の妻女の作法とされていた。自決の方法も決まっていた。両足を結んで着物の裾が乱れないようにし、喉を懐剣で刺すのである。山川家は兄の言いつけによって家族全員、最後の最後まで戦うことに決めていた。
官軍の会津城総攻撃  
8月22日、この日の会津藩の女たちの活躍は目を見張るものがあった。狼狽している男たちを尻目に、山本八重子(のちに新島襄と結婚、同志社設立に尽力)は着物も袴も男装で、両刀を腰にさし、元込めの7連発のスペンサー騎兵銃を抱えて城に入り、近づく敵兵に銃弾を浴びせた。  
弟の三郎が鳥羽伏見の戦いで戦死しており、敵を撃たんと弟の衣装を身につけての入城だった。  
この日、会津城下は約千戸の家が焼け、戦死者は数百人にのぼり、藩士家族の殉職したものが230余人を数えた。  
茂四郎も真っ青な顔をして城に入ってきたが、彼の家では祖母、母、兄嫁、姉、妹の5人は足手まといになるとして懐剣でお互いに首を刺し、叔父柴清助が介錯して家に火を放った。  
壮絶というほかなかった。  
家老西郷頼母の家では白装束に身を固めた母律子、妻千重子ら婦女子全員が喉を突いた。その他・・・こうした話しは枚挙に暇がなかったあまりにもむごい話であった。会津城下は地獄の町と化していた。  
白虎隊の少年たちも飯盛山で、空腹と疲労で戦況を見誤って死んだ。20人のうち19人は絶命し、一人飯沼貞吉だけは通りがかった老婆に助けられた。飯沼が蘇生したおかげで彼らの行動が明るみに出た。忠烈白虎隊が世に流布されたが、若い命を失った彼らは哀れだった。
籠城の苦心と降伏調印  
『夫人世界』に山本八重子の手記が残っている。  
「一番、心配でたまりませんでしたのは、厠に入っているときでございました。武家の夫人として一矢も報いずに犬死するようなことがあっては、主君に対しても家名に対してもまことに恥ずかしいわけですから、たとえ流れ弾に当たって死ぬまでも、戦えるだけ戦って、立派な最期を遂げたい一心でございました」  
玉砕を避けるという最後の決断に当たって大蔵を支えたのは京都時代の公用方・秋月悌二郎だった。秋月は米沢藩や土佐藩の陣営を尋ね、決死の覚悟で停戦交渉を進めた。  
降参すれば皆殺しになるのではないか(太平洋戦争の日本の状況に似ている)、城内に不安も広がったが、秋月らは主君と家臣の命の保障と引き換えに降参するという難しい交渉を見事にやってのけた。  
そして降伏調印式の後、ここに座った重臣たちは緋毛氈をを切り裂いて各自懐にしまった。この怨念を忘れないぞという誓いのしるしでもあった。
維新の後  
この時代、富国強兵を目指す日本は海外に留学生を送り、海外の知識を吸収し、強国日本を作ろうとしていた。健次郎は北海道開拓の枠によって選ばれた。提案者は北海道開拓使次官の黒田清隆だった。  
健次郎はエール大学に合格した。理学校はニューへブンの町にあった。ここは当時のコネチカット州の1年交代の州都で人口75000人、豊かな牧草地に恵まれ、貿易港も持っていた。のちに妹の捨松もここに留学してきて、しょっちゅう顔を合わせることになるが、健次郎にとっての救いは有色人種へのリンチがないことだった。  
明治4年11月、妹の咲子が捨末と名前を変え、日本初の女子留学生としてアメリカにやってきた。まだ12歳の少女である。最年少の津田梅子〈津田塾の創立者〉はなんと8歳だった。捨松がワシントンからニューヘブンへやってきたのは、明治5年の晩秋で、静岡県出身の永井繁子と一緒だった。捨松は健次郎の胸に飛び込んで泣いた。その後捨松はアメリカナイズされていき、日本語を忘れるようになる。  
健次郎の運命を考えてみると、さまざまな人の世話になり、その支援によって勉学の道を開いてもらった。会津戦争では敵であった長州の奥平謙輔と前原一誠、明治政府によって移転を余儀なくされた下北半島の斗南藩、薩摩の黒田清隆、そしてアメリカにおけるハンドマン夫人と。しかし健次郎の肩には常に会津藩が重くのしかかっていた。かれには会津に対する責任感と、怨念を晴らさずにいられないという信念があった。  
健次郎がバチェラーオブ・フィロソフィー、理学士の学位を得て4年半に及ぶアメリカ留学を終えたのは明治8年(1875)5月だった。(22歳)アメリカはまぎれもなく世界文明の先駆者であったが、その反面、暴力がはびこり、黒人に対するひどい差別があり、それらが渾然と入り混じった不平等な社会であった。だが、理不尽が度を越すと、市民運動が広がり、権力者に立ち向かう勇気があった。  
帰国した健次郎の就職先は東京開成学校の教授補で、明治9年1月から教壇に立った。この学校は幕府の学問所蕃所調所(ばんしょしらべしょ)に端を発する洋学校でいったん閉鎖されたのが、明治2年に復活した。大学南校と呼ばれた時期もあり、やがて東京帝国大学となる。  
そのころ兄山川浩(大蔵改め)は土佐の谷干城の勧めで陸軍に入り、陸軍裁判所に職を得た。そこに征韓論が起こり、一触即発の事態となった。
萩の乱と奥平の斬首  
長州藩は戊辰戦争で奮戦した戦死者に対する香華料がたったの3両しか払わず、反乱分子に不満がたまっていた。参議の木戸孝允は兵を以て反乱分子を鎮圧する強硬姿勢を打ち出し、それが萩の乱となって爆発した。  
「木戸は日本精神を忘れ、西洋を模倣し、急速に近代化を進める君側の奸である」  
結果、健次郎の支援者であった、奥平謙輔と前原一誠の二人〈木戸に反抗)は捕われ斬首される。健次郎にとっては断腸の思いであった。
西南戦争勃発  
西南戦争が勃発すると、健次郎は岩倉具視の呼び出しを受け、「会津から兵を募り、薩摩征伐に行ってくれ」と要請された。(岩倉は食えない。食えない公家の典型である。)  
これは健次郎にとっても不快だった。岩倉は謀略を尽くし倒幕に奔走した人間である。どれだけ会津が苦しめられたか、その張本人である。しかしながら兄大蔵にさとされて参戦し、みごと熊本城突入に成功した・・・。(西南戦争では多くの会津人が進んで参戦し、会津戦争の怨念を晴らしたという記述が残る)  
明治10年、東京開成学校は東京大学(旧制)に改変され、健次郎は東京大学理学部教授補に横滑りした。  
本格的な教育者としての生活が始まった。  
明治の教育者としての使命は、欧米と対等の立場でものがいえる人物を育てること。敗者の屈辱を身をもって経験した健次郎教授補は真剣だった。まずかれが出会った人物は、南部藩出身の田中舘愛橘(あいきつ)。南部の武士も、会津に協力して秋田に裏切られ、人々は両刀を取り上げられ、月代をそることも禁じられた。田中舘も、悔しくて何度も泣いた。会津も南部も汚名を雪辱する必要があった。  
「必死にやらねば親から(その責任を問われて)殺される」 寝る時間も惜しんで勉強をした。  
こうして東京帝国大学物理学教室は、会津藩と南部藩という異例の師弟コンビで始まった。共通の反骨精神があった。  
更に新しい才能が加わる。  
長岡半太郎は長崎県大村の出身。目元の涼しい端正な顔立ち、物理学を専攻したいという意思は、当時としては珍しかった。父・長岡治三郎は岩倉具視とともに欧米を視察してきた人で、相当の知識人だった。半太郎は父より、将来のために英語を学習せよと、厳しく育てられており、本人は、西洋に追いつくには理科が大切だと感じていた。健次郎も田中舘も半次郎に愛情を注ぎ、育てた。半太郎もよく勉強した。明治の日本人の勉強は家族も含めて死に物狂いだった。(『坂の上の雲』の秋山兄弟からも強く感じるが、生きることへの目的意識が今とは格段に違っていた。)  
長岡は後年母校の理論物理学講座の主任教授を務め、東北帝国大学の設立に尽力し、そこで本多光太郎や石原純を育て、さらに大阪帝国大学の初代総長になり、文化勲章受章者の第一号の名誉を得た。
武士道と東京帝大総長  
「西洋文明や欧米人を無批判に礼賛する輩が増えているが、それは違う。日本には日本のよさがある。アメリカは人種差別がひどすぎる。日本人たるもの日本の心を忘れてはならぬ」。健次郎は物理学を教えるかたわら武士道を説いた。アメリカで学んだ新渡戸稲造が『武士道』を著して説いたように、健次郎も一日たりとも武士道を忘れなかった。  
明治34年6月、菊地大麓総長が桂太郎内閣の文部大臣に就任し、健次郎が評議会の推薦を得て公認の第六代東京帝国大学総長に選ばれた。浜尾前総長からも「ここは山川さんしかいない」と説得され、逃げることは出来なかった。学内の誰もが健次郎を推薦した。このとき48歳、まだ若かった。
松平容保  
健次郎はこのころ旧藩主の松平容保にもしばしば会う機会があった。  
「山川、これを世に出してくれ」 孝明天皇から授かった信任状を竹の筒から取り出した。それは京都守護職として天皇に仕えていたとき、天皇から拝領した書翰だった。容保はそのご宸翰をいつも手元に置いていた。会津戦争のときは、この竹の筒を背負っていた。それは、自分は朝敵にあらずという絶対の証明だった。  
健次郎の晩年は「会津戊辰戦史」の執筆に費やされるが、これは会津の側にたった戦史であり、君主・松平容保を代弁したもののように思う。そしてそれが完成したときがまさに、会津の、山川健次郎の怨念は晴れた、というべきだろう。   
もう少し続く。帝大の学生の中に松平容保の四男恒雄がいた。かれは外交官試験を首席でパスして、後、駐米、駐英大使、宮内大臣を務める大物となった。その娘・節子は皇室に入り、秩父宮勢津子(節子改名)妃殿下となる。ずっと時代は下るが、勢津子妃は学習院初等科のとき白洲正子の同級となり、米国留学の時代も含めて生涯の友となった。  
昭和6年6月26日、巨星山川健次郎は墜ちた。享年78歳。  
一言で言えば会津の悲しみや怒りを終生腹の底に置いて、努力した人であった。それをバネに見事に会津の無念を晴らした人であった。真の武士道を知る人であった。加えて、近代日本の礎となる多くの有為の人材を育てた。  
昨今こういう人がいなくなった。そのことを寂しく思う。
妹・山川捨松  
最後に健次郎の妹について触れてみたい。  
幼名を咲子といった。厳格にして会津戦争を経験した母“えん”は、兄・健次郎にならって咲子を留学させる。これは明治政府の女子留学第一号募集に応募したもの。戊辰戦争で賊軍の汚名に甘んじた徳川恩顧の諸藩、特に東北諸藩の士族は、この官費留学を名誉挽回のチャンスと考えていた。母は咲子のアメリカ行きに際して、名前を捨松と改めさせた。わが子を(いったん)「捨てて、なお待つ」 の意味である。  
現代なら女性の留学は何の不思議もなく、むしろ当たり前にも感じるが、明治の初年、この決断には勇気がいった。母親の、(明治という時代に対する)鬼気迫る闘魂を感じさせる。〈話はそれるが、山川家の明治以降の隆盛にはこの母の存在が欠かせない。まさに明治の母、優しく、そして厳しい大和なでしこ、の姿である。いまさらながら、家庭教育の大切さを感じる。厳しい母親に育てられて、後に大事をなした傑物は多い。)  
捨松は名門女子大バッサーカレッジで国際経済学を学び、優秀な成績で卒業し帰国した。そのとき23歳。日本語を忘れて、アメリカ人になっていた。  
当時東京で生活を始めたばかりの山川家にとっては、“不思議なおばちゃま”が突然現れたようなもの。家の人々は、正直のところ捨松の扱いに苦慮した。アメリカでは女子も仕事を得て活躍しているのに対し日本では就職先がない。捨松にとって、日本はなぜこんなに遅れているのだ、というジレンマに悩む日々が続く。  
明治16年、その捨松の身に驚くべき出来事が起こった。薩摩出身の参議陸軍卿大山巌が求婚してきたのだ。大山は西郷隆盛の従兄弟で、薩摩藩大砲隊の一人として会津戦争にも参戦、会津城を見下ろす小田山に大砲を運び上げ、連日連夜、砲弾の雨を降らせた人物だった。  
「そんなことは許されません」 母は血相を変えていった。  
「ならぬ」 長兄の浩は即座に断った。  
しかし大山はあきらめなかった。亡き妻の父吉井友実を通じて再び求婚してきた。推薦したのは留学生仲間の永井繁子だった。大山はこれからの自分の立場を考えれば、才色兼備の捨松は願ってもない話だった。時に大山42歳、捨松24歳。周囲の反対が収まらないなか、捨松は応諾した。大山捨松の誕生である。  
やがて欧米との華やかな外交の時代を迎え、捨松の才能は“鹿鳴館の花”といわれるほど華やかに咲いた。捨てて待った花が、幼名の咲子に戻った瞬間である・・・。  
 
斗南藩

 

青森県北東部の本州最北端にある下北半島、鉞(まさかり)の形をしたその特徴的な形状の半島の中心部に、妻の実家のあるむつ市があります。  
地理的には、北は津軽海峡を隔てて北海道に面しており、南西には、ほたて養殖の盛んな陸奥湾、それを挟んで津軽半島を臨み、そして東には東通村を挟んで太平洋が広がっています。  
地形的には内陸中央一帯は、釜臥(かまぶせ)山を主峰とし、日本三大霊場の一つである有名な恐山(おそれざん)がある恐山火山帯が連なっています。  
気候的には、年間を通して冷涼で、冬季の雪は青森県内にしては、比較的少ないものの寒さは厳しく、また初夏から夏にかけてオホーツク海気団からの冷たく湿った北東の風、いわゆる山背(やませ)が吹き荒れ、農作物に冷害をもたらします。  
歴史的には、古代は、アイヌ語の湾や入り江を意味する宇曾利(うそり)と呼ばれ、平安時代の862年には、天台宗第三代座主慈覚大師円仁が宇曾利山を開き、これが現在の恐山の由来といわれています。  
また、江戸時代には南部藩の代官所が置かれて、海岸部の大湊地域や水運のある田名部(たなぶ)地域は、北前船によるヒバ、アワビ、ナマコ、コンブなど上方への貿易により賑わいました。  
ちなみに、すでに原子力船としては廃船となった「むつ」の名称は、進水時の母港であるむつ大湊港のある青森県むつ市にちなんでつけられました。  
なお、「むつ」といえば、りんごの「むつ」を思い浮かべる人も多いのですが、この品種は、青森県りんご試験場が1930年(昭和5年)に、ゴールデンデリシャスと印度りんごを交配して育成した青森県産りんごの品種名です。  
残念ながら、むつ市では、この「むつ」だけでなく、りんごそのものが、ほとんど生産されていません。下北半島は冷涼と日照不足の気候のために、津軽半島と異なって、果実の生育に適しないのです。  
妻と結婚して、三度目の帰省の際のお正月のことだったと記憶していますが、義兄、つまり妻の姉の旦那さんに、白鳥の飛来地という名所とともに、そのむつ大湊港の近くにある「斗南(となみ)藩上陸の地」という名所を、案内してもらったことがあります。  
名所とは言っても、「斗南藩士上陸之地」と台座に刻まれた、比較的新しい石造の記念碑が海に向かって立っているだけの場所です。身を切るような冷たい海風にさらされて、風花が踊るように舞って、記念碑を包み込んでいました。  
斗南藩?  
日本史はどちらかといえば好きな科目でしたが、斗南藩というのは記憶の底に沈んでいました。  
それもそのはずで、斗南藩は、明治3年(1870年)に立藩されたものの、翌明治4年(1871年)年には廃藩置県により、斗南県となり、弘前県を経て、青森県へと編入されてしまって、斗南藩としては一年余の歴史しか刻めませんでした。  
記憶が薄いのは、風雲、急を告げた幕末の歴史の流れの中に、斗南藩は、わずかに顔を出しただけで、うたかたのように流れ去っていったからでしょう。  
ところで、そのむつ市にある「斗南藩士上陸之地」の記念碑は、福島県会津若松市の方向に向かって、建てられているそうです。
なぜ、青森県の斗南藩の記念碑が、福島県に向かって建てられているのか、お分かりになりますか。  
もっとも、これは、時代劇、とりわけ幕末物が好きな方には、簡単に分かることかもしれません。  
すなわち、斗南藩の最初にして、最後の藩主は、会津藩第九代藩主、松平容保(かたもり)の嫡男、松平容大(かたはる)だったからです。  
戦国時代以来の本格的な内戦ともいえる1868年(慶応4年)の戊辰戦争において、会津藩主の松平容保が、幕府方について、新政府軍との間で、会津戦争を引き起こします。  
この会津戦争において、いわゆる、白虎隊の悲劇というものが生まれたのでした。  
白虎隊は言うまでもなく、会津戦争に際して、会津藩が組織した15歳から17歳の藩士の少年たちの部隊で、勇敢に戦ったものの戦況は思わしくなく、近郊の飯盛山へと落ち延びていきます。  
そこで、遠くに眺めた戦闘による市中火災の模様を、鶴ヶ城(会津若松城)が炎に包まれ落城したものと見て、総勢20名の若者たちが自刃を図りました。その自刃より一月足らずで、会津藩は新政府軍に降伏し、鶴ヶ城を開城することになります。明治元年(1868年)のことでした。  
そして会津藩は、新政府により、藩領を没収され、藩主松平容保は禁錮の処分を受けます。  
明治2年(1869年)、まだ三歳であった息子の松平容大に家名存続が許されますが、会津藩領は新政府の直轄地となっており、はるか遠くの下北の地に移封されて、斗南藩が成立するのです。  
それゆえに、下北半島のむつ市にある「斗南藩士上陸之地」の記念碑は、往時に上陸した斗南藩士たちの望郷への念を配慮して、福島県会津若松市の方向に向かい、しかも、鶴ヶ城の石垣と同じ石を使って建てられたのです。
斗南藩の「斗南」の「斗」という字は、「戦闘」の略字表記である「戦斗」を連想させますから、「斗南」は南と斗う(戦う)ことを意味するようにも思われます。  
すなわち、会津藩より南にあって、会津藩などの幕府方を打ち破った明治新政府の江戸(東京)や、倒幕を推進した長州藩(山口)、薩摩藩(鹿児島)と戦う意味を藩名にこめたようにも思われます。  
しかし、公式的に伝えられるところでは、「斗南藩」の「斗南」のいわれは、「北斗以南皆帝州」の中国の詩文に由来するといわれています。  
つまり、「北斗以南皆帝州」とは、北の空に凛として輝いてる北斗七星の南は、等しくすべて帝(天皇)の国であるという意味になります。  
会津の地であっても、そこから遠く離れた最北の下北の地であっても、すべて北斗七星の南の「斗南」であり、同じく天皇の国土に違いはないのだから、この地で再興しようと決意をこめたのでしょう。  
幕府方の会津藩なのに、なぜ帝(天皇)の国にこだわるのかと思いますが、会津藩は、もちろん徳川家ゆかりの松平家が藩主の親藩ですが、天皇家と常に敵対関係にあったわけではなく、むしろ、皇室への尊崇も深い藩といわれ、とりわけ明治天皇の父親である孝明天皇とは親密な信頼関係がありました。  
ちなみに、孝明天皇の妹がいわゆる皇女和宮で、徳川幕府第十四代将軍徳川家茂の妻です。  
当時、会津藩主、松平容保は江戸幕府の京都守護職という要職にあり、公武合体派の孝明天皇の意を受けて、配下に新撰組を設置するなど、過激な尊王攘夷派の取り締まりを担当していました。  
それが、孝明天皇の突然の崩御により、幕末から明治維新になって、天皇の、朝廷の敵、朝敵とされ、逆賊扱いとなったことは、なんとも歴史の皮肉です。  
「勝てば官軍負ければ賊軍」のことわざどおりです。  
歴史に「もしも」は空しさが募るばかりですが、倒幕派による暗殺説もある保守派の孝明天皇が、もう少しの間でも、生きておれば、倒幕派の薩長連合が官軍ではなく賊軍となったかもしれないのです。  
ちなみに、戊辰戦争以後の戦没者を慰霊するという靖国神社には、賊軍の戦没者は祀られていません。  
つまり、戊辰戦争の幕府方兵士や、会津戦争の白虎隊、西南戦争での西郷隆盛などは、賊軍であるとして、祀られていません。  
そして、日本を敗戦へと導いた太平洋戦争の指導者たち、いわゆるA級戦犯たちは、負ければ賊軍のはずなのに、靖国神社に合祀されているのです。  
ところで、「勝てば官軍負ければ賊軍」ということに関して、想起する言葉に、近年の「勝ち組」「負け組」という言葉があります。  
本来は、バブル崩壊後の日本経済の厳しい状況の中で、進取革新の創意工夫と努力で、生き抜いて行ける企業を「勝ち組」、旧態依然として淘汰されて潰れていく企業を「負け組」と呼んだのだと思います。  
しかし、いつのまにか、企業の中で生き残れる人とリストラの対象になる人であるとか、収入や資産が多い人と少ない人、結婚できる人やできない人など、差別的な意味合いも含めた使い方をされ始めました。  
ところで、「勝てば官軍負ければ賊軍」の言葉が生まれるより前に、我が国では、すでに「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉がありました。「判官贔屓」とは、平家追討に活躍したにも関わらず、のちに征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く兄源頼朝に追われて討たれた、源の九郎「判官(ほうがん)」義経つまり源義経の、薄幸な不遇の生き様に、同情して肩を持ち、愛惜の念を持つことです。そこから、弱者や敗者、薄幸の者に同情し、味方することを「判官贔屓」といいました。  
白虎隊や忠臣蔵の赤穂浪士などが、いまなお国民的な支持を受けるのも判官贔屓といえます。  
しかし、「勝てば官軍負ければ賊軍」「勝ち組・負け組」というのは、ともかく勝てばいい、勝った方が正しく、負けた方が悪い、という発想になりがちです。  
「負け組」という決め付けや、レッテル貼りは、弱者や敗者、薄幸の者を、石もて追い払い、倒れたるところに、なおもて鞭打つような感すら受けます。  
「勝ち組」が「勝ち」を得たのは、もちろん、それ相応の努力や実力もあるのでしょうが、運や偶然の力もあったはずですし、「負け組」が「負け」たのも、必ずしも怠慢で無力だったからではないはずです。  
「勝ち組」が、「勝ち」に走って、人みなすべてが「勝ち」に乗り遅れまいとするような、「勝ち」至上主義のような風潮が続けば、大切ななにかを失っていくように思えるのは、もはや「判官贔屓」を受け得なくなった「負け組」の負け惜しみ、「負け犬の遠吠え」に過ぎないのでしょうか。
みちのくの斗南いかにと人問わば 神代のままの国と答へよ  
会津藩再興の夢を、下北の大地に求めたものの、斗南藩権大参事山川浩が残した句のように、神代のまま、大昔のまま、厳しい自然のままの荒涼たる下北の大地が、再興の前に立ちはだかりました。  
むつ市には、いまも斗南ヶ丘が残っています。  
斗南藩が、藩士の居住地として、藩士たちを開墾に従事させた広々とした土地ですが、広々としているのは火山灰質のローム層の地質のために、開墾が困難であり、農作物育成などにも不向きで、しかも丘陵地のために、やませなどの冷涼な天候が、まともに襲いかかるような地形の土地だったからです。  
先祖代々より下北に住む地元の住民すらも放置せざるを得なかったような土地です。  
しかも藩士といえば、やはり士です。  
士農工商時代の士です。  
サラリーマンがリストラにあって、やむなく不慣れな土木作業や農作業に従事するようなものです。  
結局、恐山を管轄する田名部(むつ市)の古刹、円通寺に置かれた斗南藩の仮藩庁も、藩主が知藩事となって東京に移住して閉ざされ、求心力を失った藩士たちは、数年を経ずして離散してしまいます。  
素人目にも、やはりこの地は過酷過ぎたんだろうなと、昭和に入って北海道からの開拓者により、開墾跡地に作られた、斗南ヶ丘の牧場の搾り立ての牛乳を飲みながら、往時を思い浮かべました。  
異郷の地において、不自由な暮らしの中で、散っていった藩士たち、それはあたかも、白虎隊と命運をともにするような生き様だったのかもしれません。
人の一生は、ひとつひとつの歳月の積み重ねであり、その歳月は、やはり日々の積み重ねです。  
そして、愛しき日々は、決して、過去のみにあるものではなく、未来にも、きっとあるはずなのです。  
白虎隊の少年たちは、燃えさかる炎のなかで、将来の愛しき日々があることを見失い、斗南藩士たちは凍える大地の中で、未来の愛しき日々があることを信じきれなかったのでしょう。  
しかし、昨日までが、愛しき日々ならば、今日も、そして明日も、やはり愛しき日々になることが、できるはずなのです。  
そして、それを信じて生きていく日々が、やはり愛しき日々…。  
 
新島襄 / 激動の時代を生き抜いた人々

 

新島襄の名前を知らないクリスチャンは余りいないのではないだろうか?  
また、クリスチャンでなくても、京都の人で彼の名前を知らない人は少ないのではないかと思う。そして、同志社の人々は、「新島 襄先生」と呼ぶようである。普通の人は、歴史上の人物として敬称は付けないが、同志社の人々にとっては、もっと近しい存在なのであろう。しかし、この大人物の陰に隠れて人々に覚えられることのなかった時代の功労者、襄の妻、新島八重とその兄山本覚馬が、大河ドラマで人々に知られることになった。  
NHKの大河ドラマは、優秀な人材と大がかりな設備と莫大な費用を駆使して、毎回多かれ少なかれ日本の社会に話題を提供する。テレビやドラマに余り大きな興味を持たない筆者でさえ、ある程度の関心を持っていて、見るか見ないかは別として何が放映されているかは大抵知っているほどである。現在、放映されているのは同志社の創立者である新島襄の妻、新島八重の歩み、歴史物語である。普段、大河ドラマに興味を示さない人々でも、クリスチャンは相当な興味を持って見守っている。そして、筆者もその一人である。  
人間の書き上げる歴史は勝者が描く歴史であり、意図的に粉飾していなくても勝者の目に映った歴史であり、敗者の側の視点の歴史が表舞台に出てくることはない。世界の歴史でも日本の歴史でも「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。源義経と弁慶の話や赤穂浪士の討ち入りは言うなら裏の歴史のような存在であり、弱い立場におかれている庶民の「判官贔屓」(ほうがんびいき)というある種の「憐れみの情」の産物であろう。今回大河ドラマの主人公に突如躍り出ることになった新島八重が闘った戊辰(ぼしん)戦争*注は、このドラマのおかげで、敗者の側からの視点もやっと大勢の人々に認識され、少し日の目を見ることになった。新島八重が取り上げられることになった経緯は、どうやら3・11大震災のおかげのようである。復興が著しく遅れることによって、被災地を様々な形で支援し、励ます必要が益々強まってきた。その気運が日本全体に高まってきていることを受けて、NHKは突如予定変更をして、東北地方を主題に出来る歴史を取り上げることになったという。  
どこの国でも大きな差は無いのだろうが、日本でも「権威」「権力」を味方に付けると大衆がなびくという傾向が強いようである。そして、奈良時代以降、その殆どの時代に於いて「権威」は形式的には天皇であった。武家政治が始まってからも、分裂しそうになった時に担ぎ出されるのは天皇の権威であり、それは延々と徳川幕府まで続いていた。そして、徳川幕府が安定していた時代は、一時的に権威を委ねられた形が維持され葵のご紋・幕府が権威になっていた。しかし、徳川の権威が揺らぎ始めた時には、もともと徳川家に幕府を開く勅許を与えたのは朝廷であるから、自分のものであった権威を取り戻すだけのことだと朝廷も人々も心の奥では考え、幕府はたちまち賊軍になってしまった。水戸黄門の「葵のご紋の印籠」の魔力は、ただの作り話ではあるが象徴的な事実である。それが、あっという間に魔力を失ってしまったのであるから、人の心の変節の凄まじさを思う。  
徳川幕府が権力を握りしめていた時代が長かっただけに、幕末の内戦は凄まじく、よくぞ日本中が戦場と化すことなく終息を遂げたものだと感心する。どこから歴史を眺めるかによって幾つもの真実があるのであろう。教科書では、勝者のことが語られるので、錦の御旗を掲げた方が正しくて「官軍」であり、負けた方が「賊軍」であった。高校時代に幕末の歴史の講義で、「尊皇攘夷」「佐幕開国」という言葉に苛ついたことを思い出す。ご存じない方のために説明すると、尊皇とは幕府を倒して天皇を頂点とする政府を打ち立てようとする思想で、一方、「佐幕」とは「幕府を輔佐」しようという勢力である。そして、攘夷とは押し寄せてきた英米諸国を追い払い、鎖国を続けようという思想であり、開国とは鎖国をやめて外国と交易を始めようという思想である。さて、初め、天皇が外国嫌いであったので尊皇派が攘夷派で、一方、幕府の大老・井伊直弼(なおすけ)が日米修好nigima_yae_Vol_1_5.jpg条約に調印して開国したので、佐幕派は開国派ということになっていた。そのために、「尊皇攘夷」「佐幕開国」という変な「四字熟語」が生まれてしまった。ところが、「君子豹変す」のnigima_yae_Vol_1_6.jpg言葉通り、世論の移り変わりに敏感な人々は、尊皇派も佐幕派も、コロコロと意見を変えたので、尊皇派は必ずしも攘夷派ではなくなり、佐幕派もまた開国派とは限らなくなって、双方共に攘夷派と開国派がクルクルと入れ替わった。そのため受験勉強をしている学生たちを混乱の中に巻き込んで、頭の中の交通整理を難しくさせてしまったという奇妙な経緯もあった。  
ドラマがこれらの歴史のドロドロを語っている時には、場面は刀と鉄砲の肉弾戦争と、どす黒い政争の真っ直中で悪知恵を駆使する陰謀の場面など、正直、何の魅力も感じない場面ばかりだったので、余り見なかったが、受験勉強時代のことを思い出した。歴史の教科書で功労者として取り上げられ、その後の歴史の表舞台を歩いた人々の名前と業績を懸命に覚えたのも大昔の思い出になってしまった。余りにも抜け目なく立ち回った岩倉具視や朝廷の人々、人気の高い剣豪桂小五郎(木戸孝允、長州藩)、西郷隆盛(薩摩藩)の無骨とは比較さえ出来ないほど上手に振る舞い、生き延びた大久保利通(薩摩藩)などである。  
幕末の時代の荒浪の中で翻弄され、このような成功者の犠牲になったのが、会津藩である。まさしくいじめられっこ・捨て石にされてしまって、白虎隊で象徴される悲劇の主人公にされてしまった。聞くも涙、語るも涙、そして、恨みと憎しみの渦の中で、次々と犠牲になる人々を生み出してしまった。  
このような暗黒の真っ直中で、新島八重は男に変装してまで果敢に闘った。砲術師範の家柄であったと言っても、当時は(いや今でさえ)女性は、後に引っ込んでいることこそ美徳とされた時代である。その中で、長刀(なぎなた)を習い、砲術を取得して、並み居る男性が適わなかったという恐るべき、胆力、体力の人であったようである。  
鶴ヶ城での戦いでは、人々を励まし、指導して、バンバン鉄砲を撃ちまくったという。テレビドラマの主役の女優は、美人過ぎて、また華奢(きゃしゃ)で可愛くて、どうも写真の八重さんのイメージには合わない気がするが、まぁ、致し方ないだろう、演じているのは女優なのだから。幕末の女性がこんなにも強く逞しかったとは、驚きでもあり、また、ある意味で羨ましく、そしてどのような人生を歩んだのか、興味しんしんである。  
今まで忘れていたことであるが、自分の掌を杖で打ち、自らを罰して生徒を訓戒したという「自責の杖」事件を起こしたのが新島襄である。この事件の詳細は知らないが、この話を聞いた学生時代に、新島襄という人はエライ人なのだろうけれど、芝居がかった偽善者の臭いがすると感じてしまって、こういう行為は好きじゃないなと思ったことがあった。当時クリスチャンではなかったこともあり、クリスチャンへの偏見を多少助長されたかも知れない気もする。  
その新島襄についてさえ余り知らなかったのであるから、まして、その妻である八重や八重の兄の山本覚馬については全く知らなかった。ところが、この八重の壮絶な生き様というか、一生懸命な生き様に気圧(けお)される感じがすると同時に、その兄が妹に倍加して優秀で、日本の近代化のために素晴らしい業績を残しているようなのである。  
 
小栗上野介 

 

罪なくして斬らる  
慶応4年(1868)閏4月6日朝、小栗上野介は家臣三名と共に水沼(倉渕村)の烏川河原に引き出された。幕府から「帰農願」の許可を得て、領地の権田村(倉渕村権田)に移り住み、家族と共に余日を過ごしただけで、明治新政府軍により無実の罪をもって一方的に処断され、むなしく烏川の露と消えていった。  
処刑が終わると主従の首は青竹に刺して道端の土手にさらされ、次のような無実の罪状をつげる高札が建てられた。「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめし者なり 東山道鎮撫総督府試使員」。  
勘定奉行を免職になった上野介は、彰義隊や会津への参加を誘われると「新しい政府に内紛が起きて、国内が混乱し外国に乗じられるようなら自分の役目もあろう。その心配もなく過ごすなら前政府の頑固な一員として静かに世を過ごすつもり・・・・・・・」と断って権田村へ引き移り、村の若者に教育を行って、新しい時代に備えようとしていた。屋敷の完成も近づき、江戸育ちの道子夫人や母堂らも山村の暮らしに慣れ、これからというときに迎えた非業の死であった。
勝てば官軍か  
昭和4年、上野介の遺徳をしのび非業の最期を悼む村民は寄金を集め、この処刑地に顕彰慰霊碑を建てる計画を進めた。碑文には、『偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる』という文字が刻まれる予定であった。ところがまもなく建碑責任者の市川元吉村長は、高崎署署長の呼び出しを受ける。「碑文に罪なくして斬らるとあるが、斬ったのは官軍だ。天皇様の軍隊が罪のない者を斬る筈がない、あの碑はおだやかではない、なんとかしろ。」と署長は告げた。  
「勝てば官軍負ければ賊軍」ということばがある。明治維新に際して、西軍(明治新政府軍)暴虐非道に怒った民衆が権力者の奢りを非難し、たしなめる意味でうまれたことばだが、いつからか「勝ちさえすれば、何をしてもかまわない」という、権力者の都合のよい意味にすり替わり、明治以降昭和20年の敗戦まで、官権軍政治のゆがみを生む原動力になってきたふしがある。署長の言葉も同じ次元の言葉ととられることができる。  
困った市川村長は、碑の撰文揮毫をした京都大学法学部教授蜷川新に手紙を送った。蜷川の母は上野介夫人道子の妹はつ子である。「待っていなさい。田中(田中義一元首相)に伝えるから・・・・・・・」 という蜷川の返事があった後、署長の話は沙汰やみとなって、今も顕彰慰霊碑は建っている。  
じつは、蜷川はこの碑文の他にもう一枚「幕末の偉人小栗上野介終焉の地」を送ってきている。  
人はどちらにしようか、と協議の末、やはりこちらが本当だ、と選んだのが問題になった碑文であった。選んだ村人の見識も立派だと思う。このような散文体の碑文は珍しいといわれる。  
もう一枚は現在村長室に掲げられている。
土蔵付き売り家の栄誉  
元治元年(1864)、幕府は横須賀市に日本初の本格的な造船所を建設することを決定し、着工した。アメリカで近代的な造船所を見てきた上野介の主張で、多くの反対論を押さえての決定であった。フランスから招いた技師ヴェルニーほか多くのフランス人技術者の指導を得て工事が始まった。この時現場を指揮している栗本鋤雲に、上野介は「これが出来上がれば土蔵付き売り家の栄誉を残せる」と語っている。幕府はいずれ新しい政府に母屋(政権)を渡すことになろうが、その時土蔵(造船所)付きならりっぱな物だ・・・・・・、という意味である。  
この言葉には幕府のためにだけ造っているという意識は、少しもない。鋤雲もこの言葉に紹介した後に続けて「彼の言葉は一時の諧謔ではない。幕府が保たなくなることはわかっていても、自分が幕府に仕えている限りは、政権担当者として責任を果たさないわけにはゆかない」(『匏庵遺稿』)という彼の気持ちを、終生忘れられないと伝えている。  
作家司馬遼太郎が「政治・政治家という新しい日本語にふさわしい幕末人」(『街道をゆく43三浦半島記』)として上野介をたたえるゆえんである。
小説『大菩薩峠』  
じつは、勝海舟はこのとき「日本で蒸気船を造るなど、百年いや五百年かかる、船は外国から買えばいい、」とうそぶいて造船所建設に反対している。その勝が明治になって、上野介を評し「大した人物だったが、惜しいこに精忠無比の徳川武士だった」(『氷川清話』)と、あたかも徳川のためにしか動かなかったかのように語り、この生き残った男の言葉によって、以後の歴史家や作家が非業の死を遂げた上野介を低く見捨てる風潮や歴史観が生まれた。  
駅にたとえれば、本来は新幹線の駅に比せられるべき人物が、明治以後百年の歴史教育において抹殺され、時には逆賊扱いさえされて、名もない無人駅扱いをされてきたのである。筆者が子供の頃に見た映画「鞍馬天狗」や「怪傑黒頭巾」でも、登場した上野介は謹皇の志士を弾圧する幕府側の黒幕として描かれ、「小栗様」と村人が敬慕する人物とのギャップにとまどい、くやしい思いを味わったものだ。  
しかし、たとえば「歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史・・・・・・・・」と小説『大菩薩峠』に書いた作家中里介山は、「舞台の回し方が正当にゆくならば、あの(維新の)時、西郷を向こうに回して正面に立つ役者が小栗でありました。」(『大菩薩峠Oceanの巻』)と書いて、その死を惜しんでいる。また、日本海海戦でロシアのバルチック船体をうち破った東郷平八郎は、日露戦争終結後、東京の自宅に上野介の遺族を招いている。招かれていってみると、東郷は遺族を上座に据え「あの日本海海戦において、旗艦三笠や主な戦艦、巡洋艦はイギリスなどの外国製であったが、海戦の夜に最後のとどめを刺した駆遂鑑・水雷艇のほとんどはあなたのお父上が造ってくれた須賀造船乗船所で造られたものである。」と礼を言い、「仁義禮智信」と書いた扁額を、縦横二幅贈って功績を称えている。義を知る人のふるまい、というべきであろう。
スチームハンマー  
現在は横須賀米軍基地内になっている造船所に、幕末に設置された3トンのスチームハンマーがあると、以前から聞いていた。平成8年11月15日私たち村の小栗上野介研究会メンバーは、実際に見られることになり米軍基地へ入った。  
工場の入口に出迎えてくれた石渡工場長の案内で入ると、工場の奥まったところにそのハンマーは大きな半円形のアームに支えられ、どっしりと座っていた。驚いたことにまだ現役で動くもので、しかもちょうど仕事が入ったので私たちに見せるために待っていってくれたという。  
真っ赤に焼かれた約300キロの鋼材が天井のクレーンに吊されて運ばれ、ハンマーの真下に据えられるとすぐにハンマーがスチームの力によってスッと引き上げられ、たちまち自重3トンの重みでドンという鈍い音をたてて落とされる。何回か繰り返されると、真っ赤な銅材の頭がたちまち低くつぶれ、とてつもなく大きなボルトに整えられてゆく。その繰り返しを見ているうちに、胸が熱くなってきた。上野介が日本の近代化に役立つことを確信して建設した施設の中で、その当時の道具が130年後の今も実際に役立っているのだ。  
ハンマーを支えるアーチの基部の1865(慶応元)年オランダ・ロッテルダムで製作、という文字が私には誇り高いものに見えた。そして、この造船所が完成したのは1869(明治2)年。その前年に上野介は明治新政府軍に殺されてしまうが、設置されたばかりのハンマーを見ているに違いない。日本の近代化は幕末に始まっているという生きた資料であり、「日本の近代重工学の源泉」(司馬遼太郎)のシンボルがこのスチームハンマーと言えよう。  
しかし、今は年に2〜3回しか使わないこのハンマーは、まもなく新しい工場ができて使われなくなる。もしかしたらこれが最後の仕事かもしれない、という工場長や担当者の言葉もいくぶん寂しそうだった。かつて横山前市長はなんとかして市の文化遺産として残したいと語っていたが、はたしてどうなる事か気がかりな事である。
栗本鋤雲  
1864(元治元)年11月、幕府は運搬船翔鶴丸の機関修理をすることになった。従来の蒸気船修理は手間と経費がかかるわりには故障することが多く、なんとかしたいと考えた酒井飛騨守は監察として横浜に在任中の栗本鋤雲を呼び、横浜に来ているフランス軍艦に頼むことほか命じた。フランス公使ロッシュや書記官カンションと親しく、フランス語を話せる栗本鋤雲の手腕に期待したのである。  
軍艦ケリエル号の士官や職工の手により修理がすすんだ12月中旬のある日、晴れて風が激しい夕方、役所を終えて官邸に帰ろうとして鋤雲は街角を曲がりかけ、後ろから駆けてきた二頭の馬上から大声で呼びかけられた。  
「やあ、瀬兵衛(鋤雲のこと)殿、上手くやったな、感服感服」  
見れば小栗上野介とその従者である。  
「何をうまくやったというのです」  
「翔鶴丸の修復だよ」  
「あなたはもう見てきたのですか」  
「見たとも見たとも、しかも大見だ。今日は英国のオリエンタル銀行に用事があってやってきた。出先の者でも用が済むことだが、らちが明かないと困るので午後から自分で来た。用件がすぐに済んだから貴兄に会いたくて役所に寄ったら貴兄が帰った後だった。そこで翔鶴丸に入り船底まで入って全部調べたが、ケトル(機関)も腐食部分も全部とって補習してありとてもよい。それにしてもパイプがよく間に合ったな」  
「実はそれには少し困って、上海にこれに合う品があると聞いたのでちょうどよい船便があったから取り寄せて、早く出来上がったのです。ふつう外国製品を買うには貴殿(勘定奉行)の担当の許可を得なければならないのですが、それをしていると時間がかかってしまうので今回は請負普請の仕上げ勘定で、勝手にやってしまいました」  
「ああ、いいともいいとも」(鋤雲著 『匏庵遺稿』)  
まことに小気味よいキビキビとした会話が交わされている。勘定奉行が直接船底まで降りて修復箇所を確かめる姿は、物事のポインを心得、人任せにしないリアリストの側面をうかがわせる。ワシントンでの造船所見学が生かされているのであろう。「見たとも見たとも、大見だ」という言葉に躍るような嬉しさが出ている。 また、「お役所仕事では間に合わない。やれ評議、やれ回し(稟議のこと)といい、永びいているうちに時期を失すから・・・・・仕上げ勘定で勝手にやった」という鋤雲の言葉もいい。
日本に造船所を作る  
このあと鋤雲の官邸に上がり、上野介はこの際フランスの技術援助を受けて本格的な造船所を建設をできないだろうかと切り出す。ドックと製鉄所を造りたい、と上野介は無造作にいうが鋤雲にとってドックとは初めて聞く言葉であり、まして製鉄所などどんな物か見当がつかない。  
当時、アメリカは南北戦争のためる援助を期待できず、ロシアは恫喝外交で嫌われ、イギリスはアヘン戦争以来侵略と日本の未熟さに付け込んで暴利をむさぼるやり口を警戒され、結局翔鶴丸のこともあってフランスにいくぶんの誠意が見られることから、技術援助を乞う国として公使ロッシュに相談がかけられた。  
ロッシュの手配で海軍将校らが協議した結果、推薦されたのが、上海でフランス砲艦を建造し帰国しようとしていたヴェルニーであった。この時20歳。彼にあった幕府の役人はあまりの若さに驚いて「小栗殿はロッシュに騙された」とささやいた。さらに造船所そのものへも、小栗はフランスに国を売ろうとしている。造船所など不要不急だ、金がないのにどうして造るか・・・・・、と反対は激しく、上野介の志を理解しない俗論が渦巻いた。たしかに造船所だけでも毎年60万ドル・4年がかりで計120万ドルの出費になる。上野介はこれについて、  
現在の幕府の経済は全くやりくり身上というやつで、たとえこのことを始めないからといって、その分だけどこかに移してこれを潤すというわけでもない。だからどうしても必要なドック修繕所を造るのだといえば、かえって他の消費を節約する口実にもなるだろう。」と語って建設を進めた。明治になって元幕臣の福地桜痴は、「小栗は、財源を諸税に求めたり、或いは厳しくむだな出費は省いてこれに宛て、いまだかつて財政が困難だからと必要な仕事をためらわせるようなことはなかった、」(『幕末政治家』)とふりかえって、上野介の苦心と努力を伝えている。話を元の米軍基地に戻すと、こういう過程を経て設置されたスチームハンマーなればこそおろそかにしてはいけないと愛惜の思いがつのる。
ワシントンへ  
1860(万延元)年、アメリカへむけて幕府の遺米使節が発出した。正使新見豊前守、副使村垣淡路守、監察小栗豊前守(のち上野介)の三人が使節。以下役目に従う者がいて計77人の一行だった。開国してアメリカと正式に友好通商条約を結んだ際、日本から使節をアメリカに派遣してこれに批准するという約束があり、井伊大老の任命によりされた使節であった。使節はアメリカの軍艦ポウハタン号に乗って太平洋を渡る。  
途中ハワイ王国によってサンフランシスコに到着、さらにパナマから汽車で大西洋に出て再び船でワシントンまで行きで、ブキャナン大統領に会って条約批准を行った。ワシントンでは海軍造船所を見学し、船ばかりなく大砲や銃などの武器を制作する過程をつぶさに見てきた。
水洗トイレ  
使節一行は武士ばかりでなかった。小栗家の領地権田村の佐藤藤七もこの一行に加わっていた。藤七が所持していた「渡海日記」が残り、また他の者の記録も刊行されていて一行の様子を読むことができる。  
ハワイでの原住民の様子と対照的な西洋化近代化に驚き、サンフランシスコ到着後はさらに驚くことが増える。すでに電信器が一行の到着をワシントンに伝え、大きなホテルは部屋ごとに電信器があり連絡を取れる。夏でも冷たいアイスクリームが出て不思議がる。じゅうたんが部屋や廊下一面に敷かれている贅沢さも驚きであり、町や室内が綺麗な事、ガス灯がともり、スライド上映に目を見張る。パナマで乗った汽車はまことに速く、車の下の草を見分けられないと述べている。  
数年前、私の寺の外トイレを改築するにあたり、もしやこの一行は水洗トイレを使っていないかと思いついて調べてみると、確かにあった。アメリカではすでに水洗トイレが始まっていて、「便器は陶器で出来ていて、腰掛けて用を足し、終われば右の捩子を回すと汚物が流れる」と図まで丁寧に一行が記録してきている。せっかくだからこの図を拡大し、手製パネルに『サムライは水洗トイレを使った』という題をつけて出来たトイレに掲示した。どうぞごらん下さい。
米人が動かした咸臨丸  
ワシントン造船所の記念写真は勝海舟は写っていないから、使節ではなかったのかという質問がよくでる。勝の乗った咸臨丸は使節の護衛船という名目でサンフランシスコと日本を往復しただけでワシントンには行っていない。その咸臨丸はブルック大尉ほか10人のアメリカ人船員が頼まれて乗り込み、彼らの力があって初めて2月の北太平洋の荒波を乗り切ることが出来た。  
ところが「日本人だけで太平洋を横断した咸臨丸」という話が明治以降の日本の国威発場に利用され、勝が使節のように宣伝され錯覚されてきたのである。アメリカ人船員については、「頼まれてアメリカの水兵たちを乗せてやった」となる。咸臨丸の帰国に当たっても、心配だから、と木村摂津守はブルック大尉に頼んで再びアメリカ人船員5名に乗ってもらって帰国している。  
航海中、勝は年下の木村摂津守が軍艦奉行として乗り組んでいることがおもしろくない。「あいつは家柄でえらくなった」と自分が艦長ではなく教授方頭取という役であることをひがみ、ふてくされた言動で乗組員の非難を受けていた。そして「船酔いが激しく、航海の大部分を船室で過ごすこととなった。」(ブルック『咸臨丸日記』及びニューヨークタイムズ1860,4,17)と報道されるほどだった。  
木村の従者として乗っていた福沢諭吉は、明治になっても勝の態度に不快なものを抱き続けていた。
小判とドルが不公平  
フィラデルフィアで、上野介は条約批准のほかにもう一つ大事な交渉を行った。当時の日本の通貨と米国のドル交換比率に格差があり、外国人が一ドルを一分銀3枚と換えると一分銀4枚で一両小判に換えられる。この小判一両がアメリカでは4ドルに交換されるから、働かなくても、1ドルが4ドルに増える。これでは日本の小判はほとんど外国へ流出する。  
日本では金と銀の価値比率が1:5と銀を高く見ていて、外国がほとんど1:15くらいであることの不釣合かあらくる不利益をこうむっていたわけだ。横浜で小判の買い占めが起こるほどであった。上野介はこの問題を解決するため、カス国務長官と会談して小判とドル金貨の金銀の含有比率を分析批准するよう粘り強く求め、フィラデルフィア造幣局へ出向いてその不公平を認めさせた。条約批准の陰に隠れて、この話は大きく伝わっていなかったが、彼の経済感覚の鋭さをいかんなく発揮した場面であった 。
近代化が国の基本  
各地で大歓迎を受けた遣米使節一行は、米国各州を回っていかないかという誘いを、とにかく用事が済んだのだからと振り切って、ニューヨークから帰国の途につく。大西洋からアフリカの南端を回りインド洋を渡って香港から帰国した。約8ヶ月の地球一周の旅であった。帰国後の日本は、大歓迎してくれたアメリカとうらはらに攘夷運動が激しく、アメリカの話などする者は「外国かぶれ」「売国奴」として暗殺されかねない風潮であり、開かれた国を見てきた使節の一行もほとんどは首をすくめ黙して語らなかった。  
このような時、帰国後の行動にアメリカでの見聞きを役立てた人物として、作家司馬遷良太郎は小栗上野介、福沢諭吉、勝海舟の三人をあげている。たとえばニューヨークタイムズが「小栗豊後守は、アメリカの文明の利器を日本に導入することに大賛成だといわれている」(1860,6,22)と報道したように、上野介は帰国後アメリカの進んだ文明と政治をはばかることなく語り、新しい政治と近代化を急ぐことが外国と対等に交渉する基本となることを説き、すすんで外国の文物を取り入れた。  
神田駿河台の屋敷(明治大学の前)に日本で初めての西洋館を建てイスとテーブルの生活をして、「小栗様の石倉」と江戸で評判となった。この西洋館は明治以降土方久元家のものとなった。  
また横浜にフランス語伝習所を開設し、優秀な若者にフランス語や理科数学を学ばせて横須賀造船所に送り込み、日本人職工とフランス人技師の通訳とした。完成した造船所の幹部として彼らが活躍してゆく。高崎で暗殺された小栗又一も学んだこの伝習所が残っていれば東大以上の大学になっていた、と言われるが惜しいことに明治維新で閉鎖されてしまった。
責任のある限り努力  
鳥羽伏見の局地戦に敗れたあと、引き上げた大阪城からも抜け出し、江戸に戻った将軍慶喜は、ニセの綿旗におびえ、朝敵になることをひたすら恐れて、戦って局面を打開する意欲を持っていなかった。慶応4年1月15日、上野介は江戸城でお役御免の申し渡しを受ける。  
すでに「土蔵付き売り家」と語って「母屋(徳川政権)は売りに出る」ことを見通していながらも「親(幕府)の病気が重いからといって、薬を与えない子(家臣)がいようか」「我が事(つか)ふるうことの存せん限りは一政権の臣にある限りは、一日として遅滞は出来ない」として、上野介は最後まで日本の近代化に努力した。  
明治以降の歴史教育では、上野介がやったことは徳川政権強化策だから、あるいは官軍に対して主戦論を唱えたから、と悪者のようにいうが、官軍・賊軍は明治以降に付けた名で当時はどちらも官軍だと思っていたのだから、次の政権の構図が示されていないときに無責任な投げ出しをするはずもなく、政権担当者として当然のことをしたまでのこと。それが明治になると幕府を暗黒の政府、井伊大老は朝廷に無断で開国したから悪者とする単純な史観が、幕末の近代化の努力を矮小化し上野介を逆賊視してきた。  
ともかく御役後免になった上野介としては役目としてなすべきことはやったという心境であったろうか。1月28日、「権田村への帰農土着願」を幕府に出し、翌日許可を得て引き移りの準備に入る。
人材を育てる  
関東各地に合わせて九ヶ所の領地を持つ上野介がなぜ権田を隠棲の地に選んだのか、理由を推測するとそこに人のつながりの濃さが見えてくる。東善寺の中興開墓は五代小栗政信であり、名主佐藤藤七は遣米使節の従者として加えられ、村の若者16人は農兵として取り立てられ江戸で仏式軍事訓練を受けているなど、他の領地には見られない交流の深さがある。藤七はパリ万博に際して出品責任者までつとめている。  
呉服商越後屋にはいって幕末から明治にかけての変革期を乗り切り、さらに三井銀行を創立して現在の三井の基礎を築いた功労者の大番頭三野村利左衛門も、若い頃小栗家の仲間奉公をしていたことからその才能を見出され、引き立てられた人物。平成一年5月に刊行された高橋義夫『日本大変』(ダイヤモンド社)にその経緯が詳しく展開されている。  
こうして見ると上野介の特徴として、人材を他に求めず足元から育てる姿勢がうかがえる。権田に移ってからは、私学校設立の構想を語って次代のために若者に新しい時代に対応できる教育を施し「いずれこの谷から太政大臣を出して見せる」と村人に夢を語った。実際それは可能だったかもしれない。なにしろこの時2ヶ月間、権田村には上野介をはじめ用人塚本真彦、家臣荒川祐蔵、佐藤藤七とアメリカ帰りがじつに4人もいたのだから。
権田の65日  
権田に到着して3日目に「打ちこわし」という約2千人の暴徒が高崎方面から、途中の村々の富農をおそった揚げ句、上野介の資産を狙って押し寄せた。上野介は家臣や村人約百名を組織して撃退に成功したが、この時江戸でフランス式訓練を受けた農兵16人が大活躍した。  
暴徒が逃げ去ったあとは静かな山村に戻り、上野介は近くの観音山に建築を進めている屋敷工事の見回りを日課とし、養子又一は毎日のように観音山に出来た馬場で馬を乗り回している。家族は山村の暮らしに慣れてきて、近くの河原へ草摘みに出かけるようになった。暴徒に加わった近隣の村役人がわびに来たとき、上野介はそれを受け入れ、若者に教育する必要を説いて寺によこすようにと伝えている。  
そんな平和な中に突如迎えた非業の死であった。そして上野介の死後、村人たちは上野介の生前の業績をはずかしめない働きをする。
小栗夫人、会津へ脱出  
上野介主従が西軍に捕らえられる前、上野介の頼みを受けた村役人中島三左衛門は村人で護衛隊を作り、道子夫人、母堂邦子、又一の許嫁鉞子らを守って村を脱出した。めざすは会津で、坂上村〜六合村〜秋山郷〜十日町〜新潟、と昼は隠れ夜を歩く苦難な旅を続けた。ことに秋山郷への山道は今でも車が通れないほどけわしい。江戸育ちの道子夫人にとって、主人を殺され、西軍に追われるという、身重の身体にどれほどつらい旅であったかと思う。  
村人はその夫人らを支え、新潟からさらに会津へ至る。まもなく戊辰戦争が始まると村人も会津軍に加わって戦い、塚越冨五郎を高郷村、佐藤銀十郎を喜多方市の戦闘で失う。二人とも二十代の若者だった。農兵池田伝三郎は会津からさらに函館五稜郭まで転戦し、戦後は羅卒(巡査)となり、明治十年には西南戦争に敗戦。西南戦争で受けた頬の傷をひげで隠して京都で巡査としての生涯を送った。  
会津藩家老横山主税の家に身を寄せ、まもなく生まれた上野介の実子国子を加え、中島らは敗戦の会津若松をどうし過ごしたものか、明治2年春江戸に出、さらに静岡まで夫人らを送り届けて村に帰った。乞食同然の姿であったという。
お首級迎え  
小栗父子の首級は処刑後館林に送られ、東山道総督岩倉具定の首実検を受けたのち法輪寺境内に葬られた。 会津から帰った中島は殿様の首がないままなのを憂え、塚越房吉と共に今度は館林に出かけて行く。「疲れたから誰か代わってくれ」と言ったかどうか。行動する人間は常に動き、言い訳して動かない者はやはり動かない、ということだろう。中島の耳には「わしも井伊大老のように殺されるかもしれないが、死んでも首と胴は一緒にいたいものだ」とかつて冗談まじりに語った上野介の言葉があった。  
旧領地高橋村(佐野市)名主の人見宗兵衛に相談し、その叔父渡辺忠七(館林細内)の協力を得て法輪寺に至り、「殿様の一周忌が近いので墓を建てたい」というふれこみで場所を確認。苦心の末、一度は失敗、二度目は成功して盗み出し権田村へ持ち帰ると、ごく数人に拝ませ東善寺境内の上野介の本墓に葬った。又一の首級は下斎田村(高崎市)の村役人田口を呼んで渡し、胴体と一緒に葬ってもらった。関係した村人は明治政府の監督下にあるものを盗んだのだから、この事件を「お首級(くび)迎え」と密かに言い伝えた。村に戻った中島はのちに前橋藩に呼び出され藩主から「武士も及ばぬ振る舞い。」とたたえられ、名を「誉田」と改めるよう言われて誉田三平次と改名した。
姉妹観音  
塚本真彦が高崎で処刑された時、江戸から来ていた塚本の家族は難を避け七日市藩(富岡市)のしるべを頼って避難行が始まった。娘チカは祖母とともに地蔵峠(倉渕村−松井田町境)近くの山中で道に迷い、炭焼きをしていた村人に案内を請うが、村人が村へ降りて支度をして戻ると、二人は待ちきれず、密告を恐れて自害していた。また塚本夫人は男の子と幼女二人を連れていたが、山中で困惑の果てに幼女二人を川に沈め、跡取りとして大事な男の子のみを連れて松井田の民家にたどり着く。祖母とチカは寺に墓があるが幼女二人の話は近年判明したので数年前に寄金で相間川のほとりに姉妹の観音像を建て供養している。  
 
反省

 

一般的には自分がしてきた行動や発言に関して振り返り、それについて何らかの評価を下すこと[1]、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること[2]。あるいは自己の心理状態を振り返り意識されたものにすること。  
自分が正しいと思ったとき人は反省しない。軽い気持ちかもしれないが、 人にはそういう紛争の種が潜んでいはしないか。放っておくと危険だろう。  
ジョン・ロックは反省を、外的対象に向けられる感覚に対して、意識の働きに向けられた内的感覚と考えた。  
哲学史において、アリストテレスは感覚を五感に制限して内的感覚を否定したが、プラトンは、「精神の目」を認めていた。カントは、これを「内的直観」と呼び、ヘーゲルは反省を、相関的な関係を持った二つのものの間にある相互的反射関係を示すために用いた。  
「振り返って考えることのほかに、過去の自分の言動や行動、考え方に対して、その過去から現在までに得た知識・情報を元に過去の自分のありかたを鑑み、将来に渡って、悔い改め改善しようとする気持ち、これがなければ人間的成長はない。」  
杉田玄白  
昨日の非は悔恨すべからず。明日、これ念慮すべし。  
中江藤樹  
悔は凶より機知に赴く道なり。  
萩原朔太郎  
懺悔者の背後には美麗な極光がある。  
松井秀喜  
成績に満足するとか、しないとか、というのはないんですよ。常に反省を次に持っていくという感じですから。  
作者不明 
反省することができないから、正すこともできないし、希望も見えない。  
マッスル北村  
絶望や失意の時こそ、過去の自分を反省する絶好のチャンスであり、またとない飛躍の時なのだ。  
福沢諭吉  
およそ世の中に無知蒙昧の民ほど憐れなものはないし、つきあいにくいものはない。彼らは恥を知らない。自分の無知を反省する能力がないから、金持ちを恨み、ときには集団で富者を襲う。自分は国の法律に守られながら、自分に不利な場合は平気で法を破るのである。  
椎名深夏『生徒会の一存』  
うるせぇ!反省しない先輩なんて、もう先輩失格なんだ!留年どころか、降年すべきなんだよ。  
中居正広  
ダメだったところっていうのは、探してでも見つけなきゃいけないんじゃないかなって。  
ダンテ  
後悔する者にのみ、許しが与えられる。  
ながれおとや  
反省するのはいい。だが、自分をいつまでも責め続けるのは、単なる自己満足だ。  
(日本のことわざ)  
人の振り見て我が振り直せ。  
作者不明 
始まりのない終わりはない。反省、点検すべきは、むしろ始まりにある。  
アンリ・ポアンカレ  
すべてを疑うか、すべてを信じるかは、二つとも都合のよい解決法である。どちらでも我々は反省しないで済むからである。  
斎藤茂太  
反省している間はものごとは前に進んでいかない。  
石ノ森章太郎  
盲目的前進は、どこかで方向を間違えても気づきません。時折立ち止まって周囲を見回しましょう。そして反省の時を持ちましょう。  
(日本の格言)  
反省は休むに似たり。  
アンブローズ・ビアス  
反省 ー 昨日の事物と自分の関係をとらえ、再び遭遇することのない危険を避けること。  
ジョセフ・マーフィー  
自己卑下しそうになったら、できるかぎり自分のよい点を見つけるようにすべきです。反省の名を借りた自己卑下は自信を失わせ、潜在意識に悪い影響を与えます。  
セーレン・キルケゴール  
女性は実体で、男性は反省である。  
アウレリウス  
他人の過ちが気に障る時は、即座に自らを反省し、自分も同じような過ちを犯していないか考えてみるといい。  
長嶋秀夫『絶対零度』  
反省と後悔とは全然違うものだぞ。反省するために立ち止まるんだ。また歩き出すときに前に進むことができるからな。だから、後悔して、後ろを向いたままでいると、何の解決にもならない。  
本田宗一郎  
技術屋というものは、失敗したときには必ず反省するが、成功すると反省しない。  
梅原猛  
高みをめざす人は、不遇なときに意気を強く持ち、得意の絶頂のときには、何か自分の成功に誤りはないかと、反省しているものです。  
外山滋比古  
汗を流して、体で考える。観念としての知的生活は反省が必要である。  
エラ・ウィーラー・ウィルコックス  
18歳では即座に崇拝し、20歳では即座に愛し、30歳では即座に欲情し、40歳では即座に反省する。  
真藤恒  
反省し、直そうとするから改善があり、進歩がある。もし自分のやったことが正しいと思い込んだら、その人間の「明日」は来ない。  
大村あつし  
「失敗」「反省」「勇気」の三種の神器を持つ。これさえ捨てなければ、私たちの挑戦は、成功が約束されているも同然です。  
吉田貞雄  
夢のある者には希望がある。希望のある者には目標がある。目標のある者には計画がある。計画のある者には行動がある。行動のある者には実績がある。実績のある者には反省がある。反省のある者には進歩がある。進歩のある者には夢がある。  
松下幸之助  
誰でもそうやけど、反省する人はきっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。  
作者不明  
反省とは悔やむことではない。前進するための土台である。  
稲盛和夫  
失敗していいのです。失敗をしたら、反省をし、そして新しい行動へと移る ー そのような人は、たとえどんな窮地に陥ろうとも、後に必ず成功を遂げていくことができるのです。  
マーク・トウェイン  
多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ。  
本田宗一郎  
開拓精神によって自ら新しい世界に挑み、失敗、反省、勇気という3つの道具を繰り返し使うことによってのみ、最後の成功という結果に達することができる。  
ヴォーヴナルグ  
生まれつき確固たるものを持ち、反省によって柔軟になるのはよいことである。  
孟子  
人を愛しても親しまれないときには、自分の仁愛の心が足りないからではないかと反省するがよい。  
勝谷誠彦  
(迷いや悩みを)文字にしてはっきりさせると、覚悟しないといけなくなる。反省もしないといけなくなる。  
鮫島輝明  
人に接する時は、暖かい春の心。仕事をする時は、燃える夏の心。考える時は、澄んだ秋の心。自分に向かう時は、厳しい冬の心。  
倉田真由美  
失敗はしたっていいんです。大事なことは、失敗した経験を消しゴムで消してしまわないこと。ちゃんと反省して次に結びつけることです。  
杉本美佐子『7人の女弁護士』  
反省の気持ちは、結果を出すことで表してもらいましょう。  
H・ジャクソン・ブラウンJr.  
自分の顔が酷くなってきたら、自分の性格を反省せよ。  
川端康成  
後に残ったものの反省や後悔は、死んだ人の重荷になりそうに思いますの。  
作者不明  
後悔は、過去を変えたがる気持ち。反省は、未来を変えようとする気持ち。  
作者不明 
「反省はするべきだけど、後悔はしなくてもいい」って。反省は未来に繋がるけど、後悔は過去に縛られてるだけなんだってさ。  
作者不明 
行を省みる者は其の過ちを引かず ー 自らの行いを反省する者は、同じ過ちを繰り返さない。  
孔子  
良心に照らして少しもやましいところがなければ、何を悩むことがあろうか。何を恐れることがあろうか。  
加藤諦三  
欲しいものが手に入らないとき、あるいは失敗したときに、これは自分に何を教えているかと省みる人は、最後に幸せになる。  
伊藤東涯  
君子はおのれを省みる。人を毀(そし)る暇あらんや。 
野村克也  
勝つときにはいろんな勝ち方があって、相手が勝手にずっこけたり、勝手にミスしてくれたりして「ああラッキー」という勝ち方もあります。しかし、負けるときというのは、負けるべくして負けるものです。勝負の世界にいると、勝って反省というのはできないが、負けたときには反省する。敗戦の中にいい教訓があると思います。  
本田宗一郎  
進歩とは反省のきびしさに正比例する。とかく他人にきびしく、自分自身に寛大なのは凡人の常だ。  
矢野博丈  
日本で、100円均一価格で商品を安く売りすぎた反省もあり、コストもかかる海外では日本より2倍程度高い価格で販売しています。商品にはそれなりの品質で、それなりの価格というものがあるのです。  
平井伯昌  
初期の大きな失敗から、私は「待つこと」の大切さを教わりました。いまでは自分が言いたいことがあってもぐっとこらえ、まずは選手に質問するようにしています。そうして選手自身が泳ぎを反省し、言語化するのを待つ。自分の考えを伝えるのはそれからです。  
羽生善治  
最近は、どんなに反省したり注意したりしても、同じところで同じようなミスを繰り返すのは仕方がないことだと思うようになりました。ミスを犯さないようにしようとすると、かえって自分の長所まで消してしまうということにもなりかねません。  
山村雄一  
人生にはどうしても必要なことが3つある。それは夢と、ロマンと、反省だ。人間はこの3つを持っていないと上手くいかない。  
松岡修造  
誰でも体調を崩すと「やっぱり自分は飛ばし過ぎだった」と反省しますが、調子がよいときはなかなかそこに考えが及びません。「安全と思うときほど危険なのでは?」と疑い、自分の心と体と対話して状態をチェックし、それに応じて休養をとるように心がけましょう。  
高田明  
もし売れなかったときは、お客様の支持が得られなかったと反省が必要。商品がダメなのか、値付けがダメなのか、それとも提案の仕方が悪いのかを、徹底的に考える。  
笛吹雅子  
時間を効率的に使うには、あえていえば、クヨクヨしないことでしょうか。というのもニュースの仕事は、毎日、反省だらけなんです。反省にはキリがない。課題を見つけて解決することは重要ですが、クヨクヨすることに時間を使っては仕方がないです。  
細谷英二  
修羅場を上手く乗り越えられれば自信がつきます。けれども、失敗することもある。そのときは謙虚になって「なぜできなかったか」を反省すればやはりプラスになります。ともかく修羅場にぶつかるということが重要だと思います。  
野中郁次郎  
経営者が過去を洞察して反省し、謙虚な姿勢を崩さない。そのうえで自分は日々会社の歴史を作っているという自覚を持つ。そういう姿勢と自覚を持つ経営者だけが未来を築いていくのでしょう。  
樋渡啓祐  
修正はしますが、反省も分析もしません。気分が暗くなるだけですから。ただ、人よりも速く走りたい。  
大川順子  
仕事を振り返る習慣を持つと、反省や後悔はつきものです。何年乗務をしても、「あのとき、こうすればよかった」と、ベッドに寝てから思い返すことはしょっちゅうありました。そして、そこを改善できてもまた、すぐに次の目標が出てきます。  
大林伸安  
頑張ってやり続けるだけではもったいない。反省点を次に活かせるように、振り返りを徹底しましょう。  
高田明  
ジャパネットは2年続けて減収です。それ自体は全然問題ないのですが、お客様の期待に応えられていないのではないか、という反省があります。  
鈴木喬  
反省するような奴は行動力がないから、新しいものができない。おっちょこちょいな奴は、一切反省しませんね。  
真藤恒  
反省し、直そうとするから改善があり、進歩がある。もし自分のやったことが正しいと思い込んだら、その人間の明日は来ない。  
倉重英樹  
やりたいことがある人は、まっしぐらに道を突き進めばいい。そのかわり、失敗も多いはずです。若いころの失敗は必要ですが、大切なのは素直であることです。失敗の原因を素直に認めて反省できれば大きな糧になります。  
下川浩二  
手帳には目標だけでなく、その達成のために何をすべきかを書き込み、目標に対する結果を反省することが大切です。  
佐藤孝幸  
反省というのは、自分の失敗を後悔することではありません。失敗と向き合い、どうすればその失敗を克服して次に進めるかを考えることです。つまり問題を解決するということです。  
津谷正明  
相手の立場を考えることは、スピーチの場面でも求められます。私はスピーチのたびに、「こうしたら、もう少しわかりやすかったかも」「話し方が速くなってしまったな」と反省します。聞き手の興味、関心によって、話し方や内容を微調整し、カスタマイズしていくことが求められます。  
藤間秋男  
失敗の原因を考え、反省することは必要です。でも、ひとしきり頭のなかで反省したら、次のやるべきことを考えましょう。過去をすっぱり忘れて前向きになることが大切です。  
潮田滋彦  
プレゼンの反省をする人は多い一方、うまくいったところを見つけて自分をほめる人は少ないようです。反省も大切ですが、反省ばかりでは自己嫌悪に陥ってしまい、プレゼンに対する苦手意識だけが残ってしまうことになりかねません。  
小宮一慶  
ずっと出世街道をきた人は、どうしても自分を過信してしまうことがあります。もちろん自分を全否定する必要はないですが、自己正当化して失敗するのはもったいない。大事なのは、人の話に耳を傾け、受け入れること。そして一日に一回は自己反省する時間を設けること。  
白洲次郎  
私はお互にもっと自分自身を反省すべきだと思う。私などこの自分の反省の不足に毎日々々悩んでいると正直に白状するが、ことさらに産業の経営者にはこの反省が必要だと思う。  
野口孝広  
自分は勘違いしていないか、驕った振る舞いをしていないかという反省力が問われる。  
シラー  
重荷をいだいた胸は打ち明ければ軽くなる。  
シルス  
過失を率直に告白するは、それが無罪となるひとつの段階なり。  
三木清  
白叙伝は他人に読まれることを予想して書かれ、そして他人の前で自己を正直に告白することは困難であるのによるともいはれよう。  
シラー  
汝が死ぬ前日に懺悔せよ。  
スタンダール  
最も賢明なことは、自分を己れの打ち明け相手にすることである。  
斎藤緑雨  
懺悔は一種ののろけなり。快楽を二重にするものなり。懺悔あり、故に悛むる者なし。懺悔の味は人生の味なり。  
田辺元  
懺悔とは、私の為せる所の過てるを悔い、その償ひ難き罪を身に負ひて悩み、自らの無力不能を慚ぢ、絶望的に自らを抛ち棄てることを意味する。  
(ユダヤ伝経)  
懺悔する者に、その前の罪科について思い起こさせるな。  
ラ・ロシュフーコー  
心の裡を打ち明けるのは虚栄のため、しゃべりたいため、他人の信頼を惹きつけたいため、秘密の交換をしたいためである。  
長谷川如是閑  
囚人は前科を誇り、宗教家は懺悔を誇る。  
芥川龍之介  
古人は神の前に懺悔した。今人は社会の前に懺悔してゐる。  
ニーチェ  
ほかの人に懺悔してしまうと、当人は自己の罪は忘れるが、たいてい相手の人はそれを忘れない。  
ヴィトリオ・アルフィエリ  
人間誰しも過失のある者であるが、犯罪に対して感じられる悔恨は、悪から徳を区別する。  
エウリピデス  
過ぎ去りし災難を記憶することいか、いかばかり愉しきことか。  
シャーマン  
将来に対する最上の予見は過去を顧みることである。  
ジョセフ・ジューベル  
人の不幸はほとんど反省によってのみ生まれる。  
ジョナサン・スウィフト  
人は過去の過ちを認めることを恥じるべきでない。今日の自分が過去より利口だといっていることにほかならないのだから。  
スタンダール  
最も聡明なことは。自分を己の打ち明け相手にすることである。  
フリードリヒ・フォン・シラー  
汝が死ぬ前日に懺悔せよ。  
(ユダヤ人のことわざ)  
懺悔する者に、その前の罪科について思い起こさせるな。  
箴言『旧約聖書』  
聡明は人に怒りを忍ばしむ、過失をゆるすは人の栄誉なり。  
孔子  
過って改めざる、これを過ちという。  
ルカ伝『新約聖書 』  
もし汝の兄弟、罪を犯さば、これを戒めよ。もし悔改めなば之をゆるせ。  
松下幸之助  
悩みはあって当たり前。それは生きている証であり、常に反省している証左でもある。 
中村天風  
貧乏な人は、ここいらで反省しなきゃ駄目だよ。「ああ、そうか、私は貧乏神と縁が切れない人間かと思ったら、そうじゃなかった。自分で招いたことなんだ」。そうですよ。あなた方のほうでもってウインクを与えるから、貧乏神が来るんだ。変なものにウインクを与えなさんなよ。  
佐藤孝幸  
失敗しても反省を怠ってしまう人は、そもそも自分の行動を改善したくないのではないでしょうか。  
柳井正  
自分の行動結果を客観的に分析評価できなければ、失敗を失敗と認めることはできません。しっかりした分析に基づかずに反省し、行動しても傷口は広がるばかりです。どんな時にも冷静かつ客観的に分析し、適切な判断のもとに行動しなければいけない。そのなかにこそ、革新の芽があるのだと思います。  
生田正治  
後悔先の立たずですが、最先端の技術にチャレンジする際の事前の能力の検証に問題があったと反省しました。過度に信頼したのが原因でしょう。失敗だと思った瞬間に素直に失敗を認めました。  
マイケル・ゲルブ  
レオナルド・ダ・ヴィンチはいつもノートを持ち歩いていた。アイデアや印象、観察したことを書き留めていた。彼の手記には、ジョークや小話、観察した事柄、尊敬する学者の考え、個人的な金銭の記録、手紙、家庭の問題についての反省、哲学的な思索や予言、発明の計画、解剖の取り決め、植物学、地質学、飛行装置、水、絵画などについていろいろ書き記されている。  
茂木友三郎  
初めて国際化と醤油という二つのキーワードが、頭の中で結びついたんです。そんなことに気が付かなかったのかと反省したものです。  
おおたわ史絵  
いろいろ失敗をして、反省をして、改めて、を繰り返しながら、いまに至っているという感じです。  
野村克也  
綿密な下調べという意味では、監督は頭の中で、最低一試合につき三試合はやります。想像野球、実戦野球、反省野球。想像野球はいつも完全勝利です(笑)。そして、実戦野球のあとで、想像と実戦の間に差が出た理由を考えるのが反省野球です。  
秋沢淳子  
失敗したら「海よりも深く」反省をして、あとは忘れます。楽しいことや、やらなくてはいけないことを考えるようにしています。  
岡野守也  
一般的に「嫌な出来事があったから嫌な感情が起こる」と思われがちですが、同じ出来事が起こっても、反応は人によって違います。失敗してクヨクヨする人もいれば、さっと反省して次の行動に移ることができる人もいます。この違いはその人の考え方や、ものの受け止め方から生まれます。  
作者不明  
迷ったからって、引き返しちゃいけない時もある。迷ったことは、間違いとは限らないから。  
アルベルト・アインシュタイン  
なぜ自分を責めるんだ。必要なときに、他人が責めてくれるじゃないか。  
朝井リョウ  
思い切って何かをしてみると、その結果がどうあれ、自分の中で変わることってあると思う。  
乃南アサ  
人生とは、そういうものだ。知らずに済めば、それで終わる。では、知ってしまったら? 諦める。さっさと。諦めさえついてしまえば、貧しさも、わびしさも、孤独も、肩こりも、何もかも、意外に素直に受け入れて、あとは静かに過ごすことが出来る。期待などしなければ、落胆も絶望もないのだから。  
小笹芳央  
「貯める」というのは、ちょっと哲学的にいい換えると、今を犠牲にすることです。「今、これが欲しい、買いたい」という欲求を満たすことを我慢して、未来に先延ばしにする。  
津賀一宏  
これまでのパナソニックには、「立派な会社」「よい会社」という意識が強すぎ、その結果、自ら殻に閉じこもる部分があったのではないか、という反省があります。例えば、事業ひとつをとっても、「これは自分たちがやる領域ではない」と勝手に考えていた部分がありました。  
吉越浩一郎  
モノづくりの現場力が低下していると言われています。日本は80年代の終わりまで「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて、世界から見学者がいっぱいやってきた。そこでちょっと格好をつけちゃったんですかね。我々も、もう一度きちんと反省し、たとえば、現場のチェック体制などを見直していきたいと思います。  
品川正治  
経済人として私が最も反省するのは、社会の価値観を経済一本にあまり単線化してしまったことです。たとえば教育の現状を憂える人は、「このままでは人材の質が劣化する」と言います。まるで教育とは、企業の競争力に奉仕することだけを目的とするかのごとくです。そうではない。教育は良き市民を作るためにこそあるものでしょう。  
男鹿和雄  
じつはどの背景にも細かいところで反省点があって、「トトロ」も夕焼けのシーンで色と暗さの流れがうまく行ってないところがあって。ああ、それをいうなら「もののけ姫」の雲も...あ、そういうのを言い出すとキリがないのでやめておきますけどね。  
大須賀正孝  
私は毎晩、眠る前に布団の中で、その日一日の言動を思い出して反省するようにしています。社員にきついことを言いすぎていなかったか、と。  
白洲次郎  
反省のない人間など使いものになるとは思わない。  
谷村志穂  
心はどれだけ割れたって、また新しく生まれ変わるの。誰もの心が、ちゃんと生まれ変わるようにできているのよ。  
ほしよりこ  
早送りしたくなるくらいの失敗があったって、後から巻き戻したくなるような大事な経験になれるように
「日常」っていうのを、大事にしなくちゃいけないのよね。  
葉加瀬太郎  
人間はいつか必ず死ぬ時が来るでしょう。その恐怖は常にあって、時折「何のために生きているのか」と悩み、投げやりになりそうにもなる。でも、ちょっと待てよと。僕は生きている間にこんなにも楽しいことができているんだから、それでいいじゃないか。  
よしもと ばなな  
人は人に捨てられたりなんかしない。自分が自分を捨てることしかできないよ。  
稲船敬二  
言い訳をしてしまうと「反省」という大切なものをなくしてしまいます。  
井上ひさし  
人はよく、だまされていたといって逃げますが、しかし人はだまされていたという自分の愚かさには、やはり責任を持たなければならない。  
森博嗣  
人間は生きているかぎり、別人になれる。生きている人間に価値があるのではない。その変化にこそ、価値があるのだ。  
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』より  
あたしが嫌いなタイプの人間は多勢いるわ、その中でも最低なのは、悩んだり反省ばかりしている連中よ、自分について考えるような人は、あたしは言わせればもう棺桶に足を突っ込んでるんだわ。  
瀬尾まいこ  
中学校っていくら失敗してもいい場所なんだって。人間関係でも勉強でもなんだって好きなだけ失敗したらいいって。こんなにやり直しがききやすい場所は滅多にないから。  
阿川佐和子  
反省はするけれど後悔はしない。  
朝倉千恵子  
私は、小さな失敗や、「まあ、いいか」といういいかげんな態度について細かく注意します。大きな失敗をしたときは、くどくど叱るようなことはしません。本人が一番よく分かっていて、反省もしているからです。何より、大きな失敗の責任は上司がとればいいのです。しかし、小さな失敗、いいかげんさから生まれた過ちを放置すると、必ずあとで大きな痛手につながるからです。  
新将命  
C(チェック)が不十分なまま、PDC(プラン、実行、チェック)サイクルを回すと、ハツカネズミのように同じところをクルクルと回るだけになってしまう。評価・学習・反省・改善を入れたPDCを回すと、現在のループを脱して前進できるのである。  
徳岡邦夫  
ルーティンから脱して新しいことに挑戦しようとすれば、ときには失敗することもあるでしょう。ただ、前向きな失敗ならどんどんすればいい。失敗するから反省があり、反省があるからまた成功に一歩近づけます。  
マザー・テレサ  
愛は身近な人、家族を気遣うところに始まります。私たちの夫、妻、子供たち、または親たちが、一緒に住んでいながら十分に愛されていないと感じ、孤独な生活をしているのではないかと反省してみましょう。  
阿部俊則  
構造改革前はどちらかというと、個人の力重視、マンパワーでやっていましたね。しかし、反省しました。今は組織力重視になってきています。営業利益率で振り返るとリーマンショック時で3%台でした。その後4%台、5%台と上がり、今期は6%まで持っていきます。  
アルベルト・ザッケローニ  
日本人の選手は勝っても負けても、自己反省が強すぎるというか、ヨーロッパの人間に比べると、反省をするような傾向が強いのじゃないかと思います。まあ、私はそのような姿勢が個人的に好きですし、チームにとってもいいのではないかと思います。  
池田千恵  
夜中に他人に怒りのメールを送って、翌朝反省するようなことは誰にもあるんじゃないでしょうか。「イライラ」「クヨクヨ」は朝しましょう、と言いたいですね。  
宮沢俊哉  
なぜ失敗したのかを考えて反省するのもいいですが、そればかりでは気持ちが沈んでしまいます。中身をよくよく見れば良い点も必ずあるはず。結果は出せなかったがこんな発見があった、このプロセスはうまくいった、などの成功ポイントを分析すれば、次につながるアイデアも出やすくなります。  
林文子  
包容力を身につけるために最も有効な手段は「気にしないこと」。私はもともと非常に神経質で、細かなことを気にする性格です。だから余計につらい思いをしてしまった。それを我慢して、意地で仕事をしてきた人生でした。その反省も込めて、今は「気にしない」をモットーにしています。  
コック  
18歳では即座に崇拝し、20歳では愛し、30歳では欲情し、40歳では反省する。  
リヒテンベルグ  
恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる。  
三浦惺  
国際事業はこれまではグループ会社が独自に進めていました。反省すべき点もあり、今後は、グループ全体のことと考えて判断する必要があります。そのうえで、仮に数千億円規模の投資であっても決断することはあるでしょう。  
稲盛和夫  
忙しい毎日を送っている私たちは、つい自分を見失いがちである。そうならないためにも、意識して反省をする習慣をつけなければならない。反省ある人生を送ることにより自分の欠点を直すことができ、人格を高めることができる。  
本田宗一郎  
多くの人は皆、成功を夢見、望んでいますが、私は『成功は、99パーセントの失敗に与えられた1パーセントだ』と思っています。開拓者精神によって自ら新しい世界に挑み、失敗、反省、勇気という3つの道具を繰り返して使うことによってのみ、最後の成功という結果に達することができると私は信じています。  
辻野知宜  
一日一日を精一杯働き、その結果について反省するのはいいが、くよくよ考えるのはよそう。  
中村天風  
貧乏な人は、ここいらで反省しなきゃ駄目だよ。「ああ、そうか、私は貧乏神と縁が切れない人間かと思ったら、そうじゃなかった。自分で招いたことなんだ」。そうですよ。あなた方のほうでもってウインクを与えるから、貧乏神が来るんだ。変なものにウインクを与えなさんなよ。  
小宮一慶  
日々の自分の行いを反省し、不要な物欲や功名心などを省くことが正しい生き方へとつながり、結果的に「利」をもたらすのです。  
白洲次郎  
経済人はもっともっと自己反省してみても悪くはなかろう。やれ補助金だ、やれ割当だと、こまってくるとすぐ政府になんとかしてくれと泣きつく乞食根性は、もうやめてもらいたいものだ。  
柴田励司  
30代でリーダーになる人は極めて優秀で、目から鼻に抜けるような才気煥発ぶりを発揮している人が多いはずです。30代はそれで通用するかもしれません。40代になってさらに規模が大きい組織を任されるようになったら、折に触れ、自分自身を謙虚に反省する態度を身につけたいものです。 
坂本金八「3年B組金八先生」 
終わったことは反省材料を点検するだけ。明日からのことを考えるのが、今はいちばん重要なことです。  
松下幸之助  
誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。  
藤子・F・不二雄  
のび太にも良いところが一つだけある。それは彼は反省するんです。いつまでもいつまでも今より良い人間になろうと努力するんです。  
水野亜美『美少女戦士セーラームーン』  
水でもカブって反省しなさい。  
阿久津真矢『女王の教室』  
多少の罰を与えないと、子供は反省も成長もしなくなるんです。長い目で見れば、大人が、その時その時に適した、正しい罰をきちんと与えてやることが、子供達の為になるんです。  
山村雄一  
人生にはどうしても必要なことが3つある。それは夢と、ロマンと、反省だ。人間はこの3つを持っていないと上手くいかない。  
浜崎あゆみ  
全ての人間が納得できる答えなんてどこにもないよ。あとさ、後悔と反省は別物ッスよ。  
本田宗一郎  
苦しい時もある。夜眠れぬこともあるだろう。どうしても壁がつき破れなくて、俺はダメな人間だと劣等感にさいなまれるかもしれない。私自身、その繰り返しだった。  
松下幸之助  
失敗の原因を素直に認識し、「これは非常にいい体験だった。尊い教訓になった」というところまで心を開く人は、後日進歩し成長する人だと思います。  
相田みつを  
あのときの あの苦しみも あのときの あの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための。  
ヘレン・ケラー  
自分の欠点を直視し認めることです。ただし欠点に振り回されてはいけません。  
アン・カイザー・スターンズ  
もう一度自由を見つけたかったら、失ったものと向き合うことです。  
美輪明宏  
自分に思いやりが足りない人ほど相手に思いやりを求める。自分の言葉が相手を傷つけていないか、まず反省してみる事。  
イチロー  
すばらしい評価でも最悪の評価でも、評価は周囲がするものであって、自分自身が出した結果でも、示した方針でもない。自分の姿だけは絶対に見失ってはいけないと思っているんです。  
タモリ  
長寿番組の秘訣は反省しないこと。毎日の番組でいちいち反省していたら身が持たない。  
荒川静香  
人生の「…たら」「…れば」を考えるより、 どんな状況下でも「何を、どうすれば、自分にとって最高の道となるのか」 を見つけ出す方に時間をかけるほうが、有意義ですよね。  
タイガー・ウッズ  
ヘイトレターは捨てずにしまっておいた。壁に貼って、事あるごとに読み返し 「何くそ、こんなことに負けてたまるか」と、逆にゴルフのエネルギーへと転化した。  
アルベルト・ザッケローニ  
勝って反省は理想だが、人はいつかは負ける。場合によってはしょっちゅう負ける。「負けて学べるか」が、名将とそうでない者とを隔てる。  
イチロー  
自分にとって、満足できるための基準は少なくとも誰かに勝ったときではない。自分が定めたものを達成したときに出てくるものです。  
落合博満  
「まあ、しょうがない」と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう。  
亀田和毅  
絶対に俺は進化できる。できるじゃあない、進化しなあかん。  
フィリップ・トルシエ  
負けは認めなくてはいけない。それでも自分たちのサッカーを信じ自分たちの哲学を貫き通したことに誇りを持ちたい。  
佐々木常夫  
他人の良いところは認め、自分の悪いところを反省できる人には、上司も真剣にアドバイスをしたくなるものです。  
アーヴィン・“マジック”・ジョンソン  
『お前には無理だよ』と言う人の言うことを 聞いてはいけない。 もし、自分が何かを成し遂げたかったら、 できなかった時に他人のせいにしないで、 自分のせいにしなさい。  
中村俊輔  
うまくいかなくても、それをどう反省して次につなげていくかが大事だよ。  
美輪明宏  
孤独とは物事を深く考えるチャンス。友達が多い事は必ずしも幸せではない。  
押切もえ  
2012年に、テレビのお仕事だったんですけれど、北アルプスの槍ヶ岳に登りました。想像以上にハードで、疲労感もさることながら、最後に頂上を目指すときに高さの恐怖心で動けなくなって弱音を吐いてしまったら、番組ではそこがしっかり使われてしまっていて、自分の弱さが悔しくて...あとで猛烈に反省しました。でも、やっぱり自分の足りない部分がこうして突きつけられ、学ばされているんだろうなと痛感しました。  
貝原益軒  
人の目は百里の遠きを見れども、その背を見ず。明鏡と雖(いえど)もその裏を照らさず。  
デール・カーネギー  
毎時間ごとに自己と対話すれば、勇気あるものの見方、幸福になるものの見方、力強いものの見方、安らかなものの見方のできるように、自分を方向づけることができる。あなたが感謝すべき事柄について自己と語り合えば、心は天高く昇って歌を歌いたくなる。  
ウォルト・ホイットマン  
君が教訓を学んだ相手は君を賞讃し、親切をほどこし、味方になってくれた人々だけだったのか? 君を排斥し、論争した人々からも大切な教訓を学ばなかったのか。  
作者不明 
富めども貧を忘るることなかれ ー 裕福になっても貧しいときのことを忘れてはならない。  
佐々成政  
信長公に属さない国々があるのは、徳が至らないからと思い召されて、良くないところは反省なさいませ。  
ドワイト・D・アイゼンハワー  
君は本当に自分の抱いた理想像に到達しているだろうか。もし自分の行為を反省して「いかん、あれは大失敗だった。ついかっとなって、怒らせなくてもよい人を怒らせてしまった。もっとよく考えてから話せばよかった」と言い聞かせる勇気がなければ、君はまだまだ理想像には到達していない。  
世阿弥  
初心忘るべからず。  
デール・カーネギー  
もし自分が間違っていたと素直に認める勇気があるなら、災いを転じて福となすことができる。過ちを認めれば、周囲の者がこちらを見直すだけでなく、自分自身を見直すようになるからだ。  
幸田露伴  
人の常道、敗れたる者は天の命を称して嘆じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共陋(卑しい)とすべし。  
双葉山定  
我、いまだ木鶏たりえず ー 横綱双葉山が連勝記録をストップさせてしまった際に、知人へ充てた電報より。木彫りの鶏のように動じない境地に至れなかった自分を恥じた言葉。  
徳川家康  
天下が平和になるほど、武道を怠ってはいけない。軍法も悪く用いれば、手荒くなって人を害し、人をだまして陥れることにもなる。自分が偉ぶり、人の諫めを聞かなければ、ついには家の崩れる発端となる。  
エピクテトス  
人生のどんな状況にあっても、自分自身と対話し、この対話によってどれだけ得るところがあるか自問することを忘れないことだ。  
武田信繁  
古語に、良薬は口に苦く、病気には効くとある。また、曲がった木材も墨縄をあてて切れば、真っ直ぐに切れるように、主君も諌めに耳を傾ければ聖人になれるともいわれる。このように人の諌言は素直に受け入れることが大切なのだ。  
デール・カーネギー  
恨みを抱くな。大したことでなければ、堂々と自分のほうから謝ろう。頑固を誇るのは小人の常である。にっこり握手して自分の過ちを認め、いっさいを水に流して出直そうと申し出てこそ、大人物である。  
伊達政宗  
その身は若輩ではあるが、小姓頭(こしょうがしら)をも命じた者に、脇差しの鞘(さや)で頭を殴ったことは、それがしの誤りだ。  
徳川家康  
平氏を亡ぼす者は平氏なり、鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり ー 権力を持った者の奢りを戒める言葉。  
ベンジャミン・ディズレーリ  
自分の過ちを認めることほど難しいものはない。事態を解決に導くには、素直に自分の落ち度を認めるのが何よりである。  
慈円  
過まれるを改むる善の、これより大きなる無し ー 過ちを犯したなら、改めることが善であり、それ以上の善はない。  
小宮一慶  
厳しいようですが、自己否定・自己反省する姿勢を持つことが大切です。  
デール・カーネギー  
気の小さい者は少し批判されただけで、立腹する。だが分別ある者は、自分を非難した者からも・叱責した者からも、そしてことに「どこが問題か、ともに論じ合った者」から、自分の至らないところを熱心に学び取る。  
劉向  
良薬は口に苦けれども病に利あり、忠言は耳に逆らえども行いに利あり ー よい薬は苦くて飲みにくいが、病気によく効く。同じように、忠告の言葉は快く耳に響かないが、身のためになる。  
孔子  
過ちては則ち改めるに憚ること勿れ ー 過ちを犯したなら、これを改めるのに躊躇してはならない。  
吉田洸二  
「なんで選手は頑張れないんだろう」ではなく、「なんで選手を頑張らせることができないんだろう」と自分を反省しています。  
 
「反省しても後悔せず」

 

私は25歳で大学一年生になった「落ちこぼれ」である。勉強は嫌いだ。好きなことをやっているときが一番楽しい。遊びは何でも好きだが、今はテニスに凝っている。  
中学時代は卓球、高校時代はサッカーに狂った。高三の夏休み以降は応援団長、結婚問題、家出してのヒッチハイク日本一周と忙しかった。大学進学を考えたのは卒業前の一月。理由は失恋したから。運良く現役で大学に入れたが七十年安保の時で数ヶ月間は講義が開かれなかった。これ幸いにサッカーに専念した。酒もタバコも麻雀もパチンコも覚えた。時々、警察にもご厄介になったが理由はよく覚えていない。講義が再開されても自分がどのクラスにいるのかさえ知らなかった。わずか五年でよく卒業できたものだ。  
卒業しても風太郎だった。母が「一年でいいからまともに就職して」と懇願するように言うのを振り切り、「俺は俺の道を行く」と肩で風を切っていた。本当は何をどうしていいのかさえ分からなかったのだが。父に勘当され、家を飛び出し、風太郎生活が始まった。食い扶持だけを稼ぐと後は怠惰な生活に埋没した。「何かしなければ」、「何かができるはずだ」と思うのだが生活に追われ流され一日々々が過ぎていく。「俺はこのまま一生を終わるのか」と思うと情けなかった。  
人生が変わったのは喜界島に行ってから。奄美大島群島の一つ、喜界島は周囲四十キロぐらいの小さな島だ。そこの中学三年生二人を教える「住み込み家庭教師」として、怪しげな教育団体から派遣された。もちろん軽いバイトのつもりだった。落ち込んでいたので「生活を変えよう」という気持ちもあった。昼は本を読んだり、海岸を散歩したり、狭い島内をグルグル回ったりしていた。夕方から教えるわけだ。しかし、いいかげんな生活をしていた私がまともに教えられるわけがない。教えられる彼女たちこそ迷惑な話だ。三ヶ月後、心を開いてくれた二人から散々からかわれたものだ。そのあと二人の成績は格段に向上した。私にも自信らしきものが生まれた。彼女たちが私の先生だったのだ。ちょうどその頃、エドガー・スノーの『中国の紅い星』を読んだ。毛沢東、周恩来に次ぐ中国共産党の大立者であった朱徳は四十歳位まで阿片中毒の放蕩児だったのだ。「俺だってやり直せるかもしれない」ぼんやりそんなことを考えた。彼女たちの入試が終わって島を出るとき、地元の人たちが羊を潰して歓送会をしてくれた。南洋の独特のリズムと囃子に乗って踊る人たちの姿が今でも脳裏に焼き付いている。歓送会が終わる頃、教え子の親が近づいてきた。「先生。実はね、先生の前に何人もの家庭教師が来たのよ。でもみんな二週間もいなかった。先生は六ヶ月もいてくれた。やり直したいんでしょ。奨学金を出してあげるから頑張んなさい」。  
三畳一間のアパートで受験勉強を始めた。当初は大学院を受けるつもりだったが、「どうせやり直すなら大学一年から同じ経済学を徹底的にやろう」と大学受験に切り替えた。金がないので予備校にも行けない。参考書を各教科一冊ずつ買ってきて大学図書館とアパートでにらめっこだ。父が肝臓癌で長くは生きられないことを知ったが、もう歯車は止められない。奨学金は六月まで頂戴し、夏休みはバイトした。近所の塾の先生が「一時間で五千円」という破格の条件で雇ってくれた。金を稼ぐのと、同い年の美しいお嬢さんに会うのを楽しみに夏休みの午前中は塾で過ごした。もちろん昼飯も。その塾では夏休み以後も時々食事をご馳走になった。大学は通るだけではだめだった。トップの成績で合格しなければならない。金がないので「入学金免除、授業料免除」が絶対条件なのだ。合格発表の時は沖縄の西表島で友人と遊んでいた。この調子で大学院も受験し、入学金も授業料も払っていない。日本育英会から奨学金をもらったが、卒業後教育職に就いたので返還免除されている。金はなくてもなんとかなる、ということも学んだ。  
医者から「三ヶ月の命」と言われていた父が、約三年頑張って大学二年生の終わりに死んだ。ちょうど期末テストの直前だった。好きな先生の科目もあったが勿論全部パスした。父は尋常小学校卒でヒラの国鉄職員だった。助役試験を受けるよう上司に勧められたが「助役になると転勤があるので子供のために断った」と言っていた。本当のところはどうだか分からない。そう言えば父から「勉強しろ」と一度も言われたことがない。自分が勉強嫌いだったので子供にも言わなかったのだろう。その代わり「働け」とはよく言われた。小さな田畑があったので休日はいつも野良仕事の手伝いだった。普通のサラリーマン家庭の友達が休みの日に遊んでいるのがものすごく羨ましかった。嘘をついて野良仕事をさぼり、野球やビー玉遊びに一日興じたことも度々ある。頑固な父からはひどく怒られ、殴られた。大きな岩のように頑強だった躰がススキのようになって父は死んだ。父は私が一回目の大学へ入るとき国鉄を定年退職し、私の学資を稼ぐためガソリンスタンドの店員になった。「若い店長によく怒られる」と言っては酒を飲んでいた。ストレスと酒が父の命を縮めたのだろう。そうまでして稼いでくれた金で学ばなかった私は親不孝者だ。  
大学に入学した今でも、人生の目標を見つけだせずにいることは恥ずべきことではない。人にはそれぞれ個人差があるものだ。小学生の時から弁護士になろうと努力してきた人や、高校生の時に公認会計士になろうと考えて大学を選択した人は立派である。そのまま邁進してもらいたい。しかし、そうでない人もいいではないか。人生の目標を見つけるのがたとえ遅くとも、それはそれなりに自分の人生である。ただ、人生の目標を探し求めることは大切だ。メーテルリンクは『青い鳥』で幸福が身近にあることを書いただけではない。幸福は探し求めて初めて見つかるものだと伝えたかったのだ。宮本武蔵の『五輪書』には「反省しても後悔せず」というのがある。後悔は過去への嘆きであり、反省は将来への糧である。過ち多き私の半生だが、後悔はしていない。反省しつつ、次の目標・幸せを探し求めたいと思う。  
昔からの友人は「大学の先生にもっとも相応しくない奴が大学の先生になった」と笑う。自分でもそう思う。マルクスは大学の先生になれなくて新聞記者になったそうだが、私は新聞記者になれずに大学の先生になった。でも良かったと思う。私はこの仕事が好きだ。なによりも人間が好きだ。勉強は嫌いだ。好きな研究をしたい。学生諸君とも「同好の士」になれればいいと思っている。  
 
上手に反省 折れない心 新社会人、叱られて伸びよう!

 

新年度がスタートしてから1カ月が過ぎた。新社会人の中には、仕事で失敗したり取引先や上司に叱責されたりして、くじけそうになった人もいるかもしれない。反省は大事だが、必要以上に落ち込んでは仕事に支障をきたす。どんな状況でも心を強く保ち、自分の成長につなげるためにはどうすればいいのか。ポイントをまとめた。  
「給与の振込額を間違えて『どういうことだ!』と怒鳴られた時、頭が真っ白になった。自分はダメなやつだと落ち込み、なかなか立ち直れなかった」。こう打ち明けるのは会計事務所で経理事務を担当する河野武さん(仮名)。ミスのことで頭がいっぱいになり、立ち直れないまま、また失敗をしでかす悪循環に陥ったこともあるという。  
「クレーマー時代のへこまない技術」の著者、林恭弘さんは「学生とは違って、社会人になったらミスをして叱られない人はいない。叱られるのが当たり前だと思えば気持ちが軽くなる」と話す。そのうえで、「叱られることで良い結果につながると確信すること」を提案する。「仕事上でつらいことがあっても、すべて自分の成長につながる」と、自分で自分に良い結果を約束するのだ。  
将来の成功への布石  
叱られると、自分が全否定されたように感じてしまう人も多い。心理カウンセラーの石原加受子さんは「相手は『ここさえ直せばもっといい仕事ができる』と指摘しているにすぎない」と言う。そもそも、今叱られているのは将来の成功への布石ととらえることもできる。二度と同じ失敗を繰り返さなければ、成功する確率はどんどん上がっていく、と前向きに考えよう。  
虫の居所が悪い相手から、理不尽な怒られ方をすることもあるだろう。そんなときはどうやって心を守ればいいのか。  
理不尽に怒鳴られると下を向いて視線をそらしたくなるが、逃げると逆効果になることもある。「謝るとしても、ひるまず相手の顔を見て、はっきりと謝罪の言葉を述べる方がいい」と石原さんは助言する。  
反省すべき部分と、相手の理不尽な物言いの割合を冷静に分析してみるのも手だ。東京都市大学環境学部教授の枝廣淳子さんは「自分が反省すべきミスは30%、相手の言い方が許せない部分が70%と思えたら、30%分だけ反省する。あとは運が悪かったと忘れてしまおう」と提案する。  
折れない心をつくるため、日ごろから心掛けたいことは何だろう。  
まず、つらいと感じた時、自分の感情を素直に受け止めることが大切だ。「相手が自分のことをどう思っているかばかり気にしていると、自分の気持ちが分からなくなる。心の声を聞いて自分の気持ちを認める時間をつくるとよい」と石原さんは提案する。1日の中で自分の心と向き合う時間を決めて、実行してみるのも一案だ。  
「上司や顧客には必ず従わなければいけない」「上司は立派で尊敬すべき人だ」などの「思い込み」もやめよう。時として気持ちの落ち込みにつながる。上司や顧客も同じ人間。「課長も、部長と我々部下の板ばさみでつらい立場だな」「言葉はきついけど、実は部下思い」など、相手の素の面を知っていると、気が楽になることもある。  
逆に相手との関係性が築けていないとよけいに傷が深くなる。日ごろから言葉を交わし、相手の素の部分を知っておくと、コミュニケーションがスムーズになり、叱られた時の痛手も少なくて済みそうだ。  
自己肯定感を高める  
枝廣さんは、折れない心づくりには「自己肯定感を高めることが大事」といい、「小さな目標を決めて毎日、実行する」ことを勧める。「『今日は3千歩以上歩こう』『笑顔であいさつしよう』など簡単な目標を決め、できたら自分を褒める。自己肯定感が高まり自信が生まれ、ちょっとのことではくじけなくなる」という。  
「幅広い人と交流し、柔軟な価値観を身に付けることも役に立つ」と枝廣さんは言う。「イスの脚が3本だと1本折れただけで使えなくなるが、脚が多いほど頑丈になる。人間も価値観や交友関係が狭いと、1つダメになっただけで心が折れやすい」。地域でのボランティア活動や趣味のサークルへの参加など、仕事以外で自分の居場所を増やすことを勧める。  
 
失敗した時に大事なのは「反省」よりも「分析」

 

失敗をしてしまった時にすばやく気持ちを切り替えて立ち直れる人はいいのですが、中には「こんな簡単なことで失敗をするなんて、自分はなんてダメなやつなんだ」「いつも迷惑ばかりかけている自分は、本当はチームのお荷物なのではないか」といったように、失敗してしまった自分を過度に責めてしまう人たちがいます。  
このように後ろ向きな気持ちになっていると、当然ながら仕事の質は低下していきます。そのせいで、また同じような失敗を繰り返してしまう可能性も高くなります。自己評価は限りなく低くなり、失敗の数も加速度的に増えていきます。このような悪循環にハマってしまいすっかり自信喪失している人は、実は少なくないのではないでしょうか。  
当然ですが、失敗をした時に大切なことは「同じ失敗を繰り返さないこと」です。失敗を反省する気持ちもある程度は必要でしょうが、反省しすぎて自信を喪失し、それで同じ失敗を何度も繰り返してしまっては本末転倒です。失敗をした時にはただ反省をするだけでなく、繰り返さないための前向きなアクションが必要になります。  
そこで今日は、失敗をした時に過度に落ち込むのではなく、前向きに対処するにはどうすればよいかについて考えてみたいと思います。  
あえて自分の失敗を「他人事」にしてみる  
「失敗による自信喪失の悪循環」にハマってしまう人は基本的にかなり真面目です。自分の能力を過信することもなく、謙虚で思いやりがあり、人格的にも尊敬に値する人たちです。問題はその真面目な態度が悪い方向に働いてしまっていることにあります。  
このような人たちは失敗を真摯に「自分事」としてとらえようとします。これは失敗を他人のせいにして責任逃れをする人などと比べればかなり誠実な態度のように思えますが、「自分事」としてとらえすぎてしまうのも強すぎる自己批判を生み出し、最終的には「失敗に依る自信喪失の悪循環」につながります。  
そこで、あえて僕は失敗したらそれを「自分事」としてとらえるのではなく、「他人事」だと考えてみることをおすすめしたいと思います。「自分の失敗のせいでチームのみんなに迷惑をかけてしまった」とか、「自分は昔から似たような失敗ばかり繰り返している」といったような属人的な話は棚上げして、できるだけ客観的に自分の失敗を眺めてみましょう。失敗をしたのは自分ではなく自分のよく知らない「どこかの誰か」で、事件が起こったのも自分が今働いている会社やチームではなく「どこかのチーム」と考えます。自分とは関係がない単なる「ケーススタディ」として、自分の失敗をとらえ直してみるのです。  
失敗を他人の視点で客観的に「分析」する  
こうしてケーススタディとしてとらえ直した失敗は「どこかの誰か」が「どこかのチーム」でした失敗ですから、別に深く反省をしたりそれで自信を喪失したりする必要はありません。客観的に部外者の目線で見ることができます。  
その上で、行うべきは徹底的な「分析」です。なぜこのような失敗が起こったのか、原因はどこにあったのか、再発はどのようにすれば防げるのか、といった観点で冷静に問題を分析してみましょう。分析の際に重要なのは、問題をなるべく属人的でない領域に落として「誰でも同じようにやれば失敗しない仕組み」を考えることをゴールにすることです。「注意を徹底する」、「つねに意識をする」といったような精神的な努力目標を立てるだけでは、分析したことにはなりません。  
たとえば、「社内メールを客先に誤送信してしまった」という失敗をしてしまったとします。このような失敗に対して深く反省をしたり注意を徹底する決意をすることは簡単ですが、それでは根本的な解決にはなりません。失敗を繰り返さないためにも、まずはいったん「自分が失敗をした」という事実を離れて、そもそも「メールの誤送信を防ぐにはどういった仕組みがあればいいのか」を考えてみる必要があります。  
この場合であれば、アドレス帳の管理方法を誤送信しづらい分類方法に変更したり、送信ボタンを押しても即座に送信されず、いったん送信トレーに残るようにメールソフトの設定を変えるなどの対策が考えられるでしょう。漏洩リスクが高い情報を頻繁にメールでやりとりしているというのであれば、会社としてメール誤送信防止ソフトを導入するよう上司や管理者に働きかけることも必要かもしれません。  
ポジティブな感情は主観的に、ネガティブな感情は客観的に  
失敗をいつまでも引きずってしまう人は、「ネガティブな感情」に対して主観的に向き合いすぎている場合が多いです。「ポジティブな感情」に対してはいくらでも主観的に向き合って問題ないのですが、ネガティブな感情に主観的に入れ込み過ぎると心は大きなダメージを受けます。ネガティブな感情と向き合う場合はあえて気持ちよりも「事実」や「対策」といった側面を優先して考えるようにしたほうが、へこみづらいし打開策も見つかりやすくなります。  
また、そもそも自分にとっては一大事のように思える失敗も、他人から見ればほとんどの場合は些細なことにすぎません。最初は少し迷惑に思うこともあるかもしれませんが、どんな人でも基本的には自分のことで精一杯ですから、他人の失敗なんて少し時間がたてばすぐに忘れてしまいます。失敗を長々と後悔したところで、苦しむのは自分だけです。自分ひとりだけがいつまでも失敗を引きずってうじうじと悩むのは、なんだかすごくもったいないような気がしませんか。  
失敗をしてネガティブな気持ちになってしまったら、ぜひこのことを思い出して「客観的な」対処をしていただければと思います。  
 
 

 

 
 

 

 
謝罪

 

自らの非を認め、相手に許しを請う行為である。謝罪する側される側共に個人単位、団体単位、国家単位など様々な規模があり、謝罪する理由は本心からのものと、戦略的なものに分けられる。一般的には頭を下げるなどをして謝罪の意思を表す。謝罪は謝罪をする人の社会における地位や影響力、性格、価値観、土地の風習、文化、国際的であるかどうかなどで、具体的な行為は種々さまざまである。  
謝罪に伴う行為  
日本においては一般に、口頭であるいは文書で謝罪の言葉を述べる、頭を下げるなどの行為がとられることが多い。団体であればトップが謝罪する。個人的に謝罪する、証人をつれて謝罪する、謝罪内容を文書化する、謝罪を公表する、テレビで謝罪するなど種々の方法がある。また、金銭や物品によって謝罪の意を示し、解決を図ることもある。しかしこれらの行為のみでは根本的な問題の解決には至らず、相手の悪感情を軽減するに留まる。場合によっては、頭を丸めたり、謹慎したり、極端な場合、職を辞することもある。  
謝罪の本態  
謝罪する事の本態は、詫びた方、または詫びられた方、または双方の再出発(reset)の為の手続きや、セレモニー(儀式)である。通常はどちらかであり、問題の解決でない場合が普通である。  
不祥事における謝罪  
企業などの不祥事の場合は社会より誠意ある謝罪が求められる。この対応が不十分であれば不祥事以上に批判を浴びることになりかねない。しかしながら謝罪一辺倒で補償や賠償が不十分な場合や、対象に実質的な罰が与えられない場合も批判を浴びることがある。  
歴史問題における謝罪  
歴史問題における謝罪は主に国家が行った戦争や紛争、政策による被害者とされる側への謝罪である。不祥事等と較べ謝罪の必要性や加害者、被害者の定義が曖昧である為、加害者とされる側が謝罪を示したとしても被害者とされる側からは「謝罪ではない、謝罪が十分ではない」と批判されることがある。逆に加害者とされる側は謝罪すること自体を「弱腰、自虐的なこと」と批判することがある。  
過度の謝罪要求  
加害者の周囲を取り囲むなど、圧力をかけて謝罪させた場合には、刑法の強要罪に抵触する恐れがある。 
「陳謝」と「謝罪」の違い  
「陳謝」と「謝罪」はどちらも相手に対して自分の非を詫びるという意味では同じです。例えば次のように言った場合、両者に違いはほとんど感じられません。  
  記者会見で社長が顧客に対し陳謝した。  
  記者会見で社長が顧客に対し謝罪した。  
しかし、「謝罪」は詫びる行為全般を指し示しているのに対し、「陳謝」の方は謝罪に必ず「詫び言」が添えられているという点において両者に違いがあります。「陳」という字は「開陳」などの言葉に見られるように「述べ立てる」という意味があります。したがって「陳謝」は必ず言葉を伴った謝罪を表すのです。例えば、次のように言葉以外で謝罪の意を示すような文脈では、「謝罪」を用いることはできますが「陳謝」を用いることはできません。  
  ○あの男は何も言わずに金を送りつけることで謝罪したつもりらしい。  
  ×あの男は何も言わずに金を送りつけることで陳謝したつもりらしい。  
仕事での謝罪の常套句  
仕事にミスは付き物です。いくら抜かりのないように心がけても、まったく失敗しないことなどありえません。もしミスが起こってしまったなら、傷口を広げないことが最重要課題です。反省を示し相手の気持ちをなだめる基本フレーズ集です。  
「ごめんなさい」の敬語  
「申し訳ありませんでした」  
「申し訳ございません」  
謝罪のときの超基本フレーズです。  
かしこまった「ごめんなさい」  
「お詫び申し上げます」  
「詫びる」に「申し上げる」という謙譲語をくっつけた言葉。「お詫びします」より丁寧な言い方になります。更に丁寧に言うと「謹んでお詫び申し上げます」「心からお詫び申し上げます」。  
使い勝手のいい「ごめんなさい」  
「ご迷惑をおかけしました」  
「ご心配をおかけしました」  
幅広い場面で使えるお詫びの基本フレーズ。前者は実害を与えた場合に使い、後者は心の負担をかけた場合に使います。たとえば、「連絡が遅くなりまして、大変ご迷惑おかけしました」「先日は突然入院することになってしまい、ご心配おかけしました」のように使います。  
強い反省を示す  
「深く反省しております」  
文字通り、深い反省を表すお詫びの言葉です。いくらこのように言葉で伝えても、反省の態度が伴なってなければ「口先だけで反省してない」と見抜かれます。どう反省したのか具体的に述べるのが大事です。  
ミスを繰り返さない誓う  
「肝に銘じます」  
目上の人に注意や指摘を受けたときに用いられる定番フレーズ。「心得る」「けっして忘れないようにする」という意味で、強い反省の意味があります。「ご忠告いただきありがとうございます。肝に銘じておきます」という具合です。  
相手の怒りが大きいときは、とにかく詫びて怒りを鎮める  
「なんとお詫びしてよいのやら」  
「弁解の余地もありません」  
相手の怒りが大きいときに使うお詫びの言葉です。「余りに申し訳なさ過ぎて、どう謝っていいのかわからない」「言い訳のしようがない」という強い反省の気持ちを伝えられます。  
事後、改めて謝罪するときの言葉  
「この度はお騒がせしました」  
周囲を騒がせるような出来事を起こした後、事態が収拾した後に使うお詫びの言葉。直接迷惑をかけていない相手でも、事情を知ってる仕事の関係者には一言伝えるのが大人です。  
大きなうっかりミスをしたとき  
「あってはならないことでした」  
大きなミスをしてしまった場合に使う反省の言葉。「見積もりの送信間違いなど、あってはならないことでした。本当に申し訳ありませんでした」のように使うことで、深い反省を示すことができます。  
知っておくべきことを知らなかったら  
「勉強不足で申し訳ございません」  
たとえば自社の製品についてお客から質問されたとき、知識不足で回答できなかった場合に使います。  
解釈の違いで迷惑をかけたら  
「私の認識不足で」  
勘違いや行き違いなどで、相手に迷惑をかけた場合につかうお詫びのフレーズ。たとえこちらに非がない場合でも、立場上、下手に出る必要があるときは、こう言って謝罪するのが大人です。  
未熟な自分を認める謝罪の言葉  
「私の力不足です」  
目標を達成できなかったときや期待に添えなかったときのお詫びフレーズです。部下の失敗に対して直属の上司がさらに上の上司に報告する場合にも使います。 
上手な謝り方・断り方(言い回し)  
1 上手な謝り方・断り方- 言い訳せずに  
 「本当に申し訳ございません」  
何かミスをして謝るときや、上司や先輩の誘いを断るときの話し方は重要です。言い訳はできるだけ止めたほうがいいでしょう。致し方ない事情であっても、言い訳を強調した話し方では、いい印象を与えません。  
2 人間関係を壊さず、やんわり断る話し方  
 「すぐには返答できませんが、お話は承りました」  
断りづらい頼み事を断らなければいけない場面は多々あります。仕事で取引先から難しい依頼をされたり、プライベートで好きでもない人に告白されたときなどです。きっぱりと断るのも手ですが、そうすると人間関係が壊れて困るなという場面で使える断り方です。  
3 やむをえない状況を理解してもらい、断りを入れる話し方「できることならそうしたいんだけど〜」  
自分としては何とかそうしたい。だけど状況が許してくれない。そんなシーンで使える断り方です。たとえば、取引先からの納期を早めて欲しいというお願いや、デートの約束があるが残業で、約束の時間に間に合わないなどです。  
4 誘いや提案の上手な断り方  
 「すごく残念なんだけど〜」  
断るときに限らず、会話をするときはどんな場面でも共感することが大事です。自分と同じ気持ちの相手を嫌いになれる人はなかなかいません。今回の話し方では、「あなたも残念だろうけど、私も残念だよ」という共感の気持ちを伝え、上手に断ります。  
5 余計なお世話の上手な断り方  
 「何かあったらすぐ相談します」  
相手が親切で言ったことも、余計なお世話に感じることがあります。しかし、相手の親切心をないがしろにすると人間関係がギクシャクします。「余計なお世話だよ、ほっとけ!」と言いたい事でもやはりグッとこらえるべきです。  
6 優しい言い方で厳しいことを言うと遠まわしに断れる  
 「それじゃあ○○しないといけないよね」  
「給料を上げて欲しい」「長期休暇が欲しい」などのお願いは簡単にOKできるものではありません。上手に断るには、優しい言葉で、お願いを聞き入れるのに必要なもっともな条件を出すと、遠まわしに断ることができます。  
7 代案を出して相手を納得させる断り方・謝り方  
 「その代わりに〜」  
「約束したことだが、どうしても守れない。」「お世話になっている人の依頼なので聞いてあげたい。でも都合が悪い。」など、依頼を断ると今後の人間関係に悪影響を及ぼしそうな場合、代案を出せば、まだマシになります。  
8 断り方が上手い人は、できないときも”NO”とは言わない  
 「Aは無理ですが、Bならできます」  
上手な断り方を知らないと、人間関係はギクシャクします。断り方が上手な人は、断る場合でもNOと言いません。自分のできることを明確にし、YESとNOの間の答えを出します。できる範囲で譲歩しながら、しっかりと自分の想いを主張します。  
 
戦争謝罪

 

日本がこれまで1940年前後に戦争等を通して諸外国に与えた損害について日本政府などが公式あるいは非公式に表明してきた「謝罪」のことである。本項では、日本への謝罪要求についても概説する。  
日本の戦争犯罪に対する認識が不充分であるとする立場からは、政府がこれまでに発してきた謝罪声明が「公式な謝罪」と認めるには不充分なものであるという認識から、「まだ日本は罪を充分に認め、謝罪していない」とする主張が存在する。これに対して、「国家間の謝罪としては、これまでに何度も発せられてきた謝罪声明で既に充分であり、これ以上繰り返す必要はない」という意見もある。前者は、日本という国が戦争に関する責任をまだ果たしていないという見方を、後者は、日本が既に責任を果たした(あるいは責任など無い)という見方を持っていることが多い(ただし、責任を果たしてはいないが謝罪は既に完了したとする立場もある)。アメリカ・中国・韓国・北朝鮮の政府や団体が、日本の謝罪が不充分とする意見を表明することがしばしばある。  
世界的観点から国家による謝罪を概観すると、過去の戦争や統治政策について国として正式に謝罪する国家は少ない。たとえば、欧米帝国主義国が植民地であった国々に謝罪したことは、イタリアのリビアに対する謝罪を除いて無く、また原爆で民間人の無差別大量殺戮を犯したアメリカが日本に謝罪した事はない。イギリスは麻薬から利益を上げることを狙い、アヘン戦争まで起こしているが、中国共産党が過去にイギリスに謝罪を要求した時に、アヘン戦争で手にいれた香港島について返還義務が無いにも関わらずイギリスは1997年に返還しており、アヘン戦争に関しては既に解決済みとしている。ドイツはユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)について当時のナチス党が行ったものとして謝罪した。1970年に西ドイツの首相ヴィリー・ブラントはワルシャワのゲットー反乱犠牲者の記念碑の前で跪き、謝罪の意を表した。  
このほか、戦争に関する謝罪ではないが、過去の歴史について国家が謝罪した事例としてはオーストラリアによる2008年の先住民のアボリジニの盗まれた世代問題にする謝罪がある。ただしオーストラリア首相は補償を行うわけではないと明言した。  
以下、日本がこれまでに発してきた謝罪声明について謝罪が不充分とする立場が物議を醸してきた争点を中心に概観する。また、何をもって「謝罪」とするかには様々な議論がある。
日本による謝罪  
日本が謝罪した主な事例を挙げる。  
1.中華人民共和国 / 1972年の日中共同声明  
2.アジア諸国(および「多くの国々」) / 村山談話  
3.韓国 / 日韓共同宣言  
4.北朝鮮 / 日朝平壌宣言  
5.オランダ / 小渕恵三首相が2000年2月の首脳会談において「日本がオランダ人戦争被害者を含む多くの人々に対し多大の損害と苦痛を与えたことに対し、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」すると述べた。  
6.イギリス / 1998年のブレア首相との会談で橋本龍太郎首相がイギリス人捕虜に対する日本軍の取り扱いについて謝罪している。  
謝罪内容  
これまでに日本は以下の事柄について「謝罪」表明してきている。  
1.植民地支配と侵略 / 村山談話、日韓共同宣言、日朝平壌宣言  
2.中国への侵略 / 日中共同宣言、村山談話  
3.欧米人の捕虜、民間人の収容 / 2000年2月の日蘭首脳会談、1998年の日英首脳会談。  
4.慰安婦 / 宮沢喜一による謝罪、村山富市首相「平和友好交流計画」に関する談話(1994)、河野談話  
5.創氏改名 / 橋本龍太郎首相が1996年の日韓共同記者会見において「おわびと反省の言葉」を表している。  
6.南京事件 / 2000年に河野外相が政府見解として「南京入城後に、一般市民や非戦闘員を含む犠牲者が出たということについては否定できない事実」と述べているが、謝罪あるいは反省、遺憾の念は表明されていない。  
昭和天皇は「今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり,再び繰り返されてはならない」と1984年の全斗煥大統領歓迎の宮中晩餐会におけるおことばを述べた。しかし、「遺憾」などの表現は、日本の謝罪が未だ不充分であることの例として、中韓北だけでなく欧米のメディアでも取り上げられたことがあった(もちろん自国が過去の植民地に謝罪したことがないことも鑑みた論調の欧米メディアもある)。  
また今上天皇は1990年5月24日に盧泰愚韓国大統領を迎えた宮中晩餐で「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に,貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません」とのおことばを述べた。  
謝罪が表明されている外交文書には日朝平壌宣言と日韓共同宣言がある。閣議決定として謝罪が表明されたものには村山談話がある。国会決議として表明されたものには歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(不戦決議)があるが、これは「謝罪」の表現を欠くものとなっている(後述)。  
中国・韓国などから繰り返される謝罪要求に、これまで日本政府が表明してきた数々の「反省」「謝罪」声明をもって謝罪は既に十分に済んでいるとして、例えば塚本三郎(元民社党委員長)は「日本政府は16回も謝罪を重ねてきた…それでも中国や韓国は政府の首脳が交替する度に同様の言いがかりを続けてきた。これ以上彼等の要求に付き合ってはいけない」と述べている 。また、アメリカのオークランド大学の日本研究学者、ジェーン・ヤマザキは、1965年の日韓国交正常化以降に行われた日本の国家レベルでの謝罪について、「主権国家がこれほどに過去の自国の間違いや悪事を認め、外国に対して謝ることは国際的にきわめて珍しい」と述べている。また日本の謝罪が功を奏していないことを指摘し、「謝罪が成功するには受け手にそれを受け入れる用意が不可欠だが、韓国や中国には受け入れの意思はなく、歴史問題で日本と和解する気がないといえる」としている。  
謝罪と経済援助  
「日本の戦争賠償と戦後補償」参照  
「謝罪外交」への批判  
日本政府および公人による謝罪が繰り返されることについて、そのような外交行動を「謝罪外交」として批判する見解もある。小室直樹は国際法上、国家が「謝罪」するということは国家責任を負うことを意味し、賠償に応ずることを意味すると指摘し、首相や外相がひとたび謝罪すれば事実でないことについてもその責任を日本が負わされることになるとして「謝罪外交」を強く批判している。また、「謝罪外交(土下座外交)は、歴史教科書問題のときの昭和57年夏の宮沢喜一官房長官談話にはじまり、このときに中国と韓国が他国の教科書検定に口出すという内政干渉という暴挙に屈したことにはじまった」とし、「それ以来の謝罪外交によって日本国家は犯罪国家として認定されてしまった」と主張している。
日本への謝罪要求  
外交カードとしての謝罪要求  
中国、韓国、北朝鮮が戦争謝罪を政治的カード、外交カードとして利用していることの懸念から、日本政府が更なる謝罪声明の必要はないとする見解がある。  
中国の江沢民は、1998年8月「(日本に対しては)歴史問題を始終強調し、永遠に話していかなくてはならない」と外国に駐在する大使など外交当局者を集めた会議で指示を出していたとされる。2005年の中国における反日デモの背後には中国政府の愛国主義教育により高揚された反日感情があり、こうした「歴史カード」を巧みに駆使しつつ3兆円を超える日本からのODAについては人民に伏せている現実を指摘し、それを批判せずただ謝罪外交を続ける日本政府を批判しているとされる。「結党以来、中国人民を虐殺してきた中国共産党にとって「反日」が唯一の「大義」であり存在意義である事や、朝鮮民族の歴史=属国としての歴史という歴史的経緯から両国とも振り上げた拳を下ろせない状態になっている」という見解もある。  
2005年には韓国の盧武鉉大統領が島根県の「竹島の日」制定や新しい歴史教科書問題についてふれ、「日本がこれまでやってきた反省と謝罪をすべて白紙化するものだ」と非難した。歴史教科書問題は内政問題であり、竹島問題は、戦争犯罪とは関係のない事柄であるにもかかわらずこのような声明が出されたことに、日本の戦争犯罪を「利用」し、外交利益を得ようとする意図が表れていると批判された。
「謝罪」表現の問題  
日本の革新勢力(主に日本の行為を侵略戦争と断じ、日の丸や君が代に批判的な勢力)および中韓北が謝罪発言で問題にするのは、その表現方法である。ただ反省する、遺憾の意を表す旨しか表されていない場合は不充分であると判断する人がいる。しかし「充分な謝罪」の基準はあいまい、かつ感情が入る余地も大きいため、どのような発言に対しても「謝罪不足」と非難することができてしまう。謝罪要求をする側が一般に「公式」と認める「謝罪」とは、  
1.謝罪するところの行為を侵略戦争、戦争犯罪などの罪悪であると認めている。  
2.そうした犯罪、侵略行為に対して、自国に責任があると認めている。  
3.端的に「謝罪」またはそれに準じる表現で謝罪を表明している(「遺憾」「反省」などの表現は謝罪と認められない)。  
4.日本が過去の罪を、謝罪要求側の歴史認識どおり全て認め、未来においてそれ以外の主張を認めず永遠に反省を続けること。  
の4つの条件を満たしているものである。  
1に関しては、日本の首相で先の戦争を「侵略戦争」であると認めたのは1993年記者会見での細川護煕が最初であるとされる。  
2に関しては、日中共同声明において「責任を痛感し、深く反省する」と表したのが最初である。  
3に関しては、1990年5月の海部首相によるものが最初である。  
4については未だに実現されていないため、日本の謝罪を十分であるとは結局のところ認められていない。  
日中間における謝罪表現の問題  
日本と中国とでは同じ東アジア文化とはいえ、異文化であり、謝罪表現や言葉や行動の意味が異なる。以下にみるように日中外交においても、そのような文化的な違いにもとづくともとれる摩擦が生じ、日本の謝罪についてこれまでにさまざまな問題が発生した。  
「お詫び」と「謝罪」  
1972年の日中共同声明において田中角栄首相が「お詫び」という言葉を使ったさい、翻訳の問題もあり、中国側では深刻な謝罪表明でなく、軽い謝罪と受け止められ、問題視された。しかし日本側の外交努力によって、共同声明は無事発表されたが、この事件がのちの90年代以降にも再言及され、繰り返されている。日本の外務省および欧米の主要メディアは一般に「お詫び」を「apology」等に翻訳して、充分な「謝罪」表現として認識しているが、中国側ではそうではないことがしばしばある。また、日本側が「謝罪」と明記しなかったのは、日中戦争が一方的な侵略戦争でなく、通常の一般的な戦争であったと認識していたためとの見解もある。  
1998年の日中共同宣言において、日本政府は1972年の日中共同声明を踏襲し「責任を痛感し、深く反省する」という同じ表現を繰り返した。中国側は、同1998年に先に結ばれた日韓共同宣言が「お詫び」という表現を率直に使用していたことから同様の「謝罪」を期待していたところ、1972年の「反省」が繰り返されたために、これを批判した。なお、小渕首相は会談においては口頭で「お詫び」を言っている。  
2005年のアジア・アフリカ首脳会議におけるスピーチで小泉首相は村山談話を踏襲する形で「謝罪」を発したが、人民日報など中国の主要メディアはこれが「謝罪」ではなくより「軽い」表現である「お詫び」(中国語の「歉意」に翻訳される)という表現を使用していることから、批判した。  
朱鎔基の発言  
中華人民共和国に対しては謝罪内容を持つ声明が日中共同声明にある。これはしかし「謝罪」という言葉を使用していない。そのためか、中華人民共和国側としては未だ公式な謝罪が無いという認識である。例えば朱鎔基首相は以下のように発言している /  
日本は全ての正式な文書の中で、中国の人たちに謝罪したことはありません。もちろん95年の村山元首相が、非常に概括的にアジアの人たちに謝罪をしました。しかし正式な文書の中では、中国の人たちに謝罪をはっきりとしたことはありません。  
村山元首相は日本政府を代表して、初めて侵略戦争を公式に認め、関係国の被害者に謝罪した首相であり、我々はこれを高く評価している。  
朱鎔基は村山談話を公式の謝罪表明として認めているが、しかし村山談話は特に中国だけに向けて発せられたものではない。しかし、中国も「アジア諸国」に含まれる以上、中国に対しても謝罪していることになる。  
朱鎔基の発言に関する日本側の反論として、日本の外務省事務次官は「わが国から申し上げると、ひとつの原点が1995年の内閣総理談話というものがあって、これでわが国政府の正式な立場を表したものであるが、その中で過去の一時期に植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことに対し、当然中国をも大きく念頭に置いていたわけであり、『痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします』としている。3年後の98年に江沢民国家主席の訪日の際にも、首脳会談の中で、小渕総理(当時)より、今申し上げた95年の内閣総理談話において痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明したことを説明し、『日本政府は改めてこの反省とお詫びを中国に対しても表明する』と明確に伝えている。従って、改めて文書どうこうという話ではないであろうと思う」と述べた。  
公式謝罪と私的謝罪  
日本を糾弾する人々の言う「公式な謝罪」とは、一般に  
1.日本国政府または日本国を公式に代表する者が表したもの  
2.発言者が私人としてでなく公式の権限において表したもの  
に限られるという意見である。  
1に関しては、首相、大臣、内閣、国会、天皇以外の者、例えば左派政党の一国会議員が謝罪しただけでは、「日本国の謝罪」としては認められないとする意見。  
2に関しては、村山談話が発表される直前の不戦決議草案が「謝罪」の表現を含んでいたため国会で却下されたことを理由に、村山談話を首相個人の私人としての発言でしかないとする批判がある。また、日本国政府を代表する公人が公式の権限において発言する場合でも、記者会見や首脳会談などよりも外交文書や閣議決定、国会決議などにおいて謝罪する方が評価は高くなるとする意見もある。
失言と謝罪要求  
謝罪声明自体は実際になされていても、首相や閣僚の失言(例 / 森喜朗首相の神の国発言)や首相、大臣の靖国神社参拝、歴史教科書検定などの問題から、「謝罪も実は口だけで本心では反省していない」と日本の左派勢力や中韓朝から非難されることがある。これらの非難に対して、失言についてはあくまで失言であり、それ以前の謝罪声明が虚偽であることの証明にはならない、あるいは、靖国神社参拝や教科書検定などの問題は同時期の戦争に関連した別の問題であって、そのことがそれ以前の謝罪の虚偽性を証明するものではないと日本側は説明している。  
また日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツでも、戦争責任に関する「失言」が問題視されることがある。2007年4月にはバーデン=ヴュルテンベルク州首相のギュンター・エッティンガーが元ナチスであったことをとがめられたハンス・フィルビンガーに対して擁護したことが失言とみなされた。  
 
日本の戦争賠償と戦後補償

 

日本の第二次世界大戦後の戦争賠償および戦後補償について記述する。日本が20世紀前半の戦争によって損害を与えた国々および人々に対する賠償・補償問題は、日本の戦後処理の重要な課題の一つであった。当項ではこれまでに日本が行ってきた主要な賠償・補償について概観する。なお項目名では便宜上「戦争」「戦後」としているが、同時期の戦争とは直接には関係ない、補償についても含めて述べる。  
なお、それらを含んだ戦争賠償・補償については日本と各国との間で条約・協定等が締結、履行された事と各地の軍事裁判で判決を受け入れたことで償われており、国際法上既に決着しているが、敗戦国の日本が戦勝国側(連合国)から一方的に裁かれたとする見解も存在する。
定義  
戦争賠償(英 / war reparation、戦時賠償)とは、戦争行為が原因で交戦国に生じた損失・損害の賠償として金品、役務、生産物などを提供すること。通常は講和条約において敗戦国が戦勝国に対して支払う賠償金のことを指し、国際戦争法規に違反した行為(戦争犯罪)に対する損害賠償に限らない。例えば下関条約において清が日本に支払うとされた賠償金3億円なども戦争賠償に含まれる。  
一方、戦後補償(英 / compensation)は、戦争行為によって損害を与えた人々に対して行われる補償のことで、広義の戦後補償は戦争賠償を包含する。  
一般には、戦争賠償は国家間で処理される問題、戦後補償は被害者個人に対してなされる保証として言われることが多い。  
なお、旧植民地に対する旧宗主国が、独立を承認する際に賠償を行う事例も国際法上の規定も存在しない。独立を承認する際には、むしろ旧宗主国が旧植民地に対して請求する事例の方が多い(フランスによるハイチ独立への請求、オランダによるインドネシアへの請求など)。
戦争賠償の形態  
中間賠償  
中間賠償とは、軍需工場の機械など日本国内の資本設備を撤去して、かつて日本が支配した国に移転、譲渡することによる戦争賠償である。1945年11月に来日したアメリカ占領軍E. W. ポーレー率いる米賠償調査団によって行われた最初期の対日賠償政策である。工場設備による賠償は後の平和条約による最終的な賠償ではないという観点から「中間賠償」と呼ばれた。また、中間賠償にはまた日本の産業的武装解除も兼ねて行われたという側面もある。大蔵省によると、1950年5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。
在外資産による賠償  
在外資産による賠償とは、日本政府や企業、個人が海外に持っていた公私の在外資産を提供することによる賠償である。サンフランシスコ平和条約14条a項2に基づく /  
各連合国は、次に掲げるもののすべての財産、権利及び利益でこの条約の最初の効力発生のときにその管轄の下にあるものを差し押さえ、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する。(a)日本国及び日本国民、(b)日本国又は日本国民の代理者又は代行者、並びに(c)日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体。  
中間賠償と同様に、ヴェルサイユ条約でドイツに課せられた膨大な賠償金がドイツを再び戦争へと向かわせたことへの反省から、できる限り在外資産を没収する形での賠償をさせようという方針がとられた(第二次世界大戦後のドイツにも同様の措置がとられている)。例えば中国(中華民国)は賠償金請求権を放棄しているが、在外資産による賠償は受けている /  
日本国代表 / 私は、中華民国は本条約の議定書第一項(b)において述べられているように、役務賠償を自発的に放棄したので、サン・フランシスコ条約第14条(a)に基き同国に及ぼされるべき唯一の残りの利益は、同条約第十四条(a)2に規定された日本国の在外資産であると了解する。その通りであるか。中華民国代表 / 然り、その通りである。(日華平和条約に関する合意された議事録)。  
なお、中国(中華民国及び中華人民共和国)はサンフランシスコ平和条約の締約国ではないが、同条約第21条の規定により、第14条a項2および第10条の利益を受けるとされた /  
第十条 日本国は、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての議定書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利益及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意する。  
これにより中華人民共和国は旧大日本帝国政府と日本国民が中国大陸(東部内モンゴルおよび満州含む)に有していた財産、鉱業権、鉄道権益などを得たとされる。  
一方、朝鮮には第14条の利益を受ける権利が与えられていない。朝鮮など太平洋戦争開戦前より既に日本領であったがサンフランシスコ平和条約により日本から分離されることになった地域にある資産に関しては、第4条で「当該地域の施政当局・住民の対日請求権の問題を含めて施政当局との間の特別協定の対象」とされ、朝鮮は第21条でこの利益を受ける権利を有するとされた。  
外務省の調査によると、1945年8月5日現在の在外資産の総額は次の通りである /  
地域名 / 金額(円)  
朝鮮 702億5600万円  
台湾 425億4200万円  
中国 東北 1465億3200万円  
中国 華北 554億3700万円  
中国 華中・華南 367億1800万円  
その他の地域(樺太、南洋、その他南方地域、欧米諸国等) 280億1400万円  
合計 3794億9900万円  
同調査には合計236億8100万ドル、1ドル=15円で3552億1500円という数字もある。
連合国捕虜に対する補償  
連合軍捕虜に対する補償とは、サンフランシスコ平和条約第16条に基づき、中立国および日本の同盟国にあった日本の在外資産またはそれに等価の物によって連合国捕虜に対し行った補償である /  
日本国の捕虜であつた間に不当な苦難を被つた連合国軍隊の構成員に償いをする願望の表現として、日本国は、戦争中中立であつた国にある又は連合国のいずれかと戦争していた国にある日本国及びその国民の資産又は、日本国が選択するときは、これらの資産と等価のものを赤十字国際委員会に引き渡すものとし、同委員会が衡平であると決定する基礎において、捕虜であつた者及びその家族のために、適当な国内期間に対して分配しなければならない。  
これにより日本は1955年の取り極めにおいて450万ポンド(45億円)を赤十字国際委員会に支払った。
占領した連合国に対する賠償  
占領した連合国に対する賠償とは、サンフランシスコ平和条約第14条で定められているところの日本が占領し損害を与えた連合国と二国間協定を結んで行った賠償のことである。一般に狭義の「戦争賠償」は、この二国間協定による賠償が意味されることが多い。この賠償を受ける事ができたのは、以下の2つの条件を満たす国である。  
1.平和条約によって賠償請求権を持つと規定された国  
2.日本軍に占領されて被害を受けた国。  
すなわち、この2つの条件に外れる国々は、この狭義の「賠償」権をもたない。  
サンフランシスコ平和条約を締約しなかった国、または何らかの事情で締約できなかった国は、外れることになる。朝鮮(大韓民国+朝鮮民主主義人民共和国)に関して、韓国臨時政府は日本と戦争状態になく、連合国宣言にも署名していないとしてサンフランシスコ平和条約の署名国となることを承認されなかったため、この賠償を受ける権利はない。  
サンフランシスコ平和条約を締約し且つ何らかの賠償請求権を持っていた連合国であっても、それが「日本に占領されて被った損害」に対する賠償のものでない場合は、外れることになる。これは、同条約第14条b項において、日本に占領されなかった締約連合国は全て「戦争の遂行中に日本国およびその国民がとつた行動から生じた請求権」を放棄したためである。  
上記2条件に当該する連合国のうち、フィリピンと南ベトナム共和国は1956年と1959年に賠償を受けた。ビルマ連邦(現ミャンマー)とインドネシアはサンフランシスコ平和条約の締約国ではなかったが、1954年と1958年にそれぞれ別途にサンフランシスコ平和条約に準じる平和条約を結んで賠償を受け取った。二国間協定による賠償を受け取った国々はフィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアの4カ国。  
国名 / 金額(円) / 金額(米ドル) / 賠償協定名 / 協定調印日  
ビルマ 720億 2億 日本とビルマ連邦との間の平和条約 1955年11月05日  
フィリピン 1980億 終了時 1902億300万 5億5000万 日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定、日比賠償協定の実施終了についての記事資料 1956年05月09日  
インドネシア 803億880万 2億2308万 日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定 1958年01月20日  
ベトナム 140億4000万 3900万 日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定 1959年05月13日  
合計 3643億4880万 10億1208万  
額は合計で3643億4880万円(賠償協定締結時の円換算)、10億1208万ドル。1976年7月22日のフィリピンに対する支払いを最後に完了した。  
上記2条件に当該する連合国のうち、ラオス、カンボジア、オーストラリア、オランダ、イギリス、アメリカの6カ国は賠償請求権を放棄、または行使しなかった。ただし、イギリスは当時自国領だった香港・シンガポール、アメリカは当時信託統治領だったミクロネシア諸島が日本軍に占領されたことに対する賠償請求権の放棄であるが、シンガポールおよびミクロネシアは後にそれぞれ準賠償を得ている(後述)。中国はイギリスとアメリカとで承認する政府が異なった為、サンフランシスコ平和条約に招かれず締約できなかったが、中華民国(現台湾)が別途で日華平和条約(1952年)を日本と結び、その議定書において賠償請求権を放棄した(後述)。
準賠償  
準賠償(sub-reparation)とは、賠償に準じる供与のことを言う。上で述べた狭義の「戦争賠償」である「占領した連合国との二国間協定による賠償」は、サンフランシスコ条約第14条またはそれに準じる平和条約の同様の条項において日本軍に占領された際に被った損害の賠償を受ける権利のある国として指定された場合にのみに与えられた。しかるに、これに外れる国々は占領した連合国との二国間協定による賠償を受けることができない。準賠償は主にそうした国々に対して支払われた。  
一般に「準賠償」は賠償請求の放棄と引き換えに提供される無償供与とされているが、その内容は様々であり、厳密な法的定義は無い。しかし、戦後処理的性格を有する有償供与[無金利・低金利の借款]を準賠償に含むこともいる。例えば通商産業調査会は、日韓基本条約における韓国への円借款と、血債に対する補償として無償供与と共にシンガポールに提供された円借款の2つ(計706億6800万円)を有償の準賠償としている。ここでは、  
1.上述のいずれの形態の賠償にも含まれない、  
2.外交文書において受け取り国が更なる賠償請求を放棄しており、且つ/又は  
3.何らかの戦前、戦中の損害を補償する目的の供与であることが記され、  
明らかに戦後処理的性格を持つ(つまり単なる経済協力(ODA)とは異なる)供与を「準賠償」として述べる。これら準賠償は正式な「賠償」ではないので、外交文書上では「賠償」という表現では提供されていない(「準賠償」という言葉も出てこない)。
朝鮮に対する補償  
朝鮮に対する補償とは、サンフランシスコ平和条約第4条に基づき、朝鮮との請求権問題を解決するため1965年06月22日に結ばれた日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約と同時に締結された財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定において大韓民国に提供された1080億円の経済援助金である。  
日本国及びその国民の財産で[斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮]にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。(サンフランシスコ平和条約第四条)日本国及び大韓民国は、両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題を解決することを希望し、両国間の経済協力を増進することを希望して、次のとおり協定した…日本国は、大韓民国に対し、(a)現在において千八十億円(一◯八、◯◯◯、◯◯◯、◯◯◯円)に換算される三億合衆国ドル(三◯◯、◯◯◯、◯◯◯ドル)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から十年の期間にわたつて無償で供与するものとする…両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。(日韓基本条約の関係諸協定、日韓請求権並びに経済協力協定)  
朝鮮は戦勝連合国ではないので、これは戦後処理の一環(終戦と共に終了した植民地支配に関する補償)ではあっても厳密な意味での「戦争賠償」とは見なされない。朝鮮はサンフランシスコ条約第14条のような平和条約で規定されるところの正規の「戦争賠償権」を持たないので、賠償請求権の放棄の代わりに「財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が…完全かつ最終的に解決された」と記されている。  
現在交渉中の日本と北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)との国交正常化において北朝鮮側から大韓民国以上の補償を求められている。  
1946年に厚生省は朝鮮人への未払い金を供託するよう企業に指示を行っており、補償を行う意志を戦後まもなくから示していた。
「占領した連合国に対する賠償」に準じる賠償  
上述の「占領した連合国に対する賠償」を受けた国々のように、第二次世界大戦中に現在の領土に相当する地域を日本軍に侵攻され占領された国々に対する準賠償(つまり占領した連合国に対する賠償に準じる賠償)は、以下の8カ国に供与された。総額は605億8000万6000円(賠償協定締結時の円換算)。1977年4月16日のビルマに対する支払いが最後である。  
国名 / 金額(円) / 協定名 / 協定調印日  
ラオス 10億 日本国とラオスとの間の經済及び技術協力協定 1958年10月15日  
カンボジア 15億 日本とカンボジアとの間の経済および技術協力協定 1959年03月02日  
ビルマ 504億 終了時 473億3600万 日本国とビルマ連邦との間の経済及び技術協力に関する協定、日本とビルマの経済技術協力協定の実施終了についての記事資料 1963年03月29日  
シンガポール 29億4000万3000 シンガポールとの「血債」協定 1967年09月21日  
マレーシア 29億4000万3000 マレーシアとの「血債」協定 1967年09月21日  
ミクロネシア 18億 太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 1969年04月18日  
合計 605億8000万6000  
ラオスとカンボジアはサンフランシスコ平和条約を結び、同条約における賠償請求権を放棄したが、その好意に報いる為、日本と賠償に代わる無償経済協力を行う協定を1958年と1959年にそれぞれ締結した。賠償請求権を放棄した上で経済協力を求めている旨は協定に明示的に記されており、故にこれらは単なる経済協力ではなく準賠償として認められる。インドネシアは、別途に結んだ平和条約において、賠償に加えて無償供与も得ている(賠償と無償供与は同条約で別項に記されている)。この無償供与も同条約において賠償請求権の放棄を条件に提供されているため、単なる経済協力ではなく準賠償に数えられる。ビルマは、上述の平和条約においては賠償しか得ていないが、同条約の賠償再検討条項に基づき1963年に経済技術協力協定を結んで更に無償供与を得た。ビルマはこれをもって賠償再検討条項に基づく要求は全て完結している(参照 / 日本国とビルマ連邦との間の平和条約第五条1(a)(III)の規定に基づくビルマ連邦の要求に関する議定書)。このビルマの得た無償供与も準賠償に数えられる。  
上述の準賠償を受領した4カ国は、いずれも(1)サンフランシスコ平和条約を締結したか、または別途に日本と平和条約を結んで、その上で(2)賠償請求権を放棄したことの見返りに無償供与を得ている。これ以外に、正式な平和条約で規定されるところの賠償請求権を放棄しないで、賠償に類する無償供与(準賠償)を受けた国々がある。いわゆる血債問題(華僑粛清)について準賠償を受けたマレーシアとシンガポールは、サンフランシスコ平和条約の時点では未だイギリス領であり、かつサンフランシスコ平和条約を調印した当時の宗主国であるイギリスが既に賠償請求権を放棄してしまっている。ビルマのように別途に平和条約も結んでいないので、無償供与の引き換えに放棄できる正規の賠償請求権も持たない(ビルマは戦時中はマレーシア・シンガポールと同じく英国領であったが、サンフランシスコ平和条約当時は既に独立していた)。例えば「マレーシアとの血債協定」には次のように記されている /  
日本国政府及びマレイシア政府は、第二次世界大戦の間のマレイシアにおける不幸な事件に関する問題の解決が日本国とマレイシアとの間の友好関係の増進に寄与することを認め、両国間の経済協力を促進することを希望して、次のとおり協定した…日本国は、現在において二千五百万マレイシア・ドル(二五、〇〇〇、〇〇〇マレイシア・ドル)の価値に等しい二十九億四千万三千円(二、九四〇、〇〇三、〇〇〇円)の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務をマレイシアに無償で供与するものとする。  
アメリカ信託統治領であるミクロネシアも同様に正規の「占領した連合国に対する賠償」の請求権は持たないので、これに代わる補償を得た。上述の「朝鮮に対する補償」も「占領した連合国に対する賠償に準じる賠償」の一種であるが、これはサンフランシスコ平和条約第4条で第14条とは別途に正式に網羅されている補償なので独立した項で述べた。
オランダ補償問題  
オランダはサンフランシスコ平和条約を締結し、その際に賠償請求権も放棄している。しかし、オランダは1956年に結んだ「オランダとの私的請求権解決に関する議定書」において、ジャワで拘留された同国民間人に与えた損害について日本から補償を受けている。  
国家補償・元捕虜や民間人への見舞金の支払い・36億円/昭和31年(1956年・日蘭議定書)  
これは民間人の私的請求権について賠償されたもので、日本はこれに関しオランダに1000万ドルを支払い、オランダ政府の手により関係者個人に分配された。同議定書においてオランダはオランダ国政府およびオランダ国民がこれ以上の如何なる請求も日本国政府に対ししないことを宣言しているが、これもまた(2)オランダは既に正規の賠償請求権をサンフランシスコ平和条約において放棄しているので、準賠償その1のラオス、カンボジアとも異なる。  
しかし、サンフランシスコ平和条約と日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、1991年に来日したベアトリクス女王の1991年は、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」として賠償を要求した。それに対して日本国政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した。  
個人補償・2億5500万円/平成13年(2001年・償い事業1)  
また2007年にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」と述べた。  
なお、サンフランシスコ平和条約の締結時に、オランダの植民地であった東インドに対する日本の侵攻に対して「被害者」の立場をとり、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したオランダに対して、インドネシア政府は、「インドネシアに対しての植民地支配には何の反省も謝罪もしていない」と強く批判している(インドネシア大統領のオランダ訪問の際、植民地支配に関しての謝罪を求めたが、オランダ側は謝罪しなかった。なおオランダはインドネシア独立を承認する際に、60億ドルを請求し、またオランダ人がインドネシアに所有してきた土地財産の保全、スマトラ油田の開発費用の弁済などをインドネシアに要求している。
タイ補償問題  
タイは日本と同盟関係にあったため日本軍に占領され被害を受けることは無かったが、戦時中に日本軍が円建てで物資を調達した件に関して(特別円問題)計150億円の補償を受けている。また、戦費調達のための日本の20億バーツのタイへの負債は、タイ使節団の意向により2500万ドルとされた。  
モンゴル補償問題  
モンゴルは1977年の経済協力協定において「(国交回復)前に存在していた事態から生じ、かつ、両国間で解決を要する懸念は何ら存在しないことがそのときに確認されたことを想起」した上で、50億円の贈与を受けている。モンゴルはノモンハン事件および第二次世界大戦の賠償を要求しており、これに対応したものであるとされている。  
戦争状態以前の補償問題  
平和条約第18条(a)は、戦争状態の存在前に発生した請求権は賠償の放棄にかかわらず存在することを認めている。この規定に基づき、アメリカ・イギリス・カナダ・インド・ギリシャ・アルゼンチンは日中戦争などで発生した損害の請求を行い、日本側は総額187万4263ドルを支払っている。
一般国際法に基づく請求権の処理  
日本と直接交戦しなかった西欧諸国からも、日中戦争を含む戦時中に生じた民間人や法人の損害に対する補償要求があり、総額349億円の請求が行われた。1955年頃からスペイン、スウェーデン、スイス、デンマーク(後述)と相次いで取極を行い、補償を行っている。  
また1966年にはオーストリアとの間で合意が行われ、1万6700ドルが賠償として支払われている。  
これらの非交戦国に対する補償・賠償金合計は1235万9484ドルであった。  
デンマーク  
デンマーク王国の通信会社「Det Store Nordiske Telegraf-selskab(大北電信会社)」(現GN Store Nord)は電信用の海底ケーブルを長崎=上海、長崎=ウラジオストック間に敷設しており、日本から国際電信の使用料を徴収していた。1940年にデンマークがドイツによって占領されると、日本はStore Nordiskeと海底ケーブル業務を譲渡させる契約を結んだ。1955年9月20日に「大北電信会社請求権解決取極」が締結され、この問題の補償金として30万ポンドが支払われた。  
また、1959年5月25日には他の西欧諸国と同様に4億2300万円を賠償金として支払っている。  
イタリア  
イタリア王国は旧枢軸国であり、1945年7月15日に対日宣戦を行ったものの、実際の交戦は発生していない。しかし承継国のイタリア共和国政府は1937年の日中戦争開始以来の民間人資産損害の補償を求めていた。  
またイタリア為替局(it / Ufficio Italiano Cambi)が横浜正金銀行との間で交わしていた決済協定があり、終戦時には日本側の債務が864万4千円(当時)残っていた。戦後、横浜正金銀行はGHQによって閉鎖機関に指定され清算されたため、イタリア政府はこの債務返還を日本政府に求めた。しかし日本側は私企業である横浜正金銀行の問題であるとして十数年間交渉を行っていた。1959年8月4日には「イタリア為替局との特別円取極」が締結され、4億6345万円の返還を行うことで合意が行われた。  
一方で民間人資産問題は1952年から交渉が行われ、1972年7月18日に「イタリア国民に対する第二次世界大戦中の待遇に関連するある種の問題の解決に関する日本国政府とイタリア共和国政府との間の交換公文」が締結され、120万ドルがイタリア政府に支払われることで両国間の請求権問題は解決した。ただし日本側はイタリアの請求権を認めず、あくまでもこの支払いは賠償や補償ではなく一括見舞金であるとの立場を崩していない。  
生産物・役務による賠償、ヒモつき援助、ODA、開発独裁  
サンフランシスコ平和条約に基づく日本の戦争賠償の多くは「生産物や役務」を提供する形でおこなわれた。これは、同条約第14条a項1において、戦後日本がまだ経済的にも疲弊しており金銭による過剰な賠償を強制することは日本の国家としての存続をも危うくするだろうという配慮から、連合国が希望する場合には金銭のかわりに生産物や日本人の役務をもって賠償することを許したものである。第一次世界大戦後のドイツに対し膨大な賠償額を要求したことがドイツ経済を極度に疲弊させナチスの台頭と第二次世界大戦勃発の遠因になったことの反省に基づいている。  
しかし、生産物や役務の提供による賠償方法は日本の賠償が「ヒモつき援助」であるという批判にも繋がった。例えばインドネシアに対する賠償においては、ホテルやデパートの建設など日本軍の戦争行為により被った損害に対する補償とは思えないものも多く含まれた。こうしたことから、日本の戦争賠償は日本のアジアにおける経済進出を助けるものであったという側面を指摘し、これを日本が戦争責任を果たしていないと看做される原因の一つと言われる。 戦争賠償を日本の発展途上国に対する経済援助の始まりとして評価する見方もある。  
一方においてODAに関して、開発独裁の問題と密接な関係がしばしば指摘されていたことを付記する。  
賠償等特殊債務処理特別会計法  
賠償・準賠償の実施を国内法において実施支援するため、1956年に賠償等特殊債務処理特別会計法が制定された(1979年に完了して廃止)。
戦争被害者個人に対する補償  
慰安婦に対する補償  
朝鮮や中国、台湾に住む元慰安婦と其の家族は日本政府に対し謝罪と賠償を要求する訴訟を度々起こしている。そのような人々に対して同政府は「反省の気持ち」を表明しているが、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約などの条約で賠償義務は政府間で決着済みであるとしており、裁判所でもその旨の判決が下されている。またアメリカでも訴訟を起こしたが全て却下されている。  
恩給、戦傷病者戦没者遺族等援護法  
アメリカにおける補償請求  
背景、ヘイデン法との関連  
1990年代末よりアメリカにおいて、対日戦時賠償要求訴訟および関連法案の議会提出があいついだ。背景として、1997年の、第二次世界大戦中ナチス・ドイツ及びその同盟国による奴隷・強制労働の損害賠償請求の時効を2010年まで延長するとの特例州法トム・ヘイデン法(ヘイデン法)の成立があるといわれる。しかし1952年の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)において損害賠償請求権は1952年を以って消滅しており、またアメリカ合衆国憲法によれば、条約は連邦法と同位でありかつ、州法・州憲法よりも上位とされているため、平和条約に反する州法はアメリカ国内において無効である。このヘイデン法(州法)は後に連邦最高裁で違憲と判決された。  
当時の背景としては、ベルリンの壁崩壊以降、東欧諸国との戦後賠償問題が発生し、またアメリカでもユダヤ系市民が在米ドイツ企業を相手に賠償請求裁判を大量に起こしていた。しかし、米連邦裁判所は「すでに西ドイツ政府とホロコーストの被害者やイスラエル政府との間に賠償交渉が成立している」として請求棄却していた。そこで、訴訟窓口だったロサンゼルスのミルバーグ&ワイス弁護士事務所は、ドイツと東欧諸国の賠償交渉にアメリカ人弁護士が介入することを大統領に提案、1999年2月、ドイツの政府と企業が共同で50億ドルを拠出して償いとする「記憶・責任・未来」基金(2000年8月12日施行)が創設される。  
バターン死の行進補償法案  
1999年から2007年にかけて、退役軍人問題に取り組んできたジョン・マイカ(John L. Mica)共和党議員は、「サミュエル・ムーディー・バターン死の行進補償法案」を米国下院議会に提出し、日本軍捕虜となりバターン死の行進を生存した軍人及び遺族に補償を要求している。共同提出者は、シェリー・バークリー(民主党)、マイク・ホンダ(民主党)、トム・ラザム(共和党)、エドワード・マーキー議員(民主党)。 法案は、軍事委員会に付託された。審議は行われていない。  
第二次世界大戦中の日本の強制労働に対する補償法案  
1999年10月から2008年にかけて、民主党ジェフ・ビンガマン(Jeff Bingaman)上院議員とオーリン・ハッチ上院議員(共和党)が、第二次世界大戦中に日本政府や企業に 強制労働をさせられた元軍人等に対して新たな補償を行う「第2次大戦中の日本の強制労働に対する補償法案」を提出した。ビンガマン議員は、アメリカ政府の戦後補償が、1948年・1952 年戦争請求法(War Claims Act )に基づいて、捕虜期間中の食事代1 ドル、苦痛への代償として 1.5 ドルが支給されたのみでイギリスやカナダの戦後補償と比べても不十分であったと主張している。  
2000年にハッチ議員とビンガマン議員が共同提出した両院一致決議(S.Con.Res158)は両院を通過した。  
対日戦時賠償要求訴訟  
マイク・ホンダ議員は、ヘイデン法案に乗じて、在米日本企業を相手取り、対日戦時賠償要求訴訟を提訴し、中国、韓国人を不当に安く戦時徴用したことに対し1兆ドル(当時120兆円)を請求した。三井物産、三菱商事、新日鉄、川崎重工など14社が被告となり、アメリカ国内では15件、原告総数は1000人以上であった。議会でマイク・ホンダは「日本は南京虐殺にも、従軍慰安婦にも、強制労働をさせた連合軍兵士にもこれまで謝罪も賠償もしていない」と主張し、A・ボック議員は過去に遡及する法案の法的根拠の薄弱さを指摘し、「戦争犯罪をいうならヒロシマ(の原爆)こそ議論すべきだ」と反論した。また政治学者のチャルマーズ・ジョンソンも「小金もち日本にたかるあさましい意図」と批判した。  
1999年、レスター・テニーアリゾナ州立大学名誉教授が、三井鉱山等を提訴している。2003 年の連邦最高裁判決で、訴えは却下されている。
日本の戦争賠償・戦後補償に関する裁判  
731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟  
重慶大爆撃訴訟  
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件  
釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟  
樺太残留者帰還請求訴訟  
在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件  
 
日本は『超』謝罪外交を志向してゆくべきという考え方

 

尖閣諸島の問題に端を発し、中国との関係が悪化している。中国人民への反日教育だけでなく、中国が世界中の多くのメディアを通して、中国の正当性と日本がいかに理不尽かを(それが本当かどうかを別にして)、中国の視点で宣伝しまくっている現状だ。  
これでは、中国国内の世論だけではなく、中国系メディアに洗脳された世界の多くの国々も、多くの国の人々も、「日本だって、同じように悪いじゃないか。いや、むしろ悪いのは日本だ」という意見に、かなりの人々が傾いてしまうのではないだろうか。  
そんな中、安倍首相は、過去の太平洋・大東亜戦争でアジアの人々へのお詫び・謝罪を表明した『河野談話』を継承し、余計な対立は避け、しかし、対話を通じて、言うべきことを言っていく。という姿勢を表明した。  
『謝罪外交』というものに、あきれ、嫌気がさしている人々にとっては、そういう穏やかな態度に、物足りなさを感じているのかもしれない。しかし、私は、逆の意味で、物足りなさを感じている。  
どういう意味か?  
私は思う。『謝罪外交』のどこが悪いのだろう?  
アジアの国々の人々を戦争に巻き込んで、大変申し訳ないことをした。その心からの気持ちを表明して、どこが悪いのだろう?  
謝罪するのには『勇気』がいる。敗北をも受け入れる『潔さ』が必要になる。また、謝罪をある程度受け入れることのできる社会風土も必要である。特に、その風土が日本に比べて少ないと思われる中国に対してでさえ、無謀にも、日本は、『謝罪外交』で臨んだのである。  
しかし、私は思う。何よりも問題なのは、そこまでの謝罪を全く受け入れないどころか、謝罪をする必要があるのにも関わらず、それをしないで、いや、謝罪をすることもできない誠実さを持ち合わせないで、むしろ、虚偽と欺瞞、策略によって、相手の罪をでっち上げてでも、悪者にし、悪者を必要とする、まだまだ人心の至らない、心の世界の発展途上である、この世の中にあるのではないのだろうか。  
そうだ。これは、中国だけの問題ではない。  
アメリカを見よ。私はオバマ大統領のかなりの側面を尊敬するものではあるが、その大統領でさえ、現時点では、「アメリカは謝らない」と宣言せざるを得ないでいる。原住民のインディアンを大量殺戮し、国際法に違反して、戦闘員ではない日本国民を大量殺戮したと言うのにだ。  
中国のチベット・ウイグルの問題だけではない。また、ナチス・ドイツのユダヤ人に対するホロコーストだけではない。イギリス、フランス、スペイン・ポルトガル、ロシア・・・あらゆるヨーロッパの国々、またキリスト教徒たちが、過去において、アウシュビッツの悲劇以上の大量殺戮や奴隷的な扱いを、南アメリカの人々、アフリカ諸国、東南アジアの国々に対してしているではないか。もちろん、イスラム教徒たちもだ。彼らはなぜ、謝らない?  
そうだ。罪を認め、謝罪をしてゆく、ということは、『勇気』『潔さ』だけでなく、相手側にそれを受け入れてくれる風土があるかどうかも含めて、非常に難しいことなのだ。しかし、だからこそ、かつて日本が育んできたよい伝統のように、「『策略』や『悪どいポリティクス』に容易に絡めてしまいやすい人間の傾向を達観し、それらを、してはならない『卑怯』として戒め合う認識」において、「互いに許しあい歩み寄ることに挑戦し、努力をしようとする『勇気』を持つこと」は必要なのではないだろうか。こういったことが、『お互いに謝罪をし合える世の中への基盤』ということになるのではないだろうか。  
日本は、敗者であったからこそ、特に深い考えもなく、比較的容易に『謝罪』ができた側面がある。また、戦争で日本が示した『勇気』に加え、弱肉強食だったはずの欧米中心の当時の世界情勢の風向きがあらゆる意味で混沌として不安定だったことも、日本が一方的な奴隷的敗北にならなかったラッキーな面でもあった。本来は、温かい心の基盤が確立していない世界では、安易な謝罪は相手につけ込まれてしまいやすいという認識も、当然しっかり持つべき必要もあるだろう。  
そうした両極の認識を持った上で、日本は今後、『誠実さ』と『真の意味での社会正義』を、国際社会に訴えていく必要もあるのではないだろうか。直接的に、穏やかに、根気強く、継続的に、優れたアイディアと愛情をもってだ。  
差別的見方から、また、開かれた心のないところから、また、敵を作ろうとする意図のあるやり方で、また、アイディアの貧しさから、また、相手国に対して間違い探し的な見方をするところから、また、自分の価値観が何なのか認識せず語れないのにそれに従ってもらおうとするところから、また、真の勇気のないところでのアプローチがはびこっているから、問題の解決法自体が的外れでおかしくなっているのだ。  
そうだ。そして、『謙譲の美徳』の精神もこの世の中には必要だ。世界中に『謙譲の美徳』が行き渡ることができれば世界は平和になる。少なくとも外交では、将来、謙譲の美徳があることが当然の世の中であってほしいし、「三方良し」の決まりごとをその都度創るのが難しいのであるならば、全ての国々は「三方一両損」の精神によって、物事を取り決めてゆくべきだ。  
「人類は、一刻も早く、戦いの歴史を、過去のものにして、『思いやり』と『人間性』と『誠実さ』を、取り戻し、言葉によって、謝罪をし合い、言葉によって、指摘し合い許し合い、言葉によって、長所を高め合い、言葉によって、直接対話を継続してゆくことが必要だ。」このように、まだまだ心の分野の発展途上の、この世界に対して、穏やかに、根気強く、発信してゆくことではないだろうか。  
穏やかにではあろうが、究極は、欧米に対してでも、地道に、小出しに、訴えて(というより、こちらがどうあれ、相手が自発的にそうなって)ゆくべきなのだ。(ローマ・カトリックは近年、キリスト教の歴史的過ちを認め、それをしているのだから!)  
 
ともすれば、どの世界でも、「ウソ・欺瞞・偽りの情報を流すやり方がまかり通」り、「それに皆騙されやす」く、「しかし、本当に責められるべきは、そのような不誠実で卑怯なやり方をする方なのだ」という認識の理解を図ってゆくことも必要ではないだろうか。やんわりと、タイミングを図って、その影響を受けた(国々)に対して、こちらの誠実さは外さない態度で、「情報操作や冤罪を作り出してゆくそのやり方やそうしたやり方の枠組みとはどのようなものなのか」を、世界に対して説明してゆく必要もあると思う。喩えて云うなら、「オレオレ詐欺に気をつけよう」というキャンペーンのようなものを、不誠実でやり方をしている対象国を刺激しないように、穏やかに世界に対して、明らかにして、納得してもらう必要もあるのではないか。  
「世の中には、ウソをついてでも、相手を貶めたり、針小棒大に物事を言い立てて、悪者として仕立て上げる人間を作ることで相対的に自分たちを引き上げ、相手を貶めるということがまかり通っている。しかし、それは『真実』ではないし、『正義』でもないし、『誠実』ではない。間違ったことだ。そして、その虚偽・欺瞞の手口の歴史を知り、私たちはそれに、騙されないことだ。卑怯な手口は、世の中にとってよくない」と、  
『卑怯な策略』を取ることや、それをまかり通らせている国々、世の中、国際社会ならそれは間違っているという主張をしてゆくべきだ。  
これは発言の仕方の技術もいることでもあり、小出しにして、地道に理解してもらう必要のあることかもしれないし、また、日本だけが主張するのでなく、良心のあるリーダーがいる時代のアメリカや、他の国々も、そう主張できる可能性がないわけでもない。もちろん、こういったことの理解や克服は大変難しいことであるという認識も必要だと思うのだが、それならば、世の中というものは、しっかりとした『希望』や『目標』があれば、時間がかかってでもその克服が可能なものであるという認識も、あながち間違いではないだろう。  
 
『太平洋(大東亜)戦争は、欧米からアジアの人々や有色人種を解放するための聖戦だった』とする日本の主張は、大義名分があると思うし、ある意味正しいと思うのだ。その戦争を積極的に称賛するというなら、その一点につきる。しかし、それなら、日本は戦争という手段に訴えたというところに哲学的・方法論的な矛盾が生じるのであって、この点では、人種差別を失くす道筋をつけたアメリカの『非暴力の公民権運動』の方に、より正義があるはずではないだろうか。もちろん、日本が示した勇気がそうした運動に火をつけた、として、そのための影響力として、彼らアメリカ黒人や公民権運動を支援した白人たちに間接的に勇気を与え得たことを、日本人は誇りに思うべきだ。しかし、日本人が将来を見据え、次に向かうために、絶対的に反省しなければならないことは、大義名分というならば、『公民権運動』という哲学と方法論の方に、より大義名分があるのであって、日本は「公民権運動を成功させたアメリカ」に哲学的、また方法論的に劣っていたのだ、という反省と自覚から始めなければならないはずだ。しかし、これは、一方で軍事力の充実ということもあり、圧倒的な規模の国力や多様性などの二重・三重の成功や充実も、アメリカ側にあり、また、人種差別の揺り戻しなどもあるので、公民権運動だけでアメリカの正義を語るのは確かに無理があるだろうが、それはそれとして、日本は、『非暴力』と『直接対話の促進』という哲学で人種問題の克服への道筋をつけたアメリカに、哲学的・方法論的に敗北を喫したのだという認識が今までなかった反省から、その克服にも、努めていくべきだと思う。もっともこうした認識を持てるか否かということは、もはや、日本人かアメリカ人かという違いではないけれども。また、今、それはそれとして、と書いたが、日本だって、『非暴力』と『直接対話の促進』という哲学と方法論がなかった反省とその克服次第では、逆に、公民権運動の哲学や行動を引き合いに出すなどして、配慮やユーモアや敬意・兄弟愛をもって、アメリカを諫(いさ)めたり、クリエイティヴに意見をしてゆくということも可能ではあるはずだ。いずれ、首脳同士の「ハイ・レベルの対話」の中にでさえ、「ハイ・レベルな対話」をしてゆくことだって可能なはずだ。  
 
話は戻るが、そこに深謀遠慮の哲学があったか否かに関わらず、日本は率先して『謝罪外交』をしてきた。それは、「全世界が、いずれそれが当然のこととなるはずの謝罪外交の先駆け」なのだ。  
これ以上、相手(国)の策略に絡め取られてしまうような謝罪は、確かにするべきではない。しかし、効果的な言い方で、「日本はここまでして謝ってきた」という実績(?!)と、超長期的視点をもって「あなたたちもいつかできるようになるはずです」という(皮肉ではない)絶妙な間合いと考えられた言い方で、彼らの人間性をいつの日か目覚めさせる下地を作ることを可能にしてゆくべきだ。100年、200年かかってでもだ。究極的には(このように表現するにはあまり時間はないのかもしれないが)、危険と憎しみが渦巻いている中東地域の国々もそのように目覚めるべきではないだろうか。  
これは、『超』長期的な目標の話であり、この何年かで達成出来る話ではないのだが、これは私たちの『希望』の話でもあり、また、謝罪外交を『超』えたところの話だ。多分、これは簡単にできることではないので、将来的な話としての話になるのだが、全ての国々が、心無い過去を振り返るように、謝り合うことができるような世界、そのための基盤作りに向かうための話なのだと思う。  
また、これは現在これからのことだが、いくら中国が圧倒的物量でのメディア戦略を展開していても、与えられたチャンスと時間の中で、辛抱強さをもって、こちらの『誠実さ』をしっかり持ち、真実を見抜き、できるだけ非礼のないように、穏やかに、「虚偽・欺瞞・卑怯な手口とはどのようなものなのかというその枠組み」を説明して理解してもらえるような力をつけることが出来れば、卑怯なやり方をする国の物量に関係なく、日本に対する国際世論をそれほど損なうことなく、外交で勝てずとも負けじ、といったところにいられるのではないだろうか。いや、これは勝ち負けの問題でもなく、当の(国)、当の国の人々の良心にも、訴えかけてゆかなければならない問題だ。  
卑怯さと物量に対抗するには、『誠実さ』が一貫していることが必要だ。ならば、たとえまずい条件が現在あるかもしれないとしても、不利な判決が下る可能性があるとしても、尖閣諸島の問題は、竹島問題の韓国に対する態度と同じように、日本は、国際司法裁判所で主張しようとする姿勢を取るべきではないだろうか(他の国が、日本が実際に行動に起こそうとすることに待ったをかける分にはいいかもしれないが)。もしくは、「中国に本当に正しい言い分があるのなら、暴力や軍事力ではなく、国際司法裁判所へ訴えるべきだ」、と中国メディアの影響を受けているだろう国際社会へ向けて発言しておくべきではないだろうか。そうであれば、他の国々は、たとえ日本からの情報が少なくとも、日本の姿勢の方が、矛盾することなく、一貫性があり、すなわち、誠実だと見るであろう。  
 
また、この『謝罪』を『潔い』とし、また、それをできるだけ許してゆこうとする風土、そして万が一自分もそのような立場になった時には自分も許されたいとする風土を維持し、または作ろうとしてゆくことは、私たちの日常でも大切なことではないだろうか。  
何か不祥事を起こし、謝罪をせざるを得なくなった謝罪だとしても、(もちろん、それが空気を読んでということではなく、心からの反省からなのか・誠実さがあってのものなのかどうかということをどこまでも問題にする必要はあるのだが)、感情的に許しがたい人たちのその負の感情に寄り添ってくれる人、また、当人の過ち(や誠実さの欠如ならそれ)を何とか改善に向けたり、または、別の道を考えてくれる人がいてくれるならば、まだまだこの世は捨てたものではないだろうし、  
また、人生にとってどうしても必要だと考えて行動したことが批判を受け、どこまでの謝罪が美しいか醜いかと問題にされることがあるとしたならば、その前に、現代の日本人に『潔(いさぎよ)い』という感覚がないことの方が問題ではないかと思う。切腹や自害や自殺はもはや許される時代ではないし、世間の批判は気にする必要はないのだけれど、謝罪をするにあたって、そこまでではないがそれらに近い覚悟の『潔(いさぎよ)さ』を織り込んだやり方などがあるならば、日本人ならば、その感覚を思いやることができるはずだと思う。  
また、政治家が失敗を犯せば、彼の後の人生のことなどまったく考えずに、とにかく叩けばいい、とするマスコミや一部の人の姿勢は、その方が問題だと思う。そこまで反省し、誠実さを示し何度も謝罪を表明した人を追いつめることで何も生まれない。ちょっとでも心を寄せたり、温かい言葉を贈ったり、では、どういうやり方ならば良かったのか、また、彼の人生の今後について何がベストなのかを一緒になって考えてあげるべきだ。それは、自分だってそうなるかもしれないとする、社会の中のお互いがお互いへの想像力の問題であって、決して一方通行なものはない。本当の誠実さがあるならば、批判はあっても、そこに、直接対話ができなかった不満やまた逆に、面と向かって言ってあげられなかった申し訳なさみたいなものがあるはずではないだろうか。  
それは、敗戦によって、人生の中での失敗によって、また、対処法がわからないことや、技術不足、慢心、不運、世の中はまだまだ広かったことの無知の中での、どこまで行っても果てしない至らなさであるのだが、そのことに気づくなら、誠実さを取り戻し、自分の仕事、そして、それぞれの場で心と言葉を紡いでゆくことにも、挑戦してゆかなければならないのだろう。これからの時代、『常識や既に形作られている規範や物事の理由や成り立ちというものを理解したり、帰属してゆくこと』以上に、「『様々な認識の仕方への理解や、正しい認識』と『思いやりや、より良い提案』への志向」も必要だと思う。  
 
従属と謝罪

 

朝日新聞に「安倍首相の靖国参拝」についてコメントを求められたので、すこし長めのものを書いた。もう掲載されたので、ブログでも公開することにする。  
東京裁判は戦後日本に対して二つの義務を課した。  
一つは、敗戦国として戦勝国アメリカに対して半永久的に「従属」の構えをとること。  
一つは侵略国としてアジアの隣国(とりわけ中国と韓国)に対して半永久的に「謝罪」の姿勢を示し続けること。  
従属と謝罪、それが、東京裁判が戦後日本人に課した国民的義務であった。  
けれども、日本人はそれを「あまりに過大な責務」だと感じた。二つのうちせめて一つに絞って欲しいと(口には出さなかったが)願ってきた。  
ある人々は「もし、日本人に対米従属を求めるなら、日本がアジア隣国に対して倫理的疚しさを持ち続ける義務からは解放して欲しい」と思った。別の人々は「もし、東アジアの隣国との信頼と友好を深めることを日本に求めるなら、外交と国防についてはフリーハンドの国家主権を認めて欲しい」と思った。  
伝統的に、従属を求めるなら謝罪義務を免除せよと主張するのが右派であり、独自の善隣外交を展開したいので、アメリカへの従属義務を免除して欲しいと主張するのが左派である。  
そういう二分法はあまり一般化していないが、私はそうだと思う。  
その結果、戦後の日本外交は「対米従属」に針が振れるとアジア諸国との関係が悪化し、アジア隣国と接近すると「対米自立」機運が高まるという「ゼロサムゲーム」の様相を呈してきた。  
具体的に言えば、戦後日本人はまずアメリカへの従属を拒むところから始めた。内灘・砂川の反基地闘争から60年安保闘争、ベトナム反戦運動を経由して、対米自立の運動は1970年代半ばまで続いた。  
高度成長期の日本企業の精力的な海外進出も対米自立の一つのかたちだと解釈できる。江藤淳はアメリカ留学中にかつての同級生であるビジネスマンが「今度は経済戦争でアメリカに勝つ」とまなじりを決していた様子を回顧していた。敗軍の兵士であった50〜60年代のビジネスマンたちの少なからぬ部分は別のかたちの戦争でアメリカに勝利することで従属から脱出する方位を探っていた。  
だから、日本国内のベトナム反戦運動の高揚期と日中共同声明が同時であったことは偶然ではない。このとき、アメリカの「許可」を得ないで東アジア外交を主導しようとした田中角栄にアメリカが何をしたのかは私たちの記憶にまだ新しい。  
同じロジックで政治家たちの「理解しにくい」ふるまいを説明することもできる。  
中曾根康弘と小泉純一郎は戦後最も親米的な首相であり、それゆえ長期政権を保つことができたが、ともに靖国参拝で中国韓国を激怒させた経歴を持っている。彼らはおそらく「従属義務」については十分以上のことをしたのだから「謝罪義務」を免ぜられて当然だと思っていたのだ。  
その裏返しが「村山談話」を発表し、江沢民の反日キャンペーンを黙過した村山富市と東アジア共同体の提唱者であった鳩山由紀夫である。彼らはともに「謝罪義務」の履行には心を砕いたが、アメリカへの「従属義務」履行にはあきらかに不熱心だった。  
このようにして、戦後70年、従属義務をてきぱき履行する政権はアジア隣国への謝罪意欲が希薄で、対米自立機運の強い政権は善隣外交を選好するという「ゼロサムゲーム」が繰り返されてきた。  
このロジックで安倍首相の行動は部分的には説明できる。今回の靖国参拝は普天間基地移転問題でのアメリカへの「従属」のポーズを誇示した直後に行われた。「従属義務は約束通りに果たしたのだから、謝罪義務は免じてもらう」というロジックはどうやら首相の無意識にも深く内面化しているようである。  
問題は、アメリカ自身は「従属か謝罪か」の二者択一形式には興味がないということである。彼らが同盟国に求めているのは端的に「アメリカの国益増大に資すること」だけである。「われわれはアメリカに対して卑屈にふるまった分だけ隣国に対して尊大に構える権利がある(その結果アメリカの「仕事」が増えても、その責任は日本に従属を求めたアメリカにある)」という日本人の側のねじくれた理屈に同意してくれる人はホワイトハウスにはたぶん一人もいないだろう。  
 
「謝罪」地域・民族・国家による違い

 

日本の謝罪文化  
日本の謝罪の文化は他国とは大きな違いが有ります。「ごめんなさい」や「すいません」の言葉が日常的に繰り返し使われている事がその一例であろう。日本人は謝罪をする事と賠償をする事は、別の事と考えている。トラブルの原因を作った加害者は、直ぐに謝罪をして被害者の出方の様子を見ます。その相手の反応に合わせて謝罪のレベルを変えて、トラブルを解決しようとします。  
謝罪の例-1 / 「私の間違いでご迷惑をお掛けして申し訳ありません」の謝罪に対し、「私がもっと詳しく説明するべきでした。私にも責任があります。」とお互いに謝罪の言葉を使い、平和的に解決する意思が有る事をお互いに確認しあいます。  
謝罪の例-2 / 「私の間違いでご迷惑をお掛けして申し訳ありません」の謝罪に対し、不満では有るが謝罪を受け入れて水に流す。  
謝罪の例-3 / 「私の間違いでご迷惑をお掛けして申し訳ありません」の謝罪に対し、謝罪は受け入れるが加害者に対し責任の追及と賠償を求める。加害者も相手が謝罪を受け入れて水に流す意思が無い事が解ってから、相手側の過失を指摘して問題解決への交渉を始める。最初の行われた謝罪は、加害者・被害者両方とも賠償を含まれていない事を前提に、責任割合の交渉が始められる。  
謝罪例-3の場合ですが、加害者が相手の反応を確かめてから反論を始めています。この様な例は、日本人同士の場合は特に問題はありません。しかし外国人が被害者の場合は大きな問題となりますし、日本人の態度の変化が不信感・狡賢い行動と非難されます。日本以外では謝罪を行うことは、賠償をする事を認めた事になります。  
相手の立場に立った『思いやり』や、『お互い様』・『水に流す』・『情けは人の為ならず』・『禊(みそぎ)は済んだ』など謝罪を受け入れる文化が発達しているのも日本の大きな特徴である。  
日本人特有の『恥の文化』も謝罪に影響している。狭い島国で多くの人が暮らしています。常に他人の目を意識しないわけにはいかないのです。怖いのは神や仏ではなく、他人の目であり、他人の口です。他人に笑われたくない、恥をかきたくない、これが日本人の行動を規定する恥の文化です。つまり、正しいかどうかで行動(謝罪)を決めるのではなく、世間がそれをどう思うかで、自分の行動(謝罪)を決めるというのです。  
日本は四方を海に囲まれた島国国家で、300年近くに渡り鎖国をしてきました。他の民族の支配を受けたことが無く、独特の『思いやり文化』『恥の文化』『武士道の精神』を成熟させてきました。戦後、近隣諸国と戦後処理の為に条約を交わし経済協力を行ってきたが、島国の国民性で大きなトラブル・紛争や誤解が起きた事はありませんでした。実際に ASEAN(東南アジア諸国連合)の10ヶ国とは友好的に付き合って来ています。日本の謝罪文化が世界の中で異質なのは確かですが、外交上で孤立するような事はありませんでした。 
欧米の謝罪文化  
欧米の映画やドラマでよく見かけるシーンで、子供の躾の為に外出禁止や門限の時間を決めたり、トラブルの原因の物を没収したり、社会奉仕をさせたているシーンをよく見かけます。欧米での躾では、謝罪の言葉は重要としないで、行動で謝罪・責任の取り方を表現させます。欧米社会では、謝罪の言葉だけで態度で表さない事は『卑怯』な事と見なされます。また、直ぐに謝罪をし自分の過失を認めてしまうことは、交渉能力が無い無能な人と決めつけられます。謝罪する事としない事が、日本社会よりはっきり区別されている社会です。  
アメリカは移民でできた国なので、習慣・言語などの違いで起きるトラブルが多いです。悪意の無い過失は問題にしないような懐の深い一面もあります。友人関係は対等で年齢に差が有っても成り立ちます。その対等な関係に謝罪や賠償を持ち込むと上下や力の関係が入り込みます。アメリカ社会では「いいよ気にしてないから」と対等な関係を大切にする風潮があります。  
中国・朝鮮半島の謝罪文化  
中国や韓国では、トラブルが起きた時に謝罪はしません。謝罪をする事は賠償を約束する事なので、自分に過失が有っても賠償を避けるために謝罪はしません。問題解決の主導権を握る為に自己の正当性を強く主張し続け、相手の主張は受け付けません。正誤の基準は関係無く、交渉術として相手を攻め続けます。謝罪を行うと『負け』を認めた事になり、賠償する事を認めた事になります。  
中国では不利な交渉でも有利に交渉を纏められる人は尊敬されます。プライドを大切にする国ですから交渉相手のメンツを潰すような交渉・謝罪は避けます。会社で上司が部下を叱責する場合は、ほかの社員の前で行うことはいけません。部下のプライドを傷つける事になり、二度と指示に従わなくなるか、退社して行く事になる。  
韓国が他の国と違う所は、一度主導権を握り強い態度で謝罪や賠償を勝ち取ると、際限なく繰り返してくる事です。過失を他人に押し付ける事が平気で行われ、嘘・捏造・告口・過大解釈の文化が大きく発達しています。日本で嘘や告口は道徳的に恥ずべき行為で、信頼を失う事となります。韓国では交渉術の一種で国家間の外交でも使われています。『騙される方が愚か者』と考える国民性なのです。  
会社間の契約や国家間の条約では、自己に都合がいい様に過大解釈して営業活動・外交を行ってきます。契約や条約で決められた内容まで押し戻さないと過大解釈を既成事実として、解釈の範囲を更に広げてきます。このような国民性では日本の様な謝罪を受け入れる文化は生まれないし、謝罪を受け入れて水に流す事は理解できないでしょう。  
朝鮮半島の人たちが、罪を他人に押し付けたり嘘・捏造・告口・過大解釈などを行うのは、過去の歴史の出来事に因果性(いんがせい)としての原因があります。ここではイザベラ・バード氏の本から抜粋して説明していきます。 イザベラ・バード『朝鮮紀行』より  
「…朝鮮には階級がふたつしかない。盗む側と盗まれる側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり、人口の五分の四をゆうに占める下人は文字どうり「下の人間」で、吸血鬼に血を提供することをその存在理由とする。」  
「このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人聞が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」  
両班がお金で役職を買い取り行政権・警察権・司法権を手に入れて、「盗む側」となります。法律の拡大解釈・言掛り・捏造・偽装を繰り返し、下層階級の人民の富を奪い続けます。「盗まれる側」は富を奪われない様に嘘を付いたり隠したりします。自分と富を守るために他人を密告し難を逃れ様とします。朝鮮半島の人達にとって、嘘・捏造・告口・密告をする事は、恥ずかしい事では無く、生き抜く為の術なのです。  
李氏朝鮮の500年の間これを繰り返してきたのです。李氏朝鮮の末期には、「盗む側」のやり方がより陰険になり、より残酷になって来ています。「盗まれる側」も最終的に奪われるのですから、生産したり蓄える事を止めてしまい、人間としての生きる希望を失っています。この「盗まれる側」の感情が『恨(はん)』なのでしょう・・・。  
これが朝鮮半島の民族性になっています。イザベラ・バード氏の表現で「吸血鬼」「吸血鬼に血を提供する・・」は決して悪意に満ちた大げさな例え話では無く、朝鮮半島の本質を衝いた適切は表現なのです。  
この様な歴史が何世紀も繰り返して来ていると、謝罪の文化は定着しないし、許す文化は理解できないでしょう。 
「謝罪」は「敗北」と考える中国人  
異文化理解が不十分なために生じる誤解があります。これを「中国人の不思議誤解ポイント」と名付けました。5つの代表的な誤解のポイントがあります。「5大不思議誤解ポイント」です。  
第一に、中国人は謝らない。  
2つ目は列に割り込む。  
3つ目は残業を手伝わない。  
4つ目はお礼を言わない。  
最後に、話し方がけんかをしているようだ。(自己主張が強い)  
以上の5つです。  
ぜひ、誤解しないでください。私は「中国人ってみんなこうだ」と言っているわけではありません。異文化理解が不十分なために「誤解が生じている」と言っているのです。このコラムはこの「5大不思議誤解ポイント」の謎(?)についてもひとつひとつ取り上げて、解説を交えながらいっしょに考えていきたいと思います。  
最初のテーマは「中国人は謝らない」(言い訳ばかりする)です。さらに踏み込んで言うと、中国人に「謝らせる」ことは禁止事項です。謝罪を促したり、時に謝罪を強要したりすることは、結果的に無駄な努力に終わります。「謝らせる」のではなく、どうして謝罪が必要か考えさせることが必要です。  
何かトラブルがあったり、ミスを犯したりした人に対して、日本人は「まずはミスを認めようよ」、「まず謝っちゃえよ」と声をかけます。日本人同士なら珍しくないことではないでしょうか。日本人同士ならそれもいいですが、中国人にこれは通用しません。  
中国人は自分に責任がないことはまず謝りません。自分に非があるかないかを真剣に考え、非がないことは絶対に謝らないのが中国人です。一方、日本ではミスを素直に認めることが評価されたり、ミスを認める謙虚な姿勢が好感を生んだり、とにかく素直に謝ってしまう前向きの姿勢が評価される文化です。非を認めることが「潔さ」として評価されることもあります。助け合ってみんなでミスを補うので日本の文化です。  
しかし、中国人は責任の所在を明確にしようとします。ミスはミスとして原因をとことん追及するのです。自分に責任がないことは絶対に謝りません。曖昧なままで「謝罪」はありえないのです。時には自分のミスをミスと認めないケースもあります。非を頑として認めない頑固さです。仮に自分に非があったとしても、やはりそう簡単には謝りません。まずは自分の言い分を徹底的に主張します。  
一方、100%自分に非がなくても、「みんなに迷惑をかけた」という理由で「申し訳ありません」と口にするのが日本人です。「すみません」には2つの意味があります。ミスを犯した問題の本質に対して非を認める「すみません」と、みんなに迷惑をかけた「すみません」と2つの意味です。日本人はこのふたつが良くも悪しくもごちゃごちゃです。使い分けができていないのです。しかし、中国人ははっきり切り分けて考えます。  
自分が悪くないことは、他人にも迷惑をかけていないという論理です。中国人に対して「とにかく謝っちゃえよ」というように一方的に謝らせようとすることは「禁止項目」です。日本人はミスを認めて「謝罪」をする人に対して、寛容な気持ちになります。「謝っているんだからもういいじゃない」、「悪いと思っているんだから許してやろうよ」と考えます。  
しかし、中国人犯した「ミス」や「罪」に対して厳しい姿勢で臨みます。「謝る」ことで「罪」が清算されるとは考えないのです。「ケジメ」をつけたり、「禊」を済ませても、過去の「過ち」は消えません。ミスはミスとしてとことん追及され、過去の「過ち」を水に流すことができない中国人です。  
さらに、ミスを認めたらそれに対する追求が自分自身だけでなく、自分の仲間や家族にまで及ぶことをよく知っています。「謝る」という行為は相手に自分の「弱み」を見せることであり、「弱み」を見せることは自分だけでなく家族や仲間とのコミュニティにまで影響が及ぶのです。  
中国人が謝らないのは「自分の身は自分で守る」という長い歴史の中から学び取ってきた肌に染み付いた皮膚感覚の「自己防衛本能」を持っているからでしょう。中国人がミスを犯しても頭ごなしに謝らせようとすることは厳禁。「謝る」という「謙虚さ」や「潔さ」を求めるのではなく、彼らとじっくりコミュニケーションを図っていかなければなりません。  
「5大不思議誤解ポイント」です。  
1 中国人は謝らない。  
2 列に割り込む。  
3 残業を手伝わない。  
4 お礼を言わない。  
5 話し方がけんかをしているようだ。 
中国人との実践交渉術 
主張することが評価される文化  
「イエス」は「イエス」と言う、「ノー」は「ノー」と明確に伝える、曖昧な言い方をせずにつたえるべきことをしっかり伝えることが中国人とのコミュニケーションの基本です。中国人特有のオーバージェスチャーで、自信たっぷりの話し方に圧倒されてしまうこともあります。相手にスキを見せずに、時には偉そうな態度で自らの主張をぶつけてくるのが中国人です。中国人同士で会話をしているとき、時にはまるで「喧嘩」をしているような話し方になることも珍しくありません。  
「以心伝心」は通じない  
一般的に中国人は自己主張が強く、お互いの意見を真っ向からぶつけ合います。お互いに譲歩点や妥協点を探りながら議論を進める日本人とはだいぶ違うようです。主張すべきことははっきり主張する。曖昧な表現をせず主張したいポイントをはっきり伝える。これらは中国ビジネスの基本姿勢として心得ておきたいポイントです。言いたいことをストレートにはっきり言う。「イエス」は「イエス」と言う。「ノー」は「ノー」と明確に伝える。時にはまるで喧嘩をしているかのように話すのが中国人です。大きな声で「自己主張」することが「あたりまえ」なのです。  
「主張する」「相違点を探し出す」「議論すべきポイントを絞る」。このようなプロセスで議論を進めていくのが中国流のコミュニケーションスタイルです。主張と主張を徹底的にぶつけ合い、主張を出し合ったところで双方の相違点を確認します。議論のポイントを探し出すためには、まずは主張することが大切なのです。  
「反論」に「反論」することで論点の迷走に注意  
彼らの主張に反論すると、必ずと言っていいほどその反論が返ってきます。その反論にまた反論すると、相手はまたその反論を返してきます。反論に反論を繰り返し、時には論点をすり換えたり、議論を蒸し返したり、話をかき回して議論を進めていくのが中国流です。「譲らない」「謝らない」「反論に反論する」というのが典型的な中国人です。  
しかし、こうして徹底的に主張をし合う中から譲れないポイントと、譲ってもいいポイントを見つけ出していきます。お互いの主張を1つひとつ確認し合い、最後は「消去法」で論点を絞り込んでいきます。お互いの主張内容を比較して自分にとって分が悪い主張は取り下げ、勝ち目のあるポイントを選び出して議論のポイントを絞り、次の突破口を切り開きます。  
空気を読み、相手の気持ちを悟る(日本人にとってのあたりまえ)  
一方で、相手の気持ちを察し、相手が考えていることを悟り、場の雰囲気を感じ取り、「以心伝心」で話し合いを進めていくのが日本人のコミュニケーションスタイルです。時には、遠まわしな表現をしたり、時にはわざと曖昧な表現をしたり、相手に自分の考えを悟らせるような言い方をします。  
必要以上の対立を避け、できるだけスムースに、穏便に、譲り合うことで合意点を見つけ出そうとするのが日本的な交渉スタイルの特徴です。相手の立場や気持ちを考えて、互いに譲り合って、どこかに折り合いをつけながら議論を進めるのが日本的なスタイルです。  
相手の気持ちを察しながらこちらの考えを伝えます。すると相手も言葉の背景を読んでこちらが言いたいことを察しながら言葉を返してきます。言いたいことを直接言わなくても気持ちを察し合いながらコミュニケーションを図るのが日本的なスタイルなのです。  
しかし、中国では主張することが評価される文化です。主張すべきことを主張し合うことで考え方の違いを見つけ出し、議論すべきポイントを見極めていくのが中国的なコミュニケーションのスタイルです。まずは主張すること。自分の考えをはっきり伝えること。これが大切なのです。  
日本人は主張すべきことを徹底的に主張することはどうやら苦手なようです。しかし、相手に遠慮して言いたいことを出し合わないと、議論することができません。消去するポイントを見つけ出すことができないのです。 
すぐ謝る日本人、絶対に謝らない中国人 彼等が非を認めない理由  
中国に行って現地で仕事をすると日本人の誰しもが感じる事ですが、総じて中国の人は謝らないし、自分の非を認めようとしません。  
もっとも、世界中で日本人ほど安易に詫びる人達も少ない訳で、どこに標準を置くかという問題かもしれません。(後ほど書きますが謝るのが良いとも言い切れません)  
海外では、【 謝る(すいません)=責任を認める(自分が悪かった)=補償(じゃあどう責任を取ってくれるんだ)】、 こういう流れが普通の話。謝るという事は実際の利害が絡むという事です。  
よって、明確な傾向として、中国人の彼らは非があっても謝ろうとはしないし、言い訳と責任のなすりつけによって、自分の責任を逃れようとする場合が圧倒的に多いという事になります。  
『会社のこう言う所が悪いからそれは起った、だから私のせいでは無い。』『指示した方法が悪いから失敗した、それは私のせいではない。』『指示の仕方が悪い、だから仕方が無い』『環境が悪かったから上手く行かない、環境を整えない会社のせい』etc。  
結局の所中国では(他の多くの国でも同様です)謝罪と補償はパックであり、上に書いた様に利害が必ずついて回る訳です。それに対して、日本だけが違うのは何故かと言えば、日本では残念ながら、謝罪と実態責任が一体でなく、世界的な視野から見れば、責任を取らない文化だからという事になります。  
何れにしても、結果的にこうやって積み重ねた経験の蓄積で、彼らの多くは自分のミスを認めないような思考経路になっています(勿論確率論、そうでない方もおられます)。あるいは、自己防衛のためにフリでは無く本気で責任を置き換えてしまう事を無意識の内にやっているケースも多い(自分自身でも本気で思い込んでしまう場合です)。  
当然、そこに反省が有りませんので次の改善には活かされません。結果としてはご本人も成長出来ないという残念な事につながってしまいます。  
他方、日本人は謝りすぎる。謝罪に責任が伴わない文化で育ったが故に、簡単に「すいません」を口にする。或いは日本語の「すいません」が「失礼」と言うような意味を持っているため、エレベーターなどでちょっと人に触れても「すいません」と言ってしまったりします。  
であるからこそ、日本人の発する『すいません』には重みが無い!。中国人はそんな軽い言葉は決して発しませんし、足を踏んだとしても相手が抗議しなければ無視する方が普通です。  
中国でビジネスを行うに際しては、謝罪と責任はパックなんだと肝に命じ、そう言う背景が彼等が非を認めない理由である事をよくよく理解した上で対応すべきです。  
「彼等はちっとも謝らない」「誠意が無い」などと嘆いていても何も変わりませんし、幼い頃から積み重ねられたメンタリティが、社会人になった数年間で簡単に変わるものでも有りません。  
感情的にならず合理的に判断出来る仕組みを作ること。相手が非を認めなくとも責任を取らせられる様な証拠を作っておくこと(契約書、文書、覚書、行動記録、写真、動画)、そうやって外堀を埋めて行くことが大切なのです。  
そして、日本人も海外では安易に謝らない事!。  
本当に悪いと思うのなら結構ですが、海外では必ず責任を取らされると言う事を肝に命じた上で謝罪の言葉を発して下さい。日本国内の習慣は海外では通用しませんし、以心伝心で相手も慮ってくれるのは日本人同士だからこそ、海外ビジネスでそんな甘いスタンスではやって行かれません。 
 
仏教の「懺悔」 

 

懺悔文 (さんげもん)
我昔所造諸悪業 [がしゃくしょぞう しょあくごう]  
皆由無始貪瞋痴 [かいゆむし とんじんち]  
従身語意之所生 [じゅうしんごい ししょしょう]  
一切我今皆懺悔 [いっさいがこん かいさんげ]  
訓読文  
我れ昔より造る所の諸[もろもろ]の悪業[あくごう]は、  
皆な無始[むし]の貪[とん]瞋[じん]痴[ち]に由り、  
身[しん]語[ご]意[い]従[よ]り生[しょう]ずる所なり。  
一切を我れ今[いま]皆な懺悔[さんげ]す。  
現代語訳  
私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、  
すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、  
身体と言葉と心によってなされたものである。  
それら全てを私は今みな懺悔する。
解説  
懺悔文とは  
懺悔文[さんげもん]は、その「懺悔[ざんげ]」の文字が示すとおり、自分の今まで犯してきた悪い行いやあやまちを告白し、悔い改めることを述べた文言です。これは『華厳経[けごんきょう]』の一説を抜き出した経文です。  
今も華厳宗中興の祖とたたえられ、日本仏教史上に重大な影響を与え続けている、かの偉大な高僧、栂尾の明恵上人[みょうえしょうにん]がそのご臨終の直前、この懺悔文を閑かに唱えられ、息を引き取られたことが、その伝記に伝えられています。  
はるか昔からの  
我昔所造諸悪業の、「我」は言うまでもなく、自分自身のことです。「昔所造」は、「昔から造ってきた」ということです。昔から、といっても、今の自分が生まれてから今まで、というだけではありません。仏教には、輪廻転生[りんねてんしょう]という世界観があります。ですから、生まれ変わり死に変わり、色々な生を受けてきた、ずっとずっと昔から、という意味です。いわゆる「前世から」を意味します。  
しかしながら、現代では「輪廻転生・前世など非科学的でナンセンス」だ、と考える人が大半のようです。ですから、そのような方はとりあえず、今の自分が生まれてから今まで、と考えてもいいでしょう。  
「諸悪業」とは、「多くの悪い行い」を意味しています。悪業[あくごう]とありますが、これは「結果として自分、または他者に、苦しみをもたらす行い」を意味します。まとめますと、「自分が、ずっと昔から行ってきた、多くの悪い行いは、」ということになります。  
皆由無始貪瞋痴の、「皆」は先ほどの「多くの悪い行い全て」を指します。「無始」とは、「始まりが無い」ですが、これは仏教の世界観、輪廻転生を表した言葉です。「この世界は、神などの何者かが造ったものではなく、いくら過去にさかのぼってみても、始まりなどけっして知り得無いものである。世界は誕生と滅亡とを、愚かさによって、いたずらに無限に繰り返している」と、仏教では考えるのです。  
三毒  
貪[とん]・瞋[じん]・痴[ち]は、それぞれ貪り・怒り・愚かさという、生命の三つの根本的煩悩であり、仏教ではこれを三毒[さんどく]と呼んでいます。よって、この一文は「すべて、始まりもない過去からの、自分の貪りと怒りと愚かさの、三つの毒のような煩悩から起こったものであり」という意味になります。  
従身語意之所生は、さきほどの二つの文章を受け、「身体と言葉と心によって行われてきた」という一文になります。  
ちなみに仏教では、人間の行為を、身体と言葉と心の三つに分類し、これら三種類の行いを三業[さんごう]と呼びます。  
業  
現代において、業[ごう]などと聞くと、なにやら悪い言葉のように、思われる人がいるかもしれません。それは、日本語の中に「業が深い」、「業を煮やす」、「業腹[ごうばら]だ」などといった、主として悪い意味で用いられている言葉が、多数あるためのようです。また、近年の宗教離れによる、伝統的な仏教の説や述語への無理解が進んでいることも、その大きな一因に違いないでしょう。  
しかし、業という言葉自体には、Karma[カルマ]というサンスクリット、あるいはKamma[カンマ]というパーリ語から漢語に翻訳された言葉で、「行為」といった意味しかなく、良い悪いといった意味はありません。  
ジッとすることのない心  
さて、我々は時として、「今日は暇で何もしないで、ただボーッとしていた」等と言ってみたりするものですが、「何もしない」と言うことは基本的に考えられない事だと、仏教では考えます。  
私たちは、身体は何もしないでジッとしていても、口では色々と言ったりします。また、身体もまったく動かさず、言葉も全く発しないときでも、心は色々思ったり考えたりして、実にせわしなく活動しています。そしてまた、例えば惚[ほう]けていたり気絶したり寝ていたりしているときにすら、心だけは決して休まずに、いわば無意識に活動している、と考えるのです。  
さらに、それら私たちの身体と言葉と心は、意識的にせよ無意識的にせよ、みずからの根源的愚かさに基づいて、さまざまな悪い行いと(多少は善い行い)を積み重ねてきたと考えるのです。そのようなことを、この一文は示しています。  
一切我今皆懺悔の、「一切」は「今までのこと全て」、「我」は、言うまでもなく、まさに今ここに生存しているこの「自分自身」の意です。それが、「今」ここで、「皆」すべてを、「懺悔」する、というのです。もう説明するまでもないかもしれませんが、この一文の意味は、「自分の行ってきた、あらゆる悪い行い全を、私自身が、今ここに、全て反省して改める」となります。  
自分は悪くない?  
仏教は人を、儒教のいう性悪であるとか性善であるとかいう説を説きません。しかし、人は、生きとし生けるものは、その「愚かさ」故に悪をなすものであると説きます。  
悪とはなんぞや、などという議論が哲学的に始まれば、それはいつ尽き果てるともしれない議論に陥ってしまうかもしれませんが、仏教における悪、それは一般に、十悪という言葉で一括することが出来るものです。  
(十悪については、”戒律講説”の戒についてにおける”十善戒”を参照のこと。)  
人は放っておけば、道徳教育や宗教教育を受けずにおけば、そして他人に知られない、秘め事であるならば何をなしても良いのだなどと思えば、それが悪だと知りながら、悪をなす。それは善であると知りながら、その善をなさない。あるいはそれを悪だと思わず、悪をなす。善と知らずに、善をなすことも。これは哲学的な、「真の悪とはなにか。善とは」などという問いに関しない、日常的なレベルでの話です。  
私は悪いものである、などと思って思い煩う必要など必ずしもありませんが、しかし、私は悪をなしてきたものである、少なくとも自分のこの人生において、数え切れないほどの「諸悪業」を積んできた、と認識する必要はあるでしょう。  
人は、自分自身の行いを振り返り、それが過[あやま]ちであったことを知るのは、何か悪い結果がもたらされてからの場合が多く、何も起こらなければ振り返りもせず、当然その過ちにすら気づかないことが多いものです。多くの場合、人に知られなければ後悔の念や罪悪感に苛まれることはありません。  
そして、それに気づいたとしても、やがて時間がたてば「喉元過ぎて熱さ忘れ」てしまいます。いつまでもそのような感情を引きずって生きることなど、そう誰しもに出来ることではなく、むしろそうしなければとうてい生きてなどいけない、というのもまた事実でしょう。  
誰しも、他人は悪くとも自分は悪くないと思い、悪いと思いたくもないものです。もし自分が悪いと知っていても、それを人に指摘されたら何とも不愉快になり、意固地になることも多々あります。いや、過去に自分がなした悪があったとしても、それはいまだ人に知られぬことであり、それを気まぐれに思い出すたびに多少の罪悪感を感じたとしても、自心を苛むほどにいたってない、故に反省するほどのこともない、機会があればそのときもおそらく・・・、ということすらあるでしょう。  
誰もはじめから悪をなさずに生きる者などありはしません。様々な意味で、罪のない者など存在しはしません。人という者は、自分という存在は、実に矛盾したもので、それは悲劇というよりもむしろ滑稽ですらあるものです。  
我が悪  
過去を振り返って悔やみ悩んだとして、それはすでに過ぎ去って取り返しのつかなくなったこと。それだけでは意味などありません。しかし、だからといって、自らを振り返らずして今だけ見れば良いのか、より善い将来だけを望めば良いのか、といえばそのような事はありません。今の自分は自身の過去の蓄積でしかなく、過去からの延長線上に今という一瞬があり、それが未来につながっていきます。  
公では悪をののしり、善のなんたるかを口にしながら、しかし密かに悪をなして、たちまち悔い、あるいは自ら苦しむ。悪を懺悔した次の瞬間にまた悪をなす。人は、この生の一瞬一瞬に、様々な、そして数々の業をなし続けています。我々は、悪をなしえるのと同時にまた、善をなすことが出来ます。その善をなすのにも、やはり過去の我が過ちをふりかえり、これを至心に懺悔することは、多くの人にとって大変有益なことであり、また必要なことです。  
懺悔文のこの短い一文は、自らが謙虚に、そして積極的にそのような行いを振り返って見つめ、至心に懺悔することを述べるものとして用いられるものです。懺悔文、それはただ日常の勤行にてその始めにちょこっと唱えられるだけの、社交辞令的な、短い「反省文」などといわれるようなものでは全くありません。  
懺悔文、それは本人の自覚によって、大海よりも広く深い意義をもった文言になり得るものです。
懺悔文2  
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)  
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)  
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)  
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ) [華厳経行願品]  
読み下し文  
我れ昔より造る所の諸の悪業は、  
(われむかしよりつくるところのもろもろのあくごうは)  
皆な無始の頓・瞋・痴に由る、  
(みなむしの とん・じん・ち による)  
身・口・意従り生ずる所なり、  
(しん・く・い よりしょうずるところなり)  
一切、我れ今皆な懺悔したてまつる。  
(いっさい、われいまみなさんげしたてまつる)  
現代語訳  
私が、過去に行ったあやまちは、全て始めもわからない深い貪り、怒り、愚かさ(三毒)によります。それは、身体の行い、口の行い、心の行い(三業)から生まれ起きたものです。全てを、私は今、仏様に照らされて悔い改めます。  
 
釈迦の教えは、苦しみから解放され幸せになることです。その苦しみの原因は自己中心的な欲望です。己が今日までに造ったあらゆる罪の報いの恐ろしさを痛感し心から悔い改めることが大切です。  
「貪り」 淫欲、財欲、食欲、名誉欲等  
「怒り」 自分を見失い怒りにまかせた状態  
「愚かさ」 心が欲望におかされ道理のない状態は、己の身と口と心から生じたものである。  
もちろん、懺悔したからといって全て帳消しになる訳ではない。益々煩悩の深さを知り、心から懺悔し、決して悪業の報いを忘れないことである。 その苦しみから離れるにはあらゆる善行に施すのです。その善行が心より己の喜びとなったとき、そこで初めて懺悔の功徳が現れてくるのではないでしょうか。  
無責任な人間、己を見つめ直し懺悔しましょう。   
 
密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)

 

真言宗中興の祖、興教大師覚鑁が、腐敗した真言宗総本山金剛峰寺の内紛に深い憂いを持ち、金剛峰寺内の自所「密厳院」において3余年に及ぶ無言行を敢行、その直後、一筆のもとに書き上げたと言われる経文。宗教家としての自覚自戒の源として真言宗系寺門に広く護られる。
原文 / 真言諸経要集  
我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏(まと)はされて衆罪(しゅざい)を造る  
身口意(しんくい)業 常に顛倒(てんどう)して 誤って無量不善の業(ごう)を犯す  
珍財を慳悋(けんりん)して施を行ぜず 意(こころ)に任せて放逸にして戒を持せず  
しばしば忿恚(ふんに)を起して忍辱(にんにく)ならず 多く懈怠(げだい)を生じて精進ならず  
心意(しんに)散乱して坐禅せず 実相に違背して慧(え)を修せず  
恒に是の如くの六度の行を退して 還(かえ)って流転三途(るてんさんず)の業を作る  
名を比丘(びく)に仮(か)って伽藍(がらん)を穢(けが)し 形を沙門(しゃもん)に比して信施を受く  
受くる所の戒品(かいぼん)な忘れて持せず 學すべき律義は廃して好むこと無し  
諸佛の厭悪(えんあく)したまう所を慚(は)じず 菩薩の苦悩する所を畏れず  
遊戯笑語(ゆうげしょうご)して 徒ら(いたずら)に年を送り 諂誑詐欺(てんのうさぎ)して空しく日を過ぐ  
善友(ぜんにゅう)に随がはずして癡人(ちにん)に親しみ 善根(ぜんごん)を勤めずして悪行を営む  
利養を得んと欲して自徳を讃じ 名聞(みょうもん)を求めんと欲して他罪を誹(そし)る  
勝徳(しょうとく)の者を見ては嫉妬(しっと)を懐き(いだき) 卑賤(ひせん)の人を見ては驕慢(きょうまん)を生じ   
富饒(ぶしょう)の所を聞いては希望(きぼう)を起す 貧乏(ひんしゅ)の類を聞いては常に厭離(おんり)す  
故(ことさら)に殺す有情(うじょう)の命(みょう) 顕は(あらわ)に取り密かに盗る他人の財  
触れても触れずして 非凡行(ひぼんぎょう)を犯す 口四意(くしい)三互(さんたがい)に相続し  
佛を観念する時は攀縁(はんねん)を発し(おこし) 経を読誦する時は文句を錯る(あやまる)  
若し善根を作せ(なせ)ば有相(うそう)に住し 還って輪廻生死(りんねしょうじ)の因と成る  
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)知ると知らざると犯す所の是(かく)の如くの無量の罪 今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る  
慈悲哀愍(じひあいみん)して消除せしめ賜え   
皆悉(ことごと)く発露(ほつろ)し 尽(ことごと)く懺悔(さんげ)し奉る  
乃至(ないし)法界の諸(もろもろ)の衆生 三業に作る所のかくの如くの罪 我皆 相代って尽(ことごと)く懺悔し奉る 更に亦 その報いを受けしめざれ  
南無 慚愧懺悔(ざんぎざんげ) 無量 所犯罪(しょぼんざい)
訳  
われは懺悔する。妄想にとりつかれて、もろもろの罪を犯してきました。  
身と口と意(こころ)の行いは、つねにひっくりかえり、多くの悪行を誤って犯してきました。  
財産を惜しんで人に施さず、気の向くままに、ふしだらな生活をし、戒めなどまったく守らなかった。  
よく腹を立て、我慢をしない。怠けることばかり考えて、少しも努力をしない。心はいつも乱れているが、座禅などしたことがない。  
道理にはずれているのに、智慧を磨こうともしない。  
六波羅蜜行などしたことがないのは、かえって地獄行きのもとをつくっているのだ。  
僧侶の名を借りて寺院を汚し、僧侶の格好をしてお布施をもらっているのだ。  
授けられた戒律は、とっくに忘れてしまい、学ぶべき修行は嫌いになっている。  
諸仏が嫌がっていることを恥とせず、菩薩たちを悩ませていることを恐れない。  
遊びまわり、冗談を楽しんでいるうちに年をとり、人に心にもないお世辞や、嘘をいっている間に、むなしく日は過ぎていく。  
善き友を避けて、愚かな友と親しみ、善いことをしようとしないで悪いことをしてしまう。  
名誉がほしいので自画自賛をし、徳の高い人を見ては、ねたましく思う。  
自分より劣った人を見ては高慢になり、金持ちの暮らしを聞いてはあこがれ、貧乏な暮らしを聞いてはおぞましく思う。  
過失で殺すも殺意を持って殺すも殺人にかわりなく、強盗にしてもコソ泥にしても盗人にかわりがない。  
触れても触れなくても、不倫な行為は不倫である。  
悪い言葉や悪い心のはたらきが互いに重なって、仏を観想しても心が落ち着かず、経を読んでも間違える。  
もし善いことをしても、その結果を期待するから、かえって迷いの世界に入るもととなる。  
毎日の暮らしのなかで、知らないうちにたくさんの罪を犯している。いま、仏・法・僧の三宝のおん前で告白いたします。なにとぞ慈悲のお心でおゆるしください。  
ここに、すべてを懺悔いたします。自らの行いと、言葉と、心の動きによってできた罪を、わたしはすべての人に代わって、懺悔いたします。  
なにとぞ、すべての人が悪行の報いを受けませんように。  
 
懺悔滅罪 [曹洞宗]

 

仏祖憐(あわれ)みの余り広大の慈門(じもん)を開き置けり、  
仏祖は、衆生の迷い苦しみを見かねて、誰でもいつでも入れる大きな救いの門を開いておいてくださった。  
是れ一切衆生(しゅじょう)を証入(しょうにゅう)せしめんが為なり、  
これは、すべての人をして、みずから体験し悟らしめんとするためである。  
人天(にんてん)誰(たれ)か入らざらん、  
これを聞いて、入ろうとしない者がいるだろうか。  
彼(か)の三時の悪業報(ごっぽう)必ず感ずべしと雖(いえど)も、  
さて、われわれが良からぬ行為をするならば、その影響はあとに残ってくるが、  
懺悔(さんげ)するが如きは重きを転じて軽受せしむ、  
もし、仏祖の教えにしたがって懺悔するならば、悪影響も好転して軽く受けることが出来よう。  
又滅罪清浄(めつざいしょうじょう)ならしむるなり。  
また、さらにいえば、心は清々しい爽やかな気持ちに戻らせてもらえるのである。  
然(しか)あれば、誠心(じょうしん)を専らにして前仏(ぜんぶつ)に懺悔すべし  
ゆえに、まごころこめて、仏の前に自らの罪過を告白し、その許しを乞うところの懺悔の行をするがよい。  
恁麼(いんも)するとき前仏懺悔の功徳力(くどくりき)我を拯(すく)いて清浄ならしむ、  
こうすると、懺悔の功徳があらわれて、われわれを罪の苦しみから救い、重苦しい捉われより解き放ってくれるのである。  
此(この)功徳能(よ)く無礙(むげ)の浄信(じょうしん)精進を生長(しょうちょう)せしむるなり。  
そればかりでない、のびのびとした深い心情にみちびいてくれ、心機一転、これからしっかりやるぞという気持ちや、報いは報いとして甘んじて受け、その償いをしようとする決意すら生まれてくるのである。  
浄信一現(いちげん)するとき、自佗(じた)同じく転ぜられるなり、  
このような気持ちになると、自分のみか接する人びとも変わってくるのである。  
其(その)利益(りやく)普(あまね)く情非情に蒙(ごう)ぶらしむ。  
人は、懺悔したおかげによって、ほとけごころとなり、心のはたらく人間や動物に対してだけでなく、心なき木石等あらゆるものに愛情が豊かになるのである。  
其(その)大旨(だいし)は、願わくは我れ設(たと)い過去の悪業(あくごう)多く重なりて障道の因縁ありとも、  
さて、懺悔の仕方のおおよそをいうと、こういう気持ちをもって、仏にお願いするとよい。「わたくしは、たとえ過去の罪過が多く積もって、求道の妨げになっている救いがたい人間でありましょうとも、  
仏道に因りて得道(とくどう)せりし諸仏諸祖我を愍(あわれ)みて  
どうか、仏道によっておさとりになられた仏祖のかたがたよ、わたくしを愍んで、  
業累を解脱せしめ、学道障(さわ)り無からしめ、  
従来積んできた我見妄想より解き放ってくださり、求道が開けてくるようにお導きください。  
其(その)功徳法門普(あまね)く無尽法界(むじんほっかい)に充満弥綸(みりん)せらん、  
その功徳広大なみ教えと、天地万物に普く及ばれている大慈悲とを  
哀みを我に分布すべし、  
わたくしたちにもお分かちくださいますように」と、静かに祈るのである。  
仏祖の往昔(おうしゃく)は吾等(われら)なり、  
そして、仏祖も昔は私たちと同じように悩まれたのだ。  
吾等(われら)が当来は仏祖ならん。  
我等も一生懸命でやりさえすれば、仏祖のような心境に近づくことが出来るのだ、と心にいいきかせ、勇を鼓するのである。  
我昔所造諸悪業(がしょくしょぞうしょあくごう)  
我れ昔より造れるところのもろもろの悪業は、  
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)  
皆いつとも知れず我が身にまつわりついている貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚(おろか)さの妄想が原因である。  
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)  
他から来たのではなく、すべて我が身、我が口、我が意(こころ)から生じた罪過である。  
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)  
わたくしは今、仏の前に一切を懺悔する。  
是(かく)の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、  
このように懺悔すると、必ず仏祖は目にみえぬお力をかしてくださるのである。  
心念身儀(しんねんしんぎ)発露(ほつろ)白仏(びゃくぶつ)すべし  
だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。  
発露(ほつろ)の力罪根(ざいこん)をして  
自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過をつくり出す根ともいうべき貪瞋癡の妄想を消滅せしめ、  
銷殞(しょういん)せしむるなり。  
清浄なる心境に至らしめてくれるのである。懺悔こそ新生の第一歩である。  
 
懺悔滅罪2

 

「懺悔滅罪」とは、仏前において自分の犯した罪過を正直に披瀝ひれきし、二度と同じ過ちを犯さないことを誓って許しを請うことであり、同時に自身の罪障消滅のため、正しい信仰によって真剣に仏道修行に精進することをいいます。
懺悔滅罪の意義と功徳  
語源を繙ひもとくと、「懺」はサンスクリット語の懺摩(クシャマ)の音訳、忍の意で、「悔」はその意訳で、追悔ついかい・悔過けかとも称し、罪を悔い告白して謝することをいいます。  
世にいう「懺悔ざんげ」は、キリスト教の専売特許のような印象を与えています。しかし、これはペニテンスという語(後悔・悔悛かいしゅん)をそのまま懺悔に置き換えたものであり、実体は自己の罪に対する悔俊の儀式にしかすぎず、それは空虚な形式でしかありません。  
それに対して仏教では、古くは「布薩ふさつ」と呼ばれる集会を半月ごとに開き、戒を破った者が大衆と僧の面前で懺悔さんげするという形をとり、心から罪への反省と浄化を図ることを目的として行われ、その懺悔の儀則や滅罪の相、その功徳は各経典に種々説かれています。特に涅槃経に示される阿あ闍じゃ世せ王おうの懺悔改心の話は有名です。慈父殺害等の大逆罪の報いによって全身に悪瘡あくそうを現じて死の宣告を迫られた阿闍世王は、仏に懺悔して過去の数々の悪業を詫び、改心と勇猛精進を誓ったことによってたちまちに悪瘡は治癒し、さらに四十年の寿命を得ました。これは『富木尼御前御書』に、  
「阿あ闍じゃ世せ王は法華経を持ちて四十年の命をのべ」  
とあるように、『寿量品』に説かれた更きょう賜し寿じゅ命みょうの現証であり、実に阿闍世王が釈尊の説法の会座えざに連なった法華信仰の功徳によるものと言えます。  
また、世親せしんも五百部の小乗の論を造って大乗を誹謗しましたが、兄の無む著じゃくにあって破折され、自らの舌を切ってその罪を滅せんとしました。しかし、無著から「汝なんじその舌をもって大乗を讃歎せよ」と諭さとされ、以後世親は『法華論』等の五百部の大乗の論を作って小乗を破し、大乗興隆に努めました。  
さて、天台大師の『摩訶止まかし観かん』に、四種三昧ざんまいという修行に打ち込む者が日夜に修すべき五種の法華懺法「五悔ごげ」が説かれています。  
1 に懺悔。過去の所行・罪過を漸愧ざんきして発露し、相続心(執心)を断つ。  
2 に勧請かんじょう。懺侮の決意に対して如来の大慈悲の力を祈り求める。  
3 に随喜。他人の善根を喜ぶ。  
4 に回向えこう。自らのなし得た善根を回して菩提に向かわしめる。  
5 に発願ほつがん。堅固な誓願を発して修行の退転を防ぐ。  
以上の「五悔」を法華経修行の助行方便として日夜に修すれば、その功徳は無量であると説かれています。
自行化他の題目こそ、事・理の懺悔滅罪  
また『摩訶止観』には、懺悔に事理の二種があることを説いています。事懺とは礼拝らいはい・誦経など身しん・口く・意いの行為に顕した懺悔で、仏教一般の懺悔はすべてこれに当たります。そして理懺は実相の理を観じて罪を滅する懺悔で、精神的に深く懺悔の念を湧き出だすことが求められるために懺悔の根本行ともの言えます。  
この懺悔の根本行を修するためには、まず過去・現在・未来の罪業の生じた原因を知らなければなりません。普賢経には、  
「一切の業ごう障しょう海かいは 皆妄想みなもうぞうより生ず 若もし懺悔さんげせんと欲せば 端坐たんざして実相じっそうを思え 衆罪しゅざいは霜露そうろの如ごとし 慧日えにち能よく消除しょうじょす」  
とあり、あらゆる罪業は妄想から生じているため、その罪を懺悔しようと欲するならば、実相を思惟しゆいして智慧を明らかにしなければならないと説かれています。  
日蓮大聖人は、この経文を釈して『御義口伝』に、  
「衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し。然りと雖も慧日を以て能よく消除すと云へり。慧日とは末法当今日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり」と説かれています。  
すなわち、末法にあっては日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊に対し奉り、自行化他に亘る題目を日夜、口く唱しょう精しょう進じんするとき、衆罪の根源たる無始以来の謗法の罪業は瞬時に滅除して、事理の懺悔を共に成就することができるのです。  
しかし『神国王御書』に、  
「懺悔さんげの力に依りて生死やはな離れけむ。将又はたまた謗法の罪は重く、懺悔の力は弱くして、阿闍世王・無垢むく論ろん師じ等のごとく地獄にや堕ちにけん」  
と仰せのように、謗法という大罪には相当に強い懺悔がなければ出しゅつ離り生しょう死じは叶いません。故にこそ『顕謗法抄』に、  
「懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況んや懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出づる期かたかるべし」  
と、過去の謗法重罪の深さを実感しつつ、常に自ら戒めていくべきことを御教示されているのです。昨今の創価学会のように、  
「懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし」  
と執心翻ひるがえらず、懺悔の心も持たず、もっぱら正法誹謗を繰り返すならば、もはや無間むけん地獄に堕するほかあり得ません。毒鼓どっく逆縁の徒として改めて懺悔滅罪を図るしかないでしょう。  
私たち日蓮正宗僧俗は、まず自らの罪障消滅を祈念して即身成仏を期し、進んでは一切衆生済度のため、昼夜順逆を問わずに折伏弘教に励んでいくことが懺悔の修法と心得るべきです。  
『三大秘法抄』に、  
「三国並びに一閻浮提の人懺悔さんげ滅罪の戒法のみならず、大梵天王だいぼんてんのう・帝釈たいしゃく等の来下らいげして踏ふみ給ふべき戒壇なり」  
と仰せのように、大御本尊在まします所こそ真の懺悔滅罪の戒法、根本道場です。私たちは本門戒壇の霊場への道案内として多くの人々を折伏・育成していきましょう。  
 
『教行信証』と『懺悔道としての哲学』

 

田辺元とハイデッガー  
親鸞聖人は、その生涯において数多くの書物を著されたが、その中で最も重要なのが畢生の大著・『教行信証』であることは言を待たない。真宗では、ご本典、すなわち根本聖典として、多くの人々に尊崇されてきた。しかしその影響力は、真宗界、仏教界だけに止まらず、実に、広く多岐にわたっている。とりわけ我が国の知識人、文化人、思想家と言われる人たちの中には、『教行信証』に深い関心を寄せている人が多い。その代表が、哲学者・田辺元であると言っていいだろう。  
田辺元(1885−1962) 彼は、東京に生まれ、旧制一校から東大理学部数学科に入り、のち哲学科に転じた。卒業後、科学、哲学論文を次々に発表。『科学概論』『数理哲学研究』などの著作によって、日本の近代哲学に科学的方法を導入したパイオニアとされている。1919年、西田幾多郎の招きによって京大哲学科助教授に就任、27年、西田退官の後をうけて教授となった。彼はまた、20世紀最大の哲学者の1人・実存哲学の大成者とされるドイツのハイデッガーとも親交があった。1957年、晩年の田辺元は、ハイデッガーの推挽により、西ドイツ(当時)のフライブルク大学創立500年祭記念の名誉博士号を受け、さらに59年には、ハイデッガーの『70歳記念論文集』への寄稿を依頼されて、「死の弁証法」を執筆している。  
西洋哲学を批判  
その田辺氏が、第2次世界大戦末期に親鸞聖人の教えに深い感銘を受け、京大で「懺悔道」と題する講演をし、戦後それを、『懺悔道としての哲学』という書にまとめた。この本の中で田辺博士は、それまでの自己の哲学も含む西洋哲学全体に痛烈な批判を加えて、世間を驚かせている。聖人の教えにめぐりあう直前の田辺氏は、哲学的思考に行き詰まっていた。西洋合理主義思考によって西田哲学をも超克しようとした彼は、己の哲学が、全くの無力であることに絶望する。折しも、日本は、大東亜共栄圏の夢破れ、完膚なきまでの敗北がすでに眼前に迫っていた。国内は混乱し、国家の前途はきわめて憂うべき状態であった。それがまた、彼の無力感を一層深めたであろうことは、想像に難くない。  
哲学の無力に絶望  
その頃の心境を、彼は『懺悔道としての哲学』の中で、次のように書いている。  
「私は、このような幾重にも重なる内外の苦に悩まされて日を過ごし、そのきわみ私は最早気根が尽き果てる思いをなし、哲学の如き高い仕事は、天稟のひくい私のような者のなすべき所でない、という絶望に陥らざるを得なかった」  
「私は、過去の哲学生活の結果として、自力の哲学的無力を悟らしめられ、今や全く自己の拠るべき哲学を喪ったものである。苛烈なる現実に処して迷う所なく、その指導に従って歴史を超貫する力を、不断にそれから汲み取ることが可能なる如き理性的哲学は私から消え去った。特に現実の不合理中、わけても国内の不正不義乃至偏見妄断に対してどこまでも連帯責任を感じ、他の悪と誤りとは同時に皆自己の責任でもあることを感ぜずにいられない私にとっては、私の哲学の実際的無力は、私の哲学に対する無力の絶望を告白懺悔せざるを得ざらしめるのである」  
人生の、あまりにも巨大で不合理な現実の前に、哲学の無力さを嘆き、絶望感にうちひしがれた彼の深い苦悩が文中にありありと現れている。しかし、暗黒の底に沈みきったような彼の心に、新たな希望の光を与えたのが、ほかならぬ、親鸞聖人の主著『教行信証』だったのである。 
感動の出会い『教行信証』  
彼は、『教行信証』を精読し、その中に人間の真の救済を見出した。その感動的な出会いを、次のように告白している。  
「今や私は自ら懺悔道として哲学を他力的に踏み直す機会に、教行信証を精読して、始めてそれに対する理解の途を開かれたことを感じ、偉大なる先達として親鸞に対する感謝と仰慕とを新たにせられるに至った」  
「私は今や、親鸞の指導に信頼して懺悔道を推進せしめられるに至ったことを、他力の恩寵として感謝せずにいられぬ」  
「親鸞の誘発的指導をもって懺悔道を推進し発展せしめたこと、私の疑う能わざる所であって、感謝を禁ずることができない」  
「親鸞は、私の懺悔道哲学の師である。彼が還相して私を教化することは動かしがたき私の信仰である」  
親鸞聖人への深い尊敬と、沸き上がるような感謝とが、繰り返し述べられている。当時の彼の哲学的思索の挫折、人類の前途に対する不安を知れば、親鸞聖人のみ教えに触れたこの感激もまた、よく理解できる。『懺悔道としての哲学』とはまさしく、そのような状況下で著された、哲学者・田辺元による親鸞聖人のオマージュ(讃歌)といっていい書物なのである。  
哲学を再構築  
田辺は、決して哲学的に浄土真宗の教義を解釈しようとはしなかった。哲学の無力さをいやというほど知らされた彼は、むしろ、聖人の教えを学び、かつ、それを通して従来の哲学を批判し、哲学の再構築を図ろうとしたのである。それは、以下の文章に記されている。  
「私は今、親鸞の展開した他力念仏の教理を哲学的に解釈して、浄土真宗の哲学を説くつもりではない。然らずしてその代わりに、哲学そのものを、懺悔の行を通じて他力信仰的に建て直そうと欲するのである。すなわち親鸞教を哲学的に解釈するのではなく、哲学を懺悔道として親鸞的に考え直し、彼の宗教において歩んだ途に従って哲学を踏み直そうと欲するのが、現在の私の念願である」  
「懺悔」で読み解く  
では彼は、『教行信証』をどう読み、どう理解したのであろうか。  
「親鸞の信仰が全く悲痛なる懺悔を基調とするものなることは、従来といえども私の固く信ずる所であった」  
という彼は、「懺悔」というキーワードをもって『教行信証』を読み解こうとする。  
「懺悔は、教行信証の一構成分であるのではなくして、却ってその全礎石であり、全背景である」  
「『悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず。恥ずべし。傷むべし』という如き悲痛深刻なる述懐が、教行信証の教説の間に送出するのを見るならば、この書の全体が懺悔に裏付けられ懺悔に支持推進せられるものなることは些かの疑いを容れない。教行信証の領解の鍵は一に懺悔にある。自ら懺悔して悲歎述懐を親鸞と共にするものでなければ、この書を味読することはできないはずである」  
「教行信証の領解の鍵は一に懺悔にある」と喝破したのはさすがに慧眼である。 
他力信仰と懺悔  
ではその懺悔は、他力信仰といかなる関係があるのか。この点について、彼は、こう述べる。  
「懺悔と信心と歓喜(乃至感謝報恩)とは一体を成す」  
「絶対転換としての絶対否定の行、絶対無のはたらき、たる大非が、救済の大悲として信証せられるのが他力信仰の核心であるといえよう。(乃至)これに対してかかる大非即大悲という信仰が如何にして可能であるかと問われるならば、私は最早答えるべき所以を知らない。ただこれに対して一度懺悔を行ずべしという外ない」  
すべてが否定され尽くした(大非)まさにその時、大悲の救済が徹底する。この救済と懺悔とは、切り離すことのできない1つのものである、ということを述べている。  
人間とは何か  
なぜ、救済と懺悔とが、これほど深くかかわっているのか。言い換えれば、私が救われるとき、どうして激しい懺悔の心が起きるのであろうか。この問題は、人間とはいかなるものか、という問いかけと結びつく。『懺悔道としての哲学』は、人間と、それを救済する絶対他力の働きを、次のように述べている。  
「大無量寿経における阿弥陀如来の第18願において、正定聚の位を約束する往生必定の絶対救済の本願といえども、五逆と誹謗とを除くというただし書をつけている。如来の大悲本願たる他力を自己に僭取せんとする反逆者誹謗者は、決してそのまま救済にあずかることは出来ぬからである。ただ懺悔によって自己を放棄し存在資格を否定することを媒介としてのみ能く救済に入らしめられる。しかも懺悔は、この誹謗の罪も赦さるる救済の媒介なる不可思議を、懺悔者に体験せしめる。それに対しては、本願ぼこりどころではない、ただ不可思議力に対する戦慄と感謝とがあるばかりである」  
「懺悔は、いかなる煩悩罪障をも断ぜずして、救済に転換する。而して、いかなる救済も懺悔を媒介とすることなしには成立することがない」  
その、かつてない深い懺悔によって、阿弥陀如来の本願力による煩悩あるがままの救済が成立することを、驚嘆と感動をもって書き記している。まさしく、哲学的表現で、聖人のみ教えの核心に迫りつつある部分だ。こうした親鸞聖人の教えの理解に基づいて、彼は、それまでの哲学を、ことごとく批判していった。 
西洋哲学批判  
カントの不徹底さ  
人間のもつ理性を批判したカントには、次のように、その不徹底さを衝く。  
「まず何よりも先に争われないことは、カントが理性批判そのものを問題とすることなく、理性の自己批判が果して可能であるかどうかを究明しなかったことである」  
人間の理性をもって、理性を批判する、すなわち理性の限界、その不完全さを知り尽くすのは不可能である。田辺は、理性批判の徹底の帰結を絶対批判と呼び、これ以外に救済の道はないと説く。へーゲルも未だ、この絶対批判には及ばず、かろうじてキルケゴールが最も近い、と述べている。  
親鸞聖人は、仏智他力によって法鏡の前に立たされ、ありのままの自己の姿を照らし抜かれたとき、悲痛な懺悔を告白しておられる。その無二の懺悔と同時に得られる救いこそが、真実の救済であると仰有っている。  
ところが、西洋哲学には、こうした人間の罪悪に対する痛烈な反省、懺悔は、ほとんど見られない。罪悪感が、欠如しているのである。人間の実態が分からない限り、どれだけ論理を駆使しても、真実の救済には遇えるはずがない。  
ニーチェの永劫回帰  
「神は死せり」と喝破し、徹底した無神論者だったニーチェ。彼は、西洋文明においてあらゆる価値の根源であった神を否定し、それにかわる新たな人生の価値を創造して、永劫回帰という生命の絶対肯定の哲学を打ち立てようとしたが成しえず、ついに発狂した。そのニーチェについては、以下のように言う。  
「真に懺悔を行ずる者は、不断に自己の存在資格を否定せしめられて、しかもその否定から肯定へと転ぜられる不可思議力を常に体験するのである。この恒常性がいわゆる不退に外ならない。その意味において、懺悔の構造は、循環的発展として無限である。いわゆる永劫回帰が正当に意味すべき超越的反復の意味において永劫回帰的であり、永遠の刹那充実である」  
親鸞聖人の説かれた他力絶対の世界こそが、まさにニーチェのめざした幸福、すなわち真の永劫回帰ではなかったか、と言うこの指摘は、まさに驚くべきものがある。  
現代は、価値の相対化、多様化、価値多元主義などと言われているが、その本質はニヒリズムである。誰もが、真に価値あるもの、命かけて悔いなきもの、すなわち人生の目的を知らずに、大海を彷徨う木の葉の如き一生で終わっている。  
このニヒリズムをいかに克服するかが、20世紀最大のテーマであったが、その解決は、ついに21世紀の人類の課題となりそうである。しかし、20世紀半ばにしてすでに、日本の一哲学者が「親鸞聖人の教えこそ、ニヒリズムを超えた真理である」と表明していることは、特筆に値しよう。  
ハイデッガーの限界  
20世紀を風靡した実存哲学の代表者・ハイデッガーについては、その功績を非常に高く評価しながらも、同時にその限界を、次のように指摘する。  
「彼の時間存在論における未来的企画は、所詮、解釈了解に外ならず、真に絶対無からの行に基くものでないから、死に対する覚悟も有限性の自覚に止まり、進んで決死行を行ずる永遠の大行の信証ではないことも明である」  
世界最高の哲学であろうとも、所詮は観念で築いた理論にすぎず、死を超越した体験にはなりえないから、本当の救いには絶対にならないのだと言い切る。 
最高の哲学  
哲学の最高峰をなで斬りにしたあと、いよいよ彼は、『懺悔道としての哲学』の第6章に、親鸞聖人のみ教えの根基三願転入を論じ、第七章には、『観無量寿経』の三心釈(とりわけ深心、すなわち二種深信の解明)を詳説している。かくして、結論をこう断定するのだ。  
「本書の第六章、第七章に解釈を試みた三願転入や三心釈などは、救済の構造を究明した宗教哲学的思想としてほとんど無比ともいうべきものであると信ずる」  
「私は教行信証の宗教哲学をもって、西洋に匹儔を見出すこと困難なる如き深さをもつものと思惟せざるを得ないのである」  
親鸞聖人のみ教えこそが、最高無上の哲学であり、絶対無二の宗教であることを、学者の良心をかけて高らかに謳いあげている。  
全人類渇望の教え  
それだけではない。この著を執筆当時、すなわち敗戦間もないころには、勝利した連合国側の団結にも、すでにほころびが見え始めていた。戦後の冷戦構造が徐々に形を現しつつあったころ、それらの将来を予見するかのような言葉を、こう記している。  
「我国に、国家主義の清算を課する連合国中にも、民主主義と社会主義との協調は決して解決せられた事実ではなく、寧ろ今後に課せられた問題たるのであって、それが満足の解決に達せざる限り、多くの矛盾が内外からこれらの国々を悩ますことも避けがたい。民主主義国も社会主義国もまた、それぞれに懺悔すべきものをもつのである。もし我国が復興の世界歴史的使命をになうものありとすれば、この両主義のいずれでもなくして、しかも両者に自由に出入する第三の道を発見し実践するにあると考うべきではないか。果たしてしからば懺悔道はひとり我国民の哲学たるのみならず、人類の哲学でもあるのでなければならぬ。人類は総に懺悔を行じて、争闘の因たる我性の肯定主張を絶対無の媒介に転じ、宥和協力して解脱救済へ相互を推進する絶対平和において、兄弟愛の歓喜を競い高める生活にこそ、存在の意味を見出すべきではないか。世界歴史の転換期たる現代の哲学は、特に懺悔道であるべき理由をもつといっても、それは必ずしも我田引水ではあるまい」  
戦後の歴史は、まさしく米ソを中心とする冷戦が世界を二分し、それは今日、民主主義と市場経済を標榜する西側陣営の勝利に終わったとはいえ、いまだ人類は、真の平和と幸福を見出せずにいる。  
この現状を、まさに見通していたかのごとき言ではないか。  
かかる時こそ、懺悔道、すなわち親鸞聖人のみ教えに基づく哲学が、全世界に宣布されるべきではないのかと、田辺博士は訴えているのである。そして冷戦終結後の今日、その存在、必要性は、ますます大きくなりつつあるのである。  
他力信心は二種深信  
このように親鸞聖人を讃えて止まぬ田辺氏であるが、ただ、最後にどうしても、述べておかなければならないことがある。  
この『懺悔道としての哲学』は、哲学者・田辺元が、誠心誠意、『教行信証』の真意を解明しようと努力した精華であり、哲学書としては無比の深さを持つものであるが、しかし残念ながら、親鸞聖人が生涯かけて明らかにされた他力真実の信心の全容を理解し切っているとは、言いがたい。  
彼はあくまで、懺悔の側面から『教行信証』の解釈を試みたのである。それは、西洋哲学に最も欠如したものであるがゆえに、彼の哲学批判もまた、当然のごとく激烈なものになった。  
しかし、懺悔だけでは、あくまで他力信心の一面に過ぎない。  
無論きわめて重要な一面ではあるものの、この懺悔と表裏一体をなすもう1つの重要な面が、この書には、決定的に欠けているのである。  
それは、何か。  
歓喜である。  
『教行信証』とは、親鸞聖人の他力信仰が余すところ無く語られた書であり、それはすなわち、懺悔と歓喜とが渾然一体となった希有の書なのである。  
もちろん、田辺氏のいくつかの言及は散見される。しかし、親鸞聖人の「慶ばしきかなや」のわき上がるような生命の歓喜、「慶喜いよいよ至る」という人生の喜び、これらが、懺悔と同時に、かつ永遠にあることを理解しないかぎり、真の『教行信証』理解にはならないのだ。  
それはすなわち、他力信心の本質・二種深信の真の理解に他ならない。無論そこまでの要求は、ないものねだりである。精緻な理論構成で聞こえた田辺元ですら、それは不可能であったろう。  
 
観普賢菩薩行法経 (かんふげんぼさつぎょうぼうきょう)

 

この経は 懺悔経 さんげきょう とも呼ばれ 衆生の真の懺悔さんげ とは どういうものかを 説いている。この経は 「結集」 けつじゅう のとき編纂した経典で 法華経の結経けっきょう として唱えられる経典です。 
世尊  
「懺悔は 仏の世界ではさんげと発音し 人への懺悔と仏への懺悔とがあります。  
人への懺悔  
人間社会において 自分の心の中を 素直に告白する行為です。つまり 普通一般の 懺悔さんげ のことで 自分の過去の心と行動の過ちを 告白し反省することです。衆生が懺悔を行うと 魂が清まり罪の意識を突き離し 六根のうちの 最も大切な心が清浄になります。この場合 相手に対して行う懺悔と 指導者や目上の人に行う懺悔があります。懺悔の後は 気持ちのわだかまりや負担が消え 許し合う心が生じ 人間関係の不和が解消されます。許し合う心は 最も善の心である和の仏心のことです。 美徳の心なのです。美徳の心が生じた衆生は 健康上の問題も 同時にスッキリと 解決することも多くあります。オーストリアの学者/フロイトが確立した精神分析学も この原理が根本なのです。  
仏への懺悔  
仏に対して直接行う懺悔が 真の懺悔です。日々 仏の教えを根本において 自分の不足や心の誤りを反省し 身と心を正しく保つことが大事です。衆生は 仏の教えを深く思索して 日常の身のあり方や 心のもち方を正しく保ち 生きると良いのです。真の懺悔とは 自分の力で仏性のホコリを払い 仏性の輝きを磨き上げる行ぎょう なのです。「常不軽菩薩品」では 常不軽菩薩が他人の仏性を拝み その人の仏性を発掘させました。つまり 真の懺悔の目的は 人間の内面の仏性を覆っている ホコリや汚れを洗い落とすことです。人間の内面にある価値無限の宝石であるー仏性ーのホコリ・汚れを取り除くと 仏性が輝きだします。仏性が輝くと 身体が健康になるとか 人間関係の不和が改善されるなどの現世利益げんぜりやく が与わります。つまり 法華経の教えは 人間の仏性発掘の教えなのです。しかし 衆生が自分の仏性を自分で洗い磨き上げることは なかなか容易なことではありません。だから 衆生は この観普賢菩薩行法経を 学ぶと良いのです。  
ある時 世尊は 毗舎離国びしゃりこく の大林精舎だいりんしょうじゃ での説法会にて 仰った。  
「私は この世において説くべきことはすべて説き終えましたので まもなく滅度めつど します」。  
この言葉を聞いた弟子の阿難あなん は がくぜんとなり 身体の震えがとまりません。やがて 気をとり直して 立ち上がり衣服を整え 世尊のまわりを三度廻り 膝まずいて合掌を組みました。合掌したまま 沈痛ちんつう な表情をうかべ 世尊の尊顔をじっと 仰ぎ見つめておりました。教団の長老/摩訶迦葉まかかしょう と 弥勒菩薩みろくぼさつ も 同じ表情をうかべ合掌を組んでいました。  
やがて 阿難 摩訶迦葉 弥勒菩薩の三人は 口を揃えて世尊にお聞きします  
「世尊の入滅のあと 仏の道を志す衆生が 菩薩心ぼさつしん を起こし保ちつづけるには…… また 万人を平等に救済できる大乗の教えを 修行し 習得し 会得するには…… そして その衆生たちが 諸法実相しょほうじっそう を悟るには…… さらに 無上菩提むじょうぼだい の仏の智慧を会得する心を持ち続けるには……どうすればよいのでしょうか。そして 煩悩と五欲の現実社会に住む凡夫が 六根を清め罪を償うには どういう方法があるでしょうか。つまり 煩悩を断じ切れない五欲まみれの衆生が 諸根を清め諸罪を滅除する方法を知りたいのです。加えて その五欲を離れきれぬ衆生が 両親からもらった肉体の目のまま 煩悩に迷わされることなく ものごとの真実の実相じっそう を見て生きるには どうしたらよいのか……これらを教えてください」。  
世尊  
「阿難 迦葉 弥勒よ これから説いて聞かせましょう。 よく聞き 良く考えねばなりません。私は今まで いたるところの説法会せっぽうえ において 諸法実相しょほうじっそう を 細かく説いてきました。しかし 今また 質問がありましたので 再び説きましょう。未来世みらいせ の衆生は五欲の生活を営む中で 無上の法(悟り)を求めて 修行せねばなりません。五欲の人間生活を営みながら 普賢の行を学び 実行する未来世の衆生のために 今 再度 所念の法しょねんのほう (心をどう保ち心をどう清めるか)を 説き聞かせましょう。未来世の衆生の修行の手本となるのは 普賢菩薩ふげんぼさつ が行なった普賢の行ふげんのぎょう です。普賢菩薩を 知っている衆生も・知らない衆生も 普賢の行を深く学ぶと良いのです。この普賢の行を実行する衆生は皆 あらゆる罪業ざいごう を清めることができます。では 次のページから 罪業を清める普賢の行を 詳しく説いていきましょう」。 
世尊  
「普賢菩薩の出身は 東方の浄妙国土じょうみょうこくど です。前の「普賢菩薩勧発品」でも説きました。阿難よ 真理の法ー無上の大乗の教えーを習得しゅうとく して 法の実行を願う衆生や 仏の境界を強く求め 自ら修行に励む衆生は 普賢菩薩の行いを学ぶと良いのです。  
これらの衆生は 普賢菩薩の色身しきしん を見んと楽ねが い 多宝仏たほうぶつ を見奉らんと楽ねが い 大乗の教えを楽ねが い 釈迦牟尼仏 及びその分身を見奉らんと楽ねが う 成仏の確信を願う衆生なのです。つまり 仏の世界の存在を心から信じて 心から 久遠実成くおんじつじょう の本仏ほんぶつ を自覚したい… 諸仏の救いを自覚したい… 清浄の心の自覚したい…と願う善男子ぜんなんし 善女人ぜんにょにん なのです。  
善男子・善女人たちは まづ 心の持ち方や考え方 つまり 観法かんぽう を修得し実行することです。 観法を修得した衆生は 眼まなこ は障礙しょうげー眼の曇りが除去ーされ 清浄の身と心を得るのです。すると この衆生は 自分自身の清浄な心の徳が 日常の行動と言葉に 自然と現われ出るのです。自分の内面の仏性が 現象界の良い出来事となって現われる様を 自分の心で感じることができます。又 初心レベルの衆生でも つまり 精神統一して実相に直入する三昧さんまい の境地まで至らない衆生でも 日々 仏の教えを真剣に受持し読誦どくじゅ していくと 仏の教えを実行しようと思う心がどんどん高まるので 普賢菩薩の行に近づいていくことが 可能になってきます。  
その衆生が 常に 大乗の教えを心に植えつづけて 三×七=21日間の修行を終えたならば もう まもなく 普賢菩薩と一体と成る(共にいる)という自覚を得ることでしょう。しかし 罪業の深い衆生の場合は 七十七日の修行を経た後に その自覚を得ることでしょう。さらに もっと罪業が深い衆生の場合は 一度生まれ変わってから その自覚を得ることでしょう。又 もっと もっと 罪業の深い衆生の場合は 何回も生死しょうじ を繰り返した後に 自覚を得ることでしょう。このように 一様ではない理由は 衆生のもつ業ごう や報ほう が それぞれ皆 違うからです。だが 大乗の教えを受持し読誦していく衆生は皆 確実に普賢菩薩の行の境地に 近づいていくのです」。  
世尊 つづけて  
「経文では 普賢菩薩の具える徳と そのはたらきを 象徴的で美しい文章で表現しておりますので その おのおのの言葉に含まれる意味を 説明しましょう。  
普賢菩薩は 身量無辺しんりょうむへん 音声無辺おんじょうむへん 色像無辺しきぞうむへん とは 普賢菩薩の徳と 力量が 測り知れなく大きい という意味です。それほど とてつもなく大きな存在の普賢菩薩ですが 娑婆世界の衆生を教え導くときは 衆生が自分の大きさと 普賢菩薩の大きさが あまりにも 大きくかけ離れていると 衆生は 自分との大きさの違いに怯おび え自分の小ささを嘆き 普賢菩薩に近親感を感じないのです。つまり 自分にはとうてい無理なことだと思ってしまう結果 仏の修行を諦めやすいのです。  
こういう衆生の気持ちを考慮して普賢菩薩は 衆生と同じような相そう (姿)を顕わして出現するのです。これが 前にも説きました「半歩主義」なのです。普賢菩薩も 半歩主義の実行者なのです。  
普賢菩薩は 娑婆世界の衆生の三障さんしょう をとり除き…の意味は 普賢菩薩は 衆生の三障(貪とん瞋じん癡ち)の三つを取り除くことからはじめる という意味です。三つの障り(貪 瞋 癡)が重い娑婆の衆生に対し 普賢菩薩はまづ 衆生の身近なところから指導して 衆生の成長の度合をよく観察して それから 衆生に合った導きを実行していく…という意味なのです。  
普賢菩薩が法を説くときは 実行力を象徴する清浄無垢しょうじょうむく のー白象びゃくぞうーに乗って出現いたします。六牙の白象びゃくぞう の六牙ろくげ とは 「六波羅密」を示唆しています。七支しちし とは 七戒(不殺生戒 不偸盗戒 不邪淫戒 不妄語戒 不悪口 不綺語 不両舌)を示唆しているので 白象びゃくぞう が地を歩くときは 七つの足で歩くという意味になります」。 
世尊  
「経文の中で 様々な形容表現にて 六牙の白象ろくげのびゃくぞう の大きさや美しさを述べているのは 仏の教えを実行することは 大きな価値がある美しいことである という意味の教えです。  
そして 六牙の牙にある池の蓮崋れんげ の上で美女が 多くのいい音色を出す楽器を弾き語っていて その周囲には たくさんの美しい鳥たちが舞を踊り‥‥という形容は 一人の衆生が仏の教えを実行すると 周囲の人々も感化されて浄化されていく という教えです。  
また 象の鼻に咲きほこる金色こんじき の花が まだ蕾つぼみ のままのうちは‥‥という形容は 仏の教えを信じる衆生の心は膨らんできてはいるが まだ悟りきっていない(蕾のまま)様子を意味し 未だ 悟りに至らない衆生は 不足を自覚し懺悔し 一心に菩薩行を実行しなさい という教えです。  
また 金色の光は象の目に入り 目から出て耳に入り 耳から出て頭の上を照らす‥‥という形容は 仏の教えを実行する衆生の行為は すべて 仏の御心みこころ に通じている という教えです。つまり 金色の光は 信心の魂に住む仏の相(姿)をした化仏けぶつの眉間みけん から放たれた光ですので 一心に菩薩行ぼさつぎょう を実行していくと 必ず 信心しんじん の魂はー金色の光ーを放つのです。  
また 六牙の白象の上にいる化仏けぶつ が持つ大きな金輪こんりん は すべての衆生を自由自在に治める 仏の神通力じんつうりき を示しています。そして ものごとの実相じっそう を見通す智慧の力の顕われが その金輪にあるー魔尼珠まにしゅーなのです。また 金剛杖こんごうしょ は 罪を打ち砕き悪人を改心させる力である 破邪力はじゃりき を示しています。ですから 仏の教えを実行する衆生は やがて 摩訶不思議な神力が自然に身についてくるのです。  
また 化仏けぶつ が金剛杖こんごうしょ を象に向けると象は歩きだす‥‥という形容は 仏の教えの実行は まづ 悪や罪を打ち砕き吹き消す懺悔さんげ の行動から始まる という教えです。  
また 六牙の白象が七支しちし の足で七尺の空中を歩くと 地上にはその印文いんもん(足跡)が 車の輪の形でくっきりと残り そのすべての輪には 美しい大きな蓮崋の花が咲きほこる‥‥という形容は 理想に向かい高く進む衆生には 喜びごとの現実が顕われ出る という教えです。  
また その蓮崋の上に七千もの象が生まれ 皆 六牙の白象に従い進み行く‥‥という形容は 一人が仏の教えを実行すると その真理の行いである善行が周りを感化しながら波及するので 次から次へと 仏の教えに導かれる人々が生まれ 先人を手本にして仏の教えが実行されていく 教えです。  
その大白象の背中には 普賢菩薩がー結跏趺坐けっかふざー(足を組み坐る)して乗っていて 象を静かに歩ませ進みながら 周囲の衆生に美しい普賢の行を行い見せ 衆生を感化かんか していきます。  
そして 大乗の教えを一心に修行する衆生を見つけると 普賢菩薩は大白象を衆生の前で立ち止めて 象の口を大きく優しく開かせて 仏の真理の教えと普賢の行を説くのです。その時には 白象の六牙の池の蓮崋れんげ の上で多くの楽器を弾き いい音色を奏でる美しい女性も 楽器を弾くのを止めて背筋を伸ばし やわらかに微笑みをうかべて ー衆生よ 一心に修行に励むならば 必ず大乗の悟りを得ることができるのですよーと その衆生に 諸法実相しょほうじっそう の悟りを開く真理の大乗の教えを 声清らかに称とな えるのです」。 
世尊  
「諸法実相の悟りを得て大歓喜心だいかんぎしん に満ち溢れ いっそう深く経典を読誦どくじゅ する衆生は 十方の諸仏・多宝仏たほうぶつ ・釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ ・普賢菩薩 ほか 大菩薩衆を拝して ーもし 自分に前世からの福があれば 普賢菩薩の あらゆるお相すがた を 拝見できましょう。どうか 菩薩の広い心をもって ハッキリしたお相すがた をお示しくださいーと 心に誓願せいがん することでしょう。誓願とは 心に強く願い 行動をもって最大の努力をすることです。その誓願の心が生じた衆生は 昼夜に十方の諸仏を拝み 懺悔さんげ の法を行じ ますます 大乗の経典を読誦し 教えを深く思索しさく し 教えを実行することを 自らの心に固く誓うでしょう。  
この境地を得た衆生は 大乗の教えを受持じゅじ する者を 心から敬う気持ちを失うことは ありません。周囲のすべての衆生に対し 仏を仰ぎ見るような思いの態度で接する人間に成長した衆生なのです。つまり 諸法実相の悟りを得た衆生は 常不軽菩薩の如く 他人の仏性ぶっしょう を仰ぎ見て すべての人を 父母に捧げる感謝の心をもって接することができる人間へと成長したのです。この境地を得た衆生は 今後も 普賢菩薩の尊さを深く自覚し 菩薩行ぼさつぎょう を実行するのです。  
普賢菩薩の徳と行の尊さを 深く自覚して実行する衆生は ー諸法実相を見通す白毫びゃくごう 光明の仏の智慧は 普賢菩薩の行を実行することで生まれるーと 強く確信しています。  
このように 真理の法と 普賢菩薩の行を実行していく衆生は やがて 自分も必ずや 三十二相を具えた仏の身に成り得ることを 心奥深く自覚できるようになっていくのです。又 その大光明の感化力により 周囲の人々を菩薩の境界へ引き入れることを 自覚するようになります。  
この境地を会得し自覚した衆生は 次に 化象けぞう つまり 善行の実行が さらに 周囲に善行ぜんこう の波動はどう を波及し 周囲を感化しらしめ、衆生の周りの人々が皆 善行を行うようになり その善行がネズミ算式に増えていき やがて 十方無量無辺の世界に 善行の波動が満ち満ちていくことを 実感することでしょう。そのような経験を実感した衆生は 娑婆世界の中における理想社会の実現を 強く切望せつぼう しつつ 自分も その理想社会の実現に役立つ人間になろうという 誓願せいがん を たてるのです。その誓願をたてた衆生は 真理の法の信心が強くなってー大歓喜の魂ーの存在を実感するでしょう。  
その大歓喜の魂の清浄な声は 衆生の心に ー法の修行には終点は無いぞ 衆生よ満足してはならない 上の高い境地を目指して修行を怠るなーと 囁ささや いてきます。この清浄な声を聞いた衆生は ー大菩薩 大慈大悲者よ どうぞ私を もっと深い仏の教えの境地へお導きくださいーと 心に強く念じるようになります。  
その衆生の念じる声は十方世界へ届き 大菩薩衆は大乗経の奥義おくぎ をその衆生に説くのです。法の奥義を得た衆生は 即 大菩薩衆の応援を得て より高い賛嘆に値する境地に到達するでしょう。  
この賛嘆に値する高い境地が 普賢菩薩と共にいることを観ずる 第一段階の境界きょうがい なのです。この第一段階の境界に達した衆生が なおも 昼夜に大乗の教えを唱え念じる修行を重ねていくと 夢の中においても 普賢菩薩が教えを説いてきます」。 
世尊  
「普賢菩薩と共にいることを観じ自覚できる 第一段階の境界きょうがい を修得した衆生が 休むことなく 昼夜に大乗の教えを念じ唱えていくと 普賢菩薩の教えを夢の中で聞くことができましょう。この夢の中の真理の説法を聞けるということは 非常に大きな功徳が与わった証拠なのです。  
夢の中の真理の説法は二つに分類されます  
1 目が覚めているときは意識があるので 自分の意思で 大乗の教えを念じ努つと めることができるが 睡眠中は 自分の潜在意識(心)を コントロールできません。この世の中には 自分の寝言ねごと を聞いたことがある人は 皆無なのです。衆生の多くは 夢の中の出来事を覚えておこうと思っている自分が 夢の中にいたはずなのだが 朝 目が覚めると 夢の中の肝心かんじん 要かなめ な記億は 全く 思い出せません。懸命に思い起こしても 記億は甦よみがえ ることなく まもなく 夢見たことさえも 忘れてしまいます。  
ところが 仏の教えの信心が深い衆生は 夢の中で仏や菩薩が説く法を 記憶しているのです。普賢菩薩のーあなたは必ず菩薩の境地に達することができますよーなどの 励ましの言葉を覚えていたり また ーあなたはここを忘れていますよ ここが不足していますよ ここを感違いしていますよーと ヒントをくれたり 注意を促うなが してくれて 自分の頭で考えても分からなかった部分を 教えてくれたことなど…… つまり 夢の中の仏や菩薩の教えの言葉を 夢が覚めても ハッキリと記憶に残っているのです。  
2 説法の夢を見たり 教えを聞いたりするのは 睡眠中だけとは限りません。真の信心の高い境地へ到達した衆生は ふとした時に 真理の教えにふと気づくのです。これは 仏や菩薩からの啓示けいじ を 衆生自身が受けたことで 悟得ごとく できたのです。この段階では 心に閃ひらめ いた啓示はまだ 自分の確信ではなく 夢うつつの状態と同じです。その啓示を深く考え追求して その啓示は真理であると自分の心に刻んだ時 はじめて確信に変わります。そういう過程を経て やがて その啓示の教えは 他の人たちへ伝える価値のある教えとなっていくのです。衆生がこのような日々を送りゆくと 益々 心が研ぎ澄み向上するので 真実を徐々に理解していきます。  
そして 次のことを心に請願せいがん することでしょう  
『今までの自分は 菩薩の境地に近づくことが目標でありましたが 最近は 普賢菩薩の行のお陰で 十方の諸仏を憶念おくねんできるまでになりました。 今後も さらに進んだ仏の境地を目指していこう』  
すると この衆生は やがて 一切に対する 正しい心と正しい思念しねん の心眼しんがん を会得して 東方の仏を見奉ることでしょう。つまり まだ 絶対の確信までではないけれど 仏の尊さの理解が かなり 深まったのです。太陽の昇る東方は 物事の初めを示す方角ほうがく ですので その衆生の正しい信仰が 始まったのです。東方の仏を見奉る衆生は 次に 一仏を見奉り己おわ って 復 一仏を見たて奉つらん の境地へと進み 仏は真理であり真理は一つ つまり 一つの真理を悟ると 次々と 真理の現象を体験することでしょう。  
この境地まで到達した衆生は ー懺悔とは罪の告白では無いことーを 理解できています。懺悔とは ー仏性を洗いだして・仏性を磨きあげることであるー を確信している衆生へと成長したのです。このようにして 東方の仏を見奉ることができれば 心眼は 益々 清く研ぎ澄まされていき やがては 十方世界の一切の諸仏を見奉ることができる境地へ 達することができるのです。  
しかし 衆生たちよ この段階で 満足してはいけません。この境地へ達し魂の高い喜びを得た衆生でも 心が油断すると 魂の成長は止まってしまいます。まだ上の境地を望む衆生は さらに 真剣に懺悔さんげ しなければ なりません」。 
 

 

世尊  
これまでの説法で ー懺悔とは罪の告白では無いー ことを 衆生の皆さんは理解できたでしょう。懺悔とは 『仏性を洗いだし磨きあげること』 なのです。では 懺悔さんげ の具体的な行い方を 説く前に まづ 重要な言葉を理解しましょう。それは 『目を閉じれば則すなわ ち見え 目を開けば則すなわ ち失う』の言葉です。高い境地を得て 増上慢の心をスッカリ離しきった衆生でも 謙虚な心で自問自答しなければなりません。  
衆生たちよ 自分の心に  
ー自分は 大乗の教えによって 菩薩ぼさつ は 非常に尊い人であると 知り得ることができた。自分も 菩薩の行を学び 実行したので 仏と共にいる自分を 自覚することができた。だが この自分の自覚は まだ おぼろげなもので 不安定なもので 完成していない。目を閉じて、静かに精神を集中すれば 即 仏と共にいることを実感できるが 目を開いて 現実の世界を見たとき もう 仏のお姿は 霞かす んだように遠くの存在と思ってしまう。 自分の信仰心はまだまだ足りないのですー。  
と念じ 一心に合掌し全身全霊をもって仏ほとけ を拝み  
ー諸仏・諸尊は 最上の尊い相すがた をもって 常に世間にいらっしゃいます。仏は 十力じゅうりき 無畏むい 十八不共法ぶぐほう 大慈だいじ 大悲だいひ 三念処さんねんじょ を 具えておられます。諸仏・諸尊は 世間に常住しておられて 衆生を温かく見守っていられるのに ♪それなのに あ〜それなのに どうして 自分は 仏さまと共にあるという自覚を 本当に得ることができないのだろう。自分には どんな罪・宿業があるのでしょうーと心の中の声で 真剣に仏を念じるのです。  
では その言葉の意味を説明しましょう。  
○ 仏の十力じゅうりき  仏が具えもつ10の力。  
1 物事を行うのに 適切な時と場合を見分ける力。  
2 物事の原因と結果を、過去・現在・未来の三世に渡り知る力。  
3 周囲に左右されずに 常に心が落ち着いている境地を知る力。  
4 教えを聞く人の機根きこん を見分ける力。  
5 教えを聞く人の理解の度合を見分ける力。  
6 相手の身の上を見抜く力。  
7 相手の今後を察知する力。  
8 ものごとの奥の奥に隠れた真実を見抜く力。  
9 相手が どんな運命をもって生まれてきたかを見抜く力。  
10 衆生の習気じっけ (心の底の底に残っている迷いの習性)を 除く力。  
○ 十八不共法十八ぶぐほう 仏の具える18の徳。  
1 仏は 身体に過失は無い。  
2 仏は 口に過失は無い。  
3 仏は 念に過失は無い。  
4 仏は 相手によって異なる姿・形を見せることは無い。  
5 仏には不安定の心は無い。  
6 仏には見捨てる心は無い  
7 仏の善の欲は 減ることは無い。  
8 仏の精進は 減ることは無い。  
9 仏の念は 減ることは無い。  
10 仏の智慧は 減ることは無い。  
11 仏の解脱は 減ることは無い。  
12 仏の解脱知見は 減ることは無い。  
13 仏は 一切の身体による行いを智慧に従って行じる。  
14 仏は 一切の口による行いを智慧に従って行じる。  
15 仏は 一切の意による行いを智慧に従って行じる。  
16 仏の智慧は過去世を知見し 妨げられることは無い。  
17 仏の智慧は 未来世を知見し 妨げられることは無い。  
18 仏の智慧は 現在世を知見し 妨げられることは無い。  
○ 三念処さんねんじょ 仏が衆生に示す三つの心で 仏の教えを広宣流布こうせんるふ する衆生が目指す理想の境地。  
初念処 しょねんじょ   仏は 衆生が仏を讃える心を 喜ぶ。  
二念処 にねんじょ   仏は 仏を罵ったり・呪ったりする人の心を 深く憐れみ悲しむ。  
三念処 さんねんじょ  仏は すべての衆生に対して 平等な慈悲心と一視同仁心いっしどうじんしん をもつ。 
世尊  
「諸仏・諸尊は 十力じゅうりき  無畏むい  十八不共法十八ぶぐほう  大慈だいじ  大悲だいひ  三念処を具そな えておられて 最上の尊い相すがた をもって 常に世間におられて 衆生を温かく見守っていられます。 ♪それなのに あ〜それなのに どうして 自分は 仏さまと共にあるという本当の自覚を 得ることができないのだろう。私には どんな罪・宿業があるのでしょう と 心の中で念じ 真剣に諸仏に教えを求める衆生や あるいは 諸仏に向かい大きな声で 懺悔の発露ほつろ (心の中をことばに出す)を行う衆生たちは…… 仏の道の高い境地を目指す向上心を もって 日々暮らしている衆生たちなのです。すると 徹底的に反省し心からの懺悔を行う その衆生の前に 普賢菩薩が出現されるのです。  
この境地を得た衆生の側には 就寝時も覚めている時も いつも 普賢菩薩がおられるのです。そして 普賢菩薩は 衆生が活動している最中でも 夢の中でも その衆生の心に直接教えを説いてきます。普賢菩薩から直接 教えを聞いた衆生は 法を聞く魂の喜びが常に心に持続して 忘れることはありません。この時 衆生は 普賢菩薩と自分の心は 常に 通い合っているという自覚を得るのです。この自覚の心が 三十七日間持続すると 善を保ち悪を打ち砕く陀羅尼だらに の力が 相等身につくのです。その衆生が つづけて 大乗の教えを読誦していくと その陀羅尼の力が周囲の人々へ波及していき 周囲の他の衆生を良く感化する 「旋陀羅尼」せんだらに の力も 会得できるのです。この境地を得た衆生は 諸仏・菩薩の説く無上の教えが心に浸透していて もう忘れることはありません。  
この旋陀羅尼せんだらに を得た衆生は 「過去の七仏」かこのしちぶつ を 夢に見ることが多くなります。そして 衆生に直接法を説く仏は 釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ であることと ほかの諸仏も 釈迦牟尼仏の説く大乗の教えを 口々でお褒めになるということを 理解するのです。つまり この衆生は 釈迦牟尼仏だけが 娑婆世界の衆生に直接法を説く仏であることを 確信したのです。即ち 過去の七仏や諸仏も まことに尊い仏であることを理解した衆生は 無限の過去から実在する ー宇宙の本仏の真理ーの教えは 釈迦牟尼仏を通じてのみ 衆生は知ることができるという真実を ハッキリと自覚したということです。同時に 衆生が釈迦牟尼仏へ帰依きえ することは すべての諸仏への帰依であることも 理解できたのです。このように 常に 自分は仏と共にある という自覚を得た衆生のみが 仏の姿を夢に見ることができます。夢に仏の姿を見た衆生は ますます喜びに満ちて あまねく十方の諸仏を礼拝するようになります。だから 口に自ら発露ほつろ (心の中やことばに出して行う懺悔)するのです。  
すると 普賢菩薩は この境地まで到達した衆生の目の前に再び現われ その衆生が なぜ今まで 仏を見奉ることができなかったのか?という理由を 教えてくれるのです。つまり 普賢菩薩は その衆生の宿世の業縁すくせのごうえん を説き教え その衆生の過去の黒悪こくあく (心の罪)を 仏の発露 ほとけのほつろ の力で 明るみにさらけ出して 光を当てて 消滅してくれるのです。  
仏の発露が終了すると  
衆生の心は洗い清められ その内面の仏性がますます磨かれて 大きな輝きを増していくので 諸仏は常に自分と共におられるという自覚を しっかりと安定して保ち持つことができるようになります。この境地 ー仏がいつも自分と共にいる自覚の境地ーを 諸仏現前三昧 しょぶつげんぜんさんまい の境地といいます。この諸仏現前三昧しょぶつげんぜんさんまい の境地を得た衆生は 東方の大日如来だいにちにょらい 阿閦仏あしゅくぶつ 十方の諸仏と その国土を見るようになります。その衆生は 次に 大白象の頭の上に非常に強い金剛力士こんごうりきし が乗っている夢を見ます。夢の中で 金剛力士は 手にもつ金剛の杖を その衆生の「六根」の穢けが れに突きつけてきます」。 
世尊  
「衆生が 諸仏現前三昧 しょぶつげんぜんさんまい ー仏がいつも自分といる確信の境地ーを得ると 東方の大日如来だいにちにょらい 阿閦仏あしゅくぶつ をはじめ 十方の諸仏とその国土を見ることがあります。その時 その衆生の夢の中に 象の頭の上に坐した非常に強い金剛力士こんごうりきし が現われて 力士が衆生に向かって 手に持つ真理から離れた誤った考えを打ち砕く武器である金剛の杖を衆生の「六根」の穢けがれ に突きつけてきます。この六根の穢けがれ を打ち砕く夢を見た衆生は 懺悔さんげ の段階がより進行した証拠であります。  
つまり 衆生の夢の中で 普賢菩薩が 六根清浄の懺悔の法を説く‥‥ということは 普賢菩薩が その衆生に 自らの心で懺悔し身も心も清められていく自覚を 強く得て欲しいからなのです。そして 衆生が 諸仏現前三昧 しょぶつげんぜんさんまい を保ち 普賢菩薩の教えー法ーを実行していくならば 六根の煩悩の曇りが次第しだい にぬぐい去られていき やがて 物事を正しく見ること/物事を正しく聞くこと/の二つを完璧に行なえる衆生に成長していくのです。  
このことを ー心を是の法に純じゅん となり法と相応そうおう せんーと表現します。  
意味は 諸仏現前三昧を得た衆生は 身も心も喜びに満ち溢れ 心が大乗の教えに益々打ち込み 真に清浄な心となった結果 心がどう動いても 教えにかなう動きになる という意味です。つまり この衆生の悪心 あくしん はすべて消滅し 善良ぜんりょう な心だけをもった人間になったのです。善良な心の衆生の頭のなかは 常に 善の行いだけを考えているのです。ここまで成長した衆生は 「旋陀羅尼」せんだらに ー周囲を感化する徳の力ーも 仏と共にある自覚である 諸仏現前三昧しょぶつげんぜんさんまい の力も 益々 増幅していくのです。  
ここまで成長した衆生に 諸仏は手を差し伸べ 衆生の頭を撫でて 次のことを説くのです。  
『大乗の教えを心に守って 身に行い 諸仏の徳を具えようと志し 努力する汝は 立派であるぞ。諸仏も皆 過去世にて菩提心を発したときは 汝と同様であったのだ。 今の心をしっかりと認識し保ちつづけなさい。諸仏も 長い前世にて 大乗の教えを実行して 現在の清浄正遍知 しょうじょうしょうへんち の身を得たのである。汝も さらに修行を務め励まねばならない けっして怠ることなかれ 大乗の教えは 十方三世の諸仏にとって 最も大切な宝であり 諸々の如来は皆 この教えから生まれたのである。この大乗の教えを持たも つ衆生は 仏身ぶっしん を自分の身とする衆生であり 仏の身代わりとして 仏事ぶつじ (仏のワザ)を行じる衆生なのである。その衆生は 諸仏・世尊の衣ころも によって守られており 諸仏・如来の真実の教えの子なのである。汝 怠らず 大乗の教えを行じ 伸びゆく法の種を育てなさい まもなく 汝は東方の諸仏を見るであろう』  
このような諸仏の御声みこえ が 衆生の心の中に響き渡ったのち 衆生は まもなく あらゆる仏の美しい世界が顕われ出てくるのを 目ま の当たりに 見ることでしょう。次に衆生は 仏の教えと仏が宝樹の教えを説くことは 同じく尊いということを、 さらに深く確信するでしょう。仏の教えが 娑婆世界に普あまね くゆきわたれば この世のすべての人々も 社会も 世界全体も向上していき この娑婆世界にー浄土の世界ーを実現できるという願いが やがて 確信の自覚となっていくことでしょう。それでも その衆生は心の奥底から満足できていません。 なぜか? 次に これを説きましょう」。 
世尊  
「それでも その衆生は心の奥底からは 満足できていません。 なぜならば 衆生の目には 仏の宝樹ほうじゅ や宝座ほうざ は見えるのだが まだ 諸仏のお姿が ハッキリ見えていないからです。前には確かに 仏を見奉っていたのに 今は諸仏の姿が見えないのです。矛盾している話に聞こえるでしょうが まったく 矛盾していないのです。まだ 菩薩の境界きょうがい に達していない衆生は 一刻ひとたび は 仏と共にある自覚を得ても 日常の快楽などに心が奪われると せっかく得たその自覚が またもや 瞬時にして消え失せるのです。  
こういう衆生は 即に  
ー仏を身失ったことは 自分が足りないのである 申しわけないーと懺悔すれば 忽たちまち その一つ一つの宝座の上に 輝く仏を、 また再び 見ることができます。再び 諸仏を見奉った衆生の心は深く感動して 復また 一心に 大乗の教えを読誦し法を実行するのです。なぜなら このように 諸仏を見奉って深く感動した衆生は 大乗の教え(法)を 一心に読誦し実行することの重要性を 自分の心に鮮明に自覚したからなのです。つまり 諸仏現前三昧を得た衆生なのです。 だが ここで けっして 増上慢 ぞうじょうまん にならず 日々 怠ることなく いっそう教えを読誦し 法を実行する必要があるのです。なぜなら 衆生の日常生活ではー五欲の煩悩ーが 衆生の心に次から次へと 攻め込んでくるからです。ボケーとして気を抜くと すぐに心は曇って穢 けが れてしまい ついに 仏を見失ってしまうのです。だから 復ふたた び懺悔して「六根清浄」を保ち「六煩悩」を断ち切ることが 非常に大事なのです」。  
このようにして 再び 大乗の教えを読誦し実行していくと 亦また 再び ー善哉・善哉 大乗の教えによって 諸仏のみ心に通かよ うことができたぞーと 心に自覚の声が響き渡ります。それでも 衆生の心は満足することはありません。 その理由はどういうことなのか? その衆生が まだ 釈迦牟尼仏とその分身の諸仏 及び 真理を証明する仏/多宝仏塔たほうぶっとう を 完全に見奉ることができていないからです。 これが 衆生の心が完全に満足しきれない理由です。  
つまり 仏の”み心”と通い合う自分である という自覚は得ていても ーなぜ 仏がこの世に出られて衆生のために法を説くのかーズバリ仏の真実の心の理由が ストンと胸に落ちきれていない 何となく不十分な 未消化の感じが残っている衆生なのです。では こういう衆生は どうすると良いのかについて 次に話しましょう」。 
世尊  
「なぜ 仏がこの世で 衆生のために法を説くのかという仏の真実の心が ストンと解かり得ていない衆生たちは 復ふたたび 自らを叱咤激励 しったげきれい し 大乗の教えを繰り返し読誦し 実行すると 大きな功徳である 霊鷲山 りょうじゅせん にて 宇宙の真理を 多くの大衆に説いている釈迦牟尼仏のお姿を 見奉ることでしょう。その時 衆生は ー仏はなぜ 衆生のために法を説くのかーということが 少し理解できたような気持ちになるのです。だが まだ しっかり理解できていません。 少し理解できた程度なのです。  
この時 衆生は 次のように  
自分は ほとんど悟ることができたと思っているのだが 何か もう一息・もう一歩・足りないような気がする。やはり 自分は 信心しんじん が まだ不足しているのだと 懺悔しなければなりません。  
この懺悔をすると 仏を恋慕渇仰れんぼかつごう する衆生の気持ちが 益々高まります。この時 この衆生は どうしても仏の真意しんい に直入したいと願う心が 強く高まっているのです。その時 その衆生は霊鷲山りょうじゅせん の方角に向い合掌して 如来は 常に私どものお側にいらっしゃいます。 このことは 私は確信しております。どうぞ 私たちを憐れみ・思おぼ し召して ハッキリと お姿を拝ませて頂きたく存じますと 念じるのです。すでに 釈迦牟尼仏を見奉ることができた衆生が さらに 身を現じたまえという願いは 仏の真実の”み心”を もっと はっきり 深く知り得たいという衆生の菩提心ぼだいしん から出たものです。  
その衆生が 心に霊鷲山を念じると 仏が法華経を説く美しい法座の様子が 眼前げんぜん に開ひろがります。その美しい光景の法座では 釈迦牟尼仏が衆生に 多くの教えを説いています。  
教え 1 / 釈迦牟尼仏の眉間みけん から出た光が 多くの分身の諸仏を照らすのが見えた… という意味は 釈迦牟尼仏の教えに帰依きえ して 釈迦牟尼仏の説く真理を悟れば すべての諸仏の心と教えに通じ あらゆる教えの真の意味が理解できる…という教えです。  
教え 2 / 分身の諸仏は 皆 妙法蓮華経と 同じ教えを説いている… という意味は すべての教えは 皆 妙法蓮華経に統一されていることを 証明している…教えです。  
教え 3 / 百億無量の大菩薩衆 だいぼさつしゅ の行ぎょう は 皆 普賢菩薩と同じである… という意味は 菩薩の尊さは 何よりも実行力であり その筆頭が普賢菩薩である… という教えです。  
教え 4 / 分身の諸仏の眉間の光が 釈迦牟尼仏の頂きに流入りゅうにゅう すると 分身仏の全身から発する金色の光の中に 化仏けぶつ のお姿が 無数見えた …という意味は 仏の教えが次々と際限なく広まり 伝播でんぱ していく… という教えです。真理の光は すべての世界に及び 真理の光に照らされた万物は たちまち真理の光を発するのです。懺悔の行を行い 迷いや罪を拭ぬぐ い去った衆生の心は 真理の光に反映して光輝きだすのです。つまり 衆生の仏性が光輝いたのです。  
心に霊鷲山を念じた衆生に対して 普賢菩薩は眉間から光を発して 衆生の心に真理の光を注ぎます。すると 真理の光が射しこんだ衆生の心は ああ ありがたい 自分は過去世にて無数の諸仏に仕えて 教えを受けた因縁で 現世の今 仏を見奉ることができたと 懺悔反省の念が湧き起こります。 その瞬間 自分の過去世の姿が 眼前げんぜん に展開されるのです。すると 今までの自分の暗い世界が急に明るくなり 自分も多くの人々を感化したいという願いが生じます。  
この時 この衆生は 忽然こつぜん と大悟たいご した自分を感じ 歓喜の震えがとまりません。忽然と大悟した自分を自覚したら 修行も懺悔の行も これで終了かというと とんでもありません。この衆生が悟った境地は まだ 仏の悟りの境地ではありません。 仏の悟りの境地は まだまだ 遠いです。本物の修行である ー自分の仏性を磨く修行ーは まだまだ続くのです。  
ここまで到達した衆生が 三昧の修行を本腰を入れて続けると その最中に限らず 日常の生活の中でさえも 瑠璃の地の蓮崋聚の如く るりのぢのれんげじゅのごとく つまり 仏の教えが世に広まり 大乗経典の教えを受持する衆生たちが 限りなく増えていく有様ありさま と 普賢菩薩の分身の多数の菩薩衆が 大衆たちに教えを説いている様子が 手にとるように見えるのです。次は さらに上の修行について説きましょう」。 
 

 

世尊  
「懺悔の行を実行し 大悟する境地を得た衆生が さらに 本腰を入れて 修行を続けていくと 三昧さんまい の最中に限らず普通の日常にても 仏の教えが世に広まり 大乗の教えを受持する衆生たち が 限りなく増えていく有様ありさま と即ち 瑠璃の地の蓮崋聚の如く るりのぢの れんげじゅの ごとく 普賢菩薩の分身の大菩薩衆が 大衆に説法している様子が 目のあたりに見えてくるのです。  
すると その大菩薩衆が この境地へ到達した衆生たちに さらなる 六根清浄を求めて 虚空こくう から 声を大にして 諸々の念じ行ねんじぎょう を 命じてきます。『衆生よ 大乗経典の菩薩衆の行いと 自分の行いを比べてみろ お前は まだまだ修行不足だ。衆生よ 菩薩衆の行いを しっかり学んで 自分の不足しているところを よ〜く反省しろ……』と。  
さらに よりいっそうの懺悔反省を求める大菩薩衆の声が 虚空から 衆生の耳に訴えてきます。まづ 汝 まさに仏を念じるべし と 叫んできます。これは お前は仏に帰依していると思っているが その帰依の念はまだ十分ではない まだ本物では無い。もっと 仏の心に溶け込み 全身全霊で仏に帰依しなければならんのだと 教える声です。  
次に 汝 まさに法を念じるべしと 叫んできます。これは 仏の教えを理解したと思うお前の心は 増上慢の心である 仏の教えとは そんな浅いものでは無い。もっと深く学び もっと深く考えることで 仏の真実の教えは理解できるのであると 教える声です。次に 汝 まさに僧を念じるべしと 叫んできます。これは 仏の教えをこの世に広めるためには 信者の団結と和合が絶対不可欠なのだ。お前も私心を捨て 仏の教えと教団と世の中の発展に 力を発揮せよと 教える声です。次に 仏からの戒律は守っているか? 法施ほうせ の行は怠おこた っていないか? 煩悩や苦悩からすっかり離れた境地(天)に達しているか?と ガンガン 虚空から 叫び命じてきます。  
大衆たちよ 衆生が 菩提心ぼだいしん を開くには 今 私(世尊)が説いた 仏・法・僧・戒律・法施・天の六つを 行じなければなりません。衆生が この六つの行を実行し この六つの徳を具えたときが 菩薩の道を邁進できるときなのです。虚空からの大菩薩衆の大きな声を聞いた衆生は この時 何をしなければならないのか それは やはり またもや 懺悔なのです。諸仏の前に坐して 自分の至らぬ心・行いを全部告白し 真心で懺悔反省しなければなりません。では 衆生の内心の懺悔反省の心を 次に解りやすく説きましょう」。 
世尊  
「衆生たちよ 衆生が懺悔せねばならぬ内心の心を 説き明かしましょう。 眼根の罪を懺悔し 心の根本が改まった境地を 眼根初境界げんこん しょきょうがいの相といいます。では 眼根初境界を求める衆生のために 眼根の罪の懺悔法を 説きましょう。自分は 目の前の現象に捉われて 自分の心が喜ぶことだけを貪りつづけ 執着し 迷いの海をさまよっていました。智慧不足の自分に 気づかず 長い間 不完全な見方や考え方をもって 生きてきました。現象だけを見て 表面の恩愛おんあい の虜とりこ になってしまい 真実を見ようとはしない 愚かな自分でした。日々 目の前に湧き起こる現象に振り回されて 三界を彷徨ほこう しておりました。煩悩に追い回されて心が疲れ 六道の中をグルグルと廻り 実相が まったく見えていないアサハカナ自分でした。目の前しか見ない原因によって生じる 実相に対する盲目の結果を 循環しているだけでありました。今までは 迷いの世界にドップリと浸かっていた 智慧不足な自分でした。  
しかし 今 ありがたいことに 真理の大乗経典だいじょうきょうてん に出会い 学ぶことができました。自分は 大乗経典から 仏の生命は永遠であると同時に 衆生の命も永遠であること 学びました。お陰で 今 自分は この真実を理解し 新しい人生へ向けて 再出発することができました。自分は長い間 眼根不善げんこんふぜん ーものの見方が誤っていたーことを反省いたしております。  
眼根の罪を犯していた 過去の自分は 自分が理解した真実が本物の真実なのかどうか 考えたことが ありませんでした。こんな低い自分ですが 今ここで 心の底から響いてくる声に忠実に従い 釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ 及び 一切の諸仏に対し 眼根の所有の罪咎げんこんのしょうのざいそ −今ままでものの見かたが間違っていたーことを 心から懺悔いたします。眼根の罪げんこんのつみ を背負う衆生は 上記の内面の心をすべて仏に説き明かし懺悔すると良いのです。つまり 十方の仏を礼拝し 釈迦牟尼仏とその教えに向かい 次の言葉を 全身全霊で三唱するのです。  
諸仏や菩薩は 慧眼えげん をもって 衆生の仏性を平等に見てくださいます。その慧眼から流れ出る 教えの清水せいすい で わたしの心の穢れ・汚れを 洗い去ってください。今まで 迷いの海に彷徨っていた自分は ものごとの見かたを誤り 重い罪を重ねてまいりました。その罪が心を覆おお っていたので 心が汚れてしまい 諸法の実相を見ることが できませんでした。仏の大慈悲をもって 私をお救いください。 普賢菩薩は 教えの船で一切の衆生を 悟りの彼岸ひがん へ渡らせてくれます。どうぞ 私は過去の誤ちを懺悔しますので お力をお貸しくださいと。  
これが 眼根の罪の懺悔法です。  
そして 大乗の教えを思い返して もう忘れないことを心に誓うのです。このようにして 諸仏の御名みな を唱え 感謝の心をもって眼根の罪げんこんのつみ を懺悔さんげ すれば いつでも・どこでも・どんな時でも 仏と共にある自分を 深く自覚できるのです。さらに修行を積み その自覚がさらに深まると その衆生は永久に 悪道に堕ちることはありません。  
又 眼根の罪を懺悔した衆生は 仏の説く大乗の教えを 心身の動きに反映して 実行できるので 常に 一切衆生を救う心を持ちつづけ 娑婆世界の衆生救済に努力することができるのです。  
すっかり 眼根の罪を懺悔し終えた衆生は 陀羅尼門だらにもん ー勧善悪を止の力ーを得た衆生です。陀羅尼門を得た衆生は 陀羅尼菩薩だらにぼさつ の仲間入りを果たしたのです。もう この衆生は 正念しょうねん を得ていて 仏の心を理解している衆生なのです。正念の意味の逆である 邪念じゃねん とは 自分のためばかりを考える心のことです。衆生よ この陀羅尼菩薩の境地を得ても 満足してはなりません。まだ 懺悔はつづくのです」。 
世尊  
「大衆の皆さん 眼根初境界の相 げんこんしょきょうがいのそう を得た衆生でも やはり 次にも 心を込めて大乗経典を読誦どくじゅ し 朝 昼 夜に仏の前に合掌し礼拝し 未熟な心を偽いつわ りなくさらけ出し 次の言葉で懺悔しなければなりません。  
釈迦牟尼仏の教えは 最も尊いと理解できたけれど 未だ 多宝仏塔たほうぶっとう を 見奉るまでに到りません。釈迦牟尼仏の説く教えが 宇宙の絶対の真理であるということが 自分は まだ完全に 理解できていません。やはり 自分の心はまだ 完全に清浄になっていません と。  
この懺悔の修行を 七日 つづけた衆生の心は さらに清浄になるのです。すると まもなく 仏の功徳が与わって 多宝仏塔 たほうぶっとう のお姿を 見奉ることができるのです。多宝仏塔のお姿を 見奉ることができた その衆生は 「釈迦牟尼仏の教えは絶対の真理」であることを 心にハッキリと確信できる境地を得た衆生なのです。この絶対真理である多宝如来は 普現色身三昧ふげんしきしんざんまい を 得ています。普現色身三昧とは どこでも 姿を普あまね く顕示けんじ できる境地ですので 衆生の心が多宝仏の心に至るならば 多宝仏のお姿を見奉ることができるのです。 これは真実です。この時 多宝仏が大音声だいおんじょう にて 衆生をこの高い境地へ教え導いた尊大な釈迦牟尼仏のことを 賛嘆されている場面を 衆生は ハッキリと見奉ることができるのです。すると 多宝仏は 懺悔行さんげぎょう を修行し この境地へ到達し多宝仏の心に通じた衆生に対して 善哉・善哉と お褒めの言葉を仰るのです。  
この境地を得て 多宝仏のお褒めの言葉を頂戴し ありがたさに感激・感動している衆生は 増上慢の心がスッカリ消滅した衆生なので 謙虚な心は変わりません。そして また 普賢菩薩を心に念じ  
ー普賢菩薩よ まだ 自分が悔い改めねばならないところを 教えてくださいーと 教えを願うと良いのです。  
すると 普賢菩薩は次に 耳根の罪 にこんのつみ の懺悔を 勧めてきます。  
汝は 長い間 耳根の罪も 重ねてきたのである。 そして今も 心の迷いがある故 外からの声に振り回されているのだ。自分を過大評価してくれる 快こころよ い声を聞けば喜び その言葉をまるのみして 心が執着してしまうのだ。反面 不快な声を聞けば 108の煩悩が燃えあがり 人に敵対する心や・復讐の心が メラメラと起きるのである。また 汝には 人の言うことを すぐ悪い方へ解釈する癖くせ がある。 それが 次々と迷いを生じる原因なのである。つまり 汝は 悪耳あくに の心・迷いの心で ものごとを聞くから その報いが 悪事 あくじ の心を生じるのだ。つまり 汝は 顚倒てんどう した心でものごとを聞くので 汝の心が瞋恚しんに や嫉妬しっと という 三毒さんどくの悪道に堕ち 仏の教えと無縁の辺地へんち の世界や 邪見じゃけん の世界に走り 教えに耳を傾けなくなるのである。このように 汝は 常に悪声あくしょう を聞き 耳根にこん の罪を 犯しているのである。  
ところが 汝は 最近 無限の功徳を藏する 大乗の経典を誦持じゅじ しているので その因縁によって 十方の諸仏の”み心”と 相通ずるようになったのである。 しかし 修行は これで十分ということはないのだ。汝よ もっともっと 自分の悪をえぐり出して 懺悔しなければならないのである と。 
世尊  
「さて 衆生が 耳根の罪を懺悔するには どうすると良いのか? それには 衆生はさらに合掌し もっと自分の悪をえぐり出して 次の言葉を念じると良いのです。  
完全無欠の智慧を具えた諸仏よ 自分が進むこの道が 仏の道であるならば どうぞそれを お証あか しください。大乗の教えは 慈悲の主あるじ です。 大乗の教え 慈悲の行いの大本 おおもと の教えであります。真の慈悲の行為を行うには 大乗の教えを習得して 衆生は皆仏性を 持っていることを悟らねばなりません。大乗の教えを しっかりと習得してこそ 本当の慈悲の心を持ち 真の慈悲の行いができるのです。私は 耳根の罪の懺悔します どうぞ お聞きくださいませ。  
自分は長い間 心が誤っていたので ものごとを聞くのにも 間違った聞き方をしてまいりました。快感に喜ぶ言葉を聞くと 嬉しくなって 接着剤を使用した如く心に張り付いて くっつき そのことが 脳裏から離れません。反対に 不愉快なことを聞くと 怒りや憎しみや妬みの心が ムラムラと燃えあがり 自分の心が悪心に変わります。結果 冷静な判断を失い 相手かまわず 誰にでも 悪感情を抱いてしまうのです。その悪感情は 循環して益々膨張していくので 忍耐できない自分の口は 悪口や罵声を 激しく吐いてしまうのです。怒りの声を吐いてしまえば それで気が済むかと思うのですが 逆に 心はどんどん暗くなってしまうのです。この繰り返しで どこまでいってもキリがなく どこが終点なのか見つけられなくなっていました。今 はじめて 耳根の罪を悟ることができました。 諸仏に 耳根の罪を懺悔いたします。  
このように懺悔すると 心は益々洗い清められて 今 自分は仏の境界きょうがい につづく道を進んでいることを ハッキリと自覚できるようになります。しかし 耳根の罪の懺悔を終えても 修行は まだつづくのです。復々またまた 普賢菩薩の心の声は 次の懺悔を促うなが してくるのです。  
次に普賢菩薩は 嗅覚・味覚・触覚の罪を告白し 懺悔することを命じてきます。嗅覚・味覚・触覚の罪とは 六境のうちの三つの感覚の快感に 心が執着することで生じる罪です。快感に心が執着している衆生は 何かにつけ ものごとの好き嫌いを優先させる習性があります。好きなものには欲深く執着し 好きなものが目の前に現われ・消え去る(生死しょうじ)毎ごと に 喜びや悲しみが 瞬時に変化するので 心が乱降下するのです。つまり 愚かな心に陥おちい るのです。 次は 香・味・触・を貪る罪の懺悔を説きましょう」。 
世尊  
「次に 衆生は 嗅覚・味覚・触覚の罪 を 懺悔しなければなりません。この三つの罪は 「六境」のうちの 三つの感覚の快感かいかん に執着して生じる罪です。快感に心が執着する衆生は 何かにつけ ものごとの好き嫌いを優先にする習性があります。好きなものには欲深く執着するので 好きなものが目の前に生死しょうじ する度たび(現われたり・消え去る)に 喜びや悲しみの心が 瞬時にコロコロと移り変わり 心が乱降下する愚かな心の状態に陥おちい るのです。そんな憐れな衆生に 再び 普賢菩薩の心の声は きびしく説き教えてきます。  
ー汝 今当応まさ に 大乗の因いん を観ずべし 大乗の因とは 諸法実相の智慧なりーと。  
この意味は ー衆生よ 大乗の因(教えの基本)である 諸法実相 しょほうじっそう の智慧を観ぜよーです。日々 大乗の経典を真剣に読誦することで 衆生の心に仏の智慧が生じるのです。仏の智慧を会得するには 大乗の経典を真剣に読誦することが 根本なのです。仏の智慧を会得した衆生は 身の周りに起きたり消えたりする快楽や快感に 執着しなくなります。執着心を捨てた衆生は 十悪業 じゅうあくごう に振り回されない 安楽な人生を生きてゆけるのです。このことを深く心に思い 再び 釈迦牟尼仏をはじめ 十方の諸仏を礼拝・供養して 過去の自分の十悪業の罪を告白して懺悔しなさいと 普賢菩薩の心の声が教えてきます。  
そして その十悪業の罪の懺悔を終えた衆生が 再び 大乗経典の読誦どくじゅ を続けていくと 普賢菩薩は 次に 衆生よ舌根の罪 ぜっこんのつみ を懺悔しなさい と命じてきます。衆生よ お前はまだまだ修行が不足している 次は この修行をしなさいと またもや 次から次へと 修行を命じられた衆生の心は 次のように動揺するでしょう! 自分の修行はいつ完成できるのだろうか…? そんなにも 自分の過去世の罪業ざいごう は深いのだろうか? 自分はこの先 修行を続けていけるだろか…?と 不安な気持ちがどんどん高まってしまいます。今 衆生の心の中は 修行していこうという気持ちと 諦めようという気持ちが 交錯している状態です。しかし 衆生は ここで 修行を辞めてはいけません。 なにも 心配いりません。過去の諸仏も皆 このような同じ経験をして 修行を行ってきたのです から。つまり 諸仏如来は 是これ 汝なんじ の慈父じふ なりの言葉通り 仏は衆生のー慈父ーなのです。衆生が大乗経典を読誦どくじゅ し 何回でも懺悔を行い 一皮一皮 心の汚れを脱ぎ捨てていくと 衆生の心が だんだん清まっていくので その毎たび に仏は喜び その衆生を褒めて 功徳を与えるのです。  
衆生が懺悔する理由として  
自分が恋慕渇仰 れんぼかつごう する諸仏に喜んでいただきたい 褒めていただきたい… もっと修行を積んで 必ず仏の境地に到達したい… という二つの気持ちで懺悔するのです。けっして 仏に怒られるからとか・仏の目が恐ろしいからとかで 行うのではありません。つまり 親を慕う子供の気持ちと 仏の境地を目指す強い向上心で 行うことなのです。このことを しっかりと 肝に命じてください。では 次は舌根の罪の懺悔を説きましょう」。 
 

 

世尊  
「舌根の罪ぜっこんのつみ の懺悔を 説きましょう。 舌根の罪も 心の迷いがもとになっています。口は悪業の想いに動ぜられて…と 諸仏が教えるように 舌根の罪の解消には 心の強い改心が必要です。その理由は 口に出た言葉は 深心の所箸 つまり心の底のわずかな習気じっけ に残りやすいのです。その習気が悪の心を目覚めさせて増長することが 非常に多いからなのです。心と言葉の作用は 原因と結果の両方をつくるので 舌根の罪の解消には 強い改心が必要となります。  
舌根の罪には 妄言もうげん (嘘を平気で言う) 綺語きご (口先のでまかせを言う) 悪口あっく (わるぐちを言う)両舌りょうぜつ (悪口を言って人の仲をさく)  誹謗妄語ひぼうもうご (事実でないことを言い人を誹そしる)邪見じゃけんの語ことば を賛嘆する(悪い思想を褒め人を迷わす) 無益むやく の語ことば を話す(下劣な話し)などがありますが 衆生の日常生活で最も多い舌根の罪が この無益の語を話すことです。無益の語は レクレーション的な感覚をもち 害は無いように思い易やす いのですが 無意味で 下劣な話題ばかりを話す衆生は 頭の働きが固定観念で固まっている衆生です。つまり クダラナイおしゃべりの習性がついてしまうので 新しいことを協議したり意見交換するなど…… 物事の本当の意義を考えたり 思考を廻らすことなど…が 鬱陶うっとう しい人間になってしまうのです。ですから 普段のおしゃべりで心掛けることは 明るい話題を正しい言葉で 話すことが大事なのです。仏の道を志す衆生は 無益むやく の語ことば (ツマラナイおしゃべり)は 慎むことです。  
では なぜ? 舌根の罪を懺悔しなければ ならないのか。それは 口(言葉)の誤ちは 兎角とかく 諸々の悪業あくごう の元となるからです。日本の諺にもあるように 口は禍わざわい の元 なのです。その故に 闘遘とうこう (人同士が排斥しあう行為)や 壊乱えらん (人々の生活の平和を乱す)など さらには 正しくないことを正しいと力説りきせつ して 世の中の人々を惑わしたりするので 仏の道を志す衆生は 常に自分の口から出る言葉に注意し 反省し・懺悔しなければなりません。とくに 仏の法の広宣流布こうせんるふ つまり 娑婆世界を無限に幸福にする種たね を殺してしまうとなれば それは 最大の罪つくりであり その罪は量りしれないものです。舌根の罪が起こす禍わざわい の最も大きな罪は 仏の法の広まりを断ちきる罪です。  
又 非義ひぎ (理屈に合わないこと)を あれこれとコジツケテ説くのは 邪見(誤った考え)を誇張する行為です。例えば 火に薪まき をくべて炎を燃え上がらせる如く 邪見を焚きつけて その邪見を大きくさせてしまいます。その被害は 猛火もうか にて 人の身が焼かれるにも 等しいものなのです。又 毒が表面の皮膚には影響しないで 体内に貯まり内臓が焼き爛ただ れる結果 死に至るように 自分では気づかないうちに 正しい心を失っていくのですから 実に恐ろしいことなのです。衆生は 以上のことを理解して 直ただ ちに 舌根の罪を懺悔しなければなりません。  
舌根の罪を懺悔し 一心に仏を礼拝し奉たてまつ る衆生に 諸仏は光明を放ちてその身を照らします。すると 衆生の心は洗い清められ 明るく喜びに満ちた気持ちが また甦よみがえり漲みなぎ るのです。その衆生の心が 諸仏の心と直じか に通い合うことで 一切の人々を救いたいという大慈悲心の念が わんわんと 心に湧き起こってくるのです。そのとき 諸仏は その衆生ー修行者ーに向かい 大慈悲心だいじひしん 及び喜捨きしゃ の法を説き 愛語あいご の心を教え 六つの和敬わきょう の精神を修するのです。喜捨きしゃ の心とは 自分の我欲を捨てて世のため 人のために尽くす心のことです。喜き とは 人の喜びを共に喜ぶ気持ちのことです。捨しゃ とは 人に施した恩も 自分が受けた害も すべて忘れてしまう気持ちのことです。  
愛語あいご とは やさしい言葉で話すことです。  
和敬わきょう とは 信者同士が日常生活の面でいろいろと お互いにうち解け合い 敬い合う教えで 身しん和敬わきょう  口く和敬  意い和敬  戒かい和敬  見けん和敬  行ぎょう和敬 の六つがあります。  
このような仏の教えを修した衆生は 懺悔の功徳の喜びが確信できるまで成長したので 自分は まだ懺悔する必要があると気がつくのです。そして 自分の次の懺悔のテーマを考えるのです。これは 衆生の魂が成長した証拠なのです。 これに関して 次に説きましょう」。 
世尊  
「さて 「眼根の罪」:「耳根の罪」:「香・味・触の罪」:「舌根の罪」の懺悔を終えた衆生は 次に 心と身体の罪の両方を 懺悔しなければなりません。心の罪とは いろいろな悪事を考える罪です。身体が犯す主な罪は 殺生せっしょう の罪  楡盗ちゅうとう の罪  邪淫じゃいん の罪などがあります。心と身体の両方の罪が重なると 「十悪業」や 「無間地獄」へ落ちる五大悪逆ごだいあくぎゃく を 犯すのです。つまり 父・母・阿羅漢を殺す 仏身を傷つける 仏弟子の和合を破るなどの大罪だいざい を 犯すことになります。  
心身の罪がつくる悪業は 猿が枝から枝へ飛び移るように 麹菌こうじきん が発酵・増殖するが如く次々と 六根のすべてが その毒気に犯されていき ひとつの罪が次の罪を生みつづけていくのです。そして その毒気は 六根の枝葉の先である心のちいさな作用や「三界」までへも 移行していくので 遂には 三界さんがい のありとあらゆるものへ 悪影響を与えることになります。そして その悪影響は 一切の生処しょうしょ に 何回生まれ変わったとしても ついてまわるのです。その結果 八つの間違った心と八邪はちじゃ の行いが重なり 仏の教えと無縁となったことで生じる 八難が次々と起こってきて 「12因縁の法門」の教えにある 12の苦しみが生じるのです。  
またまた 空中からの声が こういう心身の悪業(罪)を懺悔しなさいと衆生の心の奥に響きます。この声を聞いた衆生が ーどういう心の持ち方で懺悔の法を 行じたらよいのでしょうか…?ーと 真剣に問うと 久遠実成の法身ほっしん/毗盧遮那仏びるしゃなぶつ が 応身おうじん の釈迦牟尼仏の声で 応えてきます。 ”常に一切の所に 普あまね く おいでになることを 衆生が深く自覚しなければならない”と。大衆の皆さん この自覚が 懺悔の行の最終の段階なのであります。  
仏の世界(仏界)は 常に平和な光に満ちている世界で 無常むじょう への執着をスッカリ離れ 常住じょうじゅう のものを捉える 常波羅密じょうはらみつ の修行の完成により 出来上がった世界なのです。その世界は ものごとがどんなに変化しても 久遠実成くおんじつじょう の仏を真の心で信じる つまり 不変の存在の仏を信じる我波羅密 がはらみつ の修行の完成により安立あんりゅう された世界なのです。又 清浄な心で 有相うそう (自他の差別)を捨てきった世界である 無相むそう (差別がなく平等)の世界を観じる 浄波羅密じょうはらみつ の修行の完成により 己おのれ の心に実現する世界なのです。同時に 真の心の平和を得る修行 楽波羅密 らくはらみつ の修行の完成により 創りあげられた世界なのです。  
大衆たちよ 仏の世界だけが 有(差別)や無(無差別)を超越ちょうえつ した世界であります。仏の世界を会得した衆生は 現在の心身しんしん の相(姿)のままで 平和な心境を得ることができるのです。一切の迷いや苦しみから解脱げだつ した悟りの世界とは この仏の世界のことなのです。仏の世界は 諸法実相しょほうじっそう の智慧である 般若波羅密 はんみゃはらみつ が成就している世界です。仏の世界は 常住の法 じょうじゅうのほう つまり 変化することのない絶対の存在の世界ですので 衆生の最大の懺悔とは 常住の世界(仏の世界)に 自分も早く到達したいと 一心で願うことなのです」。 
世尊  
「衆生の最大の懺悔とは 絶対実在の変化することのない常住の法じょうじゅうのほう の世界である つまり 仏の世界へ自分も到達したいと一心に願い 大乗の法を読誦どくじゅ することなのです。衆生が 絶対実在の常住の法の仏の世界を観じ自分も 仏の世界に到達したいと 一心で願い 大乗の法を読誦する最大の懺悔さんげ を実行するならば 十方の諸仏は 仏の”み手”をもってその衆生の頭をなでて 褒めて次のように 教えを説いてきます。  
ー仏の道を修行する衆生よ 汝が大乗経典を受持し読誦し 心が菩薩行ぼさつぎょう に 決定けつじょう したならば 諸仏は 汝に 大懺悔だいさんげ の法を説きたもうのです。 この菩薩行が出発点なのである。衆生が 煩悩の六道の世界に住みながら 菩薩行を行じ煩悩の海に没しない この結使けっし の心が 最も大切なのです。  
衆生(凡夫)の心は 定まったように見えていても いつもグラグラと動揺していて 定まらないものなのです。衆生の心が 常に 迷いの海で彷徨さまよっているのは ものの見方が顚倒てんどう しているからなのです。顚倒は 差別の心である有う の心であります。 有の心は 自分中心の間違った考えの妄想もうそう から 生じるのです。すべてを 自分中心に考えるから 自分の利害や感情によって コロコロ変わり けっして定まることがないのであるー。  
このような心の作用さよう は 生じたかと思うと消え・消えたかと思うと 亦 生じるという生死しょうじ の世界を ただ 繰り返しているだけである。 衆生よ 何が罪なのか何が福さいわい なのかを よく考えねばならない。そして 次の如く 懺悔しなければならないのです。  
ー自分の心は 実体の無い仮の世界を彷徨さまよっているので これが罪だ これが福だと 断定はできない。一切のものごとは このように頼りない実体の無いものであるー。  
衆生よ このように懺悔さんげ し 自分の心をよくよく観察すると自分の心はこれだと思っていたものは 迷いの雲みたいに すぐ消えゆく存在であることが理解できます。すると 諸仏がー衆生よ 実在じつざい だけが不変であり 寂靜じゃくじょう なのですーと 説いてきます。つまり 衆生よその本物の実在とは あらゆる煩悩を滅したところに 存在しているという意味です。このようにして 世の中のすべての現象は実在のあるものではないことを 衆生は理解していくのです。  
衆生よ 諸法こそが本物の実在 のものなのです。本物の実在は 目の前の現象の迷いから解脱げだつ したときに はじめて見いだせるものです」。 
世尊  
「仏の道を修行する衆生が 大乗経典を受持し読誦し 心が菩薩行ぼさつぎょう に決定けつじょう したならば 諸仏は その衆生に 大懺悔だいさんげ の法を説きたもうのです。  
ー衆生よ 大懺悔とは 変化するものにとらわれる心を捨てて 不変の世界を一心不乱に心に念じることであると-。  
大懺悔の作用は 途中半ばでもう十分だという気持ちを打ち破る 破壊心識はえしんしき の力を発揮します。大荘厳懺悔だいしょうごんさんげ や無罪相懺悔むざいそうさんげ とよぶ 最も美しい懺悔がこの大懺悔です。大懺悔を行うと 衆生の身も心もすっかり清浄になり 娑婆の現象に一喜一憂いっきいつゆう することなく 衆生の根底の精神が 自由自在に流れる水の如く 清らかになるのです。根底の精神が清浄になった衆生は 心奥深くに 普賢菩薩ふげんぼさつ 及び 十方の諸仏と共に生きている実感を ハッキリと感じることができます。このような魂(精神)に成長した衆生は 仏の智慧の極致である無相の法むそうのほう を会得えとく できます。つまり 諸法の実相は ”空くう”であることを ハッキリと会得できるのです。すなわち ”空”とは 宇宙の万物はその根本において平等である ことを心に自覚するのです。もうその衆生は 畏れや驚きの心は無く 真理とはおよそ衆生の常識とは真逆に見えること を理解します。その衆生は もう 自分に自信をもっても よいのです。なぜなら その衆生はやがて 他の衆生を導く菩薩の境地へ達する資格を得る衆生だからです。  
ー真の懺悔とはー  
阿難あなん よ このように 懺悔というのはただ罪の告白をすることだけではありません。仏と自分の心が完全に一致するまで 内面の仏性にコビリついた穢けがれ/錆さびを 磨き落とすことです。徹底して磨き落としていくと 最後には 仏と同じ大慈悲心で あらゆる衆生を平等に見る心を得て 衆生を皆平等に救済きゅうさい しようとする心を得るのです。 阿難あなんよ これが真の懺悔です」。  
世尊  
「諸仏は 肉眼にくげん 天眼てんげん 慧眼えげん 法眼ほうげん 仏眼ぶつげん の「五つの眼まなこ」を具えています。諸仏は 長い修行を耐えて 大乗の法の真髄を会得えとく した結果 仏の五眼ごげん を具足したのです。諸仏がすべてのものの実相じっそう を見通すことができるのは 仏の眼まなこ を具えているからなのです。ですから 諸仏の教えを説いている大乗の経典も 仏の眼まなこ であるのです。つまり 仏の滅後に 衆生が大乗の経典を読誦どくじゅ すると 自分の悪行の懺悔できるのです。  
大乗の経典を読誦する衆生は その大乗の教えによって 仏の「法身/報身/応身」を 知るのです。仏教の大眼目だいがんもく である大乗の経典は 衆生を涅槃の世界(真の魂の安らぎの世界)へ導きます。その涅槃の世界に常住する仏とは 六道の世界の苦悩する生命へ 福を与える存在なので 六道の世界のあらゆる生命から 最も感謝されているのです。大乗の教えを読誦する衆生は 仏の功徳を受け 永久に諸々の悪心から離れることができるのです。このことは 真実なのです。悪心・悪行あくしんあくぎょう を 消滅し尽くす眼まなこ の懺悔さんげ の根本は 心の迷いと過去世からの業障ごうしょう により 自分のものの見方が誤っていると 気がついた衆生が 一心に大乗の教えを読誦し 一切衆生を救う仏の”御心”みこころ に叶うことを 念じることです。  
また とくに 乱れた心でものを聞いて 人間関係に不和が生じ・互いに悪感情を生み出し・その悪感情がまた次の悪感情を生み出し 双方で恨うら みや妬ねた みの応酬おうしゅう をし合って 深い悩みに苦労している衆生こそ 一心に大乗の教えを読誦し すべての人は平等に仏性をもっていることを 深く思うことが必要なのです。一切平等という仏心ぶっしん を衆生が悟るならば すべてのものごとが 正しく耳に聞こえてくるようになります。整ととの つた心でものを聞く衆生には、現実界での人間関係の不和などは 生じません。これが 耳みみ の懺悔さんげ になるのです。  
また 衆生の心が諸々の快楽に執着しゅうちゃく するから 迷い(塵じん)が生じてくるのです。染せん に随したが う 衆生の心に 様々な邪よこしな な感情(触そく)が起きてくるのです。そのときは 大乗経だいじょうきょう を読誦し 法の如実際ほうのにょじっさい つまり 仏の究極の悟りである 諸法の実相しょほうのじっそう を観ずれば 心の悪業あくぎょう がすべて消滅するのです。すると その衆生の心は 悪業を再び生じることはありません。  
また 舌(口ことば)は 五種の不善業ふぜんごう を 起こすもとであります。常に 正しい言葉で話したいと願う衆生は いつも心に”人のため”を念じることが大切です。そして 世の中の真実の道理どうり を弁わきま えて 万人ばんにん に具わっている仏性ぶっしょう つまり 差別や変化を離れた真の相(寂)を見つめ 人を分けへだてして見る小さな心を 捨てるのです。これが 舌の悪業あくごう を除く 舌した の懺悔さんげ であります。  
心は 枝から枝へ飛びうつる猿のように しばしも じっとしておりません。心に起きた悪を押さえて 心を正しい道に引き戻そうと願う衆生は 大乗の教えを懸命に読誦どくじゅ し 大覚だいかく ー天地万物てんちばんぶつ を貫く真理ーを悟り 無畏むい の仏の相すがた ーなにものにも動かされることのない相ーを 常に心に浮かべることです」。 
 

 

世尊  
「人間の身体の様々な ”はたらき” は周囲の事情により 大きく変化します。その変化は まるで 塵が風で吹き飛び散るような有様で 当まさ に千変万化せんへんばんげ するものです。衆生の身体の中では 六根の我儘わがまま な欲望である 六賊ろくぞく が気ままに暴れまわっているのです。誤った欲望のこの六賊を滅して 諸々の迷いから離れ 身も魂も本当に平和で安らかで 他人に求めることの無い 憺怕たんぱく な心を受持していたい衆生は ひたすらに 大乗経典を読誦し 仏の慈悲心を 念じると良いのです。  
世の中の益えき となる方法の勝方便しょうほうべん は こうして 諸法の実相を観じることで限りなく生まれます。真理の法の力が 衆生の六賊の六情根ろくじょうこん を正すことで 勝方便が誕生するのです。衆生たちよ 一切の業障ごうしょう は 皆 顚倒てんどう した妄想もうそう から 生じるのである。自分の業障を懺悔したい衆生は 静かに端坐たんざ し大乗経典を読誦し 諸法の実相を深く考えることです。諸法の実相を深く考えるとは つまり「十如是」じゅうにょぜ を観じ 「三宝印」さんぽういん を観じることなのです。  
衆生たちよ 罪というものは 元来 存在しておりません。 つまり 無いのです。衆生が 罪とよんでいる 衆生の心の迷いから生じた仮の現われは 霜や露のようなものなのです。太陽という智慧(仏の教え)が射しこむと たちまちのうちに 消え失せてしまうものなのです。ですから ひたすらに 大乗の経典を読誦し諸法の実相を観じて 六情根が洗い清まったならば 衆生が それまで 有ると思っていた(本当は無い)罪は またたくまに 消え消え失してしまうのです。  
仏教の神髄しんずい を 如実にょじつ に表わす句を 紹介しましょう。   
若し懺悔せんと欲ほっ せば 端坐たんざ して実相を観ぜよ 衆罪しゅざい は霜露そうろ の如し 慧日えにち よく消除す  
衆生よ これが仏の教えのすべてです。 この尊い言葉を よくよく 胸に刻むが良いのです」。 
世尊  
「衆生たちよ 次に 懺悔の功徳を説きましょう。私(世尊)も 大乗経典の真実の意味を知り 善行を実行し修行を重ね 仏/菩薩と縁が結ばれたお陰で この懺悔の法を繰り返し行い 長い間 積み重ねてきた自分の罪(悪業)を すべて消滅できた結果 仏の悟りの境地に到達することができました。  
故に まっすぐに 「阿耨多羅三藐三菩提」あのくたらさんみゃくさんぼだい の境地への到達を願う衆生や または 肉体のままの身で 十方の諸仏や普賢菩薩と共にあるという自覚を得たいと願う衆生は 身を清きよ めて静かに端坐たんざ し 大乗の教えの意味と価値を 深く考えると良いでしょう。普賢菩薩は このような 仏の道を求める衆生の心に 懺悔に対する正しい考えかたを 説き教えてきます。それを聞いた衆生は 必ず 昼夜ちゅうや 六時ろくじ に十方の諸仏を礼し 大乗経典を無心に読誦どくじゅ し 仏が悟った最高の悟りである すべてのものの仏性の平等(空)を しっかりと考えるようになります。すると その衆生は 自分が他のすべての衆生の仏性を拝み 相手の仏性の曇りを取り除いてあげたい… 相手の仏性を引き出してあげたい… その仏性に磨きをかけてあげたい…という 慈悲の願望がんぼう が 自分の内面に ふつふつと湧き起ることを自覚するのです。その慈悲の願いが湧き起きた衆生は 指をポンとはじくほどの短い時間にして つまり 瞬時にして 過去世の長い間の自分の罪業ざいごう が 消滅してしまうのです。  
昼夜六時に十方の諸仏を礼しの 六時ろくじ とは 心のままに何回もという意味です。この言葉は 阿弥陀如来が説く 「仏説阿弥陀経」にも あるのです。仏の教えが理解できたというだけでは まだ 本物の仏ほとけ の子ではありません。この懺悔の法を繰り返し実行する衆生こそが 本当の仏ほとけ の子と成るのです。本当の懺悔を実行することで すべての人の仏性を 見ることが可能になります。本当の懺悔を実行した衆生が 他の衆生の仏性を引き出そうと決心して そののち 懸命に慈悲の行を実行してこそ はじめて その衆生は 本当の意味で仏の子となるのです。  
本当の仏ほとけ の子と成った衆生に対し 十方の諸仏は和上わじょう の役を 勧すすんで引き受けるのです。  
”和上”とは  
新しく出家したものには 必ず仏の教えを守りますと誓いを立てる 受戒じゅかい の儀式があります。その儀式のときに その誓いを受ける導師どうし の役割りを行う人を 和上わじょう といいます。一般社会に当てはめると 立会後継人たちあいこうけいにん の立場の人といえるでしょう。その”和上”の役を 仏ほとけ 自身が 喜んでつとめてくれる という尊い意味なのです。  
受戒の儀式には 自分の今までの身と心の経歴けいれき を告白する羯磨かつま という行動があります。だが 今説いた懺悔を行えば 羯磨を行わなくても菩薩戒ぼさつかい を受持されたことと同等なのです。次に 仏が菩薩戒を身に具えようと願う衆生を思い このように念ぜよと教える言葉を説きましょう」。 
世尊  
「衆生たちよ 真の懺悔を実行した後に 他の衆生の仏性を引き出す決心をして 慈悲の行を実行してこそ はじめて その衆生は本当の仏の子となる ということを しっかりと理解しなければなりません。すると その衆生の和上わじょう の役を 十方の諸仏や菩薩が自みずか ら勧すす んで引き受けるのです。これは 真実なのです。この真実を理解し菩薩戒を身に具えようと願う衆生に 諸仏が次の言葉を三度念ぜよ と説いてきます。  
諸仏・世尊は常に 世に住在じゅうざい したもうなり。 我われ 業障ごうしょう の故に 方等ほうどう を信ずと雖いえども 仏を見奉ること了あきらか ならず。 我今 仏に帰依きえ し奉る。唯 願わくは 釈迦牟尼仏正遍知世尊しゃかむにぶつしょうへんちせそん  我が 「和上」わじょう と なりたまえ。文殊師利具大悲者もんじゅしりぐだいひしゃ 願わくは 智慧を以って我に 清浄の諸々の菩薩の法を 授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日みろくぼさつしょだいじにち 我を憐愍れんみん し 我が菩薩の法を受くることを 聴き許 したもうべし。十方の諸仏 その身を現じて 我が証あかし と為りたまえ。諸々の大菩薩 各々おのおの 名を称して 是の勝大士しょうだいじ  衆生を覆護ぶご し 我を助護じょご したまえ。我 今日こんにち 方等経典ほうどうきょうてん を 受持したてまつる。乃至ないし 失命しつみょう し 設たと い地獄に落ちて無量の苦を受くとも 終つい に 諸仏の正法しょうぼう を毀謗ぎぼう せじ。是の因縁いんねん 及び 功徳力くどくりき を以って 今 釈迦牟尼仏 我が和上となりたまえ。文殊師利もんじゅしり  我が 阿闍梨あじゃり と なりたまえ。当来とうらい の弥勒菩薩よ 願わくは 我に法を授けたまえ。 十方の諸仏 願わくは 我を証知しょうち したまえ。大徳だいとく の諸々の菩薩衆よ 願わくは 我が伴ばん となりたまえ。我 今 大乗経典甚深じんじん の妙義みょうぎ に依って 仏に帰依し 法に帰依し 僧に帰依すと。  
言葉の意味を説明をしましょう、我が証あかし と為りたまえ 願わくは我を証知しょうち したまえ というのは 私がこの誓いを実行できるかできないかを 証人としてご覧になっていてください という意味です。勝大士しょうだいじ とは すぐれた大士だいし つまり 菩薩のことです。  
”阿闍梨” とは 受戒の儀式のとき 和上の助手を務める役のこと。  
地獄に落ちて無量の苦を受くとも 終つい に諸仏の正法しょうぼう を 毀謗ぎぼう せじ というのは まかり間違って 地獄に落ちるようなことがあっても 仏の正法をそしりません という意味です。正法を信じて地獄に落ちることは 万が一にもありませんが たとえ そんなことがあったとしても あくまでも自分は 仏の正法を信じますという 純粋な信仰心を述べた言葉です。純粋な信仰の心をもつ衆生は そのままで 救われるのです。 これぞ 真の信仰なのです。だが 衆生の多くは 自分の過去世の宿業しゅくごう が深いが故 信仰の功徳が急に現われてこないと すぐ ー神も仏もあるものかーなどと 謗法ぼうほう の言葉を吐くのです。これは 自ら救いの手綱を離す行為なのです。私(世尊)は 譬諭品(5)にて 14謗法ぼうほう と 仏罰ぶつばつ を説きました。  
当来の弥勒菩薩よ‥‥法を授けたまえ というのは  
未来世に 仏に代わり娑婆世界で法を説く弥勒菩薩みろくぼさつ に対し 法を授けくださいという願いです。我が伴ばん となりたまえ というのは 信仰の道連れとして自分を指導してくださいという意味です。そして最後は 仏/法/僧の三宝に 帰依することを誓いなさい という意味です」。 
世尊  
「三宝さんぽう への帰依きえ を誓った衆生が 次に行うことは 自分の行いに関して六重じゅう の誓いを立てて 一切の衆生を救う 曠済こうさい の心をもって さらに 二重を加えて 計八重の誓いを立てるのです。六重の誓いとは 不殺生ふせっしょう  不偸盗ふちゅうとう 盗むな 不邪淫ふじゃいん 淫らな愛欲行為はしない。不妄語ふもうご 嘘はつくな。不飲酒ふおんじゅ 酒は飲むな。不悪口 人の誤ちや悪口は言わない。このうち 1〜5が 「在家五戒」ざいけごかい の教えです。  
この六重に  
自分の誤ちを隠すようなことはしない。 他人の欠点を非難しない の 二重を加えたのが八重の誓いです。  
この八重の誓いを立てた衆生は 静かな場所を選び 諸仏・諸菩薩・大乗の教えを供養して 次の菩薩の誓いの言葉を 念じると良いのです。今私は 仏の智慧を成就したいと志しを立てました 願わくばこの志しが 1切の人々を救うのに役たちますように。  
このように 諸仏・諸菩薩を礼し 一心に大乗の教えを念じて 三七日さんしちにち を行ずれば 出家・在家を問わず また 和上わじょう や阿闍梨あじゃり の指導者がいなくても また 告白文は書かずとも 大乗の教えの力と普賢菩薩の助力じょりき が その衆生に感応納受かんのうのうじゅ として及ぶので その衆生は 戒かい 定じょう 慧え 解脱げだつ 解脱知見げだつちけん の 大きな力を成就できるのです。  
衆生よ 忘れることなかれ。 諸仏や如来も 最初から仏であったのでは ありません。すべて 大乗の教えによって 諸仏・如来になられたのです。衆生よ 懺悔は 沙門しゃもん (僧侶) 刹利せつり  居士こじ など 各々の立場で もちろん違います。  
刹利せつり とは ヒンズー社会の第二階級に属する クシャトリアのことで 統治者・王族・武士集団の人々。  
居士こじ  ここでは 優婆塞・優婆夷のこと。  
私(世尊)は 最初にー無量義経ーを説き次に ー妙法蓮華華経ー を説いてきました。そして 今 このー観普賢菩薩行法経ーを 説き終えようとしています。この経を説き終えると 法華三部経の説法は すべて終了となるのです。いよいよ 最後の最後に 普通一般人の懺悔について 説きましょう」。 
世尊  
「普通 一般人の懺悔の法を 説きましょう。 これで私の説法は終了となります。  
第1 / 正しい心をもって 仏と 仏の教えと 仏法教団の三宝を重んじ それらに背いてはならない。出家人の修行の障りになることをしてはならない また けっして、迫害を加えてはならない。常に 仏ぶつ 法ほう 僧そう 戒かい 布施ふせ 天てん の六つを大切にしなければならない。ここでの天は 世の中の穢れから離れる という意味。大乗の教えを受持する人が不自由しないように 供給くきゅう (面倒をみる)し 感謝を捧げ礼拝する。大乗の深い教えの第1義である 空くう の心を 常に持ちつづける。  
第2 / 父母に孝行こうこう を尽くし 師長しちょう (目上の人)を敬う。  
第3 / 正法をもって国を治め 人民を良いほうへ導く。  
第4 / 月六度の精進日しょうじんび (インドの風習)には 殺生を行わない 人々に殺生を行なわしめない。日本流に解釈すると あらゆるものの生命を尊重する思想を 人々に植え付けるという意味。  
第5 / よい種を蒔けば必ずよい実が成り 悪い種は悪い結果が現われるという 因果いんが の道理を深く考える。因果の法を理解して 悪い考えは起こさない 悪いことはしないことを誓う。一実いちじつ の道みち であるーただひとつの真理ーを しっかりと悟り信じる。この世の現象はすべて変化するものであり 変化しないものは 真理(実在の仏)だけである。仏はけっして滅するものではなく 無始無終むしむしゅう の存在であることを 深く自覚する。  
阿難あなん よ この第5番目が 普通一般人の懺悔の法の中の最も根本なのです。もし 末世において この懺悔の法を修習しゅうしゅう する衆生は 自ら反省するという美しい最上の徳を身につけ 諸仏に護り助けられて 長い年月をかけずとも 必ず 阿耨多羅三藐三菩提 あのくたらさんみゃくさんぼだい を 成就するでしょう。  
最後に 百喩経 ひゃくゆきょう の中の例話れいわ を 紹介しましょう  
あるところに 凡夫の衆生がいました。 喉のど が渇いてたまらないので あちこち 水を探して歩きまわっていました。幸いにして 河の畔ほとり まで辿り着いたが その衆生は 川辺で茫然ぼうぜん と 佇たたず んでいます。なぜ 水を飲もうとしないのか不思議に思い どうして水を飲まないのだい? そばの人は聞きました。飲みたいのだが あんまり水が多過ぎて 飲み尽くすことはできないのです。 だから 迷っているのです。この凡夫の衆生とは 誰なのか?よく考えてみましょう。  
以上で 法華三部経 ほっけさんぶきょう の説法のすべてを 終了いたします。私の説法せっぽう を聞いた あらゆる世界のあらゆる生命たちよ 日々「五種法師」ごしゅほっし の行に励み 私の滅後には 法華経を説き広めてくれることを願っております。皆さん これでお別れです。 しかし 仏(世尊)は この娑婆世界に永遠に常住しております。衆生たちよ 仏の教えを受持していれば 何も心配することはありません」。 
 
歴史認識 

 

歴史認識の問題
「歴史認識の問題」は、「韓国・中国のいう正しい「歴史認識」の正体」とそれに便乗して日本の破壊をもくろく反日勢力勢力(ほとんどすべてのマスコミ・歴史学者)についてです。  
この歴史認識の問題は、日本国内の問題であると認識するのが正しいと思います。日本で言う正しい歴史認識−因果関係を正しく見極める−を日本人が持てば、うその主張ですのですぐ解決する問題です。アメリカに期待するのはやめましょう。アメリカと中国は拝金主義という点で一致しています。共産主義中国を作ったのはアメリカであると言うことが、今日では明らかになっています。また、韓国という反日国家を作って、極東でいつまでもごたごたしていることを願っているのがアメリカです。西洋人の得意な分断統治です。  
「従軍慰安婦」「南京大虐殺」「朝鮮併合」「日中戦争」などについて、中国と韓国より「歴史認識」を改めることと、「反省とお詫び」「補償」を求められています。その他の国から、主張されることはありません。このことをまず、気づかなければなりません。他の多くの国からは日本は尊敬を勝ち得ているのです。  
どうしてこのように「日本が責められるのか」ということについて、「過去に過ち」があったのだから、しかたがない。「二度とこのようなこと」を起こさないように反省しなければならない、と思っていませんか?  
でも、いくら中国、韓国に謝罪しても、賠償金を払ってもこの問題は解決しません。中国や韓国は、反省し謝罪すればするほど、自国の主張を繰り返します。そして国連を始め、世界中に反省と謝罪を利用して日本をおとしめる活動をエスカレートさせます。それは、中国の敗者は永遠に奴隷であるべきであるという歴史観と韓国の逆恨み「恨」の国民性によります。ねつ造の主張に対する毅然とした態度のみが歴史問題を解決します。  
日本では「歴史認識」というと、因果関係を正しく知り、なにが真実かを明らかにして正しい歴史認識をもたなければならないと考えます。  
中国の歴史認識問題は違います。正しいかどうかは、決まっています。日中戦争で日本は戦争に負けたのだから、やったことは全て悪いに決まっている。それだけです。敗者は、奴隷のように勝者に永遠に仕えなければならないと本気で思っているのです。  
それから中華人民共和国の支配階級である共産党は、事実は違うのですが、日本の中国侵略を跳ね返して、国民の生命と財産を守るために独立を勝ち取ったと主張していますので、その共産党政権の正統性の為にも、日本軍国主義は、永遠の悪でなければならないのです。共産党が、自由を求める国民を虐殺した1989年6月4日の天安門事件以来、「南京虐殺」などを特に強調した反日教育、反日攻勢を行っていることからも明らかです。  
もうひとつは、中国は一度支配下に置いた土地は、中国領土だと思っているという事実があります。日本は、聖徳太子の例に見られるように対等外交をめざしてきましたが、足利義満は、明の文化にあこがれ、建文帝から日本国王に柵封されました。つまり、中国皇帝から国王に任命され、臣下となりました。この事がありますので、中国は「日本は自分の領土であったことがある」と思っています。したがって、2050年の地図が中国の内部文書としてあったりするのです。この地図では、東日本は日本自治区、西日本は東海省となっています。因みに朝鮮半島の二国は朝鮮省です。  
つまり、尖閣諸島を中国領土と主張しているだけではありません。本音は、沖縄も中国の領土であると思っているどころか日本全体が中国であるべきであると思っているのです。  
韓国の歴史認識は、500年続いた李氏の支配した朝鮮の歴史認識に基づいています。この李氏朝鮮は、1393年に明の皇帝から朝鮮国王に任じられていました。清の皇帝も同様の姿勢をとりました。明・清が宗主国でした。したがって、明・清の中華思想に染まっていました。そして、明・清に仕えることは、当然のことであるという国是の反対に、日本は蛮夷の国であるとさげすんでいました。したがって、宗主国にはへつらい、朝鮮より格下と思う国には居丈高にふるまうという意識を持った国です。中国にはへつらい、日本をさげすむという根底の思想があります。  
その日本が近代化を成し遂げ、1910年の日韓併合によって独立を失ったことががまんならないのです。日本が第二次世界大戦で敗北し、韓国は独立を果たしました。立場が弱い日本を徹底的にさげすみ・軽蔑することを国是とするようになりました。「創始改名」「土地調査事業」「従軍慰安婦」など、事実はどうでもいいのです。日本をゆすり、援助をひきだす手段であればいいのです。また、優越感をもって攻撃することでよいのです。  
中国の主張する「南京虐殺」に見られる残虐行為は、毛沢東が共産主義中国を建国するにあたって自国民に対してやってきたことです。韓国の「従軍慰安婦」の主張も同じです。ベトナムで自国民を強制してさせた「従軍慰安婦」の事実が明らかになっています。  
中国も韓国も自国の国民性や軍隊がやってきたことはよく知っていますから、日本軍もやったはずだという思い込みがあります。中国の軍隊、韓国の軍隊が残虐だから、日本軍も当然やってきたはずだというわけです。しかし、日本軍はそのような軍隊ではありませんでした。国民性がちがうのです。  
しかし、歴史認識の問題は、中国・韓国の反日運動であるという簡単な問題ではありません。日本の国内問題です。中国・朝鮮の歴史認識問題に迎合している反日勢力が日本の歴史学者、マスコミ、政治家の主流を占めているという厳然たる事実です。  
戦前から、近衛文麿などの政治家や官僚、山本五十六など軍の中枢にも国際共産主義者が多数いました。さらに、第二次世界大戦に負けて、日本の中枢の指導層20万人が公職を追放されました。かわって、隠れ共産主義者が日本の権力の中枢につきます。日本をおとしめる占領軍に協力するマスコミの指導者や政治家、学者がその地位を獲得します。そして権力を継承し続けて現在に至ります。  
例えば、東大や京大の学長は、共産主義者が占めました。マスコミは、反日宣伝をしないと生き残れませんでした。  
共産主義思想はそのままでは受け入れられませんから、権力を握った共産主義者は、表と裏に分かれ日本の伝統社会を破壊するという巧みな共産主義運動を展開していきます。マルクスによる共産主義は、暴力革命論です。しかし、国民のモラルが健全で、伝統文化の香り高い安定した国では、暴力革命が不可能です。そこで、革命を起こしたい国の伝統・文化を徹底的に破壊して国全体を不安定にします。そのうえで選挙で共産主義革命を起こすという二段階革命論を考えた学者たちがいます。ドイツのフランクフルト大学を拠点としていますのでフランクフルト学派といいます。  
フランクフルト学派の共産主義者の手口は単純です。表向きは進歩的なインテリのふりをしますが、日本の良いところを何から何まで破壊しようとするところに特徴があります。共同体の良き風習や家族制度、伝統文化などを封建的遺物として否定します。特に性道徳の破壊に熱心です。また、究極の破壊目標は、天皇の存在です。表立って否定することは控えますが、マスコミ、言論、政治家を通じて巧みに否定して行きます。皇室パッシングも巧みです。  
天皇がおられてこその日本であるのですが、それを否定します。今の高校日本史教科書には、神倭朝初代天皇である神武天皇の名前すら出てきません。高校生の皆さんは、ジンムと読む事もできません。習ったことがないからです。日本国憲法の基本理念が、残念ながらこのフランクフルト学派の思想に染まっているという説があります。  
そして、その後継者たちが、今も学者、マスコミ、政治家の主流の地位を確保し、今も日本を破壊しつづけています。河野談話や村山談話もこの路線の延長上にあります。この本質がわからないと日本崩壊の危機の本質はわからないものと思います。  
さて、大多数の日本人は、中国や韓国があれだけいうのだから、本当に「南京大虐殺」が行われ、「従軍慰安婦」問題では、強制連行による性の奴隷問題があったのだろうと素直に信じてしまいます。歴史教育をしていた私もそうでした。中国や韓国のいいなりの歴史観を教えてきたこともありました。しかし、8年前にこのウエブページを立ち上げ、材料としてさまざまな資料に触れているうちに、日本の歴史学者の書く自虐史観の迷信に徐々に気づいてきました。また、中国や韓国の主張が全くのウソ・でたらめであることも気づくようになりました。  
「被害者」が「加害者」に逆転しています。中国や韓国が主張する事実は、全部ウソです。ひとつひとつ検証する価値もないほどのひどい言いがかりです。ようやく、あまりにも反日主張がひどいので、中国や韓国の発言はおかしいのではないかと気づき始めたひとも多いと思います。その場合でも、被害者を称して平気でうそをつくことなど日本の国民性にはありませんので、せいぜい誇張して主張しているだけで、主張そのものがうそだと見抜くことができていないと思います。  
また、日本人の中には、中国や韓国の主張に迎合して、自己の行為を軍や国全体が行ったことであるという組織犯罪に転化して免罪符を得ようとするものもいます。戦時下ですので例外的に犯罪行為に走った人もいたでしょうが、中国や韓国のように大半の軍人がそのような行為をしたのではないのです。  
このことを見抜く必要があります。  
一例をとれば、日本が朝鮮を植民地支配して収奪したというのも嘘です。日本は毎年、国家予算の10%以上をつぎ込んで殖産興業を行いました。これを収奪の植民地支配と定義するのでしょうか。  
嘘の歴史主張は、如何に巧みであろうともいずれ破綻します。中国や韓国が問題児であるということではないと思います。それぞれの伝統と国の方針にもとづいておこなっていることですから。嘘を見抜く力をもっていただきたいと願っています。  
世界がうらやむ歴史と文化と国民性をもつ日本が、韓国や中国が言うような過去を持っていたはずがありません。しっかりと勉強して日本人としての誇りを取り戻してほしいと願っています。 
「常識から疑え!山川日本史 近現代史篇上」倉山満 
「アメリカでおこなわれているような愛国教育をやるのではなく、むしろ逆のことを教えた。そのために歴史教育がわけのわからないものになってしまっている、というのが現状です。  
一方、ヨーロッパ型の歴史教育はどうなっているのでしょうか。  
イギリスを例にとると、これはアメリカよりもさらにひどいことをやっています。  
まず、小・中学校で愛国心を教える。そして、高校からは本当の歴史を教えます。  
ただし、本当のことを教えるといっても、自国がいかにひどい植民地支配をやってきたかを反省させるわけではありません。本当のことを教えるといっても、自国がいかにひどい植民地支配をやってきたかを反省させるわけではありません。本当のことを教えたうえで、それを正当化する教育をするのです。この方針は大学、大学院と高等教育に進むにつれて強化されます。  
結果として、イギリスで大学教授になるような人というのは、イギリスがやってきた悪いことを正当化することしか考えていません。  
たとえば国際法学者などは、口では『国際法によって世界連邦をつくろう』『国家は将来なくなるのだ』などと言いますが、考えていることはイギリスの国益だけ。自分でもまるで信じていない大嘘をつく、というところだけは日本人の学者と共通しています。ただし、目的は自国の国益なので、日本の自虐と逆です。  
イギリスのエリートに関しては、コスモポリタン的な発言をする人ほど実は愛国者であると考えて間違いありません。  
アメリカ型の歴史教育にせよ、欧州型の歴史教育にせよ、共通していることが二つあります。というより、これは歴史問題を考えるときの世界共通の原則です。  
一つは、『疑わしきは自国に有利に』。  
戦場で慰安所を作ったとか、敵国民を虐殺したとかいった避難を浴びたとしても、事実に争いがある以上は徹底的に自国に有利な解釈をするということです。  
もう一つは、『本当にやった悪いことはなおさら自己正当化せよ』。仮に、完全に自国の悪口が証明されたとしても、絶対に謝ったりしない。むしろ、なおさらがんばって自国のやったことを正当化するのです。  
いまだに圧倒的多数のイギリス人がインドの植民地支配を『われわれはインド人にいいことをしてあげたのだ』と信じているのはこうした自己正当化のたまものです。高校に行くような少し知的な人はより理論的に自己正当化できるし、大学、大学院まで進むエリートはまさに自己正当化のための訓練を受けているわけです。  
ここまでが、歴史問題を考えるときの世界共通の原則。これに加えて、日本人だけはもう一つの原則を心得る必要があります。  
それは、『やってもいない悪いことを謝るな』ということ。  
日本人は、『疑わしきは自国に有利に』と『本当にやった悪いことはなおさら自己正当化せよ』という二つの原則を実践できていません。まずは、やってもいない悪いことを謝らない、ということからはじめなくてはいけないわけです。  
『大東亜戦争への道』(展転社)を書いた故・中村粲先生は、生前『南京大虐殺を本当にやったのだったら謝罪する』というい意味のことをよくおっしゃっていました。一部では極右歴史家呼ばわりされていた中村先生にしてこれです。繰り返ししますが、本当にやったのだったらなおさら謝ってはいけない、自己正当化に努めなければいけないというのが国際標準です。  
歴史論争において日本が必ず負ける理由はここにあります。  
そもそも歴史学の役割は、自国を正当化することにあると言っても過言ではありません。  
戦争という一つの事実があったとして、当事者双方にとってその戦争をどう解釈するか、見方はまったく別になります。  
どちらが正しいかといえば、どちらも正しい。どちらの国も、自分たちのしたことを正当化するのが当然なのです。  
そことをお互いに認め合いましょう、というのが近代国家の体制です。  
近代における最初の重要な国際条約と言われるウェストファリア条約(1648年)には、この考え方が反映されています。  
三十年戦争の講話条約であるこの条約は、『講和条約が結ばれたからには、歴史問題に関しては一切言いっこなし』という考えに基づいて結ばれたものです。以降、近代国家間の講話においては、このウェストファリア条約の姿勢が根本となっています。  
ところが、ヨーロッパで生まれたウェストファリア条約の考え方を理解できない国もなかにはあります。それがアメリカ、中国、韓国、北朝鮮です。  
中国と朝鮮半島の両国は儒教国家であって、そもそも西欧型の近代国家ではありません。  
アメリカはというと、その成り立ちからしてウェストファリア体制を否定するところからはじまった国です。アメリカが国としてもとまったのは南北戦争後のことですが、ここで南部の歴史観を抹殺することでできたのが現在のアメリカ合衆国です。  
日本はこれらの国々に囲まれているうえ、近代国家の約束事を知りながら平気で破るロシアとまで国境を接しています。その結果、戦後の歴史問題はここまでこじれてしまったという事情があるのです。  
前述のように、歴史問題の扱いについては『疑わしきは自国に有利に』『本当にやった悪いことはなおさら自己正当化せよ』という二つの原則が世界標準になっています。  
加えて、近代国家間においては『講和後は歴史問題については一切言いっこなし』というウェストファリア条約の考え方が基本です。  
・歴史教育は、自国正当化の手段である  
・歴史問題は、他国を攻撃するための武器である  
・自国を悪と認めるのは、ナチスと同じくくりに飛び込むこと  
こうした原則を共有する文明国の間でも、問答無用の悪とされる存在があります。それがナチスです。ナチスについては、ドイツも含めたあらゆる国が『絶対的な悪だ』と認定することによって現在の世界秩序は成り立っています。  
そんななかで、日本だけが唯一、自らやったことを悪だと認めるばかりか、やっていないことまで謝ってしまうのは、ナチスと同じくくりのなかに飛び込むようなものです。  
歴史問題、歴史学は他国を攻撃するための武器です。また、自分の身を守る武器でもあります。日本だけがそのことに気づかず、自ら負けの側に飛び込んでいる。  
歴史教科書のあり方を考えるうえでは、まずこの現状をしらなければいけないのです。」
「呆韓論」室谷克実 
「朴槿恵大統領は、2013年3月1日(独立運動記念日)の記念演説で、歴史に残る『1000年恨み節』を唸って聞かせてくれたのだ。  
曰く、『被害者と加害者の立場は1000年経ってもかわらない』と。  
演説の文脈文脈から判断すれば、1000年の起点は日本による朝鮮併合が終わった時だ。少なくとも、あと九百何十年か、韓国は『被害者』として日本を恨み続けるというのだろう。  
しかし、この『1000年恨み節』で行けば、日本にだって韓国に謝罪と賠償を要求する権利がある。  
最初は1274年、次は1281年、2回にわたる元寇があった。それから800年と経っていない。  
高麗とは、統一新羅と李氏朝鮮の間にあった王朝だ。この王朝の皇太子が、元の皇帝フビライに『日本は、いまだ陛下(フビライ)の聖なる感化を受けておらず・・・・・・』と述べたことが、元寇への決定的な要因になった。  
元寇の主力先兵は高麗兵であり、指揮官の中でも好戦的だったのが高麗人だったことは、中国の正史『元史』にも、朝鮮の正史『高麗史』にも記述がある。  
壱岐・対馬に上陸した高麗兵は、どんな暴虐行為を働いたのか。  
それから、まだ1000年も経っていないのだから、日本にも高麗の後を継ぐ国である韓国に謝罪と賠償を要求する権利がある、となるわけだ。  
こんなことを言い始めたらキリがないが、それでもこの歴史事実と、朴演説を看れば断言できることがある。  
朴発言は大統領就任から初めて歴史的記念日の公式演説だった。当然、大統領府はもちろん、関係省庁が演説の細部まで点検したはずだ。  
ところが、大統領自身も、点検したスタッフたちも、誰一人として 『高麗が焚き付け、高麗人が先兵となった元寇で、日本人を虐待し、日本の婦女子を陵辱した』という事実を知らなかったのだ。  
無理もない。韓国の歴史教科書は、元寇について『高麗は元とともに、日本を懲罰した』くらいしか書いていないのだから。  
元寇の歴史を知るスタッフがいたなら、『1000年恨み節』ではなく『100年恨み節』になっていたころだろう。  
それにしても、『1000年経っても変わらない』などという恨み節を述べたら、日本の一般国民が、どんな感情を抱くのかを予測できるスタッフも大統領の周辺にはいないことが分かる。  
韓国は小中華思想の国だ。自国の文化様式・価値観が最高であり、世界中どこにでも通じると思い込んでいる。  
韓国人同士の口ゲンカの手法(格好よく強く罵って、見物人の喝采を受けた方が勝ち)が日本にも世界にも通じると思い込んでいる。交渉事は高飛車に出なければ損をするという韓国型行動様式への絶対的信仰に朴槿恵大統領も押し込まれているのだろう。  
『強く出ていけば相手は反発するが、最後は折れてくる。特に戦後の日本はいつもそうであってきた』――きっと、こんな”対日歴史認識”が大統領周辺を支配しているのだ。  
朝鮮半島には新羅の昔から『讒言(告げ口)文化』がある。豊臣水軍を悩ました李舜臣将軍が失脚したのも讒言による。  
今日の韓国企業は、数少ない上級ポストを目指して、上役へのゴマ摺りと、ライバルの足を引っ張るための告げ口で満ちている。どんなに財閥企業でも、40歳半ばで取締役に抜擢されない社員は追い出される。だから、ゴマ摺りと足引きが熾烈を極める。  
朴槿恵大統領が、訪米の際はオバマ大統領に、そして訪中では習近平主席に、さらにG20出席の際はドイツのメルケル首相に『日本の悪口』を述べたのも、『讒言文化』が体質化しているからだろう。  
韓国では『当たり前のこと』(讒言文化)は世界でも通じることだと信じて、彼らが『国際社会で日本の上役に当たる』と判断する国々の首脳の耳に『日本の悪口』を吹き込んだというわけだ。  
『一国の元首がそこまで言うことは国際慣行に反します』とストップを駆ける側近も、朴槿恵大統領周辺にはいないのだ。」
「真実の満洲史」宮脇淳子 
「結果がすべての中国の歴史観・・・・・・  
中国の歴史観は独特です。すべて結果ありき、結果から過去を判断するのです。「成功したから正しい」「失敗した奴には天命がなかったのだから悪い」というわけです。  
中国文明における最初の歴史書は、紀元前一世紀に書かれた司馬遷の『史記』ですが、その後『漢書』 、『後漢書』、『三国志』と、二十四の正史が『明史』まで書きつがれてきました。正史というのは、王朝が代わるたびに、なぜ前の王朝が天命を失って、次の王朝が天命を得たかを書くものなのです。ですから、王朝を建てた創業の君主たち、だいたい最初が太祖、次が太宗という廟号(亡くなったあとお祀りするための称号で、生前にはこのように呼びません)を贈られた皇帝たちは、徳があって優れた皇帝だと書かれます。徳がなければ、天命が降りないわけですからね。ところが、王朝が滅びるときの皇帝たちは、だいたい、愚鈍か病弱か淫乱か、あるいは残酷な性格で罪もない人を殺したと書かれるのです。なぜなら、天命を失ったのだから、その理由が必要になるからです。  
だから、今、中国大陸を統治している中華人民共和国の言うことはすべて正義で、戦争に負けて(中国にではなくアメリカに負けたのですが)、大陸から追い出された日本のしたことは、すべて悪かったとされるのです。それが、中国人にとっての「正しい歴史認識」で、中国人は、日本人のように、史実を追求したい、本当のことが知りたい、というような気持ちは持ったことがありません。  
中国人が「歴史認識」とするに言うのは、つまり、「日本人は戦争に負けたのだから、奴隷になって謝り続けろ」と本心で思っているためです。そんな人たちが書くことに、真実があるわけがありません。  
結果から過去にさかのぼって、その意図を探るので、「日本の満洲に野望があったというより、その場その場で対処しているうちにズルズルと引きずり込まれていった、とする方が正しいのですが、マルクス主義的歴史観プラス、結果ありきの中国人の歴史観で、結果から筋道を追って原因を突き詰めると、日本の陰謀ということになってしまいます。  
戦後の日本では、「今の中国人が書いているのだから、日本人もこの歴史を受け入れよう」と現地に迎合する日本人が、中国人が整理した近現代史を日本にどんどん持ち込みました。現在の中華人民共和国が勝手に筋道を立ててつくった歴史を日本人が受け入れて、近隣諸国条項(近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること)などというバカな規定を作り、従来の日本史と整合性を持たせようと努力したあげく、教科書などを嘘で書き換えてしまいました。」  
「日本の自虐史観はロシア革命が起点  
戦前の日本は大陸で悪いことばかりした、と教える左翼の日教組教育の起点は、一九一七年に起こったロシア革命です。ロシア革命は、それ以前と以後の時代を大きくわけました。ロシア革命とそれ以降の共産主義イデオロギーは、今の日本にも本当に大きな影響を与え続けています。  
日本天皇は制度ではないのに「天皇制」と言うのは、これを廃ししたいと考える共産主義の考えですし、「日の丸」の国旗や「君が代」の国歌に対する反感も、君主制を滅ぼし、敵である資本主義の国歌は解体しなくてはいけないという、もともと世界同時革命を目指して一九一九年に成立したコミンテルンが主導した反日思想にもとづいたものです。  
マルクス主義は「宗教はアヘンだ」と言いますが、マルクス主義もマルクスを信奉しない者を排除し、「マルクス主義以外の思想は、どうせみんな悪巧みで謀略だろう」と切り捨てるのだから、宗教の一種です。マルクス主義は、人間が理想を持って行動したことを、一切認めません。  
コミンテルンこそが謀略だらけだったのですが、だからこそ他人も謀略したと思うのでしょう。したがって、日本が理想を持って満洲が中国の一部であるなどとは誰も思っていませんでした。ところが、コミンテルンが満洲は中国なのだと日本人を煽って、国家意識や国民意識が生まれた中国人に対して、日本人を追い出せという運動をやらせたのです。  
そして満洲事変から満洲国が設立されると、「それ見たことか、日本に謀略があったではないか」と、それまでのイギリスやアメリカやロシアに対する中国人の反感は、すべて消えてなくなり、「日本人だけが悪い」となったのです。そうなると、それ以前のことも、日清戦争からすべてが謀略だったということになりました。本当に、ロシア革命こそが世界を変えたのです。  
しかも悪いことに、日本が戦争に負けた後、日本統治にやってきたGHQ(General Headquarters)すなわち連合国軍最高司令官のもとで働いたアメリカ人も、共産主義思想を持つ人が多かったのです。六年にもおよぶアメリカ軍の占領下で、戦前抑圧されていた日本の左翼系の人たちが要職に就き、教育界もその影響下に入りました。彼らは、どっぷりと左翼思想に染まっていたので、コミンテルンを悪く言わない歴史、軍部だけが悪者になる歴史が、このときに書かれました。  
日本の戦前を振り返ってその時代に立ってみれば、ソ連の恐ろしさはとても大きいものだったでしょう。軍事力だけでなく、思想的にイデオロギーで侵略しようと迫ってきているのです。それが満洲事変の原因です。支那事変も同じで、実はすべて相手側に原因があったのですが、それを逆転させて日本が悪かったと説明するので、わけがわからない歴史になるのです。   
現在の中華人民共和国は、ソ連とは喧嘩をしましたが、共産主義のイデオロギーで誕生した国ですから、その立場から過去を振り返れば、日本が満洲に違う国をつくろうとしたことは、自分たちの邪魔をされたと思い、当然悪く書くことになります。」
「『反日中韓』を操るのは、じつは同盟国アメリカだった!」馬淵陸夫 
「アメリカは対日戦争に勝利して日本を占領しましたが、日本国民の民度が高かったために、占領期間中には十分に『アメリカ化』することができませんでした。東アジアでアメリカ化が進まないのは日本だけです。  
アメリカは日本を抑え込むために、韓国を反日基地として韓国に日本を牽制させる構造をつくろうとしました。「ディバイド・アンド・ルール」で日本と韓国を分断し、韓国に反日を言わせ、日本を牽制して東アジアを抑えようという戦略です。そういう意味では、アメリカにっ利用されているとも知らずに反日を繰り返している韓国には気の毒な面があります。  
実は韓国人のなかにも、このアメリカの狡猾な意図を見抜いた人がいます。金完燮(キムワンソプ)氏は『親日派のための弁明』(草思社)のなかで、「アメリカは日本を再興させてはならないという意志を持って、韓国において強力な反日洗脳教育を行うと同時に、産業面において韓国を、日本を牽制するための基地として育てました」と述べて金完燮氏はアメリカの対韓国政策の背景には、有色人種を分割したのちに征服するという「ディバイド・アンド・コンカ―(divide and conquer)の戦略があったと喝破しています。  
この反日感情を意図的に作り出すうえで基本となったのが、歪曲され、間違った歴史認識であったのです。韓国にこうした反日教育を行わせたアメリカは、韓国と日本の関係がユダヤ人とドイツの関係とおなじものにしたかったのだ、と金完燮氏は続けています。このように金完燮氏は、今日の日韓関係の不和をもたらしたのはアメリカの意図があると見抜いています。アメリカは日韓が友好関係になると困るので、韓国に反日教育をさせ、日本を牽制しているのです。  
なお、ドイツとユダヤ人の関係と日韓関係との比較について一言述べておきます。このアメリカの論理は、ユダヤ民族滅亡を図ったヒトラーのホロコーストと日韓併合を同列に論じるという暴論ですが、韓国人のなかにはいわゆる従軍慰安婦問題もホロコースト並みの人権侵害だという声が聞かれるほどです。アメリカ人のなかにもこれに同調する人さえいる現状を考えますと、金完燮氏の慧眼は大いに注目されるべきです。いずれにせよ、日本はドイツがホロコーストへの償いをするのと同じように韓国に償いをすべきである、とアメリカは日本に陰に陽に圧力をかけているのです。  
このように考えますと、日韓の歴史認識問題については、アメリカは韓国の方を持つことが日韓離間という自らの利益に適うと考えていると言っても差支えないように思います。」
「世界を操る支配者の正体」馬渕睦夫 
日本を封じ込めてきた戦後東アジアレジーム ……  
2015年は戦後70周年の節目の年です。中国、韓国そしてアメリカは、歴史認識問題で我が国に対する攻勢をますます強めてくることが予想されます。「歴史認識大戦争」が起こる危険性があるのです。この構図こそ、いわゆる戦後東アジアレジュームtいわれるものの実態です。戦後東アジアレジームの真髄を一言でいえば、日本が再び東アジアの地域大国になることを防止するために、中国、韓国、北朝鮮を使って日本を牽制するというアメリカの対日封じ込め政策です。アメリカ軍が日米安保条約の下に我が国に駐留したのも、日本の独り歩きを抑止するための手段であったのです。  
昨今の度を超した韓国と中国の反日政策も、元はと言えばアメリカが構築した戦後東アジアレジームの枠内でのアメリカの対日政策に沿ったものです。韓国にも中国にもアメリカのこの戦略をせざるを得ない素地がありました。それは、両国とも政権に正統性がないことです。韓国の場合、アメリカに亡命していた職業革命家の李承晩が帰国してアメリカによって大統領に据えられました。したがって、民意に基づかず政権についた李承晩にとっては、反日政策しか自らの政治的地位を保証するものはなかったわけです。  
同じことは、中華人民共和国についても言えます。そもそも、中華人民共和国を作ったのはアメリカなのです。大東亜戦争がアメリカの勝利で終わった結果、蒋介石の中華民国政府はタナボタ式の戦勝国になりましたが、やがて国共内戦に敗北して台湾に追放されました。国共内戦で敗色濃かった毛沢東の共産党軍を支援したのは、実はアメリカでした。中華人民共和国はアメリカの援助がなければ成立しなかったというのが、歴史の厳粛な事実です。しかも、中国共産党政権は一度も民意の洗礼をを受けていません。ですから、現在の中華人民共和国を指導する中国共産党には中国の支配者としての正統性がないのです。したがって、韓国と同様、反日で生き延びるしか方策がないわけです。  
このような韓国と中国の反日政策がアメリカの指示の下で行われたことは、明白です。今日の従軍慰安婦問題についてアメリカ政府までが日本政府を批判していることが何よりの証拠です。アメリカは当然、慰安婦の実態は十分わかっています。にもかかわらず、日本を牽制する材料に慰安婦問題を利用しています。アメリカが影響力を持つ国連においても、韓国と一緒になって慰安婦問題を日本攻撃の材料に使っているのです。  
中国の場合は、尖閣問題が挙げられます。アメリカ政府は、尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲に含まれると公言しています。しかし、アメリカは尖閣が日本の領土であることは認めず、日中間で解決する問題だと逃げているのです。日本は同盟国であるはずなのに、アメリカはどうして尖閣諸島が日本領であることを認めないのでしょうか。もうおわかりのよいうに、アメリカは尖閣を巡り日本と中国が紛争を続けることを意図しているからです。」  
 
中国の「正しい歴史認識」の正体

 

かつて日本は、第二次世界大戦時に、「大東亜戦争」(アメリカはこれを太平洋戦争と呼ぶ)を戦いました。東亜とは東アジアのことです。日本は東アジアを舞台に、中国、アメリカ、イギリス、その他西欧諸国の連合軍と戦いました。  
しかし、なぜ日本はこの戦争をしなければならなかったのでしょうか。好きこのんで戦争をしたのでしょうか。いいえ、そうではありません。日本はやむなく、この戦争を戦わざるを得なかったのです。  
大東亜戦争の発端はと言えば、中国です。日本と中国は「日中戦争」(支那事変)を交えました。  
さらに日本は、アメリカとも「日米戦争」を交えます。しかし日米戦争は、中国をめぐる日米対立が原因でしたから、日米戦争は日中戦争から始まったものです。また日本が、そののちイギリスその他の西欧諸国と戦ったのも、もとはといえば中国での戦争が発端でした。  
ですから、もし日中戦争がなかったら、日米戦争も、日英戦争もなかったでしょう。そして大東亜戦争自体が、なかったに違いないのです。  
このように大東亜戦争の発端は、中国でした。すべてはそこが開始点です。なぜ日本は、中国で戦争に巻き込まれたのでしょうか。日本は、中国大陸をわがものにしようと出ていったのでしょうか。  
そうではありません。日本はむしろ、中国の「内戦のわな」に、はまっていったのです。
史上最悪の内戦国家だった中国  
「日本は中国を侵略した」ということがよく言われてきました。中国人がそう叫び、日本国内にいる反日的日本人もそう叫んできました。それが「正しい歴史認識だ」と。しかし史実をみるなら、決してそうではありません。  
日本が中国に進出したのは、もともと中国の内戦に巻き込まれた、というのが実情です。しかし日本は、それでも中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を止め、中国を救おうと奔走しました。中国が共産主義国家になるのを防ごうとし、また欧米の侵略や搾取にあわない自立した民主的国家がそこに誕生するのを手助けしようとしたのです。  
それは中国に安定と秩序をもたらすための人道的、道義的介入でした。  
人々の中には、日本があたかも「平和な中国」に乗り込んでいって戦争を仕掛けたかのように、思っている人もいます。しかし、当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家でした。  
各軍閥(ぐんばつ)は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆でした。民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達していました。そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も、何度も起きていました。  
このような状態は、お隣りに住む日本としても、決して座視できないものだったのです。  
たとえて言うなら、長屋に住んでいる人がいて、そのお隣りに、たくさんの子どもをかかえた夫婦が住んでいるとしましょう。夫婦は毎日ケンカをしていて、物が飛び交い、しばしば窓ガラスを破って物が飛んできます。また、彼らは働かないために収入がなく、やがて子どもたちの中に飢え死にする者まで現われました。  
こうした場合、お隣りに住む者としても、決して座視はしていられないでしょう。何とかしてあげたいと思うものです。  
それに加え、この隣人である中国の悲惨な状態を日本が座視していられない、もう一つの理由がありました。それは当時盛んになっていた西欧列強諸国とソ連(ロシア)による、アジアへの侵略です。  
西欧列強は当時、次々とアジア諸国に手を伸ばし、植民地化を進めていました。アジアの国々から搾取して、自国を富ませるやり方です。主人は白人で、黄色人種は召使いとなるという構図がアジアをおおっていました。  
一八三九年に起こった「アヘン戦争」は、その西欧のやり方を端的に示すものでした。これは、イギリスが清国(中国)に対して仕掛けた卑劣な戦争です。イギリスは大量のアヘン(麻薬)を清国に売りつけようとし、それを清国が拒むと、圧倒的な軍事力をもって清国を叩いたのです。このようにして中国は、西欧の植民地主義によって蹂躙(じゅうりん)されつつありました。  
一方、ソ連も、アジアに対し膨張主義をとっていました。共産主義革命を経たソ連は、さらに「世界革命」を目指し、全世界を「赤化」(共産主義化)しようと、南下政策すなわち侵略を続けていたのです。彼らは中国も手に入れようと、虎視眈々(こしたんたん)と機会をねらっていました。  
このように、もしこの混乱する中国に西欧列強またはソ連の勢力がいすわってしまえば、次はお隣りの日本が危険にさらされる番なのは目にみえています。  
したがって日本が望んだことは、この中国が、外国の勢力に侵されることのない近代化された強力な国家となり、やがて日本とも共に手をたずさえて、西欧の植民地主義やソ連の侵略に対抗してくれることだったのです。
清国から日本に続々やって来た留学生たち  
それで日本は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、清国(中国)からの留学生を毎年喜んで受け入れました。日本は清国から学びに来る彼らに、知識を与え、独立心を育てていきました。  
その中国人留学生の数は、ピーク時の一九〇六年には、二、三万人にものぼったといいます。  
中国人留学生が日本の港に到着して、まず驚いたことは、小さな学童たちがみな学校へ通う姿でした。それは当時の中国では、考えられない光景だったからです。中国では、学校というのはごく一部の人々のためでした。大多数の人は文盲であり、字が読めなかったのです。  
しかし、向学心に燃えた中国人たちが、競って日本に学んでやって来るようになりました。のちに中国に、親日また反共(反共産主義)の南京国民政府を樹立した汪兆銘も、法政大学で学んだ人物です。日本は彼らを喜んで受け入れ、中国の未来のために官民をあげて支援していったのです。  
当時、日本人の口によくのぼった言葉に、「中国の覚醒」というのがあります。中国人自身が目覚め、彼らが自分たちで近代化された中国をつくってくれることを、日本人は心から願いました。  
日本はいずれ中国と共に、東亜世界における共同防衛体制を構築したいと考えていたのです。西欧列強にもソ連にも侵されることのない共同防衛体制です。それが日本の安全保障だからというだけでなく、中国と東アジア全体の繁栄のために不可欠と考えたからでした。  
日本が中国に求めたのは、あくまでも日中の共存共栄だったのです。  
この「中国人による中国人のための近代的な中国」を造るという日本の望みと支援は、ある程度まで実を結んでいきます。  
日本に留学した中国人らは、その後の中国近代化のために知識や技術、文化をもたらしていきました。それが中国社会に与えた文明開化の衝撃は、かつて日本が遣隋使や遣唐使を通して文明開化を経験したときに匹敵するものだったのです。  
清朝末期の中国では、学問といえば「四書五経」くらいしかありませんでした。そこに日本留学経験者たちを通して、はじめて近代的な自然科学が紹介されました。また産業、司法制度、文学、近代音楽、自由民権思想、義務教育、近代的警察組織、その他近代国家の要素が紹介されていきました。  
その影響の大きさは、たとえば今日も中国語に残っている「日本語から来た外来語」の多さにもみることができます。現代中国語にある外来語のうち約三六%は、もと日本語のものなのです。  
今も中国語として使われている次の言葉は、どれも「中国語となった日本語」です。「人民」「共和国」「社会」「主義」「改革」「開放」「革命」「進歩」「民主」「思想」「理論」「広場」「石油」「現金」「国際」「学校」「学生」「保健」「出版」「電波」「警察」「栄養」「建築」「工業」「体操」「展覧会」「農作物」「図書館」「生産手段」「新聞記者」……。  
近代中国の基礎は、日本の影響のもとに造られたといって決して過言ではありません。  
日本留学ブーム、日本政府による中国近代改革の援助、日本人による革命支援などにより、清朝末期における日中両国は、蜜月ともいえる良い関係となっていました。当時の中国人にただよっていたムードは、「反日」ではなく、むしろ「慕日」であったのです。
清朝の滅亡と中華民国の誕生  
さて、やがて清朝の終わりに中国で革命が起こり、中国の多くの省が独立して、彼らは南京に「中華民国」臨時政府を樹立しました(一九一一年)。これはアジア初の共和制国家であり、その臨時大総統に、革命家の孫文(そんぶん)が就任します。  
孫文は、日本と連携して、近代的な独立国家の中国をつくろうとした人でした。もしこの新政府が順調に成長したならば、今日のような共産主義の中国は生まれなかったでしょう。  
しかし、当時の中国は非常に未熟な社会であり、誕生したこの新政府も、日本の明治維新のようにはスムーズにいきませんでした。というのは、新政府の人間の多くは信念よりも利害で動く人々であり、利害次第ですぐ寝返る人々だったのです。  
また新政府といっても名ばかりで、充分な資金も国をまとめる力もなく、まったく無力でした。清朝の皇帝もまだ皇帝の座にあり、内乱が収束したわけではありません。そうした中、孫文のところに近づいてきた人物がいました。  
清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)です。彼は結局、陰謀により、この新政府を乗っ取ってしまいます。  
中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「だます者と、だまされる者」の歴史です。中国に『六韜』(ろくとう)と呼ばれる歴史書がありますが、これは一言でいえば、「いかにして人をだますか」ということが書いてある書物です。  
中国の歴史を語るうえで、裏切りと、陰謀を抜きに語ることは不可能なのです。袁世凱は、その裏切りの達人だったといってよいでしょう。もともと彼は、数々の陰謀と裏切りによって、清国軍の最高司令官の座にのぼりつめた人でした。  
袁世凱は、崩壊寸前の清朝から、孫文を討つために遣わされて来たのです。ところが、袁世凱はこともなげに清朝を裏切り、今度は新政府の乗っ取りを謀ります。彼は言葉巧みに孫文に近寄り、幾つかの交換条件とともに、  
「私が清の皇帝を退位させるから、私を中華民国の大総統にしてくれ」  
と孫文に持ちかけます。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位をゆずってしまいます。  
このとき、大きな失望を味わったのが、それまで孫文を支援してきた日本人志士たちでした。  
そもそも日本人志士たちが孫文を支援してきたのは、列強の侵略になすすべを持たない腐敗堕落した清国政府を倒し、新政権を打ち立て、日本と共にアジアの富強をはかろうという、孫文の主張に共鳴したからでした。一方で、彼らの目には、袁世凱はとてもそのような理念を解せる人物には映りませんでした。  
日本人志士のひとり、内田良平は、孫文がいとも簡単に政権を袁世凱に譲り渡したことを知って、激怒して言いました。  
「敵と内通するとは、支那古来の易姓革命と変わらない。アジアの解放という崇高な人道的使命を分担させられるかのような期待を、孫文に抱き続けたことは誤りだった」  
かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを思う人々でした。しかし中国では、残念なことに、利害次第でどうにでも動く人々が大勢を占めていたのです。  
あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生したとき、心から喜んだ一人でした。けれども、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、  
「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ」  
と言いました。大局を観ずに、場当たり的な行動をする孫文に深く失望したのです。このとき、中国での維新を目指し、「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の試みは、実質的に挫折したと言ってよいでしょう。  
案の定、袁世凱はその後まもなく、孫文らを裏切ります。すべては国家を私物化するための袁世凱の策略だったのです。袁世凱は、孫文らがつくった民主的な新法も廃止し、彼らを追い出し、宋教仁をも暗殺して、独裁政治を始めました。  
こうして、単に独裁者が入れ替わっただけの革命となり、中国近代化の道は遠のいたのです。孫文らは抵抗しますが、もはやあとの祭りで、彼らは敗北し、またもや中国は混乱の泥沼に入り込んでいきました。
夷をもって夷を制す  
中華民国の新しい大総統になったこの袁世凱が、そのとき自らの保身のために考えたことは一体何だったでしょう。それは、  
「夷(い)をもって夷を制す」  
ということでした。「夷」とは外国のこと。つまり外国勢力同士を対立させ、戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかることでした。またこれは、単に外国勢力同士だけでなく、自分以外の複数の勢力間にトラブルを起こし、彼らを戦わせて、自分だけが生き残ろうとする「生き残りの哲学」でもありました。  
「夷をもって夷を制す」は、中国人の伝統的な思考法です。これは一見、利口なやり方に見えるかもしれませんが、結局これが中国を亡国の道へと誘い込むことになります。これは中国を戦場化する元凶となったのです。  
袁世凱は「夷をもって夷を制す」の考えにより、まず西欧列強と日本の間に対立を生み出します。満州にもアメリカを引き入れて、日本とアメリカの利害が対立するよう仕向けました。  
また、中国民衆と日本の間にも対立を生もうと、様々なウソを流して、反日宣伝をし始めたのです。その反日宣伝は、相当な効果を生みました。その反日宣伝の一環に、たとえば有名な、  
「二一カ条の要求」  
があります。これは日本が袁世凱政府に提出したものですが、日本が中国の新政府のもとでも正常な経済活動等ができるように求めた要求、というよりは希望でした。なぜなら、交渉を通して幾度かの修正や削除が行なわれているからです。  
この「二一カ条の要求」は、日本の侵略的姿勢を表すものと言われていますが、そんなことはありません。たとえば孫文は当時、この二一ヶ条について、  
「日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なものだ」  
と理解を示しました。孫文はさらに、日本の外務省に日中盟約案を送っており、それは日本政府の「二一カ条の要求」とほとんど内容が符合するものでした。このように日本政府の「要求」は、当時としては決して理不尽なものではなかったのです。  
ところが袁世凱は、その内容をゆがめて内外に伝えます。日本側としては全く記憶にない「要求」まででっち上げて、「日本はこんなにひどいことを言う」と悪口を言いふらしました。それによって国外では、西欧列強と日本が対立するようになります。  
また国内では、排日運動が巻き起こりました。条約締結の日も、「国恥記念日」として民衆に反日感情があおられました。中国では民衆の不満は、政府にではなく外に向けさせることが、為政者の伝統なのです。つまり「悪いことはすべて他人のせいにする」――その戦法で、中国民衆に反日感情を生んでいきました。  
袁世凱はこうして、自分以外の複数の勢力を対立させ、彼らの対立を利用して自己の保身をはかるという、「夷をもって夷を制す」の考えで行動した人でした。この考えは、のちに見るように共産党の毛沢東も使ったものであり、中国の混乱をさらに激化させ、戦場としていく原因となりました。
排外運動に翻弄された日本  
さらに、反日感情のもう一つの源泉は、「中華思想」でした。これは、中国文明が世界の中心であり、そこから離れた遠い国ほど野蛮で、劣った国だという思想です。  
つまり唯我独尊、独善的な思想なのですが、これにより民衆の中に、「日本や西欧諸国は中国より劣った野蛮な国だから、排斥すべきだ」という「排外運動」が起きるようになります。西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起きました。  
しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも、とくに日本人に対して向けられるようになります。どうしてでしょうか。それは、西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからです。  
たとえば、一九二六年に「万県事件」というのがありました。長江一帯で、反英運動が広まるなか、イギリスの商船が中国側に拿捕されたのです。そのときイギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊しました。  
これにより、中国人はすっかり縮み上がってしまいました。その結果、反英運動もなくなったのです。これについて台湾の歴史家、黄文雄氏は、  
「自分のかなわない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である」  
と語っています。中国人は、暴君として臨んだ西欧列強を、自分が勝てない相手とみるや従順になったのです。ところが以来、この民衆の排外エネルギーは、イギリスのような苛酷な措置をとらない日本にしぼられるようになります。  
日本人も、イギリス人と同様、排外主義のターゲットにされ、テロをされたり、攻撃されたりしていました。しかし日本は、極力自重して、反撃をしませんでした。日本人は、何とか中国と友好関係を築こうと、忍耐強く平和的解決を努力したのです。「幣原(しではら)外交」(幣原喜重郎外相)として知られる平和主義などです。  
ところが、中国人は暴君には慣れていましたが、平和主義には慣れておらず、それを理解しませんでした。中国人は、そんな弱腰な友好的態度をとろうとする日本は、何か弱みを持っているからだろうと考えたのです。西洋は強いが、日本は弱いと。  
また、日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べると、あまりに誠実でした。たとえば北清事件の際、西欧列強の軍隊が占領した地域では住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていました。しかし日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていました。  
日中戦争中も、飢饉や戦闘に巻き込まれて傷ついた中国の民間人を、日本軍は多数救済しています。救済された住民は日本に感謝しました。ところが、周囲の他の中国人は、そのような日本人の行動を理解せず、弱者にもやさしい日本人を侮り始めたのです。  
これには中国人の特質が関係しています。日本には、「弱きを助け、強きをくじく」という伝統的美徳があります。ところが中国にはそういった観念はありません。中国では、強者はつねに弱者を虐げる者なのです。強者は弱者を助ける、という観念はありません。  
中国ではいつも暴君が上に立ち、民衆はそれに支配され、搾取されてきました。民衆は五〇〇〇年間、抑圧されて生きることしか知りません。ですから中国人は、弱者を助ける日本人や、暴力を受けてもなかなか反撃しない日本人をみたとき、その行動を理解せず、それは日本人に「弱み」があるからだと考えたのです。  
中国の文豪・魯迅(一八八一〜一九三六年)は、中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だと嘆いています。たとえば呉越の戦いの物語に象徴されるように、相手の弱みをみると、それにつけこまなければ天罰が下るとさえ考える民族が、中国人なのです。黄文雄氏もこう述べています。  
「弱者にまで友好的な態度を取るとなれば、それはよほど無力であり、弱みがあるからだろうと解釈し、つけこんでくるのだ。これは有史以来、戦乱、飢饉の絶え間ない弱肉強食の世界で生きてきた中国人の生存本能がなせるわざだろう」  
このように中国人は、西洋は強いので逆らっても勝てないが、日本は弱いから逆らえるとみたとき、西欧に対する排外主義を引っ込め、反日主義にしぼりました。つまり日本人の中国人への同情とやさしさが、かえって日本人への侮りと、反日運動を増長させる結果となったのです。  
これは、日本人には理解できないことかもしれません。しかし、それほどに中国人と日本人は違うのです。  
中国人のこの性向は、今日も同じです。たとえば中国にとって、アメリカは昔も今も大きな敵です。しかし中国で反米主義は燃え上がりません。それは、アメリカには逆立ちしても勝てないからです。  
けれども、日本には逆らえます。日本人は自虐的で、おどせば、すぐ謝るからです。ですから日本人が自虐的になればなるほど、中国は加虐的になってきます。こうして中国は、政府主導で反日主義を今も燃え上がらせるのです。そして国内の不満を外に向け、民衆の不満のガス抜きをしているわけです。
混乱と死の大地だった中国  
さて、日中戦争(一九三七〜四五年)が始まった頃の中国とはどんな国だったかを、少しみてみましょう。  
当時の中国は、飢饉と内乱で毎年数百万人、ときには数千万人の犠牲者を出す、世界史上まれにみる混乱と死の大地でした。  
飢饉は毎回、数十万人から数百万人の犠牲者を出し、一千万人を越えることもしばしばであったのです。飢えた民衆が各地で人の肉や、自分の子どもの肉を食べたという話が、当時の資料に多く見受けられます。  
また当時の中国は、中華民国政府が誕生したとはいえ、それが全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していました。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」とののしりあい、内戦を繰り返していたのです。  
つまり、中国とは言っても国家の体をなしていなかったのです。また、内戦によっても、多くの民衆が犠牲になっていました。数百万、また数千万人の犠牲者を出すこともありました。ですから中国の人口は常に大きく変動していたのです。  
当時、中国の市場には、なんと人肉が売られていたほどです。人肉は、獣肉よりも安値でした。それは獣肉より人肉のほうが豊富に手に入ったからです。また男の肉は女の肉よりも安値で売られていました。  
中国の人肉食文化は唐の時代から記録がありますが、それが二〇世紀前半まで続いていたのです。これは、当時の中国がいかに凄惨な混乱と死の大地であったかを、如実に示しています。  
大多数の民衆は、日々を生きていくのがやっとであり、毛沢東に言わせれば「貧しくて無学無知」の人々でした。そうしたなか、人々の中に、他人が早く死ぬことを望む性格や、人の弱みを見ればとことんつけこむ民族性などが形成されていったのです。  
さて、孫文のつくった中華革命党は、のちに改組して中国国民党と称しました。その孫文の亡きあと、国民党を継いだのが、蒋介石でした。しかし蒋介石の国民党も、ひどい内戦を繰り返し、分裂していきます。  
蒋介石から分かれた人物に、汪兆銘(おうちょうめい)がいます。国民党内では、汪兆銘のほうが蒋介石より人望がありました。汪兆銘は当初は反日家でしたが、のちに中国の未来を考えて親日政権を樹立します。日本は汪兆銘の政権を支援しました。  
汪兆銘は、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていました。汪兆銘と蒋介石を比べるなら、汪兆銘のほうがはるかに中国民衆のことを考え、明確な信念で行動していたと言っていいでしょう。  
一方、蒋介石の行動をみるなら、彼は民衆のために信念で行動していたというより、むしろ自分が権力をにぎるためには何でもしたという印象を受けます。しかしそれが結局、中国を巨大な戦場と化していってしまうのです。
蒋介石の方向転換  
今も中国政府や、反日的日本人は、「日本の軍国主義が日中戦争を始めた」と言います。しかし日本には、もともと中国と戦争をする気など全くありませんでした。中国の蒋介石側もそうです。蒋介石も当初、日本と戦う気はありませんでした。  
では、なぜ日本と中国は戦争をしたのでしょうか。それは、日中戦争を待ち望んだ人々がいたからです。毛沢東の中国共産党です。  
彼ら共産軍は、蒋介石の国民党軍との内戦を戦っていましたが、追いつめられ、いまや風前の灯火となっていました。そこで起死回生の策として考え出されたのが、日本を中国の内戦に引き込み、日本と蒋介石の軍を戦わせることだったのです。  
先ほども述べたように、「夷をもって夷を制す」の考えは、中国人の伝統的な戦法なのです。共産党は「夷をもって夷を制す」の考えで、蒋介石の軍と日本軍を戦わせ、両者を消耗させることにより、自らの生き残りをはかったのです。  
それは次のように起きました。蒋介石は西安にいたとき、油断したのでしょう、不意をつかれたところを、ひそんでいた共産兵に捕らえられ、捕虜となってしまいます(西安事件)。  
蒋介石は、毛沢東の前に連れて来られます。毛沢東は蒋介石を目の前にして、殺してしまおうと思います。敵の大将がお縄になっているのですから、簡単に殺せたでしょう。ところが、そこにソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、毛沢東に指令が来ます。  
「蒋介石を殺さず、蒋介石と日本軍を戦わせよ」  
と。つまり蒋介石の国民党軍と、日本軍を戦わせることにより、両者の力をそぎ、その間に共産軍の力を回復せよとの指令です。また、そののち力をつけた共産軍が彼らを打ち負かして、中国全土を征服せよという計画です。毛沢東はこの指令に従います。  
まさに「夷をもって夷を制す」の考えです。毛沢東は蒋介石に、  
「命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え」  
といいました。すると蒋介石は、「それならば、共産軍も国民党軍と一緒に日本と戦え」といいます。こうして、いわゆる「国共合作」が実現したのです。  
蒋介石は結局、こうして命拾いしたわけですが、彼は自分の命と引き替えに共産軍の拡大を許したのです。また蒋介石が日本と戦うようになった背景には、アメリカの手引きもありました。アメリカの物資援助がなければ、蒋介石の軍隊は一歩も立ちゆかなかったからです。  
蒋介石が戦う相手を共産軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといってよいでしょう。なぜならば、そのために彼はのちに共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら台湾に渡らねばならないはめになったからです。  
また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとってきわめて不幸なことでした。国共合作といっても、実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは蒋介石のほうでした。共産軍は、蒋介石の国民党軍を利用したのです。国民党軍が日本と戦っている間に、共産軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去ったあとに、国民党軍を打ち負かすことになります。  
その結果、中国は近代的国家になるどころか、結局、全体主義的な共産主義国となってしまったのです。
共産軍の策略  
日中戦争、すなわち蒋介石の軍と日本軍の最初の交戦は、ある小さな出来事を通して始まりました。それは、共産兵が仕掛けた事件でした。  
当時、日本軍は中国の北京近郊や、満州に、今日でいう「平和維持軍」の形で駐留していました。もちろん、こうした駐兵は、平時においてはすべて国際条約に基づいた合法的なものです。決して「土足であがりこんだ」というようなものではありません。北京近郊での駐留も、北京議定書という法的根拠に基づいていました。  
今日もイラクや、アフガニスタンには、列強諸国の軍隊が平和維持軍として駐留していますが、それと同様の形です。当時の中国は、外国の平和維持軍の存在なしには治安を守れなかったのです。  
しかし、その駐留していた日本軍を中国の内戦に巻き込もうと、共産軍はある策略をめぐらしました。それが「蘆溝橋(ろこうきょう)事件」です(一九三七年)。蘆溝橋(北京市南西郊外)の北で夜間演習中の日本軍に、中国側からと思われる数発の銃弾が撃ち込まれたのです。しかし当時、日本は中国との紛争を避ける方針でしたから、それに応戦しませんでした。  
けれども、翌朝、再三にわたる銃撃を受けたため、ようやく付近にいる中国の国民党軍を攻撃しました。これが蘆溝橋事件のあらましですが、事件の引き金となった銃弾は共産兵が撃ち放ったもの、というのが今日の定説です。  
中国政府は「日本軍の攻撃」としていますが、そうではありません。事実、かつて共産党の劉少奇は、この事件を自分の工作実績の自慢話として語っていました。また共産軍は、事件の翌日、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しています。そして蒋介石に対日開戦を強く迫りました。また事件直後に、コミンテルンは中国共産党へ、  
「局地解決を避け、日中全面戦争に導け」「局地解決を行なう要人は抹殺しろ」  
との指令を出しています。それで共産軍は、現地の停戦協定が成立し、戦争が終わりそうになると、各地で日本人に対するテロを繰り返し、戦争を挑発しました。日本人二〇〇名以上が虐殺された事件も、そのときに起きています。  
しかしそれでも、日本は忍耐の限りを尽くしました。戦争の挑発になかなか乗らず、たとえば一九三八年から一九四一年の間に、一二回もの和平提案を行なっています。しかも、その条件は中国側に有利なものでした。中国に対する領土的要求も含まれていませんでした。  
けれども、やがて共産軍の陰謀は成功します。日本は蒋介石の国民党軍と全面的な戦争状態に入っていきました。日本はこうして「内戦のわな」に、はまっていったのです。  
日本軍と国民党軍との戦いは、実際にはほとんどの場合、日本軍が攻撃すると国民党軍が逃げるという形で進みました。国民党軍は、やがてどんどん弱体化し、重慶のあたりまで引き下がらざるを得ませんでした。一方、そのあいだに共産軍はどんどん力を回復し、日本軍の後方に広がることができたのです。  
やがて一九四五年、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏すると、日本は中国大陸から引き上げていきました。しかしその直後、共産軍と国民党軍の内戦が再び勃発しました。共産軍はまたたく間に国民党軍を破り、全土を制覇しました。  
こうして共産主義の中国が誕生したのです。つまり、日本軍を巧みに中国内戦に巻き込むことによって、共産軍は生き返り、自分たちの目的を果たしたのでした。  
この共産党の策略について如実に語っている出来事があります。一九六四年に、佐々木更三委員長を団長とする日本社会党訪中団が、毛沢東と会談し、「日本軍国主義の中国侵略」について「謝罪」しました。  
社会党というのは、「日本は中国で悪いことばかりしてきた」という歴史観を教え込まれた人々です。彼らが謝罪すると、毛沢東は言ったのです。  
「何も申し訳なく思うことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれた。皇軍(日本軍)なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった」  
そう言って「日本に感謝した」話は有名です。もちろん、これは本当の意味での「感謝」ではありません。共産党の謀略にまんまとひっかかった日本に対する一種の嘲笑の言葉なのです。  
毛沢東にしてみれば、日本軍が国民党軍を叩いてくれたからこそ、その間に共産軍が息を吹きかえし、全土を征服することができたからです。彼こそ、史上最悪の中国内戦によって「漁夫の利」(両者の争いに乗じて苦労せずに利益を横取りする)を得た者でした。  
このように、中国共産党を相手に「謝罪」することがいかに愚かなことか、もっと多くの日本人が知るべきでしょう。「日本は中国に迷惑をかけた」どころか、迷惑を受けたのは日本のほうなのです。
日中戦争の真実 

 

中国民衆を虫けらのように殺した中国軍  
中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。  
中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいます。  
たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。  
しかも、それだけでは終わりませんでした。この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、  
「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」  
と報じています。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。  
この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。  
堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。  
こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。  
中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。  
ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。  
日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。  
むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。  
つまり中国兵が中国兵を殺したのです。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。  
また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。  
日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。
本当の人民解放軍は日本軍だった  
また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。  
中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。  
つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。  
それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。  
一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約四〇%、また耕地面積の五四%に及びましたが、日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。  
日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。  
本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。  
日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。日本政府はすでに一九三八年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。  
それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。  
農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。  
日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに日中戦争のさなかから始めていたのです。それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。  
日本政府の推計によると、一九三八年から終戦の四五年までの日本の対中国投資の累計は、約四七億円にも達していました。当時の日本の国家予算は約二〇億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。  
これは戦争に使ったお金ではありません。中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していたときに、日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。  
中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。  
ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、そこに取り残されました(いわゆる中国残留孤児)。しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか、また日本軍が中国の民衆を助けたことを、よく知っていたので、日本人を助けてくれたのです。
ローマ法王は日本の行動を支持した  
もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。  
日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。  
ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、  
「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」  
といった内容の声明を出しています。  
この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、  
「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」  
と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。  
けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。
共栄圏をつくろうとした日本  
一九三七年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。  
日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。  
その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。  
だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。  
汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。その象徴が上海です。日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。  
ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。  
一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。  
もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。  
日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。  
それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです。  
また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。  
このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。  
しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。  
そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。  
日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。  
またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。  
以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、ある日本人は「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。  
「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください」  
中国人も、知っている人は知っているのです。
「南京大虐殺」はなかった  
今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を目的としたものであって、決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的です。  
日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。  
日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。  
日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。  
南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。  
司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。  
こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。  
中国は、かつて日本軍は南京で三〇万人の住民を虐殺したと、宣伝しています。しかし、これは中国共産党が流したでっち上げです。なぜなら、もし南京大虐殺があったなら、南京の安全地区にいた外国人は必ず、そのことを世界に発信したはずです。けれどもそのようなことはありませんでした。  
また、日本が南京に入る前にいた南京の人口は約二〇万人でした。これはいろいろな調査で一致している数字です。二〇万人の都市で、三〇万人を虐殺するのは不可能です。  
また、日本が南京を占領したあと、逃げていた市民たちが戻ってきて、一ヶ月後には人口二五万人になっています。これは南京学会が緻密に調査して出した、信頼できる数字です。また大虐殺が行なわれた都市に、住民が戻ってくるわけがありません。  
また南京大虐殺の「証拠写真」と言われるものも、今日ではすべて全く関係のない写真か、捏造によるものであることが、明らかになっています。東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』などに、詳しく書かれています。  
何年か前、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、英語で『ザ・レイプ・オブ・南京』という本を出し、アメリカでハードカバーで約五〇万部も売りました。これは日本軍が南京で三〇万人虐殺という蛮行を行なったと宣伝する本で、アメリカ人にウソをばらまいたものです。  
しかしそののち、彼女が書いたことや、そこに使った写真があまりにインチキであることが、多くの批判書によって明らかになりました。そうした中、彼女は二〇〇四年の暮れに、ピストル自殺しています。  
その理由として、『ロンドン・エコノミスト』はその記事の中で、彼女は自分が書いたことがあまりにインチキと批判されたため、それが「南京虐殺はなかった」と主張している人たちに有利に働いて、それを気に病んだのではないだろうかと推定しています。  
また、南京攻略の司令官だった松井石根大将には、こんなエピソードも残っています。南京攻略戦の最中、焼け跡から赤子の泣き声が聞こえてきました。彼は秘書の岡田尚に「捜して来い」と命じました。  
救助された赤子を、松井大将は温泉に入れ、毛布にくるむと、自分の目を細めて抱き上げました。彼は、松井の一字をとって松子と命名してかわいがり、ミルクを飲ませて育てました。南京の入城時には、岡田秘書がこの赤子を背負って入城しました。
満州は中国の領土ではない  
つぎに、満州のことをみてみましょう。朝鮮半島の北隣、現在の中国人が「中国東北部」と呼ぶ地です。  
満州というのは、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。清朝は満州族がつくった王朝であって、漢族は被支配民族だったのです。  
中国で「義和団の乱」(北清事変・一九〇〇年)が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、満州を不法に占領し、そこに居すわってしまいました。満州にロシアが居すわることは日本にとっても脅威でしたから、日本はロシアを追い出すために、日露戦争を戦います。  
日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。ジョンストン(満州国皇帝となった溥儀の家庭教師)の書いた『紫禁城の黄昏』には、日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが詳しく書かれています。  
日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得します。それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。  
しかし、満州は当時、盗賊の跋扈する無法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。そのため国際条約のもと、権益を守るために日本の「関東軍」がそこに駐留していました。今日でいう平和維持軍、守備軍です。  
この満州には、張作霖の一家が統治者として支配していました。関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとします。しかし張は、盗賊あがりの暴君で、満州の民衆にすさまじいばかりの搾取を行なっていました。盗賊がそのまま支配者となっていたのです。G・B・レーは、  
「張作霖一家が三千万民衆から搾取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも之に匹敵するものであった」  
と書いています。さらに張の親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、露骨な背信行為に出てきました。それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐します。  
これが満州事変です。これは日本軍の武力侵略の第一歩であると語られていますが、実際のところ当時、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は、大喝采を叫び、日本に感謝したのです。なぜなら張の軍閥政権は、  
「軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の七、八割は軍費に充てられ、商民の三割はついに破産した」  
と言われたほど、ひどい搾取を行なっていたからでした。  
当時の諸外国の反応も、日本の行動はやむを得なかったとしました。アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、張の行動は中国国民党政府が仕掛けたものであり、これは彼らが『自ら招いた』災いだ述べました。アメリカの新聞記者、ウォルター・リップマンも、  
「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」  
と記述しています。当時のイギリス陸軍の元師も、  
「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる」  
と述べました。  
さて、そののちこの満州の地に、日本の指導によって「満州国」がつくられました。満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥儀です。  
清朝が滅亡したとき、日本の公使観に溥儀が逃げてきたのです。清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。溥儀は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国をつくりたいと言いました。  
それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遺臣でした。日本はその建国を指導したわけです。満州国はまだひとり立ちできる状態ではありませんでしたから、日本はその建国をバックアップしました。  
中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の領土への侵略だった」と非難します。しかし実際のところ、かつて満州の地が中国の領土だったことは一度もありません。なぜなら、満州は万里の長城の外側(関外)の地なのです。  
かつて清朝打倒の革命運動を主導した孫文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。孫文にとって、満州は中国ではなかったからです。蒋介石も、  
「満州は中国の領土ではない」  
と公言していた時期があります。ところがその後、蒋介石の政府も、毛沢東の中国共産党も、満州の経済発展をみると一転して「満州は中国の領土だ」と言い出しました。しかし、まったく厚顔無恥と言わざるを得ません。満州が中国の領土である根拠など、どこにもないのです。  
人々の中には、  
「満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の領土ではないのか」  
というかたもいるかもしれません。しかし、たとえば元の時代に、中国はモンゴルに支配されました。では、モンゴルは中国の領土かというと、そうではないでしょう。  
また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。ではオランダは、インドネシアの領土かというと、そんなことは暴論ということになるでしょう。同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の領土ではないのです。
奇跡の国・満州国  
清朝が滅びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことでした。満州国は、わずか一三年間の王国でしたが、世界史上、奇跡の国でした。  
そこには建国以降、年間一〇〇万人を超える人々がなだれこみました。人々は中国内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのです。  
一九三二年の建国時に約三〇〇〇万人だった満州の人口は、終戦時の一九四五年には、四五〇〇万人以上にも増えていました。現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。もし今日の中国人がいうように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象はみられなかったはずです。  
満州国では「五族協和」をかかげていました。いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来ました。そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのです。しかし、  
「五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」  
という批判もあるでしょう。けれども、これは満州国がひとり立ちする時までは、やむを得ないことでした。なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。  
そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。そして実際、満州国には、様々な民族が年間一〇〇万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだのです。  
かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地は、満州国の建国によって全く生まれ変わりました。治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放されました。  
政府の財政も確立されました。貨幣の統一もわずか二年間で達成されました。満州の総面積は、現在の日本の領土の約三倍あります。日本人はその広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施しました。  
首都・新京は、じつに先進的な百万人都市として建設されました。路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用されました。また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する一大産業国家に変身しました。  
日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、風土病、伝染病を駆逐していきました。もちろん、まだまだ改革しなければならないものは残っていましたし、戦時経済のひっ迫した状況もありました。  
しかし全体的にみれば、そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護される平和郷であり、周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となっていたのです。  
もし日本が敗戦することなく、満州国が存続していたら、満州国は間違いなく、その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家となっていたでしょう。まさにアジアのアメリカ合衆国となっていたに違いありません。  
しかし日本の敗戦後、満州国は中国の一部(東北部)とされました。そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の九〇%を支え、中国の経済的基礎となりました。戦後の中国は、この満州国の遺産で食いつないだのです。
日本の道義的行動  
今までみてきたように、日中戦争とは、中国人からの度重なる戦争への挑発を受けた日本が、やむなく中国の内戦を平定するために乗り出していった行動でした。日本はその中国内戦に終止符を打ち、そこに、中国人による近代的国家をつくることを支援したいと考えていたのです。  
日本は中国を「侵略」したというより、同じアジアの同胞である中国の再生を願い、手を差し伸べたのです。日本の進出は、中国の国民党軍や共産軍からみれば「侵略」だったとしても、中国の民衆からみれば「救済」だったのです。  
日本の願いは、自立した近代的民主国家となった中国と共同して、この東アジアに、共存共栄の経済圏をつくり出すことでした。また共に、西欧やロシアによるアジア侵略に対する防波堤となることだったのです。  
それは、実際もう少しで可能だったでしょう。しかし、日米戦争で力をそがれた日本は、やがて敗戦を迎え、その願いも中途で挫折してしまいます。日中戦争において日本は決して負けてはいませんでした。ただ日米戦争で敗戦となったがゆえに、日本の努力は挫折したのです。  
それでも、日本がアジア各国に与えた独立心は、やがて育ち、実を結んでいきました。黄文雄氏はこう述べます。  
「大日本帝国は、八〇年にして人類史に計り知れない貢献を行ない、遺産をもたらした。負の遺産はほとんどない。『過去の一時期』に問題があるとすれば、それはただ日米戦争に負けたことだ」  
日本ほど、アジアの独立と繁栄のために貢献した国は、他にありません。日本がなければ、今日のアジアの独立と繁栄はなかったでしょう。  
その過程で、悪戦苦闘はありました。日本は中国において一番苦労しました。なぜこれほどまでに中国で苦労しなければならなかったのか。その一つに、日本人と中国人の気質の違いがあげられます。  
かつて日本の明治維新を成功させたのは、武士たちの力でした。彼らは「至誠」を美徳と考える人々で、「私」に仕えず「公」に仕える者でした。そして彼らは、維新が成功すると、士農工商の階級制度を廃止し、自分たちも刀を置き、町民となっていったのです。誰もが「国民」という平等の世界に、甘んじて身を投じていきました。  
一方、中国の革命家たちに共通するのは、すさまじいばかりの「保身」すなわち「生き残りの哲学」です。「夷をもって夷を制し」、他を蹴落として何としてでも自分が生き残る、という権力への強烈な願望です。これは五〇〇〇年間、ずっと戦乱の世に生きなければならなかった中国人の身にしみついた性質なのでしょう。  
このとき、自分が生き残るためには民衆の命さえも顧みません。中国の内戦では、おびただしい民間人が虐殺されました。民間人に対する略奪、強姦も至るところで行なわれ、彼らは人々から、軍隊というより「匪賊」と呼ばれていたほどです。  
これは、日本の武士たちの戦いの様子とは大きく違います。日本の戦国時代は、武士同士が戦ったものであり、民間人は殺しませんでした。あの関ヶ原の戦いでも、百姓たちは弁当をもって山の上から戦闘を見物していたほどです。  
しかし中国の内戦では、革命家は民間人の死体を山ほどつくるのが常でした。共産党の毛沢東は、日中戦争および戦後の文化大革命、その他を通し、中国人同胞を数千万人殺しました。蒋介石も、先に述べたように数多くの民間人を犠牲にしています。  
蒋介石といえば、戦後、連合国の会議において、列強による日本の分割統治に反対し、天皇制存続を訴え、また日本への賠償請求権を放棄するなどをしてくれた人です。そこには、西安事件以来、彼が不本意にも共産党の意向にそって日本軍と戦争をしたことに対する後悔もあったのかもしれません。  
賠償請求権を放棄してくれたことは、日本にとってありがたいことではありました。しかし、中国を焦土にしたのは日本軍ではなく、蒋介石であり、また毛沢東なのですから、日本に賠償請求する権利はもともと彼らにはないのです。  
また、日本は戦後台湾に莫大な資産をそのまま残し、蒋介石はそれを受け継ぎました。その結果、彼は賠償以上の莫大な富を手に入れているのです。  
蒋介石は戦後、共産軍に負けて台湾にのがれたとき、そこで「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治を行ない、多くの台湾人を犠牲にしました。このように中国では、伝統的に「誠」よりも「生き残り」が強く優先されたのです。
中国人の詐道  
この生き残りのためには、様々な策略が練られます。有名な孫子の『兵法』に、「兵は詐道なり」(兵の道はいかに人をだますかにある)とあります。黄文雄氏はまた、  
「日本人は『誠』の民族であり、中国人は『詐』(だますこと)の民族である』  
と述べています。戦乱がたえず、虐殺が日常茶飯事だった中国では、生き残るために「詐」つまり騙(だま)すこと、人を陥れることが何より必要な術とされたのです。奸智(かんち)にたける者だけが勝ち残る。袁世凱(えんせいがい)は、その奸智と裏切りの達人でした。毛沢東も奸智にたけ、日本軍を中国の内戦に引き込むことに成功しました。  
この奸智は、昔も今も中国人の気質として続いています。かつて新渡戸稲造は、中国人は「嘘をつくことを恥と思わぬ厚顔無恥な人々」だと嘆きました。ヨーロッパの大思想家カントやモンテスキューまでも、哲学や法学の大著の中で、「中国人は嘘つき」と説いています。  
残念ながら、それは今も変わりません。中国共産党は現在も、たとえば「日本軍による南京大虐殺」という厚顔無恥な嘘を叫び続けています。また、かつて自分たちが中国民間人に対して行なった殺戮を、すべて日本軍のしわざと叫び続けているのです。  
近代以降の中国では、むかし孔子や孟子が説いた道徳は力を失なっています。日本人がこれまで何となく抱き続けてきた「中国は道徳性の高い国」との観念は、幻想にすぎませんでした。  
もともと聖人の出る国というのは、乱れた国なのです。キリストがお生まれになったユダヤは、当時ローマ帝国の支配下にあって、圧制と暴虐が満ちていました。そこでキリストが敵への愛を説かれたのです。  
シャカが生まれたインドは、カースト制というひどい階級差別が存在し、そこでシャカは人間の平等を説きました。一方、中国は昔から騙し騙される社会であり、弱みをみればつけこむ社会であるので、孔子や孟子が現われて仁や義を説いたのです。  
乱れた国だからこそ、世界的な聖人が現われたのです。中国では、昔から家族倫理はあっても、公共倫理が希薄でした。今も、中国の指導者からして、国の内外に嘘をつくことを恥とも思っていません。中国では、  
「良心ある人は社会から疎外され孤立する」  
という諺が生きているほどです。  
ある日本人が中国に旅行に行ったときのことでした。町の商店に入ると、店員が、  
「だんな、うちの商品はみな本物です。他の店にはニセモノしか置いていませんよ」  
と言いました。そんな言葉を、どの商店に入っても言われる。こんな商売上の嘘ならまだしも、「南京大虐殺」といった政治的な嘘を声高に叫ぶのは、日本人としては本当に困ったものです。  
さらに中国政府は、中国共産党がいかに人民にやさしく、日本軍がいかに残虐だったかという彼らがいう「正しい歴史認識」――私たちからみれば嘘の歴史を国民に教えています。  
また中国の歴史教科書には、元の時代の中国が日本を侵略した「元寇」に関する記述すらありません。中国の教科書には、共産党を讃美する虚偽の歴史が書かれているだけです。  
中国は歴史の国です。とはいえ、中国の歴史は常に「勝てば官軍、負ければ賊軍」の観念で書き換えられてきました。支配した者はいつも自己の歴史を美化し、また負けた者には対しては「賊軍」の仕打ちを加えてきたのです。  
勝った者が善玉であり、負けた者は悪玉とされ、負けた者には徹底的な糾弾と懲らしめが加えられました。今日、中国の政治家が日本の政治家に対し居丈高なのでは、その伝統によるものです。  
もっとも、中国人のすべてがそうだということではありません。民間レベルでいうと、最近の中国の経済発展と共に中国人が海外の人々と接する機会や、海外の情報に接する機会も増えてきました。そして教養のある中国人も増え、それにともない、人格的に尊敬できる中国人も増えています。  
私自身、中国系アメリカ人や、中国系日本人の友人、中国に住む中国人の友人等がいますが、彼らは本当に尊敬できる人物です。彼らのような人々ばかりだったなら、どれほどいいでしょうか。けれども、残念なことに中国では、政治家や共産党員、また一般の商売人の中にはまだまだ、平気でウソをつく人々の多いのが実情です。  
クリスチャンも、こうした中国の実情に無知ではいられません。中国はいまも独裁国家であり、自由と人権の抑圧された国です。言論の自由も普通選挙もなく、経済発展はしているものの、体質的には前近代的な国家です。また、いまも台湾を武力統一する気持ちを持っており、その機会をねらっています。  
中国は今もアジアの不安定要因の一つです。私たちは、中国国内にいる多くのクリスチャンたちの思いに合わせ、中国とアジアのために今後も祈っていきましょう。  
 
日韓は未来志向の関係を構築できるのか

 

2015/6/21 に東京で開催される「第3回日韓未来対話」に先駆け、5/29 放送の言論スタジオでは、「日韓は未来志向の関係を構築できるのか」と題して、小倉紀蔵氏(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)、澤田克己氏(毎日新聞外信部副部長兼論説委員)、西野純也氏(慶應義塾大学 法学部政治学科 准教授)をゲストにお迎えして議論を行いました。
改善の傾向は見られるものの、2013年比ではまだまだ悪い日本人の国民感情  
工藤泰志 冒頭で、司会の工藤が、日本では4月9日から30日まで、韓国では4月17日から5月8日までの期間で実施した「第3回日韓共同世論調査」の結果について、説明しました。  
まず、「相手国に対する印象」では、日本では、「良い印象」を持っている人は、昨年の20.5%から23.8%になり、「良くない印象」は昨年の55.4%から52.4%になるなど前回からは上向きの傾向が見られた一方で、韓国では「良くない印象」が依然として7割を超える状況が続いていること、そして、その「良くない印象」を持つ理由としては、日本人では「歴史問題などで日本を批判し続けるから」が7割を超え、韓国人では、日本が「韓国を侵略した歴史について正しく反省していない」ということと、「竹島をめぐって領土対立がある」2つが大きな要因となっていることなどが紹介されました。  
この結果に対し、小倉氏は、日本人の「良くない印象」において、「韓国人の愛国的な行動や考え方が理解できないから」や、「韓国の政治指導者に好感を持っていないから」などが減少していることに着目した上で、「日本人に関しては、去年は韓国とはなんとひどい国なのだろう、理解できない、という気持ちがたくさんあったが、徐々に韓国人の考え方も分かってきたし、これはなかなか変わらない、ということも分かってきた。ということで、もう少し他の考え方もしてみようか、という反応なのだろう。それに対して、韓国側の認識の内実は変わっていない」と分析しました。  
西野氏は、「相手国に対する印象」に関して、「日本側では良い印象、悪い印象ともに改善しているように見えるが、数%の回復にすぎない。2013年の調査結果を見てみると、良い印象は31%で、悪い印象が37%であり、そこから比較するとまだまだ悪い」と指摘しました。  
澤田氏は西野氏の指摘に同意した上で、「2013年は、当時の李明博大統領が竹島に上陸してかなり日韓関係が悪くなっていた。その時よりも日本人の韓国に対する印象が悪いという背景には、やはり、朴政権に対する悪印象が大きく寄与しているのではないか」と述べました。
韓国のニュースメディアが日本人の認識に影響を与えている  
次に工藤は、「日韓関係の重要性」について、韓国では、87.4%と9割近くが、日本でも65.3%と7割近くが「重要である」と答えた一方で、日本では「重要ではない」が昨年から5%程度増加したり、中国との比較において、「日韓関係よりも日中関係の方が重要である」という日本人が10ポイント増加しているという結果を紹介しました。  
小倉氏は、日韓関係が「重要ではない」と考える日本人が増加したことに関して、「インターネットを見てみても、『韓国とは断交すべき』、『韓国など重要ではない』というような言説が見られる。そういう人は全体の10%ないし15%くらいだろうが、その発言力があまりにも強くなってきており、それが全体に影響を与えている」と見解を述べました。  
西野氏は、日韓関係の専門家の中でよく議論されることとして、朝鮮日報、中央日報、東亜日報など韓国のニュースメディアの問題点を指摘しました。西野氏は、「それらのメディアは、日本語のサイトを持っているが、そこの記事は、韓国内で議論されている、あまりにも日本に対して批判的な対日認識のような文脈のまま翻訳されて、掲載されている。それを読んだ日本人は、韓国に対して、『日本のことを全然きちんと理解していない』と不満や不快感が非常に高まってくる」と解説し、これが韓国に対する印象のみならず、日韓関係の重要性に対する認識にも影響を及ぼしているとの見方を示しました。  
澤田氏は、日本の中で、日韓関係よりも日中関係の方が重要だ、という認識が増加していることについて、「最近の外交関係を見ると、中国とは話はできる、と日本人は感じるようになってきた。その反面、朴大統領は取り付く島もなく、これはもうどうしようもない、というような認識になっているのではないか」と述べました。
「何となく」重要な日韓関係  
続いて、議論は「なぜ、日韓関係は重要なのか」ということに移りました。  
小倉氏は、「日本と韓国は植民地支配をした側とされた側、という関係の中で、非常に強い意志と努力の下、この50年の中で対等の関係を築こうとしてきた。そして、韓国が発展していく、ということに関して、日本はかなりお手伝いをしてきた。そういう植民地支配というものに対する何らかの清算というモデルを、世界の中で日韓が作ってきた、という意味で、重要性がある」と自らの見解を述べた上で、「韓国は日本の過去の清算について、『不十分だ』と言っているが、完全に不満というわけでもない。現在の韓国の発展に何らかの形で日本が寄与してきた、ということは認識しているために、9割近い韓国人が『日韓関係は重要である』と答えているのではないか」と述べました。  
西野氏は、「安全保障上の観点からいえば、日本にとっての韓国及び朝鮮半島の重要性というのは、地理的な位置からしても今も昔も重要である。戦後の韓国にとっても北朝鮮との対峙の中で安全保障上のパートナーとして日本の重要性は大きい。ただ、パートナーと言っても、まず米韓同盟というものがあり、アメリカを通じて日本とつながっているという構造である。一般の韓国人には必ずしもそのつながりが明確には見えていない。また、中国が台頭して、韓国にとっての重要性が高まり、尚且つ韓国から見れば日本の歴史認識が揺らいでいるように見えてきている中では、日韓関係の重要性というのが、韓国ではなかなか実感しにくくなっている」と述べた上で、「約9割の韓国人が日韓関係を『重要である』と回答しているのは、『何となく』という面もある。今年は日韓国交正常化50周年という節目だからこそ、政治指導者が、なぜお互いがお互いにとって重要なのか、ということについてもっと真摯に議論してもよいのではないか」と主張しました。
韓国人の認識形成は、まず「枠組み」を設定し、その中に事実を放り込んでいく  
続いて、工藤は、「相手国の社会・政治体制」をどう認識しているかという設問に対して、韓国では日本を、「軍国主義」や「覇権主義」とみる見方がこの1年間で急増したことなどの結果を紹介しました。  
これに対して、小倉氏はまず、韓国人特有の思考法として「枠組み」について言及し、「例えば、『日本人は軍国主義だ、覇権主義だ』という枠組みがあり、事実をその枠組みの中に放り込まれて処理される、という傾向が著しい」と指摘した上で、「だから、この枠組み自体を取っていくことが重要だが、この枠組みを設定しているのは主にマスコミと大統領府なので、なかなか難しい」と語りました。  
一方で、小倉氏は、日本側の韓国に対する認識で、「民主主義」が低いことについて、「日本は、欧米の民主主義をお手本と考え、それに合っていない国は民主主義国家ではない、と評価する傾向にある。しかし、民主主義は国家や社会によってやり方が異なるのだから、韓国のやり方にも学ぶ点を見出すような発想になることが大事だ」と主張しました。  
澤田氏は、小倉氏の「枠組み」という説明に対して同意しつつ、「メディアも青瓦台(大統領府)もこの対日認識の枠組みを修正しなければならない、という切実な思いを持っていない。修正しなければ、韓国の存立に関わるとか、韓国に何か大きな不幸が起こる、ということでもない。その枠組みを現実的なものに修正していくことになると、非常に大きな労力が必要になり、コストパフォーマンスを考えると、そんなことをやっても意味はない、という考えになってくるのだろう」と分析しました。  
西野氏は、日本において韓国を「民主主義」とみる見方が減少したことについては、産経新聞ソウル支局長基礎事件の影響が大きいと指摘しました。  
次に、韓国で日本を「軍国主義」や「覇権主義」が増加した背景には、昨年来の日本の安全保障政策の見直しが大きく影響していると述べました。  
西野氏は、「朴政権は中国を非常に重視し、協力関係を拡大している。しかし、日本の安全保障政策の見直しは中国を念頭に置いたものであり、こうした日本の動きが、韓国にとっては地域の不安定さを助長しているように見えている。さらに、日本がだんだん潜在的な脅威に見えてきてしまっている。それがこの世論調査の結果にも出ているのではないか」と解説しました。  
次に、工藤は安全保障関連の設問として、「日韓間で軍事紛争は起こるか」という設問に関して、日本では「起こらない」が65.3%だったのに対し、韓国では、「将来または数年以内に起こる」が4割近くいた、という結果を紹介しました。  
小倉氏は、この結果の背景も「枠組み」で説明できるとした上で、「日本は歴史を清算していないし、そもそも清算する能力もない国家だから、邪悪な攻撃を仕掛けて来る可能性がある、というような幻想的な論理で作られた枠組みがあり、その中に、日本に関する事実を放り込んでしまっているわけだから、これを変えるのはなかなか難しい」と述べました。続けて小倉氏は、「それでもやはり、我々は、日本は軍国主義でも覇権主義でもないのだ、ということを説いていくしかない。そして、韓国のメディアのアジェンダセッティングについても画期的に変えてもらわないと困る、というメッセージを強く打ち出していくしかない」と主張しました。  
澤田氏は、韓国人が軍事紛争を予測しているのは、日本が竹島に関して教科書や外交青書、防衛白書に「竹島は日本の固有の領土」と記述していること自体を、「すでに日本が実力行使をし始めてきていると解釈しているのではないか」と分析しました。その背景として、「朝鮮半島では古くからの社会意識として、言葉による言い争いと、刀を振るうような実際に力を行使することの間に明確な一線が引かれていない。したがって、まさに教科書に記載するだけでも『実力行使してきた』とみなしてしまうのではないか」と解説しました。
関係改善のためには新たな「枠組み」を設定するしかない  
次に、工藤は、日韓間で国民感情が悪化している現状に対して、日韓ともに7割程度の人が「この状況は望ましくない、心配している。あるいは問題であり、改善する必要がある」と考えていること、そして、その改善のための首脳会談の必要性については、両国で8割もの人が必要と考えているものの、その時期に関しては、「急ぐべきではない」と考えている人が多くいた、という結果を紹介しました。  
この結果を受けて澤田氏は、「例えば、慰安婦問題では特効薬も即効薬もない状況で話し合っても絶対にうまくいかないということは皆わかっている。関係改善すべきだとは思うが、自分たちが譲ってまで改善する必要があるのかというと、それほど切実な必要性はないため、首脳会談を急ぐべきではないという声が多いのだろう」と述べました。  
小倉氏は、「自国メディアは日韓関係に関して客観的で公平な報道をしているか」という別の調査結果で、韓国人の5割が「そう思わない」と回答していたことにも言及しながら、「これまで韓国人の認識は、政治指導者はメディアが設定し、提供する『枠組み』の中で形成されてきたが、この提供者たちを信頼できなくなってきている。日本の実態も、その枠組みを通して見た実態だから本当の実態そのものではない。2重にも3重にもフィルターが欠けられた直接性のないところで認識し、判断してしまっている。そうした何かもやもやとした、これではいけない、という感覚が、日本にも韓国にもある。特に、韓国側はそれが強いのではないか」と指摘しました。  
その上で小倉氏は、「日本が悪い、という枠組みから離れるためには、『日本だけが悪いのではない、日韓で共存すべきだ』というような新たな枠組みを韓国の誰か、とりわけメディアが新たに設定していくしかない」と主張しました。  
西野氏は、「安倍政権、朴政権下では本格的な首脳会談は無理だ、というのは我々専門家の間でもそういう見方が強い」とした上で、「ただ、首脳会談がなくても、それ以外のところで、関係を回復させる、あるいは、これ以上悪化させないように努力をしていく必要がある、という点については共有されてきているのではないか。とりわけ、韓国のメディアを見るとその意識は非常に強い。日中関係が進むにつれて『韓国は外交的に孤立してきたのではないか』という論調がかなりメディアにも見られてきた」と期待を寄せました。一方で、日本側のメディアに関しては、そこまでの危機意識はなく「やはり、中国との関係改善も進んでいるので、いずれ韓国もついてくるだろう、という見方がまだ支配的だ」との見方を示しました。
「これからの50年をどう作っていくのか」ということを共に考える  
最後に工藤は、日韓国交正常化50周年を迎えた今年、何をする必要があるのかと問いかけました。  
小倉氏は改めて、「日本と韓国は、植民地支配をした側とされた側で、これほど素晴らしい関係をこれまで築いてきた」と述べた上で、「そのことに関する自信が両国で完全に失われている。そのことが一番の問題だ」と指摘。「世界史的に見てもすごいことを我々は成し遂げてきたのだ、という自信があれば、領土や慰安婦の問題でごたごたしてもやはり前に進めていこう、という推進力が出てくる。我々は何よりも自信を回復する必要がある」と強く主張しました。  
澤田氏は、「日本にも韓国にも、1980年代、90年代にいたような、相手のことをよく分かっている人たちがあまりいなくなってきた。韓国社会特有の思考方法をしっかり理解している日本人は、政府も含めてあまりいない。韓国側もやはり、日本のことを分かっている人たちはすでに引退してしまって、新しい世代の人たちはそれほど日本のことを分かっていない。したがって、その分かっていない人たちに対して、自国のことを説明していかなければならない。そもそもどう説明していけばいいのか、ということもまだよく分かっていないので、そこから模索していかなければならない」と述べました。  
西野氏は、「韓国側が主張しているように1965年時に解決できなかった問題というのがあり、それが今日、様々な形で、懸案として浮かび上がってきている。これはこれで十分ケアして、注意して取り組んでいく必要がある」とした上で、「それ以外の部分ではこの50年間の日韓関係は成功してきた。日本側としては、韓国側にそういうところにももっと目を向けて欲しい、と働きかけていく必要がある。それから、この50年を振り返って、評価しながら、尚且つ、これからの50年をどう作っていくのか、ということを共に考える。そういう作業を今年からスタートしていくべきだ」と主張しました。  
これらの議論を受けて工藤は、「過去の問題もあるが、お互いになぜ相手が重要なのか、ということを考えながら、共に未来について率直に語り合うことが必要な段階に来ているの。今年はそういう議論をしきたい」と第3回日韓未来対話に向けた抱負を述べて、白熱した議論を締めくくりました。  
 
日韓共同世論調査結果 2015/5

 

1 相手国に対する印象  
1−1.日韓両国民の相手国に対する印象  
日本人の韓国に対する印象は、依然5割がマイナスの印象だが、わずかながら改善している。韓国人の日本に対する印象は悪化に歯止めがかかっていない。  
韓国に対する印象を、「良くない」(「どちらかといえば」を含む、以下同様)と回答した日本人は、52.4%(昨年54.4%)と、依然5割を超えているものの、昨年からはわずかに改善した。「良い」(「どちらかといえば」を含む、以下同様)も23.8%となり、昨年の20.5%より増加している。  
韓国人では、日本に対する印象を「良くない」と回答した人が、72.5%(昨年70.9%)となり、依然として7割が日本に対してマイナスの印象を持っている。「良い」と回答した人も、昨年の17.5%からさらに減少して15.7%となるなど、感情悪化に歯止めがかかっていない。  
※日本人の有識者では、「良い」の42.7%(昨年41.7%)と、「良くない」の43.2%(昨年44.2%)が、昨年同様拮抗している。韓国の有識者では、「良い」が昨年の51.7%から55.2%へと増加し、半数を超えて、「良くない」の36.4%(昨年36.8%)を大きく上回っている。  
1−2.相手国に対する印象の理由  
両国民ともに「歴史」と「領土対立」が相手国の印象に悪影響を及ぼしている。  
日本人が、韓国に対してマイナスの印象を持つ理由は、「歴史問題などで日本を批判し続けるから」が74.6%で昨年(73.9%)に引き続き7割台になっている。これに「領土対立」が36.5%と続いているが、昨年の41.9%からは減少した。  
他方、韓国人が日本にマイナスの印象を持つ理由は「韓国を侵略した歴史について正しく反省していないから」が74.0%と、昨年の76.8%よりはやや減少したが、依然として7割を超えて最も多い。「領土対立」も69.3%(昨年71.6%)で約7割となり、この2つの理由が他を圧倒している。  
それに対し、相手国に対してプラスの印象を持つ理由として、日本人は「韓国のドラマや音楽などへの関心」を挙げる人が51.7%で最も多いが、昨年の59.0%よりは減少した。これに対し、韓国人では、「日本人は親切で、真面目だから」が63.9%(昨年56.8%)と6割を超え、最も多かった。これに「生活レベルの高い先進国」が49.4%(昨年53.4%)が、続いている。日本が「同じ民主主義の国」であることを理由とする人はわずか8.9%で、昨年の14.8%から減少している。  
1−3.両国間の国民感情の現状に対する意識  
日韓両国民の約7割が悪化する国民感情の現状を「望ましくない」、「問題だ」と認識している。  
両国民間の国民感情が依然として悪い状況を、日本人の29.0%と3割近くが、「望ましくない状況であり、心配している」と考えている。さらに、「問題であり、改善する必要がある」は38.8%と4割近くもあり、この2つを合わせると約7割(67.8%)の日本人が国民感情の現状に対して問題意識を感じていることになる。これに対して韓国人も国民感情の現状を、「望ましくない状況であり、心配している」が26.4%、「問題であり、改善する必要がある」が40.8%となり、こちらも7割近く(67.2%)の人が問題視している。ただ、この状況を「当然」だと考える人は日本では1割に満たなかったが、韓国では28.1%と一定数存在している。  
※昨年は、相手国に対する印象が、「特に変化していない」「どちらかといえば悪くなった」「非常に悪くなった」と回答した人についてのみ、現状についての認識を尋ねた。
2 相手国に対する基礎的理解  
日本人の半数以上が現在の韓国を「民族主義」、韓国人の半数以上が現在の日本を「軍国主義」と認識している。  
「相手国の現在の社会・政治体制」について、韓国を「民族主義」と考えている日本人は、55.7%で最も多く、昨年の44.8%から約10ポイント増加している。次いで、「国家主義」と見る人が38.6%と、昨年の32.4%を上回った。韓国を「民主主義」と考える日本人は14.0%にすぎず、昨年の21.5%から大幅に減少した。  
これに対して、韓国人は、現在の日本を「軍国主義」と考える人が56.9%と、昨年の53.1%を上回り、最も多い。これに「資本主義」が38.9%(昨年35.2%)で続いている。また、日本を、「覇権主義」とみる韓国人は34.3%となり、昨年の26.8%を大幅に上回った。日本を「民主主義」の国と見る人は22.2%で昨年(24.9%)同様に2割程度である。  
日本人、韓国人ともに相手国を「平和主義」とみる見方はそれぞれ6.6%、4.2%と1割にも満たない。  
※日本の有識者で最も多いのは、世論と同様に「「民族主義」で、78.1%(昨年70.6%)と8割に迫っている。韓国の有識者で最も多いのは、「国家主義」の64.8%で、昨年の57.8%を上回った。これに「民族主義」(46.8%、昨年は53.5%)、「資本主義」(41.0%、昨年は34.0%)が続いている。
3 日韓関係の現在と将来に対する認識  
3−1.現在と今後の日韓関係をどう見ているか  
現在の日韓関係を「悪い」と考える人は、日本人の6割超、韓国人の8割近くに達している。今後の日韓関係に関して両国で関係改善への見通しも出始めている。  
現在の日韓関係について、「悪い」(「非常に」と「どちらかといえば」の合計、以下同様)と見る日本人は65.4%となり依然として高水準だが、昨年(73.8%)からはやや改善した。韓国人の場合は、「悪い」は78.3%で、昨年(77.8%)と同様に8割が現状の日韓関係を厳しいと見ている。  
今後の日韓関係の見通しについては、現状の厳しい日韓関係が「変わらない」と見ている人が、日本人で41.4%(昨年32.9%)、韓国人で45.9%(昨年38.1%)と最も多く、昨年よりも増えている。ただ、「良くなっていく(「どちらかといえば」を含む)」が、日本人では21.9%(昨年15.6%)、韓国人では19.0%(昨年13.8%)とそれぞれ昨年から増加しているほか、「悪くなっていく(「どちらかといえば」を含む)」と見る人も、日本人では12.1%(昨年22.7%)、韓国人でも28.4%(昨年39.4%)と昨年から大幅に減少しており、関係改善を見込む人が増え始めている。  
3−2.日韓関係の発展を妨げるものとは  
両国民はともに「竹島・独島問題」「従軍慰安婦問題」を日韓関係発展の障害と考えている。  
日韓関係の発展を妨げるものとして、日本人で最も多いのは、「竹島・独島問題」の62.0%だが、昨年の68.9%からは減少している。韓国人でも、この「竹島・独島問題」を88.3%(昨年92.2%)と9割近くの人が選択している。また、今年の調査から、「従軍慰安婦問題」を選択肢に加えたところ、日本人では58.0%、韓国人では63.5%と両国でそれぞれ、2番目に多い回答となった。  
※これに対して両国の有識者では異なる結果となった。日本の有識者では、「従軍慰安婦問題」(47.3%)が最も多く、これに「韓国の歴史認識と歴史教育」(34.1%)、「韓国メディアの反日的な報道」(33.0%)、「韓国国民の反日感情」(31.5%)が続いている。 韓国の有識者では、「日本の歴史認識と歴史教育」が66.8%と圧倒的に多い。  
3−3.日韓関係の重要性をどう見ているか  
日韓関係が「重要である」と考える日本人は6割を超え、韓国人では9割に迫っている  
日韓関係を「重要である」(「どちらかといえば」を含む)と考える日本人は65.3%と最も多く、昨年の60.0%を上回った。一方、韓国人では、87.4%(昨年73.4%)となり、9割近くになっている。これに対して、日韓関係が「重要ではない」(「どちらかといえば」を含む)と考える日本人は15.7%(昨年10.0%)、韓国人は9.1%(昨年6.7%)にすぎない。今回の結果には、「どちらともいえない」という選択肢を今回の調査で削除したことも影響しているが、特に韓国ではその層の大部分が、今年は「重要である」に移ったとみられる。  
3−4.中国と比較した場合の日韓関係の「重要性」と「親近感」  
韓国人は、「日本」よりも「中国」に親近感を覚え、韓中関係を「より重要」とみる人が多い。日本人でも日中関係を「より重要」と考える人が増加している。  
日韓関係の重要性を、日中、韓中関係との比較で答えてもらうと、日本人では「どちらも同程度に重要である」が49.1%(昨年47.0%)と半数近くになり、最も多い。韓国人も46.6%(昨年47.0%)と半数近くが「どちらも同程度に重要である」と回答している。ただ韓国では「韓中関係がより重要」が、44.8%(昨年43.8%)と4割を超えており、「どちらも同程度」に並んでいる。日本人でも、日中関係を「より重要」とみる人が昨年の15.6%から25.1%へと10ポイント近く増加している。  
また、韓国と中国でどちらにより親近感を感じるか、では、日本人の場合、「どちらにも親近感を覚えない」が34.5%(昨年31.8%)で最も多かった。昨年は「韓国により親近感を覚える」と回答する人が37.2%で最も多かったが、今年は31.0%に減少している。韓国人では、「中国により親近感を覚える」人が41.0%(昨年38.8%)で最も多く、4割を超えた。「日本により親近感を覚える」との回答は11.1%(昨年12.3%)しかない。
4 政府間外交と民間交流  
4−1.日韓首脳会談の必要性と議論テーマについて  
両国民ともに8割を超える人が日韓の首脳会談を必要だと考えているが、韓国では約7割が「急ぐ必要はない」と答えている。首脳会談で議論すべき課題については、日本では「広範な話し合い」が最も多いが、韓国では「歴史認識」と「領土」を重視する姿勢が強い。  
日韓首脳会談に関しては、両国民ともに合わせると8割を超える人が必要だと考えている。ただ、「急ぐ必要はない」が日本人では43.5%(昨年40.5%)、韓国人では69.9%(昨年72.4%)であり、それぞれ最も多かった。首脳会談で議論すべき課題について、日本人では、「両国の関係改善に向けた広範な話し合い」が45.3%で最も多く、昨年の35.6%を大きく上回った。これに対し、韓国人では、「歴史認識問題と従軍慰安婦問題」が77.7%(昨年76.3%)で最も多く、これに「独島問題」が69.6%(昨年70.3%)で続き、「歴史認識」と「領土」を重視する姿勢が強い。  
※これに対して、有識者では日本人の53.5%(昨年50.2%)、韓国人でも68.1%が「両国の関係改善に向けた広範な話し合い」を選択し、それが最も多い回答となっている。  
4−2.相手国首脳に対する印象  
両国民ともに相手国の首脳に対して「悪い印象」が最も多く、特に、韓国人の日本の首相への「悪い印象」は8割を超えている。  
韓国の首脳に対して「悪い印象」(「大変」と「どちらかといえば」の合計、以下同様)を持っている日本人は48.3%(昨年45.3%)と半数近くなり、最も多い。「良い印象」(「大変」と「どちらかといえば」の合計、以下同様)は5.2%(昨年7.0%)にすぎない。これに対して、韓国人では、日本の首脳に対して「悪い印象」を持っているのは80.5%と、昨年の75.9%を上回った。「良い印象」はわずか2.1%(昨年1.8%)である。  
4−3.相手国への訪問についての認識  
相手国に行きたい日本人は4割を超え、韓国人では6割に迫っている。  
韓国に「行きたい」という日本人は40.7%(昨年41.6%)、日本に「行きたい」という韓国人は59.2%(昨年60.9%)となり、日韓ともに相手国への訪問に対する興味は昨年と同様に高い。ただ、「行きたくない」という回答も、日本人の35.9%(昨年37.3%)、韓国人では31.0%(昨年30.9%)と3割程度存在している。
5 日韓両国の歴史問題に関する認識  
5−1.歴史問題に関する日韓両国民の認識  
日本には、歴史認識問題の解決を困難視する見方が最も多く、韓国では「歴史認識問題が解決しなければ、両国関係は発展しない」という歴史問題の解決を日韓関係の前提とする見方が最も多い。  
日韓関係と歴史問題の関係について、日本人では、「両国関係が発展しても、歴史認識問題を解決することは困難」が35.1%(昨年34.7%)と最も多く、「両国関係が発展するにつれ、歴史認識問題は徐々に解決する」と楽観視する見方は、19.3%と昨年(20.0%)と同様に2割程度にとどまっている。これに対して、韓国人では、「歴史認識問題が解決しなければ、両国関係は発展しない」と、歴史問題の解決を日韓関係の前提とする見方が、52.5%と半数を越え、昨年の41.1%を大きく上回った。「両国関係が発展しても、歴史認識問題を解決することは困難」という回答は24.8%(昨年30.6%)、「両国関係が発展するにつれ、歴史認識問題は徐々に解決する」という回答は20.9%(昨年23.3%)と、それぞれ2割程度ある。  
その歴史問題で解決すべきものとしては、日本人で最も多いのは、「韓国の反日教育や教科書の内容」が52.5%(昨年56.1%)で、これに「日本との歴史問題に対する韓国人の過剰な反日行動」が52.1%(昨年54.4%)で並んでいる。  
これに対して、韓国人では、「日本の歴史教科書問題」が76.0%と、昨年の81.9%よりは減少したが最も多い。これに「従軍慰安婦への補償」が69.8%(昨年71.6%)、「侵略戦争に対する日本の認識」が60.9%(昨年70.6%)、「日本人の過去の歴史に対する反省や謝罪の不足」が59.6%(昨年58.7%)で続いている。  
5−2.首相の靖国神社参拝問題  
首相の靖国神社参拝について、日本人の7割が容認しているが、韓国人の7割近くが、「公私ともに参拝すべきではない」と、反対している。  
首相の靖国神社参拝について日本人は、「参拝しても構わない」と容認する人が41.3%(昨年43.0%)と、昨年同様4割を超えている。これに「私人としての立場なら、参拝しても構わない」の29.1%(昨年24.9%)を合わせると、70.4%と7割を超える日本人が参拝を容認している。他方、韓国人では、64.6%(昨年66.5%)が、「公私ともに参拝すべきではない」と回答。「参拝しても構わない」はわずか3.3%(昨年3.1%)であり、「私人としての立場なら、参拝しても構わない」の22.4%(昨年21.8%)を合わせても容認は3割に満たない。
6 朝鮮半島の将来  
10年後の朝鮮半島の姿について、日韓両国で「現状のまま」との見方が増加している。  
10年後の朝鮮半島の姿について、日本人では、「現状のまま」が昨年の26.2%から42.1%へと大幅に増加し、「予想できない」の33.9%(昨年50.6%)を上回った。  
当事国である韓国でも、「現状のまま」が、35.0%で最も多く、昨年の23.2%から大幅に増加し、昨年、36.9%で最も多かった「予想できない」の26.3%を上回った。ただ「南北統一に向けた動きが始まる」と考える人も27.6%(昨年26.4%)と3割近く存在している。  
※日本の有識者では、「予想できない」が33.4%(昨年30.8%)で最も多いが、「南北統一に向けた動きが始まる」が27.8%(昨年30.3%)と3割近い。韓国の有識者では、「南北統一に向けた動きが始まる」が46.1%(昨年50.9%)で最も多い。
7日韓の経済関係  
日韓の経済関係に関しては両国ともに、相手国の経済発展は自国にもメリットである、という認識が最も多い。  
日韓間の経済関係について、「日本にとって韓国の経済発展はメリットであり、必要である」(「どちらかといえば」を含む、以下同様)との見方を持つ日本人は49.5%(昨年42.8%)と半数近くとなり、韓国の経済発展は日本にとってもメリットとの認識が増加している。  
韓国人でも、この「メリット」との見方が、46.6%(昨年43.3%)であり、「韓国にとって日本の経済発展は脅威である」(「どちらかといえば」を含む)との見方の37.0%(昨年37.5%)を上回った。
8 東アジアの軍事・安全保障  
韓国では「日本」を軍事的脅威とする見方が6割近くあり、さらに、日韓間の軍事紛争を予想する人が4割近くいる。  
日本人が、最大の軍事的脅威と見なしているのは、「北朝鮮」であり、71.6%(昨年 72.5%)で最も多かった。「中国」が64.3%で続いているが、昨年の71.4%からは減少した。韓国人が考える軍事的脅威は、「北朝鮮」の83.4%(昨年も83.4%)が最も多いが、それに続くのは「日本」の58.1%であり、昨年の46.3%から大幅に増加し、「中国」の36.8%(昨年39.6%)を引き離している。  
また、日韓間の軍事紛争の可能性について、日本人では「起こらないと思う」が、昨年の57.0%を上回り、今年は65.7%と6割を超えた。「数年以内に起こると思う」(0.7%、昨年は0.4%)と「将来的には起こると思う」(8.6%、昨年は8.8%)の2つを合計しても、軍事紛争を懸念する日本人は9.3%と、1割に満たない。一方、韓国でも「起こらないと思う」が48.2%(昨年47.9%)で最も多いが、「数年以内に起こると思う」(5.3%、昨年は6.7%)と、「将来的には起こると思う」(32.5%、昨年34.1%)の2つを合わせると、日本との軍事紛争を予想する人が37.8%と4割近く存在している。  
東アジア地域の領土問題の解決策について、日本人で最も多いのは、「国際司法裁判所に提訴して判断を仰ぐ」の38.8%で、これに「2か国間の対話で平和的解決を目指す」が21.5%で続いている。これに対して、韓国人では、「2か国間の対話で平和的解決を目指す」が33.4%で最も多いが、これに「国際司法裁判所に提訴して判断を仰ぐ」が25.0%で続いている。ただ、「実効支配を強め、他国の介入を阻止する」も17.9%存在する。  
※日本の有識者では、「領有権の判断を当面は棚上げし、2国間の友好・関係改善を優先する」が31.2%で最も多い。それに対して、韓国の有識者では、「実効支配を強め、他国の介入を阻止する」が37.1%と4割近くいる。
9 両国のメディアメディア報道・インターネット世論の評価  
9−1.自国のメディア報道は客観的で公平か  
日本では、「どちらともいえない/わからない」が最も多いが、韓国人の半数が、自国メディアが日韓関係に関して「客観的で公平な報道」をしていないと感じている。  
日本人では、日本のメディアが日韓関係の報道に関して「客観的で公平な報道をしているか」ということに関して、「どちらともいえない/わからない」が43.0%(昨年48.7%)と最も多く、「そう思う」の28.8%(昨年27.0%)と、「そう思わない」の28.2%(昨年24.2%)が同じ水準である。これに対して、韓国では、「そう思わない」が51.7%(昨年50.9%)と半数を超えており、「そう思う」は26.5%(昨年22.7%)と2割台にとどまっている。  
9−2.インターネット上の世論は適切な民意なのか  
日本人の4割、韓国人の半数が、「ネット世論は民意を適切に反映していない」と感じている。  
インターネット上の世論が民意を適切に反映しているのかについて、日本人では、「適切に反映してはいない」(「あまり」を含む、以下同様)が、昨年の34.1%から今年は42.9%へと増加し、「どちらともいえない/わからない」の45.3%(昨年54.0%)に並びかけている。「適切に反映していると思う」は11.5%(昨年11.7%)とわずか1割にとどまった。他方、韓国人では、「反映していない」が51.2%(昨年50.6%)と半数を超えている。ただ、「適切に反映している」も35.2%(昨年35.2%)と一定数存在している。
10 両国民の相互理解の背景  
10−1.日韓両国民の直接交流の度合い  
両国民ともに相手国への訪問経験は2割程度。日本人の7割以上、韓国人の8割以上が相手国民に知り合い、を持っていない。  
日本人のうち、韓国への訪問経験が「ある」と回答した人は26.0%(昨年22.5%)、韓国人も26.0%(昨年24.8%)にとどまり、両国ともに2割にすぎなかった。また、日本人では75.7%(昨年82.2%)、韓国人では88.2%(昨年87.2%)が「相手国の国民に知り合いはいない(いたことはない)」と回答しており、両国民ともに相手国との直接交流の度合いが極めて乏しい。  
10−2.相手国の情報への関心度や情報源  
相手国に関する情報は、両国民ともに9割以上が「自国のニュースメディア」から得ており、特に「テレビ」に依存している。  
両国民ともに相手国に関する情報源は9割以上(日本は94.3%、韓国は94.6%)が「自国のニュースメディア」と回答、とりわけ「テレビ」に依存している。その他の情報源として、「韓国のテレビドラマなど」を挙げた日本では18.1%と2割近く、韓国では58.1%と6割近く存在する。韓国ではそのほか、「家族、知人などの経験」を選ぶ人が44.0%いたほか、「韓国の有識者が行っている議論」が昨年の3.2%から23.5%へと20ポイント以上増加している。
11 オリンピック・パラリンピックと日韓関係  
2018年平昌、2020年東京の両オリンピック・パラリンピック大会が、日韓関係の進展に向けた大きな役割を果たすと考えている人は、日本人では41.6%と多かったが、韓国では逆に41.9%が、期待していない。  
韓国では2018年に平昌で、日本では2020年に東京でそれぞれオリンピック・パラリンピック大会が開かれる。そこで、今年の調査では、これらのスポーツイベントに関連した設問を新設した。まず、両オリンピック・パラリンピック大会を契機として、日韓が友好関係を深めることができると思うか尋ねたところ、日本人では、「そう思う」(「ややそう思う」を含む、以下同様)という回答が41.6%と4割を超え、「そう思わない」(「あまりそう思わない」を含む、以下同様)の34.8%を上回っている。  
対照的に、韓国人では、「そう思わない」が41.9%で、「そう思う」の33.8%を上回っており、両オリンピック・パラリンピック大会が日韓関係進展に向けた大きな役割を果たすとは考えていない人の方が多い。  
次に、両パラリンピック大会が、高齢者や障害を持つ人に対する一般的な理解や認識を深める契機となるかを尋ねた。  
これに対し、日本人では「そう思う」が57.4%と5割を超えている。韓国人でも53.4%と、5割を超え、ここでは両国で肯定的な評価が見られる。  
最後に、両パラリンピック大会に向けて、日韓両国がどのような対話や交流、協力をしていくべきか、に関しては、日本人では、「障がい者の社会参画に関する対話や交流」(53.0%)と、「障がい者スポーツの振興に向けた協力」(50.3%)の2つが半数を超えた。  
韓国人では、「障がい者の社会参画に関する対話や交流」の45.5%が最も多く、それに「障がい者スポーツの振興に向けた協力」が33.7%で続いている。  
 
韓国人は歴史を学べ

 

「論理的に自爆した」テロリスト  
――ケント・ギルバートさんは最近、戦後日本の在り方についてのみならず、日韓関係についてもさまざまな意見を述べられており、各方面で大きな反響を呼んでいます。そもそも、このような問題に関心を抱かれた理由を教えていただけますか。  
私はもう日本に40年近く住んでいますが、この国には本当に素晴らしいところがたくさんあります。それなのに、70年も前の戦争の記憶がいまだに日本人の行動や考え方を縛り付けていると感じたんですね。自分なりにいろいろと調べてみると、じつは戦後占領期にGHQが検閲などを通じて日本人に施した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」というマインドコントロールが、いまも解けておらず、それがさまざまな分野に悪影響を与えている元凶であることがわかりました。日本は早く目覚めなければならないのに、一方で、その状態を利用して、近隣諸国が好き放題にやっている。とくに韓国の論理はメチャクチャで、幼稚なのに、日本はやられっ放しという姿をみて、「いい加減にしろ、あなたたちに何をいう権利があるのだ」と思いました。  
――メチャクチャといえば、今年3月5日、ソウル市内で開催された朝食会に出席していたマーク・リッパート駐韓米大使が、突然男に刃物で襲われるという事件が発生しました。  
今回の事件は完全にテロ行為であり、外国要人暗殺未遂事件です。犯人は、韓国による竹島の領有権を叫び、在韓米軍の軍事演習に反発する金基宗という前科六犯の男です。この男は過去に駐韓日本大使に投石するなど曰く付きの人物で、韓国治安当局のあいだでも顔と名前を知られた有名人でした。そんな要注意人物の侵入と凶行を、現地の警察は阻止できなかったのです。  
――アメリカ人は今回の事件をどのように見たのでしょうか。  
私の周辺のアメリカ人は、このニュースを聞いて「いったい、セキュリティはどうなっていたんだ!」と驚き、怒り、最後は呆れ返っていましたが、つまるところ、これが韓国政府の「実力」なのです。実際、アメリカ人の多くはこの事件をみて、韓国がまだまだ国家として、まともな治安維持能力さえもたないことを痛感し、金容疑者の思惑とは裏腹に、「韓国はまだ一人前ではない」「在韓米軍はやはり必要だ」と考えたのです。一人の危険人物さえ阻止できない韓国から米軍が撤退すれば、翌日にも北朝鮮軍が攻め込んできて、首都ソウルは数時間以内に陥落するでしょう。  
――金容疑者はかつて、日本大使への襲撃を試み、日本人女性職員を負傷させる事件を引き起こしました。  
日本大使襲撃事件の際、韓国の反日メディアはこぞって金容疑者のテロ行為を「英雄的である」と報じたそうです。結局、金容疑者に対しては執行猶予付きの判決しか下りず、のちに本まで出版する人気者になった。韓国はメディアや世論だけでなく、司法までもが未熟です。欧米や日本などの先進国では、他国の要人を暴力で襲撃した人物を英雄視するなど考えられません。法治国家の根底を覆す重大な違法行為を称賛しますか? 韓国人がもっとも尊敬する歴史上の人物の1人は、ハルビン駅で伊藤博文を暗殺したテロリストの安重根ですが、このこと1つ取っても、韓国はテロリストを礼賛する国だと思われても仕方ありません。  
――安重根という人物は、いまの韓国人が信じているような、たんなる抗日運動家ではありませんよね。  
韓国人は安重根を理解していません。安が殺害した伊藤博文は、日韓併合にきわめて慎重でした。だから、安が伊藤を殺したことで日韓併合は一気に加速しました。駐韓米大使を襲った金容疑者と同様、自らの短絡的な行動によって、自分が最も望まない結果を導いてしまった。「論理的に自爆した」という意味において、これら2人のテロリストには大きな共通点があるといえます。これこそ本物の「自爆テロ」ですね。  
――安重根は、じつは刑務所の日本人看守や日本国内の一部民族主義者らから支持されていました。  
そもそも安重根は明治天皇に対して大きな敬意を抱いていました。そんな安が伊藤博文を襲ったのは、「伊藤が天皇陛下の意思に反した政治を行なう大逆賊である」と考えたことが最大の理由です。また、安が日本人の看守や、一部の民族主義者のあいだで支持された理由は、安自身が欧米列強の有色人種に対する帝国主義的植民地支配に異議を唱えていたという点にもあります。天皇に敬意を示し、欧米の植民地にされたアジアを解放しなければならないとする安重根の思想は、やがて日本が提起することになった「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」の思想と同じです。つまり、安重根を英雄として奉ることは、いまの韓国人が忌み嫌っているはずの、戦前の日本の政治思想をそのまま敬っていることにほかなりません。歴史を知らない韓国人は、ここでもまた論理的に自爆しているのです。歴史的ファクトを無視すると、必ずこういう自己矛盾が生じることになります。韓国人がしっかりと歴史を学ぶことができないのは、ある意味で仕方ないともいえます。なぜなら、彼らは「漢字が読めない」からです。戦後、日本統治時代の業績をすべて否定するという韓国ナショナリズムが盛り上がった結果、韓国政府は漢字の使用を廃止し、ハングル文字のみの使用を推進しました。その結果、今日ほとんどの韓国人が漢字を理解できなくなりました。一方、李氏朝鮮第4代国王の世宗が導入したハングル文字は、長いあいだ、漢文を読みこなす教養のない女子供が使う文字として蔑まれていました。国として教育や使用を禁じた時代もあります。いまとは真逆の状況です。  
――歴史的に軽んじられていたハングル文字を朝鮮全般に広めたのは、皮肉にも統治時代の日本ですが、現在、ハングル文字は「朝鮮民族の誇り」になっています。  
日韓併合に際して、日本政府は一般朝鮮人の教養レベルのあまりの低さに驚きます。そこで、朝鮮人の識字率向上のために各地で新たに学校を建設しました(20世紀初頭の小学校は40校程度→40年ほどで1000校以上増加)。小学校では、日本語のみならず、ハングル文字を普及させ、数学や歴史(朝鮮史を含む)まで子供たちに教えたのです。そんな努力の結果が今日のハングル文字の民族的普及に繋がりました。私は、19歳から最初はローマ字で日本語の学習を開始して、ひらがな、カタカナ、漢字と学びました。そんな私が間違いなくいえるのは、日本語の「漢字かな(+カタカナ)交じり文」は合理的な上に素早く読めて、しかも表現の自由度が高いということです。ですから「漢字ハングル交じり文」は片方の文字種の単独使用よりも確実に優れた表記法だと思います。読書速度や学習効果にも差が出るはずです。やめたのはじつにもったいない。
武士と両班は真逆  
――明治維新を経て欧米列強の力に触れた日本人は、欧米的な政治や社会の概念を日本語(漢字)に翻訳した結果、多くの「造語」が生まれました。その造語が日本から中国、韓国に流れていった結果、向こうの人たちは初めて欧米文明を理解し始め、近代化に成功しました。  
民主主義や自由、共和制、交通、情報、経済、銀行などの言葉は、すべて日本人の発明です。日本人がいなければ「中華人民共和国」や「朝鮮民主主義人民共和国」という国名はありませんでした。長いあいだ、旧態依然とした時代遅れの「中華思想」のなかで呑気に生きていた韓国・中国人は、日本人が必死になって努力したおかげで今日の近代的な生活を享受しているのです。そのことを忘れるなといいたい。私が最も指摘したい日本の業績の1つは、朝鮮半島において、李氏朝鮮時代から厳しい階級格差と差別に何百年間も苦しんでいた人びとの「身分解放」を日本政府が行なった事実です。日本は韓国人のために、本当に正しく立派なことをしたと思います。  
――朝鮮半島での「身分解放」は日本でもほとんど語られていませんね。かつての朝鮮人は、両班という階級を頂点とした「良民」と、奴婢や白丁、僧侶などの「賤民」に分けられていました。  
両班階級は、汗をかくような労働を嫌悪し、「箸と本より重いものは持たない」ことを誇りにしました。自分より下層の者を徹底的にいじめ、金品を差し出させ、いうことを聞かなければ自宅に連れ帰って拷問しても、罪に問われない特権を何百年も維持したそうです。一方、上の階級から非人間的な仕打ちを受けていた賤民階級は、住居や職業、結婚などで激しい差別を受け奴隷として市場で人身売買され、白丁に至っては人間とすら認められていなかった。当然、文字など読めません。もちろん、日本も過去に階級差別はありましたが、日本は中世以降、事実上の統治者となった武士階級は、兵士であると同時に、有能な官僚でした。さらに江戸時代になると、「武士は食わねど高楊枝」で言い表される「清貧」と「誇り」を維持する日本の武士は、庶民の期待と憧れを一身に受けました。だから『忠臣蔵』などの歌舞伎の演目が人気だったのです。同じ支配者層でも、庶民の恨みと憎悪の対象だった朝鮮の両班とは真逆です。武士の起源は、天皇を頂点とする朝廷の警護役です。じつは将軍、貴族、農民などの身分や、年齢にもいっさい関係なく、日本人は全員が天皇の下にいる臣民です。朝鮮や中国大陸だけでなく欧米でも当たり前だった奴隷売買の習慣が日本にだけなかった理由はそこにあると思います。両班を頂点とする当時の朝鮮の激しい身分差別と、悪しき因襲は、誇り高き武士道精神をもった元下級武士らがリーダーとなり、明治天皇の下で文明開化を実現してきた当時の日本人にはとても受け入れ難く、朝鮮半島近代化の最大の足かせになることは明白でした。このため日本政府は劇的な「身分解放」を行なったのです。  
――「身分解放」は韓国近代化の第一歩となったということですね。  
朝鮮人を厳しい階級差別から解放した日本は、若者たちを教育するため、学問の機会を広く提供しました。おかげで、白丁の子弟でも学校に行けるようになりました。日本の朝鮮半島政策が、搾取目的の「植民地化」ではなく、自国の一部として迎え入れる「併合」だった事実がわかります。奴隷に勉強は教えません。日本政府による朝鮮人の「身分解放」は、1863年にリンカーン大統領が行なった「奴隷解放宣言」に匹敵する先進的な政策であり、これが韓国近代化の第一歩だったことは疑う余地のない歴史的ファクトです。今日の韓国人はこの点だけでも、日本に大恩があるはずですが、それに対する感謝の言葉は聞いたことがありません。
韓国人は永遠の「中二病」  
――日本政府は、日本国民から集めた血税の多くを朝鮮半島に注ぎ込み、そこで上下水道や電気、道路や鉄道などの近代的なインフラを導入しました。  
現在でも、北朝鮮には水豊ダムという巨大なダムがありますが、これもまた、日本政府が最新の土木工学技術と労力を投入して建設したものです。その予算たるや、当時としては莫大なものだったはずです。  
――当時日本政府が構想していた東京と下関を結ぶ「新幹線計画(弾丸列車)」に匹敵する額でした。  
それだけでも当時の日本が朝鮮半島の近代化にどれだけ尽くしたのかよくわかりますね。水豊ダムは、水量や発電規模も、そうとう大きかったと記憶しています。  
――資料によると、琵琶湖の約半分に及ぶ湛水面積を有し、完成した1944年当時としては、発電規模において世界最大級を誇りました。構造自体も要塞のように堅固だったようです。  
じつは朝鮮戦争中、アメリカ軍はこのダムと「喧嘩」をしているのです。当時アメリカ軍は、北朝鮮に対する電力供給を遮断する作戦を行なっていましたが、その攻撃目標の一つがこの水豊ダムでした。アメリカ空軍は何度もダムを空爆し、最後には大型の魚雷を何本も撃ち込みましたが、それでもダムが決壊することはなかった。その後もほとんど改修を加えられることなく、今日もなお当時と変わらず発電を継続し、北朝鮮最大の電力源の一つとなっています。メイド・イン・ジャパンの底力は、当時から健在だったのです。このように朝鮮半島の発展のために努力した日本を、いまの韓国政府とマスコミ、そして真実の歴史を調べもしない多くの韓国人が口汚く罵っている。まさに「恩知らず」であり、永遠の「中二病」みたいです。世界各国でささやかれる「芳しくない評価」も理解できます。ちなみに外国人による日本人の評価は、「正直」「誠実」「親切」「勤勉」「冷静」「寛容」「トラブルを起こさない」などですが、韓国人は見事にこの真逆です。知り合いの外国人は、知れば知るほど韓国から気持ちが離れていきますが、私のようにどんどん日本が離れ難くなる外国人は多いです。正義感は強いが感情的にならず、穏やかに国を運営していく日本人の平和的な態度は嫉妬されないかぎり好感をもたれます。
半島国家の悲しきサバイバル術  
――戦後に成立した大韓民国では、「日本憎し」のあまり、ありもしない歴史が教えられています。日本政府が今年の4月6日、中学校で使われるすべての社会科教科書に竹島領有権の主張を含めたことに対し、韓国政府は「日本政府は、韓国固有の領土である独島(ドクト)について不当な主張を強化し、歴史的事実を歪曲している」などと強く反発し、日本側に抗議しました。  
日本政府の提案で教科書問題を2カ国間で話し合えばいい。「韓国側の教科書と根拠資料をすべて出してください。日本側も出します。内容が妥当かどうか話し合いましょう」と呼び掛けるのです。2002〜10年まで二度にわたり行なわれた日韓歴史共同研究は残念ながら非公開でした。次は公開でやりましょう。  
――なぜ韓国の歴史認識がここまで歪んでしまったのでしょうか。  
韓国は戦後一貫して自国を「戦勝国の一員」だと主張し、「連合国側だった」と自己洗脳する努力を重ねてきました。しかし1945年の大東亜戦争終結まで、朝鮮半島は「日本領土」でした。これは歴史的ファクトです。いま韓国人と呼ばれる人たちの先祖は「日本人」として連合国と戦い、敗戦の日を迎えました。戦後に建国された大韓民国の国民ではなかったのです。存在しなかった国がどうして「戦勝国」になれますか。戦時賠償の件も同じです。いまになって韓国は慰安婦問題などで日本政府に対する個人補償を求めていますが、もともと日本は個人補償をするつもりでした。1965年に日韓基本条約を結ぶとき、かつての朝鮮人の軍人や軍属、役人らの未払い給与や恩給などに対する補償を求めた韓国政府に対して、日本政府は、「韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行なう」と提案しました。日本は、韓国政府の提出資料を個別に検討し、個人に対する補償として支払うべきは支払って、将来の友好関係へ繋げようとしたのです。日本政府の対応は、法律に適合した真摯なものでした。しかし韓国政府は日本の提案を拒絶しました。彼らの主張は、「個人への補償は韓国政府が行なう」ので、それらの補償金は「一括で韓国政府に支払ってほしい」というものでした。日本政府は相手の要求に従い、「独立祝賀金」という名目で、無償3億ドル、有償2億ドル、そして民間借款3億ドルの供与と融資を行なったのです。  
――日本が支払った金は、当時の韓国政府の国家予算の2倍以上だったといわれています。  
法律論でいえば、日本は韓国に対して、オランダがインドネシアに対して行なったように、過去に投じたインフラ整備費用を請求できましたが、当時の日本政府は請求権をすべて放棄したのです。日本は日韓基本条約において、当時の韓国政府の国家予算の2倍以上の金を支払ったばかりか、莫大な金を投じて朝鮮半島に整備した近代的インフラなどをすべて無償で贈与し、韓国の以後の飛躍的な発展を大いに助けたのです。そればかりではありません。日本は日韓基本条約後も、韓国政府に大金を支払い続けています。1997年に発生した韓国通貨危機や、2006年のウォン高騰に対する経済支援、そして08年のリーマン・ショック後の混乱を軽減するための支援など、日本は毎回韓国に兆単位の資金を提供し続けてきました。02年の日韓ワールドカップのときはスタジアム建設費用も提供しています。にもかかわらず、これまでに韓国に貸し付けたお金は、まだ一部しか返還されていませんし、日本人が本当に苦しんだ東日本大震災のあとには、サッカーの試合で「日本の大地震をお祝いします」という横断幕を掲げた韓国人サポーターまで出る始末です。  
――実際に韓国では日本に降りかかった不幸を喜ぶ声が多かったようですね。  
強い者には媚を売る事大主義。強い相手が複数だと二股三股。弱いとみた相手からは「ゆすり」「たかり」で金を巻き上げ、罵詈雑言を浴びせ、酷い仕打ちをする。それが伝統的な「両班」の精神です。大国に翻弄され続けた半島国家が身に付けた悲しきサバイバル術かもしれませんが、政府や国民が両班のような対応をしていたら、国際社会で評価や尊敬をされるはずがありません。良識ある韓国人は、声を上げるべきです。
漢字の勉強をやり直せ  
――日本は正式に韓国や中国に謝罪していないと思っている欧米人も多いようです。  
先日、ジャーナリストの櫻井よしこさんの番組に出演した際に、「日本は合計で約60回も謝罪している」と櫻井さんがいわれたので、「もう謝罪しなくていいですよ」と答えました。謝罪するたびに金を要求される悪徳商法にいつまで付き合うつもりですか。韓国人に対しては、ひたすら歴史的なファクトを出すだけでいい。謝罪はもう何度もしたし、日本国の見解はこれまでの謝罪で十分示せました。謝れば謝るほど、「もっと謝れ」「もっと金出せ」といわれるだけです。  
――今年は戦後70年です。忍耐強い日本人も、「そろそろいい加減にしろよ」という具合になってきました。  
日本人は忍耐強いですが、じつは戦いはもっと強い。いったん怒ると、一刀両断で一気にカタを付けるか、相討ち覚悟で徹底的にやる。高倉健さんが主演する任侠映画と同じです。ナメた態度で挑発して怒らせたほうが絶対に悪いんです。だから、誰か韓国人に教えたほうがいい。「いい加減にしないと、死ぬほど痛い目に遭うよ」と。とにかく韓国人は、戦時中の慰安婦問題や日本軍の蛮行なるものを持ち出して日本の過去を責める権利も資格もいっさいありません。彼ら自身がかつて「日本人」であったという事実もさることながら、当時慰安婦を管理した大半は朝鮮人経営者でしたし、違法に若い娘たちを売り飛ばしていたのも朝鮮人でした。そんな悪い連中を、日本政府は取り締まる側でした。一方で、大韓民国の独立後、外貨を稼ぐために在韓米軍を対象にした慰安所を多く整備したのは、韓国政府です。それをやったのは、現大統領(朴槿惠)のお父上である朴正熙です。朴槿惠大統領は、日本にとやかくいう前に、まずは自分の父親の行為を糾弾すべきです。さらに、韓国軍はベトナム戦争で、韓国兵専用の慰安所を運営していましたし、ベトナムの民間人に対し、目を覆いたくなるような残虐行為を数多く働いています。ベトナム人女性をレイプした韓国兵が異常なほど多かったのに、その事実に対してまともに向き合っていません。  
――アメリカでは慰安婦像の設置が行なわれていますが、これも強い者や先生に「いいつけてやる」という事大主義の精神ですね。  
アメリカに住む韓国人は、もう収拾がつかなくなっています。慰安婦像の設置は、人種や宗教、国籍による差別を禁じたアメリカの公民権法違反の疑いがありますよ。ただ、大半のアメリカ人は日本人と韓国人の区別さえついていませんし、歴史問題などまったくわかっていません。慰安婦問題の認知度は10%程度だそうです。オバマ大統領もちゃんと理解していないと思います。面倒くさいけど、日本はアメリカに対してはっきり説明していかないといけない。私は何度もいっていますが、誤報問題を引き起こした『朝日新聞』は、見開きで『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』『ロサンゼルス・タイムズ』などに、自分たちの過ちを広告掲載すべきです。その上で、載せてくれないでしょうが、韓国の新聞にも掲載すれば、わかる人にはちゃんと伝わります。韓国にも、日本のことを理解して、敬意を抱く立派な人はいるはずです。日本も、そういった意識の高い親日派韓国人の味方になってあげて、何か支援ができればいいですね。  
――レベルの低い感情的な言い掛かりに対しては、まさにファクトを提示し、しっかりと議論で返すことが必要ですね。  
「韓国人こそ歴史を学べ」の一言に尽きるのですが、そのためには、ハングル文字だけの現代の資料では歴史的ファクトを見詰め直すことができません。要するに、漢字の勉強を一からやり直してもらいたい。韓国はそれだけで間違いなく国力が上がります。ちなみに私が漢字を学び始めたのは20歳ごろです。「自分たちのご先祖様が書いたものを自分の力でちゃんと読んでみろ」といいたい。議論はそれからですよ。本当は放っておくのが一番です。日本は韓国と国交がなくなってもじつは何も困らない。日本に見捨てられたら生きていけないのは韓国のほうですが、引っ越し不能な隣人だからまったく付き合わないわけにもいきません。一方、日本人の皆さんには、沈黙せずにはっきりと論理的に主張してほしいと思います。ただし、その反論の姿勢はあくまでも冷静かつ紳士的であるべきです。  
――品性を欠けば、たんなる罵り合いになり、みっともないですからね。  
いろんなブログのコメントを見ていると、韓国人は酷い言葉を使って相手を罵るのが得意です。そんな韓国人に向かって、日本人が同じレベルに堕ちて、汚い言葉で感情的に罵れば、外国人の大半は、「ああ、日本も韓国もどっちもどっちだな」と思うでしょう。とくに、一部のヘイトスピーチや、問題があると何でも「在日」のせいにする風潮などは、見ていて情けないし残念です。日本人には、そのような低い土俵に下りてほしくないし、下りる必要がない。その点には注意しつつ、韓国からの言い掛かりに対しては、歴史的ファクトを示し、大いに反撃してほしいと思っています。  
 
日本人が学ぶべき「正しい歴史認識」

 

お説通り歴史を正しく学ぼうではありませんか  
年初にも書きましたが、昨年末の安倍晋三首相の靖国神社参拝をみて、中国・韓国が案の定、過敏に反応し、その後も「正しい歴史認識を」の決まり文句を唱え続け、日本の多くのマスコミも中韓の顔色をうかがうかのような腰の引けた報道を繰り返しています。  
中韓はともかく、同胞の「歴史認識不足」はため息が出るばかりですが、この際、中韓が要求するよう、全日本人が「正しい歴史」を学び直すべきでしょう。そうすれば、中韓は逆に困ったことになること必至だとここで断言しておきます。  
紫式部「源氏物語」に遡る“大和魂”  
「日本国民の自尊自重の精神は敗戦によって崩れ退廃に陥りました。多少知識があって、占領下の時勢に鋭敏な一派が、何者かに媚びる気持ちから書いた歴史などを見ると、日本および日本人を侮り嘲る風潮を煽るかに見えます」  
これは、今上天皇の皇太子時代の教育に当たられた小泉信三が残した言葉です。そもそも一国民が、正しい自尊自重の心を堅持することは、自国のために他国の侮りを防ぐのみならず、世界の国民と国民、国家と国家の関係を正常で健全なものにする上で、欠くべからざる要件であると思われます。  
日本人のルーツは“かん(神)ながらの国”といわれるように、その思想文化の基軸は“清明心・至誠・ふるさと・祖先安寧・国柄”にあり、受容同化力・自然万物との一体化・みそぎ(浄化/転化)・言霊の幸わう国・産霊(むすび)・和魂にあるとされてきました。  
ちなみに「大和魂」という言葉の初出は、紫式部の源氏物語、夕霧元服のシーンでの光源氏の言葉です。当時の官吏養成所における和学と漢学の対比融合こそ、日本人本来の智恵や分別・感性を身につけるために深く学問する風習が庶民レベルまで広がっており、世界的にも最古とされる国民教育の原点ともいわれています。  
それは、自然崇拝に根ざす表現の大和言葉を多く残したとされる縄文人にいきつく、曖昧で繊細な表現力や石器・土器に残る芸術性・現実の中に情緒の崇高さを意味づけるといった通奏低音で、日本人の意識下に流れていたはずなのですが、戦後これを捨て去ったのです。  
「同じて和せず」の屈辱に陥っている  
多くの日本人は、アメリカ文化風俗にかぶれ、日本人固有のDNAを忘れておきながら、片方ではアメリカがわずか230年と歴史の浅い国といっては軽蔑するなど、支離滅裂さを振りまいております。戦後日教組の偏向教育による自虐精神に貶められ、ある意味で僅か60年と言う世界で最も歴史の浅い、それも軌道を損なった根無し草のような国民性を露呈してしまう羽目におちいってしまったようです。魂を失った民は、抜け殻に過ぎず、国を衰亡させる危険性が大なのです。  
聖徳太子の「和を以って貴しと為す」ではありませんが、「和して同ぜず」とは正しい主張を交わし、協調することですが、現下の日本政府の外交や多くの日本人の社交は、やってはならない「同じて和せず」という、屈辱と妥協に陥っていると考えます。  
今こそ、縄文2万年、有史(国史)2千年という世界最古の国柄と世界に誇りうる独自の歴史・文化を、我らが底力とし、「和の民」としての「大和魂」を取り戻すべきではないでしょうか。歴史は、一国一国民の魂であり、人も国も、自尊自重の精神を失っては、グローバル世界を生き延びられないと自覚すべきなのです。  
“独立記念日”の情けない誤解  
誤った戦後史は、一部の書籍・雑誌の指摘に応えて歴史を正すこともなく、NHKも大半の大手マスコミも、おおよそ“相手あっての終戦”とは関係もない8月15日を終戦記念日としています。ひどいケースでは、占領軍の去った日=本来は主権回復を記念すべき日を“独立記念日”と呼んでみたりする歴史の歪曲が垂れ流されています。以下に史実を挙げておきます。  
昭和20年8月14日(ポツダム宣言受諾=終戦記念日)同8月16日=全軍に戦闘中止命令下る(=停戦記念日)同9月2日(降伏文書調印=敗戦記念日)、そして26年9月8日(サンフランシスコ講和条約調印=事実上の終戦記念日)、27年4月28日(講和条約の発効=20年8月28日に始まったGHQ占領が完了した日=主権回復記念日)−となります。  
歴史上、日本国は建国以来、他国の植民地となったり、統廃合とか併合されたことはなく、上記7年間の占領下、主権を失っていただけですから、この日を“独立記念日”などと呼称するのは誤りで、やはり主権回復が妥当な用語ではないかと考えます。  
ちなみに、建国記念日の2月11日も昔は紀元節と呼び、初代天皇の即位を祝う日だったのですが、正しい歴史教育を受けなかった若者などが、この日を独立記念日などと口にするのを耳にすると、大いなる誤解を説くまでもなく、情けなくなります。  
北方領土、竹島、尖閣諸島…とんでもない言いがかり、不法行為  
こうした史実に鑑みても、日ソ中立条約を破棄した上、昭和20年(1945年)9月2日(日本が降伏した日)を過ぎてからのロシア(当時のソ連)による北方領土不法占拠は、明らかな国際法違反行為であると言わねばなりません。戦後占領下にあったわが国のドサクサに紛れて、李承晩・韓国大統領が勝手に線引きして自領内へ取り込んだ竹島(昔、後鳥羽天皇が流された隠岐諸島の一つで、歴史上・国際法上も明治期に島根県領土とされた)もしかり。  
そして、元は薩摩藩に属し、維新後、沖縄県石垣市所属の尖閣諸島。ここには、わが国の漁民が生活した痕跡まであるのに、1970年代初め、大陸棚に油田の存在が発見されてから急に中国が領有権の主張と不法上陸を始めたのでした。これらの事例は、とんでもない言いがかりや無法行為で、史実を内外に訴え、強気折衝を欠く政治行政やマスコミの勉強不足を疑わざるを得ません。  
高杉晋作の胆力  
幕末の志士には、日本の危機を救う歴史観と気概がありました。長州が英米仏蘭との下関戦争に敗れたとき、講和条件で彦島の租借を要求されたのに対し、高杉晋作は「日本国土は神から授かったもので明け渡しは断じて不可なり」と日本書紀の建国神話まで持ち出して論陣を張り、租借を阻止した史実もあります。外交折衝で強気を通すには、歴史を語れる教養力と胆力が欠かせないといえそうです。  
この際求められるのは、より厳密な戦略的外交を展開するため、国内法と国際諸法規(領土・領海法、排他的経済水域、海洋法、国連諸条例、国際司法裁判条例など)をつぶさに照合し、必要な国内法を早急に改正・強化することです。併せて、大半の歴史教科書と日教組教育の瑕疵を徹底的に排除することも急務です。  
万死に値する政治家たち  
歴史認識で極めて根源的かつ重要なポイントを一点述べておきます。先に記したサンフランシスコ講和条約の締結(と発効)11条に「東京裁判の諸判決は受諾し執行するが、連合国側諸国とその後交渉し、この諸判決を変えても良い」と明記されていたことを十全に理解した政管界人が少なかったという戦後日本の不幸です。  
現実的には、日韓、日中、日ソ間の国交回復諸条約を通じて、賠償金を含むすべての請求権の相互廃棄を決め、すでに解決済みの状態になっていました。にもかかわらず、今も蒸し返させられることになったのは、自民党末期政権と一部官僚、民主党政府が不用意な発言・談話・無用な謝罪などを繰り返したからなのです。鈴木善幸首相時代の宮沢喜一官房長官、外務省の小和田条約局長、日本新党細川護煕首相、社会党の村山富市首相、菅直人・鳩山由紀夫の民主党両首相などの致命的な外交発言は国益を損ねた大失策であり、万死に値するというほかありません。その他、宮沢内閣の河野洋平官房長官による慰安婦関連談話でも重大な歴史認識ミスを惹起したことが、今にも続く不毛な議論の火種となりました。  
今こそ憲法改正の時期  
こうした戦後日本の諸悪の根源を問うならば、どうしても避けて通れないのが憲法改正です。敗戦後、占領支配された中で一方的に押し付けられた憲法に、果たしてどれだけの正当性があるのか。すでに多くの心ある有識者はもちろんのこと、当の米国でさえも、多くの外交官や有力政治家が改正を勧告しているのが現実なのです。  
前文や9条を始め、浮薄な平和信仰のセンチメントを廃棄し、手かせ足かせを外して、現代人間社会の公理を体現し、日本人と日本国家の自尊自重を織り込んだ真の自主憲法を創作すべきときがきたと信じます。安倍政権がそれをやり遂げてくれるであろうことを期待しつつ、この稿を終えます。  
 
二十一世紀における中日関係と歴史認識 2001/10

 

 歩平(黒龍江省社会科学院副委員長)  
九十年代に入ってから、かつて半世紀近く続いていた冷戦の局面が終結した。これは人類社会に対して一つの福音というべきものである。事実上、目下出現しているグローバル化の趨勢は、まさに冷戦の終結がもたらした発展の成果である。この発展の趨勢に応じて、世界の多くの地域で国境を超える交流が始まった。北東アジア地域の“環日本海研究”はつまりこのような交流の代表的なものである。“環日本海研究”を促進する積極的な努力のなかで、新潟の貢献は非常に大きく、この努力のなかで新潟自身も次第に国際都市となっていった。  
近年来、新潟は「北東アジア地域の歴史像の共有」を呼びかけ、その見識も高いものがある。しかし、グローバル化が進むなかで、その趨勢に反する声も出てきた。それは狭隘な民族主義である。この狭隘な民族主義は、中国と日本の歴史問題の認識における相違を利用し、二十一世紀の中日関係と歴史像の共有志向とに悪影響を及ぼしている。  
近年来、学術界で活発になった"自由主義史観"や"新しい歴史教科書をつくる会"および彼らが編纂した教科書はこのような狭隘な民族主義の典型的な現れである。 
一 狭隘な民族主義の危険性  
私は、中国と日本の間の距離は結局は“近い”のか、それとも“遠い”のかということを常に考えている。中国と日本は地理的距離からいえば、本当に近い。私がハルピンから飛行機に乗って新潟に到着するのに、たった二時間あまり必要なだけである。ハルピンから南方の広州までは、飛行機で四時間あまりかかる。日中両国間の文化からしても相当多くの共通点がある。言語が異なることを除いて、生活習慣の面でも共通点が非常に多い。ある時、私は広島で有名な“酔心”酒店で食事をした。店の壁には多くの“酒文化”にかかわる詩が掛かっていた。文字が異なることを除けば、それらの詩で使われている語彙や表現されている感情は中国側と少しも相違がない。私はかつて、これは過去の人々がよく言っていた“同文同種”のことであると思った。  
しかし、中日両国人民の心の距離からいえば、おそらくそのような感じはないであろう。戦時中のことは言う必要はないが、戦後の数十年のなかでも、心の溝は依然として取り除かれていない。それ故、両国間に些細な問題が起こるたびに、ある問題は例えば経済方面の矛盾で、本来は国際社会で十分よく見られる現象であるが、中日の間では簡単に深刻な政治問題が引き起こされ、人々はすぐにかつての戦争を思い出す。  
中国の『中国青年報』と日本の『朝日新聞』は、かつて中日両国人民の相手国に対する感情についてアンケート調査を行った。いずれのアンケートも両国国民の溝がやはり深いということ、特に戦争が残した傷がまだ完全に癒えてはいないことを証明した。 これはどういう理由からなのか?実のところ、中日両国が交流した二千年あまりの歴史においては、友好の時代の方が長く、戦争の歴史はわずかに百年にも満たないのである。しかし、なぜ戦争の傷が現在でも両国人民の心の距離に影響しているのか?  
ヨーロッパの歴史をみると、多くの国家間の戦争が数百年、ひいては千年にも及んだが、今日では“欧州連合(EU)”を造り上げている。ドイツとフランスの民族的対立も非常に深刻だったが、なぜ和解できたのか?私は主に戦争の歴史に対する認識に存在する相違に理由があるように思われる。とりわけ戦後の日本社会が固執した戦争の歴史観が原因になっていると思う。つまり戦争が終結してすでに半世紀あまり経って、戦後生まれの人口がすでに戦前生まれの人口を大幅に越え、現在の国際環境も戦時中とは明らかに異なり、両国間を往来して交流する機会や条件は以前とは比べものにならなくなった。 戦争の歴史に対する認識には、どのような相違が存在するのか?今年四月、日本の文部科学省の検定に合格した“新しい歴史教科書をつくる会”の編纂した教科書は、典型的な例である。“つくる会”はなぜそのような教科書を編纂しようとしたかというと、若者たちに“誇りをもてる日本”を認識させるためであった。  
戦争が終結して五十年あまり経った今日、日本社会は大きな折り返しの時期に面していて、多くの尖鋭化した矛盾や問題がある。とりわけ、九十年代に入ってからバブル経済の崩壊によって社会的な危機が激化し、社会の各方面ではいずれも緊張状態を呈している。“経済のグローバル化”や近年発生したアジアの金融危機の日本社会に対する衝撃も相当激しい。このような情勢下で、若者の退廃的で消極的な生き方は深刻である。彼らは一般に社会に対して無関心であり、日本の教育の危機があらわになっている。このような社会的現象に対し、学者が経済や社会の問題を解決する方法を提起することは、至極当たり前のことである。しかし同時に非常な苛立ちから、落ち着きなく社会矛盾を解決しようとする衝動も増えてきている。このような衝動こそが自由主義史観である。  
自由主義史観は次のことを強調して述べている。彼らは現代日本の社会問題に対する関心から、彼らは日本の若者が社会に対して責任を負うことを望んでいる。つまり、彼らは若者の社会的な責任感が希薄であるという現状に不満を感じている。このことは確かに社会問題である。中国でも、近年来経済の発展につれて、社会の道徳意識および国民の社会的責任感も明らかに希薄になっている。日本が市場経済に入った時期は中国よりもずいぶん早く、多くの社会問題が出現するのも必然的かもしれない。問題はどのようにして若者の社会に対する関心を喚起するか、彼らの社会的責任感を喚起するかである。社会は関心を集めなければならないし、政府は検討を行わなければならない。先生や学者はさらに当然負うべき責任がある。しかし、この問題を解決する上で、自由主義史観はよい方法を取り出してはいない。逆に戦時中の日本の“神風”精神を提起して狭隘な民族主義精神に満ちた“つくる会”の教科書を編纂した。  
狭隘な民族主義精神に満ちた“つくる会”の教科書は、多く、戦前や戦時中と同様な記述をし、戦争の歴史に対する認識も完全に過去の立場に立っている。戦前の“大日本帝国憲法”を高く評価したり、すでに廃止された“教育勅語”を是認したり、特攻隊員の遺書を引用して彼らの国家に対する献身的な精神を鼓吹したり、侵略戦争の本質を否定し、依然として超国家主義の“大東亜精神”をたたえている。  
日本の戦前の“国定”教科書は狭隘な民族主義?国家主義の満ちた教科書であり、後に狭隘な民族主義と国家主義の発展は、超国家主義とファシズムとなった。そのような教科書で育てられた日本の青年が、“二・二六事件”を起こしたり、“九・一八事変”を起こしたり、“盧溝橋事変”を起こしたりして、日本を戦争へと駆り立てた。これによって“南京大虐殺”が起こされ、“細菌部隊による人体実験”があり、“従軍慰安婦”があり、広島と長崎の原子爆弾の爆発があり、そこで“東京大空襲”があり、“沖縄戦”があり、三百万の日本人を含めアジア数千万人の犠牲が生まれた。このことからわかるように、狭隘な民族主義?国家主義に満ちた教科書を用いて教育を受けた日本の若者が戦争を引き起こしたことは、痛ましい歴史の教訓である。今、狭隘な民族主義精神に満ちた“つくる会”の教科書を用いて日本の若者を教育することで、本当に日本をアジアと世界各国に認められる政治大国になることができるだろうか?本当に日本の国際社会における地位と威信を高めることができるだろうか?私の答えは“NO”である。そしてこのような教科書を使っては、決して歴史像の共有を探ることはできない。 
二 どのようにしたら歴史像の共有を打ち立てられるのか?  
それでは、どのような教科書を用いて、我々の若者を教育すべきか。どのようにしたら我々は歴史像の共有を実現できるのだろうか。私は“相互理解”の行動と“相互理解”を促す教科書を用いるべきだと考える。“相互理解”について、私はまず自分自身の経験を話そうと思う。私は戦後生まれだが子供の頃から、本・絵・新聞・映画などの様々なルートから戦争の残酷さ、特に日本が中国を侵略した残虐さ知った。戦争を経験したことのある先達は常に自分が戦争で受けた被害を例にして、後代の人を教育している。中国人は基本的にこのような環境で戦争についての認識をつくってきた。私の父は当時中国の首都であった重慶にいた。父は私に“重慶大空襲”の様子について語った。なぜなら、彼のよく知っている友人がその空襲で犠牲になったからであった。それ故、子供の頃から、日本人にあったことがなかったにもかかわらず、“日本の鬼”というイメージがずっと私の頭の中にあって、しかもそれは相当に強かった。  
1986年に初めて日本を訪れた。その時東京あるいは京都、東北の仙台や山形、日本海沿岸の新潟や金沢で、私はいずれも不思議な現象を見た。各地の寺院や神社ではいずれも広島や長崎の原子爆弾の被爆を追悼する祭壇があった。その時、私は鬼のような人が何故そのように自分の被害を強調するのかわからなかった。中国人として私は感情の上でそれを受け入れにくかった。私が思うに、私ばかりでなく、多くの外国人、特にアジアの人は初めて日本に来た時、そのような考えを持つのが一般的かもしれない。  
1994年、私が日本を訪れた時、私は広島で原爆資料館を見学した。以前、私もかつて広島や長崎の原子爆弾のた写真を見たことがあり、広島の円形の屋根の“ドーム”が爆撃された光景を覚えていた。しかし、結局は外国人であり、日本人の身をもって体験したわけではないのである。その時資料館の中で私は、原子爆弾が投下された時の光景を見て、絶対多数の被害者が直接戦争に参加していない女性や子供であることを知った。彼らが全身血まみれになって廃墟の中をもがいている姿は、私にいままでにない震動を感じさせた。私が最も印象深かったのは、資料館に展示してあった被爆した学生たちの死後に残された黒く焼け焦げた弁当箱や焼けたカバン・衣服であった。私はまだ、広島県第二中学校の折勉滋くんが被爆した後の黒く焼け焦げた弁当箱を覚えてる。私は、その場所に長い間立ち、それらの遺物を見て、それらの天真爛漫な子供たちが喜んで通学路を歩いていたのが見えるようであり、小学校に入学したばかりの私の娘をも思い出した。子供には罪はないのに、被害を受けたのは彼らであった。さらには、皮膚をやけどしたり、放射能を浴びたそれらの女性は、彼女たちは戦場で人を殺していないのに、戦争がもたらした飢餓や貧困の犠牲となり、戦争の被害者となった。ある日の晩、私は数人の日本人の友人と竹原市大久野島国民休暇村の和風旅館に泊まった。そのうち二人は、かつて広島の被害者を救護する活動に参加したことがあった。彼らは私に当時の悲惨な光景、特に女性と子供の苦難を説明してくれた。我々は一つの部屋で、お酒を飲みながら戦争と平和の話題を話し、翌日の午前三時までずっと話した。その時から、私は日本各地で被爆者を追悼する理由がわかり始め、日本人の被害者意識や日本人の“東京大空襲”や“沖縄作戦”に対する認識を理解した。その時から、広島の被爆者の祭壇を見ると私も両手を合わせて追悼の念を表すようになった。このような経験は以下のことを説明している。中国人は日本人の戦争における被害を認めないのではない。問題は彼らが原子爆弾の被害を経験していないことにある。  
私がもし日本に来る経験がなかったら、もし広島の原爆資料館を見学しなかったら、もし多くの日本人との交流がなかったら、日本国民の戦争の被害についての感情を理解することはできなかったろう。戦争の被害者であるという意識は多くの一般の日本人の普通の意識である。同様に多くの日本人は、中国人の戦争における被害を深く理解することができないし、中国人の戦争の被害者としての認識や感情がわからない。したがって、彼らが中国人に自分の被害を強調した時には、中国人の理解を得ることはできない。絶対多数の中国人は、日本の加害の角度や自身が被害を受けた角度からその戦争を理解しているのであり、故に、中国ではその戦争を“抗日戦争”と呼ぶ。中国人の被害はいずれも、日本の軍隊が中国の領土にやってきてつくったものである。これは、非常に明らかな事実である。中国では、日本の侵略戦争の被害といえば、子供でも知っている常識である。なぜなら彼らの祖父母、彼らの父母および彼らの先生が、自ずと彼らにその事実を話せるからである。しかし、決してすべての日本人がみな中国人のこのような感情をわかるのではない。なぜなら彼らは戦争の真実の条件を知らないからである。  
多くの日本の友人は、みな私に次のような体験を話してくれた。戦時中、彼らは身内を亡くし、自身も飢餓や危険の中にいた。敗戦時に彼らがまず思ったことは、「ああ戦争が終わった」ということであり、自身の苦難が終わったということであった。明らかに、これは被害者の角度から戦争を理解しているのであり、日本人はこのような被害の意識が強いのである。藤原彰先生も次のようなことを話したことがある。日本が敗れた時、一般の日本人は身内が殺されたことを経験し、家も廃墟となって、飢餓や苦難の生活を送った。これが彼らに非常に強い被害者の意識をつくった。故に8月15日を終戦記念日とする意図が非常によくわかる。彼らはただ苦難の戦争がようやく終わり、つまりは安心してひと休みすることができるようになった、と考えた。しかし、その時、まさに日本の敗戦によって、アジア各国人民の苦難も終わったということを考えた人は非常に少なかった。つまり、アジア各国人民は、日本の加害の角度から戦争を理解しているのであって、これは日本人の認識が希薄なところである。聞くところによれば、戦後日本の中学生はほとんどが修学旅行の時などで広島へ行ったことがあり、原爆資料館を見学したことがあり、したがって当然子供の頃から深い戦争被害の意識が造りあげられている。中国人と日本人は完全に異なる社会環境にあって、互いの歴史認識に相当大きな相違を造りだしている。経験は我々に、多くの場合に本国人から見て常識的な問題であっても、外国人にとっては非常に新鮮に感じるということを教えてくれる。この意味で、重要な問題は相互理解である。相互理解があって、ようやく歴史の共同像を打ち立てることは可能になる。 
三 国境を越える努力人類社会は、グローバル化に向かって発展しているが、国家はいずれにせよ存在している。  
相互理解と歴史の共同像を打ち立てるために人々は国境を越えなければならない。国境を越える努力は、多種多様のやり方がある。新潟をはじめとする環日本海研究もつまりは国境を越える努力である。“環日本海研究”というと経済が第一目的と考えている人もいるが、それは誤解である。この誤解を取り除くために、渋谷武先生は十年余りの時間を割いて、環日本海の“協生”理論を創り出した。去年、新潟大学の古厩忠夫先生は私を招いて新潟大学の学生に“中国東北と中日戦争”の講義をする機会を作って下さった。これらはいずれも一つの国境を越える努力である。 私は、日本の学生が中国の学生と同じように平和を希望し、戦争に反対していることを知っているが、彼らは結局日本で生活し、戦争の被害者意識がとても強い社会で生きている。自由主義史観が相当な影響力を持っている今日、日本の学生たちは中国人の先生の講義を受け入れてくれるかどうか?私は当初心配であった。しかし、集中講義は最もよい相互理解の機会であるから、私はやはり中国人の戦争被害の意識を日本の学生たちに話そうと思った。日本の学術研究も含めて、講義は実証性を重視して行った。それ故、私は、学生たちに講義の時に現実感を与えるために、常日頃研究で収集した写真やビデオ資料をCDに記録した。 受講生は、新潟大学人文学部と経済学部の学部生から大学院生までで、中国と南アフリカの留学生一名づつ除いて、他はみな日本人であった。毎日朝九時から午後五時まで、昼食をとる一時間を除いて、授業を続けた。当然、授業や休憩時間の時に我々は、広範な雑談をした。特に、戦争の“被害”と“加害”、民族主義の問題について討論を行った。一週間後、テストを行った。私は、問題を四題出した。そのうち三題はわりと簡単な問題で、A・B・Cの中から正解の答えを選択すれば、よいものである。  
第四問目は、学生たちに受講しての自分の感想を書かせた。日本の大学生は、回答するのに一様に鉛筆を用い、答案用紙を手にとると回答に没頭し、静かな教室では"カツ、カツ、カツ"という鉛筆が机にあたる音が聞こえるのみであった。時間前に答案用紙を提出する人はほとんどおらず、みな二時間費やした。 私は学生たちの感想を読んで、大きな感銘を受けた。学生たちの感想から、日本の学生たちも本当に戦争を嫌い、戦争に反対で、平和を歓迎していることが見出せた。彼らは原子爆弾に対する被害者意識がとても強いが、中国人が戦争で受けた傷を知り、本当に理解した時には、みな深い同情心をもつようになった。  
Oくんは次のように書いた。“ようやく中日間で毒ガス弾の処理が始まった。これは、先人たちの残したあまりにも大きな負の遺産である。人類は戦争というおそましさを二十世紀に体験した。二十世紀は戦争の時代であった。各国とも戦争回避のブレーキシステムがうまく作動しなかった。二十一世紀に向けて時間が流れていく中で、二十世紀の負の遺産(例えば遺棄弾処理)を背負うかもしれない。大量殺戮禁止条約(1993)などの条約を結び、人間が人間として対等に交流できる二十一世紀システムを構築しなければならない。今後は、日中間の「不幸な時代」を乗り越えて、人と人との交流を多くの分野で積み重ねていきたいものである。” Kくんは次のように書いた。“この授業を聴講する前までは、アジア太平洋戦争において日本がアメリカに原爆を投下され、敗戦国となったのは日本が国際秩序を乱したので当然だと思っていたが、日本人の中でも、その原爆の被害者となった人たちもいるし、毒ガスの製造で命を落とした人もいるのである。その人の気持ちになると国際法で使ってはならないとある原爆を使ったアメリカも悪いという気がある。しかし、日本も使ってはならない毒ガスや細菌兵器を中国において使用したことも決して許されないことである。”  
Oさんは、次のように書いた。“もし先生の講義を聴かなかったら、平和に対する希望がやはりぼんやりとしていたかもしれません。今回講義を聴いて、平和に対する要求が特に強くなりました。” 多くの学生が中国人の戦争被害と戦後の被害に、確かに悲しみと同情を示した。Iさんは、次のように書いた。“化学兵器の問題に関しても、残留孤児や婦人の問題に関しても、中国ではまだ被害が続いており、またこれからも続く可能性があります。その意味で、まだ本当に戦争が終わったわけではないと思います。しかし、日本にはそういった被害の状況が伝わりにくいのです。だから日本では戦争はもう終わったのだという意識があります。この違いは大きな歴史認識の差だと思います。” 私が特に感動したのは、学生たちがより高くより広い立場に立って問題を考えたことである。Wさんは次のように書いた。“今日の日本は西洋にばかり目をむけるのではなく、日本がアジアにおいてどのような立場にあるのかを考える必要がある。それには過去に犯した罪を償う必要がある。日本の国家として正式な謝罪がないことを私は恥ずかしく思う。” Nさんも日本人は被害意識が強いが、加害の意識が希薄な問題を知っていた。彼女は次のように書いた。“毎年原爆記念日や終戦記念日の前になると、テレビではよく第二次世界大戦についての番組が放映される。そこでは、疎開した子供たちが食糧不足のために栄養失調になった話や、空襲でどんな悲惨な状況になったか、沖縄でどれだけの人が死に追いやられてしまったかなど、日本が受けた被害(アメリカから受けた被害や、軍国主義ゆえの被害)にスポットが当てられる。それによって、「戦争は二度と起こしてはならない」というメッセージが伝えられる。しかし、日本が他国へ与えた加害については述べられることはほとんどない。日本人の多くは、戦時中、日本が海外でどのようなことをしてきたのか知らずに生活している。”  
Iさんは次のように書いた。“日本の残虐行為は表面的に知るにとどめてきた。例えば、「南京大虐殺」という言葉は知っていても、どんな被害を与え、どんな行為をしたのか、具体的にはよく知らなかった。今回の講義では、結局は何を使って、どんな被害があったのかについてよくわかった。「満州移民」についても同様で、具体的な事実は知らなかった。自分たちの祖先がしたことを正確に認識してからでないと、中国に対する真の反省はありえない。” 特に歴史認識の問題が生まれる大きな原因が、相互理解の機会がないことだと知っている学生もいた。Sさんは次のように書いた。“被害者への補償問題も、日本が真剣に取り組まなければならない問題だと思います。また今回先生が日本人は加害者であると同時に被害者であるとおっしゃったことにとても感動しました。このような見方をしてくれる中国人はとても少ないです。” Tくんは次のように書いた。“日本の教科書では日本人の被害はある程度のページを使って記述があるが、日本の加害の行為については記述がほとんどない。私は日本の受けた被害について学ぶことも必要だと思うが、それ以上に加害行為について学ぶべきだと思う。日本の政府は加害行為を隠そう、認めたくない、そのような態度があるように思えてならない。しかし、それでは正しい歴史認識を造ることはできない。日本の加害行為は恥ずべきことであり、そして残虐なものである。しかしこれらは歴史的事実として受け止めていかなければならない。正しい歴史認識を持って、お互いに交流や友好関係が発展するのではなかろうか?”  
Hくんは次のように書いた。“共通の歴史認識というのは果たして可能であろうか?という疑問があります。歴史認識というのは、必ず何らかの立場に立ってこそ持てるのであって、客観的な誰もが納得できる歴史認識が仮にあったとしても、それに意味はあるのか、と思っています。ただ僕が言いたいことは、共通の歴史認識が不可能だから駄目だという事ではなくて、お互いに立っている立場が違うからこそお互いの、ここでは日中のおかれている立場をそれぞれ尊重し、理解しあう努力をし続けるべきなのだと思います。ただそこで、間違えてはならないのは、ちゃんとした歴史事実を自分たちの都合に合わせて無視したり、歪曲したりするようであれば、最初の前提自体が成り立たず、そこから相互理解することは不可能になってしまいます。そういう点で、僕たちは感情的になる前に、一つ一つの具体的歴史事実を確認していく必要があります。” 私は、学生たちに“加害”の歴史をきちんと認識することができたら、必ず対話を通じて心の上での“相互”交流に達するはずであると指摘した。ほとんどの学生の感想には、中国人の先生が日本の民衆の戦時中の被害を認識していたことは自分たちを特に感動させた、と書いていた。Oさんは次のように書いた。“私は今後の日本と中国の友好関係を考えていく上で、こういった歴史の真実を知らないことはよくないことだと思います。講義を受ける前と後では、私の考えに大きな変化がありました。先生がこのような日本軍の犯した残虐な歴史を研究しながらも、日本の学生に対し非常に友好的で、これが結局のところ「相互理解」なのであり、それはとても理想的な姿勢だと思いました。私は講義だけでなく、そういう姿勢も合わせて、多くのことを学ぶことができました。” Eくんは次のように書いた。“先生が自身の歴史認識について語ってくださったのも、私が日頃から疑問を感じている中国人の歴史認識のあり方、それを明確な形で理解する助けとなり、これが一番の収穫であったと思う。日中両国における歴史認識の相違というのは、どうしてそのような認識を持つに至ったのかという、その理由をお互いが知らないことによって起こるものであろう。先生が原爆関係の記念碑を見て感じられた反感、そして原爆資料館を見ての認識の変化、そして新しい視点からの歴史認識が生まれてくる過程は健全な中国人の歴史認識がどのように形成されるかを知る貴重な資料として、多くの日本人に知られるべきものである。これから先生は数多く日本で講義を行う機会を得られるであろうが、中国の歴史認識がどのようなもので、そしてどのような環境で、どのような過程を経て形成されたかということを、一人でも多くの日本人に知らしめていくことを、私は期待してやまない。これからの日本、中国での近現代史の研究は、お互いの歴史認識へのしっかりとして理解がその前提として存在しなければならない。これは大変重要であると共に、また大変難しいことである。先生の講義が今後の相互理解に大きな役割を果たすことを私は信じている。” Kくんは次のように書いた。“日本人が中国に大東亜の代表だと言い張って侵入し、人道的にしてはならないことをされた中国人は、日本人に対して憎しみの感情しかないと思っていた。しかし、中国人にも日本の原爆を投下されたことを被害者だと思ってくれる人がいる。日中の大きくいえば全世界が相互に理解するためには、お互いにその歴史を事実として認識し、お互いの立場に立って考えることが必要だと思う。” 学生たちは歴史事実を知った後、狭隘な民族主義の問題について冷静な認識を持っていた。Wさんは次のように書いた。“「自由主義史観」については、私も否定したい。それは日本の従来の歴史教育を「自虐史観」だとか「東京裁判史観」だと述べているが、元々の戦争の根底にあるものを討論していない。相手の国を侵略したことを反省するのは自虐ではない。戦争という名の下で行われた非人道的行為そのものを肯定しているとアジア諸国が唱えるのも無理のないことである。アジアの中で日本が孤立しかねないと感じられる。”Iさんは次のように書いた。“「歴史認識」こそ最も重要だと考えている。私は戦後に生まれ、天皇の存在ももはや言葉通り、「象徴」でしかない。私には以前「日本は何もかも謝らねばならない」という意識がなく、日本の侵略は過去の人たちがやったことであり、私たちは中国人と新しい関係を築いていくことを考えるべきで、過去の人たちの歴史を背負う必要はないと考えていた。講義の後、私は、私たちが背負うべきものは「罪」ではなく、「歴史事実」であると思え、つまりはその歴史事実を認めて解釈しなければならないのである。私は、そのような認識が中国やその他各国の人との出会いや交流をもたらしてくれることを望んでいる。“ Sくんは次のように書いた。“先生は最近の日本における「自由主義史観」の影響の問題を話したが、自由主義史観をもった人々は、例えば戦時中に日本が中国や朝鮮、アジア諸国に行った残虐行為について謝罪や反省することを「自虐」と思い、戦時中の日本の行為を否定するどころか、美化しようとさえする。各国、各民族はどのように過去の歴史を記すべきか?「自由主義史観」は、当時、日本経済に問題があったから中国との戦争が必要であったと考えている。このような見方に何の根拠があるのか?一人の人間に置き換えて考えてみれば、彼は貧乏だからといって他人の家へ行って他人の物を盗んでもよいのか?したがって自由主義史観は、強盗の行為を正当化する歴史観であり、当然正しいとはいえない。” 学生たちの感想はもっとたくさんあって、とても深かった。私は彼らの感想を見て、多くのことを考えた。  
中国では常に、“前事不忘,後事之師(過去のことを忘れないで、将来の戒めとする)”あるいは“以史為鑑(歴史を鑑=カガミとする)”という精神で、中日関係の歴史を研究する重要性を説明している。そういう場合、当然特に中日戦争の歴史を指している。  
しかし日本のいくらかの人たちはそれを理解せずに、彼らは中国人が歴史問題を提起するのは日本に政治的圧力を加えることだと思っている。戦争責任の問題を考えることについては、ある種本能的に反発する気持ちがある。 実際のところ、我々が中日戦争の問題を研究することで、日本との距離が広がるとは絶対に思わないし、当然中日の民族間の溝は深まりはしない。我々は戦争が再び起こらないように、戦争の起こる原因を取り除くために、軍国主義思想を消滅させるのである。したがってこの問題を解決するために我々は、日本の国民と共同で考える必要がある。しかし、なぜ日本人に理解できないことがある時、我々と共同で考えようとせず、甚だしきに至っては本能的に反発する気持ちを持つのか?確かに日本人の中には“大東亜戦争史観”に固執したり、戦争での犯罪を認めようとしない人もいることは、否定できない。しかし、そういう人は決して日本人全体を代表しているのではない。もしそうだったら、なぜ新潟大学の学生たちがわずか一週間の学習の後に、加害"責任の認識を持つことができようか?だから鍵となる問題は、対話と相互理解の機会をつくれるかどうかにかかっている。  
二十一世紀はすでに到来し、人類社会の発展および中日両国と北東アジアの国際関係もさらに新しいチャンスと挑戦に面している。学生たちの感想を見て、私は将来に対し確信を持つことができた。我々は一緒に努力し、中日両国の相互理解を促進し、北東アジアの歴史像の共有を促そうではないか。  
 
歴史認識の問題と中日関係 2004/4 北京週報

 

中日両国は両国の文化の違いを知る必要があり、相互理解を深め、誤解を減らすとともに、歴史の悲劇の再現を防ぎ、人類の将来に対し責任を負う次元から歴史問題を考え、近代社会にあまねく受け入れられている人権、民主、反戦などの価値観に基づいて歴史問題を適切に処理すべきである。こうしてこそはじめて、中日関係は健全な発展をとげることになるのである。崔世広(中国社会科学院日本研究所)  
中日国交正常化以後の30余年間に、中日関係は政治、経済、人的交流などの面で飛躍的な発展をとげ、日中関係の主流は望ましいものである。それにもかかわらず、両国関係にはいくつかの問題と調和しない要素も存在しており、特にここ数年間に、両国関係の発展はしばしば歴史問題によって妨げられている。例えば、2002年には、日本政府は国内外の反対の声を無視して、歴史を歪曲し、日本の侵略戦争を美化する新しい歴史教科書の検定を通過させた。また、小泉首相は4年間続けて靖国神社を参拝した。これらは中国人民の感情を大きく傷つけ、中日関係の政治的基盤を損ない、中日関係の発展に暗い影を落とすものとなっている。  
中国の内外で行われた世論調査によると、中国国民の対日感情はここ数年急激に悪化している。中日国交正常化30周年を迎えた2002年には、日本が嫌いという中国人は50%を上回っており、その主因となるものは歴史認識問題や教科書問題と小泉首相の靖国神社参拝問題などである。日本の『東京新聞』の調査によれば、中国人が日本に対し好感が持てない最大の原因(79%を占める)は「日本が対中侵略の歴史を反省していない」ということにある。『東京新聞』とほとんど同じごろに中国社会科学院日本研究所も中日世論調査を行い、「日本は今も近代に中国を侵略した歴史をよく反省していない」を対日好感が持てない最大の理由としている人は63.8%を占めることがわかった。侵略の歴史に対する日本の姿勢は中日関係発展の最大の障害となっている。  
ちなみに、一部の日本人にも対中感情の悪化が見られる。これらの人は、日本は何度も中国に対し謝罪したにもかかわらず、中国は依然として執着している。そのため、多くの日本人が反感を抱き、ひいては嫌悪感さえ生じていると見ている。ある人はまた小泉首相の靖国参拝のために弁解し、それは日本の伝統と信仰に基づくものであり、戦争に対する反省の立場は変わっていないと見ており、中国と韓国は理解してくれるべきであると言っている。要するに、中国が意識的に歴史問題を蒸し返すねらいは、対日外交の面で心理的優位にたち、日本の経済援助を引き出すためであるというのである。  
いったい歴史認識の問題の責任はどちら側にあるのか。結論は明らかである。中日国交正常化以降の10年間に、歴史認識の問題は両国関係にとって特別に重要な問題となったわけでなく、ただ1982年に「歴史教科書問題」が起きた上に、日本の首相の靖国参拝とか、閣僚の「失言」とかの問題も相次いで出てきたため、歴史問題はますます厳しいものとなっているのである。歴史認識の問題がここ数年中日関係におけるホットな問題となったわけは、歴史を歪曲し、侵略を美化する日本の新しい歴史教科書の検定が通過し、小泉首相が何回も靖国神社を参拝したからである。歴史認識をめぐっての中日両国の論争は、中国の方から意識的に仕掛けたことは一度もない。中国は先に歴史問題で日本を非難したことがなく、そのようにするつもりは少しもない。歴史問題で時々手練手管を弄しているのはほかでもなく、日本なのである。したがって、日本人の対中感情の悪化は中国側が絶えず歴史問題を持ち出してくるからだとの言い方は成り立ちえない。  
そのほか、中日両国は歴史観と死生観に大きな違いがあることも確かである。この違いは靖国神社などの歴史問題における両国の認識の不一致をもたらす要因の一つにすぎない。中国の歴史観は、歴史を尊重し、それを鑑とし、歴史の考察を通して知恵と教訓を汲み取ろうとするものであるが、日本人は現実をより重視し、過去の一切を帳消しにすると主張しているようである。死生観については、中国人は死んだ人に対してもその善悪を分け、人間の真価を死後において定め、良い人の名は後世にまで残すようにし、悪人の悪名も末永く伝えていくという考え方をしているが、日本人は死んだ人は例外なく神仏に変身することができ、神仏である以上善悪の違いはないため、悪人の誤りに対してもとがめだてしてはならないという姿勢をとっているようである。  
しかし、靖国神社参拝の問題は絶対にただの文化伝統の問題ではない。靖国神社には東条英機などのA級戦犯が合祀されているため、それは特別な宗教施設である。日本はサンフランシスコ講和条約において極東国際軍事法廷の判決の結果を認めることをかつては明らかにしたため、小泉首相の靖国神社参拝が国際信義に背いていることは明らかである。そして、戦後の日本文化が大きな変化を生み出したわけでなく、過去の戦争に対する日本国民の認識も侵略戦争としての性格を認める方向に変わっている。現在、日本国民の多くは日本の対中戦争の侵略としての性格を認め、当時の軍国主義に対し反省を行い、戦争の再発を防ぐことを主張している。靖国神社参拝については、1985年に中曽根元首相が靖国神社を参拝したことが批判を浴びてそれ以後やめることになった。橋本元首相も1996年の靖国参拝が批判を浴びて参拝をやめざるを得なかった。したがって、日本の文化的伝統で小泉首相の靖国参拝を続けることを解釈するには無理がある。  
実際には、歴史問題の背景はここ数年の日本の社会状況と社会思潮に大きな変化が起こったことを反映するものである。長期的な経済の不況と政治の混乱によって、現状に失望し、将来に不安を抱く人が増えている。こういうことで、「輝かしい」歴史から民族の自信や精神的慰めと支持を求める人たちは、狭隘なナショナリズムの立場から出発し、日本の侵略の歴史を否定し、美化し、現行の歴史教育と歴史教科書を激しく非難する逆流を巻き起こした。歴史教科書の問題および小泉首相の4年続けての靖国神社参拝などはいずれもこのナショナリズムの思潮の大きな影響を反映するものだと言える。  
中国政府と人民の歴史に対する基本的な姿勢は「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」というものである。これは歴史に一途にこだわり、旧い恨みを晴らそうとすることを意味することでなく、基本的な歴史の事実を尊重し、その中から有益な教訓を汲み取るとともに、前向きの姿勢で両国関係を発展させようとするものである。経済大国と政治大国としての日本の歴史に対する姿勢は、日本の国際的イメージと大国としての役割を果たすことに直接かかわるものである。歴史認識の問題で、中日両国は両国の文化の違いを知る必要があり、相互理解を深め、誤解を減らすとともに、過去の悲劇の再現を防ぎ、人類の将来に対し責任を負うという次元から歴史問題を考え、近代社会においてあまねく受け入れられている人権、民主、反戦などの価値観に基づいて歴史問題を適切に処理すべきである。そうしてこそはじめて、中日関係は健全な発展をとげることになるのである。  
 
商船三井問題に見る新たな歴史認識問題 2014/6

 

二〇一四年四月十九日、中国浙江省のジョウ泗馬迹山港で商船三井の鉄鉱石運搬船“BAOSTEEL EMOTION”が上海海事法院での判決に基づいて差し押さえられた。これは、一九三六年に原告の祖父にあたる陳順通の経営する中威輪船公司が、順豊号、新太平号を大同海運株式会社に貸し出したが、それが戻らなかったとして、レンタル料や船の代金などを、原告である陳震、陳春らが一九八八年十二月三十日に上海海事法院に、大同海運の流れをくむ商船三井を相手に訴えをおこしたことに始まる。一九八七年の民法通則の施行二年以内であったため、時効は適用されなかった。  
判決が出たのは二〇〇七年十二月七日で、商船三井側は二九億一六〇〇万円の支払いを命じられた。一〇年八月六日には二審にあたる上海市高級人民法院で一審の結果が支持され、三審にあたる最高人民法院では同年十二月二十三日上告が棄却され、判決が確定した。しかし、商船三井側はこれを不服として支払いを拒否していた。二隻の船は、一九三七年に始まった日中戦争中に軍に徴用され、沈められており、支払い義務はないというのがその主張であり、示談交渉も働きかけていたという。  
この件は、一面で中国の裁判所で確定した民事の判決内容の履行をめぐる問題でありながら、日中双方に大きな波紋を投げかけた。中国で相次ぐ戦時中の徴用工(強制連行、強制労働)をめぐる日系企業に対する訴訟、また韓国でも同様の訴訟があり、戦前以来の企業にとって、こうした歴史的な事案がアジアビジネスの大きなリスクとして浮上しかねないのである。  
日中関係では、政治外交面での関係が悪化しても、経済面での交流は緊密に行われているというのが、小泉政権以来の日中関係の基調であった。だが、今回の事案によって、歴史認識問題が経済の実務に暗い影を投げかけているのではないか、との懸念が生まれたのである。  
これについて日本政府は、中国側の日本に対する戦争賠償請求の放棄を前提とした一九七二年の日中国交正常化の精神を揺るがしかねないものとして遺憾の意を表明し、中国側も今回の事案が戦争賠償とは無関係だと応じた。周知の通り、一九七二年九月二十九日、日中国交正常化に際して署名された日中共同声明には次の文言がある。「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」。一九七二年以来、日本の司法はこの日中共同声明で放棄されたのは国家賠償、つまり中国政府が請求する賠償だと認識してきた。だから、民間がおこす賠償請求は日本の司法の場でも行われてきたのである。しかし、個人や企業が日本政府を相手取って行う訴訟は、時効と明治憲法の下にある「国家無答責」原則のため、基本的に原告勝訴は困難であった。そのため、中国の民間が日本の民間を相手に行う訴訟で、何らかの事由で時効がクリアできる場合にのみ、原告勝訴がありえた。まさに、特殊事由で時効をクリアできた今回の中国での訴訟と同じである。つまり、日本でもありえたことが中国でも起きたといえるだろう。  
しかし日本では、最高裁判所が二〇〇七年四月に戦争賠償についての判断を大きく変更した。「日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は、日中共同声明五項によって、裁判上訴求する権能を失ったというべきである」こと、つまり日中共同声明によって、個人賠償請求権、つまり民間賠償も放棄されたとの判断を示したのである。  
この国家と民間の賠償請求をめぐる判断の変更は、日中間で共有されていない。中国での今回の判決は日系企業にとって不安材料となるだけでなく、戦争賠償請求をめぐる見解の相違を浮き彫りにするものでもあった。  
 
いま、なぜ「歴史認識」を論ずる必要があるのか 2014/8

 

いま日本では「嫌中・憎韓」という気分が世を覆っている。2012年夏、尖閣・竹島という辺境の小島に関する領土紛争が隣国との間に外交争点化され、さらに中国との間に武力衝突の可能性も発生して以来、日本では、20世紀前半をめぐる歴史認識を語ることを論外とする空気が拡がった。差し迫った危機を感じた結果、自らを隣国による攻勢の被害者と捉え、70年以前の過去を指弾するその声に耳を塞ごうとするようになったのである。  
他方、中国の習近平氏は最近、世界に向かって、1945年当時の国際関係を想起させ、当時の友敵関係を現在の国際秩序の基本に据えようとのキャンペーンを始めている。第二次世界大戦後の日本が一度も戦争をしなかったという歴史的事実を無視し、現在の日本は大日本帝国と同一の存在であるとアピールしているのである。  
その最中の2013年末、安倍晋三氏は靖国に参拝した。これは、習氏の主張を証明し、世界からの日本国民に対する信頼を損ないかねない行動であった。しかしながら、日本の世論がその危険性を認識しているとは言いがたい。むしろ、隣国からの非難が高まれば高まるほど、それに逆らう行動を賞賛する気分が高まっているのが実情である。集団安全保障をめぐる憲法解釈の大転換について大規模な反対運動が起きないのも、安全保障に関する不安感のためであることは間違いない。こうした空気の下で70年以前の過去を口にのぼせることが難しくなっているのは無理もないことである。  
しかしながら、現在と将来の日本にとって、歴史認識はなおゆるがせにできない課題である。中国が軍事大国化し、世界覇権への野心を公然と掲げるようになった今、日本は単独でこれに立ち向かうことはできない。日本の安全は、米国を始め、世界の国々からの支持によって初めて全うできる。そのためには、日本への信頼を確保することが必須であるが、それには20世紀前半の過ちに対する適切な対処が不可欠なのである。かつ、現在の日本人に「歴史認識」は大きな重荷としてのしかかり続けている。日本人は戦後に行った平和への努力にもかかわらず、常に被告席に座らされることを運命づけられている。今後の日本人が心安らかに、誇りを持って生きるには、その負い目を軽減することが必須と言わねばならない。  
この小論では、「歴史認識」への対処に、今後、どのような配慮が必要か、今までタブーとされてきた領域まで敢えて踏み込んで考え直してみたい。
1. なぜ現生の日本人は生まれる前に起きた問題の責任を問われるのか。  
20世紀の前半、日本人は近隣地域を侵略し、支配した。日清戦争以前や第2次世界大戦後と異なって、当時の日本は広大な植民地を持つ帝国であり、隣接地域に対して武力行使を躊躇わない国だったのである。  
この20年来、韓国・中国はこの事実を認識し、反省せよと日本人に迫ってきている。東アジアの「歴史問題」「歴史認識」という言葉は、過去の解釈という一般的意味でなく、「日本に過去の責任を問う」という特殊な意味を担っているのである。  
しかし、ここには、深刻な倫理学的問題が潜んでいる。現在生きている日本人のほとんどは隣国に対して自ら危害を加えた記憶がない。1945年に生まれた人は2014年現在で69歳になっている。「戦後」に生まれた人々は戦争や支配に加担する機会がそもそもなかった。今の若い世代、例えば現在20歳の人々は、祖父母の世代が遠い過去に犯した罪を問われているのである。同様に、隣国の人々も世代を経ている。いま日本を糾弾している人々の多くは、自らは日本によって痛めつけられた経験を持っていない。  
ここには、責任ある当事者と糾弾される人々との世代的乖離という問題がある。今の日本の若者は、自ら加害したことがなく、責任がないはずの自分が、なぜ、直接の被害者でない隣国の同世代から非難されるのか、合点が行かない。ここに、日本の若者たちが、「歴史認識」問題の存在認知を拒否し、隣国民を無視したり、ヘイト・スピーチに共感をよせたりする根源がある。(他方、純論理的には、日本の現行世代は、隣国に対して十分な謝罪と賠償をしてこなかった先行世代に対し、批判と追究をする権利があることになる)  
刑法では、例えば、祖父が殺人を犯して行方不明となったとき、孫が代わりに逮捕・処罰されることはない。もしそうしたら深刻な人権侵害となる。この家族単位の責任継承と国家単位でのそれにはどこに違いがあるのだろうか。  
祖父による殺人は普通、家族を維持するための行為と見なされない。家族単位の復讐倫理があった時代はいざ知らず、現在の殺人は個人の行為と見なされる。これに対し、国家による殺人は、国家の維持・発展のためという名の下になされる。したがって、国家が存続する限り、その中に生まれ育った人々は、責任を継承せざるを得ない。これを引き受けたくなければ、国籍離脱をするほかはない。  
他方、いま時に、大規模な残虐行為を働いた国家は消滅させてしまえという声を聴くことがある。口に出さなくてもそう感じている人は隣国に少なくないかもしれない。しかし、その意味するところはもう一つのホロコーストである。人は自らの意志で家族や国を選んで生まれてくるわけではない。生まれによって無辜の人を罪するのは人道に反する。  
したがって、歴史的過誤の問題は、国家自体が責任をとらねばならない。もしこうした国家レヴェルの過ちが放置されるならば、その国民は後の世代になればなるほど不当な負い目を背負うことになる。一般に、人は生きるなかで必ず大小様々の失敗をする。もし、それを償う方法が講じられないなら、罪は降り積もってゆく。人が正常な社会生活ができるのは、失敗や罪を償い、解消する方法が社会に備わっているからである。その基本は、罪を認め、謝罪し、賠償することである。国家レヴェルでもまったく同様に違いない。  
20世紀の日本について言えば、東京裁判と講和条約、および韓国および中国との条約や共同声明(1965年、1972年)は、日本が国際社会に復帰するための必須の儀式であった。それらは、アジア太平洋戦争の指導者の責任を明らかとし、処罰することを前提として初めて可能となったものである。東京裁判がいかに杜撰だったとしても、これを否定することは修復された国家関係の基底を壊すことになる。もし、敢えてそうするならば、かつての被害国は報復する権利を手にすることを忘れてはならない。  
戦後に生まれた日本人は個人として先祖の罪を背負う必要はない。しかし、国民である限り、責任の継承は不可避であり、それを担い、和解への基礎を創るのは国家の指導者以外にはない。政治家は国家・国民への責任を厳粛に自覚する必要がある。
2. なぜ、外国人による大量殺戮だけを問題化し、同国人によるそれを問わないのか。  
20世紀前半の日本人による外国人殺害は、中国人だけでも少なくとも500万人を超え、1000万人前後に至った可能性が高い 。これは人類史上、もっとも大規模な殺戮行為の一つに属している。しかしながら、20世紀に中国人が中国人を殺した数も決して少なくはなかった。文化大革命の終了後、葉剣英元帥が中共中央工作会議で述べたところでは、文革の10年間で2000万人が殺されたという。別の文献では彼の挙げた数字は1000万人となっているそうであるが、いずれにせよ、この事件だけで大量の非正常死が出たと認識されていたのは間違いない 。大躍進、国共内戦、諸軍閥の抗争まで遡ると、辛亥革命以来の犠牲者の数は日本軍によるそれと大きな違いがあったとは思われない。人道の観点からすれば、いずれも20世紀という時代の暴力性を代表する事件に属していたはずである。  
しかしながら、現代の中国では日本人による加害だけが語られ、同国人の間に生じた悲劇は語られない。なぜだろうか。いま文革を経験した中国人が当時について公然と語り始めたら、中国社会の秩序は維持できないに違いない。当時、誰が何をしたか、全員が記憶している。当時の子供を含め、誰もが加害者であり、同時に被害者でもあった。したがって、中国社会の秩序を維持するには、その内部に住む人は全員が沈黙を守らざるを得ない。国家の指導者は、同国人同士の争いを隠蔽するため、しばしば外国による危害を強調する。同国人と外国人を差別し、ダブルスタンダードで扱うのは人道的には問題だが、そうした国家利己主義は政治家の常套手段である。文革は、カンボジアの大量虐殺と同様で、その悲劇を経験した世代が世を去らない限り、社会秩序を維持するには沈黙を守る以外に術はないだろう。そうしたケースで尋常の倫理が通用しないことは、ある程度は理解可能である。とはいえ、文革以前の内戦はどうであろうか。その犠牲の姿を究明したら現在の秩序が崩れるとは遽には信じがたいことである。  
しかしながら、筆者のごとき日本人がこれ以上、中国人同士の殺戮行為を論ずるのは、適切ではあるまい。日本人による外国人殺害について敢えて厳正な研究を行い、国籍を超えた人道という価値観を基準に批判を行ったところで、それは外国人が暴露を望まぬ事実の究明を正当化しない。日本人は先祖による加害責任をある程度は継承せざるを得ないゆえ、自ら慎しむことが必要となる。  
とはいえ、加害・被害を論ずる場合、同国人と外国人にダブルスタンダードを適用し、同国人同士の問題、および自国による外国へ加害を度外視するのは、一般的に公平で文明的な態度と言えないのは確かである。
3. 歴史事実の究明だけで和解への道は開けるのだろうか。  
この20年、日本を含む東アジアの諸国民は現在と将来の平和に資するため、熱心に20世紀前半の日本人による加害行為を研究してきた。その結果、一部の日本人が時に漏らすことのある侵略否定や戦争肯定の言説は、直ちに証拠によって批判可能となっている。「日本軍国主義の復活」を防ぐという目的は十二分に達成されたように見える。  
しかしながら、それは東アジアの平和と安定に貢献してきただろうか。研究者たちの関心は20世紀前半の日本による加害行為に集中し、世紀後半の日本人が行ってきた平和への努力や自己抑制を軽視してきた。そのため、隣国では、現生日本人はしばしば帝国時代の日本人と同一視され、絶えず自国を脅かそうとする存在と目されがちである。他方、戦争に懲りて一度も戦争をしてこなかった戦後日本人はこうした隣国民の認識に接すると、驚愕するだけでなく、自らの平和への努力の無視に無力感を感ずることが少なくない。20世紀前半の歴史の研究は、平和を保障するために行われたはずであるが、それが日本人と隣国民の和解に貢献してきたとは言えない。双方に和解への意志と配慮、そして努力がない限り、逆に日本と隣国との間に生じている反感の悪循環に新たな種を撒くだけに終わりかねないのである。  
このような実証研究のアイロニーは、和解への第一歩であった国交回復をめぐる研究にも見られる。1965年の日韓条約とそれに付帯する措置は、現在、日韓両国の争いの種となっている。慰安婦問題その他、条約時に軽視されたり、認識されていなかったりした問題がいま韓国側から次々と提起されている。条約締結に当たって、日本側は 3億ドルを支払い、諸借款を供与した。その上で双方は請求権問題はすべて解決したと取り決めた。しかし、上記の問題提起の中には、条約自体に疑問を投げかけるものがある。また、日本側はその支払った金銭を「独立祝賀金」ないし「経済協力金」と名付けたが、この点への不満も依然としてくすぶっている。いま、両国の間に個別の案件が持ち上がると、和解の基盤をなしたはずの条約自体の解釈にまで遡った議論が始まり、両国民の対立をさらに深めかねない傾向が生じているのである。  
このような危機状態を脱して真の和解に近づくにはどうしたら良いのだろうか。条約締結時の双方の事情をいくら調査しても不可能であることは間違いない。いずれの主張が正しいか否か、泥仕合が深まるだけである。もし真に和解を求めるのであるならば、むしろ1965年の議論を棚上げし、一連の協定に新たな意味づけをするほかはないだろう。すなわち、この時に日本側が韓国に渡した金銭は、「植民地責任」に対する賠償であったという合意を創り出すことである。今までの国際法に「植民地責任」という法理はない。しかし、1965年の日本側の行動はそれ以外に説明のしようがないものである。韓国側が主張してきた戦時賠償という法理は、韓国が日本と戦争したと認める国が世界にない以上、成り立たない。しかし、韓国側が本来求めてきたのは日本による「植民地責任」の認識ではないだろうか。後から振り返ってみれば、この時、両国は新たな国際法を創造していたように見えるのである。  
今日まで、イギリスはインドに、フランスはアルジェリアやベトナムに、アメリカはフィリピンに「植民地責任」を認めたことはない。だからといって東アジアが欧米の先例に従う必要はない。むしろ、西洋追随を止め、自ら新たな国際法を創造するならば、それはこの争いの絶えない二国間関係に和解と安定の道を開くだけでなく、世界に対して新たなモデルを提供する創造的な行為として、賞賛されるのではないだろうか。  
1965年の取り決めを改める必要はない。その際の対立も隠蔽する必要はない。それらは、時代の課した厳しい制約の中で双方の先人がぎりぎりの格闘をへて獲得した成果として、そのまま尊重すべきである。しかし、いま必要なのは、その後に認識された問題を解決できるような新たな枠組みを創造することである。ここで必要なのは新たな社会契約であり、歴史の拘束から敢えて身を剥がすことである。過去はいわば透明な棺の中に凍結し、その上に新たな基盤を創って、これを出発点とする。過去の事実を事実として記憶しつつ、しかも新たな物語を共同で創り、これを記憶する。このほかに和解への道はないのではないだろうか。  
歴史記憶の書き換えは、政治による歴史の濫用の常套手段である。これを防ぐには、広範な資料探索と批判的読解、そしてその公開が必須である。しかし、それだけでは争いを和解に転ずることはできない。事実認識と別の次元に立って、新たな物語を創り、記憶すること、そうした意志を当事者が持つ以外に、和解への道は存在しないのではないだろうか。 
 
歴史認識の“当たり前の言論”は中国人を傷つける? 2014/10

 

日中に必要な「ズレの認識」と「善玉・悪玉論」排除  
日中関係の発展において、知的交流は大変重要である。特に「敏感」といわれている歴史問題や領土問題においては、観点の違いを認めた上で交流を続けていくことが大事であると筆者は考えている。  
一人の日本人として歴史問題にどう向き合っていくか、中国の読者と共に考え、日本人の筆者がどう考えているか知ってもらいたくて筆をとった。旧知の中国の政府系新聞に発表を予定していたが、結果的に掲載は見送られた。  
表向きの理由は「外国人の長い文章を掲載したことはない」ということであったが、内部関係者によれば、実際には「国民感情を傷つける記述があった」という。  
表向きは言論の自由が保証されている中国であるが、実際には情報統制が敷かれていることは周知の事実だ。しかし、いざ実際に検閲され、掲載不可と一方的に言われると、がっかりするが、中国には中国の事情があるため仕方がない。だが、このままこの文章を眠らせるのは忍びないため、ダイヤモンド・オンライン編集部の力を借りて発表させていただくことにした。  
まずは掲載を見送られた文章を以下に示す。ちなみに、原文は筆者が中国語で執筆した。以下はその原文を、筆者が日本語に訳し、掲載している。文中の見出しについてはダイヤモンド・オンライン編集部でつけたものであり、中国語の原文にはない。
某中国メディアが掲載不可とした歴史認識問題に関する論考を掲載  
7月7日は「七・七事変」(盧溝橋事件)が勃発してから77年目の日であった。中国各地では関連のイベントが開かれ、中国メディアも大きく報じた。一部の日本のマスコミが指摘しているように、今年は77年目であるから、70周年、80周年といった節目ではないが、中国メディアは特集を組んでいたようだ。  
習近平国家主席もイベントに出席し、そこで講話を行った。以下はその講話のなかで出てきたものだ。  
「一部の者は鉄の歴史的事実を無視して、戦争で幾千万にものぼる無辜の命が犠牲になったことも無視しており、歴史の潮流に逆らった動きをしている」  
名指しはしなかったものの、明らかに日本批判ととれる発言を行った。李克強首相もドイツのメルケル首相との会談のなかで、歴史に学ぶ必要性を説いた。これも暗に日本を批判しているともいえる。  
このように、中国は歴史問題で日本を批判しているが、これは明らかに昨年末の安倍首相による靖国神社参拝から強まった。今年の全人代の政府活動報告においても「歴史の流れを逆行させることは許さない」と日本の歴史に対する認識を批判した。  
日本で暮らし、日本国内のメディアからの情報が主たる情報源である人たちにとっては、「中国はどうして昔のことにこだわるのか」と思うだろう。しかし、中国が日本の歴史認識を批判するのは理由がある。  
第一に、「被害者と加害者の差」である。  
中国で長く暮らしていると、日本人であるということだけで一般の中国の人から歴史問題でたたかれることがあり、それは中国に住む日本人の宿命である。筆者が中国生活を始めたばかりのころは、周囲の学生から歴史認識について質問されると、「またか……」と辟易したものだ。  
ただ、実際に戦争の被害に遭った人に、「私が家で寝ているときに、日本兵が押し入ってきて無理やり起こされ、すぐに出てけといわれて家を追い出された。そのときは本当に怖かった」といった話を聞くと、中国の人たちが負った心の傷の深さに対して、日本人として申し訳ないと、胸が苦しくなった。  
よくいわれることだが、加害者は自分が大変なことをしたことを認識はするものの、時が経てば忘れてしまうものだ。だが、被害者は違う。自分の家族、親戚が日本兵に殺されたことは、永遠に忘れることはない。  
日本はアメリカとの戦争で被害者になったという意識が強いが、中国やアジアを侵略したという加害者意識は弱いと言わざるを得ないだろう。だから、中国が歴史問題で日本を批判していることについて、「何をいまさら」と感じてしまうのであろう。
中国の歴史教育は共産党史観に基づく  
第二に、「両国の歴史教育の違い」である。  
日本の歴史教育、とりわけ戦後生まれの世代が受けてきた歴史教育は、高校や大学の受験のための歴史で、暗記中心であった。世代を問わず、学校の授業で近現代史を習ったが、何年に何があったくらいを確認した程度で、それほど深く学ばなかったのではないだろうか。  
また、近代史の学習に入る前に時間切れになったこともあった。そのこともあり、日本がなぜ戦争に突入していったのか、戦前の日本とはどんな社会であったかということを深く知らない人が多くなった。  
そのために、多くの日本人は「第二次世界大戦で日本はアメリカに負けた」という程度の認識しかなく、中国にも戦争で負けたことを知らない。したがって、中国の主張にも首をかしげるのである。  
それに対し、中国は歴史教育、特に近現代史については日本に比べしっかり勉強している。というのも、中国は中国共産党が政権党であるため、共産党の歴史観に沿って歴史の授業が行われ、近現代史は重要視される。なぜなら、中国共産党の歴史は日本との戦争が密接に関わっているからである。  
筆者の手元には中共党史研究室が編集した中国共産党の公式党史である『中国共産党歴史』という本がある。それを紐解いてみると、第一章はアヘン戦争や辛亥革命について書かれているが、その中に甲午戦争(日清戦争)についての記述があり、「日本帝国主義」の言葉が早くも登場する。  
第二章になると、中国共産党の成立についての記述になり、そこにも日本の「対華二十一カ条の要求」について書かれ、「日本帝国主義」が登場する。その後は中国共産党と中国国民党が抗日統一戦線を結成し、日本帝国主義に対峙していく。  
そのため、「日本帝国主義」、「日本侵略者」という文字が常に目に入るようになる。中国の中学や高校の教科書も基本的に共産党史観をベースに書かれており、それを通じて日本の侵略行為について学ぶ。したがって、中国人は日本が近現代に行ってきたことに対する認識は、かなり厳しいものになるのである。
抗日ドラマは被害者意識を出しすぎているのではないか  
第三に、「日本が戦後、過去の戦争に対する総括を十分に行わなかった」という点である。  
日本は戦後アメリカのもとで民主改革を行って、戦前の軍国主義体制と一線を画した。だが、過去の戦争はいったい何だったのか、なぜ日本は戦争に突入したのかという総括が十分ではなかった、と中国では見られている。むしろ、それを避けてきたという意見もある。  
確かに、戦後の日本の政界には、重光葵や岸信介、賀屋興宣ら軍国主義体制時代の政治家、官僚が復帰した。また、源田実ら軍幹部も政界入りした。特に岸信介は保守思想の持ち主で、首相時代に右翼的政策をとった。彼らからすれば過去の戦争を否定することは自分の経歴を否定されることに等しかったので、戦争に対する総括は進まなかった。それが理由の第二で述べた日本人の歴史教育にも影響したと思われる。  
第四に、中国のプロパガンダ政策の影響である。代表的なものは抗日戦争に関するドラマだ。そこでは日本人はとてつもない悪人として描かれており、「これをずっと見ていたら、日本が好きな人までも嫌いになってしまう」と思ったものだ。  
筆者が日本語教師時代に「日本概況」という授業を受け持った際にアンケートをとったことがあった。その中で「抗日戦争のドラマを小さい頃よく見ていたので、日本人って本当に悪い人なんだと思い、日本が嫌いでした」と率直な意見を書いてくれた学生がいた。これはまさに中国のプロパガンダ政策の結果であろう。  
中国のプロパガンダ政策についていえば、少し行き過ぎの面もある。毛沢東時代は一部の日本軍国主義者と広範な日本人民とを区別しており、日本人民も被害者という認識であったし、現に戦争中は、八路軍に協力した日本人も少なくなかった。しかし、中国の抗日ドラマはそのようなことがあったことは微塵も感じさせない描き方であり、「日本=悪人」という意識が植え付けられやすいものであった。抗日ドラマは被害者意識を全面的に出しすぎている面はある。  
ただ、最近は視聴者のニーズも多様化しており、昔のようなプロパガンダ政策も以前ほど効果を持たなくなったという現状もあるだろう。
日中で歴史の解釈が違うのは当然のこと  
以上のことから、中国は日本に対し厳しい態度をとっているが、筆者自身、中国で暮らしていて歴史認識問題で不愉快な思いをしたかといえば、そんなことはない。確かに留学生時代に中国人学生から質問をされ辟易したことはあったが、それは彼らの好奇心であって、必ずしも「日本憎し」で筆者に対して詰問してくるものではなかった。  
むしろ、中国人は友好的な人が多かった。民間レベルでは国は関係なく、個人をみて付き合うため、友好的な交流が続いているといえよう。  
ただ、元中国大使を務めた宮本雄二氏が著書で述べているように、中国にいる日本人は、中国人の過去の戦争による傷について認識する必要がある。  
歴史問題は日中関係の構造的問題と言えるもので、解決が非常に難しい。しかし、これを避けていたのでは、結局のところ両国関係は前進しない。では、今後日中両国は歴史問題解決に向けてどうしたらいいか、筆者なりの考えを述べてみたい。  
まず第一に、お互いの違いを認識することである。日中両国は東アジア文化圏に属し、文字や習慣などの面で共通点がある。しかし、中国は社会主義国、日本は資本主義国というように政治体制が異なり、必然的に政策も異なってくる。  
歴史に対する見方も先ほども述べたように、中国は共産党史観で歴史をみているが、日本はそうではない。そのため、歴史の解釈に違いが生じるのは当然のことである。  
どちらが正しいかという問題ではない。「日本はこのように考えている」「中国はこのように考えている」といった、一種のズレをお互いが認識し、どこがかみ合わないか、どうしてそうなるのかを考える必要がある。  
第二に、両国は「最大公約数」思考をもって歴史問題に向き合うべきである。日中両国が共通の歴史観を持つことは理想である。しかし、両国の国情が違うため、一致させることは難しい。  
国際共産主義運動の歴史を例にとってみても、世界の共産党の路線はソ連流のそれでほぼ一致していたが、後に中ソ論争で路線闘争が先鋭化したくらいだ。各国の観点が完全に一致するということはなかなかない。それゆえ、「最大公約数」思考で歴史を考える必要がある。  
日本が中国やアジア諸国に兵を送ったことは事実である。そこではたらいた悪行については議論はあるが、関係者の証言もあることから、ほぼ事実と見て間違いないだろう。過去の戦争の歴史を時系列を追って検証し、お互いが共有できる事実を探り、理解の食い違いあるところは「小異を残して、大同につく」原則のもとで、歴史問題における「最大公約数」をさぐる必要がある。
「善玉・悪玉論」を排して学術的に歴史を研究すべき  
第三に、両国の歴史研究の発展のため、歴史的資料を共有しなければならないという点である。最近、中国は公文書館に眠っている戦犯の供述書など戦争時代の資料を公開した。それらを中国のマスコミはここぞとばかりに日本批判に使ったが、歴史研究の発展の見地から考えると、これらの資料は貴重な財産というべきものであり、両国の研究者がまず共有すべきある。  
資料の解釈は研究者によっても違うし、マスコミが引用するのは一般的には読者の興味をひきつけうる部分に限られる。そのため、公開された資料、まだ公開されていないものについても翻訳、公刊して両国の共通の財産とすべきである。  
第四に、歴史問題を考えるにあたっては、「善玉論」「悪玉論」を捨て、どうしてそうなったか深く立ち入って考えるべきである。筆者はよく中国の新聞や雑誌に載る日中関係、特に歴史問題についての評論を読むが、露骨な形ではないが「善玉論」「悪玉論」に終始しているものがある。  
「善玉論」「悪玉論」に終始していれば、「勝てば官軍」という言葉にあるように、「勝者が正義であり、敗者は悪である」という観念が出来上がってしまう。戦争に勝ち負けはあるが、歴史問題を考える際には、そのような考えに陥っては真実の解明にはつながらない。  
なぜ日本は侵略戦争を起こすに至ったか、当時の戦争の性質は何だったか、戦争を起こすに至った両国の民族主義はどのようにして形成されていったか。また、戦後、なぜ東京裁判を全否定する言論が出てきたか。感情論を排し、学術的見地に立って客観的に考える必要がある。  
以上のような作業を行うのは、国という概念を超えた、またイデオロギーを超えた交流が必要である。歴史問題の検証については、民間交流、特に両国のインテリレベルでの交流が必要不可欠である。  
公的機関の援助を受けていない、何のしがらみもない民間の組織で、歴史問題やその他の問題についての研究成果を発信することは大変意義のあることである。  
1950〜60年代は日中関係がまだ打開されていなかったが、民間交流が両国関係の発展に大きな役割を果たした。現在はその当時と状況はやや異なるが、両国関係の打開をはかる上で、交流のパイプを維持するということは極めて重要だ。  
交流のパイプは何も政府関係に限定されない。民間交流も主たるパイプのひとつである。今後は、民間による文化交流、学術面での交流を続けていき、互いの違いを認め、争点となっている問題、特に歴史問題について最大公約数を形成できるなら、両国関係の前進のきっかけをつかめるのではないかと思う。
中国メディアが指摘した中国人を傷つける2つの点  
以上が、原文を訳したものだ。関係者によれば、この文章での問題点は主に二点だという。  
第一点は、両国の歴史観の違いについての部分である。この言い方は中国の人々の感情を傷つけるという。国が異なれば歴史やその他の学問に対する解釈が違うのは当たり前であるが、戦争の傷が癒えない中国人にとってはそのような言葉は傷に塩を塗るような行為として捉えられる。日本は東京裁判の結果を認め、それに基づいた歴史観を堅持してきた。日中国交正常化当時は日本の政治家も一般の人々も贖罪意識があり、歴史問題は顕在化しなかった。  
だが、戦争を知る世代が次々とこの世を去り、右派の政治が台頭してくると、「国が異なれば歴史観が異なる」という言い方で中国を批判するようになる。そのため、真意は右翼勢力の肩をもつものでなくても、「歴史観が国によって異なる」というのは、右翼勢力を弁護するようにとられる恐れがあるのだという。  
第二点は、歴史問題で「善玉論」「悪玉論」を排するという部分だ。関係者によると、歴史問題は結局のところ、善玉・悪玉の問題に帰結するのだという。中国は日本に侵略されたので、多くの中国人は日本を悪だと思うのは当然だという。さらに今の日本政府は歴史にきちんと向き合い、過去の過ちを清算していないのに、「善玉論」「悪玉論」をやめよというのは中国人からすると道理に合わないという。  
しかし、中国の見方と日本の見方の「ズレ」が生じるのは世の常である。敏感な問題においても、両国が率直に意見をぶつけ合い、その「ズレ」を認識した上で誤解をとき、相互理解につなげていくということが大切ではないだろうか。  
 
『中国の歴史認識はどう作られたのか』ワン・ジョン著 (2014) 評

 

本書は、中国で育ち、現在はアメリカ合衆国で研究生活を送る国際関係研究者による、中国の「愛国主義」についての研究書である。1989年の(第二次)天安門事件当時には中国の若者が「民主化」を求める姿が世界に印象を残したが、現在の中国の若者は「愛国主義」で世界に強いインパクトを与えている。その転変の理由を「歴史的記憶」に求め、それを、中国共産党の指導者がどう利用してきたかという点と、国民的アイデンティティの再構築にそれがどのような役割を果たしたかという点に着目しながら解き明かそうとしている。原題 Never Forget National Humiliation は「国恥を忘る勿かれ」で、本書に何度も登場するキーワードである。なお、この訳書は、中国史になじみのない読者に配慮してか、中国近代史の展開を追う原書の第2章と理論的枠組を説明した原書第1章を入れ替えて訳している(これ自体は優れた配慮だと思う)が、この評では原書通りの順で紹介していくことにする。  
序「「戦車男」から「愛国主義者」へ」では、現代中国について歴史的記憶を理論的に扱うことが可能か、また妥当かについて検討する。近代史のなかで中国は多くの「傷」を受けたが、それ以来の長い時間や近年の経済成長がその「傷」を癒したのではないかという議論に対しては、教育キャンペーンがその記憶を利用し、また経済成長によって得られた自信がかえって「選民意識‐神話‐トラウマ」の複合体(「CMTコンプレックス」)を強化していると指摘する。また、このような対象が学問的分析になじむのかという疑問に対しては、第2章(原書第1章)で分析枠組を提示することで回答を示そうとしている。  
その第2章(原書第1章)「歴史的記憶、アイデンティティ、政治」では、歴史的記憶を扱うための理論枠組が紹介される。本書では、アイデンティティの内容として、その担い手の範囲、アイデンティティに関する利害、アイデンティティを持つことの目的などの「規範的な内容」、他の社会集団との関係に着目した「比較対照的な内容」、「認識のモデル」、「社会的目的」の4点に着目するとし、これに、そのアイデンティティが社会で果たす役割の性格や程度に着目した「寄与度」を加えてアイデンティティを評価するとする。また、アイデンティティがどのようにして政治的行動に反映するかについては、将来に向けての「ロードマップ(道しるべ)」としての役割、現在の困難に際しての「結束の要」としての役割、事件が過ぎ去った後にその経験が社会に定着する際の「制度化」の役割の三点が挙げられている。なお、この章ではこれ以外にも複雑多岐な理論枠組が紹介されるが、この後の章は歴史的展開を中心に追って書かれており、この章の枠組は部分的に援用されるにとどまっている。  
第1章(原書第2章)から第4章までは、中国近現代史をたどりながら、それが現在の愛国主義教育のなかでどのような栄光とトラウマの素材となり、現在の中国人にどのような「CMTコンプレックス」を与えているかを検討する。第1章(原書第2章)「選び取られた栄光、選び取られたトラウマ」では前近代から近代までの歴史が採り上げられ、中国は他国を侵略したことのない「文明」と「礼儀」の国であるという「栄光」の意識と、アヘン戦争以後の「国恥」の「トラウマ」意識とが紹介される。第3章「「中華帝国」から「国民国家」へ:国恥と国家建設」では、辛亥革命以後の中国ナショナリズムの発生と、中国国民党・中国共産党のナショナリズムについて論じる。清朝の「天朝」(「天下」の支配者)的意識が破綻し、中国が「国家」にならざるを得なくなった20世紀初頭、中国ナショナリズムを生み出したのは、王朝の上層部ではない「中間」の魯迅のような人物だった(これが第8章の「中間からの和解」への著者の期待につながる)。その後、中国の政治をリードすることになったのは国民党と共産党であるが、この両党のナショナリズムに対する態度は正反対であったと著者は論じる。「エリート政党」であった国民党の「打倒列強」のナショナリズムは強かったが、共産党のナショナリズムは抑制されたものであった。その理由として、共産党は民族よりも階級を重視した、ナショナリズムは共産党の国際主義と矛盾する、階級闘争の主敵は国内の清朝・国民党であった、共産党にとっては「勝利」が重要で、敗北の歴史は無用のものだったという4点が指摘されている。しかし、毛沢東時代が過ぎ去った後、階級闘争主体の共産党のイデオロギーは通用しづらくなり、転換が図られることになる。第4章「勝者から敗者へ:愛国主義教育キャンペーン」では、1991年の江沢民による「歴史教育キャンペーン」からの展開が述べられ、学校教育のみでなく社会に対する教育のなかでの「愛国主義教育」の成功が紹介される。  
第5章から第8章では、これまでの部分を引き継ぎながら、1990年代と2000年代の展開をいくつかの視点から追っている。第5章「「革命の前衛組織」から愛国主義の政党へ:中国共産党の再構築」は、階級革命の「前衛組織」から「愛国主義政党」へと中国共産党自身がそのアイデンティティを変化させたと論じる。中国共産党は、歴史教育では「屈辱的な外交を終わらせた」と強調し、外交では理念を優先する「道徳主義」的なアプローチから「国益」を優先するアプローチへと転換したとする。第6章「震災からオリンピックへ:新たなトラウマ、新たな栄光」では、2008年の四川大震災と北京オリンピックをとりあげ、震災への対応がナショナリズムの強化に利用されたことと、北京オリンピックでの金メダルへの強いこだわりが、20世紀初めから抱かれてきた、中国人が「東亜の病夫」であるという「トラウマ」と一体の関係にあったことが論じられる。なお、北京オリンピック聖火リレーへの抗議行動に対する世界各地の中国人留学生による「対抗デモ」やフランス資本のカルフールへの攻撃は、愛国主義教育だけではなく、西洋人の「個人主義」とは異なる中国文化の「集団主義」が産んだものとして説明される(日本では、日本人と中国人の国民性の違いとして、「日本人の集団主義」対「中国人の個人主義」と対比されることが多かったのだが……)。第7章「記憶、危機、外交」では、駐ユーゴスラヴィア中国大使館誤爆事件(1999年)、李登輝訪米から台湾海峡危機にいたる展開(1995〜1996年)、軍用機空中衝突事件(2001年)の3つの米中紛争が採り上げられる。これらの事件では中国は「歴史的記憶」を動員し、紛争を意図的にエスカレートさせて強硬姿勢をとり続けた。しかし、中国がそのような姿勢をとらない対外紛争もあった。国民の認知度が低い事件や、かつて中国を侵略したことがないベトナム、フィリピン、インドネシアなどへの対応は穏やかであり、このような強硬姿勢をとらない。相手国が歴史上中国に「傷」を与えた国であり、しかも国民に広く認知される事件であることが、中国政府が強硬姿勢をとる要因であると分析される。第8章「記憶、教科書、そして中国と日本の和解」では、その中国の対外的な和解の例として、中国・日本・韓国による教科書共同執筆の試みと日中歴史共同研究が挙げられ、「上から」ではなく、市民・知識人レベルの「中間から」の和解の可能性が強調される。なお、ここでの教科書共同執筆や日中歴史共同研究への評価は、本書が2008年までを対象としているという点を考慮しても楽観的すぎるように評者には思われる。  
第9章「記憶、愛国主義、そして中国の台頭」ではより広い視野から中国ナショナリズムを位置づける。現在の中国が経験しつつある社会的な動揺や政情不安、国際的な対中国強硬論はナショナリズムを強化し、インターネットの普及は記憶の保存と増幅に寄与する(この点を指摘しているのは炯眼である)。グローバリズムの進展は、とくに中国のような「閉鎖的な社会」に対しては愛国主義を強化する役割を果たす。しかし、台頭しつつあり、「小康社会」を目指す中国にとって、愛国主義教育はその「一面」でしかないことも認識しておくべきであると強調して、本書は結ばれる。  
本書は、愛国主義教育を受け、また自ら愛国主義教育キャンペーンに関わった著者自身の体験と客観性のバランスをとりつつ書かれたものである点が特色である。また、訳者は、英語・中国語の双方に通じ、ばあいによっては中国語の原語も附記するなどしており、翻訳が細やかな行き届いた配慮のもとに作成されていることがうかがえる。その特長は踏まえた上で、ここでは4点についてコメントを寄せたいと思う。  
第一は、著者自身が必ずしも中国共産党の歴史観とは異なる歴史観から愛国主義教育を位置づけなおしているとは言えないという点である。中国近代を「国恥」の時代と見る視点を相対化する歴史観を著者自身が提示しているわけではない。清朝後期からの社会発展への評価や、「少数民族」から中国近代史をみる視点は本書にはほとんど登場しない。だからといって本書の価値が下がるわけではないが、「愛国主義教育」の問題性を克服するのであれば、同時に「国恥」中心の歴史観とは異なる視点を積極的に提示していく必要もあるのではないだろうか。  
第二は、毛沢東時代の中国共産党のナショナリズムの評価についてである。本書は毛沢東時代の中国共産党のナショナリズムへの関心の低さを強調するが、この点には異論がある。毛沢東以前の時期から中国共産党は少なくとも文書上では「反帝国主義」的ナショナリズムを強調してきたし、レーニン主義の帝国主義論を理論的支えにしている以上、それはむしろ当然であった。また、中国共産党は、「長征」期以来、労働者・農民のみではなく広い範囲の人民を結集し代表する政党としての性格を強調しており、「民族統一戦線」を重要なキーワードとして掲げていた。この「統一戦線」的な自己規定は少なくとも朝鮮戦争後の社会主義改造時代まで続くのである。この時期の中国共産党のナショナリズムは、階級闘争論と対立して抑制されたのではなく、階級闘争論・帝国主義論の枠組に従属したのであって、ナショナリズムが弱かったとは言い切れない。また、1950年代から1970年代までの中国共産党指導部のナショナリズムを評価する際に重要なのは、この時期の共産党指導部が常にソ連との対抗関係・対立関係を意識していたことである。とくに1960年代以後は対ソ関係の悪化からアメリカ合衆国や日本との対立を激化させることに慎重だったことを考慮しなければ、この時期の中国共産党のナショナリズムに対する評価は妥当性を欠くものになってしまうだろう。  
第三は、過去の「栄光」と近代にそれが傷つけられた(または現在も傷つけられつつある)ことによる「トラウマ」への意識は、現代世界では中国だけの問題ではないという点である。イランでは、イスラーム革命体制の下で否定的に見られていたハカーマニシュ(アカイメネス)王朝時代が栄光の時代として捉えられはじめているという(春日孝之『イランはこれからどうなるのか』新潮新書)。いわゆる「イスラム原理主義」による「ウンマ・イスラミーヤ」の過去と現在に対する認識も同じようなものだろう。アメリカの「ティーパーティー」運動はどうであろうか。これらまで視野におさめたばあい、本書の「一国愛国主義」的な問題意識では解けない問題もまた出てくるであろうと思われる。  
第四は、2008年までを対象にした本書の中国分析が2010年代の現在にもあてはまるか、という問題である。たとえば、本書では、ベトナムやフィリピンとの領土紛争は中国政府は穏健に処理しようとすると論じられているが、2010年以後を見るかぎり、そうなってはいない。また、本書では中国は「道徳主義」的外交を放棄したとしているが、社会主義的な「道徳主義」ではないにしても、また「国益」外交を放棄したわけではないにしても、中国は「道徳主義」的なたてまえ強調の外交に回帰しつつあることが見受けられる。この2010年代の問題が本書の提示した枠組にもとづいて解けるのか、それとも中国が本書の提示した段階とは異なる新たな段階に入りつつあるのかは、2010年代半ばに本書を読む私たち自身が解かなければならない問題なのだろう。  
 
歴史認識のすれ違い 2005

 

出来事「2005年4月」  
中国各地で反日デモの嵐が吹き荒れた。とても残念であるとともに悲しいと思う。まず今回の出来事から双方に憎悪の感情を増幅させるような進展は、止めるべきであることを確認したい。  
かつて周恩来首相が言ったように、「日本と中国は2000年の交流があり、その長い歴史を考えれば近代の不幸な関係は一瞬のできごとでしかない」  
しかしながら戦後60年を経た現在、その「不幸」も事実を直接知る人々が少なくなり、それぞれの立場で異なった「記述された=教えられた現実」としての「不幸」に変質している。もしこの「不幸」を両者の関係の基本とせねばならないのなら、日中戦争で何があったかを再検証する必要がある。またこの戦後60年の間でどのような時間の経過があったかを再確認しなければならない。特に何のために日本国内において、事実歪曲教育がなされて来たかを改めて認識しなければならない。  
つまり個々の出来事には、それぞれいろんな原因や思いがあるが、それら全体の大きな方向をコントロールしている力の存在を疑うことが必要だろう。結果として誰の利益となるのかを考えることである。そこから考えれば、日中の信頼関係構築を望まない勢力があるかも知れないとの視点から見ることが重要であろう。 
1.認識の落差  
今回、誰にも鮮明に見えるかたちとなったのが日中での認識の落差である。  
(1)中国側の主な発言  
総理大臣が口で謝罪しても、A級戦犯を祀っている靖国神社に参拝しており、これは国としてA級戦犯の行ないを是認どころか美化した行為だ。  
日本は国が検定している歴史教科書で、南京大虐殺を筆頭に中国を侵略した歴史を学校でキチンと伝えていない。  
日本は近年中国や韓国の領土である特定の島の領有権を主張し始めて来た。また台湾の独立を支持するがごとき策動を始めている。  
このような過去の歴史を真摯に反省しない日本を国連の常任理事国にすることは中国として反対である。  
日本の不誠実な態度への中国人民の怒りがデモに現れている。良好な経済関係を壊しかねない状況まで至ったのは日本の責任である。  
(2)日本側の主な発言  
中国へはこれまで17回に及ぶ国家としての反省、お詫びの声明を出している。  
ODAでは2兆円以上の資金提供をして来た。上記も含めてこうした事実が中国国民に知らされていない。  
中国各地の反日デモは言論の自由の無い共産党独裁の政権下でのことであり、民主主義の世界でのことではない。著しい貧富の差の拡大等を収めきれない共産党政権への抗議の矛先を、反日に誘導し「ガス抜き」として仕組まれたものだ。  
日本ではたとえ悪人でも死ねば「神」になる文化であり、靖国神社への参拝云々は完全に内政干渉である。  
問題視されている歴史教科書は、先の戦争で中国を侵略したことを明記しており、どこにも美化した記述はない。  
尖閣列島、竹島等については日本固有の領土である。ただし関係国と話し合いたいし、国際司法裁判所での判断を求めることも提案する。 
2.問題の所在  
(1)中国側の問題  
これらの相違点を日本から見れば、下表のように中国側の事実誤認(捏造も含む)や認識不足(無知)、政治戦略からの発言としか思えないものがほとんどである。  
事実誤認(捏造も含む)  
「靖国神社は世界制覇を唱えるスローガンなどが掲げられている秘密結社のようなもの」と多くの人々が思い込んでいる。これは明らかに事実誤認。行って見て単なる神社だったと驚いたとの中国人留学生の証言もある。南京で日本軍が大量虐殺を行ったと思い込まされている(しかも5千人〜30万人の諸説あり)  
認識不足(無知)  
「死者に対して鞭打つことはしない」「善悪を超えて祀る」のが日本の文化であることを知らない。なお恨みある相手は死んでも許さず、その墓を破壊する等の「死者に鞭打つ文化」が中国および朝鮮半島に顕著に見られる。問題にしている日本の「歴史教科書」を、中国政府の関係者の多くが実際には内容を知らない。  
政治戦略上の発言  
「過去の歴史を真摯に反省しない日本を国連の常任理事国にすることは中国として反対である」「日本の不誠実な態度への中国人民の怒りがデモに現れており、騒乱状況まで至ったのは日本の責任である」等に、政治上の意図が明確に現れている。  
(2)日本側の問題  
一口で言うなら、日本はあまりにも何も主張して来なかった(来れなかった)ことと、今回も自律的な主張ではないことに尽きる。  
中国側との論点はさほど反証困難な内容ではない。つまり事実に基づく反証と、その内容を内外に広報することで一蹴できる筈のものが多いにもかかわらずが、何故か成されて来なかった。  
靖国神社へのA級戦犯合祀  
サンフランシスコ講和条約締結後、A級戦犯とされる人々も国の為に斃れた英霊であり靖国神社に合祀すべきだと、署名4000万人と言う国民的な熱望により実現した。これについては当時中国も当初何ら問題視していなかった。(因みに戦没者慰霊の場はドイツでもナチス首脳部を別扱いしていないし、外国から非難されてもいない) 現在天皇が不参拝で首相が参拝のかたちとなっているが、この扱いも含めてその裏にある事情を何らかの方法で内外に暴露すべきである。※1  
南京大虐殺  
まずキチンとした証拠調べに基づいた国際的な真相究明作業を行う必要がある。※2 ちなみにこれまで提示されている証拠写真については、1点残らず「別の事件や別の場所での写真」「同じ俳優による演出された捏造写真群」のどちらかであることが明確になっている。(これについての検証は「南京事件『証拠写真』を検証する:東中野修道他著」を始め、 日英対訳本「再審『南京大虐殺』」:竹本忠雄・大原康男著」等に詳細が述べられている) 第一この「大虐殺」事件は、極東軍事裁判で中立国の判事から米国側の「広島・長崎への原爆投下」「東京大空襲」がジェノサイド(集団殺戮)だとして告発され、急遽休廷になり再開後あたかも問題をすり替えるかのように米国側から出されたものであり、それ以前には国府軍、中共軍ともに、南京での虐殺の記録はなかった。  
尖閣諸島等の領土問題  
史実に基づいて従来から国際的な論陣を張るべきだったが、やって来なかった。※3それを現時点で言い始めた理由を国民に知らせる努力をすべきである。  
教科書問題  
実際に書いてある内容を各国語に翻訳してPRすべきである。その上で各国教科書との食い違いを明らかにするPR活動が必要。  
以上の※印の箇所は今後日本が自律的に国際社会で役割を果たすためには、日本政府が避けては通れない課題である。ところが、こんなに明快で単純な作業がこれまでなされて来なかった。 
3.戦後秩序からの脱却  
以上の問題を整理して見れば、中国側での問題点と同時に、説明・PR努力不足として片付けるには、あまりに不可解な日本政府の行動が浮かび上がって来る。その理由について、下記のとおりの仮説を立てて考えれば非常に素直に説明が付く。  
【仮説1】 第2次世界大戦後、日本は米国の植民地となっており、米国の世界戦略の駒として動かされている。  
【仮説2】 戦後の時間の経過とともに、戦勝国により作られた戦後秩序の有効性に綻びが生じている。言い換えれば地球環境時代、当時の勝者が敗者を支配する関係にはもは合理性が欠けているにもかかわらず、時代に逆行するかたちで新たな植民地主義と呼ぶべき力による全世界の支配がより明確化している。  
ここでの植民地とは? / 従来の意味では「ある国の海外移住者によって新たに経済的に開発された地域。帝国主義国にとって原料供給地・商品市場・資本輸出地をなし、政治上も主権を奪われ完全な属領」(広辞苑)となっている。しかしここでは以下のとおり、姿を変えて存在していると考えている。20世紀後半以後植民地支配はより巧妙になり、「グロバリゼーション」等の言説を弄して、情報操作力を駆使し民主政府と言う名の傀儡政権樹立を前提に、経済と軍事の両面での支配により果実を得るもの。その最初の成功例が日本であり、以後、日本は米国にとって「民主化=現代型植民地統治」のモデルとなっている。  
具体的仮説ストーリー  
 (以下の4.7が「想定」であり、それ以外は史実、現状認識に基づいている)  
1 大東亜戦争で日本を破った米国は、日本が二度と米国の進路の障害とならないように、日本国民に常に罪悪感を持たせ、誇りを感じさせない為の政策、「War guilt information program=日本国民総戦犯意識化計画」を導入し、占領政策(植民地化政策)の基本とした。(記録・証言あり)  
2 その上で大東亜戦争を日本の一部の軍国主義者が惹き起こしたアジア侵略戦争だとし、その責任者達をA級戦犯と設定し断罪した。  
3 国権の基本である自主軍事力の放棄に加えて、米軍による占領とその後の庇護体制により米国は日本を植民地として支配することになった。  
4 日本の歴代の首相は就任とともに、これら事実を告げられ、主体的な活動を制限されて来た。  
5 この枠組みを基本として戦後の秩序が作られ、日中間においても極東軍事裁判にてA級戦犯として裁かれた高官達を侵略戦争の主犯格として仕立て、日本国民と中国はともにこれら極悪人の被害者だったとして、平和条約が締結された。  
6 国連は先の戦争の戦勝国の連合体であり、いわゆる「敵国条項」つまり国連憲章107条に明記されているとおり、大東亜戦争にて失った領土、資産(人的資源=拉致被害者)について、戦後60年の今日でも周辺国は日本からの返還請求を拒否できることになっている。  
7 以上のように日本は米国の植民地なのであり、本質的に自主的な外交は支配国米国から許されてはいない。首相は米国の傀儡政府の首相として、対外的な行動、および決定には米国の承認および指示が前提となっている。  
8 つまり日本政府の対外的な活動は米国のシナリオに基づいて展開されており、現在の日本外交も米国の世界戦略の一翼を担うかたちとなっている。  
注)国連憲章第107条 / この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。  
 
こうした状況、つまり不信と復讐心に裏打ちされた軍事・経済力による支配体制から脱却するためには、連合国側に正義があり、日本は侵略国だったとする戦勝国側による歴史の一方的な改竄から立ち直り、今日的な視点からの大東亜戦争の意味の問い直しと、対外的に対等な関係の構築を行わねばならない。  
もとより、その為には欧米列強の植民地支配がひしめく当時の日本を取り巻く状況では、他に方法がなかったとする日本側の論理が、中国等戦場となった側から容易には受け入れ難いものであることも改めて認識せねばならない。  
また今日中国等アジア諸国に進出している日本企業の活動にも細心の配慮が必要であり、「その社会に貢献すべく活動し、結果として自社も潤う」ように自身を厳しく律する姿勢を再構築せねばならない。  
しかしながらそれらに配慮したとしても、なお問題は解決するとは考えられない。 
4.脱出口  
この問題の本質的は以下のような視点に立つことで出口が見えて来る。  
1 日本と中国が無益に対立し合うことは両国存亡の危機を招くだけである。  
なぜならば今や世界唯一の強大国となった米国は、その世界戦略として  
【1】全世界に浸透させることに成功しつつある「米国流民主主義こそ正義」の理念を掲げ  
【2】米軍の通信システムの発展型であるインターネットを筆頭とする情報操作力を駆使  
【3】イラク戦争に見られるように軍事力により決済通貨としてのドル体制を維持し  
【4】基軸通貨を握り為替/株式市場への影響力を駆使することで世界の富を制度的に強奪等々の軍事・経済的支配により、米国中心の秩序を構築している。  
この観点から見れば、日本は明らかに敗戦時から今日に至るまで、実に巧妙に米国にとって無害化、植民地化されており、今や中国がそのレールに乗っているというべきである。「植民地からの脱却を目指す日本」と「新たな植民地化を阻止せねばならない中国」は、相互の衝突は止めなければならない。  
2 日本において意識の変曲点を作る為には  
「米国の理念である民主主義の名の下に、米国自身の民主主義への背信行為を指摘すること」が有効な戦略である。  
その具体策として増田俊男氏が唱えるところの「広島、長崎への原爆投下、東京大空襲等をジェノサイトと認定し、勝者が敗者を裁くと言うおよそ民主主義の正義にもとる極東軍事裁判の誤りを認め、日本への米国大統領の謝罪演説」を引き出すことが、現在の国際状況では日米両国民の覚醒を促す効果の点でもっとも効果的な道であろう。  
この自己矛盾の指摘による自縄自縛化誘導戦略こそが、「自ら仕掛ることなく勝つ」日本の古武道に見られる日本型の勝ち方だとも言える。  
※ この路線を進められるのは「取引」の結果であり、日本がいよいよ強欲資本主義に組み込まれてしまうことと表裏の関係であることを示すことになるが、実際問題として今日の日本の状況を見れば当然これ位の対価は引き出せるはずである。  
3 その一方で、日本が「米国流民主主義こそ正義」の代わりに、世界に対して示すべきものがある。  
【1】日本が伝統的に保って来た相互扶助型の社会  
【2】自然と人間がともに作り上げた里山型生産システムに代表される日本型の社会・生産一体化システム  
【3】企業活動の分野に於いて、社員・消費者優先型資本主義により株主優先型資本主義に克つこと  
これら総体として経済成長なしでも繁栄できる持続型日本型システムである。  
4 地球環境時代として有限な地球環境が意識される21世紀、もはや従来型の経済成長優先型思考は通用しない。  
にもかかわらず依然として経済成長が社会の力を図る尺度として使われているのは、他に置き換えられる尺度が確立していないこともあるが、米国型の価値基準に未だ多くの国も個人も服従せざるを得ないと認識している為である。  
この米国型の経済成長依存の世界秩序に対して、日本型の社会モデルを対峙するかたちで提示して行くことこそが、日本の生きる道であろう。  
その為の手立ては身近なところにある。当websiteで取り上げている様々な活動もそうしたものの例である。  
中でも中川博迪氏の活動はだれでも参加でき、参加するうちに自然に具体的な意味が理解できるという意味でもっとも手近なものであろう。 
 

 

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