坂東の古代史

出雲国 / 東の国聖地二荒山紀伊国造荒河刀辧と名草戸畔御諸山の夢占紀伊国の出雲神倭国の出雲神出雲の国譲り毛野族の系譜鐸を祭る近江国日枝神社ヤマトタケルの東征毛野族の秘密武蔵国造の系譜出雲族の末武蔵国造の乱多摩の王武蔵国造は物部氏系図の摩訶不思議倭国の物部氏祟神朝内臣氏出雲の国譲り2
坂東の役割 / 坂東最古の寺谷廃寺征夷将軍入間宿禰広成道忠教団最澄の事情国家仏教空海の方法坂東の徳一丹生をめぐって壬生と丹生陸奥国黄金郷へ
将門叛乱 / 武士の発生国造から国司へ在地豪族たちの実力群盗山に満る将門の叛乱安易な通説将門の母胎下野豪族藤原秀郷武士団研究の方向武蔵野開発の父常陸平氏平忠常の乱の内実清和源氏の坂東進出坂東独立国へ将門の一族
源氏神話 / 前九年の役奥羽の秀郷流藤原氏清原氏の援軍後三年の役八幡太郎は恐ろしや院政はじまる蟻の熊野詣源氏の内紛坂東の義朝悪源太義平為義生涯の宿願武者の世藤姓足利氏源氏の叛乱常陸金砂城攻め野木宮合戦義仲と頼朝頼朝変心義仲敗死源氏の棟梁甲斐源氏の粛清義経逃亡血の祝祭
源氏三代 / 熱田大宮司家受肉した草薙剣征夷大将軍粛清の嵐頼朝最期梶原景時謀叛比企の乱畠山事件三代将軍実朝和田合戦実朝暗殺襁褓将軍選定承久の乱竹御所と宮将軍鎌倉法印貞暁頼朝の落胤鎌倉幕府とは古代の終り
草奔と名分 / 仁寛配流院政と摂関政治真言立川流仁寛の呪い八百万の神々宋学と禅宗怨敵調伏清凉寺式釈迦像無足御家人と悪党妖僧文観両党迭立立川流一元論清和源氏の末尊氏離反奥州小幕府三木一草常陸合戦藤氏一揆
丹生伝説 / 朱い伝説爾保都比売邪馬台国の丹生丹生氏手力男神大和の丹生戸隠神社小野小町近江の丹生南宮大社秩父平氏武蔵国小野氏将門幻想敗者復活二荒山補陀落他界日光山陸奥黄金境空海伝説法螺吹山伏武蔵と秩父の関係秩父の丹生武蔵の小野氏
諸説 / 日本史上の奧州秩父国造武蔵国造稲荷山鉄剣武蔵国造の乱「神道集」に見る上野国下野国古代北越の境界
武蔵風土記 / 武蔵国神代の武蔵奈良〜平安前期平安中期〜鎌倉室町江戸
古代上総国嶋穴駅 / 水陸交通路嶋穴駅
 
東国風土記  西国風土記

雑学の世界・補考   

東国・坂東
(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。
「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。つまり、「あづま」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「あづま」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「あづま」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。
「あづま」・「東国」と言う言葉が元々漠然としたもので、きちんとした定義を持って用いられた言葉ではないために、時代が進むにつれて「あづま」・「東国」を指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。
鈴鹿関・不破関東側
これは古代(恐らくは律令制成立以前)に畿内を防御するために設置されたとされている東海道鈴鹿関、東山道不破関、北陸道愛発関の三関のうち、古来より大和朝廷と関係が深かった北陸道を除いた鈴鹿・不破両関よりも東側の国々を指すものである。事実上、畿内の東部に位置する地域である。
壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が、「東国」に赴いて尾張国・伊勢国・美濃国を中心とした兵に更に東側の国々の援軍を受けて勝利した。
大山(日本アルプス)東側
これは律令制に導入された防人を出すべき「東国」として定められたのが遠江国・信濃国以東(陸奥国・出羽国除く)13ヶ国に限定されており(『万葉集』の「防人歌」にもこれ以外の国々の兵士の歌は存在していない)、これは現在の日本アルプスと呼ばれる山々の東側の地域と規定する事が可能である。
倭の五王の1人とされる「武」が中国南朝の宋に出した上表文には「東の毛人(蝦夷)55ヶ国を征す」と記され、また『旧唐書』日本伝によれば、日本の東界・北界には大山横切りその外側に毛人が住む」とある。この大山こそが現在の日本アルプスでその外側の毛人(即ち毛野国の領域)が住む地を日本でいう東国であると考えられる。
更に鎌倉幕府が成立した際に幕府が直接統治した国々が「東国」13ヶ国と陸奥・出羽両国であり陸奥・出羽が後世に朝廷に掌握された土地であると考えると、大山(日本アルプス)より東側=東国という図式がこの点でも成立する。
足柄峠・碓氷峠以東(坂東)
今日では関東地方と称せられるこの地域を坂東・東国と呼ぶ例が多い。
日本神話の英雄日本武尊(倭建命)が東国遠征の帰りに途中で失った妻(弟橘媛)のことを思い出して、東の方を向いて嘆き悲しみ、碓日坂において東側の土地を「吾嬬(あづま)」と呼んだと伝えられている。ところが、その土地については『古事記』は足柄坂(足柄峠)、『日本書紀』は碓氷山(碓氷峠)であったとされている。
この逸話を直ちに実話とすることは不可能ではあるが、奈良時代の律令制において足柄坂より東の東海道を「坂東(ばんとう)」・碓氷山より東の東山道(未平定地の陸奥・出羽を除く)を「山東(さんとう)」と呼んだ。
後に蝦夷遠征のための補給・徴兵のための命令を坂東・山東に対して命じる事が増加し、やがて両者を一括して「坂東」という呼称が登場した。その初出は『続日本紀』神亀元年(724年)の記事を最古とする。以後、従来の五畿七道とは別にこれらの国々を「坂東」の国々あるいは「坂東」諸国として把握されるようになり、蝦夷遠征への後方基地としての役目を果たすようになった。
その後も地理的に一定の区域を形成したこの地区を1つの地区として捉える考え方が定着し、その呼称も短縮されて「東国」とも呼ばれるようになったと考えられている。

主に現代において、東日本のことを指すこともある。ただし、東日本と西日本の境界については諸説ある。また、古代〜近世において、畿内の東側にある国を総称して指すこともあった(北陸除く)。具体的には五畿七道の東海道・東山道(近江国除く)である。東北においては前述の通り古くは国内という概念がなかったとされるが、時代が進むと東北もその範疇に加わった。また、北海道も後の時代には東国の概念に加わることもあった。 
坂東
1 関東地方の古名。「坂」は令制で駿河と相模との境をいい、『常陸国風土記』にも「相模国足柄の坂より東」とある。相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東8ヵ国を坂東八国という。
2 関東地方の古称。足柄峠、碓氷(うすい)峠の坂の東の意。上古、吾嬬(あづま)と呼ばれ、奈良期以降は坂東の呼称が一般化、鎌倉期以降はおもに関東の称が一般化。
東国 / …東国が畿内を中心とする国家の支配下に名実ともに組織されたのは、逆にこれ以後ということもできるのである。東国にも東北北半を除いて国郡制が一応貫徹し、天武朝以後、伊賀以東の東海道、あるいは美濃以東の東山道を東国とする呼称が新たに用いられるようになり、三関以東は関東、関東・東北地方は坂東・山東と呼ばれた。しかしすでに古墳時代、毛野(けぬ)氏などの自立的な勢力を生み出した東日本の社会は、律令国家の支配下にそのままとどまってはいなかった。… 
関東地方 / …明治以前、関八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)といわれた地域とほぼ一致する。古くは三関(鈴鹿、不破、愛発(あらち))以西の関西に対して関東の呼称が使われ、その後足柄、碓氷の坂(峠)以東を指して坂東とも呼ばれた。西と北を山地に囲まれた日本最大の関東平野が約半分の面積を占め、南と東は海に面するという自然的単元としても、東京を中心とした文化的・経済的性格においてもまとまった特色を示している。…
 
「出雲国」  

東の国

 

坂東は「東(あずま)の国」という。それは「西国」という場合のように漠然とした東方の国々という意味ではなく、政治的・社会的な一まとまりの世界であった。例えば壬伸の乱後の『日本書紀』天武四年(675)正月十七日条に「是の日、大倭国瑞鶏を貢ぎ、東国白鷹を貢ぎ、近江国白鵄を貢ぐ」とあり、東の国は大倭国や近江国と並び称される一つの国としてとらえられている。
東征した景行記のヤマトタケルは相模国の足柄の坂下で「吾嬬(あずま)はや」といってアズマの国と名づけたとある。『常陸国風土記』にも、古は足柄の岳坂より東の諸県のすべてを「我姫(あずま)の国」といったとある。景行紀のヤマトタケルは場所を上野国の西の碓日坂とし、山の東の諸国をアズマの国と号したとある。
この坂東の東の国は、もしかして「出雲国」だったのではないか、という妄想をぬぐいきれない。それはあの卑弥呼の邪馬台国を、何が何でも自分の生まれ故郷に引っ張り込む主知的な発想と異なり、いささか証拠がないわけでもない。
聖地二荒山

 

坂東太郎−−利根川の東側の聖地、二荒山には古来から出雲神の大己貴命・妃神の田心姫命・御子神の味鋤高彦根神の三神を祭る。二荒山の二荒山神社とどちらが古来からの本社かと議論のある宇都宮市内の二荒山神社の祭神も、大物主命・事代主命を相殿に豊城入彦命を主神とする。
宇都宮の二荒山神社の主神を豊城入彦命とするように、利根川の東側は豊城入彦命を祖とする毛野族、後の上野毛・下毛野氏の一大勢力が繁栄した地域である。
また利根川の西側は、出雲臣を先祖とする系譜をもつ武蔵国造が連綿と武蔵国を支配していた。これをもってすれば東の国は「出雲国」に染めあげられていると見るのも、あながち妄想とはいえないであろう。
利根川の東側の毛野族は何故に出雲神を祭ったのか。
『常陸国風土記』の筑波の郡の条に「筑波の県は、古、紀の国といひき」とある。筑波の県は茨城県の筑波山の西麓にあたる。風土記はこの筑波の県の西側に「毛の河」が流れているとを再三にわたって記しているが、それは現在の鬼怒川のことである。紀の国が毛野国となり、鬼怒川が「毛の河」すなわち「紀の河」なら、それは紀伊半島を流れる紀ノ川と同じで河名であり、紀伊国がそっくり東の国へ移ったかの様である。毛野族の移住がなければ有り得なかったことである。  
紀伊国造荒河刀辧と名草戸畔 

 

紀伊半島にいた毛野族とは紀ノ川の河口から二十キロほど溯った、那賀郡桃山町案落川のあたりにいたと思われる荒河刀辧から系譜する。『古事記』崇神段に「木国造、荒河刀辧」とあり、『日本書紀』の崇神紀には荒川戸畔とある。娘の遠津年魚目目徴比売に崇神が娶いて豊木入日子命と豊鋤入日売が生まれた。この豊木入日子命が上毛野・下毛野君等の祖と『古事記』は記し、『日本書紀』には豊城入日子命の子孫の系譜もある。
では、どうした理由から荒川戸畔・豊木入日子命の一族が東の国へ移ったかであるが、その前に一族の紀伊国における位地づけをみておかなければならない。
『古事記』の荒河刀辧は木国造、紀国の国造とあるから、紀国にあって相当な実力者であったことがうかがえる。ところが「紀伊国造系図」には、荒河刀辧の名は片鱗も載せられていないのである。
紀国には別に紀ノ川の河口に名草戸畔なる者がいて、神武東征の折りに殺されたと記紀にある。「紀伊国造系図」には大名草比古命の名があるから、名草戸畔の系譜を引くものと解することができる。そしてこの系が紀伊国造となるのは大名草比古命の曾孫の紀豊布流の代で、このとき初めて紀直という姓と氏族名がついた。つまりそれ以前、紀氏は国造ではなかった。国造荒河刀辧は種々の系譜や系図を照合してみると大名草比古命とほぼ同世代にあたるから、国造の地位は荒河刀辧の系から大名草比古命の系の子孫に移ったと見なすことができる。
あるいはまた、荒河刀辧と名草戸畔―大名草比古命の系は同族で、単に国造の地位が同族内で移ったのではないか、と解した方が合理的である。
というのも、荒河刀辧の孫の豊城入日子命は、崇神の皇子として皇位を継いだかもしれない地位にあったから、紀伊国造の地位は別な系統が継いだととらえることができる。しかし豊城入日子命は皇位継承権を得ることができなかった。 
御諸山の夢占 

 

『日本書紀』によると、豊城入彦命と異母弟の活目入彦命尊の二人は父崇神の命で夢占をした。その結果、豊城命は御諸山に登って東に向かって槍を突き出し、刀を振るった夢をみた。活目入彦命尊は御諸山に登ると四方に縄を張りめぐらせて粟を食う雀を追う夢をみたという。そこで崇神は活目尊を跡継ぎとし、豊城入彦命に東の国を治めさせることにしたという。
ここから豊木入日子命は崇神の子だから、東の国は後の大和の中央政権に支配させた、とする説が大勢としてある。一方で、東の国の上毛野・下毛野君等の子孫が皇統譜につなげて、その先祖を飾ったとする説もある。
前者の中央政権による支配説は奈良盆地にはじまる前方後円墳体制の東の国への浸透、と同時に、邪馬台国の卑弥呼以来の三角縁神獣鏡の配布をもって、その証拠とするようである。しかし、もしもそうだとすると、東の国の毛野族はその聖地に伊勢神宮の天照大神ではなく、出雲神を祭らねばならなかったのか、説明できないであろう。
後者の説は、東の国に限らず、先祖を皇統譜につないだ氏族の系譜は信用できない、仮冒だとする系図一般に対する不信感に根差しているように思える。まして上毛野・下毛野君の場合は、その系譜を載せた『日本書紀』の編纂に自ら携わっていたのだから、なおさら怪しいと断じられなくもない。 
紀伊国の出雲神 

 

紀伊国造が斎祭ったのは、その祖天道根命以来、天照大神であると『国造旧記』はいう。それも神武東征のときからというから、名草戸畔の殺されたときにあたる。式内社の日前・国懸二社である。一社の祭神が天照大神でもう一社は国造家の祖神を祭るとされるが、文献によって異なるため、どちらの社が天照大神を祭るか分からない。一方、紀伊国には元来から名草郡に式内社伊太祁曾神社があり、名草戸畔の一族がこれを祭るものとみなせる。
伊太祁曾神社の祭神は『日本書紀』神代紀に次のようにいう。
初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種をもちて下る。然れども韓地に植えずして、ことごとくに持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八州国の内に、まきおうして青山になさずということなし。このゆえに五十猛神を称づけて、有功の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり。
また同書に次の様にもある。
素戔嗚尊の子を号して五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に柧津姫命。凡て此の三神、また能く木種を分布す。即ち紀伊国へ渡し奉る。
『先代旧事記』地神本紀には国造が祭ったとする。
五十猛神亦云大屋彦神、大屋津姫神、柧津姫神、巳の上の三柱并せて紀伊国に坐す。即ち紀伊国造斎祠る神也
出雲神を祭る名草戸畔の一族は、天照大神を祭る天道根命の一族によって、暫時、紀伊国における主導権を奪われた。それは名草戸畔が殺されたときに始まり、国造の地位は荒河刀辧の系から大名草比古命の系の子孫に帰したときが決定的だったのではないか。その結果、荒河刀辧の子孫、豊城入彦命たちは出雲神を担いで紀伊国から東の国へ移住せねばならなかった。そして聖地二荒山に出雲神が祭られたのである。 
倭国の出雲神 

 

しかし、そうであったとして、それでは豊城入彦命が皇位継承に敗れたという御諸山の夢占とは一体何だったのか。
御諸山とは倭国の三輪山のこととされる。そこに大物主神が祭られていた。大物主神は出雲神大己貴=大国主神のまたの名である。「汝は誰ぞ」という大己貴神の問いに答えて「吾は是、汝が幸魂奇魂なり」という。これが大三輪の神であり、三輪山に限っての祭神名である。
大物主神は三輪の磯城族が代々祭ってきた。大物主神の神妻になった箸墓伝説の倭迹迹日百襲姫命とは、孝霊の皇女であるが、磯城族の出身であった。神妻になるということは、その神を祭祀する巫女に他ならない。皇統譜において欠史八代といわれるそれは、何らかの形で磯城氏と関わる。
言い換えれば、三輪山の出雲神大物主神はこの欠史八代の祭神ではなかったのか。天照大神が祭られたのは崇神朝になってからである。
ところが、崇神朝にいたって大物主神は崇り神となり、国内に疫病多く、民は亡んだ。占ってみると百襲姫命に憑いた大物主神は「よく我を敬い祭らば必ず平む」というので、百襲姫命は祭るが験が現われない。そこで他の三人と崇神が夢占をすると同じ夢をみて、大物主神は大田田根子をもって吾を祭れば必ず平むという。茅渟懸の陶邑から大田田根子を呼び出して祭らせると、さしもの大物主神の崇りも祭り鎮められたという。
その後、大田田根子は大物主神の祭主となり、三輪氏等の祖となったという。それは磯城族から三輪氏への三輪山の祭主の交替に他ならなかった。そしてこれ以降、記紀の記事から磯城氏の名は一再表われない。
この三輪山の出雲神大物主神の祭主交替と、御諸山=三輪山における豊城入彦命たちの夢占は無関係なのか。共に出雲神を祭る者の敗北が語られているのではないか。因みに、大物主神の祭主から降ろされた磯城族出身の百襲姫命の父、孝霊は紀伊国造族の女が母であった。豊城入彦命と同様に紀伊族の中で生れ育ったのである。 
「出雲」の国譲り 

 

紀ノ川の上流吉野川を溯ると、そこは三輪山の南麓に出ることができる。その途中、紀ノ川の北側に葛城山があり、葛城族と賀茂族がいた。そしてここにも出雲神大国主神の子、阿治須岐託彦根神を祭る高鴨社、鴨都味波八重事代命神を祭る下鴨社がある。
葛城山の高尾張には神武東征以前から葛城土神の剣根という先住の一族がいた。この葛城族もまた皇統譜欠史八代と関わり深かった。
葛城国造族の味師内宿禰は異父兄弟で紀伊国造族の武内宿禰と争って敗れてしまい、その結果、同族の大海姫命亦名葛城高名姫命は八坂入彦とともに東国尾張国へ移住せざるを得なくなる。この一族が尾張氏の祖である。
その後の武内宿禰は葛城族へ入り婿して、葛城族を支配したのは当然の成り行きであった。八坂入彦の父も豊城入彦の父と同じ崇神である。その妹の渟名城入姫は倭国魂神を祭るが、髪落ちて痩せ細り、祭ることができなかった。替わって倭国魂神を祭ったのは倭直の祖長尾市であったが、これが後の倭国造である。それまで倭国を支配していたのが三輪山を祭る磯城族であったとすれば、その消滅とともに倭国造が現れたことになる。
御諸山における豊城入彦命の夢占による敗北と紀伊族の東の国への移住、葛城山から尾張族の東国移住、さらには三輪山の磯城族の消滅など、全ては倭国で出雲神を祭ってきた者達の敗北の姿であった。とすれば、崇神以前の皇統譜欠史八代、元倭国とは「出雲国」意外ではない。そして彼等の敗北とはこの「出雲国の国譲り」だったのではないか。
そして、だからこそ坂東の毛野国の聖地、二荒山に出雲神が祭られねばならなかった。 
毛野族の系譜

 

記紀の皇統譜欠史八代の倭国とは、元出雲国だった。だから「出雲の国譲り」とは、山陰出雲のそれではなく、倭国内の出来事であり、それまでの倭国、元出雲国を構成した成員たちは何処かへ退去、移住する他なかったのである。東の国の毛野族が紀伊国から移住し、それまで祭っていた出雲神を聖地ニ荒山に遷したのもその結果であった。
とはいえ、元出雲国の成員の全てが倭国から退去したわけでもない。
例えば、毛野族が東の国へ移った後の紀伊国には、後の紀伊国造族がいた。葛城高尾張から尾張族が退去しても葛城族は残り、後の蘇我氏となった。彼等は倭国の新たな倭王権の元でそこに居着いたのである。同じことは毛野族の内部でもおきたようで、撤退組と居残り組に分れた。
東の国へ移った毛野族、荒河刀辧―豊木入日子命の『日本書紀』に出てくる系譜をあげると次のようになる。
豊城入日子命―八綱田命―彦狭島命―御諸別命―大荒田別命―上毛野君
豊城入日子命の子の八綱田命はまるで東の国に縁がない。そればかりでなく、狭穂彦王の乱に際して城に火を放って撃ったのが八綱田命であり、その勲功として倭日向武日向彦という号を授かっている。狭穂彦は『古事記』の系譜によると日子坐王を父に、春日の建国勝戸売の女、沙本の大闇見戸売を母として生まれている。日子坐王の母は丸爾族だから両親とも三輪山の磯城族とともに元出雲国の一員であった。八綱田命はかつての仲間を売って新王権についたことになる。だから八綱田命は当然東の国に縁がなかった。
八綱田命は東の国へは移住せず、紀伊国にのこったらしい。それも後に紀伊国から分割される和泉国である。というのも『新選姓氏録』にこの八綱田命をはじめ豊城入日子命を祖とする氏族が何件か載せられているからである。豊城入日子命を祖とする佐代公と茨木造、八綱田命を祖とする登美首と軽部、御諸別命を祖とする珍県主と葛原部などである。
この中で注目すべきは珍(ちぬ)県主である。三輪山の磯城族に代って大物主神を祀った大田田根子は、茅渟懸の陶邑から呼び出されていた。しかも、八綱田命が勲功として授けた倭日向武日向彦の号とは、三輪山頂の神坐日向神社の神社号に他ならないから、八綱田命と大田田根子の関係は根深いものとみなせるのである。狭穂彦王の乱とは、だから三輪山の出雲神をめぐる祭祀権闘争であったといえよう。
国造本紀によると狭穂彦王の三世孫、臣知津彦の子の鹽海足尼は甲斐国造というから、これもまた東国へ移住したらしい。 
鐸を祭る

 

ところで、狭穂彦王は妹の狭穂姫とともに果てたが、火焔の中で産まれた誉津別命のみ助け出された。しかし誉津別命は成人しても子供のように泣き、口がきけない。クグイの飛ぶのを見て初めて「何か」といったので、クグイを出雲国(一説に但馬国)で捕らえてくると、誉津別命はもてあそんで口をきいた。これは『日本書紀』のはなしで、『古事記』の記事はさらに詳しい。
本牟智和気はクグイを捕らえて与えてもうまく口がきけなかった。そこで夢占をすると出雲の大神が現れ、宮を修理すればよいという。本牟智和気は出雲へ出かけて出雲大神を拝すると口がきけるようになったので宮を造ったという。
『尾張国風土記』逸文にも後半にあたる品津別の部分の記事がある。いずれも出雲神によって誉津別命は口がきけるようになる。この出雲神を通説は当然ごとく山陰の出雲国の神とするが、誉津別命の出自からみて倭国の三輪山の出雲神、大物主神ではなかったか。
この誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、やはり卜して日子坐王の孫の曙立王・兎上王兄弟であった。そのとき曙立王は倭は師木の登美朝倉の曙立王という名を与えられたと『古事記』はいう。師木は三輪山麓の磯城に他ならず、その名において出雲神の加護を得ることが出来たのである。
さらに兄弟の系譜が『古事記』にあり、曙立王は伊勢の品遅部君と伊勢の佐那造の祖、兎上王は比売陀君の祖である。このうち比売陀君の名は他の文献に一再出てこず、himedaはmがぬけたhieda、つまり『古事記』を誦んだ稗田阿礼を出した稗田氏かもしれないと考えられる。また伊勢の佐那造とは、おそらく銅鐸・鉄鐸の鐸に関わる一族である。というのも、銅鐸について『記・紀』はあからさまに語らないが、齋部宿禰廣成が上申した『古語拾遺』には鉄鐸を「サナギ」としており、佐那造の名に重なる。倭国を追われた出雲族とは鐸を祭祀したのだ。 
近江国日枝神社

 

近江国琵琶湖西岸の大津市坂本に日吉大社がある。元は日枝神社といい、比叡山を神体山とする。祭神は大山咋神に加えて大己貴大神を祀っている。大山咋神については『古事記』にも「近淡海国の日枝山に坐す」とあるから、元々の地主神である。大己貴神がここに祀られた経緯は社伝等によると、大化改新後に白村江の戦いに敗れた天智朝が近江の大津へ遷都したとき、宮城守護のために大和の三輪神社から勧請したとされる。
比叡山に天台宗の延暦寺が開かれ、その南側の志賀の長等山麓に薗城寺(三井寺)が起こった。長等山の薗城寺は神仏習合の本地垂迹説をもって比叡山延暦寺に対立する。寺門派といわれた薗城寺の言い分は、志賀の地こそ天智朝が近江京のあったわが国中枢の地と称えた。薗城寺の寺伝では天智が企図して大友皇子が創建したという。山門派の延暦寺は薗城寺の言い分を認めた上で、天智よりはるか以前の成務朝は坂本の安太に高穴宮を営んだから、こちらがわが国の中枢地だと主張して対抗した。因みに成務は葛城の高尾張から尾張国へ移住した八坂入日子の妹の八坂入日売が美濃国泳宮にいたとき、丹波国の景行があいて産まれた。
つまり、日枝山に出雲神を祀る日枝神社は、それほど古からあるという後世の主張である。天智の近江遷都の翌年、宮城の西北の山中に崇福寺建立のために地ならしをしていたとき、高さ五尺五寸(約167cm)の銅鐸が掘り出されたと『扶桑略記』が記している。最初の銅鐸出土記事であり、この寸法が事実とするば最大の銅鐸である。大津宮の所在や規模も明らかになっていないから、崇福寺の正確な位地も分からない。この銅鐸を祭祀したのは何者なのか。
この坂本から十キロほど北方の小野に小野神社がある。和迩の地名や和迩川が琵琶湖に流こんでいるように、和迩族の居住地である。式内社小野神社を祀る小野氏も和迩族から出た。祭神は和迩氏祖の天足彦国押人命と七世孫で小野氏祖の米餅搗大使臣命を祀る。付近一帯に近江国有数とされる古墳時代前期の前方後円墳の大塚山古墳はじめ、多数の古墳がある。
倭国を追われた出雲族は鐸を祭祀していたとすれば、この和迩族出身の小野氏が最も崇福寺から出土した銅鐸を祭祀した可能性が高い。というのも、小野氏は信州伊那の小野神社を祀り、諏訪神社などと同じく鉄鐸を祭器としている。諏訪地方は天竜川を溯った三遠式銅鐸の終着地点である。
小野氏が祭祀したであろうと思われる鉄鐸は、さらに東山道を南下して、毛野国は毛野族の聖地ニ荒山に祀られた。ニ荒山頂から百三十一口の鉄鐸が出土している。ニ荒山神社の初期の神主は小野氏であり、小野猿丸大夫の伝説をのこしている。因みに猿を神の使いとしたのは日枝神社である。 
ヤマトタケルの東征

 

毛野族の倭国あるいは紀伊国からの東の国への移住は疑うべくもない。とはいえ、その移住が簡単に為されたはずがない。『日本書紀』は豊城入日子命に東国統治を命じたとしても、豊城入日子命自信が東の国へ移った形跡は記していない。孫の彦狭島命が東の国に就こうとして、旅の途中で客死してしまい、逆に東の国の人々が屍を担いで上毛国へ運んだという。曾孫の御諸別命の代になって本格的に東の国の統治が始まる。『先代旧事紀』の国造本紀にも、崇神朝に彦狭島命を上毛野国造、仁徳朝に豊城入日子命四世孫の奈良別命を下毛国造にしたとある。
毛野族の東の国統治記事は蝦夷征伐に終始する。この蝦夷は東北の蝦夷地とする説もあるが、それは後代のことであろう。弥生時代後期の古墳時代の初めの東の国には、異なる土器がそれぞれの地域圏を形成していた。上毛野地方では樽式土器をもつ先住民がいたが、しだいに陶汰されて東海系の石田式土器に取って代わられている。東の国は後年になっても東夷(あづまえびす)と呼ばれたくらいだから、毛野族が平和な移住であったとは考えられない。
例えば出雲国の国譲りに際して『古事記』は、大国主神の子の建御名方神は科野国の州羽海に閉じ込められたとするが、地元の諏訪神社の伝承では、諏訪の守屋神と戦った末に征服した伝える。毛野族の東の国移住に際しても同様なことがあったのではないか。『常陸風土記』は律令体制下になってから編まれたものだが、常陸の蝦夷は討伐されるべき賊として、策略によって皆殺しにする行為を、さながら英雄的偉業のように讃えている。
毛野族は紀伊国から出たことは既に述べた。豊城入日子の先祖と見なせる名草戸畔の子孫の智名曽の娘の乎束媛に、道臣命を祖とする大伴氏の角日命が娶いて豊日命が生まれた。その子の武日命はヤマトタケルに従って東の国征伐についた一人である。東征には他に吉備武彦がいたが、紀伊の女を母とする孝霊の子あるいは子孫にあたる。日本武尊自身も播磨国出身ではあるが、その末にあたる。
ヤマトタケルの東征は日本武尊一人というより、この時代の多くの東征を仮託した物語ではないかといわれる。そこに関係する系譜からすると、あたかも毛野族の東征であるかにみえる。ヤマトタケルが倭国へ凱旋できなかったように、毛野族もまた東の国へ居着いてしまう。 
毛野族の秘密

 

ところが大和国に律令政権が樹立されると、毛野族は東国六腹の朝臣として上毛野君・下毛野君をはじめとする諸族が、大和政権の中堅官僚として登場するのである。
天智二年(663)の白村江の戦いに前将軍の上毛野君雅子、天武元年(672)の壬申の乱には東国勢として佐味君宿那麻呂と大野君果安、天武十年(681)『日本書紀』編纂の史局設置の際、上毛野朝臣三千は諸臣の首座に名があがっている。また大宝元年(701)の大宝律令撰定の実務統括者に下毛野朝臣古麻呂が就いている。
毛野族が紀伊国出身であり、元倭国で出雲神を祭り、国譲りの結果、東の国へ移住したのなら、追われた大和の政権の中枢に、このとき何故返り咲くことができたのか。やはり毛野族は、倭国政権による東の国の征討と支配の尖兵だったのか。
問題は「出雲の国譲り」にある。
国譲りの「出雲」は山陰出雲国にはない。それにもかかわらず「出雲の国譲り」の結果としての出雲大社が山陰の出雲国に存在する。
上毛野朝臣三千は『日本書紀』編纂に際して、その立場から自族に有利な内容を採用すべく働きかけたであろうことは容易に想像できる。とはいえ、例えば系譜を仮冒するなどといった事で満足しただろうか。もっと国家の誕生に関わる根源的な場面で、自族に有利な展開を望んだのではないか。
毛野族が古来から出雲神を祭祀したことは、覆うべくもない事実としてあった。しかし、その「出雲国」を自から手放したという、屈辱的な立場に甘んじることは出来なかった。
そこで山陰にあった出雲国が身代わりとして引き出され、あたかも山陰出雲国が倭国政権に国譲りしたかのごとき「出雲の国譲り」神話を創出したのだ。山陰の出雲国には国譲りの主人公という栄誉ある立場と、国譲りの結果を象徴する証拠として出雲大社が与えられた。出雲国は名を採り、毛野国は実を取ったというべきである。
だが、毛野族は何故そこまでしなければならなかったのか。
それが利根川の対岸、武蔵国の国造族は正真正銘の出雲族、山陰出雲の出雲臣の末裔を称していたことによる。出雲神を祀る毛野族は武蔵出雲族との、坂東における覇権をめぐって、それは国家レベルへ持ち出された途方もない謀略だったのではないか。 
武蔵国造の系譜

 

武蔵国造は天穂日命にはじまる出雲国造の出雲臣を祖とする。『先代旧事紀』国造本紀に
无邪志国造、志賀高穴穂朝(成務)に出雲臣祖の名をニ井之宇迦諸忍神狭
命の十世孫、兄多毛比命を国造に定め賜う
とある。武蔵国造家の系譜もこの間を埋めて、先祖が出雲族であることを主張している。
この記事は『記・紀』とも一致しているから疑うべくもない。
『古事記』神代には「天菩比命之子建比鳥命、此れ出雲国造、无邪志国造、上兎上国造、下兎上国造、伊自牟国造、島津県直、遠江国造等之祖也」とあり、『日本書紀』一書には「天穂日命、此れ出雲臣、武蔵国造、土師連等遠祖也」という。
ところが、国造本紀には武蔵国が二つあったかのごとき次の一条が続いて記されている。
胸刺国造、岐閉国造祖の兄多毛比命の兒、伊狭知直を国造に定め賜う
伊狭知直は神功紀元年に海上五十狭茅と出てきて、上にあげた『古事記』の上兎上・下兎上に分れる以前の海上の内、上海上(千葉県市原市)の人である。国造家の系譜では武曾宿禰になっているが、その子の宇那毘足尼が海上五十狭茅かもしれない。これが无邪志国の兄多毛比命を父にもち、胸刺国造であったというから、まずこの三角関係を整理しなければならない。ともかく武蔵国造家の系譜は複雑である。 
出雲族の末

 

武蔵国造家の治所は代々足立郡(埼玉県)の郡家郷大宮にあった。大宮には出雲神を祀る氷川神社があり、国造家が神主である。武蔵国が二つあったとすれば、海上の伊狭知直が国造になった胸刺国はここであろう。无邪志国の兄多毛比命は多毛比=多摩の府中にいて武蔵大国魂神社の元になる大麻止乃豆乃天神社をを祀っていたものと思われる。多摩川の渡し津の神を祭神とした。
无邪志国は多摩川流域にあり、胸刺国は元荒川の綾瀬川流域にあった。兄多毛比命は多摩川を下って東京湾に出て、海上の女に通って伊狭知が生まれ、さらに伊狭知は東京湾から元荒川を溯って胸刺国足立郡大宮の国造家へ婿入りした。
武蔵国造家は埼玉県大宮の氷川神社を本拠に出雲神を祀っていた。それは武蔵国造が出雲族の末であることを何よりも証している。出雲神を祀る氷川神社の分布は、後世に勧請されたものもあるだろうが、武蔵国全域におよんでいる。それは決して利根川から東側の毛野国には渡らない。
この武蔵国造が出雲族の末であるという系譜はどのようにして出雲国から引かれたのか。出雲族が大挙して武蔵国へ来たなどという兆しは微塵もないのである。
出雲臣祖の天穂日命の孫、出雲建子命はまたの名を伊勢都彦というと国造系図にある。
伊勢都彦の名は『伊勢風土記』に出雲神の子としてあり、神武東征の際、追われて信濃国へ避国したという。ここから高群逸枝は、信濃国に笠原の地名多く、また諏訪神氏系図に笠原氏があり、諏訪神氏は出雲の大国主命の後であるから、伊勢都彦は諏訪神氏を頼って信濃国へ行き、そこで笠原氏を発したのではないかという。そしてこの信濃国の笠原氏の系が武蔵国造族の笠原にもたらされた。笠原は和名抄に埼玉郡笠原とあり、大宮の北方北方十数キロの鴻巣市笠原であるが、下にあげるように『日本書紀』の武蔵国造の記事に出てくる。
つまり埼玉から多摩の兄多毛比命の母の元に通ったのは笠原の男だった。足立郡笠原から多摩の女に通って生まれたのが无邪志国造の祖兄多毛比命であり、この国造の系が海上の伊狭知によって再び足立の大宮に引かれてたという。だから足立郡大宮の国造家は初めは国造ではなかった。ということは、出雲族の末でもなかったことになる。  
武蔵国造の乱

 

唐突に過ぎると思えるかもしれないが、その可能性は大いに有り得る。出雲族が信濃国へ避国したことは『古事記』に、出雲の国譲りによって建南方命が諏訪湖へ追われたとある。伊勢国と信濃国の諏訪は、共に三遠式銅鐸の発掘地である。中央構造線の尾根筋をたどるか、天竜川を溯れば伊勢と諏訪は指呼の間にある。
では、信濃国と武蔵国にそうしたルートは有り得たのか。武蔵国では多摩川支流の仙川流域で、縄文時代はおろか先土器時代以来の石器製作場所が発掘され、その原石の黒曜石は長野県の霧ケ峰や和田峠の原産地から運ばれていた。だから出雲族を祖とする諏訪神氏の系譜が武蔵国造族に引かれた可能性は充分考えられるのである。
无邪志国多摩の国造はいつ足立郡の大宮へ移ったのか。
『日本書紀』安閉紀に、武蔵国造をめぐって同族内の争乱があったと記す。笠原直使主と同族の小杵が争い、年経ても決着が着かなかった。そこで小杵は利根川対岸の上毛野君小熊に援軍をたのみ、笠原直は朝廷に訴えて勝利を得たとある。
記事から小杵の所在地は分からぬが、乱の決着後、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を朝廷に奉ったといい、これらの比定地が多摩南部にあることから、无邪志国多摩にいた兄多毛比命の国造族といわれる。
この文献上の武蔵国造の乱を、両地方に分布する古墳の消長から裏付けた説がある。
武蔵府中から十数キロ多摩川を下った田園調布にある一連の大型古墳群は、四〜五世紀の間栄えて五世紀末に衰退した。すると埼玉県行田市にある埼玉古墳群が栄えだした。大宮の北方三十キロほど離れているが、ほぼその中間に笠原がある。国造系図にも「足立郡足立府また埼玉郡笠原郷に家居し云々」とある。この時期をもって武蔵国造の治所は多摩の府中から埼玉の大宮へ移ったとみなすことができる。その後、大宮の武蔵国造家は国司時代になって国造が廃しされた後も、一般の国造と同様に足立郡領家として続くのである。  
多摩の王

 

この国造族の造った埼玉古墳群の中の稲荷山古墳から発掘された銘文の施された鉄剣がある。辛亥の年にオワケノ臣が上祖オオヒコ以来七代にわたる系譜とワカタケル大王に仕えたことを利刀に刻んだという内容だが、その解釈をめぐって諸説紛々である。オオヒコを孝元の子大彦とし、ワカタケル大王を雄略と比定することが学会の通説のようである。しかしオワケノ臣はじめ七代の系譜中、誰一人その名を武蔵国造系譜の中に見出せないことから、中央にいたオワケノ臣が武蔵国造に下賜した、あるいは中央から武蔵国へ派遣されたオワケノ臣が死亡して埋葬された、という説まである。いずれにしても皇統譜へつなげないと気がすまい、という解釈になっている。
武蔵国造の兄多毛比命は『先代旧事紀』国造本紀、『新撰姓氏録』、『常陸風土記』などを重ねてみると、坂東におけるその勢力は並々でないことが判る。先にあげた海上の伊狭知直の他に岐閉国造(磐城)の祖でもあった。また近くの菊麻国造(市原)の大鹿国直も兄多毛比命の子である。そして相模国造は弟の弟武彦命である。
さらに武蔵国造と同じ天穂日命の子孫として八世孫の忍立化多比命は上海上国造、その孫の久都伎直は下海上国造である。この海上の地は銚子付近にあたる。
同じく天穂日命八世孫で茨城国造祖の美都呂岐命の兒の比奈羅布命は新治国造(常陸国新治郡)、その子の彌佐比命は多珂国造(常陸多珂郡)、同じく大伴直大瀧は阿波国造(館山市)である。『常陸風土記』は彌佐比命=建御狭日命にわざわざ「出雲臣の同属なり」と注記している。
それは武蔵・相模国から房総半島、常陸国、磐城国へと広範囲地域を押さえており、天津日子命系の茨城国造祖建許呂命を頂点とした上総国から磐城へ延びる勢力と競合するかのようである。
また、東京湾に面する港区の台地上には全長百米の芝丸山古墳があって、田園調布の古墳群より早い時期のものではないかといわれる。そこは埼玉の大宮から荒川水系が東京湾に流れ込み、多摩川河口から房総半島へ東京湾を渡海する交点に位置する。多摩・大宮・市原の三地点の真ん中にあり、三者の交流の場として最適な場である。
おそらくここから多摩川を溯って本拠を構えたのが多摩の无邪志国で、荒川を溯ったのが埼玉の胸刺国であろう。こうした両者の関係からみて、多摩の无邪志国造族が滅ぼされるまで、足立郡の胸刺国は当然その支配下にあったはずである。そして彼等正しく同族だから、鉄剣銘文にあるように、无邪志国造の「天下を佐治」したと公言しても何らおかしくはない。つまり「天下」とは後の畿内大和の天下とは限らず、武蔵国の多摩の王、多毛比命の一族であったかもしれないのである。
そうだとすると、出雲臣を祖とする国造系図と鉄剣銘文のオワケノ臣の系譜の食い違いを、とのように解釈し説明すれがよいのか。ここで系譜・系図の読み方、族の成り立ち方について触れなければならない。 
武蔵国造は物部氏

 

武蔵国足立郡の氷川神社で出雲神を奉祭した武蔵国造族は、氷川神社旧禰宜西角井氏が伝える国造系図によると、元来は物部連氏であった。
同系図によると、宇那毘足尼の子が二人いて、兄の筑麿は物部直の祖で、弟の八背直は膳大伴直の祖とある。物部連が物部直に改姓したことは、多摩郡と埼玉郡の武蔵国造の乱から五六十年後の推古朝に、聖徳太子の舎人だった物部連兄麿が武蔵国造を賜ったという『太子傳暦』の記事によってわかる。直は国造の姓だから、このとき物部連から物部直に改姓して国造になったのである。おそらく多摩の一族を亡ぼした埼玉の笠井一族の同族であろう。
武蔵国造になった兄麿が系図にいう物部直祖の筑麿と同一人かどうかは不明だが、足立郡の国造治所を継いだのは弟八背直の子孫大伴直の系で、神護景雲元年紀に武蔵国足立郡の大伴直不破麻呂が武蔵宿禰、武蔵国造を賜っている。
兄麿の子孫は足立郡と多摩郡の間にひろがる入間郡にいて、神護景雲二年(768)に入間郡の物部直広成は入間宿禰を賜姓した。『姓氏録』左京神別に「入間宿禰、天穂日命十七世孫天日古曾乃日命之後也」とあって、その出自を出雲祖神としてる。『延喜式』神名帳の入間郡には物部天神社を載せているが、その祭神は物部氏の祖神饒速日命ではなく、出雲神の天穂日命であったから、物部氏にして出雲神を祭るという関係にある。 
系図の摩訶不思議

 

一般に古系譜や系図は、何の疑いもなく特定の「一族」の系譜・系図と見なされている。しかし少し丁寧に見ると、実際はその中に明らかに異族の人物名が混入していることが少なくない。
武蔵国造系図でいうと、この系図は埼玉の氷川神社を奉際した北武蔵の国造系図であるにも関わらず、南武蔵の多摩地方にいたと見なせる兄多毛比命の名が連ねられている。先祖の天穂日命や出雲建子命、一名伊勢都彦などは既に述べたように異族の出雲族である。系図が「一族」のものであるなら、こうした系譜・系図が堂々と残されるはずがない。
北武蔵の国造族は元来は物部連氏であったことは、系図をのこした一族が証してる。既に述べた系譜を逆にたどれば、物部連氏を母胎として、そこへ海上(千葉県市原市)を経て南武蔵の多摩から出雲神の系譜がもたらされた。系譜・系図の上では、先祖があって子孫が生まれたのではなく、物部連氏という氏名の母胎が先行してあり、そこへ出雲臣という出自としての父系が誕生したのである。
考えて見るまでもなく、異族同士に婚姻関係が生ずれば、異代ごとにその数だけ先祖がある。祖は数多く生ずる多祖現象をもたらす。それが結果として一祖にしぼられるのは、今日の先祖捜しに明白なように、歴史上の有名人を捜し当てて嬉々とする様に似て、良祖や大族の先祖が選択されたにすぎない。だから北武蔵の国造族は氏名を物部氏としながら、出自を出雲氏としたのである。これが古系譜・系図の摩訶不思議な点である。
この点をもう少し突き込んでいえば、父系の出雲系譜がもたらされる以前の、物部氏自身の先祖系譜はこの系譜からは不明ということになる。同様に多摩の兄多毛比命の系譜も、母胎となる自族内の系譜は前後共に不明なのである。 
倭国の物部氏

 

武蔵国造系図を伝えたのは国造の氏神氷川神社の旧禰宜西角井氏であったが、その上に神主の岩井氏がいた。この岩井神主家の系図は古系図の体をなさず偽系図と指摘されているが、その先祖は物部武諸隅命より出て、その子物部多遅麻とつづき、孫の物部宅勢が倭建命の東征に奉仕して、武蔵国に氷川社を斎き祭るようになったという。『旧事本紀』天孫本紀の物部多遅麻の子五人の中に物部宅勢なる名はなく、ここで既に偽系図の烙印が押されてしまう。
ところで、この物部氏とは何者なのか。
記紀や天孫本紀の所伝では、神武東征に先立って降臨した物部氏の祖神饒速日命の伝説があるため、通説では物部氏そのものが早くから倭国に存在したかの様に解釈されている。ところが、記紀の物部氏が実際に名が出て活動するのは、先に述べた三輪山磯城族に象徴される「出雲の国譲り」の後に、祟神朝になってから現れる。中央物部氏の氏神社のごとき石上神宮の創設も同様である。つまり、物部氏とは磯城氏を倭国から追い出し、紀伊国から東の国へ毛野族を逃避・移住させた片割れであったことになる。
そうすると、物部氏と共に「出雲の国譲り」をさせた祟神朝の正体を吟味しないわけにはいかない。祟神の周辺系図を記紀などから構成してみる。
倭国の「出雲国」たる三輪山の磯城氏最後の孝元(大倭根子日子国玖琉命)は欝色雄命の妹の欝色謎命の間に大彦命・開化(若倭根子日子大毘毘命)をもうけた。また一方で大綜麻杵の女の伊香色謎命に彦太忍信命が生まれた。ところが欝色謎命の子の開化は、継母の伊香色謎命に祟神(御真木入日子印恵命)を生ませた。この継母の伊香色謎命の一族は物部氏という氏名をもつ以前の前身である。つまり祟神は物部遠祖大綜麻杵の物部一族に生まれた。そして祟神は父開化の出た欝色謎命一族の御間城姫との間に垂仁をもうけて跡継ぎとしたのである。
祟神の母の伊香色謎命は『古事記』では内色許男命の女の伊迦賀色許売命と記す。また天孫本紀の物部氏系譜では、大綜麻杵を欝色雄命の弟としており、祟神の両親は極めて近しい関係にあったことがわかる。 
祟神朝内臣氏

 

祟神の父系であり、そこから出た女を妃とした欝色雄命・欝色謎命の一族とは何者なのか。
欝色雄命を『古事記』では内色許男命とつくるように内臣氏ではないかと考えられる。因みに上の系図では載せなかったが、伊香色謎命のはじめの子の彦太忍信命の孫は紀伊から出たの武内宿禰と葛城の甘美内宿禰である。二人の父は書紀では屋主忍男雄心命という。武内の武や甘美を美称とすれば、二人は内宿禰である。姓氏録では彦太忍信命の後を内臣氏とする。
この内臣氏の本貫地は木津川が巨椋池の淀口に流れ込む手前の西側にあった。現在の京都府八幡市内里、旧内郷あるいは有智郷で、南北にのびる男山丘陵の東麓に位置し、おそらく古代には木津川氾濫地帯の微高地であったろう。さらにいえば、木津川が淀川と合流して南下した枚方市の中ほどに伊加賀の地名もある。ここに物部氏の遠祖もいたのではないかと想定できる。
内臣氏の拠点は葛城山の南、奈良県五條市の北宇智のあたりにもあった。この南側に紀の川が流れており、紀伊の武内宿禰や葛城の甘師内宿禰と関わりあったものと思われるのである。甘師内宿禰は葛城を追われ、武内宿禰が葛城を牛耳ったことは、倭国三輪山の「出雲の国譲り」で既に触れた。
北武蔵の国造となる物部連氏は、こうした物部氏から分かれた一族であった。
祟神の義父で叔父にもあたる大彦命がいる。北武蔵の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文の系譜に、古墳の主と見なされているオワケノ臣の上祖の名と一致していることから、通説ではオワケノ臣は大彦命の子孫とされる。
大彦命は祟神朝に四道将軍の一人として北陸道の越国へ派遣された。その子の建沼河別命も東海道十二国へ派遣された。後の越後国頚城郡に久比岐国があり、式内社奴奈川神社に沼河比売が祭られている。沼河比売は八千矛神と交渉のあった高志国の姫神である。大彦命の子の建沼河別命はその名からして高志国の出であろう。
この大彦命や建沼河別命を始祖とするのは阿倍臣・膳臣・越国造等七族あるが、その中に武蔵国造は含まれていない。武蔵国造と内臣族から出た大彦命は系譜の上ではつながらないが、物部氏としての武蔵国造は中央物部連のある種の支配あるいは連携があったものと見なせる。 
再び「出雲の国譲り」

 

稲荷山古墳の鉄剣は銘文の系譜のみ検討の対象にされているが、物としての鉄剣に注目した説がある。鉄剣に付着した錆を分析した結果、その地金は中国の江南地方産の鉱石で、しかも炒鋼法という中国の製鉄技術で製錬された利刀であることが判ったという。こうした特殊な物や技術は直ぐに倭国政権から下賜されたと解釈されがちだが、炒鋼法による鉄器の分布は北陸・東山・北関東にしかしないという。越国は後に渤海使が往来した大陸への窓口である。
奴奈川神社を祭る高志国は姫川の翡翠産地であり、ここから翡翠の大珠が武蔵国へも運ばれているから、東京湾の武蔵国と日本海の越国を結ぶルートは縄文時代から確実に存在したことになる。炒鋼法による特殊な鉄剣、稲荷山古墳の鉄剣はこのルートにのって武蔵国へ運ばれたことになる。
このように武蔵国造と稲荷山古墳の鉄剣の関係を見てくると、通説のごとくオワケノ臣の上祖は大彦命のごとく条件がそろってしまう。
しかし、鉄剣には系譜ばかりでなく、辛亥の年に作られたと銘文にある。さらに、オワケノ臣は杖刀人の首として、ワカタケル大王が斯鬼宮にいたとき天下を佐治したという。通説はワカタケル大王を雄略天皇と解し、雄略十五年(471)の辛亥の年とする。
稲荷山古墳の築かれた時期を武蔵国造の乱によって、北武蔵の物部氏が南武蔵の多摩から武蔵国の主権を奪取した前後とすれば、武蔵国造の乱があった安閉元年(528-534)に近い辛亥の年(531)ということになり、雄略天皇とは何の関係もないことになる。オオヒコやワカタケルといった普通名詞をもって固有の名に比定するには、ある種の思い込みがない限り無理がある。
鉄剣は南武蔵の多摩の王に杖刀人の首として仕えたオワケノ臣かその子孫が、乱後、国造となって最早現世では無用となった鉄剣を埋葬したのではないか。
武蔵国造の乱に祭し、北武蔵の物部氏は中央の物部氏に加勢を求めた。倭国政権と一身同体の中央物部氏はこの機会を逃さず武蔵国を制圧した。それに対して南武蔵の国造は隣国毛野国へ加勢を求めた。毛野国にとって倭国におけるかつての「出雲の国譲り」以来、物部氏とその政権は年来の宿敵であった。
武蔵国造の乱――それは坂東における再度の「出雲の国譲り」となった。ことは幻想の領域に属する。「出雲」とは、そのとき負の徴に他ならない 
 
坂東の役割

 

坂東最古の寺谷廃寺 
天平十年(738)聖武天皇によって国分寺・尼寺創建の詔が出され、諸国に創建された。それ以前、各国に寺院がなかったわけではない。飛鳥の官寺も始めは氏寺として創建されたように、坂東各地にも既に私立の氏寺が建てられていた。
その中で最古とされるものが武蔵国比企郡(埼玉県比企郡滑川町羽尾)の寺谷廃寺である。発掘された軒丸瓦の破片は、舒明十三年(641)に建立された飛鳥の山田寺のものと同じ形であったことから、七世紀前半に造営されたものと推定されている。
初期の氏寺は在地の豪族的な氏族の手になるものが多いが、比企郡には大きな氏族の存在が確認できず、あたらしい入植者であ壬生吉志氏によって営まれたという原島礼二・金井塚良一説がある。その切っ掛けは、安閑紀にいう所謂「武蔵国造の乱」の結果、四箇所に設けられた屯倉の一つ横淳屯倉を管理するために、壬生吉志氏は比企郡へ入植したという。
これは横淳を埼玉県比企郡吉見村に比定された説に拠っている。他の橘花・多氷・倉樔屯倉が全て武蔵国の海岸に近い地域に比定されているのに、ここだけが内陸にあり、しかも多摩の元国造に勝利した笠原の地に近い比企郡に屯倉画設けられたのか、その点が不明である。
こうした最も基本的な点を捨像したまま、寺谷廃寺の壬生吉志氏創建説は別な面から批判されている。横淳屯倉の設けられたのが安閑朝であるとすれば、壬生部が置かれたのは推古朝だから、壬生吉志氏が横淳屯倉の管理者として比企郡へ入植するには開きが有り過ぎる、というのが森田悌の批判の第一である。
壬生吉志氏という氏名は壬生と吉志の複姓にも見えるが、この場合の吉志は臣や連と同様な吉志という姓で、壬生を氏名とする。ところが、吉志氏という氏名を持つ一族もあるから紛らわしい。
吉志氏の本拠は摂津国鴨下郡吉志部村、現吹田市岸部に吉志部神社がある。壬生氏が推古朝に置かれた壬生部に始まるとすれば、吉志氏はずっと早くから一族を成していた。
吉志は吉士・吉師・岸にも作り、高麗系の渡来氏族である。もっとも、吉志は新羅国の官位十七等の第十四位にあることから新羅系とも解されているが、高麗をはじめ安倍氏と供に吉志一族が吉志舞を奉したと有職故実書『北山抄』にあるから、その出自は高麗系である。
この吉志氏には難波吉士や草壁吉士などの地名や氏名をもつ一族があるように、壬生吉志氏も壬生氏の一部が志氏の姓をもつものである。おそらく高麗系の渡来人が壬生氏の父系を得て壬生吉志氏となったのであろう。
坂東最古の寺谷廃寺は何故、壬生吉志氏の手になると見なされたのか。屯倉管理云々はともかくとして、比企郡の北隣が男衾郡から、後に大変な私財を持つ壬生吉志氏が出た。比企郡に入植した壬生吉志氏がやがて男衾郡へも進出した、というのが先の説である。
男衾郡の壬生吉志氏については後に触れるとして、ここでは先の説を否定した以上、寺谷廃寺は誰によって成ったか明らかにする必要がある。
評や郡制が敷かれたのは大化の改新以降の律令制度によってであり、それ以前は氏族制度による氏族の国造支配下にあった。大化の改新以前の武蔵国造は「武蔵国造の乱」に勝った笠原氏、つまり本姓物部氏である。その後、推古朝に厩戸皇子の舎人だった物部連兄麻呂が武蔵国造の姓を賜った。この兄麻呂によって武蔵国へ仏教が導入されたであろうことは、想像にかたくない。
武蔵国の物部氏は『先代旧事紀』や『武蔵国造系図』によると、出雲族から系譜している。国造府のあったと思われる後の足立郡(元埼玉県大宮市)には氷川神社を祭るが、別に出雲系の神社も奉祭していた。寺谷廃寺のある比企郡内に式内社の現吉見町御所に出雲伊波神社がある。
寺谷廃寺と出雲伊波神社を八粁ほど東西に結んだその中間の南側に、武蔵国造物部氏の埼玉古墳群と同じ頃に築造された野本将軍塚古墳がある。埼玉古墳群の中の二子山古墳につぐ全長百十米の大型前方後円墳である。寺谷廃寺もこの古墳の一族であり、出雲伊波神社を祭る国造物部氏のものと見なせる。
それでは、物部氏と壬生吉志氏はまったく関係ないのかというと、そうでもない。壬生吉志氏のいた男衾郡にもまた物部氏の出雲系神社があるからだ。 
征夷将軍入間宿禰広成

 

武蔵国造の姓を賜った物部連兄麻呂の子孫に物部直広成という男がいた。天平宝字八年(764)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱に功を挙げて、その四年後の神護景雲二年(768)七月、一族六人と供に入間宿禰賜姓を賜姓し、広成は正六位上に叙され勳五等を得た。一族は入間郡司を務めた。
武蔵国の物部直広成が京都の戦乱に功績を挙げたのは、他でもない。地方首長が服属の徴として子弟を人質に差出した舎人の一人であった。広成が特別であったのは、聖武天皇が皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇)の地位を擁護するための親衛隊に、騎馬兵を主体とする内廷の武力装置として編成した授刀舎人(たちはきのとねり)を設置した中にあったことである。
恵美押勝と孝謙天皇体制が決裂して押勝が謀反におよんだ時、広成たちの授刀舎人隊は孝謙女帝側にあった。一戦に敗れた押勝が近江国から越国へ逃亡するために愛発の関を破ろうとしたのを、授刀舎人隊はかかんに防戦して押勝一行が進退を失うという大功であった。
武蔵国造物部氏改め入間宿禰氏とは、こうして天皇に親しく仕える一族であった。この物部氏が坂東にいち早く仏寺を建立したのも、大和朝廷の政策に沿ったものであった。しかし、朝廷の政策に沿って仏寺を建立することと、天皇の親衛隊の一員として精勤することの間に、どのような関わりがあったのか。この段階では、未だ分からない。
入間宿禰広成が中央で認められたのは、そのころ恵美押勝の率いる紫徴中台の次官の一人に、入間郡から割いて設けられた高麗郡出身の背奈王福信がいたことによる。背奈王福信は後に高麗朝臣を賜姓して武蔵守にもなった。高麗郡は坂東諸国から高麗人を集めて霊亀二年に(716)に建郡され、ほぼ同時に女影寺廃寺が創建され、比企郡の寺谷廃寺と供に北武蔵における仏教布教の一翼を担った。
宝亀五年(774)以降、陸奥国は動揺していた。神護景雲元年(767)伊治郡に造営された伊治城(宮城県栗原郡)があったが、宝亀十年(780)同郡の大領伊治公砦麻呂と牡鹿郡の大領道嶋大楯が諍いを起こした。伊治砦麻呂と道嶋大楯は供に元蝦夷族長で、大和政権の陸奥経営に協力してそれぞれ大領に任じられていた。道嶋大楯は恵美押勝の乱に大功を揚げた一門の道嶋宿禰の権威を笠に、砦麻呂を侮蔑したことから諍いとなり、砦麻呂は大楯を血祭りに揚げ、大楯を信任する陸奥出羽按察使紀広純を殺し、さらに南へ攻め込んで多賀城を焼討ち、略奪をほしいままにして引き揚げるという叛乱事件が起きた。
朝廷は翌年の天応元年(781)藤原朝臣小黒麻呂を持節征東大使として、伊治公砦麻呂を征討した。入間宿禰広成もこの征討軍に参加したらしく、同年に従五位下に叙せられている。しかしこの征討は不調で、その後も蝦夷の動揺が続いた。
延暦元年(782)陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持、陸奥介入間宿禰広成を任命、翌年には家持を持節征東将軍に任命して再び蝦夷征討を企てた。入間宿禰広成は同三年(782)に家持の下で軍監となり、続いて同七年(787)二月に近衛将監、翌月には征討副使に任じられた。延暦四年(786)に没した大伴家持に替わって七月に紀朝臣古佐美が征東大使に任命されると、入間宿禰広成は副将軍になった。歴戦の勇士の目を見張るような昇進ぶりである。
翌年、別将に二将を加えて三軍編成で進軍、初めて北上川を渡って蝦夷の総師アテルイの居所に近づいて交戦、勝利を収めた。ところが、さらに進撃したところを挟撃されて大敗北してしまった。同年六月の勅は征討軍の作戦の失敗を指摘し、広成ともう一人の将軍は歴戦の経験を買われて副将軍に任命されたにも関わらず、自ら戦わなかったとして名指しで非難された。
それでも入間宿禰広成は許されたらしく、その後は、翌延暦九年(790)常陸介となり、翌延暦十八年(799)には造東大寺次官に任命された。そのころ、蝦夷征伐の征夷大将軍には彼の坂上田村麻呂が任命されていた。そして、度重なる蝦夷征伐に駆り出された坂東の民は疲れきっていた。 
道忠教団

 

武蔵国から出た入間宿禰広成が軍事貴族の走りとして蝦夷討伐に活躍していた頃、坂東にはもう一つの動きがあった。
七世紀も中頃から後半には、坂東の各地に氏寺が創建されるようになった。上野国の山王廃寺(前橋市総社町)、下野国の浄法寺廃寺(那須郡小川町浄法寺)、下総国の龍角寺(印旛郡栄町)上総国の大寺廃寺(木更津市)などがそれである。
下野国にはもう一つ下野薬師寺(河内郡南河内町)が重要な古寺としてある。創建時の飛鳥川原寺式軒丸瓦は上総国の大寺廃寺に次ぐ古いものとされ、天武朝期の建立とみられている。大和の薬師寺は天武が皇后の菟野讃良皇女、後の持統の病気平癒を願って藤原京に建立したとされるが、おそらく下野薬師寺も中央との関係の中で創建されたのであろう。
というのも、下野薬師寺は下毛野氏の氏寺と見なされており、下毛野朝臣古麻呂は藤原不比等のもとで『大宝律令』の制定にあたるほど中央との関係が深かったからである。しかも、天平十年(738)に聖武天皇の諸国国分寺創建の詔が出される五年前、下野薬師寺造寺司が組織されているから、発掘調査で明らかになった大和の薬師寺に類似した伽藍配置も、このとき再建された遺構といえる。
『続日本紀』嘉祥元年(848)に引く下野国司の上申には「体制巍々として宛も七大寺の如く、資材亦巨多なり」と、伽藍の威容と繁栄が述べられている。
下野薬師寺が如何に中央から重視されていたかは、再建から三十年ほど後の天平五年(733)筑紫の観世音寺と並んで下野薬師寺にも戒壇が設けられたことである。戒壇とは僧侶になるために必要な戒律を授ける儀式の場であり、それを下野薬師寺に設けたということは、多くの氏寺が官寺となった中でも下野薬師寺は国家仏教布教の坂東における重要な拠点とされたことを意味していた。
そして、下野薬師寺の戒壇には鑑真の弟子の中でも「持戒第一」といわれた道忠が下向したと伝える。そこで道忠は坂東における道忠教団とでも呼べる多くの優秀な弟子を育てた。
東国化主、東州の導師と称された道忠は、上野国緑野郡の緑野寺や下野国都賀郡の大慈寺を開いたとされ、ここを拠点に上野・下野国および隣接する武蔵国において活発な布教活動と弟子を育てた。武蔵国比企郡の慈光寺も道忠開基と伝えている。
下野国の大慈寺の広智の弟子から最澄の開いた比叡山天台宗の三代座主になった円仁や四代座主の安恵を育てた。また二代座主の円澄も武蔵国埼玉郡出身で道忠の弟子であった。円澄・円仁は供に壬生氏の出身である。
道忠の優秀な弟子の多くが比叡山の最澄についたのは、最澄が東大寺から出たように道忠も東大寺にあり、元々二人は兄弟弟子の仲であったらしい。そんな仲だったから道忠は延暦十六年(744)最澄の写経事業を援助した。最澄が渡海して天台山へ昇る前のことで、その後の道忠の記事がないことから道忠晩年の事と思われ、これを切っ掛けに道忠の弟子たちも最澄についたのであろう。
そしてこの最澄が弟子になった円澄や円仁を率いて坂東へやって来た。 
最澄の事情

 

最澄一行の坂東東下の目的はいうまでもなく比叡山天台宗の坂東布教にあったが、もう一方で、南都六宗の雄、法相宗の会津徳一に挑まれた宗論に対処するためでもあった。
そのころの最澄といえば、ともかくも平安京の北嶺比叡山に天台法華宗を開く勅許が降りたものの、宗教界にあっては四面楚歌というべき立場におかれていた。南都の東大寺で受戒を得たにも関わらず、そこから脱して一宗を立てるにあたって、既得権を持つ南都六宗の批判と反対を受けずにはおかなかった。
最澄は桓武天皇の寵僧として遣唐使船に乗って短期留学し、在唐八ヶ月半で天台山巡礼を果たして帰朝したものの、後に二年間の修学を経て空海が持ち帰った密教の方が、嵯峨天皇や平安貴族たちの関心の的であった。最澄とて彼の地で密教に触れなかったわけではないが、初歩的な部分を事のついでにかじったにすぎなかった。
最澄は止む無く膝を屈して若い空海の弟子になり、密教伝授を受ける他なかった。だが、最澄は所詮南都仏教から出たところの、釈迦の教えは言語文字で明らかに説き示されたする顕教の徒であった。秘密仏教たる密教でさえも経典を読めば理解できるはずだと、多寡をくくっていたから、空海から次々に借覧して済ませていた。そして密教奥伝の経典借覧におよんで、遂に、空海から面授なき者に密教の極意は伝授出来かねる、とばかりに慇懃に断られてしまったのである。
君は顕教の徒、我は密教の徒也、というのが空海の最澄に対する言葉だった。
最澄が南都六宗の興福寺法相宗から出た会津徳一に宗論を挑まれたのは、そんな頃だった。最澄は坂東へ東下、会津の徳一もまた坂東へ上り、坂東は宗論の戦場となった。天台宗の立宗を南都六宗が批判したものを、会津の徳一が再び蒸し返して引き継いだ、という構図となったのである。
便宜上、法相宗・華厳宗・三論宗・成実宗・倶舎宗・律宗をもって南都六宗というものの、それは後世のような宗派的に分かれたものではなく、釈迦をはじめとする初期の仏者たちが時と場所と相手に応じて明らかにした仏典のどれを研究対象に選んだかという集団、衆派の差異でしかなかった。だから六宗の間には仏典の貸与もあれば人的交流もあって、いわば南都に共存共栄していたのである。
とすれば、最澄が天台宗を開いたという南都六宗に対する既得権犯しでしかなかったのだろうか。南都六宗による最澄批判はその程度のものであったとしても、会津徳一の批判的論法は、後の実りのない互いの誹謗中傷的な言辞を別にすれば、当初は仏教の原点に翻る本質的な問題提起であった。
では最澄・徳一、そして空海との宗教論争において、何が問題だったのか。 
国家仏教

 

武蔵国造一族から出た本姓物部氏の入間宿禰広成が蝦夷討伐の征東大使副将軍として、蝦夷の総師アテルイを攻めて北上川渡渉作戦に惨敗した前年、比叡山に籠った最澄は山寺を創草した。そして、最澄が遣唐使船で渡海したとき、蝦夷の総師アテルイは征夷大将軍坂上田村麻呂の手によって投降させられていた。
大和朝廷の蝦夷征伐作戦は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が内外の危機を作り出すことによって、自らの権力基盤を維持してきた政治的野望以来、継続的に派兵されてきたものであった。入間宿禰広成や坂上田村麻呂は、それを継承した桓武政権の下で、時代の波に乗って歴戦の将軍として出世したのであった。
会津徳一は恵美押勝=藤原仲麻呂の第六子刷雄と同一人物ではないかと伝承されるほど藤原=中臣氏と縁が深く、藤原氏の氏寺興福寺や東大寺で法相教学を学び、陸奥国会津へ下った。法相宗は釈迦の正統を標榜して始祖弥勒以来、最も思弁的・論理的な教学として知られ、徳一はそれを学んだ優秀な学研肌の僧侶であった。
それほど優秀な徳一が陸奥国は会津へ就いたのは、他でもない。坂東の入間宿禰広成や坂上田村麻呂が征夷将軍として蝦夷征伐に就いた様に、徳一は征夷僧として陸奥の蝦夷を精神的に征伐する役目であった。仏教的戒律を授けて再び反抗出来ないように感化したのである。
徳一の開基と伝える会津磐梯山の慧日寺(現恵日寺)は一時、子院三千八百坊、寺僧三百人、僧兵千人、寺領十八万石の勢力を持って隆盛を誇ったと伝承されるほどであった。国家仏教を地の果てまで浸透させることを目的とした、その尖兵に他ならない。
入間宿禰広成や坂上田村麻呂が武力をもって蝦夷討伐を遂行していた同じ時期、会津の徳一はその背後で、投降した蝦夷たち、俘囚たちを精神的に討伐し、二度と反抗出来ないように戒律を授けて感化する役目だったのである。無論それは徳一個人の思惑だったはずはなく、関わり深い藤原=中臣氏の野望を代弁したものだが、これについては後に述べたい。
一方、最澄が出家した切っ掛けは、生国の近江国へ派遣された国司に同道してきた国師に感化されて弟子入りしたのが最初であった。国師とは国司と同様に諸国へ派遣されて、国分寺や官寺を舞台に仏教的感化と統制を遂行した僧官のことある。最澄は十二歳のとき近江国分寺の国師行表の弟子となり、二年後に国分寺僧の補欠として得度して名を最澄と改めた。
最澄はこうした僧官の弟子から出発して、比叡山天台宗を国家鎮護の護国寺としたのである。唐から帰朝した最澄が最初にやっことは、国家鎮護の「六所宝塔院」を建立し、各塔には千部の法華経を納め,その功徳をもって天下国家を安鎮しようとするものだ。道忠が写経の協力を援助したというのは、もしかしてこの宝塔へ納めるための写経だったのではないか。
最澄は坂東へ下る前年、九州へ出向いた。そこで豊前国宇佐郡(大分県宇佐市宇佐町宇佐神宮)、筑前国筑紫郡(福岡県筑紫郡太宰府町)に安南・安西の二塔を宇佐の大旦那の赤染氏の協力を得て建立した。翌年坂東東下の際には上野国緑野郡(群馬県多野郡鬼石町浄法寺)に安東として三つ目の宝塔を造立している。
他に安北の下野国都賀郡(栃木県下都賀郡小野寺村大慈寺)、また安中・安総として山城国比叡山に西塔と東塔(滋賀県大津市坂本本町)を計画した。これらの六所宝塔造立が如何に大規模な長期事業であったかは、最澄没後百数十年余り経った将門の乱のときまで続いたことでも分かる。
そんな二人は国家仏教の覇権を賭ける宗論を戦わせるに至った。しかし、会津の徳一にとって論争の相手としての最澄とは、単に当て馬だったのではないか。真の論争相手は、実はその背後の空海だったのではないか、と見た方が論争の真の目的が見えてくるように思える。
確かに従来いわれるように、徳一と最澄の相違は、徳一もそこから出た法相宗の小乗仏教と、最澄の天台大乗仏教の違いはある。それは「三一権実」論争といわれるように、誰もが仏性を持つとした大乗仏教と一定の修行が必要とした小乗仏教の差はある。しかし、それは顕教が一般的にそうであるように、学問研究の対象としての仏教問題であるに過ぎない。つまりそこには、実践宗教としての、あるいは信仰対象としての仏教の問題が抜け落ちている。
最澄と空海の仲が決裂したのも、正にこの問題であった。最澄は遂に気づくことはなかったが、会津の徳一はそこを見抜いていたのである。 
空海の方法

 

空海はどうしたかというと、最澄ほどに南都六宗に対立的ではなかった。何しろ空海がもたらした秘密仏教は、未だ理論的に大成されてはおらず、雑密のごとき大雑把なものであったから、空海自身の手で編成し直さねばならなかった。密教編成の作業にあたって、空海はまるで思想史でも編むかのごき方法をもって、旧仏教を最澄の様に否定するのではなく、発展段階説のごとく段階付けをして、それらは密教の発展段階にあるとし、その結果として大成された密教が如何に最新鋭の仏教であるかを位置づけたのである。
言い換えれば、当時の仏教の発達はそこまで来ていた。誰かがその全体像をまとめねばならず、空海の慧眼は自らその役目を買って出たといえる。空海にそれが可能だったのも、若くして稀代の密教記憶術、求聞持法を修めたことによるだろうことは容易に想像できる。
空海はあらゆるものを言語化しようとして実践したが、それでも最期のところは体験以外有り得ないという自覚を持ち、それを弟子最澄にも求めた。しかし、それは違う、一定の学的研究を経なければ仏教的信仰も生まれない、とするのが徳一の考え方であり、そして南都六宗の立場だったのである。
どれほどの古経典に通じていたか知れないほどの学僧といわれた徳一であったが、空海が自力で編んだ密教について詳しい訳はなかったであろう。渡海して多少は密教の知識を持った最澄ならともかく、空海に挑んだ徳一の仕方が無謀という訳ではない。
二人の間に意趣があったわけではない。論争以前、空海は会津にいた徳一へ手紙で密教布教に手を貸して欲しいと丁重に申し入れていた仲だった。多分、徳一は空海の申し入れを断ったかもしれない。そして論争を挑んだ。
南都六宗や比叡山の最澄にとっての仏教とは、数多ある仏典や先学師匠たちのどの流れに連なるか、いわば自己の選択の問題であった。徳一が空海に挑戦した際、空海の主張は何処の誰が書いた文献にあるのか、それを証明して見せよと問い詰めたのも、彼の師や経典を選択する仏教観から出たものに他ならなかった。
上に述べた様に、空海にとっての仏教とは、そして秘密の密教とは、選択肢の問題ではなく、数多の衆派の総合と編集にあった。それは最澄や徳一の仏教観から遠く、遙かに超出していたのである。それが結集された分かり易い姿こそ、大日如来の回りに諸仏諸神を配した平面図像による曼荼羅図であり、仏堂に仏像等を配置した立体曼荼羅に他ならなかった。
空海の数多の仏典に通じた力業もさることながら、その教説と立宗の政治性の前に旧仏教派の南都六宗は屈しなければならず、たちまち若き空海をして東大寺別当に任じたことであった。大和の東大寺とは、諸国の国分寺の上に君臨する総国分寺に他ならなかった。最澄の天台宗が国家鎮護を標榜したように、空海のそれもまた表面的には護国仏教が謳い文句だったのはこの為であった。
そしてこの道忠・徳一・最澄・空海という当代一流の仏教教学者たちが、坂東を草刈場としたその理由が明らかとなる。 
坂東の徳一

 

会津の徳一にとって何故論争の場が坂東だったのか。表面的な理由としては最澄の東下があり、空海もまた坂東へ弟子を派遣して、坂東の密教布教に手を染めていた。それらに対する牽制として徳一もまた会津から坂東へ上ったと見なせるが、元来、坂東は南都六宗の地盤であったことは、日本仏教の成り立ちからして当然であった。
徳一は坂東に上ると、常陸国の筑波山中腹(茨城県つくば市筑波)に中禅寺を創建した。徳一にとってその場所が何故選ばれたのかと考えてみると納得できる。筑波山は常陸鹿島の鹿島神社から霞ヶ浦の湖水の遙か前方に見えて、鹿島神社の神山である。鹿島神社は藤原=中臣氏の氏神社である奈良の春日社へ勧請された元の神社である。
徳一は恵美押勝(藤原仲麻呂)の子刷雄と同一人物ではないかと伝承されたほど藤原氏と関わり深い。現在の筑波山中禅寺は空海の開いた真言宗に替わって詳しいことは分からないが、徳一の創建当時は鹿島神社の神山筑波山中に、鹿島神社の神宮寺として建てられたのではないかと考えられる。
というのも、霞ヶ浦に流れ込んで坂東平野を二分する坂東太郎、利根川の東側にあたる常陸から下野・上野国には鹿島神社の分社が数多くあり、それは利根川の西側の武蔵国に氷川神社が数多く分布していることと好対照としてある。武蔵国の氷川神社は武蔵国造物部氏が祭るように、利根川東岸の鹿島神社は藤原=中臣氏の勢力圏であったことを示しているからである。
藤原不比等の母は上野国(群馬県)の群馬郡に本拠を持った車持君の女であったから、不比等は上野国出身出身とも考えられる。その先祖は、上毛野・下毛野・大野・池田・佐味氏などといっしょに「東国六腹朝臣」と呼ばれ、毛国の豊城入彦の子孫を称した。この「東国六腹朝臣」の諸族は皆利根川東岸に分布して、鹿島神社を奉祭する藤原=中臣氏の勢力圏内にある。
「東国六腹朝臣」たちが如何に藤原=中臣氏と親密であったかは、彼らが大和朝廷において果たした役割からもうかがい知ることができる。上毛野君三千は天武十年(681)の帝記及び上古の諸事記定作業に大錦下(従四位相当)として諸臣首座に就いた。上毛野公大川は『続日本紀』編纂、上毛野朝臣頴人は『新撰姓氏録』編纂にそれぞれ従事した。また、下毛野朝臣古麻呂は大宝律令撰定の実務統括者であり、その功で従四位下右大弁となり、親王・諸臣・百官に新律令を講じて翌年参議になった。そして上毛野朝臣氏からは陸奥守や陸奥按擦使・鎮守府副将軍などを歴代にわたって排出した。
さらに大野朝臣東人は多賀城築城したことは多賀城碑に刻まれ、天平九年(737)には多賀城から出羽柵まで軍用直路を開き、そこに待っていたのは藤原不比等を養育したとされる田辺氏の出羽守田辺史難波であった。
彼ら「東国六腹朝臣」は中央にあって律令政権の基礎造りに関わり、列島征服の最先端にあっては容赦のない武力行使の尖兵であった。上毛野・下毛野氏の先祖にあたる豊城入彦命五世孫多奇波世君(竹葉瀬)の蝦夷討伐とは、彼ら自身の所業を伝説化した感じさえする。
坂東における藤原=中臣氏の勢力圏は常陸鹿島社と筑波山の中禅寺中心に、利根川の東岸のみならず、武蔵国南部にもおよんでいたらしい。鹿島社のある房総・常陸から武蔵南部へは、航海神でもある鹿島の船なら江戸湾を横断して指呼の間にある。
武蔵国多摩郡の府中に近い調布の深大寺は、貞観年間(859-877)以来この方天台宗だが、それ以前は徳一と同様の法相宗であったと伝えている。また、新宿区内にある高田稲荷明神社には、明治以前まで本地仏の聖観世音は南都徳一大師の作と伝えていた。藤原=中臣氏の宗教的勢力が武蔵南部へおよんでいたことを示しているのである。
そして、会津の徳一とはこうした藤原=中臣氏の勢力圏を自在に活動したのではないか。それに対して、最澄の天台勢力は北方から坂東に入ってきた。 
丹生をめぐって

 

最澄が諸国に国家鎮護の「六所宝塔院」建立を計画したことは先に触れた。その一部は生前に完成している。豊前国宇佐郡(大分県宇佐市宇佐町宇佐神宮)、筑前国筑紫郡(福岡県筑紫郡太宰府町)の二塔は宇佐の赤染氏を大旦那として建立された。
最澄と赤染氏の関係は彼らの先祖をたずねてみると納得できる。最澄の俗名は三津首広野といい、三津氏は後漢の孝献帝の裔、登万貴王の後を称して応神朝に渡来した一族である。赤染氏は燕国を建国した公孫氏の末を称する。公孫氏は元来は後漢の遼東太守であった。これによって最澄と赤染氏の先祖は供に後漢帝国の出身であったことが分かる。
赤染氏はその一部が京へ上って常世氏を賜姓した一族で、赤染の氏名のごとく赤色の染色を業とした。朱や丹を散布して器物や厨司を塗り、あるいは土地を浄聖する赤色呪術を掌っていたといわれる。
こういう赤染氏と関わる最澄の坂東における高弟は、天台宗二代座主なった円澄、つづいて三代座主になった円仁は供に壬生氏の出身である。円澄は武蔵国埼玉郡出身の壬生氏、円仁は下野国(栃木県)都賀郡出身岩舟町もしくは壬生町出身の俗姓壬生氏である。円澄・円仁の「壬生」と赤染氏があつかった「丹生」は同じことを意味する。
この偶然の一致に、はじめは文字通り偶然と思った。しかし、最澄・徳一そして空海の論争の場において見ると、あながち偶然の一致ではないと思わざるを得ない。
円澄は武蔵国埼玉郡出身という以上の詳細は分からない。本章のはじめに触れた武蔵国男衾郡の壬生吉志氏と同族と見る向きもあるが、確かなことは不明である。
ただ、男衾郡の壬生吉志福正という男は大変な財力の持主であった。息子二人の行く末を思ん図って二人の一生の年貢を前納したのである。そけばかりでなく、さらにその四年後の承和十二年(845)には、落雷で焼けた武蔵国分寺の七層塔を私費で再建することを申出て許され、男衾郡司の大領外従八位上に補任されているくらいだから、唯事ではない財力の持主であったことが分かるというものである。
おそらくその財源は赤染氏と同様に「丹沙」丹生にあったのであろう。
この様に見てくると、天台宗三代座主になった下野国壬生氏出身の円仁についても詮索したくなる。円仁は師の最澄が果たせなかった密教の習得を、最期の遣唐使船に乗って渡海し、天台宗発祥の聖地である天台山へ登って九年余りの歳月をかけて修得、比叡山にもたらし、日本天台宗密教いわゆる台密を完成させた。
そして承和十四年(847)、円仁は帰国した翌年に故郷下野国の二荒山に登り、二荒山修験を開いた。さらに、そこから西に位置する阿武山中の金砂山に金砂神社を創建した。七十三年に一度「磯出大祭礼」の挙行される神社である。金砂山の山名の通り近くに現在も金鉱山があり、また丹生沢の地もある。金鉱は丹生によって精錬されてはじめて純金となる。因みに、日光山地にも金精峠という地名もあって、かつて金山があったといわれている。円仁はまた、東大寺大仏建立に銅を献上した摂津国の多田鉱山に東光寺を建立している。多田別所(散所)といわれる帰順した蝦夷の俘囚なども送り込まれた鉱山である。この多田鉱山は後に清和源氏の元の多田源氏の金蔵となる。
こうした最澄周辺の壬生・丹生との関係は、空海にも顕著である。いうまでもなく、空海が真言密教の本拠地とした高野山は、紀国の丹生氏から譲り受けたものであった。真言密教の道場となった諸国の真言宗寺院の多くは、元は丹生明神の神社であった。
円仁が修験場を開いた二荒山は、既に勝道上人が天平神護二年(766)登頂した山だったが、弘仁五年(814)に空海は請われて上人のために碑文を草した。徳一・最澄論争の十年も前のことである。そして、勝道と二荒山神社の神主は供に大中臣氏の出身であった。
中臣=藤原氏の勢力圏の中で活動した徳一が鹿島神社の神山筑波に中善寺を開いたということは、大中臣氏の二荒山とも関わりがあったはずである。二荒山の「小野猿麻呂伝説」には常陸の鹿島神が関わるものもある。
この様に徳一・最澄・空海が三者三様に深く丹生に関わりがあるということは、三者の論争が単に宗教的な教義の問題以上のことを含んでいたというを示唆している。 
壬生と丹生

 

丹生が壬生と呼ばれたことの意味が問われなければならない。壬生部は皇子女を扶養するために設けられた名代部を統一して推古朝十五年に設けられたとされる。ところが、その後も依然として皇子女を扶養した族名をもって皇子女の名とされている。例えば、大海皇子=天武天皇を扶養したのは大海氏であり、天武の没した殯宮(もがりのみや)で壬生の事を誄(しのびごと)をしたのは大海宿禰荒蒲である。
すると、このように実際に皇子女を扶養した一族と、皇子女を扶養するために統一して設けられたはずの壬生部との関係はどうなっていたのか。考えられることは、皇子女を実際に扶養したのは皇子女の名乗りになった一族であったが、壬生部はその費用を負担しただけで、現実には皇子女の扶養は関わらなかったであろう。
壬生氏は畿内と七道諸国に分布するが、とりわけ常陸国や下野国に多い。常陸筑波国造の壬生連、同那珂国造の壬生直、上野国造の壬生公などが代表的な壬生氏としてある。
そのなかで常陸那珂国造の壬生直氏の系譜は、壬生氏の成り立ちを示唆して興味深い。その祖は神武の子の神八井耳命から出て常陸の建借馬命や那珂臣子上命を経て壬生直となっている。那珂臣とは仲臣もしくは中臣でもある。
神八井耳命を祖とする氏族は多いが、中でも多臣氏が有名で、神八井耳命の末の武恵賀前命の孫、仲津臣のとき、多の神を祭る主として多氏となった。つまり、多臣氏の元は仲津臣であり、常陸の那珂臣氏はその分かれであった。多氏の元が仲津臣であるのは、神八井耳命は弟の建沼河耳命に政り事を委ね、自らは祭り事を司り、神と人の仲立ちを役目としたからであろう。
元は仲臣と呼ばれた有力な氏族として、奈良の春日山麓の大春日氏がいる。春日山へ出る以前は山の辺の道の天理市に和爾赤坂比古神社・和邇下神社を祭る和邇氏の一族である。和邇氏は皇統譜に連綿と妃を出した。
母系制の古代にあっては、生まれた子供は母方で養育される。聖水の産湯を使い、乳を与えて養育する役目は、妃自身よりも養育のための集団が組まれた。これが乳部であり壬生部という集団であり、折口信夫が「水の女」と呼んだものである。壬生部が乳部=丹生とも呼ばれ、後に湯坐部とされるのも本来の役目からして当然であった。
しかし、壬生を単に養育する乳母の役目に限定すると、後世鎌倉時代などの乳母夫のように家来筋になってしまう。養育の前に産湯を使い、さらにそれ以前に聖婚がある。そのとき、妃と呼ばれる女は神聖な神の使いであった。神と人の仲立ちをする仲臣女である。
この多臣氏の仲津臣や和邇氏などの仲臣女を独占したのが中臣=藤原氏に他ならない。その結果、壬生部は本来の役目を失って、単に扶養費用を負担する役目に貶められた姿である。その財源こそ丹沙であった。
ところで、その役目や職能が何であれ、中央にそれらを統括する伴造がいた。例えば中臣部を統括したのはいうまでもなく中臣氏である。しかし、壬生部や丹生部を統括した同名の中央における氏族はいない。壬生部や丹生部に限って中央の統括者は氏名も異なり、丹を治するという意味であろう丹治比氏という。
そしてこの丹治比氏から、徳一・最澄論争の前後数十年の間、相次いで五人も国司武蔵守に就いているのである。 
陸奥国黄金郷へ

 

丹治比氏から武蔵国司が出る前に、多治比真人三宅麻呂が坂東へ下向した。和銅四年(711)三月、上野国三碑の一つ、多胡碑に「左中弁正五位下多治比真人」と刻まれた。上野国で片岡・緑野・甘良三郡から三百戸を割いて新しく多胡郡の建郡を命じたものである。
これに先立って多治比三宅麻呂は、武蔵国の秩父から献納された銅鉱をもって銅銭を鋳造する催鋳銭司であった。さらにその前は東山道巡察使を務めているから、この辺りの事情に詳しかったはずである。そして平城京にあっては、東大寺の大仏建立事業を推進する橘奈良麻呂派に属していたくらいだから、銅や金、そして鍍金になくてはならない丹沙を喉から手が出るほど欲しい立場にあったのである。同族の丹比間人宿禰和珥麻呂は大仏建立に際し、造仏長官等工人棟梁のひとりであった。おそらく金銅製廬遮那大仏の鋳造か鍍金に関わる責任者であろう。
多胡碑の建碑から八年後の養老三年(719)には、既に三宅麻呂の甥の多治比真人県守が武蔵守になっていた。その弟の広足も続いた。
上野国の多胡碑は群馬県多野郡吉井町にあるが、鏑川沿いの丹生地帯の入口に位置し、現地調査した丹生研究者の松田壽男は、この信州街道を「丹生通り」と呼んだ。
ここから数粁南東の鬼石町が上野国緑野郡の神流川沿いにある浄法寺で、道忠が創建したと伝える緑野寺、つまり最澄が三つ目の護国宝塔を造立した場所である。そしてこの神流川の対岸は、後年、丹治比真人の子孫を称する武蔵七党丹党が金鑽神社を中心に栄えた地でもある。
こういう丹治比氏であってみれば、壬生氏あるいは丹生氏を統括支配したであろうことは動かない。そして、道忠や最澄は丹治比氏が管理した坂東の壬生氏の地盤において天台の布教に務めたといえる。
しかし残念ながら、最澄が坂東で活動したころ、丹治比氏から武蔵国司は出していない。何故なら、先の丹治比広足が武蔵守の後、京へ帰って刑部卿・兵部卿を歴任後の中納言のとき、橘奈良麻呂の乱に同族から多くの連座者を出して自らも中納言を解かれ、丹治比氏は致命的な打撃をうけたからである。
それでも多治比氏と最澄の間に何の関係もなかった訳でもない。多治比氏が隆盛を誇ったころ遣唐大使・押使・渤海使等の多くの外交官を出しているが、最澄が入唐した際の従者に、丹福成という無姓の丹治比氏がいたことは、各種の記録にある。おそらく丹治比真人氏に仕えた部民の末であろう。
いずれにしても、最澄の坂東における支援者は壬生や丹生に関わる者たちであった。そして彼らは本来の職能を中臣=藤原氏に奪われた者達であったから、徳一・最澄が宗論において対立した際も、中臣=藤原氏側の南都六宗の徳一にではなく、新興の比叡山天台宗の最澄を応援したのである。
それが坂東を舞台に戦われた理由は、とりもなおさず対蝦夷戦において、坂東が物心両面における兵站基地であったことによる。そして、この兵站基地において「丹生」が隠れた争奪戦の対象になったのは、いずれにしても坂東のそれを凌ぐ丹沙と金鉱の眠る黄金郷たる陸奥国を、いずれが攻め取るか、その前哨戦に他ならなかった。
そんな中で、おそらく空海の心境は複雑であったろう。何故なら、空海の出自である佐伯氏とは、かつて倭政権に服属した蝦夷の俘囚の末裔であった。それが今、かつての同朋であった陸奥国の蝦夷を大和政権に服属させるべく、自ら先頭に立っていた。空海の真言密教を考えるとき、こうした絶望的な心境を、一度は踏まえる必要がある。
一切の神仏を一幅の曼荼羅図におさめる発想は真言密教の象徴である。それは僧尼に成るには俗世間から出家するように、国家という枠から出る出国家、超国家を目指したものではなかったのか。それは最早「虚無」としか捉えようがない。
そして、この平安王朝という国家を倒すべく、日常的に虚無を抱いた坂東武士たちが登場するのは間近かった。 
 
将門叛乱

 

武士の発生 
坂東は武士の原郷である。
武士は坂東に生まれ、坂東に育った。といっても、それは平安末期から鎌倉時代にかけてのことであって、言葉としての「武士」が生まれたのは意外にはやく、『続日本紀』によると奈良朝元正女帝の養老五年(721)正月の詔に出てくる。
文人と武士は国家の重んずるところであり、医術・卜筮・方術は昔も今も貴ばれる。百官の中から学業を深く修め、人の模範とすべき者をあげて、後進を励ますこととしたい。
ということで、武芸に秀でた正七位下佐伯宿禰式麻呂はじめ四人が褒賞されている。この武芸に秀でた武士の筆頭にあげられた佐伯宿禰は、平時は宮城の佐伯門の警備にあたる佐伯部を中央で管掌し、戦時は先祖を同じくする大伴氏と共に軍事的任務に就いたから、正に「武士」と呼ばれるのに相応しい初期の一族であった。
ところが、佐伯部の元は大和朝廷に服属した蝦夷の捕虜を、各地に分散配置したものをもって編成されていた。坂東から東の東北蝦夷「征伐」は長い時代に渡って続けられ、平安時代のころから投降・帰順して服属した蝦夷は佐伯部のような族名も与えられず、単に俘囚と呼ばれた。
律令国家としての大和朝廷の版図は、中央の畿内から計って近国・中国・遠国に区分けして、辺境の坂東は当然のごとく遠国に分類された。そこは対東北蝦夷戦の最前線の兵站基地としての坂東であり、ここに多くの俘囚を強制移住させた。俘囚は「夷を以って夷を制す」ために配置されて軍事・警察力の補完という目的をもたされた。つまり佐伯部に連なる俘囚は軍兵そのものとされたのである。坂東は俘囚基地と化し、そのような坂東にあっては、必然的に俘囚たちの叛乱も起きる。と同時に、俘囚の叛乱に紛れて群盗が横行した。
はじめ大和朝廷は各地に軍団を組織した。二十一歳から六十歳までの男子の内三分の一を徴集し、交代で軍団に集めて二ヶ月ほど兵士として訓練の後、色々な勤労奉仕や各地の警備にあてた。北九州に派遣された過酷な防人は、東国から徴発された軍団であった。国の軍団にもかかわらず個人の武装や食糧は自弁で、人を雇って身代わりを出したり、位や身分のあるものは兵役免除にするといった不公平や負担が多く、兵士の質が落ちて評判が悪く、律令制度の中で一番早く崩れたといわれる。
延暦十一年(792)に政府は軍団制の兵士を全廃して、多少は質の良いと思われる名家の郡司から、その子弟を集めて健児の制度に切り替えた。しかし結果は軍団制と似たり寄ったりで、有名無実と化した。
そこで現れるのが軍事貴族と歴史学で呼ばれる、軍事に精通した貴族が組織する雇兵集団である。この集団が後に「武士」へ成長するが、それには紆余曲折がある。 
国造から国司へ

 

大和朝廷が出来る以前、各地方は国毎の国造によって支配・統治されていた。大和の律令政府は各地の国造を廃止して、中央から派遣する国司による支配に切り替えた。その結果、それまで国造だった者はその国を幾つかに分割した一つの郡司になるか、それが不満なら、それまで国造の氏神だった神社の神主になる他なかった。
武蔵国の場合でいえば、秩父国をいれて二十一郡に分割されたから、単純計算すると二十分の一にその支配領域を縮小されたことになる。武蔵国造から足立郡司におとされたものがそれであった。
中央から赴任してくる国司は国造のように恒久的・世襲的なものではなく、数年の任期で次々に替わる。国造の詰める国衙には、各郡司たちが判官代と呼ばれる在庁官人として務めており、任地に下向しない国司もいるから、郡司たちは支配領域を縮小されたとはいえ、実質的な力を持っていた。
国司は数年間の任期にもかかわらず、その土地の実力者である郡司の子女を現地妻とし、郡司はその縁で中央官人との繋がりを得ようとした。郡司にしてみれば、中央と繋がることによって現地支配が容易になるからである。
先にあげた武蔵国造からおとされた足立郡司の場合は、武蔵介として赴任した菅原正好を娘の婿として迎え入れたらしく、生まれた子供は菅原朝臣を名乗ったまま氷川神社の社務司を継ぎ、さらにその子が足立郡司となった。菅原氏の元は土師で出雲族の支流だから、氷川神社に出雲神を祭ってきた足立郡司家としては受入やすかったのかもしれない。 
在地豪族たちの実力

 

中央から辺境の遠国坂東とはいえ、名家の郡司たちばかりでなく、巷にも実力者たちが偏在していた。
奈良東大寺の大仏建立に際し、相模国(神奈川県)の漆部伊波は商布二万端を寄進して、天平二十年(748)に外従五位下の位を授かり、その二十年後に相模宿禰の賜姓と相模国造に任じられた。坂東は古代布の最大の生産地であったが、漆部が寄進した商布二万端は相模一国が交易雑物として納める商布の三年分に匹敵した。
それから百年ほど後の承和八年(842)武蔵国男衾郡榎津郷の郡司を務めたことのある壬生吉志福正は、二人の息子の終身にわたる税を前納したいと願い出て許可されている。そればかりでなく、この数年前に不審火で焼けたままになっていた武蔵国分寺の七重塔を、私費で再建したいと申し出て許可された。男衾郡は埼玉県の寄居町・川本町・江南町のあたりとされ、榎津郷のあった江南町の寺内廃寺跡から武蔵国分寺に使われたのと同じ窯の瓦が出土しており、壬生氏の氏寺と推定されている。
ところが、こういう奇特な者たちばかりではなかった。武蔵国入間郡では武蔵国造に系譜する物部氏と大伴氏が勢力を争っていたらしい。物部直広成は都の藤原仲麻呂追討の戦功で神護景雲二年(768)に入間宿禰を賜姓した。おそらく入間郡司になったのであったろう。翌年、入間郡の正倉四倉が焼けた。各地で正倉が焼かれ、多くは神火として始末されている。中には空の正倉に放火して、中身が焼けたように見せかけ、隠匿して私腹を肥す郡司もいた。同じ年、入間郡の大伴赤男は奈良の西大寺に対し、商布千五百段はじめ稲や田・林など莫大な献上をして話題となり、叙位は当然と思われたが、生前にはなく、九年後の死に際して外従五位下が追贈されたに過ぎなかった。正倉が焼けたのは大伴赤男が郡司を追い落とすための放火ではないかと疑われたらしい。 
群盗山に満る

 

在地の実力者である郡司などの子女を現地妻とした国司の多くは、数年間の任期がおわると次の役目や他国の国司として転出して行くが、中にはその土地に居着いてしまう者もいる。国司を何期か務めると、一生の貯えが出来るといわれたほどでの役得があった。その財と実力をもって土地に居着く者、また郡司などの家に入り婿した者も少なくないであろう。そんな中には盗賊になる者までいた。
延喜十九年(919)前の武蔵権介源仕は任期が満ちても帰京しようとせず、任地に根拠地を築いて土着しようとしたらしい。源仕の子の源充は箕田源次を名乗り、数十騎を率いて秩父平氏流の村岡五郎と一騎打ちを戦ったと今昔物語にある。箕田の地は港区三田説と箕田郷のあった埼玉県鴻巣市箕田の箕田八幡説がある。村岡五郎平良文の地は埼玉県熊谷市南部の村岡説があり、箕田郷と隣接しているから、後の説が有力と思われる。父の源仕は後任の武蔵守高向利春が赴任してくると、官物を運び取り、官舎を燃やし、国府を襲って高向利春を攻めたという。
源仕は嵯峨天皇の御子五十人の中から、一挙に三十五人を臣籍降下させた内の融の孫にあたり、嵯峨源氏の一人である。融は従一位左大臣、子の昇は正三位大納言、その嫡男適は従五位下内蔵頭と、皇胤の余光に浴したが、次男の仕は中央での任官を断念して、地方に新天地を求めたらしい。藤原氏が官職を独占しはじめたころである。それも国司の次官で定員外の権介であった。任期が満了したとき不満が爆発して、後任の国司を襲ったのかもしれない。
九世紀後半、坂東は騒然としていた。相次いで蜂起する上総に配置された俘囚たちの叛乱に加えて、各地で群盗が横行する。寛平から昌泰期(889〜901)の十年間、東国強盗の首領といわれた物部氏永が蜂起が伝えられている。さらに、雇い馬を使って活動する坂東の運送業者の集団は、群党をなして村々を襲い、東海道の馬を奪っては東山道に使い、東山道で奪った馬を東海道に回すという凶賊集団でもあった。
既に貞観三年(861)武蔵国に二十一郡ある各郡ごとに検非違使を一人づつ置いた。「凶猾党を成し、群盗山に満る」というのがその理由であった。昌泰二年(889)には坂東の境、足柄と碓井の峠に関門が設けられた。
群盗は一見、浮浪の山賊のごときだが、この群盗は「坂東諸国の富豪の輩」というから、土着した国司、富豪の郡司や私営田領主となった豪族たちに他ならなかった。そしてこの群盗を鎮圧し、治安維持のために動員されたのも、健児制を補うために投入された俘囚と同様、雇われた富豪の輩であった。 
将門の叛乱

 

寛平元年(888)垣武天皇の曾孫にあたり、坂東平氏の元祖になる高望王が上総国へ赴任した。上総・常陸・上野の三国は天長三年(826)以来、国守に親王任国制が敷かれていた。東北蝦夷に対する最前線基地の国として、また群盗や俘囚の反乱蜂起に対して、王胤を配して王威による支配を狙ったのであろう。高望王の子等は次々に常陸大掾(国司の守・介に次ぐ三席)・下総介・鎮守府将軍に就任している。先に触れた嵯峨源氏の入植にも、そうした期待があったのかもしれない。
ところが、高望王の孫で無位無官の平将門が常陸国衙を襲撃して、国家に対して歴然たる反逆を起こした。天慶二年(939)十一月二十一日、平将門は常陸国府で常陸守藤原維幾の国軍と衝突して合戦となり、千人の将門軍が三千人の国軍を破り、国府に放火して国家に対する歴然たる反乱に踏み切った。
将門の乱はこれに先立つこと、八年前の延長九年(931)の坂東平氏の内紛による私闘に始まるといわれる。
将門の父良持の兄弟で叔父にあたる者に、常陸大掾平国香、下総介平良兼、平良正それに平良文がいた。将門と娘の結婚に反対した良兼とのトラブルが内紛の遠因とされる。後に叔父たちと戦闘した際、娘は連れ戻されているくらいだから、よほど反対されていた。
それから数年後、私闘は本格的になる。
常陸国筑波山の西麓に前の常陸大掾源護が土着して、広大な私営田を有する勢力を持っていた。その一字名の護から、武蔵国府を襲った前武蔵権介源仕と同様の嵯峨源氏とみなされている。この源護の領地と接する平真樹は、境界争いらしき紛争が生じ、調停を下総の将門に依頼してきた。将門は調停のために常陸の源護の館に向かおうとして、国境を越えたあたりで護の子の扶らに待ち伏せの不意打ちをくらって応戦、扶・隆・繁の三兄弟を討死にさせ、護の館など焼き払ってしまった。しかも、そのとき護の石田館にいた将門の叔父の常陸大掾平国香まで、巻き添えで死亡させた。
叔父の国香が源護の館にいたのは、護の娘と結婚していたことによる。良兼・良正も同様に護の娘を妻としていた。彼ら平氏の三兄弟は源護の娘と結婚して、婿入りしたか、通っていたのである。そこは嵯峨源氏護の領地であり、館の所在地であった。 
安易な通説

 

通説では平氏の三兄弟はむろんのこと、良持・将門父子の領地も含めて、高望王からの伝領地とする。だから、将門謀反の前哨戦は平氏の内紛として解釈されている。
高望王が上総国へ国司として赴任したことは確実としても、土着した証拠は何もない。仮に高望王が土着したとしても、上総介の高望王が支配権のおよばない常陸国や下総国へ居着くのは無理というものである。安易な通説はこれに気づいていない。
常陸国筑波山西麓は前の常陸大掾源護の私営田領であった。平国香は源護の娘と結婚して石田(茨城県明野町東石田)の館に入り婿して、舅の護の常陸大掾職を継いだのであろう。国香の子で将門の宿敵になる平貞盛は石田館で生まれている。
下総介平良兼は現職だから下総国府の近くに館があったはずだが、常陸の服織(茨城県真壁町羽鳥)館の妻のもとに通っていて、襲ってきた将門に館を焼き払われた。良正の営所も筑波郡水守にあったが、これも源護の館であったろう。
つまり彼ら平氏の三兄弟は嵯峨源氏護の一族として、将門を敵にまして戦ったのであり、一概に平氏の内紛とはいえないのである。因みに三兄弟の末に村岡五郎良文がいたが、既に触れたように埼玉県熊谷市南部におり、将門の乱には無関係であった。源護の娘と婚姻関係を結んだ平氏三兄弟だけが将門と敵対したのである。 
将門の母胎

 

将門の父の平良持(将)は従五位下陸奥鎮守府将軍であった。陸奥国を支配・開拓する軍政府長官である。良持は常陸国に勝楽寺を建立しているが、将門のいた下総国に関わった形跡はない。そこにあるのは県犬養春枝の女子を妻として、将門らが生まれたということだけである。現在は茨城県の取手市寺田、かつては下総国であり寺原村寺田で、ここを地盤とした犬養氏の女を母として将門は生まれた。『将門記』によると将門は下総の猿島郡石井(茨城県岩井市岩井)と豊田郡鎌輪(茨城県千代川町鎌庭)に館を持って根を張っているが、母方から継承したものであろう。
つまり、将門反乱の前哨戦は、平氏の内紛というものではなく、常陸の嵯峨源氏と下総の犬養氏の戦いだった。将門と平氏の三兄弟は共に父系を平氏にもっていたが、その根拠とする母族は異なっていたのである。
源氏も平氏も皇胤であったが、将門が母胎とする犬養氏は、古代にあっては数ある部族の一つに過ぎなかった。飼い犬を使う狩猟や鉱山の発見を生業とし、また番犬を連れて屯倉や宮城門の守衛でしかない。こうした各地の犬養氏を中央で束ねた伴造の県犬養宿禰氏から橘三千代を出した。藤原不比等の妻として安宿媛を聖武天皇の妃にいれて隆盛を極めたが、前夫の子の橘奈良麻呂の変などで失脚した。少なからず藤原氏と縁のあった一族である。
下総の県犬養氏が中央の県犬養宿禰氏に直接の関わりがあろうはずもないが、将門が若いときから中央で仕えた相手は、時の太政大臣摂政の藤原忠平であった。謀反を告訴されると、その経緯を書状で伝えた相手も忠平である。将門がどういう伝手で忠平に仕えるようになったのか、興味深い。故事付けて憶測してみれば、県犬養宿禰氏と藤原氏の関係ではなかったのか。
いずれにしても将門は平氏の一門である前に、県犬養氏の一党を率いる豪族であった。
因みに将門が叛乱に蜂起した猿島郡は、かつての下毛野国であり、紀伊国の豊城入日子命の孫彦狭島命の名による利根川の東側に位置し、坂東の境界の利根川を越えて武蔵国のトラブルに関わったことが、叛乱の切っ掛けになった。 
下野豪族藤原秀郷

 

同様なことは、都の征東大将軍の率いる国軍が到着するまでに反乱を起こした将門を討ち取って、一躍名をはせた藤原秀郷にもいえる。
系図によると秀郷は藤原北家の左大臣魚名の五代孫にあたる。魚名の子の藤成が下野国の国司、介あるいは掾として赴任し、在地の豪族鳥取業俊を史生に任命し、その娘との間に豊澤をもうけた。しかし、その後の藤成は播磨介・伊勢守などになって転出しているから、下野には土着しなかった。子の豊澤は鳥取氏の家で成長し、貴種ということで下野の雑任国司、掾・権守となった。豊澤の子の村雄も下野大掾となったが、母は同族の史生鳥取豊俊であり、やはり下野掾の鹿嶋某の娘を妻として秀郷が生まれた。だから秀郷にとって貴種の証したる藤原北家の姓は、父系の先祖でしかなく、三代にわたって在地の豪族と婚を通じて土着したのであり、自己の母胎は下野国の豪族鹿嶋氏であったことになる。
そしてこの秀郷ですら、将門が常陸国府を襲う二十三年前の延喜十六年(1916)、弟の高郷ら一族与党十八名を主体とする反国衙的暴力集団として下野国内を跳梁し、その罪によって配流の下知が出されている。しかし秀郷の配流された形跡はなく、それからさらに十三年後の延長七年(929)にいたって、下野国のみならず隣国五国からも、秀郷濫行に対して兵を動員する官符を中央政府に要請している。将門が平氏の内紛といわれるものを起こすのは、この二年後のことであった。
つまり「将門の叛乱」は、誰が起こしても可笑しくはない坂東の状況であった。 
武士団研究の方向

 

ここで本論が強調しようとしている、在地豪族たちの母胎の発掘作業の必要性について、いささか触れておきたい。
武士なるものが、何時、如何なる形で発生したか、その学的研究史を振り返ると、様々な意見があるというよりも、一つの方向へ流れているように見うけられる。研究史の詳しい流れは、例えば関幸彦の『武士団研究のあゆみ』などにたどられているが、概略すると次の様になる。
日本近代における各分野の史学は一様に西欧との比較に始まる。平たくいえば、日本にも西欧と同じものがある、という観点から歴史が見直されたのである。世界史との普遍性・共通性を見出そうとした。そこで発見されたものが、封建制であり、それを担う武士であった。
戦後になって、武士は地方の在地領主として、中央の貴族政権を打倒する革命の担い手とする領主制論と、武士は支配手段として武力を持った集団とする職能人論が出た。
そして1980年代以降、職能人論を土台とする軍制史の研究は、地方の在地領主ばかりでなく、中央の軍事貴族をも発見した新領主制論が出された。
私見によると、現今の武士研究の大勢は、さらに職能人論を掘り下げた武力の内実、武器や武装の研究といったマニアックな方向へはまり込んでいるように見うけられる。そこでは中央の軍事貴族が地方の在地領主をいかに掌握・組織していったかが忘れられているのではないか。
そうした方向で、先に挙げた関幸彦の別著『武士の誕生』は坂東武士と軍事貴族の関わりを追求している。しかしそこでは、軍事貴族の地方への影響と浸透が語られているものの、結局は軍事貴族が一方的に地方支配を遂行した姿しか浮かび上がってこない。それを受け入れた在地領主たちの歴史はなく、彼等は在地領主は中央から来た軍事貴族の末裔としてしか位置づけられていないのである。
在地領主の母胎を発掘することは、彼等のそれ以前の歴史と中央から来た軍事貴族や国司などを受入ることによって、それ以後の彼等の歴史が如何に左右されたかを明らかにすることにある。
そこで当面の問題として、将門の叛乱以後、その「遺産」の行方である。 
武蔵野開発の父

 

将門の乱から九十年後、房総半島三国に平忠常の乱が起きた。将門が根拠としたのは下野国内の猿島・豊田郡といった郡単位のものであったが、忠常は上総・下総国にまたがる国単位の広大な地域の領主であった。しかし、将門は叛乱によって坂東八ケ国を支配したが、忠常にはそうした意志や兆候はみられない。それにもかかわらず、忠常の乱は三年間におよび、坂東を亡国と化した。
平忠常は将門の叔父の良文の孫にあたる。良文は同じ坂東平氏でありながら、将門の乱に無関係であったとするのは乱の全容を伝える『将門記』である。ところが、平忠常の子孫の千葉氏関係の系図や伝承では、良文は将門の養子であったり、その逆であったりする。また、良文の子の忠頼は将門の娘を母として生まれたとする系図もある。
つまり反逆者将門をして自族の先祖に位置づけているのである。そればかりでなく、良文は将門と共に平国香と戦ったり、逆に良文と将門が対陣したりと、文献によって良文の立場は異なるが、将門の乱に参戦したとしている。
千葉氏関係の手によって編まれたのではないかとされる『源平闘諍録』冒頭の系譜には、良文の三男忠光は将門の乱によって常陸国信太の嶋へ配流されたという。
ところで『将門記』によると、将門は上野国府で親皇を称し、坂東諸国の国司を任命したが、その中で武蔵国が欠落している。上総介に任命された興世王は乱以前の武蔵権守のまま将門の元へ転がり込んでいるから、これが兼任したという苦しい解釈もあるが、実は良文が武蔵守に任命されたのではないか。
こういう憶測は次のような理由から生まれる。その情報の詳細さから『将門記』は将門の地元に関わり深い寺僧の手になるとされており、乱後の間もない時期に編まれたとすれば、将門の遺領を継いだ良文を将門の乱の共謀者とは書けなかったのではないか。
さらに想像を逞しくすれば、次のような事も考えられる。将門の乱は嵯峨源氏一党との私闘に始まった。良文も嵯峨源氏と見なせる蓑田源次の源充と一騎打ちをしたという『今昔物語集』の説話を先にあげたが、晩年の充は武蔵国を引き払って摂津国へ移り、淀川河口に海賊渡辺党を組織した。将門と良文は縁組みを結んで共に嵯峨源氏と戦い、蓑田源次充を武蔵国から追い出したのではないか。そして乱後、良文は将門の遺領を相続した。
またの名を村岡五郎と呼ばれる良文の居住地の候補は、先に挙げた熊谷市と港区三田の他に、相模国(神奈川県藤沢市)と茨城県結城郡千代川村村岡説がある。藤沢の村岡説は良文の子の忠道が村岡平太夫と呼ばれて、鎌倉権五郎や大庭・梶原氏など鎌倉党の祖とされたことによろう。一方の千代川町村岡の地は将門遺領で館のあった豊田郡鎌輪の側にある。良文の子孫はここを基点として房総半島へ領地を拡大していったのであろう。
いずれにしても平良文はおそらく始めは武蔵国の熊谷市村岡にいた。在地の豪族の家に生まれたか、入り婿して、その後、下野国の将門遺領を継いだのは子の忠頼であろう。武蔵国は忠頼の子の将常の子孫が荒川に沿って進出し、同じ忠頼の子の胤宗の子孫は武蔵七党の野与・村山党となった。また、良文の子の忠光・忠道の子孫は鎌倉から三浦半島へひろがった。この村岡五郎平良文をもって後世「武蔵野開発の父」と呼ばれている。 
常陸平氏

 

父の国香を将門に殺された平貞盛は、藤原秀郷と共に将門を討つ大功を立てて、陸奥守・鎮守府将軍・丹波守などを歴任して四位に達し、中央貴族の末端に連なった。弟繁盛の子や孫まで自分の養子に加え、「維」の一字をそれぞれの名につけ、一族を父系による連帯を固めた。嵯峨源氏護の遺領を継いだのは弟繁盛の系で、後に常陸大掾氏となる。
また、私戦の時期に将門と激しい合戦を繰り返した平良兼の子の公雅は、将門追討のとき、将門の参謀格となった興世王を上総で討ち取った功によって、安房守・武蔵守など歴任して五位に昇った。
この国香を祖とする貞盛・繁盛流と良兼を祖とする公雅流は共に、坂東と畿内をつなぐ船便の陸揚地になる伊勢や尾張に進出したが、父系の先祖は同じ坂東平氏であったが、元来は母胎が異族だから、世代を越えて対立していた。公雅流は祖の良兼が下総介であり、公雅の弟の公連も下総権掾であったから、その地盤は下総・上総にあったのではないかと思われる。
将門の遺領を継いだ良文流が房総半島へ進出すると、両総を根拠地とする良兼―公雅流との衝突の可能性があるが、実際はそうはならず、両者は提携し、房総は良文の子孫によって占められた。将門の妻は良兼の娘、公雅・公連の姉だったからかもしれない。そして将門と良文流の間に養子関係があったことが、両者の提携を可能にしたのであろう。良文流の房総半島進出によって対立・抗争が生じた相手は国香―貞盛・繁盛流であった。 
平忠常の乱の内実

 

寛和二年(986)平繁盛は比叡山延暦寺を通じて、一通の解状(上申書)を太政官に提出した。将門の乱から四十数年後のことである。解状によると、平繁盛は先年国家鎮護のために書写した一切経六百巻を比叡山へ奉納しようとしたが、平忠頼・忠光らに妨害されたため朝廷に訴えたところ、東海・東山両道に追討官符が出されたが、どうしたわけか追討停止の官符が出された。そこで繁盛は、彼等旧敵の暴虐は激しくなるばかりなので、再び追討の官符を出してもらいたい、という趣旨であった。「旧敵」と名指しされた平忠頼・忠光は房総へ進出した良文の子である。
常陸平氏にとって良文流が「旧敵」なら、良文流にとっての常陸平氏は「先祖の敵」であった。『今昔物語集』に源頼信が常陸守(介)として赴任したとき、上総・下総国を支配して国司の命にも服さない平忠常がいたので、常陸の平維幹と共に攻めて忠常を降伏させようとした。そのとき忠常が言うには、維幹は「先祖の敵」だから降伏するわけにはいかない、と帰順を拒否したという。後に触れるように、忠常は平忠頼の子であり、維幹は繁盛の子である。
国香―貞盛・繁盛流と良文―忠頼・忠光流の間にこうした対立がつづいているとき、万寿四年(1027)十一月、中央では藤原道長が没した。それから半年も隔てず、政界の混乱に乗じるごとく、忠頼の子の忠常が両総から安房国へ侵入し、国衙を襲撃して国守を焼殺した。
この事件自体、国守の収奪に対して農民層の与望を担って忠常が武力蜂起したと解される。将門の叛乱の切っ掛けになったのも、武蔵国守の収奪に対して足立郡司の武蔵武芝は山間へ避難したが、仲裁に入った将門が引き受けてしまった関係にあり、忠常の武力蜂起と構造的に同じものである。
忠常の国衙襲撃は当然国家にとって叛乱罪にあたり、朝廷では追討使の人選が行われた。
はじめ伊勢前司源頼信を奏されたが、勅によって追討使に任命されたのは貞盛の直系曾孫の平直方であった。同僚に明法家で検非違使の中原成通も任命された。しかし、中原成通はあれこれ理由をつけて追討使に就くことを拒んだが、結局坂東へ派遣された。
中原成通は追討使人選の政治的な意図を嗅ぎつけていたらしい。平直方の父維時は関白藤原頼通に働きかけて、直方の追討使補任に動いた。そして翌年には自らも上総介に任じられている。国香―貞盛・繁盛流は房総へ進出した私的な「旧敵」良文流を、国家の公権を背景に叛乱者に仕立てあげて駆逐しようとしたのである。
良文流の忠常も負けてはおらず、従者に手紙を託して内大臣藤原教通等に追討停止工作を試みたが、従者は検非違使に逮捕されて失敗した。
しかし忠常追討軍の成果はあがらず、再三の追討官符発給や上総介平維時の下向にもかかわらず、忠常の叛乱軍は再び安房国へ侵入し、国守は印鎰を捨てて京都に逃げ帰る始末であった。直ちに後任の安房守に補任されたのは又しても国香―貞盛・繁盛流の平正輔であったが、下向の途中、伊勢国で父の代から争っていた良兼―公雅流の致経と紛争をおこして赴任できなかった。
清和源氏の坂東進出

 

坂東は亡国と化していた。長引く叛乱鎮圧もさることながら、当時の作戦は焦土戦だから全てのものを焼き尽くす戦いである。房総三国は戦場となり、坂東諸国は追討軍の軍糧徴発の兵站地として病弊してしまった。忠常の叛乱軍よりも、追討軍によって荒廃したといわれる。追討使平直方を先頭とする国香―貞盛・繁盛流の、国軍を動員して忠常勢力圏を奪取しよとした私戦は失敗に帰した。
長引く忠常追討に対して朝廷は方針を転換せざるを得なくなった。先に追討使中原成通を職務倦怠をもって更迭したが、長元三年(1030)追討使平直方をも解任して召喚した。直方等の奏上した解文によると、忠常は上総国の山間に籠り、兼光なる者を通じて直方に志しの雑物を送り届け、講和の意志を伝えていた。また別な情報によると、忠常は出家して戦意を喪失していることが認められていたのである。
平直方に代わって追討使を命じられたのは、先に追討使候補の一人にあがった源頼信である。この前年に甲斐国守に任じられていた。頼信がはじめに追討使候補にあげられたにもかかわらず補任されなかった理由は、平氏側の強い策動もさることながら、十年以上も前に頼信が常陸介に任じられたとき、忠常との間に主従関係が結ばれており、頼信では追討が危ぶまれたことによる。上に触れた『今昔物語集』の説話では、常陸守(介)源頼信が在地の平維幹と共に忠常を攻めた際、「先祖の敵」の維幹に降伏しなかったが、結局、頼信には名簿に怠状(謝罪文)を添えて提出している。名簿の提出は従臣の証しであった。
因みに、源頼信は兄頼光の四天王の一人であった平貞道を従臣にしている。貞道(忠通)は村岡良文の子であり、忠常の叔父にあたる。
しかし、忠常追討使となった頼信はなかなか甲府を発しなかった。頼信は忠常の子の法師を連れており、これを仲立ちとして講和折衝した結果、翌年四月になって忠常は子二人を伴って投降してきた。頼信は忠常を連行して京へ向かったが、忠常は美濃国で病にあって死んだ。頼信はその首を斬り、京へ持参した。在地には忠常の二人の子がのこされており、朝廷ではこの処遇が問題になったが、結果として処分なしと決まった。その結果、忠常の子孫は房総の上総・千葉氏として存続する。
忠常追討を果たした源頼信は、かつて将門の叛乱をいち早く京へ報告した武蔵介源経基の孫にあたる。父は経基の嫡男、藤原摂関家に仕えた多田源氏の満仲である。祖父についで父や長兄の頼光も坂東各地の国司として赴任した履歴をもつが、これまで、その一族に坂東へ土着した者はいなかった。
源頼信は忠常追討の功績によって美濃守に任じられ、ついで河内守に転じた。晩年は河内国の壷井荘に館を営んで没したから河内源氏と呼ばれるが、頼信の子の頼義が相模守在任中、忠常追討に失敗してを解任された平直方の婿となり、娘が伝領した鎌倉の館を得て、義家が生まれた。平直方は坂東平氏諸流の嫡系であり、観念的にはの族長の立場にあったから、その婿となった頼義は坂東平氏の諸流を掌握したことになる。
これが清和源氏の坂東に定着する第一歩であった。  
坂東独立国へ

 

将門と忠常の乱は、その規模も、その叛乱期間も差があるが、その構造的に非常に似ている。しかし結果として、その目的には雲泥の差がある。
忠常は国守焼殺という大罪を犯しているものの、終始、京都の朝廷という国家に対する謀反や叛乱の意志はない。その軍事力をもって私田領を拡大していった先に、隣接する他領の軍事力と衝突したというに過ぎない。相手がたまたま狡猾で、国家の公権をもって在地の私闘を叛乱鎮圧にすり替えられてしまった。
将門の叛乱は初手は国守との偶然な衝突であったが、その後は自覚的に叛乱続行した確信犯である。坂東諸国を制圧すると、その国守を任命したことが何よりもそれを証している。しかし、国家に対する叛乱とは、語の正確な意味において国家転覆であり、国家乗っ取りであるとすれば、将門の望んだものとは異なる。かつての坂東がそうだつたように、彼等の望んだものは坂東独立国にあった。
将門は坂東八ケ国を制圧し、その国守を任命したが、日暦博士を置けなかったと指摘されている。それは坂東という空間を占拠したものの、時間を制しきれなかったということであろう。だが、忠常の乱はその規模の広大さに比して伝えられることの少なさに比べ、将門の乱はその伝説化と共に、坂東独立国という構想によって無限の時間を制している。
 
将門の一族

 

鳥羽の海と鬼怒川の改修
むかし筑波山の西側に大きな湖水があった。鳥羽の海と呼ばれ、北は茨城県下館市から南は同下妻市高道祖の南、安食あたりまでの南北にやや長い形の湖だった。
『万葉集』にはこの鳥羽の江を琵琶の淡海に、筑波山を比叡山に見たてて都風になぞらえた記述がみえる。しかし記述だけでなく事実関係は深かったらしい。『万葉集』に出てくる鳥羽の田井の地名も、琵琶湖畔にある地名だが、鳥羽の江の南岸の安食村また、田井同様湖畔にある地名である。そしてこの安食という地名は『古事記』に出て来る百済王の使者として、良馬を持って応神朝期に来朝し、帰化したといわれる漢皇室の裔・阿知吉士の一族が住みつき土着したところだといわれ、とくに中仙道沿いに関東まで多く見られる地名である。
鬼怒川の改修は天平宝宇二年(七五八)、問民苦使浄弁が奏上して官許を得て十年後の神護景雲二年(七六八)に着工した。
『続日本紀』には「下総国結城郡小塩郷小島村から常陸国新治郡受津村に達する一千余丈を堀り」と鬼怒川(毛野川・絹川)の流れを変えたことが記録されている。
当時、鬼怒川は栃木県芳賀郡二宮町の大島(『続日本紀』にある小島村か)あたりから下館市内を流れて鳥羽の江に流れ込んでいたといわれている。毎年のように洪水を起こし農民を苦しめた鬼怒川を、僧浄弁の河川改修はこれを防ぎ、鳥羽の江に干拓地を開こうとした。
この浄弁は、本名を久須麻呂(または唐風に訓儒)といい、このときの最高権力者藤原仲麻呂の息男だったといわれている。この工事は古代東日本最初のそして最大の土木工事であった。
さて、この工事には奥州のエゾが俘囚として労働に多数連れて来られたらしい。陸奥守だった百済王家と浄弁の藤原南家とは姻戚を結び親しくしており、筑波山開基といわれる徳一菩薩は仲麻呂の子ともいわれている。
先述の安食という地名は筑波山・利根川沿いに三ヵ所もあり、阿知吉士の一族が多く住み着いていたと思われるが、百済王家はその主君筋
にあたり、浄弁も政治的動員が楽に出来たものと思われる。
筑波と将軍神と関東平氏の血縁
筑波山は古代に山がご神体だったのだろうが、徳一菩薩が開山する時、将軍稲荷が祀ってあったといわれている。稲荷はもちろん帰化系の神様だが、将軍という名称もやはり帰化系を意味するのではないだろうか。
将軍は国家の辺境に立ち外的を防ぐものだといわれ、また勝軍地蔵ともいい、将軍神は訛ってシャグジン=石神となり、辺境に立って外敵を防ぐという意味から村はずれの地蔵信仰に転化したといわれている。そして、その由来は朝鮮半島の天下大将軍であろうと思われる。朝鮮の天下大将軍もまた、村のはずれに、恐ろしい顔をして舘、外的・悪魔を防ぐ木像や石像の神様である。
ここに征夷大将軍であった坂上田村麻呂が阿知吉士の裔の棟梁であり、八幡太郎義家の母は将門の一族・平直方の娘であったところから、東国の豪族達が、田村麻呂や義家そして頼朝に従った下地に将軍信仰が広まったゆえんがあるのである。
将門の遺児とも女婿ともいわれる平忠頼は日本将軍とも村岡将軍とも称したと伝えられている。この村岡の地名は鎌倉にもあるが、後三年の役後、朝廷からもらえなかった褒賞の代わりに八幡太郎が郎党に与えた私財というのにこの村岡があったかも知れない。こうして下総の村岡の地名が相州鎌倉郡に移ったのだといわれている。
将門の行った除目で、相模守に任じられたのは文室好達(好立)であった。
文室は平群文室氏のことで、『平群系図』には、つぎのようにみえる。
忠道・忠常・永盛 号平群将軍母陸奥守従四位下平貞盛朝臣女外叔父維敏為子実父秋田城介平群朝臣利方也而祖父征東副将軍天慶三年平将門追討副将軍常陸介正五位下平群大領也号平群将軍清幹之孫なり猶子頼義・・・・・
頼義は平棟梁の女との間に女子を設けているが、この『平群系図』はそのことを意味するのかどうか詳らかではない。また、鬼女伝説で有名な城氏の祖、維茂もこの系統だと思うのだが、四朗将軍将基は頼義に従って奥州征伐に功があり、将門の遺領豊田郡を領して郡のはずれ子飼川の中の島に加茂社を祀った。今日も金村雷神として土地の人々の崇敬を集めている。この将基は、将門四代の孫と称するが、繁盛四代の孫で政幹といったのを、将門の後継者を称するに至って同音の将基と改めたといわれる。
清幹・政幹・棟幹などの名は、繁盛流の名である。繁盛は、将門追討軍に参加した事になっているが、なんの働きもしていない。
『平群系図』に見える忠通は、忠頼の子ども弟とも伝えられている。筑波郡に出子というところがあるが、ここは将門敗死後、遺児若松丸がかくれ住んだ地といわれ、叔父良文が見出してわが子として育てたので出子という地名になったといわれる。その子が後の忠頼だというのだが、ともかく叔父の良文も貞盛の舎弟繁盛も追討軍に積極的に参加したとは思えない。
将門の子孫と称する家計は多いが、中でも千葉氏と相馬氏が有名である。このチバもソウマも中国・周の時代の官職名司馬が訛ってできた名である。チバは日本的に鉛、ソウマは朝鮮語的に訛ったといえる。英語のマーシャル(元帥・将軍)がフランス語のマレシャル(馬屋長・厩長)から出ているように、古代王朝で馬屋の長官は将軍そのものだったのだろう。司馬は将軍の古名だが、日本で司馬の名を持つものは法隆寺の三尊像を作って有名な止利仏師一家で、阿知吉士の一族である。司馬は誇り高き漢皇室一族の名ではなかったかと思われる。
僦馬の党
将門は主君忠平の推薦で御厨の下司に任じられた。御厨は伊勢か加茂の半官的荘園で相馬厩と呼ばれるものが千葉県手賀沼の南岸の岩井周辺にあったと思われるが(茨城県側にも岩井は存在する)将門の根拠地豊田郡も金村雷神(加茂社)があるから、豊田郡にも加茂の御厨があったのではないかと思われる。村岡の隣に栗山という地名があるが、御厨山が語源だろう。下館市の東に小栗というところがあるが、ここには地方には珍しい内宮外宮そろった神明様がある。伊勢御厨があったのだが、ミクリが、後年、御栗になり小栗になった地名だろう。小栗氏は将門慰霊のため阿弥陀堂を建てているし、東京の神田明神の氏子総代も小栗氏だった。当時、鳥羽の江の入江がこの小栗の近くまで来てたのかもしれない。
伊勢の神は天皇家の祖霊と思われてるが、運送業・旅行者の神としての一面がある神様で、鳥羽という名称は伊勢の鳥羽も京都伏見区の鳥羽も舟着場で、鳥羽は止場・波止場の意味なのである。この鳥羽の江も周囲に多くの運送業者が住み着いて居たのだろう。
東日本に礒辺(磯辺・石辺・五十部)という地名があるが、伊勢部のことで伊勢崎・石崎・磯前なども伊勢部に住んだところと思われる。それらのほとんどは、古代交通上の要路にあたる渡し場・舟着場である。下総磯辺は井上氏の所領となってゆくのだが、この井上氏は、坂上田村麻呂の一族である。
鳥羽の江の安食郡の反対側に井上郡があり、同じく、霞ヶ浦の安食の対岸にも井上がある。この井上に伝わる伝説に、琵琶湖の安食郡から二〇`ほどの錦織寺が出ており、琵琶湖の湖賊と霞ヶ浦の湖賊との関連をうかがわせるのである。もちろん鳥羽の江にも湖賊はいただろう。
錦織寺のもとの本尊は毘沙門天だというが、錦織氏は田村麻呂の妻三善氏の一族で、やはり阿知吉士の裔である。錦織寺の毘沙門天も田村麻呂を祀った勝軍地蔵だったのではないか。錦織寺を建てたのは井上氏であり、本尊阿弥陀如来は霞ヶ浦から出たのである。
井上・安食・磯辺そして鳥羽などの地名は、伊勢や加茂の御厨の物資の運送を基礎に運送業に従事した人々のまたその首領の住み着いたところだといえるのである。
『類聚三代格』には、「此の国年頃、強盗蜂起し侵害尤も甚だし、静かに由緒を訊ぬるに僦馬の党より出ずる也、何となれば坂東諸国富豪の輩、帝に駄をもって物を運ぶ其の駄の出ずる処みな略奪による――遂に徒党を結んで既に凶徒となる」と記されたのはこれである。
運送業者は容易に馬賊にも湖賊にもなれた。伊勢の神は、ここに強盗の守り神となったのである。
関東平氏は帰化人?
貞観十七年(八七五)、下総の俘囚が反乱を起した。下野の俘囚と呼応して起した反乱だった。その主戦場となったのが豊田郡を中心にしたところであった。現在、村岡と安食の中間に宗道という地があるが、もとは宗任と書いたという。宗道神社は安倍宗任を祀っている。もちろん、宗任は時代のあとの人なのだが、俘囚の末裔達にとっては、義家に降りはしたが、誇れる唯一の英雄だったのであろう。俘囚達が土着して後代にこの神社を祀ったのだと思える。
この俘囚の乱を鎮定したのが下総守文室韓麻呂であり、名前から見て帰化系と何らかの関わりがあった人だろう。さて田村麻呂の奥州征伐に副将軍として参加したのが文室綿麻呂であるが、先述の『平群系図』では秋田城介とか征東副将軍とかいってるのは、この事をいってるのだろう。
本来、平群文室氏は蘇我系氏族と称しているのだが、蘇我氏は帰化人を覚悟していたから、関東に土着し豪族化した帰化人が主家を僭称したのかも知れない。
平群文室氏は後に平氏を称するようになるのだが、平氏と姻戚関係を持ったから平群の群を削ってしまったのかわからない。その平群郡は安房の国にもある。将門を祀った神田明神がもと安房から来たと伝えるのもこのへんに原因があると見てよいだろう。
天平宝宇六年(七六二)の石山院奉写大般若経所解に「下総相馬郡久須波良部広島」なる名が見られるが、平氏の祖という高望王なる謎の人物も相馬郡にいた久須波良部出身だというだけで桓武帝の皇子久須波良親皇の子孫と称した可能性が大きい。
葛原部(久須波良部)はまた藤原部とも書いたといわれている。先述の藤原浄弁の本名を久須麻呂というのも、この部族を対象にした名前だったのだろう。
平氏が桓武帝の裔といわれてる。これははなはだ疑問がある。しかし、桓武帝時代から伝教大師・坂上田村麻呂などを頂点に経済・文化・軍事に帰化人が台頭し、それまでも蘇我氏とか百済王家などを通じて朝廷と連っていたのだが、それらの仲介なしに直接、朝廷との結びつきを強め、民度の低かった関東に文化を持ち込んだのは、この平氏と呼称される人々だったのである。
律令の下積み
鳥羽の海の干拓・鬼怒川の改修の土木技術、そのための多量の仏師運送などを担った人々の中で豪族になれた人はわずかで、その豪族に隷属した賤民のような人々が多く居た。それはオオミタカラ(大美宝)と呼ばれた良民とは違って公分田を与えられなかった人人であった。俘囚達も同様で、俘囚稲を国家から支給されていたのだから農耕に従事したとは思えないのである。それら俘囚の大部分が将門の軍に参加したのである。
将門敗死後、残党狩りがキビしく行われ、将門与党の俘囚の中で主だった者には、奥州に逃げ込んで再挙を図った者もいたし、将門一家の者で行を共にした者もいた。将門の遺子といわれる如蔵尼(歌舞伎でいう瀧夜叉姫)は奥州会津の恵日寺に逃げたといわれており、今でも如蔵尼の墓が残っている。如蔵尼は地蔵尼ともいい、地蔵信仰を持っていたといわれ、弟の良門、そしてその子蔵念の説話が『地蔵菩薩霊験記』にのっている。
将門の遺族が地蔵信仰と繋がりがあるのは、勝軍地蔵から浄土信仰に移って行った経過を示すものであろう。
この恵日寺こそ筑波山の開山徳一菩薩が創建した寺で、平安時代を通じて会津盆地を支配した法王庁だった大寺である。その開創は大同二年(八〇七)といわれ、その前年桓武大帝が崩御されているから、それを弔うためか、大同二年創建の縁起を持つ寺は関東東北に驚くほど多いのである。そしてその多くは縁起の中に坂上田村麻呂が登場するのである。
田村麻呂は奥州征討にあたって、関東に散在土着sていた百済王家にも繋がる帰化豪族達を、動員したに違いない。彼らの多くは交通の要路にバン居していた。とくに律令の駅の長者などをしていた者も多かったに違いない。現在東京の浅草寺の対岸寺島あたりは、井上の駅という律令の駅だった。この井上駅は駅の長者に井上氏がいたのだろう。
これらの豪族を動員し、員数を増しながら田村麻呂は奥州にのり込んだのであろう。律令では、駅家の管括は兵部卿、つまりその当時においては田村麻呂の手にあった。将門軍中に坂上氏の名が見えるのもそのためである。
戦後関東に帰還した彼らは、田村麻呂の一族を称したり、桓武帝の後裔を称したりしながら僦馬の党になっていくのである。
大同年間創建の縁起を持つ関東の古代寺院神社は彼らの氏寺・氏神として建てられたのであり、その周辺に寺社荘園という形で武士団を育てて行ったのである。所詮、彼らは律令からはみ出してしまった人々であったといえるのである。 
 
源氏神話

 

前九年の役  
清和源氏が源頼義によって坂東に定着したとはいえ、その領地は平直方の娘婿として譲られた鎌倉の家屋敷しかなかった。坂東の地は既に平氏や藤原氏、それに坂東の中小土豪たちによって分割占有されており、遅れて来た源氏に割り込む余地はなかった。のこすは道の奥、奥羽地方しかない。
そのころ陸奥国は、将門の乱と同時に起きた出羽の乱(939)と、平貞盛が追討した狄坂丸の叛乱(949)以後、平穏がつづいていた。朝廷の蝦夷政策が武力弾圧路線から蝦夷の自治を前提とする協調路線に転換していたからで、俘囚長としての奥六郡の安倍氏や山北以北の清原氏によって治められていた。
そして衣河の柵より以南は国司陸奥守が支配する内国とされていた。
相模守として頼義は奥州へ乗り込む機会を待った。そして、おあつらえ向きのチャンスがやってきた。
自ら酋長を称する奥六郡の司である安倍頼良が、六郡内において貢租を怠り、課役を拒んだことに加えて、衣河の関を越境して勢力を拡大しようとした。そこで陸奥守藤原登任は永承六年(1051)出羽秋田城介平繁成を先鋒として頼良を攻撃したが、大敗してしまった。
朝廷はこの敗北を期に源頼義を陸奥守に任命した。しかし頼義が直ぐに赴任した様子はない。奥州攻めの準備をしていたのか、あるは陸奥守だけでは安倍氏領の奥六郡へ踏み込めないと踏んだのか、いずれにしても頼義が赴任したのは二年後に陸奥守兼鎮守府将軍という肩書きを得て、文字通り安倍頼良叛乱に対する追討の任を得てからであった。
ところがその前年、大赦令が出されて安倍頼良の反逆罪は消滅してしまう。
大赦令は藤原道長の女、上東門院の病脳平癒祈願のためと、関白頼通の宇治平等院の落慶供養とともに、その頃、末法第一年を迎えて極楽往生を祈願する国家的修善とみなされていた。前年の安倍頼良の叛乱は末法到来の予兆たる騒乱時代の前触れとみなされ、これを無罪放免することは理に叶っていた。
だから、陸奥守兼鎮守府将軍の源頼義が現地へ赴任したとき、安倍頼良はその名が頼義と同じ訓みであることから、頼時と改名してまで恭順の意を表し、頼義に服従した。大赦令は安倍頼良の無条件原状回復であって、奥六郡の自治支配権は否定してない。これでは頼義側にも手の出しようがなかった。
天喜四年(1056)源頼義は一期五年の陸奥守任期切れの年、鎮守府将軍としての政務のため、鎮守府の胆沢城から多賀城への帰途、阿久利川付近で陸奥権守藤原説貞の子の光貞・元貞が襲撃されたと報告を受けたとして、ただちに安倍氏攻撃が開始された。こうして前九年の役は勃発した。  
奥羽の秀郷流藤原氏

 

この年、朝廷は源頼義の陸奥守任期切れにともなって藤原良綱を陸奥守に任じるが、良綱は合戦と聞いて辞したため、止む無く辞令を撤回して頼義を重任とした。
しかし、源頼義の安倍氏打倒は緒戦において早くも苦戦を強いられる。
安倍氏の女婿に藤原経清なる武将の一人がいた。亘理権守と呼ばれる前陸奥国司の一員で、任期を終えて土着していた。奥六郡の総師安倍頼良は、緒戦において不覚にも敗死する。跡を子の貞任・宗任が継いだが、実質は女婿の藤原経清が指揮をとった。
藤原経清の父頼遠は藤原秀郷の子孫で下総国住人といわれるから、経清も元は下総の土豪であった。秀郷は平将門を討ち取る大功によって六位から一挙に従四位下に叙せられ、武蔵・下野両国守に任じられ、鎮守府将軍をも歴任した。その子千晴は中央の官職につき、相模権介となって秀郷の勢力を継承し、国衙権力をもって拡大を図った。任期が終えてからも前武蔵権介平義盛と紛争を起こしている。弟の千常も北坂東で国衙に叛乱したのか、信濃国から朝廷に報告されている。
因みに『秀郷流系図結城』に、秀郷について「始領相州田原。号田原藤太」とあり、この田原の地は千常の子孫として相模国に土着した波多野氏の本拠となる波多野庄内に位置し、現在も西田原・東田原の地名をのこしている。御伽草紙の『田原藤太物語』が秀郷を「田原」を称する地縁はこんな処にある。
そのころ清和源氏の源満仲は武蔵介・守を歴任し、同母弟の満政・満季も武蔵守に任じられて坂東へ進出していた。この清和源氏と秀郷流藤原氏が対決するのは時間の問題だった。千常が叛乱を起した翌年の安和二年(968)源満仲らの密告による安和の変にからんで、千晴・久頼父子は検挙・禁獄され、その後千晴は隠岐国へ流されてしまった。
その後の秀郷流藤原氏の宗主は弟の千常が継ぎ、武蔵介としてさらに勢力を拡大していった。天元二年(979)下野国から前武蔵介藤原千常が源肥らと合戦におよんだと解文が出されている。
また、秀郷以来、歴代が鎮守府将軍に補されているから、秀郷流藤原氏はさらに陸奥国までも発展した。『今昔物語集』に、秀郷の孫の沢袴四郎諸任が余五将軍こと平維茂と陸奥国で威を争い、常陸・下野国などにも通っていたという。奥六郡の安倍頼時に味方した前陸奥国司藤原経清とは、こうした秀郷流の子孫であった。
その系譜は系図によって、源満仲に失脚させられた千晴の末であったり、秀郷の嫡男とおぼしき千清の末であったりと一定しないが、秀郷流の子孫であったことに変わりない。
秀郷流藤原氏と清和源氏の間には他にも因縁がつづいていた。そもそも清和源氏の租になった源経基が武蔵介として赴任したとき将門の乱が起き、都へ逃げ帰って注進している間に、秀郷がいち早く将門を討ち取ってしまった。
また房総三国における平忠常の乱のときは、頼義の父源頼信が追討使として、投降してきた忠常を都へ連行したが、忠常投降の意志を伝えたは、下野国へ土着した秀郷流藤原氏の兼光であった。そのとき戦わずして乱を平定した頼信に、房総の土豪たちは一斉に名簿を奉って従臣したにちがいなく、下総国住人だった藤原経清の一族も同様であったろう。
その秀郷流藤原経清が最も鋭く源頼義に抵抗した。頼義が攻めあぐんでいる隙に、経清は数百の武装兵をもって衣川の柵を越え、諸郡に使いを放って官物を徴収した。それも国の朱印を捺した赤符を用いず、堂々と私の白符をもって徴税符とした。柵を越えるだけでも律令国家に対する侵略であるにもかかわらず、そこで私符をもって国符を犯したのである。国家を背負う追討使頼義にとって、これほどの屈辱はない。
天喜五年(1057)黄海の合戦に追討軍は全滅にちかい大敗をし、諸国からの兵士・兵糧の徴発も効果があがらず、そうこうしているうち頼義は陸奥守の任期が切れて、康平五年(1061)後任の高階経重が赴任しても、人々は命を聞かず帰京を余儀なくされる。朝廷も再び辞令を撤回するという屈辱を味あわされた。 
清原氏の援軍

 

源頼義は出羽国山北の俘囚長、清原氏の援軍を求めた。それも三顧の礼をつくし、甘言を用いて誘い、さらに鄭重を極めた懇請によって、やっと重い腰をあげて清原武則は参戦した。連合軍の大部分は清原援軍によって占められた。七軍編成中、六軍全員清原勢、頼義の本隊も主力は武則の一族たちであった。
頼義軍三千、清原軍一万余は安倍貞任軍の衣河柵を破り、ついで撤退した鳥飼柵を落とし、最後の拠点厨川を包囲して、打って出た貞任らを捕らえて斬った。そのとき頼義は藤原経清に対し、汝は先祖から相伝の家僕なりとして、鈍刀をもって何回も打倒するように斬りつけて殺したと『陸奥話記』はいう。
前九年の役はこうして終り、論功行賞があった。源頼義は正四位下伊予守、子の義家は従五位下出羽守、その上に清原武則の従五位上鎮守府将軍があった。清原武則は安倍氏追討の第一功労者と認定され、それまでの頼義の官位を継承する扱いがなされた。
清原武則の得たものはそれだけではなかった。安倍頼時の娘で藤原経清の妻だった女子を、経清との間に生まれた清衡を子連れのまま息子武貞の嫁とした。つまり安倍頼時の娘を通して、その旧領の奥六郡をも合わせて手に入れたのである。
時に数え歳十九の義家にとって、従五位下出羽守は不足のあろうはずもない官位であったが、従五位上鎮守府将軍に叙任された清原武則の風下に立つのでは、陸奥国を狙う源氏にとって何の旨味もない。早くも二年後に義家は出羽守を辞した。
こうして陸奥国は清和源氏にとって再び宿怨の地となる。 
後三年の役

 

前九年の役から二十年後、永保三年(1083)秋、源義家は陸奥守として赴任した。
とはいえ、義家が陸奥国へ来たのは前九年の役以来というわけではなかった。延久二年(1070)祖父頼信の弟頼親の孫の陸奥守源頼俊が、散位藤原基通と合戦して国の印鎰を奪われるという事件が発生したとき、そのとき下野守だった源義家は、自ら申請して陸奥へ出兵、藤原基通を捕らえて上洛している。義家は宿怨の地、奥羽になみなみならぬ関心を寄せ、再進出を狙っていたのである。
そのころ陸奥の清原氏には内紛が発生していた。清原武則は源頼親を援けて安倍貞任を討ち、鎮守府将軍に任じられ、出羽山北三郡に加えて安倍氏旧領の奥六郡をも支配し、子武貞、孫の真衡へと継承されていた。しかし、嫡流の真衡と異母兄弟で安倍氏の女子を母とする清衡・家衡が対立していた。そこへ源義家が陸奥守として赴任してきたのである。
清原真衡の養子の成衡は、義家が平宗幹の娘に生ませた女子を妻としていたから、義家とは血縁関係にあり、援助を求めてきた。義家は待ってましたとばかりに清原氏の内紛に介入する。清衡と清衡・家衡は戦闘におよんだが、間もなく真衡は出陣中に病死してしまった。真衡の急死によって養子成衡の立場は失われ、清衡・家衡両人も降伏したため、義家はあらためて両人に真衡の遺領を分配して内紛はおさまったかに見えた。
ところで、清原真衡の養子になった成衡を『清原系図』は平安忠の子、海道小太郎とする。安忠は将門の乱を平定した平貞盛の弟繁盛の子で、出羽守となり、子孫は岩城郡に海道氏として繁栄した。海道小太郎成衡はこの一族の者とみなせる。すると、清原真衡は何故他族の成衡を養子に選んだのかという疑問が生じる。
この疑問を解いてくれるのが、鎌倉御家人和田氏の子孫が越後国へ移住して書きついだ中条家文書所収の『垣武平氏所流系図』の記事である。これによると、源頼義の安倍氏追討に加勢した清原武則自身が平安忠の子孫で、平姓を改めて清原真人となり、その子孫も同じだという。そして、武則に続いて鎮守府将軍に任じられた系譜不明の貞衡は岩城三郎太夫といい、武則の弟に位置づけられている。ということは、清原真衡の養子になった岩城郡の海道小太郎は他族の者ではなく、直系親族から選ばれていたことになる。
しかし、この成衡は養父の清原真衡の急死によって、清原氏内部での立場を失ってしまったらしい。真衡の遺領の分配にあり付けず、わずかに義家勢力下の下野国におかれたらしい。
また、清原氏が本姓平氏であったから、しぶしぶとはいえ平氏出身の源頼義の援軍要請に応じ、出羽山北の俘囚といえども戦功によって鎮守府将軍に任じられた理由も納得できる。頼義の妻は平氏嫡流の直方女であり、その間にに生まれたのが義家であった。頼義・義家父子の奥六郡安倍氏追討とは、言い換えれば平氏勢力による出羽・陸奥国の統一であったことになる。この時期、未だ後世の様な、源氏か平氏か、といった色別けは意味をなさなかった。 
八幡太郎は恐ろしや

 

応徳三年(1086)夏、家衡は清衡の館を襲撃して妻子眷族を殺し、再び武力対立がはじまった。家衡と清衡は共に安倍氏の女を母とする兄弟であったが、家衡は清原氏、清衡は秀郷流藤原氏と、それぞれ父系を異にしていた。義家は藤原氏の清衡の訴えにより、数千騎を率いて清原家衡の拠点とする出羽国沼柵を攻めた。戦いは数ヶ月におよぶ攻防となり、やがて大雪の季節となり、義家軍は飢えと寒さの中で凍死者が続出した。
この事件は都でも話題になり、朝廷は義家の弟の義綱を派遣して情報を得ようとしたり、合戦停止の官使を派遣したりしており、戦いは義家の私戦と見なされていた。だから義家が俘囚清原氏の国家に対する叛乱と報じ、追討の官符を申請しても朝廷には認められなかった。兵員も武器も私費をもって戦わねばならなかった。
一方、清原家衡は沼柵を棄てて、叔父武衡とともに、より堅固な金沢柵に立てこもった。義家のもとには、当時、都で左兵衛尉の官にあった弟の新羅三郎と呼ばれた源義光が、兄の苦戦を聞いて無許可で参陣してきた。これを美談として戦前の教科書に載せられたが、実際は源氏勢力の拡張に、義光も一枚噛んだということであろう。これに勇気づけられた義家は、翌年の寛治元年(1087)九月、数万の兵を動員して金沢柵を包囲した。
その兵員の大部分は兵站基地の坂東から動員された。それはこの金沢戦争において後世に語り継がれる源氏神話を生んだ。その多くは後に源氏が武家の棟梁としての原点となり、そこに関わったことが、坂東武者の先祖を飾る伝説となった。
しかし現実の金沢柵包囲戦は、源氏にとっての宿怨の地、殺戮の巷となり地獄絵図を展開した。義家の作戦は兵糧攻めで、冬になって飢餓に苦しみ、これに耐えきれずに城内から投降してきた女子供を見せしめに惨殺する。こうすれば柵から出る者もなく、食料も早く尽きるという作戦であった。
睨み合いのなかで言論戦も展開された。籠城中の武衡の郎党千任なる者は、かつて前九年の安倍氏追討のとき、義家の父頼義は清原氏に臣従の礼をとった者の子でありながら、何故に清原氏を攻めるかと、義家軍の兵士に喧伝して牽制する。事実、頼義は臣従したととられても仕方がないほどの甘言と礼をつくして清原武則の援軍を要請した。陸奥国が清和源氏にとって宿怨の地となる因縁もここにあった。
金沢柵が落城したとき、助命を請う武衡を容赦なく斬り殺し、悪口を吐いた千任なる者を連れ出し、歯を金箸で突き破って舌を引っ張り出して切らせ、武衡の首の上にその身を吊るすという冷酷残忍な刑罰を科した。金沢柵に乱れ入った義家軍の兵たちは、清原軍の兵を一人のこさず虐殺、女たちは分捕られて慰みものにされた。
こうして出羽山北の清原氏もまた滅ぼされた。義家が都の貴族から「多くの罪無き人を殺す」と非難され、民衆からは「八幡太郎は恐ろしや」と畏怖されたのも、けだし事実に反する訳ではなかったのである。 
院政はじまる

 

源義家が再度奥州を攻めた後三年の役は、当初から分かっていたことだが、私戦と見なされて朝廷から恩賞は出なかった。公戦と認められれば恩賞が与えられ、戦費も公費で賄われる。義家のために働いた従者には、そのため義家の私財を投じて恩賞にかえられた。
これが義家を武家の棟梁として武将から認められる結果をもたらし、地方の豪族たちは好んで義家に所領を寄進してきた。これまで藤原摂関家や有力公家に寄進された荘園が義家の元に集まったのである。
ところが、後三年の役が終ってから四年後の寛治五年(1091)には義家に荘園を寄進することが禁止され、さらに一年たらずの翌年には義家が荘園を立荘することまで禁ずるという念の入れようである。禁じたのは白河上皇の院政であった。
白河上皇の院政は後三年の役の最中に始まっていた。天皇の父、ということは前の天皇が退位した後、堀川天皇の後見として実質的な権力を握ったのが白河上皇の院政である。それまで、天皇の母方の祖父である藤原摂関家が実権を握っていたものを、院政は天皇の父方が権力を掌握することになった。藤原摂関家に仕え、その爪牙として働いてきた源氏が白河院政によって牽制されたのは当然である。
しかし、白河院政が権力を握ったといっても、権力基盤を支える財力がない。義家に対する地方豪族たちからの荘園が増えれば、それだけ白河上皇の元へ集まるはずの荘園が少なくなる。また、源氏を牽制することは、その背後にある藤原摂関家の権力基盤を削減することに通じる。こうした白河院政に対して藤原摂関家も黙ってはいない。義家の次男義親を西国へ派遣し、暴力的に摂関家の荘園獲得に走り、院宣をもって追討され、隠岐国へ流罪になった。
残された記録をそのまま鵜呑みにした通説は、これを義親の個人的な乱暴狼藉としか見なしていないが、源氏の家督を継ぐべく約束された義親に、それほど見境のない行動は有り得ないだろう。白河上皇と摂関家の権力争いの犠牲に他ならなかった。 
蟻の熊野詣

 

その後の源氏一族は惣領をめぐって内紛を繰り返すことになる。これもまた白河上皇の黒い手による切り崩しという見方もあるが、もっと深く広い社会的な構造変化と見なすことができる。
地方の豪族たちの開発した私領は大規模化したことにより、これを国司の賦課からのがれるために、しかるべき中央の権門の荘園に立荘し、自らは荘官の地位を確保する。こうした荘園のあり方は、豪族の一族内部から庶流の分立をもたらし、分家が惣領家に劣らぬ実力を持つ可能性もある。
さらにこうした分家の台頭に拍車をかけたのは、白河上皇の院政による父系の権力掌握にあると思われる。それまで藤原摂関家が実権を握ってこれたのは、天皇の母系であったことによる。古代以来の母系制度の遺制が、まがりなりにも平安時代に生きており、それは一族を統一する手段でもあった。庶流の分立とは「族」から「家」の独立であり、族長から家長の誕生であった。
同じことを別な面から見ると、またしても白河上皇の院政に関わることだが、白河院政以降の度重なる上皇の熊野御行をあげることができる。それまで天皇家のいわば氏神は伊勢神宮に限られていたにもかかわらず、これ以来、熊野詣でに変った。
伊勢と熊野は同神と故事付けられはしたものの、熊野三山は明らかに天皇家の氏神ではない。権門の一つであった天台宗比叡山の寺門派、三井寺(園城寺)との関わりがあったに過ぎない。白河上皇の九回をはじめ、鳥羽上皇の二十一回、後白河上皇の二十八回など、二百年間に九十八回の熊野御行をかぞえる。これらがきっかけになって、武士や一般庶民まで巻き込んだ熊野参詣ブームがうまれた。
蟻の熊野詣といわれるほどの上皇の熊野参詣は、伊勢神宮に限らず、氏神一般のあり方をも変えてしまった。自族の氏神以外の御利益のありそうな神社へ参詣したり、果ては勧請したりするようになったのも、この頃の事からである。それは必然的に氏神から氏子を引き離し、族長としての惣領から庶子の分家をもたらす。清和源氏が頼義以来、石清水八幡社を鎌倉に勧請し、義家がそれを修復したり、奥州攻めに五里八幡といわれるほど奥州路に数多く勧請したと伝承されるのも、離反しかねない一族統合が目論まれたのではないか。 
源氏の内紛

 

それにも関わらず源氏の内紛は起きた。
義家に平直方の女を同じ母とする二人の弟がいたことは既に触れた。次弟を賀茂次郎義綱、三弟を新羅三郎義光という。八幡太郎と呼ばれた義家が石清水八幡社と関わり深いように、次弟義綱は賀茂神社の神前で元服、三弟義光は先にあげた大津三井寺(園城寺)境内の新羅明神の社壇で元服したことによると伝える。既にここで源氏の守り神たる八幡社とは異なる神社が、同じ兄弟に関わっていた。
義家は奥州攻めの前九年の役と後三年の役の間に、下野国の藤原秀郷の嫡流足利家綱のの女子に生ませた三男義国は、義家の同母弟義光が常陸平氏の大掾氏の吉田清幹の女子に生ませたて、奥州に近い常陸国北部に勢力を持つ義業の孫昌義と院の命令で常陸国に合戦して長引かせ、兄義親に替わって継ぐはずの源氏の家督を逃してしまう。
結局、義家の跡を継いだのは四男義忠であったが、間もなく何者かに暗殺されてしまった。下手人として義家の同母次弟義綱が疑われて捕らえられた。義綱を捕らえて斬ったのは西国で追討された次男義親の子為義が義忠を継いだ直後である。しかし、真犯人は同母三弟の義光が放った刺客であった。
義家の同母兄弟は奥州攻めに際して、麗わしき兄弟愛を発揮したと戦前の教科書に載せられたが、実際は源氏の惣領、家督をめぐる勢力争いに明け暮れたのである。 
坂東の義朝

 

こうした源氏の内紛は為義の代に逼塞をもたらし、京にあっても終生六条判官と呼ばれ、一生検非違使の上にあがることができなかった。ところが為義は飛んでもない野望を抱いた。日本六十六ヶ国の女に一人づつ子を産ませて国主にすれば、親父の為義は日本全体を支配できる、というものだ。せっせと四十六人まで頑張ったそうだ。京を留守にできなかった為義の何処にそんな暇があったかとも思えるのだが、多分に孫の頼朝政権を踏まえた作り噺かもしれない。
坂東では中央の中流貴族刑部少輔藤原忠清の娘に生まれた嫡子義朝が為義にかわって武士団を統合した。外祖父忠清は義朝の生まれる前から出家して、あまり母方の庇護は期待できなかったらしく、上総曹司と呼ばれた義朝は幼いころ上総国で育ったらしい。上総国畔蒜(あひる)庄(千葉県君津市)は曾祖父の頼義が前九年の役の功によって得た地と伝え、安房国の丸御厨、武蔵国大河土御厨とともに源氏相伝の家領といわれる。
上総国はかつて房総三国に大規模な叛乱を起こした平忠常の子孫、上総氏の地盤であった。
隣の下総国には同じ忠常の子孫の千葉氏があり、相馬郡の相馬御厨(千葉県我孫子市)の領有をめぐって争っていたところ、康治二年(1143)二十一歳の義朝は上総常重の要請を受けて紛争に介入し、千葉常重から相馬御厨の領有権を奪い、千葉氏を服属させてしまう。
翌年、義朝は源氏の坂東における拠点、相模国鎌倉の楯から千余騎の軍勢をもって現在の藤沢市鵠沼の大庭御厨を襲って乱入した。従ったのは三浦・中村・和田氏といった在地の武士団で、襲われた側は平良文の子孫が相模鎌倉党として開発し、後三年の役で眼に矢を射られて武名をはせた鎌倉権五郎の子孫の大庭氏である。義朝の嫡男義平の母は三浦半島の豪族三浦介義明の娘であり、義明の嫡流が和田氏である。相模湾の海岸線の西部一帯に勢力をもつ中村庄司宗平の姉妹は、義朝の乳母であった。
京の為義は嫡子義朝がこうして得た領地を伊勢神宮や熊野大社へ荘園として寄進し、その下司職に郎従を派遣して管理した。相模国の愛甲庄を現地支配した郎従内記太郎が近隣に勢力を伸ばしてきた武蔵七党横山党の小野隆兼に討たれると、逆に隆兼を服属させて下司職に補した。
また例の頑張りで特筆すべきは、熊野別当の娘の立田御前と縁を結んで娘と息子を得たことである。娘は立田腹の女房、丹鶴姫で、この縁が後に義経が平家を追討した壇の浦の戦いに熊野水軍二百艘二千余りの兵の加勢を得ることになる。そして息子は新宮十郎行家で、平家打倒の以仁王令旨を坂東各地の源氏の元へ持ち回ることになる。 
悪源太義平

 

為義の嫡男義朝は着々と南坂東の武士団を組織していった。京の為義は相変わらずうだつが上がらず、西国を地盤とする平清盛一族が鳥羽上皇の元で中流以上の貴族として、また国家の武力として仕えていた。ところが不都合なことに、清盛の郎従が祇園社で乱闘事件をおこし、祇園社本寺の延暦寺衆徒が京都に押しかけて来ると取り沙汰された。それを阻止するために当事者の平氏の武力は使えず、鳥羽院は坂東に強力な武士団を組織する義朝を起用した。
義朝は坂東を嫡男義平にまかせ、上洛して鳥羽上皇に仕えたのは久安三年(1147)ごろである。数年にして義朝は従五位下下野守に叙任された。受領にもなれなかった父為義との差は歴然としていた。藤原摂関家に仕える為義は激怒したにちがいない。事も有ろうか嫡男義朝が主の政敵、鳥羽上皇に仕えて出世するとは。
そのため為義は離反した義朝にかえて次男義賢を後継者にして京で立身させようとしていたが、度重なるしくじりから今度は北坂東へ下向させた。その目的は下野守義朝の勢力のおよばない上野国から、南坂東の義朝の子義平との対決であった。義賢は上野国多胡郡(群馬県吉井町多胡)を根拠に、在地武士団の組織活動を開始した。
坂東には他にも清和源氏がいた。奥州に近い常陸国の北部一帯を支配する義家の弟義光の孫の佐竹昌義、この佐竹氏との私戦が元で源氏の家督を逃した利根川の東側下野国足利の義国である。
義国は源義家を父に、藤原秀郷の嫡流足利家綱の姉妹を母として、義家の後三年の合戦前に下野国佐野荘内に生まれた。上洛した義国は父系の威光によって昇進し従五位下加賀介にまで補されたが、佐竹昌義らとの常陸合戦が長引き、下野国に逼塞せざるを得なかった。そこで義国は荒地開拓に専念して、鳥羽法王の安楽寿院へ荘園として寄進、足利荘を立荘して次男義康を荘官とした。さらに渡良瀬川を渡って上野国梁田郡を開発して伊勢神宮へ寄進して梁田御厨とした。しかし、その地は母系の藤姓足利氏の勢力地盤の内にあり、争いとなって訴訟に持ち込まれていた。
そして源氏の他には、利根川を挟んだ西側の武蔵国北部に平良文流の秩父平氏が小豪族を統合して威勢をはっていた。その家督は国内きっての有力在庁として武蔵国留守所総検校職を帯する入間郡川肥(埼玉県川越市)秩父次郎太夫重隆であった。しかし嫡流で兄の秩父太郎太夫重弘と不仲であり、また利根川を挟んで下野の足利氏と長年の争いが続き、ときには利根川を渡河して合戦におよんでいた。
源為義の次男義賢は上野国多胡荘から南下して、武蔵国河越の秩父重隆の娘婿となり、比企郡の大蔵館(埼玉県嵐山町)へ進出、秩父氏の武力を背景に上野・武蔵国の武士団を服属させて勢力を高めていった。重隆にしてみれば、義賢という源氏の貴種を推戴して北上する義平に対しようとした。
一方、相模国の源義平は叔母にあたる母方の三浦義明の女が秩父重弘の子重能の妻になっており、秩父兄弟の分裂は必至だった。さらに、義平の父義朝の正妻は尾張国熱田神宮の大宮司藤原範忠の妹、由良御前は頼朝を生んでいたが、その姪にあたる範忠の娘を由良御前の妹にして上野国の源義国の次男義康に嫁がせた。しかも義国の嫡男義重の娘を義平の妻として、源姓足利氏との関係を蜜にしていた。
こうして坂東における義平と義賢、強いては在京する為義と義朝の衝突は必至となった。久寿二年(1155)八月、相模の義平は武蔵の大蔵館を奇襲すると、義賢とその養父秩父重隆を討取って一躍武名を挙げた。時に十五歳の悪源太義平、と。そして為義の企図は水泡に帰した。因みにこの時、義賢の子は母と共に危機をに脱出、乳母夫中原兼遠に信濃国木曽谷で養育され、長じて木曽義仲となる。嫡子仲家は在京の源三位頼政の元で養育され、後に以仁王挙兵に頼政と共に宇治合戦で討死を遂げる。 
為義生涯の宿願

 

坂東で源義賢と秩父重隆が討たれた一年後、京で政界を二分した保元の乱が起きた。後白河天皇を擁して専制権力を振るっていた鳥羽法皇が崩じると、それまで退けられていた祟徳上皇が不満を爆発させたことによる。ここでも院政がもたらした父系の台頭によって、いわば分家としての祟徳上皇が暴発したと見なすことができる。
藤原摂関家に仕えた源為義は藤原頼長に従って祟徳上皇方に着き、鳥羽法皇に仕えた源義朝は法皇の遺言によって後白河天皇方に加担し、父子の対決となった。義朝は子の義平が組織した坂東の武士団を従えたが、為義は無勢であった。保元の乱の勝敗は既に前年の坂東における戦いで決していたのである。
無勢の上皇方は武人でもない頼長が指揮をとり、為義や子の為朝が献策した夜襲を退け、怒った為朝をなだめるため、戦いの場で急に蔵人の官位を与えようとして蹴られた話は有名である。しかし、一生受領の事がなく、六十一歳の老齢まで地下の六条判官を通した清和源氏の総帥為義の宿願を、この父を斬った従五位下下野守源義朝には思い至らなかった。
「然らば、自余の国守に任じて、何かはせん」と他の一切を断って、為義の武将生涯に望んだものは、祖父頼義が、父義家が受領した「陸奥守」の叙任であった。朝廷はさすがに為義の危険な望みを許さなかった。源氏を陸奥守に任じると、再び奥州を滅ぼすに違いない、と見ぬいていた。源氏相伝の宿意はこうして為義の孫、頼朝の宿命となる。 
武者の世

 

保元の乱を指して慈円の『愚管抄』は「日本国の乱逆と言ふ事は起こりて、のち、武者の世になりにけるなり」と書いた。たった数時間の戦い、それも狭い平安京内でのそれが、京の貴族たちにとって「日本国の乱逆」とは、その視野の狭さを暴露しているが、正しく「武者の世」の始まりであった。とはいえ、保元の乱は決して武者の、武家の戦いではなく、公家貴族の傭兵としての戦いであった。
ただ武者の世の到来を示す象徴的な出来事がある。死刑の復活である。九世紀のはじめ、奈良時代のおわりに薬子の変で藤原仲成が殺されて以来、三百五十年間、死刑は宣告されても遠流に処すのが通例だった。死者は蘇らないという仏教思想の影響もあって、血を忌み嫌い、清浄を善しとする王朝文化の根底を支えてきた。この死刑復活によって、源義朝は父為義はじめ幼い弟たちを斬処させられたのである。しかも、死刑復活を主張したのは義朝などの武家ではなく、公家貴族の藤原信西であったところに、世をあげて猛々しい「武者の世」の始まりをあらわしていた。
後白河天皇と祟徳上皇の争いが天皇の勝利となり、院政開始以来七十年ぶりに天皇親政が復活したものの、後白河天皇はわずか三年で退位して院政を再開した。ここに即位した二条天皇との間にまた軋轢が生じた。その行き着いた結果が平治の乱であり、源氏の壊滅であった。天皇方に着いた源義朝は敗残の将として京を逃れ、頼みの部下に裏切られて果てた。源・平の対立はここに始まり、以来二十年間、後白河院と結びついた平氏の世となり、源氏は逼塞を強いられる。
平氏と後白河上皇の関係は、平氏が藤原氏の真似をして天皇の外家として権力の座に就ことしたことから、にわかに険悪となった。傭兵から権門へと武家の平氏は駆け上ったのである。二条天皇を継いだ六条天皇を廃して、平清盛の妻の妹滋子が後白河上皇の寵を得て生んだ憲仁親王を高倉天皇として即位させる。ここまでは上皇と清盛の関係は良好だった。天皇の伯父にあたる清盛の地位も高まったが、さらに清盛は自分の娘徳子を高倉天皇の皇后に入内させるという、画期的な目論見を実行した。この時から後白河上皇を中心とする反平氏の動きが始まった。上皇側の平氏打倒の陰謀と清盛の院政廃止を目的とするクーデターの激突は、徳子の生んだ安徳天皇の即位によって決着が着いたかに見えた。
しかし治承四年(1180)四月、後白河上皇の第三皇子で高倉上皇の異母兄にあたる以仁王によって、密かに平氏討伐の令旨が出された。以仁王は高倉天皇即位のとき有力な対立候補であったが、鳥羽上皇の皇女八条院の養子となって不遇のうちに成長した。安徳天皇の即位を認めず、自ら「新皇」を宣言した以仁王の令旨は諸国に散らばる八条院領に持ち回られ、平氏打倒の戦費もここから工面されたといわれる。
以仁王の謀叛は五月になって暴露した。以仁王を担いだ摂津源氏の三位頼政は反平氏の延暦寺や園城寺の僧兵と組んだが、平氏の切り崩しにあい、脱出して興福寺を頼ろうとして宇治平等院の傍らで、以仁王ともど討たれてしまった。先陣は平氏に仕えた藤姓足利氏であった。 
藤姓足利氏

 

藤姓足利忠綱が宇治川先陣の戦功に望んだものは、父俊綱以来上申して叶えられなかった上野国大介職と新田庄を屋敷所に賜わりたいというものであった。清盛は忠綱の申し入れを、易き事として直ちに大介に任じる補任状を与えた。
ところが、いっしょに戦った藤姓足利一門の庶流十六人が、一斉にこれに反対して、戦功を我らにも配分して欲しいと、清盛に直訴したことから、褒賞は沙汰止みとなり、忠綱の大介補任も撤回されてしまった。この事態が起きたのは藤姓足利氏家督の庶流に対する支配権が、極端に低下していたことによる。
とはいえ、庶流が家督に対して独自性を有していたのは足利一門に限らず、この時代の特徴である。足利氏自体が藤原秀郷の子孫一門の中では庶流に過ぎなかった。秀郷流藤原氏は下野国を中心に発展し、武蔵・相模・下総・常陸国まで一門は広がり、宗家は武蔵国太田庄の太田氏であった。そこから分かれた下野国の庶流小山氏が、下野国権大介職・寒川御厨(小山沿庄)別当職を相伝する有力な在庁職であった。この小山氏と並んで「下野の両虎」として西側の上野国へ発展をはかったのが藤姓足利氏であった。
足利忠綱が父俊綱以来の上野国大介職を望んだのは、分立する庶流掌握が目的であった。そして新田庄を屋敷所にと望んだのは、その地が自らの勢力圏に属しながら実は源氏の新田義重の本領であったことによる。
新田義重の父義国は、源義家が後三年の役の前に藤姓足利の女に生ませて、藤姓足利氏の中で育った。だから藤姓足利氏にとって新田氏は、父系は源氏でも母系は庶流の一つであったといえる。ところが、新田義国・義重父子は藤姓足利氏の勢力圏内で独自に土地開墾をして、荘園として立荘してしまったことから、両者の間で長年にわたって訴訟沙汰が続いていた。しかも新田義重は相模国の源義平と縁組することによって、源氏の旗色を鮮明にし、藤姓足利氏から離反したのである。足利忠綱が新田庄を屋敷所に得たなら、この新田氏をも支配することが出来たはずであった。しかし、その年来の望みも一門庶流の反対にあって水泡に帰してしまった。それでも藤姓足利氏は平氏から離れる事はなかった。 
源氏の叛乱

 

治承四年(1180)八月、以仁王の発起から三ヶ月後、伊豆に流されていた源義朝の子頼朝が反平氏を掲げて叛乱・発起した。
はじめ頼朝は挙兵に積極的であったわけではない。坂東の大半は平氏の知行国であり、知行国主は国衙の在庁官人を任免できる。伊豆国は摂津源氏頼政が知行国主であったから、頼朝は比較的自由な流人生活をおくれた。頼政が宇治川で以仁王と共に討たれてから、伊豆の知行国主は平氏に替わり、平氏の息のかかった現地の目代が任命された。さらに平氏の命令で鎌倉党の大庭一族の軍勢が、頼政残党の討伐に伊豆へ急行した。切羽詰まった頼朝は伊豆の目代を挙兵の血祭りにあげ、そして大庭氏の大軍に惨敗した。
一敗地にまみれたた頼朝は真鶴から伊豆の海賊土肥氏の舟で、共に挙兵を約束した相模国三浦半島の三浦氏を頼ったが、激しい嵐に会って房総半島の安房国州崎(千葉県館山市)へ流されてしまった。
翌月には信州木曽谷に源義仲が挙兵し、信濃一国を支配下に収め、甲斐国の武田信義も甲斐と信濃の諏訪地方を征服した。
頼朝が伊豆で惨敗して、房総で再度兵を募って鎌倉入りした頃、木曽の義仲軍は一ヶ月余りで上野国へ進撃した。かつて、上野国多胡郡に土着して相模国の源義朝・義平に対抗し、大蔵館を急襲されて敗死した源義賢の次男であったが、乳母夫に育てられて成人した。上野国への進撃は、父義賢が編成した在地勢力を糾合することが目的であったから、二ヶ月ばかりで信州へ戻った。
藤姓足利俊綱はこれに対抗して、上野国府周辺の源氏側の民家を焼きはらっている。それでも庶流の一部は義仲の呼びかけに応じて、藤姓足利氏から離反していった。
平氏一途の藤姓足利氏に対して、同じ秀郷流の下野国の小山氏は頼朝方に着いた。というのも、小山政光の妻寒河尼は頼朝の乳母であった。頼朝の父の義朝は保元の乱の前に下野守に補任それ、乱後も「造日光山功」によって下野守を重任している。小山氏はその下で権大介職であった関係から、嫡男頼朝の乳母夫に選ばれたのであろう。
しかも寒河尼は二荒山座主宇都宮氏から出た八田宗綱の娘である。二荒山神社は源頼義の前九年の役、安倍氏追討のとき、藤原北家の関白道兼の曾孫、石山座主宗円が東下して、兇徒調伏の祈願をしたのが縁で宇都宮に留まり、社家として豪族化した一族である。二荒山神社は下野国一宮だから国衙の軍政機構に属て、有力在庁の小山氏と関わり深かった。頼朝挙兵の当時、小山・宇都宮両氏の家督や嫡子は上洛して平氏の軍役に仕えていたが、寒河尼の差配で留守部隊がいち早く頼朝の元へ参向した。 
常陸金砂城攻め

 

十月になると平家の坂東追討軍が押し寄せたが、甲斐源氏の武田信義・安田義貞兄弟らは頼朝軍と合同して駿河国の富士川で撃退してしまった。この戦いに戦功第一の甲斐源氏は論功行賞において、それぞれ駿河・遠江国守護に任じられた。平氏軍がもろくも敗走したの知った頼朝は、ただちにその後を追って西上、京都を突こうとした。坂東ばかりでなく、全国に反平氏の狼煙があがっていたからだ。
しかし、頼朝挙兵以来の有力者・功労者の千葉介常胤・上総介広常・三浦介義澄らは口をそろえて反対した。かつて流人の頼朝は、今や「鎌倉殿」であったが、彼等にとって頼朝は反平氏の旗印に過ぎない。駿河の平氏軍敗走を知った右大臣の九条兼実は、流人頼朝は昔の平将門のように謀叛しようとしているのであろう、と日記に記している。貴種頼朝を反平氏の旗印に担いだ坂東武者たちの目的は、京都はどうでもよく、将門のように坂東独立国にあった。まず鎌倉に戻り、坂東の地固めに専心することを強く主張した。
とりわけ、下総国の千葉介常胤と上総国の上総介広常は共に秩父平氏流で、かつて房総三国に大規模な叛乱をおこした平忠常の子孫であったが、隣国常陸北部の佐竹氏の侵攻に脅かされていた。千葉氏が将門の遺領を継いだ相馬御厨は、領有をめぐって上総氏と争ったが義朝の介入によって維持されていた。平治の乱で義朝が滅亡すると平氏方の国守藤原親通に没収され、常陸の佐竹氏に譲渡されてしまっていた。だから千葉介常胤は頼朝挙兵と前後して、下総目代を討って公然たる叛乱へ決起したのである。
上総氏は上総国で二万の兵を動員できる大豪族であったが、平治の乱後、上総介広常は平氏に上総権介職を取り上げられそうになり、平氏を怨んでいたという。坂東独立国から平氏政権の一掃が彼等の急務だった。
常陸国の佐竹氏の父系は八幡太郎義家の同母弟、新羅三郎義光の子孫である。義光は五十代後半になってようやく受領にありつき、常陸介に任じられて現地へ赴任した。常陸国には将門を討って武名をとどろかせた平貞盛の子孫、大掾氏が多気郡(筑波山麓)に住して国衙へ出仕していた。義光はこの大掾氏の庶流吉田清幹の娘を嫡男義業の妻に迎えて、久慈郡佐竹郷(常陸太田市佐竹町)に館を構えた。
義光が任期を終えた後、嫡孫の昌義は佐竹冠者と名乗って土着して、常陸南部にある大掾氏の勢力範囲を避け、北方の奥七郡(那珂川以北)を領していた。秀郷流藤原氏の太田氏や天神林氏を追い払い、奥州藤原清衡の女を妻に迎えて北方の備えとした。佐竹氏の相馬御厨の獲得は、常陸から下総へ侵出するための一環だった。
当時、佐竹氏の家督隆義は平氏に従って在京中であり、嫡子秀義が留守をあずかって金砂山城(茨城県常陸太田市)に立籠った。十一月はじめに常陸国府(茨城県石岡市)に入った頼朝はこれを本陣として、まず常陸大掾職の多気義幹を味方につけ、鹿島神宮へ戦勝祈願すると、すかさづ金砂山城の総攻撃にかかった。山城を守っていた佐竹秀義は一族の統制をとれず、上総介広常の甘言に乗った裏切りを出たりして、城を棄てると奥州境の勿来の関に近い花園城へ逃げ込んだ。頼朝軍は深追いせず、常陸国平定はなったとして引き返したが、これが後に禍根をのこすことになる。 
野木宮合戦

 

こうした坂東のめまぐるしい状況のなかで、十二月も半ばになってから、上野国の清和源氏新田義重が新造成った鎌倉大蔵御所に駆けつけて、既に坂東の主を宣言した頼朝に面会を求めた。はじめ義重は頼朝の動向を京へ知らせるなどして平氏に組みしていた。それも不確実な情報を。以仁王の令旨がもたらされてからか、義重は頼朝や義仲と同様に自ら立とうとしていた。我こそは八幡太郎義家の嫡孫、という自負があった。そして兵を募ったが集まらない。それどころか三男の山名氏をはじめ嫡孫の里見氏や甥の源姓足利氏などの庶流も、いち早く頼朝の旗下へ馳せ参じてしまい、自立どころではなかった。頼朝挙兵から四ヶ月の遅刻は、頼朝近臣の取り成しで御家人に加えてもらったものの、末代まで冷飯を食わされてしまう。
明けて治承五年(1181)一月、まだ若い高倉上皇が病死、京都へ戻った平清盛が没し、後白河上皇の一人勝ちの院政がはじまる。
三月になると、平氏に従って在京中だった佐竹氏の家督隆義は、常陸介に任じられて下国した。しかも三千余騎という勢力を擁し、遠く北陸道を迂回して中央の平氏と厳密な連絡をとり、頼朝追討の院宣を得て機をうかがっていた。
以仁王の令旨を持ち回って反平氏のを組織した熊野の源行家は、一時三河・尾張国の源氏勢力を率いて京へ迫ろうとしたが、この三月、尾張・美濃堺の墨俣川の戦いで平氏軍に撃破される。
六月には平氏が期待する越後の豪族城氏が信濃国へ攻め込み、木曽義仲・甲斐源氏の連合軍と千曲川畔の横田河原で戦ったが、あえなく惨敗した。この義仲軍に上野国から藤姓足利氏から離反した庶流の一部が参戦したいる。木曽義仲は勢いに乗って北陸一帯の平定へ向かった。
寿永二年(1183)二月、常陸国の志田義広が頼朝に取って替わろうとして挙兵、三万余の兵を従えて突如、下野国へ進撃した。義広は同じ清和源氏流で、義仲の父義賢の弟にあたり、平治の乱の頃から霞ケ浦の南湖畔の信太庄(茨城県稲敷郡美浦村)の預所として土着していた。頼朝の佐竹攻めの時、国府で面会していたが、叔父の立場で頼朝の風下に立ちたくなかったのかもしれない。志田義広も源氏の棟梁争奪に参戦したのである。
下野の藤姓足利忠綱はただちに志田義広軍に組みし、同じ秀郷流の小山朝政をさそった。小山氏の家督政光が皇居護衛で在京中のため兵力不足の朝政は、はじめ偽って志田方へ味方した。しかし小山氏は下野国権大介職として国内の軍事統率権を発動し得る立場にある。一門はじめ藤姓足利氏の庶流をも動員した。頼朝の異母弟範頼も一武将として参戦している。範頼一族の吉見頼綱が小山政光の猶子であった。
小山政光は志田義広軍を野木宮(栃木県下都賀郡野木町)に誘い、地の利によって味方の兵を布陣させ、志田軍を討ち破った。大将の朝政が矢を射られて落馬するほどの激戦であったが、朝政の弟宗政が鎌倉から小山への帰途、野木宮へ駆けつけて義広軍を撃退した。
この形勢を見た藤姓足利忠綱は上野国へ退き、家臣の桐生氏のすすめでその地を去り、山陰道から西海に就いた。平氏を頼ったのであろう。鎌倉の頼朝は忠綱の父俊綱追討のため和田義茂らを足利へ向かわせたが、それ以前に家臣桐生氏の手で殺されていた。ここに小山氏と並んで「一国の両虎」と称せられた藤姓足利氏は滅亡した。 
義仲と頼朝

 

野木宮合戦に敗れた志田義広は、手兵とともに戦場を逃れて東山道を信濃国の木曽義仲を頼った。必然的に義仲と頼朝の関係は険悪となる。その頃の義仲は既に越後・越前におよぶ勢力圏を支配下におさめ、以仁王の子北陸宮を奉じていた。しかも上野国で頼朝の勢力圏と、信濃国では甲斐源氏と利害対立していた。そんな中へ志田義広が転がり込んだのである。
頼朝と義仲の間に不和が生じた原因とされるものは何説かある。一説に甲斐源氏の武田信光が義仲の嫡男と娘の縁談を断られたことに遺恨をいだいて、義仲は平氏と組んで頼朝を討とうとしていると讒言したのだという。また一説に、東海方面の活動が思わしくなかった熊野の源行家が、頼朝を頼り、すげなく扱われたとして憤慨し、志田義広と同様に義仲の元へ走ったのが原因という。
いずれにしても頼朝と義仲軍は正面衝突寸前まで行った。しかし、あわや武力対決の前に和議が成立し、義仲の嫡男で十一歳の清水冠者義高が人質の意味で鎌倉に送られ、頼朝の嫡女で当時十歳ぐらいの大姫の婿となって決着した。後に義仲を滅ぼした頼朝は、この清水冠者を遺恨の種にならぬよう斬首している。
その後の木曽義仲は背後の憂いがなくなり、二人の叔父の義広・行家とともに、平氏が送り込んだ四万とも十万騎ともいわれる平氏軍を越中・加賀国境の砺波山倶利伽羅峠の夜戦に壊滅させ、破竹の勢いで北陸道を攻め上る。
同じ頃、在京していた佐竹氏の家督隆義は常陸介に任じられて下国した。三千余騎の勢力を有し、遠く北陸道を迂回して中央と連絡をとり、頼朝追討の院庁下文を得て討伐の機をうかがっていた。頼朝は動けない。戦いの詳細は判らないが、佐竹隆義は頼朝軍に散々の敗北を喫し、奥州藤原氏の元へ脱出したという。
清和源氏累代の宿敵、奥州藤原氏の影が頼朝の前にちらついていた。 
頼朝変心

 

この時期までの頼朝は反平氏政権と反朝廷の立場を貫いていた。その明らかな証拠は、天皇にのみ定めたり改元出来る年号を無視して用いなかった事である。以仁王の挙兵と源氏の発起した治承四年(1180)の翌年七月、朝廷は養和元年とし、翌年五月にはまた寿永元年(1182)と改元した。しかし頼朝はこれらの年号を用いず、治承の年号で押し通している。頼朝の出した文書の年号は、有り得ない治承五年・六年と続いた。
安徳天皇の即位を認めず、自ら「新皇」を宣言した以仁王の令旨を振りかざした頼朝にすれば、これは当然の事であった。
坂東独立を目論んだ坂東武士と頼朝は、かつて将門が為し得なかった坂東の空間と時間の占有を、こうして獲得したのである。
ところが、寿永二年(1183)の十月以降、頼朝の態度が変り、京都の寿永年号を使うようになる。後白河上皇の十月宣旨によって、京都との交渉が始まったからであった。
これに先立つ七月、木曽義仲・源行家・志田義広・甲斐源氏の安田義定それに摂津の多田源氏行綱らが四方から京都へ雪崩込み、平氏一門はやむなく六波羅の居館に火をかけ、六歳の幼帝安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちした。この際いち早く延暦寺に逐電していた後白河上皇も京に戻り、さっそく活動を開始する。平氏一門の官位を剥奪、その所領を没収して義仲・行家に分与し、彼等に平氏追討を命じると同時に、彼等を牽制するために鎌倉へ使者を送って頼朝の上洛をうながしたのである。
頼朝の変心はこの時から露わになった。陸奥に君臨する藤原秀衡の脅威と畿内の飢饉による兵糧調達の困難を理由として、上洛延期を願出ると同時に、東海・東山・北陸三道の国衙領・荘園支配の勅令を引き出したのである。流人であり謀叛・凶賊の徒は返上され、従五位下前右兵衛佐源朝臣頼朝の復活であった。
この年の暮、挙兵以来の功臣であった大豪族、上総介広常は頼朝の忠実な侍所副官の梶原景時によって、双六に興じている最中、不意に刺殺された。京都の事より坂東独立を主張した広常であった。 
義仲敗死

 

後白河法皇の十月宣旨が鎌倉へ届く前に、頼朝は弟義経に兵をつけて上洛させていた。既に七月に入洛して京都を支配する木曽義仲との対決は必至と予測していたのである。宣旨の問題も、多分に義仲への挑発を意味していた。
西国へ平氏追討に出た義仲は苦戦をつづけ、備中水島(岡山県倉敷市)の戦いで大敗したところへ、頼朝が北陸道をも支配すると伝えられ、あわてて帰洛した。法王はさすがに義仲の勢力地盤の北陸道は頼朝に与えなかったことが判明したものの、平氏を破って入洛した義仲より、まだ戦功のない頼朝に東海・東山両道を与えたことから、義仲と法王は睨み合いとなり、遂に義仲は院御所の法住寺を襲い、法皇を捕らえて幽閉してしまった。しかも院の近臣たちを殺し、摂政近衛基通はじめ、五十人近い公卿たちを解官するという空前のクーデターを決行した。
そして義仲は京で娶った妻の親の前関白松殿基房とはかり、その子師家を摂政にすえ、頼朝追討の院宣を法皇に強要し、自らは征夷大将軍に就任したのは、年が明けた十日のことである。
義仲軍にはばまれて伊勢で待機していた義経から、義仲のクーデターと征夷大将軍に任じられたことが頼朝に伝えられると、鎌倉側は強い羨望の念を持ったと『吾妻鏡』は記している。それは頼朝の気持ちでもあったろう。直ちに頼朝はさらに弟の範頼に大軍を率いて上洛させた。
義仲は征夷大将軍に任じられるとき、平氏にたいして「都へ御上り候へ。一つに成りて東国を攻めむ」と同盟を申し入れた。征夷大将軍義仲とは、坂東の、東夷としての頼朝征伐のための大将軍であった。しかし、平氏も恥を知る武士、木曽に語られて都に帰ったとあっては末代までの恥、と断られてしまった。
そこで義仲は法皇を奉じて北陸へ下ろうとしたが、拒否されてしまう。源行家も叛き、源行綱は敵にまわり、志田は既に戦死していた。元暦元年(1184)正月二十日、征夷大将軍に在位すること十日間にして、義経・範頼の率いる坂東の大軍と戦った義仲は、遂に近江国粟津(大津市)で敗死した。因みに、この粗野で善良な木曽義仲を、後年の俳人芭蕉は好いた。奥の細道の帰路、北陸路を辿って伊賀へついた芭蕉の墓は、遺言によって義仲寺に義仲のそれと背中合わせにねむっている。 
源氏の棟梁

 

一方、西国へ落ち延びた平氏は、その間、氏神社とした安芸の厳島神社を本拠に勢力を回復、瀬戸内海を制圧して、主力部隊は福原(神戸市)に入っていた。義経・範頼は二月にこれを攻めたのが有名な福原・一の谷合戦である。しかし、屋島へ逃れた平氏を、舟と兵糧の調達が困難なため、直ちに追撃できなかった。
三月の末、頼朝軍の義仲追討の論功行賞があり、頼朝は正四位下に叙された。かつて天慶の乱で将門を討ち取った藤原秀郷の先例にならったものである。朝議では、同じ天慶の乱の征討使藤原忠文が征夷大将軍に任ぜられた例により、また義仲との関連で頼朝も征夷大将軍に任じたらどうかという意見も出た。
しかし、後白河法皇の反対で実現しなかった。『公卿補任』が頼朝の「身鎌倉にあり」と異例の補記をするように、非常時の軍事大権としての征夷大将軍は、都にあって天皇から節刀を親授されるのが故実であった。鎌倉から一歩も出ないままの頼朝を征夷大将軍に任じるということは、天皇大権の内側にあった軍令権が、その外側に、京都から離れた坂東に自立することを意味したのである。
ここに頼朝の坂東独立からの変心と見えたものが、単純なものではないことが判明する。そして、単に故実前例に拘っただけなのかもしれない後白河法皇の判断の正当性もある。では何故、頼朝は坂東独立政権樹立のために、京都朝廷の公認を必要としたのか、という疑問も生じる。答えは簡単である。
鎌倉殿としての頼朝個人に、御家人となった坂東武者たちの長として、同時に源氏の棟梁としても、それだけの実力がなかったのである。頼朝は鎌倉御家人の長として、源氏棟梁として、京都朝廷の権威によって裏打ちされなければ、その地位を維持できなかった。
それは反平氏として源氏が蜂起する以前の、坂東の豪族たちのあり方を振り返ってみれば、容易に理解できる。豪族内の家督は、家督の立場にあるだけでは一族成員を支配できなかった。国衙の官人として職を得たり、あるいは荘園領主から庄司としての職を得て、公権や領主の権威を背景にして、はじめて一族庶流を指揮・支配できたことは、とりわけこの時代の特徴である。
頼朝もまた同様だったのである。源氏の棟梁という貴種は、頼朝一人ではなかった。まして、武者としての実力、動員できる直接の兵力において、頼朝個人の実力は微々たるものに過ぎなかった。
だから、兵力動員が坂東武者の中で一等勝っていた上総介広常は、最初に槍玉に挙げられ、刺殺されねばならなかったのである。 
甲斐源氏の粛清

 

源氏の棟梁頼朝の立場を犯す可能性のある者は他にもいた。木曽義仲が討たれ、志田義広は戦死、常陸佐竹氏が逃亡したいま、残る対抗者は甲斐源氏であった。常陸の佐竹氏同様、八幡太郎義家の同母弟、新羅三郎義光の子孫としての武田氏は、貴種としても、一族団結した兵力においても、頼朝の最有力対抗馬であった。
当時、頼朝に属した武田一門の板垣兼信は西海に就いていたが、頼朝が軍目付として付けた土肥実平は、あれこれ専断するが、武田は同盟軍であり、自分は源氏一門として実平の上司なのだと一筆書き送って欲しいと、頼朝に飛脚をもって願い出た。ところが頼朝の返事は、家や一門に関わりなく、実平は頼朝の代官の器だから信頼して従い、兼信は一命を投げ打って働けばよく、そのような申し入れは過分である、とすげなく退けている。
次代の武田の棟梁と目されていた兼信は、正しく源氏の門葉という自負を前提に申し入れたが、これこそ頼朝にとって退けねばならない危険な発想であった。数年後、板垣兼信は院領の地頭職として不正を働き、「違勅以下の積悪」ということで、所領没収の上に隠岐島へ配流されてしまった。
木曽義仲追討の論功行賞があってから一ヶ月後の四月末、人質に取っていた義仲の嫡男義高が鎌倉を脱出した。幼妻となった頼朝の大姫らが逃がしたかのごときであったが、頼朝周辺が仕向けた逃亡劇で、五日後に武蔵国入間河原(狭山市)で追手に討たれた。それから四日後の五月一日、頼朝の下知によって、故清水冠者義高の残党が甲斐・信濃両国に反鎌倉の陰謀ありとして、多数の軍兵が派遣された。
そして六月十六日、甲斐源氏武田信義の次男一条忠頼、上の板垣兼信の兄が、鎌倉の営中、頼朝の面前で謀殺された。しかし、これに対して甲斐源氏は動かない。武田氏の周囲を頼朝の派遣した大軍に囲まれ、動けなかったのである。義高の残党狩を名目にした、頼朝の周到な大軍配備と犯行であった。頼朝がここまで執拗に甲斐源氏へ対処せねばならなかったのは、武田氏に対する不信が一年前から生じていたことにもよる。
下野の小山氏が常陸から挙兵した志田義広を野木宮合戦で破ったころ、京の中流貴族だが頼朝の乳母の姉妹の夫にあたる三善康信から、意外な情報がもたらされた。武田信義が院から頼朝追討使に任じられた世間の風聞があるという。頼朝近臣によって信義は詰問されたが頑強に否定し、子々孫々まで弓引くこと有るまじ、と起請文を書かされたのである。しかし、その後も頼朝は甲斐源氏に警戒を怠らず、遂に粛清の断を下したのである。そして、頼朝の甲斐源氏にたいする勢力削減はその後も執拗に続けられたのである。
一条忠頼を謀殺した直後の六月二十日、朝廷から頼朝の知行国として三河・駿河・武蔵の三国が与えられた。三河・武蔵国はともかく、駿河国はかつて富士川の合戦で平氏軍を撃退した武田氏の論功行賞として、棟梁信義が得たものであった。明らかに甲斐源氏の削減につながる。 
義経逃亡

 

頼朝はこれら三国の国司に範頼ら源氏一族を任命したが、義経の存在はまったく無視された。木曽義仲追討に範頼と共に戦功のあったはずの義経は、これには少なからぬ不満があったにちがいない。
義経の気持ちを見透かしたように、八月のはじめ、後白河法皇は検非違使・左衛門少尉に任命した。九月になると、法皇は義経をさらに五位下の太夫判官に特別の叙任をした。同月、頼朝は範頼に再び西国の平氏追討を命じた。義経の頼朝に無断で叙任を授けた義経を不快として、京都に留め置かれた。そこへまた法皇は義経に昇殿を許す。ほとんど法皇と義経の頼朝に対する正面からの対決状態である。しかし頼朝は事を荒立てなかったばかりか、かねてから約束していた武蔵の豪族河越重頼の娘を、義経の妻として京都へ送り出している。
範頼軍の平氏追討は容易にはかどらなかった。頼朝は、やはり義経を起用せざるを得ないと判断した。翌年二月に淀川の渡辺から風雨を突いて出帆した義経軍は、阿波徳島に上陸すると讃岐屋島の平氏本営を背後から急襲して海上へ追い払い、熊野や伊予水軍を味方に引き入れて、長門の壇の浦に平氏を全滅させるまで四十日たらずであった。文治元年(1185)三月二十四日のことである。
平氏滅亡によって状況が急変した。
頼朝は天才的な義経の戦術能力に驚嘆したにちがいない。この義経に坂東はじめ各地の武将たちが味方したなら、源氏の棟梁としての頼朝自身の立場が危ない。生かしておくわけにはいかない。しかし、それと気づかぬ義経は平氏の捕虜を護送して坂東に下ったが、鎌倉へ入ることを禁じられ、酒匂・腰越辺の宿駅に留め置かれた。数通の起請文や許しを請うた有名な「腰越状」はこのときのものだが、一ヶ月も待たされて頼朝から返事は、捕虜を護送して帰京せよというものであった。しかも義経に恩賞として与えた所領のすべてを没収した。
しかたなく京へ戻った義経は、当時は河内・和泉付近を根拠とした行家と組み、法皇から頼朝追討の宣旨を得て挙兵した。宣旨の出された前日、頼朝が密かに送った刺客土佐坊昌俊が義経の館を襲い、暗殺に失敗して捕まっている。宣旨が出された報せが鎌倉に届くと、頼朝は自ら駿河国の黄瀬川宿へ出陣した。五年前の富士川の合戦の折り、義経と涙の再会をとげた同じ場所が、今や義経攻撃の本陣になった。
義経は挙兵したものの、さして兵が集まらず、上京していた院近臣の豊後のわずかな兵を伴ない、西国へ落ち延びて再挙をはかろうとして摂津の大物浦(尼崎市)から出港したが、嵐にあって難破、軍勢も離散し、小人数の従者と一艘の舟で何処かへ消えた。
義経・行家の京都撤退と入れ替わりに坂東軍の先鋒隊が入京した。思わぬ事態の進行に法皇は驚き、あわてて弁明の密使を頼朝の元へおくり、引退の意を表明した。このとき頼朝の代官として舅の北条時政が千騎の兵を従えて上京し、鎌倉の要求を提出、交渉にあたった。大きな弱みを握られ、もはや頼みの武力を持たない法皇と朝廷側は、それを飲まざるを得ない。
鎌倉の頼朝が獲得したものは、日本国総追補使の軍事・警察権と日本総地頭職という各地の地頭の任免権である。平たくいえば、これまで頼朝が鎌倉殿として実力で獲得してきたところの、御家人のにたいする本領安堵、新恩給地の範囲を全国に拡大したものであった。朝廷の人事面では法皇の立場は据え置かれたが、その側近を追放し、法皇批判派の公卿に入れ替えて合議制によって政務をみる体制を敷いた。さらに頼朝寄りの藤原兼実を登用して天皇に奉聞する公文書をあらかじめチェック出来るように要求した。一度は引退を公言した法皇はこの反頼朝派の一掃と要求を、不承不承のまざるを得なかった。実質的な鎌倉幕府の誕生である。
しかし、いかに頼朝といえども、奥州平泉を中心とする藤原氏の勢力圏に手を触れることは出来なかった。そこは坂東に先立って、律令制の外に成る奥羽独立国家だったからである。
義経と行家の行方が判らなかった。大和吉野山で捕らえた義経の妾、白拍子静御前によると、天王寺に上陸して山伏姿で大峯へ向かったという以外、各地の追補使などが走り回っても何の足取りもつかめなかった。
翌年の文治二年(1186)五月、行家が和泉の隠れ家を奇襲されて最期をとげたが、義経は比叡山延暦寺や奈良興福寺、また京都鞍馬寺などの僧兵に守られ、あるいは法皇や院側近の反頼朝勢力の庇護の元、反撃の機会を待っていた。幕府側がせっかく情報を得手も、治外法権の大寺院へ直接踏み込むことは出来ず、朝廷に申し入れても、連絡をうけた義経はいち早く逃亡してしまう。頼朝は法皇を恫喝して義経庇護をやめさせ、孤立させることに成功した。 
血の祝祭

 

義経は何処を転々としたのか、奥州藤原秀衡の元に現れたは、翌年の秋になってからであった。この当時、列島にあって頼朝の手のおよばぬ地域は、奥州の他にはなかった。鞍馬山で幼児をすごした義経が、奥州に下向して秀衡の庇護をうけたことは、金売り吉次の伝説とともによく知られている。兄の頼朝挙兵と伝えられて奥州を発ち、その兄に追われて奥州帰還であった。
義経の不幸は、戦術の天才であったが、戦略に対する不感症にあった。戦略とは政治の延長上にある。戦争とは戦術であると同時に政治の非常手段であることは、いつの世も変わらない。
頼朝挙兵以来、平氏や法皇から藤原秀衡の元へ頼朝追討の催促や宣旨がもたらされたが、秀衡は遂に動かなかった。頼朝は法皇に要請して使者を送らせ、様子を探らせるが、秀衡はこれも黙殺して、頼朝に対抗する準備を進めた。
しかし十月末、藤原秀衡は病におかされ、遂に平泉の館で倒れ、中尊寺金色堂の須弥壇の下に横たわる身となった。臨終にのぞみ、泰衡・国衡の異母兄弟たちの前途を案じ、互いに異心をいだかぬ起請文を書かせ、義経を主君として仕え、団結して頼朝を討つべく、こまごま遺言したという。北方の王者藤原秀衡には、彼の死後おとづれる、陸奥王国瓦解の姿が見えていたのであろう。
奥州はいまだ建令制度の外にあった。頼朝は朝廷に要請して義経逮捕の院宣を奥州に送り、一方で義経を差し出せば恩賞も与えようと、秀衡亡き後を継いだ若い泰衡を誘惑した。迷った泰衡は、遂に義経の衣河館を急襲した。義経は持仏堂で妻子を殺害してから自殺している。そのときの妻は頼朝が京都の義経に送り出した、河越重頼の女で二十二歳、女子は四歳の可愛いさかりであった。義経三十一歳、その首は美酒に漬けて鎌倉へ送られた。
義経さえ殺せば陸奥王国の安泰と恩賞にありつけると踏んだ、泰衡の判断は甘すぎた。頼朝は、義経をかくまったこと自体が犯罪であるとして、朝廷に泰衡追討の宣旨を要請したが、義経が死んだ今、宣旨は容易に出なかった。坂東武士が、その本性をむき出しにしたのは、この時である。
文治五年(1189)六月、頼朝は平泉征討を決意し、諸国に総動員令を発して軍勢を徴集した。しかし、勅許は下りなかった。そのとき鎌倉権五郎の曾孫、兵法故実に詳しい古老の大庭景能が苦もなく言って退けた。
「軍中、将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」と。
これまで、頼朝と彼を担いだ坂東武者の戦いは、以仁王高倉宮の宣旨を振りかざして以来、平氏追討まで常に宣旨・綸旨という名の朝敵追討「公の戦い」であった。それが今、勅許もなく「私の戦い」へ踏み切ったのである。源氏累代の宿敵、奥州藤原氏はこうして総勢二十八万四千と称する空前の大軍事行動に曝されることになった。
頼朝自ら将となって白河関を突破、無人のごとき野を北上して、阿津賀志山の国衡以下の主勢力を撃破し、敗走を追って首都平泉へ乗り込んだとき、北走する泰衡には奥州藤原氏四代の栄華の跡に火をかける余裕しかなかった。戦いは終った。しかし、頼朝は追跡を止めない。
平泉からさらに厨河柵を目指した。かつて祖父頼義が安倍氏追討して、九年間の戦いの果てに貞任の首を獲た厨河柵である。先祖の頼義が最後の勝利を飾った地であった。佳例に導かれて、源氏の開運とすべく、頼朝の平泉の戦いは百年の歳月を経た前九年の役に承け、頼朝は頼義に化身し、泰衡は貞任に見立てられた。
泰衡は北走の途次、立ち寄った譜代郎従の館で叛乱にあい、あっけなく横死した。頼朝営所に届けられた泰衡の首は梟首に掛けられた。それも安倍氏征討の古式にのっとり、執行者担当はかつて担当した武蔵七党横山党の横山野太夫経兼の曾孫時広と子息時兼、従者惟仲の後胤広綱が同じ大きさの長さ八寸の鉄釘をもって打ち付けた。すべて血の系譜を辿って指名されたところに、源氏相伝の血の復讐があった。頼朝にとって平泉合戦は一つの儀礼であり、厨河柵は血に染め上げた祝祭の場となった。
こうして奥州独立国家を壊滅させることによって、坂東独立王国は成った。 
 
源氏三代

 

熱田大宮司家 
頼朝は尾張国熱田神宮の神主、大宮司家の三女由良御前を母として源義朝の三男に生まれた。長兄は相模国三浦半島の豪族三浦介義明の女に生まれた鎌倉悪源太義平で、坂東に武名を馳せたが無位無冠のまま平治の乱に死んだ。
次兄の朝長は藤原秀郷の子孫を称する相模の波多野遠義女に生まれ、下級ながら祟徳天皇の蔵人所に仕えた波多野氏の縁で、左兵衛尉に任じ従五位下に叙せられ、後に宮司除目で少進に任じられている。
これに比べて、頼朝の拝任ははるかに早く、義朝の嫡男の地位を確保した。それも母の出自たる熱田大宮司家の中央政界における実力によった。
義朝の母は刑部少輔藤原忠清の女であったが、この一族には鳥羽皇女統子内親王(上西門院)や、その母の待賢門院璋子(鳥羽中宮)の関係者が多かった。そして熱田大宮司家の一族もまた、男女を問わず鳥羽院の周辺に仕えた者が多く、義朝はこの縁で大宮司家の婿になったのであろう。
頼朝の母由良御前の兄弟にあたる範忠と範雅は後白河院の北面に、姉妹は待賢門院や上西門院の女房として仕え、その父つまり頼朝の祖父で大宮司の藤原季範は鳥羽院の乳母悦子の従兄弟という関係にあった。だから、由良御前も上西門院の女房であった可能性がある。さらに熱田社領は上西門院を本所として、その保護下にあった。
藤原摂関家に仕えて一生受領にもなれなった為義の嫡男に生まれ、坂東で非合法な活動続けた義朝であったが、仁平三年(1153)いっきに従五位下下野守に叙任されるという破格の抜擢は、一重に熱田大宮司家の力にあずかったからであった。そして大宮司家の女を母として生まれた頼朝は、保元三年(1158)統子内親王立后の際、十二歳で皇后宮権少進に任官したのをかわきりに、翌年には左兵衛尉を兼ね、統子が上西門院となるや、女院庁の蔵人になり、さらに内蔵人として二条天皇に仕えた。
平治元年(1159)十二月、平治の乱で義朝が藤原信頼らといったん廟堂を制圧した際、頼朝は兵衛府の次官、右左兵衛権佐に補任された。頼朝が少年のうちにこの官職に任じられたということは、将来、三位以上の公卿入りを約束されたも同然であった。 
受肉した草薙剣

 

このような中央政界に実力を有した熱田大宮司家とは何者なのか。
この当時の大宮司家は藤原氏を称しているが、頼朝の母の祖父の代までは尾張氏であった。しかも元は尾張国造である。大和の律令政権が各国の国造を廃して国司による支配に切り替えた際、尾張国造もまた氏神社の神主に落とされ、尾張氏を名乗った。
この尾張氏から藤原氏に替わったのは、尾張国目代として赴任した藤原南家の季兼が、尾張員職の養子となり、その女職子の婿となって大宮司職を継いだことによる。そして元の尾張大宮司家の子孫は次席の権宮司へと格下げされたのである。赴任した国司が、その土地の実力者に婿入りして土着する姿がここにもあった。
ところで、尾張国造の歴史はさらに翻ることができる。
大和葛城山の高尾張から追われて尾張国へ移住した一族がいたことは、始めの章で述べた。この一族が在地の土豪と結んで、山間部から濃尾平野へ下り、伊勢湾に面して巨大な断夫山古墳を築いたのが尾張国造の先祖であった。そして、尾張の稲種命らを率いて東国征伐を果たした日本武命が、帰路、伊勢の倭媛から授けられた草薙剣を尾張の宮簀媛に預けた。以後、神熱田社は草薙剣を祭る尾張氏の氏神社となったのである。
草薙剣とはいうまでもなく天皇の王権を守護する神剣であり、鏡・勾玉とともにに天皇権の三種の神器ととされる。言い換えれば、草薙剣とは天皇の武力の象徴である。その神器は平氏没落とともに西海に沈んだ。鏡と勾玉は奇跡的に回収されたが、神剣は遂に戻ることはなかった。これによって天皇王権は守護する武力を失い、裸の存在と化した事を意味する。
頼朝がこの熱田大宮司家の女を母として生まれたということは、失われた神剣の代理者たるべき存在として浮上し、そのように解釈された。藤原兼実の弟慈円が『愚管抄』に記した。
抑コノ宝剣失セ果テヌル事コソ、王法ニハ心憂コトニテ侍レ。コレヲモ心得ベキ道理定メテアルランド案ヲ巡ラスルニ、コレハ偏ヘニ、今ハ色ニ現レテ、武士ノ君ノ御守リトナリタル世ニナレバ、ソレニ、代ヘテ失セタルニヤト覚ユル也。
王権の守り刀としての草薙剣の代わりに、頼朝を肉体化した神剣、王権の守り刀とする解釈はいかにも合理的であり、頼朝に対する期待である。
だが、これは京都朝廷側の解釈であって、頼朝自身の意向と一致するとは限らない。ましてや、頼朝を受入れ、それを担いだ坂東武者たちが何と受け取るか、また別問題である。
京都朝廷側の解釈のように、頼朝が王権の代理者として坂東に来たのなら、それは招かざる客であろう。その招かざる客が「鎌倉殿」という坂東の「王」となった。数多の「王」候補者たちを薙ぎ倒して、頼朝は坂東の王となった。次に果たすべきは、王を永遠なるものとして、その制度化である。それに対して、坂東武者は如何に対処したのか。 
征夷大将軍

 

奥州攻めから三年後の建久三年(1192)三月の後白河法皇万歳(崩御)にともなって頼朝を征夷大将軍に補任する報せが鎌倉に届いた。法皇生存中は頼朝がどれほど望んでも得られなかった征夷大将軍職だったが、法皇万歳と同時に、頼朝親派の関白藤原兼実によってもたられたのである。
一年の喪が明けると、頼朝はさっそく各地で盛大な巻狩を行った。巻狩といっても遊興ではなく、一種の軍事演習であり、武威の示威運動である。
自他共に鎌倉幕府は成ったとはいえ、地方では叛乱や対立が少なからず起こっていた。この年の正月から、相模の三浦氏の中で惣領義澄に従わない動きがあった。頼朝挙兵の際、討死にした前の惣領義明に代わって次男義澄が継いだため、相模の各地に割拠する一族に内紛を生じることになった。頼朝が三浦一族に対して義澄を立てるよう下知した。
また二月になると、北武蔵の秩父平氏流の武士団、武蔵七党にも数えられる丹・児玉の両党間に一触即発の確執を生じ、頼朝は秩父平氏の惣領畠山重忠に命じて制止させた。
さらに狩へ出発直前の三月には、平氏の残党越中盛継が近国に潜伏するという報せがあり、追討命令が出されている。
こうした不穏な情勢は、頼朝に否応なく地方視察の必要性をもたらした。それには軍団を率いた巻狩の挙行はうってつけである。三月末に下野国那須野、四月はじめに信濃国三原を経て、一旦鎌倉へ戻り、五月になって富士の裾野で大規模な巻狩を行った。それは頼朝の嫡男頼家の鎌倉殿二代目としての披露の場でもあった。坂東の「王」の制度化に踏み出したのである。そして、事件は富士の裾野で起きた。
この時期、富士の裾野の事件といえば「曽我兄弟の仇討」以外にない。近頃は「忠臣蔵」の独走になってしまったが、子供の頃には親孝行の仇討物語として絵本にまでなった、日本三代仇討の一つである。
安元二年(1176)というから頼朝挙兵の四年前、伊豆の豪族工藤氏内で、先妻と後妻の子孫の間に生じた所領争いから、誤って殺された親の敵を富士野の巻狩の場で仇討ったが、兄は討死、弟も捕らわれて梟首された、という物語以前に史実としてある。
学会には以前から、曽我兄弟の背後に黒幕として北条時政があり、兄弟の仇討の便乗した頼朝暗殺という陰謀があったのではないかとされてきた。まずもって仇討の舞台となった富士野のある駿河国の守護は時政であり、曽我の弟五郎を烏帽子親として元服させている。流人の頼朝は時政の娘政子の婿でしかなかったものが、今では将軍になったのが面白からず、恩を売った曽我兄弟をそそのかして頼朝暗殺を企んだという。
こうした北条時政黒幕説に対して、小説家の永井路子は史論『つわものの賦』の一章「裾野で何が起こったか」で、事件の周辺状況へ広範に目配りして、頼朝と異母弟範頼の微妙な対立と、範頼に組みした鎌倉党の大庭景義・岡崎義実が仇討に呼応して、時政と頼朝を討とうとした、という説を発表した。事件後、範頼は頼朝に粛清され、大庭・岡崎は出家している。
昭和五十三年に単行本になった永井説は、長い間、たかが小説家の戯言と見なされたか、学会ではたいして問題にされなかったが、最近になって史学界から坂井孝一の『曽我物語の史実と虚構』は、永井説の周辺状況を踏まえて、学会の統一意見らしき北条時政黒幕説から、頼朝暗殺をはずした説が出された。
事件に先立って、常陸国にも常陸大掾氏の多気義幹と、母が頼朝の乳母の八田知家の間に対立があった。北条時政と八田知家は頼朝の了解の上で、仇討に便乗して多気義幹を罠に嵌め、その領地を召し上げたが、予期せぬ大庭・岡崎らによる武力衝突が生じた、というのである。この点で永井説は、多気義幹と大庭・岡崎らは何らかの気脈を通じていたと予測している。
両説の違いは、曽我兄弟は自力で仇討の場に乗り込んだとする永井説と、北条時政の手配に乗って兄弟は仇討に臨んだという坂井説の差にある。両説供、従来の時政黒幕説のような、当時の北条時政にはそれほどの力はなかったとする点で一致している。
いずれにしても、クーデターは失敗し、大掛かりな武力衝突はなかった。曽我兄弟の親孝行な仇討だけがあった、という事ですまされたというのである。 
粛清の嵐

 

源氏の棟梁争奪戦はいまだ続いていた。それが外部との戦いが済んで、征夷大将軍たる頼朝暗殺という形をとって、鎌倉幕府の内部に現れたのである。その勢いは必然的に権力闘争とならざるを得ない。そして頼朝は粛清の嵐を巻いて専制の道をひた走る。
常陸の多気義幹は、頼朝軍が千葉介常胤と上総介広常の要請で常陸南部の佐竹氏を攻めた際、常陸国府を明け渡して中立を保った。その後、鎌倉御家人になったものの、鎌倉にはあまり協力的ではなかったらしい。富士の裾野の巻狩の直前、多気義幹らは常陸鹿島社の社領の年貢を納めなかったため遷宮造営が滞ったとして、多気一族の奉行は叱責され、隣国の八田知家を奉行に加えた。
そして富士の裾野で騒動がおきていると、八田知家は富士の裾野へ駆けつけんと多気義幹を誘ったところ、義幹は断って多気山城に立て籠もった。義幹を討たんとしているという噂があったからだが、それも知家の流した流言に過ぎなかった。そこで知家は、義幹に野心有り、と頼朝に報告する。多気義幹は召喚されて八田知家と頼朝の前で対決したが、知家の巧みな弁舌に義幹は有効な反論もできず、結局、義幹の所領は没収されて一族の庶流に与えられ、身柄は駿河の御家人に預けられてしまう。ほとんど頼朝とその乳母筋の八田知家によって仕組まれた、常陸大掾氏追い落としの陰謀である。
頼朝の異母弟三河守範頼は遠江国蒲生御厨で生まれた。母は同国池田宿の遊女であったが、如何なる機縁か、父義朝が平治乱に討たれてから、京の中流貴族の藤原範季の養子として育った。藤原範季は後白河院の近臣であると同時に、右大臣藤原兼実の家司でもあった。その養子としての範頼は、必然的に兄頼朝の京対策の窓口になった。木曽義仲や平氏追討の際、義経よりも、先ず範頼が三河守に補任され、数万騎を率いる追討軍の大将として京に派遣されている。そして、義経のごとき跌を踏まぬよう、何事につけ頼朝の指示を仰ぎ、慎重な行動をとっていた。それにもかかわらず、富士の裾野の事件の際、範頼は失脚してしまう。
富士の裾野の事件が鎌倉へ伝えられたとき、頼朝が討たれたという誤報が届き、留守をしていた範頼が政子に、今後は「わたしが左けるから安心されよ」と言ったという。八月になって範頼謀叛の風聞がたって、頼朝に起請文を出したが伊豆の修善寺へ下向を命じられてしまった。
謀叛風聞の原因は、範頼の養父藤原範季がかつて潜伏中の義経を援助し、頼朝の申し入れによって解官された経緯による。それが今になって範頼の義経との同心を疑われたのである。
しかも間のわるいことに、範頼家人当麻太郎なる者が頼朝の寝所下に忍び込んで捕らわれた。当人は頼朝の内意を探るためと弁明したが、その武芸をもって名を得ていたから、刺客ととられても仕方がない。さらに範頼の家人たちが浜宿館に立籠もったりしたため攻められ、伊豆の範頼も謀殺された。
範頼の妻は安達盛長女であり、盛長の妻の丹後内侍は頼朝の乳母夫婦比企氏であった。そして頼朝の乳母夫小山氏もまた範頼と姻戚関係にあったが、範頼失脚に関わって動いた様子はない。ただ、範頼の六歳の嫡子は父とともに自害したが、四歳と二歳の子は丹後内侍によって助命されたという。
しかし、頼朝の専制的な粛清はとどまるところをしらない。
この年の十一月、甲斐武田一族の安田義定の嫡男越後守義資は、頼朝の女官に艶書を与え、不届きであるとして獄門になった。頼朝によって壊滅的な打撃を受けたはずの武田氏は、平氏の勢力圏と境を接した遠江国の守護として大任を果たした安田義定の実力によって、いつの間にか再編されていた。頼朝はそれを見逃さずに、再び武田氏の解体に乗り出したのである。翌年八月、義定もまた反逆を企てたとして梟首された。
大庭景義と岡崎義実が出家したのは、この範頼失脚の直後であった。
景義は頼朝の奥州藤原氏攻めに際して、なかなか勅許は下りなかったとき「軍中、将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」と言い放って、私戦に踏み切らせた豪の者であった。上にあげたように、頼朝暗殺の責任をとったのか、あるいは単に範頼の処分に対する抗議行動だったのか、判然としない。
この大庭景義が許されて鎌倉御家人に戻ったのは、二年後の建久六年(1195)、頼朝が二度目の上洛を計画していたときである。上洛に際して景義は頼朝の牛車の直前を騎乗するという光栄を与えられ、つわものの古武士も遂に頼朝に手なづけられてしまったのである。 
頼朝最期

 

頼朝の二度目の上洛の目的は、表向き平氏に焼かれた東大寺が再建され、その供養に列席するためで、妻子も同伴していた。しかし本来の目的は、藤原摂関家や平清盛と同様、娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させることにあった。この件は先に上洛して法皇と和解した直後から計画されていたが、法皇の崩御や大姫が患ったことから延期されていたものだった。
頼朝にとって京の親頼朝派の第一人者だった摂政藤原兼実もまた、娘任子を後鳥羽天皇に入内、すでに中宮になっていたから、いまや天皇の外威の地位を狙うライバルであった。頼朝は兼実と袂を分かち、故法皇が寵愛した丹後局とその子宣陽門院の別当源通親に近づいて、大姫入内を画策した。兼実との関係で京都対策の窓口だった弟の範頼を失った頼朝としては、これしか方法がない。
頼朝は焦っていたのではないか。鎌倉殿としていくら専制を強行しても、征夷大将軍職も万全のものではなかった。鎌倉御家人の長として、さらに一段高い地位を望んだのだ。それが大姫入内によって得られるかもしれない、天皇の外威という地位であった。
しかし、頼朝の野望は画餅に帰した。間もなく肝心の大姫が病没してしまったのである。そして天皇の外威の地位は、何と頼みの綱とした源通親に持っていかれてしまった。通親の後妻の連れ子の在子は単なる女官であったが、後鳥羽天皇の皇子を産み、後に土御門天皇になったのである。そして藤原兼実も通親の巧妙な政変によって失脚させられてしまう。
因縁は続いた。二度目の上洛の帰途、美濃の青墓まで来たとき、随行の稲毛重成のもとに急使が着いた。重成の妻が重病という報せであった。重成の妻は政子の妹で、頼朝にも姻戚にあたる。頼朝は重成に選り抜きの駿馬を与え、直ぐに発たせた。重成が神技のごとき速さで武蔵国の稲毛に着いたのは三日後である。すでに危篤の妻が世を去ったのはその二日後の事で、重成は即日出家した。
こうした事情から、稲毛重成は三年後に、追善のため相模川に橋を架けた。頼朝も妻政子の縁で追善の行事に出席した。異変はその帰途、起った。義経の、義仲の、行家の・・・そして幼い安徳天皇の鎧姿が亡霊となって現れた。頼朝が終生かけて薙ぎ倒してきた者たちの姿だった。頼朝は思わず落馬した。五十三歳の頼朝が没したのは、それから半月後の正治元年(1199)正月十三日であった。 
梶原景時謀叛

 

頼朝の一周忌のあけた正治二年(1202)正月二十日、頼朝の股肱の臣ともいうべき梶原景時が幕府軍に討たれて一族諸共滅亡した。
梶原氏は大庭氏と同様に鎌倉権五郎の子孫で鎌倉党の一員であった。頼朝旗揚げのとき、平氏の命令を受けた大庭景親の率いる三千余騎と伴に梶原景時も頼朝討伐に参戦した。後に大庭景親は殺されたが、景時は苦戦の頼朝を逃したことで鎌倉御家人に加えられた。無骨な坂東武者の中にあって、景時は弁舌さわやかに加えて、歌詠みに匠みであったことが頼朝のお気に入りであった。頼朝没後も鎌倉殿二代目の頼家側近として仕え、相変わらず権勢をふるっていた。
頼家は若干十八歳、生まれながらの鎌倉殿二代目として、頼朝の独裁体制路線を継承した。頼家は頼朝以来の全国にわたる恩賞地五百町こえるものを没収したり、土地争論の訴訟を無効にしたりといったことで、有力御家人たちの勢力削減を計ろうとした。
これには御家人たちも黙っているわけにはいかない。坂東武者が何の為に頼朝を鎌倉殿として担ぎ、鎌倉幕府を打ち立てたか。一生懸命の土地を護るためである。所領支配権の保護と、その土地をめぐる争論の公正な裁決のための鎌倉殿である。二代目鎌倉殿の独裁体制は、この御家人たちが鎌倉殿を必要とする必然性を失わせる。
頼家の鎌倉殿としての手腕に不安感じた側近の老臣たちは、母の政子と相談して、頼家が訴訟を直接裁断することを停止して、政所別当の大江広元はじめ元老や御家人代表十三人の合議制で裁決する事に決めてしまった。鎌倉幕府始って以来、頼朝路線の修正であり、坂東武者たちの本音が浮上したのである。
そして、頼家の独裁を支える鎌倉殿側近第一の梶原景時が粛正の的として狙われた。景時は頼家の乳母夫の一人でもあった。頼家の乳母夫は他に比企能員・河越重頼・安達盛長・平賀義信等がいた。はじめの三人は共に頼朝の乳母であった比企尼の娘婿で、特に比企能員は比企尼の養子であると同時に娘の若狭局を頼家の妻に入れ、一幡が生まれている。
乳母と養君の関係は並みの主従関係を越えた紐帯で結ばれていた。頼朝の流人時代、母の実家の熱田大宮司家とは別に、比企尼は頼朝の生活の資を二十年間送り続け、旗揚げの際には婿たちを馳せ参じさせた。北条氏が政子によって頼朝と結び着くよりも、比企氏との関係はずっと長いことになる。だから、政子が頼家を産んだときも、産所は鎌倉の比企館が選ばれ、比企尼の娘たちがずらりと乳母として顔を並べることになった。頼家はまるで比企氏の若君のごとく育てられたことになる。北条政子の生んだ子でありながら、北条氏の手の出せる状態になかった。
しかし、頼家の独裁を押さえるために先ず粛正されたのは、比企氏ではなく、実質的に権勢を振るっていた乳母夫の梶原景時であった。
景時は御家人六十六人の連名による訴状をもって大江広元を通じて、頼家に訴えられた。頼家に訴状を見せられた景時は申し開きできず、鎌倉を追放され、本拠の相模一宮へ引き籠ったが、やがて一族郎党を引き連れて上洛した。だが途中、駿河の清見関近くで地元の武士と合戦になって、一族諸共あえなく滅亡したという。
駿河国の守護は政子の父、北条時政である。そもそも景時が御家人たちから訴えられた切っ掛けは、政子の妹の阿波局の煽動にあった。若い御家人に景時が貴方を狙っている、と耳うちしたのである。景時の讒言によって多くの御家人が命を失なってきた。驚いた若い御家人は仲間の御家人に相談した結果、六十六人の連名による訴状となって景時は失脚させられたのである。
しかし、景時は何故あっさりと鎌倉を引き上げたのか。そして何の為の上洛だったのか。養君頼家に見放された景時は、それに代るべき源氏の一門、頼朝に散々に痛めつけられた甲斐源氏の惣領武田有義を擁立しようとした。有義の末弟、石和信光が鎌倉に駆け込んで、兄が景時から受取った書状を残して行方不明になったと申し立てた。景時の上洛はこの武田有義擁立を上申するためではなかったのか。幕府が景時与党の勝木則宗を捕らえてみると、景時は上洛して宣旨を賜わると称していたという。
朝廷側でもあやしい動きがある。景時逐電が京都に伝えられると、後鳥羽上皇の仙洞御所では五壇御修法が始められたことに、京下りで朝廷の事情に明るい大江広元や三善康信が怪しんだ。五壇御修法は元来、朝敵を調伏するための密教的修法であった。この時期それが行われたということは、鎌倉幕府の滅亡を祈る目的があったと解釈されたのである。
いずれ幕府と朝廷が対決する承久の乱につながる兆候は、今に始ったわけではない。頼朝が没した直後、幕府の京都出先機関で、頼朝の姉を妻にした一条能保一門と配下の武士たちが一網打尽に合っていた。そのとき、頼朝に旗揚げを促したとされる彼の荒法師文覚も連座して、佐渡が島へ流された。朝廷側は幕府打倒の機会を大小に関わらず逃すことはなかったのである。 
比企の乱

 

建仁二年(1202)七月、鎌倉殿二代目頼家に従二位征夷大将軍が贈られた。頼朝が没してから四年目のことである。頼朝の死の直後に左中将に任じられ、前将軍の遺跡を継承したが、初めから征夷大将軍に補されたわけではなかった。そして翌年の十月、左衛門督に転じて従三位に叙した。それが今度やっと征夷大将軍に就いたのである。幕府の開設が征夷大将軍によってもたらされたとする通説は、否定されなければならない。
二代将軍となった頼家は攻勢に転じた。景時失脚の影に北条時政がいた。若い御家人に景時が狙っていると耳うちして煽動した阿波局は政子の妹、共に時政の娘である。梶原一族が討ち取られた駿河国の守護は時政であった。九条兼実の日記『玉葉』は、多くの御家人に憎まれていることを知って憤慨した景時は、逆に頼家に讒言したという。彼等は頼家の弟の千幡(後の実朝)を担いで頼家を討とうと計画していると。
この千幡の乳母こそ阿波局であり、その夫は義経の同母兄の阿野全成であった。全成の幼名は今若、洛外醍醐寺の僧であったが、頼朝旗揚げと伝え聞いて下総鷲沼の陣陣営を訪れ、さっそく武蔵の長尾山威光寺の僧坊・寺領を復興して与えられた。た。後に還俗して政子の妹、阿波局を妻とした。他の兄弟のように権力闘争から身を引いていたが、千幡の乳母夫であったことが災いした。
将軍頼家は弟の千幡を担ぐ北条方にあって、その乳母夫全成を謀叛の疑いによって捕らえたのである。姉の政子の元へ逃げ込んだ阿波局を引き渡せと頼家は母に迫ったが、さすがにこれは拒否した。しかし、下野国の八田知家に預けられた全成は一ヶ月後に誅殺された。この全成の死をもって、頼朝の兄弟は皆消えたことになる。そして千幡を担ぐ北条氏方は危機に立たされた。
その頃、頼家は既に病がちであったが、建仁三年(1203)八月末、いよいよ危篤に陥ったことから、相続のことが相談された。その結果、関東二十八ヶ国の地頭職と惣守護職を頼家の六歳の嫡男一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を頼家弟十に歳の千幡に譲ることになった。
これには、一幡が頼家の跡継ぎなら、その全てを相続すべきだとして、一幡の外祖父比企能員が不満を抱き、病床の頼家に面会して北条氏征伐の相談の上、兵を集めはじめたため鎌倉に双方に味方する武士が群れて騒然となった。ところが、この密談を政子が障子の影から聞きつけて北条時政に告げたいう。芝居もどきの一幕はともかく、時政は思案の末、先手を打って将軍家病気平癒祈願と称して比企能員を呼び出した。能員は武装もせず、礼装のまま数人の伴を連れて、のこのこ北条邸を訪れ、あっけなく刺殺してしまう。そして比企氏の館を襲った北条時政とその親類縁者によって、比企一族と若狭局・一幡母子諸共焼き殺されてしまった。
この経緯は北条氏の手に成る『吾妻鏡』の言うところで、京の慈円が『愚管抄』に記した伝聞はいささか異なる。頼家は重病を悟って自ら出家し、跡は皆一幡に譲ることにした。ところが、これでは比企氏の風下に立つことになる北条時政は、能員を呼び出して暗殺、病身の頼家を他の屋敷へ移し、同時に兵を差し向けて一幡を殺そうとしたが、母に抱かれて逃げのび、比企一族は皆殺しにされた。やがて頼家は奇跡的に回復して、時政の仕打ちを聞いて大いに怒って立ちあがったが、政子らが取り押さえて伊豆の修禅寺に押し込めてしまった。十一月になると一幡が捕らえられて殺される。頼家が二十三歳の生涯を伊豆の山中に終えたのは翌年七月である。『吾妻鏡』はその死因すら記さないが、慈円によると、頼家の入浴中を襲ったが手強く、遂に首に紐を巻きつけ、ふぐりを掴んでやっと刺し殺したという。
こうして二代将軍頼家の独裁路線は否定された。それは表面的には頼家・一幡親子を担いだ比企氏と、弟の千幡を担いだ北条氏の幕府内における権力闘争であったが、その実、北条時政一人の陰謀というより、鎌倉御家人たちの多くが将軍独裁を歓迎しなかったからであろう。時政はそうした鎌倉御家人たちの暗黙の了解の元に、頼家封じ込めを決行したのである。 
畠山事件

 

頼家の出家と前後して、北条時政ははやくも鎌倉殿の後継者として弟の千幡を立て、征夷大将軍に補された。と同時に後鳥羽院から「実朝」と命名までされた。その初めから征夷大将軍に補されたのは鎌倉殿三代目の実朝からである。
十二歳の将軍実朝は外祖父時政を後見役とし、武蔵守の平賀義信を烏帽子親として元服した。元服したからには御台所を選ばねばならない。はじめの候補者は母の政子の妹が足利義兼に嫁いで生まれた従妹だったが、実朝は京の姫君を望んだ。時政の後妻、牧の方が裏でお膳立てをした。
牧の方は駿河国にあった大岡牧、平清盛の異母弟頼盛の所領を預かる在地豪族の出で、京都と縁故を持ち、時政との間に生まれた娘を京の公家に嫁がせていた。この伝手をたどって坊門(藤原)信清という公家の姫君を実朝の御台所に迎え入れることに成功した。この姫君の姉は後鳥羽院の後宮に入っていたから、成立すれば実朝は後鳥羽院と義兄弟ということになる。政子の推薦した足利氏の娘では問題にならなかった。
京側と交渉にあたったのは牧の方の娘婿で、実朝の烏帽子親となった武蔵守平賀義信の子の朝雅であった。縁談が決まって御台所を迎えるために京へ発った一行の中に、牧の方と時政の間にもうけた最愛の息子の政範も混じっていた。ところが運の悪いことに、この政範が道中発病して、義兄朝雅の看病もむなしく京に着いて間もなく亡くなってしまった。それでも坊門家の姫君は無事鎌倉に到着した。京では、単に公家の姫君が武家の棟梁に嫁ぐというより、夷狄へ人質にやるようなものであったろう。
御台所が鎌倉に着くと、牧の方は政範を亡くした不幸にもめげず、実朝後見役の時政と共に御台所の親代わりとして、奥向きの一切を掌握した。時政の先妻の子の政子やその兄弟の義時・時房、乳母の阿波の局の出番はない。
こうなったとき、牧の方は愛息政範の死の復讐を開始した。元久二年(1205)狙われたのは畠山重忠の子の重保であった。畠山重保は政範といっしょに御台所を迎えるために上洛した。その途中で何か行違いがあったか、政範の死後、酒席で平賀朝雅と畠山重保は大喧嘩をした。鎌倉に戻ると畠山親子はしばらく武蔵へ引籠ったまま、鎌倉に現れなかった。
平賀氏は甲斐源氏の出身であったが頼朝に可愛がられ、義信以来、武蔵守としてその政務は激賞されてきた。畠山氏は同じ武蔵国内の在地豪族で、北条氏と先祖を同じくする秩父平氏の嫡流であった。一時、庶流の河越氏が武蔵国留守所総検校職を帯して家督をとっていたが、河越重頼が義経の養父として誅されて以来、再び武蔵随一の武士団を率いていた。こうした在地の畠山氏と国の守たる平賀氏の関係は、必然的に利害の衝突がおきやすい。酒席での平賀朝雅と畠山重保の大喧嘩も、その延長に生じたものであろうが、間の悪いことに朝雅は牧の方の娘婿であった。そして畠山重忠の妻は政子の妹、時政先妻の子であった。
この畠山氏を鎌倉へおびき出すために、秩父平氏一族で重忠の従兄の稲毛重成が起用された。重成は政子の妹を妻にしていたが、頼朝時代に妻を亡くて先妻一族から脱落していた。嫡流の畠山氏を省いて一族の棟梁になろうと野心を抱いた重成を、時政と牧の方は仲間に引き入れたのである。
この計画を時政から打明けられた先妻方の義時・時房らは猛然と反対したが、それを押切って時政は鎌倉にやってきた畠山重保を、三浦義村を使って暗殺してしまう。一方、何もしらない重忠は、息子より一足遅れで百数十騎の供を連れて鎌倉へ向かっていたが、重忠謀叛を強く主張する牧の方に強要された時政の厳命によって、義時をはじめとする数万騎の大軍は武蔵国二俣川(横浜市)で激戦の末、重忠の首を取り、畠山一族を滅ぼしてしまった。
因みに、このとき滅ぼされた畠山重忠の妻は時政先妻の子、政子の妹であったが、未亡人となって足利義兼の長男義純と再婚して畠山の名跡を遺した。義兼の妻も政子の妹であり、その子の三弟義氏が足利氏を継いでいた。この義氏の妹が先に実朝の御台所候補に挙がった娘である。
時政と牧の方はまんまと畠山一族を滅ぼしたが、事はそれですまなかった。鎌倉に戻った義時は父の時政に言ったものだ。畠山重忠は謀叛など企でいない。事の起こりは稲毛重成の奸計にある、として三浦義村等と組んで、今度は稲毛一族を誅殺した。
そして数日後、義時は乳母の阿波局が日ごろから、実朝を時政邸に置いては危ないという忠告を採りあげ、少年将軍実朝を政子の許へ迎え、その身辺を固めた上で時政夫妻に宣告した。牧の方は謀叛を企んでいる。将軍実朝を廃して、娘婿で甲斐源氏の平賀朝雅を将軍にしようとしている、と。義時は一切の弁解を許さず、将軍実朝まで殺そうとした時政に味方する御家人は一人もいなかった。
止む無く時政と牧の方は伊豆に蟄居して、その後十年間、子の義時の振るう辣腕を見せつけられて寂しく一生を終える。また、その一派も一挙に凋落した。牧の方の娘を妻にした宇都宮頼綱は、謀叛の噂が流れ、日頃から法然の教えを授けていたことから、一族郎党六十余人と共に慌てて出家、旅に出なければならなかった。また、京都の守護を勤めていた平賀朝雅は、義時の指示で在京の御家人に討果たされてしまったのである。
鎌倉の実権を獲得した北条義時は相模守となり、平賀氏滅亡後の武蔵守には義時の弟時房が就任した。ここに名実共に北条氏の「執権」政治が開始された。 
三代将軍実朝

 

元久二年(1205)七月、北条義時は政所別当に就いた。その背後に同母の姉、故頼朝夫人政子が控えていた。
性急な権力志向が強く多くの反撥を招いた父義政を見ていた義時は、慌てることもなく着実に北条政権の確立を目指す。三代将軍実朝と政子を常に表面に立て、大江広元ら旧側近たちと連絡を密にし、御家人たちの信頼獲得につとめた。
将軍実朝は鎌倉殿三代目ともなると、武力志向よりも京の文化に憧れ、蹴鞠や歌詠みを日常とした。とりわけ和歌を好み、京都歌壇の藤原定家など巨匠をあおぎながら独学で歌作にはげみ、狩りよりもしばしば歌会を開いた。その結果、和歌に優れた武士たちが優遇されるのは当然だった。下野国の有力な御家人長沼宗政などは「当代は歌鞠をもって業となし、武芸は廃るるに似たり。女性をもって宗となし、勇士はこれ無きがごとし」と、あからさまに直言している。
武家の棟梁源氏の将軍に求められたものは、身分の尊貴性と武芸の器である。京下りの文官大江広元でさえ「当代はさせる勲功もなく、ただ先業を受け継がれただけ」と評するほどだった。
こうした実朝の顕著な傾向は、北条氏によって政治から疎外された現実逃避の結果と見るのが通説になっている。芸術至上主義的解釈によって実朝の『金魂和歌集』などはむやみと評価されるようになったものの、当時の和歌とは何だったのか、歴史と文学は遊離した解釈を招いている。
当時、京の伝統文化のなかで和歌することは、すなわち政治であった。歴代の勅撰集や数多くの歌合わせなどに堪能なことは、王者たるものの必須の条件てある。近代のように和歌と政治が分離することはなかった。平安時代以降、朝廷の政治的権威の失墜がもたらした代償行為には違いないが、和歌することは王者の徴であった。そして京の貴族たちの歌詠みとは、王者の権威に少しでも近づくことにあった。
京都志向の強い実朝が和歌に励んだのは、鎌倉殿三代目たる者が、最早武辺一辺倒だけでやっていけない時期に差し掛かっていたことの現われである。その結果、武芸はさておき、身分の尊貴性のみ追いかける結果となった。
そんな実朝を武辺者の和田義盛は一種信仰のごとき敬慕の念を抱き、実朝もそれに応えた。和田氏は三浦半島の三浦氏の処流であったが、嫡宗の三浦義村をさしおいて、京の慈円も「三浦の長者」と呼ぶほど幕府内の序列は侍所別当という上位にあった。
この義盛が上総国の国司に任官して欲しいと実朝に望んだ。この頃の上総国の大部分は、寿永二年(1183)の末、頼朝の命令で梶原景時に殺された上総権介広常の所領と所職を、千葉常秀と和田義盛が折半する形で継承していた。義盛の上総国司任官が実現したなら、在地支配において千葉常秀より有利になるばかりでなく、鎌倉御家人の間でも北条氏と並ぶ地位を確実なものにできる。
しかし、実朝の努力にもかかわらず、政子は頼朝以来の先例に侍身分の者の受領はないとして拒否したため、義盛の望みは実現しなかった。多分にそれが北条氏の意向であったろう。
この三年後の建保元年(1213)二月、鎌倉甘縄の館に千葉常秀の兄の千葉成胤の館に信濃国の泉小次郎親衡の家臣・青栗七郎の弟で阿静房安念という者が現れた。前将軍頼家の遺児で尾張中務丞の養子になっている千寿丸を擁して挙兵を計画し、北条氏と対立していると有力御家人たちに密使を送って協力を求めてきたのである。成胤は直ちに安念を捉えて幕府へ突き出してしまった。
安念の自白によって、たちまち逮捕されたもの十数人、挙兵に同意したことが判明したのは百数十人にのぼるという、幕府始まって以来の大陰謀事件であった。ところが、規模の大きさに比べて幕府の詰めはやたらに甘い。張本人の泉親衡を捕らえに行った御家人は、反撃に合って取り逃がしてしまう。
この謀反人の中に和田義盛の息子の義直・義重、甥の胤長などが混じっていたため、上総国の所領へ行っていた義盛は急を聞いて鎌倉へ駆けつけると、一族九十八人を引き連れて御所へ押しかけ、創業以来の功に替えても、と赦免を嘆願して許された。
ところが甥の胤長だけは張本人の一人という理由で許されず、一族の面前で縛りあげられて陸奥国へ配流と決まった。義盛も強引だが、面目丸つぶれになり、遂に切れてしまった。義盛はまんまと義時の罠に嵌ったのである。 
和田合戦

 

鎌倉幕府創業以来、数々の権力闘争と陰謀の果て、最後にのこった実力者の北条氏と三浦一族の対決はこうして始った。和田義盛は一族郎党はじめ三浦義村の誓紙もとり、妻の縁で武蔵七党の横山氏一族の援軍も求めた。しかし、一族の中で和田義盛の風下にあった三浦義村は面白くなかったか、土壇場で裏切り、義盛の挙兵を北条義時に通報してしまった。
止む無く和田義盛は予定を早め、七人の息子はじめ一族の百五十騎をもって挙兵した。和田義盛は侍所別当、さすがにこのとき思いがけないほど多数の御家人たちが義盛側に加勢した。富士の裾野の事件で失脚した大場一族や憤死した梶原一族の生き残り等、北条体制に不満を抱く連中が結集したのである。
和田勢は直ちに大蔵の御所を攻めた。御所は和田勢の放った火で瞬時に炎上、政子や実朝は義時や大江広元に護られて危うく避難する。北条側の総大将は義時の嫡男泰時が辛うじて和田勢を防ぐうち、夜になったが戦いは続いた。
翌朝、和田勢にいささか疲れが見えたとき、武蔵国から横山氏等の援軍が駆けつけた。北条側も周辺の御家人を召集し、やっと和田勢を圧倒した。和田義盛以下が由比ガ浜に討ち死にしたとき日が暮れていたというから、丸二日の合戦だった。比企氏の乱は正味二時間たらずで終わっているから、和田合戦の規模の大きさが判る。
和田義盛の嫡男常盛は、母方の横山時兼とその一族の古郡保忠兄弟と共に甲斐国波加利庄(上野原)まで逃れて、自殺した。合戦の結果、和田一族も族滅したが、援軍として駆けつけた小野氏以来の横山党もここに壊滅した。そして、三浦一族の実権は義盛を裏切った義村の手に帰したが、他の御家人からは「三浦の犬は友を食らうぞ」と痛烈に批判された。
和田合戦の後、北条義時は和田義盛の侍所別当を従来からの政所別当に加えて兼帯し、名実共に執権体制を堅実なものにした。
ところで、将軍実朝はどうしていたのか。相変わらず蹴鞠や和歌に励み、一方で東大寺の大仏を鋳た中国人陳和卿のすすめで巨大な唐船を造らせ、中国大陸へ渡ろうとしていた。しかし、せっかく造った巨大な船は、数百人の人夫に引かせてもびくとも動かず、海上に浮かぶどころか鎌倉の海岸に朽ち果てる始末であった。父頼朝を真似た飛躍の時は実朝にはなかった。
それではと、実朝は猟官運動に励んだ。建保四年権中納言・左近中将、建保六年権大納言兼左大将、ついで内大臣、同じ年の瀬には右大臣と、藤原摂関家の子弟もおよばぬスピード昇進であった。京都の事情に詳しい大江広元は、頼朝や頼家は低い官位に甘んじた例を挙げて諌めた。朝廷と後鳥羽上皇にしてみれば、身分不相応な高位に昇ると不幸が訪れるという当時の考えから、実朝を「官打ち」にしたのである。実朝にしてみれば、源氏の正統は自分で絶えるから、せめて高官に昇って家名をあげたい、と答えたというから、その行く末を自覚していたのかもしれない。
そして京都の姫君を妻にした実朝に跡継ぎは生まれなかった。母の政子は熊野参詣のついでに、後鳥羽上皇の乳母で実力者の卿二位藤原兼子に面会して、上皇の皇子を坂東に迎える内諾を得ていたくらいであった。北条氏にしてみれば、源氏の血を引く後継者よりも皇族将軍の方が御し易いと考えたのであろうか。しかし多くの鎌倉御家人たちは、頼朝蜂起以来の源氏との縁に連なることに己のアイデンティテイを有していたから、皇族将軍よりも源氏の血を引く将軍こそ望ましかった。 
実朝暗殺

 

実朝にとって和田義盛亡き後、政所別当に列し、側近として仕えたのは京下りの文官宇多源氏仲章であった。多くの書籍を集め「百家九流」に通じる仲章は、一方で在京の御家人を指揮して河野全成の子を追討するなど、軍事行動もとっている。京と鎌倉を往復する間、実朝に認められて侍読を務めて学問の師となった。
仲章は鎌倉に屋敷をもらって側近として侍する一方で、京都へも度々出向いており、実朝と京都を結ぶ大きな役割を果たしていた。自ら王朝の官位獲得に積極的であった実朝は、仲章にもしきりと官位昇進を図った。後鳥羽上皇の子、順徳天皇の侍読として昇殿を許されている。
こうした源仲章の幕府と朝廷に両属する姿は、実朝と後鳥羽上皇との関係を円満に保つ上で大きな役割を果たしたものの、鎌倉の御家人からは幕府が院権力の従属化とみなされ、少なからず反発を招くものであった。
かといって、将軍実朝は院権力に従属したり、本来の政治を忘れていたわけではなかった。後鳥羽上皇は院宣を下して、幕府の任命した院荘園の地頭の改易を命じてきたことがある。このとき実朝は、頼朝以来、幕府が任じた地頭は落ち度がない限り、これを改易できないと一歩も譲らなかった。御家人にとって鎌倉殿とは、守護・地頭の既得権を守ってくれてこそ、その存在意義があったからだ。
承久元年(1219)正月二十七日夜、大雪の降りしきる中、鶴岡八幡宮で右大臣就任拝賀の儀式を終えた実朝は、夜陰に待ち構えていた同宮別当公暁の手によって暗殺された。実朝二十八歳、公暁は二十歳の若者である。
公暁は前将軍頼家の子、母は鎮西八郎為朝の孫加茂重長女で辻殿といった。薄幸の子公暁を政子は可愛がり、仏門に入れて鶴岡八幡宮の別当の許にあずけた。元服の直後、政子は公暁を実朝の養子分にもしている。乳母夫は三浦義村である。
この公暁が「親の仇を打つぞ」と叫んで、実朝が引きずるように歩いていた下重ねの裾を踏みつけ、頭に一太刀浴びせた。笏を持ったまま雪中に転倒した実朝のとどめを刺し、その首を打ち落とした。実朝の行列を襲撃したのは三、四人の僧で、実朝の周囲にいた者も怪我をしているが、松明を持って先導していた源仲章も殺された。
先頭の仲章を公暁たちは北条義時だと思って殺したと、事件を目撃した貴族の伝聞を書いた慈円の『愚管抄』はいう。拝賀の直前、義時は急に「気分が悪い」といって役目を仲章に代わってもらい、帰宅していたのである。
公暁は乳母夫の三浦義村に使いを出した。使者は義村の子で公暁の弟子駒若丸の兄弟、弥源太兵衛尉という。公暁と義村の関係は唯事ではない。公暁の口上は「今こそ我は東国の大将軍である。その支度をせよ」とあった。義村は「直ぐ迎えを出すから」と使者を返し、北条義時に伝えた。
義時は義村に公暁誅殺を命じる。義村は屈強な長尾定景を追手に遣わした。しびれを切らした公暁は自ら義村の屋敷へ向かい、追手に追われて義村邸の塀を乗り越えようとして、定景に討ち取られてしまった。
将軍実朝の右大臣就任拝賀というのに、義時は拝賀から逃亡し、乳母夫の義村も参列していなかったのだ。クーデターの張本人は三浦義村か北条義時か、様々な解釈がある。要は、院権力に傾く実朝を、鎌倉御家人たちは最早必要としなかったのだ。若く一途な公暁は、そのために利用された。公暁を討った長尾定景は既に滅んだ大場・梶原氏ら鎌倉党の生き残りであったが、これも利用された口である。
因みに、この長尾氏を先祖と称して室町幕府の関東管領上杉氏の執事、長尾氏が出て、やがて景虎の時代になると北陸から坂東にかけて武名を馳せた戦国大名になる。この景虎が主家の名跡と関東管領を受け継ぎ、上杉謙信と改めてわざわざ鎌倉の鶴岡八幡宮へ詣でた。そこで先祖が何をしたか、どれほど知っていたのだろうか。
ところで、公暁が打取った実朝の首はどうなったか。『吾妻鏡』は実朝の屍体埋葬にあたって、首の代わりに髪の毛で代用したという。神奈川県秦野市の金剛寺の伝えでは、三浦義村から公暁を討ち取る命を受けた武常晴は実朝の首を得て、三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼り秦野の地に来て埋葬したという。近くに実朝の首塚もある。武常晴なる者、公暁の郎党あるいは一族の女が実朝に仕えたともいわれ、素性がはっきりしない。 
襁褓将軍選定

 

実朝の死からわずか半月後、頼朝の弟でかつて頼家に殺された阿野全成の遺子時元が駿河国で挙兵した。母は北条時政の女であった。時元の目的は宣旨を賜って坂東を管領することにあったというから、源氏一門として空白になった将軍の座を狙った行動である。義時は侍所所司を遣わして追討、あっけなく敗北させたが、幕府にとって次期将軍の選定が急務であった。
先に北条政子が後鳥羽上皇の皇子を坂東に迎える内諾を得ていたが、さらに政所執事二階堂行道を上洛させて交渉にあたらせさた。これと前後して、上皇から実朝急死の弔問の使者がやって来た。和歌を通じて実朝と交渉のあった西国の王者としては、当然の礼儀である。使者は丁重に行き届いた弔辞をのべた後、事のついでといって、さりげなく上皇の要求を切り出した。
摂津国の二つの荘園の地頭を免職せよというのである。またしても上皇の鎌倉殿職権の切り崩しである。しかも実朝暗殺という事態の急変の中で、皇子迎立と引き換えに弔問の手土産を要求されたのである。わざわざ遣した弔問の目的はそこにあった。
執権北条義時は決断せねばならない。地頭の任免を要求通りに受け入れたら、次々に同じ要求が出され、御家人に対する鎌倉殿の権威は失墜することは目に見えている。鎌倉幕府は本当に院権力に従属してしまうことになる。後鳥羽上皇の要求は鎌倉幕府の自壊を期待したものだ。
結局、次期将軍の皇子迎立をあきらめる他なかった。交渉に上洛した二階堂行道は鎌倉へ下向の際、頼家の遺児で仁和寺に入っていた禅暁を伴ってきた。この禅暁は先に和田合戦の切っ掛けになった、信濃の泉親衡が担ぎ出そうとした千寿丸の同母兄弟で、母は一品房昌寛の女である。当時、この女性は三浦義村の弟胤義の妻になっており、禅暁が鎌倉殿に立てられれば三浦氏には極めて有利になる。
北条義時としてはこれも承服しかね、弟の相模守北条時房に千騎の武士を従えて上洛させ、再度交渉にあたらせたがらちが開かず、結局、摂関家の右大臣九条道家の子、三寅をもって鎌倉殿継嗣問題に決着をつけた。このとき三寅はたった二歳、襁褓(むつき)将軍と呼ばれた。尼将軍政子の登場はこの時から始る。
三寅が北条時房に抱かれて鎌倉に着いて間もなく、京都で事件が起きた。内裏を守護する源頼茂が、後鳥羽上皇の擁する西面の武士に襲われて殺されたのである。頼茂は以仁王を担いで挙兵し、宇治橋に敗死した三位源頼政の孫であった。上皇は頼茂誅殺の理由を、彼が将軍になろうとして謀叛を企てたからだするが、逆に上皇が鎌倉に対して謀叛を企て、それを察知した頼茂を殺したのである。 
承久の乱

 

後鳥羽天皇は幼帝安徳が西国落ちしたとき、弟の四宮が代わりに後白河法皇によって神器もなく即位したが、法皇が没してからも、関白九条兼実を追い落として土御門天皇の外叔父として実権を握った源通親に操られてきた。その間、和歌に執着して『新古今和歌集』も撰者そっちのけで自ら編纂した。そればかりでなく多能多芸で蹴鞠・管弦・囲碁・双六はむろんのこと、宮中の有職故実にも通じていた。
さらに後鳥羽は武芸百般に通じ、相撲・水泳・流鏑馬等を好み、しばしば狩猟に出かけた。また刀剣にも関心を持ち、御所内に刀鍛冶を呼び寄せ、ときには自らもこれを焼き鍛え、「御所焼きの太刀」と呼んで近臣武士たちに与えていた。その太刀には衣装や輿にも好んで用いた菊花の紋で飾られた。いわゆる皇室の「菊花の御紋」の起源である。およそ武家の将軍実朝と比べて好対照であった。まるで立場が逆転していた。
建仁二年(1202)源通親が急死すると通親派を一掃、承元四年(1210)にはまだ十六歳の土御門を退位させ、藤原氏の女に産ませた順徳天皇に代え、強力な独裁者となった。また、それ以前から院の親衛隊としてあった北面の武士に加えて西面の武士を組織した。しかも、鎌倉の御家人まで西面の武士に加わっていた。内裏を守護する源頼茂を西面の武士に襲わせたのも、彼らの腕試しであり、小手調べであった。
とはいえ、後鳥羽上皇は和歌などによる実朝との関係からみて、はじめから反幕的であったわけではない。慈円が望んだように、はじめは朝廷と幕府の協調路線を歩いていた。しかし、承元元年(1207)に白河の御所に最勝四天王院を建立して、関東調伏・呪詛をおこなった。この最勝四天王院の寺務取扱いに抜擢されたのは、かつて頼朝の妹婿で京都守護として幕府の窓口であった一条能保の子の二位法印尊長が起用された。頼朝の妹の曾孫が新将軍として鎌倉に迎えられた三寅だから、鎌倉方の勢力が院方に取り込まれていたのである。さらにいえば、実朝の御台所を出した坊門家でさえ、後鳥羽院の母系であり、しかも妃の一人を出していたくらいだから、最早、鎌倉方の窓口として機能していなかった。
そこへ将軍実朝の急死の報せであってみれば、後鳥羽院の血が騒いだ。承久三年(1221)五月、実朝の三回忌があけると倒幕の宣旨を発し、流鏑馬汰の名目で畿内近郊の武士を招集したのである。加えて比叡山や熊野の寺社勢力をも動員した。
先の一条・坊門家をはじめ頼朝の生家たる熱田大宮司家、さらに源氏一族の大内氏等に加えて、比企の乱に連座して殺された相模の粕屋一族、和田合戦に生き残った義盛の子の朝盛まで、北条執権政権の確立過程で排除された者たちが京側として参戦してきた。さらに、三浦義村の弟胤義まで院方に加わっていた。先に頼家を父とする妻の連れ子禅暁を鎌倉殿候補として送り出したが、候補からはずされたばかりでなく、源氏嫡流の血を引くことが危険視され、一ヶ月前に義時の指図によって京都東山のあたりで殺されていた。三浦胤義はこれを深く恨み、在京のまま院方へ味方したのである。
無論、宣旨が届いても従わなかった御家人もいた。妹の伊賀局が執権北条義時の後妻に入っていた京都守護の伊賀光季である。三寅の祖父の右大将西園寺公経から、様子がおかしいから御召があっても参院するなと使者が届いていた。光季は直ちに鎌倉へ使者を走らせる。光季はすでに合戦を覚悟していた。果たせるかな、翌日、院方の八百騎が光季の邸へ押し寄せ、光季親子以下二十数人の郎従はこれを相手に奮戦、館に火をかけて自害した。伊賀光季の使者が鎌倉の御所に転がり込んだとき、坂東の御家人たちにも倒幕の宣旨が届いていた。尼将軍政子の有名な演説はこの時のことである。頼朝以来鎌倉三代の「御恩」に報いるのは今この時しかない。政子の演説は、かつて草深い坂東からに立ち上がった時を思い出させ、一も二もなく御家人たちの幕府への忠誠を取り付けることに成功した。北条義時と隠微な権力闘争を続けていた三浦義村も、この時ばかりは、院方へついた弟胤義を見捨てて義時に協力した。
その日の夕刻には作戦会議が開かれた。しかし、坂東武者が院宣に逆らって戦うのは稀である。そのため京都の進撃を受けて箱根・足柄峠で戦うなら大義名分が立つ、という消極的な迎撃戦が大勢を占めた。これに反対したのは意外にも文官の大江広元であった。京都の出方を周知している広元は、直ちに出撃すべしと主張した。さすれば、院宣に動揺している御家人たちも後に続くはずであると。
結局、会議は断然出撃に決定、遠江・信濃以東の東国十五カ国に動員令が出され、東海・東山・北陸三道に分かれて総勢十九万騎が、執権義時の長子泰時を総大将として京へ押し寄せた。しかし西国と東国の正面衝突は、宣旨が出されて一ヶ月、いささかあっけないくらい西国の全面的な敗北に終わった。
西国の武士たちは家屋敷を焼かれて逃走、院の御所へ戻ってくると、門はかたく閉ざされ、武士どもは何れかなりと落ちて行け、と追い立てられる始末であった。そして、たちまち宣旨を取り消し、あまつさえ今度の倒幕計画は謀臣の仕業であったとして、その謀臣追討の宣旨を発し、以後何事も幕府の意向通りにしようと申し入れる無責任さを示した。
それに対し、幕府の処分は厳しかった。後鳥羽は隠岐へ、順徳は佐渡へ配流され、倒幕計画を知らされてもいなかった土御門は自ら申し出て土佐へ移った。後鳥羽の皇子の六条宮・冷泉宮も但馬・備前国へ流された。さらに、この四月に即位したばかりで在位七十余日の仲恭天皇も廃され、後鳥羽の兄ですでに入道していた行助親王を法王に据えて高倉院とし、その皇子茂仁親王を後堀川天皇として即位させた。皇位についたことのない高倉院の院政という異常事態である。院方の公家は殺されたり流罪・免職・謹慎などの処分があり、味方した武士の大半は斬罪にされた。かつて史上有得なかった三上皇配流と幕府の皇位介入はこうして始った。 
竹御所と宮将軍

 

承久の乱から三年後、乱の首謀者の一人で、乱後も逃亡していた二位法印尊長が密告によって逮捕された。自殺しそこなって六波羅探題の前に引き出されると、奇怪な言をはいた。早く首を斬れ、さもなければ義時の妻が夫に飲ませた薬で早く俺も殺せ、と。
執権北条義時の急死は、承久の乱からちょうど三年目の元仁元年(1224)六月十三日である。死因に異説があった。義時の急死によって執権職の後継者選びが急がれた。衆目の一致するところ、義時の嫡男で六波羅探題の泰時が有力候補であったから、急の報せで鎌倉に帰ってみると、思わぬ陰謀が待ち受けていた。
義時の後妻の伊賀局が実兄の光宗と謀り、実子の政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとしていたのである。伊賀光宗と伊賀局は承久の乱に先立って後鳥羽院の軍勢に攻められて奮戦自決した伊賀光季の兄妹であり、一条実雅は二位法印尊長の実弟であった。伊賀局が夫の義時を毒殺したとすれば、尊長はその秘密を容易に知り得る立場にあったばかりでなく、陰で操っていた可能性すらある。
しかも、この伊賀氏の陰謀に三浦義村まで抱き込まれていたが、尼将軍政子が自ら乗り出して義村を説得してしまったため、陰謀は未遂に終わった。伊賀局・光宗・実雅の三人が流罪にされ、北条泰時が執権となった。
執権北条義時が専制的な権力を振るえた背後に、いつも姉の尼将軍政子がいた。頼朝の正室であり、頼家・実朝の母であった政子は、故頼朝の権威をもって御家人を統合するシンボルであった。その政子も翌年の嘉禄元年(1225)七月に没すると、執権泰時は御家人統合の権威を失った。
この年の十二月、三寅は元服して頼経となり、翌正月に征夷大将軍に任じられたが、鎌倉殿としての権威はない。そこで再び頼朝の血の導入が図られた。二代将軍頼家の女竹御所と頼経の結婚である。
竹御所の諱は鞠子ともいわれるが定かでない。比企能員の女を母として、頼家が伊豆へ幽閉された建仁三年(1203)に生まれた。この年、比企氏の乱が起き、父頼家は翌年、伊豆で殺された。幼児は政子に育てられたらしく、十四歳のとき、十歳年上の実朝夫人の猶子となっていた。政子の死に際して葬家の仏事を執り行って、実子同様に一年の喪に服し、三寅が元服するとその正室となった。時に頼経十三歳、竹御所二十八歳であった。 
鎌倉法印貞暁

 

寛喜三年(1231)二月、鎌倉法印として京の貴族たちにその名を知られた、頼朝の庶子貞暁が四十六歳をもって高野山に没した。頼朝の男系最後の人である。母は大進局といい、鳥羽皇女妹子内親王の非蔵人として仕えた下級貴族の藤原時長の女で、時長が常陸介に任じられて下向たとき、彼女は鎌倉殿中に仕えた。京都育ちの頼朝は、この女性を密かに寵愛し、子をはらんだ。例によって頼朝は正室政子の嫉妬を恐れ、産所を長門景遠の宅にしつらえ、出産の儀式もすべて省略して産ませた。そののち、母子は景遠の子の景国に育てられたが、政子に気づかれて大いにせめられ、隠れ住まねばならなかった。
貞暁が七歳のとき、政子の激しい恨みをかっている母子の危険を避けるため、頼朝は伊勢国に所領を与えて二人を上洛させ、妹婿の権中納言一条能保の養子、弥勒寺法印隆暁の仁和寺に入れた。隆暁の元で修行を積んだ貞暁は、後白河皇子の道法法親王の伝法灌頂をうけ、勝宝・華蔵両院を領したが、仁和寺門主にもならず、高野山へ退閑した。将軍の座をめぐる血なまぐさい坂東の闘争に、自らの将来を危惧したのであろう。
承久の乱から二年後、さしもの政子も、ただ一人頼朝の血を引く男子として残った貞暁に心の救済を求め、高野山内に寂静院を建立、源氏三代の将軍の追善に阿弥陀堂と三基の五輪塔を建て、堂を造立して本尊の胎内に頼朝の遺髪を納めた。かつて、政子の激しい嫉妬から鎌倉を去らねばならなかった貞暁だが、この時から源氏三代の鎮魂の司祭者として崇敬されることになった。
この貞暁の死によって頼朝の男系は全て絶たれた。この時、鎌倉では将軍頼経の御台所の竹御所は、ただ一人の血縁者として喪に服したが、彼女もまた三年後に三十二歳で逝った。男子を死産し、自らの命も絶った。ここに頼朝の子孫はことごく絶え果てたのてある。
竹御所他界の報せは、わずか四日で京へもたらされた。在京の御家人たちは大混乱に陥り、六波羅探題の北条重時はじめ、ことごとく鎌倉へ駆け下ったという。「頼朝の子孫はこれにて絶滅した。平家の血筋を引く者を嬰子に至るまで殺し尽くした報いである」と日記に記したのは藤原定家である。 
頼朝の落胤

 

竹御所の逝った後、喪に服した姫君が一人いたと『吾妻鏡』はいう。しかし、その名は記されていない。あれこれ思いめぐらせてみると、一種の伝説だが心当たりがある。鎌倉市坂ノ下の鎌倉権五郎を祭る御霊社に「面掛行列」という神事が伝えられている。行列は神輿を先頭に天狗・獅子頭・爺鬼異形の仮面等をつけて練り歩くだけのものだが、主役はおかめの面にひときわ派手な着物の孕み女で、一名「孕みっと行列」ともいわれる。この孕み女は鎌倉長吏の藤原頼兼の娘で菜摘御前といい、例によって色好みの頼朝の胤をやどし、喜んだ一族の繰り出した行列と伝える。元は鶴岡八幡宮の神事でもあったといわれる。藤原頼兼――江戸の長吏、穢多頭弾左衛門の先祖にあたり、偽書とされる弾左衛門由緒書の前史である。
この伝説、これだけで終わらない。幕末、薩長と幕府が対立したとき、薩摩藩は弾左衛門に近づき、弾左衛門配下の加勢を求めた。その理由は薩摩藩主の島津候と弾左衛門の先祖は、共に頼朝を戴く同族ではないか、というのである。幕府は慌てて弾左衛門配下を手なづけ、逆に薩長攻めに人夫として動員した。
鎌倉二代将軍頼家の乳母の一人に比企能員の妹丹後内侍がいた。頼朝はこの女性にも手をつけ、政子の怒りを避けるために西国へ送った。摂津国の住吉社で生まれた忠久を抱えた丹後内侍は、頼朝のはからいで惟宗広言に嫁ぎ、忠久は摂関家領の島津荘の地頭職を与えられ、島津氏繁栄の元を築いたという。もっとも島津家の系図では、忠久の頼朝の落胤伝説は否定されているが。
また『吾妻鏡』の系譜では逆になっている。京で夫の惟宗広言に死なれた丹後内侍は母の比企尼とともに坂東へ下り、子連れで安達盛長と再婚し、頼家の乳母として仕えた。その間、頼朝と交渉があったかどうか判らないが、頼朝は丹後内侍の病気見舞いに訪れたことがあった。、そして、盛長の子の景盛は頼朝の落胤であると言い出して、比企一族の者が源姓を名乗ったことが謀反と思われ、執権北条氏によって安達一族の滅ぼされてしまったのが弘安八年(1825)の霜月騒動である。 
鎌倉幕府とは

 

いずれにせよ、頼朝の子孫は遂に坂東に根付くことはなかった。鎌倉の源氏三代とは何だったのか。王権の守り刀としての草薙剣の代わりに肉体化した頼朝は、王権の代理者として坂東に来たり、中小の在地武士団が割拠する坂東を統一し、「鎌倉殿」という坂東の「王」となった。王権の永遠なる制度化を目指して専制権力を振るい、二代、三代と続いたが、それを旗印として担いだ坂東の土豪たちは、結局、異国から来た王を受け入れることはできなかった。「王」は再び追われなければならない。それが頼朝の子孫が絶滅にいたる過程であった。だが、源氏の血統を追った坂東の政権は、本当に京の王権を嫌ったのだろうか。
頼朝の血統が絶えた後も、鎌倉は再び京都から宮将軍を迎えた。とはいえ、それはもはや王権の代理者ではあり得なかった。執権北条氏が権力を握り、宮将軍は飾り物でしかない。源氏の「鎌倉殿」を追った後、幕府は執権北条氏の上に、頼経をはじめとする摂関家の子弟を将軍に仰いだ。しかし、こうした宮将軍たちは、せいぜい二代で強制的に交代させる飾り物に過ぎなかった。この政権の形は京都の摂関政治に似ている。飾り物の天皇の上に上皇が治天の君として実質的な権力者となった院政とも同じ形である。坂東の鎌倉幕府とは、西国の朝廷と同質のもう一つの政権だったのである。
西国の政権が天皇を飾り物として摂関や法王が実権を握ったように、坂東の政権は宮将軍を飾り物に執権北条氏が権力を握ったのは、まったく構造的に同質の政権に過ぎないことを物語る。
鎌倉の坂東独立国家とは、かつて将門が自らを「新皇」を称して、西国国家と同じものを目指したように、それを超えることは出来なかったのである。この時代、中世史学では、朝廷・幕府にくわえて寺社勢力による権門体制と呼ばれる。幕府は権門の一つに過ぎなかった。言い換えれば、列島における権力の所在は分裂していたのである。
将門の時代と鎌倉の時代では、明らかに時代が異なる。将門の時代は痩せたりといえども西国国家は堅固な秩序を維持していた。鎌倉政権が樹立される時代は、堅固な秩序は破状をきたしていた。それは政権だけの問題ではない。あらゆる秩序や価値が破状していたからこそ、鎌倉政権は成ったのである。
執権北条泰時は集団指導体制の元、京都政権の律令に倣って、武家政権に見あった法律として御成敗式目を制定した。それは後に続く武家政権の範とされた法律ではあった。
しかし、である。彼らの系図がどうあれ、坂東の武家とは、元来、東夷と呼ばれたその昔から狩猟民の出身であったはずだ。野を駆け、弓矢を放って獣を捕る。それが武家の始めであったすれば、田畑を耕し、その土地を死守するために武力行使するようになって、いつしか狩猟の民が持っていた自然の野性を忘れたのではないか。
頼朝が征夷大将軍に任じられて最初にとった行動は、征夷のそれであるよりも、富士の裾野の巻き狩りという軍事訓練であった。それは一面に政治的な示威行為であり、儀礼的な狩猟であはあったが、かつて武家の本性であった狩猟民の野性を取り戻すための儀式でもあったはずである。
鎌倉殿が二代・三代と継承されるに従って、狩猟民の野性は忘れ去られていった。権力闘争の中で流された度々の血飛沫だけが、かつての狩猟の時に流された血潮に似ていた。しかし、そこからは何も生み出さず、ただ抹殺だけが繰り返された。そして鎌倉政権の行き着いたものが、御成敗式目の制定であり、その結果として京都の律令政権と同じ構造の政権が坂東にも出来上がった、ということである。
西国に対して遅れてきたのが坂東なら、西国王権の代理者たる源氏三代を追い出した鎌倉政権の成立とは、歴史における一つの画期的な出来事である。一般に頼朝による鎌倉幕府の成立をもって古代と中世に分ける。頼朝の鎌倉政権とは、西国の古代的政権の再興ではなかったのか。だとすれば、承久の乱に叩きのめされた西国政権の壊滅状態こそ、古代の終りであったはずである。  
古代の終り

 

仁治三年(1242)六月、執権北条泰時は病に陥った。子の時氏は早世、執権を補佐していた叔父の時房も二年前に没している。孫の経時はまだ二十歳であったが、病床から執権職を譲って一ヶ月後に六十歳で没した。
若い経時は執権を継いだものの、周囲は不穏な状況にあった。幼児のときに京都から迎えた将軍頼経も二十年余りも経てば立派な青年になる。寛元二年(1244)経時は頼経を辞任させ、わずか六歳の子の頼嗣に将軍を継がせた。経時は飾り物の将軍ではあったが、鎌倉殿として誰よりも長い経歴は、自然と取り巻きが固まって一つの政治勢力を形成していた。執権政権にとって、もはやその存在は危険と見なされたのである。しかし、頼経は辞職・引退してからも、帰京を催促されながら取り巻きから大殿と呼ばれて、幕府内に隠然たる勢力を保持していた。
翌年春になると、執権経時は急に重病となり、危篤状態が噂され、また陰謀がもちあがり、大事件がおこる風聞された。明けて寛元四年(1246)三月、経時は弟の時頼に執権を譲り、一ヵ月後にわずか二十三歳で死んだ。当然、その死因について種々の噂がとんだ。経時の子は出家させられているから、もしかして時頼が兄を追ったのではないかともいわれる。
若干二十歳の執権時頼は即座に手を打った。大殿頼経を押し立てて幕府の実権を奪おうとしたとして、叔父の光時ら名越一族とその与党を追い詰め、光時と弟時幸は五月二十五日に出家、時幸は数日後に自殺した。評定衆中の千葉秀胤など光時派を罷免、光時を伊豆へ配流した。そして陰謀の中心となった前将軍頼経も多くの武士に囲まれて京都へ送還された。
執権時頼は追求の手をゆるめない。頼経送還のあとを追って、六波羅探題北条重時を通じて、これまで鎌倉に対する窓口として関東申次で前将軍頼経の父、前関白九条道家の更迭を要請した。
明けて宝治元年(1247)になると、時頼は謀略を用いて御家人の最有力者だった三浦氏を族滅させてしまう。三浦泰村は先の執権北条泰時と姻戚関係にあり、時頼もはじめは信頼していたらしい。だが、泰村の弟光村は大殿頼経を京へ送った際、二十年間慣れ親しんだ頼経との別れを悲しみ、必ずもう一度鎌倉へ入れ奉ろう、と周りの侍たちに語っていたという。三浦氏の不穏な動きに対し、北条氏と縁戚の安達氏が先陣をきり、時頼は三浦氏の館を攻めた。館を焼かれた三浦一族は頼朝の墓所法華堂に立て籠り、攻め入った軍兵と闘って全滅した。三浦泰村以下、討死・自殺した者五百人、翌日には上総国の千葉秀胤一族に討手がかけられて滅び去った。
将軍頼嗣はこの後も鎌倉にとどまっていたが、数年後の建長三年(1251)の暮れ、頼経・頼嗣親子に心を寄せる千葉氏の縁者が謀叛を企てたとして、頼嗣は職を追われて京へ護送された。九条家は後嵯峨天皇の勅勘をうけ、そのショックで道家は頓死してしまった。
翌年四月、後嵯峨上皇の嫡子宗尊親王が新将軍として鎌倉に迎えられた。源氏三代が滅亡以来、望んで果たせなかった親王将軍の誕生によって、鎌倉の北条政権は得宗(家督)の専制体制へ走り出す。目的は完璧なまでの古代政権を目指して権力の一元化であり、分裂した価値の統一であったろう。
かつての西国政権と同じ構造をもった北条政権には、強引に専制体制を強化する意外に打つ手はなかった。しかし、あらゆる秩序と価値の崩壊を再建するには、政権だけがその担い手ではなかった。古代的価値によって忘れ去られていた何者かが、専制体制の背後にうごめいていた。こうして奥州独立国家を壊滅させることによって、坂東独立王国は成った。 
 
草奔と名分

 

仁寛配流 
永久元年(1113)というから、八幡太郎源義家が奥州攻めに失敗して没してから数年後のことである。朝廷では白河上皇の院政が軌道にのり、天皇は孫の鳥羽の代であった。この鳥羽天皇を呪詛し謀反を企んだとして、醍醐寺三宝院の阿闍梨(あじゃり)仁寛が伊豆の修善寺に近い大仁へ配流された。
事のおこりは上皇の内親王令子の御所に落書が投げ込まれ、輔仁親王と村上源氏が共謀して天皇暗殺を企てているという密告であった。さらに、その密告書には暗殺実行者として、醍醐寺十五世座主勝覚のもとにいる千手丸という童の名まで書かれていた。ただちに千手丸は検非違使に捕らえられて尋問の末、その背後に勝覚とその弟子の仁寛がいることが明らかになった。
勝覚と仁寛の師弟は共に左大臣で村上源氏俊房を父にもつ異母兄弟であった。村上源氏は村上天皇の具平親王の子師房が臣籍降下して源氏朝臣を賜姓したことに始まる。師房は摂関政治最盛期の藤原道長の娘と結婚して、ついに太政大臣にまで昇った。さらに師房は道長の子の藤原頼通の猶子にまでなって、家運の維持と発展を図った。この師房の子が左大臣源俊房であり、白河院政下では参議以上の公卿二十四人の内、村上源氏が三分の一を占めるという勢力となった。摂関家全体から見れば、台頭する村上源氏の勢力は驚異であったが、その実、摂関家と姻戚関係にもあった。
村上源氏の台頭を恐れたのは摂関家よりも白河上皇である。藤原摂関政治を牽制するために院政を始めた白河上皇にしてみれは、摂関家と結び付いた村上源氏の台頭はその出自が皇胤であるだけに、目障りな存在であった。しかも、村上源氏俊房は白河上皇のライバル関係にある弟の輔仁親王とも縁が深かった。源俊房の実弟師忠が娘を輔仁親王の室として有仁をもうけ、息子の師時は輔仁親王と同じく三条源氏基平の女を母とした。そんな縁から息子の醍醐寺僧仁寛は輔仁親王の護持僧となっていた。
輔仁親王は白河上皇の三弟にあたる。実質的な院政は白河上皇から始るが、その形式は父帝の後三条天皇の代にもうけられた。藤原摂関家と直接外戚関係のなかった後三条は、藤原氏の皇統関与を排斥し、天皇親政を強化するために、あらかじめ皇統の順序を定めた。三十九歳で譲位、二十歳の白河天皇を後見し、白河の異母弟の実仁親王を立太子とした。また三弟の輔仁親王を順次後継者と定めたが、後三条は譲位後一年で没してしまった。さらに十年後には東宮実仁親王が十五歳で早死にする。すると白河は三弟の輔仁親王を差し置いて、皇子の善仁親王を立太子と譲位を同時に決行、堀川天皇を後見する院政を開始したのである。ここに輔仁親王が皇位につくチャンスは完全に失われてしまった。
やがて病弱の堀川天皇が二十九歳で没しても輔仁親王が皇位につく機会はなく、わずか五歳の堀川の皇子が鳥羽天皇として擁立されるに至った。この鳥羽天皇を恨んで輔仁親王と村上源氏の一党が謀反を企んだ、というのである。その結果、輔仁親王は閉門蟄居、俊房・師時父子らは翌年十一月出仕の朝命を蒙るまで閉居を余儀なくされ、やがて村上源氏の主流の座は弟の顕房の子孫に譲ることになる。天皇呪詛の張本人と目された仁寛は伊豆へ、暗殺実行者と見なされた千手丸は佐渡へ流されたのである。
天皇暗殺計画がどの程度の実体をもっていたか明らかではない。謀反の疑いがこの程度の被害で済んだのは、村上源氏が摂関家と姻戚関係にあり、藤原忠実の庇護によったといわれる。 
院政と摂関政治

 

醍醐寺は高野山に空海が開いた真言宗の中でも有力寺院であり、仁寛の兄で十五世座主勝覚は醍醐寺三宝院を開基し、吉野金峰山修験山伏当山派の元締め、本寺であった。仁寛はここで兄勝覚の後押しもあったか、真言密教僧としては最高の太夫阿闍梨の地位にあった。
そしてこの吉野金峯山には藤原摂関家も関わっていた。御堂関白藤原道長は末法到来を前に、自ら書写した妙法蓮華経など合わせて十五巻を銅製の箱に納め、金峯山(大峯山)に参詣、山頂に経塚を築いた。王朝貴族たちの金の御岳詣で流行は、ここからはじまった。
それに対して、蟻の熊野詣といわれた白河上皇にはじまる熊野御幸については既に触れた。熊野三山の修験は比叡山天台宗の寺門派、三井寺(園城寺)を本寺とする本山派修験で、仁寛の当山派とは対抗関係にあった。白河上皇の熊野御幸は寛治四年(1090)に始り、熊野三山を統括する別当職と三井寺には熊野三山検校職も白河上皇によって任命されていた。だから熊野三山の本山派修験は白河上皇の統括下あったのである。
おそらく仁寛の伊豆配流は、金峯山の当山派修験が勝覚・仁寛兄弟の父村上源氏俊房通じて藤原摂関家につながることから、その勢力切り崩しに他ならなかった。このころ各地の修験山伏もまた、比叡山の僧兵などと同様に武力装置化しており、当山派の山伏は摂関家の武力勢力になる前に、白河上皇は先手を打ったのではないか。後にその武力をもって摂関家の爪牙とまでいわれた清和源氏が、院政から徹底的に排斥されたように。
そうした意味で村上源氏出身者として一人仁寛が伊豆配流に遭ったのは、院政と摂関政治が対立した最初の、犠牲者であり、正しく生贄であった。 
真言立川流

 

伊豆大仁へ流された仁寛は名を蓮念と改め、伊豆の葛城山(乳房山)に籠もって修法したという。伊豆大仁は、役行者を開祖とする修験道のメッカであり、三宝院系の山寺も存在した。だから仁寛が伊豆大仁へ流されても、何の不自由もなかったはずであった。ところが、配流後五ヶ月、仁寛は城山の山頂から身投げして命を絶ったという。
短い仁寛の配流生活の間、武蔵国立川の陰陽師有俊なる者に真言密教の秘法を伝授していた。これが世に邪宗として悪名高い「真言立川流」である。
邪宗真言立川流とは何か。それが「邪宗」と呼ばれて、徹底的な弾圧と焚書にあったため、文献はほとんどなく、弾圧した側の文書によってしか明にならない。真言立川流の研究書は、皆この線上にしかなく、ましてや上に述べた仁寛配流の背景にいたっては、立川流の研究書からは、何も得られない。
その限りで邪宗真言立川流をみると、陰陽道の教義と真言密教の教義を合せて、その極意を男女和合の性の境地にあるとしてひろまった一異教である、ということになる。それ故、その表面だけが注目されて好奇心にされることになってしまう。
そうした「邪宗」が仁寛の伊豆大仁へ流された数ヶ月の間に編み出されたとは、とても思えない。真言密教僧として醍醐寺三宝院の太夫阿闍梨の地位にあったときから、それは研究されていたに違いないのである。
仁寛から真言密教の秘法を伝授された武蔵国立川の陰陽師有俊なる者の正体は定かでない。別伝では武蔵国立川の有信と小野の妙勧律師ともいう。武蔵国立川に立川氏を称する武蔵七党のうち西党の支族がいて、鎌倉御家人としてはじまり戦国時代の後北条氏にまで仕えた。氏寺として臨済禅寺を代々守っていて、まるで真言宗と関わりない。
それにも関わらず真言立川流は坂東から北陸方面へもひろがったという。坂東を拠点に真言立川流がひろがったことについては、その文献の多くが弾圧による焚書にあったにも関わらず、金沢八景の称名寺に最も多く残されことことがその一端をしめしている。 
仁寛の呪い

 

真言立川流が浸透したのは坂東の片田舎ばかりではなかった。仁寛が流されてから十七年後の大治四年(1129)白河上皇が崩ずると、仁寛の呪いを恐れた朝廷は赦免令を発して仁寛の罪を許し、その遺骨を京に移して供養塔を建立した。自ら投身自殺して見せた、仁寛の思惑が図に当たったのである。
そして真言立川流は宮廷の奥深く浸透していった。文永七年(1270)越前国豊原寺の誓願房心定という僧が立川流を論破するため著した『受法用心集』によると、このころ真言密教僧の十人の内、九人までが立川流の徒であるまでになっていたという。鎌倉時代、蒙古襲来の時期のことである。
そのころ宮廷貴族の生活は『源氏物語』の光源氏が父帝の愛する更衣藤壺との間に子をもうけ、それを負い目と感じた時代はとっくに過ぎていた。輔仁親王から皇位につく機会を完璧に奪った鳥羽天皇は、正后璋子の生んだ第一皇子の顕仁、後の祟徳天皇は、鳥羽の祖父にあたる白河上皇とその猶子の璋子との密通によって生まれた「叔父子」だった。そのため鳥羽から疎まれた祟徳は、後白河に戦いを挑んで敗れたのが保元の乱である。
また蒙古襲来のころの、後深草院と二条をめぐる『とわずがたり』の歯止めのない愛欲絵巻も、もしかすると真言立川流の影響下にあったのかもしれない。なにしろ二条のもう一人の恋人有明の月は真言密教の高僧性助法親王と考証されているくらいだから、二条は寝物語に立川流を吹き込まれたかと、あらぬ詮索もしてみたくなる。
また鳥羽天皇の寵愛した絶世の美女玉藻前は、陰陽頭安倍泰成にその正体見破られ、金毛九尾の妖狐となって、都からひと飛びに広大な坂東の那須野(栃木県茶臼岳東麓)へ逃げ来たり、三浦之介、上総之介に討たれて殺生石となったという伝説も、仁寛の伊豆配流から差ほど年を経ぬ時期であった。都に跳梁する妖しい体光を発した化生の本体、一体、何処から現れたか。 
八百万の神々

 

世間から「邪宗」といわれる真言立川流を、女人禁制を建前とする本家の高野山が黙って許しているわけがない。先頭をきって立川流を非難し、膨大な焚書におよんだ。しかし、真言立川流とはそれほど異端の邪教だったのだろうか。
仏教が大陸からもたらされて以来、宗教的信仰よりも学問的研究の対象にされ、その結果は国家による支配の道具に用いられた。南都六宗と平安二宗がそれである。そこから出たにも関わらず、最澄と空海は都市仏教から離れて、それぞれ比叡山と高野山に籠り、山林・山岳仏教として実践修行についた。
そこは世俗的権力の立ち入ることの出来ないアジールであり、自然そのものに埋め尽くされていた。その中に踏み込んだ人間は、どんな装備をこらしたとしても、複雑に生い茂る植物や起伏のある地形、様々な生き物や走り抜ける水流に逆らわず、たえまなく変化する天候に直接身体を曝さなければならない。そんな山や石や樹木や水辺は、太古以来の八百万神、自然の神々の棲む場所であった。言ってしばえば、平地を切り拓いて権力の支配機構を生み出した弥生時代以前の、縄文時代はおろか太古以来の山林・山岳地帯のそれである。だから、例えば柳田民俗学の土地にしがみ着いた氏神や祖霊一元論による先祖崇拝などではなく、うっそうとした山林や岩肌や襲い来る荒波そのものの、即物的感覚に満ち満ちた自然崇拝を生み出す。
そんな山岳地帯には最澄や空海が踏み込む以前から、既に狩猟をする山人、山の地下資源を採る職人たちがおり、また都市の国家支配を逃れて山岳を修行の場とする山伏修験者たちがいた。最澄と空海は彼らと組み、天台宗と真言密教の山岳仏教を興したのである。
それは仏教と呼ばれているものの、山の神々「八百万神」と共生した、いわゆる神仏習合の姿であった。それが抽象化されたとき、いわゆる「本覚思想」と呼ばれるものになり、あらゆるものに神仏を見出す「草木成仏」といった世界観となる。そして、神は仏の権現、仏は神の垂迹といった本地垂迹説の多神教世界も容易に一般に受け入れられていった。
これらが学問研究からではなく、実践修行の中から得られたことが重要だった。仏教が学問的研究の対象だった時代は、師との面授が必須だった。それに飽き足らぬ者は自ら渡海して経典を求めた。そこまで行かなくても、院政期以来、一般人も自ら足を運んで、先祖につながる氏神・氏寺とは異なる、これぞと思われる神社仏閣へ参籠して、神仏の加護を得ようとした。そして、参籠の過程で夢や覚醒によって神仏の声を聞いてしまう者も現れた。
聞いてしまった神仏の声を誰かに伝えたい、と思ったとき、先師や聖人の名に仮託した偽書たちが生まれる。聖徳太子に仮託した『未来記』などはその代表的な偽書である。私的な託宣など厳禁された時代が生んだ、数多の偽書たちの正体がこれであった。
ところが、そうした禁制にもめげず、自ら聞いた神仏の声を、自己の名と責任において吹聴しはじめたものたちが、鎌倉新仏教といわれる一群の宗教者たちであった。法然や親鸞の専修念仏、一遍の踊念仏、日蓮の法華唱題などがそれである。彼らは自ら修行や研鑽によって会得した絶対の確信において、教団や権力者や世間から受ける法難に抗し、信ずるところを臆せず披瀝した。そのとき彼らにとって見出された仏とその念仏や唱題という方法も含めて、それ以外は決して認めず、最早、本地垂迹や本覚思想も眼中にない。
期せずして法然・親鸞・一遍・日蓮たちは、それぞれ関係の濃淡はあっても、最澄が開いた比叡山の天台宗と関わって出てきた。つまり天台一元論がこんな形で現れたのである。
仁寛の真言立川流は高野山の真言密教から出たものの、こうした鎌倉新仏教者たちと同様だったのではないか、と思えるのである。本覚思想は天台本覚思想とも呼ばれるが、華厳宗にはじまり、真言密教を経て天台宗にもたらされたものだ。天台宗では一元論に抽象化されたが、真言密教にあっては「草木成仏」はあるがままに肯定され、一見何でも有りの極彩色に染め上げた曼荼羅図絵となった。おそらく仁寛はこの何でも有りの中で、自然としての人間の精神と欲望の最深部まで降りていった。そして、欲望が、太古の自然が一気に噴出した。
事は宗教レベルに限られた問題ではなかった。かつて草薙剣によって薙ぎ倒され、蹴散らされた草たちが太古の自然の彼方から湧き出した。そして、この草莽の欲望と太古の自然を一挙に絡め取ったのが、後醍醐天皇その人だったのである。 
宋学と禅宗

 

この時代を何と呼べばよいのか。例えば、建武中興といい、南北朝といったところで、それぞれの名分でしかない。武家の源・平交代史観という名分論から南北朝時代と呼ばれるように、天皇家の盛衰から見た皇国史観からは建武中興時代と呼ばれる。いずれにしても、名分論からこの時代の本質をとらえられないのだが、逆に、名分論の何たるを知らなければ彼らが目論んだものも見えてこないのも事実である。
名分論の初めは遙か鎌倉時代の蒙古襲来以前に翻る。その頃、何事も「大儀名分」がなけれは為し得ない時代であった。原理が失われていたからである。権力をほしいままにした執権北条得宗家(家督)ですら、それを維持していくためには、親王将軍の権威を推戴することによって、やっと可能だった。有力御家人たちをことごとく滅ぼしてもなお、北条得宗家が将軍になることは、他の御家人たちが許すことではなかったからだ。
名分を必要とする風潮に拍車をかけたのは、この頃、渡来した禅僧によってもたらされた宋学の影響というより、それによって名分の有効性が確かめられたといえる。
宋学は儒教・儒学を老荘や仏教の教理で補強された哲学的儒学である。世界は自然法則の「理」と物質的自然界の「気」があるが、宋学は「理先気後」とみなした。といっても「理」は分離して先行するのではなく、「気」しかない物質的自然界の中に「理」は含まれるという統合によった。朱子によって完成されたことから朱子学ともいわれる。朱子学は一見、合理主義である。
そこで朱子学は、人間には等しく神や聖人のごとき超越性が内在するから、誰でも修行次第で聖人になれる、とした。その修行というのが禅僧のいう座禅であり、この超越性を得ることを「悟り」と称した。鎌倉執権北条時頼が南宋から亡命してきた蘭渓道隆に師事して座禅に狂い、南都六宗に習って禅寺を幕府の官寺鎌倉五山としたのも、こうして自らを神か聖人とすべく望んだからであった。
といっても、それは時頼以降の執権北条得宗家の専制権力を目指した、というわけでは必ずしもなかった。朱子学にあっては「修身平治天下」という、自分の身を修めることは天下を治めることだとする考え方がある。政治家が身を清めれば民もまた同様に影響されて清まるというものである。幕府が禅寺を官寺として禅宗を世間に普及させようとした理由はそこにあった。
朱子学において何故そんな好都合なことが考えられたのか。唐代から始まった中国の科挙による士大夫と呼ばれた文人・政治家たちは、高等文官試験さえを受かれば、どんな出身階級であるかは問われなかった。世間に階級がなかったわけではないが、彼らの置かれた位置はそれらの階級を越えていたから、人間には等しく超越性が内在すると考えられたのであった。
だが皮肉なことに、宋学をもたらした禅僧の渡来とは、それが亡命による渡来であったように、モンゴル帝国の伸張、いわゆる蒙古襲来という嵐の前兆に他ならなかったことである。 
怨敵調伏

 

それは絶対的な外部の他者の襲来であった。鎌倉幕府しいては日本という国家共同体とは明らかに異質なシステムをもった、もう一つの国家共同体の有無を言わせぬ軍事的侵攻である。禅僧たちがそこから亡命せねばならなかったように、内部にどれほどの聖人君子を持とうと、外部から押し寄せる絶対的な他者に抗すべくもなかった。外部の他者をも自己同一化することは所詮不可能だったのである。
ところが、思わぬ「風」が吹いた。襲来した敵船のことごとくを、その風は吹き返し、追い払ってしまったのである。人々はその風を「神風」と呼んだ。何故なら「神国日本」を守護してくれたからだと。
蒙古襲来とは、それ自体よりも、それによってもたらされた国内の影響と変化の方が大きい。まず第一に、敵襲に備えて幕府と朝廷の採った方策は、怨敵調伏のための加持祈祷であった。神仏に祈って敵を撃退する、という古代さながらの方法である。その結果が「神風」が吹いて夷敵を撃退したと見なされたのだから、馬鹿にしたものでもない。加持祈祷は社寺・仏閣の社僧の役目だったが、それを期待したのは幕府や朝廷ばかりでなく、一般の民衆もまた望んだことであった。
とりわけ二度目の蒙古襲来、弘安四年(1281)の弘安の役の最中、西大寺真言律宗の叡尊は亀山天皇の命により、京都・奈良の律宗僧七百人余りを率いて石清水八幡宮で夷敵降伏の祈祷をした。西大寺の叡尊が選ばれたのは既に二年前から亀山天皇は叡尊に戒律を授けられていたことによる。同じ年、叡尊は鎌倉からも招聘され、執権北条氏一門が授戒して殺生禁断を誓っている。
ところが、石清水八幡宮における叡尊の祈祷は、「蒙古は犬の子孫、日本は神の末葉、神明と畜類がどうして対等に闘るものか、早く霊威によって怨敵を吹き戻し、船を焼き払いたまえ」などと、神国日本の戦意高揚のためのものであった。その日がたまたま蒙古軍撤退の日だったことから、叡尊はさらに朝廷と幕府から絶大な信頼を得たことだった。
そして三年後の弘安七年(1284)、叡尊は言ったものだ。今度の戦争は八幡大菩薩ならびに諸神社の神々の戦いであったが、蒙古軍に多数の死者が出て、その怨霊が諸国に満ち、神々は殺生の罪障を得たので贖罪として放生を願っている、と。捕らえた生物を放つ仏教儀式を放生会というが、叡尊はそのために宇治川の網代の破却を朝廷に訴えたのである。網代は漁師が川瀬に設ける魚採りの施設である。その代わり、宇治橋の修造をしたいから勧進興行をさせてくれ、と。
それは西大寺真言律宗叡尊の、怨敵調伏の成果に対する恩賞の要求に他ならなかった。「神風」をもたらした「神」は絶大となった。その神意に逆らう者は「悪党」の烙印を押された。 
清凉寺式釈迦像

 

叡尊による殺生禁断という戒律は、それを破る者を容赦なく「悪党」として位置付けていくことになるのだが、それに触れる前に、戒律重視は何も叡尊個人によって始まったわけではないことを確認しておかなければならない。
建仁三年(1203)九月というから、鎌倉二代将軍頼家が伊豆の修善寺に幽閉された時期である。大和の唐招提寺で解脱房貞慶によって七日七夜にわたる釈迦念仏会が行われた。唐招提寺は東大寺大仏が建立されたとき、戒律を授けるべく彼の鑑真が招聘され、釈迦の舎利を将来した聖跡であったが、鎌倉時代ともなれば既に衰微していた。貞慶の釈迦念仏会はその復興にほかならなかったが、それは唐招提寺だけの復興というより、南都仏教全体の復興運動の始まりだった。
世はいわゆる鎌倉新仏教の法然による専修念仏の台頭期であった。旧仏教たる南都仏教の復興運動とは、だから単に新仏教に対抗した旧仏教の復興というより、釈迦に還る、という明確な目的意識があった。それゆえ、釈迦の聖跡たる唐招提寺において釈迦念仏会が行われたのである。西大寺叡尊の戒律重視とは、同じ律宗唐招提寺に始まった貞慶の後継者としての復興運動に他ならなかった。
叡尊が願主となって、京都嵯峨の清凉寺の本尊木造釈迦如来立像を模刻し、それを西大寺の本尊としたのも、釈迦に還る、という南都仏教の戒律復興運動の後継者だったことによる。清凉寺の釈迦如来像が選ばれたのは、それが生身の釈迦として造立され、欽明朝に仏教伝来とともに伝えられたことによったのである。一群の特異な図像をもつ清凉寺式釈迦像と呼ばれるものがそれである。
叡尊の弟子の忍性は、釈迦に還る、という漠然とした目的意識では満足できず、殺生と隣り合わせに生きる貧民や非人たちをつかまえて文殊菩薩に比定し、戒律を授けた。文殊は釈迦の脇侍といわれ、貧窮孤独の衆生に身を変えて文殊を礼拝供養する行者の前に現れるとされことから、律令国家にあっては貴族社会の年中行事として、東寺と西寺に乞者を集めて盛大に行われていた。忍性はそれを復興しようとしたのである。それも殺生禁断の戒律を遵守するという条件付きであった。殺生禁断を犯す者はここでも「悪党」と断定された。
因みに、忍性の文殊信仰をもたらしたのは、師最澄に欠けていた密教を学ぶために承和五年(838)に入唐した天台僧円仁であった。比叡山に騎獅文殊像を安置し、密教修法の文殊八字法を初めて伝えたのもが、後に台密・東密を問わず重んじられるようになったものであった。さらに円仁は東北や常陸に俘囚基地である別所の蝦夷を教化し、摂津国多田荘の別所に東光寺を建立したが、後に、この多田荘に源満仲が創建した多田院の別当に就いたのが忍性であった。円仁から忍性へと文殊信仰はストレートにつながっていた。
また、忍性が大和から坂東へ下向したのは、北條泰時の招きで伊豆走湯山権現堂に逗留の際、常陸国守護の小田氏が帰依したことによるが、小田氏は日荒山社家宇都宮氏の縁戚で、日荒山修験を開いたのは文殊信仰をもたらした円仁である。忍性が坂東教化の基地として最初に常陸国を選んだのは、そこに円仁の布石した文殊信仰があったからではなかったのか。
それにしても、忍性が坂東布教の根拠地とした筑波山麓の小田城と、親鸞が越後配流から許されてから入った常陸国笠間の地は、余りにも近い。「神」を否定し「悪人」をも往生させんとした専修念仏の法然・親鸞は、それ故に危険な輩として弾圧されなければならなかった。忍性が常陸筑波の地を選んだのは、まさか親鸞の専修念仏の徒を狙い撃ちしたわけではあるまいが、そう勘ぐりたくなるほど近接している。
だが、専修念仏に組するまでもなく「悪党」たちは叛乱する。 
無足御家人と悪党

 

後年、「忠臣」とされる楠木正成は、まずもって「悪党」として歴史に登場した。大和国を中心として主に西国を舞台に山賊や盗賊の類として跳梁した者が悪党とされる。ところが、楠木正成は鎌倉御家人ではないかとする説がある。御家人と悪党は何処でつながるのか興味深い問題である。
そこで、鎌倉御家人なら、もしかして『吾妻鏡』にその名が記録されているかもしれないと思って、全文検索を試みてみると、確かに出てきた。
文治六年十一月七日条に、頼朝の上洛した際、後陣の随兵四十六番中、後ろから数えた方が早いくらいの四十二番の中にその名がある。
□四十二番楠木の四郎忍の三郎同五郎
鎌倉武士の名乗りの苗字は領地の地名であったから、楠木の四郎も坂東の御家人であったなら、楠木の地名も坂東の何処かにあったはずだが、有力な比定地は見つからない。
ただ一つだけ手掛かりらしきものがある。室町時代になって、飛騨の白川郷に進出して荘川沿いに勢力をなした内ヶ島氏は、楠木正成の子孫と称した。内島氏なら『吾妻鏡』にも承久三年(1221)の宇治合戦以降三度出てくる。『武蔵七党系図』の猪俣党系図にも、岡部清綱の弟国綱を内島五郎とあり、その子孫は内島三郎忠俊、内島二郎兵衛、内島三郎景俊と続いている。
内島氏を出した岡部氏は埼玉県大里郡岡部町の普済寺に居住し、その東北に隣接する深谷市内ヶ島の永光寺が内ヶ島の居住地とされる。このように内ヶ島氏は確かに坂東にいたらしが、飛騨の内ヶ島氏が先祖とする楠木氏の名は、内ヶ島氏の属した猪俣党系図に載らない。
楠木氏が鎌倉御家人であったとしても、それは楠木の地名すら現在に残らない弱小御家人でしかなかったと考えられる。そのように見なすことによって、楠木正成が西国の「悪党」へ転身していった可能性もまた見えてくる。
悪党を山賊や盗賊の類としただけでは何も見えてこない。それは結果に過ぎず、山賊や盗賊の類になった悪党のそれ以前の素性が問題になる。楠木正成ばかりでなく、鎌倉御家人もまた悪党と関わり、悪党にまでなった。
4鎌倉御家人とは鎌倉殿たる将軍と御家人の主従関係であり、御家人は所領を安堵される見返りとして御家人役という役目がある。軍役や大番役に公事奉仕などをその役目として果たさなければならない。その経費は自前だから、所領が安堵されてはじめて果たされる。ところが、末端の御家人たちは生活に困窮して、所領を質入したり非御家人へ売却してしまい、いわゆる無足御家人となり、軍役を果たすにも鎧兜さえ所持しない者が続出した。
幕府の根幹をゆるがす一大事だから、幕府は御家人の所領売却を禁止するが、そんな事で治まる訳が無い、得宗専制権力政治の構造的欠陥であった。北条得宗家の権力が増大すると同時に、その犠牲となった弱小御家人が無足御家人として増大したのである。彼等は止む無く悪党化する。
もしも楠木正成が坂東の元は鎌倉御家人であったなら、こうした弱小御家人から無足御家人となり、果ては西国の悪党となって歴史に登場したと考えられる。弱小御家人といえども、それだけの器量を持ちながら、得宗専制権力の元ではそれに見合った立場も与えられず、埋もれていたのだ。
同じ様な弱小御家人として、利根川の向こう岸の上野国に新田義貞の一族がいた。新田氏は私領の一部を売却せねばならないほど、困窮していた。そこへさらに得宗家の重税を課せられ、窮鼠猫を咬む形で止む無く鎌倉倒幕へと蜂起してしまったのである。わずかとはいえ未だ所領がのこされていたため、楠木正成のように悪党化するに至らなかっただけのことであった。
この楠木正成が鎌倉御家人であったかもしれないとうことを、西国と坂東の関係の中でその可能性を、もう少し補強しておきたい。楠木正成が登場したとき、既に金砂や丹沙をあつかう悪党であった。楠木氏の子孫と称する内ヶ島氏もまた、飛騨白川郷に進出して幻の帰雲城黄金伝説をもっている。そして、坂東にあった内ヶ島氏は武蔵七党猪俣党の一族であった。
猪俣党の出自は多摩川の横山を本拠とした横山党小野氏の分かれである。横山党小野氏は小野牧などを経営するいわば馬族だが、猪俣党は遠く坂東の北端秩父に近い荒川の北岸、埼玉県美里町の猪俣を本拠として、利根川と荒川に挟まれた地域に広がっていた。荒川の南岸には秩父を本拠とする武蔵七党丹党が栄え、また猪俣党の北側には児玉党がいた。各党が踵を接しており、到底それぞれが耕地を開拓するような状態ではない。おそらく秩父から妙義山に至る山中の金砂や丹沙の採取こそ、彼らの生活の糧だったのだ。 
妖僧文観

 

正安四年(1290)西大寺叡尊の十三回忌の追善に文殊騎獅像が像立され、その胎内文書に歳二十五の文観殊音の署名がある。若い頃の文観は播磨国の天台宗法華山一乗寺に住んだという。ここで西大寺で律宗を興す叡尊が受戒したのは、文観がまだ十歳にも満たないときであった。
さらに正和五年(1316)三月、醍醐寺で伝法潅頂を受け、正式の真言律宗の僧となった。大和国生駒の竹林寺は文殊菩薩を本尊として文殊山を号した忍性と深い縁故のある寺であったが、律宗寺院として文観を長老に迎えている。つまり、西大寺真言律宗叡尊の法弟であり、忍性の後継者こそ文観殊音に他ならなかった。
文観と叡尊・忍性が法統としてつながる状況証拠はまだある。叡尊が亀山天皇に戒律を授与し、その勅命によって蒙古軍撤退の調伏祈祷をしたことは先に述べたが、この大覚寺統亀山天皇の孫こそ後醍醐天皇であった。元亨四年(1324)三月には、般若寺の八字文殊菩薩像を藤原兼光が施主となって像立したとき、文観は殊音の号をもって署名した。後醍醐による鎌倉の倒幕計画、正中の変が露見したのは、同じ年の九月の事であった。
ここまで文観の経歴を見た限りでは、およそ妖僧とか怪僧のイメージは漂ってこない。ましてや、伊豆へ流された仁寛の始めた真言立川流を継いで中興の祖であるとは。
真言立川流は強烈に弾圧され、その文書の多くは焚書されてしまったが、それでも多くは金沢文庫の真言律宗称名寺に多く残された。称名寺の元は真言宗の不断念仏の寺であったが、叡尊の弟子忍性が入って真言律宗寺院となった。そこに真言立川流の文書の多くが残されたということは、戒律の厳しい律宗と戒律破りの立川流が無関係であった訳が無い。
叡尊の戒律復興を目指した殺生禁断は、それとは裏腹に、蒙古襲来に対する戦意高揚と表裏一帯であった。叡尊・忍性の戒律遵守と文観の戒律破戒もまた表裏一帯に他ならない。
この様に見なすことは、何も真言律宗を貶めることではない。相反するものが背中合わせに貼り付く姿こそ、妖僧文観をはじめ、悪党や非人を手足として鎌倉幕府を倒幕させた後醍醐の戦略であった。
悪党や非人を後醍醐の戦力として糾合したのも、また文観の役目であった。叡尊・忍性が律宗勢力の拡張のために利用したのが、既に衰退の極にあった諸国国分寺を復興することによって、それを西大寺の末寺とした。この叡尊・忍性の遺産を継承したことによって、文観は国分寺ルートを通じて隠然たる勢力を確保することができたのである。 
両党迭立

 

後醍醐は何故、倒幕を計画したのか、という単純な問題がはじめにある。後宇多院の第二皇子として生まれた尊治、後の後醍醐は、だから父後宇多の跡継ぎになれない立場にあった。ところが、兄邦治が践祚して後二条天皇となり七年後、二十四歳の若さで没したことから、次男の尊治がにわかに跡継ぎにされた。
後宇多院は亀山院の第一皇子、亀山院には同母兄の後深草院がいて、両院の父は後嵯峨であった。後嵯峨は後鳥羽上皇が倒幕を企てた承久の乱の後、鎌倉幕府によって擁立されたため、幕府に対する配慮から、跡継を自ら決めなかった。そのため皇統は後深草院の系統(持明院統)と亀山院(大覚寺統)に分裂をまねき、鎌倉幕府をはさんで皇位獲得にしのぎを削るようになった。
後深草ののち天皇位に亀山が立ち、後嵯峨上皇が崩ずると、亀山は上皇になって皇子の後宇多を天皇にすえ、自ら院政をはじめたため、院政の実権は後嵯峨から亀山へと、後深草上皇の頭上を飛び越えてしまった。後深草上皇は憤激して、随身兵仗を返上し、出家するといい出す始末であった。因みに、先にあげた「とわずがたり」の奔放な女御二條とは、この後深草上皇の女であり、後深草院と同じ寝所で亀山上皇と川の字に添い寝させられ、正しく両党の政治的葛藤の間に寝てしまったのであった。これがやがて南・北両朝に分裂するなど、知るよしもなかったであろう。
結局皇位は後宇多のあと、後深草の皇子の伏見、その皇子の後伏見と、持明院統が二代続き、次に大覚寺統の後二條という結果になった。ところが、後二条が若死にしたため、また持明院統の後伏見の弟花園を皇位につけ、後二条の弟後醍醐が皇太子となった。しかし、事は単純ではなかった。後宇多は幕府にはたらきかけて花園を譲位させると、後醍醐天皇の皇太子に嫡孫邦良をすえ、後醍醐には一代限りの皇位という厳しい条件をつけたのである。
父後宇多が提案した両党迭立という原則を堅持する幕府の存在は、後醍醐にとって最大の障害物となった。
後醍醐天皇は即位三年目にして、父の後宇多上皇の院政を停止、院庁にかわる天皇の政務機関として記録所を復活した。建武政権にあっては執政の摂政関白をおかず、旧儀・先例を廃して天皇親政を宣言したのも同じことであった。それは家職化した摂関家をはじめとする臣下の序列の解体である。そして鎌倉幕府の将軍職もまた武臣としての家職に他ならないから、後醍醐政権にとって倒幕はその延長上にあった。
しかし、武家の棟梁たる源・平の軍事力を敵にまわしたとき、天皇の軍事力は、反幕勢力としての御家人やそこからこぼれ落ちた無足御家人や、それに悪党・山伏・非人の勢力に頼るべく他ない。まずもって幕府転覆の陰謀を図ったという『太平記』巻一「無礼講の事」に描かれたように、前例を排して採用した側近の公家ばかりか、武士や僧侶まで加わり、文字通り酒池肉林の狼藉は、もはや世俗的な序列が無化された姿であった。
しかし、そんな無頼のごとき輩たちに、正規軍を擁する鎌倉幕府を倒す力が有るのか。倒幕の軍事力になるのか、という疑問がのこる。どんな世の中も、その実力が世間に知られるのは、公に仕えることによってしか評価されない。世間に知られることと、世間に認められることは異なる。
たとえば『宇治拾遺物語』や『今昔物語』に登場する隠れた才能や力の持主は、公の場に仕えることもなく、巷の、市井の無頼や盗賊であり、深窓のたおやかな女人であったりして、危機的状況に遭遇して、圧倒的な才や力を発揮する。もともと才と呼ばれた技能や能力といった下賎の業は、自らはそれを必要としない尊貴な身分の者に、奉仕的・従属的に仕える才能としてあった。それが王朝の暗部で、微妙にして絶大な変化をおこしつつあることを、こうした「物語」たちはは適確に拾いあげていたのである。
あるいはまた、非人や放免といった河原者の類は、社会秩序の外側にあって、それ故に社会の穢れを清める役目を担わされていた。最近の研究によると、それでも天皇の直属機関としての京都警察、検非違使庁の末端をに位置していたという。だが一方で、最近の研究は、必ずしも彼らが非差別民ではなかった、と強調し過ぎるきらいもあるのではないか。
例えば、律令制のはじめのころ、天武によって大勢の奴婢身分が創り出され、罪や穢れを付着した生贄として以来、時代によって多少の移動があるにせよ、非人や放免といった河原者たちが賤視・賤称の差別のなかに置かれたことに変わりない。彼らが社寺に属する聖なる者であったが故に差別される、という両義的な立場にあったのである。ただそれが政治的レベルの言語にに乗ることがなかったため、あたかも存在しなかったがごとく扱われたに過ぎない。
それらの多くは何らかの技芸をもった職人であり芸能者である。岩であれ、植物であれ、水であれ、自然を相手にして、そこから自然とは異なるものに変へてしまう神秘の技能をもった者が職人であり、自然の身体を何者かに変身して見せるのが芸能者であった。
それ故に彼らが賤視・賤称の非差別の対称であったことに変りはないのであって、ことさら彼らが天皇の供御人であることを強調して非差別民ではなかったかのごとき見方からは、この時代を理解できない。
これらを摂関や武臣ぬきで直接、天皇の供御人として支配しようとしたところに後醍醐の親政があり、そうした自然の大地を取り返そうとしたところに、とりもなおさず律令制以前へと先祖返りを目指したかに見える。こうした無頼のごとき輩たちを集め、身分秩序の破壊転倒をものともせぬ無礼講の場を用意できた根拠こそ、宋学による「修身平治天下」の考え方に他ならない。そして、この妖しき民を組織したのが西大寺の真言律宗僧文観であった。 
立川流一元論

 

さらに僧文観の人脈は、こうした無頼や悪党の類ばかりでなく、鎌倉幕府の中にもあった。先の倒幕計画が露見した年に像立した般若寺の八字文殊菩薩像の施主藤原兼光とは、実は承久の乱の後、三浦氏と組んで娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようとして流され、後に復した名門伊賀の子孫で、伊賀兼光であった。その背後には、幕府の執権北条氏に痛めつけられた、元御家人たちが連なっていたであろう。
叡尊のはじめた律宗とは真言宗の中でも、とりわけ戒律を重んじた。殺生禁断を奨励することが、そのまま勧進や悲人救済などの実践的な社会活動に発展していった。家畜や動物などの殺生を専業したのが悲人たちに他ならなかったからだ。さらには狩を生業とする山人、殺人を本文とする武士たちにも、その教えは浸透していった。
一般の僧身分とは、官寺で得度した正規の官僧に与えられる僧正・僧都・律師などの僧網といわれる僧位・僧官の補任にあずかった者をいう。朝廷や幕府と並んで寺社勢力とみなされるほどの権門に列し、僧侶が世俗的しがらみに縛られた元凶もここにあった。
叡尊の律宗が戒律を重んじたということは、まず自らを律するために僧網の補任にあずからず、官寺にたいして世俗的な関係をもたない無縁の遁世僧あるいは私度僧としてあった。それ故、律僧は世俗的しがらみから自由な立場で、寺院内外の様ざまな活動や勧進施行など、広範な社会活動の担い手にもなれた。だから律僧文観はこうした妖しき民を組織し得たし、それらを軍隊として後醍醐の宮中へ送り込めたのである。
下駄をはき柿帷子(かきかたびら)に笠をつけ、覆面をした悪党・非人、はでな摺衣を着た下級刑吏の放免、「職人的」な武士、飛礫(つぶて)の輩(印地)、博打、山伏、撮棒(さいぼう)をつかう悪僧、鹿杖(かせづえ)をかつぎ、鹿皮を着た鉦叩き、勧進聖、陰陽師、物売り、童部、乞食・・・。(網野善彦『異形の王権』)
こうした得体の知れない武装集団が、これまた正体の知れない僧文観に率いられて宮中にたむろするとき、後醍醐の倒幕という観念は一挙に点火される。
戦いはまずもって呪術合戦によってはじまることは、近代兵器を使うようになった戦国乱世にあっても変わらない。後醍醐は鎌倉幕府を呪い潰そうとして、法験無双の仁といわれた文観による幕府調伏祈祷があった。
表向きは正后禧子の御産祈祷の名目である。皇太子時代、不安定な立場にあった後醍醐は、朝廷と鎌倉幕府との連絡交渉役、関東申次を世襲する西園寺実兼の娘と強引な略奪結婚したのが禧子であった。二人の間に皇女は産まれたが、皇子誕生を願って祈祷するという隠れ蓑によって、幕府調伏に使ったのある。
鎌倉倒幕の調伏祈祷を行った文観は、晩年に真言密教に凝った後宇多院の信任あつい醍醐寺報恩院の道順から伝法灌頂を受けて、正式の真言密教僧とし報恩院の法流にも連なっていた。律僧にして真言密教僧という二足の草鞋を履いた文観は、そのことによって後醍醐に仕えたばかりか、後醍醐自身もまた文観から真言密教の聖教を受けた。それが文観は中興の祖とされる真言立川流であったところに、後醍醐の異様さがあった。
後年、後醍醐の建武政権のもとで、文観が東寺大勧進と真言宗の最高位である東寺一の長者に就任するにおよんで、真言宗の根本道場高野山金剛寺の衆徒は、満衆一同の評定による置文を定め、文観を徹底的に糾弾した奉状をもって後醍醐に訴えた。
算道を学び、卜占を好み、専ら呪術を習い、修験を立て、荼吉尼(だきに)を祭り、呪術訛文を通じて天皇に近づき、隠遁黒衣の身をもって僧網にまで列した。律僧でありながら破壊無慚、武勇を好み兵具を好む。正しくこれは天魔鬼神の所業であり、異類そのものに他ならず、このような異人非器の体を長者にすることは断じて許し難い、というものであった。
それはあくまでも金剛寺長老から大勧進職を奪った律僧文観に対する、最大級の悪罵であったが、そのまま文観を異常なまでに重用した後醍醐批判でもあったろう。しかし、後醍醐と文観は、一歩もたじろがない。
例えば荼吉尼を祭ると指摘されたところに、後醍醐もまた文観を通じて真言立川流に列したことを示している。荼吉尼天とは正しく真言立川流が本尊とした夜叉神に他ならなかった。それが、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる象頭人身の男女抱合い和合像、いわゆる聖天供の本尊聖歓喜天であったとしても同じことである。
だが何故、後醍醐にとって真言立川流だったのか。文観を重用し、自ら紫煙のなかで密教祈祷を施行した後醍醐の「異形」は伝わってきても、後醍醐が男女和合の性の境地にあるとした真言立川流を選択した理由は、中世史学や、まして数多の立川流の研究書からは見出せない。その異形さや異常さを強調するために、真言立川流が引き合いに出されているに過ぎないのではないかとさえ思える。
この点をついて、歴史学ではない宗教学者の中沢真一は的確に指摘した。
そのテーマとは、真言宗の内部で立川流がかかえたテーマと、じつはまったく同じ方向をむいたものだったのである。「日本的マンダラの思想」が政治に表現されるとき、建武親政をはさむ諸事件を生み、性の領域に目がそそがれるとき、立川流という表現となった。
両者が抱えたテーマ「日本的マンダラの思想」とは何か。立川流の曼荼羅にたいする理解を次のように措定する。
インド密教の考えた「マンダラの思想」において、如来の心に生起する世界の全体には、複雑で精妙なヒエラルキーの構造がつねに考えられていた。話を性愛の世界に限っても、カルマムドラーとハームドラーとは本質は同一であっても、その間には欲望の質の粗=密にしたがって、ヒエラルキーが存在し、その構造を安易に無視して、「すべてはひとつ」といったことを言うのは、たいへんな誤ちだとされていた。(中略)立川流は、さまざまな「ダルマ」の間の精妙なちがいを無視してしまう。ここでは「マンダラの思想」は、もはや多様体モデルではない。ヒエラルキーの構造はいっさい無化され、ひとつの「日本的マンダラ」という一元論のるつぼにほうりこまれる。そしてるつぼ自体は、金―胎、父―母をベースにする内在的な二元論の「構造」をつくりだしていくのだ。(中沢真一「真言立川流と文観」)
こうして立川流の在りようをみると、後醍醐政権の目指したものが、いかに立川流と同じ指向性をもっていたかが判る。
元徳三年(1331)五月、文観は他の律宗僧らと共に鎌倉幕府側の京都警察、六波羅探題に逮捕され、拷問に絶えられず倒幕呪詛の陰謀を白状してしまい、翌年、文観は硫黄島(鹿児島県)へ、後醍醐は隠岐島へ流されてしまった。隠岐は承久の倒幕に失敗した後鳥羽の流された地である。後鳥羽は呼び戻されるのを待ち焦がれて、配流の地に埋もれたが、後醍醐の執拗さは、一年後に自ら脱島したことだった。
元弘三年(1333)四月、後醍醐の隠岐脱出に呼応して、足利高氏が京都の六波羅探題を襲って陥落させ、翌月には草深い坂東の草原を駆け抜けた坂東武者たちが、新田義貞を先頭に鎌倉幕府の本拠を手も無く陥した。 
清和源氏の末

 

新田義貞――この男、鎌倉倒幕時代に足利尊氏とならんで、坂東から出た一方の雄にもかかわらず、時代錯誤な源平合戦を一人で戦ってしまった武将である。尊氏と先祖を同じくして、清和源氏の棟梁八幡太郎義家が藤姓足利氏の女に生ませ義国にはじまる。
義国は藤氏の勢力圏内で足利荘と梁田荘を開発して、鳥羽法皇の安楽寿院と伊勢神宮へ寄進して立荘し、次男の義康・義兼親子が荘官に補任された。一方新田郡を開発した土地は平氏へ寄進して嫡男義重が荘官となった。こうして生まれた源氏の足利・新田の両氏であったが、いずれも藤氏の勢力圏内にあったため、源氏と藤氏の両足利氏の間で訴訟沙汰になったり、あげくは合戦にまでおよんだ。
両者の決着がついたのは、結局平氏打倒に蜂起した源氏勢力によって、平氏側に着いた藤姓足利氏が滅ぼされたことによる。ところがこの時、平氏に仕えていた新田氏と源氏の頼朝軍にいち早く駆けつけた足利氏は、同族兄弟でありながら分裂した。八幡太郎義家の嫡孫を誇る新田義重は、義家五代の孫にすぎない頼朝に組することができず、我こそは源氏の棟梁たらんとして、木曽義仲などと同様、自立しようと志したのである。
しかし、新田義重は新田源氏の宗家にもかかわらず、一族に対する結束と支配は弱体化していた。甥の足利義兼はじめ庶家の里見・山名の両家までが義重を通さず、直接、頼朝と主従関係を結んでしまった。新田義重がいくら自立を志しても、これでは兵が集まらない。仕方なく、頼朝の側近の斡旋を得て義重が頼朝の前に膝を折ったのは、発起から四ヶ月も後のことであった。
一方、いち早く頼朝の元へ参向した足利義兼は、その志し殊勝也として頼朝の妻の北条政子の妹を妻に与えられ、源氏一門のいわゆる御門葉として遇された。頼朝がそこまで足利氏を遇した背景には、甲斐源氏の粛正と同様、頼朝の新田源氏の結束の切り崩し工作に他ならなかった。
その結果、源氏三代が滅んだ後も、足利氏は代々北条得宗家と縁組を繰り返し、有力御家人が次々と排除されたにも関わらず、常に鎌倉幕府のナンバー・ツウとしての立場を維持してきた。それに引き換え新田氏は、四ヶ月の遅参がたたって、鎌倉時代百五十年間、冷や飯食わされねばならなかった。
この源氏のにあたる足利尊氏と新田義貞が、遂に平姓北条氏の鎌倉幕府を倒したのである。
鎌倉幕府内における足利尊氏と新田義貞の立場の相違は、幕府を倒した後も、二人の立場に少なからぬ影を落とした。当時二十九歳の足利尊氏が従五位上前治部大輔であったのにたいして、三十二歳の新田義貞は無位無官、ただの小太郎にすぎなかったのである。
鎌倉攻めにあたって新田義貞は先頭をきったものの、幕府が倒れ、戦火が収まってみれば、坂東武者の多くはまだ四歳にすぎない足利尊氏の嫡子千寿王の陣へ集まり、義貞を見限ってしまった。尊氏が伯耆船上山の後醍醐軍討伐の命をおびて鎌倉を発った際、幕府に人質としてとられた妻と嫡子千寿王である。尊氏の離反が幕府に知られる寸前、鎌倉大蔵谷の屋敷を逃げ出し、新田義貞の率いる大軍が鎌倉へ押し寄せると、千寿王を輿に乗せたわずか二百騎の足利軍がこれと合流したのであった。
こういう足利尊氏の機を見るに敏な見通しに比して、義貞にはいかにも戦略がなかった。そもそも倒幕のための蜂起といっても、追い詰められた果てに窮鼠猫を噛むかのごとき叛乱であった。
幕府は伯耆船上山の後醍醐軍と河内千早城に蜂起した楠木正成を討伐するため、得宗北条高時の弟泰家が十万の大軍を率いて上洛しようという、乾坤一擲の大作戦を立てた。ただちに坂東一帯の得宗領に急使が派遣され、軍夫の催促、兵糧の調達・軍費の課金がなされた。
当時、新田一族は困窮の極に達していて、惣領の義貞はじめ、庶子家も私領の一部を売却するほどであった。しかも庶子家は本宗家の許可を得ることなく、直接幕府の許可をとって売却してしまうほど、惣領の支配権も弱体化していた。そこへ得宗家から「五日のうちに六万貫を沙汰すべし」と、法外な徴税を課してきた。
新田荘の館に近い世良田宿では、幕府から派遣された徴税使と住民の、罵声と怒号に混じって哀訴と嘆願の悲鳴が終日、止まなかった。義貞が堪忍袋の緒を切ったのは、その日の夕刻だった。郎従数人と、わらわらと駆けて行くや、たちまち徴税使を引っ捕らえ、勢い余って叩っ斬り、その首を獄門に晒してしまった。
充分な計画など、どこにもなかった。巨大な権力を誇る幕府に反抗した以上、黙って見逃すはずはない。ただちに方針を考えるため、急いで一族を集めて軍議が開かれた。間もなく攻めて来る幕府軍に対し、誰もが、軍勢を集めて防戦すべしという意見ばかりだった。
そのとき義貞の弟の脇屋義助が立ち上がって、どうせ討ち死にする命なら鎌倉を枕に死せん、と悲壮な一言を吐いた。衆議は一決した。そして新田の惣領義貞の一族支配権も、ここに確立した。新田義貞を棟梁として、生品神社の社頭に一族三十余名、主だった兵百五十余騎が結集したのは翌朝、元弘三年(1333)五月八日卯の刻(午前六時)のことだった。新田一族の挙兵、それは同時に、新田一族数百年におよぶ放浪の旅への始まりでもあった。
急の報せで駆けつけた越後新田党の二千騎も加わり、直ちに上野国守護所を急襲占拠、翌日には利根川を渡河して武蔵国へ侵攻、鎌倉街道の上の道を南下、所沢市の小手差ヶ原、府中市の分倍河原と、迎撃してきた幕府軍を次々に撃破、足利党はじめ坂東各地から馳せ加わった兵は二十万騎にも達し、新田軍は一路、相模鎌倉を目指した。
鎌倉が陥落すると、足利方に着いた坂東の兵たちによって新田一族は鎌倉を追われた。義貞はこの劣勢を挽回するために、京都の後醍醐天皇を頼る他なかった。一族の兵をまとめて上洛の途についたとき、それは義貞が再び坂東へ戻ることのない軍旅となった。
上洛した新田一族を迎えたのは、後醍醐の建武政権による鎌倉倒幕の莫大な恩賞である。義貞は従四位上越後守に加え上野・播磨両国の介を兼任した。また新田一門の面々も兵部省や武者所に溢れた。おまけに義貞は後醍醐から、その頃、天下第一の美人と誉れ高いと評判の勾当内侍まで下げ渡された、と『太平記』の作者はいう。
だが、足利尊氏との差は歴然としていた。それまで高氏を名乗っていたが後醍醐から一字を賜って尊氏とし、従三位に叙せられて武蔵守に任じ、常陸・下総などの他、多くの旧得宗領を得て、義貞に格段の差をつけた。こうした差異が尊氏をして後醍醐から離反させても、義貞はそこから離れることも出来ず、あげくは悪党楠木正成をして、新田といえども源氏の一流と、所詮は武臣と見透かされてしまうことになる。
だから尊氏は義貞など目もくれず、この時期、後醍醐の元で競争者して重視したの大塔宮護良親王だった。 
尊氏離反

 

大塔宮護良親王は後醍醐が皇位を継がせようとしたほど聡明であったが、持明院党から皇太子が立ったため、元服せずに天台宗梨本門跡に入った。それは一方で父後醍醐の倒幕計画の一環として、後醍醐の分身として比叡山門の僧兵を組織する役目を担っていた。隠岐に流された後醍醐に代わって、還俗すると河内の楠木正成や播磨の赤松円心らを糾合して、吉野や熊野を根拠にしてに倒幕の旗を降ろさなかった。そして令旨を多数発して、反幕府分子を倒幕勢力に鞍替えさせることに成功した。
護良のこうした天皇気取りで倒幕戦を指揮した実績と自負は、遂に征夷大将軍を自称するに至って、父後醍醐や武家の棟梁を自認する足利尊氏との間に亀裂を生じることになる。
後醍醐の寵妃にかつて正后の侍女だった廉子がいた。隠岐に流された後醍醐にただ一人同行した気丈な女であり、自分の生んだ皇子を後醍醐の後継者に望んだ。その一人の皇子成良を尊氏が乳父の縁で、廉子と尊氏は手を組んで護良を天皇に讒言して失脚させてしまう。護良は尊氏の勢力圏の鎌倉へ流されたのである。
それは元々、天皇親政独裁路線を目指す後醍醐にとって、たとえ皇子であろうと征夷大将軍を置くことは路線の後退を意味した。それにも関わらず、後醍醐の数多い皇子たちは各地へ派遣され、天皇の分身としてその地を治めさせる他なかった。
護良を殺すことになる尊氏の弟の足利直義は、成義親王を擁して鎌倉へ下り、坂東十カ国の守護となった。また、足利尊氏が鎮守府将軍に補されたにも関わらず、その牽制として義良親王が陸奥守として北畠親房・顕家父子が補佐して陸奥へ下向した。さらに尊良・恒良親王の異母兄弟は新田義貞に擁されて北陸地方を治めるべく越前金崎城に就いた。そして、それぞれに悲劇が待ちかまえていた。
護良親王の失脚によって、にわかに新田義貞の存在がクローズアップされ、尊氏と正面切って対決することになる。事の起こりは、鎌倉幕府北条氏の残党が尊氏の弟義直が相模守として領する鎌倉を奪還すべく、攻め込んだことによる。
建武二年(1335)七月、得宗北条高時の遺子時行は、信濃の諏訪頼重らに擁せられて挙兵した。鎌倉の足利直義が派遣した軍を武蔵国入間郡の女影原・小手指原に戦って破り、府中分倍河原で敗走させて進撃、さらに直義自ら出陣してきた武蔵井出ノ沢(町田市)にまた敗走させ、鎌倉をも占拠した。このとき直義はどさくさに紛れて、配流の囚人として預かっていた護良親王を殺し、兄尊氏の領国の三河へ逃れた。
この「中先代の乱」が後醍醐政権に与えた影響が小さくはなかった。この一ヶ月前の京都で、前関東申次の西園寺公宗が持明院統の伏見上皇を奉じ、北条高時の弟等と結んで後醍醐政権を倒そうとした謀反が発覚していた。建武元年には九州でも北条一門の叛乱に悩まされていた。
そして北条氏の残党討伐の名目で東下した足利尊氏は、坂東は鎌倉を根拠に後醍醐から離反し、北朝を背景に室町幕府を興す切っ掛けになった。尊氏は東下にあたって征夷大将軍と惣追捕使の補任を望んだが、当然のごとく許されず、代わりに征東将軍に補された。
足利尊氏は三河へ逃れてきた直義を同道して鎌倉に攻め入り、たちまち北条残党を掃討した。しかし、尊氏はそのまま鎌倉に居座り、上洛しようとしない。後醍醐は使者を送って帰還を命じたが従わず、直義とともに新政権樹立の準備を始めた。何度かの折衝の果てには後醍醐は尊氏を見捨て、新田義貞を採った。
抜き差しならない対立の中で、尊氏は直義の名で各地へ軍勢催促状を発する。後醍醐は奥羽に派遣した北畠顕家を鎮守府将軍に任じて、鎌倉の動きに対応させる。そして、尊良親王を大将とした新田義貞を中心とした軍勢を坂東へ進軍させた。義貞軍は三河に防衛線を敷いた足利軍を破り、破竹の勢いで鎌倉に迫った。迎え撃つ足利軍は箱根で新田軍を撃破すると、敗走軍を追って畿内へなだれ込んで行った。その背後から挟み撃ちすべく奥羽の北畠顕家軍が追いかける。
国家権力の掌握をめぐって、列島を席捲する騒乱はこうして始まった。 
奥州小幕府

 

足利尊氏軍を九州へ追い落とした北畠顕家は、建武三年(1336)三月末、奥州国府多賀城へ帰還した。しかしそれも、尊氏が上洛したとき鎌倉に残した三男義詮と、それを助けるために尊氏が任じた陸奥守兼奥州大将軍の斯波家長の軍に妨害されながらの帰還であった。
北畠氏は村上源氏の流れである。この章のはじめに触れたように、村上源氏は謀反の嫌疑で伊豆へ流された醍醐寺三宝院の阿闍梨仁寛と関わりあったされる左大臣源俊房の一族で、弟顕房の子孫にあたるのが北畠氏である。後醍醐の側近には村上源氏の土御門流が集中した。謀反露見で隠岐に流された後醍醐に供奉し、脱出後は足利尊氏らと六波羅探題を陥落させた「三木一草」の一人千種忠顕も村上源氏の出身である。また大塔宮護良親王の激に応じた播磨武士の赤松則村も村上源氏雅賢流であった。
この村上源氏の代表が中納言北畠親房で、後醍醐親政下では右衛門督兼検非違使別当に任命された。しかし、使別当在任は一年にも満たず、参議日野資朝と交代した。そのころ日野資朝・俊基をリーダーに興った宋学がらみの倒幕運動に着いて行けず、自ら辞任したのではないかといわれる。一方、親房は後醍醐が期待した皇子世良親王の乳父を務めていたが、若くして病没してしまい、それを期に出家していた。
そんな北畠親房であったが、後醍醐の強い要請で、弱冠十六歳の息子の陸奥守顕家の後見役として陸奥経営に就いてたのは、後醍醐親政の始まった元弘三年(1333)十月のことであった。そして同年十二月、後醍醐は成良親王を関東八カ国の守護として、足利尊氏の弟で相模守足利直義を鎌倉へ下した。北畠親房のそれが「奥州小幕府」と呼ばれ、足利直義の「鎌倉小幕府」と供に旧幕府勢力に対抗するために強力に推し進めた政策であった。
案の定、北条時行の挙兵した「中先代の乱」は鎌倉の足利直義と京から援軍した尊氏によって追い散らすことができた。しかしその時、どさくさに紛れて直義は囚人として鎌倉に預かっていた護良親王を殺したのを切っ掛けに、足利氏は後醍醐政権から離脱した。この時以降、陸奥の北畠親房・顕家父子は坂東・東北の後醍醐陣営の中で重要な位置を占めることになったのである。
奥羽多賀城へ帰還した鎮守府将軍北畠顕家は早速足利軍の掃討作戦に就いた。はじめは順調に進んだが、そのうち各地で劣勢になってきた。九州へ追われた足利尊氏が再び上洛して、光厳上皇の豊仁親王を即位させて光明天皇とし、いわゆる北朝を建てたことにより、京の後醍醐方が劣勢に陥ったことと呼応していた。そして後醍醐は大和の吉野山中へ潜行して南・北に分裂していた。
常陸北部にある南朝方那珂氏の瓜連城は筑波山麓の小田氏らの支援を得て足利方相手に戦っていたが、常陸中部を押さえる大掾氏らに激しく攻められ、建武三年(1336)十二月、太田城の佐竹氏によって落城した。これを機に北畠顕家の勢力圏であった常陸・下野から手を引かざるを得ず、翌年正月、多賀国府を捨てて伊達郡の断崖絶壁の地、霊山の天嶮の要害の地に国府を移した。
ところが、この年の八月になると、吉野の後醍醐からまた西上命令がきた。越前の新田義貞と畿内の南朝勢力に加えて北畠顕家の奥羽勢力を糾合すれば、京都を奪還できると踏んだのである。
北畠顕家が奥羽十万の大軍を率いて出立したのは後醍醐の命令を受けた直後だったが、途中の足利方「鎌倉小幕府」斯波家長の守る鎌倉攻略に四ヶ月半も費やした。斯波家長を戦死させ、尊氏三男義詮を三浦半島へ追い払って再び西上を開始したのは翌年正月であった。
顕家軍は美濃国青野原で足利軍を撃破した後、伊勢から大和へ出て京都を突こうとして失敗、五月の和泉堺浦で幕府の大軍と戦い、敗れて戦死した。七月には新田義貞も越前藤島で戦死した。そして翌八月、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に補されたところからすると、尊氏にとって敵は南朝であるよりも、同じ源氏の新田義貞にあったと見なせる。
ここに至って南朝側は一大反撃作戦を立てた。畿内で破れたとはいえ、未だ坂東から奥洲にかけて決着が着いた訳ではない。退勢挽回を賭けて大軍団を送り込もうという奥羽作戦である。
再び義良親王と宗良親王を奉じて、北畠親房・結城宗広・伊達行朝ら、さらに和泉堺浦で討死した北畠顕家の弟顕信を陸奥介兼鎮守府将軍とした大軍は、陸路は強敵が多いからと、伊勢の大湊から海路をとって船出したのは秋九月であった。しかし途中の遠州灘で暴風雨に遭遇して、義良親王・結城宗広らの船は伊勢へ吹き戻され、他の軍船は江ノ島や三浦半島、鎌倉の浜、常陸の海岸などに漂着して、生け捕られたり殺害され、南朝の一大反撃作戦はあっけなく瓦解してしまった。
運良く常陸の東条浦に漂着した北畠親房は霞ヶ浦湖南の神宮城入ったが、たちまち常陸国人の烟田氏に攻められ落城。十月はじめ常陸守護小田治久の筑波山麓小田城に入り、ここを拠点に足掛け五年にわたる親房の坂東における苦闘が続けられるのである。
それは再び坂東太郎、利根川を境として東西が分裂して戦う構図であり、指し当たって西の「鎌倉小幕府」と「陸奥小幕府」の対立として現われた。 
三木一草

 

陸奥小幕府の北畠親房は後醍醐天皇から、東国における絶大な権限を委譲されていた。軍事指揮権はもとより、官途・官位の推挙権はじめ恩賞・感状等の推挙、所領安堵の推挙、闕所地の処分権、さらに領地相論の裁許にも関わっていた。親房はこれらの権限を行使して東国武士を南朝方へ糾合し、東国の幕府勢力を一掃すべく戦うことを目指していた。
北畠親房の南朝方には結城・田村・伊達・葛西・南部・工藤氏などがあり、幕府側は奥州総大将石塔義房の元に岩崎・岩城・伊賀・伊東・相馬・石川・会津三浦の諸氏等がいた。ところが、南朝方は結城と伊達氏の間に領地をめぐって相論があり、親房はそれを調停せねばならないくらいであったから、東国の南朝軍は必ずしも一枚岩ではなかった。
親房は常陸上陸直後から東国武士たちへ頻繁に手紙を書いた。いうまでもなく、後醍醐天皇へ忠勤を尽くせという内容に他ならないが、東国武士にしてみれば、それは恩賞次第というのが本音であった。それに対する親房の考え方は、武士にあるまじき商人の所存だとして批難する他なかった。
例えば後醍醐天皇へ忠勤を励んで取り立てられた「三木一草」の一人に、坂東は白河の結城親光がいる。結城氏は平将門を退治した藤原秀郷の子孫で、小山政光の三男朝光は源頼朝の蜂起以前から源氏に仕えて寵愛され、下総国結城郡を与えられ、鎌倉時代は北坂東に重きをなした。朝光の嫡男朝広の子の広綱が下総結城の家督を継ぎ、庶流の祐広は白河に所領を得て白河結城氏を興した。この白河結城祐広の子の宗広の時、鎌倉幕府が滅亡して後醍醐の建武政権が成立した。白河結城氏は倒幕軍に参加したことで後醍醐の信任を得て、有ろうことか後醍醐の綸旨によって惣領に任じられた。
確かに白河結城氏は倒幕戦において活躍した。護良親王令旨、後醍醐の綸旨を得た結城宗広は鎌倉攻めに加わり、幕府の上洛軍に参加していた結城親光は寝返って、赤松軍に属して六波羅攻撃に参戦した。鎌倉・六波羅の双方で後醍醐方に着いた白河結城氏は、その後は前例のない綸旨による惣領に任じられ、建武政権で重きをなすにいたったのである。
こういう白河結城氏は「三木一草」に数えられるほどの「勤皇」の武士だったのかというと、必ずしもそうとは限らない。後醍醐の建武政権あるいは二朝並立後の南朝方へ着いた多くの武士は、後醍醐の鎌倉幕府に対する謀反の嫌疑がかかったとき、捕らえられた多くの罪人を預かり、それを手土産に後醍醐方へ帰参した者たちだった。白河結城氏も同様である。
後醍醐の元で倒幕の呪詛をしたとして文観・忠円・円観の三人の僧が逮捕され鎌倉へ護送され、拷問の末、文観・忠円は硫黄島と越後国へそれぞれ流罪になり、円観は白河の結城宗広の館に幽閉された。建武政権における白河結城氏の優遇も、この囚人僧円観のとりなしに拠ったのである。北畠親房が拠った常陸小田城の当主小田治久も、後醍醐の寵臣「後の三房」の一人万里小路藤房を囚人として預かったのが縁で、建武政権に参画したのだった。後醍醐にしてみれば、その程度の縁でも利用して味方を集めねばならなかったことを意味していた。
それでも白河結城氏は北畠親房の率いる奥羽軍の中核として再度の上洛にも従い、結城宗広は病死している。その際、奥羽の押さえとして白河にのこった結城親朝を親房はもっとも頼りにして、常陸小田城に籠ったとき、直ぐにでも支援が得られるものと思ったらしい。しかし、結城氏の思惑がどうあれ、周囲は幕府方の佐竹氏や常陸大掾氏らによって固められ、下総結城氏すら幕府方に着いていた。 
常陸合戦

 

南朝の北畠親房が常陸へ入った翌年六月、足利幕府の鎌倉府へ幕府の実力者高師直の従兄弟の高師冬が武蔵守護として下って来た。師冬は鎌倉へ下向するとさっそく北畠親房の籠る常陸小田城攻めに着手した。
この鎌倉勢の常陸攻めに動員された武蔵国の山内経之という武士が、妻子の元へ細々と書き送った手紙が日野市の高幡不動の不動明王坐像の胎内に納入されていた。攻めの幕府軍といえども、下っ端の侍にとっては過酷以外の何物でもない。
山内経之はたまたま訴訟で鎌倉に滞在していたらしい。そこへ高師直が下向して来て、経之も常陸攻略軍に編入されてしまった。八月には常陸へ出発することを家族へ知らせ、近隣の高幡殿も常陸に下ることを伝え、兵糧米を送ってほしいことを関戸観音堂の住職にお願いしている。
いよいよ出陣となると、在家を売って出陣の費用を工面するよう指示したり、小袖や弓を買って送っほしいと家族に申し送っている。そして、従軍しない者は所領を没収されるといううわさもあるという。
十月、鎌倉軍と南朝軍の間に激戦が展開され、南朝軍は下川辺荘から撤退、鎌倉軍は下総国北東部の山川、現在の結城市南部まで進み、南朝軍は下妻の駒城に立て籠もって対峙した。山内経之のこの月末の手紙は、又者(従者)たちが逃げ帰ってしまったので、一人のこらず取り押さえてこちらに返すようにと指示しているほどである。また、馬が欲しい、馬も兜も他人のものを借りて合戦に臨んでいるとも伝えている。
年末から翌年春にかけての山内経之の手紙は「難儀(苦戦)」という文面の連続であり、遂に、今度の合戦で生き残ることもあるまいと悲壮な覚悟のを書き送っている。その後は妻子宛ての書状はなく、鎌倉軍が駒城を落としたのは五月末のことであった。
翌六月ごろ、次第に幕府軍が優勢になりつつあったとき、吉野から後醍醐天皇皇子の一人と鎮守府将軍陸奥介北畠顕信が下向してきた。顕信は河内で壮烈に戦死した顕家の弟である。顕家の死後、父親房や義良親王らと供に伊勢から東国へ船出して、遠州灘で遭難して伊勢に吹き戻されていた。二年後、再度奥羽に向けて出発し、常陸から奥羽石巻の日和山城に入った。
北畠顕信は奥羽の南部氏などを糾合して、多賀国府の幕府方の奥州総大将石塔義房を北から攻め、南から常陸の親房軍が攻めようという挟撃作戦であった。顕信が下向すると奥羽の南朝軍はにわかに活気づき、結集して幕府軍の諸氏を撃破しはじめた。
といっても、北畠親房の南朝軍の勢力が増えたわけでもなく、親房は飽きることなく結城親朝に援軍催促していたものの、親朝はわずかの砂金を送っただけで輿を挙げようとしなかった。戦闘は膠着状態になった。
その間、鎌倉軍は正面突破作戦を変更して宇都宮側からじわじわと親房の籠る小田城に迫り、常陸の武将の多くを攻略、翌年六月半ばからの小田城を包囲、猛烈な攻勢をかけた。戦いは十一月まで続き、とうとう小田城の城主小田治久が幕府方へ降参して寝返り、親房は脱出して西北十数粁ほどの距離にある小山一族の関宗祐の守る小城の関城へ入った。 
藤氏一揆

 

そんな折、吉野から使者がもたらされ、天皇から奥羽の直裁を委ねられている北畠親房の権限を越権する人事に介入してきた。親房は猛烈に反発したが、背後で親房してみれば飛んでもない陰謀が画策されていた。
南朝吉野の重臣の一人に近衛径忠という男がいた。従兄弟の基嗣と近衛家の家督を争って敗れ、失意のうちに吉野に走ったくらいだから、強烈な反幕府の意志があったわけでもなく、吉野の生活に飽きて京都へ舞い戻った。しかし、というのは表向きで、実は吉野と幕府の融和派の一人で、幕府との交渉が目的で京都に就いたという説もある。吉野と幕府の講和となれば、あくまでも後醍醐の意志を継いで、幕府に対する徹底抗戦派の北畠親房の存在は障害でしかない。親房の東国における影響力を削ぐために、その使者が東国にもたらされたのであった。
それは藤原姓の小田・小山・結城氏らを誘って藤氏一揆を結集させようという。藤氏一揆の勢力を背景に近衛径忠が天下を掌握し、小山氏を関東管領に就けようというものである。何処まで本気なのか親房ならずとも不審を抱かざるを得ないものだが、この画策が東国南朝方の諸氏に動揺を来たしたことは確かであった。またこれとは別に、新田義貞の子の義興を担いで北畠親房を失脚させる陰謀もあったらしい。
結局、藤氏一揆は結成されることはなかったものの、諸氏の間に疑心悪鬼が生まれ、不信感が強まり、一致して幕府軍に抵抗できず、南朝方は分裂の傾向をきたした。陰謀の真の目的はこれだったのかもしれない。そして実際に、小山朝郷は護良の子の興良親王を迎えて、北畠親房とは別行動に出た。興良を奉じて親房に取って替わるばかりでなく、南・北両朝に対する第三の王朝を目論んだのではないか、とさえいわれる。
白河結城氏は北畠親房の度重なる催促にも関わらず、遂に援軍を送ることはなかった。それにしても親房は何故それほど結城氏の援軍に拘ったのか。
藤氏一揆が画策されたように、白河結城氏は藤氏一揆の中心にいたばかりでなく、親房の奥州小幕府にあって広域の国人を統率する検断奉行の地位にあった。白河結城氏は宗家の下総結城氏の庶流から惣領に成ったが、坂東の藤氏一族を率いるばかりでなく、地域の他姓を含めた国人一揆の盟主であった。その範囲は北関東から南奥羽にかけて広がっていた。親房が白河結城氏を頼みとしたのは、その広範な国人一揆の勢力であった。白河結城氏はその勢力下から親房へ遂に援軍を送ることはなかったものの、そうした広範な勢力を抱えていること自体が、直接戦闘に加わらないまでも、幕府軍に対する威嚇に成り得たのだった。
鎌倉軍が小田城攻略に正面突破作戦を変更して宇都宮側へ廻って攻めたのも、小田城背後の白河結城氏が率いる国人一揆と分断を目論んだものであった。その間、足利尊氏はこの結城親朝と国人一揆の諸氏に対して気長に切り崩し工作を行い、遂に白河結城氏を所領安堵を条件に幕府方へ投降させてしまったのである。そして白河結城氏に対して幕府から軍勢催促状が送られた。
幕府軍の一掃を目指して乗り込んだ北畠親房の、常陸国における五年間の苦闘は終った。城主関一族は戦死、親房はからくも脱出して虚しく吉野へ帰還したのは康永二年(1343)の年末のことだった。 
 
丹生伝説

 

朱い伝説から
タイトルの<朱い>は、無理にでも<あかい>と訓んでください。
朱い埴、丹の噺です。丹は赤土、と云っても関東ローム層、富士山の火山灰の噺ではありません。朱砂とも云いますが、海の向こうの半島、辰の国では辰砂と呼ばれる摩訶不思議な鉱物と、それにまつわる人々の噺をはじめます。
物質には精神があります。精神物質と云ってもいい。そのような物質を扱う者の精神がのり移るのか、物質が人の精神に影響するのか、おそらく両方あるでしょう。その現れのひとつが物質に<神>を見出し、その<神>を祀る形となります。そして摩訶不思議な鉱物の神は<丹生都姫>と呼ばれています。
しかし、この<丹生都姫>の神名は『古事記』『日本書紀』から見事に抹殺されて一言も触れられていません。存在しなかったことになっている。銅鐸と同様です。ところが、それではマズイと気づいたか、これも銅鐸と同様、書紀の続編『続日本紀』には鉱物の名が出てきます。
神名の丹生都姫の名は『播磨風土記』逸文に<爾保都比売命>として載っており、また『延喜式』神名帳には<丹生神社>が出てきます。現在<丹生>の名に関わる神社は全国に百箇所以上あると云われています。
ともあれ、『記・紀』がいくら抹殺しても<丹生都姫>とその神を祀り、丹という摩訶不思議な鉱物を操った一族は確実に存在しました。それは口碑・伝承の類いかもしれませんが、ここから文献的な<歴史>が覆る可能性もないとは言えません。
もっとも、真っ赤な鷽鳥の乱舞になるかもしれませんが。
爾保都比売
『播磨風土記』逸文に載る<爾保都比売>の神は、しかし姿を現しません。神功皇后の例の新羅国を攻略しようとした際、石坂比売の口を通して表れたのです。石坂比売が巫子のように爾保都比売を口寄せしたわけです。我が御前を治めれば、善き験を出して新羅国を言向けんと教え、赤土を出されたので、それをもって船や衣を染め、海水まで赤土で濁らせ海を渡ると、なにも遮るものもなく、かくして新羅国を攻略して帰還したという、云わば<丹生>の呪力を伝えているわけです。ともかく引用しておきます。
息長帯日女の命、新羅の国を平けむと欲ほして下りましし時、衆神にいのり たまひき。その時、国堅めましし大神の子、爾保都比売の命、国造石坂比売の命に着きて、教へたまひしく「好く我が前を治め奉らば、我ここに善き験シルシを出だして、ひひら木の八尋鉾根底附かぬ国、越売ヲトメの眉引きの国、玉匣タマクシゲかがやく国、苫枕コモマクラ宝ある国、白衾タクブスマ新羅の国を、丹浪もちて平伏け賜ひなむ。」かく教へ賜ひて、ここに赤土アカニを出だし賜ひき。その土を天の逆鉾に塗りて、神舟の艫舳トモヘに建て、また、御舟の裳スソと御軍の着衣とを染め、また海水を撹き濁して、渡り賜ふ時、底潜る魚、また高く飛ぶ鳥等も往来カヨはず、前に遮へざりき。かくして、新羅を平伏け、巳に訖へて還り上りまして、すなはちその神を紀伊の国管川の藤代の峰に鎮め奉りたまひき。
同じような場面が実は神功紀にも同じ様な場面があるのですが、<丹生>も爾保都比売も出てこず、上筒男・中筒男・底筒男の住吉三神と神主に代わっています。爾保都比売の神はその後どうなったかというと、紀伊国の管川の藤代の峯に鎮め奉ったと風土記は記しています。
何故、爾保都比売の神が祀られた場所は紀伊国だったのか。と思っていたら、上の『日本書紀』に出てきた住吉三神の本社の縁起というか、朝廷に提出した解上『住吉大社神代記』のなかに神地の説明として次ようにあった。 
巻向の玉木宮に大八嶋国所知食しし活目天皇より橿日宮の気帯長足姫皇后の御世、此の二御世に熊襲並びに新羅国を平伏け訖へ賜ひ、還り上り賜ひて、大神を木国の藤代嶺に鎮め奉る。時に荒振神を誅服はしめ賜ひ、宍背ソシシの鳴矢を射立てて境と為す。
そして住吉大神の宮九箇所のうちのひとつとして「紀伊国伊都郡丹生川上の天手力男意気続々流住吉大神」の名をあげています。風土記にいう紀伊国の管川の藤代の峯と神代記のいう木国の藤代嶺は同じ土地を指しており、伊都郡富貴村上筒香、現在の高野町といわれます。
『日本書紀』が住吉三神とした住吉大神を『播磨風土記』は爾保都比売神とし、それを祀る住吉大社はまた別の神名をもって同じ土地に祀っていることになります。すると爾保都比売はここでも抹殺されたのかと思いきや、神代記は部類の神として「紀伊国名草郡丹生羊姫神」をあげています。すると、こちらが爾保都比売神の祀られた処ということか。そうだとすれば、管川の藤代の峯との関係はどうなるのか。
書紀に上の話しの続きとして気になる記事があります。新羅国を伐って紀伊国に戻ったとき、土地の祝ハフリと天野の祝をひとつの柩にしたため天候異変が起きたという。この天野は『延喜式』神名帳の紀伊国伊都郡丹生都比売神社であろうといわれています。伊都郡かつらぎ町大字天野です。そしてこの東方二十キロに藤代の峯があり、土社の元の鎮座地かと云われています。
噺が込み入っますから整理すると次のようになります。播磨国あたりで祀られていた爾保都比売神は、住吉の神の類縁として紀伊国の藤代嶺に勧請され、次いで里の天野に丹生都比売神社として祀られた、ということになります。この間に爾保都比売神は丹生都比売に変身したか、単なる使われた文字の違いなのか。
そして爾保都比売神が播磨国に来る前身をも、神功皇后の新羅国攻略譚から彷彿させているように見受けられます。さらにまた、神代記にいう「天手力男意気続々流住吉大神」の神名も気がかりです。
邪馬台国の丹生
丹生について考えるとき、避けて通れない先人の研究があります。松田壽男著『丹生の研究』とこれをエッセンス化した『古代の朱』がそれです。ここでも随時引用・参考にさせてもらいますが、同氏の研究の信頼できるの点は、丹生の神が祀られたり丹生鉱床とおぼしき土地から採取した朱砂を、自然科学的に微量分析した化学的結果を土台にしていることです。歴史考古学と文献史学が同一人においてドッキングした稀にみる研究結果です。
同書に爾保都比売と丹生都比売についても言及しています。
爾保都比売と丹生都比はやはり別の神で、爾保都比売が『播磨国風土記』に載せられていたように、西国瀬戸内沿岸に祀られていたらしい。『延喜式』神名帳に載る「備後国奴可郡爾比都売神社」を保の欠字と売をヒメとも訓む事例をあげて、爾保都比売神社とみなす。現在の広島県比婆郡西城町にある同社の元は1.5キロ東の東城町、久代高野の権現山に鎮座していた。
また、広島市仁保町本浦の邇保姫神社は、かつて海中の仁保島にあった。さらに島根県大田市土江町の邇弊姫神社などは、播磨国の爾保都比売の系統に属し、紀伊国をはじめとする丹生都比売系とは別であろうと言う。前者の訓はニホ、後者はニウ、古訓ならニフです。
そうすると大まかにみれば、西日本に爾保都比売が祀られ、紀伊半島から東に丹生都比売が祀られたと言えそうな気がします。丹生都比売神を祀る丹生氏がいますが、爾保氏もまたいたのだろうか。
この三神『古事記』には、イザナギの神が黄泉国から逃げ帰り、橘の小門オドの阿波岐原で穢れを禊ミソギしたとき生まれた神としています。
水の底にすすぐ時に、成れる神の名は、底津綿津見神。次に底筒之男命。中にすすぐ時に、成れる神の名は、中津綿津見神。次に中筒之男命。水の上にすすぐ時に、成れる神の名は、上津綿津見神。次に上筒之男命。此の三柱の綿津見神は、阿曇アズミ連らの祖神と以ちいつく神なり。故、阿曇連らは、其の綿津見神の子、宇都志日金搾命の子孫なり。其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。
似たような神名が並んでいますが、綿津見神は阿曇連らの祖、筒之男命は墨江三神の大神つまり住吉大神ということです。綿津見神と住吉大神は兄弟ということになります。
『和名類聚抄』の筑前国糟屋郡に阿曇郷、志珂郷の名があります。阿曇族はこのあたりで綿津見神を志賀海神社に祀ったのです。『後漢書』東夷伝に光武帝から奴国に金印紫綬授したとあり、それと思われる金印が志賀島から出たことは有名です。そこは邪馬台でした。
既に邪馬台国の卑弥呼のもとに丹があったことが『魏志倭人伝』は「其の山に丹有り」と述べていることで解ります。『豊後国風土記』の丹生郷に「郡の西に在り。昔時の人、山の沙を取りて朱沙に該てたり。因りて丹生郷と曰ふ」とあって、奈良時代まで伝えられました。
また倭人伝は「朱丹を以て其の身体を塗ること、中国の粉を用うるが如きなり」とあるから、身体に白粉のように使ったらしい。さらに「男子は大小と無く皆鯨面文身す」とありますから、大人も子供も顔面に刺青していた。縄文の土偶には鯨面のそれがあるくらいですから歴史は古い。刺青には墨も使ったでしょうが朱丹も使ったはずです。
さらに「今倭の水人好く沈没して魚蛤を捕え、文身し亦て大魚・水禽を厭う」と云うから、海人族の邪馬台国人は刺青を呪力として身体に纏っていたのです。そればかりでなく、現代でも草木染めに薬草を使い、刺青の墨も同様と云わていますから、刺青することの効用を知っていたのでしょう。風土記の海部郡に「此の郡の百姓は、みな海辺の白水郎アマなり。因りて海部郡と曰ふ」とあります。
邪馬台国の卑弥呼は丹生を大陸から輸入もしています。親魏倭王卑弥呼が下賜されたものは、金印や銅鏡百枚ばかりでなく、鉛丹五十斤が記載されてあり目方を直すと1sを超える分量になります。これはおそらく銅鏡の鏡面の研磨用と思われます。
丹生は少なくとも縄文時代から採取されてありました。弥生時代はその全盛期とも言えます。丹砂・朱砂は土器に彩色され、木工品に装飾古墳の壁画などを飾り、遺体の防腐剤にも使ったでしょう。そしてここで注目したいのは、卑弥呼が下賜された「親魏倭王」の金印です。卑弥呼の前に紫授された「漢委奴国王」の金印も、純度はともかく純金でしょう。
丹砂を熱すると硫化水銀と化し、さらに熱すると丹砂に戻る。水銀と砂金を熱した合金によって金鍍金ができる。黄金の銅鐸、金銅製品は皆この工法によった。黄金アマルガム法といわれる湿式治金法は、既に漢代に開発されていたという。金塊もこれによって生まれます。
丹砂より出ずる者は、今は麁末なる朱砂を焼きて得らるるなり。色はすこしく白濁し、生なるもの(自然水銀)には及ばず。甚だ能く金銀を消化し、便ち泥(アマルガム)と化す。(蘇敬等「新修本草」、松田壽男 読下し)
卑弥呼の金印はこの工法なくしては出来なかった。砂金ばかりならともかく、金鉱石からも採取しただろう。また、自然の純銅ばかりとは限らない。異物と混合した鉱石から金や銅を取り出すのも、また青銅や白銅などの合金をつくるのも、この工法使われたのではないか。そこに丹生は欠かせない貴重品でした。各地で出土した金象嵌銘鉄剣も然り。
だから、硫化水銀に反応しない鉱物とは、なんと<鉄>しかこの世に存在しないのです。<鉄>を制する者、それは<丹生>を制する者だったのです。とすれば、『古事記』と『日本書紀』から<丹生>と<丹生都比売>が抹殺された理由の一端もここにあったのではないか。この変幻自在物質は古代史の要にあるのです。
それ故<丹生>と<丹生都比売>を追うことは、鉄の伝説を追跡することでもあり、そしてまた、古代錬金術と黄金伝説を騙ることでもあります。
丹生氏
紀伊国に丹生族の本命、そのものずばりの丹生氏がいました。『新撰姓氏録』に息長丹生真人が採録されていますが、こちらは息長氏の本拠のある近江国と思われます。いづれ触れることになるでしょうが近江・若狭国にも丹生の地名が多くあり、丹生氏もいたと考えられます。
紀伊国の丹生氏は系譜として『丹生祝氏本系帳』と云われる文書を遺しています。姓氏録のために用意されたと云われますが、姓氏録は五畿内にかぎり採録していますから、紀伊国に在住した丹生氏は載らなかったわけです。つまりこの系譜はその程度の信頼性はある、ということです。
神功紀の紀伊国で土地の祝ハフリと天野の祝をひとつの柩にしたため天候異変が起きたという噺は、紀直の祖の豊耳が言上したのですが、本系帳にはこの豊耳が国主神の阿牟田刀自に生ませた小牟久君の児等か丹生祝を賜姓して、代代その子孫が伊都郡に丹生比売大神と高野大御神などに仕へ奉らせたとあります。阿牟田刀自というのは書紀の天野の祝のことではないか考えられ、だから豊耳が言上した。つまり紀伊国の丹生氏は紀伊国造の支配下にあったことになります。
丹生氏が丹生比売大神と高野大御神などを祀ったことは、平安時代になって高野山に入った空海の伝説と照応します。史実として空海は嵯峨天皇の許可の元、高野山の高原に結界を張り、真言密教の道場をひらいた。そのとき、まずもって天野の丹生都比売神を勧請して鎮守社を建立したのです。伝説はここから生まれました。
例えば『高野寺縁起』などになると、空海が天皇の許可によって得た高野山は、元からそこにいたという地主神の高野明神や狩場明神の神威によるものと変貌します。賢しらな神話研究者は、これをもって偽造された神話と騒ぎたてるようですが、天皇の権威が凋落した中世社会にあって、神話の神々もまた生き延びるために生まれ替わる『神道集』の世界と同様だったのです。もうひとつ言い換えるなら、地主神が台頭した世界とは、王権や天皇権威の生まれる以前の世界へ先祖返りしたと云うべきでしょう。
空海は弘法大師と云われて聖徳太子と混同されたり同定されたりして、太子信仰の元になりました。法隆寺が起死解消のために流行の大師信仰に便乗したことにもよりますが、元は弘法大師信仰にあります。今日の太子講は大工職を中心に組まれていますが、本来は鉱山労働者の山師たちの信仰でした。高野明神や狩場明神は丹生の神であったからに他なりません。
空海のはじめた真言密教の高野聖は、中世に至って時衆化しました。空海の好敵手だった最澄の天台宗の国家に奉仕する学者流と異り、何でも取込んでしまうと云われる、うさん臭い真言宗が時衆化したのです。時衆は宗教である以前に踊ること、騒ぐこと、遊行することにありましたから、誰でも紛れ込み、有髪の毛坊主として彼方此方渡り歩いた。その連中のなかに<ワタリ>と云われる鉱山労働者の山師たちがいたのです。彼ら<ワタリ>によって大師信仰は流布され、やがて時衆は一向宗として徒党を組み、一向一揆の火の手を挙げました。
バベルの塔の模型をぐるぐる回って頂上に至るような具合の山岳道路の終点に高野山の丹生都比売神社があります。ここが山頂かと不思議に思うくらい広い高原に数々の赤い堂宇が建ち並んでいる。気のせいか土そのものが赤く見えます。最近亡くなった名エッセイストの白州正子女史も、そんなことを書いていました。
空海の時代に堂宇が建ち並んだわけではないにせよ、高野山を開く費用を空海は何処から捻出したのか、下世話な問題に思い至ると、丹砂の売却しかないのではないかと思えてくる。ところが、このあたりを詮索したルポなどによると、数ある丹生神社では口をそろえたように、丹生採取など聴いたことがない、と云うそうですから、多分、猛毒を発生する丹砂の公害問題絡みもあるでしょうが、最早、紀伊国の丹生は神話的な存在なのかもしれません。
しかし、紀伊国の丹生は高野山だけではありません。熊野・吉野をはじめ、境を接した伊勢国には有名な丹生都比売神社があります。 
手力男神
紀伊国に祀られたは住吉の神は『住吉大社神代記』によると「天手力男意気続続流住吉大神」という長い神名でした。この頭につけられた<天手力男>に注目しました。この手力男神は記紀の神代において、天照大神が岩戸隠れしたとき、その周りで宴などして騒ぎ立てると、不審に思ってのぞき見たた大神を、すかさず引き出した役回りの神として登場しています。大神を引き出した手に力がある神、手力男神です。『古事記』によると手力男神は佐那の県に坐といいます。
この手力男神はこれまでほとんど注目されたことがありません。そして住吉神や住吉神社との関係も考えられていない。ましてや丹生や丹生都比売との関係など思いもよらない存在です。ところが手力男神が祀られているのは、紀伊国に接した伊勢の丹生産地なのです。『延喜式』神名帳に「伊勢国多気郡佐那神社」とあり、吉田東五の『大日本地名辞書』は佐那を「相可村の南、度会郡外城田村の西北にして、西は丹生村に接する」といいます。現在の三重県多気郡多気町仁田に手力男神を祀る佐那神社があり、佐那の地名は消えたようですが一番近い鉄道の紀伊本線に佐奈の駅名が残っています。
地名辞書にある通り西側の勢和村丹生の山麓に、丹生都比売を祀る丹生神社と神宮寺の丹生大師がある。高野山の空海もここを訪れ、堂宇を造営したと伝えられている。高野山の女人禁制にたいして、ここは女性の参詣も許されたから女人高野とも云われています。丹生の水銀からつくられた伊勢白粉でしこたま儲けた射和や松坂の伊勢商人の<丹生千軒>と呼ばれた町であっみれば、お得意様の女性の参詣を断わるわけにはいかなかったのかもしれません。
記録にあらわれた伊勢丹生の歴史は古く、文武天皇二年(698)の『続日本紀』には伊勢国に朱砂を献上させたと記され、また元明天皇和銅六年(713)には水銀を納めさせたとあります。
この丹生神社の由緒書きに、祭神は植山ニヤマ姫命と水波能売ミズハノメ命外十六柱とあります。植山姫は丹生都姫にちがいなく、水波能売は一般に水の神といわれています。ここに二柱の神が祀られてあるということは象徴的なことと思われます。と云うのも、丹生都姫は水波能売によって抹殺されたというか、取って代わられた節があるからです。これについては追い追い触れることでしょう。
先に云ってしまえば、もう一カ処、手力男神を祀る有名な神社があります。神州信濃国は戸隠山に鎮座する戸隠神社です。社伝によると、ここも天の岩戸に関わり、手力男神が天の岩戸を引き開けようとしたら力余って岩戸を飛ばしてしまい、降った処が戸隠山という天の岩戸の飛来伝説だそうです。これを祀ったのも阿曇犬飼という祖神綿津見神を奉じる阿曇氏を父系にもつ犬飼族でした。阿曇氏は南アルプスの穂高山とその麓の安曇野に穂高神社を祀り、犬飼氏は紀伊国高野明神の祝と云われています。正に手力男神は信州に飛来したのです。
佐那神社で手力男神を氏神として祀ったのは佐那氏でした。『古事記』は伊勢の佐那造と伊勢の品遅部の祖として曙立王をあげています。曙立王は山代の荏名津比売の子として三兄弟の中に生まれた。父は倭国の丸邇ワニ氏出身です。つまり山代国の曙立王が伊勢国の佐那造と品遅部の女に兒を生ませたから、彼らの祖となったということです。おそらく佐那造は品遅部を掌管したのでしょう。
記紀には抹殺された銅鐸ですが、中臣氏と神事を競って奏上した斎部氏の『古語拾遺』は、鉄鐸の古語を佐那伎サナギと暴露した。<天目一箇神をして雑の刀・斧及鉄鐸を作らしめ>と。ここから伊賀の佐那具サナグ、三河の猿投サナゲ、大和の散吉サヌキ、遠江の佐鳴湖サナキコの周辺から銅鐸が出土していることから、民族学の谷川健一は佐那造が関わりあるとみた。しかし、銅鐸が抹殺されたように、佐那氏のその後の様子はさっぱり分からないのです。
曙立王は伊勢の品遅部ホムチベの祖でもありました。品遅部は名代部で天皇やその子女の宮を運営するために奉仕する一族です。品遅部の場合は、曙立王が仕えた垂仁天皇の皇子の品牟都和気ホムツワケ命のために定めたと『古事記』にあります。
この皇子品牟都和気は宿命の子で、母の沙本毘売は実の兄の沙本毘古王と契って反乱をおこし、敗れて伴に業火のなかに果てた。その火中に生まれたのが品牟都和気でしたが、ショックで口が利けない。天皇は曙立王とその弟の菟上王をつけて旅に出し、各地を放浪したあげく、出雲で回復したという。
火の中から生まれた牟都和気は鍛治の象徴とみなされ、またその唖の病は水銀中毒によるものではないかと、また日本武命の伊吹山における足を痛めたのも同様の結果であろうとして、諸国のの品遅郷に痛足・病足に関わる芦田郷・足見田神社などがセットであることを拾いだしたのは上の谷川健一でした。
品牟都和気と曙立王は従兄弟同士の関係にあります。彼等の祖父が和邇氏出身の日子坐王だからです。そして和邇氏こそ大和の丹生を管理・採取した和丹族の一つではなかったか、と考えられるのです。
大和の丹生
自然に採取できる銅を和銅と云いますまから、自然に採れる丹生を和丹ワニと云ってもおかしくないのではないか。大和の和邇ワニ氏はそんなことを思わせる一族です。と云っても和邇氏は実のところ正体不明の大族なのです。
和邇氏から分かれた族として春日・小野・柿本・大宅・栗田などの諸氏の名があり、その本拠は奈良盆地の東北、山の辺の道の天理市和邇と考えられます。『延喜式』神名帳に和爾赤坂比古神社・和邇下神社が載っており、現在、和珥坂下傳稱地道の碑が建ち、坂の上に和爾赤坂比古神社もあります。この丸邇の氏神として祀られた和爾赤坂比古、の神名こそ朱砂を司った和邇氏の正体を明かしているのではないか。
それならば大和国に丹生はあったのか、ということになります。
葛城山の赤坂城に立て籠もった南朝の悪党楠木正成の資金源は、もっぱら朱砂の利権にあったて云われています。松田壽男は現地に採取した試料の微量分析を踏まえて、大和の国中の南を限る山々に抱かれた丹生神社や丹生谷などの地名の遺る場所が、古代の丹生採取地であったとしています。それは伊勢と紀伊を結ぶいわゆる中央構造線に沿ってあります。
わけても初瀬隠国といわれるた長谷寺の先から南側の宇陀の谷筋に入った処に、松田壽男が調査した昭和三十年代後半まで稼働した大和水銀工業所があった。廃坑になった旧坑に見つけた朱砂の露頭は高品位の水銀含有量であったという。古代の朱砂は地表に露呈していた。その鉱床を掘り進めるとしても、坑道の深さに技術的な限度がある。昭和五十年代に発表された現地ルポによると、同所は既に閉鎖されて、我国で唯一の水銀鉱山も終わったといいます。話だけでもと聞き出したことによると、稼働当時の坑道の深さは少なくとも百数十メートル、古代ならせいぜい二、三十メートルぐらいしか掘れないだろうということです。それ以上は水抜き、エアー抜きができない。さらに鉱床が続いていることが分っても、そこで放棄せざるをえないわけです。
大和の宇陀、そこは神武の大和平定において、兄宇迦斯が襲われて斬られ、くるぶしまで浸かるほどの流血から血原と名付けられた場所です。しかし「血原とは辰砂(朱砂)が赤く一面に露頭していた景観から出た呼称であろう」と松田は指摘して、さらに神武の大和平定の過程を解き明かしています。
紀伊半島の中央構造線に沿う鉱床の他に、南下する丹生鉱床もあるそうです。大和国中から吉野・熊野に至るもので、それはまた神武の大和平定において、熊野から大和へ侵入した路にもあたります。しかし、記紀に伝えられた神武の侵入経路は、地図に照らしてみれば直ぐ分るように、行ったり来りの矛盾した道行きになっており、しかも『古事記』と『日本書紀』ではその行程が異なるといった摩訶不思議なものです。
たったそれだけのことから考えても、神武は一人ではなかったのではないか、何人かの神武の事跡を繋いだものではないか、と思わざるを得ない。ましてや九州日向国から東征し、どの地点で紀伊半島へ上陸したかなどと云う議論や、果ては邪馬台国の東征に結び付けようとする、大掛かりな、それでいて相変わらずの<万世一系>的な発想には、とうてい付き合いきれない。
古代の朱、丹生は他の何よりもまして係争の種だったのではないか。地表に露呈していた鉱床から坑道を掘れるたげ掘ったら他へ移動し、また有力な鉱床を見つけねばならない。ときには宇迦斯が襲われ宇陀の丹生鉱床のように、その場所をめぐって血なまぐさい争奪戦もあったろう。あるいは吉野の井光のように、襲われるまえに平和的に手を打って帰順してしまう者もあったろう。こうした襲ったり襲われたりした神武たちが大勢いたのではないか。朱砂欲しさに。
吉野を制覇する神武に、吉野首祖の井光イヒカや尾のある吉野國樔らが次つぎに帰服する。吉野國樔に尾があるなどというのは、昨今のベタラン風の年配ハイカーなら誰でも腰に付ける毛皮に違いなく、山人なら必ず用いたはずで、それをもって尾のある人というのは、無知か毘称でしかない。
ところで井光は吉野郡川上村井光イヒカリに井光神社があり、採取した試料は水銀含有を示している。大正時代発行の『大和名所図会』には碇村の名で出ているという。さらに井光の地名は土地によって伊加利・一光イカリ・伊加里あるいは碇ケ関などと転ずる。いづれも水銀反応のある土地で、吉野首の移動先であったかもしれません。また当然のことながら、別の丹生族がいたかもしれないということをも考慮しなければならない。
また丹生の地名については、既にあげたように仁保をはじめ仁尾・仁井・遠敷・入・大入などと様々に転化しています。そしてこの方が重要なことですが、むかし丹生の地が別な地名や社名・祭神が変わってしまったことが、古記録を照合すると判明するばかりでなく、その変遷の意味するものが浮上することです。
上の宇陀の血原の丹生川上神社は丹生川上の名こそ伝えてきたものの、その神名を丹生都姫命、罔象女ミズハノメ尊、雨師と時代によって変わったといいます。罔象女は水の神、雨師は水こりの神ですから、神の働き、神社の効能・機能が時代の要請にしたがって変化したことがわかります。だから多くの丹生都姫は水神に取って代わられたのです。
こうしたことから和邇も和丹の転ではないかと云う強引な故事付けも、和邇を鰐と云うような語呂合わせより幾分か増しなのではないか。とは云え、和邇氏の系譜は丹波海部氏という海人族にも流れていることですから、和邇が鰐という可能性がないとはいえない。土地によっては鮫のことを鰐と呼ばれ、それはワニザメのことであるとされています。ともあれ、赤坂比古を祀っていたであろう和邇の先祖と思われる和珥坂下の居勢祝は、云うまでもなく神武の進軍によって殺されたのです。そして和邇族は帰順し、皇統譜につながることによって大族へと発展したのです。 
 

 

戸隠神社
神州信濃国は海の国です。山があっても山梨県の類いでなく、イルカやの骨が発見される海の国、それが列島の真ん中の信濃国です。それを証すのが阿曇の海人によって祀られた安曇野の穂高神社であり、善光寺平は川中島に海神綿津見神の兒を祀る氷金刀売神社、上田平に海部郷、それに出雲の建南方神の追われた先が諏訪の海と、海に覆われています。
既に先回りして触れたように手力男神は伊勢丹生の外に、信濃国の戸隠神社にも祀られています。伊勢国と信濃国ではずいふん離れているようにもかんじますが、伊勢から船で天竜川を遡上するか、鈴鹿山から尾根づたいに脊梁山脈をたどれば信濃国は指呼の間にあり、天岩戸が飛来するには造作もないことでした。『古事記』で出雲の建南方神は諏訪に閉じ込められ『伊勢風土記』の伊勢津彦は信濃国へ逃亡したのですから。しかし、こちらには際立った丹生はありませんが、極めて紀伊国の丹生に関わりがあります。手力男神を祀ったのは高野明神の犬飼氏ですが、そに触れる前に信濃国に手力男神がもたらされた経緯について考えてみます。
信濃国は科野国造の諏訪神家が支配していましたが、その下で善光寺平から望月のあたりに勢力をはった滋野氏がいました。東国三十二牧の筆頭とされた官牧の望月牧監として赴任し、そのまま居着いてしまったらしい。望月牧監の滋野幸俊の祖父の滋野朝臣恒蔭は信濃介という国司の次官として赴任したことがあるらしく、滋野氏はそのとき以来信濃国に云わば顔が効いたわけです。滋野の男が土地の有力者の家に入り婿して、その家を繁栄させた。だから彼等は滋野氏を中心に望月・海野・真田などと勢力を拡張することが出来たのです。
滋野氏の元は伊蘇志氏さらにその先は楢原氏といい、その系図をみると紀伊国造の別れですから、丹生都比売神を祀る丹生祝氏と先祖を同じくしています。そればかりでなく、伊蘇志臣を賜姓した切っ掛けというのが『続日本紀』にあります。孝謙女帝の天平勝宝二年「駿河守・従位下の楢原造東人らが、管内の庵原郡多胡浦(田子の浦)の浜で、黄金を発見し、朝廷へ献上した。よって、東人らに勤イソシ臣の氏姓を賜わった」というものです。文中に練金と砂金とありますから、練金はおそらく精錬したもので、そうした技術をもっていたことになる。時は正に東大寺大仏建立の最中であり、朝廷は喉から手がでるほど金が欲しかった時期でした。
こうした経歴をもつ滋野氏が信濃国へ来て勢力を延ばしたわけですから、戸隠神社へ手力男神を祀った件についても何らかの関わりがなければならない。しかし、その直接の証拠といったものは見い出すことはできません。
戸隠山の南方へ、地元車しか走らないような道路を、道端に群棲する水芭蕉を楽しみながら行くと、鬼無里キナサという土地に出ます。ここに謡曲「紅葉狩」で有名な鬼女の紅葉モミジを平維茂が勅命で退治したという伝説とその岩屋があります。鬼女の岩屋はともかく、この伝説たるや噺は簡単ですが、その背後におそろしい広がりを持っています。
清和天皇の御世、陰謀を企て伊豆へ流された者の子孫が奥州会津に流浪した。その夫婦の生んだ子はたいへん美しい女子で、会津の里の評判になり、ぜひ嫁にと懇望されたが、支度金を受け取た親子は都へとんずら決めこんだ。都では変名をつかい、女子は紅葉と名乗り、源経基の奥方の侍女として仕えが経基に寵愛されて、その種を宿すまでになった。そうなると邪魔なのは経基の奥方とばかりに、紅葉は密かに妖術を使って奥方に病にかけてしまう。そこで比叡山の高僧の加持祈祷と御札をもらうと、紅葉はそれに触れなかったことから疑われて召し捕られ、経基のお情けで信州戸隠山へ追放されてしまった。
戸隠山の岩屋に立て籠もった紅葉は鬼女となり、山中の荒くれ男を手下に妖術を使って悪事をはたらいていた。これが都にきこえて、朝廷は平維茂に命じて鬼女紅葉を退治してしまった。そのため元は水無瀬ミナセ村を鬼無里村に改称されたという。
『太平記』にもこの戸隠山の鬼女伝説が載っており、退治したのは多田満仲とされています。満仲は紅葉を寵愛した源経基の長子です。大江山の酒呑童子という鬼退治をしたのは、この多田満仲の長子の頼光とその四天王たちでした。四天王の一人、渡辺の綱は一条戻橋や羅生門の鬼とわたり合い、酒呑童子の手下の茨木童子の腕を斬りおとす。多田源氏は鬼退治の一族として伝説化されています。
ところが御伽草紙の酒呑童子は、その素性を本国は越後の山寺育ちとし、江戸時代になると、越後に産まれて谷底に捨てられる捨て童子となり、しかも越後の弥彦神社の神がらみで弥三郎となり、琵琶湖の辺の盗賊伊吹の弥三郎になる。あるいはまた酒呑童子は戸隠山の権現に百日詣でしてようやく産まれた、幼名を外道丸という。鬼族は越の国から戸隠山を通って都へ上がり、そして退治されてしまう。何故かくも退治されに鬼たちは都へ上がるのか。
戸隠神社の祭神の一つに天下春命というのがあります。『先代旧事紀』天孫本紀に「八意思兼神の兒春命、信乃阿智祝部等祖。天下春命、武蔵秩父国造等祖」とあるので、さらに同書の国造本紀をみると「八意思金命十世孫、知々夫彦命を知々夫国造に定める」とあります。八意思兼神−天下春命----知々夫彦命は一系でつながることになる。
埼玉県秩父市の秩父神社には知々夫彦命が祭神として祀られ、これを秩父氏と呼ばれた平氏の良文一党が信心していたらしい。この平氏良文は村岡五郎良文と呼ばれて武蔵荒野を開発した武者ですが、この子の平貞道は碓井貞光の名での一人に数えられています。
さて、戸隠山をめぐって時空を越えた神人たちが交差しますが、ここにいま一つ古代の一族を投入します。戸隠神社に祀られた天下春命が武蔵国の中心であった都下府中市と多摩川を挟んだ対岸の南多摩で、小野氏によって祀られていたのです。武蔵国における小野氏は八王子を本拠に多摩川沿岸から相模国まで転々と勢力を延ばした横山党の宗家で、いわゆる武蔵七党の一つでした。
すると戸隠神社に祀られた天下春命も、なんらかの形で小野氏が噛んでいたのではないか、と考えて当然です。すぐ思いつくのは、諏訪神社に関わり深いといわれる伊那の小野神社があります。しかしこの小野神社の祭神は米餅搗大使臣命といって、小野氏の本拠とされる近江国小野郷の小野神社と同じ祭神です。ここに斎部氏が暴露した鉄鐸が祭器として遺されていることは有名なことです。
小野神社の祭神は米餅搗大使臣の米餅搗は普通ならコメモチシマとでも訓んでしまいますが、『新撰姓氏録』には同じ訓で鏨着大使主とありタガネツキオオオミと訓みます。和邇氏の系図中、そこから別れた小野氏の直接の先祖にあたります。鏨とは正に岩石を砕く鑿ノミのことであり、丹生をあつかったであろう和邇氏のなかにあって、採石の一族が小野氏の役割であったとしても不都合はないのです。戸隠と同じ天下春命が祀られた秩父は、和銅開珎で有名な産銅・産金の地でした。大江山や伊吹山の鬼族もまた金属精錬の古譚であったことは、つとに解明されていることです。
頼光四天王と鬼族の跳梁した時代、それは日本幻想譚のスーパー・ヒーロー陰陽師安倍晴明の生きた時代でもあったのです。それは後に戸隠三千坊と称せられるようになる山伏修権の時代でもあり、越国と信濃国の間を走る鬼族とは天狗山伏のそれかもしれず、彼等自身が札配りと同時に吹聴して歩いた語り物であったかもしれない。とすれば、戸隠に小野の神を祀り、小野氏の昔語りを持ち歩いた流浪の、小町と呼ばれた絶世の美女一党もまたいたかもしれません。
小野小町
いったい宮本武蔵のお通さんの行く末はどうしてくれるかと、「小野於通」の柳田国男は珍しく意表をついた書き出しからはじめて、お通などという名は特殊な役割の女にしか付けなかったことを解き明かしました。だからそれは固有名詞ではない。紫の式部や清少納言は何人もいたから、光源氏の物語などは一人の<作者の作品>ではないかもしれず、御伽草紙や太平記が大勢の手を経てきたように。
とすれば、稗田阿礼という『古事記』をそらんじて誦みしたという語り部もまた一人であったかどうか疑わしい。彼女もしくは彼女等の先祖は、あの天岩戸の前で面白おかしく踊った天宇受売であり、手力雄が目撃証人でした。そしてその末は猿女君となったといいます。
手力男神を祀った佐那氏の父系の曙立王の弟、菟上王は比売蛇君の祖として位置付けられています。比売蛇はヒメダは稗田ヒエダに訓があまりにも似過ぎており、もしかすると同一族かとも思われるのですが、確証はありません。それはともかく、猿女君は伊勢国を本拠としたとみられるものの、その一部は大和の和邇氏の本拠に近い添上郡稗田、現在の大和郡山市にいたとされています。『古語拾遺』に「猿女君氏、神楽の事に供する」とあり、中臣・斎部・猿女の三氏の職は密接に関係すると説いています。朝廷の鎮魂祭などに歌舞を奉仕する猿女を世襲的に出していたからです。
ところが、斎部氏がそうだったように、この一族の勢力は衰退してしまったが、猿女の制度は絶えることなく続き、その養田が近江国丸邇村と山城国小野郷にあり、この利益を得るため小野臣・和邇部臣の両氏から朝廷へ猿女が出されていた。弘仁四年(813)の太政官付にはは、両氏から猿女を出すことを廃し、本来の猿女君氏の女一人を縫殿寮へ進めるようになったとあります。そして猿女君たちは、一方で全国に散っても行ったのです。
この古代以来の小野氏とは云うまでもなく、遣唐使の妹子を出した小野氏であり、歌人の篁、書家の道風なども輩出しています。むろん小野小町もこの一族の出身でした。
全国に散った猿女君たちは、小野の神、小野の先祖、小野猿丸大夫などと語り物して歩いた。先祖の祠を祀り、氏神の霊験を語り、地名の由来を語り聞かせるうちに、数多の社家に紛れ込んで小野神社へと鞍替えさせてしまった。山頂から百個以上も伊那の小野神社と同様の鉄鐸が発見された二荒山神社は、小野猿丸大夫の伝説と共に、社家に小野氏がいました。
わけても絶世の美女小野小町の語り物は、語る女が小町と覚えられ、語り継がれて小町七変化とまでふくらんでしまいました。また近江国の木地師一党は親王小野宮を祖神にして、これまた列島の端々まで持ち回ったのです。
小野氏の猿女は於通と呼ばれたらしい。あるいはまた於松とも名付けられ、それが待つ・町と転じて小町となったという。この小野於通、信州真田家に縁があったとまで柳田国男は書いて、それきり山人放浪の世界を見捨てて、定住した<常民>の生活へ還ってしまったのです。
信州真田家、あの滋野氏の末流を称して、戦国時代を六文銭の旗をなびかせて一世を風靡した一族です。小野於通が何処でどう真田氏と関わるのか、考えあぐねて真田十勇士に隠れてくの一でも働いたかと妄想のあげく、小野の猿女は於松とも名付けられたと柳田が指摘したことを思い出して、小松殿を捜し出した。関が原の役に父昌幸と分かれて徳川方へ組した信之の妻、小松殿は表向きは本多氏の女になっていても、実は素性のはっきりしない烈女と伝えられていました。
あるいはまた、信長のために浄瑠璃を創始した於通、後水尾天皇の病を治した於通などと枚挙にいとまはないのですが、武蔵のお通さんの行方が分からないように、こうして流浪の小野小町・於通の消息も消えたのです。
ところで真田の六文銭、正式には六連銭・六道銭と云うそうですが、いまも真田の上田城下の商店街になびいているはずのそれは、真田氏の前身の海野氏、そのまた先の滋野氏から伝統すると云われていますが、滋野・海野氏の代には月輪七九曜とされていますから、武田氏の支配下に入った真田氏が独自に採用したらしい。地獄の沙汰も金次第とでも云うか、紋章学的に三途の川を渡る報賽銭と仏教的に説明されますが、古代以来、屍棺や古墳から古銭が出ていますから、古式な伝統としてあるわけですが、それを旗印にした真田氏は戦場を地獄巡りと心得たのかもしれない。
あるいはまた、北斗七星信仰は五曜にも九曜にも変化するようですから、六曜も有り得たかもしれない。真田氏の前身の海野氏がつかった州浜紋は三つ星を重ねたような紋ですから。
真田幸村が地獄を見たのは大阪城の戦場、その父の昌幸は幽閉先の大和国九度山の縁者の地でした。そこは高野山の入り口、丹生神社のある処だったのです。真田は実田とも表し、いずれもサナダとすれば、伊勢国に手力男神を祀る佐那氏や鉄鐸のサナギとは無関係だったのでしょうか。
近江の丹生
伊勢から信濃へと天岩戸の飛来伝説に便乗して、東山道の関所たる鈴鹿関の近江国をすっ飛ばしてしまいました。近江国は丹生都比売の紀伊・伊勢に続く第三の故郷とも云うべき地としてあり、そこに小野氏の本拠もあるのですから。
近江国は琵琶湖を囲む湖畔の国でその周囲は山並みで隔てられ、独立した盆地のような土地です。しかし湖が大きすぎて、湖西と湖東が隔てられたかのように見えてしまうのは、湖上の行路を忘れたときかもしれません。
この湖西の路(R161)を湖南の大津から湖北の葛籠尾崎を目指して、長距離トラックと観光バスの行列に挟まれ、キャンプ用具を積んだバイクで走り始めたことがあります。せいぜい六、七十キロの距離ですから半日走れば着くと甘い勘定が三時間も排気ガスを浴びて、やっと三分の一ばかり行った大津大橋のたもとにたどり着くという始末。都内の道路ならバイクの数が多すぎて、左側追越しも大目に見てもらえるものも、地方の道路でそんな走行をすれば、たちまち御用となるから、四輪の後ろをトロトロ渋滞のお付合いをしなければならない。
大津大橋の北側に小野神社があり、もう三分の一の距離を行くと高島町・安曇川町とあって、ここに流れ込む安曇川を遡上すると、峠をこえて若狭国の小浜と最短距離で結ぶ古道が大昔にあったそうです(今はないので念の為)。小浜の若狭姫神社と若狭彦神社の元は丹生神社でした。この丹砂が峠越えの古道と湖上を運ばれたのが、奈良東大寺二月堂の若狭井へ通底する<お水取り>の元になったのです。それは同時に、琵琶湖畔の古刹に数多く伝えられた、流れる様な造形の仏像、十一面観音菩薩像となりました。
インドから十一面観音像を護持して渡来した僧実忠は、しばらく若狭神宮寺に滞在したと伝えられ、その観音像は奈良法華寺のものであるという。そして近江に伝えられた十一面観音信仰には二流あり、一つは高麗亡命者の子として越前生まれの泰澄が、加賀白山に密教霊場を開いた白山系の流れ。もう一つが近江国生まれの最澄が入唐帰国後比叡山に開いた天台密教系の流れがあります。
加賀の白山は近江国の伊吹山の背後にあり、泰澄の観音は白山菊理比売の生まれ替わりと、伊吹山系の修験山伏を通じて喧伝されてひろまったのです。そして流れるような彫り物を可能にしたのが近江国の良質な産鉄によって鍛えられた刃物だったのです。どれほど良質な鋼であったか、戦国時代の大砲を製造した国友の鉄砲鍛治がここから出ていることでも分かります。
近江国には天之日矛あるいは都怒我阿羅死等が比売碁曾を追ってやってきました。比売碁曾は阿加流比売であり、九州豊国から転々と赤い足跡をのこして、近江国へいたる。二つの取り合わせは鉄あるいは銅と丹砂の組み合わせに思えてしよぅがない。
この近江の産鉄を背景に古代倭政権の隠然たる勢力を有うしたのが、近江富士ともいわれる湖南の野洲にある三上山を祀る息長氏でした。銅鐸二十数個を出したのもこの近くです。野洲川をのぼって御在所山を越えた丹生産地は伊勢丹生地帯につながる。湖東の米原のあたりに流れ出す元息長川の天野川の南岸に丹生の地があり、湖北の賤ヶ岳丹生を経て越国の丹生地帯へ至る。
湖北は有数の産鉄地帯で古代の金クソ、鉄滓が小山のように出るといわれます。弓削道鏡が現れるまで勢力のあった恵美押勝=藤原仲麻呂は湖北に鉄穴を所有し、これを基盤に朝廷内で紛争をお越し、湖北へ逃れて政府軍に斬られた。逃げた先が東国ではなく、日本海から脱出しようとしたらしい。何かと唐制を真似た仲麻呂のことだから、大陸へ脱走したかったのかもしれません。湖北から峠を越えれば敦賀湾ですから。
湖北の菅浦の漁村の浜におりると、大津などと比べて、これが同じ琵琶湖の湖水かとあきれるほど清らかな透明で、民宿でだされた鯉の洗魚の美味しかったこと。まるっきり泥臭くなかった。
越国と近江のの丹生地帯を背景に倭国へ進出したのが継体天皇でした。おそらく大陸や半島と交流があったと思われます。およそ日本離れした金冠をはじめとする金銅製品の数々がそれを証明しています。その後の遣唐使などに隠れて目立たないが、渤海国使節が三十数度も来て、その多くが日本海側に来た。遣唐使の船が遭難して、渤海使節の船に便乗して帰国したことすらある。半島と大陸と結ばれた日本海航路が確実にあったのです。
近江国から峠越をせずに東国へ出るにはここしかないという道筋が元息長川の流れ出す関が原で、戦国の終焉は云うまでもなく、古代の大転換とでも云うべき壬申の乱に大海人皇子もまずこの地を押さえて勝利した。ここに製鉄治金の本山と自負する南宮大社があります。
南宮大社
南宮の本山は、信濃の国とぞ承る。さぞ申す、美濃の国には中の宮、伊賀の国には幼き兒の宮。
これは先日、断簡が発見されて新聞などを賑わした『梁塵秘抄』の一節です。ここに南宮社が三カ所詠み込まれています。本山は信濃国の諏訪神社、中宮は美濃国の南宮大社、そして兒宮が伊賀国の敢国神社といわれています。この南宮神社はみな産鉄治金の神として祀らており、それぞれ謂れを伝えていますが、元来は相互に無関係だったらしい。
天武天皇はその晩年にこの信濃国に倍都を造ろうとして使者を派遣、地図を作らせています。病がこうじて行宮にきりかえ、温泉療養などに行くつもりだったらしいのですか、温泉なら遥々信濃へ行かずとも近くにいくらでもある。信濃倍都には何か他の目的があったのではないか。
信濃国が倭の王権に服属した時期ははっきりしませんが、欽明天皇のとき金刺舎人という名が見えますから、このころと考えられます。舎人というのは地方の首長が服属の証しに差し出した子弟で、金刺宮を営んだ欽明の近臣として仕えた者の名前です。そしてこの金刺舎人が信濃国の出であることの証拠は、信濃国の諏訪神社の上社にたいして下社の神官として台頭していることです。
信濃倍都のために派遣されたのは三野王といい、敏達の孫あるいはひ孫といわれる栗隅王の子でした。栗隅王は壬申の乱の時の筑紫太宰で、近江の大友皇子側から来た軍兵徴発の使者が、徴発を拒否した栗隅王を斬ろうとしたところ、三野王兄弟が父を護衛したというエピソードがあり、はじめから天武側だったことが明らかです。
欽明の母は石姫、その母は手白香皇女、そのまた先の母系をたどると春日大娘皇女で春日和邇氏であることが解ります。和邇氏出身の欽明に仕えた舎人が諏訪国から上番して金刺舎人と呼ばれた、といわれます。。この和邇氏から別れた小野氏が近江国から来て、同じ信濃国の伊那に小野神社を祀っていたことは、既に触れました。そして小野神社と諏訪大社に同じ鉄鐸がある。
かつて諏訪の縄文王国を喧伝した藤森栄一は、縄文時代からつづいた諏訪の洩矢神は建南方神によって征服されたとしました。建南方神は『古事記』の国譲りの段にのみ出てきて、諏訪の海に閉じ込められた出雲系の神です。それが諏訪国では征服する側となって、諏訪神社の祭神建御名方富命として祀らたのです。建南方神を奉じた大祝オオホリによって諏訪の洩矢神を祀る神長は屈服させられたといいます。そして大祝の出現と諏訪国の屈服は、藤森栄一によると、用明天皇の時代であるとしています。諏訪大祝の始祖がこのころ現れたことが諏訪神氏の系図から確認されるからです。用明は欽明の子ですから金刺舎人の現れた時代とも合うわけです。
したがって、欽明に仕えた金刺舎人は諏訪国の人ではない。建南方神を担いだのが征服者であるなら、そのとき現れた金刺舎人氏は諏訪の外から攻めてきたのであり、諏訪の人であるわけがない。彼らは何処から来たのか。
『古事記』に神武の長子の神八井耳命の子孫二十氏の中に意富(多)臣といっしょに科野国造が含まれており、さらに火君や阿蘇君といった遠隔地の氏族も同族とされています。同じ内容が『先代旧事本紀』国造本紀の阿蘇国造条にもあります。
ところが、『阿蘇家略系図』というのが発見され、これに金刺舎人氏は阿蘇氏の分かれであるとあります。それ以前の阿蘇氏は山城国にいたという説もありますが、確証がない。とはいえ阿蘇氏は景行の九州征伐の際、帰順したと景行紀や『肥後国風土記』にありますから、ある時期から肥国にいたことは疑いない。少なくとも阿蘇氏から分かれた一族が諏訪に来て、信濃国造や金刺舎人を出し、後に諏訪神社の大祝や諏訪評督などに就いたという経緯が系図からうかがえます。
そうすると、畿内から来て小野神社を祀った和邇氏あるいは小野氏と、阿蘇氏の間にどんな関係があるのか、いまのところ解らない。小野氏は阿蘇氏以前に信濃国入りして、伊那の小野神社を祀り、漏矢神の抵抗で諏訪に入れず、迂回して安曇平から戸隠へ出たのかもしれません。もっと穿った考え方をすれば、阿蘇氏と組んで諏訪を攻め、前線基地として小野神社を設けたとも考えられる。
さて、こうした歴史的背景をもつ信濃国に、天武天皇は倍都を造ろうとしたのです。諏訪大社は伊賀・美濃国の南宮社とともに中世には南宮大社ともいわれます。この三カ処の南宮社、奇しくも天武に大いに関わりあります。
王位継承をめぐって古代最大の内乱となった壬申乱のとき、大海人皇子(天武)は隠遁先の吉野から加太越えをして東国へ出て、不破関に本営を置いて近江側と対峙した。吉野から加太峠へは、途中の伊賀を通る。伊賀は近江の大友皇子の出た処で、いわば敵地突破の強行軍で、隠評ナバリの駅家ウマヤに火を放って先へ急いだ。名張と加太の間に伊賀国の南宮社、敢国神社がある。鈴鹿へ出て桑名に着くと前線からの要請で不破へ急行した。ついでながら、この不破関の在るところが後年の関が原にあたる。信長が本能寺に襲われたとき、堺見物中の家康は、伊賀忍者の服部半蔵の案内で大海人と同じ加太越えの路を通って三河国へ逃れたといわれます。
そうそう、先般、伊賀国一宮の敢国神社を祀る中世・戦国の伊賀忍者の服部氏は、産鉄の族ではないかと、まったく別な方向から考えた発言をしましたが、それがこの南宮神社であったことを、ついうっかり失念していました。
関が原の東側に美濃国の南宮社があります。大海人にとって南宮社を押さえることが、すなわち勝者への道であったかの様にみえます。とすれば諏訪の南宮社、諏訪大社のある科野国に倍都を造ろうとしたことは、その延長線上に位置づけられないか。つまり、東国の科野国はまだ完全に大和朝廷の管轄下に入っていなかった。そのため倍都か、せめて行宮を造ってでも諏訪を屈服させようとしたのではないか。
諏訪大社には平安時代の末期まで仏教の影響がなかったと、考古学的にも証明されています。仏教公伝以前から長野善光寺があり、上田平に国分寺が造られても、諏訪には侵入できなかったのです。
建南方神を奉じた大祝が屈服させた諏訪の洩矢神とは何か。一名、御左口神ミシャグシンともいわれ、諏訪湖周辺の湛え神事を司っていた。湛え神事の場所には水を湛えた池があり、そこからカツ(渇→ネ偏)鉄鉱が採れる。水辺の植物の根や茎に水中の鉄分が沈殿付着して、鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂のうえ堅い団魂状の外殻を作る。振ると鈴のような音をだし、鳴石ともいわれ正しく鈴生に成るという。この鈴こそ諏訪大社や小野神社に伝えられた鉄鐸の原型であり、天の岩屋で振られた矛に着けた鉄鐸として斎部氏が証したものではないかと云われています。
御左口神、御作神などといわれた古態の神々は、諏訪の今井野菊女史によって全国に散らばってあることが踏査されています。それは安曇野の野辺にに多い道祖神として伝えられ、翻れば縄文以来の男根型の立石にまでつながるのではないかと思えるほど、歴史の陰に脈々と流れているのです。
諏訪大社と小野神社に伝えられた鉄鐸と同じものが、二荒(日光)山頂きから大量に発見されています。そこは紀伊国から移住したと思われる木国・毛野国、小野氏が神官を務めた二荒山神社の神体山です。毛野氏がばらまいたのではないかと考えられる鈴鏡、銅鏡の縁に鈴を数個つけた不思議な鏡は、武蔵国まで届いていました。極東に位置する弧状列島に銅と鉄が同時に上陸したように、遅れて来た坂東の地で鐸と鏡がドッキングしたのではないか。 
 

 

秩父平氏
この国の古代に<天皇族>なる一族は存在しなかった、というのが本論の基本的な考え方としてあります。むろん現代と同様な皇族はあったでしょう。天皇にかぎらず古代は一夫多妻ですから、子供の数も多く、それを養い育てていかなければならない。一族を持たない天皇は大勢の親王や内親王を手持ちの財産で養いきれずに、各親王の孫以下あたりを次々に皇籍離脱・臣籍降下させ、新たに一族を立て、貴族として官職に就かせたり、そうでなければ一時金を持たせて放り出したのです。
そうした親王の末から行く末を武家と自覚して、その道で一族を繁栄させたのが平氏であり、源氏でした。彼等は地方官として赴任し、任期がおわれば都に帰ってまた次の任務に就くわけですが、中には任期終了と同時にその地に居着いてしまう者もいました。任期中に土地の豪族と組んでしまい、関東で急速に勢力をのばした平氏はそのいい例としてあります。
昌秦二年(899)九月の「太政官不」に引用された上野国解文、報告書によると近年、武装した騎馬軍団による強盗の被害が甚だしいとある。彼らは坂東諸国の富豪の輩で、馬で物資の輸送を業としながら、その馬は雇い馬ではなく、略奪したものであるという。
地方豪族の家に都の貴族の後胤として生まれた子供は、平氏を名乗れることで無邪気に喜んでいるだけならまだいい。なまじ都の貴族と縁戚となっても、実態はなにも変わらぬ状態にいらだち、ちょっとした仲間内のいざこざが切っ掛けで、ついつい中央政府の末端機関である国府など襲ってしまい、国家反逆罪に問われたのが平将門の反乱であったかもしれない。
将門の反乱を起こした土地は利根川の東岸、猿島郡といわれています。奇しくもそこは古代毛野国中心といえぬまでも、毛野国造として彦狭島命が紀伊国から移住した土地でした。猿島郡は狭島命からついたか、あるいはその逆であったかもしれません。毛野国の元は木国と『常陸風土記』にあり、それは紀伊国にちがいないであろうことは、紀伊国の女に生まれた豊城入彦命の孫が彦狭島命であることにも符合しています。豊城入彦命----狭島命の一族は、云わば流された格好で毛野国へやって来たのです。それは将門の祖父たちが東国へ流されことと同様に。
桓武天皇の流れである関東の平氏は、高望王の上総介を手初めに鎮守府将軍などを一族の者が歴任して、房総半島の根元を中心に荒川を遡上したらしい。荒川と利根川流域は金象眼の鉄剣が発掘されて有名な稲荷山古墳などの古墳群が密集してあり、毛野国の繁栄を物語っています。荒川を遡上した平氏一族は熊谷に拠点を設け、またその子孫は秩父・畠山・川越・多摩と勢力を拡張し、江戸にまでおよびました。
この上祖にあたるのが頼光四天王の一人に数えられた平貞道の父の村岡五郎こと平良文だったのです。その子孫にあたる千葉常將は『源平闘泌録』では、良文を将門の養子とまで位置付けて、将門の後裔であるとする意識は、反乱者の将門がどれだけ支持されていたかを物語っています。そして千葉氏に顕著な妙見信仰もまた、将門以来のものであると誇示しているのです。
関東平氏の妙見信仰・北斗七星信仰の始まりは秩父平氏の平良文あたりにあるらしい。どうして坂東の平氏にとって妙見信仰が大事だったのか、その切っ掛けを関東に探しても、よくわからない。そこで一族を洗ってみると、何と桓武平氏の大元にあたる桓武天皇その人自身にあるらしいのです。
桓武の延暦十五年(796)三月、「京畿吏民、男女混淆、職を棄て、業を忘れ、相集いて北辰を祀り、風俗を壊乱することを禁ず」と勅令を発しているのです。幕末の伊勢参りのような勢いだったのでしょうか、その後、二度三度と禁令が出され、なかには伊勢斎宮の入御する日に北辰を祀ってはならぬと具体的になったりしています。
秩父平氏の平良文や将門はこの桓武天皇から出ています。先祖の天皇が禁止した北辰祀りを子孫が一族こぞって祀る、というおかしなことになっているわけです。平氏は排他的に独占契約でもしたのか。
では桓武は何故それほど北辰祀りを禁制しなければならなかったのか。桓武の時代は一種の時代の曲がり角でした。京都が平城から長岡を経て平安京へ遷都した時代であり、その浪費のあおりで臣籍降下されたのが桓武平氏や嵯峨源氏だったほどでした。遷都の理由の一つが奈良平城京に東大寺大仏殿などに象徴される、神仏混数政策の一掃にあったのです。
そして奈良朝の神仏混数政策の実態とは正に北辰祀りだったのです。北辰祀りと云えば穏やかにきこえても、その実<怨敵調伏>の呪術であり、呪殺に本質があった。弓削道鏡が孝謙上皇の信頼を得たのも、この呪術によって恵美押勝の仲麻呂の乱を調伏したことが、最大の戦功として評価されたことによる。こんな危ないものを、だから桓武は放置するわけがなかったのではないか。
妙見・北斗信仰では、人はその七星中の何れかに属し、その生年により本命星が定められた。一説に平良文は午年で本命星は破軍星だったといわれ、したがってその本命星を祀ることにより戦勝祈願ともなり、また転禍為福ともなしうると信じられたのです。大江匡房が『江家次第』にも記録していますが、中国の道教経典『北斗本命延生真経』のものを道教に詳しい福永光司の紹介から引用しておきます。
北斗第一陽明貧狼太星君子(年)生まれの人、これに属す。
北斗第二陽精巨門元星君丑と亥(年)生まれの人、これに属す。
北斗第三真人禄存真星君寅と戌(年)生まれの人、これに属す。北斗第四玄冥文曲紐星君丑と酉(年)生まれの人、これに属す。北斗第五丹元廉貞網星君辰と申(年)生まれの人、これに属す。北斗第六北極武曲紀星君巳と未(年)生まれの人、これに属す。北斗第七天関破軍関星君午(年)生まれの人、これに属す。
古代の戦いは軍勢による物理的戦争以前に、神と神の戦いであり、敵の神をいかに調伏するか、その呪術力に全てがかかっていた。戦いはだから儀式でしかなく、やぁやぁー、我こそは何の何がしー、などと呑気なことも出来たりして、戦うまえに勝敗は決まっていたのです。桓武がどれほど禁制しようと、呪術力が信じられる間、戦争をその本分とする武家たちは妙見・北斗信仰を手放すはずはなかったのです。
秩父に平氏の外に丹党と呼ばれる一族がいました。いわゆる武蔵七党の一つで、児玉郡の金鑽神社に多宝塔を寄進したりもするほどの一族です。児玉郡には秩父平氏系の児玉党があり、丹党はそこに出張っていたにもかかわらず、いざこざも起きた様子も見られないことからして、武蔵七党というのはそれぞれ独立していながら共存共栄していことがうかがわれます。
金鑽神社は武蔵野で唯一の本殿のない神社で、広大な社域の奥に金佐奈神社を祀る。この神社の先を神流川に沿って十国峠街道を鬼石・万場町と行くと、いたるところ丹生産地であることを松田壽男は確認しています。
十国街道の峠道はたいした勾配もなく、初冬の落ち葉の中、好天をよいことに峠越えに挑んでみると、途中からうっすらと初雪を被る道に気を好くし、調子づいて先へ行くと段々積雪が深くなる。やっと峠にたどり着くと、さっき追い越して行った営林署の四駆の連中が昼食をとっており、大丈夫か、チェン付けてるか、と口々に激励のつもりか声をかけてくる。積雪三十センチはある雪の中をゴリ押ししながら、バイクにチェンなんぞ付けられるか、とブチブチぐちりつつ、それでもなんとか雪のない甲州佐久へ出たことだった。
秩父長瀞の南側に、和銅が発見されて改元までした和同開珎の発祥地、黒谷の採鉱地や製錬所があります。このあたりには銅ばかりでなく、金鉱脈もあるといわれる。こういう土地に丹党は陣取っていたのです。
丹党は紀伊国の丹生氏から出たという説もあって、秩父の各地に丹生神社もあって本論には好都合なのですが、武蔵七党系図ではその出自を丹治比氏につなげています。
丹治比氏は反正天皇の名代部として丹治比部が定められた他、宣化天皇の曾孫の多治比王の児から多治比公・真人を賜姓した。丹党の系図はこの多治比につないでいるのですが、その根拠がないものとして従来から否定されています。それならば丹党の先祖は何処にあるのかと問うた太田亮は、武蔵国造一族のなかから檜前舎人氏がそれであろうとしています。
檜前氏は応神朝に渡来した阿智使主の末で大和国飛鳥の檜前をはじめ全国にいた。武蔵国にあっては加美・那珂郡(現在の埼玉県本庄市)に分布し、丹党のそれと重なる。檜前舎人氏が丹治比氏の末としたのは、丹治比氏の先祖にあたる宣化天皇が飛鳥の檜隅廬入野宮で名代部の檜前部を定め、その末が檜前舎人氏となったと太田は考えた。『新撰姓氏録』によると檜前舎人氏は尾張氏の父系を得ていますから、尾張氏出身の宣化天皇に檜前舎人氏が仕えた可能性は多いにあり得ます。
丹治比氏は壬申の乱に功績があったらしく、その後一族から多くの官人を輩出し、一時は朝堂に大手を振っていたが仲麻呂の乱に連座して失脚した。各地の丹治比部や檜前部は中央の丹治比氏によって管理された。この様な縁故をたてに、秩父丹党は宣化皇子の末裔という偽系図を所有するに至ったと考えられますが、もう一つ裏があるように思えてしようがない。この件は次回の多摩の小野氏との絡みで考えることにします。
荒川の源流地帯にあたる秩父へ勢力をひろげた平氏や丹党は、秩父神社を祀った。妙見菩薩を祀った妙見社の勧請は鎌倉初期といわれています。厳寒の十二月、満天の降るような星空と打上花火を背景に、京都祇園・飛騨高山と並んで日本三大曳山車に数えられる夜祭りは、圧巻の一言です。それは古代の神々を担いだ戦いの再現であるのかもしれません。
武蔵国小野氏
秩父丹党はその系図に主張する宣化皇子末裔の丹治比氏の出自に反して、大和国飛鳥の檜前に発する武蔵国造族の檜前舎人氏の一族ではないかという太田亮の説を紹介しました。
同じようなことは武蔵七党のなかの横山党の総帥、小野氏についても言えます。現在の八王子市横山町を本拠に多摩川沿岸から相模国に勢力をひろげた一族でした。この小野氏が戸隠神社と同じ祭神の天下春命を武蔵国の小野神社に祀ったことは既に触れました。そして小野氏の先祖は妹子や篁を出した近江の小野氏の末であると称しているのです。
ところが、その証拠の一つにある横山党系図は『延喜式』に甲斐・信濃・上野等に牧監を置き、武蔵のみ別当職を置いたとあるのを受けて、「横山野別当と号す」という、小野別当ではなく野別当です。さらにその子孫は野太夫・野三郎・野七郎などとあり、小の字の欠字であるわけがない。しかも近江の小野氏が武蔵守として下向する以前から武蔵国府中付近には小野神社が存在したらしいことによって、両者は別の族であろうと太田は述べています。
武蔵国の小野氏の元は野氏、あるいは武蔵野氏とでも云った可能性が強いことになります。坂東の古代は坂東太郎の利根川、荒川、多摩川の沿岸に遺跡が集中しています。残りは火山灰地の荒野でした。水利が悪くて本格的な開発が進んだのは玉川上水などが開かれた江戸時代になってからです。荒野に野火を放って狩りをするか、焼き畑するか、後は野焼きで芽を出す牧草ぐらいしかなかったのです。正に<武蔵野>であり、そこに居たのは<野氏>に外ならなかったのではないか。
この野氏が、たまたま近江の小野氏が武蔵守として下向したことによって、何らかの縁で小野氏を称するようになり、小野神社の祭神を天下春命に取り替えてしまったのではないかと考えられます。すると野氏の祭神は何だったのか。
小野神社のある府中市からさほど遠くない、調布市のちょっとした高台に深大寺という地元では有名な古寺があります。どのくらい古いかと云うと、国分寺建立の発詔より十年前の創建と縁起にあり、関東一の古仏像、白鳳期の金銅造釈迦如来奇像(重文)が数度の火災にもめげず遺っています。この金銅仏は深大寺創建以前から近くの祇園寺にあったものと伝えられ、確実に古い。
ちなみに祇園寺の祇園とは、明治の神仏分離以前の京都の八坂神社が祇園感神院とか祇園社と称したことからきたのではないか。印度の祇園精舎の守護神の牛頭天王が素戔鳴尊と習合して、東山山麓の八坂郷に祀られた。『新撰姓氏録』に八坂造は狛コマ国人の後なりと、高麗人の末裔とある。
そしてこの深大寺の縁起が問題なのです。寺の開基は大陸からの渡来した男と武蔵野の女の間に生まれた満功上人という。近くに狛江市の名としてのこり、武蔵七党の西党に高麗の渡来系ともいわれる狛江氏が活躍しています。この男女の中を取り持ちしたのが<深沙大王>といい、深大寺の名はこれから称したと伝えられています。
深沙大王とは辰砂大王、つまり水銀大王に外ならないのです。唐の僧玄奘、三蔵法師の天竺往還を守護したと云われる神です。そしてこの深沙大王は小野氏が神官を務めた二荒山神社でも星神と一緒に祀られているのですから、ここでも小野氏と丹生の関係が見られます。さらに縁起によると、満功上人は多摩川の流木で仏像三体を彫り、一体をここに納め、あとの二体は下野国日光山と出羽国にあるという。
さらに周辺を探してみると、深大寺に近い甲州街道に面して、小さいながら式内社の布田天神社があります。元は多摩川縁にあっものを洪水の被害を避けて移されたと伝えられます。元の場所は『武蔵風土記』や『和名類聚抄』に爾布田ニフダとあり、爾が取れて布田となったことは明らかですが、爾布の元は丹生でなかったかと考えられます。
というのも、この布田天神社や深大寺のある調布の地名は、明治の町村制以後のものですが、文字通り調(みつぎ)の布として律令制下の租庸調の調布として、多摩は多麻とも書かれた麻布の生産地だったのです。また多摩川縁には染地・染屋の地もあり、多摩川で染布をさらす歌が万葉にもあります。
とは言え、丹生を染料に用いたものか定かでない。『延喜式』によると武蔵国の調ぎ物のなかには禁色の紫色に染める紫草や赤色に染める茜の根、紅花などがありますから、丹生の使い道はおそらく別にあったのでしょう。例えば深大寺金銅仏への鍍金などです。
もう一つ二荒山との関係を付け加えるなら、布田天神社のあたり布多の里、あるいは戦国末期には補陀郷(ふだのさと)と呼ばれたらしい。二荒山こそ正に補陀山に外ならないとすれば、これはもう日光へ行くっきゃない。丹生の不老不死伝説を求めて。
こうした武蔵野の小野氏、否それ以前の野氏というか野族は、いったい何処まで辿れるのか。
前回、秩父丹党は武蔵国造族から出た桧前氏であったと述べましたが、小野氏あるいは野氏のいた多摩の地域こそ、武蔵国造のいた土地であろうと云われています。小野神社をはじめ秩父の金鑽神社など、武蔵国の由緒ある古社を勧請してまとめた総社の一名六所神社、武蔵大国魂神社の南西の地、東京競馬場の正面側に、通称御殿地といわれる武蔵国造兄武日命殿館跡があり、この向い側に国造霊社があったといいます。
『先代旧事紀』国造本紀に无邪志国造は兄多毛比命とあり、さらに胸刺国造は岐閉国造祖兄多毛比命兒の伊狭知直とあって、武蔵国は无邪志と胸刺の二つの表記があり、親子とはいえ別々に記述されています。同一の国か別の国か解釈の分れるところですが、兄多毛比命が多摩なら兒の伊狭知直は埼玉県大宮の地と考えられます。
无邪志国多摩の兄多毛比命には相武(相模)国造の弟武彦がいます。さらに千葉県市原の菊麻国造も兄多毛比命の兒であると国造本紀にあります。つまり相模から武蔵・房総の、後の江戸湾を押さえていたのが无邪志国多摩の国造だったわけです。また岐閉国造祖兄多毛比命ともありますから、道口岐閉国といいますから、道奥国東北の入口まで勢力圏であったことになります。
すると兄多毛比命の兒の伊狭知直がいた埼玉県大宮の胸刺国との関係はどういうことになるのか。大宮は荒川沿いの金象嵌銘鉄剣の発見された稲荷山古墳のある埼玉古墳群の南側に位置します。調布の南側の狛江・野毛・田園調布古墳群が、多摩川沿岸に連綿と続いており、埼玉古墳群の発生と同時に下火になりました。こうした武蔵国の両地域における古墳群の消長から、多摩の无邪志国造小杵は、同族の胸刺国造の笠原直使主が助成をたのんだ中央権力によって滅ぼされたという説があり、いたって説得力があると思われます。
だから秩父丹党が武蔵国造族から出た桧前氏であるというのは、その分布する地域と系譜からみて、あきらから胸刺国造族であると考えられ、一方、敗れた无邪志国造族から出たのが横山党の小野族であろうと思われます。何故なら、武蔵国多摩から相模国へと小野氏等の横山党は勢力をひろげており、无邪志国造の勢力範囲と重なるからです。多摩の武蔵国にはそれ故、国府・国分寺が置かれ、中央から派遣された物ぐさ国司のために、武蔵国中から勧請された武蔵大国魂神社が占領軍植民地の象徴として創建されたのです。
そして、こうした敗残の武蔵野から、野氏あるいは小野氏等の武蔵七党が、一面の荒野に朱い砂塵を野火のごとく舞いあげ、源氏旗を押し立てたとき、京都平安の一角が崩れたのです。それには、一つの伝説、一つの幻想が必要でした。
将門幻想
平将門の乱はたった三カ月で収束したかにもかかわらず、その後の関東において多大な幻想として機能しました。それは<幻想>それ自身のもつ自己増殖によったのではないか。
関東独立国──これが将門幻想の正体でした。京都の中央政権から独立した、自前の国家。関東ユートピア幻想です。
将門幻想は将門の系譜の上で増殖した。将門の乱から九十年後に、房総に進出した秩父平氏流の忠常が中央から来た国司との間に悶着をおこし、互いに中央へ相手の非を訴えた。国司も平氏であったが、中央は当然のごとく国司の上申を取り上げ、諸国の兵士をつけて追討の宣旨を発した。平忠常の乱は京都政府にとって悪夢のごとき将門の乱の再来だったのです。当時の戦法は館から農家まで焼き払う焦土作戦で、追討軍は暴れまわり、関東は房総三国をはじめ常陸・相模国まで、乱後の租税の貢納を四年から六年も免除されたほど焼け野原と化したという。
それでも忠常は捕まらなかったことから、結局、政府は忠常の私的な主筋にあたる甲斐守源頼信を追討使に起用して、やっと忠常を召還することができたのです。将門の乱は三カ月だったのにたいして忠常の乱が収束させるのに、最初の追討宣旨が出されてから三年半もかかっています。忠常の乱が将門幻想に加剰されたであろうことは容易に想像されるでしょう。
そして、この時代、未だ後世のような源・平は未分化であり、中央政府の実力は確実に後退していた。もっと正確に云うなら、東国、とりわけ関東以東には未だ中央政府の政治力・軍事力は十分に浸透していなかったのです。
それはさらに関東以東の、この時代における社会や文化のあり方をも含めて、いまだ中世的というより古代的であったのではないか、と考えさせられます。その一つの重要なあり方に、東国の平氏や源氏、そして武蔵七党など、いわゆる武士団の急速な勢力拡張をもたらした婚姻のあり方に、古代的な母系制度と招婿婚の存在を想定しなければ納得できないということにあります。
招婿婚とは女が婿を自家に招き、生まれた兒は母の元で育てられながら、出自は父系を名乗るというものです。したがって元々は無関係な族同志が招婿婚によって結び付き、父系の一族として行動を共にするという結果をもたらし、一族は急速に勢力拡大することができる。武蔵七党などという武士団の成長は、これなくして考えられません。これを古代的というのは、古代社会のありり方を自力で研究・実証した高群逸枝のそれに負っています。
こうした関東以東のあり方を旧いとみるかどうかは別問題で、論旨に沿って換言すれば、中央政府の権力のあり方とは、正しくこうした古代社会を駆逐することによって成立した、と云う他ありません。問題は、関東以東において、それが中央のような貴族ではなく、武士団によって成し遂げられたその差異にあります。これは「武士」というものの発生に関わる重大問題ですが、ここでは扱いきれませんので、いずれ別稿を用意して考えることにます。
このような母系制の元に氏族をとらえなおすと、思わぬことが発見できます。例えば将門の母族は何族の何氏かと云ったことを、数ある将門論はほとんど問題にすることもなく、いきなり父系の平氏出身からはじまるから、いたって抽象的で、たまたま臍曲がりな異端児が出現したという程度になってしまう。
父は云うまでもなく従四位下陸奥守鎮守府将軍平良将という厳しい肩書の武将でした。常陸国相馬郡、現在の茨城県北相馬郡守谷町のあたりに領地を有していたが、死後その兄の国香に預けたところ横領され、将門との私闘の原因の一つとなったという。この地が将門の砦のあった地とされ、現在の隣の取手市にその地名が伝えられた。
ここに県犬飼一族が多く分布し、将門の母は県犬飼春枝の女といわれます。だから将門が相馬小次郎とも呼ばれたのです。そして将門の父の良将がこの地を領したということは、つまり招婿婚によって県犬飼春枝の家に入り婿したと考えられるのです。
ところで、この犬飼氏の名は既に出てきましたが覚えていますか。信州戸隠神社の手力男命を祀っていました。また空海を高野山へ導いたとされる地主神の高野明神や狩場明神もまた犬を連れた山師でした。犬を連れた山師は猟師の伝承に引き継がれていますが、山師すなわち鉱山師に他なりません。
将門は若いころ右大臣藤原忠平に仕えて都に上り、滝口の武士を務めていました。滝口は武芸に長じた者を選りすぐって、清涼殿の丑寅にある御溝水の落ちる滝口に務める禁内警護の武士をいう。つまり天皇のガードマンを若いころの将門は務めたことがあったのです。そのとき将門は番犬を連れていたかもしれないも、宮城十二門号のうちに若犬養門(皇嘉門)があることから考えられます。
将門は反乱を決意したとき「新皇」と自ら称したという。この場合の京都の朱雀天皇は「本皇」と『将門記』は記している。頼朝の「征夷大将軍」はあくまで天皇から命じられるものであることを思えば、将門の「新皇」僭称がいかに大胆であることか。滝口の武士を務めた経歴は無視できない。
将門の出身母族が山師としての県犬飼氏であるということは、その武力と財力の背景として、結城郡八千代町尾崎の製鉄遺跡の発掘によって裏付けられました。それが直接将門のものであるという証拠はないにせよ、鬼怒川の砂鉄を利用した製鉄所が将門の勢力地盤のなかにあったのです。
将門幻想にはそれなりの必然性があります。例えば将門の首が斬られて京へ送られたが、その首が飛行して関東に帰ってきたという伝説が各地にあります。関東ばかりでなく、美濃国の南宮社の隼人は神矢で射落としたという。それでも首は飛んだ。首ばかりでなく、手首も飛び、首を求めて胴体も飛んで群馬県には胴筒宮という神社まである。美濃の南宮社は製鉄神社でした。信州戸隠神社は天岩屋の飛来地でした。
死体が飛ぶ。死体運びは将門が発起した猿島郡、ここが古代毛野国の故地で、彦狭島王が毛野国へ下向しようとして倭で死んでしまうと、東国の百姓は悲しみ、はるばる死体を運んで毛野国へ葬ったと景行紀にある。将門死体飛行も、この死体運びの本歌取りだったのではないか。
将門幻想はふくらむ。平家落人部落関東版といきます。一般に平家落人部落といえば壇ノ浦入水以降ということになりますが、関東のそれは将門の乱がらみの、将門末裔を名乗る落人部落ということになります。
例えば、奥多摩に青梅(おおめ)という地があり、文字通り梅林で有名な土地です。将門お手植えの梅ノ木から名付けられたというわけですが、このあたりからさらに山奥へ向かって将門末裔を名乗る三田氏が戦国時代まで活躍した。将門の乱を鎮定した藤原秀郷に追われて、奥多摩の山岳地帯に隠れたと伝えられています。東京都でありながらどのくらい山奥かと云うと、東京の水瓶の奥多摩湖ができて周遊道路が敷かれるまで、桧原村人里ヘンボリ・数馬の地帯は、肥後の五箇荘、阿波の祖谷、越後の三面、秩父の浦山といっしょに日本五大辺地に数えられていました。初めて桧原村へ一人でツーリングしたとき、どんな辺境地帯かとドキドキしたものですが、道路一本が僻地を観光地に変えてしまう。
ちなみに数馬には信州戸隠神社から天手力男命を勧請した九頭龍神社があります。手力男を祀る神社が戸隠神社ではなく、九頭龍神社と呼ばれる点については、いづれ触れます。
この青梅の将門手植えの古木から根分けした樹齢八百年の梅の咲く愛宕神社参道脇で、吉川英治の『新平家物語』が綴られたのです。将門幻想が新平家を生み出したと云っても過言ではないでしょう。
房総の千葉氏は将門の末裔を名乗り、その遠い末の馬医の息子は北辰一刀流千葉周作として幕末に名を馳せた。九曜紋に象徴される星辰の伝説がもう一つ将門を取り巻いています。関東のそれは妙見信仰といわれ、星辰信仰を仏教的に解釈したものといわれますが、それ自体独立してあるわけではなく、深く製鉄や鉱山に関わっていたのです。それは砂鉄の採れた鬼怒川を遡上した二荒山へ行くとはっきりします。
オット、書き忘れた事一つ追加。青梅の将門落人部落から中里介山が出ています。青梅路は江戸城の白壁に塗る石灰を運び出す為に敷かれた甲州裏街道とも云われ、峠を越えると甲州へ通じる。その峠の気まぐれな辻斬り場面から大長編『大菩薩峠』は始まる。登場人物の多くが武州出身でありながら、彼、彼女らは踊り、闘い、欲望に溺れ、血を浴びながら、故郷を捨て、放浪・遍歴・遊行する。何処へ行くのか。それは最早有り得ない関東ユートピアだったのかもしれない。将門幻想がそうだったように。
将門幻想が現実のものとなったとき、つまり頼朝の鎌倉幕府は京都政権の一翼を担う、出先機関でしかなかった。 
 

 

敗者復活
頼朝の関東蜂起の当初は、おそらく関東独立国という将門幻想に突き動かされていたのではないか。しかし結果的には京都の政権に身売りすることによってしか、自らの立場を維持することができなかった。由比ガ浜で落馬して死んだ頼朝の姿は、裏切った関東独立国からの報復だったと思わずにはいられない。
始めて武家政権を樹立した頼朝の鎌倉幕府が、にわかに京都朝廷の政権を倒したなどと云う早とちりは、全てアウトであることを肝に命じておく必要があります。なかには、頼朝は朝廷の侍大将に過ぎない、と云う極論まであるくらいで、それは中途半端な政権でしかなかったのです。
将門の<新皇>は京都朝廷を打倒する目的をもたない関東独立国だったように、将門幻想の延長に実現した鎌倉幕府の支配できた範囲は、御家人と云う名の家来となって主従関係を結んだ領主の地域に限られていた。それ以外の地域、朝廷が管理する公領や貴族の荘園には、警察権や裁判権すら幕府にはなかったのです。さらに御家人にならない独立領主は云うまでもない。
どうして、そうなってしまったのか。基本的には頼朝が天皇から補任された役目である<征夷大将軍>とは、氏姓と同様に天皇の臣下であるという限界に左右されたと云えても、どうもそれだけではなさそうに思える。
頼朝にいたる源氏一族の歴史を概観してみると、宿命的とも云える源氏の朝廷内における位置付けが見えてきます。それは歴代の源氏は藤原摂関家に支えることによって、その位置を保ってきたということです。ところが白河上皇以来の院政が始まると、院は源氏の武力に対抗できる平氏、それも関東から移った伊勢平氏を重用して、源氏というより、その上の藤原摂関家を牽制したのです。
平氏にしてみれば源氏を叩くことが上皇の意にかない、その贔屓によって朝堂の立場を引き上げてもらえることが出来たのです。念を押しておけば、この平氏とは関東の秩父平氏流からたもとを分かれた伊勢平氏のことであった。それ故、頼朝を担いだ関東の源氏勢力とは、武蔵七党とともに多くの関東平氏の一族だったのです。鎌倉幕府の執権を務めた北条氏もまた関東平氏の一氏でした。
だから、いわゆる源平合戦の内実は<平平合戦>であったことになる。頼朝が源氏の棟梁などと呼ばれるのは後世のことで、平氏を倒す以前に、各地の源氏一族の間に、源氏の棟梁をめぐって覇権を争わなければならなかった。こちらの方がよほど実質的な<源平合戦>だったことになります。
ともかくも頼朝は伊勢平氏を西国に沈めて征夷大将軍に補任され、幕府を開いたものの、本当の敵は上皇の院政であった。上皇にしてみれば、頼朝の支配地が公領や荘園以外なら、それも仕方がないと踏んだのかもしれない。なにしろ朝廷に頼むべき軍事力は最早外になかったのだから。
それが証明されたのが蒙古来襲でした。西国の徴兵権を持たない鎌倉幕府は、院の承諾を得て、始めて蒙古来襲に備えた軍隊を編成できたのです。全ては慣例によって事は決する。非常事態のどさくさのなかで、鎌倉幕府はようやく支配圏をひろげることが出来たのです。
将門の乱に際し各地の仏寺は将門調伏を祈願した。それに先立って朝廷は関東をはじめとする地方の神社にたいして、位階を乱発して手な付けようとしたが、効果なく、各地に群盗がはびこる始末だった。所詮、地方の氏神、独自の神であり、中央の言いなりには動かなかった。そこで動員されたのが普遍宗教の仏教だったのです。とりわけ最澄以来の国家護持をもってなる天台は、衰退を盛り返すのはこのときとばかりに張り切った。
さらに石清水八幡も動員された。八幡社などと云うと、我々は直ぐに神社と思い込んでしまう。幕末の慶応四年五月十六日、次のような「太政官達」が発しられた。上野に彰義隊が討たれた翌日のことです。
大政御一新につき石清水・宇佐・箱崎などの八幡大菩薩という称号を禁止する。八幡大神と称するよう申し渡す。これより二カ月前、既に神仏分離令が出され、神仏習合は否定され、各地に廃仏毀釈運動が勃発していた。八幡大菩薩は神仏習合したもので、石清水のそれは宇佐八幡から平安初期に勧請されたものです。鎮護国家のために東大寺大仏に宣託した宇佐八幡大菩薩とは、最もはやく神仏習合をした神社のひとつです。
第二の将門の乱ともいうべき平忠常の乱を平定した源頼信は、石清水八幡宮に宇佐八幡に祀られた応神天皇に繋がる源氏の系譜を記した告文を納めた。そしてその子頼義は相模国鎌倉に元八幡を創建、これを起点に奥州へ向かって五里ごとに、いわゆる五里八幡を創建して行った。陸奥守鎮守府将軍として八幡神を奥州遠征の軍神として祀ったのです。
またその子の義家は石清水八幡にちなんで八幡太郎を名乗り、そして頼朝は元八幡を移築して鶴岡八幡宮とした。いまある鶴岡八幡宮もそれなりに豪壮な施設だが、明治の廃仏毀釈以前は『神仏分離資料』を孫引きすると、仁王門や経蔵、護摩堂に多宝塔もあり、当然鐘楼には徳川三代家光将軍の寄進した梵鐘等々もあって壮麗な神宮だったが、全て破壊されたり売り払われてしまったという。
さて、こうした八幡社は源氏の氏神としてばかりでなく、軍神として祀られ、徳川時代にいたるまで各地に勧請された。軍神と関係なさそうな<村の鎮守の八幡様>にまでポピュラーな存在になったから、その本然の姿も忘れられてしまいました。と云うより、軍神が<村の鎮守様>になったということは、その本然の姿、神仏集合・神仏混淆神として受け入れられた姿ではなかったか。
宇佐の八幡大菩薩が東大寺の盧舎那大仏に宣託をもたらした奈良時代末期、大仏建立をもたらした発想そのものが、当然のことながら軍神を超えた鎮護国家を目的としていた。天平期の多臂多目像の流行の行き着いたもの、それを国家目的に合わせて読み替えたものが盧舎那大仏であると云われる。
すなわち、釈迦の三千大世界や千釈迦、あるいは千手観音をはじめとする変化観音にしても、結局は一から出現する多であって無限を約束されてはいない。ところが、形而上学的思弁哲学の陥穽は、一即多・多即一といった、一から多数や無限を派生させてしまう。良弁などの華厳思想・金光明経による現世に黄金の仏を飾りたてる華厳浄土の実現こそ、各地に計画実現させた国分寺・尼寺建立政策でした。鎌倉幕府は鎌倉大仏でそれを真似た。
江戸幕府はさらに巧妙な仕掛けをほどこして華厳浄土の実現を目論んだらしい。浄土とは元々は仏の住む処であって、現実世界にはありえない。だから華厳経に云う善財童子が五十三人の善知識を歴訪した話が象徴するように、仏者とは求道者であったはずだ。ところが、東海道五十三次とは、正にこの転倒だった。源頼義の鎌倉元八幡にはじまる五里八幡とは、軍神であると同時に五十三次の先達であったかもしれない。
為政者や権力者はいつも大仕掛けを、見えない網で張り巡らす。だからこそ、幻想もまたそれに勝る見えない巧妙な仕掛けを必要とするのではないか。
将門幻想と云うにはいささか気が引けますが、紛うかたなき関東独立国を目論んだ鎌倉公方がいました。鎌倉公方とは足利幕府の関東・東北地方を支配した云わば副将軍のような立場です。九州に探題がおり、京都室町にあった足利幕府は統一的な全国支配政権というには頼りない存在でした。くじを引き当てた還俗将軍の義教に持氏は謀反を企て、あっけなく殺されてしまった。
こう書くといかにもあっけない話ですが、ここまで紆余曲折はあった。鎌倉公方の家内事情はともかく、関東とその周辺の守護をはじめ、国人と呼ばれる在地領主たちが一揆を組んで、幕府方と公方側に分かれて戦ったのですから、まるで南北朝騒乱の再来でした。かつての武蔵七党は血縁組織でしたが、最早、惣領制は崩れ、分家が本家をしのぐ勢力となり、地縁を本に組織されたものが国人一揆といわれるものです。しかも鎌倉公方が殺されても、公方側の関東勢は黙って引っ込むはずもなく、一年後には下総の結城城に十二三歳の持氏の遺子を名目人として挙兵し、一年後に落城した。将軍義教が臣下の赤松氏に首を取られたのは、この戦勝祝の宴席でした。
結城落城から少なくとも二十余年後を舞台に、壮大な関東幻想大戦を描いたものが曲亭馬琴の稗史『南総里見八犬伝』でした。里見氏は結城合戦の落城組、落武者だったのです。一度は関東独立国をめざして蜂起した者たちの、その敗北こそ八犬伝物語の発端でした。どうやって里見家を再興したか。上に述べた国人一揆を再び組織したのです。
人と犬の字を組合た伏姫の屍から飛び出した八つの玉を所持する八犬士たちの大活躍によって、幕府連合軍を敗走させた物語は、勧善懲悪の典型と見なされていたが、様々なレベルから分析・解釈しなおされて、その底知れぬ秘儀空間の仕掛けが徐々に明かされています。とりわけ高田衛の『八犬伝の世界』は、著者は触れてはいないが、馬琴に将門幻想なくして有り得なかっただろうことを思わせます。
将門幻想が既に一個の引用、もじり、もどき、本歌取り、見立て、やつし等々、オリジリナル信仰をあざ笑うかのように、その典拠まで開陳して趣向をこらす様は、それが稗史の常道・王道と分かっていても、あきれるばかりの用意周到さであるとを思い知らされる。その空間は神仏習合を超えて、多神教的混交、シンクレティズムの秘境を現出する。
時代は江戸城を築いた太田道灌の時代であるにもかかわらず、厳しい検閲を回避し、他所者の江戸幕府に関わる一切を捨像して、武蔵七党の末裔たち、つまりは関東の原郷をそこに繰り広げて見せたのです。
江戸時代まで星を星形で描くことはなく、丸い円形で描いたという。とすれば八つの玉は星であり、同じ星の下に生まれた、八犬士は生まれながらにして兄弟であることが強調される。だから彼らの母、大地母神文殊菩薩に比定される伏姫とは、文殊菩薩が八字文殊曼陀羅の中心にあって、妙見菩薩へと変身する。
そして本論に即して強調しておきたいことは、犬を連れた伏姫とは、犬を連れた狩人の正体が高野明神であったように、丹生都比売その人ではなかったか、ということです。そして八犬伝の世界とは、権力者たちの志向した華厳浄土とは異なり、次回に述べるつもりのこの世に有り得ない観音浄土、補陀落浄土だったと言えます。
現実の里見家は江戸時代の始め、大阪の役に先立って大久保長安事件にはじまる一連の疑獄事件のなかで、これといった理由もないまま改易、廃絶された。勧善懲悪をおもて看板に三十年間にわたって書き継がれた物語の最後は、八犬士のおごりの故に里見王国もまたゆっくりと崩壊していくことで、馬琴は締くくったのです。
二荒山
将門の首をあげたのは国司の下働きをしていた下野国掾の藤原秀郷でした。将門の乱に際し臨時の追補使に任命されており、掾は判官ともいわれるから警察所長のような役目でしょうか。と云っても、かつて秀郷自身が配流されたり追補の対象にもなっていたくらいだから、この時代の武士の正体というものは一筋縄ではいかない。中央政府は将門謀反に対して征東大将軍を任命したのですが、秀郷は征東軍が到着する前に将門を打倒してしまったのです。
この藤原氏はその後どうなったか、氏姓だけ追っかけると、この時代以降は分家がすすんで名乗りが変わるから見失いかねない。鎌倉時代には小山氏を名乗り、下野国守護職として絶大な勢力となった。南北朝騒乱のときには両勢力から勧誘を受けたが、どちらにもなびかず、逆に一族と語らって第三王朝の樹立を目指し、大軍に滅ぼされてしまった。この子孫が前回触れた足利時代に結城合戦で落城した結城氏だったのですから、将門幻想は将門を打ち取った側にも感染したことになる。
この一族の先祖の秀郷が藤原姓を名乗るには、中央の藤原摂関家と縁のなかろうはずはなく、藤原北家から出ています。藤原不比等の子の房前が北家を起こし、その子の左大臣魚名から四代目の村雄が下野国大掾として赴任し、在地の女に生ませた子が秀郷でした。
秀郷にはお伽草子や絵巻物に『俵藤太物語』という田原あるいは俵藤太秀郷百足退治伝説があります。近江国の瀬田の橋を通りかかると大蛇がとぐろを巻いていたが、おくせず大蛇を跨いだか踏み付けて行った。その後、下野国へ下る途中、美女に変化した大蛇に三上山の百足退治を頼まれ、下野の二荒山の神の助けをかりてみごと退治した。そのお礼に竜宮に招かれて歓待を受け、玉手箱ならぬ尽きせぬ巻絹や米俵や思いのまま食物の湧き出る鍋、それに鎧太刀や釣鐘といった、まるでドラエモンのポケットのような土産をもらったたという。もらった銅の鐘は三井寺に寄進されたという縁起譚で、物語の後半が将門征伐という構成になっている。
後で触れるように、同じ様な話が下野の二荒山にもあって、柳田国男は近江と下野の間を秀郷流の一族が往復していたのではないかと云う。史実は将門を討った恩賞に従四位下下野守に任じられた秀郷の次男の千晴が上洛して、近江国の蒲生の地を領し、その後の子孫は戦国時代を生き延びた武将の蒲生氏になった。
下野国の二荒山に伝わる百足退治は、二荒山神社の社人の小野源大夫の先祖の猿丸太夫が主人公です。柳田の説によると、出羽国の朝日長者の娘の朝日姫に京都からきた有得アリウ中将が婿入りして生まれた子だか子孫だかが小野猿丸太夫という。猿丸太夫の祖父母は死んで二荒の神になったが、上野国の赤城の神と湖水を争った。百足になった赤城の神に大蛇の二荒の神はかなわず、出羽の熱借山で狩りをしていた弓の名手の猿丸に加勢してもらい、赤城の神を追い払った。そして二神の戦った場所が中禅寺湖畔の戦場が原という。
二荒の神と瀬田の神は共に大蛇で、瀬田の美女に変化した神は竜宮へ誘い、二荒では湖水を争ったというから、それは<水神>であったとみなせます。そして退治された側の百足は、古来から鉱脈とか坑道のアナロジーとされている。
人跡未踏の山には初登頂という栄誉があるように、二荒山も例外ではない。と云っても大方のそれは眉唾ものが多いそうですが、二荒山に限っては同時代人の弘法大師が書き残した記録があり、天平七年(735)下野国芳賀郡高岡郷に生まれた勝道上人が三十一歳のとき思い立って、麓で三年の修行の末登頂に挑んだが道に迷って失敗、十余年後に再度挑戦して果たさず、翌年満を持して中禅寺湖畔から千米の登頂に挑み、深沙大王の加護をもって成功したという。これが二荒山修験の始でした。
この勝道上人の系譜に興味深いものがあります。これも柳田が集めたものですが、下野国高岡村の鹿島神社の社伝には、垂仁天皇の皇子の池速別は東国に下って病のために一目を損じ、この地に停り若田といい、十八代孫の子が二荒山開基の勝道上人となったという。
池速別皇子の子孫には『新撰姓氏録』によると阿保朝臣がおり、伊賀国阿保邑に宮を築いた皇子の末であるという。また『古事記』は同皇子を息速別命といい、沙保穴太部の別の祖と注している。沙保(さほ)は大和の地名で、穴太(あのう)は伊賀の阿保と同じです。そして大和の穴太には平城天皇の皇子の阿保親王に関わる不退寺があり、その末の在原(ありはら)氏の名から在原寺とも呼ばれる。
先に猿丸大夫の先祖は出羽の朝日長者に婿入りした有宇中将というのをあげましたが、この有宇は在原→有生→有宇と転じたという説があります。在原氏といえばプレーボーイの業平が有名で、『伊勢物語』の業平の無名の女との贈答歌も、実は小野小町と交わしたという解釈というか誤解が古来からあって、小町との関係が云々される。ここで小野小町を再び持ち出したのは外でもなく、猿丸大夫の生まれた家も小野氏であり、小町の生家もまた小野氏だからです。
小野氏の系図によると小町は小野篁の孫にあたる。一方、小町は出羽の郡司の娘とも云われる。篁の後先に出羽守に任じられて国司として下った者が何人かおり、郡司は当地の国造級の旧家名家が選ばれ、単身赴任の都から来た貴族へ地方官の郡司などは娘や女房まで差し出したといわれるから、小町もそうして出羽国に生まれた一人であろう。
真面な説では小町と業平は同時代人であっても特別な関係はないとされる。ところが業平の女癖が云々される原因の一つに、藤原氏の専横のために廃嫡された小野宮惟高親王に同情して、藤原氏が天皇に差し出すつもりの美人の娘をそそのかして駆け落ちしてしまった。そうした浮名を流してしまえば、まさか藤原氏もあきらめるだろうと浅知恵を働かせたものの、厚顔な敵は娘より八歳も年下の天皇の皇后へと押し付けてしまった。そして云うまでもなく、惟高親王とは木地師の祖とされたあの親王のことですから、つまり在原業平は意外と小野氏の近いところにいたことになるのです。
池速別皇子に関してもう一つあげれば、皇子の兄は沙本毘売が火中に生んだ品牟都和気皇子で、ショックで口が利けず、曙立王と菟上王兄弟と各地を放浪した皇子でした。その子孫は伊勢国の佐那神社に手力男神を祀っていました。兄弟の父系は丸邇氏であり、小野氏もそこから分かれた一族でした。『日本書紀』は少し話の様子が違って、皇子は白鳥を見て初めて口をきいたので、垂仁天皇は天湯河桁アメノユカワタナをして白鳥を捕らえさせたとある。この功績によって天湯河桁は鳥取連を賜姓した。
将門を打ち取った藤原秀郷の父系は上に述べたように藤原氏ですが、その母系の出身は下野国の鳥取史氏でした。この一族の末が下野国守護の小山氏を名乗ったことも触れましたが、また柳田によれば、武蔵七党の横山氏の始祖の刑部丞野三成網は小野氏であったが、下野へ移って小山氏となり、再び小野を名乗ったと佐野本系図に見えるという。
武蔵野国の小野氏が下野の小野氏とも関係あるらしいことは、小野氏のいた多摩川に近い深大寺を開いた満功上人が、流木で彫った仏像三体を彫り、深大寺の外に下野国日光山と出羽国へ納めたことから、十分考えられます。深大寺には深沙大王が祀られ、勝道上人の二荒山初登頂を加護したのも深沙大王であり、二荒山社人の小野氏が祀るのも深沙大王でした。小野氏と秀郷流の藤原氏は二荒山を巡ってこのように近い関係にあるのですが、山岳宗教に詳しい五来重は猿丸大夫について「(柳田)先生もよくわからずに書いていると思います」と、おそろしい断定をしています。十重二十重に取り巻いた小野氏の網の目は簡単に破れないのではないかと思うのですが、五来の柳田説否定はともかく、その反証にあげた内容は、次に述べようとする件の導入として、たいへん参考になります。
五来説によると、日光ではなくて宇都宮の二荒神社の縁起に、「小野猿丸」ではなく「温左郎磨(おんさろま)」とあり、山伏修験の唱える真言の陀羅尼の頭の一部をとって「オンサロバ」「温左郎磨」が小野猿丸の名に転じたという。そして勝道上人が二荒山の麓の中禅寺湖畔に十余年も止どまったのは、山神を祀るためよりも、中禅寺湖の水神を祀ることにあったという。つまり湖は海に見立てられ、そこが補陀落渡海の入り口であったと云うのです。
しかし、初登頂したはずの勝道上人に先立って、既に二荒山頂上に立った者がいたことを、考古学調査によって証明されてしまっているのです。
補陀落他界
赤城と二荒山の神が水争いをしたという伝説は、水神の二荒の神が大蛇と云われるから、奥多摩の数馬に祀られた九頭竜神と同様の水神伝説と思われます。奥多摩の九頭竜神は信州の戸隠神社から勧請されたと伝えられます。
天岩戸飛来伝説をもつ戸隠神社では鬼女伝説しか触れませんでしたが、その古層に、越国の水神九頭竜が祀られていました。越国から山々を越えて来たかと思いきや、元は穂高神社経由というから、おそらく日本海から翡翠の姫河・塩の道を登って信濃国にもたらされたものと思われる。
何事も根掘り葉掘りの始原へ溯るのは好みではないのですが、この場合に限れば、ある程度の詮索をしておいた方が見通しが良いように思われます。
越国の九頭竜伝説とは云うまでもなく、白山北麓から日本海の東尋坊のあたりに流れ出す九頭竜川の沿岸に伝えられる水神伝説です。水量に比べて川の長さが短く、濁流は竜頭に例えられて恐れられたのではないか。この激流の治水に成功したのが倭国へ進出する前の継体天皇であるとして、地元にはばかでかい観音像のような継体の石像が建てられている。
こうした九頭竜伝説は大蛇退治伝説と習合して、例えば出雲の八俣の大蛇退治になったのではないか。また同じ九頭竜伝説でも箱根芦ノ湖の箱根三所権現のものは、中世の『神道集』の時代にインド産の神が来日したことになっている。
九頭竜川の上流に丹生神社があり、そこから水銀反応があったと松田壽男は『丹生の研究』で述べています。考古学の成果によって継体の周辺にはキンキラの金細工が多数発掘されていて、九頭竜川流域は砂金の宝庫であったろうことを思わせます。先に松田の説を借りて、丹生都姫は水神に取って代わられたと述べました。ところが松岡正剛は「空海、山を駆ける」の中で、丹生の神は辰砂と治水の神であると、両端をあっさり認めています。
そこで思い出したのが折口信夫の、その筋では有名な名文「水の女」でした。この文章は古代精神史とでもいうべき範疇ではよく引用されるものの、大概その後半部であって、前半は捨てられるから、まさかそこに丹生について触れられ、それが<水の女>になったとは余り知られていないのではないか。
<水の女>とは粗く括れば江戸時代風にいうと湯女であって、貴人が湯水をつかうときに介添えする女をいう。湯水は衛生のためばかりでなく、斎河水を潜る禊ぎであり、若水、変若水オチミズといって若返りの聖水であり、そのとき湯帷ユカタビラを着る。元は小さな布、手布テナを解いて介添えするのが<水の女>で、手布すなわち褌を置く棚を湯河板揚ユカワタナと云ったという。そして手布を織るのも<水の女>の役目で、この女のことをタナバタツメともいう。
変若水が若返りの聖水であるのは、赤子の産湯をつかうことことからきたことは明らかで、その産婆的介添え役が壬生(みぶ)・乳部という部名になった。壬生は丹生の変わり字だから、<水の女>の元が丹生にあることは自明であろう。
乳(にう)部に関わってついでに触れておけば、祟神・垂仁天皇の子等に、例えば八坂入彦・八坂入姫といった<入>の字のついたものが多く、古代史家はイリヒコ・イリヒメと訓んで<入族>の列島侵入を説いていますが、乳部は入部、つまり丹生部だから、せめて<丹生族>の列島制覇とでも云ってもらいたいものです。因みに秩父は乳生すなわち丹生の転化であろう。
壬生部は『日本書紀』の推古十五年に設置されたとあることから、偏狭な文献主義者はそれ以前に壬生部は存在しないとも云う。部民としての壬生部は存在しないかもしれないとしても、中央の倭政権が樹立される以前から壬生族や丹生族はいたであろうことは明らかであり、文献に頼るだけでは何も解らない。
水神伝説を追って丹生との関わりが明らかになったところで、二荒山の補陀落伝説に戻ります。既に少し触れたように、観音信仰の浄土観に華厳浄土と補陀落浄土観の二様があって、南の果てに補陀落浄土があると信じられた仏教的説明でした。そこで、くの字の逆に折れ曲がった弧状列島の紀伊半島が一番南に位置し、熊野の那智山の先の海上に補陀落浄土があると信じられ、実際に補陀落渡海した記録もある。有り体に云えば、それは入水自殺です。
それが何故、下野国の二荒山にもたらされたか、その経緯は解らない。那智山のそれは那智滝の流れ出た海上に浄土があるというから、前回引いた五来重説のように<水神>にこだわれば、二荒山の伝説は中禅寺湖の<水神>に還元されてしまうが、それでは勝道上人が十余年もねばって二荒山登頂を果たした意味が説明できない。
公伝以前の仏教的な説明を脇へ置いてみると、紀州熊野のあたりはそれ以前から似たような話がある。記紀神話の続きにあたる神武東征は、紀伊半島に上陸する以前に散々な目に遭い、神武の兄にあたる稲飯命は母の国へ、三毛入野命は常世郷へと共に入水自殺した。
そこは常世国の入り口であった。熊野の隣の伊勢国もまた常世国伝説の地であったことが諸書に散見できる。少名彦神の熊野から常世に渡る話、倭姫が天照大神を伊勢に祀ったのも、常世の浪の寄せる国だからとされた。そして伊勢外宮の元伊勢のあった丹波国には、<水神>とからむ浦嶋太郎子の羽衣伝説・竜宮伝説がある。
しかし常世国伝説は<水神>や海上にのみ関わるわけではない。記紀には多遅摩毛理が常世国へ派遣されて木の実をもたらす話があり、丹波浦嶋子の常世国は除福渡来伝説と重なったか蓬莱山と書かれる。それは補陀落浄土がそうであるように、現世に対する他界にあたる。だから二荒山のそれは海上渡海というより、山上他界というべきであろう。
何のために山上の他界へ登るのか。以前、常陸国、茨城県の山中と云っても海岸線から十数キロほどの丘陵地帯にある、浅草観音系の神社へ山菜採りに連れて行ってもらったことがある。例によって廃仏毀釈の被害にあって、寺仏関連は全て破壊されていたが、その裏山に修験場が残されていて、男坂の鎖場まであったからよじ登って、明らかに人工の洞門を潜り山頂に出ると、遥かに太平洋が望めた。修験場というには規模が小さ過ぎるものの、そこはかつて儀式的な山上他界の場であったろうことは想像できる。そこに山があるから登ったのではなく、つまりは他界を経て生まれ変る神仙境伝説につながる。
この様に見ていくと、他界とは海上や山上ばかりでなく、地底にもある。イザナギの黄泉の国巡り、甲賀三郎の地底巡り等があり、公伝以前の仏教渡来が明らかな長野善光寺の基壇下には胎内潜りと称する地下道まであって、真っ暗闇の中で観音像に触れれば長生きするとか云い長寿願望をくすぐっている。天照大神の岩戸隠れとは、正に地底巡りの出口・入口だけがとりだれたもので、一度死んで生まれ変わった姿ではないか。
常世国伝説が丹生に関わる説話が『日本書紀』の皇極紀にあります。東国の富士川のほとりの大生部が蚕に似た虫を常世虫と称して、この虫を祭ると富と長寿が約束されると言い触らし、舞い歌いながら祭る常世虫信仰が爆発的にひろがったので、民を惑わすとして秦河勝が大生部を撃つたという。大生部は大壬生部の略称である。
伝説は無論のこと、信仰すら現世利益と結び付いて生き延びる。神仙境伝説の多くは養老の滝や不老長寿願望や不老不死伝説を生み出す。華厳浄土観と結びついて貴族の邸宅には宇治の平等院のような神仙苑すら出現した。
常世国伝説や不老不死伝説につながる話とは、現代風に言い換えればタイム・スリップであろう。二荒山でスリップすると玉手箱から何がでたのか。
考古学調査によって二荒山頂から、修験山伏の祭具などといっしょに弥生時代の鉄鐸が百三十個余りも出土した。信州諏訪神社や伊那の小野神社に伝えられた十個に満たない鉄鐸と同じものです。銅鐸も含めて鐸の使い道がますます分からなくなるという結果をもたらした。
二荒山と赤城山は共に紀伊国から来て開拓した古代の大族の毛野氏の地でした。紀伊国を追われて毛(木)国に来たのです。しかし、後に上毛野・下毛野に分かれた。百足と大蛇の戦いとは両国の何らかの争いの反映とも考えられます。というのも、先日も報道されたように、奈良の法隆寺に匹敵する壮大な山王廃寺(放光寺)が上毛野国の前橋にあったが、後にさびれたとされる。一方、下毛野国からは官人貴族を次々に輩出し、大宝律令の選定メンバーにすら名を連ねて、大和朝廷の律令支配に参画している。それが小野氏とどの様に関わるのか判然としない。
少なくとも言えることは、小野氏の本拠になる近江国に近江下毛野氏もおり、近江国こそ銅鐸が大量に出土する地域であると云うことにあります。それが二荒山の鉄鐸と関わって常世国伝説や補陀落他界観につながるのかどうか。 
 

 

日光山
二荒山あるいは補陀落山が日光山にかわったのは、周知のように徳川家康の廟が東照宮として、駿河国久能山から改葬されて以来と云われます。そこは江戸の北辰、玄武に位置する。
日本の建築のなかで、その豪華さに比して日光東照宮ほど評判の悪いものはない。それも専門の建築家ほど悪く云うのだから、始末が悪い。何故そうなってしまったか、底を割ってみれば、たわいのない話なのです。
ヒットラーを逃れてユダヤ人のある建築家が亡命して来た。建築家として日本に居場所を確保しなければ生きていけない。そこで彼が採った方法が将軍建築の日光東照宮を貶め、天皇建築の桂離宮を称揚することであった。明治以来、舶来なら何でもOK、元からバロック的なギンギラ趣味の東照宮に好感を持たない日本建築界のモダニストたちは、彼の御託宣に恐れ入ってしまったという次第だったのです。
建築が誰の物であるかということで評価することは、ほとんど意味を為さない。権力者ほど立派な建築を造れるのは当たり前のことで、そこで何を為したか、何を表現したかが問われなければならない。
日光東照宮とは時代を端的に表した建物です。安土・桃山時代以来、時代の文化を表現し、牽引したのは建築表現でした。その前の戦国以前の中世なら民間宗教が時代の牽引車だったように、近世の初めは安土城に始まる豪華絢爛の建築時代でした。ちなみに古代平安の文化を引っぱたのは和歌の類いにあたる。
その絢爛さは例えば同時代に並行する芸能歌舞伎の絢爛さに匹敵する。やくざな歌舞伎者に象徴されるように、それは決して為政者にとって望ましいものではなかった。能を表芸として採用した徳川幕府にとって、歌舞伎は取り締まりの対象でしかなかった。
歌舞伎の素材の多くは世話物(当時の現代劇)と並行して中世に採っています。しかしそれは最早中世そのものではない。断片化された中世、言い換えればカタログ化された中世であって、そのアレンジメント、編集とも言える組み合わせが近世歌舞伎にとっての中世でした。
それは日光東照宮の設計方法そのものだったのです。中世に勃興した宗派はそれぞれの自己主張のために、様々な様式デザインを開発した。日光東照宮はそれらを混合した結果、あのような何でも有りの豪華絢爛さを呈したのです。だからそこに中世を探しても意味はなく、様式カタログの束でしかないのです。家康の東照大権現という神名?からして顕教・密教・神道を合体させた神仏界の最高神として位置付けられていると云うのですから。
しかし、家康にとって何故日光山でなければならなかったのか、と考えると、日光が江戸の北辰、王座にあたると同時に、やはり補陀落山の不老長寿伝説が効いていたのではないかと思えます。無論、家康は没してから日光へ遷されたわけだから、家康個人ではなく、徳川政権の不老長生をこそ、中世伝説に乗っかって祈願したと見るべきでしょう。
家康の廟ができる以前、二荒山を含めた下野国は宇都宮氏が中世以来支配していた。正確に云うと、秀吉の厳しい検地に引っかかって改易されるまで、鎌倉・室町から戦国時代の下野に君臨したのが宇都宮氏であり、小野氏をはじめとする二荒山神社の神官を支配していたのです。だから、宇都宮という名乗りがすでに二荒山の補陀落他界もしくは渡海に乗る虚ろ船の宇都からきたことは明らかです。
補陀落渡海の虚ろ船とは、刳船に蓋を打ち付けたもので、渡海する人はその中に入るわけだから、二度と生きて還れない。あるいはまた、沖へ出て船底の栓を抜いてしまうというから、虚ろ船とは棺桶以外ではないことになる。
しかし、補陀落信仰は自殺行にあるわけではない。おそらく神は虚ろ船に乗って流れ着いた、と云う古伝に由来するはずた。その虚ろ船は瓢ヒサゴであり、二つに割れば柄杓になり、天空の柄杓星、北斗七星信仰へと変貌する。とすれば、何故、山上他界なのかもまた、およそ見えてくる。
古代の古墳の石室に納められた柩は石棺が多いが、木棺もある。木製品の多くが腐ってしまうように木棺も少ないが、発掘された場所をあたると何故か下野周辺に目立っています。ここから直ぐに二荒山の不老長生伝説に結び付けられるわけではないとしても、古代以来の不老長生願望は柩のなかに埋納された鏡と朱沙、丹生の使い方によく表れています。
石棺などから発見される朱沙やベンガラは遺体の下に敷いた程度であったが、これが技術的になると内蔵を取り出して代わりに朱沙をしこたま詰め込むと云うから、これはもうミイラ志向以外の何物でもない。芝増上寺から発掘された徳川歴代将軍の話です。
二荒山に補陀落他界伝説をもたらした遠因をさぐると、二荒山修験の山伏たちにちがいなく、彼等こそ山のもう一つの幸、産鉄を探る専門技術者であった。二荒山の開山者とされる勝道上人の先祖を一目を損じた池速別につなげているのも、古代の金属神とされる天目一個神の姿に重ねたものであった。
日光には鉱山もあるが金山もあったと『日光市史』が認めているという。冬場に豪雪で毎年通行止めになる金精峠の名があるくらいだから、かつて金山があってもおかしくはない。ちなみに二荒山は足尾銅山で有名な足尾山地の一角に位置する。そしてここに下野国=栃木県の神社誌によると、磐裂神社すなわち星宮が一県にして二百数十社もあると云う。
磐裂神社の名を知ったのは谷川健一の著書が最初であった。信州・甲州にまたがって磐裂神社と磐裂伝説が散在し、それはおおむね岩を蹴り裂いて潅漑用水を確保したという、農耕世界の伝説に変貌している。だから谷川も鉱山開発との関わりを感知しながら、鉄器をもって開拓した伝説に帰してしまった。
磐裂という巨大なイメージはガリバー的巨人、ダイダラボッチ伝説につながるのではないか。各地のダイダラボッチ伝説は変哲もない湖水や沼をもって、ダイダラボッチの足跡と伝えています。そこで共通するのは藤蔓がなくて悔しがったという点にあり、何故、藤蔓なのかがこの謎を解くキーワードになる。
例えば神奈川県相模原の大沼に、ダイダラボッチ伝説があります。丹沢山塊の向こうに富士山の頭が見える場所で、ダイダラボッチが富士山を背負って行こうとして足を踏んばった跡といい、程近い渕野辺の鹿沼は山を縛る藤蔓を探したが見つからず、地団太踏んで悔しがった跡と、子供のころザリガニなど捕って遊んだときに近所の大人に教えられた。だからダイダラボッチは藤蔓を呪って、この辺には藤蔓が生えないというおまけがつく。だって、藤蔓いっぱい生えてるじぁん、とやり返したものだ。
砂鉄を河の流水からすくうのに藤蔓で編んだものが一番適しているという。ダイダラボッチはその藤蔓を手に入れることができなかった。だからダイダラボッチは砂鉄を利用する以前の産鉄伝説ではないかと云われる。そして問題は<藤>にある。
炭焼藤五郎、俵藤太など<藤>の字が名につく者は皆産鉄に関わることは柳田国男によって指摘されている。また井戸掘り職人の名にも<藤>の字が名につく者が多いという。井戸とは水抜き井戸ばかりではない。吉野の井光などの丹生族のように、坑道掘りもまた井戸掘り職人の仕事であった。そして<藤>は<渕>に通じるから水辺に関わり、再び水神伝説へ円環する。
わたしたちの周りに多くの伝説があります。しかしそれらは断片化され、カタログ状態にある。断片のままの情報をいくら積み上げても、それはただの屑でしかない。屑情報は誰かさんのベストセラーではないが、とりあえず捨てるしかないのかもしれない。しかし屑も溜れば宝の山になる。その編み方次第で。
陸奥黄金境
夷を以て夷を制す、と云う言葉があります。夷とは何か。
夷とは野蛮人であり未開人であって、要は異人であった。夷狄イテキと呼ばれ、東夷と蔑んだ中央貴族の使った、云わば差別用語に外ならない。貴族にとって東国武士すら東夷であった。狭義に東恵比須と云い、あるいは蝦夷とも云う。
自分では手を下さず敵同氏を戦わせて敵を撃つことを、夷を以て夷を制すと云う。古代の中央政府はいつもこの手で東国制覇を成し遂げた。よく考えてみれば、出雲大国主の国作りと天孫族への国譲りとは、まさしくこれを象徴的な神話にしたものです。だから、国作りと国譲りは何度でもくりかえされたと云わねばならない。
夷俘・伊治砦麻呂、大墓公・阿弖流為アテルイ、悪路王、俘囚・安倍頼時、俘囚・清原家、藤原清衡はじめとする奥州藤原四代などが討たれる側の夷とされ、それにたいして越国守・阿倍比羅夫、征夷大将軍・坂上田村磨、征夷大将軍・文室綿麻呂、陸奥守兼鎮守府将軍・源頼義、陸奥守・源義家・そして惣追補使・源頼朝などが討つ側の東夷であった。
討つ者も討たれる者も夷狄であるなら、討たれた者たちの出自が蝦夷か否か問うことに何ら意味がない。何故なら、討たれた者たちの多くは、前身はともかく、そのとき紛れもなく中央政府の出先期間の一員であったからです。
例えば俘囚と呼ばれた安倍頼時は、捕虜となった囚人の責任者で俘囚長であった。俘囚長は中央政府が蝦夷との自治協調政策によって定めた制度上の役目である。岩手県の中央部の北上川流域は奥六郡といわれ、その司である俘囚長が支配し、徴税・訴訟など独自に執行し、さらに北方蝦夷との交易権も持っていた。だから彼らが奥六郡を支配し勢力を蓄えて次第に南下するようになると、国司との関係も円滑にいかなくなった。
そこで政府のとった手段は、国司の陸奥守に鎮守府将軍を兼任させて制圧することであった。鎮守府というのは文字通り蝦夷の反乱を鎮めるために、現地に特別に設けた役所である。俘囚勢力が拡大して国司の支配地にはみ出したところを反乱と決めつけ、しかも挑発までして戦争を仕掛ける。さらには国司の軍勢の数はたかがしれているから、山北の俘囚を動員する。
中央政府側につくか、反乱して自立するか、将門以来の関東の武家たちがたどった同じ道を、ここ陸奥でも通らねばならなかったのです。山北の俘囚長の清原兄弟は討つ側について奥六郡の俘囚長安倍頼時を倒してしまった。前九年の合戦といわれる陸奥守兼鎮守府将軍・源頼義が武名を挙げた戦いがこれでした。源頼義は陸奥国司の任期を二期をこえてまで陸奥にとどまり、俘囚長安倍頼時を滅ぼした。
それに加勢した山北の俘囚長の清原氏は恩賞として鎮守府将軍に補任され、奥六郡も含めて支配する巨大な豪族となった。ところが、遺領相続から内紛が起きてしまった。そこへ頼義の子の八幡太郎義家が新たな陸奥守として赴任し、清原氏の内紛に不当介入、清原氏の一部を滅ぼしてしまった。これが後三年の合戦で、そのとき義家側についた他の清原氏が奥州藤原四代になる。
源義家の清原氏内紛への介入は私戦とみなされ、政府から軍費などが支給されなかった。父の源頼義が任期を越えて陸奥にとどまった分も同様で、官物の返還を請求されて、後に納入している。そればかりでなく、合戦に参戦した武将たちの恩賞も私費をもって報い、戦闘上手な武家の棟梁としての地位を大いに築いたのです。
何処からそんな費用を出すことができたのか。一般に国司を務めれば莫大な実入りあるとされるが、戦費や恩賞まで賄うとなれば徒事ではない。ここに陸奥国の黄金産出を見逃すわけにはいかない。
天平感宝元年(749)東大寺盧舎那大仏の建立の最中、鍍金の為の金が足りないとき、初めて陸奥国より黄金が献上されたと『続日本紀』にある。それ自体は政治的なパフォマンスだったとしても、大仏が開眼した三年後には、陸奥国多賀以北の調庸は黄金と定められた。
黄金が沸いて出るほどに産金の豊富な陸奥以北は、だから俘囚たちはたちまち勢力をひろげ、内紛をお越し、そして征討の将軍たちが群がるゴールド・ラッシュとなったのです。
黄金の国ジパングの謂れともなったと云われる中尊寺金色堂を初めとする奥州藤原四代の黄金境とは、こうした歴史的変遷の元に成ったのです。しかも初代清衡の父の藤原経清は将門と百足退治と黄金伝説の俵藤太秀郷流の子孫という系譜をもっている。だから彼等を奥州独立国とするのはいささか早計で、四代は一貫して陸奥・出羽押領使として君臨した中央政府の出先機関でした。三代秀衡のときには鎮守府将軍になり,また源頼朝が関東に挙兵したときには平家の強力な推薦によって陸奥守にすらなった。そのためには中央の権門貴族へ、莫大な荘園や黄金を寄進して、安定した立場を確保していたのです。
中央政府の出先機関とは公家貴族の手先であり、公家文化と無縁では有り得ない。それ故、陸奥の中尊寺金色堂とは山城国宇治の平等院鳳凰堂の陸奥版であったも言えます。
中央権力を一手に握って<我が世の春>を歌った御堂関白藤原道長は、一方で仏教流布の末期来ると云う、末法に入ると仏法がおとろえる、世も末、世紀末的な末法思想・終末観に取り憑かれて、吉野奥の大峰山頂に写経を埋め金無垢の黄金仏を奉納した。ちなみに、末世を救う仏教として浄土教が中世に流行ったのも、だから故なしとはいえない。
宇治の平等院は道長の別荘を子の頼道が寺として建てた。五十六億七千万年待ってもよいからと西方浄土を期待し、せめてそれまで現世を極楽浄土に似せて造ろうとしたのが平等院でした。道長の<我が世の春>には、そんな裏面があった。この藤原摂関家に奥州藤原四代は仕えていたのです。
末法思想が黄金に結び着く。この摩訶不思議さこそ黄金の魔力かもしれない。夷狄とは、一体誰だっのかしらん。
空海伝説
攻め立てられた蝦夷たちが現地で俘囚として管理されたと同時に、反乱軍に対する前線基地の楯として配置された蝦夷もいた。阿尺・伊久・信夫・思・染羽・白河の国造などは、その祖をそろって阿岐国造と同祖としている。東北の国造が西国の安芸国から出張って来たかにみえるが、阿岐国造は佐伯氏だから元は蝦夷の族でした。ちなみに佐伯は塞るからきたという説がある。
この佐伯氏の歴史を『日本書紀』にたどることができます。景行紀に、日本武尊が陸奥国を攻めて、叛いた蝦夷を連れてきて伊勢神宮に献上したとある。ところがこの蝦夷たち、昼夜にわたって騒いだため倭姫に追い出されて御諸山のほとりに移された。蝦夷たちはここでも騒ぎをおこし郷人をおどろかせたため、畿外の播磨・讃岐・伊豫・安芸・阿波の五国へ分散して移された。彼等はそれぞれの国の佐伯の祖であるという。同じはなしは『新撰姓氏録』右京皇別佐伯直の条にもある。
さらに仁徳紀には、天皇・皇后は播磨国に避暑して、夜毎に鹿の鳴く声など聞こうとしたが一向に鳴かない。翌朝、佐伯が鹿肉を献上してきたのを見て、佐伯を安芸国へ移した。また同様の話が『播磨風土記』にもある。
安芸国造の祖は『先代旧事紀』に天湯津彦命五世孫の飽速玉命とあり、東北の国造たちは芋づる式に同祖となった。と云うことは、彼等もまた安芸国造と同様に佐伯氏だったことを意味します。
ところで安芸の佐伯氏は後に権国造佐伯氏として、安芸国の厳島神社の神主にもなった。厳島神社は西海の制海権を握った伊勢平氏が氏神として祀った時期があります。長門本『平家物語』に、安芸佐伯氏の祖の鞍職について、播磨国で射た鹿は金色に輝く黄金色の鹿であり、この鹿を殺した科により安芸に流されたという伝承を記すという。
こうした歴史を伝承する佐伯族の讃岐の佐伯氏から、彼の空海を出したのです。空海の母系は阿刀氏と伝えられるが、生まれ育ったのは讃岐とあるから父方にいたらしい。
空海が佐伯氏の出身であるなら、佐伯の先祖が黄金色の鹿を射たという伝承は、紀伊国の高野明神=丹生氏との関係が生じる以前から、佐伯氏自体が狩人であったことを語っていることになります。そして、黄金の鹿とは陸奥の黄金そのものではなかったのか。そうすると、丹生氏はどうなってしまうのか。
東北の佐伯系国造の南端は福島県の白河国造にあたる。その南側が茨城県の常陸国で『常陸風土記』等によると、常陸那珂・常陸多賀・筑波の国造などが壬生氏とある。また安房にも壬生部がいた。壬生は丹生の変わり字であることは以前に触れた。つまり、丹生氏と佐伯氏は隣り合っていたことになります。
これらの丹生=壬生氏とは系譜としてつながらないが、下野国の二荒山神社の社家に壬生氏がいて、戦国時代に京都から来て宇都宮城を攻めたりもしている。こうした壬生氏の分布をみると、そこにはおそらく丹生都比売が祀られていたはずで、関東一帯の妙見信仰などは、こうした歴史的な下地があって敷延したのではないか。
二荒山を開山した勝道上人の事績が確かなものとして残されたのも、八十余歳の老僧自ら若い空海に撰文を依頼し、空海もまた下野国を訪れたことによる。一切が国家の丸抱えの最澄などと異なり、二人は共に私度僧あがりであった。
遣唐使船に便乗した私費留学から帰国すると、空海の周りで事件がおきた。母方の伯父、阿刀大足が教育係として侍講をつとめていた桓武の第三皇子、伊予親王が宮廷の陰謀に巻き込まれて幽閉のあげく自殺に追い込まれた。大足もまた流浪の憂き目にあい、後に空海の元に現れ、執事の様な役目を務めるようになる。
この阿刀大足、師は大足しか無しと空海に言わしめたほどの人物で、讃岐時代の空海の個人教授であった。阿刀氏から玄方・行基・良弁などの師にあたる義淵も出ている。その大足が空海の私費留学を伊予親王を動かして実現させてくれた。お前は佐伯氏の<希望の星>だからと。
伊予親王が自殺に追い込まれた宮廷の陰謀とは、その三年後に起きた薬子の変といわれる、平成上皇が弟の嵯峨帝を廃して長岡京から再び平城京へ遷都し、重祚しようとして失敗した事件である。これが薬子の変といわれたのは、皇太子時代から寵愛していた藤原式家の薬子とその兄の仲成と共に企んだ陰謀だったからで、兄は坂上田村麻呂の軍に射殺され、薬子は毒をあおって自殺したことによる。
薬子は藤原種継の娘だから親子二代の不運となった。種継は桓武の寵臣で、平城から長岡京への強引な遷都の造宮使であったが、建設現場で遷都反対派に射殺されてしまった。反対派の主は皇太子の早良親王と、その側近の大伴・佐伯の両氏とされ、親王は淡路へ流された。側近の大伴氏は既に先月に任地先で病没していた大伴家持まで位階勲等を剥奪され、佐伯氏は一族の多くが罰せられて没落の発端となった。空海はだから佐伯氏の<希望の星>を運命づけられていたのです。
毒をあおった薬子は、その名から薬師ではないかと云われる。薬と毒は紙一重、サジ加減ひとつで薬にもなれば毒にもなる。丹生は正にそれで、丹薬は丹毒でもある。伊勢白粉として化粧に使われたが、不倫の果ての堕胎薬にも使われて多くの命を奪ったという。
丹生を用いた丹薬の処方を練丹術という。秦の始皇帝や前漢の武帝は絶対専制君主として延命するために、道教の練丹術師を徴用して仙丹をつくらせ、歴代にわたって飲んだ。その結果、皮膚がかさつき、高熱を発し、精神異常をきたして死んだという。唐の二十一人の皇帝のうち六人の皇帝がおそらく丹薬で死に、しかもそれを自覚していなかった。歴代わずかに則天武后だけが八十余歳まで長生きし、やはり女性は強い!というおはなし。
日本の天皇も丹薬を服したという記録がある。淳和・仁明の両帝で『医心方』にも載る金液丹を飲んで効験を得たとある。しかし、三条帝は同じ金液丹を飲んだから砒素中毒で眼を患ったという現代医学の診断があって、どっちにしても命懸けのものらしい。
練丹術のついでに練金術に触れておけば、いくら変幻自在の丹生といえども、丹砂から金は生まれないというのが洋の東西を問わず一致している。もっともカバラ錬金術の暗号ターロットカードでも解読すれば、もしかして…。
法螺吹山伏
子供のころから山伏譚が手近にあった。例えば弁慶が勧進帳を空読みして、義経の尻叩いてまんまと通過した安宅の関は、成人してから気づいたことだが、生まれ故郷から自転車で一走りの距離にあった。行ってみると何のへんてつもない海岸の松林だが、ここが五條の橋の上で千本目の刀を奪いそこねた弁慶が、うって変わって演じた一世一代の舞台かと想うと、元祖法螺吹山伏も身近なものに思えないでもない。
もっとも山伏修験が法螺吹と蔑まれたのは江戸時代のことで、その呪力が信用されなくなってからだ。それは中世的寺社勢力が衰退したことと平行現象であった。中世の政界の覇者が武家の源氏なら、中世の宗教界の覇者は熊野修験という説すらある。そういえば御伽噺の弁慶も熊野の山伏だったはすだ。
山伏修験は山中にばかりいたわけではなく、熊野水軍といわれるように海上の海賊でもあった。伊勢水軍をもって瀬戸内海の覇者となった平家の水軍を、騎馬戦が得意の東国武者を率いた義経が沈めることができたのも、源氏と熊野別当の間に姻戚関係があって、ここ一番、熊野水軍を動員できたことによる。
というのは表向きで、中世の宗教界を席巻するほどの熊野修験はそれほど単純ではなかった。熊野三山は別当が権限をもっていた。後継の男子がないと入婿をとって別当職に就けた。源氏の為義が別当の女に娘を生ませて、熊野と源氏の姻戚関係が生まれた。ところがその娘は入婿の18甚快との間に男女をもうけたが、別れて別の19入婿との間にも男子をもうけた。二人の入婿は順次別当に就き、次にはじめの21男子、次に後から生まれた男子が別当を継いだ。後から19入婿した別当の22子と先の女子は異父兄妹で結婚したが別れて、平清盛の父の平忠盛が熊野の女に生ませた忠度と再婚した。熊野は源平の板挟みになる。
混み入った関係なので系図をあげる。まるきりの古代以来の母系制である。
蟻の熊野詣でと云われた白河法皇の熊野参詣は、藤原氏の春日詣でや摂関家の吉野詣でに対抗して始められたもので、それだけに法皇は熊野三山にたいして発言力があった。平氏は元来法皇に仕えていたが、朝廷内に勢力を有するようになって関係は決裂していた。だから白河法皇は、いち早く京都に駆けつけた木曽義仲や義経に官位を与えて手なづけねばならなかった。義経が壇ノ浦に平家を追い詰めたとき、熊野水軍に口利きしたのは白河院であった。
熊野水軍は動かないわけにはいかないが、それには大義名分が必要になる。院の命令で源氏に味方したとあっては格好悪い。赤と白色の鶏を戦わせて占った。その結果、白い鶏が勝ったと部下と世間に熊野別当は言い触らした。
義経が類い稀な戦術家だったことに、誰しも異論はない。しかし、義経は決して優れた戦略家ではなかった。戦術とは武家がそれを生業とする武芸であり、有り体に云えば人殺しの技であろう。戦略とは戦術を如何に使うか、政治的判断を伴う。戦争とは政治の苛酷な一手段であることは、時代を超越した戦争論の初歩的な認識である。
頼朝は戦術家ではなかったが、戦略を駆使した政治家であった。最も政治的判断と実行の優れていたものは、従来ほとんど指摘されない。一般的には軽視されているが、御家人と呼ぶ主従関係である。関東蜂起も源氏の棟梁も、まして開幕にいたるまで、配流の身に一族郎党のなかった頼朝にとって、御家人制度の施行なくしては一兵も動かせなかった。そして義経はこの御家人という主従関係を理解できなかった分、官位を与えられて得意になっていたように、既に崩壊していた古代律令制の中に生きていた。
中世は云わば集団の時代である。武家をはしめ宗教教団、職人集団と皆徒党・一揆を組んだところに中世という時代の特色があるように思える。そんな集団から飛び出すことは一種の自殺行為であったろう。それにもかかわらず、遁世者と呼れた一種の世捨人が少なくない。義経の北国落ちと同じ時期、鳥羽院に仕える北面の武士として中流貴族の将来を約束されていたのに、突然若くして出家遁世した佐藤義清こと西行が平泉へ下った。佐藤氏はあの将門退治の藤原秀郷の末の分かれだから、奥州藤原氏とは先祖を同じくする。
西行の目的は藤原貴族の終末の確認だったのか。あるいは義経に逢いに来たのだろうか。歌人であった西行は歌うことがそのまま何ものかへの信仰生活であったに違いない。信仰という宗教生活は所詮は個人的なものだ。集団の時代風潮のなかで個人を生きることは世捨人となって遁世する外にない。
敗者もまた個人に帰する。そして所謂敗者の<判官贔屓>というものは人を泣かせてくれる。政治家としての頼朝の戦略は肉親の情をこえて、義経追討の名のもとに、陸奥黄金郷を樹立した奥州藤原氏を掃討してしまう。神武的東征以来、ここに初めて列島統一が成ったと言える。北海道を除いてだが。だから義経はさらに蝦夷地へ脱出する。果ては大陸へ渡海し、得意の騎馬軍団を率いて…。
この文章を書き始めた当初、関幸彦の『蘇る中世の英雄たち』を読んだ。小冊子ながら義経はじめここで呼び出した中世武将たちの伝説が網羅されている。それたけのことなら他にも適当な資料はいくらでもある。この本の眼目は、英雄像の時代による変遷を追ったところにある。義経成吉思汗説の生まれてくる経緯などその最たるもので、伝説が史実とは異なることを承知であるという、その特権の上に伝説が加剰され、それをもう一度あたかも史実であるとしたところに義経成吉思汗説が登場した経緯が解かれている。
明治政府は<王政復古>を政策の根本に置いた。その一方<脱亜入欧>という正反対の政策も実践した。薩長の明治政府に先だって、幕末の東北から出た一代の法螺吹山師、佐藤信淵は<王政復古>と<脱亜入欧>を先取りした皇国の世界征服計画をぶち挙げている。狂気の一本『宇内混同秘策』は、まさしく日本の参謀本部が企んで実践した満州帝国の世界版であった。義経成吉思汗説は同じ時代の産物である。そんな気違い沙汰の本をわざわざ捜し出したわけではない。
月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山は、古来三山詣をするのが習わしだったが、最も低い羽黒山へ詣でれば三社に参拝したことになるという便利な出羽神社がある。羽黒開山は崇峻天皇皇子の蜂子皇子といい、肖像は蜂のような大きな眼をして、家畜以前の犬、つまり狼の姿をしている。蜂子皇子というのは皇統譜にないから、いずれ羽黒の法螺吹きが吹いたのだろう。
犬か狼の姿をした開祖とはまたしても丹生伝説を思い出すが、それはともかく神社の境内に鏡池と呼ばれる小池があり、そこから二百数十面の銅鏡が出た。生憎、修験山伏の生まれた平安以降の銅鏡だそうだが、神社は池の御霊とみられ、池の側に鏡堂まである。文字通り鏡池であった。
鏡はナルシスな水鏡から考えられただろうことは容易に察せられる。弥生時代の考古学で銅鏡は重要な遺物だか、考古学者は三角神獣とか内行花紋とか、鏡の裏側をあれこれ問題にしても、鏡本来の表の鏡面を問題にしない。博物館でも表の鏡面を展示してくれない。ある博物館で土産物のレプリカを手にして、ひょいと表を返して、銅鏡は姿見なんだと改めて思いいたった。
鏡面をどのように作ったか、何で磨いたか、あれこれ探していたら先の佐藤信淵の『経済要略』という一種の産業博物誌に巡り合った。その中に<錫を水銀に和して鏡面に鍍すべし>、また水銀を<軽粉に製し、鏡面を明にするの絶あり>とあった。中国古代技術の百科全書『天工開物』を開くと、鏡面は水銀をつけてできるとある。高価なものは銀と銅を等分に混ぜるというからこれは白銅鏡であろう。最近出た『鏡の力鏡の想い』によると、白銅鏡は鍍金の必要がないという。いずれにしても磨く必要があるから、鏡師たちは丹生をあつかった。鏡をのぞけば、もしかして丹生都比売の姿が映るかもしれない。
散らばった伝説をどう料理できるか、丹生都比売に事寄せて一種の体系づけをしてみたかった。とうてい法螺吹山伏になれないことを悟る為に。
もう既にない、砂埃と汗と緑いっばいの、かつての林道へ、山へ行きたくなった。 
外伝

 

武蔵と秩父の関係
秩父は武蔵国の辺境、というのは後年のことで、まだ美濃・信濃の脊梁山地を越える東山道しかなかった時代は、上野国の隣に位置した坂東平野の入口にあって、秩父国として独立していた。そしてその先の武蔵国こそ、葦原生い茂る辺境でしかなかった。武蔵国に東海道があったとはいえ、相模から房総へと東京湾を渡る文字通り海の道からも辺境に位置した。
こうした秩父と武蔵の差を証拠立てるひとつとして、「先代旧事本紀《国造の本紀は、知知夫国造を祟神の世に、无邪志あるいは胸刺国(いずれも武蔵国)の国造は一代おいて成務の世とする。坂東平野の入口、碓井峠下に広がる上野国ですら、その間の景行の世に定めたとするくらいだから、秩父地方がいかに早く開かれたかを物語るものと見なせよう。
知知夫国造は同書に思兼命の十世孫とあり、元は中村郷といわれた秩父市の中心街に秩父神社として祭られている。京都の祇園祭・飛騨の高山祭とならんで、三大曳山車に数えられる秩父夜祭りはこの秩父神社の大祭である。
といっても秩父神社のある中村郷が一番早く開けたかとなると疑問がのこる。秩父神社を祭って秩父氏を吊乗ったのは桓武平氏の良文流である。秩父市内を流れる荒川の中流、埼玉県熊谷市の村岡に本拠を構えて村岡を吊乗った良文の孫の将常から秩父氏となるから、そのときから良文流が移住・開拓したか、あるいは元からそこに居た一族に良文流の男が入婿したか考えられるが、おそらく後者であろう。そして元から居た一族に系譜があるなら、もしかして秩父国造の末かもしれない。
桓武平氏の良文流が秩父に入るはるか以前、百年はど前から、武蔵国に乱立した土豪たちは血縁的な党派を結成して、後に武蔵七党と呼ばれる集団となった。そして秩父には丹党と呼ばれる丹治氏の一族があった。
その「丹治系図《によると、先祖は「宣化天皇の後裔、武蔵守多治比広足五代の孫、武信《とあり、例によって偽系図とされている。その根拠とされるものが、紀国に丹生神社を祭る「丹生祝氏系図《系図に、丹生祝氏から別れた秩父丹治氏の系図が載せられていることによる。
多治比氏は武蔵国に縁が深い。「丹治系図《が丹治氏の祖とする武蔵守多治比広足の兄の県守も養老三年(719)に武蔵守になっている。広足は天平十年(738)、その後も延暦十年(791)の多治比宇美、承和十三年(846)の丹墀真人門成、嘉祥三年(850)の丹墀真人石雄等と続いている。広足五代の孫の武信とは、仮に一代二十年とすると百年、九世紀中頃で、九世紀末の桓武平氏良文流よりもまだ早い。
そして多治比氏県守・広足兄弟以前に、多治比氏は既に大いに秩父に関わっていたのである。秩父といえば国産初の銅銭を鋳た銅は秩父から自然銅が産出されて、元号まで和銅元年(708)に改められたことはよく知られている。秩父神社の北方数キロほどにある黒谷の和銅山一帯が「和銅遺跡《とされており、そのとき催鋳銭司に任命されたのが、広足の叔父にあたる多治比三宅麻呂であった。この三宅麻呂は、群馬多野郡吉井町の三古碑の一つ多胡碑に記銘のある左中弁正五位下多治比真人といわれ、坂東の事情通である。
また広足自身は武蔵守のあと、京へ戻って刑部卿や兵部卿を務めたが、裏では藤原仲麻呂の専横に対抗する橘奈良麻呂派に属していた。東大寺大仏の建立最中である。奈良麻呂は大仏建立推進派であり、仲麻呂はそれを冷ややかに見ていた。
大仏建立のために「続日本紀《には陸奥国から産金の事はあっても、それを鍍金する水銀の記事はない。「東大寺要録《のなかに大仏の寸法など記したものと一緒に、要した資材も記され、銅や錫の他に金一万四百三十両とならんで、水銀五万八千六百二十両という数値がある。単位が同じだから水銀は金に比して如何に膨大な量を必要だったか判る。それほど大量の水銀を何処から調達したのか。
ここに秩父が再び産銅ばかりでく、水銀の元になる丹生の産地として問題になる。秩父の丹党、丹治氏こそ、その担い手だったのである。
秩父の丹生
秩父の丹党、丹治氏は秩父市の北にある神川町の金鑽神社を中心に、荒川沿岸と神流川・利根川の南岸にほぼ固まって繁栄した。
金鑽神社は式内社の金佐奈神社で、多摩川府中に武蔵国府が設置されてから、武蔵六所宮の三宮として祭られた。拝殿はあるが本殿はない古式を保ち、奥に鉄分を含んだ褐色の岩肌を磨きあげた神体の巨大な鏡石がある。
金鑽神社の祭神は現在、天照大神・素盞鳴尊・日本武尊の三神が配されているものの、金佐奈神社の吊からして金砂あるいは朱沙であったろう。神体の鏡石は実用的な兵器農耕具に適した鉄分を含むという。
さらに元森神社の小祠があり、元の金佐奈神社はここにあって、背後の御岳の崖下に山宮が祭られるという。参道沿いには、もと神社の別当寺であった金鑽山普照寺の古刹もあり、一万坪もあるという境内の一角には、丹党の阿保弾正金隆が寄進した、坂東ではただ一つの朱塗檜皮胴造りという多宝塔が建っている。
この金鑽神社は埼玉県藤岡から信州長野県の佐久町へと、神流川沿いに通じる古道で、なだらかな十国峠街道の山道に通じる入口にある。幕末、秩父困民党が十国峠を越えて信州で壊滅した道でもある。金鑽神社の少し先の鬼石をはじめとして、相原集落までのほぼ五十キロほどの間に、かつて丹生神社が七社もあった。その一部は神流川にダムが建設されて埋没したという。相原の奥には金山もある。
相原の手前の万場で交差する富岡万場線を塩沢峠を越えて北上すると、これも荒川支流の鏑川沿いに、藤岡・高崎方面から佐久市へ通じる信州街道の富岡へ出られる。富岡の西側の下仁田との間の北側山地には上丹生・下丹生の地があって、現地調査した丹生研究者の松田壽男は、この信州街道を「丹生通り《と呼んだほどである。
丹生神社が七社も点在した十国峠街道は、さしづめ丹生銀座と呼んでいいくらいで、入口の金鑽神社は要の位置にある。丹治氏の勢力地には後に同じく武蔵七党の児玉党や武蔵の横山党から出た猪俣氏まで進出した。狭い地域に乱立した豪族たちの目的は、その土地の占拠よりも、丹生銀座の十国峠街道に点在する丹生をそれぞれ目指したのではないかと見られる。というのも、彼らの住まいした土地は、数多い荒川支流が山間部から流れだした出会の地であり、氾濫地帯に他ならないから、その土地を占拠して耕地にするには適さないのである。彼らは十国峠街道を登って、それぞれの丹生を採取し、結果として丹生銀座と化したのである。
それぞの神社に丹生津姫が祭られていただろうことは想像にかたくない。しかし、丹生神社の社吊のみ遺されても、その祭神はミズハノメあるいはオカミに転じているという。松田壽男は大和の丹生地帯を現地調査した結果、ニウズヒメがミズハノメからオカミに換えられた変遷過程を見出し、秩父でも同じ変化が見られると指摘している。丹生の採取が尽きて、耕地化するにしたがって祭神もまた取替えられたのである。
十世紀はじめの平安朝の末期、武蔵や秩父に牧場ができた。丹生銀座の鬼石に児玉党の阿久原牧をはじめ、秩父吉田の秩父牧、八王子に西党の由比牧、そして多摩の府中付近に小野牧などである。小野牧が私牧から勅旨牧になったのは承平三年(933)のことである。二年後に将門の乱が起きた。
これに先立って、私牧時代の秩父牧からの牧官であった小野利春が武蔵国の国司に任命された。当然、利春は秩父から府中の国衙へ赴任したであろう。小野牧が勅旨牧に切り替えられたとき、牧官は小野諸興である。この諸興は将門の乱のとき武蔵権介という現地国司の臨時次官および横領使に任命された。小野利春から諸興まで、およそ三十年経っている。
国司の大事な役目の一つに、国内の古社への奉祭があったが、広い国内を巡る事が大変な負担になることから、国衙の近くにまとめて勧請して総社とした。武蔵国の場合、多摩府中の小野神社を一宮として、秩父の金佐奈神社は三宮など六社が集められた。そして、小野神社の祭神には瀬織津姫の他に、かつての知知夫国造の祖神、思兼命神の十世孫天下春命が祭られた。ここに武蔵と秩父の関係が再び浮上する。
武蔵の小野氏
武蔵の小野氏はその系図に、近江国の小野氏末裔とする。そして小野神社を奉祭した。その祭神は瀬織津姫と知知夫国造の祖神、思兼命神の十世孫天下春命である。近江小野氏の末を称するなら、近江坂本の小野神社のごとく小野氏の先祖でなければならない。それにも関わらず秩父の天下春命を祭ったのは、それなりの理由があったはずである。
それを秩父牧の牧官から武蔵国司になった小野利春と小野牧の牧官から武蔵権介になった小野諸興に求められる。共に武蔵国司として武蔵総社を奉祭する役目があった。地元の小野神社を一宮とし、秩父の金佐奈神社が三宮に祭られていた。
一宮小野神社に天下春命が祭られたことは、秩父で天下春命を祭っていた一族との関わりなくしては有り得ない。秩父石田牧の牧官だった小野利春こそ、秩父から多摩府中の小野神社へ天下春命を勧請した人物とみなすことができる。それが武蔵の小野氏の祭神とされた理由である。多摩川の対岸にも小野神社があり、ここにも天下春命が祭られている。さらに小野氏の横山党は相模国神奈川県の相模川沿岸にも進出して小野神社を勧請して、同じく天下春命を祭っている。
ところで、武蔵一宮の小野神社には、もう一つの祭神瀬織津姫が祭られている。この祭神もまた武蔵総社に別格として祭られている。しかし、多摩川対岸や相模の小野神社には祭られていない。一宮小野神社だけに祭られたのである。
瀬織津姫とは何者か。丹生津姫と同様、記紀から抹殺された神である。公式記録としてただ一つ「延喜式《巻八「大祓(おおはらえ)《の中に、速河の瀬に坐して罪を流す水神と載せられている。大祓は天武朝から始められたと書紀にあるから、それ以前は瀬織津姫はもっと違った性格だったかもしれないとしても、これ以降は水の神として世間に伝えられたはずである。
秩父の丹生銀座の丹生津姫は、丹生の採取が終わってミズハノメの水の神に取替えられたことは既に触れた。秩父の水の神もまた天下春命と共に勧請されたのではないか。そこで、はしなくも水の神は瀬織津姫と呼ばれたのだ。
この様に考えられる根拠は、もう一つある。武蔵の横山党が小野氏を吊乗る以前、つまり小野氏との関わりが生じる以前、何と吊乗っていたか計り知れないが、瀬織津姫や天下春命は祭っていなかったはずである。では何を祭っていたのか。
武蔵総社をめぐって古来から上思議な言い伝えがある。武蔵総社が祭られる以前、そこに別の神社が祭られてあり、武蔵総社に乗っ取られたというのである。そして何時の日か、村民によって祭り直されたのが、多摩川対岸にある式内社の一つ、大麻止乃豆乃天神社であるという。その祭神は櫛眞智命神という多摩川の渡しの神とされ、水の神に縁がないわけではない。
おそらくこの神が横山党の小野氏の前身が祭ったものである。それが近江小野氏が武蔵に来て、横山党の前身の女に子をもうけ、一族は小野氏を吊乗り、先祖の系譜も父系の近江小野氏に繋げた。そして秩父から勧請した瀬織津姫と天下春命を小野神社として祭ったのだ。その結果、彼ら自身の先祖の系譜は捨てられ、櫛眞智命を祭る大麻止乃豆乃天神社も破棄されてしまったのである。
それは小野神社や武蔵総社による乗っ取りというより、武蔵の小野氏自らが選択した結果である。では、何故そんな必要があったのか、問われるべきであろう。
このころ、武蔵の土豪たちは急速な膨張期にあったことは、武蔵七党系図を見れば判る。子孫が次々と周辺各地にひろがった。それは勢力の拡張であると同時に一族の分散現象でもある。一族を結集せねばならない。それでなくとも、近江の小野氏ばかりでなく、桓武平氏や清和源氏といった皇胤の、それもあからさまな武力を押し立てた国司が次々に東下してきた。在地の中小土豪たちは血縁・姻戚を頼りに党を結成した。そして、皇胤に負けない先祖で飾り立てることも忘れなかった。それが武蔵七党と後年いわれるような集団である。
彼ら武蔵の土豪たちは歴史と共に消滅したが、彼らが祭った古社は、その性格と祭神を取り換えて、今に残る。 
 
 

 

 
日本史上の奧州

 

原勝郎
抑も奧州地方は、多くの場合に於て出羽と併稱し、奧羽と云ひならされて居るのであるけれど、しかし日本海を負ふ所の出羽と、太平洋に面して居る奧州とは、歴史上必ずしも一概に論じ難い點が多いのである。北陸道からして海傳ひに開けた出羽と、主として常陸下野から陸路拓殖を進めて行つた奧州との間には、日本文明波及の點に於て少からぬ遲速の差のあつたこと明かであつて、一方は阿曇比羅夫時代に既に津輕まで屆いて居るのに反し、一方は日本武尊東征の傳説を除いては、之と比肩すべきほどの事實を見出すことが出來ぬ。奧州の方面に於ては彼の有名な白河の關なるものがあつて、これより以北は支那でいふ荒服の地同樣に目せられて居つたことは今日に傳はつて居る數多の文學其中にても卑近な例を擧ぐれば能因法師の作として人口に膾炙[#「膾炙」は底本では「※(「口+會」、第3水準1-15-25)炙」]して居る「都をば霞と共に立ちしかど」の歌、降ては梶原源太景季の「秋風に草木の露を拂はせて」の歌等に徴しても分かるのであるが、出羽の方には此白河の關ほど經界として明かに認められて居るものがないといつてよい。鼠ヶ關(念種關)などいふ所もあるけれども、奧州の方の咽喉なる白河の關の如く世に知れ渡つては居らなかつた。つまり昔の日本人が出羽をば奧州程に半外國扱をしなかつたことは、此例によつても分かるのである。越(古志)といふ汎稱につきては、從來種々の議論もあるやうではあるが、予は之を以て、北陸道から出羽津輕及び北海道の少くも西部を包括する所の總名であつたと考へるのが、穩當であると信ずるので、一方に於て和銅年間に越後を割いて出羽の國を置かれたのは、日本港岸の拓殖の大に進んだ證據であるのに、之に反して太平洋に面した方の常陸以北は、日本に於て文化の浸潤の最も緩漫であつた地方といふべきで、若し和銅年間に郡家を閉伊に置いたといふ事實を大げさに考へるとすると、當時奧州の拓殖も出羽に劣らず捗つたとも想はれるのであるけれども、之果して如何であらうか。其所謂郡家なるものが今の閉伊郡の何の邊であつたかは不明であるが、多分は海岸に近い所であつたらうと想像されるからして、若し彼の「黄金花さく陸奧」といふ其黄金が、果して今の遠田地方から出たものとするならば和銅の郡家も、之を閉伊沿岸でも氣仙界から餘り離れぬ邊に置くのが安全であるのである。若しさうでなくして陸路拓殖を進めた結果として閉伊に郡家を置いたとするならば、前九年の戰などは、少し説明しにくゝなる恐れがあらう。つまり此和銅に郡家の置かれたといふ事は、察するに太平洋沿岸の航海區域が一段北に延長した爲と見るべきである。今日でも京都附近の神社に縁りのある神社が、出羽の方に多くして奧州の方に少く、又出羽の羽黒山の如く早く靈場として開け、且つ都人士の間に有名になつた山の、奧州の方に見出し難いことなども、予の上述の假定説を慥かにする種と考へて不都合がなからうと思ふ。大體拓殖の進んだ程度を以て比較すれば、奧州の方は藤原時代に至つて、漸く王朝の出羽位に開けたものだとするのが適當であらう。然らば何故日本北端の兩半に斯かる差異が生じ、且つ其差が久しく消えなかつたかと云ふに、出羽奧州兩國の關に連互して居る脊梁の大山脈が、兩國相互間の交通に尠からぬ妨害をなして居つた爲と見る外はない。同じく山脈の中でも、南北に走る山脈は、東西に走るものよりも、餘計に交通を遮斷するとの説が、人文地理學者中に唱へられて居るのであるが、陸羽間の山脈は即ち此後者に屬するものである。今日でも陸羽を聯絡する山道の數は少く、且いづれも峻嶮であるによつて推せば、昔は其數更に少く、且つ一層難澁な峠であつたに相違ない。中尊寺に近い所でいふと、前九年の役に、清原武則の率ゐた出羽の軍勢が、松山を越えて、磐井郡中山大風澤に著陣、翌日同郡萩の馬場に著、此所は小松柵を去る事、僅か五丁餘なりと云ふ記事が、傳はつて居るから、一ノ關附近にも當時陸羽聯絡の通ひ路が一筋あつたらしいのであるが、抑も此道路たるや今日通行者のさまで繁きものでないのによつて見ても、當時は今にもまさる惡路であつたと見做さゞるを得ない。此より以北になると、彼の文治の頼朝の奧州征伐の時に、出羽を進んだ側衞が比内から東に越えたといふ山道、これは多分今の仙岩街道でもあらうか、それを泰衡の首級を携へて降人がやつて來たといふ今の鹿角街道、その外には同じく鹿角から馬淵河の流に沿ひて海に出づる通路、以上三筋程あるのみで此外に藤原時代の終り迄には、陸羽を結ぶ交通路とてはなかつたらしいのである。而して出羽奧州兩國間の交通果して此の如く不便であるとすれば、假令出羽の方の文明が、昔の奧州に比して一段進んで居つたものとしても、この優秀文明が直に奧州の方に影響するといふ譯には行かぬ。要するに日本國中最も廣く仕切られ、且開發の最も久しく停滯して居つた地方は即ち奧州で、其奧州の中でも殊に北上川流域、及び其以北に走る舊南部領などは、當時の日本全國中何處よりも進歩の遲くれて居つた地域と見做すを得べきである。
此の如き日本のはてともいふべき奧州も漸次に王化に霑うたことは言ふを須ゐないが、前九年役の頃までは、所動的に霑うたといふのみで、自ら働きかけて上國の文明を輸入するといふやうな努力の痕跡が見えぬ。して見ると中尊寺を立てたり、佛像を上方の佛師に誂へ造らしめたりするやうになつた平泉中心の、即ち藤原時代の奧州は、阿部氏以前の奧州に比して、莫大の進境があると云はねばならぬ。而してこれは當然斯くなるべき筈のことであつて、遙か後世の今からして昔を回顧すれば、阿倍時代と相距ること、甚だ遠からぬやうにも思はれるけれど、計算すると前九年役の終りから文治年間の泰衡征伐までには、其間約百廿年の[#「約百廿年の」は底本では「約廿年の」]歳月を經て居るからには、進歩の遲い奧州とても、可なりの進境なかるべからざる譯である。然らば此進歩を促がしたことに與りて力のありしものは何々かといふに、奧州から上方に、觀光に出かけて歸つた人々と、上方の人士で遙々奧州に下り、優等なる文化の種を邊陬に撒いた人々と此二樣にある。上國から下向した者の例に就いては、花かつみの歌に風流をとゞめた流人實方卿の[#「實方卿の」は底本では「實力卿の」]如き縉紳は云はずもがな、前九後三の役に從軍して、家族移民をなした下級の者も等閑に附し難い。其外にも平泉藤原氏以前に於ては、若し奧州後三年記の記事を信じ得るとすれば、清原眞衡が其「護持僧にて五所うのきみといひける奈良法師」と碁を圍んだといふ話がある。平泉藤原氏時代の始めには、散位道俊といふ者が、清衡の許に赴き、弓箭の任に堪へざるを以て、筆墨を以て之に事へたと、三外往生傳に見えるもある。また良俊といふ公卿の清衡をたよつて陸奧に下向したのは、これ五位以上の者猥りに京畿を離るべからずとの制禁を蔑如し、國家に背きて清衡に從つた者であるとて、其廉を以て相當の制裁を加へむとの僉議があつたことが、中右記天永二年正月廿一日の條に載つて居る。なほまた同じ清衡の妻が、其夫の歿後上洛して、檢非違使義成といふ人に再嫁したといふことが、長秋記大治五年六月八日の條に見えて居るから、此妻女も元は都から下つて、清衡に連れ添つた者と推察される。さもなくて、もし此女人が奧州生え拔きの人であつたならば、斯かることには成るまいと思ふ。此の如くして或は身輕な、漂泊ずきな僧侶或は京都で生活難に追ひ立てられたはした公卿、さては大膽な婦人などの、遙々奧州に罷下るといふことが、清衡の頃及び其以前から既に時々あつたとすれば、まして基衡秀衡と代を累ぬるに從ひ、斯る族の愈※(二の字点、1-2-22)多くなつたことを想像し得られる。扨て此連中の大部分は、何か己に利する所あらむと欲して、遠路を厭はず奧州くんだりまで下向した者共で、必しも邊陲の開拓を思ひ立ち、それが爲に奇特にも態々出張したのではない。現に前述の清衡の妻と稱する女などは、其上洛の際に夥しき珍寳を持參したと記されてある。しかしながら彼等の下向の目的が那邊にあつたにせよ、上國の文明が、彼等の力によつて、徐々と奧州に輸入されたことは、蓋し疑を容れざることであらう。
それと逆しまに、奧州の方から上方に出かけた人々に就いては、姓名の知れて居る者が少いが、しかし其實は多數あつたに違ひない。久野山縁起には、平泉館師忠の子僧源清の事が見える。恐らくは久野山のみならず、僧となつて京洛に住した者もあつたらう。又清衡は志を叡山に運び、其千僧供の爲めに七百町歩の保を立て、其後此莊園が次第に擴張されたといふからには、其等の用向で上る人も勿論あつたらう。貢賦に關しては頼長の台記で其一端が窺はれる通りであつたらうし、中尊寺建立の爲めには、殊に往返を繁げからしめたであらう。續世繼(みかさの松)に見ゆる、基衡が其寺の爲めに仁和寺に依頼して勅額を乞ひ下したとの事、既に以て秀衡以前に京都式文物の摸倣に就いて、少からぬ努力のあつたことを證するのであるが、秀衡の時に至つては、單に京都のみでなく、東大寺造立供養記によると、奈良にも慇懃を運んだ樣であるし、又阿闍梨定兼の承安三年の表白文によると、高野山にも歸依して四ヶ年の衣糧を運んだとある。此等の用向を辨ずる爲には奧州人が少からず上方に往來したに相違ない。遠く隔つた畿内地方との交通にしてすら、既に可なりに頻繁であつたとすれば、それよりも平泉に近い地方との往來は尚更のことで、越後との間には、しかも海路の交通が開けて居つたらしい。撰集抄に越後國志この上村といふ所を「奧よりの津にて、貴賤あつまりて朝の市のごとし、只海のいろくす、山の木のみ、布絹のたぐひをうりかふのみにあらず、人馬のやからを賣買せり」と述べてあるが、唯茲に奧といふ丈けでは奧州を斥するものとは限られぬけれど、長秋記(大治五年六月八日)清衡の二子相鬪へるを記せる條に、兄の方が「依難堪卒子從廿餘人、乘小舟迯越後」とあるのを參考すると、陸奧と越後との海上の往來のあつたことが分かる。唯當時發著の港灣の明かに知り難いことのみが遺憾といふべきだ。而して此の如く奧人が遠近の上國を觀光して歸へることにより、東北陲の文化が次第に其舊態を替へた事は云ふ迄もなからう。つまり秀衡の時に平泉に中尊寺の建てられたのは決して偶然でなく、而して此中尊寺の建立が因となつて、更に四圍の文物を向上せしめたこと、亦歴史上自然の成り行きである。
此の如くにして奧州は平泉藤原氏三代の間に、其平泉を中心として可なりの發達を仕遂げたのであるけれども、然し京都の方からは之に格別の敬意を拂ふに至らず、基衡が折角に請ひ得たる額は、其の頼み主の素性が知れると共に奪ひ返され、嘉應に至りて秀衡が鎭守府將軍に任ぜられると兼實は其玉葉に於て之を評し、夷狄のくせに征夷の任を拜するとはこれ亂世の基だと云ひ、つまり奧州の者は共に齒すべからざる夷狄で、日本の國家の化外に立つ者だと考へられて居つたのである。されば奧州の地の眞に日本の一部と認められ、内地同樣の統治が茲に行はるゝやうになるには、一方に於ては奧の藤原氏の亡滅、一方に於ては、京都藤原氏の攝關政治がやんで、幕府の鎌倉に開かれるのを待たなければならなかつたのである。
文治の役は日本と奧州との間の障壁を殆ど徹し去つたものと云つてよろしい。「君が越ゆれば關守もなし」と源太景季が詠じたのは文明北漸史上の眞理を言ひつくして居る。今迄は上國の文明奧陬に及んだとは云ふものゝ、國内波及といはむよりは、寧ろ國際波及といふ姿を持つて居つたのが、鎌倉時代になると、一國の内で文明が中樞から偏僻の地に流るゝといふ形を奧州に對しても始めて持つやうになつた。要するに以前よりは一層自由に弘宣波及するやうになつたのである。而して斯く成り來つたのは一般氣運の漸移によること勿論ではあるが、政權が兵馬の權に伴つて、其の中心を京都よりも奧州に近い鎌倉に移したこと、與りて大に力がある。王朝の地方政治も、藤原氏の莊園制度と、共に未だ深い印象を與へて居らなかつた其奧州の地に、守護地頭の制度は上方に踵いて布かれるやうになつた。千葉葛西等の、武總に蟠居したる有名な平氏、伊豆相模の豪族たる工藤曾我等の諸氏、野州の宇都宮藤原氏、さては甲斐源氏の諸族等、所謂關東豪族の歴々が多く陸奧に采邑を得るに至つた。中には關東と奧州と兩方で地頭を兼ねたものもある。紫波郡の國道筋に近く、唯今も走湯神社といふのが殘つて居るが、これ或は其附近の地が伊豆國出身の某武人の采邑になつた事がある一證ではあるまいか。總じて東北地方には、歴史の研究に必要な記録も文書も共に殘存する所のもの至て稀で、北に進むに從ひて愈々少く、藤原時代は勿論鎌倉時代の事をも明かにし難く、岩手縣以北に關したもので、今日の所稍※(二の字点、1-2-22)まとまつて居るといふべきは、結城文書、宇都宮文書、遠野の南部家文書、石卷の齋藤氏文書、盛岡新渡戸仙岳氏、紫波郡宮崎氏の所藏文書等である。此等の文書中時代の最も早いのは、承久四年三月十五日、津輕平賀郷に關したもので、之によれば、曾我五郎次郎の父小五郎の時から、即ち鎌倉時代の始めから之を領して居ることがわかる。其他今の岩手縣廳の所在地盛岡の一區劃は、仁王郷といふ名で鎌倉時代から知られ、駿河大石寺の所藏文書の中に、後藤佐渡三郎太郎基泰といふ人が、建武元年頃に之を領して居つた事が見える。それから少しく南になると、今の稗貫郡八幡村であらうと思はれるのが、結城小峯文書に八幡庄として載せてある。此の如く北は津輕のはて迄も、鎌倉の政令に服して居つたのであるからして、三衡以來の遺跡である此中尊寺の保存に就ても、當時決して注意を懈らなかつたもので、其詳細は中尊寺文書にも見えるが、其外にそれに關する史料で、一寸思ひがけなき場所に在るものを擧ぐれば、京都下京區住心院の文書中、文永元年十月の鎌倉將軍宗尊親王の下知状に當時の執權が連署したものである。
政治の勢力による開發と相伴ひて奧州の文明を進め導いたのは宗教の勢力である。此時代に出來た宗派といへば、いづれも當時新に政權の中心となつた鎌倉は勿論のこと、其周圍即ち東國地方の布教に盡力したのであるが、更に進んで出羽奧州にも及ぼした。それより以前天台眞言の二宗亦出羽奧州に入らなかつたといふではないが、新宗派の方が其活動振りに於て遙かに前二者にまさつて居る。先づ淨土宗に於ては、法然上人の高足なる證空上人の白河の關を踰える時詠んだ歌といふがあるから、同上人も奧州に入つたのであらうし、法然上人の弟子で有名な隆寛律師は奧州に配流になつたことがあり、其弟子實成房も亦奧州に活動した。其外法然門下の一人なる石垣の金光坊といふ僧の如きは、奧州の布教を其終生の事業として、遂に津輕で歿した(或は栗原郡で歿したとの説もある)禪宗に於ては榮西の弟子記外禪師、聖一國師(辨圓)の弟子無關禪師、歸化僧佛源禪師、空性禪師、佛智禪師等、いづれも奧州の布教に力め、道隆の風化も奧州の南邊には及んだらしい。面白い事には鎌倉時代奧州に於ける禪宗の布教的活動は、中山道や北陸道よりも時代の早いことである。次に眞宗に於ては最も有名なのが岩代東山に居を占めたる如信上人で、親鸞面授の弟子の一人と稱せられてある。それよりも更に深く北に入つたのは、紫波郡に遺跡を有する同じく親鸞の弟子の是信房であつて、本願寺第三世の覺知宗昭も、如信の遺跡なる東山迄は來たことがある(最須敬重繪詞)。日蓮宗では日蓮の直弟子日辨日目共に奧州に入り、日興に至つては、今の陸中迄深入りして布教したといふ傳説になつて居る。其他にも日蓮の孫弟子、曾孫弟子等の、奧州に布教したもの數多ある。時宗に至つては開祖の一遍上人が親ら奧州に巡錫したので、弘安三年には江刺郡に祖父河野通信の墳墓を訪ねたとあつて、唯今稗貫郡寺林にある光林寺といふ時宗の寺院は、即ち一遍上人の此巡錫を因縁として出來たとの傳説である。此の如く新に勃興した諸宗派の僧侶が、當時尚ほ麁野の境遇に在つた奧州の住民に與へるのに、宗教的の感化を以てしたのみならず、一般文化の進歩にも少からぬ貢獻をなしたであらうとは、蓋し何人も想像し得る所であるが、それと同時に歴史の研究者にとりて興味の深いことがある。即ち當時此等諸宗の僧侶で奧州に宣教した者は多く奧州にのみ其活動を限つて、出羽の方には入らず、出羽の方へ布教を志した人々は、越後からして入るのを普通とし、出羽奧州兩國を跨いで布教した者とては、其數甚少い。これは此兩國の、鎌倉時代に於ても、やはり其以前と同樣に、風馬牛互に沒交渉と云つて可なる關係に在つたことを示すものと認むべきである。而して王朝文明は奧州よりも出羽の方に早く、且つ深く影響したに反し、鎌倉時代の文化は出羽よりも寧ろ奧州の方に多く感化を與へたことが、これまた此布教の歴史からしても推測され得るのである。
さりながら、斯る諸の事情が共に働いて奧州の文明を向上せしめたとは云ふものゝ、鎌倉時代に於ける奧州は、要するに大した開け方をなし了はせたとは見えない。馬は既に名産の一つになつて居り、閉伊郡大澤牧、糖部郡七戸牧、同宇曾利郷中濱御牧等は、牧場として其名上方にも聞えた事であるが、さて馬の外に名産として算ふに足る程のものがあつたとも見えぬ。蝦夷は此時代を終るまで集團をなして陸奧に居住し、安東家の差圖によつて屡※(二の字点、1-2-22)叛亂を企て、それが爲め東北地方に兼ねてより關係のあつた關東の豪族即ち工藤右衞門祐貞、宇都宮五郎高貞、山田尾張權守高知等が、嘉暦年間に相踵いで出征を命ぜられたことが、北條九代記に出て居る。而かも此征伐は蝦夷の殄滅によつて落著したのではなく、和談を以て結末をつけて歸參したとあるからには、蝦夷は其儘に居殘つたに相違ない。藤原氏は武家の爲めに政權を失つたが其武家殊に源氏が勢力を養つたのは奧州征伐によつてゞある。然るに其源氏の開いた鎌倉幕府も、其亡滅のきつかけは、安東征伐、手短かに云へば奧州の蝦夷を征伐したが爲めといふ。して見れば數世紀に亘つて日本の爲政者を惱ました問題は、實に此奧州の始末方の如何であつた。されば兩統對立の時代になつてから、南朝が主として此奧州に於て官軍を募る事を力め、中尊寺には殊に關係の深い彼有名な北畠顯家卿を、陸奧守として派遣したのも、亦決して偶然ではないのである。此顯家卿については舞御覽記と云ふものに元徳三年(元弘元年)其宰相中將たりし頃蘭陵王を舞しときの樣を叙して「夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて、えならぬ夕ばへ心にくきに、陵王のかゞやき出たるけしきいとおもしろくかたりつたふるばかりにて」と云ひ更に「この陵王の宰相中將君は、この比世におしみきこえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし、形もいたげして、けなりげに見え給ふに此道にさへ達したまへる、ありがたき事なり」と云へり。斯樣なやんごとなき殿上人の奧州、蝦夷のまだ住んで居る其奧州に、國司として赴任するといふことは、俗にいふはき溜めに鶴の下りた樣なものであるが、此顯家は靈山に居つて下知を傳へ、南部を始めとして其他奧州の官軍を其麾下に從へ、延元二年には十萬餘騎と號する大軍を組織して白河の關を越え、關東の平野に殺到し、鎌倉を陷れ、延元三年には東海道を打登り、追躡して來た足利勢を美濃垂井に逆撃し、首尾よく畿内に乘り込んだ。奧州人の大擧南下したのは、これが始めてである。其前に義經に從つて奧州の者共が源平合戰に參加した事があるけれど、其規模の大小迚も此延元の時に比すべくもない。若し此時に顯家の軍勢が勝利を得たならば、南朝方の御利運といふのみでなく、奧州の者で上方に地歩を占める者も多くあつたらうし、又上方から奧州へ下る者の數も殖え、鎌倉の始に既に殆ど撤廢されて尚ほ少しく殘つて居つた日本と奧州との障壁も、爰に全然取り去られ、奧州の文化は其お蔭で長足の進歩をなし得たであらうと思はれるが惜しい事には事此に及ばず、奧州勢が其中堅をなした顯家の軍は安倍野の合戰に打ち敗れ、顯家は泉州石津といふ所で戰死し、神皇正統記に所謂忠孝の道極まつたのである。が、これ單に顯家卿忠孝の道極りて、親房准后の嘆きを増したのみではない、奧州開發の運命もこれが爲めに暫く閉ぢらるゝ事になつた、これ誠に遺憾の次第と云はざるを得ない。
足利時代になると奧州は鎌倉管領の支配に屬し、諸大名は關東衆といふ名の下に一括され、所謂謹上衆と稱する第二流諸侯の資格を與へられ、篠河殿といふ觸れ頭が奧州に置かれてからは、其統率を受くることゝなり、要するに奧州と上方とは間接の關係になつた。けれども公け以外には上方との個々直接の交通絶えたるにあらずして、大名の遙々見物がてら京都に參覲し、將軍の諱の一字を貰ひ受け、それを土産に歸國するもの少からずあつた。南部家の歴代の中に晴政といふ人があるが、此人上洛して將軍義晴の一字を貰ひ受け、晴政と名乘つたなど其一例である。南部系圖には、甲斐源氏として同族なる武田晴信の晴の一字を請ひ受けたと記し將軍義晴の一字を賜はつたことをば唯別説として記してあるが、却へりて公儀日記の方には、此度偏諱を賜はり度いとて上洛して居る南部といふ者は、奧州でも聞ゆる豪の者であるから、望み通り與へられて宜しからうと評議一決したことが載せてあつて、晴の字が將軍の偏諱であること紛れもない。斯かる例は南部に限らず、その他奧州の諸大名に共通なことで、義輝將軍の頃までは此連中可成りにあつたらしい。義昭の時には將軍の光りが大に薄くなつて、參覲者の數も殆ど皆無となつたが、それでも、石川大和守ばかりは、義昭將軍に謁見し、諱の一字を賜はりて昭光と名乘つたといふ。上洛者の獻上物は南部などは馬であるが、一般には鷹であり、京洛に滯在し久しきに渉る者は、歌道などを稽古し、一廉の歌人となり、名を新菟玖波集に列し得て歸へるもあつた。大名のみならず其臣下の者共までも伊勢參りをし京都見物をして歸へるもあり、兵亂の爲めに歸路を斷たれた上洛者の中には、その儘都に留まりて、或は旅宿の娘などに契り、彼の地で一生を終へた者もあつたらしい。上方からして奧州へ下る者には鷹買、馬買、遍歴藝人、武者修行、僧侶等であつて武者修行の中には根來法師等も交つて居つた。奧州に始めて鐵砲戰を教へたのは、其等根來法師のやうである。斯く上方と奧州と兩方からの往返絶えず、その爲めに奧州に於ける文武二道は振興し、住民の見聞も大に擴まつたから、足利末の奧州は之を鎌倉末の奧州に比べて、若干の進境を見たこと爭ひ難い。有力なる大名の城下には、未熟ながら文化の小中心も出來た。會津の如きは其尤なるものである。
若し大彦命に關する傳説を、其儘に信じ得るならば、奧州の内で古るい歴史を有して居る土地といへば、先づ會津に越すものはなからう。又之を假托説とするも、それにしても會津の名稱は、書紀編述時代に既に知られて居るから、今日奧州にある諸都市よりも遙かに古るいこと明かである。蓋し會津の地たるや、四方山脈に取卷かれて居るにも拘はらず、奧州からして出羽と越後とに入り得る要樞であるから早くよりして可なりの繁昌があつたらしく、鎌倉時代の末には、此土地の平民の家に生まれた孤峰和尚といふが應長元年商舶に附して入元したとある。後醍醐天皇の歸依を博した、雲樹國濟國師といふのが即ちそれだ。斯かる人を出した事によつて、當時の會津の文化の、まんざらでなかつたことが推せる。其後戰國時代になつてから、會津は蘆名、伊達、上杉、蒲生等の名族の城下となつたが、主は頻繁に替はつても、會津の繁昌は益※(二の字点、1-2-22)加はつた。といふのは前にもいふ如く地の利を得て居るからである。徳川時代になつて有力なる親藩を爰に置いて、奧羽の諸大名を監視させたのも、斯かる理由あればである。いま繁昌の一端を述ぶれば、蘆名家記によると、盛重時代に其城下たる會津黒川、即今の若松の大町柳の下といふ所に風呂屋があつて、蘆名家の侍共が、毎日それに出入りする故、伊達政宗からして、太寄金助といふ間諜を、此の風呂屋につけ置いて蘆名家の内情を探らしたとある。今こそ錢湯が何處にもあつて、珍らしいものではないが、江戸ですら徳川幕府開設の當初は、風呂屋といふものが、珍らしかつた。それが天正頃に會津に在つたのであるから、當時黒川即若松の、決してありふれた田舍町でなかつたことを知るに足るのである。されば上方からの素浪人のみならず小笠原長時の如き名將も、漂泊の末此所に來り、遂に此地に歿したが、其の長時の會津滯在中に星野味庵に授けたのが、即味庵流、畑奧實に授けたのが即畑流と稱し、共に小笠原一流の弓馬の古實である。文藝も茲に一種の發達をなしたものゝ如く、當時廣く日本にもてはやされた平家の如きも、爰で相應に流行したものと見え蒲生氏郷の從妹で南部利直の室となつた人の、嫁入の際に持參した道具の中には、他に類の少い平家の語り本が一部あり、其奧書には、永禄年中に會津黒川の諏訪某が所持して居つた旨記されてある。又相當に文化の中樞となつて居つたればこそ、耶蘇教もいち早く此方に入つたので、其事は日本西教史にも記されてあるのみならず、上述の平家物語と同じ持參道具の中に、念入りな宗教畫を張つた屏風のあるのでも證據立てられる。
足利時代に奧州地方が右の如き發達をなし得たのは、陸上交通の發達を前提としなければ、想像の出來難いことであるが、しかし各地方とも秩序の定まらなかつた當時のことなれば陸路の外に、海上の交通をも併せ考へなければ、十分な説明が出來ぬ。然らば此陸運は[#「陸運」はママ]どうであつたかと云ふに、彼の北畠顯信が義良親王を奉じて、伊勢から海路陸奧に赴かむとした事によつても、鎌倉末足利の初に既に斯かる航路の開かれて居つたことが分るし、又日本海廻りの航路に就いては、永享文安の頃、奧州十三湊の豪族安倍康季が、後花園院の勅命によつて、若州小濱の羽賀寺を再建したといふ、羽賀寺縁起の記事、若州の武田氏が北海道に渡つたとの傳説等によりて、鎌倉以來依然として、絶えずあることを知る事が出來る。蓮如上人御文章の第一帖に、上人が文明四年吉崎に坊舍を建て、暫し之を根據地とせし際の記事あり。其中に出羽奧州等七ヶ國の一向門徒此吉崎へ集まり參詣せしとあるが、七ヶ國の中に野州は見えず。さすれば奧州人は野州を通過して吉崎に赴きしものと考へられず。その上に前述の事項を併せ考ふるときは、奧州の信者の日本海廻りにて、吉崎に參詣したらむこと、強ちに有り得がたきことゝ斷ずべからず。扨て此日本海廻りにて北海道、それより更に京都に至るべき道筋は、新井白石の奧羽海運記にもある如くに、越前敦賀に著津の後、山中を駄運して近江の鹽津に出で、それから舟にて琵琶湖を横ぎり、大津を經て京都に達したものであらう。越前坂井郡三國の港は、今こそあまり振はない場所であるけれど、昔は北陸の要津であるが、此港に、久末といふ舊家が今でも存して居る。其久末家で先年内藤文學博士が採訪された文書によると、同家の祖先久末久五郎といふ人が、元和元年大阪夏陣の時、南部利直の爲めに、其武具雜品を手船にて輸送し、又翌年南部領内大凶作の際、同じく手船を以て米を輸送した度々の功により、其手船を以て船役なしに南部領田名部浦に入港する特許を與へられ、其特許状は家老連署を以て幾回も書き改められて右久五郎の代々の子孫に交附されてあることが分つた。此事なども日本海海運の好史料であると思はれる。
當時の船舶の構造から考へると太平洋沿岸の航海すら既に頗る危險であるから、まして風浪荒き日本海廻りに至つては、白石の所謂備さに難辛を極め、勞費最多くして遭利廣からざるものであつたので、彼の定西法師傳に在る天正頃琉球の日本町に奧州の者もあつたとの記事に至りては、其漂流人でない限り、少し受取りにくい話であるとしても、足利時代の奧州の海運は陸上交通と相俟ちて其開發を助けたもので、決して輕視すべからざるものと思ふ。
海陸の交通の發達に伴つて、邊鄙の奧州も段々に開けて來たことは、上述の如くであるが、然しながら奧州はやはり依然として文明進歩の遲々たる所で、足利時代を終つても、まだ/\上國と比肩する迄には行かなかつた。其の例を擧げれば數限りもないが前に一寸述べた安倍康季が日之本將軍と稱したのでも其一斑を窺はれる。此日之本將軍といふ名稱は、多分蝦夷を威かす爲めに用ゐたのであらうけれど、それにしても可笑しく立派過ぎて、夜郎自大の譏りを免れない。また鐵砲使用の年代に徴して見ても當時の奧州の文明が、どれ丈け上國よりも遲くれて居つたかゞ分かる。天文十二年に種子島に渡つたといふ鐵砲は、永禄の末にはまだ東國に少く、奧羽永慶軍記に、永禄十二年小田、眞壁兩家の合戰を叙して、「鐵砲は、まだ東國に稀にして、今日も以上八挺の外は來らず、爰に根來法師大藏房鐵砲の上手なりしが云々」とある。稍廣く行はるゝに至つたのは天正の半ば過ぎてからであらう。
物ごと何によらず斯く上國に遲くれて居るからして、一方に於ては朴素の風が尚ほ存し、輕薄に流れず、士人の間にも、恩を思ひ忠を盡くすの念は頗る厚かつた。松隣夜話にある太田三樂から長尾景虎への注進状の中に「奧筋諸將の所存專ら族姓を撰申事に候」とあるは其一端を示すもので、清和の嫡流とでも云へばうつけたる人をも神の如く敬つたらしく、重恩の武將死する時は、其臣下の二三人殉死せるのみならず、其殉死者にまた殉死する者もあり、友人の殺されたのに居合はさざりしを遺憾として切腹した者もあつた。殉死は當時一般の風習にして珍らしからずとは云ひながら、さりとは念入りと評せなければならぬ。而して斯く人物が固くあり過ぎる代はりに、一つまかり違へば、途方もなき傍若無人の所業を敢てした者も亦少くない。足利時代に出來たかと思はれる彼の人國記に、奧州人の氣質風俗を評して、「日本ノ偏鄙成故ニ、人ノ氣ノ行詰リテ、氣質ノカタヨリ、其尖ナル事萬丈ノ岩壁ヲ見カ如ニ而、邂逅道理ヲ知ルトイヘトモ、改テ知ルト云事スクナク、タトヘ知ルトイヘトモ、江水ノ流ナクテ、塵芥之積リテ清ル事ナキカ如シ(中略)右之如之氣質故、頼母敷トコロ有テ、亦ナサケナキ風俗也」と云ひ又「人ノ形儀イヤシフ而、物語卑劣ナレトモ、勇氣正キ事、日本ニ可劣國トモ不被思也、因茲也朋友無益討果、主君ヘ志ヲ忘、父母ヘ孝ヲ忘ナトスル類、不知其數、雖男子上下トモニ勇ヲ以テ本トスル處ナレハ、偏鄙偏屈ナリトイヘトモ、潔キ意地アツテ恥ヲ知故、是ヲ善トス」とも云へるは、褒貶共に先づ要領を得て居ると云はなければならぬものであらう。
國史に於ける奧州といふのは、先づ大體は上に述べた如くであつて、以て徳川時代に入つた。徳川時代には太平につれて偏僻の奧州も可なりの進歩をなし、人國記に「名人ノ名ヲ呼フ程ノ人ハ不得聞ヲ也末代以テ如此成ヘシ」と一言で以てけなされて居るにも拘らず、多少の人材を出し、日本全體の文明にも少は貢獻する所あつた。けれども大勢はやはり足利時代の通りで、絶えず上方の後塵を拜し來り、それが惰性をなして明治時代まで續いて居る。米國エール大學の教授にハンチングトンといふ人があつて、世界各地方の住民の文明進歩の程度を測る爲め、諸國の學者に十點を滿點として評點せしめ、其平均をとつて各地の文明點數を定めるといふ試みをやつて見たが、其地方の區分法もかなり綿密で、一國の内の中でも人情氣風の差によつて幾つにも分けて居るから、世界は總計百八十五區に分かれ我日本の如きも、南日本と北日本との二つにして、別々に點をつけることになつて居る。而して其採點の參考となるべき要件としては、其地方の住民の自發的活動力、新思想形成力及び其實行能力、自治力、他人種を統治指導する能力等諸種能力具有の程度、及び道徳の標準の高低等であつた。五十四人の採點平均の結果最高點は英國の十點であるが、日本のうち南日本は八點三分、北日本は六點二分とある。斯かる計算法は隨分精密に見えて、而かも危ないものであるのみならず、私は日本の南北兩半の間に果して二點一分の差あるかどうかを斷言し兼ねるが、兎に角日本の北半、殊に奧州が、南日本よりも文明の今もなほ遲くれて居ることは爭ふべからざることゝ思ふ。されば奧州史の研究は、奧州にとりて得意な懷古の種たらしむるよりも、寧ろ將來發奮の資たらしむること、何よりも願はしいことである。 
 
秩父国造 武蔵国造

 

高橋氏文によると、
無邪志国造上祖 大多毛比(えたもひ)
知知夫国造上祖 天上腹・天下腹
一方、「氷川神社」社伝には「成務天皇のとき、夭邪志国造である兄多毛比命が出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神とした。」とある
用明天皇2年(587)に大連物部守屋は蘇我馬子らに討たれて物部大連家は衰退してしまう。ところが聖徳太子の舎人として活躍し仏教に理解のあった物部連兄麻呂という人物が633年に武蔵国造に任じられたといわれている。そして、埼玉古墳群をつくった豪族はこの物部連兄麻呂と関係があったとされている。物部氏やその系統にある阿倍氏らと地方豪族である武蔵の物部連氏(物部連兄麻呂)がつながっていたといえる。現に武蔵国造職は丈部直(阿倍氏)や物部連などが務め、8世紀の律令時代の国造は氷川神社を奉斎していた足立郡の丈部直(はせつかべのあたえ)氏(のちの武蔵氏)の手に帰していったのちの「武蔵国造」である丈部直(はせつかべのあたえ)氏は「武蔵国」を再編成した際の新興勢力(阿倍氏・物部氏系統)であり、新たに「氷川神社」を奉じたと考えられる。
丈部氏は神護景雲元年(767)には一族7名が武蔵宿禰の姓を朝廷から与えられると共に丈部不破麻呂が武蔵国造に任命され、氷川神社の祭祀権を認められている。

氷川神社は荒川・多摩川流域に多く、埼玉県を中心に東京都・神奈川県の一部にわたり、現在でも200社以上がこの地域に分布している。その中心が大宮(現さいたま市)高鼻に鎮座する、武蔵国一の宮「氷川神社」である
一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という意味です。
南北朝時代に成立した『神道集』の記載にも『一宮は小野大明神』という記載が見られ、一宮=小野神社であることが確認できます。
武蔵国内には
一之宮小野神社(当社:多摩市)を筆頭に、二之宮小河神社(現・二宮神社:あきる野市)、三之宮氷川神社(さいたま市)、四之宮秩父神社(秩父市)、五之宮金鑚(かなさな)神社(児玉郡神川村)、六之宮杉山神社(横浜市緑区西八朔)が編成されていたことが分かります。
武蔵総社・六所宮(現・大国魂神社)の境内には、この6つの神社が祀られています。総社は、国内の神霊を一箇所に集めた神社で武蔵国の場合は、国府内にありました。六所宮の例大祭(くらやみ祭)では、境内に祀られている一之宮から六之宮の神輿が出御し、かつて6つの神社が六所宮に集結したようすを残していると思われます。
一之宮から六之宮の位置は武蔵七党など武士団の分布に深くかかわっていると言われています。小野神社は横山党・西党、小河神社は西党、氷川神社は野与党・足立氏、秩父神社は丹党・猪俣党、金鑚神社は児玉党、杉山神社は横山党など、それぞれの武士団の影響下にあったと推測されます。

古代の武蔵 「武蔵国」になる前
5世紀から6世紀にかけての古墳時代の武蔵国国造勢力圏を考えてみる。
武蔵国となる以前は、「夭邪志」「胸刺(む(な)さし)」「知々夫(ちちぶ)」の各々の国造(くにのみやっこ)の支配下にあった。
このうち「夭邪志」「胸刺」国造は出雲臣系氏族で、それぞれ兄多毛比命(エタモヒ命)とその子である(イサチノアタイ)を祖とするため、両氏の縁はかなり深かったと思われる。
一方で、「知々夫」国造は大伴氏の始祖である高御産巣日命(タカミムスヒ命)の子である八意思兼命(ヤツゴコロオモイカネ命)の十世の孫である知知夫彦命(チチブヒコ命)を始祖とするから、前二氏とははっきりと違う系統であることがわかる。
「夭邪志」「胸刺」両国の国造が古墳時代以来の有力豪族であったと考えられるなら、まずは北武蔵領域の埼玉古墳群を中心とした一帯を考えることができる。そして「夭邪志」「胸刺」は始祖が親子関係にあるため「夭邪志」がより有力な豪族であったと考えられる。
そうすると「夭邪志」国造は埼玉古墳群とその周辺の大古墳を築いた豪族と関係すると考えられる。
そして縁戚にある「胸刺」国造の領域は、容易には推測できない。
桓武平氏の良文流が秩父に入るはるか以前、百年はど前から、武蔵国に乱立し た土豪たちは血縁的な党派を結成して、後に武蔵七党と呼ばれる集団となった。 そして秩父には丹党と呼ばれる丹治氏の一族があった。
その「丹治系図《によると、先祖は「宣化天皇の後裔、武蔵守多治比広足五代 の孫、武信《とあり、例によって偽系図とされている。その根拠とされるもの が、紀国に丹生神社を祭る「丹生祝氏系図《系図に、丹生祝氏から別れた秩父 丹治氏の系図が載せられていることによる。

高橋氏文
宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、古来の伝承を朝廷に奏上した789年(延暦8年)の家記が原本と考えられる。しかし完本は伝わっておらず、逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。
伴信友が1842年(天保13年)に自序の『高橋氏文考註』にまとめた。これに関する791年(延暦11年)の太政官符が存在する。

大彦、膳臣、高橋氏
『日本書紀』では「磐鹿六雁(磐鹿六鴈)」、他文献では「磐鹿六獦命」「伊波我牟都加利命」とも表記される。
第8代孝元天皇皇子の大彦命の孫で、比古伊那許志別命(大稲腰命)の子とされる。膳臣(かしわでのおみ、膳氏)及びその派生氏族の高橋氏の祖である。
高橋氏文には、景行天皇が皇后とともに後の安房国へ旅行した際、食事の相伴係として无邪志国造の上祖大多毛比(エタモヒと読むがオホタモヒと読む説もある)と知々夫国造の上祖天上腹、天下腹等を呼んだ、とある

氷川神社と兄多毛比命
氷川神社と小野神社は新旧の武蔵国一の宮で、いずれも兄多毛比命との所縁を説いている。特に、小野神社の説明では小野神社の祭神は天下春命と瀬織津比売命でこの説明では或いは兄多毛比命は知々夫国造と同族か。しかし、小野神社の祭神は本来瀬織津比売命一座という説もある。小野とは小野郷からの神社名と言うが、小野とか瀬織津比売命とか何か滋賀県に関係があるように思われる。古代豪族小野氏は滋賀県の出身(近江国滋賀郡小野村)と言うし、瀬織津比当スは滋賀県の神社に祀られることが多い。例として、佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)名神大社、天智天皇8年中臣朝臣金連が創建、河桁御河辺神社など。小野郷も小野神社も大化の改新後小野氏が近江から武蔵へ導入したものではないか。何せほかの多摩地域の式内社は出雲系の神を祀る神社が多いのに(例として、阿伎留神社、阿豆佐味天神社、穴澤天神社、布多天神社)、小野神社ばかりが特殊な神々を祀っている。
案ずるに、やはり武蔵国には今の東京都府中市界隈に出雲系の国造と埼玉県行田市界隈に土着の大彦を祖とする国造がいたのではないか。
二人の国造がどのくらい並立していたのかは分からないが、棲み分けとしては。出雲系の国造が多摩川以北の多摩地域から児玉郡までを結んだ地域ではなかったか。児玉(こたま)郡は、かたま郡の訛りで彼方(遠方)の多摩という意味では。これに対し大彦系の国造は埼玉郡、足立郡及び今の東京23区あたりが地盤ではなかったか。安閑天皇の御代武蔵国造笠原直使主が屯倉として横淳(武蔵国横見、今、比企郡吉見町)、橘花(武蔵国橘樹、今、川崎市住吉)、多氷(氷は末の誤りとし、武蔵国多摩郡)、倉樔(樔は樹の誤りとし、武蔵国久良(岐)郡、今、横浜市)の地を朝廷に奉ったというのも、横淳は別としてみんな今の多摩川以南の地であろう。多氷は今の多摩市あたりかと思う。また、横淳も横見ではなくどこか今の多摩川以南にある神奈川県の地ではないか。要するに、武蔵国と言っても今の神奈川県は統治の範囲外だったのではないか。この時、まだ出雲系の国造がいたかどうかは不明である。

小野神社 (武蔵一の宮・式内小社論社・郷社・多摩市一之宮鎮座)
御祭神 / 天乃下春命(アメノシタバル命・ニギハヤヒ尊に供奉した神・オモイカネ神の御子(アメノシタバル命が秩父国造の祖ともいう)ともいう)・瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)・イサナギ尊・スサノヲ尊・オオナムジ大神・ニニギ尊・ヒコホホデミ尊・ウカノミタマ命
小野神社の創始は安寧天皇十八年二月(約2000年前)、または八世紀中頃と言われているが、いずれにせよ定かではない。光孝天皇元慶八年(884)には正五位上に神階が進められた記録があり、延喜の制では式内小社として名を連ねている。
もともと多摩郡の小野牧は陽成上皇の御料牧であったが、承平元年(931)に敕旨牧に編入されている。この牧を経営し、別当に任じられた小野氏が奉斎してきたのが小野神社であった。中世には武蔵国衙に近在する神社の筆頭として、また府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮)所祭神座の第一席に「一の宮 小野大神」と記載されることから「武蔵一の宮」とされている。
多摩市(南多摩郡)の小野神社小野神社は神域3800平方メートル、大正十五年の失火後の再建という。

小野神社 (式内小社論社・郷社・府中市住吉町鎮座)
御祭神 / 天乃下春命(アメノシタバル命)・瀬織津比売大神(セオリツヒメ大神)・創立年代は不明。
小野神社に祀られている祭神のアメノシタバル命はニギハヤヒ命が河内国に降臨した際に供奉した神という。兄武日命が初めて、この県の国造となったときに祖神として多摩郡に勧進し祭守したと伝えられている。

小野神社 府中市住吉町
人皇三代安寧天皇ノ御代、御鎮座。祭ル所天下春命大神也・・・出雲臣祖二井諸忍野神狭命ノ十世兄武日命、始テ此懸ノ国造ト成玉フ時、御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ(式内社小野神社由緒、正和二年(1313)秋七月神主澤井佐衞門助藤原直久)

二宮神社 (武蔵二の宮・郷社・別称「小河神社」・あきる野市二宮鎮座)
御祭神 / 国常立尊(クニノトコタチ尊・神世七代の神)
二宮神社は明治期までは、小河大明神・二宮大明神と称していた。府中の大国魂神社(武蔵総社六所宮・大國魂神社)所祭神座の第二席に「二宮 小河大神」と記載されることから「武蔵二の宮」とされている。
創建年代はあきらかではないが朱雀天皇の御代に、藤原秀郷が天慶年間(938−947)の平将門討伐のために関東出陣した際に当地で戦勝祈願を行い、社殿を造営したとされている。その後も、建久年間(後鳥羽天皇の代)に源頼朝の寄進、天正元年(正親町天皇の代)に北条氏政も寄進。また北条氏照(氏政の弟・武蔵滝山城主)は当社を祈願所とし篤く崇敬したとされる。明治三年に社号を二宮神社と改称し、郷社に列せられている。現在の社殿は江戸期の建立 。

厚木市小野の式内社小野神社は、末社に阿羅波婆枳社がある。『新編相模国風土記稿』には「祭神は天下春命で、阿羅波婆枳、春日の二座を相殿とす」とあるという。近江雅和『隠された古代』では、阿羅波婆枳神は主祭神であったものを、天下春命を主神の座に置いて、中央の圧力をかわしたものと思われるとする。小野神社は寒川神社と西北45度線をつくる。ただ、小野神社はもともとは現在地の西南400mほどの「神の山」といわれる小山に祀られていたといい、現在その頂上には秋葉神社の小祠があるという。

知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ・ちちぶこくぞう)
武蔵国西部を支配した国造。秩父国造とも。
祖先
八意思兼命。高皇産霊尊の子。思慮深い神。天児屋根命と同一神説がある。
『国造本紀』には崇神朝に10世孫の知々夫命が知々夫国造に任じられたとある。
氏族 大伴部氏か。姓は直。
後裔
天上腹・天下腹・・・・景行朝の人。大伴部氏の祖?磐鹿六狩命に従って天皇に料理を献上した。
大伴部赤男・・・・奈良時代の武蔵国入間の豪族。外従五位下。知々夫国造の末裔か?

時代が降ると「入間郡」に「高麗郡」が新設され渡来系氏族が入植し「高麗神社」祭祀圏(大宝3年(716)に高麗神社創建・現在約50社ある)ともいうべきものが出来上がる。p

ヤマトタケルと関東東北を平らげた後、随行していたタケヒが武蔵の国造となり、その子どもが武蔵国造を継ぎ、他の1人が上総菊間を監督し、他の2人は西国へ、となったように読めます。なお、国造本紀には、房総の、阿波国造、大伴直大瀧、と云うのもあり、これも大伴武日の子孫かと考えられます。
垂仁紀25年2月紀には、「武日」は大伴連の遠祖とあります。
景行40年7月紀では、大伴武日連をヤマトタケルの東征に随行させます。
同10月紀では、靫部(ゆけいのとものお)を大伴の遠祖である武日に賜った、とあります。
つまり、ヤマトタケルと関東東北を平らげた後、随行していたタケヒが武蔵の国造となり、その子どもが武蔵国造を継ぎ、他の1人が上総菊間を監督し、他の2人は西国へ、となったように読めます。なお、国造本紀には、房総の、阿波国造、大伴直大瀧、と云うのもあり、これも大伴武日の子孫かと考えられます。 
 
埼玉の稲荷山鉄剣

 

「埼玉稲荷山古墳」出土鉄剣について
(表文) 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比[土危]其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏文) 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉根原也
鉄剣には制作者である乎獲居臣に至る8代の系譜が刻まれている。
意富比[土+危]−多加利足尼−弖已加利獲居−多加披次獲居−多沙鬼獲居−半弖比−加差披余−乎獲居臣
オオヒコータカリノスクネ−テミカリワケ−タカヒジワケ−タサキワケ−ハテヒ−カサヒヨ−オワケノオミと読むのが通説である。
乎 獲居(をわけ)、意富比垝(おほひこ)、多加利(たかり)の足尼(すくね)、弖已加利獲居(てよかりわけ)、多加披次獲居(たかはしわけ)、半弖比(はて ひ)、加差披余(かさはよ)、獲加多支鹵(わかたける)大王、斯鬼(しき)の宮、
『古事記』や『日本書紀』 にでてくる人物に近い名前が見えてくる。「意富比垝」は『古事記』では「大毘古命」(『日本書紀』では「大彦」)である。「獲加多支鹵」は「大長谷若建 命」(『日本書紀』では「大泊瀬幼武天皇」)であろう。大長谷若建命「オホハツセワカタケルノミコト」とは雄略天皇の和名である。雄略天皇という漢風の名 前は『古事記』にも『日本書紀』にもまだ現れていない。天皇の名前が仁徳とか雄略というように、漢風諡号で呼ばれるようになったのは後のことである。この 系譜には比垝、足尼、獲居など身分的呼称が含まれている。比垝は彦、足尼は宿禰、獲居は「別」あるいは「幼」であるとされている。

大王 / おおきみは倭国での「大王」の読みである。この大王で「おおきみ」というのは一般的に、5世紀後半の稲荷山出土の鉄剣の銘文に、「ワカタケル大王の世」とあるので、これが最古とされるされてきたというのだが、和歌山の隅田八幡宮が所蔵していた(常は東京国立が借りている)人物画像鏡(隅田鏡)に「大王」とあり、書かれている内容はほとんど同時代らしい。どちらが古いか?作られた時代は鏡の型式や銘文の文字から見て、稲荷山鉄剣より隅田鏡が古そうですね。
昭和53年、稲荷山古墳から出土した鉄剣を調査していた元興寺文化財研究所は、この錆びた剣にレントゲン線を照射し、錆びの下にあった115の金文字を発見した。現物はチッソガスで密封したケースに納められ、資料館に展示されている。
5世紀には稲荷山鉄剣の刻印にみられるように日本列島で漢字が使われていたことは明らかであり、5世紀にはすでに史(ふひと)によって漢字で記録 され、8世紀に『古事記』や『万葉集』が成立するとそれらの記録をもとに載録された可能性がある。
9基の古墳の内最も古いのが稲荷山古墳である。5世紀後半に築造されたと推定されている。金錯銘鉄剣は、出土時にはサビだらけで誰もここに金で文字が刻まれているとは想像もしなかった。出土から10年後、サビの進行がひどく鉄剣は奈良の元興時文化財研究所に、サビ防止処理の為委託された。その処理中、キラリと刀剣の一部が輝きレントゲン写真にくっきりと115文字が浮かび上がった、という訳である。 1500年を経てよみがえった、まさに「世紀の大発見」だった。この時発見された文字の中の 「獲加多支歯大王」がワカタケルだいおうと解読され、以前発見されていた 熊本の江田船山古墳出土の銀象嵌の太刀も同じ文字であることがわかった。これにより、ワカタケル大王(雄略天皇にあたるとされている:5世紀後半)の時代には、大和朝廷は既に九州から関東までをその影響下(支配下?)に置いていた事が推定されるに至ったのである。
金文字で書かれた115文字の内容は次の通り。資料館の説明板による。
(表面) 辛亥の年 7月に記す 私はヲワケの臣 いちばんの祖先の名はオホヒコ その子はタカリノスクネ その子の名はテヨカリワケ その子の名はタカヒシワケ その子の名はタサキワケ その子の名はハテヒ
(裏面) その子の名はカサヒヨ その子の名はヲワケの臣 先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として大王に仕え今に至っている ワカタケル大王(雄略天皇)の役所がシキの宮にある時 私は大王が天下を治めるのを補佐した この何回も鍛えたよく切れる刀を作らせ 私が大王に仕えてきた由来をしるしておくものである
辛亥の年( 西暦471年) 。獲加多支鹵大王。寺(役所)在斯鬼宮(斯鬼は奈良県磯城郡、初瀬朝倉宮があった所) 。等の文字からワカタケル大王は雄略天皇とされている。
また、それ以前に熊本の江田船山古墳から発掘された太刀にも同じような銘があったが、こちらは文字の一部が欠けており判読できなかったが、稲荷山古墳の鉄剣が出たところから、同じワカタケル大王と推定されている。
江田船山古墳の太刀銘 「獲□□□鹵大王」
これらのことから見て、当時の大和朝廷は、九州から関東まで相当広く治世下においていたものと思われる。その大王の親衛隊長を勤めていただけに古墳の大きさもなるほどとうなづける。
金錯銘鉄剣をつくらせたのは乎獲居臣である,
3稲荷山古墳の被葬者は生前この鉄剣を持っていた.
鴻巣市の新屋敷遺跡で,稲荷山古墳出土と同型式の土器が榛名山の火山灰に覆われていること。
年代順には、
獲加多支鹵大王寺が天下を治めていたとき(あるいはその直後)の辛亥の年に金錯銘鉄剣がつくられた、稲荷山古墳の被葬者が死んだ、榛名山が噴火した、となります。

1 意富比垝 おほひこ
2 多加利足尼 たかりのすくね
3 弖已加利獲居 てよかりわけ
4 多加披次獲居 たかひ(は)しわけ
5 多沙鬼獲居 たさきわけ
6 半弖比 はてひ
7 加差披余 かさひ(は)よ
8 乎獲居臣 をわけのおみ
3人の別がいます。

上祖の意富比垝
第八代孝元天皇と内色許売命(うつしこめのみこと)の子、大毗古命(大彦)と同一人物かと思われます。
古事記によると、この人物は崇神天皇の御世に高志道(北陸道)に派遣され、まつろわぬ人々(服従しない人々)を平定したとされてます。また、この大毗古命は山代の幣羅坂(京都府木津川市市坂小字幣羅坂)で、予言をする少女(巫女)に出会い、建波邇安王(たけはにやすのみこ)が反乱を起こそうとしていることを、崇神天皇に伝えたとある
この金錯銘鉄剣の意富比垝が大毗古命なのだとする根拠はもうひとつ。それは古事記に記されている、大毗古命の子の名前です。大毗古命の子の名は、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)。阿倍臣等の祖先となっています。
タケがあり、別がついているので…

辛亥年について
稲荷山鉄剣銘文に記された辛亥年が471年か、531年かの議論です。
通説では、471年獲加多支鹵大王=雄略説です。
年代推定
まず注目されたのは, 『辛亥年』 の西暦471年に 『獲 加多支鹵大王』 は大泊瀬 (オオハツセ) 稚武 (ワカタ ケ) 天皇, すなわち雄略天皇と比定された. この天皇 の在位は456~479年で時期は一致する
1) 115文字の中ほどにある「ワカタケル大王」を雄略天皇(21代)と考える.
2) 中国の『宋書』に,武の遣(つか)いが476(478?)年に来たとある.
3) 武は雄略天皇だと考える.
4) だから,鉄剣の「辛亥年」は411でも531でもなく471年だ.
銘文から
鉄剣銘に「斯鬼宮」
古事記に欽明の宮として、「師木島大宮」
日本書紀では、「磯城嶋金刺宮」となっているから、欽明天皇の時代の説あり。7月14日「都を倭国の磯城の郡の磯城嶋に遷す。よりて号けて磯城嶋金刺宮とす。」とあり、銘文「辛亥年七月」に付会する事に注目しているわけです。
意冨比[土危](オオヒコ)は普通、孝元天皇の御子「大彦命」いわゆる四道将軍の一人と考えられています。

稲荷山古墳の被葬年代
稲荷山古墳の調査報告書によると、付近には住居跡が埋没している可能性が非常に高いそうです。土器の他、馬具、鏡、鉄剣、鉄鏃、三環鈴、勾玉、銀環、等色々出ています。
土器編年の基準の一つがこの銘文入り鉄剣でもあるのです。
土器編年が稲荷山鉄剣銘文の辛亥年471年説(文献的仮説)を前提として加味された上で行われている。
古墳の被葬年代は、6世紀前半と判断されています。
埼玉稲荷山古墳調査報告書から引用
『第一主体部の副葬品は、五世紀の中頃から後半に比定できるものとして、
○[糸車糸・口](f字形境板)
○素環雲珠
○素環辻金具
○帯金具
○三環鈴
六世紀前半に比定できるものは、
○鈴杏葉
○方形辻金具
○壺鐙
○鞍橋金具
○[革妥]
その他、鉄・鏃直刀・鉾は五世紀後半から六世紀前半に観られる形式であり、画文帯環状乳神獣鏡は五世紀代に分与されたものであろう。したがって、第一主体部の被葬者は、辛亥年が西暦四七一年あるいは西暦五三一年であるにしろ、六世紀前半に埋葬されたものと思われる』…引用以上。
ここに言う第一主体部とは、銘文入り鉄剣のあった礫槨部分を呼び、普通、古墳年代の比定は、最も新しい被葬品で判定されるわけですから、この第一主体部が五世紀末となる。

治天下と大王
X線ラジオグラフィで 『王賜』 の文字が発見された千 葉県市原市稲荷台古墳出土の鉄剣が更に古く5世紀中 葉より少し遡り, 大王が初めて登場するのは, 隅田八 幡神社の鏡で允恭天皇が大王を自称したとされる. さ らに, 大王の名前の前につく治天下 (辛亥銘鉄剣の場 合は佐治天下) は, 古事記・日本書紀・日本霊異記に しばしば出てくる 「天皇の名を美しく飾る言葉」 と見 なされ, 漢語の地天下を直訳し, 輸入して利用しただ けと考えられていた. しかし, 稲荷山古墳出土鉄剣の 文字の発見により, 改めて注目され, 獲加多支鹵大王 (雄略天皇) の時代から用いられるようになった, と 判断された. 治天下大王は, 獲加多支鹵大王の君主号 として作り出された

531年説のひとつ
「辛亥年」は471年、雄略天皇(ワカタケル)の時代とされている。しかしこれは単なる推定に過ぎない。還暦60年後の531年もその候補となる。この時代の天皇はだれか。それはまさしく「寺」にもっとも相応しい人「欽明天皇」となる。
日本史教科書にもあるように、欽明天皇13年百済の聖明王が金銅仏と経典を倭国に送ったことが日本書紀に記されている(仏教公伝…538年)
仏教に帰依した欽明天皇は、自身の漢字一字表記を「寺」にしたことが十分考えられる。

埼玉県の古墳
埼玉県の古墳で前期に該当するものは、高稲荷古墳と諏訪山35号墳の2基だけ、中期に該当するものは稲荷山古墳と雷電山古墳の2基だけであり、この表に登場するような有力な前方後円墳の多くは古墳時代後期に築造されているのが特徴である。
そして、この事は、5世紀末に稲荷山古墳が築造される迄、毛長川流域の高稲荷古墳が、比企郡の帆立貝式前方後円墳である雷電山古墳がほぼ同規模であるものの、埼玉県内=武蔵北部における最も有力な前方後円墳であったという事だる。
高稲荷古墳を含む足立郡南部(旧入間川下流部流域)の勢力が埼玉古墳群成立前の武蔵国において、多摩川流域の勢力や比企地方の勢力と並ぶ、有力な勢力の一つであったと言う事はできるのではないだろうか?
前期古墳
高稲荷古墳 川口市 足立郡 新郷古墳群 75.0m 前期
諏訪山35号墳 東松山市 比企郡 諏訪山古墳群 66.0m 前期
中期古墳
稲荷山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 120.0m 中期
雷電山古墳 東松山市 比企郡 三千塚古墳群 76.0 中期
とやま古墳 南河原村 埼玉郡 —— 69.0m 中期
5世紀末の稲荷山古墳以降、最有力の前方後円墳は行田市の埼玉古墳群とその周辺の埼玉郡内に限って築造されるようになる。一方、高稲荷古墳を築造した旧入間川下流部である現毛長川流域の地において、集落遺構や祭祀遺構が中期末に断絶する傾向が知られている。
5世紀末に至って突然、大形の前方後円墳が築造されるようになるのが埼玉郡の特徴である。この事は、5世紀後半頃に、この地に武蔵国で最も有力な勢力が現れたことを示すと共に、その勢力は埼玉郡内の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたことを推察させるものである。埼玉古墳群の南方10km程の所に、笠原という地名があり、使主はここを拠点とした豪族であるとされている。
大形古墳は、日本書紀安閑天皇紀に登場する、武蔵国造の笠原直氏とその一族のものとする説がある。後の武蔵国造に繋がる武蔵国最有力の氏族のものであることは間違いのない所ではないかと思われる。

豪族など
武蔵国造
建比良鳥命。出雲国造・遠淡海国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造などと同系。成務朝に二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫の兄多毛比命が无邪志国造に任じられたという。
丈部氏、のち武蔵氏。姓は直だが、のち宿禰。一族として笠原氏・物部氏・大伴氏・檜隈舎人氏などがある。
本拠
武蔵氏・大伴氏は武蔵国足立郡(東京都足立区と埼玉県東南部)。
笠原氏は武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県鴻巣市)。
物部氏は武蔵国入間郡(埼玉県入間市・川越市・狭山市・所沢市・富士見市・ふじみ野市など)。
笠原使主 …… 安閑朝の武蔵国造。笠原小杵と相続争いを起こした。
物部兄麻呂 …… 推古朝の舎人。武蔵国造。
丈部不破麻呂 …… 奈良時代の官人。藤原仲麻呂の乱の功績で武蔵宿禰を賜り、武蔵国造に任じられた。

武蔵国造家
武蔵国総社・大国魂神社の境外摂社に「坪の宮」という神社が在る。別名「国造神社」と呼び、祭神は兄多毛比命である。武蔵国造家の始祖である。代々、武蔵国造が奉仕していたのでここに祀られているという。兄多毛比命の8代前が天穂日命であるから、出雲国造とも祖が同じである。兄多毛比命の7代後裔が、武蔵国造の乱で有名な笠原直使主である。小杵とは従兄弟にあたる。将門反乱の時、武蔵国造の後裔武芝は、足立郡司判官代で、将門側につく。武芝の娘と菅原氏との間に生まれた正範が氷川神社社務を継承し、4代後氷川神社神主家大祝物部氏の血を入れ、武蔵国造家は現在に至る。

銘文の解読 [武蔵国造の乱と毛長川流域]
阿倍氏の系図には大彦命の孫として「豊韓別命」(トヨカラワケノミコト)の名があり、鉄剣系譜もオオヒコの孫に弖已加利獲居(テミカリワケ)と音の似通った名がある点からも、記紀系譜の信憑性、少なくともその概念の成立は鉄剣製作年(471年)以前に遡り得ることを指摘する向きもある。
そこで、仮に弖已加利獲居=豊韓別とすれば、「弖」字は「て」とも「と」とも発音する場合があることが想定される。現在でも「豊島」と書いて「てしま」と発音する例が残っていることから、「弖」は「て」「と」と通用するか、「て」→「と」と訛る場合があると言えそうである。
この8代の系譜の中で、オワケの先代にあたるカサヒヨを、語感の近さから笠原直と結び付ける説があり、中には「カサハラ」と読むのではないかとする研究者もいる。字面からして「カサハヨ」は有り得るとしても、「カサハラ」と読むのは少々難があると思うが、笠原を「カサヒヨ」乃至は「カサハヨ」の転訛と見ることは可能であろう。「カサハヨ」と読むのであれば、これは恐らく「風早(カザハヤ)」という意味の言葉ではないだろうか? 笠原を含む埼玉県北部の平野部は「上州のからっ風」、つまり群馬県=上毛野方面からの強風が冬季に吹くことで知られている。「カサハヨ」とはこうした気候の特徴を捕らえた命名ではないかと思われる。また、「披」字を「ハ」と読むなら、タカヒジワケもタカハジワケ乃至はタカハシワケとなり、同じく大彦の末裔とされる阿部臣や膳臣同族の高橋連との関係も推察される。 
 
武蔵国造の乱と毛長川流域

 

日本書紀安閑天皇紀元年閏十二月条に、武蔵の豪族である笠原直使主(おみ)とその同族小杵(おぎ)とが、武蔵国造の地位を巡って朝廷や隣国上毛野(群馬県)の豪族を巻き込んで争ったという、所謂「武蔵国造の乱」記事がある。
〔原文〕
武蔵國造笠原直使主與同族小杵、相爭國造、【使主・小杵皆名也。】經年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就援於上毛野君小熊。而謀殺使主。使主覺之走出。詣京言状。朝廷臨断、以使主爲國造。而謀小杵。國造使主、悚憙交懐、不能黙已。謹爲國家、奉置横渟・橘花・多氷・倉[木巣]、四處屯倉。
〔訳〕
武蔵国造の笠原直使主と同族小杵とが、国造の地位を相争ったが(使主・小杵は人の名)、年を経ても中々決着がつかなかった。小杵の性格は陰険で、何事にも逆らう気質を持っており、傲慢で何かに従うということがなかった。それで小杵は密かに上毛野君小熊に援護を求め、使主を殺そうと謀った。これを知った使主は都へ走り、朝廷に申し立てを行った。朝廷はすぐさま決断し、使主を国造とし、小杵を成敗した。国造の使主は大変喜び、何もしないではいられなかったので、国のために横渟・橘花・多氷・倉[木巣]の4箇所を屯倉として献上した。
安閑紀に記された年代によれば、西暦535年のことであるとされる。この武蔵国造の乱を史実と見るか否か、様々な意見があるが、時代や登場人物等、安閑紀の記述を鵜呑みには出来ないが、何がしかこの記事のモデルとなるような事件はあったのではないかという見方が根強いようである。
こうした見方に基づく説の一つとして、東京の荏原台古墳群と埼玉の埼玉古墳群とをそれぞれ小杵と使主の一族の墓所とみるものがある。当初、荏原台にて大型前方後円墳が築造されなくなる時期と、埼玉に大型前方後円墳が築造され出す時期が近似していると考えられていたことから導き出された説であり、その後の調査研究によってそれぞれの群の古墳の築造年代が前後した為に、現在では様々な反論もあるが、大田区発行の文献類では今でもこの説を支持している等、根強く唱えられている説である。
それはともかくとして、毛長川流域の古墳時代遺跡を概観してみると、古墳時代中期(5世紀台)に一時集落が断絶する場合が多いことが分かる。
鳩ヶ谷市三ツ和遺跡、草加市東・西地総田遺跡、足立区舎人遺跡、伊興遺跡等、流域を代表する集落遺跡はいずれも古墳時代初頭より構築が開始された事が分かっているが、伊興遺跡を除き、これらの遺跡からは中期〜後期の遺構や遺物は全く検出されていないか、ごく僅かなものに留まっている。
伊興遺跡からは中期〜後期の遺構や遺物が比較的多く検出されているが、祭祀遺構に関しては中期末頃に断絶し、集落については、後期には場所を変えて営まれていたらしいとされている(現時点では中期〜後期の住居跡は検出されていないが、他の遺構や遺物の出土状況からそのように推察される)。
いずれの遺跡も遺跡範囲のごく一部の調査に留まっている為、今後の調査によって後期の集落遺構や遺物が検出される可能性は高いが、現時点で検出されている集落跡は中期には廃絶され、同じ場所に再び集落が築かれるのは奈良時代に入ってからである事が分かっているので、中期末〜後期においていずれの遺跡においても集落は場所を変えて営まれたのは間違いの無い所であろう。伊興遺跡において祭祀遺構が中期末で断絶する事からも、この時期に毛長川流域の古墳文化に何らかの変質が生じたと推察する事ができよう。
こうした傾向は毛長川流域のみならず、周辺の低地(東京低地)の遺跡にも多く見受けられ、東京低地遺跡の特徴の一つともされているのであるが、同じ時期にこうした状況が広域的に見られるというのは大変興味深いことである。また、こうした観点から後に武蔵国を形成する各地の有力首長墓の消長を見てみると、東京低地の古墳時代遺跡に断絶が生じた中期末に、突如として埼玉の地に全長120mの稲荷山古墳が築造れていることが分かる。この2つの現象は無関係であるとも思えず、この時期に、後に武蔵国を形成する地域全般に何がしかの画期が押し寄せた可能性があるのではないだろうか? そしてこのことと「武蔵国造の乱」として記録された事件には何らかの関係があったのではないだろうか?
表1:埼玉県内の前方後円墳墳長ランキング(50m以上)
順位 名 称 所在地 旧郡名 所属群 墳丘長 築造時期
 1 二子山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 138.0m 後期
 2 稲荷山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 120.0m 中期
 3 野本将軍塚古墳 東松山市 比企郡 野本古墳群 115.0m 後期
 4 小見真観寺古墳 行田市 埼玉郡 小見古墳群 112.0m 後期
 5 鉄砲山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 109.0m 後期
 6 天王山塚古墳 菖蒲町 埼玉郡 栢間古墳群 107.0m 後期
 7 真名板高山古墳 行田市 埼玉郡 真名板古墳群 104.0m 後期
 8 若王子古墳 行田市 埼玉郡 若王子古墳群 103.0m 後期
 9 将軍山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 102.0m 後期
10 中の山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 79.0m 後期
11 永明寺古墳 羽生市 埼玉郡 村君古墳群 78.0m 後期
12 雷電山古墳 東松山市 比企郡 三千塚古墳群 76.0m 中期
13 高稲荷古墳 川口市 足立郡 新郷古墳群 75.0m 前期
14 瓦塚古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 75.0m 後期
15 とうかん山古墳 大里村 大里郡 ------ 74.0m 後期
16 奥の山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 70.0m 後期
17 三方塚古墳 行田市 埼玉郡 若王子古墳群 70.0m 後期
18 とやま古墳 南河原村 埼玉郡 ------ 69.0m 中期
19 諏訪山35号墳 東松山市 比企郡 諏訪山古墳群 66.0m 前期
20 胴山古墳 坂戸市 入間郡 ------ 63.2m 後期
21 毘沙門山古墳 羽生市 埼玉郡 羽生古墳群 63.0m 後期
22 おくま山古墳 東松山市 比企郡 柏崎古墳群 62.0m 後期
23 三島神社古墳 吹上町 足立郡 ------ 60.0m 後期
24 御廟塚古墳 羽生市 埼玉郡 村君古墳群 60.0m 後期
25 秋山諏訪山古墳 児玉町 児玉郡 秋山古墳群 60.0m 後期
26 東浦古墳 菖蒲町 埼玉郡 ------ 60.0m 後期
27 柊塚古墳 朝霞市 入間郡 根岸古墳群 60.0m 後期
28 下野堂二子塚古墳 本庄市 児玉郡 小島古墳群 60.0m ------
29 生野山銚子塚古墳 児玉町 児玉郡 生野山古墳群 58.0m 後期
30 生野山16号墳 児玉町 児玉郡 生野山古墳群 58.0m 後期
31 寅稲荷古墳 岡部町 榛沢郡 四十塚古墳群 54.0m 後期
32 愛宕山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 53.0m 後期
33 雷電塚古墳 坂戸市 入間郡 ------ 52.4m 後期
34 虚空蔵山古墳 行田市 埼玉郡 小見古墳群 50.0m 後期
35 酒巻1号墳 行田市 埼玉郡 酒巻古墳群 50.0m 後期
36 長御気31号墳 児玉町 児玉郡 長沖古墳群 50.0m ------
37 お手長山古墳 岡部町 榛沢郡 岡古墳群 49.6m 後期

まずは、埼玉稲荷山古墳が、県内の前方後円墳の消長の中で、いかに突然現れた存在であるかを見てみよう。
表1は埼玉県内における墳長50m以上の前方後円墳(帆立貝形も含む)を大きい順に並べたものである。築造時期はおおまかに前期(3〜4世紀台)、中期(5世紀台)、後期(6〜7世紀台)の3期に分けて表記した。また、墳丘長は資料によって多少の差異がある場合があり、異なる数値を使用した場合、若干の順位の前後が生じるが、厳密な墳丘規模の比較が目的ではないので、県内の前方後円墳の築造時期と規模との大凡の傾向として考えて頂きたい。
この表からも分かる通り、既知の古墳で前期に該当するものは、高稲荷古墳と諏訪山35号墳の2基だけ、中期に該当するものは稲荷山古墳と雷電山古墳の2基だけであり、この表に登場するような有力な前方後円墳の多くは古墳時代後期に築造されているのが特徴である。
そして、この事は、5世紀末に稲荷山古墳が築造される迄、毛長川流域の高稲荷古墳が、比企郡の帆立貝式前方後円墳である雷電山古墳がほぼ同規模であるものの、県内=武蔵北部における最も有力な前方後円墳であったという事を示している。
勿論、未知の古墳や、人知れず消滅していった古墳の中に高稲荷古墳を超える規模の前・中期の前方後円墳が存在した可能性は否定できないが、高稲荷古墳を含む足立郡南部(旧入間川下流部流域)の勢力が埼玉古墳群成立前の武蔵国において、多摩川流域の勢力や比企地方の勢力と並ぶ、有力な勢力の一つであったと言う事はできるのではないだろうか?
5世紀末の稲荷山古墳以降、最有力の前方後円墳は行田市の埼玉古墳群とその周辺の埼玉郡内に限って築造されるようになる。一方、高稲荷古墳を築造した旧入間川下流部である現毛長川流域の地において、上述の通り、集落遺構や祭祀遺構が中期末に断絶する傾向が知られている。
この事と、ほぼ時を同じくする稲荷山古墳の出現とは無関係ではなかろう。この頃に、武蔵国全域に影響を及ぼすような大画期が生じたと考えられる。
この点について考察を進める前に、武蔵国において有力古墳が築造された諸地域における古墳の消長を旧郡別に概観してみたいと思う。毛長川流域以外でもこのような傾向が見られるのであろうか?
郡は勿論、古墳時代より後の律令時代に制定されたものであるが、その範囲の確定には当然のことながら、より古い時代からのものが引き継がれていると考えられる。また、武蔵国内の郡に関しては、概ねその地域を流れる河川を中心とした割り振りになっており、この点からも郡はより古い時代からの地域的な纏まりを継承していると思われる。
荏原郡
表2:荏原郡 / 名称 墳形 墳丘長 築造時期
扇塚古墳 前方後方墳? 40.0m 3世紀末〜4世紀前半?
宝來山古墳 前方後円墳 100.0m 4世紀前半
芝丸山古墳 前方後円墳 110.0m 4世紀前半〜中葉
亀甲山古墳 前方後円墳 107.0m 4世紀末〜5世紀初頭
野毛大塚古墳 帆立貝式 82.0m 5世紀前半
浅間神社古墳 前方後円墳 60.0m 6世紀前半
多摩川台1号墳 前方後円墳 37.0m 6世紀中葉
観音塚古墳 前方後円墳 42.5m 6世紀後半

荏原郡は現在の東京都大田区、目黒区、品川区を中心とした地域で、埼玉古墳群出現以前の古墳時代前期〜中期において最も有力な古墳が築造された地域である。
近年、扇塚古墳が3世紀末〜4世紀前半頃の前方後方墳である可能性が指摘されているが、まだ確定はしておらず、今の所、4世紀前半に全長100mの前方後円墳である宝來山古墳の築造をもって開始されると考えられている。
この次の首長墓として、豊島郡の南端に築かれた全長110mの芝丸山古墳が、その外観や立地から4世紀台の古墳ではないかと考えられているが、これも未だ確定には至っていない。同じく、宝來山古墳の近くに築造された全長107mの亀甲山古墳もその外観や立地から、4世紀台の古墳と考えられ、宝來山に続くものと考えられているが、未調査であり、研究者によっては宝來山より先行すると考える場合もあるようだ。
5世紀台に入ると同地域の最有力古墳は帆立貝式の野毛大塚古墳になり、築造された場所も宝來山古墳、亀甲山古墳が築造された田園調布からやや北西に離れた世田谷区内(多摩郡)に移っている。
6世紀台に入ると再び田園調布古墳群内に浅間神社古墳、多摩川台1号墳、観音塚古墳と前方後円墳が築造されるようになるが、その規模からも、宝來山や亀甲山のような他地域からの優位性は認められず、100m級の前方後円墳が相次いで築造された埼玉郡内の勢力との差は歴然である。
野毛大塚古墳が築造された5世紀台に何らかの画期がこの地に生じたものと推察される。
比企郡
表3:比企郡 / 名称 墳形 墳丘長 築造時期
諏訪山29号墳 前方後方墳 50.0m 4世紀中葉
諏訪山35号墳 前方後円墳 66.0m 4世紀末〜5世紀初頭
雷電山古墳 帆立貝式 76.0m 5世紀前半〜中葉
野本将軍塚古墳 前方後円墳 115.0m 5世紀末〜6世紀初頭
おくま山古墳 前方後円墳 62.0m 6世紀前半

比企郡は現在の埼玉県東松山市を中心とした、県中央部の地域で、県内では北部の児玉郡と共に古くから古墳が築造された地域である。
有力な首長墓としては4世紀中葉の前方後方墳である諏訪山29号墳が最も古いものであり、これに続いて4世紀末〜5世紀初頭頃に前方後円墳の諏訪山35号墳が築造されている。諏訪山35号墳は足立郡の高稲荷古墳と共に県内では最も古い前方後円墳であるとされている。
5世紀台に入ると、荏原郡と同様に、比企郡においても最有力の古墳は帆立貝式の雷電山古墳となり、築造された場所も同様に、諏訪山29、35号墳が築造された諏訪山からやや離れた地域に移動しており、荏原郡と共通する部分が多い。ただし比企郡では、埼玉郡の稲荷山古墳と同時期に墳丘規模においてこれに肉迫する野本将軍塚古墳が築造されており、この時代迄は埼玉郡の勢力と拮抗する力を有していたのではないかと推察される。しかし、埼玉郡のように100m級の前方後円墳が相次いで築造されるような事はなく、6世紀前半に築造された帆立貝形のおくま山古墳を最後に、以後目立った首長墓が築かれる事はなかった。
足立郡
表4:足立郡 / 名称 墳形 墳丘長 築造時期
塚本塚山古墳 前方後方墳? 60.0m 4世紀前半?
熊野神社古墳 円墳 38.0m 4世紀後半
高稲荷古墳 前方後円墳 75.0m 4世紀末〜5世紀初頭
仙元祠古墳 前方後円墳 不明 不明
八兵衛山古墳 前方後円墳 不明 6世紀台
三島神社古墳 前方後円墳 60.0m 6世紀後半

足立郡では現在の所、4世紀前半〜中葉に位置付けられる古墳は確認されておらず、荏原郡や比企郡よりも遅れて古墳の築造が始まったと考えられているが、既に消滅してしまった古墳も多く、今後の調査によってより古い時代の古墳が検出される可能性は残っている。例えば、これまで6世紀代の前方後円墳であると考えられていたさいたま市・大久保古墳群の塚本塚山古墳は、未調査ではあるものの、残存する主丘の形状から、4世紀前半代の前方後方墳である可能性が指摘されている。また、鳩ヶ谷の仙元祠古墳は既に消滅してしまっているので確認のしようはないが、伝えられる出土品の様相や墳丘の外観、立地から、高稲荷古墳と同様の古式前方後円墳であるとも考えられ、或は高稲荷古墳に先立って築造された可能性も推察される。
確認されているものの中で、郡内で最も古いとされるのは、桶川市の熊野神社古墳である。この古墳は中規模の円墳ながら、関東では珍しい碧玉製の装身具や儀杖等の豪華な副葬品が出土した事で知られている。これらの副葬品は畿内の影響が強く、メスリ山古墳の副葬品との類似が指摘されており、仮に熊野神社古墳が郡内最古の古墳であるとすれば、方墳や前方後方墳から古墳築造が始まる他の地域とは異なり、荏原郡同様に大和政権との結びつきの度合いがそれらの地域とは異なるものがあったのではないかと推察される。
熊野神社古墳に続く時代のものとして、川口市の高稲荷古墳が挙げられる。高稲荷古墳は全長75mの前方後円墳で、荏原郡の亀甲山古墳、比企郡の諏訪山35号墳と同時代のもので、5世紀末頃に埼玉郡に稲荷山古墳が築造される迄、県内における再大規模の前方後円墳であり、足立郡内及び県南地方においては古墳時代を通じて最大の古墳であった。
埼玉郡
表5:埼玉郡 / 名称 墳形 墳丘長 築造時期
稲荷山古墳 前方後円墳 120.0m 5世紀末
二子山古墳 前方後円墳 138.0m 6世紀前半
真名板高山古墳 前方後円墳 104.0m 6世紀後半
小見真観寺古墳 前方後円墳 112.0m 6世紀末〜7世紀初頭
戸場口山古墳 方墳 40m 7世紀前半
八幡山古墳 円墳 80m 7世紀後半

埼玉郡内では前期の有力な首長墓は知られておらず、5世紀末に突然120mの稲荷山古墳が現れ、以後、埼玉古墳群やその周辺地域に100m級の前方後円墳が立続けに築造されるようになる。前方後円墳が廃れた後も、径80mの大円墳である八幡山古墳を築く等、稲荷山古墳以来、武蔵国において最も有力な地域であった。このように、古式の古墳から漸進的に大形前方後円墳へと移行する他地域に対し、5世紀末に至って突然、大形の前方後円墳が築造されるようになるのが埼玉郡の特徴である。この事は、5世紀後半頃に、この地に武蔵国で最も有力な勢力が現れたことを示すと共に、その勢力は埼玉郡内の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたことを推察させるものである。
これらの大形古墳は、日本書紀安閑天皇紀に登場する、武蔵国造の笠原直氏とその一族のものとする説があるが、同時期の武蔵国内の他地域にこれらを凌駕する首長墓が見受けられないことからして、笠原直氏が武蔵国造であったかどうかは別としても、後の武蔵国造に繋がる武蔵国最有力の氏族のものであることは間違いのない所ではないかと思われる。
上毛野東部
表6:上毛野東部 / 名称 墳形 墳丘長 築造時期
寺山古墳 前方後方墳 60.0m 4世紀前半
朝子塚古墳 前方後円墳 123.5m 4世紀後半
茶臼山古墳 前方後円墳 168.0m 5世紀前半
天神山古墳 前方後円墳 210.0m 5世紀中葉
鶴山古墳 前方後円墳 102.0m 5世紀後半
沢野74号墳 帆立貝形墳 72.0m 5世紀後半〜6世紀前半
割地山古墳 前方後円墳 105.0m 6世紀後半
二ツ山1号墳 前方後円墳 74.0m 6世紀末〜7世紀初頭
巌穴山古墳 方墳 30.0m 7世紀中葉〜後半

参考までに、日本書紀安閑天皇紀中の「武蔵国造の乱」記事に登場する上毛野氏の拠点であったと見られる上毛野国東部の様子も確認しておこう。
この地域は、4世紀前半頃の前方後方墳である寺山古墳を皮切りに有力な首長墓が築造されるようになり、4世紀後半には120m級の前方後円墳である朝子塚古墳が築かれ、東国において、最も早い時期から有力な勢力に育っていたことを伺わせる。以後も墳丘は大型化の一途を辿り、同時代の東国他地域に対し、隔絶した規模を誇るようになり、5世紀中頃の太田天神山古墳に至って、墳丘長210mと畿内の大王墓にも匹敵する超大形前方後円墳が出現する。この頃がこの勢力の絶頂期であったと思われるが、以後急速に墳丘規模は衰え、続く時代には102mと東国では大形古墳に分類される鶴山古墳が築かれるものの、やがて沢野74号墳のような帆立貝式の前方後円墳がこの地域の主流となっていく。6世紀中葉に入ると再び大型の前方後円墳が築造されるようになり、続く7世紀にも方墳が築造されるなど、ある一定の勢力は保ち続けたようであるが、6世紀以後、上毛野国内の大形前方後円墳は西方の高崎市や前橋市の周辺にも築造されるようになり、上毛野東部の勢力が以前のような隔絶した勢力を保つことができなくなったことが推察される。

各地域の様子を概観した所で、次にこれらの有力首長墓の規模の変遷がどのような意味を持つのか考察してみる。
表7は上記各地域における有力首長墓の変遷を纏めたものである。築造年代はより詳細に区分したが、築造年代をある時代区分に特定できない古墳に関しては、推定される幾つかの時代区分にまたがって表記している。尚、ここで挙げている古墳は、それぞれの時代区分の、各地域における最大規模のものであり、必ずしも一つの古墳群に属するものではない。
表7 各地域の有力首長墓の変遷
築造時期  荏原郡 / 比企郡 / 足立郡 / 埼玉郡 / 上毛野東部
3世紀末〜4世紀初頭
 扇塚古墳 / 諏訪山29号墳 / 塚本塚山古墳 / / 寺山古墳
4世紀前半
 宝來山古墳 / 諏訪山29号墳 / 塚本塚山古墳 / / 寺山古墳
4世紀中葉
 芝丸山古墳 / 諏訪山29号墳 / 塚本塚山古墳 / /
4世紀後半
 亀甲山古墳 / / 熊野神社古墳 / / 朝子塚古墳
4世紀末〜5世紀初頭
 亀甲山古墳 / 諏訪山35号墳 / 高稲荷古墳 / / 八幡山古墳
5世紀前半
 野毛大塚古墳 / 雷電山古墳 / 仙元祠古墳? / / 茶臼山古墳
5世紀中葉
 / 雷電山古墳 / 仙元祠古墳? / / 天神山古墳
5世紀後半
 / / 仙元祠古墳? / / 鶴山古墳
5世紀末〜6世紀初頭
 / 野本将軍塚古墳 / 仙元祠古墳? / 稲荷山古墳 / 沢野74号墳
6世紀前半
 浅間神社古墳 / おくま山古墳 / 八兵衛山古墳 / 二子山古墳 /
6世紀中葉
 / / 八兵衛山古墳 / 鉄砲山古墳 / 九合村60号墳
6世紀後半
 観音塚古墳 / / 三島神社古墳 / 真名板高山古墳 / 割地山古墳
6世紀末〜7世紀初頭
 / / / 小見真観寺古墳 / 二ツ山1号墳
7世紀前半
 / / 本杢古墳 / 戸場口山古墳 /
7世紀中葉
 / / 本杢古墳 / / 巌穴山古墳
7世紀後半
 / 穴八幡古墳 / 本杢古墳 / 八幡山古墳 / 巌穴山古墳
上毛野のくびき
表7から、有力首長墓の出現時期は、荏原郡と足立郡は推定ではあるものの、埼玉郡を除いてほぼ同時期に前方後方墳の築造をもって開始されるようであり、これらの地域は関東において比較的早くから古墳文化を受容した地域であると見ることができる。一方、前方後円墳で見ると、足立郡の仙元祠古墳に4世紀台の可能性が残るものの、現時点では、上毛野東部と荏原郡に他地域に先駆けて大型前方後円墳が現れると見ることが出来、この点では比企郡と足立郡は後出的である。
埼玉郡は他地域と比べ、かなり後出的であり、他地域のように先行する有力首長墓もなしに、いきなり5世紀末に大型前方後円墳が築造され出す点で特異な例であると思われる。
そこで一旦、埼玉郡を外して表7を見てみよう。
荏原郡と上毛野東部に他地域に先駆けて大型の前方後円墳が現れたのは上述の通りであるが、足立郡と比企郡に最初の前方後円墳が現れる4世紀末〜5世紀初頭にかけての各地域の前方後円墳の墳丘規模がほぼ横並びになっているのが興味深い。荏原郡の亀甲山古墳は他の3地域のものより一回り大きく、また前の時代の宝來山古墳とほぼ同規模のものであることからして、足立郡と比企郡に前方後円墳が築造されるようになった背景には、上毛野の勢力を侵食する形で首長権が確立したか、何らかの原因で上毛野勢力が一時弱体化した隙に乗じて進出したといったような事情が想定できるかもしれない。
更に興味深いのはその次の時代である5世紀前半で、どういう訳か、荏原郡と比企郡では通常の前方後円墳は築造されずに、大型の帆立貝型の古墳が築造されている。足立郡ではこの時代における首長墓は確認されていないが、1951年の旧埼玉県史において、前方後円墳と記載され、直刀、曲玉、土師器の出土が伝えられている鳩ヶ谷市の仙元祠古墳を、形象埴輪を持ち6世紀台の築造と考えられる八兵衛山古墳との対比から、5世紀台のものと看做すことが出来るかも知れない。仙元祠古墳は現存せず、出土品も散逸していることから、詳細は全く不明であるが、江戸時代後期に徳川幕府によって編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』の鳩谷町の項にある浅間神社の挿し絵を見ると、前方部が低平な初期の前方後円墳か、帆立貝型のような姿に描かれている。仮にこの挿し絵が実際の姿を忠実に留めており(明治期に撮影された写真から、かなり忠実に描かれていると思われる)、出土品の伝承から、埴輪を伴わない5世紀台の古墳と考えれば、足立郡においても、高稲荷古墳に続いて築造されたのは前方後円墳ではなく、帆立貝型古墳であった可能性がある。
一方、上毛野東部では、更に大型の全長168mの前方後円墳である茶臼山古墳が築造されており、他地域に対する優位性がより顕著なものとなっているように思える。想像を逞しくするのであれば、この茶臼山古墳の築造によって、他地域の首長墓の規模が制限されたのではないだろうか? 野毛大塚古墳、雷電山古墳の墳丘規模が同時代の茶臼山古墳の約半分の規模になっている点も興味深い。
当時の関東平野における人口がどの程度であったのかは不明であるが、上毛野東部地域から徴発可能な労働力だけで築造できたとも思えず、周辺他地域からの労働力や物資の徴発といったようなことが行われたのかも知れない。その結果、前方後円墳としては比較的少ない労力で築造できる帆立貝型を自らの墳墓として採用せざるを得なかったのではなかろうか? また、墳墓の序列として、前方後円墳に対する培塚的な雰囲気を持つ帆立貝型にすることを、上毛野の首長及び大和政権が規定したと考えることもできるかも知れない。
続く5世紀中葉には、上毛野東部に、関東では空前絶後の巨大古墳である、墳長210mの太田天神山古墳が築造される。この時期は荏原、比企、足立いずれの地域でも有力前方後円墳は築造されず、この状態は更に5世紀後半にまで及ぶ。この点からも、太田天神山古墳の築造のために、これらの地域から人やモノが動員された可能性があるのではないかと思われる。何故そのような事態に至ったかについては後に考察を加えることにするが、いずれにせよ5世紀前半〜中葉においては、上毛野に大型前方後円墳が築造されると、後に武蔵国を形成する領域では前方後円墳が造られなくなるという傾向が認められるのである。荏原郡、比企郡、足立郡は上毛野東部と比べ常に劣勢であり、上毛野東部勢力による「くびき」がかけられたように見える。
しかし、5世紀末頃から様相は一変する。上毛野においては太田天神山の後も前方後円墳が築造され続けるが、太田天神山に続く鶴山古墳の墳丘規模は一気に半分になってしまう。茶臼山古墳が築造された時期の荏原郡や比企郡の首長墓の墳丘規模が茶臼山古墳の約半分であったことを考え併せると興味深い現象である。これに対し、比企郡には墳長115mの野本将軍塚古墳が現れ、そして遂に埼玉郡に墳長120mの稲荷山古墳が築造され、規模の面において、上毛野を凌駕するようになっている。また、やはりこの時期に荏原台からやや離れた港区芝に墳長約110mの芝丸山古墳が築かれている。
一方、上毛野では今迄とは逆に、比企や埼玉に大型前方後円墳が現れると、帆立貝式の沢野74号墳が地域における最有力の首長墓となってしまっている。墳丘規模が埼玉二子山古墳の約半分であることも気にかかる点である。
続く6世紀前半〜後半の、埼玉郡において立続けに大型前方後円墳が築造される時代になると、上毛野東部でも再び前方後円墳が盛んに造られるようになる。これらは主に太田市の東矢島古墳群を構成するもので、殆ど消滅してしまっていることから詳しい築造年代は分かっていないものが多いが、いずれも横穴式石室を持つことから、6世紀中葉〜後半頃に築造されたものであると考えられている。現在規模が判明しているものを挙げると、御嶽山古墳(約100m)、観音山古墳(95m)、割地山古墳(105m)、九合村60号墳(111m)、九合村57号墳(95m)があり、墳丘規模においても埼玉古墳群と比べて遜色のないものである。このことから、6世紀中葉頃になると再び強力な首長の勢力が上毛野東部地域に現れることが確認されるが、近隣他地域の前方後円墳と比べ、規模において隔絶したものではないという点で、5世紀台の様相とは異質なものであるとも言えそうである。
以上の点から、上毛野東部で大型古墳が築造される時は、後に武蔵国を形成する領域では大型前方後円墳が築造されなくなり、武蔵国で大型前方後円墳が築造されるようになると、上毛野東部では大型前方後円墳が築造が一時中断されるという関係がこの表から見えてくるのである。
また、埼玉古墳群と荏原台古墳群との関係の説明で、「荏原台古墳群に大型前方後円墳が築造されなくなると、逆に埼玉に大型前方後円墳が築造されるようになる」といった趣旨にものを良くみかけるが、表7を見る限り、荏原台の亀甲山と埼玉の稲荷山との間には約100年の間があり、野毛大塚古墳からとしても約半世紀、少なくとも数十年の間が空いていることになり、話しはそう単純なものではないと考えられる。
墳丘長1/2の法則?
本題に入る前に、前項で触れた、ある古墳の墳丘長が、その古墳と関連が深いと思われる大型古墳の墳丘長の1/2の規模になっている点について考えてみたい。まだ私の頭の中でも良く整理がついていないので、現象面の説明を中心に話しをしようと思う。
表7から、該当箇所を抜き出すと、次表のような対応関係があるように思われる。

表8 墳丘長1/2の法則
茶臼山古墳 / 前方後円墳:168m 上毛野東部
野毛大塚古墳 / 帆立貝形墳:82m 荏原郡
雷電山古墳 / 帆立貝形墳:76m 比企郡
太田天神山古墳 / 前方後円墳:210m 上毛野東部
鶴山古墳 / 前方後円墳:102m 上毛野東部
稲荷山古墳 / 前方後円墳:120m 埼玉郡
野本将軍塚古墳 / 前方後円墳:115m 比企郡
稲荷山古墳 / 前方後円墳:120m 埼玉郡
浅間神社古墳 / 前方後円墳:60m 荏原郡
おくま山古墳 / 帆立貝形墳:62m 比企郡
二子山古墳 / 前方後円墳:138m 埼玉郡
沢野74号墳 / 帆立貝形墳:72m 上毛野東部
 
・ 5世紀前半に上毛野に168mの茶臼山古墳が出来ると、同時期の荏原郡と比企郡の最有力首長墓は約80mの帆立貝形墳になる。
・ 5世紀中葉に上毛野に210mの太田天神山古墳が出来ると、5世紀後半代〜末頃にかけて各地に100m級の前方後円墳が築造される。
・ 5世紀末から6世紀初頭頃に埼玉郡に120mの稲荷山古墳が出来ると、6世紀前半代に荏原郡と比企郡に60m級の前方後円墳が築造される。
・ 5世紀末から6世紀初頭頃に上毛野に72mの前野74号墳が出来ると、6世紀前半代に埼玉郡に138mの二子山古墳が築造される。
表7に示した古墳は、それぞれの時代区分における当該地域の「最有力墳」である。その墳丘規模において、これだけ繰り返して対応関係が現れると、単なる偶然とは考えにくい。盟主の墳墓に対し、その傘下の首長の墳墓の規模は1/2にし、更にその傘下の首長はその1/2...という規定が存在しているのであろうか? 盟主墳に対し、従属すると思われる古墳の形式が通常の前方後円墳であったり、帆立貝式であったりするが、これは盟主との力関係や、大和政権との関係によって規定されるのだろうか?
盟主墳に対する墳形が通常の前方後円墳である5世紀末〜6世紀初頭の頃に、武蔵において画期が生じることと何か因果関係があるのかも知れない。
また、この対応関係が上毛野に他地域を圧倒する規模の前方後円墳が築かれるようになった頃から、埼玉古墳群最大の前方後円墳が築造される迄の間に限られるのはどうしてであろうか?
武蔵国造の乱
各地の有力首長墓変遷の比較と、東京低地の遺跡群における古墳時代中期末の断絶とから、本題である武蔵国造の乱とはいったいどういう事件であったのかについて考察してみたい。
まず、安閑紀には、笠原直使主と同族小杵とが武蔵国造の地位を争っているが、長年決着がつかなかったと記されている。このことから両者の勢力は拮抗していたことが推察される。勢力が拮抗しているのであれば、それぞれの首長を葬った古墳の規模も拮抗していると考えられるが、実際にそのような現象は見受けられるのであろうか?
表7を見ると、5世紀末〜6世紀初頭において、各地の首長墓の墳丘規模がほぼ拮抗した状態になっていることが分かる。
比企郡の野本将軍塚古墳115m、埼玉郡の稲荷山古墳120mと殆ど差はない。荏原郡には有力前方後円墳は築造されなかったが、少し離れた港区芝に108mの芝丸山古墳が築造されており、これもほぼ拮抗している。また、上毛野の古墳も102mの鶴山古墳や72mで帆立貝型の沢野74号墳であり、太田天神山の頃のような隔絶した規模=勢力は感じられなくなっていると言えよう。従ってこの時期の様相は安閑紀の記述から読み取れる状況に最も近いものであると言えるであろう。
仮に武蔵国造の乱がこの時期の状況を受けて生じたものであるとするならば、小杵と使主はこれらの100m級の古墳の被葬者の次の世代の首長であり、事件は6世紀初頭に起ったことであると考えられ、安閑紀に記された時期とほぼ合致していると言えよう。

では、何故、5世紀末〜6世紀初頭にかけて、各地の勢力が拮抗する状況が生まれたのであろうか?
表7を見ると、5世紀前半〜中葉にかけて、上毛野では墳長168mの茶臼山古墳、210mの太田天神山古墳といった巨大な古墳が築かれていったのに対し、武蔵では茶臼山の約半分の規模で、帆立貝型である荏原郡の野毛大塚古墳、比企郡の雷電山古墳がその地域で最も有力な首長墓となる現象が認められる。足立郡の仙元祠古墳も帆立貝型の前方後円墳であった可能性が残る。また、野毛大塚古墳の副葬品に上毛野の影響が見られるとの説があり、これらを総合して考えると、5世紀前半〜中頃にかけて、武蔵の有力首長達は上毛野の首長に従属した存在になっていたのではないかと推察される。つまり、少なくとも武蔵と上毛野は5世紀に上毛野東部の勢力を中心として、地域連合的な勢力を構成するに至ったのではないだろうか?
こうした勢力が成立する背景として、上毛野東部の勢力による武蔵の軍事的な制圧、もしくはそこまでは行かずとも武力を背景にする威嚇があったとするのも一つの考え方であると思うが、仮に前方後円墳というものが、通説のように大和政権への参加のシンボルであり、大和政権からの許可を得て築造されるものであったのであれば、むしろ大和政権の東国政策の一環として押し進められたのではないかと私は考えている。関東は当時、大和政権の権威の及ぶ最果ての地であり、辺境であった。東北地方は言うに及ばず、関東地方の中にも大和政権に服従しない勢力はまだまだ多かったのではないかと思われる。従って、関東は大和政権にとっての辺境であると同時に、勢力拡大の最前線でもあった。未だ不安定な関東の地を平定し、大和政権下に確固として組込むためには、強大な武力とそれを編成し得る広域的な統制力を有する存在が必要であり、とりあえず大和政権への恭順を示した諸豪族をその統制下に組込む必要があったと思われる。
もう一つの理由として、5世紀頃に水田開発の在り方に関する画期があったことが推察される。当時の農法では、一旦耕地の地味が衰えると新たに耕地を切り開く以外に生産性を維持する方法が無かった。地味が衰える周期は約200年程度と謂われており、3世紀台に開発が始まった耕地は、丁度5世紀台にこの問題に直面することとなる。例えば毛長川流域を始めとする東京低地の諸集落の開発は3世紀後半頃から一斉に開始されたことが分かっている。この問題は3世紀台から開発を始めた地域においては共通するもので、関東の平野部全域でほぼ同時に問題が顕在化したことであろう。
この場合、新しい耕地を切り開く必要があるのであるが、各勢力が独自にこれを行うとなると紛争の原因となることは明らかであろう。こうした東国各地の勢力による耕地開発の調停や統制といった面からも、広域的な統制力を有する存在が期待され得るであろう。中央集権的な官僚制度が未だ整っていない時代において、こうした問題は在地豪族の中から代表者を任命する形で処理せざるを得なかったと思われる。こうした辺境の地における政治的、地理的、軍事的な理由から、関東の地に強力な勢力を育成する必要が生じ、盟主として選ばれたのが古くから中央と接触のあった上毛野東部の勢力であったのではないかと推察される。
面白いことに、『古事記』『日本書紀』によれば、上毛野氏は東国平定に活躍した崇神天皇の皇子、豊城入彦命の後裔であるとされるし、埼玉稲荷山古墳の被葬者であると考えられる乎獲居も、副葬された鉄剣に刻まれた系譜によれば、異民族平定に活躍した四道将軍の一人である大彦(意富比"土+危")の子孫である。このことは、上毛野や武蔵の豪族達が、大和政権に従わぬ勢力を切り従えるという任務を負ったとする上述の考えの傍証となろう。
こうした広域的な勢力は、辺境や前線にあっては大変頼もしい存在であったであろう。後の時代に太宰府に与えられた権限の大きさも同様の趣旨に基づくものであろう。攻撃や防御に必要となる兵力や物資の調達には、広域的な支配力が必要である。人口が今程多くはなく、生産性も低い当時にあっては尚更のことであろう。
しかし、前線が移動し、上毛野や武蔵が最早最前線とは言えない状況になると、こうした広域的な権力は不用であるし、反乱の温床になる等、中央から見ればリスクの大きな存在となってしまう。5世紀後半の上毛野や武蔵は、それ迄に上毛野東部の勢力によって広域的な統制が行われたことにより、ある程度安定した地域へと変わっていたのではないかと思われる。
5世紀後半台の天皇は雄略天皇であり、『宋書』の「倭王武」に比定されている。同書中の武の上表文には、と記されており、内容から武の時代には大和政権の領土的な膨張が一段落したことが伺われる。また、雄略天皇の時代に、豪族の階級を示す「カバネ」や「ウジ」の制度、地方豪族を上京させ、朝廷の任に就かせる「舎人」の制度、民衆を職能ごとにとり纏め、政権への奉仕にあてる「部民」の制度等が始められたと考えられいる。これらのことは、この時期に対外的な拡大路線から内政を充実させ、中央による地方の制御をより強化しようとする動きである。言い換えれば、勢力拡大の為に利用せざるを得なかった地方豪族の力を削ぎ、中央集権的な国家の樹立を指向しはじめたということであり、この試みが後に律令国家として結実するのだと私は考えている。これが「武蔵国造の乱」直前までの流れではないだろうか。
大和政権が上毛野の勢力を削ぐために行った具体的な政策は不明ではあるが、太田天神山古墳に続く首長墓である鶴山古墳の墳丘規模が約半分になっていることから、何らかの手が打たれたのであろう。当時盛んに行われていた朝鮮半島への出兵が利用された可能性もあろう。後の百済救援戦である「白村江の戦」時の倭軍司令官の一人として上毛野君氏の名が見え、この戦いには東国で徴発された兵士が多く投入されていることからの推測である。5世紀当時、大和政権は百済と同盟を結び、対高句麗・新羅戦に共同してあたっていたことが知られている。日本、中国、朝鮮の史料に記された内容から、半島各地でかなりの激戦が戦われたことが伺われ、出兵した豪族にとってはかなりの負担になっていたであろうことが推察される。
いずれにせよ、中央による地方の統制を強化するという目的のためには、上毛野を中心とした体制を解体しなくてはならない。そして「上毛野のくびき」から解き放たれた結果として、武蔵各地に100m級の前方後円墳が5世紀末頃に各地に築造されるようになったのであろう。
こうした大和政権による地方豪族の勢力削減策が進められる中では、当然のことながら、これに対する反発が生じたであろう。中央集権化を進めたい中央と、既得権益を守りたい地方豪族との利害対立である。有名な「筑紫国造磐井の乱」も、それまで大陸と独自に交易していた磐井と、これを統制しようとする中央との対立であるとする説がある。これは中央集権的な統一国家を目指す中央と、それまでの既得権益を守ろうとする地方豪族との利害対立の典型例と言えるし、磐井の乱が武蔵国造の乱とほぼ時を同じくして起っている点も見逃せない。
「武蔵国造の乱」とは、既得権益を守ろうとする地方豪族としての小杵・上毛野小熊と中央集権化を押し進める大和政権とその動きを背景に武蔵国造の地位を狙う使主との争いであると言えよう。
では、毛長川流域をはじめとする東京低地の古墳時代遺跡に中期の要素が希薄であったり、中期に一旦断絶する傾向がある現象は上述の流れの中ではどのように説明できるであろうか?
まず第一には上毛野の茶臼山古墳や太田天神山古墳といった関東においては超大型と言える古墳の築造のために、人やモノが徴発されたのではないかということが考えられる。そして第二として、上毛野東部勢力を介した大和政権の東国経営、軍事作戦への動員も一つの要素として考えねばならないだろう。しかし、単なる徴発だけであれば、中期になって集落が廃絶したり、規模が極端に縮小(中期遺物が少ないということは、集落規模が縮小したと考えられる)したりはしないように思える。従って、これは単なる人的/物的な資源の徴発だけではなく、彼等東京低地に拠点を置いていた諸勢力が持っていた職能=水上輸送の能力とシステムの上毛野東部勢力による再編成も同時に行われたのではないだろうか?
東京低地は大宮台地の東西を流れる旧入間川や古利根川によって、上毛野東部と直接結ばれ得る環境にある。当時の人や物資の輸送手段として、陸上輸送よりも水上輸送の方が効率的であったことは想像に難くない。足立区の伊興遺跡からは古墳時代の船材の破片や、祭祀に用いたと見られる船の模型が出土しており、水上交通の利用に秀でた集落であったと考えられている。これは恐らく当時、東京湾岸と言って差し支えない場所に拠点を構えていた東京低地各地の諸勢力に共通した要素であろう。古墳造りにせよ、軍事的な動員にせよ、当時の状況で広域的な徴発を行うにあたって、河川を用いた交通網の整備は欠かせない要因であった筈である。特に河川や水郷が多い関東地方においては尚更であろう。上毛野東部に巨大な前方後円墳を築造できた力の背景には、水上交通網の掌握と再編成とがあったと考えられるのである。
こうした状況を想定した場合、水運の中継地点が旧入間川や古利根川沿いに新設されたであろう。特に大宮台地の東西を流れる2つの河川が近接する、大宮台地の北端の足立郡と埼玉郡の境界付近、現在の行政区分で言えば、吹上町や鴻巣市付近に水運管理の拠点が設けられた可能性が高い。東京低地の住民達はこれに従う形で、その拠点をより北方の地へと移したのではないだろうか? そして、第三の理由として、上述した新田開発の目的でも組織的な移住(動機は自発的なものであったかもしれないが)もあったのではないだろうか。その結果、東京低地の集落は中期になると規模が縮小したり、廃絶したりしたのではないかというのが私の考えである。そして、この移動こそが、後に武蔵国造の乱を引き起こす遠因となったのではないだろうか? 以下、この点について述べる。
笠原直使主の出自を探る
6世紀に入ると、武蔵には埼玉古墳群とその周辺地域を除いて大型前方後円墳は築かれなくなる。また、その埼玉古墳群にしても、最大の前方後円墳の規模は二子山古墳の138mと、前世紀の上毛野東部のものには遠く及ばない存在でしかない。大和政権による地方豪族の勢力削減が順調に進展した結果であろう。
この埼玉古墳群は、武蔵国造の乱に勝利した笠原直使主の一族の墳墓であるとする説が有力である。埼玉古墳群の南方10km程の所に、笠原という地名があり、使主はここを拠点とした豪族であるとされる。地理的には、かなり妥当性が高い説であると思われるし、恐らくこの比定で間違いは無いと思われるのだが、一つだけ大きな疑問が残る。それは「いかにして、使主が小杵と武蔵国造の地位を争うだけの力を持ったのか?」である。
使主と争った小杵は、荏原郡の豪族とする説と、比企郡の豪族とする説とがある。特に比企郡は稲荷山古墳とほぼ時を同じくして、規模においても匹敵する野本将軍塚古墳が築造されており、国造の地位を争った勢力として荏原郡よりも蓋然性は高いように思われる。しかし、どちらにしても4〜5世紀にかけて前方後円墳をはじめとする多くの古墳が築造された地域であり、従って、どちらもそれなりの力を既に有していた筈である。一方、使主が拠点とした場所はどうであろうか?
笠原は、現在の行政区分では埼玉県鴻巣市に属する。律令制下の足立郡の最北端にあたり、地形的には大宮台地の北端に位置している。もし、ここが笠原直氏の拠点だったするならば、表1、表4から分かる通り、4〜5世紀台に有力な前方後円墳が全く築造されていない地域である。足立郡で4〜5世紀台の前方後円墳となると、南部の川口市高稲荷古墳のみで、これにせいぜい隣接する鳩ヶ谷の仙元祠古墳が加わるか否かといった所である。隣接し、埼玉古墳群が立地する埼玉郡も表5にある通り、稲荷山古墳以前には前方後円墳が造られなかった土地である。古墳の内容と、そこから推察される勢力の強さにおいて、足立郡北部〜埼玉郡にかけての地域は、比企郡や荏原郡と比べてかなり見劣りすると言わざるを得ない。何故そうした所の豪族が武蔵国造の地位を争い、埼玉古墳群を築造するだけの力をつけることが出来たのだろうか?
私は、笠原が足立郡の北端である事に注目する。地形的には上述の通り、足立郡の大半を構成する大宮台地の北端であると共に、当時は大河であった旧入間川や古利根川の畔でもある。稲荷山古墳が現れる迄、北武蔵最大の規模を誇った前方後円墳である高稲荷古墳を擁する毛長川流域の古墳群を築造した勢力と大宮台地の東西を流れる旧入間川や古利根川によって繋がり得る立地なのである。
笠原直氏とは、毛長川流域で高稲荷古墳を築造した勢力を中心とする東京低地の諸勢力が、前項で提示した上毛野東部勢力による旧入間川・古利根川流域の水上交通網の再編成とそれに伴うより上流部への移住/進出を受けて、大宮台地上の諸勢力を糾合した結果、成立した豪族なのではないだろうか?
笠原の立地からして、兵力や物資の策源地は後に足立郡を形成する領域である大宮台地上や、台地の両縁を流れる旧入間川や古利根川による水上交易に求めるのが妥当な線だと思われる。その範囲において、毛長川流域以外にそれなりの力を持った勢力が認められない以上、毛長川流域の勢力が笠原直氏の母体となったと考えるのはそれほど的外れなことではないだろうし、それまで有力首長墓が築造されなかった地を拠点とした豪族が、大和政権のバックアップを受けて武蔵国造の地位を争ったり、埼玉の地に大古墳群を築造するだけの力を有するに至った理由の説明にも成り得るのではないかと考えている。
ひょっとすると、稲荷山鉄剣銘にはこのことが記されているのではなかろうかと最近思っている。
鉄剣には制作者である乎獲居臣に至る8代の系譜が刻まれている。
意富比[土+危]−多加利足尼−弖已加利獲居−多加披次獲居−多沙鬼獲居−半弖比−加差披余−乎獲居臣
である。
これは、オオヒコータカリノスクネ−テミカリワケ−タカヒジワケ−タサキワケ−ハテヒ−カサヒヨ−オワケノオミと読むのが通説である。
オオヒコは第8代孝元天皇の皇子で、四道将軍の一人として北陸方面に派遣された大彦と同一人物であるとされる。この系図を大彦からオワケに至る「世代」数を記録したものだと仮定すると、オワケの代は『古事記』『日本書紀』の系図から推定される雄略天皇の時代に生きたとみても特に矛盾が生じず、鉄剣系譜と記紀の天皇系譜との間に整合性が認められることから、記紀系譜は基本的に正しいのではないかと考える研究者もいる。また、阿倍氏の系図には大彦命の孫として「豊韓別命」(トヨカラワケノミコト)の名があり、鉄剣系譜もオオヒコの孫に弖已加利獲居(テミカリワケ)と音の似通った名がある点からも、記紀系譜の信憑性、少なくともその概念の成立は鉄剣製作年(471年)以前に遡り得ることを指摘する向きもある。
そこで、仮に弖已加利獲居=豊韓別とすれば、「弖」字は「て」とも「と」とも発音する場合があることが想定される。現在でも「豊島」と書いて「てしま」と発音する例が残っていることから、「弖」は「て」「と」と通用するか、「て」→「と」と訛る場合があると言えそうである。
さて、この8代の系譜の中で、オワケの先代にあたるカサヒヨを、語感の近さから笠原直と結び付ける説があり、中には「カサハラ」と読むのではないかとする研究者もいる。字面からして「カサハヨ」は有り得るとしても、「カサハラ」と読むのは少々難があると思うが、笠原を「カサヒヨ」乃至は「カサハヨ」の転訛と見ることは可能であろう。「カサハヨ」と読むのであれば、これは恐らく「風早(カザハヤ)」という意味の言葉ではないだろうか? 笠原を含む埼玉県北部の平野部は「上州のからっ風」、つまり群馬県=上毛野方面からの強風が冬季に吹くことで知られている。「カサハヨ」とはこうした気候の特徴を捕らえた命名ではないかと思われる。また、「披」字を「ハ」と読むなら、タカヒジワケもタカハジワケ乃至はタカハシワケとなり、同じく大彦の末裔とされる阿部臣や膳臣同族の高橋連との関係も推察される。
もし、カサハヨが笠原であり、拠点とした土地の名乃至は地勢を示しているのだとしたら、その前の代のハテヒもまたそうである可能性が考えられる。では「ハテヒ」とはどこか?
10世紀に成立した漢和字典である『倭名類聚抄(倭名抄)』には、当時の国名、郡名、郷名が記録されいる。足立郡には「掘津(ほっつ)、殖田(うえだ)、稲直(いなぎ)、郡家(ぐうけ)、餘戸(あまるべ)、発度(はと/はっと)」の6郷があったとされる。写本によっては最後の発度が無いものもあることから、発度とは本来掘津の読み仮名であるとされる。つまり掘津と書いて「はと/はっと」と読むということらしい。掘津=発度として、それぞれの場所を比定すると、諸説はあるものの、基本的に都から近い順に記されいると考えると、
発度(掘津)=鳩ヶ谷市〜足立区伊興にかけての毛長川流域
殖田=さいたま市(旧浦和市)植田谷
稲置=
郡家=さいたま市(旧大宮市)氷川神社一帯
餘戸=桶川市、北本市一帯
と考えられる。
「発度郷」を毛長川流域に比定する説は、鳩ヶ谷の地名から昔から根強く唱えられており、もし郷名が都に近い順から記されているのであれば、この比定で間違いはないものと思われる。仮に発度郷が毛長川流域のことで、その名が鳩ヶ谷の地名に残存しているのであれば、「はと/はっと」「はとがや」とはどのような意味の言葉であろうか?
「鳩ヶ谷」は元々「はとがい」と呼ばれていたということが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記されている。また、中世の文献や、川越の喜多院に残る鐘の銘文には「鳩井」と表記されていることからも、本来は「はとがい」で間違いはないと思われる。「はと」は台地の端を意味する「はた/はて」の転訛で、「台地の端の井戸(湧水)」という意味であるとする説が有力である。実際に鳩ヶ谷は大宮台地鳩ヶ谷支台の南端に位置し、台地際には湧水も多く、江戸時代には酒造も行われていた。「鳩」が「端」であるならば、「発度郷」とは「台地の端の郷」という意味となり、これも地形を良く言い表わしていると言えよう。
そして、「弖」を「と」と読む可能性を考慮して、「ハテヒ」の名を考えてみると、ハテヒとは、「ハトイ(鳩井)」=「ハタイ(端井)」のことで、台地際に多くの湧水地を持つ鳩ヶ谷を中心とする毛長川流域に拠点を有していた豪族という意味ではなかろうか? 単なる語呂合わせの域を出ない話ではあるが、「カサハヨ」が「笠原」であるとすれば、「ハテヒ」が「鳩ヶ谷」である余地もあろうかと思う。
ハテヒが鳩ヶ谷付近に拠点を構えていた豪族だとして、この勢力が大宮台地を超えて北方に広がる平野部に進出したとするならば、上州のからっ風の影響を受けない土地に住んでいた彼等にとって、そこは正に「風早」の地と感じられたことであろう。この点からも、「笠原」が「風速」の転訛だとすれば、その地名は南方に住んでいた者の視点からの命名であると言えるだろう。埼玉北部や上毛野の人間にとって、風が強く吹くことは当たり前のことであるから、わざわざそういう地名を彼の地に名付けるとは考え難いだろう。
オワケの先祖の墳墓
このように、稲荷山鉄剣系譜が、オオヒコを祖として大宮台地南端方面から埼玉地方に進出し、武蔵国造となった豪族の系譜であるとすれば、新郷古墳群の前方後円墳の被葬者の名がそこに含まれていると考えられるのではないだろうか。
新郷古墳群には、高稲荷古墳(川口市峯)、仙元祠古墳(鳩ヶ谷市坂下町)、八兵衛山古墳(川口市東本郷)の3基の前方後円墳があったとされる。高稲荷古墳は調査の結果、4世紀末〜5世紀初頭頃の築造とされるが、残りの2基は未調査のまま消滅してしまったので、築造年代等の詳細は良く分かっていないというのが実情である。しかし、八兵衛山古墳は形象埴輪を有していたことから6世紀台の築造と考えられ、仙元祠古墳は旧埼玉県史(1951年刊)の記事から、埴輪は無かったらしいことが伺われるので、5世紀台築造の可能性が残る。
オワケが5世紀後半〜末頃に活躍した人物であるとすると、6世紀台築造と見られる八兵衛山古墳に関しては、勢力の基盤が埼玉地方に移った後になるので、鉄剣系譜から被葬者を推定することは出来ないが、高稲荷古墳と仙元祠古墳の被葬者は系譜に刻まれた人物である可能性がある。該当するとしたら、タサキワケ、ハテヒ、カサハヨの3代の内のいずれかであろう。
まず、オワケの先代のカサハヨは、笠原を拠点とした豪族だとすれば、その墳墓は笠原周辺にある可能性が高い。すると、埼玉古墳群で一番古い稲荷山古墳がカサハヨの墳墓であろうか?
実は鉄剣が出土した礫郭は稲荷山古墳後円部墳頂中心部から南西にずれた位置にあり、被葬者は後から追葬された人物であると推定されている。このことから、後円部墳頂中心部分に本来の被葬者を埋葬した主体部の存在が唱えられており、後円部墳頂中心部をレーダー探査の結果、それと思しき反応が検出されている。これがカサハヨを葬った埋葬主体であると考えることもできるだろう。
しかし、そうなると稲荷山古墳はカサハヨとオワケの2代に渡って用いられたことになる。オワケがカサハヨの後継首長なのだとしたら、オワケは自分の墳墓を持てなかったことになる。オワケが杖刀人首=近衛隊長としてワカタケル大王に仕えていたことを勘案すると、カサハヨの後を継いだのはオワケの兄弟にあたる人物であり、稲荷山古墳は彼の為に築造された墳墓であるとする見解が妥当なように思える。
やはりカサハヨの墳墓は笠原のある鴻巣市とその周辺に求めるべきではないだろうか。鴻巣やその周辺の吹上、北本、菖蒲一帯には古墳が多いが、大部分は6世紀台のものであるようである。しかし、まだ調査の手が及んでいないものも数多く、そうしたものの中には5世紀台の古墳が含まれているかも知れない。そうした古墳の中にカサハヨの墳墓があるのではないだろうか?
5世紀末〜6世紀初頭築造の稲荷山古墳がカサハヨの子の世代の墳墓であるとすれば、カサハヨの前代のハテヒの墳墓は5世紀前半〜中葉頃のものである可能性が高い。新郷古墳群の5世紀台築造の可能性のある2基の前方後円墳の中では、高稲荷古墳というよりは、それより時代が下ると思われる鳩ヶ谷の仙元祠古墳がハテヒの墳墓であったと見るべきかも知れない。未調査のまま消滅してしまったことが誠に惜しまれる。
この仙元祠古墳は旧入間川の自然堤防と大宮台地端とに挟まれた独立丘陵上に築造されていた。現在、この独立丘と台地端の間には見沼代用水が流れているが、この用水が掘削されるより前の江戸時代前期の絵図を見ると、元々小さな流れが存在していたようである。地形的にも自然堤防に行く手を阻まれた台地からの水が溜まる後背湿原が形成されていた場所であり、築造当時、この古墳を載せた独立丘は湿地の中の浮島状であったと考えられる。ハテヒの名が端井、即ち、湧水が多い台地端という鳩ヶ谷周辺の地勢を反映しているのであれば、その墳墓として相応しい立地と言えないだろうか。
所で、この仙元祠古墳は、江戸時代の絵図や明治期の写真を見ると、帆立貝式の前方後円墳か単なる円墳のようにも見える。地元に伝わる民話によれば、かつてこの古墳では土採りが行われたり、整形が行われた節が伺われるので、これに伴って前方部が削平された可能性や、絵図や写真のアングルの関係でそう見えるだけという可能性もあるが、1951年の旧埼玉県史に前方後円墳と記載されている以上、その頃には前方部と思しき部分が認められたのだろう。詳細は仙元祠古墳の項を参照して頂きたいが、絵図と写真ではアングルが異なっており、2つの異なるアングルから見て顕著な前方部が認められないとなると、削平されたのでなければ、元々低平な前方部を有していた帆立貝形かこれに近い形の前方後円墳であった可能性もあろうかと思う。
鉄剣系譜を見ると、何故かカサハヨとその前のハテヒの2代に限って「ワケ」「スクネ」といったカバネ(まだ豪族の階級を示すカバネとして確立する前段階の、単なる尊称という説もある)がついていない。この2代は、オワケが5世紀後半〜末頃の人物だとすると、上毛野東部に鶴山古墳と天神山古墳の2つの巨大な前方後円墳が築造された時期の人物ということになる。この時代、比企郡や荏原郡における最有力な首長墓が帆立貝形であったことを考えると、カバネ/尊称のつかないこの2代の墳墓も同様に通常の前方後円墳ではなく、帆立貝式や造り出し付の円墳という形態であったのではなかろうか? 上毛野勢力の傘下に入ったことにより、前方後円墳の築造が許可されなかったか、物理的に不可能な状況にあったのではないかと推察されるのである。従ってハテヒの墳墓も比企郡や荏原郡同様の帆立貝式であったとするならば、カサハヨの墳墓も鴻巣市笠原近傍の帆立貝式前方後円墳であったのではないかと思う。
さて、残る高稲荷古墳はそうなると、タサキワケのものということになる。タサキも拠点とした場所の地勢を反映した名だとすれば、「田崎」「高崎」等が考えられる。
前者は湿地帯に耕作地が岬状に突き出した旧入間川沿いの自然堤防を意味すると考えられる。毛長川流域の古墳時代前期の集落跡としては最大規模である鳩ヶ谷の三ツ和遺跡が載っている自然堤防は、旧入間川の蛇行部に沿って発達しており、湿地側から見ると岬状に突き出しているように見えなくもない。
後者は台地が平地に突き出している大宮台地南端の地勢を説明したものと考えられる。仙元祠古墳よりも規模の大きい台地端の独立丘陵上という高稲荷古墳の立地からすれば、タサキは「高崎」と見るべきで、このような台地の最末端の独立丘が平野部に突き出した地勢を「高崎」と表現したのかも知れない。タサキの前の代の多加披次獲居も「タカハシワケ」と読めば、「高端」であり、やはり台地端を意味する言葉であろう。
毛長川流域では、低地の開発は弥生時代終末期〜古墳時代初期(3世紀後半〜4世紀初頭頃)にほぼ一斉に開始されることが、これまで発見された遺跡や遺物によって明らかになりつつある。弥生時代後期の遺構や遺物は平地からは余り検出されず、その分布は台地辺縁部に集中している傾向がある。そして、上述のように、平地の遺構は古墳時代中期に断絶乃至はその存在が希薄になることが知られている。これを踏まえて鉄剣系譜の人物名を見てみると、
タカハシワケ(高端=台地辺縁)→タサキワケ(高崎=独立丘陵)→ハテヒ(端井=台地周辺の低湿地)→カサハヨ(風速=埼玉県北平野部)
と、次第に生活の基盤が台地上から低地へと進出する弥生時代末〜古墳時代前期にかけての様相と、古墳時代中期に平野部の利用が一時後退するという毛長川流域の古代遺跡の傾向と合致していることが分る。また、鉄剣銘文の表がハテヒで終り、裏がカサハヨから始まることにも勢力拠点を移したという事情が反映されているのかも知れない。
さて、このように見た場合のタカハシワケの墳墓であるが、当然、台地辺縁部に求めることになる。現在、大宮台地鳩ヶ谷支台の本体上に学術的に古墳であると証明されたものは存在していないが、旧埼玉県史には、川口市西新井宿と川口市道合の2ケ所に前方後円墳の存在を記録している。いずれも台地上の立地であり、出土品欄には埴輪の記載が見られないことから、古い時代のものであった可能性がある。今ではどちらの古墳もどこにあったのかすら分らなくなっているが、西新井宿古墳に関しては、1975年に出版された『写真で見る鳩ヶ谷の歴史』(白石敏博著 鳩ヶ谷郷土史研究会)中の「鳩ヶ谷台上の古墳分布図」にプロットされた西新井宿古墳の位置から、ここではないかと思われる場所を見つけることが出来た。そこは国道122号線沿いの稲荷社であるが、仮にここが西新井宿古墳だとすると、西方に開いた谷間に面する台地端という立地である。これが本当に古墳だとしたら、タカハシワケの墳墓の候補となり得るであろう。
もう一つ、高稲荷古墳の東方の川口市安行小山の台地端に大きな塚が残っている。『新編武蔵風土記稿』峰村の項にも記録されている塚であり、未調査ではあるが、古墳の可能性が指摘されている。現在は土採り工事によって台地本体から切り離されて独立丘陵状になってしまっているが、本来は台地本体の端に立地していたものである。この台地の縁は南に面しており、崖面は東西方向に形成されている。同様の環境にあった高稲荷古墳は前方部を崖面に添わせて西方に向けて築造されており、この築造プランは明らかに南方の平野部から仰ぎ見ることを想定していると思われる。安行小山の塚も、南側からの視点で計画されたものと思われ、現状は比較的大きな円墳状であるものの、土採りで削られてしまった西側部分に前方部を持った前方後円墳であった可能性も無きにしもあらずではないかと考えている。
今後の学術調査の結果、高稲荷古墳よりも古い時代の古墳であることが証明されれば、地理的に高稲荷古墳に近いこの塚をタカハシワケのものと見るべきかも知れない。
更に想像の翼をはためかせるならば、桶川市の熊野神社古墳がタカハシワケの墳墓である可能性も考えられる。熊野神社古墳は直径38mの中規模な円墳(県内では比較的大きい部類になる)で、4世紀後半代と高稲荷古墳よりも古い時代のものであるとされている。儀杖や玉類等、豪華な翡翠製品が大量に出土したことでも有名であり、これらの副葬品は奈良のメスリ山古墳のものとの類似性が指摘されている。このことから、大和政権との繋がりの強い首長像が想定されるが、どうしたことか、この地ではこれ以降有力な首長墓が築かれることがなかった。やや離れた場所に40m級の前方後円墳が6世紀台になってから造られただけである。
立地は旧入間川(現荒川)の流れを西に望む大宮台地西縁にあたり、「タカハシ」である。台地の先端部を「タカサキ」、両縁を「タカハシ」と呼び別けていたという可能性も考えられる。オオヒコやその子の建沼河別が東国征伐にあたったという『記紀』の記事が事実を反映したものだとすれば、彼等は群馬県方面から利根川−旧入間川を下って、まずは大宮台地中部西縁に拠点を構えたというルートも想定できる。その後、何らかの理由で更に旧入間川を下り、鳩ヶ谷・川口付近に進出し、土着化したというパターンも考えられないことではないだろう。
 
『神道集』に見る上野国下野国

 

「神道集」とは、神仏習合期に全国著名社の縁起を説いた説話集で、文和・延文年間(1352〜61)頃に、京都の安居院で編纂されました。全10巻、「平家物語」「曽我物語」と共通の詞句を多く持ち、歴史・文学・思想史上重要な資料であり作品です。
■巻第七 三十六 上野国一之宮事  
上野国一之宮の抜鉾大明神は、人皇二十八代安閑天皇の御世・乙卯の年三月に日本にいらっしゃいました。ある伝えによれば、阿育大王の姫君で倶那羅太子の妹君にあたる御方と云います。姫君は南天竺狗留吠国に生まれました。この国は沢山の国々から成りたっていたのです。そこに玉芳大臣という一人の長者がおりました。5人の娘があり、4人はそれぞれに国王の御后になられ、末娘の好美女だけが嫁がずにおりました。国内に並ぶもののない美女で、隣国の国王の后にと決まっておりましたが、この話を聞いた狗留吠國の国王が「美しき姫を他国へ出しては成らぬ。」とし、姫を后にしようとしたのです。姫君の父は、「十六大国の大王の后ならいざ知らず、小国の后ではもの足りぬ」と王の申し出を断わってしまいました。
すると狗留吠王は怒り、長者を殺してしまいました。再び姫を后に迎えようとするのですが、「親の仇を夫にすることは出来ぬ。」と断わられてしまいます。姫は、此の国にいると嫌な思いをするのだと、抜提河という河に鉾を立て、その上に敷物を敷いて住んでおりました。此の河の深さは、三十七丈、広さは八十五里というものでした。大王は「その河も王の領地である。」と云うと、姫は、それならばとばかりに、鉾を引き抜き、この二人の美女を供として、天の早船に乗り信濃の國と上野の國の堺にある笹岡山に着いたのでした。この船を山の峯に備えて、船の中に抜提河の水を湛え、劫火(世の終末)の炎を此の水で消す事を誓ったのです。
そこに住むうちに、母御前の住む日光山へ通う諏訪大明神と知り合い、夫婦となったのです。諏訪の下宮の女神が、此れに腹を立てたので、上野国十四郡の内の、笹岡甘楽郡尾崎郷出山成に社を建て、好美女(姫)を住まわせたのです。供の美女の一人は、船を守るために笹岡山に留まり、荒船明神と成ったのです。そして、好且、美好二人の末裔が大明神の神官として御社をお守りしております。抜鉾明神の本地仏は弥勒菩薩で、後に世に出て人々を救ってくださるとされております。
なおこの上野の國は、赤城大明神が一之宮でしたが、赤城は二之宮と成り、他国の神である抜鉾大明神が一之宮と成りました。これは、赤城大明神が絹の機織りをするうちに、生糸が足りなくなってしまいました。思い煩ううちに「狗留吠國の好美女は財(宝)の神なので、生糸をお持ちであろう」と「貸して頂けないかと頼んだのです。」すると、好美女は快く承諾してくれたのでした。赤城大明神は、たいそう喜ばれて絹を織り終えました。「これ程に豊かな財(宝)の神を他の國に移らせてはならない」と、赤城大明神は一位の座を好美女に譲り、当國に末永く留まり頂くために、二位の座についたのです。好美女は鉾を引き抜いて、脇に挟み抜提河より此の國に飛んで来たので、抜鉾大明神と云い、今なお上野國一之宮として崇め奉られております。 
■巻第七 四十 「上野國勢多郡鎮守赤城大明神事」抑赤城大明神申  
履中天皇の御代、高野辺大将家成という公家がおりました。ある時、無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまいます。そこで、年月を過ごすうちに、若君一人、姫君三人を儲けました。若君が成人された折、都に上がり母方祖父と共に、帝にお目通りする事が叶い仕官を許されたのです。
三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたのですが、母君が38歳の春に亡くなってしまいます。姫たちは、それぞれ十一歳、九歳、七歳でした。父家成は、その年の秋に世間の習慣に従い、後妻を迎えます。
ある晩、継母は弟である命知らずの荒くれ者、更科次郎兼光を呼び、「前妻の姫君たちは、何れも楊貴妃や李夫人のように美しい。あなたに嫁がせようとしたが、田舎者の卑しい男と嫌っている。最愛の弟を馬鹿にされ、この恨みをはらさねば」と、弟をそそのかしたのです。
更科次郎兼光は、赤城山で7日間の巻狩をするとふれを出し、多くの人を集めました。そして、大室太郎・淵名次郎を捕え、黒檜嶽の東の嶽・大滝の上、藤井の谷で切り殺してしまいます。その晩、淵名の宿に押し寄せ、乳母、淵名の女房と淵名姫を捕え、利根川の倍屋淵に沈め、殺してしまいました。
その後、大室の宿に押し寄せたのですが、大室の女房は、取るものも取りあえず姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げたのです。赤城の御前は、大室の女房と共に、山に入ったものの道に迷ってしまいます。大室太郎の宿に押し寄せた族は、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺したのでした。一方、群馬郡有馬の郷、伊香保大夫の宿に押し寄せ、伊香保の姫君を殺すと聞きつけた伊香保大夫は、子供9人・婿3人を大将とし、利根・吾妻両河の合流箇所から、見屋椙の渡りに至るまで、13カ所の城郭を構えて待ち受けていたのでした。そのため、河から西へは近寄れず、伊香保の姫君は無事でした。淵名の姫君、神無月の初めに十六年の命を落とされてしまいました。
山へ逃げ入った大室の女房は、男の従者も連れずに、夫の切り殺された黒檜の嶽を尋ね、岩の間を伝わり石の細道を登りつづけました。峰に上り、呼べど叫べど、答えはなし。谷に下りて、赤城の姫君と共にさ迷いました。「大室殿、どうか昔の声を今一度お聞かせください。」と悲しく叫ぶも、聞こえるのはこだまのみ。大室の女房につづき、姫君もか弱き声にてつづけた。「あなたに、この様な不幸に会わせてしまい、悲しい限りです。山の護法神・木々の神々よ、私たちの命をお召しください。」と。
すると、大瀧の上、横枕の藤井という所で、美しい一人の女性が、谷の方角よりやって来ました。「驚くことはありません。あなた方に会いに参りました。」と、懐より菓子を取り出し二人に勧めました。口に含むと、その味は、今までに食べた事のない味わいでした。これで、疲れも癒されたのです。山に逃げ入ってから、5〜6日が過ぎ大室の女房は亡くなってしまいます。41歳、墓に葬ることも出来ませんでした。
姫君は、屍に「どうか私もお連れください。」と添え伏して泣いておりました。そこへ、赤城の沼の龍神が現れました。その姿は美しい女性でした。「この世は、命はかなく夢・幻のようであります。竜宮城という、長生きの素晴らしい処へと姫君を案内します。」と姫君をお連れになりました。
姫君は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となったのです。大室太郎夫婦も、従神の王子の宮となりました。その後、継母の更科と次郎とは、すべて予定通り事を終え、月日を送っていたのです。都では、大将は上野の國の国司に赴任することになっておりました。国中の数千騎の軍勢で迎えに赴いたのでした。駿河の國、洋津で落ち合います。その夜、国での様子が詳しく伝えられ、国司は大変驚かれました。その後は、何事も話さず、ふさぎ込んでしまいました。夜が明け「三人の姫が亡くなったのならば、もう、どうしようもないが、姫等の死んだ場所へ向かおう」と決め、国元へ下ったのでした。その日は朝から、迎えの人も、送る人も塞ぎがちで、袖は涙にぬれ心は闇に迷う有り様でした。その後、深栖の城に到着し、広縁に伏して「淵名姫は何処に、赤城姫は、おられるか、私を残し三人の子は、どこにいったのか。知らぬ山道に、赤城の姫君は迷い、獣の餌食になったかも知れぬ。行って見ても辛かろう。」と。
淵名姫が、倍屋淵に沈められたという倍屋淵に、旅装束のまま向かい河岸に下り立ちました。「淵名姫は居らぬか、私だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫ぶ。すると、波の中から姫君が、父と別れた時のいでたちで淵名の女房と手を取って現れました。姫は「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。しかし、亡くなられた母が、日に一度、天上界より下り、赤城山とこの淵に通ってくださいます。神仏のお導きによって、自在に空を飛べるようになりました。また、御法を説いていただき、前世の罪や穢れも消えて、赤城御前も私も共に、神となり現れ、この世のすべての人々を導くことになりました。ありがたい説法聞き、功徳を得て菩提薩?と名付けられました。「必ず父上もお導きいたします。」と云うと、赤城山の上より紫雲が倍屋淵を覆い、美しい音楽が奏でられてまいりました。
姫君が父上に別れを告げ、多くの仏様に交じり、その雲に入って行きました。国司はこれをご覧になって「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまいました。すると、紫雲が再び戻り、倍屋淵を覆い隠してしまいました。
群馬郡の地頭、伊香保大夫は河の西、七郡のうち足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせました。この羊大夫とは、午の時に上野国の多胡の荘を出て都に上がれば、羊の時には用向き終え、申の時には国元に帰る。それで、羊大夫と云われております。申の中半に上野国群馬郡有馬郷を立ち、日没に三条室町に到着しました。
大将殿の嫡子、左少将殿は中納言の職にありました。二人の姉の死、父親の大将の自害の知らせに驚き、取る物も取り敢えず、その夜の丑の刻中半に、三条室町の館を出発し、東国へ下ったのでした。
急な事であったので、主従七騎だけでの出立でした。帝は此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われました。帝に知らせずに出発したため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、東海・東山道諸国の軍兵は、高野辺中納言が、東国へ下る道中を護衛するようにと命じたのでした。中納言より先に走り、ふれを知らせ廻りました。愛越河から三日の道のりを先行し、国々の宿場を走り下ったのです。中納言が都を出る時は七騎でしたが、美濃の国青墓宿に到着した時は、その数、一千騎になっておりました。参河国八橋に到着した時には、三千騎余りに。駿河の国神原宿に着いた時には、一万騎余りに。足柄山を越え武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなったのです。帝は中納言を新たな国司に命じたのでした。上野の国国司の下行を知った、更科次郎と継母の女房は、信濃へ逃げようとしたが、伊香保大夫は碓氷と無二の峯に関を設け、周りを固め守っていたので、逃げ出すことも出来なかったのです。
国司の中納言は、深栖の御所に入るや、兵に命じ、更科次郎父子三人を捕え、庭先に引きたて子細を問いただしたのでした。その後、子供二人は、赤城山黒檜岳東の大瀧の上、横枕、藤井の谷で切り殺し、首を古木の枝に懸け、淵名次郎家兼・大室太郎兼保、二人の後生の修羅の身代わりとして手向けました。更科次郎を戒めようと倍屋淵に引き連れ、船より下ろしては挙げ七十五度も挙げ沈めし責めたてた。命知らずの荒くれ者も、大声を挙げ、首を落とせと叫ぶ有り様。国司はこれを聞き入れ、「淵名の姫・淵名の女房もさぞ悲しき思いをした事だろう。更科よ、我を恨むこと無かれ。」と首に石を付けて淵底に沈めました。「生死は報い有りと云うは誠なり。継母の女房も同じ淵の底に沈めようと思ったが、父が思いを寄せ、妹の姫もいることだから、無情なことも出来まい」と、国堺より信濃の国に追いやったのでした。信濃の人々も皆、継母を爪弾きにし、疎まぬ人はおりませんでした。継母の女房は、泣く泣く更科の父の宿に行きました。親子の仲であれば、疎みながらも面倒を見ておりました。
信濃の国の国司は、高季階大納言高季といって、上野の國の国司とは大変親しい間柄でした。「中納言は不思議な事をする。父・姉妹の仇の命を助け、わが信濃の国へ追い払うとは理解できぬ。また、このような極悪人を養う親も鬼である。」と夫婦共、殺してしまいました。しかし、女房は何処ともなく消えてしまい、その後、甥の更科十郎家秀を頼って現れたのです。「祖父母を始め、一門は一体何故に破滅させられたのか。」「お前のためだ。」と、編駄という物に乗せ、母子二人を更科の山奥の宇津尾山に捨ててしまいます。おりしも、その夜、夕立が起こり、母子ともに雷に打たれ殺されてしまいました。これより、この宇津尾山は、彼が伯母を捨てた事により、伯母捨山と云うようになったのです。上野の國の国司は、父と妹が亡くなった跡を、崇めて神社を建てました。淵名明神と云います。
次に、赤城の沼に行き、赤城御前に会うために山に登ります。黒檜山の西麓の大沼の岸に下りて、祭祀を斎行します。すると大沼の東岸、障子返しという山の下より、鴨が向かって来ました。その左右の翼の上には、煌びやかな御輿がありました。妹の淵名姫と赤城御前が、一基の御輿に乗り、その後ろには、淵名の女房と大室の女房が、御輿の左右には、淵名次郎と大室太郎が械(とくさ)色の装束に透額の冠を着け、腰には太刀を帯び、轅を持って立っておりました。国司は涙に咽び、二人の姫君も兄御前の袂に飛び込んで、「私たちは、この山の神となって神通の徳を得ました。妹の伊香保姫も神道の法を得て、現生の人々を導く身となります。兄上もまた、私たちと同じように神とお成りください。母御前が天より下りて来られます。」と語り涙を流せば、国司もまた声を上げて泣きました。そこへ、母御前が紫の雲に乗って三人の子供たちの処へ下りて参りました。母は、天上界の不退の法を説いて、「皆嘆く事はありません。何事も前世からのさだめです。今は、この世の人々の幸福を願いなさい。」と言って天に上がって行きました。二人の姫も帰り、鴨に「どうか、この湖に留まり、神様の御威徳を現し、後の世の人をお導きください。」と懇願したのです。するとその鴨は国司の願いを聞き、大沼に留まり島となったのです。これが小鳥ヶ島です。
その後、国司は大沼を出て、小沼の岸を歩くと父の大将が現れ「子供たちの行く末を見守るために、ここに留まっている。」と語り続けて泣いておりました。国司も涙の袖を絞り、共に泣いていたのです。そこで、ここに留まり、数千人の大工たちを集めました。大沼と小沼の畔に、神社を建て、神々をお祀りしたのです。これが、大沼の畔に建つ赤城神社と小沼宮です。
その後、小沼宮から流れ出る沢を下ろうとしました。しかし、尚も名残惜しく、この宮沢に三日間留まったのです。
赤城山を下り、国司は群馬郡の地頭、有馬の伊香保の大夫の宿に到着します。妹の伊香保姫は、急いで国司の元に走り寄り、兄の膝に額を付けると、そのまま気を失ってしまいます。国司も共に気を失い、伊香保大夫の女房が慌てて近寄り、左右に呼び動かせば、国司が目を覚まし仰いました。「今は、私たち二人だけになってしまいました。私は都に戻るので、この国の国司職を姫に差し上げましょう。伊香保大夫を後身として、すべての政治を正して、この国を平和に治めなさい。」伊香保大夫と女房も「この姫君のお世話は、十分にいたします。他でもない、妻の弟の高光中将殿を婿に取り、国司職は伊香保姫と共に行いましょう。」
国司は都に戻り、その後、伊香保大夫は国司の後見、今は代理職を務めております。有馬は領地が狭いので、群馬郡内の自在丸という処に家を建てて住んだのです。今の総社という神社の建っている所が伊香保姫の住んでいた所です。 
■巻第八 四十三「上野國赤城三所明神内覚満大菩薩事」  
抑此の明神は、人皇第二十代允恭天皇の御世、比叡山の西坂本に二人兄弟の僧がおりました。兄は近江の堅者覚円、弟は美濃の法印覚満と云う。当時、上皇と天皇の争いが起り、世の中が大変乱れておりました。そのため、兄弟は御堂にこもり、千部の法華経を讀誦しておりました。上皇に味方した父は討ち殺され、今は母だけが残っております。その父は、三條の藤左衛門の尉國満と云います。
天皇は大いに怒り、上皇に味方した兵を、七日間に百六十人余り、死罪にしたのです。國満も一方の大将でありましたので、首を刎ねられてしまいました。
名の知れた大物たちや、多くの無名の兵士が命を落としました。京の嘆き悲しみや騒ぎは、大変なものでした。
此の兄弟、覚円・覚満の二人とも召し取られ投獄されてしまいます。母の嘆きは、例えようがありません。母は牢の戸を叩いて、大声で叫び苛立ち、子供たちも牢の中で声を合わせ叫びつづけました。見る人聞く人、涙で袖を濡らさぬ者はおりませんでした。
七日の後、内裏より検非違使に三條河原で処刑せよとの命が下り、兄弟二人は三條河原に引き立てられました。彼らは宿願の空しさを嘆き、母は二人の子供との別れを悲しんだのです。二人の僧は打ち首の座に着き、最後に十回の念仏を唱えれば、母は二人の子供の間に走り寄り、「まず、私の首を切って下さい。だれも皆、子供や孫がおります。朝敵として処刑された父親は仕方ありませんが、我が子と共に在ればこそ生きて行けるものを、この子たちを失ったらどうしたらよいのでしょう。私の首を先にお召ください。」左の袖を兄の覚円の首にかけ、右の袖を弟覚満の首にかけ、「どれ程の命か分かりませんが、惜しくもありません。」と懇願したのです。
二人の子供はこの姿を見て、「母上は、早くお帰りください。父上は冥途におられます。母上はこの世に留まり、一門の人も多く居りますので、皆がお助けくださるでしょう。冥途の父には、私たちの他に仕える者はおりません。」と、つづけたのでした。この様子を見た人々からは、すすり泣く声が起りました。母が叫ぶ声、子供が流す涙、母子の愛情の深さに、皆、涙したのでした。時が来る。すると、比叡山の峰の上より、紫色の二群の雲が出て、一群の雲は処刑場を覆い、一群の雲は内裏の上を覆ったのです。
内裏では公家や殿上人たちが座列し協議中でした。「法師の首を、否応なしに切るなど前代未聞である。まして、法華経を読み修行する人である。何れも学僧で父親には従わず、合戦に臨んだわけでもない。」と話すうちに、紫雲の中から結ばれた文が落ちてきました。帝が不思議に思い見ると、「一乗妙典讀誦は、常に三宝の貴び、聴聞隋喜の功徳は梵天、帝釈の収めるものである。母子の永別の悲しみは堅牢地神も此れを嘆き、五体不全の嘆きは切る人も、切られる人も、仏道に近づく事が出来ない。人の人たるは、此れに目をむけ、政の政たるは此れを哀れむ事である。故に、邪見の窓を閉じ慈悲の床にあれ。」とありました。
それを見て帝は大変驚き、二人の僧を呼び戻し「今より後、千部讀誦を援助しよう」と近江の國、志賀郡を讀誦時の食として、本の西坂本の寺に所領とし寄進しました。兄弟二人の僧は大いに喜び法華堂を建立しました。この堂の供養に千部の御経を讀誦したのです。また、ここを讀誦院と名付けました。
一人の老母を養う程に、月日は巡り母も世を去ったので、二人の僧は「今はこの世に思い残す事なし。」と、世の名や利を捨て、志賀郡をお上にお返えしし、兄弟揃って諸国修行の旅に出たのです。そうこう旅するうちに、四国伊予の國の三嶋郡で、兄の覚円は最後の仏の教えを説き、この世を去ってしまいました。弟の覚満は兄の遺骨を頸にかけ、西阪本の法華堂に帰り、父母の墓に並べて埋葬しました。その後、覚満は近江の國の鎮守、兵主明神に七日間山籠して「この世に生あるうちに、弥勒菩薩の出世にお会い出来るような御利益をお授けください。」と法華経を讀誦したのです。七日目の暁に、覚満が誠の心を持って熱心に経を讀誦する姿に感動されてお告げを下さいました。「東山道の半ばに、上野國の勢多郡の赤城の沼岸で法華経を讀誦すれば、必ず御利益に巡り会えるでしょう。」
お告げに従い、赤城の大沼東岸、黒檜岳の西麓に着き、法花華経の讀誦に専念すると、小鳥ヶ島の方から美しい女性が、二人の侍女に沢山の果物を持たせて現れました。御経を聴聞して、果物を美濃の法印覚満の前に置きました。それは桃で、味は甘く、大変美しい色形でした。その女性が語るには、「御経を聴聞し、大変感動いたしました。どうかひきつづき、お聞かせください。」と。
一人の侍女が小鳥ヶ島の中に帰され、暫くして一人の童子が説法の準備にやって参りました。法座の儀式は申すまでもなく、その設えも云い尽くしがたい程豪華でした。法印は禮盤に上がり、本より内外の経典に詳しい学僧でしたので、序に始まる二十八品の釈文は、大変、尊く有り難いものでした。
上野國の山の神々は申すまでもなく、他國隣國の山の神々も集まり聴聞されたのです。七日七夜の法会でしたが、五日目に更科の継母も、山神の眷属(使い)となって、更科の山の神々に列なって聴聞のために集まったのです。小沼の龍神というのは、更科の女房の昔の夫、高野邊大将ですので、縁りを戻そうと小沼の畔にやって来たのです。
大沼の赤城御前は「心憂える人よ。見るのも惜しい。」と小沼と大沼の間に、俄に小山を創り、姿を隠してしまいました。日本記には「屏風山」と名付け、「隔て山」とあります。これは、この山のことです。高野邊の大将も怒り追い返したので、泣く泣く更科へ帰らざるを得ませんでした。その姿は、たいそう哀れなものでした。七日間の法会も終わり、やおよろずの山の神々は、思い思いに本の山に帰られました。赤城御前は大変喜ばれ、大沼に留まられております。覚満は覚満大菩薩として、赤城山の頂に祀られています。
赤城山三所明神とは、
大沼 赤城御前 / 赤城明神 / 本地仏は千手観音
小沼 御父高野邊大将殿 / 小沼明神 / 本地仏は虚空蔵菩薩
山頂 美濃法印覚満 / 覚満大菩薩 / 本地仏は地蔵菩薩
であります。
明治に至るまで、千手観音は大沼・赤城神社に、虚空蔵菩薩は 小沼・小沼宮(虚空蔵堂)に、地蔵菩薩は地蔵岳(赤城山)地蔵堂に祀られておりました。
虚空蔵堂・地蔵堂は、残念ながら幕末の廃仏毀釈運動により焼失してしまいました。
小沼宮(豊受神社)は明治22年に赤城神社(大沼)に合祀されています。
諸仏菩薩の寂光の都を出て、分段同居の塵に交る 悪世の衆世を導かん為に、苦楽の二事を身に受けて、衆生利益の先達と成り給へり。故に覚満大菩薩の御誓には、我が山に眼を懸けん輩は、此の歌を詠せば、我が心、其の所に影向かして、萬事の所願を満ち足らせん。
「ちはやぶる 神風たえぬ山なれば みのりの露は 玉と成りけり」
心有らん人々 誰かは此れを 信仰せさらんや
此の山に向かわん人々は 誰か此の歌を眞實に讀まさらん云々。 
■第三十四 上野国児持山之事
人皇四十代天武天皇の御代、伊勢国度会郡より荒人神が顕れ、上野国群馬郡白井保に児持山大明神として垂跡した。
阿野津の地頭で阿野権守保明という人がいた。 財産には不自由は無かったが、子宝には恵まれなかった。 伊勢太神宮に祈願したところ、児守明神に祈るよう示現があった。 児守明神に参詣したところ、阿野の女房は懐妊し、持統天皇七年三月に美しい姫君が生まれた。 児守明神に授かった子なので、児持御前と名づけた。
姫君が九歳の秋、母は三十七歳で亡くなった。 一周忌の後、阿野保明は伊賀国(伊勢国の誤記か?)鈴鹿郡の地頭・加若大夫和利の姫君を後妻に迎えた。 三年後、後妻にも妹姫が生まれた。 姫君が十六歳の時、継母の弟の加若次郎和理という二十一歳の若者と夫婦約束をした。
姫君が二十一歳、加若次郎が二十六歳になった三月、夫婦で伊勢太神宮に参詣した。 その途中、伊勢の国司の在間中将基成が児持御前を見て恋煩いになった。 国司は加若次郎を呼び、この国の守護職と引き替えに児持御前を差し出すよう云った。 加若次郎が断ると、国司は立腹して「阿野権守と加若次郎が謀叛を企んでいる」という讒言を書状にして父関白に送った。 関白は両名を捕縛し、加若次郎は下野国の室の八嶋に流された。 保明は罪が軽いという事で許された。
児持御前は尼になろうとしたが、既に身重の体であった。 夫の流刑先の下野に旅立とうとした時、継母は甥にあたる上野国の目代(国司代理)・藤原成次を訪ねるよう云った。
国司の軍勢が児持御前を奪おうと押し寄せて来た時、継母は鮃鮎(サモチ)を焼いてその周囲で念仏を唱え、児持御前の葬式であると偽った。
児持御前と乳母の侍従局は尾張国の熱田宮に着いた。 鳥居の外の小さな家に逗留し、児持御前はそこで若君を生んだ。 そして、若君を侍従局に抱かせて再び旅立った。
東山道の不破の関を越える時、藍擂の模様の直垂姿の武士と連れになった。 木曽でまた梶の葉の模様の直垂姿の武士と連れになった。 上野国の国府に着くと、前の目代の藤原成次は山代庄の石下という山里に移った後だった。 児持御前と二人の武士は山代庄に行って成次と面会した。
藤原成次と二人の武士は加若次郎を救うため下野国の室の八嶋に着いた。 二人の武士は神通を使って牢番を眠らせ、牢の戸を破って加若次郎を連れ出した。 宇都宮の河原崎で四十歳ほどの武士が現れ、二人の武士と話し合った。 その後、四名は山代庄に入り、加若次郎と児持御前は再会を果たした。
二人の武士は尾張国の熱田大明神と信濃国の諏訪大明神で、河原崎で話をした武士は宇都宮大明神だった。 夫妻は神道の法として『大仲臣経最要』を授かり、神通自在の身となった。

児持御前は白井村の武部山に神として顕れた。因位は児持御前なので、武部山の名を児持山と改め、児持山明神と云う。本地は如意輪観音である。
乳母の侍従局は半手木鎮守と成った。本地は文殊菩薩である。
若君は岩下の鎮守と成り、愛東宮(突東宮)と云う。本地は請観音である。
加若次郎は見付山の峠に和理大明神として顕れた。本地は十一面観音である。
阿野権守夫妻も神道の法を授かって津守大明神と成り、伊勢太神宮の荒垣の内に鎮座している。
伊賀国の加若の父母も神道の法を授かり、伊賀国三宮の鈴鹿大明神と成った。
尾張国熱田で産所を貸してくれた宿の女房も神道の法を授かり、鳴海の浦の鳥居明神と成った。
児持御前の継母は阿野明神として顕れた。
藤原成次も神道の法を授かり、尻高の山代大明神と成った。
山代庄は吾が妻と再会できた地なので、地名を改めて吾妻と呼ばれる。
阿野津から尾張熱田まで馬に乗せてくれた人も神道の法を授かり、馬は岩尾山の駒形、舎人は今至の白専馬大明神と成った。
鮃鮎を我が子の身代りに焼いて助けたので、今は鮃鮎を「子の代(コノシロ)」と呼ぶ。
児持山大明神
子持神社(群馬県渋川市中郷) / 祭神は木花開耶姫命で、邇邇芸命・猿田彦大神・蛭子命・天鈿女命・大山祇神・大己貴命・手力雄命・須佐之男命を配祀。 / 奥宮の祭神は日本武尊。 / 『上野国神名帳』所載社(群馬東郡 従五位上 児持明神)。 旧・郷社。
『子持山宮記』によると、日本武尊が東征の際に子持山に祈願して東国の平定を成し遂げ、地主神猿田彦大神・天鈿女命など七座の大神を祀った。 その後、仁徳天皇元年[313]に瓊々杵尊・木花開耶姫命の二神が高千穂の峯から子持山に影向した。
『子持神社紀』によると、日本武尊が東国平定の際、上野国の国府に至り、豊城入彦命の娘の上妻媛を妃とした。 木花開耶姫命を子持山に奉斎して祈念したところ、忽ちに御子の岩鼓王が誕生したので、日本武尊は木花開耶姫命の神徳を称え奉り、子持山姫神と号して崇敬した。
『子持山大神紀』によると、弘法大師が東国巡遊中に子持山の奥の院に分け入り、激しい雷雨に襲われた。 弘法大師は岩屋に籠って子持山姫神を祈念し、七星如意輪供の秘法を修行して、本地仏の如意輪観音を岩屋に安置した。
『上野国志』は『先代旧事本紀大成経』巻第七十一(神社本紀)に基づき、金橋宮天皇[安閑天皇]の御代に磐筒女大神が鎮座したとする。
半手木鎮守
中山神社(吾妻郡高山村中山) / 祭神は木花咲耶姫命。 菅原道真・誉田別尊(応神天皇)・建御名方命・素戔嗚命・保食命・少彦名命・天照大御神・軻遇突知命・大山祇命・火之迦具土命・大己貴命・大物主神・不詳二座を合祀。 / 『上野国神名帳』所載社(群馬東郡 従四位上 中山明神)。旧・村社。
『群馬県吾妻郡誌』によると、元慶二年[879]に美濃国一宮の南宮大社(仲山金山彦神社)を勧請、城主宇都宮氏の守護神として崇敬された。 元弘二年[1332]に中山五郎左衛門光能が城主となって社殿を修造、破敵明神と称した。
明治四十年[1907]、境内末社9社及び菅原神社・八幡神社・諏訪神社を合祀。
愛東宮(突東宮)
鳥頭神社(吾妻郡東吾妻町矢倉) / 祭神は大穴牟遅神・宇迦之御魂神で、倭健命・建御名方命を配祀。 また、大山津見命を合祀。 / 旧・村社。
社伝によると、建久年間[1190-1199]の創建。
明治四十年[1907]に境内末社(雨降社)及び大山祇神社2社を合祀。
和理大明神
吾妻神社(吾妻郡中之条町横尾) / 祭神は大穴牟遅神で、大山祇命・誉田別尊(応神天皇)を配祀。 また、菅原道真・宇迦之御魂神・火産霊命・速須佐之男命・天照皇大神・大日孁尊・軻遇突智神・豊宇気姫神・豊受大神・宇気母智神・大物主神・日本武尊・埴山比売神・市杵島姫命・別雷命・速玉男命・伊弉冉尊・事解男命・建御名方命・八坂刀売命・経津主命・天之御中主尊・木花開耶姫命・橋姫命・武甕槌命・麓山祇命・不詳六座を合祀。 / 旧・郷社。
社伝によると、古くは和流宮と称した。 唐流に対する大和流の意味とされ、後には割宮あるいは和利宮などとも称した。
昔は現在地には拝殿だけが在り、本殿は西南三丁ほど離れた御洗水山の山頂に鎮座していたが、険阻な丘上で参拝に不便なため、弘治二年[1556]に現在地に遷座した。 また、見付山とは現在の嵩山で、その南麓に鎮座していた和流宮を御洗水山に遷座し、旧社地には親都神社(吾妻郡中之条町五反田)が勧請されたとも云う。
明治四十一年[1908]、和利神社に境内末社19社及び名久田村(現・中之条町の横尾・平・大塚・赤坂・栃窪)・高山村尻高の神社24社(末社108社)を合祀、吾妻神社と改称した(『群馬県吾妻郡誌』)。
山代大明神
山代神社(吾妻郡高山村尻高) / 祭神は大山祇命。 / 旧・無格社
明治四十一年[1908]に和利神社(吾妻神社)に合祀(『群馬県吾妻郡誌』)。
白専馬大明神
白鳥神社(吾妻郡中之条町市城) / 祭神は日本武尊。 / 旧・村社。
明治四十四年[1911]に伊勢宮(吾妻郡中之条町伊勢町)に合祀(『群馬県吾妻郡誌』)。 昭和二十四年[1949]に分祀、翌年に旧社地に再建された。
駒形明神
駒形神社(吾妻郡中之条町青山) / 祭神は宇気母智神で、大山津見神・菅原道真・建御名方神・大日孁尊を配祀。 / 旧・村社。
明治四十年[1907]に伊勢宮に合祀(『群馬県吾妻郡誌』)。
児持七社
児持山大明神・半手木(破敵)大明神・鳥頭大明神・和理大明神・山代大明神・駒形大明神・白専女大明神を児持七社(吾妻七社)と呼ぶ。 笹尾大明神(『子持山縁起』では藤原成次の北の方)を加える事もある。
垂迹 / 本地
児持山大明神 如意輪観音
半手木大明神 文殊菩薩
鳥頭大明神 聖観音
和理大明神 十一面観音
山代大明神 十一面観音
笹尾大明神 聖観音
白専馬大明神 十一面観音
児守明神
皇大神宮の末社・許母利神社(三重県伊勢市二見町松下)か? / 祭神は粟嶋神御魂。
現在は神前神社(皇大神宮の摂社)に同座で祀られており、社名の許母利(こもり)に因んで、子授け・安産の信仰がある。
津守大明神
皇大神宮の所管社・屋乃波比伎神(三重県伊勢市宇治館町)か?
『子持山縁起』には「太神宮の荒垣の内に御座すあらはゝき即ち是れ也」と記されている。 皇大神宮の神庭の守護神で、現在は皇大神宮御正宮の石階の東側に石畳を構え、石神として祀られている(一般の参拝は不可)。
鈴鹿大明神
伊賀国には該当する神社は現存しないが、伊勢国の誤記だとすると、片山神社(三重県亀山市関町坂下)と推定される(ただし、片山神社を伊勢国三宮とする説は見当たらない)。 / 祭神は倭姫命で、瀬織津比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神・坂上田村麿・天照大神・速須佐之男命・市杵島姫命・大山津見神を配祀。 / 式内論社(伊勢国鈴鹿郡 片山神社)。 旧・村社。
『三国地誌』によると、鈴鹿神祠は坂下駅に鎮座し、鈴鹿権現と俗称されている。 社伝によると、片山神社は元は三子山(鈴鹿嶽・武名嶽・高幡嶽)の嶺に在った。 瀬織津姫・伊吹戸主・速佐須良姫の三神を祀り、三神が出現したので三子山と云った。 三子山の火災後、寛永十六年[1639]に現在地に遷座し、鈴鹿社の倭姫命と相殿で四神を一社に祀ると云う。なお、現在地への遷座を永仁五年[1294]とする説もある。
鳥居明神
成海神社(愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山)か? / 祭神は日本武尊で、宮簀媛命・建稲種命を配祀。 / 式内社(尾張国愛智郡 成海神社)。 旧・県社。
社伝によると、朱鳥元年[686]に草薙剣を熱田神宮に奉遷する際、日本武尊の縁由により創祀された。 元は鳴海浦に鎮座していたが、応永初年[1394〜95頃]に鳴海城が築城された際に現在地(乙子山)に遷座した。
阿野明神
不詳。 安濃津(三重県津市)の神社か?
■第五十 諏訪縁起事 (諏訪大明神)
人皇第三代安寧天皇から五代の孫に、近江国甲賀郡の地頭・甲賀権守諏胤という人がいた。 奥方は大和国添上郡の地頭・春日権守の長女で、甲賀太郎諏致・甲賀次郎諏任・甲賀三郎諏方という三人の息子がいた。
父諏胤は三代の帝に仕え、東三十三ヶ国の惣追捕使に任ぜられた。 七十余歳になった諏胤は病床に三人の息子を呼んだ。 そして、三郎を惣領として東海道十五ヶ国、太郎に東山道八ヶ国、次郎に北陸道七ヶ国の惣追捕使の職を与えた。 諏胤は七十八歳で亡くなり、三十五日の塔婆供養の三日後に奥方も亡くなった。
父の三回忌の後、甲賀三郎は上京して帝に見参し、大和国の国司に任じられた。 甲賀三郎は春日郡の三笠山の明神に参詣し、春日権守の歓待を受けた。 そして、春日権守の十七歳になる孫娘の春日姫と巡り会った。 その夜、甲賀三郎は春日姫と夫婦の契りを交わし、近江国甲賀の館に連れ帰った。
ある年の三月、甲賀三郎は一千余騎を伴い伊吹山で巻狩を行った。 甲賀太郎は五百余騎、甲賀次郎も三百余騎を伴って加わった。 三郎は北の方を麓の野辺の館に住まわせ、狩の様子を観覧させた。 八日目に上の山に二頭の大きな鹿が現れたと報告があり、三郎は上の大嶽に登って行った。
麓の館で北の方が女たちに今様を歌わせていると、美しい双紙が三帖天下って来た。 北の方がその双紙を見ていると、双紙は稚児に姿を変え、北の方を捕らえて逃げ去った。 甲賀三郎は天狗の仕業だろうと考え、二人の兄と共に日本国中の山々を尽く探し回ったが、北の方を見つける事は出来なかった。
そこで、三郎の乳母の子である宮内判官の助言で、信濃国笹岡郡の蓼科山を探してみる事にした。 そこには大きな人穴があり、春日姫が最後に着ていた着物の片袖と髪の毛が見つかった。
甲賀三郎は簍籠に八本の縄をつけ、それに乗って人穴に入っていった。 簍籠を降りて東の人穴を進むと、小さな御殿の中から春日姫が千手経を読む声が聞こえた。 甲賀三郎は北の方を連れ出すと簍籠に乗り、家来たちに縄を引き上げさせた。 ところが、北の方は祖父から貰った唐鏡を置き忘れてしまったので、甲賀三郎は引き返して再び人穴に入った。
甲賀次郎は弟を妬んでいたので、縄を切り落として三郎を人穴の底に取り残した。 そして、春日姫を甲賀の舘に連れ込み、宮内判官経方をはじめ三郎の一族二十余人を殺戮した。 残った家臣たちは次郎に臣従を誓った。 甲賀太郎は次郎が父の遺言に背いた事を知り、下野国宇都宮に下って神と顕れた。
甲賀次郎は春日姫を妻と定め、政事を行った。 しかし、姫は次郎に従おうとしなかった。 怒った甲賀次郎は家来に命じ、近江の湖の北岸、戸蔵山の麓で春日姫を切らせることにした。 そこに宮内判官の妹婿である山辺左兵衛督成賢が通りかかり、春日姫を救い出して春日権守の邸まで送り届けた。 その後、春日姫は三笠山の奥にある神出の岩屋に閉じ籠ってしまった。
その頃、甲賀三郎は唐鏡を取り戻して簍籠の所に引き返したが、縄は切り落とされており、殺された一族の死骸が転がっていた。 三郎は地下の人穴を通って好賞国・草微国・草底国・雪降国・草留国・自在国・蛇飽国・道樹国・好樹国・陶倍国・半樹国など七十二の国を巡り、最後に維縵国に辿り着いた。
三郎は維縵国の王である好美翁に歓待された。 好美翁には、八百歳・五百歳・三百歳になる三人の姫君がいた。 三郎は末娘の維摩姫を妻とし、この国の風習に従って毎日鹿狩りをして過ごした。
十三年と六ヶ月の年月が流れたある日、三郎は夢に春日姫を思い出して涙を流した。 維摩姫は「あなたを日本にお送りしましょう。私もあなたの後を追って忍び妻となり、衆生擁護の神と成りましょう」と云った。
三郎は好美翁から鹿の生肝で作った千枚の餅をもらい、それを一日一枚づつ食べながら日本に向った。 契河・契原・亡帰原・契陽山・荒原庭・真藤山・杉原・真馴の池・暗闇の地・おぼろ月夜の原を経て、千枚の餅を食べ終えて信濃国の浅間山に出た。
三郎は甲賀郡に戻り、父の為に造った笹岡の釈迦堂の中で念誦していると、子供たちが「大蛇がいる」と云って逃げた。 三郎は我が身が蛇になった事を知り、仏壇の下に身を隠した。
日が暮れた頃、十数人の僧たちが法華経を読誦し、甲賀三郎の物語を語った。 それによると、甲賀三郎が蛇身なのは維縵国の衣装を着ているためで、石菖を植えている池の水に入り四方に向いて呪文を唱えれば脱ぐ事ができるという。 三郎はその話に従って蛇身を脱して人身に戻った。 僧たちは白山権現、富士浅間大菩薩、熊野権現などの神々であった。
三郎は近江国の鎮守である兵主大明神に導かれて三笠山に行き、春日姫と再会した。 二人は天早船で震旦国の南の平城国へ渡り、早那起梨の天子から神道の法を授かって神通力を会得した。 その後、兵主大明神の「日本に戻って衆生守護の神に成って下さい」という求めに応じ、天早車に乗って信濃国の蓼科山に到着した。
甲賀三郎は信濃国岡屋の里に諏訪大明神の上宮として顕れた。 本地は普賢菩薩である。
春日姫は下宮として顕れた。 本地は千手観音である。
維摩姫もこの国に渡って来て、浅間大明神として顕れた。
甲賀三郎と兄たちは兵主大明神が仲裁した。
甲賀次郎は北陸道の守護神と成り、若狭国の田中明神として顕れた。
甲賀太郎は下野国宇都宮の示現太郎大明神として顕れた。
父甲賀権守は赤山大明神として顕れた。
母は日光権現として顕れた。
本地は阿弥陀如来・薬師如来・普賢菩薩・千手観音・地蔵菩薩等である。
上野国の一宮は狗留吠国の人である。 《以下、上野国一宮事とほぼ同内容なので略す》
諏訪大明神は維縵国で狩の習慣があったので、狩庭を大切にされる。 四条天皇の御代、嘉禎三年[丁酉]五月、長楽寺の寛提僧正は供物について不審に思い、大明神に祈念して「権実の垂迹は仏菩薩の化身として衆生を済度されるのに、何故多くの獣を殺すのでしょうか」と申し上げた。 僧正の夢の中で、供物の鹿鳥魚などが金色の仏と成って雲の上に昇って行き、大明神が
野辺に住む獣我に縁無くば憂かりし闇になほ迷はしむ
と詠まれ、 「業尽有情、雖放不生、故宿人天、同証仏果」 と四句の偈を説いた。 寛提僧正は随喜の涙を流して下向された。
諏訪大明神
上宮は諏訪大社・上社本宮(長野県諏訪市中洲) / 下宮は諏訪大社・下社で、秋宮(諏訪郡下諏訪町武居)・春宮(同町下ノ原)の二宮から成る。 / 上宮の祭神は建御名方神。 / 下宮の祭神は八坂刀売神・建御名方神で、事代主神を配祀。 / 式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座並名神大)。 信濃国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本書紀』(持統天皇五年[691]八月辛酉)の「使者を遣はして、龍田風神・信濃須波・水内等の神を祭る」。
『古事記』によると、天照大神は八百万の神々と相談して、建御雷神と天鳥船神を葦原中国に遣わした。 二神は出雲国の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り、大国主神に天孫に国を譲るよう申し入れた。 大国主神の息子の事代主神が先ず帰順し、青柴垣に身を隠した。 建御名方神は国譲りに抵抗して建御雷神と争い、科野国之洲羽海(信濃国の諏訪湖)に逃れてついに帰順した。
■第二十四 宇都宮大明神事
宇都宮大明神は諏訪大明神の兄である。この明神には男躰と女躰がある。俗躰の本地は馬頭観音である。女躰の本地は阿弥陀如来である。橋本七所は大明神の御守である。高尾神は大明神の一二の王子である。この明神は千の犬、千の鳥、千の狐を眷属とする。
宇都宮大明神(男躰)
二荒山神社(栃木県宇都宮市馬場通り一丁目) / 祭神は豊城入彦命で、大物主命・事代主命を配祀。 / 式内論社(下野国河内郡 二荒山神社名神大)。 下野国一宮(論社)。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』(承和三年[836]十二月丁巳)の「奉授下野国従五位上勲四等二荒神正五位下」であるが、この二荒神が現在の二荒山神社(宇都宮、日光)のどちらに該当するかは不詳。
社伝によると、仁徳天皇四十一年[353]に下毛野国造の奈良別王が祖神である豊城入彦命を池辺郷荒尾崎(宇都宮市馬場通り三丁目付近)に奉斎した。 その後、承和五年[838]に現在の臼ヶ峰に遷座した。 旧社地の荒尾崎には摂社・下之宮が鎮座している。
『宇都宮大明神代々奇瑞之事』によると、宇都宮大明神は神護景雲元年[767]に日光山に顕現した。 その後、承和五年に温佐郎麿(小野猿丸)により河内郡小寺峯(荒尾崎)に遷座され、補陀洛大明神と号した。 社壇の南の道を通る人馬が無礼を致したり、秋毫の誤りが有れば、神罰により落馬・病気・夭折など種々の災難が起きた。 そこで、南の道を塞いで、祠を北の山(臼ヶ峰)に移し奉ったのが現在の社壇である。
『日光山縁起』も、日光山の太郎大明神を小寺山に遷座して若補陀落大明神と号したと伝える。
宇都宮大明神(女躰)
二荒山神社の末社・女体宮 / 祭神は三穂津姫命。 / 二荒山神社の本殿脇に鎮座する。
■第二十三 日光権現事
日光権現は下野国の鎮守である。 往昔に赤城大明神と后を諍いつつ、唵佐羅麼を語った事は遥か昔である。二荒山が本地垂迹を顕したのは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、 天応二年から延暦初年の頃である。 勝道上人が山に登り、一大伽藍を建立された。 今の日光山である。日光山には男躰と女躰がある。男躰の本地は千手観音である。女躰の本地は阿弥陀如来である。
日光権現(男躰)
二荒山神社(栃木県日光市山内) / 祭神は大己貴命(男体山)・田心姫命(女峰山)・味耜高彦根命(太郎山)。 / 式内論社(下野国河内郡 二荒山神社名神大)。 下野国一宮(論社)。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』(承和三年[836]十二月丁巳)の「奉授下野国従五位上勲四等二荒神正五位下」であるが、この二荒神が現在の二荒山神社(宇都宮、日光)のどちらに該当するかは不詳。
日光連山は男体山(二荒山)・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山などの山々から成り、霊峰として古来より崇敬されている。
勝道上人は二荒山の開山を志し、天平神護二年[766]三月中旬に山麓の大谷川に到った。 上人が求聞持真言を唱えると、大谷川の北岸に深砂大王が顕現し、手にした二匹の蛇で大谷川に橋を架けた。 上人はこの蛇橋によって大谷川の北岸に渡り、四本龍寺を建立して千手観音を本尊とした。
神護景雲元年[767]、四本瀧寺の側に祠(本宮神社)を建てて二荒山権現(男体山)を勧請。 同年四月に初めて男体山の登頂を試みるが、雪や雷により途中で断念。 天応二年[782]三月、宿願の男体山登頂に成功し、山頂に二荒山神社の奥宮を奉斎した。 下山後、中禅寺湖の歌ヶ浜に小庵を結び、四本龍寺に帰還した。 延暦三年[784]、中禅寺湖の湖畔に二荒山神社の中宮祠(日光市中宮祠)を創建。 また、神宮寺として中禅寺を建立し、二荒山権現の本地仏である丈六の千手観音立像(立木観音)を安置した。
嘉祥三年[850]、昌禅座主が現在地に新宮を建立し、二荒山権現を本宮神社から遷座した。 その後、太郎山権現を本宮神社に勧請した。
日光権現(女躰)
二荒山神社の別宮・滝尾神社(日光市山内) / 祭神は田心姫命。
『日光山滝尾建立草創日記』によると、弘法大師は弘仁十一年[820]に日光に来山し、滝尾権現(女峰山)を勧請した。
垂迹 / 本地
日光三所権現 男体山(大己貴命) 千手観音
女峰山(田心姫命) 阿弥陀如来
太郎山(味耜高彦根命) 馬頭観音
日光山縁起
冒頭で簡単に言及された日光権現と赤城大明神の神戦および唵佐羅麼(小野猿丸)の物語は『日光山縁起』に詳しい。
有宇中将は才芸優れた人物であったが、鷹狩に熱中して帝の不興を買い、鷹(雲上)と犬(阿久多丸)を連れ、青鹿毛の馬に乗って都を去った。 中将は陸奥の朝日長者の下へ身を寄せ、その姫君(朝日の君)の婿となった。 六年後、中将は母の姿を夢に見て恋しくなり、朝日の君を残して、鷹と犬を連れて青鹿毛で都に向かったが、途中の妻離川(阿武隈川)の水を飲んで病気になり、二荒山の山中で落命した。 炎魔王宮で中将の過去世を調べたところ、元は二荒山の猟師だったが、鹿と間違えて母を誤射してしまい、その罪を償うために神となって貧苦の者を救済しようと誓願を立てていた事が判明した。 青鹿毛は猟師の母の生まれ変わりだった。 炎魔王はその誓願を果たさせるために中将を蘇生させた。
中将が生き返った後、朝日の君は懐妊して一子が誕生した。 その名は馬頭御前で、青鹿毛の生まれ変わりだった。 中将は上洛して大将に昇進、馬頭御前も都に上って中納言になった。 中納言が都から下って朝日長者のもとに居た時、侍女の腹に子供が出来た。 その子は奥州小野に住んで小野猿丸と称し、弓の名手となった。
有宇中将は日光権現として顕れ、下野国の鎮守となった。 湖水(中禅寺湖)の領有を巡って日光権現と赤城大明神の間に争いが起き、鹿嶋大明神は猿丸に助勢を求めるよう日光権現に助言した。 猿丸は鹿(女躰権現の化身)を追って日光山に入り、そこで日光権現の要請を了承した。 日光権現は大蛇、赤城大明神は大百足に化身して激しく争った。 猿丸の射た矢は大百足の左眼に命中し、負傷した大百足は退散した。 日光権現は猿丸の功績を讃えて国を譲り、太郎大明神(馬頭御前)と共に山麓の人々を守護するよう命じ、二荒山の神主とした。 また、一羽の鶴が飛んで来て、左の羽の上には馬頭観音。右の羽の上には大勢至菩薩が見えた。 鶴は女人に変じ、馬頭観音は太郎大明神の本地、勢至菩薩は猿丸の本地である事、猿丸に恩(小野)の森の神となって衆生を導く事を告げて消えた。
雲上の本地は虚空蔵菩薩である。阿久多丸の本地は地蔵菩薩で、今は高雄上と顕れている。青鹿毛は太郎大明神で、馬頭観音の垂跡である。有宇中将は男躰権現で、本地は千手観音である。朝日の君は女躰権現で、阿弥陀如来の化身である。その後、太郎大明神は下野国河内郡小寺山に遷座して、若補陀落大明神と号した。
男体・赤城の神争い
日光と言ったら一般的には東照宮だが、もちろん家康よりずっと昔からの聖地であり、北関東の要の土地であった。毛野国は律令制以前の勢力としては東国最強レベルであり、武蔵北部や常陸までその影響力の痕跡は大きい。日光・赤城というこの地のいずれ劣らぬ聖峰の神々が壮大な神争いをした、という伝説がある。「日本の竜蛇譚」に頻出する俵藤太伝説と繋がっていく側面もある伝説で、きわめて重要な話だ。周辺類話、派生話が膨大に存在する伝説なので、一度にすべてを見渡すことは出来ないが、まずは基本的な話の筋を追っておこう。

むかし、男体山の神と赤城山の神が、美しい中禅寺湖を領地にしようと奪い合う戦いをした。しかし中々勝負がつかず、男体の神は鹿島の神に助けを頼んだ。すると鹿島の神は自分が助けるよりも、男体の神の子孫の猿丸という弓の名人に助けを求めるように助言した。
猿丸は奥州に暮らしていた。男体の神は白い鹿に化けると猿丸の前に現われ、これを仕留めようとする猿丸を誘って日光に戻った。ここで男体の神は姿を戻すと自分が猿丸の祖先であることを語り、また赤城の神との争いの事情を話し、助力を求めた。
猿丸は引き受け、どのようにしたら良いのか問うた。男体の神は、自分が大蛇となり、赤城の神が大百足となって争うだろうから、その百足の目を弓矢で射抜くよう教えた。戦いが始まり、何千何万という眷属の蛇の群れと百足の群れが噛み合う凄まじい争いとなった。
猿丸はその中でひときは大きな蛇と百足が絡み合っているのを見つけ、これに違いないと大百足の目をめがけ矢を放った。矢は見事に目を射抜き、敗れた赤城の神は血を流しながら逃げ去っていった。
この戦いのあった野原を戦場ヶ原、勝負がついた所を菖蒲ヶ浜、男体の神が勝利を喜び歌い踊った所を歌ヶ浜という。また、今でも正月四日には男体山の神を祀る日光二荒山神社では、赤城山の方へ向って矢を射る武射祭が行われる。(『栃木の伝説』)

先に埒のないことを言っておこう。私はこれは二柱の男神が中禅寺湖の「女神」を取り合った話だったのじゃないかとも思っている。東北に伝わる十和田湖の女神を取り合った「赤神と黒神のけんか」という伝説と同じような神話がベースにあったのじゃないかと思うのだ。もっとも普通に考えたら毛野国が上野国と下野国に分裂する際の次第を伝えているのだろうということになるのだが、それだけで(時代的にも)「神争い」という神話めいた話になるだろうか、という違和感がある。少し歴史時代以前へ遡る可能性を含ませておきたい。
さて、中継のベースとなっているのは『日光山縁起』。これは中世神話群の一環であり、中将のすったもんだの末その周辺の者が各神地の神として示顕する、という定型的なパタンではある。この中将(有宇中将)が日光権現として(男体の神)示顕し、まだ中将が人の身のうちに奥州朝日長者の姫との間にもうけていた子が猿丸。この猿丸が下野小野氏の祖とされる(日光二荒山神社の代々の神官は小野氏)。
小野猿丸・猿丸大夫に関しては、柿本人麻呂のことであるとか(梅原猛)、『神道集』にある「日光権現事」に「唵佐羅麼(おんさらま)」とあることから小野・猿となったのは後世の付会だろうとか色々あるのだが、この辺りは今回は端折る。
ここで注目したいのはこの男体・赤城の伝説では繰り返し「猿丸が男体山の神の子孫である」事が語られるということで、額面通りにとれば猿丸の祖神は日光男体の蛇神だということになる点だ。即ち「俵藤太」の伝説との類似である。俵藤太・藤原秀郷は琵琶湖瀬田の唐橋の大蛇(竜女)に頼まれ、三上山の大百足の目を射て倒す。その藤太がそもそも蛇祖の一族であるという伝説があることは紹介した(「縄ヶ池の竜女」参照)。猿丸と俵藤太の神争いにおける役割が同じことは言うまでもない。
実際赤城の方では大百足を退治したのは俵藤太だとも伝えられる。しかも赤城山の沼にまつわる赤堀家の女人蛇体の伝説では赤堀家は俵藤太の子孫だとしているのだ。この辺りはまた別にまとめるが、「似ている話」ではなく「実際絡み合う話」なのだと心得ておく方が良い。この連絡を柳田国男は朝日長者伝説がつなぐ朝日の巫女の系譜ではないかと見、谷川健一はそれらを東山道沿いに繋げていったのは小野氏であっただろうというのだが、そのような長距離を結び、俵藤太伝説群と連絡する話となる、ということである。
その辺りのことはまた経路に連なる各伝説紹介の足並みが揃ってからとして、ここではもう一点「蛇と百足」に関して提案しておきたいことがある。これはもともと蛇と百足の神争いという話だったのか、ということだ。これも詳しくは赤城の方の伝説「赤城と日光の争い」の紹介の際となるが、簡単に言うと赤城の方では「赤城が蛇、日光が百足」と伝えている事例が少なくないのだ。負けるのは赤城の方で変わらないのだが。例えば……
利根郡昭和村──日光様の主は百足で、赤城様の主は蛇だった。中禅寺湖の中に上州島というのがあって、その島のとりっこで、二人の神様が戦争をした。「上州だ」「いや野洲のものだ」ちゅうで、戦場ヶ原で戦っていて、赤城様が勝ちそうになった。そしたら、そこへ鹿島様が日光様の手伝いにきて、赤城様のほうがおんまけてしまった。赤城様は逃げてきたが、日光様に追いかけられながらも、ようやく追貝まで来て逃げのびることができた。赤城様はけがをしていて、老神のお湯に入ってきずを治したという。
という具合だ。さらに、群馬に「百足信仰」なるものが色濃くあるのかと言うとそんなことはない。というより、栃木よりも群馬の方が蛇信仰の痕跡はべらぼうに多い。このあたりは「怪異・妖怪伝承データベース」よりの抽出を見比べられたい(栃木県の竜蛇/群馬県の竜蛇)これはどういうことだろう。
私は、これはもともと蛇神同士の神争いだったのではないかと考えている。「負けた方が百足にされてしまった」のではないか、ということだ。無論それ一事を万事にするというわけではない。三上山はどうなのか、舳倉島はどうなのかと、それぞれはまたそれぞれの理があるだろう。加えて、大蛇退治の銘刀と言えば「百足丸」なのであり、百足が蛇の天敵であるというモチーフも当然大きくあるのではある。しかし、今の所周辺信仰の模様と伝説の類型を見ていると赤城はもともと蛇神信仰の地だろう、という観が強い。
もしこれが当たっているならば、日光と赤城の伝説は竜蛇神が竜蛇でないものへと変化する理由と過程を示しているかもしれない。今の所この線がよく見えそうな例は第一にこの伝説である。ここは強調しておきたい。
いずれにしても蛇を祖とする一族、俵藤太伝説、東山道を行き来した人々、蛇と百足の争いとは何か、こういった話に日光と赤城の神の戦いの伝説は大きく影を落としてくるだろう。類話・派生話を見ていくとともに、両毛に伝わる他の竜蛇譚が繋がっていく様子も楽しみにしたい。
下野の地理
下野国は、現・栃木県で、関東地方の北方に位置する。
はじめは上野国とあわせて毛野国(ケヌノクニ)と呼ばれ、栃木県の北部は那須国だったが、『国造本紀』によると、仁徳天皇の時代に渡良瀬川を境に上毛野(カミツケヌ)と下毛野(シモツケヌ)の二国に分かれた。
大化の改新後、下毛野国に那須国が那須郡として編入されて下野国となった。
国府は都賀郡(現・栃木市田村町)に置かれ、梁田、足利、安蘇、寒川、芳賀、都賀、河内、塩谷、那須の9郡が置かれた。
俗に野州とも呼ばれる。
北に那須連峰、西に日光山をはじめとした足尾連山があり、その間を鬼怒川が流れている。渓谷の景色の美しさは筆につくしがたい。南部は関東平野に入っており、遠方まで見える。高台に上ると富士山も見えるほどだ。
西の上野、北の奥羽、東の常陸国境には山岳が連なり、通行はかなり険しい。南に下り、上野の館林、常陸南部、下総と接している河内郡、寒河郡あたりは平地である。
平安時代は、京の公家たちから、関東は鬼が住んでいるとして恐れられていた。それほど、京からは遠い未開の地という意識があった。
しかし、武士が台頭してからは、関東武士団は力強く成長し、武家政権の成立に大きく寄与していくこととなる。
下野も、名だたる名家を排出するに至る。
南関東から通っている奥州街道は宇都宮を通り、交通の重要性は高い。勢力、集落はこの街道沿いから枝状に発展し、なんとなく縦のラインに広がっている。下野の発展ラインは足利―佐野―小山の横ライン(常陸、上野につながる)と宇都宮―小山の縦ライン(南北の武蔵、奥州に抜ける)が主な交通要所である。
下野の戦国期
戦国期も小領主が乱立しており、統一はなかった。主な勢力としては、河内郡、芳賀郡一帯の他、主に下野中心部を宇都宮家。那須郡を那須家。都賀郡北部を壬生家。都賀郡南部を皆川家。下野南部の小山地方を小山家。佐野を佐野家。足利を、管領上杉配下の足利長尾家が支配していた。
室町時代まで勢力を張っていた宇都宮家と小山家は、戦国初期には勢力は減衰していた。他家もそれほど力は無く、ほとんどの場合一進一退、離合集散を繰り返すのみ。突出した勢力は宇都宮家のみであったが、当時は他家を完全に攻め取る風潮の無い時代、下野は統一される見込みは無かったといってよい。
戦国中期になると、近世的性格を多分に備えた北上する新興勢力北条家と、中世的な色彩を持った関東管領上杉憲政のゆずりをうけた上杉輝虎が鋭く対立した狭間になってしまう。
これに刺激を受け現実に土地を握る草分け地主的在地小豪族が互いに内部に矛盾を抱え、対立を激化しながら、上杉家をはじめ、時代の覇者に誼を通じ、主従の関係を結び、あるいは自立を図るなどの離合集散を繰りかえし、戦乱の中に新しい封建的支配関係をつくりながら起こした。
元亀年間になると、北条家が攻め上り、下野南部の領主はこの攻勢に脅かされ下野全体がゆれたが、とくに下野南部領主の打撃はひどかった。小山、佐野家らである。天正年間に入ると、いよいよすさまじく、形ばかりだが、北条家への降伏が相次いだ。
小田原征伐直前の最大時は、下野では足利長尾、佐野、小山、皆川、壬生、日光山らが北条の傘下に入った。宇都宮領もしばしば侵される。これは下野のほぼ半分に相当する。
1569年、長年の宿敵だった北条家と上杉家は同盟を結ぶ(越相同盟)。今まで関東管領上杉謙信を頼りに北条と戦ってきた諸氏は大いに落胆し、望みは薄いが、甲斐の武田とも結んだ。ここに至り、北関東の諸氏は反北条連合を作り始める。宇都宮、那須、小山、結城らの「東方之衆」である。これに常陸の佐竹家も協力し、北関東で一大勢力となった。これには北条も一目置いていたという。
それから約10年間、南北の闘争に明け暮れ、織田家の勢力圏が上野まで及ぶと北条は抑えられ、大人しくなるが、天正十年の本能寺の変で信長が斃れると、北条はすぐさま上野に兵を出し、再度、北関東に出兵を開始した。当初は大軍にも耐えうる東方之衆であったが、天正13年頃になり、事態は急迫する。奥州で伊達家の新たな当主・伊達政宗が四方に攻め入り、元来、幾重の婚姻などで結ばれている奥州の諸豪族を攻め始めた。婚姻関係を持つ佐竹家も伊達に対抗するため、南の北条への対応と二手に分かれてしまう。
東方之衆の頼りの佐竹家も、急激に勢力を拡大してきた奥州の伊達政宗に対して兵力を割かねばならず、しかも北条家は伊達家と同盟を結んでいるので、北関東勢は南北から挟み撃ちになる。佐竹家の援軍無くして北関東の弱小諸大名のみで北条家の侵攻を抑えるのはかなり無理がある。大軍である上、統制もきちんとしている。下野南部の大名たちは降伏が相次いだ。
下野中部の宇都宮家は領内に攻め入られはしたが、それでもなんとか撃退できた。追い返すのにやっとのことであったから、北条を攻めるなどとてもできない。これではじりじり寄せられて滅亡してしまう。永禄年間なら越後の上杉家がいたが、1578年からの御館の乱で衰退してしまった。天正期は、上杉家の関東への影響力が薄れ、北条家の独断場となっていた。そこで北関東では中央で気を吐いているどころか日本全国で並ぶ者なしの関白・豊臣秀吉に頼る他なくなる。
天正18年の秀吉による小田原征伐がなされなければ、下野が北条の分国になるのも、時間の問題であった。
小田原征伐時、秀吉に目通りし、所領を安堵された家は、宇都宮家、多功家、芳賀家、大関家、大田原家、福原家、伊王野家、芦野家、千本家、佐野家、皆川家などなど。茂木家、武茂家、松野家は佐竹に属し所領安堵。
所領没収となった家は、那須家、塩谷家、壬生家、足利長尾家、小山家などである。
那須資晴は参陣せず、宇都宮城に秀吉が来たとき遅れて目通りし、那須十一万石は所領没収となった。のちに那須資晴嫡男・那須資景に五千石があてがわれる。
塩谷義綱は遅陣だが、岡本正親の陰謀とも手違いともいわれる。のちに小所領をもらい、大名に返り咲いた。
皆川広照は小田原城に籠城していたが、途中で手勢と共に抜け出し、秀吉に降伏。所領安堵を取り付けている。
壬生義雄も小田原城に籠城していたが、陣没してしまう。小田原城開城後、所領安堵しようとするが、子がなかったため壬生は所領没収となった。鹿沼、壬生の大半は結城晴朝の領国となる。
長尾顕長は小田原に籠城するが、開城後、常陸の佐竹義宣のもとに身を寄せる。
小山秀綱は北条と行動を共にしたというので所領没収となった。
1596年、秀吉政権下18万石を誇る宇都宮家が突如改易となる。豊臣政権下の石田三成派と徳川系東国派の権力争いに巻き込まれたらしい。改易されたときの理由は、2倍もの石高偽りと芳賀高武の反乱による不始末だという。三成らと対立する浅野長政の策謀で宇都宮18万石は没収、替わりに会津の蒲生秀行が入った。
1600年、関ヶ原で決戦が行われているとき、家康にとって最も気がかりなのは、会津の上杉景勝と常陸の佐竹義宣という後方の憂いであった。
そのため、西上する前にしばらくは江戸のとどまり、結城秀康を中心に東北に対する防備を固めた。万全の体勢をしいたそのうえで関ヶ原に向かった。
合戦時は、全体としては活発な動きは無かったが、那須家の北部に上杉勢が進軍し、那須勢が関山に陣取っている上杉勢に強襲をかけ、合戦となった。
論功行賞では蒲生家を会津に再び転封し、宇都宮には奥平家昌(家康の孫・10万石)、宇都宮とともに軍事価値の高い真岡には、浅野長政の次男・長重を置く。
小山は本多正純が分地で拝領する。
翌年1610年(慶長6年)結城秀康を越前67万石に移し、そのあとに譜代の松平一生(板橋へ)を、外様の藤田信吉(西方へ)、壬生には日根野吉明を配する。
また、佐野城の佐野家、烏山城の成田家、皆川の皆川家、喜連川の喜連川家は本領を安堵する。
江戸のから東北への通り道である下野には、徳川家の信頼厚い大名たちが配され、関ヶ原後の東北計略の拠点と定めたことや、日光山を改修、増築し奉った事は、江戸期以降、下野が大いに発展していく契機となったのである。 
室の八島
歌枕として多くの和歌に詠まれた下野国の名所。下野国府の付近と考えられ、『平治物語』では平治の乱で敗れた藤原成憲の流刑地とされている。江戸時代には、総社六所大明神の鎮座地(現在の栃木県栃木市惣社町)が「室の八島」とされ、松尾芭蕉『奥の細道』により広く知られるようになった。 明治以降、同社は大神神社と改称し、境内の池に浮かぶ八つの小島を「室の八島」と称している。 『下野国誌』三之巻によると、九月九日に広前においてコノシロを焼いて鉾にささぐ神事が行なわれる。
 
古代北越の境界・神済(かみのわたり)について

 

はじめに
古代越中と越後の境が「神済(かみのわたり)」と呼ばれていたことを知る人は、かなり古代史に詳しい方であろう。北陸の日本海沿いのこの境界「神済」の歴史的意味を少し考えてみたい。
神済とは
神済という語は、701年に施行された日本古代の法律『律令』の中の公式令(くっしきりょう)第51条朝集(ちょうしゅう)使条(しじょう)に「凡そ朝集使は、東海道は坂の東、東山道は山の東、北陸道は神済以北、山陰道は出雲以北、山陽道は安芸以西、南海道は土左等国、及び西海道は、皆な駅馬に乗れ、自余は、おのおの当国の馬に乗れ」と記述されているのみである。
この条文に規定されているのは、朝集使が各地から都へと往復する際の、駅馬利用の条件である。朝集使とは、各国に赴任している国司が毎年交代で担当する都への使いで、地方官人の勤務評定書などを持参し、政務の報告などを行う制度である。いっぽう駅制は、古代国家が整備した、都と各地を最高速で結ぶ駅伝式の全国的交通システムで、主要道に一定間隔で駅(うまや)を設け駅馬が常備されていた。駅馬は、都で重大な事件が起きて各地に情報伝達をしなければならないときなどに、特別に任命された駅使が使用することになっていて、他の利用は厳しく制限されていたのである。
この条文は、諸国の朝集使のうち、一定以上の遠距離から往復するものに便宜を図り、駅馬の利用を許すことを規定し、その基準が明記されている。その基準は、東海道では坂より東側の地域で駅馬使用を許す、ということである。ここでは漠然と「坂」という言葉が出ているが、833年に完成した公定法律注釈書『令義解』では、「駿河と相模の境の坂」であると書いてある。つまり、東海道では駿河と相模の境の坂(足柄峠)よりも東側では、駅馬を使っても構わないということである。
次の東山道は、江戸時代風に言うと中山道に大体一致するルートで、日本の内陸部を通って、滋賀県から岐阜県、長野県、群馬県を越えていく道。東山道では山より東とあり、同書に「信濃と上野(こうずけ)の境」すなわち長野県と群馬県の境とされていて、現在の碓氷峠であると考えられている。以上の二箇所は、大体関東地方と中部地域の境に当たる地域である。
その次に出てくるのが問題の北陸道の「神済」である。神済は同書に、「越中と越後の境の川」とある。また、『令義解』よりも古い別の注釈書「令釈」には「高志の道の中と道後の境」であるというコメントが記されている。いずれにしても越中と越後の境であり、これよりも北は駅馬を使っても構わないということである。これが都側から見て東側についての規定である。
西のほうを見ると、「山陰道出雲以北」。出雲(島根)から北は駅馬に乗っても構わない。それから「山陽道安芸以西」。安芸国(広島)から西も駅馬に乗っても構わない。南海道は、現在の和歌山県から四国すべてであるが、「南海道土左等国」とあるので、四国の土佐の国は大変遠いのでそこだけは駅の馬に乗っても構わないということである。「西海道」は九州全体で、九州内では駅馬に乗って構わないということである。それ以外の国は「自余各乗当国馬」とあり、駅馬ではなく国内で馬を雇って乗るようにということである。
さて、ここまで見てきて、朝集使の往復に際して駅馬を使ってよいという特別な待遇が与えられた地域がはっきりしたが、その境を見ると、東日本と西日本では書き方が違う。東日本は「山」や「坂」や「済」という、自然的、地形的な境で区切っているのに対し、西日本は何々の国から向こうということで国単位に区切っているのである。
神済は、関東と中部を区切る足柄峠や碓氷峠に匹敵する大きな自然境界であることが明らかである。
神済はどこか
それでは「神済」は、そもそもどこのことなのか。北陸地域の歴史にとって大事なことである。この神済については、何といっても米澤康先生の研究が基本になる。米澤先生は、利賀村におられて、越中地域の研究だけでなく古代の研究で大きな業績を残された方で、神済も米澤先生の研究によって基本的なことが明らかになっている。以下、先生の説に基づいて概観しよう。
先生が研究される以前は、神済は神通川ではないかというのが通説であったようである。『令義解』注釈では、「神済は越中と越後の境の川」であると確かに書かれている。以前の研究者は、越中と越後の境の神済は歩いて渡れるような小さな川ではないだろう、また神通川は神が通ると書き、神済と意味が似ているから、神通川ではないかという説であったらしい。なるほど国境になるような大きな川であると考えるのは当然である。ただ、神通川という名称の由来がわからないし、室町時代以後でないと、神通川という名前も資料に出てこない。
古代では『万葉集』に売比川や鵜坂川が見られ、これが神通川の古称とされている。奈良時代には神通川という名前はまだなかった可能性が高い。したがって、神通川説は成り立たないだろうというのが米澤先生の説で、私もそう思う。
もう1つあり得るとすると境川で、現在の富山県と新潟県の県境に境川という小さい川がある。これが江戸時代の越中と越後の境になっており、現在の富山県と新潟県の県境である。難所親不知の名所は新潟県に属しており、新潟から親不知の難所を越えてようやく安全な地帯に出たところに境川があり、そこが現在の県境である。江戸時代には大変厳重な関所が置かれており、新潟県側の市振関所は越後高田藩がそれを預かって管理していた。川を挟んで富山県側は加賀百万石の加賀藩領で、前田家の領地になっていた。ここには加賀藩の境関所があった。幕府譜代の高田藩と加賀藩の境ということで、国境を挟んで両側に関所がある大変厳格なところだった。
神済はこの境川のことではないかという説もある。法律の注釈によると、越中と越後の境の川であって、川を渡るところが神済である。それでいけば確かにここは江戸時代の国境であるし、川があってぴったりするような感じがする。しかし、現地をご存じの方はおわかりかもしれないが、そんなに大きな川ではないので、この境川説も当たらないのではないか、というのが米澤先生の説である。
神済と神度神社
それでは神済を知る手がかりはないだろうか。実は古代の神社の名前に手がかりが一つある。醍醐天皇の延長5年(927年)に完成した『延喜式』という古代の法律書の中に、中央政府がお供え物を奉る対象として選び上げた神社の名前が列記してある。越中には34の神社が登録されており、砺波、射水、婦負、新川の郡ごとに神社の名前が挙がっている。  
このうち、新川郡の7つの社の1つ目に「神度(かんど)神社」が出てくる。新川郡は確かに越後に接しているし、神度神社の「度」にさんずいがつくと「渡」で、「度」は渡ると同義だから、神度神社は神済とかかわる神社であると考えられる。そうなると、神度神社のあるところが神済だと思うが、ところでそう簡単にはいかないのである。
神度神社は、現在、上市町の北側の森尻にある。この神度神社が『延喜式』に出ている平安時代以来の神度神社そのものであれば神済はこの辺ということになるが、その位置はどう考えても、北陸道の重要な国境になる場所としてふさわしくないということはおわかりになると思う。現在の社地は確かに上市川のすぐ西側ではあるが、そんなに大きな川ではない。この神度神社は、古代の神度神社ではなく、むしろ立山権現の末社の森尻権現でったと見られるというのが現在の見方である。
こうなると手がかりがなくなるが、米澤先生は、「東海道坂東」「東山道山東」と比較することでわかるのではないかと考えられた。坂は足柄峠である。足柄峠は場所も確定しており、『万葉集』にも登場する有名なところで「足柄の坂を過(よき)るに、死人(しにひと)を見て作る歌」や「恐(かしこ)きや 神のみ坂に」と詠まれているように、恐れ多い神様がいる坂であると書かれている。ほかに碓氷の坂や幾つかの歌があり、これらから、「坂」というところは神様がいる大変な難所であると考えられていたことが知られている。
「済」は渡河点ではない
『万葉集』には、越中のことではないものの「玉桙(たまほこ)の 道行き人は」という挽歌の中に「海道(うみぢ)に出でて 恐(かしこ)きや 神の渡りは 吹く風も」とある。海に出てそこを渡ると、そこには神様がいる。それを神済(かみのわたり)と読むことがこの歌からわかる。
『万葉集』の歌からいうと、神済は必ずしも川を渡ることに限らない。例えば海に出て迂回するのも神済と呼ぶ。そう思ってみると、北陸の神済も川を渡ることにこだわる必要はないのではないか。現在の県境の狭い境川にこだわるとそこしかないが、「海の道」ということも考える必要があるだろう。「ちはやふる 神のみ坂に 幣奉(ぬさまつ)り 斎(いは)ふ命は母父(おもちち)がため」という歌がある。これは長野県の神坂峠であるが、交通の難所の峠道は神様のいる場所と考えられており、大変恐ろしいところであるとともに、聖なる神のいるところを通る際に、お供え物をお祭りしたと詠まれている。一般的に古代の旅をする人たちは境の峠を越える際には神様をお祭りして旅の安全を祈る。同じように、神済と呼ばれているからには、神済は水路の神がいるところと考えられ、そういうところでもきっと安全を祈って神様をお祭りしたのではないかと考えられる。そうなると神度神社も、その境の神済を越える際に無事に通れるように、海で交通安全のお祭りをした神社ではないかと考えられる。
さらに、足柄峠も碓氷峠もともに関東地方と中部地方の境に当たる。碓氷峠には『日本書紀』で有名な日本武尊の物語がある。日本武尊が服属しない人たちを関東のほうへ攻めた帰りに碓氷峠を越えた際、峠に上って関東平野を振り返り、「ああ、我が妻は」と言ったので、それ以来関東平野を「東(あずま)」と言ったということが書かれている。それぐらい碓氷峠と足柄峠は中部と関東地方の大きな境になっていた。
そういう点で見ると、同じような境として扱われている神済も中部地域と以北を区切るような、かなり重要な大きな境であるに違いないということになる。最終的に神済はどこかということになるが、小さな境川とか、川を渡るところだと考える必要もないし、足柄峠や碓氷峠に匹敵する日本列島規模のかなり大きな境界だろうということになると、親不知しかないだろうという結論に落ちつく。つまり特別な川を渡るところという考えではなく、親不知全体の越中宮崎から青海の間の一帯を広く神済と言うのだろうというのが米澤先生の結論である。
現在の私たちの感覚では、境界は線を引かないと気が済まない感じがするが、法律の条文自体が、東日本の境に関しては「坂東」とか「山東」ということで線が引けるような書き方をしていない。だから足柄峠、碓氷峠に関しても、同じように峠の頂上に境界線があって、そこから向こうということではなく、もう少し広い範囲全体が境になっているのではないかと思う。
幅のある境界
今、幾つかの万葉集の歌などを見てきたが、奈良時代には「峠」という言葉はまだなくて、峠のことを「坂」と言っていたと考えられている。峠という漢字は国字で中国にはない文字で、万葉集の時代にはまだ存在していなかったようである。古代にはその辺一帯を「坂(境)」と言っていた。
柳田國男以来の民俗学で言われていることだが、「坂」とか坂から来る「境」は、今の私たちが考えるように線になっていない。向こうの世界とこっちの世界があって、その間にどちらともつかない幅のある中間の世界があって、これが「坂」というものである。そういう古代の坂のあり方を考えると、足柄の坂も碓氷の坂も同じように幅があるので、法律でもそのように表現をした。「坂東」「山東」は、幅がある世界から向こうという意味である。したがって、神済も境川とかの川ではないかと考える必要はなくて、ある程度の幅を持った境界地帯であると考えられる。北陸道の場合は海に面していて、しかも親不知は大変な難所なので、きっと船で越えたのだと考えられる。
現在は、境川が県境になっているが、恐らく大宝律令ができたころの越中と越後の境は厳密な線ではなく、青海から宮崎の親不知一帯が幅を持った国境だったのだろう。それは関東と中部を境にした足柄や碓氷の坂でも同じような状況だったわけで、そう思って改めて日本列島の地図全体を見渡すと、神済は北陸道、日本海を通って行く道の大きな境目だったことがわかる。
むすび
今回の私の講座では、古代の資料にたった1つしか出てこないこともあり、あまり注目されないが、極めて重要な日本海側北陸道の境界である神済について、米沢先生の研究に基づいて取り上げてみた。
足柄の坂や碓氷の坂に匹敵する歴史的な意味を持つ場所ということで、皆さんももう少し注目されて、機会があればお訪ねになられるとよいと思う。私もこの神済について、これからも何かわかることがないか、考えていきたい。
繰り返しになるが、神済は広い範囲で越後と越中の境であるということなので、それも含めて、富山側としても意識を持って地域の研究をしていくことが必要だろうと思っている。 
 
武蔵風土記

 

■はじめに 
1 新編武蔵風土記稿と秩父
数年前、私は秩父にはじめて行き、山あいにぽっかり平地が広がる秩父盆地を見て大変感動しました。盆地の中を荒川が流れ、なだらかな起伏の丘陵が波をうつ地形は変化に富んでいました。そこには、平らな平地がどこまでも広がる平野部とはまるっきりちがう別の世界がありました。山の木々も落葉樹が多く、春夏秋冬と季節ごとに美しい風景を見ることができます。それからはとくに目的も持たず、よく秩父に行くようになりました。
しかし、そのうちただ景色を眺めているだけでは飽きたらず、秩父の歴史に興味を持つようになりました。これには絶好のガイドブックがありました。「新編武蔵風土記稿」という、江戸時代末期に徳川幕府が編纂した地歴書です。この本の秩父郡の巻を見ながらあちこち回るようになりました。
すると、秩父は平安時代に桓武天皇の子孫が土着し、その後、ここから東京埼玉神奈川という昔の武蔵国の各地に進出した、桓武平氏発祥の地であることがわかりました。華やかな京都から、天皇の子孫がこんな山間地にやってきて力をたくわえ、また、広い関東平野に活躍の場を求めていった。そういう姿を想像すると、やはり歴史のロマンというものを感じます。
しかし、一方ではそれとは反対に、人の世というものは、いくら時代がたってもそんなに変わるものでもないとも強く思いました。秩父に行くと、どんな山奥にも人は住んでいるのがわかります。細い山道を歩いていると、山陰にひっそり人家が二三軒たっています。そして、そこを通り過ぎ、帰り道を心配しながら、さらに山道を進むと、また山の斜面に張りつくように人家が姿を現します。こういうぐあいに、どこまで行ってもぽつりぽつり人家があります。こういう山間部を歩いていると、ここの人たちはどういう生活をしているのだろうかと思い、「木枯らしや 何に世渡る 家五軒」という蕪村の句がふと頭に浮かんだりします。
ところが「新編武蔵風土記稿」を見ると、これら山間部の家は、何百年も前から今の場所にあったのがわかります。「新編武蔵風土記稿」には、武蔵各郡の村ごとに詳細な記述があり、その中に小名という地名が記載されています。江戸時代の村は現在は大字(おおあざ)になっていて、小名はこの字の下の小字(こあざ)のようなものです。
秩父盆地と関東平野の間には低い山並みの山間地が広がっています。ここを歴史的に外秩父(そとちちぶ)とよんでいます。新編武蔵風土記稿」には、こういう外秩父の山奥の地でも、たとえば「ごんた」とか「あらやしき」というように小名が載っています。
そういう山村で、私は「新編武蔵風土記稿」の小名の土地をさがして歩いたことがあります。すると、「その地名は聞いたことはないが、その名字の家なら二軒ある」と言うのです。同じように「それは地名ではなく屋号だね。あの家だよ」と教えてくれます。見ると、どこにでもあるようなふつうの農家です。重々しい門構えのいかにも旧家という感じの家ならともかく、山あいの崖のような所に、小さな農家がひっそりたっています。そういうのを見て、非常に不思議な感じがしました。
「新編武蔵風土記稿」は今から二百年前の書物です。すると、その小名の家は少なくとも二百年続いていることになります。しかし、「「新編武蔵風土記稿」ができた時にはじまった家ではないはずです。かりに「風土記稿」以後と同じ二百年という時間を、その前にさかのぼらせると江戸時代の初めになります。
その四百年の間になにがあったか。徳川幕府が誕生し滅びました。明治維新があって、新しい時代がはじまりました。大きな戦争があってたくさんの日本人が死にました。しかし、外秩父の山村の家は、そういう世の中の激しい流れの中で、四百年のあいだ、今のその場所に綿々と続いているということになります。人の世の不思議さを感じずにはいられませんでした。
めまぐるしく変化する時代の中に身を投じ、激しく人生を燃焼する桓武平氏のような人々がいるかと思うと、何百年も変わることのない人の営みを、親から子へ、子から孫へとひっそり続け、静かに人生をまっとうする人々もいます。人の生き方というのは実に多様です。
2 武蔵国の不思議
そして、そういう多様な人間の姿を想像しながら視野を秩父の外に広げてみました。秩父から埼玉。埼玉から東京とその歴史を調べ、風土を考えてみました。
すると、奇妙なことに気づきました。それは東京埼玉の歴史がおそろしく貧弱なのです。地理的に、東京埼玉は関東地方の中でも中心に位置しています。にもかかわらず、この地域の歴史は時代が遡れば遡るほど、その内容がかすんできます。奈良時代以前になると非常にあいまいになり、古墳時代より前になると資料が乏しいばかりでなく、人の姿が見えてきません。無人の大地のような印象です。そして、再びこの地がはっきりするのはなんと今から二千五百年以上昔の縄文時代です。つまり、弥生、古墳、奈良、平安時代がほぼ真っ白なのです。
その証拠に東京埼玉の歴史館を見学してみると、縄文時代の石器や矢じりなど豊富に展示してあります。しかし、弥生時代以降室町時代までの資料はほとんどありません。とくに東京は縄文時代の後はいきなり江戸時代になります。そして江戸時代の養蚕農家や商家の道具が展示しています。東京埼玉神奈川東部の武蔵国には、江戸と川越市と行田市それに岩槻市にしか城がありませんでしたから、見学者が喜びそうな見栄えのする遺物はありません。そのため、まるで民俗学の資料館みたいな地味な歴史博物館になっています。
東京には「都史」がありません。ふつう、神奈川県なら「神奈川県史」、埼玉県なら「埼玉県史」というように、都道府県の自治体は郷土の歴史書を編纂しています。ところが東京では、「府中市史」とか「大田区史」というように区や市では郷土史がありますが、東京都全体の歴史書はないのです。どこの地方史も地元の学者が書くのではなく、たいていは大学の教授が書いています。それなら日本でもっとも歴史学者が多いのは東京ですから、さぞ立派な「東京都史」ができるはずだと思うのですが、それがないのです。実に不思議です。
不思議に思って隣接する群馬県や千葉県の歴史書を見ました。すると、この二つの県は、この弥生時代から平安時代は史跡も多く文献も残っています。記述も具体的で生き生きしています。とくに群馬県の歴史を見ると、利根川の北岸のいわゆる上州にはいつの時代にも途切れなく人の歴史が続いていて、執筆者たちも取り上げる材料が多すぎて選ぶのに困るような感じです。しかし、東京埼玉は記述する材料が非常に少ないのです。ですから、東京埼玉の地方史を読むと、律令の決まりではこうなっているから昔の武蔵は多分こうだったにちがいないとか、千葉県や群馬県でこういうことが起こったから武蔵も同じようなことがあったにちがいないというように、類推というか憶測が非常に多いのが特徴です。
昔の武蔵には神奈川の川崎横浜も入っていましたから、西の境はっきりしません。しかし、群馬千葉との境は利根川です。たった一本の川をはさんで、こちら側と向こう側の歴史がまるっきりちがうのがなんとも不思議なことに思えました。そこで、この武蔵についての歴史をあれこれ調べたり、私なりに考えてみたことをまとめてみることにしました。 
 
1章 武蔵国の自然 

 

1 関東地方の地形
埼玉県西部の飯能市に顔振峠(こうぶりとうげ)という峠があります。ここは昔、源義経が何度も後ろを振り返りながら奥州に落ちていったというのでこの名がつきました。義経は実際にはここを通っていません。しかし、義経の妻はこのふもとの川越の出身ですから、まったく根拠のないことでもありません。平家討伐ではなばなしい活躍をしたにもかかわらず、わずか数年で逃避行する身になった義経の胸中を想像するとなにか哀れさを感じます。
それはともかくこの峠にたつと、広大な関東平野が一望できます。平坦な地形がどこまでも続き、晴れた冬の日には、はるか遠くに東京のビル群がかすかに見えます。山岳地が多い日本にこういう真っ平な平地が存在するのはなんとも不思議なことです。
2 関東造盆地運動
東京、埼玉、神奈川の東部を合わせて武蔵国と言います。この武蔵国の地形を大きく見ると、西に関東山地、東には房総半島の山間部が縦に走り、その間に広大な関東平野が広がっています。この地形は関東造盆地運動とよばれる地殻運動でつくられました。関東造盆地運動というのは関東平野ができあがる仕組みのことです。
簡単にいうと、関東地方では、平野部中央の埼玉県の加須市から荒川下流の隅田川の線上で地盤が大きく沈み込んでいます。そこで、北部の加須市周辺を加須低地といい、南部の隅田川のあるあたりを東京低地といいます。この沈下現象は非常に急激で、たとえば埼玉県北部では地下1.5〜2メートル下のところに古墳が埋まっていますが、これはこの地盤沈下によるものです。また、こういう関東平野の構造から、関東地方北部の河川の水はすべてこの東京低地に集まり、東京湾に排出されることになります。その一つが荒川です。また、現在、利根川は太平洋に流れていますが、江戸時代の初めまでは東京湾に注いでいました。
したがって、元々は埼玉北部の中小河川は荒川に合流し、群馬県の中小河川は利根川に合流し、この両河川が結局東京の都心部で東京湾に注ぐということでした。また、武蔵国には南部に多摩川が流れています。しかし、この川も本来は荒川利根川と同じく東京都心部に流れるはずの川でした。ところが、後述するように多摩川の河川活動で武蔵野台地が形成され、そのため東京神奈川の境界を流れることになっただけです。
一方、関東地方の西の山地と東の房総半島では、逆に地盤が隆起しています。そして、この東西の山岳地帯の土砂が河川を通じて長い年月をかけて平野部に流れ込み、沈下した所を埋めています。その結果、関東の真ん中に広大な平野ができました。これが関東造盆地とよばれる運動です。
さらにここ10万年くらいみても、関東地方は海進のため何度か海底になったことがあります。とくに今から6千年前の縄文時代中期の海進は有名で、この時には栃木県の藤岡町まで海が押しよせました。こういう海進では、海流で大量の土砂が堆積し、ますます平板な地形になりました。これが現在の関東平野です。
さらに関東平野の中央部もよく見ると、平野のなかに三つの台地があります。一つは、西に青梅方面から荒川下流の川岸まで広がる武蔵野台地。次に平野の中央に島のように浮かぶ大宮台地。さらに、東には千葉県になりますが下総台地。この三台地です。さっき平野の河川は東京低地に集まるといいましたが、真ん中に大宮台地があるため、北から流れてくる河川はこの台地の東西のいずれかを通ることになります。北から流れてくる川は大きく言って、荒川、利根川、入間川の三河川です。荒川と入間川は秩父地方から流れてくる川で、利根川は群馬県北部の山岳地帯から流れてくる大河です。
江戸時代以前は、大宮台地の西側を流れていたのが入間川で、東側には利根川と荒川が流れていました。そして、この三河川は、結局すべて今の東京の中央区や江東区あたりに集まり東京湾に注いでいました。関東平野は広いのですが、海に近い河口域は、西の武蔵野台地と、東の国府台地(下総台地の一部)にはさまれた狭い東京低地しかありませんでした。ですから、太古には平野部に集まった水はなかなか東京湾に排出されず、広大な湿地帯でした。たぶん古墳時代の4〜7世紀頃までは、東京低地はまだ完全には陸化されず、人々が武蔵と下総を行き来するのも現在の東京都心部ではなく、もっと上流の地点だったろうと思います。  
こうした地形が一変したのは江戸時代でした。江戸時代の初期に荒川と利根川は人工的に流路を変えられました。これを瀬替えといいます。利根川を瀬替えするには都合のよい川がありました。鬼怒川です。この川がちょうど平野部を横断して太平洋に注いでいました。そこで、大宮台地の東側を流れていた利根川を鬼怒川の河道に移し変え、太平洋に瀬替えすることにしました。ただ、そうすると舟運がうまくいきませんから、利根川の一部はそのまま残しました。これが今の中川と江戸川です。
また、利根川と同じく大宮台地の右側を流れていた荒川を、埼玉県の熊谷でせき止め、比企丘陵から流れてくる和田吉野川や市野川の河道に移しました。そしてこの新しい荒川を埼玉県の西部から流れている入間川に合流させてできたのが現在の荒川です。ですから、瀬替え後の東京埼玉の地形は室町時代までとはまるっきりちがっていました。 
ちなみに荒川はよく氾濫を起こすので有名です。それで、荒川中流にあたる吉見町周辺では、昔の農家には軒下に舟を用意していました。しかし、この荒川の氾濫はある程度計画された氾濫でした。というのも、この瀬替えでは、台風で大水が出た時には無理に堤防で水を閉じ込めないで、中流域で氾濫させてしまうという考えで設計されていたからです。その意図は下流の江戸の町を水害から守るためでした。ですから、江戸時代の江戸の町は大きな台風がきても意外と安全で、東京が水害に見舞われるのは、荒川の氾濫ではなく高潮でした。大正時代に荒川放水路ができた直接の理由は、この高潮で東京が大きな被害を被ったからでした。 
3 武蔵野台地
それと、東京西部に広がる武蔵野台地ですが、これは数十万年前に多摩川がつくったものです。現在、多摩川は青梅から八王子を流れ、川崎で東京湾に注いでいます。しかし、太古の多摩川は今の入間川のように青梅から埼玉県の川越の方に東に流れていました。そして、川越から先は今の荒川の川筋でした。ですから、おおざっぱにいうと、太古の多摩川は今の入間川と川越以南の荒川を合わせた川だったということになります。
この古多摩川は、西の関東山地から小石混じりの土砂を大量に平野に運びました。この多摩川の土砂が堆積して広大な台地ができました。さらにこの台地の表層には分厚い関東ローム層があります。このローム層は富士山や浅間山の火山灰が風化したものです。
そのため、東京の東側では、荒川(下流の河口近くは隅田川になります)近くまで地盤が高く高台の地形になってしまいました。これが武蔵野台地です。
関東ローム層は水をためることはできません。そして、その下の多摩川がつくった小石混じりの礫層も水をためません。そのため、この平坦な武蔵野台地は一見すると農業には最適の場所のように見えますが、いくら地下深く井戸を掘っても水が得られることがなく、そのため人々が生活できない不毛の大地でした。
この武蔵野台地から流れる川は、江戸時代以前は、荒川下流に合流する石神井川、東京湾に注ぐ昔の神田川、調布市あたりで多摩川に注ぐ野川、そして台地北部を東西に流れ、今の新河岸川に注ぐ不老川くらいでした。これらはいずれも台地に降る雨が地下水となり、それが地表に出てきてできた川です。そのため水量も乏しい貧弱な川です。不老川は昔は「年とらず川」といいました。それは冬の渇水期になると川が干上がり、水が流れたまま年を越すことがないからでした。
東京都心部には神田川があります。この川は現在は都心を抜けて隅田川に注ぐ大きな川になっています。しかし、こうなったのは江戸時代の治水工事によるものでした。昔は平川とよばれていました。
平川は、今は皇居の平川門に名前が残っているだけですが、江戸時代前はずっと大きな川で、日比谷入り江で東京湾に注いでいました。江戸の戸は、港とか入り口という意味です。それは、この平川が日比谷入江で海につながっていたからです。
また、武蔵野台地の北西部には狭山丘陵といって、小高い高地が続いています。もっとも標高の高い所で100メートルくらいです。これは古多摩川が山間部から平地に出る際に川の正面に大量の土砂を堆積してできた丘陵です。この狭山丘陵には村山貯水池という湖のような池があります。これは東京の水不足を補うために大正の初めに作った人工池です。もちろん丘陵の水だけでは足りません。多摩川から水を引き、ここでいったん水を溜めておくのがこの貯水池の役割です。こういう水不足というのは、武蔵国の宿命でした。荒川も昔は冬になるとよく瀬切れをおこす川でした。そのため、江戸時代には、舟運のため川越から荒川と平行して新河岸川を作るほどでした。そしてこの新河岸川も川越の伊佐沼を水源にしていますが、この水だけでは足りず、不老川をはじめあちこちの川を集め、なおかつ河道を細かくジグザグにして川の容量を大きくし、水位の低下を防ぐ工夫をしてようやく舟運ができるという川でした。
気象的に見ても、荒川や多摩川の上流の秩父や山梨地方は、冬の降水量が極端に少ないところです。とくに秩父の冬の降水量は日本でも有数の少なさです。したがって、これらの川に豊富な水量を期待するのは元々無理があります。現在は荒川には瀬切れがありませんが、それは利根川の水が流入しているのと、上流でダムから放水して調節しているからです。地図を見ればわかりますが、武蔵の北と東の国境は利根川が流れています。ですから北関東の山間部に降った雪はすべて利根川に吸収され、武蔵の国に流れてくることはありません。そのため、古代から群馬県の上野国が豊かな水田地帯が多いのに、武蔵では稲作不適地帯です。歴史的に見て、昔から武蔵国は水と川で苦労するところでした。
4 多摩川と川崎横浜地方
また、武蔵国西部には多摩川が流れています。この多摩川は西の関東山地と東の武蔵野台地に挟まれた低地を流れる川です。この川の水源は北の秩父山系です。山間を流れてくる多摩川は青梅市で平地に出ます。川は平地に出ると流速が急激に落ちます。そのためこういう開口部では上流からの土砂が大量に堆積し、扇状地になるのがふつうです。多摩川では武蔵野台地になりました。
青梅市で平地に出た多摩川は、その後途中あきる野市の秋川、八王子市の浅川、それから神奈川県の北部の山間部から流れてくる大栗川をはじめいくつかの中小河川の水を集め東京神奈川の境で東京湾に注いでいます。多摩川の西の関東山地は地殻の運動も活発で、そのため地形が複雑になります。たとえば東京の羽村市やあきる野市一帯を歩いてみると、あちこちがまるでひな壇のような地形になっているのがわかります。これらはいずれも多摩川水系の河岸段丘です。多摩川は荒川に比べて平地部の上流でも標高が高いのが特徴です。ですから、江戸時代になると、武蔵各地に用水が掘られますが、その多くはこの多摩川の水を利用することになります。
それと多摩川西岸の川崎横浜市も昔は武蔵国でした。この川崎横浜地方は武蔵国でも独特の地形をしています。海岸から北にむかって、まるで波のように単調な起伏がくり返しています。私は以前に川崎方面をあちこち回り、稲毛市の峠に出てきて、そこから府中方面に真っ平らな東京の風景がパノラマになって広がっているのを見て、両者のちがいに大変驚いたことがあります。
多摩川西岸の起伏に富んだ地形は、たぶんプレートテクトニクス理論で説明できると思います。プレートというのは、地球の地表を覆っている地殻のことで、このプレートはいくつかに分かれて動いています。日本列島は大陸プレートの東端にあり、これに大きな太平洋プレートが衝突し、大陸プレートを押しながら、その下に沈みこんでいます。そのため伊豆半島をふくむこの周辺がこの太平洋プレートに押されて地形が褶曲しています。こういう地層が褶曲してできた地形が川崎横浜です。たぶん、川崎横浜地方も本来はもっと平板な地形になるはずのところだったと思います。そのため、川崎横浜では小高い山のような丘が幾重にも続いています。そして、北方の津久井地方を源とする中小河川がたくさん流れています。横浜も意外と平地が少なく、平地は、鶴見川が海岸近くに流れてきて形成した扇状地があるだけです。こういう場所は太古の人々にとっては水の利用が簡単で、そのため早くから人々が住みつくことになりました。弥生時代の遺跡や中小古墳が多く見られるのもこの地域です。 
5.武蔵国の植生
現在の東京埼玉神奈川の山間地を歩いてみると、山一面をスギやヒノキがびっしり覆っていて、その陰鬱な緑の中に身をおくとうんざりします。土地の人に、気が滅入りませんか、と聞いたことがあります。すると、昔はこうではなかったと言います。昔は山は雑木と桑畑でいろどりがあって明るかったといいます。それが戦後一斉にスギを植えてこうなった、と言います。実際、杉は水分を好む樹種ですから、乾燥地の東京埼玉には向かない樹木です。戦前まではスギやヒノキなどの針葉樹林はずっと少なかっただろうと思います。
しかし、地元の人が話すように、昔の武蔵国がナラやクヌギの落葉広葉樹の森で、森の中は明るい光で満ちている雑木の森林だったかというとそれもちがっていました。土地の人は、雑木を「ぞうき」ではなく「ざつぼく」と呼んでいます。年寄りの話によれば、スギやヒノキより雑木の方が経済効率がよかったそうです。スギやヒノキは建築資材の用途しかなく、伐採できるまで何十年もかかります。収入はその時一度きりです。しかし、雑木だと炭や薪の用材として毎年利用できます。さらに、地面には下草が生えていて、それが畑の肥やしになるし、牛馬の飼料にもなります。このように昔は山林にはさまざまな恵みがありました。とくに武蔵野とよばれる南部の平地では、ナラやクヌギの木がスクッと上に伸びて空を覆い、その下は広々とした空間になっていて人々は自由に動き回ることができます。この武蔵野の林はいかにも里山という感じがし、人々の生活に豊かな恵みをもたらしてくれます。
しかし、こういう風景も実は人々が長い時間をかけてつくった自然で、本来の武蔵国の姿は、山間部も平地もとても人が足を踏み入れることのできない荒々しい自然だったと思います。この荒涼とした武蔵野の風景は中央の貴族たちの詩心をかきたてたらしく、平安貴族たちはこのんで武蔵野を短歌に詠みこんでいました。
元々の武蔵国は、山間地も平地も落葉広葉樹のほか照葉樹もまじるうっそうとした森林地帯でした。そこは、ナラやクヌギばかりでなく、シイやカシなどの高木が茂り、その下にはヤブツバキなどの低木とシダ類の草が繁茂し、それをさらにツタやカエデの蔓性の植物が森の空間をすきまなくびっしり埋め尽くしていました。そのため湿気が多く、太陽の光もなかなか届かないうす暗い森林だったと思います。こういう森では、人々が森の奥深く入って生活することも難しかっただろうと思います。たぶん縄文時代の人たちも森の中には入らなかったと思います。人々がせいぜい住めるのは、森が切れる川近くの河岸段丘の平地くらいで、縄文人たちはこういう細長い段丘面にひっそりと住んでいたと思います。
武蔵各地には縄文時代の遺跡が豊富にあります。そこで、縄文時代というのは人口も多く、人々は豊かな森の恵みを享受していたイメージがあります。しかし、縄文時代は約1万年もの長い時代でした。ですから、ある瞬間を取り出してみれば、広い武蔵国の大半は荒々しい自然が人々を圧倒し、人々はわずかな開けた平地で細々と命をつなぐだけの非常に苦しい時代だったと思います。 
 
2章 神話時代の武蔵 

 

1 この時代について
古代の武蔵国については、手がかりになるような文献が少なくなくはっきりしたことはわかりません。そこで、「新編武蔵風土記稿」という本をたよりに、神話時代の武蔵国について想像をまじえて考えてみます。ここでいう神話時代は古事記と日本書記、それから旧事本紀に記載されている時代という意味です。ふつうに考えれば、この時代は古墳時代とその前の弥生時代です。しかし、武蔵国の場合、弥生時代の遺跡や資料が乏しく、古墳時代についても、前期の古墳は武蔵国の西部にあたる横浜市や川崎市にしかありません。そのため、弥生時代や古墳時代という時代区分をもうけてもほとんど意味がありません。むしろ、古事記や日本書紀を参考に、古墳時代の日本全国史を参考に武蔵国の姿をあれこれ考えた方が現実的なような気がします。
古墳時代は紀元5世紀から7世紀までの約300年間で、その終わりははっきりしています。というのも、大化の改新直後の646年に薄葬令が出され、以後大きな古墳を作ることがなくなったからです。とはいえ、一片の法令で世の中が急に変わるはずはありません。たしかに7世紀になると畿内では古墳築造は下火になりますが、都から遠く離れた武蔵では、8世紀の初めまで古墳が作られていました。ですから、ここでいう神話時代の武蔵は8世紀の初めまでということになります。8世紀になると奈良の大和王権はその支配地域を全国に広げます。当然武蔵国もその支配下に入ります。ですから、それまで小さな勢力が割拠していた武蔵国も、その姿が大きく変貌します。時代区分としてここで区切るのはさほど無理はないと思います。
2 「新編武蔵風土記稿」と「旧事本紀」
「新編武蔵風土記稿」というのは、幕府が江戸時代の文化7年(1810)から20年の歳月をかけて編纂した武蔵国の地歴書です。江戸時代の書物ですから考古学の知見がありません。しかし、私の印象では武蔵国に関する書物ではこの本がもっとも詳細だと思います。とくに室町時代の武蔵の歴史については、高校の教科書をふくめ現在の歴史書の大半はこの本が元になっていると思います。「新編武蔵風土記稿」という名前は長すぎるので、ここでは「風土記稿」と略します。
古代の武蔵について、「風土記稿」が根拠にしているのは、「古事記」や「日本書紀」と「旧事本紀」という史書です。そのうち「旧事本紀」は、序文に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとあり、そのため長いこと「古事記」や「日本書紀」より古い日本最古の史書とされてきました。しかし、その後、どうも平安時代に成立した書物なのではないかということになり、江戸時代に偽書と断定されました。当然、「風土記稿」の執筆者たちもそのことは知っていたと思います。しかし、古代の武蔵については、「日本書紀」にわずかに豪族同士の争いが記載されているだけで、他に資料がありません。それに、「先代旧事本紀」には記紀にはない「国造本紀」という地方の記述があります。しかも平安初期の10世紀始めには成立していたと考えられており、そうすれば記紀からまだ200年しかたっていません。「旧事本紀」は偽書とはいえ単純な作り話の書というわけでもありません。したがって、「風土記稿」がこの書を元に太古の武蔵を紹介しているのもあながちまちがいというわけでもありません。実際、現代の歴史家たちも古代史の分野では、この「旧事本紀」を典拠にしています。そこでここでは、素直に「風土記稿」の記述にしたがうことにします。
3 最初の国家「知々夫」の成立
「風土記稿」の武蔵に関する最初の考証は第10代天皇の崇神天皇の時代です。この時、天皇は四道将軍を全国各地に派遣し、北陸に派遣された将軍の大彦命が、服属させた土地の人を連れて帰還し、その中に武蔵国の秩父の人もまじっていただろうといってます。また、この崇神天皇の頃、武蔵国は北陸道に入っていたともいっています。「風土記稿」では、この崇神天皇の時に、秩父の知々夫彦命が国造(くにのみやつこ)に任命されたとしています。出典は「旧事本紀」です。
ただし、この崇神天皇がはっきりしません。実在が疑わしい天皇です。かりに実在したとしても、日本書紀によると、この天皇は在位が紀元前97年から紀元前30年になります。そうなると弥生時代の中期になってしまいます。さまざまな歴史書を見ると、実在の天皇なら3世紀から4世紀初めの天皇だろうとしています。しかし、3,4世紀は弥生時代の中後期で、この時代の武蔵国をふくむ関東では、わずかに人々の痕跡があるだけで、とても国ができる状況ではありませんでした。ですから、かりに知々夫という国が成立したとするなら、古墳時代の中後期、具体的には5世紀か6世紀になると思います。
国造というのはその地方の統治者のことです。ですから、武蔵国の最初の国は秩父ということになります。知々夫彦命は秩父ではなじみの人物で、秩父神社の祭神にもなっています。そして、知々夫が国となり、知々夫彦命が国造となったことは、武蔵国の秩父地方が大和朝廷の支配下に入ったことを意味します。
「風土記稿」では、大和王権が首長の名をとってこの地を知々夫としたのか、それとも、ここが知々夫なのでその地名をとって首長を知々夫彦命としたのか、そのどちらかだと思うが確かなことはわからないとしています
もっとも知々夫が大和朝廷の支配に服したといっても、これ以降秩父の人たちが大和王権の過酷な支配で苦しむようになったということではなかったと思います。実際は、初期の大和王権は、服属の意志さえ表示すれば、その国の自治をそのまま認めていたと思います。「古事記」や「日本書記」を読むかぎりでは、大和政権から奈良時代頃までの中央政府は、地方から富を収奪しようという考えは希薄で、むしろ進んだ文明の伝道者のような意識をもっていた印象を持ちます。ですから、秩父の人たちは畿内の権力者の支配に入ったという意識は非常に薄かったと思います。それどころか、場合によっては、知々夫の貢納より王権からの贈与や保護の方が多く、秩父の人たちにとっては喜ばしいことだったかもしれません。
知々夫の国はどこにあったか。たぶん今の秩父神社がある秩父市街地ではなく、ずっと西の荒川左岸の荒川と赤平川が合流するあたり、現在は皆野町になっていますが、このあたりの河岸段丘だったろうと思います。ここには古墳時代の遺跡や古墳があります。そして、山地と平地の境に国神という地名の所があります。郷土史の本で、秩父神社も元はここにあったのではないかという説を読んだことがあります。ですから、たぶんこのあたりだったと思います。この国神のある地域は急な斜面があちこちにある複雑な地形です。人々はそういう山裾から湧きでる水で農業を営み生活していたのだろうと思います。そして、人口もふつう想像されているよりずっと少なかっただろうと思います。江戸時代の頃の秩父郡は埼玉県の1/4強を占める広大な地域です。しかし、10世紀の秩父郡でも5,6千人しかいませんでした。ですから、知々夫の国があった頃の秩父地方は、秩父盆地の外の山間地をあわせても人口はせいぜい2〜3千人くらいしかいなかったと思います。したがって、小国家知々夫も秩父地方全体を支配したというようなことではなく、当時の埼玉県西部全体が秩父で、そこには所々に人口が比較的多い地域が点在していて、その一つが小国家知々夫で、そこが大和王権と友好的関係を形成したというようなことだったと思います。想像するにこの国家は人口も数百人足らずの小さな地域国家だったと思います。
なお、知々夫はその後秩父と表記が変わりますが、それは奈良時代の初めに、政府が全国的に地名は佳字の漢字二字で表記する政策をすすめたからです。この考えはその後も広く受け入れられ、秩父にかぎらず日本の地名は現在でもだいたい漢字二字になっているのはこのためです。
さらにこの崇神記では、国造に任命された知々夫彦命を八意思金命(やごろもおもいかねのみこと)の十世の孫としています。この八意思金命というのは、天照大神が天の岩戸に隠れた時、彼女を岩戸から出てくるのに知恵をだした神です。この神は知々夫彦命とともに秩父神社の祭神になっています。ついでながら武蔵の神社の祭神は出雲系が多いのが特徴です。したがって、秩父神社のように天孫系の祭神をもつ神社はきわめて珍しく、それはまた秩父が武蔵国の中で特別の地位があったような気がします。一方、秩父のすぐ北にある群馬県の毛野国(けのくに)の始祖は崇神天皇の皇子の豊城命とされています。毛野国の祖は神武天皇から11代目の皇孫、秩父は八意思金命の10代目とされたということは、両者とも同じくらい歴史が古く、そうして秩父より毛野国の方が格が上ということになります。
さまざまの歴史書を読むと、毛野国は当時関東最強の国家でした。そのため、毛野国は大和王権に対抗し、大和王権の東国政策もほとんどがこの毛野国対策に終始していたようです。実際、「風土記稿」でも、知々夫は毛野国の配下に入っていただろうと言っています。 
4 日本武尊
太古の武蔵の人々の姿がおぼろげながらわかるのは、崇神天皇の孫にあたる12代景行天皇からです。この景行天皇の時、武内宿禰という人物が東国を巡察しました。そして、この時の報告に当時の東国の風俗が「椎結文身、茹毛飲血」だったとあります。椎は金槌のつちと同じつちで、たぶん頭頂部で結ぶ髪型でした。文身とは入れ墨のことで、茹毛飲血は狩猟生活ということです。
この場合の東国は東北地方南部も入っています。大和王権から見れば、関東も東北もあまり区別はなかったと思います。ですから、当時、秩父を含む東国の人たちは、髪型も独特で、顔やからだに入れ墨を施した独特の風俗で、狩猟採集の経済であったのがわかります。つまり縄文時代のままだったということです。しかし、当時の武蔵国には大勢の新住民たちが住んでいて、元から武蔵に住んでいた人々は非常に少なかったと思います。ですから、この時代の東国にはそういう縄文人たちの子孫もいたというふうに理解するか、中国の中華思想に影響された当時の歴史記述者が半ば想像的に叙述したかもしれないと思います。
「風土記稿」によると、武内宿禰が関東を巡察した後、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征がはじまります。日本武尊については、景行天皇の皇子とされています。記紀では2世紀の人になっていますが、一般的には4〜7世紀の、複数の大和の英雄を合成した架空の人物とする津田左右吉らの説が有力とされています。しかし、知々夫の成立を5、6世紀にすると、日本武尊の東征の方が古くなってしまいます。そこで景行天皇の中央での事跡とは別に、この記事もやはり5、6世紀の古墳時代の武蔵国を表していると理解した方がよさそうです。ここでは日本武尊の東征の目的にはふれず、彼の行路に限って見てみることにします。
日本武尊は実在が疑われる人物です。ですから、日本武尊の東征などどうでもよさそうです。日本武尊の東征には戦争の記述がほとんどありません。戦記というより旅行記のような印象を持ちます。ですから、日本武尊の東征は、大和王権が関東をどのように支配したかというより、大和王権の人々が関東をどのように見ていたかということを表しています。そういうふうに考えるとここには紀記が成立した8世紀初めの頃、当時の畿内の権力者が武蔵をどう見ていたかがわかり、それなりに意味のあることです。
まず、大和を出発した日本武尊は東海道を進み尾張に入り、尾張から相模に進みます。しかし、彼は相模からそのまま武蔵には向かわず、三浦半島先端の走水(はしりみず)から舟で東京湾を横断し房総半島に上陸しています。この走水で東京湾を横断するルートは、奈良時代の後期までは東海道のルートそのものです。ですから、日本武尊は何か別の目的があって、東京湾を横断したのではなく古代の東海道をふつうに東進したのでした。この時海が荒れ、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身代わりに海に入って海神を静め、日本武尊が無事上陸できた話は有名です。そして、日本武尊は無事房総半島に上陸しますが、その後の行程は「古事記」と「書記」とはちがっています。
「古事記」では簡単に蝦夷や反抗する関東の豪族たちを平定して帰還の途につき、相模と駿河の境にある足柄峠で、「私の身代わりになってくれた妻よ」という意味をこめて、「吾妻はや」と呼びかけ、以後この地を吾妻とよぶようなったとしています。そして、そこから甲斐の酒折に入り「新治、筑波をすぎて幾夜か寝つる」(常陸の新治、筑波を発ってから幾日経っただろうか)と歌を詠み、信濃を経て尾張にもどっています。「古事記」では日本武尊の東征は戦争の叙述はほとんどなく記述も大まかです。
一方「書記」では、房総半島に上陸した日本武尊は、上総から海路舟で宮城県の多賀城まで足を伸ばし、その後、陸路常陸にもどっています。そして、そこから甲斐の酒折に入り、古事記と同じく「新治」の歌を詠んでいます。しかし、さらに日本武尊は「蝦夷は平定したが、信濃と越(こし=北陸でたぶん新潟のこと)はいまだ帰順していない」と言い、甲斐から北武蔵と上野に行き、それから碓氷峠に達します。そして、この碓氷峠で「吾妻はや」と呼びかけます。その後日本武尊部下を越(新潟県)に派遣し、自らは信濃に進み、悪路に苦しみ白い鹿に変身した山の神を退治して尾張にもどるということになっています。
このように日本武尊の行路は「古事記」と「書紀」ではちがっています。しかし、常陸から甲斐に行くという大筋では同じです。そこで、ここでは武蔵国が出てくる「書紀」を見てみます。「書紀」では、日本武尊ははっきり甲斐を拠点にして、上野と北武蔵に遠征したとあります。すると常陸から甲斐に真っすぐ行ったようです。
常陸から甲斐に行くルートは、武蔵を通るなら秩父の雁坂峠を抜けるか、その南の今の青梅から大菩薩峠を越えて甲斐に行くか、さらにはずっと南下して八王子の小仏峠を通る後の甲州街道のルートしかありません。しかし、雁坂峠、大菩薩峠、小仏峠は急峻な地形で道も狭く、大和王権の昔には道がなかったと思います。ずっと時代は下りますが、戦国時代に武田信玄は小田原の北条氏を攻略しています。しかし、信玄はこの遠征ではこれらの峠を通らず、遠回りして碓氷峠を越え、埼玉西北部の児玉地方から武蔵に進軍しています。ですから、武蔵と甲斐は隣接していますが、太古から中世まではほとんど行き来ができなかったようです。また、青梅や八王子には弥生時代の遺跡がないばかりか古墳もありません。つまり、奈良時代がはじまるまではほとんど人の住まない未開の地でした。ですから、たぶん武蔵から甲斐に出る道はなかったと思います。日本武尊は、常陸から碓氷峠を越えて甲斐に入り、その後また碓氷越えで上野北武蔵という二つの地域に遠征をしたと考えるのがよさそうだと思います。
ですから、大和王権の時代は上野国も武蔵北部も同じ一つの地域で、古事記日本書紀が編纂された奈良時代の行政用語で表現すると、上野と武蔵北部に分けられるということだと思います。そこで、日本武尊は上野と北武蔵を平定したという表現になったのだと思います。概して児玉地方は古代から群馬県との結びつきが強く、遠く畿内の大和王権から見れば北武蔵は上野の一部と考えていたと思います。ですから、日本武尊が上野と北武蔵を平定したといっても、それは要するに上野の毛の国を平定したということだったと思います。
そこで、日本武尊の行路を考えると、日本武尊は常陸から碓氷峠を越えて甲斐に行き、甲斐を拠点に北関東の上野、北武蔵地方を平定したことになります。その道は後世の中山道に近いルートです。さらに、中山道というのは後世の道ですから、常識的には、利根川南岸の埼玉県を通る江戸時代の中山道ではなく、北岸の栃木の下野から上野に通じる奈良時代の古道を通ったと考えるのが妥当だと思います。この道は東山道とよばれる古代の官道で、現代の国道50号とほぼ同じです。
「書記」の日本武尊の行路を並べてみると、
相模―上総―下総―常陸―上野―甲斐となります。日本武尊は、関東地方の外縁部を一周したことがわかります。そして、日本武尊は唯一武蔵中央部だけは通らなかったことになります。先に述べたように日本武尊の東征は、畿内の大和王権が関東地方をどのように征服したかというより、大和王権が関東をどのように見ていたかということを表しています。この観点から言えば、一言で言うと古代の中央の権力者たちにとって、武蔵は関東の中でもさほど関心のある土地ではなかった、ということだと思います。それは、早くから大和王権に服従していて軍事の行使を必要としない地になっていたというより、ここが他の地域に比べて開発が遅れた未開の地だったからだでした。
ただ、武蔵には日本武尊にまつわる伝説が多くあります。おそらく、武蔵の伝説はこの日本武尊と平将門の二人でほとんど占められると思います。中でも日本武尊の伝説は多く、たとえば、さっきの金鑚神社は日本武尊が天照大神と素戔嗚尊を祭ったのが始まりだとか、秩父の武甲山は日本武尊が武具をおさめたからこの名がついたとか、探せばいくらでも出てきます。私は暇ができると埼玉東京の山間部を車で回ります。すると、人里離れた山の中に小さな神社が見かけることがよくあります。意識して数えたことはありませんが、神社の由緒書きには、創建は景行天皇の何年と書いてある神社が多いように感じています。最初は気にしませんでしたが、考えてみると、景行天皇時代の創建ということは、つまり日本武尊の東征の時代です。そういうのを見ると、都から遠く離れた辺境の地で見捨てられたようにひっそり生きた、昔の武蔵の人々の孤独というものを強く感じます。 
5 武蔵に三国成立
「風土記稿」によると、日本武尊の東征後、武蔵国では知々夫のほかに无邪志(むさし)と胸刺(むねさし)の二つの国が設置されたとあります。そして、兄多毛比命が无邪志の国造に、兄多毛比命の子の伊狭知直が胸刺の国造に任命されたとあります。この出典も「旧事本紀」です。
この二つの国には、景行天皇の皇子である13代成務天皇の時に初めて国造がおかれました。成務天皇という人は不明のことが多い天皇ですが、日本武尊の弟になります。景行天皇も成務天皇もその実在が疑われる天皇ですが、実在の天皇なら、景行天皇は4世紀初めの人、政務天皇は4世紀半ばの人だろうとされています。すると、時代的には无邪志と胸刺が建国したのは4世紀半ばとなります。歴史の区分で言うと、古墳時代がはじまってしばらく経った頃ということになります。
確かに記紀でも、この政務天皇の時に全国各地にたくさんの国が作られ、国造が任命されたとあります。ですから、「旧事本紀」が、この天皇の時、无邪志と胸刺が建国したとするのは記紀の記述とも合致します。しかも、記紀ではどういう国がつくられたかは書いてありませんが、「旧事本紀」には国名が記され、とくに胸刺はこの「旧事本紀」だけに書いてある国です。「旧事本紀」では、この成務天皇の時にこのほか山城や尾張、それから甲斐や筑波など全国各地に国が作られています。ですから、无邪志も胸刺もそういう大和王権の全国統治の流れに沿った建国だったことがわかります。
しかし、この二国の建国を4世紀半ばとすると知々夫より古くなってしまいます。そこで、かりにこの二国建国が事実としても、知々夫より後の古墳時代中後期だったろうと思います。「旧事本紀」では、无邪志と胸刺の国造は父と子の関係だったとし、无邪志は出雲臣と書いてあります。この場合は実際に親子ということではなく、両国が主従の関係にあることを擬制的に親子関係で表したのだと思います。ただし、この二人の国造がいたことについては「風土記稿」は懐疑的です。
「風土記稿」では、无邪志は知々夫の東にあり、たぶん今の東京の東部から埼玉の南部にかけての地域で、後の足立郡のことであろうとしています。そして、国府は今の旧大宮市あたりだったろうと推測しています。さらに、後にこの无邪志が核になり、国から郡に降格した知々夫と胸刺をあわせ武蔵国になったといっています。しかし、武蔵国成立がいつかはわからないとしています。旧大宮市は氷川神社がある古い土地で、早くから人々が住みついていました。ですから、ここに无邪志があったというのは根拠があります。
胸刺については、「風土記稿」ではどこにあったかわからないとしています。西の山岳地に知々夫があって、東に无邪志があった。この二つをのぞくと国になりそうなのは多摩地方しかないから、胸刺はたぶん今の多摩地方ではないかと述べています。かりに多摩地方だとすれば、当時この地域でいち早く開けた多摩川下流域で、大きな前方後円墳がある今の東京都大田区あたりになると思います。実際、東京埼玉のいくつかの歴史博物館では、ここに胸刺があったという展示をしています。
「風土記稿」では、実際の胸刺建国は15代応神天皇の頃の成立ではないかとしています。この応神天皇は、中国の史書に出てくる倭の五王の「讃」という人物ではないかとされる天皇で、実在なら4世紀後半の天皇です。しかし、すでに述べたように、胸刺は「旧事本紀」だけに載っている国で、読みも无邪志の「むさし」と似通っていますので、本当に実在した国かどうかは疑わしいと思います。しかし、存在しなかったということを証明するのは意外とむつかしく、ましてほかに文献のない太古ではなおさらです。そこで、ここでは昔の歴史書にそういう記述があるということにとどめておきます。
なお、无邪志については、奈良時代に平城京で出土した木簡に、无邪志という名称が出てきます。この木簡の无邪志と「旧事本紀」のは无邪志は同じ国ではありませんが、奈良時代ころまでは无邪志と表記され、それがその後武蔵と表記されるようになりました。「風土記稿」によれば、後に无邪志は武蔵の表記に変わりますが、「むさし」を漢字二字で表現するのに、この字をあてはめたまでのことで、武にも蔵にも深い意味はないとしています。
6 武蔵国の内乱
「風土記稿」によると、知々夫、无邪志、胸刺の三国成立後、武蔵国に関かんする文献はしばらくなくなるとしています。そして、その後武蔵国が文献に登場するのは、ずっと時代が下って、26代継体天皇の時代に国造の地位をめぐって、内乱が起こったという「日本書紀」の記事になります。「風土記稿」では、この時には、知々夫、无邪志、胸刺の三国は統合され、すでに武蔵国が成立していたかもしれないといっています。
内乱は国造の地位をめぐり、本来なら笠原直使主(つかはらあたいおむ)が就くべきところを、同族の小杵(おき)が国造の地位を求めて争い、両者の争いは数年に及んだ。小杵は上毛野君小熊に援兵を求めたので、使主は都に駆けつけて安閑天皇の朝廷に窮状を訴えた。朝廷では使主を国造に決め、小杵は誅殺された。そこで、使主は感謝して、横淳、橘花、多氷、倉樔の四ケ所の地を、天皇の直轄地である屯倉として献上したとあります。
継体天皇は在位が507〜535年、27代安閑天皇は在位が短く4年でしたから、この事件は6世紀半ば頃に起こったということになります。しかし、6世紀半ばとすると知々夫、无邪志、胸刺の三国の成立と接近しすぎます。私もいろいろ考えてみましたが、うまい解釈ができませんでした。そこで、ここでは「風土記稿」の叙述をたどることにします。この使主と小杵は、武蔵の歴史で初めて登場する個人です。そして、国造の地位をめぐる争いといういかにも生々しい事件で、しかも外部勢力の上野国と大和王権が介入した事件ということもあって、武蔵国の古代史には必ずとりあげられます。「風土記稿」では、旧埼玉郡に笠原村(今の鴻巣市)があるから、笠原直使主はこのあたりに関係のある人物かもしれないといっています。しかし、小杵については、何も述べていません。この国造をめぐる使主と小杵の争いですが、最近の考えでは、5世紀に南武蔵と北武蔵の間に起こった勢力争いのことだとする考えが有力のようです。つまり、武蔵では南北勢力の対峙し、それまで優位にあった南武蔵の勢力が、この5世紀に北武蔵の勢力にその地位を奪われたというのです。
その根拠は古墳です。すなわち、多摩川下流の東京都大田区には5世紀の前半まで巨大前方後円墳が作られていましたが、その後急速に小さくなります。対照的に5世紀後半から6世紀にかけて埼玉県中央部の埼玉(さきたま)・比企(ひき)地方に大きな古墳が作られるようになります。それはたぶんに南北勢力の交替を意味していて、具体的にはこの使主と小杵の争いだったというのです。
これも言われればそうかという気もします。しかし、私も考えてみましたが、どうにも釈然としません。まずこの二つの地域は距離的に離れすぎています。しかもその間には入間川をはじめ川が何本も流れています。この時代には、武蔵の人々は、自分たちが武蔵国という領域に属しているという意識はなかったと思います。武蔵という国は、大化の改新後、あちこちの地域をまとめて一つの国にしたような国です。したがって、地理的にも心理的にも武蔵国の人々には一体感などはなく、一つの政治単位にまとめられるべきだという観念はなかったと思います。
とくに多摩川下流の南武蔵などは、武蔵というよりは相模国の延長のような所です。ですから、南武蔵の勢力が相模国の勢力と争うことはあっても、武蔵北部の勢力と衝突することは考えにくいと思います。
5、6世紀の武蔵を考えると、人口が比較的多かったのはたぶん次の5地域です。
・埼玉県北西部の秩父・児玉地方
・埼玉県中央部の比企・埼玉地方
・埼玉県南部の大宮地方
・東京都の南多摩地方
・神奈川県東部の川崎横浜地方
この5地域を考えてみると、使主と小杵の争いもさきたま古墳群のある埼玉地方内部の同族集団の争いか、せいぜい埼玉地方とその隣に位置する比企地方の争いだったと思います。そして、上毛野君小熊に援兵が支援したというのも、上野国が国をあげて支援したというよりは、上野の勢力圏にあった埼玉県北部の児玉地方の勢力が介入したということだったと思います。前に知々夫のところでもふれましたが、この当時の国というのは、どこも人口もわずか数千人ていどの小さな国で、おそらくは氏族集団の緩やかな連合体のようなものだったと思います。したがって戦争も、強固な軍隊による軍隊同士が戦う激しい組織戦というようなものではなかったと思います。せいぜい地縁血縁の縁故者を動員し、戦争というよりは内紛という感じだったと思います。また、屯倉の設置も、この争いとは直接関係はなかったと思います。後に武蔵の国府が府中になったのは、ここが屯倉の地だったからでした。ですから多摩川下流には確かに屯倉はあったと思います。しかし、この屯倉設置は、東海道の東端の相模国まで到達した大和政権が、相模のさらに東の地に橋頭堡を築いたということだと思います。それを「書紀」では武蔵の国造をめぐる争いとからめて一つの物語にしたのだと思います。
「風土記稿」では、4ケ所の屯倉について、横淳はわからない、橘花は橘樹郡の郷名に御宅(みやけ)というのがあるから今の川崎市のあたりで、多氷は多摩郡のこと、倉樔は久良木郡で今の川崎市から横浜市にかけての海岸部のことだろうといっています。横淳は「よこぬ」と読むので、埼玉県の吉見町がある旧横見郡のこととする説と八王子は昔は横山といっていたので八王子地方とする説があります。たぶん八王子地方だと思いますが、「風土記稿」がいうように不明とするのが妥当かもしれません。 
7 埼玉地方について
5世紀に埼玉県中央部の埼玉地方が大きな力を持っていたことは、1970年に行田市の稲荷山古墳から鉄剣が出土してからはっきりしました。このことがわかってから无邪志の大宮説もはっきりしなくなります。そこで、この稲荷山古墳のある埼玉地方をとりあげます。稲荷山古墳は全長120メートルの大きな古墳ですが、この埼玉地方と近くの比企地方には100メートルを越える前方後円墳が9基ほどあります。そのうち、稲荷山古墳を含む4基が行田市のさきたま古墳群にあります。こういう全長100メートルをこえる巨大古墳があるのは、武蔵ではこの埼玉地方とその西の比企地方、それと多摩川下流の東京都大田区の南多摩地方の三地域だけです。明治の廃藩置県で武蔵北部を埼玉県としたのは、この埼玉地方の名称をとったからです。
稲荷山古墳は埼玉古墳群の古墳の一つで、5世紀後半です。この古墳群の中では早いものになります。鉄剣の銘には、鉄剣が471年に作られ、埋葬者は「祖先は代々天皇の杖刀人首(親衛隊長)をつとめ、自分は21代雄略天皇に仕えた」とあります。雄略天皇は456年から479年まで在位した天皇です。したがって5世紀後半には行田市を含む埼玉地方に巨大な古墳を作る人々がいたことになり、その人たちは当然古墳が作られるずっと以前からここに住みついたはずです。すると、先ほどの武蔵の国造の地位をめぐって争ったのは、この埋葬者の子孫たちではないかということも考えられます。
私は、さきたま古墳のある行田市には二度ほど行ったことがあります。比企丘陵のある東松山市から、荒川低地の吉見町を抜け、荒川を渡ると行田市です。吉見町から行田市までは真っ平な地形です。見渡すかぎりが水田地帯で日本にもこういう所があったのかと驚いた覚えがあります。行田市は利根川と荒川に挟まれた低地です。今はまったくの平地ですが、昔の地形は現在とは大きくちがっていました。古代の行田市の実際の状況はわかりませんが、戦国末期の様子はわかっています。というのも、ここには忍城があり、秀吉の北条攻めで石田三成が攻めたことがあるからです。それで当時の絵地図が残っています。当時の忍城とその周辺の絵地図を見ると、今とはまるっきりちがっています。広大な沼地が広がり、その真ん中にぽつんと島のように浮かんでいる所があってそれが忍城です。三成はこの地形を利用して周りに堰堤を築き水攻めにしました。ただ、これはうまくいきませんでした。秀吉軍は簡単に北条氏の諸城を落としましたが、この忍城だけは落とせず、小田原城が降伏した後にようやく開城しました。それで、石田三成は能吏だが戦争は下手という評価ができましたが、たぶんだれが攻めてもうまくいかなかったと思います。それくらい湿地が広がる所でした。
江戸時代以前は、荒川も今よりずっと行田寄りに流れていましたから、ぬかるみのような低湿地が方々にあったはずです。そして場所によっては、今でも地下に古墳が埋まっていますから、現在は真っ平な地形も、古墳時代にはもっと起伏に富んだ地形だったと思います。この埼玉地方以外の武蔵の農業地帯は、丘陵地帯の斜面に水田を開き、山の湧き水で細々と稲作をするというのがふつうです。しかし、ここだけは平地で稲作農業ができるところでした。この埼玉地方に巨大古墳を築造するほどの国ができたというのもうなずけます。
ただ、このさきたま古墳群についてはわからないこともたくさんあります。その一つは、ここにはたしかに大きな古墳群があるのですが、これらの古墳を築いたであろうと思われる人々の住居跡が見つかっていないことです。これだけ大きい古墳になると、古墳築造のため遠くから人々を一時的に集めて作るということは不可能です。発掘が進めば大集落がみつかるかのしれませんが(これはカンですが、たぶん見つからないと思います)、現在のところはちょうど無人の砂漠にそびえるエジプトのピラミッドのように、巨大古墳だけがあって人々の生活を感じさせない地域になっています。 
8 縄文・弥生時代
これまで「風土記稿」の記述にしたがって、武蔵国の成立過程を見てきました。その要約は、古墳時代に秩父地方に小さな国が成立し、その後まもなくさいたま市や東京都大田区のあたりに同じような国ができて、6世紀頃に三国が合同して武蔵国ができたということでした。
しかし、この時代の武蔵には「風土記稿」が触れてない大きな謎があります。それは武蔵には、多摩川西岸の川崎横浜地方をのぞくと、弥生時代と古墳時代の前中期の遺跡がきわめて乏しいという考古学からの報告です。さらにいうと、東京埼玉では、弥生・古墳時代だけでなく、縄文時代も晩期になるとほとんど遺跡がありません。縄文時代晩期は紀元前3千年前から紀元前2千年前までの約千年間で、弥生時代は紀元前3世紀頃から紀元3世紀までの約600年間です。ですから、今から3000年前から1500年前まで間のおよそ1500年間、武蔵国には人の姿が非常に希薄だということになります。
埼玉県には縄文時代晩期の遺跡がほとんどありません。「埼玉県史」(昭和62年編)では、縄文時代に関する県内の出土遺跡数を掲載しています。そのうち中期(6千年前〜4千年前)、後期(4千年前〜3千年前)、晩期(3千年前〜弥生開始まで)の数値は次のようになります。
・・・・・・・・・・・・・中期・・・・・後期・・・・・・晩期
北足立郡・市域・・・・67 ・・・・・ 209 ・・・・・・ 36
埼葛郡・市域・・・・・84・・・・・・106・・・・・・・10
入間郡・市域・・・・・207・・・・・ 24・・・・・・・ 0
比企地方・・・・・・・53・・・・・・ 6・・・・・・・ 0
秩父地方・・・・・・・96・・・・・・ 22・・・・・・・ 3
児玉地方・・・・・・・50・・・・・・ 7 ・・・・・・・ 0
大里地方・・・・・・・100・・・・・・29・・・・・・・ 1
北埼玉地方・・・・・・ 11・・・・・・ 9・・・・・・・ 3
これを見ると晩期の遺跡数はわずかに53ケ所です。そのうち36ケ所は大宮台地で、10ケ所はその東の埼葛地域です。ですから、武蔵中央部の大宮台地の南部と東部をのぞくと、埼玉県地域には人々が生活していた痕跡がほとんどないのがわかります。東京も同じような状況になると思います。この遺跡の減少がどうにも理解できません。
縄文時代中期は縄文時代の全盛期として有名です。この時代は、地球規模で温暖化が進みました。東京湾は内陸深く進入し、栃木県の藤岡町まで海岸線になりました。これを考古学では縄文海進といいます。武蔵でも平野中央の低地部は海没し、大宮台地だけがちょうど島のように海の中に浮いていました。こういう環境は漁労に頼る縄文人の生活にとって非常に快適でした。これが縄文時代中期が繁栄の理由です。しかし、その後は再び気温が低下し、海は陸地から遠ざかり厳しい生活環境が続きました。それで、この海の後退を縄文文化衰退の原因とする説もあります。しかし、縄文時代後期から続く遺跡の減少は、海のない栃木、群馬、長野でも起こっていますから、海の後退が原因ということにはならないとは思います。
とはいえ、ここで重要なことは、縄文後期から晩期にかけて、関東地方では武蔵のみならず全域で人々の姿が消えていったということです。そして、武蔵が関東の他の地域と大きくちがうのは、他の地域では弥生時代後期から古墳時代になると、再び遺跡が増加するのに対し、東京埼玉ではこの時代になってもあいかわらず遺跡が少ないままだということです。例えば群馬県では、古墳は現在判明しているだけでも約8000基もあります。ところが東京埼玉ではその約1割しかありません。なんとも不思議なことです。(ちなみに弥生ということばは東京文京区の弥生町にもとづいています。)
しかも、このことは武蔵では比較的先進地だったであろうと思われる東京南西部や埼玉県西北部についてもあてはまります。東京でもっとも早くに開け、古墳が集中しているのは多摩川下流の東京都大田区です。ここの遺跡で最も古い遺跡は久ケ原遺跡ですが、この遺跡でも弥生時代の後期で、しかもほかにめぼしい遺跡はありません。また、大田区には大小の古墳群があります。その中には、全長115メートルの宝莱山古墳や100メートルの亀甲山古墳という巨大古墳もあります。しかし、これらの多くはは古墳時代の後期のものです。つまり、東京南西部でも縄文時代晩期から古墳時代の中期の頃までは人々が活動していた痕跡があまりないのです。同じことは埼玉西北部にも当てはまります。埼玉でもっとも歴史が古いのは児玉地方で、ここには古墳時代の遺跡が豊富にあります。ところがそのほとんどが古墳時代後期のものです。例えば上里町は児玉地方の中でもとりわけ古代遺跡が多いところですが、弥生時代の遺跡は一つしかありません。これをのぞくと、もっとも古い遺跡は古墳時代後期の5世紀のものになってしまいます。
以上のことをまとめると、武蔵では縄文晩期から古墳時代の中期までの長い期間無人に近い状態がずっと続いたということになります。さらにいうと、弥生時代の中期以降になると関東では弥生人たちが活発に活動をはじめますが、どういうわけか群馬県の弥生人たちは利根川の南岸の埼玉に入るのは避け、横浜川崎の弥生人たちも多摩川の東岸の東京には足を踏み入れなかったということになります。
これらのことについて、私もあちこち専門家の意見を聞いて回ったことがあります。その多くは弥生時代に武蔵に人がいなかったというのはありえないから、遺跡が少ないのは、今のところ発見されていないだけでいずれ見つかるのではないですか、ということでした。平安時代になると、人々の住居は柱だけ地面に埋める、いわゆる掘っ立て作りになります。ですから住居跡を見落とすことはあると思います。しかし、弥生時代の住居は縄文時代の住居と同じく床全体を掘り下げていますから見つけるのは簡単です。にもかかわらず縄文時代の住居跡はよく見つかるのに弥生時代の住居跡が見つからないというのはどう考えて不思議です。
そこで、私もあれこれ考えてみました。結論としては次のようなことだったのではないかと思いました。縄文時代も晩期になると武蔵は人の住まない、いわば空き家のような状態になった。そして、それがその後もずっと続き、5世紀頃になってまた人々が住み始めたということではなかったか。つまり、武蔵はまったく人がいなかったというわけではないが、縄文時代晩期から5世紀頃までの1500年くらいの間、武蔵はほぼ無人に近い状態が続いた。突拍子のないようなことですが、そうそういうことです。そして、古墳時代後期になると、その遺跡が武蔵の全域で一斉に出土するのも、元から武蔵に住んでいた縄文人が稲作技術を習得して、弥生文化に移行していったとは考えにくい。だから、たぶん、武蔵には外から大勢の人がやってきたのではないか。具体的に言うと移住です。そして、次の章で述べるように、奈良時代の武蔵国の人口分布が、群馬県近くの埼玉県北部と東京西南部に偏っているということは、群馬方面と神奈川方面から移住してきたからである。
さらに、大宮台地の縁にわずかに弥生時代の遺跡があるのは、ここは地理的には下総の続きで、下総の延長だったからである。たぶんその頃は、武蔵とか下総とかいう国の区別などなかったはずだから、下総の人々も生活できる場所を求めて自由に西進し、大宮台地に定着したのではないか。しかし、この人たちもそこから西のいわゆる武蔵野とよばれる地域には進出しなかった。したがって、武蔵の大半は、結局北と西からやってくる外部の移民の人たちの手で開発されたのであろう、ということです。
さらに、この移民たちについては、たぶん次のようなことでした。先に触れたように東京埼玉の神社の特徴は祭神に出雲系が多いことです。しかし、移住者たちは出雲から来たということではなく、東海地方や信州上州の人々だったと思います。そして、これら移住者も単独の移住者ではなく氏族単位で集団移住してきたはずです。(東日本の神社の大元は長野の諏訪大社ですが、この神社の祭神は出雲神話の直系の神です)
この移住者たちは、おそらくはすでに大和王権に組み込まれていた人でした。というのも、ずっと時代は下りますが、万葉集の防人の歌の作者を見ると、物部や大伴部という人たちが出てきます。これらの物部や大伴部の人々は、畿内の豪族たちが各地に持っていた部民(べのたみ)とよばれる人たちです。また、壬生(みぶ)や私市(きさいち)という畿内の大和王権の組織の名称を姓にしている豪族も関東にはたくさんいました。
このことについて、最初、私は大和王権の東進とともに、これら畿内の大豪族たちも武蔵に進出してきて、すでに武蔵国に住んでいる人々を部民として組み入れたのだと思っていました。しかし、そうではなく、たとえば、上野や相模に住んでいた大伴氏や物部氏の部民が、集団で武蔵に移住してきたということだと思います。そして、彼らはすでに物部氏や大伴氏との関係は切れていましたが、自分たちの出自を確認し、一族としての結束を護るためそういう名称を姓にしていたにすぎないのだと思います。そして、こういうふうに北と西とからの移住者が定着することで武蔵も国らしくなっていったのだと思います。
したがって、縄文時代の人々と弥生時代以降の人々とは連続していないと思います。私も、最初は、武蔵国の縄文人が西日本から伝わった稲作農業を習得して農耕社会に移行し弥生時代になったと考えていましたが、そうではなく、縄文人がいなくなったいわば無人の武蔵国に、西から稲作農耕民が移住してきたのだと思います。当然、縄文人と弥生人との間には摩擦も軋轢はなかったと思います。
武蔵には朝鮮半島からの移住者が多いのが知られています。しかし、この渡来人たちは、後発の開拓者だったと思います。というのも、これら渡来人が日本にやってくるのは6世紀頃からで、この時点で武蔵国の開発はかなり進んでいたと思います。 
9 横浜の大塚遺跡に見る弥生社会
弥生時代はふつう稲作農業を主体とした定住社会と考えられています。しかし、そうではなく弥生時代の人々も多くは移動の生活だったと思います。横浜市に大塚遺跡という弥生時代中期の遺跡があります。この遺跡は集落の周りを堀で囲った環濠集落と方形周溝墓がほぼ完全な形で出土したので有名です。この大塚遺跡があるため、横浜市はこのそばに関東でも有数の大きな歴史博物館を建てました。
ここは鶴見川の支流が平地に出る扇状地で、115軒の住居跡があります。しかし、住居跡が重なっています。そのため115軒は同時にあったのではなく、20軒くらいの住居がくり返し建てられたものであるのがわかりました。しかも、その変遷を見ると、大塚遺跡の人々はここに50年くらいしか住みませんでした。50年経つと、村人はまとまってここを離れ、しばらくするとまたどこからか人々がやってきて住みつく。こういうことをくり返していました。前に住んでいた人たちと後から移ってきた人たちが同じ集団かどうかはわかりませんが、大塚遺跡の人々はずっとここで定住生活をしていたのではないことがわかります。この大塚遺跡をかりに20軒の集落とすると人口は100人くらいです。100人の人々が米作だけで生活するには、奈良時代の条件のよい水田でも10ヘクタール必要です。それよりもずっと昔で、しかも大塚遺跡の人々が水田にしていた山裾の谷田では、おそらくその倍の20ヘクタールくらい必要です。しかし、大塚遺跡のある起伏に富んだ地形では不揃いの小さな田んぼがあちこちに散らばっていたはずですから、20ヘクタールの水田を確保できたとはとても思えません。かりに確保できたとしても、100人の集落では成人労働人口は60人くらいしかいませんから、20ヘクタールの水田を耕作できるはずがありません。
するとこの大塚遺跡に住んでいた人々が稲作をしていたとしても、稲作で得られる食料は、おそらく必要量の半分以下です。残りは縄文時代の人たちと同じように木の実や魚介類を食べていたと思います。大塚遺跡の人たちはたぶん春から夏は稲作、秋には木の実の採集と漁労、冬には狩猟。こういう生活の一年だったと思います。ですから、大塚遺跡に住んでいた人々も米以外の食料が枯渇すると他の場所に移っていったのだと思います。これが移住生活を余儀なくされた理由でした。そして、周囲の自然環境が回復すると、再びこの地にもどってくる。こういうことの繰り返しだったのだと思います。埼玉県にも弥生時代の住居の遺跡がありますが、そのうちかなりの遺跡は岩陰や洞窟などにあり、これらもそこにずっと人々が住んでいたというのではなく、一時的に住んでいたというものだということがわかっています。
一般的に、弥生時代というと静岡県の登呂遺跡の水田のように畦(あぜ)で整然と区画され、今と大して変わらない稲作農業がイメージとして浮かんできます。しかし、そういう地域はむしろ例外で、ふつうはこの大塚遺跡の人々のように、転々と移動生活を余儀なくされていたと思います。そう考えると、全国各地にある弥生時代の遺跡も、実際はふつう考えられているよりもっと少ない人々が転々と移動した生活の後ということになると思います。
ちなみに弥生時代の住居ですが、縄文時代とほぼ同じ作りで、地面を掘って大きな屋根を載せた構造です。小さな入り口があるだけで窓がありません。以前からあの住居では、家の中は真っ暗でとても生活できないのでなないかと思っていました。大塚遺跡では中に入れませんが、埼玉県富士見市の水子遺跡で実際に中に入れてもらったことがあります。すると入り口から入ってくる光は思いのほか屋内に広がっていて明るく、確かにこれなら生活に支障がないのがわかり、昔の人は昔の人なりに工夫しているのがわかり感心しました。 
10 稲作農業と武蔵
日本の歴史の中で稲作農業の持つ意味はいくら強調してもしすぎることはありません。日本の歴史では様々な大きな出来事がありましたが、それらの出来事の根底にある原因も結局はこの稲作のめぐる争いだったといっても過言ではないと思います。そこで、この稲作農業について、とくに武蔵という地域との関連でまとめてみることにします。
1) 稲作は水が決め手
私はしばらく前まで暇を見つけては東京の多摩地方や埼玉の西部や北部を散策していました。最初は江戸時代の武蔵はどんな農村風景だったのか、そんなことを想像しながら回っていました。しかし、そうしているうちに様々のことを考えるようになりました。
その中でもっとも強く感じたことは、稲作の特殊性でした。埼玉東京の農業地帯を見ていると、水田稲作というのは、農業の中でも格段に複雑で、麦や養蚕などとはまるでちがう、別の産業ではないかと思いました。また、広大な平地が広がる東京埼玉は一見水田稲作に最適のように見えます。しかし、中世まではここほど水田稲作に不向きなところはほかにないのではないかとも思いました。
水田稲作の特殊性は大量の水を必要とすることに尽きます。そして、昔の武蔵はこの水が極端に乏しい地域でした。弥生時代以降、関東の中で武蔵だけが開発が遅れた最大の理由は、たぶんこの水不足でした。水が豊富にあるのは川です。ですから、利根川、荒川、多摩川、という大きな川が流れる武蔵国は水に不足することはなさそうに思います。しかし、昔の土木技術ではこれら河川の水を農業用水には利用できませんでした。というのも、川はその地域で一番低い所を流れているからです。したがって、すぐ近くに川があっても、その川の水を直接田に引くことはできません。どうしてもその川の水を利用するなら、遠く離れた標高の高い上流地点に水源を求め、そこから水路を作り、その落差を利用して水を引くことになります。その場合は、大掛かりな土木工事が必要になります。
それは玉川上水を見ればわかります。玉川上水は、江戸時代初期に幕府が江戸の生活用水を確保するため作った上水道です。東京の真ん中には隅田川という大きな川が流れています。にもかかわらず、遠く多摩の羽村からわざわざ水を引いたのも、結局低地を流れる隅田川の水を利用できなかったからです。ふつうに考えれば、荒川下流の隅田川が無理でも、もっと上流に行けば江戸に水を引けるはずです。しかし、その間には武蔵野台地という台地があります。そして、この海抜わずか二十数メートルの武蔵野台地を越えて、水を江戸の町に引くには荒川ではなく、遠く多摩川中流の羽村まで水源を求めなくてはならなかったのです。
これと同じようなことは、昔の水田稲作にも当てはまります。私は、同じ羽村市で、多摩川の川岸から200メートルくらいしか離れていない道路に「雨乞い街道」という名称がついているのを見つけて大変驚いたことがあります。そこは河川敷をそのまま集落にしたような所で、多摩川の水面から1メートルか2メートル高いだけです。しかし、多摩川の水はこのわずかな1、2メートルの高さを乗り越えて人々に実りをもたらすことができないのです。そういう姿を見ると、水というものの不思議さを感じるとともに、昔の人々の苦労を思わずにはいられませんでした。
秩父盆地の秩父市に太田という所があります。ここは秩父では珍しく広い平地で40ヘクタールの水田があります。そのため早くから水田稲作が行われて、奈良時代の水田区画事業の条理制の遺構が残っています。秩父は平安時代に武蔵で勢威を誇った桓武平氏秩父氏の発祥の地ですが、その力の源泉は、馬を飼育する牧の存在とともに、この水田地帯だったと思います。
この大田のすぐそばは赤平川という荒川の支流が流れています。しかし、つい最近まで大田地区の農家はこの川の水を利用できず、近くの丘陵から湧き出す山の水を引いていました。そのため、すべての田に作付けできる年はめったにありませんでした。私が聞いた農家の話では、「戦前は水の量で三分付けとか五分付けとか決めた。たとえば五分付けに決まると、田んぼの真ん中を畦(あぜ)で仕切り半分だけ田植えをした」ということでした。作付けをする田とそうでない田に分けるのではなく、一つの田を畦でしきるのは、水田が下の田に通じる水路になっているということもありますが、最大の理由は、そうすることで自分は村の決まりを守っていることを目に見える形で示す必要があったからです。そのくらい水の利用は厳格でした。田んぼのすぐ近くを大きな川が流れているのに、持田の半分とか三割しか稲作ができず、秋になって食糧不足で苦しむ。ポンプで揚水する現代では考えられない不思議な農民の姿が昔の武蔵の農民でした。太平洋戦争前くらいまでは、武蔵に限らず太平洋側の地域では、すべての水田に作付けできる年というのはなかったと思います。たぶん水の豊富な年でも7〜8割くらいしか作付けできなかったと思います。
現在埼玉県の中央部は埼玉平野とよばれ広大な水田地帯が広がっています。しかし、ここが水田地帯になるのは、江戸時代の将軍吉宗の時に見沼代用水をつくり、さらに1968年に武蔵水路をつくられてからです。この二つの水路は行田市の北で利根川に堰をもうけ、この利根大堰から水を引いています。そして、この水は最終的に荒川に排出されます。現在の荒川隅田川が水量が豊富なのは、こういうふうに他の水系の水が入っているからです。したがって、こういう大きな土木工事が行われる以前の古代の埼玉平野は、茫漠とした平地が広がり、わずかな水が集まる低地で水田稲作が行われるにすぎませんでした。
2) 昔の稲作は山間部
一般的に大きな川のそばは平地部が広がり、一見稲作農業には絶好のように思えますが、こういう場所は水の確保が困難で意外と稲作がむつかしいのです。ですから、古代から中世まで、水田稲作ができる土地は限られていました。それは山の湧き水を利用できる山間地です。こういう所の水田を谷地(やち)とか谷戸(がいと)といいます。先に紹介した横浜の大塚遺跡はその代表です。こういう地形の水田では、山から流れる細々とした水をまず上の田に引き、そこから下の田へ流し、そこからさらに下の田に水を流していきます。たぶん、江戸時代まではこういう水田がもっとも多かったと思います。昔の武蔵国では山間部の高地に水田があり、ふもとの平地は樹木や雑草が生い茂る武蔵野の荒れ地が広がるという現代人には不思議な風景になっていたと思います。
また、確かに多摩川や荒川という大きな川の近くにも、昔から水田地帯はあります。ですから、一見すると、こういう所の水田はこれら川の水を利用しているように見えます。しかし、そうではありません。よく見ると水田は河岸段丘上の平地にあります。そこでは河岸段丘の崖から湧出する水を利用して水田稲作が行われています。先ほどの羽村市の雨乞い街道のある所の水田もそうです。
もっとも有名なのは国分寺市から狛江市にいたる土地です。ここは多摩川の河岸段丘がちょうどひな壇のように階段状の地形をしています。地質学では、上のひな壇を武蔵野面といい、下のひな壇を立川面といいます。そして、この武蔵野面と立川面の境が崖になっています。これを地質学では国分寺崖線といい、地元の人たちは通称ハケと呼んでいます。このハケから湧き出す水が、野川という川になって流れています。この野川は武蔵野台地を流れる川としてはもっとも大きな川です。
そこで、古墳時代の遺跡を見ると、ここの水田地帯は、この野川の水を利用できる下段の立川面に帯状に広がっていました。いました、という過去形になるのは、現在ここは住宅密集地になっていて昔の面影はまったくないからです。しかし、このハケの下には、古墳時代から昭和30年代頃までは水田地帯が広がっていました。そして、上段の武蔵野面は畑作地帯で人々は麦を作っていました。したがって、この武蔵野面には水田はまったくありません。水が確保できないからです。 
3) 武蔵の稲作の障害は利根川
水田稲作に水は必要です。しかし、水は一年中必要というわけではありません。稲作にもっとも必要なのは春です。春先に田起こしをし、田んぼに水を張って田植えをします。この時十分な水を確保できなければ、作付けの面積を調整することになります。そこで、秩父の農村でも、春の水の量でその年の作付けを決めていました。したがって、水の利用をめぐって集落と集落が争う水争いも春におこります。
たとえば、昭和の初め、埼玉県の北部では神流川をはさんで、埼玉県と群馬県の村人がにらみ合い、制服姿の警察隊が川の中に入って立ちはだかるという事件が起こり、当時の新聞は写真入りで大きく報道しています。
水田稲作は春に水が必要です。ところが、太平洋側に位置する武蔵では、冬は乾期ですから、春になっても水は不足します。太平洋側の地方が唯一期待できるのは山の融雪水です。ですから同じ関東でも、この融雪水が豊富な群馬県や栃木県は比較的水に恵まれていました。この地域では北の山岳地に降った雪解け水が小さな川になって流れ、その流れはやがて利根川、渡良瀬川、鬼怒川になります。稲作はこの小さな川の水を利用して行います。
ところが、この北関東の雪解け水の恩恵をまったく受けられないのが東京埼玉の武蔵でした。というのも武蔵と上野下野の間には利根川が流れていて、この利根川が障害になってしまうからです。北関東の山間部から流れてくる融雪水はすべて利根川に流れ込み、利根川を越えて武蔵に流れてくることはありません。
群馬県の地形は鶴が空を舞う形にたとえられます。たしかにそう見えます。細長く東に延びた地域は鶴の首のような形をしています。ここは埼玉ばかりでなく栃木との境です。しかし、群馬県がこのような変則的な形状になったのは、利根川の南岸は埼玉県で北岸は群馬県、渡良瀬川の北岸は栃木県で南岸は群馬県、そして、利根川と鬼怒川が合流すると、西岸は埼玉県で東岸は千葉県というようにこの利根川が境界だったからです。こうした地形を考えると、武蔵というのは、北関東の上野、下野からも下総からも水が得られない孤立した地域であることがわかります。
武蔵の北と東を、利根川が万里の長城のように流れています。そして、この利根川が北関東から流れてくる水が武蔵に流入するのをすべて遮断しています。水田稲作農業の面からみると、武蔵と上野下野の大きなちがいはここにあります。
利根川に遮断され、北関東の融雪水が期待できない武蔵では、人々が利用できる水は、ここに降る雨だけということになります。この雨水は地下に溜められ、あちこちの山麓で湧出水となって地表に流れます。そうした湧出水は最後に利根川、荒川、多摩川になって流れていきますが、これら山の水が大河に注ぐ前に農業用水として利用するのです。しかし、武蔵はこの降水に恵まれていません。埼玉東京の西にある関東山地は荒川と多摩川の水源地ですが、ここはさほど雪が降りません。ですから春の雪解け水をあてにすることができないのです。
昔の荒川、多摩川は冬になれば渇水する川でした。現在はダムの放水で調節され、年中豊かな水が流れていますが、江戸時代以前は冬になれば本当にやせ細った川でした。そのため、江戸時代にはこの二つの川は冬になるとあちこちに橋は架かりました。しかし、橋など作らなくても歩いて渡れる場所がいくらでもあるような貧弱な川でした。この二つの川の水量が小さいのは、この川の支流も水量が小さいということです。つまり、武蔵北部の奥秩父も西部の関東山地も乾燥した山岳地なのです。
4) 稲作には溜め池が必要
古代の武蔵で水田稲作をやろうとすれば、山間地に降る雨が伏流水となって地下を流れ、それが地表に表れる湧出水を利用するしかありません。しかし山の湧出水ですから、そう量が多いわけでもありません。一方田植えの時期は限られていて、この時期に一挙に大量の水を使いますから、山から湧きだす水をそのまま田に引いてもわずかな田にしか水は引けません。こういう時、都合が良いのは溜め池です。溜め池に水を溜め、田植えの時期に一気に使うのです。
すると、冬の間から溜め池に水を溜めるということが必要になります。ところが、東京埼玉は、この溜め池を作れる場所は限られています。溜め池というのは意外と容量が大きくて、少々雨の日が続いても一杯になることはありません。それは、今でも都会には小さな遊水池があり、あの小さな池が街を水害から防いでいることからもわかります。逆説的になりますが、溜め池は水が豊富な所でないとできないのです。
私も武蔵全域をくまなく丁寧に見たわけではありませんが、私の感じでは一番溜め池に恵まれていたのは、埼玉の比企丘陵と岩殿丘陵がある比企地方だと思います。現在、ここの溜め池はだいぶ少なくなったということですが、それでもかなり残っています。
さらにここは、丘陵の東が荒川低地とよばれる湿地帯になっています。名前は荒川低地ですが、昔は荒川はここを流れていませんでした。荒川がここを流れるようになったのは江戸時代になってからです。江戸時代以前は、西の山間地や丘陵地帯から流れる、和田吉野川、市野川、都幾川という中小河川が流れこむだけでした。そのため、低地にもかかわらず大きな洪水に見舞われることもなく、水田稲作としては非常に好都合の地形でした。ちなみに、武蔵で一番古い寺はこの近くの滑川町にある長谷廃寺です。また、平安時代末にできた坂東札所33ケ寺のうち5寺が武蔵にあり、そのうち3寺がこの地域にあります。たぶん、奈良時代から平安時代にかけては、武蔵でももっとも恵まれた地域だったと思います。
それと埼玉県北部の、荒川北岸の美里町にもかなり溜め池があります。ここは古墳時代の遺跡が多く、町では「埼玉の明日香村」と称しています。たしかに地形も緩やかな微高地と丘陵が続き、遺跡と溜め池のある風景は奈良盆地に似ています。古代人にとっては、農業の適地だったと思います。
群馬県の歴史を読むと、古代の上野国では人々は広い沖積地に水田を開き、沖積地が一杯になると、その後はやむなく山間地に水田を求めるようになった。しかし、こういう谷戸の傾斜地は、小さな区画の水田になるため効率も悪く、冷たい山水のため稲の生育もよくなかった。そこで、取水源に石を並べ太陽熱で冷たい水を温めたり、田んぼの周りの堀を一周させてその間に水を温めるなどの工夫をしたが、人々の苦労は並大抵なものではなかった、というようなことが書いてあります。しかし、武蔵では人々は最初からこの悪条件の山麓に水田を開くことになりました。 
5) 稲作の今昔
稲作については、昔と今では収量が大きくちがうことを知っておく必要があります。現代では、米の収量は、1反(約10アール)あたり、玄米換算で600キロくらいあります。しかし、江戸時代以前は150キロくらいしかありませんでした。150キロというのは昔の尺度で1石です。1石というのは成人1人が1年間に必要とするカロリー量です。というより昔の人は成人1人が1年間に必要とする米の量を1石にきめたのです。ですから、机上の計算ですが、標準家族を5人と考えれば、最低5反の水田があれば食べていけることになります。
たとえば、江戸時代初期の幕府の政治家は一町(10反=一辺が100メートル四方の土地)の自作農を維持しようとしました。一町あれば10石の米が取れる。五公五民で半分年貢にとっても、農民の手元には五石残る。五石あれば五人家族の農民も生活できるはずだということです。生かさず殺さずという当時の農民支配の方針から考えると理屈としてはあっています。昔は水田1反あたりの収量は今の四分の一でした。つまり、現代では四人分の米が取れる水田面積は昔は1人分の米しか取れなかったということです。
ところが、歴史の本を読むと、現代の稲作をそのまま昔の稲作にあてはめて考えているのが多いように思います。そのため、昔は、米作農家は恵まれていたが畑作農家や山村は生活が大変だったというような内容の本をよく見かけます。しかし、反別1石強というのは、水田稲作はほかの農業に比べて圧倒的に有利というものではないということです。麦の収量がわからないのですが、以前麦を作ったことがあるという人から、「米は上手な人だと1反当たり10俵(600キロ)、麦だと7表くらい(420キロ)」と聞いたことがあります。米に比べると若干収量が落ちますが、そう遜色はありません。
それと、稲作の収量は、弥生時代も江戸時代もたいしてちがわなかったということも理解しておく必要があります。確かに日本の農民は2千年以上にわたって、様々な品種改良を行ってきました。しかし、その多くは実が熟しても倒れにくい稲を作るとか、収穫を早める(早生種)稲に改良するということで、収量を高める改良はなかったということです。
農学の本を読むと、稲の収量が飛躍的に増加するような改良は、遺伝子レベルでの激変が必要で、昔の農民がよくやる収量の多い種籾の選択を続けるというような素朴な手段では無理なのだそうです。自然界でこのような突然変異が起こるのは、その生物種の存続が危うくなるような過酷な環境におかれた時だけで、そうでなければ近代科学の力がないと無理なのだそうです。ですから、時代がたつと農業生産も高まり人口も増えますが、その主な原因は、もっぱら土木技術の発達でそれまでは荒地でしかなかった所が水田になったということです。つまり、稲作の質が向上したのではなく、量が拡大したということです。ですから、弥生時代も江戸時代も、一家族あたりの耕作面積はさほどちがいませんでした。
断言はしませんが、一家族あたりの耕作面積は弥生時代も江戸時代もたいして変わらなかったように思います。時代が下りると、たとえば畜耕が発達したとされています。しかし、こういう農法は平地の乾田でないと無理です。こういう乾田化は戦後の土地改良事業で湿田を乾田化したもので、戦前くらいまでは水田の多くは湿田でした。ですから弥生時代も江戸時代も人間が鍬一本で田んぼを耕すということが多かったと思います。すると、人間の労力には限度がありますから、一家族を5人と想定すると、この小家族が耕作できる水田は1町(1ヘクタール)が限界という気がします。 
それでも江戸時代の武蔵の農民を見ると、奈良平安時代よりはるかに生活が豊かになっています。しかし、それは農業の生産力が高まったのではなく、農家が養蚕や茶の栽培など換金作物を作るようになったこと、それから商売や荷運びなど農業以外の副業が盛んになって収入が増えたからです。したがって、都市から遠く離れ、副業を持たない辺地の農民の生活レベルは弥生時代も江戸時代もほぼ同じだったと思います。 
 
3章 奈良時代〜平安時代前半 

 

1 この時代について
神話時代の武蔵が知々夫、无邪志、胸刺の三国に分かれていたことはすでに述べました。しかし、なにぶん信憑性がありません。「風土記稿」の執筆者たちも、文献を考証するとこうなるというような感じで書いています。武蔵国についてはっきりするのは、やはり奈良時代になって律令が整備されてからです。奈良に都を置いた大和王権は全国を六十六の国に分けました。そして国をさらに郡・郷・里に分け、中央から国司を派遣して直接統治することにしました。こうして大和王権は律令政府に姿を変え、中央集権の国家を樹立しました。武蔵も多くの郡と郷と里に分けられました。
律令制度は大化の改新後すぐに整備されたのではなく、天智天皇の代で基本的構想が作られ、次の天武天皇の時代から本格的に実施されました。そして、さまざまに試行錯誤を繰り返しながら701年の大宝律令、それを修正した720年の養老律令で制度として完成しました。この律令に基づく政治の仕組みをふつう律令制といいます。律令の律は現代の刑法、令は行政法に相当します。もちろん、こういう成分化した法令で国家を経営する法治主義の政治など日本人が考えられるはずがありません。すべて中国からの輸入でした
国家については善悪の両方の考えがあります。国家の本質は、エンゲルスがいうようにたぶんに支配者が人々を支配するための暴力装置です。しかし、国家が存在することで、社会が理想を持ち、社会に秩序と安定が持たされるのも事実です。
実際、天智天皇とその弟の天武天皇の政治をみると、そこには強烈な理想主義が感じられます。それは、人民も土地も特定の権力者たちの私的な所有物ではないとする公的な規範意識です。したがって、天皇といえども、この公的規範には従わなくてはならないという倫理観が生まれます。大化の改新後、中央の権力者たちはこういう理想主義を抱いて国家の経営にあたりました。そして、そういう高揚した気分が日本をおおっていたのが奈良時代でした。とはいえ、月満ちれば欠く、という言葉通りこういう理念もやがて色あせてきます。古代の武蔵国を考えると、大きな転換点があったように思います。それは平将門(903?〜940)の反乱です。彼がどこまで本気だったかはわかりませんが、将門は新皇と称し、関東に独立国をつくろうとしました。この事件そのものはあっけなく将門の敗北に終わりました。また戦場も下総常陸というようにもっぱら東関東でした。ですから、武蔵国が戦禍を被ることはありませんでした。しかし、その後の歴史をみると、将門の乱が起きるまでは比較的中央政府に従順だった武蔵が、この事件後、独自の動きをはじめ、以後政府のコントロールがきかなくなったという印象を持ちます。また、中央の政治家たちも国家を経営することに情熱を失い、もっぱら権力を利用して私利私欲に走り、地方のことはほとんど顧みなくなりました。これはこれで地方の活力というか新しい時代の息吹のようなものを感じます。しかし、それはまた、武蔵がアウトサイダーたちの巣窟になり、力だけが支配する弱肉強食の社会になったということでもあります。そこで、ここでは奈良時代から平将門が登場する平安時代前半までの武蔵国について考えてみようと思います。 
2 武蔵の国と郡
1) 武蔵の郡と郷
地方を国と郡に分けて統治する仕組みを、中大兄皇子(後の天智天皇)たちは645年のクーデターを起こす前から構想していたようです。というのも、新政府はこのクーデターのわずか2ケ月後に東国に8人の国司を派遣し、関東の実情を調査させているからです。そして、新政府はこれら派遣した国司たちの報告を受けると、翌年の大化2年には、もう全国を国と郡に分ける方針を明示しています。それによれば、まず全国を大きく五畿七道に分け、その下に行政単位として、国・郡・里・戸をもうけるというものでした。これらはすべて政治的な単位で、たとえば戸も生活を営む家族世帯ではなく、戸籍簿に載る単位としての戸でした。ですから、1戸あたりの構成人員は10人以上もいました。なお、その後、里が大きすぎるというのでその下にもう一つ単位をもうけることになり、そのため当初の里は郷に名称を変え、この郷の下の単位を新に里としました。国―郡―郷―里―戸というのが最終的な地方行政の単位でした。
国境と郡境について
武蔵の建国がいつであったかは不明です。武蔵という名称はずっと後だったかもしれませんが、たぶん大化の改新の時にはその原形はできていたと思います。これまで武蔵の領域を、東京・埼玉・横浜川崎として説明してきましたが、ここで武蔵の領域について説明しておきます。先ず古代においては国や郡ではその境界は非常にあいまいでした。それは人口も少なく、誰も住んでいない土地というのが大半だったからです。つまり、細かく境界を決める必要がなかったのです。そういう状況では人々の生活圏のちがいが境界になります。そして、その境界は山です。具体的にいうと、山の分水嶺が境界になり、これで国や郡を区切りました。その典型は三浦半島です。古代においてはここが武蔵と相模の国境でした。地図を見ればわかりますが、三浦半島は標高の低い細長い半島です。そして、この三浦半島の中央の分水嶺を境に、西が相模で東が武蔵となります。この三浦半島は、大和王権時代の東海道では半島の先端から舟で房総半島に上陸しましたからきわめて重要な交通路でした。
では三浦半島の北の山岳地帯はどうなるかというと、ここはたぶんはっきりした国境などなかったと思います。どうしてかというと、この山岳地帯にはほとんど人が住んでいなかったからです。ですから、国境などもうける必要がありませんでした。
分水嶺が境になるのは武蔵の北の方も同じです。埼玉県と群馬県の間には神流川が流れていますが、ここは県境ではありません。神流川の両岸は群馬県で、県境はこの神流川の南の山岳地帯の土坂峠、志賀坂峠です。つまり、この峠の線上が県境で、昔はこの南側が武蔵で北側が上野でした。目に見える境としては川はっきりしていますが、川のこちら側の人も向こう側の人も同じ生活圏ですから、川を境にするのはかえって不便でした。これは郡についても言えます。現在、東京都と神奈川県の県境は多摩川ですが、昔は多摩川の両岸とも多摩郡でした。そして、多摩郡と筑郡橘樹郡との郡境は多摩川西岸の山間部の分水嶺でした。これも多摩川の両岸の人々の生活圏が同じだからです。
ちなみに明治になってもこういう考え方は生きていて、東京府と神奈川県を設置した際には多摩川両岸は神奈川県でした。それが、多摩川、とりわけ多摩川上水を所管にしたいという東京府の思惑で多摩川の東岸域を東京府に所属替えにしました。そこで、現代では考えられませんが、東村山、東大和、羽村市の人たちは東京府編入に反発し猛烈な反対運動を起こしました。これも東京府編入に反対というより、多摩川の東岸域と西岸域が分離されるのを嫌ったからだと思います。
ただ、武蔵の東の国境は利根川でした。しかし、これも利根川があまりに大きな川なので、こちら岸と向こう岸の人たちは別々の生活圏を形成していたために決まった国境で、生活圏のちがいで境界が決まるということでは、山が境界になるのと同じです。
昔の利根川は東京湾に注ぎ、太日川とよばれていました。たぶん一本の川ではなく、幾筋もの川に分かれて流れていました。ですから、隅田川が境でこちらが武蔵で向こうが下総というようなはっきりした区分でなく、武蔵野台地の東の端までが武蔵で、千葉県の国府台台地の西橋から下総になるということでした。そして、この利根川の流域は、右岸域も左岸域も誰も住めない不毛の湿地帯でしたから、武蔵でもなければ下総でもなかったということだったと思います。それはちょうど東京湾という海が武蔵でも上総でもないのと同じです。
国と郡は規模に応じて、国は大上中下の4ランクに、郡は大上中下小の5ランクに分けることにしました。そして、郡の下に里をもうけ、里は50戸をもって1里とするということでした。
武蔵についていえば、奈良時代以前は東山道に属し、ランクは大国でした。関東地方は関八州ともよばれ8ヶ国ありますが、いずれも大国かその下の上国でした。その郡数をみると、
武蔵(大国)21・相模(上国) 8・上総(大国)11・下総(大国)10
安房(中国) 4・上野(大国)14・下野(上国)9・常陸(大国) 11
ということになります。( )は国のランクを示しています。
郡は所属する郷数で
大郡 21〜16郷・上郡 15〜12郷・中郡11〜8郷・下郡7〜4郷・小郡3〜2郷
に分かれます。
郡については、大化の改新時に武蔵にはいくつの郡があったかはわかりません。しかし、それから200年後の10世紀初め「和名抄」という一種の百科事典が編纂され、これに全国の国郡が網羅されています。それによると、武蔵の郡数は21ありました。この21郡は陸奥をのぞけば最大でした。次が美濃の18郡です。多くの国は一桁の郡数でした。ですから、武蔵は全国でも最大規模の国でした。
「和名抄」掲載の武蔵21郡と郡に所属する郷数と郷名は次の通りです。
1.多磨郡(10郷)   
 小川・川口・小楊・小野・新田・小島・海田・石津・狛江・勢田
2.荏原郡(9郷)
 蒲田・田本・荏原・覚志・御田・駅家・木田・桜田・駅家
3.久良木郡(8郷)
 □浦・大井・服田・星川・郡家・諸岡・洲名・良椅 
4.男衾郡(8郷)
 榎津・□倉・郡家・多笛・川原・幡太・大山・中村
5.幡羅郡(8郷)
 上秦・下秦・広沢・荏原・幡羅・那珂・霜見
6.入間郡(8郷)
 麻羽・大家・郡家・高階・安刀・山田・広瀬・余戸 
7.都筑郡(7郷)
 店屋・駅家・立野・針□・高幡・幡屋・余戸
8.豊島郡(7郷)
 日頭・占方・荒墓・湯島・広岡・余戸・駅家 
9.足立郡(7郷)
 堀津・殖田・稲直・郡家・大里・発度・余戸
10.秩父郡(6郷)
 巨香・上断・美吉・丹田・中村・余戸
11.橘樹郡(5郷)
 高田・橘樹・御宅・県守・駅家         
12.埼玉郡(5郷)
 太田・笠原・草原・埼玉・余戸
13.榛澤郡(5郷)
 新居・榛沢・□形・藤田・余戸
14.比企郡(4郷)
 郡家・□後・都家・□瀬
15.大里郡(4郷)
 郡家・楊井・市田・余戸
16.児玉郡(4郷)
 振太・岡田・黄田・太井
17.那珂郡(4郷)
 那珂・中沢・水保・弘紀
18.賀美郡(4郷)
 新田・小島・曾野・中村
19.横見郡(3郷)
 高生・御坂・余戸
20.高麗郡(2郷)
 高麗・上総 
21.新座郡(2郷) 
 志木・余戸 
2) 武蔵の国郡の特徴
これを見ると、橘樹、都筑、荏原、豊島郡に駅家郷があります。ですから、ここを東海道が通っていたことがわかります。ところが、武蔵は奈良時代には東山道でしたから、上表の郷は平安時代のもので、奈良時代とはだいぶちがっていたことがわかります。したがって、長い時代の中で、武蔵の各郡にも変遷があったと思いますが、その具体的詳細はまったく不明です。
武蔵は多磨郡の10郷が最大ですがこれでも中郡です。ですから、武蔵の郡は中郡・下郡・小郡だけということになります。武蔵国には領域が広い郡が多く、郡の数も多いのですが、それがすべて中郡以下というのが特徴です。これは武蔵国が全体的に人口の希薄な過疎地だったからです。
武蔵は、現在の東京、埼玉、それに神奈川の横浜川崎市を含む広大な地域です。武蔵の領域がこんなに広くなったのは、たぶん次のような事情だったと思います。武蔵建国の中核は多摩川中流域でした。ここには大和王権の直轄地である屯倉(みやけ)がありました。屯倉があったのは多磨郡・都筑・橘樹郡・久良木の4郡でした。このため多磨郡に国府を置き、多摩川西岸の川崎横浜地方も武蔵に所属することになりました。
そして、武蔵の北部が利根川南岸にまで広がったのは、ここにも屯倉があったからです。このあたりは緑野(みどの)郡といい上野国の所属ですが、どうも最初の緑野郡は広大だったようです。そこで緑野郡を分割し、その南側の秩父児玉地方を武蔵に所属させました。それと、秩父児玉地方を武蔵に分離したのは、屯倉の地であったからですが、そのほかにたぶん北関東の毛(け)の国対策によるものだったと思います。大和王権の時代、中央政府の東国対策はほとんどこの毛対策でした。強大な力を持ち、大和王権になかなか従わない毛の国は、早くから大和王権の悩みの種でした。それが毛の国内部の分裂もあって「上の毛」(上野)と「下の毛」(下野)に分けることができましたが、それでも不十分でした。そこで、さらに利根川南部を切り離して、武蔵に編入することにしたのだと思います。つまり武蔵は南部の多摩川中流域と北部の秩父児玉地方という二つの屯倉を核に成立した合成国だったということになります。
武蔵国の領域は最初に一度決まると、後に荒川西岸の葛飾郡が下総から武蔵国に編入されたくらいで、おおむねそのまま長く江戸時代が終わるまで固定しました。しかし、その下部単位の郡は変遷があったと思います。
武蔵国は初めは郡数はもっと少なかったようです。高麗郡は716年、新羅郡は758年に諸国の渡来人たちを集めて設置されたことがわかっています。さらに高麗郡には上総郷があります。これは上総に住む渡来人たちを集めてつくった郷である可能性が高いということだとだと思います。また、埼玉県嵐山町の「町史」を見ると、比企郡は元は男衾郡の一部だったが、たぶんそこから独立したのだろうとあります。
そのほかにも、たとえば埼玉西北部に那珂郡と加美郡がありますが、この那珂郡は中(なか)、加美は上(かみ)のことで、それを漢字2字で表記しただけですから、この2郡は、元々は児玉郡であったのを3分割し、那珂郡と加美郡を分離独立させて建郡した可能性もあります。この那珂郡は武蔵だけでなく常陸にもあります。ですから、全国的にどこも建国当初はずっと少ない郡数だったろうと思われます。ただ詳細はまったくわかりません。なお、律令の決まりでは郡は最低でも2郷なくてはならないことになっています。ですから高麗郡と新座郡は最小の郡ということになります。
郡という名称は中国の律令からそのまま借用したもので、最初は評という古代朝鮮の名称を使っていました。それで、天武天皇の皇居跡からは、たとえば今の埼玉県の吉見地方である横見評という木簡が出土しています。この郡は平安時代の前半頃までは実際に機能していました。郡は元は大和王権時代に、その地域を支配していた国造をそのまま郡司という役職につけ、彼らの支配する領域を郡にしたものです。したがって、この郡司は国司とちがって任期はなく世襲制でした。
こういう独立性の強い郡に向きあう中央政府は細心の注意を払っています。大化の改新後の天智天皇の地方政策を見ると、国司が国造や郡司を刺激しないように神経質なほど気を使っています。その後天武天皇になると、急速に中央集権策を進めますが、その際にもっとも重視したのもやはり郡でした。奈良の政府は、税についても国府ではなく直接郡に納税を命じ、郡も国府を通してではなく直接奈良に税物を搬送していました。ですから地方の実質的な行政単位は郡でした。その点、国府にはほとんど権限がなく、政府と郡の間を仲介することと地方の実情を監察して都に報告するくらいしか仕事がなかったようです。この郡の長である郡司の役所を郡衙といいます。しかし、残念なことにこの郡衙の遺跡はほとんど不明で、武蔵21の郡の郡衙所在地はほとんどわかりません。現在わかっているのは都筑郡衙と豊島郡衙くらいです。  
3) 府中
武蔵の国府は東京の府中市にありました。国府の建物を国衙といいますが、この国衙の遺構は実はまだ見つかっていません。たぶんは府中駅近くの大国魂神社の境内にあったろうとされています。ですから府中の国衙がどうであったかはわかりません。しかし、国衙の姿は想像できます。というのも、国衙と郡衙の作りはほぼ同じで、しかも全国的に共通しているからです。これは設計図が同じというより、国衙や郡衙と官寺はすべて都から派遣された技術者たちが建てたものだからです。全国にある国衙のうち遺構がよくわかっているのは栃木県の下野市にある下野国衙です。それを見ると、中央に正殿、左右に脇殿があってちょうどコの字になり、正殿の後ろにも建物があります。おそらく府中の国衙も同じだったと思います。大きいといえば大きいのですが、小規模な市の市役所の方が大きいと思いました。
府中が武蔵の国府になったのは、先に述べたようにここが天皇の直轄地である屯倉だったからですが、屯倉に国府を置いたのもそれなりの理由がありました。府中市の「府中史」では、府中を国府にしたのは、武蔵の伝統的な豪族勢力との摩擦を回避するためだったのだろうとしています。多摩川東岸の下流域は、大田区に巨大前方後円墳があるように古くからの豪族勢力がいました。そして、武蔵北部の行田・比企地方にも巨大古墳があるように大豪族の勢力がありました。彼らは国造としてその地方を実質的に支配していました。これに対し新政府は彼らと妥協するのではなくいずれ排除するつもりでした。そこで、国府もこの二地域から離れたところに国府を設置する必要があったということです。これは確かに納得できる理由です。たぶんその通りだと思います。ちなみに府中市には弥生時代の遺跡もなければ古墳も一つもありません。ですから、古墳時代の頃まではたぶん無人の地かそれに近い所でした。
しかし、このほかにもいくつかの理由があります。一つには、府中が武蔵野台地の中では水に恵まれた豊かな土地だったからです。ここは国分寺崖線と呼ばれる伏流水が露出して野川になって流れています。そこで、府中周辺はこの川を利用して農業が行われ人口も稠密だったことです。この近くの狛江市は渡来人が定住した地として有名です。ですから、たぶん、このあたりは7世紀から8世紀頃に急速に開発され、その結果国府の機能を果たせるくらいの先進地に成長していたようです。
それともう一つ、たぶん府中は多摩川の渡河地点だったからだと思います。律令では多摩川のような大きな川では渡し船は用意することに決めていました。しかし、渡し船は公用で行き来する官人しか利用できなかったと思います。ふつうの人々は徒渉になります。多摩川は昭島市の拝島で両岸が急に狭くなり、それが府中に出ると急に川幅が広がります。たぶん太古の昔から府中市の分梅が原あたりは浅瀬になっていて徒渉が可能だったと思います。そして、多摩川の中下流域で徒渉できたのは、ここしかなかったと思います。つまり府中は交通の要衝でした。これも府中が国府になった理由の一つだと思います。
なお、その後この府中には鎌倉街道が通ります。そして鎌倉時代末期から室町時代前期にかけて、鎌倉の勢力と北関東の勢力が激しく戦闘を交えますが、この時常に激しい戦闘が起こるのが府中の分梅が原でした。これも府中が交通の要衝に位置していたからです。
3-1 武蔵国の人口
1) 郷数から割り出した人口
奈良時代から平安時代の前半にかけて、武蔵国にはどれくらいの人口がいたかを推測してみました。人口がわかれば、より具体的にこの時代の武蔵国の様子が想像できるからです。そのやり方は次のようになります。先に紹介した「和名抄」から10世紀の武蔵には21の郡があり、各郡の郷数を合計すると120郷があるのがわかっています。律令の規定では、1郷は50戸ですから、120郷ではちょうど6000戸になります。つまり、10世紀の武蔵には6000戸あったということです。
次に1戸の人数です。ここでの戸は戸籍上の単位で郷戸といいます。実際はこの郷戸をさらに分割した5〜8人の房戸とよばれる家族で生活していました。この郷戸については、奈良の正倉院に、721年の下総国の葛飾郡大嶋郷の戸籍簿が残っています。この大嶋郷は現在の東京都葛飾区と江戸川区の一地域です。戸籍簿は後になると税や労役を免れようと改竄が横行します。しかし、この大嶋郷の戸籍簿は奈良時代初めですから、ほぼ実態通りだと思います。これを見ると、大嶋郷は50戸1郷で総人口は1191人でした。この数値は、幼児から老人、それから奴婢まで含めた数字です。すると、1戸の平均は約24人になります。
しかし、一戸の平均を24人とするには、この資料だけでは薄弱です。それであれこれ考えて高麗郡が参考になるのがわかりました。高麗郡は716年に渡来人1799人を集めて、2郷の郡で設置されたからです。律令の決まりでは、50戸に満たない場合は余郷(あまるごう)にするとあります。先の郡郷表でいうと余戸とあるのがそうです。しかし、高麗郡にはこの余郷がありません。したがって、ほぼ100戸あったと考えられます。すると2郷編成の高麗郡は100戸で1799人ですから、1戸あたりの平均人員は18人となります。大嶋郷の24人にはなりませんが、18と24でそうかけ離れてもいません。高麗郡の場合は、政府の政治的な入植政策によるものでしたから、子供や老人は少なかったと思います。つまり大嶋郷の1戸平均24人は実態に近い数字だと思います。
武蔵の郷数は10世紀のもので、大嶋郷の一戸の人数は8世紀のものです。ですから、両者を同時に扱うのは少々無理があります。しかし、無理を承知で計算すると、10世紀半ばの武蔵国の人口は、24人×6000戸=14万4千人ということになります。この14万4千人が10世紀の武蔵の人口です。やや多めに切り上げて約15万人。これが奈良時代から平安時代前期の頃の武蔵の人口ということになります。
2) 徳川家康の所領からの推測
しかし、考えてみると奈良時代頃の武蔵の人口が15万人というのはいかにも少なすぎるように思います。それで、さらにもう一つのやり方で推測してみました。それはずっと時代が下りますが、徳川家康が江戸に入府した時点での武蔵国の石高から推測する方法です。 
家康は後北条氏が滅ぶと、その遺領をそっくり受け継ぎました。この時点では江戸は政治都市になっていません。武蔵は昔ながらの農耕社会でした。この時の武蔵国の石高は約67万石でした。そして、この頃豊臣秀吉が行った太閤検地によると、全国の総石高は1850万石でした。このことから江戸時代直前の家康が領有した武蔵国の生産高は、全国の3.6%であるのがわかります。
(余談になりますが、この太閤検地では近江はなんと78万石もありました。滋賀県の経済力が東京・埼玉・横浜川崎をあわせたより大きかったのですから、時代がちがうとこうもちがうのかと大変驚きました。織田信長は近江の安土に巨大な城を作りました。以前からどうして信長はあんな所に城を作ったのか不思議でなりませんでしたが、この数値をみて氷解しました。)
次に平安時代の10世紀頃の日本の総人口を調べてみました。すると、どのように計算するのかわかりませんが、鬼頭宏という人口学者のつくったグラフを見ると、当時の日本の総人口は約600万人でした。そこで、土地の生産力と人口は比例すると仮定すると、江戸時代直前における全国と武蔵国と生産力の比を使って武蔵の人口が割り出せます。平安時代の総人口600万人の3.6%が武蔵国の人口ということになります。その数字は21万7千人です。この21万7千人は家康の所領から推定した平安時代の武蔵国の人口です。しかし、鎌倉時代から室町時代にかけての歴史をみると、鎌倉に隣接する武蔵は極めて重要な地域で、鎌倉時代から開発が進み、人口も増加しました。しかし、そういうことを考慮せずに計算しても21万6千人ということは、平安時代の武蔵には、この数値を上回る人口はいなかったと言えます。つまり、郷数から割り出した14万4千人という数字はそうまちがってはいないということです。この時代の武蔵の人口が約15万人というのはほぼ正しいだろうと思います。さらに、武蔵の人口を15万人とすると、その人口構成は先の大嶋郷をもとに比例計算すると次のようになります。
20〜60歳の男性    40500人
20〜60歳の女性    45000人
幼少年・老人     64500人
こうして見ると、古代の武蔵は東京・埼玉・神奈川東部という広大な領域ですが、そこにたった15万人しかいなかったのですから、今の北海道の過疎地よりもっと過疎地だったということになります。10世紀の武蔵国は想像以上に過疎の社会でした。おそらく一つの郡で人口が1万を越える郡はほとんどなかったと思います。現在の東京都の人口も当時はわずか3万1千人くらいしかいなかったことになります。たぶん、武蔵野台地中央の、今の中野区杉並区新宿区あたりはまったく人の住まない荒涼とした武蔵野の風景だったと思います。 
3-2 武蔵の人口の分布
1) 人口稠密地域
武蔵国の人口が15万人というのは、平安時代になり、武蔵の開発が一段落し一応の安定をみた頃のことです。そこで、この15万人の人々が武蔵国のどの地域に住んでいたかを考えてみました。その手がかりは二つあります。一つは先ほどの武蔵国の郡の分布で、もう一つは神社の分布です。そこでこの二つのことから想像的に推測してみます。
古代は山間地が稠密地
まず郡の分布ですが、武蔵国の郡は埼玉県北西部と東京神奈川の南西部に偏っているのがわかります。しかも、地図を見ると、この地域には面積が極端に小さな郡が多いことが特徴です。この二地域で狭小な郡は次の郡です。
埼玉北西部の8郡
男衾郡、幡羅郡、榛澤郡、大里郡、児玉郡、那賀郡、賀美郡、横見郡
東京神奈川の南西部の3郡
橘樹郡、荏原郡、久良木郡 
このことから、古代の武蔵国も均一に人口が分布していたのではなく、埼玉県北西部と東京神奈川の西南部に人々が多く住み、それ以外の所は過疎地だったということになると思います。現在武蔵にあたる地域は東京都心部、川崎市横浜市さいたま市というように東の海岸部に人口が偏っていますが、この時代はここはむしろ過疎地で、それよりも西側の山間地とその麓に人々が多く集まっていたことがわかります。
しかし、武蔵の人口分布を考えるには、もう少し小さな領域で見る必要があります。というのも、たとえば入間郡や足立郡という過疎地の郡にも人口が多い所もあるはずだからです。この場合の手がかりは神社です。
式内神社
奈良時代からずっと時代が下りますが、平安時代の905年から60年かけて、政府が延喜式という行政の施行細則をまとめました。その中で、全国の約2900の神社を選んで神名帳を作っています。神名帳を作ったのは、中央の神祇官が幣帛を奉納する神社を決めるためでした。そして、ここに記載されている神社を式内神社といいます。ふつう由緒ある古社というのはこの式内神社のことをさします。武蔵の式内神社は44社あります。この延喜式では神社を大社と小社に分けています。武蔵では大社は足立郡の氷川神社と児玉郡の金鑚神社の二社だけで、残りはすべて小社です。
ここで重要なことは、この式内神社は単に格式のある神社というだけではなく、選定作業が始まった905年の時点で、すでに由緒ある神社として存在していたということです。ですから、716年に設置された高麗郡と、758年設置の新座郡には式内神社がありません。おそらく、奈良時代初期の創建でないとこの神名帳には載らなかったと思います。神社があれば当然これを祭る人々がいます。人々は神社を建てて神を敬い、同族の結束を高め生きる力を手に入れていました。こういうふうに信仰が日々の生活と融合していたのが古代人の生活でした。そして、この式内神社のある所は早くから開発が進み、たぶん人口も多いところだったことになるはずです。(もっとも、式内神社の選定には時の政治的思惑もあったと思います。しかし、そこまで考えるときりがありませんから、ここでは立ち入らないことにします)
武蔵国の式内神社は次の44社です。並ぶ順序は郷数の多い郡の順です。ただし、( )内の所在地はあまり当てになりません。神社が昔から現在地にそのまま建っているとは限らないからです。それに、同じ名称の神社が複数あって自社こそが式内神社だと争っていて、はっきりしないのもあります。本当に昔から変わらずそのままある式内神社は、御神体を拝殿背後の山にしている金鑚神社だけだと思います。したがって、所在する郡は正しくても、( )の所在地は参考にしかなりません。
2) 武蔵の式内神社
多磨郡   8社
1.阿伎留神社       (旧五日市町)
2.小野神社        (府中市か多摩市)
3.布多天神社       (調布市)
4.大麻止乃豆乃天神社   (稲城市)
5.阿豆佐味天神社     (瑞穂町)
6.穴沢神社        (稲城市)
7.虎柏神社        (調布市か青梅市)
8.青渭神社        (調布市か稲城市か青梅市)
荏原郡  2社
9.ヒエ田神社(難字)    (東京都港区か大田区)
10.磐井神社         (東京都大田区)
久良木郡 0社
男衾郡 3社
11.小被神社         (寄居町)
12.出雲乃伊波比神社     (寄居町)
13.稲乃売神社        (寄居町)
幡羅郡 4社
14.田中神社         (熊谷市)
15.奈良神社         (熊谷市)
16.楡山神社         (深谷市)
17.白髪神社         (妻沼町) 
都筑郡 1社              
18.杉山神社         (横浜市緑区)
豊島郡 0社
足立郡 4社
19.足立神社         (旧大宮市)
20.氷川神社         (旧大宮市)
21.調神社          (旧浦和市)
22.多気比売神社       (桶川市)
秩父郡 2社
23.秩父神社         (旧秩父市)
24.椋神社          (旧吉田町)
入間郡 5社
25.出雲伊波比神社       (毛呂山町か瑞穂町)
26.広瀬神社          (狭山市)
27.物部神社          (所沢市)
28.国渭地神社         (所沢市)
29.中氷川神社         (所沢市)
橘樹郡 0社
埼玉郡 3社
30.前玉神社(2座)     (行田市)
31.玉敷神社         (騎西町)
32.宮目神社         (騎西町)
榛澤郡 0社
比企郡 1社
33.伊古乃速御玉比売神社   (滑川町)
大里郡  1社
34.高城神社          (熊谷市か大里村)
児玉郡 1社
35.金鑚神社         (神川町)
那賀郡 1社
36.ミカ神社(難字)     (美里町)
賀美郡 4社
37.長幡神社         (上里町)
38.今城青八坂稲実神社    (上里町か神川村)
39.今木青坂稲実荒御魂神社  (上里町か神川村)
41.今城青坂稲実池上神社   (上里町)
横見郡  3社
42.横見神社         (吉見町)
43.高負比古神社       (吉見町)
44.伊波比神社        (吉見町)
高麗郡  0社
新座郡 0社
3) 武蔵の人口分布
これを見ると、ここでも大きな偏りがあるのがわかります。そして、郡の分布と同じように埼玉県の西北部と多摩川下流域に式内神社が多いのがわかります。とくに埼玉県北西部の11郡で21社と半分近くを占めます。そのうち、利根川の南岸から荒川の北岸の領域に10社。荒川南岸から比企丘陵の東方のさきたま古墳のある行田あたりまでの領域に11社あります。ただし、真ん中の比企丘陵は空白地帯です。
次に多いのが足立郡内の旧大宮市・旧浦和市・桶川市の4社です。それから、二つの郡にまたがりますが、多磨郡の北西部(瑞穂町)とその近くにある入間郡の西部(所沢市と狭山市)にまとまって4社あります。
そして、多摩川の下流域の、多磨郡と荏原郡の境界部分に4社あります。また秩父に2社あります。式内神社が多いということは、その地域は人口も多く開けた土地と考えるのがふつうです。また、郡の面積に広狭があるように、現在の市町村でも面積の広いところと狭いところがありますから、現在の市や町で判断するわけにはいきません。そこで、地図上で式内神社の所在を見ると、奈良時代の頃には次の所が人口の多い地域だったと思います。
1.埼玉県西北部で利根川の南方(今の埼玉県深谷市、本庄市、旧児玉町、美里町)   
2.荒川の中流域(今の埼玉県熊谷市南部、行田市、騎西町)     
3.比企丘陵の西の標高の高い山間地(今の埼玉県寄居町) 
4.比企丘陵の東方の荒川低地(今の埼玉県吉見町)
5.大宮台地(今のさいたま市)                 
6.狭山丘陵から入間川まで(今の東京村山市、埼玉県所沢市、狭山市)
7.府中から先の多摩川下流域(府中市、調布市、大田区、川崎市) 
4 古代の道
1) 東山道武蔵路
奈良時代の武蔵にとって大きな変化は、ここが東山道から東海道に変わったことでした。それまで武蔵は東山道に属していました。それが771年に正式に東海道に編入しました。奈良時代が始まって60年後、大化の改新から約120年後でした。
道というのは、たとえば北海道がそうであるように一つの地域を表すこともありますが、奈良時代には、それと同時にはそこを通過している官道のことでした。もっと簡単にいうと都と国府を結ぶ道のことでした。政府の役人が公用で旅をする場合には必ずこの官道を通ることになっていました。しかも、この官道には一定の距離ごとに駅があり、ここには馬と人夫が用意されていました。ですから、公用で都と地方を行き来する官人たちにとって大変便利にできていました。
規定によれば、山陽道は一駅に馬20頭、東山道や東海道は10頭用意することになっていました。そして、この駅役は指定された郷の役目でした。先の武蔵の国郡表の郷名に駅屋とあるのがそうで、これは「えきや」ではなく「うまや」とよびます。ただ、上野国から武蔵国分の府中までの道は枝道でしたから、たぶんその下のランクの馬5頭の駅だったと思います。
東山道は奈良に都と宮城県の多賀城を結ぶ道でした。この道のルートはまず奈良から伊勢を通って尾張に出ます。尾張からは天竜川に沿って中部山岳地帯を抜け長野と群馬の境にある碓氷峠まで行きます。古代ではこの碓氷峠が東国への玄関口でした。そして、ここから上野の国府(たぶん今の前橋市の総社)に向かいます。前橋市からはそのまま東に進み、栃木県の小山市で北上して宮城県の多賀城市に至るのが東山道です。このうち、前橋から小山までは現在の国道50号線、小山からは国道4号線とほぼ同じです。以上が東山道ですが、この道で武蔵の府中に行くには、上野の国府かその先で南下して府中に行くことになります。この南下する道を歴史では東山道武蔵路とよんでいます
東海道と東山道
相模、上総、下総、常陸という関東のほかの国が東海道なのに、武蔵だけが東山道に所属していたのにはそれなりの理由がありました。それは奈良時代以前の東海道のルートにありました。大和王権時代の東海道は奈良から伊勢に出て伊勢湾を舟で渡ります。ですから今の名古屋は通りません。そして、そこから先は、前に日本武尊の所で説明したように三浦半島の走水(はしりみず)という所に出てそこから舟で東京湾を横断し、房総半島に上陸するのです。そして房総半島を北上して常陸に行きます。これが大和王権時代の東海道でした。昔の東海道が武蔵を通らなかったのは、ここは多摩川、荒川、利根川という大きな河川の河口域で、広大な湿地帯が広がり交通がむつかしかったからです。こういう事情は、木曽川などの大河の河口域にあたる名古屋を避けて、舟で伊勢湾を渡るのと同じです。このため武蔵は東海道には入りませんでした。とくに隅田川や利根川が東京湾に注ぐ河口域は、古代では陸化が進まずまだ海でした。ですから現在の東京都心部を横断することは非常にむつかしかったのです。一般的に、東山道と東海道の二つの道を比べると、東海道は大井川や天竜川という大河の河口にあたり、徒歩はともかく荷物運搬などの場合には、江戸時代の頃までは東山道(後の中山道)の方が便利だったかもしれない、という印象を持っています。また、平将門の乱を題材にした「将門記」を読んでも、将門は下総の人にもかかわらず、将門も宿敵の平貞盛ももっぱら東山道を使って関東と京都を行き来していま。ですから、平安時代頃までは東海道より東山道の方がメインだったと思います。
話を古代の武蔵にもどします。都から武蔵に行くには、東山道で上野から南下する東山道武蔵路を通ることになりますがこの道も官道でした。こういう官道は規格がありました。その規格は道幅9〜12メートルでできるだけ真っ直ぐに作るということです。ですから、この武蔵路も道幅10メートルくらいの立派な道だったと思います。一般に昔の道は狭く細い道でしたが、古代の官道だけは例外で不必要に広かったようです。
この武蔵路については、確実に存在したはずだと考えられています。文献にも、駅名は出てきませんが5つ駅があったと書いてあります。しかし、その遺構はまだはっきり見つかっていません。府中近くの国分寺市と埼玉県の所沢市と吉見町でそれらしい大きな道の一部が見つかったというだけで全部のルートを確認できるまではいたっていません。そのため専門家たちも断言はしませんが、複数の専門家の話をまとめると、起点はたぶん上野の太田市。そこから、現在の埼玉県の熊谷市、吉見町、日高市、狭山市、所沢市、それから東京の東村山市を経由して国分寺市、府中市に通じていたであろうということでした。
実際に地図でこの地域を線で結ぶとほぼ一直線になります。また、奈良時代から平安時代の前半の武蔵国を考えてみると、この地域は人口も多く開発も進んでいましたから駅をもうけるのにも都合がよかったと思います。ですから、東山道武蔵路はほぼこのルートだったと思います。
2) 武蔵の東海道
ところが、771年に武蔵が東海道に編入されると、府中と都を結ぶルートも大きく変わりました。相模の国府がはっきりしませんが、最初の東海道は、今の国道1号線ではなく、相模の国府から内陸の店屋駅(「まちや」。現在の町田市)を経由して、そこから直線的に府中に向かう道でした。これが相模から武蔵に通じる新しい東海道のルートでした。しかし、東海道は、元々は下総国府(現在の千葉県市川市)、常陸国府(現在の茨城県石岡市)に行く道ですから、この時に府中から先にも新しい道もできました。そして、この府中から市川までの東海道は、少なくとも2回変わりました。
はじめは府中から現在の東京都杉並区を抜けて豊島駅(たぶん現在の東京都中央区麹町)を経て、下総の国府まで西に真っ直ぐ道が走っていました。これが最初の道でした。その後、杉並は通らずに府中から大井駅(現在の東京都品川区)に向かい、そこから豊島駅を経て下総の国府に行くようになりました。
しかし、地図を見ればわかりますが、相模方面から下総常陸に行くには府中を通る道は遠回りになります。そこで、鎌倉方面から府中に寄らず、そのまま海岸沿いの道を行ったほうが近道になります。そのため、最終的にはこの海沿いの道が東海道の本道になり、府中への道は枝道になってしまいました。たぶん平安時代の中頃です。というのも、桓武平氏の流れをくむ江戸氏や豊島氏が東京に進出するのがこの時期だからです。 
3) 古鎌倉街道
武蔵が東海道に所属替えになっても、武蔵を縦貫する南北の道は相変わらず重要でした。それは国府の府中と東山道を結ぶ必要があったからです。たぶん、武蔵路は武蔵が東海道に所属すると駅は廃止されましたが、その後も南武蔵と北武蔵を結ぶ道として機能していたと思います。
しかし、武蔵の南北の道はこの武蔵路だけではなかったと思います。たぶん、もう一つの道がありました。それは武蔵路よりもっと西の関東山地のふもとを通る道です。この道は後に鎌倉街道上道とよばれるようになります。
ずっと時代が下りますが、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の鎌倉攻撃を見ると、義貞は群馬県太田市のすぐそばの新田で兵を挙げ、埼玉県の嵐山町、日高市、所沢市、府中市と進撃しています。そして、府中の会戦で幕府軍を破ると一気に鎌倉を攻めました。義貞の進撃路のうち、埼玉県の嵐山町から南は鎌倉街道上道でした。(鎌倉街道の幹線道路はこの上道のほか、中道と下道がありました)
鎌倉街道の成立については、源頼朝が奥州藤原氏攻略のため整備したという説もあります。たしかに鎌倉街道はどういうわけか地面を掘り下げて作られており、明らかに大掛かりな道路工事をして作った道でした。しかし、何もない原野を切り開いて作った道ではなく、それ以前にあった道を街道に作り直したのだと思います。そして、この道はたぶん奈良時代のずっと前からあった道で、その後鎌倉街道とよぶようになったのだと思います。   鎌倉時代以前のこの道を仮に古鎌倉街道と呼ぶことにします。鎌倉街道という呼び名は、室町か江戸時代になってできた名称で、鎌倉時代には単に上道、中道、下道とよんでいました。
この古鎌倉街道は、奈良時代以前から武蔵路よりよく使われたと思います。古代に、この道が確実に存在したという確証はありません。文献もありませんし、考古学での遺構もありません。遺構がないのは、こういう自然にできた道はその後もさまざまに変わりながら現代に続いているからです。現在この鎌倉街道は埼玉北部では国道254号線になっていますが、児玉町の人は今でも鎌倉街道とよんでいます。この古鎌倉街道ともいうべき道が古代からあったのではないかと考えるのは、このルートが古代武蔵では、武蔵でもっとも開けていた地域を縦貫しているからです。この道は府中から埼玉県の入間川を渡るまでは武蔵路とほぼ同じルートですが、入間川を越えると西の山間部の麓を通ります。具体的には、埼玉県狭山市―坂戸市―嵐山町―寄居町―児玉町―群馬県藤岡市―信濃国となります。
私はこの道を2,3度通ったことがあります。この道は比企郡の笛吹峠を越えると起伏に富んだ丘陵地帯になりやがて荒川に出ます。そして、荒川を渡るとまた丘陵が続き、それから山間部に入ります。ここには武蔵二宮である金鑚神社があり、この神社のすぐ裏手を神流川が流れています。このあたりではこの神流川が武蔵と上野の国境でした。川の向こう岸は群馬県の藤岡市、その先が高崎市となります。
このうち、途中の比企丘陵には奈良時代の武蔵最大の窯業地だった比企窯跡群があります。ここで焼かれた瓦や陶器は武蔵のみならず、上野下野下総と関東各地に運ばれました。また、荒川を渡った先の美里町児玉町は、もう町中いたるところに古墳があるというように古墳が密集している地域です。
さらに7、8世紀には、武蔵各地で豪族たちが氏族寺院をつくりましたが、その多くはこの道筋の北武蔵にあります。ですから、この古鎌倉街道沿いの一帯は古代の武蔵では最大の人口稠密地帯でした。律令時代には調庸の税物が地方から都に運ばれましたが、その搬送は、国府でまとめて都に送るのではなく、各郡から直接都に送る仕組みでした。すると、武蔵の鎌倉街道の道筋にある郡では、わざわざ東に遠回りして官道の武蔵路で運ぶはずがありませんから、この古鎌倉街道で都に運んだと思います。また郡衙の役人たちも、この道で府中との間を往来していたと思います。
古鎌倉街道が武蔵路より優れているのは、この道を使うと利根川を渡らなくてもすむことです。神流川は利根川の支流で川幅も狭く水量も小さな川です。容易に渡河が可能でした。そして、その先は群馬県の藤岡市、高崎市ですから、すぐに東山道と結ばれます。武蔵から東山道の本道に出るこの道は、たぶん武蔵の歴史の中でもっとも重要な道でした。
道と川
昔の武蔵の交通を考える場合、ポイントは川だと思います。道はどこにでも出来ますが大きな川はそうはいきません。とくに軍隊の移動では舟は使いません。かならず徒渉になります。ですから、昔の軍隊の渡河地を調べると、そこが古代の道のルートになります。鎌倉時代から室町時代にかけての軍の移動を見ると、武蔵では渡渉できたのは次の4箇所でした。
多摩川=府中市分倍が原
入間川=埼玉県狭山市広瀬
荒川=埼玉県寄居町赤浜
利根川=千葉県関宿の対岸
関宿が脚光を浴びるのは室町時代後期です。それまではこの地域は不毛の地でしたから歴史に登場することはありませんでした。それが室町時代後期になると、後北条氏と反後北条氏がここをめぐって激しい攻防戦を展開し、武蔵では最大の戦略上の要地になります。
したがって、武蔵の幹線道も時代によってさまざまに変わりましたが、この4ケ所の渡河地はいつの時代でも必ず通ることになっていたと思います。
東京都心部から千葉へ
東京都心部から千葉県に行くルートはわかりません。というのもこのあたりの古代の様子がわからないからです。先に説明したように、室町時代頃までは日比谷には神田川が流れていました。そして、ここは日比谷入江といって細く伸びた半島状の陸で囲まれた入り江でした。さらにその東には入間川、荒川、利根川が流れこんでいました。ここは広大な低湿地でしたので頻繁に流れも変わっていました。
有名な古典の「更級日記」は、1020年に上総(国府は市原市)の国司だった父と京都にもどる様子が書いてあります。それを読むと、このあたりは、葦や萱が生い茂り、前を歩く人の姿も見えないような寂しい所だとあります。そして作者は竹芝を通ったことが書いてありますから、当時の交通路では今の東京都港区が起点になっていたようです。そうすると舟を使うことになります。舟を使うなら川を飛び飛びに何回も舟で渡るより、日比谷から舟で海に出て東京湾を一度で渡った方が簡単ですし、そうであるなら何も相模から日比谷まで歩いていくよりも、三浦半島か横浜の金沢あたりから舟に乗った方がもっと簡単なはずです。都心部から千葉に行くルーとについては、いろいろ考えてみましたが、どうにもよくわからないというのが正直なところです。 
5 国司と郡司
1) 国司
大化の改新以降、全国が六十以上の国に分けられ、その下に郡里(郷)がもうけられ、地方行政の仕組みができたことは、先に述べた通りです。そこで次に、ではその実態がどうだったかですが、これがほとんどわかっていません。実態がわからないばかりでなく、たとえば武蔵についても歴代の国司がだれだったのかも正確にはわかっていません。「埼玉県史」では、「続日本紀」「日本後記」などの正史のほか貴族の日記、それから「将門記」のような物語まで調べて掲載していますが、それでも空白の期間がかなり出てきてしまいます。
全体的に奈良平安時代の武蔵は、文献が乏しい上に、発掘資料も少なくてはっきりしたことはなにもわからないというのが本当のところだと思います。そこで、歴史の書物を見ても、律令にこういう法令が記載されているから、たぶんそうだったにちがいないというふうに書いてあります。規則と実態がちがうのは、いつの時代のどこにでもあることなので、法規通りということはなかったと思いますが、ともかくこれを頼りに考えを進めるしかありません。
律令によると、国には国司、郡には郡司、里(郷)には里長(郷司)がいました。ですから地方の行政長は国司ということになります。武蔵では府中の国司が、武蔵21郡の郡を統括するということになります。
国と郡の制度ができた当初は、国司にはさほど大きな権限はありませんでした。大化2年に政府が国司を東国に派遣するに際し、国司には裁判権も徴税権も軍事発動権も与えませんでした。それどころか、国司が裁判を行った場合には処罰するとまで申し渡しています。というのも、これらの権限は従来からその地方を支配していた国造にあったからです。新政府のこういう方針は、豪族勢力と摩擦が起こるのを回避するためでした。細心の配慮をした上で、なすべきことは果断に行う。こういう政治姿勢には新しい政治理念をうちたてようとするに新政府の指導者たちの情熱を感じます。また、奈良時代の頃までは、国司経験者もやがては中央政府にもどって今度は国政を担当するというように、中央と政府の行政が有機的につながっていました。中央政府の要職は身分の高い貴族の子弟、地方の国司は中級貴族の子弟というように、貴族社会の階層で固定するのはずっと後になってからでした。
国司の任務はもっぱら、任国の実情を中央に報告することと、中央からの命令を伝えることでした。国司が大きな権限を持って、まるで江戸時代の大名のように振る舞うのは、平安時代の後期で、国司が中央政府と決まった額の税物の徴収を契約するいわゆる国司請負制が普及してからです。とはいえ、武蔵の場合、この任務を遂行するだけでも大変なことだったと思います。というのも、国の領域があまりにも広すぎるからです。私は自動車と電車でかつての武蔵をあちこち回っていますが、いくら走っても点と線ばかりで全体を見たという感覚がありません。おそらく、奈良平安時代の武蔵の国司たちは、赴任してもずっと府中にいて各地を巡察することはなかったと思います。
府中の大国魂神社には六所宮というのがあります。ここには武蔵国の主な神社六社を分祠して祭っています。当時、国司は赴任するとまず国内の主な神社に参詣しなければならないという決まりがありました。しかし、この六社で、北の端は埼玉県神川町の金鑚神社で、南の端は川崎市の杉山神社です。現代人の正月の初詣ではありませんから、いろいろ儀式があったと思います。すると、まともに回ると三ケ月くらいかかりそうです。それで大国魂神社に六社を分祠して一度のお参りで済ますことにしました。無精といえば無精ですが、そうでもしなければとても回りきれなかったと思います。ついでながら、この時参詣には順番があって、その順番で一宮とか二宮と決めました。この六所宮では一宮は氷川神社ではなく府中市か多摩市の小野神社、二宮は金鑚神社でなく東京のあきるの市の小川神社です。
国司の任期ははっきりしません。最初6年でしたが、後に4年になり、その後、また6年にもどったりしています。しかし、都の貴族にとって4年も6年も地方暮らしを続けることは耐え難かっただろうし、また、中央政界の事情でひんぱんに交代していたと思います。
律令では、国をその規模に応じて大上中小の四等に分け、国司の定員がちがっていました。武蔵は大国でした。大国の場合、国司の定員は次の通りで彼等は俸禄のほかに次の恩典がありました。
守(かみ)   1名  2.6町の職田支給)
介(すけ)   1名  2.6町の職田支給)
掾(じょう)  2名  1.6町の職田支給)
目(さかん)  2名  1.2町の職田支給)
史生(ししょう)3名  0.6町の職田支給)
もっとも、これだと9人しかなりません。ですから、実際には現地採用の役人がいて、実務も彼らがしていたと思います。
それと職田ですがこれも考えてみると、よくわかりません。一応労役税を課された農民が耕作することになっていました。しかし、実際はその職田の面積に見合う収穫を租税から支給されたのだろうと思います。
2) 郡司
郡司は国司とちがって任期はありません。郡司は終身でした。郡司は富豪の家から選ぶという方針がありましたから、以前の国造がそのまま郡司になった地域も多かったと思います。郡の下の郷名を見ると多くの郡に「郡家郷」(ぐうけごう)があります。ここは郡司の庁舎である郡衙のある郷です。ですから、郡司は終身というより、世襲職になっていたようです。さらに想像すると、郡司職には個人が就くというより、郡司の一族が郡司の職務にあたるというようなことだったと思います。したがって、郡司は大領以下の役職者がいましたが、こういうのも現代の官僚制度のように個人が就任し、その個人が職務をはたすというようなものではなかったと思います。
郡の役所を郡衙といいます。ところが、この郡衙がどこにあったのかはほとんどわかっていません。武蔵21郡のうちはっきりしているのは豊島郡と都筑郡だけです。豊島郡の郡衙は東京都北区にあり、その遺構が出土しています。それによると正面に正殿があり、左右に脇殿があります。そのほかに正倉と呼ばれる倉庫が並んでいたようです。全国的に国衙も郡衙もほぼ同じ作りですが、正倉があるだけ郡衙の方が規模が大きくなるのがふつうでした。都筑郡衙は横浜市青葉区にあります。これも豊島郡衙とほぼ同じです。国衙も郡衙も奈良の平城宮を小さくした作りです。
郡司は優遇されていました。郡司も国司と同様、郡の規模によって、大上中下小郡の5ランクに分けられます。武蔵には、大上の郡はなく、最も大きい多摩郡でも10郷で、これは中郡です。中郡では、律令の決まりでは
大領 1名 6町の職田支給
少領 1名 4町の職田支給
主政 1名 2町の職田支給
主計 1名 2町の職田支給
となります。
律令の決まりでは郡が集めた税物は郡衙に集められました。租米の多くはこの郡衙に収納され、庸調の布や貢納物も、郡から直接都に運ばれていました。また、律令では戸籍簿2部作成し、1部は都に送りもう1部は国府で保管することになっていましたが、この作成の実務もこの郡が行っていたと思います。したがって、地方行政の実際を担っていたのは国府ではなく、郡衙の役人とその下の郷長でした。
下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍簿を見ると、郷長も郷の下の里正も同じ姓の人物です。また村人の多くも同姓です。したがって古代では地域住民の多くは同族集団だったのがわかります。こういうことを考えると、古代の地方行政の仕組みは、今でいう官僚制というより一種の家父長制のようなものだったと思います。
なお、武蔵国の郡司については、「続日本後記」に男衾郡の大領に壬生吉志福正(みぶきしふくまさ)という人がいて、息子たちの一生分の税をまとめて先払いしたという記事があります。また、彼は武蔵国分寺の七重塔の再建を願い出て認められたことが記述されています。ただ、武蔵国分寺の七重塔は、鎌倉時代末に新田義貞の鎌倉攻めで際焼失しましたが、この時の七重塔が福正が再建した塔だったかどうかもわかりません。この人は平安時代の人で、埼玉県の歴史では必ず取り上げられる人物です。壬生吉志は皇族の皇子の領地を管理する渡来系の氏族で、大阪府を本貫にする豪族です。もっとも、この頃の武蔵には、壬生氏のほかに私市(きさいち。天皇の后の領地を管理する)、大伴部、物部氏など中央の皇族や豪族の関連をうかがわせる姓の人々がたくさんいました。ですから、福正だけが特別中央政府との結びつきが深かったというわけでもありません。 
6 租庸調
1) 班田収授の法と租
律令制というと、班田収授の法と租庸調の税制が有名です。ほかにも兵役や労役もありましたが、この土地制度と租庸調の税制が律令制の骨格ですので、まずこのことついて考えてみます。
班田収授の法というのは、誰でも知っているように、6歳になると男子は2反、女子はその2/3を口分田として与えられる。その代わり、租税として収穫の約3%を政府に納めるというものです。1反というのは、300坪のことで、一辺が約33メートル四方の土地です。そして、律令ではこの1反の田地から150キロの舂米(「しょうまい」と読み、今の玄米のようなもの)が収穫できるものとみなしました。そこで、その収穫から1反あたり稲1束5把(舂米換算で4.5キログラム)、率にして3%を租として納めさせるというものです。男性の場合、口分田が2反ですから舂米で9キロ、女性の場合は、その2/3の6キログラムが租税になります。
1反当りの米の収量を150キログラムとするのは妥当だと思います。現代では1反から約600キログラムの収量がありますが、収量がこのように飛躍的に伸びたのは明治になってからで、江戸時代でも1反当り160〜190キロくらいでした。そして、実は奈良時代も江戸時代も収量はたいして変わりませんでした。ですから、奈良時代でも、これはたぶん上田になりますが、1反あたり150キログラムの収量はあったと思います。
反と石の関係は実際は逆で、1反から1石の米が取れるのではなく、1石の米が取れる土地の広さを1反と決めたようです。ですから江戸時代の1反より奈良時代の1反の方が面積が広く、奈良時代では地味の良し悪しで1反の広さも場所でまちまちだった可能性もあります。しかし、そういうことを考えるときりがありませんので、ここでは単純に300坪の土地ということで進めます。
租税も、実際は一人一人が納めるのではなく、戸ごとにまとめて納めていたと思います。ですから、たとえば7人家族で6歳以上の人が5人いる世帯を標準世帯として想定すれば、1年間に玄米で37.5キログラム(男性の9キロと女性6キロの平均で7.5キロ。その5人分)の租税ということになります。江戸時代でいうと、米60キログラムが1俵ですから、一家族の租税が米37.5キログラムは半俵くらいですから租税は意外と軽かったことになります。
律令の決まりでは、集められた租米は郡の正倉に運ばれ、国府や郡の行政費にあてられました。残りは貯蔵して飢饉に備え、不時の出費や窮乏した農民の救済にあてるということになっていました。ですから、この租は今でいうところの地方税になります。ただし、すでに述べたように武蔵は水田不適地帯ですから、このような米納を前提とする租税制度がそのまま適用されたとはとても思えません。このことについては後述します。
2) 庸
租が地方税なら庸と調は国税でした。この庸調は男性にだけかかり、女性は免除されているのが特徴です。ですから、後になると戸籍の改竄が横行し、女子の多い戸籍簿が多くなります。また、この庸調の物資は地元の負担で都まで運搬するのが決まりでした。この運搬にも規定があり、武蔵では上り29日、下り15日ということになっていました。どこまで実態と合致していたかはわかりませんが、何から何まで細かく決まりがあるのが律令の特徴です。
庸は元々は都に行って、政府のため年に10日間労役にしたがうことでした。しかし、畿内ならともかく、都から遠く離れた地方では無理です。そこで、労役に代わって物納ということになりました。庸は地方ごとに品物が指定され規格もありました。武蔵の場合は布でした。古代では布というのは織物一般のことではなく、麻か藤の織物のことを言います。ふつうは麻です。一人が納める庸布は、幅80センチで長さが5メートルでした。この幅80センチも政府の決めた規格です。布の場合は約10メートルが一端でした。1端というのは、大人1人分の着物を仕立てるのに必要な布地の量です。ですから納税する農民は二人で1端、つまり大人一着分の布を納めるということになります。都に運ばれたこの庸布は、もっぱら下級役人の食料費や、土木工事で雇用した人夫への給与に使われました。
この端は後に反(たん)になり、現代では一反は約13メートルです。しかし、一反が大人一人分の着物に必要な長さという考えは同じです。ちなみに米一石の150キロも大人一人が一年間に必要なカロリー量です。ですから、昔の単位はすべて生活に結びついたものであることがわかります。
3) 調
調はその地方の特産物を物納する税です。庸と似ていますが、庸は財源としては小さく政府の収入の柱はこの調でした。調も国によって指定がありました。武蔵は庸と同じく織物でした。最初は布だけでしたが、その後絹を混ぜるようになりました。これを調布といいます。しかし、武蔵のような後進地では高級絹布は無理です。そのため高級絹布はもっぱら畿内で調達し、武蔵は「あしぎぬ」とよばれる目の粗い絹布でした。調の織物は、絹は幅65センチで長さ5メートル。麻布の場合は幅80センチで長さ10メートルというのが一人当たりの調布でした。したがって、麻を納める調布では納税者は大人一着分の布地を納めることになります。
庸が21歳以上の男子に課されたのに、調は17歳以上の男子と納税層が広く、布の長さも庸布の2倍もありました。したがって会計規模も庸に比べるとはるかに大きく、中央政府の主要財源はこの調でした。この調は、おもに貴族や役人などの給与に充てられていました。武蔵の庸調が織物になるのは、運搬が容易だったからです。武蔵に限らず遠国とよばれる地方はだいたい織物でした。なお、租庸調のほかにも税はありました。また、税として納めた物産は記録を見ると、布のほかに、馬、紙、薬、染料のアカネ・ベニバナ・ムラサキなど多岐にわたっていました。なお、調布は調布市とか田園調布というように地名になっていますが、その多くは明治以降についた名称で、古代の歴史とは直接関係はありません。
4) その他の労役
租庸調については以上の通りです。その要約は成人男子を例にとると、政府から口分田2反を給付され、その代わり租庸調で1年間で玄米18キロ、大人1.5着分の布を納めるということです。ですから、租庸調はふつう考えられているより軽い負担だったことになります。これは憶測ですが、租庸調の税負担が小さいのは、たぶん労務役の方が比重が高かったからだと思います。有名なのは年間60日の労務提供である雑徭(ぞうよう)や防人としての兵役でした。この雑徭は地域の土木工事に従事するというような解説が多いのですが、そうではなく、たぶん国衙や郡衙に所属する公有地を耕作することだったと思います。というのも、後で触れますが、一般的に古代のように生産力の低い社会では人々の生産物は少ないため、余剰生産物を税としてとり立てるのには限度があります。そこで、労役を税として負担させることになります。
大正時代や昭和時代になると、小作農民は収穫の6割くらいを小作料として払い、その上税金や兵役まで負担しました。こういうことは農業の生産性が飛躍的に向上した近代社会だからできることで、近代以前の時代ではとても無理です。たとえば、江戸時代は五公五民で収穫の半分が税だったと思われています。しかし、5割の税に耐えられる人は現代でも1割いるかどうかだと思います。まして、江戸時代の生産力では5割はもちろん3割でも税として取られればたぶん農民は生きていけません。したがって、建前はともかく実態としてはずっと低い税額でした。
5) 出挙(すいこ)
しかし、地方税の租税が3%というのはいかにも小さすぎます。これでは国府は歳入不足になってしまいます。たぶん平安中期の10世紀頃で、武蔵の人口は約15万人でした。そして、正倉院の葛飾郡大嶋郷の戸籍簿をみると、当時6歳以上の人々は人口の約80%です。この数値を武蔵全体に当てはめると、租税の納入人口は約12万人ということになります。男女の平均租税値は一人あたり、7.5キロですから、その総量は90万キロです。江戸時代の石高でいうとわずか6千石にすぎません。これは江戸時代でいうと上級旗本一人分の領地の収穫に過ぎません。
そこで、租税以外の財源がなくてはならないということになります。それが出挙です。出挙というのは、本来は凶作で種籾(たねもみ)が不足する農民に春先に籾を貸し出し、秋の収穫時に回収するという農民救済の制度でした。しかし、この出挙には利息がついていました。そして、この利息が入るということで、この収入が国府と郡の維持費に回され、いつの間にかこの出挙の利息収入が貴重な財源になり、豊凶にかかわらず強制的に農民に貸し付けるようになりました。つまり税になったのです。
出挙の利息ですが、二転三転しています。最初は3割でしたが、後に5割になりました。しかし、それでは高すぎるというのでまた3割にもどしましたが、その後また5割になって、この5割で落ち着きました。この辺の事情は、おそらく元々の貸し出しに回る種籾の量が小さいので、3割の利息では出挙の収入が小さすぎるのだと思います。
実際には種籾を借りる必要のない農民も多かったと思います。ですから、時代が下ると現物の種籾の貸し借りはしないで、理論上貸したものと見なして、強制的に一律に割り当て利息分だけを税として徴収したと思います。
出挙の実態はわからないので、まったくの憶測ですがだいたい、租税分くらいになったような気がします。すると、租税で3%、出挙で3%。あわせて6%になります。この両方の収入を合わせて計算すると、武蔵国全体で1万2000石の収入になり、これくらいならまずまずの収入だったと思います。
私出挙
なお、民間の出挙を私出挙(しすいこ)といい、こちらは複利の貸し付けは禁止でしたが、10割まで利息を認められていました。この私出挙は種籾の貸借というより金融で、こういう金融が発達していたのはもっぱら畿内で、武蔵のような後進地ではあまり盛んではなかったと思います。私は当初この私出挙や税の代納制度を利用して農民の中から富農が生まれ、彼らが豪族に成長していったと考えました。しかし、今は、こういう金融手段では富農にはなっても豪族にはなれないと思っています。たとえば平将門のような豪族たちを見ると、直接権力の内部に入り込んで、権力を私的に利用して豪族に成長していきました。豪族と富農とは系統発生的には別の人たちだったと考えています。 
6) 税の実態を考える
班田収授の法と租庸調の税制は机上の理論としては非常にうまくできた制度でした。しかし、考えてみると、こういう社会主義のような計画経済が、奈良時代という昔に本当にそのまま機能していたかどうかは非常に疑問です。
口分田一つとっても、名義人が亡くなれば国家にもどし、子どもが六歳になれば新規に与えるというものですが、住んでいる家のすぐ近くにそう都合よく口分田を給付することなどできるはずがありません。ふつうに考えればこのやり方では農民家族は住居から遠く離れた所に分散して持つということになります。それを家族が手分けして耕すのはどう考えても無理です。さらに、もっと疑問に思うのは、口分田がすべて水田に想定されていることです。私は東京埼玉をよく見て回りますが、東京埼玉はほとんどが畑作地です。ですから江戸時代には、水田はなく畑だけという村がいくらでもありました。江戸時代になると、東京埼玉には何々新田という開拓村がたくさんできますがそのすべては畑作です。それが、奈良平安時代には武蔵でも水田が豊富にあって農民は口分田として与えられていたが、江戸時代になると水田は消滅して畑になったというのはおかしなことです。
一般的に豪農はともかくいわゆる自作農とよばれるふつうの農民が1町の広い水田を所有することは、日本の歴史上、太平洋戦争後の北陸や東北地方をのぞくといつの時代にもなかったと思います。1町程度の農地を持つ農家はかなりあったと思いますが、その大半は水田と畑地を併せ持っていました。この班田収授の法というのは、理論的には確かにうまい仕組みですが、具体的に実施することを考えるとほとんど実施不可能な制度です。
古代の武蔵を見ると、人々は西の関東山地の山間部やその麓に住んでいました。条理制を敷くほどの広い平地の水田もあることもありますが、多くは谷地とか谷戸といって山麓の丘陵地帯に小さな水田が2枚、3枚と散在しています。そう都合よく口分田を2反ずつまとまって給付することはできなかったと思います。
条里制
租庸調と並んで有名なのが、水田を整然と区画する条理制です。この条里制はその割付の仕方までわかっています。しかし、この条里制を敷くには真っ平らな広い土地でないと無理で、そういう土地は今度は水利が非常に難しく、近代の科学技術を使わない限り用水が確保できないと思います。現在の地名で「坪」という字が入っている所はその名残だというので、少し調べてみたことがあります。するとかなりの数が見つかりましたが、そうなると、人口15万人くらいの古代の武蔵でこんなに田んぼがあったのだろうかという、別の疑問が湧いてきました。現在も残っている条里制の遺構とされる所は、古代の条里制ではなく、室町時代頃に領主が農民管理のため作った土地区画制度ではなかったかという気がしています。
そこで私もいろいろ考えてもましたが、たぶん次のようなことだったと思います。班田収授の法も、実際には国家が農民一人ずつに2反の農地を与えるのではなく、6歳になれば租税の義務が生じ、男子は米を9キログラム、女子は6キログラムの納税義務があったことを明記したにすぎない。そして、たとえばある農民家族を例にとると、6歳以上の男性が5人いれば、その農家は本当に10反=1町の農地が与えられるのではなく、単に1年間で45キロの租米を納入する義務があったということだった。だから、その家族が実際に10反の農地を耕作していようが、8反であろうが、15反であろうがそれは問題にしない。ただ、決められた租税の45キログラムを納めればよいということである。
さらに与えられる口分田が男子は2反女子はその2/3というのも、その通りの田地を保有したというのではなく、実際にはそのくらいの農地が耕されているだろうという見込みの上で、課税のための算定数値として決められたものだった。
私はあちこちを実際に見てまわりましたが、昔の農地は湿田が多く、形状も不規則で傾斜がきつかったりして家畜を使える農地というのは少なかったと思います。すると、人間が鍬一本で耕すということになり、一人が耕作できる土地の広さにはおのずと限度があります。そうすると、どこでも一人あたりの耕作面積は同じで、平均すれば男子は2反女子はその2/3ということだったのだ思います。さらに、律令時代の武蔵では、水田を持たない農民も当然多数いたと思います。そういう農民は稲作はできません。たいていは麦やヒエアワの畑作だったと思います。では、これら農民の租税はどうするのかというと、麦で代用するとか、あるいは布。場合によっては物ではなく労役だったかもしれません。さらには麦ヒエなども、それを直接納税するのではなく、収穫した麦やヒエを飼料にして馬を飼育し、その馬を税として納めるというようなことだったと思います。
最初は麦や布を稲作農家の米と交換して、それを納税していたのかもしれないと考えましたが、そうではなく、稲作のできない農民は初めから別の品が指定されていたのだと思います。それは徴収する国衙や郡衙のことを考えればわかります。これら役所が租米を徴収するのは、それで役所の運営維持費に当てるためでした。簡単にいうと貨幣の代わりです。ですから、貨幣の役割りをするのであれば、米でなくてもかまわなかったと思います。
そういう意味では庸調も同じだったと思います。調の織物はあしぎぬと麻布でした。あしぎぬや麻布は織るのはさほど難しくありませんが、その前段階の繊維を糸にする工程が高度の熟練作業で農家の女性ならだれでも出来るというものではありません。こういうことを考えると、庸布や調布もどの農民にも納税の義務がありましたが、これに応じることのできる農民は限られるというのが現実だったと思います。
しかし、こういう税物も全体で必要な租庸調の米と布がそろえばよいわけですから、地域ごとにA地域では布を多く織って他の地域の庸調の分も織るとか、B地域では稲作に重点をおいて、他の地域の分も生産し、その代わり布は織らないというように調整するのが自然です。実際に庸調として貢納される物品を考えると馬が一番便利だったと思います。馬に布やあしぎぬを載せて都に運び、馬ごと納税する。あるいは、馬を畿内まで連れていって、そこで馬を庸調に指定された物品と交易し、それを納税するということもあったと思います。また、比企郡の嵐山町のような窯業が盛んな地域は瓦や須恵器の製造に特化して、それを税として納めていたと思います。こうふうに租庸調の税制も地域の実態に合わせて弾力的に運用されていたと思います。 
7 防人と対蝦夷戦争
奈良時代から平安時代の初期にかけて、武蔵を含む関東の人々にとって最も大きな負担だったのは租庸調の税ではなく兵役でした。
とくに百済救援に向かった日本軍が663年の白村江の海戦で大敗すると、日本は朝鮮半島から手を引かざるをえないだけでなく、唐新羅の報復に備えて九州警備を強化せざるをえなくなりました。この敗戦の被害は甚大で、たぶん九州や中国地方では兵役につける成年男子も少なくなってしまったのだと思います。そのため東日本の人々を防人として動員することになりました。また、それと平行して、この時期は東北地方でも対蝦夷戦争が続いていました。そして、この戦争にかりだされたのも東国の人たちでした。したがって、この時代の関東では、ある人は西へある人は北へと兵士として派遣され、過酷な任務を余儀なくされました。この九州警備の防人と対蝦夷戦争については、別に文章でまとめたことがありますので、それを載せることにしました。
1) 防人について 秩父の万葉歌考
1)-1 吉田の万葉歌碑
秩父盆地の西はずれ、城峰山の麓に吉田町という小さな町があります。この町の小高い丘に吉田小学校があり、ここに万葉歌碑があります。白っぽい茶色の石碑で、高さは子供の背丈くらい、建てたのは最近らしく文字もはっきり読めます。碑には万葉集の二首が万葉仮名できざまれています。碑脇の解説には、
武蔵峰の小峰見かくし忘れ行く君が名かけて吾を哭し泣くる
大君の命畏み愛け真子が手離り島伝ひ行く
右一首秩父郡助丁大伴部小歳
手元の万葉集を見ると、武蔵峰の歌は作者不明ですが、意味は、武蔵嶺を振りきるように旅に出て、私のことなどすっかり忘れているあの人の名を口にして私を泣かせるのね、となります。この歌の作者は女性です。
大君の方は防人歌でした。意味は、天皇のご命令を受け、美しい愛妻の手を離れ島伝いに旅を続けて行くことだ、となります。作者は、武蔵の国の秩父郡の助丁大伴部の小歳です。小歳は「おとし」と読みます。この人についても、この碑に書いてある以外は何もわかりません。防人は出身地ごとに軍団を編成し、その長が国造丁です。助丁というのは国造丁の下です。ですから、作者小歳は副官でした。歌中で美しく愛しい妻とよんでいます。たぶん若い男性だろうと思います。また、「大君の命畏み」というのは、防人歌によくある出だしです。したがって、小歳が天皇に対して特に敬愛の気持ちを抱いていたということではありません。それよりも「美しけ真子が手離り」という表現がいかにも印象的で、作者のこまやかな感覚がうかがわれます。とても辺境の地に住む人の作という感じはしません。
ふつうに考えると、前の歌は、防人となって旅に出た夫を妻が悲しむという歌で、後の歌は、その男が残してきた妻をしのぶ歌ということになります。いかにも万葉集の相聞歌という感じがします。確かに、これはこれでまちがいではありません。しかし、調べてみるとこの二首の関係はもう少し複雑です。
万葉集を見ると、武蔵峰の歌には表歌があって、この歌はその脇に「或る本に載っている」と小さく掲載されているのがわかりました。つまりこの武蔵峰の歌は裏歌というか脇歌というか、そういう短歌です。表歌は、「相模嶺の 小峰見そくし 忘れ来る 妹が名呼びて 我を音し泣くな」です。意味は、相模嶺を振り捨てるように旅に出てやっと忘れていた妻の名を口にして私を泣かせないでくれ、となります。相模嶺の歌が、妻を残して旅にでた男の歌なのに対し、武蔵嶺の方は、旅に出た夫を慕う女の歌になっています。一見すると、武蔵嶺も相模嶺も同工異曲の歌に見えます。しかし、この二首を並べると、相模峰は妻、武蔵峰は夫を象徴し、以下同じような表現が続きますが微妙にちがっていて、いかにも夫と妻の掛け合いの歌という感じがします。相聞歌としてはこちらの方がぴったりしています。ただ、武蔵峰も相模峰の歌も特定の個人が自分の体験を詠んだという気はしません。当時歌謡として歌われていた歌を万葉集に採録したようです。実際これは東歌で、万葉集のこの巻の目次には相模相聞往来歌とあります。
こういうことを考えると、元々武蔵峰の歌は相模峰の歌との相聞歌でしたが、この歌碑を建てた人は、秩父出身の防人と残された妻の相聞歌というふうに再構成したものであることがわかります。この歌碑の建碑者は、単純に地元秩父出身者の歌が万葉集に載っているから歌碑にしたというのではなさそうです。そこには建てた人の文学的工夫というか遊び心のようなものが感じられます。地元の人には申し訳ありませんが、一般的に秩父というと辺境のイメージがあります。まして、秩父の西はずれの山間地となるとなおさらです。実際、この吉田町は人口も減少し、さびしい過疎の町になっています。にもかかわらず、こういう機知に富んだ歌碑があるのが不思議でした。そこで、この歌碑のことを調べてみることにしました。
1)-2 歌碑のある町
(1)新編武蔵風土記稿と芭蕉塚
この歌碑は先に言ったように平成になって建てた碑です。しかし、歌碑の歴史は意外と古く、「新編武蔵風土記稿」という昔の書物にも書いてあることがわかりました。「新編武蔵風土記稿」は、徳川幕府が、東京・埼玉・神奈川東部という昔の武蔵国の地理や歴史を一八四一年から二0年がかりでまとめた地誌です。内容は詳細を極め、あと数年で幕府が倒れるというのになんとものんびりした事業でしたが、東京埼玉神奈川の郷土史研究には欠かせない史料になっています。「新編武蔵風土記稿」という名称は長いのでここでは「風土記稿」と略記することにします。「風土記稿」では、この歌碑は秩父郡下吉田村の項に書いてあります。それによると、だいぶ前に建てられ、碑が崩れたので最近忠実に再現したとあり、碑のサイズと形状が挿絵入りで書いてあります。長さは五尺二寸五分、幅三尺五寸。メートルに直すと、縦一メートル七五センチ、横一1メートル十五センチになります。このことから、初めの碑は今より一回り大きいばかりでなく、現在の歌碑は三代目だということがわかります。
「風土記稿」では、武蔵嶺が秩父の山とは断定できないが、武蔵で高い山は秩父にしかないから、多分そうであろうといい、念入りに「武蔵嶺」の用例や「武蔵」と秩父との関係をいろいろ考証しています。江戸時代の人たちの文献考証は精緻をきわめ、とても現代人の及ぶところではありません。たぶんその通りだと思います。
この歌碑が江戸時代末期に再建されたとなると、初めの碑はそれから百年以上前ということになります。ふつう歌碑や句碑の多くは郷土意識高揚のため最近になって建てられたのが多いのですが、この吉田町の万葉歌碑はそれらの歌碑とはまったくちがうことがわかります。考えてみれば、江戸時代に歌碑を建てるというのは思いのほか大変だったと思います。数学の才分のある若者が算額を神社に奉納するのとはわけがちがいます。書家の選定や石工の確保もありますが、それ以上に、歌碑を建てるという風流な道楽を周囲の人たちに認めさせるだけの社会的地位のある人でなければができないからです。
「風土記稿」に書いてある二代目の歌碑は、現在吉田町の資料館に残っています。二代目の歌碑にも「風土記稿」にも、この歌碑を初めに建てた人のことは書いてありません。たぶん記録もないと思います。そこで、この歌碑を建てた人のことをあれこれ考えてみました。二代目の歌碑は表面がざらざらしていて、ちょうど粘土版が乾いたような感じの白茶けた碑です。碑は斜めに大きく亀裂が入っていて、下の方は欠けてなくなっています。いかにも古碑という感じです。この碑をずっと見ていて、ふつうは男性の歌が先にくるのに、この碑では武蔵峰の女性の歌が先になっている理由がわかりました。
碑の歌は楷書で五行に書いてあります。ところが、冒頭の武蔵の二文字以外はすべて万葉仮名です。そして、この二首は真ん中に大きく○印があるだけでつながっています。それから最後の行に少し下がって、右一首助丁秩父郡大伴部小歳とふつうに書いてあります。ですから、この碑は専門家でもなければ、誰が見ても冒頭の武蔵と最後の作者のところしか読めなかったと思います。つまり、この碑は武蔵ではじまる何やらむつかしい経文のようなことが書いてあり、この経文の作者は秩父郡の大伴部小歳という人だというような理解になります。初めと終わりが読めれば、何となく碑全部が読めたような気になります。建碑者はそれで十分だったのだと思います。ここにもこの碑を建てた人の工夫が感じられます。しかし、このことから、誰にも読めない碑を建てた人はペダンチックな趣味の持ち主だったと考えるのは速断です。万葉集の原典がそうなっているからです。
「風土記稿」は別のところで、それまで地名はさまざまな書き方があったが、奈良時代に佳字二字で固定することになったと説明しています。確かに武蔵もそれ以前は无邪志と書き、秩父も知々夫と表記していました。それが、奈良時代以降、武蔵と秩父に固定しました。実際、万葉集のほかの箇所を見ても、地名と人名だけはふつうに書いてあります。つまり、この歌碑は万葉集の原典を忠実に再現した歌碑でした。この碑が初めの碑を忠実に再現したのなら初めの碑も同じ材質ということになります。歌碑が江戸時代の終わり頃にすでに風化していたとすれば、最初の碑はそれより百年以上前の一七00年代かそれ以前になります。そこで十七世紀後半から十八世紀の吉田町の様子を調べてみました。吉田町の観光マップを見ました。すると、この歌碑から遠くない、やはり同じ吉田町の菊水寺という寺に芭蕉塚があることがわかりました。この寺は秩父札所の三十三番札所の寺で、秩父札所のうちではめずらしく開けた平地にあります。
この芭蕉塚も「風土記稿」に記述があります。それによると、「堂に向ひ、左の方にあり、芭蕉の吟詠を彫りたる碑を塚の上に建てり」とあります。その後この塚を見にいきました。今では判読できないのはもちろん、それが句碑であるのもわからない石の破片という感じでした。住職の話では、この塚は芭蕉の五十回忌に作られました。句は、
寒菊やこぬかのかかる臼の端
調べてみると句集「炭俵」にあります。句意は、米つきをしている臼のかたわらに寒菊が咲いている、花にも葉にもうっすらと米のぬかがかかっている、というようなことです。いわゆる「軽み」の句で、芭蕉一門の人にはよく知られた句だそうです。芭蕉が亡くなったのは一六九四年です。法事はぴったり五十年後とは限りませんが、この塚はだいたい一七五0年頃に作られたことがわかります。すると、前か後かはともかく、万葉歌碑が建てられた時代とそう離れていません。これは手がかりになりそうです。芭蕉の五十回忌運動というのは聞いたことがあります。しかし、こんな秩父の山村まで巻き込んでいたとは思いもしませんでした。
芭蕉は俳諧という文学を確立した人物として有名です。ところが、彼の没後、俳諧は停滞しました。停滞といっても下火になったのではありません。それどころか、俳諧の愛好者は地方にも広がり、むしろ俳諧人口は増加しました。しかし、芭蕉がいなくなると、俳壇は羅針盤をなくした船のように迷走し、弟子たちは思い思いに芭蕉を解釈し、大きく都会派と地方派にわかれました。そして、すそ野は地方のほうが広いですから、地方派のほうが勢いがあり、都会派はおされ気味でした。そこで、都会派は地方派を「田舎蕉風」と揶揄し、両者はますます反目しあうという状況でした。
そのうち一人の精力的なアジテーターが登場しました。蝶夢という京都の元僧です。彼は都会派から地方派に転向した人です。蝶夢は芭蕉に心酔し僧籍を離脱して、「芭蕉に帰れ」のスローガンと「芭蕉を師とするものは皆蕉門」という考えのもと、都会派と地方派に呼びかけ芭蕉顕彰運動を展開しました。そのひとつが、芭蕉の五十回忌の追善供養を全国各地で行うキャンペーンでした。ですから、吉田町の菊水寺に芭蕉塚ができたのも、この芭蕉五十回忌運動の吉田町版ということがわかります。近世俳諧史上、この芭蕉五十回忌運動とその後の百回忌運動はきわめて大きな意味がありました。芭蕉が確立した俳諧が、その後全国のさまざまの階層の人々に広まり、文芸として定着したのはこういう運動の成果でした。
想像するに、当時この吉田町あたりをテリトリーにする旅の俳諧師がいて、彼が町の俳諧愛好者に呼びかけ芭蕉の法要を営んだのだと思います。法要といってもたぶん宴会を兼ねた句会を開き、菊水寺に芭蕉の墓に見立てた句碑を建てたのだと思います。たぶん、当時の吉田町にはこういう俳諧の心得がある人たちが大勢いて一種のサロンをつくっていたとのだと思います。万葉歌碑も芭蕉塚も秩父地方ではこの吉田町以外にはありません。どうもこの吉田町はどこにでもある秩父の山村というのではなさそうです。そこで、江戸時代の吉田町を考えるべく、もう一度「風土記稿」を読んでみました。
(2)下吉田村
江戸時代の吉田町は、現在とは比べものにならないくらい活気のある町だったことがわかりました。それで、この吉田町に万葉歌碑が建てられたのもわかりました。江戸時代の吉田町は下吉田村とよばれていました。「風土記稿」によると、当時ここでは市が立ちました。市日は3と8の日でした。ですから、一月に6日市が立つ、いわゆる六斎市です。こういう市は室町時代には全国各地にありましたが、江戸時代になると常設店舗が現れて廃れていきます。ところが、秩父だけは江戸時代になっても市が盛んでした。「風土記稿」を見ると、市があったのは大宮郷(秩父市街地)、上小鹿野村、本野上村(長瀞町)とこの下吉田村の四ケ所です。
江戸時代になっても秩父に市が存続したのは、秩父が後進地だったからではありません。稲作のできない江戸時代の秩父では、年貢は米ではなく現金でした。下吉田村やその近隣の農民たちは絹や煙草、和紙などの農産物をこの市に持ってきては現金を入手し、それで税金を納め生活品を購入していました。したがって、下吉田村には農民に生活品を売る商人もいましたが、そういう小さな商人ばかりでなく、反対に近隣の農民から農産物を大量に買い上げる、今で言う商社のような仕事をする大きな商人たちがいました。たぶん歌碑を建てたのは、こういう大きな商人たちのグループだったと思います。下吉田村の豪商たちは、当然秩父盆地の外の世界にも敏感でした。また、旅の文人墨客もしばしば下吉田村にやってきました。彼らはこういう文人墨客のパトロンになったり、あるいは自ら俳句を作ったり、短歌を詠んだりしたと思います。こういう芸術愛好の雰囲気の中、下吉田村の有力者たちが芭蕉の五十回忌を営んだり、万葉歌碑を建てたとしても不思議ではありません。
「風土記稿」によれば、歌碑のある吉田小学校は当時神社でした。そして、歌碑も今の位置よりもっと東側の見晴らしのよいところにあったことが記されています。したがって、初めの歌碑が建てられたころとは、歌碑も吉田の町も今とはだいぶちがっていました。この吉田町は城峰山という、標高は高くはありませんが、大きな山域を持つ山の麓にあります。この城峰山の麓を吉田川が流れています。この吉田川はやがて南から流れてくる赤平川と合流します。この合流点のすぐ手前が吉田町の中心地で昔の下吉田村です。旧下吉田村は二段の河岸段丘でできています。下の段丘面は折れ曲がった短冊のような細長い地形で商店や民家が並んでいました。今ではすっかりさびれてしまいましたが、当時は市の立つ日には、近隣の農民たちが集まってさぞ賑わったことと思います。上の段丘面は神社の境内でした。その東側の、鎮守の森の見晴らしのよい位置に万葉歌碑が建っていました。
ここに立つと眼下には下吉田村の活気ある町並みが見え、そのすぐ先には吉田川が赤平川と合流している風景が広がっていました。それから、一転して眼を上げると城峰山のゆったりした山容が望めました。城峰山は人の住む山です。夕暮れ時には炊煙があがるのが見えたかもしれません。この歌碑のある所は、たぶん万葉人が言うところの国見の場所でした。
1)-3 防人歌
(1)大伴部の小歳
大君の命畏み愛け真子が手離り島伝ひ行く
この防人歌の作者、秩父郡の助丁大伴部の小歳について詳しいことはわかりません。万葉集を見ると、天平勝宝七年に各国に防人歌を詠進させたとあります。そして、武蔵国は二0首進上したが、八首は作品が拙劣なため採用しなかったとあります。選ばれた十二首のうち、六首が防人の兵士で六首が防人の妻です。よく知られていることですが防人の妻の歌があるのは武蔵だけです。ここでわかるのは、天平勝宝七年は西暦七五五年ですから、小歳は奈良時代の人で、時の天皇は聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代だったということです。小歳の肩書きは助丁です。これは先に述べたように防人隊の副長です。防人は軍隊でしたから階級がありました。国造丁―助丁―主帳―火長―上丁です。国造丁は防人を引率する責任者でしたが、難波までの任務だったのか、九州まで行って実際に軍役についたのかはわかりません。いずれにしても小歳は国造丁に次ぐ高級幹部でした。
武蔵の防人歌の作者を見ると、那珂郡(埼玉)、埼玉郡(埼玉)、荏原郡(東京)、豊島郡(東京)、都築郡(神奈川)、橘樹郡(神奈川)と広範囲にわたっています。その中で小歳は助丁に任命されたのですから、たぶん地域の有力者の子弟だったと思います。小歳は残してきた家族の生活を心配するような境遇ではなかったと思います。というより、この小歳という人は、地域の有力者の子弟ゆえに防人になったという気もします。昔のヨーロッパでは戦争が始まるとまず貴族の子弟が戦場に行くことになっていました。ノブレスオブリッジ(高貴なる者の義務)です。防人も任期が三年もありましたから、ふつうの農民ではそれこそ残された家族の生活が心配です。こういう軍役は有力者の子弟こそが適任で、実際彼らはこういう軍役に従事することで地域の信望も得られたということもあったと思います。作者小歳を考える上で、手がかりになりそうなのは、小歳の大伴部という姓です。ところが、これは意外と手がかりになりません。
部というのは、部民(べのたみ)のことで畿内の有力豪族の私有民のことです。しかし、それははるか昔の大和王権の時代のことで、この時代には大和の豪族との関係は切れていました。小歳の姓は大伴部とありますが、武蔵の土着の人たちはたいていこういう姓です。同じ武蔵防人歌の作者を見ても、物部、服部、椋倚部、藤原部とあります。奈良時代のほかの文献を見ても、武蔵の人名はたとえば壬生部、私市部というように中央政府と関係がありそうな名称に部をつけた姓が大半です。小歳についても大伴部の姓をいくら考えても何もわかりません。すると、やはり小歳の出身地である秩父郡から考えるしかありません。
「風土記稿」では、作者が大伴部小歳とあるのであちこちの地名を考え、吉田町の奥地、旧上吉田村に大棚部というところがあるので、大棚部は元は大伴部でここの人かもしれないと言っています。確かにこの大棚部は山間部にぽっかりした開けた平地で古い土地柄だとは思います。しかし、さすがにこれだけでは根拠が薄弱です。そこであらためて秩父郡について考えてみました。
(2)秩父郡と武蔵
この秩父郡は昔の秩父郡です。ところがやっかいなことに、この秩父郡がはっきりしません。私たちがふつう知っている昔の郡は平安時代に編纂された「和名抄」という一種の百科事典をもとにしています。この書物によると武蔵には二十一の郡がありました。しかし、それより二百年も前の奈良時代には郡数はもっと少なかったと思います。当然秩父郡はもっと広かったはずです。しかし、そこまで考えると収拾がつかなくなります。そこで、ここでは秩父盆地と、この盆地を取り囲むように低い山々が続いている、いわゆる外秩父(そとちちぶ)を秩父郡とし、この歌碑を建てた人と「風土記稿」の執筆者に敬意を表して、小歳を吉田町出身の人と仮定してみます。強引な飛躍ですが、この仮定はさほど無理でもありません。というのも、この吉田町は奈良時代まで遡ることのできるところだからです。
吉田町の歌碑の対岸には椋神社があります。調べてみるとこの神社は式内神社でした。式内神社というのは、平安時代中期に政府が延喜式という法令集をつくりましたが、その中で全国の神社から政府が祭る神社を選定しました。これを延喜式内神社といい、ふつう式内神社といいます。武蔵の式内神社は四十三社です。武蔵一宮の氷川神社や二宮の金鑚神社も式内神社で、秩父では三宮の秩父神社とこの椋神社が式内神社です。一方、府中市の大国魂神社や日高市の高麗神社は式内神社ではありません。おそらく延喜式の制定時に古社と認められていないと選定されなかったのだと思います。ということは、奈良時代にはすでに椋神社があり、椋神社が現在地にそのままあったかどうかはともかく、この神社のある吉田町も奈良時代には人々が集住していたということです。さらに小歳を吉田町の人とすることは、小歳の歌からも補強できます。小歳の歌中に「島伝ひ行く」とあります。この島を瀬戸内海の島とする万葉集の解説書を見たことがありますが、これはちがいます。武蔵防人歌は七五五年に防人を府中に集め、この時防人から歌を採録して奈良の政府におくったものです。ですから、武蔵防人歌はすべて、家を出発する時か、府中に向かう途中か、府中の営所に着いて作った歌です。歌中の島を海に浮かぶ島と解釈するのは無理があります。
この島は山間地に点在する人家のことです。そして、作者小歳はそういう人家のある山間地を通って府中に向かい、この時にこの歌を詠んだということです。そうすると、この山間地は外秩父の山々ということになります。古代のロマンが一度に吹き飛んでしまいますがそういうことなります。興醒めついでにいうと、この場合の外秩父も南部の飯能市あたりの山々ではありません。仮にこのあたりに比定すると、出発したその日に府中に着いてしまうからです。とても残してきた愛妻をいとおしむということにはなりません。すると、歌の内容から考えても、作者小歳は府中から二三日かかる山間地の人ということになります。小歳を秩父の吉田出身の人とするのはそう無理なことではありません。そして、小歳を吉田の人と考えると、辺境の地秩父から徴用された不運な若者というイメージはなくなります。
奈良時代の武蔵が後の時代とちがうのは、当時武蔵は東海道ではなく東山道に属していたということです。この場合、道は地方の意味もありますが、都からそこにある国府に行く官道のことでもありました。奈良時代の東海道は相模の三浦半島から海を渡り、房総半島を北上して常陸に行く道でした。それに対し、東山道は信州から碓氷峠を越えて上野に入り、下野から陸奥に行く道でした。したがって、たとえば日本書紀にある日本武尊の東征の話も、簡単に言うと、日本武尊は奈良時代の東海道を通って関東にやって来て、奈良時代の東山道を通って都に帰っていったということです。  
さらにつけ加えると、書紀で、碓氷の坂で日本武尊が「吾妻はや」と亡き妻に呼びかけた坂は峠のことです。昔は関東のことを板東といいましたが、この坂東は碓氷峠の東という意味です。つまり、奈良時代までは、東海道と東山道を比べると、東山道の方が主要道路だったのです。この東山道で都のある奈良から武蔵の国府である府中に行くには、東山道の途中で南下することになります。この道はたぶん現在の群馬県大田市から南下した支道です。この官道を歴史学の方では東山道武蔵路とよんでいます。この道は実際にあって、部分的に遺構も出土しています。しかし、この道は埼玉県の中央部を通り遠回りです。その上利根川という大河を渡ることになります。舟を使える官人ならともかくふつうの人が利用できる道ではありません。 
そこで、地図をみればすぐ気づきますが、今の群馬藤岡市から神流川という小さな川を徒渉すれば埼玉県児玉郡の神川町に入ることがわかります。ここから府中に行けば利根川を渡る必要はないし、近道にもなります。このルートはずっと後になって鎌倉街道として整備されますが、このルートはたぶん奈良時代にはすでにあったと思います。同じ万葉集の東歌に入間路の歌があります。この入間路がどういう道であったかはっきりしませんが、おそらくこのルートは入間路につながる道だったと思います。そこで、武蔵と上野の境にある児玉郡の神川町にもどります。この神川町からそのまま南下すれば府中に向かいます。しかし、ここから神流川を川沿いに遡上し金鑚神社を過ぎてしばらく行くと大きな山が見えます。この山は城峰山です。実はこの神流川は吉田町のある城峰山の反対側を流れる川なのです。この城峰山を縦断すれば吉田町はすぐそこです。
つまり、奈良時代の秩父郡は奈良の都から遠く離れた辺境の地ではなく、武蔵ではもっとも都に近いところであり、秩父郡の中でも吉田町はとりわけ都に近いところだったということになります。奈良時代の武蔵は想像以上に過疎地でした。以前、「和名抄」と奈良東大寺正倉院に残る下総の葛飾郡(東京)の戸籍簿でこの時代の武蔵の人口を計算したことがあります。詳しいことは省略しますが、奈良時代の武蔵の人口は約十五万人でした。十五万という数値はいかにも少なく、実は今でも半信半疑ですが、私たちが思っている以上に少なかったのはまちがいありません。
しかも、この時代まで人々の多くは山間地に住んでいました。これは奈良の大和朝廷が飛鳥や三輪山という山間部に根拠を持ち、盆地である平地になかなか足を踏み入れなかったのと同じです。武蔵の人たちももっぱら武蔵東部の山間地に住み、平地部には住みませんでした。その点、小歳の住む秩父郡は山間地でしたから当時の武蔵では人口も多く、都に近い先進地でもあったろうと思います。
(3)小歳の防人行
昔は人が歩けるところはすべてが道でした。ですからいたるところに道がありました。小歳は外秩父の山々を通って府中に向かいました。それは武蔵でも比較的人家の多い道をたどったということでした。小歳は、城峰山のある吉田から秩父盆地の山裾の道を歩き、そうして荒川を渡り、外秩父の山間地に出ました。その道はわかりません。たぶん今の東秩父村を抜け、平安時代には慈光寺道とよばれた山道につながる道だとは思いますが、これは単なる憶測にすぎません。いずれにしてもこちら方面の山の道です。外秩父には低い山々が続きます。この風景は小歳の故郷である吉田の風景と同じです。しかし、現在見るようなスギやヒノキにおおわれた陰鬱な森ではありません。また、私たちが郷愁を感じるナラやクヌギの落葉広葉樹の森でもなかったと思います。奈良時代の外秩父は、たぶんアラカシやシラカシなどの常緑広葉樹におおわれた太古以来の照葉樹林の森でした。
この道の尾根筋からは所々で眼下に広大な平野が見えます。たぶん、小歳が眼にしたのは果てしない荒野がまるで海のように広がる荒涼とした武蔵野の風景だったと思います。小歳が思わず故郷に残してきた妻のことを思い起こしたのも当然でした。
府中に到着した小歳はその後、防人の任につくため難波に旅立ちます。同行した埼玉郡出身の防人の歌に、足柄峠で袖を振ったら故郷の妻に見えるだろうか、という内容の歌がありますから、小歳たち防人は東山道ではなく東海道を行ったことがわかります。そして、彼が難波に着くまでの日数も推測できます。平安時代の延喜式に、武蔵から庸調の税を都に運ぶ場合、東海道で行きが二十九日、帰りが一五日と決まっていました。大井川と天竜川を順調に渡れれば、身軽な防人ですから十日かそこらで難波に到着したと思います。意外と短い日数です。ただ、小歳がどのような思いでこの旅を続けたかはわかりません。
この後、久しぶりに秩父に行ってみました。途中、雄大な武甲山が見えました。彫刻刀で鋭く切りとったような稜線がくっきり見え、薄い墨で塗ったような武甲山の鋭鋒は天に突き刺さっていました。
荒川を越え、赤平川を渡ると大きな山並みが遠くに広がっています。城峰山系の山々です。城峰山は女性の胸の膨らみのような形で優美な曲線を描いています。武甲山が聖なる神の宿る山なら、城峰山は俗なる神が住む山です。青い空の下、城峰山も武甲山に劣らないくらいすばらしい山に見えました。
2 対蝦夷戦争 
1) 陸奥国
陸奥国がいつ建国されたかはわかりません。そして、建国時の陸奥国の領域もはっきりしません。
「常陸国風土記」(713年)には福島県の浜通りは元は常陸国の一部だったとあります。たぶん福島県の県南地域は元は常陸国の一部だったと思います。というより、大化以前の常陸国には北の国境はなかったのだと思います。常陸国は南は下総国(千葉県北部)、西は下野国(栃木県)というように境界はありましたが、北の国境はとくに定めず常陸から北はすべて常陸国というふうになっていました。その後、大和朝廷は常陸国の北に陸奥国を建国することになり、そこではじめて常陸の北に国境をもうけることになりました。この最初の陸奥国は福島県域と阿武隈川以南の宮城県域だったと思います。これは「先代旧事本紀」という史書からの推測です。
この書物の東北地方を見ると11の国造がいて、その中に「思国造」と「伊久国造」、それから「白河国造」と「道奥菊多国造」の4国造がいます。「思」は宮城県の亘理郡、「伊久」は宮城県伊具郡のことです。「白河」は白河郡で、「菊多」は今のいわき市の南部です。勿来の関も奈良時代には菊田の関とよばれていました。そして残り7のうち6国造はすべてこの領域に含まれています。そこで、この宮城県南部までが大化以前の大和朝廷の勢力範囲で、この領域を陸奥国にしたのだろうと推測できます。
ちなみに先に奈良時代の頃の武蔵の人口を約15万人としましたが、同じようにこの最初の陸奥国の人口を計算してみると、福島県域だけで約10万人になります。そのうち4割が福島県南部の茨城県と県境を接する地域に住んでいます。ですから、この県南地域は元から常陸との結びつきが強く、この地域を核に陸奥国が建国されたのだと思います。たぶん7世紀の末の頃です。
この最初の陸奥国は、それ以前の常陸国がそうであったように北の国境がありませんでした。陸奥国を建国した大和朝廷は、東北地方北部への拡大を考えていましたから、北の国境ははっきりさせなかったのです。
もちろん、宮城県の北部にも豪族たちはいました。それは前方後円墳の分布をみればわかります。東北地方最大の前方後円墳は宮城県の名取市にあります。ですから、宮城県の北方にも高度な文明を持つ人々がいました。しかし、彼らは大和王権と疎遠であったか、大和朝廷に反発してその勢力下に入りませんでした。そこで、最初の陸奥国は福島県域と宮城県南部を領域として成立したのです。
古代の東北地方にあった10国造は陸奥国の領域になりましたが、残る「出羽国造」は、山形県の一部で後に出羽国建国の核になりました。このように大和朝廷はすでに支配下にある地域を核に新しい国を作って全国支配を拡大強化する戦略をとっていました。
律令では国には国府を置くことになっています。陸奥国の国府は正式には多賀城ですが、陸奥建国時の多賀城は陸奥国の外にありました。そして、多賀城が国府として登場するのは724年です。すると、それ以前の国府はどこかということになります。
たぶん初めは陸奥国に国府はなかったのだと思います。建国からしばらくの間は、陸奥国は行政的には常陸国の一部として扱われていたのだと思います。常陸国の国府は今の茨城県の石岡市にありました。ですから、建国当初の陸奥国は石岡市から北上する八溝山系の道と太平洋海岸を沿って北上する二つの道で常陸国府と結ばれていたと思います。この二つの道には北の拠点があり、それが白河の関と勿来の関でした。ですから、白河の関は元々は東山道の関所ではなく、常陸国府の出先機関だったのだと思います。福島県と宮城県南部を陸奥国にした大和朝廷は、その後引き続き北に進出していきました。大和朝廷は奈良盆地に生まれた政権でしたが、それまでほとんど武力を使わないで支配地の拡大に成功してきました。九州も関東も戦争らしい戦争もしないで帰属させてしまいました。それが東北地方の北部支配になって始めて戦争で征服せざるをえなくなりました。その戦争を通して、大和朝廷は多賀城が東北支配の拠点にもっとも都合のよい場所であることに気づきました。そこでこの多賀城が陸奥国の国府になったのだと思います。
多賀城には平城京を小さくしたような壮麗な都市が作られ、全国でも最大規模の国分寺も建てられました。それは大和朝廷が東北地方を支配しようとする強い意志の表れでした。草深い辺境の地に壮大な七重塔がそびえ、瓦葺きの役所の建物が並ぶ光景は、東北地方の人々をさぞ驚かせたにちがいありません。その後、陸奥国はがしだいに北に拡大していきます。平安時代の初期には、大和朝廷に強く反発する岩手県や秋田県青森県も服属させてしまいました。そして東北地方を平定した大和朝廷は、そのうちの太平洋岸を陸奥国とし、日本海側を出羽国にしました。以上が大和朝廷時代から平安時代までの古代の東北地方の歴史です。  
2) 稲作文化についてー関東と東北の比較―
日本に稲作が伝わるのは紀元前3世紀頃で、これが弥生時代の始まりです。(水稲が伝わったのはもっと早いというのが最近の説です。これは自然な考えですが、ここでは東北と関東の関係ですから、このことには立ち入らないことにします)
この弥生時代は水稲稲作の時代で、九州に上陸した稲作技術は全国に広まっていきました。九州に伝わった稲作は、その後異常なスピードで全国に広がりました。愛知県に到達したのは稲作が日本に伝わってわずか60年後です。 ただ、稲作の伝播は愛知県までは速かったのですがここでしばらく足踏みします。稲作が愛知県からさらに東に進むのは、さらに100年もかかりました。これについては温暖地の作物である稲の耐寒品種ができるまで100年かかったという説が有力です。関東地方が後期になって弥生時代が始まるのはそのためです。
稲作の伝播には太平洋側と日本海側の2ルートがありました。そして、稲作は日本海側の方が向いていますから、このルートの稲作の伝播は太平洋側よりさらに速度を速め、たった100年で青森県まで到達しました。そして、東北の太平洋側の稲作は、日本海に注ぐ川を遡上して広まりました。 このルートはたぶん新潟から阿賀野川に沿って東進するのと庄内地方から最上川に沿って東進したルートでした。そして、この人たちが後に東北南部に広がり東北の弥生時代を展開しました。関東には東海道の足柄峠を越えてやってきた弥生人と東山道の碓氷峠を越えてやってきた人たちがいました。この人たちの子孫が関東の弥生時代や古墳時代を作った人たちでした。ですから、関東の稲作文化と東北の稲作文化は別々に発展しました。
稲作がこのような急激に広がったのは、稲作技術が、A地区の人から隣のB地区の人へ、B地区の人から隣のC地区の人へと伝わったのではなく、九州に上陸した稲作農民や彼らから稲作技術を習得した農民が種籾を持って直接東へ東へと移住したからでした。
しかし、それにしても速度が異常です。このことについて、いろいろ考えてみました。確かに稲作が魅力的な農業だったということもありますが、最も大きな理由は稲作の適地がきわめて限られていて、どこでもできる農業ではなかったからです。
稲は熱帯性の植物ですから、温暖な地域ならどこでも可能なように思われそうですがそうではありません。稲は耐寒性があり気温は意外と制約にはなりません。
それよりも最大の条件は水です。たぶん、最初の稲作は土地を整地して水田を作り、そこに灌漑工事をして水を引くというようなことはなかったと思います。地形や気象条件が合致して、たまたま水田としてそのまま使えるような、いわば天然の田んぼを探してそこで稲作を行うというようなものだったと思います。具体的には谷地とか谷戸とよばれる小さな湿地です。しかし、こういう都合のよい土地というのはそうふんだんにあるわけではありません。そこで、弥生人たちは天然の田んぼを求めて日本列島を、それこそ飛び石のように移動していきました。したがって、稲作は猛烈なスピードで広がりましたが、その密度は非常に粗いものだったと思います。
そのため、たぶん稲作は関東より東北の方が早くに始まりました。その証拠に武蔵・上野・下野という北関東には弥生時代の遺跡がほとんどありません。宇都宮の県立博物館には弥生時代の土器や石器が陳列されていますが、それは福島県から借りたものです。館員の人の話では、栃木県には弥生時代の遺跡がほとんどないためやむをえずそうしているとのことです。   
3) この時代の軍隊
律令の規定では正丁(21歳以上の男子)の1/3を軍役に従事させるとあります。1/3も引き抜いたら地域社会は崩壊してしまいますから、実際はもっと緩かったと思いますが、この戦争に動員された東国と陸奥国の人たちは対蝦夷戦争の最前線にいましたから兵役の負担は大きかったと思います。奈良平安時代の律令政府は不思議な政府で直属の常備軍というのを持ちませんでした。こういう政権は外国にはなく、日本でも奈良時代・平安時代の律令政府だけでした。したがって、この時代は政府が戦争をするのにも都から大軍を派遣することはなく、現地で兵士を集めて戦争をしました。対蝦夷戦争でも同じでした。これを、夷(野蛮人)をもって夷(野蛮人)を征す、といいます。
都から派遣されるのは司令官だけでした。最初は阿部比羅夫という人でした。彼はもっぱら日本海側の蝦夷地を攻略しました。その後、さまざまな将軍が活躍しましたが、最後は坂上田村麻呂でした。しかし、朝廷の権威と律令の法令に基づいて関東と陸奥国の人々を動員して戦争をしたという点では、田村麻呂を含め将軍たちは皆同じでした。
ちなみに、日本の歴史を見ると、戦争の震源地は常に関東と東北でしたが、この時政府がとった対応はすべてこのやり方でした。たとえばずっと後に源頼義・義家父子が東北で戦争をしました。前九年と後三年の役です。この時も頼義と義家は単身関東にやってきて、朝廷の権威のもとに兵を集め、この軍を率いて戦争をしました。このやり方は実は義家の子孫である源頼朝も同じです。頼朝は平家を滅ぼし征夷大将軍になりましたが、頼朝は最後まで自分の軍隊というものを持ちませんでした。頼朝は清和源氏の権威だけで、関東の豪族たちを、まるで一本のムチでトラやライオンを思いのままにあやつるサーカスの猛獣使いのように自在に動かして鎌倉幕府を作りました。坂上田村磨や源義家・頼朝のような人たちのことを歴史では軍事貴族といいます。彼らの本質は武家ではなく貴族です。彼らは中央官制の中で、軍事部門を担当する貴族でした。
それで、対蝦夷戦争でも実際の戦闘を行うことになるのは関東と陸奥の人たちでした。彼らは団と呼ばれる軍団に組み込まれました。この団は基本的には郡単位で編成されました。団の定員は1000人で、大毅と呼ばれる団長が指揮をとりました。ただし、この団については記録がほとんど残っていず、詳細はわかりません。
奈良時代以前から東北地方の北部には蝦夷(えみし)とよばれる人々が住んでいました。この蝦夷の人については、それこそ縄文人の子孫とかアイヌの末裔ということが言われますが、これも事実ではなく、先に説明したように、彼らもやはり稲作を行う弥生人の子孫でした。ただ、大和朝廷の支配に入らなかったので異族視されました。それには漢民族を中華とし他を夷狄とする中国の選民思想の影響がありました。実は蝦夷という言葉も不適当ですがほかにありませんのであえて使うことにします。この東北地方北部の人たちを服属させる戦争が対蝦夷戦争でした。この対蝦夷戦争は、桓武天皇が任命した征夷大将軍坂上田村磨の活躍で解決したように思われています。しかし、田村麻呂が登場した時にはこの戦争は終息にむかいつつありました。田村麻呂はその幕引きをしたということでした。  
4) 対蝦夷戦争の戦線は二つありました
大和朝廷が蝦夷攻略をはじめたのは意外と早く、大化の改新後の3年後の648年にはもう秋田県に砦を設置しています。その後は朝鮮半島での戦争(対唐新羅との戦い)や壬申の乱(天智天皇後の皇位継承をめぐる争い)で、一時休止した時期もありましたが、これらの問題が解決するとまた本格的に進めました。この対蝦夷戦争が終結するのは804年頃ですから、実に150年間も続きました。この戦争がもっとも激しかったのは多賀城が設置された720年前後でした。
大和朝廷は2方向からこの対蝦夷戦争を進めました。一つは山形県から秋田県の日本海側で、もう一つは宮城県の北部から岩手県南部でした。この両方に兵を送るのに都合がよかったのが宮城県の多賀城でした。ここから西に進めば山形・秋田に行き、そのまま北上すれば岩手方面に行けるからです。そこでこの多賀城に国府と鎮守府を置いて蝦夷攻略の拠点にしました。多賀城府の設置が確認できるのは724年ですが、たぶん、それ以前から砦のような基地はあったと思います。
日本海側の蝦夷征服は比較的順調に進みました。それは船が使えたからです。大和朝廷はたくさんの船を用意して兵員と武器を搬送しました。そのうち、多賀城からの陸路も通じるようなりましたから、海陸からの両面作戦が可能になると、この方面の平定作戦は非常にスムーズに進みました。それに対し、宮城県北部の対蝦夷戦争は難渋をきわめました。780年には逆に蝦夷の人たちが多賀城に侵入し、国府が焼き討ちにあったこともありました。この蝦夷との戦いでは大和朝廷軍にも多くの犠牲者がでました。
5) 対蝦夷戦争の目的は土地でした
大和朝廷が蝦夷を征服した目的がはっきりしません。ふつうは金と馬が目的だとされています。砂金といえば陸奥国ですから、この金を確保するために大和朝廷は蝦夷攻略を行ったとされています。たしかにこの時期は仏教が広まり各地で盛んに寺院がつくられました。そのため、たくさんの仏像がつくられました。経典によれば仏は無限の光を放つとあります。そこで仏像には鍍金をする必要がありました。聖武天皇が東大寺の大仏造営では金の調達に苦労したことはよく知られています。この金の産地は東北でした。ですから金が目的ということも理由の一つだったと思います。しかし、金と馬だけが目的ではなかったと思います。それ以上に大きかったのは蝦夷の土地だったと思います。そうでなければこんなに長く戦争が続くことはありえないからです。
大和朝廷の作戦は次のようなものでした。先ず戦闘兵士からなる軍隊を送り込み、砦を築き橋頭堡を確保します。これを柵(き、さく)といいます。そして、この柵をしばらく持ちこたえると、頃合を見て柵を拡張して城を築きます。この城には治安維持のため守備兵を置きます。守備兵たちが周辺の治安を維持し、土地の住民たちがおとなしくなると、今度は関東や陸奥から農民たちを移住者として送り込みます。この移住者たちが定住することで大和朝廷の支配地が確立します。するとまた別の土地に柵を作り、城を築き、内地から農民を移住させる。この繰り返しでした。蝦夷征服の目的はこの農民の移住にあったようです。そして、内地からの移住者たちは開拓や開墾などはしなかったと思います。彼らはすでにそこで農民が耕している農地を取り上げて自分のものにしました。簡単に言うと略奪です。
自分の力で開墾しようとすれば、非常な困難が待ち受けています。しかし、すでに農地になっている土地を奪えばうまくいきます。移住者の背後には大和朝廷の軍がいました。それで、内地からの移住者たちは安心して続々とやってきました。この移住については史書や政府の記録にも残っています。その主なものだけでも以下の通りです。
714年  尾張、上野、信濃、越後等から200戸を出羽柵に移住させた。
715年  関東五ケ国から富民1000戸を移住させる。
759年  東国の浮浪人2000人を雄勝柵(秋田県。場所は不明)に入れる。
802年   肝沢城(いざわじょう。岩手県水沢市)を作り、東国10ケ国の浪人4000人を入れる。
しかし、実際はもっと多かったようです。とくに稲作農業が難しく、その割には人口が多かった関東からの移住者は多かったと思います。歴史の本を読むと、東国の人々は租庸調の負担ばかりでなく九州の防人など過酷な兵役もあった。防人の任を解かれると、今度は蝦夷へ強制的に移住させられ、中央政府の強権的な支配のために多大な苦しみを受けた、というようなことが書いてあります。しかし、実際はそうではなく、東国の人々が新天地を求めて自ら移住していったのだと思います。その熱気に押されて政府としても彼等の後押しせざるをえなかったのだと思います。それがこの時代の対蝦夷戦争でした。大和朝廷の軍事的保護を受けた開拓者たちは意気揚々と北の大地に移住していきました。
6) 蝦夷の人は土地を明け渡すか戦争するか、しかありませんでした
そうはいっても、土地を奪われれば蝦夷の人々は生活できません。彼らのとる道は二つしかありませんでした。一つはあきらめて土地を明け渡すこと、もう一つは絶望的な抵抗をすることです。土地を明け渡した蝦夷の人々は俘囚とよばれ内地に送られました。そして、陸奥をはじめ全国に分散して隔離されました。
奈良時代には俘囚稲というのがありました。国府が正倉の稲を出挙として農民に貸し出し、その利息で俘囚たちを養う制度です。この俘囚稲は九州から四国までほとんどすべての国に設けられました。だから、彼らは一見すると保護されたように見えます。しかし、その待遇は決して満足できるものではなく、厳しく監視され差別されました。当然、暴動が起きます。そして、これが俘囚を割り当てられた国の国府の大きな悩みでした。土地明け渡しを拒んだ人たちは、大和朝廷と戦争をすることになりました。蝦夷の人たちは国家という組織を持っていませんでした。彼らは地域ごとに目の前の敵と戦うことになります。その戦いは戦争というよりはゲリラ戦でした。
この対蝦夷戦争に召集されたのは、主に関東諸国の人たちと陸奥国の人たちでした。しかし、陸奥国の領域が拡大すると、この兵士の中には帰属した蝦夷の人たちや移住者たちも加わっただろうと思います。大和朝廷軍の主力は人口が多い関東の人たちでした。政府はそれまで関東の人たちを防人として九州に派遣していましたが、757年からは防人は九州から召集することにし、関東の人たちは対蝦夷戦争に専念させました。関東地方の国々は兵員を供給し武器の製造を命じられ、兵士と兵粮を蝦夷に送る兵站基地になりました。関東からの兵士と物資は東山道を通って蝦夷の地に送られていきました。
やがて蝦夷の人たちから一人の指導者が現れます。アテルイとよばれる人です。このアテルイのため、789年、胆沢城(岩手県水沢市)の戦いでは大和朝廷側は3000人の損害が出し、うち1300人が戦死したという記録が残っています。しかし、結局は繰り返し大軍で押し寄せる大和朝廷軍の敵ではありませんでした。坂上田村麻呂の出陣でとうとうアテルイは降伏します。802年、アテルイとその母は都に送られ処刑されてしまいました。
アテルイがいなくなると、田村麻呂は志波城(盛岡市)を築き、最前線を胆沢城から志波城に移し、この地域を確保しました。そして、このことでようやく長い戦争も終結することになりました。志波城の北にも大地がありまましたが、大和朝廷にとっても東国の農民たちにとってもそこは何の価値もありませんでした。そこは稲作には向かない不毛の地だったからです。 
8 仏教
1) 仏教伝来と武蔵の古代寺院
仏教が日本に伝来したのは古墳時代の西暦538年でした。この年、百済の聖明王が仏像と経典を欽明天皇に贈呈し、これが公式の仏教伝来になりました。そして、日本最古の寺は奈良の明日香村にある法興寺(飛鳥寺)とされています。この寺は587年に蘇我馬子が建立しました。その後、593年に大阪に四天王寺、607年に法隆寺と畿内には次々寺が建てられました。この時代はちょうど聖徳太子の時代でした。そのため聖徳太子は日本仏教の礎をつくった人ということになっています。
しかし、都から遠く離れた武蔵でも、仏教が広まったのは意外に早かったようです。武蔵最古の寺は現在わかっている限り、埼玉県比企地方の滑川町にあった寺谷廃寺です。この寺は既になくなっており、正式な寺名も伝わらない寺ですが、遺跡から出土した瓦が大和の飛鳥時代の寺と似ており、そのため創建は7世紀前半か中頃とされています。そして、同じ比企地方の寄居町には馬騎の内廃寺があり、これは7世紀中頃の創建とされています。これらの寺は法隆寺などにわずかに遅れるだけで、ほぼ同時期の創建と考えてもよい寺です。武蔵には少なくとも18の古代寺院がありました。
このように地方に寺院が建てられたのは武蔵だけではありません。天武持統天皇の時代には政府の造寺奨励策もあって全国各地に寺院が建てられました。天武天皇は詔勅を発して、貴族や地方の豪族に寺院を造ることを命じています。その結果、持統朝の692年には545の寺院がありました。推古天皇の頃には60寺くらいでしたから、天武持統天皇の時代に寺院が急増したのがわかります。この時代は文化史では白鳳時代とよばれます。武蔵の寺の多くは、こういう中央政府の仏教普及政策によるもので、その多くは豪族の氏寺でした。それまでは古墳築造で力を誇示していた豪族たちは、新しい時代の波に乗って、今度は寺院造営に力を注いだのです。
武蔵をふくむ関東の古代史を調べてみると、いつも驚くのはその速さです。たとえば、水田稲作にしても紀元前3世紀頃に九州に稲作が伝わると、100年も経たないうちに関東でも稲作が始まります。(最近では稲作は弥生時代よりもっと古くに伝わったとされていますが、全国に普及するのはたぶんこの時期だと思います)
仏教も同じで、大陸から仏教が伝わり畿内で寺院が建てられると、ほぼ同じ時期に武蔵でも造寺がはじまります。こういう様子を見ると、仏教という外来文化も、まず都の人たちが仏教を受け入れ、その後、都の人たちが長い時間をかけて内容を理解し、それから地方に普及していくというような広がりではなかったことになります。古代の日本では、外部から新しいものが入ってくると、西へも東へも、都市でも地方でも一斉に同時に広がるという特徴があります。ここが明治時代の近代化と大きくちがうところです。
この白鳳時代を含め、奈良時代までに建立されたと思われる武蔵の古代寺院は次の通りです。
1.大久保領家廃寺(さいたま市)
2.勝呂廃寺(埼玉県坂戸市)
3.女影廃寺(埼玉県日高市)
4.大寺廃寺(埼玉県日高市)
5.高岡廃寺(埼玉県日高市)
6.寺谷廃寺(埼玉県滑川町)
7.小用廃寺(埼玉県鳩山町)
8.旧盛徳寺(埼玉県行田市)
9.諦光寺廃寺(埼玉県川本町)
10.西別府廃寺(埼玉県熊谷市)
11.馬騎の内廃寺(埼玉県寄居町)
12.大仏廃寺(埼玉県上里町)
13.寺山廃寺(埼玉県児玉町)
14.五明廃寺(埼玉県上里町)
15.城戸野廃寺(埼玉県神川町)
16.京所廃寺(東京都府中市)
17.影向寺(川崎市)
18.東光寺(川崎市)
たぶんこれら古代寺院は一つの郡に一寺はあったと思います。ところが東京・神奈川東部では.京所(きょうず)廃寺と.影向寺、東光寺の三寺しかありません。私もあれこれ文献を調べたり、専門家に聞いたりしましたが、これ以上は見つかりませんでした。東京はともかく多摩川東岸の横浜・川崎には古代寺院がもっと寺があってもよさそうですが見つかりません。東京でもっとも古い寺は浅草寺とされています。ここからは平安時代初期の瓦が出土しています。しかし、奈良時代に遡る寺院跡は府中の京所でしか見つかりません。ですから、奈良時代には現在の東京東部には寺院を建てるような豪族はいなかったようです。
これら古代寺院は豪族が建てた寺院ですが、こういう寺院の造営は中央政府の支援がなければできなかったと思います。というのも、寺をつくるというのは、想像以上に大変な資力と政治力を必要とするからです。
まず、建物の造営や仏像教典の調達は大官大寺をはじめ都の大きな寺院の援助なしにはできません。大官大寺というのは、天武天皇が建立した寺で後の大安寺のことです。この寺は東大寺ができるまでは最高の権威ある寺でした。地方の寺はこれら都の大寺院から派遣された僧や技術者の手で造営されました。そのため、武蔵の古代寺院の建物の配置や出土する瓦は奈良の大寺院とほぼ同じになりました。たぶん、都の大寺院に所属する技術者が瓦型を持って遠く武蔵国までやってきたのだと思います。また、寺を造るには政府の認可が必要だったのは、一つには寺に所属置する僧の問題がありました。というのも、僧籍に入った者は公民としての納税や労兵役を免除することになります。そのためには国府の許可が必要だったからです。さらには、当時の僧は中国語の教典を中国語で読むことになります。そういう僧は地方にはいませんから、結局は都の大寺院から派遣してもらう必要がありました。ですから、寺を建てるというのは意外と大変で、豪族に財力と信仰心があれば寺ができるというものではなかったようです。中央政府と深いつながりのある豪族でなければ造寺という事業はできませんでした。
古代寺院の特徴は規模が大きいことです。埼玉県坂戸市に勝呂廃寺という古代寺院がありました。その遺構ははっきりしませんが、出土する瓦が膨大で、それだけの瓦を使用するからには奈良の大寺院と同じくらいの規模だろうと考えられています。当時の寺院は仏像を安置する金堂と塔を持ち、周囲を回廊で囲っていました。ですから、現在よく見られる町の小さな寺などとは比べものにならない大きな寺でした。
たとえば群馬県の上野国分寺は前橋市にありましたが、その近くには山王廃寺という古代寺院がありました。この寺は上野国分寺とほぼ同じ規模でした。ですから、国によっては聖武天皇の国分寺造営の命を受けても新規に造寺はしないで、すでにある大きな氏族寺院を国分寺に代用したところもあります。たとえば、相模国分寺がそうです。相模国分寺は神奈川県海老名市にありましたが、ここは国府から遠く離れています。また、武蔵国分寺など多くの国分寺では、郡ごとに負担する瓦の量にノルマがあったようで、郡名入りの瓦が大量に出土します。ところが相模国分寺にはそういう瓦はなく、伽藍の配置も一時代前の白鳳時代のものです。そこで、相模ではすでにある氏族寺院に七重の塔を建ててそれで済ませたと考えられています。当時は国分寺に代用できる寺はかなりあったようです。また、規模が大きいだけに一度焼失すると再建がむつかしく、古代寺院の多くはその後消滅してしまいました。
寺院造営には大量の瓦が必要です。たとえば武蔵国分寺には50万枚以上の瓦が使われています。その多くは、埼玉県入間市の窯で焼いたものです。この国分寺瓦には、当時まだ建郡してなかった新座郡を除く全郡の郡名が記されています。そこで、これはそれぞれの郡に割り当てられた瓦を入間市の窯場が請け負って焼いたことがわかります。
武蔵ではこの入間市だけでなく、各地に窯場がありました。なかでも、次の4ヶ所が有名です。
1.南多摩窯跡群(東京都八王子市)
2.東金子窯跡群(埼玉県入間市)
3.南比企窯跡群(埼玉県鳩山市)
4.末野窯跡群(埼玉県寄居町)、
武蔵最大の窯業地は比企丘陵にある南比企窯跡群でした。ここでは瓦だけでなく、生活用品の須恵器も焼かれ、その製品は武蔵全域だけでなく千葉県にまで分布しています。たぶん関東でも最大級の窯業地でした。(この南比企窯跡群の瓦には、ここだけに見られる土の成分が混じっているので、それを調べれば分布がわかります。)
武蔵の古代寺院と窯跡群があった所を見ると次の二つのことが言えます。まず、これらの分布をおおざっぱに見ると、多摩川中流域、狭山丘陵、比企地方、荒川中流域となり、ここはちょうど鎌倉街道上道の道筋にあたるのがわかります。この当時、武蔵の官道は上野の大田市から府中に南下する、いわゆる東山道武蔵路でしたが、比企あたりで北西に進む道があり、実際にはこちらが武蔵では開発の進んだ先進地でした。
それと、高麗郡に寺院が多いことです。女影廃寺、大寺廃寺、高岡廃寺がそうです。また、勝呂廃寺のある埼玉県坂戸市は高麗郡のすぐ隣です。ですから、日高市、坂戸市という狭い地域に古代寺院が4寺もあったということになります。 
高麗郡は716年に関東各地の渡来人を集めて作った郡です。おそらく入間郡を分割して設置した郡です。しかし、建郡後すぐに寺を次々建てたというのは不自然ですから、高麗郡には716年より前にすでに渡来人が入植していたという気がします。高麗郡がある飯能市日高市には弥生時代の遺跡も古墳もありません。ですから、この地域は7世紀の頃まではたぶん無人の地でした。それが7世紀後半から寺院を次々建てられたということは、この地域がこの時期に急に開発されたということになります。日高市には8世紀に創建された高麗神社があります。しかし、渡来人たちは、神社という日本の宗教結社ではなく、寺院をつくって仏教を生活のよりどころにしていたようです。渡来人が多かったのは武蔵の他に相模があります。そして、相模の古代寺院も多くが渡来系とされていますから、武蔵や相模に限らず全国的にも古代寺院は渡来人たちによって造営されたものが多かったかもしれないという印象を持っています。
奈良時代までの仏教がどのような形で展開していたのかはまったくわかりません。想像するに、教典もすべて外国語(中国語か朝鮮語)ですから、たぶん外国語のまま読んでいたということになります。そして、僧侶はもちろんこれら信者たちもそれが理解できていたということになります。 
2) 武蔵国分寺と鑑真
武蔵国分寺
以上のように地方で氏族寺院の建立が進むと、その集大成として行われたのが、国分寺の造営でした。741年、聖武天皇は詔勅を発し、全国すべての国で国分寺を造営することを命じました。国分寺は僧寺と尼寺がセットになっていて、僧寺は金光明四天王護国之寺、尼寺は法華滅罪之寺というのが正式の名称です。武蔵国分寺は東京の国分寺市に建てられました。武蔵国分寺は全国でも最大級の国分寺でした。ここは国府の府中市の西北に位置し、国府からやや離れています。しかし、僧寺と尼寺の間を官道の武蔵路が走っていますから、国府との交通の便はよかったようです。
聖武天皇の詔勅では、水辺の風光明媚の地に建てるようにとあります。ここは大きな湧出地で野川の水源地になっています。隣に小金井市がありますが、小金井は「黄金の井」という意味です。国分寺市はこの条件を満たしていました。こういう事情は隣国の下野でも同じです。下野の国府は今の栃木市にありましたが、下野国分寺は隣の今の下野市にありました。そして下野市にも国分寺町と小金井(JR駅)という所があります。ですから、当時の武蔵国分寺周辺も、現在とはちがってなだらかな丘陵地帯に野川の豊かな水が流れ、風光明媚な地でした。
また、聖武天皇の詔勅では、国分寺には七重塔を建てることを求めています。そして、この塔に「金光明経」という教典を安置し、二十人の僧を置いて季節ごとに読経法会を行うというのが国分寺の役割でした。七重の塔については、こんな高い塔がはたして本当に作れるのか疑問でした。しかし、845年に男衾郡の壬生吉志福正という郡司の豪族が、消失した七重塔を再建したいと願い出て許可されています。ですから、実際に七重塔だったのがわかります。この塔は新田義貞の鎌倉攻めで焼失したとありますから、鎌倉時代までは残っていました。(もっとも、焼失した塔が福正の建てた塔と同じかどうかはわかりません)
金光明経というのは、仏法を篤く敬えば、王と王土には仏の加護があるという大乗仏教の経典です。この時代にはこのほか「仁王経」という教典も重視されています。ですから、古代の仏教は人々の救済というより、国家の安泰を願う国家仏教でした。実際、国分寺や氏族寺の僧侶は民衆布教はしませんでした。というより、律令の僧尼令では僧や尼が人々を集め布教することを禁止しています。奈良時代の仏教は国家仏教でした。政府が僧を管理し、政府が認めた者だけ僧侶になり、人々が勝手に僧になることを禁じていました。勝手に僧になった人を私度僧といい、政府はこれを厳しく取り締まっていました。
古代の仏教は、個人を精神的に救済するという宗教的要素はありませんでした。政府が仏教に求めたのは一種の国家イデオロギーでした。それは神道が国家経営のイデオロギーとして使えなかったからです。日本古来の神道には明確な教義というものがありません。それと神道の神は祖霊で、地縁血縁集団の中では強い力を発揮しますが、これで地域を越えて共同体意識を持つことはありません。むしろ、他地域の神や他地域の神を信じる人々には強い敵対意識を持ち、それと厳しく対立するという排他性が強調されるのが神道の特徴です。これでは国家のイデオロギーにはなりません。その点、仏教は地縁血縁を越えた普遍性があります。中央集権国家をめざす律令時代の政治家にとっては都合のよいイデオロギーでした。
鑑真について
こうして、聖武天皇の天平時代には国分寺が作られ、その総本山である東大寺も造営されましたが、時の政府には、もう一つどうしても解決しなくてはならない問題がありました。それは僧尼の資格問題でした。簡単にいうと、当時日本から中国に渡った留学僧たちは、中国では僧として認めてもらえなかったという事情がありました。つまり、政府は国内では私度僧を厳しく取り締まりながらも、自らが認定した僧たちを中国に留学させても、彼らは中国では私度僧として扱われていたという困った状況にありました。
当時、中国の仏教界では正式の僧になるには、優れた高僧たちの立会いのもとに得度するというルールがありました。本来仏教では、僧になる者は自分で自分に誓うだけでよいのですが、当時の中国では僧になれば労働をしなくても富者の寄付で安楽な生活が送れるというので安易に僧になろうとする者が多かったのです。そこで、生まれたのが高僧たちによる認定制度でした。ところが、日本で得度した僧たちはこの条件を満たしていませんから、正式の僧として認めてもらえませんでした。日本で、日本人が僧になるには、まず中国仏教界が認める権威ある僧が授戒する必要がありました。そのためには鑑真がどうしても渡日する必要があったのです。
鑑真は当時中国仏教界では戒律の権威でした。その鑑真が日本に渡り、戒壇院を設置して日本僧に戒を授ければ、この問題も一挙に解決します。鑑真が何度も渡海を試みたのも、また日本側も何としても鑑真を日本に連れてこようとしたのもこういう事情があったからでした。鑑真が渡日に成功したのは753年でした。彼は直ちに東大寺に戒壇院を設け、聖武上皇をはじめ多くの人に戒を授けました。その後、下野の薬師寺と大宰府の観世音寺にも戒壇院を設け、僧尼が得度する仕組みができました。こうして、日本の仏教もようやく制度として完成しました。 
3) 最澄と東国
仏教が伝わってから奈良時代まで仏教がどのような形で展開していたのかはよくわかりません。想像するに、奈良時代までの仏教はまったくの外国文化でしたから、教典はすべて外国語(中国語)で、たぶん外国語のまま読んでいたと思います。経典は中国語で、奈良の寺院などでは指導的立場にいた僧も日本人僧ではなく朝鮮からやってきた僧侶でした。彼らはおそらく朝鮮語で生活していました。ですから、寺の中は経を読む中国語と朝鮮僧侶の話す朝鮮語がとびかいまるで外国にようになっていたと思います。
こういう仏教が日本人にも深く受け入れられ、やがては仏教本来の信仰宗教になっていくには空海と最澄の力が大きかったと思います。そこで、ここでは東国と関係の深い最澄をとりあげてみます。
最澄は近江出身の僧で766年から822年まで生きた人です。ですから、彼は奈良時代末期から平安時代初期の人ということになります。最澄は空海と並称されますが、空海が天才とするなら、彼はまじめな秀才でした。空海は絶大な自信家で、教理のすべてを自分ひとりで解釈し、教義を体系づけました。そのため空海以後、彼の後継者たちには新たに研究する余地は残されておらず、ひたすら始祖空海の教えを忠実に守り伝えるだけになりました。また、空海は密教一本でしたから、あれこれ迷うこともなくわりとすっきりした宗教人生でした。さらに、彼には中国密教の継承者という肩書きがありましたから、南都の伝統寺院から議論を仕掛けられることもなく、天皇や上級貴族たち華やかな交際を交えながらいかにも高僧といった感じの生涯を送りました。
その点、最澄への風当たりは強いものがありました。本来ならその圧力は空海と分かち合うべきものでしたが、すべてが彼に集中し、そのため最澄は南都の僧侶と論争に明け暮れ、一方では天台教団の運営にも苦労しました。皮肉ではなく正直に、最澄はどうして僧侶などになったのだろうと疑問に思うほど悩み多い生涯でした。
しかし、最澄に敵対する者が大勢いるということは、また反対に味方もたくさんいるということでもありました。最澄門下には人材が豊富でした。そして、その中心だったのが東国出身の弟子たちでした。比叡山延暦寺では最高統括者を座主(ざす)といいますが、初期の座主はすべて関東出身者でした。その歴代座主は次の通りです。
最澄―義真−円澄―円仁
義真(781〜833) / 比叡山の初代座主。相模出身。中国語に堪能で最澄が中国に留学した時、通訳として同行。この時22歳。最澄が亡くなると、初代座主となる。
円澄(772〜837) / 2代座主。埼玉県の行田出身。壬生氏。18歳で上京し、最澄門下に入る。
円仁(794〜864) / 3代座主。下野出身。下野大慈寺で修行し、15歳で上京し最澄の弟子となる。後中国に渡り中国仏教に詳しかった。密教の権威で、彼がもたらした新しい密教は貴族たちに熱狂的に受け入れら比叡山隆盛をもたらした。比叡山中興の祖でした。
近江出身の最澄は近江国分寺で修行し、20歳で得度試験に合格し僧になりました。その後、彼は近江の比叡山に籠り山林修行をします。その修行で得られたことは法華経こそが仏教の真髄だという確信でした。彼はとくに中国の天台山で解釈されていた法華経に傾倒します。そこで最澄の宗派を天台法華宗といいます。
最澄は法華経に宗教的確信を得ると比叡山を降り活動を始めます。彼がまず行ったことは、写経による布教でした。そして、この写経に積極的に協力したのが、東国仏教の重鎮、道忠という僧でした。道忠は鑑真門下の高僧でした。こんな優れた僧がどうして東国にいたのかわかりません。彼は、下野の下野薬師寺近くの大慈寺と、上野南部の今の藤岡市の旧鬼石町にある緑野(みどの)寺で弟子の養成をしながら宗教活動をしていました。この下野薬師寺は東国最高の寺院で、東日本で僧になる人はここで試験に合格しなくてはなりませんでした。ですから、道忠は下野薬師寺で戒律を授ける師僧として都から派遣された可能性があります。
埼玉県の比企郡都幾川町にある古刹慈光寺は、この道忠が開山したとされています。慈光寺と緑野寺はさほど離れていませんから、開山の真偽はともかく道忠と縁がある寺だったのはまちがいないと思います。また、天台宗の二代目座主円澄は行田市出身の僧です。行田には旧盛徳寺がありました。ですから、円澄は幼少にこの盛徳寺に入門し、やや長じて緑野寺か慈光寺で道忠の薫陶を受け、その後道忠が円澄を最澄に預けたということも考えられます。これは「埼玉県史」に書いてあることですが、その可能性はあると思います。
この慈光寺は坂東札所の9番札所であること、それと寺の大般若経が国宝になっているので有名ですが、平安時代から鎌倉時代にかけて多数の僧坊があり、比叡山の関東別院として、天台宗の中核寺でした。最澄は815年に東国を訪れています。当時最澄は盟友空海から絶縁状を送りつけられ、さらに奈良の寺からも激しく攻撃されるというぐあいで、まったく四面楚歌の状況でした。そういう中、最澄は下野の寺や上野の藤岡市(旧鬼石町)の緑野寺で説法し布教しています。たぶん、この法会には武蔵からも大勢の僧や信者が集まったことだと思います。最澄にとって関東こそがもっとも頼りになる支持基盤であり、同時に優秀な人材を供給してくれる土地でした。
最澄はなかなか思うようにいかない人生でした。彼は天台法華経こそが仏教だと確信しそのために中国に留学しました。しかし、その当時京都の貴族たちは密教に深い関心を寄せていました。空海が貴族たちから絶大な帰依を受けたのはそのためでした。そのため最澄も心ならずも密教にも手を広げざるをえなくなります。最澄も中国に留学した時に密教も学びました。しかし、この密教が日本で熱狂的に流行するとは思いませんでしたから、最澄の密教理解は浅いものでした。
そこで最澄は年下の空海に師弟の礼を尽くして弟子になり、密教を学ぶことにしました。空海も快く最澄の願いを受け入れます。しかし、神秘体験を重視する密教は、たとえると絵画か音楽のような感覚重視の芸術的(?)な宗教でした。理詰めで考えるタイプの最澄には向いていなかったようです。空海も自分の所から書物を借りていって勉強するだけの、いわば本の知識だけで密教を理解しようとする最澄にしだいに批判的になります。そして最澄が期待していた弟子が最澄のもとを去って空海門に入ったという事件がきっかけになり、最澄と空海の仲は決定的に悪くなります。空海からの絶縁状はこういう流れのなかで最澄に届いたものでした。
このように最澄は空海との関係が険悪になりますが、一方、最澄はそれ以前から南都の寺院との間で果てしない論争を続けていました。どうも最澄という人は本当に世渡りが下手だったと思います。最澄と南都大寺の対立はある意味で仕方のないことでした。論争も純粋に教義上の対立なら、それぞれがわが道を行くということで結着しますが、両者の論争は教義をめぐる論争というより最澄教団の自立をめぐる争いでした。
天台教団の独立を考えていた最澄は、自分の手で弟子を僧に認可する権限を持ちたいと考えていました。具体的には比叡山に戒壇院を設立することでした。当時、僧の認定は南都の僧たちが行っていました。ですから、比叡山に戒壇院設立を認められれば南都大寺の地位がゆらぐことになります。その点空海は上手で、彼は南都の寺院と争うのではなく、むしろ逆に南都の寺院を自分の手中に取り込んでしまいました。最澄が文学青年的気質の人なら、空海は政治青年的気質の人でした。
戒壇院の設立を認めるかどうかは政府に決定権がありました。最澄の最大の理解者は桓武天皇でした。桓武天皇は最澄に好意的で、最澄も天皇に期待しました。しかし、桓武天皇は最澄の希望をかなえることなく世を去ります。後は、最澄が自分の教義がいかに優れているかを南都の僧たちとの議論を通して証明するしかありませんでした。最澄の教団の中にも武闘派(?)と妥協派がいました。最澄はそういう教団内部の事情を抱えながら、負けることのできない論争を続けざるをえなかったのです。しかし、最澄が必死なら、南都の僧たちも必死でした。そのため、両者は教義をめぐる論争の形をとりながらも激しい対立を延々と続けることになりました。
最終的には比叡山の戒壇院設立は認められました。しかし、認可の知らせが届いたのは、最澄の死後5日経ってからでした。その意味では最澄は失意に満ちた生涯だったということができます。
最澄と南都教団との論争は多岐にわたり、私の理解を越えるものがありますが、その一つに「仏性」(ぶっしょう)の問題がありました。仏性というのは私たち人間の問題で、簡単にいうと、仏の教えは偉大ではあるが、人によってそれを受け入れる素地に濃淡がある。そこで、仏性の豊かな人を「善人」といい、仏性の薄い人を「悪人といいます。最澄はどんな人でも救済されるとし、南都の、とくに最澄の論敵だった会津の僧得一などは仏性を持たない人は救済されないとしました。一見すると、最澄の考えの方がよさそうですが、突き詰めていくと仏性の問題は深刻で、素朴な性善説や性悪説で判定できることではないようです。この問題には法然や親鸞も取り組み、その結果、彼らはこれで一宗を樹立することになりました。 
 
4章 平安時代中期〜鎌倉時代 

 

1 この時代について
645年の大化の改新ではじまり、奈良時代に完成した律令制国家はその後すぐに崩壊の道をたどります。しかし、これに代わる国家の仕組みはなかなか生まれず、ほぼ消滅したのは800年後の江戸時代になってからでした。ほぼというのは、江戸時代の幕藩体制も形の上でまだ律令制で、たとえば徳川将軍の征夷大将軍という地位も、諸大名や有力幕臣の序列も律令の官位制をそのまま幕藩体制に組み込んだものだからです。 
この律令国家という制度は非常にうまくできていました。平安時代になると、武士とよばれる豪族が生まれました。彼らは国家を蚕食し、国家から富と権力を引き出しました。そのため国家も衰退していきますが、それで国家が消滅することはありませんでした。というのも、彼ら武士たちが、領地で人々を支配するのを正当化できたのも律令政府の保証があったからです。その政府が消滅してしまえばもっとも困るのも彼ら武士たちでした。ですから、武士は国家に対するもっとも攻撃的な存在でしたが、一方では強力な保護者でもありました。
また、平安時代になると、中央の貴族たちも国家経営に対する情熱を失ってしまいました。彼らはよりよい国家をつくることより、武士たちと同じように、国家に寄生し国家から富を収奪することに熱心になります。中央の貴族たちのこうした無責任な意識は、たぶんに日本の特殊な事情がありました。島国の日本は外国から侵略を受ける心配がありませんでした。そのため政府は人々から富を収奪して大きな戦争に備える必要がありませんでした。その上、京都の政権は巨大な土木事業などもしませんでした。ですから、政府は驚くほどの軽費で維持できました。その結果、京都の支配者たちは人々から恨まれることもなく、何の努力もしないで支配者としての地位を維持できました。
京都の政権はたとえると大きなゴムボールのようなものでした。どんなに強い力でたたかれてもけっして壊れることはなく、どんな激流に放り込まれても絶対に沈むことはありませんでした。貴族たちは安心して自己保身と利益追求に熱中することができました。こうして武士と貴族という社会の二大実力階層は、国家に対して責任を負うことはなく、もっぱらそこから利益を引き出すことで争ったりあるいは手を結んだりしました。彼らは人々から富を収奪するという目的では二人三脚の行動をとることができました。
武士は地方で生まれました。武士が頭角を表してきたのは平安時代の中期でした。こういう武士たちがはっきりと自己主張しだしたのは、関東では平将門の乱が契機だったように思えます。
この事件そのものはあっけなく将門の敗北に終わりました。また戦場も下総常陸というようにもっぱら東関東でした。武蔵国が戦禍を被ることは少なかったようです。しかし、その後の歴史をみると、将門の乱が起きるまでは比較的中央政府に従順だった武蔵が独自の動きをはじめ、以後政府のコントロールがきかなくなったという印象がします。
こういう不安定な社会が最終的に終息するのは、徳川家康が江戸幕府をつくってからでした。徳川将軍を頂点とするヒエラルキーが完成して、社会にも秩序が回復しました。もちろん、これは家康の力量によるものでもありません。また、それまでの人たちに能力が無かったからでもありません。要は社会の根底が液状化し、そのため、その上部に鎌倉幕府とか室町幕府という政治的構造物をつくっても社会に安定をもたらす力にはなりえなかったということでした。そういう意味で、平安時代から室町時代の800年間は、日本社会は漂流していたといってもよいと思います。
とはいえ、平安時代から江戸時代がはじまるまでは時間が長すぎます。それに、武蔵は鎌倉時代までは比較的平穏でした。武蔵が激しい混乱の渦に巻きこまれるのは、室町時代になってからでした。室町時代になると、幕府の関東支配の要である鎌倉府内部で抗争がおこり、それが武蔵を舞台に戦争という形で展開するようになります。そこで、ここでは10世紀の平将門の頃から鎌倉時代までを一つの区切りとして見てみます。 
2 将門の乱
皇居前に平将門の首塚があります。伝承によれば、京でさらし首になった将門の首がこの地に飛んできたということです。東京で一番由緒ある神田明神が平将門を祀っているように、江戸時代の江戸の人々にとって、将門はもっともなじみの深い人物でした。こういう伝説が生まれることはありそうなことです。
東京にかぎらず、平将門伝説は武蔵各地にあります。私がよくできていると感心したのは奥秩父の大血川という渓流です。この川は荒川の支流ですが、なんともすごい名前の川です。伝説によれば、昔、平将門が戦いに敗れ、将門の后九十九人がこの地に逃れてきました。しかし、こんな山奥にも追っ手がやってきました。追い詰められた后たちは次々と自害し、その血で川が真っ赤になり、それからこの川を大血川とよぶようになったというのです。将門ではなくてその后というのがうまいと思いました。自称ながら将門は新皇でしたから、妻ではなく后としているのも理屈にあっています。
平将門の反乱については、「将門記」という軍記物語が基本的史料です。ほかに「今昔物語」がありますが、「今昔」は「将門記」をもとに書いたようなので、実際には「将門記」だけだと思います。他に京都の貴族の日記や「日本略記」「扶桑略記」という史書があり、それを見ると「将門記」の記述がおおむね正しいことがわかります。そこで、まず「将門記」をもとに、その概要をまとめてみました。
平将門は下総の豊田郡岩井の人です。ここは利根川中流域で埼玉県と茨城県の境になります。しかし、この川が利根川になったのは、江戸時代に鬼怒川の河道に利根川を合流させる瀬替えを行ったからで、将門の時代には鬼怒川だけが流れる中規模の河川でした。当時利根川はもっと西側の、今の古利根川と呼ばれる川筋を流れていました。たぶん将門の本拠地岩井は、将門の頃には水害に見舞われることもなく肥沃な土地だったろうと思います。しかも、この豊田郡は、地図で見ると下総の国府(今の千葉県市川市)、常陸の国府(今の茨城県石岡市)、下野の国府(今の栃木県栃木市)のちょうど真ん中にあります。たぶん、どの国府にいくにも徒歩で一日の距離です。馬なら半日で行けます。つまり馬に乗れば一日で三国のどの国府に往復できたと思います。将門が軍事行動を起こすには絶好の場所でした。将門の乱があんなに大きくなったのは、一つにはこの地理的位置があったからだと思います。
彼が起こした謀反は、最初から意図したことではなくいわばなりゆきでした。初めは同族間の私的な争いでした。それがどんどん拡大し、ついには関東に独立国をつくって新皇と称し、さらに天皇になると京都の朝廷に通告するまでに発展してしまいました。
将門の乱は失敗に終わり、失敗したという結果からみると、彼の行動は無謀だったようにも思えます。しかし、よく考えれば、将門は古代の継体天皇に似ています。将門は桓武天皇6世の孫で、武力で坂東という辺境の地から天下をうかがいました。その点、6世紀初めに応神天皇5世の孫と標榜して、越(たぶん今の福井)から軍を進め、ついには皇室を簒奪した継体天皇とほぼ同じです。両者のちがいは、継体天皇はクーデターに成功し、将門は失敗したというだけです。
「将門記」を読むかぎりでは、初めは伯父たちとの争いでした。どうして将門が伯父たちと対立することになったのかはわかりません。将門には国香、良兼、良正という三人の伯父がいて、この三人とは初めから不仲だったようです。そして、この三人の伯父は源護という常陸の豪族と縁戚関係にありました。ところが、将門が護の三人の息子に待ち伏せ攻撃を受けて反撃に転じ、逆に将門が三人を殺害したことで伯父たちとの争いがはじまりました。将門が源護一族と仲が悪くなるのは、この前に平真樹(この人もたぶん下向貴族)が領地をめぐって争い、真樹が将門に援助を求めてきたことが発端でした。この護の息子たちの襲撃計画には、大伯父の国香も荷担していたようです。そのため、国香は将門に襲撃され館ごと焼殺されてしまいます。この時国香は常陸の大掾(だいじょう)でした。
この事件が起きたのは935年です。そして、将門が戦死するのは940年の2月です。したがって、将門の戦いはこれから約5年間続くことになります。将門の生年ははっきりしませんが、903年頃ではないかとされています。すると、この時将門は33歳くらいということになります。
源護という人の出自について「将門記」にはなにも書いてありませんが、姓からすると賜姓源氏、それも名が一字なので嵯峨源氏だろうということです。護の肩書きは前常陸大掾とあります。当時の国司制度では、長官が守、次官が介、その次に大掾と小掾がいました。しかし、常陸は、長官の守には親王が就任し、現地に赴任しませんでしたから、大掾は実質次官になります。ですから、ふつうに考えれば源衛は皇族出身で関東に下向し、皇族という貴種と国司としての地位を利用して、富と力を蓄えた豪族ということになります。そういう土着豪族と将門が領地をめぐって日ごろから対立していたのだと思います。
国香には貞盛という息子がいました。この人が後に将門の最大の敵になります。しかし、事件が起きた時には、彼は京で官職に就いていて不在でした。父の死で帰国しましたが、この時点では将門に対する恨みはありませんでした。父の死は、将門と護の対立に巻き込まれたために起きた、ある意味ではしかたのない事件だったと考えていました。また、元々京都志向の強かった貞盛は、父の残した領地の整理を終えたら再び上京し官人としての道を進もうと考えていました。そうなれば将門と争うこともありません。そこで、そのことを将門に伝え、将門とは和解していたらしく、両者にはわだかまりはありませんでした。
ところが、将門の三番目の伯父に良正という人がいました。良正は縁戚の護の息子たちが将門に殺害され国香も焼殺されたことに怒り、将門と戦いを交えます。結果は良正の大敗に終わりました。良正は次兄の良兼に救援を求めます。そして、良兼がそれに応じたことから、戦いは将門と伯父の良兼との抗争になりました。この良兼は当時上総介でした。上総も常陸と同じ親王任国で、長官にあたる守がいませんから、次官の介にあたる良兼が実質長官ということになります。それにしては、この後良兼は将門との抗争に没頭し、これでは国司の仕事はできないのではないかと不思議になります。また、良兼は上総介ながらも常陸の真壁郡に本拠があり、これも考えてみると不思議ですが、ともかく肩書きは上総介でした。
「将門記」では、前々から将門の妻をめぐって伯父の良兼と対立し、これが将門と良兼が抗争する原因だとしています。将門は良兼の娘を妻にしており、良兼が娘を連れもどそうとしたことで両者が争うことになったというのです。したがって、将門と良兼は甥と伯父の関係ばかりでなく婿と舅の関係でもあったということになります。
それで将門の妻ですが、彼女は将門と離婚する気はまったくありませんでした。それどころか、「将門記」では、その後将門が良兼に敗れると彼女は実家に連れもどされますが、嘆き悲しむ彼女に同情した弟たち(つまり良兼の息子たち)は、不憫に思いそっと彼女を将門の元に逃がしたとあります。しかし、この程度のことで激しい武力抗争に発展したとするのはどうも弱すぎます。そこで、それから二百年後に書かれた「今昔物語」では所領をめぐって争うことになったとわずかに書いてあり、このことを根拠にして、将門の父良持がなくなった後、その遺領をめぐり将門と親族との間に争いが起きたのが原因だとする説が有力です。
大伯父の国香といい、良兼といい伯父たちは国衙の役人の肩書きがあります。しかし、将門にはありません。将門は伯父たちと争いを起こす前に上京し猟官運動をしたことがあります。たぶん、鎮守府将軍だった父のはからいだったと思います。太政大臣で、藤原氏の氏の長者でもあった藤原忠平の家人となりました。しかし、官位を得るのに失敗したらしく、無位無冠で東国にもどりました。そもそも将門はいとこの貞盛とちがって社交が下手でした。
このため地方政界にしっかりした足場がある伯父たちに比べ、将門は安定感に欠けます。傘下に集まる人たちも、社会のはみ出し者やドアウトサイダーという種類の人たちが多かったようです。こういう集団なので将門の陣営は戦争には強いのですが、戦争を終えた後の秩序を構築するという点では弱点があり、これが将門が失敗した最大の原因でした。
それはともかく、良兼はそうとう将門が憎かったようです。大軍を編成し国衙の役人が制止するのを振り切って出陣します。そして、甥の貞盛をよんで父の敵と親しく交わるのは武人の道に反すると叱責しました。そのため、貞盛もやむなく良兼の陣に加わらざるをえなくなりました。
良兼は大軍を擁して将門を攻撃しますが、こと戦争に関しては将門の方が一枚も二枚も上手だったようです。良兼軍よりはるかに寡兵ながら、将門はまずは歩兵を放って良兼軍を撹乱し、その後に主力を投入するという巧みな用兵を発揮します。さらに、将門が陣頭に立って戦いますから、将門軍の士気は高く良兼軍を圧倒します。良兼は追いつめられます。将門もいったんは包囲しますが、その後わざと囲みをといて良兼を助けるという余裕までみせます。こうして、良兼もまた良正と同じように敗北します。
将門は窮地に追い込まれるとひときわ戦争能力を発揮する人だったようです。戦場の兵士たちには、勇気と恐怖の心理が交互に現れます。将門はたぶんそういう戦場心理を読むのが上手で、相手の一瞬の隙をついて集中攻撃したのだと思います。将門という人は、性格的に戦争が好きだったと思います。
そのうち源護が息子三人が殺害されたことで将門を訴え、将門は京都に召喚されます。将門は正当防衛を主張しました。「将門記」では将門が雄弁をふるったことになっています。将門は無実を認められ、そればかりか武人としての名声は都でも高まり、将門は意気揚々と帰国しました。
しかし良兼も必死でした。良兼は周到に準備し、今度は将門の父良持と祖父高望王の像を陣頭に掲げるという奇策で将門の軍と戦います。この戦いではさすがの将門も敗北し、将門は戦場から逃亡し、妻子は捕らえられます。勝ち誇った良兼軍は将門の本拠地を襲撃し民家を焼き払いました。
その後将門は反撃に転じ、良兼の本拠地真壁郡を徹底的に攻撃します。当時の戦争は、軍同士の戦闘にとどまらず、相手方の領内に侵入しては民家を焼き払いますから、戦いが起きるたびにあちこちが焦土になります。将門の伯父国香の最期も館に火を放たれての焼死でした。ですから、将門が兵乱を起こした935年からの5年間で主戦場の常陸下総は荒廃しきったと思います。
良兼も将門の攻撃に受身一方というわけにもいきません。良兼は将門の下人に工作して裏切らせ、将門の館の様子を探り夜襲をかけました。しかし、これも将門の獅子奮迅の働きで失敗に終わりました。いくら兵を多くしても、策を立てても将門には歯が立たないという感じです。やがて反将門のリーダーは貞盛になりました。貞盛は心ならずもその任につきますが、元々この争いには乗り気ではありませんでした。その上、武将としての能力も将門に劣り、将門の敵ではありませんでした。結局、将門の追及を逃れ関東各地を転々とする逃亡の日々を余儀なくされます。こうして、将門と一族の争いは将門優位のまましばらく膠着状態が続きます。 
そのうち、将門は、武蔵国で国司と足立郡司が対立している話を聞き、みずから仲介に乗り出します。郡司は武蔵竹芝といい、氷川神社の祭祀もつかさどる名門の豪族です。武蔵では国司の長官である守は不在で、権守の興世王と介(次官)の源経基がいました。「将門記」では、竹芝は清廉潔白の士、興世王と経基は強欲非道の人物としています。興世王と経基の二人は箸にたとえられ、「この二本の箸は、魚肉をついばむように民から血と肉を搾り取った」とあります。
この争いに将門が頼まれもしないのに調停に乗りだし府中に赴きます。興世王と武芝は将門の調停を受け入れ、経基は反発します。そこで将門は経基は相手にせず、興世王と竹芝を呼んで仲直りの宴を開きました。ところがその最中に竹芝の部下が経基の館を囲む事件が起こり、経基は三人が自分に危害を加えると速断し、恐怖に駆られ京に逃げ帰り朝廷に報告します。この源経基は清和源氏の始祖にあたる人です。「将門記」では、この時の経基の醜態について、まだ武人としての鍛錬ができていなかったからと説明しています。また、経基の館については、東京都東村山市の狭山丘陵にある八国山とする説や、経基の領地のあった埼玉の鴻巣市とする説などがあって正確な場所は不明です。
京都の太政官では将門の私的主君である藤原忠平にことの次第を明らかにするよう命令を出します。将門は関東五カ国の解文(上申の公文書)を添え、謀反は事実無根であることを忠平に申し開きします。この陳述は受け入れられたらしく、将門は不問になります。
一方、良兼は逼塞して悶々とし、やがて病をえて亡くなります。貞盛は下野の豪族藤原秀郷の助力を得て将門を討とうとしますが、とうてい将門の敵ではありませんでした。こうして将門の周辺は一時的にまた小康状態を得ます。一方、興世王も新任の守と不仲となり、武蔵を飛び出して将門の下に身を寄せてきました。そして、その後この興世王が将門陣営の参謀役になりました。
ところが、この頃常陸に藤原玄明(はるあき)という人物がいて、彼は租税滞納と官物横領で国府の追負(今でいう指名手配)を受け、将門に救いを求めてきました。実際には別の理由があったのかもしれませんが、「将門記」では、将門は窮鳥懐に入れば猟師もこれを討たずという侠気で玄明を保護することになりました。将門は手勢を率いて常陸国府に乗り込み強引に追負をとり消させます。
将門の言い分は、これからは玄明を下総に住まわせ、自分の監視下に置く。つまり身柄をあずかるということでした。しかし、常陸の国司はそれを承知しませんでした。そこで、将門は国司を監禁して、常陸の国府で略奪行為に出ました。
これが致命的でした。将門の今までの行為は私闘でした。しかし、国府を襲撃したことで、将門は国家に対する謀反人になりました。そして、興世王も「こうなればもう後には引けません。坂東を征服し、板東を押さえたまましばらく様子を見ましょう」と進言します。将門も「自分は皇族の出である。この上は坂東八国にとどまらず京に攻め上ろう」と答えます。「将門記」では939年11月29日のこととしています。
その後の将門は燎原の火のように関東全域に兵を進めます。同年12月11日には下野国府(今の栃木市)を襲い、国司を京に追放します。ついで15日には上野国府(今の前橋市)を占拠し、同じように国司を追放します。この時巫女が現れて将門を皇位に就けると預言し、将門は新皇と称します。さすがに弟や側近たちは制止しますが将門は聞き入れませんでした。将門は碓井と足柄の両峠をふさいで関東を独立国とし、部下たちを武蔵以外の関東各国の国司に任命します。(将門がどうして武蔵だけに国司を任命しなかったのかはわかりません)そして、自らの本拠地を皇居に定め、天皇に即位する旨京都に伝えました。
京都では驚愕し、朝廷は神仏に将門調伏の加持祈祷を行い討伐軍を編成しました。翌940年1月、将門は残敵を掃討するため常陸に出征し、豪族たちの歓待を受けます。その一方、宿敵貞盛の居場所を探索しますがその所在はわかりませんでした。しかたなく将門は軍を解散して兵をそれぞれの家にもどしてしまいました。ところが、これがちょうど太平洋戦争のミッドウェーの日本艦隊のように一瞬の無防備の状態をつくることになりました。このわずかな隙をねらわれ、貞盛の攻撃を受けます。今まで破竹の快進撃を続けていた将門の勢いが頓挫します。あっというまに形勢が逆転してしまいました。
2月1日、将門は下野で貞盛秀郷の軍と戦い敗退します。将門は幸島郡に落ち延びます。そして2月14日、将門は少数の部下を率いて秀郷貞盛郡と戦い、「将門記」の表現では、その戦いの最中、「暗(そら)に神鏑にあたり」(ひそかに神が放った鏑矢にあたって)、壮烈な最期を遂げてしまいました。
その後は、首魁を失った反乱軍はたちまち崩壊し、興世王をはじめ幹部たちは各地で捕らえられ処刑され、将門の乱もようやくおさまりました。 
3 荘園制 / 律令体制の崩壊
1)「将門記」の疑問
「将門記」の内容はほぼ以上の通りです。平将門については、私もいろいろ考えてみました。しかし、よくわからないというのが正直のところです。もっとも不思議なのは 、889年に将門の祖父高望王が上総介に任官し、それからほんのわずかな期間で、息子の国香や良兼、孫の将門たちが強大な力を持ったことです。
将門と伯父の良兼が不仲になり戦争状態になるのは931年頃です。祖父の高望王が長いこと不遇の皇族生活を過ごし、ようやく上総介の地位にありつき、裸一貫で京都から関東にやってきてまだ40年くらいしか経っていません。にもかかわらず、もうこの時点で良兼は強大な富と力を持ち、そして将門も伯父良兼と対抗できるだけの力を亡父の良茂から受け継いだということになります。しかも、高望王の息子は良兼と将門の父だけではありません。ほかにも何人かいます。そして彼らも皆大きな力を持っていました。ざっと考えてみて、高望王の息子たちがその富と武力を持つのにかけた時間は、おそらく高望王が関東に下向して15年か20年くらいだったと思います。
すると、桓武平氏などの下向貴族たちは、京都に見切りをつけ新天地を求めて関東に土着した。彼らは貴族の出自を利用して、地元の有力豪族と婚姻関係を結び、妻の実家の力を背景に勢力を伸張したとか、彼ら下向貴族は未開の荒野を開発して荘園領主になった、というような歴史書によく書いてあるような手段ではとても無理だったと思います。この桓武平氏と同じような人たちは武蔵にもいました。それは、ずっと時代は下りますが、やはり桓武平氏の流れを汲み、平将門の縁族にあたる秩父氏です。秩父氏は秩父盆地を本貫とする武士団ですが、平安時代後期の12世紀初めに平野部の比企地方に進出すると、たちまちここを支配下に置きました。しかも、それだけでなく、その庶流は武蔵各地に進出し、あっという間にそこで領主的地位を獲得してしまいました。
このように平安時代の桓武平氏や武蔵の秩父氏は、まるで大陸の遊牧民族のように自由に関東の大地を駆けめぐり、電撃的な速さで支配者になって君臨しました。とても地面にはいつくばって営々と未開地を開拓し、そこの開発領主におさまったという感じはしません。
そして、私にはこの開発領主というのがよくわかりません。この開発は「かいほつ」と読むのが正しいのですが、平安時代に未開地の開発がそんなに進んだという印象がないのです。武蔵に限らず平安時代も中期になると、全国的に農地になるべき土地はほぼ開発され尽くし、新しく開拓できる土地はもうなくなっていました。武蔵について言うと、この時期に残された未開地は武蔵東部の沖積平野しかなくなっていました。しかし、ここは荒川と利根川が流れる低地で、農地にして人々が住み着くには大規模な土木工事が必要になります。これが可能になるのは鎌倉時代になって源頼朝や北条執権家という大きな力をもつ権力者が出てきてからでした。
歴史の本を読むと、平安時代の末期には荘園と公有地は半々くらいになっていたとされています。かりにこの荘園が開拓地なら、これだけの農地が新しく創出されたことになります。そうであるなら日本の人口は平安時代で倍増していなくてはならなくなります。しかし、この時代に人口が飛躍的に増加したということはありませんでした。
平安時代になると、たしかに武士とよばれる新興勢力が現れます。彼らは一見すると、たとえば明治時代に未開の大地を求めて北海道に渡った開拓者かアメリカ大陸に新天地を求めたヨーロッパの移住者に似たイメージがあります。しかし、実際は武士たちは開拓者などではなかったのではないかという気がします。
すると、平将門が関東に独立国をつくろうとした力はどのようにして獲得したのかというのが大きな疑問です。また、「将門記」には藤原玄明という不思議な人物が出てきます。租税滞納と官物横領で国司と争い、将門謀反のきっかけになった人です。ではこの玄明はどうして国司と対立することになったのかいうのもわかりません。そこで、この二つのことを念頭に平安時代の土地制度、とりわけ荘園制について考えてみることにします。荘園制度については、私も私なりに勉強してみました。しかし、いくら勉強してもわかりません。古代史の本にはさまざまな荘園の例をあげて丁寧に説明しています。しかし、読めば読むほど全体像がつかめません。そこで、そうとう強引ですが私なりの理解と推測を交えてまとてみます。
2) 公地公民制破綻と私有地の出現
645年の大化の改新で生まれた律令国家の根幹は、公地公民制とよばれる国家による人民の直接支配でした。この制度の最大の特徴は、国家は土地を支配するのではなく、個々の人々を直接管理することにありました。ですから、たとえば租庸調の税も土地ではなく個人に課しています。つまり、律令の税の基本は土地税ではなく人頭税でした。
これはこれで合理的でした。たとえば武蔵は現在の東京・埼玉と神奈川の川崎横浜地方を合わせた広大な地域です。この広い武蔵国を府中の国府と21の郡衙が統治するのは大変なことです。しかし、視点を変えて、土地ではなく人々を管理するのだと考えると、この地域に住むわずか15万人の人々を把握すればよいことになります。しかも、当時人々は血縁の集団で住んでいました。それは郷戸でいうと6000戸です。したがって6000人の戸主を直接管理すればよいわけですから1国府21郡衙で十分でした。(15万人というのは奈良時代から平安時代初期の頃の武蔵の人口です。)
もちろん、このような直接支配をおこなうには人々を正確に把握しなくてはなりません。その具体的手段は戸籍簿です。正確な戸籍簿を作り、その戸籍簿をもとに決められた税と労役を課せば、円滑で公平な人民支配ができます。しかし、政府が国民一人一人を直接管理するということは現実的には非常にむつかしいことです。その綻びは戸籍簿の改竄、公民の逃亡という形で現れました。たぶん徴税の実もあがらなかったと思います。そのため、しだいにこの公地公民制も崩れていくことになりました。
公地公民制の矛盾は口分田の不足ということで表面化しました。この農地不足は地方より畿内で深刻だったと思います。そのため、701年の大宝律令からわずか20年後の723年に三世一身の法、743年に墾田永世私有法が公布され、開発地の私有を認めることになりました。
この口分田不足は考えてみれば当然のことでした。班田収授の法は男子に2反、女子にはその2/3の口分田を与えるということでした。男子に2反、女子はその2/3というのは、これだけの口分田があれば、農民一家族あたり1町(1ヘクタール)の営農になるであろうということだったと思います。しかし、1町の農民というのは、江戸時代でいうと本百姓に相当します。江戸時代でもこの本百姓は半分もいませんでした。にもかかわらず、奈良時代の律令政府はすべての農民に1町の農地を保障しようというのですから無理がありました。しかもこの口分田というのは水田だけのことです。班田収授の法で定めている口分田というのは水田だけです。当時の法律では畑地については何の規定もありません。というより人々の自由耕作にまかせていました。ですから、この班田収授の法をそのまま実施するとなると班田農民は江戸時代の農民などよりはるか広い農地を持つことになります。大宝律令が完成してすぐに農地が不足したのも当然でした。ただ、奈良時代は恐ろしいくらいの過疎社会でした。しいたがって、農地そのものが不足するというのではなかったと思います。たぶん稲作を行うに必要な水が確保できる農地が不足したのだと思います。
三世一身の法、墾田永世私有法で土地の私有が認められ、農地の開発にもっとも熱心だったのは都の有力貴族と大寺院でした。彼らは積極的に荒地の開発に乗り出します。これが自墾地系荘園とよばれる荘園です。歴史学では初期荘園と言います。この荘園はもっぱら畿内に設置されました。しかし、すぐに下火になりました。
荘園領主たちの開発熱が冷めた理由の一つは荘園主の直接経営だったため維持管理が大変だったからですが、もっと大きな理由は、この墾田には租税がかかりさらには荘園で働く農民も多くは公民だったため、農民に賃金を払うといくらも利益が残らなかったからです。この初期荘園からもわかるように、荘園はただ農地を開発して農民に耕作させるだけでは経営の実があがりません。税を払わなくてよいこと、それと荘園で働く農民が公民としての義務が免除され、彼ら農民を私有民として荘園に囲い込み直接地代を取れる仕組みにする必要があります。この地代のことを当時は地子(じし)とよんでいました。
こういう農民を確保するのは免税の権利を認めさせることよりずっとむつかしかったと思います。律令の仕組みでは、人々は口分田を与えられる見返りに納税の義務を負うのではありません。土地の給付があるなしにかかわらず、人々には公民としての義務がありました。したがって、農民は口分田を捨てて荘園に逃げ込んでもこの義務から免れることはできません。公民の義務には納税(物納)のほかに労役もありました。そして、東北地方に近い武蔵ですと、対蝦夷戦争の兵役などにもありました。
たとえば、789年の岩手県の胆沢城での戦いでは3千人を越す損害が出ています。ということは、この3千人がかりに全軍の1割だったとすると、この戦争に律令政府は3万人の兵を送りこんでいたということになります。3万人の兵を動員し、なおかつこの3万人に武器食料を補給する必要がありますから、それらを考慮すると膨大な人員と物資を確保する必要があったと思います。ですから、政府としても荘園を認めても、荘園の農民に簡単に公民の義務を免除することはできなかったと思います。そのため、土地の私有が認められても、荘園で働く農民を確保できず荘園制はなかなか広まらなかっただろうと思います。 
3) 律令制度の綻び
ところが、平安時代もしばらくたつと、政府の人々に対する厳しい管理も緩むようになります。それは社会の各層にさまざまな人々が出現したからです。とりわけ、富農化した農民が現れたのと、京都での貴族人生に見切りをつけた下級貴族たちが地方に進出してきたのが大きかったと思います。彼らは合法的にも非合法的にも富の集積をめざしました。それとあいまって、政府にも緊張感が失われてきました。関東について言うと、東北の蝦夷の反乱も収束し、人々は戦争にかりだされることもなくなります。こういうこともあって、関東では社会秩序が急速に失われていきます。
900年の武蔵に関する記録には、国中に群盗や野盗がはびこっているとあります。この群盗野盗の跋扈は武蔵にとどまらず関東各国で同じような状況でした。しかも、注目すべきことは彼らは食い詰めた浮浪民ではなく、「富豪の輩(やから)」とよばれる人たちでした。彼らの中には馬を使って、たとえば東山道の上野下野で不法を働くと東海道の下総や武蔵に逃げ込み、東海道で事件を起こしては東山道に身を隠すというようにたくみに国府の追求をのがれるありさまでした。
彼ら群盗夜盗は貧しい農民から略奪はしませんでした。彼らのねらいはもっぱら国府や郡衙に集積された官物でした。政府にとって見過ごすわけにはいきません。そのため関東各国には検非違使と呼ばれる警察を配置するようになります。武蔵ではこれより先の861年に各郡に検非違使が置かれました。このように、本来なら地域の指導者層であるはずの富農や土豪が平気で不法行為を働くようになります。当然、公有地の管理もしだいにずさんになり、一方では私有地の荘園が拡大します。それがちょうど平将門が反乱を起こす時期でした。
平将門の生きた10世紀になると租庸調の税制は完全に形骸化していました。たしかにこの時期に編纂された「延喜式」には各国の庸調の品目が記載されています。しかし、その徴税は、公民一人一人に租庸調の税を課すのではなく、国全体で、税の総額をあらかじめ決めて、それを各郡や各郷に割り振るというようになっていました。こういう徴税は律令の基本である人頭税の考えをやめて土地税か地域税に転換したことを意味しました。
そして、この時期になると、今までの郡・郷・里という行政単位とは別に名(みょう)という徴税のための課税地域が設定されます。それは、徴税の対象にはならない荘園が現れて、この荘園をのぞいて課税区域をもうける必要があったからです。この名は後世になると郷とか保(ほう)とよばれるようになります。この郷は古代律令の国郡郷の郷とはちがいます。また、徴税の主体も郡司や郷司ではなく国司になってきました。国司は中央政府から徴税すべき額を割り当てられました。そして、国司はそれを政府から請け負うという形式になります。これを国司請負制といいます。
国司は管内の田を調査し、課税すべき農地に課税しました。この課税地を国衙領といいます。国司はこの国衙領から徴税し、徴税した物を官物として京都に送ります。そして税も租庸調というのではなく、年貢という物納と公事(くじ)という労役の二つになります。(年貢という言葉はすでに平安時代に使われていました)。この場合の労役のほとんどは公有地の田畑を耕作することでした。簡単にいうと小作をさせることでした。この徴税の仕事は今までは郡や郷がしていましたが、郡司や郷司の力が弱まり、また彼らの不正も横行するようになり、国府の関与が強まったのです。そのため、今までは中央と地方の仲介者にすぎなかった国司の権限が強化されていきます。
郡司や郷司の力が弱まったのは、彼らに匹敵する力を持つ富農や豪族が出てきて、郡司や郷司の命令に簡単には従わなくなったからです。郡司や郷司の不正事件も起こりますが、それは彼らが官物を横領したこともありましたが、こういう反抗的な富農や豪族がきちんと納税せず、結局、郡司や郷司が書類上のつじつまあわせをせざるを得なかったというのが多かったと思います。
こういう郡司の不正は、実はすでに奈良時代から起こっています。その一例が、郡の役所を襲撃して正倉(倉庫)に火をつけ官物を奪うという行為です。これを当時は「神火」とよんでいました。この神火は、郡司郷司の失脚をねらう豪族たちのしわざだったり、逆に、郡司郷司が官物横領の証拠を隠滅するために引き起こした事件だったりしています。武蔵では入間郡の正倉が焼かれた記録が残っています。
端的にいうと、権力が権力の本質である強制力を発揮できなくなったからです。郡や郷が行政能力を失った以上、国府が前面に出ざるをえなくなったのです。こうして、国府と郡衙は今までのように、公民一人一人を把握して課税することはしなくなります。その代わり、国府が課税区域の有力農民に税を割り当て、彼らを通して税を徴収するようになります。この有力農民を当時は田堵(たと)とよんでいました。国府は田堵を通して徴税します。この時代の税の品目は複雑でした。租税一つとっても、貨幣とか米というように共通な物品に決まっていませんでした。米、布、馬そのほかにも紙、染料とさまざまなものが徴税品となり、地域ごとにちがっていました。さらに労役がありました。そういう税や労役を課すには地域で強い力を持つ彼ら富農層を利用するのが自然でした。こうして、公有地の支配もそうとうゆるんできました。
4) 荘園の拡大
一方、平安時代も時代が進むと荘園も拡大していきます。それは国府の管理から漏れる農民がたくさん出てくるようになったからでした。荘園領主はこれらの農民を荘園に囲い込むようになります。荘園には大きく分けて二つありました。一つは国司が認める荘園でこれを国免荘と言います。また、中央の太政官と民部省が認可する荘園もあり、この荘園を官省符荘といいます。しかし、荘園は都を離れた地方にあります。すると荘園の領域を確定したり、水利権の調節が必要になりますから、最終的には国司が認定することになります。つまり、国衙領を管理する国司は荘園の設立や維持についても関与することになり国司の権限が強くなります。では、この場合土地を持つ有力者とはだれか、彼らの持つ土地とはどのような土地なのかということが問題になります。
まず考えられるのは、先ほどの田堵とよばれる富農層です。この田堵は法的にはほかの農民と同じ立場ですが、彼らは納税できない農民の租税を代納したり、私出挙(しすいこ)という金融手段で近辺の農地を集積し、さらには未開地を開拓して私有地を拡大していきました。それからもう一つは退任国司とその子弟、あるいは京都から一旗あげるためやってきた下向貴族たちです。そして、実際の数は少なかったと思いますが、こちらの方が規模は大きかったと思います。国司の長官は守(かみ)ですが、そのほかにも国府には、介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)・史生(ししょう)とよばれる下級国司がいて、そういう人やその子孫がそのまま土着して領主になります。「将門記」でいうと、前常陸大掾の肩書きを持つ源護のような人です。彼は常陸に土着した退任国司でした。
しかし、彼ら貴族出身の人たちは未開地の開拓などはしなかったと思います。やはり、「将門記」に藤原玄明という人が出てきます。租税滞納と官物横領で国府から手配され将門に救いを求めた人です。どうやら彼は京都での貴族生活に見切りをつけ、東国に下向してきた貴族のようです。
玄明が租税を滞納したということは、本来なら税を払わなくてはならない私有地を持っていたということです。そして、彼自身は税を払わなくてもよいと考えていたということになります。 
彼はたぶん空閑地を開発と称して占有し、私有地にしようとしたのだと思います。そして、退任国司や下向貴族たちはこの空閑地を横領することで荘園を拡大していったのだと思います。
平安時代の農業を見ると、荒れ地というのがよく出てきます。奈良時代の畿内の農村絵図にも水田でも畑でもない土地が荒れ地として記載されています。この荒地が空閑地です。
国衙領も荘園も、そこを耕す農民がいてこその農地です。しかし、だれも耕さない土地というのがあります。それは未開の山野ではなく、以前は農地でしたが今は休耕している農地だったり、かつては農地として使われていたが今は放棄された土地です。そして、平安時代にはこういう荒れ地がたくさんありました。
荒れ地が生じるのは、当時の農業ではふつうのことだったのだと思います。どうも中世までの農業では、江戸時代のように農地は固定したものではなかったようです。ある農地を耕作していても、何年かするとそこを放棄して別の所を農地にするというような農業だったと思います。それは農地を使い続けると地力が衰えたり、水路が変わってしまい水がこなくなってしまうこともあったからです。
農民が耕していない土地から税や地代を徴収することはできません。そこで、荒れ地が農地になると国衙領や荘園に編入されて年貢や地代の対象になり、放棄されると国衙領や荘園からはずれるということなります。平安時代はこういうことのくり返しだったと思います。
すると、中には法的には荒れ地にもかかわらず、農民が耕作している農地があります。そこは本来は国衙領になるべき土地でした。こういう農地は法的には荒れ地ですから、農民も年貢は払いません。この農地を当時は「穏田」(おんでん)といっていました。国府は、当然こういう農地を摘発して課税しようとします。
「将門記」に登場する藤原玄明という人は、たぶんこういう荒れ地を自分の私有地にしたのだと思います。しかも、この玄明は乱暴な人でしたから、荒地に農民を集め、土地を農地化するというような面倒なことはしなかったと思います。たぶん、農民が耕作している荒れ地を勝手に囲い込んで自分の私有地にしたのだと思います。そこは本来国衙領でした。そこで、常陸の国府はその土地を国衙領と判定し課税しようとして玄明と争ったのだと思います。
そして、こういうふうに国司と堂々と争うことができたのが退任国司や下向貴族の強みでした。彼ら貴族出の人たちは、地方では威張っている国司も、京都では下級貴族にすぎないことを知っていました。彼らは国司を軽く見て素直に従おうとしません。
藤原玄明の行為も、彼がもっと政治的立場が強く、たとえば、源護のように地元政界に顔の利く退任国司だったら認められました。しかし玄明のように徒手空拳で地方にやってきた下向貴族は相手にされなかったのだと思います。勢い玄明は暴力的手段に出て国府と争うことになりました。
この土着した貴族たちは、国府にとってやっかいな存在でした。それで、10世紀の下総の国司はたまりかねて下向貴族や退任国司の一掃を中央に願い出ています。それはもっともなことでした。
下向貴族たちのやり方は、公領のいわば合法的横領でした。ですからすぐに広大な私有地ができます。ずっと時代が降りると、空閑地を私有地にするのではなく、広い国衙領そのものを強引に荘園化してしまうようになります。
しかし、こういう土地は不法占拠に近かったので不安定でした。そこで、京都の大貴族や寺院に寄進してその権威で守ろうとしました。それが寄進地系荘園とよばれる荘園です。この荘園は後期荘園とよばれます。この後期荘園は将門の時代より後の平安時代の後半に広く普及します。 
5) 荘園と国衙領内の小領主
ふつう荘園というと、広い領地の真ん中に小高い丘があって、そこに領主の大きい館が建ち、その麓に農民の家が集まっている風景を想像します。しかし、それはヨーロッパの荘園で、日本の荘園の多くはまったく様子がちがっていました。
平安時代の関東の荘園については、あまり資料がなく、その詳細は意外なほどわかっていません。とりわけ、武蔵の荘園についてはほとんどわかりません。そこで鎌倉時代の武士の様子を手がかりに推測してみます。
源平の合戦で有名な武士に熊谷直実がいます。調べてみると直実は埼玉県の熊谷で10町足らずの領地を持つ武士でした。そのため直実は源平の戦いには息子と郎党一人を連れて3人での参戦でした。しかし、この時代の源氏側で戦った武士の多くは、この熊谷直実と同じようにわずかな領地しか持たない零細武士でした。直実の領地10町というのはたぶん水田だけの領地です。というのも、奈良時代から鎌倉時代の頃までは、国や荘園領主が農民から取る年貢は水田にかぎり、畑地の収穫は農民の自由にできるというのが慣習的に決まっていたからです。これを当時は「依怙(えこ)」とよんでいました。ですから、直実の領地も実際には一つか二つの村からなっていて、領内の農民も水田のほかに畑地なども耕作していたと思います。耕作地全部で10町ということではありませんでした。
とはいえ10町の領地はやはり小さい領地です。これでは江戸時代の収量に換算しても100石くらいにしかなりません。そして、耕作農民も生活していかなくてはなりませんから、このことを考慮すると、直実が農民から取れる地代はおそらく15〜10%くらいだったと思います。しかも直実の領地は直実だけに所有権があるのではありません。直実の領地が国衙領か荘園かはわかりませんが、ともかく上級の所有者がいて、国衙領なら国府に、荘園なら荘園領主に年貢を上納する義務があります。この年貢分をのぞくと、直実の取り分は地代の10%くらいにしかならなかったと思います。すると10町の領地からはわずか10石分くらいしか直実の収入はなかったことになります。10石というのは江戸時代の1町程度を持つ本百姓の収量ですから、これでは直実もやっていけません。
ではどうしていたのかというと、こういう直実のような零細武士たちは直営地を持っていました。この直営の農地のことを「佃(つくだ)」といいます。そこで、10町のうち、たぶん2〜3町は自営地だったと思います。仮に3町の水田を自営すれば30石の収穫があります。残り7町を農民に耕作させれば、そちらからの地代も入ります。この自営地からの収入と地代が零細武士の収入でした。この自営地の耕作は、領主自身の家族と下人や名子(なご)よばれる隷属農民の労働、それと小作農民の労役でまかなうことができます。この労役が公事(くじ)とよばれる労働地代です。このように、鎌倉時代の武士の多くは自営地を持っているのがふつうでした。このように領内の農民から地代を取れる農地のほか自営地を持つという形態はおそらく平安時代の早い時期から行なわれていたと思います。
一般的に平安時代のように生産性の低い社会では、純粋に地主的立場で農民を働かせて地代をとってもその収入はわずかです。こういう寄生地主的制度が機能するには、大正昭和時代のように1反あたりの収量が4石くらいになる必要があります。このくらいの収量があれば、例えば1町の水田でも40石の収穫があります。半分の20石くらいの高率地代をかけても農民は耐えられます。しかし、1反1石以下の時代では、やはり領主といえども直接農業経営をせざるをえなかったと思います。
武士と農民
ここで指摘しておきたいことは熊谷直実のような武士でも年貢を納める義務があったことです。熊谷直実は鎌倉幕府の御家人でしたから、彼は年貢を納めてはいなかったかもしれませんが、そういう特権のない武士というのは法的には農民と同じです。そもそも武士というから紛らわしくなりますが、元々は彼らは豪農ともいうべき農民でした。
武士の領地といっても、それはその武士に土地の所有権があったわけではありません。正確に言うと、武士の持っている権利は、土地の所有権ではなく土地の使用権です。所有権を持っているのは国衙領なら国、荘園なら荘園領主です。
この所有権と用益権の関係は現代の仕組みとほぼ同じです。現代では土地の私有が認められているとされていますが、これも正確には使用権です。確かに自分の土地を売ったり、借地に出したりしていますが、必ず税金が納めています。また土地を持っていてもその使用について国は規制を設けています。それは、現代でも土地の所有権は国家にあり、ただ使用権だけの私有が認められているにすぎないからです。
平安鎌倉時代の武士も同じで、彼らは一見土地を領地として所有しているように見えますが、彼らの持っているのは使用権にすぎません。その点、江戸時代の大名は所有権を持っていました。大名はだれにも税を納めていませんし、領内の土地使用については無制限の裁量権を持っていました。
また、この時代には1町程度の農地を持つ、独立した小農自作農というのは存在しませんでした。こういう農民は太閤検地によって意図的に作り出された農民です。古代から中世までは、いわゆる農民というのは領主の農地を小作する農民か領主に隷属する下人所従で、法的に独立した個人としての農民は存在しませんでした。
しかし、これまで説明してきたような小領主では、武蔵の秩父氏や、時代を遡って平将門のような棟梁的武士の存在は説明できません。そこで、彼らはどうしたら生まれるのかを考えてみました。
小領主の特徴は彼らが小さな領地しか持たなく、そのために自営地を持ち自らも農業経営に従事することにありました。ではこの領地を大きくすればよいということになります。しかし、これは領地の管理に膨大な労力を必要とし現実的には無理です。
そこで考えられるのは、上記の小領主から年貢を徴収する立場になることです。小領主たちは法的には農民で、その領地は国衙領か荘園です。ですから、彼らは国衙や荘園領主に年貢を納めています。そこで、国衙や荘園領主に代わって広い領域に分布する小領主たちから年貢を徴収し、その一部を自分のものにするのです。こういう立場になればその収入だけで十分ですから、直営の農地はもちろん私有の荘園も持つ必要はありません。しかも土地に縛られずに自由に行動できます。武蔵の秩父氏は庶流が武蔵各地に展開しますが、彼らの基盤はおそらくこういう徴税権だったと思います。そして、さかのぼって平将門もたぶんこういう豪族だったと思います。しかし、平将門も秩父氏もこういう徴税の請負をしていたという確実な史料があるわけではありません。ただ、そういう可能性があるということです。
6) 国司と在庁官人
そこで、こういう徴税代行が可能だったか今度は国司の方を見てみます。前に平安時代になると国司の権限が強化されたことを説明しました。しかし、実際には国司の退廃もひどくなりました。
この時期になると、国司の中には任国に赴任しない人が出てきます。それは国司は収入が多いので上級貴族を国司に任命することがあり、彼らは中央の官職との兼務ということになり任国に赴任できない場合もありました。また、畿内の国司などは京都の屋敷にそのままいて、目代とよばれる代理を任国に送り込んで、自分は時々様子を見に出かけるだけというありさまでした。さらには、遠国の国司は任命されても1年くらい経ってから赴任するということがふつうになります。「将門記」で、武蔵の興世王・源経基と郡司の武芝が対立した時、国司である長官が赴任していませんでした。こういうことはよくあることでした。
このように国司が京都を離れたがらないのは、彼らも京都で権門勢家にとりいって猟官運動をしなくてはならなかったからです。「将門記」に武蔵権守(ごんのかみ)の興与王という人物が登場します。彼の肩書きの権守という官職は実質のない役職でした。この権官職は、位を持ちながらも役職のない貴族が大勢いて、彼らを救済するため政府が無理してつくったものでした。ですから、国司の候補者は大勢いたのです。こういう官職ができるのは、支配者得である貴族たちが国家経営の熱意をなくし、国家を単に権益を収奪する手段と見なしていたということです。一言でいうと政治の退廃でした。
したがって、国司たちもまったく熱意も使命感ももたずに任国に赴任し、わずかな期間だけ在国するということになります。しかも、国府には警察力や軍事力がありません。少数の都からやってきた貴族たちが、警察力や軍事力を持たずに国司の仕事を円滑に行うのは無理です。ですから国司の権限を強化しても、実際にその権限を十分行使するということはできなかったと思います。そこで、その地方を熟知し、力のある豪族にまかせることになります。それは、土豪よりもっと力のある豪族でした。こうした大きな力を持つ豪族が土豪や富農という小領主たちから徴税し、さらには国司に代わって検田権を行使して課税すべき農地をさがしだします。こういう人たちを在庁官人とよびます。彼らは国衙に代わって徴税し、徴収した年貢の一部を受け取るというようなことになっていたと思います。
この在庁官人は一見すると、国衙に務める事務官のように見えますがそうではありません。彼らは豪族です。ですから、細かい事務的仕事などするはずもなく、自分の領地に居住し、自分の利害にかかわることがらだけに国衙の行政に関与する軍人でした。 彼ら大豪族にとって、荘園領主として直接農地を保有するより、政府の権力を背景に国衙領で徴税を請け負ったほうが有利でした。
たぶん平将門や伯父の義兼のような桓武平氏の人たちはこういうことを行っていたのだと思います。そして、将門や良兼が戦いに動員した兵士は、彼らが徴税をしていた土豪たちだと思います。
在庁官人である豪族たちも、当初はこの仕事が国府の代行であるのを自覚していました。しかし、しだいに意識が変化し、課税地は自分たちの領地であり、徴税は自分たちの権利のように考えるようになったのだと思います。すると、自分たちが取り立てた税の多くを、国府や中央政府の収入にするのは不当である、自分たちは搾取されていると、考えるようになります。1028年、平忠常が安房で反乱を起こしますが、その原因は税として集めた官物を京都に送るのに反発したからでした。これはこういう在地の豪族たちの意識をよく表していると思います。
荘園は意外と広がるのが遅かったように思います。荘園の設立は都の有力貴族・寺院と地方の豪族の合作でしたから、全国の国衙領はあっという間に荘園になるはずです。ところが、平安末期でも国衙領と荘園は半々でした。つまり土地の私有が認められた平安時代の400年間で、全国の半分しか荘園化しなかったのです。それは荘園を持つことがそれほど有利なものではなかったこともありますが、それ以上に豪族たちの中には国衙領の減少を嫌う人たちがいたからだと思います。それはこういう在庁官人として国府を実質的に支配した大豪族でした。 
7) 平家政権
しかし、平安末期になるとこういう徴税請負はさほど魅力的な仕事ではなくなっていきます。それは、国衙領が減少するだけでなく、国衙領でも税を払わない土地が増加するからです。そのため、こういう大豪族もこの頃になると広域の私有地を持つようになります。武蔵でいうと、秩父氏も武蔵各地に諸流が展開し、それぞれが私領を持って独自の動きをするようになっていきます。
また国衙領も荘園化していきます。考えてみれば国衙領も荘園領主が国であると考えればまったく荘園と同じです。平安時代末期には知行国というのがあらわれます。これはその国の国衙領の収入を、ある特定の貴族に与えるという仕組みです。ずいぶん大胆な制度ですが、想像するにこの頃には国衙領には税を払わない土地がたくさんあって、その国の税収の総額もさほど多くなくなっていたのだと思います。国衙領は空洞の大木のようになっていました。ですから、たとえば平安末期には、平家一門が全国の半分を知行国にしていたということが、平家の経済基盤だったようなことが言われますが、考えられているほど大きな富は得られなかったと思います。
全体的に平安時代末期になると、国家が国家としての実質がなくなっています。国衙領も在地の小領主たちが蚕食し、政府には彼らをコントロールする力はなくなっていました。したがって、平清盛が太政大臣になるとか、平家が知行国をたくさん持つとか、律令制度の中でいくら重要な地位を独占しても、それが実際の力の増大には結びつかなくなっていました。平家政権が意外ともろかったのもたぶんにこのためでした。
ただ、当時の地方の領主たちは京都の権力者との結びつきは必要でした。彼らにとって京都政界の実力者が自分の権利を認めてくれることが何よりも確かな保障だったからです。平治の乱の後、武蔵は平知盛の知行国になります。この人は平清盛の四男です。そのため、武蔵の武士たたは心ならずも平家に仕えることになります。また、秩父氏嫡流畠山重忠の父重能は、頼朝が挙兵した時、平家に仕え大番役で上京していました。そのため、関東にもどろうにも平家から許可がおりず苦労しています。このように地方に住む在地領主が中央の政治に敏感だったのも彼らの持つ領地が法的に不安定なものだったからでした。
ついでながら、国衙領もほぼ荘園と同じ構造をしていたと考えると、平安時代の末期、関東には荘園と国衙領合せて武士とよばれる小領主はそう多くなかったようです。たとえば1159年の平治の乱で、源氏と平家が死闘を交えましたが、源義朝と平清盛が動員した兵はそれぞれ500人程度でした。徳川家康と石田三成が戦った関が原の戦いの1/200です。同じ天下分け目の戦いにしては少なすぎると思いましたが、両軍とも目一杯動員してこの程度だったのだと思います。実際、「平治物語」を読むと、義朝方の兵員は相模・武蔵・両総の武士たちですが、戦前の陸軍にたとえると皆士官クラスの武士でした。保元・平治の乱の戦いの特徴は、源平両方とも軍団に最下級の兵卒が見あたらず、将官と士官だけで編成された軍隊という感じがします。すると、兵力がそれぞれ500人程度だったというのもうなずけます。
8) 平安末期に現れる巨大荘園
平安末期になると、京都の貴族や寺社、それから地方の豪族たちによる国衙領の蚕食も規模が大きく大胆になります。武蔵東部には八条院領という荘園があります。この八条院領は鳥羽上皇の皇女あき子内親王(あきが難字)の荘園です。この八条院は後白河法皇の異母妹にあたり、頼朝挙兵に大義名分を与えた以仁王の母代わりをした人です。彼女は当時、京都における反平家の中核的存在でした。
八条院領は、東京東部の東京低地から埼玉東部の加須低地にまたがる広大な荘園です。また、八条院領の東は利根川で、対岸は下総です。ここには相馬御厨と呼ばれる広大な荘園があります。この相馬御厨は伊勢神宮名義の荘園です。この八条院領の詳しい内容はわかっていません。八条院領に限らず、たとえば当時武蔵きっての大豪族の畠山重忠なども、畠山荘の荘司だったということですが、ではこの畠山荘とはどんな荘園だったのかとなるとこれがわかりません。武蔵の荘園にはわからないことがたくさんあります。
武蔵の荘園はほとんど史料が残っていません。ですから、武蔵国の荘園ではくわしい成立経過がわかる荘園はほとんどありませんが、上野国の新田荘は比較的よくわかっています。この新田荘は源義家の孫にあたる義重がつくった荘園です。この荘園は12世紀の半ばに成立しています。義重は鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の初代にあたり、弟の義康は足利氏の初代です。それを見ると、弟の義康が下野に足利荘を開拓したのに対し、義重は上野の利根川支流の中小河川の流域に新田荘を開発しました。ここは山の手線の内側くらいはありそうな広大な地域です。
ここの郷土史を読むと義重は上野国に入国すると、わずか5年でこの広大な荒れ地に灌漑路を作って農地にし、農民を集めて新田荘をつくったことになっています。そして、自らの姓を新田にして所有権を明示し(これを「名字の地」といいます)、1157年、この新田荘を京都の藤原忠雅に寄進し、後の管理は息子たちにまかせてまた京都にもどっています。江戸時代の新田開発を見ると、小さな村ひとつ開拓するにも膨大な資金と高度な技術を駆使して10年くらいかけています。これに比べると異常な速さと手際のよさです。
たぶん、義重は墾田開発などしなかったと思います。義重は、農民たちが生活している村落を丸ごと荘園にしたのだと思います。新田荘は国衙領でした。それを義重は強引に荘園にしたのだと思います。それが可能だったのは、清和源氏がもつ東国における権威と新田荘の寄進先になった藤原忠雅の政治力でした。この藤原忠雅は平清盛の縁戚で、後に太政大臣になった人です。おそらく、新田荘は義重と藤原忠雅が相談して設置した荘園でした。
ちなみに新田氏は平家との結びつきが強すぎました。そのため、頼朝が挙兵の際にも参陣が遅れこれがたたって鎌倉時代には、新田氏は足利氏に比べ不遇でした。たぶん、八条院領もほぼ同じだったと思います。ここには、すでに中小地主たちが私有地にしていた国衙領があって、それを一括して大荘園にし、八条院の私領にしたのだと思います。それを推進したのはおそらく後白河法皇とその側近グループでした。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて見られる荘園の多くはこういう荘園だったと思います。源義重のような大規模な荘園は事案もすくなかったと思いますが、小さな荘園も、その多くは地方豪族が京都の権力者(たぶん上皇)や国司の認可を受けて国衙領を荘園にしたものだと思います。
もうこの時期には本当に農地として開発できる土地はすでに開発しつくされ、新に開拓できる土地などどこにもありませんでした。大きな河川が流れる流域にはまだ開発の余地がありましたが、こういう沖積平野の低地は鎌倉時代の北条氏のような権力者か、戦国時代になって、戦国大名の強大な力がなければ開発不可能でした。荘園の名目的所有者を領家といいますが、この領家には寺院や神社がなることが多かったようです。摂関家の場合もありますが、貴族という生身の人間には寿命があります。また貴族の場合、政治状況によって浮き沈みがあります。その点、寺院は安定しています。それに、その宗教的権威は法律より強いものがあります。寺院や神社が最適でした。
平安時代末期から鎌倉時代になると、荘園と国衙領が入り混じり、荘園領主にも実質所有者と名目所有者、さらには下人や所従とよばれる奴隷的農民を持って耕作営農する上層農民も自己主張しだし、それらの権利が錯綜してきます。そういう調停は京都の政府にはできなくなっていきます。そこで、生まれてくるのが源頼朝に象徴される武家政権でした。 
4 武藏武士
1) 武蔵武士について
これまで荘園についてあれこれ考え、とくに武士とよばれる領主が大きな役割をしていたことがわかりました。そこで、ここでは平安後期に生まれ武蔵各地に割拠したいわゆる武蔵武士について考えることにします。
平安時代の後半から武蔵の歴史に出てくる武蔵武士には、大別して二つの系統があります。一つは桓武平氏の流れをくむ秩父氏です。もう一つは武蔵七党とよばれる中小武士たちです。両者は保元の乱と平治の乱を戦記物語にした「保元物語」「平治物語」にも出てきます。この中で秩父氏は「高家」という呼び方になっていますから、他の武蔵七党の武士たちとは別格の存在だったことがわかります。
この両者はあらゆる点で対照的でした。秩父氏は秩父盆地を本貫とし、その後、平野部の比企地方に移りました。さらにその庶流が武蔵から相模にかけての平地部に展開し、大きな勢力になりました。そこで、この秩父氏を別に秩父党といったりもします。これに対し、武蔵七党は関東山地や上武山地の山間地やその周縁部に生まれた土豪でした。彼らは中央で大きな争乱が起きると京都や鎌倉に駆けつけますが、平時になるとまた武蔵の山間地にもどるというように極めて土着性の強い武士たちでした。
また、秩父氏は桓武天皇の末裔で、平将門の縁族にあたる桓武平氏の流れをくむ名門の武士団でしたが、武蔵七党は農民色の強い土豪でした。さらに秩父氏が平安後期から室町時代初期までが活動期でその後は消滅していきますが、武蔵七党は室町時代になっても活動しています。室町時代になると、関東では鎌倉公方と上杉管領が激しく争います。この抗争で上杉方の実働部隊になったのがこの武蔵七党の面々でした。
2) 秩父氏
(1) 平良文と秩父
平安時代後期から武蔵で武威をふるったのは坂東八平氏の一つ秩父氏でした。たぶん、八平氏の八は元は数値としての8ではなく、たくさんという意味だったと思いますが、いつのまにか8流の平氏がいたと考えられるようになり、いくつもの坂東八平氏があります。埼玉県の「埼玉県史」では、次の諸氏が有力だとしています。
武蔵
秩父氏(良文流) 
下総・上総
千葉氏(良文流) 上総氏(良文流) 
相模
三浦氏(良茂流) 大庭氏(良茂流) 梶原氏(良茂流) 
長田氏(良茂流)土肥氏(良文流)
この8氏は「将門記」に出てくる平国香・良兼・良正の弟である良文と良持の末裔ということになっています。このうち良文の子孫が秩父氏です。このうち秩父氏については系図が残っています。この系図は豊臣秀吉に廃絶にさせられた東北の戦国大名葛西家に残されたものです。この史料は見たことがありませんが、この葛西家文書自体はっきりしない上、史料も二種類あって解釈がむつかしいということを聞いたことがあります。(専門家はABと呼んで区別するのだそうです)
なお、秩父氏の系図については、この系図を見ればわかりますが、武蔵の秩父氏は平良文の子孫ということになります。これを良文流といいます。
平良文については、私もあれこれ調べたり考えたりしました。しかし、事実でないことも多く、本当の姿はわからないと思います。平良文は桓武天皇の子孫で、平将門の叔父に当たります。実在ならたぶん9世紀後半から10世紀半ばにかけての人になります。
良文にはほかにも兄弟がいましたが、長兄の国香は甥の将門に殺され、次兄の良兼も将門との抗争中に病死し、当の将門も国香の息子の貞盛に討たれてしまいました。そして、貞盛も嫡流にもかかわらず将門を討ったということで武士たちの不評を買い、関東に居ずらくなって伊勢に移住しました。これを伊勢平氏といいます。この子孫が平清盛です。また、鎌倉時代の執権北条氏もこの伊勢平氏の流れということになっています。
したがって、将門の乱が終わってみると、関東に残ったのは、良文とその弟の良茂だけということになりました。この二人の子孫がいわゆる板東八平氏です。良文の子孫が武蔵と上総下総で勢力を拡大したのに対し、良茂の子孫はもっぱら相模を拠点に活動しました。平良文は別名村岡五郎といいます。村岡というのは今の埼玉県熊谷市の荒川南岸にある地名です。ですから、彼は元々は熊谷の人らしいのです。それが秩父氏の祖になったのは、後に良文が熊谷から秩父に移住したためということになります。秩父市は明治まで大宮郷とよばれていましたが、それは平良文が秩父神社に祭った妙見宮があったからと伝えられています。秩父神社は江戸時代には妙見社と呼ばれていました。
しかし、「新編武蔵風土記稿」では、良文は上野の緑野(みどの。藤岡市旧鬼石町)から秩父に移ったとあります。また、神奈川の藤沢市には村岡城という城址があって、ここは平良文の居城だったということになっています。さらには、埼玉県東部には武蔵七党の野与党があって、この野与党の祖は平良文ということになっています。
ですから、こういう伝承をいちいち取り上げると、この平良文という人は関東各地に足跡を残していて、まるで日本武尊や弘法大師のような人物になってしまいます。たぶん、良文に関する伝承の多くは事実ではないと思います。不思議なことに「将門記」にはこの良文も良茂もまったく出てきません。それで、もしかするとこの平良文という人は実在の人ではなかったのではないかという気もします。
しかし、「今昔物語」には良文の逸話があります。良文が源充という武士と一騎打ちの戦いをし、互いに相手の馬術と弓矢の技量を認めて和解し、以後両者は厚い友誼を交わすことになった。坂東武士とはこういうものだと「今昔物語」では称賛しています。今昔物語は12世紀の成立です。したがって、平安末期には平良文は実在の人物として人々に認識されていたことになります。
また、源平の戦いで有名な畠山重忠の母は相模の三浦氏の出です。この畠山重忠は秩父氏の嫡流です。つまり、重忠の両親の結婚は桓武平氏の良文流宗家と良茂流宗家の縁組ということになります。つまり、秩父氏と三浦氏はそれぞれが嫡流であることを互いに認め合い、周囲の人たちもっていたことになります。すると良文はやはり実在の人かもしれないということになります。
(2) 秩父の秩父氏
良文流平氏は秩父市の城峰山麓の旧吉田町に住み秩父氏を称しました。もっとも秩父に居館を構えたのは良文ではなく、4代の武基からとする説もあります。旧吉田町は館跡を武基の居館の遺構として紹介しています。
ふつう秩父というと周囲を山に囲まれた辺境のイメージがあります。しかし、秩父盆地から荒川を下るとすぐに寄居町に出ます。この寄居町は武蔵北部における荒川の渡河地(歩いて荒川を渡れるのはここだけ)で、古代から中世にかけて北武蔵の要衝でした。また、吉田町から城峰山を越えると上野の藤岡市に出ます。この藤岡は昔から上野から武蔵に入る玄関口でした。ですから、昔の秩父は交通の便が非常のよい所で、良文という将門の叔父かどうかはともかく、有力な豪族が秩父にいたというのはさほど不思議ではありません。平安時代には、神社にも貴族と同じように位を贈る習慣がありました。これを神階といいます。この神階で見ると、平安時代前半までは、武蔵最高の神社は秩父神社で、二番目が氷川神社でした。ですから、平安時代前半までの秩父は武蔵でももっとも先進地でした。ですから良文流平氏は、当時の武蔵でもっとも豊かな土地だった秩父盆地をめざして進出してきた武士団ということになります。 
平安時代、秩父には皇室直轄の勅旨牧が置かれ、秩父氏はその牧の別当(長官)でした。そして、1083年東北で蝦夷の反乱が起きると、4代武基が源氏の棟梁源義家に従軍し功績を立てました。後三年の役です。この蝦夷征討が秩父氏と清和源氏が結びつくきっかけになりました。これ以降、源氏の棟梁が出陣する戦いでは、武基の子孫が先陣をつとめるべく源氏の白旗が与えられたとされ、実際、頼朝が挙兵した際には、子孫の畠山重忠がその白旗を持って頼朝のもとに参陣したということが「新編武蔵風土記稿」に出ています。
重忠の白旗は少し話しがうますぎる気がしますが、この武基からの系図は、父の名が一字ずつ子に受け継がれています。ですから、この武基からの系図は信憑性があるかもしれません。(ただ、「風土記稿」では、後三年の役に参陣したのは武基ではなく、その子の武綱としています。)
秩父氏が秩父で力を蓄えたのは馬を飼育する牧を管理していたからです。秩父の牧は旧吉田町の城峰山系の山間地にありました。「風土記稿」では吉田町に野巻村という所があって、そこに牧があったのではないかとしています。
私もここには行ってみたことがあります。盆地の底から見上げるような険しい山間地にあり、とても広々とした草原の牧場など出来るところではありません。しかし、平安時代の武蔵の牧で、唯一所在地がはっきりしている東京あきる野市の小川牧も、秋川が多摩川に合流する複雑な地形のところにあります。また、武蔵でもっとも大きい牧は今の多摩市にあった小野牧ですが、ここも同じように小高い山が波のように続いている丘陵地帯です。ですから、平安時代の牧はこういう山間地にあるのがふつうだったようです。たぶん、平安時代、馬を飼育する牧は大陸のような広々とした草原ではなく、農民が家ごとに馬を飼育し、それを秩父氏のような豪族が管理していたのだと思います。
それはともかく、秩父氏はこの秩父牧を管理することで飛躍していきます。先に言ったように、勅旨牧は皇室領です。この勅旨牧は秩父だけでなく、全国各地にありました。これは皇室の私的財産で、天皇家はこの牧で生産された馬を京都に運び、それを貴族たちに与えて皇室の威厳を示していました。これを「駒引き」といいます。そして、この牧の管理をしたのが秩父氏のような豪族でした。
ところが、秩父氏だけでなく、各地の牧の管理者たちは、そのうちに皇室に納める馬をだんだん減らし、流用した馬を摂関家など高位の貴族たちに贈与するようになります。つまり、馬を通して京都の権力者と直接結びつくのです。馬は乗馬のほか荷駄用にも使いました。また、馬は4〜5歳にならないと使えず、その使用期間も10年くらいしかありません。しかも、日本では昔からどういうわけか馬車は発達せず、馬の背に直接荷を載せて運んでいました。ですから、昔の馬は今の自動車とまったく同じで、今の大きな会社が重役用の乗用車や業務用トラックをたくさん持ち、10年も経てば新車に切り替えるように、当時京都の有力貴族たちは継続的にたくさんの馬を入手しなければなりませんでした。
たぶん、秩父の秩父氏もこういう秩父牧の別当の地位を利用して、中央の貴族と結びついていったのだと思います。そして、これを足がかりにして、秩父氏は秩父盆地の外に進出していきました。それが6代重綱の時でした。12世紀初めでした。そして、この重綱が秩父氏を大きく飛躍させた最大の功労者でした。 
(3) 比企の秩父氏
重綱は秩父盆地を離れると、比企郡の今の嵐山町大蔵に館を構えます。比企丘陵は昔から安定して水田稲作を営むことのできる肥沃な土地でした。たぶん平安時代には武蔵でもっとも豊かな所でした。
大蔵はこの比企丘陵の槻川と都幾川が合流する所にあります。また、この大蔵は鎌倉街道上道のルートになっていて、南武蔵と北武蔵の分岐点にあたる笛吹峠の北麓に位置しています。この道の原形は重綱の時代にはすでにあったと思います。ですから嵐山町の大蔵館は交通の便がよいところにありました。この時重綱は秩父牧の別当ではなく、武蔵留守所惣検校という地位に就いていました。
先に説明したように、この時代になると国府の国司たちは無力の存在になり、実際は在庁官人ともよばれる在地の豪族たちが実質的権限をふるうようになります。それが留守所です。名目では国司不在の国府を運営するということでしたが、実際は国司が在府していても、彼らが権限を発揮していたと思います。この制度は武蔵だけでなく他国でも見られます。惣検校はその長官です。ですから、重綱がこの職についたということは、実質的に国司と同じ力を持つようになったということです。しかもこの地位を秩父氏が世襲職として独占しますから、秩父氏は武蔵ではひときわ抜きんでた力と格式を持つことになります。秩父氏を他の武蔵七党と区別し高家とされるのは、秩父氏がこの武蔵留守所惣検校に就任する一族だからでした。
重綱がこの職を得たのは、やはり秩父で牧を管理していた頃からの中央貴族とのつながりがあったからでした。それと家柄もありました。秩父氏は桓武天皇の子孫という名門です。しかも、遠い縁戚には平将門という東国の英雄がいます。先に説明したように、本当に桓武平氏かどうかは疑問ですが、当時秩父氏も周囲の人たちも事実だと信じていました。ですから中央政府にしても、武蔵の人々にとっても、重綱がこういう地位に就くことには異存はなかったと思います。この留守所は秩父氏にとって非常に都合の良い役職でした。というのも、国司の権限は広範囲におよび、税の徴収ばかりでなく、荘園の認可権も国司にあったからです。そこで、重綱はこの権限を使って自分の領地をつくっただけでなく、息子たちを武蔵各地に送って勢力の拡大をはかりました。
長男の重弘は男衾郡畠山荘の荘司になりました。この畠山は熊谷市近くの今の川本町です。この重弘の家系は、その後長男の重能が継ぎ畠山を名乗ります。次男の有重は今の東京町田市に進出し小山田氏を称し、この流れから稲毛氏や相模の渋谷氏が分流します。この小山田氏の子孫に小山田信茂という人物がいます。彼は武田信玄の家臣になりますが、信玄が亡くなると後継の勝頼を裏切り武田氏を滅亡に導くことになります
また、四男重継は今の東京都に進出し入り江戸氏を称します。江戸氏の舘は江戸城の一画にあっただろうとされています。この江戸氏は後に今の東京都世田谷区に移り、喜多見氏になったとされています。また重綱の弟の基家は今の川崎市に進出し河崎氏となります。このように、秩父氏が武蔵各地に進出するのはこの重綱のときでした。さらに嫡流の4代武基とは別の流れは、早くに今の東京東部に進出し、豊島氏(東京都北区)と葛西氏(東京都葛飾江戸川区)になりました。このうち、葛西氏は頼朝の奥州攻めに従軍し、その功績で奥州藤原氏滅亡後は奥州総奉行の職を得今の宮城県に土着しました。この葛西氏は室町時代には戦国大名に成長しましたが、秀吉のために廃絶に追い込まれてしまいます。
(4) 秩父氏と清和源氏
この秩父氏が中央政界を巻き込んだ事件の当事者になったのは、重綱の後を継いだ7代重頼の時でした。重綱の後継者にはどういうわけか長男の重弘ではなく、次男の重頼がなりました。重頼は秩父氏宗家として大蔵舘と武蔵留守所惣検校の地位を受け継ぐと、清和源氏の源義賢を女婿に迎えました。
この時、源氏の当主は源為義でした。為義はどうも温厚だけが取得の人物だったようで、平家の平清盛が急速に力をつけていくのに対しなすすべもなく低迷していました。その点、嫡男の義朝は野心家でした。彼は関東に下向し、鎌倉を拠点に東国武士の再編成に乗り出しました。そして、義朝はこれに成功し、京都政界でも一目置かれる存在になり下野守の地位を獲得します。それを見た異母弟の義賢も関東に下向します。義賢ははじめ上野南部の多胡郡、今の藤岡市で活動をはじめました。この義賢に接近したのが重頼でした。
ふつう清和源氏は東国武士の棟梁ということになっています。しかし、それは百年以上前の源義家の時代で、この頃には源氏と東国武士との結びつきも薄れていました。それに、元々清和源氏の本拠地は大阪でした。東国の武士たちも独立意識が強くなっていました。そこで、武蔵武士の実力者だった重頼は、昔の主従関係をぶり返して自分たちを家臣扱いにする義朝に反発し、義賢を迎えることで義朝を牽制しようとしました。義賢は息子の義仲(後の木曽義仲)を連れて重頼の居館大蔵館に住みました。義朝と義賢は兄弟ながらも異母兄弟で不仲でした。というより、義朝は一族の異端児だったらしく、父の為義とも他の兄弟とも不仲でした。
義朝はこういう重隆と義賢の意図を当然察知していました。そこで、義朝の命を受けた長男の義平が大蔵舘を奇襲し、義賢と重隆を殺害してしまいました。1151年のことです。ふつう、この事件は源氏一族が骨肉の争いをした保元の乱の前哨戦ととらえられています。しかし、それだけでもなかったようです。というのも、この大蔵館襲撃には重隆の甥の畠山重能も加わっていたからです。ですから、秩父氏内部の争いの一面もありました。なお、この時義平は重能に幼い義仲を殺害するよう命じますが、重能は秘かに義仲を助命しました。義仲は家臣に連れられて木曾に逃れ、時節が来るのを待つことになります。
清和源氏系図
源義家―義親―為義―義朝―義平・頼朝・義経
         ―義賢―義仲(木曽)
こうして、大蔵舘の戦いで秩父氏宗家の秩父氏は一時断絶してしまいます。そのため、秩父氏の宗家の地位は長男の重弘の家系に移ります。その後、武蔵留守所惣検校には、源平の戦いでで有名な畠山重忠が就任します。しかし、もうその時には鎌倉時代になっていました。そして、武蔵は幕府にとって最重要の地で、武蔵武士が自由に活動できる所ではなくなっていました。北条氏は武蔵守の地位は決して手放さず、武蔵留守所惣検校職という地位も実質的には何の力もなく、ただ秩父氏宗家のシンボルにすぎなくなっていました。
河越氏
一方、大蔵館の戦いで難を逃れた重頼の子孫が埼玉県川越市に移り河越氏を称します。川越は武蔵野台地が半島のように突き出した先端にあり、室町時代になると武蔵最大の要衝になります。河越氏の館は、現在川越城跡のある所ではなく、入間川と小畦川に挟まれた霞ヶ関の上戸という所にありました。
この河越氏は川越を根拠に再び勢いを盛り返します。重頼の孫の重隆の時には、娘を源義経の妻にするほどの大豪族になります。重隆は頼朝の乳母(比企の尼)の娘を妻にし、頼朝が伊豆で流人生活を送っていた頃から頼朝を援助していました。したがって、頼朝にとってはもっとも信頼できる家臣の一人でした。この縁組みも重隆が望んだというより頼朝の意向でした。ところが義経が頼朝と対立すると、重隆も連帯責任を問われて誅殺され、所領も一時没収されてしまいます。この河越氏は、重頼といい重隆といい、どういうわけかその時の最高権力者がもっとも警戒するナンバーツーの地位の人物と結びついてみずから苦境に陥っています。しかし、武蔵最大の豊饒の地、川越を離れることのなかった河越氏は、その後三度復活し室町時代まで続きます。
河越氏の最期はほとんど自爆でした。河越氏は鎌倉末期の動乱には足利氏について巧みに乗り切り相模守に地位を獲得します。しかし、その後、関東管領上杉氏が河越氏からこの職をとりあげると、河越氏は秩父一族、それから近隣の武蔵七党を結集し1368年に反乱をおこします。これを平一揆の乱といいます。そして、この反乱は失敗に終わり、平安時代から続いた名門河越氏はあっけなく滅んでしまいます。この時河越氏の一部が西にのがれ、その人たちがつくった町が三重県の桑名市近くにある川越町だとされています。
畠山氏
以上が秩父氏の宗家河越氏の興亡です。もう一つの主流である畠山氏も河越氏と似たような運命をたどります。
畠山氏は重忠の代で絶えてしまいます。彼は平氏と奥州藤原氏との戦いに出陣して功績をたて、鎌倉幕府内でも重臣の地位にありましたが、頼朝から危険視されていました。それで一度頼朝から謀反の疑いを持たれました。その時はなんとか切り抜けましたが、頼朝の死後、今度は北条氏に陥れられます。重忠の息子が北条時政の後妻の実家と確執を起こし、それがきっかけで重忠父子はほとんど闇討ちに近い形で討たれてしまいました。これであっけなく畠山氏は滅亡してしまいました。しかも、この重忠襲撃にはほかの秩父氏も加わっていました。秩父氏は重隆の頃から大きくなりすぎて、一族としてまとまるどころか、反対に内部の争いが激しくなってしまいました。
室町時代に、足利将軍の重臣に畠山氏がいます。この畠山氏は重忠が亡くなったあと、重忠の妻が北条時政の娘だったため生き残り、当時幕府の有力御家人だった足利氏の庶子に再嫁しました。その時、重忠の未亡人と結婚した庶子が名家畠山の姓を引き継ぐことにしました。したがってこの畠山氏は実際は足利氏の一族です。 
3) 武蔵七党(1)
桓武平氏の秩父氏が武蔵の平地部に進出し、貴族的地位にあったのに対し、主に山間地に割拠したのが武蔵七党という中小武士たちでした。武蔵七党の七も坂東八平氏の八と同じように、元々はたくさんという意味でした。しかし、いったんこの名称に決まると、こちらも七つの党派に限るべきだということになりました。七党のうち、勢力の大きい横山、猪俣、児玉、丹の四党は決まっています。後はこれにどの三党を加えるのかということで幾通りかの武蔵七党が生まれました。ふつうよくとりあげられる武蔵七党系図は室町時代のものです。武蔵七党とよばれるのは次の九党です。
横山党、猪俣党、村山党、丹党、児玉党、西党、私市党、野与党、綴(つづき))党
この武蔵七党の地理的分布次の通りです。
横山党(平安貴族である小野篁の子孫) / 旧多摩郡の八王子を中心に神奈川県北部の山間部。それから、埼玉県北部。
猪俣党(横山党と同流) / 埼玉県北部、旧児玉郡の今の美里町猪俣を中心に旧大里郡に分布。
丹党(古代の国司であった丹治氏の子孫) / 埼玉県旧児玉郡の南部。旧秩父郡。旧入間郡の入間川北岸
児玉党(有道氏を称す。関白藤原道隆の子伊周に家司の子孫) / 埼玉県旧児玉郡の北部から群馬県南部。秩父郡の北部。
野与党(良文流平氏の平忠常の子孫) / 埼玉県旧埼玉郡の元荒川流域
村山党(野与党と同族) / 埼玉県旧入間郡の入間川南岸。旧多摩郡の狭山丘陵地帯。
西党(武蔵守日奉氏の子孫) / 東京都旧多摩郡の日野市を中心に多摩川の両岸。
私市(きさいち)党(古代で皇后の部民である私市部の子孫) / 埼玉県旧埼玉郡北部。大里郡
綴(つづき))党 / 神奈川県横浜市の旧都筑郡、
このうち児玉党の武士は武蔵だけでなく上野の南部にもいました。横山党も相模にも分布しています。ですから、武蔵七党は武蔵だけの党というのでもありませんでした。また、相模国の鎌倉周辺には鎌倉党がいました。ですからこの党というのは、武蔵だけのものではなく全国的にありました。中世の党については、九州の松浦党が史料もそろっていて、研究としてはむしろこちらの方が進んでいると思います。
武蔵七党は平安時代後期に発生しましたが、秩父氏とちがってその後も長く続き、最終的に消滅するのは戦国時代に後北条氏が武蔵を支配し、武蔵の武士たちが北条氏の家臣団として再編成されてからでした。武蔵七党はこのように長い歴史がありますから、平安時代と室町時代とではその姿は大きくちがっていました。一般的に、平安時代の武蔵七党は領主クラスの武士でしたが、室町時代になると領主というよりは土豪のイメージです。実質は村の有力農民、つまり豪農だったと思います。一方、戦国時代の末期には、横山党の成田氏や猪俣党の藤田氏のような戦国大名並みの力を持つ武蔵七党も現れましたから、武蔵七党といっても様々な武士がいました。
成田氏と藤田氏
成田氏は横山党に属し、元は埼玉県の今の行田市の小さな勢力でした。鎌倉時代後半から勢力を拡大し、戦国時代には今の行田市の忍城を本拠にしました。最初は上杉謙信に従っていましたが、諸将の面前で謙信に辱められて憤激し、その後は後北条方にくみし、その客将格でした。秀吉の北条攻めには、石田三成を相手に一歩も引かず、小田原城をはじめ各地の城が降伏しても忍城は最後まで陥落しませんでした。猪俣党の藤田氏は旧男衾郡(今の大里郡)寄居町に根拠に持ち、鉢形城の城主でした。北条氏康が川越夜戦で関東管領上杉氏と古河公方の連合軍を破ると、上杉や足利という伝統勢力に見切りをつけ、氏康の四男氏邦を女婿に迎えて鉢形城を氏邦に譲りました。この藤田氏が後北条陣営に下ったことで、後北条氏はほとんど戦争をせずに北武蔵支配に成功しました。そして、この藤田氏の鉢形城は成田氏の忍城と結ばれ、後北条氏の北関東攻略の前線基地の役割を果たすことになります。
しかし、成田氏や藤田氏は武蔵七党の中でも例外でした。大半は中小武士たちで、武蔵七党は彼らの結社のようなものでした。この組織の特徴は、特定のリーダーを持たず、それぞれが独立したまま、横に連合を結んでいました。したがって、その行動は各自の自由裁量でした。
こういう武蔵七党の武士たちは負け戦になるとさっさと離反しますし、勝ち戦で指揮官は追及戦を命じても応じようともしません。ですからこういう武士たちを戦力にしていた室町時代の足利公方や上杉管領は、決着のつかない戦争をいつまでも続けることになりました。これはその後武蔵を支配した後北条氏も同じようなものでした。後北条氏は上杉謙信や武田信玄に攻められ領土を蹂躙されても籠城せざるをえませんでした。最後も小田原城をはじめ各支城に籠もる籠城戦でした。その際、後北条氏は家臣の家族たちも籠城させました。これは主君と家臣が一丸となって戦いに臨むというより、家族を人質にしないと家臣たちがいつ裏切るかもしれないという不安があったからです。
武蔵の武士たちは極めて独立心が強く、主君に対する忠誠心が薄いのが特色ですが、こういう気質は元々武蔵七党の武士たちに共通するものでした。全体的に武蔵国には広い領域を支配する大領主というのは生まれませんでした。その最大の理由は、ここはあまりにも鎌倉に近いため、鎌倉時代の北条氏も、室町時代の足利・上杉氏も武蔵に大きな武力を持つ大領主の存在を認めなかったからです。そのため、武蔵七党のような独立気分の強い中小土豪がいつまでも割拠することになりました。 
4) 武蔵七党(2)
金子家忠・平山季重と保元・平治の乱
武蔵七党が歴史に登場するのは、平安時代末期の保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)が最初です。この戦いで、源氏の棟梁源義朝は関東武士を引き連れて京都で戦いますが、この中に武蔵七党の武士たちがいました。「保元物語」では、村山党の金子家忠が19歳の初陣ながらも、敵将源為朝の眼前で一騎討ちをしてみごとに敵を討ち取り、その勇敢ぶりを為朝がほめたたえています。この金子氏は埼玉県西部の入間市を本拠にした村山党です。
金子家忠は、三年後の平治の乱にも参戦しています。しかも、「平治物語」を見ると、この時、家忠は戦いの行方を決める決定的な役割をしています。この戦いで義朝軍は最初天皇(二条天皇)の御所を占領しました。ところが天皇は女装し車で脱出をはかりました。これを警備していた家忠と同じ武蔵七党の西党の平山季重が見つけます。家忠は弓で天皇の乗った車の簾を上げて中を調べましたが、天皇が女房たちにまぎれているのに気づかず通行を認めてしまいました。そのため天皇は清盛の陣営に駆け込んでしまいました。これで形勢は一気に逆転し、義朝は賊軍になってしまいました。義朝は態勢をととのえた清盛軍の攻撃を受け敗北し、関東に逃げる途中横死しまいました。金子家忠はその後頼朝の陣営に属し、平家追討に功を立て四国愛媛と兵庫県に地頭職を得ています。
平治の乱で家忠と同僚だった平山季重は東京日野市の西党ですが、彼も平家との戦いで華々しい活躍をし、後白河法皇から官位を与えられました。もっとも頼朝の了解を取らなかったことで頼朝の怒りをかいますが、その後許されて奥州藤原氏との戦いで奮戦し、晩年は鎌倉幕府の中で元老の扱いを受けています。たぶん、この人が武蔵七党の中では一番の出世頭でした。
横山党
ほかの武蔵七党で比較的よくわかっているのは横山党です。この横山党は今の八王子市を中心とする武士団で、どういうわけか北武蔵の埼玉県北部にもいます。横山は八王子市の旧名ですが、現在の八王子市の中心地は、徳川家康の家臣大久保長安が江戸時代に人工的に作った町です。ですから、室町時代までの八王子は何もない原野でした。元々の横山は万葉集の「多摩の横山」の歌にあるように多摩川右岸の多摩市から稲城市にかけての丘陵地帯をさしていました。
横山党ははじめ小野氏を称していました。平安時代の貴族小野篁の末裔となっているからです。そして、武蔵六所宮の一ノ宮である小野神社がある多摩市が発祥の地だろうとされています。この小野神社は延喜式内神社で、奈良時代にはすでにあったと思います。また、ここは平安時代には、朝廷が馬を飼育する小野牧が置かれました。したがって、この横山地域は多摩郡では早くから開発が進んでいた土地でした。もちろん、小野篁の子孫が横山に土着したとするのは無理があります。しかし、当の横山党の人たちは、自分たちは京の名族小野氏の末だと固く信じ、周囲の人たちもそれを認めていましたから、横山党は小野氏の末裔ということになります。
横山党は1150年頃、相模の豪族愛甲氏と争いを起こし、関東五カ国の国司の追捕を受けています。この時の横山党のリーダーは横山隆兼という人でした。彼は娘を秩父党の秩父重弘に嫁がせています。また、別の娘は相模の梶原氏に嫁ぎ、梶原景時を産んでいます。このように武蔵と相模の有力豪族と縁戚関係を結んでいましたから、横山氏はふつうイメージする中小武士の武蔵七党とはちがい領主クラスの豪族でした。当然、国府から手配されても逃げ回るようなことはするはずもなかったと思います。
横山党は大きな勢力でしたが、鎌倉に近いがゆえに鎌倉時代に滅亡してしまいました。1213年、三浦一族の和田義盛が北条義時と戦いをはじめると、和田氏側につき参戦しますが戦いに敗れてしまいました。そのため。この戦いで武蔵南部の主な横山党は全滅してしまいました。この時の当主は横山時兼という人でした。
武蔵七党の栄光
この武蔵七党がもっとも華やかだったのは、平安末期の源平の戦いから奥州藤原氏との戦いが行われた時期、それから後鳥羽上皇が倒幕を企てた承久の変の時でした。源頼朝は関東の武士たちを糾合して軍を組織しました。頼朝がもっとも信頼したのは相模と武蔵の武士でした。頼朝の戦争は東国武士による日本全土を征服する侵略戦争の色彩の濃いものでした。戦争に参加して功を立てれば確実に領地がもらえましたから、東国武士の士気は非常に高いものがありました。
実際、戦後には平家と奥州藤原氏の領地が頼朝の手に入ると、頼朝はそれを配下の武士たちに分配しました。武蔵七党の人たちも当然その恩賞にあずかりました。しかも、頼朝はこれら武士たちを地頭に任命し、国衙領と荘園から徴税する権利と警察権を与えましたから、彼らは与えられた地ではっきりと領主的立場に立つことができました。これは承久の変でも同じでした。しかも東国武士にとって、この承久の変の時の方が実入りは大きかったようです。というのも平家との戦いは、表面的は華々しかったのですが、実は平家の領地は意外と小さかったからです。その点、承久の変で鎌倉幕府が上皇方から没収した所領は膨大でした。幕府はそれらを恩賞として御家人たちに分配しました。相模や武蔵の山間部に狭い領地しか持たなかった武士たちは、本領を上回る広い領地を与えられました。武蔵七党の人たちも、この二度の戦いで西日本や東北に広い所領を与えられ、日本各地に展開しました。彼らは新領地に分家を派遣したり、あるいは一族挙げて移住していきました。この頃が武蔵七党の絶頂期でした。
埼玉県には国宝は三点しかありません。そのうちの一点は備前長船の刀剣です。これは今の埼玉県東秩父村の丹党武士の大河原氏が兵庫県に領地を得て移住し、隣国の岡山県の名工に作刀を依頼して故地の秩父神社に奉納したものです。
武蔵七党は地縁結社
これまで述べてきたように、一般に平安末から南北朝の頃までの武蔵七党は領主格の豪族でした。しかし、その後は土豪化した豪農のことをさすようになりました。
武蔵七党には、党ごとに膨大な家系図があります。しかし、この家系図はおそらく室町時代に作られたものを江戸時代のころにさらに加筆修正したもので、その信憑性はきわめて疑わしいと思います。この家系図の特徴は、江戸時代の村の村名を名乗って必ず一人の武蔵七党のメンバーがいることです。そして、この江戸時代の村はだいたいが室町時代に出来た村です。ですから、村名を名乗る武蔵七党のメンバーは室町時代に、いわば武蔵版「紳士録」のような目的で作成されたものだと思います。
それとこの武蔵七党は血縁による結社のような形式をとっていますが、実際は地縁による結社です。それは川一本を挟んできれいに党派が分かれることからわかります。例えば入間川を挟んで、その南側は村山党、北側は丹党です。同じように秩父盆地でも赤平川という川を挟んで、北側が児玉党で、南側は丹党に分かれます。川が境界になるのは室町時代の特徴で、例えば入間川を挟んで、入間郡の東部を入東(にっとう)西部を入西(にっさい)。利根川の河口域の葛飾郡の東部を葛東(かとう)、西部を葛西(かさい)に分けます。したがって、この家系図は室町時代の頃にできたものです。
室町時代は社会秩序が崩壊した時代です。それだけに一方では秩序を求める動きも強かったようです。その具体的表れが「公私」の観念が意識されたことです。とくに「公(おおやけ)」とか「公儀」が強調されます。正義の基準が崩壊しつつあるなかで、この「公」が唯一明確な物差しとして残りました。それは具体的には、京都の朝廷と強い結びつきがあることと古い歴史があることでした。簡単にいうと、武蔵七党の人たちははるか昔から自分たちは京都の朝廷と深いつながりがあるということを家系図に表して自分たちの存在を正当化したのだと思います。 
5 鎌倉武士の光と影
1) 唐の太宗と「史記」のこと
中国の歴代皇帝でもっともすぐれた皇帝は唐の二代皇帝の太宗だと思います。彼は凡庸な父、暗愚な兄をよく補佐し唐王朝を樹立しました。唐の実質的創始者はこの太宗でした。その太宗がある時、家臣たちを集めて、「創業と守成とではどちらがむつかしいだろうか」と問いかけたことがあります。有名な創業守成論です。
戦場を駆けめぐった老将軍たちはこぞって創業の苦労を強調し、現在政務を担当している若い行政官たちは口々に守成の困難さを訴えました。太宗は両方の言を引き取って、「創業には創業の苦労があり、守成には守成の困難がある。しかし、今や私たちの王朝が樹立された。これからは両者手を携えて発展のため力を尽くしてほしい」とまとめました。太宗のねらいは、ややもすると対立しがちな両者を融和することにあったようです。新しく事業を興す創業とそれを維持発展させる守成。両方とも大きな困難があります。しかし、創業に尽力した家臣にとって、創業と守成を比べると、守成の方がはるかにむつかしいようです。
同じ中国の史書「史記」を読むと、創業の功臣たちがいかに悲惨な末路をたどったかがあますところなく書かれています。唐のずっと前、漢王朝を興したのは劉邦でした。彼は一介の農民でしたが、彼のもとには優れた人材が集まり、そのおかげで劉邦は秦王朝の後を受け皇帝になりました。この劉邦が漢の高祖です。皇帝に即位した劉邦は、功績のあった家臣たちに気前よく大封を与えました。ところが、新王朝が本格的に始動すると最大の障害になったのが、これら大封の功臣たちでした。そのため、劉邦の亡きあと、功臣たちはさまざまな口実と策略のもと次々と滅ぼされてしまいました。
こういうことを前もって予見していた人がいました。それは、いつも劉邦の傍にいて参謀役をつとめていた張良という人です。劉邦が皇帝になれたのはこの人がいたからでした。当然、劉邦は張良の功績をたたえ、他の功臣と同じように大封を用意しました。しかし、張良はそれを固辞し、ただ劉邦の顔を立てるためにわずかばかりの領地をもらいました。そして、その後は神仙思想をきわめると称して隠遁の道に進み、できるだけ漢王朝とのかかわりを避けました。ところがこれだけ用心しても功臣の守成はむつかしく、彼の子孫は朝廷から危険視されあわやという苦境にたったことがありました。
創業の功臣たちの悲惨な末路を「史記」の著者司馬遷は「狡兎死して走狗煮らる」と表現しています。獲物の兎がいなくなると、今まで便利に使われていた猟犬も無用になって食べられてしまうという意味です。言い得て妙です。太宗のすぐれたところは、創業の功臣たちに過大な大封や特別な地位を与えなかったことです。苦労を共にした家臣たちの労に報いることは簡単です。そして、自分が生きている間は彼らとの関係も良好に保つことができます。しかし、後継者たちの代になれば、これら功臣やその子孫が必ず悲惨な末路をたどることがわかっていたからです。
そういう点では徳川家康もすぐれた人だったと思います。家康もまた功臣たちを大きな大名にすることはしませんでした。最高の大封を与えられたのは伊井直政でした。それでも彦根30万石でした。しかも、この伊井直政は徳川軍団にあっては二番手か三番手でした。家康の軍団で、常に先陣をつとめた猛将は本多忠勝(通称平八郎)という人でした。しかし、彼でさえわずか10万石の大名でした。そして、忠勝がこういう待遇に甘んじため、他の家臣たちは不平不満を口にすることはできませんでした。(大久保彦左衛門は例外です)その結果、江戸時代の長い期間を通して、徳川家臣団の中で幕府に粛清された人はいませんでした。つまり、家康はこれら功臣たちに過分の待遇を与えないことで、功臣とその子孫たちを守ったのでした。 
2) 頼朝と清和源氏
長い平安時代が終わり、新しい時代を開いたのは源頼朝でした。1192年、源頼朝が征夷大将軍に就任し鎌倉時代が始まりました。鎌倉幕府ができても京都の貴族たちは自分たちの時代が終わったとは思わなかったと思いますが、東国の武士たちは鎌倉の源頼朝のもとに結集し、東国武士たちによる新しい国家体制ができました。鎌倉幕府は頼朝から頼家・実朝と源氏の将軍が三代続きましたが、実朝で断絶してしまいました。それから後は、京都から摂関家の子弟が迎えられて将軍になりますが、この将軍はまったくの飾り物で、実際の権力は執権の北条氏が掌握しました。この鎌倉時代は約150年間続きました。
ところで、幕府の最高権力者だった将軍頼朝、執権の北条氏には共通の弱点がありました。それは、幕府の拠点である相模にほとんど足場を持たなかったことです。流人として長く伊豆にいた頼朝には領地というものがありません。鎌倉はかつて父義朝が拠点にしていましたが、それは勢力範囲というもので領地ではありませんでした。このことは北条氏も同じでした。元々伊豆の中小豪族にすぎなかった北条氏は鎌倉はもちろん相模のどこにも領地は持っていませんでした。
頼朝は1180年に伊豆で兵を挙げ相模に侵攻しましたが、この時頼朝の周囲は敵ばかりでした。頼朝についたのはわずかに三浦半島の三浦氏だけでした。頼朝は石橋山の戦い(今の小田原市)で大庭氏が率いる相模武蔵の連合軍に敗北し、海路安房に落ちのびました。そして、ここで体制を整えると今度は陸路を通って鎌倉をめざしました。
頼朝の房総落ちはあえて敗北した戦略的敗戦だったらしく、ここからの鎌倉入りは非常にスムーズに進みました。それは武蔵の秩父氏一族が頼朝に帰順したからです。房総の地から頼朝は秩父氏の一族である江戸重長に書簡を送り懐柔します。その手紙の中で、頼朝が重長を「関東一の大福長者」と持ち上げたのは有名ですが、頼朝は重長に秩父一族をまとめるように申しつけ、重長を通して秩父一族の最大実力者の畠山氏と河越氏も味方に引き入れることに成功しました。
当時、武蔵は平家一門の知行国で、秩父氏は平家に臣従していました。そのため平家に忠誠を尽くす証として、秩父氏宗家の畠山重能は弟の小山田有重と共に大番役で京都に滞在していました。そこで、先の石橋山の戦いでは嫡男重忠が一族を率いて大庭氏に加勢して頼朝攻撃にも加わりました。が、もはや平家の天下は終わったと判断したようです。重忠は京の重能と連絡を取り合っていたらしく、相談の結果、秩父氏も頼朝の陣営に加わることにしました。相模の三浦氏はすでに頼朝に従っていました。したがって、三浦氏・秩父氏という相模と武蔵の最高実力者が頼朝の陣営に入ることになり、これで相模と武蔵の豪族たちもまったく戦火を交えることなく頼朝の傘下に属することになりました。武蔵相模を押さえた頼朝はなんなく鎌倉に入ることができたのでした。頼朝が実戦を経験したのは、挙兵の緒戦で伊豆国の目代を討った時と石橋山の戦いの時だけです。その後、常陸の佐竹氏討伐に出陣しましたが、実際には頼朝はほとんど戦いらしい戦いもしないで関東支配に成功しました。
しかし、考えてみれば、この時期の頼朝にとって最大の難問は打倒平家ではありませんでした。それは頼朝と同じ清和源氏の諸氏と関東の大豪族たちとをどのようにして臣従させるかでした。清和源氏は、関東だけでも、常陸の佐竹氏、上野の新田氏、下野の足利氏、甲斐の武田氏と関東各地にいました。しかも、頼朝がはっきりした領地も信頼できる家臣団も持たないのに対し、彼らには長年支配してきた領地と何代にもわたって仕える家臣たちがいました。つまり、関東の源氏の中でもっとも不利な立場にいたのは実は頼朝でした。
頼朝がもっとも心を砕いたのは平氏との戦争ではなく、これら関東の源氏たちをどう扱うか、関東の豪族たちをどう掌握するかということでした。頼朝に求められたのは軍人としての能力ではなく政治家としての能力でした。頼朝は鎌倉に根拠を構えると、関東各地の源氏に対し最初から高圧的に出ました。頼朝は彼らに臣従を強要し、鎌倉に参勤することを求めました。この頼朝の要求に素直に従ったのは下野の足利氏でした。これでその後足利氏が幕府内で優遇されることになりました。上野の新田氏はなかなか従おうとせず、頼朝の執拗な求めでやむなく鎌倉に参上しました。常陸の佐竹氏は反発して頼朝の命令を無視しました。そこで見せしめのため頼朝自ら出陣して佐竹氏を力で臣従させました。
こうして頼朝は同族の源氏を家臣的立場に置きました。しかし、頼朝は同族の源氏をほかの豪族とは同列にはしませんでした。というのも、彼らを他の豪族と同列に扱うことは頼朝にとっても得策ではなかったからです。頼朝の力の源泉は清和源氏の嫡流ということでした。そこで、頼朝には清和源氏はそれだけで貴種であり、他の豪族とはちがうことを他の豪族たちに示す必要がありました。自らを頂点にし、その下にこれら清和源氏の諸氏を置き、さらにその下に関東の有力豪族を置くというピラミッドをつくりました。その具体的な表れとして、御家人たちが朝廷から官位をもらう際には必ず頼朝の許可を得ることとして、幕府内の序列に従って授与される官位が決まるようにしました。そして、頼朝が推薦できる国の国司は清和源氏の血筋に限ることにしました。武蔵の国司には平賀義信、相模の国司にはその息子を任命しました。この平賀氏は信州の清和源氏で、頼朝の父義朝の代から忠実な一族でした。
こうして頼朝は自分がつくったピラミッドに鎌倉武士たちを巧みに配列しましたが、彼の関東支配がうまくいったのは、ひとえに、相模の三浦氏、房総の上総氏、武蔵の秩父氏というように、南関東の有力豪族がこぞって頼朝に従ったからでした。関東を押さえた頼朝は、彼ら関東の武士たちを西日本に派遣し平家を滅亡させました。この戦いは、指揮官こそ弟の義経や範頼でしたが、戦闘の主力はやはり相模と武蔵の武士たちでした。「平家物語」には畠山重忠の勇壮ぶりが生き生きと描かれています。
司馬遷の史記に「臥薪嘗胆」の話があります。昔呉王が越王勾践と戦って破れ屈辱的な降伏をします。呉王は薪の上に寝て屈辱を忘れないようにして復讐を果たします。一方、降伏した勾践もまた苦い胆を嘗めては復讐心を忘れないようして、范蠡という名参謀を得て国力の増強につとめ呉王を破り復讐を果たします。すると、范蠡は「勾践は肉食鳥のような顔をしている。こういう人相の人は冷酷で猜疑心が強い。苦しみを共にすることはできても楽しみを共にすることは出来ない人だ。このまま越にいればいずれ自分は悲惨な目にあうだろう」と言って勾践の元を去ってしまいました。
頼朝という人はこの勾践のような人だった気がします。それは幼い頃から過酷な状況の中で育ったため、たぶん人間の暗い感情をエネルギーとして生きるということが身に付いてしまったためです。
北条氏と相模・武蔵の武士たち
それに比べて、頼朝の外戚である北条氏が活躍するのは挙兵から石橋山の戦いまでです。それ以降は何をしたのかもわからないほど影がうすい存在でした。たぶん兵力が小さすぎて戦力にならなかったのだと思います。そして、平家の後に奥州藤原氏を滅ぼすと頼朝の全国支配が完成しますが、この時活躍したのも相模と武蔵の武士たちでした。したがって、頼朝の成功は相模と武蔵の武士たちの働きによるといっても過言ではありません。幕府の主宰者になった頼朝は、これまで功績のあった家臣たちに恩賞を与えます。彼らに与える領地は十分にありました。武蔵と相模の中小豪族たちは、新領地に子弟や縁者を送り、あるいは一族を挙げて移住していきました。相模や武蔵の辺境の地に生まれ育った東国武士ははじめて全国を舞台に大きく飛躍しました。東国武士の栄光の時期でした。このことについては、前に武蔵七党のところで説明した通りです
しかし、頼朝の全国支配が完成すると同時に暗雲に包まれた豪族たちがいました。それは頼朝のために働いた武蔵と相模の大豪族でした。彼らも相応の恩賞や地位を与えられましたが、その存在は新しい体制にとってももっとも大きな危険要素でもありました。頼朝は相模や武蔵を武力で征服したのではなく、反対に相模と武蔵の豪族の力で幕府を開きました。この点で後の徳川家康とはまったくちがっていました。家康は後北条氏が滅んだ後の武蔵に入りました。家康は北条遺臣のうちわずかの家臣を召し抱えただけで、ほとんどは追放するか帰農させました。ですから、家康はいわば更地になった武蔵を思うがままに支配し、直轄地にしたり、家臣の知行地にしました。足元は盤石でした。
ところが相模武士や武蔵武士の力で幕府の権力者になった頼朝や北条氏には、相模に直轄地も直属の家臣団もいませんでした。ですからその支配は非常に不安定でした。頼朝は挙兵にあたり、絶対裏切らないはずだと思う数人の家来を選びに選んで計画を打ち明けますが、その時にも家来をこっそり一人ずつ呼んで「お前だけが私の頼りだ」と言って彼らの自尊心をくすぐって挙兵を打ち明けました。しかし、打ち明けた後は彼らのだれかが裏切りはしないかと、夜も眠れないほど心配したということが「吾妻鏡」に出ていますがその通りだったと思います。
それでも頼朝の場合はまだ形になりました。というのは頼朝の血筋である清和源氏というのは元々そうだったからです。清和源氏というのは、武家のようでもあり貴族のようでもありますが、その本質は貴族だったと思います。清和源氏は京都の貴族政権の中で軍事部門を担当する貴族の家でした。つまり軍事貴族です。それは頼朝の祖先の源頼義や義家をみればわかります。彼らは前九年の役(1051年)、後三年の役(1083年)で東北地方の争乱を軍事的に鎮圧しました。しかし、頼義も義家も京都から自分の軍隊を率いて東北遠征をしたのではありません。彼らはほとんど手ぶらで関東にやってきて、関東で兵を集めて軍を編成し、この軍隊を使って東北を鎮定しました。
その点、秩父氏や三浦氏が地方の豪族ながら、何代も前に分かれた同族がまとまって一族を形成していたのとは大きな違いがあります。したがって、軍事貴族である頼朝が自前の家臣団を持たなかったのはある意味で当然でした。また、直属の軍団を持たなくても、頼朝は清和源氏の権威で東国武士たちに君臨することができました。しかし、北条氏はそうはいきません。北条氏は将軍頼朝の外戚ですが、幕府内での身分は御家人にすぎません。その立場は他の武士たちと同等でした。しかも、北条氏は抜きんでた力を持つ豪族ではなく、北条氏より大きな勢力の豪族はいくらでもいました。頼朝の死後、外戚としての地位を失った北条氏が鎌倉で生き残る道は、これらの大豪族たちを滅亡させ、自らが幕府の頂点に就くことしかありませんでした。 
3) 相模・武蔵の大豪族たちの粛清
そこで、頼朝も、その後権力を引き継いだ北条氏もこういう大豪族の力をそぎ落とすことになりました。こうして司馬遷の言うところの功臣たちの悲惨な末路がはじまりました。
頼朝、北条氏によって滅亡した豪族は次の諸氏でした。
1185年 河越重頼(秩父氏一族)           (源 頼朝)
1200年 梶原景時(坂東八平氏)           (三浦・和田氏)
1203年 比企能員                  (北条時政)
1205年 畠山重忠(秩父氏一族)           (北条時政・北条義時)
1213年 和田義盛(三浦氏一族)           (北条義時)
1247年 三浦泰村 (三浦氏一族)          (安達氏・北条時頼)
            右側の( )はこの時、彼らを粛清した人たちです。
これを見るとすべて相模と武蔵の有力豪族であることがわかります。関東の大豪族は彼らだけではありません。北関東には下野の足利氏、宇都宮氏、小山氏、常陸の結城氏など有力な豪族がいました。しかし、彼らは粛清の対象から免れました。それはひとえに鎌倉から遠くはなれた所にいたからです。(宇都宮氏も北条氏から謀反の疑いをかけられたことがありますが、頭の髷を切るという処罰にもならない罰だけで許されてしまいました。)
最初に犠牲になったのは秩父一族の河越氏でした。当主の重頼は川越に本拠を持つ豪族で秩父氏の宗家格でした。重頼の妻は頼朝の乳母である比企尼の娘にあたり、頼朝のはからいで、重頼は娘を義経の妻にしました。しかし、これが裏目にでて義経が頼朝と対立すると、重頼は死に処せられ、娘も平泉で夫義経と運命を共にしました。重頼の領地は老母の預かりとなり、その後は息子に引き継がれました。
その後、梶原景時が滅びます。景時は義経に悪意を持ち、頼朝に告げ口した人ということで評判の悪い人ですが、実際はそういうことはなかったようです。反対に景時は教養のある政治家で、頼朝の信頼も厚かったのですが、そのことが反って同じ御家人仲間の反発を招くことになりました。その中心は和田義盛でした。頼朝の死後、義盛が中心となって反景時連合が結成され、結局彼は一族もろとも滅ぼされてしまいました。なお、この争いには畠山重忠も加わっています。(ただ、以上の経過は「吾妻鏡」に書いてあることです。景時の滅亡は御家人同士の対立だけではなく、当然その背後には北条氏がいたと思います)
梶原景時の後は比企能員でした。彼は比企の尼の甥でしたが、尼の養子になったとされています。比企の尼は政界に隠然たる力をもった実力者でした。能員はそれを背景に力をつけ、頼朝の死後、幕府が有力御家人の集団指導体制になるとそのメンバーになります。さらに娘が二代将軍頼家の側女になって男子を生むと、将軍の外戚として北条氏に対抗するほど力をつけました。ところが頼家が病気になると北条氏は弟実朝の擁立をはかります。これに反発した能員は頼家と相談して北条氏排斥を企てます。しかし、二人の密談を母の政子が障子越しに聞き、政子はすぐに父の時政に伝えます。時政は口実をもうけて能員を自邸におびき寄せて殺害してしまいました。その後、大軍で比企一族の館を襲撃してこれを滅ぼし、将軍頼家も伊豆に幽囚されて自裁においこまれてしまいました。
秩父氏の宗家畠山重忠の最期はあっけないものでした。きっかけは重忠の息子が時政の後妻の娘婿と酒席で争ったことでした。時政の後妻は牧の方といいます。この牧の方はすっかり重忠父子を恨み、夫の時政をそそのかして重忠の息子を鎌倉で殺害してしまいます。そして、急を聞いて駆けつけた重忠も二俣川(横浜市)で討たれてしまいました。ただ、この重忠攻撃は時政の嫡男義時が指揮しましたが、他の秩父氏一族や重忠と縁の深い武蔵武士たちも討手に加わっていましたから、実際はもっと根が深かったようです。
このように鎌倉という狭い場所で、将軍や有力御家人たちが策略をめぐらし、次々と内訌事件が起こったのが鎌倉時代の鎌倉でした。こういう陰謀事件が起こるのは、結局鎌倉幕府の権力者である頼朝や北条氏の権力基盤が不安定で、相模や武蔵の豪族たちが危険で不気味な存在だったからでした。
北条氏と三浦氏の抗争
こういう事情は1213年の北条義時と和田義盛との戦いのいきさつがよく現れています。この戦いは義時の謀略でした。和田義盛は三浦氏一族で、頼朝の挙兵から従った人です。義盛は数々の手柄を立てその功績で侍所別当という、いわば幕府の軍事長官を長くつとめていました。義時の直接の目的は義盛からその役職を剥奪することでした。そこで義時は義盛の縁族を不当に処罰したりして義盛をさかんに挑発します。義時は将軍実朝をおさえていたので勝算はあったようです。しかし、北条氏だけでは兵力が足りません。たぶん、ほかの御家人たちの支援を取りつけていたのだと思います。
義盛も我慢に我慢を重ねますが、とうとう耐え切れず打倒北条で立ち上がりました。義盛は同族で本家筋の三浦氏を誘います。初めは三浦氏も加わる予定でした。また、武蔵七党の横山氏も味方になることを約束します。しかし、最後に三浦氏が裏切って義時に通報しました。そのため義盛は決起を一日早めます。横山氏も鎌倉到着が遅れてしまいました。和田氏と北条氏の戦いは鎌倉での壮絶な市街戦でした。この戦いは二日間にわたって続きました。最初は五分の戦いでした。その後、義盛が劣勢になりますが、横山氏が駆けつけてまた盛り返します。思わぬ苦戦に、義時は将軍実朝の名で御家人たちを動員してようやく義盛を滅ぼすことができました。
当時、鎌倉には有力豪族たちが館を構えていました。そのうち一部の御家人は最初から義時側についていたようです。しかし、大多数の豪族たちはじっと息を潜めて様子見をしていました。そして義時が勝ちそうだとなって雪崩をうって北条側についたのです。ですから、義時の勝利も薄氷を踏んでの勝利でした。鎌倉の北条氏には常にこういうもろさがありました。この戦いで応援の横山氏が引き連れて参陣した兵力はわずか数十人でした。三浦氏が義盛軍に加わらなかったため、北条氏が簡単に勝つはずの戦いが接戦になり、横山党の数十人の兵力が義盛側に加わっただけで苦戦になりました。もしも三浦氏が裏切らなかったら、あるいは横山党が倍の兵力だったら逆転していた可能性もありました。こういう状況を見ると、相模や武蔵の武士団がいかに北条氏にとって危険だったかがわかります。  
単純に考えると、鎌倉時代に北条氏が支配者の地位に登りつめていくのは、歴史の必然だったように見えます。しかし、実際はそうでもなかったのです。北条氏にとって幸運だったのは、頼朝が長生きしなかったことと、頼朝とは反対に政子が長いこと政治力を保持して実家北条氏のために力を尽くしてくれたことでした。
北条氏の覇権確立
北条氏が鎌倉幕府の実質の最高権力者になったのは、1247年に三浦泰村を倒してからです。この戦いを宝治合戦と言います。当時、三浦泰村は北条氏以外で最後に残った実力者でした。この時の執権は時頼でした。時頼は、戦国時代の武将たちが子弟を教育する際に必ず手本として教えたほどの人格者でしたが、この場合非は時頼の方にあったようです。しかし、政治の論理には非情なところがあります。この戦いは外戚の安達氏が時頼の了解を得ないまま三浦氏と戦いをはじめ、時頼もそれに引きずられるように参戦したということになっています。その真偽ははっきりしませんが、結局三浦氏を滅亡に追いやりました。
北条氏はこの三浦氏を倒すことでようやく支配体制を確立します。北条氏の嫡流は得宗(とくそう)とよばれ、以後はこの得宗が支配者となって最高権力を握り、得宗家の私的家臣である、身内人(みうちびと)が政治の実務を担います。これを得宗制といいます。そして、将軍直属の家臣である御家人たちは、この宝治合戦とその後の霜月騒動(安達氏と身内人筆頭の平頼綱が争い、安達氏とこれに加担した御家人たちが粛清された抗争)ですっかり押さえ込まれ、ちょうど江戸幕府における外様大名と同じ位置になっていきました。 
4) 「吾妻鏡」と北条義時
鎌倉時代の歴史はどの本を読んでも同じようなことが書いてあります。それは史料がほぼ「吾妻鏡」ひとつに限られているからです。しかも「吾妻鏡」は日記体で書かれているため変に臨場感があります。
たとえば、将軍頼家が将軍職を剥奪され、北条氏に幽閉されたのも、「吾妻鏡」によれば、頼家が比企能員と北条氏排斥の密談をしていたところを母の政子に障子越しに聞かれたためでした。政子のこのエピソードは印象が強烈なせいか、どの本にも必ず出ています。こういうのを読むと、二人がもっと上手にやれば事態はちがっていたかもしれないなどとつい考えてしまいます。また、畠山重忠の悲劇も時政の後妻牧の方がもっとおとなしい女性だったら起こらなかったかもしれないなどとも考えてしまいます。
しかし、政子が盗み聞きしたというのですが、考えてみると市井の家族ならともかく、将軍の屋形ではたしてこんなことが実際にありうるだろうかと疑問です。牧の方の件もそうですが、真相はもっとちがっていたという気がします。「吾妻鏡」を読むと女性たちが大きな鍵を握っています。比企尼、牧の方、そして北条政子です。たとえば比企の尼は頼朝の乳母で頼朝から絶大な信頼を受け、その縁で養子の比企能員が昇進したとあります。しかし、頼朝には比企の尼のほかに3人も乳母がいます。そして4人の乳母の縁族がすべて乳母の縁で出世しています。乳母が4人もいたというのは不自然ですし、それに乳母の引きだけでそんなにうまく出世するものなのかと疑問が湧いてきます。
比企能員
比企能員についてはまったくわかりません。埼玉県比企地方のどこにも比企の尼夫婦の痕跡はなく、能員の領地だったという所もありません。にもかかわらず能員は頼朝挙兵からわずか9年後の奥州藤原攻めでは北陸道方面の指揮官をつとめています。それほどの実力者なら、比企になにか伝説か史料があるはずですがそれがまったくありません。ですから、この比企氏は名前は比企ですが、比企地方とは関係のない人たちだったかもしれない。たぶん京都あたりから流れてきた人たちでないかという気がします。しかし、そうすると尼の娘が河越重頼の妻だったというのがうまく説明できません。というのも、この夫婦の間に生まれた娘が義経の妻になっているからです。義経の妻になるような娘が生まれるためには尼の娘と重頼は、頼朝の挙兵のずっと前に夫婦になっていなくてはならないということになります。そうであるなら、比企の尼の家は名家河越氏と縁組を結ぶにふさわしい家格ということになるからです。こう考えると、この比企の尼というのは複数の人物を合成した架空の人のような気もします。とにかく、この比企氏の人たちはどうにもわからない人たちです。
歴史は事実を書くことになっています。しかし、うまく説明がつかないことがどうしても出てきます。こういう時、女性というのは男と男の関係を結びつける接着剤のような便利な所があります。ですから、比企能員も比企の尼の縁で頼朝に重用されたとか、河越氏は尼の娘を妻にした縁で頼朝陣営に入ったというようにすればなんとか説明できます。この比企の尼はとにかく不自然なほどさまざまな人たちと縁戚関係があることになっています。
また、歴史では記述者が事件の当事者を悪く書きたくない場合も出てきます。とくに「吾妻鏡」は、鎌倉時代の最中に鎌倉時代のことを書いた歴史書ですから、この傾向はさらに強かったと思います。その上、早い話が歴史というのは男の世界の叙述です。ところが歴史がとりあげる人たちにはふつう立派な先祖がいて子孫もいます。記述者はどうしても遠慮します。その点、女は借り腹という言葉があるように、女性は社会的には一代限りの生き物です。少々都合の悪い役回りを押しつけてもどこからも文句が出てきません。こういうこともあって、これら女性たちはうまく使われているという気がしないわけでもありません。
そういう点で同情すべきは牧の方です。「吾妻鏡」によれば、牧の方は重忠襲撃を渋る義時に「私が継母だと思って馬鹿にしている」というようなことを言って詰め寄り、そのため義時は心ならずも重忠を討ったことになっています。そして、重忠を討った後、義時は「重忠には謀反の意図はなかった」と言って時政を強く責めています。つまり、義時は「自分はだまされた」というのです。この牧の方は重忠謀殺の主犯にされたばかりでなく、重忠が非業の死を遂げた同じ年に、今度は将軍実朝を殺害して自分の娘婿(平賀朝雅といって源氏の流れ。母は比企の尼の娘)を将軍にしようと画策したことになっています。そして、ここでも彼女は夫の時政をたきつけて陰謀をめぐらしますが、それを知った政子と義時が父時政と牧の方の二人を出家させて伊豆に幽閉したということになっています。当然娘婿も殺害されてしまいました。
この年時政が失脚したのは事実ですが、しかし、本当に時政と牧の方がこういう非現実的な策謀を企てたとはとても思えません。どうも「吾妻鏡」は時政と牧の方の二人を無理に悪役に仕立てあげたという気がします。とはいえ、「吾妻鏡」のなかでこのように書かれた以上、時政の晩年は若い後妻に振り回された惨めな老人ということになり、牧の方はこれからもずっと歴史の中で悪女として語り継がれていくことになるのだと思います。
「吾妻鏡」を読む限り、そうじて義時の印象が悪くありません。この後、実朝が亡くなると後鳥羽上皇が倒幕を企てます。承久の変です。この時、京都に断固攻め上るべきだと主戦論を展開したのが政子と元京都公家の大江広元でした。政子は御家人たちを集めて頼朝の恩顧に報いるべきだと熱弁をふるいます。彼女は気性の激しい女性で、「吾妻鏡」の別のところでは、彼女の嫉妬で愛人が暗殺されるのではないかと心配した頼朝が愛人の住まいを移したと書いてあります。そういうのを読むと、政子がこの時強硬的態度をとったのもありうることだという気にさせられます。
「吾妻鏡」では、この時幕府の重臣たちはどうしてよいかわからなくなったとしています。戦いの勝ち負けより、朝廷と戦争をすることに強い心理的抵抗感があったようなのです。それはこの時重臣会議を主宰した義時も同じでした。義時も朝廷を相手に戦いをしてよいものかどうか大いに迷いました。すると、会議はいつしか非戦論に傾き、官軍が攻めてきたらその時は仕方がないから箱根で防ごうとする消極論になり、果ては戦わずして降伏したほうがよいとする恭順論まで出てきたようです。
そこで大江広元は議論が長引いては状況はますます悪くなると考え、義時を強引に説得して泰時を将に京都に攻め上らせました。泰時はわずか18騎の兵を引き連れて出発しますが、実際に行動してみると、案ずるより生むがやすしで、途中泰時に合流する者が多く、泰時軍は大軍になり圧倒的優位で京都を制圧したというように書いてあります。
ですから、この承久の変に際し、皇室をあつく敬う義時は朝廷と敵対することに逡巡したが、結局姉の政子と広元に押し切られて戦いをはじめることになったという書きぶりです。しかし、それにしては義時の戦後処理は過酷なものでした。平家滅亡の時は没収した領地は500ヶ所でしたが、この時に義時が没収した領地は皇室領のほか上皇方に加わった公家領や武家領をあわせて3000ヶ所にもなりました。しかも平家没官領では反別5升の徴税だけでしたが、この時新しく任命した地頭には、そのほかに田畑11町(11ヘクタール)につき1町分の年貢を地頭の取り分にするというように敗者の公家たちにとって厳しいものでした。このため、皇室や公家たちの財政は窮乏し、以後、朝廷は官位を京都の富豪や地方の武士たちに売り、その収入に頼るというなんとも情けない姿になっていきます。義時が皇室に対して尊敬の念を持っていたとはとても思えません。
義時がこういう過酷な処置を執ったのは、それが必要だったからです。それまでの鎌倉幕府は、強大な武力は持っていましたが政治経済的には、関東の一地方政権でした。しかし、この承久の変の後、鎌倉幕府は実質的に日本全国を統治する政権へと変貌しました。歴史に善悪の物差しを持ち込んでもしかたがありませんが、この義時という人は本当に辣腕家でした。胆力と知力があって、いざとなれば冷酷非情なことを平然とできる人を、日本では昔から「悪(あく)」とか「ワル」とか言います。この意味では北条義時という人は、たぶん日本の歴史上で一番のワルという気がします。
どうも「吾妻鏡」は義時を悪人に思わせない配慮が強すぎるように思います。承久の変も、現代の私たちから見れば、政子や広元の主戦論が正しいように思えます。しかし、昔の権力者にとって朝廷に敵対するのは大変なことでした。かりにその時うまくいっても、歴史の批判を考えれば二の足を踏むのが当然です。幕末に将軍慶喜が戦わずして降伏したのも、戦いの勝敗よりも後世の歴史の中で自分がどう評価されるかを気にしたためでした。「吾妻鏡」には、義時を非道の人として歴史に残したくない、義時を後世の歴史の批判から守るという意図を強く感じます。そして、「吾妻鏡」はそれに成功していると思います。義時の行ったことの一つ一つはそうとう辛らつにもかかわらず、義時がさほど悪印象を持たれないのは「吾妻鏡」の説明が上手だからだと思います。
全体的にこの「吾妻鏡」編集には、義時を擁護すること、それと三代執権の泰時、五代執権の時頼を名君に見せようという方針があったと思います。その意味でも、鎌倉時代に対する新しい史料か新しい解釈が出てくるとよいと思います。 
6 武蔵野開発
すでに述べたように、鎌倉幕府を創始した源頼朝もその後継者の北条氏も、相模には足場がなく、経済的基盤が弱いという共通の弱点がありました。そのことは両者とも自覚していました。北条氏は幕府内部の抗争で多くの御家人たちを滅ぼしました。また、承久の変で皇室公家領を没収しました。そして、没収した領地を北条氏が自領にしたのもありましたが、それらの領地は鎌倉から遠く離れた所にありました。そこで、北条氏としても鎌倉近くに領地を持つ必要がありました。
とはいえ足元の相模は狭隘の地でした。新しい領地は武蔵にしかありません。そこで北条氏はここの開拓を計画します。「吾妻鏡」では武蔵野の開発といっています。ここでいう武蔵野は、東京西部に広がる、現代の人がいう武蔵野ではなく、武蔵国の沖積低地部をさしています。鎌倉時代になると、武蔵でも残された未開地は二カ所しかありませんでした。一つは多摩川以西の現在の川崎横浜地方です。そして、もう一つは荒川下流域の現在の東京埼玉の東部です。この計画は頼朝の時からありましたが、計画の段階で頼朝は亡くなってしまいました。この開拓を本格的に進めたのは三代執権の北条泰時からでした。そこで、泰時にはじまる武蔵開発を見てみます。
1) 川崎横浜地区の開発
結論を先に言うと、川崎横浜地区の開発はあまり成果がありませんでした。というのもここは地形的に開発がむつかしかったからです。
川崎横浜の神奈川県東部には、北の津久井地方を水源として鶴見川や大栗川をはじめ何本かの川が流れています。これらの川は東京湾や多摩川に注ぐ中小河川ですが、いずれも脚が短い上に傾斜が急です。そのため、上流の山間地では川は陸地を深くえぐるように流れていて、この川から水を引いて農業に利用することはできません。また下流の平地部では、反対に川底がせり上がっています。そのため大雨が降ると、流域全体が水に漬かり、これまた農地になりません。たぶん横浜川崎地方では上流で降った雨は、数時間で多摩川や東京湾に達すると思います。したがって、この川崎横浜地域は雨が降らない時は水量の乏しいやせた川になって水不足に苦しみ、大雨が降ると今度は流域一面が水浸しになるので開発が難しいところです。当然、それまでもこの地域には人々は住んでいました。しかし、平安時代までは、人々はもっぱら谷戸(やと)と呼ばれる平地への出口に住み、さらにそこから山間地に向けて住んでいました。人々は谷ごとに村をつくり、河川の水ではなく山の湧出水を利用して農業を営んでいました。そして、これら谷はきわめて閉鎖的なところでした。そのため武蔵七党の横山党や綴(つづき)党というように、独立意識の強い小さな領主たちがいました。ですから、鎌倉時代前半まで、川崎横浜地方では人々はもっぱら山間地に住み、海に近い平地部は荒野として取り残されていました。
そこで、この平地部を農地にするというのが泰時にはじまる武蔵野開発でした。しかし、これはあまりうまくいきませんでした。ここを開拓するには、堤防を作ってまず地域を流れる小さな川の水を閉じ込め、農業に必要な水は別に用水を掘って多摩川から水を引くしかありません。泰時もそうしようとしましたが、この時代の技術力ではとても無理でした。
というのも、そのためには多摩川に洗い堰を作り、多摩川の水位を上げる必要があります。さらには、多摩川から取水堰を作っても、今度は土地の高低を測量して用水路を確保しますが、この用水路は多摩川と平行することになり、必ず既存の川と交差することになります。すると膨大な労力と土木の知識が必要になり、当時の技術力ではとても無理でした。この開発が本格的に進むのは、徳川家康が武蔵の領主になってニケ領用水を作ってからでした。たぶん鎌倉時代の開拓は一部を農地にできただけでした。
この地域の開発で成果があったのは横浜の東部でした。ここは鶴見川が流れていますが、今の港北区小机(こづくえ)のあたりで恩田川と合流し、広い扇状地を作っています。そこで、この扇状地の微高地を開発することができました。この小机はそれまでは人の住まない原野でしたが、この開発で急激に発展し、以後神奈川県部の中心地になります。ただ、横浜歴史博物館の模型地図を見ると、鎌倉時代の横浜は海岸線が現在よりずっと陸地に入りこんでいます。ですから開拓できた農地は意外と少なかったと思います。
神奈川東部の開発事業でうまくいったのは陸ではなく海でした。泰時は横浜の西端に位置する六浦(むつうら)に着目しました。そこで鎌倉から六浦まで新しく道を作り、六浦に港を作りました。
鎌倉から六浦までは三浦半島を越えて10キロくらいです。しかもこの六浦は房総半島への最短距離でした。泰時は工事現場に出向いてみずから石を運ぶというパフォーマンスまでする熱の入れようでした。この六浦が完成し、その後ここからやや北の神奈川にも港ができました。これで、東京湾の舟運が飛躍的に発達し、鎌倉と武蔵内陸部を結ぶ流通路ができました。
泰時はこの六浦を含む金沢地区を弟の領地にしました。その後、この家系は金沢氏を称し、北条本家に次ぐ実力者になります。金沢実時はこの地に称名寺を造営し、寺内に金沢文庫を設けて膨大な図書を蒐集しました。また、一門に称名寺へ領地の寄進を勧め、いわゆる称名寺領を作りました。この称名寺領の多くは東京東部や千葉県西部のいわゆる東京低地でした。 
2) 東京埼玉東部の開発
泰時にはじまり、その後も北条一族がもっとも力を入れたのは、東京東部から埼玉県東部にかけての低地の開発でした。前者は東京低地で、当時は下川辺荘とよばれ、後者は加須低地で太田荘とよばれていました。この時代には武蔵とか下総上総とかいう古代の行政的区分は実質的な意味がなかったと思いますから、この開発には当然利根川東岸の、現在の千葉県の地域も入っていました。
ここは平安時代末期にはすでに八条院領という皇室の荘園でしたが、北条氏はこのあたりの地頭を総動員して本格的に工事を行いました。この時代には、東京埼玉の東部には荒川のほか利根川も流れていました。当時は利根川のことを太日川とよんでいました。そして流路も現在とは大きくちがって、今の元荒川と古利根川が当時の荒川利根川でした。(ただ、ここは流路がひんぱんに変わりました。荒川と利根川が一つの川になっていた時代もあったと思います)
こういう大河川の流域は、開発が非常に難しかったと思います。これについては、私も考えてみましたのでそれを述べてみます。平安時代の前半まではこういう沖積平野の低地には人はほとんど住みませんでした。それは水害が見舞われるからではではなく、むしろ必要な水が得られないからです。川というのはその地域でもっとも低い所を流れていますから、その川の水を引いて生活に利用するということはできません。逆説めいた言い方になりますが、川のそばというのは意外と水が不足する土地です。しかし、平野はみな同じ高さではありませんし、大河は河口が近くなると、何本もの河道に分かれますから、場所によっては支流の水を利用できる所もあったと思います。たぶん、そういう所には人が住みついて農業が可能でした。
大河川の下流域では、水害を防ぐのはさほどむつかしいことではなかったと思います。現代では、大きな台風が来ると川幅2キロくらいの堤防で囲われた川でも水位が5メートルくらい上昇します。しかし、それは川の両岸に堤防があるからです。仮に堤防がなく流域が十分広ければ話は別です。たとえば流域の幅が20キロあり、それが真っ平な地形であれば、水位はわずか50センチしか上昇しません。机上の計算ですが、こういう所で水位が1メートル上昇するには、堤防がある場合には水位が10メートルも上昇するような巨大台風でもなければ実現しません。そういう台風はめったにありません。ですから、川に堤防がない昔では、こういう流域に住居や農地をつくっても、その周囲を高さ1mくらいの土塁で囲めば、ほとんどの水害を防ぐことができることになります。こういうのを輪中と言います。ふつう沖積平野に人が住むには自然堤防を利用します。自然堤防というのは大きな河川で自然に土砂が積もった微高地のことを言います。しかし、自然堤防はその地域ではもっとも標高の高い台地ですから、畑地になっても水田にはなりません。ところが、水の得られる所なら河道に近くても輪中で囲えば人々が住みつくことは可能です。
しかし、周囲をぐるっと堤防で囲えば、今度は外から水が引けません。水を引けなければ、伏流水が地表に露出するところを選べばよいことになります。しかい、そうすると今度は排水がむつかしくなります。雨が降ったときの排水も同じです。ですから、こういう沖積平野の低地部は開拓しても畑地にしかなりません。とはいえ、日本の農業では水田稲作をしないことには農業になりません。ですから、これも推測ですが、こういう沖積平野では、農地の多くは畑作で、水が得られる所では多少の無理をしても水田稲作をおこなうということになります。それは大きな台風がきた時には収穫を諦めるという、いわばバクチ的な稲作だったと思います。そして、川の流路が変われば別の土地に移住するということだったと思います。
荒川は昔から氾濫する川として有名ですが、荒川の洪水はすべて埼玉県吉見地方など中流域で起きています。それも堤防の決壊によるもので、そこだけ見ると住居まで水に浸かって大変でしたが、被害面積は意外と小さかったと思います。長い江戸時代でも荒川河口域の江戸の町が洪水で水没したということはありません。関東平野の中流域の遊水機能は巨大で、どんなに大きな台風がきてもここで吸収しますから下流域まで水没することはまずありません。河口域の水害で怖いのは台風そのものより、この時高潮に襲われることです。現に、今でも東京江東区には高潮を警戒する看板があちこちにあります。ここには荒川放水路がありますが、この放水路は、たぶん台風が来た時の排水が主な目的ではなく、東京湾で高潮が起きた時にはこの川で海水を吸収しようというものだと思います.
話をもどして武蔵東部の開発です。土木技術に限界のある鎌倉時代では、こういう沖積平野の低地は、荒川や利根川の両岸に長大な堤防を築いて一挙に広い土地を開拓をするというのは無理です。ですから、堤防をつくって川を堤防に閉じこめるのではなく、地形を上手に選んで自然堤防と人工の堤防を利用して微高地に農地を造成するというようなやり方だったと思います。つまり、川ではなく農地を囲うのです。鎌倉時代初期の鴨長明の「発心集」に、埼玉県川越の河越氏の領地が水害にあい多数の死者がでたという記事があります。これは、たぶん入間川の流域の一部を土塁で囲った輪中でした。実際はぐるっと囲むというより、自然堤防を利用して低地には土塁を積み上げた簡単なものだったと思いますが、当時輪中があったことがわかります。
北条氏はこの武蔵東部の開発には、おもに武蔵七党の野与党の人たちに開発工事を命じています。それは、水を得られてなおかつ水害にあわないところを選定するのがむつかしかったからです。そして、北条氏はここに大勢の浮浪農民を集めました。こういう所に農民を集めるには、何年か税を免除するとか、軽くするという特典を与える必要があります。これができるのも執権北条氏の強みでした
現在の埼玉県の加須地方は見渡す限り真っ平らな水田地帯です。初夏の東北自動車道を車で走るとまるで緑の絨毯の中にいるような気持ちになり、日本でもこういう場所があるのかと驚きます。しかし、こういう風景は利根川や荒川に堤防を築き治水が可能になった現代の風景で、鎌倉時代の武蔵東部は広い武蔵野の原野(それはアシやカヤの原野ではなく、樹木中心のいわゆる武蔵野の林に近い原野です)がどこまでも続き、そういう原野の微高地に、集落が点々と散在する風景だったと思います。この武蔵東部は北条氏一門の重要な経済基盤になります。そして、室町時代になると、足利将軍の連枝である鎌倉公方に引き継がれます。鎌倉公方が上杉氏と争い、公方は下野最南端の古河に移りますが、それはここが鎌倉公方の領地だったからでした。
考えてみると、太古以来武蔵国の歴史は一貫して東部の山間地の歴史でした。人々は関東山地や上武山地の山間部とその麓に住んでいました。それが、鎌倉時代になるとこうした沖積平野部の開発が進み、武蔵の歴史もこちらに移っていきます。 
7 平安時代と鎌倉時代の仏教
1) 浄土教(1)
平安時代は京都で貴族文化が隆盛をきわめた時代です。日本文化史上もっとも華やかな時代でした。しかし一転して地方に眼を向けると、この時代の文化には見るべきものはほとんどありません。武蔵についても、平安時代は平安後期の12世紀くらいまでは空白です。文化の面ではもっとも不毛な時代でした。たぶん、平安時代前半の武蔵では新規に寺が建てられることはほとんどなかったと思います。その一方、白鳳天平の昔に建てられた古代寺院の多くは朽ち果てるのにまかせられるままでした。
この時代で、今に残る武蔵の文化財は、名も知れない寺に平安仏がわずかにあるばかりです。しかし、これだって本当に平安時代の昔からそこにあったかどうかわかりません。考えようによっては、南北朝の頃、京都奈良に遠征した武蔵武士が戦利品として持ち帰った可能性だってあります。
平安時代の武蔵が文化的に不活発だったのは、一つには古代からこの地を支配していた豪族たちが没落し、これに代わる新しいリーダーがまだ現れなかったからです。しかし、それ以上に大きな理由は、そもそも文化というのは、都会で生まれやがてそれが地方に波及するものだという性質があらからだと思います。そして、平安時代の初めまで、京都の文化はまだ地方が受容できるほどには錬れていませんでした。こういう京都で生まれ育まれた文化が地方に広まるようになったのは、平安時代も末期になってからでした。ここでは前章に引き続く、仏教をとりあげて、この時代の武蔵の人々の心のありようを考えてみます。
平安時代になると、京都の貴族社会では密教が隆盛を極めます。その中心は比叡山延暦寺でした。最初密教は空海門で占められていましたが、その後、延暦寺の円仁が中国から最新の密教を学んで帰国すると、天台宗の密教が主流になります。これを台密といいます。密教は貴族社会のさまざまな分野に入りこみ、貴族たちの精神生活のよりどころになります。たとえば、「源氏物語」を読むと、貴族たちは生活の上で何かあると、僧侶たちをよんでは加持祈祷を行わせています。
このように密教が貴族社会に深く根をおろしたのは、貴族たちが迷信深かったというより、貴族の生活がすべてに儀式化され、きらびやかな密教の儀式で彩られていたからだと思います。それは例えば、現代でも盛大な政治的行事には華麗な装飾と壮麗な音楽が欠かせないのとほぼ同じです。
そういう風潮の中、10世紀の京都の貴族社会では浄土教が広まります。この浄土教の広がりについては、平安時代には自然災害や戦乱がうち続き、それが貴族社会に不安をもたらし、そのための現実逃避だったというような説明がよくなされます。しかし、そうではなかったと思います。むしろ反対に、平安貴族たちは、華やかな現世の生活が死後の世界でも続くことを願ったからだと思います。つまり、彼らは現世の欲望を来世にまで持ち込んだのです。
この浄土教流行に最初に火をつけたのは、平安時代中期の僧源信でした。彼は985年「往生要集」を著しています。この時代はちょうど藤原道長の時代で貴族の全盛期でした。
往生というのは字の通り、あの世に往って、浄土に生まれ変わるということです。この場合のあの世というのは、漠然とした幽界ではありません。経典に書いてある、西のはるかかなたにある阿弥陀如来の世界です。この世界を中国の経典訳者の鳩摩羅什は極楽と訳しました。後に法然は数多い経典の中から、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」という3本の経典を選んで浄土三部経としました。ですから、「往生要集」も源信が独創的な教説を展開した書物ではなく、これら経典の中に書かれている内容をわかりやすく抄訳したのでした
経典によれば、この極楽浄土に住む阿弥陀如来は、永遠の命(無量寿)をもち、無限の光(無量光)で世界をくまなく照らしています。仏像がすべて鍍金されるのはこのためです。そしてこの阿弥陀如来の住む浄土は、まばゆいほどに光輝く世界で、ここには悩みや苦しみは一切なく、美しい花が咲き、小鳥ののどかなさえずりが聞こえて、心地よい音楽がいつも聞こえてくるというように具体的に描写されています。したがって、簡単にいうと、浄土教を信仰していた平安中期の貴族たちは、この世にあっては密教の華やかな儀式文化に身をひたし、あの世にいっては阿弥陀如来の導きで極楽浄土に生まれ変わって永遠の栄華を享受しようという、何とも都合よい思想に熱中していたということになります。
阿弥陀如来の極楽浄土は以上のように魅力的なものでしたが、ではその極楽浄土に往生するにはどうすればよいのかということが大きな問題です。ところが、その方法も経典には具体的に書かれています。それが念仏です。
念仏には阿弥陀如来の名を唱える称名(しょうみょう)もありますが、「往生要集」や大陸渡来の経典では観想が重視されています。この観想というのは、要するに阿弥陀如来の姿や極楽浄土の世界を想像することです。ただし、その観想も一度に仏の全体像を想像するやり方や、仏の座る蓮華からはじまり、仏の足、仏の手、仏の頭というように部分を順序だてて想像していくとか、さらには西に沈む太陽を見つめて阿弥陀の世界を連想するとか、いくつもの方法が細かく書かれています。しかし、人は何の手がかりもなしに想像することはできません。すると、だれでも考えつくことですが、もっともわかりやすい方法はその浄土世界を実際にこの世で再現してみることです。そこで作られるのが阿弥陀堂です。たとえば平泉中尊寺の金色堂や宇治平等院の鳳凰堂がそうです。蓮の花咲く庭園(浄土式庭園)に、極彩色で彩られた堂を建立し、堂内には光り輝く阿弥陀如来像を安置して極楽世界を体験するのです。ですから、当時の念仏は、現在見るような薄暗い堂の中で、金箔のはげた仏像にむかって、自分の罪の深さを懺悔して頭をたれるというようなじめじめした雰囲気は少しもありませんでした。
源信が亡くなったのは1017年でした。彼は阿弥陀如来像の手に結んだ糸を自らの手で握りしめ、阿弥陀仏に導かれて入滅しました。源信には、現代人が死の恐怖に震えながら一人で死んでいく悲壮感はまったくありませんでした。全般的に平安時代から室町時代の人々を見て思うことは、彼らには死に対する恐怖とか嫌悪がきわめて希薄なことです。宗教を信じる昔の人とそうでない現代人のちがいというものを感じざるをえません。京都の貴族社会で広まった浄土教はこのようなものでした。この浄土教が大きく変貌したのは12世紀後半に登場した法然あたりからでした。 
2) 浄土教(2)
法然は平安末期から鎌倉初期の人で天台宗の僧侶です。彼はずっと比叡山で過ごし生涯戒律を守りました。彼は弟子の親鸞が肉食妻帯したような過激なことはしませんでしたが、その思想はきわめて斬新でした。法然自身は一宗を確立したという自覚はなかったと思いますが、後に浄土宗という教団になりました。
法然の浄土宗の特徴は非常に簡単でわかりやすいということでした。法然はそれを意図していたわけではありませんが、そのため、貴族ばかりでなく大衆にも広まり、大勢の信者が現れました。源平合戦の勇士熊谷直実が法然の弟子になったのはよく知られています。彼は自己を鋭く内省し、自分は「悪人」であり、「凡夫」であるとしました。この場合の悪人というのは、私たちがふつう考える意味での悪人ではありません。仏教では、人間は誰でも仏になれる素質があるとし、この素質のことを仏性といいます。ただ、人によってこの仏性には濃淡があり、仏性の豊かな人間を善人といい、仏性に乏しい人間を悪人といいます。法然は自分を救われにくい人間だと考えたのです。
ですから、親鸞の有名な悪人正機説も、遊女や猟師のような倫理に反する職業を生業とする人たちを悪人として、こういう罪深い人でも救おうとしたのが親鸞の教えであるというような解釈は、親鸞本来の教説とはちがうことがわかります。善人悪人というのは職業や生き方のことではなく人間性のことです。この仏性は日本仏教界では以前から論議され続けた問題でもあります。たとえば法華経を信奉する最澄は、人には皆一様に豊かな仏性が備わっているという信念で、南都の仏教教団と激しい論争をくり返しました。
ところで、法然は自己を悪人だと自覚しました。つまり、自分には成仏がむつかしいと思ったのです。また、法然は自分のような凡夫には難行苦行の修行は無理だし、そもそも極楽往生は多少の善根を積んだところで実現するものではないとも考えました。そこで、法然がたどり着いた結論は、阿弥陀仏の無限の力を信じ、ひたすら仏の名を唱えるということでした。具体的には一心不乱に「南無阿弥陀仏」と唱えるのです。南無というのは、信仰しますという意味です。ですから「南無阿弥陀仏」というのは、私は阿弥陀仏を信仰しています、という意味になります。このようにただ阿弥陀仏の名を唱えるのを称名(しょうみょう)といいます。また、山岳地で厳しい修行をしたり断食をする難行苦行に対し、やさしい修行という意味で易行(いぎょう)ともいいます。
ちなみに日蓮宗では「南無妙法蓮華教」と唱えますが、これは称名ではなく、題目といいます。称名の「南無阿弥陀仏」は、仏の力で私を往生させてくださいという願いですが、「南無妙法蓮華教」の方は、私は法華経に書いてある通りに世のため人のため力を尽くしますという意思表明です。そしてそれを実践しようとするのが日蓮の教説で、これを「菩薩行」といいます。また「妙法蓮華経」というのは鳩摩羅什が訳した法華経の正式名です。したがって、「南無阿弥陀仏」の方は、つぶやくような小さな声で唱え、「南無妙法蓮華教」の方は人に聞こえるように大きな声で唱えることになります。
この称名は法然がはじめて言い出したことではありません。これも経典に書いてあります。また、法然よりはるか前に空也がこの称名を人々に広めています。ですから、法然の浄土宗はこれだけでは特に目新しいことは何もありません。法然の教説のもっとも大きな特徴は、往生は死の瞬間に決定するとしたことです。つまり臨終の際に、阿弥陀如来が極楽浄土に迎えにきてくれる。それが往生だとしたことです。これを来迎といいます。これが法然思想の核心で、法然はこれで浄土宗という一宗を確立しました。浄土宗以外では、たとえば日蓮などが代表ですが、人は生きたまま悟りを開いて仏になれるという即身成仏を展開します。しかし、法然の浄土宗では即身成仏はありえず、成仏は臨終で決まると言い切りました。(即身成仏というのは生きたまま仏の境地を得ることで、食を断ち衰弱死するいわゆる即身仏とはちがいます)
そこで、法然の教説は、一言でいうと、「南無阿弥陀仏」と唱える修行をすれば、臨終の際には阿弥陀如来が迎えにきて極楽浄土に導いてくれるというきわめてわかりやすい教説でした。もちろん、法然がこの結論に達するまでには、長年の思索と厳しい修行がありました。しかし、一度こういう結論がでてしまうと、こんどはその結論が一人歩きします。このわかりやすい教説は猛烈な速さで世の中に広まりました。そして、この法然だけでなく、その後親鸞、日蓮、道元というさまざまな人が出てきて新しい教説をうちだし、いわゆる鎌倉新仏教が起こってきます。この鎌倉新仏教の特徴は、仏教では何もむつかしい修行は必要としない、人はもっと簡単な方法、つまり易行で救われるということでした。法然はこの易行の先駆者でした。
曹洞宗の道元について言うと、彼はひたすら座禅することを励行しました。これを只管打座といいます。栄西の臨済宗では公案といって、座禅をする時に考えるテーマがあってそれを考えますが、曹洞禅では何もなしにただひたすら座禅します。ですから、道元は自分の教えはとうてい一般人の受け入れるところではないとして民衆布教はあきらめていました。しかし、弟子たちは道元の後他宗の布教法を取り入れて猛烈な布教活動をしました。その結果、曹洞宗は大教団になりました。はっきり調べたことはありませんが、東京の山間部や埼玉県ではたぶん曹洞宗が一番多いと思います。次に多いのが真言宗(新義真言宗)だと思います。  
法然の浄土宗は南無阿弥陀仏と称名する易行で極楽往生をはたそうという宗教でした。それは大衆を救うという大乗仏教の本来の目的でもありました。それまで、一般の人々が実際に仏教の恩恵に浴することはありませんでした。たぶん彼らは、地面をはいずるような惨めな生活をしている自分のために、御仏がわざわざやって来て極楽に連れていってくれるなどということ考えもしなかったと思います。当時の人々には現代の私たちには想像もできないほどの感激があったと思います。以後、法然の信者は急速に増大していきます。ただ、こういうわかりやすい鎌倉新仏教は確かに多くの人々を宗教への道に誘いましたが、それで日本人の精神性が高まったかどうかという点では疑問です。
一般的に日本の宗教では、宗教が大衆化する場合、宗教が大衆のレベルまで降りていきます。簡単にいうと現世利益で誘導しようとします。信心すれば病気が治るとか、長者になれるということを強調します。ですから、日本の仏教は、時代がたてばたつほど質的に低下していきます。東京を少し歩き回るとあちこちに七福神が目に入ります。これは利益をもたらせてくれれば、神であろうが仏であろうが何でもかまわないるという民衆のむき出しの欲望に、宗教側が迎合したものです。
その点、ヨーロッパのキリスト教では、大衆を宗教のレベルまで引き上げようとします。そして、そういう思想的な緊張の中から、芸術や科学が生まれます。しかし、日本の場合、そうではなく限りなく現世利益に強調し、そのため時代がたつと信者の数も激増しますが、そのことで何か崇高な芸術が生まれるとか、高度な科学が発達するということはありません。現在の世界文明はヨーロッパ文明のことだと思いますが、こういう較差が生まれたのも結局はアジアとヨーロッパの宗教のちがいによるのだと思います。
ところで、この浄土教は「往生要集」を著した源信が先駆者で、法然が確立者というのではなさそうです。「南無阿弥陀仏」と唱える称名を人々に勧める活動は、すでに平安中期の僧空也が行っています。そして、この空也から一遍へと受け継がれる教団の遊行僧たちは、多数の信者たちを引き連れ、踊り念仏という形で各地で布教しています。これが時衆です。たぶん武蔵の国でも各地にひんぱんにやって来たことだと思います。この踊念仏は今でも盆踊りという形で現在でも引き継がれています。
この時宗については、僧と信者がぞろぞろ集団で移動してどうやって活動が維持できたのか不思議でしたが、たぶん地方の村の人たちは彼らの踊りを見たり、一緒に踊ったりして楽しみ、喜んで食事を出したり泊めていたのだと思います。地方の人にしてみれば、死後の安楽が約束されるありがたい教えを聞き、なおかつ踊りを踊り歌を歌うという娯楽までありましたから、こういう宗教集団がやってくることは大歓迎だったと思います。そして、浄土教の広がりということでは、法然や親鸞の教団などより、この時宗の方が影響は大きかったと思います。鎌倉時代後期から室町時代には、宗教者をふくめ非農業者が大勢いて、彼らは気ままに各地を移動しているという印象を持ちます。考えようによっては、江戸時代はもちろん現代の私たちより自由だったのではないかという気もします。
平安中期に浄土教が広まった背景には、末法思想の影響が言われます。しかし、これはふつう言われるほど大きな影響はなかったと思います。この思想によれば、1053年から末法の世になるとされていました。それで確かにその前年の1052年に藤原頼通は宇治の平等院を造営しています。しかし、浄土教が広まるのはそれよりずっと前ですし、それに、大乗仏教では、仏は人間シャカではなく、非常に抽象化された永遠の命を持つ存在です。ですからシャカという生身の人間を基準に、正、像、末と時間的に区切るというのは大乗仏教の趣旨に合いません。それに、この末法とういう言葉が盛んに使われるのは鎌倉時代です。たとえば、日蓮の宗教は、濁った泥水に清らかな蓮の花が咲くように、この世に仏国土を建設するというようなことですから、現世は濁った世界、末法の世であると強調することになったのだと思います。 
 
5章 室町時代 

 

1 この時代について
はるか太古の昔から、関東地方はひとつのまとまった地域と見なされてきました。しかし、よく見ると関東地方には重心のようなものがあり、その重心は時代とともに移動しているのがわかります。それはある種のベクトルのようなもので規則的な方向性がありました。
このベクトルの基点は、最初は上野(群馬県)にありました。それは古墳時代の大和政権の時代でした。古墳時代の4世紀から6世紀の頃、上野は関東の中心地として畿内の大和政権に対抗していました。上野には畿内に匹敵する巨大古墳が盛んに作られ、その強大さを誇示したのはこの時代でした。
このベクトルはその後東に動きました。上野の毛(け)の国は東方に拡大し、下野にも毛の国が誕生しました。今の栃木県です。そして、奈良時代になると、この下野が上野を上回る力を持つようになりました。下野に薬師寺が建立されたのがその象徴です。九州大宰府の観音寺が西日本の僧を統括したのに対し、この下野薬師寺は東日本の僧を統括することになり、そのため僧侶に授戒する戒壇院がこの下野薬師寺に設けられました。
しかし、平安時代になると、歴史のベクトルはさらに東南に移動し、今の茨城県である常陸と千葉県北部の下総が中心になりました。平安時代、常陸と下総は関東地方最大の人口稠密地帯でした。下総を本拠とする平将門が国家に対する謀反を企て、常陸を戦場に関東に大きな嵐を起こし、京都の政府を震撼させたのも、将門が常陸下総という関東の中心部を基盤にしたからでした。その100年後、将門の縁族の平忠常が上総安房で将門と同じような反乱を起こします。争乱のもたらした災害はこの忠常の反乱の方が大きかったにもかかわらず、歴史では将門が重大視されるのも、忠常の乱はこの重心からそれた上総安房で起きたのに対し、将門の乱が関東の中心地で起きたからでした。
その後、歴史のベクトルはさらに方向を変えます。平安時代末期には、今度は西南に向かいました。現在の神奈川県である相模と東京埼玉の武蔵です。相模が関東の中心となり、鎌倉が鎌倉時代から室町時代にかけて関東支配拠点になりました。そして狭隘な相模を下から支えたのが武蔵でした。鎌倉の権力者である北条氏は武蔵の国司と守護の地位は決して手放しませんでした。権力を維持するには武蔵の経済力と人的資源が必須だったからです。ですから相模と武蔵はちょうど車のハンドルとエンジンのような関係にありました。
こういう状況は室町時代になっても、大きくは変わりませんでした。ただ、室町時代の前半は引き続いて相模が中心でしたが、後半になるとベクトルは北上し武蔵に移りました。この場合、武蔵が関東の重心のなるというのは、関東全体が混乱状態に陥り、そのため激しい戦乱が起こりますが、その主な戦場が武蔵になるということでもありました。この結果、大和王権の時代から鎌倉時代まで、ほとんど戦禍を被らなかった武蔵が激しい戦争の渦に巻き込まれることになりました。
武蔵国の歴史を見ると、ここは意外と穏やかなところで、奈良時代から鎌倉時代まで、ほとんど戦場になることはありませんでした。奈良時代から平安時代にかけて、東北地方の蝦夷で激しい戦争がありました。武蔵国でも、たくさんの人が兵士として戦いました。しかし、武蔵が戦場になったわけではありません。また、平安時代の平将門の乱では、常陸下総という東関東が戦場でした。当時の戦争は、相手の支配する村落を焼き払う焦土戦でした。ですから、戦争が終わると、この地域は見るも無残に荒廃しました。しかし、戦場から離れていた武蔵は戦禍から免れました。
さらには、平安末期の、保元平治の乱、源平の戦い、そして奥州藤原氏の滅亡と全国を舞台に壮絶な戦争が続きました。しかし、これらの戦争でも戦場は武蔵から遠く離れた地方でした。しかも考えてみると、この戦争は征服戦争でしたから、戦場にでかけた武蔵武士には得られるものはいくらでもあるけれども、失うものは何もないという気楽な戦争でした。武蔵の武士たちは、張り切って戦争に出かけました。
鎌倉時代には北条氏と反北条の豪族との陰湿な争闘がありました。しかし、この時も、関係した豪族の多くは相模の人たちでした。権力闘争の舞台にいなかった武蔵国は、一部の大豪族が巻き添えになりましたが全体としては平和でした。
こういう武蔵が戦乱に巻き込まれるのは室町時代になってからです。室町時代になると、地理的に関東の中心に位置する武蔵国が戦争の主戦場になります。そこで、ここでは鎌倉幕府が滅んだ後の室町時代の武武蔵の歴史を振り返ると、平安時代までは平穏な状態が続きました。それは結局武蔵がこのベクトルの重心にならなかったからです。その武蔵が室町時代後半になると焦点になりました。
関東の歴史のベクトルは、時計の動きと同じように上野→下野→常陸・下総→相模→武蔵と右回りに円を描いています。そして、このベクトルは最終的には徳川家康が江戸に幕府を開くことで武蔵東部の臨海地に落ち着き現在にいたっているということだと思います。
2  関東の地位低下
室町時代になると確かに武蔵は関東地方の重要な地域になりますが、視野を全国に広げてみると、この時代は関東そのものの地位が相対的に低下した時期だったと言えます。それまで、関東地方は都のある畿内に対して優位にありました。それは鎌倉幕府の成立過程が示しているように、関東にはが強大な軍事力をあったからでした。具体的にいうと、いざ戦争が起きると関東が動員する兵力が他の地方に比べて圧倒的に多かったのです。ですから、平安末期の源平の戦いや鎌倉時代の承久の変のように、中央で争いが起きると、関東の軍団が京都に遠征し武力で解決してしまいました。
それが室町時代になると、西日本が大きな力を持つようになりました。とりわけ京都を中心に畿内がすべての面で他地域を圧倒します。
畿内が上昇したのはここの経済が飛躍的に成長したからです。鎌倉時代の終わり頃から全国的に経済成長がはじまりますが、とくに畿内の発展はめざましいものがありました。それは二毛作の普及に見られるように、西日本の農業生産が著しく伸びたこともありますが、それ以上に大きかったのは、この時代の畿内には、西日本で生産される物資を円滑に流通させるネットワークができたからでした。その中心が京都でした。
畿内には、馬借や牛を使う車借とよばれる運送業者が大勢いました。彼らは瀬戸内海を通って山陽四国から運ばれる物産を京都に集積しました。そして、それを京都に供給するだけでなく、さらにその余剰物資を琵琶湖の舟運を利用して山陰北陸に運びました。また、山陰北陸の物産を、今度は逆ルートで琵琶湖から京都に運び、さらに山陽四国に流通させました。
この交易活動を支えたのが土倉とよばれる金融業者でした。彼らは生産者や流通業者に潤沢に資金を提供しました。
この土倉と呼ばれる金融業者の資金は自己資金ではありませんでした。彼らも別の所から資金を調達していました。その調達先は、延暦寺を初めとする畿内の大寺院でした。これら大寺院は諸国の荘園から集まる年貢を貨幣に換え、それを金融業者に融資しました。しかも、これら大寺院は自らも金貸しの業務も行っていました。そのため、室町時代の畿内は江戸時代以上に資本主義経済が発達しました。
この結果、室町時代の西日本では、京都を中心に、物資の生産、流通、金融の各ファクターが有機的に結びつき経済がフル回転しました。これが西日本の経済成長のしくみでした。
こういう経済が出現した最大の原因はたぶん中国から膨大な量の銅銭が持ち込まれたからだと思います。やや話がそれますが、このことについて触れておきます。
この時代、銅銭の日本に流入した銅銭の大半は永楽銭でした。そして、この永楽銭は中国では通用しない貨幣でした。
当時、中国では通貨は紙幣か銀でした。ところが、中国では銀の生産が極めて乏しいため日本から銀を調達する必要がありました。そこで、日本向けにわざわざ永楽銭を鋳造し、これを輸出して銀を調達していたのです。ですから、中国は銀を入手するため、日本の経済の実情を無視して、大量の銅銭を日本に輸出したのです。したがって、室町時代の日本経済は、必要以上の貨幣が流通する完全なインフレーション経済でした。この時代の経済は産業資本主義というよりは金融中心の金融資本主義だったと思います。
これに対し、関東には鎌倉という都市がありましたが、鎌倉の都市機能は京都に比べ著しく貧弱でした。さらに、元々関東地方は意外と閉鎖的な地形をしていて、箱根峠と碓氷峠しか外への出入り口がありません。そのため西日本との交易も進まず、農業や工業の生産力を高めても、生産した物資を商品として広範囲に流通させることができませんでした。
もっともこの時代、関東でも西日本と同じように鎌倉を中心に畿内と同じような経済の構造変化が起こりました。しかし、その経済規模は小さいものでしかなく、結局は自給自足の域から大きく踏み出すことができませんでした。ずっと時代が下りますが、秀吉が行った太閤検地では、東京・埼玉・神奈川東部という広大な面積を持つ武蔵の石高が67万石だったのに対し、琵琶湖の外縁部にすぎない近江が一国で78万石もありました。この時代、畿内の経済がいかに大きく伸びたかがわかります。象徴的だったのは、1467年の応仁の乱でした。この戦いは西国の有力大名が東西に分かれ10年近く争いました。しかし、この大乱に関東はまったくの部外者でした。実際、もうこの時期の関東地方は畿内出兵など考えることもできないほど凋落していました。
この応仁の乱では、初め大名たちは本国の農民兵を上京させて戦いました。しかし、戦乱が長引くと、こういう農民兵をいつまでも京都に滞在させておくわけにはいきませんでした。そこで、大名たちは畿内で募兵し、これら傭兵たちで戦いました。傭兵たちは足軽と呼ばれました。足軽たちは新式の防具で身を固め、戦法も、刀剣を使って小回りのきく歩兵戦が主流になりました。もはや源平の戦いのような、馬に乗らなければ身動きがとれない重装備の騎馬武者たちが戦う戦争ではなくなっていました。
こうして室町時代の関東は、関東平野というより、箱根峠と碓氷峠で閉ざされた関東盆地の中で、鎌倉公方の足利氏と関東管領の上杉氏が、時には手を握りあい、時には袂をわかって争い、さらには新興勢力の後北条氏が北上して、これら三者がさまざまな思惑のもと合従連衡をくり返し、事態はいっそう複雑化しました。
この混乱は、戦国時代末に、後北条氏の支配で終わるかに見えました。しかし、後北条氏も豊臣秀吉に滅ばされてしまい、武蔵における長い混乱が最終的に収束するのは、徳川家康の関東入府によってでした。
そこで、ここでは、鎌倉幕府の滅亡から、家康の入府、いわゆる江戸打ち入りまでの武蔵の歴史を考えることにします。 
3 鎌倉幕府の滅亡と足利・新田氏
1) 鎌倉幕府の滅亡
世の中というのはなかなか変わりませんが、変わる時はあっという間です。中でも鎌倉幕府の滅亡は劇的でした。
幕府を倒したのは上野の豪族新田義貞でした。義貞は今の群馬県太田市の新田荘で一族郎党あわせてわずか150人で挙兵すると、ただちに利根川を渡り鎌倉街道を南下しました。途中、陣営に加わる者が多く義貞軍は急激に膨張しました。義貞は、入間川南岸の埼玉県狭山市(入間川の戦い)、所沢市(小手指が原の戦い、久米川の戦い)で幕府軍と戦いを交え、さらに多摩川左岸の府中市の分倍ケ原で、鎌倉から増派された幕府軍に決戦を挑んでこれをうち破りました。そして、この戦いに勝利すると、怒涛の勢いで鎌倉に攻め入りました。執権北条高時は一門700人とともに自害し鎌倉幕府は滅亡しました。
義貞が挙兵したのは、1333年5月8日でした。高時が自害したのが5月22日でしたから、挙兵から幕府滅亡までわずか2週間でした。150年続いた鎌倉幕府がたったこれだけの短い期間で、しかも新田義貞という無名の源氏の手で滅んだのは、その後、戦乱で明け暮れる室町時代を象徴するできごとでした。
ただ、この鎌倉幕府滅亡の経過は「太平記」の記述です。考えてみると、挙兵からわずか2週間で鎌倉幕府が滅亡するというのは、実際としては無理だと思います。義貞は幕府軍と何度か戦いを交えています。戦いそのものは数時間で終わりますが、戦いの準備とその後の軍の編成組み換えが必要です。ですから、かりに史実が本当だとすれば、実際に行われた戦闘は伝えられているような大軍を擁しての大会戦ではなかったか、幕府軍が戦意を喪失して抵抗らしい抵抗もしないで潔く滅亡したということだと思います。潔くというのは、最後の執権北条高時は師事する僧が、北条一族として誇りある最期をという助言に従ったからです。
2) 足利氏と新田氏
鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞でした。しかし、その後義貞は鎌倉幕府の後継者にはなれず、時代の中心に立ったのは足利尊氏でした。
尊氏も義貞も同流の清和源氏です。にもかかわらず、尊氏が後継者になったのは、元々この二人には比較にならないほどの力の差があったからでした。そこでこのことを説明しておきます。
新田氏も足利氏も源義家の息子である義国の流れです。義国の長男は義重といって上野の新田荘を開発しました。この新田氏宗家の子孫が義貞です。一方、義国の次男義康は下野の足利荘を本拠とし足利氏を称しました。この足利氏の子孫が尊氏です。
ですから両者を比較すると、新田氏の方が嫡流ということになります。ところが、新田氏の義重は平家との結びつきが強く、そのため頼朝への帰順が遅れました。義重は京都での生活も長く、その間上級公家や平氏一門とも交際もあって、流人すぎないに頼朝の下につくことにはプライドが許さなかったようです。
その上、義重は89歳の長寿をたもち、長生きしすぎました。鎌倉幕府が樹立した後も、清和源氏の最長老として威張り散らす義重を頼朝は苦々しく思っていました。さらに、後に義重の子孫が幕府の許可を得ずに朝廷に官を要求して朝廷を困らせるなど不祥事を起こしました。そのため、新田氏は幕府から徹底的に冷遇され、新田荘に逼塞せざるをえませんでした。一族は狭い新田荘に分立し、小領主の分家がたくさんできました。宗家の義貞も、実際は新田荘の小領主に過ぎず、挙兵時には無位無官で、その上多大な借財まであるという有様でした。
その点、足利氏の初代義康は、頼朝の父義朝とは妻が姉妹だった上に、保元の乱では義朝と共に戦った仲でした。義康は若くして亡くなりましたが、後を継いだ二代目は早くから頼朝が源氏の棟梁であることを認め、義重のように尊大な振る舞いもしませんでした。当然、足利氏は頼朝の気に入るところとなりました。
頼朝の時代、清和源氏は特別でした。たとえば、鎌倉の御家人で国司に任官できたのは、この清和源氏に限られていました。源氏以外で国司になったのは北条時政が始めてで、それも頼朝が亡くなってようやく実現しました。こういう源氏の貴種の特権はその後も続いたと思いますから、幕府の儀式などでは、足利氏が執権北条氏より上席に座る儀式もあったかもしれません。
しかも、足利氏は頼朝亡くなった後も北条氏とは婚姻策を続け緊密な関係を保ちました。足利分家の斯波氏や畠山氏も幕府内で厚遇されました。
斯波氏は奥州総奉行に任ぜられ、任地の岩手県の斯波郡を名字にしました。また、足利氏の庶子は武蔵の名門畠山重忠の未亡人と結婚し名跡を継ぎました。この未亡人は北条時政の娘で、北条政子や北条義時とは同母でした。ですから彼女と結婚した畠山氏は、政子や義時とは義兄弟ということになります。足利氏はこれら有力な分家を束ねる宗家として幕府内でひときわ重きをなしました。足利一門の諸氏は国司や守護に任ぜられ、また鎌倉にあっては高位の役職を歴任しました。
したがって新田氏と足利氏は血統だけを見ると対等ですが、鎌倉時代末期には新田義貞は名もない一地方御家人にすぎず、足利尊氏は執権北条氏も一目置くほどの名門の実力者になっていました。義貞が倒幕の兵を挙げ、その後尊氏の長男義詮がわずか3歳で義貞の陣営に合流すると、諸兵士がこぞって幼児の義詮のもとに続々と集まり、義貞の陣営はガランとしてしまったというエピソードがあるほどです。
後醍醐天皇の建武の新政が失敗すると、尊氏のもとには反後醍醐天皇の武士たちが自然に結集し、基盤の弱い義貞は後醍醐天皇の元にとどまり、両者が敵同士に分かれることになったのも自然の流れでした。尊氏には後醍醐天皇に対する敵対心は少しもありませんでした。その尊氏が北朝の天皇を担ぎ出して後醍醐天皇と敵対するようになったのは、後醍醐天皇の政治に不満を持つ武士たちが、清和源氏嫡流の尊氏のもとに集まり、尊氏を無理やりそういう立場に追い込んだからでした。
尊氏は不思議な人です。彼は室町幕府を開き征夷大将軍になりましたが、それは成り行き上そうなったからです。たぶん、尊氏には頼朝や信長とはちがって初めから支配者になろうという野心はなかったと思います。
足利尊氏は喩えると祭りの神輿のような人でした。神輿の後には人々がぞろぞろついてきますが、行列の行き先は担ぎ手たちしだいです。そして、担ぎ手たちもてんでんばらばらに動きますから、御輿がどこに進むかは彼らにもわかりません。尊氏はその神輿でした。
そういう点では尊氏は悲劇の人でした。いや、尊氏だけではありません。この後、足利一族は戦乱に明け暮れます。京都の将軍や鎌倉の公方は、部下の裏切りや敵の寝返り工作に神経をすり減らし、心が安まることはありませんでした。そのため、将軍や公方に就任した人たちの多くは短命に終わり、死に臨んでも幼いわが子の将来を案じながらこの世を去るというなんとも悲惨な最期を遂げることになります。
こういう足利氏にとって、おそらく室町時代より鎌倉時代の方がはるかに居心地がよかったはずです。とはいえ、足利氏も時代の申し子です。激しい激流の渦の中心になり、波乱の運命をたどることになります。 
4 足利尊氏と鎌倉
鎌倉幕府が滅び建武の新政がはじまっても関東の中心地は鎌倉でした。新政府は皇族(護良親王、成良親王)を征夷大将軍に、足利尊氏の弟直義を執事に任命して鎌倉府を設置しました。しかし、新政府内ではすぐに後醍醐天皇と尊氏の対立が始まります。尊氏は後醍醐天皇とは別系統の天皇を立て二系統の天皇の争いの形にします。後醍醐天皇方は南朝、尊氏方は北朝と呼ばれ、以後両者は激しく抗争を繰り広げることになります。これが南北朝時代です。
関東では、鎌倉幕府が滅んだ翌々年の1335年、北条高時の遺児時行が挙兵して一時鎌倉を占拠する事件(中先代の乱)が起こります。これを鎮圧したのが尊氏で、以後鎌倉はおおむね尊氏の支配下にありました。尊氏は嫡子の義詮と弟の直義を鎌倉に置き関東を統治させました。その後京都の情勢が激しく動き、尊氏は直義の手腕を必要としました。そこで直義の上京を求めました。尊氏と直義は一歳違いの同母兄弟で仲も良かったようです。二人は共同統治の体制でのぞみました。直義は政務を担当し、尊氏は軍事指揮権を持つというように役割を分担しました。そのため、世間では尊氏と直義を両将軍と呼びました。
当時の日本社会は、旧来の伝統的勢力と新興勢力のせめぎあいでした。鎌倉幕府が崩壊し、これを機に武士に横領されていた荘園を回復しようとする寺社や公家などの旧勢力と、それを手放すどころか、この混乱に乗じて一層領地を拡大しようとすると新興勢力の武士たちとの争いでした。両者の争いは具体的には、相論(そうろん)という領地をめぐる訴訟と武士による土地の占拠という形で表れました。また、当時は新旧の争いばかりでなく、武士の間でも領地をめぐる争いが絶えませんでした。
関東には源平の戦いや承久の変で遠隔地の西国に所領を持つ武士が多くいました。ところが、この時期になるとその領地が在地の武士たちに横領されてしまう東国武士も少なくありませんでした。ですから保守的な伝統勢力とは京都の寺社や公家ばかりではありませんでした。
ルールのない社会ですから、脈がありそうなら、それが他人の土地でも一応権利を主張して訴訟に持ち込んでみる。まずは力づくで他人の土地を占有して様子を見る、そういう非法無法な行為が当然とされた社会でした。
こういう中、直義は新しい秩序を構築しようとしました。しかし、まだ機は熟してなかったようです。謹厳な政治家である直義は公平な処理をめざしましたが、公平の中身は要するに争う両者が譲りあうということです。直義にしてみれば、新興武士たちの要求を十分受け入れたつもりでも、100%自分の主張が通らないと承知しない手合いも多かったようです。 
この新興武士たちは関東では目立った存在ではありませんでしたが、畿内では大きな勢力でした。しかも、この時代の戦争は主に西日本で行われ、その実戦の主力は彼ら西国の新興武士でした。直義の政治に不満を持つ彼らは、尊氏の執事だった高師直のもとに集まりました。各地で南朝方と戦ってきた高師直は、何よりもこれら新興武士たちを味方にすることが最重要だと考えていました。また、師直は混乱期の人にありがちな現実一本やりのニヒリストでした。「領地が欲しければひとの領地を力で奪いとればよい。天皇などはいらない。どうしても天皇が要なら木か石で作ればよい」と公言する人でした。
直義にすれば、師直の考えをつきつめれば、「将軍になりたければ足利氏から力で奪ってもよい」ということになります。実際、この時代の足利氏は直属の軍団などは持っていませんでした。にもかかわらず、足利家が武家の棟梁と目されていたのは清和源氏の毛並みの良さがあったからでした。ですから、直義が師直のような考えを危険視したのも当然でした。これは幕府の有力者たちも同じ考えでした。鎌倉幕府が滅んで10年以上も経ち、彼らもそろそろ安定を欲していました。そこで、寺社や公家などの伝統勢力は直義を頼り、幕府の有力武将も多くは直義派でした。一方、これに反発する新興武士たちは師直派を形成し、両者が対立する構図ができました。
尊氏は直義と師直の対立に初めは中立の立場でしたが、両者の対立が武力衝突にまで発展するとそうもいかなくなります。結局、尊氏は師直の方につくことになりました。この足利家の内紛は「観応の擾乱(じょうらん)」とよばれ、1350年にはじまり52年まで続きました。
内紛のはじまりは、直義派の軍が南朝との戦いに敗れ、一方、師直が南朝の中心武将だった楠正行を敗死させる大功をたてたことでした。このため師直は発言力を増し、師直は武力で直義の退陣を求めます。追い詰められた直義は尊氏の屋敷に避難し、出家引退を約束させられ一時失脚します。尊氏はそれまで鎌倉にいた義詮を上京させ、直義に代わって政務を担当させます。この時、義詮に代わって関東に下向したのが弟の基氏でした。直義はその後尊氏が中国遠征に出た隙をついて反撃に出ます。直義は南朝と休戦協定を結び、引き返してきた尊氏と師直の軍を撃破します。直義派の武将の手で師直は殺害され、直義は政界に復帰します。なお、このクーデターは鎌倉とも連動していました。直義派の上杉憲顕は執事の高師冬(長く足利尊氏像とされた武者絵のモデル)を鎌倉から追放してしまいました。
この時点で、尊氏と直義の兄弟対立は決定的になります。かつては仲の良かった兄弟でしたが、それぞれの陣営の旗頭で多くの部下がいる以上もはや肉親間の個人的感情で動ける状況ではなくなっていました。尊氏はすぐに反撃に出ます。尊氏は南朝に降伏し、南朝から直義追討の命令書を入手し直義軍を攻撃します。劣勢になった直義は京都を放棄し北陸から鎌倉に逃れます。この直義を尊氏が東海道から追撃し、駿河と相模で両軍は戦い、尊氏が勝利します。降伏した直義は鎌倉に幽囚されてすぐに亡くなります。たぶん毒殺でした。1352年でした。
直義の死で一応観応の擾乱は終息しました。しかし、関東ではこの後引き続いて武蔵野合戦とよばれる戦いが起こります。この戦いの後、尊氏は完全に関東を掌握します。この武蔵野合戦は日本全体から見ると単なる一地方の戦いでしたが、その後の関東を支配する鎌倉府の確立に大きな影響をもたらしましたので、概略を説明しておきます。
この合戦はもっぱら鎌倉街道沿いの武蔵を戦場に展開しました。尊氏と直義兄弟の争いが京都から鎌倉に移ると、これに乗じて新田義貞の遺児である義興・義宗兄弟が鎌倉奪還をめざして上野で挙兵します。これに南朝の征夷大将軍である宗良親王も呼応し信濃で挙兵しました。この南朝軍には北条遺児の北条時行も加わり、さらには関東の直義派の武将たちも加わりました。この尊氏軍と反尊氏連合軍の衝突が1352年の武蔵野合戦でした。
尊氏は鎌倉を出て野戦で戦いました。そのため、鎌倉は一時南朝軍に占拠されます。しかし、鎌倉から武蔵東部の山麓を通る鎌倉街道上道が主戦場でした。尊氏は戦略的見地から鎌倉を一時放棄しました。両軍は多摩川左岸の金井ケ原(東京小金井市)と人見ケ原(府中市)で戦いを交えます。この戦いでは決着がつかず、尊氏はいったん石浜(東京台東区)に引いて陣を立て直します。一方南朝軍の新田義宗は比企の笛吹峠(埼玉県嵐山町)で宗良親王、上杉憲顕の軍と合流します。
その後、尊氏と反尊氏の両軍は高麗ケ原(埼玉県日高市)小手指ヶ原(埼玉県所沢市)で激しい戦いを交えます。これらはいずれも鎌倉街道沿いにあります。
反尊氏軍は諸勢力の連合軍でしたが兵力としては小さかったようです。結果は尊氏の勝利に終わりました。敗北した南朝軍は関東から引き上げ、直義派の諸将もそれぞれの領地に逼塞することになりました。
この戦いで関東の南朝軍はほぼ壊滅し、尊氏の関東における覇権が確立しました。尊氏は次男基氏に関東統治をまかせると、以後は京都での活動に専念することになりました。 
5 鎌倉府
1) 足利基氏の鎌倉府
鎌倉幕府が滅んだ後の関東地方は不安定でした。そこで、尊氏は武蔵野合戦が終わると鎌倉府の機能を強化しました。この強化された鎌倉府の主宰者が鎌倉公方です。尊氏は弟の直義と敵対関係になると、鎌倉にいた長男の義詮を後継の将軍含みで京に上げ、代わって次男の基氏を鎌倉に下向させました。これが鎌倉公方のはじまりです。
基氏が下向したのは1349年でわずか9歳の少年でした。9歳の少年では何もできませんから、足利一族の畠山国清が補佐役の執事につきました。鎌倉府はたぶん国清の独裁でした。この執事職は後になると関東管領と呼ばれることになりました。基氏の地位を鎌倉公方といいますが、この時代に鎌倉公方という称号があったわけではありません。鎌倉公方は後世の名称で当時は鎌倉殿とか鎌倉御所と呼んでいました。基氏が下向した時、鎌倉は尊氏派と直義派に分かれて不穏でした。そこで、基氏は今の埼玉県狭山市の入間川に移り、鎌倉に遠征してきた父の尊氏が直義と南朝軍を掃討するのを待つことになりました。
入間川は鎌倉街道上道の入間川の渡河地点で、この頃の入間川は大きな町を形成していました。また、ここは武蔵野合戦の主戦場になる高麗ヶ原(埼玉県日高市)、小手指ヶ原(埼玉県所沢市)のすぐ近くで戦略上の要地でした。さらに近くの川越には武蔵の大豪族の河越氏がいて、その支援が得られるという事情もあったのだと思います。基氏の入間川滞在は実に9年の長きにおよび、彼はそのため入間川殿と呼ばれることになりました。その基氏が鎌倉に入ったのは1358年でした。この年には父の尊氏が54歳で亡くなり、兄の義詮が将軍に就任しています。たぶん、基氏の鎌倉入りは、京都の新体制の発足に合わせ、基氏が関東の支配者であることを内外の知らせるメッセージでした。
執事の畠山国清は武蔵と伊豆の守護も兼ねていました。執事は公方の補佐役というよりその職務を代行する重職ですが、職制の上からは文官でした。これは京都の幕府の管領も同じです。そのため執事や管領には武士たちを戦場に動員する命令権がありません。そこで徴兵権のある守護職と兼務するのがふつうでした。観応の擾乱で幕府内が尊氏派と直義派に分かれていたのはすでに述べた通りですが、国清は尊氏派でした。ところがこの時の関東には直義派の豪族たちも残っていました。君主である基氏は彼らを取りこんでバランスをとる必要がありました。そこで、基氏はしだいに国清とは距離を置くようになりました。
ちょうどその頃、京都では義詮が将軍に就任した直後で、幕府内部では抗争がはじまります。これに乗じて南朝の動きが活発化しました。義詮は基氏に援軍を求めました。基氏は乗り気ではありませんでしたが、執事の国清は基氏を説得して自ら兵を率いて上京しました。ところが京都滞陣が長引き、そのため滞在費に困った武士の中には無断で帰国する者も出てきました。これに怒った国清は彼らの所領を没収しました。そのため国清は彼らの反感をかうことになりました。
また、京都では将軍義詮と重臣たちが対立していて、国清もこの政争に巻き込まれます。(というより野心家の国清は自ら進んで加わったようです)。ところが、そのうち国清の盟友だった細川氏が義詮と抗争をはじめます。すると幕府内に国清への非難も高まり、進退窮まった国清は鎌倉に帰国します。ところが帰国した国清に、直義派の豪族や彼に領地を没収された豪族たちが基氏に国清の罷免を要求します。国清の妹を妻にした基氏でしたが、「彼らに背かれては関東は一日も持たない」と言って国清を解任します。国清は伊豆に逃れますが、討伐軍が向けられ殺害されてしまいます。1362年のことでした。(この後、三代将軍義満の時代に畠山氏は幕府の管領として権勢をふるいますが、この畠山氏は国清の弟の家系です)
この頃になると基氏も成人になっていました。彼は後任の執事に上杉憲顕を迎えることにしました。憲顕は直義派で、武蔵野合戦では南朝方として尊氏と戦いを交えました。そのため信濃に蟄居していました。しかし、憲顕は基氏の幼児期に訓導役をつとめたこともあり、基氏の信頼は厚かったようです。基氏は固辞する憲顕に執事就任を要請します。
基氏はまず憲顕を越後と上野の守護に任命しました。ところが、越後上野の守護職には先の武蔵野合戦で功績のあった下野の宇都宮氏が就いていました。そこで、基氏は宇都宮氏からこの二国の守護を取りあげ、憲顕を任命しました。しかし、この措置に不満を持った宇都宮氏の一族が鎌倉に向かう憲顕を襲撃する構えをみせました。そのため基氏はみずから出陣し、苦林野の戦い(埼玉県毛呂山町)で宇都宮氏の軍を降伏させました。この結果、鎌倉公方とこれを補佐する上杉関東管領の体制ができ、鎌倉府の行政機能もしだいに整備されていきました。
このように多難多事の基氏でしたが、彼は1367年28歳でなくなっています。この時嫡男の氏満はわずか10歳でした。基氏は憲顕、河越氏、千葉氏、結城氏など関東の実力者をよんで幼い氏満の将来を託し亡くなりました。
基氏が亡くなった年には将軍義詮も38歳で生涯を終えています。この時、後継者の嫡男義満は11歳でした。義詮は3歳で鎌倉攻めに出陣し、その後も南朝と戦い、将軍になっても家臣との抗争が起こり、その人生のすべてを戦乱で明け暮れた人でした。父尊氏も波乱の生涯でしたが、それでも尊氏の場合は青年時代は平穏でした。それに比べると、非常に不幸な人生でした。将軍義詮は敬愛する南朝の武将楠正行の墓の隣に葬るよう遺言しています。ふつうに考えれば義詮と正行は敵同士で激しく憎みあっていたように思います。しかし、実際はそうではありませんでした。このあたりの彼の心境はいくら考えてもわかりません。この時代の貴人高官の地位にあった人は現代人以上に、個人的心情と実際の生き方が乖離していたようです。その意味では自分に忠実に人生を過ごした人などいなかったのかもしれません。 
2) 上杉憲顕と平一揆の乱
鎌倉の鎌倉公方は初代の基氏から5代の成氏まで5人の公方が続きました。5代目の成氏は途中で下総の古河に移り、古河公方になりました。5人の公方は以下のとおりです。
鎌倉公方(在位期間)
1 基氏(1349〜1367)
2 氏満(1367〜1398)
3 満兼(1398〜1409)
4 持氏(1409〜1439)
5 成氏(1449〜1455)
この5人の公方に共通するのは、公方就任が異常に若くそして短命だったことです。初代基氏は、1349年に9歳で鎌倉公方に就任し28歳で亡くなっています。2代氏満も9歳で公方になり、こちらは一応39歳まで生きました。しかし、3代満兼は20歳で公方になりましたが31歳で亡くなっています。4代持氏も11歳で就任し、41歳で亡くなっています。5代成氏は生年がはっきりしませんが、公方就任時は10歳前後でした。
平一揆の乱
したがって、鎌倉府にあっては上杉氏の役割は非常に大きかったと思います。この上杉氏が関東の実力者としてはっきりその地位が確立したのは、初代基氏から二代目の氏満に代替わりした時でした。この時に武蔵で平一揆の乱が起こり、上杉憲顕はこの乱を平定することで関東における最高の実力者になりました。1368年の平一揆の乱は武蔵の大豪族河越氏を中心とする反乱でした。河越氏は平安時代中期に現れた桓武平氏の一族秩父氏の流れです。秩父氏は板東八平氏の一つで、平安末から武蔵留守所検校という、国司にかわって武蔵を統括する在庁官人のトップの家柄でした。河越氏はこの秩父氏の宗家で、鎌倉時代には義経の妻を出した名門でした。義経の謀反で頼朝から連座の責めを受け一時没落しましたが、その後復活しました。
河越氏は今の川越市に大きな舘を構え、同族の高坂氏(今の坂戸市高坂)とともに平一揆という在地豪族の連合組織の盟主でした。この一揆には入間川流域の武蔵七党の面々も参加していましたし、反乱の参加者を見ると今の東京東部の豪族たちも加わっていたようです。(一揆というと江戸時代の百姓一揆を連想しますが、元々は地縁や宗派による横の組織です。室町時代には、この一揆は武蔵だけでなく全国的に広く見られます)
この時の河越氏の当主は直重でした。彼は先の武蔵野合戦では尊氏につき、その功で相模の守護に任命されていました。そして、畠山国清が京都に遠征した時には高坂氏と共に平一揆の面々を率いて出陣しました。この時、直重と高坂氏は赤一色の派手な衣装に豪華な装飾を施した武具をまとい京都市民の度肝を抜いたことが「太平記」に書いてあります。もっとも、その持ち物も盗賊に入られて盗まれたとも書いてあります。想像するにこの河越直重は動乱期にありがちな直情怪行の人だったようです。この頃が直重の絶頂期でした。
その後、平一揆は国清が失脚すると討伐軍に加わり、その功で一族の高坂氏は伊豆の守護に任命されました。しかし、翌63年に直重は相模の守護を解任されてしまいました。この63年は上杉憲顕が執事になった年で、下野の豪族であった宇都宮氏も上野、越後の守護職を解任されています。ですから、憲顕の登場で今まで鎌倉府内で厚遇されていた河越氏や宇都宮氏という鎌倉時代からの名門豪族が急激にその地位を低下したことがわかります。
この反乱については、直重が相模の守護を解任されたことが原因とされています。この反乱では宇都宮氏も同時に兵を挙げています。ですから、守護解任をふくめて上杉氏から冷遇され続けた両氏が公方の交代という混乱時をねらって立ち上がったというのはその通りだと思います。しかし、この乱の経過とその後の河越宇都宮両氏の戦後処置を見ると、どうも河越氏は憲顕の挑発に乗せたれたのではないかという気がします。
反乱は氏満が公方に就任し、憲顕がその報告と義満の将軍就任を祝賀するため上京していた間に起こりました。憲顕の隙をついたといえば、隙をついたことになりますが、憲顕は少しもあわてませんでした。憲顕はすぐには帰国せずしばらく京都に滞在します。その一方、鎌倉では憲顕の女婿で後継者の関東管領が就任したばかりの公方氏満を陣頭に立てて出陣しました。
平一揆側は今の東京都墨田区にも拠点をつくりましたが、戦いらしい戦いもないまま川越の河越舘にたてこもりました。河越舘は二重の堀で囲まれた大きな要塞のような館ですが、ここは入間川そばの平地です。しかも後詰めのない戦いでしたから、各地から続々集まってくる討伐軍に包囲され結局壊滅してしまいました。敗れた直重は三重の南朝勢力を頼って逃れたという説もありますが、よくわかりません。(ただ、三重県に川越町があります。この川越町は河越氏の落ち武者たちの町というのですが、真偽のほどはわかりません)
上杉氏の台頭
以上が平一揆の乱の経過です。河越氏はあっけなく滅亡してしまいました。しかし、考えてみると、河越氏がこんなに簡単に敗れたのにはそれなりの理由があったからだと思います。この平一揆と同じような反乱に、70年後の結城合戦があります。この合戦も結城氏が上杉氏を相手に籠城戦をしましたが、よく見ると籠城戦になるまで各地で激しい戦闘がありました。それは結城氏支持の勢力が各地にいたからです。武蔵でも結城側の武士があちこちでゲリラ的な戦いをしていて、その中には比企郡慈光寺の僧までいました。
ところが平一揆にはそういう広がりがありませんでした。反乱軍はどこからも支援を得られず、やむなく籠城戦になりました。これは、この時同時に立ち上がった宇都宮氏もほぼ同じでした。
たぶん上杉憲顕の周到な対策がありました。憲顕は京都にいる間に十分な政治工作をしたのだと思います。それは幕府の支持を取り付けるだけでなく、関東の豪族たちが平一揆側や宇都宮氏側につかないよう強力な措置をすることでした。そのため孤立無援の平一揆はあえなく鎮圧されてしまいました。
この平一揆の乱には宇都宮氏も同時に立ち上がりました。しかし、その戦後処理は大きくちがいました。河越氏と高坂氏は降伏することも認められず滅亡しましたが、宇都宮氏は勢力をそがれたものの、その後も存続しました。
このちがいは、武蔵と下野の地理的なちがいがありました。この乱の後、武蔵は上杉氏の守護国になります。高坂氏の伊豆も上杉氏が守護になります。相模は直重の後任は地元の名家三浦氏が守護でしたが、その後三浦氏は守護代になり、上杉氏が守護におさまります。
上野と越後はすでに上杉氏が守護でした。そこで、これらのことを考えてみると、河越氏を滅ぼすことで、上杉氏は
鎌倉街道  鎌倉−武蔵−上野−越後
東海道   伊豆−鎌倉
と関東の主要交通路を掌握したことになりました。
これこそが上杉氏が望むことでした。とりわけ、上杉氏にとって鎌倉街道を確保したことは非常に大きい意味をもちました。この後、戦国時代までの長い期間、上杉氏はたびたび苦境に陥ります。その時、上杉氏の苦境を救ったのは同族の越後上杉氏でした。鎌倉の上杉氏が危機に陥ると、越後上杉氏はこの鎌倉街道を通って強力な越後兵を関東に送りこみました。たぶん、越後上杉氏は室町時代の東国では最強の軍隊でした。(新潟県は稲作の日本最大の適地です。この時代には人口も関東の国々よりはるかに多かったと思います)
平一揆の乱で河越氏を滅亡に追い込むことで、新興勢力の上杉氏は関東における覇権を確立したのです。平一揆の乱は上杉氏にとって絶好のチャンスでした。この乱の背景には上杉憲顕の何らかの意図があったのはたしかでした。
武蔵の守護職を得た上杉氏は守護代を置きました。武蔵守護代ははじめは上杉氏でしたが、その後執事の長尾氏や大石氏がなります。とくに大石氏が守護代につくことが多かったようです。
大石氏は武蔵野合戦で尊氏側につき、尊氏から武蔵西部の地を与えられました。大石氏は今の東京都あきる野市に本拠を置いていましたが、後に今の八王子市の滝山に移ります。ここは多摩川の右岸で、対岸には鎌倉街道最大の軍事的要衝である府中があります。これも当然上杉氏の指示でした。
河越氏が滅んだ後、武蔵には鎌倉府を脅かす大きな豪族はもはやなくなりました。以後、武蔵は中小豪族がひしめく地になり、彼らは武蔵一揆という緩やかな連合組織をつくりますが、その活動はだいたい上杉氏の手兵として働くことでした。 
3) 鎌倉公方と関東管領
鎌倉公方は、関東の八国のほか伊豆と甲斐を合わせた十カ国が管轄でした。この鎌倉公方が管轄する領域を関東分国といいます。その領域は2代目の氏満の時には、陸奥と出羽国が加わり、関東ばかりでなく東北におよぶ広大な地域でした。
基氏が就任した当座の鎌倉公方は中二階みたいな存在で初めは権限もはっきりしませんでした。前任の義詮が鎌倉にいた時には、鎌倉府の役割は簡単に言うと尊氏の代理として関東の豪族たちににらみをきかすことでした。しかし、尊氏が武蔵野合戦で関東を平定し、基氏に関東を任せてからは、鎌倉府は行政機関としての機能を強化しました。
中でも鎌倉府にとって大きかったのは守護の任命権を持ったことでした。それまでは京都の幕府が関東の守護を決めていました。ところが、基氏以降鎌倉公方が適任者を選び、それを幕府が承認するというようになりました。守護はそれぞれの国の軍事権を持っていましたから、公方がこの守護の任命権を持ったことは、鎌倉府が武家政権として実質が整ったことになりました。
さらに公方には。豪族たちの所領を安堵したり、功績のあった豪族に新領を給付し、反対に敵対した豪族の所領を没収したりする権限も持ちました。そのほかにも鎌倉五山をはじめ有力寺院の高級僧侶の任命権なども持ちました。そのため、京都の幕府とほぼ同じ権限を持つことになりました。こうして、鎌倉府は京都の幕府から独立した政権のようになりました。
上杉氏
こういう鎌倉府にあって、実際に権力を行使したのが執事の上杉氏でした。この執事は後に関東管領と呼ばれるようになり、鎌倉府では上杉氏に固定されました。上杉氏は元は京都の中小公家でした。ところが、尊氏直義の生母の実家ということで急に力をつけ武士化しました。ですから、南北朝時代の上杉氏は関東では新参の新興勢力にすぎませんでした。この上杉氏は憲顕の時基氏の信頼を得て執事になり、執事職が上杉氏の世襲になってからは関東では抜きんでた実力者になりました。主家の足利家が関東の君主でしたから、上杉氏の職務も公的なものとなり、そのためいつしか執事ではなく関東管領と呼ばれることになりました。武家社会では棟梁クラスの豪族の内部は、大別して当主とその一族、譜代の家臣、外様と分かれます。そして、当主は君臨するだけで家政の実務には関与しませんでした。それをするのが執事でした。執事というのは家政を担当する筆頭家臣のようなものです。
室町幕府も鎌倉府も基本的には足利家の家政をそのまま行政機関にしました。京都の幕府では、将軍足利家の執事が管領となって行政全般をつかさどることになり、鎌倉府では、足利公方の執事である上杉氏が関東の行政をつかさどりました。したがって、管領職は将軍や公方の家臣ですから、いくら権限があっても当主の一族が就任することはありません。足利幕府では人材不足のため、将軍義詮の時、一族の斯波氏が管領に就任しましたが、それでも斯波氏の当主は「斯波家は足利家と対等なのだから、管領職に就くのは不本意である」と言って就任を渋りました。その点、同じ一族でも細川氏の場合、鎌倉時代から実質家臣の家でしたから、将軍義満の時細川頼之が管領に就任したのは妥当でした。細川氏が管領職を継承するようになって幕府内の秩序も保たれることになりました。
(このあたりは江戸幕府も同じです。徳川宗家の当主は将軍として君臨しますが、幕政は譜代大名である家臣が老中職に就いて担当しました。また、江戸時代を通して、親族である御三家の当主が老中に就任したことはありません。これも武家社会では当然のことでした。一般的に、当主は君臨するだけ、当主一族も顧問的役割にとどまるというのは同族の組織ではよくあることです。江戸時代の近江商人も当主は経営に口出しせず、番頭がすべて差配しました。また、戦前の財閥系企業でも、外部から経営者をスカウトして経営をまかせました。同族組織では当主やその一族が組織の前面に出てくると組織がうまく回らないという性格があるようです。)
関東管領の上杉氏は越後、上野、伊豆の守護でした。また、武蔵は関東管領が兼務することになっていましたから、事実上上杉氏の守護国でした。京都の幕府では管領は複数いましたし、さらには侍所という武官が別にいました。したがって、一人の管領の権限は限られていました。ところが、鎌倉府では上杉氏だけが管領職を世襲しましたから、しだいに関東管領の地位は公方と変わらないものになっていきました。さらに、この関東管領職の任免権は鎌倉公方ではなく、京都の将軍にありました。後に永享の乱が起こり、公方と対立した管領上杉憲実は辞職を申し出ますが、時の将軍義教はこれを認めず、かえって鎌倉公方持氏を自害させるように命じています。したがって、関東管領は鎌倉公方の家臣でありながら、将軍の家臣でもあるという複雑な立場でした。このことが公方と管領の関係をややこしいものにし、さらには幕府が関東に介入する余地をつくることになりました。
関東管領として広範囲に権限を持ち、関東主要国の守護でもあった上杉氏には、公方と同じように家政をつかさどる家臣がいました。そして、公方並みの力を持つ上杉氏は、かつては自らの職名であった執事をこの家臣に与えました。これが長尾氏です。長尾氏は一族として上杉一族を補佐する役に就任しました。長尾氏一族は鎌倉の管領上杉氏の執事になるばかりでなく、上杉一族が守護である武蔵、上野、越後の守護代にもなっています。その中でも越後守護代の長尾氏は世襲して守護代に就き、戦国期になると当主の上杉氏を上まわる力を持つようになります。その子孫が上杉謙信でした。
以上のように、公方の下には上杉氏がいて、上杉氏の下には長尾氏がいるというように多層構造になっているのが鎌倉府の特徴です。そして、この下層部は個人とか家ではなく一族が基本的な単位になっていました。江戸時代も職務は世襲でしたが家が単位でした。それで家老の家、奉行の家というように家で職が固定します。しかし、この時代は一族が単位でした。
上杉氏は憲顕の頃からいくつもの家に分かれます。大きく分けると、山内、扇ケ谷、犬懸、詫間ですが、さらにその中でもまた分家があるという具合でした。また、越後には越後上杉氏がいました。そして、形式的にはこの上杉一族全体が管領職にありました。実際に管領職に就任したのは、上杉氏の中の山内上杉系の人でしたが、基本的には一族が単位でした。
そして、この上杉一族に対応するように執事の長尾氏にも諸家がありました。鎌倉には鎌倉長尾氏、上野には白井長尾氏と総社長尾氏、越後上杉氏には越後長尾氏というふうに長尾氏が一族として上杉氏の下にいました。このように鎌倉公方の下に上杉一族、上杉氏の下には長尾一族というふうに一族がまとまって下部構造を形成するのが江戸時代とはちがっていました。
公方と管領の基盤
この時代には、鎌倉公方と関東管領には強い権限がありましたが、その身代は思いのほか小さかったと思います。たとえば、鎌倉公方の経済的な基盤は北条氏の遺領でした。具体的には鎌倉と今の横浜西部の沿海部、それと元荒川や古利根川流域の今の埼玉東部から東京東部にかけての地域でした。ただ、その領地は地域全部が領地というのではなく、そこに公方領まばらに点在していたということで、たぶん実際の領地は想像以上に少なかったと思います。
本家の京都の幕府を見ると、こちらも直轄領が少なくそのためさまざまな方法で収入を得ています。守護からの上納金、関銭の徴収、勘合貿易、それから有力寺院の高級僧侶任命の謝礼や豪族たちの官位取得の斡旋料などです。鎌倉府は貿易の収益はありませんでしたが、それ以外はほぼ同じだったと思います。しかし、こういう収入を合わせてもそう大きな額にはならなかったと思います。江戸時代の徳川幕府や大身の大名に比べるとはるかに小さかったと思います。一般的に、室町時代前半の足利将軍や鎌倉公方、それから関東管領や各地の守護大名たちは直属の常備軍というものを持ちません。戦争がはじまれば、将軍や公方は守護や各地の有力豪族に命じて兵を動員しそれで戦争をします。直属の軍団を持たなければ家臣の数も少なくて済みます。ですから広大な領地を持つ必要がないのです。
彼らの権力の源泉は、公方とか管領とか守護という職権にもとづいています。したがって、こういう職権の力が弱まると、とたんに苦しくなりますが、室町時代の前半まではこの職権には実際に力がありましたから小さな身代でも大きな力を発揮できました。
これは、上杉氏も同じです。上杉氏も管領のほかに守護でしたが、その領地は意外と少なく、たぶん北関東の宇都宮氏や小山氏の方が軍事力も財政力もまさっていたと思います。関東管領職に就任している上杉家にしても、家臣は家政を切り盛りする者たちで十分でした。実際に調べたことはありませんが、いろいろ考えてみると、関東管領職についている上杉家でも直属の家臣はせいぜい50人くらいだったと思います。江戸時代でいうと大身の旗本クラスでとても大名という感じはしません。巨大な城郭を構え、城の周囲に多数の家臣団を住まわせた江戸時代の大名とはまるっきりちがっていました。
上杉氏には多数の上杉家がありました。そこで、山内上杉とか扇ケ谷上杉と区別しますが、この山内とか扇ケ谷というのは鎌倉の地名です。鎌倉の山内に屋敷を構えた上杉氏は山内上杉、扇ケ谷の上杉は扇ケ谷上杉です。そして、山内上杉にしても、扇ケ谷上杉にしてもすでに述べたように諸家がいました。家臣が少なくて済むなら広い領地も必要としませんからいくらでも分家ができます。分家した上杉諸家は鎌倉のあちこち屋敷を構えていました。したがって、当時の鎌倉は、公方の御所、公方の直臣の屋敷、上杉諸家の屋敷、それと関東各地の大豪族の鎌倉屋敷というふうに、関東の名家勢家の屋敷が集中する都市でした。 
6 室町前期の戦争
室町時代は戦争に明け暮れた時代でしたが、いくら考えてもよくわからないのがこの時代の戦争です。「太平記」では10万とか50万という大軍が出てきます。さすがにこれは誇張された数字だとわかりますが、ではどの程度の規模だったのかとなると、歴史の本に書いてあるように大きかったような気もするし、意外と小さかったような気もしまいます。
ふつうは戦争が続くと人口が減少します。中国の秦滅亡後とかヨーロッパの三十年戦争の頃には人口が激減しました。日本でも太平洋戦争が終わると人口は減ってしまいました。ところが、室町時代は人口減少どころか人口が激増しました。武蔵でも平安時代の末頃までは、人口は20万人くらいだったと思います。それが、室町時代が終わる頃には3倍以上の70万人くらいに増えていました。そして、この時代には経済活動も活発になります。経済が拡大するのは生産力が高まるからですが、生産物が増えてもそれを流通させることができなければ経済は成長しません。それで経済が拡大するには治安状況がよいことが必要で、そのため経済拡大はふつうは戦争のない平和な時代に起きます。
ところが、室町時代の日本では、歴史の本を読むと、日本全土で激しい戦争が起きてそのため多数の死者を出たようなことが書いてある一方、他方では人々は経済活動にいそしみ、そのため人口も増えたというように両立しない二つのことが同時に起こったように書かれています。このあたりがどうにもピンときません。
そこで、いろいろ考えました。結論的には、どうやら当時の戦争はふつう考えられているほど規模も大きくなく、そして死者もずっと少なかったのではないかと思います。たぶん数百人もいれば大軍だったと思います。そして、平気で味方を裏切るルーズな主従関係を考えると、死者もずっと少なかったと思います。戦争の実態も、両軍が対峙すると雰囲気でどちらが優勢かわかり、劣勢の方は指揮官の命令などは無視して兵士が勝手に戦場から逃亡して戦争が終結するというものだったと思います。最初から劣勢がはっきりしている場合は、劣勢の方はまともに戦っても勝てませんから野戦にはしないで、山城に籠もる籠城戦を取ります。優勢の方は一応は包囲しますが、長期戦に耐えられません。それに、包囲すれば兵力が拡散しますから一点突破で集中攻撃を受ければ大きな損害が出ます。そこで、包囲する方もいつのまにか退却して、戦争自体が消滅するということだったと思います。したがって、死者が続出する激戦というのはなかったと思います。
室町時代後期の戦国時代になると、戦争は鉄砲と槍の戦いになります。当時の鉄砲は連射ができませんでしたから、鉄砲足軽隊が何段にも構えて何十丁の鉄砲を並べて一斉に撃つということになります。また、槍の方も槍足軽隊が長さを揃えた長槍で槍衾をつくり整然と進撃します。いずれにしても訓練された兵士による組織戦でしたから死者もたくさん出ました。しかし、刀と弓が主体のこの時代の戦争は高度な組織戦はありませんでした。死者もあまり出なかったと思います。人々もわりと気楽に戦争に参加していたと思います。
実は戦国時代の戦争でも死者はそう出なかったような気がします。以前、北条氏康が発行した感状を3〜4通見たことがあります。それは秩父の名もない下級武士が雑兵一人か二人倒した功績を讃えた内容でした。氏康はこういう小さな手柄にも目配りしていたのかと感心したことがあります。しかし、考えてみると、たしかにそれもありますが、鉄砲が登場する前は、戦国時代といえども戦争で死者が出ることはあまりなかったのではないかという気がします。戦国時代という名称のもつイメージは強烈ですが、どんな人でも人が死ぬということは大変なことですから、戦国時代でも、戦争で死ぬ人はそうはいなかったのではないかという気がしています。戦争については、太平洋戦争の時の日本軍の玉砕戦のイメージをそのまま昔の戦争にあてはめて考えているような気がします。
ただ、この時代の戦争は指揮官である武将の戦死が多いのが特徴です。上杉氏などもたくさんの人が戦場で亡くなっています。しかし、これは激戦が多かったというより、軍隊が組織としてのまとまりを欠き、指揮官だけが取り残されることがあって、そういう時に戦死したのだと思います。
南北朝以前の戦争には暗黙のルールがあったらしく、たとえば、源平の合戦では騎馬戦が中心でした。そして、武士同士が組み討ちする激しい格闘戦でも乗っている馬は無事でした。ところが、南北朝時代になると、人ではなく馬の方を平気でねらうようになります。すると、馬に乗った武士が落馬して簡単に討ち取られるというようになります。足利基氏も自ら出陣した苦林野の戦い(埼玉県毛呂山町)では、馬を討たれてあわやという場面があり、それが絵になって残っています。
また、戦国時代になると指揮官は周囲を馬廻りとか旗本とよばれる親衛隊で固めます。しかし、この時代の武将たちは直臣というものをあまり持ちません。そのため、指揮官が孤立すると脱出がむつかしくなって簡単に討ち取られたり、自害せざるをえなくなります。上級武士の戦死が多かったのはこのためでした。
この時代の戦争の流れ
室町時代の前半頃まで、武将たちは直属の軍隊を持ちませんでした。戦争がはじまると軍勢催促をして兵を集めて戦うというものでした。この軍勢催促は書面によることが多かったらしく、たとえば鎌倉公方の基氏の軍勢催促の書状などはたくさん残っています。
軍勢催促を受けると各地から兵が集まってきますが、彼らは装備も食料も自弁でした。したがって遠征や長期戦はできませんでした。足利尊氏は北は関東から南は九州まで日本中で戦争をしています。しかし、尊氏は直属の軍隊を率いて転戦したのではなく、その土地、その土地で兵を募りその兵で戦いました。
この時代の軍隊は将と兵士の間の主従関係もきわめて希薄でした。時代は下りますが、ヨーロッパから来た宣教師たちは当時の日本武士の忠誠心のなさに驚いています。しかし、当時の武士の観念では、譜代の直臣は主人と運命を共にする道徳を求められましたが、そうでなければ、見込みのない武将にいつまでも仕えるのは、それこそ甲斐性のない武士と見なされました。多くの武士が戦争に参加するのはその見返りを求めてのことでした。忠誠心が薄いのも当然でした。
当時の戦争の様子はほぼ次のようでした。まず戦争がはじまりそうになると、公方なり守護はまず書面で「軍勢催促」をして地域の有力者に兵を連れて集まるよう指示します。この有力者は国人とよばれる土豪のリーダーです。戦国時代になると、動員する人数と装備も決められています。しかし、この頃はおおざっぱでしたから集まってみないとどれだけの兵力かわからなかったようです。たとえば永享の乱では、鎌倉公方足利持氏は各地に軍勢催促をかけましたが、集まった兵があまりに少なくそのためやむなく降伏せざるをえませんでした。
軍勢催促を受けた土豪のリーダーは兵を連れて終結地に駆けつけます。到着すると「着到状」という書面を提出します。これで指揮官は着陣したことを確認します。機が熟したところで戦いが始まり、先に述べたような展開で戦いが行われ、そうして終わります。戦いが終わると兵を引率してきたリーダーは「軍忠状」という書面を提出します。この軍忠状がきわめて大切でした。軍忠状には、この戦いで自分がどういう手柄をたてたか、そして同僚のだれが見ていたか、また損害がどのくらいあったかということを細かく書きます。受け取った指揮官やその代理は、軍忠状を見て内容にまちがいがなければサイン(花押)して返却します。そして、後日その軍忠状を持っていくと恩賞が与えられるという仕組みでした。
恩賞の多くは所領安堵や領地の新規給付でした。この時代はひんぱんに戦争が起こり、権力者の浮き沈みも激しかったから、在地の小武士たちはあちこちから所領安堵の書き付けをもらっておく必要がありました。
また、兵士が差し出す軍忠状とは別に、指揮官が戦場での戦いぶりを見てその功績をたたえる書状を与えることもあります。これを「感状」といい、これも恩賞の対象になります。したがって、指揮官が自ら戦うことはしません。彼の役目は部下の戦いぶりをつぶさに観察することでした。しかし、せっかく新しく領地をもらっても、前の領主がおとなしく領地を明け渡すとはかぎりません。抵抗されれば武力が必要です。公方管領に力があった頃は比較的スムーズでしたが、そのうち公方と管領で戦争をするようになると、自分の力で実現しないと空手形に終わってしまいます。ですから、最終的には頼りになるのは自分の力だけということのようでした。
戦争の道
この時代の関東では戦場はだいたい決まっていました。それは鎌倉街道沿いです。この時代の鎌倉街道はほぼ軍用道路でした。鎌倉を発した軍は鎌倉街道を北上し、上野方面の軍は鎌倉街道を南下しました。しかし、何も道は鎌倉街道だけではありませんから、いくらでも迂回できました。問題は川でした。この鎌倉街道のルートには多摩川、入間川、荒川という大きな川があります。軍隊は大勢ですから渡し船は使えません。すべて徒渉でしたから渡河地が決まってしまいます。すると、この渡河地が戦場になります。
最大の要衝は多摩川を渡る府中の部倍が原でした。府中には高安寺という寺があります。この寺は今もありますが、室町時代の高安寺は要塞のような大きな寺でした。この寺は鎌倉公方が鎌倉から出陣したときの大本営でした。鎌倉街道で多摩川を越えると次に入間川があります。ここの渡河地は埼玉県狭山市の広瀬でした。そこで、この入間川の南岸の小手指ケ原(所沢市)と北岸の女影ケ原(日高市)がよく戦場になりました。それと苦林(毛呂山町)があります。ここは越辺川という川の近くで、今でも鎌倉街道の跡が残っていますが、室町時代には大きな町でした。そこで、武蔵東部に遠征する時には、遠征軍は鎌倉街道を通って一度この苦林に集結し、ここから今の東松山市から熊谷市を通って東進するというのが当時のルートでした。さらに入間川の北には荒川があります。この荒川の渡河地は寄居町の赤浜でした。そこで、この寄居町の鉢形が要衝になりここに城郭が築かれました。
鎌倉から東京湾沿い江戸に行き、それから北上するコースには、室町時代の前半まではほとんど戦場になりませんでした。ここが戦争の道になり、戦場になるのは室町時代中期の鎌倉公方が古河に移った頃からでした。とくに後北条氏が武蔵平定を完了し、東関東攻略を本格化させると、江戸―岩槻(埼玉県)―関宿(千葉県野田市)の線上が最大の戦争に道になっていきます。
「原」について
歴史の本を読むと、何々ケ原の戦いというのがよくあります。一番有名なのが関ヶ原ですが、武蔵にも部倍が原(東京府中)や小手指ケ原(埼玉県所沢)があります。原の字が使われていますから、広々とした平地を連想し、そこで大勢の騎馬兵が激突し激しい戦闘が行われたように想像している人がいますがこれは誤解です。正確にいうと「原」というのは古戦場のことです。たとえば有名な関ヶ原の戦いも、関ヶ原という場所で戦争がおきたのではなく、岐阜県の関というところで戦争が行われ、その戦場跡を後世になって関ヶ原と呼ぶようになったのです。「ケ」は「の」の意味です。ですから、関ヶ原も正確にいうと「関の古戦場」という意味です。 
7 鎌倉府の争乱
1) 上杉禅秀の乱と永享の乱
鎌倉公方が君主として君臨し上杉管領がそれを補佐するという鎌倉府の仕組みは、2代氏満3代満兼の時までは比較的うまくいっていました。比較的うまくいったというのは、両者はもうこの頃から軋轢がありましたが大きな事件に発展するまでは至らなかったからです。
この二人の公方時代は、京都では将軍義満が肥大化した有力大名たちの力を削減しようと彼らと争っていた時代でした。そこで、二人の公方はともに反義満の大名と結んで挙兵しようとしたことがあります。いずれも管領上杉氏がそれを止めました。氏満の時には、将軍になろうと挙兵を計画する公方に、時の管領が死をもって諫めたことがありました
室町時代は激動の時代でしたから、まったく平穏無事な時期ということはありません。ただ、その後の混乱ぶりを見ると、鎌倉府が割合うまく機能したのはこの二人の公方の時代でした。2代氏満は挙兵をあきらめると、関東平定に力を入れ北関東や東関東の豪族たちを服従させることに成功しました。そこで幕府は鎌倉府の実力を評価し、陸奥と出羽を鎌倉府の管轄に編入しました。とはいえ管領は京都の幕府に任免権がありましたから、公方と管領の主従関係がはっきりしていませんでした。その上この両者の関係には、京都の幕府が絡んでくるので常に不安定でした。そこで、公方と管領の間に軋轢が生じるのは鎌倉府の宿命でした。
上杉禅秀の乱(1416年〜1417年)
鎌倉公方と管領上杉氏の対立が表面化するのは4代持氏の時でした。この時の管領は上杉氏憲で、彼は後に出家し禅秀と称しました。そのため、ふつうは上杉禅秀と呼ばれています。
持氏は鎌倉公方に11歳で就任しました。最初はたぶん禅秀の独裁でした。しかし、持氏が成長してくると自分の考えというのを持つようになります。また、禅秀に反感を持つ別の上杉氏や上杉氏以外の豪族なども持氏に近づきました。しだいに公方持氏と管領上杉禅秀は疎遠になり、いつの間にか二人の仲も険悪になります。
発端は持氏が禅秀の家臣を処罰したことでした。禅秀は儀礼的に管領職の辞任を申し出ると、持氏は慰留もしないで受理してしまいました。そこで面子をつぶされた禅秀は持氏の弟を擁して兵を挙げ、持氏の館を襲撃しました。この計画には持氏の叔父も加わっていました。1416年のことでした。
禅秀の行動は周到に準備してのクーデターだったらしく、ほかの有力豪族たちの支持も得ました。禅秀の軍は圧倒的な力で鎌倉を制圧しました。持氏は駿河にのがれ、将軍義持に救援を要請します。義持は鎌倉府に思うところがありすぐには応じませんでしたが、結局この要請を受け入れます。義持は駿河の今川氏、越後の上杉氏に禅秀攻撃を命令します。
すると鎌倉では禅秀を支持していたはずの豪族たちが次々離反していきます。このあたりのことはよく理解できませんが、禅秀の行動には正当性がなかったようです。この時代は何が正義で何が不正義なのかがよくわかりませんが、一応正義というものがあって、この正義にもとづく正当性がないと一時的には勝利を得てもいずれは失敗してしまいようです。禅秀としては公方の弟と叔父を担いでいますから、クーデターは上手くいくと思っていました。また、京都の幕府にも根回しはしていたと思います。しかし、そういう事前の努力は結局役に立たなかったようです。
討伐軍は東海道から今川氏の軍が、東山道からは越後上杉氏の軍が鎌倉をめざしました。もう、この時点では禅秀支持の豪族たちもすっかり禅秀を見放していました。翌17年、禅秀と公方の弟たちは鎌倉で自害してしまいました。これが上杉禅秀の乱です。
永享の乱(1438〜1439年)(鎌倉公方と京都将軍の争い)
上杉禅秀の乱の後、鎌倉はいったん平静を取りもどします。しかし、持氏はこれを好機として鎌倉府内の反抗勢力の一掃をはじめました。それは禅秀の残党を掃討することでしたが、あわせて京都扶持衆とよばれる豪族たちをも粛清することでした。
京都扶持衆というのは、関東東北という鎌倉公方の支配地にいながら、京都の将軍と主従関係を結んでいた豪族のことです。彼らは将軍の直臣という意識があり、公方の批判勢力でもありました。彼ら京都扶持衆は禅秀の乱でも独自の行動をとり、中には禅秀側についた者もいました。しかもやっかいなことに、それは京都の幕府の意向でもありました。京都の将軍は関東に領地を持つばかりでなく、こういう将軍直属の家臣を持っていて鎌倉公方を牽制していました。ですから、禅秀の乱で、将軍義持が持氏を支持したのもさまざまな計算の結果でした。この京都扶持衆の中には、甲斐の武田氏、下野の宇都宮氏、東北の伊達氏など有力豪族がいました。もっとも、持氏が粛清の対象にしたのは、こういう強大な豪族ではなく弱小豪族でした。
持氏は彼らの討伐に乗り出しました。そして、これが京都の将軍との対立になっていきます。将軍義持は持氏討伐を決意しました。この時は、持氏が謝罪して落着しましたが、公方と将軍は一層不仲になりました。そのうち幕府も将軍継嗣をめぐって混乱をきたしました。将軍が4代義持から息子の5代義量に変わりましたが、その義量がまもなく亡くなり、やむをえず義持がまた将軍職に復帰しました。ところがその義持が後継将軍が決めないまま、亡くなってしまったのです。1428年のことでした。
(義持は死ぬ前に重臣たちから後継者の指名を促されました。ところが「自分が次の将軍を決めても、お前たちが納得しないことにはどうしようもない。指名は無意味だ。なるようにしかならない」といって次の将軍を決めないまま亡くなってしまいました。将軍らしからぬ遺言といえばそうですが、考えようによっては混乱の時代の将軍らしい達観でした。2代将軍の義詮も楠正行の墓の隣に葬るよう遺言しました。義持といい義持といい。彼らには足利将軍に生まれた自分の運命に対する復讐の気持ちがあったようです。)
それはともかく将軍職を空位にしておくわけにはいきません。そこで、歴史上前代未聞のことでしたが、重臣たちは義満の息子たちから次期将軍を選ぶことにし、何とそれをくじで決めることにしました。くじ引きの結果、僧侶だった義教が6代将軍に選ばれました。それで当時の京都の人たちは義教のことを「くじ引き将軍」と揶揄しました。もっとも、このくじ引きは人が決めたのではなく、神が決めたとも仏が決めたとも解釈できます。要するに天命ということになりました。実際、この決定には誰も文句をつけるわけにもいかず、義教の将軍就任は思いのほかスムーズに運びました。
鎌倉公方持氏はこの新将軍の義教を快く思いませんでした。それは持氏がこのくじの候補者に入らなかったからでした。つまり、候補にならないことは鎌倉公方には将軍になる資格がないということを意味します。前の鎌倉公方の氏満もそうでしたが、鎌倉公方には、関東を支配する自分こそが将軍にふさわしいと秘かに考えていました。確かに源頼朝は関東をおさえることで全国支配を実現しました。持氏には、関東の支配者こそが全国の統治者になるべきだという強烈な意識があったようです。持氏は義教を還俗将軍とよび、年号が正長から永享に変わっても、前の正長のままで押し通ました。これは、京都の幕府に対する公然たる反乱でした。また、持氏は関東にある幕府の領地も差し押さえてしまいました。
義教という人は天台座主までつとめた人で学問も深かったようです。しかし、僧籍にいた人に似つかわしくないというか、反対に僧侶としてもっぱら学問にうちこんでいたためそうなったのか、物事を教条的に考える果断の人でした。彼はすっかり地に落ちた将軍の権威を回復することを最大の課題にしました。そこで、将軍の意に逆らう大名や家臣たちを一斉に粛清しはじめました。一種の恐怖政治でした。持氏への対応も同じでした。この時の関東管領は上杉憲実でした。この人は越後上杉氏から山内上杉家に養子に入った人で10歳かそこらで管領職につきました。温厚誠実の人だったらしく、下野の足利学校を再興した人です。
憲実は公方持氏と将軍義教の間に立って、両者を丸くおさめようと奔走しました。しかし、公方と将軍の間には妥協の余地はなかったようです。それに憲実のすることは、結局は公方持氏が将軍義教に謝罪するということでしたから持氏の受け入れるところではありませんでした。前に述べたべたように関東管領は公方の補佐役でしたが、その任免権は将軍にありました。ですから、持氏には憲実が自分の補佐役というよりは、幕府の意向を鎌倉に伝える将軍の家臣のように思えました。こうして公方と管領の仲も悪くなっていきました。
また、義教も富士山見物と称してわざわざ駿河にやってきて持氏を挑発するように示威行動をしました。このあたり義教は意図的に関東の内紛を拡大しようとしたふしがあります。その結果、将軍・管領対公方という対立の構図がはっきりできあがりました。持氏ももう後に引けない状況になっていたようです。1338年、持氏は幕府の許可なく嫡男の元服式を行おうとしました。これは今までの慣例に反することでした。当然憲実は反対します。しかし、持氏は元服式を強行し、両者の対立は決定的になりました。当時、鎌倉公方の子は元服すると、時の将軍の名前から一字とるという慣例がありましたが、持氏はこれも無視しました。
憲実は元服式を欠席しました。鎌倉では持氏が憲実を暗殺するという風聞がとびかいました。憲実は危険を感じて鎌倉から本拠地の上野にある平井城(群馬県藤岡市)に避難します。すると、持氏は憲実の謀反は確実だと判断し平井城に向け兵を出しました。憲実は急ぎ事態を京都に知らせ援助を求めます。幕府は駿河の今川氏や故上杉禅秀の息子たちで討伐軍を編成し、鎌倉に向け出兵させました。
持氏は幕府軍を迎え撃つことにしました。それで鎌倉から府中の部倍が原に出陣し、近隣の豪族たちに出兵を命じました。しかし、将軍の権威は持氏が考えていた以上に大きく、持氏の軍勢催促に応じる者はほとんどいませんでした。それどころか、家臣たちも次々持氏を裏切ります。鎌倉の留守をまかせた家臣まで裏切るという有様でした。平井城攻撃に向かった兵も憲実の軍に破れ、憲実はそのまま鎌倉街道を南下します。そして部倍が原で持氏の軍を破りました。
持氏は進退きわまり降伏します。持氏は出家し将軍に謝罪するということで切り抜けようとしました。これは憲実の助言でした。憲実は、持氏が出家し後継公方には持氏の嫡男がなるということで収拾しようとしました。これは当時とすれば妥当な処置でした。しかし、非情の将軍義教はこれを許さず、憲実に持氏父子に自害させるよう命じます。翌1439年、持氏は嫡男と共に鎌倉で自害に追い込まれてしまいました。これが永享の乱です。
この永享の乱で鎌倉公方の権威は一挙に失墜します。そして、心ならずも主君を死に追いやったことは、儒教を信奉する憲実にも大きな打撃でした。彼は管領職を弟に譲ると伊豆に引退してしまいます。そして、京都で幕府に仕えている次男以外をすべて出家させ、決して還俗してはならないと命じました。その後、長男が還俗して管領職に就任するとこれを義絶し、諸国放浪の旅に出て山口県で客死してしまいました。 
2) 結城合戦(1440〜1441年)(結城氏の反乱)
1416年の上杉禅秀の乱に端を発した鎌倉府の内紛は、1439年の公方持氏の自害でも終息しませんでした。永享の乱の翌年、1440年に結城合戦が起こりました。これは下総の結城氏が持氏の遺児二人を擁して結城(茨城県)の結城城に立て籠もった戦いでした。永享の乱は将軍対公方という構図で、一見すると大仕掛けでした。しかし、戦争自体はあっけなく終わってしまいました。ところが、この結城合戦は、結城氏の籠もる結城城の守りが堅い上、結城氏を支援する勢力があちこちにいて関東のみならず東北にまで戦乱が広がり、鎮圧は容易ではありませんでした。規模としては永享の乱よりこちらの方がはるかに大きな戦争でした。
結城氏は下総の大豪族でした。結城氏は10年前に下野の守護職を解任されていましたから、その失地回復をねらっていたのかもしれません。鎌倉府では持氏と嫡男が自害し、公方は空位になっていました。そこで、結城氏は二人の遺児を擁して、この堅城を頼りに長期戦に持ち込めば、いずれ遺児が公方になると考えました。結城は同じ関東でも、東関東の今の茨城県の西に位置し上杉氏の力が及びにくい地域です。結城氏には勝算があったようです。
これに対し、上杉氏と幕府は全力で鎮圧にのりだしました。幕府は関東各地の豪族に上杉支持を命じ、駿河の今川氏も動員しました。しかし、結城氏を支持する勢力は予想以上に多く、東北では、永享の乱で上杉方についた持氏の叔父が襲撃されて殺害されてしまう事件がおこりました。幕府も引退した上杉憲実を復帰させて指揮にあたらせました。
武蔵でも戦いが起こりました。武蔵は上杉氏の守護国でしたから、上杉氏は武蔵と上野の兵に期待しました。ところが上杉氏の思うようには兵が集まりません。武蔵でも上野でも結城氏側にたつ土豪や豪族もかなりいました。憲実は手薄の軍勢を補うため、北武蔵の有力豪族阿保氏に参戦を要請しますが、阿保氏は病気を理由にこれを断り、憲実は再び辞を低くして出兵を依頼するという有様でした。
武蔵には広い地域をまとめる大豪族はいませんでした。みな中小豪族や土豪で彼らは武蔵一揆という組織をつくっていました。しかし、これは固い結束の組織ではなく、地域ごとにバラバラに動いていました。そのため上杉氏に味方する一揆もあれば、結城側につく一揆もあるという状況でした。
討伐軍は鎌倉街道から東に進みましたが、結城城に到着する前に武蔵でも激しい戦いが起こりました。武蔵の主戦場は北部の今の熊谷地域でしたが、ここ以外でもあちこちで小規模な戦いが展開し上杉氏はその鎮圧に苦労しました。この武蔵での戦いには、武蔵ばかりでなく上野の兵も結城方に加わっていました。しかも、同族で敵味方に分かれている場合もありました。 これは武蔵各地で同族の内紛があって、その同族争いがこの結城合戦で表面化したということでした。このことは同族争いばかりでなく、近隣の豪族同士の争いについても同じでした。つまり、この結城合戦は反上杉・親上杉という立場のちがいで陣営が分かれたのではなく、各地の豪族たちがそれぞれの利害損得でどちらにつくか決め、豪族同士が勝手に戦っていた側面もありました。そのため結城合戦収束には結城攻撃の前の段階で手間取ることになりました。
それでも、上杉方は半年後には周辺地域を平定し結城に到着しました。結城城が堅城だったことは先に述べた通りです。結城一族とその支援軍は激しく抵抗しました。しかし、翌1441年とうとう結城城は陥落し、結城氏の当主は自害し、遺児二人も捕虜になりました。この遺児はその後京都に送られましたが、途中の岐阜県で将軍義教の命で殺害され結城合戦も鎮圧されました。
享徳の乱(1455年〜1483年)(将軍義教の死と公方成氏の戦い)
1440年の結城合戦は上杉氏の勝利に終わりました。この結城合戦の行方は関東だけでなく、京都でも大きな関心事でした。それだけに結城城の陥落は上杉氏ばかりでなく、京都の幕府にとっても朗報でした。幕閣たちはあちこちで祝勝会を開きました。ところがその祝勝会でなんと将軍義教が暗殺されてしまいました。
この事件は結城合戦とは直接関係ありません。義教の恐怖政治で、次は自分が粛清されると思いこんだ中国地方の大名が結城合戦の祝勝会にかこつけて義教を自邸に招き殺害してしまったのです。これで幕府は大混乱に陥ります。義教の後は9歳の長男が将軍に就任しますが、わずか8ケ月で亡くなり、その後を今度は弟の義政が8歳で継ぎます。そのため、幕政は重臣たちの合議にゆだねられ、関東の経営も彼らの手ですすめられることになりました。そういう中、関東では持氏の遺児足利成氏が公方就任を求め運動していました。先の将軍義教は持氏の後は自分の息子を鎌倉公方にするつもりでした。しかし、当時の関東はそれを受け入れる雰囲気はなく、上杉氏も反対してこの計画は実現しませんでした。そのため、持氏の死後、鎌倉公方は空位になっていました。
成氏は結城合戦で亡くなった二児とは行動を別にして運良く生き延びました。彼は信濃の豪族に養育され、やがて公方就任を望むようになります。この成氏を上杉氏に反感をもつ豪族たちがこぞって支持しました。上杉氏は拒みました。しかし、成氏は持氏とちがって幕府に対し敵対心はなく、むしろ幕府の権威を認め、幕府に公方就任を嘆願する運動を展開しました。そのため幕閣にも成氏を支持する空気も出てきました。結局、上杉氏もいつまでも反対するわけにもいかず、とうとう成氏の公方就任を認めざるをえなくなりました。
こうして、1449年、まだ11歳の成氏が公方に就任しました。父の持氏が永享の乱で亡くなって9年後でした。鎌倉公方に就任した成氏はさっそく新しい政治を行います。それは上杉氏を徹底的に冷遇し、代わりに北関東や東関東の有力豪族を引き上げることでした。この公方側にいたのは下野の宇都宮氏、小山氏、下総の千葉氏といった有力豪族たちと、永享の乱で持氏に従ったため不遇だった持氏の近臣たちでした。
関東における公方と上杉氏の対立は、実は鎌倉府が成立してからずっとこの構図でした。上杉氏が権力を独り占めにして、北関東や東関東の豪族たちは、鎌倉府の中では完全に外様でした。それでも、公方が幼い間は彼らも我慢していますが、公方が成長すると公方を前面に立てて上杉氏に対抗するのです。また、公方も彼らと似たような立場にありました。というのも、幕府と鎌倉府がやり取りする文書は、必ず関東管領の手を経て往復する仕組みになっていました。つまり、幕府は関東管領を通して関東を間接的に支配しようとしたのです。そこで、鎌倉府の運営も公方の頭越しに幕府と上杉氏が相談しながら進めるということが多くなります。公方が幕府と上杉氏に反感を持つのは当然でした。疎外された公方と豪族たちはこうして結びつくになります。
公方成氏と上杉氏の衝突は、翌50年にもうはじまりました。両者は結城合戦で自害した結城氏の遺児を鎌倉府に出仕させるかどうかをめぐって激しく対立します。強硬に反対する上杉氏に、成氏はあえて遺児を出仕させました。これだけが原因ではなかったと思いますが、そこで不満を爆発させた上杉氏の家臣である長尾氏と大田氏が公方を襲撃する事件を起こしました。この時は襲撃を聞きつけた公方方の宇都宮、小山、千葉氏が兵を引き連れて駆けつけたため未遂に終わりました。成氏は長尾・大田の両者を処罰しようとしました。しかし、幕府が仲裁して結局はうやむやのまま終わってしまいました。これでおさまらない成氏は報復に出ました。成氏は永享の乱と結城合戦で領地を失った家臣たちの所領を回復することにしました。しかし、その領地はすでに上杉側のものになっていました。当然、上杉方が承知するはずがありません。そこで、成氏は上杉方に領地の返還命令を出し、上杉氏が拒否すると強制的に領地をとりあげました。
これに対して、上杉方もしかえしに出ます。今度は公方側の家臣たちの領地を強奪します。こうして、両者がお互いに領地を強奪し横領する事件が各地で起こりました。この時の管領は上杉憲忠でした。彼は永享の乱の時に管領だった憲実の長男です。憲実は公方持氏を死に追いやった自責の念から管領職を辞し、京で幕府に出仕している次男以外はみな出家させ、自分も出家して政界との関わりを絶とうとしました。しかし、そういうことが許される状況ではなかったようです。憲実が強く反対したにもかかわらず、憲忠は上杉家の家臣たちに推されて管領に就任しました。憲忠が管領に就任したのは、成氏が公方になる前年で、その時憲忠は15歳でした。
憲忠の管領就任を強く進めたのが山内上杉氏の執事長尾景仲でした。もうこの頃には上杉方も景仲がリーダーでした。公方成氏を襲撃しクーデター事件を起こしたのも景仲でした。彼は上杉方の最高の実力者として、扇ケ谷上杉氏の家宰だった女婿の大田資清と相談しながら上杉氏の方針を決めていました。この大田資清は有名な大田道灌の父です。お互いに領地を横領しあう泥仕合で公方成氏と上杉方の対立は深まります。景仲はもう成氏を除くしかないと決めていました。そして、管領憲忠もだんだん景仲の考えに近づきます。しかし、成氏の方が一歩先に動きました。1454年、成氏は景仲が鎌倉を留守にしたのを利用して、憲忠を御所に誘いだして殺害してしまいました。成氏が公方に就任して5年後でした。これが享徳の乱と呼ばれる大乱の始まりでした。この事件をきっかけに上杉氏と公方は、これから30年もの長い期間戦いを続けることになりました。 
3)-1 享徳の乱(1455年〜1483年)(古河公方と上杉氏の戦い)
管領憲忠を殺害された上杉方はすぐに反撃に出ます。成氏もこれを受けて立ちました。両者は府中の部倍が原で戦いを交えました。この戦いは、どちらも幹部クラスに死者が続出する激戦となりましたが上杉方の大敗でした。成氏に味方した北関東豪族たちの武力が勝っていました。また、武蔵や相模の中小豪族にも成氏に従った者もかなりいました。まだ鎌倉公方の権威は健在でした。
上杉方は部倍が原の戦いで敗退しましたが、この時も京都の幕府は上杉氏を支持しました。幕府は朝廷に働きかけて天皇の御旗を上杉氏に与えました。これで上杉氏は官軍になり、成氏は朝敵になりました。そして、憲忠の弟で京に出仕していた房顕を新しい管領に任命して関東に下向させました。一方、駿河の今川氏、越後の上杉氏に成氏討伐を命じます。永享の乱の時と同じように、今川氏は東海道から、越後上杉氏は東山道から、鎌倉に攻め入ります。
成氏はこのまま鎌倉にいることの不利を考え、部倍が原の戦いで敗れ下野に走った景仲を追撃しながら、下総の利根川東岸の古河に移動します。そして、ここを拠点に上杉氏との全面戦争を決意しました。これが古河公方のはじまりです。
成氏という人は歴史ではあまり注目されません。彼のイメージは、鎌倉から逃亡し鎌倉公方の権威を失墜させた人というようなことだと思います。しかし、実際は知力と胆力を兼ね備えた第一級の武将だったと思います。彼は上杉氏との長い戦いですさまじいファイターぶりを発揮します。
成氏がこの地を選んだのは、下総常陸には彼を支持する有力豪族が多かったからです。とくに下野の小山氏、下総の結城氏は強力な味方でした。また、古河は鎌倉から見れば関東のはずれのようですが、東京湾沿いを経て、東京から北上する鎌倉街道中道(別名「奥の大道」)が通っていて意外と交通の便がよいところでした。その上、埼玉県東部には公方領がありました。成氏が長期戦を展開するには都合のよい土地でした。一方、上杉氏は房顕を関東管領にして新しい体制を整えました。しかし、鎌倉に公方がいなければ上杉としても困ります。要するに成氏に対抗する旗印が必要でした。そこで上杉氏は新しい公方を派遣してくれるよう幕府に願い出ます。
1457年、幕府は上杉氏の要請を受け入れ、将軍義政の弟政知を新たに公方に任命し関東に下向させることに決めました。ところが、この新公方は関東の豪族たちの支持がえられませんでした。上杉氏も成氏と争いながらも、しだいに成氏との和解の道をさぐる動きも出てきました。すると、新公方は上杉氏にとって和解の障害にしかなりません。そこで、なんともひどいことですが、上杉氏も新公方の鎌倉入りを拒みます。(この新公方案は実際は上杉氏より幕府主導で進められたのかもしれません)
身動きの取れなくなった新公方の政知はしかたなく、伊豆の堀越に御所を構えました。これが堀越公方です。伊豆は上杉氏の守護国でしたから、上杉氏は堀越公方に伊豆一国を譲ることで幕府に譲歩したという感じです。こうして、関東の東には古河公方、西には堀越公方、中央には上杉氏が蟠踞するということになりました。
鎌倉公方成氏が古河に移ると、上杉氏と公方の抗争の場もガラッと変わりました。今までは相模と武蔵南部が戦場でした。それが武蔵北部と上野と下野、それから下総に移動しました。とくに武蔵が戦いの主戦場になりました。そこで上杉氏も新しく体制をつくる必要が生じました。この時の上杉氏の主力は、山内上杉氏と扇ケ谷上杉氏と越後上杉氏の3氏でした。幕府は越後上杉氏のほか駿河の今川氏にも成氏討伐を命じていましたが、今川氏は関東の問題に深入りすることを嫌い手を引いてしまいました。
上杉3氏はそれぞれに本拠を構えました。山内上杉氏は、元々の本拠である上野南端の平井城(群馬県藤岡市)を本拠にしました。越後上杉氏は、平井城の北にある白井城(群馬県子持村)に本拠を構えました。白井城は長尾氏の本城でもありました。越後上杉氏にとって関東は他国でしたから、本国から送られてくる兵はまずここに集結しました。そして、扇ケ谷上杉氏は元々は相模の糟屋館(現伊勢原市)が本拠でしたが、新たに川越城(埼玉県川越市)を築きここを本拠にました。こうして上杉3氏は平井、白井、川越の3城を拠点にしましたが、これでは兵力が分散する上、成氏の古河城とは離れています。そこで、今の本庄市(埼玉県)に最前線の基地をもうけました。これが「五十子(いかつこ)陣」です。この五十子の陣は対古河戦だけのためにつくった要塞でした。上杉方はここに前線司令部を置き成氏と戦うことにしました。そのため、この五十子と古河城の間が主な戦場になりました。武蔵北部の今の熊谷市周辺、それと上野南部の利根川流域でした。)
鎌倉について
鎌倉は源頼朝が幕府を開いてからずっと関東地方の中心地でした。鎌倉は関東の西端にあり交通の不便な所のように思えますがそうではありません。ここは鎌倉街道で上野国と結ばれていましたし、すぐ北の三浦半島と横浜の金沢の港は房総や江戸との舟運の拠点でした。こういう地の利があったので長く関東の政治経済の中心でした。そのため、京都と鎌倉だけが郡に所属しない特別な町でした。しかし、鎌倉はこの永享の乱の頃から衰退に向かいます。それは関東の政治や軍事の舞台が北の武蔵に移っていくからです。そして室町時代の終り頃から、鎌倉は相模国の小坂郡の一地方町として扱われていきます。 
3)-2 享徳の乱(1455年〜1483年)(古河公方と上杉氏の戦い)
長尾景春の反乱(1476年〜1480年)
上杉氏と古河公方の戦いである享徳の乱はしばらく、膠着状態のまま推移しました。ところが、この最中、上杉方に思わぬことが起こりました。それは山内上杉氏の重臣である長尾景春が反乱を起こしたのです。1476年、公方成氏が古河に移って21年目のことでした。
この時の管領は越後上杉氏出身の上杉顕定でした。景春はこの顕定に反旗を翻したのです。景春の父はこの顕定を管領にした人でした。景春の父は、享徳の乱が勃発した時の実力者長尾景仲の息子です。景仲が引退すると、その後を受け執事になって管領上杉房顕に仕えていました。房顕は永享の乱の管領憲実の次男で、小さい時からずっと京都で過ごしていました。ところが兄の憲忠が成氏に殺害され、急遽京から呼びもどされ管領になりました。しかし房顕には管領職は荷が重すぎたようです。心労で病気がちになり、彼は幕府にたびたび辞意を申し出ていましたが認められませんでした。そして、とうとう33歳の若さで五十子の陣中で病没してしまいました。
房顕には子がいませんでした。そこで景春の父は、当時五十子に在陣していた越後上杉の当主と相談し、同行していた当主の息子の顕定を山内上杉氏の養子として新たに管領にしたのです。この時顕定は13歳の少年でした。顕定は景春の父を頼りにし、この二人の仲は良好でした。
しかし、景春の父が亡くなると、顕定は執事の職を長男の景春ではなく、景春の叔父を任命しました。景春は長尾一族でも主流の白井長尾氏の当主でした。顕定は長尾氏内部の主導権争いに便乗し、長尾氏傍流の景春の叔父を執事にすることで、白井長尾氏の力が強まるのを防ごうとしたのでした。
しかし、このことは景春の自尊心をひどく傷つけました。彼は、祖父から父と続いてきた執事職が自分の代で途切れたのは面目ない、と言って主家に対する反乱を決意したのでした。景春は寄居(埼玉県寄居町)に鉢形城をつくると、ここを反乱の拠点にしました。鉢形城の背後は荒川の崖が絶壁になっていて、この城は天然の要害でした。
この時代、寄居は北武蔵最大の要衝でした。寄居は鎌倉街道にあって荒川の渡河地でした。また、この寄居は鎌倉街道の分岐点で、ここから東の下野に行く道もあり、これも鎌倉街道でした。寄居のすぐ北には山内上杉氏の本拠の平井城、東には対古河公方戦の拠点五十子の陣がありました。ですから、景春は寄居の鉢形城に陣取ることで、上杉方の交通路を遮断してしまったのです。
景春は、敵の敵は味方という格言どおり古河公方成氏と同盟を結びます。そして、五十子の陣を攻撃し破壊してしまいました。それから、景春は各地の豪族たちに陣営に加わるよう呼びかけると、彼に従う者が続出しました。上杉氏は絶体絶命の窮地に立たされました。この時代になると、各地で豪族たちが自立しはじめました。それまでも、彼らは武蔵北一揆とか武蔵南一揆と呼ばれる一揆をつくっていました。そして、この一揆は上杉氏から見れば、まとまった一つの組織で上杉氏の手兵でした。
しかし、実際は各地に小さな豪族がひしめきあってバラバラに活動していました。そういうルーズな組織の中で、大きな豪族は近隣の中小豪族や土豪を家臣化することで強固な領国のようなものが生まれていました。戦国大名の萌芽です。この大豪族には、武蔵の大石氏(東京都あきる野市)や相模の三浦氏(神奈川県三浦市)のように長く守護代をつとめてきた名門の豪族もいましたが、三田氏(東京都青梅市)や成田氏(埼玉県行田市)のように無名の土豪から急成長した大豪族もいました。
彼らは本拠地から遠く離れた所に領地を持つのではなく、近隣の豪族土豪を家臣化し同心円状に領地を拡大することに力を入れます。そして、管領と公方というような古い権門の争いには昔ほど関心を持たなくなります。上杉氏と古河公方の争いも長引いたのは彼らが思うように働かなくなったからでした。こういう変化は結城合戦の頃から始まりましたが、景春の乱で一挙に表面化しました。
景春の呼びかけに応じたのはこういう豪族たちで、これに応じなかった豪族も自分の利害を計算してことでした。古河公方成氏との戦いの最中、家臣の景春に背かれるという苦境に陥った上杉陣営でしたが、この時登場したのが大田道灌でした。
景春の乱が起こると、道灌は景春から誘いを受けました。というのも、道灌の母は長尾景仲の娘で、したがって景春とは従兄弟同士だったからです。しかし、道灌はこれを断り上杉氏の主将格を務めることになりました。
道灌が戦上手というのは本当でした。彼は用土ケ原(埼玉県寄居町)で景春軍が移動する隙をついて急襲し景春軍を破り大きな打撃を与えました。しかし、この時古河公方が道灌を攻撃する動きを見せたため、道灌は兵を引かざるを得ませんでした。ここで決着がつかなかったことで、両者の戦いは長引くことになりました。この戦いは1476年から1480年まで続きました。景春が豪族たちに味方になるよう呼びかけると、これに応じる者が続出します。そこで、彼は武蔵と相模の各地に出没し戦線を拡大しました。このあたりの状況を考えると、上杉氏の支配がいかにゆるかったかがわかります。
こういう状況にあって、道灌はこれら景春側の豪族たちとも戦いを続けることになります。道灌の戦略は巧みでした。彼は主戦場の北武蔵をまずは放置して、南武蔵と相模の平定に全力を尽くします。なかでも東京の豊島氏を滅ぼしたことは大きかったようです。豊島氏は秩父氏の流れをくむ名門の豪族でした。豊島氏は景春の陣営につき、石神井城と練馬城にこもりました。ここは扇谷上杉の拠点である江戸、川越、岩槻の三角形の真ん中にあります。道灌にとって脅威でした。そこで道灌はこの豊島氏を攻めました。豊島氏は敗退し、石神井城と練馬城を放棄し、小机城(横浜市)主を頼って逃亡します。しかし、道灌はここをも破り名門豊島氏を滅亡させました。こうして、道灌は相模南武蔵を平定すると、北武蔵に戦線を移動させます。
景春は古河公方成氏の支援を当てにしていましたが、この時には成氏は景春を半ば見限っていました。また、上杉氏も幕府との和解を望んでいた成氏に、幕府との仲介をするということで景春から引き離しにかかりました。元々成氏には幕府と正面から敵対するつもりはありませんでしたから、景春は孤立無援の苦しい立場に追い込まれてしまいました。
こうして、道灌は景春を孤立させ、居城鉢形城を落とし、さらに景春を秩父においつめとうとう降伏させてしまいました。1480年でした。景春が降伏する直前、上杉氏が仲介して古河公方と幕府の和解が成立します。これを「都鄙の和睦」といいます。都の将軍と田舎の公方が仲直りしたということです。1479年のことでした。この和睦が成立したことで、さしも長く続いた享徳の乱もようやく集結しました。
大田道灌
大田道灌は優れた武将であるばかりでなく、教養ある武人として有名で、56歳まで生きました。しかし、その人生を見てみると、彼が輝いていたのはこの景春の乱を平定したわずか4年間でした。道灌は出家後の名で、俗名は大田資長といって扇谷上杉氏の家宰でした。扇ケ谷上杉氏は関東管領ではありません。そこで執事でなく家宰と呼びます。
父の資清も扇ケ谷上杉氏の家宰でした。この父は才気あふれる道灌を頼もしく思うとともに、自信過剰なところもある息子を危ぶんでもいました。
この大田氏の出自はよくわかりません。扇ケ谷上杉氏は代々相模の守護をつとめる家で、この相模守護職が扇ケ谷上杉氏の力の源でした。扇ケ谷上杉氏は相模守護代には名門三浦氏(鎌倉時代に鎌倉で重きをなした三浦氏の子孫)を任命し、相模東部は大森氏という豪族の支配に任せていました。ですから、大田氏というのは道灌の父の代から急に力をつけてきた新興勢力のようですが、それ以前の様子がわかっていません。道灌の父が上杉氏の実力者長尾景仲の娘を妻にしたのがきっかけだったかもしれません。
道灌は父とともに川越城と江戸城を築きました。(岩槻城はちがうようです)。武蔵は山内上杉氏の守護国で扇ケ谷上杉氏とは縁の薄い所ですから、山内上杉氏は享徳の乱に乗じて武蔵に進出し、その中で、大田氏は江戸と岩槻を支配地にしたというような気がします。 
しかし、道灌の父は道灌に後を譲ると越生(埼玉県越生町)に引退しました。道灌父子の墓もここにあります。こういうことを考えると、この時の大田氏は、戦国時代の戦国大名のように広い領域を面として領地にしていたのではなく、ある領域に領地が点々と点在していて、江戸と岩槻もそういう領地の一つだったということだと思います。 
4) 長享の乱(1487年〜1505年)(両上杉の抗争)
景春の乱は上杉氏を窮地に追い詰めましたが、この反乱は結果的に上杉氏と古河公方の講和を成立させることになりました。これは大田道灌の功績でした。上杉内で発言権を増した道灌は、管領上杉顕定の居城も鉢形城にさだめます。こうしてさしもの長く続いた戦乱もおさまるかに見えました。ところが、実際はますますひどくなりました。今度は上杉内部の抗争です。この抗争は1487年から1505年まで続き、長享の乱とよばれています。
両上杉の抗争がはじまった時には、道灌はすでに主家の上杉定正に殺害されていました。道灌の死は1486年でした。道灌は定正に相模の糟屋館に呼び出されそこで謀殺されてしまいました。道灌最期の言葉は「当方滅亡」、つまり「これで扇ケ谷上杉は終わりだ」でした。道灌謀殺ついては、急速に力をつけ声望の高まった道灌を定正がおそれたためとか、管領顕定が定正をそそのかしたとか、さまざまな説があってはっきりしたことはわかりません。ただ、道灌も自分が定正にうとまれていることは知っていたようです。殺される前に嫡男を古河公方に預けていました。状況的には、新興勢力の大田氏は主家定正ばかりではなく、ほかの重臣たちかも嫉妬されたのが原因のような気がします。
それはともかく、道灌の功績は大きかったようで、今までは山内に比べはるかに小さな勢力だった扇ケ谷は急速に力をつけていました。この両上杉氏抗争の原因も、道灌の謀殺同様はっきりしたことはわかっていません。山内の顕定が急速に力をつけてきた扇ケ谷をおそれたため、古河公方と京都の幕府が和解したことについて顕定が定正になんの相談もしなかったとか、いろいろあります。したがって、原因ははっきりしませんが、1487年から1505年まで、山内上杉氏と扇ケ谷上杉氏が血みどろの抗争を続けることになります。これを長享の乱といいます。
仕掛けたのは顕定でした。上野で最初の戦いが起こり、その後北武蔵で戦いが始まります。この戦いは三度あり、いずれも兵力の小さい定正が勝ちました。この定正という人は戦争が上手でした。しかし、この戦いでは決着はつきませんでした。その後地力に勝る顕定方が盛り返します。道灌の息子も父を殺害された恨みから顕定につきます。古河公方は最初は扇ケ谷につきましたが、途中から顕定につきました。古河公方も成氏から息子の代に替わり、新公方の弟は顕定の養子になっていました。ただ、公方が頼みにしていた北関東の豪族たちも、もう公方・管領という古い体制に見切りをつけ自立しようとしていました。公方の戦力も以前ほどではなくなっていました。
この抗争の最中、1494年、定正が急死します。これで形勢は一気に傾きました。元々扇ケ谷は非力でしたが、それでも山内と戦えたのは定正が戦上手で彼の手腕によるものでした。そのため、定正がなくなるととたんに苦しくなりました。まず、定正がなくなった翌年、扇ケ谷の重臣大森氏が本拠とする小田原城を後北条氏に奪われました。にもかかわらず、山内との戦争を続ける扇ケ谷の後継者はこれを黙認し、その後北条氏に援軍を求めざるをえませんでした。これで後北条氏には相模進出の大義名分ができました。また、扇ケ谷の重臣で相模守護代をつとめてきた三浦氏に内紛が起こります。定正の死をきっかけに相模での扇ケ谷の凋落ぶりは眼を覆うばかりでした。
1504年、扇ケ谷は後北条氏の応援をえて、立川河原の戦い(東京都立川市)で山内・古河公方の連合軍に大勝しました。しかし、この勝利も戦局を反転させることはありませんでした。それどころか、この年、守備兵が少なくなって手薄になったところを山内・越後の連合軍に攻められ、扇ケ谷当主は川越城に孤立し、とうとう降伏することになりました。これで8年間続いた両上杉の抗争は、山内上杉氏の勝利に終わり、長享の乱も終結しました。
長享の乱は1505年に終わりました。勝者は関東管領上杉顕定でした。ところが、1510年、山内上杉氏で異変が生じました。管領顕定が越後で戦死してしまったのです。この時越後上杉氏の当主は顕定の弟でした。この弟が家臣の守護代長尾氏(越後長尾氏)に殺害され、顕定はこの復讐戦をはじめたのでした。殺害した長尾氏は後の上杉謙信の父でした。顕定が越後に入ると、謙信の父は越中(富山県)に逃亡します。しかし、顕定の越後統治に反感を持った豪族たちが謀反を起こし、追い詰められた顕定は自刃してしまったのです。
その後継の地位をめぐって養子二人が争います。養子の一人は古河公方の弟でした。ところがこの件で、古河公方では、彼の管領就任を応援する公方と、これに反対する公方の長男が対立し、長男が父の公方を追放してしまいます。なんと山内上杉氏の内紛が古河公方にも飛び火してしまったのです。この件は、公方の弟ではない養子が山内家の当主になって落ち着きましたが、もはや山内の衰退しきっていました。
そして、顕定の死の2年後、伊豆の後北条氏は相模の扇ケ谷上杉氏の重臣三浦氏を攻め、相模平定に本格的に乗り出しました。両上杉にも古河公方にもそれをはね返すだけの力はありませんでした。こうして、山内上杉氏も管領顕定が亡くなると、こうして、弱体化した扇ケ谷上杉氏と内紛を抱えた山内上杉氏とて古河公方の三者が奇妙なバランスをとって北武蔵に格拠しました。
川越には扇ケ谷上杉氏、寄居の鉢形には山内上杉氏。古河には古河公方が並立しました。それは、ちょうど池の水がだんだん干上がって、魚たちが隅の水溜まりに集まるように三者が北武蔵に押し込められたのです。かつては鎌倉に君臨し勢威を誇った古い権門の最後の姿でした。
好機到来とばかり後北条氏が動きます。伊豆からはじまり、すでに相模を平定した北条氏が一気に武蔵支配に乗り出してきます。それが1546年の川越戦争でした。 
8 北条氏の興亡
室町時代の後半を戦国時代といいます。この戦国時代の始まりについては諸説ありますが、1467年京都で有力大名たちが東西に分かれて戦いをはじめた応仁の乱に求めるのが妥当だと思います。この後、京都の室町幕府は全国を支配する統治能力を失い、各地で大名たちが弱肉強食の争いをはじめます。この戦国時代は織田信長の鉄血政策で収束に向かい、豊臣秀吉がその事業を受け継ぎ、そして徳川家康が最後に終結させることで日本には再び統一国家が成立します。
この天下統一の事業も、信長ら三人の英雄の働きというより、彼らが出現する頃には、各地の有力戦国大名たちが地域に割拠していた小豪族たちをまとめていたから可能でした。後はこれら少数の戦国大名たちを、ある場合は滅亡させ、ある場合は政権内に取り込むことで統一国家が完成しました。関東でこの戦国大名の働きをしたのが後北条氏でした。そして、後北条氏は、秀吉が統一事業を進めるにあたり、その一翼を担うのではなく滅亡させられてしまいました。その意味では不運の戦国大名でした。
後北条氏の創業は北条早雲です。彼は美濃の斎藤道三と共に戦国大名のはしりといわれています。しかも、後北条氏の創業は早雲一代では終わらず、彼の後継者たちに受け継がれていきました。後北条氏には天下統一の野望はなく、最終目標は関東地方の一円支配だったと思います。しかし、この目標は達成直前までいきましたが、その時には秀吉の天下統一事業が最終段階に入ろうとしていました。結局後北条氏はこの流れにうまく乗れず、5代氏直の時、秀吉によって滅ぼされてしまいました。そこで、ここでは武蔵という領域にこだわらず関東全体から後北条氏の興亡を見ることにします。
初代早雲が伊豆を支配したのが1493年で、秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅んだのは1590年でした。したがって、北条氏の活動期間はほぼ100年になります。この100年間が北条氏の時代ということになります。なお、後北条という呼び方は、歴史用語としては定着していますが、少々学問的に過ぎる感じがします。ここでは単に北条と呼ぶことにします。
北条氏
今川義忠
   姉
   北条早雲(伊勢長氏)―氏綱―氏康―氏政―氏直
                    ―氏照―氏房
                    ―氏邦
                    ―氏規
1) 初代 北条早雲(〜1519年) (伊豆・相模)
北条氏の創始者は早雲です。この人はなぞの多い人です。通説では、早雲は素性の知れない流浪の人だったが、姉が駿河の今川氏の妻になったのを足がかりに伊豆の領主におさまり、やがて戦国大名に成長したとされています。
しかし、そうではなく、早雲は元は由緒ある幕府の高官で、将軍の近臣だったようです。役目がら、今川氏の本拠である駿河の駿府によく来ていて、それが縁で今川氏と親しくなったというのが本当のところのようです。もっとも、そうでもなければ一介の浪人の姉が名門今川氏の妻になるというのも変ですし、妻になるのはともかく、生まれた子が今川氏の当主になるということは絶対にありえせん。早雲が幕府の高官だったというのなら納得できます。名前も、長いこと長氏とされてきましたが、盛時というのが正しいようです。北条氏の旧姓は伊勢です。早雲は伊勢氏を称しましたが、二代氏綱の時北条氏を名乗りました。ふつう鎌倉時代の北条氏と区別するため後北條氏と呼びます。北条氏は伊勢平氏の末裔を称していました。鎌倉執権の北条氏も伊勢平氏ということになっていました。ですから、両者は同族ということになります。両者が本当に伊勢平氏かどうかはわかりませんが、共に伊勢平氏を主張しましたから真偽のほどはともかく、北条氏が伊勢から北条に姓を変えたのもまったく根拠のないことでもありません。伊勢新九郎盛時が北条早雲の前身でした。
早雲が世に出るきっかけも今川氏との関係でした。今川氏の当主が戦死し、姉の生んだ子が今川家の新しい当主になると、早雲は当主の叔父ということで今川氏の中で急に力を持ちました。すると、都合のよいことに、将軍に初代堀越公方足利政知の息子が就任しました。11代将軍足利義澄です。この時、伊豆の堀越公方家で内紛が起き、義澄の母と同母弟が殺され、異母兄が公方になろうとする事件がおきました。政知は早雲の旧主だったらしく、政知自身はすでに亡くなっていましたが、その縁で早雲は幕府に働きかけたのだと思います。1493年、早雲は幕府の指示を受け伊豆を攻めました。自前の軍を持たない早雲は今川氏から兵を借り、将軍の異母兄を追放し伊豆を手中におさめました。伊豆の領主になった早雲は韮山城を本拠にスタートを切りました。この一連の軍事行動は幕府の命令という形で進められたため、非常にスムーズにいきました。
早雲は生年がはっきりしない人です。長いこと88歳の長寿だったとされていました。しかし、彼は死の前年まで当主として戦場で活動をしていました。また、88歳まで生きたとすると2代目の氏綱は早雲が五十代の時生まれた子どもになってしまいます。こういうことを考えると、88歳説はむりがあります。それに末広がりの八の数字が並ぶのも作為的な感じがします。たぶん、ゼロから出発した人が晩年になって成功した、いわゆる大器晩成の成功例にしたいという世の中の期待で生まれた後世の作り話だと思います。早雲は1519年に亡くなっています。伊豆を切り取ったのが1493年ですから、伊豆を領有してから26年間が彼の活動期間ということになります。
北条氏はその後相模と武蔵に進出しますが、武蔵制圧が終わるのは3代目の氏康の時でした。非常に長い時間がかかりました。織田信長が桶狭間で今川氏を破ったのが1560年で、信長はその7年後の1568年には京都上洛をはたしています。また源頼朝は挙兵してわずか8年では征夷大将軍になっています。これに比べると北条氏の関東攻略は非常に遅いのがわかります。北条氏には天下統一の目標があったわけではないので比較してもしかたありませんが、一般に、世の中が驚くような大きな事業は長い時間をかけてやるのではなく、短期間の拙速主義でやらないとうまくいかないようです。
それはともかく、伊豆を平定した早雲は、その後今川氏の客将格で遠江攻略に協力しています。その代わり、今川氏から相模進出の援助を受けています。初期の北条氏は駿河の今川氏に依存しながら力を蓄えていきました。伊豆一国といっても、この場合の伊豆は今の伊豆半島全部ではなく、半島のつけ根の韮山から修善寺あたりだけの小さな国だったと思います。たぶん半島の大部分は無住の地でした。こういう北条氏にとって、西の駿河方面への進出はまったく考えられなく、可能性は東の相模方面しかありませんでした。相模は扇ケ谷上杉氏の勢力範囲でした。ですから北条氏の侵略を最初に受けるのは扇ケ谷上杉氏ということになります。ただ、早雲も扇ケ谷上杉家の力が強く、当主も戦上手の定正の時は、定正の要請を受けて対山内上杉氏との戦いに参戦するにとどまっていました。1494年、早雲は定正と共に武蔵で山内家の上杉顕定と戦っていますが、これは自信家の定正が早雲に命令を出して軍勢催促をしたようです。実際、この時点では扇ケ谷上杉氏と北条氏の力の差は大きかったと思います。 
その後も、早雲は相模各地で扇ケ谷側として山内上杉氏と戦いをしています。これは伊豆が元々山内家の守護国で、早雲はそれを奪うことになったためでした。当然、山内家と敵対する扇ケ谷家は早雲の活動を支持しました。
早雲が相模領獲得を本格的に進めるのは、扇ケ谷家の当主定正が亡くなって代替わりしてからでした。定正が亡くなると、両上杉の抗争も扇ケ谷家の劣勢がはっきりしてきます。すると、それに乗じて、早雲は扇ケ谷家の重臣大森氏の居城だった小田原城を手中にします。1495年のことでした。早雲の支援を期待せざるをえない扇ケ谷家はそれを黙認するしかありませんでした。この小田原城は北条氏の本拠になりますが、そうなったのは二代氏綱の時です。ですから、この時は単純に伊豆から最も近い所にある城を奪ったという感覚でした。
相模西部の小田原城を奪った早雲は、その後、1512年に相模東部の三浦氏を攻めます。相模では西の大森氏と東の三浦氏が最有力の豪族でした。三浦半島を本拠とする三浦氏は主家の扇ケ谷上杉氏が頼りにならないので、房総の里見氏や江戸の大田氏の支援を求めますが、家中の内紛もあったりして1516年に征服されてしまいました。
この三浦氏は坂東八平氏の流れで、鎌倉時代には北条執権家と並ぶ名門でした。しかし、新興の北条氏にとってこういう伝統ある名門豪族を滅亡させることには少しもためらいはなかったようです。三浦氏は滅亡し、400年以上続いた三浦氏の長い歴史はあっけなく終わりました。
早雲はこの三浦氏を攻撃するにあたり、鎌倉近くに玉縄城を築きました。三浦氏を滅ぼした後は、ここは相模武蔵攻略の拠点になりました。そして、早雲はこの三浦氏を滅ぼすと氏綱に家督を譲り1519年に亡くなっています。 
2) 2代 北条氏綱(1487年〜1541年) (伊豆・相模・武蔵南部)
2代目の北条氏綱という人は、初代早雲と3代氏康に挟まれて目立たない人ですが、伊勢から北条への改姓、小田原城への移転、そして北条氏の行政と軍制を定めるなど、その後の北条氏の基礎を作った人です。この人は非常に能力の高い指導者でした。北条氏はこの氏綱の下、玉縄城と小机城(横浜市)を拠点に武蔵攻略を進めることになります。
この時には扇ケ谷上杉氏はすっかり衰えていました。山内上杉氏も闘将顕定が亡くなり、その後継をめぐって内紛が起きていました。氏綱にとっては好機到来でした。1524年、氏綱は江戸城を奪い、翌25年には岩槻城(埼玉県岩槻市)を奪いました。この両城はともに扇ケ谷上杉氏の持城ということになっていましたが、実質的城主は大田氏でした。大田氏は大田道灌の息子二人が相続し、兄の方は江戸城に入って江戸大田になり、弟は岩槻城で岩槻大田となりました。
両城とも城主は道灌の孫でしたが、江戸大田は時勢を考え扇ケ谷家を裏切って北条傘下に入りました。岩槻大田は抵抗しましたが彼我の戦力差は大きく、結局岩槻城を放棄せざるを得ませんでした。扇ケ谷家の当主は江戸城を守ろうとしましたが、北条氏の圧力に抗しきれず江戸城を捨て川越城に退却しました。そして、その川越城に退却した扇ケ谷上杉氏の当主が病死し、後継にわずか12歳の少年が就任しました。氏綱はこの機をのがさず、1537年、宿願の川越城を奪いました。扇ケ谷の新当主は川越城を守ろうとしましたが、支えきれず松山城(埼玉県吉見町)に退却せざるをえなくなりました。こうして、氏綱は南武蔵を占領することに成功しました。伊豆にはじまった北条氏は2代目でようやく南武蔵に到達しました。そして、1541年氏綱が亡くなり、26歳の氏康が3代目の北条氏の当主に就任し、祖父と父の事業を引き継ぐことになりました。
北条氏の軍制と税制
北条氏が従来の豪族や古い権門とちがうのは、縁もゆかりもない他人の領地を平気で奪うということをやりだしたことでした。これまでの抗争や戦争は近隣同士の豪族の争いで、そこには争いになるまで長い愛憎の歴史がありました。また、どこかで血のつながりもあったりして、人間関係のもつれみたいなところがありました。そうでなければ幕府や鎌倉府の命令でやむなく合戦になったというように、それなりの理由というか、名分のようなものありました。
ところが、北条氏は領地を拡大するということだけで戦争を仕掛けています。では何のために領土を拡大するのかとなると、たぶん北条氏にもわからなかったと思いますが、とにかく領土の拡張だけが目的でした。これが今までの古い豪族たちのやり方とはちがいました。北条氏が戦国大名のはしりといわれるのはこのためです。この後、北条氏のような豪族たちが全国で生まれていきました。北条氏が戦国大名のはじまりといわれるゆえんです。それと、北条氏は敵を降伏させると、敵の城を取りあげるだけでなく、敵の領地も取りあげました。つまり、点ではなく面で支配するのが北条氏のやり方でした。これも今までの豪族のやり方とはちがいました。
それまでは、降伏した敵の領地を取りあげても、全部まで取りあげることはしませんでした。そして、降伏した敵を家臣に組み入れますが、その場合、家臣としての義務は戦争の時出兵するくらいでした。勝者は敗者が残った領地は従来のまま支配することを認めていました。地域がちがいますが、東北の最上氏は江戸時代初期には60万石の太守でした。しかし、その中身をよく見ると、最上藩の家中には2〜5万石の家臣がかなりいました。彼らは広い領地を持ち、まるで独立の藩のようでした。そして、その領地支配には最上氏も口を入れることができませんでした。家臣団の総石高を計算し、その合計を60万石から引くと、たぶん最上家は10万石くらいにしかなりません。ですから、この最上藩は見かけは60万石の雄藩ですが、実質は10万石くらいの小大名でした。家臣が2、3人相談して主家に反乱を起こすと、軍事力でも主家を上回ることになります。したがって、この最上藩は非常に脆弱な藩でした。
最上氏は東北地方という後進地の藩でしたから、江戸時代になっても昔のままでしたが、北条氏が出てくるまでの関東地方はほぼこの最上藩と同じでした。鎌倉公方・関東管領がいましたが、これと同じくらいの力を持つ有力豪族は関東各地にいくらでもいました。そして、この有力豪族の一族内にも本家とさほど変わらない力を持つ庶子家や家臣がいくつもありました。室町時代の戦乱がいつまでたってもおさまらず、次から次に新しい争いが起こってくるのはこのためでした。
ところが北条氏は一種の官僚が支配する軍事国家のような仕組みを作りました。そのおおざっぱな仕組みはこうでした。北条氏は他領を征服し落ち着くと検地をします。この検地は徴税が目的というより、家臣の領地を決めるものです。この領地のことを「知行地」といいます。検地は実際には測量はしないで、土地所有者に申告させます。これを「差し出し検地」といいます。ついでながら、太閤検地も江戸時代の検地もほとんどがこの差し出し検地でした。学校の教科書には竿と縄で測量している絵が載っていますがこういう検地は実際にはめったにありませんでした。そこで、北条領では水田2反(20アール)で1貫と評価します。畑は2反で約0.3貫です。こうして家臣の知行地を数値に直して、この貫高に応じて家臣が引率する兵を決めます。
はっきり基準はありませんでしたが、だいたい5貫で歩兵1人でした。騎兵なら15貫で1騎です。したがって、たとえば貫高300貫の知行地を持つ家臣ですと、水田なら60町(60ヘクタール)の知行地を与えられ、戦争で召集がかかると、本人をふくめおおよそ歩兵40人程度、騎兵7〜8騎くらいを引き連れて戦場に駆けつけることになります。
この仕組みを貫高制といいます。1貫は貨幣の単位で、当時の標準貨幣である永楽銭1枚が1文です。そして1000文が1貫です。この場合水田1町で5貫になります。しかし、これは土地の生産高でもなければ、土地の価格でもありせん。このように貨幣に換算するのは、知行地を持つ家臣たちは軍役のほか上納金を納めることになっていたからです。戦国大名は北条氏に限らず、直轄地が意外と少ないのが特徴です。ですから、大名は家臣たちから上納金を集め、この上納金で全体の行政軍事費にあてました。もっともこれだけでは足りませんから、在地で土地を持つ農民(これが江戸時代の本百姓です)から反銭、棟別銭も集めました。
段銭は今でいう農地保有税、棟別銭は宅地の固定資産税でした。
しかも、北条氏は100貫以上の家臣にはまとまって一つの土地を与えることはしませんでした。必ず郡をちがえて分割して与えています。こうしてその家臣がその土地で独立した領主になるのを防ぎました。たとえば川越城主は北条氏譜代の重臣で大道寺氏でした。しかし、彼は城主でありながら、川越の郊外にわずかに知行地があるだけで、多くは伊豆相模にありました。ですから、彼は正確に言うと城主ではなく代官でした。
以上のように北条氏は、家臣に知行地を与え、その代わり軍役と上納金を提供させるというようにしました。つまり、北条氏の家臣たちは地主的色彩が極めてうすく、領主ではなく軍人でした。もっとも、中級以上の家臣で下級家臣まで知行制を適用したら大変ですから、彼らは上級家臣に付属させました。この場合上司を寄親(よりおや)と言い、付属家臣を寄子(よりこ)といいます。そして、この「寄子寄親制」をふくめ、こういう仕組みは北条氏に限らず先進的な戦国大名はどこも同じでした。
また、北条氏は地域ごとに軍団をつくっていました。それを「衆」といい、小田原衆とか川越衆とか江戸衆とよびました。こうして、家臣を衆とよばれる軍団に編成し、兵士は槍の長さから行進するときの旗の持ち方まで細々とした決まりがありましたから、北条家臣は武士というよりは軍隊の兵士でした。 
3)-1 3代 北条氏康(1515〜1571)(1) (伊豆 相模 武蔵)
北条氏康は名君として評価も高く北条5代の中ではもっとも有名な人です。この氏康の時代には、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元、越後の上杉謙信と東日本には英雄が割拠しました。氏康は華々しい合戦をしたことがありませんから、物語の主人公として取りあげられることは少ないです。しかし、信玄や謙信をあつかった歴史書には必ず登場する人物です。父氏綱が亡くなり、氏康が北条家の当主になったのは1541年で26歳でした。武田信玄より6歳年長です。しかし、信玄が父を追放して武田氏の当主になったのが41年ですから、スタートは同じということになります。また上杉謙信はさらに氏康より15歳年少です。謙信が兄と争って家督を継いだのが48年ですから、謙信のスタートは氏康より7年遅れということになります。氏康は、幼年時代は神経質な性格で、父の氏綱も将来後継者としてやっていけるかどうか心配したほどでした。しかし、氏康は北条氏の当主になると優れた能力を発揮しました。氏康の時代の北条氏は、軍人としての能力より政治家としての手腕を必要とした時代でしたから、氏康のような内省的な人物がふさわしかったのだと思います。(たしか四国の長曾我部元親も同じようなタイプの人だったと思います。)
氏康が当主になった時期、北条氏にとっては困難な時代でした。伊豆にはじまった北条氏は相模、南武蔵と征服地を拡大し一見順調のようでした。しかし内実は相当に苦しい状況でした。北条氏のやり方は各地の反抗する豪族たちと戦いを交え、彼らを軍事的に屈服させることでした。ところが、武力で敵の城を奪っても、その地域全体を政治的に支配するというところまではいきませんでした。そのため、城という点だけを占拠することになり、点から線へ、線から面の支配というようにはなかなか進みませんでした。
全体に、この当時の武蔵国にはきわめて独立心の強い中小豪族がひしめいていました。彼らは北条氏に力で圧倒されると服属しますが、状況が変わるとまた反北条で立ち上がります。こういう状況は相模でも同じで、北条氏に反抗心を持つ相模の中小豪族や土豪たちは、機会を見つけてはたちあがりゲリラ戦で抵抗しました。そのため北条氏の武蔵平定はなかなか進みませんでした。
また、南武蔵では前当主の氏綱の時、江戸岩槻川越の3城を奪取しました。しかし、その後、せっかく手中におさめた江戸城は、城主の大田氏は旧主の扇ケ谷氏に帰参し、岩槻城も岩槻大田氏に取り戻されてしまいました。したがって、北条氏が武蔵の中枢地である川越城もおさえても、それは上杉氏が支配する川越領のなかで、北条氏が川越城にたてこもるということでした。たぶん、北条氏は物資と兵員を補給して川越城を確保するのが精一杯だったと思います。しかも、氏康は武蔵攻略に集中することができませんでした。というのも西部方面も動いていたからです。
北条氏は駿河の今川氏とは長く友好関係にありました。しかし、今川氏当主だった早雲の甥が亡くなり、息子の義元が新しく就任すると、彼は甲斐の武田氏の娘を妻にします。そして、武田氏と結んで北条氏に対抗する政策を打ち出しました。今川氏との衝突は先代の氏綱の時にすでにはじまっていましたが、氏康は西と東に抗争地をかかえることになりました。そのため、氏康は軍略上もっとも避けなければならないとされる二正面作戦をとらざるを得なくなっていました。氏康は新しい版図を獲得するよりすでに獲得した版図を北条領として確保するのに忙殺される状況でした。
川越夜戦
守勢に立たされ苦しい立場の氏康でしたが、やがて氏康も反転攻勢に出るチャンスがやってきました。転機は1546年の川越夜戦でした。この戦いで氏康は一挙に飛躍のチャンスをつかみました。
川越城は1537年に北条氏が扇ケ谷上杉氏から奪い取りました。扇ケ谷家は当然川越城を取りもどそうとします。また、山内家も古河公方も、このまま川越城が北条氏の手にあると自分たちも危うくなります。そこで、山内家も公方も当主自らが大軍を率いて川越城攻撃に参加しました。この時の山内家の当主は上杉憲政でした。さらに北条氏の脅威は関東中に知れ渡っていました。そこで両上杉と古河公方が参加の呼びかけをすると、下総や上野下野の豪族たちも兵を率いて川越に集結してきました。川越城の北条軍は大軍に包囲され、補給も絶たれまったく孤立してしまいました。
氏康は本国から兵を引き連れて駆けつけます。こうして北条氏と両上杉・公方の連合軍との間に行われたのが、川越夜戦とよばれる戦いでした。史書によれば、包囲した上杉・公方の連合軍は8万。これにたいして川越城の北条軍は3千、氏康率いる城外の北条軍は8千、合わせて1万1千とされています。氏康は川越城の降伏譲渡を申し出て敵を油断させました。そうして夜になるのを待って自軍の一部をおとりにして突入させ、それからわざと敗走させました。そうして追撃する敵軍を温存した別動隊と城内軍が挟撃するという奇襲作戦で敵を壊滅させました。少ない兵力で大軍を打ち破った戦いとして、信長の桶狭間の戦い、毛利元就の宮島の戦いと並んで有名です。
(この戦いについては、兵数といい作戦といい、はたしてこんな戦いが本当に可能なのか疑問に思って少し聞いて回ったことがあります。しかし、史書にそう書いてあるの一点張りでそれ以上進みませんでした。戦争については、日本人が感動する戦争は関ヶ原の戦いのような大会戦か太平洋戦争の真珠湾攻撃のようなあざやかな電撃戦です。すべての戦争はいかにこれに近かったかということでしか考えられていません。川越夜戦についても、議論してもケンカになるばかりですから、もう調べないことにしています。)
とはいえ、北条氏の大勝利だったことはまちがいありません。この戦いで扇ケ谷上杉氏は当主が戦死し、扇ケ谷上杉氏は滅亡しました。当主は上杉朝定という人でしたがわずか21年の生涯でした。そして、古河公方は古河に逼塞し、山内家の関東管領上杉憲政も本拠の寄居の鉢形城に閉じこめられました。上杉氏はその後この鉢形城も放棄し、1561年には上野の平井城(現藤岡市)に追い落とされてしまいました。
こうして、氏康は川越夜戦に勝利し、武蔵での優位を確保すると本格的に武蔵統治に乗りだします。その手段は息子を有力豪族の養子として送りこむことでした。氏康は先ず次男の氏照を八王子の滝山城の大石氏の娘に入婿させました。次いで三男氏邦を秩父の有力豪族の藤田氏に入婿させました。これらはいずれも体のいいお家乗っ取りでした。大石氏は長く武蔵守護代をつとめる名門で、藤田氏は北武蔵の要衝寄居を支配していました。氏康は二人の息子を八王子と寄居に養子として送りこみ、川越城主には信頼する譜代の重臣を任じ、武蔵の要衝をすべて支配することに成功しました。
謙信の登場
川越戦争で武蔵の地で優位にたった北条氏康は、その後武蔵北部の平定を積極的に進めます。また、岩槻城を拠点に下総常陸方面にも積極的に展開します。すると、ここで氏康は今まで経験したことのない強敵と遭遇することになりました。越後の上杉謙信です。すでに説明したように、氏康の時代には武蔵を含め関東各地に中小豪族たちがいました。彼らは元々独立心の強い勢力でした。ところが、北条氏という強大な力が武蔵に出現し、彼らは北条氏の支配下に入るかどうか迷いました。迷ったというより、本当は彼らは北条支配に入りたくありませんでした。そこで、北条領に近いところの豪族たちは心ならずも服属し、遠く離れたところの豪族たちは公然と反北条を標榜しました。
こういう武蔵や関東の豪族たちにとって、唯一の頼りは越後の上杉謙信でした。彼らは謙信の力を背景に独立を守ろうと考えました。これはある意味で当然でした。それまで長いこと、関東が混乱すれば越後の軍勢がのりだしてきて収拾していました。これを当時は「越山」とよんでいました。武蔵と関東の豪族たちはこの「越山」を熱望したのです。
謙信はすでに関東管領上杉憲政から頼られていました。憲政はこの後すぐに越後にのがれています。ですから、謙信は、上は上杉管領から下は関東各地の豪族まで救世主としての役割を期待されたのです。謙信はこの期待に応えることにしました。
1560年、謙信は大軍を率いて越後から関東に姿を見せます。武蔵をはじめ関東の反北条の豪族たちはこぞって謙信に従いました。武蔵では岩槻の太田資正、忍の成田氏、青梅の三田氏などがいました。武蔵以外では、上野の長尾氏、常陸の佐竹氏、下総の簗田氏、里見氏など、関東の有力豪族はこぞって謙信のもとにかけつけました。
関東諸族の兵を加え大軍となった謙信の軍勢は威風堂々南下しました。氏康は利あらずと悟り、戦いを避け小田原城に籠城しました。上杉軍は小田原城を包囲しますが、越後から遠征してきた謙信の軍は長期滞陣ができません。結局、謙信は小田原城を陥落することはできず、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮で関東管領の就任式を行って越後に引き上げることになりました。
氏康はこの謙信の遠征で上杉軍団の強さを見せつけられるとともに、北条氏がいかに関東で歓迎されない存在であるかを思い知らされました。
越後軍のルートは群馬の藤岡から武蔵に入る鎌倉街道ではなく、群馬県の利根川北岸を通って回りこみ千葉県の関宿で利根川を渡っています。ですから、岩槻→江戸→小田原というラインで武蔵に進攻しました。謙信は群馬の前橋をベースキャンプにしてこのルートその後も繰り返し関東に兵を進めました。 
3)-2 3代 北条氏康(1515〜1571)(2) (伊豆 相模 武蔵)
北条氏の光と影
北条氏の強みは新興勢力として、在地の豪族たちに遠慮しないで新しい北条流の体制を構築できたことでした。そのため、検地と貫高制にみられるように北条氏の支配体制はこの時代のどこよりの先進的でした。
しかし、他国出身の新興勢力であることは北条氏の弱点でもありました。一言で言うと、北条氏の関東支配には正当性がまったくないことです。この場合の正当性というのは、在地の豪族たちを支配するにあたって、彼らが北条氏の家臣になることを納得させるだけの大義名分があるかどうかです。この点が武田信玄や上杉謙信とおおきくちがっていました。
信玄の武田氏は清和源氏の流れを組む名門で、長く甲斐の守護を続けてきました。ですから、信玄が甲斐の豪族たちに主君として臨むことは、家臣に組み込まれる豪族たちにとっても納得できることでした。これは上杉謙信も同じです。謙信の長尾家は室町時代の初めから、越後守護職の上杉家の下で、越後守護代を長くつとめる家柄でした。ですから、彼は国内をまとめるにあたって、近親縁者との家督をめぐる争いはありましたが、家臣たちとの武力抗争はほとんどありませんでした。つまり、信玄も謙信にもそれぞれの国で君主的立場に立つことを国内の豪族たちに認めさせるだけの伝統的権威がありました。
ところが北条氏にはこういう権威や家柄がありません。それどころか、反対に関東には足利公方とか上杉関東管領というような強固な伝統的権威をまだ存在しました 。こういう中で出自のはっきりしないよそ者の北条氏が関東の豪族たちを家臣化するのは非常にむつかしいことでした。伊勢から北条に改姓したくらいでは、関東の豪族たちに主君として認めさせることはできなかったと思います。しかし、考えてみれば新参のよそ者でもスムーズに支配をすることが可能な場合があります。それは豊かな経済力がある場合です。もしも北条氏が経済的に富裕であれば、関東の豪族たちを経済的な利益で誘導することが可能です。あるいは武田信玄や上杉謙信のように大軍を編成して遠征することも可能でした。しかし、北条氏にはこの富がなかったように思います。
一般的に戦国大名というのは意外なほど領民から年貢をとっていません。それは戦争になると領民を兵士として戦争に動員するからです。重税を課せば彼らの忠誠心を得ることができなくなります。たとえば秀吉は大名たちに年貢を厳格に徴収することを命じています。しかし、その目的は富の収奪というよりは兵糧米の確保でした。さらに、秀吉は米以外に大豆の納税を強く指示していますが、この大豆の用途は軍馬の飼料でした。つまり秀吉をはじめ多くの戦国大名の年貢徴収は軍の維持が目的でした。
その代わり、戦国大名は戦争になると惜しげもなく蓄積した富を放出しました。一種の戦時経済です。そのため戦国大名の存在は経済的な活況をもたらし、領民にとって歓迎する面がありました。ずっと後になりますが、石田三成は北条攻めで忍城を水攻めにし、そのため近隣の農民を動員して堤防をつくりました。しかし、三成は強制的に農民を集めてはいません。三成は農民たちが驚くほどの高い賃金を出しています。感激した農民たちは自らすすんで徹夜の突貫工事を行いあっという間に長大な堤防ができてしまいました。三成の忍城攻めはこの地域を経済的に 潤したのです。
このためふつう戦国大名たちは領民から年貢は多くとらず、年貢以外のところから収入を得ようとしました。産業の未発達な地方の大名は主に鉱山でした。謙信は佐渡に金山を持ち、信玄も鉱山開発に熱心でした。甲州金は有名です。また、信長や秀吉のような経済先進地を拠点にする大名たちは京都や堺の富裕商人から直接上納金を提供させています。ところが北条氏にはこういう経済基盤がありませんでした。鎌倉はこの時代すっかり衰退していましたから、ここから富を収奪することはとてもできることではありませんでした。伊豆には金鉱がありましたが、それを発見し採掘したのは北条氏の後に関東に入った家康でした。ですから、北条氏は直接領民から多額の税を徴税するしかありませんでした。
考えてみると、北条氏の関東は純農業地帯でした。しかも、その農業も米や麦などの食料生産の農業で、経済的富をもたらす商品を生産する農業ではありませんでした。つまり、この時代の関東地方の人たちは、米や麦を作ってはそれを食べて生活する、いわば自給自足社会でした。確かに関東地方は広大ですから、各地に市や商人がいました。しかしそれは域内の交易を中心とした小規模経済でした。大きく見てこの時代の関東地方には、金や銀を生産して域外から貨幣を獲得したり、商品作物を生産して関東以外から貨幣をよびこむような産業がありませんでした。
そこで、北条氏も領内の豪族や農民に重い年貢を課し、それから兵役も課すということになります。つまり、北条氏の支配は関東の人々から富や労役を収奪するばかりで、彼らに与えるものはなに一つありませんでした。そのため、北条氏は関東の豪族や農民たちの人心を引きつけることができませんでした。武力一辺倒の支配は困難をきわめます。北条氏の関東攻略がなかなか進まなかったのはそのためでした。
北条氏と同じような大名に毛利氏がいます。毛利氏も広島の一豪族から出発し中国統一に成功しています。しかし、これに要した時間は元就一代の約50年間でした。そして、彼の後継者たちはもう領土拡大をしようとはせず、獲得した領土の維持に政策を転換しています。北条氏が100年かけても関東制覇が終わらなかったのと比べ、大きなちがいがあります。くわしく調べていませんが、たぶん、毛利氏の中国制覇がうまくいったのは領民に経済的負担をかけず、むしろ海運や鉱山からあがる膨大な富を放出して領民を引きつけたのだと思います。北条氏を調べてみると、北条氏が気の毒なくらい関東の人々から好かれていないのに驚きます。これは誇るべき血筋を持たず、人に与える富も持たず、武力一辺倒で関東支配をめざした北条氏としてはやむをえざることでした。
北条氏の武蔵攻略
氏康は謙信が越後に帰ると、ただちに謙信についた豪族たちの討伐に乗り出します。この謙信の遠征ではっきりしたのは、青梅の勝沼城主の三田氏、松山城と岩槻城の大田氏、そして関宿城(下総)の簗田氏が武蔵中央部に反北条のベルト地帯をつくっていることでした。氏康はこのベルト地帯を粉砕し、支配することに全力を注ぎました。
武蔵の豪族たちは必死に謙信の援軍を待ちますが、越後から長躯遠征する上杉軍は思うように進めません。時には大河利根川を渡ることができずむなしく引き上げざるをえないこともありました。謙信の弱みは関東に長期滞在できないことでした。そのため、毎年のように関東攻略を進めますが、成果がでないまま越後に引き上げることになります。そして、北条氏は謙信が関東にとどまっている間は防御を固めてじっとしていて、謙信が引き上げると反北条の豪族たちを叩くということを続けました。
氏康は三田、大田、梁田の三氏を集中して攻撃することにしました。三氏のうち、もっとも弱小の三田氏は簡単に滅ぼすことができました。盟友の大田氏は三田氏を助けようとしましたが、大田氏だけの力ではむりでした。
三田氏の後は岩槻城の大田氏でした。この時の大田氏の当主は資正という人でした。彼ははじめ北条氏に帰属していましたが、謙信が関東経営に乗り出すと直ちに北条氏に反旗を翻しました。資正は三田氏とちがって、岩槻城のほかに松山城も持っていました。そして自身は岩槻城にいて、松山城には城代を置きました。氏康にとって、武蔵中央部で大きな勢力を持ち、公然と反北条をかかげる資正は最大の敵対者でした。
(松山城は今の東松山市ではなく吉見町にありました。当時荒川は春日部市の東を流れていて岩槻城は、この昔の荒川が外堀になっていました。ですから、当時の岩槻―松山間は遮るものはありませんでした。そのため、岩槻が危なくなると松山から援軍が駆けつけ、松山が攻められると岩槻から応援が来るというように二つの城は連携していて、攻略が非常に難しい城でした。資正は犬を使って二つの間の連絡をとっていたとされます。)
北条氏は松山城をまず攻撃します。この時、氏康は謙信に備えて、甲斐の武田、駿河の今川と三国同盟を結んでいました。そこで、氏康は信玄の援軍を得て松山城を攻撃し、陥落させることに成功しました。岩槻城の資正は急ぎ謙信に救援を求めますが、謙信が到着する前に城代は降伏してしまいました。資正も謙信も松山城を放棄せざるをえませんでした。
信玄が氏康に加勢したのは、彼は上野と武蔵に触手を伸ばしていたからです。管領上杉憲政が去り、中小豪族が乱立する上野は、明確な領主がいなくなり、先に占有した者が領有するといういわば草刈り場でした。この時、信玄は上野に本格的に進出していました。そして、そういう信玄から見れば武蔵も同じ草刈り場でした。信玄は北条支援を機に武蔵侵攻を考えていたのです。
信玄がこのように考えたのは、北条氏の武蔵平定が遅々として進まないからです、北条氏は戦国大名としてはスタートは早かったのですが、信玄や信長に比べてその後のスピードが非常に遅かったのです。氏康も武蔵平定積極的に進めることにしました。青梅勝沼城と松山城を落とした氏康にとって残るのは岩槻城と関宿城だけになりました。岩槻城は荒川が背後に流れ、利根川に近く、その対岸には関宿城(千葉県野田市)がありました。この関宿城は利根川中流の唯一の渡河点でした。大軍が一気にこの川を徒渉できるのはここしかありません。北条氏は岩槻城を拠点に関宿城の攻撃に集中します。そして、関宿城が落ちれば、北条氏はここを拠点に相模武蔵から大量の兵を供給し、ここを拠点に東関東全体を縦横に駆け回ることは誰の目にもはっきりします。下総常陸の豪族たちは、この関宿城支援に全力を尽くします。
岩槻城主の大田資正の息子が北条傘下に入ったのは1564年でした。岩槻城が氏康の傘下に入り、岩槻城が北条氏の手中に入って、ようやく北条氏の武蔵支配が完成します。そして、北条氏は岩槻城を拠点に関宿城の攻撃に集中します。関宿城の城主は、古河公方の譜代の重臣簗田氏でした。そして、簗田氏も岩槻城の大田資正と同じく闘将でした。関宿城は氏康の存命中には陥落させることはできませんでした。この関宿城は三次わたる攻防戦の末1574年、刀折れ矢つきた梁田氏はとうとう城を明け渡すことになりました。氏康が亡くなって3年後でした。この岩槻城と関宿城が北条氏に下ることで、上杉謙信の関東の拠点はなくなりました。そのため、謙信は関東経営から手を引かざるをえなくなってしまいました。 
3)-3 3代 北条氏康(1515〜1571) (伊豆 相模 武蔵)
大田資正のこと
この大田資正という人は不思議な人でした。彼は大田道灌の子孫で扇ケ谷上杉氏の家臣で岩槻城主でした。川越戦争で扇ケ谷家が滅ぶとやむなく北条氏に従いました。北条氏も彼の能力と家柄を高くかい厚遇しました。ところが、謙信が関東攻略に乗り出すとまよわず反北条で立ち上がりました。武蔵制圧をめざす氏康にとって、最大の障害はこの資正と下総の関宿城主の梁田氏でした。氏康は岩槻城と松山城(埼玉県吉見町)を持つ資正に対し、信玄の加勢を得て松山城を奪うことに成功しました。しかし岩槻城を落とすことできませんでした。
この大田資正という人はすさまじいファイターでした。彼ほどの知力と胆力があれば、北条陣営でも相当な働きができたと思うのですが、どういうわけか彼は生涯徹底的に反北条を貫きました。松山城を失った資正は岩槻城を拠点に、利根川対岸の関宿城の梁田氏と同盟を結んで北条氏に対抗しました。岩槻城は背後に荒川が流れ、地理的に東関東攻略の拠点になります。そして、関宿城は利根川の渡河地点でした。したがって、北条氏にしてみれば、この二つの城を落とせば、東関東攻略は半分以上終わったも同然です。東関東の豪族たちもこのことはわかっていました。そのため常陸の佐竹氏や下総の里見氏なども強力に大田・梁田氏を支援します。そこで、この二城をめぐり熾烈な攻防戦が展開しましたが、その中心は資正でした。
こういう資正に不安を抱いたのは資正の長男でした。彼はもはや北条氏に従うしかないと考えました。そこで、資正が留守の間に城内の家臣たちをまとめ、戦争から帰還した父資正を城に入れず追放してしまいました。しかし、岩槻城を追われても資正の闘志は衰えませんでした。その後は佐竹氏の客将になって北条軍と戦います。資正は、北条と結びつきを強める謙信をなんとか対北条戦に引き留めようとしました。その後、謙信が武田氏に対抗するため北条氏と同盟を結ぶと、謙信から離れ信玄に近づきました。資正にすれば反北条なら組む相手はだれでもよかったようです。信玄亡き後は信長に直接会って北条討伐を進言しています。さらに信長が亡くなっても資正の怨念は消えず、秀吉の小田原攻めには秀吉に面会し謝意を表しています。資正は北条滅亡を見届けた翌年、69歳の長い生涯を終えました。なんともすさまじい執念の人でした。
越相同盟
岩槻城を手中におさめた氏康は武蔵平定を本格的に進めますが、ここで氏康は外交では大きな転換をはかりました。それは今まで同盟を結んでいた信玄と決別し、敵対していた謙信と新に同盟を結びことでした。これは北条にとってそうせざるをえない事情が西の駿河で起こったからでした。1568年、信玄が駿河の今川領に攻め込み今川氏を放逐してしまいました。この時氏康も駿河に攻めこみ一定の成果を得ています。しかし、今川氏が滅んだことで信玄と国境を直接接することになりました。
地図の上では武蔵の多摩地方は甲斐と接しています。しかし、行き来が不便でした。両国の国境としては有名な小仏峠がありますが、今の小仏峠とは違って当時の小仏峠はもっと北にあり、交通不便の難所でした。あとは大菩薩峠をはじめいくつかの峠道がありましたがそれらは修験者の道で人々はめったに行き来しませんでした。したがって武蔵と甲斐は隣接する位置にありながらも、それまでは北条軍と武田軍は接触しませんでした。
今川氏の滅亡で両氏の間には厳しい緊張関係が生まれました。しかも信玄は上野支配をねらっていました。北条氏が手を携える相手は謙信しかいませんでした。謙信も信玄に対抗するためには北条氏と連携する必要がありました。一種の遠交近攻策でした。しかも、この提携は北条氏に有利に働きます。というのも、北関東の反北条氏の豪族たちは、謙信が北条氏と同盟を結ぶことにこぞって反対したからです。謙信は彼らをなだめながら講和しますが、結局彼らはしだいに謙信から離れていきます。大田資正などは信玄の傘下に入りました。謙信がそれでも北条氏と結んだのは、信玄が上野方面に本格的に進出してきたからです。信玄は上野西部を制圧し、武蔵も射程に入れていました。もっとも北条氏と同盟を結んでも謙信は北条氏には肩入れしなかったようです。氏康もほぼ単独で武田と戦わざるをえなくなりました。
武田信玄の北条領進攻
北条氏は戦争には弱かったようです。それをはっきり示したのが、1569年の武田軍の侵攻でした。信玄がどうしてこの作戦を行ったかはわかりません。上野から武蔵制圧を狙う信玄が北条氏に恐怖心を植えつけるためだったのかもしれません。この年、武田軍は碓氷峠越えに姿をあらわすと、上野方面から武蔵に侵攻しました。これに対し北条軍はまったく歯がたちませんでした。
武田軍は小仏峠を越えて武蔵に侵入した部隊もありましたが、主力は上野の高崎方面から鎌倉街道沿いに堂々と進撃してきました。最初の攻撃は北武蔵の鉢形城(寄居町)でした。城主の氏康の三男氏邦はかなわないとみて籠城しました。すると、武田軍は城下ばかりか秩父方面にも派兵し、徹底的に町を焼き払いました。そして、鉢形城下をも蹂躙すると、武田軍は二手に分かれ南下していきました。一隊は江戸城に向かい、もう一隊は八王子の滝山城を攻めました。滝山城の城主は氏康の次男氏照でした。平山城の狭い滝山城に武田軍が城内まで侵入しました。氏照は必死に防戦しますが、武田軍は強く城内深く進入し落城寸前まで追いつめられ、かろうじて撃退しました。
(この後、氏照は滝山から西よりに城を築き、八王子城と命名しました。これが八王子の地名の由来です。その後徳川家康が武蔵に入ると、八王子城は廃城し、さらに西に町を移しました。これが今の八王子です。)
滝山城を蹂躙した武田軍は、その後江戸城を攻撃した部隊と合流して西に進み、小田原城に向かいました。北条氏は謙信に攻められた時と同じように籠城するしかありませんでした。武田軍は小田原城を包囲し、城下を焼き払い、ここも思う存分に蹂躙して西に向け撤退していきました。 
この撤退する武田軍を、氏照氏邦の兄弟が三増峠(神奈川県津久井郡)で待ちかまえていました。北条軍は高い位置に陣を敷き、低位の武田軍を攻撃する態勢になりました。これだけでも北条軍に有利なはずの戦いでした。しかも、小田原城からは援軍も駆けつける手はずになっていました。しかし戦いは長引き援軍もなぜか途中で止まってしまいました。そのうち武田の別働隊が駆けつけて氏照氏邦軍に襲いかかりました。北条軍は大敗し、武田軍は悠々と駿河方面に引き上げていき、北条軍はそれをただ見送るしかありませんでした。
この戦いで北条氏は武田軍に武蔵から相模まで領地の中心部をほぼ縦断され、ことごとく敗北するという屈辱を受けました。北条軍は武田軍にはとても歯が立たないという感じです。実際、北条軍はそれまで弱小豪族相手の戦いしかしたことがなく、大軍を擁して広い平地で激突するという野戦の経験がありませんからしかたのないことかもしれません。
この二年後、氏康は死去しますが、その遺言は武田と同盟を結べ、というものでした。この戦いといい、先の謙信の小田原包囲といい、全体的に北条氏は戦争に弱いという感じがします。 
4) 4代北条氏政 (1538〜1590) (伊豆 相模 武蔵 下総 上総 上野(東部)下野(南部)常陸(西部))
氏政の領土拡大
1571年、氏康が亡くなりその後を受けたのが4代氏政でした。この人は歴代の北条当主でもっとも評価が低い人です。当主の地位を息子の氏直に譲った後も実権を握り、氏直が秀吉との融和の道を模索するのに反対し、結局北条氏を滅亡に導いた人ということになっています。この人については、その暗愚ぶりを示すエピソードがあります。幼少の時、飯茶碗に汁を一度かけて足りなくてもう一度かけたのを父氏康が見て、毎日食べるのにその分量もわからないのかと嘆き、北条も自分の代で終わるであろうと予言したというのです。しかし、これは後世の作り話のようです。氏政は実際は精力的な軍人であり政治家でした。北条領がもっとも拡大したのは、この氏政の時代でした。
北条氏は上杉謙信と武田信玄が健在なうちは思うような活動ができませんでした。そこで、信玄と謙信という両雄が亡くなると、北条氏は堰を切ったように関東各地に進撃をしました。信玄が死去したのが1573年、謙信が亡くなったのは1578年です。信玄亡き後、武田氏は織田・徳川との攻防で忙しくなります。その武田氏も1582年に滅亡し、武田を滅ぼした信長もこの年本能寺の変で亡くなりました。越後でも謙信が亡くなると、後を継いだ養子の景勝はもはや謙信のようには関東経営には関心を持たなくなりました。信長が亡くなり日本全体の歴史が止まりました。関東では武田・上杉の圧力がなくなりました。北条氏にとって、願ってもない好環境が現れました。
はじめ北条氏は甲斐信濃方面に出ようとしました。しかし、ここは徳川家康と競合しました。そのため、北条氏と家康の間には協定ができました。その結果、甲斐信濃は家康が切り取り、上野は北条が切り取るということになりました。上野には一時織田信長の軍が侵攻しましたが、信長が本能寺の変で倒れると空白地帯になってしまいました。
こうして、北条氏が進攻する地域は決まりました。それは北の上野と東の下野常陸そして房総です。相手は、上野の真田、常陸の佐竹、房総の里見氏という中級の戦国大名です。そこで北条氏はこの地域でちょうど開拓農民が少しずつ農地を広げるように領地を拡大していきました。氏政の時代になると、北条氏も当主を中心に一体となって領土を拡大するのではなく、氏政をふくむ兄弟たちが分担して方面ごとに攻略することになりました。彼らは大きな城を持つ城主でしたので、これを支城体制とよびます。本拠の小田原城は相模西部に位置して関東攻略の拠点にはなりません。そこで、武蔵と下総の城が司令部になりました。氏政は1580年に長男氏直に家督を譲ると隠居してしまいます。しかし、それは引退を意味するのではなく、反対に自由な立場になって思い切り領土を拡大しようということでした、氏政は下総南部から房総進攻に力を注ぎました。氏政が拠点にしたのは江戸城と岩槻城でした。北条氏の中でも、もっとも積極的だったのは次弟の氏照でした。彼は北条きっての猛将でした。氏照は八王子城主でしたが、本来八王子城は甲斐の武田信玄への備えでした。そのため、武田氏が滅亡すると八王子は戦略的価値をまったく失いました。父氏康は早くから彼を八王子城主兼務のまま東部戦線に投入していましたが、武田氏の脅威がなくなると、氏照は東関東攻略を精力的に進めました。
彼は関宿城を攻撃して1574年とうとう関宿城を奪いました。それからはここを根拠に下総北部や下野に進攻していきます。北条領の拡大という点で最も功績があったのは氏照でした。北部方面は鉢形城の城主、三弟の氏邦の担当でした。鉢形も元々は北の武田・上杉に対する防衛拠点でした。しかし、信玄や信長、謙信が亡くなると、上野が空白地になりました。そこで、氏邦は今までの遅れを取りもどす勢いで進攻していきました。この地域の相手は、信玄亡き後自立した真田氏でした。氏邦にしてみればとるに足りない相手です。氏邦も猛攻撃をかけました。
こうして、北条氏は氏政、氏照、氏邦の三兄弟が競うように東関東と北関東に兵を進めました。その結果、北条領は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総、そして上野から常陸と下野の一部にまで及ぶ広がり、石高換算で240万石の大領となりました。初代早雲から三代氏康までに獲得した領土は伊豆、相模、武蔵の3国で石高にして約100万石でしたから、氏政の20年間で倍増させたことになります。なお、氏政には氏照・氏邦のほかに四弟の氏規がいました。彼は伊豆の韮山城主でした。そのため領土拡大ではなく外交を担当しました。その主な相手は徳川家康でした。また、忍城の成田氏は武蔵七党の流れを組む土着の豪族でしたが、北条氏から厚遇を受け、武蔵東部の羽生や加須方面に領地を広げ、北条氏にあっては客将格の有力な与力大名の地位にありました。
戦国大名と戦争
戦国時代の戦争の特徴は、規模が大きくなることもありますが、それと同時に内容も凄惨になってくることにあります。まず戦国大名は大義名分があってもなくても平気で他国他領に侵略します。戦国大名にとって、この武力で他領を征服するというのがきわめて重要でした。というのも武力で獲得した領地は戦国大名が思う通りに支配できるからです。武力で征服した土地には遠慮なく過酷な年貢を課します。そして、征服地から徴兵した兵士は、何のしがらみのない手駒にすぎませんから、無理な戦闘も強要します。こういうことは長年居住を共にしてきた本領の領民に対してはできないことでした。新領を獲得することで戦国大名飛躍的に武力を高めました。戦国大名は敵に対しても平気で残酷な仕打ちをします。戦国大名はしばしば「撫で切り」ということをします。これは降伏した敵の兵士はもちろん女性や子どもまで、さらには飼っている牛馬にいたるまですべてを殺戮するというすさまじいものです。信長の残忍さはつとに有名ですが、戦国大名はみな同じようなことをしています。こうして周囲に恐怖心を与えながら領土を拡大するのが戦国時代の戦国大名でした。また、戦国大名の場合、領地の拡大が時間とともに加速するのが特徴です。この特徴は北条氏によく現れています。北条氏は初代早雲がゼロからはじめました。早雲が一代で獲得した領土は伊豆一国でした。この伊豆は約10万石です。2代目の氏綱は相模まで拡大しました。相模は約25万石です。3代目の氏康は武蔵を平定します。武蔵は約70万石です。これを並べると10万石→25万石→70万石と倍々で増加しているのがわかります。この北条三代80年で獲得した領土は約100万石です。
しかし、4代目の氏政になるとさらに速度を増します。氏政はわずか20年で常陸の佐竹領をのぞく関東の大半を征服してしまいました。氏政が広げた北条領はそのまま家康領になりました。この時の家康の所領が240万石でした。ですから氏政はわずか20年で140万石増やしたことになります。こういう傾向は北条氏に限らずほかの戦国大名でも同じです。戦国時代が本格的にはじまると、きわめて短い期間で戦国時代が終わってしまうのはそのためです。 
5) 4代 北条氏政(1538〜1590)・5代 北条氏直(1562〜1591) (伊豆 相模 武蔵 下総 上総 上野(東部)下野(南部)常陸(西部)
北条氏と秀吉
氏政の時代は、北条氏にとって領土拡大の絶好のチャンスでした。しかし、この時には秀吉による全国平定が急速に進み戦国時代は終わろうとしていました。秀吉の掲げたスローガンは「天下惣無事」。つまり、あらゆる戦争をやめ平和な状態をつくりだすことでした。氏政もそのことはすでにわかっていました。
この氏政という人は、ふつう井の中の蛙のように見なされていますが、そうではなくやはり北条氏の総帥としての見識を持った人でした。氏政はすでに信長の存命中、信長の陣営を訪問しています。そこで氏政は信長からまるで家臣のように扱われていますが、それにも耐えています。その後、北条氏は隣国になった徳川氏とは最初抗争しましたが友好を深め、同盟を結ぶことにしました。氏政は長男氏直の妻に家康の娘迎えました。ですから、北条氏なりに全国の政治状況を把握していました。当然秀吉の存在も意識していました。ですから、北条氏は関東だけを世界と考えた井の中の蛙だったというわけではありませんでした。
すでに何度も触れたように、北条氏の関東攻略はスピードが遅すぎました。先に言ったように、信長は桶狭間の戦いから将軍足利義昭を奉じて京都に入京するまで7年しかかけていません。毛利元就も中国統一にかけた時間は50年でした。北条氏の最終目標はおそらく関東支配でした。ところが北条氏は100年経っても関東制覇が終了利用しませんでした。とはいえ、残るのは上野の一部と、下野の北部、そして常陸だけになりました。北条氏にとってそれに必要な時間はほんのわずかでした。しかし、北条氏にはこのわずかな時間が与えられず、結局が滅亡することになってしまいました。
秀吉は四国九州平定が終えると残すのは関東と東北だけになりました。秀吉は大名間の戦争停止の命令を全国に出します。すると、上野で真田氏と戦い、常陸で佐竹氏と戦っている北条氏は命令違反となります。そこで、北条氏と秀吉の間が急速に悪化します。これが北条滅亡の原因になりました。
しかし、秀吉は最初から北条氏を滅ぼすことに決めていたと思います。というのも、秀吉は天下統一を急ぐあまりかなり無理をしていました。そして、今までの無理を一挙に解決するには北条氏を滅亡させるしかなかったからです。秀吉は天下統一をめざしましたが、その内容は服従しない相手には戦争をしかけて征服するということでした。すると、ふつうは相手が降伏すると、その領地を没収し戦功のあった部下の大名や家臣たちに分け与えることになります。部下たちもそういう見返りがあるからこそ秀吉の命令に従います。
ところが、全国平定を急ぐ秀吉は、薩摩の島津の処置に見られるように、敵対した相手に寛大な処置をとりました。領地没収を覚悟していた敗者は没収を免れて喜びますが、秀吉の命令で戦った大名や家臣たちはただ働きでした。有名なことですが、島津攻めでは四国の長宗家我部元親は最愛の長男を戦死させています。にもかかわらず目立った代償は与えられていません。当然部下の不満は鬱積します。秀吉にはこういう部下たちの不満をいずれ解消する必要がありました。それには200万石を越える北条領がうってつけでした。秀吉が北条を滅ぼした後の仕置きをみればわかるように、北条遺領に家康を移し、その空いた家康領にはあちこちの大名に禄高を加増して移封すれば、大名たちの不満解消と配置換えがいっぺんに解決します。
したがって、どうあがいても北条氏の滅亡は決まっていたと思います。必要なのは北条氏を攻める口実ときっかけだけでした。口実はまもなくできました。鉢形城主北条氏邦の家臣が真田領を攻めたことでした。北条氏にすれば、国境がはっきりしないために起こった紛争でした。北条氏は必死に弁明します。しかし、秀吉の受け入れるところにはなりませんでした。こうして秀吉の北条攻めが決まりました。
そして、たぶん家康もこのことは了解していたと思います。秀吉との接点を閉ざされた北条氏にとって外交の窓口は家康しかありませんでした。北条氏はすっかり家康を頼っていました。しかし、本多正信など策略好きの参謀が家康の周辺に集まっていたこと考えると、家康が北条氏のために親身に労をとったとはとても思えません。おそらく、北条氏は家康にも利用されたのだと思います。歴史では、家康は北条のためにさまざまな助言と支援を行ったが氏政が頑迷だったため、家康の好意も努力も報われなかったということになっています。しかし、これは事実ではないと思います。秀吉と家康が小田原城を眺めながら連れションして、その時北条領に家康が入る話が決まったという有名なエピソードがありますが、これなども後世の作り話だと思います。
秀吉の北条攻めが決定した時、北条氏の当主は5代目氏直でした。しかし、彼にはなんの決定権もなく、父氏政と叔父の氏照・氏邦・氏規たちと少数の重臣がすべてを決めていました。そこでは、伝わるところによると、強硬派の氏政・氏照と講和派の氏規に分かれ、結局強硬派の主張が通ったことになっています。次いで籠城説と出撃説で議論が分かれましたが重臣が主張する籠城説に決まったとされています。しかし、果たしてこういう講和とか出撃とかを選択できる余地があったかというと非常に疑問です。籠城以外の道はなかったと思います。
北条氏の関東支配というのは意外に脆弱でした。北条領の大半は領土というより占領地でした。秀吉が天下人になり全国統治をはじめた時点で、本当に北条領といえるのは、伊豆と相模、それからせいぜい武蔵の南半分でした。その武蔵の豪族たちも大半は多くは心ならずも北条氏に服従している者たちで、領民も北条氏に親しみなど持っていませんでした。ですから、秀吉の裁定にしたがえば、北条氏は領土を大きく減らし、伊豆と相模だけ、場合によっては伊豆だけになる可能性もあったと思います。この二国は併せても石高で35万石くらいです。伊豆一国なら10万石にもなりません。これを戦わずして受諾することは戦国時代の常識にはなかったことです。ですから氏政や氏照の強硬策は必ずしも愚策というわけではなかったと思います。
この籠城戦で北条氏は家臣だけでなく家臣の家族たちも城に入れました。この時代の籠城では家臣の家族はもちろん領民まで城に収容していたようです。これについては、よく領主と領民が心を一つにして国を守るというような解釈がよくなされますが、そうではなく、家臣や領民の裏切りが怖くて彼らを人質にしたというのが真相です。
北条氏も、このようないつ裏切ってもおかしくない家臣たちを多く抱えていてはとても野戦はできません。それに北条氏は戦争経験は豊富ですが、その多くは小城の攻防をめぐる戦争で、お互いに大軍を擁して激突するいわゆる会戦の経験はありません。指揮をとれる人もいませんでした。ですから、小田原城を核に支城で籠城戦を戦うというのが自然の成り行きでした。かつて謙信と信玄の攻撃を籠城で耐えたという経験は考えなかったと思います。それとはまるで状況がちがいましたから。(ただ、小田原城はとてつもない巨大な城だったようです。現在の小田原城は江戸時代の城ですが、北条時代の小田原城は総延長9キロに及んだとされています。たぶん町全体を要塞にしたような城でした。)
北条氏は領民の徴兵年齢を70歳に引き上げ、動員可能の限りをつくして臨戦態勢をとりました。この時、北条領は200万石を越えていました。しかし、実際の北条軍はせいぜい7万でした。たぶん関東の多くの地域で、人々は北条氏を見放して徴兵に応じなかったということでした。 
6) 4代 北条氏政(1538〜1590)・5代 北条氏直(1562〜1591) (伊豆 相模 武蔵 下総 上総 上野(東部)下野(南部)常陸(西部)
戦いの推移
1590年春、21万人からなる秀吉の北条攻めがはじまりました。攻撃軍は東海道と東山道の二方面から関東に侵攻しました。東海道は秀吉率いる本隊と家康等の部隊で17万人の大軍でした。東山道は前田利家を主将に3万5千の北国勢でした。秀吉は3月末に関東入りし、4月になって本格的な戦争がはじまりました。秀吉の作戦は小田原城を包囲して北条軍本隊を身動きさせず、その間に各地の支城を陥落させ、それから小田原城を総攻撃するというものでした。北条軍も領内にあるたくさんの城のうち、多くは捨て城にしました。そういう城は守備兵もほとんど配置されず難なく落城しました。 江戸城や岩槻城にも城兵はほとんどいませんでした。上野の諸城は秀吉軍の降伏勧告を受け入れいちはやく無血開城してしまいました。したがって、秀吉の北条攻めで抵抗したのは、本城の小田原城のほか、八王子城、鉢形城(埼玉県寄居町)、忍城(埼玉県行田市)、韮山城(静岡県韮山町)などほんのわずかでした。小田原城には氏政・氏直のほか八王子城主の氏照、鉢形城主の氏邦、忍城主の成田氏など北条氏の首脳が集まりました。そして、それぞれの城は城主夫人や重臣が守備の指揮をとることにしました。ただ、韮山城は地理的に真っ先に秀吉軍の攻撃を迎えることになり、そのため氏規自身が陣頭指揮をとりました。
北条方の城のうち、まず陥落したのは氏邦の鉢形城でした。攻撃は前田利家を主将とする北国勢でした。鉢形城は一ヶ月の籠城の後6月14日降伏しました。鉢形城攻撃には、途中から駆けつけた家康の家臣本多忠勝が持ち込んだ大砲が威力を発揮しました。大砲といっても鉄砲を大きくしただけで、弾頭が爆発するわけでもありません。鉄砲玉より少し大きな鉛の玉が飛んでくるだけですが音がすさまじかったようです。城内はパニックになりました。本多忠勝は通称平八郎といい槍一筋の荒武者のイメージが強いのですが、彼にはこういう器用な面もありました。この経験が後に大阪城攻撃に生きました。大阪冬の陣で家康軍は大阪城に大砲を打ち込み有利な講話を結び、その半年後の夏の陣で豊臣氏を滅亡させました。
鉢形城が落ちると、次は八王子城でした。この城は、氏照が滝山城を信玄に攻められたのに懲りて新たに作った総構えの大きな山城です。八王子という名称も、氏照がこの八王子城を築いたことにちなんでいます。ところが八王子城は6月23日のたった1日の攻撃で落城してしまいました。この時、城主氏照は小田原にいて不在でした。どんな小さな城でも必死で籠城すれば10日くらいは持ちこたえます。まして八王子城は巨城でした。にもかかわらず一日しか持ちませんでした。推測ですが、たぶん城兵たちは一戦も交えず開城したのだと思います。犠牲者もわずかながらいましたが、これは殺気だった攻城軍が無抵抗の兵を殺害したのだと思います。
意外にも長持ちしたのは韮山城と忍城でした。韮山城は氏規の城で、地理的に北条領の西の端にあたります。そのため、この韮山城で最初の戦いがはじまりました。城主の氏規は北条家ではもっぱら外交を受け持ち、武人のイメージはありませんが戦上手だったようです。こちらは100日ほど持ちこたえ、敵将が「貴公の武人としての面目は十分たった。これ以上の戦いは無益ではないか」と降伏を勧告され余力を残しての開城でした。秀吉は初め戦争はすぐに終わると考えていました。にもかかわらず、思いの外長引いたのは、韮山城が善戦したからでした。
攻撃軍がもっとも手こずったのは成田氏の忍城でした。成田氏は半ば独立領主で、氏康の時には謙信について反北条だったこともありました。その後、北条陣営に加わり、家臣というよりは客将のような立場にいました。ですから北条氏には義理はないのですが、どういうわけか忍城にたてこもり頑強に抵抗しました。忍城周辺は今と地形がちがっていて、当時は広大な湿地帯でした。忍城はこの湿地帯に浮かぶ浮き城でした。そこで、攻将の石田三成は城を土塁で囲んで水攻めにしましたがなかなか降伏しません。忍城の抵抗は小田原城が降伏しても続き、小田原にいた城主が説得してようやく開城しました。石田三成が戦争下手という評価ができたのはたぶんこの忍城攻略のせいです。 
小田原城が降伏したのは7月3日でした。各地の城がほぼ落城し、もはやこれまでと判断したようです。当主氏直が城外に出て家康の陣営に赴き降伏を申し出ます。自分の命と引き換えに城兵を助けてほしいというのが条件でした。降伏した北条氏に対し、秀吉のとった処置は過酷でした。当主氏直と氏規は高野山追放、氏邦は前田家預かりでしたが、氏政と氏照は切腹となりました。そして、秀吉軍の損害は軽微だったにもかかわらず、北条領はすべて没収となりました。北条氏にとって最悪の事態でした。氏直は追放後すぐに許され、領地を与えられましたが病死しました。そのため氏規の子が跡を継いで1万石の領主になりました。成田氏も城主は追放され改易の処置を受けましたが、後に大名に取り立てられました。
北条氏あれこれ
5代100年続いた北条氏はこうして滅びました。しかし、北条氏の人たちに後悔はなかったと思います。死に処せられた氏政・氏照にしても、自分たちの強硬策で北条を滅亡させたとか、社稷を守れず祖先に申し訳ないという意識もなかったと思います。平家物語では、平家の人たちは最期「見るべきことは見つ」と言って入水します。つまり、生きて見たいことはすべて見た、もはや思い残すことはない、という意味です。そこには自分の人生を一つの美しい物語として完結したという美意識があります。しかし、戦国時代の人たちはこういう考え方はしないようです。これは本能寺で倒れた信長などもそうですが、自分の人生が思いがけないことで突然終わってしまう、あるいは業半ばですべてが失われてしまう、こういうことは当時の人にとってはよくあることでした。ですから、そういう状況に遭遇しても無念を感じることはなかったように思います。
毛利元就は息子三人にあてた書状で、兄弟が結束することを求めています。これが三本の矢に喩えた有名な話になっていきます。しかし、元成はその中で戦国大名に成長した毛利家について「こういうもものはいずれ滅びるものだが、兄弟がまとまっていればしばらくは持ちこたえるであろう」と現代人以上に冷めた目で見ています。上手く説明できませんが、この時代の人は今を生きるということがすべてでした。したがって、今の自分と明日の自分を連続して考えません。次の瞬間に何が起きても不思議ではないという考え方が骨の髄までしみこんでいます。それに中世の人たちは、人は死ぬために生まれてくる、というように考え、死に対して恐怖心を持っていませんでした。
北条氏と江戸
東京の町を歩いていると、やたら太田道灌のエピソードや遺物が目につきます。反対に北条氏関連の資料はほとんどありません。江戸城にしてから、太田道灌が築城した江戸城を家康がそのまま受け継いだように考えられています。しかし、そうではありません。家康が入府する前まで、江戸城は北条氏が対下総上総攻略の拠点として十分整備した城でした。さらに言うと、大田道灌が江戸城を築くずっと前に秩父一族の江戸氏がすでに江戸城を拠点にしていました。ですから、大田道灌は真っ白な更地に江戸城を作ったのでもなければ、家康も道灌から江戸城を引き継いだわけでもありません。
確かに道灌は江戸城をつくりました。しかし、当時江戸城はあくまで扇ケ谷上杉氏の持城でした。江戸城は太田道灌の居城だったわけではありません。それに道灌が活躍したのは北武蔵でした。実際、道灌の父の領地は北武蔵の埼玉県比企郡越生町にあり、ここに道灌と彼の父の墓があります。ですから、道灌はとくに江戸に縁が深いというわけではありません。
こういう道灌が江戸の祖先となったのは江戸時代でした。それは道灌を前面に出すことで北条氏の記憶を江戸から消そうとしたためだと思います。徳川幕府が意図的にしたとは思いませんが、かつて北条氏が存在したという事実が表面化するのを嫌う幕府の気分は、無意識のうちに人々に伝わっていたと思います。ですから、江戸時代の北条氏関連の歴史書などは割引して考える必要があると思っています。 
9 室町時代の仏教
室町時代には仏教が大衆化しました。この時代の人たちは、現代人とちがって死ぬこと自体にはあまり恐怖心は持っていませんでした。当時の人たちの最大関心事は往生して浄土に行くことができるかどうかでした。
これは武士や公家ばかりでなく庶民に至るまで切実な問題でした。そこで、応仁の乱の頃には武将たちは自分専用の僧を伴って戦場にいき、万一死ぬようなことがあればこの僧に看とられながら死に、僧もその死を見届けて遺族に最期の様子を伝えるという習慣がありました。この僧を持僧といいたいてい時宗の僧でした。時宗の僧は何々阿弥と阿弥号を持ち、芸能なども身につけていて、平時にも主君に近侍して主君の退屈をまぎらすこともしていました。江戸時代には茶坊主とよばれる大名の身近に侍る僧がいましたが、これがその系譜です。仏教の大衆化は武蔵にも及びました。そのうち、室町時代の頃から行われるようになった札所めぐりとこの頃盛んに造営された板碑を取りあげることにします。
札所
札所とは観音信仰のことです。寺に観音像を安置した観音堂があってこれを礼拝して回るのが札所巡りです。観音堂をめぐることを順礼といい、四国の弘法大師ゆかりの寺八十八ケ所を回るのを遍路といい両者を区別します。順礼は寺から寺にどの道でもよいというのではなく決まった道があります。これを順礼道といいます。私も、これをわかれば昔の古道がわかると思い、秩父札所の順礼道を調べようとしたことがありますが、あまりの煩瑣であきらめてしまいました。
札所巡りは元々京都の公家たちが自家で写経し、それを寺に奉納するため代わりの人が代参したのが始まりらしく、平安時代の末期に西国三十三番札所ができました。その後、鎌倉時代になって関東では坂東三十三番札所ができました。坂東札所が鎌倉時代の成立であることは坂東札所が鎌倉の寺から始まり、相模の鎌倉周辺に寺が多いことからもうかがわれます。しかし、札所はこういう数カ国にまたがる大きな札所だけでなく、その地域で完結する地方札所も各地にありました。武蔵では秩父札所が有名ですが、ほかにも旧入間郡と旧比企郡にまたがる入比三十三番札所があります。このうち秩父札所については残っている木札のうち最古のものに 年のこういう地方札所は武蔵には、このほかにもあると思います。
秩父札所も最初は三十三でした。それがいつ頃かもう一寺が加わり三十四になりました。その理由については、西国札所と板東札所を合わせちょうど百にし、日本百観音にするためだったという説が強いようです。札所では順番通りに1番から33番まで回るか、反対に33番から1番に回るかの二通りがあります。前者を「順打ち」と言い、後者を「逆打ち」と言います。打つというのはこの札所巡りでは、参拝時に木の札に自分の名前と日付を書いて、お堂の壁や天井に打ち付けたことによります。
もっとも、これはその後紙に代わり、紙もお堂が汚れるというので、朱印状といって寺名の一覧表にスタンプを押してもらうというやり方になっています。
札所巡りは今のオリエンティーリングのように寺を回って仏様に手を合わせるだけかと思っていましたが、埼玉県ときがわ町の慈光寺で、写経してきた般若心経を寺に納めているのを見たことがあります。正式のお参りはたぶんこのようなスタイルだと思います。
般若心経は、「色即是空」で有名な短い経典です。お経でもっとも長いのは般若経で、その精髄を表現したとされるのがこの般若心経です。般若心経は、観世音菩薩が釈迦の高弟に向かって教えを説くというスタイルをとっていますから、法華経の一部である観音経ともうまくつながります。それで札所参りに使われるのだと思います。般若心経の原典は古代インド語で書いてありますが、ふつうわが国で流布しているのは、「西遊記」のモデルとされる玄奘という人が訳した中国語訳です。
板東札所は次の33寺です。
1番杉本寺(神奈川県鎌倉市)
2番岩殿寺(神奈川県逗子市)
3番安養院(神奈川県鎌倉市)
4番長谷寺(神奈川県鎌倉市)
5番勝福寺(神奈川県小田原市)
6番長谷寺(神奈川県厚木市)
7番光明寺(神奈川県平塚市)
8番星谷寺(神奈川県座間市)
9番慈光寺(埼玉県ときがわ町)
10番正法寺(埼玉県東松山市)
11番安楽寺(埼玉県吉見町)
12番慈恩寺(埼玉県旧岩槻市)
13番浅草寺(東京都台東区)
14番弘明寺(横浜市南区)
15番長谷寺(群馬県高崎市)
16番水澤寺(群馬県渋川市)
17番満願寺(栃木県栃木市)
18番中禅寺(栃木県日光市)
19番大谷寺(栃木県宇都宮市)
20番西明寺(栃木県益子町)
21番日輪寺(茨城県大子町)
22番佐竹寺(茨城県常陸大田市)
23番観世音寺(茨城県笠間市)
24番楽法寺(茨城県桜川市)
25番大御堂(茨城県つくば市)
26番清瀧寺(茨城県土浦市)
27番円福寺(千葉県銚子市)
28番龍正院(千葉県成田市)
29番千葉寺(千葉市中央区)
30番高蔵寺(千葉県木更津市)
31番笠森寺(千葉県長南町)
32番清水寺(千葉県いすみ市)
33番那古寺(千葉県館山市)
観音信仰
観音、正確には観世音菩薩といいますが、大乗仏教の経典である法華経に、観世音菩薩は現世で苦しむ人を救済するためさまざまに身を変えると書いてあります。法華経のこの部分を独立させたのが観音経で、そこに書いてある具体的な変身例を数えると三十三になります。これが札所が三十三になる根拠です。
私もその観音経を読んでみました。驚いたことに、観音菩薩が変身して衆生を救済するというのが書いてあるのはわずか一ページ足らずでした。観音信仰は平安時代に貴族階級が始め、その後諸階層に広まり各地に札所が設けられました。平安時代から現代まで約千年経っています。その間、札所参りをした人の数は見当もつかないほど大勢のです。たった一ページの経文が、千年にわたって人々の心をとらえつづけたと想像すると何か不思議な気持ちになります。観音はさまざまの人を救済しますから大忙しです。手がいくらあっても足りません。そこで千手観音が生まれました。また、悩み苦しむ人は四方八方にいますから目配りが大切です。そこで十一面観音が生まれました。しかし、観音はさまざまに身を変えますが、結局のところ元の姿は一つであると考えれば、ふつうの仏像と同じ姿になります。これが聖観音です。観音菩薩の姿はほかにもありますが、基本的にはこの三種です。
札所は三十三が決まりです。秩父札所以外はすべて三十三ケ所です。しかし、これについては、最澄がそう決めたからというのが唯一の根拠で、三十三以外は誤りというのではなさそうです。私も観音経を読み、その変身例を数えてみましたが三十五ありました。それで、どうして三十三になるのか疑問に思いました。実は今でもわかりません。三十五の変身の中には人間に身を変えて救済するのもあります。仏が人間の姿になって人間を救うのでは政治になってしまいます。それでは宗教になりませんから、最澄はこれを除いたのかとも思いました。しかし、それでも三十四で数があいません。そこで三十四では偶数になり、奇数を尊ぶという東洋的観念にもとづき三十三にしたのかとも考えましたが、どうにもしっくりしません。よくわからないというのが正直のところです。 
板碑
平安末期から室町時代にかけて、武蔵の仏教を考える上で、どうしても取り上げなくてはならないものに板碑があります。これは板状の石材でつくった供養碑で捜せば全国各地にあるようですが、武蔵以外はその分布が極めてすくなく、圧倒的に多いのは旧武蔵国の領域です。そこで、これを武蔵型板碑とよびます。板碑は大きいもので高さが2メートルくらいありますが、ふつうは7,80センチです。
武蔵以外の西日本の板碑についても、その分布が源平の戦いや承久の乱で新領地を得た武蔵武士の移住地に多いことから、これらの板碑も武蔵武士たちが故地の風習を現地に持ち込んだのだろうと、本で読んだことがあります。たぶん、そうだと思います。ですから、この板碑というのは武蔵独特の仏教文化でした。
この板碑について、埼玉県では昭和50年頃に調査し、「埼玉県史」によると約2万基がありました。東京神奈川分はわかりませんが、たぶんこちらにも1万基くらいはあると思いますから、およそ合計で3万基はあると思います。しかも、これは現在存在が確認されている数です。ある博物館の学芸員の話では、板碑は道路の補強材やさらにはなんと漬け物石に利用されたりしたのもあったということですから、消滅したのも多く、実際に建てられた板碑はこの3倍の10万基くらいはありそうです。板碑の素材は、秩父の長瀞町と比企郡の小川で採れる緑泥片岩で、俗に秩父青石とよばれています。簡単に板状になるので加工しやすいのが特徴です。武蔵以外に板碑が少ないのは一つにはこの石の産地が限られているせいかもしれません。
また、「埼玉県史」を見ると、埼玉県では中部や南部に多く、石の産地である旧秩父郡には意外と少ないとあります。北の境は寄居町あたりです。この寄居は関東平野の山間部と平地部の境界になる所で、ここから南の荒川流域に多く分布しています。ですから、東京東部の荒川隅田川流域にもたくさん建てられた可能性があります。ただ、東京は江戸時代以降、利根川荒川の東遷で地形そのものが大きく変わり、急激に都市開発が進んだ所ですから、消滅した碑も多く、調査してもあまり意味がないかもしれません。埼玉の板碑2万基のうち、年号を読み取れるのが1万基近くあります。それをグラフにすると1360年代を頂点にきれいに富士山形になります。ですから、鎌倉時代末から室町時代初めにかけてもっとも造立されたことになります。不思議なことに江戸時代になるとピタリと造立されなくなります。
碑は先がとがった長方形ですが、中央に絵文字のような模様が大きく彫られています。これを種字といい、古代インドのサンスクリット文字です。文字一つで仏の名称を表しています。「埼玉県史」では90%が阿弥陀如来だとしています。ですから、武蔵でも浄土教が広く流行していたことがわかります。板碑については卒塔婆の変形とされています。亡くなった人の供養がもっとも多く、これを追善供養と言います。また、生前に自分が死んだ後の極楽往生を願って建てられた碑もあります。これを逆修といいます。鎌倉室町時代には、この逆修は写経をしたり法会を開いたりと全国的によく行われていました。ですから板碑は今の墓石とはまったく意味がちがいます。確かに現在板碑があるのは寺の墓地がもっとも多いのですが、室町時代まで、寺は葬式をしませんでしたから、墓地に板碑を建てることはありません。たぶん、江戸時代になって始末に困って寺に移したものです。
浄土宗の教祖である法然が選んだ浄土三部経の一つ「観無量寿経」によると、往生には、上品・中品・下品の三種があり、さらに、この三種にはそれぞれに上生・中生・下生があるとしています。ですから、往生はこの組み合わせで上品上生から下品下生までの9等に分かれます。簡単にいうと、浄土教では仏の偉大な力で往生そのものは容易なのですが、それだけでは修行に励みがありません。そこで往生を九等に分け、できるだけ上位の往生をめざすということだと思います。また、すでに亡くなった人でも、遺族の供養によってさらに上位に移ることが可能だとされています。それで追善供養が盛んに行われました。
源平の合戦で有名な熊谷直実はこの上品上生をめざして修行に打ち込みました。直実はそうとう自信があったらしく、自分の臨終の日を予言して大勢の人に集まるよう触れ回っています。浄土教では、他人の往生に立ち会うのも善根を積むことになります。これを結縁といいます。まして上品上生の往生に立ち会うなど一生に一度あるかどうかですから、直実の臨終には、武蔵はもちろん他国からも大勢の人が集まってきたと思います。
直実の臨終は予言の日よりやや遅れましたが無事往生しました。直実にすれば、自分は上品上生の往生ができ、さらには自分の往生で大勢の人に結縁の恩恵を施しましたから大満足だったと思います。直実の往生は当時大評判だったらしく、その記事は「吾妻鏡」にも出ています。なお直実の臨終の地は後に熊谷(ゆうこく)寺になりました。
熊谷直実については、源平の戦いで平敦盛を討ち取り、その様子が「平家物語」に叙情的に描写されて有名です。しかし、実際は彼が有名になったのは熱心な念仏行者だったことによるもので、「平家物語」のことは、念仏行者として有名人の直実が源平の戦いに参陣していたというので、「平家物語」の作者が後になって創作したような気がしています。
この直直の往生からもわかるように、逆修も追善も単に極楽往生を願うのではなく、できるだけ上位の往生を願って善根を積むことが目的です。亡くなった人への供養も、今の位置よりさらに上位に移すための供養ということになります。このように宗教気分が濃密だった時代に、武蔵では板碑がさかんに造立されたということだと思います。
板碑には建てた人について、「埼玉県史」によると、最初は領主クラスの人ですが、しだいに農民層が多くなるとしています。農民といっても富農豪農層です。そして、こういう板碑の造立には、造立を請け負う専門集団がいたのだと思います。「新編武蔵風土記稿」を見ると、江戸時代末期の武蔵には、膨大な数の神社や寺があったのがわかります。これら寺や神社の多くは室町時代の創建です。そして、たとえば神社についてみると、きちんと数えたことはありませんが、熊野社と諏訪社、八幡社という武蔵以外の大きな神社が分祠されています。調べてみると、室町時代には御師とよばれる人たちがさかんに活動しています。彼らは活動する領域を縄張りに決めていて、その縄張りの権利を同業間で売り買いまでしています。たぶん板碑の造立もこれとほぼ同じだったと思います。想像するに、板碑も土地の有力者が念仏の遊行僧たちの布教活動を受けて造立したのだと思います。そして、今となっては板碑しか残りませんが、たぶん、こういう板碑造立は専門の念仏僧たちが供養逆修の儀式全体を取り仕切り、その式の一環として板碑を建てたのだと思います。
そして、施主である地元の有力者は大勢の人を集めては酒食を振る舞い、皆で華やかな儀式や楽しい饗宴を楽しんだのだと思います。つまり、娯楽の側面が非常に強かったと思います。時宗の念仏踊りは、現在の盆踊りの起源です。今の盆踊りで、死者の供養だと意識して踊っている人はほとんどいません。当時の人は現代人ほど享楽的ではなかったと思いますが、こういう宗教行事には実際は人々の娯楽の意味もあったと思います。いつの時代もそうですが人の生き方には限界があります。たとえば膨大な富を集めても意外と使い道がありません。この時代も富裕層の人たちが熱中したことというと、官位を買うこと(当時は成功といって朝廷の官位が売りに出ていました)、それと戦争に行くこと(当時の戦争ではめったに死ぬことはなかったと思います)、それから神社や寺に多額の寄付をしたり、仏事神事の催しで人々を集めては自分の力を誇示することくらいしかありませんでした。ですから、旧武蔵領域に残る膨大な板碑も、この時代の厳粛な宗教気分の反映というよりは、おそらく中世社会の猥雑な時代雰囲気の残滓という気がしています。
庚申信仰
今でも地方の古い町や村の一画に庚申塔をよく見かけます。この庚申信仰が始まるのが室町時代です。この庚申信仰は元々道教から生まれたものです。人間の体には三尸とよばれる3匹の虫が住んでいて庚申の日の夜に、本人が眠っているとこっそりその人の罪科を天帝に告げ口する。だから、密告されないように夜通し起きていなくてはならないというものです。しかし、一人で徹夜をするのは大変だから、近しい人たちが集まって茶菓を飲み食いし話をしながら徹夜をします。これが庚申講です。庚申というのは干12支と10干の組み合わせからにもとづく年や日のことですから、つまり60日に一回やってきます。それで60日に一晩人々が集まって徹夜をするだけです。この庚申講は江戸時代には非常に盛んになり、戦前くらいまで続いていました。ただ、人々が集まって夜を過ごすだけの行事が、全国で何百年も続くというのがどうにも不思議でした。そこであれこれ考えてみましたが、たぶんに風俗的な行事だったと思います。昔は人々の楽しみが非常に少ない時代でした。また、日本人は性的なことにはきわめて寛容な民族ですから、たぶんにそういうことだったと思います。昔の門前町には遊郭がつきものでした。深くつきつめて考えたことはありませんが、親鸞ではありませんが宗教的エネルギーと性的エネルギーというのは同じもののような気がします。 
 
6章 江戸時代 

 

1 この時代について
先に関東地方の歴史について、歴史のベクトルがあるということを話しました。それは、外との出入り口が箱根峠と碓氷峠しかない関東地方は広大ですがまたきわめて閉鎖的な空間で、関東の歴史はこの中で独自の運動をしてきたということです。
すなわち大和王権の時代は関東の中心地は上野国でした。その後、奈良時代から平安時代初期にかけて中心は下野国に移りました。さらに平安時代中期以降になると常陸国と下総国になり、鎌倉時代に入ると相模が中心でした。そして、室町時代になると、武蔵が歴史の舞台になりました。このように関東の中心は、時代の変遷にともなって時計回りに円を描いて動いてきました。そして、室町時代は確かに武蔵を中心に歴史が動きましたが、よく見ると武蔵の中でも西部にかたよっていました。具体的には関東山地の山麓にあたる鎌倉街道沿いでした。
それが武蔵東部の江戸に中心に移ったのが江戸時代でした。そして、江戸は関東地方という大きな円の中心に位置していますから、関東の歴史は、江戸という円の中心を目指して螺旋状に進んできたといえると思います。江戸という中心に到達した後は、江戸時代が終わり、明治大正昭和平成なっても名称が江戸から東京に変わっただけで、ここが関東の中心であるということはは変わっていません。
これは単なる偶然のような気もしますが関東と日本の将来を指し示しているような気もします。というのも、歴史の展開を社会の運動であると考えると、江戸時代に江戸が中心になったことで、関東はその歴史の運動をやめたことになるからです。その意味では、東京が関東の中心になったことは関東の「歴史の終り」ということになります。
たぶん、これから巨大地震がやってきて東京の町は一度破壊されることになると思います。しかし、東京はすぐに復活して、その後もずっと日本の首都であり続けると思います。それは例えばイギリスの首都が一度ロンドンに決まるとそこから移ることがなかったように、あるいはフランスの首都がパリからもう千年以上動かないように、東京もこれからもずっと日本の首都であり続けるような気がします。その意味では、東京の町の基本的な枠組みが作られた江戸時代はきわめて重要な時代です。 
ただ、昔の江戸と現在の東京とは大きくちがっています。江戸の町は江戸時代の初めに一度町作りが終わりますが、すぐに改造が始まり、現在にいたるまで延々と工事が続いています。昔のことを考えるのにもっとも手がかりになるのは山と川の地形です。ところが山は削られその土で海岸が埋められました。川も地下に埋められてしまいました。その上、地上には高層ビルが立ち並びどこがどうなっているのかがまったくわかりません。このため、現在の地形から昔の江戸の町を考えることは大変難しくなっています。
また、武蔵の人も昔と今は大きく変わってしまいました。以前民俗学者の宮本常一氏の本で、昭和30年代のことだったと思いますが、鎌倉近郊で老人を集めて、これまで東京に行ったことのある人の調査したことがあります。すると10人くらいのうち、東京に行ったことのある人は1人か2人しかいなかったようなことを読んだことがあります。中には「東京ってのは江戸だよね。江戸には行ったことはないね」というような答えもあってこれには宮本氏も驚いていました。昭和の半ばになっても東京と東京近郊の関係はこのようなものでした。
江戸はたしかに武蔵の中心地でした。そして、江戸の人たちが生活で消費する物資を供給していたのは江戸近郊の村々でした。しかし、武蔵における江戸の町は、ちょうどアメリカの砂漠に浮かぶ歓楽都市のようなところもあって、武蔵の地方に住む人々の多くにとっては無縁の存在でした。
武蔵の地方に住む人々の多くは生まれた村でそのまま人生をまっとうしていました。彼らは生まれた村で育ち、そこで結婚して子どもを育て、そうして年老いて寿命が尽きれば村にある自分の墓に入るということでした。
単調といえば単調な生き方でした。江戸時代初期の「慶安のお触れ書き」に、「百姓は年貢さえ済ませれば、これほど気楽なものはない」というようなことが書いてあります。江戸時代の支配者たちがいかに農民を蔑視したかを示す資料として有名です。しかし、実際にはその通りだったと思います。江戸時代の武蔵の地方の人々は、生まれた村でお互いに助け合いながら、時には小さな摩擦や軋轢を起こしながらもなんとか折り合いをつけてほどほどの人生を生きていました。
歴史というのは社会の動きを記述することですから、こういう何も事件が起きない、いわば時計の針が止まったような平和な時代というのは記述のしようがありません。事実、江戸時代の武蔵の地方については資料が乏しいというのが実情です。しかし、よく見ると徳川幕府を崩壊させたのも農村でした。農村の人たちはそのことを意識してはいなかったと思いますが、農村社会が変容し、その変化に対応しようとする農村の人々の動きが幕府や藩というものを追いつめることになりました。そして、支配階級である武士社会も行きづまっていました。とくに地方の武士の生活の窮乏ぶりは悲惨で、江戸時代が終わって、一番ほっとしたのはたぶん彼らだったかもしれないと思います。そこで、ここではそういう江戸時代の武蔵についても考えてみようと思います。
2 江戸時代以前の江戸
江戸時代以前の江戸についてはよくわかりません。平安時代の書物「和名抄」に書いてある地名から想像すると、平安時代にはこのあたりを官道の東海道が通っていたことがわかります。当時の官道は国府への道でしたから、相模の国府か武蔵の国府である府中から、江戸を通って下総国府(今の千葉県市川市)に行く道がありました。そのため江戸は駅郷に指定されて馬や人足を提供していたと思いますから、それなりに人は住んでいたようです。
しかし、それ以前の奈良時代には、東海道は神奈川県の三浦半島から房総に舟で渡るコースになっていましたし、江戸は武蔵野台地の東南の端に位置し、きわめて水の乏しい所ですから、奈良時代までは武蔵でも人口も少ない寂しい所だったと思います。
江戸がはっきり歴史に出てくるのは、平安末期に武蔵に勢力を張りめぐらせた秩父氏の庶流である江戸重継がここを根拠にしてからです。その子の江戸重長は秩父一族の実力者で、頼朝の鎌倉入りを助けました。この重長の頃が最初の江戸の繁栄期でした。しかし、その後この江戸氏は小さな諸家に分立して衰退したらしく、その行方もわからなくなります。室町時代に今の世田谷区を領地にした喜多見氏は、その末裔だとされていますが真偽のほどはわかりません。(このことから江戸という地名が平安末期にはすでに成立していたことがわかります。江は入り江のこと。戸は入り口という意味ですから、江戸は入り江の出入り口という意味です。たぶん日比谷入江のこと)だと思います))
鎌倉時代には、執権北条泰時の一族金沢氏が横浜に称名寺を建て、江戸を含む武蔵南部に称名寺領という荘園をつくりました。そのため、江戸は武蔵南部と横浜の六浦港を結ぶ舟運の港になっていたと思います。江戸は農業には不適地でしたが、こういう海運でそれなりに賑わっていたようです。
江戸が関東の歴史で重要な役割をするのは、1457年に太田道灌が江戸城をつくってからです。当時、武蔵南部は扇ケ谷上杉氏の勢力範囲で、道灌はその重臣でした。道灌は主命で江戸城と岩槻城と川越城の3城を作りました。(最近では岩槻城の道灌説は否定されているようです)。
この時上杉氏は古河公方と争っていましたが、この頃になると戦場は鎌倉街道を離れ、利根川流域に移っていました。そのため利根川(昔の利根川は東京湾に流れていました)を挟んで、西の上杉と東の公方が対峙していました。そこで、上杉氏は川越城を本城にして、岩槻城と江戸城を対公方戦の前線基地にしました。道灌の江戸城はこういう戦略のもとで築城されました。
江戸城は房総方面への進出基地という役割は、北条氏になっても変わりませんでした。北条氏は、岩槻城を下総攻略の前線基地、江戸城を上総安房方面への前線基地にして、数回にわたり関宿戦争、国府台戦争(市川市)を行いました。
その後、北条氏の東関東攻略が順調に進むと、江戸城は後方に位置し前線基地としての機能は低下しますが、それでも江戸城は小田原と東関東の途中にあり相変わらず重要でした。秀吉の小田原攻めでは、江戸城の城主は北条重臣の遠山氏でしたが、遠山氏は小田原城に詰め、江戸城には兵員もほとんど配置されませんでした。そのため秀吉軍は戦わずして江戸城を占領し、そのまま家康に引き渡されました。 
3 家康の江戸
1) 家康の江戸入府
北条氏が滅んだ後、徳川家康が関東の新領主として江戸に入ったのは、天正18年(1590)8月1日でした。小田原城が降伏したのはこの年の7月3日でしたから、それから1月も経たないで家康は江戸に入ったことになります。家康のこの江戸入府を「江戸打ち入り」といいます。
8月1日を「八朔」といい、この日は古来農民や武士の間では祭日にあたる特別な日でした。ですから、家康はわざわざこの日を選んで江戸に入ったようです。江戸時代には、この八朔の日は、すべての大名が江戸城に登城して将軍に祝賀を述べることになっていて幕府には最重要の祝日でした。
家康は、その前は駿河・遠江を中心に東海・中部地方を領土に持つ大領主でした。しかし、それでも150万石でした。それが今までの領地と交換で北条領を領地に240万石の領主になりました。しかも、家康はこのほかに京滞在の賄い領として畿内に10万石の領地を与えられていましたから、これで250万石の領地を持つ大大名になりました。この時秀吉の直轄地が200万石でした。秀吉は有力な家臣をすでに大名に取り立てていましたから単純な比較はできませんが、形の上では秀吉をも超える大領の領主になったことになります。その家康が本拠地に定めたのが江戸でした。
江戸が家康の本拠地になったことについては、諸説ありますが、秀吉が指示したというのが正しいようです。秀吉は小田原攻めを始める前に家康を呼んで、戦後は家康を北条領に移すことを内々に伝えていました。そして、小田原落城の見通しがついた6月には正式に家康を関東に移すことを申し渡し、この時に江戸を居城にするよう指示したようです。(家康の関東移封については、秀吉が家康を危険視して京大坂から出来るだけ遠国に遠ざける策略というような解釈がなされていますが、それはちがうようです。当時豊臣政権内では大名の再配置を考えていて、家康の関東移転はその一環でした。)
この時には家康の移転先として、関東のほかに東北も検討されました。さすがに東北移封案には家臣たちが憤激しましたが、それでも家康は「東北でも悪くはない。東北で8万の兵を養う。そして、いざとなれば3万を残し、5万の兵を率いて西に向かえば天下をうかがうこともできる」と言ったと伝えられています。このエピソードの真偽はわかりませんが、東北地方の宮城山形福島の3県だけで優に200万石を越えていましたから、東北移封説はあながち荒唐無稽ということではなかったようです。それに200万石を超えるまとまった領地というのは、この時には関東と東北しかありませんでしたから、豊臣政権内で家康の移転先として、関東と東北が検討され最終的に関東に決定したということだったようです。
秀吉政権は天下の安定を何よりも重視していました。そのため、関東の押さえとして家康の力量には大いに期待していました。そして関東経営の要として江戸を考えたようです。たぶん秀吉自身が海に面した大坂を本拠にし、その時と同じに考えて江戸城を家康の本拠地に指示したようです。
実際江戸は家康が本拠を置くには最適でした。その証拠に家康は江戸に移って10年後には関ヶ原の戦いに勝利し、実質的に天下人になりましたが、それでも江戸からよそに移ろうとはしませんでした。この時点では江戸の町作りはそれほど進んでいませんでしたから、家康は、本拠地を江戸から別の所に移そうと思えば簡単にできたはずです。にもかかわらず、京や大阪を選ばず東海にも戻らないで、そのまま江戸城を本拠にしたのは、やはりここが全国を統治するのに最適だと考えたからでした。豊臣政権内で江戸案を考えたのは、たぶん浅野長政あたりだと思いますが、これだけでも秀吉政権の質の高さがわかります。
(このあたりの秀吉の考えはよくわかりません。その後の歴史を見ると、秀吉のこの処置は家康の天下取りを助けたことになります。しかし、秀吉という人はスケールが大きいというより、思考回路がふつうの人とちがっていたという気がします。また、当時の関東は関西に比べると経済的には著しく後進地でしたから、関東の大領地といってもさほど脅威にはならないと考えていたのかもしれません。)
江戸に入った家康がすぐに始めなければならなかったことは二つありました。一つは新領地の割り振りです。家臣の知行地をどうするか、直轄地をどこに設定するか、この割り振りを大急ぎで進めなければなりませんでした。それと江戸の町作りです。この時に家康は江戸城の整備より生活物資を輸送する交通路を確保することに力を注ぎました。この時の家康は領内の経営も大事でしたが、それ以上に秀吉政権との関係を良好に維持することに力を注いでいました。家康は関西に滞在することが多く、江戸にはほとんど居なかったと思います。したがって、江戸の町作りはほとんどが家臣たちの手にゆだねられました。
2) 領地の割り振り
領地の割り振りはさほど難しいことではなかったようです。というのも、北条氏はすでに領内に検地をしていて、それを貫高制で表した帳簿があったからです。あとは1貫を10石くらいに換算して、家臣の領地と直轄地を決めていくだけでした。この作業は大久保長安などの武田遺臣が担当しました。土木工事を担当したのも武田遺臣の伊奈忠次でした。家康の時の民政部門は武田氏や北条氏の旧臣が活躍しているのが特徴です。
基本方針は、江戸城とその周辺は家康の直轄地とし、その外に小身の家臣たちを置き、さらにその外側には息子や重臣に1万石程度の高禄を与えて配置するということでした。この時には、領地240万石のうち120万石を家康の直轄地とし、残り半分の120万石を家臣たちの領地にしました。
とくに旗本など中堅家臣は、動員をかけるとすぐに江戸に駆けつけられる所に居住させる必要がありました。これを「一夜泊まり」といいます。つまり、一泊すれば自分の領地と江戸を往復できる所におさめるということで、だいたい10里(40キロ)以内です。この基準でいうと東京・埼玉・神奈川東部という武蔵はほぼこの範囲におさまります。そこで、武蔵は直轄地か中堅以下の家臣たちの知行地になりました。その後、家康は関ヶ原の戦いや大坂の陣をへて、天下人(てんかびと)になりました。その過程で家康は莫大な領地を持つことになりました。そこで、武蔵は、老中に就任する資格のある高禄の譜代大名を川越・岩槻・忍に置きましたが、それ以外は幕府の直轄地か旗本たちの知行地にするということは変わりませんでした。武蔵西部の川崎・横浜地方などはほとんどが幕府直轄地になりました。
武蔵は家康の江戸入府の頃で67万石でした。この石高は北条氏の検地によるので、その後幕府は検地をやり直します。その結果、武蔵の全部の村の石高を「武蔵田園簿」とよばれる帳簿にまとめました。これで武蔵は98万石ときまりました。その内わけは直轄領が48.4万石で残り50万石が私領(大名・旗本領)でした。
家康は関ヶ原の戦い後、漸次に重臣たちを譜代大名に昇格させ、息子たちも大藩の大名にしました。これら親藩譜代の大名領地を除き、徳川幕府は最終的には700万石の幕府領を持ちました。そのうち、400万石を直轄地とし、300万石を旗本などの直臣たちの知行地にしました。このうち旗本は知行地をあてがわれ、下級幕臣には幕府が俸禄を直接給与しました。これを「蔵米取り」といいます。 
3) 江戸城
家康はこういう領地の割り振りと同時に江戸の町づくりも行いました。 江戸に入った当初、家康は北条氏の江戸城をそのまま使うことにしました。江戸城は大田道灌が築いたのが始まりですが、その前の平安時代末期に秩父一族の江戸氏もここに居館を置きました。このあたりは地形的に小高い丘になっているのは今の江戸城のあるところしかなかったようです。北条時代の江戸城は簡単な土塁と空堀があるだけで、後は平屋の建物がたくさんあるだけの貧弱な城でした。天守閣などはあるはずもありません。江戸城が本格的に整備されるのは2代将軍の秀忠になってからです。
(家康が武蔵に入った時、武蔵最大の城は八王子城でした。八王子城には天守閣がありましたが、その天守も瓦葺きではなく板葺きでした。漆喰を塗った白壁に瓦の屋根という壮麗な城は江戸時代に入って作られたもので、この時の江戸城が特別貧弱というのではなかったようです。戦国時代の城は実用一点ばりでしたから、どこも土塁に空堀の城でした。)
家康の時代には、江戸の町はさほど大きく作る必要はありませんでした。というのも、この時の江戸はあくまでも250万石の領主徳川家康の城下町であり、天下人の居城ではなかったからです。それと、世の中はまだ戦国時代が続いていましたから、江戸の町も戦国時代の感覚で作りりました。たぶん人口1〜2万人程度の町を想定していたと思います。
戦国時代までは大名の家臣たちは自分の領地を持ち、そこに住んでいました。戦国時代には、戦争が始まり動員がかかると、家臣は兵を率いて直接戦場に駆けつけるか、主君の城に集結する仕組みになっていました。ですから、大名の居住地である城下町は大名とその家族、それと近臣たちだけが住んでいました。戦国時代末期になると、北条氏の小田原城のように、武器を製造する職人たちや物資集配の商人たちが集住し、さらに遠隔地に領地を持つ重臣も主君の居住する城下に屋敷を持つ者が出てきて町は大きくなります。しかし、それでも原則的には武士は自分の領地に住むことになっていましたから、家康の時代には、家臣たちの全部が江戸に住むことは想定されていませんでした。幕臣が江戸に居住するようになったのは3代将軍の家光の時代になってからでした。したがって、家康の時代には江戸城の整備は後回しになりました。
4) 千住橋・六郷橋・小名木川
江戸に入府した家康が最初に行ったことは、江戸城への交通を整備し、人と物資の移動がスムーズにすることでした。江戸は広い平地ですが、使える土地は意外とありません。江戸城の前は海です。家康は入府した頃には江戸城の2キロ先は海岸でした。今の銀座あたりが海岸線で、その先にある今の築地は海でした。(今の中央区や港区の大部分は、その後の埋め立てでできた造成地です)、そして江戸城の後ろは武蔵野台地の原野が広がっていました。ここは農業用水に乏しいというより飲水を確保することも難しい所です。したがって、この頃には池袋・新宿・渋谷方面はほとんど人の住まない武蔵野の原野でした。すると残るのは、今の荒川区・品川区・江東区方面しかありません。とくに千葉方面から物資の供給路を確保することが何よりも大切でした。
そこでまず家康が行ったことは千住橋と六郷橋を架けること、それと小名木川を掘削することでした。これらはいずれも江戸と千葉方面や神奈川方面を結ぶ交通の確保が目的でした。荒川を渡る千住橋は1594年に架けました。この工事は伊奈忠次という武田氏の遺臣が行いました。家康はこの忠次のほか大久保長安など武田遺臣を多く召し抱え、もっぱら民政部門にあたらせました。千住橋が出来たことで、今の国道4号線(東京→宇都宮)方面と国道6号線(東京→水戸)方面への交通がスムーズになりました。
多摩川を渡る六郷橋は1600年に架橋しました。ただ、この六郷橋はすぐに流されてしまいました。その後再建しましたがまた流されてしまい、多摩川には橋を架けないで、渡船による渡しが行われることになりました。そのため、大雨が降るたびに多摩川の渡しが止まり、め品川宿と川崎宿が異常に繁栄することになりました。六郷を通る道は東海道で今の国道1号線になります。
千住橋六郷橋と並んで江戸の流通に重要だったのが小名木川でした。この川は隅田川と昔の荒川を結ぶため、今の江東区を横断するに運河として掘削されました。この運河は千葉県から物資を運ぶ運河でした。この運河を使って舟が隅田川に出れば、そのまま江戸城のそばに行けますから、1590年に小名木川が完成すると江戸への物資供給は非常にスムーズになりました。(ただ、今の小名木川は川幅も広く満々と水をたたえていますが、最初の小名木川はずっと小さな川で、たぶん底の浅い舟を浮かべて両岸から人が綱で引っ張るような小さな運河だったと思います。)
5) 道三堀と小石川上水
それと、家康は江戸城と海を結ぶ運河と、江戸城の飲み水を確保するための上水道も作りました。これが道三堀と小石川上水です。道三堀は後に日本橋川ができると廃止されてしまいましたが、当初は江戸城と東京湾を結ぶ重要な舟運でした。
小石川上水は、江戸城の北の小石川に池があって、ここから江戸城に水を引き飲料水にする水道でした。この小石川上水は規模がちいさく、その後神田上水ができるとこれも廃止されました。道三堀といい小石川上水といい、家康が江戸に入った当初は江戸の町も規模が小さかったためこれで十分でした。しかし、その後徳川氏が将軍になり参勤交代で大名が江戸に居住するようになります、また幕臣たちも領地での在地生活をやめて江戸に住むようになります。すると、江戸の町は急激に膨張し、また新しく町作りをすることになります。
6) 商人と職人
このように江戸のインフラ整備が進みましたが、これらはもっぱらハード面の整備でした。そこでソフト面はどうなっていたのかと不思議でしたが、同じ頃会津に転封になった蒲生氏郷を見てわかりました。
氏郷は伊勢松坂から会津90万石の領主になりましたが、彼はその前は近江の日野の領主でした。そこで氏郷は近江の日野商人を会津に連れていっています。その後、蒲生氏が宇都宮に転封になるとこの近江商人たちも一緒に移っていきました。今でも栃木県と埼玉県の北部には近江商人の店が多くありますが、それは以上の理由によるものです。また、北条氏照も滝山城から八王子城に移る時には、滝山の商人や職人たちを強制的に八王子城下に移住させました。
戦国時代の戦国大名たちは、こういう家臣のような商人を抱えていました。商人たちも後の商人とちがって領主を主君と仰いで行動を共にしていました。
ですから、家康も江戸入府にあたっては、出身地の岡崎時代からずっと家康に付き従ってきた商人たちや関東転封前に領国だった浜松の商人たちも一緒に引き連れて江戸にやってきました。こういう町人のことを「草分け町人」といいます。そして、この草分け町人が物資の供給や流通を担当しました。初期の町割りを見ると、鍛治町、弓町、畳町など職人を一つの区画に集住させていますが、こういう職人もてんでばらばらに集まってきたのではなく、家康の旧領の職人たちが家康の江戸入府にあわせて移ってきたのでした。こういうことから考えると、家康の関東移封も家康とその家臣だけの武士たちだけがゾロゾロ移ってきたのではなく、さまざまな人々が一緒に移ってきて城下町江戸を作りました。
ともかく家康の江戸入府は以上のように行われました。家康の江戸入府については、まるでアメリカに初めて上陸したメイフラワー号の人たちのように、人も家もろくにない寒村に家康主従が流れてきたように言われています。しかし、これはまったくちがいます。江戸城は北条時代には東関東経営の拠点でした。また、近くには坂東33番札所の浅草寺があります。この浅草寺は東京でもっとも古い寺で早くから人々の信仰を集める名刹でした。ですから、家康の入府前からすでにそれなりに賑わいのある所で、この江戸をもとに250万石太守の城下町として拡張したのが家康でした。 
4 江戸の町の拡大
徳川氏の本拠地である江戸が大きく変貌したのは、1600年の関ヶ原の戦い以後でした。この戦争で勝利した家康は実質的最高権力者になりました。そして、その3年後の1603年には征夷大将軍となり、さらにその2年後には秀忠を将軍職にすると自分は駿府(静岡市)に引退し、江戸城も秀忠に譲りました。この譲位は将軍職を徳川氏が世襲することを内外に宣言したもので、これで今までは関東の一領主の居住地にすぎなかった江戸が首府になることが確定しました。家康は権力者の地位につくと、直ちに諸大名に命じて江戸城の拡張を行いました。この工事は次の2代秀忠、3代家光と続けられ、1636年、内堀と外堀の二重の掘に囲まれ五層の天守閣を持つ日本一の巨城江戸城が完成しました。
そして、江戸の人口も大幅に増加しつつありましたから、江戸城の工事と同時に江戸の町作りも進められました。そこで、ここでは江戸の町作りの様子を中心に見てみます。
1) 幕臣の江戸住まい
江戸の人口が増加したのは、幕臣たちが江戸に居住するようになったのと諸大名が参勤交代で江戸に屋敷を構えて江戸に居住するようになったためでした。
先に幕臣でも知行地を持つ旗本は自分の領地に居住するため、江戸の町は大きく作る必要はなかったと言いました。しかし、それは家康が江戸に入府した頃までのことでした。
秀吉は北条氏を滅ぼしその足で会津に行くといわゆる「会津仕置き」を行い、大名たちに、村に一人もいなくなっても構わないから正確な検地をするよう命令を出します。この頃から秀吉は全国的な政策を進めました。その一つが兵農分離策で、そのため、大名の家臣たちを大名の城下町に集住させるよう指示しました。
戦国時代の特徴の一つに、戦国大名の直轄地が少なく、一方では家臣の中には主君の大名も遠慮しなければならないほど大きい領地を持つ家臣がいたことがあげられます。秀吉はこれが大名の地位が不安定になる最大の原因と考えました。そこで、大きな領地を持つ家臣の領地を削減し、家臣を領地から切り離し大名の城下町に住まわせる政策を進めました。これが秀吉の兵農分離策でした。
そして、徳川幕府もこの政策を踏襲しました。幕府はさらにこれを押し進め、城は大名の居城一つに限りました。家臣が持つ城は廃城にして城下町に集住し、家臣の領地の年貢徴収も大名が行い、それを主君の大名が家臣に配分するという政策を進めました。これは大名の権力強化の方策でした。しかし、家臣たちの反発を招き、あちこちの藩で家臣が主君に反抗するお家騒動が起こります。気の毒なのは幕府と家臣の間で板ばさみになった当の大名たちです。そのため気の弱い若い大名の中には、心労で早死にする人もあちこちに出ました。この御家騒動は江戸時代初期の外様の藩に多く、そのためこれは外様大名を取り潰すための幕府の策謀のように思われていますが、実際はそうではありませんでした。
それはともかく、幕府は大名に対してこういう政策を進め、幕府も幕臣たちを江戸に住まわせることしました。この幕臣の江戸移住は3代将軍家光の時進められました。俸禄を幕府から直接支給される小身の御家人はいうまでもなく、知行地を持つ旗本たちも、知行地には陣屋をもうけて代理人に統治させ、自分は江戸に住むようになります。彼らは幕府から江戸に屋敷地を与えられ江戸に定住しました。幕臣たちは主に江戸城の東側の神田や本郷あたりに住みました。旗本など大身の幕臣は1人ずつ屋敷地を持っていましたが、小身の幕臣は組ごとに広い屋敷地を与えられ、それを100坪くらいに小分けして家を建てて住んでいました。JR駅に御徒町(おかちまち)がありますが、これはここが江戸時代に、下級幕臣が住む地域だった名残です。また、大久保駅の近くに百人町がありますが、これも足軽の集住地の跡です。
2) 参勤交代
また、江戸が将軍の居住する首府になると、諸大名が参勤交代を行うようになり、大名ばかりでなく藩士も江戸に住むようになり、そのため江戸の人口が増加しました。
この参勤交代は江戸時代独特の制度のように思われていますがそうではありません。地方の有力武士が将軍の居住地に屋敷を持つのは、すでに鎌倉時代に始まっていました。頼朝が鎌倉に幕府を開くと、有力御家人たちも鎌倉に屋敷を持ち、地元と鎌倉の二重生活をしました。 これは室町時代も同じで、西日本の守護大名たちは京都に屋敷を持っていましたし、鎌倉府の鎌倉公方に仕える関東の有力豪族たちは鎌倉に屋敷を持っていました。ただ、江戸時代の参勤交代が今までとちがうのは、大名の家族も江戸に住み、大名は1年おきに本国と江戸に住むということが制度化したことでした。この参勤交代は、初めは雄藩の外様大名だけが行っていましたが、将軍家光の1635年、武家諸法度で、水戸家などわずかな藩を例外として、譜代大名をふくめすべての大名が行うように規定されました。
この参勤交代は幕府にとってきわめて重要でした。というのも、この参勤交代だけが唯一大名を統制する政策だったからです。徳川政権はそれまでの鎌倉幕府や室町幕府、秀吉政権と比べるときわめて強力な政権でした。鎌倉幕府は京都の朝廷から独立を保つのに精一杯でしたし、室町幕府では将軍より強大な武力を持つ守護大名がいました。秀吉政権にも徳川や毛利といった強力な実力者がいました。そのためこれらの政権は朝廷や有力大名との融和を重視し、いわば有力者による連合政権でした。
ところが、他を圧倒する武力で政権を取った徳川氏にとって、こういう外部勢力は存在しませんでした。徳川氏は親族を大名にし、譜代の家臣を大名に取り立てて分離してもなおかつ700万石の領地を持っていました。これは全国3000万石の約1/4にもなります。
こういう徳川政権の政治方針はきわめてシンプルでした。それは、それぞれの大名は自分の裁量で領地を支配すればよいということでした。大名は大名の領地を支配し、幕府は幕府の領地を支配する。大名は領地支配に失敗すれば改易にするが、そうでなければ幕府は藩政に関与しない。その代わりどんな有力大名でもそれが外様大名である限り、幕府の政治には絶対に参加させないということでした。
しかし、そのままでは将軍と大名の関係はきわめて疎遠になります。そこで、将軍と大名の間の潤滑油の役割を果たしたのが参勤交代です。大名は江戸屋敷に居住します。そして、時々江戸城に登城します。しかし、幕府が政治の案件を大名に相談することはありませんから、大名は登城しても何もすることはありません。そこで行事と儀式が唯一の仕事となりました。大名は江戸城でどの控え室に詰めるかでランクづけられました。控え室は大名の序列順に、大廊下→溜ノ間→、大広間→帝鑑之間→柳之間→雁之間→菊之間となり、この序列にしたがって大名たちは江戸城の儀式に参加しました。こういう儀式と行事が幕府と諸大名を結ぶ唯一の糸でした。
この参勤交代は藩の財政窮乏化の最大の原因となりました。参勤交代の規定では江戸屋敷に詰める藩士の数も決められていました。江戸時代も中期になるとどの藩も財政難になりますが、その大きな要因はこの江戸屋敷の経費でした。しかも、勝手に江戸詰藩士の数を削減することもできず、どの藩も苦慮しました。
そのため、参勤交代は幕府が大名の弱体化をねらった政策だとされています。結果的にはそうなりますが、幕府にはそういう意図はなかったし、大名たちもそうは考えていなかったと思います。
というのも江戸時代は何も事件がない平和な時代だったからです。室町時代なら大名は近隣大名との争いや家臣の統括などそれなりに緊張感のある日々でした。しかし、江戸時代になると鎌倉時代と室町時代にはあれほどあった豪族同士の領地争いもピタリとなくなってしまいました。そういう揉め事を起こせばそれは幕府にたいする反抗ということになり、厳罰が下りるのは必至だったからです。
大名はすっかり緊張を失い退屈な気分だけが覆う時代になりました。その上、黙っていても農民から年貢は入ってきました。領内の統治に気を配る必要ありませんでした。要するに大名にはすることは何もなくなってしまいました。しかし、江戸という大都会に住めばそれなりの刺激はあります。大名同士の交際も広がり、友人の大名もできたりして、一人一人の大名にとって、江戸に在住することで生活に潤いというか活気のようなもの生まれてきます。ですから大名たちにとってもこの参勤交代の制度はそう悪いものではありませんでした。
3) 江戸の町割り
それはともかく、大名の参勤交代のため、江戸は徳川氏の家臣ばかりでなく、大勢の武士が住む町になりました。江戸の人口はすでに1720年代に100万人を越えていたとされています。そのうち半分の50万人が武士でした。この時の日本の総人口は約3000万人でした。そのうち武士は10%でしたから、この時には日本の武士の総人口は300万人と推測されます。そのうちの50万人が江戸にいたということになります。つまり、日本の全武士の1/6が江戸にいました。江戸時代の江戸は人口が多いばかりでなく、その構成から見ても特異な町でした。
こういう中で江戸の町作りが進みました。たぶん、江戸の町作りは大まかな都市計画はありましたが、細部はほとんど無計画だったと思います。幕府の念頭にあったのは幕臣の住居を確保することと大名の屋敷を確定すること、それと神社と寺をどうするかだけでした。基準は江戸城でした。江戸城を基準にして、江戸城の周囲は大名や大身の旗本たちの屋敷にしました。それから江戸城から見て北東に当たる本郷・水道橋・お茶の水・秋葉原方面は小身の幕臣たちの居住地にしました。
すると残るのは南の海岸近くの低地になりますが、ここは町人たちに住まわせることにしました。ここは日本橋川が流れていて舟運に便利ですから商人たちが住むには適しているということもあったと思います。
家康が江戸に入府した頃はもっときちんとした町割りをしていました。しかし、その後江戸の武士人口が急増したため、その確保が精一杯で整然とした都市計画では人口を収容できなくなってしまいました。とくに町人人口の増加には対応できなかったと思います。江戸の町人人口は1630年代には約15万人でした。それが、1660年代には約30万人になり、1700年代には50万人と増加しました。このように急増しては、町人地域については都市計画の作りようもなかったと思います。たぶん、町人たちは町人地域の空いている所にどんどん住むということだったと思います。
それでも幕府はこの地域の拡張はしました。それは埋め立てです。今の神田あたりは小高い丘陵地でした。そこでここを崩して平地にして幕臣たちの居住地を確保すると共に、合わせてその残土を海岸部に運び埋め立てました。この埋め立てには江戸城の内堀外堀を掘削した残土も使いました。こうして町人の居住地も少しは広がりましたがたぶん過密は解消できなかったと思います。
こういうことを考えてみると、家光の頃の江戸の町というのは、江戸城とその周辺の武家地には桃山文化の派手な意匠の豪華な建物が偉容を誇り、一方、日本橋あたりは狭い敷地に町人たちの住まいがギュウギュウ詰めになっている非常にバランスの悪い町だったと思います。 
4) 飲料水と舟運の確保
江戸城が完成し、江戸の町割りができても江戸の町作りは完了といきませんでした。江戸の町にはもう一つ解決しなければならない大きな問題がありました。それは水の確保です。元々江戸は飲み水に乏しい所です。井戸を掘っても海水混じりの水しか出てきません。そこで、家康が入府して間もない頃は小石川にあった池から水を引き、それを飲み水にしていました。これが小石川上水です。ところが江戸の人口が増えると、小石川上水だけでは間にあわなくなります。新しく飲料水を確保しなければならなくなりました。
また舟運の問題もありました。日本ではどういうわけか馬車が発達しませんでした。そのため陸上では馬の背に荷物を積んで運ぶか、人が直接担いで運ぶしかありませんでした。しかし、こういう方法では運ぶ量に限りがあります。そこで、江戸時代までは舟運が盛んでした。西日本では、室町時代にすでに、日本海(山陰)―琵琶湖・淀川(京都)―瀬戸内海(山陽・四国)という舟運の大きな循環航路が出来上がっていました。室町時代に京都が経済的に繁栄したのはこのためです。ところが江戸は、全国との舟運を完成する以前の問題として、江戸市中で荷物の搬送に必要な水路がありませんでした。家康は江戸に入府すると江戸城と東京湾を結ぶ道三掘を開削しました。しかし、たぶんこの運河は使い物にならなかったと思います。どうしてかというと、掘を作ってもその掘を満たす水が確保できなかったはずだからです。
そこで江戸の飲み水を確保すると同時に舟運の水路を作るということをしなければなりませんでした。ここでは江戸の水がどのように供給されたかを考えてみます。ただ、東京の水路は江戸時代とその前とは大きくちがっていました。また、江戸時代と現在とではさらに大きく変化してしまいました。とくに戦後、道路を確保するため、用地買収を必要としない川を暗渠にして地下に埋め、その上に道路を作るということをしましたので、現在の東京はどこを歩いてもめったに川を見ることはありません。そこで。都心の地形を考えながら。江戸時代以前の水路が江戸時代にどのように変わったかを見てみます。
5) 神田上水
今の千代田区・中央区・港区のある東京都心部は地形的に低地になっています。そのためこの低地には北の方向から川が流れこむ構造になっています。この都心3区の北にある文京区は、西に小石川台、東に本郷台という丘陵地があり、川はその間を流れる仕組みになっています。この川が神田川です。神田川という名称は非常に新しく昭和41年についたもので、それ以前は江戸川とよばれていました。そして、この江戸川も江戸時代以前は平川(ひらかわ)とよばれていました。江戸城の東に平川門がありますが、これはその名残です。ここでは平川という呼び方で説明します。
江戸時代より前は、平川は今の江戸城の東側を流れて東京湾に注いでいました。この平川の活動でちょうど鶴が両翼を広げたような入り江ができました。これが江戸時代以前にあったとされる日比谷入江です。日比谷入江があるため江戸は鎌倉時代からこのあたりの舟運の港になっていました。ところが平川は活動の振幅が激しい川で、夏に台風が来ると都心部の広い地域が湿地帯になりますが、冬の乾燥季になるとたぶん川底が干上がるほど水がない川でした。
(これは推測です。しかし、東京東部に降る雨の出口はこの平川と石神井川しかありません。石神井川の方は両岸が高い丘陵にはさまれていますから、大雨でも川の水はその間に閉じ込められます。ところが平川が流れる都心部ではこういう丘陵は神田台しかありませんから、大雨が降ると神田から西側一帯が水浸しになるはずです。一方東京のある武蔵野台地には保水力がありませんから、雨の降らない冬になると地面はカラカのラに乾燥し、平川は流れがなくなるいわゆる瀬切れになっていたと思います。古代の律令時代には豊島郡の郡の役所である郡衙が平川流域ではなく、石神井川流域の今の北区にあったのはこのためです。)
そこで江戸城が本格的に作るにあたって、この平川をどうするかということが問題になりました。家康はそのまま放置したようです。そして道三掘りを掘りました。道三掘りを掘ったのは、水の流量が安定しない平川では舟運に利用できないからです。しかし、大きな江戸城を作り、その南の今の日本橋あたりに町人居住地を作るとなると平川をそのままにしておくことはできません。そこで、平川は締め切ってしまいました。その代わり、飯田橋あたりで東側に新しい河道を作り、平川をこの新しい河道につなぎ隅田川に注ぐようにしました。これが今の神田川です。この新しい神田川は江戸時代には舟運に利用していました。
この神田川は江戸時代以前の水源地はわかりませんが、この時に上流をさらに遡って水路を伸ばし、三鷹市の井の頭池とつないだようです。この井の頭という名称は将軍家光が命名したといわれています。井の頭池と神田川を結んだのは、この神田川を神田上水の水路の一部として利用するためです。
そして、井の頭池の水だけでは足りませんから、近くの善福寺池と妙正寺池の水を合わせ、さらに後には玉川上水の水も神田川に分水するようにしました。こうして神田川の水量を増やし、江戸時代には舟が通ることのできる川にしました。
神田川は途中から、神田上水という神田川に平行して流れる人工の水路を作りました。これが神田上水です。この神田上水は今の後楽園のあたりに堰を作って取水地点とし、ここから木樋で地下を通し、これで江戸城とその東側の地域に飲料水を供給しました。これが江戸の市民の飲み水として有名な神田上水です。
神田上水が、後楽園近くで木樋の導水官となったのは二つの理由からでした。一つは神田川のままでは上水道の役に立たないからです。というのも川はその地域でもっとも低い所を流れています。一方人々の家はその川より高い所にあります。ですから、揚水ポンプでも使わないかぎり川の水を生活用水に利用することはできません。この木樋はたぶん神田地区の標高の高い所を通り、自然落下を利用して江戸城とその南部の地域に水を供給することにしました。
しかし、そうするとこの木樋はどこかで神田川を横切らなければなりません。そこが今の千代田区水道橋です。水道橋という変わった名称の地名は、ここで神田川の上を水道管(水道管といっても実際は木樋でした)が渡っていたので、上水道が見える所という意味でつきました。これで江戸城とその南では上水道として利用することができるようになりました。
(江戸時代の江戸の人々は井戸水を飲んでいましたが、純粋な井戸水ではありません。あれは地下を通る木樋の水で、純粋な地下水ではなく地下を通る神田川の水でした。当然維持費がかかりますから有料でした。江戸の町では水売りの商売が盛んでしたが、それは飲料水が川の水でまずかったからです。この神田上水がいつ頃できたかははっきりしませんが、慶長年間(1596〜1615年)頃であろうとされています)。
ただ、神田上水は江戸城の西側には水を送ることができません。そこで、この方面は今の赤坂にあった溜池の水を使うことにしました。今でもここに「溜池」という地名がありますが、これも水道橋と同じく江戸時代の水供給の名残です。江戸時代初期の江戸の町は、神田上水とこの溜池の水でまかなっていました。とはいえ、神田上水も溜池も結局は池の水で、江戸時代の江戸の人たちはこの池の水をそのまま飲んでいたということになります。現代人からみれば不衛生きわまりありませんが、昔の人にはこれで十分だったようです。
6) 日本橋川
すでに述べたように、江戸時代以前の平川は締め切りになってしまい、上流は神田川になって浅草の方に流れるようになりました。しかし、そうなると江戸城の南側には川がなくなり舟運ができなくなります。また江戸城の内掘と外掘に水を確保し、堀の水の腐敗を防ぐために絶えず外から堀に水を入れ、堀の水を外に流す必要があります。そこで、神田川の水を分水して内堀外堀に流し、さらに元の平川の河道を改修して、日本橋川として利用することにしました。この日本橋川は江戸城の内掘外掘ともつながっていました。日本橋川は上流と下流では高低がほとんどない川でした。ですから川というより細長い池のようなものでした。そして、この日本橋川は内掘外堀もつながっていて、全体として巨大な池になっていました。この川は飲み水に利用されることなく、舟運だけに利用する川でした。
そして、その後この日本橋川に通じる小さな堀があちこちに設けられて、今の千代田区や中央区には水路が網の目のように張り巡らされて物資の流通路として利用することになりました。
(ここには八丁堀をはじめたくさんの堀がありましたが、それは掘削した堀ではなく、たぶん水路になる所だけ残して埋め立てる方式で堀にしたようです。江戸の市中は人で混雑して馬の使用は禁止されていましたから、問屋業を営む店では舟が直接店先に乗りつけられないと仕事になりません。そのため以前はここには縦横に水路がありましたが、そのほとんどは昭和30年代に埋め立てられてしまいました。) 
7) 明暦の大火(1657年) 
江戸の町は家康・秀忠・家光の徳川3代で一応完成しました。ところが1657年の明暦の大火で町は焼かれ、江戸の町はもう一度作り直すことになりました。将軍は4代家綱の時代でした。
この火事は俗に振袖火事とも言われ、様々な説というか物語が作られましたが、江戸時代最大の火事でした。江戸の町の2/3が焼失し江戸城の天守閣も焼失しました。はっきりした死者数はわかりませんが万単位の死者が出ました。犠牲者の多くは火事から逃れようとして東の方向に逃げ、隅田川で行き止まりになって逃げ場を失ったからでした。ですから死因は焼死ではなく溺死でした。この死者を弔うために建てられたのが回向院でした。1807年に永代橋が落ちた時も多数の死者が出ました。どうも江戸時代までの日本人は泳げなかったようです。
そこで、この火災を教訓に新たな町作りが始まりました。
幕府がまず考えたことは、江戸城の北西は大きな空き地とすることでした。江戸の北西を空き地にするのは江戸特有の事情がありました。というのは火事が多いのは空気の乾燥した冬場です。ところが江戸はこの季節になると北西の風が吹きます。もしもこちらから火が出るとまた江戸城が火事にあう心配があったからです。現在、江戸城の北西は天皇の住む吹上御所がありますが、当時は尾張、紀伊、水戸の御三家の江戸屋敷がありました。そこで、御三家を立ち退かせてここを空き地にしました。そして、周辺の大名・旗本屋敷や寺社ももう一度再配置し、武家地と寺社を全体的にすき間を多くして類焼や延焼が広がらないようにしました。
しかし、そうすると当然ながら町人地区が狭まります。とくに問題だったのは大名屋敷でした。というのも大名屋敷には、上屋敷(藩主とその家族)中屋敷(隠居した前藩主や縁戚)下屋敷(控えの屋敷、倉庫代わり)があり、上屋敷は江戸城の近くに一つだけでしたが、中下屋敷は郊外にあって中堅県以上の大名は複数持っていたからです。しかし、幕府は町人のことはあまり考えませんから、この大名屋敷を確保するため今まで住んでいた町人を強制的に立ち退かせました。
そのため以前に比べて町人地区が狭まることになりました。といっても江戸の町の物流は舟運が主でしたから、単純に横に広げることはできません。日本橋川と神田川、それから隅田川の近くになります。
隅田川の向こうの江東区を江戸の町に組み込むことにしました。そのためには隅田川に新たに作った橋が両国橋です。両国という名称は隅田川が武蔵と下総の国境になっていたからです。
隅田川の橋は、それまでは千住橋しかありませんでしたが、この両国橋の架橋により江東区が江戸の市街地になりました。これで一気に江戸の町が広がりました。ちなみにこの両国橋は2文の通行料が必要でした。今のお金で100円くらいだと思います。この通行料金は積み立てて橋の架け替え費用に充てていました。この両国橋の完成し、江東区の南の深川や北の本所という所が新開地として賑わいを見せるようになります。
(江戸時代は4000文で1両です。幕末の頃で1両を今のお金で10万円くらいだとすると。橋の通行料2文は50円になります。しかし、江戸時代の初期だと倍の100円くらいかなという気もしますが、まったく確証はありません。)
江東区にはすでに運河として小名木川がありましたが、この後、仙台堀川、横十間川などの運河も掘削されました。ここは隅田川と江戸川に挟まれた大きな中州のような地形をしています。この江戸川は昔の利根川のことです。その後利根川を東に移し荒川を西に移す工事が竣工すると、江東区は物資の流通に最適の場所になります。そのため、諸藩の下屋敷や材木商の材木置き場などが集まり江戸の経済を下から支える地域になっていきました。
それと共に、元からある日本橋京橋などの町人地区の区画整理もしました。詳しいことは、ずっと後の「江戸の町」のところで説明しますが、この町人地区は京都の町を参考に、道に面して細長い短冊状の屋敷地が並ぶようにしました。
そして、これを機に江戸の町の防火も考えて町作りをすることにしました。そのために大通りに「火除け地」とよばれる広場を作りました。当時は「広小路」とよんでいました。東京では今でも何々広小路という地名の交差点を見ますがこれはその名残です。
さらには遊郭も移しました。それまで吉原は今の日本橋人形町にありました。それを神田川の向こう岸の浅草に移転させました。これが新吉原です。この遊郭移転は町人地区の面積を確保し、合わせて火事の原因になるかもしれない遊郭を繁華街から遠ざけたのでした。
江戸の過密は町人地域だけの問題で、武士階級の居住地はゆったりしていました。江戸時代の支配階級である武士たちは、民政部門については驚くほど無関心でした。火事で武家屋敷に被害が及ばないようにすることではさまざまな工夫をしていますが、町に住む町人たちのために何か政策を考えるということはまったくしませんでした。
幕府は火事に備えて、火消しの組織を作ったり、屋根瓦を推奨するなどしました。しかしこれはうまくいきませんでした。消しは延焼を防ぐ破壊消防でしたし、屋根を瓦にすると家を頑丈にする必要があります。そうすると、今度は地震に弱くなりますし、火事が起きると瓦が落ちてきて避難民が危険になるというのでそう簡単には解決できる問題ではありませんでした。結局、火事が起きたら放火失火を問わず火元は厳罰に処する。火の元には異常なまでに気をつけるということしかありませんでした。
東京の深川にある江戸資料官には江戸の下町の長屋を再現したコーナーがあります。館員の人の話ではほぼ忠実に再現したというのですが、長屋と長屋の間の通路だけは、見学者のために当時より広げているということでした。当時の長屋の通路は人と人がすれ違うと身体が触れるくらいに狭かったというのです。ですから長屋の屋根がちょうどアーケードのようになり、当時は雨が降っても濡れることはなかったということです。
当時の長屋は、棟割り長屋で棟を背割りにした6畳一間に1家族が住んでいました。押入がありませんから布団は部屋の隅に畳んでおくだけでした。そして驚くことに、6畳の部屋にカマドがあります。これで本当に煮炊きをしたら部屋中煙だらけになるのではないか疑問に思いましたが、「煙が出ないように薪は使わず炭でした。そして、実際の煮炊きは外でして、部屋の竈は温めるだけだったのではないでしょうか」というのでした。しかし、そうはいってもこのような住宅が無数にあって、それでも絶対に火事が起きないようにするというのですから、江戸時代の町人の人たちの苦労は非常に大きかったと思います。 
5 街道
江戸時代になって、武蔵国が大きく変わったのは政治経済の比重が西部から東部に移ったことです。それまでは西の関東山地の麓が武蔵の中心でした。そのため、ここを通る鎌倉街道が非常に大きなウェートを占め、武蔵の歴史も主にこの鎌倉街道を舞台に展開してきました。そして、西日本との交通路も山の道である東山道(中山道)が主役でした。
ところが江戸時代になると武蔵の中心地は東京湾沿岸の江戸に移りました。そのため、中山道よりも東海道の役割が大きくなりました。鎌倉街道にいたってはまったくの脇街道になってしまいました。そこで、ここでは五街道を中心に江戸時代の交通を見てみます。
五街道の成立は意外と早く、家康は関ヶ原の戦いが終わった翌年の1601年にすでに街道の整備を命じています。家康が街道を整備したのは、経済活動を盛んにするためでもなければ、人々の生活の利便のためでもありませんでした。一重に軍事目的でした。戦争ではいち早く戦場に必要な人員と武器・食料を輸送することが重要です。そのために主要道路の適当な間隔で宿駅を置き、宿場の人々を使って駅と駅の間をリレー形式で運搬させるということにしたのです。
現代とちがい昔の街道では道そのものを整備することより、荷物の搬送をスムーズにするための組織を作ることが何よりも大切でした。それが宿駅です。この宿駅の仕組みは1615年の大坂の陣や1637年の島原の乱で、大量の物資を関東から西日本に実際に運んでみてさまざまな修正を加えながら制度として完成していきました。
駅に馬を用意して、駅から駅へ人や物資を移動させることを伝馬といいます。この伝馬制は奈良時代からすでにあり、とくに戦国時代になるとどの戦国大名も整備していました。ですから、この宿駅の仕組みも江戸時代になって幕府が独創的に考案したものではなく戦国時代にすでにあったものを改良したものでした。そのために、幕府は、人足と駄馬を確保するため人々を宿場に集住させて宿場町を作り、街道沿いに民家を移転させるなど非常に大規模にしました。
江戸時代の五街道はだれでも知っているように、東海道(国道1号線)、甲州街道(国道20号)、中山道(国道17号)、日光街道(国道4号)、奥州街道(国道4号)の五街道です。このうち、日光街道と奥州街道は宇都宮までは同じ道です。そして宇都宮から日光に行くのが日光街道で、白河に行くのが奥州街道です。
この街道の起点になる品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光・奥州街道)は四宿とよばれ大いに賑わいました。こ街道の道幅は2間(約2.5メートル)〜4間(約7.2メートル)で、道の両脇には松、杉、柳などの並木が植えられていました。また1里(4キロ)ごとに一里塚がもうけて距離の目印にしました。
( 五街道をはじめとする江戸時代の街道は、今では跡形もなく消えてしまったと思っていましたがそうではなく、今でも都心の主要幹線道路のほとんどが江戸時代の街道だったのを知り、大変驚きました。実際には江戸時代の道をそのまま拡幅したとは思えませんが、大体のルートは同じです。都心の幹線道で、江戸時代の道でないのは日本橋から銀座・品川を通って横浜にいく第一京浜くらいです。この道は明治時代に作られました。現在の東京は江戸時代の江戸とは比較にならないほど大きくなりました。また、その間には関東大震災と東京大空襲がありました。にもかかわらず同じルートになってしまうのは、道というのはどこにでも作れそうですが、実際はそうではなく、行き先が決まるとだいたいの通過するコースは決まってしまうもののようです。)
五街道で武蔵にあった宿駅は次の通りです。
東海道(53宿) 
品川―川崎―神奈川―保土ヶ谷→京都・大坂
中山道(69宿)、
板橋―蕨―浦和―大宮―上尾―桶川―鴻巣―熊谷―深谷―本庄→京都・大坂
日光・奥州街道(21宿)
千住―草加―越ヶ谷―粕壁―杉戸―幸手―栗橋→日光・仙台・松前
甲州街道(38宿)
内藤新宿―高井戸―布田―府中―八王子―駒木野―小仏→甲府・長野県諏訪
江戸時代の街道でもっとも大切なのは宿場町でした。東海道では道沿いに大きな城下町があり、その町に宿駅の機能を持たせればよかったようですが、ほかはそれまでは人口の少ない村を宿場に作り変えました。この宿場町は江戸時代になって人工的に作った町でした。そのため、街道の宿場町には幕府の規格がありました。規模の大小はありますが、全国的に同じような構造をしているのが特徴です。それによると、街道は宿場まではふつうの道ですが、宿場に入ると道は非常に広くなり、10間(約18メートル)くらいに広がります。そして街道に面して間口が狭く、奥行きが異常に長い民家を短冊状に配置します。これも全国的にどこもほぼ同じです。標準は間口6〜7間(12〜14メートル)、奥行き60間(120メートル)くらいです。計算してみるとこれは350〜400坪の広さになります。これを一軒前(いっけんまえ)といいます。そして、奥行きがその半分の家がありこれを半軒前といいます。この一軒前の家と半軒前の家が宿場町の基本単位でした。
最初の決まりでは、幕府御用の荷運びがある場合、一軒前の家は人と馬を提供し、半軒前の家は人だけを提供するということでした。しかし、そのうち宿場で人足を雇ってそれでまかない、それでも不足する場合は近隣の村から助郷で農民を雇うというようになっていきました。
この屋敷地を持つ者が村でいうところの本百姓に相当します。彼らには年貢の負担もありますが、町の運営に参加する資格がありました。それに対して、屋敷地を持たない借地借家人は村でいうところの水呑百姓になります。江戸時代後期になると宿場町はさまざまな店が並んで非常に活気がでてきますが、そういう店の大半は借地借家での営業でした。
この屋敷地の売り買いは単に地面の売買にとどまらず、それに伴う権利の売買という意味も持ちます。これを屋敷株といいます。これは村でもそうでしたが、不動産の売買は売る人と買う人が合意すれば契約が成立するものではなく、必ず町の了承が必要でした。その後、時代が経つとこういう宿場町には二軒分や三軒分の敷地を持つ者も現れますが、これらはすべて豪商の家です。
(このように宿場町は人工的に作られた町ですが、実はその成立過程はよくわかりません。というのも、江戸時代の町や村では、たいていその町村のかなりの土地がある特定の人の所有だったからです。 たとえば埼玉県の秩父市は、昔は大宮町とよばれて秩父郡でも一番の宿場町でした。ところが江戸時代には、この町の半分近くがある家の所有でした。子孫の人から「明治時代には荒川の川岸から秩父駅まで自分の土地だけで歩いて行けた」というような話を聞いたことがあります。秩父は養蚕の盛んな所ですから、先祖の誰かが養蚕で一山当てたのかと思いましたがそうではないようです。というのも、この家は江戸時代の初めにすでに大地主だったからです。出自は武田の遺臣ということになっていますが、それがどうして江戸時代の初めから町の大地主になったのかがよくわかりません。しかし、秩父が特別ではなかったようです。江戸時代の町に早くから住み着き町の大地主になっている人のことを「草分け町人」といいます。秩父以外でも、地方の宿場町は大体同じで、その町の土地のかなりの土地が草分け町人と呼ばれる一人か二人の所有でした。たいていは「昔、殿様が巡行に来たとき接待にお茶を出したら非常に喜ばれ、それで広い土地を与えられた」というようなたぐいの説明がされていますが、たぶんこういう話はすべて後世の作り話だとは思います。しかし、ではどうして草分け町人が発生して、彼らがどのように町の成立にかかわったのかとなると、よくわからないというのが正直なところです。) 
街道は元々は幕府の軍用道路で、幕府や藩の荷物の便をはかるのが目的でした。そこで宿場には問屋が置かれ、問屋場には幕府や藩から任命された駅長がいました。駅長は手代を使って幕府や藩の公用荷物を受領し、それを次の駅に送るための人足と駄馬の手配をしました。そして、これらの運搬のために人馬を提供するのが宿場に住む人たちの義務でした。その場合、幕府御用の場合は無賃で、藩御用は民間輸送の半額程度の賃金を払うというのが最初の決まりでした。この問屋場には村の当番が交代で詰めて、人や馬の手配をしていました。
宿場がこういう負担する以上、当然宿場に住む人たちにはその代償がありました。その一つは税の免除です。ふつう江戸時代には屋敷を持つ町人や農民には地子(じし)といって宅地税がかかります。しかし、宿場ではこれが免除されました。また、後になると駅の業務が多くなり宿場の負担も大きくなります。そこで必要に応じて幕府から助成金が配分されるようになりました。さらに宿場の人たちは、駄賃収入の一部を宿場に上納することを条件に、民間の輸送を自由に営業することが認められました。その場合は荷主と相対交渉で運賃を決めることができました。これが一番の利権でした。この輸送独占権のほかにもなにかと特典がありました。そこで、これらの権利を守るため宿場町では、近隣の村が勝手に輸送業務をしないように監視していました。
たとえば、東海道では、現在の横浜市にあった保土ヶ谷宿の次は藤沢宿でした。ところが保土ヶ谷・藤沢間は距離が長すぎました。そのため、保土ヶ谷宿の東の戸塚村が宿場として認可されていないのに輸送業務を行うようになり、両者の間に激しい争いが起こりました。この争い結局戸塚村が宿場に昇格することで解決されていますが、この争いは宿場の業務を新規にしようとする村と既得権を守るためそれを阻止しようとする村との争いでした。
また宿場は宿場で、利益の多い民間輸送は自分たちで行い、儲からない幕府や藩の輸送は助郷の村に押しつけたりして助郷の村と摩擦を起こしたりしていました。この宿場の制度は宿場町の負担ばかりが強調されがちですが、実際は宿場の利益の方が大きかったようです。街道と宿場にはさまざまな規制がもうけられましたが、その多くは宿場町の活動を制約するというよりは、宿場町の既得権益を他村から守るため、宿場が幕府や藩に頼んで多村の動きを抑えようとして作った規制の方が多かったようです。そのため、とくに地方では宿場町だけが人口が増加して繁栄し、そうでない村々は衰えていきました。
大きな宿場になると、上宿・下宿とか、上町・下町というように分かれています。さらには、たとえば東海道の品川宿などは、・品川宿・南品川宿上・南品川宿下・北品川宿・品川歩行新宿というように5つの宿場に分かれています。この場合、それぞれが一つの独立した町です。ですからたとえば宿場が上下に分かれている場合には、上宿には上宿の名主がいて下宿には下宿の名主がいます。そして、ふつうは宿駅の業務も一月を半分に分け、交替であたるというようになっていました。また宿場の配置は街道によってちがいがあります。東海道が53宿なのに対し、中山道では69宿もあります。これは、東海道の場合、宿場町の規模が大きいので一つの宿場でたくさんの人足や馬を用意できます。そのため宿場と宿場が離れていても荷物の搬送を円滑に行うことができます。それに対し、中山道や日光街道などでは小さな宿場町しかできないので、宿場の数を増やし、さらには宿場村ばかりでなく宿場でない所でも、街道沿いに並べるように農家を住まわせて荷物の輸送に当たらせるという工夫もしていました。
参勤交代
江戸時代の初期には、幕府御用も少なく、藩の荷運びもそう多くはなかったのでこの伝馬の制度は上手くいっていたようです。当初の決まりでは東海道の宿場では100人の人足と駄馬100頭、中仙道で50人50頭、奥州街道では25人25頭でした。たぶんこの程度の人馬で十分間にあっていたと思います。ところが、時代が経つと街道の利用が増加し、問屋場でも人足や馬の数を増やしますがそれまでも間に合わなくなります。その最大の要因は大名の参勤交代でした。当初、参勤交代は外様大名だけが行い、譜代大名は江戸に常住していました。したがって、宿場の負担もそう大きいものではありませんでした。ところが、この参勤交代が制度として定着し、譜代大名も参勤交代をするようになります。そして、制度化すると行列の随行人員も大幅に増加しました。そうすると、この大名行列の荷物が急増します。また、江戸や地方の豪商の中には、藩御用ということにして伝馬を使えば低額で確実に商品の輸送できるというので、親しい藩に頼んでこの制度を利用するようになります。幕府は、藩が宿場の問屋で利用できる荷物の数量を制限し、それ以上は民間と同じように相対駄賃で運ぶように通達をだしますがあまり効果はなかったようです。
そこで宿場では、駅に常備している人足や駄馬だけでは足りなくなって、近隣の農民を使うようになりました。これが助郷です。しかし、助郷役の農民には税免除などの恩典があるわけでもなく、低額で荷運びをさせられるだけですから当然不満が起こります。また、助郷役を免れている村もあり不公平だという声がおこります。確かに助郷を免れた村の農民も街道を利用して割りの良い民間輸送の仕事をしたりしていましたから不平等でした。そのため、助郷の村のほかに、それまでは助郷役のなかった村にも助郷役をやらせるようになります。これを代助郷といいます。ただ、代助郷の村は幕府や藩が直接村を指定するのではなく、助郷の村に指名させる仕組みでしたから、これはこれで助郷の村と代助郷の村との争いを引き起こすようになります。こうして助郷に対する不満が高まり、江戸時代後期になると一揆まがいの騒ぎが起こります。
旅籠(はたご)
参勤交代が制度化すると、荷物の輸送ばかりでなく、宿泊施設も用意しなくてはならなくなります。初期の参勤交代では、決まった宿があるわけではなく、大名は村の有力者の家に泊っていました。随行の家臣たちはたぶん野宿同然だったと思います。もっとも初期の大名にとって、参勤交代は戦国時代の軍隊の移動と同じ感覚でしたから、それで不都合ということはありませんでした。しかし、いつまでも野宿同然というわけにもいかず、しだいに宿泊施設が整備されるようになります。そこで大名が宿泊する宿が本陣となります。また、一度に複数の大名が宿泊できるように脇本陣もできます。これら本陣や脇本陣はその宿場の有力者の家になることが多かったようです。そういう家はたいていは宿場の名主を務める家でした。
さらに一般の旅人を泊める宿泊施設も整います。そして、この宿泊施設は宿場町の風紀をさらに猥雑にしました。江戸時代の宿泊施設は旅籠(はたご)とよばれていました。この旅籠も最初は単なる宿泊の施設でした。
最初の旅籠は木賃宿ともよばれ、宿泊するだけで泊り客は持参の食料を宿から薪を買って自炊していました。ところがそのうち食事を提供するようになり、そればかりではなく食事の給仕をさせるという名目で遊女も置くようになりました。これを飯盛旅籠(めしもりははたご)といいます。遊女を置かない旅籠を平旅籠(ひらはたご)といいますが、この飯盛旅籠の方が圧倒的に多くなります。幕府は当初この飯盛旅籠を禁止にしましたがまったく守られませんでした。そして、黙認というよりは公認になり、品川宿には500人、千住、板橋、内藤新宿に150人の飯盛女を置くことを認めました。宿場の方でもこういう女性がいると宿場が賑わいますから飯盛女を置くことに積極的でした。それに飯盛旅籠の場合は収益の一部を宿に上納する仕組みでしたから宿場の財政の一助にもなっていました。時代が経つと、こういう女性たちが店先で客引きもしたりしていましたから、宿場はほとんど遊郭のような状況になりました。もっとも、こういう飯盛旅籠の客は旅人のほかに地元の人もいました。とくに近郷の若者たちもこの飯盛旅籠に入り浸って、宿場の風紀をいっそう猥雑なものにしていたようです。
(こういう遊女の数の制限は、旅籠相互の競争を防ぐのと街道沿いの他村の参入を禁止するため、たぶん宿場自身が求めたものです。一般的に江戸時代の揉め事の大半は役所と町村との争いではなく、村と村、町と村との争いでした。これを「村方騒動」といいます。その場合、藩や幕府に働きかけて、自分の町や村だけに権利を認めさて他村を排除するというのがもっとも効果的でした。)
平旅籠の方はたぶん商人宿だったと思います。江戸時代も後期になると、商品経済が発達し商用や行商の商人たちが街道を行きかいます。彼らには定宿があり、そこは単に泊まるだけでなく、店との連絡所になっていました。また、平旅籠は問屋場とは別に独自に人足や駄馬の手配をしていましたから、商人にとってこういう定宿は好都合でした。
脇街道
江戸時代には五街道だけでなく脇街道とよばれる道も整備されました。これらは五街道のバイパス的な役割のほか、五街道から外れた村と村を結んでいました。江戸時代にはこういう道がたくさんあって、人や物の活発な交流が行われていました。武蔵の主な脇街道は次の通りです。
・日光御成道・・将軍が日光に参詣する道
文京区本郷―岩淵宿―川口宿―鳩ケ谷宿―大門宿―岩槻宿―幸手宿(ここで日光街道と合流)
・水戸街道(国道6号)・・江戸と水戸を結ぶ道。五街道に準ずる扱いを受ける。
千住宿―新宿(葛飾区)→水戸
・川越街道(国道254号)
板橋宿―上板橋―白子―膝折―大和田―大井―川越
・中原街道・・武蔵と相模を結ぶ古道。参勤交代の行列を避ける脇道。
小杉(川崎市中原)―佐江戸(横浜市都筑区)→用田(藤沢市)
・青梅街道・・江戸城に築城に漆喰を作るため青梅市から石灰を運ぶために作られた道。甲府への近道として利用された。
内藤新宿―青梅→大菩薩峠を経て酒折(ここで甲州街道と接続)
・日光脇往還(国道16号・407号・県道66号)・・八王子同心が日光警備に行く道。
八王子市―入間市―日高―坂戸市―東松山市―鴻巣市―行田市→日光
・矢倉沢往還・・東海道の脇往還、大山参りの道。
世田谷・三軒茶屋―川崎市高津―横浜市青葉区緑区→静岡沼津市
五街道に代表される宿場の様子は以上のようなものでした。地方では人々で賑わう大きな町は、大きな寺や神社のある門前町を除くと、城下町か宿場町の二つしかありませんでした。そして、江戸時代の長い歴史を通じて城下町よりも宿場町の方が活気があり、時代が経つにつれ宿場町の方が発展していきます。後に述べるように江戸時代も後期になると農村が荒廃していきます。その最大の理由は農業の衰退です。とくに米や麦などの穀類生産を主とする地域は人口が減少してしまいます。簡単にいうと農業だけでは農民も生活ができなくなっていきます。そのため農民も農業以外に収入を求めることになり、その点、農民が働く仕事が見つけやすいのが宿場町でした。こういう宿場町は交通の要衝に位置していますので、江戸時代が終わり近代社会に移行してもその地域の中心都市となっています。 
6 江戸時代の武蔵統治
江戸時代の武蔵には藩は3藩しかありませんでした。川越藩、忍藩、岩槻藩の3藩です。いずれも北条時代に支城だったのをそのまま居城にして立藩しました。後は幕府領と旗本領でした、また、八王子には八王子千人同心という足軽クラスの下級幕臣1000人が居住する奇妙な集団がいました。そこで、ここではます幕府領と旗本領について整理し、それから武蔵3藩とこの八王子千人同心について考えてみます。
幕府領と旗本領
1590年家康が北条遺領240万石の領主として江戸に入府すると、武蔵は家康の直轄地と家臣たちの知行地になりました。その後、関ヶ原の戦い(1600年)と大坂の陣(1614.〜1615年)を経て、家康が将軍になると徳川氏の領地が大きく増加し、武蔵領の領有関係も大きく変わりました。
家康は関ケ原の戦いで勝利し莫大な領地を持つと、武蔵に知行地を持っていた親族と重臣たちを大名に取り立て他所に移しました。例えば家康の4男忠吉は、江戸入府時には埼玉県行田市の忍城に1万石を与えられていましたが、52万石の大守として名古屋に移りました。川越城1万石の領主だった酒井重忠も群馬前橋に3万石で移っていきました。ほかにも多くの重臣たちが大幅な加増を受けて転出しました。この時家康は57名の家臣を大名に取り立てました。彼らはそれまでの知行地を返還し、新領の大名として全国に散らばりました。また、大名にならなかった家臣たちも知行地が増えました。
とはいえ、江戸城のある武蔵は徳川幕府にとって最重要の地でしたから、江戸とその周辺は直轄地とし、その外縁部は譜代の大名領と旗本領にするという基本方針は同じでした。
幕府の武蔵直轄地は関東郡代の伊奈氏が管理しました。伊奈氏は初め埼玉県伊奈町(小室陣屋)に居ましたが、その後まもなく埼玉県川口市(赤山陣屋)に陣屋をもうけて、ここで幕府領を統括しました。伊奈氏の支配の仕方は各所に陣屋を設け、代官を派遣するというものでした。そして、関東郡代も勘定奉行の配下に属することになり、勘定奉行が幕府領を管理することになりました。
もっともそうなると代官が地元と癒着が目立つようになり、将軍綱吉の時代の頃から陣屋は次々と廃止されました。江戸時代の初期の年貢は「検見(けみ)」といって、その年の作柄を見て決めていました。しかし、そうするとその土地のことをよく知り、細かい事務に慣れた人でないと務まりません。そのため、代官が1ケ所に長く勤務することになり、どうしても村との馴れ合いや不正が生じるようになっていきました。そこで、綱吉はこれら不正代官たちを処分するとともに、検見法から、過去何年かの平均値で年貢を決めるという定免(じょうめん)法に切り替えていきました。そのために各地に陣屋を置く必要がなくなったのです。そうすると年貢をどう集めるのか気になります。しかし、それは書面で各村に年貢高を通知し、名主は命じられた村の年貢を集めて江戸の「御蔵」(浅草にありました)とよばれる倉庫に運び、そこで年貢皆済の書付を受け取ってその年の年貢が終了するということで何の問題もなくスムーズに進みました。
領主が領地に在住して直接支配すること止めるのは旗本領でも同じでした。旗本たちも初めは知行地に居住していましたが、家光の時に江戸に旗本屋敷の敷地が割り当てられると、知行地には陣屋を置いて代理を派遣し、自分は江戸に住むことにしてしまいました。しかし、幕領と同じように年貢も定免になると陣屋も必要なくなり、知行地の管理は村の名主などの村役人にすべてまかせるようになります。名主は村の年貢を村の農民に割り当て、年末になると村民たちから集めた年貢を江戸の旗本屋敷に運んで年貢が完了ということになりました。
よく知られているように旗本・御家人は1万石以下の幕臣のことです。将軍にお目見えできるのが旗本で、そうでないのが下級御家人だとされていますが、その境目は実際にははっきりしていません。それはともかく、江戸中期の1705年頃には幕臣は約2万3千人いました。このうち知行地を持つ旗本が約2千500人で、残りの2万人が米の現物支給の蔵米取りでした。そして、旗本の総知行高は275万石でした。譜代大名分を除く幕府領は700万石ですから1/3強が旗本領地でした。この旗本領のほとんどが関東にありましたから、当然武蔵にも旗本領が広く分布していました。ただ、武蔵の旗本領地の特徴は「相給(あいきゅう)」と分給が多いことです。相給というのは一つの領地を複数で持つことです。例えば石高400石の村があるとすると、この村を旗本ABの二人に知行地として与えることです。その場合、旗本AとBは村を分割して知行地にするのではなく、二人合わせてこの村を知行主になります。複雑なケースになると、一つの村に何人もの旗本領主がいるばかりでなく、幕府にも領主権もあるというケースもありました。そうなると、その村では年貢をあちこちに納めるというようになってしまいます。また分給というのは知行地を分割して持つことです。たとえば、ある500石取りの旗本がA村とに200石B村に300石を持つというようなことです。
この相給と分給は、将軍家光の時に、蔵米取り500俵以上の旗本には蔵米でなくそれに見合う知行地を与えるということになり、広く行われるようになりました。というのも、小身の旗本では、その禄高に見合う村がそう多くなかったからです。ただ、この相給分給は幕府が積極的にそうしたという面もありました。
なお、家光のこの措置を「寛永の地方(じかた)直し」といいます。この寛永の地方直しは蔵米取りの幕臣にできるだけ知行地を持たせる政策で、この政策は綱吉も推進しました。この政策の意図は窮乏する御家人を救済するためでした。そのため、単に蔵米取りから知行取りに着替えるのではなく、その際一律200石加増しました。先の知行地を持つ旗本を2千500人といいましたが、こんなに多いのはこの地方直しによるものです。なお、この地方直しでは1俵(玄米60kg)を1石に換算しました。ですから500俵取りの旗本は500石分の知行地を給付されました。
江戸時代の武蔵では、このように村に領主が不在で、おかつ領主が複数いるという状況でしたから、農民と領主の関係も極めて希薄でした。領主は農民にとって単に年貢を納める対象、農民は領主にとって年貢を受け取る対象ということでした。
総じて江戸時代の支配者である武士たちは、農民に対し過酷でもなければ寛容でもありませんでした。要するに武士たちは民政には驚くほど関心がありませんでした。江戸時代というのは不思議な時代で、支配者である武士たちは何もしなくても領内は平穏に治まっていましたし、黙っていても年貢は毎年きちんと手元に届くようにできていました。 
7 武蔵3藩
1)  武蔵3藩
北条時代の武蔵には、小机城(横浜)、八王子城、松山城(埼玉県吉見町)、鉢形城(埼玉県寄居町)、川越城、忍城(埼玉県行田市)、岩槻城(さいたま市)がありました。徳川幕府は、このうち川越城、忍城、岩槻城はそのまま残して川越藩、忍藩、岩槻藩の3藩を立藩し、残る諸城は全て廃城にしました。
(実は武蔵の藩はこの3藩のほかにも岡部藩がありました。この岡部藩は今の埼玉県深谷市の岡部にあった藩で安部氏2万石の藩です。しかし、この藩は元は岡部と下野に知行地を持つ5千石の旗本で、子孫が幕府の重職を勤めたため加増を受けて2万石の大名になりました。そのため本領の岡部領は5千石で残りは西国にあるという変則的な藩でした。藩というより公家のような家ですので、ここでは除くことにします。なお、戦前の日本資本主義のシンボルともいうべき経済人渋沢栄一はこの岡部領の出身者です。)
江戸時代の川越・忍・岩槻の武蔵3藩は他の藩とは大きなちがいがありました。それはこの3藩は江戸に近いため、藩主には幕閣の要職である老中に就任する家格の高い大名が置かれたということです。そのためこの3藩は譜代大名としては高禄の10万石前後の譜代大名が就封しました。そこで、ここでは武蔵3藩を見る前に、この譜代大名について老中と絡めて説明しておきます。
譜代大名について
譜代大名は外様大名とちがって基本的には徳川氏の家臣です。ですから、譜代筆頭35万石の彦根の井伊家も500石の旗本も徳川氏の家臣ということでは同等です。要するに徳川家臣団では禄高1万石以上になると大名とよばれ、1万石未満だと旗本御家人と呼ばれるだけです。譜代の家臣の役割は主家のために働くことです。当時はこれを奉公といいました。そして徳川幕府ではこの奉公人の筆頭が老中でした。この老中職は家康の時代にはありませんでした。幕府について、家康は大きな農家のようなものだということで「庄屋仕立て」といいました。実際、家康の時代には幕府には組織というものがなく、家康がこれと見込んだ側近を集めて,彼らとさまざまな権謀術数をめぐらし、それが政治でした。次の秀忠の時代も同じようなものでしたが、この時は秀忠とその側近たちの江戸城派と、駿府に引退した家康とその側近たちの駿府派の二重権力状態でした。
それが、役職の名称はともかく権力が将軍とその側近たちに一元化されたのが3代将軍の家光の時代でした。この家光の時代には当初家光側近の6人による集団指導体制でした。これを当時は「六人衆」と呼んでいました。その六人は、堀田正盛(川越藩主→下総佐倉藩主)、三浦正次(下野壬生藩主)、大田資宗(下野山川藩主)、阿部重次(岩槻藩主)、阿部忠秋(忍藩主)、松平信綱(忍藩主→川越藩主)でした。この六人衆が後の老中になりますが、この時は松平信綱と阿部秋は若年ということで、この二人には軽い案件を決裁させて将来は幕閣の中心者になるよう見習いをさせました。 これが若年寄りの始まりでした。この家光時代の仕組みがその後徐々に制度化して、幕政は老中と若年夜による集団指導体制で行うということになっていきました。
家光時代の六人衆は、将軍の秘書官のような存在でしたから小身の者でも務まりましたし、むしろその方が小回りきいて好都合でした。そのため2〜3万石の小身の譜代大名が就任しました。一方、大身の譜代大名は遠国で大兵を養い、幕府が危機に遭遇すれば大軍を率いて戦場に駆けつけることにしました。
しかし、制度として老中職が確立していくと、老中はそれなりの身代が必要になります。それは、たぶん島原の乱の時、将軍代理として指揮官を務めた小笠原氏が小身大名だったため、西国の大大名たちが指揮官の命令を聞かずに勝手に戦いをして苦戦したという反省があったからでした。この時の教訓として、老中は参謀役にとどまらず、いざとなれば師団規模の自兵を率いて前線で戦える能力がなければならないということもわかりました。(後に川越藩主の松平信綱や忍藩主の阿部忠秋が過大とも思える家臣団を抱えたのはそのためでした。)
こうした経緯を経て老中に就任する譜代大名たちには高禄を与えられることになりました。そして、江戸時代のルールでは、個人の能力に応じて役職が与えられるのではなく、その役職に就く家というのは前もって決まっていましたから、老中に就任する家格の大名家は、関東でも江戸に近い武蔵と両総に10万石前後の領地をもって就封するということになりました。
また、老中職が10万石程度の譜代大名が就任したのには、老中職は大身の大名でないと務まらないということもありました。というのは幕府の仕組みでは老中に就任しても、それにかかる経費を賄うための手当てが給付されることなかったからです。老中に就任してもその職務に必要な経費はすべてその人の負担でした。そのためには2〜3万石程度の財力しか持たない譜代大名では、末席の老中職くらいは勤まりますが上位の老中職は無理でした。
老中は一人ではなく4〜5人いました。江戸町奉行に南町奉行と北町奉行の二人いたように、江戸時代では一人の政治家が単独で職務に当たるということはなく常に複数いました。これは独裁者の出現を防ぐというより、元々日本の政治では平安時代の昔から合議制で運営するというのが習慣がありそれにしたがったようです。日本の政治風土ではどうも独裁政治というのはなじまないようです。
武家社会の慣行
それと幕府の要職はすべて譜代大名か旗本で占められ、外様大名や親藩の大名が就くことはありませんでした。このことについては、徳川幕府が外様大名や親藩大名を意図的に冷遇ししたように思われがちですが、これは少し意味がちがうようです。
というのも、徳川幕府というのは基本的には徳川氏の家政機関だからです。幕府の仕事には全国にかかわる政治の案件もありましたが、基本的には将軍職にある徳川家の家政を担当するということでした。それは将軍家の生活にかかわること、徳川宗家400万石の領地支配と2万人を越える幕臣の管理でした。ですから、徳川氏とは無関係の外様大名が幕府の政治に関与することは筋ちがいになります。
また、御三家などの親藩も幕府の要職に就くことはありませんでした。これについても、親戚筋は主家の内情に立ち入らないというのは、頼朝以来の武家社会のルールだったからです。
初期の鎌倉幕府では、幕府の役職には北条氏などの家臣筋の有力者が就任し、頼朝と同族の清和源氏の人たちが幕府の要職に就くことはありませんでした。その代わり、清和源氏の人たちは国司など朝廷内の顕官に就任し、頼朝時代にはどんなに実力があっても清和源氏以外の人が国司になることは認められませんでした。将軍の一族は幕政には関与しないのが武家社会の原則でした。これは室町時代でも同じでした。たとえば将軍義詮の時、足利一族の斯波氏が管領就任を要請されますが、斯波家は足利本家と同格だからといってこの就任を渋ったということがありました。管領は確かに大きな権力を持つことになりますが、またそのことは足利本家の家臣に転落することを意味していたからです。
一般的に上級武家の慣習として、自家の経営は家臣に任せるというのがルールでした。ですから、将軍は基本的には政治に関わりません。鎌倉時代の北条氏や、室町時代の細川氏や上杉氏(鎌倉公方の家臣)などのように、筆頭の家臣が政務を担当するということになっていました。将軍は君臨するが統治せず、が原則でした。ここが昔の将軍と現代の総理大臣とのちがいです。
(ですから徳川将軍は何もしませんでした。その点、5代将軍綱吉と8代将軍吉宗という人は異質です。とくに吉宗については、彼の歴史的評価は高いのですが、武家社会のあり方からいうと吉宗の行動の多くはルール違反でした。)
こういう歴史を見ると、江戸時代の老中制度というのは徳川幕府固有の制度ではなく、武家の一般的な仕組みにのっとったものであるのがわかります。
ただ、江戸時代の老中たちは鎌倉幕府や足利幕府に比べて仕事の範囲が非常に狭かったから、その点では楽でした。先に述べたように徳川氏には圧倒的な武力と経済力がありましたから、ほかの大名や天皇に気を使う必要がありませんでした。幕府の姿勢は、「幕府領は幕府が自由に統治する。大名たちも自分の裁量で自由に自分の領地を支配して構わない。その代わり領内統治に失敗すればその大名は廃絶する」というものでした。これが以前の政権と大きくちがいました。
鎌倉幕府や室町幕府では、幕府と有力豪族との関係を円滑に保つこと、それから大名同士の争いを調停する政治力が求められました。とくに鎌倉・室町時代には豪族や大名同士の領地争いはすさまじく、幕府の存在意義はこの領地争いを裁判することにあったのではないかと思われるほどです。そのため幕府高官には高度の政治能力が求められました。
ところが徳川幕府はこういう問題とは無縁でした。圧倒的な武力を持つ徳川幕府には、幕府と大名、大名と大名の調停ということは必要ありませんでした。たとえば大名同士が争っても、それはどちらが正しいかを裁判で決める必要はなく、喧嘩両成敗という武士社会の根本ルールに基づいて両者を廃絶すればよいからです。仮にその決定に大名が不満を言えば「では国に帰って兵を挙げればよかろう。幕府はいつでも受けて立つ」といえばそれで済んでしまいました。
また、朝廷の役割についても、公家諸法度を作って天皇と公家たちは形式的な儀典を行うだけというように厳重に手足を縛ってしまいましたから、鎌倉幕府や室町幕府のように対朝廷工作に神経をすり減らすこともありませんでした。
日本の長い歴史を見ると、平安時代の末期から戦国時代まで延々と有力豪族たちが延々と戦争と紛争を続けてきました。それが江戸時代になるとピタリとなくなってしまうのも、それが良いか悪いかはともかく、徳川氏がそれまでの権力者とは比較にならないほどの強力な武力を持っていたからです。 
2)-1 川越藩
川越藩は、1590年、酒井重忠が1万石で入封したのが始まりです。この時は家康の江戸入府直後でしたから、1万石は徳川家臣団の中では高禄でした。しかも、江戸のすぐ近くの川越に置かれたことからわかるように、重忠は家康が厚く信頼する重臣でした。重忠は1590年〜1601年まで川越の領主をつとめました。
最初の川越城は大田道灌が築城しました。川越は元々武蔵の要衝にあり、平安末期には武蔵に君臨した秩父氏の宗家河越氏の本拠でした。また、室町時代には扇ケ谷上杉氏もここを本拠にました。川越の東には現在荒川がありますが、中世までは荒川は春日部・岩槻を流れる元荒川のことでしたから、ここは流れていませんでした。そこで、この川越城を本拠に、岩槻城と江戸城を前線基地にして、利根川対岸の古河公方の勢力と対抗するというのが上杉氏と道灌の戦略でした。 
川越城は秀吉の北条攻めでは、城主が前線の群馬方面にいたため戦争らしい戦争もなく降伏してしまいました。そのため城と町はまったく無傷で徳川氏に引き渡されました。川越城は平城で初めから天守閣はありませんでした。内堀外堀で仕切られた二重構造ですが、堀は石垣ではなく土塁を積み上げただけの城でした。ですから城というよりは大きな武家屋敷のような建物でした。北条時代の川越城が拡張整備され、曲がりなりにも城らしくなるのは松平信綱の時でした。ですから現在の遺構も道灌時代のものではなく、信綱時代のものということになります。
最初の酒井重忠は10年間川越で藩主をつとめ、関ヶ原の戦い後他所に移りました。その後の川越藩はめまぐるしく藩主が変わりました。これは川越藩が徳川幕府にとってもっとも重要な地で、代々老中に就任する大名を配置したためでした。その変遷は次のようになります。
大名家、
酒井氏    (1590年〜1609年) 1万石
別家酒井氏  (1609年 〜1633年) 2万石→10万石
堀田氏    (1635年 〜1638年) 3.5万石
大河内松平氏 (1639年 〜1694年) 6万石→7万石
柳沢氏    (1694年 〜1704年) 7.2万石→11.2万石
秋元氏    (1704年 〜1767年) 5万石→6万石
越前松平氏  (1767年 〜1867年) 15万石→17万石
松井松平   (1867年 〜1871年) 8万石 
* 石高は入封時と転出時の石高
越前松平氏を除くとどの家も老中の就任者を出しています。越前松平氏がもっとも長く藩主を務めていますが、この松平氏は御三家に次ぐ家格の福井越前松平家の分家です。ですから譜代ではなく将軍家親戚の家門になり、老中に就任することはありませんでした。この松平氏は川越に来るまでの150年間で10回も転封を繰り返し「引越し大名」の異名をほどでした。川越就封後もあまりの負担に悲鳴をあげ出羽庄内に移封を画策しましたがうまくいかず100年も川越にいる羽目になりました。確かに、幕末には東京湾警備の任務を課され大いに苦労しました。
川越は江戸情緒を売り物にしている観光都市ですが、川越市民の大半はこの越前松平氏をふくめ、歴代の藩主家のことなどまったく知らないと思います。いろいろ言っても人間は戦争が好きですから、勝っても負けてもとにかく華々しく戦争をしないことには人々の記憶に残ることはないようです。
このうちもっとも有名な藩主は大河内松平氏の松平伊豆守信綱(1596年〜1662年)と柳沢吉保(1658年〜1714年)です。ここではこの二人を見ることにします。
松平信綱
松平信綱は「知恵伊豆」とも呼ばれた能吏です。彼は家光が生まれるとわずか9歳で家光の小姓になりました。24歳の時500石を与えられ、その後数々の役職に就きそのつど加増されてついには大名になりました。3万石で忍藩主だった時に島原の乱(1637年)が起こり前任の小笠原氏の後を受けて指揮官となって鎮圧し、その功でさらに3万石加増されて6万石の大名として川越に転封となりました。
信綱は老中職を務めながらも島原の乱に出陣するなど軍事と政治の両面で活躍し、そのため身代以上の家臣を抱えました。信綱は500石の旗本出身ですから父祖代々の家臣を持っていませんでした。彼の家臣団は上士は幕臣から編入し、下士の多くは忍藩時代に採用した者で、川越から召抱えられた家臣はいません。信綱の家臣は、知行取りの上士で207人、足軽・中間などの現米支給の下士は1136人もいました。上士の藩士は自分の家臣(これを陪臣といいます)もいましたから、それらを合わせると総勢はたぶん2千人はいたと思います。そのため財政は苦しく、川越入封後にさらに1万5千石を追加されましたが、あまり助けにはならなかったようです。この松平氏が転出時に5千石減ったのは、信綱の息子が藩主の時に弟に分知したためです。
信綱は急激に禄高が増やしました。これは彼の業績に対する恩賞のような感じがしますがそういうことではなかったようです。先に触れたように、幕府の役職に就くにはそれ相応の家録が必要でした。そこで信綱も役職が変わり、上位の役職に就くたびに相応の家禄になるよう引き上げられました。この当時では7万石でも老中職を務めるには不足でしたから、信綱の時代からこの松平家では財政のやり繰りに苦労していました。
信綱はもっぱら江戸に居住して幕政を担当していましたから、川越領のことはあまり目配りする余裕がありませんでした。しかし、それでも大きな業績をあげています。中でも、川越と江戸を結ぶ新河岸川を開削しこの地域の経済発展に大いに貢献したこと。それから玉川上水から野火止用水を引き、これを機に東京の東多摩地区と埼玉県西部の開発にされたのは信綱の大きな業績でした。
新河岸川
新河岸川は荒川に平行して流れる人工の河川です。川越には荒川(本当は入間川。荒川の西遷はずっと後です)が流れていますが、荒川は水量がさほど多くなく、とくに冬の渇水期になると川底が干上がる瀬切れ現象がよく起きる川でした。そこで、信綱は川越城近くの伊佐沼から水を引いて和光市の新倉で荒川に合流する人工の川を作りました。これが新河岸川です。もっとも、伊佐沼はそれほど大きい池ではありません。そこであちこちの川の水を集め、さらには新河岸川を小刻みに蛇行させて川の容量を増やして新河岸川の水位を保つ工夫がなされています。
ただ、江戸時代の川の舟運では利根川などの大きな川を除くと舟の自立航行は無理で、舟に綱をつけて両岸から人が引いていました。新河岸川もこのやり方でした。もっともこの仕事は近隣の農民の格好の賃稼ぎになっていました。しかし、この新河岸川は川越の町にとってよかったようで実はマイナスでした。というのは、確かに新河岸川が開通すると川越はこの地域の一大物流拠点になります。そのため、他の町村の多くは月に6回市がたつ六斎市でしたが、川越だけは九斎市の賑わいぶりでした。
しかし、この繁盛は長く続きませんでした。というのは、地図を見ればわかりますが、東京多摩地方や埼玉西部の人々にとっては、起点の川越に物資を運ぶより、もっと下流の志木市の船着場に運んだ方がはるかに便利だからです。そのため、商業的にはだんだん川越の町は活気をなくしていき、反対に志木や所沢(中継宿場)が賑わうようになります。
そこで川越の商人たちは政治力を使って何とか自分たちの権益を守ろうとしましたが、経済というのは一度流れができてしまうとそれを元にもどすというのは難しく、しだいに川越の町は経済分野では衰退していくことになりました。
(江戸時代、多摩地方の物資の流通の手段はほとんど新河岸川でした。ここには有名な青梅街道が通っていますが、この青梅街道はほとんど使われませんでした。青梅市や羽村市や瑞穂町などは青梅街道で直接江戸に搬送した方がはるかに簡単だと思うのですが、どういうわけか、多摩→所沢→志木の引又(ひきまた)街道を馬の背で荷を運び、志木からは新河岸川を使って江戸に運んでいます。今でも瑞穂町の老人などは志木のことを引又とよんでいます。引又というのは志木市の以前の名称です。)
新河岸川はこの地域の産物を江戸に物資を運ぶだけでなく、江戸からも物資が運ばれてきました。その中でも重要なのは金肥と呼ばれる糠や干鰯(ほしか)の肥料でした。武蔵野台地は保水能力がないばかりか、関東ローム層のやせた土地で江戸時代にはこの金肥がないと農業が持続できない土地でした。そのため長いこと多摩地方は農地の開発が進みませんでしたがこの新河岸川ができ、次の野火止用水が掘られて飛躍的に進みました。
野火止用水
それと信綱のもう一つの業績に野火止用水があります。この野火止用水は玉川上水からの分水です。玉川上水は羽村で多摩川から取水し、それを東京の四谷まで導水する上水道ですが、この水を立川市で分水し、埼玉県新座市の野火止を通って荒川に注ぐ人工河川が野火止用水です。この用水は1655年に完成しました。
信綱は玉川上水工事の総責任者でしたので、その地位を利用して自領に我田引水したようにも思われていますが、それはなかったようです。というのも信綱はそういう私心を持たない人物でしたし、何よりも譜代大名の宿命としていずれ他所に異動することは予想していました。用水を掘ってこの地を豊かにしてもいつまでもここの領主でいられないことはわかっていましたからです。
この野火止用水が大きな役割を発揮したのは信綱の時代ではなく、それから100年後の将軍吉宗の時代です。この吉宗の時代に武蔵野の新田開発が始まりますが、それが可能になったのはこの野火止用水をさらに細かく分水し、武蔵野台地のあちこちに水が供給できるようにしたからでした。この野火止用水のおかげで東村山市や新座市や志木市などで開発が進みました。ただこの用水は田畑を潤すための農業用水ではなく、ここに住む人たちの飲料水を確保する生活用水でした。この地域は飲み水にも不自由していましたが、飲み水さえ確保されれば十分人々が生活できる地域でした。
(以前、所沢の市街地に住む農家の人から話を聞いたことがあります。その人は戦後中国から引き上げてきた所沢の入植者でした。その人の話では、他にも入植者が大勢いたが、皆途中であきらめてここから去ってまったそうです。理由は水です。とにかく飲み水にも不自由する所で風呂にも入れませんでした。仕方がないから原っぱのススキの穂をいっぱい摘んできて風呂桶に入れ、それでからだを拭いていたと言っていました。自分もよほど見切りをつけて去ろうと思ったが、ノロマな性格でグズグズしていたら鉄道が通って、あっという間に宅地開発が進んで自分も資産家になってしまったということでした。) 
2)-2 川越藩
柳沢吉保
信綱の大河内松平氏の後、川越藩の藩主になったのは柳沢吉保でした。吉保が川越藩主だったのは1694年から約10年間と短い期間でしたが彼も足跡を残しています。それは、三富新田(さんとみ)とよばれる所沢・狭山の開墾入植事業でした。
吉保がどうして三富新田を作ったのかはよくわかりません。地域開発ということではなかったようです。この後の吉宗の時代になると武蔵野の開発が急激に進みますが、それは投資というか投機というか、要するにお金儲けでした。しかし、吉保の三富新田はそうではなかったようです。吉保とその主人の将軍綱吉は熱心な儒学の信奉者でした。儒教で理想の政治家とされるのは周の時代の周公旦という人です。周公旦は井田法という農地区画を行ったとされています。
井田法では大きな正方形の土地を小さな正方形に9区画に分け、井の字を作ります。このうち周りの8区画を8軒の農家に平等に分配し、農家がそれぞれの農地を耕して生活します。そして真ん中の農地は8軒の農家が共同で耕作し、その収穫物は税として国庫に納められるというものです。8軒の農家はみな同じですから、隣の農家をうらやむこともなく平等に生活し、国も農民から過度に収奪をすることもないという理想の社会で、政治理念としてはレーニンや毛沢東が目指した以上の平等社会です。
どうも吉保はこの井田法のような農村を自らの手で実際に作ってみようとしたようです。吉保は上富(あげとみ)中富(なかとみ)下富(しもとみ)の3村を作りました。村の中央に広い道路を通し、この道路に面して屋敷地を配します。そしてその背後を広い農地にします。さらにその奥は雑木林にして落ち葉は肥料にし、枝木は燃料に使うというようにできるだけ自給自足をめざしました。
このように三富新田では村全体を短冊状に土地を区画し、農家には平均5町(5ヘクタール)もある広い耕地を均等に分けました。そして、吉保は3村の農民たちのために菩提寺として多福寺という立派な寺も建立しました。入植者の多くは領内の農家の次三男でしたが、採算を度外視した事業でしたから、選ばれてここに入植した人たちは幸運でした。
吉宗が進めた武蔵野の新田開発では、入植の農民たちは借金に縛られてひどい目にあいましたが、ここではそういうことはありませんでした。彼らは広い農地を耕し、多福寺を心のよりどころにしてゆったりした生活を享受するができました。
もっとも吉保は将軍綱吉の側近として多忙でしたから、一度も現地に赴くことはなく、もっぱら家臣に自分の理想を話して彼らに村づくりをまかせました。このあたりは大正ロマンチストの小説家武者小路実篤が「新しき村」を作ったのと似ています。たぶん綱吉も吉保から話を聞いて熱心に応援したことだと思います。
(今でも多福寺のあたりには、杉や欅の大木が鬱蒼と茂る屋敷林を持つ大きな農家が何軒もあります。しかし、よく見るとあちこちにフェンスで囲われた秘密基地のような所があって、大きな番犬が飼われています。産業廃棄物の処理場です。関越道を使えば東京からすぐ近くにあって、人家もあまりありませんからゴミの処分場にするのには好都合です。農家も相続税でお金が必要なので、あっという間にこういう施設が林立しました。吉保も300年後の日本人がこんなに経済至上主義になるとは思いもよらなかったようです。このあたりは昔の武蔵野の風景をとどめている所ですが、それもいずれなくなることと思います。)
柳沢吉保という人は、江戸時代の政治家の中ではすこぶる評判のよくない部類に入ります。彼は前の松平信綱や後に述べる忍藩主の阿部忠秋などと同じような道をたどったのですが、信綱と忠秋が家光という名将軍に取り立てられたのに対し、吉保は綱吉という評判の悪い将軍に取り立てられたことがその原因のようです。
しかし、綱吉は暗愚な将軍ではありませんでした。彼は将軍になると綱紀粛正につとめ、歴代将軍の中でももっとも多く大名を改易したように、政治家として必要な決断力もありました。しかし、晩年に生類憐れみの令を出してこれがよくなかったようです。このあたりは中国の玄宗皇帝に似ています。二人とも若い時は優れた政治家でしたがしだいに政治に飽きてしまいました。玄宗は晩年に女性で失敗し、綱吉は犬で晩節を汚してしまいました。 
吉保の処世術
吉保は良識ある文化人でした。彼は綱吉の寵を得ても謙虚さを失うことはなく、そのため人に嫌われることもなかったようです。
吉保はその後甲府に転封になり、綱吉が亡くなるとあっさり息子に家督を譲って政界から引退してしまいました。息子は大和郡山に移りました。このことを左遷だとする見方もありますが、柳沢氏は郡山でも15万石の高禄を保ちました。むしろ政争に巻き込まれやすい関東を離れ、遠く関西に移ったあたりに、どこまで計算していたかはわかりませんが、身の処し方の巧みさを感じます。息子は実は綱吉の子だったというような猟奇的好奇心の種にもなりましたが、彼は政治的野心を持たず、文化趣味と社交に活動を求め文人大名に徹しました。あたりに父親同様の世渡りのうまさを感じます。
前に鎌倉時代の大豪族たちのところで、鎌倉幕府創立の功臣だった三浦氏や畠山氏の悲惨な末路を述べました。そこで唐の太宗の創業守成論を紹介しましたが、とくに異常な速さで出世した家臣の場合、主君の代替わりで悲惨な最後になることが多いのですが、この、柳沢氏は、創業はもちろん守成もうまくいった例だと思います。柳沢家は創業者と守成者が別々の人だったので切り替えがうまくいったようです。 
3) 岩槻藩
岩槻城は武蔵東部の要衝で室町時代に大田道灌が築城したと伝えられています。時の関東管領山内上杉氏は同族の扇ケ谷上杉氏と共に古河公方と争い、扇ケ谷上杉氏は川越城を本城にして、この岩槻城と江戸城の2城を前線基地にして利根川東岸の古河公方と抗争を続けました。岩槻城のすぐ後ろを元荒川が流れています。この元荒川が江戸時代以前の荒川の本流です。今の荒川は江戸時代に入間川に荒川を合流させる工事でできた川です。岩槻城はこの元荒川を外堀にして、あまり高くはない丘陵の上にあります。
岩槻城を居城にする岩槻藩は家康の重家臣高力氏が2万石で入封したのが始まりです。高力氏は徳川氏家臣団の中では民政財務部門を担当し、家康が東海にいた時には三河三奉行の一人でした。戦国・江戸時代には大名家内部は大別して三部門に分かれていました。軍事部門の番方(ばんかた)、民政財務部門の役方(やくかた)、藩主に近侍する側方(そばかた)です。そして番方の長が頭(かしら)、役方の長が奉行とよぶことになっていました。ですからこの高力氏は役方で民政の専門家ということになります。
前の川越藩も大名家がさまざまに変わりましたが、岩槻藩も同じように交代の多い藩でした。それを表にしてみると次のようになります。
大名家
高力氏   (1590年〜1619年)  2万石
青山氏   (1620年〜1623年)  4万5千石
阿部氏   (1623年〜1681年)  5万石〜11万5千石
板倉氏   (1681年)       6万石
戸田氏   (1682年〜1686年)  5万1千石
藤井松平氏 (1686年〜1697年)  4万8千石
小笠原氏  (1697年〜1711年)  5万石
永井氏   (1711年〜1756年)  3万3千石
大岡氏   (1756年〜1868年)  2万石〜2万3千石
この岩槻藩の大名家は、江戸時代の前期にめまぐるしく変わっているのがわかります。中には1年とか3、4年というのもあります。これでは落ち着いて領内の支配などできるはずがないように思われますが、江戸時代というのは不思議な時代で、領主がいてもいなくても領内はうまく回っていました。先に旗本領で、村の管理は名主にすべてまかせ領主である旗本は江戸屋敷に居住してただ年貢を受け取るだけだったといいましたが、藩領もほぼ同じでした。藩主と藩士の多くは江戸に住んでいて領内の統治は、わずかの家臣と村の名主層に任せきりでしたが、それで支障をきたすということはありませんでした。ですから、岩槻藩のめまぐるしい藩主の交代で岩槻領が秩序が緩んでいたということはありませんでした。とはいえ、これだけ大名家が交替すると、どうして交替することになったのか気になります。そこで簡単に調べてみました。それが以下の内容です。
高力氏・・・・奏者番などを勤め、2代目が1万石加増の3万石で浜松に転封。
青山氏・・・・将軍の勘気に触れ、2.5万石削減され2万石で上総大多喜に左遷。
阿部氏・・・・歴代藩主が大坂城代や老中職に就く。5代目で幕閣の主流から離れ、同じ石高で京都宮津に転封。
板倉氏・・・・老中に就くも突然1万石削減されて長野坂城に左遷。理由ははっきりしないが御家騒動か。
戸田氏・・・・京都所司代や老中に就く。1万石加増で下総佐倉に転封。
藤井松平氏・・将軍綱吉の側用人になり信頼されるも同じ石高で兵庫出石に転封。理由は不明。
小笠原氏・・ 京都所司代や老中に就く。代替わりした2代目の襲封直後に静岡掛川に6 万石で転封。理由不明。
永井氏・・・・同じ石高で美濃加納に転封。理由不明。
これを見るとはっきりした理由もなく交替しています。このあたりはどうも現代の中央官僚の人たちがめまぐるしく部署替えや転勤をしていますが、それと同じようなものだったような気がします。
岩槻阿部氏
この中で比較的長く、そして石高が多かったのは阿部氏でした。そこでこの阿部氏を見てみます。岩槻での阿部氏の家系は、
阿部正勝―正次―重次―定高―正春―正邦―正福
となります。
阿部氏は5代目の阿部正春の時11万5千石になりこれが最高石高でした。
正春の曽祖父の正勝は5千石の旗本でした。彼は、幼少の家康が今川氏の人質になって駿府にいた時から付き従っていた家臣で、徳川家の中でも別格の家臣でした。阿部家は、家光の頃から幕府内では要職を占める家ということに決まり、子孫もよく老中に就任しました。もっとも有名なのが、幕末に幕府の舵取りをした老中阿部正弘です。
この阿部氏は2代目正次の代で大名に取り立てられました。正次は大坂の陣で活躍し、さらにその後も奏者番などを務めて加増を受け、岩槻に5万石で入部しました。正次は大阪城代を20年以上も務め、8万6千石になりました。その後を継いだ重次も、将軍家光の時代に老中に就任しました。
この家光の時代は幕政の転換期で、先の川越藩主の松平信綱、忍藩の阿部忠秋(正次の従兄)、それとこの阿部重次と新しい政治家が出てきました。この3人の中では重次が兄貴格でした。
彼らはいずれも家光の側近上がりで、幕府は彼らが若い時から意識的に責任ある役職に就け、将来の幕政のリーダーになるよう訓練養成しました。そして、彼らはその期待に応えた政治家たちでした。
家光の時代は、徳川氏も創業から守成に転換する移行期でした。もはや、華々しい戦争も大きな事業もなくなりました。幕府の政治家には強烈な個性を持つ人よりも、重厚で気配りのできる人が必要とされる時期でした。
この重次は将軍家光を説得して家光の弟忠長を自害させた人です。戦国時代の大名では、親子や兄弟で争うことはよくあることでした。しかし家光はこれから天下泰平の時代をつくろうとする将軍でした。どんな事情があるにしても、実の弟を死に至らしめるということは将軍が真っ先に口にすべきことではありません。そういう事情を飲み込んで、将軍の背中を押し汚れ役をかってでたのがこの重次でした。彼は家光を承知させると、武装した兵を率いて忠長が幽閉されている高崎城に赴き、ためらう城主に命じて忠長を自害させてしまいました。
(長男が家督を相続するというのは江戸時代も中期以降に確立したようで、それまでははっきりしたルールはなかったようです。たとえば加賀の前田家は利家が創立者ですが、彼は名古屋の土豪の三男で、初めは長男が当主になっていました。ところが兄二人が相談して「自分たちよりお前の方が適任だからお前が当主になれ。自分たちはお前の家臣になる」と言って利家が当主になりました。秀忠が二代目になったのもよくわかりませんし、家光の時には弟の忠長を推す勢力もあって、家光がすんなり三代目になれたわけではありません。そして家光が将軍になってからも弟忠長の扱いは徳川氏の中でも頭の痛い問題でした。)
重次は家光が亡くなると殉死しました。その後を継いだのが定高でした。ところが定高が若くして亡くなると遺児が幼いため、その繋ぎとして弟の正春が後を継ぎました。この時正春は別家の養子になっていましたので、その養子先の領地と岩槻藩の領地を合わせて11万5000石になりました。ですから歴代藩主の中では最高の禄高を得ましたが、彼の藩主としての立場は微妙なところがありました。
正春は重次の息子とはいえ養子になって他家の人になったことがあります。そのため藩内には彼に反発する者も多く、彼は早々と引退し亡兄の息子の正邦に岩槻藩主の地位を譲ってしまいました。このあたりは家康の息子の結城秀康が、最年長にもかかわらず将軍になれず、弟の秀忠が2代将軍になったのと似ています。江戸時代の前期頃までは戦国時代の余風が残っていて、武家の社会では一度他家に入ると、その後実家にもどってもなかなか正統性を持てなかったようです。
それと、岩槻阿部氏を見ると禄高が何度に分けて増加していますが、この増加は居城の岩槻城を中心に同心円状に領地が増えたというのではありません。元々岩槻城下とその周辺のいわゆる岩槻領というのは2万石くらいしかありません。それを広げても地域的なまとまりのある領域は5万石くらいでした。ですから、阿部氏が加増を受けても、それは岩槻領以外に領地が与えられるということでした。阿波氏の11万石も、岩槻領のほかに関西に3万石、千葉県に1万石と散在していました。
大身の譜代大名の場合、このようにあちこちに領地を持っているのがふつうです。そして加増とはこういう飛び地の領地が増えることで、削減はその飛び地の領地が幕府に収公されるということでした。その場合、藩主がその役職遂行に大きな禄高が必要となれば加増され、その役職から引けば減封されます。したがって、減封といっても今の私たちが考えるような処罰的な意味はありませんでした。
阿部氏以外の岩槻藩
岩槻藩は永井氏の頃からふつうの譜代の藩になります。それをもっともよく表しているのが2万石の大岡氏でした。この大岡氏は江戸町奉行で有名な大岡越前の親戚です。初代の忠光は将軍吉宗の長男家重の側近でした。家重という人は知的障害があって周囲の誰もが彼の言うことが理解できませんでした。こういう家重の言うことを唯一判読できたのが忠光でした。吉宗も迷いましたが、長男ということであえて次の将軍にしました。忠光は元は500石の下級旗本でしたが、将軍の通訳としての功が認められ、大名に列し2万石で岩槻藩主になりました。そして、その後は取り立てて幕政を動かすような藩主は出ませんでしたが、江戸後期になると川越・岩槻・忍の武蔵3藩の中では岩槻藩は幕府の中で枢要な藩ということではなくなっていました。 
4)-1 忍藩(おし)藩
埼玉県の北部に行田市があります。ここは埼玉古墳のある所ですが、城のある所を忍(おし)といい、この忍城を居城にしたのが忍藩です。
忍という名称は古く、中世の武蔵七党に忍氏がいました。その忍氏は同じ武蔵七党の成田氏に征服され、成田氏はこの忍に忍城を築きました。成田氏は他の武蔵の豪族たちが次々と北条氏の家臣にさせられたのに対し、どういうわけか独立を保ち北条氏の同盟者大名のような地位にありました。成田氏は秀吉の北条攻めにも徹底して抗戦し、ここを攻めた石田三成も苦戦しました。ここは荒川と利根川に挟まれた湿地帯で、この湿地帯に島のように浮かんでいるのが忍城です。そのため城を置くには適地ですが、人々が生活するにはあまりよい所ではありません。そのため町人町は城から離れた所に形成されたらしく、ここが今の行田市の中心地になっています。
家康はこの忍城を廃城にしないで存続させました。軍事面だけを考えると、関東の入り口あたる碓氷峠を抜けて利根川を渡らずに江戸に到達するルート上の寄居町の方が行田よりずっと軍事価値が高く、その点では忍城より鉢形城の方が優れていますが、この頃から、武蔵では山間地の西部より中山道・奥州街道が通る東部の方に比重が移っていきます。そのため鉢形城より忍城の方が政治経済的に価値が高いと考えられたのだと思います。
家康はここに初めは四男の忠吉を1万石で置きました。ところが関ヶ原の戦いの後、忠吉は52万石で名古屋に移りますが、幕府は忍城の重要性を理解していましたので、幕府はここに老中に就任する資格のある大身の譜代大名を置くことにしました。そのため、この忍藩も川越藩岩槻藩と同じように藩主がよく転封移封を繰り返すことになりました。
(忠吉は名古屋移封後間もなく亡くなります。その後を弟の義直が継ぎ、これが御三家筆頭の尾張徳川家になりました)
忠吉後の忍藩の藩主は、
深溝松平氏→東条松平氏→大河内松平氏→阿部氏→奥平松平氏
と変わりました。このうち大河内松平氏は、後に川越藩主に転ずる前の松平信綱です。
忍阿部氏
忍藩の大名家では阿部氏がもっとも長く続き、1639年から1823年まで約180年間も領主でした。歴代藩主はいずれも老中や大阪城代・京都所司代などを務め幕府を支えました。もっともそのため過大な出費を強いられ、そのためずっと財政の遣り繰りに苦労することになりました。そこで忍藩についてはこの阿部家を見てみます。なお、この阿部忍藩を見ると、江戸時代の大名家の組織と農民の支配の仕方がよくわかりますのでそれを中心に見てみます。
忍の阿部家は、
忠秋―正能―正武―正喬―正允―正敏―正識―正由―正権
と続き、正権の時奥州白河に転封になりました。このうち、3代正武は23年も老中職を務めた幕府の柱石で、彼の時2万石を加増され10万石になっています。
阿部忠秋
初代の忠秋(1602年〜1675年)は、岩槻阿部氏と同族で、岩槻阿部氏で説明した阿部正勝の三男の家です。忠秋は将軍家光の小姓から出発し、松平信綱同様異例の出世を遂げて、信綱の後を受けて5万石で忍藩主になりました。忠秋は信綱とは幼い頃から共に家光の小姓として仕え親しい間柄でした。二人は将軍に気に入られたばかりでなく、他の幕閣からも期待され、老中に就任する前には、老中が扱うほどもない軽い案件は二人で決めさせるというように、老中になる予備訓練を受けて老中になりました。
忠秋は1635年老中に就任し、1639年に5万石で忍藩の領主になりました。その後も加増を受け、1663年には8万石の領主になりました。
忠秋は信綱より6歳年長ですが、先に頭角を現したのは信綱でした。信綱は島原の乱の鎮圧の指揮をとったり、玉川上水・野火止用水を作るなど華々しく活躍しましたが、忠秋にはこういう目立った業績はありません。彼の業績を一つあげると、浪人たちの不満を吸い上げた由比正雪が反乱を計画した事件(由比正雪の乱)が起こった時、他の閣老たちが浪人たちを江戸から追放する過激策を決めたのに、忠秋が強く反対してやめさせたということがありました。このあたりから想像すると、いかにも平時向きの重厚な政治家という気がします。
忠秋は人物識見ともに優れた人でした。しかし、彼が際立った昇進を遂げたのはそのためということではなかったようです。阿部家は正勝の長男が若くして亡くなったため、次男の岩槻阿部氏が本家を継ぎ、忠秋は三男の家系でした。しかし、子供のいなかった忠秋は若死にした長男の息子を養子にしましたので家格としては忍阿部氏も岩槻阿部氏と同格でした。そして、この両阿部家の歴代藩主はよく老中に就任しています。どうもこの阿部家というのは、老中に就任する家として、幕府によって意図的に作られた大名家だったようです。
江戸時代には親藩譜代外様の大名が約300家ありました。そのうち親藩外様の大名は前に説明したように老中に就任しません。さらに井伊家や榊原など武門の譜代はもちろん1〜2万石の小身の譜代大名も老中には就任しません。そうすると老中に就任できる10万石の譜代大名というのは10数家に限られていたと思います。しかも老中は一人ではなく複数いますから、こういう家に生まれればだいたい老中に就任することになります。
歴史小説、とくに司馬遼太郎の歴史物の影響で、私たちは優れた人物であれば優れた政治を行い、無能な政治家が権力を握ると世の中は混乱するというようなことを考えがちです。しかし、人間の能力にはさほどちがいがありませんし、役職が人を作るということもあります。ですから、どんな役職でもそれ相応の経験を積めばたいていの人には務まるものだと思います。
それと江戸時代の徳川幕府は前に述べたように、鎌倉幕府や室町幕府とちがって圧倒的な力を持ち、徳川氏を脅かすような外様大名はいませんでした。そのため、幕府の政治家たちの仕事はもっぱら徳川家の家政をみるということでしたから、老中職も固定された家の当主による世襲のほうがうまくいくということもありました。その点では、忍藩阿部家は忠秋後も歴代藩主は老中の藩としての使命を十分に果たしたといえます。
忍藩領の統治の仕組み
初代の藩主忠秋は最終的に8万石の領地を持ちました。この8万石の内わけは次の通りでした。
埼玉郡(35村・約3万4千石)
大里郡(31村・約1万千石)
秩父郡(27村・約1万2千石)
足立郡(13村・約9千石)
幡羅郡(2村・約1千石)
男衾郡(9村・約1千石)
江戸時代の村では名主・組頭・百姓代のいわゆる「地方(じかた)三役」がいましたが、村は大体100〜200軒くらいの小さな組織で、それを一つ一つ管理するのは大変です。そこで、この村を10村くらいの村にまとめて組を作りました。忍城のある本拠の崎玉郡では35村を、持田組(8村)・佐間組(7村)谷郷組(10村)皿尾組(10村)の4組に分けました。
この組を実際に運営するのは、組内にある大きな村の名主で、これを「割元(わりもと)」とか「割元名主」といいます。この割元になる資格のある名主は組内に複数でいましたが、実際は一つの家に固定され、残りは相談役を務めたり、割元に就任すべき人が年若だったりすると、成長するまでの繋ぎをしていました。組の名称は割元のいる村の名をとって持田組とか佐間組とか呼びます。村をいくつか集めて組を作り、組の名前は割元のいる村名をつけるというのは、忍藩に限らず全国的にまったく同じでした。なお、江戸時代には江戸の文人墨客がよく地方を旅していますが、彼らが旅先で滞在していたのがこの割元名主の家でした。この割元は士分の扱いを受け、苗字帯刀が許されていたばかりでなく、わずかながらも藩から給金も支給されていました。
江戸時代の村々は組にまとめられましたが、組の統括者は藩士である代官でした。この代官は組が遠隔地にある場合は現地に陣屋をもうけますが、ふつうは城下に居て、代官が自分の住居を代官屋敷にしていました。この代官には中級の藩士一人が当てられ、代官には藩士である部下はいません。したがって統括者というのは大げさで、実際は藩庁の命令を割元に伝えたり、割元からの要望を藩庁に伝えたりするだけでした。ですからテレビの「水戸黄門」などはまったくの荒唐無稽なお話ということになります。
江戸時代では民政を実質的に担ったのはこの割元と村の名主たちでした。例えば年貢の徴収の仕組みは次のようになります。まず藩から割元にその組の年貢高が伝えられます。すると割元は今度は各村に年貢を割りつけます。そして村では、名主が中心になって組頭や百姓代などの村役人と一緒に、村内の各農家の年貢を決めます。そして、年貢は割元の指示のもとに村ごとに集められて、城下にあるそれぞれの組の倉庫に納められます。無事に納められると年貢皆済の書付を受け取ってその年の年貢が終了するということでした。したがって、年貢は村が単位で、村内のある農家が年貢未納になれば村全体で未納分を補うということになります。また、各農家の負担分は藩が決めるのではなく、村役人が決めますからその割合をめぐって揉めることはよくありました。
割元は訴訟も扱いました。村落内のちょっとしたもめ事や、村と村のもめ事(その多くは水争いと入会地をめぐる争論。)はだいたいこの割元が調停しました。ですから、代官を含め藩の役人たちは民政についてはほとんど何もしません。領内で起きる揉め事も、当事者が同じ村の人なら名主の責任で処理します。村と村の揉め事のような大きな事案は割元の責任で処理するというのがルールでした。そして、その処理のしかたを見ると、今の裁判のように当事者の言い分を聞いて白黒をはっきりさせることはせず、あくまで当事者同士の話し合いで解決させるというやり方でした。つまり示談です。
代官がすることも割元や名主に示談を急がせるだけで、どちらが正しいかというようなことは絶対に言わないというのが江戸時代に民政でした。これは忍藩でも同じでした。ですから、民政に携わる藩士は想像以上に少ない人数で十分可能でした。 
4)-2 忍藩(おし)藩
忍藩の藩士
忍藩では忠秋が藩主だった慶安年間に約1200名の家臣がいました。江戸時代の大名家ではどのくらいの藩士がいたかははっきりしませんが、大体10万石の大名家で1000人の家臣というのが平均だったと思います。ですから8万石の忍藩では異常に多かったのがわかります。松平信綱の川越藩や阿部重次の岩槻藩もそうですが、忍藩を含む武蔵3藩は家臣の数が多いのが特徴です。それはいったん戦争が始まると、老中である彼らが幕府軍を指揮することになっていたからでした。
(幕府の決めた軍制では1万石で250人くらいですが、それは正規の家臣のほかに、上士の私的家臣や徴兵した農民も含めた数値でいわば戦時体制を想定したものです。平時における正規の家臣数はずっと小さくなるのがふつうです。)
忍藩の藩士1200人の内わけは次の通りです。
藩首脳と側近部門 83人
城代1人    2000石
家老5人    2000石〜800石
中老3人    50人扶持・800石
用人3人    650石〜300石
小姓頭6人   250石〜100石
その他65人
警備・軍事部門 222人
番頭6人     700石〜300石
者頭37人    500石〜250石
馬廻91人    300石〜120石
その他71人
民政部門    214人
町奉行2人    120石〜100石
金奉行2人    150石〜70石
郡奉行2人    150石
代官13人     30俵3人扶持
その他195人
財政部門       54人
勘定奉行3人   150石〜100石
その他51人
城内各係・中間643人
中間290人       1人扶持
在忍秩父中間180人  1人扶持
その他1216人
藩士には知行取りと蔵米取りがありました。知行取りは領地を与えられるのですが、多くは蔵米取りといって藩の蔵からそれ相当の米が支給されました。知行取りが比較的多いのは大藩の外様大名で、多くの譜代大名や小大名のほとんどはこの蔵米取りでした。
忍藩でも藩士はすべて蔵米取りでした。その場合、1石1表で換算されていました。ですから最高禄高の2000石の城代は2000俵の米を支給されるということになります。1俵は約60kg.で、現代の農家では1反当たり10俵の収穫があります。したがって、2000俵の城代の収入は、現代の農家の20町(20ヘクタール)の収穫量と同じということになります。江戸時代の稲作では現代の1/4程度の収穫しかありませんから単純には比較できませんが、意外と少なかったことがわかります。
また、1人扶持というのは1日あたり玄米5合支給されるということです。昔の暦では1年は360日ですから、1年で1800合なります。1合は0.15kg.ですから、1人扶持は1年に米を270kg.支給されるということになります。これでは本人1人が生きていくこともできない家禄で、家族を持ったらまったく生活できません。ではどうやって生活していたかとなりますが、これがはっきりしません。
いろいろ考えてみましたが、この禄高は今の会社で言うところの基本給みたいなもので、現代の会社員の人たちには残業手当などの諸手当がありその収入を合わせて生活しているように、江戸時代の藩士たちもこの家禄とは別に表に出ない収入があったのではないのかとも思いますが、そこのところはわかりません。それと内職です。内職には手工業のほか畑を耕すということもありました。この農業は次に取り上げる八王子同心が有名ですが、八王子同心に限らず広く行われていました。ただ、商売は禁止だったようです。忍藩ではなく幕臣ですが、店舗商売を副業にして処罰されたことがあるのを何かで読んだことがあります。たぶん幕府だけでなく藩でも同じだったと思います。
全体的に江戸時代の武士の経済的待遇は恵まれてはいなかったのは事実でした。藩士には上士と下士がいましたが、印象としては、上士でも村の豪農豪商に比べるとそれより豊かでなく、下士は下層農民や下層町人よりも恵まれない生活をしていたという気がしています。
(このあたりは価値観のちがいだと思います。江戸時代初期の経済人に河村瑞軒がいます。彼は幕府の簿僕工事や海運航路を引き受け、その功で旗本に取り立てられましたが、その禄高はわずか500石でした。これは下級旗本ですが、それでも瑞軒は喜んで旗本になり、以後子孫も旗本として幕末まで続きました。現代人には理解しがたいのですが、豪商として巨大な富を持つことよりも、武士であることの方がはるかに価値が高いと考えたのが江戸時代の人々だったようです。) 
5) 八王子千人同心
八王子千人同心
藩ではありませんが八王子には八王子千人同心というのがありました。そこで、この八王子千人同心について触れておきます。これは八王子に置かれた幕府直属の1000人からなる足軽部隊でした。同心というのは足軽クラスの下級武士のことをいいます。
1000人の同心は10組100人ずつ10組に分けられました。そして組ごとに組頭がいました。全体の統括者を千人頭といい200石〜500石の旗本が就任していました。千人頭は何人かいて月番で交替していました。これは幕府の一般的なスタイルで、組織の長は必ず複数がいて月ごとに交替するというのが一般的でした。そして月番の千人頭の住居が役所になっていました。同心たちの大半は八王子に居住しましたが、埼玉県域の入間郡や神奈川県域の津久井郡にもいました。今でも八王子には千人町がありますが、ここが同心たちの主な居住地域でした。
同心は御家人身分で10俵〜30俵の米が支給され、ほかに一人ずつ1人扶持が給与されます。1人扶持は1日に米5合支給されることで、1年で1.8石になります。前の10俵と合わせると5.8石になります。30俵なら13.8石です。13.8石はともかく5.8石の同心はとても生活できません。そこで同心たちは農業に従事していました。そのためこの八王子同心は武士なのか農民なのかがはっきりせず、年貢や労役を負担する義務があるのかないのかというようなことで当時から問題になっていました。
この八王子同心については、もしも江戸城が攻められたら将軍は甲州街道を通って甲府に避難する。その際、八王子同心はその護衛にあたるため設置されたという説があります。そのため甲州街道の道筋では道に面して窓を作ってはならないという決まりがあったということがいわれています。しかし、これは平和な時代に作られた作り話で実際はそうではないと思います。
八王子千人同心は、北条滅亡後北条遺臣による反乱に備えて家康が創設したようです。家康が関東に入る前、八王子には北条氏照の八王子城がありました。ところが、八王子城をめぐる攻防戦はたった1日で終わり、戦いらしい戦いがないまま降伏しました。そのたため大勢の北条兵が無傷のまま残りました。家康は北条氏を滅ぼすと、八王子城は廃城にし、氏照の家臣たちは帰農させましたが、彼らの反乱が心配でした。というのも武蔵国の土豪たちは武蔵七党以来の伝統のせいか、独立心が強く、北条氏も彼たちに手を焼いていました。北条氏が関東制覇に手間取ったのも、服従させても少し油断するとたちまち反抗する武蔵武士たちの面従腹背ぶりに苦労したからです。家康もこういう事情はよく飲み込んでいました。そこで、設置したのが八王子千人同心だったようです。
当初は1000人ではなく半分の500人でした。八王子千人同心は最初は関ヶ原の戦いや大坂の陣に出動しましたが、その後はまったく任務がなくなってしまいました。そこで新しく任務を作る必要があり、それで出来たのが日光東照宮の火の番でした。これも初めはたいした仕事ではないということですぐに縮小しましたが、その後日光で大火事が起こり、それを機に本格的に拡充整備され、50人ずつ半年交代で日光の番屋に詰めるということになりました。
その通りなら10年で1回の順番になりますが、実際は半年という期間もその通りではなかったようで、そのため期間が延びたりしました。すると彼らの生活の中心は農業でしたから、農作業の予定が狂うということでこの任務も嫌われるようになり同心内ではいろいろ摩擦があったようです。これは八王子同心に限りませんが、総じて江戸時代中期以降になると武士たちの士気が著しく低下しました。
彼らは八王子と日光の間を往復しましたが、そのルートは日光脇往還と呼ばれる道で、次のコースでした。
(行き)八王子→坂戸(泊)→栃木・佐野(泊)→栃木・鹿沼(泊)→日光
(帰り)日光→合戦場(泊)→行田(泊)→入間(泊)→八王子
この道は現在のl国道407号で、別名日光街道とか鎌倉街道とよばれていますが、途中にある埼玉県鶴ヶ島市の所は両脇に杉の並木があってよく歴史書の写真にとられています。
(これを見ると八王子から日光まで3泊4日の行程です。3泊4日では無理ではないかという気がしましたが、実際に4日でこの道を歩いた人がいたという話を聞いたことがあり、可能だとわかりました。)
八王子同心では同心株の売買がありました。ふつうの幕臣ですとはっきりした仕事もなく江戸の町でただゴロゴロしているだけです。ところが八王子同心の場合、両刀を差して日光まで旅をし、日光では警備の仕事がありましたから、侍気分を味わってみたいという農民や町人には魅力的だったようです。
幕末の頃、埼玉県入間市の豪農がこの同心株を買っています。彼はこの株を60両で買っています。しかし、仲介者への謝礼や何やで合計82両もかけています。1両を10万円とすると800万円くらいになります。同心株の売買入には千人頭の許可が必要で、その名目はたいてい同心の息子が病弱で勤務に耐えられないから養子を迎えるということでした。そして実際は何年かすると買った同心株は返還していたようです。先の同心株を買った農民は、武士になった自分の姿を写真に撮り、一回武士の格好をして日光に行っています。
大久保長安と八王子
八王子千人同心は最初は500人でした。その後大久保長保という、江戸時代史では悪名高い人物が500人増員して1000人編成になりました。八王子千人同心は初めから武田の遺臣から成っていました。大久保長保も武田の遺臣でした。そのため甲州出身者が多いのが特徴です。これは推測ですが、この八王子千人同心という組織は大久保長安の私兵部隊だったと思います。この大久保長安という人は家康のもとで民政にあたった人です。家康は武田の遺臣を多く抱えていました。千住大橋を架けたり河川の改修に手腕を発揮した伊奈忠次もそうでした。忠次が技術官僚だったのに対して、長安はどちらかというと行政財務官僚で、その上政治的野心もあったようです。
この長安は非常に評価が悪い人ですが能力の高い人でした。東海から移ってきた家康の家臣団の領地の割り振りをしたのも彼でした。長安は民政部門の能吏として八王子から青梅にかけての地域を領地として与えられました。そこで彼は青梅と八王子の町づくりを手がけています。長安はまず青梅の町作りをしました。青梅は多摩地方の奥地にあり、どうしてこういう所に町があるのか不思議でしたが、ここは江戸から山梨の甲府に行く近道にあたり、江戸時代から旅人や物流の多いところでした。元の青梅はもっと多摩川よりにありましたが、道をもっと東側に移してこの道筋に人家を並べました。これが今の青梅市の基本的な町並みです。ですから、今の青梅市は長安が作った町ということになります。
その後、長安は八王子の町も作りました。元々の八王子はずっと東方の多摩川と野地川という小さな川の間の細長い河岸段丘上の滝山にありました。この滝山には、そのまま北上するとあきる野市から青梅市に行く滝山街道があり、対岸には府中があるという交通の要衝でした。室町時代にこの滝山城を本拠にしていたのが上杉氏の重臣で武蔵守護代の地位にあった大石氏でした。  
ところが北条氏が進出してきて、北条氏康は次男氏照を強引に大石氏に入婿させました。これは体のいいお家乗っ取りで、ほどなく滝山城は氏照が実権を握ります。その後武田信玄が武蔵縦断の進攻をして、そのため滝山城はあわや落城寸前になります。滝山城は標高が低い上に奥行きがないので防御が難しいのです。そこで氏照は信玄の侵攻に懲りて滝山城を廃棄してずっと西の深沢というところに巨大な城を作り、八王子城と名付けました。氏照はこの時城を移すばかりでなく町人たちも移してしまいました。これが今の元八王子です。
しかし、長安は元八王子も町としては適地ではないと考えたようです。それはたぶん甲州街道を通すことになり、この街道からはずれてしまったからです。そこで、元八王子の西に南浅川と北浅川という二つの川が合流する所に目をつけ、ここに新しい町を作りました。これが今の八王子です。そして元八王子にあった横山・八日町・八幡の3宿をこの地に移しました。この3宿出身者がいわゆる八王子の草分け町人として、現在まで大きな力をもっています。
それ以前の八王子は何もない原野でした。そこに八王子の町を作り、ここに歩兵の大部隊を置くことにしたのが大久保長保でした。この同心たちは家康の家臣たちではなく、長安の故郷の甲斐の人たちです。つまり武田遺臣です。長安も武田遺臣ですから、同郷の人たちを救済する事業とも考えられますが、実際は長安の私兵だったと思います。長安はこの頃には大きな権力を持っていました。
そこで、大名になれなかった長安は、この八王子に手兵を置き実質的に大名になろうとしたのだと思います。1000人というのは大部隊で10万石相当の大名の保有兵数に相当します。徳川家の家臣数は2万人くらいでしたから、この1000人は5%になり意外と大きい数値です。しかも、家康の譜代の家臣には10万石の大名も多数いましたが、多くは江戸から遠く離れた地です。こんなに江戸に近い所に1000人の兵がいるのは八王子と川越と忍だけでした。ですから、この八王子千人同心は想像以上に大きな意味があったように思います。
なお、長安の最期は悲惨でした。長安は晩年にいたっても大きな力を持っていましたが、主人の家康はとうに彼を見限っていました。そして、長安が亡くなると、それを待っていったかのように家康は、長安が不正を働いていたという罪で彼の息子たちを全員処刑し、さらには長安の墓を暴いて遺骸を斬首するということまで行いました。確かに大久保長安という人は権力志向の辣腕家でしたが、家康もそれをも上回る酷薄非情を行うことの出来る人でした。
たぶん大久保長安の死で、本来ならこの八王子千人同心は解散すべきでした。ところがその後も残ったのは、足軽とはいえ1000人もの人たちを路頭に迷わせるのは大きな社会問題になります。またこの八王子千人同心h足軽部隊で自給自足的存在だったから、幕府にとってさほど負担にならないということでそのまま残したようです。
家康と武田信玄と後北条氏
家康が信玄に心酔して武田遺臣を多く採用したのは有名です。しかし、彼らは主に民政部門に使われ、業績をあげた人は多いのですが、最後まで武田勝頼についた人たちで大名に取り立てられた者は一人もいません。
根拠のない推測ですが、家康が信玄に心酔していたというのは、「甲陽軍艦」が一般に広まった江戸時代中期の頃にできた作り話で実際はそうではなかったような気がします。
家康は読書好きで、鎌倉時代を書いた「吾妻鏡」が愛読書でした。また、戦国大名たちの理想の手本は鎌倉時代の執権北条時頼でした。「吾妻鏡」の主役は北条義時と北条時頼という二人の執権ですから、家康も義時や時頼のことは勉強して見習おうとはしていましたが、同時代の信玄を尊敬していたということは考えにくいことです。
それと、東京都内を歩き回っているとよく目につくのが太田道灌にまつわるエピソードや建物で、反対に後北条氏に関するものは驚くほど何もありません。それは、徳川氏は結局後北条領を横領して成立した政権でしたから、道灌や信玄を好意的に評価することで後北条氏の足跡を消そうとしたためだったと思います。これらのことは、幕府が意識的にしていたとは思えませんが、江戸時代の江戸の風潮として、後北条氏のことは無視する、その代わり家康は信玄に心酔していたというようなフィクションを作ったのではないでしょうか。 
8 武蔵国の大改造
話は前後してしまいましたが、江戸時代になっての武蔵の大変化は大がかりな土木工事が行われて、武蔵の地勢が一変してしまったことです。現在の東京・埼玉・神奈川はこの時代の大規模工事で出来上がったものです。(ただし、横浜は幕末から)そこで、このことについて見ておきます。
古代から中世までの関東の歴史を見ると、武蔵が政治経済の中心地になることはありませんでした。古代には北関東や東関東が栄え、中世になると相模武蔵に中心が移り武蔵もようやく日があたるようになります。しかし、それはあくまで相模が中心で、武蔵は相模の後背地として相模を支える支柱のような存在でした。武蔵がこうなったのも、茫漠たる平地が広がる武蔵野の原野が人々が定住を阻んでいたからでした。そのため、中世まで武蔵の人々はもっぱら西部の関東山地や上武山地の山間部に住んでいました。
その武蔵国が大きく変わったのはやはり江戸時代になってからでした。徳川幕府が開かれ、江戸が日本の中心地になりました。すると、これに合わせて幕府は大掛かりな土木工事を武蔵各地で行い、今まで荒地だった武蔵野が開発され、人口が増え人々も生き生きとしてきました。また河川の改修が行われ、用水が掘られて新田開発が進みました。
家康が江戸に入府した1590年の武蔵は67万石でした。それが1650年の「武蔵田園簿」では98万石になっていますから、わずか60年で30万石増加しました。この30万石の増加はすべて西部と東部の開拓によるものでした。
現在、東京を中心とする首都圏は日本の心臓部になっています。しかし、こうなったのは、すべて江戸時代の大規模な土木事業によるものでした。その意味では徳川幕府の功績はふつう考えられている以上に大きいものがありました。そこで、江戸時代初期の武蔵開発を見てみることにします。
1) 多摩川下流域の開発と四ヶ領用水
最初に行われた開発事業は武蔵西部の多摩川下流域でした。この事業を家康に提案し実際に工事をしたの>は、小泉次太夫という今川氏の旧臣でした。彼は1597年から14年の歳月をかけて、多摩川の西岸と東岸で用水を掘削し荒地の開拓事業を始めました。この工事は純粋に農地を増やすためのものでした。ただし、この事業については戦国時代から江戸時代の初期にかけては、全国的に未開地の開発が進みこの開発もそういう流れを受けてものです。ですから家康に先見の明があったとかいうことではありません。家康という人は保守的で重厚な人でしたから、パッと派手ことをするということは基本的にはしない人でした。
家康としても240万石の関東の大領主になりましたが、その領土はまったくの畑作農村地帯でした。鉱山があるわけでもなく、秀吉のように商業都市が持っているわけでもないので、農地開発で収入を増やすことは切実な課題でした。
次太夫が多摩川西岸に掘った用水は、二ケ領用水とよばれ川崎領と稲毛領に水を供給しました。この用水は川崎市の多摩区で取水し、途中各地で分水しながら幸区まで続く全長32キロの農業用水です。川崎市は北の津久井地方の山間部から流れてくる自然河川がいくつかありますが、いずれも短い河川です。そのため台風が来ると広い地域が水没し、渇水期になると今度は平地の底を流れて取水がむつかしいという地形で農業の不適地でした。それがこの用水完成とともに肥沃な大地に変わりました。現在の川崎市は人口100万を越える大都市ですが、その基礎はこの二ケ領用水ができたことによってつくられました。多摩川東岸の用水は六郷用水とよばれています。狛江市で多摩川から取水し世田谷領と六郷領の23平方キロを潤しました。この両岸二つの用水はあわせて四ケ領用水とも呼びます。この用水開削工事により、武蔵西部の開拓が一気に進みました。
話はやや本筋からはなれますが、小泉次太夫はこの工事を三ケ月交代で進めました。西岸の工事を三ケ月続けると、次は東岸に移って三ケ月工事を行い、その間西岸の農民たちを休ませます。そして、三ケ月たつとまた西岸の工事にもどりますが、今度は東岸の農民たちを休ませるのです。そのためこの工事には14年という長い歳月がかかりましたが、次太夫がそうしたのは、人夫に動員される農民たちの負担をできるだけ軽くするためでした。また、彼は人夫は男性10人につき女性1人を交えることで工事現場の雰囲気を和らげる工夫をしています。この小泉次太夫という人にはいかにも戦国時代の修羅場をくぐりぬけてきた苦労人という感じがします。
江戸時代というと権力的な政治のイメージがあります。しかし、後の見沼代用水を完成させた井沢弥惣兵衛もそうですが、人心に対するこまやかな配慮が感じられ、優れた人物というのはいつの時代でもやることは変わらないという気がします。 
2) 荒川と利根川の瀬替えと新田開発
荒川と利根川の瀬替え
多摩川下流の四ケ領用水は純粋に農地の開拓でした。これに対し、東部はもっぱら治水のために大工事をおこない、その結果農地が開発されたということで農地はその副産物でした。また、この治水工事には江戸の町への舟運を確保するための工事でもありました。
東京の都心部は地形的に見て、東部に武蔵野台地、東に国府台台地があるため、この二つの台地にはさまれた東京低地には、北関東の河川の河道になる地形をしています。秩父の奥地を源流とする荒川と群馬県を源流とする利根川がここに流れてくるのはそのためです。たぶん、江戸時代以前は利根川と荒川は一つに合流していた時期もあったと思います。しかし、家康は、この東京低地の江戸に幕府の本拠地を置くことにしたため、今までにない大規模な工事をすることになりました。家康の入府直後も家康は江戸の町を水害から守るためと飲料水と舟運を確保するため小さな河川の治水工事を行っていました。しかし、徳川氏の政権が安定すると、幕府は荒川と利根川流域に大規模な工事を行いました。
この工事は1629年からはじまりました。しかし、この工事には最終的な完成図があってはじめた工事ではなく、政治の経営と同じく目先の懸案事項を解決するため次から次へと工事を続けた結果、今のようになったということのようです。
江戸時代以前の荒川と利根川は、平地部の熊谷市をすぎると、合流と分流を繰り返し河道が二本にも三本にもなってどれが本流かもわからないという状況でした。ですから大きな台風がきて大雨が降ると下流一帯が広大な湿地帯のようになっていました。当然人々が定住して生活することはできませんでした。
そこで幕府が目指したことははまず荒川と利根川から完全に切り離すことでした。そのため、荒川中流の熊谷で荒川を締め切り、この荒川を埼玉西部の比企地方を流れる和田吉野川の河道に移すことにしました。そしてこの新しい荒川を埼玉県の川越市で入間川に合流させることにしました。これが今の入間川です。熊谷から先の荒川は今の元荒川として一部が残っています。ですから今の荒川下流は昔の入間川のことで、昔の荒川は今の元荒川ということになります。これを荒川の西遷といいます。
利根川の治水工事も早くからさまざまな取り組みをしていました。しかし、この工事を大まかに言うと、利根川の本流を今の関宿近くで鬼怒川の河道に移し、東京湾ではなく太平洋に注ぐようにしたことです。これを利根川の東遷といいます。ですから今の利根川は昔の鬼怒川ということになります。
ただ、荒川と利根川の下流は江戸への舟運の航路にもなっていましたから、河道を変更すると江戸の物資流通に不便をきたしてしまします。そこで、それまでの荒川下流の河道を中川として残し、利根川の河道も水量を小さくして江戸川として残し、江戸と太平洋を結ぶ舟運の航路として使うことにしました。
とくに北日本と江戸を結ぶ海路としては、当時の造船技術では茨城県の鹿島灘を突っ切って東京湾に直接入ることのできる頑丈な船は出来ませんでしたので、茨城の港で海船から川船に積み替え、那珂川水系と利根川水系の河川を使って江戸まで運ぶことにしました。こうして、荒川と利根川の瀬替え工事で江戸には荒川だけが流れるようにしました。ちなみにこの荒川の最下流を隅田川といいます。
(荒川と隅田川の境目は岩淵水門あたりだと思いますが、そうすると隅田川の起点は北区になり、確か芥川龍之介などは千住から先は江戸ではないという考えの持ち主でしたから隅田川もずっと下流だと主張していました。このあたりは人によって見方がちがうようです。)
それはともかく、この工事では荒川が海岸に面した低地にある江戸の町に水害をもたらすことのないような配慮もなされていましたので、このことについても触れておきます。驚くべきことに江戸時代を通して、江戸の町は火事による災害は頻繁に起こりましたが、海面とたいして変わらない低地にもかかわらず、台風で大きな被害を受けたことはありませんでした。いかに徳川幕府の治水事業が優れていたかがわかります。
江戸時代の荒川治水の根本的な考えは、大きな台風が来た場合には、荒川の水を無理に川に閉じこめておかないで、中流域で氾濫させてしまうということでした。そこで選ばれたのが埼玉県の吉見町と富士見市でした。江戸時代の吉見町や富士見市の農家では家の軒に舟をつるしておいて、台風で荒川が氾濫したらこの舟で避難するようにしていました。 
そのため、江戸時代だけでなく昭和になってもこの地域はよく水害にあっています。問題は、江戸時代には吉見や富士見は遊水地帯だから台風時に洪水を起こすのは当然だと思われていたのに対し、明治以降はここも住宅地になったため洪水が起きては困るし、近代の科学技術をもってすれば洪水は防げるはずなのにうまくいってないと考えられていることです。
(現在の東京湾には荒川放水路が通っています。この放水路は明治末の大洪水を教訓に昭和5年に完成しました。ただ、東京の水害にたいする心配は、台風そのものより、台風が東京湾の満潮時に襲来した時にもたらす高潮の被害です。ですから、たぶんこの荒川放水路も台風で増水した荒川の水を排出するより、高潮が起きた時に、陸地に押し寄せるであろう海水を吸収するのが目的のような気もしますが、確認したわけではありません。)
農地の開拓
利根川と荒川の治水工事が行われ、これらの川を制御できるようになると、この地域は非常に優れた農地として利用できる可能性がでてきました。そこで大規模な農地開拓時業がはじまりました。そのために作られたのが見沼用水と葛西用水でした。そしてこの二つの用水はセットになっていました。見沼用水の仕組みは次のようなものでした。まず、荒川支流の芝川を、今のさいたま市で東西に約900メートルの細長い堤防を作り、川をせき止めました。これを八丁堰(はっちょうせき)といいます。そうすると堰はダムのようになり、ダムの上流側に大きな貯水池ができます。これが見沼溜井です。そこでこの溜井の下方に導水路を作って広大な水田地帯を作りました。この水路が見沼用水で、水田地帯が見沼たんぼです。さいたま市の見沼たんぼはこのようにしてできました。
しかもこの見沼地域で使った農業用水をさらに下方に流し、ここにも八丁堰と同じようなダムを造ればまた溜め井ができます。すると、この溜め井の水を使ってその下手にまた水田地帯ができます。しかも地形を上手に利用すれば、南北にだけでなく東西にも堰を作れば広大な水田地帯を作ることができます。要は平野部に降った雨水は荒川・利根川の大河川に流れてしまえば、あとは東京湾に流れてそれで終わりですが、その前に堰を作って閉じ込めると水は何度でも使えるということです。
見沼用水のずっと南にできた用水が葛西用水です。この葛西用水ができたおかげで東京の葛飾区や江戸川区も水田地帯として開けることになりました。この見沼用水と葛西用水ができると、埼玉南部から東京東部にかけて広大な水田地帯ができました。武蔵はこの東部の開発で飛躍的に発展しました。先に、武蔵は67万石から98万石に増加したと言いましたが、その最大要因はこの地域の農地開拓でした。
新田村
これら開拓で出来た開発農地を新田と言います。新田といっても水田とは限らず、とくに水に乏しい武蔵では畑作地が多かったようです。武蔵には江戸がありましたから、用水で飲料水さえ確保できれば別に水田にこだわる必要はありません。むしろ米は地方に任せ、江戸の需要を当てにして野菜栽培でもした方がはるかに合理的でした。
新田開発には幕府や藩が主体になるもののほか、民間の新田開発には村請け新田と町人請負新田があります。前者は村が進めるもので、新しい村には次男や三男などが分家して住み着き、分村になります。町人請負新田は資金のある民間人がおこなうもので、たいていはその請け人の名前が付きます。江戸時代の武蔵東部の村々を見ると、人名のついた新田村がたくさんありますが、それらのほとんどはこうしてできた村でした。
この工事を進めたのは関東郡代の伊奈忠次とその息子の忠治という人です。忠次は元は武田氏の遺臣でした。家康の家臣団のうち民政部門に手腕を発揮したのは譜代の家臣ではなく、途中から召抱えた武田氏や今川氏の遺臣だった人が多くいます。伊奈氏もその一人です。この見沼用水や葛西用水のように丘陵地にダムを造って水をためて農業用水にするやり方を備前堰とか関東流とかいいます。備前堰というのは伊奈氏が備前守の官職名を持っていたからです。江戸時代初期には全国的に平野部の農地開発が急激に進みます。その工事のほとんどがこの工法でした。これが江戸時代初期の経済発展をもたらしました。
江戸時代を経済的にみると、好況期は江戸時代前期の元禄期と幕末の化政期でした。化政期の好況は主に商工業の発展でしたから、その恩恵を受けたのは都市部に限られていました。その点江戸時代当初から元禄期にいたる好況期は主に農業の発展によるものでしたから、広く日本全体に恩恵をもたらしました。その意味でもこの伊奈父子の業績などはもっと評価されてもよいと思います。なお、この見沼用水は将軍吉宗の時に撤去され、それに代わって見沼代用水というまったく別の方法で農地を灌漑するようになりますが、それについては後で説明します。 
9 吉宗の農地開発事業
江戸時代初期の武蔵の治水と農地開拓は、これまで述べてきたような経過を経て大規模に行われました。その後、武蔵でもう一度開発事業が活発になります。それは江戸時代中期、将軍吉宗の時代でした。そして、この吉宗時代の開発が終わると武蔵では大きな農地開発は行われなくなります。それは武蔵にはもう開発出来る所がなくなってしまったからです。
吉宗の時代の開発は、埼玉南部から東京北部にかけての荒川左岸の再開発と、多摩川左岸の武蔵野台地の開発でした。
吉宗の開発事業の特徴は、新規開発というよりすでに開発されている農地をもっと効率的に利用する再開発の性格が強かったのと、開発の動機が幕府の収入増をはかろうとする財政的意図がきわめて強かったことでした。しかし、これは当時の幕府の財政難を考えればしごく当然のことでした。創業者の家康は関が原や豊臣氏を滅亡させた大阪の陣などの戦争に勝利し、膨大な富を蓄積しましたが、吉宗の時代にはそれらの遺産はほぼなくなっていて、領地からあがる年貢に頼らざるをえなくなっていたからです。
1) 見沼代用水
埼玉南部から東京北部にかけては、すでに八丁堰というダムを築いて溜め池を作り、その水を見沼用水で灌漑するという方法で水田を開発したのは先ほど説明しました。それから100年後、吉宗は今度は見沼代用水というまったく別の方法でこの地域を再開発しました。
考えてみると見沼用水はあまり効率的ではありませんでした。というのも、堰を作るため溜め池になっている所は農地に使うことができないからです。その溜め池にしてもたぶん深くても水深1〜2メートルくらいの浅い沼地がずっと広がっている状況だったと思います。しかもこの溜め池はこの地域に降る雨水を集めたものでした。ですからその容量もあまり大きくありません。たぶん日照りの年にはほとんど水は溜まらなかったと思います。実際、当時のこの地域は村同士の水争いが激しくて、新しくできた新田村を近隣の村が廃村にしようとする運動が起きていました。たぶん、当時のこの地域の田園風景は、ほとんど水の溜まっていない池や湿地があちこちに広がっていたと思います。
そこで、吉宗はここからずっと北を流れている利根川の水を直接引いて農業用水にすることにしました。この用水掘は今まで見沼用水の代わりということで見沼代用水とよばれています。もちろんこれを考えたのは吉宗ではありません。考えたのは吉宗のブレーンたちですが、この構想自体は行田の忍藩などでは以前から練られていたようです。しかし、溜め池の水に比べると、利根川の水は水温も低く栄養分も乏しいというので、地元の農民たちが強く反対して計画段階にとどまっていました。それを実現したのが吉宗の政権でした。
この工事を進めたのは、吉宗が紀州から連れてきた井沢弥惣兵衛という家臣でした。彼はこの地域を測量し。埼玉県北部の行田市で直接利根川から取水し、そこから水路を掘って南下させ、今の上尾市で東西に分けて分水し、今のさいたま市と東京都の足立区に灌漑する工事を始めました。この工事では、途中で用水路より低位置にある自然河川を横切ることになります。そこで、こういう所には木製の水道管を通すという工夫をしました。
着工すると完成まではあっという間でした。1728年に工事に着手するとわずか5ケ月で完成させてしまいました。この80年前に作った玉川上水もそうですが、この時代の土木工事では、測量技術が進んでいましたから、測量を終えるとあとは村ごとに工区を決め一斉に工事を始めます。現代の道路建設や鉄道敷設のように、計画の段階であちこちから政治的圧力がかかり、さらには用地買収や移転する住民の説得に手間取るということはありませんから、工事が始まるとすぐに完成してしまいます。たぶん現代に同じ工事をしようとすると30年くらいかかると思います。
この見沼代用水がもたらした恩恵は非常に大きいものがありました。これでこの地域の水不足が解消されました。また、今までの溜め池は不要になりますから、ここに新しい水田を切り開くことができました。さらには、見沼用水のように堰のあるところは他にもありましたから、それらもこの見沼用水のような灌漑農地になり、埼玉東部と東京東部は武蔵でももっとも農業生産の高い地域になりました。
なお、この見沼代用水の功績は当時の農地開発に役立ったばかりではありません。現在の東京都は、使用する水の40%を利根川から取水しています。このための水路は1965年に完成した武蔵水路ですが、この武蔵水路のルートは見沼代用水とほぼ同じです。とくに武蔵水路の利根川取水口にあたる武蔵大堰の位置もほぼ同じです。これについては、利根川を綿密に調査検討し、取水するのに最適の場所を選んだら見沼代用水と同じ所になってしまったということでした。江戸時代の土木技術がいかに高かったかがわかります。 
2) 武蔵野の開拓
見沼代用水は水路の掘削という大掛かりな土木事業でしたから、幕府は資金と技術を出しました。それに対し、幕府は何もせずもっぱら民間の手で行われたのが、多摩川左岸の武蔵野の開拓でした。
武蔵野は江戸に近いにもかかわらず、台地状の地形のため飲料水にも乏しい土地で、それまで人々はほとんど住んでいませんでした。たとえば西東京市などは全国どこにでもあるはずの縄文時代中期の遺跡もありません。ここは日本列島が形成されて以来、この時代になるまでまったく人の住まない土地でした。江戸時代の初めのころを見ると、ここで生活できたのは狭山丘陵とその南の今の国分寺市と府中市だけでした。それは狭山丘陵からの湧き水と国分寺崖線という湧出河川があったからです。
しかし、日本の気象は高温多湿ですから、水田稲作はともかく畑作だけなら天水で十分農耕はできます。そこで、吉宗が取った政策は、この武蔵野台地に移住して新田村を作る者には玉川上水の水を飲料水として開放するということでした。
この玉川上水については、うっかりして取りあげるのを忘れてしまいましたのでここで簡単に説明しておきます。玉川上水は多摩地方の羽村市に、上部を水が流れる低い堰(これを「洗い堰」といいます)を作って多摩川の水位を上げて取水し、それを掘削した水路で東京の四谷大木戸まで導水し、ここから先は地下に張り巡らせた木樋で江戸市中に上水を供給しようというもので、1653年に完成しました。この玉川上水の分水については、上水が完成した翌々年に川越藩主の松平信綱が野火止用水を作って埼玉県南西部に給水したのが始まりで、その後千川上水や神田上水に分水して江戸の町に水を供給していました。玉川上水は江戸時代の江戸の町にとって最も大切なインフラ施設でした。
その玉川上水をさらに細かく分水して、武蔵野台地に新しく農村を作ろうというのが吉宗のねらいでした。新田開発を願い出る者からは出願料を取れるし、新田開発がうまくいけば年貢も取れるというのが吉宗のもくろみでした。
1722年、吉宗は日本橋に高札を立て新田開発の希望者には土地を払い下げるという高札を立てました。ただ、吉宗の新田開発政策は武蔵野台地に限りませんでした。実際にはこの開拓事業で最も成果があったのは新潟県でした。武蔵野台地の開拓で得られた農地は約1万石でしたが、新潟県では10万石の成果が得られました。
この政策では開発後3〜5年は税をとらないという恩典がありました。これを鍬下年期といいます。ただ、鍬下年期はありましたが、開発者には100両単位の出願料と、鍬下年期の間1反あたり12文の役銭かそれに相当する役米を払う必要がありました。また、この開発は1町(1ヘクタール)程度の農家一軒分くらいの小さな土地を払い下げるのではなく、何十町の広い土地を一括して払い下げるというものでしたから、農家の次三男が独力で開拓できるようなものではありませんでした。そうすると、これが出来るのは豪農クラスの農民か、村が村の事業として取り組む場合に限られてしまいます。前者を百姓請負新田といい、後者を村請新田といいます。多摩地方の地名には善蔵新田とか太郎兵衛新田などという個人名の付いた地名がありますが、これはこの時期の百姓請負新田の名残です。
百姓請負新田は開発者の営利事業でした。開発者は入植者を集めては彼らを小作農民にして自分は地主になります。もしくは、入植者に農地を売却してその利益を得ます。この新田村はそれ自体独立した村ですから、彼らは村の名主として大きな力を持ちました。今でもこの地域を歩き回ると、所々の大きな屋敷を見かけますが、それはこういう新田開発者の子孫です。村請新田では本村の農民が新村に移住したり、本村に居住しながら出張耕作することが多かったようです。また、この村請新田には、自村の近くに知らない人たちが集まってきて新村が出来るのを嫌い、自村を守るため自分たちで新田開発してしまうということもありました。
しかし、村請と百姓請負のいずれにしても、開発には大金が必要で豪農や村が単独では資金の全部をまかなうことはできなかったようです。そこで多くは江戸や宿場町の富商に出資を求め共同開発ということになります。するとこれら都会の富商たちにとって新田開発は単なる投資ですから、投資した資金の回収がきわめて大切になります。そこで、入植者たちから出来るだけ早く金銭や収穫物を徴収しようとして開発者と入植者との間に様々なトラブルを引き起こすことになります。
また、トラブルと言えば、この新田開発では隣村との争い事が起きるのがふつうでした。というのも、既存の村にとって、山林の草木は刈敷など肥料や家畜の飼料、それから薪炭の採集地になっていたからです。これを秣場(まぐさば)といいます。新田村が新たに出来ると、この秣場がなくなってしまいます。新田村でも秣場は必要です。そのため江戸時代の武蔵野では村と村の争い事が絶えませんでした。先に村請新田には新田を必要としないのに新田開発をする村があったといいましたが、これは自村の秣場を守るために開発した新田村です。この武蔵野新田は埼玉県側では既存の村の反対運動が強かったので新田村はそう多くはありませんが、東京側では反対が弱かったのでたくさんの新田村ができました。
3) その後の武蔵野
東京西部の武蔵野は吉宗の時代にこのように開発が進められましたが、その成果は東部に比べてきわめて乏しいものでした。というのも東京は気象的にも地形的にも水田稲作には不向きだからです。さらに東京の土壌は関東ローム層のやせた土地ですからそのままでは畑作にも向きません。この土地が畑になるのには肥料が必要です。具体的には人糞です。人糞が大量にあるのは江戸です。しかし、人糞を江戸から運ぶには舟運が欠かせませんが、この舟運が発達していたのは東部でした。西部にはめぼしい河川がありません。そのため江戸時代は、東部では江戸の需要を当て込んだ野菜栽培などの近郊農業が盛んになりますが、西部の武蔵野ではこういう農業が不可能でした。
そのため武蔵野の村は芋を栽培して主食にし、芋だけでは生活できませんから八王子の市で原綿(これを「繰り綿」といいます)を買ってきて、それを女性たちが木綿布に織って八王子の市で売って現金を入手するという貧しい生活でした。また今では想像もできませんが国分寺などは炭焼きが盛んで、焼いた炭を新河岸川で江戸に運んで収入にしていました。こういう武蔵野が本格的に開発されるのは明治になり鉄道が敷設されてからでした。これで都内から人糞を運ぶことが可能になり、武蔵野でも近郊農業が発達します。そして、この武蔵野が現在のように都市化するのは東京オリンピックの頃からです。高度経済成長で東京が急膨張すると、武蔵野は都内の勤労者の住宅地として開発され現在のように閑静な住宅都市になりました。こういう歴史を見ると、武蔵野は日本全体を見回してもきわめて新しい町だということになります。 
10 地方の様子
1) 武蔵の人口
次に掲げるのは江戸時代の武蔵の人口です。
享保6年(1721年)  190万人
延享元年(1744年)  179万人
明和5年(1768年)  175万人
寛政4年(1792年)  163万人
文化13年(1816年)  168万人
弘化3年(1846年)  178万人
江戸時代の人口調査については将軍吉宗の時、6年ごとに全国調査することに決まりました。今の国勢調査のようなものです。ただし、先に八王子のところで言いましたように、江戸時代の調査では武士階級は含まれません。また、子どもも数えません。ですから、実際の人口はもっといました。これを見ると江戸時代の武蔵では、江戸という大都会がありながらも全体としては人口が減少していたことがわかります。平均すると170万人くらいです。これに江戸の武士階級人口50万を加え、子どもの数を20万人くらいに想定すると、武蔵の人口はだいたい240万人くらいになります。たぶんこのくらいでした。そのうち江戸の人口が100万人でしたから、江戸の町をのぞく東京・埼玉・神奈川東部の人口は140万人くらいにしかなりません。想像以上に少なかったのがわかります。
(東京埼玉神奈川の人口が急増するのは意外と最近で1964年の東京オリンピックの頃からです。東京23区でも郊外の練馬区や世田谷区などは、昭和の初期の頃まではまったくの農村地帯でした。首都圏の都市化はここ50年くらいで起きた特殊な現象でした。昭和の初めの頃の日本でも総人口は5000万人くらいでしたから、単純に現在の日本から江戸時代の様子をあれこれ推測していくことは正しくありません。)
江戸時代は変化の小さい時代でしたが、それでも社会は緩やかに上昇し、人口も江戸時代の初期には2000万人だったのが幕末には3000万人にまで増加します。ところが、武蔵では人口が減少してしまいました。
武蔵の人口がもっとも多かったのは調査がありませんが、吉宗の享保期ではなく、その前の元禄時代の頃です。おおざっぱにいって。武蔵では戦国時代の末期から江戸時代初期にかけて人口が増加しますが、その後は幕末まで緩やかに減少していきました。江戸時代に武蔵と同じ経過をたどったのは大阪と東北地方でした。大阪東北でも江戸時代の初期には人口が増加しますが、その後は減少してしまいます。
江戸時代初期の人口増は新田開発によるものです。この時期には全国的に農地開拓が進みどこでも人口が増加しました。そして、この開拓時代が終わると武蔵では人口が減少していきます。吉宗時代の武蔵については先に見沼代用水の掘削や多摩地方の開墾事業を紹介しましたが、武蔵の農村の人口を増やすということまではいきませんでした。吉宗という人は幕府の建て直しのため奮闘しました。そのため歴史でとりあげるには便利な人ですが、彼の政治はこの農業政策のように実際はあまり効果がなかったことが多かったようです。
江戸時代の人口減については東北地方のことがよく知られています。しかし、武蔵も本当は東北と同じくらい深刻だったと思います。というのも武蔵には江戸があったからです。江戸の町は活気があり人口も増加しました。にもかかわらず武蔵の人口が増加しなかったということは、江戸の人口増でも江戸以外の人口減を埋め合わせできなかったということになります。また、江戸以外でも先の八王子のように大きな宿場町では人口が増加しました。ですから江戸や宿場町以外の武蔵では人口の落ち込みがひどく、本当にさびしい所になっていきました。
2) 人口減少の理由
この人口減は飢饉と年貢増徴で説明するのがふつうです。たしかに江戸時代には飢饉が頻発しました。江戸時代の飢饉は、寛永(1642〜43年)・享保(1732年)・天明(1782〜87年)・天保(1833〜39年)の飢饉が四大飢饉として有名です。中でも天明の飢饉はひどかったようです。以前、東村山の史料館で、天明の飢饉の説明展示を見たことがあります。それを見ると、米はもちろん芋も全滅。冷害に強い稗までが例年の2割くらいしか収穫がありませんでしたから、餓死者が多数出たということはわかります。たぶんこの飢饉では人口が減少しました。
(ただ唯一平年作だったのが麦です。麦は秋に播種して夏前に収穫しますから冷害の影響をあまり受けません。武蔵は全体的に畑作地帯ですから米の不作はさほど打撃ではありませんでした。それよりも主食の芋が全く収穫できなかったことの打撃が大きかったようです)
また、将軍吉宗の時代に幕府は財政難を解決すべく農民の年貢を増やしました。そのため農民が窮乏し、人口が減少したといわれています。しかし、これらの理由についてはどうにも釈然としません。歴史の本を読むと、江戸時代になると急に飢饉の話がでてきます。そういうのを読むと、では江戸時代以前には飢饉はなかったのかという疑問が湧いてきます。当然、江戸時代以前にも飢饉はありました。にもかかわらず人口は増加しています。したがって、天明クラスの飢饉はともかく、それ以外の飢饉では人口減少の理由にはならないと思います。そもそも人々の生活が困窮すれば人口減になるというのは考え方が短絡的です。それに現代でも人口爆発しているのは生活レベルの低い発展途上国です。そういうのを見ると生活が困窮すると人口減になるという説明はいくら考えてもピンときません。
飢饉と同じく年貢増徴政策も人口減少の理由にはならないと思います。この年貢増徴については、実際にどのくらい増えたかは実はよくわかりません。わかりませんが、それほどではなかったと思います。というのは、享保期以降農地を手放す農民が増加しますが、この農地はどうなったのかというと、豪農のもとに集まり小作地になるからです。小作制度が成り立つには年貢と小作農民の取り分を引いても、地主に十分な小作料が残らなければなりません。つまり、小作制度が進んだということは、年貢増徴といっても実はそれほどの重税ではなかったということになります。
人口減少のもっとも大きな理由はたぶん農村社会の保守的風土によるものです。江戸時代も中期になると、武蔵でも農村はますます保守的になり、百姓株という言葉があるように村の農家数も固定化します。村ではこの百姓株がある者だけが家を存続できます。そのため資力のある農家でも長男だけが家を相続し次三男の新規独立はなくなります。彼らはいわば厄介者の境遇で、独身のまま親の家で一生を過ごします。しかし、世の中は男と女の数は同じですから、結婚しない男性がいれば、それと同じ数の女性たちも結婚しません。彼女たちも結婚しないで一生親の家で過ごします。
一般的に女性は3人くらい子どもを産まないと社会の人口は減少してしまいます。しかし、結婚しない女性がいれば、結婚した女性(具体的には長男の嫁)は彼女らの分まで子どもを産まなければその社会は人口減になります。こういうことを考えると、長男の嫁は10人くらい産んで、そのうち8人くらいが成人になるということにならなければいけません。しかし、長男の嫁が皆10人も産むというのは非現実的です。結果、武蔵・大阪・東北というような保守的風土の所は人口減になってしまったのだと思います。ちなみに他地域では分家の習慣がありました。三重か愛知だったと思いますが、ここでは農家の主人は50歳くらいで長男に跡を譲って隠居し、隠居後はもっぱら農地開墾に精を出して幼い末子が将来自立できるようにするということを本で読んだことがあります。しかし、武蔵などではこういうことは村の決まりで認められませんでした。
江戸時代の人口減少も農民の生活が貧しくなったからということではありませんでした。むしろ農民の生活レベルは時代が進むと格段に上昇していきました。それは農民が農耕による収穫物に頼るのではなく、農業以外の仕事に従事して収入を増やしていたからです。そこで、農民の仕事の多様化ということで江戸時代の農村を見てみます。
3) 耕されない農地
全国的に、江戸時代の初めは小農の自作農民が村の主体でしたが、17世紀の終わり頃から、小農の自作農民の中には農地を手放す農民が現れます。そして、その反対に一部の富農がますます地主化していきます。
しかし、天明の飢饉後の18世紀の末頃から、農村にはさらに新しい変化が表れます。それはふつう農村の荒廃とよばれる現象ですが、正確にいうと農村の荒廃というより農業の衰退でした。農村では耕作されない農地がしだいに増えてきます。この耕作されない農地を「手余り地」といいます。この手余り地は埼玉県北部の水田地帯で顕著でした。その直接的な原因は労働力の不足です。この労働力不足は人口の減少もありましたが、それだけでなく働き手の農民が村から出ていったり、残った農民も農業以外の副業に精を出すようになり、農耕に手が回らなくなってしまうからです。
その中には生活苦や年貢未納で村にいられず夜逃げする、いわゆる「欠け落ち」する者や借金の返済のため出稼ぎに出るものもいました。借金は農地が担保でした。そこでこの借金返済のための出稼ぎを「質稼(しちかせぎ)」とか「質奉公」といいました。その働き場所は仕事の多い城下町や宿場町でした。幕府や藩では農地の荒廃を防ぐため農民の出稼ぎ禁じようとしました。しかし、では借金の返済はどうするかという現実問題がありましたから、結局は消極的にやむを得ない場合に限り出稼ぎ認めざるをえませんでした。
しかし、中には出稼ぎをもっと積極的にとらえ、年貢や小作料を払いながら農業するより奉公の方が収入が多いという理由で農地を残したまま奉公に出てしまう者もいました。そのため、地主に小作地の返還を申し出る者もいました。地主としても農地を返還されても自分では耕作できません。そこで作人を雇って耕作しようとする地主もいましたが、作人の給金の相場が高くなっていて採算割れになるということも起こってきました。そこで地主たちは役所に願い出て給金の相場を引き下げるよう願い出たりしますが、こういうものは人為的に操作できるものではなくうまくいきません。すると、地主としてもその土地も耕作しないまま放置せざるをえなくなります。ですから、この手余り地には小農農民の耕作放棄地もありましたが、耕作されない地主の小作地もかなりありました。
ところが、こういう耕作されない農地にも年貢はかかります。そこで、村では「入り百姓」といって他所から農民を募集して新規に農民を作ろうとしました。しかし、前に耕していた農民がうまくいかなかったのですから、後から来た農民がやってもうまくいくはずがありません。だいたいは失敗に終わっています。とはいえ、江戸時代の仕組みでは年貢を納める責任は個々の農家ではなく村にあります。つまり一種の連帯責任でした。そこで、入り百姓も解決策にならなくなると、村では年貢代を工面しようとその農地を質に入れてようとします。しかし、質取りする人も現れません。しかたがないので、村の農民が村の仕事として耕作するようになります。これを「惣作」といいます。しかし、みな自分の農地の耕作で一杯ですから、とても続くものではありません。結局、万策尽きて藩に農地の返納を願い出るというところも出てきます。返納というのは、農地としての指定を解除して荒地に戻し、年貢の対象から外すことです。それでは藩の収入が減りますから、藩は何とか維持しようとしますが、うまい策があるわけでもなく、結局農地は荒れていきました。 
4) 儲からない農業
江戸時代後期に手余り地が出てくる根本の原因はやはり農業が儲からないからでした。吉宗が将軍時代の享保(1716〜1765)の頃から、「諸色高(しょしきだか)の米価安」の現象が起きてきます。こうなると農業のうちでもとくに稲作農業は不利になります。一方、米や麦などの穀類栽培以外の農業は高い収益をのぞむことができます。
そのため農民もできるだけ儲かる農業をやろうとします。具体的には、埼玉東京の山間地では葉タバコ、それから桑を植えて養蚕をすることでした。江戸の近郊では野菜栽培が盛んになりいわゆる名産品が生まれます。東京練馬の大根、江戸川区小松川の小松菜などが有名でした。また岩槻など埼玉東部では綿花栽培が盛んになります。これらの作物はすぐに現金になるので、農民にとって非常に魅力的でした。商品作物の多くは畑作でしたので、とくに東京東部や埼玉東部の畑作地帯の農民は急速に富農化します。それに対し、江戸に近いのに意外と振るわなかったのは多摩地方と埼玉西部の平地でした。というのも武蔵の土壌は痩せた関東ローム層のため、野菜の栽培には下肥(人糞)が必要です。しかし、ここには江戸と結ぶ舟運がなかったため下肥を運ぶことができませんでした。そのため、江戸から綿を仕入れて綿織物をしたり、今では想像もできませんが国分寺市のあたりの農民はなんと炭焼きをしていました。全体的にこの地域はなかなか発展しませんでした。(多摩地方の開発が進むのは明治になってからです。その原動力は鉄道でした。この鉄道は人を運ぶのが目的ではなく、都心から下肥を運ぶために敷設しました。)
もちろん、江戸時代は窮屈な時代でしたから、農民も自由に農作物を選べたたわけではありません。幕府や藩は農民がこういう商品農作物を生産するのを抑制しようとしました。それは、米や麦などの穀類生産を優先させたからです。そこで田んぼをつぶして商品作物を植えることは禁止にしました。すると農民は山の斜面を切り開いて畑を作り、そこで栽培しました。養蚕も初めは春蚕の1回だけ認めていました。しかし、農民の強い要求に押され秋蚕も認めるというように農民に妥協せざるをえなくなっていきました。
(この商品作物の生産にとくに熱心だったのは関西でした。関西では水田を潰して養蚕や木綿、藍の栽培をしていました。大阪では綿花の栽培が盛んで、年貢米ばかりでなく自家消費の米も作らなくなります。その代わり米屋から米を買ってそれを年貢に納めていました。幕府や藩は農民にあるまじき不心得者ということで禁止にしようとしましたが、大阪農民は持ち前の押しの強さで、米はどこの米も同じという理屈で、買い米の年貢を認めさせてしまいました。)
5) 幕府藩の姿勢
江戸時代に幕府や藩が商品作物の農業を禁止しようとしたのは、食料不足による人口減少を防ぐためだったとされていますが、そればかりでなかったようです。もっとも大きな理由はこういう農業は幕府や藩の収入に結びつかなかったからでした。江戸時代の幕政や藩政は民政部門が恐ろしく貧弱でした。10万石の川越藩や忍藩で藩士の数は足軽まで入れると1200人くらいいましたが、そのうち民政部門は100人くらいです。これでは領内の農民統治などできるはずがありません。旗本の知行地にいたっては、領内のことは名主にすべて任せて、領主の旗本は年貢の現金をただ受け取るだけでしたから領内の様子などまったくしりませんでした。 
ですから、たとえば養蚕についても、一応は桑の木1本につき税金いくらと決めたりしましたが、調査などできるはずもなくいい加減な申告をそのまま認めることになってしまいました。また、行商などの商売については営業許可税(鑑札が必要でこれが有料)のようなものはとっていましたが所得の把握などできるはずもなく結局無税でした。
要するに、江戸時代の行政の能力ではもっぱら耕作地の面積と宅地の広さでおおざっぱに徴税するしかなく、したがって、商品作物のようにどのくらい儲かっているのか見当もつかないような農業を農民がするのを歓迎しませんでした。そのため米や麦などの生産高が比較的把握しやすい穀類の生産を強要するようになります。しかし、農民のほうは経済的に有利な農業、そして農業よりも有利な商工業を副業にしてだんだんと豊かになっていきした。江戸時代の後期になると、武士はますます窮乏化し、才覚のある農民はますます富裕化していきました。
6) 時代の変わり目は享保年間
江戸時代の社会が変化する境目は18世紀の初め、享保年間です。この頃から米の価格が低迷します。そうなると、稲作だけに依存する農民や年貢米の売却代金が主な収入の幕府や藩にとっては苦しい状況になっていきました。一方人々の生活水準は高まり、才覚ある農民はますます豊かになっていきました。
(江戸時代の270年を通してみると、元禄期が好況期でその後の享保期は調整期でした。そして文化文政期が好況期です。一般的に、いつの時代も好景気がいつまでも続くということはなく、必ず調整期がやってきます。この調整期は不況期というより、その後の好況期のための準備期間です。欧米では不景気という言葉を使わず、リセッション(調整)といいますが、その方正確だと思います。)
農業は儲からない上に、村にはわずかの農地しか持たない本百姓や農地をまったく持たない水呑百姓が多数いました。彼らは元々農業だけでは暮らしていけない農民でした。そういう事情は政治家も知っていました。それで、1649年に幕府が農民の生活心得として出した「慶安の御触書」にも、零細農民は商売をしないととても年貢を納められないから商いの道にも慣れておくようにというような文言がありました。先に手余り地と奉公のところでも触れましたが、江戸時代は農業を主産業とする経済でしたが、また農民による副業が盛んだった時代です。
7) 農民の副業
江戸時代の武蔵は農民が副業をしやすい環境にありました。先に江戸時代の武蔵の人口は江戸を除くと100万人くらいしかいなかったということを述べました。ではこの100万人はどのように住んでいたかというと、たぶんほとんどの人は宿場と街道沿いに住んでいました。それはずっと前に八王子宿のところで幕末には人口7千人くらいだったといいましたが、宿場は八王子だけではありません。ほかにも、川崎、保土ヶ谷、府中、板橋、深谷、と五街道には大小さまざまな宿場がありました。また中原街道や旧鎌倉街道などの脇街道にも宿場がたくさんありました。そして、宿場と宿場を結ぶ街道沿いにも多くの民家がありました。細かく計算をしたことはありませんが、たぶんそれだけで100万人近くなります。
こういうことを考えると、江戸時代の武蔵の人たちはほとんど宿場と街道沿いに住んでいて、むしろ街道から離れた所に住んでいる人はきわめて少なかったと言えます。こういう環境でしたから農民たちはさまざまな農外収入がありました。
まずすぐに浮かぶのは馬を使った輸送業です。日本は悪路が多く車を使うことができなく、馬一頭ごとに背に荷物を運ぶやり方でしたから、馬方の仕事に従事する人はたくさんいました。専業でなくとも、助郷役で村から仕事に借り出されれば当然賃金を受け取ることになりますから、この仕事で収入を得る人は多かったと思われます。
江戸時代前期には、農民の副業というと冬の農閑期に、糸取りや筵(むしろ)編みそれから機織などしかなく、それは副業というよりは内職でした。それが後期になると規模が大きくなり、職種も多様になっていきます。まず目につくのが商業です。江戸時代に村にあった店は、居酒屋、豆腐屋、荒物屋、煮売り屋、小間物屋、古着屋、糀屋、酒屋などです。江戸時代の村は100戸くらいの村が多かったのですが、居酒屋はどの村にもありました。それから店舗商買ではありませんが、屋根屋、大工、鍛冶屋などもいました。
さらには行商をする人もいました。江戸時代には、各地に市や卸の問屋がありましたから、こういう所から商品を仕入れては担ぎ商いで、人口希薄の山間地などを売り歩いていました。また江戸でも棒手振り(ぼてふり)という担ぎ商いをする人がいました。その中には近郊の農民が自分の畑で取れた物を売りにくる者もいました。しかも彼らは自分で売るばかりでなく、何人かで江戸の入り口に集まり江戸の棒手振りたちに作物を売る私設の市を開いたりしました。これを百姓市といいます。江戸で売られる野菜は神田の青物市を通すことになっていました。青物問屋は幕府に高い運上金を払って商売していましたから、幕府も取り締まりをしました。しかし、一つ一つの百姓市は規模が小さくても数が多くとても取り締まりきれるものでなく、そのために神田の青物市が衰微していく原因になるほどでした。
非常に驚いたのは東京豊島区のある小作農民の副業です。その農民は小作地の一画に寺子屋を作り、浪人か何かを師匠に雇って寺子屋経営をしていました。そして子どもの募集も自分でして、浪人の給料と子どもが払う授業料の寺子屋経営の収支書まで作っていました。こうなると小作農民=貧しい農民というイメージとはまったくかけ離れています。
また、自分で仕事や商売をするほか、人に雇われて働く奉公も盛んになります。借金返済のための質奉公(しちほうこう)もその一つですが、そればかりでなく今の会社員感覚で働く奉公人もいました。宿場で働く人たちのほとんどはこういう近隣の農民による奉公でした。
江戸時代の奉公は事前に契約書を交わし前金で賃金が支払われました。契約書の中には「木登り」「水浴び」した場合には返金するというような条項のある契約書もありました。木登りは首吊り、水浴びは投身自殺のことです。
この奉公は江戸時代前期は5年10年の長期でした。そのため賃稼ぎというよりは主人の家に仕えるという感じでいかにも奉公という感じがしますが、中期頃からは1年の短期が一般的になり、さらには日雇いの形態まで現れます。そうなると農民にとっては奉公というよりはアルバイト感覚でした。
(なお、こういう副業に力を入れ、実態としては農業の方が副業になっている人たちも、歴史の方では農民と呼んでいます。江戸時代には士農工商の身分制度があったとされていますが、これは明治以降に作られた造語です。江戸時代は幕臣と藩士だけが武士で、武士以外の人たちはまとめて農民でした。工商は江戸や城下町に住む商人(あきんど)や職人のことを指しました。農村にも農業をまったくやらない商人や職人がいましたが、彼らも農民と呼ばれています。ですから、農民という言葉は誤解を生みやすく、当時はひっくるめて「百姓」(ひゃくしょう)と呼んでいました。ところがこの百姓という言葉は差別語ということで使うことができなくなり、誤解の多い農民という言葉が使われています。) 
8) 豪農の副業
以上は小農や零細農民の副業ですが、名主や組頭などの上層農民の中にも副業をする人がいました。というより江戸時代の豪農はそう広い農地を持っているわけではありませんから、広い農地を持つのではなくこの副業を手広く行うことで富裕化していました。
彼らは実は江戸時代の初期から副業を行っていました。その代表的なのは仲買業と金融業と酒造業です。豪農の仲買業者は村の農民から様々な余剰物産を買い集めては転売し利益を得ていました。その主な商品は江戸時代初期には米や麦の穀類で後期になると織物でした。江戸時代前期には各地で市が盛んで、この市で取引する人たちの多くはこういう村の豪農でした。江戸時代後期になると市の機能が衰退します。しかし、彼らは江戸や大阪の問屋制度に組み込まれ、村の仲買業者→地域の大商人→江戸・大阪の問屋という流通仕組みの末端を担うようになります。
また、彼らは村の農民を相手に質屋もやっていました。質物は農地でした。質屋は田畑永代売買禁止令が出て農地の売買が禁止されたため、農地を担保に金を貸すという形をとったために発達したもので、その実態はまったくの金貸し業でした。
豪農が質屋をするのは、彼らの手元にはお金がたまっていたからでした。先に説明したように、江戸時代の年貢はさほど重くなく、とくに豪農にとってはあまり負担になりませんでした。そこで、彼らは米などの農産物を売り、手元には多額の余剰資金が蓄積されました。そこで、この金を使って仲買の商業活動をしたり、質屋を営んで金利を稼いでいました。
(いつの時代にももっとも利益の上がる職種は金貸しでした。金貸しについては、未だに理解しきれていないのですが、この仕事の眼目は利息収入にあります。したがって元本の返済にはあまりこだわらないのが上手な金貸し業です。実際江戸や大坂の大商人は大名貸しで返済の見込みがないのに割と平気でお金を貸しています。元本が完済されないのは折り込み済みでした。金貸しの要諦は利息の収益と元本の毀損の比較で、儲かるかどうかです。ついでながら、金貸し業者にとって一番困るのはすぐに元金を返済してしまう客で、一番の上客は元金を返済しないで、いつまでもダラダラ利息を払う客なのだそうです。その点、大名貸しはうま味のある客でした。経済的に豪農の資金蓄積は非常に大きな意味がありました。というのも資本主義的経済が発達するには、初期の資本蓄積がきわめて重要だからです。明治になると、各地で銀行とか洋式の織物工場ができますが、それを作ったのは豪農たちでした。)
それと、江戸時代の豪農たちには事業も行う者もいました。その代表が酒造業でした。江戸時代は何の職種でも新規参入が難しい時代でしたが、酒造業は免許事業で蔵ごとに醸造量も決められていましたから、とりわけ新規参入が難しい業種でした。しかし、それだけにいったん酒造業が認められると大きな利益が得られました。
(江戸時代には酒造業者はたくさんいました。武蔵の細かい状況ははっきりしませんが、茨城の酒造業の分布を見たことがあります。一村に一軒でなく複数軒ある村もかなりありました。そのため、江戸時代後期になると水戸など大きな町の酒造業者は村の酒造業者との競争に負けて店をたたむところが続出しました。武蔵でもっとも酒造業者が多かったのはたぶん秩父です。秩父は米も取れない貧しい所ということになっていますが、ここは酒の消費量も飛びぬけて多く、本当に貧しかったかは疑問があります。)  
9) 江戸時代の大土地所有について
豪農というと100町とか200町の広い農地を持つ大土地所有者を想像します。しかし、これは大正昭和初期に特殊に現れる寄生地主のことで、江戸時代にはこういう大地主はいませんでした。
江戸時代の村は石高400石戸数100戸くらいしかありませんでした。ですから50町も100町も土地を保有しようとすると、自分の村だけではおさまりきらず、他村にも農地を持つことになります。大正時代の大地主は税金を払うだけでしたが、江戸時代の村は生活共同体でもありましたから、村に土地を持てば村の付き合いや村人総出の道普請など共同の仕事もありました。ですから、単にお金があるからというだけで他村に農地を持つことは難しいことでした。
大地主が比較的現れやすいのは水田稲作地帯で武蔵でいうと埼玉北部です。しかし、江戸時代には、この地域のトップクラスの大地主でも保有面積が20町くらいで、そのうち15町を小作にだし、残り5町は奉公人を雇って自営するというやり方でした。それと経済的にも江戸時代は大地主が現れにくい時代でした。それは江戸時代は1反当たりの収量が1石(150kg)くらいしかありませんから、小作に出しても年貢と小作人の取り分を引くと手元にはいくらも残らないからです。大正昭和の1反当り4石収量に比べると、江戸時代の小作制度は利益率が低すぎるのです。
また、江戸時代の政治権力はまったくの民事不介入でしたから、地主と小作人のトラブルでいくら地主が契約関係を主張しても幕府や藩は保護してくれるとは限りません。すべて相対(あいたい)の話し合いで解決せよということでした。そうなると複雑な権利関係がある場合などは解決が難しくなります。たとえば東京の豊島区や江東区あたりの小作農民の中には小作地に家を建てて貸家経営をする者もいました。こうなると地主が小作地を取り上げた場合、では貸家に住んでいる人はどうなるのか、というような問題が生じてきて簡単にいきません。小作制度による大土地所有はリスクが大きすぎました。こういうこともあって、江戸時代には普通思われているような大地主はいませんでした。
10) 根岸家のこと
今江戸時代の大地主は20町程度といいました。しかし、何にでも例外があります。江戸時代の武蔵で最高の豪農はたぶん忍藩領の根岸家だと思います。一度見に行ったことがありますので紹介しておきます。
根岸家は大里郡の旧甲山村(かぶとやま)にあります。大名屋敷の門構えのような屋敷で、この門だけでも一見の価値があります。根岸家は大地主で、時代によって保有農地の面積は変化しますが、経営を縮小した幕末の天保の頃にも80町くらいありました。こうなると甲山村だけでは無理で、他村にも農地を持つことになりますが、根岸家は甲山村ばかりでなくその村の名主も兼務することで農地を拡大しました。
幕末の根岸家当主は遊山という人でした。彼は家業そっちのけで剣術に熱中し千葉周作の門人になりました。現在の当主の話では、当時は江戸にも屋敷があったから、遊山は甲山のことは親族や奉公人にまかせ気ままな江戸生活をしていたのではないか、ということでした。
清川八郎が浪士組を結成した時には、遊山は清川と共に上京し一番組の隊長でした。この時の三番組には芹沢鴨と近藤勇がいて芹沢が隊長でした。遊山は芹沢近藤とちがって清川と一緒にすぐに江戸に戻ってしまいましたから、新撰組で活躍することはなく歴史に名が残ることはありませんでした。しかし、その後もあれこれ動いていたようで、長州藩から頼まれて、江戸で戦争が起きたら、藩主の家族は甲山の根岸家に非難しそこから長州に帰っていくというようなことを取り決めていました。本当かと半信半疑でしたが「ちゃんとその書付がある。書付は県の資料館にあるから確かめてみたら?」ということでした。
遊山の息子は武香という人でした。この武香は多額納税者ということで貴族院議員になりました。この時東京の役所の倉庫で埃をかぶっていた「新編武蔵風土記稿」という、徳川幕府が編纂した地歴書をみつけました。そこで、幕府の業績を顕彰するようなことはできないという政府の役人たちとケンカして、この書物が世に出るようにしました。今ではこの「新編武蔵風土記稿」は東京埼玉の郷土史研究には欠かせない資料ですが、こうなったのは彼のおかげです。武香は郷土史にも熱心で、東大の学生から吉見百穴を研究したいと相談を受けると、地元の人たちを説得して便宜をはからいました。吉見の百穴はすっかり有名になりましたが、それも武香の尽力があったからでした。
この類のエピソードはほかにもあります。とにかくこの根岸家はけたはずれの豪農でした。
11) 東京湾の漁業
武蔵は東京湾に面していますから当然漁師の人たちもいました。室町時代までの様子を見ると関東では漁業はしなかったようです。それはたぶん魚の取り方がわからなかったからです。
ところが江戸時代になると関西から漁業が伝えられ関東でも漁業をするようになります。千葉県と和歌山県に勝浦があります。これは和歌山勝浦の漁師が黒潮に乗って関東まで漁に来ていて、ここに寄留地を作ったからです。それまで地元の人たちの海の利用はもっぱら塩作りでした。しかし、和歌山の漁師が魚を獲るのを見て彼らも漁をするようになりました。これが房総の漁業の始まりのようです。
東京湾の漁業もほぼ同じです。有名な話ですが、1590年の家康の江戸入府に際し、大阪の佃村の漁師たちも付いてきて彼らが佃島に住みついたのが始まりです。この佃島以外のところはその発祥がわかりませんが、江戸の都市化が進んで魚の需要が増え、目の前が海ですから漁業が発達しないはずがありません。東京湾岸の入り江に漁村が次々とできました。すると漁民同士の取り決めが必要になります。最初はそれぞれの浦が隣同士で漁場をめぐる話し合いのようでしたが、広域の取り決めが必要になります。そこで、文化13年(1816))東京湾に面する千葉東京神奈川の44漁村が一同に集まって漁に関する取り決めをしました。この取り決めでは浦ごとの漁場を決めるほか乱獲防止のため漁法についても決めました。
12) 御菜八ケ浦
東京湾の漁村では「御菜八ケ浦」が有名です。これはが、次の8村が作った一種のシンジケートです。その8村は、
東京都  金杉浦・本芝浦・品川浦・大井御林浦・羽田浦
神奈川県 生麦浦・新宿浦・神奈川浦
漁師にとって悩みの種は遠くの浦の漁民が自分の漁場に来て魚をとることもありますが、それと同時に漁民ではない農民が漁をすることです。海岸沿いに住む零細農民にとっては、魚を取って売れば生活の足しになりますから時々漁に出ます。この農民を「磯付百姓」(いそつきひゃくしょう)といいます。一方漁師はほとんど農地を持たず、もっぱら漁で生活をしていますから磯付百姓が漁をすると打撃です。そこで両者の争いが絶えず起こります。
しかし、問題は海はだれのものかということがあります。どう考えても海はだれのものでもありません。ですから、遠くの浦の漁民が自分の浦の近くで漁をしても、磯付百姓が漁をしてもそれを咎めることはできません。そこで漁師たちが拠り所にしたが徳川将軍家です。つまり、自分たちは将軍の食べる魚を賄っているのだから、独占的に海を使用する権利があるということを主張します。これが「御菜八ケ浦」の漁民たちの主張でした。したがって、確かに彼らは無料で魚を幕府に献上していましたが、それは義務というよりは自分たちが海を排他的に利用するための名分でした。
ちなみにこういう慣行が現在の漁業権の元になっています。現在の日本は自由主義の社会ということになっていますが、農業と漁業については新規参入が非常に難しくなっています。それは江戸時代に農民や漁民が独占的に持っていた独占的権利が近代になっても認められているからです。)
13) 漁法
東京湾の漁業は意外と技術の進歩が見られません。もっとも一般的なのは、三艘張(さんそうばり)といって、2艘で網をV字型に張って待ち、もう1艘で魚を追い込んで取るというやり方です。それと、夜にかがり火を焚いて白魚を集め、それを四手網でとるというやり方もありました。釣り漁はしませんでした。釣りが行われるようになるのは、幕末になって、中国から、蚕の吐き出す特殊な糸を使えば釣りが可能だと伝わってからです。
東京湾の漁業が進歩しなかったのは、技術が進歩すると乱獲が起こりからです。確かに大量に魚を取ればそれだけ魚価も下がりますから、少々不足気味に漁をする方が長い目で見ると合理的でした。
それと東京湾の漁業はもっぱら食用の魚を取る漁業でした。ここがよそとちがっていました。たとえば関西の漁業は綿花の肥料になるイワシを取る漁業でした。関西は綿の一大産地でしたが、それはこれら漁師たちの活動によるところが大きかったようです。では漁師が取った魚はどうなるか、ということになります。すべて日本橋の魚市場に運ばれ肴問屋に買われました。というより、日本橋の問屋は漁師たちの漁具や船購入の費用を出して魚がほかに流れないようにしました。ですから漁師たちも勝手に売ることができませんでした。
今とちがって漁師の船が浜に戻るのは夕方でした。そこで、浜には問屋と契約した輸送業者が待っていて、魚を馬の背に積んで夜の間に日本橋まで運んでいました。輸送業者は途中宿泊することもありましたが、その場合は魚の臭いでふつうの宿屋には泊まれず、漁師宿といって専用の宿がありました。魚の流通はこのように整備されていましたが、問屋は漁師の取った魚を安く買い叩きがちです。すると、漁師からこっそり魚を買って転売しようとする者が必ず出てきます。これを抜荷買いといいます。漁師の方も高く買ってくれるなら問屋に内緒で売ればよいというので、当時の東京湾の漁村にはこういう商人たちが横行していました。 
 
上総国嶋穴駅周辺の古代水陸交通路

 

一 嶋穴郷と海上潟 
   第1図 嶋穴郷と古養老川と海上潟
はじめに
小稿は、嶋穴駅の所在する上総国海上(うなかみ)郡嶋穴郷が、大化以前から大和政権の上総地方経略や伊甚屯倉(いじみのみやけ)経営における水陸交通路の要衝であったことを指摘し、大和政権の房総経営の目的にそって設定された上総西岸部の国造領連結路とその拠点が、のちに東海道の経路や駅にほぼ踏襲された可能性のあることを論じたのち、大前駅、藤潴(ふじぬま)駅、嶋穴駅の所在地を推定して、それらを結ぶ駅路の道筋の復原を試みたものである。
ただし、国造領連結路とその拠点について述べた部分は、その存在を明示する資料は皆無であるので、いたずらに憶測を重ねる結果にならざるをえなかったものの、駅の所在地の比定や官道の経路の推定・復原にとって、大化以前の水陸交通路も考慮してしかるべきであろうという考えから、あえて国造領連結路とその拠点について憶測を述べてみた。
第1図 嶋穴郷と古養老川と海上潟(Aは嶋穴神社、Bは嶋穴駅推定地の七ツ町)この地図は、建設省国土地理院の承認を得て、明治十五年二万分の一迅速測図手書原図復刻版を複製したものである。第5・7・8・9図の地図も同様である。村上地域流路は田所真氏の教示による。地点は8世紀〜9世紀代の流路、千葉県文化財センタ−笹生衛氏の報告による。
嶋穴駅が設置されていた嶋穴郷は、千葉県市原市島野に鎮座する式内社嶋穴神社周辺の地域に比定できる。本来嶋穴神社は、現在地の北およそ百メ−トルの所にあったらしいが、わずかな距離の移動にすぎないので、嶋穴郷を当社周辺の地域に求めてもまったく支障はない。
嶋穴郷推定地は、房総屈指の河川である養老川の河口左岸から下流左岸にかけて位置している。しかし、古代の養老川(これを古養老川と仮称する)の下流の流路は嶋穴郷推定地の南を蛇行しつつ青柳付近で東京湾へ注いでいた 1(第1図参照。ドットで示した流路)。つまり古代の嶋穴郷は、古養老川の河口から下流の右岸にあったのである。
第1図に見られるように、嶋穴郷の中心地と目される嶋穴神社(A)と嶋穴駅推定地七ツ町(B)の所在する一画は、東と南と西を古養老川の流れにとり囲まれて島状の地形をなしているので、嶋穴という郷名はこのような地形にちなむものであろう。シマアナのナは、土地を意味する語ナであろうか。とにかく地形的に見て嶋穴郷や嶋穴神社や嶋穴駅が、古養老川とかかわりの深かったことは間違いあるまい。
嶋穴郷の西側は河口となって東京湾に面しており、そこには海上潟と呼ばれた天然の良港があった。海上潟は、『万葉集』巻十四の東歌の冒頭に、「夏麻引く(なつそひ) 海上潟の 沖つ渚(そ)に 船はとどむめ さ夜更けにけり」と歌われている。「船はとどむめ」と詠まれているので、海上潟が港津として利用されていたことは明白である。海上潟は、古養老川の河口近くに形成された潟湖であろうと推測されるので(2)、河口・下流の右岸に位置していた嶋穴郷に隣接していたと思われる。おそらく嶋穴郷の海岸の前面が海上潟であり、嶋穴郷は海上潟という天然の良港の背後集落であろう。したがって、海上潟を擁して河口・下流右岸に位置する嶋穴郷は、東京湾と古養老川を結ぶ水上交通の拠点となっており、水運に長じた海人が少なからず居住していたと考えられる。
そうだとすると、嶋穴郷は古養老川を河口から五キロメ−トルほど遡った中流右岸の市原郡海部(あま)郷(市原市海士有木一帯)と関係が深かったはずである。海部郷は、海人ないし海部の集住する所であったがゆえに海部郷と命名されたとみてよい。しかも海部郷が海岸からかなり離れた中流右岸に位置していることは、この地の海人や海部がただの漁民ではなく、古養老川と東京湾を結ぶ水運に携わっていた人々であったことを物語っている。それに関東全域を見わたしても、海部郷は市原郡にしか存在しない。
この特徴的な事実は、市原郡海部郷の海部が、特殊な歴史的理由によって計画的に設定されたことを伝えている。それは、大和政権が上総地方の経略を進めるにおいても、上総の伊甚屯倉の経営を行う上でも重要な動脈となる古養老川の水運を掌握する必要があったからである。それゆえに、海部郷の海人を関東で唯一の海部集団に設定したのであろう。海部郷の海人は、もともと上海上国造(かみつうなかみのくにのみやっこ)の支配下にあったと思うが、大和政権はこの地の海人を上海上国造からさき取って海部に設定し、強い統制を加えたのである。
海上潟という港津を擁する嶋穴郷が、同じ古養老川の中流に位置して、水運に従事する海部の居住地であった海部郷と緊密な関係に結ばれていた公算は大きい。嶋穴郷と海部郷は、東京湾と古養老川を連?する水上交通の二代拠点であったと考える。また嶋穴郷は、東京湾‐海上潟‐古養老川‐伊甚屯倉を結ぶ水陸交通路と、房総半島の西岸部に集中的に設置された諸国造の領域を縦走して連結する陸上交通路とが交差する十字路にあたっていた。大化以前から水陸交通の要所であったからこそ、この地はのちに東海道の経路となり、嶋穴駅が設置されたのである。なお、嶋穴郷と養老川が伊甚屯倉の経営ル−トとなっていたこと、国造領連結路が嶋穴郷を経由していたことは後述する。 
二 古養老川と大和政権の上総経略 

 

   第2図 古代水陸交通関係図
古養老川は、大和政権の上総地域への進出・支配の動脈であり、伊甚屯倉経営の主要ル−トでもあった。相模の三浦半島から東京湾を渡ってきた大和政権は、海上潟から古養老川を遡って内陸部へ進んだ。そして内房と外房の分水嶺を越え、太平洋に注ぐ一宮川に沿って九十九里平野へと進出していった。その様子は、上総に設置された名代(なしろ)の分布によってうかがい知ることができる。
上総で最も古い名代は、応神天皇の皇子額田大中彦の名代と伝えられる額田部である。額田部が集団的に設定された周淮(すえ)郡額田郷は、君津市糠田周辺に比定でき、走水(はしりみず 浦賀水道)に面する周淮郡は、房総のなかでいち早く大和政権が進出してきた所である。そのような所にもっとも古い名代が分布するのは道理であるといえようが、周淮郡の額田部や額田郷については第四章に後述する。
つぎに古いのは、刑部(おさかべ)である。刑部は允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の名代であり、允恭天皇は五世紀中葉の倭王済に比定できる。第1表に示したように、上総の刑部は、市原郡海部郷と江田郷、長柄郡刑部郷に分布する。つまり古養老川と一宮川の流域に集中しているのである。(第2図参照)。五世紀中葉の大和政権は、嶋穴郷の海上潟から古養老川を遡り、中流右岸の海部郷と上流右岸の江田郷(市原市江子田・吉沢一帯か)に刑部を設定したのち、そこから陸路分水嶺を越えて一宮川上流の長柄郡刑部郷(長柄町刑部一帯)に到達し、そこの住民を集団的に刑部に定めて、太平洋側への進出の拠点とした。
刑部と関係の深いのが、忍坂大中姫所生の雄略天皇の名代長谷部(はつせべ)である。忍坂大中姫と雄略天皇は親子の関係にあるだけに、その名代刑部と長谷部が同一郡内や近隣の郡に分布していることが、第1表に人目瞭然である。この特徴的な事実は、忍坂大中姫の刑部の設定地の近くを意図的に選んで、その子の雄略天皇の長谷部が設定されたことを物語っている。上総における長谷部は、市原郡、海上郡、倉橋郷、長柄郡谷部郷に分布している。海上潟から古養老川へ入った五世紀末の雄略朝の大和政権は、右岸の市原郡と中流左岸の海上郡倉橋郷(市原市栢橋、支流戸田川流域か)に長谷部を定め、江子田古墳群のある市原市江子田付近に上陸して分水嶺を越えて長柄郡刑部郷へ至り、そこからさらに一宮川沿いに下って、一宮川が九十九里平野にさしかかる中流左岸の長柄郡谷部郷(茂原市長谷一帯)の人民を広く長谷部に設定し、ここにも房総東岸部への進出拠点を置いた。ここに至って大和政権は、東京湾に注ぐ古養老川と太平洋に流れこむ一宮川とを連結するル−ト、すなわち房総半島の中央部を横断する支配ル−トを開拓したのである。
このように、長谷部の設定においても刑部設定の場合とまったく同じル−トがとられているのである。これは、古養老川と一宮川が、大和政権の上総進出と経営の主要交通路にほかならなかったことを雄弁に物語っている。したがって、古養老川の河口と下流に所在した海上潟と嶋穴郷も、房総経略の交通的な拠点であったのである。
   第1表 刑部・長谷部・春日部の分布(出典は注3に記した)
つぎに春日部は、雄略天皇と春日和珥臣深目(かすかのわにのおみふかめ)の娘童女君(おみなきみ)との間に生まれ、五世紀末の仁賢天皇の皇后となった春日大郎皇女(かすかのおおいらづめ)の名代である。春日大郎皇女も、父雄略天皇の長谷部の分布と無関係に設置されたとは思われない。上総においては、やはり両者の分布に関連性がたどられるのである。上総の春日部は、太平洋側の夷?郡と武射(むさ)郡に分布したている。また、武射郡・山辺郡一帯に君臨した武社(むさ)国造は『古事記』や『先代旧事本紀』の「国造本紀」によると春日大郎皇女の生母の出た和珥氏の系譜につらなっているので、春日部と春日部ゆかりの国造は、すべて上総の太平洋側に分布する特色がみられるのである。
それはなぜなのかというと、大和政権は雄略天皇の長谷部を一宮川が九十九里平野にさしかかる長柄郡谷部郷に設定して拠点としたのち、ここを分岐点にして九十九里平野を南下して夷?郡に春日部を定め、また一方、北上して武射郡にも春日部を置いたのからである。このように、春日部の設定は長谷部設定の延長線上に行われているのであり、春日部の設置に際しても嶋穴郷の海上潟−古養老川−一宮川という交通路が利用されたのである。思うに、武社国造の上京の径路は、九十九里平野を長柄郡谷部郷まで南下して、一宮川・古養老川沿いに海上潟まで至ったのであろう。また、第四章に後述するように古養老川は、大和政権の安房国長狭郡への進出ル−トでもあった。夷?郡に進出して春日部を定めた大和政権は、次の段階にはこの一帯に広大な大王家の直轄地を設定して、房総経営の重要拠点を築くにいたるのである。 
三 伊甚屯倉の経営径路 

 

『日本書紀』安閑天皇元年四月条に、伊甚屯倉設置の由来を語る伝承が記されている。内膳卿膳臣(かしわてのおみ)大麻呂は勅命をうけて、伊甚国造稚子直(わくこのあたい)に珠を貢上するように下命した。しかし、稚子直らは期限に大幅に遅れて上京したので、怒った膳臣は彼らを捕縛して詰問した。稚子直らは恐慴して春日山田皇后の寝殿に逃げ隠れたので、皇后は驚きのあまり卒倒してしまった。稚子直らは、皇后に伊甚屯倉を献上して後宮?入の重罪を贖ったという。
伊甚国造の領地をさき取って設定された伊甚屯倉の設置年代は、安閑朝(五三〇)よりさかのぼる可能性があるが、その領域は「今分かちて郡として、上総国に属く」とあるので、かなり広大であったことは間違いあるまい。夷?郡(夷隅町、大多喜町、御宿町、大原町、岬町)のみならず、その北の埴生郡や長柄郡の一部まで含まれていたであろう。伊甚屯倉の経営は、大和政権側からは大伴連(6)、膳臣(7)、久米直(8)、和珥臣(9)、車持君(10)、我孫公(11)、らが関与したらしい。また、伊甚国造をはじめ武者国造(12)長狭国造(13)須恵国造(14)馬来田国造(15)上海上国造(16)など上総・安房の諸国造も、伊甚屯倉の開発・経営に必要な労働力等の提供を強制されたりして、協力を余儀なくされた形跡がみられる。
つぎに伊甚屯倉の経営・輸送径路について考えるにあたって、伊甚屯倉の領域の北に長柄郡車持郷(長南町蔵持・笠森一帯)があり、古養老川下流に海部郷と河口に海上潟が存在することは注目してよい(第2図参照)。つまり伊甚屯倉から東京湾に至る房総半島中央部に、陸運、水運にたずさわった車持部、海部の集住地や港津が点在していることは、看過できないのである。それに関東全域を見わたしても、車持郷と海部郷は上総の長柄郡と市原郡にしか存在しない(17)。伊甚屯倉の周辺に限って車持郷と海部郷が分布するということは、特別な歴史的理由によるものにほかなまい。長柄郡車持郷と古養老川中流の海部郷は、伊甚屯倉の経営・輸送に資する目的で、そのル−トの要所に計画的に配置されたと考えてよい。
思うに、珠をはじめとする伊甚屯倉からの貢上物品は、車持郷の車持部(18)によって古養老川中流の市原市江子田付近まで陸送され、そこで海部郷の海部の川船に積みかえて(19)から古養老川を下って下流の海部郷ないし河口の海上潟において大型船に再度積みかえたのち、東京湾を渡って三浦半島へ至ったか、海路遠く大和へ運漕されたのであろう。
伊甚屯倉−長柄郡車持郷−古養老川下流の市原郡海部郷−嶋穴郷海上潟を結ぶル−トこそ、伊甚屯倉の経営・輸送のもっとも主要で安全な径路であり、嶋穴郷もこのル−トの一環に組み込まれていたのである。さらに憶測すれば、車持郷も伊甚屯倉の領域に含まれていた可能性もあるが、この地の車持部は車や馬による運送のみを担当していたのではないかも知れない。車持郷は伊甚屯倉と海上潟を結ぶ陸上交通路の中継地として、一種の駅的な役割(20)をはたしていた可能性もある。というのは、車持部の伴造の車持君の本拠地は上野国群馬(くるま)郡群馬(くるま)郷(群馬県群馬郡榛名町付近)で、藤原宮跡出土木簡に「上毛野国車評」と書かれているが(21)、『延喜式』兵部省式によるとここに群馬駅が置かれており、右馬寮式には同郡有馬郷の有馬牧が見え、車持部は馬や駅ともつながりが浅くないように思われるからである。推察するに、海上潟から嶋穴郷に上陸して馬に乗りかえたのち、古養老川にほぼ沿って車持郷まで陸行し、そこでまた馬を乗継いで伊甚屯倉の中心部へ至る陸上交通路が、大和政権によって解設されていたのではないであろうか。ここで注目したいのが松原弘宣氏の見解である。松原氏は屯倉の設置は交通路開発と関係が深く、屯倉は宿泊施設や交通機能を有していたので、屯倉が早馬を用意した可能性は高い。そして推古天皇十五年(六〇七)以降その制度化がはかられたといわれる(22)。伊甚屯倉の近くに車持郷が存在することは、松原説の妥当性の高さを傍証している。伊甚屯倉の早馬のル−トは、車持郷を中継地として海上潟や、次章に述べる国造領連結路に接続して走水へ至っていたのであろう。 
四 国造領連結路 

 

1
   第3図 関東の国造
古養老川の下流右岸に位置する嶋穴郷は、大和政権の上総経略、伊甚屯倉経営に不可欠な古養老川の水上交通路および陸上交通路と、房総西岸部の諸国造領を連結する陸上交通路とが交差する十字路にあたっていた。第3図に示したように、房総には十一もの国造が存在していた。(23)さほど広くもない一つの地域に、これほど多くの国造がひしめくように密集している所は、全国的に見ても希である。房総に国造がとりわけ多い理由は、大王家や大和政権ときわめてつながりの深い土地柄であり、この地の諸勢力が大和政権に対して全体的に従順であったからである。
いま一度第3図をみると、国造は房総のなかでも西岸部に集中し、阿波国造、須恵国造、馬来田国造、上海上国造、菊麻国造、千葉国造など六国造が、踵を接して一列に並んだように数珠つなぎに分布していることに気付く。つまり、このような国造の分布のあり方は、西岸部を南北に縦走する交通路があって、それに沿って国造が設置されていたのではないか、という憶測を生じめるのである。
大和政権の房総への上陸ル−トで、少なくとも四つの径路があった。一つは、三浦半島から走水(浦賀水道)を渡って須恵国造領の小糸川下流左岸の周淮郡湯坐(ゆえ)郷に上陸するル−トで、これは、倭建命の東征や宝亀二年(771)ごろ以前の東海道のル−トに相当する。もう一つは、三浦半島から東京湾を経て馬来田国造領の小櫃川下流右岸の望陀郡飫富(おほ)郷に着岸するル−ト、あと一つは、三浦半島から東京湾を経て上海上国造領の海上潟ないし古養老川下流の海部郷へ至るル−ト、さらにあと一つは、海路で『古事記』景行天皇段や『日本書紀』景行天皇五十三年条にみえる淡水門(あわのみなと・館山市湊付近)へ上陸するル−トである。このうち走水を渡って須恵国造領に上陸するル−トは、夜間でも両岸で火をともして相図し合えば渡海可能であったので、もっとも主要なル−トであった。いずれのル−トの場合も、上陸後は房総の西岸部の陸路をたどって下総・常陸や安房に向かったのである。
房総の西岸部の諸国造領を連繋する陸上交通が存在したであろうことは、西岸部の国造の系譜が相互に同祖関係、兄弟関係に結ばれていることからも推定できる。『古事記』上巻によると、天安河原(あめのやすかわら)の誓約(うけい)において、天照大神の御子神として天忍穂耳命(あめのおしほみみ)、天菩比命(あめのはひ)、天津日子根命(あまつひこね)という三柱の神が化生し、そのうち天菩比命は上海上国造の、天津日子根命は馬来田国造の祖神となったという(系図Tを参照)。つまり上海上国造と馬来田国造は、祖先神が兄弟関係に結ばれているわけである。しかも両国造は、地縁的にもつながりが深かった。上海上国造の領域(古養老川左岸一帯と右岸の一部)と馬来田国造の領域(小櫃川流域の木更津・袖ヶ浦市一帯)とは隣接していたからである。
   系図
つぎに、「国造本紀」によると、上海上国造と菊麻国造(領域は市原市菊間を中心とする村田川両岸一帯)も天穂日命(あめのほひ)(天菩比命)を共通の祖とする間柄に結ばれているのみならず(系図2参照)。領域を接して地縁的にも親密である。また、安房の阿波国造も天穂日命の後裔と称し、上海上国造・菊麻国造と同祖関係に結ばれている。須恵国造にしても馬来田国造と同じく天津彦根命(天津日子根命)を共通の祖先とし初代の国造は兄弟の関係になっている。それに須恵国造の領域は、馬来田国造の南に隣接している。
国造の系譜がどこまで事実を伝えているものか問題は残るものの、要するに、安房・上総の西岸部に一列に並んだように分布する五つの国造は、地縁的につながりが深いのみならず、いずれも兄弟の間柄にある天穂日命か天津彦根命の後裔と称して、系譜的にもたがいに同祖、兄弟の親密な関係に結合されているのであって、けっして無縁・無関係に孤立的に存在しているのではない。したがさて、地縁的、系譜的に親しい関係にあるこれらの国造の領域を貫いて、一つに連結する陸上交通路があっても不思議ではない。かなり古くから房総の西岸部を縦走する道路があって、大和政権はそれに沿って国造を設定していったのであろう。
それは房総西岸部に限ったことではないようである。もう一度第3図を見てみると、天穂日命と天津彦根の後裔と称する同祖関係の系譜に結ばれた国造が、相模(師長国造、相武国造)から走水を渡り、上総(須恵国造、馬来田国造、菊麻国造)、下総(下海上国造、)を経由して常陸(茨城国造、新治国造、高国造、道口岐閉国造)へ至るル−ト、すなわち宝亀二年以前の東海道にほぼ相当する道筋に連なるように点々と設置されていることは注目に値する。系譜的に親縁関係に結ばれた国造が、交通路によっても相互に連繋されている様子がうかがえるのである。これも、大化以前から相模−走水−房総−常陸を一つに結ぶ交通路があったことと、それに沿って計画的に国造が設定されたことを表していると思われる。
ところで、松原弘宣氏は、大化前代に国造が早馬を用意する形で成立した早馬制が存在したという注目すべき見解を提示されている。(25)交通路に沿って国造が計画的に配置されていることからいっても、松原氏の所見は極めて可能性が大きいと思う。交通路によって結ばれた諸国造が、順送りに早馬を仕立てた公算は高い。国造の早馬も迅速を旨としたに違いないから、早馬の通過する径路はいたずらに迂遠なコ−スとはならなかったはずである。したがってその径路は、国造が各自思いのままに設定した道路をつなぎ合わせただけのものではなかったであろう。ある程度計画的に設定された、大和政権の息のかかった道路であったと思われる。
房総西岸部の諸国造領を貫通する交通路も、国造が各自勝手に設定したものではあるまい。大和政権の房総径路の目的にそうべく、ある程度計画的に設置されていたと推測される。というのは、大和政権は国造領の一画に房総経営の拠点となる場所をいくつも設置しており、それらの拠点を結びつつ道筋が作られていたらしいからである。
房総西岸部の諸国造領を貫通する交通路も、国造が各自勝手に設定したものではあるまい。大和政権の房総径路の目的にそうべく、ある程度計画的に設置されていたと推測される。というのは、大和政権は国造領の一画に房総経営の拠点となる場所をいくつも設置しており、それらの拠点を結びつつ道筋が作られていたらしいからである。
たとえば、須恵国造領の一画の周淮郡湯坐郷(小糸川下流左岸の君津市上湯江・下湯江一帯)と額田郷(小糸川中流の君津市糠田一帯)は、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)の支配した湯坐部と額田部が集団的に置かれていたいた所であり、そのうち湯坐郷は走水を渡ってきた大和政権の上陸地となっていた(第2図参照)。湯坐郷のなかを鎌倉街道が通り、下湯江には馬乗場という小字があり、湯坐郷の郷城に含まれる君津市本郷の小字厩尻付近は、大前駅に比定されている。(26)また額田部湯坐連は、『新撰姓氏録』(在京神別下)によると、須恵国造・馬来田国造と等しく天津彦根命の後裔と称し、「允恭天皇の御世、薩摩国に遣わされて、隼人を平ぐ。復奏の日、御馬一匹を献ず」と伝える。その支配下にあった湯坐部についても、『日本書紀』大化二年三月条の東国国司の治績を判定した記事のなかに「湯部の馬」が見えるので、額田部湯坐連が馬を管理し、東国の湯坐部が馬を飼育していたことが知られる。大和政権の上陸地にあたる湯座郷に馬を管理した額田部湯坐連葉配下の湯坐部が置かれたのは、大和政権の計画的な交通政策によるものとみてよい。思うに、大和政権は走水から小糸川へ入って湯坐郷に着岸したのち、湯坐部の馬に乗りかえて安房へ南下したり、東京湾沿いに北上したのであろう。
また、上総と安房の国境をなす清澄山系(房総山脈)に源を発する小糸川は、房総屈指の河川であり、大和政権はこの川を下流左岸の湯座郷と中流の額田郷をつなぐ水上交通路に利用した。中流の額田郷に額田部を集団的に定めたのは、このあたりまで充分溯航できたからであろう。それに額田郷の額田部も馬と関係が浅くなかった。(27)額田部は額田部連の支配も受けていたが、『日本書紀』によると推古天皇十六年(608)八月に額田部連比羅夫は飾馬七十五頭とともに隋使斐世清を大和の海石榴市(つばき)で迎えて「礼(いや)の辞(こと)」を述べ、同十八年十月にも新羅の使者を飛鳥京に迎える荘馬(かざりうま)の長となっている。また、仁賢天皇六年是歳条に高句麗の工匠を大倭国山辺郡額田邑に安置し、これが熟皮高麗(かわおしのこま)の祖となったと伝えるのは、額田邑の馬の熟皮を使ったからであろう。額田部連の大和における本拠地平群郡額田郷は奈良県大和郡山市額田北町・南町に遺称地をとどめているが、その近隣には同市馬司(まつかさ)町があり、十三世紀の馬司庄は額田部連の氏寺であった額安寺の所領となっていた。(28)そして『延喜式』兵部省式に筑前国葉早良郡の額田駅がみえ、『本朝世紀』天慶四年(九四一)九月条に「備前国馳駅使健児(こんでい)額田弘則」がみえることも、額田部が馬と縁が深かったことを推測させる。
思うに、小糸川中流の周准郡額田郷の額田部も馬を飼育していて、大和政権はその五キロメ−トルほど下流の湯座郷との間に馬を使った交通路を設定していのだろう。さらに額田郷から先も騎馬の通う道路は小糸川沿いに上流へ延びていて、清澄山系を超えた太平洋側の安房郡長狭郡にまで通じていた(第2図参照)。長狭国造領の長狭郡は、壬生・日置・置津・田原・酒井・伴部・賀茂・丈部郷の八郷よりなるが、そのうち傍点を付した五郷は大和政権関係の郷名である。大和政権ゆかりの郷名がすこぶる多いということは、大和政権の力が広く長狭郡に浸透したことを告げる。その浸透のル−トは三つあり、、東京湾に注ぐ小糸川、小櫃川、養老川沿いにそれぞれ進んで清澄山系を越えて長狭郡へ到達するル−トがそれである。この房総屈指の三河川は、いずれも上総・安房国境の清澄山系より流れ出ているので、それを伝わって南下してゆけば、おのずと長狭郡へ至ることができた。大和政権がこの三つのル−トをとって次々と長狭へ進出してきたために、大和政権の影響を強くこうむる結果になったのであろう。つまり湯坐郷は嶋穴郷と同様に、走水−小糸川−長狭郡の水陸交通路と国造領連結路の交差する十字路的な位置を占めていたのである。
周淮郡湯坐郷から北上した道は、馬来田国造領に入って、東京湾に注ぐ小櫃川下流右岸の望陀飫富郷(袖ヶ浦市飯富、木更津市牛袋野、十日市場、有吉、大寺一帯)へ通じていた(第2図参照)。というのは飫富郷の式内飫富神社(袖ヶ浦市飯富に鎮座)は太氏ゆかりの神社であり、飫富郷は大和政権が小櫃川の下流右岸に設けた房総経路の一拠点だったからである。次項の第4図「飯富地区小字図」を見ると飫富神社の鎮座する台地端しのま下に小字フノドがあり、この付近は藤潴駅に比定されている。また、飫富郷のなかを東海道が縦走しており(で示した小字界、大字界)、近傍に馬来田という小字が存在するのは興味深い。ここで一段と憶測をたくましくすれば、東海道の道筋の近くに馬来田という地名があるのは、大化以前にも飫富郷のなかを国造領連結路が通っていたことを示しているのではあるまいか。大和政権が馬来田国造に命じて道路を作らせ、それを管理させていた痕跡のようにも思われる。そうだとすると、飫富郷を通過する東海道は、かっての国造領連結路をほぼ踏襲したものといえるであろう。 飫富神社は今では飽富(あきとみ)神社と呼ばれ、倉稲魂命(うかのみたま)、大己貴命(おおなむち)などを祭神としているものの、もとは太氏の奉斎した大物主命が祭られていたはずである。『古事記』神武天皇段によると、大和の三輪山の大物主命の娘伊須気余理比売(いすけよりひめ)と神武天皇との間に生まれた神八井耳命(かんやいみみ)が、意富(おほ)(太)臣や伊予の伊余国造、肥後の火君・阿蘇君、豊後の大分君、筑紫三宅連、信濃の科野国造、安房の長狭国造、常陸の仲国造、陸奥石城国造らの祖となったと伝え、太氏は神八井耳命の外祖大物主神の神裔と称しているからである。また、この神は大和の三輪君、鴨君の祖神である。大物主神は大和政権の地方平定や朝鮮経路の軍神、守護神として崇拝されていたので、大和政権の地方進出とともにこの神が各地に祭られるようになったのである。四国・九州や東国の諸豪族が太氏と同じく大物主神の後裔とされているのは、大和政権がこの神を奉じて四方へ勢力を伸張していった結果である。 
2
   第4図 飯富地区小字図
大物主神が望陀郡飫富郷の飫富神社に祭られた理由は、ほかにもある。それは、馬来田国造の領域であった望陀布と呼ばれた良質の麻布の産地であり、大物主神も麻布・麻糸とかかわりの深い神であったからである。『令義解りょうのぎげ』賦役令によると、望陀布は一般の布より四寸ほど幅広で、調として納める一般の布は正丁二人で一端を貢上するのにくらべ、望陀布は正丁四人で一端を貢上する規定であった。つまり、望陀布は一般の布よりも倍近い価値を認められていた高級な布であり、天皇即位の祭儀である踐祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)にも望陀布が用いられたことが『延喜式』神祗式より知られる。
一方、大物主神が麻糸とつながりの深い存在であつたこしは、『古事記』崇神天皇段の伝承に示されている。活玉依毘売(いくたまよりひめ)のもとに夜毎に通ってくる男の裾に刺した。「「閉蘇紡麻」(細長く球状に巻いた麻糸)をたどって行ったら、美和(三輪)山の三輪神社まで続いていたので男の正体は大物主神だということがわかり、麻糸の球が「三勾(みわ)」残ったので、そこを美和と呼ぶようになったという。この三輪山説話をたんに神婚説話として解釈するだけでは、片手落ちであろう。この説話の真意は、裾に刺した麻糸のために三輪山の大物主神が正体を現したという点にある。死者の霊魂(祖霊)それを本質とする大物主神は麻糸や麻布によって示現し、麻糸・麻布はそれらを招き寄せる呪力をもつと信じられた呪具でもあった。(32)大物主神が、その名も高い望陀布の産地である望陀郡の飫富神社に祭られるようになった理由の一班はここにあると思われる。
小櫃川下流右岸の飫富郷の飫富神社に大物主神が祭られていたということは、この地が房総支配の重要拠点であったことを物語っている。小櫃川は上総と安房の国境をなす清澄山系に源流を発する房総最長の河川であるので、大和政権はこの川を房総支配の動脈として重視し、内陸部に位置する中流の畔蒜(あびる)郡三衆(みもろ)郷(木更津市下郡付近か、下郡は畔蒜郡衙所在地か)にも大物主神を祭った(第2図参照)。三輪山は『古事記』上巻に「三諸の山」とも呼ばれ、大物主神は「三諸の山の上にます神」とも称されているから、三衆郷は大物主神ゆかりの土地とみてよい。三衆郷までは溯航可能であったのでろう。東京湾と小櫃川下流の飫富郷と中流の三衆郷との間に大和政権の息のかかった水上交通路が存在していたのだろう。
三衆郷から先は小櫃川沿いに進み、その源流の清澄山系を越えて太平洋に面する安房国長狭郡へ到達し、そこにも大物主神を祭った。それゆえに長狭国造は、大物主神の外孫神八井命の後裔と称して太氏と同祖の系譜につらなるようになったのである。また、長狭郡に賀茂郷(太平洋に注ぐ加茂川河口・下流の鴨川市中心部一帯)があるのも、大物主神の神裔と称する大和の葛城の鴨君とのつながりに(33)よるものであり、大物主神は賀茂郷に祭られたのであろう。それに畦蒜郡の国史現在社田原神社(小櫃川中流右岸の君津市俵田に鎮座する白山神社か)と同名の田原郷(加茂川中流の鴨川市田原一帯)が長狭郡に存在するのも畦蒜郡と長狭郡とのつながりを物語っている。
このようにして、大和政権は、東京湾側の飫富郷と太平洋側の安房国長狭郡と連結する交通路を開発したのであり、飫富郷はこのル−トの出発点であった。長狭国造は、このル−トを通って上京したのであろう。つまり小櫃川下流右岸に位置する飫富郷も、安房国長狭郡にまでつながる陸上交通路・小櫃川の水上交通路・と房総西海岸部の国造領連結路とが交差する十字路にあたる水陸交通の要衝であった。
飫富郷から先は、上海上国造領の市原市椎津へ至ったと思う。椎津は上海上国造領の西南端に位置し、東京湾を眼下に見おろすその台地上の小字外郭には戦国時代の椎津城の遺構の上に外郭古墳(前方後円墳、全長八十五メ−トル、五世紀)があり、そのま下を江戸時代の房総街道が通っていた(第八図参照)外郭古墳は、上海上国造の前身の豪族がその領域の西南の関門を扼すべく築いた古墳ではないかと推測されるので、すでに五世紀の頃から馬来田国造領の飫富郷から上海上国造領の椎津を結ぶ東京湾沿いの交通路があったと思われる。椎津から先は市原市姉崎の妙経寺古墳(前方後円墳、全長五十五メ−トル、六世紀、消滅)、二子塚古墳(前方後円墳、全長一一〇メ−トル、六世紀)のかたわらを過ぎて嶋穴郷へ至っていたらしい。上海上国造とその前身の豪族の墳墓と目される姉崎古墳群のなかでも妙経寺古墳と二子塚古墳は海岸平野のなかに孤立的に築造されており、いずれもま近くを房総往還が通過しているので、この二つの古墳も上海上国造が交通路を抑える目的で築いた可能性が大である。(第9図参照)。
姉崎古墳群のただ中に鎮座する式内姉崎神社は、上海上国造ゆかりの神社であろう。この神社と嶋穴神社は、相並んで『日本三代実録』元慶元年(877)五月十七日条に初見し、ともに正五位下に叙されているので、一対の親密な関係にあったふしが窺われ、現在も嶋穴神社の祭神は志那都比古命、姉崎神社のそれは志那斗弁命とされており、両社の祭神は夫婦の関係になっている。それに嶋穴郷は海上郡に所属していたから、嶋穴郷と海上潟はもともと上海上国造の支配する所であり、嶋穴神社も上海上国造とかかわりのある神社と推測される。また、海上潟は上海上国造にとても重要な港であったので、上海上国造領を通過する国造領域交通路が、外郭古墳、妙経寺古墳、二子塚古墳のかたわらを過ぎて、そのまままっすぐ海上潟を擁する嶋穴郷に通じていても不思議はない。嶋穴郷も東京湾と海上潟・古養老川を結ぶ水上交通路や嶋穴郷−車持郷−伊甚屯倉間の陸上交通路と、房総の西岸部を南北に走る国造連結路とが交差する十字路にあたっていたのである。
本章は憶測と憶断のくり返しに終始したが、大化以前にも上総の西岸部の諸国造領を連結する陸上交通路が存在していたらしい。しかもその経路は、東京湾に注ぐ上総の主要河川の水上交通路や、主要河川に沿って開設された東京湾側と上総・安房の太平洋側とを結ぶ陸上交通路と有機的に連結されていたようである。そのような二つの交通路が交差する場所は、大和政権の拠点ともなっていた。上総の西岸部に関する限り、国造領連結は国造が各々思いのままに設定したものではなく、房総経路の拠点となる要所を連繋しつつ、ある程度計画的に作られていたらしい。つまり大和政権の房総経営の目的を反映した道路であったと考えられるのである。そうだとすれば、上総西岸部に限定してのことだが、中央集権の充実を目的とする駅や駅路の設定においても、大和政権が開いた国造領連結路やその拠点が、のちに駅路や駅に踏襲された可能性も小さくないであろうと推測されるのである。なを、周淮国造領と阿波国造領間、上海上・菊麻・千葉国造領間の交通路については、時間と紙数の関係で割愛した。 
五 大前駅・藤潴駅・嶋穴駅の所在地と駅路 

 

1
   第5図 藤潴駅以南の駅路の推定
大和政権が開いた房総経路の拠点が、のちに駅の設定地に選ばれた可能性があるのなら、駅の所在地はおのずと限定されてくるはずであり、所在地の比定にあれこれ惑う度合いも減少してもよいと思われるが、これから嶋穴駅の南に置かれた大前駅と藤潴駅の所在地を推定してみることとする。 奈良時代末の宝亀二年(七七一)に武蔵国を東山道から東海道に編入したのにともない、官道の径路も変化し、それまで東海道の本道であった上総国の駅路は、東海道の支路的性格をもつようになった。『延喜式』兵部省式によると、上総国の駅馬は 上総国 大前 藤潴。 島穴 天羽各五疋。 とみえ、四つの駅が設置されてい。これらの駅の比定地については諸説があり、いまだに定説をみない。左の2表は、主な諸説をまとめたものである。
諸説の特徴や長所、短所については紙数の関係上省略するが、『延喜式』の四駅の記載の順序は、大前・藤潴・嶋穴を一つのグル−ブとしてとらえ、走水を渡海したのち大前−藤潴−嶋穴の順路で北上し、一方、大前−天羽−安房国川上駅−安房国府の順路で南下したことを表しているとみる大脇保彦氏(34)の所説が妥当と考える。
大前駅の比定地に関しても、富津市本郷の小字厩尻付近とする大脇氏の説(35)が正しいと思う。それは、小糸川下流左岸に位置する本郷は、大化以前から走水につながる水陸交通の要地として、大和政権の房総経営の一拠点であった周淮郡湯坐郷の地であり、駅が置かれるにふさわしい場所だからである。また、大前という地名はこの周辺には存在しないものの、鶴の嘴のように浦賀水道につき出た古津岬(富津岬)は、当時の人々にとって「おおさき」であったかもしれない。という興味深い見解を大脇氏は示されている。私は大前を「おおさき」と読んでよいとすれば、「おお」は天皇や朝廷に関して使われる語でもあるので「おおさき」とは天皇・朝廷の岬とう意味となり、富津岬とその周辺が走水を渡ってきた大和政権の橋頭堡であった事実にも適合するのではないかと思う。
大前が右のような意味であるのなら、走水をはさんで対岸に位置する三浦半島の三浦と対応関係にある名称となる。三浦は、古くは御浦と表記されていた。『日本書紀』持統天皇六年五月条に「御浦郡」、『和名類聚抄』にも御浦郡御浦郷と記され、御浦の御という漢字、「みうら」の「み」という言葉は、いずれも天皇や朝廷を表すものである。御浦は天皇ないし朝廷の港という意味であろう。そのように解釈すれば、三浦半島が大和政権や律令国家の走水渡海の基地であった事実ともよく符合するのである。そして、大前と三浦がいま述べたような意味だとすると、三浦半島−走水−周淮郡湯坐郷(大前駅)を結ぶル−トは、大化以前の時代から計画的に設定された、大和政権の直轄的な交通路であったといえるであろう。
   第2表 上総四駅比定諸説(大脇氏作成の表に加筆)
大前駅から北上すると藤潴駅に至るる。その推定地は、袖ヶ浦市富納土付近とする大脇説(36)に従ってよいと思う。この藤潴駅比定と大前駅推定地との距離は直線にして約十五キロメ−トル。一方、藤潴駅推定地と嶋穴駅との間は直線でおよそ十二キロメ−トルであり、『令義解』厩牧(くもく)令に「凡そ諸道に駅を置く須(べ)くは、三十里毎に一駅を置け」(三十里は十六キロメ−トル)と規定された駅間距離にかなりよく合致する。
前章に掲げた第4図「飯富地区小字図」をいま一度みてみると、袖ヶ浦市飯富にフノドという小字がある。フノドは、道祖神(ふなどのかみ)にちなむ小字名であろうか。そのまわりにも中辻子、馬場、東馬場、浜海道、西浜海道などの小字が存在する。しかも・・・線で示したように小字フノドの中央を東海道の推定径路が貫いていたふしがみられる。フノドのすぐ北の台地上端の小字東馬場には式内飫富神社が鎮座し、駅と式内社が一対となって近隣に所在する例は、嶋穴駅と嶋穴神社の例があるので、小字フノドあたりに藤潴駅を比定してもよいであろう。
つぎに大前駅と藤潴駅とを結ぶ駅路の道筋を推定してみよう。そのうち大前駅から小櫃川に至る径路については、いまだ実地に調査していないので触れないことにするが、駅路は小櫃川を渡って望陀郡飫富郷へ通じていた。飫富郷は大化以前から水陸交通の要所として、大和政権の房総経路の拠点となっていた所である。その郷域の木更津市大寺、井尻を経て袖ヶ浦市飯富の小字フノド付近の飫富駅に至ってと考える。この道筋にあたる大寺には、千葉県最古といわれる七世紀後半の大寺廃寺跡が存在している。大脇氏もほぼ同じル−トを想定されており(37)、最近では大谷弘幸氏が大寺から飫富まで南北にほぼ直線状に造られている古道に注目し、それを駅路の径路として地図上に示されている(38)。ただし、大寺、井尻付近の古道はかなり屈曲しているので駅路の道筋を容易に特定しがたいものの、大谷氏の推定は説得力に富む見解であると思う。
そこで、もう少し細かく検討するために、もう一度第4図の「飯富地区小字図」を見ると、フノドから南へほぼ直線状に小字界が連なり(印で示した小字界)、そのかたわらに馬来田という小字もある。この小字界は、第5図の明治十五年二万分の一迅速測図手書原図では直線状の道路に記され(で示した。以下同じ)。今も直線的な県道となっている。一方フノドの北にも小字界が直線状につながっていて、これも道路として使われている。そして、この南と北の二つの直線状の小字界を「飯富地区小字図」上に‐‐‐線を引いてつなぎ合わせてみると、‐‐‐線は藤潴駅比定地の小字フノドの中央に引けるのである。これは、フノド付近に藤潴駅が存在したことと、その南北の直線状の小字界が東海道の径路であったことを物語っていると考える。
   第6図 古東海道の推定
つぎは、藤潴駅から嶋穴駅までの道筋について述べてみようと思うが、それについてはすでに有力な見解が提示されている。それは、第6図に示されている鎌倉街道の径路が、ほぼ東海道に相当するという説(39)である。この説は、推定ル−トに沿って川原井廃寺や神代神社(国史見在社)など、古代の寺社が点在していることからいっても魅力的な見解である。しかし、このル−トは内陸を遠回りしており、迅速な情報伝達や兵馬の移動を目的とする駅路の性格にそぐわないように思われる。それに近年における調査、発掘によって、駅路はおおむね最短距離を直線状に設計されていることが判明しつつあることにも適合しないので、別の径路を探すべきだであろう。
十年ほど前から市原を知る会会長の谷嶋一馬氏と筆者は、藤潴駅と嶋穴駅の駅路に興味をもって実地に調査したりして、東京湾沿いに径路があったのではないかとかねてから考えていたのであるが、最近になって大谷弘幸氏が同様な見解を発表されている(40)ことを知った。大谷氏によると、飫富神社から台地上にほぼ直線的に造られた道路を東京湾に面する袖ヶ浦市蔵波まで北上し、そこから先は近世の房総往還(房総街道)のような海岸線に沿ったル−トがあったという。大谷氏は蔵波から先の道筋については詳しくふれていないものの、大谷氏の所見は正しいと思う。
   第7図 藤潴駅・蔵波間の駅路の推定
藤潴駅比定地の小字フノドから先の駅路は、第7図に示したように直線状につながる小字界の道を飫富神社の鎮まる台地に上がったのち、大谷氏の指摘された台地上の直線状の道路を蔵波まで北上して東京湾岸に出た。この道路の一部分は大字飯富と大字神納の境界ともなっており、七月二十四日の例祭に飫富神社の神輿が蔵波との間を往復する道でもある。
   第8図 蔵波・椎津間の駅路の推定
蔵波から先は、第8図のように房総街道にほぼ沿って台地下の海岸線を二キロメ−トルばかり北進して袖ヶ浦市久保田の笠上へ至った。ただし、蔵波・笠上間の海岸線ル−トは、波をかぶって使用不能となることもあるので、その場合は、ま上の台地上を進行することになっていたのではあるまいか。その先の笠上と市原市椎津までの約一キロメ−トルほどの海岸は通行不可能であったらしいので、房総街道は笠上から台地に上がってその西緑を北上して椎津へ下りている。駅路も同じ径路をたどったはずである。 さて、房総街道が笠上で台地に上がったところの路線に、廃寺となった笠上観音の板碑がある。これは谷嶋一馬氏が昭和二十年代に発見されたもので、正嘉二年(1258)の銘を有する千葉県最古の板碑である。(写真参照)。ただし、現在は所在不明となっている。この板碑は、海岸沿いを通る交通路が、十三世紀半ばまでさかのぼることを証明していると思う。また、蔵波と久保田の東京湾を見おろす台地上には、戦国時代の蔵波砦と久保田城が存在していた。これは、戦国時代にそのま下の海岸線に沿って道路が通じていたことを示している。その交通路を扼する目的もかねて蔵波砦と久保田城は築かれたのであろう。
   正嘉二年(1258年)板碑
房総街道は市原市椎津で台地から平地へ下りるが、東京湾を眼下に望む台地端の小字外郭古墳がある。椎津城も外郭古墳もそのま下を通過する道路を抑える関門の役割をもっていたとみてよい。第9図に示したように、椎津から先の房総街道は平地の上をほぼ直線状に嶋穴神社の近くまで至るが、その間約四キロメ−トルである。途中この道に接して大道という小字が姉崎にあり、また妙経寺古墳、二子塚古墳もま近に存在する。
椎津から先の駅路は、大体房総街道に沿うように走っていたと推測されるが、嶋穴駅推定地の市原市島野の小字七ツ町の手前約一キロメ−トルの白塚において房総街道と呼ばれた古道であるが、古代にはこの道は古養老川によって切断されていたので、駅路の道筋は白塚付近で古養老川を渡って七ツ町の嶋穴駅ほ至っていたのである。古養老川の下流の川幅はかなり広かったらしいが、渡河はさして困難ではなかったであろう。嶋穴郷は水上交通の要衝でもあったから、船や水手には事欠かなかったと思われるからである。
   第9図 椎津・嶋穴間の駅路の推定
対岸の嶋穴郷に渡ると、駅路は嶋穴神社の参道の一の鳥居の前を通過して七ツ町に至っていた。嶋穴神社の参道は、駅路に南面してほぼ直角に接続するようにとりつけられている。嶋穴駅は、この神社の近くにあったと考えられる。谷嶋一馬氏は、あらゆる角度、観点から考察されて、嶋穴神社の東方約200メ−トルに位置する七ツ町を嶋穴駅に比定されている。その詳細は本誌に掲載された谷嶋氏の論文に譲るが、七ツ町の集落はほぼ一町四方の規模があり、駅の比定地の条件にかなっているといえる。七ツ町の集落の下に嶋穴駅の遺構が眠っている可能性はあると思われる。
古養老川の河口、下流右岸にあった嶋穴郷のなかでも嶋穴駅の所在地は、古養老川が袋状に蛇行して東と西と南を川に囲まれた土地の一画に位置しており、駅家の東ま近い所には馬の飼育に適した広い河原があり、川とのつながりの深い駅であった。古代には河川や湖沼のほとりが馬の放牧地として好まれたが、それは水辺で馬を飼うと龍種の駿馬が生まれるという思想があったからでである。嶋穴駅のあった場所は、そのような思想にかなう土地柄であると考えられたことも、ここに駅が設定された一因であるかも知れない。それは、馬の飼育にたずさわったと推測される湯座部の集住する周淮郡湯坐郷が、やはり小糸川の下流に面する場所に位置して川と関係の深い場所であり、その湯坐郷に大前駅が置かれたこととも通じ合うように思われる。 
2
   第7図 藤潴駅・蔵波間の駅路の推定2
藤潴駅比定地の小字フノドから先の駅路は、第7図に示したように直線状につながる小字界の道を飫富神社の鎮まる台地に上がったのち、大谷氏の指摘された台地上の直線状の道路を蔵波まで北上して東京湾岸に出た。この道路の一部分は大字飯富と大字神納の境界ともなっており、七月二十四日の例祭に飫富神社の神輿が蔵波との間を往復する道でもある。
   第8図 蔵波・椎津間の駅路の推定
蔵波から先は、第8図のように房総街道にほぼ沿って台地下の海岸線を二キロメ−トルばかり北進して袖ヶ浦市久保田の笠上へ至った。ただし、蔵波・笠上間の海岸線ル−トは、波をかぶって使用不能となることもあるので、その場合は、ま上の台地上を進行することになっていたのではあるまいか。その先の笠上と市原市椎津までの約一キロメ−トルほどの海岸は通行不可能であったらしいので、房総街道は笠上から台地に上がってその西緑を北上して椎津へ下りている。駅路も同じ径路をたどったはずである。
さて、房総街道が笠上で台地に上がったところの路線に、廃寺となった笠上観音の板碑がある。これは谷嶋一馬氏が昭和二十年代に発見されたもので、正嘉二年(1258)の銘を有する千葉県最古の板碑である。(写真参照)。ただし、現在は所在不明となっている。この板碑は、海岸沿いを通る交通路が、十三世紀半ばまでさかのぼることを証明していると思う。また、蔵波と久保田の東京湾を見おろす台地上には、戦国時代の蔵波砦と久保田城が存在していた。これは、戦国時代にそのま下の海岸線に沿って道路が通じていたことを示している。その交通路を扼する目的もかねて蔵波砦と久保田城は築かれたのであろう。
房総街道は市原市椎津で台地から平地へ下りるが、東京湾を眼下に望む台地端の小字外郭古墳がある。椎津城も外郭古墳もそのま下を通過する道路を抑える関門の役割をもっていたとみてよい。第9図に示したように、椎津から先の房総街道は平地の上をほぼ直線状に嶋穴神社の近くまで至るが、その間約四キロメ−トルである。途中この道に接して大道という小字が姉崎にあり、また妙経寺古墳、二子塚古墳もま近に存在する。
椎津から先の駅路は、大体房総街道に沿うように走っていたと推測されるが、嶋穴駅推定地の市原市島野の小字七ツ町の手前約一キロメ−トルの白塚において房総街道と呼ばれた古道であるが、古代にはこの道は古養老川によって切断されていたので、駅路の道筋は白塚付近で古養老川を渡って七ツ町の嶋穴駅ほ至っていたのである。古養老川の下流の川幅はかなり広かったらしいが、渡河はさして困難ではなかったであろう。嶋穴郷は水上交通の要衝でもあったから、船や水手には事欠かなかったと思われるからである。
対岸の嶋穴郷に渡ると、駅路は嶋穴神社の参道の一の鳥居の前を通過して七ツ町に至っていた。嶋穴神社の参道は、駅路に南面してほぼ直角に接続するようにとりつけられている。嶋穴駅は、この神社の近くにあったと考えられる。谷嶋一馬氏は、あらゆる角度、観点から考察されて、嶋穴神社の東方約200メ−トルに位置する七ツ町を嶋穴駅に比定されている。その詳細は本誌に掲載された谷嶋氏の論文に譲るが、七ツ町の集落はほぼ一町四方の規模があり、駅の比定地の条件にかなっているといえる。七ツ町の集落の下に嶋穴駅の遺構が眠っている可能性はあると思われる。
古養老川が袋状に蛇行して東と西と南を川に囲まれた土地の一画に位置しており、駅家の東ま近い所には馬の飼育に適した広い河原があり、川とのつながりの深い駅であった。古代には河川や湖沼のほとりが馬の放牧地として好まれたが、それは水辺で馬を飼うと龍種の駿馬が生まれるという思想があったからでである。嶋穴駅のあった場所は、そのような思想にかなう土地柄であると考えられたことも、ここに駅が設定された一因であるかも知れない。それは、馬の飼育にたずさわったと推測される湯座部の集住する周淮郡湯坐郷が、やはり小糸川の下流に面する場所に位置して川と関係の深い場所であり、その湯坐郷に大前駅が置かれたこととも通じ合うように思われる。 
おわりに 

 

小稿は、執筆の依頼を受けてから刊行までの期間が短く、準備も不十分なまま応急にまとめたので、不備な点が多いのは勿論のこと、思わぬ間違いをおかしている所も少なくないのではと恐れるが、諸賢の御比正をいただければ幸甚の至りである。
市原市は、とりわけ古代の遺跡に恵まれている土地柄であるが、貴重な歴史的、文化的財産である遺跡が開発の波間に次々と姿を消してゆくのは、はなはだ残念である、そのようななかで、JR内房線の新駅建設計画にともなう遺跡の破壊を予防するために、市原を知る会会長谷嶋一馬氏と民間の研究団体である市原市文化財研究会の熱意よって嶋穴駅と古代東海道の遺跡保存の運動の機運が高まっていることは大変喜ばしく、敬服に価する。初期の目的が見事に達成されて、遺跡と歴史的景観が後世に永く伝えられてゆくことを切望する。
小稿を草するにあたり、なにかと便宜をはかってくださった市原市文化財研究会副会長の瀧本平八氏と矢ケ崎靖馬氏に感謝を表したい。
〔註〕
1 樋口義幸・藤原文夫「養老川」(「市原市史」別巻)、『千葉県文化財センタ−年報』一六
2 千田稔『埋もれた港』、拙稿「上海上と下海上」(『市原地方史研究』一七号)
3 刑部郷、谷部郷は『和名類聚抄』。武蔵国多磨郡の刑部直は『続日本後紀』承和十三年五月二日条。上総国市原郡の谷直(『正倉院宝物銘文集成』)は長谷部直の省略形であろう。海上郡の長谷部は上総国分尼寺址出土瓦銘(須田勉「上総国分寺址の実証的研究」、滝口宏『上総国分寺』所収)。いじみ郡の春部直は『三代実録』貞観九年四月二日条。下野国河内郡の長谷部は下野国府跡出土木簡。他は『日本古代人名辞典』による。
4 茂原市長谷と内長谷には、いずれも舎人という小字がある。これは長谷部舎人と関係があるか。
5 武社国造牟邪臣は『古事記』孝昭天皇段に春日臣(和珥臣)と同祖と伝え「国造本紀」にも和邇臣の祖彦意祁都令の孫彦忍人命を武社国造に定めたとある。
6 『古屋家家譜』(鎌田純一『甲斐国一之宮浅間神社誌』所蔵)に、大伴頬垂連公が上総の伊甚屯倉を掌ったとある。
7 伊甚屯倉の起源伝承に膳臣大麻呂が登場するので。
8 『類聚国史』巻八四・焼亡官物条に、夷?郡税長久米部当人がみえるので。
9 春日山田皇后は和珥臣日爪の娘糠君娘の所生であるから、生母の出身氏族の和珥氏も伊甚屯倉の経営に参加したと思われる。
10 長柄郡車持郡は伊甚屯倉の運送に従事したので。
11 長柄郡車持郷の推定地の長南町蔵持に小字我孫子があり、車持君・我孫公はいずれも上毛野君と同祖と称し、我孫は屯倉の管理にかかわるカバネ、氏名であるから。
12 武社国造は春日山田皇后の出身氏族和珥氏と同祖と称し、夷?郡に春部直が分布するので。
13 いじみ郡の長狭郷は、伊甚屯倉の開発・経営のために長狭国造の人民を移住させた所と考えるので。
14 いじみ郡雨霑郷は天羽郡雨霑郷の重出ではなく、須恵国造配下の天羽郡雨霑郷の民を移住させた所と考えるので。
15 いじみ郡大原町若山に小字馬来田がある。ここは馬来田国造配下の人民を強制移住させた所であろう。
16 上海上国造領の嶋穴郷や海上潟は、伊甚屯倉の輸送ル−トの一拠点となったので、上海上国造も輸送に奉仕させられたと思われる。
17 上野国群馬(くるま)郡群馬郷は車持君の本拠地であり、ここには群馬郷があるのは当然であるから、関東では実質的に車持郷郡は長柄郡にしか存在しないといってよい。
18 車持部が車を使って輸送に従事したことは、志田諄一「車持君」(『古代氏族の性格と伝承』)に説かれている。
19 養老川の水運は大正時代まで行われており、川船による輸送可能地点は、河口から四八キロメ−トルも遡った最上流の夷隅郡大多喜町老川まで達したという(『市原市のあゆみ』)。
20 車持郷推定地の長南町蔵持に古代交通路と関係のありそうな鈴振面という小字がある。
21 『藤原宮木簡』(一−八三)
22 松原弘田宣「令制駅家の成立過程について」(直木孝次郎先生古稀記念会編『古代史論集』上)
23 房総の十一の国造のうち九国造は「国造本紀」に、長狭国造は『古事記』神武天皇段に、千葉国造は『日本後記』延歴二四年一〇月条に見える。
24 千田稔『埋もれた港』、拙稿「淡水門と景行記食膳奉仕伝承と国造」(黛弘道編『古代王権と祭儀』)
25 註22に同じ。
26 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路・T』第十四節上総国
27 額田部連・額田部も馬と密接な関係があることは、佐伯有清「馬の伝承と馬飼いの成立」(『日本古代文化の探求・馬』)、本位田菊士「額田部連・額田部について」(『続日本紀研究』二三八号)、井上辰雄「額田部と大和王権」(鶴岡静夫編『古代王権と氏族』)、前田晴人「額田部連の系譜と職業と本拠地」(『日本歴史』五二〇号)
28 『奈良県の地名』(日本歴史地名体系30、四七三頁)
29 養老川上流の市原市加茂、下流右岸の同市加茂は、安房郡長狭郡加茂郷と関係があり、養老川流域と長狭郡加茂郷とが交通路によって結ばれていたことを物語っている。
30 『袖ヶ浦町史研究』四号 31 志田諄一「三輪君」(註十八に同じ)
32 志田諄一「布と招魂」(『古代日本精神文化のル−ツ』) 33 長狭郡加茂郷は本来鴨君とのつながりが深かったが、のちに山城の加茂県主(葛野主殿県主)とも関係が生じたらしい。というのは、加茂県主と同じく主殿寮の殿部である日置氏にかかわる日置郷が長狭郡に存するからである。 34 註26に同じ。
35 註26に同じ。
36 註26に同じ。
37 註26に同じ。
38 大谷弘幸「西上総地域の古道跡−いわゆる鎌倉街道を中心として・・・」(『研究連絡誌』四一号)
39 須田勉「川原井廃寺と古代東海道」(『南総郷土文化研究会誌』一一号)
40 註38に同じ。
41 谷嶋一馬「上総嶋穴駅に関する一考察」(『古代上総国の官道と嶋穴駅』) 
 
上総嶋穴駅について

 

はじめに 
律令国家の中央国家集権政治の必要から、中央と諸国の国衙を結ぶ連絡機関として、駅馬、伝馬制が行われるようになり、駅が各国に置かれた。上総国では大前、潴沼、島穴、天羽の四ヶ所に置かれ、海上、望陀、周准、天羽に伝馬が置かれた。それぞれ五匹の馬が配置されたことが延喜式に記載されている。
駅、伝馬の置かれた場所に関しては、最近山陽道の播磨国布勢駅と推定される小犬丸遺跡と野磨駅と推定される兵庫県落地遺跡が発掘され、駅家の構造や規模が確認され、国の主要幹道に沿う大路の駅家の実態が明らかとなったが、全国の中、小路に置かれた駅家については、遺構の確認された例はなく、その実態は明らかでない。
上総国府に近い嶋穴駅は、馳駅、飛駅を発し(註一)、その機能を充分果した事は、古代史料から窺うことが出来るが、駅家はどのあたりか、その所在地については明らかでない。従来多くの研究者によって検討されてきたが、考古学・歴史地理学等の具体的な調査はなされず、駅間距離や地勢から所在地を推定するか、残存する小字等から所在地を検討するに留まる。その所説として嶋穴駅に関しては、吉田東aの「大日本地名辞書」では、君津市人見付近に推定し、「日本地理志料」、「市原のあゆみ」等では市原市島野と推定する。
今は故人となられた、平野元三郎氏と筆者は、駅家跡を追求して、嶋穴神社周辺の調査、研究は数年に及んだが同地区は集落内を河川と用水路とが囲繞することから、古代の環濠集落と想定するに留まり、駅家跡と認定するに至らず模索を続けたという経緯がある。等地区に於いて遺物の包含地が見当たらないことは、駅家跡の確認が困難である一因でもある。幸いに七ッ町に一町方格の区画が認められることにより、当地が駅家跡と推定するに至った。
白塚・七ッ町間の市道は昔から鎌倉街道と呼ばれた古道である事が判明した。恐らく古代からの道であり、嶋穴駅に通ずる駅路と推定される。
以上の所見に依り、七ッ町地区を駅家跡と推定するものである。
註(一)
(1)續日本後紀(巻十八)仁明天皇
承和十五年二月庚子(十日) 上総国馳駅傳。 奏俘囚 丸子廻毛等叛逆之状。 登時勅符二道発遣。 一道賜上総国。 一道賜相模上総下総等五国。 令相共討伐。
(2)續日本後紀(巻十八)仁明天皇
承和十五年二月壬寅(十二日)上総國馳駅 奏斬獲反叛俘因五十七人。
(3)日本三代実録(巻四十三)陽成天皇
元慶七年二月九日丙午。 上総国介従五位下藤原朝臣正範飛駅奏言。 市原郡俘因卅餘人叛亂。 盗‐取官物。 數殺‐略人民。由是発諸郡人兵千人。 令 其追討。 而俘因焼民盧舎。 逃‐入山中。 商量非数千兵者不得征伐者。 勅。 如奏状。 是俘夷群懼罪逃竄者也。 况?餘人偸皃。 何足喪以馳羽檄。 宜停給勅契。 直下官符。 差‐発人夫 早速追捕。
(4)日本三代実録(巻四十三)陽成天皇
元慶七年二月十八日乙卯。従五位下行上総介藤原朝正範飛駅奏言。 討‐平夷虜訖。
(5)日本三代実録(巻四十三)陽成天皇
元慶七年二月廿一日戊午。太政官符上総国司?。 平虜之状奏聞訖。 既成知匏皷一鳴。 風塵永静。 介正範。 大?文室善友。 并差遣將吏等之勇略。 既達旛聴。宜消餘燼。 莫 令重然。 若狼心無悔。 則弥‐滅渠魁。 梟性有悛。 務加撫育。 m飛駅馳傳。 法令自存。 自令事非機急。 勘‐據律令. 発‐遣脚力。 申太政官。 不得專輙馳駅上奏。
補註
(1)馳駅とは律令制における事件の場合、傳使は一日に十駅(一五〇〜一六〇粁)以上を疾駆し、中央に伝達する。飛駅は行程の制限がなく、毎駅人馬をかえて事件等を伝達するという、二つの方式があった。
上総の傳使が馳駅、飛駅をもって俘因の叛乱事件を中央政府に伝達した事が、前記諸書に記されており、国府に近い嶋穴又は大前の駅馬が馳駅、飛駅として利用された事が想定される。
丹裏古文書正倉院文書「大日本古文書」
(2)日奉部人年?三
上総国市原郡大倉駅家戸主奉部安麻呂嫡
(3)延喜式には大倉駅の記載はないが、市原郡に大倉駅という駅が存在した事を示す資料である。養老川右岸の市原郡内に大倉の地名は遣存せず、位置は不明であるが、延喜式成立以前、大前以外の地に同駅が存在したものと考えられる。 
一 古代嶋穴郷に於ける地理的条件 

 

嶋穴駅の究明にあたり、古墳時代以降の海上郡の地勢や地理について検討する必要がある。
市原の自然地形の中で、最も変換の激しいのは養老川の流路である。航空写真や土地条件図には養老川の旧河道が幾筋も明瞭に認める事が出来る。大きな洪水や、氾濫の度に流路が変わる荒れ河であった。
養老川の流路を概観すると、市原南部から洪積台地を開析して、馬立附近まで安定した流路を保っているが、小折、柳原附近より冲積地の砂堆層となり、その砂堆を浸食しながら蛇行を発達させて行くが、自然堤防が低い地域では、洪水時に流路が変わりやすくなり乱流が繰返えされた。樋口義孝氏の研究によると、養老川デルタ地帯には旧河道は五井側の現養老川から、島野南部の間にA〜Iまでの九本の河道が確認され(1)、その内島野南部を流れるE流路(以下古養老川とする)の下流は現前川であるが、この流路は最も古く、巨大な河川であったと推定された。この古養老川の流路は、小折、柳原附近から西進して流れ金ヶ原東部でメアンダ−を形成し、再び西進して白塚北部から急に流路を北に向け、青柳浦に注ぐ、古代には相当な大河であった事が、前川流域の地形からも窺うことが出来る。青柳字天王河原の八雲神社の社伝に(2)「上古此地に一流の大河あり、水上乾かず産物殖せず、空漠たり・・・」とある。
この天王河原附近が丁度、西進する古養老川の流れが、急角度で北に向かって流下する曲流部に当たり、同河の氾濫時には、相当の水流が直進し、その都度水災に見舞われ、自然堤防に流砂の堆積を重ねたものと考えられる。
昭和六十三年度に、天王河原地区に分布する円墳状の塚「青柳塚群」の発掘調査が、市原市文化財センタ−によって行われた。調査の結果、この塚群は古墳や、近世の塚と異なり、自然堆積による塚である事が確認された。予期せぬ結果で調査は終わったが、当地の古地理や地学の研究には極めて重要な遺跡である。
この塚群の成因は、洪水や氾濫によって運ばれたWaterCurrentによる流砂の堆積層とみられるものである。この堆積層の中から多くの遺物が検出されたが、この遺物はいづれも古養老川の歴史を示すものである。調査が行われた十一基の塚から検出された遺物は、縄文時代早期に属する条痕文土器や、弥生土器、土師器、陶器、磁器、土鍋、カワラケ等が各層より出土した。その年代幅は一万年に及ぶ時間、空間をこの地域に流れていたことを示すものである。高橋康男氏は報文「青柳塚群」に於いて本塚群の成立について「各塚は、一基の例外を除いて、砂のみにより構成されている。灰色の粘質土のブロックがわずかに認められる場合もあったが、ごく微量であった。現況においては、周囲は水田あるいは畑、宅地であって、砂の露呈は認められない。したがって、時期的には不明であるが、塚の成立は砂の露呈が、広い範囲に及んでいた時期と考えるのが妥当であろう(後略)と述べられている。(3)砂の露呈されていた時期を特定する事は困難であるが、縄文時代以来上流から押し寄せた流れが激流となって、曲流部に当たる天王河原に直進し、氾濫原からの比高三〜五米に砂流が堆積し、塚状の形態を留めたものと推量される。「青柳塚群」の調査は、古代嶋穴郷の地勢や地理研究上貴重な記録であり、前途の樋口説を裏付けるものである。この二説を踏まえて、古代嶋穴郷の地理的環境について検討してみよう。
今津川附近から青柳浦に注ぐ前川は、古養老川(E流路)の名残である事は、樋口に依って明らかにされたが、律令は滔々と嶋穴郷の南西部を流れていたと想定できる。金ケ原東部に大正頃まで、古養老川のメアンダ−の名残である河道の一部が長さ一三〇〇米、最大幅一五〇米の堰(古川堰)として残存していた。したがって、嶋穴郷は東・西・南の三方が、古養老川に囲まれていた事になる。嶋穴の地名の語源は、水に囲まれた土地の事を云うという説があるが、将にその通りの地形に位置する。
古養老川の下流域には氾濫原特有の島畑野が濃密に分布し、駅馬飼育の牧草地として最適な地形である。駅馬設置の条件として、大宝厩牧令諸道置駅条に「凡諸道須置駅者 毎三十里置駅 若地勢阻険及無水草處 隋便安置 不限里数 其乗具及蓑笠等 各准所置馬数備」とあり、水と草のある所が駅設置の基本的条件である。その水場は、古養老川の河道の一部である古川堰の北端から分岐して、宮川が嶋穴郷の中央部を東西に貫流し、嶋穴神社前を西進して前川と合流する。この宮川は当地の水田地帯を潤す灌漑用水として重要な河川であるが、駅家に於ける馬の飼育等不可欠な水場でもあり、駅戸の管理する駅起田等の用水として、重要な役割を果たしたと思われる。
古養老川の下流域には氾濫原特有の島畑野が濃密に分布し、駅馬飼育の牧草地として最適な地形である。駅馬設置の条件として、大宝厩牧令諸道置駅条に「凡諸道須置駅者 毎三十里置駅 若地勢阻険及無水草處 隋便安置 不限里数 其乗具及蓑笠等 各准所置馬数備」とあり、水と草のある所が駅設置の基本的条件である。その水場は、古養老川の河道の一部である古川堰の北端から分岐して、宮川が嶋穴郷の中央部を東西に貫流し、嶋穴神社前を西進して前川と合流する。この宮川は当地の水田地帯を潤す灌漑用水として重要な河川であるが、駅家に於ける馬の飼育等不可欠な水場でもあり、駅戸の管理する駅起田等の用水として、重要な役割を果たしたと思われる。
嶋穴集落の北部一帯は、島畑野の連なる南部とは対象的に、肥沃な水田地帯が広がり、古墳時代より有望な可耕地として、冲積地帯では最も早く開発され、安定した生産基盤を背景に拠点的集落として発展し、班田集落として律令体制の中に組み込まれ、駅設置に至ったと推定される。 
二 駅家跡の推定の根拠 

 

古代駅制に依る駅家の構造や規模については、全国的に発掘例が少なく明らかでない。
文献によると「駅館院」と称する施設があり、築地に囲まれた一画にあり、築地の入り口には「駅門」を構え、その中に休憩や宿泊施設・倉庫・厩舎等があっただろうと想定されている。日本後紀に「駅館」等は「本より藩客に備えて、瓦葺粉壁」の建造物があったと記され、瓦葺で塗り壁の建築物であったことが知られる。最近発掘調査が行われた播磨国の布施駅家では、礎石瓦葺丹塗で白壁の建物が五棟以上確認され、約八〇米四方の築地で囲まれた駅館院とみられる駅家施設が確認された。(4)
又同国の「野磨駅家(やまのうまや)」と推定される落地遺跡跡に於いても、門・柵(塀)で囲まれた官衙の政庁とみられる建物群が確認されている。(5)布勢駅家と異なり、落地遺跡跡では建物群はいづれも掘立柱による建物である点である。山陽道の大路に於いて掘立柱の建造物の駅家も存在することは、山陽道以外の中・小路に於ける駅家では、礎石のない掘立柱の建物が一般的であったと類推される。
上総国の駅馬は、延喜式兵部省諸国駅出馬条に  上総国駅馬 大前、藤潴、嶋穴、天羽、各五疋  伝馬 海上、望陀、周准、天羽郡、各五疋  とあり、嶋穴駅は五疋の駅馬が配置された。
駅は駅長を中心とする駅戸により維持管理が行われ、その維持は駅起田より収穫される駅起稲によりまかなわれた。 養老田令駅田条に 「凡駅田。皆随近給 大路四町 中路三町 小路二町」と規定している。小路である嶋穴駅は二町の駅起田があったことになり、駅家は駅長を中心に、三〇名前後の駅子が業務に従っていたと推定される。但し、宝亀以前は中路であり駅馬十疋、駅起田は三町を給された。
以上を要約すると、嶋穴駅の構成は駅家とその附近に三町の面積の駅起田があり、その近傍に駅長を含め、三〇〜六〇余人の駅戸集落があったことになる。嶋穴郷の郷域及びその周辺地域に於いて、野毛遺跡以外、土師集落址はないが、多くの遺跡は八世紀頃あったと云われる海進や、古養老川の大氾濫に依り、遺跡は埋歿した可能性も考えられる。したがって実証資料は得られないが、地名、古代道との関連、条里地割及び駅起田と想定される水田が存在することにより、七ッ町が嶋穴駅跡と推定される。 
三 嶋穴郷に於ける条里地割 

 

嶋穴の郷域に於いては、土師器の散布地等は確認されず、駅家跡の究明は困難であるがその手掛かりは、条里地割又は、古代官衙としての方格地割等の確認である。その痕跡を求めて現地踏査及び、地図上での検索を重ねた結果七ッ町の西部及び北部の二地区に、条里と推定される地割りが確認された。
当地の地形は、海抜一、三〇〜二、五〇メ−トルのため養老川の乱流を、平野部一面にうける。そのため同河川の氾濫や、八・九世紀の海進作用のため、(6)条理面は埋没した可能性が高いことと、昭和中期に耕地整理が行われたことにより、古代以来の水田の畦畔は大半が消滅した。幸いに条理に基ずく阡陌推定線から、A・Bの条理区画を確認することが出来た。
A条理地区(島野耕地)
A条理区は、東は七っ町集落、西は旧房州街道(現地方道千葉−鴨川線)南は三十六石、北は大六天を境界とする水田地帯である。文献資料や肝要な条理呼称、地名はなく、数詞地名として僅かに一ヶ所「五反目」があるのみということより、条理地割復元は困難であるが、市道石棒杭〜矢島野線の計測を試みたところ、この道路の屈曲部は一町(一〇八米)間隔である事を発見した。これは明らかに阡陌地割の存在を示すものであり、この道を基準として一町方格のメッシュを組んだところ、この区画を囲む各道路は条理区画と整合することが確認された。養老川左岸も右岸同様国衙領の地として条理地割が施工されたものと想定される。この区画の阡陌方位はN−6。−Wを示す。
A条理区に於いて注目したいのは、第一条理区のA〜Bの屈曲部(石棒杭(いしぼんぎ)〜谷島野線)の各曲部は一町間隔(一〇八米)を測り、本道が条理に基いて計画的に作られた阡陌線であり、A〜Bの屈曲部(字大六天1671)は九〇度の角度で屈曲する。この屈曲部について従来単に曲がった道としか捉えていなかっが、検討した結果、この屈曲はA条理区の条理地割の基線を引く為の屈曲であることが分かった。即ちこの屈曲部の底辺に線を引いて、直三角形を作り、この底辺の点Pから嶋穴神社中心部に当たる点Xを結ぶ線は、A条理区の中心線である事が確認された。以上の観点から、この屈曲部は条理地割施工に当たり、幾何図法を応用した測量基点と推定される。
又、右の中心線は、嶋穴神社地の中心線、及び一の鳥居までの参道と一致し、同社社地中央部のP点とX点との距離は六四八米(六町=一里)である。このことは嶋穴神社の社地は、条理地割を基準として造成されたものと考えられる。
ちなみに嶋穴神社が、旧地「元嶋穴」より現在地に移転したのは、天長二年(八二五)であり、(7)この移転の年代は、A条理区の条理地割の施工の年代を示唆する。又、当該期は海進のあった時代であり、条理水田は冠水し、埋没した可能性も考えられる。
次にA条理区A・C線(石棒杭〜三十六石)に沿う道路(現千葉〜鴨川線)は、古養老川(現前川)の自然堤防上に出来た道(現千葉〜鴨川線)である。本道の西側は青柳地区で、中世青柳郷であり、このA〜C線は、嶋穴・青柳の里界線といえる。この界線の北側は俗称「石棒杭(いしぼんぎ)」という独特な地名であるが、この地名の由来については伝承もなく明らかでない。今日現存しないが、以前江戸末期頃の示道標(一辺三〇糎、地上高一・二〇前後)があったことから「石棒杭」と称するようになったと云う。しかし示道標を「イシボンギ」と呼称することは、寡聞にして聞かない。考えられることは事は中世の?示杭か、或いは古く遡って立石状の石柱を指すかのいづれかとおもわれる。
石棒杭は二町方格の中に収まる程の少集落であるが、集落の北端に、大六天神社(現道祖神社)と「デェデェポの足跡」という巨人伝説を伝える池がある。大六天神社とは約三〇米程の至近距離にあり、入ると祟りがあるという禁足地である。大六天の祭神は「面足尊」「惶根尊」の二神で共に天地創造の神である点、条理区画と何らかの関係があるのではないかと思われる。
A条理区、A〜D線(谷島野〜七ツ町)は島野耕地の東側の阡陌線である。このル−トは特に屈折が激しい。これは養老川の氾濫により流下する水流により、強い作用を受ける事により、地盤の弱い部分が抉られる結果、不自然な屈折した道となる。当地の南北方向の道は、一様に同じパタ−ンに屈折する状況を認めることが出来る。この道路も部分的であるが、条理坪界線と一致する。
以上条理区画と推定される島野耕地の地割について検討を試みた。一町方格の区画線と、阡陌推定線と整合する事は、条理区画の存在を示すものである。
B条理区
七ツ町町内をを南北に通ずる中央道と平行する。集落の西側を南北に走る市道の間隔は、一町(一〇八米)である。この二本の道を基準として、七ツ町・飯沼間に、一町方格のメッシュを組むと、両地区内の市道、及び両町間の中間の道路が、このメッシュと部分的であるが整合する。これは両町間に条理地割の存在することを示すものである。この飯沼地区は和名抄に記載される「稲庭郷」と推定される土地である。この地域も条理呼称地名、数詞地名及び文献資料は一切存在しないが、国衙支配地として条理地割が行われた可能性は充分考えられる。
嶋穴郷と稲庭郷の境界は、飯沼境・林・谷を結ぶ線である。飯沼境から谷に向かって流れる用水路が、現在の谷島野と飯沼の境界にであるが、かっての郷界である。
B条理区の阡陌方位はN−24。−Eを指向する。A条理区とは三〇度の開きがあり、条理地割の施工期を異にすることを示す。
B条理区画は、G・H線を境に、地理的景観が一変する。即ちG・Hライン北南は古養老川の自然堤防上に蜜にする分布する島畑地帯であり、北側は妖肥沃な水田地帯が広がる。この区画内の水田も大半は区画整理されて、古い畦畔は消滅したが、駅起田と想定される上茶免・下茶免及びその周辺には、昔ながらの畦畔は遺存するが、条理地割の痕跡は認め難い。
以上B条理区を概観すると、七ツ町地区と飯沼地区内の市道は、互いに方向性と間隔を等しくし、両区を結ぶ市道塚原・飯沼(F〜H)線は部分的であるが整合することにより、七ツ町〜飯沼(嶋穴〜稲庭)両区に、条理地割が施工されたものと推定される。
又、A・B条理推定区側から、嶋穴郷の郷域は七ツ町と金ヶ原の二つの集落である事が分かる。現在の島野区は七ツ町、谷島野、塚原、金ヶ原、の四区に依って構成されるが、谷島野、塚原の二区は近世に至って合併された集落であり、そして古来より嶋穴郷の中心集落はつい最近まで「シマナ」又は「ナカンシマ」と呼ばれていた現七ツ町である。 
四 嶋穴駅とその関連遺跡 

 

一、駅家跡
古くから「シマナ」と呼ばれた七ツ町地区を中心に、嶋穴駅と特定可能な地理的条件の地を、幾年に亘って探索を続けたのであるが、律令期の遺跡の確認が出来ず、一時調査を断念したが、市原市で発行している二五〇〇分ノ一の地形図で、七ツ町地区内の道路を計測すると、この道路が一町方格の区画(A・B・C・D)が確認された。又同町の集落の外郭線(イ・ロ・ハ・ニ)は、若干均整に欠けるが、二町方格の区画を認める事が出来る。この区画の南半部は現集落の七ツ町であり、北半部は水田であるが、「後里」という地名から推して、居住地ではなかったかと思われる。字休所の近くに「古屋敷」の地名がある。屋敷跡はなく水田地帯の一部で、現状では居住地であったとは到底考えられないが、古地理から検討すると、現水田面は古養老川の自然堤防の一部であり、居住地として利用された可能性も考えられる。
この区画内に於いて、遺跡と認定される資料は一切得られなかったが、現養老川左岸地帯に於いて、方格地割に依り区画された集落は他になく、七ツ町地区だけであり、この観点から七ツ町が駅家跡と推定される。
二、駅起田
七ツ町地区の東及び北部に、「免」の付く地名の水田が並ぶ、この土地は国から田祖を免ぜられた不輪租田と思われる。
駅は兵部省に属する国家機関であるが、その維持、管理は駅起田から収穫される駅起稲によって運営された。
養老田令駅田条に  「凡駅田。皆隋近給。大路四町。中路三町。古路二町。」と定められた。
嶋穴駅には三町(宝亀二年以降は二町)の駅起田があり、その駅起稲によって維持・管理された。その駅起田と想定される水田としては、「上茶免」「下茶免」「天神免」「関免」の四枚の水田を挙げる事が出来る。又、これ等の水田が駅家跡の近傍にあることは、駅田令に定める「隋近給」の田であることを示すものである。且つ又この水田の存在は当地区が嶋穴駅であることを裏付けるものである。
三、駅路(古東海道)
現在は廃れて知る人も居なくなったが、七月廿日は、姉崎神社と嶋穴神社の祭礼日であった。当日は姉崎神社の神輿は嶋穴神社へ、嶋穴神社の神輿は姉崎神社へと、相互に担ぎ込まれたという。その両社の神輿の渡御する道筋は、鎌倉街道と呼ばれた古道である。現在明らかな道筋は白塚から東に向かって、嶋穴神社の一ノ鳥居前を通り、七ツ町に至る市道である。このル−トは姉崎、嶋穴両神社の神輿の渡御街道であり、両地が古代以来関係の深い土地であることを物語るものである。そしてこの道は鎌倉街道と呼ばれているが、嶋穴駅を経由して、上総国府に至る駅路であり、古東海道と考えられる古道である。
嶋穴駅から北上して、上総国府への道筋は明確ではないが、野毛(土師集落跡)を経由し、村上から総社を経て、山田橋大塚台、(8)稲荷台G地点(9)等の古代道に連なるル−トが想定される。又嶋穴駅から南下し、藤潴駅方面へのル−トは、須田勉氏は、小熊吉蔵説を継承し、(10)嶋穴駅から東方に向かい、神代、立野を経て、袖ヶ浦市の内陸を五領、三ツ作方面に至る鎌倉街道と推定されたが、(11)このル−トでは三角形の二辺を通る道程となり現実的ではない。
駅路は特定の拠点間を最短距離で繋ぐように測接され、古代道の最も特徴とするところは、平野部に於ける直線的路線形態にある。(12)この視点から、嶋穴駅から南下する駅路又は古東海道は、市内椎津から袖ヶ浦市蔵波を経て飯富に至る海沿いの台地上を直線的に通る、「鎌倉街道」「東海道みち」を通り、藤潴駅に至るコ−スと考えられる。 次に駅家跡推定地附近の古道としては、谷島野地区の「鎌倉街道」「島野道」がある。
谷島野の鎌倉街道は、稲庭、嶋穴郷の境界飯沼境から林・廣尾を経て大街道に至るが鎌倉街道と伝えられている。
「島野道」は、地名であるが、道の名称であるが釈然としないが、語尾に道が付くことから、一応道として検討する。「島野道」について、当地では全く伝承はないが、「古河公方足利義氏朱印状」に記載されており、(13)どの道が島野道であるか断定出来ないが、七ツ町から石棒杭を経て、青柳港に至る道筋と考えられる。青柳港は古養老川(現前川)の河口に当たり、上総国府の外港と想定される。この河口に近い青柳字天王新田より文和四年在銘の板碑一基が発見され、この河口が古代よりの港であることを示している。この青柳浦に通ずる道筋は嶋穴神社の神輿の渡御の道であり、この神輿には祭神の代理として青柳浦のウミニナ(俗称ゴ−ネ)を祀ることが古来からの仕来たりであった。宵祭にそのウミニナを採りにこの道を通ることになっている。この道筋も字大衙道を経て鎌倉街道に連なり古代からの道と考えられる。
四、駅戸集落
嶋穴駅に於ける駅戸集落は、律令期の集落跡が確認されず俄かに断定出来ないが、七ツ町の隣接地である金ヶ原と、嶋穴郷域外であるが、野毛が一応想定される。野毛地区は和泉、鬼高式を主とする土器が多く出土し、養老川氾濫原の中では最も有望な土師集落であり、恐らく八・九世紀の遺構も存在するのではないかと考えられる。この観点に於いて、嶋穴駅の駅戸集落について検討すると、七ツ町の後里、金ヶ原地区、土師集落跡である野毛地区が駅戸集落と推定される。
次に嶋穴駅の駅戸集落の規模について検討すると、宝亀二年(七七一)までは東山道に属していた武蔵国が東海道に編入された結果、相模から上総、下総を通る東海道は支路となった。その結果、上総路は中路から小路に変更されたことになる。したがって、宝亀二年以前の嶋穴駅は駅馬十疋が配属されており、駅務要員は駅長一名、駅子六〇名前後の構成と推定されるが、小路となった宝亀二年以後は駅馬五疋に対応して、駅子は中路の二分ノ一の駅長以下三〇名の構成と推定される。(註二)
したがって駅戸集落は最大六〇戸前後の戸数を擁する集落が想定されるが、嶋穴は古養老川の流域では、最も肥沃な農耕地に恵まれた土地であり、生活環境の良い所であることから、六・七世紀には、海上国造の支配地として、同国造により開発され、養老川冲積地帯では、最も早く、集落の形成されたところである。嶋穴が海上国造の支配地であったことは、同国造の尊崇する姉崎神社の祭神と、嶋穴神社の祭神とは、夫婦神であり、両社共古代より特別な関係であったことから、それを窺い知る事が出来る。そして嶋穴には神社に奉仕する神官や、氏子等が居り、その中には駅長等の職務に堪えられる才覚の優れた人物も多数居たと思われる。
嶋穴駅はこういう環境の中に設置されたことは容易に想定出来るが、六〇戸に及ぶ駅戸集落は、大半が駅家に依って占められる七ツ町地区内に、それだけの戸数を収容出来る余地はないのではないかと思われる。したがって、駅戸集落は前述の通り、金ヶ原か野毛である可能性が高い。
註(二)
各駅に於ける駅子の数は、左の資料に依り、駅馬一疋に対し、駅子は六人位と類推されている。
(1)「続日本後記」承和五年五月乙丑条 安芸国十一処 駅家別駅子 百廿人
(2)「類聚三代格」斉衡二年正月二八日条 美濃国恵那郡坂本駅 駅子 廿百十五人
(3)「三代実録」貞観六年十二月十日条 駿河国駿河郡 三駅 四百人
補註
(1)井関氏によると、縄文海進頂期以降、低位海面期の後、海面は〇、五米内外高位になるまで上昇したといわれる。それがダンケルク海進のU・Vである。ダンケルク海進は、〇期(一、五〇〇〜一、〇〇〇B・C)U期(二五〇〜六〇〇A・D)V期(八〇〇A・Dから以降)養老川の左岸はダンケルク海進の各期には冠水したと考えられる。特に水田地帯はその可能性が強い。
(2)近藤敏氏の白塚地区の遺構確認調査に於いて、一、四〜一、五米の下層より、明治期の遺物が出土したという。このこしは、冲積地帯の遺跡のあり方を検討する上に参考になる。
(3)本稿脱稿後、石原義雄氏より、後里は土取りされて現在は水田となっているが以前は畑であったという。又古墳と推定される塚が一基あったとのことである。字名からも集落であったことが窺えられる。 
 結語 

 

古道調査中、七ツ町地区の市道間の間隔が一町に当たる長さである事を発見したことから、古代嶋穴郷に於ける条理地割による区画の復元を試みた結果、律令期の区画が確認され、これにより駅家跡の位置地推定の手掛かりを掴む事が出来た。
元市原市文化財研究会事務局長青柳至彦氏は、この推定地である七ツ町以外に、駅家跡推定地は無いという見地から、遺構の確認調査・遺跡の保存を計るべく、市原市文化財研究会に提案された。この案は現会長小川八紀氏に引き継がれ、瀧本平八、矢ヶ崎靖馬氏等の協力を得て本報告書を刊行する運びとなった。一方、七ツ町町会長石原義雄氏は駅家推定地の歴史的環境を後世に残すという意向を示される等、その保存対策も着々と進みつつあり、その成果を期待するものである。
本稿を草するに当たり、瀧本平八氏、県文化財センタ−の須藤美智子氏には、大変お世話になった。末筆であるが厚く御礼申し上げる次第である。
引用・参考文献
(1)樋口義幸 藤原文夫 「養老川」市原市別巻 市原市 昭和五十四年
(2)市原郡教育委員会編 「市原郡誌」大正十五年
(3)高橋康男「青柳塚群」市原市文化財センタ−
(4)岸本道昭「古代山陽道と布勢駅家」古代交通研究 創刊号 平成四年
(5)荻 能幸「落地遺跡発掘調査概要」古代交通研究 創刊号 平成四年
(6)井関弘太郎「三角州」朝倉書店 昭和四十七年
(7)「嶋穴神社社殿改築・境内整整記録」嶋穴神社社務所 平成二年
(8)半田賢三「山田橋大塚台遺跡」市原市文化財センタ−発表会概要 平成六年
(9)谷嶋一馬「稲荷台遺跡調査概要」上総国分寺台遺跡調査団
(10)小熊吉蔵「鎌倉街道」「史蹟名勝天然記念物調査」第十輯 千葉県 昭和八年
(11)須田 勉「川原井廃寺と古東海道」南総郷土文化財研究会誌 第11号 昭和五十三年
(12)木下 良「日本古代律令期に敷設された直線的計画道の復元的研究」国学院大学 平成二年
(13)喜連川文書「古河公方 足利義氏朱印状」栃木県史史料編 
 

 

■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。