弘法大師 (空海) 修行の旅

民話伝承名 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
民話伝承 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
弘法水 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
温泉 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
いぼとり神仏 / 東北関東中部近畿中国四国九州  
修行の旅 /  
 青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県 
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修行の年譜 / 唐より帰朝-入京四国遍路満濃池修築栃木県高野七口弘法大師 年譜1年譜2年譜3年譜4
 
関連諸説  空海  最澄 

雑学の世界・補考   

民話伝承名

 
   ●大師関連寺院 一般寺院 民話伝承 湧水 温泉 ご利益 
北海道・東北
北海道  
「郷芳寺の大師」「阿吽寺の不動明王」「景雲寺の霊鐘」  
 
青森県  
「ならずの柿」「食べられないトコロ」「桃石」「駒込の大師」「疫病除けの呪」「水なし」「水無川」「さるけ」「宇會利山中の温泉」  
 
岩手県  
「甘蕨」「甘蕨」「逆びわ」「手打胡桃」「山口柿」「杖銀杏」「草餅石」「井戸横丁」「弘法水」「弘法清水」「白水井戸」「弘法の授け井戸」「水無川」「水なしの話」「松山寺の十三仏」「大興寺の十六羅漢」「東禅寺の法華経」「長根寺の不動像」「永福寺」「大師講」  
 
宮城県  
「三度(みたび)栗」「夫婦石」「飯盛井戸」「山下清水」「独鈷水」「弘法水と蚊封じ」「山上清水」「錫杖ケ淵」「白鹿堂」「瑞巌寺の般若心経」「宝性院の大黒天・毘沙門天」「菎峰(こんぽう)寺の稲荷明神」「正楽寺の阿弥陀仏」「神宮寺の曼荼羅」「薬真(ルビやくしん)寺」「弘誓(ぐぜい)寺」「蛭がいない田」「弘法水」「湯ノ原の湯」「蕃山」「信行堂山」  
 
秋田県  
「甘蕨」「突塩」「弘法授けの蕪」「弘法大師山の蕨」「箸の杉」「中俣堀切の銀杏」「お手植銀杏」「大師逆杖の銀杏」「縞石の浜」「弘法と鱒」「ウラツブ」「弘法お授け水」「弘法スズ(清泉)」「弘法発見の泉」「手習い石」「田村根子」「正(しょう)念寺の観世音」「台蓮寺の地蔵菩薩」「禅林寺の不動明王」「七座観音堂」「真形」「百宅(ももやけ)部落」「またぎ縁起」  
 
山形県  
「弘法清水」「大師の井戸」「大梵字川」「温海温泉」「吾妻温泉」「弘法の杖」「大聖寺の四社明神」「称名寺の不動明王」「恩徳寺の如意宝珠」「幸徳院の両界曼荼羅」「聖徳寺」「にがくない蕨」「大平の石芋」「独鈷の捻れ杉」「椿と山ノ芋の生えない土地」「弘法の注連縄(#「縄」は旧字)」「宮沢の寄木」「弘法水」「弘法水」「弘法清水」「柳清水」「弘法井戸」「弘法井戸」「塩野」「大梵字川」「狩籠の池」「白水」「弘法の舟岩」「材木岩」「心経石」「物見岩と河童淵」「出塩の弘法神社」「弘法洞窟」「御積(おしやく)島」「湯殿山」「中津川の大師講」「袖浦」  
 
福島県  
「甘蕨」「弘法蕨」「弘法蕨」「弘法蕨」「甘蕨」「かべ豆と弘法大師」「石芋」「うまんづら」「石芋」「枝垂栗」「笠岩」「独鈷水」「弘法水」「弘法大師行人清水」「弘法清水」「弘法清水」「独鈷水」「真野のはた織り」「水無し川原」「水無川」「水がなくなる」「井戸無し」「塩の井」「念仏池」「茨木童子」「湖のはじめ」「足長手長」「福満虚空蔵」「弁天様」「一夜のかけ橋」「観音堂」「冷泉寺の冷泉・不動」「相応寺」「宝聚院」「光照寺の大師御影画」「真浄院」「円蔵寺」「恵隆寺」「竜福寺の馬頭観音像」「観音寺」「観音寺」「観音寺の聖観音」「薬師寺の薬師如来」「医王寺の大日・薬師」「徳善院」「満願寺の五智宝冠」「護国寺の五鈷」「恵日寺」「能満寺」「大蔵院」「長(ちょうこく)谷寺」「石芋」「弘法清水」「霊山寺」「仏具山の護摩坦」
 
関東

 

栃木県  
「石の芋」「片葉葦」「芋森神社」「杖欅」「弘法大師の加持水」「弘法水」「弘法の水」「弘法大師の水」「水無し」「大師河原」「弘法の井戸」「弘法水」「猿岩と猿臂の滝」「材木岩」「土塔の羽虫」「日光」「塩原温泉」「滝尾権現」「清滝権現」「寂光権現」「風穴羅刹窟」「鶏足寺」「浄因寺」「出流山」「弁天さま」「大谷の先手観音」「水竜の霊水」「独鈷沢と五十里(いかり)」「弘法泉」「一ッ石」「福寿院の草書心経」「興生寺の画像」「開雲寺の五大明王・愛染明王」「浄光寺の門額」「金剛定寺の五字梵文」「観音寺の観音」「西明寺の十二坊」「清滝寺」「光琳寺」「大谷(おおや)寺」「輪王寺」「成就院」「成願寺」「金松樹」「八水」「酒の泉」「弘法清水」「湯宮」「人数計りの桝」「影向石」「六字名号」「大日堂」「女体社」「独鈷山」「四条寺旧跡」「般若寺旧跡」「寂光寺」「木叉寺旧跡」「九十九谷」「大猛(おおだけ)丸」「追分地蔵」  
 
群馬県  
「石芋」「芋の森」「石芋」「諏訪町の桃」「逆杉」「大師の腰掛石」「大師石」「弘法井戸」「いろは井戸」「渇き井」「川場の湯(一)」「川場の湯(二)」「川場の湯(三)」「鍋割の峰」「海老瀬」「嫗が懐」「俎(まないた)の名号」「日輪寺の観世音」「蚊封じ」「弘法井戸」「弘法滝」「浄法寺の浪切不動」「善導寺の利剣名号」「平等寺の掛軸」「大信寺の薬師」「大重院の弁財天」「玄太(げんたい)寺の観音」「医光寺の薬師」「退魔寺の不動」「東禅寺の毘沙門・馬頭」「金剛院の阿弥陀」「如意寺」「円満寺と鷲ヶ峰」「弘法さん」「柏」「石芋」「石芋」「三度栗」「弘法大根」「茶無村」「梓と葛藤」「鰻橋」「弘法の水」「弘法の水」「弘法の水」「一杯水」「弘法慈悲の水」「独鈷の井」「硯水」「弘法清水」「千貴松峠の清水」「弘法清水」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井戸」「七つ井戸」「弘法がいと」「駒寄せ井戸」「中井戸」「御手洗の井戸」「萩原悪井水」「法師温泉」「大塩の水無し」「音無川」「柏池」「弘法ケ池」「船尾滝」「爪引き不動」「足跡石」「弘法石」「弘法の足跡」「弘法の割り石」「鬼石」「正法寺と弘法様の井戸」「不動尊像」「渋沢薬師」「夫婦薬師」「そうりん塔の台石」「石山の観音」「十一面観世音(金剛寺)」「厄除観世音」「石上寺」「光明寺の地蔵」「爪彫り地蔵」「金剛寺と地蔵菩薩」「不動明王像」「弁天堂の弁才天」「弁天像」「多聞天王」「興禅寺の大黒天」「袈裟丸山」「十二の森」「九十九谷」「四十八石」「上白井の弘法」  
 
茨城県  
「ちばひめ」「護摩担岩」「泉の観音さま」「板橋の不動三尊」「阿弥陀寺の六字名号」「安福寺の般若心経」「宝薗寺」「観音寺の不動尊」「法鷲院」「大山寺」「如宝寺の般若心経」「広幢院の心経」「文殊院の文殊曼荼羅」「全宗寺の不動」「不動院の不動」「愛染院の弁財天」「慈雲寺」「小松寺の如意輪観世音」「報国寺の弁財天」「報恩寺」「法泉寺の不動」「願成山の百体観音」「地蔵菩薩」「蓮光院の三宝荒神・腹籠り不動」「金剛院の不動明王」「延命院」「長竜寺」「虚空蔵堂」「徳蔵寺」(第3巻)「筑波山」「石饅頭」「投げ筆の軸」「大御堂」「日輪寺」「徳蔵姫」  
 
埼玉県  
「毛芋」「石芋」「萎(しなび)竹」「菩提樹」「弘法の松」「杖銀杏」「二度栗山」「弘法谷と弘法井戸」「弘法清水」「掘抜の滝」「三ツ井戸」「願い水」「疣(いぼ)水」「弘法井戸」「弘法井」「水がなくなる」「弘法山」「九十九(つくも)谷」「九十九谷」「九十九谷」「聖観音」「護摩修法」「杖銀杏」「ガッカラ薬師」「三井戸」「第六番観音の撫石」「妙光寺の宝号」「般若心経と法華経」「心経」「能護寺」「般若院の大般若経」「三十二番観音の大般若経」「長久院の両界曼荼羅」「大師自画像」「大応寺」「延命院の地蔵」「不動画像と大師自画像」「高山不動」「不動像不動画像愛染画像」「不動画像と自画像」「不動画像」「長興寺の不動」「智善寺の不動」「熊谷寺」「真光寺」「大日如来」「西光庵の大日如来」「瑞光寺の大日如来」「大日如来」「大日像」「法養寺の大日と薬師」「善光寺」「弥陀」「金仙寺」「弥陀立像」「聖天社の弥陀」「称名寺の弥陀三尊」「秩父第一番の弥陀」「光明寺の弥陀と不動」「薬師」「薬師」「薬師と弥陀」「薬師寺の薬師」「医王院の薬師」「東曜寺の薬師」「薬師」「薬師」「定勝寺」「薬師」「薬師如来」「地福寺の薬師」「十六番の薬師」「真性寺の薬師」「興禅院の正観音」「常福寺の正観音像」「正観音坐像」「観音と大日」「光勝院の正観音」「正観音坐像」「西蔵院の正観音」「雲中出現の観音」「如意輪観音」「如意輪観音」「最勝院の十一面観音」「知足院の十一面観音」「十一面観音」「三峯山の十一面観音」「千手観音」「滝泉寺の観音」「正覚院の千手観音と六字名号」「十九番観音の千手観音」「天龍寺の千手観音・大日」「馬頭観音」「土観音」「廿八番観音・護摩坦」「十三番の子安観音」「観音坐像」「北川の観音」「十一番の観音」「実正寺の地蔵」「玉蔵院の地蔵菩薩」「浄念寺の地蔵」「地蔵像」「延命地蔵」「香最寺の延命地蔵」「灯明寺の地蔵」「観音院の地蔵」「寿徳寺の地蔵」「延命寺の地蔵」「地蔵木像」「地蔵」「成就院の地蔵」「爪彫り地蔵」「宝積寺の地蔵」「総持寺の文殊」「彦倉の虚空蔵さまと延命院縁起」「虚空蔵」「洞昌院の虚空蔵」「不動立像」「不動」「不動立像」「竜蔵院の不動」「不動尊」「正谷院の不動」「法蔵寺の不動明王」「宝聖寺の不動」「観福寺の不動」「不動」「光明寺の不動」「不動岡の不動」「桜本坊の不動」「岩殿観音の爪かき不動」「不動坐像」「不動木像」「不動立像と十一面観音」「不動と薬師」「五大明王」「岩井堂の波功(#「功」は底本のママ)り不動と護摩坦石」「明王院の不動」「青毛の弁天」「子安弁天」「円福寺」「龍花院の弁天と聖天」「寄居の聖天」「行蔵寺の毘沙門」「善福寺」「牛伏の毘沙門」「十輪寺の仁王」「蔵王権現」「十万八千仏」「永福寺と弁天・毘沙門」「徳星寺」「金乗院」「山口観音」「観音寺」「円照寺」「弘光寺」「日向不動」「護摩坦石岩」「我空堂」「般若寺」「西福寺の聖観音」「栄福寺の聖観音」「瑠璃光寺の観音」「法性寺奥の院の観音」「勝林寺稲荷の十一面観音」「深井寺の御腹籠」「鎮守弥左衛門稲荷」「薬師堂」「藤田聖天宮」「円福寺」「総持寺」「円通寺」  
 
千葉県  
「灰汁無蕨」「渋無蕨」「甘蕨」「石芋」「石芋大師」「弘法大師の芋井戸」「片葉葦」「逆銀杏」「弘法水」「独鈷水」「独鈷水」「塩の井」「成田不動尊」「犬の足は三本」「飯沼観音」「新善光寺の榧」「円静寺護摩堂の棟札」「弘法寺の額」「龍善寺の不動明王」「川(せん)福寺の弥陀名号軸」「かくれ座頭」「円蔵院の仏像」「顕実寺の弁財天」「称念寺の大黒天」「東福寺の薬師」「源心寺の不動」「不動院の不動」「地蔵院の延命地蔵」「遍智院」「大日寺」「大師の袈裟」「本国寺」「東海寺」「竜鑑寺」「本法寺」「八蔵坊」「観福寺」「橘禅寺」「小網寺」「石芋」「石芋」「弘法水」「弘法水」「弘法水」「加賀清水」「藍染の池」「宝寿院の地蔵堂」「円福寺」「山倉大六天の鮭」「花島山」「大仏頂寺」  
 
東京都  
「清水稲荷」「水無瀬川」「般若心経」「弥陀八幡」「木彫り地蔵」「自作の木像」「寺島大師」「大日如来」「腹帯地蔵」「無量寿院の本尊」「御行松」「楊枝杉」「善福寺」「弘法大師刷毛書名号」「楊柳水」「善福寺の毘沙門天・観音・五大力明王」「独鈷滝」「護摩坦岩」「行光寺の般若心経」「明王院の鼠心経」「西福寺の心経」「心経一巻」「祗園寺の心経」「宝幢院の仏画」「自画像」「自画像」「大師画像」「重林寺の不動」「吾妻権現社の不動画像」「不動明王画像」「不動画像」「波切不動画像」「妙光院の虚空蔵画像・観音画像」「西福寺の弁財天」「斟珠(しんゆう)寺の弁財天」「大師筆八幡宮軸」「厳正寺の九字名号」「高勝寺」「玉姫稲荷の稲荷像」「まないた大師」「日曜寺の大師像」「南蔵院の大師像」「大師自作の像」「持宝院の大師像」「総持寺の大師」「弘法大師自刻木像」「長谷寺の阿弥陀」「善光寺如来」「慈眼寺の弥陀」「延命寺の弥陀三尊」「弥陀と八幡」「西光寺」「安養寺の薬師如来」「蓮光寺の薬師如来」「薬師立像」「善徳寺の薬師」「鉦冠薬師」「鼓薬師」「円徳寺の薬師」「炎天寺の薬師」「薬師・不動」「薬師像」「薬師木像」「薬師」「明王院の観音」「東海寺の観音」「正観音と水月観音」「法禅寺の観音」「氷川明神社の十一面観世音・宇加神像」「宗参寺の正観音・弁財天」「馬頭観音」「十一面観音」「十一面観音」「亀高稲荷の十一面観音」「観音」「観音寺の十一面観音」「十一面観音」「正観音鉄仏」「正観音」「雲龍寺の千手観音」「如意輪観音」「正観音坐像」「如意輪観音・正観音」「高幢寺の地蔵堂」「海晏寺の地蔵」「常行寺の地蔵尊」「来福寺の経読地蔵」「湖雲寺の地蔵」「霊雲寺の地蔵」「与楽寺の地蔵」「地蔵古碑」「入谷の地蔵」「西念寺の目洗地蔵」「地蔵院の地蔵」「西光寺の地蔵」「地蔵尊」「地蔵尊」「地蔵木仏」「普門寺の虚空蔵」「大聖堂」「東福寺の不動」「神体不動」「東福寺の不動」「目白不動」「不動立像」「本尊不動」「不動坐像・不動影向石・弁財天」「無量寺の不動尊」「不動尊」「不動尊」「喜宝院の不動」「宝性寺の不動」「正福寺の本尊」「不動坐像」「不動像」「金剛寺と不動・宝印」「妙光院の不動」「不動木像」「不動坐像」「安楽寺の愛染明王」「宝仙寺(四尊合体像)」「弁天像」「安養寺の弁財天ならびに十五童子」「青松寺の弁財天」「羽田弁天」「弁天」「弁天社の神体」「藁苞弁天」「弁財天」「弁天」「寿昌院の弁財天」「梅洞寺の弁財天」「弁財天」「弁財天」「弁天塑像」「弁天像」「吉祥院の印子聖天と日輪弘法大師像」「毘沙門」「万福寺の韋駝天」「金王八幡」「僧形八幡」「八幡神」「筑土八幡の応神天皇像」「神体応仁天皇」「宝寿大明神社」「淡島の像」「三囲稲荷社」「円泉寺の太子堂」「龍生院」「弁天堂」「安楽寺」「真福寺」「薬師と六字名号」「茶ノ木稲荷」「動かない船」「長命寺」「護持院」「高野山宿寺」「九品山浄真寺」「瑠璃光如来」「牛頭天王社」「薬王寺の薬師如来」「万徳院の観音」「聖観音」「騰雲山明覚寺の正観音」「十一面観世音」「補陀落山養福寺」「三国伝来千手観音」「松樹山明王院」「普門院の身代観音」「多聞院の地蔵」「延命読経地蔵」「東覚寺の不動」「観蔵院の不動、愛染、毘沙門」「弁財天」「州崎弁財天」「水晶弁天」「霊亀山慶養寺」「蛭子・大黒」「誕生八幡宮」「橋本稲荷」  
 
神奈川県  
「石イモ井戸」「サトイモと大師」「臼井戸」「真言で湯をさます」「弘法大師と水無川」「お夏石」「川崎大師」「身代わり地蔵」「弘法硯水」「加持水」「赤井」「米嚼」「大師穴」「芋石」「田螺石」「長浦の女夫石」「護摩坦石」「弘法大師護摩坦石」「覚園寺の弘法大師護摩坦蹟」「弘法石」「宝生寺の画像」「竜源寺」「英勝寺の両界曼荼羅・大字絵名号」「最明寺の星曼荼羅・自画像」「徳恩寺の金剛薩〔タ〕(#〔タ〕は文字番号5190)画像」「長徳寺の観音画像」「地蔵画像・赤不動画像」「東漸寺の五大尊画像」「光明寺の不動画」「天然寺の不動画像」「千蔵寺の不動画像」「宝金剛寺の不動画像・多聞天」「広福寺の不動画像と地蔵」「金龍寺の不動及び八祖の書像」「増徳院の五大尊像」「愛染画像」「浄光明寺の三千仏画像・八幡画像」「宝前院の六字名号」「光明寺の六字大名号」「三宝寺の利剣六字名号」「宝蔵院」「大運寺の心経・地蔵・護摩坦跡」「薬王寺」「心経一巻」「清浄光寺の阿弥陀経・宇賀神」「称名寺」「鶴岡八幡宮の大般若経一巻」「松石寺」「東明院の弘法大師像」「弘法座像石」「川崎大師の五大尊像・弥陀経・六字名号心経・弁財天」「鶴岡八幡宮の〔サ〕(#「サ」は文字番号40770)大師」「極楽寺の弘法大師像・千体地蔵像」「行定院の大日」「善了寺の大日如来像」「証菩提寺の大日」「蓮上院の大日・地蔵・自画像」「宝珠院の銅仏」「徳泉寺の弥陀」「弥陀仏」「阿弥陀三尊」「安養寺の弥陀・弁財天」「三宝寺の薬師」「蓮乗寺の薬師」「東円寺の薬師」「浄円寺の薬師」「薬師」「薬師」「保福寺の薬師」「薬師」「米穀寺の薬師」「福田寺の薬師と十二神」「光永寺の薬師」「遍照寺の薬師」「正円寺の薬師」「鎖雲庵の薬師」「東光院の胎籠薬師」「東照薬師」「薬師石仏」「釈迦像」「称往院の正観音」「珠明寺の正観音」「正観音」「正観音」「正観音」「西念寺の聖観音」「正観音像」「聖観音銅像」「大師一夜爪彫の観音」「安楽寺の観音」「観音」「随流院の観音」「正観寺の観音」「観音」「如意輪観音」「香林寺の十一面観世音」「醍醐院の十一面観音」「観蔵院の十一面観音」「滝門寺の観音・不動・毘沙門」「円融院の千手観音」「久翁寺の千手観音」「薬師院の愛染観音」「長泉寺の腹籠観音」「胎籠観音・薬師」「龍長院の地蔵」「清岩寺の地蔵」「光明寺の地蔵」「地蔵菩薩」「浄源寺の地蔵」「善福寺の地蔵」「円蔵院の地蔵」「雲居寺の地蔵・弁財天」「宝泉寺の地蔵」「観音寺の地蔵」「長松寺の地蔵」「本瑞寺の地蔵」「地蔵像」「宝蔵寺の地蔵」「地蔵」「六道地蔵」「黒地蔵・白地蔵」「住吉社の爪切地蔵」「地蔵石像」「清龍寺の地蔵石像」「自得寺の地蔵石像」「東観寺の文珠像」「鶴岡八幡宮の弥勒像」「称名寺」「二十五菩薩」「西立寺の不動」「不動・愛染」「城光院の不動」「本地不動」「不動尊」「泉蔵院の本尊不動」「満蔵院の不動と二童子」「不動」「円光寺の不動」「満福寺の不動・十一面観音・薬師」「成就院の不動」「浄泉寺と不動・四神画像」「青蓮寺の不動」「大光院の不動」「越前寺の不動」「稲荷青竜権現神明合社」「青蓮寺の愛染明王」「善応寺の愛染一?」「三会寺の愛染像」「香象院の愛染明王」「鶴岡八幡官の愛染像・弁天像」「清浄堂の威徳明王」「滝沢寺の弁財天」「江の島の弁財天」「玉宝寺の弁財天・毘沙門天」「弁財天」「新長谷寺の弁天像」「浄智寺の弁天像」「阿弥陀寺の弁天像」「観行院の弁天」「了義寺の弁天」「円光院の弁財天」「多門院の毘沙門」「毘沙門・心経」「上ノ坊の毘沙門」「岩本院の刀八毘沙門」「量覚院の歓喜天」「福田寺の閻魔と千手観音」「籠数珠・法華経」「延命寺」「八幡神」「神体座像」「神体・本地仏正観音」「姥神」「お前立」「青蓮寺」「称名寺」「不動堂」「成就院」「善勝寺」「金剛寺」「不動院」「千光寺」「西明寺」「千手院」「妙法寺」「弘明寺」「不動と地蔵」「飯山寺」「本蓮寺」「弘法山」「弘法水」「十六井」「棟立井」「江の島弁天の岩屋鳥居」「大般若教」「竜華寺」「光明寺の地蔵」「増徳院の五大尊軸」「爪彫地蔵」「巡行地蔵」「千日堂の地蔵」「元西河原石地蔵」「横浜弁天」「弁財天十五童子」「箱根山」「観福寿寺」  
 
中部

 

山梨県  
「石芋」「大師杉」「弘法神水」「弘法様の万年ばた」「牧洞寺の薬師・不動」「円福寺の観音」「雲岸寺の観音」「円通寺の観音」「福昌寺の延命地蔵」「蔵前(ぞうぜん)院の虚空蔵」「玄法院の不動・四社明神」「真蔵院の不動」「竜雲寺の不動」「竜華院の聖天」「羅漢寺の五百羅漢」「宗泉院」「法善寺」「蓮華寺」「弘法栗」「弘法栗」「弘法水」「弘法杖の水」「独鈷の水」「竜宮井泉」「団子石」「長者が原」「饅頭峠」「妙体石と牛石」「梵字石」「大師自筆の経」「不動院の不動」「万蔵院の不動」「向嶽寺」「広厳寺の薬師」「薬王寺の薬師」「真福寺の薬師」「光台寺の薬師」「円照寺の千手観音」「浄光寺の観音三尊」「慈眼寺の観音」「真豊院の馬頭観音」「三体の地蔵」「東光寺」「塩沢寺」「宝寿院」「石雲寺の不動」「長谷寺」「正法寺の不動」「光善寺の不動」「明王院」「大聖寺の不動」「薬王寺の不動」「不動寺」「雨乞い弁天」「玉泉寺の弁天」「無量寺の弁財天」「大城寺の毘沙門天」「放光寺の大黒天堂」「大善寺の大黒天」「華光院の三宝荒神」「宝生寺の役の行者」「西光寺の虚空蔵」「長谷寺」「安養寺」「竜登院」「石灯籠」「弘法様の衣」  
 
静岡県  
「再(ふたたび)栗(一)」「ふたたび栗(二)」「三度栗」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法水」「水がなくなる」「水がなくなる」「修善寺(一)」「修善寺(二)」「鯖大師」「富貴野山宝蔵院」「船原山宝蔵院」「油山寺」「館山寺」「弘法山」「万勝寺の薬師」「玉井(ぎょくせい)寺の聖観音」「雨地蔵」「蔵珠寺の地蔵」「厄除地蔵」「霊光院の延命地蔵」「大福寺の文珠」「向陽院の虚空蔵と地蔵」「温泉寺」「高山寺」「般若院」「連福寺」「曹洞院」「御霊杉」「逆さ高野槇」「桂の樹」「弘法水」「弘法石」「カハゴ石」「経の字島」「蛇石」「歌岩」「走湯山」「顔がきれいになった女中」  
 
長野県  
「灰汁(あく)なし蕨」「弘法菜」「石芋」「弘法栗」「逆さ栗」「逆さ銀杏」「乳銀杏」「笠松」「袈裟かけ松」「箸杉」「抛石」「焼餅石」「硯石」「手形石」「休(やすみ)石」「犬石」「蛇石」「弘法水」「弘法様の井戸」「弘法水」「弘法清水」「弘法井戸」「弘法大師の清水」「弘法清水」「弘法池」「八徳水」「弘法清水」「弘法清水」「弘法の田」「弘法井戸」「弘法清水」「ざる水」「硯水」「千巻清水」「筆清水」「塩の井」「苗忌竹(なえみたけ)」「でんぼ隠しの雪」「独鈷山(とっこさん)」「九十九谷」「九十九谷」「弘法桜・千手観音」「清水(せいすい)寺」「専照寺」「勝楽寺の名号」「泉福寺の高野明神」「真慶寺の聖観音」「呈蓮寺の十一面観音」「松厳寺の厄除地蔵」「不動寺の不動」「光前寺」「竜勝寺の羅漢と弁財天」「高厳(こうごん)寺の弁財天」「長勝寺」「仏法紹隆寺」「大師講」「名号岩」「弘法の八の字」「ちがい石」「元木の地蔵」「袈裟供養」  
 
新潟県  
「石芋」「石芋」「弘法大師の小豆と唐キビの種」「石胡桃」「片葉葦」「芽白杉」「ねじり杉」「鉢伏の杉」「弘法大師おはしの木」「栃木の割石」「梵字岩」「弘法大師の塩水井戸」「塩の井戸」「出戸の弘法井」「黒滝のつかのきの泉」「シンナナ清水としゃくなげ場」「弘法清水」「子は清水」「弘法清水」「弘法清水」「弘法清水」「弘法井戸」「横根の水」「弘法大師の霊泉」「瀬戸口の湯」「水無瀬橋」「馬づら女房」「宝手拭(弘法様の手拭)」「大師講の跡かくし」「不動滝の不動像」「峠の薬師如来」「石抱地蔵」「新保の観音さま」「城之古(たてのこし)観音」「水保の観音堂」「鮭と弘法大師」「弘法様の足形石」「千蔵院の両部曼荼羅」「国分寺の曼荼羅」「泉盛(せんじょう)寺の如意輪観音」「海岸寺の不動明王・八大童子画像」「金剛光寺の大日如来」「常泉寺の大日如来」「安養寺の弥陀」「真福寺の薬師」「竜穏院の馬頭観音」「徳昌寺の千手観音」「白木の観音」「宝蔵寺の観音」「延命寺の延命地蔵」「徳聖寺の延命地蔵」「弘法大師延命爪引地蔵」「長恩寺の地蔵尊」「耕田寺の子育地蔵」「西願寺の不動」「真城院の不動明王・千手観音」「宝光院の不動」「善導寺の弁財天」「椿沢寺の弁財天」「来迎寺のびんずる」「本誓寺」「乗福寺」「五頭山華報寺」「円蔵寺」「寛益寺」「長谷寺」「蓮華峰寺」「出湯の九十九谷」「大師講箸」「石芋」「ニタリ柿」「馬の毛の井戸」「弘法の授け湯」「膳棚岩」「三尺下の塩」「弘法様の米畑」「立竦如来」「小比叡の地蔵尊」「湯殿山」「弘法様のあしあと」「大師講」「大師講」「大師講」「大師講の雪」「山中の旦那様」  
 
愛知県  
「弘法栗」「榧(かや)の木弘法」「杖銀杏」「杖桜」「逆桜」「腰掛石」「休石」「足跡石」「弘法水」「八ツ井戸」「弘法井」「錫杖井戸」「いろは水」「弘法水」「甲かけ清水」「三つ井戸」「錫杖井戸」「知多新四国霊場」「檜椿」「枝垂松・連理の椿」「七井」「水弘法」「清水弘法」「弘法の井」「伊藤村」「蓮華寺の大師像」「見返弘法」「大喜寺の大日」「栄善寺の大日」「宗厳寺の大日如来」「薬師寺の薬師」「宝昌寺の薬師」「歯守薬師」「有合薬師」「安楽寺の薬師」「正泉寺の釈迦如来」「報恩寺の千手観音」「観音寺の千手観音」「長栄寺の観音」「法持寺の延命地蔵」「宝泉寺の地蔵尊」「発汗(あせかき)地蔵尊」「財賀寺の不動三尊」「洞雲寺の不動明王」「流汗不動」「正法院の四大明王」「赤岩寺の弁財天・五鈷」「清涼寺の弁天像」「高照寺の弁財天立像」「城宝寺弁財天」「新福寺の弁財天・三宝荒神・額」「三面大黒天」「性海寺」「岩屋寺」「今水寺」「岡山」「まんのひあひ」「犬御堂」「熱田の龍神社」「真清田神社の龍神」「とどろきの井」「大御堂寺」「冬至弘法縁起」「熱田宮の楠」「神木の桜」「西漸寺」「清水の井」「弘法の井」「豊川」「明星井」「医王寺」「腰掛石」「座禅石」「円福寺」「熱田宮」「東界寺の心経」「長隆寺の大般若経」「妙楽寺」「法海寺」「性徳院の大師」「地蔵院」「竜泉寺」「正覚寺の薬師」「真福寺の観音」「大泉寺の観音」「岩屋寺」「観音寺の聖観音」「正福寺の観音」「喜見寺」「竜音寺の観音」「誓願寺の地蔵」「西来寺」「甚目寺の愛染明王」「神宮寺」「七ツ寺の弁財天」「法応寺の毘沙門」「聖徳太子像」「万徳寺」「性海寺」「竜泉寺」「桜井寺」「高隆寺」「宗興」  
 
岐阜県  
「大栗の小栗」「八房梅」「板井」「根方(ごんぼう)の大清水」「姿見の池」「ダケ石」「杖石」「材木石」「尻高石」「腰かけ石」「手なし嫁」「冬至弘法」「旧十二月二十三日」「大師荒れ」「大師様の跡かくし」「大師講」「大師講」「大師講」「爪切地蔵」「来振(きぶる)寺の自画像」「日輪峰寺の般若心経」「宗猷(そうゆう)寺の心経」「乙津(しん)寺の大師像」「延算寺の盥の薬師」「法華寺の聖観音」「海印寺の子安地蔵」「弘誓(ぐぜい)寺の延命地蔵」「円鏡寺の不動明王」「明星輪寺」「光泉寺」「西光寺」「弘法のイボ水」「沓井」「弘法の雪」「石爪」  
 
石川県  
「泣桜」「硯石」「明星岩」「打越の井戸なし」「弘法大師の清水」「吉原の赤脛(あかすね)」「不使(つかえず)の水」「清水なし」「大師の湧水」「弘法水」「弘法井」「古和(こわ)清水」「濁り水」「濁り水」「釜池」「花阪の弘法池」「明泉寺」「見付島」「須會の鮭」「そうめん地蔵」「宝集寺の不動」「法住寺の心経・五鈷」「持明院の不動・蓮」「不動寺の不動」「正永寺の太師像」「勝林寺」「長楽寺」「広済寺」  
 
富山県  
「繋榧(つなぎがや)」「四季絶えない菜」「弘法水」「心蓮坊の心経」「海禅寺の聖観音」「吉祥寺の聖観世音」「西円寺の観音」「自得寺の延命地蔵」「毎朝煙立てず」  
 
福井県  
「不喰桃」「女夫杉」「御衣掛石」「亀石」「弁天岩」「渇き井」「清水池」「弘法水」「水無川」「関屋川原(かわら)」「三方の石観音」「妙楽寺」「善妙寺の名号」「万徳寺の弥勒」「光照寺の阿弥陀・観音」「海安寺の地蔵」「瑞源寺の抹香仏」「紫石硯」「芳春寺」  
 
近畿

 

三重県  
「辛い藷」「弘法栗」「弘法柿」「半しぶ柿」「昨夜(ゆうべ)柿」「半渋柿」「甘柿」「こばな」「足跡石」「弘法大師の護摩石」「大島の弘法石」「弘法井戸」「弘法さんの井戸」「弘法井戸」「弘法井」「弘法井戸」「弘法井戸」「弘法井」「渇き井」「弘法井戸」「清水井」「弘法井戸」「井戸世古の二(ふた)つ井」「子安の井」「弘法井戸」「弘法水」「弘法水神とアマンジャク石」「弘法大師杖跡水」「弘法水」「弘法井戸」「朝日の井戸」「子安井戸」「弘法水」「弘法井戸と弘法師川」「もぐらは住まぬ」「舟木地蔵」「野田の石地蔵」「金剛証寺」「神宮寺の大師像」「長隆寺の大日如来」「妙華(けい)寺の三尊仏」「石薬師寺の薬師」「金胎寺の千手観音」「常福寺の観音」「朝田寺の延命地蔵」「勝因寺の虚空蔵」「徳蓮寺の虚空蔵」「継松寺の不動・毘沙門」「無道寺の不動」「青龍寺の弁財天」「神宮寺の多聞天」「滝(りゅう)仙寺の大威徳明王」「龍泉寺」「庫(こう)蔵寺」「太江(たいこう)寺」「船板名号」「仲福寺」「福満寺」「不動寺の不動」「大福田寺」「不動院」「専蔵院」「新大仏寺」「不動院」「光明寺」「福善寺」「宝厳寺」「善福寺」「国分寺」  
 
奈良県  
「再栗」「再栗」「二度柿」「三度栗」「箸柳」「箸杉」「お衣掛松」「狼石」「鏡岩」「休石」「大塩」「弘法泉」「弘法井戸」「桜井戸」「音無川」「片足大師」「しばし寺」「吉祥寺の毘沙門天と一刀三礼石」「魚養(うおかい)塚」「渋なつめ」「麦のふんどし」「不鳴の蛙」「不鳴の蛙」「金鶏のなく井戸」「杖つき泉」「隅寺の毘沙門天」「西大寺の十二天」「唐招提寺の薬師・地蔵」「宝生寺の釈迦如来」「観音寺の十一面観音」「徳融寺の子安観音」「空海寺の地蔵」「十輪院の地蔵」「高樋の虚空蔵さん」「北僧坊の虚空蔵」「雲幻寺の弁財天」「多門院の毘沙門天」「松尾寺の大黒天」「弘福寺の十二神将」「長岳寺の五智堂・鐘楼門」「大蔵寺の愛染明王」「般若寺」「遍照院」「満嶋(まんとう)山」「岡寺」「橘寺」「大野寺」「宝山寺」「柳の森」「椚(くぬぎ)町」「大蔵寺の木」「猿塚」「沽間(うるま)の清水」「二条町の弘法井戸」「真言院の弘法井戸」「水間の井戸」「大井戸」「タル井」「薬水井」「鳴川」「宝生の竜穴」「雨乞い地蔵尊」「霊安寺」「子安地蔵」「虚空蔵寺」「滝蔵神社」「春日社」「天野河の弁天」「栄山寺」「チマキを作らない町」  
 
和歌山県  
「筆拭草」「沙羅双樹」「三度栗」「渋揚梅」「腰掛桜」「杖竹」「杖竹」「逆〔カシ〕(#「カシ」は文字番号15843)」「橋杭岩」「捻石」「弘法井」「弘法の泉」「姥石」「弘法水」「渇き水」「弘法井」「姥(うば)滝」「大師のお衣替え」「高野山開創」「妙法山」「慈尊院」「船中湧現観音像」「波切不動尊」「三鈷の松」「三度栗」「三度栗」「三度栗」「志古のカユモチ」「閼伽井」「弥勒仏」「大明王院」「高室院の威徳明王」「正智院の善女竜王」「勤操大徳画像」「蓮花院の十一面観音」「宝亀院の十一面観音」「普賢菩薩」「常行寺の地蔵」「恵光院の不動と五大力明王」「柿不動」「持明院の地蔵と不動」「善徳寺の不動」「円通寺の千体不動」「粉河寺の爪彫り不動」「不動寺の不動」「福琳寺の不動」「遍明院の毘沙門天」「法輪寺の聖天」「明王院の大黒天」「三宝院の五大力明王」「成福院の五大力菩薩」「北室院の五大力菩薩」「松虫鈴と九鈷杵」「遍照尊院」「巴陵院」「竜泉院」「田辺大師」「安養寺」「成就寺」「妙心寺」「宝大師」「晒松」「幡掛松」「棺掛桜」「対面桜」「蛇柳」「榧木山」「密柑」「麦」「犬の四足」「犬塚」「蛇原」「雨の魚」「花坂村」「弘法井」「大師井」「大師井」「弘法井戸」「影うつし井」「葵ノ井」「菖蒲井」「実相院の閼伽井」「硯水井」「妙法尼と流れ井戸」「三井」「弘法大師加持井」「加持水」「加持水」「大師の加持水」「大師の加持水」「大師加持水・寐岩・眼笹」「大師硯水」「〔 〕(#「 」は大漢和に文字なし)字水」「姥滝」「玉川」「玉川」「御影淵」「一心院谷の沼」「息処石」「梵字岩」「弥勒石」「岩不動」「岩不動」「中不動」「不動石」「水漉の不動」「琵琶ケ甲」「仏ノ尾」「押揚石」「対面石」「御座石」「杖跡岩」「護摩石」「護摩谷」「護摩鉢石」「大師護摩石」「護摩坦」「護摩坦」「平岩」「袈裟掛石」「腰掛石」「大師腰掛石」「弘法大師腰掛岩と杖の梅」「大師枕石」「狼石」「榧蒔石」「四寸岩」「無量寿院」「宝性院の六字名号」「金剛寺の薬師本願経」「東南院」「明泉院の日輪大師」「蓮花寺の弘法大師影」「中性院の弘法大師影」「五坊の両界曼荼羅」「養寿院の種子曼荼羅」「報恩院の種子曼荼羅」「西方院の浄土曼荼羅」「慈氏寺坦」「安養院の薬師如来」「康徳院の功徳天・観音」「威徳院」「北室院の五大力」「大聖院の不動」「親王院」「円満院の愛染明王」「金蔵院の大威徳明王」「成慶院の五大明王・威徳明王」「赤松院の弁財天」「妙法院の弁財天」「如意輪寺の米字多聞天」「福生院の十二天」「舟板八幡」「松雲院の荒神」「厄除大師堂」「高祖院」「大師像」「成就寺の厄除大師」「大師寺の大師像」「那智山末」「高山寺の大師像」「遍照尊院」「大塔の仏」「普門院」「安養寺成仏院の大日」「密厳院の大日」「大鏡院の大日」「勧学院道場の大日」「妙楽寺の大日」「覚智院」「蓮花寺の弥陀」「如来寺の阿弥陀」「金堂本尊薬師如来」「三蔵院」「随心院の薬師」「西生院の薬師」「医王院の薬師」「実相院の薬師」「薬師山」「医竜寺」「薬師如来」「定福寺の薬師」「医王寺の薬師」「南福寺の薬師」「薬師寺の薬師」「准胝堂の准胝仏母」「勝利寺」「十一面観音」「増福院の十一面観音」「世尊院の十一面観音」「大徳院」「持宝院の十一面観音」「大楽院」「宝蓮院の十一面観音」「観音寺の千手観音」「補陀洛院」「千手堂」「南蔵院の観音」「厄除観音」「千蔵院の勢至」「地蔵堂」「仏心院殿の地蔵」「上智院の地蔵」「上蔵院の地蔵」「東善院の地蔵」「勧学院の地蔵」「景勝院の地蔵」「長福院の地蔵」「石地蔵」「光明院」「上池院の地蔵」「引導地蔵」「心王院」「花王院の地蔵」「汗流地蔵」「地蔵堂」「阿弥陀地蔵」「遍明院の文殊菩薩」「弥勒院の弥勒」「慈光院の弥勒」「宝積院の弥勒・五大明王」「泰雲院の竜猛菩薩像」「大滝の不動」「鎌不動」「増長院の不動」「智荘厳院の不動」「法雲院の不動」「不動院の不動」「誓願院の不動」「常住光院の不動」「西明院の柿不動」「照明院の不動」「正覚院の不動」「安住院の不動」「柁執不動」「錐揉不動」「不動堂」「蓮華定院の不動」「聖徳院の不動」「柿不動」「円徳院の不動」「妙雲院の不動・愛染」「護摩院の不動」「不動院の不動」「南室院の不動」「安楽院の不動」「幣振不動」「不動寺の不動」「本覚院の愛染」「宝瓶院の愛染」「愛染院の愛染明王」「三蔵院の愛染」「平等院の愛染像」「染王院の愛染」「金剛頂院」「両頭愛染明王」「阿弥陀院の愛染」「若山輪番所」「金光院の愛染」「蓮明院の威徳明王」「五大尊堂」「明王院」「善集院の五大明王」「妙音院」「御供所の大黒・弁財」「浄真院の八臂弁財天」「門出弁財天」「仏誓寺の弁財天」「清涼院の弁財天」「玉蔵院の弁財天」「高室院の弁財天」「弁財天像」「阿吽院の毘沙門」「竜泉院の毘沙門天」「金剛院の毘沙門」「不動寺」「毘沙門院の毘沙門」「多聞院」「天徳院」「古堂観音の多聞天」「巡寺大黒天」「宝塔院の大黒天」「寂静院」「上珠院の大黒天」「出世児大黒天」「正智院」「大福寺」「千福寺」「霊剣・経軸・輪壺」「龍光院」「常喜院の五鈷」「蓮華三昧院」「悉地院」「如意輪寺」「弥勒院」「清浄心院」「西南院」「極楽堂」「大師堂」「大峯」「笠石山」「芳養谷」「稲荷神と会う」「お月峠」「九度山」「高野山」「丹生狩場明神」「嫌物」「オカイ」「遠井」  
 
滋賀県  
「腰掛石」「弘法井戸」「聖衆来迎寺の曼荼羅」「蓮乗寺の阿弥陀・毘沙門」「西照寺の阿弥陀・観音」「松雲禅寺の観音」「西岸寺の地蔵」「酒(さ)波寺の地蔵」「石馬(いしば)寺の威徳明王」「舎那院の愛染明王」「菅山寺の毘沙門天」「西照寺」「真光寺」「安養寺」「石山寺」「竹生島」「高野槇」「弘法水」「甲南温泉」「梵字石」「鹿跳(ししとび)」「弘法大師剃髪(そりがみ)名号」「大音(おとを)神社」「磨針(すりはり)峠」  
 
京都府  
「硯石」「座禅石」「弘法水」「水無し」「水無し」「唐池」「濁り水」「五智水」「神泉苑」「太秦牛祭」「染殿地蔵尊」「矢取り地蔵」「薬師如来像」「智福院」「菩提樹」「弘法清水」「弘法清水」「犬打川」「上ノ井戸・下ノ井戸」「弘法清水」「弘法清水」「弘法清水」「独鈷水」「明王院の虚空蔵」「上の弘法さん」「張子大師」「今里の弘法さん」「地蔵寺の薬師」「浄福寺の阿弥陀」「観音寺の十一面観音」「頂法寺の鞘仏」「星見(ほしみ)地蔵」「蓮光寺の地蔵」「染殿(そめどの)安産地蔵」「仏陀寺の地蔵」「釘抜地蔵」「嵯峨虚空蔵」「明王院の不動」「松原不動」「法厳寺不動と多聞天」「真如堂の不動明王」「金閣寺の石不動」「志明院の不動」「東寺の五大明王」「大覚寺の五大明王」「愛染明王」「愛染明王」「中書島の弁天さん」「勝明寺の弁財天・毘沙門天」「正覚寺の弁財天」「地蔵院の毘沙門天」「知恩寺の毘沙門天」「山崎聖天」「鎮宅霊符神」「三宝荒神」「十六善神」「泉湧寺」「六道珍皇寺」「愛宕念仏寺」「念仏寺」「源空寺」「大黒寺」「善光寺」「千手寺」「金輪寺」「縁城寺」「九品寺」「金胎寺」「東寺の三鈷松」「古御旅所」「高雄寺」「蚊塚」「独鈷水」「岩清水」「亀井」「大師井戸と十大王」「不思議な井戸」「文覚池」「弘法腰掛石」「法貴坂」「下馬石」「竜王石」「菜切石」「川越の額」「皇嘉門の額」「雨宝」「鈴の宮」「神光院の大師像」「上品蓮台寺」「仁和寺の大師像」「宗安寺の大日如来」「弘法大師像」「大日如来」「阿弥陀仏」「阿弥陀仏」「新善光寺御影堂」「虎薬師」「仲源寺の薬師」「薬師仏」「福勝寺の薬師・不動」「石薬師」「三体土仏」「七観音」「三鈷寺」「一音寺の十一面観音」「十一面観音」「遍照寺の十一面観音・赤不動」「寂照院の千手観音」「広隆寺の地蔵」「協(かなえの)地蔵」「西福寺」「玉結の地蔵尊」「竹が鼻地蔵寺」「成就院の不動尊」「金峰寺の不動」「鼠突不動尊」「石不動」「東寺の不動尊」「石不動」「住心院の愛染明王」「五大堂」「遍照心院の弁財天」「粟穂弁財天」「歓喜天」「月橋院の毘沙門天」「毘沙門天」「普門寺の帝釈天」「化野の焔魔王」「稲荷神」「善能寺の稲荷神」「三尊寺」「安禅寺の愛染」「烟除仏舎利」「摩耶夫人像」「長岡天満宮」「寂光院」「念仏寺」「清滝権現」「平岡の八幡宮」「船」「青竜寺へ水をおくる」「壮衰記」  
 
大阪府  
「竜王硯石」「岩清水」「古市の井戸」「姥桜」「杖立て松」「弘法井戸」「腰掛け石」「大念寺の弥陀三尊画」「みかえり地蔵」「撫(なで)地蔵」「大融寺の地蔵」「延命寺の地蔵尊」「瑞光寺の毘沙門天」「大阿弥陀経寺の毘沙門天」「来迎寺の弁財天」「源光寺のマンダラ」「光明寺」「一運寺」「金剛寺」「紫手水」「犢」「弘法水」「大師の水」「竜泉寺」「西林寺」「四天王寺」「蘇生の呪」「藤田」  
 
兵庫県  
「抛石」「腰掛石」「竪岩清水」「渇き水」「独鈷水」「山の井戸」「繋岩」「円融寺の心経及び愛染明王」「引摂寺」「達身寺の薬師」「十善寺の観音」「福海寺の十一面観音」「勝福寺の聖観音」「神呪(かんのう)寺の観音」「広厳寺の毘沙門天」「妙光院の歓喜天」「園田聖天」「帝釈寺の四天王」「仏母摩耶夫人像」「転法輪寺」「再度(ふたたび)山」「百代寺」「十輪寺」「月照寺」「浄光寺」「泉寺」「金剛城寺」「金蔵寺」「菜食わずの祭り」「和(かにが)坂」「花川の水」「脇川の念仏水」「甘地」「白水寺」「金剛寺」「太山寺」「箕覆山箕覆寺」「宝珠山妙見寺」「留満寺」「坂上寺」「法幢寺」「光明寺」「大蔵谷」 
 
中国

 

岡山県  
「大師芋」「ならずの桃」「大師松」「腰掛石」「衣掛け岩」「大師池」「アサガラの芋」「二度栗」「三度栗」「大師のお足跡」「六字名号」「弘法大師像」「阿弥陀・不動」「薬師如来」「薬師・十二神将・不動」「心鏡寺」「千手観音と牛頭天王」「延命地蔵」「善徳寺の地蔵」「勇山(いざやま)寺の不動」「住心院の不動」「高山寺の不動」「吉祥寺の毘沙門天」「明星寺の毘沙門天・観音」「多門寺の歓喜天(#「歓」は旧字)」「安養寺」「宝琳寺」「慈眼院」「安楽院」「円福寺」「等覚寺」「下くら」「木山(きやま)寺」「宇南寺」「新善光寺」「金竜井」「真福寺」「金谷寺」「弘法寺」「宝光寺」「捧沢寺」「清水(せいすい)寺」「福泉寺」「極楽寺」「大聖寺」「観音寺の聖観音」「喰わず芋」「お大師様の松」「唐杉」「はだか茅」「古井」「弘法加持水」「水無川」「土川」「白谷」「明星池」「株池」「弘法池」「衣岩」「弘法大師の足跡岩」「弘法大師の足跡石」「立岩」「畳岩」「土仏塚」「大師ケ乢野山」「弘法大師の名号」「東光寺」「岩倉寺の大般若経と不動像」「薬王寺の弘法影」「清眼寺の真影」「釈迦画像と不動画像」「弘法大師の書」「空海書」「弘法大師の書」「万福寺の大日如来」「随泉寺の薬師」「観音院」「願成寺の正観音」「正観音」「正覚院の十一面観音」「遍照寺の千手観音」「五穀寺の如意輪観音」「十福院の本尊地蔵」「八方にらみの地蔵・黒岩大師」「宝福禅寺」「密厳寺の不動明王」「不動院の不動」「華蔵寺の不動・多聞天」「薬水寺の不動明王」「延寿院の毘沙門天」「医王山仏教寺の脇士十二神」「正雲寺の聖徳太子」「金剛頂寺」「二上山両山寺」「宝寿山円通寺」「能満寺」「霊仙寺」「宝妙寺」「覚〔 〕(#「 」は大漢和に文字なし)山雲南寺」「祥雲寺跡」「栄徳寺」「墨池山青竜寺」  
 
広島県  
「錫杖梅」「烏帽子岩」「弘法水」「ひらぐり」「栗柄(栗殻)」「弘法芋」「逆さ梅」「犬の後足」「正月餅をつかぬ家」「蛭封じ」「弘法大師と蚊竜」「赤子の足跡」「弘法水」「杖立水」「水無川」「尻無川」「渡れぬ川」「日の郷のうなぎ」「弘法石」「弘法の衣掛岩」「袈裟掛石」「九十九谷」「福成寺の額」「薬王寺の六字の名号」「ねずみ心経」「仏通寺の法華経」「法恩寺と五大明王画像」「西国寺の薬師如来」「大願寺の薬師」「長建寺の十一面観音」「竹林寺の観音画像」「金縛り不動」「福王寺の不動」「福光寺」「明王院」「長尾寺」「吉祥院」「城福寺」「広山寺」「弥山(みせん)大聖院」「宝蔵寺」「裏見の滝」「法身院」「弘法松」「道後山には竹が生えない」「有頭(ありとう)」「観音石と不動石」「以呂波石」「石風炉」「竜窟」「大鳥居の額」「八幡宮の鳥居の額」「大慈寺の心経」「癈長楽寺の大日経」「地蔵尊書像・弥陀書像」「不動尊」「具利迦羅不動」「大願寺の本尊と什宝」「薬師堂」「十一面観音」「十一面観音」「脇仕不動」「不動尊」「不動尊」「不動尊」「弁財天」「毘沙門」「弥山」「今高野山竜華寺」「円明寺」「廃先福寺」「廃遍照寺」「極楽寺」「厳島」「塩焼寺」「厳島」  
 
鳥取県  
「杖衝井戸」「そばと小麦」「三度栗」「神馬桃」「八百八十八谷」「九十九谷」「九十九谷」「弘法さんの寺」「不動院の不動明王」「愛染不動・三宝荒神」「多宝寺の弁財天」「関金温泉のえぐ芋」「関金温泉」  
 
島根県  
「莢ばかりの大豆」「竜雲寺の十三仏」「巌倉寺」「東泉寺の文殊菩薩」「自性院の不動」「普門院の不動」「弘法寺」「高野寺の聖観音」「岩屋寺」「成相寺」「いろは歌」「甘南(かんなみ)備寺」  
山口県  
 
「孫が栗」「弘法水」「岩崎(かんき)寺の千手観音」「御汗観音石仏・弁財天」「不動明王」「不動・毘沙門」「岩屋寺」「福楽寺」「普慶寺」「快友寺」「原江寺」 
 
四国

 

愛媛県  
「石芋」「三度栗」「杖椿」「曼荼羅寺と不老の松」「いざり松」「いざり松」「弘法水」「杖の淵」「清水池」「吉祥寺と柴の井」「八幡河原」「蟹淵」「宝判」「星が森」「のぎ取りの五左衛門さん」「護摩の峰」「稲荷寺」「竜光寺」「仏木寺(一)」「仏木寺(二)」「子安大師」「仙竜寺の本尊」「西林寺」「南光坊」「泰山寺と不忘の松」「栄福寺」「観自在寺と願成寺」「札かけ大師の堂」「岩屋寺」「泰山寺」「十夜が橋」「犬神よけ大師」「庚申堂と子安地蔵」「八塚と石手寺」「(片耳の地蔵)生木の地蔵」「久万(くま)の町」「九島九十九谷」「九十九王」「いざり松」「片目の鮒」「極楽寺の無量寿・弁財天」「福楽寺の薬師」「三宝寺の観音」「宝寿寺」「法隆寺」「東光寺の不動」「円福寺の不動」「本願寺」「理正院」「香積寺」「入仏寺」「惣持寺」「出石寺」「大宝寺」「仙竜寺」「横峰寺」「久妙寺」「栄福寺」「仙遊寺」「浄瑠璃寺」「八坂寺」「三角寺」「椿堂」「円福寺」「延命寺」「善宝寺」「円明寺」「三間のおいなりさん」「犬神」 
  
徳島県  
「石芋」「長命杉」「灯明杉」「杖杉」「一本杉」「名なし木」「お手植えの杉」「逆杉」「弘法水」「平等寺と白水の井戸」「法輪寺と小豆洗大師」「黄金の泉」「井戸寺」「柳水庵」「大師水」「お大師水」「お大師水」「柳水」「不動の神杉」「大師の森」「久保の毘沙門さま」「霜月二十四日」「お衣がえ」「種蒔大師」「焼山寺の大蛇」「鯖大師」「種まき大師」「生木の地蔵」「禅定の窟」「太竜寺」「薬王寺と肺大師」「藤井寺」「大日寺」「常楽寺」「釈迦堂」「取星寺と星谷寺」「鶴林寺」「太竜寺」「大日寺」「地蔵寺」「安楽寺」「十楽寺」「熊谷寺」「雲辺寺」「太興寺と大樟」「長戸庵」「祖谷の葛(かずら)橋」「切幡寺」「九十九谷」「多美山」「京柱峠」「薬王寺」「爪形地蔵」「鶏足山の洞穴」「逆さ松」「宝蔵寺の曼荼羅」「金泉寺」「箸蔵寺」「長谷寺」「神宮寺と仏画」「大日寺の絹本掛軸」「一宿寺の薬師」「童学寺の薬師」「法輪寺」「滝寺の観音」「観音寺」「常楽寺」「明王院の不動と六地蔵」「報恩寺」「長善寺」「神宮寺と弁天像」「東福寺」「吉祥寺」「長福寺」「建治(こんじ)寺」「密厳寺」「恩山寺」「高越(つ)寺」「熊谷(くまだに)寺」「大滝寺」「霊山(りょうぜん)寺」「オカイ」  
 
香川県  
「食わずの梨」「食わずの梨」「片葉の葦」「弘法大師のお手植えの松」「船石」「石の塔」「奥の坊の井戸」「杖立ての井戸」「つっとり堀」「加持の水」「綾子踊り」「花折のお姫さん」「瀬居島の八十八箇所」「手なし娘」「あずけのカメ」「十四(とよつ)橋」「御住(みすみ)屋敷」「弘法大師の足跡」「法泉寺」「我拝師山」「仙遊ケ原」「大師産湯の井戸」「菩提樹」「無念道越え」「八栗寺」「一夜建立のお堂」「護摩山」「七仏寺」「本山寺」「おもかげの池」「出釈迦寺」「善通寺」「仏母院」「観音寺」「甲山寺」「高照院」「根香寺」「寄り竹」「法専寺の六字名号」「観音寺の大師像」「法然寺の弥陀」「高照院の三尊仏」「甲山寺の薬師」「善通寺の薬師」「大窪寺の薬師」「三谷(みたに)寺の薬師」「道隆寺の薬師」「大興寺の薬師」「一宮寺の聖観音」「釈王寺の聖観音」「国分寺の十一面千手観音」「聖(しょう)通寺の千手観音」「香西寺の地蔵」「萩原寺と不動」「観音寺の八幡本地仏」「屋島寺」「正大寺」「白峰(しろみね)寺」「観智院」「曼荼羅寺」「興昌寺」「霊芝寺」「若王(にゃくおう)寺」「極楽寺」「西光寺」「願成寺」「不動護国寺」「妙音寺」「正覚院」「出(しゆつ)釈迦寺」「長尾寺」「光貴寺」「海岸寺」「弥谷寺」「江洞(こうどう)の弁天」「塩峯」「善通寺の額」「白峯寺」「湧出の嶽」「剣の御山」  
 
高知県  
「筆草」「ヘクサンボ」「食わずの芋」「岩本寺の三度栗」「子安桜」「喰わずの貝」「御室(おむろ)の桜貝」「口無し蛭」「伊与木川の蜷貝」「犬供養」「不鳴蛙」「鳥居の石」「亀よび場と不動岩」「大師のゆるぎ石」「弘法大師修行の洞窟」「お大師井戸」「弘法釣井(つるい)」「弘法の清水」「大師の杖の跡」「大師の行水池」「大師の目洗池」「小豆粥」「西寺の大釜」「金林寺」「一夜建立の塔」「国分寺」「浪切不動と青竜寺」「金剛福寺」「最御崎寺」「津照寺」「金剛頂寺」「安楽寺」「禅師峰寺」「雪蹊寺」「種間寺」「観音寺の三度栗」「くわず芋」「弘法水」「乗台寺」「高岡のお大師さん」「金剛福寺の千手観音」「津照寺の楫取地蔵」「宗安寺」「竹林寺」「青竜寺の独鈷杵」「石見寺」「大日寺」「延光寺」「神峰(こうのみね)寺」「梯」「御乞食」「御厨戸明神」 
 
九州

 

福岡県  
「弘法水」「不鳴池」「大根川」「九十九谷」「芦の葉の魚」「東長寺の千字文」「鎮国寺の大日・不動」「正覚寺の阿弥陀」「衣掛けの松」「弘法水」「独鈷水」「弘法井戸」「大根川」「鉢伏せ岩」「観世音寺」  
 
佐賀県  
「妙覚寺」「海蔵寺」「円応寺」「弘法井戸」「坐禅岩」「弘法大師の足跡」「いわやの石仏」「黒髪山」「九千部岳」  
 
大分県  
「不喰芋」「不喰大根」「水無川」「杖曳き川」「円通寺の地蔵」「御無想湯の石」「大師まつり」  
 
長崎県  
「ならずの大豆」「御衣掛石」「六角川」「大智院」「円福寺」「清岩寺」「最教寺」「大豆の不作」「石梨」「弘法さんの水」「福田の霊泉」  
 
熊本県  
「杖立井戸」「湯の池」「金剛乗寺」「麦の話」「底なし井戸」「杖立井戸」「杖立温泉」「天の神水」「腰掛岩」「独鈷山」「指の不具者」  
 
宮崎県  
「杖立の泉」「大根川」「大根川」  
 
鹿児島県  
「大師芋」「大師芋」「弘法井戸」「弘法井」「水無し」「大根川」「水無川」  
 
中国  
「五筆和尚」 
 
民話・伝承

 

 
北海道
阿吽寺の不動明王 / 北海道  
松前で当寺を開いた空海が本尊として刻んだ霊像だという。
 
東北
青森県
大蛇 / 三戸郡南郷村  
茅の箸でご飯を食べてはいけない。出羽三山では絶対にしない。弘法大師が高野山に登ったとき、茅の箸で昼飯を食べてから登った。帰り道で大蛇に遭った。呪文を唱えたら大蛇は消え、茅の箸になった。箸の間の飯一粒が大蛇になっていた。 
 
岩手県
甘蕨 / 岩手県  
空海はある家で蕨汁を供された。その面倒な調理法を聞き、あく抜きせずにすむ蕨を授けた。
杖銀杏 / 岩手県  
空海の刺した杖が大銀杏に成長。祈ると乳の出が良くなるという。
 
宮城県
弘法の噴水 (阿武隈川の岩にまつわる伝説)  
昔、弘法大師が諸国行脚の途中にこの地を通りかかりました。  
この年は、阿武隈川も干上がるような大干魃に見舞われていました。  
炎天下を旅してきた大師は喉が渇いてしまい、村人に水を所望しました。  
飲み水さえなかった村人でしたが、水瓶の底に僅かに残っていた水を大師に差し上げました。  
渇きをいやすことができた大師は「お礼がしたい」と言い、  
川岸の大岩(廻り石)へ行き、真言を唱え、持っていた錫杖で岩を突きました。  
そして、「私が去った後、この岩から枯れることのない水が出てくるだろう」と言い残して去って行きました。  
暫くすると、大師が錫杖で岩を突いた所から、本当に水が噴き出したと言います。  
村人達は大喜びして、この水を「弘法の噴水」と呼びました。  
廻り石 (阿武隈川の岩にまつわる伝説)  
阿武隈川が県境の激流を越え穏やかな流れになった地点の右岸に、巨大な岩が川に迫り出すようにしています。  
昔、この大岩の対岸の村に船頭をしている一人の若者が住んでいました。 若者は貧しかったがまじめな働き者で、篠笛が上手でした。  
若者は仕事の合間に大岩へ舟を漕ぎ出し、笛を奏でるのを楽しみにしていました。 若者は村の対岸の村の大きな農家の娘のことが好きでした。  
二人は人目を忍んで日が暮れてから大岩で逢瀬を楽しんでいました。 将来を誓い合っていた二人ではありましたが、反対する娘の両親は娘を奥座敷に閉じこめました。  
ある夜、娘は座敷を抜け出し、逢瀬を楽しんでいた大岩まで行き、大川に身を投げて死んでしまいました。  
このことを知った若者は、深い悲しみから笛も吹くのを忘れ、終日大川の流れを見つめていました。  
ある夜、娘が身を投じた大岩に行き、娘の好きだった笛を吹くと、不思議にも突然娘が現れ、じっと聞き入ってにっこりと微笑みました。  
若者はいつまでも笛を吹き続け、毎晩幻の逢瀬を楽しんでいたといいます。  
しかし、ある日を境に若者の姿は見えなくなり、死んだともどこかへ行ったとも伝えられましたが、誰にもわかりませんでした。  
二人が逢瀬を楽しんだ大岩はその後、廻り(めぐり)石といわれ、若者たちの悲恋も語り継がれています。
 
阿武隈川  
那須岳の1つ三本槍岳のすぐ北に位置する福島県西白河郡西郷村の甲子旭岳に源を発し東へ流れる。白河市に入り西白河郡中島村付近で北に流れを変えると、須賀川市・郡山市・福島市と福島県中通りを縦貫して北に流れる。福島県と宮城県の境界付近では、阿武隈高地の渓谷を抜ける。この区間を並走する国道349号は、待避所のある1車線の険しい道路となっている。宮城県伊具郡丸森町で角田盆地に入り、角田市を流れて仙台平野に出る。現在は岩沼市と亘理町の境で太平洋に注ぐが、古代の旧河口は現在の鳥の海である。旧北上川河口から松島湾を経て阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約60kmに及ぶ日本最長の運河・貞山運河が延びている。この運河により、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野のすべての水系、および、福島県の阿武隈川水系はつながっている。勾配がゆるやかな川で穏やかな印象があるが、増水時にはあふれやすく洪水被害の絶えない暴れ川でもある。1986年には台風による増水で大規模な洪水が起こっているほか、2011年には津波の逆流により大規模な海嘯が発生している。  
阿武隈川の名前  
阿武隈川は、平安時代には「あぶくまがわ」と呼ばれており、歌枕にもなっていました。  
阿武隈川は古来より、いろいろな呼び方や書き方をされてきており、「あぶくまがわ」や「おおくまがわ」と呼ばれ、阿武隈川、大熊川、大隈川、合曲川と書かれています。  
阿武隈川の語源は、福島県白川郡の西甲子岳の山中に住んでいた、大熊(青熊・生態)に由来すると言う説がありますが、これは定かではありません。  
阿武隈川の「隈(クマ・曲)」とは、川が蛇行すること言われていて、確かに阿武隈川の中流から下流にかけて、「隈(蛇行箇所)」がたくさんあります。  
また「隈」と言う字が使われている名称、地名などは、大隈川・大隈橋・亘理町大隈など、福島県から宮城県にかけて、阿武隈川流域に点在しています。  
阿武隈川流域の水に関する地名  
阿武隈川は古来より、沿岸流域に住む人々との生活の総ての面に大きな影響を与えてきました。  
川と接することにより、その特徴・特質をよくとらえ、その土地土地に恐れ・驚き・感謝・愛着・祈り等の感情をこめ、率直で適切で相応しい地名を残しています。  
例えば丸森橋から上流部は、岩を砕くような激流であるため、「滝」や「巻」と呼ばれる地名や箇所が多数あります。  
これは激流になっている所の川の流れは非常に変化や特徴があること、そしてこの表現は漁撈(ぎょろう)のため、川の様子や状態をよく知る必要があることから生まれ名付けられたものと考えられています。  
たとえば…伊具郡丸森町字滝ノ上、伊具郡丸森町字大巻北、字大巻南、字岡巻  
逆に川の流れが穏やかになる丸森橋から下流部は、上流部のような名称は少なくなり、「川前」「川原」「島」「土手」「谷地」などの地名が多くなります。 
 
秋田県
弘法の井戸 / 秋田県男鹿半島・入道崎(畠)  
昔、弘法大師が入道崎の畠(はたけ)部落を訪れ、 水を飲ませてほしいとたのんだところ、その家の人は 「ここは水が不自由なのでその米のとぎ汁でよければ」とこたえた。  
すると、弘法大師は、地面に四角を書き、ここに井戸を掘ればよいと言った。  
教えられた所に掘った井戸は夏でも水が涸(か)れることがなく、「中の井戸」と呼ばれた。  
部落の中で立ち話をしていた男の人に井戸のことを聞くと、 「弘法大師の井戸の水を飲んでいるから、長生きできて、俺が168歳で、こいつが170歳だ。」と教えてくれた。  
井戸の水ではなく「米の汁」を飲んで元気だったようである。  
富山県や福井県には、米のとぎ汁を弘法大師に飲ませたために、そこの水は白く濁ってしまったという「弘法の濁り水伝説」がある。 米のとぎ汁の話は、富山県の方から伝わってきたのだろうが、正反対の結果になっている。
弘法大師と石芋 / 秋田県仙北郡美郷町[旧千畑町]  
昔、昔の話なんしけど。  
ある夏も終わりに近い頃、一人の坊さんが、千畑の大屋敷というところまでやってきた。  
ああ、腹がへったな、と寂しそうに歩いていた。  
ふと、道端を見ると旨そうな芋の子がいっぱい植わっていた。  
その人は、持ち主の家に行って頼んだ。  
「芋の子が旨そうに見えたし、自分は腹が減って仕方がない。ちょっと煮て食わせてくれないだろうか?(おれよ、その芋のこ、旨そうに見えだし、腹も減ってひじねくてな、何とかその芋の子よ、さっと煮て、食へてきねべか?)」  
「手数をかけないでもいいから、何とか頼みます(手数かけねでもよ、何とか頼むんシ〜)」と、手を合わせて願った。  
しかし、その家の女の人は、ちょうど晩方で忙しい夕げ時分だったので、こう言って断わった。  
「そうだ、そうだ。この芋の子は、石芋の子だから食べられないんだよ(んだ、んだ。この芋のこよ、何と固くてよ、石芋の子だもの、食れねでや)」  
「そうですか。一つ食べたかったな(んだが、んだが。一つ食[く]でがったな)」  
残念そうにそう言って、とぼとぼとどこへ行くのか肩を落として立ち去った。  
秋になった。  
女の家では、「あ〜あ、芋の子も旨くなったな、掘ってきてみんなして食ってみるか」と、芋の子を掘ってきた。  
まな板においた芋の子に包丁を入れようとした。  
・・・何と固い! いつもの芋の子と違うな。  
別のを掘ってきてやってみたが、・・・おかしいな、どうしてこんなもの(こんたらもん)に、なったべな。  
・・・包丁のかからねえ、石芋の子ばかりだっ。  
その次の年も次の年も、固くて食べられない芋の子が採れた。  
いくら植えても、石芋の子だった。  
それから何年もして、あのみすぼらしい、芋の子を食べたいと願った坊主は、実は、何と弘法大師だった、ということが分かった。  
・・・あの時、ちょっと食べさせてあげたら、何事もなかった。  
と、後悔したが後の祭りだ。  
それからというもの弘法大師の歩いた道筋の畑には、柔らかな芋の子はどうしても採れなくなった。  
みんな、石芋の子になる。  
今もなお、固くて食えたものではないので、もう誰も芋の子を植えなくなってしまった。 
田根森根っこ(たねもりねっこ)/ 横手市  
秋の寒い日、汚い衣の坊様が何か食べさせてくれと言って金持ちの家に行った。金持ちの家では芋を煮ていたが、石芋で煮えない芋だから別の家へ行ってくれと断る。隣の親切な家でご飯を食べさせてもらう。その家では薪がなかったが、坊様が寒いだろうとあらかた焚いてやる。坊様は弘法大師で、礼に「困ったら裏の土を掘ってみなさい」と言って立ち去った。その土は燃える土で「田根森根っこ」と呼ばれた。金持ちの家ではそれから石芋しか取れなかった。だから乞食でも粗末にするものでない。  
弘法の泉 / 手市  
黒衣の旅僧が農家で一杯の水を請うたが、機織りをしていた娘は、手を休めず断った。次々と断られ村はずれの最後の家に願うと、わざわざ遠くまで水を汲みに行って手向けてくれた。旅僧は大変感謝し、持っていた杖で地面を突き、きれいな清水を授けてくれた。  
弘法の水 / 手市  
平鹿郡田村野に行脚僧が訪れ、一軒家の婦人に一杯の水を乞うた。婦人は半里も離れたところからわざわざ水を汲んで来て、この僧に飲ませた。僧は感謝し、錫杖を地に立て、念仏を唱え、錫杖を抜くとそこから清水がこんこんと湧き出た。  
田根森根っコ / 横手市大雄  
田根森の人達は、薪が少なく難儀していた。ある寒い日坊主が一杯の飯を頼んだが、その家の親爺が石芋でなかなか煮れないと断り、次の家では、雑炊を食べさせた。親爺はたきぎが少なく困っていると話しながらも、暖まる程燃やし、次の朝、坊主はもてなしに礼を言って去った。春になり、親爺は荒れ地の開墾を続けたが、黒い土ばかりでたき火を始めると土が燃えた。燃える土だと喜んで、その家では寒い時も暖かく暮らした。芋を煮た家では、いつも石のように固く芋は煮れなかった。坊主は弘法大師だった。  
弘法の泉(こうぼうのいずみ) / 手市  
黒衣の旅僧が農家で一杯の水を請うたが、機織りをしていた娘は、手を休めず断った。次々と断られ村はずれの最後の家に願うと、わざわざ遠くまで水を汲みに行って手向けてくれた。旅僧は大変感謝し、持っていた杖で地面を突き、きれいな清水を授けてくれた。  
田根森根っこの話(たねもりねっこのはなし) / 手市  
弘法大師が田根森に来て、一軒の家に食べ物を分けてくれるよう願った。そこの家では芋を煮ていたのだが「なかなか煮えない石芋だ」と言って追い払われた。隣の家で願うと、粥飯を御馳走してくれたが、あまり寒いので、柴を焚いてくれるよう願った。残り少ない柴を焚いてくれ、温めてくれた。弘法大師は「春になったら裏の荒れ地を掘ってみるように」と言い残して立ち去った。春になって土を掘ってみるとそれは燃える土だった。  
弘法さん / 手市  
昔弘法さんが雲水になって廻っていた。六郷で坂本三郎兵衛という処に泊めて貰った。三郎兵衛は貧乏だったが、よくもてなしてくれたので、俺に小児の虫薬の作り方を教えた。三郎兵衛はそれを売って栄えるようになる。 またあるとき水を一杯欲しいと女性に頼むと、女性は馬にあげる桶から水を寄越した。すると女性の顔は馬のように長い顔になってしまった。長信太村の川口の骨継ぎの薬も、大曲の川岸から大根が採れるのも弘法さんのおかげだ、と岩崎の虫薬爺が聴かせた。  
無題 / 横手市  
平鹿十文字(現、横手市十文字町)には、弘法清水(すづ)というのがある。ある日、石川治兵衛の家にみすぼらしい格好の老人が来て、一杯の水を所望した。石川家の嫁は「雑水(汚い水)を飲め」と言った。老人は外へ出て行き杖を地面に立てた。するとそこから清水が湧いて来た。老人は嫁に「道に欅(けやき)が落ちているから拾え」というので、嫁が拾うと蛇になった。それからその家には水が出なくなった。  
無題 / 男鹿市  
北浦町字畠の伊藤家に弘法大師が訪ねてきた。家の人は泊めることはできるが、米をとぐ水がないというと、弘法大師が杖を突き立てて抜いたところ、水の枯れない井戸になったという。
弘法大師の水 / 男鹿市  
大倉村に昔弘法大師が訪ねてきた。ある家で水をもらおうとしたところ、その家のおばあさんが、家の井戸の水が悪いので時々タツノヒゲ(堰)から汲んできている。こんな水でも良かったら飲んでくれと言った。そこで弘法大師が杖を突き立てて抜くと、水がわき出て枯れることがなかった。この井戸は大倉の三島神社の登り口のところにある。  
弘法大師の水 / 男鹿市  
羽立の比詰という村に弘法大師が来て、水をもらおうとしたところ、そこのおばあさんは「川で飲め」と言って水をあげなかった。弘法大師は川で水を飲み、念仏を唱えながら去っていった。それから比詰川の水がだんだん不足になったという。それからこの村で八幡神社を観請し、付近から清水が出るようになったという。  
アクのないわらび / 男鹿市  
ある日、老婆がワラビを煮ていると旅の僧が来て、何か食べ物はないかと所望する。老婆は「何もない。ワラビは茹でたが、一晩灰汁につけないと食べられない」と言う。僧は「そのワラビを少しください」と言っておいしそうに食べる。老婆がびっくりしていると僧は「お婆さんがやさしい人だから、仏さんがアクのないワラビを作ってくれたのです。これからはアクのないワラビが生えますよ」と言って立ち去った。その坊さんは弘法大師で、西黒沢の一角にはアクのないワラビが生えるようになったそうだ。  
弘法清水(こうぼうしみず) / 男鹿市  
入道崎には、「弘法を親切にもてなし、湧水を得た」という弘法伝説が残っている。  
弘法大師と水 / 男鹿市  
羽立の比詰という村に弘法大師が来て、水をもらおうとしたところ、そこのおばあさんは「川で飲め」と言って水をあげなかった。弘法大師は川で水を飲み、念仏を唱えながら去っていった。それから比詰川の水がだんだん不足になったという。それからこの村で八幡神社を観請し、付近から清水が出るようになったという。  
西黒沢の縞石(にしくろさわのしまいし) / 男鹿市  
弘法大師が男鹿に修行に来たおり、立ち寄った民家に食べ物を乞うたところ、芋を石ころだと言ったら芋が石ころに変わった。また小浜でハマグリを拾っている女に「何を拾っている」と聞くと「しま石」と答えたので、ハマグリはみんな縞石になった。  
縞石のある部落(しまいしのあるぶらく) / 男鹿市  
昔、西黒沢の村にみすぼらしい姿の旅の僧侶が立ち寄った。疲れて空腹だった旅の僧は、かまどの煙に誘われ一軒の婆さまの家に入った。食べる物をお願いしたが「貧乏で何にもない」という。「かまどに煮ている物を少しでもいいから」と言うと、老婆は「これは食いものではない。浜の石ころだ」と言って追い払う。旅の僧侶は悲しげに立ち去る。芋も煮えたころだと思って老婆が食べようとすると、芋は石ころに変わっていた。それから西黒沢の海辺には珍しい縞模様の小石が見つかるようになった。旅の僧侶は弘法大師だったそうだ。  
弘法大師から授かった井戸 / 男鹿市  
昔、弘法大師が畠(入道崎)に来て、ある家に立ち寄り水を所望した。その家では「ここは水の不自由な所で、米の研ぎ汁でよかったら」と言われた。大師は地面に四角を書き「ここを掘れば水が出る」と教えてくれた。この井戸が「中の井戸」と呼ばれ、夏でも水が枯れることがない。畠では中の井戸を弘法大師が授けてくれた井戸と言って、今でも大事にしている。  
藤の井戸 / 男鹿市  
弘法大師が船川港金川姫ケ沢にさしかかったころノドが渇いた。民家に行き「水を一杯恵んでください」と頼んだ。ところがその家の人は「乞貧法師に飲ませる水はない。飲みたいならそれを飲め」と泥水を指差した。大師は錫杖でかき回してそこの家の井戸を泥水にした。次の家では、少しばかり出る井戸の水を布でこして「あまりいい水ではないが」と飲ませてくれた。大師はその家の井戸をコンコンと湧き出る良質な水にして立ち去った。いつのころからか井戸の周りに藤が植えられ、見事な花をさかせるので「藤の井戸」と呼ばれるようになった。旱魃にも枯れず汲むほどによくでる井戸という。  
弘法大師と水 / 男鹿市  
大倉村に昔弘法大師が訪ねてきた。ある家で水をもらおうとしたところ、その家のおばあさんが、家の井戸の水が悪いので時々タツノヒゲ(堰)から汲んできている。こんな水でも良かったら飲んでくれと言った。そこで弘法大師が杖を突き立てて抜くと、水がわき出て枯れることがなかった。この井戸は大倉の三島神社の登り口のところにある。  
無題 / 男鹿市  
黒崎の白蕨。昔、ある法師に宿をかした女が、海が荒れてわかめをとることができず、何を汁の実にして旅の僧をもてなそうかと思案していた。すると、その僧が、山道にあった蕨を採ってくるように言った。女が、蕨はあく抜きをしなくてはいけないと言ったが、僧は山に出かけて行き、一つかみほどの蕨を採ってきた。そのまま鍋に入れて火にかけ、やがて食膳にだしたところ、味もたいそうよかった。これは空海(弘法大師)がこの世に現れて教えられたのであろうと、人びとはもっぱら語っている。今の世になっても、汁菜(しるくさ)にするくらいの量の、灰につけないでもよい蕨が萌えでるという。  
無題 / 男鹿市  
男鹿島でも水が多く出る所と、水不足で悪い水の出る所と二分されているという。それは、弘法大師が男鹿を巡回したときのこと。村々に入って必ず一杯の水を求めて歩いたが、快く飲ませた村では杖を土中に突いて良い水を出してやり「堰の水でも飲め」と言った村では悪い水にした。特に比詰村のある婆さんが弘法大師にそう言ったため、この村では年がら年中悪い水を飲んでおり、夏には小川も乾いて飲む水もなくなるそうだ。 
無題 / 男鹿市  
北浦町字畠の伊藤家に弘法大師が訪ねてきた。家の人は泊めることはできるが、米をとぐ水がないというと、弘法大師が杖を突き立てて抜いたところ、水の枯れない井戸になったという。  
無題 / 男鹿市  
カクレ里に入る手前に硯石がある。大きな石に小さな穴が掘ってあり、水が溜まっている。昔、弘法大師が男鹿に来たときに石に穴を掘り、石から水を湧かせて自分の硯石にしたと言われている。そのためどんな旱魃の時でも水が無くなる事はなく、汲み取ってもすぐ水は満ちるとの事である。積み重ねられた石の一番高い所には、何かが書かれた石碑が建てられているが、これも弘法大師が書いたものだそうだ。
法体の滝(ほったいのたき) / 由利本荘市  
弘法大師が巡行して、しばらくの間滝に打たれて修業した時、この滝の美しいのに感じて、「法体の滝」と名づけたという。  
沿革と信仰(えんかくとしんこう) / 由利本荘市  
矢島町に九日町以外町と名の付く所がなかった頃、一人の女が毎年マダ布(シナの木の繊維の織物)を売りに来た。ある男が、女を尾行し夫婦になり、その地を開いたのが今の中村だという。小野定一さんの氏神堂に安置されている山の神の像は、その女の姿を刻んだものだという。弘法大師様がお出でになったころ、家は六戸で柴沢村と呼ばれていた。弘法様が「この村は百戸まで暮らせる」と言ったのが、百宅の名の起こりだといわれる。  
弘法清水(こうぼうしみず) / 由利本荘市  
昔は雪車町のように、井戸を掘っても水が出ない土地、というものがあった。ところが、その後ろに白山様という神社があり、そこに祇園様の井戸と呼ばれる井戸がある。この辺りで水が出ない理由は、昔弘法様がある家に水を貰いに行くと、水を汲みに行くのが面倒な家人は馬の水を飲ませた。それ以来この辺りでは水が出ない。  
百宅の七不思議(ももやけのななふしぎ) / 由利本荘市  
法体の滝というところで弘法大師が修行をした。  
弘法の洞窟という所がある。法体の滝へ行く前、弘法大師がここで休んだという。  
翁畑(おうはた)というところで、弘法大師が村人と立ち話をした。  
猫が虱で苦しんでいたので、弘法大師がとってやった。以来百宅の猫には虱がいないという。  
田んぼにドロオイ虫(ガツギ虫)がたくさんついていたので、弘法大師がとってやった。以来下百宅には虱がいない。上百宅にはいる。  
弘法大師が足を洗おうと川に入ると、ツブ(タニシ)が足を刺した。子供が刺されたら大変ということで、弘法大師がツブの尻をかいた。以来百宅のツブは先がとがっていない。  
弘法大師が高野台に行った時、若い男たちが鱒を捕っていた。弘法大師はやめるように言ったが、若者たちは鱒にツタの蔓を通してジサキという木につけ、弘法大師に背負わせた。以来その川には魚がいなくなり、ツタもジサキも生えなくなった。  
百宅の一番鶏は鳴かない。そこで弘法大師が衣を干したと言われる。  
百宅はもとは芝沢村と呼ばれていたが、弘法大師が来た際、百軒住める可能性があると言い、百宅(ももやけ)と言われるようになった。  
弘法の葛(こうぼうのくず) / 由利本荘市鳥海町  
百宅(ももやけ)には葛が生えないと言われている。それは百宅の人達が葛のツルで弘法さまに松を背負わせたからだと言われている。弘法さまは葛が嫌いだったので、葛が生えないようにしたという。百宅には弘法の七不思議というものが伝わっているという。   
弘法大師と井戸水 / 由利本荘市  
暑い夏の日、坊さんの姿をした弘法大師が歩いていると、水を持った婆さんと若い女の二人連れに行き合った。水を飲ませて欲しいと頼むと、婆さんは断ったが、若い女は水をたくさん飲ませてくれた。家の井戸からは悪い水しかでないときいた坊さんは、きっといい水がでるたろうといい、拝んで去って行った。その翌日女と家並みが同じ側の井戸からきれいな水がでるようになった。  
弘法大師と喰われずの大根 / 由利本荘市  
みすぼらしい坊さんの姿をした弘法大師が婆さんに大根をくれるよう頼んだが、婆さんは固いからだめだと断った。坊さんがいなくなった後、洗っていた大根や畑にある大根がすべて石のように固くなってしまったので、婆さんは畑を親切なよい爺さんに売った。畑が爺さんの手に渡るとよい大根ができていた。それから婆さんは心を入れ替えてよい婆さんになった。  
無題 / 由利本荘市  
百宅の苗代にオドロイ虫がいないのも、大師が穂のありさまを見て、かわいそうに思い、法力を発揮し虫を絶滅させたためで、鶏が羽ばたかないのも、鶏が羽ばたいて、大師の衣に土ぼこりをかけたので、「鶏よ、歌を歌っても、羽ばたきするな」と教えたからだと言われている。  
無題 / 由利本荘市  
百宅の小川のウラツブは、その尻がとがってないと言われるが、これも大師の足にウラツブが刺さったからで、人を苦しめる部分を法力をもってなくしてしまったから、と言われている。 
無題 / 由利本荘市  
百宅の地名は、いつ頃ついたかは判明しない。古伝によると弘法大師が名付けたと言われている。古くはこの集落を柴笹村と呼んでいた。しかし、弘法大師が集落のありさまを見て、「柴笹村とはあまりに寂しい。平地広く地味もゆたか、百戸の人達が住めるから百宅村と改めよ」と村人に教え、この地名が生まれた。
弘法伝説(大根) / 大仙市  
弘法大師さまが村に来て「大根をくれ」と願った。この村の大根は全部殿様に年貢で納めるのであったが、股っか大根を裂いてくれた。この村では優秀な大根が採れる。  
弘法伝説(水枯れ) / 大仙市  
弘法大師さまが婆に水をくれるよう頼んだが、婆はくれなかった。その後この集落には水は絶対出ない。  
弘法伝説(石小豆)(いしあずき) / 大仙市  
三本扇子今宿の畑に、石のような小豆がある。  
炭焼きと弘法大師 / 大仙市  
昔、協和村稲沢の炭焼き小屋に、坊さんが来て、炭焼きの仕事を見ていた。炭焼きは坊さんに関係せず、窯から真っ赤に燃えている炭を出していた。坊さんは窯の中に木を積むにはどんなふうにするものかと尋ねると、炭焼きはからかい半分に火を焚いてから、木の中に積むものだといった。炭を窯から出してしまったら、坊さんは木を積むのを私にやらせてほしいといったかと思うと窯の中に入り、残って燃えている炭の上に木をどんどん積んでこんな具合でよいのかというので、炭焼きはただびっくり動天しおろおろするばかりだっだ。これを聞いた人達は弘法様だろうといいあい、以来その沢では、炭を焼いても木に火がつかなくて炭焼きができなかったという。西木村檜木内にも同じ伝説があるが省く。  
犬を飼わない部落 / 大仙市  
弘法大師が犬嫌いなので、逢田集落の人達は信者なので犬を飼わない。  
弘法授けの水 / 大仙市  
船沢の清水は弘法大師が授けてくれた。惣左衞門水と呼ばれ、「流灌頂」の風習があったところだ。  
馬になった姉 /大仙市  
ある家の姉(妻)がはた織りをしている所に「水を飲ませてください」と乞食坊主がやってきた。あまりに汚い坊主なので妻は雑水桶の水を飲ませた。坊主は礼を言って出て行った。そこに兄(夫)が帰ってきた。妻は首から上が馬の顔になっているのも気づかずはたを織っていた。驚いた夫が訳を聞き、罰が当たったのだろうと坊主を追いかけあやまると、坊主は「この杖で尻を叩け」と杖を一本夫に渡した。夫が尻を叩くと妻は馬になっていなくなった。乞食坊主は弘法大師であった。だから乞食坊主でも粗末に扱ってはならない。  
炭焼きと弘法大師 / 大仙市  
昔、協和の稲沢の炭焼き小屋に一人の坊さんが来て、炭焼きの様子を黙って見ていた。やがて坊さんは、炭焼きに「釜の中へ木を積むにはどんなふうにするのか」と尋ねた。炭焼きの男はからかい半分で「火を焚いてから釜の中に積むものだ」といった。坊さんは「それでは私にやらせて欲しい」と言って、燃えている炭の上に木をどんどん積んだ。この話を聞いた村人は、弘法大師様だったろうと言いあった。それ以来、稲沢で炭を焼いても木に火がつかないので、炭焼きが出来なくなったという。  
庄内の清水(しょうないのしみず) / 大仙市  
庄内集落には湧水が多くあり、多助の清水は弘法大師の授け水、如露香清水は聖徳太子の水として知られ、そばに如露杉が生い茂り、この杉から不思議な魔の鳥が飛び去ったという。
水無(みずなし) / 湯沢市  
水無には水がなかったが、婆が遠くの清水まで行って、弘法大師に水をご馳走したため、弘法大師が杖で岩を叩いて清水を作った。  
阿保原地蔵(あほはらじぞう) / 湯沢市  
湯仙寺境内にあり、弘法大師の作と伝えられているが、昔、白石噺の主人公、宮城野、信乃の姉妹が、仇討ちの祈願をして首尾よく本懐をとげた地蔵尊で、白石三沢村阿保原円福寺より、この地に移したものだという。  
飯田村の「みの けら」の由来 / 湯沢市  
千二百年ほど前、飯田村は貧乏な村だった。弘法様が現れ、百姓達を山へ連れて行く。途中、大嵐になり、谷川が増水し、橋まで流されてしまう。弘法様が呪文を唱え祈願すると、水は地下に潜ってしまう。それから、すげが生えている場所に案内し、みんなに刈り取らせる。持ち帰ったすげを夏日で干し、冬の農閑期になったらみのやけらを作って、生活の足しにするようにと、教えてくれた。地下に潜った水は、隣集落の羽竜との境30mほど離れた所に今も湧き出ている。  
無題 / 湯沢市高松  
相の山の中腹を弘法さまが通りかかった時、村人が親切にもてなした。そのお返しに錫杖でついて水が湧き出るようにしてくれた。その水を飲むと、頭が良くなり、字が上手になるといわれている。
高野派(こうやは) / 北秋田市  
三人のマタギが高野山に行き、弘法大師様を訪ねた。すると弘法様から「呪いの言葉、呪言を知っているか」と問われ、「知らない、知りたいものだ」と答えた。続けて「それでは三人のうち一人を生涯俺に奉公させるか」と問われ、マタギたちは「承知した」と答えた。三人は、仲間の一人を弘法様に奉公させて呪言を授かった。高野派は、これが起こりだとされている。  
又鬼と空海上人(またぎとくうかいしょうにん) / 北秋田市  
又鬼の祖先、万事万三郎が、弘法大師空海とは知らずに衣を剥ぎ金を奪った。「生き物を獲る者は七代七流れの罪になる」と諭され、「お前達は人間に害する悪鬼を退治する者、鬼のまた鬼だから又鬼と称しなさい。後日又鬼の秘法を遣わす」と告げられる。万事万三郎は高野山に空海上人を訪れて、生き物を獲った罪の祓い方、獲物の供養法、危険を避ける法、身の潔め方、犬縄の長さなど数々の秘法を伝授された。 
弘法大師 / 北秋田市  
弘法大師が鷹巣に来た時、婆に薬の作り方を教えた。婆は八十二歳で、他の人が作った薬はきかない。  
弘法大師 / 北秋田市阿仁荒瀬  
弘法大師は日本の国内を見るということで、何年も歩いた。比内の味噌内というところで味噌つきをやっていた若者は「糞つきをやっている」とあくたれ口をきいた。罰が当たったものか味噌をつけば全部糞くさくて食われなくなり、村は味噌内という名前が付いてしまった。山の中の幽霊が出る寺では弘法様が幽霊の問答に句をつけると幽霊が出なくなった。弘法様に砂糖味噌つけたんぽを食べさせなかった家は火事で焼け、餅を半分しか馳走しなかった婆様は隠していたのを見やぶられた。  
弘法大師お授けの水 /北秋田市阿仁荒瀬  
弘法大師は偉くなって日本国中歩くようになった。夏の暑い日、女たちが4、5人田の草取りをしていると、大師が冷たい水のあるところはないかと聞いた。向かいの村まで行かなければ冷たい水がないと言うと、杖であちこちを差している。田の畔で水を飲んでいた大師は女たちにこの水は本当にいい水だから、村中にせきを通して田んぼに使えばいいと教えてくれた。次に天に向かって呪文を唱えると雨が落ちてきた。今でも弘法大師お授けの水として使われている。
弘法伝説(かぶ) / 美郷町  
野荒町に弘法大師が回って来て、婆にかぶが欲しいと願うと婆は「悪いかぶだがこれでよければ」と快く呉れた。翌年から、野荒町は良質のかぶが採れ、かぶの産地になった。  
大屋敷の石芋(おおやしきのいしいも) / 美郷町  
千屋字大屋敷の某家に旅の僧が来て、空腹で困っているが、畑の里芋を分けていただけないかと言った。家婦は縁先で機を織っていたため、面倒くさがって、家の芋は石芋なので、煮ても焼いても食べられないから他の家に行くようにと追い返した。僧は何も言わず立ち去った。ある日里芋を掘ったところ、やはり石芋になっていて、食べることができなかった。翌年また同じ畑に里芋を作ったところ、やはり石芋よりできなかったという。僧は諸国行脚中の弘法大師であったという。  
石芋(いしいも) / 美郷町  
弘法さまが「火にあたらせてくれ」と婆に願ったが、断られた。それ以来弘法大師の杖をついた場所の里芋は硬くて喰えない。  
タムラネッコ / 美郷町  
弘法様が「火にあたらせてくれ」と願うと「焚き物がない」と答えた。弘法様は土を掘ってタムラネッコを出し、「これを焚け」と言った。
大師倒杖の公孫樹 / 仙北市  
西木村西明寺の真山堂宇直前に、周囲二十余尺の銀杏が生えているが、弘法大師が杖にしてきた木を記念に植えたら成育したという。名を大師倒丈の公孫樹と呼ばれ有名である。乳の出ぬ人は、木綿袋に米を入れて樹の前に供え祈願すると出るようになるという。婦人の参詣人が多く、路のほとりに冷泉があるが、大師の喉を潤した「お授けの水」といわれている。ここの公孫樹が一時に葉を落とす年は、豊年満作くであるという。  
弘法の公孫樹(こうぼうのいちょう) / 仙北市西木町  
西明寺の真山堂の前に銀杏の大樹がある。これは弘法大師が、巡行の折に、杖にしてきた木を記念に植えたら、根が生じて成育したもので、弘法大師倒杖の公孫樹とよばれている。乳の出ない女が、三角の木綿袋に米をいれてこの大樹に供えて祈願するとかなえられるという。またこの大樹が一時に落葉する年は豊作だと信じられている。
山塩井山 / 能代市二ツ井町  
西山の麓に、弘法大師の法力によって湧出したという塩泉がある。はじめは白塩であったが、野とに塩水に変わったという。魚や野菜の貯蔵に村人が利用した。「世渡りのからきを汲みてしほ井やこの山本に湧き初めにけり」(茂木知教の作)の歌碑が残っており、弘法の突き塩と伝えられている。  
切石の塩水 / 能代市二ツ井町  
日照り続きの年、村人は渇水に苦しみ雨乞いしていた。乞食のような坊さんが訪れ、一杯の水一片の食物を求めて歩いたが与える人はいなかった。ある貧しい家で、母親が欠けた椀に水を入れ「大きく欠けた所は夫が飲む所、次に大きい所は私が飲む所、小さく欠けた所は子が飲む所。欠けていない所で飲め」と差し出した。坊さんが、お礼に水涸れした井戸を錫杖で叩くと塩水が湧き出た。塩は貴重品。坊さんは弘法大師だったと言われる。
弘法大師 / 上小阿仁村  
弘法大師は手足が不自由だったので、雪が降るとワラジにツマゴを編んで足を隠して歩いた。  
弘法大師 / 上小阿仁村  
昔、弘法大師が三治郎宅に泊まった時、病気の娘のために薬の調合を教えてくれた。
弘法伝説 / 鹿角市  
弘法大師が行ったらきれいな娘が菜っ葉を洗っていたがとてもいじわるだった。弘法大師は長旅でよごれるし、ホイドのかっこうになっていた。「ごはん一つ恵んでくれ。水でもいいからいっぱい。菜っ葉でもいいから、ひとつかみ下さい。」「なにもねえ。」弘法大師はこれは処置なしと思ったか、錫杖で逆さにアホッてついた。この女の子どもがぱっと死んで、水がなくなって、秋の漬物の時になれば、水が切れることもあるそうだ。  
善徳の不思議なわらび / 由利本荘東由利  
善徳川から大石沢へ登っていった所に植わっているワラビは、あく抜きをしなくても食べられる。昔、お坊さんが朝ご飯の支度をしていた老婆に、食べ物を乞うた。老婆が、おかずがないというと、お坊さんはわらびを採ってきて茹でて欲しいと言った。そのとおりにしたところ、ワラビはあく抜きをしなくても美味しかった。このお坊さんは弘法大師だったという。  
引法様と下町 / 大館市  
大館の下町では弘法様が訪れたときどこの家でも一杯の水もさし上げなかったため、いくら掘っても水が出ず、下町の人々はみんな水汲みに苦労したという。  
穏政坊の井戸(おんせいぼうのいど) / 潟上市  
真形集落の旧家平野清蔵氏の祖先に穏政坊という者があった。彼は、弘法大師の弟子となり、天竺等を巡遊し、彼の地に真形国なる地名があるところから帰ってきて、その地に真形と命名したという。同家の屋敷内に井戸があり、そばに四百年も前の松といわれる古木が枝をたれている。この井戸は穏政坊が作ったものと伝えられている。かつて、この古木の枝を伐ったものがあったが、そのものは百日間病気にかかったといわれている  
普門寺 / 秋田市  
金輪山普門寺は真言宗で、本尊は日本弘法の一と称している。弘法大師が四十二歳の厄除けのために、三体の首を自ら刻んで海に流したという。一つは難波の浜に着き天王寺に納まり、一つは鎌倉の浜に着き川崎大師となり、一つは秋田の浦に漂着した。後に旅の僧がきて、体躯を彫刻して全身を完成して、この寺に移して本尊とした。今も厄除け弘法大師として信仰されている。  
授けられた塩 / 能代市二ツ井町  
切石の助左エ門という家に、粗末な衣を着た坊さんが食べ物を求めて毎日訪れた。婆は握り飯を与えていたが、あるとき塩を付けない握り飯を与えた。塩さえない貧しい暮らしを知った坊さんは、庭の片隅を錫杖で突き岩塩を授け「切石より下の人に与えてはいけない」と伝えた。婆が、切石より下の富根に嫁いだ娘に塩を与えたところ、岩塩は塩水に変わった。今も塩水が湧き、坊さんは弘法大師だったと言い伝えられ祭られている。
蚶満寺 / 秋田県にかほ市象潟町象潟島  
この寺には、七不思議の伝説が残る。  
弘法投杉 / かつて、参道入り口左側の老松のてっぺんの一枝がだれが見ても杉に見えることから、弘法大師の霊験によるものといわれ、「弘法投杉」と呼ばれていた老松が太平洋戦争の終わり近くまであった。現在は残っていない。  
夜泣き椿 / 樹齢700年の椿で、寺に異変があるときは夜泣きするという。  
あがらずの沢 / 小さな太鼓橋があり、この辺は昔深い沢で、ここに人が落ちると泥が深い為あがることが出来ない人取沢であったといわれている。  
咲かずのツツジ / 北条時頼が植えたと伝えられる二株のツツジのうち一株は普段は花が咲かない。寺に異変がある年に限り咲くという。  
木登り地蔵 / 本堂裏手のモチの巨木の、上方の幹が分かれた間にちょこんと地蔵様がある。ある時地蔵様を木の根元に下ろしたが、翌朝にはまた元の所に登っていたと伝えられる。  
姿見の井戸 / 平安初期の三十六歌仙の一人の猿丸太夫が、象潟に来た時この井戸に自分の姿を映して自らの行く末を占ったとされている。夜半だれにも知られず井戸に参り自分の姿を映せば、将来の姿が現れるといわれている。  
血脈授与の木 / ある時、入棺の際に血脈(戒名を書いたお守り)を入れるのを忘れた葬列がこの前までくると、忘れたはずの血脈が、ケヤキの枝につり下がっていたといわれ、それ以来このケヤキの古木は血脈授与の霊木といわれるようになった。 
 
山形県
 
福島県
猪苗代湖の始まり  
むかしむかし、会津(あいづ→福島県)の磐梯山(ばんだいさん)のふもとを歩いていた旅のお坊さんが、機織り(はたおり)の音がする家へ水をわけてもらいに行きました。  
機(はた)を織(お)っていたのは美しい女の人でしたが、水をわけてほしいとお願いするお坊さんを見ようともせずに、「あっちへ行きな。他人に飲ませる水など、一滴もないよ」と、冷たく言って、機を織り続けました。  
「・・・そうですか」  
お坊さんはあきらめると、今度は家の前でお米をといでいる、人の好さそうな奥さんに頼みました。  
「喉が渇いて、困っております。その米のとぎ汁でもかまわないので、一杯飲ませてほしいのです」すると奥さんはにっこり笑って、手桶(ておけ)に残ったきれいな水をお坊さんに差し出しました。  
「さあ、これをどうぞ」そして、おいしそうに水を飲み干すお坊さんに、頭を下げて言いました。  
「このあたりは、飲み水に不自由しております。お疲れなのに十分の水を差し上げられず、申し訳ありません」  
「いやいや。こんなにうまい水は、初めてです。ありがとうございました」お坊さんは礼を言うと、ぐるりと辺りを見渡して言いました。  
「大丈夫。明日の朝になれば、きっといい事がありますよ」  
さて、翌朝の事です。  
あの心優しい奥さんは、家の外へ出てびっくり。  
なんと家の前には、水を満面にたたえた湖が広がっていたのです。  
「これは・・・」  
奥さんは、ふと気がつきました。  
「あのお坊さま、あのお坊さまが、湖を作ってくれたのだわ。ありがたい、ありがたい」  
奥さんが手を合わせて感謝していると、湖のまん中から助けを呼ぶ女の叫び声が聞こえてきました。  
見てみると、あの意地悪な機織り女の家だけが、湖の中にとり残されていたのです。  
こうして出来た湖が今の猪苗代湖で、意地悪な機織り女が取り残された小島が扇島(おおぎしま)と呼ばれています。 
足長手長  
むかしむかし、会津(あいず→福島県)の盆地(ぼんち)に、どこからともなく恐ろしい魔物(まもの)が現れました。  
その怪物は、足長手長(あしながてなが)という夫婦の魔物です。  
夫の足長はその名の通りとても足が長く、どんなに遠くても足を伸ばせば届きます。  
妻の手長はとても手が長く、どんな遠いところの物でも、座ったままでヒョイとつかむ事が出来ました。  
この足長手長の夫婦は、なぜか会津の土地が気に入ったようです。  
妻の手長は磐梯山(ばんだいさん→福島県の北部、猪苗代湖の北にそびえる活火山。標高1819m)の頂上(ちょうじょう)に座り、夫の足長は会津盆地をひとまたぎしています。  
「手長よ、そろそろ始めるか」  
「はいよ、足長」  
二人の魔物は声をかけあうと、足長の足がグングンと伸びて、あちこちの雲をつかんでは会津盆地の上に集めます。  
雲は畑仕事をしている人たちの頭の上をおおい、みるみるうちにあたりは暗くなっていきました。  
「今度はおめえだ、手長」  
「はいよ、足長」  
今度は手長が長い手で、猪苗代湖(いなわしろこ→福島県の中央部、湖面標高514m。最大深度94m。周囲63キロm。面積103平方キロm)の水をすくってばらまきます。  
それは大粒の雨となって、畑仕事をする人々の上に降りかかりました。  
「あっはっはっは、見てみろ、あのあわてぶり!」  
「ゆかいだね、足長」  
足長と手長のせいで、会津は暗い雨の日が続きました。  
村人たちは、ほとほと困りました。  
「このまま、おてんとさまが出なければ、家のダイコンが枯れてしまうぞ」  
「このまま作物が枯れてしまったら、おらたちはどうなるだ?」  
「そりゃあ、飢え死にしかねえ」  
「何とか、ならねえか」  
「何とかと言っても、相手があんな魔物では」  
こんな村人たちを見て、足長手長は大喜びです。  
そんなある日の事、ボロボロの衣をまとった弘法大師(こうぼうだいし)というお坊さんが、この会津の村にやって来ました。  
「これはひどい」  
荒れ果てた村の様子に驚いた弘法大師は、村人たちに話を聞きました。  
「よし、その魔物をこらしめてやろう」  
弘法大師はそう言うと、すぐに磐梯山の頂上に登りました。  
そして頂上から、大声で言いました。  
「足長手長! わしはここを通りかかった旅の僧じゃ。姿を見せんか!」  
弘法大師の声に、足長と手長が現れました。  
「わっはっはっは、何じゃ、人間の坊主か」  
「人間にしては、大声な声を出しよるわ」  
「足長手長。わしの言う事をよく聞け! お前らは、どんな事でも出来ると思っとるだろうが、どんなに頑張っても出来ん事があるぞ」  
「何を言うか。この世の中に、わしらに出来ぬ事など何一つないわ」  
「そうか、ならばわしの言う通りにやってみろ。もし出来なければ、お前たちはすぐにこの会津の土地を出て行くのだ」  
「よし、わかった。どんな事か、言ってみろ。ただし、それが出来たらお前を食ってやるからな」  
弘法大師は、ふところから小さなつぼを取り出して言いました。  
「足長手長よ。お前らは、ずいぶんと大きい。だから二人一緒に、こんな小さなつぼに入る事は出来んじゃろう?どうじゃ、まいったか。わっはっはっは!」  
「何だ、そんな簡単な事か。ではいくぞ、手長」  
「あいよ、足長」  
二人は声をかけあうと、みるみるうちに小さくなってつぼの中へ入ってしまいました。  
すると弘法大師はニヤリと笑って、つぼのふたをきゅっと閉めました。  
突然ふたを閉められて、足長と手長はびっくりです。  
「こら! ここから出せ! 早くふたを開けろー! 開けねばつぼを壊してやるぞ!」  
つぼの中で足長と手長が暴れますが、つぼはびくともしません。  
「馬鹿者! 人々を苦しめたばつとして、お前ら二人は永遠につぼの中に入っておれ!」  
弘法大師はそのつぼを磐梯山の頂上に埋めると、上に大きな石を乗せて二度と出て来られない様にしました。  
「ちくしょう、このつぼは、何で壊れないんだー!」  
つぼには弘法大師の法力がかかっているので、足長や手長の力では決して壊れません。  
やがて二人はあきらめたのか、静かになりました。  
すると弘法大師が、つぼの中の足長と手長に言いました。  
「お前たちを山の守り神として祭ってやるから、村人たちの為につくすがよいぞ」  
こうして足長と手長は、弘法大師によって退治されたのです。 
イヌの足  
昔、弘法大師さまがあるとき、「わらう」という字を作ろうとして筆を持ったが、どうしても書けませんでした。  
どのように書けばいいかと考えていたら、表で子供たちの笑う声が聞こえてきました。  
ちょっと障子を開けてみると、子供たちが子イヌに籠(かご)をかぶせて遊んでいました。  
籠がきつくてどうしても取れないので、子イヌがはねているのが面白くて笑っていました。  
大師さまはそれを見て、犬という字に竹をかぶせてみたら、本当に笑っているように見えたので、それから「笑」と言う字ができたそうです。  
それで大師さまはイヌに恩返しをしようと思いました。  
むかしは、イヌは三本足でした。  
大師さまは三本足では不自由だろうから、一本ふやして四本にしてやろうと、五徳から一本取ってイヌに付けてやりました。  
五徳は四本足でしたが、それから三本足になったそうです。  
イヌは喜んで大師様にもらった足に、しょんべんなどかけたら罰が当たると思い、そのたびにその足を持ち上げてするようになったそうです。  
(※五徳・・・火鉢や囲炉裏などに置いて、鉄びんなどをかける鉄製の道具。) 
わらび / いわき市  
昔弘法大師がここを通った時に、村人にわらびを食べたいと言ったところ、村人は、わらびは取ってもすぐには食べられないと言った。それでは不便だろうと読経すると、不思議にもそのまま食べても苦くないわらびになった。それ以来3、4ヘクタールの地内のわらびはあまわらびと称して、とってそのまま食べられるようになった。 
弘法大師 / 安達郡  
ここには昔から井戸が無く、弘法大師が独鈷で掘ったといわれている独鈷水を村中で使っているが、この用水のあたりに蛇が出ると凶事があるといわれている 
布引山の蛇 / 郡山市湖南町  
昔、今の湖南町に雨ばかり降って稲が実らないことがあった。これは布引山の蛇が雨を降らせているということで弘法大師が山頂で何日も祈って蛇を穴へもどした。 
蛇 / 郡山市湖南町  
高井原山を蛇が飲もうとしていたが、弘法大師が護摩をたいて追い出した。その蛇が福良のコエタ坂にのべっていた。殿様がそれを見苦しいといったら、穴に入って尻尾だけ出して死んでいた。そこを穴尾という。 
猪苗代湖 / 福島県  
ある娘が少ない水を空海に全部与えたところ、次の朝、磐梯山の麓が湖になり水が豊かになった。
只見川の地名由来  
その1 むかし、弘法大師が仏教の教えを広めるため、全国を行脚するうち奥会津に入り、お寺を建てるいい場所はないかと、まだ名もない只見川筋を歩いていた。なにしろ両岸の切り立つ岩肌をぬって流れる急峻な川で、弘法大師は川の流れにばかり気を取られ、川ばかり見て歩いたという。だから、ただ見る川、つまり、只見川になったと言われている。  
その2 弘法大師は上流を歩くとき、川の近くには人家もなかったので、「ここは布教の必要はない、ただ見て通るだけでよい」と川筋を下ったから、ただ見る川、只見川になったとも言われている。  
[ 群馬県と福島県の境界にある尾瀬沼に源を発し尾瀬を西へ流れる。いくつかの滝を経て新潟県と福島県の県境を北へ流れ、福島県南会津郡只見町の田子倉に至り北東へ向きを変える。わずかながらの平地を作りながら伊南川、野尻川、滝谷川を合わせ、柳津只見県立自然公園の中を流れ、福島県喜多方市山都町三津合で阿賀川(阿賀野川)に合流する。] 
 
関東

 

栃木県
「日光」という地名の由来  
空海が二荒山(男体山)に登った際に、「二荒(ふたら)の文字がよくない」というのでこれを「にこう」と音読し、それに「日光」の字をあててに改名したとされる。
「名草の弁天様」と「名草」地名の由来 
伝説は、弘法大師が天女のお告げにより江ノ島(神奈川県)で堂を建て修行していたということから始まる。護摩を焚き、その灰で弁天像を三対つくり、それぞれ三箇所に安置したそうだ。その場所は江ノ島、琵琶湖の武生島、そして足利の大勝寺。  
いつしか足利の弁天像が行方不明となってしまった。弘法大師は自らその探索に赴くことにした。この地に入ると、とても香りのよい風が吹いてきた。香りのもとへと足を向け、そのもとが草であることに気付く。これは名草(めいそう)だということで、地名の由来になったという。  
さらに山中をさまようと、突如現れたのが白蛇だった。弘法大師は弁天様の使いに違いないと思い、白蛇の導き通り後を追っていった。すると巨大な岩の前に出た。白蛇は岩の穴に入り、出てこなくなってしまう。弘法大師はこの地に霊示を感じ、この場所こそ弁天様を祀るにふさわしいとして、経文を唱えた。水源の守りに弁財天を勧請し、祠が建てられることになった。
石芋 / 足利市南大町 
平安朝時代、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡歴しておりました。たまたま南大町(当時大町村)の森の中から湧き出る泉のほとりに老婆がちょうど昼の仕事で里芋を洗っているところに出会い大師は、食べるものなく空腹を覚えましたので芋を少々恵んでくれと頼みましたところ、老婆は「この芋は石芋といって云って煮ても焼いても食べられない、と云って差し上げませんでした。大師は心よしとせず「それなら石芋にしてあげよう」と口中に呪文を唱え立ち去りました。老婆は早速芋を煮て食べようとしたところ、不思議に固くなってたべられず、そっくり前の泉に投げ捨ててしまいました。其の芋が、後になって芽を出し、今でも毎年しげっていると傳えられています。  
 
群馬県
川場温泉 / 群馬県川場村  
昔、昔。川場の村は、水に不自由をしていました。  
ある日のこと、お婆さんが洗い物をしていると、ひとりのお坊さんが訪ねてきて言いました。  
「水を一杯、くださるまいか」でも飲み水は、遠い沢からくんで来なければなりません。  
それでもお婆さんは、困っているお坊さんを放っておけず、親切に沢まで行って水を運んできて、さし上げました。  
「お婆さん、このあたりは水が不自由なのかな?」  
「はい、水もさることながら、もしお湯が湧いたら、どんなによろしいでしょう。このあたりには、脚気(かっけ)の病人が多うございます。脚気には、お湯がいいと聞いております」  
「なるほど」と、うまそうに水を飲み終わったお坊さんは、やがて持っていた錫杖の先でガチンと大地を突きました。すると不思議なことに、そこから湯けむりが上がり、こんこんとお湯が湧き出したといいます。〜  
このお坊さんが、有名な弘法大師だと知った村人たちは、この湯に「弘法の湯」と名付け、 今でも湧出地には弘法大師堂を祀っています。  
これが、昔から川場温泉が「脚気川場」といわれるゆえんです。
俎の名号 / 群馬県  
空海が俎の裏に六字の名号を阿弥陀の形に書き親切な農夫の家に置いて行った。  
大蛇 / みどり市東町  
弘法大師空海上人が第二の高野山を捜して袈裟丸山に登ったが、千谷は見つからなかった。尾根伝いに歩いてさいの河原まできたとき、白い大蛇が大師を呑もうと襲い掛かってきたので、経文を唱えたら大蛇は去った。大師は夢で川の中に仏像があることを知り、村人とともに捜してお祀りした。そのときの庚申様がある大沢寺は、大蛇と戦ったいわれがあるので山号が竜宝山。
袈裟丸山・賽の河原 / 群馬県みどり市  
黒く焼けたような色の火山岩が付近一帯に転がっている賽の河原とよばれる、袈裟丸山の中腹に開ける異様な世界だ。  
大師が、夜、ここを通ったときのこと、赤鬼・青鬼に責められながら、数人の子供たちが石を積み上げていた。弘法大師はこれを見て、三夜看径して済度したという。  
赤城周辺には「死者の魂は赤城にのぼる」「旧4月8日に赤城山に登ると死者に会える」という言い伝えがあった。袈裟丸山にも「その年に子どもを亡くした人が賽の河原に行くと死者に会える」という言い伝えがあり、寝釈迦に参拝した後で賽の河原に登って石を積んだという。
間野の弘法井戸 / 高崎市  
弘法大師が間野に立ち寄り水を貰う。間野は高台に有る為、水汲みが大変という村民の嘆きを聞き井戸を掘る。  
石芋伝承 / 高崎市  
烏川対岸の室田村では弘法大師が所望する芋を渡すのを惜しんだため、付近の芋が法力で食べられなくなる。 
弘法大師 / 群馬県利根郡片品村  
むかし戸倉の玉城屋の先祖が、目の暮れ方に門口に立っていると、ひとりの旅の僧が通りかかり、一夜の宿をもとめられたので、「どこからおいでになったか」と聞くと、「けさ若松をたって来ました」という。会津若松から三十六里の道を、一日で歩いて来たとは、(これはただ人ではない)と思って、ていねいに部屋へ通すと、「人助けになるまじないを教える」と僧はいう。ちょうどその時、手つたいに来ていた年老いた女が、「私も信心して居ります。どうか私にも教えてくだされ」とたのんだが、僧は「そなたの心がげは、まだまだよろしくない」といって、その女には教えなかった。  
あくる朝出立の時に、僧のわらじをはく姿を、みんな見たが、出てゆく姿はだれにも見えなかった、とったえられている。これは弘法大師の化身に違いないというので、以来玉城屋では、代々の当主が、必ず一生のうち数回は高野山参りを怠らず、それは今日につづいている。  
同じく弘法大師のこと  
大同二年のこと、弘法大師は諸国巡錫中、土井出の庄古伸に立ち寄られ、ここに安楽寿院を建立されたという。 
 
茨城県
龍 / 猿島郡総和町  
猿島郡総和町を弘法大師が通りかかった時、橋が無くて川を渡れず困っていると、老人が出現し、柳の枝を折って橋とした。老人は龍と化して昇天したという。 
ちばひめ / 茨城県  
僧がある家に宿を乞うたが主人は拒絶。あとで空海だとわかり欅の大木に登って大声で呼んでいるうちに「ちばひめ」という蝉になった。
駒の足跡 / 泊崎地方  
駒に乗って弘法大師がこの地を訪れ、小川に架かる石橋を渡ったときに駒のひづめの跡が石に残ったと伝えられている。  
木瓜(ほけ) / 泊崎地方  
弘法大師がこの地を訪れたとき、通った山道の木瓜は、それ以後実をつけなくなってしまったと伝えられている。  
逆松 / 泊崎地方  
弘法大師がこの地を訪れたとき、持ってきた松の枝を挿したものが根づいて地をはうように見えることから、逆松と伝えられている。  
独鈷藤(とつふじ) / 泊崎地方  
弘法大師堂地にあった藤の節々が独鈷に似ていることから独鈷藤と名づけられたと、伝えられている。  
硯水 / 泊崎地方  
弘法大師がこの地を訪れたとき、字を書くのに湧水を使って墨をすったと伝えられ、この水を使って字を練習すると上達するといわれている。  
五葉の杉 / 泊崎地方  
弘法大師堂地にあった杉の葉が、五枚の葉を付けていたことから、五葉の杉と名づけられたと、伝えられている。  
法越(のつこし) / 泊崎地方  
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた後、他の地へ移動するとき馬に乗って川を渡った場所が法越と名づけられ、法越には藻が生えなかったと伝えられている。  
弁天像 / 泊崎地方  
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた時、炊いた護摩の灰を固めて三体の弁天像を作った。日照が続き困った時、村の若者がこの弁天像を抱いて牛久沼に入り雨乞いをすると雨が降った。  
弘法大師の使い / 泊崎地方  
牛久沼のほとりで鎌を研いでいると小さな蛇が寄ってきた。鎌に引っ掛けて投げ捨てようとすると大蛇に変身した。この大蛇は弘法大師の使いと伝えられている。  
師付の田井 / かすみがうら市中志筑  
尾花散る師付の田井(田居)(しづくのたい)  
「万葉集」に登場する常陸国府の役人であった高橋虫麻呂は、筑波山を数多く歌にしました。「筑波山に登る歌」と題する歌に登場する「師付の田居」は、かすみがうら市中志筑(なかしづく)の水田地帯にあり、田圃の真ん中にその碑が建てられています。場所は旧志筑藩の藩主本堂氏の墓所である五百羅漢で有名な「長興寺」の横の道を山側に下ったところにひろがった一面の田の中にあり、石碑へ行くには田圃のあぜ道を通るしか道はありません。石碑の脇には古来からの湧き水が現在でも枯れることなく湧出しています。写真に見える丘は風土記の丘の裏手にある宮平遺跡の発見された台地であり、紀元前よりここに人が住んでいたところです。この丘の手前は恋瀬川であり、万葉のころは「信筑川」「表川」などと呼ばれていました。歌にあるように尾花(ススキ)散る時期にまた訊ねて見たいと思います。石岡(旧府中)に残された井戸「六井の泉」の中の鈴負井(宮部地区)も川の向こう側の田の中に噴出している井戸であったことから、昔からかなり貴重な水源であったものと推察されます。また、この看板の位置からは筑波山は頭の先が少し見えるかどうかですが、田圃の半ばまでいくと左手にその雄姿を見ることができます。  
師付(志筑)の田井に伝わる昔話  
師付の田井のあたりは戦前まで湿地帯でもあり、不断に泉の湧く井戸があった。この井戸は、弘法大師(空海)が巡錫の途中、この地に来られ、錫杖を使って地面を突くと清烈な水が湧き出し、長らく付近の稲作におおいに役立ち、村人にたいへん喜ばれているそうである。またこの志筑の田井は遠く鹿島神宮の御手洗池と地下でつながっているという。このように弘法大師によって湧き出した泉の例は、弘法井とか、御大師様水とかいわれ、全国いたるところに見ることができる。この他、弘法大師の足跡として近くの閑居山では金堀穴の前面にある大石の上に静座され瞑想にふけっていると、妙な音楽とともに阿弥陀如来のお姿が現れ、立派な経巻を残されて姿を消した。、大師はこれは如来の賜物であると、前面が平滑で数メートルの高さの岩の下部にある穴に納めて、石で蓋をして後世の人の手にふれないようにした。この大岩を聖教石といった。また、高倉の湯ケ作山に、阿弥陀宝蔵寺の跡があるが、弘法大師がここを通りかかった時に、大変疲れており、手にした杖を大地に突き立てると、その杖の下から温泉が湧き出し、この温泉で疲れを癒したと言い伝えられている。 
 
埼玉県
しなび山のしなび竹 / 埼玉県行田市  
昔々、弘法大師が諸国をめぐられ、衆生を済度されたことがあった。武州若小玉村にこられたときのこと、暑い日盛りを砂ぼこりを浴びながら、とぼとぼと大師はいなか道を歩んでいかれた。  
ある家に立ち寄られて、「杖にしたいから一本竹を恵んでくれ」といわれた。農夫の与八の家であった。ところがこの与八、すこぶるけちん坊であった。よせばよいのに「この山の竹はみんなしなびていて杖にはなりません」といって、ていよく断ってしまった。ふしぎなことに与八の竹山の竹は、その後みんなしなびて生えてきたという。  
弘法大師は、しかたなく同じ村の千蔵という農家にいって竹を所望した。千蔵は心よく手ごろの竹を切って杖にして差し上げたという。大師は大喜びされて、懐中からふくさを出し、一首の和歌を書いてくださった。「忍名所図絵」の著者は、そのふくさを見たいと思って、その家の主人にたのんだが、「今はもうふくさが朽ち果ててしまって、文字も見えないから」といって見せてくれなかったと書いている。昔々、弘法大師のころのふくさである。  
ところで、このしなび竹のあるところは「忍名所図絵」の著者が細かに記入している。「若小玉村に入って一町ばかりの所に一つの塚があり、青石塔婆がある。この塚の中腹に竹薮があり、それがしなび竹である。竹は真竹で、肉に厚い薄いがあり、太いものは七.八寸を上回る。花器にすればおもしろい」と書いている。この種の竹は東京文京区小石川の植物園にもあり、皺竹という珍種である。 
 
千葉県
塩井戸  
安房国(千葉県の南部)の山深い神余(かなまり)という土地に、一人の旅の僧がやってきました。その村には、夫に先立たれた女が、その霊を弔(とむら)いながら一人で貧しい暮らしをしていました。その家を、僧が訪ねたのです。  
心優しい女は、小豆粥(あずきがゆ)を作り、僧をもてなしました。  
「いただきます」と言って、僧はお椀を手にして小豆粥を食べました。  
ところが、まったく塩味がしないのです。  
これでは、せっかくの小豆粥もおいしいはずがありません。  
「どうして塩味がしないのですか」と僧はたずねました。  
すると女は、「余りにも生活が貧しく、塩を買うこともできません」と答えたのです。  
山里での暮らしの大変さを知った僧は、すぐに家の外へ出ました。  
そして、近くを流れる川の岸へ下ると、地面に杖(つえ)を突き立て祈願(きがん)したのです。  
それから、杖を引き抜くと、不思議なことにブクブクと塩辛い水が噴き出すではありませんか。その旅の僧こそ、諸国をめぐっていた弘法大師でした。  
この井戸は『塩井戸』と呼ばれ、海から離れた山里の人々に、貴重な塩を与え続けたことでしょう。『塩井戸』は、今でもはっきりとわかる円形の井戸で保存され、『神余の弘法井戸』として県指定有形民俗文化財でもあります。 
石芋  
811年(弘仁2)の秋のことでした。ある村の女が、道端の井戸で畑から取った芋を洗っていました。すると、旅の僧が通りかかり、「その芋を一つくれないかね」と声をかけたのです。  
女はジロッと僧を見て「これは石芋だ。煮ても焼いても固くて食えねえよ」と答えたのです。  
その言葉を聞いた僧は、黙って立ち去りました。  
さて、家に戻った女は、芋を食べようとかまどの鍋でグツグツと煮たのです。  
ところが、いくら煮ても固くて石のようです。「こりゃ、とても食べられねえ」。  
女は芋を井戸へ捨てたのですが、「どうしてこんな不思議なことが起こるんだ?」と考えました。そして、「もしや、あの坊さんは弘法大師さまではなかったのか」と思いました。  
「そうか、私のような欲深い者を、正しく導くために旅をしているのだ」と女は、深く後悔(こうかい)したのでした。  
それから月日が流れ、井戸では女が捨てた芋が芽を出しました。芋は、夏の炎天下にも枯れず、冬の寒さにも耐えて育ち続け、青あおと葉を茂らせたのです。  
その話は広く人々の耳に届き、各地から多くの人がお参りに訪れるようになりました。江戸時代になってから、井戸の側にお堂が建てられました。多古町のバス停・井戸山の前に建つ小さなお堂が『大師堂』です。境内には、『石芋大師の井戸』が残り、今でも芋が緑の葉を茂らせています。芋の種類は、サトイモのようです。 
安房国八十八ヶ所巡拝 
むかし、安房国の弘法大師八十八ヶ所の札所が開帳になりますと、「南無大師偏照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と大師の名号を唱え、御詠歌を詠じて巡拝する人が大勢おりました。  
伝説によりますと、この巡拝は天正十年(一五八二)に頼長上人(らいちょうしょうにん)という高僧が、遠方の四国八十八ヶ所霊場を巡拝できない老若男女の、後世安楽を願う希望にこたえ、安房国に移し、始めたというのです。  
しかし、安房国の八十八ヶ所の開帳は、五十年に一度ですから、大方の人は一生に一度しか巡拝できないことになります。過ぎた開帳の年は、弘法大師千百五十年御遠忌に当たる、昭和五十九年(一六八四)十月でしたから、次の開帳は平成四十六年(二〇三四)になるのです。  
安房国内の札所は全市町村に分布し、一番の紫雲寺(白浜町滝口)から、八十八番の法界寺(白浜町島崎)まで続いています。富浦町では、深名(ふかな)の常光寺と南無谷(なむや)の海光寺が札所です。なお、江戸時代までは深名の文珠堂が、二十六番の札所だったのですが、何時の頃か廃寺となり、常光寺がそれに代りました。 
熊野(ゆや)の清水 / 千葉県長生郡長南町  
「弘法大師の霊泉」ともいわれ、昔から霊験あらたかな健康の泉として人々から親しまれてきた。弘法大師が布教のため、諸国を行脚された折、たまたま立ち寄った当地は、水不足で、農民たちが困っているのを見て、法力によって清水を湧き出たせたという伝説がある。この湧き水は、こんこんとあふれ、どんな日照りにも涸れたことがないといい、当時の住民は、大師の遺徳を讃え、その座像をこの清水の上の龍動寺に祀ったという。
羅漢の井 / 市川市  
里見公園の南下の台地斜面にある。弘法大師(空海)が東国へ布教のとき、この地を訪れ、当地の里人が飲み水に困っていたため、羅漢を祀って念仏を唱え、錫杖を突いたところ、清水が湧き出たという。また、戦国時代、里見氏が国府台に陣を構えたとき、飲み水として使用したともいわれている。
雨乞い祈祷の絵馬 / 千葉県八千代市  
印旛沼周辺には昔から水害が多くあり、そのため水神が各所に多く祀られ、また雨乞いの伝承なども多数みられます。この萱田の飯綱神社にある絵馬はその願いを表したものです。手前に護摩壇で龍王に向かって祈祷する僧侶と、後方に祈願者である公家風の人物がそれぞれ色彩豊かに描かれています。  
「今昔物語集」の中の、日本国中が旱魃(かんばつ)のとき弘法大師が雨乞いのため請雨経の法を行っているうちに空が曇り、雨が降ってきたという話(「弘法大師修請雨経法降雨語」)を題材にしているのかもしれません。大きさは、縦112cm、横167cmの大きさです。制作年代や作者は不明ですが、江戸時代後期のものと推定されます。 
 
東京都
清水稲荷 / 東京都  
台東区下谷で病気の子供をもった親が空海に懇願した。空海は独鈷で地を突き病を治す霊水を湧かせた。
多摩の二度栗 / 山の根地方  
昔、武州多摩郡の山の根の村には、たいそうできのよい大型の栗がたくさん取れたそうだ。ある秋のこと、腹をすかせた旅の乞食坊主が、ふらふらとやってきておいしそうに栗を食い散らかしている村の子供たちに「栗を一粒めぐんでくれ」とたのんだそうだ。子供たちはそのみすぼらしい乞食坊主をみて「いいとも食え」といって空の食い残しの殻をほおったそうだ。その乞食坊主は悲しい顔をして次に村の中にある大きなお屋敷にきたそうだ。そこでは大人たちが縁側に腰掛けて栗を食べていたそうだ。乞食坊主は大人達に声をかけて「栗をひとつめぐんでくれ」といったが、大人たちは「いいとも食え」といって空の食い残しの殻を投げつけたそうだ。乞食坊主はたいそう悲しい顔をして村の外れにあるそれは見るからに貧しい小屋にやってきたそうだ。小屋には17才ほどの若者を頭に弟妹が4人住んでいたそうだ。父母はとうに死んでこの若者がみんなを養っていたようだ。そこにこの乞食坊主がやってきた。この坊主はもう空腹で目もみえなくなっていたそうだ。「どうか栗を一粒でもいいからめぐんでくれ」と頼んだそうだが、この小屋にとっては一粒が一家の全部の栗だった。しかし見ればかわいそうに飢えやつれた坊様である。若者は弟妹に「いいな」と見まわした。弟妹は兄の心の優しさに気持ちよく応えた。「たった一粒ですがどうぞ食べてください」乞食坊主はたいそう喜んでこれを食べたそうだ。するとどうだろう。 とたんに乞食坊主は元気になり、「ありがとう、みんなの優しい心が天に通じ、裏山に天の恵みをうけることだろう」と言い残し達者な足取りで村を出ていったそうだ。その後、不思議なことに、若者の裏山の栗林には、大型で美味な栗が、春と秋の二度なったそうだ。村人はこれを多摩の二度栗と呼んで大切に扱ったという。若者達はそれから幸せな生活を送ったという。この乞食坊主が実は弘法大師だったのです。
飯盛杉(箸立杉) / 山の根地方  
昭和39年に都の天延記念物に指定された樹齢700年の杉の大木は、薬王院の門前の茶屋を左の方に下ったところにあります。弘法大師が高尾の参道を登ってこられると、杉の木達は枝を震わせたり、葉を鳴らしたりして騒ぎはじめた。ところが途中の並木の1本が枯れ木となっていたのです。弘法大師は傍らの杉の木にたずねたところ、この間の落雷に打たれてしまったとのこと「千年を共にし弘法大師様のおこしを待っていたのですが非常に哀れです」と別の杉が言ったところ、弘法大師は、1枚の飯盛りの杓子を取り出すと、枯れ木の跡に突き立てた。するとあれよあれよと見る間に、ぐんぐん杉の木が伸びはじめ、枯れ木がよみがえって見事な千年杉となりました。
岩屋大師 / 山の根地方  
弘法大師が高尾山にやってきたところ折からの雨が、嵐と変わり、大師に容赦なく襲いかかってきました。ともかく山を下り始めたもののこのままでは体が冷え切ってしまいます。岸壁ばかりの小道を行くと大岩の影に、ずぶぬれの姿でうづくまってい母子がいました。気の毒にと近づいてみると母の方は病気でその子でもが懸命に介抱しているではありませんか。なんとかこの子のために雨宿りが欲しいものよと大師が合掌すると、突然、目の前の岩屋が音を立てて崩れ始め、ぽっかりと洞穴があいてしまったのです。大師はそこで母子の冷えた体を温め、嵐の通り過ぎるのを待ったということです。岩屋の中は外の嵐から完全に遮断されて暖かく、見る間にこの母は回復していったということです。この洞穴は、「岩屋大師」と呼ばれる様になったと言う事です。
石芋1 / 葛飾地方  
昔、弘法大師が諸国遍歴の時、川で芋を洗っている老婆に出逢いました。お腹をすかせたお大師さまは、その芋をぜひ一つ頂きたい、といったところ、老婆は貪慾な心の持ち主で、この芋は石芋で堅くて食えないといって与えませんでした。お大師さまは「それなら仕方がない」といって行き過ぎました。・・・が、後で老婆がその芋を煮て見ると、不思議なことに堅くてとても食べることができなくなっていました。そこで老婆はこれを川へ捨てたところ、その芋から年々青い葉を生じて絶えないのだといいます。
石芋2 / 葛飾地方  
昔、弘法大師が日暮になってきたので、ある家に立寄り宿を借りようとしたところ、老女が一人いましたが、宿を貸してくれませんでした。お大師さまはそばに植えてあった芋を石にしてしまいました。その後、その老女が芋を掘出して食べようとすると、石となった芋は食べることはできません。やがて芋は棄てることになり、腐ることなく年々葉が出てくるようになりました。  この石芋の物語は、実際に昭和二十八、九年頃まではその芋が残っていたといいます。ここを旅行して実際にこの芋を見た方の記した『成田道の記』には以下のようにあります。『成田道の記』(文政十三年)海神村の右に田あり。中に木の鳥居を建つ。左りに田二丁ほどを隔て山岸に竜神の社あり。二間半四面、前に拝殿あり、榎の古木八九本境内を廻れり。石の鳥居を建たり。傍に二坪にたらざる小池有。端高く水至て低し。水草繁き中に青からの芋六七茎生たり。これを土人石いもと呼り。昔弘法大師廻国してここに来りしに、老たる婆々芋を煮ゐたりしかば、見て、壱つ給はれと言ふに、心悪きものなれば、石いもと言ひてかたしといろふ。大師たち去りて後食せんとせしに、石と化て歯もたたざりし故、この池へ投捨たり。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。余児と来り見しに疑はしきまま二三株を抜て見るに、石にはあらず、ただの芋なり。案内せる小女顔色をかへて恐懼し神罪を蒙らんと言ひたるまま、もとの如く栽へ置たり。芋は水に生じぬものと思ふに、一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍らし。或書には是をいも神と言へり。
片葉の蘆 / 葛飾地方  
片葉の蘆というのは、葉が片方にだけある蘆で、昔は龍神社の傍の田の中に残っていたといいます。これも弘法大師が杖で片葉を払ったから生じたのだと伝えています。今も石に掲げた小池の傍には弘化四年に建てた小碑があり、「弘法大師加持石芋片葉蘆之碑」と刻してあります。
「西新井」の地名 / 足立区  
西新井には、「西新井大師」もあります。『西新井大師(にしあらいだいし)』は、東京都足立区にある真言宗豊山派の寺院です。正式名は「五智山遍照院持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)」。平安時代初期の天長の時代、弘法大師(空海)が関東巡錫(じゅんしゃく=僧が各地を巡り歩いて教えを広めること)の折に当地を訪れ、悪疫流行に悩む村人たちを救おうと観音を造り、祈祷を行ったところ、枯れ井戸から水が湧き病が治ったといい、その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと伝えられています。 
竜燈 / 江東区  
寛永5年に弘法大師の霊示があり、永代島にて高野山の両門主をはじめとする東国一派の真言僧が集まって法談が開かれた。また別に弘法大師の御影堂を建てて真言三密の秘講を行ったところ、神前に竜燈と呼ばれる火光が現れるという。 
麻布七不思議・柳の井戸 / 東京都港区  
善福寺惣門を入って参道右手にある井戸。境内の「逆さいちょう」と共に麻布七不思議の一つにも数えられています。柳の井戸は正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」と書かれた石碑がある。この石碑は明和二(1765)年に建てられたようで、江戸名所図会によると弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい)であるということで「鹿島清水」ともいわれる。碑文の最後には「葛辰書」とあるのでおそらく麻布東町生まれで服部南郭に学んだ、あの松下君岳(烏石)の揮毫と思われます。  
楊柳水銘  
彼石泉 盈科而流 空海所呪 其霊永留 阿那楊柳 水中影浮 飲者治疾 徳潤千秋  
明和二年乙酉歳中秋前一日 藤公縄義篆 藤定vチ 葛辰書  
また「柳」とは、井戸の横に「うなり柳」とも呼ばれる柳の木があるため。「続江戸砂子」は、「うなり柳」について、「麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。」としており、江戸名所図会では、「鹿島の清水。総門と中門との間いあり。往古弘法大師常陸国鹿島明神に乞得給いひし阿伽井なりと。又土人云く。鹿島の地に七井と称する霊泉あれども其一つは空水といへり。昔は其側に柳樹ありしかば。一名を楊柳水とも唱へ侍ると云々。此柳をうなりやなぎという由。来歴詳ならず。」とあります。  
弘法大師が、鹿島大明神に祈願して手に持った杖を突き立てたところ、たちまち湧き出したと言われる井戸で常陸の鹿島神社にある七つの井戸は、一つをここによこしたため、空井戸になっているといわれています。関東大震災や昭和20年4月、5月の空襲時にはこの井戸が多くの人に水を与えましたが、現在は保健所の指導によりそのまま飲むことは出来ないそうです。  
柳の井戸  
自然に地下から湧き出る清水である。東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。 
 
神奈川県
弘法山 / 神奈川県秦野市  
弘法様がまだ名も知られない旅の僧であったころ、秦野の山野に行き暮れて、百姓仁左衛門の家に一晩の宿を頼みました。そうしたところ、仁左衛門夫婦は快く迎えてくれました。  
ある日、弘法様から近くの山で修業をするということを聞いた仁左衛門は村人たちの助けを借りて山の上に小屋をつくりました。その小屋で弘法様は、しばらくの間、修業をしました。  
あるとき、弘法様の予言が当たり村に火事が起こったので、村人は弘法様が火をつけたと思い、追い出そうとしました。しかし、その夜、弘法様が村人にいった通り嵐になり、何件かの家が川に流されたり、風に吹き飛ばされたりしました。それからは、村人たちは弘法様のいうことを信じるとともに尊敬するようになりました。弘法様が去った後、人々は小屋のあった山を「弘法山」と呼ぶようになったということです。  
また、弘法山には「乳の井戸」と呼ばれる井戸があります。  
この井戸からは白く濁り、乳の香りを漂わせた水が湧き出ていたそうです。赤ちゃんを持つ母親がこの水を飲むと、乳の出がよくなると伝えられていました。
弘法の清水(臼井戸) / 神奈川県秦野市  
昔、修業のため全国を歩いていた弘法様が、ある農家に立ち寄り、一杯の水をたのみました。しかし、その農家では、あいにく水をきらしていてありませんでした。  
この付近には井戸も水もないので、娘さんが「しばらく待っていて下さい。」といって、遠くまで水をくみに行きました。弘法様が待ちわびていると、娘さんが水の入った手おけを重そうに下げてやってきて、ひしゃくに水を入れ差し出すと、弘法様はおいしそうに水を飲みました。  
そのあと、この村が水に困っていることを娘さんから聞いた弘法様は、庭の真ん中に行って杖をつき立てました。そこを娘さんが桑で掘ると、不思議にも清水がこんこんと湧き出しました。  
そこで、この清水は「弘法の清水」(臼井戸)と呼ばれるようになりました。 
水無川 / 神奈川県秦野市  
神奈川県秦野市を流れる金目川水系の二級河川である。  
盆地扇端部で流量の大部分が地下に伏流するため、以前はその名のとおり盆地内を流れる「水無」川だった。戦後、流域に工場や住宅が増えるにつれ、そこから流入する水(排水や浄化処理された水)が流れるようになり、流量は安定した。それでも時期と場所によってはほとんど水が流れていない事もしばしばある。秦野市内にある戸川という地名はこの川の別称「砥川」(砥石のような石が河原に多かったため)の転じたものである。  
川から水がなくなった由来に言及した御伽噺の一つとして、弘法大師が登場する伝説がある。弘法大師は「心の優しい人がこの辺りにはいないものか」と思い、わざと貧しい身なりをしてこの川の流域の住民に水を求めた。水を求められた住民はその人が弘法大師とは知らず、貧しい身なりをしていたので水を与えなかった。「人の身なりで人を判断するとは何たる事だ」と怒った弘法大師は、この住民たちの生活用水である川の水を涸らしてしまった。その川に水が無くなってしまった事から、「水無川」と言う名称が付いたというのである。 
蛭沼の鰻 / 神奈川県海老名市  
海老名耕地には沼が多かったが、いずれも古い相模川の跡で、国分の尼寺下にも蛭沼という沼があって、夏になるとその名のように蛭が繁殖して、いつも水面をうねうねと泳ぎ回っていた。  
沼全体が浅く、危険な所がなかったので、子供が集まりよくぶってで雑魚すくいをしていたが、沼へ一歩足を入れると寒気がするほど蛭がうようよ集まって吸いついた。  
水蛭は扁平で細長く、体の前端と後端に吸盤があって吸いついてしまうと離れないし、取ろうとしてもぬるぬるとしてつまみにくいうえに、引っ張るとゴムのように伸びてなかなか取れないので、子供たちは草をむしり取り、束子(たわし)のように丸めてこすり落としていたが、吸いついた傷口から流れる血は、なかなか止まらなかった。  
修業の旅をしていた弘法大師が通りかかり、これを見て「どうしたのか」と尋ねると、子供たちは口をそろえて、  
「蛭んぼが吸いついたんだ!」  
と答えたが、血をたくさん吸って、ほうずきのように膨らんだ蛭が踝(かかと)の陰にぶら下がったままの子供もいた。  
弘法大師が呪文を唱えると蛭はぽろりと落ちたが、真っ赤な血が後から後から流れ出るので、道端の草を摘み取り  
「これは血止め草と言って、この葉をこうして貼るとすぐに止まるよ」  
と、その銭形の葉で傷を押さえた。子供たちが先を争ってその葉を摘み取り、それぞれの傷口に貼ると、出血はみんなぴたりと止まった。  
この草は人家近くの湿地などに自生するセリ科の多年草で、農村では今でもこれを血止め草と呼び、揉んで血止めに使う。  
大師が魚籠の中のたくさんの鰻を見て「鰻を売ってくれないか」というと子供たちはびっくりして、「坊さんが鰻を食うのかい?」と聞き返した。  
「食うのではない」  
「では、どうするの?」  
「鰻に頼むことがあるのだ」  
「何を頼むの?」  
「この沼には蛭が多過ぎるので、それを食ってくれるように頼むのだ」  
「そんな頼みごと鰻に通じるかなあ」  
子供たちはがやがや騒いでいたが、金をもらって鰻を渡すと、ちりぢりに帰っていった。  
大師は子供たちから買い取った鰻にいちいち呪文を唱えて沼へ放したが、なおしばらく沼のほとりに立って読経を続けていた。  
うようよ泳ぎ回っていた蛭沼の蛭は、その後めっきり少なくなり、雑魚すくいをする子供たちが足から血を流している姿はあまり見掛けなくなったが、その後ここでとれる鰻はみんな蛭を腹いっぱい食っていた。  
村人たちは旅の坊さんの願いによって、鰻が蛭を食ってくれるものと信じていたが、全く蛭が姿を消してしまった訳ではなく、夏になるとなお多少の蛭が泳いでいた。  
これは腫れ物の治療に膿を吸わせるという目的のための配慮だからだったと言い伝えられていた。これが血吸蛭(注1)で、悪血を吸い取らせて病気を治す医療は、古くから民間療法として用いられているが、弘法大師が伝えたものだとされている。  
血吸蛭は一度人間の毒血を存分に吸うと以後は人間には吸い付かず、ドジョウのように大きく肥えて一生を終わると言われ、それが馬蛭(注2)だと信じられている。  
もしそのとおりならば、人間も悪い血を吸い取ってもらって病気が治りありがたいことだが、蛭もたとえ毒血であっても一度存分に吸えば、二度と人間の血を吸わないで丸々と肥えて一生を終えるということになり、人間も蛭も共ども幸せなことである。  
爪楊枝のような細い蛭に吸いつかれても、出血が止まらなかったり痒かったりで大変なのに、ぞっとするような超大型の馬蛭に吸いつかれたらどうなることかと思うが、馬蛭が人間に吸いついた話は聞いたことがない。  
海老名耕地が湿田だったころは、沼や小溝でも鰻がよくとれたが、そのころ鰻を料理したことのある人は、蛭をたくさん食べていたことを知っているはずである。  
もともと浅かった蛭沼は、度々の洪水で埋まってしまったので、弘法大師の伝説は消えてしまったが、その名だけは地名となって残っている。  
この話は、蛭沼の水田を代々耕していたという旧家の言い伝えである。秦野には水無川や弘法山の伝説があり、海老名の上今泉には三日月井戸と亀島の水イモの言い伝えがあるが、川崎市の麻生区高石にも弘法の松の話が伝えられている。これらの土地をつないだ線が、弘法大師が旅をした道筋だったのだろう。  
(注1)血吸蛭・・中国には古くから蛭に悪血を吸わせるという治療があったので、空海が留学中に学んできたものと思われる。漢方では、蛭の分泌物には局所を麻酔状態にさせ、血液の凝固を防ぎ、血管を拡張させるなどの作用があるとされている。  
(注2)馬蛭・・・普通の蛭とは異種の蛭で、動物の血は吸わず植物質を栄養源としている。 
落語「大師の杵」 / 神奈川県  
三遊亭円楽の噺、「大師の杵」によると。  
空海上人、空白の約7年間と言われた23〜29歳のこの時期空海の足跡が解っていない。しかし、落語家だけがその事実を知っていた。  
空海上人23歳の時、武蔵の国・橘郡(たちばなごおり)平間村、今の神奈川県川崎に来た時、名主の源左衛門宅に宿をとって布教した。美しく学徳もあり、若い空海に信者も増えていった。宿の娘”おもよ”さんは村きっての絶世の美人であった。最近、そのおもよさんが痩せてきた。婆やさんが話を聞いてみると、「御上人様のことが好きで・・・」と恋の病をうち明けた。ご主人源左衛門が上人に掛け合って当家に入って欲しいと懇願したが、仏道の修行中の身と言って断られてしまった。この事を娘に言う訳にもゆかないので、おもよさんに「若い僧なので今夜綺麗に化粧して彼の寝床に忍び込んできなさい」とけしかけた。  
おもよさんが寝室に忍び込んでみると、 部屋の中はもぬけの殻であった。布団に手を入れると餅つきの杵(きね)が置いてあった。これは上人が残した何かのナゾではないかと思った。一人娘と出家の身だから「想い杵(キレ)」と言うのかしら、はたまた「ついてこい、付いて来い」と言っているのか解らなかった。しかし惚れた弱み、上人を追いかけた。  
六郷の渡しに来てみると一刻(とき)前に上人を渡したと船頭から聞いた。今の時間で2時間前では女の身では追いつく事も出来ない。悲観のあまり多摩川に身を投げてしまった。上人は変な胸騒ぎがするので引き返してみると、夜も白々と明ける頃、村人に囲まれた冷たいおもよさんの骸(むくろ)に対面した。その死を悲しみ、名主の源左衛門宅に戻り、おもよさんの菩提を毎日弔った。近隣の人がそれを見て庵を造り、その名を「おもよ堂」。それが徐々に大きくなって、今の川崎大師になった。  
伝説では、大師堂の奥には今も「弘法身代わりの杵」が安置されていると言う。  
円楽がその真偽を確かめに川崎大師で尋ねると、「その話は臼(うす)だ!」。 
 
中部

 

山梨県
弘法の衣(弘法大師) / 山梨県の民話  
むかしむかし、外見だけで人を判断する、とても心のせまいお金持ちの主人がいました。  
ある日の事、みすぼらしい姿のお坊さんが、このお金持ちの家へ托鉢(たくはつ)にやって来たのです。  
お坊さんがお金持ちの大きな家の前に立って鐘を鳴らしてお経を読み始めると、家の中から主人が出て来て、お坊さんをじろりと見て言いました。  
「ふん、乞食坊主(こじきぼうず)が。いくらお経を読んでも、お前みたいな汚らしい奴にやる物はないぞ。とっとと、出て行け!」  
「・・・・・・」  
お坊さんは黙って頭を下げると、そのまま立ち去りました。  
さて次の日、同じ家に今度は立派な袈裟衣(けさごろも)を着たお坊さんが立って、鐘を鳴らしてお経を読み始めました。  
すると、それを見た家の主人はびっくりして、  
「これはこれは、お坊さま。あなたの様な立派なお方が、こんなところではもったいのうございます。ささ、どうぞ家に上って下され」と、お坊さんを家の中へ通したのです。  
主人は家の者に山の様なぼた餅を用意させると、お坊さんの前に差し出しました。  
「大した物は用意出来ませんが、どうぞ、お召し上がり下さい」  
すると、お坊さんは、「これはこれは、どうもご親切に」と、言いながら、そのぼた餅を手に取って、キラキラと光る袈裟衣へベタベタとなすりつけました。  
それを見た主人は、びっくりして言いました。  
「お坊さま。せっかくのぼた餅を、何ともったいない。その上、その立派なお衣まで汚されてしまうとは」  
するとお坊さんは、すました顔で言いました。  
「ご主人は覚えていないかもしれませんが、わしが昨日来た時、あなたはわしのみすぼらしい姿を見て、わしを追い返されました。そして今日はわしのこの衣を見て、この様にごちそうまでしてくださる。昨日のわしも、今日のわしも、同じわしじゃ。ただ違うのは、身にまとうておる衣だけ。とすると、家に上げてぼた餅を出してくれたのは中身のわしではなくて、わしが着ているこの衣ではないのか?そこでわしは、このぼた餅を衣に食わせてやったのじゃ。では、これにて失礼する」  
お坊さんはそう言うと、そのまま旅に出てしまいました。  
後になってお金持ちの主人は、このお坊さんが有名な弘法大師だった事を知ると、人を外見だけで判断する自分を深く反省しました。  
そしてそれからは誰にでも優しく接する、とても心優しい主人になったと言う事です。 
弘法のすずり田 / 山梨県南アルプス市  
地表が黒色のため、書家の大家であった弘法大師が毎日墨を洗った場所と伝えられる水田。 
弘法大師と石芋 / 山梨県甲府市(羽黒地区民の話)  
弘法大師(空海)が諸国を巡行中、羽黒の里、(現在、甲府市羽黒町)に立ち寄ったときの話です。  
弘法大師は朝から何も食べていなかったので、腹がへっていた。  
ふと、弘法大師は川を見ると、お婆さんがたくさんの芋を洗っていた。  
弘法大師は、お婆さんに、「その芋を少しでいいから施してくれませんか。」と頼んだ。しかし、そのお婆さんは近所でも有名なりんしょく家なので、「この芋は誰にもやれん。」と簡単に断わった。その芋があまりにもうまそうなので弘法大師は、また頼んだ。  
しかし、そのお婆さんは、「お坊さん、この芋は石芋といって硬くて食べられん。だから、お坊さんにあげられんのです。」と嘘を言った。  
弘法大師は、嘘を見抜いたが怒らず静かに加持祈とうをして去って行った。  
お婆さんは、芋を洗い終えると家にいそいで帰った。さっそく芋を蒸して食べようとしたが、なかなか芋が柔らかくならない。よく見るといつのまにか石のように硬くなってしまっていた。  
それ以来、その食べられなくなってしまった芋を石芋と呼ぶようになりました。  
今でも、その石芋は羽黒町の竜源寺付近にあるそうです。 
鷲の湯・弘法湯 / 山梨県  
今の湯村が昔、志麻といわれていて、葦の茂った湿地だったころの話です。  
ある時、傷ついた鷲が来て葦の茂みに入り、しばらくして、巣の方にかえる。翌日もまた来て、しばらくして帰る。三、四日通ってくるうちに鷲の傷はすっかり治ったらしく勢いよく舞い上がって帰ってしまいました。  
村人は不思議に思い、その場所に行って見るとお湯が涌いているのをみつけました。  
それで、そこを深く堀り、浴槽をつくり入浴してみますと傷にもおできにもよくきくことが分かりました。この湯が鷲温泉となり現在まで続いています。  
また、弘法湯といわれている温泉は、昔、弘法大師がこの地に来られたおり、杖を立てた所からお湯が涌いたので弘法の杖の湯と言われています。 
弘法杉 / 山梨県(西山梨郡志)  
愛宕山の頂上に直径4尺(約一m二十cm)の老杉があり、その根元には小さな池があります。昔より、この池の水はどんなに晴れた天気が続いても、水が涸れたことがないという不思議な池でした。  
弘法大師は、この池を見付け、杖を水辺に挿し、その側で昼食をとった。食事が終わり、今まで突いてきた杖を置いて、旅立ってしまった。やがて、その杖から根が張り芽吹いて今の大木になったといいます。人はこの杉の木を弘法杉と呼びます。 
弘法栗 / 山梨県・八ヶ岳  
むかしむかし・・・八ヶ岳・清里村の小倉池でこどもが集まり、大きな栗の木の下で栗の実を拾っていました。  
するとそこへ一人のお坊さんが通りかかりました。  
お坊さんはこどもたちが栗の実をかんたんに採れるようにと低い木に実がなるようにしてその場を立ち去りました。  
その後、ここには高さ二、三尺(60〜100cm)にして栗がみごとに実るようになりました。  
お坊さんは弘法大師といわれる偉いお坊さんであったため、称して「弘法栗」といわれるようになったとされています。 
饅頭峠の「饅頭石」 / 山梨県韮崎市・北杜市  
饅頭峠の名の由来 『 昔、甲斐の国を巡杖した弘法大師が峠の茶屋の老婆にマンジュウを所望したところ、「これは石のマンジュウだから食べられない」、と偽った。大師が立ち去った後、マンジュウを見ると、みんな石ころに変わっていた、と言う 』  
饅頭峠は、山梨県韮崎市と北杜市明野(旧明野町)の境界にある。  
饅頭石 / 近江の国(現在の滋賀県)、木内石亭の「雲根志」には、「饅頭石」の項がありいくつかの産地の先頭に、甲斐国荒井沢山[山梨県荒井沢山饅頭峠のこと]の名があり、その産状、形態を次のように書き記している。『甲斐国巨麻郡荒井近(沢)山にあり 土饅頭(つちまんじゅう)と云う。山の麓に多くあり、うす赤く少し黄なり。石中は軟らかく土より堅し。石中は黒き膏薬(こうやく)のごとき土あり』 
 
静岡県
修善寺 / 静岡県  
修善寺町の桂川上流で空海が岩盤を独鈷で打つと加持された熱湯が湧き薬湯になった。
独鈷の湯 / 伊豆市修善寺  
独鈷とは仏具の一つですが、弘法大師がこの地で、独鈷で川原を突いたらお湯が出て来たという言い伝えから独鈷の湯と言われています。以前は、公衆浴場だったようですが、今では、川原の真ん中にあずま屋があり、足湯になっています。修善寺温泉のシンボル的な存在です。 
三度栗 / 静岡県・小笠郡菊川町  
むかしむかし、秋のある日小笠郡菊川町の三沢の村に弘法大師がこられました。  
その時村の子供たち4,5人が山で拾ってきた栗の実をおいしそうに食べていました。  
弘法大師はそれを見ると「私にもひとつくれませんか」と言いました。  
村の子供たちは素直に「はい、どうぞ。」と大師さま掌の上にごろごろっとのせてあげました。  
「これはこれは、なんとよい子たちだ・・・」と大師さまは一緒になっておいしそうに栗の実を食べてから、「このお礼にはこれからこの村に栗の実が一年に三度実るようにしてあげましょう。」といって子供たちの頭を撫でて行ってしまわれました。  
その後この三沢の村には一年に三度栗が実るようになったといわれています。  
今でも「三度栗」は遠州の七不思議の一つに数えられています。 
蛇 / 賀茂郡松崎町  
弘法様が来た時に、山の登り口の池に蛇がいたが、杖で池の水を下に出したら蛇がいなくなり、この山をふきの山と名づけた。 
夜啼き石 / 静岡県  
妊婦が大岩の近くで山賊に殺されて以来、岩の上で胎児の夜啼きがやまないので空海が祈祷したところ子授けの岩になった。
 
長野県
弘法大師のさかさ杖 / 長野県小県郡東部町新張山  
幹周3.77m 樹高17m 樹齢不明  
弘法大師諸国行脚の際、この地で休んだ折りに地面に刺したシナノキの杖が根付いたものとされている。こういった伝承は各地に残るが、真意のほどは定かでないものがほとんどであろう。長野県の名前の由来でもあるシナノキ、かつてはこのあたりも一面にシナノキが成長していたのだろうか。かつては交通量も少なく、のんびりと過ごしてきたこの樹も、現在では週末ともなると多くの車の排気ガスにさらされ、おまけに大型ダンプまで根元を走る劣悪な環境にさらされ始めているのは気がかりだ。一般にはこの樹の名称は「大師の逆さ杖シナノキ」と呼ばれているが、林野庁の森の巨人たち100選は、名称が違っていることが多い。  
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ここは古くから、長野県と群馬県鹿沢の湯への峠道で、東部町新張地籍一番観音を基点として、群馬県旧鹿沢温泉までの沿道に百体の観音石像が安置されている。その五十番、馬頭観音像を守るかのように、この大木シナノキがある。このシナノキは別名、「弘法大師のさかさ杖」とも呼ばれている。平安の昔、嵯峨天皇の御代に弘法大師諸国行脚の折、大師がこの峠にさしかかり、この地で休まれた。その時、手にしていた梨の木の杖を大地にさしたところその杖がさかさに根付き、このシナノキの大木となったと伝えられている。また、他の伝説には「義仲雨宿りしな」とも伝えられ、この付近に木曽義仲の駒返しという場所がある。所沢川の一渓沢の平坦地に生え、樹相根本より、二つにわかれ、樹齢三百年以上(推定)、周囲三、七m、高さ十七m、枝張り十八m余もあり、シナノキとしてのこれだけの大木は珍しく、林野庁による、「森の巨人たち百選」にも選定されている。 
青木村の石芋伝説 / 長野県小県郡青木村  
(青木村では野生里芋を石芋又は弘法芋と呼んでいます)  
昔、旅で沓掛村を訪れた弘法大師が、川で美味しそうな里芋を洗っているお婆さんに出会いました。お腹を空かしていた弘法大師がお婆さんに「2、3個恵んでください」と頼んだところ、お婆さんは「この里芋は、石のようにかたくて食べられない」と断わりました。 お婆さんが家に帰り夕食に食べようとしたところ、里芋は本当の石のようにかたくなり食べることができなくなっていました。それからこの里芋は石芋・弘法芋とも呼ばれています。 
塩の井 / 長野県  
下伊那で貧しい村の民を哀れみ銀杏の杖で岩の根元を突き塩水を湧き出させた。
念仏池 / 長野市戸隠越水  
池の底から水が湧き出す池。弘法大師が念仏を唱え、杖をこの地にさしたところ、湧き水が出てきたとされている。水辺には黄色い花をつけるリュウキンカや水芭蕉が茂り、多くのトンボや両生類が生息している。 
黒姫弁財天 / 信濃民話  
黒姫弁財天 むかしむかし、大悟羅月上人というえらいお坊さんがいました。善光寺の方から越後に行こうとして柏原を通りかかりましたが、とっぷりと日が暮れてしまいました。「仕方あるまい。この松の下で野宿でもしよう。」  
あたりは山桜が満開。春ほんばんの気持ちのよい夜です。月もおぼろに上がってきました。疲れきっているお坊さんは、まもなくうとうとと眠りに入りました。  
しばらくすると金色の雲に乗って、美しい女の人が金銀宝石を捧げて現われました。「私はこの山に住んでいる弁財天です。仏様のおいいつけで、貧しい人や苦しんでいる人達に、幸せや豊かさを施すようにやってきました。私に願をかければ、必ずかなえてあげましょう。」  
「あなた様が・・・・・・本当ですか。」  
「上人よ、このことを日本国中の人達にに伝えて、悩みや苦しみ、そして欲望からもぬけ出し、仏様のしあわせに気づかせるようにしなさい。」  
そう言って、金銀宝石を上人のふところに入れようととしたとたん、上人ははっと目が覚めました。お坊さんは弁財天のお告げに感動し、全国を廻ろうとかたい決心をしました。  
ある年のこと、ある大名がお山に(現在の黒姫山)四天王寺という山寺をつくりました。ちょうどその頃、日本各地に弁財天のお告げを広めていた大悟羅月上人が、ひょっこり柏原へ帰ってきました。山寺を建てた大名は上人に山寺の住職になってもらいました。上人の話を聞いた全国の善男善女は、弁財天のご利益にあずかろうと、日夜押すな押すなと山寺に集まりました。  
さて何年かたったある日、弘法大師が奥信濃に美しい山があると聞いておりましたので、一度ぜひ見たいとこの山寺を訪れました。  
「ほうー聞きしにまさる、温かいたたづまいの山だ。」と言って、見とれておりましたが、それにしても、この山深い寺に毎日沢山の人達が集まってくるのはどうしてかな、とても不思議に思ったので、お詣の人にたずねました。  
「どこからいらしたのかな。」  
「はい、私どもは上州から・・・・・。」  
「私は越中からきました。」  
「ふむ、なにかよい事でもあるのかな。」  
「弁財天の御利益にさずかりたくて、上人様のお話しを聞きにきたのでございます。」  
黒姫弁財天参道「ほう弁財天のね。」  
そこで弘法大師は、上人に、「弁財天の御利益とどんなことかね。」と、お聞きになりましたら、「じつは、夢枕に弁財天が立ちまして・・・・・。」  
坊さんは、弁財天のお告げを一部始終を話しました。弘法大師は目をつぶって聞いておりましたが、「その尊いお姿を私が刻みましょう。」と、いって、精根こめて彫ってくださいました。やがてみごとなお像が生まれました。  
「これを山寺に安置して財宝や幸せの仏にしなさい。」  
大師はそうおっしゃって、ふたたび遠い旅へとおたちになりました。  
年月は流れ、大悟羅月上人もこの世を去りましたが、山寺はその御利益のためかますます栄えました。さらに280年ほどたって、お山の中心地点(今は大滝といわれている)に立派なお寺を建てて、弁財天にちなんで山を姫獄、山寺を宝慶寺と改めました。全国から、「弁財天の御利益にさずかりたい。」「私も、あなたも、みんなさずかりたい。」と、寺の周りには仏徳をしたって人家ができてきました。もろもろの願いごとがすべてかなったのでした。  
けれども、大きな山崩れがあり、寺はすべて埋ってしまいました。(現在ときどきその時の物が出土するそうです)しかし、不思議なことに弁財天だけは助かりました。  
そこで今度は赤渋という所へ寺を建てたのです。けれど弘化四年の大地震でまたまた寺の建物が、全部こわれてしまうという被害にあいました。でも信心ぶかい人々の協力で、長い年月をかけて再建されましたのが、今の真言宗雲龍寺だと伝えられています。  
弁財天は寺の何回かの災害にもかかわらず、奇跡的に助かり、寺と共に移転して、今では黒姫弁財天といわれ、雲龍寺の本堂に安置され信仰を集めています。 
鹿塩温泉 / 長野県下伊那郡大鹿村鹿塩  
(かしおおんせん) 建御名方神が鹿狩りをしている時に鹿が塩水を舐めているのを見て発見したとか、弘法大師がこの地を訪れた時に村人が塩に困窮していることを知り持っていた杖で地面を突いたところそこから塩水が湧出したとの伝説があり、相当古い時代からこの塩水が利用されてきたことがわかる。  
南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地に入り、南朝方の拠点とできたのも、塩があったからだといわれている。  
1875年、旧徳島藩士・黒部銑次郎が岩塩を求めて塩泉の採掘を始め、大掛かりな製塩場を設置し、食塩製造を行った。岩塩は結局発見することができず、塩水が湧出する理由は未だに謎である。
黒部銑次郎物語  
 岩塩を追いかけた男たち 
日本には岩塩はないといわれている。事実、日本で岩塩が産出したという史料は見当たらない。塩井については、前回このコーナーで南東北地域の史料を紹介したが、今回は岩塩掘削に一生をかけた旧藩士の物語を紹介しよう。  
まずは「白い鉱山師(やまし)」から。阿波徳島藩士黒部銑次郎が主人公である。徳島といえば江戸時代から斉田塩で有名な塩の産地。斉田塩は大阪をはじめ東海から関東まで販路をひろげ、阿波の特産品のひとつで、藍(あい)とともに藩の重要財源であった。その塩浜を見て育った銑次郎が藩の英学校の授業中に地理書のなかで「Salt Mine」という単語を発見する。銑次郎の疑問はここから始まる。  
(これらの諸外国では、食料に供する塩を『ソウルト・マイン』から採る…)休憩時間銑次郎は教授に聞く、「ソウルト・マインとは如何なるものでございますか。」教授は答える、「ソウルトは塩、マインは鉱山じゃ。よって、塩の鉱山とでも解釈すべきかな。」「塩の鉱山と申しますか。」「うむ、その通りじゃ、この地理書には、そのようにしか書いていないが。」「塩の鉱山が、この世の中にあるものでございましょうか。先生!」「難しい質問じゃ。世のたとえに、木に依って魚を求むという言葉があるが、これは真実であろう。彼の国には山を掘って塩を造っている地方があるのであろうな。」…(まことに、山間から塩が採れるものであろうか、まさか…)  
時代は幕末、江戸から帰国した藩士たちから西欧の話を聞きながら、銑次郎も江戸に出て広い世界の情報を直接聞き勉強がしたくなり、早速父親に相談し江戸に向かうこととする。江戸では福沢諭吉の塾(後の慶応義塾)に入門する。ここの塾生の紹介で信州高遠藩の旧藩士に会い、伊那の山中に塩水が湧き出ていることを聞く。明治5年文明開化の大変革時のなかで銑次郎は慶応義塾を終了し、6年に藩用で国に帰ることになったが、ひそかに心に決めていた製塩事業をおこす夢を実現するために国許から暇願いを送り信州に向かった。  
むかし弘法大師の教えにしたがって里人が岩脈を掘ったという大鹿村の塩泉は、塩河の流れのそばにあり、深さ6尺ほどの小さい洞窟であった。たまり水は2石あまり。ひやりとする液体を両手にすくって、祈るように口にふくむと強い鹹味が舌から喉に広がった。「からい!」部落の世話人は銑次郎らの驚くさまに満足そうにうなずいた。「どうです。その塩水は遠い昔から汲んでも汲んでも尽きないのですから、また不思議です。」  
明治8年12月に長野県庁に鹿塩塩泉の利用および岩塩掘削の願書を提出する。翌9年2月いよいよ岩塩坑掘削の開始である。まずは横坑の試験的掘削。「あの岩山を切って塩を採るんだっとのう」「ふうん。あの固い岩盤をなあ・・・」「まるで弘法大師さまの再来じゃの」鹿塩の村人は素朴な畏敬や、疑惑をこめた眼差しをして銑次郎の行う起工の式を見ようと集まってきた。・・・(銑次郎は)右手の槌に力をこめて鏨(たがね)の柄頭に打ち込む・・・。岩肌から固い手応えがあった。  
起工から半年たったとき、かねて依頼してあった塩水分析報告書が東京から届けられた。工部省御雇イギリス人ゴット・フレーからのものであった。訳書も付いていた。「信濃国伊奈郡大鹿村塩河耕地塩坑ヨリ湧出スル塩水分析之報告」と題して「この塩水の残留物は1,000分の13、塩化曹達 92.57%・・・」と付記されている。銑次郎は海水の濃度と見比べ、この岩塩掘削事業に自信をえる。このとき横坑は3間ほど掘り進み鋼鉄のような岩盤に突き当たっているところであった。「伊那山系・・・鹿塩には塩井がある、その源を掘りすすめると岩塩鉱がある」これが銑次郎の不変の信念であった。「しかし、地下鉱脈を求めることに気がとられすぎたかなあ」彼の心の中には葛藤があった。「とりあえず、地下塩水から試製塩を製造し、いささかでも利益をあげながら事業を広げていこう」早速煮詰釜の準備に入った。  
明治12年3月銑次郎は鹿塩村の旅館に資金援助の協力者を集め、新しい製塩施設建設の説明を行った。その内容は、枝条架を利用した立体的塩水濃縮装置の建設とスイス製の大型鉄製結晶釜の設置工事であった。協力者には地元有力者が加わった。流れ者の他国旧藩士のイカサマ山師とみられがちな銑次郎たちには絶好のチャンスであった。しかし濃縮装置にしても外国製の結晶釜にしても地元の人たちには初めて聞く言葉ばかりであった。「そのう・・・立体的塩水濃縮装置というのは如何なる機械ですかのう」「これは枝条架製塩装置と申しまして、私たちが考案設計しましたのは、・・・」「なるほど・・・」聞く人にとってはあまりにも斬新過ぎて、説明というよりも解説であった。  
明治15年4月旅館の大広間には、給金の支払日に大勢の現場の職人が集まっている。鹿塩の坑道掘削は2ヶ所あり深さは20間あまりになっていたが、岩塩層はまだ発見されなかった。しかし岩の割れ目から滴下する地下水には塩気の濃いものもあった。枝条架の設備はすでに完成し塩水濃縮装置の到着を待つばかりであった。「今年の重陽の節句までにはみごとな白塩を焚きだしたいものだね」銑次郎たちは経営者としての夢をふくらまして話をしていた。「ただいまから過月分の給銀が下される・・・」職人たちはかしこまって頭を低くした。小半時をかけて給銀は職人たちに逐次渡される。・・・葵二郎の「白い鉱山師」は事業が一番盛況のなか、岩塩発見の夢を残したまま終わっている。  
 
物語の後半は「赤石嶽より」から紹介しよう。縦坑からの塩泉を原料に製塩をおこなう一方で、横坑も掘り進め37間にも達していたが、「塩の鉱山」には突き当たらなかった。ついに資金は底をついてくる。そのうち見切りをつけた同士は徐々に脱退し、最後は工藤欣八と2人になる。掘削はタガネとゲンノウに大鉄鎚を使った完全な手作業、一日にわずか5分ぐらいしか進まなかったときもあった。・・・ふたりの苦労もついに報われることはなかった。昭和31年の塩河の大水ですべての施設は跡形もなく流されてしまった。  
地元の平瀬理太郎氏の協力で事業は小規模ながら継続されたが、明治38年塩専売制施行により政府に買収される。2人は飯田塩務支局の製造担当をまかせられ生産を続けるが、明治43年製塩地整理により鹿塩の製塩事業は廃止される。岩塩の存在については神保博士他の学者から否定されるが、黒部銑次郎は「塩がすべて海水から出来ると決めつけるのはおかしい。掘削した坑道の周辺数十箇所からは昔と変わらず塩水が出つづけている、この塩水は海水と含有物質が違う」と反論し、ボーリング調査を行うことを主張したが、その機会もなく銑次郎は明治45年5月持病が悪化し他界する。  
鹿塩温泉街はいまでも登山客や湯治客でにぎわっているそうである。銑次郎に協力をした平瀬理太郎氏のひ孫にあたる貞雄氏に問い合わせたところ、彼らが掘った坑道の一部はいまでも残っており、塩泉もいまだに絶えることなく湧き出しているとのことで、平瀬家が経営する旅館山塩館には銑次郎の肖像画やゴットフレーの塩泉分析表が保存されているとのことであった。神保博士発表以来岩塩はないと結論が出ているが、湧き出る塩水のもとは地中奥深くどのように溜まっているのであろうか。  
安原正也氏(産業技術総合研究所)から最近「塩井−その分布・利用・起源について−」という論文発表の概要書が塩業資料室に送られてきた。日本における塩井の分布から分析して、塩水の起源としては油田・ガス田付随水、古海水起源の停滞水、深部起源水などが考えられるとのことで、今後各地の試料分析を行い塩水の起源の解明、淡水に比べ比重の重い塩水がどのように地表に出てくるかなど、水文地質学的に検討していくとのことであった。 
鰻橋・弘法の井戸 / 安中市・上間仁田字鰻橋  
信濃国(長野県)を遍歴した真言宗の祖 空海(弘法大師)は、碓氷峠を越えて上野国(群馬県)に入った。空海は病んだ者に薬を施し、皆に仏教を説いた。ある日、この地を通ったおり、大雨により川の水があふれ困り果てていると、川の中から耳の生えた大きな鰻が現れ、鰻が橋の代わりとなり川を渡ることができた。空海は鰻が干ばつでも困らぬようにと錫状を地面に突き立てて抜くと、水が湧き出し井戸となった。これからこの橋を「鰻橋」といい、村の名前も「鰻橋」といい、井戸は弘法の井戸と呼ばれている。 
弘法大師のさかさ杖 / 長野県東御市祢津新張五十番  
東御市新張(みはり)から群馬県吾妻郡嬬恋村の鹿沢温泉へ向かう地蔵峠は、湯道として知られ、新張から鹿沢まで100体の石仏の観音像が道標として造られました。その50番目、馬頭観音の脇に、このシナノキがあります。ここにはかつて茶屋があったといい、弘法大師が休憩したときに、持っていた杖を差したものが育って大木となったという伝説があり、「弘法大師のさかさ杖」とも呼ばれています。ちなみにシナノキは、長野県の旧称「信濃国」の語源だといいます。 
 
新潟県
宝手拭 / 新潟県  
老夫婦が空海に宿を提供して、その礼に貰った1本の手拭いで顔を洗うと若返り、他人に貸したらその人は猿になった。
弘法の授け湯 / 新潟県十日町市西田尻辛  
「清津峡」は、昭和24年に国立公園(上信越高原)に指定され、その豪壮 雄大なる閃緑ひん岩の巌礁美と柱状節理の荘厳さ は日本三大渓谷の一つに数えられています。清津峡には、碧雲・黒岩 ・銚子滝・屏風岩・臥龍峡・足尾沢滝・満寿山・鹿飛橋 等の偉観があり、訪れる人の胸を打っています。また清津峡は、狐・狸・熊・むささび等獣の棲息、フクロウ・みみずく・仏法僧・鷹等数十種類の野鳥、 高山植物・渓谷植物等、学術的資料の宝庫でもあります。  
清津峡温泉瀬戸口の湯  
清津峡の入口の温泉。弱食塩泉で、神経痛、胃腸病、リュウマチなどによく効くといわれています。この温泉は「弘法の授け湯」とも呼ばれ、弘法大師が沸出させたとのいい伝えがあります。その伝説とは…山奥の山村を托鉢(たくはつ) に歩いていた旅のお坊さん(弘法大師)が、一晩泊めてもらった農家の主人にお礼として授けたもので、この温泉に入った妻はたちどころに病気が治り、他の村人も病苦を逃れた-----というものです。現在もそのゆつぼが残っています。  
ねじり杉  
角間集落の観音様の境内にある杉は、幹全体がねじれ、「弘法さまのねじり杉」と呼ばれています。昔、昔、夏の暑い盛りに村を通りかかったお坊さん(弘法大師)が水を頼んだが、信仰心を持たない村人はとうとう水をあげなかった。悲しんだお坊さんは小さな杉の木をねじって、「このまま伸びよ」といいつけて仏の力を教えた、という弘法さまにまつわる伝説もあります。 
片葉の葦  
越後七不思議に数えられている「片葉の葦(かたはのあし)」。一方向にだけ葉が出る不思議なアシです。「片葉の葦」は越後七不思議のひとつで、葉が片方側だけに生えるアシです。上越の居多ヶ浜や居多神社周辺に自生しています。片葉の葦にまつわる伝説は、大きく分けて2つあります。ひとつは現在、越後七不思議として語られている親鸞聖人由来の伝説。もうひとつは弘法大師(空海)由来の伝説です。  
親鸞聖人由来の伝説1  
居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は、最初に居多神社を参拝しました。ここで聖人は「末遠く 法をまもらせ 居多の神 弥陀と衆生の あらむ限りはすえとおく ほうをまもらせ こたのかみ みだとしゅじょうの あらむかぎりは」と詠みました。この親鸞聖人の教えに感化されて、葉が片方だけを向いてなびいたそうです。  
親鸞聖人由来の伝説2  
流罪となり越後国府に流された親鸞聖人は居多ヶ浜周辺で布教しましたが、罪人であるとして話を聞く者がいませんでした。そこで聖人は「結びおく 片葉の葦の 後の世に わがあと慕う 小道しるべにむすびおく かたばのあしの のちのよに わがあとしたう こみちしるべに」という歌を詠んで、傍らの葦の葉をちぎりました。その後、このあたりの葦はすべて片葉になってしまいました。  
親鸞聖人由来の伝説3  
親鸞と一緒になって手を合わせたから、葦が親鸞との別れを惜しんで合掌したから。  
弘法大師由来の伝説1  
とある僧がこの地をおとずれ、村の家々に水を所望して回りました。しかし、この地では水が貴重であったため、どの家からも断られてしまいました。水をあきらめた僧は、砂丘に立って読経を始めました。すると、激しい雨が降り、足下に小さな池が出来ました。僧がその池に自分の姿を映して仏像を刻んでいると、どこからか女が現れ、草笛で美しい音色を奏でました。女は僧を手招きしますが、僧は邪念を払って仏像を刻み続け、明け方には完成させました。そして、仏像を草庵に安置し、どこへともなく去っていきました。村人達は残された仏像に「空海刻」と彫られているのを見て、あの僧が弘法大師であったことを知り、それから熱心な仏教徒になったそうです。  
弘法大師由来の伝説2  
女が草笛を作るために葦の葉の片方を全部ちぎり取ってしまったため、この池に生える葦は全て片葉になったそうです。 
 
愛知県
悪病退散祈願の供饌菓子(くせんかし) / 愛知県津島神社  
弘法大師が愛知県津島神社に伝えたのは、薬師如来信仰だけではなかった。悪病退散の祈願を込めて神前に供え、参詣した人々にも分けたという菓子が、津島神社の供饌菓子として伝えられたのだ。それが、直系1.5cmほどの小粒の揚げた米団子「あかだ」である。  
かつて門前をにぎわしていた「あかだ」「くつわ」の店も、今では神社の東の鳥居前に3軒が残るのみである。伝統製法の「あかだ」と「くつわ」は恐ろしく硬く、そして香しい。津島神社鳥居前に並ぶ専門店で作られる「あかだ」「くつわ」はまさに類まれな銘菓(迷菓)としての個性がうかがえる。 
弘法さまの二つのいぼ塚 / 愛知県豊田市  
上のいぼ塚〜愛知県豊田市保見町  
下のいぼ塚〜愛知県豊田市伊保町  
昭和45年に下伊保が伊保町に、上伊保が保見町に変更されたそうで、伊保川・伊保橋・伊保小学校の名前は残っています。  
下のいぼ塚は県道58号線の伊保町的場交差点から大清水町交差点方向へ300mほど南下した伊保川にかかる向山橋手前の東側道路脇にありました。昔はいぼ塚のまわりの泥を採っていぼに塗って祈ったとのことですが、昭和59年7月に伊保町有志一同により元の位置から移築されてきれいに整備されていています。  
愛知環状鉄道の保見駅近くの県道58号線沿いの理容店で尋ねたら上のいぼ塚はすぐ見つかりました。上のいぼ塚は保見駅の近くの伊保小学校の東側の加納宅の敷地内にありました。上のいぼ塚の地主である加納様の奥様の話ではすぐ近くの田んぼから昭和63年に現在の位置に移動したとのことでした。上のいぼ塚は塚前の窪みの中から泥は採ることが可能で、今でもいぼとり祈願に訪れる方がいるそうです。  
二つのいぼ塚ははるか昔からあるようで、いぼ塚にまつわる民話が残っています。送って頂いた資料の「とよた風土記」(豊田市区長会発行)によると弘法大師信仰によるものと言われています。「とよた風土記」の「下伊保のいぼ塚」には次のようなお話が掲載されています。むかし、天長年間(824〜834)伊保の里に、全身いぼの出来ていた娘がいました。娘は醜い我が身を悲しんで、毎日昼間は外出もできずに暗い日々を送っていました。里の人々も皆哀れんでいました。ある秋の夕暮れ時に笠を深くかぶった身の丈よりも長い杖を持った墨染めの衣の一人の旅の僧が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と重みのある念仏をとなえながら、娘の家の前で報謝を求めて立ちどまりました。娘は顔を手拭いでかくし、手は前掛けでかくし、皿に持ったお米を差し出すと、僧はありがたく受け取って首に掛けた袋にいれ皿を返しながら「娘さん、いぼで大変おこまりの様子、前にこられや」と言って、手を合わせておがむ娘の上半身を杖で静かに力をこめてさすりながら、「南無大師遍照金剛」と、何度も何度もとなえ、上半身の疣を一枚の紙に封じて「上のいぼ塚にお納めなさい。」と言いました。さらに杖で下半身をくまなくさすり「南無大師遍照金剛」と何度もとなえ、最後に一枚の紙に下半身の疣を封じ「下伊保のいぼ塚へおさめなさい」と言い残し娘が深く頭をさげてお礼を申しているうちに姿を消しました。旅の僧の言葉どうりに、上のいぼ塚と、下伊保のいぼ塚へ納めて、一心に念仏をとなえて祈っていたら、いつの間にか全身のいぼは取れて、もとのきれいな娘となり、幸せな日々の生涯送ったそうです。古老のお話では、その時の僧は弘法大師ではないかと言い伝えられています。 
錫杖井戸 / 愛知県豊川市 
昔、高野山金剛峯寺を建てられた弘法大師(空海)という偉いお坊さんが、旅の途中、徳城寺に立ち寄りました。のどがかわいた大師は「水を一杯ください」と寺僧に頼みました。「しばらくお待ちください」と、寺僧は答えたが、なかなか水を持って現れませんでした。  
やっとのことで、水のいっぱい入った手おけを持った寺僧が出てきました。寺僧が持ってきたその水は、冷たくとてもおいしかった。  
聞くところによると、寺僧は、大師に一杯の水を頼まれたものの汲み置きの水がなかったので、急いで崖下の清水まで水を汲みに行っていたことがわかったのです。  
大師は、この辺りは井戸がなく、飲み水にたいへん不便をしていることを知り、そこで「ここを掘れば、水が出ます」と、錫杖で地面を示されました。そこを掘るときれいな水が出てきたのです。これよりこの井戸から絶えず水がわき出し、いくら汲んでも水のなくなることはありませんでした。  
人々は、この井戸を「錫杖井戸」と呼びました。  
徳城寺  
豊川進雄神社に沿った道の南側にあるのが徳城寺の境内です。大きなケヤキが数本茂った一隅に小さなお堂が建てられ、その中に深さ1mほどの井戸があります。洪積台地の豊川町では、粘土層にたまった水を得るこのような浅い井戸はとてもめずらしいです。人々は、不思議な自然現象のこの井戸を弘法大師の掘った「錫杖井戸」として大切にしてきました。  
浦島太郎の故郷 / 愛知県知多郡武豊町  
武豊町に伝わる昔話には、この町が浦島太郎の故郷であると書かれています。武豊町にある富貴は「ふき」と読みますが、この読みは昔の「負亀(おぶかめ)」という地名から生まれたものです。負亀の音読みは「ふき」です。また、この地には現在も「浦之島」というような地名があります。  
・・・まず、わしが話を聞いてもらいたいもんじゃ。  
おまえさまは、富貴村の東大高の、知里付神社という神さんの東南に、『負亀(おぶがめ)』という土地があることを知っとりなさるだろうか。この土地には、浦島屋敷と呼んでいる一画もありますのじゃ。浦島太郎が、助けた亀の背に負ぶさって、ここから出かけたから、負亀というているんで、りっぱな証拠ではござんせんか。富貴(ふき)のことを、いろんなふうに言っとるようだが、この負亀を音で読みなさってごろうじろ。それ、フキと読めますじゃろうが。これが富貴という村の本当の意味と言えますまいか。 そればかりではござんせんよ。浦島川だとか浦ノ島という土地もありますのじゃ。この浦ノ島へは、海亀がたくさんやってきて産卵したもんだと、うちのじいさんに聞いたこともある。この郷の氏神さんは知里付さんというて、近郷にも名高いお社じゃが、第11代垂仁天皇さまの26年菊月に建てられなさったという言い伝えじゃから、浦島太郎が故郷へ帰った天長2年よりも、ずうっと昔のお社じゃ。宮司さんに聞いた話じゃ、このお社には、浦島太郎の玉手箱がちゃんとしまってあるそうな。わしも覚えとるが、前のお社の棟瓦(むながわら)は亀の姿をしておったと思うがのう。おまえさん、富貴の南の海岸に、四海波(しかいなみ)というとこがあるのを知っとりなさるか。昔はこの辺は海のきれいなとこで、富貴では、終戦後も長い間、海水浴で大にぎわいしたもんだが、この四海波は、殊に景色がええところで、名古屋の金持ちの別荘が並んどったが、あすこの堤防で、じっと海を眺めてごらんなされ。波の形が変わっとるんで、昔の人は、竜宮城の入口だと言っとった。わしがじいさんの話だと、あの浜辺は「うめきの浜」というて、浦島太郎が、玉手箱を開けたため、白髪(しらが)になってしもうて、くやしくてうめいた所じゃということだった。 この浜から一丁くらい西には、翁塚(おきなづか)という古い塚もあるし、浦島観音さんもまつられておる。 東大高の真楽寺というお寺さんには、ちゃんと亀のお墓が残されていますのじゃ。  
昔、弘法大師さんが、こちらへおいでんさったとき、ああ、ここは浦島太郎の出生地だと言われて、燕子花(かきつばた)と松と竹を植えなさったのだが、燕子花は四季咲きになり、大正天皇さまが皇太子さんのとき、ご覧になりましたのさ。枯れてしもうたが、松は斑入(ふいり)になり、竹は年中筍(たけのこ)が出たそうな。富貴の市場には『竜宮神社』という神さんがあって、富貴の浜が海水浴でにぎわったころ、ようお参りがあったものだったが・・・。とにかく、これだけ証拠がそろっとっても、浦島太郎の土地じゃないと言われますかの。  
 
岐阜県
手なし嫁 / 岐阜県  
むかしむかし、飛騨の国(岐阜県)の吉城郡(よしきごおり)のある村に、吉右衛門という長者がいました。  
長者には先妻の子どもで、おすみという美しい娘と、後妻の子どもで、お玉というみにくい娘がいました。  
さて、ある日の事、隣村の長者の太郎兵衛から使いの者が来て、「ぜひとも、おすみさまを嫁にほしいのです」と、言ってきたのです。  
それを知った継母は、自分の子どものお玉を長者の嫁にやりたいと思う気持ちから、おすみを殺してしまおうと考えたのです。  
(おすみさえいなれけば、隣村の長者は、きっと、お玉を嫁にもらってくれるはず。なにしろ他の家の嫁では、つり合いが取れないからね)  
そこでまま母は長者が旅に出たのを見計らって、数人の男に山でおすみを殺すよう命じたのです。  
男たちは嫌がるおすみを山へ連れて行くと、まずは両手を切り落としました。  
すると、おすみが、「どうか、命だけはお助けてください。もう二度と、家へは帰らないと約束しますから」と、泣いてすがったのです。  
男たちも、おすみに恨みがあったわけではないので、おすみを殺さずに帰っていきました。  
両手を失ったおすみは、その場でしばらく泣いていましたが、ふとおすみの耳に、こんな声が聞こえてきたのです。  
「仏さまは、あなたを見捨ててはいません。幸せになりたいのなら、旅に出なさい」  
それを聞いたおすみは、その声が弘法大師の声だと確信しました。  
「お大師さま、お導きをありがとうございます」  
おすみは泣くのをやめて立ち上がると、四国八十八ヶ所へ遍路(へんろ)に出ることにしたのです。  
両手をなくしたおすみには大変な旅でしたが、おすみは弱音一つ吐かずに頑張りました。  
そして旅を続けて数日が過ぎた頃、おすみは山の中で猟犬に吠え立てられました。  
そしてその猟犬の後から、立派な若者が出てきました。  
この若者こそ、おすみを嫁にほしいといった長者の息子だったのです。  
長者の息子は、おすみの継母におすみが死んだと聞かされてがっかりしていたのですが、悲しい気持ちを紛らわす為に、猟犬を連れてこの山に猟に来ていたのです。  
息子がおすみを家につれて帰ると、娘は今までの出来事を語りました。  
それを聞いた息子も長者も、びっくりしましたが、「何事も、縁が大事。あなたに嫁に来て欲しいと言ったのも、ここでこうして出会ったのも、お互いに深い縁があったからでしょう。手がなくてもかまわないから、どうか息子の嫁になってくだされ」と、言ってくれたのです。  
そして立派な祝言をあげると、二人はめでたく夫婦になり、間もなく玉のような男の子も授かりました。  
そんなある日の事、おすみは手が生えるように願をかけて、再び四国八十八ヶ所へ遍路に行きたいと言い出したのです。  
長者も息子も心配しましたが、おすみの決心は固くて止める事が出来ませんでした。  
おすみは子どもをおぶって四国巡りを始めましたが、背負われた子どもがひもじがって泣くので、お乳をあげようと子どもを下ろそうとした時です。  
おすみはうっかり、子どもを背中から落としてしまいました。  
「あっ、いけない!」  
おすみはとっさに無くなったはずの手を伸ばして、子どもを受け止めました。  
そして子どもを受け止めてから、自分に手がある事を知ってびっくりです。  
「て、手が、わたしの手がある!」  
いつの間にかおすみの両肩から、両手が生えていたのです。  
「ああ、お大師さま。ありがとうございます」  
おすみが涙をこぼして喜んでいるところへ、心配した長者の息子が追いかけて来ました。  
二人は大喜びで大師に感謝して家に帰ると、それから仲良く幸せに暮らしました。  
その一方、おすみに両手が生えたその日、継母の両手が突然に無くなったという事です。 
ダケ石 / 岐阜県  
空海が杖をついてできた石。これに触ると怪我をする。
 
石川県
弘法池 / 石川県石川郡鳥越村字釜清水  
地名の由来は弘法大師にちなんだもので、「その昔、暑い夏の盛りに、弘法大師が行脚のためこの村に立ち寄られた。大師は庄屋の家で休まれ、その家の老婆に水を所望されたが、村には飲料水が近くになく、老婆は手取川まで険しい谷道を下りて汲んできて差し上げた。大師は老婆の親切を大変喜ばれそしていたく感動された。大師は持っていた錫杖を岩に突き刺しえぐると、不思議なことに穴の底から清水が湧き出してきた。村人たちは喜び、この水を弘法様の水として大切に守り、飲料水にした。  
弘法の水 / 石川県鹿島郡田鶴浜町字大津  
約1200年前日照りが続いた時の事、村人たちは飲料水もなく悪疫が流行し大変困っていた。そこへ訪れたみすぼらしい旅の姿のお坊さんが、一生懸命に泉を掘ってくれた。村人たちは、ほどなくその旅のお坊さんが弘法大師だとわかり、御恩報謝のお堂を建てた。  
龍燈 / 河北郡津幡町  
弘法大師が岩動山を越えたとき龍燈が老松にかかり大日如来の尊容が奇雲の間に現れた。よって大師はここに二年とどまり大日尊と聖徳太子二歳の像を安置した。津幡町領家の広済寺である。 
ガン、大蛇 / 鳳至郡柳田村  
男は干上がった田に水を張ってくれた大蛇に娘を嫁がせる約束をした。蟹(ガン)が大蛇を退治するが、今度はそのガンが童(ワロ)に化けて人を食べるようになり、弘法大師が雨乞いの神として祀った。 
不使の水 / 石川県  
能美で村人が水を惜しみ与えなかったため空海は怒り村のどこを掘っても鉄気のある水にした。
 
富山県
弥陀ケ原の弘法清水 / 富山県  
むかしむかし、弘法大師(こうぼうたいし)と言うお坊さんが、立山(富山県の南東部)にこもって修行をしていた時の事です。その当時の弥陀ヶ原(みだがはら)は、行けども行けども一滴のわき水もありませんでした。その為に立山に登る人たちは、苦しい思いをしていました。  
これを知った弘法大師が、「水は、生きていく上でもっとも大切な物。それがないとは、不便な事じゃ」と、持っていた錫杖(しゃくじょう、修行する人が持ち歩くつえ)で軽く地面を叩いたのです。すると錫杖は深く地面に突き刺さり、弘法大師が錫杖を引き抜くと、そこから水がこんこんとわき出てきたのです。  
人々はこのわき水を、弘法清水(こうぼうしみず)と名付けました。今でも弘法清水はわき出ており、この弘法清水でわかしたお茶を飲むと元気が出ると言われています。 
 
福井県
三方の石観音 / 福井県  
空海が御影石に彫った観音。右の手首ひとつのこして夜明けになったのでノミを置いて下山した。それ故、本尊には右手首がない。
 
近畿

 

三重県
弘法井戸 / 三重県四日市  
青龍寺を東に下った所に、弘法井戸がある。昔、この地に長い間雨が降らず、水がかれて、飲み水もままならない時があった。村人達が大変困惑していたとき、弘法大師が諸国を巡られている途中、このあたりに立ち寄られて、水を求められた。村人は大師に水はさしあけたいが、飲み水もなく、さしあげることができないと申し上げると、大師は不憫に思われて、もっていた錫杖で、ドンと地面を突きさした。そうすると、そこから、こんこんと清水が湧きだし、井戸のようになった。村人達は大喜びで、それ以後、この地を「弘法井戸」と呼び、弘法大師の遺徳を称えている。今日に至るも、この井戸の水は、かれたことがない。こんこんと湧き出る清水は、周辺の住民の使い水として、特に重宝がられており、現在も生活用水として、付近の人々に活用されている。足見田神社の沿革によれば「正安三年(1301)正月七日足見田神社の神託によって、地神社と天神社の間一町会(120m)その中間に「真名井」(真ん中の井という意味)あり、空海法師(弘法大師)の封賜う、霊水なりというと書かれている。 
弘法杉 / 三重県四日市  
こんもりとした大きな杉の木がある。現在は周囲が茶畑であるが、昭和五十年(1975)ごろまでは全部水田であった。田んぼの中の杉の木、これが弘法杉である。昔、弘法大師が諸国を巡られた時、このあたりで昼時となり、大師は杉の技で作った箸で昼飯を召し上がった。その後で、箸を泉のほとりの地面に突きさしておかれたが、やがて、その杉の箸に根がついて芽が吹き、大きな木に成長したもので、土地の人々は「弘法杉」と呼んでいる。このように伝説のある弘法杉の木には、いまだに誰も登ったことがないし、もちろん技を切ったりすることもなく、こんもりと茂っている。しかし、鈴鹿おろしのきびしい風に吹かれて、近年東寄りにやや傾く気配に、心ある人の発案により、地区の人々が平成四年(1992)正月、杉の木の周囲を石垣で囲み、傾かないように補強をして、保存に努めている。 
大蛇 / 桑名郡多度町  
大淀というところに大きな松があり、その根元に大蛇がいた。人に悪さをすることはなかったが、見るだけで怖い。弘法大師が退治し、寺の本堂に頭だけ安置した。 
古木の血 / 三重県  
むかしむかし、三重のある村の長者が庭に出て涼んでいると、西の空が明るく光り輝いているのが見えました。  
「はて。あれは、何の光じゃろうか?」  
不思議に思った長者が行ってみると、となり村とのさかいにある小さな湖に枯れ木が浮いていて、それがまばゆい光を放っているのでした。  
「これは湖の底にあるという、竜宮御殿に使われている木の一部にちがいない」  
長者が枯れ木を湖から引き上げると木は光らなくなりましたが、長者はそれを家に持って帰って大切にしました。  
それからしばらくたったある日、旅の途中の弘法大師(こうぼうだいし)が、この村を通りかかりました。  
大師が来たことを知った長者は、大師を自分の屋敷に招いてもてなすと、あの光る枯れ木の話をしました。  
すると大師は、床の間に置かれていた枯れ木をじっと見つめて言いました。  
「確かに、この木からは、ただならぬ力を感じる。  
もしよろしければ、この木で地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の像を彫りたいと思うが、いかがであろうか」  
「それはそれは、まことにありがたいことで」  
有名な大師が彫ってくれるというので、長者は大喜びです。  
大師は長者から一本のノミを借りると、菩薩像の頭から彫っていきました。  
カーン、カーン。  
大師がひとノミ入れるたびに、枯れ木は不思議な光を放ちます。  
さすがの大師も、少し興奮気味です。  
ところが一心に刻んでいって、菩薩像を腰のあたりを彫り進んだとき、突然枯れ木から真っ赤な血が流れ出たのです。  
これには大師も驚いて、「ぬぬっ。この木は、生身の菩薩じゃ。わたしの様な未熟者では、これ以上木を刻む事は出来ません」と、言うと、がっくりと肩を落として彫るのをやめてしまいました。  
こうして腰から下が未完成の菩薩像は村のお寺へと移されて、お寺の本尊としてまつられたという事です。 
弘法井戸 / 三重県  
むかしむかし、惣松(そうまつ)という人が、村人たちと伊勢参宮(いせさんぐう)に行きました。  
そしてその帰り道に舟で二見が浦(ふたみがうら)の近くの飛島(とびしま)まで来たのですが、突然空に小さな白龍(はくりゅう)が現れて、惣松の着物の中に飛び込んできたのです。  
惣松をはじめ、村人たちはビックリしましたが、「これは、幸運を知らせる神さまのお告げじゃ」と、喜んで白龍を村へ持ち帰りました。  
家に白龍を持ち帰った惣松は白龍を床の間に置きましたが、白龍は床の間から出て行くと神棚(かみだな)の中に入ってしまったのです。  
惣松は、「神棚とは、この白龍は福の神に違いない。きっと、良い事がおこるぞ」と、神棚へだんごやお酒などをたくさんおそなえしました。  
すると惣松の家だけでなく村中が幸運続きで、村はどんどん栄えていきました。  
そんなある日の事、惣松は神棚にそなえただんごを一口食べると、「ぺっぺっ! くさっていやがる! こんな物、食えるか!」と、吐き出してしまったのです。  
するとそのとたんに白龍が神棚から飛び出して、森の中へかくれてしまいました。  
おかげで村はしだいに、貧しくなっていきました。  
それから数年後、旅の途中の弘法大使(こうぼうたいし)が村へやって来ました。  
弘法大師は村中を歩き回ると、村人にたずねました。  
「この近くに大きな力を感じるが、この村には何かあるのか?」  
「はい、お坊さま。実はこの村に一匹の白龍がいたのですが、森の中へ逃げてしまいました。それいらい、村は不運続きです。どうか白龍を、連れもどして下さい」  
村人の言葉に、弘法大使は、「白龍は水が好きだから、井戸をほってあげよう」と、持っていた杖(つえ)を、地面に突き刺しました。  
すると不思議な事に、そこから水がこんこんとわき出したのです。  
それからは毎日のように白龍がこの水を飲みに来るようになり、村は前のように栄えていったそうです。おしまい 
弘法牡蠣伝説 / 三重県南部紀北町  
渡利牡蠣は弘法牡蠣とも言われています。なぜ、弘法牡蠣と言われるようになったかというと、ある日、この村を通りかかったお坊さんが隣の村では何も頂けず憔悴して托鉢を行っていました。  
白石湖で、漁をしながら暮らす一軒の漁師の家で立ち止まりました。「お坊さま、見てのとうりの貧乏な家です。何もお出しするものはありませんが、私達が今晩食べるご飯でよければどうぞ」とおにぎりにして差し出しました。このお坊さんは、差し出されたおにぎりを湖に投げ入れお経を唱えると、おにぎりが牡蠣に代わりました。  
この村の人たちは飢饉のときはこの牡蠣で飢えをしのいだと言われ、後で、このお坊さんは弘法大師だったことが分かり、この地で獲れる牡蠣を弘法牡蠣と呼ぶようになったと言うことです。  
 
三重県南部紀北町に周囲がわずか4キロと小さな汽水湖が在り、これが白石湖です。この小さい湖で、美味しい渡利牡蠣は育てられています。全国でも1,2を争う多雨地帯として知られる大台ケ原のふもとにある、小さな湖が白石湖です。この大台ケ原から流れれる澄んだ川の清水と黒潮が洗う熊野灘の栄養豊富な海水が入り混じった汽水湖で育つ牡蠣が渡利牡蠣です。 
足跡石 / 三重県  
空海の足跡を2ヶ所残した岩で、触れると仏罰があたる。
 
奈良県
大師像の下あごの傷 / 奈良県  
千代の八条に本光明寺があります。本堂には弘法大師の座像がまつってあります。  
昔、庄屋がある日、ヘビを殺そうとしました。そこへ旅の僧がとおりかかって、「そんな殺生はおやめなさった方がよい」といましめました。庄屋は立腹して僧の下あごを鎌で切りつけました。  
旅の僧は「お前のしわざは七代までたたるぞ。」、八代目にはじめて罪が消えるだろう」と言って、どこかへ姿を消してしまいました。  
そこで大師堂へ行ってお祈りをすると、本尊の大師像の下あごから血が流れていました。さては大師さまが化けておられたのかと、それから一生懸命に信仰をするようになったということです。  
現に安置されている木造大師像の下あごには傷があります。
梵字(ぼんじ)の池 / 奈良県  
むかし、弘法大師が高野山から京都の東寺へ通われたとき、田原本町秦庄(はたのしょう)の秦楽寺(じんらくじ)に泊まられて、池のほとりの部屋で『三教指帰(さんごうしいき)』という本をお書きになりました。そのときカエルの声がやかましくて邪魔になるので、大師はおしかりになりました。それ以来カエルは池の中で鳴かなくなりました。  
そこで大師は、池をア字の梵字形でつくらせ、池の中に「三教島」をつくりました。バンの梵字池は百済寺(くだらじ)の境内に掘らせました。ウンの梵字池は与楽寺(よらくじ)の境内に掘らせました。百済寺と与楽寺はいまの広陵町にあります。これらの池はア・バン・ウンの三池といって有名で、ともに三教指帰を説き述べられています。  
ところが二百年ほど前に百済寺の住職が、この寺の領主多武峰(とうのみね)寺の三坊にお願いして百済寺の梵字池のバンの字は、頭に「、」が抜けていたので「、」を付けて誤りを正すことをゆるされたといいます。「弘法も筆の誤り」ということわざがあります。  
アは胎蔵界(たいぞうかい)、バンは金剛界(こんごうかい)、ウンは蘇悉地(そしつち)のことです。  
弘法大師はいまの田原本町千代(ちしろ)の勝楽寺(しょうらくじ)(現在は本光明寺(ほんこうみょうじ)に自分で四十二体の像を刻み、寺を建て、境内に梵字池をつくり、秦楽寺のア字池、与楽寺のウン池とともに大和の三楽の池と言っています。  
※千代の本光明寺にまつられている木造弘法大師坐像は、像高60.2cmで玉眼の古色。  
寄木造で室町時代前期の作です。毎年二月二十一日には初大師の法要が営まれます。本光明寺はもと勝楽寺といい、重要文化財の木造十一面観音立像をまつっています。  
※弘法大師(七七四〜八三五)名を「空海(くうかい)」といい、諡号(いみな)を弘法大師といいます。讃岐(香川県)に生まれた平安時代初期の僧で、真言宗(しんごんしゅう)の開祖(かいそ)です。  
十八歳の時に大学で外典を学びましたが、儒・仏・道教のうち仏道が最も優れているとして家出しました。804年(延歴23年)の入唐、806年(大同一)に帰朝しました。  
東寺を賜って真言道場とし、816年(弘仁七)高野山に金剛峰寺を開き、真言密教の高揚に努めました。また各地で灌漑用の池や井戸を掘ったといわれています。田原本町内でも同じ伝説が二三のこっています。  
弘法大師は書道でも三筆(嵯峨天皇、橘逸勢(はやなり)僧空海)の一人として有名です。
つえが大樹になった話 / 奈良県  
秦楽寺の春日神社にいまも菩提樹の木があります。  
むかし弘法大師が杖をさされて水をかけられると、そこから根が生えて大きくなったということです。
秦楽寺の七不思議 / 奈良県  
秦楽寺の池は弘法大師が造られたという話はすでに書きましたが、ほかに七つの不思議なことがあるとの言い伝えがあります。  
一、阿字池はいずれの方向から見ても地形の全部が見られず、ひとすみだけは見えないということです。  
二、阿字池は百日の干ばつでも、水が絶えてかれたことがないそうです。  
三、池中には藻や浮草が生じないということです。  
四、木の葉が浮かばないそうです。  
五、ヒルが住まないといわれます。  
六、かえるが鳴かないそうです。弘法大師が修行中やかましいので、鳴くことを封じたといいます。  
七、池水が田の水より少し目方が軽いそうです。  
みなさんも一度現地を訪れて試してみてはいかがでしょう。
弘法井戸 / 奈良県  
田原本の楽田寺の山門をくぐると、右手に井戸を見ることができます。この井戸は弘法大師が高野山へ行かれる途中に、楽田寺へ寄られた時に、干ばつに苦しむ農民の訴えを聞いてここに井戸を掘られたということです。それでこの井戸を弘法井戸と呼んでいます。  
水は常にわいて、昔は田んぼの用水にも利用されていたそうです。水は弘法水と呼ばれています。  
この楽田寺は古くから雨ごいの寺としても知られています。お寺には絹本著色善女龍王図がのこり、明治にいたるまで雨ごい祈とうの本尊として用いられていました。弘法大師が京都の神泉苑で祈雨の法験があって以来、東密の秘法として相承された請雨法の本尊は「善女龍王」であり、高野山金剛峯寺蔵本は国宝として有名です。このことから弘法大師と楽田寺とのかかわりは相当深かったと思われます。いまこの「善女龍王図」は、奈良県指定の文化財(絵画)になっています。  
さらに下ツ道(中街道)沿道の奏楽寺、本光明寺などは、大師の通行路に接していて、大師にまつわる話が遺されて、これらの話は伝説というだけではなさそうです。  
弘法大師は書道の三大家の一人に数えられていることは前回にのべましたが、ことわざに「弘法筆を択(えら)ばず」があります。「能書不レ択レ筆」という中国の語句を、日本の民衆の知識のなかに翻訳したのだそうです。  
また「弘法も筆の誤り」は応天門の額を書いて点を書き落としたところから出たものです。  
その点を筆を投げ上げて直したところから「弘法の投げ筆」になりました。「猿も木から落ちる」や「上手の手から水がもれる」などのことわざと同じ意味でつかわれます。  
さて、点を書き落としたという話は、先の話の百済寺のバンの梵字池をつくったときに、点がぬけていたという話ともよくにています。話はおそらく共通のものであったのかも知れません。
なつめが原 / 奈良県  
桜井市江包(えっつみ)を流れる初瀬川の観音橋の上流、つなかけばし付近から西の一帯を、昔から「なつめが原」と呼んでいます。  
このあたりは桜井市になりますが、田原本町笠形や蔵堂(くらんど)と接していて、江包から流れる水路を「なつめ川」と呼んで、「この辺は嫁入りの通ったらあかんとこ」と伝えられています。  
このなつめが原の話を、江包の植田明夫さんから、植田さんの田んぼで聞きました。 
なつめが原。わしとこのこの田のこの辺を言うてます。  
昔この辺にはな、なつめの木がぎょうさんあって、実がようなったそうや。あるとき子どもらがな、その木に上ってなつめの実をとって食べとったらな、きたない格好の疲れ果てた坊さんが通りかかって、「腹が空いてんので一つくれんか」言うて、木の上の子らに声かけやはったそうや。  
子らは「お前にやるようなもんは一つもあらひん」言うて、 虫の食たのや熟したらひん実を坊さんに投げよったそうや。  
そしたら坊さんおこってな、「そんな人にやれんようななつめやったら、次の年から絶対実のならんようにしたる」言うて、消えてしもたそうや。子らはびっくりして家へとんで帰りよった。  
そんなことがあってな、次の年からは実はならんようになったというこっちゃ。その旅の坊さんこそ、あのお大師(だいっ)さん(弘法大師)やってんと。  
なつめ川に沿うた道はな、いまも嫁はんの荷や婚礼のタクシーは心得たもんで、めったにとうらへん。  
なつめの木はなぁ、今はもう一本もあらひん。わしが中学校卒業したじぶんやから、もう四十年も前かなぁ。百姓しはじめたころには、わしの地(じ)に一本だけ生えとった。その木の下でいっぷくする人が多かってんが、こんな木あるさかい嫁はんも通らひんと、よう言われたもんやさかい、切ってしもたった。いま残しといたらよかってんなぁと思うこともある。せやけどそのなつめ、こんなちっちゃなもんで、キンカンをちっそしたような実で、リンゴみたいな味もしてんが、酸やらしぶいやらで、一つも食べられんかった。木切ってしもたんも、その辺もありまんねわ。
魔よけのザクロの木 / 奈良県磯城郡田原本町  
古い農家などには、今もザクロ(柘榴)の木が植えられているのを見かけます。これは昔から魔よけとして植えられたものが多いようです。法貴寺の農家で次のような話を聞きました。  
「私(わし)の家の裏にあるザクロの木は、昔先祖が植えとかったもんや。昔の母はたいがい子供(こ)を七人も八人も産んだもんやが、私の先祖は子がでけよると、その子はじっきに死んでしまおったそうや。そんで、せやったら魔よけにザクロの木植えたらええというので、植えたんがこの木やそうや。おかげさんで、そっから産まれてくる子はみな元気でな育ってんがな。そやから私はこの世に居んねわ」という話です。  
この話に出てくるザクロは、田原本町方面では「ジャクロ」ともいいます。ザクロは仏語では「吉祥果(きちようか)」といい、人肉に似た味がすると言われています。律宗や日蓮宗寺院で主にまつられている「鬼子母神(きしぼじん)」が、このザクロの実を手に持っています。  
この仏は、梵語ではハリーティーといい、漢語で鬼子母神、音訳して訶梨帝母(かりていも)と呼ばれ、吉祥天(きっしょうてん)の母といわれます。  
この鬼子母神は千人の子供を産みました。しかし性質は邪悪で常に他人の幼児を食らう夜叉女(やしゃめ)でありましたから仏に一番末の子を鉢底に隠されてしまいました。鬼子母神は泣き悲しみ、子供を獲(と)られた親の苦しみを知って、改心したというのです。仏は今までの悪行を戒め、吉祥果を与えました。鬼子母神は以後仏教に帰依し、安産と幼児を守る神になったのです。  
鬼子母神信仰は奈良時代からひろまったようです。ふつう天女形で右手にザクロを持ち、懐(ふところ)に幼児を抱く姿で現されます。田原本町の寺院では三カ寺に四躯の木造鬼子母神がまつられていますが、いずれも江戸時代の作になるものです。  
今回の魔よけのザクロの木の話は、こうした鬼子母神信仰から生まれた話なのでしょう。  
晩秋、モズが鳴くころともなると、熟したザクロの実は不規則に裂けて、うす赤い種子を露出させます。甘酸っぱい味のする実を以前こどもたちはよく口にしたものですが、今では鳥の餌となってしまうのが多いようです。根は回虫、なかでもサナダムシの駆除薬として使われていました。
薬井の井戸 / 奈良県北葛城郡河合町  
石の井筒を施した掘り抜き井戸。むかし、この村に行脚でやってきた弘法大師が掘ったと伝えられている井戸で、眼の病気にもよく効く薬水とも言われてきた言い伝えがあります。  
むかし、弘法大師がこの地に来られたとき、眼を患う人に会い、気の毒に思われた大師は「ここを掘り湧き出す水で眼を洗いなさい」と教えられたので素直に教えられた所を掘ると水がどんどん湧き出し眼を患う人が近村からこの水をいただきにきたという。水は今も湧き出ており、井戸の片隅には「薬井水」と刻んだ古い石が立ててある。
 
和歌山県
大きな蛇 / 伊都郡かつらぎ町  
昔、大きな蛇が出て村の人々を悩ませていた。そこで弘法大師がその蛇を封じこめた。その時、梵字岩の字が消えたらそこから出てきてもよいと、弘法大師が言ったという。 
橋杭(はしぐい)岩 / 熊野古道大辺路  
昔々、弘法大師(こうぼうだいし)と天(あま)の邪鬼(じゃく)(人の邪魔ばかりする悪者)が熊野地方を旅して串本までやって来ました。大島の人々が不便でたいそう困っているのを聞いた弘法大師は、「人に見られないように一晩の内に海に橋を架(か)けてやろう」と思い、天の邪鬼にも手伝ってもらうことにしました。しかし、天の邪鬼はいつも人の反対ばかりする上、偉い弘法大師には引け目を感じていましたので、何とかして弘法大師を困らせたいと思っていました。  
夜になると、いよいよ二人は橋をかけ始めました。天の邪鬼はふだんから働いたことがなかったので、すぐ疲れてきました。それであまり手伝おうとしませんでした。いっぽう、弘法大師は山から何万貫(がん)もある大きな岩を担(かつ)いできてひょいと海中に立ててどんどん橋杭を立てていきました。「この調子で橋を作ると朝までには立派な橋ができ上ってしまう。何とか邪魔をする方法はないものだろうか」と天の邪鬼は考えました。そこで弘法大師が人に見られぬように夜のうちに橋をかけてしまいたい」と言っていたのを思い出して鼻をつまんで「コケコッコー夜が明ける〜」と鶏(にわとり)の鳴きまねをしました。弘法大師は「まだ夜が明けるはずはない」と耳を疑いましたが、もう一度天の邪鬼が「コケコッコー」と鳴きまねをすると夜が明けてしまったと勘違(かんちが)いしてあわてて工事を止めてしまいました。それで今でも橋杭岩は海の中ほどまでしか続いていません。この珍しい岩は、大正十三年に国の天然記念物に指定されました。 
与門三郎(よもんさぶろう) / 桃山町  
秋晴(あきば)れの、高くすみきった空に、チリンチリンと鈴の音(ね)をひびかせて、ある屋敷の門前(もんぜん)に、一人の僧が立ち止まりました。衣の色もうすくなり、すげがさも重たそうで旅の僧は大変つかれているように見えました。  
「巡礼(じゅんれい)に、なにぶんの御報謝(ごほうしゃ)を。」  
の声に、出て来たのは当家の主人、安楽川(あらかわ)近郷(きんごう)の領主(りょうしゅ)、与門三郎(よもんさぶろう)でした。領内を見回るため、数名の家来(けらい)を引き連れて、ものものしく出て来たところでした。  
しかし、なに思ったか、家来に命じて旅僧(たびそう)を追いはらい、ゆうゆうと出て行くのでした。旅僧はしかたなく立ち去って行きました。  
それから数日後、旅僧は、ふたたび門前に現われ、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と熱心にお念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えていました。これを見た与門三郎は、手にしていたつえをふり上げて、僧が持っていた、托鉢(たくはつ)の椀(わん)をたたき落としてしまいました。椀は地面に落ち、八つに割れて散らばってしまいました。  
そのことがあってから、与門三郎の八人の子どもたちは、毎日毎日一人ずつ、原因のわからぬ病気で死んでいきました。  
最後の一人を看病(かんびょう)しているとき、ある晩、うたた寝のまくらもとに現われたのは、いつぞやの旅僧でした。与門三郎は「はっ」と眼がさめて、自分が今まで仏を信仰(しんこう)しなかったことを、深く後悔(こうかい)しました。  
八人の子どもたちをなくした与門三郎は、狂人(きょうじん)のようになって、家も領地も捨てて大急ぎで、先日の旅僧を追って行きました。しかし、どこをたずねても、旅の僧は見当らず、つかれきった体で四国にわたり、八十八か所めぐりを始めました。  
すると、まもなくあるお寺で、弘法大師(こうぼうたいし)にお会いすることが出来ました。与門三郎は、今までの自分の行ないを後悔し、「仏につかえたい。」と、涙を流してお願いしました。  
大師は、じっと聞いておられましたが、「そなたの志(こころざし)は大変よろしい。けれど、人間みんなが僧になる必要はない。それぞれ、自分の仕事をまじめにすることが、やがて、仏の教を守ることになる。」と言い聞かせ、家に帰るようにすすめました。  
与門三郎は、大師の教えを守って領地に帰り、よく領地をおさめ、一生けんめい仏を信仰し、一生をおくったということです。  
今はさびれて、ほとんどなくなってしまいましたが、桃の名所、段新田(だんしんでん)の南の山に新四国八十八か所がつくられたことがありました。そのとき、新四国第十二番に、この与門三郎をおまつりしたということです。 
弘法大師伝説 / 熊野  
本宮町の大瀬(おおぜ)という集落にはこんなお話が。  
昔、大瀬の山上の馬頭観音の傍らにある家のおばあさんのところに弘法大師がやってきて、一晩の宿を所望した。おばあさんは食べさせるものがなかったため、やむを得ず、種にとっていたソバ種3合を臼でひいて食べさせた。大師は感謝して、「そのソバ殻をその辺りに放っておけば自然にソバが生えてくるようになる」とおばあさんに教えた。おばあさんは不思議なことを言う坊さんだと思ったが、言われた通りにしてみるとソバが生えてきたという。それ以後、毎年、種を蒔かなくても、自然にソバが生えてくるようになった。  
大瀬の馬頭観音の境内には蕎麦大師が祭られています。  
本宮町上大野では、  
実相寺の近くにオカメというおばあさんが住んでいた。そこへ弘法大師が訪れ、昼食を食べようとしてお茶を所望した。おばあさんにお茶をもらうと、大師は昼食をとった。食事には榊(サカキ)の箸を使ったが、食事が終わると、その箸を地面に突き立て、「これが大きく成長した折には、この村には天然痘が一切ないようにしてやろう」とおばあさんに約束して立ち去った。榊の箸は根付き、成長し、それ以後、村には天然痘がおこらなくなったという。  
また、村の東方に天然痘が流行すると、榊の東側の葉に黒い斑点がつき、西方に天然痘が流行すると、榊の西側の葉に黒い斑点ができて、村の人々に代わって天然痘を患ってくれるという。   
また、大塔山という本宮町の山の麓の林道脇に「弘法杉」と呼ばれる2本の杉の巨木がありますが、その杉は、弘法大師が杉の箸を地面に突き立てたところ、根付いて育ったものなのだそうです。  
この2本の杉の巨木は、全国・国有林の巨樹・巨木百選に選ばれています。  
1997年の調査によると、林道に立って向かって右側のほうが胸高周囲5.66m、樹高45m、立木材積41†G。向かって左側のほうが胸高周囲6.10m、樹高43m、立木材積37†G。  
樹齢は450年〜500年生くらいと推定されています(とすると、弘法大師とは年代が合わない(^-^;A)。  
育つはずのないものが育つという奇跡を起こす弘法大師。  
それとは逆に、成るべきものを成らなくさせる呪術をかけることも。  
秋に「ガシャガシャ」と大きな声で鳴くクツワムシ。本宮町桧葉(ひば)では鳴かないそうです。  
昔、弘法大師が桧葉で勉強していたところ、クツワムシが「ガシャガシャ」と鳴いてあまりにやかましい。そこで、大師はクツワムシに「黙っておれ」と言い、それ以後、桧葉ではクツワムシは鳴かなくなったとか。  
これは『本宮つれづれ』のまことさんに教えていただいたお話ですが、まことさんによると、本当に全然「ガシャガシャ」という鳴き声を耳にしないそうです。  
熊野地方には現在、2種類のクツワムシがいるそうです。普通のクツワムシとタイワンクツワムシです。  
タイワンクツワムシは熱帯系の昆虫で、かつては本州では稀な昆虫だったらしいですが、現在は地球温暖化の影響で生息範囲を広め、熊野では全域に生息し、クツワムシと生活圏を奪い合っているようです。  
タイワンクツワムシは体長は5〜 7.5cmくらい。体長5cmくらいのクツワムシよりもひとまわり大きくて細長いです。問題の鳴き声ですが、「ガシャガシャ」とは鳴かないで、「グワッ・グワッ・グワッ・ギュルルルルル・・・・・」と鳴きます。  
桧葉に生息しているのはこのタイワンクツワムシなのでは。  
弘法大師のお話に戻って、熊野川町志古(しこ)では、  
弘法大師が志古のある家に来たとき、ちょうどその家ではモチ米を蒸していた。そこで、大師は餅を所望したが、家の者は「これは餅ではなく粥だ」と嘘をついて餅を与えなかった。それ以後、志古では、いくら餅をついても固まらなくなってしまった。それで、餅をつかなくなったという。  
西牟婁郡上富田町朝来(あっそ)では、  
大師にエンドウ豆の喜捨を乞われたが、一粒も与えなかったので、その罰としてエンドウ豆を作ると、サヤに穴もないのに必ず虫が入るようになったという。そのため、エンドウ豆を作らなくなった。  
弘法大師空海。日本の山岳宗教を中国で学んだ密教により体系化し、真言宗を開いた日本史上最大の宗教家。  
空海は、その「空と海」というスケールの大きな名に相応しい、巨大な人物でした。空海には様々な顔があります。  
密教の思想家であり、山々を駈ける山岳宗教者であり、「弘法筆を択ばず」ということわざを生んだほどのすぐれた書家であり、当代一流の詩人であり、権力操作に長けた政治家であり・・・  
また、日本初の庶民のための総合大学「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」を開いたり、土木・建築・鉱業・自然科学・医療と驚くほどの才能を様々な分野で発揮しています。  
そうした様々な空海の顔のなかで、とくに庶民に親しまれてきたのが、土木技術者としての空海でしょう。  
空海は820年、四国・讃岐の満濃池(香川県仲多度郡満濃町)の修築工事の指揮をしています。  
現在の満濃池は周囲二十キロに及ぶ日本最大の溜め池(平安時代にはもっと小さかったと思われますが)。この池が大決壊。朝廷は築池使を派遣して、3年の月日をかけて修築工事を進めさせましたが、うまくいきません。そこで、空海を派遣。空海の指揮のもと、修築工事が再開されると、地元の農民の協力もあって、わずか3ヶ月でその難工事は完成しました。  
空海は、この工事で、堤防をアーチ型に設計しました。アーチ型にすると、水圧が分散され、直線のものよりはるかに高い水圧に耐えられるようになるそうです。  
また、満水時の放流の際の堤防決壊を防ぐために岩盤をくりぬく工事も行われたといいます。現在でも通用する合理的な工事が、空海によってなされたのです。  
池をつくる専門科であるはずの築池使が3年かけてできなかったことを、空海は3ヶ月で行ってしまいました。土木技術者としての空海の実力をまざまざと世に知らしめた修築工事でした。  
西牟婁郡上富田町朝来(あっそ)には、こんな伝説が。  
昔、弘法大師が熊野詣の途上、咽が乾き、村びとに水を所望したところ、村びとは遠くまで汲みに行って与えた。それを感謝した大師は「この土地は水に不自由のようだから、水の便をはかってやろう」と祈祷を始めた。すると、乾いた土地から清水が湧き出てきたという。  
いわゆる「弘法井戸」の伝説です。  
本宮町内にある熊野九十九王子のひとつ、水呑(みずのみ)王子も、弘法大師が地面に杖を突き立てて、清水を沸き出させた場所だそうです。  
弘法大師が杖を立てた所に、清水が湧き出てきた。そのような類いの伝説は全国各地にありますが、これら「弘法井戸」の伝説も、この空海の土木技術者としての能力の高さが生み出したものなのだと思われます。  
また、西牟婁郡串本町の海岸に林立する奇岩群、国の名勝・天然記念物に指定されている橋杭岩にはこんな伝説が。  
弘法大師と天の邪鬼とが一晩で大島まで橋を架ける競争をしたが、負けそうになった天邪鬼が鶏の鳴きまねをして夜が明けたと思わせたため、弘法大師が作業を止め、橋を完成させることなく杭だけで終わったという。  
やはりこれも空海の土木技術者としての実力が生み出した伝説のようです。  
 
音無川 / 弘法大師が奥吉野(十津川あたり?)を歩いていたところ、せせらぎの音があまりにうるさい川があったので水面に石を投げると川が静まり、それ以来その川は音無川と呼ばれるようになったそうな。  
妙法山阿弥陀寺 / 弘法大師は高野山開創の前年(815)、那智の地を訪れ、那智の滝で行をし、妙法山の山頂に卒塔婆を立てたといいます。さらに阿弥陀如来像を彫られたとも。阿弥陀如来像(阿弥陀寺の本尊)は惜しくも1980年代、火災で焼失しましたが平安時代の作と伝えられます。※ただし、弘法大師が熊野に来たかどうかの史実の真偽はわかりません。熊野年代記などにもその記載がありますが、歴史書によって年代が大きく違うようなのであくまで伝説としてお伝えしておきます。  
このほか、和歌山県内の熊野古道には「弘法の井戸」(湯浅町)「弘法の爪書き地蔵」(有田市)などおびただしい数の伝説が残っています。
姥石 / 和歌山県  
捻じれた形をした岩。空海の母親が高野山の結界を越えられず、恨んで足ずりした跡だという。
石芋、弘法大師 [紀州俗伝]  
郷研の「石芋」に、寛延2年青山某の葛飾記下に西海神村の内、阿取坊明神社(あすはみょうじんしゃ)の入り口に石芋がある。弘法大師がある家に宿を求めたが、媼は貸さず大師は怒って、傍らに植え設けていた芋を石に加持し、以後食うことができず、みなここへ捨てたので、今も四時ともに腐らず、年々葉を生ず。同社の傍らの田の中に、片葉の蘆がある。同じく大師の加持というと載っている。なぜ加持して片葉としたのか、書いてはないが、先は怒らずに気慰めにやったものと見える。  
大師はよほど腹黒い癇癪の強い芋好きだったと見えて、越後下総の外土佐の幡多郡にも食わず芋というのがある。野生した根を村人が抜いて来て横切りにして、四国巡拝の輩に安値で売る。その影を茶碗の水に映し、大師の名号を唱えて用いれば、種々の病を治すと言う。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本来食えない物だ。  
甲斐国の団子山の石はみな団子である。大師が通ったとき、1人の老女が団子を作っているのを見て、乞うたが与えず、怒って印を結び、団子を石に化したと、柳里恭の『ひとりね』に見える。  
紀州西牟婁郡の朝来(あっそ)・新庄の2村の境、新庄峠を朝来へ下る坂の側に弘法井戸がある。泉の水は常に満ちながら溢れず、たぐいまれな清水だ。大師がここの貧家で水を乞うと遠方へ汲みに行ってくれた。その報いに祈って出したんだそうな。  
この峠から富田坂に至る、数里の間は平原で、耕作によいが、豌豆を作らない。これを植えると、必ず穴が少しもないさやの中に、自ずと虫が生ずる。近隣諸村には絶えてそのことがない。件の平原の住民らは大師に豌豆を乞われて一粒も与えなかった罰だと言う。  
またこの辺りで伝えることに、油桃はどことは知らないが、大師が桃を乞うたとき、「これは椿の実じゃ、食ってはならない」と偽って与えず、大師はこれを呪って、果皮が毛を失い、椿の実のようになったので、椿桃(つばいもも)と呼ぶと。  
『和漢三才図会』にこの物は、和名都波木桃(つばきもも)、俗に豆波以桃(とばいもも)と出ている。『十訓抄』に徳大寺左大臣が蔵人の高近に、大きな「つばいもも」の木を、内侍所に参らせたことがある。『大英類典』21巻に、尋常の桃が今日も油桃を生じ、甚だしい場合はひとつの桃の実で一部は普通の桃、一部は油桃になることもあるから、油桃は桃が変成したものに疑いないと出ている。大師の一件は法螺話だが、桃が油桃になったという俗伝は事実に違いはない。  
四国の食わず蛤は、蛤類の化石で、それにも同様の伝説がある。芋や蛤が石になっては人が困るが、桃が油桃になっても一向にかまわない。また四国札所五十二番とかの大師堂の後ろの山に苞毬にとげがない栗を生ずる。大師がこの山の栗を食おうとして、とげが多いのを憎み、咒したのだそうな。  
また四国にも、紀州日高郡龍神村、西牟婁郡近野村などにも三度栗がある。いずれも大師が食べてみて、素敵にうまかったので、年に3度なれと命じたとのこと。『紀伊続風土記』77巻に「西牟婁郡西垣内村に三度栗が多い。持山を年に1度宛焼く。焼いた林より出る新芽に実るのだ。8月の彼岸より10月末頃までに本中末と3度に熟す」とある。そうであれば名前ほど珍しくない。  
キリストも弘法流の心の狭い意地悪だったものか、ベツレヘム辺りで、ひよこ豆の形をした石が多い野がある。土地の人が言うには、キリストがここを通り、豆を蒔く男に何を蒔いているのかと問うと、石を蒔くのだと答えた。キリストは、汝は石を収穫するだろうと言った。果たして石の豆ばかり生じたと(バートン夫人の『西里亜巴列斯丁及聖地内情』1875年版巻2、178頁)。ピエロッチの『巴列斯丁風俗口碑記』(1864年)79頁には、キリストでなく聖母が豆を石に変じたとある。  
またカルメル山のエリアスの甜瓜(まくわうり)畑の言い伝えを記していうには、この予言者がこの地を通り、喉が渇いたので、瓜畑の番人にひとつ乞うたが、かの者は石であると言って与えなかった。エリアスは彼に向かい石と言った果実は石になるぞと言って去る。それより瓜が石となるというが、じつは石灰質で、甜瓜の形をした中空な饅頭石だと。  
また死海の近所にアブラハム池がある。その底に石灰質の決勝が満布する。伝えていうには、アブラハムがある日、ヘブロンよりここに来て、塩を求めたが、住民が塩はないと偽る。アブラハムは怒って、この後、この地よりヘブロンへの道はなくなり、塩もなくなるだろうと言うと果たしてそうなったと。  
大師が己れに情が厚かった者に、相応以上の返礼をした例は、上述の弘法井の他に、東牟婁郡四村、大字大瀬近所に寺があり、その辺りに蒔かずの蕎麦といって名高いのがある。昔、大師がここの家に食を乞うと、何もなかったが亭主は憐れみ深くて畑に蒔こうと貯めて置いた蕎麦をある限り施したので、大師は例の石になれの咒もならず、亭主に向かい、この蕎麦の殻を蒔けと命ずる。その通りすると、殻から蕎麦が生え大いに殖え、以来毎年蒔かずに生い茂るとは有り難い。  
予はその辺りを毎度通るが今だ寺近くに行かないから、実物を見ない。しかし大瀬から2里ばかり歩いて、西牟婁郡野中にかかる小広峠から西、数町の間は、畑地道傍所を選ばず、蕎麦に恰好で、人手を借りずに続生していくと見える。  
コラン・ド・ブランチーの『遺宝霊像評彙』(1821〜2)巻2の202頁に、メートル尊者は、4世紀に宗旨に殉じて殺されたが、葡萄を守護すると信じられる。あるとき、メートル尊者が土地の人の許可なしにそこの葡萄を食い、咎められて初めて気が付き、弁償のため、やたらにその土地の人の葡萄を殖や遺したからだと載っている。(以下略) 南方熊楠 
 
滋賀県
弘法杉 / 滋賀県湖南市吉永  
旧街道を見守り続けた、樹齢750年の巨木  
大沙川隧道の上に根を生やしているのが、樹高約26m、樹齢約750年、地元では「弘法杉」と呼ばれている大杉。その昔、弘法大師がここを通りかかった際に、この場所で食事をとり、その時使った杉箸を刺したところ、成長してこのような大杉になったという言い伝えからこの名がつけられました。過去には2本並んで立っていたことから二本杉ともいわれましたが、現在は1本だけが残りました。悠然と立つその姿は、街道を行く旅人たちを見守っているかのようです。 
摺針峠(すりはりとうげ) / 滋賀県彦根市  
(中山道・鳥居本宿場町) 摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。  
「道はなほ学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」  
その昔、まだ修行中の弘法大師がこの峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったの で、斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと悟った大師は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励んだと言います。  
その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。  
望湖堂  
峠の傍らにたたずむ望湖堂からは、往時は琵琶湖が一望できたようで、中山道随一の名勝と言われていました。かって、この茶屋の名物は、弘法大師が供えた 栃餅が受けつがれ、旅人たちにもてはやされていました。また江戸時代後期には「皇女和宮」が休憩されたというエピソードも残っています。   
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峠を越える、峠を引き返す。いずれにしても断固たる決意が必要な時代があった。  
摺針峠は、中山道、番場宿(米原市)と鳥居本宿(彦根市鳥居本町)の間にある峠だ。  
修行中の弘法大師(空海)がこの峠にさしかかった時、白髪の老婆が石で斧を磨いでいた。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針にするのだという。大師はその時、自分の修行の未熟さを恥じた。その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植え、「道はなほ学ぶることの難からむ 斧を針とせし人もこそあれ」と一首を詠んだ。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになったという。  
江戸時代、峠から琵琶湖を望む風景は中山道随一といわれ、広重の絵には、峠の茶屋「望湖堂」、入り江内湖、その向こうに琵琶湖と対岸の山々が描かれている。望湖堂には参勤交代の大名や朝鮮通信使も立ち寄り、江戸時代後期には、皇女和宮降嫁の際にも休憩されたという。  
安永2年(1773)、釣鐘を四輪の大八車に載せ、江戸から摺針峠を越え鳥居本宿上品寺(じょうぼんじ)まで帰ってきた僧がいた。名を法海坊という。  
法海坊は、江州彦根在鳥居本宿上品寺第六世祐海の子で、了海が本名である。法海坊と称して全国を行脚し、多くの衆生を教化した名僧であった。江戸での高徳の名が近隣に聞こえ、吉原遊廓万字屋の花扇とその妹分の花里が、女身の罪業を嘆き、深く帰依し、仏果を得しめ給えと袖にすがると、法海坊は、百八煩悩の迷いをさます釣鐘を献ぜよと教化した。花扇・花里は、同じ苦界の遊女を勧化し、釣鐘鋳造の寄進を募った。 勧化とは仏の教えを説き、信心を勧めることをいう。  
江戸の町で釣鐘造立の勧進をして歩く法海坊の姿はよほど印象的だったのだろう、法海坊は「破戒僧法界坊」として『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』という歌舞伎のモデルになった。天明4年(1784)の初演で主役法界坊の悪と滑稽さが喜ばれ人気を博したという。  
明和6年(1769)に釣鐘はできあがるが、花里はその釣鐘を見ることなく病で亡くなっており、釣鐘造立の初志は花扇が貫いた。中山道を下る時、花扇は、花里のために彼女がいつも着ていた花魁の打掛を鐘に着せたという。  
花魁の打ち掛けを着せられた釣鐘が摺針峠を越える。哀しくも美しい……。法海坊は、花里の心を汲んで、その打掛を袈裟に仕立てかえ、鐘の供養法要に着用した。そして、釣鐘に刻まれた吉原の遊女百八人の名は、法界坊自らがたがねをとって数ヶ月にわたって彫刻したものであるという。法海坊は文政12年(1829)正月、82歳で入寂。上品寺には、鐘を載せて曳いてきた大八車の他、錫杖など数々の品が遺されている。  
法海坊の釣鐘は、第二次世界大戦の供出を免れ、今も鳥居本の上品寺にあり、法海・花扇・花里の名を見つけることができる。
大根洗いの泉 / 滋賀県東近江市清水町  
滋賀県東近江市清水町にある清水神社の裏には、以前は清水川に注ぐ湧水が出ていた。今では水が湧かなくなってしまい、人口の川になっているが、この湧水は夏には手が切れるように冷たく、冬には温泉のように暖かかった。  
昔、初冬の頃、瑞々しい大きな大根を漬物にしようと、老婆が清水川で洗っていた。老婆の側には大根が山のように積まれてあった。そこへ一人の旅の僧が通り掛った。その容姿は、草鞋の緒も擦り切れそうで、黒染めの衣もボロボロであった。僧は「大根を一本くれないか」と、老婆に頼んだ。老婆は僧のみすぼらしい姿を見て、「この大根は不味くて、食べられない」と断った。「では、何故食べられない大根を洗っているのですか?」と言って、僧は立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。  
慌てて、老婆は大根を1本持って、僧の後を追った。そして、「どうぞ、貰ってください」と、僧に大根を差し出した。「今後、困っている人には善行しなさい」と、僧は老婆を諭したのであった。旅の僧は弘法大師だった。  
一年後のこと、老婆が清水川で大根を洗っていた。すると、背後からみすぼらしい身形の女が現れた。「3日前から何も食べていません。大根を1本頂けませんか?」と、女老婆に頼んだ。「この大根は不味くて、食べられない」と断り、老婆はプイッと横を向いた。女は何も言わずに、その場をそっと立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、また湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。ビックリした老婆は、昨年、弘法さまに諭されたことを思い 出した。「とんでもないことをしてしまった」と、大根を1本持って、女の後を追ったが、女の姿はその辺りには見当たらなかった。  
その晩のこと、老婆の夢枕に弘法さまが現れ、「困っている人には善行しなさいと教えたはずです。二度と、このことを忘れないように、大根を洗う時期には湧水を止めることにします」と告げた。それ以後、初冬の頃になると、湧水はピタッと止まり、清水川の水が枯れるようになったという。 
弘法の井戸 / 滋賀県甲賀市  
多羅尾からおとぎ峠へのぼる道ばたに、「弘法の井戸」とよばれていろ井戸があります。むかし、弘法大師というえらいお坊さんが峠のあたりに立派な寺を建てようと村のあちこちを歩いておられました。お坊さんは、とてものどがかわいたので水が飲みたくなりました。  
ところが、このころずっとつづいた日でりで水がありませんでした。  
どこの家へたのんでも水を飲ませてくれません。しかたなくお坊さんは、おとぎ峠へにさしかかる道ばたに大きな岩をひっくりかえして穴をほりました。  
すると、穴からこんこんと水がわき出てくるではありませんか。お坊さんはやっとのことで水を飲み、からからにかわいたのどをうるおすことができました。  
お坊さんはだれでもいつでも飲みたい時に水が飲めるように、石をきずいて井戸を作りました。この井戸は、長い日でりがつづいて村じゅうの水がなくなっても、いつもこんこんと水がわき出てかれることはありませんでした。村の人や村の人たちから、「弘法さんの井戸」と名づけられて、峠を通る人たちののどをうるおし、かんしゃされたということです。
 
京都府
弘法大師の霊泉 / 京都府綴喜郡宇治田原町高尾  
こんなお話が伝わっています。  
その昔、高尾(こうの)のある農家に立ち寄り水を所望した僧がありました。  
留守番の老婆は快く返事をしましたが、なかなか水を運んで来てくれませんので、旅僧は縁側でうとうとと寝てしまいました。  
老婆はずいぶんたってから水を運んで勧めましたが、僧は老婆に「この村の水場はどこですか」と尋ねたので、老婆は「この下の田原川で汲んできますのじゃ。  
ご覧の通り高い所で、井戸が無く谷川も無いので。」と言うと、僧は老婆の親切に深く感激し「ありがとう、ありがとう」と言いながら水を飲みました。  
そして旅僧は弘法大師で村人に水の出るところを教えたと云われる井戸。  
実際に現地に行ってみると判りますが、こんな山の高い場所なのに湧水が出ることが不思議です。  
この水源は村の人にとっては非常に大切な命を繋ぐ井戸だったのが良く判ります。  
村の人たちは弘法大師の霊泉として守っています。  
今も、たえずこんこんと冷たい清水が湧き出ており、地域の人々の大切な場所です。 
九条ねぎの歴史  
九条葱の歴史は様々な諸説がありますが「葱」はユリ科の植物で、中国西部地域が原産地と言われております。  
紀元前より中国で栽培されていた原種が朝鮮半島を経て渡来し、古くは「日本書紀」にその記述が見られます。そして浪速(大阪)から平安建都以前の和銅四年(711)、稲荷神社が建立されたときに京都で栽培が始まったという口伝えがあり、平安前期の「続・日本後紀」には九条村(現・京都市南区九条)で「水葱」を栽培したと記録があり、また、伝承によると、弘法大師(空海)が昔、東寺(教王護国寺)の近くで大蛇に追われて逃げ場を失い、葱畑に隠れて難を逃れたことがあり東寺の五重塔の上には、葱坊主(葱の花のつぼみ)がつけられたとも言われています。  
また、平安時代から京の主要野菜であったらしく、延喜式(927)にも栽培法が記され、江戸時代の雍州府誌(1684)には、東寺の付近から東南の地域一帯の葱の品質が良いと書かれております。  
平安京の郊外(碁盤の目の外)の洛南一帯は低湿地で養分豊かな土壌が条件に適した上に、熱心な農家によって作りこまれ、改良されたことから「九条葱」の名が生まれたとされています。明治時代に入り、牛肉の普及が進むにつれ栽培も一層盛んになり、京都の産業の発展も重なったことで、産地は南に、そして徐々に郊外にすすみ、今日、京都府下で作られています。  
冬の気候が比較的温暖な関西では、霜に浴びながら柔らかい緑葉が育ち、甘味を増す九条系品種があり、これを大きく分けると葉葱(青葱)と根深葱(白葱)とに分けられます。  
京都では、普通葱と言えば、葉葱の代表の九条葱を指し、根深葱を関東葱と呼びます。 
 
大阪府
弘法大師空海の惣井戸伝説 / 大阪府松原市・高見の里3丁目  
高見村の信田喜右衛門が清水の湧く井戸を掘る  
今年は弘法大師空海が延暦23年(804)に中国・唐へ修行に渡って1200年になります。これを記念して、空海が開いた高野山真言宗総本山の金剛峰寺(和歌山県)は展覧会を開いたり、高野山をユネスコの世界遺産に登録するための運動を行ったりしています。  
現在、多くの人々が空海ゆかりの四国八十八カ所を巡るなど、大師信仰は現代人の心をやすらげる原点となっているかもしれません。  
この大師信仰から、各地には空海と結びついた数々の伝承が残っています。本市にも、高野街道が南北に通っていることもあり、空海の惣井戸伝説が伝えられているのです。  
高見の里3丁目の高見神社の南、住宅地の一角に井戸が残されています。地表の井桁は整形された花崗岩で、凸状につくられた4枚を上下交互に組み合わせています。北面と東面に「天保8年9月 高見村惣井戸十三忌志 釈浄恵 施主信田喜右衛門」と刻まれています。江戸時代後期の天保8年(1837)、高見村の信田氏が村人の共同井戸としてつくったことがわかります。  
地表下の井筒は、もともとは円形に瓦で囲っていましたが、いまではコンクリートで補修されています。地面も石敷で丁寧に覆われ、飲み水や炊事などの利用と共に、村人の寄りあいの空間でもあったでしょう。  
もっとも、いつのころからか高見村の人々はこの井戸は天保年間に掘られたのではなく、遠く平安時代初期に空海がつくったと伝えるようになりました。  
各地に足跡を残す空海が高見村にも来たというのです。この時、空海はのどがかわいたので何軒かの家に入り、飲み水を所望しました。しかし、家人たちは身なりの貧しい僧侶の姿を見て断りました。しかたなく、空海は畑の中にあった井戸を探しだしましたが、ひどい悪水でした。ところが、空海がその井戸水を飲むと甘露な清水に変わったといいます。これが伝説の惣井戸です。反対に、水を飲ませなかった農家の井戸は赤茶色のかなけ水になってしまいました。  
また、別の伝承によると高見村は水の便が悪く、飲み水に困っていました。空海はこれを哀れみ、携えた錫杖で地面をついたところ、清水が湧き出したともいわれています。  
弘法井・弘法清水説話は、空海伝承の中でもポピュラーなものです。荒唐無稽なものが多いのですが、空海の多彩な社会事業が裏づけとなって伝承化されたものでしょう。  
惣井戸を寄進した信田喜右衛門の旧宅は、いまの高見の里3丁目の高見会館のところにありました。また、喜右衛門の墓は一族の墓石とともに、西除川沿いの高見墓地に祀られています。 
小蛇 / 岸和田市  
正直者の男が、取石池から現れた男に、久米田池の女に手紙を渡してくれるように頼まれた。それは男を呑めという手紙だったが、弘法大師が手紙を書き換えてくれた。男は池から現れた女に歓迎され、竜宮に連れて行ってもらい、3日過ごした。女は土産に酢が湧き出る酢壷をくれた。家に帰ってみると、3年が過ぎていた。 
悪龍 / 富田林市  
推古天皇2年、蘇我馬子らが神呪を誦して悪龍を封じた。ところが、悪龍の執念は深く、その後も度々旱天をもたらしては人々を困らせた。弘法大師がこの地を踏んだ際、龍王を祀ったため悪龍も感じ入り、地下から清水が湧き出して周辺の土地は元通り潤った。 
 
兵庫県
弘法大師の水 / 兵庫県篠山市  
弘法大師の水衣は破れ、ひげは伸び放題という見るからに、みすぼらしいお坊さんです。  
「ああ、今日もよいお天気じゃ。こんなに日和続きじゃお百姓が困るわい。」と、つぶやきながらよぼよぼと歩いていきました。よほど疲れていると見えて、大きなけやきの木陰に腰を下ろし、「ああ、のどがかわいた、おばあさんや、まことにすまんが水を一杯くださらないかな。」  
見ると、あまりにもみすぼらしいお坊さんなので  
「水かいな、わしの家で使うだけで精いっぱいやでお前さんなんかにやる水はこれっぽっちもないわ。」  
すげなくことわられて、お坊さんは仕方なく味間南を指して歩いていきました。村の入り口でせっせと草を刈っていたおじいさんに、  
「すまんが、水を一杯だけくださらんかな。」  
「はいはい、おやすいことで。」  
お坊さんはくみたての水を飲み干しました。  
「ああ、おいしい水じゃ、これで生き返った。どうもありがとう。」  
何回も何回もお礼を言いながら山すその草むらに行って持っていた杖を突きさして、  
「ここは、きれいな水のわくとこじゃ。掘ってみなさるがよい。」  
と、言い残して、どこともなく立ち去っていきました。村人たちは教えられた通り、掘ってみると、きれいな水がわき出てきました。それが、弘法大師だったとは、誰も気がつきませんでした。  
今でも、そこには、きれいな水がわき出ているそうです。
石井の清水・弘法大師の井戸 / 兵庫県加古川市西神吉町  
石井の清水は、弘法大師が杖でつついたら突然きれいな水が湧いてきたといわれる清水で、弘法大師の井戸とも呼ばれています。石井の清水の名称は、方3尺許の石の井戸枠に直径1尺2寸の井筒が置いてあることから由来していると伝えられており、7世紀ころの創建とされる中西廃寺の露盤と同筒状の刹(土)が使われているといわれています。
独鈷の滝 (どっこのたき) / 兵庫県丹波市氷上町  
弘法大師伝説の残る、岩山と四季の景観が美しい渓谷。落差約18mの滝で、傍らの大きな洞窟には不動明王が祀られています。滝の名前は、岩龍寺を開基した弘法大師が、独鈷を投げ、突き刺さった場所からこの滝が湧き出たという伝説に由来(独鈷を投げて大蛇を倒したという説もあります)。断層崖が連なる一帯の渓谷は氷上町の文化財に指定され、シダ・コケ類の珍しい植生やサワガニなどの姿を見ることができます。また、寛永上覧試合に出場した浅山一伝はこの地で修行を積み、一伝流不動剣を編み出しました。香良口バス停の上手の『浅山一伝流兵法根元地』と刻まれた石碑が、剣豪の偉業を現在に伝えています。
弘法の井戸 / 神戸市須磨区妙法寺字谷野  
妙法寺谷野にある、弘法の井戸です。夏のある暑い日、妙法寺村に立ち寄られた弘法大師が、村人に水を所望しましたが、妙法寺村には湧き水の出るようなところがなく、飲み水に困っていました。その話を聞いた弘法大師はたいへん心を痛めて、手にした杖でトントンと大地をついたところ、きれいな水が湧き出てきたと言われています。  
弘法の井戸の伝説は各地に点在していますが、この井戸は、現在も土地の人々から大切にされています。
鯖大師 / 神戸市須磨区須磨寺町 須磨寺内  
一ノ谷町2丁目にあった貞照寺の本尊、弘法大師木像は右手に鯖を一尾さげているので俗に鯖大師の名で呼ばれています。修行途上の弘法大師が、塩鯖を運んでいた馬子にそれを一尾所望しましたが、馬子が断ったところ、急に馬が腹痛を起こしました。大師がお加持して水を飲ませるとたちどころに治ったので、馬子は深く感謝し、その後庵を建て、鯖を持った弘法大師を祀ったという伝説があります。 
渇き水 / 兵庫県  
淡路島で村人が空海に水を与えなかったので水が涸れた。
兵庫伝説紀行  
空海と弘法伝説  
空海(くうかい)は、平安時代の僧である。唐(とう)へ留学した後、京都の高尾山寺(たかおさんじ)へ入って真言宗を広めるとともに、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建設。さらには東寺(とうじ)を下賜されて、真言宗の根本道場としている。835年に62歳で死去し、921年に醍醐天皇(だいごてんのう)から「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう)が贈られた。  
空海は、単なる「唐へ留学したインテリ」だったわけではない。香川県にある日本最大の農業用ため池、満濃池(まんのういけ)を改修する際には、その責任者として当時の最新技術を駆使した工事を成功させていることを見ても、彼が唐で学んだことの幅広さがわかる。そういう活躍が、いつの間にか人々の間で、伝説を産む元になったのだろうか。  
伝説の中には、「空海」という名は出てこない。出てくるのはすべて弘法大師である。死後90年近く経って贈られた名の方が、生前の名よりもはるかに広く語られ、人々の間に定着したのは、どうしてなのだろう。弘法伝説を読むたびに、疑問が浮かぶ。もしかすると民衆にとっては、生きた人としての空海よりも、霊としての弘法大師こそ、信じ求めるものだったのだろうか。  
すりこぎかくしの世界  
但馬(たじま)は雪深い土地である。一晩に何十cmも積もることも、珍しくはない。雪深い土地であればなおのこと、暮らしには厳しいものがあっただろう。「すりこぎかくし」は、そんな世界に住む貧しい、生まじめな老女の小さな悪事―自分ではなく他人のために働いた行為―を、弘法大師がそっと隠してやるという物語である。お大師様は、貧しくてもまじめな者の味方をしてくれる。そんな素朴な思いが込められた物語なのだ。  
但馬には、豊岡市(とよおかし)の東楽寺(とうらくじ)、養父市(やぶし)の日光院(にっこういん)、養父市別宮(べっくう)の大カツラなど、空海にゆかりの場所がいくつかある。しかし伝説が伝わる新温泉町(しんおんせんちょう)内では、「空海開基」の寺をみつけることができなかった。ここでは空海は、文字通り伝説上の「弘法大師」として生きているのだろうか。古いお寺をめぐって、そんなことを考えた。   
相応峰寺  
相応峰寺(そうおうぶじ)は、岸田川(きしだがわ)が日本海に注ぐ河口のすぐ東、浜坂町清富(はまさかちょうきよどめ)の観音山(かんのんざん)にある天台宗の寺である。岸田川に沿った心地よい道を海へとたどり、河口の手前で川を東へ渡ると、左手に見える小高い山が観音山。そのすそに、寺の里坊が見える。  
この寺は、奈良時代に行基(ぎょうき)が開いたとされる。弘法大師と同じように民衆に慕われ、菩薩(ぼさつ)と呼ばれた行基は、但馬でも同じように人々を救ったのだろう。坊のわきには、眼病や流行病に効くという金水・銀水がわく。  
里坊のわきから、山道を登る。道に沿って石仏が並び、登る人を頂上へと導いてくれる。息を切らせながら20分も登ったろうか。ようやく鐘楼の姿が見え、その奥に本堂の円通殿がある。高い杉木立に囲まれた、静かな場所だ。  
本堂の裏手からさらに登ると、観音山の山頂である。芝生広場になっている山頂からは、日本海の雄大な景色が180度広がる。はるかに下の岩場に砕ける波頭が見えるが、波音は聞こえない。遠くかすむ海にしばし見とれて、足の疲れも忘れてしまった。  
山頂のすぐ下には、高いポールが立つ。毎年ここに大きな鯉のぼりが泳ぐそうなので、いつか是非見てみたいと思う。  
正福寺  
湯村温泉のまん中にあるのが、平安時代前期、湯村温泉(ゆむらおんせん)を発見した慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が開いた正福寺(しょうふくじ)である。国道9号線から離れて春来川(はるきがわ)を渡り、川に沿った細い道を温泉の中心街へ向かうと、その途中に本堂への長い階段があった。  
日の出直前の時間だというのに、もうゆかた姿の人が道を歩き、足湯に浸っている人もいる。川沿いに上がる湯気が、いかにも温泉場らしい。  
階段の上に、堂々とした門がそびえる。本尊は県の文化財に指定されている、平安時代後期の木造不動明王像で、この像は21年ごとに開帳される秘仏である。前回の公開は2004年だったそうだから、次は2025年になるのだろうか。  
秘仏は滅多に見ることはかなわないが、境内のまん中にある桜は、毎年花を見せてくれる。この木は、ヤマザクラとキンキマメザクラが自然交雑して生まれたもので、植物学者牧野富太郎(まきのとみたろう)によって発見、命名されたという歴史をもつ。現在のところ兵庫県固有のもののようで、正福寺桜の名で親しまれ、町の天然記念物にも指定されている。  
独鈷の滝と岩瀧寺  
丹波にも弘法大師の伝説がある。その地のひとつ、氷上町(ひかみちょう)の香良(こうら)を訪ねた。加古川(かこがわ)が佐治川(さじがわ)と名を変える上流部である。  
丹波山地の広い谷筋にできあがった、緩やかな斜面に沿って香良の村がある。伝説が伝わる独鈷の滝は、その谷奥、山腹に露頭した荒々しい岩盤を流れ落ちている。道が山すそにかかると周囲は一気に森へと変わり、車から降りると、湿気を含んだ空気が体を包む。独特の、森の香気を含んだ空気である。  
そこから山道を詰めてゆくと、間もなく高く切り立つ岩盤が目に入る。ところが激しい水音は聞こえているのに、滝は見えない。不思議に思いながら滝壺の前まで小径を行くと、ようやく、岩の壁の裏側を、えぐるように流れ落ちる滝を目にすることができた。  
高くはないけれど、美しい滝だ。流れ落ちる水は、上の方では日の光を浴び、淡い木陰へと落ちてゆく。滝壺の手前にはモミジの木が何本か伸びていて、紅葉の時は、きっと素晴らしいコントラストを見せてくれるに違いない。人を呑むほどの大蛇がいたにしてはつつましい滝壺からは、清らかな水が流れ出していた。  
滝のすぐ下手には、岩瀧寺(がんりゅうじ)がある。  
岩瀧寺は、平安時代の初め頃、嵯峨天皇(さがてんのう)が空海に命じて建立した寺だと伝えられている。弘仁年間(809〜823)のことだというから、空海が40代のころだろうか。七堂伽藍(しちどうがらん)を備えた大寺だったというが、戦国時代の兵火によって焼失して、かつての伽藍は残っていない。現在の堂は、近世に再建されたものとのことである。  
小さいながら風格がある門や、檜皮葺(ひわだぶ)きの本堂が、背後の山や高い木々と相まって、落ち着いた、しかし明るい雰囲気を作っている。滝から境内は紅葉の名所とのことだし、寺の案内にある雪景色は、山水画のような美しさであるが、まだ見る機会がない。  
こんな美しい場所に、どうして恐ろしい大蛇の伝説ができ、それが弘法大師と結びついたのだろうか。あるいはそれは、時に人知が及ばないほど猛り狂う水を治めたいという願いが生んだ伝説なのだろうか。  
水分かれ  
氷上には、もうひとつ水に関わる大切な場所がある。それが水分かれである。加古川は、氷上町に入ると佐治川と名を変え、ちょうどそこで一本の支流が分岐し、東へと向かう。これが高谷川(たかたにがわ)である。高谷川は、まもなく氷上町石生(いそう)の谷ふところへと入ってゆくが、この谷へはもう一本の川―黒井川(くろいがわ)―も源をもっている。  
黒井川は高谷川とは反対に、谷を下ると東へ流れ、由良川上流部の竹田川に合流する。つまりこの谷から流れ出た水は、加古川と由良川(ゆらがわ)、瀬戸内海と日本海に流れる二つの川へと注ぐのである。本州の中で最も低高度の中央分水界であるこの地は、古くから「水分かれ(みわかれ)」と呼ばれた。  
水分かれの重要性は、単に「最も低い分水界」という地形学的なものだけではない。瀬戸内側から日本海側へと抜けようとすると、兵庫県の場合必ず中国山地の峠を越えなくてはならないが、水分かれの谷を経由して加古川から由良川へ抜ける道は、峠越えの必要がないのである。そのため古代から、このルートを通って人と物の交流がおこなわれていたと考えられているのだ。  
最近水分かれのあたりは、ずいぶんきれいに整備されて公園となっている。川もコンクリートや石垣で固められて、日本海と瀬戸内海への分岐部分も人工的な流路になってしまった。周辺の桜並木は美しいだろうけれど、これではホタルも住めないだろうと少し残念である。 
 
中国

 

岡山県
三度栗 / 岡山県・勝山町  
むかしむかし・・・この村で小さな子供が食べるものがなくて、お腹を空かして泣いていました。  
そこへ弘法大師が通りかかりました。弘法大師は子供のために湧き水をこしらえてあげました。  
その小さな子供のまま親が、食べるものがなくても子供が痩せもしないし、元気なので不思議におもいました。  
子供の飲んでいる水を飲んでみるとそれはとても美味しいお酒でした。  
まま親はその泉で足を洗ってしまいました。それ以来おいしいお酒はわいてこなくなりました。  
それから数年が経ち再び弘法大師がこの地に立ち寄りました。泉がかれてしまった事情をお大師さまは知り、子供がお腹を空かさないように今度は年に三回実をつける栗を土地に残し、去っていきました。  
現在でもこの地には5月・7月・9月に三回イガをだす不思議な芝栗があるといわれています。 
腰掛け石 / 岡山県  
空海が座って休み、その重さでへこんだ跡が残る岩。
 
広島県
さば大師 / 広島県因島  
暑い夏の日、魚をかついだ魚屋が威勢よく通りを歩いていた。  
オケの中は新鮮なサバがいっぱい。  
さあ稼ぎまくるぞ、と魚屋は張り切っていた。  
と、ボロボロの袈裟をきたみすぼらしく汚い僧が寄ってきて、「もう何日も食べていません。どうか魚を一匹、分けてくださらぬか」と、かぼそい声で頼みこむ。  
魚屋は顔をしかめると、「この魚は全部腐っていて食べられないよ」とウソをつき、何も分けてやらずに走り去った。  
ところが市場でオケのフタを開けてみると、何と、サバは本当に全て腐って、ウジがわいていた。  
「しまった。あれはえらいお坊さまだったに違いない」  
おびえた魚屋は謝ろうと引き返したが、もうどこにも僧の姿はなかった。  
このお坊さまは、かの弘法大師さまだったと言われている。
弘法大師と豆  
山のふもとでね、百姓の女房が、家の前で豆を煮ていたんだね。そしたら、山から修験者が下りてきて、「実は、この山で、飲まず食わずの行をしていたんじゃが、見ればおいしそうな匂いがする。その豆を一皿功徳してくれないか」って、たのんだんだね。ところが、女房は豆をあげるのが惜しいんだね。  
「せっかく来られたんだが、この豆は人間の食べるものじゃない。実は、これ馬が食べる豆なんじゃ。馬に喰わすために炊きよるんだから、あんたにゃあげられんよ」と、こう言うて、にべもなく断ったんだねぇ。すると修験者は、「では、しかたがない」と、とぼとぼ立ち去った。そこへその亭主が戻ってきて、「ああ、野良仕事をしてお腹がすいた。おお、おいしそうな豆だ。食べさしてくれぇ」と言って、パクパクその豆を食べたんだね。  
すると、その亭主は馬になっちゃったんだねぇ。女房がびっくりして、これは今の修験者の祟りだ。これだけの霊験をあらわすのは、あれは、弘法大師様だ、と女房が悟って、今からでも行ってお詫びして来う、追っかけよう、っていうんで、もう何もかも放ったらがしておいて走って行ったら、お腹の空いた弘法大師がボソボソと歩きよる。で、前へ回って、もう平身低頭して謝って、  
「悪うございました」 ってお詫びしたらね、  
「ああ悪いと思えばそれでいい。豆はあんたのもの。豆を欲しがったのはわしの方だから、それでいいんだよ」と言って、スタスタとね、笑って何とも気にかけないで行こうとするのを、  
「待ってください、お大師様。そのように大らかに許して下さるのならば、どうぞもう一度戻ってください。こんどは私が心ゆくばかりのおとき(お食事)を差し上げますから」と女房が引き止めたら、「そのようにしてくれるなら、わしもお腹が空いてるんだから・・・」  
って言って、ついて帰って、それでまぁ丁重におとき(お食事)を揃えて差し上げてね、  
「ああ満足した。おかげで満腹したから、このお礼に、亭主殿を馬にしてしもうたが悪かった。もとのとおり戻してあげよう」っていうんでね、それでその馬の頭をこう手でなでながらね、何か呪文かお経を誦みはじめたんだそうですよ。  
すると、だんだんその長い馬の顔が人間の顔に、もとの亭主の顔になるんだそうです。それから今度は、首の方をまたお経を誦みながらなでるとね、その長い馬の首も短くなって人間の首になって、それから肩も弘法大師がなでてお経を誦むと、自然に人間の肩になり、手になり、すっかり胸から腹から・・・・なでるほど人間のもとの亭主の姿に戻ってきて、おヘソの下くらいまでなでていったら、そうしたら女房が  
「お大師様、待ってくだされ。そこから下はそのままでようございます」 
弘法大師のクリ / 甲山  
今高野山は弘法大師が開基したといわれるがその昔、弘法大師が諸国遍歴の際、この地に来て、隣の久井町との境にある宇根山で7日7夜道に迷ったそうな。  
やっと山を出た時、道のそばで子供がクリを取っているのを見つけ、「1つそのクリを私にもらえんかね」と言われたそうな。子供たちは快くクリを差し上げたところ、大師はたいそう喜ばれ、お礼に「手の届く背の低い木にクリの実を実らせてあげよう」と告げ、立ち去ったそうな。  
その後、近くの山では毎年2尺(60cm)くらいの高さのクリの木にシバグリが実るようになったげな。クリで飢えをしのいだ大師は山を下りた時に「今は楽なり」と言われ、山のふもとには「京楽」という地名が今も残っておるんじゃ。  
 
鳥取県
 
島根県
 
山口県
滑と弘法大師(なめらとこうぼうだいし) / 山口市徳地  
平安時代の初め(今から約1200年前)頃、四国・讃岐(さぬき 今の香川県)の生まれである弘法大師が、諸国へ教えを説いて歩かれたことは名高く、いろいろな地方に伝説として残っています。  
ある時の秋、弘法大師は、柚木(ゆのき 山口市徳地)地区の巣垣(すがき)というところから山越えで八坂(やさか)に出られました。  
巣垣の方から険しい山道を歩かれた大師は、とある谷川にたどりつかれました。  
あたりは、紅葉した木々がせせらぎの冷たい流れに影を落とし、木陰からもれる日の光が、優しくからだを包んでくれました。  
この美しさにほっとして腰を下ろした大師は、ふと、足元の流れの中に、赤い色をしたとても滑らかな石を見つけられました。  
「おお、なんとも良い滑らかさじゃ。これからは、このあたりを滑(なめら)と呼ぶとよかろう。」と言われました。  
大師は腰を上げ、足を進められました。  
しばらく行くと、入り口も出口もわかりにくいようなところに行きつきました。  
「ここは身を隠すのに都合のよいところじゃ。出口も入り口もないないようなところだから、ここを口無(くちなし)と呼ぼう。」と言われました。  
また歩いて行かれました。  
すると、秋の午後の陽射しを受けて、柿の実が三つ、美しい色に照り映えていました。  
「ああ、見事じゃ。きれいな柿じゃ。それも三つなっている。ここは三成(みつなりじゃ。」と名づけられました。  
大師は疲れた足をさらに進められましたが、つるべ落としといわれる秋の日は短く、山は特に早く日が落ちて足元もおぼつかなくありました。  
すっかり日が落ちてしまった時、「ここを日暮(ひぐれ)と呼ぼう。」と言われました。  
ほどなく、広い広い野原にさしかかりました。  
その時、「これより広い山の上はあるまい。ここを山の上と呼ぼう。」と言われました。  
その広い野原を通り抜けてまもなく、山のかなたから、明るいお月様が登って来ました。  
ちょうど、満月の宵だったのでしょうか。そのお月様は、「手を伸ばせば届きそうなほど大きなお月様でした。  
「まことに見事。このように素晴らしい月が登る地は、ここをおいて他にはなかろう。ここを大月(おおつき)と名づけよう。」と言われました。  
こうして大師がつけられた地名は、今もそのまま残っています。 
孫が栗 / 山口県  
孫のために栗を採ろうとして苦労する老婆を見て村一帯に栗の実を沢山生らせた。
 
四国

 

愛媛県
七不思議 / 松山市  
松山の七不思議。松山城の内堀に住む蛙は鳴かない。8月の末になると長曾我部元親に敗れた伊予勢の怨霊が打つ陣太鼓の音がする。紫井戸という水が紫色の水溜りがある。里人が片身を焼いた鮒を弘法大師が放して蘇生させた。そのため片目である。弘法大師が芋を石に変えた。龍隠寺境内の木立で霧のような水気が降る。8月に討死した霊が怪火となって出る。 
十夜ヶ橋の縁起 / 大洲市東大洲  
今を去ること一千二百有余年の昔、弘法大師は衆生済度大願のため四国の各地を行脚し給い、当大洲地方をも御巡錫になりました。そして当時、宿も民家も近辺には無く、ご修行中の身であったため、橋の下で一晩お休みになられました。その時お大師様は詩を詠まれました。  
それは『行き悩む浮世の人を渡さずば、一夜も十夜の橋とおもほゆ』という詩でありました。この歌の意味は『行き悩む浮世の人』というのは、日々の生活を過ごすので精一杯で、自分のことを考える時間も無く、悟りを得ることもできず、まよい悩みの世界にいる我われのことです。『渡さずば』悟りの世界にいけるようにするには、日々充実した生活を、心安らかな生活を送ってもらうためには、どうしたら良いのだろうか。どのような方法があるのだろうか。という意味であり、『一夜も十夜の橋とおもほゆ』とは、この事(衆生済度)を考えていると、一晩が十日ほども長く感じたと詠まれたのです。  
お大師様は人々が充実し明るい気持ちで生きていくにはどうしたらよいかと考えていたら、長い長い夜であったと歌を詠まれたわけです。それより十夜ヶ橋という名が起こったと伝えられています。  
大洲の人はこの詩を通じて、自分たちのことを考えていて下さったお大師様に感謝して、橋の下に横になって休まれているお大師様をお祭りし、今に到っているのです。  
お遍路さんが橋の上を通る時、杖をつかないという風習はお大師様を「上から杖でつかない、杖の音で起こさない」という思いから起こったものです。 
弘法大師と衛門三郎 / 愛媛県松山市・文殊院徳盛寺  
昔、弘法大師が巡錫の折、伊予の国上浮穴郡荏原(現在の愛媛県松山市恵原町へ立ち寄られた時、1人の童子が弘法大師の前に現れ、  
「ここに罪深い人が住んでおります。改心させて来世の鑑(先達)にしてはいかがですか」と告げると何処となく去って行きました。  
すると豪雨になり、弘法大師は徳盛寺に宿を請われました。  
弘法大師が本堂でお経を唱えておりますと、文殊菩薩さまが現れました。  
先程の童子は文殊菩薩さまの化身で、私を導き教えを下さったと弘法大師は悟られました。  
その後、徳盛寺を文殊院と呼ぶようになりました。  
この村には、衛門三郎という強欲な長者が住んでおりました。  
弘法大師は、衛門三郎の門前で托鉢の修行を、数回、7日間行いましたが欲深い衛門三郎は、追い帰しました。  
そしてある時、衛門三郎が竹箒で弘法大師をたたくと、弘法大師が手に持っていました鉄鉢に当たって八つに割れてしまいました。  
すると、八つの欠片は光明を放ちながら南の空に飛んでいき、南の山々の中腹から雲が湧き出てきました。  
弘法大師は不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。  
三鈷でご祈念すると、1番目の窪みからは風が吹き、2番目、3番目のくぼみから水が湧き出て来ました。  
この水は八降山八窪弘法大師御加持水として涸れることなく、いまも文珠院の山中に湧いています。  
衛門三郎には、男の子5人と女の子3人おりましたが、弘法大師をたたいた翌日、長男が熱を出して病気になり、亡くなってしまいました。  
その後も、八日の間に8人の子供達が次々と亡くなってしまいました。  
衛門三郎は毎日毎日泣き暮らしておりました。  
弘法大師は罪の無い子供達を不憫に思い、山の麓に行き手に持っております錫杖で土を跳ねますと、その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。(このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に松山市の文化財に指定され残っています。)  
そして、衛門三郎8人の子供菩提供養の為に、延命子育地蔵菩薩さまと自分の姿を刻み供養をしました。  
又、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、子供の供養を行なって文殊院を後に旅立ちました。  
旅の僧を弘法大師と知り、前非を悔いた衛門三郎は子供のお位牌の前で、奥さんに、「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰って来ません」と別れの水盃をいたしました。  
白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って我が家を後に旅立ちました。  
この姿が、お遍路さんの姿の始まりといわれています。  
衛門三郎は、文殊院に弘法大師を訪ねましたが、旅立ったあとでした。  
紙に自分の住所、氏名、年月日を書き、弘法大師がこの札を見ると衛門三郎がお参りした事がわかりますようにと、お札をお堂に張りました。  
(このお札を「せば札」といい、現在のお納札のもとといわれています)  
やがて、8年の歳月がたちました。  
その間、衛門三郎は四国寺院を20回巡りましたが、弘法大師には巡り会えませんでした。  
832年(閏年)、徳島の切幡寺から逆に巡るとお大師さまに会えると思い逆回り(逆打)を始めました。しかし、阿波の国(徳島県)の焼山寺の麓へ差し掛かると足腰立たず、衛門三郎は倒れてしまいました。  
すると、死を目前にした衛門三郎の前に弘法大師が姿を現し、「よくここまで歩んで来ましたね、今までの罪はもう無くなっています。しかし、貴殿の生命はもう尽きようとしています。何か願い事が有るならば1つだけ、叶えてあげましょう」と言われました。  
衛門三郎は「できる事でしたら、故郷伊予の国主河野さまの嫡男に生まれ変わらして下さい」とたのみました。  
弘法大師が、小石に「衛門三郎再来」と書き手に握らせますと、衛門三郎は亡くなりました。  
弘法大師は、衛門三郎が持っていました金剛杖をお墓の上に逆に立て供養しました。  
後に、この杖から芽が出てきて大きな杉の木になりました。  
(現在杖杉庵に2代目の杉の木が生えています)  
また弘法大師は、文殊院に衛門三郎のお位牌を持って来られ、子供のお位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を切るために、因縁切りの法を権修しました。  
その後、伊予の領主・河野伊予守左右衛門介越智息利に玉のような男の子(息方君)が誕生しましたが、その子の片手が開きません。  
若君3歳の春の事、桜の花見の席で南(文殊院)に向かって両手を合せ、南無大師遍照金剛とさんべんお唱えになりました。すると、手がぱっと開き、その手の中から小さな玉の石が出て来ました。家臣が拾って見ますと、「衛門三郎再来」と書かれていました。  
その石を安養寺へ持って行って納めました。以来、安養寺を石手寺と改めました。  
若君は、衛門三郎の話を聞き、民、百姓に喜ばれる政(まつりごと)をしました。 
衛門三郎物語 / 愛媛県松山市  
衛門三郎の子供のものといわれる、こんもりと盛り上がった群集古墳(八つ塚)が松山市恵原町 にある。愛媛県内に多く残る空海伝説で、衛門三郎物語はとりわけ有名だ。この物語は、有名であると同時に、子供が次々に死ぬという特異さでも目を引く。多くの伝承があり、細かな点で幾つかの相違があるものの、文殊院(松山市恵原町)に伝わる「遍路開祖衛門三郎四行記」によると、大筋はこのようなものになっている。 衛門三郎は、伊予の国荏原に住む庄屋。強欲非道で、私利私欲をむさぼり富を増やしていた。ある日、一人の僧がたく鉢に来た。その僧は、この地に立ち寄った弘法大師空海だった。三郎は追い返したが、翌日も、その翌日も空海はやって来た。三郎は立腹し鉄鉢を竹ぼうきでたたき割り、追い返してしまった。鉄鉢は八つに割れ、翌日から僧の姿も見えなくなった。三郎には八人の子があったが、毎日一人ずつ、八日のうちに次々に亡くなった。三郎は、空海が諸国を巡歴しているという話を耳にし、高僧を打った罪深さに戦りつする。ざんげの心が芽生えた三郎は、会って謝罪しようと遍路の旅に出た。二十度巡っても会えず、旅路の疲れで阿波の焼山寺のふもとで病になる。そこへ空海が現れ、三郎は涙を流して罪をわび、「来世は国司の家に」の望みを残してこの世を去る。空海は道端の石を三郎に握らせた。翌年、この地の領主河野家で男児が生まれたが、左手を固く握り、開こうとしない。三歳の時に南方に手を合わせ南無大師遍照金剛と両手を合わせた拍子に、手の中から「衛門三郎」の文字が刻まれた石が転がり落ちた。 衛門三郎の屋敷跡だった場所は文殊院となっているが、ここに戒名も位牌も残っているところから、三郎が実在したと考えられる。近くには子供を祭ったといわれる群集古墳(八ツ塚)が点在し、南方の山には鉄鉢が八つに飛び散ってできたくぼみが八つ(現在は三つ)あり、湧き出る水は「お加持水」と呼ばれ、今も枯れることがない。
のぎよけ大師 / 愛媛県  
むかしむかし、ある浜辺に、関五左衛門(せきござえもん)という、貧乏な男が住んでいました。  
その五左衛門の家に、旅の途中のお坊さんがやってきたのです。  
「すみませんが、今夜一晩、あなたの家に泊めてくださいませんか?」  
すると五左衛門は、ニッコリ笑い、「これはこれは、お坊さま。貧乏で大したもてなしも出来ませんが、どうぞお泊まりください」と、こころよくお坊さんを家の中に入れると、自分が食べるはずのご飯でお坊さんをもてなしました。  
さて、それから数日後の事です。  
晩ごはんを食べていた五左衛門の息子が、魚の骨をのどに刺して苦しみ出したのです。  
「しっかりしろ、大丈夫か?!」  
五左衛門が息子ののどを見てみても、骨はどこにも見あたりません。  
しかし息子は苦しさのあまり、ぐったりしてしまいました。  
「どうすれば、どうすればいいのだ?!」  
五左衛門がおろおろしているところへ、この前のお坊さんが突然現れました。  
「何やら良くない気配を感じて戻ってきたが、息子さんがのどに骨を刺しているのか。よしよし、わたしがおまじないをしてあげよう。すまないが、水をくんで来てくださらんか」  
「はっ、はい」  
五左衛門が言われた通り手おけに水を入れてくると、お坊さんは持っていたおわんに水をそそいで、その上に、はしを十文字に置いたのです。  
そしてお経の様なものを唱えながら、息子の口へそのはしの間から水を注いで飲ませました。  
すると不思議な事に、ぐったりしていた息子が『ごほん』とせきをして、のどに刺さっていた大きな骨がポロリと出てきたのです。  
のどに刺さっていた骨が取れた息子は、すぐに元気になりました。  
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」  
何度も何度もお礼を言う五左衛門に、お坊さんはにっこり微笑んで言いました。  
「五左衛門さん。こちらこそいつかのご親切を、まことにありがたく思っています。そのお礼に、この木像と、のぎよけのおまじないを教えましょう」  
そう言ってお坊さんは五左衛門に木像を渡し、のぎよけのおまじないを詳しく教えてくれました。そしてお坊さんはみんなが見ている前で川の飛び石に飛び乗り、そのまま煙のように姿を消したのです。  
「あのお坊さまは、きっと弘法大師さまじゃ」  
心を打たれた五左衛門さんは、この村に大師堂を建てると、もらった木像をおまつりしました。  
そして、のどに小骨が刺さった人や目にのぎ(→イネ科の植物の花にある針のような突起)が入った人がいると、五左衛門はこのお堂で教えてもらったのぎよけのおまじないをしてやり、多くの人を助けたそうです。  
やがて村人たちは、弘法大師のことを『のぎよけ大師』と呼ぶようになりました。  
そして弘法大師が足をかけて姿を消した石が『大師ふみどめの石』として、今でもお堂の中に残っているそうです。 
 
徳島県
弘法の蛇封じ / 徳島県三好市池田町  
あくまでざっと見ではだが、竜蛇譚の極端に少ない土地がある。阿波だ。『大系』には表題話は二話しかないのじゃないか。しかも内一話(「十三塚」)は実質平家の落人譚である。無論地域史・誌レベルではそんなこともないのだろうけれど、『大系』上そんなであるのも故のないことではない。タイトル通り、この土地の竜蛇は皆弘法大師に「シメられ」ちゃったので、「弘法の蛇封じ」の一系にまとまってしまうのである。  
 
昔、弘法大師が祖谷の方へ行こうと出合まで来ると、千足の衆が大勢集まって、ガヤガヤと騒いでいた。大師が訳を訊いてみると、「ここから千足へ渡るのに橋を架けるんじゃが、川の水が出るたびごとに白い大蛇が出て来て橋を流してしまうんで困っとるんじゃ」と言う。  
そこで大師は「わしがその大蛇を封じ込んでやろう」と言い、経文をあげた。すると間もなく川底から白い大蛇が浮き上がって来た。即座に大師が印を結んで喝を入れると、大蛇はたちまち白い岩になってしまった。  
大師はこれで良いと言い、後はこの岩の首に葛を巻いて橋を架けなさいと教えた。それからこの岩は橋架け岩と呼ばれるようになった。  
 
池田から祖谷の方といえば「祖谷かずら橋」が有名だが、昔はこのような橋がもっと沢山架けられていたそうで、出合(大利)の話の最後の描写も同様の橋を架けたことを言っているのだろう。  
それで類話として阿南市の大竜寺の竜が封じられ、勝浦郡の福川の竜が封じられ、那賀町の黒竜寺の竜が得度させられ、神山町の竜王山の竜は小童の姿にされる。皆弘法大師に。「弘法大師」と括らなければもともとそれぞれ別の竜蛇であり、各々の物語をもっていたのだろうから、少し考えどころではある。  
竜蛇伝説を追うという観点からは、ひとまず弘法大師という括りを脇にやった方が良さそうだ。目次だけ見て「阿波は竜蛇譚がない」と印象を持つのはやはりまずいのである。それぞれを竜蛇譚としてまずひとつひとつ扱い、その上で弘法大師によって封じられた竜蛇を語る土地、とするのが良いだろう。  
ところで「類話」の中に、現在の海陽町で大師が大鰻を封じた話があるのだが、ちょっと面白モチーフがあるので引いておこう。  
● 
弘法が通りかかると、娘がひしゃくで川の水をかい出している。尋ねると母が母川の大鰻にさらわれたので仇を討ってやろうとしていると言う。弘法が鰻を岩の中に封じ込めてやった。が、鰻は成長するので、とうとう岩に裂け目を作った。これがせり割り岩。  
封じられた鰻がさらに成長するので岩が割れてくる、のだ。で、検索してみたら「鰻が出てきた」とある。弘法大師の封印を破ったのか。ま、何にせよ封じられたモノが中で成長するので岩に裂け目ができる、という発想は他所でもありそうだ。
サバ大師 / 徳島県  
徳島県南部の八坂山鯖瀬大師堂(やさかざんさばせだいしどう)という寺には、右手にサバを持った弘法大師の石像があるそうです。これは、それにまつわるお話です。  
むかしむかし、旅の途中の弘法大師が歩いていると、向こうから馬のたずなを引いた男がやって来ました。  
馬の背中のかごには、たくさんのサバが乗せてあります。  
それを見た大師は、馬方に頼みました。  
「馬方さん。すまないが、わしにサバを一匹だけでも分けてくださらんか」  
そう言われた馬方は、大師をジロリとにらんで言いました。  
「なに! ただでサバをくれと言うのか!? なんと図々しい生臭坊主じゃ! このサバが食いたいのなら、金を出せ。そうすりゃあ、いくらでも売ってやろう」  
「いやいや、わしは仏に仕える身。サバを食べるつもりはない」  
「なら、どうしてサバが欲しいんじゃ」  
「それは、ただ一匹のサバでもよいから海へ戻してやる心によって、亡き人々の菩提(ぼだい→死後の冥福)をお願いしたいと思ったからじゃ」  
「ふん! うまい事をぬかす坊主じゃ。だがどっちにしろ、金を出さんのならサバは一匹たりともやらん!」  
馬方は舌うちをして、通り過ぎようとしました。  
するとその後姿を見ながら、大師がこんな歌をよみました。  
  おおさかや(大阪や)  
  やさかさかなか(八坂坂中)  
  さばひとつ(サバ一つ)  
  たいしにくれで(大師にくれて)  
  うまのはらやむ(馬の腹病む)  
すると不思議な事に、馬方の馬が腹痛を起こして動けなくなったのです。  
馬方は立ち去る大師の姿を振り返り、じっと考えました。  
「さては、あの坊さん。とても偉いお坊さんでは。・・・お大師さま? そうじゃ、確かにお大師さまじゃ!」  
馬方は大師の前まで駆け戻ると、サバを差し出して言いました。  
「お坊さまは、お大師さまでございましょう。先ほどは、わしが悪うございました。どうか許して下さい。馬が動けんでは、わしは明日から食べていけません」  
すると大師はニッコリ笑って、また歌をよみました。  
  おおさかや(大阪や)  
  やさかさかなか(八坂坂中)  
  さばひとつ(サバ一つ)  
  たいしにくれて(大師にくれて)  
  うまのはらやむ(馬の腹止め)  
大師の歌を聞いた馬方は、先ほどの歌と今の歌が同じに聞こえたので、あわてて言いました。  
「お大師さま、どうか許して下さい! サバは全部差し上げますので! さっきと同じ歌では、馬が死んでしまいます!」  
すると大師は、首を振りました。  
「いやいや、決して同じ歌ではないぞ。その証拠に、馬を見てみなさい」  
馬方が馬を見ると、さっきまで苦しんでいた馬が立ちあがり、元気にいなないたのです。  
「お大師さま、ありがとうございます! 約束通り、サバは全部差し上げます」  
「いや、それでは馬方さんも生活が困るだろう。サバは一匹でよい」  
「はい、重ねてありがとうございます」  
大師に一匹のサバを差し出した馬方は、大師に何度も頭を下げながら馬のたずなを引いて立ち去りました。  
そして大師が馬方にもらったサバを海に投げ込むと、死んでいたサバが生きかえって海を泳いで行ったのです。  
こんな事があって、鯖瀬の大師堂の像はサバを持っているのです。 
 
香川県
満濃池 / 四国・讃岐  
空海は820年、四国・讃岐の満濃池(香川県仲多度郡満濃町)の修築工事の指揮をしています。現在の満濃池は周囲二十キロに及ぶ日本最大の溜め池(平安時代にはもっと小さかったと思われますが)。この池が大決壊。朝廷は築池使を派遣して、3年の月日をかけて修築工事を進めさせましたが、うまくいきません。そこで、空海を派遣。空海の指揮のもと、修築工事が再開されると、地元の農民の協力もあって、わずか3ヶ月でその難工事は完成しました。空海は、この工事で、堤防をアーチ型に設計しました。アーチ型にすると、水圧が分散され、直線のものよりはるかに高い水圧に耐えられるようになるそうです。また、満水時の放流の際の堤防決壊を防ぐために岩盤をくりぬく工事も行われたといいます。現在でも通用する合理的な工事が、空海によってなされたのです。池をつくる専門科であるはずの築池使が3年かけてできなかったことを、空海は3ヶ月で行ってしまいました。土木技術者としての空海の実力をまざまざと世に知らしめた修築工事でした。
さぬきうどん / 弘法大師が伝えた?  
讃岐うどんの歴史は、讃岐が生んだ弘法大師空海が、遠く中国から持ち帰ったのが始まりと伝えられています。空海は延暦804年31歳の時入唐。1年あまり長安に滞在して806年帰国しました。そのとき、持ち帰ったのが「うどん製法」「小麦」「唐菓子」のいずれかであったと言われています。以来、讃岐ではうどん作りが盛んになり約300年前からの江戸の元禄時代の頃、狩野休円清信が「金毘羅祭礼図」(屏風一双)に3軒のうどん屋が描かれており、早くも金毘羅さんで「うどん屋」が現れたことを証明されます。  
また、1712年ごろ「和漢三才図絵」という当時の百科事典があり、ここに「諸国皆有之 而讃州丸亀之産為之上 為饅頭色白」(諸国に皆これがあるが、讃岐丸亀の産を上とする 饅頭として色白し)とあり、上質の麦の産地であったことが分かります。「さぬきうどん」の発祥地は諸説あり、この絵から琴平町からと言う説もあり、また綾川中流の滝宮説など諸説があるが確たる証拠はありません。  
讃岐の地で盛んに「うどん」が作られたのは、上記のように昔から上質の小麦が生産されたこと、品質のよい「いりこ」が多く取れたこと、古代から塩の産地であり製塩が盛んであったこと、また小豆島は江戸時代から有数の醤油生産地であったことなど「うどん」作りに適した地であり、農家で代々受け継がれ磨かれてきたうどん打ちの技術があったためと思われます。  
もう一つ忘れてはならない事があると思います。讃岐地方は小作地が多く、それに加えて降雨量が少なく度々かんばつに悩まされ、水田で作られる米の安定的な生産が出来ない土地であった。そのため米は贅沢品であり代用食として麦で作った「うどん」は欠くべからざるものであった。そんな生活の中で必死に麦を作り、「うどん作りの技術」を伝え・磨いてきたのが「さぬきうどん」の源流であったともいえます。 
 
高知県
足摺の七不思議  
亀石 / 亀呼場(岬先端)から弘法大師が亀の背中にのって灯台の前の海中にある不動岩に渡ったといわれています。この亀石は、その『亀呼場』の方向に向かっています。  
汐の満干手水鉢  
突き出した岸壁の近く、岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水が溜まり、汐がひいているときは水が無くなるといわれ、非常に不思議とされています。  
ゆるぎ石  
この石は弘法大師が金剛福寺を創立の時に発見された石で、この石の動揺の程度によって孝心をためすといわれています。  
不増不滅の手水鉢  
平安朝の中頃、賀登上人(カトウショウニン)とその弟子日円上人が補陀落渡海(観音様の世界)せんとしている時、弟子日円上人が先に渡海して行ったので非常に悲しみ、この岩に身を投げかけたそうです。その落ちる涙が不増不滅の水となったといわれます。  
大師一夜建立ならずの華表  
大師が一夜でとりいを作らせようとしたが、天邪気が鳥の鳴き声のまねをして大師は夜が明けたと思い、作るのをやめたといわれています。  
亀呼場  
弘法大師が前にある不動岩に亀の背中にのって渡り身体安全、海上安全の祈祷をされたといわれ、この所から亀を呼ぶとその亀が浮かび上がってきたといわれています。  
弘法大師の爪書き石  
この岩肌には大師が爪で「南無阿弥陀仏」と六字の名号を彫っています。  
地獄の穴  
この穴に銭を落とすとチリンチリンと音がして落ちていく。その穴は金剛福寺の本堂のすぐ下まで通じているといわれます。  
竜の駒と根笹  
竜の駒(まぼろしの駒)が来て、この地に生えている根笹を食べる。そのためか、この地の笹はこれ以上大きくならないと言われています。 
大師井戸 / 高知県安芸郡  
むかし、高知県室戸市の室戸岬(むろとみさき)の近くにある村には、ただ一つしか井戸がありませんでした。  
しかもその井戸は海に近いせいか、水が塩辛くて飲む事が出来ません。  
ある日、その村に旅のお坊さんが通りかかりました。  
お坊さんは長旅に疲れて、のどがカラカラです。  
そこでお坊さんは、井戸の前にいた村の娘たちに頼みました。  
「娘さん。この井戸の水を恵んでもらえないだろうか」  
それを聞いた娘たちは、申し訳なさそうに答えました。  
「お坊さま。お疲れのところすみませんが、この井戸の水は塩辛くて飲めた物ではありません」  
「塩辛いとな」  
お坊さんが井戸に顔を近づけてみると、確かにこの井戸水からは潮の香りがします。  
しかしお坊さんは、娘たちににっこり笑って言いました。  
「この井戸水は、きっとおいしく飲めるはず。まずは、わしが飲んでみましょう」  
お坊さんはそう言うと小声で何やらお経のようなものを唱え、そして井戸から水を汲みあげると、いかにもおいしそうにゴクリゴクリと飲んだではありませんか。  
「ああ、うまい水であった。さあ、娘さんたちも飲んでみるとよい」  
お坊さんはそう言うと、どこかへ歩き去ってしまいました。  
「本当に、飲めるのかしら?」  
娘たちは恐る恐る、井戸の水を飲んでみました。  
すると不思議な事に、今まで塩辛かった井戸の水が、おいしい真水へと変わっていたのです。  
その後、あのお坊さんが弘法大師だと知った村人たちは、大師への感謝を込めて、その井戸を『大師井戸』と呼ぶ事にしたのです。 
 
九州

 

福岡県
大根川(だいこんがわ) / 古賀市  
福岡県古賀市を流れ玄界灘に注ぐ二級河川。下流部は、花鶴川と呼ばれる。福岡県古賀市薦野の西山(鮎坂山)に源を発し西に流れる。古賀市花鶴丘で支流の谷山川と合流すると花鶴川と名を変え、古賀市古賀より玄界灘に注ぐ。  
名称の由来 / 平安時代に空海(弘法大師)諸国行脚の途中に筵内に寄った時に「南無阿弥陀仏」と唱えながら金剛杖をついた空海が大根川の上流に差し掛かり、空腹になったので橋の上から水面を眺めていたら、1人の老婆が大根を洗っていたので、分けて欲しいと頼んだが老婆は空海が偉い僧侶と知らず、またみすぼらしい格好だったので、怒って川の水を掛けた。空海は吃驚したが、もう1度頼んだ。しかし、老婆は顔を真っ赤にして石を投げ、その石が空海の顔に当たって血が流れた。空海は静かに「人面如夜叉」と唱え、杖を3度地面についた。空海は見た目だけで相手を判断して応対する態度に激怒し、戒めのために大根川の水を干上がらせてた。この逸話から「大根川」という名前がついた。それからの毎年大根を洗う季節になると筵内では老婆の戒めのために水が表面を流れなくなるという。 
釜蓋原の弘法大師(釜蓋) / 大野城市  
四王寺山の西の麓の集落釜蓋(かまぶた)というところは瓦田(かわらだ)村に属していました。戸数は僅かに十数戸しかありませんが、縄文・弥生・古墳時代の遠い昔から人々が住みついていたところです。村人は純朴で勤勉な人たちばかりで、田畑を耕し山林を育てて生計を営んでいました。  
稲の刈り入れも終わり年貢(ねんぐ)納入の準備も済んで冬支度にかかる十一月になると、村決めに従って一斉に四王寺山の共有林に入り、冬の間に使う薪と牛馬の秣(まぐさ:牛や馬の飼料となる草)を採りに行きます。  
今日も早朝から山支度を整えた村人たちは釜蓋原に集まり、長老の指図により山に入り、それぞれ指定された場所で薪を集め秣を刈ります。夕暮れ近くになりそれぞれに採取した薪や秣をまとめて、再び釜蓋原に集まってきました。この季節でも夕方になると山麓の台地は冷え込んできます。附近の草木を集めて焚き火をはじめました。  
みんな一日の疲れも忘れて楽しそうに焚き火にあたりながら輪になって、今年の米のでき具合や、働き者の嫁や可愛い孫の自慢話など、とりとめもない世間話に花を咲かせて、いつまでも焚き火の側を離れようとしません。  
そのとき「すみませんがちょっと焚き火にあたらせてくださいませんか」と、薄汚れた旅衣(たびごろも)をまとった1人の旅の僧が近づいて来ました。村人たちは気軽に「どうぞどうぞ」と言いながら、この旅の僧を焚き火の輪の中に入れてあげました。  
そして昼の残りの弁当とお茶を出して「こんなものでよかったらどうぞ召し上がりくださいませ」と差し出しました。旅の僧は喜んで弁当を食べながら、今まで廻ってきた諸国の風物や人情などについて話してくれました。村人たちも熱心に聞いておりました。その話の中にはたくさんの教訓も含まれていましたので、感心すると同時に心地よく温かいもので、胸がふくらむような気持ちになりました。  
それからしばらくは旅の僧を中心に話が弾みましたが、いよいよあたりが暗闇につつまれてきましたので、誰からともなく家に帰ろうということになり、焚き火に水をかけると白い煙が一面にたちこめて間もなく火は消えてました。  
村人たちはそれぞれの荷を背負って帰ろうとしてふと気がつくと、旅の僧の姿はありません。今まで旅の僧が居たところに一塊の石が残っています。折から雲間を出た月の明かりに照らされた石をよくよく見ると、それは一体の弘法大師(こうぼうたいし)の石像でありました。  
村人たちははじめて今の僧が弘法大師であったことを知り、今まで聞いていたお話を思い出し、これからもその教訓を守り仲良く仕事に精を出して、みんなで釜蓋の里を豊かで幸せな村にしようと誓い合いました。  
そしてこの地にお堂を建てて弘法大師の石像を安置して祀り始め、ここを大師原と呼ぶようにしました。 
「えつ」傳承記 / 大川市若津  
[弘法大師渡場跡] 九州第一の大河、筑後川の悠久の流れに「よしきり」がなきそめ、初夏の訪れとともに、「えつ」は故郷のこの地へ産卵のため群をなしてさかのぼってくる。「えつ」はわが國では、 筑後川下流と有明海にだけいる魚で、カタクチ鰯科に属し、その風味は、淡白で酒の肴など、珍重されている。この「えつ」には今なお語り継がれている傳説がある。  
遠い昔、一人の行脚僧がここから筑後川を渡ろうとして、船賃がなく困っていた。それをみかねた若い船頭が子舟をこいで、対岸まで渡してやったところ僧はそのお禮として、「もし暮らしにお困りの時はこの魚をおとり下さい。」と言って蘆の葉を取って、川の中に投げ入れた。すると、その蘆の葉は、忽ちに一匹の魚になって夕陽に銀鱗をかがやかして、水底深く消えた。  
その後、この魚は次第に殖え、若者の船頭は、これを捕らえて平和な一生を終えた。この魚が今日の「えつ」で行脚僧は弘法大師であったという。 
九十九谷 / 福岡県  
遠賀には百谷あるので最初、空海はここに霊場を造ろうとしたが妖狐が一谷を隠し九十九谷にみせたのでここを諦め高野山を開いたのです。
 
佐賀県
 
大分県
 
長崎県
飯盛町(いいもりちょう)の名称 / 長崎県諫早市飯盛町  
2村合併で誕生した飯盛町。旧江ノ浦村と旧田結村の丁度境界付近に、海抜292mの山がある。この山は、ご飯をあたかも山盛りに盛ったような形をしている。別名「飯盛山(めしもりやま)」と呼ばれることもあり、町の象徴の1つである。「飯盛山(めしもりやま)」の「飯盛(めしもり)」が転じて「飯盛(いいもり)」となり、本町の名称由来となった。
びょうびやの たぬき / 長崎県諫早市飯盛町  
びょうびや(びょうぶ岩)に伝わる 可愛い化け狸のおはなし  
ある月夜ん晩 おじさんは、江ノ浦まで長崎から歩いて帰りおったげなばい。  
田結までやっと来たとき、背中んいりこは重たかし、はよもどるごともあったけん、川下かい山ごえしゅうと思うたげな。  
山ん入り口まで来たとき、びわん木ん下にきれいか女ごん立っちょって、おじいさんば 身ちかいにっこりしたげなもん。  
おじさんは“だいな”とおもうち、よう見たらぜんぜん知らん女ごじゃったげな。  
おじさんは、“もしかかしたらびょうびやんたぬきばいね”ち思うて、「あんた、どこもんなとたずねたげな。  
そしたらそん女ごは、「びょうびやんもん」と、こまあか声でこたえたげな。  
たぬきと道づれも おもしろかと思うたおじさんは、「そうな、おいばここで、待っちょてくれたっちゃろ。」  
「おいも一人で山ばこすとはさびしかけん、すまんが家までついてきてくれんか。」と頼んだげな。  
そしたら 女にばけちょった たぬきは、正体ばあらわし、うれしそうに、おじさんの前になったり、後ろになったらりして歩きだしたげな。  
おかげで、おじさんも さびしゅうなかったげなもん。  
おじいさんは、家に帰り着くなり、  
「おいが さびしゅうなかごと、ずっとつきおうてくれた山んもんのおっけん、お礼に いりこば やっちくれ」と家の人に たのんだげな。家の人は皿にいりこば山もりして 庭にだしたげな。  
しばらくして、おじさんが庭にでて見ると、いりこは、きれいにのうなっとたげなばい。おじさんは、「よかった、よかった。かわいかたぬきばい」というて、山ん方に 手ばふったげな。  
次ん日の朝、おじさんが いりこの袋ば見たら、ふしぎなことに、そんふくろがどげんもなっちょらんやったげな。
香田のいたずらぎつね / 長崎県諫早市飯盛町  
むかしむかし、香田のうらん山に、きつねのいっぺえすんじょった。そいどんの中には、ばえんわるさばすっとのおって、いらんこつばっかいしては、村んもんば困らせておったげな。  
ある日んこつ、多助じいちゃんな、親せきん結婚式に呼ばれちかい、夜道ばひとりでふうらり、ふうらり、わが家さん帰っていきおらしたげな。  
はな歌どん歌いながら、香田ん坂まできたときばい。急に背中ん重とうならしたげな。じいちゃんな、「あん、いたずらぎつねばいね」と、すうぐにわからしたげな。  
そいでん、後ろばふりむいたり、きつねとしゃべったりせんじゃったら、ばかされんて知っちょたけん、いっちょんびっくりせんやった。  
しばらくしちかい、背中んきつねが、「トントン。」と、じいちゃんのかたばたたいたげなもん。  
結婚式のみやげば持っちょっとばしっちょってかい、食いもんばやれち、いいおっとたい。  
じいちゃんなだまって大根のにしめばきつねにやらしたげな。  
しばらくしち、また「トントン。」と、きつねがたたいたげなもん。こんどはごんぼばやらしたげな。  
「トントン。」魚をやらしたげな。  
「トントン。」赤飯ばやらしたげな。  
「トントン。」・・・・・・  
だんだんみやげんのうなっていくので、じいちゃんな腹ん立っしょんなかったげな。  
「トントン。」みやげがとうとうあぶらあげだけになってしもうたげな。  
あぶらあげは、じいちゃんの大好物で、こいだけはぜったいやっごとなかったげなもん。そいでん、きつねもあぶらあげば好いちょってから、はじめかい、こいばねろうちょっとたげな。  
「トントン。」  
「トントン。」  
じいちゃんが、聞こえんふりしてとぼけちょっとで、きつねは、何回でん、じいちゃんのかたばたたいたげな。  
きつねん、あんまいしつこかもんけん、じいちゃんな、もう、どげんもこらええんごとならして、  
「こら!いいかげんにしろ。」と、おめいてしもうたげな。  
きつねにしゃべったらようなかとに、おめいてしまった。  
じいちゃんな、なんもわからんごつなり、とうとうきつねにだまされてしもうたげなばい。  
山ん中でじいちゃんがみつかったときは、そいから三日してからんこつばい。  
そん時じいちゃんな、松葉やまつぼっくりば、「うまか、うまか。」ちいうてパクパク食いおらしたげな。  
そしてかい、助けにきた村んもんば見ちかい、「コーン。」と、きつねんごと鳴かしたとげな。
幻の唐比れんこんとそのルーツ / 長崎県諫早市森山町  
歯ごたえの良さと柔らかさを併せ持ち食感が実に絶妙!  
唐比れんこんは、大昔印度から唐へ伝わり、唐からこの地へともたらされたという。  
水晶観音さん(補陀林寺)にあるマンダラ(仏の国を説明する絵)は、この池(蓮池)に生えるれんこんの蓮糸で織ったという伝説があるほど、昔は、池一面に蓮が生い茂るっていたという。  
当時島原の殿さまが、この地の、いわゆる大名道を通って夏の日、長崎警固従来の際は、必ず休屋(唐比番所)で休憩、池一面に咲く蓮花を賞でたということであるが、今の上海蓮根と違い、昔からの地蓮根の花色は濃紅色で実に美しいものであった。  
今は、もう、この地蓮根(いわゆる唐比れんこん)を作っているのはまれであるという。これぞ幻の所以である。  
地れんこんの味はシャキシャキしていておいしい。今は、ほとんど上海蓮が作られ、戦後佐賀から移入されたものという。  
これは、味がポヤポヤしていて軟らかく泥の浅いでも育つが、地れんこんは深い所を好むようで作りにくいと伝われている。  
地蓮根には、蓮糸が多く、それも長くつながるので食べるのには、めんどうくさいところもある。  
本来、私達が蓮根と呼んでいる部分は、根ではなく地下茎である。この地下茎には、いくつもの穴があり、それは葉柄、花柄へと通じ、その穴の内側に蓮糸が密にラセン状に巻いており、葉柄のいくつかの導管の内側に巻きあがっている。  
ちょうど、紙提灯の内側を竹ヘゴで巻き、強さと伸縮を容易にしているのと同じ理由からであろう。  
これによって、根茎が水圧、泥圧でつぶれないようにしているものと思われる。  
花柄、葉柄も水圧、風圧に耐え易くする為のものであろう・・・。  
なお、地下茎(れんこん)の穴は、葉柄、花柄の穴と通じており呼吸をしている。  
地蓮根が泥の深い所でも息づけるのは、この蓮糸が多く、密で強いことと関係があるようである。  
昔れんこん堀りには、腰上まで泥にめりこんだものであったが、上海蓮を作るようになってからは、せいぜい、膝上、中股ぐらいまででよい。  
このことも上海蓮が重宝がられる理由である。  
村田家先代も蓮根掘りの名人であったので、深く掘り耕してこられた。それで、何とか地蓮根が伝承されたてきたのであろう。
伝説の美青年「岳の新太郎さん」と民謡「ざんざ節」 / 長崎県諫早市高来町  
多良岳は、佐賀県太良町と高来町の境にあるが、昔は両町ともおなじ諫早領で山上一帯の大山は領主の所領になっていた。  
その太良獄三社大権現は金泉寺が主祭して春秋の大祭をとり行い盛大なものであった。  
太良嶽大権現は、和銅年間(708年〜)に行基菩薩が、釈迦・弥陀・観音の三尊をまつり、創建されたと伝えられ、平安時代の初め、弘法大師が山上にとどまり、不動明王を刻んで本尊とされ、金泉寺をお建てになったといわれている。  
雲仙の満明寺とともに鎮西の名刹として僧坊30余、山麗の社寺はみなその支配下にあったという。その参道の表玄関が、湯江黒新田で猪塔の所に一の鳥居があり、金泉寺の別院が神津倉の医王寺である。  
唄の主人公「岳の新太郎さん」は、文化・文政(1804〜1829)頃の人で、原口新太郎といい、神津倉の生まれであるという。  
太良嶽の金泉寺は、弘法大師が建てた真言宗の寺で、高野山のように女人禁制の修錬場であった。寺は男ばかりで、長老たちの身の回りの世話は美しい男の子、即ち、稚児がしていた。  
新太郎はこの稚児あがりの寺侍で、大きくなるにつれ天性の美貌はいよいよ輝くばかりの美青年となった。時おり、神津倉の別院医王寺に下ってくると、類まれな彼の美貌を見ようと多くの女たちが待ちかまえていた。しかし、寺の戒律が厳しいので、新太郎は女たちには目もくれなかったという。  
それがますます女性たちのあこがれの的となり、その沿道には女たちが群集したといわれ、これをうたったのが、「岳の新太郎さん」である。  
 一、岳の新太郎さんの下らす道にゃ、ザーンザザンザ  
   金の千灯籠ないとんあかれかし  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
新太郎が山を下ることがわかると、山麗の娘たちは、その道筋に灯籠をあかあかと照らして、その道筋に灯籠をあかあかと照らして、その顔を仰ぎ喜んで迎えたという。  
 二、岳の新太郎さんの登らす道にゃ、ザーンザザンザ  
   道にゃ水かけなめらかせ  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
美男新太郎が下山して医王寺にくると、少しでもながくとどめようと、寺の西側の権現坂(新太郎さん坂)に水をかけて滑らせ、登られぬようにした女たちの新太郎への思慕の情をうたったものである。  
しかし、熱烈な女性たちの戦術にも、新太郎は迷わなかったといわれる。  
 三、岳の新太郎さんな高木の熟柿、ザーンザザンザ  
   竿じゃ届かぬ登りゃえぬ  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
新太郎は、いつもきれいで若さに輝いており、山麗の全女性のあこがれの的であったが、彼女たちが近づけぬ身分であった。  
 四、岳の新太郎さんな山芋の古根、ザーンザザンザ  
   今年や去年より若ござる  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
多良岳名産の自然藷、即ち、やまいもは毎年冬に枯れ、次の年にはまた新しく若々しいいもが できるものであるが、万年青年の新太郎もますます若がえって見えたという。  
 五、笠を忘れて山茶花の茶屋に、ザーンザザンザ  
   空がくもれば思い出す  
   色者の枠者で気はザンザ  
   アラヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ  
江戸時代の長崎はただ一つの貿易港で、これに通ずる陸路として長崎街道(多良岳の北の嬉野 回り)があり、そのわき道(近道)として多良岳の南麓を通る諫早街道があった。  
これは展望がすぐれていたが多良越の難所があった。その一番高い所にある山茶花峠は、標高350mで、佐賀・長崎両県の境の小長井にあって、付近は人家一つなく一町歩余の盆地の北側にきれいな清水がこんこんと湧き出る所に、一軒の茶屋があるだけであった。  
ここは、旅人の休憩所としては最適の場所で、茶屋の隣には、佐賀の殿様が長崎警固のため往復するときのカゴ立場があった。茶屋のそばに紅色の花をつける山茶花の老木があって、旅人の目を楽しませ、茶屋のとろろ汁は名物だとされていた。  
なお、この「岳の新太郎さん」の出生地について、諫早・高来・佐賀太良の三カ所の説があるが、金泉寺とその別院のある高来町湯江が最も有力であると言われている。 
 
熊本県
大師の高野槇1 (たいしのこうやまき) / 球磨郡多良木町下槻木  
みごとな自然が残る槻木(つきぎ)  
熊本県の南東側に位置する、ひょうたん型の多良木町。その広い町の中で、最南東の山奥に槻木という地域があります。多良木町の中心街からは、久米方面に車を走らせ、槻木峠を越えて行きます。バスの定期便はありません。自家用車で約40分の道のりを行くことになります。所々離合しにくい場所がありますが、周囲の山々(黒原山、花立山)の四季の景色を楽しみながらドライブできます。  
お大師(だいし)さんってよく聞くね!  
よく「お大師様」と聞きますが、弘法(こうぼう)大師のことをいいます。弘法大師は、お坊さんで、お寺を作るために九州各地を回ったという説があるようです。槻木のお大師様は40番目にあたるそうです。下槻木では、「お大師さん祭り」という祭りがあります。昔(戦前)は、太鼓踊りがあっていました。旧暦3月21日と8月21日に行われます。大師堂には、町の重要文化財の能面がまつられています。(この能面は年に1回しか見ることができないそうです。)  
大師堂と共に生きたコウヤマキ  
朝もやの中、静かな山奥にまっすぐにそびえ立つコウヤマキ。槻木大師堂の境内にあり、樹齢は600年くらいと言われています。幹の周りは約4m、木の高さは31.5mにもなります。根元には、ぽっこりと大きな空洞があったり、その横の切り株から別の木がはえたりしているのをみると、自然のゆったりとした流れを感じることができます。大師堂ができた時に、この大木は植えられたという説もあり、空洞に現れている年輪から計算すると、樹齢700年を越えるのではないかとも当時の村人たちは考えていたそうです。昭和44年3月20日に熊本県の指定天然記念物に指定されました。  
コウヤマキって何?  
イヌマキに対して、別名ホンマキとも言いますが、コウヤマキ科コウヤマキ属の常緑針葉高木で、1種しかありません。葉は、中央に深い溝があり、長さは8〜10cmになります。木の皮は赤褐色をしていて、少し灰色をおびています。雌雄同株で、雄花は黄褐色で、同じ場所に多数つきます。名前は、高野山に多いことからそう呼ばれているそうです。本州の一部の地域では、うら盆にはこの枝を仏に供えることもあるそうで、高野山では参拝者に売っています。木材は、ふろ桶として喜ばれ、近年は造園用として植裁されています。湿気に強いため、建築材としても使用されています。幼木の生長はやや遅いですが、30〜40mの高さになる木です。 
大師の高野槇2 
大師堂の歴史とともに生きてきた巨樹 / 熊本県球磨郡多良木町  
大師堂は、日向灘(ひゅうがなだ)に流れ出る大淀川の源流域にあたる槻木(つきぎ)の集落に、弘法大師が九州行脚のとき建立したと伝えられます。その境内に高く佇立するコウヤマキの巨樹。お堂とともに人々に大切にされ、現在まで生きてきた歴史の重さが感じられます。県指定天然記念物です。  
国道219号を多良木駅前から南の槻木方面へ。約20キロm山道を進み、下槻木の集落のはずれに大師堂がある。参道を登りきった本堂の前。  
大師の高野槇(たいしのこうやまき)  
自然の中でゆったりと生きてきたコウヤマキ  
多良木町の中心から南に約22キロm、人吉盆地の南にそびえる白髪岳や黒原山(くろばるやま)の東にある槻木峠(つきぎとうげ)を越え、槻木川沿いの山道を下って約1時間で下槻木の集落に着きます。ここは宮崎市を流れる大淀川の源流となる地域で、分水嶺よりはるか南までが熊本県です。県境などの大きな境界線は分水嶺と一致するのが普通ですが、ここ人吉盆地の南では境界線が分水嶺の向こう(宮崎県)側を通っているところが多いのが特徴で、長い歴史を反映した結果とはいえ興味深い現象です。  
下槻木の本村のすこし先に、大師(おだいし)という小字(こあざ)の集落があり、その左の小高いところに大師堂があります。大師堂への道は幹囲3、4mの老杉が立ち並ぶ苔むした石段で、それを上り詰めた左側にコウヤマキの老樹が立っています。  
県内稀に見る大木と古くから知られた名木ですが、幹囲4mで赤茶けた樹肌の存在感は圧倒的で、樹高は30mを超えていて頂を見上げると首が痛くなるほどの威容です。根元に空洞がありますが樹勢盛んで、豊かな自然の中で地域の人々に大切にされてきたことがわかります。長い距離を長時間かけて辿りついた道程と、途中に眺めてきた周囲の山々の景色で心の準備ができたのか、この樹から受ける神聖な印象とともに境内の樹木たちが醸し出している濃厚な山の霊気を強く感じます。  
弘法大師伝説と槻木(つきぎ)の歴史  
この樹の少し奥に大師堂があります。応永15年(1412)の創建なので、このコウヤマキも創建のころに植えられたと考えられています。現在の社殿は、平成18年(2006)に再建された銅板葺きの見事なものです。大師堂の本尊はヒノキの一木(いちぼく)造りの弘法大師座像で、台座に応永19年(1412)の墨書銘があり、県の重要文化財に指定されています。  
この大師堂は、弘法大師が八十八箇所のお寺を作るために九州各地を巡られ、40番目に造られたものと伝えられています。現代でこそ多良木町の中心から車で1時間ほどで到着できますが、お大師様の時代に槻木まで山を越え谷を渡って来るのは大変なことだったでしょう。それを実現した脚力と精神力にはほとほと感心します。  
下槻木では旧暦の3月21日と8月21日にお大師さん祭りが行われ、太鼓踊りが披露されています。  
大師堂の近くに四所(ししょ)神社があります。この神社の祭神は、真言宗の総本山である高野山の祭神、丹生都比売(にうつひめ)で、高野山信仰が南端のこの地まで根付いていたことがうかがえます。真言宗を保護した相良氏は、島津氏との領土争いの最前線として、ここ槻木で領土の安全と敵国降伏の祈願をして南の守りを固めたと伝えられます。そのため弘法大師伝説が、この地に根強く残ったといわれます。この神社には、年に一度、11月3日の大祭の日に見ることができる県の重要文化財や町の有形文化財に指定された神面が祀られていて、県内最古のものの1つです。  
また、大師堂境内のコウヤマキの隣りには、満月のように真ん丸い直径1.4mほどの大きな石が安置されています。平成18年7月の梅雨時の豪雨で林道の斜面が崩れ、その土砂の中から発見されました。隕石か、風化や浸食でできた自然石なのか、謎の石として大きな話題になりました。  
コウヤマキから30mくらいの場所に推定樹齢600年のイチョウの老樹があります。同じ頃に植えられたと考えられていますが、これは町の天然記念物に指定されています。また、町の天然記念物の「槻木の石櫧」も近くにあります。  
お大師様関連の場所は、槻木以外にも球磨郡湯前町(ゆのまえまち)に茅葺きの大師堂があり、安置されている大師坐像は県の重要文化財に指定されています。そのそばに姿の良い立派なクヌギがあります。そのほか、葦北(あしきた)郡芦北町(あしきたまち)佐敷(さしき)、阿蘇郡小国町(おぐにまち)杖立(つえたて)、阿蘇郡南小国町満願寺、上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)柚木(ゆのき)などに弘法大師伝説が残されています。 
湯の池 / 熊本県  
下益城で、もとは温泉だったが空海の問いに老婆が水だと嘘をつくとただちに水の池になった。
 
宮崎県
お金ヶ浜とお倉ヶ浜 / 日向市  
昔々、岩脇(現在の日向市)の海沿いの郷に“お金”と“お倉”という二人の娘が住んでいました。  
“お金”は一人暮らし。  
ケチで意地悪な性格で村人たちから嫌われていました。  
一方、“お倉”は年老いた母親と二人暮らし。  
情け深く親孝行で評判の娘でした。  
二人は別々の浜辺で毎日ハマグリを採って暮らしていましたが、“お金”がいつも来ている浜はたくさん採れるのに対し、“お倉”がいつも来る浜はわずかしか採れませんでした。  
それでも“お倉”は母親のために一生懸命ハマグリを採り続けていました。  
そんなある晴れた日の事、“お金”と“お倉”がいつものように別々の浜辺でせっせとハマグリを採っていると、どこから来たのか、ボロをまとった見知らぬ行脚僧が“お金”の方へと近づいてきました。  
行脚僧は籠の中をのぞき込むと「ほほう、見事なハマグリじゃ。ワシにも少し恵んではくださらぬか?」と声をかけました。  
すると“お金”は行脚僧のみすぼらしい姿を見て(汚い坊さんだなあ。)と感じると「籠の中はハマグリではなく石ころだよ!」と言ってぷいっと横を向いてしまいました。  
行脚僧は仕方なくその場を立ち去りました。  
行脚僧が渚伝いに歩いて別の浜にたどり着くと、“お倉”が「お母さんのために沢山採らなくちゃ。」と言いながらハマグリを採っているのに出くわしました。  
行脚僧は“お倉”に向かって「あなたがとっているハマグリを少しいただけませんか?」と尋ねると、“お倉”は(可哀想なお坊さんだわ。)と思い「わずかしか採れませんけどお一つどうぞ。」と言って、特別に大きくて立派なハマグリを一個差し出しました。  
すると行脚僧は「これは誠にありがたい。何とお礼を申し上げていいやら…。」と言いながらそのハマグリを受け取ると、“お倉”に向かって「あなたは本当に優しい娘さんじゃ。そのうちきっといいことがあるじゃろう。ワシは、弘法大師空海である。」と名乗ると、静かに立ち去っていきました。  
“お倉”が家に帰って母親に弘法大師と出会い、ハマグリをあげた事を話すと、母親は「それは良いことをしました。」と “お倉”をほめました。  
次の日、“お倉”が自分がいつも来ている浜でハマグリを採ると、何と今までよりもたくさん採れるようになったのではありませんか。  
“お倉”と母親は、弘法大師に心から感謝しました。  
それ以来、“お倉”がハマグリ採りをしていた浜を『お倉ヶ浜』と呼び、ハマグリの名産地となりました。  
その頃、“お金”の方はと言うと、家に帰って「しめしめ。これで沢山のハマグリが食べられるわ。」と言いながら籠の中をのぞくと、何と籠の中のハマグリは石ころになっているのではありませんか。  
“お金”はビックリして「これはいったいどーなっているのよ!浜の方も見に行かなくちゃ。」と言いながら自分がいつも来ている浜へ行くと、浜は岩だらけとなり、たくさんあったハマグリも見当たらなくなっていました。  
“お金”は「ああ、坊さんを親切にしなかった罰が当たんだわ…。」と言って泣き出してしまいました。  
以来、“お金”がハマグリ採りをしていた浜は『お金ヶ浜』と呼び、その浜から一個もハマグリが採れなくなってしまったということです。 
大根川 / 宮崎県  
むかしむかし、旅の途中の弘法大師がお腹を空かせていると、川で女の人が大根を洗っていました。  
とてもみずみずしく、おいしそうな大根です。  
大師はていねいに頭を下げると、女の人にお願いしました。  
「すみません。長旅で、腹を空かせております。どうかその大根を、一本めぐんで頂けないでしょうか?」  
すると女の人は、みすぼらしい大師を見て鼻で笑うと、「はん。こじき坊主が」と、わざと洗っていない、土のついた小さな大根を大師に投げ渡したのです。  
「・・・・・・」  
大師がとまどっていると、女の人は冷たく言いました。  
「その大根は、土がついたまま食べるんだよ。いらないのなら、さっさと消えな」  
「・・・・・・」  
大師は無言で頭を下げると、その大根を拾わずに、そのままどこかへ行ってしまいました。  
「あはははは。こじき坊主にも、少しは意地があるんだね」  
その後姿にアカンベーをした女の人は、再び大根を洗おうと川の方を向いたのですが、不思議な事にさっきまで流れていた川の水が一滴もなかったのです。  
「そんな、どうして?」  
びっくりした女の人が、ふと足下を見てみると、足下に一枚の紙切れが落ちていました。拾い上げてみると、そこにはこう書かれてありました。《土のついた大根をそのまま食べるのなら、洗う水はいらぬだろう。空海》  
それ以来、この川の水は大根がとれる頃になると干上がったので、人々はこの川を『大根川』と呼ぶようになったそうです。 
 
鹿児島県
娘の寿命 / 鹿児島県  
むかしむかし、旅の途中の弘法大師が、川で洗濯をしている美しい娘に出会いました。  
娘は大師ににっこり微笑むと、「お坊さま、こんにちは」と、頭を下げました。  
「はい、こんにちは」大師も頭を下げると、ふと小さな声で、「可愛らしい娘さんじゃが、おしい事に、寿命はあと三年か」と、一人言を言ったのです。  
「えっ?」それを聞いた娘は、びっくりです。  
娘はあわてて家へ帰ると、お父さんとお母さんにその事を話しました。  
するとお父さんとお母さんは、青い顔で娘に言いました。  
「それは大変! 早くそのお坊さんを追いかけていって、『どうか寿命を、もっとのばして下さい』と、お頼みしてくるんだ!」  
そこで娘は、大師の後を追いかけてお願いしました。  
「もしもし、お坊さま! どうか、わたしの命をもう少しのばしてくださいませ!」  
すると大師は、困った顔で言いました。  
「うーむ、わたしもそうしてやりたいのだが、残念ながら今のわたしの力では、人の寿命を知る事は出来ても、それをのばす事は出来んのだ」  
これを聞いた娘は、悲しくなってポロポロと涙を流しました。  
「では、わたしはあと三年しか・・・」  
その涙に心を打たれた大師は、娘に言いました。  
「娘さん。うまくいくかどうかは分からんが、運命を変えられるかもしれん方法が一つある」  
「本当ですか!」  
「うむ、良く聞きなさい。ここから北へ十里(じゅうり→四十キロ)ほど行くと山が三つあり、その中の一番大きな山のふもとに大きな松が三本立っている。その三本の松の下で、三人の老人が碁(ご)をうっているはずだ。その老人たちに、お酒をすすめなさい。老人たちは碁に夢中だが、何度も何度もお酒をすすめるうちに、やがてあんたに気がつくだろう。老人たちがあんたに気づいたら、命の事を頼んでみなさい。その老人は人の寿命が書かれた帳面を持っているから、うまくいけば、あんたの寿命を書きかえてくれるかもしれん」  
これを聞いて、娘は大喜びです。娘はさっそくお酒の用意をすると、北の山をめざして出発しました。  
やがて娘が三本の松の木にたどり着くと、松の木の下には大師の言っていた通り三人の老人たちが座っていて、そのうちの二人は碁をうち、一人は帳面をつけていました。  
しかし三人とも、眠っているようにじっとして動きません。  
しかも老人が側に置いている木のつえから芽が出て、それに葉と花が咲き、実さえなっているのですから、もう何年もこのままなのでしょう。  
「どうしよう。下手に起こして、ご機嫌をそこねられても困るし。でもとりあえず、お酒を」  
娘は大師に教えられたように、老人たちの近くに三つのおぜんを置いて、それぞれのさかずきにお酒をつぎました。  
そして木のかげから、三人の様子を見ていました。  
でも老人たちは、なかなか目を覚ましません。  
どうしたらいいかと考えているうち、娘もねむくなってきました。  
「仕方がないわ。ちょっとねむって、この人たちの目が覚めるのを待ちましょう」  
娘は松の木によりかかって、そのままねむってしまいました。  
そして娘も老人も、それから何十年も何百年もねむり続けました。  
もしかすると、今でもねむっているかもしれません。 
食べられぬ大師芋 / 南さつま市  
むかし、むかし。  
弘法大師が仏教を広めるため、南薩地方にも巡歴してきたことがありました。  
大師は、一軒の農家に立ち寄りました。  
家では、おいしそうな芋をぐつぐつと煮ているところでした。  
大師はそれを見ると、「そのお芋を、少しめぐんでください」と頼みました。  
家の人は、汚いなりをした大師を見るや、「お前なんかにはやれない。それに芋はまだ煮えていないよ」と言いました。  
芋は煮えていたのですが、家の人は欲張りだったため芋をやるのが惜しかったのでした。  
大師はそのまま、そこを立ち去っていきました。  
しばらくして、家の人々は芋を食べようと大急ぎで鍋を下ろしました。  
蓋を開けてみると、芋は真っ黒に焦げ付いていました。  
家の人はぶつぶつ言いながら、焦げ付いた芋をうしろの山に持っていて、捨ててしまいました。  
捨てた芋から芽が出て、やがて立派な芋ができました。  
どうしたわけか、その芋はいくら煮てみても食べることの出来ない、苦い芋であったそうです。
大師芋(デシイモ) / 南九州市  
むかし、むかし。  
ひとりの旅の僧が、施しのために一軒の家を訪れました。  
家では、お上さんが茹で上がった里芋をザルにあげていました。  
旅の僧は、「茹でた里芋をひとつ分けてください」とお願いしました。  
お上さんは、「まだ、よく茹っていないから、上げることは出来ません」と言って施しをしませんでした。  
「そうですか。芋が茹らぬほうが良いようですね」と言い残して、旅の僧はどこかへ行ってしまいました。  
ほっとしたお上さんは、茹で上がった里芋をザルから取り出しました。  
やわらかく茹っていたはずの里芋は、固くて半生でした。  
驚いたお上さんは、また里芋を茹で始めました。  
その里芋は、いつまで経っても煮えることはありませんでした。  
腹を立てたお上さんは、里芋を裏の竹やぶに捨ててしまいました。  
すると、捨てた里芋から青い芽が出て茂るようになりました。  
家を訪れたのは、諸国を行脚していた弘法大師であったそうです。  
そうして、煮えない里芋のことを「大師芋(デシイモ)」と呼ぶようになったそうです。
弘法大師の箸の木 / 南九州市  
むかし、知覧に弘法大師の箸の木と呼ばれる、とても大きな椎の大木があったそうです。  
村人たちは、大きくて立派な椎の木を大切にしていました。  
椎の木について、次のような話が伝えられていました。  
ある暑い夏のこと。  
ひとりの旅の僧が、一軒の家に托鉢に来ました。  
僧が訪れた家は、貧しい生活をしていました。  
家にいた奥さんは、施しをしようとあれこれ探しましたが見当たりませんでした。  
妻は、「お坊様、こんなものしかありません」と申し訳なさそうにいいました。  
そして、朝炊いた粗末な麦飯を旅の僧に施しました。  
旅の僧は、深々とお辞儀をすると麦飯をいただきました。  
旅の僧は、「ここは夏になると、木陰がなくて暑いことでしょう」と奥さんに言いました。  
旅の僧は奥さんにお礼を言うと、畑の方に歩いていきました。  
そして、麦飯を食べるときに使った箸を畑に刺して立ち去りました。  
しばらくすると、旅の僧が箸を刺した所から芽が吹き出しました。  
そうして、大きく立派な椎の木になりました。  
誰言うとなく、弘法大師の箸の木と呼ぶようになりました。  
大きく立派だった椎の木は、いつしかなくなってしまったようです。
大師黍 / 南九州市  
むかし、むかし。  
ある秋彼岸の頃のことです。  
お爺さんが縁側で、せっせと黍(キビ)の穂を藁シベで結んでいました。  
お爺さんは、竹ざおに掛け干しするために、黍を藁シベで結んでいるのでした。  
ひとりの旅の僧が訪れてきて、お爺さんに言いました。  
「お爺さん、一本、一本結ぶのは、面倒なことでありましょう」  
心優しいお爺さんは、「お坊様、こうしなければ竿に掛けることが出来ないのです。」と答えました。  
旅の僧は、一本の黍の穂を取ると、茎をたわむほどに曲げました。  
そうして旅の僧は、「黍の穂が、たわむようにしてあげよう」と言うと、お爺さんに渡しました。  
お爺さんは、お礼を言って黍の穂をありがたくいただき、次の年、畑に蒔いてみました。  
夏になって、大きな穂を出した黍はすべて、実をたくさんつけて、穂首は大きく曲がっていました。  
これを見たお爺さん、藁シベで結ぶ手間がなくなり、たいへん喜びました。  
お爺さんに、黍の穂を与えた旅の僧は弘法大師であったそうです。  
以来、その黍の名前を、「大師黍」と呼ぶようになったそうです。
水のなくなった川 / 南九州市  
むかし、むかし。  
ひとりのお坊さんが、知覧の山仁田にやってきました。  
お坊さんは、とても喉が渇いていました。  
一軒のお百姓さんの家に行くと、「水を一杯、飲ませて下さい」と頼みました。  
家には、ひとりの女がいて機を織っていました。  
女は機織りの手を止めないまま、「水は、ありません!」はっきりと断りました。  
土間を見ると、水桶には水がいっぱい入っていました。  
お坊さんは水桶を見ながら、「水は無いほうが良いようですね」と言うと、家を後にしました。  
夕方のこと。  
女が水汲みに行くと、あれほど流れていた川の水が、すっかり涸れていました。  
女は昼間のお坊さんのことを思い出し、後を追いかけようとしましたが、どうすることもできませんでした。  
川の水を涸らしてしまうほどの法力もつお坊さんは、弘法大師であったろう噂されたそうです。
弘法大師と垂水のソバ / 垂水市  
むかし、ひとりのお坊さんが、垂水の中町あたりにやってきました。  
お坊さん、よほど長く旅を続けたらしく、ふらふらしながら、ある家の門にたどり着きました。  
声をふりしぼって呼んでみました。  
しばらくすると、家の奥から若い娘さんが出てきました。  
お坊さんは、娘に一杯の飯を恵んでくれるよう、頼みました。  
娘さんは、「今ソバを打っているところでした。ソバでも差し上げましょう」と言って、お坊さんを中へ招きました。  
ソバをご馳走になったお坊さんは、娘さんにこう言いました。  
「お礼に差し上げるものはありませんが、美味しいタレの作り方を教えましょう。」  
娘さんは、お坊さんが教えたとおりタレを作ってみました。  
この家のソバは美味しいと評判となったそうです。  
垂水の十五郎ソバも、弘法大師から教えてもらったタレを受け継いだものだそうです。
弘法井戸 / 霧島市隼人町  
むかし、むかし。  
ある夏の暑い日のことです。  
ひとりの旅の僧が、杖をつきながら野久美田の村にやって来ました。  
そのお坊さん、炎天下の何日もあるいてきたらしく、とても疲れているようでした。  
よほど喉が渇いていたらしく、道端に置いてあった水桶に眼を留めると、それに近づき中をのぞいてみました。  
水桶には汚れた水が、底の方にすこしたまっているだけでありました。  
お坊さんはガッカリした顔で、その汚い水を飲むかどうか、迷っているようでした。  
この有様を木陰からじっと見ていた、ひとりの少女がいました。  
気の毒に思った少女は、隣の家から奇麗な水を汲んでくると、  
「お坊様、これをお飲みください」と言うと、水を差し出しました。  
お坊さんは大変よろこんで、美味しそうに飲み干しました。  
そうして大きく息をひとつつくと、少女にお礼を言いました。  
お坊さんは、持っていた杖で力いっぱい地面を突き立てました。  
すると、抜いた杖の穴から奇麗な水が勢いよく湧き出てきました。  
少女はビックリし、お坊さんの方を振り返りました。  
お坊さんの姿は、そこにありませんでした。  
このお坊さん、実は弘法大師でありました。  
気立ての優しい少女にお礼のシルシとして、水の乏しい土地に井戸を作ってくださったのだと、土地の人たちは言い伝えてきました。  
その井戸は、清い水がコンコンと湧き出て、どんな日照りの年でも枯れることはなかったそうです。
弘法大師の逆さ椿 / さつま町  
むかし、むかし。  
弘法大師が諸国をまわって、仏の教えを説いていたころのことです。  
弘法大師が中津川の園田にやってくると、村人たちが大勢集まっていました。  
村人たちは火を燃やし、鐘を鳴らして雨乞いをしていたのでした。  
畑を見ると、長い日照りがつづいたのでしょう。  
作物はみな枯れ果てていました。  
気の毒に思った弘法大師は、天に向かって一心にお経を唱え祈願しました。  
それでも、雨は降ってくれませんでした。  
弘法大師は地面に膝まづくと、こう唱えました。  
「水を与えたまえ」  
精魂込めて祈り、やおら立ち上がると杖を地面に立てました。  
すると、杖を立てたところから、水がこんこんと湧き出してきました。  
喜んだ村人たちは、弘法大師の力に驚き、感謝しました。  
村人たちは、急いで水を汲むと作物にかけ、何とか安心できるようになりました。  
そのときのこと。  
立てた杖が不思議と芽吹き、大きく育ち枝をはってきました。  
やがて奇麗な椿の花をたくさん咲かせるようになりました。  
ところが、椿の花はぜんぶ下向きにさきましたので、みな不思議に思っていました。  
よく見ると、杖が逆さに立てられていたそうです。 
弘法様と鬼 / 鹿児島県大島郡喜界町湾  
弘法大師が喜界島で鬼退治をしたと伝えられております。 
大師芋 / 鹿児島県  
煮ていた里芋を通りかかった空海に与えなかったので黒焦げになったので食べられないので捨てると芽がでたが生ったのは食べられない芋だった。
 
かまど神 / 「竈(かまど)神と厠(かわや)神」から 
家の神は土間、板の間、座敷と家屋構造が分化・発展するにつれて次々と新しい神々が増えていった。家の表側(座敷側)の神は新しく導入された神々、一方台所の水神や、かまど神(火の神)はわれわれの先祖が土間で生活していた極めて古い時代から祀られてきた神といえる。これらの「裏側の神」は、人形状の御幣や神像などイコン化した神体を持つものもあるが、たいていは御幣やお札を貼ったり、石や榊を供えて、神がいる場所を表示しているにすぎないことが多い。しかし「裏側の神」は家付きの土着神が多いため、毎日の生活の中で親しく祀られ、多様な機能をもつ生活神としての性格を濃厚に持っている。  
たとえば、「かまど」や「いろり」など家の火所に祀られている神は、火や火伏せの神としての他、作神や家族の守護神などとしても信仰され、稲苗や穀物の初穂を供えたり、赤ん坊や花嫁、家畜など家の成員として新たに加入するものを承認したり、旅に出るものを守護したりもする。昔話の「大歳(おおどし)の火」でも、土間からいろりやかまどを経て、納戸に至る裏側の空間が、福分を受ける上で重要な場所とされている。  
かまど神は穢れに敏感で、「荒神」と呼ぶ所も多いように、祟りやすく、恐ろしい神とされる。  
否定的なイメージを持つ反面で、家の盛衰や人の幸福や寿命を司り、生活全般にわたって恩恵を施してくれる神ともされている。  
 
「大歳の火」という民話は、日本神話を原型として、昔話として、広く語りつがれているようです。  
大晦日に火種を消してしまった嫁が、夜中に困り果てて、近所の家にもらい火に行くが皆寝静まっている。そこで見知らぬ人から死体を預かる条件で火種をもらい、年を越す。  
元日に見ると死体は黄金になっていて、その家は栄える。  
というような民話で、たくさんの変形パターンがあるようです。  
いろりの火種を絶やしてはいけない、という掟。その掟を守れなかった人は、何をしなければいけないのか?  
いろりの火種をめぐる伝承に、死のイメージが関わることからは、人間が火と家を手に入れるために辿った、長い歴史の暗闇が垣間見られるように思います。  
続いて筆者は、火の根源としての元来の自然物は「雷」であったとして、雷と火の関係を考えています。  
■ 
「かまど神」は、家屋の裏側の神々の代表といえる。  
「かまど神」が山と結びついている例もある。  
次の「竜頭太」の話は、「かまど神」と山の関連をはっきり示している。「弘法大師行状記」の中の「竜頭太の事」を、近藤喜博氏によって示すと次の通りである。  
「竜頭太」は和銅年中より以来、すでに百年におよび当山山麓に庵を結びて、昼は田を耕し、夜は薪を樵るを業とす。その面、竜のごとし。顔の上に光ありて、夜を照らすこと、昼に似たり。人これを「竜頭太」と名づく。その姓を「荷田」氏という。稲を荷けるゆえなり。  
しかるに弘仁の頃に、弘法大師この山にて難行苦行し給いけるに、かの翁来て申して曰く。「われは当所の山神なり。仏法を護持すべき誓願あり。願わくば大徳常に真密の法味を授けたまうべし。しからば愚老たちまちに、応化の威光を耀て、長く垂迹の霊地を盛りて、しずかに弘法を守るべし」と。  
弘法大師は服応し給いて、深く敬をいたし給う。これをもってその面顔を写して、彼の神体とす。種々の利用れんれんに断ずることなし。  
かの大師御作りの面は当社の「かまど戸殿」に安置される。毎年祭礼の時、神輿相共に出し奉る。すなわち、当社に「荷田の社」とて鎮座しましますは、かの社壇なり。今の神宮肥前前司荷田の延種は「竜頭太」の余胤なり。  
(中略)  
「かまど」が水、穴、山といった異界と密接に関連した特別の場であることがわかる。  
 
筆者飯島氏は、上記のように、空海が修行中に出会った「竜」のような姿の「山の神」についての近藤氏の文章をまとめて、「竜頭太」なる生物は、「田の神」かつ「山の神」であり、竜のような姿と光を発していることから、「雷神」的な性格をもつものであり、また「地主神」でもあり、「護法」的性格も持つとしています。  
そして、「かまど神」は、そうした「山の神」の系譜のものであり、さらに、稲荷信仰と密接に関連していることを指摘しています。「かまど神」は、家の中にはとても収まりきれない、はるかな森羅万象と共鳴しあっている存在であるようです。また、稲荷という神も、非常に重い意味を持っているように思われます。  
毎年正月に各家にやってくる来方神である。  
地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。  
「年」は稲の実りのことで、穀物神である。その根底にあるのは、穀物の死と再生である。  
古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。  
現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。  
門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。  
また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。  
農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたためである。  
柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。 
雷神と竜と空海  
「火」は、誤りの無いように取り扱われなければならないし、また、釜鳴りの音は何を告げているか、よく聞きながら、、「火」の世話をする必要があるのではないかと思われてなりません。「竈(かまど)神と厠(かわや)神」の紹介を続けます。  
 
かまどと「竜頭太」との結びつきから、さらに、かまどと「雷神」の問題が出てくる。  
「雷神」の出現形態としては、竜蛇、少童、鬼などがある。  
「日本書紀・雄略記」に、「小子部(ちいさこべ)スガル」という連(むらじ)が、雷である三諸岳(三輪山)の大物主の神を捕らえにやらされたが、その神は目がらんらんと輝く大蛇であった、という。  
このことから雷岳(三輪山)の地主神は、竜蛇で表わされた「雷」であることがわかる。  
「雷」と「かまど」の結びつきは、火の根源が「雷」にあったと考えれば、当然のことである。  
「ひょうとく」(ひょっとこ)といった異界の醜い小童の面を、かまどの前の柱にかけて祀るのは、田の神、かつ山の神である「竜頭太」の雷神的性格に由来するものである。  
かまどは、家屋の中では、私的な裏側の領域に属するものであって、異界との境界であり、精霊の出現する場所としては中心といえる。  
物が生成される背後には、異界の霊力があることを考えた場合、かまどは創造の中心となるのである。  
 
かまどの神様は、いろいろな場所に祀られていると思いますが、その一つ、稲荷山のかまど神は、弘法大師・空海が最初に祀ったもののようです。  
山の中で、「竜頭太」という目をランランと輝かせた、光る竜の顔をした謎めいた生き物を見た空海は、その面を彫り、それを「かまど殿」に祀ったということです。  
なぜ、それが「かまど殿」に祀られたのかについて、  
筆者は、上の文章で、「日本書紀」にある「小子部スガルの連(ちいさこべのすがるのむらじ)」という人の伝承を引用しています。  
筆者は、「スガル」が「雷」である三輪山の主「大物主」をとらえてみたら、「蛇」であった、ということから、  
「蛇」=「竜」=「雷」=「火」=「かまど神」と考えられる、と言っているのだと思います。  
ここに連鎖するたくさんの物の関係は、とても興味深く思われます。  
家の中心「火」は、自然界においては、「雷」という電気的性質として捉えられていたということだと思います。  
小子部(ちいさこべ)スガルについて、「日本異界絵巻」という本で宮田登氏が、以下のように述べています。  
 
一寸法師、桃太郎、瓜子姫、かぐや姫など、民話の中の「小さ子」はなじみ深い。こうした「小さ子」の元祖というべき「小子部(ちいさこべ)スガル」については、次のような話がある。  
「日本書紀」では、雄略天皇に呼ばれ、奈良の三輪山の神を捕まえてくるように命じられた。三輪山の神は、水神である竜蛇の形をしている。天皇は「小子部連」は人並み以上の怪力の持ち主であることを知っているので、三輪山の神を引っ張って連れてくるように命じたのである。  
「スガル」は三輪山に登り、大蛇を捕らえて、天皇の下に連れてきた。  
また「日本霊異記」には、天皇に雷神を連れてこられるか、と難題を吹きかけられた「スガル」が、直ちに緋色の鉢巻を額につけ、赤い旗のついた鉾を空中に捧げもち、馬に乗り、飛鳥の道を東北から西南にかけて走り抜けた。そして雷神に、この場に落下するように呼びかけたのである。すると赤い鉾を通して落雷があったので、「スガル」はただちに竹で編んだかごの中に雷神を閉じ込め、天皇の下へ運んだ。  
この二つの記事によると、「小子部スガル」は小さいながら怪力を持ち、ずば抜けた知力をもつ存在であった。  
特に水神・雷神を自由自在に操る能力の持ち主だったことも分かる。  
それ以前は天皇そのものが雷鳴を起こし、雨を降らせる力をもっていたのだろうが、  
そうした天皇自身の超能力は分散してしまい、天皇は身近に代行者としての呪術者をはべらせていたのであり、そこに「小さ子」が位置付けられていた。  
こうした「小さ子」の不思議な力はいつの世にも印象深く、異界の主として語られてきたのである。  
 
ここに「稲荷山」の「稲荷信仰」が関わってくるので、キツネや稲も関係することになり、話はとてもややこしくなります。wikipedia「稲荷」によると、「稲荷」と「空海」の関係は以下のようになります。  
 
全国の稲荷神社の総本社は、京都市伏見区の稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社である。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神で、現存する旧社家は大西家である。また江戸後期の国学の祖、荷田春満を出した荷田家も社家である。  
『山城国風土記』逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話を載せる。  
秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐの はたの きみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。伊呂具はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。  
また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。  
都が平安京に遷されると、元々この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。  
 
「古代は生きている・石灯篭と稲荷の謎」という本で、榎本出雲氏と近江雅和氏は、稲荷について次のように述べています。  
 
国語学者は「イナリ」とは、「イネナリ、イネニナルのつづまったものである」と言うが、果たしてそうだろうか。漢字で「稲荷」と書いて「イナリ」と読ませているが、「荷」の字には「リ」や「ナル」の読み方はない。「イナリ」は明らかに、別の伝承によって当て字されたものだと読みたい。  
言葉の面から見れば、「伊奈利」と表記された「イナリ」信仰の始まりは、秦氏よりもさらに古くさかのぼるということが考えられ、そればかりではなく、考古学的にも裏づけられる。  
稲荷山は標高320mばかりの低い山で、山頂とその周辺から出土した鏡類は、少なくとも奈良時代よりもさらに古い4世紀の遺物であって、和銅年間には一般に使用されていないものであることが分かっている。  
初源の頃は、丸い石一つ置いただけで、これを拝んだものだった。  
たしかに「稲荷神社」の分布を見ると、古代の産鉄族がいた地域にあり、またしばしばいば「稲荷塚」とか「稲荷山」と呼ばれる古墳があることは、秦の伊呂具公よりもかなり古くから「イナリ信仰」があったと思われる。  
 
イナリ信仰については、改めて考えてみたいと思っていますが、近世のご利益信仰のイメージとはまるで違う、古代の「火」と「山」の荒々しい世界の息遣いが聞こえてくるようです。 
「後ろ戸の摩多羅神」は、何を見ているのか  
飯島吉晴氏の「竈(かまど)神と厠(かわや)神」という本では、「かまど神」の性質がさまざまに検討されています。筆者はさらに、「かまど神」は、「後ろ戸の神」と称されてきた「摩多羅(またら)神」にも似ている、と述べています。  
 
かまどと雷神は、火を根源とし、共に対立する物の媒介者となっている。  
雷神は天と地を媒介するものだが、それ自体水・火、陰・陽の対立を統合した存在であり、その姿を竜蛇、子童、鬼といった神的形象で表わした。  
かまど神は古来、人の生死や運命を司る神として鎮魂儀礼に関与し、家の象徴として家の神の代表ともなった。  
しかしかまど神は、強力な霊威を持った神であったが、決して表に出ることなく、暗い影の存在として留まった。  
この点、かまど神は「またら神」と類似している。  
「またら神」も反中央的な神で、五穀豊穣、怨霊重複を司り、「境の神」的な影の存在であるが、強力な神威を持っていた。  
大地は暗い、死の、女の世界とみなされ、この世にとって隠された世界であり、人間の心の最深層に対応する切り捨てられがちな世界であるが、他方で何かが生み出される世界でもある。  
大地の神には、こうした対立する性質が同居している。  
かまど神の暗いイメージは大地と生命の関係に由来するが、生をはらんだ死であるとしたものと見ることができよう。  
薩摩南の悪石島では、盆の来訪神「ボゼ」の仮面や杖は黒と赤の縞模様に塗られ、生と死という対立するものを表現している。  
ボゼは対立を統合した存在といえよう。  
家の神としてのかまど神は、境界性、両義的性格を持ち、媒介者として絶えず秩序を更新していく点にその機能が認められよう。  
秩序の移行に伴う、排除されるべきもの、死すべきもののイメージが、両方の世界の対比から神秘的な陰の神に付与されるために、かまど神は黒い暗い神と考えられていたのである。  
家においてはかまどの他、戸口、敷居、倉、厠、台所、井戸、肥塚、藪などが生死を媒介する境界領域にあたる。  
このような領域は、家屋や屋敷の裏側に属する私的な場所で、異界との交渉のためには暗い汚いイメージの伴う非公式的な場所が選ばれたのである。  
生命に強く関連する場所は、神聖な面を持つが、日常生活では暗い汚い場所と見られた。  
力は汚きものに宿る、という逆説は住居空間の中にも見られるのであり、かまどはその代表といえる。  
 
「摩多羅神」について、中沢新一氏は「精霊の王」という著書の中で、次のように述べています。  
 
この神の由来について、はっきりしたことはもうわからなくなっている。  
鎌倉から室町にかけて、比叡山を中心にする天台系の寺院で流行していた「本覚論」は、江戸時代に入ると「邪教」の烙印を押されて、書物を焼かれたり、仏具を壊されたりしてしまい、表だっての伝承はそれで絶えてしまったから、  
「摩多羅神」の正体についてもすっかり不明となってしまった部分が大きい。  
きれぎれに語られてきたことをつなぎあわせてみても、なかなかこの神の実体には届かない。  
「異神」という書物で山本ひろ子の出している考え方が、いまのところこの問題に一番肉薄できている、と私には思える。  
彼女は「渓嵐捨葉集(けいらんしゅようしゅう)」(光宗著・14世紀)に記録された次のような記事に注目する。  
「摩多羅神」とはマカカラ天(マハーカーラ天)といい、また「ダキニ天」である。  
この天の本誓に  
「経に言う。もし私が、臨終の際、その者の死骸の肝臓を食らわなければ、その者は往生を遂げることはできないだろう。」  
この事は非常なる秘事であって、常行堂に奉仕する堂僧たちも、この本誓を知らない。  
決して口外せず、秘かに崇めよ。  
ここにあげられている「マカカラ天、大黒天」といい、「ダキニ天」といい、どちらも心をこめてお祀りしていれば、正しい意図をもった願望を成就するために、大きな力となってくれる、  
しかし少しでも不敬のことがあると、事を進める上に大きな障害をもたらして、あらゆる願望の成就を不可能にしていまうというタイプの守護神である。  
民俗学的にこれを言い換えれば、このタイプの守護神はまぎれもない「荒神」である。  
しかもこの神は、「人食い」としての特徴ももっている。  
人が亡くなるとき、「またら神」=「大黒天」=「ダキニ天」であるこの神が、死骸の肝臓を食べないでおくと、その人は往生できないのだとういう。  
人生の間に蓄積されたもろもろの悪や汚れを消滅させておく必要がある。  
そうでないと、往生の最高である浄土往生は難しい。  
「摩多羅神」はそのような慈悲をしめすのだ。  
なぜ、それは秘密にされなければならなかったのか。  
それは「摩多羅神」をめぐる宗教的思考の中に、仏教が生まれるよりもはるか以前から活動を行っていた「野生の思考」による新石器的な思考が、新しい表現のかたちを得て生々しい活動を続けていることを、一般の目から隠す必要があったからである。  
「後ろ戸の神」である「摩多羅神」を中心としてうごめきまわっているのは、理知的な仏教の体系を作り出しているものとはまったく異質な、一種の「古層」に属する思考だ。  
仏教の歴史はたかだか紀元前数百年を遡るにすぎないが、こちらの方はその百倍もの長い時間を生きてきた人類の思考である。  
仏教の中に、そのようなとてつもなく古い思考が生き続けている事実は、隠しておかなければならなかった。  
 
中沢新一氏は、「後ろ戸の神」という世にも怪しげな名前を持つ神は、仏教の中に生きている、仏教以前の原始的な人類の思考の実体であると述べています。  
これは、キリスト教におけるミトラス教などと同じく、文化の基層を見ているということだと思います。  
「精霊の王」という同書で、中沢氏は諏訪のミシャグジ、石神などにうかがえる「宿神(しゅくじん)」といわれてきた原始的な神あるいは精霊と人類のかかわりについて、調べています。  
 
「宿神」をめぐる思考が包み込んでいる世界は、「またら神」が包摂しようとしている世界よりもずっと広大である。  
「またら神」が転換を促すのは、仏教がそのことに意識を集中している「煩悩」や「三毒」や「無明」のことばかりであるのにたいして、  
新石器的な「野生の思考」の直接の末裔である「宿神」にとっては、  
この宇宙を構成するありとあらゆるものとことに、いかにして転換をもたらし、よみがえりと刷新をもたらしていくかが課題となっているからだ。  
 
中沢氏は、幾度となく「野生の思考」という言葉を用いていました。  
その言葉は、人類の歴史の根源にある、人類の「思惟する力」を信頼している、と言っているのだと感じられました。  
原発という「かまど」も、なんらかの必然があって、この世に現れ出たのかもしれません。原発がなくなる時とは、どんな時なのか?人類は何をどのように「思惟」することができるか?生の、生きた、思考が求められているように思います。  
wikipedia「摩多羅神」には、以下のような説明があります。  
摩多羅神(またらじん、あるいは摩怛利神:またりしん)は、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。  
常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる。  
『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている。  
しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる。  
この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)のニ童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという。  
江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。  
民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。  
また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる。 
伝説が伝えられている場所・地名  
1.三度栗  
岡山県津山市、岡山県真庭郡川上村、岡山県阿哲郡哲西町、岡山県川上郡備中町、鳥取県西伯郡会見町、鳥取県日野郡日野町、高知県高岡郡窪川町、高知県土佐清水市  
2.弘法清水  
山形県東田川郡藤島町、同郡羽黒町、同郡三川町、同郡朝日村、山形県東村山郡中山町、山形県村山市、山形県東根市、山形市、山形県上山市、佐渡郡相川町、栃木県塩谷郡藤原町、栃木県那須郡烏山町、栃木県上都賀郡粟野町、同郡西方村、茨城県笠間市、茨城県高萩市、群馬県利根郡新治村、群馬県富岡市、群馬県利根郡片品村、群馬県碓氷郡松井田町、群馬郡榛名町、群馬県高崎市、群馬県前橋市、群馬県勢多郡新里村、山梨県南都留郡秋山村、千葉県佐倉市、埼玉県秩父郡両神村、埼玉県東松山市、埼玉県所沢市、埼玉県与野市、埼玉県戸田市、東京都練馬区、東京都八王子市、神奈川県秦野市、神奈川県小田原市、山梨県北巨摩郡高根町、山梨県中巨摩郡敷島町、同郡竜王町、同郡甲西町、山梨県東八代郡御坂町、山梨県富士吉田市、石川県羽咋郡志賀町、富山県下新川郡朝日町、富山県黒部市、富山県上新川郡大沢野町、富山市、富山県新湊市、富山県小矢部市、石川県鹿島郡能登島町、石川郡鳥越村、石川県能美郡辰口町、石川県江沼郡山中町、石川県小松市、石川県金沢市、石川県羽咋郡富来町、石川県輪島市、福井県坂井郡芦原町、同郡丸岡町、福井県大野市、福井県鯖江市、福井県武生市、福井県敦賀市、福井県遠敷郡名田庄村、大阪府羽曳野市、大阪府豊中市、大阪府枚方市、大阪府交野市、大阪府四条畷市、大阪府八尾市、大阪府柏原市、大阪府富田林市、大阪府南河内郡太子町、大阪府和泉市、和歌山県日高郡南部川村、和歌山県日高郡南部町、和歌山県西牟婁郡中辺路町、和歌山県伊都郡高野町(温水、塩水は除く)  
 
弘法水

 

 
弘法大師のことわざと弘法水1
1 弘法大師とは  
「弘法大師」とは、真言宗の開祖として有名な空海のことです。  
延喜21年(921)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られたそうです。  
現代においても、「弘法大師」は空海を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもあります。  
そして、歴史上、天皇から下賜された大師号は27名もいるそうですが、一般的に大師といえばほとんどの場合「弘法大師」を指しています。  
極端に言えば、空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」はほとんどの人が知っています。  
「弘法大師」の略年表は下記のようです。  
774年(宝亀5年)讃岐の国(香川県)生  
794〜803年の間行方不明  
804年に最澄と共に遣唐船で入唐  
806年帰国  
806〜809年の間行方不明  
809年嵯峨天皇の時上京が許され、高尾山寺に入る  
810年薬子の変が起こり、空海は鎮護国家のための大祈祷を行う  
816年帝より高野山を賜り開祖に着手 821年5月,故郷四国讃岐の満濃池の修築  
835年3月21日入定  
921年朝廷より「弘法大師」の諡号  
2 弘法大師のことわざ  
「弘法も筆の誤り」ということわざがあります。  
これは、どんなベテランでも間違うことがあるという意味のことわざですが、これにはもとになった逸話があるそうです。  
「弘法大師」は、平安時代のすぐれた書道家「三筆」の一人でもあったそうです。  
ある時、「弘法大師」は天皇から宮中諸門の額の字を書くよう勅命を受け、「応天門」と書いた額を掲げました。  
ところが掛け終わって下から額を見ると、「応」の1画目の点が抜けていました。  
額は相当高い場所にかけてあるため、下ろすのは無理で、登って書くこともできなかったそうです。  
でも、「弘法大師」は少しもあわてず、墨をつけた筆を下から投げたそうです。  
それが見事に「応」の1画目の位置に命中し、立派な点が打たれたことで、居合わせた全員が弘法大師の神業に感心したそうです。  
これは『今昔物語』に出てくる話で、本来は字を書き損じたことではなく、どんな状況でも完璧な文字を書く弘法大師の素晴らしさを伝えるものだったようです。  
また、「弘法筆を選ばず」もあります。  
本当に才能のある人は道具の優劣に関係なく力を発揮するという意味ですが、こちらはもとになる逸話はありません。  
「弘法大師ならどんな筆でも立派な文字を書くはず」と後世の人が考え、ことわざにしたようです。  
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」もあります。  
大師といえば、「弘法大師」で、太閤といえば豊臣秀吉をイメージします。  
先に述べたように、大師というのは朝廷から高僧に与えられた称号なので、「弘法大師」以外にも何人もいるのですが、「弘法大師」のイメージがあまりにも強いため、現代では「お大師さん」といえば、「弘法大師」と多くの方が認識されています。  
同じように、太閤も摂政・太政大臣に対する敬称で、これも何人もいるわけですが、誰もが慣れ親しんでいる太閤は豊臣秀吉だと思います。  
つまり、このことわざは、大師も太閤も特定の個人を表す尊称ではないものであるのに、庶民の敬い慕う人気が、一般の尊称を特定の人を指すものにしてしまったことなのです。  
3 弘法大師の水にまつわる伝説  
さて、前置きが長くなりましたが、「弘法大師」には水にまつわる伝説がたくさんあります。  
「弘法大師」にまつわる伝説は全国に5000以上あると言われていますが、その中で、水に関するものだけでも1600以上あると言われています。  
典型的な「弘法大師」の伝説の水は次のような話が多いようです。  
1 喉が乾いた大師が水を所望し、老婆が遠方から水を運んで快く水を提供したので、水に不自由なこの土地に同情し、御礼に杖で地を突いて水を出す  
2 塩の入手に難儀していることに同情し、塩水井戸を湧かす  
3 土地を荒らす竜を閉じこめ、竜が悔い改めて水を湧出させた  
4 料理されそうになっている鮒を助けたところ片目の鮒になった  
5 盲目の老婆に水をもらい、御礼に眼病に効く水を湧出させた  
6 水を惜しんだ老婆が、嘘を言って大師を追い返すと、湧水や井戸が白濁したり、涸れてしまって水に苦しむことになる  
これらの弘法水は、これまでの調査で日本全国に1,400ヶ所ほど存在していることを確認しているそうです。  
その名称には次のようなものがあります。  
弘法水,弘法清水,弘法井戸,大師の水,清水大師,御水大師 杖突水,御杖の水,杖立清水,独鈷水,金剛水(遍照金剛),塩井戸(水湧出) 加持水(加持祈祷による),閼伽水(聖なる水),硯水(すずりみず,書道)  
4 弘法水の分布と水文学的特徴  
下記に、各都道府県の弘法水伝説数を調べていますが、弘法水の分布は日本海側と東海地方が少なくなっています。  
北海道と沖縄は伝説そのものがありませんが、遠くて行けなかったのでしょうか?  
県別にみると岩手県,福島県,群馬県,長野県,石川県,奈良県,和歌山県,香川県に多く、伝説や民話の多い地域に数多くみられるのが特徴です。  
また、平地には弘法水はほとんど見られず、丘陵地や山中の谷頭や地形の変換点、山頂などに多く見られます。  
私は、四国に住んでいますから、弘法水は四国ばかりと思っていたのですが、全国にこんなにもあるのが驚きです。  
香川県は生まれ故郷なので多いのはわかっていましたが、ものすごく多いと思っていた愛媛県が、全国では少ないほうの県に入っているとは思いませんでした。  
現地調査から、弘法水の湧出量はほとんどが1l/sec以下であり、その半分以上は0.1l/secのごく小さな湧水であることがわかっています。  
これら小規模の湧水が1,200年まえから現在に至るまで湧出しているとは考えにくいことで、水文学的には非常に興味ある湧水と言えます。  
尚、いくつかの弘法水では、潮汐に感応して湧出量や井戸の水位が変化するものがあります。  
5 弘法水の水質異常  
弘法水には,変わった水質(例えば,塩水井戸,白濁した水等)のものが知られています。  
例えば火山や石灰岩地域ではないにもかかわらず、pHが高かったり、極端に低い例が見つかりました。  
また、無機主要成分にも異常な値を示す弘法水が多く、特にカルシウム,硫酸,硝酸濃度の高いものが多く見いだされました。  
聞き取り調査ではゲルマニウムやホウ酸が溶けているといわれる弘法水もありました。  
これらの弘法水の中には薬水として利用されているものが多くみられます。  
最も典型的な例は、pHが低く硝酸イオン濃度の高い弘法水が眼病に効くと言われています。  
弘法水の効能,利用法には次のようなものがあります。  
眼病・胃腸病・皮膚病・疣取り・火傷・万病・健康増進・不老長寿・安産・書道(硯水)・茶の湯・仕込み水(酒・味噌・醤油)・紙漉き・水虫・害虫駆除などです。  
6 伝説の水に登場する人物  
様々な伝説全集や郷土資料等から伝説の水と呼ばれているものは、弘法水が圧倒的に多く、伝説の水の半分、登場する人物の3分の1を占めているそうです。  
2番目に多い安倍晴明(陰陽師)でさえ70ヶ所しかないそうです。  
以降では、歴代天皇(約20ヶ所)や蓮如(10ヶ所)を始めとして歴史上の有名な人物が上位を占めています。  
また、弘法水が日本全国で見られるのに対して、他の伝説の水は,その人物の活躍した狭い地域内でしかみられない場合が多いようです。  
7 弘法水とは  
弘法水は、大師自身が掘当てた水と考えるよりは、水量はわずかながらも水の乏しい地域に数百年もの間変わらずに湧出し続け、淘汰された湧水・井戸水と考えるべきだと思います。  
そして、無数の湧水,地下水の中で特殊な水質を持ち合わせ、疾病(特に眼病・皮膚病)や健康増進,その他の水として利用できたものは、当時の衛生状態や医療技術レベルから薬水・霊水として用いられるようになり、それが水神信仰とつながって弘法水となったと思われます。  
これらを合わせて考えると弘法水の本質とは鉱泉・温泉であると考えられます.  
伝説の水は、その登場人物と深く関わって、その用途や水質,水文学的な特徴の見られることがわかってきました。  
その中で、弘法水は日本を代表する伝説の水であり、敬うべきものだと思います。  
8 各都道府県の弘法水伝説数  
奈良県 139 / 和歌山県 134 / 群馬県 95 / 香川県 66 / 石川県 56 / 長野県 53 / 山形県 43 / 福島県 41 / 新潟県 37 / 大阪府 36 / 徳島県 35 / 広島県 35 / 三重県 35 / 京都府 35 / 岡山県 34 / 茨城県 32 / 高知県 30 / 岩手県 29 / 栃木県 29 / 愛知県 28 / 愛媛県 27 / 富山県 27 / 滋賀県 25 / 大分県 25 / 福井県 23 / 千葉県 23 / 兵庫県 22 / 神奈川県 22 / 山梨県 19 / 宮城県 19 / 熊本県 18 / 静岡県 15 / 東京都 15 / 埼玉県 15 / 鹿児島県 14 / 山口県 9 / 岐阜県 8 / 長崎県 8 / 島根県 8 / 秋田県 6 / 福岡県 6 / 青森県 5 / 佐賀県 3 / 鳥取県 3 / 宮崎県 2 / 北海道 0 / 沖 縄県 0 
弘法水2
1.弘法大師伝説の水とは  
弘法大師にまつわる伝説は全国に5000以上、水関係だけで1600以上あります。典型的な弘法大師伝説の水は次のような話です。  
「喉が乾いた大師が水を所望する。老婆が遠方から水を運んで快く水を提供したので、水に不自由なこの土地に同情し、御礼に杖で地を突いて水を出す。」  
一方で下記のような伝説もあります。  
水涸伝説:水を惜しんだ老婆が、嘘を言って大師を追い返す。すると湧水や井戸が白濁したり、涸れてしまって水に苦しむことになる(全国に200ヶ所以上あります)。  
その他にも、次のような伝説があります。  
※塩の入手に難儀していることに同情し、塩水井戸を湧かす。  
※土地を荒らす竜を閉じこめ、竜が悔い改めて水を湧出させた。  
※料理されそうになっている鮒を助けたところ片目の鮒になった。  
※盲目の老婆に水をもらい、御礼に眼病に効く水を湧出させた。  
これらの弘法水は、これまでの調査で日本全国に1,400ヶ所ほど存在していることを確認しています。その名称には次のようなものがあります。  
弘法水、弘法清水、弘法井戸、大師の水、清水大師、御水大師 杖突水、御杖の水、杖立清水、独鈷水、金剛水(遍照金剛)、塩井戸(水湧出) 加持水(加持祈祷による)、閼伽水(聖なる水)、硯水(すずりみず、書道)  
弘法大師(空海)略年表  
 774年(宝亀5年)讃岐の国(香川県)生  
 794〜803年の間行方不明  
 804年に最澄と共に遣唐船で入唐  
 806年帰国  
 806〜809年の間行方不明  
 809年嵯峨天皇の時上京が許され、高尾山寺に入る。  
 810年薬子の変が起こり、空海は鎮護国家のための大祈祷を行う。  
 816年帝より高野山を賜り開祖に着手 821年5月、故郷四国讃岐の満濃池の修築  
 835年3月21日入定  
 921年朝廷より「弘法大師」の諡号  
2.弘法水の分布と水文学的特徴  
弘法水の分布は日本海側と東海地方に少ないことがわかります。これは水資源と関係があるようで、溜池の分布ともよく似ています。また、昔からの街道沿いに分布する地域と、塊状に存在する地域とがみられます。県別にみると岩手県、福島県、長野県、奈良県、岡山県に多く、伝説や民話の多い地域に数多くみられるのが特徴です。また、平地には弘法水はほとんど見られず、丘陵地や山中の谷頭や地形の変換点、山頂などに多くみられます。  
現地調査から、弘法水の湧出量はほとんどが1l/sec以下であり、その半分以上は0.1l/secのごく小さな湧水であることがわかっています。これら小規模の湧水が1,200年まえから現在に至るまで湧出しているとは考えにくいことで、水文学的には非常に興味ある湧水といえます。なおいくつかの弘法水では、潮汐に感応して湧出量や井戸の水位が変化するものがあります。  
3.弘法水の水質異常  
弘法水には、変わった水質(例えば、塩水井戸、白濁した水等)のものが知られています。これまでに調査した弘法水の水質分析を実施した結果、水質異常を示す弘法水が多く見つかりました。例えば火山や石灰岩地域ではないにもかかわらず、pHが高かったり、極端に低い例が見つかりました。また、無機主要成分にも異常な値を示す弘法水が多く、特にカルシウム、硫酸、硝酸濃度の高いものが多く見いだされました。聞き取り調査ではゲルマニウムやホウ酸が溶けているといわれる弘法水もありました。これらの弘法水の中には薬水として利用されているものが多くみられます。最も典型的な例は、pHが低く硝酸イオン濃度の高い弘法水が、眼病に効くといわれています。弘法水の効能、利用法には次のようなものがあります。  
眼病・胃腸病・皮膚病・疣取り・火傷・万病・健康増進・不老長寿・安産・書道(硯水)・茶の湯・仕込み水(酒・味噌・醤油)・紙漉き・水虫・害虫駆除など。  
4.伝説の水と弘法水の用途  
弘法水は湧出地点の特徴と湧出量が少ないことから、その用途は緊急時の飲料水として利用される場合が圧倒的に多いようです。それ以外にも独特な水質とプラシーボ(偽薬)効果から、病気(特に眼病や胃腸病)に効く薬水・霊水として利用されたり、空海が書道の二聖・三筆と言われたように、硯水(字がうまくなるといわれている)として利用される例が多くみられました。しかし、他の伝説の水は病気や長寿の水としても利用されますが、仕込み水などの実用的な水として利用されるのが特徴です。  
伝説の水の中には白濁した水が存在しますが、一般的に弘法水が悪水として伝えられているのに対して、他の伝説の水では化粧水として利用されています。これは小野小町等の女性が登場する伝説や疣水の中に多くみられます。そのいくつかの水質を調べたところ、特に悪水と考えられるような成分は検出されませんでした。皮膚によいということから、白濁する原因は粘土分であろうと考えられます。  
5.伝説の水に登場する人物  
様々な伝説全集や郷土資料等から伝説の水を抽出し、人物毎にその数を調べてみると、弘法水が圧倒的に多く、伝説の水の半分、登場する人物の3分の1を占めています。もっとも伝説の水をすべて調べ上げているわけではありませんが、2番目に多い安倍晴明(陰陽師)でさえ70ヶ所しかなく、今後の文献調査でもそれほど増えるとは考えらません。以降、歴代天皇(約20ヶ所)や蓮如(10ヶ所)を始めとして歴史上の有名な人物が上位を占めます。また、弘法水が日本全国で見られるのに対して、他の伝説の水は、その人物の活躍した狭い地域内でしかみられない場合が多いようです。  
いくつかの文献の中には最初の日本全国地図を作製した行基にまつわる水が全国各地にあると書かれていますが、これまでの文献調査では溜池の築造などは多くみられるものの、湧水を出したという伝説は7話しか見られません。行基は弘法大師より100年ほど前の人物であり、本来行基水であった水が弘法水に変ってしまった例が多いと考えられます。  
6.まとめ  
弘法水は大師自身が掘当てた水と考えるよりは、水量はわずかながらも水の乏しい地域に数百年もの間変わらずに湧出し続け、淘汰された湧水・井戸水と考えるべきだと考えられます。一方、無数の湧水,地下水の中で特殊な水質を持ち合わせ,疾病(特に眼病・皮膚病)や健康増進,その他の水として利用できたものは,当時の衛生状態や医療技術レベルから薬水・霊水として用いられるようになり,それが水神信仰とつながって弘法水となったと思われます。これらを合わせて考えると弘法 水の本質とは鉱泉・温泉であると考えられます。  
伝説の水は,その登場人物と深く関わって,その用途や水質,水文学的な特徴の見られることがわかってきました。その中で弘法水は日本を代表する伝説の水であり,一方で非常に特殊な存在でもあるともいえるでしょう。 
日本各地にある「弘法水」3
「大師由来」伝説1500近く  
日本各地には弘法大師伝説の水(弘法水)が多数存在している。これらは弘法大師が発見した水として、次のように伝えられている。  
「弘法大師が日本各地を巡錫の折、ある村で喉が渇いた大師が老婆に水を所望する。老婆は遠方から水を運び快く水を提供したので、大師は水に不自由なこの土地に同情し、御礼に錫杖で地を突いて清水を出した」  
弘法大師にまつわる伝説は全国に無数に存在するが、弘法水伝説はこれまでの調査で1489編を確認している。次に多いのが晴明水(安倍晴明由来)の70編で、僧侶では日蓮水の40編であるから、弘法水がいかに多いかがわかるだろう。これらの弘法水は各地で「弘法清水」「弘法水」「弘法井戸」「加持水」「杖突水」「金剛水」「閼伽水」「霊水」「臼池」「硯水」「塩井」などと呼ばれ、古くから神聖な水として大切に利用されてきた。  
弘法水の分布を見ると、北は青森県の下北半島から南は鹿児島県の加計呂麻島にまで存在するが、必ずしも一様ではなく、旧街道に沿って点在する地域と、塊状に存在する地域がある。特に弘法大師の本拠地である高野山や東寺のある近畿地方から、生誕地であり八十八カ所霊場のある四国にかけて多数存在するが、水飢饉の頻発する関東内陸部にも多くの弘法水が存在する。逆に新潟、富山、石川を除く日本海側にはあまり見られない。これは豊富な雪解け水の恩恵に浴する地域であったためと考えられる。また弘法水の存在する地域には「杖突」「塩井」等の地名が残されている例が少なくない。  
弘法水の湧出形態には独特な特徴が見られる。弘法水は、丘陵地上の地形変換点や山頂直下の谷頭湧水、砂浜海岸にある淡水の湧水が多く、その一方で平野部に見られる井戸、いわゆる浅層(不圧)地下水や崖線からの湧水はほとんど見られない。水の不便な地域の代表的な地域である山頂直下や砂浜海岸で淡水が湧出するという不思議さから、弘法水と呼ばれるようになったものと考えられる。  
また「弘法井戸」と称される弘法水のほとんどが湧水であり、井戸であってもその地下水面は非常に浅く、湧水といって差し支えないものが多い。その湧出量は80%が毎秒1リットル以下であり、50%は毎秒0・1リットル以下のごく小規模の湧水である。しかし、これらの湧水が自然災害の多い日本において1200年前から現在に至るまで湧出し続けているかについては、疑問の余地が多い。もしこれが事実であれば、水文科学的には非常に珍しい湧水である。実際には、街道が整備され日本各地に布教ができるようになった江戸時代に、高野聖が弘法大師由来の水として伝えた湧水がほとんどではないかと考えられる。  
また、伝説の中には、「ある僧侶が……それは弘法大師だった」という記述が多く、大師の少し前に活躍した行基に由来する水が、弘法大師に置き換わった例もあるのではないだろうか。また、中国では水神としてあがめられている伝説の王朝「夏」の禹王と同様に、日本では弘法大師が水神と同一視されていることから、水の乏しい地域で、干ばつや災害の発生にもかかわらず枯渇することなく湧出し続けたものを「弘法水」として伝えてきたと考えるのが適当であろう。  
一方、弘法水の中には、潮汐に感応して湧出量や水位が変化するものや、塩水井戸、白濁水などの特異な水質を示すものが知られている。愛媛県西条市の河口にある「弘法水」は、満潮時は海中に没するにもかかわらず、ほとんど海水の混入は見られなかった。逆に山間にあるにもかかわらず塩水が湧出する井戸は、秋田県二ツ井町(現・能代市)、福島県会津若松市、千葉県館山市、新潟県柏崎市、富山県氷見市、長野県大鹿村などに存在する。また、白濁している地下水が日本各地に散見されるが、一般的な伝説の水の場合には「化粧水」として利用される例が多いものの、弘法水は水質の悪い「悪水」として存在している。また温泉や鉱泉も特異な水質を示す水であり、弘法水としては72カ所知られている。  
弘法水の中には、眼病、皮膚病、胃腸病などに効能がある、などという"薬水伝説"が多数存在する。科学的に最も大きな特徴は、これらの弘法水の多くに、特徴的な水質を示すものが多いことである。万病や長寿に効能が伝えられる弘法水はカルシウム濃度が高い傾向がある。一般的にカルシウム濃度の高い水を飲用する地域は長寿であることが知られている。また眼病に効く弘法水には、溶存成分濃度が低い水や、塩化ナトリウム型の水質を示す水、硝酸イオン濃度の高い水があり、当時の衛生状態を考えると、これらの水を使用することで眼病が改善したということは十分考えられる。  
日本人は、塩には脱水作用と殺菌作用があることを経験的に知っていた。塩湯は神経痛やリウマチあるいは皮膚炎などに効能が認められる。実際に皮膚病に効能が伝えられる弘法水は、一般的な炭酸カルシウム型の水ではなく、塩水や酸化還元電位の低い水が多かった。閼伽水として利用される水は、塩水型もしくは硫酸ナトリウム型の水質を示した。これらの水は非常に清澄であり、硫酸イオン濃度の高い腐りにくい水であった。閼伽水とは神仏に供える水であり、心身の垢を落とす水として利用する水でもあるために、すぐに腐ってしまう水の使用は避けたのであろう。  
硝酸イオンは殺菌効果があると考えられるが、人為的な汚染物質であり、高濃度の水を飲用すると、メトヘモグロビン血症(いわゆるブルーベビー・シンドローム)を発症することが知られている。しかし、お産の際の悪阻を和らげる効能が伝えられている弘法水には1リットル当たり数十ミリグラムに達する高濃度の硝酸イオンが検出されるものがある。この水を飲用すると、血液中の酸素濃度が低下するので、胎児に悪い影響を与えるはずである。自然状態の地下水中に高濃度で硝酸イオンが生成するメカニズムは不明であるが、今後、医学的な側面も含めた詳細な研究が行われることを期待したい。  
以上のことから、弘法水は、大師自身が掘り当てた水であるというよりも、次のように考えるべきであろう。  
1 水量はわずかながらも、水の乏しい地域に数百年もの間湧出し続けた湧水・井戸水である。  
2 無数の湧水・地下水の中で、特殊な水質を持ち合わせ、疾病(特に眼病・皮膚病・胃腸病)や健康増進などに利用できたものは、当時の衛生状態や医療技術レベルから、薬水・霊水として用いられるようになった。  
3 水文科学的には、微量ながらも安定した湧出量であり、特殊な水質の湧水が多いことから、弘法水は浅い地層中を流動する地下水ではなく、かなり深いところから湧出する深層地下水、あるいは温鉱泉の一種である。  
これらの湧水が長い歴史の中で淘汰され、さまざまな効能を発揮し、水神信仰、弘法大師信仰と摺り合わされて成立したものが弘法水の本質であろう。 
 
東北

 

青森県
 
岩手県
念仏清水 / 花巻市大迫町亀ケ森  
弘法大師が諸国遍歴の際に立ち寄り、この湧水を念じ、念仏清水と名づけたとの伝説がある。
蟹沢坊湧水 / 花巻市大迫町外川目  
弘法大師が訪れた際に、杖でついたところから湧水が出るようになったとの伝説がある。
杉ノ堂大清水 / 奥州市水沢区佐倉河字杉ノ堂  
湧水量は市内で一番多く、岩手の名水20選に選ばれている。弘法大師が旅の途中わざわざ立ち寄り飲んだ水である。 
杉之堂大清水 / 水沢市  
弘法大師が立ち寄ったと言われており、また、周辺から縄文晩期の土偶や遺物も発見され古代人がこの湧水で生活していたことを思わせる。る等昔人の生活の場であった所。かつては良質な水を利用しての寒天作りが盛んで、輸出までされたというが、今は農業用に使われている。  
 
宮城県
 
秋田県
塩の井 / 能代市二ツ井町切石字八木山  
弘法大師が授けたという伝承がある。適度な塩分濃度のため、調理に利用されてきた。 
弘法の井戸 / 秋田県男鹿半島・入道崎(畠)  
昔、弘法大師が入道崎の畠(はたけ)部落を訪れ、 水を飲ませてほしいとたのんだところ、その家の人は 「ここは水が不自由なのでその米のとぎ汁でよければ」とこたえた。  
すると、弘法大師は、地面に四角を書き、ここに井戸を掘ればよいと言った。  
教えられた所に掘った井戸は夏でも水が涸(か)れることがなく、「中の井戸」と呼ばれた。  
部落の中で立ち話をしていた男の人に井戸のことを聞くと、 「弘法大師の井戸の水を飲んでいるから、長生きできて、俺が168歳で、こいつが170歳だ。」と教えてくれた。  
井戸の水ではなく「米の汁」を飲んで元気だったようである。  
富山県や福井県には、米のとぎ汁を弘法大師に飲ませたために、そこの水は白く濁ってしまったという「弘法の濁り水伝説」がある。 米のとぎ汁の話は、富山県の方から伝わってきたのだろうが、正反対の結果になっている。  
 
山形県
弘法清水 / 山形県鶴岡市  
山形県鶴岡市の上名川にある「弘法清水」は、今はちょろちょろ流れ出る湧水ですが、弘法大師が休息したところと言い伝えられ、旅人に水を提供するという大事な働きを続けてきた湧き水です。 
 
福島県
半田山麓湧水群 / 桑折町  
半田山の麓に「弘法清水」「半田沼」「じじばば沼」「ヘビ沼」の四つの湧泉があり、そのひとつ弘法清水は,弘法大師が飲み物の残りをこぼしたらそこから清水が出たそうである。
弘法清水 / 桑折町  
山からの湧水を一旦水槽に蓄えて流す水で、花崗岩層からミネラル分を豊富に含んだ水ということである。明治天皇の東北巡行のおりに献上された水という。  
お寺の清水 / 只見町大字黒谷  
弘法大師ゆかりの清水、どんな重病人もこの水だけは飲めたという。
弘法大師の大清水 / 柳津町大字柳津字寺家町  
虚空蔵菩薩を彫ったところ人々が大切に崇めたので、その御礼に弘法大師が杖で岩を突いたら清水が湧き出たという伝説がある。
大法清水 / 石川郡石川町字大室  
弘法大師が農家に水を求めたが断られ、やむなく杖で掘ったところ湧き出たと言い伝えらている。  
 
磐梯山  
磐梯山は福島県を代表する山の一つです。磐梯山に登ったことのある方なら、「弘法清水」という清水があるのをご存知でしょう。いつも山頂手前のこの清水で喉を潤し、山頂への最後の登りにとりかかるのですが、そういえばこの清水はなぜ「弘法清水」なのでしょうか。  
磐梯山は「火山」です。これまでに5、6回の噴火が起きたとされ、有史以降では806年と1888年の噴火が記録されています。1888年に起きた大規模な水蒸気爆発では、500人近くもの死者が出たそうです。この時の噴火によって川がせき止められ、五色沼や桧原湖などの湖沼群が形成されたこともよく知られています。  
さて、そんな磐梯山に、弘法大師がどう関わってくるのかということですが、調べてみると「手長」「足長」という夫婦の妖怪の伝説が出てきました。この妖怪、磐梯山と明神ケ岳を両足でまたぐ「足長」と、猪苗代湖の水をすくって会津にばらまくこと ができた「手長」ということで、この2人?が地域に嵐を起こしたり、作物の実りを邪魔していたというのです。  
ここで弘法大師様の登場です。  
ここで改めて弘法大師についておさらいをすると、弘法大師は真言宗の開祖。遍照金剛(へんじょうこんごう)とも呼ばれ、俗に「お大師さま」の呼び名で親しまれています。天台宗の開祖の最澄とともに平安仏教を代表する僧であり、三密とよばれる行を実践して大日如来と一体化することで現世での成仏をめざす即身成仏が可能であるとの教えを説いた方です。  
話を戻しますと、諸国行脚の途中でこの地に立ち寄った弘法大師は、「手長」「足長」によって人々が困りきっている様子を見て、「それならその妖怪に会って話をしてみよう」と、「手長」「足長」の住みかを訪ねます。  そして、「お前たちはいろいろなことができるそうだが、できないことがあるだろう」と挑発します。「自分たちにできないことはない」と挑発に乗った妖怪に、弘法大師は「それなら小さくなって壷に入ってみせろ」と言い、壷に入った「手長」「足長」を閉じ込めてしまったというわけです。  
弘法大師は「手長」「足長」の入った壷を磐梯山の山頂に埋め、「磐梯明神」を祀ったのだそうです。以来、会津はもとの明るい里に戻ったというのが伝説のあらまし。実際、弘法大師は8世紀後半から9世紀前半の方なので、磐梯山の806年の噴火はともかく、1888年の噴火以前の方であることは間違いありません。磐梯山の現在の山頂は本来五合目だったといわれます。つまり、そこから上は噴火で吹き飛んでしまったということです。となると、山頂に埋めた「手長」「足長」はどうなっているか、ちょっと疑問なのですが。  
さて、「弘法清水」です。「弘法清水」があるのは四合目と記されています。山頂まで後一息のこの場所ではいくつかの登山道が合流し、売店小屋もあります。休日ともなればいつも大勢の登山者が水を飲んだり休憩したりして過ごしています。猪苗代スキー場からの登山道を登ると、この弘法清水の少し下に「黄金清水」という清水があります。「弘法清水」より水量も多くおいしいと言う方もいます。「弘法清水」より人が少ないのは確かです。  
「弘法清水」に限らず、県内には他にも弘法大師にまつわる伝説が残っています。たとえば郡山市湖南には、弘法大師が船を作った際の削り屑を湖に捨てたところウグイになったとか、弘法大師が湖の湾口に橋を架けようとしたといった場所があります。また、石川郡石川町には「弘法ワラビ」という灰汁抜きをしなくても食べられるワラビがあるそうですが、これは旅の途中に立ち寄った弘法大師に水をあげたおばあさんに、大師がお礼に教えてくれたという伝説があるとか。  
全国各地に同様の伝説はあるようですが、山にしても里にしても土地や場所の名称のいわれを探ると、時として興味深い内容のものに出会うことがあります。 
 
関東

 

栃木県
弘法の加持水 / 足利郡三和村板倉 
野州・足利(あしかが)在の養源寺(ようげんじ)の山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。
弘法の池 / 足利市南大町  
神明宮の御神水は、境内「弘法の池」で清らかな沸水です。 
 
群馬県
弘法の井戸 / 藤岡市下日野字高井戸  
弘法の泉 / 群馬県桐生市  
群馬県桐生市の新里町奥沢にも「弘法の泉」があり、ちょろちょろとした流れが小川をつくっていますが、ここでは、弘法大師が杖で地面をたたいたところから湧き出したと言い伝えられているそうです。 
弘法の清水 / 渋川市持柏木  
集落と集落を?ぐ農道の脇に湧いている。洗い場が設けられており、主に農産物の洗い場に使われている。弘法伝説のほどは不明だが、持柏木の名の起こりにもなった湧水という。 
 
茨城県
弘法水 / 八千代町栗山 
当時、岩の切れ目から溢れ出ていたが、その後盛土され、現在は谷津田となっていて少量ながれている。  
弘法霊水 / 高萩町  
黄金色のパゴタがある大高寺奥の院境内に、かつてから眼病に効果があると信じられている井戸があった。一度は涸れてしまったが、寺の信者がもう一度掘ったらまた湧き弘法井戸が復活した。奥の院はかつて大高寺(地元ではおおたかじと呼んでいる)があったところ。
ぷくぶく水 / 笠間市  
湿地のわきの池底から,泡とともに湧き出る鉱泉水で、隣接する宿では過熱して湯治に使用している。弘法伝説が残る清水で、風呂にはいると皮膚病・神経痛・胃の病がよく治るとされるほか、薬効のミネラルウォーターとしても重宝されている。  
 
埼玉県
弘法の井戸 / 深谷市本郷  
弘法の井戸保存会によって整備された。  
 
千葉県
羅漢の井 / 市川市国府台 
里見公園の一角にあり弘法大師のいわれのある湧水。
熊野の清水 / 長生郡長南町佐坪 
古い文献によると、弘法大師が全国行脚の途中にこの地に立ち寄り、水が無く農民が苦労しているのを見て、法力により水を出したという由緒ある湧水。 
巴川の塩井戸 / 館山市神余巴川  
老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。  
その昔、土地の女性が1人の旅僧に小豆粥をもてなしたところ、その粥に塩気がないのを不思議に感じて僧がたずねると、貧しくて塩が買えないと答えた。すると、僧は川に降り、手に持った錫杖を地面に突き刺し、祈祷したのち引き抜くと、たちまち塩辛い水が噴出したとされている。以来、そのおかげで塩を手に入れることができるようになったという。その後、その僧は弘法大師だということがわかったそうである。巴川の川のなかに、やや黄色をおびた塩水が湧出しているところがある。地元ではこれを弘法井戸とも、塩井戸とも呼んでいる。この種の伝説は、「弘法清水」「弘法井戸」などというが、全国各地で、その土地の人々の真心に大師が報いたという形式の物語が発達しており、かつて、それを説いてまわった修験者など、密教系の宗教者の存在があったとみられている。
芋井戸 / 南房総市白浜町青木  
老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。  
 
東京都
 
神奈川県
弘法の清水 / 秦野市大秦町 
弘法大師の言い伝えがある湧水で、どんな日照りのときも枯れることがないことから、古くから地元の生活水として利用されています。  
弘法の水 / 南足柄市  
神奈川県南足柄市の苅野というところには「弘法の水」と名づけられた湧水があり、今もこんこんと湧き出る流れの中には清流の象徴の一つであるサワガニもくらし、この土地の地主さんは「この湧き水があることを誇りに思っている」と言われているそうです。 
 
中部

 

山梨県
弘法水 / 高根町  
国道141号の旧道は清里の手前で大門ダムへのつづら折の道になる。そのカーブの奥手の斜面から湧出する水で、ダム湖のわきに静かに湧き出る。清水のあたりには祠や石仏が建立され信仰に育まれた水ということを感ずる。  
 
静岡県
 
長野県
弘法大師の硯水 / 大町市大町  
県道脇の湧水。
弘法の清水 / 北安曇郡小谷村栂池高原  
栂池高原の塩の道内に湧き出る水。誰でも立ち入ることができる。
龍興寺清水 / 長野県下高井郡木島平村  
龍興寺清水は、木島平村内山地区の公民館の横に湧き出る清水で、かつてこの地にあったお寺の名前から龍興寺清水と呼ばれるようになり、地域の住民により大切に守られてきました。  
龍興寺縁起によると、この寺は治承年間(1177-1181)に虎室と見竜によって創建された古刹で、正応2年に住職が座禅供養会を催したとき、一人の美女が来て「某にも戒法を授けたまえ。我は居多ケ浜人(現在の新潟県上越市直江津周辺)なり。」と名乗り戒行に加わりました。7日の戒行を終えて、美女の云うに、「某は居多明神なり。戒法を授けさせていただいたお礼に霊泉を献ずる。」と告げていずれかに立ち去りました。姿が消えるとこの地に冷水が湧き出したといいます。  
また別の言い伝えでは、その昔真言宗を開いた弘法大師が諸国巡業の際この地を訪れ、「水が欲しいいか、お湯が欲しいいか。」と杖を突きたてて村人に尋ねました。「水が欲しい。」と村人が答えると、数日後に清水が湧き出したといいます。  
大干ばつの時にも涸れることなく湧き続ける清水に村人は居多明神の霊徳を感じ、明治33年の夏、清水の脇に居多明神と弁財天の両尊を勧請して祠が作られました。  
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その昔、真言宗を開いたかの弘法大師が諸国巡業の際、この地を踏み「水が欲しいか、お湯が欲しいか」。そう、杖を突き立て村人にたずねた。「水が欲しい」。村人が答えてから数日後、清水が湧き出したと伝わる。以来、村人が大切に守ってきた弘法清水。後に龍興寺がこの場所に建立され、龍興寺清水と呼ぶようになったと言われるが、寺は現在はない。 
内山紙漉きの水 / 木島平村  
現在は廃寺となっている龍興寺ゆかりの水で、古くから紙漉きの水として利用されてきた。この地の清水は弘法大師が水と湯のどちらがいいか村人に訪ね,村人は水を選んだという。ちなみに湯を所望したのは野沢温泉だという。紙漉き体験ができる施設もある。  
 
新潟県
弘法清水 / 新潟市西蒲区竹野町地内  
弘法大師が立ち寄り,良民の快いほどこしを受けたお礼にと,手にしていた錫杖を土にさし,これを抜くと水が湧き出て窮状を救ったと伝えられる。
弘法の清水 / 長岡市鉢伏町  
柿小学校近く、鉢伏段丘の坂道途中にある。
弘法清水 / 上越市牧区棚広牧村 
新潟県の名水に選定されている。弘法大師が水のない地域を救うため、大木の根を杖で一突きして沸きでたという伝説の湧水。 
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上越市牧区棚広牧村は、新潟県西南部、長野県飯山市との境にある豪雪地帯である。豊かな水と粘土質 の土壌が、美味しいコシヒカリを育てている。「弘法清水」は、戸数が10戸に満たない小さな集落・小平地区の中ほどに、サワグル ミの大木の根元から静かに湧き出している清水である。古くから地元住民の間で語り継 がれ、親しまれ、愛飲されてきた。その昔、弘法大師が諸国行脚をした折に牧村に立ち寄った。一杯の水を所望されたのだ が、夏は水が涸れてしまう土地だったため、離れた棚広集落から清水を汲ん差し上げた 。大師は水に恵まれない人々に同情し、大木に杖を突き刺し、水を湧きださせたという 。これが弘法清水の由来と言い伝えられている。現在は一部を村営水道の水源として利用している。清水の恵みは、今でも村を潤してい る。  
伝承  
昔、一人の旅僧が小平村のある農家に立ち寄り、「旅の者ですが、喉が渇いて困っております。水を一杯恵んでください」と、丁寧に頼んだ。この村は水が悪く、夏になると飲用水は隣村から運んでいるのだっ た。しかし、この家の老婆は、「しばらくお待ちください」といって約半里もある棚平まで行き、きれいな水を汲んできて僧にすすめた。  
僧は大変喜び、「お礼に清水を出して進ぜよう」といって、持っていた錫杖で畑の隅を突くと、きれいな清水がこんこんと湧き出てきた。  
老婆はビックリし、思わず旅僧に向かって手を合わせた。この旅僧は、諸国を行脚して いた弘法大師だったのである。依頼この清水は何百年も涸れることあく湧き出ており、 村人たちは恩恵に浴している。この清水は「弘法清水」と呼ばれ、牧村の簡易水道第三 水源になっているが、昭和60年に「新潟の名水」に指定された。  
大師は、それから神谷という村へ行き、同じ様に一見の農家に入り、一杯の水を所望し た。するとこの家の主人は、面倒くさがり、「うちの井戸はにごっていて飲めないから、他の家へ行ってくれ」と、すげなく断った。大師は黙って立ち去ったが、あとで家の者が井戸の水をくみ上げ て見たら、それまで澄んでいた水がどろどろに濁り、飲むことができなくなっていた。 それからこの村の井戸は全部濁り、新しく掘っても出るのは泥水だけで、掘った家に祟りがあったという。 
どっこん水 / 胎内市乙ほか市内の乙地区、大出地区、地本地区 
複数箇所で自噴している湧水郡。左の公表地は採水用に整備した場所である。定期的な飲用検査はしていないが、多くの人が飲用に使用し、「非常においしい」との評判。弘法大師が独鈷杵(とっこしょう)という仏具を使い、「聖地に清水のわき出ずる」と唱えたところ自噴したとされることから、独鈷水(とっこすい)と呼ばれ、現在のどっこんすいの呼び名に変わったものである。
弘法の清水 / 巻町  
弘法大師が諸国巡錫の際竹野の集落に立ち寄りほどこしを受けたお礼にと 錫杖を土にさしたところ水が湧き出て窮状を救ったと伝えられる、名水にはつきものの伝説がある。万病に効く霊水として今も数多くの信者が訪れて、弘法信者に守られている。 
「柏崎の水」 / 新潟県柏崎市椎谷  
身隠しの滝(不動滝)  
椎谷観音堂の仁王門前から南東方向へ進み、さらに御前水(お茶水の井戸)へ向かう道を奥まで行くと、不動堂の建物の向こうに身隠しの滝(不動滝)が見える。また観音堂境内の案内板から竹林の山道を10分ほど下ることでも到着する。滝近くには、滝の修復工事時に地中から発見されたという不動尊などが祀られている。  
[伝説要旨]  
『弘法大師(空海)は唐の国に渡り、恵果和尚に師事した。そして「万里の海を越えて旅する時には必ず不動明王の力におすがりせよ。」との教えを受け、帰国の際には身と心を浄め一寸八分(5.5cm)の不動明王を彫刻し、それを船中の守本尊とした。無事帰国した弘法大師は諸国を行脚し、椎谷の地で不動明王を安置することになった。しかし、夜明けの霧が立ちこめるある朝、突然不動明王が滝の中に姿を消してしまった。この時から滝のことを身隠しの滝と呼ぶようになった。』(柏崎市伝説集)  
『信濃国の侍が武者修行のため椎谷を訪れたところ、高熱に襲われてしまった。椎谷の人々の看病により熱はひいたものの、歩くことも立つこともできなくなった。ある夜、不動明王が侍の夢枕に立ち、信心すれば病気を治すと言った。不思議に思った侍がこのことを村人に話すと、「弘法大師が滝のそばのお堂に泊まった」「身隠し滝の不動明王は弘法大師が唐の国から帰るとき守本尊としたものである」と説明された。そこで侍は昼夜問わず一心に祈願したところ、ついには以前の健康を取り戻すことができた。侍は武者修行をやめ髪をそって僧となり、滝の堂守りとして、生涯、不動明王につかえた。』(昔の話でありました 第5集)  
現在の滝は、滝の上方にある池(用水)から管を通し、沢の流れと合流させ、樋から流す人工の滝である。もちろん以前は自然滝であったが、長い年月の間に浸食や土砂崩れのためその姿が失われてしまった。その後平成7年に当時2本となっていた水の流れが1本の滝にまとめられ、現在の形に整備された。なお、樋口が崖のふちから少し離れているのは、滝の流れにより岩盤が侵食されるのを防ぐためでもある。  
滝の前にある不動堂では、2月15日にだんごまきが盛大に行われていた。また、大般若会も行われていたという。しかし、昭和14年の椎谷大火により親寺の西禅院が焼失。その後住職が不在になると荒廃が進み、昭和60年には建物が取り壊され、境内は藪と化していた。これを見かねた有志の呼びかけにより、地域の方や市外の椎谷出身者から広く寄付を募って、平成3年に不動堂が再建された。  
現在、毎年5月28日に華蔵院のご住職により法要が営まれている。かつて荒れ放題だった境内も、今では地域の老人クラブの方や近くで田んぼを作っている方が、水の恵みに感謝して掃除を行っている。つい先日には、この地区に生育する樹木を、椎谷の小学生たちが一本一本調べ、樹の名前を書いた札をつける、という活動が行われた。これらは、椎谷の人々の、地域への愛着の証左といえよう。  
 
愛知県
 
岐阜県
弘法の井戸広場 / 大垣市十六町  
平安時代の高僧、弘法大師が水に困っている村人のために、持っていた杖で大地を突き、清水が噴き出したという由来の残る井戸で、平成21年度に既設の自噴井戸を改修し、自噴広場を整備した。深さは16m。
水呑弘法の水 / 関市洞戸菅谷地内  
板取川下流の山腹から湧き出る湧水。弘法大師に由来する伝説を持つ。冬季は、積雪のため、アクセスが規制される。
船津大洞湧水群 / 飛騨市神岡町船津地内  
まちの正面にそびえる大洞山の山麓からこんこんと湧き出ている。夏冷たく冬暖かな水で地下水特有の水温(約11℃)を有し、昔から生活用水として親しまれ、地内各地に水屋が設置されています。言い伝えによれば、弘法大師が全国行脚の途中に、この地に立ち寄られ、後に湧き出したといわれる由緒ある水で、いつからとなく弘法様の水と崇められ、大切に保全管理されてきました。今はあまり見られませんが、11月の霜の降りる頃には漬物にする菜洗いが水屋で始まり、地域の交流の場となっていました。  
 
石川県
弘法の霊泉 / 七尾市  
道路脇の湧き水で、地域住民の生活水としても利用されており、自由に立ち入りできる。約1,200年前に、日照りが続き、地域住民が苦しんでいたところに、旅の途中に訪れた公法大師が掘っていかれたという言い伝えがある。  
弘法大師の自然霊水 / 小松市下大杉町地内  
動山(ゆるぎやま)の登山口にあるこの霊水は、登山者の喉を潤してくれる。  
林町の生水 / 小松市林町地内  
弘法大師により恵みを受けたと伝えられ、生水のほとりに不動尊が祀られ、眼病に効くと伝られている。  
弘法大師之霊水 / 小松市三谷町地内  
弘法大師が旅の途中に訪れ、杖で突いた所から湧き出たと伝えられている。  
弘法池の水 / 白山市釜清水地内  
「名水百選」の一つ。全国でも数例しかない「おう穴湧水」。弘法大師が岩に錫杖を突き刺した場所から湧水した言い伝えがある。  
釜清水地区のくぼみの岩穴の底から湧き出る清水で、その形状から「釜池」とも呼ばれ、白山市指定文化財でもある。昔、弘法大師が親切な老婆に感謝し、お返しに手にした錫杖を岩に突き刺したところ、水が湧き出たという。  
押の泉 / 宝達志水町紺屋町 
弘法大師が水を求めて地面を杖で押すと、水が湧いたいう伝説の湧き水。  
弘法の井 / 能登町行延  
行延地区の山の斜面下に建てられたお堂。その中で、こんこんと清らかな水がわき出ている。清水は「おいしい」と評判で、遠方からも訪れている。平安時代、弘法大師がこの地を訪れた際に喉が渇いたので民家に立ち寄った。家人が遠くまで水をくみに行くのを不憫に思い、大師が錫杖(しゃくじょう)で地面を突くと水がわき出したと伝わる。 
弘法池 / 石川県石川郡鳥越村字釜清水  
地名の由来は弘法大師にちなんだもので、「その昔、暑い夏の盛りに、弘法大師が行脚のためこの村に立ち寄られた。大師は庄屋の家で休まれ、その家の老婆に水を所望されたが、村には飲料水が近くになく、老婆は手取川まで険しい谷道を下りて汲んできて差し上げた。大師は老婆の親切を大変喜ばれそしていたく感動された。大師は持っていた錫杖を岩に突き刺しえぐると、不思議なことに穴の底から清水が湧き出してきた。村人たちは喜び、この水を弘法様の水として大切に守り、飲料水にした。  
弘法の水 / 田鶴浜町  
弘法大師の清水伝説が残る湧水。小さな祠の前にこんこんと清水が湧き出している。藩政時代末期に、加賀藩の前田斉泰公が「きく水」と名づけ、昭和初期にはこの水を仕込み水として造り酒屋が営まれていたという。
押しのいずみ / 津幡町  
「弘法の池」とも呼ばれ、押水町の町名の由来ともなっている伝説の湧水。国道471号線沿い(紺屋町)の案内板から約100m入ったところにあります。湧出量は少ない。立派な水屋が建てられている。  
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町内の紺屋町地区には町の名称の由来ともなった、押しの泉と呼ばれる湧水がある。古くから飲用等にも利用されてきた清澄な水である。この湧水の由来として、弘法大師がこの地を通った時に水を求めたところ、老婆が一杯の水を恵んでくれた。その礼として大師が杖で岩を押したところ美味な清水が湧き出たという、いわゆる弘法水伝説がある。押水町(おしみずまち)は、石川県羽咋郡にあった町である。町名は町内の紺屋町地区にある押しの泉に由来する。
弘法の水 / 白山市鳥越村  
白山から流れ出る手取川の中流、鳥越村釜清水地区にある弘法伝説がまつわる甌穴清水。湧出する岩のくぼみが釜のような形をしていることから釜池と呼ばれ、そこから地名である釜清水が生まれた。
神子清水 / 白山市鳥越村  
名水百選「弘法池の水」から山ひとつ越えた神子清水集落内に湧出する清冽な水。水量は「弘法の水」よりはるかに多い。地域の生活水として利用されているほか、不動を祭っている清水もある。 
弘法の水 / 石川県鹿島郡田鶴浜町字大津  
約1200年前日照りが続いた時の事、村人たちは飲料水もなく悪疫が流行し大変困っていた。そこへ訪れたみすぼらしい旅の姿のお坊さんが、一生懸命に泉を掘ってくれた。村人たちは、ほどなくその旅のお坊さんが弘法大師だとわかり、御恩報謝のお堂を建てた。  
白山のふもとに湧き出る名水  
石川県は全国的にみて、雨の多い地方ですが、降水の大部分は雪です。冬にシベリア方面から吹いてくる冷たい北風は、暖かい日本海の大量の水蒸気を白山を中心とした加賀山地に運び、山にぶち当て、大雪をもたらします。この雪はやがて清らかな水に変わり、郷土の豊かな自然を生み出す源(みなもと)となります。  
白山(石川)のふもとには、昔から言い伝えのある数多くの湧き水があります。1985年(昭和60年)、環境庁(のち環境省)による「名水百選」において、石川県からは、総持寺(曹洞宗)の裏山にある古和秀水(こわしゅうど、門前、鳳至)、赤蔵山の赤倉神社境内の湧水池である、御手洗池(みたらしいけ、田鶴浜、鹿島)と共に、白山から流れ出る手取川の中流にある、弘法池の水(こうぼういけのみず、鳥越、石川)が選ばれました。、  
そこで、白山のふもと、白山比盗_社(はくさんひめじんじゃ)境内の地下水脈から汲(く)みあげた水、延命長寿の白山霊水、また弘法池から山ひとつ越えた、阿手(あて)に行く途中の杉森(すぎのもり)集落の道路沿いに、裏山から湧き出している、地蔵さまの清水(杉森地蔵水とも)について、以下に紹介しました。これらの湧き水(白山の雪解け水!)は、おいしいと言うことで、多くの人々がポリ容器、ペットボトルなど持って訪れていますが、私も水汲みファンの一人です。  
弘法池(釜清水)  
弘法池の水は、白山の麓の手取川左岸黄門橋の西北にあり、深さ約2m、直径約30cmの岩穴の底から、1日に約30トンの清水が湧き出しています。あふれた湧き水は、すぐそばの用水に流れ込み、近くの手取川に流れ落ちています。  
その昔、空海(弘法大師)が鳥越村を訪れ、水を求めたところ、老婆が険しい谷道を下り、手取川の水をくんできて大師にさし出したところ、その姿にいたく感動した大師が、錫杖(しゃくじょう)を岩に突き刺したところ水が湧き出した、との言い伝えがあり、その名の由来となっています。全国的にも珍しい甌穴湧水(おうけつゆうすい)で、その形が釜に似ていることから、釜清水(かましみず)とも呼ばれています。   
弘法池の地域は、手取川の河床(かっては、新第三紀の流紋岩質溶岩と岩脈とからなる河床)が隆起して出来たと言われています。弘法大師の像のすぐうしろに小さな池があり、この釜清水をポンプで汲み上げると、池の水面が下がることから、水脈はつながっていると思います。湧き水は、シャクまたはポンプで汲み上げ、飲料水として使われ、釜清水地区の住民が管理しています。  
水質(1996)は、水温11.7℃、pH6.4、カルシウムイオン11.0ppm、マグネシウムイオン2.3ppm、ナトリウムイオン6.2ppm、カリウムイオン1.0ppm、重炭酸イオン33.1ppm、塩化物イオン7.7ppm、硫酸イオン10.4ppm、硝酸イオン6.7ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率で100万の中の1の割合にあたる非常に少ない量です。  
『 弘法池(釜池) 湧水おう穴 石川県石川郡鳥越村釜清水  
本清水は、白山に源を発する一級河川手取川の中流に位置し、岩穴の底から湧き出でる清水です。形が釜に似ていることから釜池とも呼ばれ、これに因んで釜清水という地名が生まれました。  
弘法池の名前のおこりは、古老の言い伝えによりますとその昔弘法大師がこの池を訪れ庄屋久兵衛の家でご休息なされ家の老婆に水を求められました。その頃の村は水に乏しく飲料水は手取川の水を汲みました。老婆は「少しお待ち下され」と言って、険しい崖道を降りて、水を汲んできました。大師様はその親切を喜ばれ「老婆難儀なことじゃ。わしが湧水を求めて進ぜよう」と、仰せになりお持ちになった錫杖を岩に突きさし、ぐりぐりとえぐって穴を作られました。すると不思議や、穴から勢いよく清冽な水が湧き出てきました。久兵衛の老婆を初め、村人はたいそう喜んでこの水を弘法様の水として村中が飲料水として使用するようになり以来この池を「弘法池」と呼ぶようになりました。・・・と伝えられています。  
弘法池は湧水おう穴(急流の河床の岩面に礫によって生じる穴)で全国でも数例しかないと言われ昭和45年8月村指定天然記念物となっています。大きさは、内径東西70糎、南北75糎、深さ最深部192糎、中央部172 糎で、湧水量は日に約30立方米で年中変わることがありません。  
また、清冽な水は、地元住民の湧水管理と共に評価され昭和六十年三月環境庁が行った全国名水百選に選ばれました。 昭和六十年 鳥越村 鳥越村教育委員会 』  
白山の麓の雪解け水  
弘法池の水質(2004年、ヘキサダイヤグラム解析図)は、近くの手取川や上流の手取ダムの流出河川水の水質(浅い地下水、河川水の水質に分類されるカルシウムイオンー重炭酸イオン型)とよく似ていて、つながりが深いと思いました。  
白山霊水(白山比盗_社)  
白山比盗_社(はくさんひめじんじゃ)の大神、菊理媛尊(くくりひめのみこと)は水の神様であり、また結びの神様です。本来は、金沢平野一帯の里人たちの農耕の神様です。生命の源は水であり、結びは和合の力であり、このご神徳に大きな期待を抱くと言う。  
白山比盗_社の境内では、地下水(白山の雪解け水!)をポンプで汲み上げた水を、延命長寿の白山霊水として一般市民に提供しています。長期間保存の場合は、生水ですから加熱してご利用下さい、との注意書きが吊(つる)してあります。  
地蔵さまの清(水杉森地蔵水・杉森集落)  
地蔵さまの清水は、白山のふもと、杉森(すぎのもり)集落の裏山から道路沿いに湧き出している水(白山の雪解け水!)で、その名は地蔵(不動)が祀(まつ)られていることに由来しています。水源は弘法池の裏山(岳峰、標高505.48m)の反対側にあり、岳峰のふもとから湧き出した水と思われます。湧き水は、絶えることなく、すぐ前の用水に流れ込んでいます。  
 
石川県からは、白山美川伏流水群(白山市)、遣水観音霊水(やりみずかんのんれいすい、能美市)、桜生水(さくらしょうず、小松市)、藤瀬の水(七尾市)の4ヶ所が選ばれました。この選定は、7月の北海道洞爺湖(ほっかいどうとうやこ)サミットで環境問題が主要課題となるため、環境省が水の大切さを再認識してもらおうと、新たに選んだものです。環境省の選定基準は、前回と同じ内容の評価で、水質にこだわらずに、清澄で、景観や保全活動がよければ、名水と判定したようです。  
水質については、厚生省(のち厚生労働省)の定めた、おいしい水の要件があります。それによりますと、水をおいしくする成分は、水に溶けているミネラル(カルシウムイオンとマグネシウムイオンの含有量など、硬度10〜100ppm、ppmは百万分率で100万の中の1の割合)や重炭酸イオン(水に溶け込んでいる二酸化炭素、3〜30ppm)など、一方、水の味を悪くする成分は、鉄分(0.002ppm以下がよい)、水の消毒に使った残留塩素(0.4ppm以下がよい)などです。また、pHは6.0〜7.5、水温は、10〜15℃’(体温より20〜25℃低い温度)が適温でした。  
白山のふもとの湧き水は、白山の残雪が、夏にも冷たい水を送り出し、おいしさを引き立てていると思います。湧き水は、一年中絶えることがなく、温度は15℃前後、水量は降水に多少の影響を受け、大雨の後は勢いよく出ていました。  
 
富山県
中ノ寺の霊水 / 富山市上滝  
室町時代より、不老長寿、皮膚病にきく弘法大師の水として地元の人々に親しまれている。「とやまの名水」に選定されている。  
弘法の清水 / 小矢部市興法寺  
およそ1200年前、飲み水の不足に苦しんでいた当地を通りかかった弘法大師が、錫杖で地面をついて清水を湧き出させたと伝えられている。  
弘法大師の清水 / 上市町護摩堂  
とやまの名水に選ばれている。水の持ち帰りは自由。弘法大師ゆかりの清水で、飲むと頭がよくなるといわれています。 
弘法大師の清水 / 富山県中新川郡上市町護摩堂  
上市町の中心から北東へ8km、東福寺野公園の奥〈おく〉、護摩堂地区は富山湾と富山平野が一望できる高台にある。地名の由来は、弘法大師が村民の幸せを祈って護摩をたいたことによるものとされている。この高台に湧く清水は、地元の人びとに「頭が良くなる弘法清水〈こうぼうしみず〉」といわれ、現在でも、大切に保存されている。  
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富山の名水に選定されている弘法大師ゆかりの清水で、地元の人々からは飲むと頭がよくなると伝えられています。地名の由来は、その昔、諸国行脚の際にこの地を訪れた弘法大師が村民の幸せを祈って護摩をたいたことによるものとされています。細い山道をひらすら進むと護摩堂が見えてきます。途中見晴らしの良いところからは、富山湾と富山平野が一望できるので、ぜひ車を止めて眺めてみてください。護摩堂は高台にあり、そこから湧き出る清水は昔も今も人々に親しまれています。 
弘法大師の霊水所 / 富山県中新川郡上市町柿沢 
弥陀ケ原の弘法清水 / 富山県  
むかしむかし、弘法大師(こうぼうたいし)と言うお坊さんが、立山(富山県の南東部)にこもって修行をしていた時の事です。その当時の弥陀ヶ原(みだがはら)は、行けども行けども一滴のわき水もありませんでした。その為に立山に登る人たちは、苦しい思いをしていました。  
これを知った弘法大師が、「水は、生きていく上でもっとも大切な物。それがないとは、不便な事じゃ」と、持っていた錫杖(しゃくじょう、修行する人が持ち歩くつえ)で軽く地面を叩いたのです。すると錫杖は深く地面に突き刺さり、弘法大師が錫杖を引き抜くと、そこから水がこんこんとわき出てきたのです。  
人々はこのわき水を、弘法清水(こうぼうしみず)と名付けました。今でも弘法清水はわき出ており、この弘法清水でわかしたお茶を飲むと元気が出ると言われています。 
弘法の清水 / 神明町西  
弘法の清水(神明町西)弘法大師ゆかりの清水。家と家との小路に湧き出していて風情のある清水です。土管の中に湧いていて、昔ながらの清水の姿を残しています。 
富山 清水めぐり / 黒部市生地  
北アルプスの山々から流れ下る黒部川の水は地下水となり、生地のあちこちで清らかな湧き水となって地表に出てきます。この湧水のことを「清水(しょうず)」と呼び、生地の人々は昔から飲み水、炊事、洗濯などに利用してきました。2007年の富山県の調査によると、黒部市で約750か所の自噴井戸が確認され、いたるところで水が湧いているといっても過言ではありません。生地地区には全部で20か所の湧水スポットがあり、湧出量や水質、味わいがそれぞれに異なります。水温は1年を通じてほぼ11℃前後で、適度なミネラルを含んだ「おいしい水」として親しまれています。  
みどり町の清水 / 背戸川のほとりにあり、緑色のとんがり屋根が目印。生地地区で最も西に位置します。水のきらめきを思わせる青いステンドグラスもきれいです。  
前名寺の清水 / お寺の裏に回ると小さな池があり、そこからこんこんと湧き出ている清水です。生地で最も古い清水の一つで、地中に打ち込んだだけの1.5mの鉄管から、清水が湧き出しています。まろやかな味がします。新たに池のまわりを散策することができるようになりました。  
田村家の清水(泉水) / 田村家は、江戸時代に境(朝日町)から西岩瀬(富山市)までの漁村を仕切る十村役としてその名を馳せた旧家。邸内の庭園には見事な池があり、清水が湧き出しています。その湧水の美しさは生地随一と言われています。  
中島の清水 / ほかの湧水スポットに比べると、屋根もなく、コンクリートで囲っただけの簡素なつくり。水が湧き出ている様子がよくわかります。生地の古い清水の姿を今に伝えています。  
神明町の共同洗い場 / 背戸川にかかる橋の横にあり、近くに住む人たちが洗い物をしたり、飲み物を冷やしたりする場所。洗い場は階段状に仕切られていて、用途によって使い分けられています。ふれあいの場として大切に守られ、清水が生活になくてはならないものであることがよくわかります。  
神田(しんでん)の清水 〔井戸深さ80m〕 / 名水街道ぞいにあり、とうとうと湧き出す様子が美しい清水です。洗い場の底には小さな石が敷き詰められています。「神明町の共同洗い場」は、この「神田の清水」の昔の面影をしのび、再現したもの。  
弘法の清水(神明町西) / 昔、弘法大師さまが生地にいらっしゃったとき、錫杖で突かれたところから清水が湧き出たという言い伝えから名付けられました。土管の中から湧く水は清冽で、昔ながらの素朴な風情を残しています。  
弘法の清水(神明町東) / 昔、弘法大師さまが生地にいらっしゃったとき、錫杖で突かれたところから清水が湧き出たという言い伝えから名付けられました。名水街道から、細い路地を入った先にあります。  
殿様清水 〔井戸深さ75m〕 / 前田藩藩主が、江戸参勤の帰り道、生地村を通ったときに飲まれたという湧き水。ことのほかおいしいと賞賛され、以後「殿様清水」と呼ばれるようになりました。  
絹の清水 〔井戸深さ75m〕 / 江戸時代、隣にあった豆腐屋さんのとうふが、絹のように滑らかだったのでこの名が付きました。ここの湧き水を使って作るとうふは、光沢ときめの細かさで絶品と評判だったそうです。  
岩瀬家の清水 / 皇國晴酒造の敷地内にあります。深さ150mの井戸から湧く豊富な地下水は、今も昔も変わらぬまろやかさ。仕込みはもちろん、洗浄や冷却にも利用され、酒造りになくてはならないものです。  
弘法の清水(四十物町) 〔井戸深さ83m〕 / 昔、弘法大師さまが生地にいらっしゃったとき、錫杖で突かれたところから清水が湧き出たという言い伝えから名付けられました。湧出量は清水庵の清水に次いで生地で2番目の多さ(1分間に500リットル)。  
清水庵(しみずあん)の清水(共同洗い場) / 元禄2年の夏、『奥の細道』で有名な松尾芭蕉翁が、越中巡遊の途中、当道場の庭にこんこんと湧き出る清らかな水を見て、「清水庵」と名付けられたという言い伝えがあります。湧出量は生地で最も多く、1分間に600リットル。  
源兵サの清水 / 源兵サの清水は、通り沿いにある清水では一番東側に位置します。道路から背戸川の川面近くまで下りたところに湧き出しています。隣の肉屋さんの屋号(源兵サ)からその名がつきました。  
月見嶋(つきみじま)の清水 / 新治神社の境内にある月見嶋の池に湧き出す清水。かつて生地が新治村と呼ばれていたころ(12世紀)、付近一帯には「越之湖」という大きな湖が広がっていました。月見嶋の池は、その名残と言われています。  
生地温泉の清水 / その昔、上杉謙信が病のため歩けなくなったとき、新治神社の神のお告げにより、この地に湧く霊泉で治癒したと言われています。生地温泉たなかやの敷地内では数か所で湧水が見られ、分家筋にあたる詩人田中冬二の詩碑も建てられています。  
名水公園の清水 〔井戸深さ70m〕 / 黒部川扇状地湧水群が「全国名水百選」(1985)に選ばれたことを記念してつくられた公園。公園には山をつくり、そこからあふれ出る湧水が黒部川を流れ下る様子をあらわしています。  
魚の駅の清水 / 魚の駅「生地」の駐車場内にある清水。日展作家、浦山一雄氏作のクルーザー像のほか、黒部の名水キャラクター「ウォー太郎」の石像も設置されています。できたて館・とれたて館をはさんで海側には、足湯ならぬ「足清水」もあります。  
昆布屋の清水 / 四十物(あいもの)昆布の店先に湧く清水。共同洗い場を模した形で、階段状になっています。 
 
福井県
越前町 弘法大師の水 / 丹生郡越前町平等  
昭和62年高野山より高僧をお迎えして再建されたお堂の脇からの湧水。 
 
近畿

 

三重県
 
奈良県
阿知賀瀬の上湧水 / 下市町  
吉野川の河川段丘の集落に湧き出る清水で、泉の真ん中に弘法大師?の石仏が建立されている。水質も良く、地元住民が熱心に清掃保全を行っている。 
薬井の井戸 / 奈良県北葛城郡河合町  
石の井筒を施した掘り抜き井戸。むかし、この村に行脚でやってきた弘法大師が掘ったと伝えられている井戸で、眼の病気にもよく効く薬水とも言われてきた言い伝えがあります。  
むかし、弘法大師がこの地に来られたとき、眼を患う人に会い、気の毒に思われた大師は「ここを掘り湧き出す水で眼を洗いなさい」と教えられたので素直に教えられた所を掘ると水がどんどん湧き出し眼を患う人が近村からこの水をいただきにきたという。水は今も湧き出ており、井戸の片隅には「薬井水」と刻んだ古い石が立ててある。 
弘法大師の霊泉 / 京都府綴喜郡宇治田原町高尾  
こんなお話が伝わっています。  
その昔、高尾(こうの)のある農家に立ち寄り水を所望した僧がありました。  
留守番の老婆は快く返事をしましたが、なかなか水を運んで来てくれませんので、旅僧は縁側でうとうとと寝てしまいました。  
老婆はずいぶんたってから水を運んで勧めましたが、僧は老婆に「この村の水場はどこですか」と尋ねたので、老婆は「この下の田原川で汲んできますのじゃ。  
ご覧の通り高い所で、井戸が無く谷川も無いので。」と言うと、僧は老婆の親切に深く感激し「ありがとう、ありがとう」と言いながら水を飲みました。  
そして旅僧は弘法大師で村人に水の出るところを教えたと云われる井戸。  
実際に現地に行ってみると判りますが、こんな山の高い場所なのに湧水が出ることが不思議です。  
この水源は村の人にとっては非常に大切な命を繋ぐ井戸だったのが良く判ります。  
村の人たちは弘法大師の霊泉として守っています。  
今も、たえずこんこんと冷たい清水が湧き出ており、地域の人々の大切な場所です。  
 
和歌山県
大師の井戸 / 伊都郡かつらぎ町大字平  
槇尾山施福寺で弘法大師が仏法を広める為に旅をしていたところ、村人に飲み水を求めた時、村で暮らしの水に困っていることを知り、杖を岩に三度突き立てたところ、湧水が出たという伝説がある。  
冷水井戸 / 伊都郡かつらぎ町大字高田  
JR和歌山線西笠田駅から北西に5分ほど歩くと、住宅街の一角に隠れるように冷水(ひやみず)が湧いている。弘法大師が掘ったという伝説の湧水。  
清水井戸 / 伊都郡かつらぎ町大字短野  
葛城山系燈明岳の麓に位置し、弘法大師が掘ったという伝説の湧水で、今でも枯れることはない。  
弘法井戸 / 有田川町徳田  
昔は水田、現在はみかん畑や宅地となっているが、その一段下がったところで水が湧いている。弘法大師の発見とされている。 
お大師さんの井戸 / 粉河町  
この井戸のある一帯は昔は杉林だったという。この井戸も弘法伝説が伝わる。日頃は井戸に蓋がしてあり、井戸にはきれいな水が湛えられている。8月7日には地域住民によつて「井戸替え」がされるという。  
花野(けや)の弘法井戸 / 打田町  
大阪府と接する打田町の、のどかな田園に湧く弘法伝説が伝わる浅井戸で、「出水」ともいわれている。今では農業用に使われている。  
馮夷の滝 / 和歌山市  
紀伊風土記の丘に近い大日堂の境内にあり、石垣から湧出する小さな滝で、かつては滝行の信仰があったと思われる。この水は弘法大師ゆかりの水として霊験あらたかという。大日堂は耳にご利益があるという。  
 
滋賀県
弘法池 / 甲良町長寺  
むかし、弘法さんが食事の後にのどの渇きを潤すためにご飯の箸でこの地を掘って湧き出たといわれる山の中の小さな泉。 
大根洗いの泉 / 滋賀県東近江市清水町  
滋賀県東近江市清水町にある清水神社の裏には、以前は清水川に注ぐ湧水が出ていた。今では水が湧かなくなってしまい、人口の川になっているが、この湧水は夏には手が切れるように冷たく、冬には温泉のように暖かかった。  
昔、初冬の頃、瑞々しい大きな大根を漬物にしようと、老婆が清水川で洗っていた。老婆の側には大根が山のように積まれてあった。そこへ一人の旅の僧が通り掛った。その容姿は、草鞋の緒も擦り切れそうで、黒染めの衣もボロボロであった。僧は「大根を一本くれないか」と、老婆に頼んだ。老婆は僧のみすぼらしい姿を見て、「この大根は不味くて、食べられない」と断った。「では、何故食べられない大根を洗っているのですか?」と言って、僧は立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。  
慌てて、老婆は大根を1本持って、僧の後を追った。そして、「どうぞ、貰ってください」と、僧に大根を差し出した。「今後、困っている人には善行しなさい」と、僧は老婆を諭したのであった。旅の僧は弘法大師だった。  
一年後のこと、老婆が清水川で大根を洗っていた。すると、背後からみすぼらしい身形の女が現れた。「3日前から何も食べていません。大根を1本頂けませんか?」と、女老婆に頼んだ。「この大根は不味くて、食べられない」と断り、老婆はプイッと横を向いた。女は何も言わずに、その場をそっと立ち去った。再び、老婆が大根を洗おうとすると、また湧水はピタッと止まり、川はみるみる干上がってしまった。ビックリした老婆は、昨年、弘法さまに諭されたことを思い 出した。「とんでもないことをしてしまった」と、大根を1本持って、女の後を追ったが、女の姿はその辺りには見当たらなかった。  
その晩のこと、老婆の夢枕に弘法さまが現れ、「困っている人には善行しなさいと教えたはずです。二度と、このことを忘れないように、大根を洗う時期には湧水を止めることにします」と告げた。それ以後、初冬の頃になると、湧水はピタッと止まり、清水川の水が枯れるようになったという。 
弘法の井戸 / 滋賀県甲賀市  
多羅尾からおとぎ峠へのぼる道ばたに、「弘法の井戸」とよばれていろ井戸があります。むかし、弘法大師というえらいお坊さんが峠のあたりに立派な寺を建てようと村のあちこちを歩いておられました。お坊さんは、とてものどがかわいたので水が飲みたくなりました。  
ところが、このころずっとつづいた日でりで水がありませんでした。  
どこの家へたのんでも水を飲ませてくれません。しかたなくお坊さんは、おとぎ峠へにさしかかる道ばたに大きな岩をひっくりかえして穴をほりました。  
すると、穴からこんこんと水がわき出てくるではありませんか。お坊さんはやっとのことで水を飲み、からからにかわいたのどをうるおすことができました。  
お坊さんはだれでもいつでも飲みたい時に水が飲めるように、石をきずいて井戸を作りました。この井戸は、長い日でりがつづいて村じゅうの水がなくなっても、いつもこんこんと水がわき出てかれることはありませんでした。村の人や村の人たちから、「弘法さんの井戸」と名づけられて、峠を通る人たちののどをうるおし、かんしゃされたということです。  
弘法の井戸  
滋賀県信楽町と三重県上野市の県境に近い多羅尾のタカラカントリーの入り口に弘法の井戸がありました。僧空海(弘法大師)は唐から帰って、真言宗を開きました。(806)が、その後空海は、真言密教の聖地を求めて諸国を巡礼の折、多羅尾の里にこられ、くまなく歩かれた時に、旅人のためにここに井戸を掘られたと伝えられています。その後、誰がいうことなしに村人たちは、この井戸を弘法の井戸と呼ぶようになりました。なお、この井戸は、どんな日照りでも水は枯れたことがないと言われています。  
 
京都府
弘法の井戸 / 綴喜郡宇治田原町高尾  
弘法大師の指示した場所を掘って湧出した井戸。 
独鈷水 / 長岡京市  
大同元年(806)に開祖された楊谷寺には弘法大師の法力によって湧き出したという「独鈷水」があり、眼病に霊験あらたかと伝えられている。水社に蓄えられた水は参拝者に寸志により振舞われている。 
弘法大師杖の水 / 京都府京都市伏見区小栗栖中山田町  
桃山丘陵東南部の山裾にある細い山道沿いの湧水。伏見区東部、桃山丘陵の東側、山科盆地の南部といっても良いでしょう。桃山丘陵東南部の山裾に「弘法大師杖の水」と呼ばれる湧水があります。古都醍醐の湧水。そばには「杖の水ころころハウス」が建てられ、周辺の豊かな自然を生かした活動が行われています。 
京都府の名水  
独鈷水(どっこすい) 京都市東山区泉涌寺山内町33 来迎院(泉涌寺塔頭、らいごういん、せんにゅうじたっちゅう) 弘法大師伝説 弘法大師獨鈷水 長い柄杓で汲む。大石良雄は茶席含翆軒を設ける。  
五智水(ごちすい) 京都市東山区泉涌寺山内 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)弘法大師伝説  
五智の井 京都市東山区泉涌寺山内 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)弘法大師伝説  
弘法加持水 京都市右京区御室大内33 仁和寺  
弘法大師閼伽井 京都市右京区嵯峨大沢町4 大覚寺 真言宗大覚寺派大本山 名古曽瀧址 大沢池  
弘法大師杖の水 京都市伏見区小栗栖石川町 小栗栖(おぐるす)は明智光秀が最期を遂げた所縁の地  
醍醐三名水 赤間井 醍醐水 弘法独鈷水  
弘法独鈷水(こうぼうどっこすい) 京都市伏見区醍醐上ノ山町 弘法大師独鈷水  
弁天水 京都市西京区大枝沓掛町 弘法大師伝説  
独鈷水(弘法大師獨鈷水) 長岡京市浄土谷2 柳谷観音、楊谷寺(ようこくじ) 眼病平癒の霊水 眼力稲荷  
清浄水 長岡京市今里3丁目14-7 乙訓寺(おとくにでら) 弘法大師空海と伝教大師最澄 牡丹の寺  
お供水さん 宇治市 供水峠 弘法大師杖突伝説  
弘法大師の霊泉 綴喜郡宇治田原町高尾河原 大峰山中腹 高尾地区(こうの)  
柏の井 木津川市加茂町大字井平尾小字岸ノ上 弘法大師霊場「菜切石」 
弘法大師の霊泉 / 京都府綴喜郡宇治田原町高尾  
こんなお話が伝わっています。  
その昔、高尾(こうの)のある農家に立ち寄り水を所望した僧がありました。  
留守番の老婆は快く返事をしましたが、なかなか水を運んで来てくれませんので、旅僧は縁側でうとうとと寝てしまいました。  
老婆はずいぶんたってから水を運んで勧めましたが、僧は老婆に「この村の水場はどこですか」と尋ねたので、老婆は「この下の田原川で汲んできますのじゃ。  
ご覧の通り高い所で、井戸が無く谷川も無いので。」と言うと、僧は老婆の親切に深く感激し「ありがとう、ありがとう」と言いながら水を飲みました。  
そして旅僧は弘法大師で村人に水の出るところを教えたと云われる井戸。  
実際に現地に行ってみると判りますが、こんな山の高い場所なのに湧水が出ることが不思議です。  
この水源は村の人にとっては非常に大切な命を繋ぐ井戸だったのが良く判ります。  
村の人たちは弘法大師の霊泉として守っています。  
今も、たえずこんこんと冷たい清水が湧き出ており、地域の人々の大切な場所です。  
 
大阪府
弘法の水 / 東大阪市東豊浦町  
照涌大井戸 / 四條畷市下田原  
弘法大師にお茶を差し上げたお礼に教えてもらった水源という伝説がある。 
清水庵の弘法大師の清水 / 阪南市  
関西空港を眺める海岸近くの清水庵に湧き出る水。和泉葛城山系の伏流水で 弘法大師ゆかりの水ということで、名水百選の候補にもなった。境内に洗い場も残る。 
国松の弘法井戸 / 寝屋川市  
国松地区の丘陵際に覆い屋が設けられ「弘法井戸」と札のかかった井戸があります。江戸時代に出版された『河内名所図会』に、この地域の3か所の名水(井戸)が紹介されていますが、「二ツ井は国松村にあり」と記されており、二ツ井がこの井戸であったと考えられています。  
田井の弘法井戸 / 寝屋川市  
南前川の堤防の下に、立派な覆い屋が設けられた井戸があります。この井戸は、旅の僧侶が杖を突き立てたところから湧き出した水が起源と伝えられています。この僧侶が「弘法大師(空海)」に違いないと信じて、この井戸が「弘法井戸」と呼ばれるようになったそうです。  
弘法大師の井戸 / 大阪府富田林市清水町 
おおそ柿の水 / 大阪府河内長野市  
大阪府の南東部にある南河内地域は、大阪の中でも古墳群、旧街道、由緒ある寺社など歴史的文化遺産が広く分布し、山地、河川、ため池など緑豊かな自然環境に恵まれた地域です。  
応神陵をはじめとする古市古墳群など、古代の南河内の反映を示す遺跡が数多く存在し、古市大溝や狭山池などの大土木工事も行われ、まさに古代史上、極めて重要な地域でした。  
また自然環境にも恵まれ、大阪府内最高地点である金剛山に源を発する多くの湧水が存在し、大阪府内をはじめ遠く府外からも湧水を求めて車の列ができるほどです。  
その中の一つ、千早赤坂村小深の里にあるおおそ柿の水は特に有名です。この付近には弘法大師の弟子実恵によって創立された観心寺があります。観心寺は南北朝時代には楠木正成の学問所であり、この時代の遺物が多く残っています。  
また南河内には高野山に通じる高野街道がとおり、弘法大師がこの地を訪れてから水が湧き出したなど、師にまつわる実に多くの伝説が今に伝えられています。  
この、おおそ柿の水も、大昔から水脈は変わることなく、国道310号が整備され、コンクリートの壁面に変わった今でも、こんこんときれいな水が湧き出ています。昔の伝説が今に伝わり、大切に守られてきました。水不足のときにも、小深地区の命の水となり、涸れることなく湧き続けています。
弘法の水 / 東大阪市西畑町  
暗峠(くらがりとうげ) 笠塔婆 国道308号線沿い。道幅が狭いので徒歩見学するのがいいと思います。日本の道百選  
水壷(弘法水、水呑地蔵の水) / 八尾市大字神立  
水呑地蔵院(みずのみじぞういん)水呑地蔵、水呑地蔵尊ともいう。弘法大師伝説。  
高安山 / 絶滅危惧種に指定されている日本固有の淡水魚「ニッポンバラタナゴ」が生息し、環境保全活動が盛んに行われています。また、春には桜を愛でながらハイキングができ、「水呑地蔵」では弘法大師が湧かせたという霊水を汲むことができます。また、高安山の展望台は、大阪平野が一望できる絶景スポットです。夜はまばゆくきらめく夜景を見ることができます。  
弘法観念水(弘法井戸) / 大阪府寝屋川市打上(うちあげ)  
湯屋が谷井戸(やがたんの井戸) / 大阪府寝屋川市郡元町 
湯屋が谷弘法井戸ともいう  
田井の弘法井戸 / 寝屋川市緑町40  
国松の弘法井戸 / 国松町11番8号  
清浄泉(せいじょうせん) / 柏原市太平寺 
石神社(いわじんじゃ) 「浄井戸(じょういど)」 聖武天皇、孝謙天皇、弥徳天皇等が行幸。弘法大師伝説が残ることから「大師の水」ともいう。大阪府文化財指定。清浄泉保存会、太平寺地区委員会が保全活動。  
照涌大井戸(てるわきおおいど) / 四條畷市下田原 
弘法大師伝説。照涌の共同井戸、「照れば照るほどよく涌く井戸」という意味で、照涌井戸と呼ぶようになった。水供養(8月下旬)。照涌大井戸保存会。  
雨井戸(雨乞井戸) / 富田林市大字龍泉 
龍泉寺 弘法大師伝説  
弘法大師恵みの井戸 / 富田林市桜井町  
清水井戸 河内長野市 / 天見川と国道371号線(旧高野街道)沿い  
弘法大師伝説  
おおそ柿の水 / 河内長野市千早赤坂村 小深の里 弘法大師伝説  
大阪府の南東部にある南河内地域は、大阪の中でも古墳群、旧街道、由緒ある寺社など歴史的文化遺産が広く分布し、山地、河川、ため池など緑豊かな自然環境に恵まれた地域です。応神陵をはじめとする古市古墳群など、古代の南河内の反映を示す遺跡が数多く存在し、古市大溝や狭山池などの大土木工事も行われ、まさに古代史上、極めて重要な地域でした。また自然環境にも恵まれ、大阪府内最高地点である金剛山に源を発する多くの湧水が存在し、大阪府内をはじめ遠く府外からも湧水を求めて車の列ができるほどです。  
その中の一つ、千早赤坂村小深の里にあるおおそ柿の水は特に有名です。この付近には弘法大師の弟子実恵によって創立された観心寺があります。観心寺は南北朝時代には楠木正成の学問所であり、この時代の遺物が多く残っています。また南河内には高野山に通じる高野街道がとおり、弘法大師がこの地を訪れてから水が湧き出したなど、師にまつわる実に多くの伝説が今に伝えられています。  
清水井戸 / 河内長野市清水町  
左近城址の下、国道371号線(旧高野街道)沿い 弘法大師伝説  
高見村惣井戸 / 松原市高見の里3丁目  
弘法大師伝説 高見村の信田氏が村人の共同井戸として造った井戸だといわれている。  
弘法清水(お大師井戸) / 杓井戸伝説 泉佐野市鶴原東町  
清水庵(しみずあん) / 阪南市尾崎町  
立看板に弘法大師の水とある。(清水大師/弘法の泉/弘法大師の清水) 弘法大師伝説  
 
兵庫県
十戸の湧水 / 日高町  
スキー場で知られる神鍋の山麓、十戸地区に湧出する水で、その上流の稲葉川の伏流水と思われる。民家の軒先の清水には、それぞれ石段と洗い場が設けられている。旅館「大清水」の前の清水は「弘法水」といわれている。  
五独水 / 神戸市須磨区  
須磨寺の山門近くに設けられた水場で、裏山の湧水を引いた弘法大師ゆかりの水という。四国山地で産出された巨石がシンボライズされている。 
弘法の井戸・妙法寺 / 神戸市須磨区妙法寺谷野  
飲み水に困っていた地に、弘法大師が杖をつくと水が湧き出たという伝説が残っており、現在も土地の人々から大切にされている。  
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妙法寺の「弘法の井戸」なのですが、広さはだいだい縦3m×横1m。見た目は透明でおいしそうに見えますが…。「水を飲れる方は沸かして飲んでください」との注意書きがありますね。ここは素直に言うことを聞きましょう。説明板に弘法大師の言い伝えが書いてあります。昔水不足で困っていた妙法寺村に弘法大師がやってきた。村人が水がなくて困っていることを聞いた弘法大師が持っていた杖で地面をトントンと叩くと、きれいな水がコンコンと湧き出てきた。簡単にいうとこのようなものです。こういう伝説が古くから言い伝えられてきたことからも、いかに地元の人々に大切にされてきたのかがわかるような気がします。  
弘法大師の清水 / 神戸市西区平野町中津  
弘法大師がツエで山すそを突くとこんこんと清水が湧き出したと言う伝説がある。  
弘法大師の霊水 / 明石市二見町  
海岸に近く海水のため、飲み水に困っていた地に、弘法大師が錫杖で地を突くと、清水が湧いたという。水掛地蔵尊が祀られ、現在も土地の人々から信仰を受けている。 
弘法大師の水 / 兵庫県篠山市  
石井の清水・弘法大師の井戸 / 兵庫県加古川市西神吉町  
独鈷の滝 (どっこのたき) / 兵庫県丹波市氷上町  
弘法の井戸 / 神戸市須磨区妙法寺字谷野
弘法大師長命の水(弘法大師の霊水) / 神戸市中央区再度山  
大竜寺(大龍寺)奥院 大師にまつわる大師梵字岩、亀の石。和気清麻呂が伽藍を建立。  
五鈷水と弘法岩 / 神戸市須磨区須磨寺町  
須磨寺境内 2000年(平成12年)に作られた須磨寺の手水処。  
弘法の井戸 / 神戸市須磨区、妙法寺谷野  
弘法大師の清水 / 神戸市西区平野町中津  
弘法大師の霊泉 / 明石市二見町  
石井の清水 / 加古川市西神吉町中西  
播州名所巡覧絵図に記されている。「弘法大師の井戸」「石井さん」と呼ばれる。奈良時代前期にあった寺の跡、中西廃寺の塔の路盤が井戸枠に使用されている。  
狸穴の水(狸穴命水) / 丹波市市島町上鴨阪(かみかもさか)  
五台山登山口 弘法大師伝説が残る別名「弘法大師の水」。狸穴の水(源水)から、弘法大師像のある水汲み場に引かれている。前山水道組合が整備。  
独鈷清水 / 宝塚市名塩(旧有馬郡名塩村)  
豊岡の名水10選 / 二見の湧水 独鈷水 延命水 玉橋飲泉場 地蔵さんの水 十戸の湧水 蘇武の天然水 奥山川の水 福寿の水 志水柿の水  
天瀧 / 大屋町筏区  
落差九八m 天瀧は、県下最高峰の氷ノ山を源流に落差九八M(平成二年実測)と県一を誇る名瀑で、その名のとおり天から降るように流れ落ちる雄大さから、平成二年に「日本の滝百選」に選定されております。この天瀧は、古く「大和長谷寺縁起」や「役の行者本紀」にも書かれ、また弘法大師が仏運興隆の地を求めて全国行脚した際、滝の霊気に打たれて「この地こそ仏陀の我に恵み給いし聖地」と、谷の数を数えたところ、千に一つ足らなかったため、居を高野山に求めた−との伝説が残っています。また登山道から渓谷沿いの遊歩道は、原生林に囲まれ「森林浴の森日本百選」にも選定されています。  
 
中国

 

岡山県
黒井の井戸 / 瀬戸内市(旧邑久町)  
岡山ブルーライン内、黒井山グリーンパークの向い側の黒井山等覚寺にある井戸。古今枯渇したことのない井戸で、弘法大師が墨染めの布を洗われたと伝えられ、岡山県の名水にも指定されていて、まろやかな美味しい水です。  
法然上人・産湯の井戸 / 久米南町  
浄土宗開祖、法然上人生誕地として知られる、久米南町の誕生寺にある。弘法大師が全国行脚の際、錫杖をもって地をさされたところ浄水が湧き出たそうで、後に法然上人御誕生の産湯の井戸となった。今日でもこの聖水は「万病の霊水」として信仰されている。まろやかな飲み心地ですが、枯葉等が浮いてるんで沸かして飲んで下さい。  
 
広島県
弘法の一杯水 / 庄原市東城町戸宇の谷  
カルスト台地である帝釈台の一角、宇山野呂の台地の北東斜面山麓に湧く。脇に弘法大師を祭ったお堂がある。湧き出し口のすぐ奥に小空洞があり、地下水が一定量溜まると、サイフォンの原理によって流出すると考えられているが、1972年の豪雨以後、間歇性が見られなくなり今に至っている。  
戦前のいくつかの研究から、降雨によって変化するが、数10分の周期で毎秒約10ℓの地下水が突然に湧き出し、およそ5分続いたことが知られている。湧出の前には遠雷のような音がし、湧出終了直前にはボコボコいう水音があったようである。水温約12℃。  
1825年に記された「芸藩通志」や1860年頃の「郡務拾聚録」には、少ない時で日に2〜3回、多い時で5〜6回湧くこと、享保から文政年間にかけて2度長期に間歇性が無くなったことが記されている。  
最近の研究では、江戸時代末と昭和初期の著しい周期性の違いや間歇性の中断は、サイフォン構造に加えて貯留槽の底部に小さな排水管をもつ水理構造があること、ならびに両時代の降水量の違いによるものと考えられている。また、現在の間歇性の消失も江戸時代と同じく、いずれ復元する可能性があるといわれる。  
なお間歇泉(狭義)は熱水あるいはガスを多量に含んだ温水が突沸的に湧く型のものを、間歇冷泉はサイフォン構造によって地下水が湧くものを呼ぶもので、両者は湧出のメカニズムがまったく異なる。間歇冷泉は他に国内に4ヶ所(福井県越前市の時水、岡山県新見市の草間の間歇冷泉(潮滝)、福岡県北九州市の満干の潮、熊本県球磨村の息の水)がある。 
弘法水 / 福山市  
俄山(にわきやま)山中の弘法大師を奉る境内の井戸から湧き出る鉱泉水で、弘法が杖で岩を打ち湧き出させたという伝説が残る霊水である。新聞などで「おいしい水」と紹介されたこともあって水場には行列が出来るほどの人気である。   
 
鳥取県
 
島根県
 
山口県
金剛水 / 周南市  
弘法大師伝説が伝わる千石岳(630b)山麓から湧き出る水。弘法大師の別名「遍照金剛」にちなみ命名されたという。県道鹿野夜市線ぞいにあり、近年は名水ファンに人気の水となっている。   
六地蔵の「金剛水」 / 柳井市  
キャンプ地の中にある六地蔵尊の地蔵が彫られた太岩の下から湧き出る水。金剛水といわれ、弘法伝説の水らしい。水量は少ないが健在。  
 
四国

 

愛媛県
臼池さん / 東予市  
東予市楠地区の田園にある「臼池さん」と地元の人たちに親しまれているお堂の下から湧き出る清水で、名前からしてご多分にもれず弘法伝説が息づいている。臼状の井筒からきれいな清水が湧き、農業用水などに使われている。  
弘法水 / 西条市  
瀬戸内海に近い河口の水底からの「うちぬき」。かつては自噴していたが、水量低下でポンプアップしている。稀な湧水風景は一見の価値有り。     
柴の井のお加持水 / 西条市氷見  
63番札所密教山吉祥寺すぐそばに湧く弘法大師伝説が残る名水。市内氷見地区にある。水量は書くなくなっているが、よく整備保全されている。  
弘法大師御加持水 / 今治市玉川町別所甲  
杖の淵 / 松山市  
弘法大師の伝説が残る名水は多いがこれもその一つ.お遍路さんが喉を潤すし、地元の人たちが水汲みに訪れる。重信川の伏流水が大量に湧出し、大きな泉を形成し。水路には「ていれぎ(オオバタネツケバナ)」が栽培されている。水汲みには時間制限がある。  
 
徳島県
井戸寺のお加持水 / 徳島市国府町  
四国八十八所17番札井戸寺の由来となった弘法井戸。 
井戸寺のお加持水 / 徳島市国府町  
十七番札所井戸寺の名の由来ともなった弘法井戸。弘法大師は一晩でこの井戸を掘ったという。持ち帰り用の水容器が用意されている。  
白水の井戸 / 阿南市新野町  
二十二番札所平等寺の境内の井戸で弘法大師伝説の水.祈りを捧げるための水を得るため井戸を掘ったところ白い水が流れ出し,大師はこの水で身を清めて薬師像を刻んだという。お持ち帰り用の水容器がある。  
お杖の水 / 小松島市  
小松島市の田園地帯、小松島中学校近くの畑の中にある弘法伝説の井戸。見たところ飲用にはためらう、史跡といったところ。 
金泉寺・黄金の井戸 / 徳島県板野郡板野町大寺亀山下  
四国霊場第3番札所。弘法大師ゆかりの「黄金の井戸」があり、井戸に自分の顔が映れば長寿になるという。寺域からは藤原時代の瓦も発掘された古い歴史をもつ。  
 
香川県
楠井の泉 / 国分寺町  
弘法大師ならぬ、薬師如来が掘ったと伝えられている水.古くから知られた霊泉で水汲みが多いが、水量は少ない。水場には薬師如来像が安置されている。  
弘法大師産湯の井戸 / 善通寺市  
日本の名水を語る際に忘れてはならないのが弘法大師.大師はここ善通寺で生まれた.この井戸の水は大師自身の産湯の水と伝えられ,仏事に使われてきた。飲用はできないらしく、持ち帰らないで・・と明記してある。  
 
高知県
大日寺の加持水 / 野市町  
二十八番札所大日寺札所の奥の院から湧き出ている.涸れることもなくこんこんと湧き出ている信仰の水。奥の院には,弘法大師がツメで彫ったというクスの薬師如来像があり,首から上の病気に効くと信仰を集めている. 
水の峠の湧水 / 仁淀川町北川588番地1付近  
水の峠の湧き水は大師堂の西側にあり、弘法大師が杖で地面をたたくと水が湧き出たという言い伝えが残されているという。 土佐の峠からの書 「水の峠(みずのとう)土予交易、交流の峠だった。池川下土居から始まり番所跡から小郷川に沿って寄合を経由する道の外二道がある。今では林道が通じており峠に至る。大師堂、「中島与市郎殉難之地」の碑がある。」  
 
九州

 

福岡県
独鈷水 / 篠栗町若杉山頂付近奥の院  
弘法大師が杖でたたいた岩から吹き出したと言われる「独鈷水」が湧き出ています。  
 
佐賀県
 
大分県
熊兵衛井戸 / 豊後高田市  
弘法大師の伝説のある湧水である.  
弘法大師の霊水 / 真玉町椿堂・椿光寺  
弘法大師の霊水は,1,200年の歴史を持つ真玉町椿堂および椿光寺の境内の岩窟内から湧出する.別名を椿大師の御霊水ともいわれ,ごく僅かな湧出量にも関わらず,万病に霊験のある水として参詣する人が絶えない.弘法大師の霊水はその名の通り弘法大師由来の湧水で,大分県内には弘法大師にちなんだ多くの湧水が存在している.いずれの湧水も,水の得られない地域の人々が干ばつで苦しんでいるのを見かねた弘法大師が,杖を突き立てたところ湧出したといわれており,水資源の乏しい地域に生活する人々の命の水として大切に利用されてきた名水である.  
神井 / 宇佐市宇佐神宮  
この神井は宇佐神宮の閼伽水や神官らが利用したと伝えられている.この井戸は,井戸枠が八角形になっている. 河野(2001)は,一般的な井戸枠はその材質(木材,石)に基づく技術的制約から四角形,もしくは丸形にするのが一般的とし,これまでの調査で,日本には六角形,八角形の井戸が40ヶ所程存在することを明らかにした.なぜ六角にするのかという疑問から,まず数字の意味を調べてみると,日本では八は縁起の良い意味で使われるが,六は神聖な数として認識される一方で,墓や地獄などといった事象に通じる数として認識されている.数の意味で六角井戸をとらえた場合,そこには「六」本来の意味とは別の,特別な意味があるに違いないと考えられる. 六角井戸は秋田から沖縄まで,全国各地に見られるが,その分布は京都・奈良,淡路島周辺,長崎に集中する傾向がある.またその半分近くが海岸付近に存在し,弘法伝説のある井戸が6ヶ所ある.中部地方以北の六角井戸は元々あった井戸にあとから六角の枠をつけた井戸が多く,正確には六角井戸とは言い難い井戸が多い.京都・奈良は歴史上の人物や史実に基づく井戸が多く,史蹟となっている.淡路島周辺の井戸は風土記などに登場する古井戸が多く,海岸付近に存在する.長崎の井戸はやはり海岸付近にあり,中国人が築造して南蛮貿易船などへ水を供給した歴史をもっている.沖縄はもともと丸形の井戸に井戸枠を造る際,その材料は石灰岩のブロックを使用した.石灰岩のブロックを組合せるには,小型の井戸は六角,大型は八角にすると効率よく井戸枠を築造できることがその理由となっている.石の文化圏に属する沖縄ならではの井戸といえよう.一方で神奈川県鎌倉市小坪海岸の六角井戸は,実は八角でその2角を逗子側,6角を鎌倉側が使用する水利権を表すために築造された.これは朝夕に井戸使用が集中する際の合理的な対策として六角井戸が築造された典型的な理由と考えることができる.
弘法水 / 大分県西国東郡大田村横岳山頂  
小畑走水 / 大分県西国東郡香々地町小畑  
弘法井戸 / 大分県宇佐郡安心院町房ヶ畑  
 
長崎県
 
熊本県
桜井硯の池 / 熊本市東区神園1丁目  
弘法大師が杖を立てたところ、水が湧き出したという湧水。池を囲む自然石が硯の形をしているので、硯の池という。  
千体仏の水 / 宇土市城塚町  
田畑の灌漑用水として長い間利用されてきたこの地は,約1千年以上も前から,弘法大使師が西遊の際刻んだとされる摩崖千体仏がある。  
吹割岩の湧水 / 上天草市大矢野町登立  
天草島原の乱の際、天草四郎がこの洞窟を通って生き延びた伝説や、弘法大師の伝説を秘めた霊場として多くの人の信仰を集める神秘的なスポットである。  
不動神社の湧水 / 上天草市龍ヶ岳町樋島  
弘法大師ゆかりのある不動神社は、春は桜の花見と、そこから望める龍ヶ岳と倉岳は絶景であり、不動神社参拝者が参拝前に、手を清め、喉を潤すなど非常に重宝している水源である。  
 
宮崎県
 
鹿児島県
大師の湧水 / 垂水市新城  
弘法大師の賜物で,浜砂の間より水が滾々と湧いていたとされる。現在は枯れているが,国道脇に陸軍所の水として碑が建立されている。 
 
温泉

 

 
東北
鎌先温泉 / 宮城県白石市  
川原子ダム(農業用ダム)の湖面に映る南蔵王不忘山。その麓に湧き出る鎌先温泉の伝説。600年以上も昔,桜が咲き誇り,鶯のさえずりが艶めく頃,  
一人の農夫が山で木を伐採していました。のどが渇き,水を求めて沢を探すと,岩から湯気が出ている。  
農夫が腰に差していた鎌で岩を突くとこんこんと湯が湧き出したのが,鎌先温泉の始まりと言われています。「キズに鎌先」といわれ,  
奥羽の薬湯として人気です。夜は温泉街がライトアップされ,幻想的な雰囲気に包まれます。白石市には,源義経の家来が発見したとの伝説が残る小原温泉,弘法大師の伝説が残る白石湯沢温泉など,  
湯量豊富で風光明媚ないで湯が数多くありますので,お立ち寄りください。
湯沢温泉 / 宮城県白石市  
今からおよそ1200年前ほどの大昔、七ヶ宿街道下戸沢宿の湯元という所に一軒の湯宿があった。  
ある日、みすぼらしいお坊さんがやってきて、「一夜の宿を」と願い出たところ、宿の女将さんは頭の先から足の先まで見定め、このお坊さんからはお金を取れないと思い、「今夜の宿はいっぱいです。」と断ったそうです。  
そう言われたお坊さんは「せめて、納屋でも物置でも」とまた願い出たそうです。しかし女将さんは「そこもいっぱいです。」と断ったそうです。  
困ったお坊さんは「では立ち去る前にせめて足だけでも湯につからせて下さい」 とお願いしたところ、「足だけ湯につからせるので早々に立ち去りなさい。」 と言ったそうです。  
お坊さんは喜び足を湯につかり、わらじをはいて立ち去ろうとした時、お湯がふき出している所に神社がまつられているのを目にし、まつってあったお幣束を一枚取り、湯澤の川へ流したそうです。  
そして、湯のふき出ている所へ杖を「えい!」とばかり力を入れて、突き立て、「お幣札が流れ、たどり着いた所に熱いお湯が出る」と言い残したそうです。  
幾日か、過ぎたある日、お幣札のたどりついた所の田、畑のあちらこちらに熱いお湯がたくさん出てきたそうです。  
村人はそこに湯宿をはじめる人もあり、中には、このお湯がいつまでも絶えないようにと、自分の3才になる女の子を生きうめにした人もある程で、その子をまつった神社が、 あると言われています。  
お幣札がたどり着いたところが現在の小原温泉と言われております。お坊さんが立ち去る前までは湯沢温泉はとても熱いお湯だったのですが、お坊さんが杖をついてからぬるいお湯になったと言われております。 (現在 源泉40℃)  
このお坊さんこそ、全国を行脚なされたとされる弘法大師様ではないかと言われております。  
時代が下った江戸時代までにはお湯がぬるかったため利用されていなかったようです。ある日、この地に自噴の温泉があると聞き伝えた亘理郡坂元町の住人島田平三郎様が、この湯に体を浸かり、いやしたところ、驚くほどの効き目があったので、大いに感激し、この湯を近くの神社に奉納しました。  
このすばらしい温泉をこのままにしておくのはもったいないと思い、地主である斎藤建治様に交渉して、ゆずり受け、当時としては、多額の資金と労力を投じ、火力を用いて、お湯を温め、いくつかの客室と男・女の浴槽を備え、湯宿を始めました。 大正4年7月のことです。  
話しを聞き伝え、湯治に訪れる人々が多くなっていったそうです。とくに“できもの、やけど、切り傷、はれもの、打ち身等に,よく効く温泉と評判になりましたが、いつの間にか寂れてなくなってしまいました。  
せっかくのすばらしい温泉がただ川に流されておりましたが、「旅館やくせん」館主が平成6年幻の名湯「湯沢温泉」を再建いたしました。 
温海(あつみ)温泉 / 山形県鶴岡市  
あつみ温泉の誕生は今から1,000年以上もむかしに遡ります。弘法大師の夢枕に童子が立ち、その示現によって発見したとか、傷ついた鶴が草むらから湧き出る湯に足を浸しているのを木こりが見つけた、など諸説語られております。  
庄内藩主酒井忠勝公が入国した後、藩公の湯役所が設けられ、以来近郊の湯治場として栄えてきました。古くから文人墨客も多く訪れ、松尾芭蕉、与謝野晶子、横光利一など、小説、詩歌に数多くうたわれています。1,000年にも及ぶ長い間、あつみの湯は人々に愛され守り伝えられてきました。今では山形・庄内を代表する温泉地として皆様に親しまれています。 
芦ノ牧温泉 / 福島県会津若松市  
開湯は1200年前とされる。開湯伝説によれば、行基による発見とされる。異説として、弘法大師による発見説もある。  
温泉名の由来は、後に蘆名氏の牧場がこの近くに作られたことに由来する説と、温泉街を流れる大川が渦を巻いていたことに由来する説がある。  
江戸時代になっても近隣の人が利用するのみの温泉であったが、明治35年に温泉地に道路が開通したことにより温泉地としての発展を見せていった。
大塩温泉 / 福島県大沼郡金山町  
開湯伝説によれば、弘法大師の発見とされる。  
戦後は当地で行われた開発に翻弄されている。1955年、本名ダム建設により、只見川沿いにあった温泉は水没し、現在地に移転した。他にダム開発により水没した温泉地 に、日中温泉、鶴の湯温泉、入之波温泉、大牧温泉、猿ヶ京温泉などがある。
 
関東

 

塩原温泉 / 栃木県
法師温泉 / 群馬県みなかみ町
川場温泉 / 群馬県川場村  
昔、昔。川場の村は、水に不自由をしていました。  
ある日のこと、お婆さんが洗い物をしていると、ひとりのお坊さんが訪ねてきて言いました。  
「水を一杯、くださるまいか」でも飲み水は、遠い沢からくんで来なければなりません。  
それでもお婆さんは、困っているお坊さんを放っておけず、親切に沢まで行って水を運んできて、さし上げました。  
「お婆さん、このあたりは水が不自由なのかな?」  
「はい、水もさることながら、もしお湯が湧いたら、どんなによろしいでしょう。このあたりには、脚気(かっけ)の病人が多うございます。脚気には、お湯がいいと聞いております」  
「なるほど」と、うまそうに水を飲み終わったお坊さんは、やがて持っていた錫杖の先でガチンと大地を突きました。すると不思議なことに、そこから湯けむりが上がり、こんこんとお湯が湧き出したといいます。〜  
このお坊さんが、有名な弘法大師だと知った村人たちは、この湯に「弘法の湯」と名付け、 今でも湧出地には弘法大師堂を祀っています。  
これが、昔から川場温泉が「脚気川場」といわれるゆえんです。  
 
中部

 

修善寺温泉 / 静岡県 
修善寺を訪れた弘法大師が、桂川の清流で病気の父のからだを洗う少年を見つけ、「川の水では冷たかろう」と手にした独鈷(煩悩を打ち砕くといわれる仏具)で川中の岩を砕いたところ、霊泉が湧き出たと伝えられています。その場所は「独鈷の湯」と呼ばれるようになり、修善寺温泉のシンボルになっています。  
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歴史は、弘法大師(こうぼうたいし)[=空海(くうかい)]が開いたという桂谷山寺(今の修禅寺)の歴史とともにあります。大同2年(807)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、独鈷の湯(とっこのゆ)を弘法大師が湧出させたとされ、これが修善寺温泉の起源であり、かなり古い歴史があります。   
独鈷の湯 / 伊豆市修善寺  
独鈷とは仏具の一つですが、弘法大師がこの地で、独鈷で川原を突いたらお湯が出て来たという言い伝えから独鈷の湯と言われています。以前は、公衆浴場だったようですが、今では、川原の真ん中にあずま屋があり、足湯になっています。修善寺温泉のシンボル的な存在です。  
伊豆山温泉 / 静岡県
湯村温泉 / 山梨県甲府市湯村  
西暦808/大同3年、弘法大師東北巡行の帰り、信州路より甲州路に入り、近くの国宝尼除地蔵で身体を休めていました。道路の真ん中に大石あり。旅人の通行を困難にしていたところ、弘法大師が現れ呪文を唱えながら杖にて奇せたところ、温泉が湧き出してきたといいます。  
湯村温泉郷として旅館街ができる以前は鷺の 湯、谷の湯、崖甫の湯、そして当館の杖の湯 を合わせた4つの湯が銭湯として庶民に愛さ れ憩いの場とされていました。  
この情景が、葛飾北斎の 「勝景奇覧、甲州湯村」団扇絵に書かれております。  
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塩沢寺のとなりに、ホテル弘法湯があります。その裏手には、杖の湯跡があります。  
大同3年(808)弘法大師が東北巡行の帰りに、信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊りました。道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況でした。大師は呪文を唱えながら杖にて寄せるたところ、温泉が湧き出しといわれています。  
「杖の湯」「弘法杖」といわれ、いまにその名残があります。  
旅館街が出来る以前は、この杖の湯・鷲の湯・谷の湯・産甫ノ湯が銭湯という形で庶民に愛されていました。この3軒の内の何れかかが葛飾北斎によって描かれています。  
谷の湯と馬の湯  
塩澤寺の門前から延命橋を渡り少し下った柳屋とナック湯村(元富士野屋)の間に谷の湯という湯がありました。とても湯量が豊富で塩辛い温泉でした。このことから湯川のほとりで塩が取れることから塩澤寺という名前になったのでしょう。山国で塩が貴重だったことから越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った「敵に塩を送る」という諺からも分かるように湯村から今の横沢迄を塩澤と呼んでいた時もあり、今の塩部はその頃の名残です。又は、当時塩を分けた場所だから塩分(しおべ)と呼んで後に塩部となったという話もありますが信憑性は?です。  
中国の高層大覚禅師(蘭渓道隆)が日本に招かれ、信濃(長野)に留まっていた時、甲斐の国に名湯が湧くから開くがよいという夢をみて、甲斐に入り塩澤寺で滞在していると、芦の生えた谷間から湯煙がたつのをみて芦を刈ってみると果たして湯が湧いていた。 1250年頃のことであるといわれています。  
この谷の湯は湯量が豊富だったため、湯村の人は溝を掘り湯川の横を掘って村境へ流れるようにしました。ところがこの水は付近で田んぼや畑ををしている処へ入ってしまい。作物に悪い影響が出てしまいました。怒った村人は農耕馬をつれてこの溝を堰き止めてしまったため、今度は湯村の畑がお湯びたしになってしまい、これが元で隣の村といさかいが起こりました。人々が争っていると土手づくりで疲れた馬や病気の馬が、気持ちよさそうに次々と溜まったお湯に入り始めました。人々は争いをやめてこの様を眺めていました。しばらくすると病気の馬や疲れた馬は元気になり、それからはこの湯を馬の湯と呼ぶようになったそうです。  
このお話よりかなりあと、今のJR(旧国鉄)が中央線を開通させたとき線路の敷石に使うため岩山である湯村山から砕石をしました。それが今の石切場跡ですが、ここから切り出した石は当時馬車で運び出されていました。石を満載した馬車を引く馬はこの馬の湯を使っていたようです。中央線の甲府までの開通は1903年(明治36年)で、昭和30年頃まではこの時の馬の湯の湯船が道から少し入ったところに、浅瀬から順に深くなり、また浅くなる変わったプールのような形で残っていたそうです。  
明治12年に湯村温泉から県令藤村紫朗に提出させた「温泉開湯御許可願」によりますと、湯村の湯は人や牛馬の腫れ物や筋肉の痛みに効くので、日々、人と牛馬が群っていたそうです。  
1里〜3里も離れたところからも多数の牛馬が入浴のためにやってきたといいますから、農耕や輸送で疲労した牛馬をリフレッシュさせる目的で入浴させたものと考えられます。  
この許可願でも、すみやかに開湯すれば、牛馬が助かるといっています。  
このような許可願を出したのは、農業を目的とした人馬の通行に支障が出るほどにたくさんの牛馬が温泉に連れてこられたためめで、これを知った県がこれらの温泉入浴を差し止めたからです。
瀬戸口温泉 / 新潟県
清津峡温泉 / 新潟県
関温泉 / 新潟県
燕温泉 / 新潟県
出湯温泉(でゆおんせん) / 新潟県阿賀野市  
新潟県(旧国越後国)阿賀野市(合併前の北蒲原郡笹神村)にある温泉。五頭(ごず)連峰西側の山裾(やますそ)に位置し、五頭連峰県立自然公園(日本森林浴100選に選ばれている)に含まれる。古くから湯治場として知られる静かな温泉地。周辺に白鳥の渡来する「瓢湖(ひょうこ)」、登山を楽しめる「五頭山(ごずさん)」、森林浴・キャンプ・川遊びを楽しめる「県民いこいの森」、ゴルフ場などが点在する。周辺の温泉と併せて五頭温泉郷(ごずおんせんごう)を構成している。  
開湯は809年である。弘法大師空海が錫杖をついて湧出させたという開湯伝説が残る、新潟県内で最も古い歴史がある温泉。
鹿塩温泉 / 長野県下伊那郡大鹿村  
大鹿村の鹿塩(かしお)地区には、海水とほぼ同じ塩分濃度の塩水が湧き出ています。山深い里になぜ塩水が? その原因は未だにわかっていません。伝説によれば、神代の昔、諏訪大社からこの地へ移り住んだ建御名方命(たてみなかたのみこと)が、大好きな鹿狩をしていた際、鹿が好んで舐める湧き水を調べたところ強い塩分を含んでいることを発見したと言われています。また、もう一説には、弘法大師がこの地を訪ね、山奥で塩の無い生活に苦労する村びとを憂いて杖を突いたところ、そこから塩水が湧き出たとも言われています。  
昔から鹿塩地区には地名に塩がつく場所が多い地。人の名前にも小塩、大塩、万塩など、やはり塩がつく方が多くいらっしゃいます。塩が湧き出る場所は、村を南北に貫く大断層「中央構造線」の東側に全て集中していることから、この地質がなんらかの原因になっているとも考えられていますが、これもまだ立証されるに至っていません。いずれにしても、山深い村に湧き出るこの塩が、煮物や漬物、味噌、醤油の製造など、村人の生活に決して欠かす事のできない宝として利用されてきたことは想像に難くありません。  
そして現在では、この塩泉を利用した秘湯・鹿塩温泉へ四季を通じて全国から人が訪れています。鹿塩温泉は全部で二軒。いずれも塩川のせせらぎを聞きながら、ゆっくりくつろいでいただける秘湯です。 
海の口温泉 / 長野県下伊那郡大鹿村
 
近畿

 

塩野温泉 / 滋賀県甲賀市甲南町塩野  
JR甲南駅にほど近く、甲南町塩野の甲賀盆地に湧く塩野温泉。1000年程前に弘法大師(空海)が発見した甲賀流忍者の里に湧く湯。江戸時代には近江輿地史略にもその名が記されており、滋賀県下随一の歴史ある古湯と云われている。閑静な田園風景に佇む1軒宿(明治31年創業)は、趣向を凝らした風呂、五右衛門風呂、バリアフリー型浴室などで古湯を楽しめる。温泉の泉質はナトリウム-塩化物泉。温泉の効能は婦人病、胃腸病、神経痛など。無色透明の湯は、塩分が少し含んだ14℃の天然冷鉱泉。   
2  
甲賀忍者の発祥の地として知られる甲賀の里。その閑静な田園風景の中にある塩野温泉。約1000年前、弘法大師(空海)により発見され、滋賀県随一の歴史ある古湯と言われています無色透明の湯は、ほのかに塩分を含んでいて、婦人病、胃腸病、神経痛 などに効果があるそう。郷土の幸を生かした忍者鍋や京風会席が楽しめます。 
赤引温泉 / 愛知県
龍神温泉 / 和歌山県
丹生温泉・丹生大師湯 / 三重県勢和村大字丹生  
(にゅうおんせん・にゅうだいしゆ) 三重県多気郡勢和村にある丹生大師神宮寺は、774年(宝亀5年)に弘法大師の師である勤操大徳によって開かれたという古刹です。その後弘法大師も訪れ815年(弘仁6年)に七堂伽藍が建立、大師堂にある弘法大師像は本人が作った自画像なのだそうです。そんな弘法大師ゆかりの寺の仁王門から150mほどのところには「丹生大師の湯」という小さな温泉浴場があります。  
 
中国

 

関金温泉 / 鳥取県
弘法寺温泉 / 山口県萩市  
弘法大師が唐からの帰途の船で老人に「自分の島にきてください」といわれてついていくと天女が現れて、弘法大師のおいでを喜び、その姿を彫刻した。その彫刻が弘法寺の御本尊のなっており、この地(島)を浮島または弘法島と呼び、山号を寄舟山と呼んだ。で、この地より明治25年に2種類の温泉が発見された。1つは浮島霊泉と呼ばれる飲泉、もう1つはおかげ湯とよばれる硫黄泉らしい。
湯免温泉(ゆめんおんせん) / 山口県長門市三隅町  
弘法大師が夢に見たラジウム豊富な名湯  
アユ釣りが楽しめる清流・三隅川沿いにある長門市三隅に位置する温泉地。一軒宿「湯免観光ホテル」内には、地元の人たちも足しげく通う大衆浴場を併設。もとは町営だった大衆浴場は、古いながら瓢箪型の浴槽に趣があり、その鄙びた佇まいが古くから生活の中に温泉が根付いてきたことを物語る。温泉街の中心には、三隅出身の画家・香月泰男の美術館。シベリヤでの抑留体験から生まれた「シベリヤシリーズ」で知られる香月は、三隅を「私の地球」と呼びこよなく愛したという。また、同じく当地出身の村田清風は、明治維新の基礎を築いたと語り継がれる賢人。江戸時代の後期、経済的窮地に陥っていた長州藩を産業の開発や人材の育成・登用などによって立て直した。旧宅・三隅山荘が現存し、武家の暮らしを今に伝えている。先人たちが愛し、多くの才能を輩出してきた三隅。今なお豊かな自然が残り、受け継がれる名湯が訪れる者を優しく包み込む。  
2  
その昔、弘法大師が唐からの帰途に立ち寄った際、温泉が湧く夢を見たことから発見されたとの言い伝えが残る古湯。そのため「ゆめ温泉」と呼ばれていたのが転じて、「ゆめん」となったとか。また一説には、傷ついたウサギが傷を癒したことから、「湯免(兎)」と名がついたとも言われている。通常の4倍ものラジウムを含んだ湯は神経痛や筋肉痛、皮膚病などに効果があり、美肌の湯として女性を中心に人気が高い。入浴施設は公営の「湯免ふれあいセンター」と「湯免観光ホテル」の2ヵ所のみ。規模は決して大きくないが、多くの人に親しまれてきた温泉だ。 
於福温泉 / 山口県美祢市 
弘法大師が開いたという伝説が残る市内唯一の古湯だが、湯量が少なく、一軒の温泉旅館(現在は2軒)が佇む鄙びたいで湯の雰囲気を漂わせていた。
 
四国

 

清水温泉 / 徳島県
千羽温泉 / 徳島県
東道後温泉 / 愛媛県松山市
南道後温泉 / 愛媛県松山市 
「杖の淵」という泉があり、空海が巡錫で訪れた際、旱魃を見かねて錫杖で地を突き、涌き出たものという。
 
九州

 

まむし温泉 / 福岡県
熊の川温泉 / 佐賀県佐賀市富士町大字上熊川  
開湯は821年。弘法大師・空海が全国行脚の途中に立ち寄り、傷ついた水鳥の水浴びを見て発見したと伝わる温泉。全国有数のラドン含有量と、体にまとわりつくような柔らかな湯触りが特徴だ。浴用ではリウマチや通風から、アトピーなどの皮膚病にも薬効が高いと評判。湯上りにはつるスベ感のある美肌効果も感じ取れる。また呼吸によって湯気から成分を吸収することで鎮静作用が働き、ノイローゼ等の治療にも効果的なのだとか。飲用では慢性消化器疾患や糖尿病などに効くとされる、幅広い効能を誇る良湯である。  
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熊の川温泉(くまのかわおんせん)は、佐賀県佐賀市富士町(旧国肥前国)にある温泉。開湯は821年です。開湯伝説によれば、弘法大師が水鳥を見て発見したとされています。昭和41年8月1日、古湯温泉と共に国民保養温泉地に指定されました。 
波佐見温泉 / 長崎県
杖立温泉 / 熊本県阿蘇郡小国町大字下城  
“湯に入りて 病なおれば すがりてし 杖立ておいて 帰る緒人”と詠んだのは、旅の途中、杖立温泉に立ち寄った弘法大師・空海。この句に詠まれているように、杖をついて湯治にやってくる病人や老人も、杖を忘れるほど健康になって帰っていくと言われ、街には置き忘れられた杖のモニュメントも建てられている。一方、弘法大師・空海が持っていた竹の杖を立ててみたところ、枝や葉が生えてきたという説も。いずれにしても、温泉の効能の高さから「杖立」と名付けられた弘法大師ゆかりの名湯。  
その昔、神功皇后が筑紫(現在の福岡県)で応神天皇を出産した際に、杖立の湧き出る霊泉を産湯に使ったことが始まりとされる古湯。その場所は、開湯1,800年を経た今もなお、無料の露天風呂「元湯」として親しまれている。豊富な湯量と、98〜100度の高温泉の蒸気を使ったのが、古来伝承の蒸し風呂。さらに、調理器具の発達する前は「むし場」と呼ばれる煮炊きをする公共の場所もあったとか。入浴だけでなく、温泉が人々の生活に深く密着して受け継がれてきたことを物語る。  
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杖立温泉の歴史は1800年の昔にさかのぼります。神功皇后が当時の新羅に出兵を行った際のこと、亡くなられた仲哀天皇の御子をみごもっておられた皇后は、戦いが終わり筑前の宗像まで引きあげたところで産気づかれました。その時現れた白髪の老人が「これより東南に川をさかのぼると霊泉がある。これを汲み産湯に用いれば皇子は千歳の寿を保たれるであろう。」と告げて消えてしまったそうです。そこで付き人は、険しく続く山々越え、この地に達し、中龍頭に似たおおきな岩窟から立ち上る一筋の湯気を見つけました。これを汲み取り、皇后のもとへ持ち帰り、産湯として奉ったのです。こうしてお生まれになったのが後の応神天皇であり、この霊泉こそ杖立温泉だったと伝えられています。  
「杖立」という地名についても、不思議な言い伝えがあります。平安時代の初めの頃、旅の途中で訪れた弘法大師空海は、温泉の効能にいたく感銘されたそう。そして持っていた竹の杖を立ててみたところ、節々から枝や葉が生えてきたのが、その名の由来とか。また、杖をついて湯治にやってくる病人や老人も、帰る頃には杖を忘れるという、温泉の霊験をたたえた由来もあると言われています。 
 
いぼとり神仏

 

 
北海道・東北 
北海道
青森県  
 
岩手県  
日吉神社(配志和神社) 岩手県一関市山目舘 松イボを借りてイボをこする。お礼は新しい松イボの二倍返し。  
いぼ神様(宮崎稲荷神社) 岩手県陸前高田市小友町宮崎 油揚げとか生卵を供える。(日本最東のいぼ神)  
 
宮城県  
五輪堂・疣取り地蔵 宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉 お礼に卵を奉納する。  
いぼ神様のケヤキの清水 宮城県塩竃市一森山1−1 泉の水をつける。お礼は箸を供える。(塩竃神社)  
玉こぶの欅・いぼ神様(柳津虚空蔵尊) 宮城県登米市津山町柳津 (柳津虚空蔵尊)、柳津(やないづ)  
志呂庫神社(白狐大明神) 宮城県大崎市松山長尾大天場西14 お礼は年令の数の玉子を供える。(旧志田郡松山町)  
いぼとり太子堂 宮城県黒川郡富谷町太子堂 太子堂の石でいぼをこする。  
大衡八幡神社 宮城県黒川郡大衡村大衡八幡  
いぼ地蔵様 宮城県石巻市長渡浜  
いぼ取り薬師 宮城県仙台市太白区長町4−2−9 いぼがとれるまで蛸を食べない。お礼は豆を供える。  
疣神尊(延寿院) 宮城県仙台市青葉区宮町5−6−18 小石でイボをこする。お礼は小石の倍返し。  
牛頭天王像(八坂神社) 宮城県仙台市宮城野区岩切若宮前11−7 (瘤とり神社)牛の頭の瘤を1週間なでると治る。お礼は年の数の小麦を供える。  
三吉神社 宮城県多賀城市市川奏社 (アラハバキ神社の境内社)  
南宮神社 宮城県多賀城市南宮色の地  
いぼ取り石・うば干し石 宮城県白石市小下倉以保石 小下倉(こしたぐら)、以保石(いぼいし)  
石神さん・いぼ神さん 宮城県白石市鷹巣石神 石でイボをこする  
竜の枕石・いぼ石神(春日神社) 宮城県角田市鳩原寺22 お礼参りに豆を供える。  
いぼ神様 宮城県亘理郡亘理町逢隈下郡 御礼はアズキやコメを供える。  
諏訪神社・イボ神様 宮城県伊具郡丸森町耕野 牛乳など(白い飲み物)を持ってお参りする。 
 
秋田県  
イボ神様 秋田県山本郡三種町外岡 箸でイボ神様の土を取りイボにつけ、菓子を供え箸を立てる。お願い後は後ろを振り返らない。(日本最北のいぼ神様)  
いぼとりさん・竜泉寺のお地蔵さん 秋田県横手市平鹿町浅舞浅舞286 湧き水を供えて煙草に火をつけ蝋燭を灯して祈願する。お礼は煙草とお餅。(旧平鹿郡平鹿町浅舞286)  
いぼとり地蔵 秋田県由利本荘市岩谷麓字折渡(おりわたり) 小石でイボをこする。お礼は石の倍返し。(延命地蔵尊)(旧由利郡大内町)  
側清水地蔵 秋田県仙北郡美郷町六郷 (旧仙北郡六郷町六郷・湧水群の河筋地蔵堂)  
金剛童子線刻像 秋田県雄勝郡羽後町西馬音内掘回郷ノ目 堀回地域イラストマップ (元西小学校の川向こう、七曲峠の入口)、西馬音内堀回郷ノ目(にしもないほりまわりごうのめ)  
イボ取りの石(女の神様) 秋田県湯沢市下院内笈沢 笈沢(おいざわ)・(降木神社の近く) 
 
山形県  
蛸薬師の石塔・いぼ神様 山形県酒田市日吉町2−9−21 日和山公園の東南、皇大神社の境内社の金刀比羅神社境内にある  
あごらし地蔵尊 山形県鶴岡市大宝寺1−8−4 ゴマ石を借りてイボをこする。  
いぼ取り観音 山形県鶴岡市下興屋 石を借りてイボをこする。お礼は石の倍返し。下興屋(しもこうや)  
いぼ稲荷・中山稲荷 山形県新庄市中山 杉の小枝のいぼでイボをなでる。  
いぼ石(石動神社) 山形県新庄市萩野 石にイボを3回こすりつける。  
いぼびっき(黒沢神社) 山形県最上郡最上町黒沢 イボをこする。(黒沢神社=大天馬様・だいてんばさま)いぼびっきは石の蛙。  
いぼ神様 山形県最上郡金山町下野明 お礼にお賽銭と割り箸1束を奉納する。  
石いぼの神・神田神社 山形県村山市湯沢1597 お供えする餅でいぼをさすりお祈りする。  
いぼ地蔵 山形市六日町 (旧県庁の文翔館の裏)  
いぼ神様・稲荷神社 山形県南陽市島貫(しまぬき)  
いぼころり地蔵 山形県米沢市駅前1丁目1ー71の近く 石でイボをこする  
イボ取観音(普門寺) 山形県米沢市万世町桑山 観音堂の石を借りてイボをこする。(桑山観音堂)  
いぼこ地蔵・さくら地蔵 山形県西村山郡朝日町宮宿助の巻 お饅頭を供える。(旧助の巻村)  
石いぼ地蔵(大師像) 山形県西村山郡西川町砂子関 (砂子関神社)、砂子関(すなごせき)  
疣とり地蔵 山形県西置賜郡小国町綱木箱口  
古志王神社(こしおうじんじゃ) 山形県西置賜郡小国町大滝 (大滝のオコショウサマ) 
 
福島県  
羽山神社 福島市方木田水口 神社の石を借りる。お礼はお礼石一つ持ってお参りする。  
お春地蔵尊(常円寺) 福島市山口寺屋敷4 地蔵さんの周りを3遍回ってその都度イボをこする。  
諏訪内来迎石仏・いぼ神さま 福島県郡山市富田町諏訪内 藁しべを結ぶとイボがとれる。  
エボ地蔵 福島県喜多方市熱塩加納町宮川 (旧耶麻郡熱塩加納村宮川山岩尾二ノ倉山中東瀧の沢)  
いぼとり神社(白山神社) 福島県喜多方市豊川町一井渋井 イボを石で擦り治ったお礼は石の倍返し。  
いぼとり地蔵 福島県喜多方市関柴町豊芦布流 治ったお礼は石の倍返し。  
イボとり地蔵様 福島県岩瀬郡天栄村白子太多郎  
いぼぬき地蔵尊 福島県会津若松市大戸町上小塩 上小塩(かみおしゅう)・(会津ニ十一地蔵尊第一番札所)  
疣神様 福島県会津若松市一箕町八幡滝沢  
おさすり地蔵(興徳寺) 福島県会津若松市栄町2−12  
戸の口いぼ地蔵 福島県耶麻郡猪苗代町翁沢戸ノ口 お地蔵さんの石でイボをこする。  
えぼとり地蔵 福島県南会津郡下郷町豊成楢原  
イボ清水 福島県南会津郡南会津町永田 (旧田島町永田)イボに清水をつける。  
いぼ神様・いぼ石 福島県いわき市田人町旅人熊の倉 溜まった水でイボを拭く。  
いぼ神様・太子堂 福島県いわき市遠野町滝川原 藁の小さな俵に大豆を入れて供えて祈願する。  
虚空蔵堂 福島県いわき市平下高久 布製の紅白の玉を奉納する。  
いぼ石(阿弥陀堂) 福島県いわき市四倉町戸田 いぼ石を借りてイボをこする。お礼は石を倍にして返す。  
いぼ地蔵 福島県いわき市四ツ波石森 『旅と伝説』復刻版(岩崎出版社・昭和53年刊)〜昭和14年12月号の高木誠一著「磐城の地蔵」  
子育て身代地蔵尊・いぼ地蔵(白水阿弥陀堂) 福島県いわき市内郷白水町広畑219 同上  
団粉地蔵・いぼ取り地蔵 福島県いわき市小川町西小川上谷地28 同上  
中山のイボ神様 福島県東白川郡鮫川村渡瀬中山 鮫川村渡瀬(さめがわむらわたらせ)  
いぼ神様(宝積寺) 福島県伊達郡桑折町新町43 宝積寺(ほうしゃくじ)、桑折町(こおりまち)  
八幡太郎義家の足跡石 福島県相馬市新沼 溜まっている水をイボにつける。(八幡神社)  
四地蔵尊・疣地蔵尊 福島県南相馬市原町区高倉東畑82 (高倉文殊堂)(旧原町市高倉)  
疣石観音 福島県相馬郡飯館村飯樋大平 こよりを疣石に結び祈願すると疣がとれる。  
いぼ清水 福島県田村郡三春町松橋 いぼに水をつける。  
相川観音・いぼ観音 福島県大沼郡会津美里町氷玉相川 (旧会津本郷町)(曹洞宗自福寺)・氷玉(ひだま)  
十王堂・疣神 福島県大沼郡三島町小山  
あまさけ地蔵 福島県双葉郡双葉町  
イボ取り地蔵 福島県双葉郡広野町下北迫 下北迫(しもきたば)地蔵尊、小石でイボをさする。  
北向人肌薬師 福島県二本松市油井北向 (弘誓山医王院) (旧安達郡安達町)  
長岡のえぼ石(熱田神社) 福島県伊達市長岡 ひいらぎの葉でいぼを三度こすり、その葉でえぼ石をこする。(旧伊達郡伊達町長岡)  
いぼ地蔵・永作地蔵 福島県伊達市月館町布川 (一盃盛地蔵)(旧伊達郡月館町布川)  
菅野稲荷・イボ取り神様 福島県須賀川市志茂 丸い石でイボを3回なでる。(菅野家の宅地内)・(旧岩瀬郡長沼町志茂)  
イボ神様(鶏渡権現) 福島県須賀川市志茂鶏渡(にわたり) 丸石でイボをこする。お礼は丸石を供える。(旧岩瀬郡長沼町)  
いぼ清水 福島県白河市東釜子畑中 清水を人肌くらいに加温してイボにつける。いぼとりを祈願して清水の中に10円硬貨を投入して清水を汲む。汲んだら後ろを振り返らずに帰路につく。 
 
関東

 

栃木県  
いぼ神様 栃木県大田原市久野又 (旧那須郡黒羽町)  
いぼ地蔵・アメ地蔵 栃木県大田原市元町2−4 お礼はアメを供える。  
三斗内のいぼ地蔵 栃木県大田原市実取  
いぼとり地蔵尊 栃木県那須塩原市高阿津 左縄をあみイボをこすり、その縄をいぼ結びにして地蔵さんに掛ける。(旧那須郡塩原町高阿津・稲荷神社近く)  
寺子の地蔵尊 栃木県那須塩原市寺子 (イボ取り地蔵)寺子(てらご)(旧黒磯市)  
いぼ地蔵尊(八坂神社) 栃木県矢板市倉掛上坪  
針生の地蔵尊(箒根神社) 栃木県矢板市針生御山下 大豆を供えて祈願  
前滝様・イボ取り不動様(水分神社) 栃木県矢板市下伊佐野 枝豆を供えて祈願  
三日月神社 栃木県鹿沼市上殿町31−1 豆腐を捧げて祈る。  
首掛地蔵・イボとり地蔵 栃木県鹿沼市下沢  
痣地蔵 栃木県宇都宮市徳次郎町2454 (徳次郎交差点から西へ50m)  
三日月神社 栃木県宇都宮市石井町 石を拾ってイボをなでる。  
坂口やの疣地蔵 栃木県宇都宮市中里西組 (旧河内郡上河内町)  
いぼ地蔵 栃木県さくら市氏家勝山 (将軍地蔵・そうめん地蔵の堂脇)火をつけたタバコを供える。  
いぼとり地蔵(龍泉寺) 栃木県足利市助戸1丁目ー652 自分の背丈の竹串に団子をさして供える。(足利厄除け大師)  
三日月塔・みかづきさま 栃木県足利市簗田町 線香を上げて祈る。  
いぼ薬師さま(医王寺) 栃木県足利市田中町  
三日月神社 栃木県栃木市川原田町535 石を借りてイボをこする。石を倍にして納める。  
柿の木さま(高椅神社) 栃木県小山市高椅702 柿の木の根元の砂をイボにつける。お礼は砂の倍返し。  
いぼとり地蔵 栃木県佐野市韮川町小山 (個人宅の裏山、未公開)  
瘤観音 栃木県佐野市葛生東  
いぼ地蔵(玉林寺) 栃木県佐野市多田町 秀宝山玉林寺(旧天神山総持院)  
いぼとり地蔵(二体) 栃木県下都賀郡壬生町安塚 お礼は豆腐を供える。(安塚五味梨北)  
いぼ切り聖観世音菩薩 栃木県真岡市久下田 (旧芳賀郡二宮町)  
いぼ地蔵 栃木県日光市足尾町原 お礼に山芋の実で作った数珠を供える。(旧上都賀郡足尾町)  
 
群馬県  
岩船地蔵・お船地蔵 群馬県前橋市公田町  
いぼ地蔵 群馬県前橋市元総社町  
イボ取り地蔵(景忠寺) 群馬県高崎市本郷町1148  
信玄石(奥州道) 群馬県高崎市八幡町 くぼみに溜まった水をイボにつける。  
いぼ石 群馬県高崎市倉渕町川浦下川原 いぼ石の水をイボにつける。(旧群馬郡倉渕村川浦下川原)  
いぼ地蔵(鳳仙寺) 群馬県桐生市梅田町1 やまいもの実を数珠にして地蔵さんの首に掛けてイボとりをお願いする。  
いぼ地蔵 群馬県桐生市梅田町5 (桐生市野外活動センターの入り口)  
イボ石 群馬県桐生市黒保根町上田沢 触れるとイボがとれる。(沢入川沿い) (旧勢多郡黒保根村)  
エボ取リ水・エボ石(清水の観音堂) 群馬県桐生市黒保根町下田沢 手水鉢の水でエボを洗う。(旧勢多郡黒保根村下田沢清水)  
疣薬師(赤城見台公園) 群馬県伊勢崎市波志江町・いせさき聖苑の隣 (カヤの根元の石仏)  
いぼ地蔵(明善寺) 群馬県館林市大島町4846  
いぼ地蔵 群馬県館林市四ツ谷町 お礼にお団子を3個さした地蔵の背丈の竹を供える。  
穴薬師・イボ薬師 群馬県北群馬郡吉岡町大久保溝祭  
いぼとり薬師 群馬県みどり市大間々町塩原 石を借りてイボをこする。お礼は石の倍返し。(旧山田郡大間々町)  
笠懸疣取地蔵尊(南光寺) 群馬県みどり市笠懸町阿佐美967  
いぼ庚申 群馬県太田市尾島町裏組 砂を借りてイボにつけ、もぎ取って欲しいと言ってお願いする。(旧新田郡尾島町尾島)  
いぼ地蔵 群馬県利根郡みなかみ町猿ケ京温泉 おがんしょをして、お礼におがんしょばたし。(旧新治村猿ケ京温泉)  
いぼとり地蔵 群馬県利根郡みなかみ町遠永 小石でいぼをこする。(旧新治村遠永)  
瘤観音(明言寺) 群馬県邑楽郡邑楽町石打甲237  
イボとり庚申(宝寿院) 群馬県邑楽郡大泉町寄木戸1114 庚申像の前の砂でイボをさする。お礼は新しい砂を返す。『大泉かるた』  
熊野神社の大欅 群馬県安中市安中3丁目22  
 
茨城県  
いぼ地蔵 茨城県久慈郡大子町袋田箕輪 お礼は豆を供える。(箕輪山の中腹の箕輪観音への途中)  
安産子育て疣取り地蔵 茨城県久慈郡太子町冥加597  
いぼ取り石・庚申塔(石沢寺) 茨城県北茨城市華川町中妻50 石沢寺(いしざわじ)  
小幡阿弥陀堂・イボ神様 茨城県日立市東滑川町小幡 お礼は大豆を奉納。  
阿弥陀堂・疣神様 茨城県日立市砂沢(いさござわ)町 (砂沢公民館のちかく)  
イボ取り地蔵 茨城県桜川市堤上 堤上(つつみのうえ)  
大町のイボとり道祖神 茨城県土浦市大町 (土浦橋の袂)  
みかづきさま(日枝神社) 茨城県つくば市田中1850 お社の石でイボをこする。  
疣神社(真珠院) 茨城県つくば市上横場1807  
疣の阿弥陀様 茨城県行方市羽生 (万福寺阿弥陀堂)(旧行方郡玉造町羽生)羽生(はにゅう)  
淨行殿(一乗寺) 茨城県行方市富田246 タワシでこする。お礼はタワシを奉納。(旧行方郡麻生町)  
いぼ取り地蔵尊 茨城県行方市篭田175 斉藤宅  
観音堂(観音寺) 茨城県行方市小幡1038 (旧行方郡北浦町)  
阿弥陀如来・イボとり地蔵(大儀寺) 茨城県鉾田市615 (旧鹿島郡大洋村)  
いぼとり榎 茨城県常陸大宮市中居729 (旧東茨城郡御前山村)  
阿弥陀如来(来迎院) 茨城県常陸太田市大里町 阿弥陀堂の石を持ち帰りイボをこする。お礼は石の倍返し。(旧久慈郡金砂郷町大里)  
イボ神様 茨城県常陸太田市大菅町田平  
小町いぼ神様 茨城県石岡市小野越 (旧新治郡八郷町)小野越(おのごえ)  
伊保田神社 茨城県かすみがうら市上佐谷関戸脇 (旧新治郡千代田町上佐谷)神殿から小石を借りて、毎日数回いぼをこする。治った御礼は小石を数倍にして返す。  
男神神社 茨城県かすみがうら市男神 拾った石でイボを擦り、その石を奉納する。  
いぼころり不動尊 茨城県坂東市中北(沓掛・内野山地区) 石を借りてこする。お礼は豆腐を供える。(旧猿島郡猿島町中北)  
三日月神社・イボ神様 茨城県古河市東山田 お礼はお豆腐をあげる。(旧猿島郡三和町東山田)東山田(ひがしやまた)  
いぼ取り地蔵(無量寿寺) 茨城県猿島郡五霞町小福田1226 土だんごを6個あげ祈願する。お礼は米のだんごを供える。  
六星神社 茨城県つくばみらい市山王新田 奉納された稲わらでイボをこする。  
イボとり地蔵 茨城県鹿嶋市佐田(坂ノ下)  
阿弥陀如来 茨城県潮来市大賀627 (文殊院・阿弥陀堂)  
いぼの神・愛宕神社 茨城県稲敷市柴崎7820 (旧稲敷郡新利根町)  
イボ神様 茨城県北相馬郡利根町下井 (下井公民館・稲荷大明神の近く)  
 
埼玉県  
いぼ地蔵 埼玉県草加市新里町 新里町(にっさとちょう)(徳性寺の近く)  
いぼ地蔵・瓶かぶり地蔵 埼玉県草加市松江6 (弁天社鳥居脇)  
いぼ地蔵(四体) 埼玉県草加市新栄町 (稲荷神社隣)  
いぼ地蔵(慈尊院) 埼玉県草加市稲荷4  
旧家藤波家のいぼ地蔵 埼玉県草加市青柳町5 いぼ地蔵の線香の灰をいぼにつけるか地蔵の前にある小石でいぼをこする。民話  
塩地蔵尊(観龍院) 埼玉県吉川市高久1−2−4 (山門前)  
塩盛り地蔵尊 埼玉県行田市行田23−10 (大長寺)  
いぼとり地蔵尊 埼玉県行田市長野ロータリー近く (安楽地蔵尊・子育て地蔵尊)  
満海地蔵尊・イボ地蔵様 埼玉県行田市和田685 (宝珠院)  
いぼ神様・馬頭さま 埼玉県狭山市下奥富吹上 御礼は白い豆俵.。(八雲神社の裏)  
黒こげ地蔵・イボとり地蔵 埼玉県狭山市入間川1 線香の灰を持ち帰りイボにつける。(慈眼寺の裏)  
上沢のイボ地蔵さま 埼玉県狭山市柏原・東上宿バス停近くの墓地内の念仏供養塔 荒縄で地蔵をしばる。願いが叶ったらほどく。上沢(うえさわ)  
いぼとり地蔵 埼玉県加須市西ノ谷 西ノ谷(にしのや)(旧北埼玉郡騎西町)  
泥庚申 埼玉県加須市正能 泥を打ち付ける。正能(しょうのう)(旧北埼玉郡騎西町)  
イボとり地蔵 埼玉県加須市上種足 (森住家の西)上種足(かみたなだれ)(旧北埼玉郡騎西町)  
地蔵菩薩(桂性寺) 埼玉県加須市割目505  
いぼとり地蔵尊(正福寺) 埼玉県熊谷市沼黒 お礼に真っ赤なタスキを供える。(旧大里郡大里町沼黒)  
いぼとり地蔵尊 埼玉県熊谷市中曽根 (旧大里郡大里町中曽根)  
いぼとり物言い権八地蔵 埼玉県熊谷市久下 線香の灰をイボにつける。久下(くげ)  
いぼ地蔵(普門寺)? 埼玉県熊谷市千代425? 千代(せんだい)(旧大里郡江南町)  
疣地蔵 埼玉県熊谷市塩明賀 泥団子を供えて祈願、お礼は米の団子を供える。(旧大里郡江南町)  
疣地蔵(楡山神社) 埼玉県深谷市原郷1994  
文永阿弥陀浮彫大板碑・おねんぼう様 埼玉県比企郡吉見町古名336 古名(こみょう)  
いぼとり地蔵(園光寺) 埼玉県比企郡小川町青山345  
平地蔵・べったら地蔵 埼玉県比企郡嵐山町鎌形 嵐山町(らんざんまち)  
疣取・子育延命地蔵尊 埼玉県大里郡寄居町今市 よりいの民話 (いぼ取りの一体地蔵)  
万人講・いぼ地蔵 埼玉県北本市高尾 泥団子を供えてお願いする。お礼に白い団子を供える。  
いぼ神様 埼玉県北本市下石戸下台原  
いぼ地蔵(深井薬師) 埼玉県北本市深井 地蔵の頭を撫でて祈る。  
石地蔵(大蔵寺) 埼玉県北本市下石戸下  
疣権現(田宮の雷電神社) 埼玉県幸手市中4−21−10  
いぼ地蔵(定福院) 埼玉県久喜市栗橋町佐間566 (旧北葛飾郡栗橋町)  
いぼとり地蔵(正楽寺) 埼玉県久喜市樋ノ口567−1  
福寿塩地蔵・イボとり地蔵 埼玉県久喜市栗橋中央2−8  
炮烙地蔵・エボ地蔵 埼玉県久喜市栗橋東3−15−7 線香の灰をイボにつける。(旧北葛飾郡栗橋町)  
小渕山観音院 埼玉県春日部市小渕1638  
疣とり地蔵 埼玉県蓮田市江ヶ崎 (セブンイレブンの北側、たにし不動尊の入口)  
いぼ地蔵(東曜寺) 埼玉県鴻巣市吹上本町4 線香の灰をイボにつける。お礼は線香を何倍にもして返す。(旧北足立郡吹上町本町4)  
本村の地蔵さん(建正寺) 埼玉県北足立郡伊奈町小室  
いぼ地蔵尊 埼玉県坂戸市多和目 土で作った団子を供えて祈る。お礼は白い団子を供える。  
魚藍観音 埼玉県坂戸市小沼  
いぼ地蔵尊(無量寿寺) 埼玉県東松山市下野本 地蔵の線香の灰をつけるとイボが落ちる。  
イボ地蔵・子育地蔵 埼玉県東松山市東平(ひがしだいら) 線香の灰をイボにつけると治る。  
疣取り地蔵 埼玉県日高市女影竹之内  
いぼとり地蔵 埼玉県上尾市平方 おだんごを供えて祈る。  
御蔵山観音・いぼ観音 埼玉県さいたま市南区南浦和2  
いぼ地蔵尊(広田寺) さいたま市南区沼影1−6  
瘤地蔵(万年寺) 埼玉県さいたま市見沼区片柳1−155  
疣とり地蔵 埼玉県川越市古谷上・二ノ関公民館 古谷上(ふるやかみ)泥団子を供えて祈願、お礼は白いお米の団子を供える。  
とんがらし地蔵 埼玉県川越市増形  
疣とり地蔵(観蔵院) 埼玉県川越市上寺山419  
伊刈風間地蔵尊・疣とり地蔵 埼玉県川口市伊刈 (藤右衛門川の真上)  
いぼ地蔵(正源寺) 埼玉県川口市新堀934  
イボとり地蔵さん 埼玉県川口市坂下町4 (須田病院の裏の道)(旧鳩ヶ谷市)  
いぼとり地蔵(西川地蔵堂) 埼玉県志木市本町3−2−29  
イボとり地蔵 埼玉県富士見市東大久保148  
イボとり地蔵 埼玉県富士見市東みずほ台1−3 (並木交差点)  
いぼとり地蔵 埼玉県富士見市上南畑 (蛇木の個人宅)上南畑(かみなんばた)  
下富のお地蔵さん 埼玉県所沢市下富 泥の団子を供えて祈る。お礼は白い米の団子を供える。  
東新井庚申塔 埼玉県所沢市東新井町288(境橋の袂) 土で作った黒だんごを供えて祈る。お礼はお米の白いだんごを供える  
放光地蔵 埼玉県所沢市城242  
いぼ取り地蔵 埼玉県飯能市上直竹上分細田 79年ぶりに改修されました。  
いぼとり地蔵(大蓮寺) 埼玉県飯能市前ケ貫227 前ケ貫(まえがぬき)  
いぼとり地蔵尊 埼玉県飯能市虎秀間野 虎秀(こしゅう)  
疣神社 埼玉県秩父市黒谷  
オクマン様・いぼ神様 埼玉県秩父市下吉田桜井 (熊野神社)(旧秩父郡吉田町下吉田桜井)  
如金(にょっきん)さま・疣神様 埼玉県秩父市吉田久長と秩父郡皆野町下日野沢の境界 札立(ふだたて)峠と大前山(おおまえやま)650mの途中。  
いぼ水 埼玉県秩父郡横瀬町横瀬坂氷 弘法大師の井戸(いぼ水の由来)。  
いぼとり地蔵 埼玉県入間郡三芳町上富1262付近 いぼとり地蔵  
 
千葉県  
疣とり地蔵・塩地蔵 千葉市中央区市場町10 地蔵の塩をイボに塗る。お礼は塩を供える。(胤重寺)  
いぼとり地蔵・塩地蔵 千葉市中央区亥鼻2−10−5 (高徳寺)  
蘇我比盗_社・御霊の大神 千葉市中央区蘇我町1−188  
疣霊神(いぼれいじん) 千葉市若葉区東寺山町 道祖神(疣神様)  
イボ弁天・お多福弁天 千葉県柏市東山2  
石尊宮・疣神様 千葉県我孫子市柴崎 (エボ天)  
熊野神社 千葉県流山市思井 絵馬を供えて祈る。  
いぼとり地蔵(宝蔵院) 千葉県松戸市上矢切1197  
いぼ弁天(平戸弁天) 千葉県松戸市大谷口  
いぼとり地蔵 千葉県市川市大野町迎米 塩を供えて祈る。(旧家及川総本家の近く)  
欠真間不動・いぼとり不動(源心寺) 千葉県市川市香取1−16−26 香取(かんどり)願をかける時に好きなものを断つ。  
いぼとり地蔵 千葉県市川市市川1 (地蔵山墓地)(田中正成逆修供養塔)  
いぼとり妙見(安国寺) 千葉県市川市曽谷1−35−1 曽谷の妙見さま  
池之端弁才天・イボ取りの神 千葉県船橋市東船橋1 日枝神社の境内社か。日枝神社と道祖神社の近くか。  
いぼ神様・姨母神さま 千葉県成田市竜台(たつだい) いぼが治ったお礼にヒシャクを供える。姨母神(いぼがみ)  
いぼ神様 千葉県成田市東和泉宿の台 「このいぼ取って下さい。」と祈る。お礼は稲藁1本づつ右撚りの縄を50本と左撚りの縄50本を奉納する。  
いぼ神様(貴船神社) 千葉県東金市山田295  
高橋地蔵・いぼトリ地蔵 千葉県君津市杢師 香炉の灰を持ち帰り仏壇に供えてからその灰をイボにすり込み祈る。  
イボ取り地蔵 千葉県君津市作木 お線香をあげて祈る。(作木バス停の近く)  
いぼ神様・加藤竹丸忠秀の墓 千葉県佐倉市木野子(きのこ) 「来年の初豆が出来たら一番最初にお上げ致します」と言って祈る。  
米戸道祖神・いぼ神様 千葉県佐倉市米戸 供えてある萩の箸でイボをはさみ、祠のまわりの木に箸をなすりつけるとイボがとれる。お礼は萩の箸を10膳作ってお返しする。  
イボ神(道祖神社) 千葉県佐倉市小竹(おたけ)  
イボ神社・いぼ神様 千葉県印西市船尾(船穂地区) 左縒りの縄1本借りていぼをこする。お礼は左縒りの縄を1本返す。  
疣とり地蔵 千葉県野田市堤台(延命地蔵堂境内) お礼に砂糖を供える。  
疣とり地蔵・子育地蔵 千葉県野田市上花輪 (太子坊境内)小石を2〜3個奉納して祈願する。  
瘤観音 千葉県野田市目吹高根 (馬頭尊堂内)  
疣地蔵 千葉県野田市船形2021  
いぼとり地蔵尊 千葉県市原市徳氏(小湊鉄道飯給駅のちかく) お線香の灰をもらって帰りイボに灰をつける。お礼はお線香を返す。徳氏(とくうじ)、飯給(いたぶ)  
田中地蔵・疣とり地蔵 千葉県市原市今津朝山 お礼は小石を奉納。(延命寺)  
薬師如来像(円明院) 千葉県市原市牛久906  
福授観音・いぼ観音 千葉県袖ヶ浦市代宿1089 (乗蓮寺)代宿(だいじゅく)  
疣取り地蔵 千葉県袖ヶ浦市奈良輪 (奈良輪高架の東側)  
いぼとり地蔵さま(愛染院) 千葉県木更津市中央1丁目3−15  
車地蔵・振袖六地蔵 千葉県木更津市烏田 供えてある石でなでる。  
吉野疣取地蔵菩薩(正法院) 千葉県富津市西大和田647 (上総薬師第6番)  
いぼ地蔵さま 千葉県館山市山本折目台 線香を供え、古い線香灰をいぼにつける。家に帰るまで口を聞かない。  
多幸(タコ)地蔵・イボ取り地蔵 千葉県館山市北条  
爪彫り地蔵・岩屋地蔵 千葉県館山市竜岡(りゅうおか) お礼はこんにゃくを供える。  
いぼとり地蔵 千葉県館山市相浜 地蔵の灰でいぼをさする。  
いぼ神様 千葉県鴨川市太海 お堂の石にイボをこする。  
淨行菩薩・イボ取り地蔵(淨国寺) 千葉県香取市佐原イ タワシでイボをこする。(旧佐原市)  
樹林寺の子持石 千葉県香取市五郷内2063 五郷内(ごこうち)  
いぼとり地蔵 千葉県勝浦市杉戸(すぎど) 地蔵の灰をイボにつける。  
いぼとり不動・いぼとりの水(東漸寺) 千葉県いすみ市国府台59 いぼとりの水(湧き水)をつけていぼとり不動明王に祈る。(心のイボをとるお不動様)  
いぼとり不動(眺洋寺) 千葉県いすみ市岬町井沢1166 (旧夷隅郡岬町井沢)  
岩船地蔵尊 千葉県いすみ市岩船区南台  
八幡神社(疣八幡) 千葉県長生郡睦沢町川島 社前の椎の木下の砂をイボにつける。お礼は枝豆・小旗を奉納。  
椎の古株・イボ神様(観音堂) 千葉県長生郡白子町関 観音堂前の椎の古株にイボをなすりつけて祈る。お礼は豆や小旗を奉納する。  
道祖神・いぼ神様 千葉県山武市寺崎沖寺崎 (旧山武郡成東町寺崎)  
いぼ神様・稲荷社 千葉県山武市松尾町下大蔵 供えてある石でイボをこする。(旧山武郡松尾町下大蔵)  
イボ取り仁王(善福寺) 千葉県山武郡九十九里町粟生 いぼの部位をさすり、仁王の同じ部位をさする。粟生(あお)  
月読神社 千葉県山武郡九十九里町片貝4004  
横芝のいぼ神様 千葉県山武郡横芝光町横芝 供えてある石でこする。お礼に石を返す。  
清水庵・いぼとり観音 千葉県銚子市清水町1427 (清水の観音様)  
横根のいぼ神さま 千葉県旭市横根 (旧海上郡飯岡町)(横根の路傍)  
飯岡漁港近くの疣神さま 千葉県旭市下永井 (旧海上郡飯岡町)(飯岡漁港降り口右側)  
疣神様・馬頭観音 千葉県匝瑳市吉崎 (吉崎天王前)(旧八日市場市吉崎)  
道祖神・イボ神様(六社神社) 千葉県匝瑳市野手1494 野手(ので)(旧匝瑳郡野栄町)  
イボとり地蔵 千葉県夷隅郡大多喜町小田代 (養老渓谷),小田代(こただい)  
いぼとり地蔵(水月寺) 千葉県夷隅郡大多喜町小沢又 小沢又(こざわまた)  
いぼ神様 千葉県安房郡鋸南町江月 神様に供えた線香の灰をイボに塗る。江月(えづき)  
嵯峨志のいぼり地蔵 千葉県南房総市三芳村山名 地蔵さんをなでた手でいぼに触れる。お礼は線香を一束(いっちゃ線香)奉納する。(旧安房郡三芳村山名)  
疣取り地蔵尊・朝日地蔵尊 千葉県南房総市富浦町南無谷岡町 線香の灰をつける。(旧安房郡富浦町南無谷岡町)  
いぼ井戸 千葉県南房総市谷向 谷向(やむかい)  
いぼとり地蔵 千葉県南房総市上滝田 上滝田(かみたきだ)  
いぼとり地蔵 千葉県南房総市九枝 
 
東京都  
疣取り地蔵・身代り地蔵 東京都北区浮間2−4地先 (北向地蔵堂)  
庚申様 東京都北区志茂4−29 (庚申堂)線香の灰をいぼにつけるといぼが落ちる。  
疣取地蔵 東京都板橋区赤塚8−4 (松月院の近く)  
いぼとりの蛸薬師・蛸薬師庚申塔(延命寺) 東京都板橋区志村1−21−12  
いぼとり地蔵(円明院) 東京都練馬区錦1−19 線香を供えて祈り、線香のけむりを浴びる。ブログ青空を御覧下さい。  
いぼとり地蔵(禅定院) 東京都練馬区石神井町5−19 土の団子を供えて祈る。お礼は米の団子を供える。(いぼ神地蔵)  
塩かけ地蔵・いぼとり地蔵 東京都新宿区新宿2(太宗寺) 塩を少しもらって帰り、お礼は塩の倍返し。  
疣天神(葛谷御霊神社) 東京都新宿区西落合2−17−17 小石を借りてイボをさする。  
塩かけ地蔵(東福寺) 東京都渋谷区渋谷3−5−8  
こぶとり地蔵・いぼとり地蔵 東京都中野区白鷺1−16 (福蔵院向い)小石を供えて祈る。  
いぼ地蔵 東京都世田谷区弦巻1−41 小石を借りてイボをなでる。お礼は小石の倍返し。  
いぼ庚申(宝性寺) 東京都世田谷区船橋4−39−32  
塩地蔵(西新井大師) 東京都足立区西新井1−15 地蔵に奉納された塩をイボにつける。お礼は塩の倍返し。(總持寺)  
えぼ地蔵 東京都足立区加平1−2−37 加平(かへい)  
佐竹稲荷神社 東京都足立区梅田6ー28−7 (いぼ稲荷)豆腐と油揚げを供えて食断ちをする。  
疣とり地蔵(福寿院) 東京都足立区大谷田3−11−26 (旧中川の疣取り地蔵)  
疣取り庚申 東京都足立区青井6−21−16 (個人宅)  
いぼとり地蔵・子育地蔵(阿弥陀院) 東京都足立区保木間4丁目17−13  
いぼ地蔵(東善寺) 東京都足立区花畑3−20−6  
疣取り地蔵(性翁寺) 東京都足立区扇町2丁目−19 (いぼころり地蔵)  
槐戸地蔵(さいかちどじぞう) 東京都足立区梅島二丁目10−5  
いぼとり地蔵尊(極楽寺) 東京都葛飾区堀切2−25−21 地蔵にふりかけた塩をイボにすりこむ。  
いぼとり地蔵(観蔵寺) 東京都葛飾区東金町7−1−2 1合の塩を供えて祈る。お礼は1升の塩。  
いぼとり地蔵(善養寺) 東京都葛飾区西亀有3−43−5  
いぼとり地蔵(蓮蔵院) 東京都葛飾区東水元2丁目39−10 一合の塩を供えて祈る。お礼は一升の塩を奉納。  
いぼとり地蔵(勝養寺) 東京都葛飾区青戸3丁目25−14  
いぼとり地蔵・塩舐め地蔵 東京都江東区大島8ー38−32 奉納された塩をイボにつける。(宝塔寺)  
取持地蔵尊(永代寺) 東京都江東区富岡1−15−1  
おいぬさま(亀戸天神社) 東京都江東区亀戸3−6−1 狛犬  
イボ神様・いぼ庚申 東京都目黒区上目黒2−19 (けこぼ坂庚申塔)  
蛸薬師(成就院) 東京都目黒区下目黒3−11 蛸薬師如来御撫石(おなでいし)でイボをなでる。  
大原不動尊 東京都品川区豊町 (ゆたか商店会、豊町交番隣り)  
頓兵衛地蔵 東京都大田区下丸子1−1 地蔵を削った砂をイボにつける。  
いぼとり地蔵(妙見堂) 東京都大田区池上1昭栄院 祠の石をもらいいぼに朝夕あてる。お礼は石の倍返し。  
いぼ地蔵(大楽寺) 東京都大田区新蒲田3−4−12 (鎌田不動尊)供えた小石でイボをこする。お礼は豆腐を供える。  
いぼとり観音・馬頭観音 東京都大田区池上3−38−23 (微妙庵・毘沙門天)  
北向き地蔵 東京都西多摩郡日の出町平井 (三吉野下平井の保泉院)  
えぼ地蔵 東京都西多摩郡奥多摩町棚沢  
安産疣取延命地蔵 東京都青梅市成木3 小石でイボをなでる。お礼は石の倍返し。(長全寺)  
塩地蔵・いぼ取り地蔵 東京都狛江市岩戸北4 (慶岸寺)  
いぼとり地蔵(光照寺) 東京都調布市柴崎1ー38 頂いた石でいぼをこする。お礼は塩俵を供える。  
西向き庚申様 東京都府中市住吉町 線香の灰をイボにつける(京王電鉄京王線中河原駅前)  
飛飯縄(とびいずな)堂 東京都八王子市高尾町2177 堂内の小石でイボをこする。(高尾山薬王院有喜寺)  
いぼとりの水 東京都八王子市弐分方町267 (I様宅)  
疣神さま 東京都八王子市寺田 荒縄で地蔵を縛りあげ「やい地蔵、このイボを取れ、取れれば縄はほどいてやる。もしとらなければもっときつく縛ってしまうぞ」と言い渡す。  
松っこごれ地蔵 東京都東大和市高木 お礼は松ぼっくりを奉納する。  
疣地蔵 東京都昭島市拝島町5−9 荒縄でしばりイボを治してくれたら縄を解くと願掛けをする。  
千佛地蔵・疣地蔵 東京都福生市加美平3−26 地蔵の石を持ち帰りイボをこする。お礼は新しい石を返す。  
かに地蔵・いぼとり地蔵 東京都福生市福生1182宮本墓地 小石でイボをこする。  
とうがらし稲荷・イボ取り稲荷 東京都稲城市坂浜(小田良通り)  
イボ神様(庚申塔) 東京都町田市森野5丁目 (森野5丁目バス停近く) 
 
神奈川県  
イボ取り地蔵(福泉寺) 横浜市緑区長津田3113 供えてある小石でイボをさする。お礼は新しい小石を返す。  
いぶき野の疣地蔵 横浜市緑区いぶき野 (いぶき野交差点近く)  
岩船地蔵 横浜市旭区矢指町 (旭区金が谷644の横浜ほうゆう病院の向かい)  
イボトリ地蔵(長昌寺) 横浜市旭区さちが丘59 (曹洞宗永谷山長昌寺)  
大熊地蔵尊 横浜市都筑区大熊町 (子育て地蔵尊)  
原のいぼ取り地蔵 横浜市西区宮ケ谷51 お堂の小石でイボをこする。お礼は小石を返して香華を供える。  
疣取地蔵尊 横浜市鶴見区鶴見1−3−5(東福寺) 地蔵の足元の石を借りてイボを撫でる。  
イボ地蔵(専念寺) 横浜市鶴見区市場東中町3−18 (京急鶴見市場駅前)(延命子育て地蔵)  
岩舟地蔵尊(宝心寺) 横浜市泉区和泉町3193  
いぼ地蔵 横浜市戸塚区平戸町  
延命地蔵・いぼとり地蔵 横浜市栄区小菅ヶ谷3 小石でイボをこすり、小石を奉納して祈る。(小菅ヶ谷幼稚園前)  
谷戸坂地蔵尊 横浜市金沢区富岡東5谷戸坂 石でこする。お礼は石の10倍返し。(悟心寺の近く)  
和田地蔵尊 横浜市保土ヶ谷区和田1 帷子川の川原の石を拾ってイボのこすりつけ地蔵に供える  
えぼ地蔵(唱導寺) 横浜市港南区日野中央1−6  
いぼとり地蔵・塩嘗地蔵 横浜市神奈川区神大寺4−13 塩嘗(しおなめ)地蔵。お礼に塩を奉納する。  
石観音堂 神奈川県川崎市川崎区観音2 イボにお堂の灰をつける。  
いぼとり地蔵(田中の寮) 神奈川県川崎市川崎区小田2  
六地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県川崎市麻生区栗木203 地蔵の頭をつげくしで撫で、そのくしをイボにつける。(常念寺)  
疣とり地蔵 神奈川県川崎市麻生区片平5  
いぼ取り地蔵(秋月院) 神奈川県川崎市宮前区菅生2  
いぼとり地蔵(増福寺) 神奈川県川崎市高津区末長775 増福寺の入口近く、マンションの一角にたっている。地蔵の石でいぼをこする。  
いぼとり地蔵(明王院) 神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目ー14−3  
いぼとり地蔵(薬師堂) 神奈川県相模原市中央区上矢部 お礼は大豆を入れた赤い布で作っ俵を3俵ほど奉納する。  
石神社(田名八幡宮) 神奈川県相模原市中央区田名  
いぼ神様・道祖神 神奈川県相模原市緑区大島上大島 神様にお願いしてからそばの榎にイボをこする。お礼は飴玉や団子を年の数だけ奉納する。  
雨降地蔵尊・イボ取り地蔵 神奈川県相模原市緑区川尻5770 (大地沢青少年センターの入口の三叉路)  
お不動様・いぼ神様 神奈川県相模原市緑区名倉4524 (旧津久井郡藤野町漆久保)  
いぼ落としのお地蔵様 神奈川県相模原市緑区牧野 向沢(網子隧道口)  
いぼとり地蔵 神奈川県海老名市大谷3469 (大谷観音堂)(元清眼寺の閻魔堂)  
いぼとり地蔵・延命地蔵 神奈川県愛甲郡愛川町三増 (法華堂の近く)  
いぼとり地蔵 神奈川県大和市深見一之関 小石を供える。  
子育て地蔵・いぼ神様 神奈川県大和市福田根下 地蔵の石を借りてイボを撫でる。お礼は石の倍返し。  
イボ取り地蔵 神奈川県大和市上草柳 地蔵前の石を借りてイボをなでる・お礼は石の倍返し。  
とげぬき地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県綾瀬市寺尾台3−10 供えた小石を借りていぼを撫でる。お礼は小石を2から3個返す。  
いぼとり地蔵さん 神奈川県綾瀬市小園(こぞの) (地蔵堂)(旧東光山延命寺)  
砂坂地蔵・いぼ地蔵 神奈川県横須賀市大津町1−3−28  
馬頭観音(馬頭観音堂) 神奈川県横須賀市田浦3 (静円寺下)  
子育地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県厚木市下川入根岸 地蔵さんの首の松かさでいぼをこする。  
いぼとり石(八幡神社) 神奈川県厚木市戸田1055 いぼとり石の小さな穴の中の小石でいぼをこする。お礼は小石を倍にして返す。  
とんがらし地蔵・いぼとり地蔵 神奈川県高座郡寒川町宮山町1785(興全寺) 線香の灰をイボにつける。お礼は年の数のとうがらしの数珠をつくり地蔵に掛ける。  
いぼとり地蔵 神奈川県茅ヶ崎市芹沢三軒大谷 地蔵の蓮華の台座の石でイボをこする。  
いぼとり地蔵・延命地蔵 神奈川県茅ヶ崎市行谷上 行谷(なめがや)  
三日月さま 神奈川県茅ケ崎市西久保 (小澤宅)  
いぼとり地蔵(地蔵院霊川寺) 神奈川県三浦市初声町三戸1117 線香の灰をイボにつける。お礼は貝殻を数珠にして供えて祈る。  
下宮田のいぼとり地蔵 神奈川県三浦市初声町下宮田  
疣取地蔵(永楽寺) 神奈川県三浦市南下浦町菊名312  
疣取り地蔵 神奈川県葉山町堀内 (葉山小学校脇のうしがやとの路地裏の牛ケ谷地蔵堂)  
恵母(えも)地蔵 神奈川県藤沢市高倉 (七ツ木市民の家入口交差点西側)(大山街道繁昌記によるとイボ神様)  
いぼ取り一色地蔵尊 神奈川県藤沢市石川5−18 地蔵様の石でイボをこする。  
椿地蔵・いぼ地蔵 神奈川県鎌倉市手広 大豆の数珠を供えて祈ります。  
泉光院のいぼ取り地蔵 神奈川県鎌倉市上町屋631(泉光院) 石でイボをこする。  
いぼ取り地蔵(貞宗寺) 神奈川県鎌倉市植木656   
網引地蔵・いぼとり地蔵(浄光明寺) 神奈川県鎌倉市扇ケ谷2−12−1 やぐら内の写経石でいぼをこするといぼがとれたと言われている。  
瘡守神社(上行寺) 神奈川県鎌倉市大町  
疣地蔵 神奈川県逗子市桜山6(地蔵山ふれあいセンター近く) (葉桜団地入口の上の庚申塚)  
いぼとり地蔵(香雲寺) 神奈川県秦野市西田原437 供えてある小石でイボをこする。  
馬場のイボ神様 神奈川県秦野市菖蒲 供えてある石でイボをこする。お礼は新しい石を供える。  
毘沙門天(毘沙門堂) 神奈川県小田原市水之尾 (水峯庵毘沙門天)  
愛の地蔵尊・泣き原の地蔵 神奈川県中郡大磯町西久保 小石でイボをこする。お礼は小石を倍にして返す。  
イボ神 神奈川県南足柄市沼田 (沼田城址)  
弘法のいぼとり水 神奈川県足柄下郡箱根町須雲川 石に溜まった水をイボにつける。  
二つのいぼ神様 神奈川県足柄上郡山北町神縄 いぼ神様を荒縄で縛って神様を脅迫する。イボが取れたら縄を解く。 
 
中部

 

山梨県  
いぼ水 山梨県山梨市東岩手 (荒神山の麓)(大石神社)  
軍刀利神社(ぐんだりじんじゃ) 山梨県上野原市棡原井戸 手水舎の手洗い水をイボにつける。  
いぼ神様 山梨県大月市富浜町宮谷新道 清水の水でイボを洗う。  
硯水不動尊の霊水 山梨県富士吉田市大明見4401 大明見(おおあすみ)  
白山神社・疣神様 山梨県南都留郡富士河口湖町淺川 年令の数の松かさを白糸で綴って奉納する。  
石割神社 山梨県南都留郡山中湖村平野 岩の割れ目から落ちる湧水をイボにつける。  
疣とり地蔵(西涼寺) 山梨県都留市中央4−4 八代上人のお墓の前の自然石の水鉢に溜まった水をイボにつける。  
三界萬霊等・疣神さま 山梨県笛吹市八代町北 三界萬霊等前の石の水鉢に溜まった水をイボにつける。(宝福院)(旧東八代郡八代町)  
いぼ地蔵 山梨県西八代郡市川三郷町高田 地蔵の顔を石でこすり、石の粉をイボにつける。(旧市川大門町)、三郷町(みさとちょう)  
いぼ地蔵 山梨県西八代郡市川三郷町宮原  
いぼ取り欅 山梨県北杜市長坂町長坂上条 (穂見諏訪十五所神社)(旧北巨摩郡長坂町)  
いぼ水さん 山梨県北杜市大泉町西井出油川 湧き水をつける。(松と桜の老木の下)(旧北巨摩郡大泉村)  
いぼ石 山梨県北杜市小渕沢町岩窪 石のくぼみに溜まった水をイボにつける。(諏訪神社・石宮神社)(旧北巨摩郡小渕沢町)  
疣地蔵・小笠原長清の墓 山梨県北杜市明野町小笠原 (旧北巨摩郡明野村小笠原)  
切房木の岩舟地蔵尊 山梨県南巨摩郡身延町切房木  
 
静岡県  
いぼ神様(大屋八幡) 静岡県熱海市初島 祠の石を借りてイボをこする。取れたら石を裏返しにして返す。  
イボの神様(伊豆島田公園) 静岡県裾野市伊豆島田256−1 石の窪みの水に松傘を浸してイボにつける  
諏訪神社(いぼ神さま) 静岡県御殿場市竈 神社の御手洗の神水をイボにつける。  
いんぼ地蔵 静岡県下田市吉佐美 石でイボをこする。お礼に石を一つ返す。  
いんぼ地蔵 静岡県下田市箕作 地蔵の石を前の沢の水にひたしイボをこする。箕作(みつくり)  
大沢地蔵尊・疣とり地蔵 静岡県伊豆の国市浮橋 地蔵さんの軽石を借りてイボをこする。お礼は軽石を2個返す。(旧田方郡大仁町浮橋)  
いぼ石 静岡県伊豆市修善寺湯舟 (旧田方郡修善寺町修善寺)  
地持地蔵菩薩(大守院) 静岡県伊豆市八木沢 きれいな水を供えて祈願しその水を持ち帰りいぼにつける。(旧田方郡土肥町八木沢)  
金米さん 静岡県伊豆市土肥横瀬 (旧田方郡土肥町土肥)  
いぼ地蔵・大地蔵さん(慈眼寺) 静岡県賀茂郡西伊豆町宇久須321 地蔵の水鉢の水をイボにつける。お礼に赤い布か小石を供える。(旧賀茂郡賀茂村宇久須)  
疣水神社(東光寺) 静岡県田方郡函南町日守747 霊泉をいぼにつける。  
イボ神さん・山神社 静岡県駿東郡清水町八幡103  
いぼ神様 静岡県沼津市原  
西町の蛙石 静岡県富士宮市西町 蛙石の前に供えられた水をつける。  
青見の疣石 静岡県富士宮市大中里青見 石の疣に紙縒を結んで祈る。  
沼久保の疣神さん 静岡県富士宮市沼久保 石の窪みの水をイボにつける。  
頼朝の矢筒石・イボ神様 静岡県富士市天間  
疣神様(瘡守稲荷) 静岡県富士市本市場 供えられた白石でイボをこする。お礼は石の倍返し。  
傘木のいぼ神さん更新 静岡県富士市伝法傘木上692 石の窪みの水をイボにつけて祈り、後ろを振り向かず家に帰る。(浅間神社)  
石井浅間神社 静岡県富士市石井胡麻林116 (本殿前の水盤)富士おさんぽ見聞録の石井浅間神社  
いぼとり不動尊(滝不動)更新 静岡県富士市原田 滝の水をイボにつけて不動尊にお参りをするとイボが落ちる。PDF富士市ふるさとの昔話2  
五貫島の庚申さん 静岡県富士市宮島83−1 「松かさを歳の数だけ供えます」と言って祈る(五貫島観音堂)  
義経硯水 静岡市清水区蒲原硯水 供養塔に溜まった水をイボにつける。(旧庵原郡蒲原町蒲原)  
縄掛けのいぼ神さん 静岡市清水区由比町阿僧前田237 紙縒の縄を地蔵の首に掛けて祈る。お礼は炒った大豆を年の数。(常円寺)(旧庵原郡由比町)  
いぼとり観音 静岡市清水区由比町東倉沢 供えた水を持ち帰りイボにつける。(旧庵原郡由比町)  
播磨のばあさま 静岡市清水区小河内中川原 播磨のばあさまに供えられた茶碗の水をいぼにつける。  
宝塔・いぼがみさん 静岡市清水区八木間町 宝塔の前に供えられた茶碗の水をいぼにつける。(法泉寺)  
イボがみさま(浄蓮寺) 静岡市清水区八木間町 五輪塔に溜まった水をイボにつける。お礼はお豆腐を奉納する。  
ごりんさん・いぼ神 静岡市清水区中河内小川 どんどん沢の水を「ごりんさん」に供えて持ち帰りイボにつける。  
いぼ神・石塔 静岡市清水区谷津町2 (字城山368、横山城跡山頂西)  
いぼ取り地蔵 静岡市清水区袖師町 お礼は赤・青・白の七色菓子を供える。(延命地蔵)  
疣宮さん(白髭神社) 静岡市清水区北脇 疣石の水をイボにつける。  
おしゃもじさん更新 静岡市清水区三保3051−1 (佐久神社)  
瀬織戸神社・辧天様更新 静岡市清水区折戸1−16−6 お礼は年の数だけ白石を供える。  
大日如来堂 静岡市清水区南矢部 井戸の水をイボにつける。  
静岡浅間神社 静岡市葵区宮ヶ崎町 御池の水をイボにつける。  
いぼ石 静岡市葵区諸子沢 石の上に線香を供える。  
疣取り窪石 静岡市葵区足久保奥長島 窪みに溜まった水を木の葉につけてイボにつける。  
疣取り地蔵 静岡市葵区落合  
疣地蔵尊 静岡市葵区富沢  
西脇のいぼとり地蔵 静岡市駿河区西脇(椙地蔵尊) 水鉢の水をイボにつける。お礼は白い石を年令の数を奉納する。  
いぼ地蔵 静岡市駿河区中島 (川除け地蔵)  
滝不動明王(誓願寺) 静岡市駿河区丸子大鈩誓願寺 滝の涌き水をつけて不動に祈るとイボがおちる。  
白石大明神 静岡市駿河区用宗2 石に触ってイボ取りを祈る。  
穴地蔵・いぼ地蔵 静岡市駿河区小坂日本坂峠 地蔵に手で触れて祈る。お礼は穴あき石を奉納する。  
いぼ地蔵(長福寺)更新 静岡県焼津市関方 平たい石を借りてイボをこする。(長福寺門前)  
疣地蔵尊(常観寺) 静岡県焼津市西焼津 地蔵の小石でイボをこするとイボが取れる。  
いぼ地蔵 静岡県藤枝市青南町1 (栃山川右岸堤防)(きゅういち橋袂)  
いぼ地蔵 静岡県藤枝市内瀬戸646 イボイボの地蔵の頭を撫でる。(延命寺)  
いぼ地蔵更新 静岡県藤枝市横内堂の前 お礼は土の団子を供える。  
観世音菩薩(清林寺) 静岡県藤枝市高柳2425 観世音菩薩に供えた水を頂いてイボにつける。  
大松のいぼとり地蔵 静岡県藤枝市岡部町子持坂 丸い小石を地蔵に触れ、その石でいぼをさする。  
いぼとり地蔵 静岡県島田市岸2015 (岸の大日山、大日堂)  
いぼ地蔵 静岡県島田市稲荷町1−3 大井川公園 (大井川地蔵尊)  
石経さん・イボ取り地蔵 静岡県焼津市飯渕20 地蔵のところにある穴のあいた石でこするとイボがとれる。(長徳寺)(旧志太郡大井川町)  
浜の棒杭さん・川尻浜地蔵 静岡県榛原郡吉田町川尻川尻浜 供えてある赤い石でイボを撫でる。(農協川尻支店西を浜に出たところ)  
お地蔵さん・延命地蔵尊 静岡県榛原郡吉田町川尻東中2134 供えてある小石でイボをこする。  
しけ地蔵さん・波よけ地蔵さん 静岡県榛原郡吉田町住吉5436−22 供えてある赤い石でイボをこする。  
夫婦槇・こぶ槇(掉月庵) 静岡県牧之原市細江 こぶ槇の木をさすって願いをかけるとイボがおちる。(旧榛原郡榛原町)  
いぼとり地蔵 静岡県牧之原市細江道上  
いぼ地蔵様 静岡県牧之原市坂部 (地蔵峠の近く)  
いぼ神様(太郎坊大権現) 静岡県菊川市下内田 お礼参りは年の数だけ大豆を奉納する。(旧小笠郡菊川町下内田)  
いぼ地蔵(常現寺) 静岡県掛川市日坂506−1 地蔵の前にある首を地蔵の首を載せて祈り、首を外して元に戻す。  
いぼとり地蔵・延命地蔵 静岡県掛川市成滝西山口 線香の灰をイボにつける  
いぼ地蔵(竜眠寺) 静岡県掛川市西大渕5659  
雷三神社 静岡県磐田市見付2696 社前の赤石を持ち帰るといぼがとれる。  
いぼとり地蔵 静岡県磐田市浜部(元安楽寺) 地蔵に供えられた赤い石でいぼを撫でる。お礼は赤石の3つ返す。  
クロガネモチの雄木・疣の木 静岡県磐田市西之島 いぼを木にすりあて「いぼいぼこの木に渡れ」と3度祈る。(塩竃神社)  
弥藤観音 静岡県磐田市弥藤太島 イボに触れて観音の額に手を当てて祈る。お礼に大豆の首飾りを供える。(旧磐田郡豊田町弥藤太島)  
いぼ石 静岡県磐田市万瀬 万瀬(まんぜ)(旧磐田郡豊岡村万瀬・三森神社) 中遠昔はなし(第27話)  
延命いぼとり地蔵 静岡県磐田市藤上原大藤第9区 藤上原(ふじかんばら)  
いぼとり石(小島方公民館) 静岡県磐田市豊浜3013−1 赤い石でイボをこする。(旧福田町・宝泉寺跡)  
イボ取り地蔵(龍法院)  静岡県磐田市大原2371 (旧福田町)線香の灰をつけるとイボが取れる  
いぼ薬師(長溝院) 静岡県袋井市長溝800 (旧磐田郡浅羽町長溝)  
鶴松院のお薬師さま 静岡県袋井市山科3198 イボが取れたお礼に年の数だけ豆を糸に通して納める。  
疣取り地蔵・柚の木地蔵 静岡県袋井市見取 (見取公会堂前) 中遠昔はなし(第34話)  
いぼとりさん(梅林院) 静岡県周智郡森町 奉納の刀でいぼを切るように触れてから灰をいぼにつける。  
いぼとり池(小国神社)更新 静岡県周智郡森町一宮3956 池の水をいぼにつける。  
いぼ取地蔵・阿弥陀如来 静岡県周知郡森町三倉 松ぼっくりを糸に連ねて供え祈る。  
いぼと地蔵尊 静岡県浜松市天竜区春野町宮川里原 地蔵の前の石の水鉢にたまった水をつける。(旧周智郡春野町宮川里原)  
疣観世音菩薩(西来院) 静岡県浜松市天竜区西藤平 岩から涌き出た清水をイボにつける。(旧天竜市西藤平)  
鏡石の水 静岡県浜松市天龍区熊 (林道柴線)  
子安地蔵・いぼとり地蔵 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 (毘沙門堂のそば)  
宇津木大明神(長久寺) 静岡県浜松市東区西塚町278 イボとりを祈願してイボが取れたらモミガラを奉納する。  
花の木のいぼ神様 静岡県浜松市東区積志町橋爪西 イボとりを祈願してイボが取れたらモミガラを奉納する。  
政勝稲荷(甘露寺) 静岡県浜松市東区中郡町1026 祠の赤石でイボをさする。お礼は赤石を1個加えて返す。  
延命地蔵・いぼとり地蔵 静岡県浜松市東区安新町126 (普伝院)  
観音堂(お観音様) 静岡県浜松市北区都田町須部尾高山 観音堂の石段から湧き出る水をつける。  
水岩山(疣観音) 静岡県浜松市北区細江町小野 岩の窪みに溜まった水をイボにつけるとイボが取れる。(旧引佐郡細江町小野)  
水神社 静岡県浜松市西区西山町  
いぼとり地蔵(洞雲寺) 静岡県浜松市西区神ヶ谷町 線香の灰をイボにつける。お礼は松傘の首飾り。  
辻地蔵・いぼとり地蔵 静岡県浜松市南区倉松町 松かさを供えて祈る(寿福寺の東方30m)  
 
長野県  
いぼ直し石 長野県下高井郡山ノ内町 まわりにある小石でイボを撫でる。(湯田中温泉)  
瘡守稲荷神社・瘡守さん 長野県千曲市羽尾 羽尾(はねお) 千曲川で拾った小石を供え、その石でイボをこする。(旧埴科郡戸倉町)  
エボ神様 長野県上田市常磐城(ときわぎ) 巨石の穴にたまった水をつける。亘理駅(わたりのうまや)  
いぼ石(諏訪神社) 長野県上田市下之郷(生島足島神社) 諏訪神社は生島足島(いくしまたるしま)神社の境内社。  
疣取地蔵尊・いいなり地蔵 長野県東御市田中 東御市(とうみし)(旧小県郡東部町)  
いぼ神様・イチイの巨樹 長野県佐久市常和下宮 根元の空洞に石を投げ込む。(白山神社)常和(ときわ)  
やわたさん(八幡神社) 長野県佐久市蓬田(よもぎだ) 石でイボをこする。お礼は石の倍返し。(旧北佐久郡浅科村)  
烏明神・イボ取り神社 長野県北佐久郡軽井沢町長倉鳥居原 神社の小石でイボをこする。  
八幡様(八幡神社) 長野県南佐久郡川上村秋山 社前の石をなでる。  
疣神様 長野県諏訪郡富士見町富士見横吹 (宝篋印塔)水をイボにつける。  
出早社(いずはやしゃ) 長野県諏訪市中洲宮山1 小石を捧げて祈る。(いぼ石神)(諏訪神社上社)  
疣石 長野県諏訪市岡村1 石に溜まった水をつけるか石でこする。「いぼいぼ一本橋渡れ」という。  
疣石 長野県諏訪市北沢 小石を借りてイボをこする。お礼は石の倍返し。  
いぼ石 長野県諏訪市湯の脇(児玉石神社) いぼ石に溜まった水をイボにつける。  
いぼ石(諏訪大社下宮春宮) 長野県諏訪郡下諏訪町大門193 いぼ石に溜まった水をイボにつける。  
阿礼神社 長野県塩尻市塩尻町433−1 石燈籠を削った石の粉をイボにつけた。  
いぼ地蔵(松林寺) 長野県塩尻市片岡10490−1  
永田徳本の籃塔 長野県岡谷市東堀 藍塔の石でイボをこする。尼堂(あまんどう)墓地。  
夫婦石 長野県岡谷市今井 石の窪みの水をイボにつける。  
いぼ石 長野県松本市中山 窪みの水でイボを洗う  
水沢観音堂(盛泉寺) 長野県松本市波田6011 天陽山盛泉寺(通称水沢観音)  
イボトリ地蔵 長野県松本市安曇大野田  
行人様・イボ神様 長野県安曇野市豊科高家(たきべ) 境内の小石をなでる。お礼は石の倍返しか茶を供える。  
赤沢稲荷 長野県安曇野市三郷小倉室町 赤い石でイボをこすり、その石を供える。  
駒の足跡 長野県北安曇郡小谷村黒倉 溜まった水でイボを洗う。小谷(おたり)  
十二様・いぼの神様 長野県北安曇郡小谷村中土 石でイボをこする。  
辻沢のいぼ神様 長野県駒ヶ根市辻沢 いぼ神様のほうきを借りていぼをはらう。お礼は新しいほうきを返す。  
北原のイボ地蔵 長野県駒ケ根市赤穂北割一区 (とび地蔵)  
いぼ神様 長野県飯田市天竜峡温泉 ポットホールの水でイボを洗う。  
イボ地蔵様 長野県飯田市大瀬木(おおせぎ)  
イボ取り観音 長野県飯田市南信濃和田・遠山郷 (旧下伊那郡南信濃村)  
小沢の疣水・疣水さま 長野県伊那市伊那小沢 (日向坂の中腹)  
いぼ神様 長野県上伊那郡辰野町伊那冨神戸 (神戸(ごうど)下のどん沢の入り口。)溜まった水をイボにつける。  
イボ神様・堀内神社 長野県上伊那郡飯島町鳥居原 イボ石の窪みの水をイボにつける。  
いぼ神様 長野県下伊那郡松川町上片桐  
いぼ石・イボ岩 長野県下伊那郡阿南町和合 石の窪みの水をイボにつける。(和合川の黒淵)  
いぼ石 長野県下伊那郡阿南町富草 石の窪みの水をイボにつける  
いぼ薬師 長野県下伊那郡阿南町新野  
いぼ石 長野県下伊那郡泰阜村田本 石に溜まった水をイボにつける。泰阜(やすおか)  
疣石 長野県下伊那郡高森町市田 石に溜まった水をイボにつける。  
鬼の手石・いぼ石 長野県下伊那郡高森町大島山 石の窪みの水をイボにつける。(天白公園)  
いぼ石 長野県下伊那郡阿智村浪合 石の窪みの水をイボにつける。浪合(なみあい)  
いぼ取り地蔵 長野県下伊那郡大鹿村鹿塩  
いぼとり観音(中山観音) 長野県木曾郡南木曾町十二兼 南木曾町(なぎそまち)  
イボ石 長野県木曽郡大桑村野尻 「イボイボ渡れこのはし渡れ。」といいながら、イボを箸でつまんでイボ石に置くしぐさをする。 
 
新潟県  
イボ地蔵 新潟県村上市大毎(おおごと) ムカゴの数珠を地蔵の首にかける。(旧岩船郡山北町)、山北(さんぽく)  
イボ地蔵 新潟県村上市大沢 イモゴの数珠を地蔵の首にかけて拝む。(旧岩船郡山北町)  
イボ地蔵 新潟県胎内市鍬江 イボ地蔵に祈願しオロシ皿でイボをこする。(旧北蒲原郡黒川村鍬江 公民館裏の虚空蔵堂)  
観音堂・イボ取り観音 新潟県岩船郡関川村大石 「いぼを取って下さい」の願文と卸し金にいぼ形を年の数書いた紙を供える。  
芹田のいぼ地蔵(地蔵堂) 新潟県東蒲原郡阿賀町日野川甲 (旧上川村芹田)  
イボ取り地蔵尊 新潟県五泉市大口(地蔵堂) 小石を供えて祈る。お礼は団子を供える。(旧中蒲原郡村松町大口)  
イボとり地蔵尊 新潟市西蒲区三方 (旧西蒲原郡潟東村三方)三方(さんぼう)  
イボ地蔵 新潟市西蒲区伏部 (旧西蒲原郡巻町)伏部(ふすべ)  
いぼとり地蔵・首地蔵 新潟市西蒲区矢島 (旧西蒲原郡西川町)地蔵に触れて祈る。  
才歩(さいかち)の地蔵様 新潟県南蒲原郡田上町田上 川の小石を供えて祈り、供えてあった小石でいぼをこする。  
イボ地蔵さま 新潟県見附市堀溝町 年の数のムカゴを供えてイボトリ祈願。  
疣水(釈迦堂) 新潟県魚沼市下折立・折立温泉 湧き水でいぼをあらう。(旧北魚沼郡湯の谷村下折立・折立温泉)  
いぼ神様 新潟県南魚沼市大和町赤石 (旧南魚沼郡六日町大和町)  
月岡のいぼ地蔵 新潟県南魚沼市長崎 (旧南魚沼郡塩沢町長崎)  
恵保地蔵様・子安恵保地蔵様 新潟県南魚沼市六日町田中町 地蔵様にある石を借りてイボをこする。お礼は石を2個返す。  
いぼ清水(不動院) 新潟県柏崎市土合 水でイボを洗う。(西中通地区)  
薬師如来(安蔵田観音堂) 新潟県柏崎市高柳町岡野町 小石を持ち帰りイボをこする。お礼は自分の年令の数の小石を納める。  
えぼ地蔵(西光寺) 新潟県柏崎市大久保1丁目8−23  
石抱き地蔵・疣地蔵 新潟県柏崎市両田尻 (昔は井戸水をイボにつけた。)  
疣洗の石(大野日吉神社) 新潟県佐渡市新穂(にいぼ)大野 石の窪みに溜まった水をつける。家に帰るまで振り向いてはいけない。(旧新穂村)  
いぼとり地蔵 新潟県上越市寺 (エスビーガーリック食品株式会社高田工場前)  
蟹池地蔵尊・いぼとり地蔵 新潟県上越市下門前1663 (ホテルビジネスイン上越の西向の公園内)  
 
愛知県  
いぼ岩 愛知県北設楽郡豊根村古真立 (小字分地ほうしょう)(旅と伝説新年号2巻1号昭和4年1月1日発行)  
いぼ取り地蔵 愛知県北設楽郡豊根村上黒川老平 上黒川老平(かみくろがわおいだいら)、役行者像がいぼとり地蔵。  
伊寶石神社・いぼ石様 愛知県豊橋市大岩町北元屋敷57 巨岩に溜まる霊水をイボにつける。  
いぼとり地蔵(春興院) 愛知県豊橋市石巻本町嵯峨15 お礼は松かさをひもでつないで地蔵さんの首にかける。(八名郡准四国88か所82番)  
庚申様・いぼ神様(善住寺) 愛知県豊川市小坂井町小坂井北浦 灰をイボにつける。お礼はお線香一把を供える。(旧宝飯(ほい)郡小坂井町)  
いぼ神様・田戸神社 愛知県田原市中山 拝殿の玉石でいぼをこする。お礼は石の100倍返し。(旧渥美郡渥美町)  
医王神古墳 愛知県蒲郡市五井町 岩の窪みに溜まった水をイボにつける。  
いぼとり石(岩津天神) 愛知県岡崎市岩津町 石でイボをこする。  
いぼ神様 愛知県岡崎市本宿町 石を借りてイボをなでる。本宿(もとじゅく)  
いぼ洗い岩 愛知県岡崎市秦梨町板平 岩窪の水でイボを洗う。秦梨町(はだなしちょう)  
いぼとり地蔵(大樹寺) 愛知県岡崎市鴨田町広元5−1 (大樹寺墓地)(三河33観音霊場第3番)  
いぼ神様 愛知県岡崎市一色町 お参りのあとは後ろをふりかえってはいけない。(旧額田郡額田町一色・いしき)  
いぼ洗い不動 愛知県岡崎市井沢町横畑 水をイボにつける。(旧額田郡額田町)  
いぼ地蔵(無相庵) 愛知県岡崎市明大寺町馬場東61  
イボコロリ(三河丸山廃寺) 愛知県岡崎市丸山町ハサマ・加良須神社 三河丸山廃寺心礎の資料(東海諸国の塔跡)  
冷田の水石・イボ神さん 愛知県豊田市冷田町 溜まった水をイボにつける。(旧東加茂郡足助町冷田)  
伊保社・伊保神・天童井 愛知県豊田市王滝町  
上のいぼ塚 愛知県豊田市保見町 塚の泥をいぼにぬる。  
下のいぼ塚 愛知県豊田市伊保町  
いぼ石 愛知県豊田市矢並町法沢725 (矢並町ダラバチ山より鞍が池公園に移転)  
イボ神様 愛知県豊田市寺部町4−31・随応院 (三河文護寺跡)礎石の資料(東海諸国の塔跡)  
上条弁財天・水分神社 愛知県安城市上条町千度8 (御霊水)上条町(じょうじょうちょう)千度(せんど)水分(すいぶん)  
六部地蔵 愛知県みよし市明知町 いぼとり石でイボをこする。明知(みょうち)(旧西加茂郡三好町)  
イボ神様 愛知県瀬戸市上品野町  
いぼ地蔵 愛知県刈谷市御幸町6 いぼ地蔵にあるものでいぼをこする。  
いぼ神様・業平供養塔 愛知県知立市八橋町 供養塔に溜まった水をイボにつける。  
いぼの治る地蔵さま(専唱院) 愛知県大府市朝日町4−139 (知多百観音第8番)  
寄石の大石・いぼ石 愛知県津島市蛭間町 いぼ石をさする  
いぼ神様 名古屋市昭和区御器所3−32 (御器所八幡北東)  
いぼ地蔵 名古屋市南区笠寺町 左手のいぼに触れて祈る。(さいくるぱーくかとう)  
西宮神社(金比羅社) 名古屋市中川区月島町11−1 おしゃもじを奉納する。  
西宮社・いぼの神(神明社) 名古屋市中川区山王町3−12  おしゃもじを奉納する。  
東岸居士の墓碑 名古屋市西区南堀越町1−8−20 いぼ神様・疣の神様  
いぼ地蔵(安泰寺) 愛知県西尾市西幡豆 地蔵さんの石でイボをこする。イボがとれたら年令の数だけ返す。(旧幡豆町)  
石塚地蔵(いぼ地蔵) 愛知県西尾市鳥羽石塚峠 地蔵さんの石でイボをこする。イボがとれたたら倍にして返す。幡豆の昔話(旧幡豆町)  
感応社・疣神さん(西浅井白山神社) 愛知県西尾市西浅井町札木18 お社の前の川砂を疣にかけて祈願する。お礼は川砂を返す。  
弁天さん 愛知県碧南市伏見町1 池の水をイボにつける。(常端寺の向い)  
疣地蔵尊 愛知県碧南市築山町1  
重軽地蔵・延命地蔵 愛知県常滑市神明町2 地蔵さんに心でいぼとりを祈る。(龍雲寺)  
いぼとり地蔵(宝全寺) 愛知県常滑市本町2−248 地蔵堂の石でイボをこする。お礼は石の倍返し。(知多四国88箇所64番)  
いぼとり地蔵(金弘法・妙楽寺) 愛知県知多市新知下森 地蔵の石でいぼをこする。お礼は石を倍にして返す。(知多四国88か所79番)  
桜鐘地蔵 愛知県知多市佐布里桜鐘 地蔵の石でいぼをこする。お礼は石を倍にして返す。佐布里(そうり)  
医王寺 愛知県知多郡南知多町大井真向38 (知多四国88か所第30番札所、宝珠山泉蔵院)  
大乗山法華寺の鐘 愛知県知多郡美浜町豊丘五宝 (南知多33観音6番札所)(鐘のいぼにこよりを巻いて祈る)  
地獄谷地蔵尊 愛知県知多郡阿久比町板山 地蔵前の石でイボをなでる。(板山グランドの近く)  
原山疣水社(原山社) 愛知県知多郡武豊町原田 疣水社の御神水を原山疣水社の御神前に供えて祈願し、持ち帰りイボに塗布する。  
小山のいぼ地蔵 愛知県一宮市千秋町小山 境内のムクゲの葉を取ってイボをこすり、その葉を奉納する。 
 
岐阜県  
美薗の榎(橿森神社) 岐阜市若宮町1−8 橿森(かしもり)  
イボ宮(八幡神社) 岐阜市上尻毛八幡 上尻毛(かみしっけ)  
青氷の滝 岐阜県高山市高根町中之宿 (旧大野郡高根村中之宿)滝の水をつけるとイボがとれる。  
駒かけ岩 岐阜県高山市高根町小日和田長峰峠 岩に溜まった水でイボを洗う。(旧大野郡高根村小日和田)小日和田(こひわだ)  
三ツ岩・三峰石 岐阜県高山市国府町上広瀬 岩に溜まった水がイボに効く。(旧吉城郡国府町上広瀬)  
イボ取りの薬師如来(大雄寺) 岐阜県高山市愛宕町67 大雄寺(だいおうじ)  
いんぼ岩(大西峠) 岐阜県高山市久々野町大西 岩に溜まった水をイボにつける。  
いぼとり地蔵 岐阜県可児市塩河春里 塩河(しゅうが)  
いぼとり観音 岐阜県土岐市鶴里町柿野  
いぼ石・いぼ神様 岐阜県恵那市中野方町 岩の窪みの水をイボにつける。  
上田のイボ岩 岐阜県恵那市明智町大田上田 イボからイボ石へ箸の橋を渡して『イボイボ渡れこの橋渡れ』と唱える。  
いぼ神様・いぼ石・修理夫人の墓 岐阜県恵那市岩村町源吾上 いぼ神様の石でこする。(旧恵那郡岩村町・源吾坂の分岐点)  
亀岩 岐阜県中津川市上野寺尾洞 岩に溜まった水をイボにつける。(旧恵那郡坂下町上野寺尾洞)  
あざ岩、いぼ岩 岐阜県中津川市落合 小石でイボをこする。  
横吹き地蔵 岐阜県中津川市坂下握 湧き水をイボにつける。(横引地蔵・岩清水の地蔵)(旧恵那郡坂下町坂下握)  
田中泥薬師(四反田公園) 岐阜県瑞浪市薬師町4 薬師の顔に泥をぬり、「どうかイボがとれますように」と御願いする。  
疣岩(桜堂薬師・法明寺) 岐阜県瑞浪市土岐町桜堂  
いぼ神様(お宮の清水・白髭神社) 岐阜県関市中之保温井 湧き水をいぼにつけてから後ろを振り向かないで帰る。(旧武儀郡武儀町中之保温井)中之保(なかのほ)  
追分のいぼ地蔵 岐阜県関市武芸川町谷口 (地蔵道標)  
いぼとり地蔵様 岐阜県加茂郡七宗町神淵杉洞 地蔵の清水をオワンにくみ供えその水を持ち返りをイボにつける。  
いぼとり地蔵 岐阜県加茂郡富加町加治田895−1 涌き水(霊水)をイボにつけるとイボがとれる。(清水地蔵尊・清水寺の二天門の左)  
いぼ井戸(雄鳥川) 岐阜県加茂郡川辺町鹿塩 溜まった水にイボを浸す。  
いぼ岩さま(坂折峠) 岐阜県加茂郡八百津町福地 いぼを小石でこすり、この岩に供える。  
イボ取石・イボ取りお水 岐阜県郡上市白鳥町石徹白2−48 白山中居(ちゅうきょ)神社参道  
弘法大師の水 岐阜県飛騨市神岡町割石 湧き水をイボにつける。(旧吉城郡神岡町割石) 
 
石川県  
いぼとり石 石川県金沢市兼六町兼六公園 石に触れた手でイボをなでる。  
上河内のいぼ地蔵 石川県鳳珠郡能登町北河内 沸泉でいぼを洗う。(旧鳳至郡柳田村北河内)・鳳至(ふげし)  
いぼ池(少彦名神社) 石川県能美市粟生町粟生 池の水をいぼにかけて振り向かないで帰る。  
御神水・いぼ池 石川県小松市須天町1−43 湧き水をつける。須天(すあま)(須天熊野神社)  
えぼ石 石川県七尾市町屋町高階 岩に溜まった水をイボにつける。(元伊保池神社の境内)  
イボ石(日吉神社) 石川県七尾市国下(こくが)町 石のぶつぶつにイボをこする。  
伊助谷のイボ池 石川県鹿島郡中能登町瀬戸 池の石でイボをこする。  
イボとり地蔵 石川県かほく市野寺 
 
富山県  
いぼとり石(北馬場神社) 富山市水橋北馬場  
弘法大師・弘法イボトリ水 富山市小糸 (旧上新川郡大沢野町小糸)  
イボ観音(天満宮) 富山市馬瀬口 (旧上新川郡大山町馬瀬口)  
疣石(鵜坂神社) 富山市婦中町鵜坂212 イボをさすりながら祈る。(旧婦負郡婦中町鵜坂)  
いぼ石 富山市八尾町石戸 いぼ石の水をつける。八尾町(やつおまち)石戸(せきど)  
いぼとり地蔵 富山県滑川市赤浜  
弘法の足跡・イボトリ水 富山県中新川郡立山町虫谷  
イボトリ地蔵・六地蔵石仏 富山県中新川郡立山町芦峅寺 地蔵の前の溜まり水を取り、振り返らずに帰る。  
いぼ石(小久米神社) 富山県氷見市小久米(おぐめ) 石のくぼみに溜まった水に銭を入れ、その水でイボを洗う。 
 
福井県  
びんだれ岩・いぼとり岩 福井県大野市伏石阪谷 伏石(ぶくいし)  
イボ神様(瑞祥寺) 福井県大野市日吉町5−3 溜まり水をイボにつける。  
いぼ落し岩 福井県大野市田野  
いぼ石さん 福井県大野市木本 同上。木本(このもと)  
いぼ地蔵 福井市国山町国山尻 地蔵に供えた賽銭をイボにつける。  
糸崎のいぼ地蔵 福井市和布町鷹巣地区 7月24日がいぼ神様例祭(コンコロモチを配る)・和布(めら)  
いぼおとし地蔵 福井県鯖江市和田町  
いぼ落としの岩 福井県鯖江市上戸口町 (刀那の滝の少し手前)  
仏じりの水 福井県丹生郡越前町上戸 (ほとけじり)湧水でイボをあらう。(旧丹生郡織田町上戸)上戸(うわど)  
独鈷水 福井県丹生郡越前町上糸生小川 (越知山へ登る途中)  
いぼとり地蔵 福井県越前市水間町 (服間小水間分教所の近く)  
いぼ石 福井県南条郡南越前町杣木又 (旧南条郡今庄町)  
いぼ地蔵 福井県三方上中郡若狭町三田 (旧遠敷郡上中町三田)  
いぼ地蔵 福井県小浜市太興寺(松永地区) お参りの後は振り返ってはいけない。  
イボ神さん 福井県小浜市上加斗 「イボ、イボなおれ」と祈って帰りは後ろを振り返ってはいけない。 
 
近畿

 

三重県  
イボとり地蔵 三重県鈴鹿市汲川原町  
庚申地蔵・イボの神さん 三重県四日市市堂ケ山町 地蔵を倒して願をかける。お礼は赤飯を供えて、倒した地蔵を起こしてお礼をいう。  
いぼ神様 三重県松阪市朝田町 お礼は土の団子を供える。(式内意非多神社)  
柳原観世音 三重県松阪市阪内町細野  
いぼ神様・家城神社 三重県津市白山町南家城古屋敷 霊泉(こぶ湯)をいぼにつける。(家城神社)(旧一志郡白山町南家城)  
庚申堂のいぼ地蔵 三重県津市雲出本郷町  
いぼ地蔵 三重県津市美里町南長野 (旧安芸郡美里村)(南長野分郷集落の東、国道163号沿い)  
いぼ取り地蔵さん・琴亀の地蔵さん 三重県津市河芸町高佐 豆でイボをこすり、その豆を持ってお参りする。河芸(かわげ)高佐(たかさ)(旧安芸郡河芸町高佐)  
いぼ地蔵(伊勢本街道) 三重県多気郡多気町井内林 地蔵さんに祈る。(地蔵は伊勢三郎物見の松の前にある。)井内林(いうちばやし)  
いぼ神様 三重県多気郡多気町荒蒔  
いぼとり地蔵(長慶寺) 三重県名張市蔵持町里 イボに触れた木の箸を地蔵に触れ、「いぼはしわたれ、金のはしはこわいぞ、木のはしはこわくないぞ。」を3回唱えて祈る。  
いぼとり地蔵 三重県度会郡大紀町大内山川口 (荷坂峠より移転)線香の灰をいぼにつける。(旧度会郡大内山村川口)  
いぼ不動明王 三重県尾鷲市泉町15 不動さんの前にいぼとりの灰あり。  
横手延命地蔵 三重県南牟婁郡紀宝町井田  
波田須の弘法さん 三重県熊野市波田須町 
 
奈良県  
 
和歌山県  
馬次(うまつぎ)の地蔵堂 和歌山市吐前 吐前(はんざき)  
いぼ取り地蔵 和歌山県有田市宮崎町(小豆島) (小豆島中央集会所・宮崎町814)の南、小豆島(あずしま)  
いぼ地蔵 和歌山県御坊市湯川町小松原 (湯川中の北150mのJR重力踏切り近く)  
会下のいぼ地蔵 和歌山県御坊市湯川町富安 会下(えげ)  
この花地蔵様 和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)学校横久保田  
サザナミ地蔵様 和歌山県田辺市上秋津久保田 荒縄でしばって願をかける。  
尼が谷地蔵様・木ノ下地蔵様 和歌山県田辺市上秋津河原 明治の合祀で一緒に祀られている。  
三本松の地蔵 和歌山県田辺市上秋津下畑 花筒の水をイボにつける。  
いぼ地蔵 和歌山県西牟婁郡上冨田町両平野 冨田(とんだ)西牟婁郡(にしむろぐん)  
霊験薬師水 和歌山県西牟婁郡上富田町生馬313 (救馬渓観音・すくまだにかんのん)生馬(いくま)  
奈目良地蔵 和歌山県西牟婁郡上富田町岩田〜岡(奈目良峠)  
いぼ薬師 和歌山県日高郡印南町宮ノ前 「イボをとれ、イボをとりなさい」と命令する。  
龍賀法印の墓・おりゅうさん(観福寺) 和歌山県西牟婁郡白浜町栄  
 
滋賀県  
いぼ地蔵さん 滋賀県高島市安曇川町西万木 廻国供養塔 西万木(にしゆるぎ)  
いぼとり地蔵・いぼとり水 滋賀県米原市上丹生 祠の横を流れる水をイボにつける。(旧坂田郡米原町上丹生)  
美肌観音の石碑 滋賀県東近江市永源寺高野町 (旧神崎郡永源寺町高野・興源寺)  
イボとり地蔵 滋賀県東近江市神田町 小石でイボをなでる。  
松が坂のいぼ地蔵 滋賀県甲賀市信楽町多羅尾松が坂 (旧甲賀郡信楽町)地蔵の頭を撫で、「どうぞいぼがとれますように」と祈願 
 
京都府  
御薬石(蛸薬師堂) 京都市中京区新京極東側町 御薬石でいぼをさする。  
碊観音寺 京都市左京区八瀬野瀬町211 碊(かけ)  
猿丸神社 京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷 (癌封じの神)  
不動滝不動尊 京都府綾部市下替地町 (梅ノ木谷不動滝)御神水をイボにつける。下替地(したのかち)  
イボ神さん(新宮神社) 京都府綾部市睦寄町草壁 池の湧き水をイボにつける。(瘡毒神社)  
山田のイボ神さん 京都府綾部市八津合町山田 池の水をイボにつける。(疣池大明神)綾部駅より上林線バス寺町下バス停下車徒歩約20分。お堂新築。  
厄済(やけすぎ)神社 京都府亀岡市曽我部町南条 湧水の水をイボにつける。  
イボトリ石塔・イボトリの神様 京都府亀岡市旭町印池(梅田神社) 石塔の中の米汁をイボにつける。  
いぼとり地蔵 京都府宮津市府中天橋立 石でイボをこする。  
穴観音 京都府舞鶴市東神崎  
稚児の滝 京都府舞鶴市真倉(まぐら) 滝の水と小石を持ち帰りイボをこする。(紫竹山稚児ケ滝)  
いぼ水さん(いぼ水宮) 京都府船井郡京丹波町本庄小丸山28 湧き水をつける。(阿上三所神社近く)(旧和知町)  
疣の神の水(帝釈天堂) 京都府南丹市八木町船枝 わいている水をイボにつける。(旧船井郡八木町船枝・ふなえだ)(帝釈天堂まで700mほどの参道途中)  
庚申様・疣取庚申(浄光寺) 京都府南丹市薗部町南大谷寺之下1 (旧船井郡園部町)  
いぼとり不動 京都府福知山市大江町南有路 不動の清水をイボにつける。お礼は水鉢にどじょう1匹を供える。(旧加佐郡大江町南有路・みなみありじ)  
滝本不動明王の滝 京都府福知山市大江町高津江 滝の水をイボにつける。(旧加佐郡大江町)  
いぼ地蔵 京都府福知山市夜久野町畑西ノ谷 地蔵の頭を撫でて祈る。また土の団子を供え、お礼は米の団子。(旧天田郡夜久野町畑西ノ谷) 香田疣地蔵 京都府与謝郡与謝野町石川 (旧与謝郡野田川町)  
後山疣地蔵 京都府与謝郡与謝野町石川 (旧与謝郡野田川町)  
栃谷イボ地蔵尊 京都府京丹後市久美浜町栃谷 栃谷(とちだに)(旧熊野郡久美浜町) 
 
大阪府  
いぼ大神・イボ神様 (大宮神社) 大阪市旭区大宮3−1−37 モチの古木の木肌と自分の肌を交互に撫でて祈願。  
磯良神社・疣水神社 大阪府茨木市三島丘1−4 玉の井(湧き水)でイボを洗う。  
疣取り水(菅原神社) 大阪府交野市傍示 手水の水。傍示(ほうじ)  
鐙摺地蔵・いぼとり地蔵 大阪府四条畷市逢坂 (東光寺)  
イボ神さん 大阪府羽曳野市野  
疣池大明神 大阪府堺市中区小坂町 疣池の土をイボにつける。(南海バス・北野田・鳳線・小坂西口バス停近く) 
 
兵庫県  
イボ地蔵 神戸市西区伊川谷町前開 (大山寺の仁王門の近く))  
いぼとり庚申堂(勝明寺) 神戸市西区平野町西戸田818 勝明寺(しょうみょうじ)  
イボ地蔵さん 神戸市西区押部谷町和田 (薬師堂の左側)  
赤地蔵さま 神戸市北区大沢町中大沢 大沢(おおぞう)  
いぼ薬師 神戸市須磨区妙法寺宮ノ下 (北向八幡神社の境内)(阿弥陀如来の笠塔婆) 山伏山神社 神戸市須磨区白川堂の東498 庚申碑(庚申塚) 神戸市東灘区住吉山手3  
夢見地蔵・イボとり地蔵 兵庫県三木市久留美(くるみ) (県道20号線の配分坂通称はる坂の北側の山陽自動車道をくぐる下あたり)  
芦屋廃寺の塔心礎の礎石 兵庫県芦屋市伊勢町12−25(芦屋市立美術博物館の前庭) 礎石のホゾ穴の水をつける。  
いぼとり地蔵(禅勝寺) 兵庫県丹波市氷上町上新庄1139 (旧氷上郡氷上町)  
いぼとり地蔵 兵庫県丹波市柏原町挙田 (旧氷上郡柏原町挙田)・柏原(かいばら)・挙田(あぐた)  
いぼとりの方便水 兵庫県丹波市青垣町東芦田 (胎蔵寺・いぼ水さん)  
いぼの石(高源寺) 兵庫県丹波市青垣町桧倉 触れるとイボが治る。(旧氷上郡青垣町桧倉)桧倉(ひのくら)  
いぼ取り八幡さん 兵庫県丹波市市島町中竹田友政 数え年の数だけ篠竹で矢を作ってお供えして祈る。  
いぼの神(小新屋観音) 兵庫県丹波市山南町小新屋477  
いぼ薬師 兵庫県多可郡多可町加美区清水 供えられた小さい箒で薬師をこすり、それでいぼをこする。(旧多可郡加美町)清水(きよみず)  
こぶ岩 兵庫県西脇市黒田庄町門柳村中 (旧多可郡黒田庄町)門柳(もんりゅう)  
いぼ取り地蔵さん 兵庫県西脇市黒田庄町田高 小さなワラ箒でイボを撫でる。(春日神社横の福寿荘)  
城跡のイボとり地蔵さん 兵庫県篠山市栗栖野 (栗栖野城跡の二の曲輪) 城跡のイボとり地蔵さんの民話  
勘助地蔵(和田寺) 兵庫県篠山市今田町下小野原69 「いぼとり地蔵さん」「足腰の地蔵さん」  
イボトリ庚申さん 兵庫県南あわじ市北阿万稲田南 (旧三原郡南淡町稲田南)北阿万(きたあま)  
イボのお薬師さん 兵庫県小野市敷地町 霊泉をイボにつける。(敷地薬師堂)  
綿山のいぼ地蔵さん 兵庫県神崎郡神河町吉富 (旧神崎郡神崎町)湧き水をイボにつける  
庚申堂・いぼの神さん 兵庫県神崎郡市川町下瀬加 お礼はくくりざるを奉納。  
抜居のいぼとり地蔵 兵庫県神崎郡神河町上小田抜居 湧いている清水をイボにつける。地蔵さんの小石でイボをこする。(旧神崎郡大河内町)  
多井田のお薬師さん 兵庫県加東市多井田 線香の灰をイボにぬる。(旧加東郡滝野町多井田)  
中山苦労堂 兵庫県加西市中山町  
薬師堂 兵庫県加西市下宮木町  
いぼ取り水(大歳神社) 兵庫県加西市田谷町 湧き水をつける。お礼は「たこの絵馬」を奉納する。  
いぼとり観音 兵庫県加西市福住東町 線香の灰をイボにつける。  
たばたのいぼとり地蔵 兵庫県加西市繁昌町繁陽町 「いぼはしわたれ。いぼはしわたれ。」と唱えながらいぼをなで、地蔵のその部分をなでる。お礼は新しいよだれかけを贈る。朝早くが良い。  
ブツブツ井戸・イボ取り井戸 兵庫県相生市那波大浜町 (大島山・大島城址)  
いぼとり井戸 兵庫県相生市若狭野町野野1196−26 (現在は集会所・宮野尾薬師堂)  
清水神社 兵庫県明石市魚住町清水 境内の石でイボをこする。お礼は猿のぬいぐるみ(くくりざる)を奉納。  
イボ神様(大年神社) 兵庫県明石市二見町福里 お礼は蛸の絵とか七色のお菓子を持って行く。  
疣おとしの薬師(龍王山長林寺) 兵庫県明石市材木町9  
薬師堂・瓢箪岩(薬師さま)の水 兵庫県赤穂市東有年613 瓢箪岩の水をイボにつける。  
イボ取り地蔵石像(横蔵寺) 兵庫県加古川市平岡町新在家900  
毛野の荒神さん 兵庫県姫路市打越毛野 供えてある穴の開いた石に触れる。  
ガチャガチャ地蔵 兵庫県姫路市西庄 西庄(さいしょう)  
蛇穴神社 兵庫県姫路市香寺町広瀬489 蛇穴(じゃけつ)  
觜崎摩崖仏・いぼとり地蔵 兵庫県たつの市新宮町觜崎川東 觜崎(はしさき)(旧揖保郡新宮町)揖保(いぼ)  
いぼ神さん・厳島神社 兵庫県たつの市揖保町中臣 揖保町中臣(いぼちょうなかじん)  
いぼころり地蔵 兵庫県三田市藍本 お供えは七色の品物。(秋谷地蔵・北向き地蔵ともいう)  
辺坂いぼ地蔵 兵庫県豊岡市日高町久田谷 お礼は白粉の団子とわらすべを年の数だけ供える。(旧城崎郡日高町久田谷)  
イボとり地蔵 兵庫県朝来市佐嚢老波 (旧朝来郡朝来町):朝来(あさご)佐嚢(さのう)  
いぼ神様(八幡神社・千年釜) 兵庫県美方郡新温泉町湯 「いぼいぼ渡れ、この橋渡れ」と唱えてイボに触れた指で石に触れる。(旧温泉町)  
高月前の疣取り地蔵(六体地蔵尊) 兵庫県養父市八鹿町宿南 丸い石を供える。  
イボ地蔵 兵庫県養父市大屋町宮垣 (旧養父郡大屋町宮垣)  
イボ取り地蔵 兵庫県養父市大屋町中間 (旧養父郡大屋町中間)  
いぼ地蔵 兵庫県宍粟市千種町河内 お地蔵さんの石でいぼをこする。(旧宍粟郡千種町河内)宍粟(しそう)千種町河内(ちくさちょうこうち)  
いぼ地蔵 兵庫県宍粟市一宮町桑垣 (県道6号、青菜林道の北入口)  
以ぼ水 兵庫県宍粟市一宮町小原 (旧宍粟郡一宮町)  
水谷のイボかみさま 兵庫県宍粟市波賀町上野(水谷地区) 宍粟市(しそうし)  
イボ取りの水(瑠璃寺) 兵庫県佐用郡佐用町船越877 湧水の水をイボにつける。(旧南光町へ) 
 
中国

 

岡山県  
いぼ神様 岡山市中区国府市場 左縄でくくる。穴に水を入れる。御礼は縄を編んで供える。  
おしめ神社・おしめ様 岡山市東区瀬戸町弓削宮の鼻 社の前の石でイボをこする。お礼は自分の年の倍の数の石を供える。(旧赤磐郡瀬戸町)  
かのう様 岡山市東区西大寺上1 巨勢金岡(こせのかなおか)の墓・いぼ取りの神様。墓石の粉をいぼにつける。  
疣とり地蔵 岡山市東区草ケ部1806 (仁王門への参道)  
亀石神社・亀石 岡山市東区水門町 亀石のまわりにある石でイボをこする。亀石(かめいわ)  
日鏡聖人供養塔 岡山市東区瀬戸町宗堂 小石でイボをなでる。(旧赤磐郡瀬戸町宗堂)  
イボ地蔵 岡山市北区中原下ノ原  
五輪地蔵・イボ取り地蔵 岡山市北区横井上 地蔵を削り取った石の粉をイボに塗る。横井上(よこいかみ)  
イボの神様 岡山県備前市吉永町南方1338 (松尾山松本寺理性院)  
いぼ神様 岡山県備前市西方上1871 (恵美須神社)  
いぼ神さま 岡山県倉敷市中帯江  
円田地蔵様 岡山県倉敷市呼松町 線香の灰をイボにつけ、素焼きの皿をお供えする。(新呼松バス停横)  
いぼ神様(西谷大師堂) 岡山県倉敷市真備町下二万西谷 いぼ神様の石を削ってその粉をイボにつける。  
日限地蔵 岡山県倉敷市児島小川  
平岩のイボ地蔵 岡山県笠岡市東大戸 東大戸(ひがしおおど)  
疣神さま 岡山県笠岡市横島 (丸い石が疣神さま)  
いぼ地蔵さん・縛られ地蔵 岡山県笠岡市大島中乗時 左綯いの縄で地蔵さんをくくってお願いする。イボが取れたら縄をとく。  
いぼ地蔵(日光寺) 岡山県笠岡市神島外浦2771 (石造地蔵菩薩)  
いぼ取り地蔵(玄忠寺) 岡山県笠岡市笠岡2785  
イボ神様 岡山県瀬戸内市邑久町宗三 (旧邑久郡邑久町) 邑久町(おくちょう)・宗三(そうさん)  
イボ神様 岡山県瀬戸内市邑久町下山田 (旧邑久郡邑久町) 下山田(しもやまだ)  
イボ神様 岡山県瀬戸内市邑久町本庄 (旧邑久郡邑久町) 本庄(ほんじょう)  
石上布都魂神社 岡山県赤磐市石上風呂谷1448 石上布都魂(いそのかみふつみたま)(旧赤磐郡吉井町)  
いぼ地蔵 岡山県総社市清音・大明神池堤 地蔵の石に願を掛け池に投げ込む。イボが取れたら石を元に戻す。(旧都窪郡清音村大明神池堤)  
小野の小町の墓 岡山県総社市清音黒田 イボをお墓の塔石にこする。(旧都窪郡清音村黒田)黒田(くろた)  
六地蔵 岡山県美作市右手(うて) 地蔵の前の水鉢のたまり水をいぼにつける。(旧勝田郡勝田町右手)  
疣池様・小淵の甌穴 岡山県美作市真加部 池に精米を入れその水をイボにつける。(旧勝田郡勝田町真加部)  
柊地蔵・疣神様 岡山県美作市江見?(豪路山の下) 石を借りて帰りイボをこする。お礼は新しい石を沿えて返す。(旧英田郡作東町)  
北向地蔵大菩薩 岡山県津山市河辺1158 (うどん山路の駐車場奥)  
イボ神様 岡山県津山市杉宮茶屋林 (旧勝田郡勝北町杉宮茶屋林)  
べんがら地蔵(泰安寺) 岡山県津山市西寺町12  
いぼ地蔵尊 岡山県和気郡和気町苦木 苦木(にがき)、(旧佐伯町)  
いぼ地蔵大菩薩 岡山県真庭市江川 (旧真庭郡勝山町江川)  
いぼ地蔵・阿弥陀仏 岡山県浅口市鴨方町地頭上 左縄を編み、石を縄で結び、イボ取りをお願いする。  
中谷の里観音様 岡山県真庭郡新庄村中谷 観音様の水がイボにきく。新庄村(しんじょうそん)  
苗代のいぼ地蔵 岡山県真庭市蒜山下徳山苗代 (旧真庭郡川上村下徳山苗代)  
イボ神様 岡山県勝田郡奈義町小坂 
 
広島県  
梶峠のいぼ地蔵さん 広島市安佐北区口田南小田 花立の水をイボにつける。(正田墓地)  
疣神さん 広島県安佐北区白木町市川弓投  
投石地蔵・いぼ地蔵 広島市安佐南区祇園1丁目 地蔵の傍の松の葉でいぼをつつく。  
いぼおとしのかみさん・白鳥社 広島市安芸区矢野東6丁目 神社東方100mほどの所にある「御手洗」の水をイボにつけ振り返らずに帰ればイボがとれる。  
幸崎の行者墓・歯いた地蔵 広島市安芸区矢野東2−6  
瀬野のイボ神さん(小宇羅地陸橋の下) 広島市安芸区瀬野1(瀬野交番の向い) お祈りして、振り向かず、口を利かないで帰る。  
イボ地蔵尊(長性院) 広島市南区比治山町7−40  
イボ地蔵(観音寺) 広島市南区黄金山  
いぼとり地蔵さん 広島市東区福田1 地蔵に溜った水をイボにかける。  
イボ墓(慈光寺) 広島市西区草津東3−7−25  
鼻の地蔵さん 広島県尾道市因島三庄町三庄 (旧因島市三庄町三庄・みつのしょう)  
えのき地蔵 広島県尾道市因島中庄町(成願寺)  
いぼ地蔵さん 広島県尾道市瀬戸田町荻田高根  
イボ神様 広島県東広島市志和町志和堀原  
薬師堂 広島県東広島市西条町郷曽吉郷 薬師堂の雨垂れに濡れた砂がイボに効く。  
疣観音堂 広島県廿日市市大野中山 建て替え前の疣観音(旧佐伯郡大野町)  
いぼ神様 広島県神石郡神石高原町近田 湧き水をいぼにつける。(旧油木町)(宇手迫)神石(じんせき)  
父石のいぼ地蔵 広島県府中市父石町 地蔵さんの線香の灰をイボにぬる。父石(ちいし)  
荒谷のいぼ地蔵 広島県府中市荒谷町東谷 年令の数だけ煎った豆を供える。荒谷(あらたに)  
いぼ地蔵 広島県竹原市田万里町  
いぼ落し地蔵 (白華寺) 広島県呉市倉橋町本浦 (倉橋島)  
イボ神様 広島県福山市水呑町 (善住寺の参道)  
いぼ神さん 広島県福山市水呑町高浦 水呑(みのみ)  
いぼの神様(福性院) 広島県福山市芦田町福田2689 北面山福性院福田寺  
疣神様(高諸神社) 広島県福山市今津町519 (剣大明神・お剣さん)、高諸(たかもろ)神社  
イボ神さん・竜王さん 広島県福山市坪生町189 坪生町(つぼうちょう)(神森神社)  
清水山竜王社 広島県福山市坪生町(清水山古戦場跡) 古戦場跡へは狐原町内会館から登る。清水山(しみずやま)  
六地蔵 広島県福山市内海町横島 (西音寺入口)内海(うつみ)  
いぼ神様 広島県福山市山野町 (艮神社の上・五頭天王善覚大明神のとなり)いぼ神様の石にイボをこすりいのる  
竜王社・タカオカミ神社 広島県福山市蔵王町 小さな器にたまった雨水をイボにつける  
一本松のいぼ地蔵 広島県福山市熊野町鴨尾 灰をこすりつけ祈る(一本松の地蔵堂)  
久師のいぼ地蔵 広島県福山市熊野町寺迫上 灰をこすりつけ祈る  
桶の堂地蔵 広島県福山市金江町金見643? 灰をこすりつけ祈る  
本谷のイボ地蔵 広島県福山市金江町金見752 灰をこすりつけ祈る  
いぼころり薬師 広島県山県郡安芸太田町遊谷槇ケ原 谷の水でイボを洗う。(槇ケ原薬師堂)、(旧山県郡安芸太田町戸河内遊谷槇ケ原)遊谷(あぞうだに)  
三界萬霊地蔵・いぼとり地蔵 広島県豊田郡大崎上島町原田 いぼとり地蔵の民話 夜明けに人に会わないようにしてお参りをする。(旧豊田郡大崎町原田・清光寺)  
いぼ地蔵 広島県三原市本郷町船木堂谷 (旧豊田郡本郷町船木堂谷)  
導神社・辻のいぼおとしさん 広島県安芸郡府中町本町3 (道祖神)  
いぼ落し石 広島県安芸郡海田町東2  
疣石 広島県安芸高田市向原町有留 (旧有保村)(旧高田郡向原町有留)  
ひしねさん・ひしね神さん 広島県安芸高田市向原町奥原 湧き水でいぼを洗う。  
戸島湧水 広島県安芸高田市向原町割石  
どうどう滝・水神様 広島県安芸高田市向原町有留 滝の水で洗い、水神様に祈る。 
 
鳥取県  
菖蒲廃寺塔・いぼ水 鳥取市菖蒲  
逢坂地蔵さん 鳥取市気高町睦逢 供えた水をつける。気高町(けたかちょう)、睦逢(むつお)  
イボ五輪 鳥取県西伯郡大山町文殊領 文殊領(もずら)の佐渡五輪・(旧西伯郡名和町文殊領)  
小原神社(客神社) 鳥取県西伯郡南部町原 境内の常盤の木の葉の朝露をつける。  
ちくま様 鳥取県東伯郡三朝町三朝温泉 歌を半分唄い、残りは治ってから唄う  
いぼ神さん・五輪塔 鳥取県東伯郡湯梨浜町方地 「いぼいぼ渡れ。金のはし渡れ。」ととなえる。(旧東伯郡東郷町方池)方地(ほうじ)  
いぼ神さん 鳥取県東伯郡湯梨浜町白石 「いぼいぼ渡れ。金のはし渡れ。」ととなえる。(旧東伯郡東郷町白石)  
いぼ神さん 鳥取県東伯郡湯梨浜町野方 石の窪みに溜まった水をイボにつけて、「たいさ、たいさ、のプリッチュー、がなは」と童謡を逆さにとなえる。(旧東伯郡東郷町野方)  
いぼ地蔵 鳥取県東伯郡湯梨浜町門田 (旧東伯郡東郷町門田)  
イボ神様 鳥取県岩美郡岩美町蒲生 (寺谷清水)  
お滝さん・福地の滝 鳥取県八頭郡八頭町福地 滝の水をイボにつける。(旧郡家町)(不動明王) 
 
島根県  
船石(諏訪神社) 島根県邑智郡邑南町矢上下京 石の窪みに溜まった水をイボにつける。(旧邑智郡石見町矢上)・邑南(おおなん)  
いぼ地蔵 島根県松江市美保関町美保関 (旧八束郡美保関町美保関・宝寿寺)美保関(みほのせき)  
いぼ地蔵(常楽寺) 島根県松江市鹿島町上講武 地蔵の体を撫でる。(旧八束郡鹿島町上講武) 花立の花の切り口の水をイボにつける。  
イボ取り地蔵さん(法船寺) 島根県松江市鹿島町恵曇(えとも) 水の入った茶碗を供え、その水をイボに塗る。  
古浦のイボ取り地蔵さん 島根県松江市鹿島町古浦 水鉢の水をイボにつける。  
いぼとり地蔵(月照寺) 島根県松江市外中原町175−6  
七面様・いぼ岩 島根県益田市匹見町澄川三出原(さんでばら) 岩の窪みの水をイボにつけるとイボがとれる。(旧美濃郡匹見町)  
伊保神社・伊佐賀神社 島根県出雲市斐川町出西 御神石に触れて祈る。出西(しゅっさい)(旧斐川町) 
 
山口県  
丸尾の法秀様 山口県宇部市東岐波丸尾崎 大豆の炒り豆を供えて祈る。(丸尾崎バス停西側の墓地内)  
疣神様(宮尾八幡宮) 山口県宇部市西万倉(まぐら) (旧厚狭(あさ)郡楠町)  
いぼ神様・石仏 山口県宇部市車地(くるまじ) 石仏(いしぼとけ)  
いぼ神社(琴崎八幡宮) 山口県宇部市上宇部大小路571  
塩地蔵・いぼ地蔵 山口県宇部市西岐波山村 (平成のいぼとり地蔵)(師井の生け墓の地蔵堂)  
いぼとり地蔵(籌勝院) 山口県岩国市小瀬264 地蔵の前の水をつける。お礼は水を入れ替える。  
いぼ神様 山口県岩国市柱島犬吠の鼻 サザエの殻に甘酒を入れて供え、殻に溜まった水をつける。  
庚申さん・イボ神様 山口県周南市湯野行田 意了田(いりょうだ)の榎の根元  
いぼ観音 山口県周南市湯野 仏弘寺(湯野下河合2823)の近く  
イボの神様 山口県山陽小野田市小野田浜河内上の台 (旧小野田市浜河内上の台・萬福寺の近く)  
疣観音様 山口県山陽小野田市旦東  
印塔・いぼ神様 山口市下小鯖棯畑 下小鯖(しもおさば)  
堂河内子安観音・いぼころり観音 山口市徳地藤木下藤木  
延命いぼおとし観音・船岩観音 山口市阿知須引野  
いぼとり地蔵 山口市小郡上郷中畑 年の数ほど後ろでんぐり返りをする。(危険です、祈るだけにしましょう。)  
疣地蔵 山口市仁保上郷 他人に頼んで祈願してもらう。  
いぼ神様 山口県萩市三見蔵本 菓子やいり豆を供えて祈願し供え物をイボの数だけ食べる。三見(さんみ)  
いぼ観音(大照院) 山口県萩市椿青海4132  
イボ地蔵 山口県萩市相崎 墓石を叩いて出た石の粉イボにつける。  
いぼ地蔵 山口県萩市紫福 いぼに紙で触れその紙に唾液をつけて地蔵さんに触れる。(旧阿武郡福栄村紫福)・紫福(しぶき)  
疣地蔵様・ことづけ地蔵様 山口市仁保上郷北河内 人に頼んで祈願して貰うとイボがとれる。
 
四国

 

愛媛県  
岡薬師如来(岡薬師堂) 愛媛県松山市星岡町120 (伊予12薬師霊場第8番・雲門寺)(岡薬師瑠璃光如来)  
イボ地蔵 愛媛県松山市森松町  
白波地蔵尊・イボ取り地蔵 愛媛県松山市中島 紙に蛸の絵を書いて供える。(旧温泉郡中島町)  
薬師堂・イボ取り薬師(長楽寺) 愛媛県松山市西垣生町1250 西垣生町(にしはぶまち)  
疣神さま 愛媛県松山市二神(二神島) 疣神の水をつける。(旧中島町二神)  
薬師堂(三角寺) 愛媛県四国中央市金田町三角寺 四国88か所65番札所由霊山三角寺(旧川之江市金田町三角寺)  
芝折さん・八の子地蔵 愛媛県西条市荒川八之川 (八の子橋のたもと)  
乳母の墓・いぼ神様 愛媛県西条市黒谷 (旧東予市黒谷)  
東宮さん・疣神さん 愛媛県西条市藤之石1号本郷 赤と白の幟を1本供えて祈願する。取れたらさらに1本奉納する。  
御前さま 愛媛県新居浜市楠崎 楠崎(くっさき)  
いぼ地蔵 愛媛県新居浜市舟木大久保 (大久保自治会館の東150mほどの南側の墓地)  
いぼ地蔵(正福寺) 愛媛県越智郡上島町生名813 (旧越智郡生名村)生名(いきな)  
水地蔵・イボ地蔵 愛媛県西予市野村町富野川舟坂 (県道44号線脇)(旧東宇和郡野村町富野川舟坂)  
イボ神様・大塚源九郎の墓 愛媛県西予市野村町予子林 (旧東宇和郡野村町横林小振)予子林(よこばやし)墓前に水を供え、持ち帰りイボにつける。  
五輪塔・疣神さま 愛媛県西予市野村町松渓 (三島神社の杉と桧の木の下の山伏・普門院を祀る五輪塔)7日間線香を供えて祈る。  
春日神社 愛媛県西予市明浜町狩浜 神社境内の土をイボにつける。(旧東宇和郡明浜町狩浜)  
いぼ岩 愛媛県大洲市高山 岩に溜まった水がイボに効く。  
イボとりのお塚さん 愛媛県東温市滑川 花立の水をイボにつける。(旧温泉郡川内町滑川)滑川(なめがわ)  
伊予神社 愛媛県伊予郡松前町神崎 「入らずの森」の石の窪みの水をイボにつける。  
疣をとってくれるお地蔵さん 愛媛県伊予郡砥部町 (砥部四国11番札所)  
神の水 愛媛県八幡浜市郷上郷 (梅之峠のクスノキの巨木の近くの火之神大明神のお堂の近くの湧き水)  
いぼ地蔵 愛媛県今治市玉川町高野 (旧越智郡玉川町高野)・高野(こうや)  
水大師 愛媛県今治市朝倉南乙野々瀬 御神水をイボにつける。(旧朝倉村朝倉南乙野々瀬)  
西向地蔵・いぼとり地蔵 愛媛県今治市吉海町椋名 (旧越智郡吉海町椋名・新谷海岸)  
カツのおじいさん・疣神さん 愛媛県今治市菊間町中川 お墓の花立の水をイボにつける。(旧越智郡菊間町中川)・中川(なかのかわ)  
イボに効く閼伽水 愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468  
いぼ神様・お薬師さん 愛媛県西宇和郡伊方町明神 年の数だけ米粒を供え、壺の水で手を洗う。(旧西宇和郡三崎町明神)  
大本様・疣神様 愛媛県西宇和郡伊方町湊浦 水をイボにつける。(旧西宇和郡三崎町)  
いぼがみ様 愛媛県西宇和郡伊方町名取 自分の年の数だけ米粒を供え手を洗うとイボが取れる。(旧西宇和郡三崎町)  
イボ神様(三宝荒神) 愛媛県南宇和郡愛南町家串 石でイボをこする。お礼は紙や石の蛸の絵か年の数の石を供える。(旧南宇和郡内海村家串)家串(いえくし)  
イボ神様(長養寺) 愛媛県西宇和郡伊方町三机 (旧西宇和郡瀬戸町三机・高覚道眼医師の墓)  
健雄神社・いぼの神様 愛媛県宇和島市吉田町深浦池の浦 お礼は蛸の絵を奉納する。 
 
徳島県  
つり鐘(阿弥陀如来堂) 徳島県勝浦郡勝浦町坂本宮平 つり鐘のイボをひもでくくる。  
イボ神様 徳島県三好市山城町脇 (旧街道の峠のお堂)  
かすの峯のいぼ地蔵 徳島県三好郡東みよし町東山二軒茶屋 お礼に松ふぐりを年の数だけ糸に通して供えた。(旧三好郡三好町)  
蛇岩 徳島県三好市井川町西井川 岩に溜まった水がイボに効く。(西井川小学校の西隣)(旧井川町)  
いぼ神様(満石神社) 徳島県海部郡美波町木岐 小池(井戸)の水がいぼとり効果がある。(旧海部郡由岐町)  
八山の地蔵尊(八山神社のぼり口) 徳島県海部郡海陽町尾崎八山 尾崎八山(おさきはちやま)(旧海部郡宍喰町)  
おっぱしょのお地蔵さん 徳島県阿南市柳島町南別当 
 
香川県  
疣神さん 香川県高松市檀紙町 平石に溜まった水をお題目を唱えながらイボにつける。  
いぼ石さん 香川県高松市十川西町 (光清寺の道を挟んだ斜め前) 十川西(そがわにし)  
いぼとり地蔵 香川県高松市香川町川内原 (旧香川郡香川町)  
高丸のいぼとり地蔵尊 香川県高松市香川町川東上高丸 お礼にはったい粉を奉納する。  
亀尻のいぼ目地蔵尊 香川県高松市香川町川内原亀尻 霊水をつける。  
下がり松の弁天さん・いぼ神様 香川県さぬき市大川町富田中2831 いぼ神様の水をイボにつける。お礼は小豆とお米を供える。(旧大川郡大川町富田中)富田中(とみだなか)  
いぼ神さん 香川県坂出市福江町1 石をひっくりかえし「いぼをなおさないともとにもどさないぞ」とおどかす。  
とうだら地蔵菩薩 香川県三豊市三野町吉津 地蔵の灰をつける。  
イボ神さん・お地蔵様 香川県三豊市三野町大見  
荷池(にないけ)のイボ神さん  
いぼとり地蔵 香川県三豊市仁尾町仁尾南草木 (旧三豊郡仁尾町)  
いぼ取りの薬師さま 香川県小豆郡土庄町伊喜末 (小豆島霊場第68番松林寺)伊喜末(いぎすえ)  
いぼとり地蔵(田ノ浦庵) 香川県小豆島町田ノ浦甲420 線香立ての灰をつける。  
いぼとり地蔵 香川県小豆郡小豆島町蒲毛入部 (旧小豆郡池田町)  
庚申社・イボコロリの神 香川県仲多度郡まんのう町勝浦 庚申様の水をイボにつけて祈る。 
 
高知県  
おみろく様 高知県土佐市中島 イボガエル(ヌマガエル)の置物を奉納する。(弥勒大明神様)  
いぼとり地蔵(宝幢院) 高知県香南市我美香町岸本 台石のくぼみにたまった水をいぼにつけたらとれる。(旧香美郡我美香町)  
岩屋大師堂 高知県安芸郡奈半利町  
べらいけ様 高知県安芸郡馬路村相名  
いびらの神様・宗伴坊さま 高知県高岡郡中土佐町大野見荻中 
 
九州

 

福岡県  
イボとり地蔵 福岡県北九州市小倉南区徳吉  
槻田地蔵(左家大明神) 福岡県北九州市八幡東区宮の町1  
無量寺観音・足水の井 福岡県北九州市八幡西区上上津役 足水(たるみ)・上上津役(かみこうじゃく)  
いぼとり地蔵 福岡県北九州市八幡西区市瀬2丁目14 (帆柱新四国第69番札所) 陣ケ原池の北側  
鏡の井・いぼとりの石 福岡市東区馬出2 翁別(おきなわけ)神社の境内、馬出(まいだし)  
いぼ地蔵 福岡市東区名島5丁目  
いぼ地蔵 福岡市南区鶴田2 小石でいぼをこする。お礼は年の数の石を返す。(鶴田池の傍ら)  
石投げ地蔵 福岡市南区向野  
瘤とり地蔵 福岡市南区長住1 (長住東公園東側)(花盛地蔵・石投げ地蔵)  
いぼとり地蔵 福岡県筑紫郡那珂川町五ケ山? 石でこする。  
イボ地蔵 福岡県大野城市山田4−6−21 (山田地蔵堂)供えた小石でイボをなでる。  
下の地蔵・紹運地蔵 福岡県春日市春日 お礼は川の丸石を年の数だけ供える。  
いぼころり 福岡県飯塚市建花寺・古野公民館前 石にいぼをすりつける。建花寺(けんげいじ)  
いぼ取り地蔵菩薩 福岡県田川郡福智町上野 (興国寺の参道脇)(旧赤池町上野)上野(あがの)  
いぼ神様 福岡県豊前市久路土  
いぼ神さま 福岡県豊前市求菩提(くぼて) いぼ神の横の流れの水をいぼにつける。お礼に手ぬぐい、のぼりを奉納する。  
いぼとり地蔵 福岡県直方市永満寺楠木 石祠に供えられている小石をもらって帰り擦る。お礼は小石を1個か歳の数を奉納  
昼掛のいぼぬき地蔵 福岡県宗像市朝野昼掛 荒堀川の小石でイボをこする。お礼はその石を奉納する。  
イボ神様(天照神社) 福岡県宮若市磯光266 天照神社(てんしょうじんじゃ)  
いぼ落ち六部さま(六部堂) 福岡県福津市勝浦松原 供えられた小石でイボをこするとイボが落ちる。お礼は小石の倍返し。  
いぼ神さま(石上神社) 福岡県大川市下牟田口 いぼ神さま(いぼじんさま)  
イボ取り地蔵 福岡県糸島市飯原(いいばる) 雉琴神社の南方500mの「しょうずの湯」の東方300mにある。(旧前原市)  
イボ観音 福岡県大牟田市倉永 甘木山公園麓 (仙台奥様の墓)奉納してある水をイボにつける。  
イボ地蔵 福岡県久留米市大善寺町夜明 イボをさすって祈願する。(清水館の前)  
いぼ地蔵(善導寺) 福岡県久留米市善導寺町飯田 石でイボを石でなでる。お礼は石の2倍返す。  
いぼとり地蔵 福岡県久留米市北野町大城 お礼は小石を奉納。(旧三井郡北野町大城)、大城(おおき)  
いぼ地蔵さん 福岡県久留米市田主丸 田主丸(たぬしまる)  
馬蹄石の水(高良山・高良大社) 福岡県久留米市御井町1 久留米ん昔話の(五)疣取除  
牛島地蔵・いぼ地蔵 福岡県筑紫野市牛島 小石でイボをさする。  
六地蔵 福岡県筑紫野市二日市 小石とよだれかけを納める。  
弾正さま(道林寺) 福岡県粕屋郡須恵町甲植木 飴玉を自分の年の数だけお供えする。  
イボ取り地蔵 福岡県糟屋郡新宮町三代 小石でお地蔵さんをこすり、その粉をイボに付ける。(太閤水の近く)  
いぼ神様 福岡県京都郡みやこ町国作 小石を供える。(旧京都郡豊津町国作)京都(みやこ)国作(こくさく)  
イボ神様 福岡県田川市宮尾町 (春日神社の近く)  
疣神様 福岡県田川郡大任町大行事梅田 お供えの小石でこする、お礼は小石の倍返し  
疣神様(丹波神社) 福岡県田川郡大任町大行事上元松 お供えの小石でこする、お礼は小石の倍返し  
いぼ地蔵 福岡県朝倉郡東峰村小石原 (湯の谷 大肥川の川岸)  
いぼとり地蔵 福岡県朝倉市杷木白木(しらき) お礼は大豆を年の数を供える。旧朝倉郡杷木町白木)   
おうとさま 福岡県朝倉市一木174(宝満宮の裏)  
土居の地蔵様 福岡県嘉穂郡桂川町土居(とい) 地蔵の小石でイボをこする。お礼は小石を供える。桂川(けいせん)  
戸平のイボ神様 福岡県嘉穂郡桂川町土師(はじ) 小石でイボをこする。お礼は年の数の小石を返す。  
いぼいぼさん・いぼいぼ神様 福岡県嘉麻市牛隈(うしくま) お宮の石でイボをこする。お礼は小石を供える。嘉麻(かま)、(旧嘉穂郡嘉穂町牛隈)  
いぼ薬師 福岡県久留米市城島町江島 (旧三潴郡城島町江島)城島(じょうじま)  
岩地蔵の水 福岡県八女市長野  
向野地蔵さん 福岡県八女市上陽町下横山 (旧八女郡上陽町)  
いぼ神さま 福岡県八女市上陽町久木原 (旧八女郡上陽町)年の数だけ大豆を納めて願をかける。  
平霊石・いぼの神さま 福岡県筑後市水田 大豆を石の窪みに入れ、たまり水にいぼをつけて祈る  
福間板碑・イボ観音 福岡県三潴郡大木町福土(ふくど) (田中宅)  
いぼの神様(木本神社) 福岡県三潴郡大木町八町牟田  
イボ神様・皇后石 福岡県築上郡吉富町子犬丸 (鬼の臼)巨石にたまった水をイボにつける。(八幡古表神社) 
 
佐賀県  
下馬の地蔵さん 佐賀市本庄町鹿子下  
疣取り地蔵(六地蔵) 佐賀市金立町金立野田  
疣なおし地蔵 佐賀市三瀬村藤原 (平松部落)(旧神崎郡三瀬村)年の数の小石を拾ってそれでイボをこすってからお供えする。  
疣なおし地蔵 佐賀市三瀬村藤原 (池田部落)(旧神崎郡三瀬村)南無地蔵大菩薩高嶋平之允と刻んだ石碑  
イボ地蔵 佐賀市北川副町新郷八田 大豆を年の数だけ上げて、祈った後地中に埋める。さがの歴史・文化お宝帳の八坂神社  
木起こし地蔵・いぼ地蔵(平尾天満宮) 佐賀市高木瀬町長瀬  
六地蔵(天徳寺) 佐賀市伊勢町6−32  
いぼ地蔵・イボ天神様 佐賀市川副町早津江和崎 自分の年の数の大豆を煎って供え、それを食べる。(旧佐賀郡川副町)  
いぼ地蔵(天神社) 佐賀市川副町小々森新村 (旧佐賀郡川副町)  
イボ地蔵 佐賀市川副町大詫間8区 (旧佐賀郡川副町)  
いぼ地蔵(天福寺) 佐賀市富士町下無津呂772  
いぼ地蔵さん 佐賀県神埼市神埼町田道ケ里大依(ひのはしら一里塚の上) 土を少し持ってゆく。炒った豆をあげる。地蔵の前の花差しの水をイボにつける。大依(おおより)  
いぼ地蔵 佐賀県神埼市神埼町尾崎東分 大豆を年令の数だけ煎って供える。尾崎東分(おさきひがしぶん)  
いぼ地蔵 佐賀県神埼市神埼町尾崎西分 茄子を供え、その茄子を割りイボに塗り、前を向いて後方に投げ後ろを振り向かずに帰る。尾崎西分(おさきにしぶん)  
いぼ地蔵 佐賀県神埼市神埼町岩田 イボを茄子でこすり、その茄子を供えてお祈りする。  
観音菩薩(いぼ地蔵) 佐賀県神埼市千代田町上直鳥 上直鳥(かみなおとり) 「地元ではいぼ地蔵と呼んでいる」  
いぼ薬師如来堂 佐賀県神埼市千代田町迎島 迎島(むかいしま)(筑後川の六五郎橋の佐賀県側の橋のたもと)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町中原 小石でイボをなでる。(旧三養基郡中原町・中原(なかばる)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町大阪間 自分の年令の数の大豆を供える。(旧三養基郡三根町大阪間)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町持丸 きれいな水を供え、その水をイボにつける。(旧三養基郡三根町持丸)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町南島 いり豆を供えて、近くで遊んでおる子供に食べさせる。(旧三養基郡三根町南島)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町本分 いり豆を供える。(旧三養基郡三根町本分)  
いぼ地蔵 佐賀県三養基郡みやき町向島 イボの数だけのいり豆を供える。(旧三養基郡三根町向島)  
いぼ観音さん 佐賀県三養基郡みやき町中津隈 歳の数の焼いた大豆を供えて祈り、境内の土の中に埋める。  
隆信寺前のイボ地蔵 佐賀県武雄市東川登町永野1788  
蓮和のいぼ地蔵 佐賀県武雄市東川登町袴野二又 炒豆を供えてお詣りをする。蓮和の地蔵  
いぼ地蔵(円応寺) 佐賀県武雄市武雄町富岡川良 炒り豆をあげてお参りをする。  
六地蔵(ろくんぞう) 佐賀県武雄市山内町宮野舘 なすのへたでイボをこすり供える。(旧杵島郡山内町)  
いぼころり・いぼ地蔵 佐賀県武雄市若木町川古(かわご) 少量の豆を供えて祈る。(清正寺への登り口)  
福寿院の薬師地蔵 佐賀県武雄市若木町本部 大豆を供えて祈る。  
筒井のいぼ地蔵 佐賀県伊万里市波多津町筒井  
イボ地蔵 佐賀県鳥栖市幸津町  
疣取りの神様 佐賀県小城市小城町松尾北浦 石でイボをこする。お礼祇園川の石を10個返納。  
六地蔵・いぼとり地蔵 佐賀県小城市小城町池上牛尾 池上(いけのうえ)  
六地蔵・いぼ薬師堂 佐賀県小城市牛津町上砥川谷 上砥川(かみとがわ)  
イボの神様・地蔵菩薩 佐賀県多久市西多久町板屋平野 (石殿)  
イボとり地蔵 佐賀県多久市西多久町板屋吉の尾 (権現堂)  
イボ地蔵・長尾の六地蔵 佐賀県多久市南多久町長尾  
岡のいぼとり地蔵 佐賀県多久市多久町岡  
いぼ地蔵 佐賀県鹿島市高津原横田  
役の行者坐像・イボトリ地蔵 佐賀県藤津郡太良町多良 (多良岳大権現社務所跡)の近く。太良(たら)  
坂口七地蔵 佐賀県唐津市厳木町広瀬 (厳木ダムの下流)厳木(きゅうらぎ)  
地蔵堂 佐賀県唐津市厳木町瀬戸木場  
いぼ地蔵 佐賀県嬉野市塩田町大字谷所下童 谷所下童(たにどころげどう)  
イボを治す神様 佐賀県嬉野市塩田町五町田 (いぼとり石?)五町田(ごちょうだ)  
いぼ地蔵(板観世音境内) 佐賀県杵島郡白石町戸ケ里廻里 廻里(めぐり)  
いぼ地蔵(稲荷社の下) 佐賀県杵島郡白石町深浦古渡 古渡(ふるわたし)  
錦江のいぼ地蔵(有明西小の角) 佐賀県杵島郡白石町戸ケ里1493 
 
大分県  
疣神様 大分県別府市実相寺町 年の数の小石を拾って供える。  
イボ地蔵 大分県別府市内成(うちなり) (内成のイチョウのちかく)  
いぼ地蔵 大分市津守碇山  
江海社(春日神社) 大分市勢家町4−6−87  
薬師如来 大分市宮尾 薬師如来の水。  
イボ地蔵・延命地蔵 大分市中鶴崎1−8−2 (大音寺)  
いぼ地蔵さま・和霊社 大分市萩原2 (萩原天神)  
疣地蔵 大分市木ノ上  
疣地蔵尊 大分市神崎  
いぼ地蔵 大分市野津原雨川 (旧大分郡野津原町)  
イボ地蔵さま(臨済寺別院) 大分市永興(りょうご) お礼は赤飯を供える。  
松崎地蔵尊・イボ地蔵尊 大分市松原町(西原公園西側) 線香立ての灰とお供えの水をイボにつける。お礼は豆ご飯とご奉銭  
イボ地蔵 大分市福良  
いぼ地蔵 大分県由布市湯布院町川南 (ゆふ斎場横)  
黒津のいぼ神様 大分県国東市国東町小原黒津 (旧東国東郡国東町)  
イボ地蔵 大分県国東市国東町川原  
化粧の井戸 大分県臼杵市深田 井戸の水。深田(ふかた)  
いぼ地蔵 大分県臼杵市佐志生藤田 自分の年の数ほどの豆を煎ってお供えしてお願いする。  
大清水 大分県臼杵市大野大清水 清水の水。  
イボ薬師様 大分県臼杵市藤河内小出 イボをお薬師様の薬壷につけてなでる。  
イボ地蔵 大分県津久見市四浦刀自ケ浦 (城山の登り口)  
いぼとり地蔵 大分県津久見市四浦久保泊 お礼はお接待をする。四浦(ようら)  
疣石(念仏寺) 大分県中津市下永添 疣石に溜まった水をイボにつける。下永添(しもながそい)  
疣石(瑞福寺) 大分県中津市相原 疣石の水。相原廃寺跡の塔心礎。  
上方町地蔵尊 大分県中津市小祝上方町  
尾まがり疣取地蔵尊 大分県中津市山国町槻木 国道496号の須磨の景の近く (旧下毛郡山国町)  
イボ地蔵 大分県中津市本耶馬渓町跡田 (羅漢寺旧参道)  
疣石・疣水 大分県竹田市植木鬼田 疣石に溜まった水をイボにつける。:鬼田(おんだ)  
権現社の湧水 大分県竹田市九重野篭目 湧き水。  
イボ地蔵 大分県日田市刃連町 イボ地蔵の水。刃連(ゆきい)  
虫秋愛宕地蔵尊 大分県日田市前津江町赤石 (旧日田郡前津江村赤石)  
いぼ地蔵(地蔵院) 大分県宇佐市四日市 地蔵さんにふれる。  
疣地蔵 大分県宇佐市安心院町新原 地蔵の水。(旧宇佐郡安心院町新原)安心院(あじむ)、新原(にいばる)  
水垂不動・イボ神様 大分県宇佐市安心院町飯田 川原で年令の数の小石を拾ってイボ神様に供え、水を持ち帰り、イボにかける。  
穴居地蔵(満願寺観音堂) 大分県速見郡日出町川崎満願寺 日出(ひじ)  
いぼ神様 大分県豊後大野市三重町三重原 (旧大野郡三重町三重原)  
イボ神様 大分県豊後大野市大野町田代犬山 年の数の小豆を供えてお参りする。(旧大野郡大野町田代) 
 
長崎県  
いぼ地蔵 長崎県佐世保市早岐 早岐(はいき)  
イボ石様 長崎県佐世保市筒井町石盛  
新田のイボ神様 長崎県佐世保市新田町 (岩崎家の畑脇の板碑のイボ神様) 新田町(しんでんちょう)  
いぼ神様 長崎県大村市竹松 昊天(こうてん)宮  
石走道祖神 長崎県大村市福重町 石走(いしばしり)・(福重小学校裏)いぼ神様・やぼ神様  
イボ神様 長崎県大村市松原1  
落(おとし)の岩観音 長崎県諌早市上大渡野町 湧水がイボに効く。  
こもりじぞう 長崎市香焼町 その年に取れた小豆をイボの数だけ供える。(馬手ケ浦)香焼(こうやぎ)(旧西彼杵郡香焼町)  
いぼとり地蔵 長崎県雲仙市小浜町 「このいぼとれ。」というといぼが取れる。(旧南高来郡小浜町)  
摩崖仏・イボ神様 長崎県雲仙市千々石町木場 焼いたイモを供える。(旧南高来郡千々石町)千々石(ちぢわ)  
イボ取り地蔵 長崎県島原市有明町湯江甲浜西 地蔵を洗い、地蔵をなでた手でイボをおさえて祈る。(旧南高来郡有明町)  
いぼとり地蔵(正妙寺) 長崎県南島原市口之津町甲3300 仏像をなでて「いぼを取って」という。「いぼを取って下さい」と言ってはいけない。(旧南高来郡口之津町)  
いぼ神様 長崎県西海市西海町水浦郷小郡 いぼ神様を撫でた手でいぼを撫でる。(旧西彼杵郡西海町)  
イボ取り地蔵 長崎県五島市福江町16 (宗念寺の近く)(日本最西のいぼ神様)  
イモ地蔵 長崎県五島市本窯町芦の浦(椛島) 
 
熊本県  
イボの神様(若宮神社) 熊本市出水5丁目  
いぼ観音(観音堂) 熊本市大窪平島  供えてある水を持ち帰りイボにつける。(熊能座神社の近く)  
イボ地蔵 熊本市中島校区 中島校区(中島町・中原町・沖新町)  
いぼ地蔵 熊本市津浦町29 (熊本市打越町24との境界付近)  
水かけ観音(円通山寺院跡) 熊本市戸島町4268 年の数だけ炒り豆を供え、初穂の水をイボにぬる。  
立山のいぼとり地蔵 熊本市植木町豊田前田 お礼は歳の数の大豆を供える(旧鹿本郡植木町)  
平野のいぼとり地蔵さん 熊本市植木町平野 (清田宅前) (旧鹿本郡植木町)  
下中の六地蔵 熊本県山鹿市鹿北町下中  
イボ地蔵さん 熊本県山鹿市鹿央町上千田 (旧鹿本郡鹿央町上千田)  
イボ地蔵さん 熊本県山鹿市鹿央町上久野 (旧鹿本郡鹿央町上久野)  
いぼの神様 熊本県山鹿市平山平小城 水溜めの水をつける。年令の数を煎った大豆と米を供える。  
疣ダラさん・イボの神様 熊本県山鹿市中権現森 『山鹿市史』(昭和60年645頁)(中村廃寺の塔心礎)  
いぼ水さん 熊本県山鹿市菊鹿町宮原(みやのはる)  
いぼの神さん・鷹の水石 熊本県山鹿市菊鹿町上永野高池  
いぼの神さん 熊本県山鹿市菊鹿町小畑  
いぼの神さん・お薬師さん 熊本県山鹿市菊鹿町長谷 年の数の炒った大豆を供える  
いぼだらさん 熊本県菊池市七城町水次 イボダラさん(十蓮寺跡礎石)の水をイボにつける。(旧菊池郡七城町水次)水次(みつぎ)  
疣イボ取り地蔵さま 熊本県菊池郡大津町平川 (大年神社のすぐ下)  
いぼ石さん・イボイッサン 熊本県玉名郡和水町太田黒 年令の数の煎った大豆を供え、イボを石につける。(旧玉名郡三加和町)和水(なごみ)  
いぼ観音 熊本県玉名市岩崎653 年の数だけ大豆をお供えする。(クアハウスは萩の湯駐車場内)  
いぼ石 熊本県阿蘇市一の宮町坂梨 溜まった水をイボにつける。(旧阿蘇郡一の宮町坂梨・宿場茶屋後藤万十店隣り)  
イボ石・イボの神様 熊本県阿蘇郡小国町下城北河内 溜まった水をイボにつける。  
瀬の本のお地蔵さま 熊本県阿蘇郡南小国町瀬の本  
えぼ石 熊本県宇城市松橋町古保山 宇城(うき)、古保山(こおやま)  
いぼ神さん 熊本県八代市鏡町芝口 (旧八代郡鏡町芝口)  
いぼ観音さん 熊本県八代市千丁町 (旧八代郡千丁町)  
イボ荒神 熊本県八代市坂本町中津道 (旧八代郡坂本村中津道)  
地蔵さん(橋口宅横) 熊本県八代市坂本町下深水 (旧八代郡坂本村下深水)  
イボの神・いぼ取り地蔵 熊本県八代市日奈久馬越町 年の数の団子を供える。  
イボの神 熊本県八代市東町年神 年の数の団子を供えて祈る、お礼も必ず団子を供える。  
安心様・いぼの神様 熊本県球磨郡錦町一武本別府 一武(いちぶ)  
いぼとり地蔵さん 熊本県球磨郡錦町一武内村 錦町(にしきまち)、一武(いちぶ)、内村(うちむら) (道の駅錦の近く)  
久保のがらんどんさん 熊本県球磨郡錦町西  
イボん神さん・イボの神様 熊本県球磨郡錦町木上東 水を供え物とともい供え、水を持ち帰りイボにつける。木上(きのえ)  
阿弥陀様 熊本県球磨郡山江村万江 万江(まえ)  
六部地蔵・六部さん 熊本県上天草市松島町阿村 地蔵の水を毎日つける。(旧天草郡松島町阿村)  
ろくびさん 熊本県上天草市松島町辻 (旧上天草郡松島町辻)  
イボのお地蔵様 熊本県天草市有明町上津浦 誰とも話をしないで「イボをとって下さい。」とお願いする。お礼は煎った豆を奉納する。上津浦(こうつうら)  
石神様 熊本県天草市魚貫町浦越 (旧牛深市魚貫町浦越)魚貫(おにき)  
おすわ様 熊本県天草市久玉町吉田 久玉(くたま)(旧牛深市)  
どくんどさん 熊本県天草市馬場 (旧天草郡栖本町)栖本(すもと)  
いぼ地蔵(隣湯寺) 熊本県天草市天草町下田北1175 温泉水を供え、いぼにつける。  
胸かけ地蔵 熊本県天草市天草町大江 (旧天草郡天草町)  
イボ取り地蔵 熊本県天草市本町下河内はじ原下 子供の年の数の大豆供えてお参りする。  
水観音様・イボ観音 熊本県天草市河浦町新合平床 観音の横の清水のミズをつける。  
浮島神社(井王神社) 熊本県上益城郡嘉島町井寺2827 (いぼのサムライ・いぼとり、頭痛、歯痛の神) 
 
宮崎県  
熊野原地蔵尊・いぼとり地蔵 宮崎市学園木花台桜1(加江田神社の近く) (修験僧串間円立院の作)  
いぼとり地蔵 宮崎市清武町木原 自分の年数の大豆の首飾りを地蔵にかけて水をイボにつける。(旧宮崎郡清武町)  
疣の神様 宮崎県都城市高木町新原 お神酒を供えて祈る。  
東区のイボ神様 宮崎県都城市庄内町東区  
中原中常坊の墓・いぼ神様 宮崎県都城市高城町穂満坊 イボの数の炒り大豆を供える。(旧北諸県郡高城町)  
イボトリの仏さん(天長寺) 宮崎県都城市都島町1300−5 (阿弥陀如来)  
いぼの神様 宮崎県串間市西方 年の数だけ煎った大豆と焼酎とお米を供え、「芽が出る前にいぼを捨てて下さい。」とお願いする。  
イボ取り碑・上杉碑名(常楽寺) 宮崎県延岡市野地町4丁目3840 小豆を供えて祈る。  
西迎院地蔵・いぼとり地蔵 宮崎県児湯郡高鍋町上江1831−2 西迎院(せごいん)、児湯(こゆ)、上江(うわえ)  
イボ取り地蔵 宮崎県児湯郡新富町上富田4013  
大豆の神様・仁王像(狭野神社) 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田 高原(たかはる)、蒲牟田(かまむた) 
 
鹿児島県  
イボ神様(鞘脇バス停) 鹿児島県薩摩川内市陽成町 「私のイボをとってくれたら、歳の数だけ豆を煎って差し上げます」と言って拝む。  
イボンカンサア 鹿児島県薩摩川内市城上町今寺 今寺(いわでら)いった大豆を供えて拝む。  
イボの神様(龍光寺墓地) 鹿児島県出水市武本2893 (薩州島津家島津忠兼の墓)  
イボの神様 鹿児島県伊佐市大口木ノ氏 供えた水をつける。  
大島重制石どう イボの神様 鹿児島県伊佐市大口大島  
毘沙門天像 鹿児島市田上5−24  
比志島薬師如来 鹿児島市皆与志町 (比志島下公民館)  
伊集院抱節久治供養塔・いぼの神様 鹿児島県霧島市国分野口  
虎ケ石 鹿児島県志布志市志布志2 (旧志布志町)  
イボんかんさあ 鹿児島県垂水市新城宮脇 国市ドンの墓塔(くにいちどんのぼとう)、新城(しんじょう)  
イボン神サア・薬師如来 鹿児島県垂水市本城牧 本城(ほんじょう)  
下方の六地蔵 鹿児島県鹿屋市輝北町市成下方 大豆を供える。曽於(そお)(旧曽於郡輝北町)  
奥の神・いぼ神社(精茅神社) 鹿児島県姶良市加治木町日木山 大豆をいぼ神様の井戸の中に年の数だけ奉納する。(旧姶良郡加治木町)  
いぼ神さぁ・杖木神社 鹿児島県肝属郡南大隈町根占山本 肝属(きもつき)、根占(ねじめ)、(旧肝属郡根占町)  
イボの神様 鹿児島県肝属郡錦江町田代麓岩崎 磨崖仏(旧肝属郡田代町岩崎)  
木仏観音 鹿児島県指宿市西方下吹越 下吹越(しもひごし)の観音様とともにまつられている。  
いぼの神様・天授の板碑 鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島 初水を持っていって供えて祈る。  
いぼの神様(種子島) 鹿児島県西之表市安納大平 (日本最南のいぼ神様) 
 
修行の旅

 

 
    ●大師関連寺院 一般寺院 民話伝承 湧水 温泉 ご利益 
弘法大師 ゆかりの寺院  
●太龍寺 / 徳島県阿南市加茂町  
弘法大師 青年時代の修行  
空海の青年時代の修行地・大瀧獄であり、四国八十八箇所霊場第二十一番札所の太龍寺は、桓武天皇の勅願により開基した。標高600mの太龍寺山の山頂付近にある。  
境内から南西650mの舎心ヶ獄は、空海が著した『三教指帰』に『阿国太瀧嶽にのぼりよじ』とあるように、虚空蔵求聞持法を修した場所としても有名である。舎心は捨身を通じ、空海は百日間修行をしても悟りを得られず、谷に身を投げようとしたとも伝えられている。  
●大安寺 / 奈良県奈良市大安寺  
弘法大師 出家 / 天長6年(829)に別当に任ぜられる  
仏門の世界に空海が入ることになったきっかけとなった虚空蔵求聞持法について、『三教指帰』のなかで「ここに一人の沙門あり。余に虚空蔵求聞持法をしめす」とあるが、この沙門が大安寺の僧・勤操であるといわれてきた。 これは勤操から一代前の師である道慈(どうじ)が、唐から虚空蔵求聞持法を持ち帰ったと伝えられているためである。空海は大安寺の僧として出家したと伝えられ、唐から帰国後、天長6年(829)に別当に任ぜられたともいう。  
●久米寺 / 奈良県橿原市久米町  
弘法大師 唐へ渡ろうと決心  
聖徳太子の弟・来目皇子の祈願のために推古天皇が建立したと伝えられる久米寺。空海が夢のお告げで、大日経(密教の根本経典)を発見したのが、久米寺の東塔であるといわれる。 空海は経巻を読もうとしたものの、梵語の発音を漢字に置き換えた部分が少なかったため、全てを理解することは難しく、これを機に唐へ渡ろうと決心したもいわれる。現在は塔の礎石のみが残っている。戒壇堂は江戸時代に再建されました 。  
●東大寺 / 奈良県奈良市雑司町  
弘法大師 延歴22年(803) 戒壇院で受戒  
空海と東大寺の関係は深く、延歴22年(803)に戒壇院で受戒したといわれている。当時は東大寺、観世音寺、下野薬師寺の戒壇のいずれかで受戒しなければ、正式な僧侶と認められなかった。空海は唐から帰国後の弘仁13年(822)2月、大仏殿前に真言院(灌頂道場)を建立するように命ぜられた。六宗兼学の寺で南都を代表する東大寺に、密教が本格的に受け入れられる端緒となった。 
●観世音寺 / 福岡県太宰府市観世音寺  
弘法大師 大同元年(806) 滞在  
かつては三戒壇院の一つが置かれ、九州寺院の中心だった観世音寺は、天智天皇が亡くなった母・斉明天皇の冥福を祈るために発願し、天平18年(746)に落慶した。  
大同元年(806)に唐から九州・大宰府に帰り着いた空海だが、高階遠成や橘逸勢らと違い、朝廷から帰京の許しが出なかった。その間、滞在したのがこの寺といわれている。  
●東長寺 / 福岡県福岡市博多区  
弘法大師 大同元年(806) 起源  
唐から帰国した空海が、一軒の船宿に仏像や経本・仏具などを納めて寺としたのが起源とされている。そして密教が長く東に伝わるようにと祈願して「東長密寺」と名付けたともいわれる。  
本堂には自作と伝えられる大師像や、不動明王像があり、正御影供の時にのみ開帳される。福岡市の指定文化財である六角堂には六体の仏像が安置され、毎月28日の不動護摩供のときにのみ開扉される。 
●善通寺 / 香川県善通寺市善通寺町  
弘法大師 誕生地・三大霊跡  
真言宗善通寺派の総本山であり、四国八十八ヶ所霊場の第七五札所として知られる善通寺。空海の誕生地とも知られ、高野山や教王護国寺とともに空海のゆかりの三大霊跡として、古くから信仰を集めている。空海が師の恵和和尚が住した長安の青龍寺を模したとされる。宝物館には「一字一仏法華経序品」や唐から持ち帰った「金銅錫杖頭」が国宝として保存されている。  
●教王護国寺(東寺) / 京都市南区九条町  
弘法大師 天長元年(824) 別当・三大霊跡  
東寺真言宗総本山であり、本尊は薬師如来。天長元年(824)に空海は造東寺別当となり、伽藍の造営にあたり、以後真言宗の根本道場となった。講堂内に、仏像で密教空間を表現した。堂内中央に、五智如来、東に五大菩薩、西に五大明王、その周りに梵天、帝釈天、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を安置している。五智如来は国の重要文化財、他の仏像は国宝に指定されている。  
●乙訓寺(おとくにでら) / 京都府長岡京市  
弘法大師 別当  
聖徳太子が創建したといわれる乙訓寺。延歴4年(785)、桓武天皇の側近・藤原種継暗殺を疑われた皇太弟・早良親王が幽閉され、無実を訴えたまま絶命し、その後災厄が続いた。嵯峨天皇の命による空海の別当就任は、親王慰霊の祈祷の効験を期待したものだった。 空海が滞在中、最澄がこの寺を訪れ、密教伝授を願い出たため受託し、のちに神護寺で結縁灌頂を授けた。 
真言密教とは  
真言宗は空海(弘法大師)によって開かれた密教を中心とした宗派です。平安時代の804年、のちに天台宗を興した最澄と同じ時期に留学僧として入唐しました。空海は唐で密教の第一人者の恵果のもとで2年余り学び密教の金剛界、胎蔵界両方の秘法をすべて授かったと言われています。  
帰国後816年に高野山を開き金剛峰寺を建立、これが真言宗の総本山となりました。さらに、823年には東寺を賜りここを鎮護国家祈祷の修行を行う根本道場としました。ここから天台宗の密教を台密というのに対して真言宗の密教を東密といいます。  
仏教の教えには顕教と密教と二つの分類があり、顕教とは「顕らかに説かれた教え」という意味で、これは衆生に教えを説くために姿を現した釈迦が人々の能力や性質に応じてわかりやすく説き示した教えであると空海は考え、一方密教とは「奥深い考え」という意味であり、真理そのものである大日如来が示した究極の奥義つまり秘密の教え(密教)であると考えたのでした。顕教では長い修行の末に成仏することを目指しますが、密教では大日如来と一体となって修行すればこの身がそのまま仏になるとできると説いたのでした。  
弘法大師の生涯  
弘法大師は、宝亀五年六月十五日(七七四年)現在の香川県善通寺市で、佐伯直田公(善通卿)と玉依御前の間に生まれた。幼名を真魚という。幼いころから非凡な才能を持つ、天才少年であった。十五歳で伯父の阿刀大足について奈良の都に出て、論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。十八歳で大学に入学するも、出世のための勉強に失望し、大学を辞め、仏門に入る。三論宗の高僧勤操より『虚空蔵(菩薩)求聞持法』を授かった弘法大師は、現在の高知県室戸市で修行をしている時、口に明星が飛び込んでくるという体験をして悟りを開いたといわれている。そのときの様子が「阿国大滝嶽に躋攀し、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」と『三教指帰』に記されている。これが、弘法大師が密教に出会った瞬間であり、その間見ていたものが空と海だけだったため、「空海」と名乗るようになったといわれている。二十三歳で『大日経』と出会い、密教の深い教えを直に学び、それを実証すべく、中国の長安に留学する事を決意された。この時期、儒教、道教、仏教を比較検討し、仏教の優秀性を説いた『聾瞽指帰』後に、『三教指帰』と改題された。  
弘法大師は、入唐直前の三十一歳で東大寺戒壇院において得度したといわれている。延暦二十三年(八〇四)五月、弘法大師は三十一歳で留学生として遣唐使と共に唐へ出航する。この時の遣唐使一行には、政府の還学生として、天台宗の最澄がいた。途中嵐にあい、漂流し、福健省赤岸鎮に漂着した。上陸が許されないで立往生する中、お大師様が上陸嘆願書を書かれ、上陸許可が下りた一行は十二月に長安に到着した。長安に到着後は、梵語の勉強をされた。そして、翌年六月、密教の第七祖である青龍寺の恵果和尚を訪ねた。恵果和尚はお大師様が来ることをご存知であったのか、「われ先より、汝の来るのを知りて相待つこと久し。大いに好し、大いに好し。報命つきなんと欲すれども付法に人なし。必ず、須らく速かに香で花を弁じて灌項壇に入るべし」と言われ、また「われと汝は久しく契約ありて、誓って密蔵を弘む。われ東国に生まれて必ず弟子とならん」と申されたという。以降約半年にわたって師事する。そして、金剛、胎蔵、伝法の三つの灌項を受け、「この世の一切を遍く照らし、ゆるぎない最上の者」を意味する法号「遍照金剛」を与えられた弘法大師は、名実ともに密教の第八祖となった。大同元年(八〇六)十月、密教だけでなく、工学、医学、文学など最新の文化や学問を唐から持ち帰った弘法大師は、博多の地へ帰国し『御請来目録』を朝廷に奉進した。大同二年(八〇九)十一月八日、平城天皇から許され、弘法大師はかつて『大日経』を発見した大和久米寺にて『大日経』の講讃を行った。この日をもって真言宗は立教開宗された。  
弘法大師は、社会を救済し人久に利益を施すために、国家鎮護や雨乞いなどの祈祷を行った。また、真言宗を広めるために未徒の修行、養成に力を注いだ。弘仁六年(八一五)、自身の修行の場であった四国にて人々の災難を除き国の安泰と繁栄を願い四国を巡ったのが現在の四国霊場となっている。そして、弘仁七年(八一六)六月十九日、四十三歳のときに嵯峨天皇より高野山を開くことを許され、真言宗の修禅道場として、また自分自身の修行の場として高野山の開創に着手した。弘仁十二年(八二一)、現在の香川県の満濃池(日本最大の農業用ため池)は、数年間の間決壊したまま復旧が進んでいなかったが、弘法大師は改修を指揮し、わずか四十五日間で工事を成功に導いた。弘仁十四年(八二三)には京都東寺を賜り教王護国寺とし真言密教の道場としたが、のちに天長五年(八二八)にはここに私立の教育施設「綜芸種智院」を開設し庶民にも教育の門戸を開いた。また、著書も多く、『般若心経秘鍵』『秘密曼陀羅十住心論』『秘蔵宝鑰』『弁顕蜜二教論』『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』など、たくさんの書物を残された。承和二年三月二十一日「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなばわが願も尽きなん」と御請願のもと、高野山にで六十二歳で入定、即ち永遠の禅定に入った。弘法大師が入定してから八十六年後の延喜二十一年(九二一)、東寺の観賢の働きかけにより、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。弘法大師は「お大師さん」として、今でも広く親しまれている。  
そして、真言宗では、死後の未来は、弥勒菩薩の浄土である都率浄土に迎えられると言われています。お大師さんは、この都率浄土に生きておられると信じられている。 
弘法大師謡蹟  
●四国88ケ所を巡拝して  
伝説によれば四国88ヶ所は弘仁6年(815)弘法大師42歳の時に開かれたといい、他方、大師の入定後、高弟真済がその遺跡を遍歴したのがはじまりともいう。また本稿中にも紹介したように衛門三郎が自己の非を悟って四国の霊地をめぐったのが遍路のはじまりともいわれる。いずれにしても大師入定後、大師に対する信仰は間もなく起り、平安時代の末ごろには大師ゆかりの地を巡拝することがおこなわれていたものと推察される。  
四国88ヶ所の寺は全部弘法大師開基の寺なのではないかと漠然と考えていたが、調べてみると弘法大師開基の寺が41、行基開基が28、その他が19となっている。行基開基がかなりの数になっているのは意外であったが、案内書などを読んでいると、行基開基であってもその後弘法大師が修復したものも多く、直接間接に弘法大師が関与しているようである。現在88ケ所のどの寺にも本堂とともに大師堂があり、巡拝の人々も必ず双方に巡拝、読経している。その意味では88ケ所全部のお寺が弘法大師関連の謡蹟といっても過言ではない。  
●衛門三郎と大師像  
前述のとおり衛門三郎は大師の後を追って20回廻っても大師に逢うことが出来ず、逆に廻ればと考えて逆に廻り、ついに現在12番札所のこの焼山寺で病に倒れたが死の直前、大師に巡りあうことが出来た。大師が墓標として立てた三郎の杖が根づいたという杖杉が高くそびえ傍らには杖杉庵があるという。是非立ち寄りたいと願っていたが、団体旅行では仕方ない。杖杉庵のそばを通過した時、大きな杉、杖杉庵らしい建物、衛門の大師の像が見えたのでカメラのシャッターを切った。あまりよく写らなかったが参考までに掲げてみる。  
●慈尊院 和歌山県九度山町  
弘法大師の母堂を祀る慈尊院に立ち寄った。丁度桜の花が美しく咲いていた。ビデオでこのお寺の概略の解説があり、さらに母の玉依御前の像を拝観することができた。境内には弘法腰掛けの石や孝行松があった。  
●西新井大師、大師尊像 足立区西新井  
大師がこの地を通ったところ悪疫流行しているのを見て、21日間護摩を修ぜられて悪疫を終息せしめたという。その徳を慕ってやまない人々が、大師自ら刻んだ観世音菩薩像と御大師様尊像をお祀りしたのがこの寺の起源という。現在境内に建つ弘法大師立像は、開宗千百年の記念に東京千住睦講により諸国巡錫のお姿を現したものである。  
●弘法の池、護摩堂、弘法大師の清水、倶利伽羅不動尊  石川県、富山県  
石川県鳥越村には弘法の池がある。弘法大師が旅の通すがら通りかかった老婆に水を所望すると、老婆ははるばる沢まで降りて、五体にしみわたるような冷たい清水を汲んできた。胸を打たれた大師が手にした錫杖で地面を一突きするとたちまち泉が沸き出したという。池の前には大師の像が安置されている。  
富山県上市町には護摩堂と弘法大師の清水がある。当時付近の山野は猛獣毒蛇の巣で、人々が被害を蒙り困り果てていたが、大師がこの地に来て住民の苦しみを憐れみ、護摩を焚いて野獣の放逐を祈った。以来この地を護摩堂と称するようになったという。小さなお堂が建ち拝観させていただいたが、村人により大切に保存されている。また弘法の池と同じような物語が伝えられ、弘法大師の清水として今も清水がこんこんとして湧き出ている。  
富山県小矢部市の倶利伽羅不動尊は弘法大師が諸国をめぐられる途中、この地で紫雲光明の中に不動明王のお姿をおがまれ、また、一体の不動明王像をお刻みになり奉安されたという。  
●立木観音 大津市南郷  
大師行脚の折、当地を通ったところ、この山に光を放つ霊木があった。不思議に思って近寄ろうとすると、白い鹿が忽然として現れ、大師を脊に乗せて大河を渡り霊木の前に導き白鹿はたちまち観世音と化現し光明を放って虚空に消散した。大師はその霊木に向かい立木のまま自分の丈にあわせて、五尺三寸の聖観世音の尊像を刻み、その余材をもって毘沙門天、広目天、大師の真影を刻み、堂宇を結んで安置したという。  
●須磨寺の弘法岩五鈷水、東山寺  兵庫県  
神戸市の須磨寺の境内に平成12年「弘法岩五鈷水」という手水処が設置された。傍らの説明によると、平成12年初頭、この場所に手水処(手や口のお清めの場所)を建立することを計画した。そして弘法大師御宝前で祈ること21日、清浄で豊富な水が山内で湧出することが判り、その水をお大師さんにちなんで「五鈷水」と名付け、大きな五鈷を石の台座に置いた手水処にすることにした。ところがある雨の朝、手水処建立の予定地に立っていると、山のような僧形がぼんやりと浮かんできた。これは五鈷を持つのはお大師様だという思いが浮かび、その浮かんできた姿を描き、そのような石を求めて四国各県を訪ね歩いた。そしてまた祈ること14日、若き日の大師様もご修行なされた四国の霊峰石槌山の麓より、人の手の一切入っていない高さ2m、重さ約13トンの大岩が見付かった。一目見てこの大岩こそあの雨の朝に浮かんだ僧形でありお大師さんであると確信し「弘法岩」と称して当山にお迎えしたとのこと。そう言われて見ると僧の形に見えてくるから不思議である。兵庫県淡路島一宮町の東山寺も弘法大師開基の寺といわれ、本尊千手観音像は大師の作と伝えられる。  
●明王院 福山市草戸  
福山市の明王院も弘法大師開基と伝えられる美しい寺である。  
●宮島弥山、大聖院  広島県宮島町  
日本三景の一、天下の名勝、安芸の宮島の中心をなす霊峰弥山(みせん)は弘法大師の開創になり、その山容が唐の須弥山(すみせん)に似ていることから弥山と命名され、自ら一百日間の求聞持の秘法を修せられた所という。  
大聖院の境内は広く、勅願堂、大師堂、観音堂などの堂塔が建ち並び庭園もまた素晴らしい。弥山の頂上付近には消えずの火や求聞持堂があるという。ここから弥山の頂上までの通もあるようだが、とても歩けそうもないので、紅葉谷駅からロープウエイに乗り獅子岩駅で降りる。そこからでも頂上までは急な坂道が1キロほどあるというが覚悟を決めて歩く。少し歩くと求聞持堂がある。弘法大師が求聞持の秘法を修した所と伝える。傍らに錫杖の梅がある由だが見逃してしまった。更に進むと不消霊火堂(きえずのれいかどう)がある。大師修行の護摩の火が1190余年、昼夜燃え続けているとのこと。閼伽井堂は修行に用いた水の出たところである。文殊堂、観音堂、三鬼堂等を経て漸く頂上にたどり着く。頂上からの景観は壮観雄大で言葉に言い尽くせない。かっては海軍兵学校の生徒は必ずこの弥山まで登ったと聞いたことがある。永年の夢を一つ果たしたようで誠に壮快である。  
●神門寺、影向石(いろは石) 出雲市下塩冶町  
出雲市下塩冶町の神門(かんど)寺には、弘法大師がここで「いろは歌」を作った所といわれ、境内には影向石(いろは石)がある。このことからこの寺は「いろは寺」とも呼ばれている。また、南北朝の頃出雲の国主であった塩冶判官高貞公の墓がある。  
 
 
■東北
青森県

 

 
青森県  
東北地方は古代の令制国家では陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)からなる奥羽地方と呼ばれていました。天正18年(1590年)7月〜8月に、豊臣秀吉が全国統一のために実施した『奥州仕置(おうしゅうしおき)』により、現在の青森県に該当する地域では津軽為信(つがるためのぶ)が初代・弘前藩(津軽藩)藩主として承認され、南部信直(なんぶのぶなお)が盛岡藩(南部藩)藩主として認められました。津軽氏は元々、南部氏の家臣の家柄で南部氏の傍流であったとも言われますが、津軽氏が南部氏から独立して現青森県の西部(日本海側)を統治するようになったので、南部氏と津軽氏は犬猿の仲としても知られています。  
官軍と幕軍が戦った幕末の戊辰戦争では、仙台藩(伊達藩)と盛岡藩(南部藩)、会津藩は江戸幕府の側について旧体制を守ろうとする『奥羽列藩同盟(奥羽越列藩同盟)』を結成しますが、弘前藩(津軽藩)は奥羽列藩同盟を裏切って離反し官軍に味方したことから、津軽藩と南部藩の対立は更に激烈なものとなりました。明治元年(1868年)11月には、『野辺地戦争(のへじせんそう)』が勃発して、南部藩の野辺地という場所で弘前藩と盛岡藩・八戸藩の兵士とが交戦する直接の武力衝突も起こりました。  
津軽藩最後の主君である第12代藩主の津軽承昭(つがるつぐあきら,1840〜1916)は新政府軍に合流して『箱館戦争』で功績を挙げ、戦後に新政府から1万石加増されましたが、明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事に任命され、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されることになります。戊辰戦争の後、盛岡藩は大幅に石高を減封される敗戦処分を受け、盛岡藩の跡地には『斗南藩(となみはん)』が設置されて、元会津藩・松平家が3万石で転封されました。  
しかし、奥羽越列藩同盟の主要勢力(朝敵)として戊辰戦争に敗れた南部利剛(なんぶとしひさ,1828〜1896)は、明治新政府から隠居と領地没収の処分を下されることになり、新政府軍に味方した津軽藩・秋田藩とは明暗がくっきりと分かれてしまいました。最終的には、長男の南部利恭(としやす)に陸奥国白石13万石の減転封(盛岡藩20万石からの減法・配置換え)が認められましたが、戊辰戦争で幕軍について改易の厳罰処分を受けたのは、奥羽列藩同盟の会津藩・盛岡藩だけです。1870年(明治3年)7月10日に、盛岡藩(南部藩)は自ら財政難を理由に廃藩置県に先立って廃藩を申請して、旧領は『盛岡県』と改名されることになりました。盛岡県は廃藩置県によって、1872年(明治5年)1月8日に『岩手県』へと現在の県名に改称されています。  
明治政府は明治元年(1868年)12月に陸奥国の領域を『磐城(いわき)・岩代(いわしろ)・陸前(りくぜん)・陸中(りくちゅう)・陸奥(むつ)』の5つに区分しましたが、旧盛岡藩(南部藩)の一部を削減した領域に該当する岩手県は『陸中国・陸前国北東部・陸奥国南部』に広がるかなり広い県土を持つに至ります。  
明治維新の廃藩置県(明治4年,1871年)によって、弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県(斗南藩)、七戸県(七戸藩)、八戸県(八戸藩)、北海道渡島半島の館県が生まれましたが、同9月4日にはこれらの6県が合併して『弘前県(県庁所在地・弘前)』が成立します。  
青森県は当初は弘前県という名称であり、歴史的にも経済的にも青森よりも弘前のほうが藩主の権威との関わりが深く経済的にも賑わっていたのですが、箱館戦争で活躍した九州地方の熊本藩出身の野田豁通(のだひろみち)が物資の輸送で利用した小さな漁港の青森に愛着を持ったことや津軽氏・南部氏の確執を和らげたいという思惑も影響して、『青森県』という県名が採用されるに至ったと言われます。青森は弘前と比べると、より旧南部藩の所領に近い漁港の町でしたが、その地名は単純にそこに『青い森』が広がっていたからという事のようです。  
明治5年(1872年)9月5日に、野田豁通(のだひろみち)が初代県大参事に任命されて、9月23日に県庁を弘前から青森に移転することを決め、県名もそれに合わせて『青森県』へと改称されました。初代の県権令(県知事)には菱田重禧が任命されています。しかし、青森県や青森という地名には、東北地方の歴史的・文化的な由来が含まれておらず、本来ならば戊辰戦争で官軍に協力した津軽氏の所領の弘前から『弘前県』としたほうが自然だったのですが、新しい青森県の範囲では弘前の位置が北に偏りすぎていること、青森の漁港としての将来性があること、旧幕藩体制の因習・遺恨を引きずらないことなどに注目して『青森県』という県名が採用されました。明治維新の廃藩置県では『旧弊の慣習・封建的権力を廃すること』が重視されたということも関係しています。 
 
岩手県

 

●蝙蝠岩 弘法大師霊場 / 岩手県花巻市東和町毒沢  
弘法大師 入唐前諸国巡錫の途中休息  
国道456号沿い、近くに「こうもり岩」のバス停がある。こうもりが棲むことから蝙蝠岩とも呼ばれ、その昔は山伏の修練場でもあったと伝えられている。巨大な天井石からなるドルメン状の岩屋。奥に弘法大師像があり、花が手向けられていた。太子堂の裏手にある花崗岩の重なる岩場。冠の形をした岩があることから「冠山」とも呼ばれている。  
東和町から国道456号線に沿って南下する猿ヶ石川の支流を毒沢川という。当霊場の地名にもなっており、その由来は「邦内郷村志」に「岩間に毒を出す沢あり、故に村名とす」(角川日本地名大辞典)とある。また、室町時代に毒沢城主伊賀守一忠が、豊臣秀吉の奥州仕置の軍に追われ城から逃れる際、追っ手を遮るために湧き水に毒を流したという伝承もあるが、この毒だ何だったのかは記されていない。  
内藤正敏氏の『聞き書き 遠野物語』〈新人物往来社〉に、こんなぶっそうな話が記されている。明治時代、東和町の隣、遠野の土淵村のはずれにある恩徳(おんどく)金山から青酸カリをもらってきて、川の魚がいそうなところに、ほんのひとにぎり、サーッと流す。浮き上がってきた魚をとって食べるのだが、腸(はらわた)をとって焼いて食べれば何ともなかったという。この密漁法は、ほとんどの金山周辺で行われており、大量の魚が浮き、川の水を飲んだ馬が死んだために、警察沙汰の事件にまでなったという。恩徳金山からもらった青酸カリは、金・銀の冶金(鉱石から含有金属を分離・精製する技術)に使用されたものと思われる。  
『丹生の研究』で知られる松田寿男氏は、東北地方すなわち古代の陸奥および出羽は、日本でも有数の水銀地帯であり、あの絢爛たる平泉の黄金文化を支えたのは、北上山地の金であったという。やはり、この地に水銀鉱山があったということなのか?  
 
案内板には、「当霊場は御大師様が入唐前諸国巡錫(じゅんしゃく)の途中休息された所で、全国に数多くある杖立て伝説が語り伝えられている霊場で清水が湧いております」とある。  
弘法大師伝説は、日本各地に3,000以上、ウィキペディアには5000以上あると記されている。なかでも多いのが、当霊場にみられる杖立て伝説で、弘法大師が旅の杖を地面に突き立てると、たちまちそこから清らかな水が沸き出たという弘法水の伝説である。弘法水は、場所や謂れによって「弘法清水」「お大師水」「弘法井戸」「独鈷水」などとも呼ばれている。  
柳田國男の『日本の伝説』「大師講の由来」では、弘法水伝説の北限を山形県の吉川としているが、秋田県、青森県にもあるというから、まさに北海道と沖縄を除いた全国各地に広まっているものと思われる。  
弘法大師空海は、18歳で大学に入るが、大学の枠におさまる器ではなかったようだ。ドロップアウトの道を選び、大学を中退、山林修行に入る。  
弘法大師伝説は、まだ空海が無名であった18歳から入唐するまでの31歳までの青年時代、いわば足跡のあきらかでない時代をもつことで生まれたものだが、いくら空海といえど、10数年で日本国中をくまなく歩き廻ることはできないだろう。諸国を勧進して廻った高野聖が各地に「弘法大師」の名を残したとも考えられるが、いずれにせよ弘法伝説に、空海自体が関わっている例は極めて稀であると思っていい。  
と分かっていても、なぜ弘法伝説が、東北のこの地に残されているのかと考えてしまう。毒沢の地名と空海の〈丹生〉つながりで、何か出てくるかと思ったが、目ぼしい伝承は見つからなかった。 
 
岩手県  
陸奥国と呼ばれていた時代から豊臣秀吉の奥州仕置を経て、南部氏と津軽氏が藩の主となった東北地方の大まかな歴史については、[青森県の名前と歴史]の項目で説明しました。盛岡藩(南部藩)は戊辰戦争で、幕府に味方する守旧派の『奥羽越列藩同盟』に参加して徹底抗戦を行いましたが、新政府軍に敗れて白石藩13万石への減転封処分を受けることになりました。南部氏の拠点であった盛岡は奪われて、松本藩戸田家と松代藩真田家が治める新政府軍の直轄領とされました。そして、1870年(明治3年)7月10日には、盛岡藩(南部藩)は自ら財政難で藩政を維持ができないという理由から、廃藩置県に先立って廃藩を申請して『盛岡県』に再編されました。  
盛岡県が成立した時の管轄地域は、『陸中国岩手郡・稗貫郡・紫波郡・和賀郡の一部』であり、南部氏が支配していた頃の盛岡藩と比べるとその管轄地の範囲は大幅に縮小されることになりました。1871年(明治4年)の廃藩置県による第一次府県統合では、現在の岩手県に該当する地域に『盛岡県』と『一関県』が置かれることになりますが、盛岡県には『和賀郡・稗貫郡(ひえぬき)・志波郡(しわ)・岩手郡・閉伊郡(へい)・九戸郡(ここのへ)』が含まれ、一関県には『気仙郡(けせん)・本吉郡・栗原郡・登米郡(とめ)・玉造郡(たまつくり)・磐井郡(いわい)・胆沢郡(いさわ)・江刺郡(えさし)』という由緒ある郡名が含まれていました。  
盛岡県は廃藩置県によって1872年(明治5年)1月8日に『岩手県』へと現在の県名に改称されますが、1876年(明治9年)の第2次府県統合では、磐井県から胆沢郡・江刺郡・磐井郡を、青森県から二戸郡を編入して県土を拡大しました。歴史的な由来や経緯を重視するのであれば、岩手県は盛岡県となり、青森県は弘前県となってもおかしくはなかったのですが、明治維新は『幕藩体制(藩政)の旧習・権威を否定する近代化革命』という意味合いを持っていたので、岩手県もまた南部氏の支配体制を彷彿させる盛岡県ではなく、盛岡が含まれている岩手という郡名のほうを県名に採用したのでした。岩手県への改称に当たっては、盛岡県が自ら固陋因習を正して県政と人心を刷新したいという陳情を行ったという体裁が取られました。  
『盛岡』という地名の意味は『盛んに繁栄する岡(台地)』というものですが、元々は南部氏家臣の福士氏が築いた『不来方城(こずかたじょう)』があった地名を、『人が来なくなる土地』というのは縁起が悪いということで、南部利直(なんぶとしなお)が慶長年間(17世紀初頭)に『盛岡城・盛岡』へ改名したのが始まりとされます。不来方城と盛岡城は城郭としては別々に建てられた城ですが、その城があった地名が『盛岡』へと改称されたことになります。現在でも岩手県民・盛岡市民の一部には、明治維新で取り上げられた『岩手』という地名よりも南部氏に由来する『盛岡』のほうに親しみがあるとも言われ、『岩手公園』の愛称として『盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)』が採用されたりもしていますが、地図や公式文書では『盛岡城跡公園(岩手公園)』の表記が多くなっています。財政難もあり盛岡城の史跡としての復元は極めて難しい状況が続いています。  
岩手県の県名となった『岩手』という地名そのものは、盛岡以上に古いとも言われる地名・郡名であり、その由来は東北地方の名峰の一つである標高2038メートルの『岩手山』と考えられています。岩手山は二つの外輪山からなる複成火山であり、火山湖やカルデラ地形もあり、過去に溶岩が流れ出た溶岩流の跡も多く残されていることから、『岩が出る(溶岩が出る)』という自然事象の観察から、『岩出→岩手への転化』が起こったようです。岩手県の別名は『巌鷲山(がんじゅさん)』とも言うが、元々は『巌鷲山(いわわしやま)』と呼ばれていた山名が、『岩手』の音読みであるがんしゅに似ていることから岩手山へと転化していったとも言われます。春の岩手山は雪解け時期の山の形が飛んでいる鷲の形に見えるために、巌鷲山と呼ばれるようになったという伝承があります。  
岩手県は、2011年現在、政治資金規正法で起訴されている小沢一郎の地盤がある県でもありますが、近代の岩手県は藩閥政治を覆した庶民宰相の原敬(はらたかし)、反軍演説の斎藤実(さいとうまこと)、俳人の石川啄木、作家・詩人の宮沢賢治など多くの逸材を輩出している県でもあります。  
 
宮城県

 

●弥勒寺 / 宮城県登米市中田町上沼弥勒寺  
弘法大師 巡錫  
33年に一度御開帳の秘仏「弥勒仏坐像」の座する弥勒寺は別名奥州の高野山とも言われる東北の真言宗の中心地。正式名称は「長徳山 歓喜院 弥勒寺」。創建は1300年程前、7世紀に遡る。修験道の祖といわれ多大な法力を持っていたと伝えられる役小角(えんのおづの)の草庵がその始まりという。9世紀には弘法大師がこの地を訪れたと伝えられている。 
●弘法大師堂 / 宮城県岩沼市下野郷字藤曽根  
弘法大師 巡錫  
抑々当山は東北随一の弘法大師霊場にて広く世に知られて居り、一千百十有余年の昔、空海上人(弘法大師)奥州行脚の砌りこの地に御錫を止めさせ給いてご自身の姿を自ら御彫刻遊ばされ今日に伝えし霊場であります。尚自ら要ひた南天の杖と共に寺宝として奥の院に安置して在ります。毎年、4月21日に奥の院を開帳して御参詣の方に南天の杖で加持法を受けられます。特に真言密教の大修法師来山して護摩秘法を修行し、家内安全、五穀豊穣、交通安全、商売繁盛、海上安全大漁満足・所願成就の大護摩祈祷を厳修致します。 
●斗蔵寺(とくらじ) / 宮城県角田市小田斗蔵  
弘法大師 大同2年(807) 巡錫  
斗蔵山(標高250m)は、角田市の南西に位置しており、豊な自然は多くの方々の心の「ふるさと」としていき続けています。斗蔵山の山頂にある斗蔵寺観音堂は、大同2年(807)に坂上田村麻呂が建立し千手観音を安置したと言い伝えられており、同年、弘法大師がこの地を訪れた際に、「紫雲天になびき 奥州無二の霊地なり」と賛美したと言われております。    
斗蔵寺には秘仏の銅造千手観音像懸仏(県指定文化財)と木造千手観音立像(市指定文化財)及び眷属の二十八部衆と雷神、風神が安置されています。 秘仏の千手観音懸仏は、千手千眼世音菩薩ともいい、両手のほかに左右二十手あり、それぞれの四十手四十眼二十五の功徳を配して千手千眼とされています。多くの人々の苦悩を救い諸願成就及び、出産、平穏を司る観音様で、広く信仰されています。  
●弘誓寺 / 宮城県名取市  
弘法大師 弘仁年間(811) 開山  
弘誓寺は、金剛遊山と号し真言宗智山派の京都御室仁和寺の末寺で、本尊は不動明王となっています。開山は弘仁年間(810-824)に弘法大師空海によるとされ、中興開山は、寛喜2年(1230)良賢上人と言われています。  
江戸時代には仙台藩から寺領を与えられた格式を持つ寺で、旧名取郡内に、真福寺(本郷)や高照寺など末寺を16カ所も持っていました。  
境内には、日を切って願を懸けるものはその願いがかなうという日切地蔵尊(ひきりじぞうそん)や元禄15年(1702)仙台藩4代綱村公によって再建された観音堂がありましたが、昭和61年放火により焼失してしまいました。現在の建物は昭和62年に再建されたものです。  
なお、この寺の付近の植松という地名は、以前、寺の門前にあった弘法大師が植えたと伝えられている由緒のある松に由来していると言われています。  
館腰神社  
神社の由来は、嵯峨天皇の弘仁2年(811)、弘法大師(空海)が弘誓寺を創建する時に、京都伏見稲荷社を分霊したと伝えられています。祀られている神 は、倉(う)稲(かの)魂(みたまの)神(かみ)・大宮(おおみや)姫(ひめの)神(かみ)・猿田彦(さるたひこの)神(かみ)の3神で、奥州(街)道沿 い館の腰といわれる山の麓に近い所に鎮座することから社名が館腰神社と呼ばれるようになりました。 
 
泉明寺・湯元薬師堂 / 仙台市太白区秋保町湯元薬師  
慈覚大師(円仁) 開創  
秋保神社泉明寺は古来より薬師如来の霊応の地で、日本三御湯の一つ「名取の御湯」の鎮護のため、 慈覚大師(円仁)によって開創された。真言宗に属し、宗祖弘法大師(空海)の神仏習合(両部神道)の流れをくみ、 主に加持祈濤を行う。ご本尊薬師三尊・日光月光菩薩・十二神将は平安時代の比叡山の高僧の作品と伝えられる。  
隣に薬師堂は、本来付属仏堂であったが明治初期の神仏分離政策により、神社(祭神大己貴之命)とみなされた経緯があるが、 管理や運営は泉明寺がおこなっている。 ホテル佐勘の前にある湯神社が秋保温泉の守護「神」とすれば、泉明寺と薬師堂は守護「仏」といわれる。 泉明寺も薬師堂も近年新しく再建されたが、その歴史は古く秋保温泉を利用する人々をはじめ地域の人々に親しまれている。  
秋保郷の歴史  
秋保郷は、奥羽山脈に源ととする名取川とその流れに沿って貫通する古道(二口街道)を主体に構成され、 山々に囲まれた河岸平野と谷の上流の厳しい自然条件と相待った袋小路的要素を備え、 有史以来独自の歴史と風土を保ちながら今日に至っている。  
古来秋保・・・  
人間が生活を始めた歴史は今から三万年以前、秋保郷においては旧石器時代からはじまり、 湯元細野原遺跡がその痕跡を物語っている。以後、縄文及び弥生という原始民族が生活・土着したといわれている。 遺跡の総数は46箇所を超え、人々は山あいのわずかな土地を耕作し、大自然の中で狩猟採取をしながら、生活を営んでいた。  
弥生式小集落は、水田農業という安定した食料調達方法を獲得するとともに、人口の増加をもたらし、 集落の長たる「王」を生み、巨大な墓を象徴する次の古墳時代へと歴史を重ねていく。 仙台市遠見塚古墳の存在はこの頃のものとして想像され、仙台平野に統一された大きな集団があっと推測される。 しかし、秋保郷にはこのような墳墓は発見れていない。集落発達には困難を極めことが考えられ、 この時代名取川沿いに依然として弥生式小集落が点在するのみのさみしい化界の地だったことが推測される。  
やがて、中央(近畿地方)に大和政権が樹立するとともに、東北地方経営のための拠点として多賀城が設置される。この頃秋保郷は、多賀国府の近郊の集落という意味合いをもっていたほか、この時期に編纂された物語・歌集から「名取の御湯」という奥州の名所であった事実が推測され、 つまり秋保温泉は、多賀国府に派遣されてくる国府官人たちの保養・遊楽の地として栄え、 その名が遠く中央(大和)にも知られていたと考えられている。 秋保郷は東北の首都たる多賀国府の繁栄とともに、温泉の湧き出る湯元を中心小集落が形成されはじめたと思われ、 湯元以外には人は住んではいたであろうが依然として化界の地あったらしく、二口街道を背骨として名取川の上流まで集落ができ、 人々の生活が営まれるようになるまでにはその後数世紀を要したといわれている。この間、坂上田村麻呂や慈覚大師といった歴史的人物の来郷をきっかけに建立されたといわれる寺社や遺跡も多く、 仙台・山形間の主要街道の郷として、次の在郷小領主を始まりとした武士の時代へと変遷していく。 
宮城県  
現在の宮城県に該当する地域は、明治維新以前には伊達政宗(だてまさむね,1567-1636)で有名な伊達氏が支配する『仙台藩(伊達藩)』であり、62万石(実質石高は100万石以上)の仙台藩は全国的に見ても有数の大藩でした。福島盆地(伊達郡・信夫郡)と米沢盆地(置賜郡)を本拠地とした伊達氏は戦国時代に台頭しますが、“独眼竜・奥州の竜”と言われた伊達政宗の時代に、常陸国の戦国大名・佐竹義重や会津の蘆名氏を破って東北地方(奥羽)の南半分を支配する大大名に上り詰めます。  
伊達政宗は実力勝負では勝つことができないと見た天下人の豊臣秀吉に真っ白な死に装束を着て謁見し(全面降伏の意志を示し)、仙台の本領安堵を取り付ける奇策を講じますが、時代の趨勢を見極めて秀吉の死後の『関ヶ原の戦い(1600年)』では徳川家康の政権奪取を支援しました。その結果、江戸時代の仙台藩(伊達藩)62万石は全国きっての雄藩の一つとなりますが、政宗は関ヶ原の戦い以後も続いている豊臣氏と徳川氏との政治的な緊張関係を見て、もう一度『風雲(戦乱)の時代』が訪れるかもしれないという予測を持っており、天然の要塞である青葉山に『仙台城』を構えました。  
1600年からの築城に当たって、『千代(せんだい)』という地名の漢字を『仙臺(仙台)』に改めたのでした。城下町の建設も開始した。伊達政宗は1613年には家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を使節とする『慶長遣欧使節団』を、スペイン王国やローマ法王庁(バチカン)といったヨーロッパの遠方にまで派遣しており、当時としては異例に優れた国際感覚の持ち主でもありました。  
戊辰戦争(1868〜1869年)では、薩長の新政府軍から会津藩を征伐しろとの『会津追討命令』を受けてその命令に背いたことで、『奥羽越列藩同盟』の盟主として戊辰戦争を戦うことになります。薩長の官軍に逆らって幕軍の会津藩に味方して戊辰戦争に敗れたことで、仙台藩(伊達藩)は『朝敵・賊軍・反乱軍』という汚名を受けることになり、仙台藩62万石の領地と城は当然没収されることになり、藩主の伊達慶邦(よしくに)と宗敦(むねあつ)の親子は東京の芝増上寺で監禁されることになりました。  
仙台藩・伊達家はその影響力と所領の大きさから奥羽越列藩同盟の盟主に祭り上げられたという側面も確かにありましたが、藩主の伊達慶邦らは孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)の輪王寺宮(後の北白川宮)を擁立して政権の正統性を打ち出し、輪王寺宮を『東武皇帝』として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦を征夷大将軍に任命させるという壮大な『政権奪取の野望』も持っていたと伝えられています。戊辰戦争の論功行賞によって朝敵として敗戦した仙台藩(伊達藩)は、石高を62万石から28万石にまで大幅に減封されて、俸禄が減って困窮した家臣団の救済策として蝦夷地(北海道)への入植を積極的に行いました。仙台藩は明治新政府と共同で札幌市開拓に当たっただけでなく、単独で伊達市を開拓する活躍を見せて、現在でも『伊達市』という地名が福島県伊達市と北海道伊達市に残っています。  
明治2年(1869年)に仙台藩は大幅に減封されて桃生県、江刺県、涌谷県、白石県、栗原県が分立したり、盛岡藩の南部氏が仙台藩の一部だった白石藩に移封されたりしましたが、明治4年(1871年)11月2日の第1次府県統合で仙台県と一関県(後に磐井県に改称)が置かれました。奥州南部を長期間にわたって支配した伊達氏が仙台に拠点を置いていたこと、仙台は紛れも無い東北最大の都市であったことから、本来であれば『仙台県』のままの県名になったほうが自然でしたが、1872年1月8日に仙台県は『宮城県』へと改称されました。仙台は戊辰戦争で新政府に逆らって戦った仙台藩(伊達藩)の拠点でもあったことから、仙台をそのまま県名にすることが敬遠されたこともありますが、明治維新の廃藩置県は基本的に『封建的な権力・因習・履歴を刷新すること』を目的にしていたので、封建主義的な藩政の拠点・地名をそのまま県名にすることが少なかったとも言えます。  
仙台県が宮城県になった理由は、盛岡県が岩手県になった理由と同じで、仙台が含まれている郡が『宮城』だったからです。しかし、『宮城』という言葉も『岩手』と同じように相当に古い歴史を持っており、古代の坂上田村麻呂の蝦夷征伐より前の『多賀城建設の時代(724年)』にまで遡る奥州の要衝の地でした。平安時代の『和名抄(わみょうしょう)』にも宮城の読み方について『美也木(みやき)』と書かれており、宮城という郡名の起源は塩竈神社や多賀城と深く関わっていると考えられています。宮城という漢字は『王宮の城塞』という意味にも読めるので、古代から中世初期に掛けて奥羽地方(東北地方)が独立的な勢力として栄えている時に、京都と並ぶ『遠の朝廷(とおのみかど)』として奥州が考えられたという仮説もあります。  
その仮説では、宮城という言葉は『みちのく府の王城』という意味になりますが、実際に『遠の朝廷』として権勢と富裕を誇った11世紀〜12世紀の奥州藤原氏であればともかく、奥州藤原氏よりも相当に古い時代に、奥州がそこまでの政治的にまとまりのある独立的勢力として自負していたかというと疑問ではあります。通説である塩竈神社と多賀城の由来に基づく仮説であれば、奥州最大の神社である塩竈神社の『宮』と古代の奥州の軍事拠点だった多賀城の『城』とがくっついて、『宮城』という郡名になったと考えることができます。  
戊辰戦争敗戦の悲劇によって、伊達政宗と仙台藩を強くイメージさせる『仙台』が県名になることはありませんでしたが、“杜の都”である仙台市は近代〜現代においても『東北地方最大の都市』であり続けており、明治政府の富国強兵政策でも『陸軍第二師団』と『第二帝国大学(東北帝国大学)』が設立されて、東京都心部に次ぐ日本の重要拠点という政治的な位置づけが為されていました。1982年に東北新幹線の開業があり、1989年には仙台市が政令指定都市に選ばれていますが、東日本大震災の被害・ショックを受けてもなお、宮城県仙台市を中心とする東北経済圏・文化圏の重要性は極めて高いものになっています。 
 
秋田県

 

●蚶満寺 / 秋田県にかほ市象潟町象潟島  
弘法大師 投杉伝説  
蚶満寺は廷暦年間(782〜806)に比叡山廷暦寺の慈覚大師円仁が開山したといわれ、はじめは天台宗に属していたが、真言宗さらに曹洞宗に改宗し現在に至っている。この寺には北条時頼が諸国行脚の際に立ち寄った伝説があり、また時頼の蚶満寺への寄付状と殺生禁断の墨付が残っていることから、松島の瑞厳寺と同様に、この時期に宗派が変わったのだろう。  
蚶満の名の起源については、古くはこのあたりを「蚶方」(きさかた)と書き、寺名も蚶方寺であったものをいつのころからか、蚶万寺と読み間違え、文字を改めて蚶満寺としたという。  
この辺りは、かつて八十八潟九十九島の景勝の地「象潟」の中心にあたり、松尾芭蕉もこの地を訪れ、「此の寺の方文に座して簾を巻けば風景一眼の中に尽きて…」と書いている。  
しかし、文化元年(1804)6月の出羽大地震でこの地は20mほども隆起し、多くの島々は陸地となり、現在は水田になっている。しかし、田植え時期に水田に水が張られると、かつての景勝の地が現出すると言う。  
この寺には、七不思議の伝説が残る。  
弘法投杉 / かつて、参道入り口左側の老松のてっぺんの一枝がだれが見ても杉に見えることから、弘法大師の霊験によるものといわれ、「弘法投杉」と呼ばれていた老松が太平洋戦争の終わり近くまであった。現在は残っていない。  
夜泣き椿 / 樹齢700年の椿で、寺に異変があるときは夜泣きするという。  
あがらずの沢 / 小さな太鼓橋があり、この辺は昔深い沢で、ここに人が落ちると泥が深い為あがることが出来ない人取沢であったといわれている。  
咲かずのツツジ / 北条時頼が植えたと伝えられる二株のツツジのうち一株は普段は花が咲かない。寺に異変がある年に限り咲くという。  
木登り地蔵 / 本堂裏手のモチの巨木の、上方の幹が分かれた間にちょこんと地蔵様がある。ある時地蔵様を木の根元に下ろしたが、翌朝にはまた元の所に登っていたと伝えられる。  
姿見の井戸 / 平安初期の三十六歌仙の一人の猿丸太夫が、象潟に来た時この井戸に自分の姿を映して自らの行く末を占ったとされている。夜半だれにも知られず井戸に参り自分の姿を映せば、将来の姿が現れるといわれている。  
血脈授与の木 / ある時、入棺の際に血脈(戒名を書いたお守り)を入れるのを忘れた葬列がこの前までくると、忘れたはずの血脈が、ケヤキの枝につり下がっていたといわれ、それ以来このケヤキの古木は血脈授与の霊木といわれるようになった。 
●法体の滝 / 秋田県由利本荘市 
弘法大師 伝説  
法体の空海が地元の村を訪れた際に不動明王が現れ、空海が滝に拝礼した事から来ているという。 宝暦8年(1758)『御領分覚書』  
 
秋田県  
戊辰戦争(1868年〜1869年)において奥羽越列藩同盟に参加せずに、明治新政府の側に味方した秋田県は藩の名前がそのまま県名になっていますが、東北6県のうちで藩名が県名となって残っているのは『秋田県』と『山形県』だけです。山形県は奥羽列藩同盟の側についていましたが、実際の戦争では官軍に痛撃を与えるだけの軍事力・組織力・政治力(財政力)を持っていなかったので、山形藩の戦争責任が厳しく問われる事が無かったとも言われます。  
1600年(慶長5年)に徳川家康が『関ヶ原の戦い』で勝利して征夷大将軍に任命されてから、慶長7〜8年に掛けて秋田県の諸大名は常陸に移封されてしまいます。この秋田郡下の大規模な移封によって、鎌倉時代以来の領主と住民の歴史的・情緒的なつながりが切断されましたが、これは徳川幕府(江戸幕府)の大名弱体化策の一環でもあり、『参勤交代・武家諸法度・治水や普請の命令』によって秋田郡の大名の財政は逼迫しました。1602年(慶長7年)には、秋田郡を領有していた安東氏の血流を汲む秋田実季(あきたさねすえ)は常陸国に移封されて、関ヶ原の戦いで西軍に内通して家康に協力した常陸の佐竹氏が秋田郡の領主になります。  
秋田郡に置かれた『久保田藩』の初代藩主は佐竹義宣(さたけよしのぶ)であり、義宣は秋田氏の居城・湊城(現在の秋田市土崎港)から神明山(秋田市千秋公園)の久保田城に拠点を移し、藩の組織や職掌を組み替える藩政改革に取り組みました。江戸時代の秋田・久保田藩は常陸54万石から移動してきた佐竹氏によって統治されることになり、秋田の石高は20万石(実質は開墾の進展で40万石とも)とされましたが、秋田には『院内鉱山・銅山・秋田杉』など米以外の財政基盤もあって比較的裕福だったとも言われます。  
幕末の秋田県には、久保田藩、岩崎藩、亀田藩、本荘藩、矢島藩、交代寄合旗本(仁賀保氏)の仁賀保陣屋、盛岡藩領の鹿角郡などがありましたが、戊辰戦争では久保田藩の勤王派がクーデターを起こして、奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に味方することになりました。久保田藩が奥羽越列藩同盟に反旗を翻したのを見て、周辺の岩崎藩、本荘藩、矢島藩なども明治新政府の側につくことになりますが、戊辰戦争では『勝者の側(官軍・新政府軍)』に立ったにも関わらず、秋田県への恩賞・利益供与はほとんどなくこの戦争によって秋田県の土地と財政は荒廃することになりました。戦争の被害だけではなく、秋田県内の勤王倒幕派と佐幕派との間の対立も長らく燻ぶることになり、秋田藩士(秋田藩権大参事)の初岡敬治(はつおかけいじ)には政府に対する内乱計画の疑いが掛けられたりもしました。これは外山光輔(とやまみつすけ)と愛宕通旭(おたぎみちてる)という二人の公家が計画していた政府転覆に、初岡敬治が首謀者として関与しているという嫌疑が掛けられた事件でした。  
明治の元勲である木戸孝允も秋田藩の佐竹氏を謀略家と見て警戒していたとも伝えられていますが、久保田藩の12代藩主の佐竹義堯(さたけよしたか,1825-1884)は内乱の疑いなどを回避して財政危機を解消するために、自ら藩を廃止して郡県制への移行を推進しました。戊辰戦争で官軍に協力したことの見返りというわけではないでしょうが、郡県制への移行に際して、秋田藩が抱えていた310万円もの債務を政府が肩代わりして上げることになりました。1869年(明治2年)の『版籍奉還』で12代藩主・佐竹義尭は久保田藩の知藩事に就任しますが、1871年(明治4年)の『廃藩置県』の年の1月13日に、佐竹義尭は藩名を『久保田藩』から『秋田藩』に改称しています。この秋田藩が『秋田県』へとつながっていくのです。『久保田』というのは佐竹氏が藩主となった約300年の歴史と深い関係がある地名でしたが、『秋田(飽田)』というのはそれよりもずっと古い古代の出羽の地名に起源を持つ名前です。  
1871年(明治4年)の7月14日に『秋田県』が誕生しますが、この廃藩置県の時には秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県という6県が存在しており、11月2日にそれらの県が統合されて現在の『秋田県』が成立することになります。秋田というのは古代からある地名・群名であると同時に、この地方を支配した氏族の苗字でもありましたが、中世初期には『秋田城介(あきたじょうのすけ)』という官職名もありました。平安時代中期に『出羽城介(でわじょうのすけ)』という令外官があったのですが、これが鎌倉時代に入ると『秋田城介』という官職名として知られるようになっていったのです。  
鎌倉時代以降は、東北地方北部を安東氏が支配するようになりますが、この安東氏も時代が進むと自ら『秋田氏』を称するようになりました。明治4年12月26日には、初代の秋田県権令に侍従の島義勇(しまよしたけ,1822-1874)が就任していますが、この佐賀藩士の島義勇は蝦夷地の札幌開拓の功績を上げたことで知られています。しかし、島義勇は元司法卿の江藤新平と共に、士族反乱である『佐賀の乱(1874年)』を起こして捕縛され、明治7年4月13日に江藤新平と同じく斬罪梟首に科せられました。  
関ヶ原の戦いで豊臣家についた秋田氏は常陸に転封されますが、この秋田氏に代わって久保田藩を創設する佐竹氏が入ってきたのでした。『秋田』という地名は『飽田』という表記で、『日本書紀』の女帝の斉明天皇記(7世紀のエピソード)にも出てくるほどに古い地名であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)による蝦夷征伐の記録で東方地方の『飽田・淳代(ぬしろ)』という地名が出てきます。『淳代(ぬしろ)』というのは現在の『能代(のしろ)』の古称だと考えられていますが、飽田にいて朝廷の天皇に忠誠と服属を誓った『恩荷(おが)』という蝦夷(エミシ)は『男鹿半島(おがはんとう)』の語源になっています。 
 
山形県

 

●羽州湯殿山・湯殿山大日坊 / 山形県鶴岡市  
弘法大師 開基  
神秘の霊山羽州湯殿山、そして女人の山と崇められた祈願寺湯殿山大日坊、共に空海弘法大師の開基と伝わり、その信仰は年と共に広く深く東北一円、関東へとおよんだ。  
今より四〇二年前の慶長八年、徳川家康は江戸幕府を開き、同十年には自らは駿府城に隠居し、秀忠を二代将軍とした。前年九年の竹千代(三代将軍)出生にともない、正式に乳人となるお福(春日局)は、やがて江戸城大奥の歴史に君臨する豪爽の人となる。お福の当坊への祈願来山は、竹千代の身体健固と将軍跡目決定の為に行なわれたものといわれるが、当時はこれを隠し、二代将軍の病気平癒が表面上の理由であったと伝えられている。
出羽三山  
山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集める。  
出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」「奥三山」「羽黒三山(天台宗系)」「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」である。三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向)とがある。  
かつては、鳥海山や月山の東方にある葉山が三山に含まれていた時代があった。湯殿山は、かつて「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかったのである。天正年間、これまで出羽三山の1つに数えられていた葉山が、別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、これ以降湯殿山が出羽三山の1つとして数えられるようになったと言われている。なお、慈恩寺は東北地方における天台・真言両宗の中心となった寺院であり、湯殿山4ヶ寺のうち、本道寺(口ノ宮湯殿山神社)と大日寺(大日寺跡湯殿山神社)は慈恩寺宝蔵院の末寺であった。  
出羽三山で有名な即身仏は、真言宗の湯殿山派で行われたものであり、天台宗の羽黒山・月山派では行われていない。即身仏が残されている大日坊、注連寺は、いずれも湯殿山4ヶ寺である。元々、出羽三山は真言宗であったが、江戸時代の初期、羽黒山の天宥上人が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。これに湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。  
出羽三山の修験道には、かつて、当山派、本山派の修験も存在した。これに加えて月山の祖霊信仰が結びついた、土着の羽黒派修験の3修験の修行道場として共存していた。なお、当山派や本山派では、空海や役小角を出羽三山の開祖としていた。このうち空海開基説は、真言宗湯殿山派諸寺において唱えられている説である。これによると、空海が諸国漫遊の旅を行っている途上、ある川(梵字川。赤川の上流部の名称)を光り輝く葉が流れてきた。それを拾い上げるとその葉には、大日如来を表す5文字の真言が書かれていたため、この川の上流に聖地があると確信して川をさかのぼり、ついには湯殿山にたどり着いたという。湯殿山派諸寺では、湯殿山および空海によって開かれた大網の地を「高野山と対なる聖地」としている。なお、出羽三山の寺社の中には、東照大権現や飯縄権現が勧請される例もあった。  
現在、毎年8月末には出羽三山神社(神道)、羽黒山修験本宗(修験道)のそれぞれの山伏により「秋の峰」と呼ばれる1週間以上におよび山に籠る荒行が行われる。  
月山 / 月山神社(がっさんじんじゃ) / 月読命(月山権現)  
羽黒山 / 出羽神社(いではじんじゃ) / 伊氐波神・稲倉魂命(羽黒権現)  
湯殿山 / 湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ) / 大山祇神・大己貴命・少彦名命(湯殿山権現)
歴史  
出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。  
月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)とされる。古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。鎌倉時代には僧兵の存在が確認され、幕府に地頭の干渉について訴えを起こし認めさせている(『吾妻鏡』)。室町時代以降、全岩東純、越叟了閩、界厳繁越らが羽黒山で出家した後、鎌倉や京都で学び長州大寧寺、駿河梅林院などで活躍した。江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが以下のように、仏教の寺院と一体のものとなった。  
羽黒山出羽神社 - 伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。  
月山神社 - 本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。  
湯殿山神社 - 本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。  
江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は 1997年(平成9年)まで女人禁制であった。別当寺は、女人参詣所という役割もあった。なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。  
出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。大網に庄内藩の「大網御番所」が、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」がそれぞれ置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。  
明治の神仏分離で神社となった。1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。戦後、神社本庁の別表神社となった。
別当寺  
羽黒山 / 寂光寺 
廃寺となり、山内の18坊内15坊が廃棄となり取り壊される。残った正善院、荒沢寺、金剛樹院が寺院として羽黒山から独立し、現存する。  
月山 / 日月寺 
神仏分離により廃寺となり、現在の岩根沢三山神社となった。岩根沢の出羽三山神社は比較的早く廃寺となったため、廃仏毀釈を免れ、神社ではあるが庫裏の構造がそのまま残されており、修験道を知る貴重な史跡になっている。神社前に宿坊が立ち並んでおり、境内や周辺部には、日月寺に安置していたという地蔵菩薩を祀る地蔵尊や、南無阿弥陀仏石碑等が残されている。また、行者の精進料理である「六浄豆腐」は、岩根沢にしかない秘伝の豆腐である。  
湯殿山 / 本道寺、大日坊、注連寺、大日寺 
このうち、大日坊と注連寺は真言宗寺院として湯殿山から独立し、現存する。残る2寺は廃寺となり、神社となった。本道寺は西川町本道寺の口之宮湯殿山神社として、大日寺は西川町大井沢の大日寺跡湯殿山神社として現存する。本道寺の寺宝は、寺院として分離した大日坊・注連寺を初めとする諸寺院に引き取られたが、その後散逸した品が多い。このうち、空海坐像は栃木県内の古美術商の手に渡っていたが、1989年(平成元年)に口之宮湯殿山神社が買い取った。仁王像は、1905年(明治38年)に仙台駅前にある仙台ホテルが建て替えした際、同像を所有していた弥勒院が同ホテルに売却したが、2005年(平成17年)に仙台ホテルの所有者・運営者が替わって全面改装することになったため、同年11月15日に口之宮湯殿山神社に寄贈された。いずれも、現在は口之宮湯殿山神社の拝殿に安置されている。大日寺の伽藍は、明治期に火災により消失し、現在は山門のみが、当時の姿を偲ぶものとして残されている。 
●摩耶山 天上寺 / 山形県鶴岡市  
弘法大師 大同8年(806) 伝説  
大化2年(646) 摩耶山天上寺は、孝徳天皇の勅願により、インドの高僧法道仙人が開創されました。  
大同8年(806) 弘法大師として知られる高僧空海は、唐に留学された際、当時中国で女人守護のみ仏として盛んに崇拝されていた梁の武帝自作の香木造りの仏母摩耶夫人像を日本に請来され、当寺に奉安されました。摩耶夫人はお釈迦さまのご生母で、キリスト教のマリアに相当する仏教の聖母です。これ以来当山の名を「仏母摩耶山」(略して摩耶山)、寺の名を摩耶夫人尊の昇天された「忉利天(とうりてん)」にちなみ、「忉利天上寺」(略して天上寺)と呼ぶようになりました。 
●若宮寺 / 山形県西村山郡朝日町  
弘法大師 開基  
正平年間(1346〜70)五百川若狭が弘法大姉の霊感により、大日如来を西船渡に祀り、一寺を建立したと伝えられている。慶長5年(1600)に上杉勢が五百川に侵攻の際に全焼する。同17年(1612)に配下としていた山野辺城主山野辺右衛門義忠(最上義光4男)か゜現在地に移転し、第一世尊孝法印は若宮中興の名僧といわれ復興に活躍されました。  
若宮寺2  
若宮寺の創建は弘法大師が開いたとされ、中世は八ツ沼城主で周辺を支配した原甲斐守の菩提寺として庇護されました。境内にある鐘楼は20世盛括法印が再建したもので、棟梁として左沢菅野辰吉が天保14年(1843)から嘉永3年(1850)までの7年間という歳月をかけて作り上げました。特に江戸時代後期の細かな彫刻や建物の工法など見られ、朝日町における当時の建築様式を伝えるものとして昭和45年に朝日町指定有形文化財に指定されています。又、若宮寺の延命地蔵は山形百八地蔵尊霊場の第44番となっています。  
あつみ温泉 / 山形県鶴岡市 
弘法大師 伝説 
弘法大師による発見説や鶴が傷ついた脛を浸していたところを発見したなどの説もある。 
 
出羽三山神社 / 山形県鶴岡市羽黒町  
千四百年の歴史を刻んだ“日本人の心のふる里”  
出羽三山-羽黒山(標高414M)月山(標高1984M)湯殿山(標高1504M)-は「出羽国」を東西に分ける出羽丘陵の主要部を占める山岳である。  
太古の大昔は火山爆発を繰り返す“怒れる山”であった。時が経ち、再び静寂を取り戻した頃、山には草が生え、樹木が生い茂り小鳥や獣がもどってきた。その時、麓の里人たちはそこに深い不思議な“神秘”を感じた。「あの山こそ、我が父母や祖先の霊魂が宿るお山だ・・・」「我らの生命の糧を司る山の神、海の神が鎮まっているお山に違いない・・・」  
それから更に時を刻んだ推古天皇元年(593年)、遠く奈良の都からはるばる日本海の荒波を乗り越えて一人の皇子がおいでになられた。第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子、その人である。  
イツハの里・由良(ゆら)の八乙女浦(やおとめうら)に迎えられ、三本足の霊烏に導かれて、道なき径をかき分けたどりついたのが羽黒山の阿古谷(あこや)という、昼なお暗い秘所。蜂子皇子はそこで、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氏波神(いではのかみ)」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を御鎮座奉られた。今を去ること、千四百年前の御事である。出羽三山神社では、この時を以て「御開山の年」とし、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く敬仰している。  
やがて、御開祖・蜂子皇子の御修行の道は「羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)」として結実し、千四百年後の今日まで“羽黒山伏”の形をとって、「秋の峰入り(みねいり)」(峰中ぶちゅう)に代表される厳しい修行道が連綿と続いている。  
以後、お山の内外を問わず、全国六十六州のうち東三十三ヶ国の民衆はもとより皇室、歴代の武将の篤き崇敬に与り、いつしか本邦屈指の「霊山・霊場」としてその地位を築き、四季を通じ登拝者の絶えることがない。そもそも、出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽(けらく)、等々を祈願する“聖地”であった。加えて「羽黒派古修験道」の“根本道場”として、「凝死体験(ぎしたけいん)・蘇り(よみがえり)」をはたす山でもある。  
すなわち、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度(さんかんさんど)の霊山」として栄えてきたお山である。  
出羽三山の信仰世界を語る場合、まず挙げなければならないのは、今日なお「神仏習合」の色彩が色濃く遺されているということであろう。  
古来より出羽三山は、自然崇拝、山岳信仰、など“敬神崇祖”を重視するお山であったが、平安時代初期の「神仏習合」の強い影響を受け、以後、明治初年の「神仏分離」政策の実施の時まで、仏教を中心としたお山の経営がなされてきた。今日、出羽三山神社は「神道」を以て奉仕しているが、古くからの祭は道教や陰陽道そして密教を中心とする「修験道」を持って奉仕している。まさに、これこそ今日の出羽三山神社の大きな特色といってよい。  
歴史をふり返って見ると、鎌倉時代には羽黒山をして、「八宗兼学の山」と称し、全国各地から修行僧が競って入山し、各宗を実践修得していった。何故に「八宗兼学の山」であり、諸々の宗教・宗派がこれ程複雑に習合したのか。それこそ、出羽三山の大神、神々、そして御開祖・蜂子皇子の“御心(みこころ)”が成したものであろう。  
信ずる者来たれり、出羽三山の大神は何人にも等しく御神徳を授ける、偉大にして永久(とわ)に有りがたい神々である、との民衆の“確信”があったからに他ならない。人間の苦しみ・悩みは決して一様ではない。多様にして複雑怪奇、一つの“哲理・教義”のみでは決して救うことはできないということを、出羽三山の大神と御開祖・蜂子皇子は見抜いておられたに違いない。  
出羽三山の神々は寛大である。信仰心は、まず、“信ずること”に始まる。自分の邪念・邪心をむなしくして、「神」を信ずること、それが信仰世界に入る第一歩である。  
敬神崇祖(けいしんすいそ)。神を敬い、祖先を崇めること、この一語に尽きる。出羽三山の神々に仕える者は、千四百年間一貫してこの根本精神を以て大神に御奉仕致し、かつ登拝者・信者の方々に等しく接し、教化に勤めてきた。  
出羽三山神社となった明治以降もお山は繁栄御神威の発揚が図られている。今日では東三十三ヶ国からの信者にとどまらず、全国の津々浦々から、四季を通じて登拝者の絶えることがない。そして、最近では、日本はおろか外国からもお山においでになられる方も目立って多くなってきている。まさに“国際化”である。これも、太古から綿々と受け継がれてきた山麓の宿坊・羽黒山伏の全国に向けた弛まぬ“布教・教化活動”あるいは、出羽三山神社の御神威の“発揚”があったからに他ならない。  
出羽三山の信仰は、いつの時代にも、親から子へ、子から孫へと伝えられる「親子相伝のお山」として著名であるばかりでなく、成人儀礼として男子十五歳になると、「初山駈け」をしなければならないという風習が各地にあって、今も健在である。特に関東方面では古くから、出羽三山に登拝することを「奥参り」と称して重要な“人生儀礼”の一つとして位置づけ、登拝した者は一般の人とは違う存在(神となることを約束された者)として崇められた。また、西に位置するお伊勢様を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称した。つまり「伊勢参宮」は「陽」、出羽三山を拝することは「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあった。  
今日、出羽三山のお山が、「日本の原郷」「日本人の心のふる里」といわれる所以は、類ない千四百年という歴史だけによるものではなく、“時空”を越えて一貫して顕わされてきた三山の大神の御神威・御神徳、合わせて御開祖・蜂子皇子の“衆生済度(しゅじょうさいと)”の御精神、皇室の御繁栄と民衆の息災を願う御心の「御仁愛」にあることを、私たちは今一度、識るべきであろう。  
出羽三山の開祖蜂子皇子上陸の地  
出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。  
崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に「この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」とおっしゃられた。そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。  
このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。  
*伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(たまよりひめのみこと=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた。  
蜂子皇子  
御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。  
出羽三山の沿革  
出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。  
月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神を、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っています。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られています。  
出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合に成立した「修験道」のお山でした。それ故、明治維新までは仏教の、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され、鎌倉時代には「八宗兼学の山」とも称されました。悠久の歴史の中で幾多の変還を重ねながら、多様にして限りなく深い信仰を形成し、「東三十三ヶ国総鎮護」として、人々の広く篤い信仰に支えられて現在に至っています。 
八海山 法音寺 / 山形県米沢市御廟  
法音寺は、山号を八海山といい、真言宗豊山派に所属し、本山は奈良県の長谷寺であります。当寺は、もと越後の国南魚沼郡藤原の里、八海山の麓(現在の新潟県六日町)に、聖武天皇の勅命により、天平9年(737)年に総建された寺です。  
当寺所蔵の八海山縁起によれば、藤原政照卿が、天皇の命を受けて諸国巡視中、越後国、飯盛山の麓で病死、その菩提を弔うため、行基菩薩が、勅命によってその地に法相宗の寺を建立したのが始まりとあります。寺号は政照卿の法名「都正院殿正二位政照法音大居士」に依ったものです。  
その後、越後国、真言宗国分寺兼務を命ぜられ、建久8(1197)年、源頼朝公の祈願寺となり、天正年間には、上杉家の帰依寺となって春日山に移されました。  
そして、慶長6(1601−400年前)年、会津を経て米沢に移られたのに随って、施主、景勝公によって、米沢城二の丸に伽藍が建立されました。景勝公御逝去の際は、法音寺住職能海僧正が葬儀の導師を務め、以後、歴代藩主の葬儀は、すべて法音寺住職が導師を務めることになり、上杉家歴代藩主の菩提寺となりました。米沢城下絵図(寛文の頃)より更に、大御堂に勤仕する真言21ケ寺の二の丸寺院の筆頭役、及び真言宗僧録司となり、藩内150ケ寺の統轄をするようになりました。  
その後、正保2(1645)年、嵯峨大覚寺より、院室名を永代兼帯することを許可され、院室菩提心院の号を贈られ、寺格は院主録所談林中本山となりました。  
やがて、明治に入り、廃藩置県、破城令、神仏分離令の措置により、明治3(1870)年、藩命により、歴代藩主の御廟所のある現在の地(法音寺住職の隠居寺として、江戸時代に延命寺が建てられ、住職は、朝夕、御廟所に出仕して御供養申し上げるのを主務としていた。それと合併して)に移転して復元されたのが現在の伽藍であります。  
又、明治9(1876)年、法音寺の移転、二の丸寺院の廃寺、米沢城が取り壊された本丸の地に上杉神社が造営されたのに伴い、謙信公の御霊廟も本丸より御廟所中央の現在地に移されました。  
なお、当寺の本尊は、大日如来尊で、更に歴代藩主の位牌を祀る上杉家御霊屋、善光寺如来尊並びに附属宝物、謙信公帰依の泥足毘沙門天、管谷不動尊等が奉安されており、その他上杉家に係る什物が多数保存されています。  
又、境内には、幸寿丸墓、矢尾板三印墓、景勝公への殉死者の墓、池田成章墓、上杉茂憲公句碑等があります。 
湯殿山の即身仏  
かつて湯殿山の仙人沢は湯殿山行者の修行所であった。行者は一世行人であり東北地方に降りかかるさまざまな飢饉、災難を自分が修行し犠牲になることで治め、真言宗の祖弘法大師 空海の「入定留身して後の世の人々を済度せん」との誓願のもとに湯殿山に山籠し寒暑一枚の白衣に身を包み、一千日(3年3か月)の五穀十穀の食料を断ち、木の実や水などで生活をする木食行をし成満して成仏の時期を悟り、自ら一切の食物を断ち弘法大師のように入定塚に入定して鐘を鳴らしながら読経して、鐘の音が鳴り止むと成仏したということで弟子達が発掘して即身仏として後世にその身を残す御尊体である。僧名には空海の海の字(海号)を頂戴している。  
庄内地方の即身仏様が安置されている寺院  
南岳寺(鶴岡市砂田、鉄竜海上人)、海向寺(酒田市、忠海上人、円明海上人)、注連寺(鶴岡市大網、鉄門海上人)、本明寺(鶴岡市東岩本、本明海上人)、大日坊(鶴岡市大網、真如海上人)  
行人塚(ぎょうにんづか)  
行人塚は供養塚に属するものと行者・修験者の自埋入定(にゆうじよう)を伝える塚とに大別でき,供養塚でありながらも後に入定伝説が付着したものもある。入定伝説をもつ塚は行人塚のほか,入定塚,山伏塚,法印塚,念仏塚などとも呼ばれ,関東地方を中心として東日本に多く分布している。入定した後の数日間は読経,念仏,鉦をたたく音が聞こえたとも伝えられる。入定の例としては,湯殿山の一世行人と称される修験の入定がよく知られており,現在即身仏としてまつられている本明海上人の場合は,一千日の十穀断ちなどの木食行をした後に61歳で入定したと伝えられている。 
山形県  
山形藩は戊辰戦争(1868年〜1869年)で『奥羽越列藩同盟』に参加していたにも関わらず、藩の名前がそのまま県名になっているという珍しい事例です。山形藩は小藩で軍事力も弱くて新政府軍に与えた損害も少なかったため、新政府軍による処分が甘かったとされますが、元々山形藩の藩主は『江戸幕府で失脚した幕閣』が左遷されるという特殊なポストでした。戊辰戦争の後には、米沢・上山・天童・鶴岡(庄内)・松山の各藩は減封されていますが、1869年6月の版籍奉還後に米沢新田藩は廃絶されて米沢藩に編入されました。明治新政府に逆らった鶴岡藩は大泉藩、松山藩は松嶺藩へとその名前が改称されていますが、山形藩だけがその名前を残して山形県となります。  
東北6県のうちで藩名が県名として残っているのは『秋田県』と『山形県』だけですが、山形藩は他の東北の藩とは違って江戸時代の藩主が次々と変わったという特殊事情を抱えていました。近世初期には外様大名の最上氏が山形藩藩主でしたが、その後は幕府の重職から失脚した幕閣が左遷される特殊な藩として位置づけられ、親藩・譜代大名の領主が12家にもわたって頻繁に交替したという歴史があります。『関ヶ原の戦い』で東軍に味方した最上義光(もがみよしみつ)が山形藩の初代藩主になりましたが、3代藩主・最上義俊(よしとし)の代に『最上騒動(1622年)』のお家騒動が起こって、近江国大森藩へと僅か1万石で転封されてしまいました。最上氏の後を鳥居忠政(鳥居元忠の子)が22万石で継ぎましたが鳥居家も嗣子がないためにすぐに改易されて、その後も松平家や堀田家など次々と藩主が変わっていきました。  
明和4年(1767年)に入封した秋元家が4代78年間にわたって最も長く藩主を勤めましたが、弘化2年(1845年)に上野国館林藩に転封となります。この転封された漆山4万6千石は館林藩領(漆山陣屋)として廃藩置県の時代まで残りますが、明治維新の時期の山形藩藩主は幕府の老中を代々勤めてきた『水野家』でした。水野家は水野忠邦(みずのただくに)による『天保の改革』が中途で失敗したために、その子の水野忠精(みずのただやす)が山形藩に左遷されることになった人事であり、戊辰戦争では水野家は米沢藩・仙台藩などと連合して奥羽越列藩同盟に加わって敗戦を経験します。2代藩主の水野忠弘(みずのただひろ)は13歳という若年であったために責任を免除され、分家出身の26歳の家老・水野元宣(みずのもとのぶ)が責任を負って刑死しました。明治3年(1870年)に水野家は近江国朝日山藩に5万石で転封される処分を受け、山形藩は明治政府直轄領となりました。  
山形県がある地域は古代から『出羽国』と呼ばれていた地域ですが、『出羽』の読みは元々は『でわ』ではなく『いでは』であり、『鳥獣の羽根が得られる国・羽根(羽毛)を産出する国』という意味だったのではないかと推測されます。古代からある出羽国は大きく『置賜郡(おきたま)・田川郡・村山郡・最上郡(もがみ)・出羽郡・飽海郡(あくみ)』の6つの郡に分類されてきましたが、それぞれの郡は現在の山形県では以下の地域に該当することになります。山形県の中心的な都市・街は、『旧村山郡』の領域と重なっていますが、地元の人たちの間では今でも『山形』という地名よりも『村山』という地名のほうが根づいているといいます。  
置賜郡……米沢市・南陽市・長井市  
田川郡・飽海郡……酒田市・鶴岡市一帯  
村山郡……山形市・天童市・寒河江市・村山氏一帯  
最上郡……新庄市一帯  
出羽郡……庄内平野、中世以降に田川郡に組み入れられる。  
山形県の中心的な地域は『村山』であるが、村山は明治時代後期までは『北村山郡・南村山郡・東村山郡・西村山郡』の4つに分かれていたといいます。明治3年(1870年)9月に酒田県が山形に移転することになり、初めて『山形県』が設置されますが、翌1871年7月には廃藩置県で山形県、米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県の7つの県が設置されました。8月には将棋の駒の産地として有名な天童県が廃止されることが決まり、山形県に編入されています。  
廃藩置県の年である明治4年(1871年)11月には、第1次府県統合によって山形県(村山郡・最上郡)、置賜県(置賜郡)、酒田県(第2次府県統合での田川郡・飽海郡)の3県に統合されました。明治8年(1875年)8月には、酒田県(第2次)の県庁が鶴岡に移転することになり『鶴岡県』が誕生しますが、この鶴岡県は翌年にあっけなく消滅します。明治9年(1876年)8月、廃藩置県の第2次府県統合によって、現在の山形県に相当する山形県、置賜県、鶴岡県の3県が統合して現在の『山形県』が誕生することになりました。このかつての朝敵である山形県の3県統合に当たっては、明治の元勲で政府の権力者であった大久保利通も山形県の巡察を行ったという記録が残っています。  
山形県の初代県令に就任したのは薩摩藩士の三島通庸(みしまみちつね,1835-1888)ですが、三島はそれまで鶴岡県令を務めていて、旧鶴岡藩自体も薩摩藩の首領である西郷隆盛との深い政治的・交渉的なつながりがあったとされています。現在の山形県は日本有数の『果樹王国』として重要な果物の産地となっており、特に高級さくらんぼのサトウニシキや西洋なしのラ・フランスの生産地としても良く知られています。山形県全体では県外都市部への人口流出や県内都市部への集中により『人口減少・農村の過疎化』が続いているものの、県庁所在地である山形市の人口は人口統計を取り始めて以来、一貫して増加が続いており、山形市がある『村山地方』は東北地方の都市部として機能しています。 
 
福島県

 

●福満虚空藏尊 圓藏寺 / 福島県河沼郡柳津町 
弘法大師 伝説 霊木漂着木で虚空藏尊菩薩を刻む  
会津きっての名刹・福満虚空藏尊圓藏寺は千二百年にもおよぶ歴史を誇り、今でも多くの参詣者を集めています。ここは茨城県東海村の大満虚空藏尊、千葉県天津小湊町の能満虚空藏尊と共に日本三大虚空藏尊の一つに数えられています。  
縁起によれば、弘法大師が唐の高僧から霊木を授かり、帰国後にその木を三つに分かち海に投げいれたところ茨城、千葉、そしてここ柳津に流れついたといわれます。霊木漂着の知らせを聞いた大師は、さっそくその木で虚空藏尊菩薩を刻みあげました。それを受け会津の名僧・徳一大師が圓藏寺を開創したと伝えられています。  
また福満虚空藏尊を刻んだ木層がウグイになった話や、寺の難工事を手伝った赤牛の話など圓藏寺は数多くの伝説を秘めています。 
圓藏寺2 諸説 
円蔵寺は大同2年(807)徳一大師の創建という。霊岩山と号す。柳津虚空蔵尊。現在は臨済宗妙心寺派。  
柳津村・・・山中にあれども虚空蔵菩薩の霊場なれば、参詣の男女たへず・・・虚空蔵堂 村東岩上にあり8間1尺四面、高5丈余・・・西南面に舞台をかまへ・・・大同2年徳一の創立とも云ひ、また慈覚の創立とも云、或説には弘仁3年の建立と云、本尊を福満虚空蔵と云・・・安房国清澄と常陸国村松と、当山の霊像併せて一本三体の作とす・・・別當圓蔵寺・・・霊巌山と号す、大同2年本堂と共に此の寺を建立す、法相宗なりしが・・・廓内興徳寺第3世大圭に法嗣して臨済宗となる・・・  
柳津虚空蔵堂(柳津園蔵寺)現況 / 三重塔跡:現在その跡は明確ではない。圓蔵寺僧侶に確認すると、「遺構は何も残らない。跡地は菊光堂東北にある一段上の壇上であったといわれている。しかしこれはあくまで伝承であって確証はない。」との見解である。菊光堂の舞台は妻側つまり西南にあり、仁王門から菊光堂に至れば堂正面に向かって左に唐破風を付した向拝と堂入口がある。その向拝に向かって右手に水屋があり、その上が一段高い「中段平坦地」となり、さらにその上に圓蔵寺会館などの広い平坦地となる。僧侶の説明ではこの「中段平坦地」が三重塔跡と伝承されるという。  
圓蔵寺 「柳津虚空蔵菩薩絵巻縁起」では大同2年(807)徳一の開創という。(但し確証はないという)また本尊虚空蔵菩薩は弘法大師の作と伝えられる。空海は唐からの帰国の途中、仏法興隆の祈願をなし、三鈷と霊木を海中に投じる。三鈷は紀伊国に漂着し、後に高野山が建立される。霊木は那智の 浦に漂着し、大師はそれを三断し、再度海中に投ずる。後日、元木は安房国天津浦(安房国清澄寺)に漂着し、中木は常陸国村松(村松虚空蔵寺)に漂着し、末記は越後より只見川を遡り柳津に至る。大師はいずれも 当地を巡り、虚空蔵菩薩を刻み、それぞれを当地に安置するという。  
福満虚空蔵尊 [圓蔵寺、円蔵寺]  
1,200年前に、徳一大師によって開創された会津を代表する名刹。通称「虚空蔵様」と呼ばれ、親しまれている。日本三大虚空蔵尊 (清澄寺、日高寺) の一つ。歴代の藩主/蒲生家、加藤家、松平家はもちろん、織田信長、豊臣秀吉・秀次なども代参し、徳川家からは10万石の待遇で、5年に1度の将軍拝謁を住職に許していた。幕末には最も多い寺社領 200石の5寺 (建福寺、興徳寺、融通寺、延壽寺) の1つ。  
延歴23(804)年、弘法大師(空海)が唐の修行から帰国する際に、霊木を贈られた。帰国してから弘法大師は霊木を3つに分け、海に流した。現在の千葉県天津小湊町に流れ着いた霊木は能満虚空蔵尊が刻まれ、茨城県東海村では大満虚空蔵尊が刻まれた。柳津町に流れ着いた霊木は、知らせを受けた弘法大師の手によって、福満虚空蔵尊が刻まれた。それを収めるための圓蔵寺を、大同2(807)年、徳一大師が草創したと伝えられている。 
●勝常寺 / 福島県河沼郡湯川村勝常  
弘法大師 伝説  
弘仁年中(810-)あるいは大同2年(807)、徳一の創建(空海との説もある)と伝える。創建時には東大寺式に似た(中門及び回廊の外・南大門の内に東西塔を配置)伽藍配置を採ると云う。  
「創建時の主要建物の位置は伝承、焼土、道路等に依り大体は想像できる。講堂を起点として南に向って大体等間隔に金堂・中門・南大門の位置が一直線上に立ち並んでいたことが想定出来るし、三重の塔跡は中門のそと東側にある。講堂の近くにあったはずの経蔵・鐘楼・僧坊等の位置は明瞭でない。」 
勝常寺2  
大同2(807)年、徳一大師が五薬師の1つとして開創。「高寺」の「高寺三十六坊」の1つ「慈光坊」との説もある。七堂伽藍が建立され、子院100余の寺を持つ大寺院と伝えられる。瑠璃光山、真言宗豊山派。本尊は、木造薬師如来坐像 (国宝)。会津盆地の中央に位置し、「中央薬師」とも呼ばれる。応永5(1398)年、講堂 (現/薬師堂)が火災により焼失。室町時代初期(1398〜1466)に、蘆名氏の家臣/富田祐持が薬師堂を再建し、昭和39年に茅葺き屋根を銅板葺となった以外は、当時のまま現存している。本尊の木造薬師如来坐像、両脇侍像の月光菩薩立像と日光菩薩立像は国宝。いずれも平安時代初期の造像で、ケヤキ材の一木造り。 
勝常寺3 
慧日寺は、空海の伝記でもある『弘法大師行状集記』には空海の建立で空海が帰京するに及んで徳一に寺を譲ったとあるが、『今昔物語』などの諸史料から徳一が建てた寺であることはほぼ間違いがない。
●護法山 示現寺 / 福島県喜多方市  
弘法大師 開山  
示現寺の創建は平安時代の初期空海が開山したと伝えられています。当初は慈眼寺と称して真言宗の寺院でしたが荒廃し天授元年(1375)に玄翁(源翁:殺生石を鎮めた事でも有名)心昭和尚が示現寺として中興し、曹洞宗に改宗開山しました。その後は奥州一帯に教えを広め三十七ケ寺の末寺を有する名刹として確固たる地位を確立しています。寺宝も多く、正面の総門は寛保元年(1741)以降に建てられた一間一戸、切妻、瓦葺の四脚門で会津地方の近世寺院建築物の遺構として喜多方市指定有形文化財に指定されています。又、観音堂は天明8年(1788)に建てられた三間四方、宝形造り、金属板葺きの建物で龍、獅子、像などの細かな彫刻が施されています。観音堂も総門同様に喜多方市指定有形文化財に指定されています。境内には戊辰戦争の際敵味方区別なく介抱し社会福祉事業の先駆者となった瓜生岩子の坐像、墓碑や加波山事件殉難志士顕彰墓碑、源翁和尚の墓などがあります。 
●延命寺 / 三島町大字大石田  
弘法大師 大同年間 草創  
大同年間(806〜809)、徳一大師もしくは空海が草創とされる。長久山、真言宗豊山派。 本尊は虚空蔵菩薩。御坂山大高寺三十六坊の1つ「延命坊」とも。永禄7(1564)年、上州沼田の僧・見真が再建。享保21(1736)年、再建され、現在に至る。 
●高倉文殊堂 / 福島県南相馬市原町区高倉  
弘法大師 大同元年(806) 建立  
大同元年(806)に空海(弘法大師)によって建立されたと伝えられています。創建当時は文殊ヶ厳とよばれる山頂にありましたが、後に現在地に移築。御本尊は唐獅子に乗った文殊菩薩で、その神々しい姿はまさに「文殊の知恵」のたとえ通りです。相馬三文殊の一つです。 
●左下ひだりさがり観音 [左下観音堂] / 大沼郡会津本郷町  
弘法大師 建立  
左下ひだりさがりが原に弘法大師建立と伝える大きな観音堂があります。千年ほど前、越後国蒲原郡の人が無実の罪を着せられて逃げ、この観音堂に隠れ嘆願しました。みつけ出した役人は男の首をはね、血のしたたる首を萱に包み葛くずの蔓つるでしばって帰途につきましたが血潮がしたたるので三ヶ所で洗いました。それが上、中、下荒井です。帰って包みを開くと、なんと、出てきたのは観音様の石首でした。ここの秘仏の観音様は頚なし観音ともいいます。 
●吾妻嶽の荒駒 / 福島市北沢又 嶽駒神社  
弘法大師 伝説  
むかし吾妻嶽には荒駒が住み、里に出ては田畑を荒らした。大同四年、空海が出羽国湯殿山を詣でてのち、吾妻嶽の麓を通ったとき、里人の訴へを聞いて、荒駒を捕へようと吾妻嶽に向かった。折しも秋の台風の季節で、俄かに空を黒雲が覆ひ、暴風雨となった。松川も洪水であふれ、川岸で空海の一行が立ち往生してゐると、突然いななきとともに荒駒が現はれた。さっそく空海たちが駒を生け捕りにしようと構へると、どこからか白髪の神人か現はれて告げた。「我は当地の氏神なり。今汝の捕ふる荒駒を我に与へよ。我これを宥め、永く駆使せん」といって、藁に握り飯を包んで空海に与へ、更に歌を詠んだ。  
○陸奥の吾妻の嶽の荒駒も、飼へばぞなつく。なつけばぞ飼ふ  
かうして白髪の老人は駒を引いて立ち去って行った。  
空海は、握り飯の包みの藁で祠を建ててまつり、嶽駒大神と名づけ、祈祷を続けた。まもなく洪水は止み、いつのまにか地表の川の流れは消えて、地底を通って流れてゐた。今でもこの川は秋以降は社の付近の地底を通り、流れの末まで魚は住まない。よって「祭川」といふと社記にあり、この地を馬除とも魔除ともいふ。(嶽駒神社由緒)  
御神馬祠由来記  
昔、大同4年空海羽州湯殿山参詣の帰途、当地を過ぐる時、吾妻山の荒駒あり。秋毎に村里に出没して村民を悩まし、耕作に障害すること久し。折しも9月の事、晴天俄(にわか)にかき曇り、降雨激しく松川洪水す。  
空海、方便を用ひ荒駒を捕へ咒縛せんとする所に何万ともなく白髪の神人来たり我は当地の氏神なりと空海に告げ、荒駒を引き取り結飯を空海に与へ、一首を詠じ駒を引きて去り給ふ。乃空海結飯を包みし藁を以て祠を建て獄駒大神と勧請し奉り守護神となり給ふ。  
乃ち氏子等当時を偲び滋に御神馬祠を建立する所以なり  
昭和61丙寅年1月吉日 氏子一同 
●金塔山 恵隆寺 [通称 立木観音] / 福島県河沼郡会津坂下町  
弘法大師 大同三年(808) 開山伝説  
『会津温故拾要抄』等に伝える伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩が高寺山(寺の北西、会津坂下町と喜多方市の境にある山)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、『会津風土記』(寛文6年〈1666年〉成立)によれば、大同3年(808年)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したものという。いずれの伝承もにわかに史実とは認めがたいものであり、当寺の創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえない。  
一時は周辺地域を支配するほどの一大伽藍や36坊もの堂宇を擁していたが、現在は仁王門、本堂、観音堂(立木観音堂)のみが残されている。  
本尊「十一面千手観音菩薩」  
寺の歴史によれば、大同三年(808年)に弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。本尊の身丈は8m50cmあり、一木彫で根の付いている仏像としては日本最大級の大きさです。また、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており全国的にも大変珍しく貴重な仏像です。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われています。  
どんな願いもコロリとかなうだきつき柱  
堂内のだきつき柱に抱きつき、観音様のお顔を見ながら心願すればどんな願いもコロリとかなうと言い伝えられています。  
『会津仏教発祥・財宝伝説』 / 高寺伝説  
日本に仏教が伝わったとされた(五三八年)以前今から一千年以上も昔中国から青岩(せいがん)と言うえらい偉いお坊さんが仏教を伝える地を求めて会津にやって来ました。青岩は会津坂下町のある山を理想の場所として寺を建て「(せきとうざん)石塔山恵隆寺(えりゅうじ)」と名づけましたが、山のふもとの村人たちは、高い所に寺が建ったのでたかてら高寺と言い、いつしか山の名前が高寺山となりました。  
その後、この寺は非常に繁栄し、高寺山には立派な七堂伽藍が建ちならび並び、山の所々に三十六坊舎を建てお坊さんの数は数千名にもなったそうです。  
その後、徳一の開いた恵日寺と勢力争いが始まり、ついに戦火を交えることとなりました。 結果高寺山は敗れ建物は全部焼かれ、ほとんどのお坊さんは戦死または逃げてしまい、今は何一つ寺の跡は残っていません。三十六坊の中には、その後寺としてどくりつ独立し新たに建てられたのが二十ほどあります。高寺の昔の面影はなくなってしまいましたが、村々に伝わるふしぎ不思議な歌があります。  
「立てば前 座ればうしろ山吹の黄金千杯 朱千杯 三つ葉うつぎのしたにある。」  
昔、朱はたいそう喜ばれ黄金同様貴重品でした。寺がほろ滅びる時ひそかに宝を埋め、そこに目じるしとして三ツ葉のうつぎを植えたらしい。  
その話は、まんざらウソではないらしく、明治の末のほんとの話で、村人が馬をに逃がしてしまい、馬は高寺山に逃げこんだらしく、方々かけめぐってやっとつかまえた時、馬の片足が血だらけでした。  
小川できれいに洗い傷口をさがしましたが見あたらず、血ではなく朱に間違いないと村人はおもいました。その話を聞きつけ、何人もの人々が黄金を求めて高寺山に入り三つ葉のうつぎを探しに来ましたが、まだ見つかっていないそうです。 (伝説ですがこの話しが本当であれば、奈良京都より早くこの会津の地に仏教が伝わったことになります。) 
●常福院 / 会津美里町新屋敷  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
草創など詳細不詳だが、大同2年(807)に空海が開山とも。若宮山、真言宗豊山派。本尊は、大日如来、阿弥陀如来。若松蓮華寺の末寺。延元元(1336)年、常福院に改称し、現在地に移築。天正元(1573)年、村人の簗田孫市が再建。慶長2(1597)年、僧/実順が再興。明治24(1891)年、焼失したため2年後に再建。離れた場所にある会津十二薬師の第八番 (田子薬師堂) の別当寺。  
田子薬師堂(常福院薬師堂)  
建久8(1197)年、田子十兵衛道宥法印が創建したことから名付けられた。唐様建築の薬師堂は、国指定重要文化財。本尊の木造田子薬師如来座像は、座高174cmもある。田子薬師如来座像は江戸初期のものであるが、大同2(807)年、高僧・徳一と空海が、高寺で刻んだ二体の"李の薬師"が祀られたという。 
●大正寺 / 北塩原村大字北山  
弘法大師 弘仁年間(810〜823) 草創  
"漆大正寺"とも呼ばれる。弘仁年間(810〜823)、空海が北山薬師堂の守護として草創。打越山、天台宗。本尊は薬師如来立像。永禄年間(1558〜1569)、真言宗から浄土宗に改宗。慶長5(1600)年、僧/常海が天台宗に改宗し中興。慶長年間(1596〜1614)、蒲生氏郷公が再興。 
●吾妻山神社 / 猪苗代町大字若宮  
弘法大師 再興  
古来より人々に信仰されていた。白鳳14/朱鳥元(686)年、修験小角が拝殿を創建。後に、空海が再興したという。天安2(858)年、藤原義円が山道を整備し、吾妻山大権現と称す。主祭神は、倭健命やまとたけるのみこと。明治6(1873)年、廃仏毀釈により別当から吾妻山神社あずまやまじんじゃとなる。吾妻山神社跡は、吾妻山の山頂近くにある。 
●飯豊山神社 / 福島県喜多方市  
弘法大師 伝説  
(いいでさんじんじゃ) 福島県喜多方市の飯豊山地主峰である飯豊山南峰(標高2,102m)にある神社である。麓の一ノ木地区中在家に麓宮があり、飯豊山頂の奥宮とともに、両宮が一体のものとされる。旧社格は県社。  
飯豊山地は、「山容飯を豊かに盛るが如き」と表現され、これが飯豊の語源になっている。飯豊山神社は、605年(白雉3年)、中国から渡来した僧知道と修験道の開祖役小角が飯豊山頂に登り、この山を飯豊と名付け、さらに飯豊山地を5神の王子に見立てて、一王子、二王子、三王子、四王子、五王子を飯豊山地の祭神として祭ったのが起源とされる。なお、上記の説のほかに、高僧である徳一、空海、行基に起源を求める説や永保年間(1081年 - 1084年)、後に山伏になった南海、知影の2人の猟師によって開かれたとの説もある。  
信仰  
飯豊山信仰は土俗的な信仰であり、飯豊山地それ自体を神体として崇拝する。すなわち、飯豊山地は、越後、会津、出羽の3国の境に聳え立ち、3国を見下ろす。飯豊山から生まれた水は、阿賀野川、荒川、最上川へとなり、山野に恵みをもたらす。また、飯豊山地の周辺では、死者は天空へと上り、先祖は高所である飯豊山から見守っていると信じられており、それらが相まって、飯豊山信仰へとつながった。飯豊山への参詣は、近隣の住民にとって、大人になるための通過儀礼であり、男子が13〜15歳になると飯豊山に登るのがしきたりになっていた。  
社殿  
麓宮は、拝殿のみで本殿はない。飯豊山地そのものが神体であるとされたためである。代わりに鎌倉時代末の技法がみられる「銅造五大虚空蔵菩薩坐像」5躯が安置されており、福島県指定重要文化財に指定されている。五大虚空蔵菩薩は、神仏習合において、五社権現の本地仏(神道の神を、その本来の姿であるとされた仏教の仏として表したもの)とされたためである。  
飯豊山中には、5王子にちなみ、かつては5箇所の社が設置され、各社には虚空蔵菩薩坐像が毎年の参詣登山期間に背負って運ばれ、1体ずつ安置された。現在も御前坂から山頂に至る地名に一王子から五王子までの名前が残されている。王子は、参拝者にとって、祈願を行う霊場であり、遭難者を保護したり、物資を補給する場所でもあった。一王子は、今でも飯豊山頂付近にある貴重な水場であり、キャンプ場でもある。  
なお、飯豊山神社がある場所は四王子で、一等三角点(標高2,105.1m)が設置されている飯豊山頂が五王子である。飯豊山神社 は、山小屋である本山小屋に隣接し、社殿は積み石に囲まれており、その手前に鳥居が立てられている。夏は神職が詰めている。 
龍ヶ沢湧水 / 磐梯西山麓  
弘法大師 伝説  
磐梯西山麓湧水群の中で代表する湧水で、日本名水百選に選ばれている。古くから霊水として知られ、空海が請雨の法を修めた所とも伝えられている。 大干ばつにも涸れることがなく湧き出るので、江戸時代には雨乞いの儀式の場所でもあり、近年まで行われていた。 現在は、慧日寺資料館に引水されており、庭園内で飲める。 
 
恵日寺 / 福島県耶麻郡磐梯町  
徳一 大同2年(807) 建立  
(えにちじ)は、福島県耶麻郡磐梯町にある真言宗豊山派の寺院。かつては慧日寺(えにちじ)と称し、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、1904年(明治37年)に復興され、現在の寺号となった。平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺跡(えにちじあと)として国の史跡に指定されている。  
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧であったが布教活動のため会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実論争」とよばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送るなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだが、この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたといわれる。  
平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦がはじまると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職の援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退するのである。  
その後中世にはいると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。そしてその金堂も1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたがかつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。 
金剛山如法寺 鳥追観音 / 福島県耶麻郡西会津町  
徳一 大同2年(807) 建立  
仏都会津の祖・徳一大師が、千二百年前の平安初期大同2年(807)に、会津の西方浄土として御開創なされた屈指の観音霊場であります。  
御本尊鳥追聖観音は、僧行基御作と伝え、衆生を導いてこの世の寿命を全うさせ、あの世は西方浄土の阿弥陀仏の世界へ安楽往生させるという御誓願と、子授け・安産・子育て・厄除け・健康・長寿の広大無辺なご利益から、老若男女の厚い信仰を集めております。  
また、会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所として、二世(この世・あの世)の安楽を願い、≪命のふるさと・鳥追観音≫へ参る巡礼者が絶えません。  
さらに、当地西会津は、霊峰飯豊山の南麓に位置し、阿賀川が悠然と流れる山紫水明の里であり、如法寺境内には、樹齢千二百年の高野槙が孤高に聳え立ち、春は桜と若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の趣きもまた格別で、まさに≪仏都会津の西方浄土・鳥追観音如法寺≫は、身も心も癒される≪命のふるさと≫と申せます。 
海雲山慈眼院 高蔵寺 / 福島県いわき市高倉町鶴巻  
徳一 大同2年(807) 建立  
日本において仏教文化が美しく華やかに咲き競った奈良時代の後期から平安時代の前期にかけて偉大な宗教者であり卓越せる精進的指導者として今日まで広くその名が知られている方が二人おられます。一人は真言宗を開かれ、高野山に金剛峰寺を建立された弘法大師空海様であり、もう一人は天台宗を開かれ、比叡山に延暦寺を建立された伝教大師最澄様であります。このお二人の数々の行跡は歴史の教科書にも記述され現代まで伝承され、深く信仰を集めております。  
しかし、このお二人の陰にかくれ、あまり知られてはおりませんが、もう一人偉大な指導者がおりました。釈徳一(しゃくとくいち)という方であります。徳一様は奈良の興福寺で修行され、当時秀才中の秀才といわれた最澄様と宗教上の問題で互角に論争し、空海様からも大兄という尊称をもって手紙等を頂いているところから考えますと、相当な人物であったと思われます。  
徳一様は東国や東北地方の人々に仏教を説き広めたいと志を立て、まず筑波山(茨城県の代表的な山)を開き、更には船で小名浜(福島県いわき市)に上陸、いわき各地にお寺を建立されました。まさに大同2年(807)の事であります。  
大同2年という年は福島県にとりまして大変な年でありました。民謡でも有名なあの会津磐梯山をはじめ、吾妻小富士等の山々が噴火を繰り返し、高く舞い上がった火山灰が遠くいわき地方にも降り注ぎ、農作物が枯れ、加えて疫病蔓延してさながら地獄の様相であったと、この地方の古い歴史書である岩城地誌に記されております。  
徳一様はこの惨状を憐れみ人々に生きる勇気を与えんと海雲山の南麓(現在の三重之塔及び観音堂付近)を選び、ここを聖地と定め仮堂を作り、七体の観音様を刻み、当地方の要所に安置し、天災地変の熄滅と悪病の退散を祈願したところ、猛威を振るった災禍も治まり、人々安堵して以前の穏やかな平和な暮らしに戻ることができたといわれております。  
ちなみに七箇所に安置された観音様は高倉観音、法田観音、佛具観音、富沢観音、出蔵観音、関田観音、鮫川観音で菊多七観音と呼称されております。 
徳一 1  
(とくいつ、天平宝字4年−承和2年 / 760?-835?) 奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。父は藤原仲麻呂(恵美押勝)で、徳一はその十一男と伝えられている。徳溢、得一とも書く。生没年には諸説があるが、「南都高僧伝」には天平勝宝元年(749年)出生、天長元年7月21日(824年8月23日)没と記されている。  
初め東大寺で修円らから法相教学を学んだとされ、20歳頃に東国へ下った。弘仁6年(815年)空海から密教経典などの書写・布教を依頼されるが、これに対して真言密教への疑義を記した11か条の「真言宗未決文」を空海に送っている(ちなみに空海は徳一の「未決文」に対してあえて反応は示さなかった。真言宗側から「未決文」に対して反論がなされたのは実に500年後のことである)。  
また、天台教学に対しては「仏性抄」を皮切りに批判を加え、弘仁8年(817年)年頃から最澄との間で一大仏教論争である三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん。または「三乗一乗権実論争」)を展開した。  
この間、陸奥国会津慧日寺や同国会津勝常寺、常陸国筑波山中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部〜常陸にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。  
なお、日蓮を本仏とする宗派では、徳一は最澄と法華経を誹謗した失(とが)によって、舌が八つに裂けて死んだ、などといっている。
徳一 2  
千二百年前の平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧徳一〔生歿年は、高橋富雄氏の説、天応元年(781)生まれ、承和9年(842)11月9日歿。享年62歳〕は、会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建なされ、次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創なされました。更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創なされ、仏の都会津実現の為に、日夜、民衆の布教教化に邁進なされました。故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致したのであります。  
また、徳一は、平安新仏教のリーダー、天台宗最澄に対して、弘仁7年(816)『仏性抄』を著して、法相三乗説の立場から法華一乗説を批判した。最澄は、翌8年2月『照権実鏡』を著して反論、ここに三一権実論争が始まり、最澄が示寂する同13年までの5年間に亘り続けられた。真言宗空海に対しては、『真言宗未決文』を著して、11ヶ条の疑問を提出し真言宗を批判した。空海は、天長元年(824)『秘密曼茶羅教付法伝』に於いて、重要な第11鉄塔疑にのみ答えた。この様に、徳一は、平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高いのであります。  
徳一が、東国の化主と法相宗の学僧との両面で、まさに八面六臂の活躍を致したことは、もう一人の東国のリーダーと申しても過言ではありません。最澄、空海が、後にその功により天皇から賜った、伝教大師、弘法大師の称号も、誠に尊いものであるが、徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、菩薩、大師の尊称も、徳一にこそ相応しい尊称であり、仏都会津の礎を築かれた偉大な祖師と申せます。故に、私たちは、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬのであります。  
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出したのであります。そして、それは今日でも仏都会津と称されて、単に仏教文化遺産のみに止まらず、会津の文化、思想・政治・経済・芸能・風俗などのあらゆる面に広く深く浸透し、会津嶺の湧き水の如く尽きること無く、会津文化の源泉として影響を及ぼし続けているのであります。千二百年前、徳一大師が、会津の厳しくも美しい自然の大地に蒔いた仏教文化の種を、先人達は、枯らすことなく大切に育み枝葉を繁らせ、四季折々に美しい会津に仏教文化の花々を見事に咲かせて、実り豊かな仏都会津を築いて来たのであります。  
どうぞ、皆様も≪仏都会津の祖・徳一大師ゆかりの古寺巡礼≫をなさって、徳一大師の衆生済度への熱き御心を偲び、祖先の労苦に感謝致し、会津独特の仏教文化と豊かな自然の恵みを味わい、身も心も癒されて、明日への叡智を養って頂きます様に、心よりご祈念申し上げます。
徳一 3  
奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。最澄とのあいだでやりとりされた所謂三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。  
同時代史料  
徳一の伝記についての確実な史料は、最澄・空海の著作に残された記録である。  
徳一が最澄と論争をしていた弘仁8年(817年)頃から同12年(821年)頃に書かれた最澄の著作には、「陸奥の仏性抄」(『照権実鏡』)、「奥州会津県の溢和上」「奥州の義鏡」(『守護国界章』)、「奥州の北轅者」(『決権実論』)などの記述があり、この頃には陸奥国にいたことがわかる。また『守護国界章』に「麁食者(徳一のこと)、弱冠にして都を去り、久しく一隅に居す」という記述があり、この「都」は平城京であると考えられることから、遅くとも長岡京への遷都(783年)以前に20歳であったことが予想される。  
徳一が書いたと思われる万葉仮名が『守護国界章』に引用されているが、それには平安時代初期に中央で使われていた上代特殊仮名遣いがよく保存されていることから、中央で教育を受けたと思われる。また、『守護国界章』に「年を経て宝積(=『大宝積経』)を講ずる」とあるので、そのような活動をしていたのかもしれない。  
空海が弘仁6年(815年)頃、弟子康守を東国に遣わして徳一・広智に経典の書写を依頼した際、「陸州徳一菩薩」宛の書簡(高野雑筆集巻上所収)に「聞くならく、徳一菩薩は戒珠氷珠の如く、智海泓澄たり、斗藪し京を離れ、錫を振って東に往く…」と書いており、この頃には陸奥国にいたことがわかる。  
後世の史料  
東大寺・円超『華厳宗章疏并因明録』(914年)には「東大寺徳一」とあり、興福寺・永超『東域伝灯目録』(1094年)には「東大寺徳一」「東大寺得一」、興福寺・蔵俊『注進法相宗章疏』(1176年)にも「奥州徳一」「東大寺徳一」とあることから、平安時代には徳一は東大寺の出身とする見方があったようである。  
一方、同じく平安期の『今昔物語集』巻17・陸奥国女人、地蔵ノ助ケニ依リテ活ルヲ得ル語第二十九に「今ハ昔、陸奥国ニ恵日寺ト云フ寺有リ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一菩薩ト云フ人ノ建タル寺也」とあり、興福寺出身で入唐したという説が見える。13世紀になると『私聚百因縁集』では「左大臣藤原ノ卿恵美ノ第四男」が空海に従って東国に修行したとあり、『南都高僧伝』(13世紀頃)では「恵美大臣息」、『尊卑分脈』(14世紀頃)では興福寺出身とされ、入唐経験のある藤原仲麻呂の六男・刷雄が同一視されている。徳一と藤原刷雄とを同一視するかどうかについては、研究者のあいだで意見が分かれている。  
師弟関係としては、『私聚百因縁集』が異説として興福寺・修因(修円か)の弟子とし、徳一が神野山で修行したと伝える。『元亨釈書』でも修円とする。また弟子としては、やはり『私聚百因縁集』が今与の名前をあげている。  
徳一の開創あるいは徳一が活動したことを伝える寺院が数多くある。陸奥国・会津の慧日寺や勝常寺、常陸国の筑波山・中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部〜常陸にかけて多くの寺院を建立したとされる。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。勝常寺には平安初期の木造薬師如来・日光菩薩・月光菩薩像が伝えられており、徳一との関係も指摘されている。  
その他、田村晃祐編『徳一論叢』には後世の様々な史料、縁起が収集されている。 
徳一 4 / 徳一の東国下向と陸奥の宗教文化  
奥州・出羽の東北地方には、『軍神・毘沙門天の化身』ともされる征夷大将軍の田村麻呂伝説が数多く残っていますが、奈良(南都仏教)の興福寺の僧侶であった徳一(とくいつ,780頃-842頃)に関する伝承・寺社縁起も多く伝わっています。徳一は徳逸・徳溢とも表記しますが、『南都高僧伝』にその名前が載っているように元々は陸奥(奥州)地方の人間ではなく、奈良の興福寺(こうふくじ)で修円(しゅうえん)に付いて学んだ法相宗の僧侶でした。修円の師は、唐招提寺の鑑真(がんじん)から直接授戒を受けた賢憬(けんけい)であり、藤原氏の氏寺である興福寺は戒律(具足戒)を重要視する法相宗の総本山です。そのため、興福寺の修円に学んだ徳一は、初め仏教界の中ではエリートに属する僧侶だったと考えられます。  
血縁的には徳一(徳逸)は、称徳天皇(孝謙天皇)に厚遇された後に反乱を起こして失脚した藤原仲麻呂(恵美押勝,706-764)の子であるとされていますが、年齢的に若干の矛盾があり正確な出自には謎が残っています。奈良時代の平城京では、法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗の南都六宗(奈良仏教)が隆盛していましたが、これらの仏教は皇室・貴族鎮護の学問仏教としての性格を濃厚に持っていました。法相宗の開祖は道昭(どうしょう)、中心寺院は興福寺・薬師寺、三論宗の開祖は恵灌(えかん)、寺院は東大寺南院、倶舎宗の開祖は道昭、寺院は東大寺・興福寺、成実宗の開祖は道蔵(どうぞう)、寺院は元興寺・大安寺、華厳宗の開祖は良弁(ろうべん)、寺院は東大寺、律宗の開祖は鑑真、寺院は唐招提寺でした。藤原鎌足や藤原不比等との所縁が深い興福寺は藤原氏の氏寺であり、南都七大寺(東大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺)の一つとして数えられます。  
興福寺の学僧であった徳一は20歳前後で平城京から東国へと下向しますが、なぜ文化・宗教の中心地である平城京を離れて、奥州会津の恵日寺(えにちでら)や常陸筑波山の中善寺に行ったのかの理由は定かではありません。一説には、平城京の仏教界の中の勢力争いに巻き込まれて東国に流刑されたという説もありますが、自分自身の決断で中央政府の喧騒を離れて奥州(福島県)や常陸(茨城県)に赴いた可能性も否定できません。徳一が活動の拠点にしたのは、奥州会津で磐梯山(ばんだいさん)を背景に望む恵日寺と常陸筑波山の中善寺でしたが、晩年には『筑波山徳一』と呼ばれていたように筑波山の中善寺の方に本拠を置いていたようです。徳一大師の事績と徳行を重視する『恵日寺縁起』では、筑波山で死去した徳一の首を弟子の金耀が掻き切って恵日寺に持ち帰ったという伝説が残されています。  
現在では、奥州会津の恵日寺と筑波山の中善寺のどちらをより重要な拠点としたのかは推測するしかありませんが、徳一が何処かの時点で会津から筑波山へと拠点を移したのは確かなようです。徳一は天台宗の開祖である最澄(767-822)と激しい論争を交わしたことでも知られていますが、『仏性抄(ぶっしょうしょう)』という書物を書いて天台教学を苛烈に非難しました。最澄と徳一の論争を『三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)』といいますが、これは、仏教の解脱・成仏の条件として『生まれながらの貴族的身分』が必要か否かといった問題を巡る論争で、修行によって万人が解脱(悔悟)できるとする最澄に徳一は強く反対しました。真言宗(真言密教)の開祖・空海(774-835)から『徳一菩薩』と呼ばれて敬われていた徳一(徳逸)ですが、徳一は空海の密教的な呪法・儀式にも批判的であり、奈良仏教(南都北嶺)の貴族主義的な伝統を重視していました。  
奈良時代の南都六宗に代わって平安時代には最澄の天台宗と空海の真言宗が隆盛します。奈良仏教と平安仏教の違いは、平安仏教が万人の救済を説く大乗仏教の要素を取り入れたことにあり、教義研究よりも加持祈祷・呪術秘儀(密教)を重視し始めたところにあります。徳一はどちらかといえば平城京の貴族アイデンティティが強くエリート学僧としての側面を持っていましたが、東北地方の寺社の縁起にその名前が多く見られるように、奥羽の仏教文化の発展に大きな貢献をしました。東北地方には『田村麻呂伝説』と『徳一の縁起』が数多く残されていますが、それは、征討した奥羽地方に多くの内地人が早くから移住したことの証左であり、段階的に蝦夷(俘囚)の人たちが平安京の文化・宗教に順応していったことを示しています。
福島県  
福島県という名称もまた青森県・岩手県(南部氏)・宮城県(伊達氏)と同じように『戊辰戦争の敗戦による影響』を強く受けたものであり、福島県の前身である幕末の『会津藩(あいづはん)』は、奥羽越列藩同盟で新政府軍と最も激しい戦闘を展開した大藩でした。会津藩の歴史を遡ると、豊臣秀吉の天正18年(1590年)の奥州仕置で没収された伊達政宗の会津領は、近江国蒲生郡出身の蒲生氏郷(がもううじさと, 1556-1595)に与えられたのですが、元々会津は伊達氏に滅ぼされた蘆名氏(あしなし)の旧領でした。1591年の『葛西大崎一揆』を煽動した嫌疑を掛けられた伊達政宗は、豊臣秀吉により岩出山に移封されて、蒲生氏郷が現在の福島県中通り以西に当たる会津領42万石を領有することになります。  
会津藩42万石は、秀吉が奥州の竜・伊達政宗を押さえ込むために子飼いの蒲生氏郷を配置したものであり、1592年にはその後の検地・加増によって石高が増えて会津は『92万石』という巨大な藩へと成長しました。奥羽地方(東北地方)において会津藩は仙台藩と並ぶ雄藩となりますが、氏郷の子の蒲生秀行(がもうひでゆき)の代になると、蒲生氏は会津藩から宇都宮藩へと移封され、それに代わって越後藩の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津120万石に転封されます。政略的に故郷・本領の越後から切り離された上杉景勝は、福島県の中通り以西の地域と山形県の置賜地方を支配することになりますが、『関ヶ原の戦い』の後に積極的に東軍(徳川家康)を支援しなかった上杉景勝は減封処分を受けて、信夫郡・伊達郡を除く福島県(会津藩)の所領を失います。かつての豊臣政権で『五大老』として大きな石高・影響力を持っていた越後の虎の上杉氏も、この処分により40万石の大名になってしまいます。  
上杉景勝が処分された後の会津藩には、再び蒲生秀行が藩主に任命されることになり、会津藩60万石という東北の大藩が生まれます。しかし、2代目・蒲生忠郷(がもうたださと)が急逝したため、蒲生氏は伊予・松山藩に移封されることになり、1627年に加藤嘉明(かとうよしあき)が40万石で会津藩に入封しました。加藤家の会津支配も2代目の加藤明成(かとうあきなり)が『会津騒動』を起こしたことで領地を返上することになり、1643年に松平氏の保科正之(ほしなまさゆき)が会津藩23万石で入封しました。この松平氏が会津藩の藩主となり、この藩の体制は幕末の松平容保(まつだいらかたもり)にまで続いていきます。保科正之は江戸幕府の第3代将軍徳川家光の異母弟(=2代徳川秀忠の四男)に当たる人物であり、会津松平家は徳川家(家康の元々の苗字は松平氏です)の血縁の家系に当たります。  
上杉氏の米沢藩に残されていた信夫郡・伊達郡も1664年には改易されて、松平氏・会津藩の東北地方における影響力は極めて大きくなりました。会津藩9代藩主で尊皇攘夷派を捕縛する京都守護職でもあった松平容保(1836-1893)の幕末に、戊辰戦争の『会津戦争(1868年)』が勃発して、会津藩の藩士や少年・少女に大勢の犠牲者が出ましたが、飯盛山で自刃した白虎隊(少年兵部隊)の悲劇のエピソードは良く知られています。10代の男の子を中心にして結成された『白虎隊(びゃっこたい)』だけではなく、若い女の子を中心にして組織された『娘子隊(じょうしたい)』にも多くの死傷者・自害者が出たと伝えられています。  
会津藩は明治元年9月22日に新政府軍に降伏し、奥羽列藩同盟で最後まで新政府軍に抵抗した庄内藩もその2日後に降伏を余儀なくされますが、この戊辰戦争の敗戦によって会津藩は官軍に弓を引いた『朝敵・賊群』の汚名を受けることになりました。この敗戦によって、この現在の福島県に当たる地域が『会津県』となる可能性は断たれましたが、『会津』という名前の歴史は相当に古く、『古事記』の記述では第10代の崇神天皇(すうじんてんのう,紀元前148年-紀元前29年)の時代にまで遡ることができるとされています。崇神天皇は歴史学的に3〜4世紀に実在した可能性があると推測されている天皇ですが、崇神天皇を初代天皇とする仮説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と解釈するような仮説があります。  
古事記には『会津』の地名の語源の『相津(あいづ)』について、以下のような記述があるといいます。『大比古の命は、先の命のまにまに、高志の国に罷り行きき。しかして、東の方より遣はさえし建沼河別(たけぬまかわ)とその父大比古と共に、相津に行き遇ひき。かれ、そこを相津といふ』。『会津(相津)』の地名としての歴史は2千年に近いものであり、伝統主義の立場からは『福島』よりも圧倒的に由緒正しい名前と見ることもできますが、福島という地名は16世紀末に蒲生氏郷の客将であった木村吉清(きむらよしきよ)によってつけられたものです。  
木村吉清は蒲生氏郷から文禄元年(1592年)に、信夫郡(現在の福島市)5万石を与えられて大森城に入りましたが、その後に吉清は居城を大森城から杉妻城(杉目城,すぎのめじょう)へと移して、杉妻の地名を『福島』へと改称しました。これが『福島』という地名の起源になっています。慶長3年(1598年)に蒲生氏が宇都宮へ移封されると、木村吉清は九州・豊後国で1万5千石を与えられることになりましたが同年に死去しました。  
戊辰戦争において最も頑強に明治新政府に抵抗したことで、歴史的な深みのある『会津』が県名になることはありませんでしたが、『福島』という名前は江戸時代まではかなり存在感の弱い5万石程度の小藩の名前だったことは印象的です。福島県は現在でも高齢者の間では、西部の『会津』、東北新幹線周辺の『中通り』、太平洋沿岸の『浜通り』で、文化的・歴史的な気質や自己アイデンティティの違いがあると言われたりもしますが、幕末の東北地方では松平家の会津藩は伊達家の仙台藩と並び立つほどの影響力・石高を持つ藩としての威容を示していました。 
 
■関東
関東厄除三大師  
弘法大師を祀る寺院のうち、次の3つの寺院を指す。  
西新井大師  (東京都足立区 総持寺:真言宗豊山派)  
川崎大師   (神奈川県川崎市 平間寺:真言宗智山派)  
観福寺大師堂 (千葉県香取市 観福寺:真言宗豊山派)  
関東三大厄除け大師  
佐野厄除け大師 / 青柳大師 / 川越大師  
厄払いを行う時期として最もポピュラーな時期の元日から節分の間の頃にテレビなどでもよく取り上げられるのが関東三大厄除け大師というものがあります。ただこの関東三大厄除け大師については実は公式なものとされているものではないのですが、それぞれ神社はやはり人気があるのも特徴ですので、ここではそれらの3つの厄除け大師について紹介したいと思います。  
関東厄除け三大師について / 関東厄除け三大師というのは公式に決められているものではないものの、基本的には弘法大師を祀る寺院の事を指すと言われています。「大師」とは基本的には「弘法大師空海」のこと指しますが関東の三大師となると元三大師(良源)のことを指すと言われておりその違いからちぐはぐになりがちと思われます。関東厄除け三大師は佐野厄除け大師、青柳大師、川越大師の3つの大師が弘法大師空海が祭られている寺院(真言宗)とされています。 
 
栃木県

 

●弘法大師 日光へ布教の旅  
弘法大師 弘仁11年(820年) 開山  
816年、東国や九州へ弟子を派遣し密教を全国に伝える一方、この年から活動の本拠地となる高野山の開山に着手。山上に草庵を造り始める。45歳から各種教義書を立て続けに執筆し、真言教学の体系を築き上げていく。また、詩歌論や日本最古の漢字辞書「篆隷(てんれい)万象名義」なども表す。彼はまた、この時期に東海地方を経て日光まで布教の為に足を運んでいる。 
『日光山滝尾建立草創日記』に記される空海の事績 
弘仁11年(820)7月26日来山。龍生滝(りゅうじょうのたき)に7日間念誦、菩提寺建立。中禅寺登山、湖岸に四条木叉(もくしゃ)寺・転法輪寺・法華密厳寺・華厳寺・般若寺を建立。羅刹窟(らせつくう)(風穴)を結界祈念して二荒(にこう)を日光(にっこう)に改める。  
9月1日、野口生岡(いくおか)に大日如来を祀る。次いで寂光寺を開く。  
9月7日、四本竜寺に帰る。その後、仏岩の北方に修行、女体霊神を勧請し、滝尾を開く。道珍に密教の法を伝授。  
12月4日、上洛して滝尾草創を奏上したと記されている。  
清滝神社 / 820年(弘仁11)、弘法大師空海が開いたとされる。この地の岩壁に一条の滝がかかり、その景観が中国大鷲山の清流に似ていることから、清滝権現が勧請されたという。その後密宗修験道場として栄えた。 
●岩崎観世音 [鶴の子観世音] / 栃木県日光市岩崎  
弘法大師 弘仁11年(820年) 開山  
以前「岩崎山自性院正観寺」というお寺がありましたが、明治5年に廃寺となった。  
弘仁11年(820年)に弘法大師がひらいたとされる岩崎観世音は、本堂は馬頭観音でかつては多くの馬方が、遠方からも訪れていた。ここにはすばらしい彫刻や狩野派全盛のころ、修行僧達が描かれたと思われる習作の天井画がある。本堂より山道を登ると岩洞窟の中に、高さ1m程の鶴の子観音があり、ご利益のある子授け観音として、広く知られている。大祭当日(毎年3月の最終日曜日)には、卵を授かり、その卵をご夫婦で食べて、子供が授かれば翌年お礼に倍の卵をお返しに来るという「倍返し」信仰のめずらしいお祭りがある。  
弘法大師御作 鶴子観音大士略縁記  
抑、下野国野州日光のふもと、岩崎鶴子観音は人皇五十二代嵯峨天皇の御字、弘仁十一年(八二〇)弘法大師が当州二荒山僧正勝道の礼讃碑の銘を請うにしたがい、直済乃び大安寺の僧韓海を伴い、花洛を発して東州に志し、道すがら霊場を歴覧し、仏地を開き、同年七月当国に下着す。 
二荒山のふもとに近寄り給う時、道の傍に山あり、岩崎の西に向いて峨々たり、霊気山上に立昇りければ、大師奇異の思いなし、谷を越え、川を渉り、山中に到り給うに、巌窟より紫雲たなびき、光明の中に観世音菩薩夕日に向って來迎ましける故、此所に草庵を結び、一寸八分の尊像を御作あって巌窟に安じ奉り、三密修行をなし給うとき、酒水を求め給いとも、山中に曽て水なし、岩上を御覧じ御加持ありければ、忽ち清水湧き出づる、これを以って酒水となし給う猶、今に霊跡あり。 
その後、幾星箱を経て天正年中(一五七三〜一五九二)の頃とかや、此の山中のふもとに池あり即ち、蓮花池と名付けり、池の渚に洲あり、中に大きなる松立てり、梢の枝のしげみに巣ありて、白鶴常に住み、年々子を生めり、ある時、里人心なくも、彼の鶴のたまごを奪いて食わんと、湯の中に入れる時、老翁忽然と現れ、告げて曰く、白鶴は霊鳥なり、汝、このたまごを食わば、観世音菩薩の御罰を蒙り、癩病を病むのみならず、永く子孫に傳う、すみやかに元の巣に返せよと呼ばわって、いづこともなく消えうせぬ。 
里人大きに驚き、うでたるたまごを元の巣に返し、沐浴斉戒断食して観世音菩薩の霊前に一、七日赦罪の祈願をなし、一心余念なく祈りたるに、不可思議なるかな満願の曉、観世音菩薩微妙なる御声にて告げて曰く、汝、罪深しといえども赦罪の心深きによってとがを許す。巣の中を見よと、宣う故、松の梢を見上ぐれば、巣の中より光明輝き金色の光を放って観世音菩薩は白鶴に乗らせ給い巌窟目指して飛び去り給う。然しより以来鶴の子観世音と崇め奉るはこの因縁による所なり自性院と名付け、正観寺と号す。後に授け観世音とも称せられ奉納たまごを拝領し、祈願成就のあかつき御礼詣にたまごを奉納する信仰を生む。 
又同年中のことかや、この観世音菩薩御前の道を壬生の某と云う武士通りかゝりし時、乗りたる馬両脚躓き、骨くじき、痛く病みたれば、即ち観世音菩薩に祈念をかけるに、御利益空しからず、立所に痛みを去り荏苒と元の如く全快なしたれば霊験灼然なる敬、諸人挙って、牛馬の病をを祈るとかや。 
然るに。去んぬる寛政六年甲寅(一七九四)正月四日節分の夜半堂字より発火して堂舎委く焼亡す。この時火炎の中より車輪の如き光りもの、白晝の如く照らして飛び去りぬ仍りて見るに、不思議なる哉、一寸八分の御尊像、遥か山上の巌の上に暗然として立にせ給う。 
諸人、稀有の思いをなし、三拝九拝して法楽を捧げ、再び巌窟に納め奉りける。誠に霊験灼かにして有難き尊像なり、実に御利益空しからんや。 
然らば、この霊場に詣でて尊像を拝する輩は、諸願成就、家内繁栄、子孫長久、牛馬安全、先租代々霊仏果、福聚海無量、疑い無きものなり、依って略縁記をはんぬ。
●那須波切不動尊 金乗院 / 栃木県那須塩原市沼野田和  
弘法大師 大同元年(806) 開山  
今から約1200年前、弘法大師空海によって開かれた霊場です。関東三霊場 [北関東三十六不動尊霊場、関東薬師九十一霊場、関東地蔵百八札所] として、また滝のある寺として親しまれており、広大な境内には本堂をはじめ、波切不動尊、金色願叶龍神を祀る不動の滝、霊水薬師如来、慈母観音、願通大師[くぐり大師]、六体のわらべ地蔵、総けやき造りの奥の院地蔵堂、 大日堂、鐘楼堂などがあります。 
金乗院2 
今から1200年前(大同元年・806年開山)弘法大師によって開かれた関東三霊場・滝のある寺として知られる高野山真言宗の寺院。広大な境内には、本堂をはじめ、一石彫りでは日本最大(高さ6m、重さ11トンの波切不動尊、黄金の龍神の滝、霊水薬師如来、高さ10mの慈母観音、願通大師(くぐり大師)、6体のわらべ地蔵尊、大日堂、鐘楼堂、総けやき造りの「奥の院(地蔵堂)」などがある。毎年6月28日の「火まつり」では湯加持、松明行、火渡り行などの荒行が行われる。
●医王山 安国寺 / 下野市薬師寺  
弘法大師 弘仁11年(820) 滞留  
昔名は「薬師寺」歴応2年(1339)足利尊氏が改称した  
弘仁11年(820) 弘法大師 弟子二名と滞留、日光山へ向かった 
●満願寺 / 栃木市出流町  
弘法大師 弘仁11年(820) 参詣  
真言宗智山派の寺院。山号は出流山(いずるさん)。坂東三十三観音霊場の第17番札所。寺伝によれば天平神護元年(765)勝道上人が創建したという。弘仁11年(820)、空海が勝道上人の徳を慕って参詣し、その折りに当山の銘木で千手観世音菩薩を造立したとされる。 
満願寺2 
天平神護元年(765)勝道上人が創建した。子に恵まれないのを嘆いた若田氏高藤介の妻が岩窟(観音霊窟)の十一面観音に祈願し、授かったのが勝道上人で、上人はこの観音に帰依して霊窟で3年にわたり修行をし、後に男体山に登拝して日光山を開いた。このため、日光の修験者はまず満願寺で修行を行なったという。弘仁11年(820)弘法大師が勝道上人の遺徳を偲んで参籠した。その際に刻んだ千手観音像が現在の本尊という。応安元年(1368)足利義満寄進の観音堂が焼失、明和元年(1764)に再建。  
○ ふるさとをはるばるここにたちいづる わがゆくすえはいづくなるらん
満願寺3 
弘法大師御作の千手観音菩薩をご本尊とする坂東三十三観音第十七番札所です。今から千二百余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられ、天平神護元年(765年)日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山されました。この「観音の霊窟」には鍾乳石によって自然にできた十一面観音像があります。下野の国司(今の県知事)の高藤介の妻が子宝に恵まれず、この「観音の霊窟」で子宝を得ることができるということを聞いて21日間「観音の霊窟」に籠り、翌天平七年に男の子を授かりました。この子がのちの勝道上人です。以来、当山の奥之院にお祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されています。  
●独鈷沢 / 栃木県日光市独鈷沢  
弘法大師 天長6年(829) 
昔、天長6年(829)の4月、弘法大師空海は塩原元湯温泉にしばらく杖を休めていた。そして、その村の栄助という老人を案内役に頼んで、周辺の美しい景色を楽しんでいたとき、下三依村に足をのばした。まだ若かった空海は、下三依村に着いたころ、たいへんのどがかわいた。そこで、道ばたにいた一人の村人にお願いし、水をいっぱいもらうことにした。  
ところが、なかなかその村人が帰ってこない。そのころのこの辺り一帯は水に乏しく、村人は親切にも深い男鹿川の谷間に降りていき、清らかな冷たい水をくんできて差し上げたのだった。  
村人の真心に感じ入った空海は、村人が深い男鹿川の谷間に水をくみに行かなくてもすむようにと、持っていた独鈷(とっこ:仏教で使う道具)の先で勢いよく大地を突き刺し、こんこんとわき出す清らかな清水を作った。水くみが重労働であった村の人たちはこの上なく喜んだのであった。  
以来、千年以上、たくさんの人々の命の清水・霊泉として今日に至っている。  
村人たちは、この故事にちなんで、いつとはなく下三依村をあらため、「独鈷沢村(とっこざわむら)」と呼ぶようになったそうだ。 
●東高野山弥勒院 医王寺 / 栃木県鹿沼市北半田  
弘法大師 大同4年(809) 巡錫 
医王寺は真言宗豊山派の寺院です。日光開山勝道上人により天平神護元年(765)に創建され、弘法大師ゆかりの寺「東高野山」と呼ばれています。約3万坪にも及ぶ広大な敷地には、金堂・唐門・弘法大師堂・客殿が建ち並んでいます。 
医王寺2  
医王寺は東高野山弥勒院と号する、真言宗豊山派の寺院です。薬師如来の別名である医王如来の名を寺号としていることからも知られるように、薬師如来を本尊とする寺院であり、講堂の秘仏本尊として薬師如来坐像を、金堂の本尊として薬師三尊像を安置しています。  
縁起によれば、敏達天皇の勅願により聖徳太子が自ら薬師如来を造立して伽藍を整えられ、大同4年(809)、弘法大師空海(774〜835)が東国を巡錫した際に自らの御影像や不動明王などを納めて鎮護国家の道場とし、弘仁年間(810〜824)、高野山の開創によって当地を「東高野山」と呼ぶようになったと伝えられています。また、日光開山の勝道上人(735〜817)が夢告にしたがい山中より薬師如来を発見し堂閣を建立して尊像を安置したとも伝えられています。  
医王寺の創建については必ずしも明らかではありませんが、講堂の秘仏本尊薬師如来坐像が、平安時代後期の作と推定されることから、遅くともこの頃までには寺院としての体裁を整えていたものと考えられます。鎌倉時代には、金堂の本尊薬師三尊像を始めとして、数多くの仏像が造立され、大がかりな造営事業が進められたようです。縁起では、正中2年(1325)に、西方遠江守烏丸貞泰(〜1333〜)が堂宇の再建に尽力したと伝えられていますが、近年は、京都・畿内で活動し仏教信仰も厚かった宇都宮氏が、鎌倉時代における医王寺の造営事業を支援した可能性も指摘されています。また近年、吉祥天立像の納入品(『金光明最勝王経』)に記名がある晴空(1262〜?)という僧侶の鎌倉における活動が金沢文庫の史料から確認され、北関東と鎌倉の間を活発に往来していた僧侶の動向が明らかとなりました。  
医王寺は中世以降、地方における仏教修学の道場としての機能を有していたようです。江戸時代・寛政7年(1795)の『新義真言宗本末帳』には、本末関係では醍醐寺報恩院流の直末寺(法流末寺)であり、末寺6ヶ寺、門徒5ヶ寺を統領する田舎本寺(中本寺)・談林寺院であったことが記録されています。江戸時代には幕府から朱印地として寺領五十石を下賜され、歴代住職の尽力により寛永年間(1624〜1644)に焼失したとされる堂宇も再建されて、現在の伽藍が完成したと考えられています。当寺が所蔵する古絵図には、寛永の焼失以前の境内が描かれており、南から順に「仁王門」「大堂」「小堂」「客殿」が並ぶ、現在とは異なる配置であったことがわかります。それら堂宇のうち、現在の金堂の位置にあった「大堂」には現講堂秘仏本尊の秘仏薬師如来坐像を本尊、現金堂本尊の薬師三尊像を前立本尊として安置し、金堂の北側にあった「小堂」には弥勒菩薩坐像を安置していた可能性も指摘されています。  
近代に入ると、明治35年(1902)の足尾台風により仁王門・金剛力士像が倒壊するなど、堂宇の荒廃が進みましたが、昭和50年代から栃木県や旧粟野町、鹿沼市、檀信徒のご協力により建造物と仏像彫刻の保存修理が順次行われ、伽藍が整備されました。  
現在、医王寺には、下野の地に花開いた仏教文化の豊かさを示す、多種多様な宝物が伝えられており、そのうち30件が栃木県の有形文化財に、3件が鹿沼市の有形文化財に指定されています。  
●弘法大師の碑 / 栃木県大田原市市野沢  
市野沢郵便局の手前に弘法大師の碑がある、空海(弘法大師)が訪れた時の句 「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」。 
●天開山千手院 大谷寺 [大谷観音] / 栃木県宇都宮市  
弘法大師 弘仁元年(810) 開山  
大谷寺(おおやじ)は、栃木県宇都宮市にある天台宗の寺院。山号は天開山。院号は千手院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第19番札所。国の特別史跡及び重要文化財に指定されている「大谷磨崖仏」の所有者となっている。  
大谷寺は大谷石凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配する日本屈指の洞窟寺院である。 本尊は、凝灰岩の岩壁に彫られた高さ4mの千手観音で、一般には「大谷観音」の名で知られている。  
当寺周辺には縄文時代の人の生活の痕跡が認められること(大谷岩陰遺跡)、また弘仁元年(810)に空海が千手観音を刻んでこの寺を開いたとの伝承が残ることなどから、定かではないが千手観音が造立された平安時代中期には周辺住民等の信仰の地となっていたものと推定されている。  
こうして、平安末期には現代に残される主要な磨崖仏の造立がほぼ完了し、鎌倉時代初期には鎌倉幕府によって坂東三十三箇所の一に定められたものと推定されている。鎌倉時代に入ると、大谷寺は宇都宮社の神職で鎌倉幕府の有力御家人でもあった下野宇都宮氏の保護の下で隆盛したと見られ、1965年(昭和40年)の大谷寺発掘調査において、鎌倉時代の懸仏、1363年(貞治2年又は正平18年)奉納の経石、1551年(天文20年)と書かれた銅椀などが出土している。しかし豊臣秀吉により下野宇都宮氏が改易されると、一時は衰退を余儀なくされた。  
しかし江戸時代に入って、奥平忠昌が宇都宮城第29代城主に再封された後の元和年間(1615-1624)、慈眼大師天海の弟子であった伝海が藩主忠昌の援助を得て堂宇を再建した。天海僧正は天文年間に宇都宮城下の粉河寺で修行した経歴を有しており、徳川幕府が擁立された後、徳川家康と代々の将軍家の援助により上野寛永寺を建立したほか、日光山貫主として堂宇再建を行っている。  
その後、宝永年間にも諸侯の援助により堂宇建立を中心とした勧請が行われたが、その後の火事で多くの堂宇を焼失している。  
大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)  
栃木県宇都宮市大谷にある磨崖仏である。千手観音像、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の4組10体の石心塑像が4区に分かれて彫出されている。このうち千手観音像は、現在大谷寺の本尊である。大谷磨崖仏は大分県臼杵市の臼杵磨崖仏と並んで学術的に非常に価値の高い石仏とされ、1926年(大正15年)2月24日に国の特別史跡に指定され、1961年(昭和36年)6月30日には「彫刻」として国の重要文化財に指定されている。 
●名草弁天(名草厳島神社) / 足利市名草上町  
弘法大師 開基  
名草の弁天さまは、弘法大師が水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりと伝えられる。伝説では大師が足利に布教をしながら山伝いにまいると、白い大蛇に出会った。「これは弁財天のお使いに違いあるまい。道案内してくれるだろう」と、あとをつけていくと、やがて清水の流れるところの大きな岩の前に出た。すると大蛇は、私の役目は終わりましたとでもいいたそうに、岩の穴の中にはいっていった。大師は岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勧請し前に祠を建てたのが名草弁天の始まりといわれている。この名草弁天は国指定の天然記念物、名草の巨石に鎮座しており、近くには弁慶の手割石と称するものもある。 
●佐貫観音院 / 栃木県塩谷郡塩谷町佐貫  
弘法大師 ゆかりの寺院  
真言宗智山派の寺院。江戸時代までは岩戸山慈眼寺観音院であったが、明治期の廃仏毀釈によって慈眼寺は廃寺となり、現在は宇都宮市篠井町の東海寺の別院となっている。本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。  
佐貫観音院は、栃木県塩谷郡塩谷町佐貫の鬼怒川河畔にある聖観音菩薩を本尊とする真言宗の寺院である。寺域には高さ64mの観音岩と呼ばれる大岩が聳え、その窟内にある「奥の院大悲窟」には四国讃岐国多度郡郡司であった藤原富正所有の念持仏、佩刀、弘法大師(空海)作の如意輪観音と馬頭観音の2仏、中将姫の蓮の曼荼羅、藤原秀郷や源義家の奉納品(太刀、武具、銅鏡など)が納められていたと云われる。現在、銅版阿弥陀曼荼羅と銅鏡は宇都宮市篠井町の東海寺にて保管されているという。また、この観音岩の壁面には「大日如来坐像」が線刻されており、この磨崖仏は周囲の自然環境とともに佐貫石仏の名称で国の史跡に指定されている。観音岩下部には磨崖仏の大日如来を中央とする左右に祠がある。磨崖仏に向かって左側の祠は「白龍洞」と呼ばれる洞窟内にあり木造の御堂が建てられている。右側の祠は二枚の「立岩」が目前に立ち、その背後の洞穴内の小さな石造の祠となっている。観音岩頂上部には天然物とも人工物とも判らない「亀の子岩」が載っており、神の使いとしてまた長寿の象徴として珍重されている。 
●佐貫石仏 / 栃木県塩谷郡塩谷町佐貫  
弘法大師 大同2年(807) 建立  
大日如来の磨崖仏である。凝灰岩の山肌に線刻された仏像で風化が甚だしいが、像高60尺の巨大石仏のひとつとして1926年(大正15年2月24日)に国の史跡に指定されている。観音岩と呼ばれる大岩に線刻された佐貫石仏の尊像は、その洞窟内に奉安され観音岩の呼称の由来ともなった観音菩薩像と合わせて、一般的に佐貫観音と呼ばれることがあるが、本磨崖仏は大日如来坐像であり史跡名も佐貫石仏とされている。  
伝承によると、佐貫石仏の造立時期は、奈良時代説、平安時代説、鎌倉時代説とその年代に幅があり、直接的な史料が無いためいずれが正しいとも不詳である。近年では平安時代末期から鎌倉時代の作と推定されている。一方、当地区の旧家が蔵する古文書によると、唐から帰国した弘法大師が807年(大同2年)にこの地を訪れ、自らの念持仏をこの大岩に奉安し、讃岐国多度郡の領主であった藤原富正の子富治の願いにより一夜にして壁面に大日如来の坐像を刻んだものとされる。 
 
二荒の山  
日光の寺社の歴史  
但し、神仏習合時代の歴史ですから神社とお寺がぐちゃぐちゃです。  
766年 / 勝道上人(735−817年)、大谷川を渡り四本竜寺を創建。  
767年 / 勝道上人、大谷川の北岸に二荒山大神をまつる。  
782年 / 勝道上人、二荒山(男体山)の初登頂を果たす。  
784年 / 勝道上人、中禅寺湖畔に神宮寺(中禅寺=現在の二荒山神社中宮祠 )を創建。  
808年 / 下野国司・橘利遠、朝命により本宮神社の社殿造立。山菅の橋を架けて往来の 便に供す。  
810年 / 嵯峨天皇(786−842年より、四本竜寺を本坊とした一山の総号として「 満願寺」号を賜る。  
814年(弘仁5) / 弘法大師が勝道上人の功績を称える碑文(二荒山碑)を著す。  
816年(弘仁7) / 勝道上人、日光三社大権現(本社・滝尾・本宮神社)を勧請する。  
820年(弘仁11) / 弘法大師、滝尾・若子両神社を祀る。  
829−33年 / 慈覚大師、このころ来山し、三仏堂(現在の輪王寺の本堂)を創建する。  
927年 / [延喜式神名帳]下野国河内郡 二荒山神社(つまり、河内郡の宇都宮には二荒山という名前の神を祭った神社(官社)がありましたが、都賀郡の日光には官社(神社)はなかったようです。おそらく、「満願寺」という号を朝廷からもらっている ように、日光の寺社はお寺扱いだったんでしょう。)  
1215年 / 弁覚が新宮(現二荒山神社)を造営する。  
1315年 / 仁澄により中禅寺の大造営が行なわれた。  
日光三内  
日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社、家光廟大猷院(たいゆういん)のある一帯 をさす。  
「日光権現」  
[新和歌集]の(1260年前後)に対して、既に1200年頃から日光の神は「日光権現」だったようです。  
[神道集](1352−60年頃)第二十三  
日光権現事  
「日光権現は下野国の鎮守である。往昔に赤城大明神と后を諍いつつ、×佐羅×(小野猿 丸)を語った事は遥か昔である。二荒山 が 本地垂迹を顕した のは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、天応二年(782年(9月30日 まで))年から延暦初年(この年も同じく782年(9月30日以降))の頃である。勝 道上人(735−817年)が山に登り、一大伽藍を建立された。今の 日光山 である。日光山には男躰と女躰がある。男躰の本地は千手観音である。女躰の本地は阿弥陀如来である。(男体山と女体山が有るということではなく、伽藍に男躰と女躰とが有るという ことのようですね。)」  
瀧の尾  
滝尾(たきのお)神社。弘法大師が滝尾神社を創建したのが820年だそうです。この神社は、勝道上 人関係の神社じゃないんですね。新宮(本社=現二荒山神社)、滝尾、本宮(四本龍寺、本宮神社、現輪王寺)の三社を もって日光三社(所)大権現というそうです。  
中禅寺とて権現ましましけり  
(これを読むと中禅寺湖畔に、中禅寺の立派な伽藍があったのではないかと思われます。なお1315年に中禅寺の大造営が行なわれました。)  
『権現』とは、『仏教の仏が、仮に(=「権」)日本の神の姿で「現」れたもの』とする本地垂迹思想による神号です。ということは、『中禅寺とて権現ましましけり』を直訳すると、「中禅寺(当然お寺の 名前でしょう)という神が鎮座します」となって、筆者には何が何だか全くわかりません 。神仏習合っていうのは、複雑怪奇でホントにうんざりです。  
[日光修験]の記事によれば、『中禅寺とて権現ましましけり』と は次のようなことだそうです。  
「勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、 中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称する。」  
「1872年の神仏分離により中宮祠(現二荒山神社中宮祠)と中禅寺が分離し、中禅寺は「日光山 輪王寺 別院 中禅寺」となり、現在は、天台宗の寺院である。1902年の大山津波で流失。本尊は中禅寺湖に流失したが、浮き上がり引き上げられた と云う。のち中禅寺は現在地に移転、本尊立木観音も同時に現在地に遷座。(現在中禅寺湖畔の歌ヶ浜にあり、地図上は「立木観音」) ※立木観音は明治の大山津波で、流出し現在の歌ヶ浜に移安する。高さ約6m。後補も 多いが12世紀後期の作と推定される」  
日光山  
江戸時代には日光の寺社群を総称して「日光山」と呼んだようです。今の「日光山内」の 寺社だけのことじゃないんですね。なお、新和歌集(1260年前後)の時代から、「日光山」という言葉は有りました。おそらく、意味はこれと同じだろうと思います。  
日光山の条  
「仏寺部の日光山の条」? そんなものは[下野国誌]にはありません。「日光山の条」 に相当するのは、五之巻(仏閣僧坊)全体のようです。  
[下野国誌]五之巻 仏閣僧坊  
「満願寺(今の輪王寺) 都賀郡日光山なり。一条実相院とも云。一山の衆徒二十六院、坊舎八十宇あり、圭田一万 三千六百石。開山勝道上人なり。観世音の座す山と云義を以て補陀洛山と号(ナツ)くと 云。弘法大師登山してより日光山と改む。そは大日遍照の山と云義なるべし。・・・五十 一世ハ輪王寺一品守澄法親王と申奉る。夫より以来世々 輪王寺宮 と称し奉り・・・」  
(参考1)明治期の輪王寺について  
明治になると神仏分離令が出され、神と仏の区別がなかった輪王寺は窮地に立たされる。 1869年には輪王寺の門跡号が廃止されたため、古い呼び名の満願寺に戻っている。ま た、1871年には日光山の神仏分離がおこなわれ、過去には109か寺あった寺が満願 寺1か所に併合されてしまった。これらの悲運を乗り越え、1882年に一山15か院が 復興、翌年には輪王寺、そして門跡呼称も復活する。  
(参考2)[下野国誌]三之巻 神祇鎮座  
「満願大権現(今の二荒山神社) 日光山の新宮なり。延暦三年(784年)五月勝道上人(735−817)の崇め祀る所 なり。もう一社ハ今の 本宮権現 にて、新宮ハ・・・慈覚大師(794−864)の建立なりとぞ。・・・」  
(考察)[下野国誌](1850年)の頃、日光山には、東照宮、満願大権現(新宮)、 満願寺があり、二荒山神社という名前の神社は無かったようです。そして1722年に女流歌人・石塚倉子が『二荒山へ詣で 』ていますが、詣でたのは 本宮権現・新宮権現・その他関連寺社群でしょう。 
日光二荒山神社  
勝道上人 神護景雲元年(767) 創建 
男体山を御神体とする、当社の縁起は、勝道上人が神護景雲元年(767)、現・別宮本宮神社の地に創建。後、嘉祥3年(850)、今の東照宮の側に遷座。さらに、建保3年(1215)、現在の場所に移動した。別宮滝尾神社と合わせて、日光三社権現という。  
二荒(フタラ、あるいはニコウ)の名義には諸説あるようで、『式内社調査報告』には以下の説が紹介されている。  
(1)  二神示現説…男女対の神の現れ。二神のあらわれ。  
(2)  補陀落山説…観音浄土を表す、補陀落(ふだらく)山の転化。  
(3)  布多郷説…男体山一帯を、和名抄の布多郷にあてたもの。  
(4)  二季暴風説…年2回の暴風。  
(5)  アイヌ語源説…アイヌで熊笹を意味するフトラの転化。  
(6)  土子説…マタギの地名「根子(ネゴ)」が土着後「土子(ニコ)」となった。  
(7)  荒風現象説…二季に渡る「男体颪」と「日光雷」。  
(8)  荒神説…二荒は、太荒であり、荒神の意味。  
(9)  安羅説…日本府のあった安羅の音から、荒々となり、二荒と変化。  
「日光」という地名の由来  
空海が二荒山(男体山)に登った際に、「二荒(ふたら)の文字がよくない」というのでこれを「にこう」と音読し、それに「日光」の字をあててに改名したとされる。 
日光権現  
日光権現は下野国の鎮守である。 往昔に赤城大明神と后を諍いつつ、唵佐羅麼を語った事は遥か昔である。二荒山が本地垂迹を顕したのは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、 天応二年から延暦初年の頃である。 勝道上人が山に登り、一大伽藍を建立された。 今の日光山である。  
日光山には男躰と女躰がある。  
男躰の本地は千手観音である。  
女躰の本地は阿弥陀如来である。  
日光権現(男躰)  
二荒山神社(栃木県日光市山内)  
祭神は大己貴命(男体山)・田心姫命(女峰山)・味耜高彦根命(太郎山)。  
式内論社(下野国河内郡 二荒山神社名神大)。 下野国一宮(論社)。 旧・国幣中社。  
史料上の初見は『続日本後紀』(承和三年[836]十二月丁巳)の「奉授下野国従五位上勲四等二荒神正五位下」であるが、この二荒神が現在の二荒山神社(宇都宮、日光)のどちらに該当するかは不詳。  
日光連山は男体山(二荒山)・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山などの山々から成り、霊峰として古来より崇敬されている。  
勝道上人は二荒山の開山を志し、天平神護二年[766]三月中旬に山麓の大谷川に到った。 上人が求聞持真言を唱えると、大谷川の北岸に深砂大王が顕現し、手にした二匹の蛇で大谷川に橋を架けた。 上人はこの蛇橋によって大谷川の北岸に渡り、四本龍寺を建立して千手観音を本尊とした。  
神護景雲元年[767]、四本瀧寺の側に祠(本宮神社)を建てて二荒山権現(男体山)を勧請。 同年四月に初めて男体山の登頂を試みるが、雪や雷により途中で断念。 天応二年[782]三月、宿願の男体山登頂に成功し、山頂に二荒山神社の奥宮を奉斎した。 下山後、中禅寺湖の歌ヶ浜に小庵を結び、四本龍寺に帰還した。 延暦三年[784]、中禅寺湖の湖畔に二荒山神社の中宮祠(日光市中宮祠)を創建。 また、神宮寺として中禅寺を建立し、二荒山権現の本地仏である丈六の千手観音立像(立木観音)を安置した。  
天嘉祥三年[850]、昌禅座主が現在地に新宮を建立し、二荒山権現を本宮神社から遷座した。 その後、太郎山権現を本宮神社に勧請した。  
日光権現(女躰)  
二荒山神社の別宮・滝尾神社(日光市山内)  
祭神は田心姫命。  
『日光山滝尾建立草創日記』によると、弘法大師は弘仁十一年[820]に日光に来山し、滝尾権現(女峰山)を勧請した。  
          垂迹               本地  
日光三所権現  男体山(大己貴命)       千手観音  
          女峰山(田心姫命)      阿弥陀如来  
          太郎山(味耜高彦根命)   馬頭観音  
日光山縁起  
冒頭で簡単に言及された日光権現と赤城大明神の神戦および唵佐羅麼(小野猿丸)の物語は『日光山縁起』に詳しい。  
有宇中将は才芸優れた人物であったが、鷹狩に熱中して帝の不興を買い、鷹(雲上)と犬(阿久多丸)を連れ、青鹿毛の馬に乗って都を去った。 中将は陸奥の朝日長者の下へ身を寄せ、その姫君(朝日の君)の婿となった。 六年後、中将は母の姿を夢に見て恋しくなり、朝日の君を残して、鷹と犬を連れて青鹿毛で都に向かったが、途中の妻離川(阿武隈川)の水を飲んで病気になり、二荒山の山中で落命した。 炎魔王宮で中将の過去世を調べたところ、元は二荒山の猟師だったが、鹿と間違えて母を誤射してしまい、その罪を償うために神となって貧苦の者を救済しようと誓願を立てていた事が判明した。 青鹿毛は猟師の母の生まれ変わりだった。 炎魔王はその誓願を果たさせるために中将を蘇生させた。  
中将が生き返った後、朝日の君は懐妊して一子が誕生した。 その名は馬頭御前で、青鹿毛の生まれ変わりだった。 中将は上洛して大将に昇進、馬頭御前も都に上って中納言になった。 中納言が都から下って朝日長者のもとに居た時、侍女の腹に子供が出来た。 その子は奥州小野に住んで小野猿丸と称し、弓の名手となった。  
有宇中将は日光権現として顕れ、下野国の鎮守となった。 湖水(中禅寺湖)の領有を巡って日光権現と赤城大明神の間に争いが起き、鹿嶋大明神は猿丸に助勢を求めるよう日光権現に助言した。 猿丸は鹿(女躰権現の化身)を追って日光山に入り、そこで日光権現の要請を了承した。 日光権現は大蛇、赤城大明神は大百足に化身して激しく争った。 猿丸の射た矢は大百足の左眼に命中し、負傷した大百足は退散した。 日光権現は猿丸の功績を讃えて国を譲り、太郎大明神(馬頭御前)と共に山麓の人々を守護するよう命じ、二荒山の神主とした。 また、一羽の鶴が飛んで来て、左の羽の上には馬頭観音。右の羽の上には大勢至菩薩が見えた。 鶴は女人に変じ、馬頭観音は太郎大明神の本地、勢至菩薩は猿丸の本地である事、猿丸に恩(小野)の森の神となって衆生を導く事を告げて消えた。  
雲上の本地は虚空蔵菩薩である。  
阿久多丸の本地は地蔵菩薩で、今は高雄上と顕れている。  
青鹿毛は太郎大明神で、馬頭観音の垂跡である。  
有宇中将は男躰権現で、本地は千手観音である。  
朝日の君は女躰権現で、阿弥陀如来の化身である。  
その後、太郎大明神は下野国河内郡小寺山に遷座して、若補陀落大明神と号した。 
勝道上人「日光登山記」と空海  
自然と人間のこころの関わりについて空海は「そもそも、環境はこころにしたがって変わるものである。こころが汚れていれば環境は濁るし、その環境によってまた、こころも移り行くことになる。静かな環境に入り、そこに身を置けばこころも清らかである。そして、こころと環境が合致し、互いが無心にひびき合うことができれば、万物の根源となる"自然の道理"とそのはたらきである"知"が自ずと発揮される。そこに悟りがある」と説く。  
空海に先んじて、その静かな環境、奥深い山に分け入り、そこで修行することによって悟りを得た行者が、勝道上人(しょうどうしょうにん)である。下野国芳賀(しもつけのくに、はが:今の栃木県真岡市)の人であった。  
上人は少年の頃から蟻のいのちですら殺生しなかった。青年になってからも善悪の戒律を守り、こころは清らかであった。世間の生き方にこだわらず、仏教の空(くう)の教えを学び、街の喧噪を嫌い、自然の清らかさを慕って、山林での修行にひたすら励んだ。  
その青年が48歳になって、日光山(男体山)登頂に成功し、開山の祖となった。  
上人は、817年に83歳で亡くなられるが、その3年前に、人を介して、名勝の地、日光の記述を空海に依頼した。仲介者と空海は昔からの知り合いだったので、これを引き受けることになる。空海、41歳のときである。  
以下は、その空海執筆による「沙門勝道、山水を歴(へ)て玄珠を瑩(みが)く(道を極める)の碑」からの、我が国最初の「登山記」と日光山での上人の悟りの場面を口語訳したものである。  
767年4月上旬  
(上人、)日光男体山の登頂を試みる。しかし、雪は深く、崖はけわしく、行く手を雲と霧に閉ざされ、雷にあい、断念する。中腹まで引き返し、そこに21日間滞在したのち、下山する。  
781年4月上旬  
再度、登頂を試みるが失敗する。  
782年3月中旬  
今回は、登頂するまでは絶対にあきらめないとの覚悟を決め、周到に準備をし、山麓に着いた。そこに一週間滞在し、日夜の登頂祈願を行なった。  
「わたくしが登頂をめざすのは、すべての生き物の幸せを願うためです。その証として、わたくしが不浄のこころの持ち主でないことを示す経文と仏の絵姿図を自らしたためました。これを、山頂に辿り着くことができれば神々に捧げます。どうか、善き神々よ、そのちからを示し、災いとなる霧を巻き収めさせたまえ、山の精霊たちよ、わたくしを先導するためにその手をお貸しください。この願い、もし聞き入れなければもう二度と登頂を試みません。そして、もはや悟りを得ることはないでしょう」。  
このように願いをたておわると、雪の白く続くところを越え、緑のハエマツのきらめく崖をよじ登った。崖の上から頂上までは残り半分の距離であったが、からだは疲れ果て、体力を消耗してしまったので、その場に二泊して、体力を回復し、そして、とうとう頂上に立った。  
(今、この場にいることは)夢のようであり、でも現実であることを実感しながらうっとりしていると、天空を飛ぶ筏(いかだ)に乗らなくても、たちまちのうちに銀河の流れに浮かんでいるようだし、妙薬(幻覚剤)を舐めていないのに、自然の神の住むという岩屋を訪れている気がする。ただただ、喜びに涙し、こころは平静ではいられなかった。  
この山のかたちは、東西は龍がうつぶせに寝た背骨のようであり、その眺望は限りなく、南北は虎がうずくまったようであり、まるで、巨大な虎が棲息しているようである。  
この山は、世界を創る神の住む山、須弥山(しゅみせん)の仲間のようであり、周囲の山々も須弥山を浮かべる外海を取り巻いているという鉄囲山(てつちせん)のようである。  
中国五岳に数えられる衡山(こうざん)・泰山(たいざん)もここよりも低く、諸国の伝説の山、仙人の住むという崑崙山(こんろんざん)や、よい香りのただようというインドの香酔山(こうすいざん)にも勝っていると、この山は笑っているようだ。  
この頂きは、日が昇るとまっ先に明るくなり、月が昇るともっとも遅く沈む。ここからだと神通力をもつ目がなくても、万里の彼方までが目のまえにあり、一挙に千里を飛ぶという神話の鳥さえいらない。白い雲海はわたくしの足の下にあるのだ。  
広がる色とりどりの景色は、機(はた)もないのに美しい錦を織りなし、いろんな高山植物は一体、誰が作ったのだろう。  
北方を眺めると湖(今の川俣湖の方向にあたる)があり、その広さはざっと計算すれば一百頃(けい:中国地積の単位。一頃は百畝)。東西は狭く、南北は長い。  
西方をふり返ると、やはり一つの湖(湯の湖)があり、二十余頃の広さはありそうだ。  
西南方に目を向けると、さらに大きな湖(中禅寺湖)があり、広さは千余町(一町も百畝)もありそうだ。南北は広くないが、東西は長く伸びている。湖面にはまわりをとりまく山々の高い峰がその影を逆さに落とし、その山肌にはいろんな変わった草木や岩が自ら織りなす、奥深い色合いがあり、白銀の残雪のあるところからは早春の花が咲き、金色に輝いている。それらのすべての色が余すところなく鏡のような水面に映し出されている。  
山と水は互いにひびき輝き、その絶景がわたしを感涙させる。四方を眺め、たたずみ、見飽きることがない。しかし、突然の雪まじりの風がそれらの景色を打ち消してしまうー  
わたくし勝道は小さな庵を西南(中禅寺湖側)の隅に結び、登頂祈願の約束を神々に果たすため、そこに21日間滞在し、勤めを行ない、そののち、下山した。  
784年3月下旬  
改めて(今度は中禅寺湖とその周辺を探索するために)日光山に入った。五日間をかけて湖のほとりに着いたときには四月になっていた。  
ほとりで一艘の小舟を造り上げた。長さは二丈(一丈は十尺)、巾は三尺(一尺は約三十センチ)。さっそく、わたくしと二、三人が乗り、湖に棹をさし、遊覧した。  
湖上より周囲の絶壁を見回すと、神秘的で美しい景色が広がっている。東を眺め、西を眺め、舟の上下の揺れにあわせて気持ちもはずむー  
まだまだあちらこちらを遊覧したかったが、日暮れには南の中洲に舟を着けた。その中洲は陸から三百丈足らず離れていて、広さはタテヨコ三十丈余りあり、多くの中洲のうちでも勝れて美しい景観をもっていた。  
次の日からは湖の西岸に上がり、西湖(西の湖)に出かける。中禅寺湖からは十五里(平安時代、一里は約五百メートル)ばかり離れたところにある。また、北湖(湯の湖)も見に行った。そこは中禅寺湖から三十里ばかり離れたところにある。いずれも美しい湖であるが、中禅寺湖の美しさにはとうてい及ばない。  
その中禅寺湖はみどり色の水が鏡のように澄みわたり、水深は測り知れない。  
樹齢千年の松や柏の常緑の枝が水面に垂れ、岩の上には紺色の楼閣のような巨大な檜や杉が突っ立っている。  
あじさいの五色の花は同じ幹に混じりあって咲き、朝・昼・夕・晩・深夜・明け方にそれぞれに鳴く鳥は、同じさえずりに聞こえても、それぞれに種類のちがう鳥なのだ。  
白い鶴は羽をひろげてなぎさに舞い、青い水鳥は湖面に戯れている。それらの鳥の羽ばたきは風に揺れる鈴のよう。その鳴き声は磨かれた玉の響きのよう。  
松風は琴となって音色を奏で、岸に寄せる波は鼓となって調べを打つ。  
それらの自然の発する響きが合わさって天の調べとなり、湖水は甘く・冷たく・軟らかく・軽く・清く・臭いなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まず、たおやかにゆったりと貯えられている。  
(湧きだす)霧や雲は、水の神があたりをおおうしわざであり、星のまたたきと稲光は、天空の神、明星がしばしばその手を虚空に入れ、それらをつかもうとするからである。  
今、"湖水に映る満月を見ては、あるがままに無心に生きるということを知り、空中に輝く日輪を見ては、すべてのいのちが陽光の恵みによって共に生かされていて、その自然のもたらす英知とわたくし勝道が一体のものである"と悟る。  
―そののち、この悟りの地にささやかなお堂を建て、神宮寺と名づけた。ここに住んで自然の道理とそのはたらきに身を託し、そのまま四年の歳月が過ぎた。  
788年4月  
さらに北の端に住まいを移す。この地の四方の眺望は限りなく、砂浜は好ましい。さまざまな色の花はその名も分からない不思議なものばかりであり、どこからともなく漂う、嗅いだことのない芳純な香りがわたくしの気持ちを和ましてくれる。  
ここに住んでいたにちがいない仙人はどこに去ったのか分からないが、自然の神々が確かにここにはいる。  
この美しい地を、中国の文人、東方朔はその著『海内十洲記』の名勝の地の一つとして、どうして記さなかったのだろう。山水を愛でる貴族たちはどうしてここに集い、舟を浮かべて遊ばないのだろう。  
(ブッダは苦行の時代、飢えた虎に身を供養し、その餌食となったとの話があるが)その虎に出遭うこともなく、(不老不死の仙人)子喬もすでに立ち去ったあと。そのような聖なる地の澄みきった広い湖水からは鏡のようなこころを学び、日光山からは自然界を創りだしている無垢なる仕組みを知る。  
冬は茂るツタに寒さをさえぎり  
夏はおおう葉陰に暑さを避ける。  
菜食をし、水を飲むだけでの生活でもこころは楽しく  
あるときは出かけ、あるときは止まり  
俗界を離れて、ひたすら修行しているわたくし勝道がここにいる。  
   814年8月30日空海記す。  
 
勝道上人が日光男体山に初登頂(782年)したとき、空海は真魚(まお)と呼ばれる、まだ8歳の少年であった。その少年が若くしてあらゆる学問に通じながらも、20歳過ぎには都の大学を去り、山のやぶを家とし、瞑想をこころとして、山林に入り修行した。  
その頃のことを、空海は一編の詩に綴っている。  
―前文略―  
谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ  
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。  
(山の住まいは)たれさがったツル草と細長い草の葉で充分  
イバラの葉や杉の皮が敷いた上が、わたくしの寝床。  
(晴れた日は)青空が恵みの天幕となって広がり  
(雨の日は)水の精が白いとばりをつらねて自然をやさしくおおう。  
(わたくしの住まいには)山鳥が時おりやって来て、歌をさえずり  
山猿は(目の前で)軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。  
(季節が来れば)春の花や秋の菊が微笑みかけ  
明け方の月や、朝の風は、わたくしのこころを清々しくさせる。  
(この山中で)自分に具わる、からだと言葉と思考のすべてのはたらきが  
清らかな"自然の道理"と一体になって存在していると知る。  
今、香を焚き、ひとすじのけむりを見つめ  
経(真理の言葉)を一口つぶやくと  
わたくしのこころは、それだけのことで充たされる。  
そこに無垢なる生き方の悟りがある。  
―後文略―  
空海文集「山中に何の楽(たのしみ)か有る」より  
そう、空海もまた、自然と人間のこころの関わりをよく理解し、そこから、悟りを得る修行をしていた。だから、日光山における勝道上人の行状をまるで見ていたかのように記述できたのだ。その記述に目を通し、上人は満足したことと思う。そこには、上人と同じ澄んだ目とこころをもつ、空海という人がいた。 
沙門勝道  
空海は、日光開山の祖、勝道のために、「沙門勝道歴山水宝玄珠碑弁序」を撰しました。  
下野国出身で、若い頃から仏道修行に励んだ沙門勝道が、天応2(782)年3月苦難の上に男体山初登頂を果たし、その後も中禅寺湖のほとりに住んで周辺の仏教化に務めたことを書いた碑文と序文になっています。男体山を観音の浄土である補陀洛(ふだらく)山として、勝道自身がそれに挑んだ話を作文してくれるよう、人を通じて空海に依頼したといわれています。  
弘仁5年(814) 40才 勝道のため「沙門勝道歴山水宝玄珠碑並序」を撰す。 
「日光山碑」及び日光と弘法大師との関係  
空海と勝道上人  
僧空海は延暦23年(840)僧最澄と共に入唐しました。翌24年、最澄は天台宗を開き、空海は大同元年(806)8月帰朝し真言宗を伝えました。これより先、天應2年春3月に勝道上人は、男体山(二荒山)を登頂して山頂に三神を祀りました。このことは、空海の遺稿を載せた『性霊集』に「沙門勝道山水を歴りて玄珠を瑩く碑並序」によって知ることができます。この碑が「沙門遍照金剛文并書」とあることによって空海の文及書であることがわかります。ちなみに遍照金剛とは空海の灌頂名です。  
この『日光山碑』は勝道上人が二荒山(男体山)を開山したことを世に知らしめた最初の文として認識され、書かれたのは弘仁5年(814)となっていますが、男体山開山の32年後のことです。  
弘仁7年(816)空海は高野山に金剛峯寺を創建します。そして、弘仁8年(817)勝道上人入寂。一方、空海は承和2年(835)3月に入寂し、延喜20年(921)弘法大師の諡号を贈られました。  
日光と空海(弘法大師)との係わり  
因みに日光は天台宗(二荒山神社と同じ山内にある日光山輪王寺は天台宗のお寺です)であり、空海は真言宗です。一見、日光と真言宗の開祖である空海はあまり関係のないように思いますが、日光二荒山神社境内には空海御手植えと伝えられる樹齢1千年を越す「高野槙」が現存します。  
又、一番言及すべきは最澄・空海の開いた仏教は、山岳仏教として当時の仏教に新風をもたらしたことです。最澄は比叡山延暦寺に拠って天台宗を、空海は高野山の金剛峰寺で真言宗(密教に基づく)を開いたことを見ても、山中での修行を重んじた山岳仏教的な性格(これがやがて修験道を生む)がうかがえます。  
こうした密教僧達の山岳修行は古くからの山岳信仰と結びつき修験道(山岳修行による超自然力の獲得と、その力を用いて呪術宗教的な活動ことを旨とする実践的な儀礼中心の宗教)へ発展していきました。そして日光は霊峰男体山を核とした山岳信仰の霊場として起こり、やがて神仏習合の信仰が加わって発展してきました。  
すなはち、「日光」と「空海」を結ぶ鍵は『山岳信仰』と『修験道』にあると言えそうです。  
事実、男体山頂遺跡からは独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・三鈷鐃(さんこにょう)・羯磨(かつま)等の密教法具(ほうぐ)が多数出土しています。これは、密教の修行僧も多数男体山に登り、修行をしたという証拠になりますね。 
日光のはじまり  
「日光」の地名の由来  
世界に誇る観光地と言われている日光は、東西30km足らず、うなぎの寝床のような細長い街です。日光の入口で海抜が約500m、市内を通りいろは坂を登り奥日光の湯元で海抜約1,500mとなり、約1,000mの差があるという実に複雑な地形の街です。  
その中に、東照宮・日光山 輪王寺・二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)が鎮座し、国宝・重要文化財の人工造形美と大自然が織りなす関東随一の素晴らしいところが現存します。  
雨上がりの石畳の美しさ、霧の中に浮かぶ社殿・堂塔、新緑・紅葉の山々、ここ日光は特に朝夕の自然が美しく、朝陽は日光という名前の通り素晴らしいものです。  
この日光という地名の由来についてはいろいろな説があります。観音菩薩の浄土を補陀洛山(ふだらくさん)といいますが、その補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名がついたという説、日光の山には熊笹が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフタラになりフタラが二荒になったという説、男体山、女峰山(にょほうさん)に男女の二神が現れたのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口付近に屏風岩があります。そこに大きな洞穴があり、「風穴」とか「雷神窟」などと呼ばれており、この穴に風の神と雷獣が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒山という名ができたとか、二荒が日光になったのは、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられております。  
日光といえば東照宮が有名ですが、日光の歴史は1,200年以上まえの奈良時代にさかのぼり、766年(天平神護2年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)によって、四本竜寺を建てられたのが「日光」の始まりです。
男体山・女峰山・太郎山  
日本では、高い山は古来から神として崇められてきました。鎌倉・室町時代には、日光山も主峰は三つの山として信仰されていたようです。  
ですから、男体山は御神体であり、大己貴命(おおなむちのみこと)であり、千手観音であり、男体権現でもあります。女峰山も御神体で、田心姫命(たごりひめのみこと)であり、阿弥陀如来であり、女体権現(にょたいごんげん)でもあります。太郎山も御神体であり、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、馬頭観音であり、太郎権現でもあります。  
山と仏と神が一体で、しかも男体山は父、女峰山は母、太郎山は子の家族として崇められました。  
このように、勝道上人が開かれた神仏習合の宗教観が関東の一大霊山「日光山」を栄えさせました。  
そのほかにも、大真名子山(おおまなごさん)・小真名子山(こまなごさん)は、孫であるとか?だとしたら、太郎山のお嫁さんは・・・?
日光開山の祖 勝道上人  
勝道上人は奈良時代735年(天平7年)4月21日、母の故郷である高岡の郷(現在の栃木県真岡市)でお生まれになったと伝えられています。幼少の頃は藤糸丸と呼ばれていたそうです。  
藤糸丸7歳のとき、夢の中に明星天子という神が現れて、「あなたはこれから仏の道を学び、大きくなったら日光山を開きなさい。」と、告げられたそうです。  
勝道上人28歳のとき(761年(天平宝字5年))、下野薬師寺(栃木県安国寺)で試験を受け僧侶となりました。法名を厳朝(げんちょう)と言い後に勝道と改めます。  
当時、僧侶となるための試験は奈良の東大寺、福岡県の観世音寺、栃木県の薬師寺と日本で3ヵ所しかなかったそうです。766年(天平神護2年)3月、勝道上人32歳のとき大谷川(だいやがわ)の激流を神仏の加護を受けて渡り(現在の神橋(しんきょう))山内地区に草葺きの小屋を建て、毎朝、礼拝石に座り、二荒山(男体山)の霊峰を拝しておりました。ある日、いつものように霊峰を拝していると、背後から紫の雲が立ち昇り悠々と大空に舞い上がって東北方面に吸い込まれました。勝道上人はこの壮厳なる風景に心を打たれ、その地点に急ぎました。その地点(紫雲石)が、青竜・白虎・朱雀・玄武の四神守護の霊地と感じ、この場所にお堂を建て「紫雲立寺(しうんりゅうじ)」と名づけたのが現在の「四本竜寺(しほんりゅうじ)」と伝えられています。1200年以上になる日光山の歴史のはじまりです。  
翌年の767年(神護景雲元年)、大谷川の北岸に二荒山大神(本宮神社)をまつり、二荒山(男体山)の頂上を極めようと登山しますが、山道は険しく登っていくほど残雪があり霧が行く手をさえぎり、前に進むことができませんでした。しかし、弟子たちと周辺を散策し中禅寺湖や華厳の滝などを発見することができたそうです。  
それから15年後、平安時代に移り782年(天応2年)勝道上人48歳の春、弟子の教旻・道珍・勝尊・仁朝とともに苦難のすえ、遂に二荒山(男体山)の頂上にたつことがかないました。その地に二荒山大神を拝し祠(奥宮)をまつりました。あの素晴らしい雲海と日の出のご来光を勝道上人一行は生涯忘れなかったことでしょう。と、お話をしてくださった方が感慨深く言っておられました。  
数年後弟子たちと中禅寺湖を舟で巡り中禅寺をお建てになられ此処に4年間滞在されたそうです。  
810年(弘仁元年)には、四本竜寺が一山の総号「満願寺」を賜りました。  
814年(弘仁元年)には、弘法大師空海が「沙門勝道、山水を歴 玄珠を螢くの碑(しゃもんしょうどう、さんすいをへ、げんじゅをみがくのひ)」を書き残されました。そこには日光山が補陀洛山(ふだらくさん)、観音の浄土であると書かれています。  
816年(弘仁7年)4月、82歳の高齢で再び二荒山頂に登られたのち三社権現の社を建立し、翌817年(弘仁8年)3月1日、山岳宗教に捧げた一生を閉じられました。
神橋  
華厳の滝から流れる大谷川に足を止められた勝道上人一行は、護摩をたき、神仏の加護を求めたところ、対岸に赤と黒の衣をまとい、首に髑髏をかけた恐ろしい顔の深沙大王(じんじゃだいおう)が現れました。  
「われは深沙大王である。昔、玄弉三蔵が印度(インド)に行ったとき、助けてやったことのある神である。助けてつかわそう」と赤と青二匹の蛇を放すと、蛇は大谷川の両岸にからみあって虹のように美しい橋となりました。  
勝道上人一行は蛇のウロコが光って渡れませんでしたが、そのうちに蛇の背に山菅(やますげ)がはえて小道ができました。恐れも忘れ喜んでこの橋を渡り、振り返って見ると蛇は深沙大王の手に戻り、雲にのって空高く消えていきました。  
その後、その場所に丸木橋をかけ「山菅の蛇橋」と呼ぶようになりました。  
勝道上人は、お礼の意味をこめてのちに深沙大王のお堂を建ててお祀りしました。  
お堂に扇の要(おうぎのかなめ)をはずして願い事をすると願いが叶うといわれ、特に花柳界の信仰があつく、小雨の中、蛇の目傘をさして朱塗りの神橋の近くを歩く芸妓衆の姿は、とても絵になる風景だったそうです。
華開く仏教文化  
時代は移り、唐の文化が伝わり、平安京への遷都など、新しい息吹のなかで日光山にも中央の文化が流れ込んできます。真言宗の開祖といわれる弘法大師空海が平安時代の820年(弘仁11年)日光に来山され、滝尾権現と寂光権現をまつられたと伝えられています。このとき「二荒」を「日光」に改められたそうです。  
天台宗の慈覚大師円仁は、平安時代の794年(延暦13年)栃木県壬生の手洗窪の生まれと伝えられています。円仁は、日光山霊峰に対しての崇敬の念が厚く、15歳のとき出家し比叡山で最澄の弟子となりました。  
後の838年(承和5年)遣唐使に従って唐に留学され、数多くの法難に遭いながら書かれた旅行記「入唐求法巡礼行記」を残されています。マルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西遊記」と共に世界の三大旅行記といわれています。  
この旅行記は、ハーバード大学教授ライシャワー博士によって英訳され円仁の素晴らしさが世界に知られました。また、田村完誓著「世界史上の円仁」によって知ることができます。  
円仁は、天台密教を研究されて帰国された後、比叡山の第三代天台座主となられました。この円仁によって日本天台宗は大成したといわれています。  
円仁は仁明天皇の勅命をうけて848年(嘉祥元年)4月、日光に来訪されました。中禅寺に登られ、神宮寺に7日間参護ののち、二荒山(男体山)に登り一泊して下山、中禅寺湖を舟で巡って薬師堂をまつられました。下山されて、日光山内に三仏堂と常行堂・法華堂を建てられました。  
勝道上人の弟子たちは、円仁の徳を感じて天台宗に帰伏し、円仁の弟子と共に36ヶ坊を開かれました。それが日光一山衆徒の始まりと伝えられています。  
円仁の日光来山によって中禅寺と山内への信仰が盛んになり、鎌倉時代には500坊をこえる寺院がたっていたそうです。とくに鎌倉将軍家の日光山への信仰は篤く、源頼朝は三昧田として領地を寄進され、実朝は三重塔などを寄進されたそうです。このころ日光山は関東の比叡山といわれ、仏教文化がもっとも花開いたときと伝えられております。  
日光に現在も行われている祭事「延年舞(えんねんまい)」は円仁が残してくださったもので、なかでも天台声明は和讃から現在の歌謡曲、演歌の基になっているといわれています。  
日光を離れた円仁はその後、東北方面に向かって松島の瑞巌寺や平泉の中尊寺、山形の立石寺(山寺)など有名な寺を開きました。863年(貞観5年)1月10日71歳で没し、2年後、朝廷より「慈覚大師」の尊号を賜りました。仏教文化の栄えた鎌倉・室町時代には、数々の有名人、著名人が日光に参拝されていたようです。年代を追って歴史とともに一部ご紹介します。  
860年(貞観2年)、大中臣清真(勝道上人の従弟)が、二荒山神社の神主となられました。日光山神主の始まりとなります。  
1000年(長保2年)、このころ書かれた清少納言の「枕草子」の「橋は・・・・・」のなかに「山すげの橋」とあるのは日光の神橋のことといわれています。  
1141年(保延7年)、藤原敦光が「中禅寺私記」を記されました。  
1185年(元暦2年)2月、那須与一が日光権現・宇都宮大明神に祈願し、扇の的を射落とされました。  
1192年(建久3年)、源頼朝が征夷大将軍となられました。  
1210年(承元4年)、弁覚、日光山座主となられます。この頃、衆徒36ヶ坊の他に小坊300余と伝えられています。  
1215年(建保3年)、弁覚により二荒山神社本社を造営されます。  
1315年(正和4年)、仁澄、中禅寺の大造営を行います。  
1476年(文明8年)、昌源、座禅院権別当となり、松や杉数万本を各所に植樹されました。  
1509年(永正6年)、連歌師の柴屋軒宗長が来山され、「東路の津登」に院々僧坊およそ500坊と記されたそうです。  
1590年(天正18年)7月、小田原北条氏に加担したため、豊臣秀吉に所領を没収されます。そのために日光山は衰退していきます。
児玉堂  
弘法大師が日光山に登り、四本竜寺に戻られてから、稲荷川に沿って開山堂のあたりを通り、滝尾山(たきのおさん)を開かれました。美しい滝があり、その流れが布をさらすように見えたり、糸のように見えたりするので「白糸の滝」と名をつけられました。  
滝のうしろに山がそびえ、その形が大きな亀が寝ているようなので「亀山」とつけました。そのふもとに大きな穴があって竜の棲家のようだったので、弘法大師は大竜穴と名づけて、そこに住むことにしました。  
竜穴の南に池があり「八葉蓮華池(はちようれんげいけ)」と呼び、その池のそばで7日間の修行をされました。不思議にも7日目に池の中から直径7センチほどの白い玉が浮かび出てきました。  
弘法大師はその玉に向かって「何者じゃ」と問われると、白い玉は「われは天補星(てんぽせい)でござる」と答えられました。弘法大師はありがたく、白い玉を袈裟に包んで持ち帰り、祠(ほこら)を建ててまつられました。これが現在、山内にある児玉堂です。  
それからまた、池のほとりでまじないを唱えると、今度は直径33センチもある大きな白い玉が浮かび出ました。弘法大師はますます喜んで「何者じゃ」と問われると、「われは妙見尊星でござる」と答えられました。白い玉は「この山は女体の神様のおられる所なので、その神をおまつりしてください。私の住む所は中禅寺です。末代になるにしたがって人々の心は悪くなります。ですから、私は人々の怠慢になる心を救いたい。」と告げてどこかに消えてしまいました。  
弘法大師は中禅寺に妙見大菩薩をまつられ、ますます熱心に修行を続けると、雲の中から天女の姿が現れました。たとえようのない美しさ、尊さ、あたりはよい香りにつつまれ、なんとも神々しいお姿です。弘法大師は竜穴の上に社堂を建て女神をまつられました。これが「滝尾大権現」で祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)です。  
弘法大師は滝尾に永住しようとしましたが、京都に帰らなければならず、道珍に後を継がせて日光山を去ったと伝えらえています。
天海大僧正  
天海大僧正(慈眼大師)は会津大沼郡高田郷の人で、1536年(天文5年)生まれと伝えられています。幼名は兵太郎、10歳のとき随風といい、55歳のとき天海と改められました。  
幼少より聡明で、14歳のとき宇都宮の粉川寺の皇舜僧正のもとで学び、更に比叡山、三井寺、奈良の興福寺、足利学校、上野の善昌寺などで天台、法相、三論、禅、日本の古文学、儒教などを研究されました。数々の寺院の住持となられ、その間に武田信玄、後陽成天皇などに法を説き、1610年(慶長15年)75歳のとき、駿府城にて始めて徳川家康のまえで論議を開きました。この時、家康は68歳でしたが、天海に感銘され「もっと早く天海に逢いたかった。」と言われたそうです。 1613年(慶長18年)78歳のとき、日光山の住職となられました。天海が生前、家康に仕えたのは7年間で、のち二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、各将軍の家庭教師・政治顧問・相談役・黒衣の宰相として徳川のために尽力されました。  
1616年(元和2年)75歳で家康が亡くなられます。天海は、以前より残された遺言によって東照宮の造営を差配されます。1617年(元和3年)3月に完成、これを「元和の造営」といいます。後の家康二十一回忌の法要を機会に三代将軍家光とともに大改修を計画され、1636年(寛永13年)3月に現在の華麗なる社殿を造りあげました。これを「寛永の大造替」といいます。  
天海の功績により、この頃の日光山は20院80坊、数百人の僧侶と社家、奉仕人で賑わっていたと伝えられています。  
薬師堂、妙道院、相輪とうなどを残され、三将軍に仕え、江戸の寛永寺と日光山の住職として活躍し1643年(寛永20年)東叡山において108歳で亡くなられたと伝えられています。天海によって日光山は空前の繁栄をし、その功績をたたえ「日光中興の祖」と称されています。  
遺言により日光の大黒山に埋葬され、墓石は巨大な五輪塔で、近世における代表作ともいわれ、信仰の対象としてはもちろんのこと、芸術的にも貴重なものだといわれています。墓所に拝殿を建てて「慈眼堂」と称しています。そののち、日本で7番目のお大師様となりました。日光では「お大師様」といえば慈恵・慈眼の両大師のことになります。  
天海の残されたご遺訓なかに「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細くして、心広かれ」とあります。これを守ると108歳まで長生きできるとか、少しでも近づきたいものですね。
明智平  
日光中禅寺に向かう いろは坂を登ると素晴らしい景色が見られる明智平があります。名づけたのは天海大僧正といわれています。  
天海は「明智光秀」であるという説があります。  
明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、京都の合戦に敗れ竹やりに襲われ亡くなったと伝えられていますが、襲われたのは影武者で、光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたというのです。  
寺では、信長に焼き討ちをされたので、その敵を討ってくれた光秀を優遇したといわれています。長寿院にて是春と名のり、剃髪して仏教を学んだそうです。  
比叡山の文庫のなかに大僧都にまでなった光秀の名がはっきりと記載されてあるそうです。  
光秀は、天海として家光に色々と教示し、その天海が昔の名をどこかに残しておきたくて、日光で一番眺めのよい場所を「明智平」と命名したと伝えられています。  
比叡山長寿院にも、願主光秀、慶長20年2月17日の日付で灯籠が寄進されているそうです。
将軍家康・家光ここに眠る  
天下人となられた徳川家康は、日本国中どこにでも墓所を建てられる権力者です。どうして日光を選んだのでしょう。それは、日光が日本国中で最もすばらしい聖地だからだと言われる方がおります。  
家康は生前、日光に一度も来ておりません。では、日光を知らなかったのか?いいえ、知っています。相談役であり政治顧問の天海大僧正からたくさんの話を聞いていたのです。ですから、家康は遺言を残します。「自分が死んだら遺体は久能山におさめ、葬儀は芝の増上寺で行ない、位牌は故郷の大樹寺に置き、一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建ててまつりなさい。関八州(関東地方)の平和の守り神となろう。」そして、1616年(元和2年)4月、駿府で75歳の生涯を閉じられます。神としてまつられた徳川家康は、関八州のみならず日本全土の平和の守り神となられました。  
家康の両親は薬師信仰に篤く、峰の薬師(三河の鳳来寺)に祈願して生まれ、薬師如来の生まれ変わりだといわれています。東照大権現とは、「東に照る(東方薬師瑠璃光)如来が権りに現れた神」という意味なのだそうです。天海の一言で権現号が決まり、のちに宮号が与えられ東照宮と称するようになります。  
天海は、家康の遺言どうり1617年(元和3年)日光山に墓所を移します。  
二代将軍秀忠により社殿が完成されます。この時の建物は現在のような豪華さはありませんでした。これは、秀忠が極めてまじめな人で派手をこのまなかったからといわれています。秀忠が建てられた社殿の一部は、群馬県世良田の東照宮に移されましたが、これを「元和の造営」といい、日光の東照宮の創建とされます。  
1618年(元和4年)黒田長政により大石鳥居(日本三大石鳥居)が東照社に寄進されます。松平正綱は、1625年(寛永2年)から20年にわたり日光道中に杉並木を植えられています。これらのひとつひとつをとっても、家康の人柄が偲ばれます。1632年(寛永9年)秀忠が亡くなられ、家光が三代将軍となられます。  
家光は、常に祖父家康を尊敬し、なおかつ、神のように信仰されていました。その報恩のひとつの方法として、家康二十一回忌の法要を機会に大改修を計画します。  
現在のような華麗なる社殿が完成したのは1636年(寛永13年)の3月のことです。実に1年5ヶ月というスピード工事で、その神わざのような出来上がりには、甲良豊後守宗広(こうらぶんごのかみむねひろ)を大棟梁として、大阪城などの大建築にたずさわった経験者を京都、奈良方面から集めて完成されたといわれています。まさに、桃山時代から江戸初期にかけての建築技術や技巧を駆使された素晴らしいものです。これを「寛永の大造替」といいます。  
東照社の造り替えが完成するとオランダ商館から銅灯籠(どうとうろう)が贈られ、朝鮮使節が参詣され、春日局も来山しお参りされています。松平正信により杉並木寄進碑が建てられ、酒井忠勝より五重塔が贈られるなど、益々日光山は賑わっていきます。  
1645年(正保2年)東照社権現に宮号がくだされ東照宮と称するようになります。翌1646年(正保3年)に、朝廷よりの使いが来山され、これ以来、毎年恒例となり例幣使が始まります。  
家光は1651年(慶安4年)4月、48歳の生涯を閉じられます。遺命により、日光の大黒山に葬られます。祖父家康への孝心から「死んだあとも東照公(家康)のそばでお仕えする。遺骨を日光山に送り、慈眼堂のとなりに葬ってくれ」と遺言を残されたそうです。  
その遺志を受けた四代将軍家綱により1653年(承応2年)4月に大猷院(たいゆういん)が完成しました。遺命どおり大猷院は慈眼堂の北にあり、正面は東北の東照宮に向かって造られています。平内大隅守応勝(へいのうちおおすみのかみまさかつ)を最高技術者として建設され江戸時代初期の代表的建築とうたわれています。  
家光が東照宮以上のものを望まなかったので「細部の装飾は東照宮に遠慮し、簡素にすること」との方針で、金と黒を基本にし、目立たない部分に技巧が凝らされている素晴らしいものです。  
1868年(慶応4年)戊辰戦争が起こります。大鳥啓介の率いる旧幕府軍と、板垣退助の率いる官軍との決戦の場が日光に近づきます。当時の官軍の戦法は、大きな建物や人家を焼き払うことでした。日光の社寺も危ないというので、話合いのうえ、日光の地では戦争をしないことになりました。このとき命懸けで使命を果たした、厳亮(げんりょう)、道純(どうじゅん)、慈立(じりゅう)などの功績があったからこそ日光の社寺は守られたといわれています。  
時を同じくして、東照宮では身の危険を感じ、ご神体と神宝を長持に入れ、社家・神人(しゃけ・じにん)その他30人でこれを守り、密かに日光山を脱出されました。栗山、会津、出羽、仙台、大田原を経て、約7ヶ月ぶりに無事に日光山に戻られました。これを「神体動座」と称し一つの秘話となっています。  
1871年(明治4年)、神仏分離令が通達されます。このときから東照宮、輪王寺、二荒山神社に分かれ、神仏習合の歴史が覆されてしまいました。祖先の残された文化財が破壊される大事件となり、数年間続いたなかで日光の人々はこの悪令を非難し、山内の現状維持を訴え、1880年(明治13年)に願いが聞き届けられます。たくさんの日光を思う人たちによって現在の景観が守られたのです。  
1876年(明治9年)6月には、明治天皇が日光に訪れ「旧観を失わざるよう」と救いの手をさしのべられました。このとき明治天皇は現在の中禅寺湖にも訪れ「幸の湖(さちのうみ)」と名付けられています。  
観光地として名が知られている日光ですが、歴史をたどれば「神と仏の住む聖地」であり、世界に誇る文化財でもある日光を、もう一度訪れてみてはいかがでしょうか。 
平安時代の宇都宮  
京都に平安京がつくられ、都が移されたのは794年です。これから400年あまりを平安時代といいます。この時代のはじめは、律・令をおぎなう規則である格・式を定め、地方の政治もひきしめられました。しかし、都の造営や東北地方への遠征で財政がきびしくなり、しだいに地方政治もくずれていきます。  
朝廷では、9世紀のころから藤原氏がほかの貴族を退けて政治の実権をにぎり、摂関政治がつづきました。また、11世紀後半には、天皇が位を退いた後も上皇として引き続いて政治を行う院政が行われました。  
地方の国では、自分の領地を守るために武装した武士が誕生します。武士は皇族や貴族の子孫をかしら(棟梁)とし、主従関係を結んで武士団をつくっていきました。10世紀の前半、関東地方で平将門が乱を起こしたがこれをしずめたのも地方の武士団でした。武士団には源氏や平氏のように、都でも大きな力を持つほど成長したものもありました。  
下野国は、東北地方の豪族を押さえるために重要視され、下野薬師寺には、奈良時代に東日本で唯一の戒壇がおかれるなど、文化的な拠点ともなりました。  
このころ、宇都宮の中心部は河原や沼・池が多い湿地帯で、池辺郷と呼ばれていました。二荒山神社のすぐ南には大きな池があり、ここから神鏡が発見されたので鏡が池と呼ぶようになったと伝えられています。その西に残る池上町という地名はその名残だと考えられます。二荒山神社は、平安時代のはじめには、下野国の中心的な神社として認められていたと考えられています。  
平安時代の後半、現在の宇都宮城址公園のあたりに、その後の宇都宮城の元になる館が築かれたといわれています。築城者は、藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれていますが確かな資料は残っていません。宇都宮系図の伝えるところによると、宗円は1053年に陸奥国鎮守府将軍となった源頼義にしたがい都からやってきた人物で、二荒山神社の社務職検校と宇都宮一帯の支配をまかされたとされています。それ以降、下野から常陸(ひたち)にかけての鬼怒川流域の支配権を約500年にわたってにぎる名族、宇都宮氏になったというわけです。  
この時代の集落跡は、瑞穂野団地遺跡など宇都宮市内でもたくさん見つかっています。このころの竪穴住居は一辺約4mと小型ですが、掘立柱建物や井戸も発見されています。また、住居跡からは紡錘車や鉄製の鎌・砥石などが出土していて、当時の生活の様子を知ることができます。  
弘法大師の伝承の残る大谷寺は、平安時代のはじめごろから庶民の信仰を集めていました。国の特別史跡・重要文化財である寺の本尊、千手観音像が彫られたのもこのころです。この時期は、日光山を開いた勝道上人や円仁が活躍した時代であり、下野国でも仏教文化の充実した時期です。 
今市宿(下野国) / 栃木県日光市今市  
日光街道の20番目の宿駅(宿場町)である。現在の栃木県日光市今市。  
今市宿は江戸時代に下野国都賀郡にあった宿場町。もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。  
日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2mの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。  
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。 
●「名草の弁天様」厳島神社 / 足利市  
名草厳島神社・名草巨石群 / 弘仁年間弘法大師空海によって勧請されたと伝えられ、江戸時代中期には別当である金蔵院によって巨石の上に石宮、 後に弁財天像(現在も金蔵院弁財天堂に祀られる)が造立されました。江戸時代の祭典の際には、弁財天を運び祭礼を行っていたましたが、明治維新の神仏分離により、 厳島神社となり平成元年新たに弁財天を造立しました。鎮座している名草巨石群は国指定の天然記念物です。足利七福神めぐり社寺の一つで弁財天<福徳財宝・家内和合>の神社です。  
 
行道山浄因寺からさらに山奥へ入った場所。足利市の北部、名草という場所に昭和十四年に国の天然記念物に指定された巨石群がある。奇岩、巨石が多くあり、巨石群の中に厳島神社がある。もともとは名草弁財天として祀られていた場所で、明治の新仏分離令により改称しているが、今でも地元の人には「名草の弁天様」と慕われている。  
「名草の弁天様」の入り口に建つ鳥居。  
ここでの伝説は、弘法大師が天女のお告げにより江ノ島(神奈川県)で堂を建て修行していたということから始まる。護摩を焚き、その灰で弁天像を三対つくり、それぞれ三箇所に安置したそうだ。その場所は江ノ島、琵琶湖の武生島、そして足利の大勝寺。  
いつしか足利の弁天像が行方不明となってしまった。弘法大師は自らその探索に赴くことにした。この地に入ると、とても香りのよい風が吹いてきた。香りのもとへと足を向け、そのもとが草であることに気付く。これは名草(めいそう)だということで、地名の由来になったという。  
さらに山中をさまようと、突如現れたのが白蛇だった。弘法大師は弁天様の使いに違いないと思い、白蛇の導き通り後を追っていった。すると巨大な岩の前に出た。白蛇は岩の穴に入り、出てこなくなってしまう。弘法大師はこの地に霊示を感じ、この場所こそ弁天様を祀るにふさわしいとして、経文を唱えた。水源の守りに弁財天を勧請し、祠が建てられることになった。  
神社はその岩に建ち、江戸時代に現在の場所に再建された。  
科学的に見ると、大昔、この周辺は水成岩からできていて、ここへ地下からマグマが盛り上がり、約十万年の歳月を経て花崗岩になったらしい。さらに粗粒花崗岩が方状節理に沿って玉葱状に割れ、水に洗われ、風化することにより、球状に残った部分が折り重なったことにより、現在の巨石群ができあがったようである。  
天然記念物に指定されただけあって、貴重なものであるということが、よくわかる。  
ここも駐車場から歩いていくことになる。大きな朱塗りの鳥居を越え、なだらかな坂道が前方に開けてくる。途中までは舗装されているので歩きやすく、周囲の杉木立も手入れが行き届いてる。かなり快適な道だといえるだろう。途中左側にさきほどまでいた「行道山へのハイキングコース」入口がある。  
参道はやがて短い石段になった。ここに石で出来た鳥居がある。斜面に沿って登っていくと、上方に巨石が少しずつ見えてくる。弘法大師が白蛇に導かれながら、この巨石の間を通り抜けたというのも、何だか当然のような気がするから不思議だ。  
巨石群の中でも一際目立つ「弁慶の手割石」。巨大なおむすび型の岩が真っ二つに割れているのは圧巻。  
話には聞いていても、実際に眼にしてみると、印象が異なることはよくある。この巨石群も、突然現れてきた光景はそうでもないのだが、その場に立ってみると、異質な文明世界に入り込んだような気になり、事前の情報が一気に吹き飛んだ。「謎の巨石文明」とでも表現すればいいのだろうか、イギリスのストーンヘンジ、マルタ島のジュガンティア遺跡等々とはまったく異質ではあるものの、自然が創出した空間というより、太古の人間の神秘に満ちた信仰があるように思えてくる。これが太陽巨石信仰と直結することなく、弘法大師伝説が残るということに、お大師様の偉大さがわかるような気がする。  
そんな巨石群の中で、一際目立つのが「弁慶の手割石」。  
おむすび型の巨大な岩が真っ二つに割れているのは圧巻だ。また本殿を見上げる位置にあるのが、「胎内くぐり」。高さは10mを越えるだろう。岩に洞窟のような穴があり、案内板には潜り抜けると安産になると書かれている。  
本殿は断崖絶壁の不安定な岩の上に建っている。とても小さな社殿だが、この前に立つと、日常生活の苦悩も試練もいつの間にか消え失せ、瑣末なことでしかないと思えるだけの心の余裕が生まれてきた。この感覚を体験するためにここまで登ってきたのだとすれば、それはそれで何だか贅沢な気もしてくる。  
巨大な石が重なり合う場所に小さな祠が乗っている奥の院。  
本殿から「胎内くぐり」の頭上に到る橋を渡ると、奥にはまだまだ道が続いていた。奥の院へ向かう道である。沢に沿っていて、水の流れる音が心地よく、足取りが軽くなる。  
この沢では、水底に金色に輝く砂地を眼にすることもできる。砂金のように見えるが、花崗岩に含まれる金色の雲母が水に流され、堆積しているのだそうだ。  
奥の院には建物があるわけではない。巨大な石が重なり合う場所に小さな祠が乗っているだけだが、この周辺の巨石はかなりの迫力がある。  
近くには「天然記念物名草村ノ巨石群」という石碑がある。大鳥居の先の林道を車で進むと、迂回してこの奥の院に出てくるようだ。 
弘法の加持水 / 足利郡三和村板倉 
野州・足利(あしかが)在の養源寺(ようげんじ)の山の下の池などは、直径三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といい伝えて、信心深い人たちが汲んで行って飲むそうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切っていたところへ、見馴れぬ旅僧が来てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が湧き出したのだそうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のようにして小児に含ませても、必ず丈夫に育つであろうといって行きました。それが弘法大師であったということは、おおかた後に養源寺の人たちが、いい始めたことであろうと思います。  
白華山養源寺 (臨済宗妙心寺派)  
養源寺は、源義国を開基とし泰亀円了和尚(〜1152)を迎えて 開創されたと伝わります。ところで養源寺開基・源義国に関しては、その多くが定かでは有りません。例えば義国には「寳幢寺殿泰山觀東義大居士」と「青蓮寺殿覚阿宗岳梅翁」いうふたつの戒名が付けられています。後者の青蓮寺は、群馬県太田市岩松に現存し、近くに義国神社や義国の墓と言われる石碑も有り、義国の居住事実は孫の義清が納経した大般若経の奥書の記述からも知る事が出来ます。一方の寳幢寺は、その立地場所が確定されていません。僅かに古地図で「寳幢寺」と記された二か所を確認でき、そのひとつ(足利市緑町の八雲神社の場所)に建っていたと言われます。(八雲神社が現在の場所に移転されたのは明治になってからです。それまでは現在よりも低い場所に建てられて居ました。いずれにしても現在、寳幢寺の痕跡は確認できません。) 単なる憶測ですが、もしかすると養源寺こそ寳幢寺で有ったのかも知れません。因みに、足利氏初代・義康の戒名「鑁歳寺殿義山道達大居士」に有る、鑁歳寺の所在も未確定です。仮に養源寺が寳幢寺の跡であるならば、逆位置に有る光得寺も鑁歳寺の跡に義氏が再建したのかも知れません。いずれにしても自由な推測でしか有りません。養源寺が建てられて居る板倉は、先にも書いた通り江戸幕府の重臣・板倉家の本貫地でもあります。江戸時代の足利は、幕府領、旗本領、足利藩領、河内丹南藩領などが入り混じって居ました。板倉を領有していたのは河内丹南藩であり、板倉には代官が派遣されていたそうです。  
水塚 / 足利市板倉町  
伝説1 / この地に来た弘法大師が水が漲った沼を渡ることができなかった。通りかかった老婆は杖でやすやすと通ったので、その杖を借りようとしたが懐に隠して貸してくれなかった。やがて水がひけ、弘法大師は沼を渡り、老婆は杖とともに石となった。この地を「姥が懐」。  
伝説2 / 弘法大師がある水塚に一泊したところ蚊が多くて眠れなかった。そこで加持して蚊がこないようにしたのが「小林家の水塚」。 
神明宮 / 足利市南大町  
 芋の森伝説と弘法大師御加持水  
弘法の池 
当社の御神水は、境内「弘法の池」で足利市重要文化財「ニホンカワモズク」を育む清らかな沸水です。ニホンカワモズクは、淡水産紅藻類カワモズク科の新種で、湧水などの水温の変化の少ない清流に生息します。芋の森清明宮の境内、弘法の池に生息しているのを、昭和36年に南大町在住の高校生をとおして発見されました。弘法の池は、スギ林の北にあって、広さ、深さ、底から湧き出る清水の水温など、カワモズクの生育に最適の池です。学術研究上貴重なものであり、天然記念物・足利市重要文化財に指定され、大切に保護されております。  
石芋の由来  
平安朝時代、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡歴しておりました。たまたま南大町(当時大町村)の森の中から湧き出る泉のほとりに老婆がちょうど昼の仕事で里芋を洗っているところに出会い大師は、食べるものなく空腹を覚えましたので芋を少々恵んでくれと頼みましたところ、老婆は「この芋は石芋といって云って煮ても焼いても食べられない、と云って差し上げませんでした。大師は心よしとせず「それなら石芋にしてあげよう」と口中に呪文を唱え立ち去りました。老婆は早速芋を煮て食べようとしたところ、不思議に固くなってたべられず、そっくり前の泉に投げ捨ててしまいました。其の芋が、後になって芽を出し、今でも毎年しげっていると傳えられています。  
行道山浄因寺 / 栃木県足利市  
「関東の高野山」とも呼ばれる浄因寺は断崖絶壁に囲まれた山腹にあり、和銅6年(713)に行基上人(ぎょうきしょうにん)が開創と伝えられている。  
参道から山頂にかけ3万3千体といわれる大小の石仏や、右手を枕に西向きに寝ている寝釈迦(ねじゃか)があります。また、巨石の上には眺望絶景の建物「清心亭」があります。そこへ渡るために巨石から巨石に架けられた空中橋「天高橋」(てんこうきょう/あまのたかはし)は葛飾北斎が「足利行道山雲のかけ橋」として描きました。足利県立自然公園ハイキングコースのポイントでもあり、特に新緑や紅葉の時期の眺望は絶景。巨石の上に立つ清心亭や、参道に沿って点在する無数の石仏など、南画(山水画)さながらの景勝地として栃木県の名勝第1号に指定された。 
栃木県 
古代のヤマト王権が成立した時代には、栃木県の辺りは毛野川(けぬのかわ,現在の鬼怒川)が流れていて『毛野国(けぬのくに)』と呼ばれていましたが、毛野国は筑紫、出雲、吉備などと並ぶ当時の強力な政治拠点だったと推測されています。毛野国は奈良時代に『上毛野(上野)国』と『下毛野(下野)国』に分割されたと伝承されており、そのうちの下毛野国が7世紀に那須国と統合されて、現在の栃木県の原型となる『下野国』ができたのです。  
栃木県の県庁所在地の『宇都宮市(うつのみやし)』の名称は、出雲神を祀る二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)の別号である『宇都宮大明神』に由来しており、この神社では毛野国の開祖・豊城入彦命が祀られています。この神社の創建は西暦3〜4世紀とされ、日本国内の神社の中でも相当に古い神社です。二荒山神社は国造・下毛野氏の血縁者が代々座主を務めましたが、平安時代末期には藤原北家道兼流の毛野氏や中原氏の流れを汲む『宇都宮氏』が下野国の支配者となり、その後は約500年にわたってその地域の領主になりました。戦国時代には後北条氏が台頭して下野国一帯に勢力を伸ばしますが、宇都宮氏は常陸国・佐竹氏と一緒に後北条氏と向かい合いました。豊臣秀吉が後北条氏を関東征伐で滅ぼすと、宇都宮氏は備前国へと配流されて長年の拠点であった下野国(鬼怒川流域)を離れることになりました。  
宇都宮大明神と呼ばれる宇都宮二荒山神社は『武家』を守護する『武徳・尚武の神』として知られ、藤原北家魚名流・藤原秀郷(俵藤太,田原藤太)が、『平将門の乱』を鎮圧する際にこの神社から神秘の霊剣を授けられて将門を倒したと伝えられます。弓術の達人とされる藤原北家長家流・那須与一宗高も『治承・寿永の乱(源平合戦)』の屋島の戦いで『南無八幡大菩薩、日光権現、宇都宮、那須湯前大明神』と唱えてから、平家の船上の扇の的を射落としたという伝承が残されています。武家としての源氏の基礎を築いた源頼義、源義家(八幡太郎)父子も『前九年の役』の前に宇都宮大明神を参拝しており、奥州の安倍氏を鎮圧しています。鎌倉幕府を開いた源頼朝も奥州藤原氏の平定に際して参拝しており、徳川家康も二荒山神社に神領1,500石の特別な土地寄進を行っているのです。  
栃木県には近世江戸期に聖地とされ、現代でも観光地として賑わう『日光(日光市)』がありますが、日光開山の祖は勝道上人(しょうどうしょうにん)です。勝道上人は下野薬師寺で5年間の修行をして男体山(なんたいざん)を開山するという発願をして、766年に四本龍寺を建立しました。782年に3度目の試みで山頂にまで到達することに成功し、神宮寺(現在の中禅寺)を建立したことで日光1200年の信仰の歴史の基礎が築かれたのです。『日光』という地名の由来は真言宗の開祖である空海にあるとされ、『二荒(ふたら=補陀落:ポタラカ)』を音読した『にこう』から『にっこう』へと変化したとされます。古代の記紀類では『日光』の記述はなく『二荒』であることから二荒のほうが古い地名であることは明らかですが、鎌倉時代後期に『日光』という表記が文書に見られるようになってから、下野国内では千手観音や日光菩薩像が多く造立されて信仰拠点としての価値が高まってきたと考えられます。  
江戸時代には日光(日光市)は神君家康公を祀る『幕府の聖地』として認識されるようになりますが、日光は元々前述したように『武徳・尚武との結びつき』が強い東国の一大信仰拠点でした。家康の死後には豪華絢爛な『日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)』の建築物が陰陽道・道教の影響の下に建てられましたが、日光東照宮に彫られたり描かれたりした動物たち(眠り猫・見ざる聞かざる言わざるの三猿)は『永続的な平和の象徴』とされています。日光東照宮は徳川家康の『遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう』という遺言に基づいて建立されました。江戸時代の幕藩体制では宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩、佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩の諸藩が置かれましたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では宇都宮藩は幕府に付いたわけではありませんが、官軍(新政府軍)として積極的に戦ったわけでもなく優柔不断な態度を取りました。  
大鳥圭介(おおとりけいすけ)が率いる幕府軍と官軍(新政府軍)が衝突する『宇都宮城の戦い』が行われましたが、板垣退助率いる官軍が勝利して、敗れた幕府軍は日光へと退却していきました。1868年(慶応4年)6月に、肥前藩士(現在の佐賀県)の鍋島道太郎が下野国の真岡知県事に任命されて、8月に日光領を新政府が没収しますが、新政府軍は旧幕府直轄地を支配するための布石として、まず真岡を押さえてから宇都宮・日光という『旧幕府の信仰拠点』を統治しようと考えました。  
1868年9月に、鍋島道太郎知県事は旧日光奉行所へと入り、翌1869年(明治2年)2月に行政区分を『日光県』と改称して日光に県庁が置かれました。この時点では栃木県ではなくこの地域は日光県と呼ばれていたわけですが、まだ宇都宮にまでは官軍の支配は十分に及んでいませんでした。日光は神君家康公を祀る日光東照宮があったことから、旧幕府の『政治的・宗教的な重要拠点』と見なされており、明治4年(1871年)の一律的な寺社領の没収よりも早い段階(明治2年)で、官軍によって没収されて日光県が置かれたということになります。  
明治維新後の1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)に『廃藩置県』が断行されますが、栃木県に当たる地域は1871年12月25日(旧暦11月14日)に下野国北部に『宇都宮県』が置かれ、また下野国南部と上野国南東部を併せて『栃木県』が置かれました。栃木県の設置に際しては、壬生県、吹上県、佐野県、足利県、日光県が統合されることになり、その県庁所在地と管轄区域は以下のようになりました。  
宇都宮県(県庁所在地は河内郡宇都宮)……旧下野国のうちの河内郡、塩谷郡、那須郡、芳賀郡を管轄。  
栃木県(県庁所在地は都賀郡栃木)……下野国のうちの都賀郡、寒川郡、安蘇郡、足利郡、梁田郡を管轄。上野国のうちの山田郡、新田郡、邑楽郡を管轄。  
この時点で栃木県の県庁所在地は『日光』ではなく『栃木』になっており、徳川将軍家由来の山中の信仰拠点である日光の存在感が薄れることになるのですが、栃木というのは1591年(天正19年)に小山氏の系統である皆川広照(みながわひろてる)が栃木城を築いて始まった商業・舟運(運輸)の町でした。『栃木』と比べると『日光』のほうが歴史的な権威や信仰拠点としての由来があり、全国的な知名度も上でしたが、明治新政府は徳川将軍家を守護する日光東照宮が置かれていたことに抵抗して、栃木のほうの地名を県名に採用し『日光県』を廃止したとも考えられます。歴史的な由緒や権威、知名度からすれば、『日光県・宇都宮県』の採用も有り得たかもしれませんが、結果としては『栃木県』という県名に落ち着くことになります。  
1873年(明治6年)6月15日に、宇都宮県と栃木県が合併することになり『栃木県』が成立し、県庁は栃木町に置くことが決められました。1876年(明治9年)に上野国内3郡が熊谷県の北半部(上野国内)と合併して群馬県の一部へと改変され、栃木県と群馬県はほぼ現在と同じ県域を持つことになります。1884年(明治17年)には、栃木県の県庁所在地は栃木町(栃木市)から現在の『宇都宮町(宇都宮市)』へと移されました。 
 
群馬県

 

●赤岩山 光恩寺 [通称・赤岩不動尊] / 群馬県邑楽郡千代田町赤岩  
弘法大師 弘仁5年(814) 再興開山  
光恩寺は、群馬県千代田町赤岩の利根川岸にある関東屈指の真言宗の古刹です。  
寺伝によると雄略天皇が穴穂宮のために、勅して全国に建立せられた九ケ寺の一つとされ、また推古天皇33年に高麗王より大和朝廷に貢された恵潅僧正が、当地に来往し、光恩寺を開かれたといわれます。のち、弘仁5年(814)弘法大師が諸国遊化の折当地に留まり、密教弘通の道場として再興開山せられたと云えられます。  
そののち兵火により殿堂を失うが、元亨元年(1321)後醍醐天皇は宇都宮公綱に奉行を命じ殿堂を再建され、 700石の朱印と「赤岩山光恩寺」の称号を下賜せられました。  
●子持神社 / 群馬県渋川市中郷  
弘法大師 修行  
人皇四十代天武天皇の御宇、伊勢国度会郡より荒人神が顕れ、上野国群馬郡白井保に児持山大明神として垂跡した。  
祭神は木花開耶姫命で、邇邇芸命・猿田彦大神・蛭子命・天鈿女命・大山祇神・大己貴命・手力雄命・須佐之男命を配祀。奥宮の祭神は日本武尊。  
『上野国神名帳』所載社(群馬東郡 従五位上 児持明神)。 旧・郷社。  
『子持山宮記』によると、日本武尊が東征の際に子持山に祈願して東国の平定を成し遂げ、地主神猿田彦大神・天鈿女命など七座の大神を祀った。 その後、仁徳天皇元年[313]に瓊々杵尊・木花開耶姫命の二神が高千穂の峯から子持山に影向した。  
『子持神社紀』によると、日本武尊が東国平定の際、上野国の国府に至り、豊城入彦命の娘の上妻媛を妃とした。 木花開耶姫命を子持山に奉斎して祈念したところ、忽ちに御子の岩鼓王が誕生したので、日本武尊は木花開耶姫命の神徳を称え奉り、子持山姫神と号して崇敬した。  
『子持山大神紀』によると、弘法大師が東国巡遊中に子持山の奥の院に分け入り、激しい雷雨に襲われた。弘法大師は岩屋に籠って子持山姫神を祈念し、七星如意輪供の秘法を修行して、本地仏の如意輪観音を岩屋に安置した。  
『上野国志』は『先代旧事本紀大成経』巻第七十一(神社本紀)に基づき、金橋宮天皇[安閑天皇]の御代に磐筒女大神が鎮座したとする。 
●里見郷 / 高崎市  
弘法大師 伝承  
(さとみのさと) 群馬県内の烏川流域の古称である。旧榛名町の烏川南岸、旧里見村 (群馬県)がこれに該当する。現在の高崎市榛名支所の上里見町・中里見町・下里見町・上大島町に相当する。贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)が上野国碓氷郡里見郷に移り、その地の名を苗字としたとの伝承もある。  
「里見村誌」によれば、「里見郷」の由来と伝承されているものは二つあるとしている。  
景行天皇26年頃(97年)、東国平定を終えて、日本武尊一行が吾嬬山から峰づたいに密林地帯を幾日も困難を極めた征旅を続け、今の里見連山の峰づたいに差し掛かった時、人家や田畑をはるか東方に見えたので思わず「小里見えたり」と一行大いに喜んだ。これを伝え聞いた里人は里を「里見」と称するようになった。  
豊城入彦命の子孫に「佐太の臣」と称する人があって、この地に居を構えた。その名「サタノオミ」が段々変って「サトミ」となった。  
しかし、両説とも伝承の域を超えず、はっきりしない。おそらく「里見郷」の由来は、中世この地の地頭職であった里見氏から名づけられたものであるともいえるし、又里見に住して里見性を名乗ったともいえると「里見村誌」は結論付けている。  
間野の弘法井戸 / 弘法大師が間野に立ち寄り水を貰う。間野は高台に有る為、水汲みが大変という村民の嘆きを聞き井戸を掘る。  
石芋伝承 / 烏川対岸の室田村では弘法大師が所望する芋を渡すのを惜しんだため、付近の芋が法力で食べられなくなる。 
●三国大権現 / 群馬県利根郡みなかみ町  
弘法大師 三国峠越  
御阪三社神社は、上野赤城明神、信濃諏訪明神、越後弥彦明神の一宮が祀られている。上野国、信濃国、越後国の国境とした神社とのこと。明神が権現となったのは上杉謙信の仏教信仰から来たものである。明治元年の廃仏棄却により、「三国権現」と呼ぶことを禁じられ、現在は「御阪三社神社」という。三国トンネルの脇にある三国峠登口より山道を30分程登る。途中には「三国権現大清水」もあり、清水を飲むことも出来る。  
三国峠を越えた人々の碑 / 三国大権現(御阪三神社)の社前にある「三国峠を越えた人々」の碑。ここは元々は三国街道になっており、その為、碑には古くは「坂上田村麿」「弘法大師」から、「上杉謙信」「西園寺公望」「原敬」「伊能忠敬」「与謝野晶子」「川端康成」「北原白秋」等の著名な名前が見ることが出来る。この中に、三国峠の戦いで戦死した会津藩士「町野久吉」の名前も刻まれている。 
●弘法大師 / 群馬県利根郡片品村  
弘法大師 大同2年(807) 伝承  
大同二年のこと、弘法大師は諸国巡錫中、土井出の庄古伸に立ち寄られ、ここに安楽寿院を建立されたという。 
 
各願山来迎院 西慶寺 / 太田市鳥山上町  
勝道上人 大同二年(807) [『寺院名鑑』延暦十六年(797)] 開山  
県道足利・伊勢崎線の石橋十字路から、太田に向かう県道太田・大問々線の東に入った所に真言宗の西慶寺がある。参道から山門に入ると鐘楼門があり、正面に本堂、その右に庫裏、左に不動堂、そして本堂の裏に墓地があり、その入り口には石造の六地蔵と水子地蔵尊がまつられている。  
寺伝によると、西慶寺は日光山を開いた名僧勝道上人が大同二年(八〇七)(『寺院名鑑』では延暦十六年=七九七=ころとする)に開基したと伝える古刹である。その後、新田氏の祖新田義重が保元二年(一一五七)に左衛門督藤原忠雅から新田荘の下司職に補任され、寺尾の郷に居住し、西慶寺を鬼門になぞらえて祈願寺として尊び、水田を寄進したという。時代がさがって、元弘三年(一三三三)に新田義貞が鎌倉を攻めるに際し、西慶寺の不動明王に戦勝を祈願して陣鎌と鑓を奉納した。不動明王はこれに感応して天狗や山伏と化して越後の新田氏(鳥山氏)に義貞の挙兵を触れた。そこで一族は、大挙して義貞軍にはせ参じた。それ故に、この不動明王を「新田の触れ不動尊」と称されている。触れ不動尊の同様の伝承は、尾島町の明王院安養寺にも伝わっている。  
『上野国志』によると、観応年間(一三五〇〜一三五二)(『上野国郡村誌』では貞和=一三四五〜一三五〇=年中としている)に鳥山の右近将監頼仲が良覚法印を中興開山として再興した。古くは延命山鵬鳥山寺と称したが、後に各願山来迎院東蔵防西慶寺となり、村田宝蔵寺の末寺となった。一方、西慶寺の創建は南北朝期末の嘉慶二年(一三八八)だとするのが、足利市小俣鶏足寺の、世代血脈」である。これによると、第三十一代祖師良覚は上鳥山の峯崎という人物を頼って小庵を構え、村田村宝蔵寺の頼覚を師として仏法を修行し、明徳四年(一三九三)十一月十五日に綿打村大慶寺空覚と頼覚の指導を受けて伝法潅頂を執行した。そしてこの小庵の所に西慶寺を建てたとするものである。西慶寺は良覚以後、鶏足寺の系統を継ぐ末寺二十五寺の本寺として寺運は栄えたが、第二十一世真浄代の天明四年(一七八四、『上野国郡村誌』では、寛文元年=一六六一)に本堂が焼失したため、天明八年(一七八八)に再建し、本尊阿弥陀如来三尊を安置した。  
明治十二年(一八七九)六月三十日調査による『上野国新田郡寺院明細帳』では、本堂間口一〇問、奥行き七間半、境内二、四三三坪、不動堂の本尊は不動明王で由緒は不詳、堂宇は方四間、壇徒八十六人とある。この不動堂は第二十五世浄蓮代の文政六年(一八二三)の建立で、安置されている不動明王は新田触れ不動尊で、像高二尺余の木造立像である。不動明王は一般に像の後ろに光背(火熔光)を有するが、西慶寺の明王にはそれがない。顔は悪魔降伏の憤怒の相をし、左手には命あるものを救う象徴の羅索を、右手には降魔の剣を持っている。鐘楼門上にある百字真言鐘(梵鐘で、仏陀の教えを百字で表し、五字四行を一区として全部で五百字の梵字による真言を陽鋳したもの)は、西慶寺第十九世祐弘が新田義貞迫善のために寛保二年(一七四二)二月に佐野天明(栃木県)の長谷川弥市・山崎吉兵衛の鋳造により完成したものである。鐘銘には触れ不動の由来や「新田触不動御仏前、源光院殿後追薦(善)」などの文字や多数の僧名などが鋳出されている。源光院は、義貞の法号である。庫裏は、昭和五十五年(一九八○)に現在のものに造り変えられた。  
袈裟丸山 / 栃木県・群馬県  
袈裟丸山(けさまるやま)は栃木県日光市・群馬県沼田市と群馬県みどり市にまたがる火山(活火山以外の火山)であり、複数ある前袈裟丸山・中袈裟丸山・後袈裟丸山・奥袈裟丸山・法師岳の総称のこと。一般には前袈裟丸山がこう呼ばれる。標高は1,878m(前袈裟丸山)。最高点は奥袈裟丸山の標高点1,961m。袈裟丸連峰。名所としては寝釈迦像が有名。  
まだ誰も居ない桐生駅。わたらせ渓谷鉄道は、今ではトロッコ列車も運行する観光主体の路線となった。翌朝、まだ町が目覚めない時刻に桐生駅からわたらせ渓谷鉄道に乗車する。国鉄時代は足尾線といい、鉱毒事件で有名になった足尾銅山まで、渡良瀬川に沿って走る路線である。現在は第三セクターで運営され、トロッコ列車も運行する観光主体の路線となった。列車は桐生市街地から徐々に山間部に入っていった。かつて鉱毒を流した渡良瀬川も今では自然豊かな水を運び、のどかな流れが右手に見えてくる。  
草木ダム横の長いトンネルを越え、ダム湖を渡ると沢入駅に到着する。約一時間二十分の乗車だった。ログハウス風のきれいな駅舎を出て、渡良瀬川を今度は徒歩で渡る。いよいよ本格的な山岳地帯に突入だ。雲すら突き通すほどの太陽の輝きの下、足取り軽く林道へと進んでいく。  
袈裟丸山は初心者向きとはいい難い山で、観光地化という世俗的な波に覆い隠されてはいない。群馬・栃木両県に跨り、南北に長大な山体を有している。  
この山の由来というのは、当然、弘法大師伝説がもとになっている。入唐求法の旅を終えた弘法大師が赤城山に高野山と同じ道場を開こうとしたところ、赤城の神は仏の地になることを嫌い、谷を一つ隠し、九百九十九しか現さなかった。道場とする条件には千の谷が必要だということで、弘法大師は残り一谷を捜し、この地にやってきた。しかしここにも谷はなく、大いに落胆し、袈裟を丸めてこの山に置いて下りたことから、袈裟丸山という名がついたというものらしい。  
実はこれと似た伝説はいたるところにあり、例えば赤城と並ぶ群馬の名山・榛名山にも九十九谷という伝説がある。こちらでは谷を一つ隠したのは天狗といわれている。  
標高は2,000m弱で、前袈裟丸、中袈裟丸、後袈裟丸、奥袈裟丸の四つの峰が聳えている。一般的には前袈裟丸を袈裟丸山とよび、登山道もここまでは比較的整備されているらしい。  
登山口としては、塔ノ沢口、折場口、郡界尾根口とあるが、駅から比較的行きやすい塔ノ沢から登ることにした。林道が通じているので、車でそこまで行くことも出来るが、今回はあえて徒歩で向かうことにした。塔ノ沢の登山口は、五台くらいは停められる駐車場と、入山届を出すポスト、トイレなどがある。ここから沢に沿って登り始める。  
登山口から約1時間、2キロ弱を登ると「寝釈迦」の入り口。  
周囲は沢の音だけがこだまし、他の登山客もいないせいか、厳粛な感じさえしてきた。昨日の行道山や巨石群とは明らかに異なる山の雰囲気である。伝説通りであれば、弘法大師の偉大さを知った赤城の神が、己の聖域を守るために仕掛けた場所となる。赤城の神は日光の男体山とも戦ったほどの勇敢さを持っていることから、訪問者を排他的に扱ってくる場合、どんな仕打ちをしてくるか分からない。弘法大師ほどの力のない庶民としては、厳粛に、神聖にこの山を登る他あるまい。  
登山道は、昨日同様大きな石に囲まれた場所を貫いている。沢は進行方向左手。支流の小さな沢は、木が掛けられただけの橋を渡って進む。傾斜がきつくなり、息が切れ、木陰の心地よさが消え、全身が汗まみれになってきた。  
前髪から垂れてくる汗を拭い、斜面前方に視線が向くと、不思議な岩があるのに気付いた。人工的な石垣のような岩だ。規則正しく幾何学的な裂け目があるので、自然のものには思えない。ガイドブックにも登山の紀行文にも記述がないので、この山では特段珍しいわけではないのかもしれない。ただ、昨日の巨石群を見ているせいか、ここにも巨石文明があったのではないかという妄想が膨らんでくる。  
登山口から約1時間、2キロ弱を登ると、ようやく寝釈迦に到着した。昨日の行道山で見た「かわいい」寝釈迦像と比較するのも興味がある。ここの像は沢沿いの大きな岩の上にあった。足に力を込めて岩を登り、ようやく眼にすることができる。幅1.8m、縦4mという巨大なお釈迦様(上)と、まるで人工物のような対岸に聳え立つ高さ18mの相輪塔。巨大だ。幅1.8m、縦4mという大きさで、掌に乗るような行道山のものとは、存在自体が異なっている。  
この寝釈迦像は北を枕に西方を向き、右脇を下にして横たわっている。いつ、誰によって作られたのかは不明だということだが、ここでも弘法大師説があり、また勝道上人説などもある。しかし制作年代は決して古いわけではなく、江戸時代に足尾銅山に送り込まれ、死亡した多くの因人の菩提を弔う為に刻まれたという説が真実かもしれない。  
この対岸には高さ18mの相輪塔がある。石を人工的に積み重ねたような不思議な岩で、まさに奇岩といえる。  
この相輪塔にも伝説がある。この岩は、さきほど列車を降りた沢入という場所にあり、女性の信仰を集めていたそうである。彼女たちが塔に上がるので、天狗がそれを嫌がり、一夜のうちにこの場所まで持ってきてしまったというのである。その際に上の石から積み上げたため、不思議な形になってしまったという。  
神秘的な相輪塔と、偉大なる信仰心の表象ともいうべき寝釈迦をあとに、さらに山奥へ入っていくこととする。沢筋をさらに進み、笹に覆われた道が唐松とツツジの林を貫く。沢を渡る木の橋もなくなってきた。突然階段が現れ、その先には避難小屋がある。本格的登山をしていることに改めて気付かされる。  
自分の体に鞭打つようにして、ようやく視界が開けた場所に到着した。標高は1550m。 
袈裟丸山・賽の河原 / 群馬県みどり市  
黒く焼けたような色の火山岩が付近一帯に転がっている「賽の河原」  
ここは賽の河原とよばれ、袈裟丸山の中腹に開ける異様な世界だ。ここだけ木がなく、黒く焼けたような色の岩が、付近一帯に転がっている。岩は火山岩で、古よりここを訪れた人々によって石が積み上げられたのだろう。その積まれた姿が、荒れ果てた古い墓地のようにも見える。畏怖により、火照った全身を一気に冷やすようだ。登山口から約二時間、異界の地に到着といった感慨を持ってしまう。  
ここにも弘法大師の伝説がある。大師が、夜、ここを通ったときのこと、赤鬼・青鬼に責められながら、数人の子供たちが石を積み上げていた。弘法大師はこれを見て、三夜看径して済度したというものである。  
賽の河原を少し歩くと、袈裟丸山の稜線がはっきりと見えてきた。青い空、肌を突き刺すほどに鋭い太陽光線、澄んだ空気、さらにいえば赤城の神に守られた聖域……。弘法大師伝説に導かれ、この神秘の山に到ったことを何だか誇りにさえ思えてきた。疲労感はすべて消えていないものの、いつの間にか全身を纏う不快感は、この一瞬に消失したようである。  
風も、千年以上前から現在、そして未来へと向かって吹いているようだ。  
(赤城周辺には“死者の魂は赤城にのぼる”“旧4月8日に赤城山に登ると死者に会える”という言い伝えがあった。袈裟丸山にも“その年に子どもを亡くした人が賽の河原に行くと死者に会える”という言い伝えがあり、寝釈迦に参拝した後で賽の河原に登って石を積んだという。とくに旧暦4月8日は寝釈迦の祭日になっていることから、地元の僧が寝釈迦に行き祈祷を行った。(赤城山と同様に)この日に登ると死者に会えるということで、この日に登る人も多かった。戦前は村人や銅山関係者が詣でてにぎわったが、戦後はすたれていった。)  
袈裟丸山の山名について  
日光白根山から皇海山を経て南北に連なる足尾山塊主脈の南端に聳える雄峰が袈裟丸山である。主脈はこの山を最後に高度を減じ、やがて渡良瀬川に没する。  
1958mの奥袈裟を始め前袈裟・後袈裟・中袈裟・法師岳が当面に懸崖を掛け鋸状に峰を連ねて、周囲に大きな尾根を延ばしている。  
関東平野北部から望む山容は両毛の名峰たるに恥じない。中でも桐生と伊勢崎の間からの景観が最も雄大で、赤城山の右後方に尾根を左右に延ばした端正な双耳峰を仰ぐことができる。  
袈裟丸山の山名の由来について、群馬県側の地元勢多郡東村に次のような伝説がある。それによると、弘法大師が赤城山を開山しようとしたところ、赤城山の山神は仏教の地となることを嫌い一つ谷を隠して九百九十九谷しか現わさなかったので、開山に必要な千谷に満たなかった。大師は残りの一谷を探して袈裟丸山まで来たが、ここでも見付けることができず、着ていた袈裟を丸め山に投げ付けて開山を諦めて帰った。  
これ以外に、赤城山を開山しようとしたのではなく、はじめから袈裟丸山自体を開山しようとしたのだという伝説もある。  
西麓の利根郡利根村根利にも同じような伝説がある。いわゆる九十九谷伝説である。弘法大師に因んだ同様な伝説は他にもあり、弘法大師が実際に訪れたかどうかはともかくとして、これを持って山名の由来とすることは適当ではないと思われる。この伝説は後世になって作られたものであろう。  
そこで、袈裟丸山という呼称がいつ頃から使用されていたのか文献を調査したところ、古い図書には記載がなく、この呼称は比較的新しく主に明治以降のものであることが判明した。  
一八四二年(天保十三年)発行の富士見十三州与地之全図「上野国」には袈裟丸山の記載はなく、その位置に「大ケサ山」「小ケサ山」が記載されている。一七七四(安永三年)に発行された毛呂權蔵の上野国志には、勢多郡の部に「大袈裟山」「小袈裟山」があり次のように記載されている。  
大袈裟山 小ケサ山の南、下野界にあり、下野にて二子山と云  
小袈裟山 下野界にあり、利根郡さく山の南なり、野州にて二子山と云  
さく山は、小暮理太郎の考察によって現在の皇海山であることが明らかにされているので、上野と下野の境(両毛国境)の皇海山南方に小袈裟山・大袈裟山があることになる。これは現在の袈裟丸山にほかならず、江戸時代には大袈裟山・小袈裟山と称していたことが分る。  
さらに明治以降の地図を調査したところ、明治時代においても大ケサ山・小ケサ山、あるいは大袈裟山・小袈裟山が記載されている。  
一方、「袈裟丸山」が初めて登場するのは、一八七七年(明治十年)に編纂された上野国郡村誌勢多郡小中村の中においてである。  
また、群馬県地図における山名の変遷を見てみると、明治末頃から大袈裟山・小袈裟山に替わって大袈裟丸山・小袈裟丸山になり、昭和以降は全て袈裟丸山に統一されている。  
以上は群馬県側の文献に基づくものである。  
栃木県側の資料は調査不十分だが、下野国誌には袈裟丸山の名は見られず、隣接する二子山だけが記載されている。その中で、二子山は両毛国境にあって庚申山に連なる旨が記載されており、先に取り上げた上野国志に大袈裟山・小袈裟山が「二子山と云」ということを考え合すと、栃木県側では袈裟丸山を二子山と呼んでいたのかもしれない。明治になって地図を作成した際に、群馬県側の名称を採用し、栃木県側の名称を隣接する現在の二子山に持ってきたものとも考えられるが、必ずしも断定できない。  
いずれにせよ袈裟丸山の名称は群馬県側のものであり、袈裟山が袈裟丸山になったことは事実である。  
「丸」について  
では、何故「丸」が付け加えられたのであろうか。  
丹沢や大菩薩周辺では、桧洞丸・畦ケ丸・大蔵高丸など丸の付く山名が多くある。これらの地方は朝鮮半島からの帰化人が多く、「マル」は山を意味する朝鮮語系の呼称であることが明らかにされている。この呼称はこれら一部の地区だけでなく日本国内に広範囲に分布していることから、両毛地区にも山のことをマルと称する風習があった可能性が考えられる。両毛地方に直接マルが付く山名はないが、袈裟丸山周辺にマルの付く地名が幾つかある。袈裟丸山に源を発す小中川下流の東村小中に「袖丸」という集落がある。東村に隣接する黒保根村上田沢には「涌丸」という集落があり、更に東村には「枝丸」という地名がある。  
山を示すマルが集落に使用される例は各所にあるので、この地方において山をマルと称する風習があったことがこの事実から推察される。すなわち、袈裟丸山の「丸」は山を意味するマルであろう。  
古文献・古地図にはケサ山と記載されているが、おそらく地元ではケサ丸と呼んでいたのではなかろうか。その後、ケサ丸に更に山が付け加えられて袈裟丸山になったものと考えられる。古地図にはケサ山と記載されているが、地元で作成した上野国郡村誌においては「丸」が付いていることからもそれが推察されるのである。  
「袈裟」について  
次に、袈裟丸山の「袈裟」の由来は何であろうか。袈裟は梵語(サンスクリット)の「カーシャーヤ」の音字であり、現在は梵語に起源を持つ仏教用語となっている。このことから仏教用語としての「袈裟山」であるとする解釈が考えられる。  
山岳信仰のあった山に梵語にかかわる名称が多いことから、仏教用語としての袈裟であるとすると、袈裟丸山と山岳信仰との関連を考慮する必要がある。袈裟丸山に山岳修験が入っていた文献や遺跡を見い出すことはできないが、寝釈迦・相輪塔や賽の河原の存在と南画風の峨々たる山容を併せ考えると、修験の対象になっていたことは十分考えられる。  
近接する日光山は奈良時代に勝道上人によって開山された史実があり、赤城山も同じ頃開山されている。袈裟丸山の属する足尾山塊の他の山については、庚申山が勝道上人によって開山され、北部の白根山・錫ケ岳・宿堂坊山及び黒桧岳は日光山の修験者によって山岳宗教の対象に去れた。(三峰五禅頂の夏峰及び黒桧岳禅頂・白根山禅頂)  
これら近接する地域における開山の状況や修験者の足跡に、いかにも修験者好みの袈裟丸山の峨々たる山容を考え併せれば、おそらく袈裟丸山も山岳宗教の対象にされたであろう。  
その後、山岳宗教が衰退し永い年月の経過によりその痕跡は全く失われてしまったのではないだろうか。中腹にある寝釈迦の作製年代については明らかでないが、江戸時代との説が有力である。そうだとすると、その作製理由は山岳宗教再興の試みであったかもしれない。  
冒頭に掲げた弘法大師の伝説は、袈裟丸山が修験者によって開山されたことを示唆しているのかもしれない。  
以上のことから、おそらく「袈裟」は山岳宗教に由来する名称であろう。  
他の地名との比較  
地名を考察する際の一般的方法として、その固有の起源について調査するとともに、他の同じ地名を比較調査することが挙げられる。同じ地名は同種の起原に由来することが多いからである。  
袈裟丸という地名は、私の知っている限りでも幾つか挙げられる。まず、利根郡の湯桧曽川源流部の支流に「ケサ丸沢」があり、群馬郡倉淵村の烏川の上流部には「袈裟丸沢」及び「袈裟丸山」がある。特に、後者に至っては全く同一の名称である。この山は烏川右岸にある1142mの岩峰で、角落山の北北東に位置する。  
この付近には三ツ丸という地名があり、これが名称を考える手がかりを与えてくれるかもしれない。  
また、福岡県にも「袈裟丸」という集落がある。  
今まで古地図に記載されている「ケサ山」に着目し、名称を「袈裟」と「丸」に分けて考察を進めて来たが、以上のような同じ地名の存在から「袈裟丸」が固有の意味を持つ場合も考えられる。残念ながら以上の三例については未調査でその由来は不明であり、袈裟丸が固有の意味を持つ可能性は否定できない。今後研究の必要があると思われる。  
最後に、古文献・古地図に記載されている大ケサ山・小ケサ山という名称について考えると、一つの山を二つに分けて呼んでいるのは奇妙に思われる。袈裟丸山は南北に細長い連峰なので、これを二つに区分して現在の前袈裟方面を大ケサ山、奥袈裟方面を小ケサ山とする解釈が考えられるが、地形的には不自然の観を免れ得ない。  
江戸時代の絵図及び上野国志によると、サク山の南に小ケサ山・大ケサ山と続いている。サク山は皇海山なので、現在の鋸山が小ケサ山、袈裟丸山が大ケサ山であると考えるのが妥当ではないだろうか。  
そして、古地図に記載された大ケサ山・小ケサ山を次代以降の地図が単純に踏襲して明治時代の地図に記載されたものと思われる。以上が袈裟丸山の山名についての考察である。  
もとより、私は地名の研究者でも専門家でもないが、郷土の山袈裟丸山に関心を持つ登山者の一人として、拙い考察を試みた次第である。独断と誤謬が少なくないと思われるので、識者の叱正を得られれば幸いである。  
参考に、調べた地図の発行年と記載の山名及び直接引用しなかった文献を記す。  
富士見十三州与地之全図 1842年(天保13年) 大ケサ山・小ケサ山  
上野与地全図 大ケサ山・小ケサ山  
上野国地図        1889年(明治22年) 大ケサ山・小ケサ山  
分県上野新図       1893年(明治23年) 大ケサ山・小ケサ山  
大日本名蹟図誌     1901年(明治34年) 大袈裟山・小袈裟山  
群馬県管内全図     1904年(明治37年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山  
大日本分県地図     1907年(明治40年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山  
群馬県管内全図     1928年(昭和03年) 袈裟丸山  
上毛新聞付録地図    1928年(昭和03年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山  
群馬県管内全図     1929年(昭和04年) 袈裟丸山  
下野国誌1850年(嘉永03年) 二子山安蘇郡足尾郷の山つづきにて、日光山より上野国へ越る山中にあり上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本庚申山安蘇郡足尾郷赤岩と云う所にあり、二子山の峰つづきなり、日光山より上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本西の方にありて、七里許あり  
上野国郡村誌       1877年(明治10年)  
勢多郡小中村 / 上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本袈裟丸山其高サ周回等不祥本村西北ノ方位ナアリ反別三百町歩官有ニ属ス嶺上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本郡根利村ニ属シ南ハ本村上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本ニ属ス山脈丑ノ方下野国都賀郡足尾村庚申山ニ連ル  
鹿流川 / 上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本水源袈裟丸山ヨリ発シ字番小屋ニテ大袈裟袈裟川落合又字コフキニ至テ野沢上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本川落合三水相合シテ南方ニ流帯シテ渡良瀬川ニ入ル  
山上多重塔 / 群馬県桐生市新里町  
「如法経」とは法の如く書写した経典のことで、多くは法華経を如法清浄に書写することをいいます。一般的な説では天長10年(833)に円仁が比叡山横川で始めたとされますが、如法経との表現自体は天平勝宝4年(752)5月16日の「自所々請来経帳」をはじめ古文献に散見され、近年の研究により「山上多重塔」が紹介されています。  
山上多重塔は赤城山南麓の舌状台地にあり、周囲は広大な草原、畑で赤城山の悠々たる姿を一望に収めます。所在は群馬県勢多郡新里村でしたが、現在は合併により群馬県桐生市新里町山上2555となりました。国指定の重要文化財として正式には「塔婆〈石造三重塔〉」ですが、通称の山上多重塔と呼ばれることが多いようです。多重塔は明治時代後半の開墾により近くで発見、その後現在地に移されて覆屋に納められ、礎石はコンクリートで固められました。最初に造り立てられた場所も、現在の所在地周辺ではないかと推測されています。材質は多孔質の安山岩を加工したもので、上から相輪、屋蓋、塔身、礎石で構成され、塔身上部に穿たれた円形状の穴には銘文にある「如法経」を納めたと考えられます。  
銘文は塔身の上層、中層、下層に分けて南面から西面、北面、東面へと横に刻まれ、上層に「如法経坐 奉為朝庭 神祇父母 衆生含霊」、中層に「小師道 輪延暦 廿年七 月十七日」、下層には「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と書かれています。読み下せば「如法経の坐である。朝庭(廷)、神祇、父母、衆生、含霊の為に奉る。小師道輪、延暦二十年七月十七日。無限に苦を受ける衆生を兪し、永く安楽を得て彼岸に登らせんが為に。」となるでしょうか。この銘文により、朝廷、神祇、父母、衆生、含霊等あらゆるもののために、無間地獄の受苦にあう衆生が救われ安楽を得て彼岸へ往けるように願い、僧道輪が関わって延暦20年(801)7月17日に如法経を納める経塔が造立されたことが分かります。これは最澄の入唐2年前のことで、円仁の如法経からは30年以上も前になります。また、朝廷から征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷を平定すべく第三次(3期)征討軍を率いて現地に向かい、蝦夷の討伏を奏上した延暦20年(801)9月27日と同年のことでもあります。  
「無間地獄の受苦にあう衆生が救われ安楽を得て彼岸へ往けるように願い」造立された山上多重塔ですが、「為兪无間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」と刻んだ僧・道輪の前にはどのような光景が展開されていたのでしょうか。まず指摘されるのが、朝廷の蝦夷征討によって東国の衆生=民衆が置かれた厳しい現実です。 
群馬県  
群馬県も1869年(明治2年)の廃藩置県後に『県名』が二転三転した県ですが、最終的には前橋の所属していた群馬郡の名前が採用されました。群馬県の領域は、上代には栃木県域と合わせて『毛野国(毛の国)』と呼ばれており、毛野国を上下に分割して『上毛野国(かみつけぬのくに)』といわれる国が、現在の群馬県と重なっていました。飛鳥時代から奈良時代、平安時代にかけての『律令制』の時代には、群馬県のあたりは『上野国(こうずけのくに)』とされ、栃木県のあたりは『下野国(しもつけのくに)』とされました。そのため、群馬県(上野国)の異称には『上州(じょうしゅう)・上毛(じょうもう、かみつけ)』という言い方もありました。  
群馬郡(久留間)は古代では初め『くるまのこおり』と読まれていて、藤原京の遺構から発見された木簡には『車』という一字表記だけで群馬郡を指していました。奈良時代初期に、全国の郡・郷の名を二文字で表記するルールが制定されて、『車』から『群馬』の表記に改められましたが、群馬は『馬が群れる』という意味でありこの地域一体は『良い馬の産地』だったのではないかと推測されています。群馬県といえば『かかあ天下と空っ風・雷』などの言葉で有名ですが、一世帯あたりの自動車保有台数が首位を争っており女性の免許保有率も高いなど、古くから『女性の社会進出・労働参加』が進んでいた地域としても知られます。  
近代日本の繊維業では群馬県は『富岡製糸場・養蚕業』でも有名であり、養蚕・製糸は『おかいこさん』と呼ばれて女性が従事することが多く、現在では製造業も盛んで、遊技機(パチンコ・パチスロ機)の製造拠点としては日本有数の県にもなっています。戦時中も軍需産業が集中する工業の盛んな県であり、高崎市・前橋市・桐生市・伊勢崎市などが工業の拠点になっていました。群馬県は政治的には自民党支持層の多い『保守王国』とされ、戦後は自民党から福田赳夫(高崎市)、中曽根康弘(高崎市)、小渕恵三(中之条町)、福田康夫(高崎市)の4人の総理大臣を輩出しており、地方の県では山口県と並んで首相を出すことの多い県になっています。  
中世期には『治承・寿永の乱(源平合戦)』で、源義仲が多胡郡から西部を支配するようになり、東部には新田荘の新田義重(にったよししげ)が勢力を伸ばしました。この源平合戦において、新田荘の隣の足利には秀郷流藤原氏の惣領である藤原姓足利氏がいて平家に付きましたが、秀郷流藤原氏の一族である新田氏やその分家(里見・山名)は源氏(源頼朝)に味方しました。乱の勝者となる源頼朝の敵になった源義仲に付いた『佐位氏・那波氏・桃井氏』や平家に味方した『藤原姓足利氏』は没落することになり、頼朝に付いた東国武士団は『鎌倉御家人』として源氏に臣従しました。  
鎌倉末期には、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕活動に新田義貞と足利尊氏が協力して『建武の新政』にも参加しますが、結果として建武の新政は失敗して足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、天皇方についた新田義貞を打ち破って、1338年に京都で室町幕府を開設します。足利尊氏と足利直義の兄弟が争いあった『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)』の後には、現・群馬県の『上州武士』は守護となった山内上杉家の被官(御家人)になっていきますが、上州武士の集団性は戦国時代まで続いたとされます。戦国時代においては、鎌倉公方(堀越公方)を補佐していた『山内上杉家』が戦国大名化して影響力が強くなりますが、相模国に台頭した新興勢力の『後北条氏』と対立して敗れたことで、上野国は後北条氏が統治するようになっていきます。  
上州から追われた山内上杉家は越後国の守護代である長尾氏を頼り、長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を継承していきますが、この長尾景虎が後の上杉謙信になります。上杉謙信は信濃北部で武田信玄と4度にも及ぶ『川中島の戦い』を行いますが、上野国を含む北関東では後北条氏と向き合っており、現・群馬県では『上杉氏・武田氏と後北条氏(甲相同盟)』がぶつかり合う対立状況が生まれていました。上杉・武田・後北条の三者関係では、『甲相同盟・越相同盟・甲越同盟(甲州の武田・相模の後北条・越後の上杉の間の同盟)』が頻繁に結びなおされて複雑な政治・軍事が展開されましたが、最終的には豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅ぼされ、上州(上野国)は徳川家康の家臣が統治するようになっていきました。  
徳川将軍家が幕府を開く江戸時代になると、東国の防衛拠点である上州には譜代大名が配置されるようになり、『前橋藩・高崎藩・沼田藩・館林藩・安中藩・小幡藩・伊勢崎藩・吉井藩・七日市藩』など沢山の藩が置かれました。交代寄合旗本では岩松(新田)氏の岩松陣屋があり、岩鼻には上野国内の幕府領を支配する代官のための陣屋(岩鼻陣屋)が置かれたので、群馬県は廃藩置県の前には『岩鼻県(いわはなけん)』とされた時期もありました。明治2年(1869年)12月26日には、版籍奉還後の『府藩県三治制』に基づいて『岩鼻県』が置かれますが、明治4年(1871年)10月24日には『高崎県』に改められました。  
しかし、『高崎県』とする旨が大久保利通と井上馨の名前で通達されたわずか3日後の1871年10月27日に、『群馬県』とする変更が行われました。この短期間での県名変更の理由は、『高崎藩8万石』と『前橋藩15万石』との威信をかけた対立であり、どちらの藩も自らの藩名を県名にしたいという思いを持っていたのですが、明治新政府は対立を調停するために二つの地域が含まれている『群馬郡』の群馬を県名として採用したのでした。明治4年(1871年)11月19日には、群馬県の県庁が高崎城跡地に建てられる計画が立てられますが、富国強兵の国策によって高崎城は兵部省によって接収されることになり、県庁の建設予定地から外されてしまいます。  
明治5年(1872年)5月27日に、県庁の建設予定地が『高崎』から『前橋』に変更されることになり、元前橋藩をライバル視していた元高崎藩の人たちの不満が募ってしまいます。更に明治6年(1873年)6月15日に、『群馬県』がいきなり廃止されてしまい、群馬県の領域は『入間県』と『熊谷県』の管轄になったのですが、その理由はただ当時の県令であった河瀬秀治(かわせしゅうじ)が入間県と群馬県の県令を兼務していて、県庁所在地の川越と前橋が離れすぎているので政務がとりにくいということだけでした。『熊谷県』となった群馬県の県庁所在地は、前橋ではなく高崎に置かれるという変更もそこに加わりました。  
明治9年(1876年)8月21日には、再び『群馬県』という県名が復活することになりますが、県庁所在地は『前橋』には戻らず、熊谷県時代と同じ『高崎』のほうになりました。しかし明治9年(1876年)9月21日には、当時の県令・楫取素彦(かとりもとひこ)が『高崎』ではなく『前橋』のほうで執務を行いたい旨を宣言して政府がそれを許可するという事態になります。それに対して、高崎では『県庁を前橋ではなく元の高崎に戻してほしい』という嘆願運動が起こるのですが、高崎側の住民が嘆願書を提出しても県から即座に却下されました。高崎の抗議運動は過熱しかけましたが、県令の楫取素彦がじきじきに出向いて『県庁を前橋に置くのは地租改正の事業が終わるまでのことで、一時的に執務上の都合で移転しているに過ぎない。いずれは高崎のほうに県庁を戻す。』と約束したために、抗議は沈静化しました。  
しかし、楫取素彦県令はこの高崎市民との約束を守ることなく、明治14年(1881年)2月16日に、『前橋での執務に馴染み落ち着いてきたので、正式に前橋のほうを県庁所在地にしたい』と政府に申し出てそれが承認されてしまいます。約束を破られた高崎市民は憤慨して前橋の県庁へと押し掛け、激しい抗議活動が行われましたが、楫取県令は『高崎の住民と県庁移設に関して正式の約束をしたことはない』と突っぱねました。  
明治14年(1881年)8月10日〜11日にかけて、数千人以上の高崎市民が抗議のために早朝から県庁へと押し掛け、シュプレヒコールを上げましたが、県はかつての約束を知らぬ存ぜぬで通し、デモ行動に対して『惣代人無効の達(たっし)』を出して牽制しました。この高崎市か前橋市かの県庁所在地の問題は、法廷闘争にまで縺れ込みましたが、結論としては高崎側が敗訴して群馬県の県庁所在地は、現状のまま前橋市にするという判決がでました。『高崎市』は県庁所在地では『前橋市』に遅れを取りましたが、現在の市の経済状況や街(都市)の賑わいにおいては、高崎市のほうが前橋市を超えて発展していったという皮肉な歴史の流れも指摘されます。  
 
茨城県

 

●泊崎大師堂 / 茨城県つくば市泊崎  
弘法大師 大同年間(806-810) 創建  
泊崎大師堂は、その名のとおり、牛久沼の中央に突き出た泊崎にあり、弘法大師(空海)が、大同年間(806〜810)に泊崎に来て、千座護摩をおさめたところに建てられたと伝えられています。現在ある社殿は、寛保4年(1744)に再建されたものです。昔から縁結びと長寿にご利益があるといわれ、人々に愛されてきました。今では長患いせずに人生の最後を迎えられるということで多くの人々の信仰を集めています。泊崎には、現在も弘法大師にまつわる伝説が残っています。  
泊崎大師堂2  
空海(弘法大師)は、平安初期の大同年間(806〜810)にこの地を訪れ千座護摩を修め、その場所に泊崎大師堂が建てられたと伝えられている。佐貫駅方面から見ると、ちょうど牛久沼対岸の突き出しところに位置している。茨城百景にも選ばれていて、ここから見下ろす風景は、180度の大パノラマに、神秘的で静寂な沼が広がっている。  
空海とは / 平安初期の僧。真言宗の開祖で、俗姓佐伯氏。幼名真魚(まお)という。空海というより諡号(しごう)弘法大師の方が親しみやすく一般的である。各地を転々としながら修行を行い、其の為か全国津々浦々に空海に纏わる伝承が伝えられている。この牛久沼畔泊崎においても然りである。延暦二三年より、唐にて真言密教を学ぶ。大同元年に高野山に金剛峯寺を建立。書にすぐれ、三筆の一人といわれ、弘法も筆の誤りなどのことわざの語原になっている。著に「三教指帰」「文鏡秘府論」「文筆眼心抄」「篆隷万象名義」「性霊集」「十住心論」「秘蔵宝鑰」「即身成仏義」、書簡「風信帖」などがある。(七七四〜八三五)讚岐(香川県)の人。  
当時の牛久沼 / 昔は旧鬼怒川(現小貝川)が常に氾濫し、沼はそのまま広範囲な湿地帯となっていた。人々は小船に乗って沼の周囲を行ったり来たり、葦の群生に櫂を取られることもあっただろう。筑波山は今も昔も変わらない姿をしていた。  
空海伝説  
空海の歩いた足跡に伝説が付き纏う、此れほどまでに伝説・伝承の多い人物は稀である。全国津々浦々に空海伝説があり、その数約300編を越えるといわれている。伝説は史実では無く、実際に起きた出来事のように脚色されたものである。この泊崎に伝わる伝説もおそらく民間伝承で史実と無関係だと思う。だが、空海はこの地に立ち寄って、この素晴らしい風景を見て、即身成仏の境地を切り開いたのではないかと、勝手な想像をしたくなる程、牛久沼は神秘的である。  
駒の足跡 / 木瓜(ほけ) / 逆松 / 独鈷藤(とつふじ) / 硯水 / 五葉の杉 / 法越(のつこし) / 弁天像 / 弘法大師の使い
●八溝山日輪寺 / 茨城県久慈郡大子町上野宮字真名板倉  
弘法大師 大同2年(807) 再建  
日輪寺は茨城・福島・栃木の三県にまたがる八溝山脈の主峰、標高1020mの頂上にある八溝嶺神社から300mほど下った地点にある。「八溝知らずの偽坂東」といわれ、遥拝ですましてしまう者がいたほどの坂東札所第一の難所である。  
『坂東霊場記』には「春夏巡礼のはか、尋常の往来なければ熊笹一面に生茂り、更に道の綾分ち難し」とある。今は町道を利用して自動車が行くので、これも昔語りとなった。大子から久慈川をたどり、さらに八溝川をさかのぼる。やがて茨交のバスの終点蛇穴に着く。も とはここから登拝にかかったものである。蛇穴の先にもとは古い大鳥居があったが、これ は日本武尊の創建と伝える八溝嶺神社のものである。  
「八溝」という地名は、もとこの地に源流を発 する川のことで、ヤは接頭語、ミゾは川のことで あるというが、それより日本武尊が東征の折、ここまで来られ、「この先は闇ぞ」といわれたのによるという話の方が面白い。現在でも原生林におおわれた日輪寺はまさに山岳信仰の霊地といえる。  
寺伝によれば、天武の朝(六七三)役ノ行者の創建といい、「八溝日輪寺旧記書類写」によれば大同2年(807)に弘法大師が八溝川の流水に、香気と梵文とを感得され、再建されたという。大 師はこの山の姿が八葉の蓮華を伏せた如くであったのと、この山の鬼人を退治された時、狩衣を着た二神(大己貴神・事代主神)が現われたのを、二体の十一面観音として刻み、日輪・月輪の二寺を建て、観音霊場とされたのであった。仁寿3年(853)慈覚大師の来錫を緑として天台の法流 に属し、今日に及んでいる。  
●村松山虚空蔵堂 [日高寺] / 茨城県那珂郡東海村  
弘法大師 大同2年(807) 創建  
本尊/満虚空蔵尊は、空海が霊木で彫った日本三大虚空蔵尊の一つ。他は会津の柳津町・円蔵寺/福満虚空蔵尊、千葉県鴨川市・清澄寺/能満虚空蔵尊(清澄寺の代わりに 三重県伊勢市・金剛証寺とも)。  
(むらまつさんこくうぞうどう) 茨城県那珂郡東海村にある真言宗豊山派の寺院。寺号は日高寺。本尊は空海(弘法大師)作の伝承をもつ虚空蔵菩薩である。三重県伊勢市の伊勢朝熊山金剛證寺及び福島県河沼郡柳津町の圓蔵寺とともに日本三大虚空蔵堂の一つとされる。地元では村松山の虚空蔵さんと呼ばれ親しまれているほか、茨城県北部や栃木県下では虚空蔵さんと言えば概して当寺を指す。  
縁起等によれば大同2年(807年)に空海(弘法大師)によって創建されたとされる。空海が真言密教を日本全土に広めるために各地を巡化した際に、この地で海の彼方に光る物ありとの話を聞き、それを引き上げさせたところ大きな老木であったので、それを等身大の虚空蔵菩薩像に刻みこの地に安置したのが始まりとの伝説がある。円仁(慈覚大師)の開基とする縁起もあるが、文献の多くが失われていて定かではない。創建の際、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜わった。  
鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて常陸国を治めた佐竹氏の庇護を受け隆盛を極めたが、文明17年(1485年)、戦火により勅額も含め焼失している。その後、長享元年(1488年)に白頭上人により再建され、名称を「村松山神宮寺」から「村松山日高寺」に改められた。  
江戸時代にはいり、徳川家康から朱印50石を寄進された。水戸藩2代藩主・徳川光圀は寺を竜蔵院、竜光院の二院に分け、宗派を修験道に改め、虚空蔵菩薩を修飾しその台座に「日域三虚空蔵之一而霊応日新」と刻んだ。  
明治3年(1870年)の廃仏毀釈より「星の宮」と改称されたが、翌明治4年(1871年)には「虚空蔵」と称することが許可され再び「真言宗日高寺」となった。明治33年(1900年)、近隣の民家の火災から堂塔伽藍すべてが類焼するが本尊は災を免れた。その後、順次堂塔伽藍が再建され現在に至っている。  
村松山虚空蔵堂2  
大同2年(807)弘法大師の創建と伝える。平城天皇より「村松山神宮寺」の勅額を受く。なお慈覚大師創建との説もあるが、いずれにせよ創建の事情は不明な部分がある。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)に「神明鏡」(作者不明、室町期の著述と推定)の慈覚大師(圓仁)の事跡記事の紹介がある。「神明鏡」では村松は慈覚大師の創建とする。中世には佐竹氏の庇護を受け大いに隆盛する。当時、円蔵寺、松林寺、歓喜寺、東光寺、竜蔵寺、竜光院等の寺中があったと云う。  
文明17年(1485)兵火により鳥有に帰す。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年):「和漢合運図」文明17年の項では「佐竹乱、村松堂塔焼」とある。佐竹の乱とは佐竹義治と陸奥の岩城常隆との攻防を云う。  
長亨元年(1488)白頭上人再興し、村松山神宮寺を改め、村松山日高寺と称する。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年):「和漢合運図」長享元年の項に「頭白上人村松建立」とある。なお、「和漢合運図」は水戸和光院に伝来した書き継がれた年表である。  
この頃、村松虚空蔵堂は太田・正宗寺が別当で、江戸初期までこの関係は続く。  
慶長15年(1610)徳川家康朱印50石を寄進。  
江戸期には、竜蔵院、竜光院を夫々別当とし、修験道に改宗す。  
※寛文3年(1663)徳川光圀は領内の寺社整理を企図し、「開基帳」(寺社基本台帳)の作成を命ず。この「開基帳」によれば、虚空蔵堂は村松東方龍蔵院(別当瀧之坊、水戸吉田一乗院末)と村松西方圓蔵院(別当前之坊、寺沼如意輪寺末)の支配であることが分かる。  
※天和3年(1683)龍蔵院と圓蔵院との間に争いが生じ、光圀は改めて修験行者太田村龍蔵院に正別当瀧之坊を命じ、龍蔵院下住(霞)大田村龍光院が前之坊の名称を与えられ、脇別当に任ぜられると云う。天保の検地絵図:龍蔵院・龍光院が描かれる。天保の検地のとき、検地絵図も作成される。この検地の時、村松東方と西方は統合され村松村に一本化されると云う。  
「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)には論述がないが、おそらく村松山虚空蔵堂(日高寺)と五社明神は一体であったと推測される。  
※以上のことは五社明神(現在の村松大神宮)のサイトの「御由緒」(以下に要約)から窺うことができる。即ち「「和銅元年(708)に奉斎」とされ、「大同年中(806〜810)平城天皇より『村松五所大明神』の御勅號を賜る。」「中世に至り戦乱の世となり、社殿も戦火を被り神領も侵犯され荒廃し祭祀などできる状態ではなくなり、戦火を逃れるため永享7年(1435)神璽を奉じて、奥州名取郡藤塚に奉遷した」と云う。  
江戸期には「朱印地三十三石餘と神地二十四町の寄進があり、元禄7年(1694)徳川光圀は、新たに神殿を造営し同9年あらためて伊勢皇大神宮より『御分霊』を奉遷、『天照皇大神宮』と奉称」する。  
「勤皇の志士が多数参宮し、皇大御神の御神徳を仰ぎ、尊皇敬神の念を高め、明治維新の礎」をなすとも述べる。  
ついでにいえば、「昭和31年より神池『阿漕浦』の水を日本原子力研究所へ分水。世論を分ける大論争となるも、『地域の発展と日本の未来のために』との先代宮司の英断によるものでした。それにより、わが国初の『原子力の火』をともすことに成功。以来核燃料サイクル開発機構・日本原子力発電株式会社・日本電信電話株式会社へも分水。」と誇る。  
※【近世史料W 加藤寛斉随筆(茨城県史編纂近世史第一部会刊)】では「・・・五社明神ハ、義公(光圀)地神天照大神と御定ニ遊しより、今ハ伊勢の大神の写と思ふ、・・・」とあり、これは的確な表現と思われる。以上は要するに、水戸光圀は封建領主として虚空蔵堂の世俗に介入し、さらに精神世界にも介入し五所明神と虚空蔵尊を分離、五社明神に伊勢大神(アマテラス)を勧請したということであろう。あるいは明治の神仏分離に先行する元禄の神仏分離とも云うべき処断であったのであろうと推測される。  
「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)では、その後光圀は巨資を投じ伽藍の造替を行うが、佐竹氏縁の僧侶を嫌忌し真言宗日高寺を廃すと云う。  
※真言宗日高寺を廃すとは意味が良く理解できないが、如何なることなのであろうか。  
明治3年神仏分離により「星の宮」と改号する。  
※「村松山虚空蔵縁起」(平成19年)には経緯などの論述がなく、何らかの強制力が働いたかどうかなどは不明。  
※日本における虚空蔵菩薩の信仰は真言宗などの密教の中で成立する。空海は虚空蔵求聞持法を教授され、その奥義を取得する。天台系では安房鴨川清澄寺にて虚空蔵求聞持法を修する。清澄寺は天台から真言に改宗、戦後日蓮宗大本山となる。  
※天台系教説では「明星天子の本地は虚空蔵菩薩なり」と説くようであり、このような教説が復古神道家などに逆利用されたのであろうか。  
明治4年「虚空蔵」の称号が認可され「星の宮」より改称、真言宗日高寺となる。  
明治33年(1900)民家から失火、本堂、仁王門、三重塔、客殿等悉く類焼す。ただちに仮本堂・庫裏などが再興される。  
大正元年本堂再建、大正6年書院再建。  
昭和9年奥之院多宝塔・客殿が寄進される。  
昭和45年仁王門再建、昭和55年鐘楼再建、平成10年に三重塔が再建される。  
現在は真言宗豊山派。伊勢朝熊山金剛證寺、陸奥柳津霊厳山円蔵寺とともに日本三体虚空蔵尊のひとつと称する。  
※あるいは、安房鴨川清澄寺を伊勢朝熊山に代えて、日本三体虚空蔵尊のひとつとする説もある。  
●円満寺 / 茨城県古河市小堤  
弘法大師 大同4年(809) 開山  
宝林山円満寺。真言宗豊山派の寺。大同4年(809)、弘法大師空海の開山とされる古刹。 平安時代の作とされる密教の法具、五鈷鈴(ごこれい)、三鈷杵(さんこしょ)などが茨城県指定文化財。  
●龍蔵院 / 茨城県古河市柳橋  
弘法大師 創建  
柳橋山。真言宗豊山派の寺。白衣観音と牡丹で知られる。仏法の守護神、八大龍王の伝説が残る。弘法大師が奥州・湯殿山に登った帰途、この地で沼を渡れずに難儀していると、不思議な老人が現れ、近くの柳の木の8本枝を橋に変え、渡れるようにした。 弘法大師がお礼を言おうと振り返るとすでに老人の姿は無く、仏法の守護神、八大龍王の化身と感じたという。 弘法大師はこの地に堂宇を設け、龍堂と名づけたとされる。  
 
ひたちなか市  
許奴美之浜   
許奴美之浜についてはここ常陸国磯崎の他に駿河国の手児の呼坂・石城国久ノ浜等が名乗りを上げていて定め難いようだ。  
磐城山 こえてぞ見つる 磯崎の こぬみの浜の 秋の夜の月    藤原忠通  
磯崎の こぬみの浜の 友ちどり 朝みつしほに 声さわぐなり   藤原定家  
那珂湊市の平磯から磯崎の海岸線は忠世代白亜紀の岩石が露出て連なり、獅子石、海老磯、源次郎万次郎磯、明神磯、竜宮卯磯、鷹だて磯、畜生(酒列磯)等の奇岩・名石がり、それぞれ伝説・史話に富み、住民からは神磯として崇められる磯もある。護摩壇磯もその一つで、海へ(向って突出する立方形の岩石で阿字石、清浄石、箱磯、釜石の名がありその形が阿の字ににてるので、弘法大師護摩を焚き阿字観をしたからであると伝える。(茨城県の地名)  
左奈都良の岡  
日本地名史蹟大辞典によると磯崎 佐奈都良の岡とあり比定・推定地として許奴美の浜近くの磯崎に印がある。  
阿多可奈湖(みなと)  
那珂川付近の水道ともいわれ常陸風土記香島郡の項には『東は大海、南は下総と常陸との堺にある安是湖、西は流海、北は那賀と香島の堺にある阿多可奈湖なり。』とある。  
「阿多可奈湖」の位置については、涸沼にあてる説(『新編常陸国誌』など)と那珂湊の古名とする説(『大日本地名辞書』)などがあり、たとえば、『新編常陸国誌』は、「阿多可奈湖」とは「暖湖」という意味で、涸沼が「水勢疾カラズ、水留滞シテ清冷ナラズ」という状態であるところからこう名付けられたとしている。  
ただし、涸沼説にせよ、那珂湊説にせよ、一長一短があり、いずれにしても、古代の地形が、現在の地形とそっくりそのまま同じであったとは、とうてい考えられず、おそらくは現在よりは入海化していたものと思われるから、「ミナト」は「水門を」の意で河川の河口を指し、「阿多可奈湖」とは、「古の那珂川の河口で涸沼はおそらくは其跡であらう」(松岡静雄『常陸風土記物語』)と考えるのがよい。涸沼を含む古の那珂川の河口を「阿多加奈湖」といったのである。  
『将門記』に「吉田郡蒜間之江辺」とみえる「蒜間之江」が涸沼を指すことは異論がない。この蒜間について中山信名は「亦日中ヲ比留麻ト伝ヘル義ニテ、亦暖湖ノ意ヲウケタルモノニヤタシカナラズ」(『新編常陸国誌』)と述べている。その他、涸沼の名称を近世文書等から拾うと、「蒜間湖」「乾沼湖」「日沼」「干湖」「蒜湖」「広浦」とさまざまである。中山信名も「粉々弁ジ難シ、タダコノ湖ノ水源、大橋村ノ土人伝ル所ハ、全ク比留麻ナリ、其水路ニテ笠間、長岡ノ辺、伝ヘ云ヘルモ亦同ジ、ヨク其語ヲ伝ヘタルモノナリ」(『新編常陸国誌』)と記しているから、「ヒルマ」の名は古代から近世までよく伝承されていたのであろう。  
仏ヶ浜と仏浜 / 茨城県日立市田尻町  
仏浜と度志観音  
茨城県日立市田尻町字度志前に茨城県の指定をうけた史跡「佛ヶ浜」(この指定名称は、佛と正字が用いられているが、浜は常用漢字に直されている)がある。市立田尻小学校の南側の崖地にある。この史跡は和銅年間(708−715)に編纂された「常陸国風土記」にある「仏浜」を、ここに江戸時代からあった度志観音(観泉寺)に比定したうえで、1955年(昭和30)6月に史跡「佛ヶ浜」と指定したのである。  
しかしこれには後年異論がでた。永沼義信が「小木津浜の磨崖仏と空久保の五輪塔」14で、仏浜は小木津浜の東連津川左岸の河口にある十二体観世音のある場所だと指摘したのである。現在では小木津浜の磨崖仏は1、2体がようやくみえるのみであるが。  
近年になって永沼同様の異論を耳にすることのある「仏浜」の比定地について検討してみる。  
まず仏浜に関して常陸国風土記の記述を『常陸国風土記』(沖森卓也ほか編)8によってみる。沖森らが拠ったのは、水戸彰考館本の忠実な写本で、最も優れた常陸国風土記のテクストとされる菅政友本1である。  
その多珂郡の条に  
国宰、川原宿禰黒麻呂時、大海之辺石壁、彫造観世音菩薩像。今存矣。因号仏浜。  
とある。訓読みすれば  
くにのみこともち、かわらのすくねくろまろのときに、おほうみのほとりのいわぎしに、くわんぜおむぼさちのみかたをゑりつくりき。いまもあり。よりてほとけのはまとなづく。  
二つの文献  
史跡指定を受けるにあたって申請者は、何を根拠にして仏浜を度志観音があるあたりだと言ったのか。申請者は日高村役場(代表者は村長)、申請は1954年(昭和29)である。日立市への合併が決まっていた時期である。申請書を見ていないので確かなことは言えないが、日高村役場が根拠にしたことをうかがわせる二つの文献がある。  
ひとつは、1925年(大正14)に刊行された『多賀郡郷土史』10である。度志観音について次のように記述する。  
観音堂日高村大字田尻字度志前にあり、境内二百十六坪、信徒六百四十人、宗派真言宗、本尊正観世音、岩壁彫造なり、崩落するも亦形を存して消滅することなし、由緒風土記云、国宰川原宿禰黒麻呂時大海之辺石壁彫造観世音菩薩像今存矣因号仏浜云々、蓋し是れならん、或云弘法大師の作なりと  
ここでは度志観音の岩壁に彫られた像を弘法大師の作によるとの説もあることを紹介している。弘法大師空海は宝亀5年(774)生れ、承和2年(835)に没する平安初期の僧である。風土記の編纂時期から百数十年ほど後のことである。  
もうひとつは、日高村が日立市に合併する直前の1954年(昭和29)、つまり指定申請年に発行された『日高郷土史』(『郷土史』と略)11である。『郷土史』は風土記の記事を紹介しながら  
田尻については、やはり常陸風土記に国宰川原の宿禰黒麿の時大海のほとりの岩壁に観世音菩薩の像が彫つてあつてそのために此の浜を仏浜と言つていると記載されてあるのを考えるとこの常陸風土記の出来る一二〇〇年も前に既に度忘(ママ)観音の石彫りはあつたのである。*  
この根拠として風土記の本文を記載し、続けて  
註 曰按仏浜未詳其所在或曰田尻村山中岩窟彫刻之度志観音像蓋是也  
と引用している。この『郷土史』が引用する註は、出典を記していないので、誰の本からの引用なのか、確かめられない。  
*「風土記の出来る一二〇〇年前に既に度志観音の石彫りはあった」という表現に少しの間混乱させられた。風土記が成立する8世紀のさらに1200年前の川原宿禰黒麻呂の時代に観音像が彫ってあったのか? そうではなくて、今から1200年前の常陸國風土記が書かれたときにはすでに観音像は彫られていた、と理解するのに少々時間がかかった。  
仏浜=度志観音説の根拠は  
『郷土史』が紹介する註の出所らしきものがある。それは天保10年(1839)に刊行された西野宣明校訂による『常陸國風土記』2である。この本の仏浜の記述の頭註に次のようにある。  
按佛濱未詳其所在、或曰田尻村ノ山中ニ岩窟所彫刻之度志観音像蓋是也、鍋田三善云今陸奥國楢葉郡有佛濱村蓋是也  
『郷土史』が紹介する註は「鍋田三善云」以下を落としているが、それ以外はほぼ同じである。ちなみに鍋田の言う仏浜村は陸奥国楢葉郡にあり、1889年に隣村と合併し、富岡村となり、現在は福島県双葉郡富岡町である。この鍋田の比定は位置関係からいって問題にならない。  
西野本は広く刊行されたので、『郷土史』が参照したものはこれでなかろうか。  
また幕末、潮来の郷士で学者である宮本元球(茶村)が『常陸誌料 郡郷考』3の中で風土記の仏浜の条をひいて「この石像、今村中 観泉寺境内 にあり」と書いている。観泉寺は度志観音のことである。『郡郷考』も幕末に刊行されているので、『郷土史』は見ているかもしれない。  
あるいは栗田寛が西野本を頭註を含めて収録している『標注古風土記』4を読んでいたかもしれない。栗田は、水戸生れ、彰考館に出仕し、のちに帝国大学文科大学教授となった歴史学者である。
仏浜=度志観音説の再検討  
再検討のために、まず常陸国風土記の記載順をみてみる。多珂郡においては、飽田村−仏浜−藻島駅家という順序である。久慈郡における沿岸部の記載はどうなっているか。高市−密筑里−助川駅家という順になっている。これから言えることは、風土記の日立地方における記述は、南から北へむかっている、あるいは「下り」の方向にあるとみるのが妥当だろう。  
とするなら、仏浜は飽田村と藻島駅家との間にあるということになる。飽田村は相田町に、藻島駅家は十王町伊師からその北方に比定されており、異論がない。ところが度志観音のある田尻は相田の南にあり、順路がくるってくる。冒頭で紹介した永沼説の小木津浜は順路内に収まるのである。  
また「大海之辺」という記述に関して、度志観音の標高についてみてみよう。度志観音のある南側の水田(現在は住宅地)は標高10メートルほどある。縄文時代前期、温暖化による海進があって現在より3〜5メートルほど海水面を押しあげたという。縄文海進から数千年後の風土記の時代においてなら、なおさら海辺から西方内陸部に1キロメートルほど入ったところにある度志観音は「大海之辺」にはほど遠い。「往事は海が深く湾入されていて、この地まで波が寄せていたと推定される」という『茨城の文化財 第二集』12の説明は、少々無理があるのではないか。といっても縄文海進が知られるようになったのは、この30年ほどのことであるので、指定当時とすれば可能な推定ではある。  
ともかく永沼が比定した小木津浜の十二体観世音は海辺から100メートルもないところにある。たしかに「大海之辺」である。  
現代においてこの二つの点においてみるならば、仏浜=度志観音は少々無理がある。ただし県指定の名称は「佛ヶ浜(度志観音を含む)」とある。また指定範囲は地番表示などせずに限定していないところを考えると、度志観音を含む広い範囲を仏浜としている、のだと解釈すれば(度志観音もあわせて史跡指定したと読みとれないこともないが)、誤りではないであろう。  
ちなみに指定後の1959年に刊行された『日立市史』13の記述は「度志観音は…小丘の中腹に露出する岩壁に彫られた正観音を本尊とし…(常陸風土記に記されている仏浜)の観音像とは度志観音であるともいわれている。…なお仏浜は度志観音を含めて、昭和三〇年六月二五日茨城県の文化財史跡に指定された」と実にそっけなく、よそよそしい記述である。『日立市史』も疑問を払拭できなかったのだろうか。  
奈良時代のことである。1300年前の一片の記述を元に確定的に言うのはむずかしい。考古学的に遺構と遺物が発見されてはじめて確定的なことが言えることである。そんなわけで本稿は仏浜の比定地を決定づけようとする目的はない。むしろ関心は次の項である。  
度志観音説が採用された理由  
地元に仏浜の伝説がふるくからあったのではない。江戸時代に何人かの歴史学者が仏浜=度志観音とあてていたにすぎない。そのほかに度志観音のほかに福島県富岡町の仏浜説もあったし、度志観音の磨崖仏は弘法大師の作だという伝説もあった。にもかかわらず、仏浜に度志観音が宛てられた理由とはなんだろうか。  
江戸時代の「水府志料」「みちくさ」その他の地誌や道中記に度志観音はでてきても、仏浜についての記載はない。江戸時代においては仏浜の場所を特定できていなかったのである。というか常陸国風土記はきわめて一部の学者にしか知られていなかった。つまり常陸国風土記の研究史はないに等しかった。幕末になって初めて西野が「仏浜は度志観音があるところだ」と言い出したことなのである(その後宮本元球も言っているが、西野を参照したうえで言っているはず)。西野は現地を歩いたのだろうか。歩いていれば、あるいは土地鑑のある人物に尋ねていれば、別の書きようがあっただろうにと思う。  
しかし『郷土史』が西野説を簡単に採用してしまったことに疑問が残る。『郷土史』の著者は地元の研究者である。小木津浜の磨崖仏を知らなかったとしても、風土記に記載された仏浜の位置関係はすぐに思い浮かんだはずだ。西野、宮本の説のあやうさに気付いたに違いない。にもかかわらず、度志観音を仏浜にあてたのはなぜか。  
彼に御国自慢的な発想がなかったとは言い切れまい。はるか古代の風土記に記された地を現在の地に比定するという冒険によって得られるものへの誘惑に負けてしまった。指定時において、度志観音の土地所有者でさえ「風土記にある岩窟は別の所にあるものではないか」と県の審議官に言っていたのにもかかわらず。…はやりすぎたかのかもしれない。  
しかし一部地元の異論を押し切ることができたのは、西野説を採用した帝国大学文科大学(東京大学)教授の栗田寛の著書4が裏付けとなっていたかもしれない。また『大日本地名辞書』9が宮本の説を「郡郷考、仏浜の石像、今観泉寺に在り」として採用していたことも後押ししたかもしれない。  
彼は迷っていた。しかし郷土史の編纂にあたって役場から要望されていること、村民から期待されていることを感じとったのだろう。その期待に応えたい、と思った。素直な感情だろう。村史の編纂事業を委託されるほどの人物なら自然と湧いてくる感情だろう。それらを後押ししたのが、弘道館の学者西野、水戸藩郷士で学者の宮本、東大教授の栗田、『大日本地名辞書』の吉田らの「権威」であると言ってよいだろうか。  
村の要望、村民の期待とは。日高村は日立市への吸収合併が翌年(1955年)にせまっていた。県指定の文化財があれば、新興都市日立市に吸収されたあとでも住民の「誇り」が保たれる。日高村の当局者にこんな意図があったとしても不思議ではない。それに『日高郷土史』の著者が過剰にかつ親切に反応したのではないか。推測である。  
ほとけがはま・ほとけのはま  
もうひとつ、わからないことがある。「常陸国風土記」を紹介する1の菅政友から11の宮田、そして13までの史料・文献は「仏浜」と表記しており、「仏ヶ浜」ではない。  
また傍訓を付している2・4・6・8・13はすべて「仏浜」を「ほとけのはま」としている。「ほとけがはま」ではない。いつ、だれが、「ほとけがはま」と言い出し、「仏ヶ浜」と表記したのだろうか。確認できるのは、茨城県の史跡として指定されてからのことのようである(『日立市史』は仏浜としている)が、どのような理由からか、わからない。  
なぜ「の」なのか。これもわからない。たとえば、常陸国、久慈郡、密筑里、多珂郡、藻島駅家…。これらは「ひたちのくに、くじのこおり、みつきのさと、たがのこおり、めしまのうまや」。固有名詞と一般名詞がつながるとき「の」でむすぶというルールがあるらしい。例はふさわしくないが、仏浜は似たようなものではないか。本稿ではこれ以上立ち入ることはしない。国語学の分野なのだろうか、専門のかたのご教示を得たいものである。  
わからないことだらけである。  
表記と読みについて提案  
「ほとけのはま」」の表記は、佛濱、仏浜、「ほとけがはま」は佛ヶ浜、仏ヶ浜、とさまざまである。「ヶ」を入れるのやめて、佛濱、仏浜(正字を使おうが異体字を使おうがいずれも可)とし、やわらかに響く「ほとけのはま」とよむのはどうだろうか。
注  
テクスト  
1 菅政友「常陸風土記 彰考館本」(文久2年写 1862) 茨城県立歴史館蔵  
2 西野宣明『常陸國風土記』(天保10年刊 1839) 茨城県立歴史館蔵  
参考文献  
3 宮本元球 『常陸誌料 郡郷考』(万延元年刊 1860) 茨城県立歴史館蔵  
4 栗田寛『標注 古風土記』(1899年 大日本図書)  
5 秋本吉郎校註『風土記』(日本古典文学大系 1958年 岩波書店)  
6 久松潜一校註『風土記』(日本古典全書 1959年 朝日新聞社)  
7 飯田瑞穂校訂「常陸國風土記」(『茨城県史料=古代編』 1968年 茨城県)  
8 沖森卓也ほか編『常陸国風土記』(2007年 山川出版社)  
その他参考文献  
9 吉田東伍『大日本地名辞書 第6巻』(1907年 1980年版)  
10 塙泉嶺『多賀郡郷土史』(1925年)  
11 宮田実『日高郷土史』(1954年 日高村役場)  
12 茨城県教育委員会編『茨城の文化財 第二集』(1958年 茨城県教育委員会)  
13 日立市史編さん会『日立市史』(1959年 日立市役所)  
14 永沼義信「小木津浜の磨崖仏と空久保の五輪塔」(『文芸ひたち』第68号 1990年)  
佛ヶ浜(ほとけがはま)  
日立市の田尻小学校南側、崖縁の岩壁に度志観音(どじかんのん)の像があるが、この史跡を佛ヶ浜という。また、佛ヶ浜は大田尻の辺だと伝えられている。これに対しては異説もあるが、観音像は蝦夷鎮定のために、陸奥国の入口にあたる道前里(みちのくちさと)飽田(あいた)村(現在の田尻から太田尻付近)に彫造されたのは確かなので、田尻から大田尻あたりを当時の佛ヶ浜の遺跡とするのは妥当である。佛ヶ浜は度志観音を含め、茨城県の文化財史跡に指定されている。  
茨城県  
現在の茨城県は古代の律令体制の令制国(りょうせいこく)では、『常陸国(ひたちのくに)・下総国(しもうさのくに)』に該当しますが、近世江戸期の歴史では“天下の副将軍・水戸光圀(徳川御三家)”や“尊王攘夷を説く水戸学”でよく知られています。茨城県の読みは『いばらぎけん』と濁音で誤読されることも多いのですが、正しくは『いばらきけん』であり、その全国的な知名度は水戸と比べるとそれほど高いものではありませんでした。  
茨城県の水戸というと現代ではテレビドラマの『水戸黄門(水戸光圀を主人公とする勧善懲悪のフィクション)』や『特産物の水戸納豆』をイメージしやすいですが、江戸時代の幕末期には『水戸・水戸藩士』というとどちらかというと、尊王攘夷の目的達成のために実力行使を躊躇わない“コワモテの藩士集団・思想集団”というイメージが持たれていました。幕末には『桜田門外の変(井伊直弼暗殺)』をはじめとして水戸浪士が起こした暗殺事件が多く発生しており、水戸の土地には儒教の君臣秩序(上下関係の名分)と尊王思想(権威的君主への服従)を重視する『水戸学』という独自の愛国主義的傾向を持つ過激な学問が発展しました。  
孝明天皇の勅許を得ずに勝手に日米修好通商条約を結んだと指弾された井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺した『桜田門外の変(1860年)』を起こしたのは水戸藩の脱藩浪士でした。その後にも水戸浪士は、天皇家と徳川将軍家を不可分に一体化させて幕府の権威を高める“公武合体策”を説いた安藤信正を襲う『坂下門外の変(1862年)』を起こしています。『茨城(いばらき)』という地名の由来は、常陸国茨城郡から取られたものですが、古代の時代に茨城郡の辺りに『国巣(くず)』という山中の穴に住み着いた土着の盗賊がいて、その盗賊を征伐するために黒坂命(くろさかのみこと)が穴に罠をしかけたといいます。その罠にあった茨の棘(とげ)に刺さって国巣の盗賊たちが死んだことから、『茨城』という地名が生まれたという伝承が伝わっています。  
ラディカルな武力行使も辞さない『水戸学の尊攘思想』が普及しはじめたのは、1841年(天保12年)に“質素倹約・上げ地・海防強化(異国船への対応)”を中心とした水野忠邦の『天保の改革』が行われた頃からで、日本国内の情勢と藩の財政が大きく混乱しはじめた時期でした。水戸学の始祖は、寛政3年(1791)に君臣身分(上下関係)の区別の重要性と尊王の大義名分の実践を説く『正名論』を著した藤田幽谷(ふじたゆうこく,1774-1826)であり、幽谷の儒学的思想はその子の藤田東湖(ふじたとうこ,1806-1855)や会沢正志斎(あいざわせいしさい,1782-1863)へと引き継がれていきました。更に、9代藩主の“烈公”と呼ばれた徳川斉昭(とくがわなりあき,1800-1860)が藩校・弘道館を開いて(1841年)、藤田東湖を側近・参謀として厚遇したことから、尊王攘夷思想の理論的根拠となる水戸学が全国的な影響力を持つようになっていきました。  
会沢正志斎の『新論』は、民心を集結させて幕府の政治改革と軍備充実を図ることで国難を乗り切ることを説き、その具体的方法として『尊王攘夷』を用いるべきとしましたが、この思想は幕末の薩長同盟の倒幕運動(王政復古)の正統性を担保する役割を果たすようになっていきます。藤田東湖の『弘道館記述義』では天皇権威の正統性の下にある人々の道徳を説いており、『古事記』『日本書紀』の建国神話から始まる歴史的な流れの中に、日本の人々が踏み行うべき普遍的な『道(道徳)』が示されているという思想を展開しました。  
水戸学を象徴する藤田東湖の『敬天愛人の道徳論』や会沢正志斎の『政治改革論(尊王攘夷論)』は、幕末に大きな思想的・政治的影響力を持つようになる薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の吉田松陰の基本思想にも非常に大きな影響を及ぼしており、倒幕運動・明治維新の『天皇主権の王政復古を正統とする思想的な原動力』になっていきました。  
幕末の志士や政治情勢に与えた水戸学の影響力の大きさを考えれば、水戸藩は『薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩』に並ぶくらいの存在感を示してもおかしくはなかったのですが、水戸学を信奉する頑固一徹で妥協を知らない“水戸っぽの気質”が災いして、幕末の水戸藩では『天狗党の乱』をはじめとする内部紛争が多く起こり遂にまとまった力を発揮することができませんでした。天狗党の乱では郷校出身者の多い『天狗党』と藩校(弘道館)出身者の多い『諸生党』との内部対立があり、元治元年(1864年)に藤田小四郎が率いる天狗党一派が筑波山挙兵をした時にも、挙兵に反対する諸生党が天狗党を鎮圧するために出兵したりしました。  
江戸時代には水戸藩を筆頭に14藩と諸大名の飛び地、幕府直轄領・旗本領が錯綜していましたが、1868年(慶応4年・明治元年)には倒幕後の明治維新によって、旧幕領・旗本領は新政府の直轄地に組み入れられていきました。1868年6月に粥川満明(三上藩士)が『常陸知県事』となり、8月には佐々府貞之丞(肥後藩士)が『下総知県事』となりますが、1868年(慶応4年)4月には府藩県の三治体制の暫時的対応として旧常陸国に『若森県』が設置されました。若森県の県庁は新治郡(にいはりぐん)の若森村に置かれましたが、2年後の1870年(明治4年)には若森県は『新治県(にいはりけん)』へと改名されます。  
明治政府の廃藩置県が行われた明治4年(1871年)11月13日には、現在の茨城県は次の3つの県へと統合されました。  
茨城県……松岡県・水戸県・宍戸県・笠間県・下館県・下妻県を統合。  
新治県……石岡県・志筑県(しずくけん)・土浦県・松川県・麻生県・龍ヶ崎県・牛久県・千葉県の一部を統合。  
印旛県(いんばけん)……結城県・古河県・千葉県の一部を統合。  
1875年(明治8年)5月7日に、その茨城県と新治県が統合されて現在の『茨城県』が誕生しました。印旛県のほうは1873年(明治6年)に木更津県と合併して、『千葉県』に組み込まれました。  
 
埼玉県

 

●山口観音 [金乗院] / 所沢市上山口  
弘法大師 開基  
ここも行基菩薩開基の寺といわれるが、弘法大師東国巡錫の折、龍神に祈念し霊泉を得たので、以来これを弘法大師加持水と称したという。また新田義貞が鎌倉攻めのときこの寺に戦勝を祈願したといわれる。  
●寿徳寺 / 久喜市上内  
弘法大師 弘仁11年(820) 日光の帰路滞留  
寿徳寺の東側には青毛掘が流れています。さらに東には葛西用水路が、さらに東には中川(古利根川)が流れています。1200年ぐらい前は広大な沼沢地であったという。  
上内村の新義真言宗豊山派の寿徳寺は、山城国醍醐地蔵院の末寺で山号を上内山と称し、不動明王を本尊とした。なお寿徳寺境内の地蔵堂に納められている二尺五寸の地蔵尊立像は弘法大師の作と伝えられている。その開基は、垂仁天皇庶流の子孫勝道上人による大同2年(807)の創設で、上内の地名は勝道上人を尊崇して名付けられたと伝える。はじめは七堂伽藍を備えた大寺で、弘仁11年(820)弘法大師が下野国日光からの帰路寿徳寺に立ち寄り、日光二荒山で画いた延命地蔵尊画像″を当寺に納めたとも伝える。  
●三峯神社 / 秩父市三峰  
弘法大師 淳和天皇(在位823-833)時 本地堂創建  
当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。  
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。  
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。  
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。  
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。  
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇(在位823-833)の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。  
こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。  
三峰神社2  
三峰の名は雲取山・白岩山・妙法岳の三つの峰が美しく聳えて連なる事から呼ばれている峰にも小生は登らせて頂いた。その三峰神社の由緒は古き良き昔に、景行天皇が、この国を平和にしようと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折に、皇子日本武尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中で当山に来られた。皇子日本武尊は当地の山川が誠に美しい様をご覧になり、その昔に伊弉册尊(いざなみのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が我が国をお作りになられたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和で豊かに暮らしやすい事を祈られた。これが三峰神社の創まりであるとか。  
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時に、上総国(千葉)で、当山が三山高く素晴らしく連らなることをお聴き及んで「三峰山」と名付けられ、三峰神社には「三峰宮」の称号を賜りまった。降って聖武天皇の時に、国中に悪病が流行して、天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峰宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られた。又、文武天皇の時には、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峰山に往来して修行したと伝えられている。この頃から当山に修験道が始まったものと思われる。  
天平17年(西暦745年)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じられた。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峰宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂とした。  
こうして徐々に佛教色の度合いが増して、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続いた。東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(西暦1352年)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げた。  
三峯神社3  
本殿春日造、神紋は下にあるように「菖蒲菱」。境内社は祖霊社・大山祇神社・日本武尊神社・東照宮他多数。鳥居は三輪鳥居でこれは、三峯の名の通り雲取山・白岩山・妙法ヶ岳の三山を表したものか。私の記憶にもう40年も前の事であるが、祖母の家の床の間には三峯神社のお札(掛け軸)が掛かっていた。中央の大木(杉?)に手前から参道らしきものが続いており参道の両脇には狼が一対座っている構図のものであった。当時祖母は半農半漁を営んでおり、祖母にこの絵が何であるか聞いた覚えがある。祖母はまだ小さい私に「畑に来る泥棒とか畑の物を食べちゃう悪い動物から狼が守ってくれてね、家に入ろうとする泥棒も狼が追い払ってくれるんだよ。」とやさしく教えてくれた。その時はじめて掛け軸の動物は”犬”ではなく”狼”だと知った。祖母の家の玄関には盗難除けのお守りが、竃には防火のお守りが貼ってあったのを覚えている。  
当社は今から1900年余の昔、日本武尊が東国の平安を祈り、伊弉諾(イザナギ)尊・伊弉冉(イザナミ)尊、二神をお祀りしたのが始まりです。尊の道案内をした山犬(狼)が、お使いの神です。三峯の名は神社の東南にそびえる雲取、白岩、妙法の三山が美しく連なることから、三峯宮と称されたことに因ります。奈良時代、修験道の開祖役小角が登山修行したと伝え天平8年(736年)国々に疾病が流行した折、聖武天皇は当社に葛城連好久を使わして祈願され、大明神の称号を奉られました。平安時代には僧空海が登山、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈り、以来僧侶の奉仕するところとなりました。鎌倉時代には畠山重忠が祈願成就の御礼として十里四方の土地を寄進しました。また戦国時代には月観道満が諸国を勧進して天文2年(1533年)に社殿を再建し、中興の祖と仰がれています。江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年(1661年)現在の本殿が造営されました。享保年間(1716〜1735年)には日光法印が社頭の復興に尽くし、御眷属信仰を広めて繁栄の基礎を固めました。寛政4年(1792年)に随身門(仁王門)、同12年(1800年)には拝殿が建立され、幕末まで聖護院天台派修験、関東のの総本山として重きをなし、幕府から十万石の格式をもって遇されました。明治維新の神仏分離により社僧を罷め仏寺を閉じ神社のみとなりました。明治6年郷社、同16年県社に列せられ、戦後官制廃止により宗教法人三峯神社として現在に至っています。  
当社の由緒は古く、景行天皇が国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折り、尊は甲斐の国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その伊弉諾尊・伊弉册尊が我が国をお生みになられたことをお偲びになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。その後、天皇は日本武尊が巡られた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遣わされ「大明神」の神号を奉られました。又、文武天皇の時、修験の祖役の小角が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。天平17年(745年)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じられました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。こうして徐々に仏教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。三津峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発に力を尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352年)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。後柏原天皇の文亀2年(1502年)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。後、天文2年(1533年)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。更に、観音院第7世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇されました。現在、社紋として用いている「菖蒲菱」は花山院宮家の紋であります。この様に天台修験の関東総本山として繁栄した当山も、宝永7年(1710年)山主没後、山主に恵まれず10年間も無住となり、宝物も散逸し、社殿堂宇も破損が見られる様になりました。やがて、享保5年(1720年)日光法印という僧によって、当山も次第に復興され、以後六里四方を支配し、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治2年の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。 
●光了寺 / 埼玉県北葛飾郡栗橋町 [現在は茨城県古河市中田]  
弘法大師 弘仁年間(810〜23) 建立  
昔武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって「高柳寺」といい、弘法大師が建立したと伝えられている。  
栗橋にあった高柳寺は、度重なる洪水や利根川東遷に伴って対岸の古河市中田に移転し、名も「光了寺」と改めました。ここには静御前遺品の舞衣や手鏡、そして義経がかつて叔父の住職に託した鞍などが伝えられています。  
縁起 「光了寺は昔、武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって高柳寺といい、弘仁年間(810-823)に弘法大師が創立したと伝えられている。その後、建保年間(1213-1219)に親鸞聖人が越後より常陸に移ってきたとき、当時の高柳寺の住職であった大僧都法印円崇興悦が聖人の弟子となり、法名を西願と賜り、改宗して浄土真宗厳松山聖徳院光了寺と号した。」  
静女蛙蟆龍舞畧縁起 「靜女の舞衣は下總國葛飾郡中田宿松山聖徳院光了寺に藏する所也 此寺往昔は武州高柳村に有て高柳寺と號し天臺宗也 建保年中宗祖親鸞聖人御入りましゝたりし 其時の住持は後鳥羽院の北面土岐又太郎國村の次男 出家して權大僧都法印圓崇と云し人成しか 御弟子となり法名西願と下され 淨土眞宗光了寺と改號せり 其後寺を爰に移す也」  
光了寺2  
岩松山聖徳院光了寺。真宗大谷派。弘仁年間(810〜23)、弘法大師空海の開基と伝えられる。 武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって高柳寺といっていたが、健保年間(1213〜19年)、住職の興悦が親鸞聖人の弟子となり、改宗して現在の寺号に改められた。 6世悦信のとき、現在地に移った。 同寺は、静御前ゆかりの寺として知られる。静御前が源義経のいる奥州・平泉へ向かう途中、義経の死を知り、高柳寺に入って、義経の菩提を弔ったという。 寺には静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞ったときに着けていた「蛙蟆龍の衣」(あまりょうのころも)や守本尊、義経かたみの懐剣、アブミが伝えられている。 また、境内には芭蕉塚があり、「いかめしき音やあられのひのき笠」と刻まれている。  
●秩父今宮神社 [今宮坊] / 埼玉県秩父市中町  
弘法大師 (825) 来遊  
当社には古代より龍神池と言われる霊泉があり、ここに伊邪那岐・伊邪那美の二神が祀られていました。大宝年間(701〜704)、役行者(えんのぎょうじゃ)が飛来し、神仏混淆を旨とする修験の教えを広めるとともに、この地に宮中八神と、観音菩薩の守護神である八大龍王を合祀し、以後、明治維新まで『八大宮』と称するようになりました。八大龍王神は『水』をつかさどる偉大な神であり、生きとし生けるものすべてに『生命のおおもと』(生きる力)を授けるという素晴らしい御神徳をお持ちです。当社において毎年4月4日に執り行われる水分(みくまり)神事では、今宮神社から秩父神社に『水幣(みずぬさ)』が授与されますが、この『お水』によって育った稲が秋になって無事収穫されたことの喜びとともに、感謝の気持ちを込めてこの『お水』を再び武甲山に戻すお祭り、これが12月3日の秩父神社の『秩父夜祭』なのです。  
役行者に続いて、825年には弘法大師が来遊して大日如来を奉斎。次いで大宮山満光寺、長岳山正覚院金剛寺が建てられ、長歴二年(1038)には、二つの観音堂(現在の札所十四番今宮坊観音堂及び札所二十八番橋立寺観音堂)も建立されました。12世紀には熊野権現を勧請。宮中八神と大日如来の習合である八大権現社が建立され、寺院、神社、観音堂、祠と併せて百をゆうに越える一大修験道場となりました。  
不動坂 [タキ坂] / 埼玉県朝霞市岡  
弘法大師 杖堀の滝伝説  
東円寺不動堂と朝霞市博物館間の坂。由来 / 東円寺前の古道、「新編武蔵国風土起稿」には「尾崎坂ノ南ニアリ坂ノ下に不動堂アリ故ニ名ツク」とある。荒澤不動尊又は、弘法大師杖堀の滝に由来する。  
 
千葉県

 

●法然山伝灯寺 釋蔵院 / 千葉県市原市能満  
弘法大師 大同元年(808) 開創  
釋蔵院は、724年に創建され、大同元年(808)に真言宗の開祖である弘法大師空海によって開創された、大変古いお寺でございます。延喜元年(901)に醍醐天皇勅願寺となりました。15万石の格式をもち、又、上総の国の真言宗の根本道場として36ヶ寺を従え、徳川家康公もおいでになったことが、高野山の西門院の古文書にも書かれております。御本尊様は、不動明王の立像でございます。元弘元年(1331)、釋蔵院第11代住職弘鑁僧正による作と言われております。 
●小塚大師・曼陀羅山金胎寺遍智院 / 千葉県館山市  
弘法大師 弘仁6年(815) 創建  
嵯峨天皇の弘仁6年(815)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。神戸地区大神宮の字小塚にあって、弘法大師を本尊にしていることから、俗に小塚大師の名で親しまれているわけです。関東厄除三大師のひとつとして、毎月21日のお大師様の縁日には参詣者があり、特に旧暦の正月にあたる1月21日の初大祭には、たいへんな賑わいをみせます。またこの小塚大師をはじめ、周辺には弘法大師にまつわる伝説も多く残されています。  
小塚大師周辺の弘法大師の伝説  
小塚大師(神戸地区大神宮) / 弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げた。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられている。この地に祀った像はもちろん小塚大師の本尊である。  
爪彫り地蔵(神戸地区竜岡) / 小塚大師のすぐ近くの竜岡に爪彫り地蔵(または岩屋地蔵)という崖面に彫られたお地蔵さんがある。これは弘法大師が爪で彫ったものだと伝えられている。  
巴川の塩井戸(豊房地区神余) / 老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。  
芋井戸(白浜町青木) / 老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。  
小塚大師2  
嵯峨天皇の弘仁6年(815年)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げました。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられています。この地に祀った像が小塚大師の本尊です。 
●鋸山 日本寺 / 千葉県安房郡鋸南町鋸山  
弘法大師 留錫  
日本寺は今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀2年(725年)6月8日に開山されました。開山当初法相宗に属し、天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っております。  
日本寺は開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模を誇り、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫(りゅうしゃく)したと記録されています。良弁僧正は木彫りの大黒尊天を彫られ、弘法大師(空海)は100日間護摩を焚かれ石像の大黒尊天を彫られました。  
仁王門の金剛力士像は慈覚大師の作と伝えられています。   
弘法護摩の窟 
行基開基の寺であるが、この弘法護摩の窟は弘法大師修行の跡といわれる。
●白滝不動 / 千葉県鴨川市  
弘法大師 大同年間(806-8) 開基    
嶺岡浅間(335m)「富士浅間神社が祀られ浅間の名を採った」  
ここから県道を北上すれば近いのだが、工事中全面通行止めの看板があり、迂回する。山間に集落が点在し、それを結ぶ道が複雑に巡る。カーナビの御陰で、嶺岡スカイラインに入り、山頂直下の登山口に着く。スダジイの林を抜けるとすぐ三角点があり、山頂である。  
石段と石灯籠を構えた石祠がある。これは相模大山の石尊さんであろうか。  
少し離れて小さい灯籠と石碑があり、これには小御岳石尊大神と書かれている。新しい御影石に、浅間神社遷座(昭和55年)と書かれている。神社は下ろされ石碑だけが残るということだろうか。草藪の中に朽ちかけた鳥居がある。これが表参道であろう。  
今回怠けて登らなかったが、表参道は北の南小町の方から、弘法大師作と伝える大聖不動明王を祀る白滝不動を経て登るようである。  
隣の高鶴山と同じで、相模大山の石尊信仰が入り、天狗を祀った。高鶴山ではもう一つ日光の古峰が原神社の天狗も祀られていたが、この嶺岡浅間では遙かに見える富士山への信仰も強く、富士山5合目の小御岳浅間神社(石尊大神)を勧請(1668)した。大山、富士山の両方から石尊信仰が入ったと説明されている。  
この地方は半島で高い山や大きな川がないので、農耕用の用水の確保は大変で、今は各地に溜め池やダムが造られているが、昔は神頼みであった。雨乞いに大山阿夫利(石尊)神社は霊験があったのである。  
この山一帯は嶺岡山系といわれるが、浅間神社が祀られて嶺岡浅間と呼ばれるようになった。中世の嶺岡山系は里見氏の軍馬育成牧場が点在した。この山の南は緩斜面が開け、田畑や集落が広がるが、牧場のあったところなのだろうか。  
山の北面は急崖でフェンスが張られているのは興ざめである。玄武岩、蛇紋岩の露出があり、採石場として削られたのである。  
●花島山 / 千葉県印西市  
弘法大師 修行  
花島山について、『利根川図志』には次のように書かれています。  
<印旛江の中にあり。平賀村に属す。むかし此島へ舟にて渡りし由云伝ふれど、今は田畑となれり。島の廻り一里といへり。此絶頂にむかし寺あり。大日本寺といふ。今は不動堂と籠り堂のみ残れる。弘法大師護摩修行の古跡なりとて、護摩壇塚・独鈷水(とつこする)(東の方山の半腹にあり)など、今に存在せり。山に十六峯、八谷ありと云ふ。さて此山に登れば、西には富士、南には佐倉の城山将門山、東に当りて成田山、北を望めば筑波・日光の山々、また、北須賀村水神の洲崎は江の半に蛾媚をなし、往来の高瀬船は白帆を掲げて八方に乗りちがへ、数万の漁舟は柳葉をちらすがごとく、千勝万景応接するに遑(いとま)あらず。誠に北総第一の勝地なるべし。>  
とあり、弘法大師の護摩修行の場であり、頂上から見る景色は北総第一であるという。現在は、樹木が大きく茂り、残念ながら頂上から周辺部を見渡すことが出来ない。 
●迎接寺 / 成田市下総地区  
弘法大師 弘仁3年(812) 創建  
(こうしょうじ) 楽満寺からあぜ道に近い道を進む、冬父(とぶ)の迎接寺に向かう。この寺院は、弘仁3年(812)に弘法大師が聖徳太子作の阿弥陀三尊を携えて来たとき、領主多五郎入道政吉の古地である当地に案内され、心にかなう地に一寺を創建したのが本寺であるという。本尊は阿弥陀三尊で、鬼舞い面は市指定文化財。やっと山門に着き、境内に入るが、無住か?大分境内が荒れていた。 
●観福寺 / 千葉県香取市山倉  
弘法大師 弘仁5年(814) 修法  
真言宗豊山派の寺院。山号は山倉山。本尊は大六天王。元は山倉大神の別当寺であった。山号は、地区の名称から山倉の地名を取り山倉山。院号は、京都嵯峨御所から下る。聖観世音菩薩が勧請されている伽藍、天地に(地)、伽藍(院:建物)と謂う事で観音地院と、寺号は、聖観世音菩薩の福徳を授けると謂う事で観福寺と。  
811年(弘仁2年)円頓によって創建され、814年(弘仁5年)弘法大師空海がこの寺に入り修法した。京都嵯峨御所、お上から 十六菊紋の使用(寺紋)許可、緋紫法着用(当山は僧階に関係なく堂守に就任すると同時に)認可、江戸殿中に参上認可、殿と接見許可 旧書院欄間(葵紋)、講堂正面に(:葵紋付きを観ることが出来る)  
略縁起文  
当山は日本に点在する『第六天』の総本山です。真言宗で葬儀法事等で読経(理趣経)の本尊、空海が勧請(814)「苦厄除き抜苦與樂の根本一大霊場」と定めた参拝寺院であり八方除きの参道と厄除の石段、水屋前五段五体清浄、本堂の木段六根清浄です。本尊は慾界の最上界に住み『厄災難消除疫病退散を掌り福コ智惠愛敬』をお授けです。開山(811)天台宗最澄聖観音勧請後、空海41歳「第六天・子育観音」勧請です。巡錫の途中村民の疫病を憐みこの霊跡に留まり本尊を勧請万民快楽祈り修行事夜毎の竜燈を献じ満願の日に小川から生鮭を捕獲後民が空海に本尊に献納後疾病者に与えると快方に向かう、本尊と鮭のご縁なり。嵯峨御所より『院号を観音地院寺紋菊16紋法衣緋紫着用允許、御勅願の御下賜あり。』 信仰団体の第六天講社組織があり、又、お助け護摩修法があり、御本尊は秘仏『勧請以来一度も御開帳ない』です。  
山倉山大六天王畧縁起文  
抑々本尊大六天王と申し奉るは大日如来の内眷屬にして此の慾界に安住し假りに降伏の形相を示し給ひ大自在神通の力を以て或は大忿怒威の御身と現はれ悪鬼魔軍面縛し厄難消除疾病退散を司り壽命を與へ福徳智惠愛敬を授け給ふの御誓願なれば御利益は響きの物に應するが如く願として満足せざることなし  茲に當山の由來を案ずるに人皇52代嵯峨天皇の御宇弘仁5年天下大疾し衆人其の病苦に斃るヽ者巷に満る蔭惨の状人の目を覆ふばかりなり時恰も大聖吾が弘法大師東國回錫の砌り即ち同年辛夘霜月初夘の日霊験新かなる御本尊を此の地に勧請し奉り済世利民の本願を以て國家安全萬民豊楽を祈り殊には末世諸人の疾病に苦しむを憐れみ天尊の威徳を仰いて護摩供の秘法を厳修し給ふ事一夏90日(座)の間遂に感應空しからず奇瑞ありし中にも龍神よりは夜毎に龍燈を捧げ供魚として鮭の魚を献し奉る而して此の天尊を信心し護摩供御霊符の御利益に依り厄難病苦を脱れ福徳智惠愛敬を満足したる者挙げて御魚として献るに敢えて変ることなく實に有難き事ならずやされば此の天尊を信ずる人々は疾病厄難を退れ福智益長し家門繁栄子孫長久の基き最も御符護摩供の霊験に因りて當利益を蒙りし者は擧げて数へ難し之れ諸人の知る處なり  又當山は往時皇室の御祈願所と御尊特に嵯峨御所入りは観音地院の称号を賜り緋紫衣被着の允許あり殿上の参入を許され菊花御紋章付御勅願の御下賜あり其の他寶冠御幕等國寶的寶物を多数保存し以て往時の威容を忍ぶに足るものあり古来山倉山と唱ふれば抜苦與楽の一大霊場として天下に其の名を歌はれしも亦故なきにあらざるなり   時會明治維新排佛稀釈の法難に遭へ神佛分離の制度に依り現在の山倉大神よりご本尊を當山に移請し奉り附属する宝物記録等一切を管理し又跡に高皇産命を祀り山倉部落の鎮守として山倉大神と称す故に古へより山倉様と称し諸人の信仰を集めたるは當山の御本尊にして之れ即ち大六天王と山倉大神の分離別体なる所以なり 
観福寺2  
真言宗豊山派の巨刹で、川崎大師・西新井大師と並び、日本厄除三大師(関東厄除け三大師)の一つに数えられる北総の名刹です。本尊に祀るのは平将門の守護仏である聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)で、寛平2年(890年)にお堂が建立されたことが起こりと伝えられています。古くは千葉氏の祈願所として歴代武将が厚く帰依し、中世以降は佐原の伊能家一族の帰依を受けるようになりました。江戸時代には末寺五十三ヶ寺をもつ中本山として寺領三十石を有し、幕府から七年に一度の年始独礼の拝謁を許されました。由緒正しさのゆえに、僧侶の叙任や法衣の色の許可を与える権限を持つ院室兼帯の寺院とされた一方で、本山での修行に入る前の基礎的な教育を施す地方壇林所として学徒の教育にあたり、更には大師信仰の中心となって庶民の信仰を集めました。  
観福寺厄除弘法大師縁起  
抑(そもそも)當山厄除弘法大師は大師自ら御彫刻遊ばされたる霊像にして日本厄除三大師の一と称し奉る。今其縁起を案ずるに人王五十二代嵯峨天皇の御宇(ぎょう)弘仁六年大師四十二歳の御厄年にあたらせられ親(みずか)ら御像三?を彫刻して其一を禽獣草木の厄を除かんがために山城国大倉村大蔵寺に其一を一切魚鼈(ぎょべつ)を救わんがために武州河原の平間寺に、其一つを庶民の災厄を除かんがために京都嵯峨の大覚寺に留め給う。茲に當山三十三世鏡覚(けいがく)和尚嵯峨の院を訪へり。院の阿闍梨は當山三十世三等和尚の法弟なり、阿闍梨鏡覚和尚に告げて曰く我が法兄三等和尚東国庶人結縁の為に新四国霊場を開創せらされたと聞き我れ喜びに堪えず、乃ち心経殿安置の厄除弘法大師の御像を付属し旦つ曰く之を以て新四国霊場の親大師として安置し奉るべしと、鏡覚和尚恵頓首して之を受け奉侍して郷に帰り山内の宝殿に安置し、奉れり。  
とあります。現住職のお話では、弘法大師がみずから彫刻した三体の御像のうち大蔵寺の霊像は西新井大師に、平間寺の霊像はそのまま平間寺(川崎大師)に、そして大覚寺の霊像が観福寺に伝わっていることから、この真言宗の三つのお寺が日本厄除三大師あるいは関東厄除け三大師とされているとのことでした。  
なお、関東厄除け三大師に似た「関東の三大師」と呼ばれるお寺もありますが、こちらは弘法大師ではなく厄除大師とも呼ばれる元三大師(良源)を祀る佐野厄除け大師・青柳大師・川越大師の天台宗の寺院を指す場合が多く、関東厄除け三大師とは全く別のものです。  
山倉大神・観福寺3  
山倉大神と観福寺でそれぞれ行われる初卯祭は、鮭を奉納することから別名を鮭祭りと呼ばれている。もとは霜月初卯の日に行われていた祭礼で、昔は祭りが近づくと、近くを流れる栗山川に鮭が遡上してきたという。  
山倉大神では鮭を龍宮献進のものとし、奉納された鮭を初卯祭(現在は12月第1日曜)の前日に白川流包丁式の神事で小さい切り身にさばき、祭礼当日に限り護符として参拝者へ頒布している。護符は“災いをサケる”と珍重され、常備されている鮭の黒焼きの護符とともに、病災消除とくに風邪薬として知られる。  
初卯祭では鮭を献上する古式ゆかしい行列が組まれて厳かに祭儀が執行され、夕刻には神輿渡御も行われる。また観福寺では、お堂にこもり断食修業を続けた弘法大師のもとに竜神が鮭を供え、それを大師が村人に分け与えると病が癒えたと伝えており、今も旧暦の霜月初卯の日に鮭を奉納する。 
●紅龍山 布施弁天 東海寺 / 千葉県柏市  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
「布施の弁天さま」として親しまれている当山は、紅龍山布施弁天東海寺と称し、大同2年(807)に弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺です。平成18年には本堂・楼門・鐘楼が千葉県重要文化財の指定を受けました。  
千葉県柏市に位置し、北には利根川の雄大な流れ、あけぼの山公園や広大な田園風景に囲まれた当山は、風光明媚な勝景地としても高名です。1200年の歴史と四季折々の豊かな自然が織りなす静かな時間を味わいにお越し下さい。  
赤い龍と天女の御像 / 大同2年(807年)7月7日、大雷雨とともに赤い龍が現れ手にもった土塊を捧げて島を造り、その時から島の東の山麗から夜な夜な不思議な光が射しました。ある時、天女が村人の夢に現れて、「我は、但馬の国朝来郡筒江の郷(現 兵庫県朝来郡和田山町)から参った、我を探し祭りなさい」と告げました。 夢から覚めた村人が光をたどっていくとそこに三寸(約9センチメートル)ほどの尊い御像があったので、藁葺きの小祠を建てておまつりしました。  
弘法大師による開山 / のちに弘法大師空海が関東地域に巡錫のおり、この話を聞き布施に参り「この像は、私が但馬の国で願をかけ、彫刻し奉った弁財天である」と感嘆せられました。そこで大師は寺を造り、山を紅龍山とよび、この村を天女の利益にあやかり「布施」と名付け、京に帰り親交の深い嵯峨天皇に事の次第を申し上げました。  
嵯峨天皇の勅願所に指定 / 弘仁14年(823年)に入り、その話にいたく感動された嵯峨天皇は田畑を寄付され、堂塔伽藍を建立され勅願所(天皇が天災地変や疫病流行などを祈願せしめられた寺社)に指定しました。本堂の向拝の回柱に菊の紋章があるのは、そのためです。  
平将門と弁財天 / 承平年間(931年〜938年)平将門の兵火のため焼失されたのちに、この時の討伐軍の武将源が戦跡巡りの際、不思議なことに遇い、弁財天を信仰することになり尊像奉持して、平将門の乱を制し、寺を再興し、本尊弁財天は松の木の上に避難し難を逃れていたので、松光院と名付けました。 
●真間山 弘法寺 / 千葉県市川市真間  
弘法大師 伽藍を構えて弘法寺と改称  
(ぐぼうじ) 日蓮宗の本山(由緒寺院)。奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされる。平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗した。常忍の子で日頂を初代の貫主とした。大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受ける。室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展した。徳川家康より朱印地30石を与えられる。江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈る。紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されている。明治時代、火災のため諸堂は焼失した。その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。 
●医王山瑠璃光院 威徳寺 / 千葉県銚子市  
弘法大師 弘仁元年(810) 創立  
威徳寺の歴史は、寺伝によると、創立は嵯峨天皇弘仁元年(810)弘法大師東国遊化の砌り、下総国銚子港荒野袋町(現 銚子市双葉町)に草庵を結び、本尊薬師如来の尊像を自ら彫刻せられ安置し給いてよりはじまります。  
『 清和七年(864年) 益信大徳、京より当寺へ来たりて、堂宇を増築、不動明王の尊像を安置する。 天歴元年(947年) 空也上人当寺の草庵に来り 一宇を造し、彌陀の尊像を安置 念仏三昧を修し諸人教化し給う。 これ空也坊の始にして後に荒野坊と称したと伝えられる。 往古には当寺は地化寺と称され、境内には明暦年間(1650年頃) に再建された本堂をはじめ、 薬師堂、観音堂、閻魔堂、二重塔、鐘楼が立ち並び、 圓妙院、不動院、千手院、龍性院、自性院、普門院、地福院の七坊の塔頭を有し 白幡神社の別当職を兼ねる一大巨刹として栄えるが、 明治維新の廃仏毀釈により一時衰微する。更にまた、 明治22年(1889)1月11日火災により堂塔ことごとく廃塵と化したが、 明治44年(1911)、大本山 高尾山薬王院の援助、檀信徒の努力により現在地に移転再建される。』 
●飯沼山 円福寺 [飯沼観音・銚子観音] / 千葉県銚子市馬場町  
弘法大師 大同年間(806〜810) 開山  
飯沼観音は、坂東太郎こと利根川の河口、関東一の漁港としてにぎわう銚子の中心に位置しており、この町は観音の門前町として発展してきた。仁王門を入った境内には、戦後に再建された本堂のほか、正徳四年(1714)に鋳造された丈六の大仏などがある。かつては広大な境内を有していたが、現在では分断され、観音堂と本坊は、200メートルほど離れている。  
『飯沼山観世音縁起絵巻』などによると、神亀五年(728)の春、銚子の浦が荒れて漁ができなくなり、五月には皷が淵の沖の海上が光り輝いた。ある夜、漁師の清六が、「輝いているところで牛堀の漁師長蔵とともに漁をせよ」との霊夢を見た。翌朝、沖に出ると、同じ霊夢を見た長蔵が対岸から来たので、二人で網をおろしたところ、左の脇に瑪瑙をはさんだ十一面観音が出現した。二人は出家して草庵を結び、尊像を安置。加持して諸人の病を癒したので、瘧除(ぎゃくよ)け法師と呼ばれたと伝えられる。  
天平年間(729〜749)になり、行基菩薩がこの奇瑞を耳にして、厨子を作って奉納した。しかし尊像のほうが少し大きくて入らなかったので、行基が祈願すると、尊像は首をたれて、みずから厨子に入ったという。  
後に、弘法大師が東国を巡錫した大同年間(806〜810)、この尊像を拝したが、海中出現のままの姿だったので、台座や光背を作り、開眼供養をおこなった。そして、下総国の守護千葉氏の系統を引く海上長者が、尊像と大師に帰依して、壮大な伽藍を建立したとされる。 
●岩橋山大仏頂寺 / 千葉県酒々井町下岩橋字田中  
弘法大師 大同2年(807)開基  
寺伝によると、大同2年(807)弘法大師が鎮護国家のため本尊を当地に納め開基とした。  
大仏頂寺は下岩橋字田中にあり岩橋山と号し、真言宗智山派に属し佐倉五カ寺の一つである。寺伝によると、弘法大師が大仏頂の法を修めたところという。慶長、宝永、宝暦の三度火災となり、古文書はないが真言宗の談林(学問所)が設置されていた。寺宝には古鐸がある。この古鐸は中国から伝来したもので、通称「舌出しの鈴」といわれ、全長17.5cm 鈴部高さ9cm 口径10cmあり、三銛(さんこ)鈴に属するもので、柄部の三面に人面の彫刻があり、動かすとその一面から両眼と舌が飛び出すようになっている珍しいものである。鈴の上部と下部に中国風の文様がついている。古鐸は密教の法具として奈良朝時代に中国から渡来したものが始まりという。 
●冬父山 迎接寺 [三世院または淨光院] / 成田市冬父  
弘法大師 弘仁3年(812)〜 創建  
当寺の創建は古く、たび重なる火災により確たる記録を失なっているが、古来より阿弥陀信仰の霊場として広く知られ、天台・真言・浄土宗兼学の道場として隆盛した大伽藍であった。寺伝によれば、弘仁3年(812)弘法大師弘通のため、大和国法隆寺に御参籠せしとき、夢に高僧紫雲に乗じて現われ、聖徳太子彫刻せらる三尊の仏を守護して東国に下降し、広く衆生済度せよとの霊告あり。大師ただちに東国に降り、下総の並木城下に着いたおり、城主神崎多五郎入道政吉、夢告により大師に拝することを得る。政吉、大師の請いにより大檀主となり、一三の霊水ある当山に根本多宝七堂伽藍を創建し、太子彫刻せる三尊を本尊とする。  
●守龍山東福寺 / 千葉県流山市鰭ケ崎  
弘法大師 弘仁5年(814) 開山  
弘仁5年(814)に創建された弘法大師開山の真言宗の寺である。目つぶしの鴨、俵藤太百足退治の図などがある。 
●成東山長勝寺不動院 [波切不動] / 千葉県山武市成東  
弘法大師 建立  
731年、行基がが東国巡錫の折、不動明王の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後平安時代の初め弘法大師が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。 
●小茶園弁天 [出世弁天] / 千葉県千葉市  
弘法大師 伝説  
創建年代は不詳。一説には弘法大師が巡錫の杖をこの地にとどめ弁財天像を彫って祀った事にはじまるともいう。鎌倉時代の領主であった千葉常胤が崇敬し、源氏再興の祈願を行ったとも伝わっている。  
当社は昔から小茶菌弁天様と呼ばれ、その霊名はひろく伝えられている(小茶菌とは地名で:菌は実字は草冠が無い。[きん]倉の意)。元々、この地には、古寺があり、創建は不明となるものの、伝えられる所によると弘法大師が巡錫の杖をこの地に留め、弁財天を彫し、池畔に奉祀したという。このため、この地は一千有余年前より霊地だったとされる。昭和33年秋には、有志により再建された。 
●茂侶神社 / 船橋市東船橋  
弘法大師 伝説  
当茂侶神社の起原は古く延喜式神名帳に、下総國葛飾郡二座、茂侶神社・意富比神社とあり、今を去る千六百年前すでにこの地に鎮座されて居たのであります。愛媛縣越智郡瀬戸内海大三島祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来縁結び安産子育ての神として、地元民の崇敬する処でありました。摂社として祭神の姉命磐長姫を祀り小御嶽神社と申して居ります。  
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日下総國従五位下茂侶神に従五位上を授く、とあり又陽成天皇の元慶三年九月二十五日下総國正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります。  
西北にある湧池は天の眞名井と称する当社の神池であります。  
江戸名所図会によれば、年の始に隔年この神域より柳営に根引の若松を選び上納する旧例とす、とあります。古来例祭は旧暦6月1日に行う。境内由緒書きより  
『延喜式』神名帳記載の下総国葛餝郡・茂侶神社。千葉県内には三つの神社が論社となっております。  
他の二つは、流山市三輪野山の茂侶神社、松戸市小金原の茂侶神社。  
真名井 
ここは、古くは窪地になっており、その名を真名井と呼び、当時の人々は、ここの湧水から水を汲み、飲料水として使用しておりました。昔弘法大師が訪れ、錫杖で掘りさげた泉という伝説があり、側に弘法大師を祀ってあります。戦後、宮本中学校を造る為に校庭の整地をした頃から、湧水の水位が低くなっていましたが、当時の古老達がこのままでは弘法大師に申し訳ないと、井戸を整備し、大師堂を祀り直しました。 
●松崎神社 / 千葉県香取郡多古町  
弘法大師 伝説  
宝亀3年(772年)の創建で、五穀および歌舞音曲の神々として、古くから人々の信仰を集めている。  
延暦16年(797年)に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷征討の途中に参拝し、鏡一面および征矢を献じ木鼓一箇を奉納をした。鏡と征矢はその後兵火によって失われたが、木鼓は現在社宝として保存されている。また弘仁年間には諸国行脚の僧空海が参拝、携えてきた公孫樹の杖を上下逆さまに地中に挿し「後世まで繁盛せよ」と念じて立ち去ったという伝説があり、社殿前には周囲約6メートルの古木「空海の逆さ公孫樹」がある。  
平忠常の乱(1028年-1030年)で兵火にかかり建久2年(1191年)に再興され、旧号を「坂東稲荷本宮」と称したが、北条氏や里見氏などの武将の尊敬が篤く、徳川家康も朱印地30石を寄進した。現在の本殿は万治元年(1658年)、中殿および拝殿は宝暦6年(1756年)の改築である。  
明治2年(1869年)「松崎神社」と改号し、明治6年(1873年)郷社に列した。 
松崎神社2  
社伝によれば、宝亀3年(772年)の創建とされ、祭神は倉稲魂命、邇邇芸命、大宮比売命。延暦16年(797年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中に参拝、戦勝を祈願したという。このとき、鏡1面及び征矢を献じ、木鼓1箇を奉納したと伝えられる。その後の戦乱により、鏡と征矢は失われたが、木鼓は現在も社宝として保存されている。長さ約3尺(90cm)、径約1尺5寸(45cm)で、鼓皮は桜の木皮を樹脂貼り付けてある、という。祭神が倉稲魂命であることから五穀豊穣の神であるとともに、この木鼓のせいか、歌舞音曲の神ともされる。なお、最近では、この木鼓は、実は酒樽として献上されたものではないかともいわれているらしい。  
そのほか、社殿前にある公孫樹(イチョウ)の木は、弘仁年間(810〜824年)に僧・空海(弘法大師)が諸国行脚の際に参拝し、上下逆さまに地に挿した公孫樹の杖が育ったものであるという、「空海の逆さ公孫樹」の伝説がある。また、坂上田村麻呂以来、武家諸侯の崇敬が篤く、源頼朝や徳川家康による社田の寄進があったり、徳川光圀(水戸黄門)が参詣したり等、逸話には事欠かない。こうしたことから、「坂東稲荷本宮」を称していたが、明治2年、地名を採って「松崎神社」と改めた。  
こうした由緒ある神社であるが、古墳ファンには「北条塚古墳」の所在地として知られている。「北条塚古墳」(「東松崎2号墳」ともいう。)は、全長74m、前方幅45m、後円径36mという前方後円墳である。後円部の直径より前方部幅の方が大きく、6世紀中葉〜後葉の築造と推定されている(千葉県県指定史跡)。当神社の創建時期の真偽は別として、古墳自体を信仰の対象としていることは明らかで、古墳の保存状態も良好。 
塩井戸 / 千葉県館山市神余  
弘法大師 大同3年(808) 伝説  
近くを流れる巴川には塩井戸橋がかかり、橋のたもとには「弘法の塩井戸」があります。ここにはこんな言い伝えが。大同3年(808)11月、旅の僧を心優しい女性は小豆粥でもてなしました。その粥は塩気がなく、旅の僧は不思議に思い女性にたずねると、貧しくて買えないとのこと。それを聞いた僧は錫杖の先で巴川の川中を挿し、引き抜くとそこから塩辛い水が湧き出たとか。その旅の僧こそ、弘法大師だったという伝説です。その塩井戸からは現在も黄色味を帯びた塩水が湧き出ており、11月になるとこの塩水で小豆粥を煮て、大師にお供えするという慣習もありました。神余という地名通り、神仏との関わりが深い地なのです。  
熊野(ゆや)の清水 / 千葉県長生郡長南町  
弘法大師 伝説 (ゆやのしみず) 千葉県長生郡長南町佐坪2388にある湧水であり、1985年(昭和60年)名水百選のひとつに選定された。「弘法の霊泉」ともいわれ空海が布教のため立ち寄り、旱魃で農民が苦労していたので法力によって清水を湧き出させたという伝説がある。室町時代になってから、鶴岡八幡宮の社領となり、「鶴岡事書日記」によると八幡宮直営の湯治場として栄えたことが記されている。このため、当時の地区の名前は「湯谷」と呼ばれていたことから「ゆやのしみず」と呼ばれている。水量は、48L/分の流量を有し、下流の灌漑にも使用している。 
芋井戸 / 千葉県白浜町青木  
羅漢の井 / 市川市国府台  
里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。公園の南斜面下にあり、里見一族が布陣の際の飲用水として使用したと思われ、高台にあって水源が乏しいにもかかわらず一年中清水が湧いています。一説には弘法大師が巡錫の折に発見し、里人達に飲用水として勧めたと伝えられています。国府台は高台であるため飲用水を得るためには深い井戸を掘らねばならず多額の費用がかかりました。この伝説もここの住民にとって、いかに水が貴重なものであったかを物語っています。 
 
古代王朝と安房国  
奈良時代に既に見られた神仏習合思想がさらに進んで平安後期は本地垂迹説も確率した。これは仏が本体であり仏があとをたれて、人々を救うためにこの世に現れた仮の姿であるとする仏主神従の教え方で、各地に別当寺や神宮寺なども建立された。次に、修験道(山伏たちの呪術的宗教体系)は日本古来の山中他界の山岳信仰が外来の密教・道教・陰陽道などの影響のもとに、後に修験道の 開祖に仮託された役小角を始め、多くの宗教者たちが山岳で修行した。平安時代になると、最澄・空海による山岳修行の提唱に呼応して、密教僧(山伏)らも好んで峰入修行を行い、大日如来の教令輪身といわれる不動明王やその両童子を崇拝し、成仏の過程になぞらえた十界修行によって、即身成仏を得ようとしたのである。こうして、東国の出羽三山を行場とする羽黒修験、紀州の熊野三所権現を仰ぐ熊野修験や九州の英彦山に拠る彦山修験など、日本の三大修験が比肩するに至った。安房国では、弘法大師の開基説の寺院や伝説を伴う史跡が多い。    
修験道の開祖役小角(役行者)にまつわる創建や伝承も多く、石造ないしは木像彫刻などは、安房の修験道の一端を物語っている。    
小松寺 / 千葉県千倉町大貫  
文武天皇の代 役行者の創建    
大房山不動明王 / 千葉県富浦町多田良  
大宝元年(701) 役行者の開山(現在は滝渕神社・役行者像)  
養老寺 / 千葉県館山市洲崎  
役行者の独鈷水・役行者像    
富浦町深名峯坂の役行者像    
鋸南町保田 神崎信次家蔵 役行者像(伝武田石翁作、先祖は修験法道院)    
なお、安房の天台・熊野系修験の中心は、本山派総本山聖護院(京都末、触頭の正善院(富浦町原岡)で、 その触下二六か寺のうち町内に所在した修験寺は満能院(不入斗)、米沢寺(旧米沢村)・常光院(平久里中)・満蔵院(久枝村)の四か寺であったが、明治5年(1872)の修験道禁 止令によりすべて廃寺となった。  
安房国清澄寺に関する一考  
山川智応氏は寺主・弘賢について、「天台宗の当時の僧綱の名を列せるあらゆる文献を捜索したが、遂にその名を見出せなかった」とし、「真言宗の僧綱名を列せる各文献を捜索」したところ「東寺長者補任」に弘賢の名を発見する。  
貞治五年(1366年)丙午 / 長者僧正 光済 / 僧正 弘賢 後七日法行之  
(東寺長者は969年・安和2年以降、4名の定員となっている)  
そして「貞治五年(1366)から明徳三年(1392)までは、二十六年あるから、その間に大僧正となり得る可能性がある」としながらも、「併し東寺の長者で、宮中の後七日法まで奉行した人物が、何故に房州清澄寺の寺主となっているか」と不審とする。  
確かに、弘法大師空海開創の東寺長者の座にあった人物が、清澄寺のような安房の国の地方寺院の寺主に納まるというのはどうであろうか。山川氏は「弘賢の隠居寺でもあったのか」と弘賢の法脈系統を知るために東密の関連文書(「仁和寺諸院家記」「諸嗣宗脈記」「秘密辞林」「真言宗法脈系図」)を捜すも見当たらず、しかし、意外なところに弘賢の名を発見する。  
源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺の社務職を記した「鶴岡八幡宮寺社務職次第」に弘賢の名があった。それによると弘賢は鶴岡八幡宮寺第二十代の別当であり東寺流の出身。1355年・文和4年、31歳の時より1410年・応永17年、86歳に至るまで、56年間、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代を経て在職。  
他に十数カ所の別当を兼務していて、相模箱根山・走湯山の二所権現、足利氏の菩提寺・下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等の別当職になっていたことが判明した、としている。(※注 山川氏は弘賢の兼務寺院に箱根山を含めたが、「箱根山別当・東福寺金剛王院・累世」等によると箱根山の歴代に「弘賢」の名はない)  
続いて「聖人滅後百十一年の明徳三年(1392)当時には、清澄寺が正しく此の弘賢法印を寺主別当として、真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していた事実は、頗る確実である」とされている。  
 
「安房国清澄寺縁起」(岩村義運氏 1930)が伝える「光仁天皇の宝亀(ほうき)二年(771)、一人の旅僧何地よりか飄然として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず」との、清澄寺起源の時代の宗旨は不明だと考えるが、「其の後六十余年を経て、仁明天皇の御宇、承和三年(836)慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處、聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜず、之れ仏法相応の霊地なりとし、錫を止めて興隆に力を盡(つく)し、自ら一草堂に籠りて、虚空蔵菩薩求聞持法を厳修して其成満を祈り、遂に僧坊を建つる十有二、祠殿を造る二十有五、房総第一の巨刹、天台有数の大寺となり、清澄寺の名、漸(ようや)く世に知らるるに至れり」と、円仁再興との伝承を発生させた時代=天台・台密の聖らが再興した時からしばらくは天台・台密色の濃い清澄寺であったのではないか。これが東密の聖らの再興であれば、「弘法大師東国巡錫の砌、この地に」云々との縁起を作ったのではないかと考えられ、「慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處」(安房国清澄寺縁起)、「房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創」(清澄寺・古鐘の銘文)との伝承に、清澄山の堂宇を整備した天台・台密系の聖らの姿が思われるのである。  
成田山本尊上陸地  
県道30号(九十九里ビーチライン)を通った折に、横芝光町の尾垂ヶ浜(おだれがはま)にある「成田山本尊上陸地」を再訪しました。成田山新勝寺(真言宗)の本尊は、弘法大師(空海)作(開眼)といわれる不動明王像(像高1.32m)です。寺伝によると、平将門が叔父国香を殺害して下総国を始め、常陸国・上野国・上総国・武蔵国の近国を侵し、自ら「新皇」と称し、関東に威を振るった(平将門の乱)ため、天慶3年(940)1月に朱雀天皇が寛朝(かんちょう)僧正に宝剣を授け、「治乱の護摩を修法(しゅほう)せよ」と命じました。  
この命を受けた寛朝僧正は、すぐに京都の高雄山に安置されていた不動明を奉持して難波津(大阪)から船出して、この尾垂ヶ浜に上陸したといわれます。  
上陸地跡の鳥居の脇に平成3年(1991)3月に光町教育委員会が建てた「案内板」に  
<平安時代の中頃に桓武天皇の子孫の平氏が東国へきて勢力を張り、その一族の平将門が反乱を起こしたとき、それを鎮めるために寛朝僧正によって不動明王像が都から大阪を経て船で運ばれ、尾垂の浜に上陸、調伏(ちょうぶく)祈願をしたところ、天慶三年(940)乱は鎮まりました。この時の不動明王が、成田山新勝寺の本尊です。>と記されています。  
鳥居をくぐり、掃除を行き届いた参道を進みますと、突き当たりに平成10年(1998)12月に光町教育委員会が建てた「案内板」があり、  
<光町指定史跡 成田山御本尊不動明王 御上陸之地 平成十年四月二十三日指定 天慶の乱(平将門の乱)の時、将門調伏の祈祷のため、寛朝大僧正が京都から海路、不動明王尊像を奉持して、ここ尾垂ヶ浜に上陸しました。その不動明王尊像は、現在の成田山新勝寺の御本尊です。>と記されています。ここから左手に大きな石碑が見え、  
(正面)成田山本尊不動明 御上陸之地  
    大本山成田山貫首大僧正照定 謹書  
と刻まれています。  
この大僧正の照定は、中興第18世で、明治25年(1892)4月に成東町小松(山武市小松)に荒木辰五郎の次男として生まれ、同35年(1902)6月に石川貫首に随って得度した。  
その後、成田中学校(成田高校)を経て東洋大学に入り、大正2年(1913)に同大を卒業後、同大学研究科に進み、同3年3月に卒業した。同13年(1924)1月に石川僧正の遷化により貫首になった。照定僧正は、石川大僧正の素志を継承し、成田山公園を完成させ、同7年(1918)11月に深川不動堂の境内地を購入し、同9年(1920)11月に大阪市外香里に大阪別院を建立した。また、同10年(1921)1月に内仏殿・奥殿の新築起工式を行い、同年8月に北海道函館別院、10月に横浜別院の大師堂及び客殿の再建などを手がけた。昭和40年(1965)9月20日に遷化された(73歳)が、「当山過去一千余年、高僧大徳相つぎ、寺門の興隆に衆庶の救済に貢献した貫首は多いが、僧正の如く壮歯能く此の大山の経営に任じ、霊林の繁栄利物の勝計を確立したのはその例稀有というべきである」(『新修成田山史』)と高く評価されています。  
この「御上陸之地」の石碑の左側には、平成10年(1998)4月に建立した「成田山浪切り不動尊」が建てられています。  
この浜に上陸した不動明王は、その後、下総国公津ヶ原(不動ヶ岡)に安置し、護摩を修めました。翌3年(940)2月に平貞盛・藤原秀郷らが将門の居館・下総猿島を襲い、将門を討ち取りました。  
乱後、寛朝僧正は、伽藍を建て、不動明王を祀り、鎮護の道場としました。この伽藍を、新たに敵に勝ったということで、「新勝寺」と名付けたといいます。  
現在地に境内を遷座したのは、江戸時代の元禄年間(1688〜1704)とか、宝永2年(1705)とかの説がありますが、成田山新勝寺大本堂建立記念として出版した昭和43年(1968)3月の『新修成田山史』には、  
<現境内に遷地したのは少なくとも天文年間(1532〜55)か、それ以前でなければならない。さすれば永禄年間(1558〜70)の遷座入仏は諸堂を整備した落慶紀念の式典を行ったことを意味するものであろう。>とあり、「天文年間か、それ以前」としています。 
松戸 地名由来 
松戸の古代名は「馬津郷(うまつのさと)」であった。その後、マツサト、マツトと転じてマツドとなったが、現在の「松」は当字である。それは馬が多く配置された宿駅であったこと、松の木の多い里であったことに因む。地形的には、松戸は太日川(現在の江戸川)の砂州上にあって渡船場に好都合であり、国府と結ぶ官道の接合地点でもあったなど、古代から下総国の交通の要衝であった。それだけに多くの歴史が刻まれている。  
松戸駅近くの戸定台(とじょうだい)も中世の城址だがまた小弓公方(おゆみくぼう)足利義明(よしあきら)の陣構え跡、松戸宿最初の旗本領主高木筑後守の陣屋跡、将軍鹿狩りの小休止所跡ともいわれる。国道6号松戸トンネルの柏側周辺を「陣ヶ前(じんがまえ)」というのは、この陣屋を指す。  
「相模台(さがみだい)」はかつて陸軍工兵学校跡で中央公園には赤レンガの門柱や衛士の詰所が残っている。この地名は、鎌倉時代に北条相模守長時(ながとき)が岩瀬坂に築城して住んだことから呼ばれるようになった。  
この相模台は第1次国府台合戦の激戦地であり、小田原北条氏綱(うじつな)と里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った。第2次国府台合戦は26年後、矢切大坂を中心に氏綱の子・氏康(うじやす)と義堯の子・義弘(よしひろ)が激戦を展開した。  
「根本(ねもと)・中根(なかね)」は、弘法大師が1本の木から3個の薬師如来像を作った際、根本に近い部分を吉祥寺本尊、中間を東照院(現中根寺)本尊、末を印西市の寺の本尊にしたことから、それぞれ根本村、中根村、浦部村と呼ばれたという。  
 
東京都   

 

●五智山遍照院持寺「西新井大師」 / 東京都足立区  
弘法大師(空海) 巡錫  
「西新井大師」は、東京都足立区にある真言宗豊山派の寺院です。正式名は「五智山遍照院持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)」。平安時代初期の天長の時代、弘法大師(空海)が関東巡錫の折に当地を訪れ、悪疫流行に悩む村人たちを救おうと観音を造り、祈祷を行ったところ、枯れ井戸から水が湧き病が治ったといい、その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名ができたと伝えられています。 
西新井大師2 
真言宗豊山派の総持寺は、五智山遍照院と号し、西新井大師と呼ばれています。826年弘法大師により創建され、本堂の西側に加持水の井戸があったことから西新井となりました。川崎大師平間寺、観福寺大師堂(前橋厄除大師)と共に関東三大師の一つ、関東八十八ヶ所霊場特別、関東三十六不動の26番不動、荒川辺八十八ヶ所霊場37番、38番、荒綾八十八ヶ所霊場1番、新四国四箇領八十八ヵ所霊場1番、武蔵国八十八ヶ所霊場1番札所です。 
西新井大師と空海  
関東には三大厄除け大師があります。 神奈川県には川崎大師、千葉県には観福寺大師堂、 そして東京都には西新井大師があります。  
ただ、これが複雑なのですが、上記三つとは別で関東の三大師と言われるものがあります。 関東厄除け大師とは空海である弘法大師を祀る真言宗の寺院をさしますが、 関東の三大師は別の寺院をさします。 西新井大師は東京都足立区にある西新井の真言宗の五智山遍照院総持寺をさします。  
なぜ足立区に厄除け大師があるのかというと、 9世紀頃に空海が関東を巡っていた際に西新井に寄りました。 その時、その土地の村人たちが病にかかっていたそうです。 観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を造ると、 水が出なくなった枯れた井戸から清水が出て、その村人たちがそれを飲むと病が治ったそうです。 井戸はお堂の西側にあったので、この土地は西に新しい井戸ができた、 つまり西新井と命名されたそうです。ダジャレですね。  
826年に真言宗の寺院として西新井大師は完成しました。江戸時代には本堂が建立されました。 しかし、1960年代に火災により焼失してしまいますが、本尊は無事でした。 現在の西新井大師は再建されたものですね。数年前にも改築をしてかなり綺麗になりました。 ただ、西新井大師といえばお団子屋さんなので、 来たのならお団子屋さんで舌鼓するのが満喫するポイントですね。  
私は2012年の初詣に川崎大師にお参りをしました。まずここはすごい人出です。 そこを稼ぎ時と多くの出店が設置され、大変なにぎわいを見せています。特に元日はスゴイ。  
この川崎大師と言うのは通称で、正式名称は平間寺と言います。厄除けの寺として有名で特に厄年の人には 大きな力となる場所です。厄年は男性の場合25,42,61歳。女性の場合は19,33,37歳です。 その前後を全厄、後厄と言い、この時期はお参りをした方がいいでしょう。 
●善福寺、柳の井戸 / 港区元麻布  
弘法大師 開基  
弘法開基と伝えられ、境内には柳の井戸がある。弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突き立てたとこ、たちまち噴出したもので、関東大震災や昭和20年の大空襲のとき、この良質の水がどれほど一般区民を救ったか知れないという。また境内には福沢諭吉や越路吹雪の墓もある。 
●目白不動 金乗院 / 豊島区高田  
弘法大師 ゆかりの不動明王(断腎不動明王)   
「弘法大師が、羽州(出羽国)湯殿山に篭ったときに、大日如来忽然とと不動明王の姿に変わり滝の下に現れ、汝に無漏(悟りが開け迷いや欲望がなくなる)の上火を与うべしと持てる剣で左の肘を切り給えば霊火盛んに燃え出たそうです。大師はそのすさまじい不動明王の姿を刻んだといわれています。後年、野州(上野国)足利住の僧この地の住人松村某とはかり、一字を開き右の不動明王(断腎不動明王)を移し本尊としました」(『江戸名所図会』)。  
元和四年(1618)大和の長谷寺の四世秀算が再興したので新長谷寺と称したそうです。三代将軍家光の信仰厚く、鷹狩の途中に拝して、城南の目黒に村して目白と呼ぶべしといい、これから目白不動、このあたりを目白と呼ぶようになりました。五色不動の一つとして有名。また、観音霊場としても名が高かったようです。目白台の崖の上にあリ、下は大洗堰の流れ日夜絶えず 早稲田たんぼを越えて高田の森を望む絶景の地でした。境内に茶屋や料理屋などもあったようです。江戸時代から繁栄し「…・おしあひてまゐりのつどふ寺なればめじろ不動と名づけそめけん」 (『江所名所記』) とあります。  
時の鐘 「寺門の傍に鐘楼あり、昼夜時を報ず、目白の鐘と称す、上野、浅草と美名を斉うす、楼下に番人家居す、世話人ありてこれを司どれるなり。鐘の響く所、毎月鐘銭を集む」(『新撰東京名所図会』) とある。戦災で焼けて廃寺となり、不動尊と門前の不動石像は金乗院)に移されました。跡地は現在住友生命関口寮となっています。その名を留めるものは目白板だけです。 
●瀧河山松橋院 金剛寺(もみじ寺) / 東京都北区滝野川  
弘法大師 遊歴  
本尊は不動明王像です。縁起によれば、この地は、弘法大師遊歴の古蹟で、大師自ら不動明王像を彫り、石の上に安置した、 これが同寺の本尊であるといい、また治承年中(1177〜81)、源頼朝が松橋弁天を信仰し、 堂舎を建立、あわせて田園を寄進したが、その後兵火に焼かれ、強盗に田園を掠奪され、宗門すら 定かでなかったのを、天文(1532〜55)のころ阿闍梨宥印という僧がこれを歎いて北条氏康 に訴え、真言宗の道場にしたということです。  
松橋弁天というのは、この寺院の西側、崖下にある洞窟(現在は石神井川護岸の裏側になっていま す)に祀られていた弁財天のことで、岩屋弁天とも呼ばれていました。江戸時代、かなり広く知ら れていたようで、現在も区内に何ヶ所か、その名を彫った道標が残っています。  
「源平盛衰記」に、源頼朝が隅田川を渡って府中に向かう途中、「武蔵国豊島の上滝野川、松橋と いう所に陣を取る」と記されております。また、この寺院の一帯は、豊島氏の支族滝野川氏の居館 滝野川城跡といわれています。境内には、鹿島万平翁の碑などがあります。  
●高尾山薬王院 / 八王子市高尾町  
弘法大師 巡錫  
平間寺(川崎大師)、成田山新勝寺とともに、真言宗智山派の関東三大本山のひとつ。  
天平16年(744年)聖武天皇からの直接の命あって、高僧として知られる行基菩薩が自ら薬師如来の尊像を刻み、高尾山を開基した。永和年間(1375〜1379年)には京都の醍醐寺から俊源大徳が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山として、また修験道の道場として繁栄する。  
戦国時代には多くの武将が飯縄大権現を信奉したが、わけても当地の領主北条氏康・氏照親子の信仰は深く、薬王院や高尾山についての厳しい軍規を定め、その保護に尽力した。信仰は現代に到るまで庶民の間に引き継がれ、高尾山の自然とともに大切に守られている。  
薬王院の中心となる本社・権現堂は、東京都指定有形文化財に指定されている。享保14年(1729年)に本殿が、宝暦3年(1753年)に幣殿と拝殿が建立された。総朱塗りに極彩色の彫刻という華やかなつくりで、寺院の中にあるにも関わらず、鳥居を備えた神社建築である。  
弘法大師の巡錫も伝えられ、諸堂には修験道の開祖である役小角に竜神、弁才天、愛染明王、天狗など、多彩なご本尊がそれぞれに祀られて、神仏を幅広く信仰した庶民のおおらかさが見える。 
●品川寺 / 東京都品川区  
(ほんせんじ) 東京都品川区南品川三丁目にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は海照山。本尊は水月観音と聖観音で、江戸三十三箇所観音霊場の第31番である。  
寺伝によると、弘法大師空海を開山とし、大同年間(806-810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。スイスジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがある。 
貫井(ぬくい)の地名 / 練馬区  
弘法大師 伝説  
旧上練馬村のうちの小字である。江戸時代の上練馬村は今の田柄、春日町、高松、向山、光が丘(一部)を含む大村であった。上練馬貫井村とも称して一村の形をとることもあった。  
むかし弘法大師がこの地をおとずれ、水不足に苦しむ村民の姿をみて、持っていた杖で大地を突いたところ、泉が湧き出した。これが地名の由来だという。湧き水でできた池が貫井中学校グランド辺にあった。南池山貫井寺円光院の号もこの伝説によるという。  
昭和7年板橋区成立のとき練馬貫井町となり、同22年練馬区独立後、練馬の冠称をとって貫井町となった。40年住居表示が実施され現町名となった。西武池袋線富士見台駅は貫井3丁目にある。だから大正14年開設当初は貫井駅といったが、昭和14年現駅名に改めた。先ごろ貫井2−18付近で遺跡の発掘が行われた。数多くの出土品のなかに、古代の国司(今の県知事)級高官の装身具が見つかった。 
 
五色不動  
目黒は今、東京二十三区の区名ともなり、山手線の駅名にもなるが、江戸時代は長らくの間、江戸市中には入っておらず、農地であり、徳川家光は度々に渡り、鷹狩りに訪ずれており、この地の由来とも言われる、目黒不動尊のおわします地であった。目黒不動尊は、天台宗・泰叡山瀧泉寺といい、江戸時代以前から信仰を集めていたが、寺伝によると、大同三年(八〇八)慈覚大師円仁が、下野国(栃木県)から比叡山に赴く途中に、不動明王像を安置して創建したということである。  
不動明王は、不動威怒明王と称し、真言宗・天台宗の密教にて、五大明王・八大明王の主尊であり、大日如来が一切の悪魔・煩悩を降伏させるために、姿を変えてこの世に現われた、その教えを示す使者で、密教の代表的な忿怒の相をとる。  
不動明王は、日本の密教の伝道者の一人である、弘法大師空海の守護仏が大日如来であり、その使者としても、空海が入唐する際に先導したとされる「波切不動」との縁とも相まって、平安時代初期からの、日本における密教の盛行と共に、不動信仰は隆盛となり、今日までも長く続いている。不動明王像は仏教美術において、絵画や彫刻などにより、優れた作品が伝わり、特に滋賀園城寺の黄不動、高野山明王院の赤不動、京都青蓮院の青不動の「三不動」は知られ、それぞれがその色で御身が描かれている。  
東京の「五色不動」は、言い伝えによると、江戸時代に徳川三代将軍・家光が、天海大僧正の進言により、中国の陰陽五行説にもとずき、江戸の地の守護・天下泰平のために、江戸市中を囲むような、東・西・南・北・中央にあたる、五箇所の地にかねてから安置されていた不動尊を選び、それぞれを表わす色である、青・白・赤・黒と黄を配したということである。  
この江戸の「五色不動」は、天台宗の高僧であり、江戸市中を守るために、鬼門に当たる上野に東叡山・寛永寺を建立した人物でもある、天海大僧正による陰陽五行説に由来していることであった。平安時代の「三不動」の仏画が、黄・赤・青それぞれで彩色されているのとは異なり、決して目が各々の色をしているということではない。その色そのものに、密教の示す重要性が込まれていたわけで、それ故に「五不動」の存在価値があった仏像ということで、庶民の信仰を集めていたのである。  
今、目黒・目白の地名はよく馴染んでいるが、そのもととなったのが、「不動尊」にあったことは、あまり知られていない。 
深川不動堂 / 江東区富岡  
深川不動堂は、千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院です。古くより「深川のお不動様」と親しまれて参りました。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことに始まります。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した、御分身であります。成田山別院の嚆矢として法燈は今も守り継がれ、日々皆様の諸願成就をご祈念いたします。  
成田山新勝寺(以下「成田山」)の歴史は古く、御本尊の不動明王像は平安時代の初め、嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻し開眼したものと伝わります。その後は長らく京都の高雄山神護寺に奉安されていました。この御尊像が、はるか東国の下総国成田に遷座されることになったのは、朱雀天皇の天慶2年(939)に起こった「将門の乱」のときです。朝廷は真言宗の高僧寛朝大僧正に神仏の力による将門の調伏を命じました。そこで寛朝大僧正は、神護寺の不動明王像を奉持し、現在の成田の地に不動明王像を祀り調伏の護摩を修したのであります。 乱が治まり、寛朝大僧正は不動明王像を奉じて京都へ戻ろうとしますが、御尊像は根が生えたように動きません。そして不動明王は、「我再び王城へ帰ることを欲せず、永くこの地にとどまりて東国の鎮護とならん」と寛朝大僧正に告げたといいます。これを聞いた朱雀天皇は、この地に堂宇を建立させて東国の霊場とし、「成田山神護新勝寺」の寺号を下賜することとなりました。こうして成田山は創建されたのであります。  
成田山が庶民信仰の対象として高い人気を得るようになったのは、江戸時代の中期です。ひとつには、生活にゆとりのできた商人が盛んに成田詣をするようになった一方、歌舞伎の市川團十郎丈が成田人気に拍車をかけます。子供に恵まれなかった初代團十郎が成田山の不動明王に祈願し、二代目團十郎を授かって以来、市川家は代々篤く成田山を信仰し、屋号を「成田屋」と称するほどで、「成田不動尊利生記」など成田山のご利益を物語った芝居を上演して大当りをとったといいます。  
そうしたことと相まって、成田山の不動信仰は江戸庶民の中に広く浸透していきました。江戸庶民の人気に支えられ、元禄16年(1703)に第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われました。本尊の不動明王像を成田山から運び、江戸の人々に公開したのであります。これには、5代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝しました。一説には、成田不動尊の尊信篤き桂昌院が、護国寺の高僧隆光を動かし出開帳を実現させたともいわれます。以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。不動信仰はますます盛んになる中で、信徒講社が結成されました。一つは日本橋の魚市場、米屋町を中心とした深川佐賀町の米市場、木場、蛤町の講社であり、もう一つは蔵前の札差、米問屋に加え、俳優・花柳界・鳶からなる浅草方面の講社でした。  
明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、信徒講社は永続的な御旅所確立のために深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。「深川不動堂」の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の明治十四年(1881)のことでした。.  
大正12年、未曾有の大震災である関東大震災が東京を襲います。幸い御本尊及び諸仏は役僧によって運び出され難をのがれたものの、諸堂伽藍は全て焼失してしまいました。数年間境内整備もままならず仮本堂の状態が続きましたが、ご信徒の熱望と寄せられた浄財により、昭和3年(1928)本堂が再建され盛大な入仏供養記念開帳が執行されたのであります。ところが、昭和20年(1945)の東京大空襲により再び東京は火の海に包まれてしまいます。深川はまったくの焼け野原となり、不動堂の堂宇もことごとく灰燼に帰しました。このときも御本尊は役僧達の必死の努力により焼失を免れ、いったん成田山の光明堂へ遷座されることとなりました。  
再建に向け、成田山には「深川不動堂本堂建立事務局」が開設され、着々と準備が進んでいきました。しかし占領下の日本では、建築面積等に制限があり、計画通りの本堂を建立することができません。そこで、千葉県印旛郡の天台宗龍腹寺地蔵堂を移築するという計画が検討され、成田山側と龍腹寺側による話し合いの末、譲渡寄進が決定しました。建物は、成田山工務課により解体され、深川へ運ばれました。昭和25年ついに本堂の上棟式が執り行われ、深川不動堂は甦ったのであります。その後、ご信徒皆様の多大なご信助を賜り平成14年に内仏殿が落慶、平成24年9月には新本堂が落慶しました。こうして、不動明王の広大無辺の威徳と成田山別院としての嚆矢たる法燈は今も脈々と受け継がれているのです。  
<全国の成田山別院> 川越別院(成田山本行院) / 札幌別院(成田山新栄寺) / 横浜別院(成田山延命院) / 函館別院(成田山函館寺) / 大阪別院(成田山明王院) / 名古屋別院(成田山大聖寺) / 福井別院(成田山九頭龍寺) 
三縁山広度院 増上寺 / 東京都港区  
増上寺は、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。  
安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。  
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれています。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。  
恵心僧都(えしんそうず)源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願しました。その歿後増上寺に奉納され、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めています。黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。やはり家康公の命名といわれています。  
江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。檀林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。  
明治期は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も生じました。また、明治六年(1873年)と四十二年(1909年)の二度に渡って大火に会い、大殿他貴重な堂宇が焼失しました。しかし明治八年(1875年)には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな壇越(だんのつ)(檀徒)を迎え入れて、増上寺復興の兆しも見えはじめました。大正期には焼失した大殿の再建も成り、そのほかの堂宇の整備・復興も着々と進展していきました。
増上寺2  
空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。  
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。  
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。  
また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年)6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。なおテレビドラマ水戸黄門・第17部においては、この一件が水戸光圀の旅立ちのきっかけとして描かれている(光圀の諸国漫遊はフィクション)。  
また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。  
明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち明治7年(1874年)1月1日排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。  
太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。  
なお、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。 
東京都  
東京都は日本の首都であり、その面積は2,187.58平方キロ、人口は日本の都道府県で最多の13,161,751人(2010年)となっています。東京の基礎自治体の構成は『23区・26市・5町・8村』の区市町村であり、地価の高い千代田区、中央区、港区の『都心3区』を抱え、『新宿副都心・池袋副都心・渋谷副都心・上野・浅草副都心・錦糸町・亀戸副都心・大崎・品川副都心・東京臨海副都心』という7つの副都心を制定しています。古代の律令体制の区分では東京都は『武蔵国・下総国・伊豆国の一部』に該当し、多摩地域は『多摩郡』に属していました。区部の西側は、武蔵野台地の末端部であるという意味で『山の手』と呼ばれ、鉄道の山手線周辺は日本の中心的な都市機能が集中する地域となっています。  
多摩地域は特別区に含まれる東多摩郡を除いて、南多摩郡、北多摩郡、西多摩郡の3つの郡を総称して『三多摩(みたま)』と呼ぶことがありますが、多摩郡は古代には東京都内に当たる地域でもっとも先進的な地域だったと考えられています。旧北多摩郡の『府中(ふちゅう)』では、4世紀前半に大國魂神社が建立されたという伝説があり、7世紀には大國魂神社内に『武蔵国府』が置かれましたが、東京の名称の前身である『江戸』という地名は、12世紀の『豊島郡江戸郷』という名前から始まったようです。  
12〜13世紀以降にかけて、隅田川の西側の地域を『江戸』と呼ぶようになりますが、江戸時代以前は関東地方で栄えていたのは江戸ではなく、相模国国府(神奈川県相模原市周辺)や上総国国府(千葉県市原市周辺)、下総国国府(千葉県市川市周辺)、武蔵国国府(東京都国分寺市・府中市周辺)でした。  
東京都に含まれる『伊豆諸島』は古代からある伊豆国の流刑地でしたが、戦国時代になると『扇ヶ谷上杉氏』の家宰の太田氏が実力をつけて独立の構えを示し、太田道灌(おおたどうかん,1432-1486)が現在の皇居(近代の宮城)である『江戸城』を建設しました。相模国にあった小田原城を本拠地とする『後北条氏(北条早雲を祖とする氏族で氏綱-氏康-氏政-氏直と続き秀吉に滅亡させられた)』が武蔵国全域を支配するようになると、今度は現在の八王子市に滝山城・八王子城を建設しました。後北条氏は甲斐国の武田氏の侵攻を防衛する活躍を見せたものの、天下人になった豊臣秀吉の関東一円の支配を目指す『小田原攻め』によって1590年に滅亡させられました。  
後北条氏の領地は徳川家康に賜与されることになり、江戸を本拠地とした本格的な開発が始まりますが、1603年の『関ヶ原の戦い』で徳川家康率いる東軍が石田三成の西軍に勝利したことで、江戸幕府が開府されることになりました。江戸城は徳川将軍家の居城となり、江戸は日本の政治の中心地として発展していきますが、18世紀初頭には人口が100万人を超えて世界でも有数の大都市にまで成長しました。武蔵野台地では農業も盛んとなり、畑作が増加して新田開発によって耕地面積も急拡大していきます。江戸城の西にあった『甲州街道』の途中には多くの宿が設けられ、その内の一つであった『内藤新宿』は明治期以降の『新宿』となって経済的・文化的に栄えることになります。  
『王政復古・尊王攘夷』を掲げる薩長軍の倒幕運動と戊辰戦争によって、徳川将軍家の江戸幕府は崩壊へと追いやられ、1868年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)に江戸城は無血開城して江戸は新政府(明治政府)が統治することになります。1868年6月30日(旧暦5月11日)に、明治新政府はまず『江戸府』を設置します。9月3日(旧暦7月17日)には、江戸を『東亰(後に東京)』へと改称し、江戸府も『東京府』という名前に改められました。1869年(明治2年)には、平安時代から長く京都の御所を拠点にしていた天皇(明治天皇)が宮城・皇居(旧江戸城)に入る事となり、東京府は法律によって『遷都の宣言』をしたわけではないのですが、明治維新を進めようとする近代日本の『事実上の首都』となります。  
1878年(明治11年)には伊豆諸島、1880年(明治13年)には小笠原諸島を東京府に編入して、1893年には1872年に神奈川県に移管していた多摩地域が東京府に戻ってきます。この時点で東京府は、ほぼ現在の『東京都』と同じ管轄領域を持つようになりますが、東京都という名称になるのは1943年(昭和18年)7月1日になってからのことです。1868年(慶応4年/明治元年)から1943年(昭和18年)までは、現在の東京都は府県制の下で『東京府』と呼ばれていました。1889年(明治22年)になると、当時の主力輸出品の一つであった絹織物の輸送路も兼ねて新宿-八王子間をつなぐ『甲武鉄道(後の中央線快速区間)』が開通し、19世紀末には後に国鉄線(JR線)となる東京府内の各方面に延びる幹線鉄道が整備されていきました。20世紀前半になると、日本各地の都市で私鉄各線の路線も開通していき、東京府と各地の主要都市を鉄道で結ぶ『国内の陸上交通網』が整備されました。  
1889年(明治22年)に『市制施行』による東京市が発足しますが、大正時代になって周辺各地から東京市への人口流入が進んで、1920年の東京市の人口は370万人にまで膨れ上がりました。1923年(大正12年)9月1日には、直下型の『関東大震災(マグニチュード7.9)』が発生して、震災後に発生した火災で東京の大半の建物が焼失し、死者・行方不明者も10万5千人にも上りました。第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)の真っ只中である1943年(昭和18年)7月1日に、東京市と東京府が廃止されて、現在と同じ『東京都』が設置される運びとなり、初代の東京都長官には内務省出身の大達茂雄(おおだちしげお)が就きました。  
終戦が迫る1945年(昭和20年)3月10日には米軍による『東京大空襲』を受けて、東京都の下町は壊滅状態となり、空襲による爆発・炎上によって東京の市街地の多くが『焼け野原の焦土』と化しました。東京都に所属する小笠原諸島でも、兵員すべてが玉砕する『硫黄島の戦い』という苛烈な戦闘が展開されましたが、1968年(昭和43年)に小笠原諸島と火山列島が米国より返還されています。戦後の焼け野原になっていた東京は、経済最優先の政治方針の下で短期間で復興を成し遂げていき、1964年(昭和39年)に開催された『東京オリンピック』によって、『最早戦後ではない』といわれる戦後復興が完成したとされます。東京都は高度経済成長期を経て日本の政治・経済の中心として急成長を続け、1967年(昭和42年)には東京都の人口は1千万人を突破しますが、『東日本大震災(2011年3月11日)』の後遺症が残る2012年1月の現時点においても『東京一極集中』の傾向は顕著なものがあります。  
令制国の旧武蔵国多摩郡だった『三多摩』は、1872年(明治5年)5月22日に東京府から神奈川県に移管されますが、1893年(明治26年)4月1日には再び神奈川県から東京府に移管されて戻ってきます。三多摩が神奈川県から東京に再移管された理由は、『東京の水資源である玉川上水の確保』と『多摩地区が拠点になっていた板垣退助を首班とする自由民権運動の抑制』にありました。1876年(明治9年)3月10日に小笠原諸島が東京に移管、1878年(明治11年)1月11日に伊豆七島が静岡県から移管、そしてこの1893年の三多摩の再移管によって、現在の東京都の領域を得ることになりました。東京都の区域を大まかに区分すると、『(都心中心部の)山の手・(江戸情緒の残る)下町・(都心近郊を形成する)三多摩・(日本最南端を含む)小笠原諸島・伊豆諸島』の5つの区域に分類することができます。 
 
神奈川県

 

●青蓮寺 / 神奈川県鎌倉市手広  
弘法大師 弘仁10年(819) 開山  
神奈川県鎌倉市手広にある高野山真言宗の寺院。高野山宝寿院(無量寿院)末。詳しくは飯盛山仁王院青蓮寺(はんじょうざんにおういんしょうれんじ)と号する。高野山真言宗準別格本山。関東八十八ケ所第五十九番札所、東国新四国八十八箇所第八十八番結願札所、相州二十一箇所第十九番札所  
弘仁10年(819)に空海(弘法大師)が開山し、長禄年中に善海が再興したと伝わる。天正19年(1591)には徳川家康より手広村に25石の寄進を受け、関東壇林三十四院のひとつとしても名を連ねるなど徳川氏からは寺格を高く評価されていたようだが、天保4年(1833)に起きた火災と関東大震災の時に寺院が倒壊した事によって寺の史料の多くが散逸しており、詳しい事はよくわかっていない。  
近世初期には相模国に30以上の末寺を抱えていたが、江戸時代中期以降はその多くが、無住ないし廃寺となっており、寺院経営は苦しかったようである。  
寺には、弘法大師が寺の裏手にある山(飯盛山)で修行をしている時に天女から仏舎利を託され、翌朝目を覚ますと青い蓮華(ハスの花)が一面に咲いていたという伝承が残っており、寺の名前もこれに由来している。なお飯盛山は戦後急速に宅地化が進んだ周辺区域の中でも比較的豊かな自然が残存しているため、鎌倉市でその自然環境を保護しようとする動きがある。  
寺は神奈川県道304号腰越大船線と旧江ノ島道に面している。かつて旧江ノ島道から青蓮寺へ抜ける洞門が存在したが、県道304号が開通した際に山ごと切りくずされ、以降この洞門は入り口で封鎖されている。なおこの洞門の付近には庚申塔があり、かつては洞門の付近を村の境としていたことが推測される。 昭和25年に住職の草繋全宣師が京都大覚寺門跡に栄晋された時に多数の末寺が青蓮寺を離れ大覚寺末となる。 
●水無川 / 神奈川県秦野市を流れる金目川水系  
弘法大師 伝説 
盆地扇端部で流量の大部分が地下に伏流するため、以前はその名のとおり盆地内を流れる「水無」川だった。戦後、流域に工場や住宅が増えるにつれ、そこから流入する水(排水や浄化処理された水)が流れるようになり、流量は安定した。それでも時期と場所によってはほとんど水が流れていない事もしばしばある。秦野市内にある戸川という地名はこの川の別称「砥川」(砥石のような石が河原に多かったため)の転じたものである。  
川から水がなくなった由来に言及した御伽噺の一つとして、弘法大師が登場する伝説がある。弘法大師は「心の優しい人がこの辺りにはいないものか」と思い、わざと貧しい身なりをしてこの川の流域の住民に水を求めた。水を求められた住民はその人が弘法大師とは知らず、貧しい身なりをしていたので水を与えなかった。「人の身なりで人を判断するとは何たる事だ」と怒った弘法大師は、この住民たちの生活用水である川の水を涸らしてしまった。その川に水が無くなってしまった事から、「水無川」と言う名称が付いたというのである。  
●弘法山 / 神奈川県秦野市  
弘法大師 修業  
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの 伝承があり、権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。明和3年(1766)に山火事でひび割れ、再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の 松操智貞尼の尽力により徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
●成就院 / 神奈川県鎌倉市  
弘法大師 巡礼  
弘法大師が諸国巡礼の折、百日間にわたる虚空蔵菩薩を祀る修法を行ったところと伝えられる。  
平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法を修したという霊跡に、承久元年(1219)に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、 普明山法立寺成就院と称した。  
元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688-1703)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。 
成就院2  
神奈川県鎌倉市にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は不動明王。アジサイの寺で知られる。空海(弘法大師)が諸国巡礼の折、百日間にわたり虚空蔵求聞持法(虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える修行)を行ったところと伝えられる。鎌倉時代には執権北条氏の帰依を得たという。境内には弘法大師像や聖徳太子1300年忌に建てられた八角の小堂がある。寺には平安時代末から鎌倉時代初期の僧・文覚の荒行像がある(境内に模造が置かれている)。また参道には般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが植えられている。 寺の東方、鎌倉十井の一つ「星ノ井」(星月夜ノ井)のそばにある虚空蔵堂(星井寺)は成就院が管理する境外仏堂である。 
麻生区 / 神奈川県川崎市麻生区  
弘法大師 伝説  
麻生区(あさおく)は、川崎市を構成する7区のうちのひとつである。川崎市の西北端に位置する。新百合ヶ丘駅周辺は川崎市の北部副都心として発展している。1982年(昭和57年)7月に、多摩区から分区する形で誕生した川崎市で最も新しい区である。  
麻生の地名の由来は、古くから麻が自生しており、8世紀には朝廷に麻布を納めていたという記録が残っている点からである。区名は一般公募され、川崎市に編入されるまで同地域の多くを占めた都筑郡柿生村に由来する「柿生」が最も多い結果であったが、歴史の古さから麻生に決定した。あさおくと読むのが正しいが、あそうくと間違って読まれることが多い。  
区南部には、日本最古の甘柿の品種と言われている禅寺丸柿が発見された王禅寺地区があり「柿生」の名の由来となった。区北部の黒川地区には、昔ながらの里山が残っている。  
弘法の松  
弘法大師がこの地に立ち寄り、寺を建設しようとしたが谷の数が足りずに断念し、代わりに松の木を植えて立ち去ったという伝説が残されている。初代弘法の松は1956年12月に焼失し、今に至っている。  
王禅寺  
川崎市麻生区にある真言宗豊山派の寺院。星宿山蓮華蔵院王禅寺と号する。この寺院付近一帯の地名にもなっている。「東の高野山」とも呼ばれた。 寺紋は三つ葉葵。日本最古の甘柿の品種と言われている禅寺丸が発見された寺として有名。境内には原木が残っている。  
創建の正確な年代は不明である。慶安3年(1650年)成立の縁起(『聖観世音菩薩略縁起』)によれば、天平宝字元年(757年)、観音菩薩が孝謙天皇の夢枕に現れ「武蔵国の光ヶ谷戸という所に居る」と言われ、探索を命じられた結果、発見されたいう。孝謙天皇の勅命で武蔵国都筑郡二本松で発見(光ヶ谷など異説あり)された一寸八分の聖観音(しょうかんのん)である金の像を祀り堂宇を創建したという。寺伝によれば延喜17年(917年)高野山の三世無空上人が、醍醐天皇から「王禅寺」の寺号(王の命じた仏教を修行するに適した場所としての寺という意味)を賜り、同地に改めて創建され関東の高野山と呼せられ、東国鎮護の勅願寺となる。延喜21年(921年)高野山の熊空上人により真言宗の寺となるという。 
●雨降山 大山寺 / 神奈川県伊勢原市大山  
弘法大師 大山寺第三世  
大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(755)に開山したのに始まります。  
行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。  
その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。  
また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました。  
元慶八年には天台宗の慈覚大師の高弟・安然が大山寺第五世として入山。伽藍を再興し、華厳・真言・天台の八宗兼学の道場としました。  
これより大山は相模国の国御岳たる丹沢山系の中心道場として各地に知られ、別当八大坊をはじめとする僧坊十八ケ院末寺三、御師三百坊の霊山として栄えました。  
しかし明治初年の廃仏毀釈により、現阿夫利神社下社のある場所から現在の場所に移りました。関東一円を初め日本中の強い信仰に支えられ、幸いにもご本尊を初めとする、数々の寺宝は破壊を免れました。明治期に数多くの信者たちの寄進によって現在の位置に本堂をはじめ数々の伽藍が再興され現在に至っています。大山寺はまさに多くの信者に支えられた一大霊地といえます。  
大山信仰  
大山は丹沢山地東南部に聳える標高1252mの神奈備型(ピラミッド形)の孤峰で、伊勢原市・厚木市・秦野市の3市の境界をなす。前面が開けた平野となっていて遠方からもその姿を望むことができ、相模国の象徴として万葉集にも「相模峯」とうたわれている。それは「大山」という名前が、普通名詞であることによってもわかる。このほか「阿夫利山」「雨降山」「如意山」「大福山」など様々な別名が付けられた。  
大山への信仰は広範囲にわたる。古くより、死後の霊魂の赴く山とされ、また山頂には常に雨雲がかかり(雨降山の由来)と呼ばれ農民に雨乞いの神として信仰された。さらに漁民からは航海の目印として信仰された。また朝廷や鎌倉幕府、室町幕府、後北条氏、江戸幕府など時の為政者からも信仰が寄せられたほか、江戸時代には現世利益を願う江戸っ子や水を必要とする町火消しなども盛んに訪れ、その様子は浮世絵や落語「大山参り」をはじめとする文芸作品で盛んに描かれている。  
古来、山頂の阿夫利神社と山腹の大山寺が一体となって(寺院側の勢力のほうが強かったが)大山信仰の核となっていた。阿夫利神社は祟神天皇の頃の創建という社伝を持つ、『延喜式』の神名帳にも名のある古社で、山自体を神格化したものである。また山頂の自然の大岩を御神体とすることから「石尊」とも呼ばれる。大山寺も天平勝宝7年(755)に奈良東大寺初代別当の良弁僧正が両親のために開いたという縁起を伝える古寺で、鎌倉期の鉄造不動像(国重文)を本尊とする。弘法大師などの伝説も残るが実態は明らかでない。しかし、大山の天狗は有名で、戦国時代には修験道本山派の棟梁が訪れるなど修験者の修行地として知られたのは確かである。彼らはしばしば後北条氏に従って戦っており、これを危険視した徳川家康によって近世の初期に改革が行われた。修験者は山を下り、信徒に御札を配ったり、宿泊所を提供する「御師」となって活躍し、大山信仰の拡大に寄与した。その活動範囲は明治時代の記録では遠く福島・新潟・長野、あるいは伊豆諸島まで広がっていた。幕末から平田派国学と接触があった大山では明治の神仏分離の際、神社が主導権を握り国学の碩学−権田直助を迎え、御師は先導師と名を改め神社の傘下に入った。その後、県社の社格が与えられている。一方、大山寺は一時衰えたものの真言宗大覚寺派準本山・関東別院の寺格を誇っている。 
●江ノ島岩屋 / 藤沢市江の島  
弘法大師 弘仁5年(814) 参拝  
役行者や弘法大師も修行した海の中の岩屋。かつては一大霊場だった。  
長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成ります。古くから信仰の対象にもされてきた岩屋。弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われています。  
 
江の島の「岩屋」は波によって浸食されてできた洞窟。その昔、弘法大師や日蓮が修行したといわれ、1182年(養和2年)には、源頼朝が奥州平泉の藤原秀衡征伐を祈願した。その際、文覚が断食したというのがこの洞窟であったのかもしれない。  
鎌倉大楽寺(廃寺)の願行(京都泉涌寺第六世)は、ここで祈願し、伊勢原大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造した。覚園寺にはその試作とされる不動明王像が安置され、「試みの不動」と呼ばれている。   
 
「江嶋縁起」(11世紀に皇慶が書いたと伝えられる)によれば、552年4月に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられている。  
672年(白鳳元年)役小角が江の島を開基したといわれる。以来、島全域が聖域として扱われた。  
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年) 正倉院に残る庸布墨書によれば、方瀬(片瀬)郷の郷戸主大伴首麻呂、調庸布一端を朝廷に貢進とあり、この地域の公的記録の初出とされる。  
814年(弘仁5年) 伝承によれば空海(弘法大師)が金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建、神仏習合により金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったという。  
伝承によれば853年(仁寿3年) 円仁(慈覚大師)が龍窟(現・岩屋)に籠もり、弁才天よりお告げを受け、上之宮(現・中津宮)の社殿を創建したという。  
 
四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形、海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。奈良時代には役小角が、平安時代には空海、円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。1182年(寿永元年)に源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、中でも関東総検校となる杉山和一の存在は特筆すべきである。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の中でも岩本院(江嶋寺=こうとうじとも呼ばれた)は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。 
●海詠山聖無動院 長楽寺の石仏群 / 平塚市札場町  
弘法大師 止宿  
長楽寺は海詠山聖無動院と号す古義真言宗の寺院です。江戸時代末に編さんされた『新編相模国風土記稿』では、この地は弘法大師が止宿した霊地で、後に鎮海という僧が草庵を結んで海詠庵と称して住み、建保年中(1213〜1218)に朝秀という僧が鎮海を開山として中興し、現在の山寺号を付けたと伝えています。高野山の末寺で不動尊を本尊とし、同宗の関東壇林の一カ寺として栄え、須賀に三力寺の末寺をもって三島神社の別当も務め、さらに境内の護摩堂には相模国の新札所第八番の観音を安置するとも記されています。  
昭和20年の戦災で堂塔伽藍(がらん)がすべて焼け、かつての面影はありませんが、境内には多くの石仏が残されています。長楽寺の石仏のうち、すでに庚申塔(同寺境内には5基ある)は紹介しましたが、これ以外では寛文期の地蔵尊、大日如来像、弘法大師像、六字名号(みょうごう)塔、関東大震災供養塔、正保3年(1646)銘の宝篋印塔などがあります。下の写真はこれらの一部で、左写真には左から大日如来が2基、聖観音像1基、大日如来1基が並び、右写真には左から地蔵尊、如意輪観音、頭が落ちている阿弥陀如来と地蔵尊がみえています。  
これら一つ一つをとり上げることはできませんので、ここでは特色あるいくつかの石仏を紹介しておきます。長楽寺の石仏を見ていて気付くことの一つには石塔・石仏の建立や現在の姿には歴史の爪あとが残されていることがあります。  
たとえば本堂横の六字名号塔は、黒く煤けています。石の黒さではなく、火にあっていることは確かで、これは戦災時の火災の跡ではないかと思われます。  
境内の二隅に積まれ、無縁仏として供養されている石仏の中には40基ほどの弘法大師像を見ることができます。初めに記したようにこの寺は弘法大師にかかわる寺伝をもち、この関係で建立されたとも考えられます。境内には「四国講中」と彫られた燈籠の一部が残っており、四国八十八カ所霊場のミニチュア版がつくられていたことがうかがえます。建立年代については不明ですが、大師像の状態からは明治以前のものと推定できます。  
この弘法大師像で強く考えさせられるのは、首の落とされた像が多いことです。路傍や神社・寺院などの石仏を見て歩くと、首から上が人為的に落とされたものがしばしばあります。弘法大師像もこうした石仏の一つですが、ここには明治初期の排仏毀釈の爪あとを見ることができるわけです。排仏毀釈というのは、明治元年の神祗官の再興と神仏判然令に基づいて起こった仏教の抑圧・排斥・破壊運動のことです。 
長楽寺2  
(関東東北地方へ赴くにあたり伊豆から船で上陸し最初の滞在地) 海詠山長楽寺は、弘法大師空海を開祖とする高野山真言宗の寺院。縁起によれば、総本山・高野山金剛峰寺の相模国における直末寺(じきまつじ=総本山直属の末寺)であり、13ヶ寺の末寺を配していたという。現在長楽寺が建つ場所は、かつて空海が関東・東北地方へ赴くにあたり、伊豆から船で上陸し最初に滞在した地とされる。開山は文治元年(1185年)頃。僧・鎮海が草庵を建て海詠庵とし、その後建保3年(1215年)に僧・朝秀が庵号を海詠山とし、以来約800年間、地域を見守ってきた。 
●御嶽神社 / 神奈川県秦野市堀西  
弘法大師 霊水伝説  
創建年代は不詳ですが、江戸時代の1671年には月光山桂林寺の持ち分となり蔵王宮と改称されました。その後1873年神仏分離令により御嶽神社と改称されました。「新編相模国風土記稿」には「堀四ヶ村の鎮守なり。御神体は木造。」との記述がみられます。祭神は日本武尊です。  
お神水(おみたらし)の由来  
このおみたらしは、権現さんのお神水と呼ばれ、昔から霊水として近隣にも聞こえていました。その由来は、昔、弘法大師がこの三竹山を通りかかったとき、部落に水がなくて困っていることを知り、法力でこのみたらしの水みちを開いて下されたという伝説や、また、日本尊命(日本武尊)が東征の折、野火の難をのがれここで休息され、村人に世話になった礼として持っていた剣で水を湧かせた。それがこのみたらしの起こりだとも伝えられています。いずれにしても、お宮様と村とが水によって一つに結ばれたことを物語る尊いお神水であります。おみたらしの水は、眼病その他、諸病に効くと、今でも深く信仰されています。 
●湯河原温泉 / 神奈川県足柄下郡湯河原町  
弘法大師 弘仁8年(817) 開湯  
「田子の浦にうちいで見れば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」と、万葉歌人を詠わした日本の霊峰、富士山は幾度もなく噴火をおこしたが、延暦19年の4月、72ヵ所から火を噴いて、焼けた溶岩が火の泥のように流れ出し、周囲二十里四方は全て焼け埋まった。  
更に、2年後の延暦21年5月にまた大爆発をおこし、それによる大地震が2回に渡って大地をゆすり、崖は崩れ、噴火の灰や石は、その頃の官道と言われた足柄道の人馬の行き来をふさいでしまった。  
ところが、それから僅か4年目の大同元年6月、またまた大噴火がおこりこの地方の人民は、ほどほど困窮した。時の朝廷は全国の神社、仏閣に特使をつかわしたり、人民の救済に手を尽くした。  
しかし、そのかいもなく11年たった弘仁8年(817)7月14日、東国一体に突然大地震がまた起こり、山は崩れ、河川は氾濫、百姓その他圧死するものが数える事が出来なかったという。  
時の嵯峨天皇は、8月19日に真言宗の開祖”弘法大師(空海)”を特使として、関東に実地調査を命じた。その際、湯河原地方を訪れた大師が、湯河原の渓谷を流れる千歳川の上流で崖から落ちる滝の水で足を洗ったら、その水が温泉に変わったのが湯河原温泉の始まりであると長い間信じ伝えられてきた。  
昭和の半ば頃まで、温泉場中央、桜山入口に大師堂があり、清瀧(きよたき)と呼ばれた瀧が、その側の谷に落ちていた。そして、この瀧を「弘法大師洗足(せんそく)」とも呼んでいたが、今は細い流れだけとなり、大師堂も姿を消した。 
湯河原温泉2  
発見説  
大化の改新後まもなくの674年に加賀の国(金沢)から、名族の血統である二見加賀之助が、新しい政治の圧迫を逃れる為に湯河原に移住し、開拓の際に温泉を発見したという説が残されています。また、奈良薬師寺の大高僧、行基(ぎょうき)が大仏を作るための寄付を集めるために全国を旅している最中に、箱根山で病でうずくまっている乞食に出会うところから物語が始まり、乞食に言われるまま彼を背負って渓谷に向かうと湯が湧き出し、湯に入るとあっと言う間に病が直っただけでなく、実は正体は薬師如来だったという話が残されています。  
これ以外にも、同じく大高僧の弘法大師が湯河原の谷で修行した際に見つけた説や、優れた修行僧であった役行者役小角(えんのおづの 飛鳥時代700年頃)が神通力によって見つけた説、怪我を負った狸が傷を治す為に湯を見つけて治した等の説が残されています。  
狸説に関しては、湯河原で傷を治した狸が人々に恩返しをした説があり、この狸を祀った神社があります。(万葉公園/狸福神社)町の人々も昔から狸をこよなく愛し、湯河原では狸にちなんだ「坦々やきそば」も新たに作られ、多くのお店で振舞われています。  
日本最古の記録  
日本最古の和歌集、万葉集(760年前後)に、唯一温泉の様子が記されているのがここ湯河原温泉です。  
あしがりの土肥の河内に出づる湯の、世にもたよらに子ろが言はなくに (巻十四の東歌/相模の国の歌十二首の中の八首目)  
[意味]「湯河原の温泉が、夜となく、こんこんと河原から湧いているが、その湯河原温泉が湧き出るような情熱で、彼女が俺の事を思ってくれているかどうか、はっきり言ってくれないので、毎日仕事が手につかないよ」  
この歌が万葉集初期の歌として多分に民謡性を帯びていると思われているところから想像すれば、すでに湯河原の渓谷には温泉が湧いていたことは勿論、その頃の人々がその温泉が湧き出る様子を女性の情熱にたとえて、酒の酔いに浮かれながら歌った素朴な生活ぶりが想像できてゆったりとした気持ちになります。 
●見富山 善勝寺 / 神奈川県相模原市  
弘法大師 開山  
弘法大師の開山と伝えられ、文亀年間宥海によって再建されました。かつては関東法談所36院の内に数えら、津久井郡内に末刹18ヶ寺を有していました。 本尊は毘沙門天(像高55.5cm)で弘法大師作とも言われています。また弁天島は善勝寺の飛び地境内で弁天堂があります。津久井三十三観音霊場第18番札所。 
善勝寺2  
弘法大師空海が諸国巡錫の折り、この地で毘沙門天の尊像を彫り祀られたことを開創としている。時は流れ明応9(1500)年、甲州都留郡上鶴島禅定院より宥興法印が善勝寺に入山し堂字の修復、再興を行ったことが『新編相模風土記』に記されている。この宥興法印を当山第一世として歴代住職が連なる。  
江戸時代には関東における古義真言宗の法談所36カ所の一寺を担い、紀州高野山の直末として、末寺18ケ寺を数えた。また千木良には上明神牛鞍神社と下明神月読神社の二つの鎮守社があり、別当を勤める。慶安2(1649)年には小田原北条より御朱印が下賜され、北条家の祈願寺として朱印地を賜わっている。慶安年間(1648〜1652)と文化5(1805)年に、裏山が崩壊する災害があり、堂宇を大破してしまう。その当時は、山の中腹(現在の墓地に辺る)に堂宇が建っていたが、度重なる災害のため現在地に移築されたという。  
境内には山門・本堂・鐘楼など記し、町指定の高野槙・枝垂れ桜など彩りを添えている。また、寺領地である相模川と底沢の合流にある一枚岩は弁天島と呼ばれ、岩頂の祠に宇賀弁財天を祀る。尊像は二度の盗難にあったため現在は当寺本堂にお祀りしている。  
本尊は毘沙門天、脇侍が弁財天・善賦師童子の立像。弘法大師像は不動、愛染明王を脇仏とし、寛永16(1639)年、鎌倉仏師後藤左近の作と銘あり。さらにもう一体の弘法大師像と阿弥陀如来像は共に室町時代の特徴を備える尊像。十二面観音・三面大黒天は江戸時代の作と多くの諸仏諸尊を祀る。  
寺宝としては、弘法大師ご着用の古納衣、狩野元信筆と伝わる12枚の鷹の絵図などを有す。 
相模湖 / 神奈川県相模原市  
弘法大師 行脚伝説 
「桂川」「嵐山」「与瀬」「小原」「吉野」「奈良本」「高尾」といった京都に由来する地名が点在している。弘法大師がこの地を行脚した折、京都の地形や山容に非常に似通った所があるとして命名されたとの伝説が残っている。 
 
黄雲山 延命寺 [逗子大師] / 神奈川県逗子市逗子  
天平時代 / 創立・開祖 奈良時代聖武天皇の天平年中、行基菩薩自ら作られた延命地蔵尊を安置したことが当山の始まりである。  
平安時代、逗子の地名の発祥 / 弘法大師が当山に立寄り、延命地蔵菩薩の厨子を設立せられる。その後、住民の尊信が高まり、この地を「厨子」と呼び現在の「逗子」という地名の発祥と伝わっている。  
鎌倉時代 / 三浦氏の一党が大いに当寺を修補して祈願寺とする。 
日向山宝城坊 日向薬師 / 神奈川県伊勢原市  
当山は奈良時代初頭の霊亀2年(西暦716年)に、僧行基により開山されました。僧行基が熊野を旅していた際、薬師如来のお告げにより、相模国のこの地(現在の神奈川県伊勢原市)に、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)を開山した、と伝えられています。  
薬師信仰は奈良時代に盛んになり全国に広まりました。薬師如来は東方瑠璃山(とうほうるりせん)に在って現世のご利益を願う尊(ほとけ)です。寺は、かつては勅願寺とされていましたが民衆の篤い信仰を受けて、今日まで法燈が受け継がれてきました。人々の心の安らぎ、和やかさ、健やかさのご加護を願う尊(ほとけ)として益々、人々の信仰を篤くしています。 
大本山川崎大師平間寺 [通称・川崎大師] / 神奈川県川崎市川崎区大師町  
大本山川崎大師平間寺の厄除弘法大師略縁起によれば、大本山川崎大師平間寺の建立は、第七十五代崇徳天皇の御代(1123〜1141)、無実の罪により生国尾張(現在の名古屋地域)を追われた武士の親子、平間兼豊・兼乗が諸国を流浪し、川崎の地に住みつき、漁師として生計を立て、兼乗は深く仏法に帰依、弘法大師を崇信し、42歳の厄年に当たり、日夜厄除けの祈願を続け、ある夜、一人の高僧が兼乗の夢まくらに立ち、『我むかし唐に在りしころ、我が像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり所願もまた満足すべし』と告げられ、兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられ、それは大師の尊像、この地は『夜光町』と名づけられ、大師の浜の古い歴史を今に伝え、兼乗はお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで供養を怠らなかったとあり、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中ここ兼乗のもとに立ち寄られ、兼乗と力をあわせ、大治三年(1128)一寺を建立、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいげんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉ったとあり、これは今日の大本山川崎大師平間寺の由来とされます。  
兼乗は、信仰のおかげで、晴天白日の身となり晴れてふたたび尾張の国に帰任し、平間寺の開基である尊賢上人は、保延二年(1136)弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇の后・美福門院に平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消徐と皇子降誕の祈祷を修行され、霊験たちまちに現れ、皇子(のちの近衛天皇(1139〜1155)・第七十六代(在位1142〜1155))がお生まれになられ、厄除弘法大師のご霊徳と美福門院もお喜びになり、鳥羽上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)近衛天皇のお名によって、平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されたとあります。  
爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く、厄除弘法大師のご霊徳は、いよいよ天下にあまねく関東厄除・第一霊場として善男善女の参詣、相ついて跡をたたず、現在に至っているとあります。  
生国尾張追われた武士の親子、平間兼豊・兼乗が諸国を流浪し、川崎に住み着き、漁師として生計を立て、仏法に帰依し、夢告により海中より引き揚げられた弘法大師尊像が尊奉されている川崎大師さんの寺号は平間寺であるのは、平間に因むとされるも、関東で古く、平将門の反乱も、嵯峨天皇(809〜823、諱は神野)の勅願で空海(774〜835)が敬刻、開眼、護摩法を修され、高雄山神護寺に奉安され、朱雀天皇(930〜946、諱は寛明)の天慶二年(939)の鎮定祈願の密勅を受け、鎮定(天慶3年(940承平天慶の乱))されたのであり、平将門は、寛平元年(889)、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下された桓武天皇の第三皇子、葛原親王の三男高見王の子、高望王とあり、高望は昌泰元年(898年)に上総介に任じられ、長男・国香、次男・良兼、三男・良将を伴って任地に赴くとあり、三男・良将が平将門であり、となれば、次男・良兼は、大師平間寺の厄除弘法大師略縁起に記された、川崎に定着し、弘法大師尊像を尊崇された生国・尾張の兼乗となり、同寺は、嵯峨天皇の勅願に発起されて三男良将=将門が鎮定された後になって、三男・良将=将門に敗れた次男・良兼=兼乗が追善されたものと考えられます 
川崎大師2  
真言宗智山派の大本山。川崎大師の通称で知られる。山号は金剛山。院号は金乗院(きんじょういん)。尊賢(そんけん)を開山、平間兼乗(ひらまかねのり)を開基とする。2008年(平成20年)時点の貫首は第45世・中興第2世藤田隆乗が務める。  
平間兼乗は海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き揚げた。兼乗は木像を洗い清め、花を捧げて供養していたという。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人は、弘法大師の木像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、1128年(大治3年)平間寺を建立した。1813年(文化10年)徳川幕府第11代将軍、家斉が訪れた。毎年の正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなる。2012年初詣客は296万人となり、全国3位、神奈川県1位を記録した。当寺への参詣客を輸送する目的で、1899年1月21日(初大師の縁日)に開業した大師電気鉄道は、現在の京浜急行電鉄の基となった。 
川崎大師3  
兼乗 網を投じ大師像引き揚げる  
今を去る870余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく 、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。  
兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。  
ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。  
兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。  
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。 これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。川崎大師掲示板より (*;吟醸注)  
あらら、川崎大師側の縁起と落語家の縁起では随分・・・、いえ、全く違っています。だから・・・落語家の話をまともに聞いてはいけないのです。これも臼だ!と言っています。  
でも、落語「千早振る」と同様、大変に良く出来た話で、若い空海が美人の娘に言い寄られる”仏難=女難”から身を避ける話は、さもありなんと思わせるところが憎い限りです。ここで空海がこの娘と一緒になっていたら歴史も変わっていた事でしょう。  
正式には「真言宗智山派 大本山金剛山金乗院平間寺 川崎大師」と言い、 厄よけ大師として有名です。本尊;厄除弘法大師 / 中興の祖;興教(こうぎょう)大師覚鑁(かくばん)上人。嘉保 2年(1095)6月17日〜康治2年(1143)7月没、49歳。
弘法大師   
書道に秀でた空海上人でしたが、彼の書にも間違いがあるという、「弘法も筆の誤り」はその道に長じた者にも、時には誤りや失敗があるというたとえ。「猿も木から落ちる」「河童の川流れ」と同じ意味で使われます。 逆に、書は道具で書くのではないと、「弘法筆を選ばず」の言葉も有名です。  
弘法大師が間違ったという字は何だか解りますか。その文字は「応」の字。点が一つ足りなかった。京の都の大内裏に応天門があり、弘法大師は頼まれてこの門の額に字を書いたのだが、いざ挙げてみると、点が一つ足りな かった。筆を投げつけて(?)点を打ったが、じつに上手く字にまとまったとか。しかし、空海没後約30年、貞観8年(866)閏3月10日の夜、応天門が炎上、全焼してしまった。だから、その額の書は今見る事が出来ません。この火事を政争の具に利用されて”応天門の変”と言います。
六郷の渡し  
東京都と神奈川県の境を流れるのが多摩川です。この多摩川が東京湾に流れ込む河口のところが六郷(ろくごう、六江)と呼ばれる所です。川の名前も六郷川と言います。現在は羽田空港があり、多摩川の最下流に架かった橋が六郷橋と言いい・・・、いえいえ、とは言わず川崎大師から「大師橋」と言います。六郷橋はこの上流の第一京浜国道に架かった橋で、旧東海道はここを通っています。  
大師橋の上流500m程の、ここに”大師の渡し”がありました。昭和14年(1939)大師橋が完成するまで運用されていました。六郷にはもう二つの渡しがあり、 その一つは大師橋の下流羽田に渡す渡しです。その名を”羽田の渡し”(六左衛門渡し)と言っていました。これも大師橋完成で役目を終わっています。  
もう一つは第一京浜国道に架かる六郷橋の所にあった渡しで”六郷の渡し”。江戸側は今の国道に沿って東側に旧東海道があり土手に突き当たって降りた所が船着き場でした。川崎側は今の六郷橋の下あたりです。  
六郷橋は慶長5年(1600)架橋、その後破損修復を繰り返しながら貞亨(1688)の洪水で流失以降架橋は絶え、交通は六郷の渡しに依る事になります。当初渡し船の運営は幕府の直営で行われましたが、その後江戸町人の請負となり、宝永6年(1709)川崎宿が幕府からその運営を任せられます。  
明治7年(1874)八幡塚村の元名主であった鈴木左内が有料の橋を建設。別名左内橋と呼ばれ、この時から渡船が無くなります。  
川崎大師から一番近い六郷川を渡す所と言えば”大師の渡し”です。私は急遽宿を立って急いで川向こうの江戸に行きたいのであれば、わざわざ遠回りするより、目の前の”大師の渡し”を利用するのがごく自然ではないかと思っています。  
一刻前の渡船とは、男の足で2時間は約2里、8km程あります。多摩川を渡って、大森、鈴が森(刑場があった所)、品川、そして今のJR品川駅ほども行ってしまいます。ま、舞台の当時は海岸線ばかりで、刑場も品川新宿も有りませんでしたので、もっと遠くまで行っていたかも知れません。何せ逃げるように行ってしまったのですから・・・。 
江ノ島  
相模の国江ノ島に鎮座まします江ノ島神社(辺津宮 中津宮 奥津宮 舊下ノ宮 舊上ノ宮 舊巌本宮)の祭神(多紀津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命)三神の由緒を審に尋ねるに昔欽明天皇十三年壬申四月十二日より二十二日まで此津村の湊の海上にわかに霧立ち雲覆い沖合い振動し次第に海上穏やかになり時に不思議や一つの島沸き出でたし 天女三神ここに天降りましたまえり是れ即ち現時江の島大神と申し昔は弁財天女と呼び奉る御神なり  
この時に当りこの島の北の方に黒澤という四十里の湖水を隔て南の山谷に津村の湊と呼ぶ淵あり この淵に五頭の悪龍住み居りて人の子を取り食らいしその近辺の長者十六人の子を持てるが皆この悪龍のために飲まれにければ長者は痛く之を恐れ西の里に移りしゆえこの所を名づけて子死越という 今腰越村に作る後悪龍天女の美麗き姿を見初恋慕の情止みがたくかかる猛悪なる毒龍も抑えがたき色欲煩悩の犬に追われて天女の許しいを至り思いの丈を述べければ天女は甚だ心好からず思し召し今より邪悪の念を絶ち人の子供を取り食う事を止めたれてその時誓いを為すべしと思せ賜え 流石の悪龍も後悔して遂に心を改め善龍とこそ化したりどぞ今に津村の鎮守なる龍口明神は即ち之なり かかる舊縁あるを以って六十一年毎に江の島に渡御(とぎょ)ありて六十日の大祭あり 又江の島大神は亥と巳の年に当る七年毎に大祭を執行す 之を昔は開帳ととなえしを王政維新のその後は神と仏の差別を立て今の称えに改めたり  
抑々当時江島の開基は人皇第四十二代文武天皇の頃大和国に役行者(えんのぎょうじゃ)という人あり 神霊不思議の事あればその弟子韓国広足此れを妬み小角(おづの)という不思議の妖術を」使う由を朝廷に誣告したるより同天皇の三年に伊豆国大島へ流され翌年四月小角は不図北海を見てあれは紫雲起こるところあり 行者は不測の思いをなしその所を尋ねると江の島金窟の上において尋ね当てし故行者はやがてかの窟中に止まりて七日の間精進をしその冥感を祈りして満願百七日の真夜中頃天女突然窟中に示現在々けりとなん  
一 人皇四十四代元世天皇の養老七年三月泰澄大師江の島へ参詣し大乗経を読誦しければ天女現前然と現れ給いしと言い伝えたり  
一 人皇四十五代聖武天皇の神き五年より天平六年まで道智法師この島に在まし法華経を読誦しけると数部の妙典聴聞の為か天女毎日三の飲を手づから供養せられしという  
一 人皇五十三代嵯峨天皇弘仁五年二月弘法大師北京之帝城より東海の霊場を拝しながら相州津村の湊に泊どり南海の幽畔によって一孤島の勝景奇絶たるを見渡海して江の島に至り金窟に入りて十七日趺座して真言陀羅尼を読満する夜窟中厳淨として梵楽聞こえ天女突然と現じ八臂具足の格好を見せ大師に一偈を示したりと  
一 文徳帝の御寿三月三日慈覚大師この津村に着し南海の霊島を望むに島中三領あり ここに大師恭敬合掌し読経修行すること三十七日洋中に彩雲愛たいとして霊験あり 大師いよいよ信心したまうとぞ  
一 村上帝の御宇健保四年正月十五日江の島明神の宣託あり 大海潮干きて道路を顕出せりよりて鎌倉中緇素の輩ら群集せり 公命を受三浦左衛門尉義村を御使いとしてこの霊地に詣でしめしと 是より参詣人は船路の煩い無くなりて前代未曾有の神変を尊とみけり  
一 北条時政かつて江の島神社に篭り武運長久を祈誓せし三十七日の夜に当たり緋の袴を穿き柳裏の衣着たる美麗なる女房忽然と出で来り時政が所願の旨を告げ給いさしも艶やかなりし女房たちまち長二丈ばかりの大龍となって海中に入りたり この跡を見に大いなる鱗三枚を残せり 時政願望就せりとて喜びてその鱗の形を取り旗の紋に用いたり 是より北条は三鱗形を定紋をはなえたりとぞ  
一 辺津社 舊下ノ宮  
建永元年慈悲上人諱真の開基にて源実朝の建立なり 延宝三年に再興の棟札ありと言う  
一 中津宮 舊上ノ宮   
文徳天皇御代仁寿三年慈覚大師この宮を創造せりと言う  
一 奥津宮 舊巌本宮の御殿  
養和二年四月五日武衛頼朝腰越に出て江の島に赴き給う その頃高尾の文学上人武衛の御祈願により龍穴の大神を勧請す 今の巌屋本社是なり 今奥津宮の華表に掛ける一遍額金亀山を書するは文学上人の筆なりと  
一 龍窟  
この龍穴に於いて祈雨の事徃々見えたり 法印堯慧が北国紀行に此処を蓬莱洞といえるは佛法深秘のことなり  
一 碑石  
辺津の社南方に立てり 高サ五尺余 広サ二尺余  
鐘楼の傍らにあり 上と雨縁は別石にして座石なし 年古て今は土中を掘り埋めて建てたり 碑文の所半ばより折れしを繋ぎ合わせてあり この石は江の島の屏風石なりとも言伝う  
この碑石は土御門帝の御宇に慈悲上人宗の国に至り 慶仁禅師に見えこの碑を相伝して帰朝せりとぞ篆額は小篆文にて粗大篆を兼ねたり  
碑文は摩滅して字体不分明なり 普く博識好事家に就いて質せども嘗て知人あらざるを遺憾とす  
鴨長明の歌  
江の島やさしてこし路ふ跡たるゝ 神はちかいの深さなるべし  
法印げつ慧の歌  
ちらさじと江の島もりやかざすらん かめのうへなる山さくらかな  
蘭渓和尚同遊江島帰賦以呈宗大休 佛源禅師  
江島追遊列俊髪馬蹄猟々擁春袍穿雲分座烹茗香  
策杖徐行踏巨鼇洞口千尋石壁聳龍門三級浪花高  
須知海角天涯外萍水逆懽能幾遭  
片瀬村  
固とも記せり江の島の北に当り砂路八町片瀬川島の西に流る  
鎌倉郡と高座郡の堺に流れると片瀬川と言う、駿河次郎清重が戦死せし所にして大庭三郎景親(かげちか)を梟首(きょうしゅ)したるもこの川の畔なり。新田義貞鎌倉攻めの時。片瀬。腰越。十間坂。五十余箇所に火を賭けると古書に見えたり  
龍行寺  
片瀬腰越の間江の島より北十五町余りにあり  
文永7八年九月十二日。日蓮上人難に遭舊蹟にて敷革石一名を首の座石といい寂光山と号す日蓮上人選化の後弟子六人の老僧力を合わせて建立す(日蓮土牢本堂の西山麓に有る窟をいう)  
龍口明神社  
龍行寺の西の方にあり  
舊祠にして津村の鎮守なり祭神は江の島大草紙に委し  
西行見返松  
片瀬村の中央藤沢駅通路の傍らにあり西行此処に来り都の方を顧みて松枝を西の方へ捩れたるをもって捩れ松ともいう  
神奈川県  
神奈川県は現在では県名の『神奈川』より、日本第二の都市で県庁所在地でもある『横浜市』のイメージ(存在感)のほうが強くなっていますが、歴史的には幕末まで『横浜』は極めて小さな漁村に過ぎず、東海道筋で江戸時代に栄えていた宿場町の『神奈川宿』のほうが横浜よりも大きな町でした。神奈川(かながわ)という名前そのものは、幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれていた『神奈川奉行所』に由来するとされますが、元々、京急仲木戸駅の近くに神奈川という長さ約300メートルの小さな小川が流れていました。現在はこの川は埋め立てられていて存在しませんが、井伊直弼が大老を務めていた幕末の神奈川宿は、武家や商家が集う宿場町として活況を呈していました。  
古代の神奈川県の領域は『相模国八郡・武蔵国三郡』で構成されていましたが、神奈川県に該当する地域が本格的に栄えてくるのは、中世期に征夷大将軍に任命された源頼朝(みなもとのよりとも)によって『鎌倉』に日本初の幕府が開設(1185年に全国に鎌倉幕府の官吏である守護・地頭を設置)されてからです。室町時代に入ると室町幕府が、関東八ヶ国(関八州)を支配する役所として『鎌倉府』を置きますが、実質的な政務の権限は鎌倉府の長官である『鎌倉公方(かまくらくぼう)』ではなく、それを補佐するナンバー2の『関東管領(かんとうかんれい)』が握ることになりました。  
江戸時代中期には、小田原藩とその支藩の荻野山中藩や武蔵金沢藩(六浦藩)などが現在の神奈川県域を支配しましたが、それ以外にも県外に本拠を置いている藩(烏山藩・佐倉藩・西大平藩など)が飛地としての所領を保有していました。江戸期には現在の神奈川県全域の全体を一円的に支配するような大藩は存在せず、小田原藩を中心として他の幾つかの藩があり、そこに幕府直轄領・旗本領などが混在していました。初代将軍の徳川家康から厚遇されたイギリス人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、西欧の情勢や文物、知見をもたらした功績により三浦半島に領地を与えられたりもしています。  
神奈川県の横浜市が『国際都市』になるきっかけは19世紀以降の外国船(イギリスやアメリカの蒸気機関の黒船)の相次ぐ来航であり、幕府は武力をちらつかせて『開国・開港』を迫ってくる外国勢力に対して、会津藩を動因して沿岸地域の警備体制を固めました。文政元年(1818年)5月にイギリス船が来航し、文政5年(1822年)にも再びイギリスの捕鯨船が洲崎沖(千葉県)にやってきて、天保8年(1837年)6月にアメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に来航した事で幕府は騒然としました。そして、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国の代将(実質的な提督)であるマシュー・ペリーが率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が江戸湾浦賀に来航して、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に『日米和親条約』が締結され鎖国体制が終焉しました。  
安政5年6月19日(1858年7月29日)には、アメリカ全権タウンゼント・ハリスとの間に『日米修好通商条約』が結ばれて、神奈川の開港を約束させられました。この日米修好通商条約は強制的に開港させられて、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の放棄を認めさせられた『不平等条約』でしたが、幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んでこれらは『安政五ヶ国条約』と呼ばれました。  
この条約で開港することになったのは、『神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫』の5港でしたが、実際に開港したのは神奈川ではなく『横浜』であり、兵庫ではなく『神戸』でした。幕府は政治上の意図もあり、横浜は神奈川の一部であり神戸は兵庫の一部であると強弁して、アメリカ側のクレームをはねつけました。当時の『神奈川』は東海道の宿駅として栄えていて武士・町人の人通りが多かったため、幕府は外国人に危害を加える『攘夷騒動(外国人襲撃)』が起こることを危惧したとされています。実際に文久2年8月21日(1862年9月14日)には、東海道の街道筋で薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人3人を薩摩藩士が無礼討ちで殺傷する『生麦事件』が勃発しています。  
条約に記載されていた『神奈川』ではなく、街道筋から離れた対岸にあった約100戸の寒村の『横浜村』が開港されることになります。これが現在の横浜市の発展の始まりになるのですが、横浜の港湾設備が整備されて貿易取引が活発化するにつれて、神奈川宿のほうは次第に寂れて衰退し、貿易港として栄え異国情緒を漂わす横浜のほうが急速に大都市化していったのです。慶応4年(明治元年)3月19日(1868年4月11日)に『横浜裁判所』が設置され、4月20日(5月12日)にその横浜裁判所が『神奈川裁判所』に改称されて、その下に戸部裁判所(内務担当)と横浜裁判所(外務担当)が設置されました。1868年6月17日(8月5日)には全国に10個あった『府』の一つとして『神奈川府』となり、同年9月21日(11月5日)には現在の『神奈川県』へと改称されたのでした。  
幕末までの『神奈川』の位置づけが如何に高かったかは、神奈川府が東京府・京都府・大阪府の次に位置づけられていたことからも分かりますが、初代の知県事には寺島宗則(てらしまむねのり)が任命されています。明治2年(1869年)の『版籍奉還』では、神奈川県域で小田原藩・荻野山中藩・六浦(むつら)藩が版籍奉還を申し出ており、同年6月(7月)に各藩主が知藩事に任命されました。明治4年(1871年)の段階では、六浦藩が『六浦県』となり、小田原藩が『小田原県』、荻野山中藩が『荻野山中県』となっていましたが、六浦県は『神奈川県』と合併したものの、小田原県と荻野山中県は『足柄県(あしがらけん)』として再編制されました。  
しかし、神奈川県と足柄県の二県並立体制は、1876年(明治9年)4月18日に足柄県が廃止されて終わりを迎えることになり、足柄県の旧相模国地域は神奈川県に編入され、旧伊豆国地域は静岡県へと編入されて、現在の『神奈川県』と『静岡県』の原型ができていったのです。 
 
■中部
山梨県

 

弘法大師伝説 / 南アルプス市  
●真豊院 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師が像を安置し創建したと伝えられる寺院。この寺がもとで付近の村の名を北大師と呼ぶようになったと伝えられる。安政五年正月九日夜の火災のため、すべて堂宇が焼失し、土蔵一棟だけが残った。武田式部大輔信包公の再建、信包の菩提寺となる。  
●深向院 / 南アルプス市  
弘法大師 天長年間 創建  
天長年間、弘法大師創建と伝えられる寺院。武田五郎信光が再興し、天文年間に武田家の重臣であった跡部大炊介が真言宗寺院を改宗して現在の曹洞宗寺院を建立した。本尊は釈迦如来。県指定文化財。  
●八幡寺 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師創建の伝説が残る寺院。本尊は地蔵菩薩。武田信武も深く信仰したと伝えられる。八幡寺には次の伝説が残されている。大師が当寺を建てた時、見なれない童子が毎日来て手伝ってくれた。完成した夜、その童子が夢に現れて言った。「われは若宮八幡の神なり」。これを知った大師は感銘し、本堂の正面に安置し奉った。これによって清水山八幡寺と号することとなったという。  
●清水若宮八幡宮 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
八幡寺を弘法大師が建てたとき、若宮八幡の化身である童が助けた言い伝えが残されている。  
●不動寺 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師が川の中から現れた金色に輝く大日(不動明王)に導かれ、不動明王を彫刻して開いたと伝えられる真言宗の古刹。大日が現れた不動寺西側の川は明王川といわれている。寺内には空海が功徳ための水を汲んだ池があったと伝えられるなど、数々の弘法大師伝説に彩られている。  
●金剛寺 / 南アルプス市  
弘法大師 創建  
弘法大師が、洪水と疫病に苦しむ人々を救済するため薬師如来を彫り、建立したと伝えられる真言宗寺院。 
●福田山 塩澤寺 [厄地蔵さん] / 山梨県甲府市湯村  
弘法大師 大同3年(808) 開山  
古くより厄除け地蔵尊は信仰されていました。地蔵堂に安置されている本尊の石造地蔵菩薩座像(県指定文化財)が、一日だけ耳を開き、善男善女の願いを聞きいれ、厄難を逃れることができることから、厄除地蔵尊祭りに人々が集まってくるのです。  
福田山塩澤寺(えんたくじ)は、大同3年(808)年弘法大師(空海)が開山し。天暦9年(955)空也上人によって開かれ、後に大覚禅師(蘭渓道隆 1250年頃)により再興されたと伝えられています。山門の脇には、「舞鶴の松」と呼ばれる県指定文化財のクロマツがあり、高さはありませんが、横に枝が伸び、30mにも及びます。山門の上には、鐘があり、行列ができますが大晦日除夜の鐘をつくことができます。  
寺の境内は、白樫の自然林で、日本最北端といわれ市指定の天然記念物です。地蔵堂の裏手には、岩盤を50pほどくりぬかれており、「首浮き地蔵」がまつられています。首と体が離れていて、願いごとがかなうときは、首が軽く浮き上がるといわれています。地元の信仰をあつめています。  
地蔵堂からは、南アルプスが一望でき、住宅地の向こうにはこんもりとお椀を逆さまにした加牟那塚古墳が見えます。地蔵堂の右手を奥に歩いていくと、板碑があります。県内最古のものといわれ、1350年2月の銘がある阿弥陀種子の板碑と1374年の銘がある無縫塔の2基があります。  
さらに、その板碑を過ぎて、裏山を登っていくと、右手に曲がり、湯村山に登る道との合流点に出ます。ベンチがあり、広場になっています。そこに、「こうもり塚」「地蔵古墳」と呼ばれる古墳が2基あります。周辺には、桜がたくさん植えられ、3月下旬から4月上旬に、花見ができます。  
北山の道に多く見られる、自然石の上に地蔵の首だけをのせたお地蔵様。裏の墓地の中程にあり「たんきりまっちゃん」と呼ばれ愛嬌のある顔で、地元の住民に親しまれている。塩澤寺より1k程北に昇った青松院にも同様の石地蔵があり、体の部分の大岩が雨合羽のように見えることから「合羽地蔵」と呼ばれています。北山の道に数箇所このような地蔵があります。  
滾々と湧き出でる弘法水と石芋伝説  
昔、大師が訪れた時大変空腹であった大師は、泉で里芋を洗っている老婆に何か食べるものをくれるよう願い出ました、長旅で衣服も汚れていた大師をみて老婆は身分の卑しい者だと思いました。そこで老婆は芋を恵むのをためらい、「今洗っているのは芋ではなく石ですよ」と言い、大師を追い払ってしまいました。その後老婆が里芋を取り自ら食べてみたところ以前より実がとても堅くなり、とても食べられた物ではなくなってしまったということです。その後この芋を「弘法石芋」と呼ぶようになりました。今でも塩澤寺より更に1k程上った羽黒にある龍源寺の左手の泉に弘法石芋があります。 
●雲岸寺 窟観音 / 山梨県韮崎市  
弘法大師 天長5年(828) 開山  
天長5年(828)、僧・空海(弘法大師)が七里岩中腹の岩窟に開いた観音堂がある。  
空海は七里岩窟絶壁の中央で、一夜斎戒沐浴の上造った観音石仏を洞窟に安置。民衆が窟堂を建立、霊験な祈願霊場として仰がれ、その傍らに隧道がある。霊場断崖に張り出した舞台造りの建築は、寛政6年(室町時代 1465)完成。岩壁をくり抜いた岩屋に石像が安置されているので「窟観音」と呼ばれ、寛政以後、正徳5年(江戸時代1715)から大正・昭和・平成と修復されている。  
観音堂は三つの部屋に区切られている。【手前】千体仏(千体地蔵尊)が祀られている。寛文7年(江戸時代1667)にすべての地蔵が安置され、日詣り・月参り・願掛け千体仏として祈願されている。【中央】民衆の足である馬の安全・民衆の家内安全を願う「本尊観世音菩薩」(弘法大師自作)を中心に、その左には地獄の裁判官「十王尊」、右に心の鏡を照らすと伝わる「心鏡」が祀られている。【奥】天長5年(平安時代 828)、弘法大師が平安を願い造った石像「弘法大師御尊像」が祀られている。 
●大嶽山那賀都神社 / 山梨市三富上釜口  
弘法大師 天長8年(831) 巡錫  
(だいたけさんながとじんじゃ) 奥秩父山塊の国師ケ岳(2591m)天狗尾根(2436m)を奥宮とする大嶽山那賀都神社(だいたけさんながとじんじゃ=標高約1000m)は、今も里人の信仰が厚い神々しい里宮である。  
天長8年(831)、僧空海(弘法大師)が巡業の際、立ち寄り、弘法の清浄ケ滝、座禅岩、下流川浦に絵書石等の行蹟を残す。 
大嶽山那賀都神社2  
当神社は往昔幾度か火災に遭ひ、古文書は現存しないが社記に依ると「畏くも人皇十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊東夷御征定の砌、甲武信の国境を越えさせ給ふ時、靄霧四呎を弁せず依って岩室に山営を張り、三神に祈念を凝し給ひし時、神宣ありて皇子の向ふべき路を示し給ふ。依って武尊神恩奉謝の印として岩室に佩剣を留め給ひ以って三神を斎き給ふ。爾来、大嶽山奥の古院として代々剣を立て、三神を奉斎せり。後人皇四十代天武天皇の御代役の行者小角、富士の霊峯開山を志すに当り木花咲耶媛命の御父神を祭祀し、其の御守護を被り此の大業を完遂させんと従者と共に至り、当山の霊験なるを以て祈誓所修験道場を定めたるに、不思議にも昼夜連日に亘り鳴動止まず、故に神意ならんと単身山頂に至り拝むに神宣有り『我は三神なり』と、小角驚恐して身の置く所を知らず、其れより当山を赤之浦那留都賀崎の大嶽山と称へ奉る。今尚当山東に行者の遺跡存す。養老元年(七一七年)僧泰澄来りて神宣を蒙り藤蔓を以て四面の山頂に七五三を張り、神域を定めて七日七夜篝火を焚き祈?す。又、堂宇を修復なし岩室に参籠なす即ち西の行者の行跡是なり。天平七年(七三五年)僧行基勅令を奉じ諸山歴訪の砌り当山に至り参籠をなし観世音像を刻す時、神感ましまして神威ナガトととかれ、『赤の浦那留都賀崎に那留神の御稜威や高く那賀都とは祈る』と進歌を奉じ、其れより当山を大嶽山那賀都神社と申上奉るとなむ。天長八年(八三一年)僧空海弘法巡錫の砌、登山修業なし弘法の絵書石、清浄の滝、座禅岩の行跡を遺す。文明五年(一四七三)美濃浮洲の城主日原河内守藤原重実霊宣を蒙り、再建し奉る時に、厳寒冷凍斧を振る事不能。然るに深夜大木の倒るヽ音しきりなり。翌朝之を見るに古木、大木伐採山積しありたり。依って神助により工を起し社殿の建立をなす。以来是より薪切祭をなし神慮を慰む。以下略」又甲斐国社記・寺記第四巻寺院編に、由緒書上帳で、山梨郡下石森村羽黒修験観音寺より、甲府市御城代松平伊予守に差出した書面に「甲斐国山梨郡万力筋上釜口村釜戸ノ庄那訶都神社大嶽山金剛坊大権現、社地五町四方余、当神社往古人皇四十四代元正天皇ノ御宇養老元丁巳三月十八日笛吹川ノ源、国司ヶ嶽に鎮座ス。次ニ今ノ社ヘ御遷ノ時鳴動ス夫ヨリ折々鳴動ス。依テ鳴渡カ崎ト呼ビ、今、那訶都ニ依テ国司ガ嶽ハ奥院ト申伝ル。往古日原氏宮之丞トテ社主有シガ聊ノ事有テ大破ニ及、数年来之間小祠有リ。干時宝永中(一七〇四頃)日原氏之二男宮松トテ出生ス。七才ノ時託宣ノ事有テ日々参詣ノ信翼夥シ。元文五庚申年(一七四〇)正月二十一日ヨリ再建ノ企テ東叡山御支配ト成。金剛坊大権現トノ神位御令旨下増益社頭繁栄シ諸堂不残建立ス。拝殿眺望ハ東方ニ川浦観音ノ森、谷底ヲ見渡セハ参詣ノ老若行来ノ人手ニ取ル斗ニ思フ絶景ニシテ岩岨嶮岨シテ数十丈難量中程ニ行者越ト云名有。是ニ少ノ洞穴有、三方ハ流ノ音不絶云々……」と有る。又「本殿九尺四方掛作り、拝殿二間三間掛作り、女人堂四間半八間半中通、本尊伝教大師御作観音壱体、絵馬堂壱丈四方、石鳥居壱丈二尺、末社八社但小祠、馬部九尺四方、雪隠壱ヶ所」明治六年村社に列せらる。同時代には本殿、随神門、神楽殿建替。昭和四十二年拝殿建替。平成二十三年に御鎮座千三百年記念改修事業を敢行し現在に至る。 
●塔福山 大城寺 / 山梨県南アルプス市在家塚  
弘法大師 天長8年(831) 巡見  
宝亀年間(770〜780) / 威光上人、在家塚郷神野原に精舎建立を国司へ出願して一万坪を下賜される。  
天長8年(831) / 同年八月、大洪水にて数十カ村が流出。大城寺周辺の原七郷は被害甚大であり、人民は再度国司に哀訴し、国司藤原貞雄は朝廷にこの旨を奏上した。果たして勅使が弘法大師空海上人と共に甲斐国に下向し、流亡の村々を巡見し、大城寺で休息をした。この時、弘法大師は原七郷の安穏永続のため一刀三拝して毘沙門天像を作り、七種商法免書を胎内に入封して原七郷の守護神とした。 
●大野山 福光園寺 / 山梨県笛吹市御坂町  
弘法大師 行脚滞在  
大野山福光園寺は真言宗智山派に所属し、真言宗七談林(僧侶弟子教育の場)の1つで著名な古いお寺です。  
推古天皇の時代に聖徳太子が創立されたといわれる説があります。また、当時は聖徳太子が乗っていた甲斐黒駒という馬が産出された場所とされていて、ゆかりがあるという説もあります。その際に山号を駒獄山としました。当時は先程の馬の牧場があり、その上に当山があったと言われています。毘沙門堂には、当時から残っていると言われている吉祥天立像(現在調査中)が石仏にて安置されています。  
養老年中(717〜23)行基菩薩が当山に行脚中滞在し、本尊不動明王(火災にて現在焼失)を彫刻して、仏法結縁の霊場とされていました。  
その後、真言宗開祖である弘法大師空海が当山に行脚中滞在した際に、加持祈禱により湧出したと言われている牛池は現在も残っています。また真筆の般若心経2巻が残されていると伝えられていました。しばらく深い由緒により、多くの衆生を競って帰依しました。しかし諸堂伽藍を完備し隆昌を極めましたが、多くの変革を経て荒廃してしまいました。  
創立以来数百年を経て、保元2年(1157)当地の領主であった大野対馬守重包を中興開基に、賢安上人を中興開山として再建をはかり、諸堂伽藍を備わり寺号を大野山と称しました。  
戦国時代、武田信玄公(以下、信玄公)より深い帰依を受けて、甲斐、信濃や駿河の3ヶ国中に寺領を賜り、さらに甲府に長谷寺を建立して大野寺の祈禱寺としました。また金欄の七条袈裟、仏典や宝剣等が信玄公によって寄進されました。また武田勝頼公よりも手厚い庇護を受けて、数通の印判状を賜ったとされています。 天正2年(1574)山寺号を現在の大野山福光園寺と改めました。徳川家代々より寺領安堵の御朱印状を賜り、御祈願に勤めたとされています。当時は無本寺でありましたが、寛文12年(1672)初めて嵯峨大覚寺の末寺に、また宝永年間には松平甲斐守の祈願所となり、これらの由来により天明4年(1784)御城代により、甲府御城開門の許可を受けました。 
●瑞牆山 / 山梨県北杜市  
弘法大師 開山伝説  
(みずがき) 古くからの信仰の山で、洞窟には修験者の修行跡や刻字が残り、山頂の西峰には弘法岩があり、空海開山伝説も伝わる。  
瑞牆山は秩父連山の西端に位置する標高2,230mの花崗岩山です。まるでノコギリのような独特のギザギザ頭は今から2万年以上も昔の火山活動の名残で、その大小様々な形の岩が切り立つ山頂は奇峰の名にふさわしく、大小の奇岩にはヤスリ岩、弘法岩、十一面岩などの名前が付けられています。弘法岩からもわかるように、瑞牆山は弘法大師が修行した山と伝えられ、弘法岩の基部にはカンマンポロン(不動尊大日如来)という梵字のようなものが刻まれているという。これは弘法大師が彫ったものだとも言われるが、実のところは雨による侵食というのが本当らしい。いずれにしても山岳信仰の山である。   
瑞牆山の名前の由来 / みずがきとは、神社の周囲に巡らす垣根のことで、もともとは「瑞垣」とも「瑞塁」とも書く。近くの金峰山と同様に蔵王権現の山岳信仰と結びつき古くから甲州修験道の中心として登拝されていた。 
●武田八幡宮 / 山梨県韮崎市  
弘法大師 弘仁13年(822) 起源  
社伝によれば、822年(弘仁13年)に宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称したのが草創とされる。一方で『甲斐国志』は当宮の別当寺である法善寺(南アルプス市)の記録に基づき、同じく822年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源としている。なお、同書では日本武尊の子である武田王が御殿を設けた事が武田の地名の由来であり、武田王が館の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源としている。  
甲斐国には石和八幡宮(笛吹市)や窪八幡神社(山梨市)など武田氏により勧請された八幡社が分布しているが、『甲斐国社記・寺記』によれば、清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれた後、武田信義が武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったという。  
歴代の甲斐国司も造営を行なったとされるが、戦国期に武田晴信(後の信玄)が天文10年12月23日(1542年1月19日)に大檀主として嫡子である武田義信とともに再建したとある[1]のが、確認されている中で古い造営記録である。この造営は国主となった晴信の最初の事業でもあった。  
永禄3年(1560年)に信玄が国中の諸社に対して甲府の府中八幡宮への参勤を命じた際、武田八幡宮は甲斐国一宮の浅間神社など10社とともに参勤を免除されている[2]。天正10年2月19日(1582年3月23日)には、織田信長の甲州征伐に際して、武田勝頼の妻・北条夫人が勝頼の武運を祈って祈願文を捧げた[3]。この祈願文は掛軸に仕立てられ、県指定の有形文化財となっている。  
武田氏の滅亡後、甲斐の領主となった徳川家康は、天正11年4月18日(1583年6月8日)に社領を安堵している[4]。また、社記によると天正年間に、平岩親吉に命じて当社の造営を行なったとされる。慶長9年3月23日(1604年4月22日)には境内での樹木伐採や放放、諸役の賦課などが禁止されている[5]。1622年(寛文2年)に甲府徳川家の家老が巡見として由緒を調査し、修復料が支払われた。また、柳沢吉保は甲府藩主の時代に修復を行なっている。安永年間には社殿が大破して修理を行い、1853年(嘉永6年)にも修復されている。将軍や国主の代替りの際には巡見役や役人が参詣し、国内が不穏な場合には国主からの神事執行が依頼されたという。柳沢家からは旱魃の際に雨ごいの祈祷が依頼され、初穂料として金・300疋が支払われている。社記によれば正月や祭礼の時には神主が甲府城の楽屋曲輪まで祈祷札を届け、甲府勤番が追手門まで出迎えたという。 
湯村温泉 / 山梨県甲府市湯村  
弘法大師 大同3年(808) 開湯 
西暦808/大同3年、弘法大師東北巡行の帰り、信州路より甲州路に入り、近くの国宝尼除地蔵で身体を休めていました。道路の真ん中に大石あり。旅人の通行を困難にしていたところ、弘法大師が現れ呪文を唱えながら杖にて奇せたところ、温泉が湧き出してきたといいます。
湯村温泉2  
塩澤寺のとなりに、杖の湯跡があります。大同3年(808)弘法大師が東北巡行の帰りに、信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊りました。道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況でした。大師は呪文を唱えながら杖にて寄せるたところ、温泉が湧き出しといわれています。「杖の湯」「弘法杖」といわれ、いまにその名残があります。旅館街が出来る以前は、この杖の湯・鷲の湯・谷の湯・産甫ノ湯が銭湯という形で庶民に愛されていました。この3軒の内の何れかかが葛飾北斎によって描かれています。  
谷の湯と馬の湯   
塩澤寺の門前から延命橋を渡り少し下り谷の湯という湯がありました。とても湯量が豊富で塩辛い温泉でした。このことから湯川のほとりで塩が取れることから塩澤寺という名前になったのでしょう。山国で塩が貴重だったことから越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った「敵に塩を送る」という諺からも分かるように湯村から今の横沢迄を塩澤と呼んでいた時もあり、今の塩部はその頃の名残です。又は、当時塩を分けた場所だから塩分(しおべ)と呼んで後に塩部となったという話もありますが信憑性は?です。中国の高層大覚禅師(蘭渓道隆)が日本に招かれ、信濃(長野)に留まっていた時、甲斐の国に名湯が湧くから開くがよいという夢をみて、甲斐に入り塩澤寺で滞在していると、芦の生えた谷間から湯煙がたつのをみて芦を刈ってみると果たして湯が湧いていた。貞和3年(1347年)のことであるといわれています。この谷の湯は湯量が豊富だったため、湯村の人は溝を掘り湯川の横を掘って村境へ流れるようにしました。ところがこの水は付近で田んぼや畑ををしている処へ入ってしまい。作物に悪い影響が出てしまいました。怒った村人は農耕馬をつれてこの溝を堰き止めてしまったため、今度は湯村の畑がお湯びたしになってしまい、これが元で隣の村といさかいが起こりました。人々が争っていると土手づくりで疲れた馬や病気の馬が、気持ちよさそうに次々と溜まったお湯に入り始めました。人々は争いをやめてこの様を眺めていました。しばらくすると病気の馬や疲れた馬は元気になり、それからはこの湯を馬の湯と呼ぶようになったそうです。このお話よりかなりあと、今のJRが中央線を開通させたとき線路の敷石に使うため岩山である湯村山から砕石をしました。それが今の石切場跡ですが、ここから切り出した石は当時馬車で運び出されていました。石を満載した馬車を引く馬はこの馬の湯を使っていたようです。中央線の甲府までの開通は1903年(明治36年)で、昭和30年頃まではこの時の馬の湯の湯船が道から少し入ったところに、浅瀬から順に深くなり、また浅くなる変わったプールのような形で残っていたそうです。  
明治12年に湯村温泉から県令藤村紫朗に提出させた「温泉開湯御許可願」によりますと、湯村の湯は人や牛馬の腫れ物や筋肉の痛みに効くので、日々、人と牛馬が群っていたそうです。1里〜3里も離れたところからも多数の牛馬が入浴のためにやってきたといいますから、農耕や輸送で疲労した牛馬をリフレッシュさせる目的で入浴させたものと考えられます。この許可願でも、すみやかに開湯すれば、牛馬が助かるといっています。このような許可願を出したのは、農業を目的とした人馬の通行に支障が出るほどにたくさんの牛馬が温泉に連れてこられたためめで、これを知った県がこれらの温泉入浴を差し止めたからです。 
●富士山  
弘法大師 大同2年(807) 登山  
大同2年(807) 空海(弘法大師)登山。甲州(山梨県)側より登り、石仏を勧進したという。 
 
富士山の浅間神社  
浅間神社の沿革  
わが国が世界に誇る富士山は、古くから神聖視された存在だった。この霊峰を「神」と崇める信仰を浅間信仰(富士信仰)といい、その神を祀る社を「浅間神社」という。お膝元の駿河・甲斐両国には、総本宮の富士山本宮浅間大社を筆頭に多くの浅間神社が鎮座している。  
浅間神社の史料上の初見は『文徳実録』。仁寿3年(853)7月5日条に「駿河国浅間神預於名神」とあり、駿河国浅間神、つまり富士山本宮浅間大社が名神(特に霊験が著しい神に対する称号)に列している。さらに直後の13日条に「特加駿河国浅間大神従三位」とあり、富士山本宮浅間大社は従三位を授けられた。  
続いて『三代実録』の貞観元年(859)条で正三位へ昇叙し、貞観6年(864)の富士山噴火の項では、「富士郡正三位浅間大神大山火」「駿河国大山。惣有暴火」と載っている。これらの記述から察するに当時、富士山は駿河国に属すると認識され、それを鎮める官社として富士山本宮浅間大社が祀られていたようだ。  
翌年の貞観7年(865)になると、甲斐国にも浅間明神が祀られた。経緯は『三代実録』に詳しく、概略すると貞観6年の富士山大噴火の原因を占ったところ「富士山本宮浅間大社の祢宜や祝(神職の名)の斎敬怠慢のせい!とでたため、甲斐国にも浅間神社を建てて祀ることになった――と述べられている。  
この時、八代郡と山梨郡に1社ずつ祀られた。該当社と目されるのは河口浅間や一宮浅間などである。いわば北口における根本社といえ、河口浅間は明治以前、「富士山北口本宮極位浅間神社」「富士山北室本宮」などと称した。延喜式では「駿河国富士郡浅間神社(=浅間大社)」と「甲斐国八代郡浅間神社」が名神大社に列している。  
甲斐国に2社祀られたのは、まず富士山そば(八代郡)に1社祀って山霊をなだめ、さらに国府そば(山梨郡)にもう1社祀って万全を期したのだろう。駿河国においても延喜元年(901)、醍醐天皇勅願により富士山本宮浅間大社の分霊が国府に祀られ(富士新宮=静岡浅間神社)、爾来代々の国司があつく尊崇していた。  
下って平安末期ごろになると、富士山は遥拝だけでなく、登拝対象にもなった。修験者や修行僧たちによって各地に登山道が開かれ、その起点に浅間神社が祀られていった。村山口の村山浅間神社、須山口の須山浅間神社、須走口の冨士浅間神社、吉田口の冨士御室浅間神社、北口本宮冨士浅間神社などである。  
また官や宗教家以外の、富士山を日々遥拝している一般人の間にも浅間信仰は浸透し、人々は産土神としてこれを各郷に祀った。やがて時代が下るにつれ浅間信仰は全国へ広まり、室町期ごろには盛んに富士登拝が行われていたという。ことに江戸期、関東圏で富士講が大流行すると、浅間神社は数多く祀られるようになった。  
浅間神社の分布  
昭和初期の『浅間神社の歴史』によれば、全国の浅間神社は1,316社で、畿内3、東海道943、東山道345、北陸道3、山陰道4、山陽道1、南海道1、西海道14、北海道2。  
1位の東海道は全国総数の7割2分に及び、2位の東山道は2割6分余りを占め、この2街道で全体の9割8分に達している。  
東海道を都道府県別にみると、三重25、愛知57、静岡150、山梨66、神奈川33、東京60、埼玉185、千葉257、茨城109。意外なことに1位は千葉、2位は埼玉となり、静岡、山梨は3位と5位。  
一方、これらを郷社以上に絞ると、三重0、愛知1(郷1)、静岡12(官国2、県2、郷8)、山梨7(官国1、県3、郷3)、神奈川0、東京2(郷2)、埼玉0、千葉0、茨城0となる。社格の高い神社は、そのほとんどが静岡・山梨両県に鎮座している。  
つまり、富士山のお膝元たる静岡・山梨両県は古社を抱えているため、自然と社格の高い神社が多い。一方、神奈川・東京・埼玉・千葉・茨城などの浅間神社は、そのほとんどが江戸期の富士講流行で祀られた。これらは歴史浅く小規模なため、社格はふるわないが、爆発的に数を増やしたことがうかがえる。  
富士山・世界文化遺産の構成資産神社  
富士山の世界文化遺産「構成資産」となっている浅間神社は次の各社。「山頂の信仰遺跡」をのぞく9社は富士の裾野に鎮座しており、お山をぐるりと周るかたちで巡拝できる。  
山頂の信仰遺跡     富士山山頂(浅間大社奥宮、久須志神社)  
富士山本宮浅間大社  静岡県富士宮市宮町1−1  
山宮浅間神社       静岡県富士宮市山宮740  
村山浅間神社       静岡県富士宮市村山1151  
人穴富士講遺跡     静岡県富士宮市人穴529(人穴浅間神社)  
須山浅間神社       静岡県裾野市須山722  
冨士浅間神社       静岡県駿東郡小山町須走126  
河口浅間神社       山梨県南都留郡富士河口湖町河口1  
冨士御室浅間神社    山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951、3953  
北口本宮冨士浅間神社 山梨県富士吉田市上吉田5558  
富士山本宮浅間大社  
浅間神社の総本宮。富士山を神体山とし、山頂に奥宮が鎮座。太古、富士山麓で創祀され、山宮を経て大同元年(806)に現在地へ遷座。朝廷・武家から崇敬され、現社殿は徳川家康の再建。所在地/静岡県富士宮市宮町1−1。主祭神/浅間大神。社格/式内社、駿河国一宮、旧官幣大社。  
山宮浅間神社  
浅間大社の旧鎮座地。同社の「神跡」として尊重され、以前は年2度、本宮から祭神が里帰りする御神幸が行なわれた。本殿を備えず、遥拝所から神奈備たる富士山を仰ぎ、祭祀を行なう古い形態。所在地/静岡県富士宮市山宮字宮内740。主祭神/木花之佐久夜毘売命。旧社格/村社。  
村山浅間神社  
富士山表口の旧登山道・村山口に鎮座し、「富士根本宮」と号する。江戸期まで表口登山道と山頂大日堂およびその付属地を支配した富士山興法寺(本山派修験)の主要堂社のひとつ。神仏分離により神道へ復した。所在地/静岡県富士宮市村山1151。主祭神/木花之佐久夜毘賣命。旧社格/県社。  
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)  
富士山西麓の溶岩洞穴「人穴」にあり、通称人穴浅間神社。富士講の始祖・長谷川角行が修行滞在し、正保3年(1546)当地で入寂。以降、富士講の聖地とされ、「西の浄土」と呼ばれた。境内に富士講の碑塔が林立している。所在地/静岡県富士宮市人穴529。主祭神/木花佐久夜毘賣命。旧社格/村社。  
須山浅間神社  
須山口の起点に鎮座し、「南口下宮」と号する。景行天皇御代(71〜130)日本武尊が奇瑞により創祀。欽明天皇13年(552)に再興、天元4年(961)に修理されたとする。戦国期は武田氏、江戸期は小田原藩が崇敬。所在地/静岡県裾野市須山722。主祭神/木花開耶姫命。旧社格/郷社。  
冨士浅間神社(須走浅間神社)  
須走口の基点にあり、「東口本宮」と号する。社伝によると、延暦21年(802)富士山噴火時に鎮火祭事が行われた跡地に、大同2年(807)社殿が造営された。一方、江戸期は空海開闢と称し、「弘法寺浅間宮」とも号した。所在地/静岡県駿東郡小山町須走126。主祭神/木花開耶姫命。旧社格/県社。  
河口浅間神社  
『三代実録』で官社に列した「浅間明神祠」および『延喜式』所載「浅間神社」の論社。歴代領主から信奉され、江戸期は将軍家祈祷所に。周辺に100軒をこす御師坊が連なり、富士登拝の拠点として賑わった。所在地/山梨県南都留郡富士河口湖町河口1。主祭神/浅間大神。社格/式内論社、旧県社。  
冨士御室浅間神社  
富士山2合目に本宮、河口湖畔に里宮が鎮座。本宮は文武天皇3年(699)、里宮は天徳2年(958)創建と伝える。戦国期は「御室」「富士山北室」などと称し、武田氏歴代から祈願所として厚遇された。所在地/山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951、3953。主祭神/木花咲耶姫命。旧社格/県社。  
北口本宮冨士浅間神社  
北口(吉田口)の起点にあり、富士講から崇敬された。社記曰く日本武尊が富士山を遥拝して大鳥居を建て、後里人が小祠を建てた。他方『甲斐国志』は二合目の冨士御室浅間から勧請したと紹介。所在地/山梨県富士吉田市上吉田5558。主祭神/木花開耶姫命・瓊々杵命・大山祇神。旧社格/県社。  
甲斐国の仏教  
甲斐国への仏教伝来と古代寺院の成立  
日本列島には6世紀中頃に仏教が伝来するが、内陸部の甲斐国へは国家規模で寺院建立が奨励された古墳時代後期の7世紀後半頃に伝わり、この頃から仏教文化の影響が見られる。  
甲府盆地では盆地南部の曽根丘陵地域において4世紀後半に甲斐銚子塚古墳を中心とするヤマト王権の影響を受けた前期古墳が立地し、5世紀には中道勢力が弱体化し盆地各地へ古墳の築造が拡散し、やがて仏教文化の伝来に伴い古墳の築造は見られなくなる。甲斐国へは朝鮮半島での百済・高句麗の滅亡に際して多くの渡来人が移住しているが、6世紀には盆地北縁地域を中心に横根・桜井積石塚古墳など渡来人系の墓制である積石塚や生産遺跡を築いた勢力が出現し、仏教文化との関わりが指摘されている。  
甲斐国が成立した7世紀には盆地東部が政治的中心地となり、前期国府推定値である笛吹市春日居地域に甲斐国最古の古代寺院である寺本廃寺(寺本古代寺院)が出現する。寺本廃寺は法起寺式の伽藍配置で有力豪族の氏寺であると考えられている。また、国府周辺にあたる甲府市川田町に寺本廃寺へ瓦を供給した川田瓦窯跡があり、甲斐市天狗沢の天狗沢瓦窯跡からも供給先は不明であるものの同時期の古代瓦が出土している。  
8世紀には741年(天平13年)に聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を下し、甲斐国では笛吹市一宮地域に甲斐国分寺・国分尼寺が建立される。『甲斐国志』や『甲斐国社記・寺記』など近世に編纂された地誌類によれば奈良時代に創建された寺院が数多くあり、山梨郡の万福寺や三光寺(ともに甲州市勝沼地域)、八代郡の瑜伽寺(笛吹市八代地域)など盆地東部の国衙・国府周辺地を中心に分布する。中でも甲州市勝沼地域の大善寺は古代豪族の三枝氏が建立した氏寺で、柏尾山経塚から出土した平安時代の康和5年(1103年)在銘経筒にも見られる。この頃の仏教は現世利益をもたらす薬師如来や観音菩薩への信仰が盛んであり、薬師如来を本尊とする大善寺でも薬師悔過の修法が行われていたという。  
甲斐国初期の仏教文化を示す遺物として、甲府市横根町の東畑遺跡から出土した8世紀初頭の製作と考えられており県内最古の仏像である金銅仏(観音菩薩立像)をはじめ瑜伽寺の塑像片、三光寺に伝来する磬(打楽器)などのほか、甲斐市の松ノ尾遺跡から出土した蓮華座は観音菩薩像の台座と考えられている。7-8世紀代の古代寺院は現在のところ寺本廃寺や甲斐国分寺・国分尼寺のみであるが、これらの仏教遺物や瓦窯跡の存在から未発見の古代寺院が想定されている。  
天台・真言密教の影響と山岳信仰  
平安時代中期の9世紀には、入唐僧である空海・最澄により真言宗・天台宗の両派が新しい仏教として密教を導入する。天台宗は東国出身の円仁の活躍もあり早くから東国へも伝播し、甲斐国ではに市河荘(西八代郡市川三郷町)を中心とする荘園)において成立した平塩寺(現在は廃寺)が天台勢力の拠点寺院となったほか大善寺や円楽寺、岩殿山円通寺(大月市)などの天台寺院が成立したが、平安後期には真言勢力に押されて後退する。  
一方の真言宗は天台宗より送れて伝播し、空海書簡によれば空海は812年(弘仁3年3月)が甲斐国司の藤原真川に対し密教教典の写経を依頼し弟子を派遣している。また、同年には都の高雄寺(神護寺)において金剛界・胎蔵界の灌頂が行われているが、胎蔵界受法者の記録には甲斐国出身で永禅寺(法善寺)を創建した神徳の名があり、甲斐国では弘法大師開創伝承を持つ寺院や、平安後期に天台寺院から転宗した寺院も多い。  
また、富士山や八ヶ岳、金峰山など甲府盆地の周囲に高峻な山々が連なる甲斐国では古来から山岳信仰があったが、天台・真言密教は山岳信仰にも影響を与え修験道が成立する。特に役行者により始められたと伝わる富士信仰や金峰山信仰はその代表的なもので、富士山麓には修験道に関わる行場があり、修験道と関係して創建された円楽寺(甲府市)には役行者像が伝わる。金峰山においても修験道関係の遺構や遺物が存在している。 
甲斐源氏の台頭と浄土信仰  
平安中期には末法思想の影響により阿弥陀浄土を希求する浄土信仰が盛んになり、書写した教典を土中に埋納する経塚の造営が貴族層により行われはじめた。  
甲斐国では平安後期に常陸国から源義清・清光が市河荘に配流され、義清の一族である甲斐源氏は甲府盆地各地へ荘園管理者として土着する。八幡神を氏神とする甲斐源氏は勢力拡大とともに盆地各地で八幡神を勧請して八幡神社を造営しているが、神仏習合の影響を受けて阿弥陀如来が八幡神の本地仏として信仰されるようになると甲斐源氏の間でも阿弥陀信仰が広まる。  
甲斐源氏の一族は盆地各地で寺院を創建し、源義光(新羅三郎)を開祖とする大聖寺(南巨摩郡身延町)や、甲斐源氏の棟梁である武田信義が創建した願成寺(韮崎市神山地区)、安田義定が創建し寺内には阿弥陀堂があったといわれる放光寺(甲州市塩山地域)などがある。平安後期の阿弥陀如来像では願成寺の像や旧北宮地村(韮崎市)大仏堂に安置されていたと伝わる甲斐善光寺(甲府市)に伝わる旧天台寺院所蔵の阿弥陀如来像が代表格で、絵画では大聖寺や一蓮寺(甲府市)に伝わる浄土曼陀羅図が知られる。  
甲斐国における経塚造営は、古代豪族三枝氏により造営され康和5年(1103年)在銘経筒が出土した柏尾山経塚(甲州市勝沼地域)や、三河国司藤原顕長により身延山地の篠井山に造営され「顕長」の名や久寿2年(1155年)の在銘のある渥美窯の短頸壺が現存している篠井山経塚(南巨摩郡南部町)などがある。平安後期には甲斐源氏の台頭により経塚の造営主も武家層に移り、一の森経塚(甲府市)や秋山経塚(南アルプス市)などが造営されている。  
中世  
鎌倉時代には天台・真言の旧仏教に対して、大陸からの渡来僧や留学僧による新仏教の流入や、旧仏教側からの旧弊打破などにより諸宗派が興隆し、これらは鎌倉新仏教と呼ばれる。鎌倉新仏教には大陸から伝来した臨済宗・曹洞宗などの禅宗や、法然・親鸞の浄土宗、一遍の時宗、日蓮の法華宗(日蓮宗)などの様々な宗派があり、それぞれの創始者は祖師と呼ばれる。  
甲斐国は東国の政治的中心地であり鎌倉新仏教の信仰拠点であった鎌倉に近く、鎌倉新仏教は一般民衆を信仰基盤とし、都市と都市を結ぶ街道に沿って展開したことから甲斐においても広まり、また領主層においても甲斐源氏の一族は鎌倉初期に源頼朝の粛清により衰微したものの、残存した甲斐源氏の一族が新興の鎌倉新仏教に帰依したことにより諸宗派が定着する。  
また、古くから甲斐は山岳信仰に象徴される霊場であったこともあり甲斐国は鎌倉新仏教の展開において信仰拠点となり、各宗派の祖師とも関わりが深い。  
時宗  
時宗を創始した一遍智真(1239年-1289年)は諸国を遍歴し遊行を行い、信濃国佐久郡伴野荘で踊念仏を開始する。甲斐国には二世他阿真教(1237年-1319年)によりもたらされ、一蓮寺(甲府市太田町)をはじめ長泉寺(北杜市須玉町)、一行寺(笛吹市春日居町桑戸)、九品寺(笛吹市御坂町成田)、称願寺(笛吹市御坂町黒駒)、西念寺(富士吉田市)などの寺院が創建されている。真教は一遍没後に諸国を遊行し、神奈川県の清浄光寺などに写本が伝来する「遊行上人縁起絵」には甲斐国を遊行する真教が描かれている。  
「遊行上人縁起絵」巻7には中河(笛吹市石和町)で和歌を書き与える姿が描かれ、巻8では小笠原道場(南アルプス市小笠原)で説法中に乱入した日蓮宗徒と法論を行う場面や、御坂峠を越え河口(富士河口湖町)に至り、同行した板垣入道と別れ相模国へ至り、持仏堂に篭った板垣入道が真教の御影を前に往生を遂げる場面が描かれている。  
「遊行上人縁起絵」詞書には年紀が記されていないため真教の甲斐国遊行の時期やルートは不明であるが、甲斐の時宗寺院はおおむね「遊行上人縁起絵」に記されるルート上に立地している。  
真教は甲斐国遊行前に北陸地方から信濃国へ至り、永仁2年に(1294年)信濃善光寺を参籠し、一遍ゆかりの佐久郡伴野荘で歳末別事を催している事情から、甲斐国へは永仁3年に巨摩郡北部から入国した可能性が考えられている。  
真教の遊行に助力したのが甲斐源氏の一族で、甲斐一条氏の一条時信は真教に帰依し、弟の宗信(法阿弥陀仏朔日)が弟子となり正和元年(1312年)に一蓮寺が創建される。また、「遊行上人縁起絵」に描かれる板垣入道も武田信義の子板垣兼信の子孫であると考えられている。  
日蓮宗  
日蓮宗を開いた日蓮(1222年 - 1282年)は安房国長狭郡東条郷(千葉県鴨川市)の生まれで、生家に近い清澄寺で出家し、比叡山をはじめ京都・奈良の諸大寺や高野山で学んだ。日蓮は法華経を重視し、鎌倉で布教活動を行い、既成教団や浄土宗を批判し、文応元年(1260年)には執権・北条時頼に主著『立正安国論』を献じた。日蓮の主張は容れられず弾圧され、文永8年(1271年)には日蓮は伊豆・佐渡へ流罪となり、文永11年(1274年)には許されて鎌倉へ戻る。  
鎌倉へ戻ると御内人の平頼綱に諸宗派による祈祷の中止を進言するがこれも容れられず、同年5月には甲斐源氏の一族である地頭波木井実長の招聘により甲斐国波木井郷(身延町)へ赴いた。日蓮は身延に草庵を構え、弘安5年(1282年)までの8年半を身延で過ごし、この間に多くの書簡や曼荼羅本尊を記している。弘安5年8月には身延を離れ常陸へ向かうが、同年8月に武蔵国池上の地で死去する。  
日蓮の没後、身延山久遠寺は日蓮宗の総本山として発展する。 
 
静岡県

 

●大師窟 / 静岡県伊豆長岡町北江間  
弘法大師 修行  
弘法籠居の跡と伝えるが、七世紀後半から八世紀中頃までに営まれた古墳のようである。  
●福地山 修禅寺 / 静岡県伊豆市修善寺  
弘法大師 大同2年(807) 開創  
当山の正式な呼称を『福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)』略して福地山修禅寺と呼んでいます。大同2年(807)、弘法大師に依って開創され、その後約470年間は真言宗として栄えました。  
鎌倉時代になり、中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師が入山して臨済宗に改宗。臨済時代は二百数十年間続きました。  
やがて室町時代(1489)に韮山城主北条早雲が骭k繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を住職として遠州の石雲院から招き、曹洞宗に改宗。  
文久3年(1863)に再び伽藍や宝物の多くを焼失、明治13年から同20年にかけて本堂などを再建。その後専門僧堂として多くの禅僧を輩出してきました。  
曹洞宗になってから518年、開創から1200年目にあたる平成19年には記念事業として、42世住職田中徳潤老師の発願により、檀信徒会館の建設、老朽化した本堂と大屋根の修復が為されました。 
修善寺2 
歴史は、弘法大師が開いたという桂谷山寺(今の修禅寺)の歴史とともにあります。大同2年(807)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、独鈷の湯(とっこのゆ)を弘法大師が湧出させたとされ、これが修善寺温泉の起源であり、かなり古い歴史があります。 
桂大師 / 伊豆市修善寺  
弘法大師 伝説  
(天然記念物・弘法大師由来の桂の木)奥の院をさらに山中に入ったところにあります。弘法大師が平安初期に唐から持ち帰った桂の杖を大地にさしたところ、桂の木が芽生えたと伝わっています。県指定の天然記念物で、根本に大師の石仏が祀られています。  
独鈷の湯 / 伊豆市修善寺  
弘法大師 伝説  
独鈷とは仏具の一つですが、弘法大師がこの地で、独鈷で川原を突いたらお湯が出て来たという言い伝えから独鈷の湯と言われています。以前は、公衆浴場だったようですが、今では、川原の真ん中にあずま屋があり、足湯になっています。修善寺温泉のシンボル的な存在です。  
青野のお大師さん / 静岡県賀茂郡南伊豆町青野地先  
弘法大師 伝説  
南伊豆町青野地区には弘法大師祀り、地域の人々から信仰を集めていた「青野のお大師さん」の石碑や祭壇があったが、ダムの建設に伴って移転したという。ダムの名前はこの「青野大師」に由来する。 
●伊豆山神社 [走湯権現] / 熱海市伊豆山  
弘法大師 参詣  
走湯山[走湯権現] 現在も熱海市伊豆山に鎮座する伊豆山神社の前身。神仏分離以前は伊豆山権現あるいは走湯権現、走湯山権現などと称し、多くの寺僧が神仏習合による祭祀・勤行を行っていた。「権現」とは仏・菩薩が仮に姿を変え、神としてこの世に現れるという意味で、走湯山が神仏習合であったことを現すが、境内には社殿を凌駕する規模の仏堂・院家が立ち並び、走湯山という一山を形成していた。走湯山権現の本地仏は、千手千眼大菩薩(千手観音)であるとされた。  
『走湯山縁起』 異国からの神霊を日金山上の三神仙が祭祀したのが始まりとする。応神天皇(273) の頃、相模国唐浜より伊豆山の海に出現した神鏡を松葉・木生・金地 の三仙人が日金山に祀り、のち推古天皇(573) の頃、麓の海岸に温泉が走るが如く噴出しているので、社を本宮山に移し、走湯権現の神号を賜ったとする。文武天皇の頃、役行者が走湯山の温泉を開拓、嵯峨天皇の頃、弘法大師も詣で、仁明天皇の承和三(836) 年とき甲斐国の僧賢安大徳が夢中に権現の示験に会い、日金山・本宮から神霊を遷じ、現在の地に走湯山東明寺なる祠堂を建て、走湯権現を祀ったとする。つまり走湯山は、古来日金山に鎮座、本宮山(奥宮)に遷じ、現在の地(上宮付近)に至ると記す。  
縁起によると、本殿を含む諸堂が平安中期に造営され、各堂に仏像を安置した神仏習合の状態で、後に述べる別当寺も平安末期には存在していたようである。  
走湯山の組織  
賢安大徳は、元々天台宗の僧であった。そこから天台宗の走湯山進出がみてとれるが、弘法大師の参詣が語られた背景に、真言宗の進出もある。走湯山は平安時代から両宗が進出する別山で、東谷一帯は天台、西谷(岸谷)一帯は真言宗の拠点になっていた。鎌倉時代に活躍する専光房良暹は天台宗、文陽坊覚淵は真言宗の僧である。  
走湯山が一山として一つの寺院の形式を整えると、自然と寺院内部や各地の荘園の雑務処理等の運営の必要から一山の総責任者である別当や執事・雑掌といったそれぞれの職務の責任者が各院家・僧坊から選出され寺務を運営し、その運営を僧兵でもあった多くの衆徒が支えた。当初別当職は、天台・真言両宗それぞれに存在していたようであるが、鎌倉時代以降は、院家の一つ密厳院が山内で中心となって発展し、密厳院の院主が別当職を代々継承することになった。密厳院は賢安大徳が開いたという東明寺という寺号を用いており、走湯山全体を東明寺密厳院と称していたことが確認できる。密厳院の院主は代々東寺で真言宗の教学を学び、東谷一帯も含め山内は真言宗の勢力で固められた。室町時代に入り一時天台宗の僧侶が別当を勤めたこともあったが、再び真言宗の系統の僧侶が別当を勤めた。 
伊豆山権現  
伊豆山(走湯山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、伊豆山権現社・走湯山般若院で祀られた。伊豆山三所権現、走湯権現とも呼ばれた。  
応神天皇の時代に日金山頂上に現れた円鏡を松葉仙人が奉祀したのが走湯権現の始まりとされ、木生仙人・金地仙人・蘭脱仙人が続いて現れたが、文武天皇三年(699年)修験道の開祖と仰がれる役小角(役行者)が走湯山に堂を建立し、以後は修験道場として隆盛した。伊豆山三所権現は、法躰は千手観音の垂迹、俗躰は阿弥陀如来の垂迹、女躰は如意輪観音の垂迹とされる。  
伊豆山権現は箱根権現と合わせて二所権現と呼ばれ、鎌倉時代には鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集めた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で伊豆山権現と神宮寺の密厳院は焼亡したが、文禄3年(1594年)から慶長17年(1612年)にかけて徳川家康は高野山から快運を招聘し、神宮寺に走湯山般若院の称号を与えて伊豆山三所権現を復興した。これにより江戸時代の伊豆山は12の僧坊と7つの修験坊を有するなど繁栄を取り戻した。また走湯山般若院は真言宗伊豆派(当時)の本山として関東一円に大きな勢力を誇った。  
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく伊豆山三所権現は廃された。走湯山般若院は、伊豆山神社と高野山真言宗の走湯山般若院に強制的に分離された。 
伊豆国・走湯山  
源氏と東密の関係も深い。  
ここでは、源頼朝挙兵にあたって、心身ともに後ろ盾となった伊豆国・走湯山(走湯権現、伊豆山権現)の成り立ちと頼朝時代のつながりを確認しよう。  
「走湯山縁起」によれば応神天皇2年(271)4月、相模国唐濱磯部の海漕(現在の大磯)に直径三尺有余の円鏡が出現したという。円鏡はある夜、日輪のような光明を放ち、ある時には響声を発して琴の音曲かと聞き間違えるようであった。近づこうとすると波が荒れて円鏡は海底に隠没し、また高峯に飛び登っては松の枝にかかり、海中に入っては波底を照らしたりした。よって時の人は円鏡を二処の日金と呼んだという。応神天皇4年(273)9月、一仙童が日金山に円鏡を奉祀する。この一仙童は「開山祖師」「勧請仙人」とも呼ばれる松葉仙人であった。推古天皇2年(594)、海岸より温泉が湧き出したことから走湯権現の神号を賜る。文武天皇3年(699)、役小角(えんのおづの 舒明天皇6年・634〜大宝元年・701)が走湯山に堂宇を建て、以後、多くの修験者が集うようになった。  
弘仁10年(819)には、東寺大和尚・空海(宝亀5年・774〜承和2年・835)が来山した。承和3年(836)4月、甲斐国八代郡の人・賢安が走湯権現の霊験を得て、日金山本宮から現在地に遷座する。本地仏千手観音像を造立し、仏堂を建て自ら出家した。また空海の十大弟子の一人である杲隣(ごうりん 神護景雲元年・767?〜?)が伊豆国を訪れ、修善寺と走湯山を開創とも伝えている(櫛田P481)。走湯山の起源について貫達人氏は賢安の事跡を受け、論考「伊豆山神社の歴史」(三浦古文化 30号P3 京浜急行電鉄 以下、貫・伊豆山と表記)において、「伊豆山神社文書」(「県史料」所収)七号文書弘安九年(1286)十一月廿九日付、鎌倉将軍家寄進状中の「抑伊豆権現者、自承和往代祠宇祐基、」を引用、「静岡県史」の「走湯山神宮寺の創建はまず平安期承和年間(834〜848)と想定して大過あるまい」との解説を紹介されている。  
斉衡2年(855)、比叡山の安然(承和8年・841〜?)が走湯山を訪れ、岩戸山(松岳)西谷に舎房を構える。虚空蔵菩薩求聞持法を行ったところ、明星が井戸の中に入る瑞があり、以来、その井戸は智慧の水と呼ばれるようになった。安然は聖教を数百巻安置し、読経修学に励んでいる。元慶元年(877) 、安然の門弟・隆保が来山し、神勅により伽藍を建立。元慶2年(878)、堂舎を造営して12月に法華八講を始め、翌元慶3年(879)1月には、一山をあげて不断観音品読誦を行っている。延喜4年(904)2月15日、法華長講を始める。賢安の代に建てられた堂閣が破損してきたため、講堂を修造して十一面観音像を安置。礼堂を造立して金剛神を二体奉安。経蔵も修造して五千余巻の聖教を奉納する。天徳4年(960)、鐘楼を建て始め、講堂をさらに修繕し、康保2年(965)、堂宇を造り、礼堂を拡充して金色の十一面観音像一体、正観音像一体、権現像一体を安置した。安和3年(970)、依智秦永時宿爾を願主、延教が勧進となって常行堂を建立。西廊に金身の仏菩薩七体を奉安、僧坊一宇を造立する。天禄2年(971)、仏像を修復し普賢・文殊の檀像に金泥を塗り、供僧を選び法華経を誦し、懺法(せんぼう)等を修した。天禄4年(973)から翌天延2年(974)にかけて、北条太夫平時直が願主、延教が勧進となり宝塔一基を建立。金色の五仏を安置した。永観元年(983)、大門を造立し金剛力士像を安置。御祭所、礼殿、中堂を改造する。  
日金山を神聖の地として崇拝した山岳信仰から、走湯山の歴史が始まったと考えられるが、往古よりその名は知られていたようだ。  
平安時代の学者・藤原明衡(ふじわらのあきひら 永祚元年・989?〜冶暦2年・1066)が著した「新猿楽記」(しんさるごうき)には、「次郎者一生不犯之大験者,三業相応之真言師也。 (中略)凡其言之道究底,苦行之功拔傍,遂十安居,満一落叉度度。通大峰、葛木、踏迎道年年,熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川等之間,無不競行挑験。山臥修行者,昔雖役行者、浄蔵貴所,只一陀羅尼之験者也。今於右衛門尉次郎君者,己智行具足生佛也。」とある。生涯不犯を貫いた山伏にして、身口意三業相応の真言師でもあった次郎についての記述の中で、山岳修行の場として熊野、金峰、立山、伯耆大山、富士山、白山、高野といった名立たる霊地と共に伊豆走湯根本中堂が並び出ており、平安中期には全国に名が知られるほどの霊験所となっていた。後白河法皇(大治2年・1127〜建久3年・1192)が編者となって治承年間(1177〜1184)に成立したとされる「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)にも、「四方(よも)の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生戸、讃岐の志度の道場とこそ聞け」とある。そのような所へ東密の祖・空海が来山した、台密の大成者・安然が修行したという伝承は、走湯山では平安時代から東密僧と台密僧が活動したことを物語っているもの、といえるのではないだろうか。  
時代は下って平安末期、伊豆に配流中の源頼朝が監視役の伊東祐親(いとうすけちか ?〜寿永元年・1182)の娘・八重姫と秘かに通じ、安元元年(1175)9月、激怒した祐親が頼朝の殺害を図った時、頼朝は間一髪で走湯山に逃げ込み、北条時政(保延4年・1138〜建保3年・1215)の館に匿われている。北条政子との逢瀬の舞台は走湯山だったという。  
「吾妻鑑」治承4年(1180)7月5日条の源頼朝と文陽房覚淵のやり取りは興味深い。伊豆走湯山の密厳院を開創した東寺の僧・文陽房覚淵は、頼朝の帰依を受けていた。治承4年7月5日、頼朝は覚淵を配所に招き「吾心底に挟むこと有り」(挙兵平家討滅のことか)と覚淵に秘かに明かし、続けて「法華経一千部読誦を成し遂げて、その功を以て自らの真意を表明しようと法華経読誦をしてきたが、世の動きは慌ただしく火急を要することになり(5月26日、以仁王と源頼政らが平家に敗れていた)、続けるのは難しくなった。そこで八百部で打ち切り仏陀に捧げようと思うのだが、いかがだろうか」と語る。覚淵は「一千部に満たざると雖も、啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり」と一千部に満たなくても神仏の御意に叶わないはずはないと返答。覚淵は香花を仏前に供えて表白を読み上げた。その後「君は忝なくも八幡大菩薩の氏人、法華八軸の持者なり。八幡太郎の遺跡を稟(う)け、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、八逆の凶徒八條入道相国(平清盛)一族を退治せしめ給うの条、掌裡に有り。これ併しながら、この経八百部読誦の加護に依るべし」と平清盛一族を退治することは八幡太郎義家の業績を継ぐ頼朝の手に握られており、それは法華経八百部読誦の加護によるものである等と語っている。これを聞いた頼朝は大いに感嘆して施物を贈っている。晩になり導師・覚淵が門外に出ると再び呼び戻し、「世上無為の時、蛭島に於いては今日の布施たるべき」と世が平和になったならば、この蛭島は今日の布施として覚淵に与えよう、と約束している。実際「(醍醐)三宝院文書」(櫛田P484)によれば、応永6年(1399)6月25日到来、走湯山領知行に「蛭島郷」が寺領として記入されている。  
治承4年(1180)8月18日、これからの戦により長年の祈りができなくなることを嘆いた頼朝は政子の勧めにより、祈り続けてきた経典の目録を伊豆山の法音尼に渡し、日々の勤行の代行を依頼している。法音は一生独身を貫いた尼で、政子の御経師だった。翌19日、石橋山(相模国)の合戦を前にした頼朝は、政子を走湯山の文陽房覚淵の坊舎に避難させている。その後、合戦に敗れ箱根権現別当・行実と弟の永実らに匿われた頼朝一行は安房に逃れて再び挙兵。10月6日、畠山重忠(長寛2年・1164〜元久2年・1205)が先陣、千葉常胤(ちばつねたね 元永元年・1118〜建仁元年・1201)が殿(しんがり)を務める頼朝軍数万は鎌倉に入る。7日、頼朝は鶴岡八幡宮を遥拝。11日、走湯山を出てきた政子が頼朝と合流。同日、走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん)も以前からの約束により鎌倉に来た。良暹も東密の僧であったと思われ(櫛田P485)、覚淵と同じく流人の頼朝が師と仰いだ人物だった。12日、頼朝は祖宗を崇めるため小林郷の北山を選んで宮殿を作り、鶴岡宮を遷して良暹を当面の別当職に任じ、大庭景義(大治3年・1128?〜承元4年・1210)をして神宮寺の事を執行せしめている。続いて16日、「武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて長日勤行を始めらる。所謂法華・仁王・最勝王等、国家を鎮護する三部妙典、その他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等なり。供僧これを奉仕す。相模の国桑原郷を以て御供料所と為す。」(吾妻鏡)と、頼朝の発願として鶴岡若宮において長日の勤行を始め、法華経・仁王経・最勝王経等、鎮護国家の三部妙典とその他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等の読経を供僧が勤めたとしているが、貫達人氏は、良暹が来て4日しか経っておらず、この時点では供僧がいたとは考えにくいものがあり、この記事は10年後の建久(1190〜1198)初年、25坊が整備される頃のことと考えないわけにはいかない、とされている(貫・鶴岡P33)。この日、駿河国に達した平維盛(たいらのこれもり 保元3年・1158〜寿永3年・1184)の数万を迎え撃つべく、頼朝率いる軍勢が鎌倉を発している。10月20日、富士川を挟んで東岸に源氏の兵、西岸に平氏の兵が対峙するも、夜半、平氏の軍勢は急に撤退を始め、本格的な戦闘のないまま「富士川の戦い」は終結している。翌21日、頼朝は平氏の軍勢を追撃して上洛しようとするも、三浦義澄(みうらよしずみ 大治2年・1127〜正冶2年・1200)、上総広常(かずさひろつね ?〜寿永2年・1184)、千葉常胤らがまずは一部不安定な東国を固めることに専念すべきであると諌め、受け入れた頼朝は鎌倉へ戻ることになる。同日、黄瀬川駅で平泉から駆けつけた源義経(平治元年・1159〜文治5年・1189)と対面。また三島社に参詣して神領を寄進している。12月4日、頼朝は上総広常に命じて阿闍梨定兼を上総国より鎌倉に呼び、鶴岡八幡宮寺の供僧職に任じる。定兼は安元元年(1175)4月26日、何らかの罪により上総に配流となった東密の僧だったが、鶴岡八幡が再建されたものの当時の鎌倉には碩徳と言われる人物がいなかったので、「知法の聞こえ有り」(吾妻鏡)と仏教の学徳が高いと評判だった定兼が鎌倉に呼ばれたものだった。12月25日、石橋山の戦いの時、頼朝が岩窟に納めた小像の正観音を良暹の弟子が見つけ出し、閼伽桶の中に入れて持参。頼朝は手を合わせて受け取り、信心を強盛なものにしたという。  
「吾妻鏡」冶承5年(1181)3月1日条には、「今日、武衛、御母儀の御忌月を為すに依って、土屋次郎義清が亀谷堂に於いて仏事を修被(しゅうせら)る。導師は箱根山別当の行実、請僧(しょうそう)は五人、専光房良暹・大夫公承栄・河内公良睿・専性房全淵・浄如房本月等也。武衛聴聞令(せし)め給ふ。御布施は導師に馬一疋・帖絹二疋、請僧は口別に白布二端也」とあり、頼朝の亡き母の忌月(きげつ・忌日のある月)である3月になり、亀ヶ谷にある土屋次郎義清の堂で法事が行われた。そこでは箱根山別当の行実が導師を務め、請僧5人の一人として専光房良暹が連なっている。同年(養和元年・1181)8月29日、頼朝は御願成就の為、鶴岡並びに近国の寺社において「大般若経」「仁王経」等の転読を命じる。特に長日の御祈祷を鶴岡と箱根山、走湯山に命じている。一日を通して経を読む長日の祈祷について、箱根山と走湯山には毎月一日は大般若経一部で「衆三十人」と命じているので、両山の大衆は、30人以上はいたことになり、その規模の一端が窺われるものとなっている。10月6日、走湯山の住侶・禅睿を鶴岡八幡宮寺の供僧に補任して大般若経衆とし、免田二町(鶴岡西谷)を支給する。  
寿永元年(1182)8月11日、政子が産気付き頼朝と諸人が集まり、地元に居住する在国の御家人らも鎌倉に参上する。安産の祈祷のため、奉幣の使いを伊豆山、箱根山をはじめ、相模一宮、三浦十二天、武蔵六所宮、常陸鹿島、上総一宮、下総香取社、安房東條庤、安房洲崎社といった近国の主な宮社に向かわせている。8月12日、専光房良暹と観修が祈祷をする中、政子は男子(頼家)を出産した。9月20日、三井寺の円暁が京都より下向。9月23日、円暁は頼朝と共に鶴岡八幡宮寺に参り、拝殿で別当職を申し付けられる。9月26日、頼朝の立ち会いのもと、鶴岡の西麓で別当坊の柱を立て棟上げを行う。  
元暦2年(1185)3月27日、土佐国介良庄に住む琳猷(りんゆう)上人が、走湯山住僧・良覚の紹介により頼朝と面会する。琳猷は寿永元年(1182)に土佐国で討たれた頼朝の同母弟・土佐冠者希義(源希義・みなもとのまれよし 仁平2年・1152〜寿永元年・1182)の遺体を葬り、供養を続けてきた僧であった。同年(文冶元年・1185)10月27日、頼朝は箱根山、走湯山に奉幣の使いを出し、両山に馬一匹を奉納する。  
文治3年(1187)4月2日、鶴岡八幡宮寺、箱根山、走湯山をはじめ相模国の寺が全山あげて勤行、百部の大般若経転読を始める。後白河法皇の病気平癒祈願のためであった。  
文治4年(1188)1月16日、頼朝は鶴岡八幡宮寺に参詣した後、二所詣で(箱根権現・伊豆山権現[走湯山]への参詣)のため精進潔斎の沐浴を始める。1月20日、頼朝は300騎余りを従え箱根、伊豆、三島社への参詣に向かう。1月26日には鎌倉に戻っている。2月23日、源範頼(頼朝の異母弟 久安6年・1150〜建久4年・1193)が一日おきに発病、「吾妻鏡」は瘧病(おこりやまい)と記述しておりマラリヤにかかったものか。この日より、専光房覚淵を呼び加持祈祷させている。尚、専光房といえば良暹で、覚淵といえば文陽房であり、専光房覚淵という名は他には見当たらない。政子の出産の時には良暹に祈祷させており、良暹と頼朝家族との関係、先例からすれば、この時も専光房良暹に祈祷させたものではないか。専光房覚淵は「吾妻鏡」の誤記だと思う。3月2日、範頼の病が治癒したことに頼朝は喜び、馬を良暹の坊へ届けている。3月15日、鶴岡八幡宮寺の道場で梶原景時の宿願であった大般若経供養が行われ、頼朝も結縁のために参列する。法会の舞楽で舞った稚児は箱根山5人、走湯山3人だった。「吾妻鏡」12月18日条に「二品走湯山に参らせしめ給ふ」とあり、頼朝は走湯山に参詣している。  
文治5年(1189)7月18日、頼朝は走湯山の住侶・専光房良暹を呼び出し、奥州征伐のため秘かな願いがあるとし、持戒清浄なる良暹が留守中の鎌倉で祈祷を行うこと。奥州へ向け出発して20日経ったら、持仏である正観音像を安置する堂宇を御所の裏山に建てること。その際、大工には依頼せずに良暹自身の手で柱を立てること。これらを命じた。造営にあたっては別途手を打つことも伝えている。同時に、奥州征伐祈祷のため、伊豆国北条に伽藍を建てることを立願している。約束より一日早い8月8日、良暹は「夢想の告げ」(吾妻鏡)によって御所の裏山に登り、「白地に仮柱四本を立て、観音堂の号を授」(吾妻鏡)けている。8月15日、鶴岡で放生会があり、舞楽は箱根山の稚児8人が舞い、流鏑馬も行われた。  
建久元年(1190)1月15日、頼朝は二所詣でに進発。1月18日、走湯山に参詣。19日、三島にある伊豆の国府に滞在。20日夜、鎌倉に帰着している。8月15日、鶴岡放生会に頼朝が参列。先ず供僧らが大行道、次に法華経供養。導師は鶴岡別当の円暁が務め、舞楽で舞ったのはこの時も伊豆山(走湯山)より来た稚児達だった。翌8月16日、「馬場の儀也。先々会日、流鏑馬・競馬有りと雖も、事繁きに依って、今年は始めて両 日に分け被(らる)るところ也。二品の御出昨日の如し」(吾妻鏡)と、今迄一日で終わらせていた放生会を今回から二日に分け、この日は流鏑馬が行われている。  
建久2年(1191)1月8日、頼朝は鶴岡の供僧と走湯山・箱根山の衆徒らに対し、今年中は毎日十二巻の薬師経を読誦することを命じる。1月28日、二所詣でを前にした頼朝は50人の供を従えて由比ヶ浜に行き、海水で身を清めている。2月4日、頼朝は鶴岡に参詣して奉幣した後、二所詣りに進発する。2月10日、鎌倉に帰着している。  
建久3年(1192)1月25日、頼朝は走湯山に参詣。住僧らの臈次(ろうじ 法蠟の次第、順序)については文治4年(1180)に細目を決めてあるが、ややもすれば法蠟、序列を違え越えてしまうことがあったので、今後は法蠟の次第を守るよう重ねて決めている。5月8日、後白河法皇の四十九日法要には南御堂(勝長寿院)で百僧供が行われた。参加の僧衆は鶴岡八幡宮寺20人、勝長寿院13人、伊豆山(走湯山)18人、箱根山18人、大山寺(石尊権現 阿夫利神社)3人、観音寺3人、高麗寺3人、六所の宮2人、岩殿寺2人、大倉観音堂1人、窟堂1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、弓削寺2人、国分寺3人だった。  
建久4年(1193)3月4日、この日、後白河法皇の一周忌である13日の千僧供養に参上するよう、鶴岡、勝長寿院、永福寺、伊豆山、箱根山、高麗寺、大山寺、観音寺に使いを出して知らせている。3月13日、後白河法皇の一周忌を迎え仏事を修し、千僧供養を行った。箱根山の行実と走湯山の良暹も一方の頭(他にも多数いる)として百僧を従えた。  
「吾妻鏡」建久5年(1194)1月29日条に「御台所、伊豆・箱根両権現に奉幣の為、進発せしめ給ふと云々」とあり、この年は頼朝ではなく政子が二所詣でに進発している。2月3日、鎌倉に帰着。4月12日、頼朝は宿願があるとして、伊豆権現(走湯山)の宝前で大般若経を転読することを命じ、神馬を奉納している。  
●音羽山 清水寺 / 静岡県藤枝市原  
弘法大師 弘仁8年(817) 伝説  
静岡県藤枝市原の清水寺旧参道は、平安時代から利用されてきた「平安の道」です。不動明王から少し参道を上った所にある、厄除け、縁結びなどにご利益があるとされている古刹。  
「弘法の井戸」 / 弘仁8年(817)に、喉がかわいた弘法大師が錫杖で岩間を突き刺したところ、清水が湧き出したという伝説の井戸。「姿見の井戸」とも呼ばれ、自分の姿が水に映ると不老長寿のご利益が得られるといわれてる。 
●高野山 / 静岡県賀茂郡松崎町  
弘法大師 伝説  
岩科川上流の八木山は、かつて山を焼いて開拓したために、焼山≠ニ呼ばれていた。その集落から山間へ3kmほど入ると、渓流に面して奇岩の絶壁がそそり立ち、知られざる静寂境に初めて訪ねるひとは誰もが驚く。が、実はここは昔、修験者の行場だったところ。  
かつては弘法大師もここを訪れたが、近くの農地から肥料の臭いが漂ってきて不浄なこと、谷の深さが物足りないことを理由に立ち去り、やがて紀州(和歌山県)へ行って高野山を開いた─という伝説さえ残されている。そのいい伝えを裏づけるように、絶壁の中腹の行場「閻魔真行」には、弘法大師像をまつってあったが、現在では八木山の永禅寺に移し安置されている。  
さらに幕末のころ、諦然という僧がこの「閻魔真行」で修行、近在を祈祷して歩いたが、霊験のあらたかなことが評判となり、お大師さまと呼ばれて敬われ、信者の数は200人に及んだとか。そして、この地を立ち去るとき、経典や法衣などを地元の田口家へ記念として残して行った。同家には、「諦然が三河(愛知県)の人であること、天保元年(1830)に当地を訪れて弘法大師尊像をまつり、およそ1年間参籠し、多くの信者が集まってきたこと…」を記した箱書きもある。  
また一説によると、建久年間(1190〜1199)には文覚上人もここで参籠したといわれ、修行を終えて立ち去ろうとしたところ、上人の衣に野バラがからみついて離れられなくなった。そこで上人は再び岩窟の中に篭って行を続けたという。それ以来、地元の人々は野バラのことを文覚バラ≠ニ呼んでいるそうである。  
 
八木山から2kmほど登ったところには、昔から霊場として知られた高野山がある。  
真言密教の修行の地といわれていて、昔の山岳仏教の名残りを思わせるところである。ここは伝承によると、平安時代の初めの頃、弘法大使が諸国巡錫のみぎりに、真言宗の大本山をここに開こうとしたが、近くに肥料の匂いがするところから断念して、紀伊国に本山を開いたといわれている。それが紀州の高野山であって、〈高野山〉の名称は伊豆の八木山にも残されたと伝えている。この高野山の中腹には、大きな岩窟があり、江戸時代に入って、僧泰念が行をして開き、その後行者の参籠は、つい近年にまで及んでいたという。堂宇は数十年ほど前に焼失していまはないが、行者が残して行った経、のぼり、白衣などは、以前八木山にいて、今は堂ヶ島に博物館を持つ田口良氏方に残されている。 
●秋葉山 舘山寺 / 静岡県浜松市  
弘法大師 開創  
舘山寺(かんざんじ)という寺号は、舘山(たてやま)に開かれた寺であることから舘山の寺という意で名付けられたものです。  
平安時代・弘仁元年(810) / 弘法大師が高野山より仏道行脚の際、舘山を訪れて当地において修行し、その際に開創。旅する人々の心を清める寺として、山紫水明のこの地を選んだといわれている。  
   西行岩 「舘山の巌の松の苔むしろ 都なりせば君もきてみむ」  
鎌倉時代・文治三年(1187) / 兵火により焼失したが、源頼朝公がこの地を訪れ、道中安全・武運長久の祈願寺として諸堂を再建した。(頼朝の建立した諸堂や寺宝は元中元年(1384)に再び兵火により焼失)  
南北朝時代・貞治年間(1362) / 堀江城(遊園地パルパル、ホテル九重付近)の城主として、当地に赴任した大沢氏の要請により城主の祈願寺として、以後五百年守られる。  
江戸時代・慶長三年(1589) / 徳川家康公により御朱印判物を賜り東海の名刹として繁栄した。  
明治三年(1870) / 新政府の神仏分離令(廃仏棄釈)により廃寺となる。  
明治二十三年(1890) / 再興が認められ秋葉の火祭りで有名な秋葉山・秋葉寺(しゅうようじ)住職・牧泰禅(まきたいぜん)和尚を招請し、秋葉寺の出張所を持ってくる名目で再興した。その際に秋葉三尺坊を舘山寺でも祀ることになり、山号も「中嶺山」(ちゅうれいざん)から「秋葉山」に改め真言宗の伝統を引き継ぎながら曹洞宗の祈願寺として今日に至る。 
●長楽寺 / 静岡県浜松市  
弘法大師 開基  
平安時代初期の大同年間に弘法大師によって開かれたといわれ、この寺の北に陽光を受けて光る巨岩を霊地と見、お堂を建てたことにはじまるのち今川、徳川の信仰を集め、巨岩のふもとに七堂迦藍が建ち並び寺領25ヘクタールをもって繁盛した。昭和22年の農地解放で寺領を失い一時荒廃、この時収入の道を失った寺が、雑木林を開いて実をとるために植えた梅が毎年春になると白、紅の花ををつけ、辺りに芳香を漂わせる。  
ドウダンツツジが植え込まれた庭は遠州三名園になっており、隠元禅師の高弟、独湛禅師の筆である「長楽寺」の扁(へん)額がかけられている山門や土べいは室町時代の作。本尊は馬頭観音。 
●足柄山聖天堂 / 静岡県駿東郡小山町竹之下  
弘法大師 弘仁2年(811) 開基  
弘仁2年(811)相模国早川の海辺に発見し足柄山に祭祀す。本尊は歓喜双身像。  
足柄山聖天堂に鎮座致しますご本尊は、大聖歓喜双身天(石像高さ1.8米)で、元は京都にあったものといわれ、昔、宮中の女官と武士が相思の仲となっていたのが、この聖天像に願をかけて一緒になることが出来ました。然し有司(役人)は、「こんな物を置いていては風紀上よろしくない」と云って、空舟に乗せ海に流したところ、舟は海上を漂流し相模国(神奈川県)早川に着いたので、土地のものが拾い上げ祭っていたのを、弘法大師が見出して足柄山に勧請自筆の『足柄山』という額と共に奉納したと伝えられる。この聖天尊の御利益はあらたかで、衆生の迷いを救い願をかなえさせ、紋所である大根は、一家和合、商売繁盛、縁結び、厄除、開運をあらわし、その霊験のあらたかなことは広く知られ「日本三大聖天尊」(浅草聖天、生駒聖天、足柄聖天)の一つとして数えられている。  
矢倉沢往還  
江戸・赤坂御門から三軒茶屋、厚木、松田、御殿場を経て東海道・沼津宿に至る街道で、東海道の脇往還として機能しており、途中に矢倉沢関所が設けられていたことから「矢倉沢往還」と呼ばれていた。元々は律令時代に開かれた機内と東国を結ぶ主要街道(古東海道)で、官道として機能していたが、鎌倉時代に箱根湯坂道が開かれ、さらに江戸時代になると箱根東坂 ・西坂が本道になり、裏街道という位置づけに変わってしまう。しかし、江戸中期から庶民の間に大山講が盛んになると 、宿駅が整備されていた矢倉沢往還が参詣道として利用されるようになり 、大山阿夫利神社までの道を「大山街道」あるいは「大山道」と呼んでいた。  
竹之下宿  
足柄峠や甲斐へ向かう篭坂峠への分岐点であった竹之下宿は多くの旅人で賑わっており、遠くは源頼朝、義経や日蓮らも宿泊したという。また、朝廷から派遣された新田軍と朝廷に叛旗を翻した足利尊氏軍が戦った竹之下合戦の場でもあった。 
●楞厳山 鬼岩寺 / 静岡県藤枝市藤枝  
弘法大師 弘仁年間(810〜824) 巡錫  
寺伝によれば、神亀3年(726)、行基菩薩の開創という。弘仁年間(810〜824)、弘法大師(空海)がこの地に立ち寄ったとき、この付近では魔物(鬼)が出て村人を悩ましていたため、魔物退治を懇願された。そこで、弘法大師は五大尊の画像を描いて真言の行法を行い、魔物を巨岩に閉じ込めた。この巨岩は、今も寺の西の山麓にあるという。また、不動堂の不動明王像は智証大師(円珍)(空海の甥であるが、天台宗寺門派の宗祖)の作で、永禄年間(1558〜1570年)に武田信玄が駿河国に侵攻した際、当寺も兵火に遭い、この不動尊像も焼失したと思われた。しかし、ある夜、当寺第23代堅照上人の夢に不動尊が現れ、「今、甲州の大泉寺に居るが、帰る縁があるので、迎えに来てくれ。」と言った。堅照上人が富士川まで来ると、仏像を背負った僧がいた。この僧こそ甲州大泉寺の住職で、当寺の不動尊像を運んできたのだった。これによって、当寺に不動尊が戻った、という伝説もある(夢のお告げはともかく、武田軍によって不動尊像が甲斐国に持ち去られていたらしい。)。  
ほかにも、境内には「鬼かき石」(鬼の爪痕が残る石)、「行基菩薩腰掛石」(行基が腰を掛けたという石で、背もたれのある椅子のような形をしている。)などもある。「鬼かき石」は、その溝(鬼の爪痕)を3回なぞると願い事が叶う、特に手芸の上達に御利益があるとされるが、どうやら、古代、この溝で玉(勾玉)を磨いた砥石であるという。  
また、「黒犬神社」は、当寺に飼われていた黒犬(クロ)を祀る。昔、田中城主が飼っていた白い土佐犬と無理に戦わされ、これを噛み殺したが、城主の怒りを買い、家来たちに追い立てられて井戸に飛び込んで自殺したという。そのとき、どこからともなく、夥しい犬が現れて、家来たちを襲った。これを恐れた城主が黒犬を祀ったのが「黒犬神社」であるとされる。この黒犬は春埜山から来たとされるが、春埜山の奥、山住山(標高1100m)には式内社「山住神社」があり、山犬(狼)信仰がある。つまり、この黒犬は狼だった、ということを暗示しているとともに、当寺辺りにも春埜山や秋葉山の神仏混淆、あるいは修験道の影響が及んでいたということだろう。  
なお、行基の開創というのは伝説に過ぎないだろうが、奈良時代には法相宗?、平安時代後期には天台宗寺門派に転じ、鎌倉時代後期には真言律宗、現在は高野山真言宗の寺院となっている。 
鬼岩寺2  
鬼岩寺は藤枝市の商店街からはずれた山裾にあり、背後の山には雑木の古木が緑の葉を繁らせ、静閑の地にある。大正4年(1915)の火災や、永禄13年(1569)武田軍の兵火等により、昔の大伽藍や貴重な寺宝や古記録等を焼失したため重厚な雰囲気は薄らいでいるが、藤枝地区を代表する古刹である。約1千3百年の寺の歴史を誇り、数多くの伝説を持ち、観世音菩薩や不動様の霊験あらたかなことから、今でも善男善女の篤い信仰を受けている。  
開創  
寛保2年(1741)31世照秀の記した『鬼岩寺縁起』によると、楊厳山鬼岩寺は神亀3年(726)行基菩薩によって開創されたという。行基 (668〜749)は河内国の豪族高志氏の子として生まれ、15歳で出家し道昭・義淵に就いて法相唯識学を究めた。学問追究にあきたらず民衆の中に入って、寺を作り、土木事業に携り、国分寺・東大寺建立に大きな力を発揮した。その功績によって、我国では最初の大僧正に任ぜられた奈良時代一の高僧として有名である。  
神亀3年(726)行基は東国地方へ布教の途上、此の地に寄った。寺も無く仏教を信じる者が少ないのを憐れんだ行基は、衆生を救済し、仏教弘通の根拠地とするため、自らの手で聖観世音菩薩を彫りあげて祀ったのが、鬼岩寺の始まりであったという。現在この観世音菩薩は秘仏であり、33年に1度の開扉法要を待たねば拝顔できない。  
弘法大師と魔魅の岩  
開創してから百年程過ぎた弘仁年間(810〜823)、弘法大師空海が東国行脚の折、この地に寄った。ちょうどこの頃悪い鬼が出て人々を苦しめ、困りはてていた。そこへ弘法大師が訪れたので、村の人々はこれ幸いと大師に鬼退治をお願いした。そこで大師は五大尊の像を措き、7日間秘咒を加持すると、一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに鬼が姿をあらわした。そこで大師はこの鬼を裏山の岩穴に封じこめると、荒れていた空はたちまち晴れわたり、翌日から鬼岩寺村に鬼は出なくなった。これを機に寺の名を「鬼岩寺」と称するようになり、真言宗に改宗され、村の名も鬼岩寺村と称するようになった。今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている。  
その後鬼岩寺は有名になり、建久3年(1192)には、鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のため、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという。  
静照上人大蛇退治  
平安末期の長安年間(1163〜1164)、鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺の住職であった静照(菱和元年寂281)は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814〜892の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで「池早不動」と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、最近市の文化財に指定された本尊がこの不動明王である。左の眼は天をにらみ、右の眼は地を見つめている天地眼の不動尊像である。天台宗寺門派では天地眼の不動明王を祀る特徴を持っているから、慈覚大師との関係は深いと言える。  
大蛇を退治した鬼岩寺の静照は、戒走慧三学を究めた名僧として広く知られ、後に源頼朝からも帰依された。頼朝は純錦の自分の礼服をお袈裟に仕立て直して、静照に賜ったと言う。鬼岩寺ではこの静照を中興開山としてあがめている。  
この静照の大蛇退治の伝説は「水上池の悪竜退治」の伝説として、水上村万福寺、志太の九景寺等の開創縁起として伝えられている。それぞれ内容は少しずつ異っているが、水上という地名でもわかるように、大きな池(低湿地帯)があった。中世の時代水上池を開拓し、田畑に変え、食糧の増産を図るため、僧侶による宗教的・技術的指導の下で土地開発が行われた。この開発が伝説として伝えられたのであると、磯部武男氏の優れた学問的研究「水上池の悪霊退治伝説について」(藤枝市郷土博物館紀要三)があるので参照されたい。  
足利義満・足利義教宿泊  
鎌倉時代に入っても鬼岩寺はこの地区の名利として街道に名が知られ、名僧が住職となっている。永仁年間(1293〜1298)には良観上人が、また後には鎌倉極楽寺開山の忍性上人が住職となり、二重塔を建立し、その中には、書写した大蔵経を納めたと言われている。  
嘉慶2年(1388)、足利幕府3代将軍義満は、富士山を見物のため下向した時、この鬼岩寺に宿泊した。さらに永享4年(1432)9月17日には、6代将軍足利義教も鬼岩寺に宿泊した。この時のことは、『続太平記』『今川記』『富士御覧日記』等にも詳しく記されている。将軍義教は鎌倉公方の足利持氏に将軍の権威を誇示するため「富士遊覧」と称して、大行列を仕立てて京都から駿河国に下った。飛鳥井雅世、三条実雅、勧修寺教秀の公家や歌人や殿上人の他に、一説には6千騎ともいわれる武士を率いて、「山も川もとどろき渡りけり。」と称される程の大部隊を伴って大井川を越えて来た。  
駿河国守護職今川範政が出迎え、一行は鬼岩寺に1泊した。帰路にも1泊し、この時鬼岩寺裏の岩田山に富士山を眺めるための望事を築いたという。この故事によってこの山を「富士見平」とか「天がすみ」(殿下休み)と呼ばれ、高草山の山越しに富士山が眺められることで有名になった。文明5年(1473) 歌人の正広は富士見平にて、「富士ハなを うへにそミゆる 藤枝や 高草山の峯の白雲」という歌を残している。  
宝篋印塔  
入口を入って左側に苔むした石の宝篋印塔・五輪塔・板牌が並んでいる。この宝篋印塔というのは、『宝篋印陀羅尼』の経文を書き写し納めた塔で、鎌倉末期から室町時代にかけて流行した信仰習慣である。  
塔の形は、塔の頂きに宝珠があり続いて相輪・笠・塔身・基礎・反花座からなり、笠の4隅には隅飾をつけた手のこんだ石の塔である。宝筐印陀羅尼を唱え、塔を造立すると悪道に堕ちた亡者も極楽に生じるという信仰によって建立された。鬼岩寺にはこの塔が15基残っているが、その中で一きわ大きい塔に「矢部隼人 永徳2年(1382)」と刻まれた銘が残っている。矢部氏は岡部氏、朝比奈氏、松井氏等とともに、今川家に古くから仕えた武士であり、現在も葉梨下之郷に矢部屋敷の地名が残っている。その他の塔には銘はないけれど、この時代の矢部家一族や今川系の武士達が道立したものであろう。  
また、小さな五輪の塔は、近年墓地整備の折出土したもので現在260基程発見され現在地に安置されたが、まだ地中には埋まったままのものがあるという。これだけ多くの五輪塔が1ヶ所にあるということは、県内では珍しい。その中の2基に応安(1368〜1374)の年号のものと応永12年(1405)の年号が記されているから、14世紀から15世紀頃造塔いたされたものである。また、弥陀三尊の梵字を刻した板ひ牌も県内では珍しいものである。これらの石塔群は当時の信仰形態を知る上で、貴重な資料であり、文化遺産でもある。  
飛行舎利  
戦国争乱の風の吹き荒れた永禄13年(1570)、甲斐の武田信玄は駿河に攻め込み、駿府城を手に入れ、1月26日には花沢城を攻め滅ぼし、月末には田中城を攻略した。この時武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。鬼岩寺もこの兵火によって本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失した。この時鳥羽天皇が奉納した仏舎利二粒は、燃えさかる炎の中を飛び出したので、「飛行の舎利」と呼ばれた。信玄はこの舎利を甲斐に持ち帰り、武田勝頼の手を経て高野山に奉納した。江戸時代に入ってから高野山成慶院住職秀雅は、この舎利が藤枝宿鬼岩寺のものであったことを知り、延宝7年(1679)鬼岩寺に返納した。その後、鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。  
不動明王の帰山  
この永禄13年の兵火に遭った折、不動堂に祀られていた不動明王は行方知れずになっていた。八方捜したが見つからず、焼失してしまったのではないかと言われていた。ところが、六十年程たった寛永年間(1624〜1643)23世住職堅照上人がある夜夢を見た。その夢の中に例の不動明王があらわれ、  
「吾、甲斐国甲府大泉禅寺にあり。汝等来たり迎えよ。」  
と告げたのである。翌朝、堅照が夢のことを思い出していると、鬼岩寺の檀那大井神社神主の大桶六兵衛があわてた様子で寺をたずねて来た。六兵衛は昨夜見た夢のことを堅照に告げた。不思議なことに全く同じ夢であった。  
そこで住職と六兵衛の2人は旅仕度を整え甲斐の国、大泉寺に向けて出発した。旅を続け、富士川のほとりの茶店に寄ると、一人の旅の僧が休んでいる。何とはなしにこの僧と話しはじめ、夢のお告げのことを語ると旅の僧は大変驚いた。旅の僧が言うのには、実は私はその大泉寺の使いの僧であり、同じように不動明王の夢のお告げにより、駿河国鬼岩寺へお不動様をお返しにあがる途中であるという。鬼岩寺堅照も六兵衛も霊験あらたかなお不動様に感謝しながら、不動明王をこしに載せて帰山した。60年ぶりに不動堂の本尊が帰山したことに誰もが歓喜し、その因縁の不思議さに改めて驚いた。  
如意宝網珠  
享保17年(1732)9月10日のことである。門前の道普請のため裏山を削った土を門前に積みあげておいた。その夜、村人が鬼岩寺の護摩堂の方を見ると、寺が真赤に光っている。火事ではないかと駆けつけて見ると、何の異変もない。首をかしげながら家に帰り、鬼岩寺をながめると、また同じように鬼岩寺が赤く光っている。  
翌日村人が光ったあたりの積み上げた土地を掘ってみると火鉢のようなものが出て来た。こじあけてみると直径8寸8分、表面は網をかけたような筋のある鼠色の玉が現れた。誰も今まで見たことのないような不思議な美しい玉である。皆口々に「昨日火事だと思ったのは、きっとこの玉が光ったからに違いない。」と言った。  
その後住職が京都に行く用事がありこの玉を持参し、諸国から来た僧達に見せた。しかし、誰一人としてこの玉の名を知っている者はいない。このうわさが二候関白殿下の耳に入り、高覧してもらったところ、殿下は「如意宝網珠」と名づけてくれた。この珠は現在も鬼岩寺の大切な宝として伝えられている。  
黒犬物語  
寛政から文化年間(1789〜1803)の頃、鬼岩寺に「クロ」と呼ばれていた黒プチの犬が飼われていた。身体も大きく精博で大変強い犬であった。その強いうわさが天下に広まり「東海道の黒犬」とまで言われていた。これを聞いた土佐の国の殿様が、自分の国も土佐犬の産地として有名であり黙認することができず、土佐犬を連れて来て決着をつけようとした。そこで参勤交替の折に土佐一の犬を連れて来て、鬼岩寺に行列をとめた。  
鬼岩寺の住職は、土佐藩主からの使いを受けると、闘志より心配の方が先に立ち、気が気でない。  
「いくらクロが強いとは言え、有名な土佐犬と戦えば負けるに決まっている。万一勝っても恨まれる。下手をすれば殺されてしまうかもしれない。」  
と嘆き、弱りはてていた。そこで和尚は、殿様が到着する前にクロを逃がしてしまおうと思いつき、クロに「帰って来るな」と言い聞かせ寺から追い出した。するとクロは名残惜しそうに、尾をふりながら裏山に消えていった。  
やれ一安心と思っていると、数日後クロは寺に帰って来てしまったのである。和尚もそれでは仕方がないと覚悟を決め戦わせることにした。翌日土佐の殿様が10数人の家来を従え、土佐犬を連れてやって来た。いよいよ犬の戦いが始まった。犬同士を見合わせると黒い犬クロはあたかも木鶏の如く落ちつきはらっている。それにひきかえ、殿様の方は興奮し、土佐犬は闘志むき出しである。  
しばらくにらみあいが続いたが、クロが一声「ウーウワン」鋭い声で吠えた。すると裏山から沢山の犬の鳴き声が呼応したのである。それを聞いた土佐犬は先刻の闘志はすっかり消え失せ、尾を下げてあとずさりを始めてしまった。勝敗は決した。殿様も潔く負けを認め、江戸へと旅立った。クロは鬼岩寺を出された時、遠州春野まで行き、春埜山大光寺の部下の犬を連れて来たのだと評判が立った。その後鬼岩寺のクロは増々有名になり、皆から可愛いがられるようになった。  
それからしばらく過ぎたある日、田中城の殿様本多候が碁を打ちに鬼岩寺に来山した。和尚と碁を打っていると、クロが裏庭に入って来て殿様の目にとまった。  
本多候はクロを見て、「和尚どうだ、有名なこのクロとわしが飼っているシロと闘犬させてみたいが……。」と言う。殿様のことばであるから和尚も困ってしまった。クロが勝っても殿は面子をつぶされたとして、犬を手打ちにするかもしれない。そこで和尚は「どちらが勝っても傷つくし、負ければ殺されるかもしれません。むごいことですから………。」とやわらかく断った。が、殿様は引き下がらない。そこでとうとう戦い合うはめになってしまった。  
数日後、本多候はシロを連れて来て鬼岩寺の庭で戦いが始まった。シロも強く、お互いに吠え合い、咬み合い、血を流しあったが、やはりクロの方が格段に強く、勝ってしまった。殿様は可愛いがっていた自慢のシロが負けると怒り出し 「このにっくき黒犬め。」と刀を抜いて切りつけたので、クロは裏山へ逃げこんでしまった。面子をつぶされた殿様は怒りがおさまらず、家来に槍を持たせ、翌日から山狩りをすることを命じた。  
その夜こっそり帰って来たクロに、和尚は御馳走をたっぷり与え、もう寺には帰ってくるなと言い聞かせ、裏山に逃がした。本多候の家来達は翌日からクロを必死になってさがしたが見つからない。10日程たった夕方、クロはひょっこり寺に帰って来た。それ逃がすなと家来たちが追いかけると、クロは逃げまわる。それでも大勢の家来にとりかこまれると、とうとうクロは、川の横にあった井戸(硯生涯学習センター近く)に自分から跳び込んでしまったのである。すると突然井戸の中から黒煙がわき出し、何万匹もの黒犬が現われて吠え出した。クロの自刃であった。その潔い姿に感じた殿様も自分の負けを認め、社わがままを悔い改めたとい榊う。後に村人たちはクロの霊を祀り神社を建立した。これが山門を入って左側にある黒犬神社である。  
このように楊厳山鬼岩寺は1千3百年の歴史を誇り、数多くの伝説を持ち、由緒ある仏様を祀り、貴重な寺宝を蔵し、真言密教の法灯を伝えてきた。残念ながら大正四年に火災に遭い数多くの寺宝や貴重な書類を焼失したが、昭和54年には本堂を建立、55年に庫裡を再建した。鬼岩寺の寺宝として残っているものは  
聖観世音菩薩 鬼岩寺本尊 行基作  天和2年(1616)田中城々主土屋政直再興  
大聖不動明王不動堂(護摩堂)本尊 智証大師円珍作   
如意宝網珠 享保17年(1732)地中より発見  
鰐口 慶長16年(1611)若松惣右衛門作(藤枝市指定文化財)  
鬼かき岩 音この辺りに出没した鬼が爪を研いだ岩という  
等がある。  
今も鬼岩寺はこの地域の仏教を信仰する人々の拠り処として、数多くの信者を集めている。1月28日に行われる厄除け火渡りの行事と、8月20日弘法大師の縁日には、近隣からの善男善女が雲集し、花火もあがり大いに賑う。 
●宇津山 慶竜寺 / 静岡市宇津谷  
弘法大師 伝説  
宇津山慶竜寺は、国道一号線から新宇津ノ谷トンネル静岡口の手前で旧東海道にはいり、宇津ノ谷峠に向かう途中にある。  
かつては「渓流寺」とも記されたように、同寺の前には丸子川が流れ、そこに朱塗りの竜門橋がかかっている。寺伝によれば、天正六年(一五七八)に泉ケ谷の勧昌院四世光岩宗旭和尚が開創し、後に勧昌院九世光國〇淳和尚(一六八六没)が中興した。  
本堂の須弥壇上には、向かって右側に本尊の一一面観音、中央に高さ一一〇センチ程の木製の地蔵立像と、脇侍の掌善童子と掌悪童子が祀られている。しかし、この地蔵は「おまえたてさん」と呼ばれるもの。延命地蔵は、その後ろにある左甚五郎作の厨子に納められている。二一年毎の本開帳と、一一年毎の中開帳の時にだけ姿を表す秘仏で、前回の本開帳は平成七年に行われた。  
この秘仏の地蔵は、弘法大師の作と言われている。高さ八〇センチ程の石造りの座像で、両手で宝珠をもっている。もとは宇津ノ谷峠に祀られて「峠の地蔵」と呼ばれていたが、明治四四年に麓の慶竜寺に下ろされた。同寺の境内には、地蔵と一緒に下ろされた賽の河原の供養塔や秋葉灯籠が安置されており、「十団子も小粒になりぬ秋の風」という向井許六の句碑も建てられている。 
 
●空海と伊豆山祭祀  
1  
『神道体系』神社編二十一には、伊豆山祭祀に関する縁起書が複数収録されていて、それらを読んでいると、全体にかなり高度・複雑な神仏習合、また神々習合のさまが、さながら曼荼羅模様のごとくに展開されている印象を受けます。  
この高度・複雑な習合思想を伊豆山に持ち込んだ人物は、平安期・嵯峨天皇の時代に鎮護国家の最前衛の仏教徒として頭角をあらわしてくる空海をおいてほかにいないだろうとおもわれます。  
わたしがこのように空海を名指しするのは、以下のような文面が縁起書(「伊豆山略縁起」)に確認できるからです。  
弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ〔中略…後述〕大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り、詳[つまびらか]に清規を定め、初[はじめ]て密法を修して、深秘を高雄の僧正及[および]杲隣[こうりん]大徳に附属し玉ひ、其後天長二年乙巳、中本宮・其余社頭・僧房を経営して、永く鎮護国家瑜伽の道場と成せしより、今に其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし、  
弘法大師こと空海は、弘仁十年(八一九)に伊豆山にやってきて、それも「勅命」によって伊豆山を管轄し、こまかな社則(「清規」)を定めたとされます。また、ここで初めて「密法」を修め、その「深秘」の極意を弟子たちに伝えたようです。空海は天長二年(八二五)にもやってきて、伊豆山の「中本宮」ほかを経営し、ここを「鎮護国家瑜伽の道場」と定めたとされます。  
縁起の作者は、空海が定めた「其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし」と、空海の教えを忠実に継承していることを、半ば誇りをもって書いてもいます。空海が「鎮護国家」のために定めた「法則」や「深密の行業」・「神殿の秘事」が具体的にどのようなものかは、部外の者には、うかがうことが容易ではありません。  
しかし、「勅命」を奉じた空海による伊豆山祭祀への干渉といった視点で再読してみますと、伊豆山祭祀は、空海の登場を画期として、大きな変動を蒙っただろうことは想像できます。  
遠野郷に伊豆権現(瀬織津姫命)が伝えられたのは大同元年(八〇六)とされます。この伝承を信じるならば、空海が伊豆山祭祀に手を加えた弘仁十年(八一九)から天長二年(八二五)という時間の「前」に相当していますから、空海以降、伊豆山から「瀬織津姫命」の祭祀が消えたのではないかという仮説を立ててもそれほど無理はなかろうとおもいます。  
明治四年(一八七一)に国家に提出された「伊豆国加茂郡伊豆山神社書上」は、「社伝ニハ、正殿ヲ忍穂耳尊、相殿二座ヲ栲幡千々姫命・瓊々杵尊ト称シ来リ、其外区々之諸説等モ御座候」、しかしながら「祭神之事、古来一定仕ラス」とし、正殿は火牟須比命、左相殿は伊邪那岐命、右相殿は伊邪那美命とすることを「右確定支度(右確定したく)」と申請しています(結果、受理されます)。  
平安期から江戸期までの神仏・神々習合の各縁起の内容は、ここで全否定されることになりますが、そもそも「祭神之事、古来一定仕ラス」の淵源はといえば、やはり空海にまでさかのぼって考えてみる必要がありそうです。  
「神社書上」は、社号については「旧称」として伊豆御宮、伊豆大権現、走湯大権現の三つがあったとし、さらに「社地沿革」の項では、「上古ハ日金山鎮座」、「次牟須夫峯ニ遷座」、「次亦今之社地ニ遷座」と、その変遷を記しています。また、それぞれに割注のかたちで、以下のような補足説明をしてもいます(個々の鎮座・遷座ごとに改行、それぞれの割注を〔 〕で記します)。  
上古ハ日金山鎮座〔本宮ト称ス、是所謂伊豆ガ根ニテ、今之社地ヨリ乾六十町許山嶽上、今ニ至リ、小祠存ス〕  
次牟須夫峯ニ遷座〔中ノ本宮ト称ス、社地ヨリ北八町許山中、今ニ至リ、鳥居礎・敷石等存シ、且小祠アリ、祭日六月晦日〕  
次亦今之社地ニ遷座〔因テ新宮ト称ス〕  
これを読みますと、社地の変遷ばかりでなく、それに対応するように社名の変遷もあったことがわかります。曰く、本宮→中ノ本宮→新宮(現在の伊豆山神社)の順です。ここで想起されるのは、「伊豆山略縁起」の記述です。縁起は、空海が「中本宮」ほかを経営し、「永く鎮護国家瑜伽の道場」となしたと書いていました。この「中本宮」は「中ノ本宮」のことですが、「神社書上」の割注(補足説明)は、この「中ノ本宮」の項の末尾に「祭日六月晦日」と記しています。つまり、空海が「鎮護国家瑜伽の道場」とみなした中本宮は「六月晦日」を祭日としていたのでした。  
この「六月晦日」は、いうまでもなく「六月晦大祓」の日です。伊豆山の社則(「清規」)を定めたのは空海でしたから、この大祓の日を、新たな伊豆御宮(中本宮)の祭日と定めたのも空海ということになります。  
明治期、たしかに「祭神之事、古来一定仕ラス」だったかもしれませんが、「古来」、本殿あるいは山頂から降格祭祀がなされ、しかも大祓の神と限定されてきたのが瀬織津姫という神でした(岐阜県・野宮神社、白山史料にみる瀬織津姫神の項を参照)。伊豆山においても同じことがいえるだろうと考える理由は、空海の登場以前に、自身の守護神として伊豆権現(瀬織津姫命)をもって伊豆から遠野までやってきた四角藤蔵がおり、今もこの神をまつりつづける遠野・伊豆神社の存在があるからです。  
空海は「勅命」によって伊豆山へやってきて、そこで「鎮護国家」の名のもとに新たな社則(「清規」)を定め、しかも「密法」の「深秘」まで伝えたとされます。  
空海の真言密教の全体像を解読するのは至難ですが、そのエッセンスを抽出することは不可能ではないとおもわれます。「走湯山縁起」巻第五は、巻末に、空海による「真済面授口伝」なる名で、次のように記しています(筆者読み下しで引用)。  
海底大日印文五箇口伝、中心伊勢大神宮、内胎蔵大日、外金剛界大日〔已上中台〕、南方高野丹生大明神〔宝珠〕、西方熊野〔蓮花〕、北方羽黒〔羯磨〕、東方走湯権現〔円鏡〕、  
日本是大日如来、密厳花蔵浄刹也、四仏を四方に安じ、天照大神を中心に処す、此海底印文、皆大龍の背に在るなり、  
「走湯山縁起」巻第五の作者(延尋)は、弘法大師が弟子「真済」に語ったことは「面授口伝」(の秘伝)で、今廃忘を嘆くがゆえにこれをおそれながら注すとしています。  
最澄というよりも円仁といったほうがよいでしょうが、天台密教は、内宮の秘神を神仏習合の方法でどう封印するかに腐心しました。これはまだ単純といえなくもありませんが、空海の真言密教は、同じ封印でも、自身の密教理念の中心にまず大日如来を据え、しかも、この大日如来を胎蔵界と金剛界の二種に分化させるという複雑な仮構をなしたというのが大きな特徴です。さらにいえば、胎蔵界大日如来を内宮に、金剛界大日如来を外宮にあてはめ、四方東西南北に守護神・権現を配することをしたようです。これは、四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)の外来思想を空海流にアレンジした印象を受けますが、それはともかく、空海は、南に丹生大明神、西に熊野権現、北に羽黒権現、東に走湯権現を配したのでした。いや、正確には「四仏を四方に安じ」とあり、走湯権現の本地仏についてのみいえば、これは千手観音だったようです。  
それにしても、この「真済面授口伝」を読みますと、空海が「伊勢大神宮」をいかに重視していたかがよく伝わってきます。この「伊勢大神宮」あるいは「天照大神」は、少なくとも東方においては走湯権現(本地仏:千手観音)を守護神・守護仏とする必要があったわけで、ここに「伊勢大神宮」「天照大神」を根本的に脅かす伊勢の地主神がそのままにまつられつづけることはあってはならぬことでした。空海の「鎮護国家」の思想をありていにいえば、こういうことになります。  
ところで、引用の「海底大日印文五箇口伝」という深秘の印文は「皆大龍の背に在る」とされていました。この「大龍」とは何なのでしょう。  
「走湯山縁起」巻第五は実は二種類あって、先に引用した縁起とは別の「裏縁起」とでもいうべき、「深秘」につき「不可披見」の添書きをもつ別縁起に、この「大龍」が出てきます。  
内容を要約していいますと、日金山(久地良山…伊豆山)の地底には「赤・白二龍」がいる、尾は「筥根(箱根)之湖水」(芦ノ湖)に、頭は「日金嶺之地底温泉沸所」にあるとされるように、まさに「大龍」です。この龍は背には「円鏡」があり、これは「東夷境所」を示現する「神鏡」だとのことです。また、この龍には「千鱗」があり、その鱗は「千手持物之文絵」を表すもので、それぞれの鱗の下には「明眼」があるともされます。そして、その正体は「生身千手千眼也」と明かされます。  
伊豆権現=走湯権現の本地仏・千手観音は、ここでは「千手千眼」と記されるも、これは、白山における十一面観音の前身として現れた九頭竜神と酷似する発想です。要するに、伊豆山においては、地主神の謂いとして「大龍」があるようです。  
この地主神「大龍」については、表縁起のほうでは、「根本地主」として二神あり、一は「白道明神」、本地は地蔵菩薩、その体は男形である、二は「早追権現」で女形、本地は大威徳明王であるとされ、この表縁起では龍体の表現は消え、神仏習合の複雑な表現に置換されます。ちなみに、大威徳明王は、不動明王を中心とする五大明王の一つで、六面六臂六脚の異形明王です。  
天平元年(七二九)に伊豆権現が善光寺如来ゆかりの戸隠山に失踪したとき、霊湯(走り湯)は涸渇したとされ、権現が伊豆山からいなくなったのは「当山の人、信力薄きが致す処なり」と、伊豆権現に代わって託宣したのが白道明神でした。この白道明神(男形)と一対の関係にあるのが早追権現(女形)で、この早追権現が伊豆権現と重なってきます。  
縁起第五(の表縁起)は、早追権現は、日々夜々、日金山地底の「八穴道」を往来しているから「早追」といい、この権現は、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非を取捨勘定するとされ、早追権現がただならぬ神徳を有していることを伝えています。  
「伊豆山略縁起」は、「山中の秘所は、八穴の幽道を開き、洞裏の霊泉は、四種の宿痾を愈[いや]し、二六時中に十方[じつはう]の善悪・邪正を裁断し玉ふ事、是権現の御本誓なり」と明記していて、ここでいう「権現」は伊豆権現=走湯権現のことです。  
この「二六時中に十方の善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、早追権現のものでもあり、伊豆権現と早追権現という等質の神徳を有する二つの権現の名がみられることに、伊豆山における権現祭祀の複雑さが象徴的に表れています。これらに、異なった本地仏をあてはめ、さらに複数の眷属神を配し、それらにもさまざまな本地仏をあてはめてゆきますから、その権現祭祀の複雑度はいや増すことになります。  
しかし、伊豆権現と早追権現がもつ「善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、もともとをいえば、空海が自身の「鎮護国家」の思想と密教(「深秘」の「密法」)理念を融合させた必然として、伊豆山祭祀の表層から消去した「神」のものでした。  
この「神」が、地底で(まさに「地主神」ですが)、権現として表現されるときは「早追権現」、地上で(走り湯の)権現として表現されるときは「伊豆権現」または「走湯権現」となるということなのでしょう。  
伊豆山における、空海が伝えた「習合の秘訣」(「伊豆山略縁起」)はたしかに複雑怪奇とさえいえるものですが、少なくとも、伊豆権現と早追権現については、地上地底という明暗の位相における「神」を基体とした上での「権現化」をいったもので、この両権現に秘されている(封印されている)神が異神であるということではありません。 
2  
さて、空海が伊豆山へやってきた弘仁十年(八一九)の記録には、引用において「中略」とした部分に、次のような逸話が挿入されていました(最初の部分から引用します)。  
弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ時、二人の神童現れて曰[いはく]、吾は是権現の王子なり、世澆季[すへ]に及び、人弊漫[へいまん]を懐[いだ]くが故に、権現今神宝を深くをさめんとし玉ふ、和尚[くわしやう]こゝに来る事さいはひなりといひて、秘所八箇の神穴に誘引しければ、大師乃[すなハち]神鏡を赤色[しやくしよく]の九條衣につゝみ(「つゝみ」は当該漢字がなくひらがなにて表示…引用者)、南の窟[いはや]に納め、神体をば東の窟に蔵[をさ]め、法華経二部を書写して、前[さき]の両窟に安置す、こゝにをひて又、宝珠・霊剣を埋[うづ]めて、邪徒を降伏[かうぶく]し、四域を結界し、神窟の前にをひて、心経[しんぎやう]秘鍵[ひけん]を講誦[こうじゆ]し玉ひければ、窟中[くつちう]鳴動すと、云云、〔豪忠記、縁起第三之大意〕、(大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り云々とつづく)  
空海(弘法大師)が「三夜に及ぶ」社殿での「結檀念誦」のとき、「二人の神童」が出現したとされます。彼らは「(伊豆)権現の王子なり」と自己紹介し、空海の来訪を歓迎する旨を述べます。神童たちは「(伊豆)権現今神宝を深くをさめんとし玉ふ」ゆえに、その納品を空海に託すとして、「秘所八箇の神穴」に案内し、空海は、南の窟と東の窟にそれぞれ「神鏡」と「神体」を納め、さらに「法華経二部を書写して」、南・東の両窟に「安置」したとされます。空海はまた、「宝珠・霊剣を埋めて、邪徒を降伏し、四域を結界」し、そこで心経(般若心経)の奥義を講説すると「窟中鳴動す」と書かれ、この逸話は終わります。  
これを空海の夢想譚として読み飛ばすことも可能ですが、しかし、「秘所八箇の神穴」や「南の窟」は、伊豆山のほかの縁起書にも重要な聖域として散見されますので、神童(権現の王子)たちの出現をわざわざ仮装した空海の夢想譚は、それなりに重要な意味があったものとおもわれます。  
たとえば「秘所八箇の神穴」については、「走湯山縁起」第五(の表縁起)が記すところの、「根本地主」の一神「早追権現」が「日々夜々」往来しているとされる日金山(久地良山…伊豆山)地底の「八穴道」のことでしょう。  
「走湯山縁起」第五(の裏縁起)では、龍体が「生身千手千眼也」と明かされたあとに、この「八穴道」がどういうものなのか、具体的に書かれています(以下、筆者読み下しで引用)。  
この山(日金山)は、これ補陀洛山九峯院の内別院、明鏡これなり。この山底に八穴道がある。一路は戸蔵(戸隠)第三重巌穴に通ず、二路は諏訪の湖水に至り、三路は伊勢大神宮に通ず、四路は金峯山上に届き、五路は鎮西阿曽(阿蘇)の湖水に至り、六路は富士山頂に通ず、七路は浅間の巓に至り、八路は摂津州住吉(に通ず)、  
日金山(久地良山…伊豆山)の地底(山底)にある「八穴道」が通じているとされる八所(の聖地)が書かれています。先に、伊豆権現が伊豆山から失踪して籠っていたとされる戸隠山も「戸蔵第三重巌穴」と書かれています。  
ここには、全国の数ある聖地から特にセレクトされたであろう八所が書かれています。これら八所(の聖地)すべてをここで検証することはできませんが、たとえば空海が、自らの密教的聖地として大日如来を習合させた「伊勢大神宮」をみますと、その「根本地主」は、伊豆権現=走湯権現に秘されている(封印されている)神と同神であるとはいえます。戸隠山については先にふれましたが、「諏訪の湖水」をみるなら、ここと通底している伝承をもっているのが遠州の桜ヶ池で、この池神・水神をまつるのが池宮神社(主祭神:瀬織津姫神)です。つまり、「根本地主」の位相にまで降りるならば、伊豆権現(の地主神)と、これら八所(の聖地)の祭祀は、まさに「通底」している可能性があります。  
各地の表層祭祀とは異なる、いわば「根本地主」(神)の祭祀をみようとするとき、この「八穴道」の記載は、途方もないことを示唆しているのかもしれません。「走湯山縁起」第五(の裏縁起)が「深秘」「不可披見」とされる所以は、おそらくここにあるのでしょう。  
さて、空海が神鏡を埋めたとされる日金山中の「南の窟」についてですが、「走湯山縁起」第五(の表縁起)に、「密伝曰」として、「松岳南麓之地底十二丈」に「宮闕之閣」があり、その中心に「七星台」があって、そこに「千手観音」が坐す、すなわち「補陀洛山九峰の別院是也」との記載があります。  
この表縁起の作者(延尋)は、「この一ヶ条は、弘法大師が真済に語る口伝である」と記していて、そういえば裏縁起の「八穴道」云々にしても「已上高雄寺清涼房真済之記也」とありましたから、空海の夢想と密教理念は真済を媒介として「走湯山縁起」に多大の反映をもたらしているようです。  
それにしても、「補陀洛山九峰の別院」は表裏の両縁起に記されていますから、この二つの縁起からみえてくるのは、「根本地主」の一神であり、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非を取捨勘定する「早追権現」(女形)は、その姿態は龍体とも千手観音(「千手千眼」観音)とも表現されていることです。  
延喜四年に記されたという「走湯山縁起」巻第三には、「夢中異人」のお告げとして「吾是走湯権現也、本地千手千眼」とあり、「二六時中に十方の善悪・邪正を裁断し玉ふ」(「伊豆山略縁起」)という神徳をもつ伊豆権現=走湯権現と早追権現は、その神徳ばかりでなく仏の姿態においても共通しています。  
ところで、「根本地主」二神のうち白道明神は「男形」、早追権現は「女形」でした。「走湯山縁起」巻第五(表縁起)は、「権現女体(の)事」の項を設けるも、その本性については「幽玄にして、人、これを知り奉らず」、また本地は「弥陀如来(阿弥陀如来)」だとしていて、ここでは千手観音ではありませんから、読む者を一瞬混乱させます。縁起は、権現が日金山頂にいるとき、嶺の東南に「女体社」を営み、そこに「弥陀如来」を安置し、山頂から「湯浜上」へ降りたとき、頂上の古社檀を「本宮」と号し、女体権現の御在所を「新宮」と呼んだとしています。また、この女体権現は、その形像は天女の如きで、手には天扇をもち、白蓮の花に坐していると、観音を連想させる美化の形容も忘れていません。  
縁起は、つづけて、この女体権現にまつわる不思議な逸話も記しています(筆者読み下しで引用)。  
応和元年辛酉夏、ここに神託ありて、女体、雷電御宮に入御す、その後五箇年を経た康保二年、御本社に還御す、これ皆(女体権現の)神託によりて執行するところなり、  
女体権現がなぜ「雷電御宮」(本社若宮)に入御し、五年後にまたもとの「御本社」にもどったのか、その行為の理由がただ「神託」とされるのみで、もやもやとした話です。しかし、縁起の作者は、「女体、雷電御宮に入御す」のあとの割注で、「走湯権現、早追権現と通い交わるため、その嫉妬云々」と、これも歯切れのわるい注ではあるものの、走湯権現と早追権現の親交に、女体権現が「嫉妬」したらしいことが書かれています。  
ここには、神を神のままにまつらずに、それを権現に置き換え、さらに走湯権現と早追権現というように二様の権現へと分化させ、この二様の権現化に取り残された、元の神(女神)にもっとも近いイメージをもつ女体権現が「嫉妬」をしたとされています。こういった分化分身の発想は、空海が大日如来を二分身化した発想をベースとしています。このように、真言密教には、一つの単体(神)があるがままの姿を封じられ、部外の者には恣意的としかいいようのないものですが、無限分身化の発想があります。その結果、それぞれの分身が独自の存在理由・感情をもつとさえみられることにもなります。ここでは、そういった分身権現が独自の感情をもつと想像されたがゆえに、つまり「三角関係」といってよいのですが、そこに生じた「嫉妬」の感情関係が述べられているようです。  
権現たちの三角関係・嫉妬の話は、根本地主(神)に焦点を定めて読もうとすれば、もともと陰気な封印の上での話となりますから、下世話に笑う気にはなれません。  
ところで、空海の夢想譚には、神窟に「宝珠・霊剣を埋めて、邪徒を降伏」したと書かれていました。伊豆山には「邪徒」がいたことがわかりますが、ここでいう「邪徒」とは、空海の密教理念あるいは鎮護国家の思想に異を唱える者たちをいうのでしょう。もともと、伊豆権現=走湯権現の神体である「円鏡」は「東夷境所」を示現する「神鏡」だとありました。また、伊豆山の最古の縁起書である「走湯山縁起」にしても、その書き出しは、「走湯山は人王十六代応神天皇二年辛卯、東夷相模国唐浜礒部の海辺に三尺余の一円鏡現る」で、走湯権現の神体とされる「円鏡」は、「東夷」ゆかりの「神鏡」でした。  
空海が「邪徒」とみなした人々は、もともと「東夷」であったゆえに、「勅命」を奉じた空海は、王化のための仏法をもって教え諭す必要があったのでしょう。これは、いいかえれば、伊豆権現=走湯権現に封印されている「神」は、「邪徒」「東夷」の人々が信奉する神でもあったことを示唆しています。この鏡が「東夷境所」を示現する「神鏡」とされるのは、伊豆山が西からの王化と「東夷」との境界に位置する重要な祭祀場であったゆえとおもわれます。  
空海は、この「邪徒」(「東夷」)を「降伏」するために、神窟に「宝珠・霊剣」を埋めたとされます。この「宝珠・霊剣」をもつ女神の神像を有するのが北海道の滝廼神社や川濯神社ですが、両社ともに、遠野・伊豆神社と同神(瀬織津姫命)をまつっているというのは偶然とはいえないはずです(写真:滝廼神社神像、中心の女神像の両手の持ち物を参照ください)。  
伊豆山の根本縁起(最古の縁起)が「走湯山縁起」なのですが、その表題は伊豆山ではなく走湯山としていて、この「走湯」、つまり「走り湯」こそが伊豆山祭祀の要諦にある聖域観念、いいかえれば絶対神域の観念かとおもわれます。  
これまでにみてきたところでいっても、「根本地主」早追権現の龍体を述べたときのことば、つまり、尾は「筥根(箱根)之湖水」(芦ノ湖)にあるとするも、頭は「日金嶺之地底温泉沸所」にあるとされていました。この「温泉沸所」に龍体(地主神)の頭があるという観念[イメージ]に「走り湯」という神聖観念の淵源があります。  
この「走湯[はしりゆ]」(の神)に、もっとも親近・崇敬の感情をもって相対したのは、空海が伊豆山に「勅命」でやってくる弘仁時代の百年以上前、文武三年(六九九)、空海の立場とはまるで対極的ですが、伊豆(大島)に「配流」(島流し)されてやってきた役小角(役行者)でした。 
3  
走湯権現の「走湯」については、これは読んで字のごとくで、まさに「走り湯」という湯水の勢いよく流れるさまを表したことばです。『伊豆国風土記』(逸文)の「走湯[はしりゆ]」の記載を読んでみます。  
普通尋常の出湯[いでゆ]ではない。昼のあいだに二度、山岸の岩屋の中に火焔がさかんに起こって温泉を出し、燐光がひどく烈しい。沸く湯をぬるくして、樋をもって浴槽に入れる。身を浸せば諸病はことごとくなおる。  
わたしもこの「岩屋」の洞窟の中に入ってみたことがありますが、その地熱と蒸気で、噴出口の写真はうまく撮れませんでした(写真1)。この走り湯はかつては「滝」となって熱海の海に落下していましたから(古絵図には「瀧湯」として描かれる)、走湯の霊神は滝神でもあります。  
文武三年(六九九)、「妖言」の罪で伊豆(大島)に「配流」(島流し)されてやってきた役小角(役行者)でした。「伊豆山略縁起」は、次のように描写しています。  
四十三代文武天皇三年戊戌、役行者、当国大嶋に配流の時、此山の巓[いただき]、常に五彩の瑞雲たなびくを遙[はるか]に見て、霊神の在[います]ことを知り、其年竊[ひそか]に此磯部に渡り来て、まづ霊湯に浴せんとしけるに、波底より金色八葉の蓮華湧出し、千手千眼の尊像、其中台に坐し玉ひ、菩薩天仙囲繞せり、又波間に金文の一偈[げ]浮び現れぬ、其偈に曰[いハく]、  
無垢霊湯 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄  
行者、此文[もん]を感得し、諸[もろもろ]の法を聴聞して、瑞喜[ずいき]に堪[たへ]ず、権現を崇尊し、三仙斗藪[とさう]の旧典を慕ひ、修歴遍路しければ、是を当山第四祖とす、〔行者、初到之地建草堂祀之、寛政中遷於下之檀上〕、此偈の意[こゝろ]をいはゞ、無垢霊湯ハ清浄の義、大悲心水は誓水のこゝろ、されば眼耳鼻舌身意[げんにびぜつしんゐ]の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽[ことごと]く消滅し、心の底までも垢を除くの謂[いはれ]あり、豈[あに]身にある病をや、況[ま]して深信[じんしん]の輩[ともがら]、いかなる三業の病にても、容易[たやすく]除愈[じよゆ]せざらんや、走湯[はしりゆ]の古歌数多[あまた]あり、鎌倉右大臣の歌に、  
玉葉集  伊豆の国山の南にいつる湯のはやきは神の験[しるし]なりけり  
金槐集  はしりゆの神とはむべもいひけらし早きしるしのあれば也けり  
役小角が感得した「金文の一偈[げ]」については、この走湯は無垢霊湯の誓水(「大悲心水」)で、「眼耳鼻舌身意の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽く消滅し、心の底までも垢を除く」という縁起の作者の解釈はそのとおりでしょう。  
小角は「(走湯)権現を崇尊」し、この権現が宿る、あるいは司る「霊湯」は、すべての罪滅と心身の清浄化を果たすものだと、「偈」に込めたようです。この罪滅清浄を神道的にいいかえれば、すなわち禊祓[みそぎはらえ]となり、走湯の霊神、あるいは走湯権現(の性格)を、小角はぶれることなく理解していたようです。  
なお、役行者は走湯山の「第四祖」とされていました。ちなみに、第一祖は松葉仙人、第二祖は木生仙人、第三祖は金地仙人、第五祖は弘法大師(空海)とされます。  
「走湯山之記」は、走湯山には「八またのおろち」がいて、役小角が「金杵」で「おろちをつたつた(ずたずた)」にしたあと「磐石」にて地下に封印したとする逸話を「偈」の話に加えています。スサノヲと役小角がだぶる話ですが、この「おろち」は、走湯山の地主神の龍体(大龍)をいったもので、出雲においても同じことなのでしょう。  
役小角による「八またのおろち」退治譚のあとには、次のように書かれています。  
是よりさきに松葉・木生・金地とて、ミたりの仙人次第に来り、御やつことなりて、数百年有しか、後には皆脱体羽化せしかは、人のめにこそ見えねとも、定て今も猶此山に徘徊して、神にミやつかへ奉らんかし、しかれは此小角を、第四代の別当とす、其後弘法大師詣て給ふに、御神現形ましまして、妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ  
万治二年に松軒なる人物の手になる「走湯山之記」ですが、この記載を信じるならば、役小角の時代までは、走湯山(伊豆山)には大きな祭祀変動はなかったようです。伊豆の「御神」に、「妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ」た空海でした。空海によって、一方的な「神道の深秘、仏法の奥儀」を「かたみ」に授けられ封じられた神こそ、役小角の時代までは健在であった走湯(伊豆)の霊神(御神)だったとおもわれます。  
「走湯山之記」は、「(走湯)権現を崇尊」していた役小角の心を後世に残そうとしたのでしょう。次のような文面もみられます。  
彼偈(役小角の偈)を見れは、此湯(走湯)ハ、薩埵の大慈・大悲のミちあふるゝ所より流出くる瀧なれは、一たひゆあひかミあらふものは、うちつけに身もつよく心もすくやかに成て、諸病立ところに愈、後の世ハ無始劫来のつみとか、うたかたとともに消て、南方無垢世界に生ん事、疑あるへからす、かほと妙なる霊験をしる人、稀に成ぬれは、あはれ此文を瀧殿にかけて、普参詣のともからにしめさまほしき事也、  
走湯の「瀧」は、諸病に効き、過去の一切の罪咎(「無始劫来のつみとか」)を消す、それほどの稀にみる霊験をもつとされます。松軒はまた「はやきハ神のしるしそと、音に聞へし走湯の瀧津流」とも書いていて、「走湯の瀧」は、罪滅浄化(禊祓)に顕著な霊験を有しているのでした。  
この罪滅浄化(禊祓)に関わる走湯権現あるいは滝神をいうなら、空海以前に遠野郷へやってきた伊豆権現(瀬織津姫命)をおいてほかにありません。  
「伊豆山略縁起」における「善悪・邪正を裁断し玉ふ」神を考えましても、「糺の弁天さん」の親称をもってまつられる、いわば正邪を糺す神として瀬織津姫の名を確認できますし(京都・下鴨神社の井上社=御手洗社)、さらに、『古事記』允恭天皇条に記載の、古代の真偽裁判法「盟神探湯[くがたち]」を司る神が「言八十禍津日」の神であったことを挙げてもよいです(八十禍津日神は瀬織津姫神の貶称神名)。  
『伊豆国風土記』(逸文)は、「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」としていました。この風土記がいつの時点の成書かは不明ですが、ここで「祭る」といっているのは、それまでの神に代えて「新たに祭る」ということで、これは、伊豆山祭祀に朝廷の力が暗に行使されたことを表すものとも読めます。  
風土記に天忍穂耳尊ではなく「瓊瓊杵尊の荒神魂」と書かれていたことは、縁起を神道的に解釈・書き直しをしようとする者たちにとっては、かなり難儀な創作・改稿となっただろうことが想像されます。  
空海以前の走湯神・伊豆御神の神徳の残像は、これまでみてきたように、縁起の全体からすべて消し去ることは不可能でした。縁起において罪滅浄化(禊祓)の神徳が強調されるとき、その上で祭神が忍穂耳尊や瓊瓊杵尊とされることになりますと、これはとても理にあわない、不自然なことになります。  
『神道体系』神社編二十一は「走湯山秘訣氏人上首一人外不口伝」上・下(以下「秘訣」と略称)という秘伝書も収録しています。これは、空海の影響下につくられた各縁起とは一線を画すもので、伊豆山祭祀に携わってきた地元の「氏人上首」ならではの伊豆権現への思いがぎりぎりの表現となって書かれています。  
記紀神話では、月神はツクヨミ(月読)とされますが、「秘訣」では、日神と並ぶ月神は天忍穂耳尊で、この神は湯の泉を「家」とし、月の鏡を「心」としているとされます。日神・天照大神は「国の皇主」、月神・天忍穂耳尊は「くにの政主」と役割が異なることが記されるも、日月が相並ぶとすれば、天照大神と天忍穂耳尊とが同格となります。「秘訣」上巻の作者は、「みつ(水)はもと月の精なり、火はもと日の精なり」として「水火和合」の思想を説いてもいます。記紀神話を念頭においてこれを読みますと、かなり不自然な話となりますが、天忍穂耳尊を仮に伊豆本来の神(瀬織津姫神)に置き換えて読んでみるなら、ここで述べられている月神のこと、また水火和合の思想はじゅうぶんに肯定できる内容です。「秘訣」の語りの主体は、月神の子である月光童子とされます。なお、月神は天忍穂耳尊でしたから、その子神・月光童子は瓊瓊杵尊ということになります。  
以上は、後半が「白紙」となっている上巻の概要ですが、この文書の真骨頂はどうやら下巻にあります。  
月光童子は、氏人の祖とされる日精・月精とともに久地良山(伊豆山の古名)巡りをするのですが、「久地良の山の巌窟」に入ってゆくと、そこには「みかつくのとの(三日月の殿)」と「みつ葉の殿」があり、前者には「御とし五十あまり」の謎の男神がいて、後者には「御とし四十路あまり」の「女体すまゐたまへり」とされます。  
「秘訣」は、男神にはあまり関心がないようで年齢にふれるのみですが、この女体神については「十五はしらの神子」を従え、「世の政治、人のよしあしき法をのへたまふ、またいつくしみ、にくみすへき則をのへ給ふ」としています。この神徳は、先にみたところでいえば、地底における早追権現、および、地上における伊豆権現のそれでもあります。つまり、この謎の女体神は、早追権現・伊豆権現・走湯権現が共通して秘めている神と、等質の神徳をもっていることになります。  
また、日金山(久地良山)の地底には、千の鱗に千の「明眼」をもつ「生身千手千眼」の大龍がいるとされていましたが(「走湯山縁起」第五の裏縁起)、「秘訣」においては「その身に千々のいろこ(うろこ)あり、いろこにしなしなの絵あり、耳・鼻・眼・口より湯の瀧なかる(流る)」と描写されます。走湯の湯瀧の根源が久地良山(伊豆山)の地下にあることを、ここでも述べたものでしょう。  
この「秘訣」の巻末は、「日精・月精の氏人と共に、権現をかしつきたてまつる、これは氏人の中に、上首一人はかり、面授口伝すへし、筆のあとにもとゝめさるならひことなり、ゆめゆめしらすへからす」と閉じられます。ここで「かしつきたてまつ」られている「権現」は女体神(伊豆山の本源神)ですが、ではこの女神の名は何かといえば、それは「面授口伝」すべきもので、筆の跡にも留めることはない、つまり、書き残すことはしてはならないとのことです。「走湯山秘訣」の絶対的秘伝性は、ここに極まるといえます。明治期「祭神之事、古来一定仕ラス」とされた理由は、この「面授口伝」の絶対的秘伝性にあったのでした。  
さて、「配流」という罪人の立場でありながら走湯の霊神(面授口伝の秘神)を尊崇した役小角と、「勅命」を奉じ「神道の深秘、仏法の奥儀」によって走湯の霊神を封印した空海は、あまりに鮮明な対極関係にあったようです。  
『日本霊異記』によれば、小角は、昼は伊豆にいるものの、夜には富士山で修行したとされます。「走湯山縁起」第五(の裏縁起)は、伊豆山(日金山)の「八穴道」の一路が通じている聖地として富士山頂を挙げていました(「六路は富士山頂に通ず」)。  
役小角は、飛行の仙術を駆使して伊豆から富士山へ通っていたのではなく、この「八穴道」の一路を通って富士山頂へ出かけていたのではないか──と、そんな想像もできなくはありません。あるいは、伊豆山の地主神(走湯の霊神)とともに、地底を疾走する小角さえイメージできそうです。  
富士山頂には、富士山の天女がいて、伊豆山には、天扇をもつ天女(女体権現)がいて、さて、これらの天女神は、はたして異神であったかどうかという問いがやはり残りそうです。 
伊豆権現と善光寺如来  
天平元年(七二九)、東国に疫病が蔓延したとき、伊豆権現の神威では病から人々を救う術[すべ]がないとして、ピンチヒッターのごとくに伊豆山に勧請された白山神(白山権現)でした。「伊豆国伊豆御宮伊豆大権現略縁起」(通称「伊豆山略縁起」、『神道体系』神社編二十一所収)の作者は、このとき、伊豆権現は信州に「臨幸」していて伊豆山にはいなかったと割注していました。では、伊豆権現は何をしに信州に出向いていたのか、あるいは、伊豆山を留守にしていた伊豆権現とはなんだったのかという問い・関心も湧いてきます。  
「伊豆山略縁起」(元書は「走湯山縁起」)は、伊豆権現の事蹟をほぼ編年で記述するといった編集方法で編まれています。天平元年からすれば十九年ほどさかのぼりますが、ここに伊豆山からいなくなった伊豆権現の逸話が記されています。  
四十三代元明天皇和銅三年庚戌二月、社殿震動し、扉自ら開け、神鋒・霊鏡雲に入り、北方をさして飛去[とびさり]しかば、神部・僧侶驚愕して精誠懇祈せし時、神あり託していはく、我は是地主白道明神なり、権現善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふが故に、戸隠山に幸[みゆき]し玉ふ、固[もと]是当山の人、信力薄きが致す処なり、我[わが]力の能く留[とゝむ]る処にあらずと、云々、爾来四十余年の間、山中草木萎爾[いし]し、霊湯涸竭[こかつ]して、烟気[ゑんき]をも挙[あげ]ずと、云々、  
和銅三年(七一〇)二月、権現(伊豆権現)は、「当山の人、信力薄き」を理由に、伊豆山から信州の戸隠山に移ってしまったといいます。その不在時間は「四十余年」とあり、この間、「三業の病」にも霊験あらたかであった走湯[はしりゆ]の霊湯は涸れ、湯煙も立つことはなかったとされます。東国の疫病は天平元年(七二九)のことで、このとき、なるほど伊豆山には走湯権現=伊豆権現はいませんでした。白山神(白山権現)は、本来の伊豆権現と等格の神威をもつ神で、ゆえに代替が可能との判断(神託)がなされたのでしょう。  
伊豆権現が伊豆山からいなくなったことを、権現になりかわって託宣した「地主白道明神」とはどういう神なのか、また、伊豆権現との関係はどうなっているのかがはっきりしませんが、それは今はおくとして、伊豆権現は、「四十余年」もの長きにわたって伊豆山に不在をつづけるも、けっきょくは帰ってくることになります。「伊豆山略縁起」のいうところを読んでみます。  
其後四十六代孝謙天皇天平勝宝元年己丑十一月、山中鳴動し、林樹花開き、温湯本[もと]乃[の]如く湧出、霊鏡・神鋒飛[とび]帰りて、復[また]宝殿に入らせ玉ひ、託しての玉はく、我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり、今大菩薩京師に入り玉ふ、我亦行[ゆき]て、大菩薩に謁せんと欲す、汝等宜しく神鏡・宝鋒を捧げ、都に到るべしと、云々  
天平勝宝元年(七四九)十一月、伊豆権現は「四十余年」(正確には三九年)ぶりに伊豆山に帰ってきたようです。この帰還時の託宣は伊豆権現のもので、「我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり」と、ここでは善光寺如来ではなく八幡大菩薩との「宝契」が語られます。それも「鎮護国家」のためとされます。  
また、「今(八幡)大菩薩京師に入り玉ふ」とあり、これは、八幡大菩薩がはるばる九州の宇佐から東大寺大仏の完成式典のために入京してくることを指しています。ただし、『続日本紀』は、八幡大菩薩ではなく八幡大神と比盗_の二神の入京としています。伊豆権現にとっては、「比盗_」の存在は不問に付して、八幡大神すなわち八幡大菩薩との「宝契」関係こそが大事なのでしょう。  
伊豆権現の伊豆山への帰還は、当地の人々による「信力薄き」が厚くなったからだとはされておらず、ただ八幡大菩薩との「宝契」として語られる「鎮護国家」を帰還の動機としているようです。伊豆権現の伊豆山からの失踪の動機と帰還のそれとが微妙にずれていることからいえるのは、一言でいえばですが、「四十余年」の間に、伊豆権現の信仰・思想的な「転向」があったということでしょうか。厳密にいえば、伊豆権現の祭祀者自身の「転向」があったことの反映として、この託宣のことばはあるようにみえます。  
藤原不比等が右大臣に就任するのは和銅元年(七〇八)のことで、これは元明が天皇位に就くのが前年七月のことでしたから、二人は同じ時期に朝廷の最高位の舞台に立ったといってよいでしょう。不比等が亡くなるのは元正天皇養老四年(七二〇)で、元明・元正両女帝の背後で、つまり和銅から養老時代にかけて、朝廷の政治と祭祀に対する実質的権力を掌握していたのは藤原不比等だったといえます。  
この時代、不比等が各地の神社祭祀に少なからず干渉の手を差し向けていたことはいくつか事例が報告されています(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。「当山の人、信力薄き」と託宣された和銅三年(七一〇)も、そういった不比等の時代にあたっています。白山が泰澄によって、その祭祀が仏教化の名の下に秘祭化されたのは養老元年(七一七)で、また、その山頂の瀬織津姫神は勅使出迎えの川濯神へと降格され、白山における大祓の神事がはじまったのも養老時代でした(岐阜県・白山史料にみる瀬織津姫神【下】の項を参照)。  
伊豆山においても、朝廷からの祭祀干渉があったはずで、それを不本意にも受け容れた氏人が大勢を占めたとき、当山の人々の「信力」が薄くなったと、伊豆権現を嘆かせたのではなかったのでしょうか。  
ところで、伊豆権現と「深く度生の悲願を契り玉ふ」とされた善光寺如来(阿弥陀如来)ですが、勅撰和歌集『玉葉集』(一三一二)に、「善光寺阿弥陀如来の御歌」として、次のような意味深長な一首が収録されています(長野市教育会『善光寺小誌』昭和五年)。  
伊勢の海の清き渚[なぎさ]はさもあらばあれ我は濁れる水に宿らむ  
清濁の対比において、善光寺如来が「伊勢」と反面的に関係する仏であることがよく伝わってくる歌です。善光寺如来は、「我」は濁世にあって(濁れる水に宿って)、衆生を救わんといった歌意かとおもいます。伊豆権現が「善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふ」とされるのも、この歌の意を共有するものでしょう。  
善光寺阿弥陀如来は絶対秘仏とのことで、衆生が拝めるように前立仏(本尊のコピー仏)がつくられていますが、寛文時代に、この前立仏にちなんだ「新仏御詠歌」もつくられ、そこには、『玉葉集』の歌を本歌取りした、次のような歌もあります(善光寺史研究会『善光寺史研究』大正十一年)。  
五十鈴川きよき流れはさもあらばあれ我は濁れる水に宿らん  
前歌の「伊勢の海の清き渚」を「五十鈴川きよき流れ」といいかえ、善光寺如来が宿る「濁れる水」を伊勢の五十鈴川の清き流れに対比させています。五十鈴川の清き流れに沿ってまつられているのが伊勢神宮(内宮)で、そこに宿る神(皇祖神)は、あくまで「清き渚」「きよき流れ」、つまり清浄なる空間にいる、しかし「我は濁れる水に宿らむ」というのが善光寺如来の歌です。伊勢の地を皇祖神(アマテラス)に譲り、自身は善光寺如来として生きようとする伊勢の地神の歌といってもよさそうです。  
善光寺の年中行事をみてみると、「盂蘭盆[うらぼん]六月祓」という盆の行事があって、寺にしては奇妙な行事をしていることがわかります。『善光寺小誌』は、同行事を「六月三十一日[ママ]夜参詣通夜夥し(焼餅道者と云ふ)。妻戸鼓鐘打ち礼堂百万遍念仏数珠廻し行ふ。旧事記三宝記等に六月祓とす。翌日大施餓鬼会行ふ」と記していて、善光寺には明らかに「六月祓」の神、つまり、瀬織津姫神がいます。  
また、善光寺本覚院境内にある阿闍梨[あじゃり]池は今は小さな池跡しかみられませんが(写真1)、この池は遠州の桜ヶ池と通底しているとされます(写真2・3)。この桜ヶ池の神(現在の池宮神社主祭神)は瀬織津姫神で、この神と善光寺の関係はかなり深いものとおもわれます。  
ところで、善光寺・阿弥陀如来の「奥之院」は駒形嶽駒弓神社とされ、ここは水内[みのち]神社の「奥社」でもありました(写真4〜6)。小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』(岡谷書店)は、この善光寺「奥之院」の社について、次のように述べています。  
長野市の上松には駒形嶽駒弓神社という社があり、村人の口碑によればこの社は、「昔、水内神社の祝詞殿より裏、正北方の森々たる樹木立の中にあって奥社であったが後世仏教盛んなるに及んで善光寺仏によって水内神は湮滅せり」といい、しかし「現在でも善光寺へ参詣の砌、如来の奥之院なりしとて当社へ参詣する者絶えず、如来堂裏、年越宮に飾る所の注連を本社境内に持ち来り、旧暦二月一日を以て焼き捨てるの例あり」と。この神社は、字駒形嶽にあり、祭神に建御名方富命、彦神別神、相殿に保食命を祀るとしている。尚注連を交番に焼く十五防[坊]は往昔水内神社の神官であったともいう。いわば駒形神社は仏教以前からの社であったというのであろう。  
善光寺如来の祭祀がはじまる前の地主神として、水内神、つまり駒形嶽駒弓神(駒形神)の祭祀があったとされます。また、『善光寺小誌』は、この駒形嶽駒弓神(駒形神)は八幡神であるとの伝承も記していて、現祭神との整合性は成り立ちませんが、しかし、遠野郷においては、早池峰大神つまり瀬織津姫神は「早池峰山駒形大神」でもあり(写真7)、また、八幡神にしても、その男神ではなく比盗_(比売神)とみるならば、それは瀬織津姫神のこととして伝える文書(棟札)もすでに確認されていて、いずれにしても、善光寺如来背後の神、あるいは、引用の歌が象徴していますが、この如来と習合している神は伊勢ゆかりの神とみられます。  
伊豆権現が善光寺如来と衆生済度の悲願を共有するのは、遠野の伝承が訴えているように、伊豆権現もまた、瀬織津姫神を秘めているからなのでしょう。  
「伊豆山略縁起」は、「権現善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふが故に、戸隠山に幸[みゆき]し玉ふ」と記していて、善光寺如来(に秘められた神)と戸隠山とが深いつながりにあることを示唆しています。  
戸隠神社の主祭神は「天手力男命」ですが、善光寺の地主神・水内神が本来の戸隠神とみられます。奥社境内には九頭竜社(祭神:九頭竜大神)がまつられ、この神が「地主神」と表示されています。この九頭竜神は水神・水源神といわれ、白山においては、泰澄が白山主尊・十一面観音を感得・念出する前に出現したとされる神でもあり、いわば、白山神の変相神あるいは眷属神でもあります。  
伊豆山を一度捨てた伊豆権現は、その「幸[みゆき]」先の善光寺如来ゆかりの戸隠山においては、旧知の白山および善光寺の地主神と再会(自己再会)し、それぞれが共通して置かれた歴史の不条理をともに語らうことをしていたのではないかなどと想像されてもきます。  
円空歌に、この戸隠山を詠んだ一首があります。  
ちわやふる天岩戸をひきあけて権にそかわる戸蔵の神(歌番五六一)  
(ちはやふる天岩戸を引きあけて権[かり]にぞ代わる戸隠[とがくし]の神)  
天岩戸神話は記紀神話の一節として描かれています。重い岩戸を引きあけて天照大神を引っ張り出したとされる天手力男神ですが、この歌から、天手力男神を信濃国の戸隠神とみなすという祭神の通説化が、円空の時代(江戸時代初期)にはすでに定着していたことがわかります。しかし、円空は、天岩戸から出てきた天照大神と戸隠神は仮に(「権に」)入れ替わったのだと詠んでいて、つまりは、アマテラスに代わって天岩戸に本来の戸隠神が封じられているというのが円空の認識だったようです。 
鴨江寺 / 静岡県浜松市中区鴨江  
鴨江観音、正しくは「高野山真言宗甲江山 鴨江寺」と申し、その創建は遠く奈良朝時代に遡ります。  
奈良時代 / 開山行基菩薩と芋堀長者 今から千三百年ほど前、遠州地方の民話で知られる芋堀長者が観音堂を建てたいと願っております時、(奈良の高僧)行基菩薩様が東国へ来られました。長者は菩薩に文武天皇の勅願所として観音堂を建てる事を願いでました。大宝二年六月十八日ついに帝の特許があり、一夜の内に用材が曳馬の里に信水に乗じて集まったと云われています。その後、工事は順調に進み七堂伽藍輪奐の美をなしたそうです。これが鴨江寺創建の因縁であります(今でも鴨江町一帯を長者平(ちょうじゃびら)と土地の人が呼んでいるそうですが、これは芋堀長者のことを指しているとということです)  
平安時代 / 戒壇のこと 平安時代は、鴨江寺に三百余の寺々があり勅許を得ずに戒壇を作り殷盛でした。このため比叡の僧と戒壇のことで争い戦をしたと伝えられています。現在も戒壇塚とか鎧塚とか血塚とかいう処が残っています。一説には、「長暦年間、鴨江寺が朝廷に願い出たが、比叡の僧がこれを邪魔をした」と云われ、また、承保の頃には大江匡房の兄頼豪阿闍梨が鴨江寺に三味耶戒壇を作ることを朝廷に願い出たが比叡の僧の邪魔によりこれが成らず、頼豪は憤死、その跡を戒壇と云う」とも云われています。 
 
長野県

 

●仏法紹隆寺 / 長野県諏訪市  
弘法大師 大同元年(806)- 道場草創  
当山は大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麿が諏訪大明神へ戦勝報告の際に、「神宮寺」と共に開基されたと伝わります。その後、弘法大師空海和尚により、「神宮寺」を真言宗流布の寺(真言宗をひろめる寺)とし、当山を「真言宗の学問の道場」と草創され、信州・甲州にわたる田舎本山となりました。開山当初より天正年中まで諏訪大社社務(別当)という役職を務めるとともに真言宗の常法談林所という、真言宗の修行と学問の道場を務めました。江戸時代には諏訪高島藩の祈願寺を務めました。  
天正時代には諏訪市四賀桑原寺家の地に仏法寺の伽藍が建立されておりましたが、第十一世尊朝法印代に、当山鎮守足長明神の「この山崩落せん」との神勅を受け、桑原地頭屋敷・諏訪大祝屋敷跡と伝わる現在の地に移りました。その時尊朝法印、当山山中に仏法僧鳥の声を聴き、また仏法の紹隆を願い「仏法紹隆寺」と改号いたしました。 
●元善光寺 / 長野県飯田市市場  
弘法大師 修行  
弘法大師はここでも修行したと伝えられる。  
●如法寺 観音堂 [別称・大悲閣 観音堂] / 長野県中野市大字中野字観音平  
弘法大師 開基  
長野県中野市にある東山公園内に、弘法大師空海に縁のある如法寺(にょほうじ)がある。西側を向いた斜面に沿って、石畳を登っていくといくつかの堂宇にたどり着く。一つ目の弘法堂もなかなかの趣だが、そのすぐ上の斜面にも、迫り出すように立てられていたのが観音堂だった。 
如法寺2  
真言宗智山派で、弘法大師が千手観音を安置したことがはじまりと伝えられています。京都の清水寺で見られる懸崖造です。如法寺観音堂は中野市指定有形文化財に指定されています。 
●中禅寺 / 長野県上田市 
弘法大師 天長年間 創建 
中禅寺の創建は天長年間(824〜34)空海が雨乞いの祈祷をする為に草庵を結んだのが始まりと伝えられています。  
その後、源頼朝、塩田北条氏などに庇護され寺運が隆盛したとも伝えられていますが永享年間(1429〜41)、寛文5年(1665)、享保5年(1720)と火災にあい多くの堂宇、寺宝、記録などを焼失し詳細は不明な点が多いとされています。享保19年(1734)に祐精法印が中興開山し現在の本堂を建立しています。  
中禅寺2  
空海によって開かれたという真言宗の古刹。創建は、再度の火災のため多くの記録も焼失したため不明だが、現在の建物は享保19年(1734)に建立された。この寺での見所は国指定重要文化財に指定されている「薬師堂」と同じ重要文化財の「薬師如来座像」だ。  
薬師堂は藤原時代の阿弥陀堂形式で建造されたもので、鎌倉時代初期に建立されたと推定されている。重厚な茅葺き屋根は寄せ棟で、堂内の中央には四天柱があり、本尊が安置されている。この古い形式による建物は、長野県はもちろん、中部地方でも最古の御堂である。また薬師如来座像はカツラ材・寄木造りの仏像。四天王にかこまれた古式に台座に座っている平安末期の作品という。
●小菅神社 [小菅山元隆寺] / 長野県飯山市  
役小角(えんのおづの)白鳳8年(680) 開山 > 弘法大師参拝  
小菅神社は、明治時代の神仏分離まで、新義真言宗に属する小菅山元隆寺(こすげざんがんりゅうじ)といい、かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇りました。創建の由来は定かになっていませんが、来由記によると、仏法を広めるのに相応しい地を求めて諸国を巡っていた修験道の祖・役小角(えんのおづの)が小菅山に出合い、白鳳8(680)年に小菅山を開山し、大同年間(806〜810)に坂上田村麻呂がこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂を再建したほか、修験寺院・小菅山元隆寺を創建。これが小菅神社の起源とされています。小菅権現(摩多羅神)を祀り、さらに熊野、金峰(吉野)、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七柱の神々を観請して、八所の宮殿を石窟内に祀ったという記述が残されています。また平安時代後期には、本地垂迹思想が定着し、熊野修験が入り込んで、小菅山の確立に寄与しました。  
その後鎌倉時代に入り、南北朝時代の始まりころまでには、小菅一帯は、南朝の高梨氏勢力と北朝の市河氏勢力に接し、南朝党の高梨氏が逆撃を受けて小菅にて惨敗。以後、室町幕府の支配が安定すると共に、小菅山は修験霊場としての隆盛期を迎え、4年の歳月をかけた元隆寺の宮社坊中寺観の再建、奥社内の宮殿の建立や、桐竹鳳凰文透彫奥社脇立二面が制作されています。つまり、室町時代までは小菅山では造営が営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったと考えられています。  
御座石 役行者や弘法大師が参拝の折に座ったという「御座石」。小さなくぼみがひとつあり、持っていた杖の先がめり込んだものと言われている。ここまでの参道の途中には坂上田村麻呂が再建したという加耶吉利(かやきり)堂跡がある。  
小菅神社は縁結びの神!?  
歴史ある小菅にはさまざまな言い伝えや里物語が残っていますが、そのひとつが「縁結び」。  
ある日、加賀の殿様が小菅神社に参拝に訪れた際、美しい娘に一目惚れし、嫁にもらいました。しばらくすると玉のような子どもを授かり、殿様はたいそう喜んで「これは馬頭観音のお陰である」として、安産の礼に大般若経六百巻を寄贈しました。それ以来、小菅神社は縁結びの神様として、地域の人たちの崇拝を受けるようになり、また小菅神社に参拝すると嫁の口がある、と評判になって、特に女性の参拝者が多くなったそうです。実際に、参道の途中には、弘法大師・空海も歩き、橋を渡ると幸せが叶うという「夢のかよひ橋」や、恋愛成就をかなえるという愛染明王が祀られている「愛染岩」があります。 
小菅神社2 
小菅神社は、明治時代の神仏分離まで、新義真言宗に属する小菅山元隆寺(こすげざんがんりゅうじ)といい、かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇りました。創建の由来は定かになっていませんが、来由記によると、仏法を広めるのに相応しい地を求めて諸国を巡っていた修験道の祖・役小角(えんのおづの)が小菅山に出合い、白鳳8(680)年に小菅山を開山し、大同年間(806〜810年)に坂上田村麻呂がこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂を再建したほか、修験寺院・小菅山元隆寺を創建。これが小菅神社の起源とされています。小菅権現(摩多羅神)を祀り、さらに熊野、金峰(吉野)、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七柱の神々を観請して、八所の宮殿を石窟内に祀ったという記述が残されています。また平安時代後期には、本地垂迹思想が定着し、熊野修験が入り込んで、小菅山の確立に寄与しました。  
その後鎌倉時代に入り、南北朝時代の始まりころまでには、小菅一帯は、南朝の高梨氏勢力と北朝の市河氏勢力に接し、南朝党の高梨氏が逆撃を受けて小菅にて惨敗。以後、室町幕府の支配が安定すると共に、小菅山は修験霊場としての隆盛期を迎え、4年の歳月をかけた元隆寺の宮社坊中寺観の再建、奥社内の宮殿の建立や、桐竹鳳凰文透彫奥社脇立二面が制作されています。つまり、室町時代までは小菅山では造営が営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったと考えられています。  
不動岩 / 弘法大師が登拝の際、筆を投げて岸壁に梵字を書いたとされている。筆を投げた場所には注連縄が張られ、深い沢の向こうに「不動岩」が見える。ほとんど垂直に切り立った不動岩の中腹には不動明王が置かれている。こんなところに重い石造物を運び上げるのも修行だったのだろうか。  
御座石 / 役行者や弘法大師が参拝の折に座ったという「御座石」。小さなくぼみがひとつあり、持っていた杖の先がめり込んだものと言われている。ここまでの参道の途中には坂上田村麻呂が再建したという加耶吉利(かやきり)堂跡がある。  
●小坂観音院 / 長野県岡谷市  
弘法大師 伝説  
観音院由来の御尊像は、漁夫の網により諏訪湖より拾い揚げこの高台に安置し一宇に祀ったと言います。この像は十一面観音で湖水との縁で魚籠(通称ビク)の上に鎮座しこれが観音院の起源であると言われています。永正3(1506)年の作で、中世(室町時代)の仏像であることが分かっています。かつて観音院は諏訪大社の社坊でありましたが、中世諏訪藩主祈願所となり十一面観音の御本尊を中心に、脇立には右に不動明王、左に毘沙門天があります。  
明治4(1871)年新義真言宗醍醐派、明治44(1911)年新義真言宗智山派の公称寺院となり現在に至っています。  
伝説に「弘法大師」空海和尚が今から1200年前に衆生済度のため、当地に来て尊像を拝礼し、庭にビャクシンを植えられたと言われ、観音院のお宝木として現存しています。  
堂宇は、二代諏訪忠澄が寛永21(1644)年に、改造、更に四代諏訪忠虎が正徳5(1715)年に再建しました。古くから諏訪八景鎌倉街道を往来する信者の唯一の祈願所でありました。  
さかのぼれば、諏訪大社の歴史「」諏訪大明神絵詞を執筆した小坂円忠(諏訪円忠)が、鎌倉時代末頃(1330年)観音院の素晴しい風景に憧れ、この地に住居を構え入山し、大進円忠と号し観音院に帰依したとあります。境内には西国33ヶ所の札所に数えられる観音信仰の霊場として石仏が鎮座しています。  
鐘楼は元禄15(1702)年に建立されましたが戦争により供出、現在の梵鐘は昭和24(1949)年に新調され小坂観音院の晩鐘として復活しました。  
作家井上靖の著書「風林火山」の主人公諏訪頼重の一女由布姫は、戦国の世、時の天下を制した甲斐国武将武田信玄の側室となり曰く因縁の末一男勝頼を生み由布姫はこの観音院にて暮らした。  
信玄との憩いの住家でありましたが病のため25歳の若さでこの世を去りました。戦国時代の女性の悲哀を哀れみ、昭和38(1963)年境内森に囲まれた高台に供養塔を建立しました。  
境内には、弘法大師像、釈迦三尊像、本堂には室町時代の作と推測される「びんずる尊」があり、この像をなでると万病が治るという信仰があります。また入口にあるサクラの大木の並木は珍しく、樹齢400〜500年以上と言われています。 
●獨股山 前山寺 / 上田市前山  
弘法大師 弘仁年中(812) 開創  
(とっこざんぜんさんじ) 「未完成の完成塔」と呼ばれる美しい三重の塔があるこの寺は、平安時代に弘法大師が開き、塩田北条氏の祈祷所にもなりました。前山寺並木道立派な黒門の後には、大きなマツやケヤキの巨木の参道並木があります。  
独鈷山麓にある古刹で、本尊は大日如来。間口十間、奥行八間の木造萱葺。弘仁年中(812)空海上人が護摩修行の霊場として開創したと伝えられている。当初古義真言宗として法相、三論両宗を兼ねていたが、元弘年中(1331)讃岐国善通寺より長秀上人が来止し、正法院を現在の地に移し、前山寺を開山したと伝えられる。塩田城の鬼門に位置し、その祈祷寺として、武将の信仰も厚かった。貞享年中(1684〜)鶏足寺を離末し、京都の智積院末となり新義真言宗信州常法談林所として教学の殿堂であった。かつては四十数ヶ寺の末寺をもち、歴史のある寺として知られている。 
前山寺2 
弘法大師が護摩修行の霊場として開いたと言われる信州・上田市の真言宗「前山寺」を訪問しました。前山寺には国の重要文化財に指定されている「三重塔」、石段を登った正面にそびえ建つ。高さ19.5m屋根は柿葺で鎌倉から室町時代の建築様式、何度も解体修復されたそう。二、三層には窓や扉、回廊などなく「未完成の完成の塔」と言われている。周辺には戦場に狩り出されて絵画学生の遺作品を展示した「無言館」や信濃デザイン館などがある。前山寺の境内には季節ごとに花が咲き「花の寺」とも言われている。 
前山寺3 
独鈷山麓にある古刹で、本尊は大日如来。間口十間、奥行八間の木造萱葺。弘仁年中(812)空海上人が護摩修行の霊場として開創したと伝えられている。当初古義真言宗として法相、三論両宗を兼ねていたが、元弘年中(1331)讃岐国善通寺より長秀上人が来止し、正法院を現在の地に移し、前山寺を開山したと伝えられる。塩田城の鬼門に位置し、その祈祷寺として、武将の信仰も厚かった。貞享年中(1684〜)鶏足寺を離末し、京都の智積院末となり新義真言宗信州常法談林所として教学の殿堂であった。かつては四十数ヶ寺の末寺をもち、歴史のある寺として知られている。 
●岩井堂 / 松本市会田  
弘法大師 霊場  
信濃三十三番中第二十番札所で、室町時代の千手観音坐像が安置され、管理は長安寺がしています。周囲の岩山には磨崖仏(まがいぶつ)の地蔵尊や大黒天・百体観音などの石仏があり、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)や弘法大師の霊場と伝えられています。  
磨崖仏 / 岩肌を利用、その岩面に彫られた仏、菩薩像。 
●性徳山 洞光寺 / 松本市刈谷原町  
弘法大師 天長年中(824〜33) 開基  
淳和天皇の天長年中(824〜33)弘法大姉の開基で、自作薬師如来を本尊として安置する。養和年中(1181〜2)木曽義仲北国下向の折、当山へ参拝して、自ら兜を石上に置き戦勝の祈願書を自署して奉納し、倶利伽羅とうにて大勝を得た。今境内に兜石と称している。のち海野小太郎及び刈谷原鷹住根の城主太田弥助等の祈願所となり大いに崇敬された。天文21年(1552)8月10日、上田原合戦のおり、鷹住根落城と共に武田方の兵火により、講堂・庫裡。倉庫等を焼失、本堂の什器等に至っては大半灰燼となった。天正5年(1577)時の住職憲勤は檀信徒の浄財を募りて、ようやく再建された。憲勤は紀州高野山三味院より法流継承して、中興の祖と称されている。江戸時代には善光寺会堂苅谷原宿の近接の寺として栄えた。 
●諏訪大明神上社神宮寺・下社神宮寺  
弘法大師 創建  
諏訪大社というのは近年の呼称で、次の4宮を総称して云う。即ち、諏訪湖北側・霧ヶ峰山塊の西端・明神山麓に鎮座する下社(秋宮と春宮からなる)、諏訪湖南側・赤石山脈最北部の守谷山麓に鎮座する上社(本宮と前宮からなる)で構成され、上社・下社を合わせて信濃国一宮とされる。  
創建は明らかではない。秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として祭祀する。神宮寺は上下社とも、少なくとも鎌倉時代には、成立していたといわれる。(『諏方大明神縁起画詞』には上社の本地仏は普賢菩薩であり、下社の本地仏は千手観音であるとする。)  
上社神宮寺  
諏訪社上宮神宮寺は上宮の東にあった。神宮寺は弘法大師創建と伝え、普賢神変山(真言宗)と号する。神宮寺奥殿は普賢堂であり、この堂は坂上田村麻呂の開創とされ、今の地には空海が移したと伝える。(正応5年<1292>年記の普賢堂棟札写が現存し、本尊普賢菩薩像は四賀の仏法紹隆寺に山門などとともに移されたという)普賢堂北に鐘楼があり、鐘には永仁5年(1297)の銘を有したと云う。五重塔は普賢堂西にあった。塔は知久敦信の建立になり、現存する九輪の破片には延慶元年(1308)の銘がある。  
享保18年(1733)には神宮寺、五重塔、普賢堂、神洞院、如法院などがあり、本宮境内には如法堂、蓮池院などの存在があったとされる。また本宮内陣にあった鉄塔は現在温泉寺に移され、温泉寺には鉄塔安置のために昭和54年多宝塔が建立される。明治元年、神仏分離で神宮寺堂塔は取り壊される。なお五重塔跡や鐘楼跡はほぼ全壊するも、跡地の特定は可能。なお五重塔鉄製伏鉢残欠及び鉄製風鐸が現存する。  
上宮4ヶ寺:大坊(普賢神変山神宮寺)、上ノ坊(如法院)、下ノ坊(蓮池院)、法華寺をいい、その内大坊は8ヶ院坊を支配した。  
下社神宮寺  
下社の別当は海岸孤絶山法性院神宮寺と号する。高野山真言宗。高野山金剛頂院末。本尊は本地仏千手観音。下諏訪秋宮の南一帯に神宮寺・坊舎が展開していたと思われる。  
開山は弘法大師とする。室町期には坊舎30余という。戦国期は荒廃するも、武田信玄永禄7年(1564)以降千手堂再興の寄進をし、天正2年(1574)勝頼代に千手堂が完成、ただちに三重塔が起工されたと云う。千手堂(本地堂)、仁王門、三重塔、弥勒堂、弁財天、貴船社などの堂塔があった。天正年中では8院17坊を数える。  
堂宇の北には本坊があり、神宮寺の管理に与る。千手堂は元治元年(1864)火災で焼失。明治元年神仏分離で三重塔をはじめ神宮寺はすべて棄却される。寛保2年(1742)の記録では、下社神宮寺は、境内門末6院20坊・門末21ケ寺を有する。しかし徐々に衰微し幕末期には、大坊と本覚坊だけになるという。明治維新の神仏分離に際し、神宮寺住職は復職し、神山斎宮と名を改め、諏訪明神の神官に加わるという。  
諏訪大社  
古代・8世紀には日本各国各郡に佛教文化が急速にもたらされたが、この諏訪地方には古代寺院の寺塔を飾った布目瓦が一辺も出土しない。これは古代、諏訪の神威が強く佛教が入り込む余地が無かったということであろうか。  
承久の変(1221)に於いて、上社大祝教信は鎌倉からの要請で出陣し、戦功を上げる。その後、教信は諏訪盛重と改名し、幕府に出仕し、幕府で重責を担う。盛重はまた出家し蓮仏入道と名乗る。これは諏訪の大祝が仏道に入った初めての出来事であり、以降大祝は代々佛教信者であり続けた。つまり中世、諏訪に佛教が怒涛のように入り込む 嚆矢となった。  
中世には上社・下社に神宮寺が作られ、堂塔が整備される。以下はそれを物語るものである。上社神宮寺の確実な史実として、知久氏(下伊那神ノ峰城主)が堂塔を寄進したことが知られる。普賢堂棟札:本願 左衛門尉行性入道 正応5年(1292)、梵鐘銘:永仁5年(1297) 檀那知久左衛門入道行性、五重塔棟札:延慶元年(1308) 神峰城主知久大和守左衛門入道行性 とあると云う。  
関連諸説  
上宮鉄塔(上諏訪温泉寺へ移転)  
鉄塔は嵯峨天皇の勅を奉じ弘法大師が上社に法華経を納め奉納したものとされる。  
上宮神宮寺本尊釈迦仏・脇侍文殊普賢菩薩(四賀村の仏法紹隆寺へ移転)  
仏法紹隆寺 / 諏訪市四賀桑原  
高野山真言宗、大同元年(806)坂上田村麻呂が諏訪明神別当として神宮寺村に開基。弘法大師開山、当時は諏訪大明神の社務を務めると云う。永禄2年<1559>四賀村に移転。明治の神仏分離で、以下の諏訪明神の諸仏が遷される。 
 
御嶽山の信仰  
御嶽山が現在のような登山の形態(修験者、信者、一般登山者)になったのは、次の3人による影響が挙げられます。役小角(えんのおづぬ)、高根道基、W・ウェストン。  
役小角  
大和国、葛木に生まれ、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれています。飛鳥時代から奈良時代まで(634〜706)に実在した人物です。幼少から梵字を書き、15歳では登山を日課としていたと言います。修験道や密教の開祖としても知られ、数々の伝説が残されています。  
役小角は全国各地に修行の場を求めて飛び回り(修験道の霊場である大峰山は役小角を開祖としており、また近畿を中心とした大阪、奈良、滋賀、京都、和歌山には役行者ゆかりの36寺社が存在します)、42代・文武天皇の大宝年間(701〜704)には御嶽山にも登拝したと言われています。  
文献資料が残っているわけではなく、なにぶん伝説の域を出ませんが、このことはのちに大きな影響を及ぼします。つまり、これが50代・桓武天皇の延喜年間(782〜806)に高野山の開祖である弘法大師、空海の御嶽山登拝につながって行くのです。この時期、御嶽山と修験道(密教)との繋がりが出来たものと考えられます。  
高根道基  
信濃国の国司(律令時代の地方官)だった人物。中央から派遣され、一国の民政、裁判を司る存在です。  
信濃国司である高根道基は大宝2(702)年、奥社(王滝頂上)を開きました。これが御嶽神社の創祀であると言われます。  
その後、49代・光仁天皇の宝亀5(774)年、同じく信濃国司の石川朝臣望足が、当時国内に流行した疫病の平癒と退散を祈願するため、黒澤口から登山して神殿を創建、大己貴名命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の奉祀を行いまいた。  
さらに60代・醍醐天皇の延喜年間(901〜923)には、京都北白川の住人、宿衛少将重頼卿が、神恩報謝のために遠路はるばる登拝して神殿を再建しました。80代・高倉天皇の治承年間(1177〜1181)には、国司である木曽権頭兼遠が、その子、今井四郎兼平、樋口次郎兼光などと共に、預かり子である駒王丸(後の木曽義仲)を伴って登山して一族の武運長久を祈ったという史実が残されています。  
現在、御嶽神社では国常立命(くにとこたちのみこと)を加えた3つの神様が祀られており、御嶽山全体を御神体とする見方が一般的です。  
このようにして御嶽山は神道との結びつきを深めていきました。  
W・ウェストン  
本名はウォルター・ウェストン。牧師であり、登山家。イギリス山岳会会員で日本山岳会名誉会員でもあります。日本には宣教師として1888年(明治21年)より3度来日、布教の傍ら日本の山を広く海外に紹介するなど、日本の近代登山の発展に大きく貢献しました。上高地を開山、「日本アルプス」の名付け親としても有名です。  
彼は上高地の開拓者として知られる通り、日本にある数多の山に登ってその魅力を国内外へ紹介してきました。一説には宣教師としての仕事よりも登山に夢中だったため、教会から反感を買ったとも言われています。そんな彼が御嶽山に訪れたのは1894年のことでした。そして、これを契機に一般の登山者が増えはじめ、今日では家族連れや初心者で賑わう山となったのです。  
以上のようにして仏教(修験道)、神社、一般登山が共存することになった御嶽山では、7月下旬から8月初旬までの夏山シーズン最盛期、法螺貝を吹き鳴らす山伏の姿や「六根清浄」を大合唱しながら集団登拝する信者、ツアーで訪れる中高年のグループや家族連れの歓声が入り混じり、たいへん賑わいます。 
善光寺 / 長野県長野市元善町  
日本最古の御仏を祀る善光寺は、日本を代表する霊場であり、法燈連綿として約千四百年の歴史を経て今日に至っております。寺伝によれば、皇極天皇元年(西暦642)に建立されてから十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに全国庶民の如来さまをお慕いする心によって復興され護持されてきました。  
ご本尊「一光三尊阿弥陀如来」さまは、インド・朝鮮半島百済国を経て、欽明天皇十三年(西暦552)日本に渡られた三国伝来の御仏で、秘仏となっております。  
善光寺はいずれの宗派にも属さず、すべての人の往来極楽の門として、また現世の安穏をお与え下さる大慈悲の如来さまがおわす聖地として、広く深い信仰を得ております。 
真楽寺 / 長野県北佐久郡御代田町  
ひときわこんもりとした森に近づき、茅葺き屋根の仁王門をくぐり、うっそうと繁る杉木立の表参道の前に広がる石段を登ると真楽寺の境内。この寺は浅間山麓周辺では最古のもので、用明元年(586)の開山。浅間山の噴火が鎮まるよう祈願のために建立された。境内には長野県の県宝に指定された三重の塔をはじめ 厄除け観音、「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」と刻まれた芭蕉句碑、 樹齢1,000余年の神代杉など香り高い歴史に触れる事ができる。境内西側には、子供の安らかな成長と水子供養のため建てられた高さ20メートルの日本一大きい子育地蔵菩薩が聳え立つ。また山門手前には浅間山の伏流水が湧き出ている大沼池があり、この池より「甲賀三郎」の伝説が生まれそして龍神まつりへと発展していった。  
小沼周辺    
浅間山麓の名刹真楽寺は、俗説によると用明天皇の勅願寺で栄曇という僧が五八六年頃に、浅間山噴火の鎮圧を祈祷して建立したという。創建当時は浅間の中腹上寺場(法印坊)と称する所にあり、これが爆発によって焼失したのですこし下った下寺場(禅定院跡)に移り、更に5百年程して山津波に襲われて、近衛天皇の天養元年(一一四四)に現在地に遷ったと伝えられる。しかし、これについての確実な資料は何一つない。またこれが伝説の域を脱しないことは真楽寺の属する真言宗であるが、これが空海によって伝搬されたのが、用明天皇の御宇を二〇〇年下った大同元年(八〇六)で、高野山金剛峯寺の開基が弘仁七年(八一六)である。始めは他の宗派だったとすると南都六宗のうちの一つだったろうが、当時の仏教がこの地方まで普及する可能性があったものか、甚だ疑問と思わざるを得ない。浅間山の鎮圧祈願のために建てられたというが、爆発の記録が最初に史上に現われるのは「日本書記」中「天武記」に、白鳳一三年三月(六八五)「信濃国灰零草木皆枯」とあるのであって、勿論記録がないからそれ以前に噴火の事実がなかったというのではなかろうが、おそらくあまり活発に活動していなかったろうと想像される。  
この白鳳三年の噴火以降も4百年間程、やはり爆発の資料が残らないところをみると再び比較的平穏な時期が続いたのだろう、醍醐天皇の延喜七年(九〇七)に制定の延喜式に、信濃十六牧が記されており佐久では望月、長倉の両牧と共に塩野牧が含まれているが、広大な浅間の裾野が恰好な放牧場であった。背景には、神秘極まりない火山の噴火に畏れとも戦きとも分ち難い感情を抱いたろう上代人にとって、当時の浅間が静穏であったことが必要とされまいか。東山道は大化の改新以前のものと改新後の延喜官道と呼ばれるものに分けられ、後者は佐久では清水から長倉と浅間山麓を辿って上州に抜けていたという。吉沢好謙の「信濃地名考」(安永二年=一七七三刊)によると、清水駅とおぼしき所を多古のうまやとし、ここと長倉駅の間に沼辺駅なるものがあったと見えて、「沼辺駅発、不詳、浅間山の陽に大沼村、名ありて民家なし、文禄年中村尚存、真楽寺境内に大いなる出水あり沼の名ここに出たるべし、西に乗寄の地名あれば沼辺のうまやの跡なるべし、云々」とあるが、いずれにせよこの東山道が通った近くの地点に、当然塩野牧なり真楽寺が想像されよう。朝貢の馬の産地としての塩野牧が京を結ぶ官道の近くに設けられたこと、そして真楽寺がこの官牧と、ある時期に於てはかなりの間系があったのではなかろうかという疑問も湧いて来よう。延喜式の制定された延喜七年より五十余後の天暦年間に「後撰和歌集」を撰した、源順が著わした「和名類聚鈔」の中には、小沼という地名がすでに記載されているので、真楽寺なり塩野牧なり、あるいは東山道なりとの相関関係に於て、かなりの集落を形成していた事は事実に違いない。塩野牧に由来する地名としては塩野は勿論であるが、牧場の入り口としての馬瀬口、牧場の一端を意味する牧留(小諸市八幡地籍)等のほか、馬場(小沼小学校附近)もこれに関係するだろうし、戻場(馬瀬口地籍字名)も意味がありそうに思われる。  
塩野牧がいつ頃まで存続したかについては、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)のところに「三月十二日、庚寅(中略)又関東御知国々内之貢末済庄云注文被下之、今日到来召下家司等可催促給之由、云々」とあって、すなわち頼朝直轄地における年貢米未済の庄々を挙げて督促しているのだが、その中に左馬寮領の内に塩野牧があるので、かなりの変遷はあったにせよ、当時なお牧の名称が残っていたことが窺える。  
次に真楽寺周辺には、源頼朝の浅間巻狩りに伴う伝説が多い。馬の鞍を掛けたという鞍掛石、手にしていた梅の枝を逆さに差したのがついたという逆さ梅、その時の陣屋跡という城の腰、梶原景平の陣屋があったという梶原城、更に勢揃いのために大勢の将兵が馬で乗り寄せたという乗寄=乗瀬(吉沢好謙の説とは異なるが)、その時に馬が水を飲みたがるので頼朝が持っていた竹の棒を差したら、水が噴き出したという頼朝井等。  
しかし頼朝は、はたしてこの土地へ来たものだろうか。なるほど「吾妻鏡」などによると建久四年(一一九三)三月に、富士の巻狩りに先立って浅間の裾野で狩を催しているが、これは佐久の側ではなくそれらの記録にも三原とある。それに真楽寺が現在地に移ったのは前述の通り天養元年であったというから、建久年間に先立つこと五十年ほどの距離があるので、時代的には伝説を産むに必ずしも無理ではないが、しかし文治二年に塩野牧が存在した記録がある以上、わずか数年を隔てた建久四年に、果たして浅間の南麓で巻狩りが行われたかは、この点からも疑問といわざるを得ない。しかも頼朝の伝説は、上州三原の方がかえって豊富に伝えている。  
では頼朝に善光寺参詣の事実が寿永二年(一一八三)と健久八年(一一九七)の二回あるが、その折にこの附近を通過し真楽寺伝説を産むに至ったかであるが、寿永二年の際の記録は詳らかでなく、健久八年の時には確かに本庄、松井田から小諸を経由しているのでこの附近を通過したことは間違いないが、極めて忙しい行軍であったというので、真楽寺伝説に関わりある余地は考えられない。木曽義仲や平家の追討を目前にして身辺暖まる筈のなかった、寿永二年の折りには更にであろう。頼朝の巻狩りは、やはり上州三原側であったのではなかろうか。そして考えられるとするならば、その際にこの土地の武士の幾人か、例えば小室太郎一党などが参加したというのではなかろうか。  
さて小沼についてであるが、また「信濃地名考」に従うと「小沼が廃れて大沼村があったが、それも文禄慶長のころ亡村になったと思われる」とあり、吉田東伍の「大日本地名辞書」には「今の小沼村、北大井村、南大井村、平原、長倉などであろう」と記している。  
余談になるが、中野市内に小沼という地名があり、ここでは正月八日に餅替えという行事が残っており、豊作と家内安全を祈るそうだが、この民族行事の起こりは天正十年(一五八二)に今の延徳田圃が大水害に襲われて、馬までがやせてしまったので佐久の牧まで行って、肥えた馬と交換してきたという古事に因んでおり、この部落の草分け七人衆と呼ぶのは佐久出身の系譜で、小沼という名称は慶長の頃からではないかといわれているそうである。とするとこの人たちの先祖の移住が吉沢好謙の云う大沼の廃村と時代的に一致するのは、単なる偶然ではあろうが、参考までに書き加えておこう。  
以上まったく脈略もなく文献を漁ってみたに過ぎないけれども、小沼地域が奈良、平安の頃からかなり開けていた事実を、側面的なりとも証左するものではないかと一文を草した次第である。  
現在の塩野部落の開発は巷発建久元年と伝える向きもあるが、あくまでも俗説に過ぎないようである。馬瀬口村の開発は比較的新しく元和元年(一六一五)であり、この時に浅間神社を勤請柵口神社として祭っているので、小沼地籍の既存部落ではやはり塩野附近は早くから開けていたのだろう。浅間神社の旧位置(字古宮)の位置などから考えて、清満部落もかなり古くから存在したもののようである。 
 
新潟県

 

●小比叡山 蓮華峰寺 / 新潟県佐渡市小比叡  
弘法大師 大同3年(808) 建立  
佐渡が京都の鬼門にあたるとして、弘法大師が開基したといわれる古刹。金堂、弘法堂、骨堂は国の重要文化財にしていされている。また7月になるとアジサイが一斉に開花することからアジサイ寺とも呼ばれる。その他全ての建物は、有形文化財に指定されている。
蓮華峰寺2 
蓮華峰寺は弘法大師が大同3年(808)比叡山にならって建立した小比叡と呼ばれる古刹である。境内には弘法堂があり、本尊は宗祖弘法大師座像の一木造りで多くの信者を集めている。また「独鈷水」というのがあり説明には「6尺4寸の石屋に弘法大師像を安置、大同年中、唐より帰国の折り、大師所持の独鈷を投げたところ空中に飛び去り、1個はこの地に、1個は大和の室生寺と紀伊の金剛峯寺に落下し、三大霊地といわれ蓮華峰寺の発祥の地点である。これを受けて飲むと病がなおるといわれてきた。」と記されている。  
蓮華峰寺3  
(れんげぶじ) 新潟県佐渡市にある真言宗智山派の寺院。大同元年(806年)、真言宗の開祖、空海の開山という伝承をもつ。山号は小比叡山(こびえさん)。金剛寺、室生寺とともに真言の三大聖地の一つとされる。佐渡四国八十八札所の第六番札所。資料によって「蓮華峯寺」と記すものもある。  
創建の時期や事情については明らかでないが、寺伝では大同元年(806年)、佐渡が京都の海上の鬼門にあたることから、王城鎮護の霊場として空海によって開かれたという。開山の年を大同2年(807年)とする伝承もある。また、800年代中期に天台僧によって開かれたとする異説もある。  
伝承によれば、恵果より空海に伝法の印として伝えられた三杵を奪い返そうと唐の僧侶たちが海岸まで追いかけてきた時、空海は東方に向かい「密教有縁の所に生きて我を待つべし」と三杵を投げ上げたという。このうち五鈷杵は能登見附島に、三鈷杵は高野山に、独鈷杵が佐渡の小比叡山に飛来したとされる。  
同じく王城鎮護の山とされる比叡山とは御所から見て同一線上にあり、このために小比叡山と呼ばれたとされる。これに対して、蓮華峰寺は室町時代末に天台宗に改宗した時期があり、この時に山号を比叡山にならって改めた、蓮華峰寺の創建以前にすでに小比叡の地名があった、などいくつかの異説がある。  
周辺の山々の様子が八葉の蓮華を思わせたため寺号を蓮華峰寺とした。  
江戸時代中期の最盛期には佐渡国を中心に40か寺以上の末寺を従え、徳川家の廟所ともなった。嵯峨天皇の勅願寺であったともいわれる。  
伽藍  
小高い山に囲まれた谷地に、金堂を中心として山門、客殿、庫裏、鐘楼、弘法堂、御霊屋、骨堂(こつどう)、八角堂、八祖堂、山王権現社、小比叡神社など多くの建築物が現存している。  
慶安5年に起きた「小比叡騒動」(後述)の戦火で客殿、庫裏を焼失したが、室町時代前期の建立と考えられる金堂をはじめ、弘法堂(奥の院、空海の祠堂)、骨堂などは喪失を免れ、南北朝時代から江戸時代初期に至る各年代の建築様式を良好に保存している建築物が多い。金堂、弘法堂、骨堂は国の重要文化財に指定されている。  
金堂入母屋造で柱間は正面側面とも5間とする。壁面には梵字で表された三十三観音が配されている。解体修理の際、堂内の羽目板裏から長禄3年(1459年)に巡礼者が記した墨書が発見され、金堂の建立はそれ以前の応永年間(1394年〜1428年)であろうと推定されている。弘法堂慶長14年(1609年)の建立。堂内には本尊として弘法大師坐像が安置されている。坐像を収める厨子は安土桃山様式の天人花鳥の彩色画で荘厳されている。屋根は椹の厚板を組み合わせて葺いた栩葺様式になっている。栩葺は古くは寺社建築などに広く見られた様式であるが現存建築の多くが近世以降の改修により檜皮葺に替わっており、栩葺が完全な形で残されている弘法堂は建築史的にも重要な建築であるといわれる。弘法堂は禁扉となっており、内部を見ることはできない。骨堂建立年代ははっきりしないが、堂内から貞和4年(1348年)の墨書が見つかっており、その頃の建立と考えられている。新潟県内最古の建造物であるとともに、禅宗様建築としては東日本でも最古に属するものである。1間四方の小堂で寺伝にも用途は明らかではないが、加行僧の参籠堂ではなかったかと推定されている。  
境内  
現在の境内地は約3000坪。山門前には「子授け欅」と呼ばれる欅があり、この欅を人知れず抱くと子供を授かるという伝承がある。 空海の独鈷杵がかかった柳の木の跡には、水芭蕉などが咲く低湿地が広がっている。ここから湧出する水は延命健康の霊水とされている。  
「あじさい寺」とも呼ばれ、境内には7000株の紫陽花が植栽されており7月中旬の花の時期には「あぢさい祭り」が開催され賑わう。他に、杉木立、ツツジなどが美しく整備され、寺を訪れた歌人、俳人が多くの歌や句を残している。  
与謝野寛「蓮草峰寺古りし五彩のあひだより天人が吹く王朝の夢」古野秀雄「櫨漆いろづく谷にうぐひすのあな高喘けり佐渡蓮華峰寺」山口誓子「この寺は佐渡あぢさゐの総本山」  
小比叡神社は蓮華峰寺の旧鎮守社であるが、明治の神仏分離令によって独立した。現在は蓮華峰寺とは別法人であるが、境内地は旧来通り一体の空間を成している。  
小比叡騒動  
慶安5年(1652年)、相川町奉行であった辻藤左衛門信俊が上役との軋轢から騒乱となり、一族と共に蓮華峰寺に立てこもるという事件が起こった。これを「小比叡騒動」または「蓮華峰寺の乱」という。  
辻藤は世情に通じ有能であったため相川町奉行に抜擢されたが、当時、佐渡奉行所に横行していた役人の腐敗、不正を憤り上役に綱紀粛正を迫った。こうした辻藤の行動は上役、同輩から疎んじられ、抜擢人事への妬みもあり次第に孤立していった。些細な不始末を理由に小木町番所役に降格、左遷されると辻藤は江戸への告発を試みる。しかし、知人に託した訴状が船の難破で海岸に漂着し上役に知られると、辻藤と奉行所の対立は決定的になってしまう。  
役向きで相川に向かった辻藤が旧知の住職を訪ねるため蓮華峰寺に立ち寄ると、奉行所側はこれを謀反篭城であると断罪して武力鎮圧に向かった。辻藤とその一族は蓮華峰寺と、寺に隣接する小比叡城に立てこもり応戦するが、最後には全員が自害した。辻藤に加担したとみなされた蓮華峰寺住職の快慶は獄門にかけられた。  
この事件の発端は奉行所と一役人の間のささいな感情のもつれであったが、慶安の変直後の世情とあいまって奉行所側の過剰反応を誘発してしまったとするのが定説である。また、当時、蓮華峰寺の寺領から砂金が発見されており、この採取権をめぐる蓮華峰寺と奉行所の対立が背景にあるとする説もある。 
●岩屋山石窟、摩崖仏 / 新潟県佐渡小木町  
弘法大師 摩崖仏建立  
標高約100mにあり、間口6間、高さ20尺の海蝕洞である。その奥行きは不明であるが、外海府の岩屋口洞窟まで続いていると言われる。古くから摩崖仏、八十八仏、観音堂等を建造し、広く霊場として親しまれている。洞窟の壁に刻まれている摩崖仏は弘法大師作と伝えられる。 
●長谷寺 / 新潟県佐渡市畑野町大字長谷  
弘法大師 大同二年(807) 創建  
(ちょうこくじ) 弘法大師の開基とされる真義真言宗の寺院。地形が大和の長谷寺に似ているため順徳上皇により名づけられた。長谷寺は大同二年(807)に弘法大師により創建されたと寺伝に記されている。天正十七年(1589)上杉謙信の子、景勝が佐渡攻略の際、家老の直江兼続は長谷寺の再興に尽くし、寺領を兵火の災難から保護した。 
長谷寺2  
大和の長谷寺を模したといわれる大同2年(807)開基の古刹。世阿弥が松ヶ崎から峠を越えて長谷寺にいたったことを「金島書」に書いてます。また、日蓮上人もこの寺に立ち寄ったに違いないと考えられています。参道の至る所にあるボタンの古木が美しく、5月上旬から一斉に咲き誇り、辺りを彩ります。ここには平安期の観音3尊や五智堂・三本杉・高野マキなどがあり、歴史の古さを物語るものでいっぱいです。
長谷寺3  
「明細帳」天平年中行基開基、大同年中弘法大師来りて豊山長谷寺と改称す。往古は寺領300貫、坊舎120宇、天正の戦乱で壊滅、慶長以降復興。堂宇 本堂、玄関、廊下2、鐘楼、仁王門、中門、宝蔵、土蔵2、納屋、護摩堂 境内 1650坪 ※五智堂(多宝塔)の記述がない理由は不明。  
「佐渡志」大和国小池坊末寺  
「子山佐渡志」蓮華峯寺と同じく・・上杉景勝の国たりし程に越後国吉祥寺属下となる  
「寺記歴代」元禄11年大和国小池坊末改  
寺家 5ヶ寺(慶蔵坊、宝蔵坊、東光坊、遍照坊、泉蔵坊)、末寺 4ヶ寺 門徒 7ヶ寺  
属下 丸山村西立寺、松ヶ崎村長松寺、同 松前坊、丸山村平泉寺、目黒町村西光寺、多田村弘勒院、岩首村万福院、同 地蔵院、鵜島村泉福寺、柿ノ浦村西楽寺、尾戸村東福寺  
平安初頭山奥の瑞籬平にあった天台宗養禅寺・長楽寺などが現地に移り、長谷寺となったと伝える。多宝塔のほかに、観音堂、不動堂、十王堂、弘法堂、仁王門などと本坊、遍照院、泉蔵院が現存する。十一面観音3躯(本尊・重文・平安期)を有する。   
●野見知山 大光寺 / 佐渡市豊田  
弘法大師 弘仁3年(812) 開基  
文化2年(1805)渋手大火で類焼の際古記録を焼失しているので、開創年歴は詳細不明ですが、本寺蓮華峰寺古書によれば、弘仁3年(812)3月18日空海開基とあります。元、大弘寺と称し、安達兵庫正の菩提寺であり、寺家に大福院・金剛院・本覚院・円寿院等があったといいます。天正17年(1589)上杉景勝の佐渡攻略後は越後国西津吉祥寺末となりましたが、その後慶安元年当寺住職快慶が蓮華峰寺末寺に転じ、薬師堂及び付属田地を譲り受けました。なお快慶は蓮華峰寺3世から当寺に転じたものです。現堂は文化2年焼失後同8年4月再建され今日に至っています。 
●新倉山 弘仁寺 / 佐渡市羽茂本郷  
弘法大師 弘仁2年(811) 開基  
弘仁2年、弘法大師空海がこの地にきて、修行僧啓道に法を伝え、寺を開基したと伝えられています。東西に滝があり、東の滝は弘法の滝、西の滝は八笹の滝と呼ばれています。福岡長慶作の仁王像などは見ものです。  
弘仁寺縁起  
佐渡国弘仁寺の開基は人皇五十二代嵯峨天皇の御代、弘仁二年(811年)の事である。この年の三月、空海は帝の「夷狄を教化し霊地を開いて欲しい」との御勅願により、北国へ布教の旅に出たのである。  
空海、御歳38、羽茂大石の浜に上がられたのは4月上旬のことで、川をしるべに北に上がり、尾平の里に至り水を乞うた。この尾平の里は応永の頃からは仮屋と呼ばれており、尾平権現のお宮がある。(今は草刈神社に合祀) 里人は「金臭い水だ」と言って、水を施さなかった。それ以来、その言葉の通り水が金臭くなって、このところには井戸がなくなった、と伝えられている。  
これより東の坂を登り、久保の小太郎と言う者に会い、慳貪な里人の為に、この処に十一面観音を造立し、補陀落山普門寺(観音様の居られる山で誰でもが来られる処)と名付けられた。  
今(記された当時1700年頃)、小太郎久保の堂と言い、鰐口に永正六年(1509年)普門寺とある。(鰐口はないが、今、筑法山又は久保の観音堂と呼ばれている)  
また、ここを筑法(つくほう)坂と言うのは、空海がここで頬杖を突いて、里人教化の工夫をし、法を築こうとしたからであると言われている。その故にか、今、里人は温和勤勉の質を伝えている。  
空海ここに暫く留まり、これより細道を辿って更に登ると、滝の傍らに小さな庵があり、啓道という行者が住んでいた。  
空海が「どんな行をしておられるのか」と問うと、啓道は「特別な行ではない。常にこの滝に参籠して、お薬師様のご真言を誦して、国家安民を祈って来ましたが、風は順調で願い事はみな成就した」と言った。  
空海は「それは素晴らしい事だ」と言われて、すぐにこの滝の傍らに護摩壇を造り、修法されると、瑞光が四方に輝き、神龍が水面に現れた。  
この時、空海は祈誓して、「この近くに必ず霊地があるであろう。伽藍を建立しよう」ときめた。  
辺りを見ると、その時、北の方に瑞雲が有ったので、その方へ尋ね登って行くと、化け物が現れて、道を通れなくしてしまった。空海が暫く般若心経を誦し結界すると、邪魔していたものは去ってしまった。このことから、今、心経山また心経坂(今は共に新京の字を当てる)と言うのである。  
山頂に至って八方を見られると、九つの峰からなる山の景色は、あたかも八葉の蓮華の花のようであった。九峰の主なるものは、東は入合(いりこ)やま、南は瀬尾(せのお)山、西は薬師山、北は松山である。まことに霊地であった。  
ここに於いて、空海、薬師三尊、胎蔵大日如来の像を刻み、小太郎を施主として伽藍を造立し、尊像を安置された。この時、柏の木を以て彫刻されたので、今でも門前の家々では、薪等には柏の木を使わないと言われている。又、鎮守として、青龍権現・厳島の明神(弁天様)を勧請した。今は池は荒れて、小さな嶋があるだけであるが、このところを嶋根と言っており、薬師の御手洗池である。  
弘仁天皇(嵯峨天皇)の勅願である為、即ち年号を寺号とした。  
啓道を御弟子として、造立を任せた。ここで里人は、啓道に御利益があった事を聞いて、願い事のある物は、皆潔斎してこの滝に参籠することになり、願の叶う人が多い。今、入口を払い川(祓川)と言う。滝壷は深く水底は計り難いと言われていたが、今は石が崩れ落ちて、淵はなくなっている。古くから旱魃の年には、この滝に雨を祈ると必ず雨が降った。  
こんな事で啓道は伽藍を造営し、山道を開いて往き来をし易くし、蓮華山東光坊成就院弘仁寺と呼ぶことになったのである。  
昔は十二坊あったと伝えられるが、戦国の頃から次第に門前の俗家になってしまい。復興することがなかった。惜しいことである。  
当山に三つの滝がある。第一は男女瀬(いもせ)の滝または水乞(みごい)の滝と言っていたが、今は弘法の滝と言う。ここには三つの不思議な言伝えがある。一つは、滝の傍ら(川の中)に腰掛け石と言う石があって、不浄の女人等が至れば、流水忽ち血水に変ると言う。二つは、滝の傍らに庵の旧地があり、昔この地を田にしたが、不浄の女らが入ると、忽ちに数百の蛇が出た。これによって空地にし、今は当山に納めている。(滝御堂が建っている) 三つには、滝壷より一町ほど下の祓川と言うところまでの内で、不浄のものを洗えば、これまた前の様に蛇が出る事は、今でも一般の人の知るところである。  
第二の滝は北の滝と言う。今は境外となって八笹(やさ)が滝と言っているが、ここにも言伝えがある。(記録はない)  
第三の滝は南の滝と言い、これも今は境外となって、麻佐(まさ)が滝と呼ばれているが、これにも言伝えがある。(この記録もない)  
(弘法大師を開祖とすることに、疑問を呈する人もいたらしく、古人は次の様に記している)  
弘法大師北遊の事は、弘仁年中の伝記に見えず、偽説ではないかとの問がある。これには、甚だ局見であると答える。祖師滅後九百年余り、公の事は大概記録してあるが、細々な事柄は之を記していない。これに因って、その事跡の明らかでない事が多い。然しながら北国には旧跡も多く、また遊方記には「大師始め経を求めて足を発し、広く四方に求む。五畿に周遊し、七道を往復す。本朝三百余州の中、歳月深く行けどもなお日を新たにす。一人で歩き回り、至らざる処なし云々」とある。  
殊に弘仁二年は、二月から六月まで勅務その外の御願行等は伝記に見えず、確かに北国へ行ったと思われる。なお又楞伽(りょうが)経には、「初地の菩薩は百仏、世界に分身作仏す」と書かれている。 大師は既に三地の菩薩である。何でこれ(ここに来て開祖となった事)を疑うことがあろうか。 
●八海神社 元里宮 / 新潟県南魚沼市長森暮  
弘法大師 八海山開山  
八海山の山麓には多くの里宮(八海神社、坂本神社)が鎮座するが、越後国三宮がどの社に該当するかは不明。その中で古い創祀を伝えるのが八海神社元里宮(南魚沼市長森暮坪)である。祭神は国狭槌尊・天津彦火瓊瓊杵命・神吾田鹿葦津比女命(木花開耶姫命)。  
社伝によると、大和国豊明里の栗田政次の末裔の清国が日向高千穂に参籠した時、国狭槌尊・瓊瓊杵命・神吾田鹿葦津比女命の三神を越後の霊峰八海山に祭祀するように神託を受けた。 応神天皇三年[272]七月十六日、栗田清国は氏子を伴って城内郷に下向し、八海山の山頂に三神を奉斎し、山麓の暮坪に遥拝所を設けた。  
八海大明神の本地仏の薬師如来については、中世には八海山長福寺(南魚沼市上薬師堂)がその信仰の中心だった可能性が指摘されている。  
『八海山御伝記』によると、八海山は天地開闢元気水徳神国狭槌尊の霊魂が留まる山で、山上には八つの池(古気池、裏冨池、瓶丹池、硯池、日池、月池、神生池、赤石池)がある。弘法大師が湯殿山を開く為に出羽国に向う途中、八海山を開いて山上で三日三夜の護摩修行を行ない、大聖歓喜天を勧請し、山頂に不動明王を祀った。その後、寛政六年(1794)に木曽御嶽行者の普寛が八海山を再興し、大頭羅神王を勧請した。以来、八海山は木曽御嶽信仰と関係が深く、八海山大頭羅神王は御嶽三座神の一として崇敬されている。  
●八海山 / 新潟県南魚沼市  
弘法大師 八海山修行  
南魚沼地方に位置する、木曽御嶽信仰の霊山である。古くから信仰の霊山であり、中世には越後三宮(『神道集』による。どの神社を指すのかは不明。)として知られていたが、江戸時代後期に、木曽御嶽山を中興した人物の一人普寛が、八海山山麓居住の泰賢を弟子としてともに八海山を開山し、八海山は木曽御嶽信仰の霊山となった。  
かつては、薬師如来の霊山とされたが、木曽御嶽信仰では八海山大頭羅神王(八海山大神)が鎮座する山として信仰されている。八海山大頭羅神王は、十六善神(『般若経』護法神)の一神である提頭頼〓善神(四天王としては持国天)に由来する神で、神道の神としては、天地開闢とともに出現した国狭槌尊とされる。木曽御嶽信仰の主神は、木曽御嶽山に鎮座する御嶽山座王大権現(御嶽大神)であるが、八海山大頭羅神王は、三笠山刀利天宮(三笠山大神)とともに、それに次ぐ最も重要な神として信仰されるようになった。木曽御嶽信仰の社寺霊場には八海山大神が祀られていることが多い。  
主な登山口としては、古くからの大倉口、現在栄えている大崎口、普寛が開いた城内口屏風道などがある。ほかに城内口生金道(おいかねみち)があったが廃道となっている。各登山口に里宮がある。ただ、いま挙げた四つの登山道の里宮は、本格的な社殿が建てられたのは普寛による開山以降であった。一方で、かつて里宮の役割を担っていたと思われる神社が周辺にいくつか存在している。  
山中には霊神碑が数多く建てられている。また八海山の語源とも言われる八つの池が存在している。山上には非常に険しい峰が八つ連続して並んでおり、八ツ峰と呼ばれて、こちらも八海山の語源説の一つにも言われている。その一つの不動岳が事実上の本社的地位にあり、かつては「万年堂」という祠があったらしい。また大日岳が奥社的な地位にあると考えられる。ただし、現在は本格的な社殿は建立されておらず、石祠や碑像があるのみである。  
本社となる神社については、ちょっとはっきりしない点がある。かつては不動岳の「万年堂」が頂上本社にあたるものだったと思われ、現在もそのような位置付けにあると思われる。というのも現在も登拝した際には、大日岳に行けない場合でも不動岳で祭祀を行っているからである。ところが、江戸時代後期には頂上ではなく、屏風道と生金道の七合目に本社が祀られていた。特に屏風道の「屏風ケ岩倉」というところには普寛が八海山を開山したときに建てた社殿があった。生金道には「生金の立岩」というところに本社があったという。これらの本社と頂上の祠との関係や変遷の経緯については不詳である。  
木曽御嶽信仰とは比較的関連の薄い八海山信仰も行われており、修験道においては、聖護院認定の越後の国峰(くにみたけ)となっており、入峰修行が行われている。  
八海大明神  
八海山の山麓には多くの里宮(八海神社、坂本神社)が鎮座するが、越後国三宮がどの社に該当するかは不明。その中で古い創祀を伝えるのが八海神社元里宮(南魚沼市長森暮坪)である。  
祭神は国狭槌尊・天津彦火瓊瓊杵命・神吾田鹿葦津比女命(木花開耶姫命)。  
社伝によると、大和国豊明里の栗田政次の末裔の清国が日向高千穂に参籠した時、国狭槌尊・瓊瓊杵命・神吾田鹿葦津比女命の三神を越後の霊峰八海山に祭祀するように神託を受けた。 応神天皇三年(272)七月十六日、栗田清国は氏子を伴って城内郷に下向し、八海山の山頂に三神を奉斎し、山麓の暮坪に遥拝所を設けた。  
八海大明神の本地仏の薬師如来については、中世には八海山長福寺(南魚沼市上薬師堂)がその信仰の中心だった可能性が指摘されている。  
『八海山御伝記』によると、八海山は天地開闢元気水徳神国狭槌尊の霊魂が留まる山で、山上には八つの池(古気池、裏冨池、瓶丹池、硯池、日池、月池、神生池、赤石池)がある。弘法大師が湯殿山を開く為に出羽国に向う途中、八海山を開いて山上で三日三夜の護摩修行を行ない、大聖歓喜天を勧請し、山頂に不動明王を祀った。その後、寛政六年(1794)に木曽御嶽行者の普寛が八海山を再興し、大頭羅神王を勧請した。 以来、八海山は木曽御嶽信仰と関係が深く、八海山大頭羅神王は御嶽三座神の一として崇敬されている。  
八海山尊神社  
八海山のおやしろのそもそものいわれは、中臣の鎌足公が御神託を頂いて御室(現六合目)に祠をもうけられたのが始まりだと伝えられております。また、八海山には役行者小角、つづいて弘法大師が頂上で密法修行されたという、山岳信仰の社寺にみられる事蹟譚があり、古くから両部の霊場として知られていました。八海山信仰の歴史上の初見は、南北朝中期に編纂された『神道集』に越後の三の宮・八海大明神とあり、霊験あらたかなことがつとに知られていましたが、必ずしもローカルな範囲を出るものではありませんでした。ところが寛政六年、大崎村出身の木食泰賢行者が木曽御嶽山の中興開祖・普寛と共に登拝道を開くに及び、ついに八海山は御嶽山の兄弟山として列格し、次第に全国にその名を知られるようになり県境を越えて各地の講集団が訪れるようになりました。大崎口登拝道は八海山開山の偉業により、一躍輿望をになうに至った泰賢行者自ら、出生地の御嶽講を率いて享和三年(1803年)に切り開いたもので、このが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。その後、泰賢行者は大崎口里宮を拠点に諸国を行脚し、八海山信仰の布教に身を捧げました。こうして八海山大崎口里宮は、御嶽信仰の霊場巡拝地となり、その信仰は親から子、子から孫へと代々引き継がれ、今日に至っております。 
●金精山 大福寺 / 新潟県南魚沼市長崎  
弘法大師 巡化  
本寺は聖徳太子の開基にして、開祖は玄珍法印なりとか。弘法大師越後国巡化の折、薬師仏及び十二神将を金精山の巌窟に安置し大福寺の奥院と称した。なお観音様は三十苅という所にあって三十苅の観音様として深く言仰されたが、明治に入って現在地に移された。寺も観音堂も一切の記録を焼失しており詳しく知ることが出来ない。本尊聖観世音菩薩は弘法大師御作と伝承されている。 
●くがみ山 国上寺 / 燕市  
弘法大師 伝説  
良寛ゆかりの寺で弥彦山の中腹にあり越後最古の名刹。境内には、弘法大師五鈷掛の松、義経の六角堂など名勝、旧跡、伝説が多い。  
国上山は、以前古志郡越の山という名所であり、雲高山もしくは雲上山と言われていました。飛鳥時代より蒲原郡に属し、聖徳太子がこの山に登って雲上記を書かれたとも伝わっています。また、その折に大悲千手観音の像を彫って、北海鎮護仏法最初の霊地と定めました。大悲千手の像は雲上、雲高にあることから「くがみ」と言われておりました。今「国上」と書くのは孝謙天皇が御宇にて「国中上一寺」と詔勅されたことが由来です。また、万葉集には久賀躬と書かれています。  
元明天皇和銅2年(709)に越後一の宮弥彦大神の託宣(神様の言い伝え)により建立された、越後最古の古刹です。弥彦神社の本地として崇められ、代々別当寺として古記に分明されています。格式としては、孝謙天皇より御宇にて正一位を賜り、北海鎮護仏法最初の霊場として信心のより所とされてきました。  
慈覚大師(794〜868)は最澄の弟子で、唐に渡り修行をしました。天長6年(829年)から3年、東国巡礼の旅に出て、青森・岩手・秋田・山形・宮城・福島で10を超える寺を開いて、教学を広めました。その頃国上寺にも立ち寄ったのでしょう。  
慈覚大師が来山の折に広めたと伝えられているのが、「院宣(いんぜん)祭り」です。摩多羅天神の縁日の10月17日、旧国上(くがみ)村の秋祭りとして院宣祭りが行われていました。  
院宣祭りとは、じじばばの面を被った男性が、木製の斧と鉞(まさかり)を持って本堂の欄干の周囲を回り、2周して正面に来たとき、集まった人たちがじじばばの斧と鉞を奪い取るのです。斧と鉞を奪い取った者は、この地区での有名人になるとともに、これらを玄関口に祀ると、その家は無病息災だと言われています。この奇祭も危険でけが人が出たこともあり、今では休止しています。  
また慈覚大師が来山以来、国上寺には僧兵が組織されたようです。現在の方丈講堂の柱という柱には、小さな穴が多く残っており、これらは手裏剣を投げた跡だと言われています。柱を人に見立てて訓練したのでしょう。  
このように、慈覚大師は院宣祭りと僧兵の文化を残して比叡山に戻られたそうです。  
●弘法大師五鈷掛の松  
弘法大師が中国から帰国の際、三鈷と五鈷を投げたとされているが、三鈷は高野山の松にかかり、五鈷が国上寺のこの木にかかり真言道場になったとされている。 
●乙寶寺 / 新潟県胎内市乙  
弘法大師 巡錫伝説  
(おっぽうじ・乙宝寺) 新潟県胎内市乙(きのと)にある真言宗智山派の寺院。猿供養寺、乙寺(きのとでら)とも呼ばれる。境内には国の重要文化財である三重塔や、大日堂(本堂)、本坊、方丈殿、六角堂、弁天堂、観音堂、地蔵堂が建つ。新潟県屈指の古寺で、釈迦の左眼を納めたと伝える舎利塔など、寺にまつわる伝説や逸話が多く残されている。  
寺伝によれば、天平8年(736年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩、婆羅門僧正らが北陸一帯の安穏を祈り開山したと伝えられる。婆羅門僧正が釈迦の左目を現在の六角堂のあたりに納めたとされる。寺の縁起によると右目は中国の甲寺に納めたことから、左目を納めた当寺の名前を乙寺(きのとでら)とし、後に「寶」の文字が付け加えられ「乙寶寺」になった。また「今昔物語」や「古今著聞集」にみえる「写経猿」の説話にちなんで猿供養寺とも呼ばれる。  
室町時代後期には、上杉氏が寺領300石を寄進し保護の手を加え、近世初期には、村上城(村上市)主村上義明の帰依が厚かった。重要文化財の三重塔は村上氏の寄進によるもので、観音堂前には村上家の墓があり寺と村上氏の関係が伺える。当時は塔頭寺院が数多くあり、明治時代以降はそれぞれの寺院が独立し、平成になってからでも残っている元塔頭寺院には地福院、宝常院、和光院がある。  
松尾芭蕉が奥の細道の途中で立ち寄ったときに詠んだ句「うらやまし浮世の北の山桜」の句碑がある。  
弘法大師伝説  
平安時代には、空海(弘法大師)が巡錫中に立ち寄った場所といわれており、空海が乙宝寺境内の地面を仏具の「独鈷杵」(とっこしょ)で突くと水が湧き出したという伝説がある。名前は独鈷で突いた水「独鈷水(どっこすい)」が次第に訛って「どっこん水」と呼ばれるようになり、その水は約1200年たった現代でも境内に豊富に湧き出ている。この水は飯豊連峰の伏流水で、胎内市乙周辺で広く水道水の代わりとして利用している。 
●関山神社 / 新潟県中頸城郡妙高村関山  
弘法大師 弘仁元年(810) 再建  
往古より妙高山村関山三社大権現と称されていた。古来妙高山は、裸形上人によって開かれ仏の山とされていた。神奈山には神様がおわし、和銅元年(七〇八)、悪疫流行の年を選び、麓の関山村に里宮として前記の三神が勧請された。嵯峨天皇の御代(八一〇)空海上人が、諸国廻歴の折りその神威を観窺し、帰京後帝へ奏上し、壮麗なる社殿を再建する。更に僧坊七十二区を栄築し、大いに仏徳を発揚する。  
徳川時代になり、俊海法印が天海上人を通じ、関山霊社を中興せんことを徳川幕府へ懇願する。家康公の台命にて大久保石見守が境内を検分の上、社領百石御朱印を下し、妙高山始め五山とも山林竹木諸役免除を申し付けられ、再び旧時の盛観を得る。  
明治維新により、朱印地は悉く上地を命ぜられ且つ、神仏混合を禁じられた為、明治元年十月十八日、関山神社と改称する。神社の社殿は、文化五年戊辰の年(昭和六十二年より百八十年前)に広く浄財の寄進を得、建築された。その範囲は、高田市、直江津町、新井町始め中頚城一円、新潟市、刈羽郡、魚沼郡、東頚城郡、西頚城郡、戸隠、野尻、針ノ木、飯山町、牟礼、柴津村、富臓村、長野市、野沢、古間の広い範囲でありました。昭和三年十月昇格申請し、昭和六年七月十三日県社となり、終戦まで続きました。  
出湯温泉 / 新潟県阿賀野市  
弘法大師 大同4年(809) 開湯  
(でゆおんせん) 開湯は809年である。弘法大師空海が錫杖をついて湧出させたという開湯伝説が残る、新潟県内で最も古い歴史がある温泉。
出湯温泉2  
出湯温泉(でゆおんせん)は、新潟県(旧国越後国)阿賀野市(合併前の北蒲原郡笹神村)にある温泉。五頭(ごず)連峰西側の山裾(やますそ)に位置し、五頭連峰県立自然公園(日本森林浴100選に選ばれている)に含まれる。古くから湯治場として知られる静かな温泉地。周辺に白鳥の渡来する「瓢湖(ひょうこ)」、登山を楽しめる「五頭山(ごずさん)」、森林浴・キャンプ・川遊びを楽しめる「県民いこいの森」、ゴルフ場などが点在する。周辺の温泉と併せて五頭温泉郷(ごずおんせんごう)を構成している。  
開湯は809年である。弘法大師空海が錫杖をついて湧出させたという開湯伝説が残る、新潟県内で最も古い歴史がある温泉。鎌倉時代には幕府に温泉税を納めていた。江戸時代に見る温泉番付「諸国温泉功能鑑」に「越後出湯の泉」として記されている。「漲泉窟」は江戸時代、徳川幕府の直轄領「天領」だったが、江戸時代の終わりと共に国から払い下げがあり、源泉の周りの家々7軒が「七軒衆(しちけんしゅう)」という組織を形成し、源泉を引き継ぐこととなった。その後、七軒衆の内、一番公共性があるということで、華報寺が代表で管理をし、七軒衆が温泉業を営む権利を持っている。  
大同4年(809)弘法大師空海 来村。五頭山 開山。 
華報寺 / 新潟県阿賀野市  
弘法大師 大同4年(809) 開湯  
出湯温泉にある、曹洞宗の寺。行基が開山した当時は真言宗の寺で、30数坊の伽藍があったと言われています。現在の本堂は戦後に再建されたもので、優婆尊(うばそん)の信仰の場として、現在も多くの人が訪れています。境内には、佐渡出身の鋳金家で人間国宝の佐々木象堂や、歌人の相馬御風が訪れたことを示す石碑や、共同浴場があります。 
華報寺共同浴場 [通称・寺湯]  
開湯から1200年。県内最古の歴史を誇る弘法大師伝説の温泉。そのお湯は、今もこの華報寺境内の共同浴場の源泉として湧き出ています。明治・大正時代には、新潟周辺の大地主や役人が多く訪れ、保養地として一躍脚光を浴びるようになった。最近ではアトピー性皮膚炎に効果がある温泉として全国に知られている。38℃の源泉をそのまま利用しているので、初めての人にはぬるく感じるかもしれないが、じっくり浸かる温泉だ。 
湯田上温泉 / 新潟県南蒲原郡田上町  
弘法大師 護摩  
湯田上温泉は、越後平野を見下ろす護摩堂山の山麓に湧き出る温泉です。この護摩堂山、かつて三井山と呼ばれていた時代があり、72坊に及ぶ寺院が建つ山岳信仰の要所として発展しました。  
ここで修行した修験者(山伏)達(一説では弘法大師)が護摩を焚いたことから、三井山は護摩堂山とその名を変え、そしてこの修験者(山伏)達が、修行の身を癒すために使ったのが湯田上温泉の始まりと言われています。  
その後、護摩堂山は、武士が支配する時代においては軍事的適地であったため要塞や出城として利用され、多くの伝説や記述が残されています。  
このように湯田上温泉の開湯はかなり古く、今だその時期は明らかになりませんが、現存する古文書などを探ると、元文3年(1738年)に新発田藩から湯治場として許可された等の記述がみられ、また、明治12年(1891年)発行の「諸国温泉一覧」には全国100余ヵ所の温泉地と共にその名を連ねています。  
地元では、その効能の高さから「薬師の湯」として親しまれ、丑湯(土用の丑の日に湯に浸かると1年間無病息災で過ごせると言われた)の習慣がありました。源泉の井戸は長い歴史の中で何度か変遷しましたが、現在は平成10年に新しく掘削された新源泉を使用しており、泉質はナトリウム−塩化物・硫酸塩温泉で、浴用では皮膚病、婦人病、消化器病、神経痛等に効能が優れ、また源泉では飲泉も出来、飲用することにより、糖尿病、肥満症等にも効果があります。 
 
佐渡情話  
佐渡の女と柏崎の男とを結ぶ哀恋の譜は「お光吾作」の物語りとして餘りにも天下に喧伝されておりますが、実は之には凡そ三つの伝説があります。一つは寿々木米若のナニワ節で有名な所謂お光と吾作の物語り一つは「佐渡の女と番神堂の所化(僧)」一つは「舟頭藤吉とおべん」の伝説であります。  
土地の人は一般に「お辨と藤吉」の伝説を眞実のものと信じているようでありまして、現に「おべんの松、おべんのおろ(洞)」の遺蹟と稱するものもあります。と云って番神岬の諏訪神社境内にある「お光吾作」の墓をお詣りする若い男女の多いところを見ると、この説を疑っている訳でもありません。要はそんな穿鑿はどうでもよいので、只一筋にこうした哀恋の事実を信じ、伝説中の人物に新しい時代の、新しい感覚による深い想いを寄するところに伝説を信じる良さがあるのではないでしょうか。  
私は今ここに「番神堂のご坊と佐渡の女」「おべんと藤吉」の伝説を紹介する前に、詩人与謝野晶子女史が、この伝説の土地を訪ねられた時歌われた一句をご紹介いたします。  
たらいふね荒海も超ゆうたがわず 番神堂の灯かげ頼めば  
(この歌碑はお光吾作の墓に隣接して建てられております)  
所化と佐渡の女の物語り  
むかしむかし番神堂に一人の御坊が堂守りとして住んでおりました。 この御坊は夕方になると決まって御燈明をともして、お経をあげお祈りをするのでしたが、この燈が漁師にとっては大変よい便りになり、一晩中ともしておくように頼まれましたので一つには功徳になり又一つには漁師の為になるので喜んでこれに応じたのであります。ところがある嵐の晩、十時頃に雨戸ががたがたと揺れるのにまじって・・・ 「おたのみ申します。おたのみ申します。」と云う細い女の声が聞こえて来ますので、おそるおそる庫裡から出て来て「どなたでしょうか」と問い返しますと、ずぶぬれになった二十五、六才の女が髪を乱して立っていますので御坊は腰を抜かさんばかりに驚きましたが、それでも「どちらからこられたか、何の用があって」と尋ねました。 そうするとその女は「私は佐渡の者で漁に出て船は難船し、やっとこの浜辺まで泳ぎつきますと、こちらのお燈が見えましたのでやって参りました。どうかご迷惑でも一晩ご厄介になりたいのでご座います。」と息も絶えいるように申しますでの、御坊は大変気の毒がり、佛に使える身には、よい人助けにもなろうと思いまして早速爐辺に火を燃やし、自分の着物まで出してやったり体を温めさせたりしてやりましたので、彼の女はやっと人心地もつき喜んで翌朝漁船に乗って佐渡へ帰ったのであります。 ところがこの番神堂の御坊が非常に美男子でありましたので、佐渡へ帰りましたがどうしてもご坊の姿と親切を忘れることが出来ず、朝な夕な思い悩んでいましたが、或る日思い切って板一枚に乗って番神堂をめがけて泳ぎ出たのであります。 この日は割合に順風でありましたこと、女の一念は恐ろしく、番神堂の灯かげを頼りに難なく泳ぎついたのであります。 夢中で坂道を登り番神堂へ行き御坊に会い心のうちを綿々と口説きましたので、このご坊もついにその情にほだされてしまったのであります。 さあそれからが問題であります。毎日夜の十二時から一時頃になると訪れて来ては、朝方になると板子一枚で泳いで帰って行きます。毎日のようにこうしたことが続いたのではご坊も段々薄気味も悪くなりますし、近所の手前も悪いので何とかして思いとまらせたいと、再三注意したのですがとうしても聞き入れようとしません。佛に使える身がこんなことでよいのだろうか、考えあぐねて一策を案じました。これは毎日のおつとめの読経の時間を早くしてあかりを消すことだと思いついたのであります。 そしてその日は早く燈明を消してしまいましたので、彼女は目標がつかず、左へ泳ぎ右に漂い、とうとう番神岬にたどりつくことができなかったのであります。 翌朝漁師が浜辺に行くと板子が一枚浮いていますので不思議に思って近寄って見ると、哀れにも彼女は板をしっかりつかんだまま死んでいたのです。 その女の腰の方にうろこ様のものがついているし、手には水かきのようなものがついていたと云う噂が近所にひろまり、彼女への同情はきう然と沸きました。 ご坊はその後は一生読経と燈明に身を捧げ、燈台の役目を果たすと共に哀れな女の冥福を祈ったのであります。  
おべんと藤吉  
柏崎に佐渡通いの舟がありました。船頭を藤吉と呼んでいました。藤吉は佐渡の小木でおべんという女に見染められ二人は仲よく暮らしていました。ところが藤吉には国もとの柏崎に立派な家があり、そこには女房も子供もおりましたし、海の荒れる冬になれば船もかこわなければならないので佐渡を切りあげて柏崎に帰ってきました。  
藤吉は国もとへ帰りましてからは、おべんに逢うのが何となくこわくなりましたので、その後は一度も佐渡へは行きませんでした。ところが一人佐渡に残されたおべんは、どうしても藤吉を忘れることが出来ません。とうとう意を決してたらい船に載って荒海を漕ぎ、番神堂の灯かげを頼りに藤吉のところに通って来るようになりました。  
妻子のある藤吉の身にして見れば、こうしたことがしょっ中続いたのでは全く困り果ててしまいます。何とかしなければならない。それにはおべんが佐渡から海を渡って来る時の目標の、番神堂のお燈明を消しておくのが一番よかろうと云うので或る夜番神の御燈明を消してしまったのです。  
目標を失ったおべんは、一夜中浪に漂いとうとう果敢ない水死をとげてしまったのでありますが、おべんの死んだあとを見ますと、たらいが一つに、おべんのなきがらは一匹の蛇になって深い想いを日本海の荒海に浮かべていたと云うことであります。
番神堂  
番神堂正面方向日蓮聖人着岸の霊地として有名な番神岬に建つお堂。本坊は妙行寺というお寺だそうだ。1274年佐渡に配流されていた日蓮聖人が赦され、佐渡から寺泊に向かう途中嵐で漂流、漂着したのが番神岬であり、無事を感謝してその地に八幡大菩薩を中心に、29の神様を奉ったといわれている。その当時、番神堂は真言宗のお寺だったそうだが、当時の住職様が日蓮聖人に深く帰依なさったので、日蓮宗に改宗したのだそうだ。  
現在の岬から・・・古来はこの岬の下は海だったのだろうが、現在はしっかり陸地である。現存するお堂は、明治になってから再建されたもの。 
番神岬 (柏崎市)  
米山福浦八景(だるま岩・聖が鼻・御野立公園・番神岬・鴎が鼻・松が崎・猩々洞・牛が首層内褶曲/柏崎市の北西部の日本海側に広がる風光明媚な景観な中でも特に優れた景勝地8箇所が選定されています)の1つに数えられる景勝地で遠く佐渡島や弥彦山が望め、近くには日蓮上人が開いた番神堂や弁天岩などがあります。文永11年(1274)、日蓮宗の開祖で「立正安国論」を唱え鎌倉幕府を非難した事で佐渡島に流罪となったいた日蓮が、許され寺泊に渡る途中暴風により番神岬に流れ着いたとされます。又、番神岬を舞台とし佐渡島の小木に住む「おべん」と番神岬の漁師「藤吉」悲恋物語が語り次がれ「浪曲佐渡情話」として広がりました。この悲恋を知った与謝野晶子は「たらい舟 荒波もこゆうたがはず 番神堂の灯かげ頼めば」を詠み岬にある諏訪神社の境内にはこの歌碑と「お光吾作の碑」(伝承では「おべん」と「藤吉」が主人公ですが佐渡情話では「お光」と「吾作」に変更されています。)などが建立されています。  
 
愛知県

 

●知立弘法山 遍照院 / 愛知県知立市  
弘法大師 弘仁年間(810年代) 建立  
弘仁年間(810年代)に、弘法大師が関東地方に御巡錫の途中、当地へ約1ヶ月の間御逗留になり、布教に勤め衆生済度を実践され、佛道の社会的実践の場として当山を建立され、出立の際には庭前の赤目樫の木をもって御自身の座像を三体刻まれ、当山の御本尊とされたのであります。  
この三体の座像の中、一番根本で刻まれた大きな御像が別れを惜しんで、やや右を向いて振り返っておられる御姿であるということから、見返弘法大師と申し上げているのであります。この御本尊様は、秘佛となっておりまして、御大師様のご命日である旧暦3月21日の御祥当に特別御開帳を致しまして、善の綱をもって善男善女にお手引き(お渡し)しております。  
いつの頃からかこの三体の御座像を三弘法さんと称しそれぞれ奉安されたのですが、当山では、御大師様が自身で建立された因縁により、1200年の法燈を厳然として守り続け今日に至っており、毎月のご命日には、生活雑貨を始め食料品、骨董品等の露店が数百も連なり知立駅より寺院境内まで並びます。このように、毎月旧の21日は老若男女が御大師様を詣でます。それが御大師さまのお寺、知立の弘法山といわれる由縁であります。 
●大智院 / 愛知県知多市南粕谷本町  
弘法大師 東国巡礼の際に立寄った  
愛知県知多市には、珍しいお姿の弘法大師像が安置されているお寺があります。大智院は真言宗智山派の寺院で、正式名称は金照山清水寺(きんしょうざんせいすいじ)大智院といいます。  
ご本尊は「聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」、前立「馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)」が安置されています。2月3日の「節分会」や10月第4日曜日の「めがね弘法大祭」が有名です。  
知多四国八十八ヶ所とは、弘法大師・空海が東国巡礼の際に立ち寄った知多半島の風景が四国八十八ヶ所と似ていることから、「知多四国八十八ヶ所」と名付けられたとされています。  
めがね弘法にまつわる眼病平癒のお話  
大智院には「身代(みがわり)大師」という、弘法大師の尊像が安置されています。なんとその身代大師はめがねをかけていて、次のようなお話が残されています。  
安政7(1860)年、伊予国(現在の愛媛県)から浅吉(あさきち)という老翁が自分の目の病気を治そうと知多八十八ヶ所を巡っていました。老翁は盲目の上、眼球が飛び出ていたため、周囲の人に見られないようにと、ろうそくの炎でこがしためがねをかけていました。ここ大智院に訪れた際も、自分の目が治るようにと身代大師へ一心に祈りを捧げると、一瞬にして見えるようになったのです。しかし、老翁の目が見えるようになった代わりに、弘法様の左目には傷ができてしまいました。  
その夜、「老翁のめがねを我にかけよ」という弘法様の夢のお告げにより、そのめがねを弘法様にかけ、以来、身代大師「めがね弘法」として広く知られるようになったのでした。 
●弘法大師上陸像 (上陸大師像) / 愛知県知多郡南知多町大字大井字聖崎  
弘法大師 弘仁5年(814) 行脚の途中三河から船で南下、南知多町大井聖崎に上陸  
場所は大井漁港・聖崎です。空海(弘法大師)は弘仁5年(814)(41歳の時)、諸国行脚の途中に三河から弘法大使が三河から船で知多半島を南下、南知多町大井聖崎に上陸、医王寺と岩屋寺で護摩修法した後、野間から陸路伊勢路に向かったという話が伝わります。上陸の第一歩をしるされたと思われる大石は、波に削られいつしか海中に没しました。  
昭和59(1984)年、弘法大師1150年御遠忌を迎え、霊場会をはじめ地元信者・巡拝者各位の御協力によって、大師の石像が建立されました。海を歩いて上陸したという言い伝えから、海から陸に向かって弘法大使の石造が岩の上に作られています。高さ13尺(4m弱)  
年に1度、大潮の時に双子島まで歩いて渡れる道ができるので、その機会に掃除をしています。  
大師が唐から帰朝してのち、弘仁五年(814)(空海41歳の時)、まだ沙門空海と名のられたころ、 南知多町の聖崎より知多郡にお渡りになり、仏山(大井の西方にあった、医王寺の建つ山付近から裏山付近を当時は「仏山(ほとけやま)」と呼んでいた。)で巡錫の歩を留め、二十一日間の護摩を修し、 伽藍を再興なさったと伝えられています。  
医王時寺本堂裏にある「護摩窟」  
「弘法大師は船で三河から知多半島の南知多町聖崎へ上陸後、ここ医王寺と岩屋寺で護摩行を行われ、野間から北上」されたと伝えられています。仏山から移される。空海は東国巡錫の途中に愛知県にある知多半島に上陸し、その時、知多の風景があまりにも四国に似ていることに驚き、「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらん」という歌を詠んだそうです  
和歌山県北部の高野山は、弘仁7年(816)43歳の空海が真言密教の根本道場として開いた聖地であり、承和2年(835)ここで62歳の生涯を終えた。 
●金剛寺 / 蒲郡市三谷町南山  
弘法大師 大同年間(806-810) 創建  
高野山真言宗の寺院である。山号は三谷弘法山。寺伝によれば、平安時代初期の大同年間(806-810)、弘法大師空海によって開かれたと伝えられる。三河新四国霊場の第45番・第46番(奥の院)の寺院で、弘法山山頂に本堂があり自動車で登頂が可能である。本堂横に三谷温泉南山駐車場(無料)がある。  
安産、子授かり諸願成就などで多くの参拝者が訪れる。本堂とは別の場所にある東洋一の大きさ(高さ18.78m)を誇る子安弘法大師像が有名である。昭和45年(1970)、三谷漁業協同組合は弘法山に「水族供養の鐘」と「鐘楼」を建設した。  
かつて弘法山には「三谷弘法山遊園地」があり、観覧車やバンビセンター、プラネタリウム開館があった。また、国道23号線をはさんで、弘法山と乃木山を結ぶ「蒲郡弘法山観光ロープウェイ」(のちに「三谷温泉ロープウェイ」に改称)があった。のりば横には双眼鏡2基の支柱と子供用の踏み台のみが残され、展望スポットだったことがうかがえる。 
●池鈴山蓮華寺 / 愛知県あま市蜂須賀大寺  
弘法大師 弘仁9年(818) 開基  
蓮華寺は、弘仁9年(818)弘法大師の開基と伝えられ、通称、蜂須賀弘法の名で親しまれており、江戸時代以降は、蜂須賀家ゆかりの地として親しまれています。毎年4月に開かれる御開帳にあわせて二十五菩薩来迎会が行われ、たくさんの人々で賑わいます。地元の人々が扮する二十五の菩薩に頭をなでてもらうと厄難払いになるといわれています。 
●天王信仰の総本社 津島神社 / 愛知県津島市  
弘法大師 訪問  
『お伊勢参らば津島へ参れ、津島参らば片参り』  
牛頭天王社と称された愛知県津島市にある津島神社は、欽明天皇元年(540)に創建された古社である。牛頭天王は元々、インドの祇園精舎の守護神であり、薬師如来の化身ともいわれているため、古来、津島神社には難病治癒の祈願に訪れる参拝客が全国から参詣した。  
言い伝えによると、弘法大師が訪れて以来、津島神社境内にあった神宮寺に薬師如来が祀られるようになったのだという。江戸時代末までは日本は神仏習合であったため、津島神社境内にも4つもの寺があった。現在、そのひとつであった宝寿院に薬師如来は安置されており、「厄け薬師」として親しまれている。  
全国に津島の天王信仰が広がった背景には、室町時代以来の津島御師の活躍があった。全国津々浦々を廻ってお礼の領布や祈祷などを行い、疫病退散の御神徳ある津島天王信仰を広めて檀那先を増やしていった。  
各地の農村で檀那が講を組んで、代表者が津島詣でをする際には、御師の家に宿泊した。御師の家では神楽や豪勢な酒宴で檀那方をもてなしていたという。今では布教活動をする御師は姿を消してしまったが、津島神社の社家のひとつで御師をしていた氷室家が、天王川公園の東側に保存されて残っている。  
天正19年(1591)に豊臣秀吉が寄付したと伝えられる楼門(東門)、徳川家康の4男で清洲城主だった松平忠吉の妻・政子が、夫の病弱を憂いて寄進した慶長10年(1605)の建立の本殿、それぞれが桃山様式を今に伝える建物として、国の重要文化財に指定されている。 
●岩屋寺奥之院(いわやじおくのいん) / 愛知県知多郡南知多町山海  
弘法大師 訪問  
知多半島内陸部の山間谷間に所在。霊亀元年(715)、元正天皇の勅命で建立されたと縁起にいう。  
弘法大師が当地を訪れ、ここは尾張の浄土であると述べて尾張高野山の通称を持つようになった。伝弘法大師使用の金銅仏具や一切経5463巻が国宝に指定され、他によくある弘法大師伝説とは一線を画すものがある。  
奥之院は岩窟であり、岩屋の名の由来と思われる。堂の背面が岩肌のまま剥き出しており、岩窟に半ば取り込まれている造りをしている。弘法大師は自らの像を身代大師と称し、尊像として奥之院に置いたという。  
現在でも奥之院は「参篭(おこもり)」の許可をもらうことが可能で、真剣な修業の場として利用する人がいる。 
●善福寺 / 愛知県新城市作手清岳池ノ坊  
弘法大師 伝説  
善福寺は推古天皇の時代に朝廷から「田源山善福寺」の称号をたまわり、後年、真済僧正が天長元年(824)に伽藍(がらん)を建て、「金輪山」と改められました。「作手」の名は、その真済僧正が弘法大師作と伝わる仏像の手を修理されたことからついたとも伝えられています。  
中興開山は真済僧正。弘法大師作と伝わる十一面観音の手が損失したのを、真済僧正が手を作り、作手の郷と改めた。善福寺の仁王門にあり、高さ2.8mの金剛力士像。木造寄木作りで、鎌倉時代の名仏師・運慶の作と伝えられています。 
●陀羅尼山 財賀寺 / 愛知県豊川市財賀町  
弘法大師 弘仁4年(813) 中興  
(ざいかじ) 神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により、行基菩薩開闢。弘法大師が弘仁4年(813)中興。最盛期には七堂伽藍を有し、山内外に数百の院坊を備えていました。源頼朝が平家討伐を祈願、そのお礼として八間四面の本堂ならびに仁王門を再建、寺領千三百石余を寄進されました。応仁年間の兵火により、二十余坊を残すのみとなりました。  
牧野古白が再建、以降、今川・徳川などの諸将の庇護をうけました。特に徳川家康は、朱印百六十石余、山林三十六町余を与え、当寺は十万石の大名と同じ格式を認められていました。 
財賀寺2  
創建の時期や事情は定かでないが、寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、神亀元年(724年)に行基が開いたとされ、弘仁4年(813年)、空海が中興したという。現存する金剛力士(仁王)像は平安時代後期、11世紀にさかのぼる作で、この頃にはかなりの寺観が整っていたものと思われる。平安時代末期には、没落した源氏の再興を期する源頼朝が、当寺の本尊に厄除けの祈願をし、宿願が叶って征夷大将軍となった頼朝は、建久3年に本堂を再建し、1300石余りの寺領を寄進してこれに報いたと伝える。  
三重塔や七堂伽藍を備え、多くの参詣者を呼んで隆盛を極めていたが、応仁の乱の際に、100余りあった院坊の大半が焼失。山外に擁していた数百の末寺も離散した。文明4年(1472年)、三河国宝飯郡周辺を治めていた牧野古白が現在地に再建。明応4年(1495年)には、奥院が建立された。以後、牧野氏をはじめ、今川氏や徳川氏の庇護を受けた。徳川家康は朱印160石余り、山林36町余りを寄進、これにより寺は10万石の格式に列した。  
明治時代に入ると廃仏毀釈に遭ったが、寺そのものの廃絶は辛くも免れた。  
創立当初は観音山の頂上にあったが、頼朝が再建した際に今の地に移された。文化8年(1811年)から文政6年(1823年)まで12年かけて、現在の場所に建てられた。 
●三河三弘法霊場  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 開創  
開創 弘仁年間(810-824) / 弘法大師が、現在の遍照院の場所で逗留の折に、自ら3体の像を彫って安置したことが始まり。霊場として最初から開かれたものではない。  
 札番 / 山・院・寺号 / 御本尊 / 弘法大師の通称 / 住所  
第1番 弘法山 遍照院 弘法大師 見返り弘法大師 愛知県知立市弘法町弘法山  
第2番 大仙山 西福寺 阿弥陀如来 見送り弘法大師 愛知県刈谷市一ツ木町字大師  
第3番 天目山 密蔵院 弥勒菩薩 流涕弘法大師 愛知県刈谷市一里山町南弘法 
 
岐阜県

 

●国分寺 / 岐阜県大垣市  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 第三世  
天平九年(737)、人皇四十五代聖武天皇様が、この尊い御仏の御教えを日本全土に広め、国民生活の安定と国運の隆昌を祈るため、古の国々に一ヵ寺あて、国分寺を建立しました。  
その国内の仏教伝道の先駆としようとの有難い御勅願によって、行基大僧正が勅を拝し、美濃国の国府、府中に近い青野ヶ原に来て、住民の除災招福を祈念し、自ら一刀三礼(一刀彫る度に三礼)、ケヤキの大木一本にて、一丈六尺(約4m)の薬師如来の尊像を彫刻して本尊となし、七町四面(東西231m、南北204m)の広大な境内に七堂大伽藍を建立し、仏教興隆の基盤、人心修養の根本道場とせられたお寺であります。  
当山開山行基大僧正は、伽藍の完成と仏法流布に専念せられ、天平十六年(744)奈良の良弁杉で有名な良弁僧正に第二世を譲られて、更に弘仁年間、真言宗祖弘法大師空海上人が当山第三世を継がれ、五ヶ月間法莚を開かれて「きゅうり加持」の秘法をのこされました。又その十大弟子の一人である智泉大徳に第四世を譲られるなど、当国最古の霊場であります。  
しかるにその後、幾度かの天災兵火のため、金銀山と称した程の壮麗な古堂や塔は、ことごとくその姿を失い、一時は荒野と化して、顧みる者もない有様でしたが、幸いかな本尊の薬師如来は土中に埋もれたままとなり、ようやく元和元年(1615)、真教上人という大徳が来られて、土中の御本尊を発見し、現在地に草ぶきの小堂を建て、その霊像を安置してから、美濃国総菩提所、総祈祷道場、魂の修養道場として、再び一国一寺の面影をとどむるにいたりました。  
本尊の薬師如来は、国の重要文化財で、ケヤキの一本づくりで出来ています。右手は「施無畏の印」で、凡ての人々の悩みを包みこむようであり、左手には薬壷を持ち、その壷からは、拝んだ人に合った薬を出してくださるといわれています。目は半眼で全てを見通すようであり、肉太の鼻、肉感的な分厚い唇、あふれるほどの慈顔で、人々に安心感を与え、化益霊験いよいよ日々にあらたかであります。 
●金生山 明星輪寺 / 岐阜県大垣市赤坂町  
弘法大師 再建  
持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686年)役の小角の創立にかかり七堂伽藍をはじめ一山五坊を創建し本尊虚空蔵菩薩を安置す。その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建修復す。このとき桓武天皇は勅願を下し封戸三百石を寄進された。久安四年雷火の為に伽藍残らずに焼失したが時の住僧は八方に手を尽くし復興を図って本堂その他諸堂は再建されたが、塔は再建出来なかった。その後、慶長十四年美濃高須の城主徳永法院壽昌公は本堂はじめ諸堂を再建された。江戸時代に入って大垣藩主戸田家は代々祈祷所と定め帰依し保護す、明治維新を迎えて新時代信仰の対象として広く一般参詣者を迎え法灯を今日に伝えております。 
●乙津寺(おっしんじ) / 岐阜県岐阜市  
弘法大師 弘仁4年(813) 開山  
岐阜県岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は瑞甲山(ずいこうさん)。通称「鏡島弘法」、「鏡島の弘法さん」。別名「梅寺」。正式名称より通称で呼ばれることが多い。  
伝承によれば、天平10年(738)、当時、乙津島と呼ばれていたこの地に、行基が草庵を築いたのが始まりという。弘仁4年(813)、嵯峨天皇の勅命を受けた空海がこの地に赴き、秘法を用いて龍神に向け鏡をかざしたところ、この地が桑畑に変わったという。このことからこの地を鏡島(かがしま)と名づけたという。翌年、真言宗乙津寺を建立。  
行基の草創、空海の再興という伝承は日本各地にみられるもので、史実とは考えがたいが、現存する本尊千手観音立像は平安時代前期にさかのぼる作品であり、寺の歴史の古さをうかがわせる。  
縁起  
天平10年(738)、行基菩薩が西の赤坂の浜から、東の各務野まで七里(28km)の中央にあった孤島、乙津島に着船され、仏法縁由の地と定められました。行基菩薩は自ら十一面千手観音像を彫られ、草庵一宇を建てられ安置されたのがこの寺の始まりと伝えられています。  
弘仁4年(813)、創建開山である弘法大師は、嵯峨天皇の勅命を受けて仏法を広めるため乙津島に着船されました。深穏(しんおん)な草庵の中には、行基菩薩が彫られた十一面千手観音像を拝むことができ、そばにいる白髪の翁(おきな)が、  
「私はここの年老いた船頭(現在、船歩大明神。乙津寺の鎮守)です。先に行基菩薩がこの島に来られ自ら十一面千手観音像を彫刻され、暫く草庵を結ばれましたが、縁が満ちてきたので速やかに伽藍を営みましょう」と告げられました。  
大師は秘法を尽し、ひたすら願うこと37日間、法鏡を龍神に向けられますと、たちまち蒼海が桑田になりました。大勢の人が集り、とても感動しました。この縁によってこの地を鏡島と言い、乙津寺の名称は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来しています。  
弘仁5年(814)の春、嵯峨天皇の勅命により、七堂伽藍、塔頭五ヶ寺、鎮守などがわずか三年で造営されました。大師は感嘆されまして、  
「神託どおりに、ついに宿願は達成されました。私はもう長くは、留錫(滞在)できないのです」とおっしゃいました。  
旅装支度されますと、たちまち僧や皆が集まり別れを悲しみました。大師が言われるには、  
「出逢った者は必ず別れなければならないが、別れを悲しまないでいつか又出逢えると思えば、お互いに楽しいではないか。みな励み勉めましょう。私はしばらくここに留まり、あなた達を導きましょう」と。  
大師は自ら弘法大師像を彫られました。そして、皆で開山堂を建て、大師の御影(像)を安置したのであります。大師は御堂の前に‘梅の杖’を植えて誓って言われました、「仏法この地に栄えれば、この杖に枝葉が栄えるだろう」と。  
不思議なことにこの‘梅の杖’は、たちまち枝が出て葉がなったので、世間に梅寺と知られるようになったのであります。  
弘法大師の自詠の歌  
さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ   
当寺に弘法大師42才自作の像あり。日本三躰除厄弘法の一に数えられ参拝者常に多し。  
梅寺の‘肖像大師正作’とあり。大師挿木の梅樹あるを以って、俗に梅寺といわれる。 
●小熊山 一乗寺 / 岐阜県羽島市  
弘法大師 弘仁10年(819) 建立  
岐阜県羽島市にある、弘仁10年(819)弘法大師空海の発願によって建立された寺。 戦国時代の騒乱から後は臨済宗です。一乗寺の歴史は古いのですが、残された資料がほぼありません。歴史については伝承の話が多いため、伝承と実際の話を照らし合わせながら書いています。略縁起には伝承を記載し、追記には検証を書いています。 
●池鏡山 円鏡寺 / 岐阜県本巣郡北方村  
弘法大師 弘仁二年(811) 開基  
(えんきょうじ) 池鏡山補陀落院  
定照寺/不動明王→円鏡寺/聖観音/永延二年  
日本三不動尊 
●龍王山 三光寺 / 岐阜県山県市富永  
弘法大師 駐錫  
伝承によれば、大同年間に弘法大師がこの地に滞在したことがはじまりとされ、江戸時代明暦年間(1656年頃)、春長律師が霊跡の再興を行っていた際、この地の武儀川(長良川支流)の渕で輝くものを見つける。村人とともに淵を探すと、薬師如来像、阿弥陀如来像、聖観音像の三体の仏像が埋もれていたという。これらの仏像を安置し、三光寺と名づけたという。 
●山王坊 / 岐阜県下呂市森  
弘法大師 巡錫  
千二百年前、弘法大師が全国巡錫の時に立ち寄りて、疫病に苦しむ人々の為に当山上にて、護摩壇を築き「病魔退散・身体健康」の祈願された山と伝えられ、古来より『弘法法山・身代わり大師の山』と人々に語り伝わる山に美濃国(関市)より昭和十四年に山王坊が移転建立され、弘法山・飛騨信貴山・山王坊となりました。  
毘沙門天さまを本尊として、弘法大師・聖徳太子・観世音菩薩・不動明王初め五大明王・四天王・七福神・四国八十八ヶ所をお祀りしており、特に大和の信貴山別院として平成四年十一月に本堂・研修道場等を奇跡と云われる二ヶ月二十五日間にて毘沙門尊天様の御加護により新築建立いたしました。  
『奇跡を起こす毘沙門天様』と人々に云われ、御利益を受ける信徒は遠近にかかわらず香灯の絶える事がないお詣りがあり、七病難除け・ほうろく灸お加持・商売繁盛・家内安全祈祷の御祈願の寺として信者の方々の御参詣のお寺です。 
●法華寺 / 岐阜県岐阜市三田洞  
弘法大師 弘仁七年(816) 開基  
昔から美濃三弘法の霊場として篤い信仰のある当山は、弘仁七年(816年)弘法大師が三田洞山中において法華経を講座された。時に嵯峨天皇の勅頼により堂舎を建立し、法華寺の号を下賜されたのが創まりと伝えている。更にこの地が天竺の景観に似ていたことから霊鷲山と称した。創建の期はここより約二kmほど奥の幽閉処に諸堂伽藍が在った。寛永年中(1620年)天災に次ぐ火災などに遭って、一時は廃虚と化した。当時の郡代石原清佐衛門が寺運を惜しみ、この地に寺領を移して再建し、高野山より空全和尚を招請し中興された。現在、旧寺跡には往時を忍ぶものを残している。 秘仏の見顧弘法大師像は弘法大師一刀三礼の作と伝え、容姿はやや右向きの坐像である。寺伝には遥か天竺を望むという。 
●円興寺 / 岐阜県大垣市  
弘法大師 巡錫  
延歴9年( 790)3月、伝教大師は東国教化のとき篠尾ヶ原(美濃国青墓)に立ち寄り、遠方に五色の雲が立ち昇っているのを見て奇異に思い、山間の渓谷を周っているとき老翁が出現し、大師に告げました。「我はこの地の地主神で白髭と称する者(現在当町内の鎮守の氏神として祀っている白髭明神)で大師の来るのを久しく待っていた。この地は仏法有縁の霊地であり、この篠尾ヶ原に赤栴檀の霊木がある。その霊木で仏像を彫刻して大衆を済度すべし」と言って西方へ立ち去りました。大師は大いに喜び霊木を探し聖観音の立像を彫刻、本尊として一山五坊三十六ヵ院の伽藍を建立しました。それが篠尾山円興寺です。その後弘法大師が巡錫の折、一寸八分の黄金仏を彫刻し本尊の頭上に安置して広く衆生をさとしたものです。俗に本尊を石上観音と言い、その縁起は天正2年(1574)織田信長によって、当寺は焼き討ちにあうが、不思議に本尊だけは谷間の石の上に難を避けたところからその名が伝えられています。こうして本寺は、兵火以後、往時の盛観を見ることもできなくなりました。しかし、関西屈指の古刹で、本堂には源氏一族の位牌や石塔等が残っています。その他朝長所持の刀、手鎗等も寺宝です。 
 
袈裟山 千光寺 / 岐阜県高山市丹生川町下保  
開山:両面宿儺(りょうめんすくな) 4世紀  
開基:真如親王(しんにょしんのう)(平城天皇皇太子・弘法大師十大弟子の一人)  
飛騨国千光寺は、縄文弥生の古え薫る仁徳天皇の御代、今から1600年前に飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山し、約1200年前に真如親王(弘法大師の十大弟子の一人)が建立された古刹です。さらに最近は「円空仏の寺」としても、その名は広く知られています。現在は高野山真言宗に属する密教寺院で、山岳仏教の修行の古風を現代に伝えています。  
海抜900mの袈裟山に広がる寺の境内には、大慈門の近くに「円空仏寺宝館」があり、館内には六十三体の円空仏と寺宝の一部が展示開放され、年間2〜3万人の拝観者が訪れます。千光寺は本堂や庫裡などの建物のみならず、袈裟山全体が信仰の対象となっております。   
歴史  
千光寺は1600年前、仁徳天皇の時代に、乗鞍山ろくに住んでいた両面宿儺が開山した霊山で、飛騨国一の古刹です。  
仏教の寺院としては、平安時代に、嵯峨天皇の皇子で弘法大師の十大弟子の一人、真如親王が当山に登山され、本尊千手観音を拝し、法華経一部八巻と二十五条袈裟が奉祀されていたことから袈裟山千光寺と名づけ、自ら開基になりました。  
それ以来高野山の末寺となり、「飛騨の高野山」とも呼ばれています。  
また、鎮護国家を祈祷する道場でもあったため、朝廷の帰依を受け、寺運は隆昌を極め、山上に19の院坊を持ち、飛騨国内に30ヶ寺の末寺を随えていました。  
更には、飛騨一宮神社の別当職でもあり、天皇御即位の際には、国家安穏玉体安穏、万民豊楽、諸人快楽を祈念して一位の笏木を献上してもいました。  
ところが、戦国時代に入り永禄7年(1564)、甲斐の武田軍勢が乱入し、全山炎に包まれてしまいます。そして、諸伽藍はもちろん末寺まで、並びに数万の経典儀軌等も悉く灰燼に帰してしまいました。  
しかし、本尊は守られ、その法灯は今も連綿として続いています。  
現在の堂宇は、天正15年(1589)、高山城主金森長近公が再興、建立したものです。また、7年に一度の本尊開帳法要があります。 
大寺山 願興寺 / 岐阜県可児郡御嵩町御嵩  
願興寺は、本尊に薬師如来を安置し、その薬師如来を中心とした仏教世界を構成する眷属が、一体も欠けることなく現在に残っている、美濃地域はもとより全国に誇れる天台宗の名刹である。可児薬師、蟹薬師、可児大寺と呼ばれ、古来より本尊薬師如来のご利益にすがる人々の信仰を集めている。  
寺伝によると、弘仁6年(815)に天台宗の開祖伝教大師(最澄)が東国布教のため、この地に錫を留められ、布施屋を造り、自生していた桜の枯木で薬師如来を彫刻安置し、仏の教えを説き、人々を救済したことが願興寺のはじめとされています。  
しかし、考古学的な知見で願興寺境内から出土する古代瓦、ことに鐙瓦(あぶみがわら「軒丸瓦」ともいう)から見るに、既に草庵的布施屋が建立されていたとされる時期よりおよそ100年以上その歴史は遡り、草庵ではなく伽藍が整備されていたことが判明されています。 
臥龍山修学院 高家寺(こうけじ) / 岐阜県各務原市那加北洞町  
飛騨古川に岐阜県最古の寺院が発掘されました。その寺院の名前は「高家寺」。奈良時代よりも以前の飛鳥時代に創建されたと考えられています。実際は「たきへでら」と呼んでいたようです。飛騨と美濃の違いはありますが、現在は岐阜県として一つになっています。その意味でも岐阜県最古の寺院の復興という願いを込めています。 
 
石川県

 

●倶利迦羅山 不動寺(通称・倶利迦羅不動寺) / 石川県河北郡津幡町  
弘法大師 弘仁3年(812) 開山 不動尊像を彫る  
倶利迦羅山不動寺は、今から約1,300年前の養老二年(718)、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿を彫刻された尊像を、元正天皇の勅願により奉安された事が始まりと伝えられています。それから約100年後の弘仁三年(812)に、弘法大師が諸国を巡る途中で、不動明王を拝され、あまりの有難さに扉を閉められ、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として奉安されました。この時、別当山として長楽寺が開山されたといわれています。  
寿永二年(1183)の倶利伽羅源平合戦の際、兵火に遭い、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失しましたが、その後、源頼朝によって再興されました。戦国時代の天正年間(1573〜1592)には衰退し、廃寺同然となりましたが、江戸時代の寛永年間(1624〜1644)に秀雅上人が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、社殿の再建や寺領の寄進が行われ、寺運が再び隆盛しました。  
江戸末期の天保七年(1836)に門前の茶屋から出火し、山門や不動堂が焼失しました。再建されないまま明治維新を迎え、明治二年(1899)の明治政府による神仏分離令によって長楽寺は廃され、手向神社となりました。その当時の仏像類は、金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに譲渡されました。  
廃寺から50年後の昭和二十四年(1949)、高野山の金山穆韶大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、御本尊さまの御名から倶利迦羅山と号し、不動寺(通称、倶利伽羅不動寺)として復興されました。奥之院の不動堂は、旧高松小学校(現かほく市)の御真影奉安殿、本堂は旧金沢卯辰山忠魂祠堂を移築したものです。以後、次第に道路や寺観を整えられ、県内外から多数の参詣者がお詣りされます。 
●妙観院 / 石川県七尾市小島町  
弘法大師 観世音菩薩を刻む  
妙観院は七尾市の山の寺寺院群にあるお寺で高野山真言宗のお寺です。妙観院は珍しい「唐門づくり」の山門が印象的で七不思議の寺として知られています。妙観院は七尾城山から移転したと伝えられており、現在は国道249号線沿いにあり大正時代の終わりごろに干拓するまでは山門に海の波が打ち寄せられていたそうです。妙観院の岩肌などにその面影を残しています。全国でただ1つの竹に虎の釣り手の梵鐘は自由に撞く事ができます。妙観院は地元では子供達やご婦人たちに広く親しまれ、気軽に寄れる場所になっています。妙観院の本堂には鎌倉時代の2大仏師である快慶が作ったと思われる仏像をはじめ重要な仏像も多く、見学を希望すれば気軽に応じていただけます。33年に1度の御開帳が行われる妙観院の観世音菩薩は弘法大師が刻んだと言われてます。  
妙観院の七不思議  
第一 観世音菩薩像の不思議 / 昔は海に囲まれた小さな島で、弘法大師がこの島に流れついた観音経の書かれた1本の流木で聖観音様を彫りました。  
第二 竹に虎の吊り鐘の不思議 / 約300年前、願いがかなわず入水した女性が龍に化け釣り鐘を何度も海へひきずり込むので「龍虎相打つ」の故事にならい全国にただ1つの竹に虎の釣り手の鐘にりました。  
第三 弁財天の不思議 / 約300年前に敦賀の気比の宮大社の弁天堂が大波にさらわれ、弁天様がこの寺に流れ着きました。  
第四 そうめん不動尊の不思議 / 不動尊はお寺の忙しい時に住職に身を変えてお参りに来た人にそうめんをふるまったという言い伝えがあります。  
第五 夫婦岩の不思議 / 山門の横に左右から迫る岩が隙間をつくっており、左右の岩が相寄る姿を見ると家庭円満・子孫繁栄のご利益があるとされています。  
第六 底なし池の不思議 / 底なし池の中央には龍に化けた女が引きずり込んだ釣り鐘が入るくらいの縦穴があいていて、そのまま七尾湾へ通じていると伝えられています。  
第七 獅子岩と鼓岩の不思議 / 鼓岩を手のひらでたたくとボーンボーンという音が鳴り、手前の獅子岩が奥の鼓岩の音色に合わせて喜び舞うといいます。その音を聞くと頭痛が治るとも言われています。 
●吼木山 法住寺 / 珠洲市宝立町春日野  
弘法大師 弘仁初年(810) 開創  
吼木山(ほえぎざん)法住寺といいます。弘法大師・空海を開基(勿論伝説に過ぎませんが)とする真言宗高野山派の寺であり、開基年代は、大同元年に留錫、弘仁初年(810年)開創といわれています。  
寺の由来によると、空海は唐へ留学生として、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)のもとで、密教の修業をしていました。彼は恵果から、わずかの期間で密教弘法(ぐほう)の後継者として認められ、あまたの弟子の中から阿闍梨位を与えられます。その際、金剛界と胎蔵界の両部の伝法潅頂(でんぽうかんじょう)をうけ、密教伝来の三杵(さんしょ)を授けられました。入唐の目的を果たした空海が帰国しようと海岸に着いた時、空海を嫉む唐の僧たちが追いかけてきて、その三杵を奪い返そうとしました。そこで空海は東方を望んで「日域の地、密教有縁のところに湯来て、我を待つべし」と言って三杵を投げました。三杵は遠く飛び去り、そのうち五鈷杵は法住寺の桜の樹に、三鈷杵は高野山の松の樹に、独鈷杵は佐渡の小比叡山の柳の樹にかかりました。  
吼木山の桜にかかった五鈷杵は燦然と輝き、日夜朗々と法華経を唱えたので、当地の村人たちは大変不思議がりました。その後、空海が五鈷杵を求めて諸国を遍歴し、佐渡から船で能登に来る時に、今の見附島を目標にされて着岸されました。村人たちから不思議な桜の話を聞き、山中に分け入り当山のあたりで五鈷杵を見つけ、ここに一宇を創建されました。これが法住寺のいわれです。吼木山と号するのも、桜の木に掛かって経を吼えるように唱えていたことによります。  
山門の金剛力士像は、1996年の解体修理の際、体内の墨書銘から、1453(室町時代の享徳2)年に院派仏師の院勝と院超によって造像されたことが認められました。院勝と院超はともに京仏師と思われますが、おそらく造像後運んで来たものではなく、当地において制作されたと推察されてます。  
●見附島 / 石川県珠洲市  
弘法大師 由来  
弘法大師が佐渡から能登へ渡った時、最初に目についたことが名の由来と伝わる。高さ28mで、先端部分が突き出て島の形は、前進してくる軍艦に見えるため「軍艦島」とも呼ばれる。島までは岩礁が続いている。 
●徳田神社 / 石川県羽咋郡志賀町矢田  
弘法大師 弘仁3年(812) 来拝  
大宝3年3月17日、熊野本宮より勧請。土田荘六ヵ村の総社として崇敬。弘仁3年弘法大師来拝、阿弥陀仏、観世音、不動明王の三像を奉納されたと伝承。もと森山(もりさん)熊野社と称し、弘仁11年別当寺として安養寺円福院が建立、貞観元年一乗坊、常住院、吉祥坊、宝泉坊、文殊坊の五寺を建立、山号を森山と称し、神仏混淆廃止まで神仏両道の格式で奉仕。文治年間地頭職得田次郎章通が当地に居城。累代崇敬祈願所とし、神田を寄付、天正年間前田利家の領となり、元和7年藩主利光の代、草高12石5斗を社領となす。明治初年熊野神社と改称。同41年徳田の白山社、春日社を合祀し、現社名に改称。大正6年神饌幣帛料供進神社に指定。 
●白雉山 明泉寺 / 石川県鳳珠郡穴水町  
弘法大師 弘仁年間 修行  
白雉3年(652)に創始された、穴水町字明千寺にある真言宗の古刹。境内の石塔五重塔は、国指定重要文化財。また、境内には、弘法大師がこの地で修行したときに、空から降ってきて夜を照らしたと言われる明星石がある。  
孝徳天皇により勅願時と定められ弘仁年間には弘法大師の修行も伝えられています。平安時代の初期の本尊千手観音立像を始め丈六の阿弥陀如来坐像、木造では最大といわれる釈迦如来坐像、鉈彫りの阿弥陀如来立像、十二神将など多くの藤原時代の仏像が遺存することによって古代の明泉寺を偲ぶことができます。 
 
白山比盗_社 / 石川県白山市三宮町  
崇神天皇7年(前91) 創建  
白山信仰と白山比盗_社  
石川、福井、岐阜の3県にわたり高くそびえる白山は、古くから霊山信仰の聖地として仰がれてきました。ふもとに暮らす人々や遥かに秀麗な山容を望む平野部の人々にとって、白山は聖域であり、生活に不可欠な“命の水”を供給してくれる神々の座でした。  
やがて山への信仰は、登拝という形に変化し、山頂に至る登山道が開かれました。加賀(石川県)の登拝の拠点として御鎮座二千百年を越える当社は、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮です。  
歴史  
崇神天皇(すじんてんのう)7年(前91)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わります。応神天皇(おうじんてんのう)28年(297)には手取川の河畔「十八講河原」へ遷り(うつり)ましたが、氾濫のためしばしば社地が崩壊するので、霊亀2年(716)に手取川沿いの「安久濤の森」に遷座しました。文明12年(1480)の大火によって、40余りの堂塔伽藍がことごとく焼失し、末社三宮が鎮座していた現在地へ遷りました。  
天皇 / 年月 / 西暦年 / 記事  
崇神 7年 前91年 船岡山に白山の「まつりの庭」として白山比盗_社の社殿を創建。(白山大神宮御鎮座伝記)  
応神 28年 297年 手取川畔(十八講河原)に遷座。  
元正 霊亀2年 716年 手取川畔(安久濤の森)に遷座。  
養老元年6月18日 717年 泰澄白山登拝。(泰澄和尚伝)  
淳和 天長9年 832年 白山登拝の三馬場(加賀・越前・美濃)が開かれる。(白山之記)  
仁明 嘉祥元年 848年 勅により神殿仏閣が造立され、鎮護国家の道場と定められる。(白山之記)  
後朱雀 長久3年 1042年 白山噴火。(白山之記)  
近衛 久安3年4月28日 1147年 白山本宮が比叡山延暦寺の末寺となる。(白山本宮神主職次第)  
泰澄  
長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。  
泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。  
霊亀2年(716)、泰澄は夢で、虚空から現われた女神に、「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。  
白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。  
開山から8年後の神亀2年(725)には、白山山頂で奈良時代を代表する名僧行基と出会い、極楽での再会を約束したとも伝えられています。  
数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、神護景雲元年(767)に越知山で遷化。享年86歳でした。  
三馬場と禅定道  
もともと山は神の聖域として仰ぎ見る存在でしたが、6世紀に大陸から仏教が伝わると、山の霊気に触れ、超人的な力を身に付けようとする修行の場として開拓されていきました。  
白山においても、泰澄の開山後、山岳信仰の高まりから修験の霊場として登拝する修行僧が増え、修行登山路=「禅定道」として発展していきます。  
『白山記』(白山比盗_社所蔵)によれば、泰澄が白山を開山してからおよそ115年後の天長9年(832)には、加賀、越前、美濃に登拝の拠点となる「馬場」が開かれたと記されています。馬場という呼び方には、白山へ登る際、馬でそこまで行き、馬をつなぎとめておいた場所、あるいは馬がそれ以上進めない神域への入口だからそう呼ばれたという説が残っています。  
加賀馬場(石川県)の中心が現在の白山比盗_社、越前馬場(福井県)は現在の平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)、美濃馬場(岐阜県)が現在の長滝白山神社で、山伏のみならず白山の水の恵みを受けて生活する農民から霊峰に憧れる都人まで、多くの人が馬場から白山を目指しました。 
石川県  
倶利迦羅不動寺西之坊鳳凰殿  
津幡町倶利伽羅の道の駅「倶利伽羅源平の郷」の裏手に、倶利迦羅不動寺西之坊鳳凰殿(にしのぼうほうおうでん)があります。倶利迦羅不動寺にはかつて、弘法大師(こうぼうだいし)が建てたとされる七堂伽藍(しちどうがらん)と十二ヶ寺が建立されており、その復興事業の1つとして、1998(平成10)年10月10日に西之坊鳳凰殿が建てられました。台湾ヒノキを用いた左右75mもある壮大な木造建築は、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れ、荘厳優雅な雰囲気を漂わせています。  
中央の三仏堂では、倶利迦羅不動尊と同体の本尊を中心に、御前立(おまえだち)不動尊の両童子(りょうどうじ=不動尊の左右に立つこんがら童子とせいたか童子のこと)が祀(まつ)られています。右側の不動堂には、弘法大師が唐より帰られる際に、大嵐に遭い、不動尊に祈願されたところ、難を免れたという波切(なみきり)不動尊が安置され、交通安全祈祷殿とも呼ばれています。左側は阿弥陀堂といい、阿弥陀如来(あみだにょらい)が主尊となって、観音菩薩(かんのんぼさつ)などが祀られています。  
鳳凰殿の境内には、春になると、色とりどりのツツジやボタンの花が見事に咲き誇る庭園があります。また、裏山には弥生時代末期の七野墳墓群(しちのふんぼぐん)があります。  
万灯会(まんとうえ) / 石川県河北郡津幡町字竹橋  
毎年8月15日には、先祖への供養として「万灯会(まんとうえ)」が営まれます。境内一杯に灯籠(とうろう)や灯明(とうみょう)が灯され、鳳凰殿全体が幻想的な世界に包まれます。  
万灯会とは、有名な仏教説話「貧女の一灯(ひんにょのいっとう)」に由来します。仏様のお供えとして、貧しい女性が自らの大切な髪を断ち切り、灯明として捧げた一灯は、強風で他の灯明がほとんど消えてしまったにもかかわらず、女性の灯明だけは燃え続けました。  
同寺境内の食堂では、倶利伽羅名物「倶利迦羅そば」をご賞味いただけます。  
倶利迦羅不動寺 / 石川県河北郡津幡町字倶利伽羅  
石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠には、約1300年の歴史を持つ倶利迦羅不動寺(山頂本堂)があります。成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つとして知られ、縁日の28日には県内外から多数の参詣者が訪れます。地名にもなっている「倶利迦羅」は、「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来します。  
倶利迦羅不動寺の創建は、718(養老2)年に元正(げんしょう)天皇の勅願により、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師が倶利迦羅不動明王(ふどうみょうおう)の姿をそのまま彫刻し、奉安したのが始まりと伝えられています。この本尊が安置された奥之院は3年に1度開扉され、大法要が営まれます。  
それから約100年後の812(弘仁3)年に、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡る途中で、不動明王を拝まれ、あまりの有難さに扉を閉めると、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として安置されました。この時、別当寺(べっとうじ)として長楽寺(ちょらくじ)が開山されたといわれています。その後、不動信仰の長楽寺と「手向(たむけ)の神」を祀(まつ)る手向神社が習合していったと考えられます。この「御前立不動尊」は現在、本堂に安置されています。  
1183(寿永2)年の倶利伽羅源平合戦の際、兵火に遭い、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失しましたが、その後、源頼朝(みなもとのよりとも)によって再興されました。戦国時代の天正年間(1573〜1592)には衰退し、廃寺同然となりましたが、江戸時代の寛永年間(1624〜1644年)に秀雅上人(しゅうがしょうにん)が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、社殿の再建や寺領の寄進が行われ、寺運が再び隆盛しました。  
江戸末期の1836(天保7)年に門前の茶屋から出火し、山門や不動堂が焼失しました。再建されないまま明治維新を迎え、1899(明治2)年に明治政府の神仏分離令によって、長楽寺は廃され、手向(たむけ)神社となりました。その当時の仏像類は金沢市の宝集寺(ほうしゅうじ)、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵(せんしゅうあん)などに譲渡されました。  
廃寺から50年後の1949(昭和24)年に、高野山の金山穆韶(かなやま・ぼくしょう)大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利迦羅不動寺として復興されました。奥の院の不動堂は、旧高松小学校(現かほく市)の御真影奉安殿(ごしんえいほうあんでん)、本堂は旧金沢卯辰山忠魂祠堂(ちゅうこんしどう)を移築したものです。以後、次第に道路や寺観を整えて、現在に至っています。  
1998(平成10)年10月10日には、倶利迦羅不動寺の西之坊鳳凰殿(にしのぼうほうおうでん)が竹橋(たけのはし)地区に復興されました。平安時代の寝殿造りの様式を取り入れた、左右75mの壮大な木造建築となっています。  
境内にはかつての長楽寺跡を始め、同寺には津幡町指定の文化財が数多く残っています。また、倶利伽羅峠の沿道から移された三十三観音の4体、「おまん伝説」のおまん地蔵も境内に安置されています。  
広済寺の聖徳太子像 / 石川県河北郡津幡町字領家  
津幡町英田(あがた)地区の領家(りょうけ)区にある広済寺(こうさいじ)には、聖徳太子にまつわる伝説が残っています。現在は修正会(1月1日)と太子御忌(たいしぎょき=3月21・22日)にご開帳があり、この聖徳太子像を見ることができます。  
その昔、弘法大師(こうぼうだいし)が石動(いするぎ)山を越えた時、竜燈(りゅうとう=神社に捧げる灯明)が古い松にかかって、如来様の姿が雲の間に現れました。そこで、太師はお堂を建て、大日如来(だいにちにょらい)を安置して、2年間そこに滞まり、その間に聖徳太子2歳の像を彫られたといわれています。  
1584(天正12)年、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が能登の末森城攻略に敗退しての帰途、広済寺を焼き払ったにもかかわらず、焼け跡を探してみると、太子の木像には燃えた所は少しもなく、微笑んで立っておられたそうです。  
また、太子像を金沢へ移したところが、五穀(米・麦・粟・豆・黍または稗のこと)が実らなくなったので、村人たちが本山・本願寺に訴えて太子像を村に返してもらえるように願い出たところ、豊作が続いたそうです。  
ある時は、悪さをする者が太子像を盗み出して一晩中走ったけれども、夜明けの鐘に驚いて自分のいるところをよく見ると、御堂の前であったので恐ろしくなって、太子像を捨てて逃げ去ったそうです(英田地区の伝説「聖徳太子像」の話より引用)。  
一説によると、この聖徳太子像に順徳上皇(じゅんとくじょうこう)にまつわる伝説も残っています。順徳上皇が佐渡に流される途中、大しけに逢った際に、弘法太師が彫ったこの聖徳太子像が光明を放ち、上皇を王崎(現在のかほく市大崎)の浜に導き、上皇の命を助けたと伝えられています。その後3年間、上皇が滞在した地が現在の御門(みかど)で、広済寺がある領家の地名は、上皇の供奉(ぐぶ=お供)の住居があったことに由来します。  
笠谷地区の吉倉区にある聖徳山光楽寺(しょうとくざんこうがくじ)にも、同様の聖徳太子にまつわる伝説が残っています。 
 
富山県  

 

●福王寺 / 富山県射水市加茂中部  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 創建  
弘仁年間(810〜824)、弘法大師が北陸巡錫の際に創建した真言宗の古刹。本堂内には一本の木から彫った一木造の仏像(県指定文化財)3躯を安置。なかでも高さ160cmの不動明王立像は兵火を免れて今日に伝わる価値あるもの。阿弥陀如来座像は、県内では珍しい来迎形の坐像である。 
●穴の谷霊場 / 富山県上市町黒川  
弘法大師 ゆかりの地  
弘法大師ゆかりの地である穴の谷は、古くから修験者たちの修行の場としての霊場であった。現在は万病に効くといわれる霊水を求めて、全国各地から参詣者が訪れている。穴の谷は砂岩と粘板岩でできた3つの洞窟からなり、薬師如来の祭られた第一の洞窟の右手から湧き出ているのが穴の谷の霊水。環境庁選定名水百選の一つでもある。 
●剱岳 / 富山県上市町・立山町  
弘法大師 伝説  
飛騨山脈(北アルプス)北部の立山連峰にある標高2,999mの山。富山県の上市町と立山町にまたがる。中部山岳国立公園内にあり、山域はその特別保護地区になっている。日本百名山および新日本百名山に選定されている。立山とならび、日本では数少ない、氷河の現存する山である。  
弘法大師が草鞋千足(三千足または六千足ともいう)を費やしても登頂できなかった、という伝説がある。近代登山としての歴史は浅いが、古くから不動明王として崇拝され、信仰対象として修験者に登られていた。明確な記録に残る初登頂は、陸軍参謀本部陸地測量部の測量官、柴崎芳太郎麾下の測量隊によるものである。 
●寶林山 福王寺 / 富山県射水市賀茂中部  
弘法大師 開基  
弘法大師の開基と傳え幾度もの戦火に遭い江戸期に中興したと云う。境内は唐破風を持つ本堂が建ち渡り廊下を造り不動堂が建ち次に観音堂が建つ。山門から茂み多く観音堂には茂みが重なる。
●護国寺 / 富山県下新川郡朝日町  
弘法大師 809年 創建  
弘法大師により809年に創建されたと伝えられる真言宗のお寺です。高台にある境内の池泉回遊式庭園から日本海を一望できます。別名シャクナゲ寺と呼ばれており、本堂裏の庭園に咲くシャクナゲ(4月下旬開花)とツツジ(5月上旬開花)が、とやま花の名所に選定されています。拝観料は不要ですが、お宅が敷地内にあるので、深夜・早朝の訪問は避けたほうが無難です。 
 
福井県

 

●三方石観世音 / 福井県若狭三方地区  
弘法大師 伝説  
福井県・若狭・三方地区にある 三方石観世音の本尊は 片手観音として有名で 弘法大師が一夜にして刻み昔から手足の不自由な人々にご利益があるとされています。御本尊の聖観世音菩薩は 弘法大師が一夜にして大きな花崗岩に刻まれ その際 朝を告げる鶏の声に 右手首より先を刻まずして下山された故に 片手観音とも伝えられています。  
石観世音菩薩由来記  
御本尊は一大花崗岩に刻まれたる 石観世音菩薩にて南面せらる。弘法大師一夜の御作にして 桓武天皇延暦年間の草創なりと言えば、大師入唐以前の作なりべし。大師若狭の地に遍歴せらるゝや 此地の風光明媚なるを愛でられ、此山に宿らるる。或夜霊像御彫刻中、妙法石上鶏鳴聞えたれば、僅に右手首より先を残して飄然下山せらる。故に片手観音なり。されば手足のさわりは元より、諸病に御霊験灼にして不可思議なる事実又多し。宣なるかな。各地より参詣者常に踵を絶たず、当山の諸建築什物等一として信者の寄付ならざるは無し。 
●弘法堂 / 福井県三方郡美浜町菅浜  
弘法大師 由来  
嶺南敦賀半島の西側付け根に位置する半農半漁の閑静な村落です。戸数は約120戸で人口約500人が暮らしています。昭和40年代原子力発電所の建設で道路は整備され、現在夏には関西・中京方面から多くの家族連れの海水浴客で賑わいます。  
昔から伝わる伝統行事も多く、人口が減少傾向にあるなかで大切に守っています。その中の一つに、6月2日の祭礼時の神輿巡行や、8月15 日の県無形民俗文化財に指定されている精霊船流しがあります。村の入り口には弘法大師由来の弘法堂や、中央山手の須可麻神社には神功皇后ゆかりの世永大明 神・麻気大明神が祀られています。長継寺には古い観音様も祀られ歴史を感じる事ができます。 
●気比神宮 / 福井県敦賀市曙町  
弘法大師 延歴23年(804) 参詣  
「桓武天皇延暦二十三年(八○四)八月二十八日空海当宮に詣で…嵯峨天皇弘仁七年(八一六)に復び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して鎮守の社とした」と同社の略記に記されている福井県にある気比神宮を訪ねてみました。  
北陸本線敦賀駅前より、北の方向に延びる商店街の二つ目の信号を右に折れて進むと、木立の中に鳥居が見えてきます。徒歩で約10分で気比神宮に到着。敦賀市街の真中に祀られています。ここは福井県敦賀市曙町、国名では越前国敦賀郡です。  
祭神 / 『日本書紀』に角鹿(敦賀)の笥飯大神とあります。別名を御食津大神とも称され、食物を司る神として崇敬されています。また敦賀湾の沿岸に鎮座しているところから、海上交通、漁業にもご神徳があると信じられています。明治28年気比神宮と神宮号に政名が許され、同年官幣大社に列せられました。  
弘法大師と気比神宮 / 拝殿の北側に約2m四方の脇社が一列に並んでいます。「九社の宮」と呼ばれ、その中に金神社があります。スサノオノ尊が祭神です。弘法大師が延歴23年この神社に詣でて、霊鏡を高野山に遷して鎮守の社としたといわれています。  
天野の丹生神社と丹生官省符神社 / 天野の丹生神社の天野祝(神主)については、『日本書紀』の「神功皇后記」に出ています。同記には、気比神宮のことも記してあります。丹生神社の末社は、北は北海道から南は九州まで各地に祭祀され、その数は二百八社といわれています。  
橋本市山田出身の丹生寿氏が全国の丹生神社を実地調査され、昭和62年『丹生神社を尋ねて』を出版しています。  
天野の丹生神社には、一宮…丹生明神(丹生都比売大神) 二宮…高野明神(高野御子大神)  
が祀られ、二宮の祭神は、もと狩場明神といわれました。弘法大師が高野山に入る前、狩人が狩をすると共に、丹生都比売大神を山の神として祀っていました。大師は山上に伽藍を建てる時、山の神に狩人も神として加え二柱にしたといわれます。これが天野社にも伝播し、その後、行勝上人が  
三宮…気比大神(大食都比売大神) 四宮…厳島大神(市杵島比売大神) を迎え、四社明神と呼ぶようになりました。  
慈尊院の丹生官省符神社は、官省符二十一ヵ村の総氏神です。祭神も天野の四社明神が勧請され主殿に鎮座しています。四社明神と共に、それ以前から祀られていた天照、八幡、春日の三神も合祀され、七社明神となりました。  
気比神宮の象徴である杓子は食物の分配する器具で、一家を切り盛りする主婦の象徴であるとされてきました。気比神宮の杓子は神宮の神徳を端的に表現し、親しみやすい神宮と感心しました。杓子の寸法は21cmで文字は焼印です。 
 
■近畿
三重県

 

●丹生大師 / 三重県多気郡多気町丹生  
弘法大師 弘仁4年(813) 来山  
弘法大師 42歳の自画像を刻んで安置  
当山は、正式には「女人高野丹生山神宮寺成就院」と言い、地元の皆様からは 「丹生大師」として親しまれております。  
草創の歴史を辿ってみますと、宝亀五年(774)弘法大師様の師匠である勤操大徳が開山され、その後時を経て、弘仁四年(813)弘法大師様が伊勢神宮御参拝の途中、この地を訪れた際に来山され、御自分の師の開創された寺である事を知られ、「我は高野の聖地に、真言密教の根本道場を創立する誓願を建てているが、まずこの地に諸堂を建立し、庶民の苦悩を救わん」と言われ、弘仁六年(815)に至って七堂伽藍を建立完備されたのであります。  
古くから「丹生水銀」 の産出地として富裕であったこの地は、中世に入ると一段と隆昌し、近世には「丹生の在家一千軒計り有りて民屋富みたる景気なり(勢陽雑記)」とある程になりました。また、寺も江戸時代中期頃には現在の寺観が整いました。  
大師堂の御本尊である「弘法大師像」は御大師様四十二歳の自画像で、寺院内の池に御姿が写され、「衆生の厄除と未来結縁」のために御大師様自らが刻まれて安置されたものです。二度の兵火にも無事免れ、今日なお霊験あらたかに御鎮座されています。  
 
『古代の朱』松田寿男著 伊勢の丹生大師の土釜から  
伊勢の丹生伊勢の丹生大師には水銀の蒸溜に用いられた土製の釜が保存されている。 この釜はいまから三百余年前に中国明朝の宋応星が著作した『天工開物』の丹青の項に見えている「升煉水銀」の図に見えるものと、ほとんど同じであるらしい。 『天工開物』の説明文は、はなはだ難解であるから、一般に向くように大意をつかんで訳すと、こうなる。  
およそ水銀を升錬するには、白味がかった品位の低い朱砂を用いる。これを水でこねて縄のようにし、とぐろをまかせ、三十斤ごとに一っの釜にいれる。 その上に別な一個の釜で蓋をし、その蓋釜の中央には小孔を残し、シックィで塗りかためる。 別に弓たりに曲った空管(パィプ)をその小孔にとりつけ、末縄までその空管に麻縄をビツシリとまきつけて、シツクイで塗る。  
炭火が燃えあがったときに、その空管の末端を水をいれた瓶中にさしこむ。すると釜中の蒸気はすべて水中に導かれる。 十時問のあいだ焼くと釜中の朱砂はすべて瓶中で水銀に変わる。  
二つの土釜を上下から合わせ、それに火熱を加え、生じた蒸気を水中に送りこむところに秘訣があり、明らかにエア・リダクシヨソではないか。 『天工開物』には見えていないが、下部の朱砂をいれた釜には小孔があいていたはずである。 それは丹生大師所蔵の蒸溜釜にはハツキリと認められるが、空気分解に必要た空気孔にほかならない。 この点から太古に遡って考えてみると、それこそ考古学で扱っている「はそう」であろう。  
「はそう」は醒と書く。古墳時代の須恵器の一種で、どれもがみな胴体がまるく、その球形の胴の中央都に一小孔があり、口縁が極端に広く作られているのが特色だ。 もちろん祭祀用と実用とが区別される。とにかく今日でも正体がわかっていない。私はこれを古代の水銀蒸溜器と解している。 だいいち胴の球体よりも口縁が広くつくられていることは、その上に蓋をしてシツカリと胴に密着させたことを思わせ、上部にのせた蓋釜には下部の胴体で気化したガスを水中に導く装置があったにちがいない。 胴体にあけられた小孔はもちろん空気孔である。  
福井市本堂町から出土したハソウは明らかに実用品として再三使用されたもので、高熱で作製され、内部には朱砂が残留していた。 祭事用のものは、これを薄手にして小形に作ってあって、ほとんど全国から出土している。 いうまでもなく形だけ模傲すればよいのだから、低熱で作られ、装飾的な要素も加えてあるし、火にかける胴の球体だげでは安定が悪いから、底部に細工したものも多い。 しかも、ハソウが実用にさかんに使用されていたからこそ祭具の一つに加えられたわげだ。 反対に実用品は用途が用途だげに、壊れたら捨てる式となりがちであるから、残されたものが少ないだけであろう。 
丹生大師2  
「丹生大師」は、774年、弘法大師の師とされる勤操大徳(ごんそうだいとく)によって開創。真言宗の古刹として知られています。本尊である弘法大師像は、42歳の自画像を刻んで安置したと伝えられています。 「姿見の池」と呼ばれる池がありますが、そこで自分の姿を水面に映して描き写したとされています。また、女性にも開放されていたことから「女人高野」ともいわれていました。  
「丹」は硫化水銀の赤土のこと。「丹生」は“丹”を生む土地、水銀を表す地名をあらわしています。丹生は、飛鳥時代から江戸時代まで水銀の産地として知られ、全国から商人や鉱夫が集まり繁栄していたのだそうです。当時、水銀は仏像のメッキに使われるなど貴重なものであったようです。  
水銀の生産地として栄えた丹生には水銀にまつわる神社もあります。「丹生神社」と「丹生中神社」。「丹生中神社」の祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)と金山姫命(かなやまひめのみこと)。この男女の神様は、金・銀・水銀など鉱山の神様です。水銀鉱で働く人々が信仰した神社です。 
丹生大師3 
弘法大師 弘仁6年(815) 七堂伽藍建立  
三重県多気郡勢和村にある丹生大師神宮寺は、774年(宝亀5年)に弘法大師の師である勤操大徳によって開かれたという古刹です。その後弘法大師も訪れ815年(弘仁6年)に七堂伽藍が建立、大師堂にある弘法大師像は本人が作った自画像なのだそうです。そんな弘法大師ゆかりの寺の仁王門から150mほどのところには「丹生大師の湯」(丹生温泉)という小さな温泉浴場があります。 
丹生温泉・丹生大師湯 / 三重県勢和村大字丹生  
(にゅうおんせん・にゅうだいしゆ) 三重県多気郡勢和村にある丹生大師神宮寺は、774年(宝亀5年)に弘法大師の師である勤操大徳によって開かれたという古刹です。その後弘法大師も訪れ815年(弘仁6年)に七堂伽藍が建立、大師堂にある弘法大師像は本人が作った自画像なのだそうです。そんな弘法大師ゆかりの寺の仁王門から150mほどのところには「丹生大師の湯」という小さな温泉浴場があります。
●神宮寺 / 三重県鈴鹿市稲生西  
弘法大師 伊勢神宮へ参拝時 修行  
行基が、天平時代に伊奈冨神社の境内に五重塔や仏堂を創建したことが始まりとされる。伊奈冨神社の別当寺として七堂伽藍が建てられた。空海(弘法大師)が伊勢神宮へ参拝の時に、神宮寺で大般若経600巻を書写する修行を行ったと伝えられている。 
神宮寺2 
三重県鈴鹿市にある、高野山真言宗の仏教寺院。山号は福満山、院号は慈心院。本尊は薬師如来。  
鈴鹿の神宮寺。行基が、天平時代に伊奈冨神社の境内に五重塔や仏堂を創建したことが始まりとされる。伊奈冨神社の別当寺として七堂伽藍が建てられた。空海(弘法大師)が伊勢神宮へ参拝の時に、神宮寺で大般若経600巻を書写する修行を行ったと伝えられている。後に織田信長の伊勢進攻の兵火によりに遭い焼失し、現在の地へ移されたそうだ。明治時代初頭に発令された神仏分離令により伊奈冨神社から独立した。そして1979年に本堂などが火災で焼失してしまい、現在の鉄筋コンクリートの本堂が再建されたとのこと。仏像などは、焼けずに無事だった。  
●金剛證寺 / 三重県伊勢市  
弘法大師 天長2年(825) 修行  
金剛證寺の創建は欽明時代の御代(6世紀後半)、暁台上人によって開かれたと伝えられています。天長二年(825)弘法大師空海が真言密教の根本道場を建て本尊に福威知満虚空蔵菩薩を祀り勝峰山兜率院金剛證寺と称しました。弘法大師空海は当山において虚空蔵求聞持法を修したと伝えられています。その後、無住の時代が続き、明徳二年(1392)鎌倉建長寺五世仏地禅師が入山し寺の再興に努めました。仏地禅師は中興の祖と仰がれ、真言宗から臨済宗に改宗され、臨済宗南禅寺派のお寺となりました。慶長二年(1597)と慶長十三年(1609)にわたり火災にあいましたが、徳川家康は慶長十四年(1610)姫路城主池田輝政に命じ本堂摩尼殿を再興させました。その後もまた文化元年(1804)と明治二十年(1887)とに火災にあい、多くの堂宇を失いました。現存する建物は、江戸時代の摩尼殿、法務寮、求聞持堂、雨宝堂、望海院、与楽院、呑海院、孝源院等であります。  
太鼓橋  
急な石段を登り、室町時代の建築様式を模したという仁王門をくぐると、鎌倉建築様式の鐘楼と右手に暁台上人の伝説や弘法大師が造った伝えられる連珠池があり、池の中頃には赤く塗られた太鼓橋が架けられています。この橋は聖地と俗界との結界を表しています。この橋の特徴は橋脚が池の底に固定していないのが特徴ですのでよくご覧ください。池には沢山の鯉が飼われ、華麗なる睡蓮の花が五月中旬から九月にかけて咲き、対岸には弘法大師が天照大神十六才のお姿を感得して刻み込んだと伝えられる、雨宝童子を祀る中山神社社が建っています。社殿の屋根は檜皮葺で全体を覆屋で覆われています。特に社殿の虹梁上の「カエルマタ」などは室町時代の特色を表しています。正長元年(1428)内宮禰宜荒木田守房が撤下された神宮の御神宝双鳳鑑(瑞花双鳳八稜鏡)を雨宝童子尊前に奉納せられ、これによって神宮との関係が深まったと云われています。  
求聞持堂  
朝熊岳縁起によりますと、天長元年(824)弘法大師空海が大和鳴川の善根寺で御本尊の虚空蔵菩薩の仏前で、呪文を唱え見聞したことを記憶して念ずる法、求聞持法を修したとされています。満願の日の明け方に空から一童子が下りてきて「伊勢国朝熊嶽」で修行するように諭されました。翌年朝熊嶽に来たり金剛證寺を建立したと記されています。このお堂は求聞持法を修行するお堂で、代々の住職が修行します。その方法は口伝とされ明治時代まで行われたと聞いております。また、お堂の建築方法は満願の日の明け方にお堂の窓から朝日と明星(金星)の光りが射し込むように設計されていると云われています。昔の人は明王院でお願いすれば求聞持法の行を代行していたとも聞いております。 
●丸山庫蔵寺 / 鳥羽市河内町  
弘法大師 (826) 開山  
地元の人から「丸山さん」の愛称で知られ「子育て寺」ともいわれる弘法大師ゆかりの寺「丸山庫蔵寺(まるやまこぞうじ)」で11月11日、13歳の子どもの成長を祝い、知恵と幸福、健康を願う「十三(じゅうさん)参り」が開催される。  
「十三参り」とは、生まれた年の干支(えと)が初めて巡ってくる年、数え年13歳の男子・女子が虚空蔵菩薩(ぼさつ)に参り、知恵と福徳、健康を授けてもらうことをいい、昔から「知恵もうで」「知恵もらい」ともいわれ、立派な大人になるようにと願う風習のこと。  
丸興山(がんこうざん)庫蔵寺とも呼ばれる同寺は、朝熊山金剛証寺(伊勢市朝熊町)の奥の院として826年に弘法大師が虚空蔵菩薩を祭り開山したとされる。1322年雲海上人によって中興、天正年間には九鬼嘉隆が鳥羽城築城の地鎮と安全の祈願を命じた古刹(こさつ)。1561年建立の本堂は1920(大正9)年に国の重要文化財の指定を受けた。推定樹齢400年以上で全国に2本だけしかないというコツブガヤの巨木が本堂前にそびえ、1993年には国の天然記念物の指定を受けた。  
同寺の矢野隆淳住職は「高校受験の準備期間とも重なるため知恵を授けてもらう合格祈願に。お子さまの満年齢にかかわらず、気軽に参加いただければ」と呼び掛ける。 
●妙法山 瑞巌寺 / 三重県松阪市岩内町  
弘法大師 開基  
瑞巌寺は三重県松阪市岩内町(ようちちょう)にある浄土宗知恩院派の仏教寺院。地名を冠して岩内瑞巌寺とも称する。山号は妙法山。本尊は石仏十一面観音菩薩。堀坂山麓にあり、境内を観音川が流れている。境内の庭園は「瑞巖寺庭園」の名で三重県指定名勝となっている。空海(弘法大師)の開基と伝えられ、真言宗の寺として始まる。  
松坂の市街から車でものの20分も走ると、ちょっとした深山の景色になってくる。瑞巌寺のたたずまいは、そんな渓谷の中ほどにある。境内の真ん中を流れる観音川、背後の山を観音岳と呼び、付近は古くから密教の修行の場となっているというから、その雰囲気も密やかなものだ。  
瑞巌寺の開基は弘法大師と伝えられ、元は真言宗の寺であったが、戦乱や大地震で荒廃していたのを、江戸中期に知恩院から来た門超上人という僧が復興し、以後、浄土宗の寺として栄えてきた。  
川の崖上に建てられた本堂内に仏さまの姿はなく、正面に丸い穴が開いている。よく見ると対岸の崖にお顔だけが浮き出ている仏さまが拝めるが、この仏さまこそ、寺が守る弘法大師作の十一面観音の姿。一時は姿を隠していたが、門超上人ら一行が紫雲たなびくこの地を訪れた際に、念仏を唱えると一夜にしてそのお顔が、岩肌に現れたと伝えられている。 境内には川の水をせき止めて作った鏡池、小高い山に三重の塔、伊勢湾を借景に弁天堂や数々の神仏がまつられる庭園などが自然の地形を利用して配されているが、これも観音さまのお告げで作られたもので、15年の歳月と多くの寄進で文化9年(1812)に完成したという。  
寺の名物に紫蘇飯(しそめし)があるが、これは紀州藩主がこの地を訪れたときに、住職がもてなしのために、乾燥させた紫蘇の粉をまぜたご飯を出したところ大変よろこばれ、「これを寺の名物にせよ」との言葉をもらったことに始まるという。 
●神護山 青龍寺 / 三重県四日市市水沢町  
弘法大師 巡錫  
弘法大師の伝説は全国に多くあるが、青龍寺のある水沢町にも弘法大師諸国巡錫時の伝説や物語が残っており、豊かな自然の中に有形・無形の文化遺産がある。三重県四日市市の中心部から、西へ約15kmに位置し、鈴鹿山脈麓の丘陵地に広がる農村地域であるとともに、鈴鹿国定公園にも隣接し、「宮妻峡」や「もみじ谷」といった 素晴らしい景観と自然環境に恵まれた地でもある。「弘法井戸」「弘法杉」と呼ばれるものがあったり、「不動滝」「中の滝」「大滝」「二段滝」と呼ばれる滝があり、ここにも弘法大師の伝説が色濃く残っている。「水晶山」や「鉱山跡」と呼ばれる場所では、実地調査や文献調査等で「水晶の採掘」や「水沢町の自然水銀」のことが多く見受けられ、古い文献により山伏の「修験の里」であったことが分かっている。鈴鹿連峰の「雲母峰」の麓の扇状地一面に茶園が広がる県下でも有数の茶産地であり、四日市市茶業の発祥の地ともいわれ、市の史跡にも指定されている「冠山茶の木原」があり、 弘法大師がお茶を伝えたのが始まりと伝説になっている。  
水沢鉱山  
四日市市水沢町の宮妻峽を上ったところにあり、古代には集団が住み水銀を掘っていたといわれている。その当時、鉱害はあったようで、文献によると廃鉱になったが、明治六年に再び採掘されたが、続かなったと記されている。水晶等品質はすこぶる良いと記されている。鉱床は、マグマが上昇し冷やされたれた時に地表付近で辰砂と自然水銀ができた。  
楓谷〈もみじ谷〉  
三重県三重郡誌、名所の項に、楓谷として、次のように記されている。「水沢村字山の坊にあり、奮城主土方氏の観楓所にして、秋霜一たび到らば梢頭錦を飾り、渓流其の間を縫曲して景の愛すべきものあり、雅客の杖を曳くもの不鮮四日市駅より四里余」江戸時代の水沢は、菰野藩の領下であったため、代々の菰野藩主土方侯が領内巡視を兼ねて、毎年春秋には楓谷に遊山したと言われる。最初に紅葉狩りを始めたのは元禄年(1688-1704)に、三代藩主土方雄豊だと言われている。その後も歴代の藩主が領内の景勝地の保護につとめ、殊に第九代藩主の土方義苗候は、領内の沿道筋の松、杉、桜、楓の伐採を禁止するなどして、自然保護に尽力したということである。特に文化六年(1809)には、山の坊の小さな谷を整理し、楓樹だけを残して楓渓と命名した。風光明媚な楓谷は、その昔から文人墨客が数多く訪れ、数々の名歌が残されている。毎年11月下旬より12月上旬に「水沢もみじまつり」が行われる。もみじ谷一帯には、古木と若木約350本があり、カラフルな紅葉は訪れる人たちをうっとりさせる。期間中は午後5時から9時までライトアップをして土曜、日曜、祝日は模擬店もある。  
弘法井戸  
青龍寺を東に下った所に、弘法井戸がある。昔、この地に長い間雨が降らず、水がかれて、飲み水もままならない時があった。村人達が大変困惑していたとき、弘法大師が諸国を巡られている途中、このあたりに立ち寄られて、水を求められた。村人は大師に水はさしあけたいが、飲み水もなく、さしあげることができないと申し上げると、大師は不憫に思われて、もっていた錫杖で、ドンと地面を突きさした。そうすると、そこから、こんこんと清水が湧きだし、井戸のようになった。村人達は大喜びで、それ以後、この地を「弘法井戸」と呼び、弘法大師の遺徳を称えている。今日に至るも、この井戸の水は、かれたことがない。こんこんと湧き出る清水は、周辺の住民の使い水として、特に重宝がられており、現在も生活用水として、付近の人々に活用されている。足見田神社の沿革によれば「正安三年(1301)正月七日足見田神社の神託によって、地神社と天神社の間一町会(120m)その中間に「真名井」(真ん中の井という意味)あり、空海法師(弘法大師)の封賜う、霊水なりというと書かれている。  
弘法杉  
こんもりとした大きな杉の木がある。現在は周囲が茶畑であるが、昭和五十年(1975)ごろまでは全部水田であった。田んぼの中の杉の木、これが弘法杉である。昔、弘法大師が諸国を巡られた時、このあたりで昼時となり、大師は杉の技で作った箸で昼飯を召し上がった。その後で、箸を泉のほとりの地面に突きさしておかれたが、やがて、その杉の箸に根がついて芽が吹き、大きな木に成長したもので、土地の人々は「弘法杉」と呼んでいる。このように伝説のある弘法杉の木には、いまだに誰も登ったことがないし、もちろん技を切ったりすることもなく、こんもりと茂っている。しかし、鈴鹿おろしのきびしい風に吹かれて、近年東寄りにやや傾く気配に、心ある人の発案により、地区の人々が平成四年(1992)正月、杉の木の周囲を石垣で囲み、傾かないように補強をして、保存に努めている。 
●神宝山法皇院 大福田寺 / 三重県桑名市大字東方  
弘法大師 天長年間(824〜34) 巡錫  
当山は古くは伊勢山田にあり、聖徳太子の草創と伝えています。天武・持統天皇並びに聖武天皇の行幸を受け、伊勢神宮の神宮寺として大神宮寺と号していました。天長年間(824〜34)弘法大師が当寺において三密の法を修したことにより、真言道場となりました。淳和天皇の時、勅願寺となり、宇多天皇の行幸の際に方丈を行宮とし、以後、法皇院と号しました。永承7年(1052)後冷泉天皇が伊勢神宮奉幣の際に一千僧勅会の読経を催しました。その後も明治初年まで代々の天皇の勅願所、皇室の祈願所として栄え、菊の御紋章を許されました。 
●伊奈富神社 / 三重県鈴鹿市稲生西  
弘法大師 天長年間(824〜34) 参籠  
【祭神】保食神大国道命 (合祀)豊宇賀能売命 稚産霊神 鳴雷光神 大山祇命  
『皇大神宮引付』稲生神 / 『勢陽雑記』『神名帳考証』『三國地誌』』那江大國道命、地主姫命、雷電神 / 『神名帳考証』『大日本史神祇志』那江大国道命、地主姫命、雷電神 / 『神名帳考証再考』『勢陽五鈴遺響』『延喜式神名帳僻案集』保食神  
保食大神は一切の食物をつかさどられ、ことに私たちの命の根本たる稲の生産豊穣を守護される神様であります。また、大神様は豊受大神(外宮)、稲荷大神と同神で、その御神徳の及ぶところ広大無辺にして五穀豊穣、諸業繁栄(商売繁盛)、家内安全、厄除開運、良縁成就、学業成就、病気平癒等の御霊験あらたかな大神様であります。  
由緒 / 当神社は社伝によれば、神代、東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、霊夢の神告により崇神天皇五年勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路ケ岡に大宮・西宮・三大神を鎮祭されました。その後仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、雄略天皇五年には数種の幣物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の御神号を賜わりました。降って奈良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、七島池を一夜にして造られたと伝えられております。貞観7(865)年4月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列しております。当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積でありました。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永11(1274)年3社に勅額を賜わりました。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信厚く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田二百二十町歩、北畠国司は社領千石御供田十二段を寄進せられ、また江戸時代元文年間には、紀伊徳川家より造営料銀二十二貫を賜わり、三社の大造営をなしております。明治6年郷社、同37年県社に列せられ、戦後この制度は廃止され現在に至っております。 
 
奈良県

 

●仏隆寺 (奈良県宇陀市) / 仏隆寺のサクラの巨樹(奈良県指定天然記念物) 茶臼- 空海が唐から持ち帰ったと伝えられる。  
●石上神宮 (奈良県天理市) / 空海については、東寺にも石上神社があることから関係が注目される。  
●室生寺 (奈良県宇陀市) / 天武天皇9年(680)、役小角(えんのおづぬ、役行者)の草創、空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と思われる。  
●大野寺 (奈良県宇陀市) / 役小角は修験道の開祖とされる伝説的要素の多い人物であり、空海が堂を建立との話も創建を宗祖に仮託した伝承とされており1、創建の正確な経緯は不明である。  
●十輪院 (奈良県奈良市) / 弘法大師(空海)の創建とも伝え、創建の正確な時期については不明。  
●岡寺 (奈良県高市郡明日香村) / 本堂 楼門 弘法大師像−鎌倉時代、絹本着色 扁額−鎌倉時代、弘法大師筆とされる。  
●芸亭 (奈良県奈良市) / 天長5年(829) 空海が綜芸種智院を設置した際に書かれた「綜芸種智院式」の文中に、自分の学校の先駆として吉備真備の「二教院」とともに石上宅嗣の「芸亭院」を挙げたうえで、芸亭の現状を「始めありて終りなく、人去って跡あれたり」と記しており、この時には既に消滅していたことが窺える。  
●小辺路 (奈良県吉野郡野迫川村) / 小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。  
●宝山寺 (奈良県生駒市) / 生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。  
●帯解寺 (奈良県奈良市) / 元は霊松庵といい、空海の師である勤操大徳によって開かれた巌渕千坊の一つであったという。  
●戒長寺 (奈良県宇陀市) / 聖徳太子が建立し、後に空海(弘法大師)が修業したと伝わる。  
●天河大弁財天社 (奈良県吉野郡天川村) / 弘法大師が高野山の開山に先立って大峯山で修行し、最大の行場が天河神社であった。  
●益田岩船 (奈良県橿原市) / 益田池の造築を讃えた、弘法大師の書による巨大な石碑の台石 最も古くからある説で、上にのっていた碑は高取城築造のさいに石垣をつくるための用材として破砕されたという伝説がある。  
●東大寺 / 奈良県奈良市雑司町  
弘法大師 延歴22年(803) 戒壇院で受戒  
空海と東大寺の関係は深く、延歴22年(803)に戒壇院で受戒したといわれている。当時は東大寺、観世音寺、下野薬師寺の戒壇のいずれかで受戒しなければ、正式な僧侶と認められなかった。空海は唐から帰国後の弘仁13年(822)2月、大仏殿前に真言院(灌頂道場)を建立するように命ぜられた。六宗兼学の寺で南都を代表する東大寺に、密教が本格的に受け入れられる端緒となった。日本最古の梵鐘がある。 
●大安寺 / 奈良県奈良市大安寺  
弘法大師 出家 / 天長6年(829)に別当に任ぜられる  
仏門の世界に空海が入ることになったきっかけとなった虚空蔵求聞持法について、『三教指帰』のなかで「ここに一人の沙門あり。余に虚空蔵求聞持法をしめす」とあるが、この沙門が大安寺の僧・勤操であるといわれてきた。 これは勤操から一代前の師である道慈(どうじ)が、唐から虚空蔵求聞持法を持ち帰ったと伝えられているためである。空海は大安寺の僧として出家したと伝えられ、唐から帰国後、天長6年(829)に別当に任ぜられたともいう。
●久米寺 / 奈良県橿原市久米町  
弘法大師 唐へ渡ろうと決心  
聖徳太子の弟・来目皇子の祈願のために推古天皇が建立したと伝えられる久米寺。空海が夢のお告げで、大日経(密教の根本経典)を発見したのが、久米寺の東塔であるといわれる。 空海は経巻を読もうとしたものの、梵語の発音を漢字に置き換えた部分が少なかったため、全てを理解することは難しく、これを機に唐へ渡ろうと決心したもいわれる。現在は塔の礎石のみが残っている。戒壇堂は江戸時代に再建されました。
●長谷寺 / 奈良県桜井市初瀬  
朱鳥元年(686) 開創 真言宗豊山派総本山  
長谷寺は、朱鳥元年(686) 開創の古い歴史を持つ寺院で、弘法大師空海を祖とする真言宗豊山派の総本山であるとともに、西国三十三所観音霊場の第八番札所に指定されています。本尊は、神亀4年(727)に聖武天皇の勅願によって建立された十一面観世音菩薩で、身の丈10mを超える大きさを誇っています。古来より門前町がお伊勢参りの宿場町として栄えており、その由縁もあって長谷寺は神道の神々とのつながりが大変深く、地主神として天満天神を迎え、本堂には天照皇大神と春日大明神をお祀りし、また境内には稲荷神・八幡神・住吉神など数多くのご神体を奉祀しています。  
長谷寺と白山権現との関係は、古縁起によれば天禄2年(971)7月1日、行円大法師という僧侶が白山に登拝した折にご神託を受け、同年8月3日、長谷寺の西北の地に白山神を勧請したことが始まりとされています。しかし、時代の流れと共に社殿は朽ち果て、現在はその場所すら不明になっていたために、平成21年7月31日、白山比盗_社に赴いて再興の趣旨を申し上げたところ、快く了承の言葉を頂きました。その後、長谷寺において古文献を参考に境内地の調査をしたところ、白山権現社跡と思われる礎石を発見したので、その場所に社殿を再建して参道を整備しました。 
●釜の口山 長岳寺 / 奈良県天理市  
弘法大師 天長元年(824) 創建  
山の辺の道に残る長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹であり、盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒三百余名を数えました。  
以来、幾多の栄枯盛衰を重ねながらも、千百八十余年間連綿と法燈を守り続け今日に至っています。  
千古の歴史を経て文化財も多く、重要文化財としては仏像5体、建造物4棟があります。  
大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと我が国最古の美しい鐘楼門につきます。 12,000坪の広くて静かな境内には四季折々の花の香りが漂い、いにしえの趣と心の安らぎを求め、多くの参拝者があとを断たない花と文化財の寺です。 
●五岳山 空海寺 / 奈良市雑司町  
弘法大師 弘仁元年(810-) 開基  
弘仁元年(810)東大寺第14代別当に就任した弘法大師空海は、東大寺に真言院を建立され、南都に於ける真言宗の道場とされました。空海寺は東大寺の末寺として、その法灯を受け継ぎ、奈良における真言宗伝承の寺として、数多くの檀信徒を有しています。  
東大寺正倉院の北100メートルのところ、奈良市雑司町に五岳山空海寺がある。弘法大師空海が開基。空海作の本尊秘仏「阿那地蔵尊」を、堂内の石窟に安置、俗に穴地蔵と称した。1734年(享保19年)本堂再建時に草堂および石窟石仏の座壇石が壊され、空海が造立した霊窟が失われた(奈良坊目拙解)と伝わる。本堂の斜め前に立っている地蔵十王石仏は、元矢田寺の矢田地蔵で、明治初期、笹鉾町の永福寺(現廃寺)から当寺に移された。後背に閻魔など地獄の審判官である十王を従えた、半肉掘りの優美な石像として名高い。また、当寺には、東大寺歴代別當や奈良にゆかりの文化人の墓地があり、志賀直哉の「蘭齊歿後」や司馬遼太郎の作品にもその様子が登場する。 
●住吉神社 / 奈良市生駒市南田原町  
弘法大師 参拝  
元々は岩船神社と称したようだが、その上に住吉神社が被さっている。 岩船神社の創建の年代は不詳である。  
住吉神社は神社の東北七百米の桧窪山山麓の岩倉寺(今は寺跡と多くの石仏があるのみ)と関係がある。その抜粋は次の通りである。  
役の小角が生駒山の北の方、山嶽重嶺のこの地に来り、一躰の尊像を作り岩屋寺とした。 延暦年中伝教大師が小角の神迹を慕い七日七夜の修行の後、高堂を建て岩蔵寺と名付けた。 伝教大徳の徴意により直乗宣揚の場となるが、絶えてしまい、魔魅の跳躍の場となった。 弘法大師入唐帰朝後京都より往還して、当山の下にたたずんでいる時、一老翁来りて曰く「この山は役の小角の開山伝教堂建つも止住する人無し 魔魅絶えず師は鎮国安民息災増益の密教深く蘊め給えり 伏して乞卯 この魔魅を避けよ 然らば則ち人道業を修し民安ぜん 我はこの郷に鎮ずる住吉明神の社主なり」と言い畢りて形隠ると言う。 弘法大師神諭辞するべからずして三層の宝塔雲をはさみ鐘時を報ずと言う。  
平安朝初期、伝教・弘法両大師がこの地に来るとあるにより、今から千二百余年昔に既に住吉明神の鎮座が想像される。  
この宮がおまつの宮とも呼ばれるのは、磐船神社の松の枝との関連からである。 石上神宮の十種の大祓祝詞に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊天磐船に乗りて、河内国河上哮峯に天降座して」とあり、この住吉神社の北三粁米天の川に巨岩を御神体とした磐船神社が鎮座し、饒速日尊を奉祀している。この尊 高天原から天降り給うた時の十種の神宝があった。この神社の神宝は祭祀奉仕する者久しく絶えているうちに分散し、神社の松の枝を持ち帰り星が森に植樹され、住吉神社の境内は松の木鬱蒼と生えしげっていた。 と言う。  
饒速日命は鳥見の白庭山に遷ると言う伝承があり、そのトミの地の候補地がこの辺りである。 富雄や登美と称する地名や神社がある。また大和平野の対角線にあたる桜井から長谷方面にも二つの鳥見山や式内等弥神社がある。 生駒山は烽火の地であり、ここから春日の飛火野に通信していた。その烽火がトミになったとの解説もあるが、それは奈良時代以降の事である。いずれのトミも、長髄彦を誇りたいのか神武聖蹟の金鵄の地でありたいとの思いか、後者に本音もあるようだ。  
摂社に饒速日尊が祀られている事から、この住吉神社が元の岩船神社であるとの推測が正鵠を得ているので、大和への降臨の地の白庭山とはこの辺りであるとして間違いはない。 尚、ほかにも白庭山の候補として登弥神社、矢田坐久志玉比古神社、石上神宮などがある。 
●犬飼山 転法輪寺 / 奈良県五條市犬飼町  
弘法大師 創建  
(いぬかいさん てんほうりんじ) 弘法大師は、留学先の唐の国から日本に向けて三鈷を投げ、落ちたところに密教の修行場を建立すべく志を立てたと伝えられます。帰国した弘法大師が弘仁7年(816)京を立ち、三鈷の落ちたところを探して大和の国宇智郡にやってきたところ、狩場明神と出会い高野山を開くことができました。この故事を後世に伝えるため、弘法大師と狩場明神の会見の地宇智郡(現在の奈良県五條市)に創建されたのが、犬飼山転法輪寺です。  
狩場明神とは、白と黒の二匹の犬を連れて猟師の姿で弘法大師の前に現れた神様です。弘法大師を導いて高野山に登り、一山を真言密教の修行場として大師に与えました。猟犬を連れた荒々しい狩人とは、鉄器と狼を支配するヴォ−タン神のモチーフです。大陸から伝わったヴォ−タン神話が、弘法大師伝説と結びついたものと思われます。  
転法輪寺境内には、1300年前のものと推定される明神古墳があり、その前に丹生明神、狩場明神の両大明神社が祀られています。弘法大師の時代にはこの地に有力な豪族がいて、弘法大師の高野山開山に協力したのが、狩場明神の伝説となったのでしょう。 
●弘法大師爪書き不動尊 / 奈良県宇陀市榛原自明  
弘法大師 伝説  
岩肌には「弘法大師爪書きの不動尊」と伝えられる磨崖仏が描かれており、伊勢本街道筋のことでも有り昔日は往来の旅人や近在の人々の信仰をあつめ霊験あらたかであったと言い伝えられてきました。  
伝説どおり弘法大師の真跡だとすれば既に1200年の歳月が流れたことになりますが、確かに古いもので鎌倉時代以前のものと推定されています。  
現実に風化も激しくその線画は判然としませんが、現在でも、地元民や多くのハイカー等のお参りで熱い信仰の対象となっています。  
又左の方にあるお堂は、往時の参詣人やお伊勢参り・山上(大峯山)参りの旅人へのお茶接待所でありました。建替え等により今はその名残さえありませんが、地元では現在も「茶所」と呼んでいます。 
 
當麻寺 / 奈良県葛城市  
當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られています。  
本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中将姫さまが写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表したもので、中将姫さまを常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの人々のよりどころになっています。  
1400年という長い歴史の中で、さまざまな変遷を繰り返しながら今に伝えられてきた當麻寺。  
もとは聖徳太子さまの弟・麻呂古王が創建した万法蔵院がはじまりで、白鳳時代に河内から當麻の地に移り、奈良時代に当麻曼荼羅が表され、平安時代には密教文化が栄えました。平安末の焼き討ちによる危機を経た中世以降は、中将姫伝説の広まりとともに曼荼羅信仰の寺として再興し、寺の向きも南面から東面に変わり、近世には、真言宗に浄土宗が同居することも受け入れました。いろいろな顔を持ちながら、人々とともに生きてきた當麻寺の歴史を、少しずつ振り返ってみましょう。  
創建と変遷  
推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さまが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立したのがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救世観音さまとする史料があります。  
さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそうです。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。  
二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、現在の當麻寺がはじまったのです。  
役行者さまの法力によって百済から四天王が飛来し、葛城山から一言主明神が現れ、熊野から権現さまとして竜神が出現しました。その時に行者さまが座った石は「影向石」として金堂の前に、熊野権現の出現した「竜神社」は中之坊に、今も残されています。  
こうして金堂と講堂のふたつのお堂を中心にはじまった當麻寺は、奈良時代に入ってから、東塔、西塔、千手堂(現・曼荼羅堂)、中院(現・中之坊)と、徐々に寺容を整えていきました。 その間、当初は大和と河内を結ぶ竹内街道を正面とする南面した寺として建てられていたにもかかわらず、都が飛鳥から藤原京を経て奈良に移ったことにより、地の利を優先して東を正面とする寺に柔軟に変化しています。  
そうして最盛期の平安時代には白鳳・天平様式の伽藍堂塔と四十余房もの僧坊をもつ大寺院として発展し、その後幾多の盛衰を繰り返しながらも、江戸期にも三十一房の僧坊、現在も13の僧坊を残す大和の伝統寺院として今に伝わっているのです。  
中将姫さまと當麻曼荼羅  
當麻寺はもともと弥勒仏さまの寺として創建されたのですが、いつからか當麻曼荼羅の寺として親しまれています。この當麻曼荼羅は奈良時代に成立したもので、その謂われとして藤原家の郎女・中将姫(ちゅうじょうひめ)さまの尊い物語が伝わっています。  
中将姫さまは、天平19年(747)藤原豊成の娘として奈良の都にお生まれになりました。観音さまに祈願して授かった子で、姫さま自身も観音さまを篤く信仰されました。4才の時には『称讃浄土経』と出会い、幼少の頃からこの経典を諳んじていたといわれています。  
しかし、5才の時に母を亡くし、豊成が後妻を迎えるようになると、その継母に妬まれるようになり、次第に命さえ狙われるまでになります。周囲の助けで命を長らえながらも、あえて継母を恨むことなく、14才の時、雲雀山へ逃れ、読経三昧の隠棲生活を送られました。  
その時の姫さまの境地を伝えたものとして『中将姫山居語』というものが残されています。これは「男女の境界もないので愛欲の煩いもない」からはじまり、「山の中で灯をともす油もないが、自分の心の月を輝かせばよい」など、心のありようを説いた姫さまの尊い言葉がつづられており、中之坊霊宝館に収蔵されています。  
隠棲生活から晴れて都に戻った姫さまは、『称讃浄土経』の写経をはじめられました。毎日欠くことなく筆を採り、経典を書き写し続け、1000巻の写経を成し遂げられた16才のある日、太陽の沈みゆく西の空に神々しい光景を見たのでした。夕陽の中に阿弥陀仏が浮かび上がり、夕空一面に極楽浄土の光景が広がったのです。  
その光景に心を奪われた姫さまは、あの夕陽の中に見たほとけさまにお仕えしたいという一念で都を離れられます。観音さまを念じながら姫さまはひたすら歩かれました。そして、観音さまに手を引かれるようにたどり着いたのが、夕陽を象徴する山・二上山の麓だったのです。 そこに當麻寺がありました。  
当時の當麻寺は男僧の修行道場であり、女人禁制でした。入山が許されなかった姫さまは、門前にある石の上で一心に読経を続けられます。数日後、不思議にもその石には読経の功徳で姫さまの足跡が刻まれました。その奇跡に心を打たれた当時の當麻寺別当(住職)実雅和尚は、女人禁制を解いて姫さまを迎え入れたのでした。この時の霊石は「中将姫誓いの石」として、現在、中将姫剃髪堂の横に移されています。  
翌年、中院の小堂(現・中将姫剃髪堂)で、剃髪の儀が執り行われました。天平宝字7年(763)6月15日のことです。姫さまは法如という名を授かり尼僧となられました。  
翌16日、法如さまは前日剃り落とした髪を糸にして、阿弥陀さま、観音さま、勢至さまの梵字を刺繍します。そして、あの日夕陽の中に見た阿弥陀仏の姿、夕空に広がった浄土の姿を今一度拝ませて欲しいと一心に願われました。  
その想いにみほとけがお応えになります。翌17日、一人の老尼が現れ「蓮の茎を集めよ」とお告げになりました。その後、父・豊成公の協力を得て大和のほか河内や近江からも蓮の茎を取り寄せたところ、数日で百駄ほどの蓮茎が集まりました。そして、再び現れた老尼とともに、蓮茎より糸を取り出し、その糸を井戸で清めると、不思議にも五色に染め上がったといいます。  
22日の黄昏時、ひとりの若い女性が現れ、五色に染まった糸を確認すると、法如さまを連れて千手堂の中へ入ったのでした。  
三時(みとき)の時間が過ぎた翌23日。  
法如さまの目の前には五色の巨大な織物ができあがっていました。そこには、法如さまがあの日の夕空に見た輝かしい浄土が表されていたのです。  
これが国宝・綴織當麻曼荼羅です。  
織物の中央には阿弥陀仏。その左右に観音さまと勢至さま。さらにさまざまな聖衆が集っていました。周囲には、『観無量寿経』に説かれているお釈迦さまの教えも描かれています。多くの聖衆や鳥たちまでもがお互いに慈しみ合って調和の世界を築いている、すなわち「マンダラ(mandala)」世界。  
阿弥陀仏と観音さまが、それぞれ老尼と織女に姿をかえて起こした奇跡。 法如さまの願ったものがそこにありました。  
曼荼羅の輝きに心を救われた法如さまは、人々にその教えを説き続けます。 そして12年後、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということですが、曼荼羅の教えはその後も生き続け、人々の拠り所となっていきます。鎌倉時代以降には転写本も次々と作られて、代々受け継がれていきました。  
また、法如さまの信仰された観音さまは、平安時代に木彫に刻まれ、こちらも多くの人々の支えとなりました。今でも、中将姫さまの守り本尊「導き観音」さまとして、広く信仰を集めているのです。 
お大師さまとマンダラmandalaの教え  
中将姫さまの願いによって織り表された當麻曼荼羅は千手堂に祀られ、次第に多くの人々に知られるようになっていきます。その信仰の広まりとともに、千手堂は解体され拡張され、現在の大きな曼荼羅堂となり、當麻曼荼羅はいつからか當麻寺のご本尊として拝まれるようにまでなっていきました。  
平安時代のはじめ。嵯峨天皇さまがある時、お大師さま(弘法大師・空海)に當麻曼荼羅の印義をお尋ねになりました。それを受けて弘仁十四年(824)秋、お大師さまが當麻寺をお訪ねになります。お大師さまは二十一日間曼荼羅堂にお籠もりになり、當麻曼荼羅の前で瞑想されました。この時、お大師さまは中将姫さまの想いを観じとられたのです。  
それは「マンダラ(mandala)の教え」でした。  
マンダラ(mandala)とは、仏法の境地や世界観を視覚的・象徴的に表したもので、主に、仏画でそれを表した「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」が"両部の曼荼羅"として知られています。仏教は唯一神や絶対仏を説きません。「真言宗は大日如来が絶対仏」と誤解される方もありますがそうではありません。「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」では、たくさんの仏菩薩たちが大日如来さまを中心にそれぞれの役割・はたらきをもってお互いに支え合い、補い合っています。これを「相互礼拝」「相互供養」といい、それが完成された調和の世界を「密厳浄土」とお呼びします。そしてその「密厳浄土」をこの世で実現しようというのが「マンダラ(mandala)の教え」なのです。  
當麻曼荼羅には、多くの仏菩薩、天人そして鳥たちまでもがお互いに慈しみ合って調和の世界を築いています。中将姫さまの願われた美しい「マンダラ(mandala)」世界です。 そしてそのマンダラ世界を築くため、當麻曼荼羅の左縁(右辺)には、『観無量寿経』に説かれている観想法も記されております。心を調えてひとりひとりが菩薩さまの心に近づくための教えです。  
當麻曼荼羅は、単なる極楽浄土の風景画ではなく、この世に調和の世界を築こうという願いと、それを実現しようという教えと、それを支えるほとけさまが描かれているのです。  
お大師さまは、當麻曼荼羅から感得した「マンダラ(mandala)の教え」を、中院(現・中之坊)院主・実弁和尚にお授けになりました。この時より當麻寺は真言宗となります。  
お大師さまが参籠された曼荼羅堂には「参籠の間」がのこっており、お弟子の真雅僧正さまと智泉法師さまとともにお大師さまの肖像画が張壁で描かれています。 この部屋では「いろは歌」をお作りになったという伝承も残っており、また、當麻寺の境内右奥手には「大師堂」が創建され、當麻寺において大師信仰が盛んであったことを物語っています。  
ところで、お大師さまが當麻寺を訪ねられた理由には、嵯峨天皇に當麻曼荼羅の印義を説くほかに、もうひとつ理由があったとも考えられています。 それは、非業の死を遂げ二上山に葬られた大津皇子の魂を鎮めるためであったということです。折口信夫博士が『死者の書』で藤原郎女(中将姫さま)に託された役割を、実際にはお大師さまが果たしておられたのですね。 
盛衰と変遷 浄土宗の受け入れ  
創建当初の當麻寺は奈良仏教の学問寺院で、特に三論宗が盛んであったようです。これは「空(くう)」の境地の体得により、心の平穏を保つ教えでした。 平安時代はじめ、中院(現・中之坊)院主の実弁和尚がお大師さま(弘法大師・空海)に教えを授かり、當麻寺は真言宗に改宗します。「空」の境地を体得するだけでなく、それによって得た智慧を生かし、この世に調和の世界「密厳浄土」を実現しようという「マンダラ(mandala)の教え」で、當麻曼荼羅の輝きのもとで法灯が守られてきました。  
これにより當麻寺は、学問寺院から、修法、祈祷、観想などの実践を重んじる密教寺院として変化します。それに伴い、密教文化が花開き、十一面観音像や妙幢菩薩像、紅頗梨色阿弥陀如来像など優れた密教美術を遺すことになりました。  
しかし平安中期以降、當麻氏の勢いが衰えることによって當麻寺の寺勢も衰え、さらに平安時代末期、大きな危機が訪れます。治承4年(1181)に起こった平家による南都焼討の際、当時、興福寺の勢力下にあった當麻寺も別働隊の攻撃を受けたのです。講堂は全焼、金堂も大破するという惨事でした。  
その危機を救ったのはやはり當麻曼荼羅の存在でした。鎌倉時代以降、末法思想の広がりとともに、浄土教が隆盛していきます。特に証空上人が當麻曼荼羅を再評価してから、當麻曼荼羅は数々の写本が作られ、全国に広がり、「欣求浄土」の象徴として絶大な信仰を集めました。  
金堂は寿永3年(1184)には再建され、仁治2年(1242)〜3年(1243)、源頼朝らの寄進によって當麻曼荼羅の厨子が修理され、須弥壇が造られています。講堂も乾元2年(1303)に再建され、正中3年(1326)には金堂の大規模な修理も行われています。  
私寺ながら、多くの人々の支えによって、少しずつ守られて来た様子がうかがえます。  
さらに浄土信仰が広まることにより浄土宗や浄土真宗などの教団が成立し発展していくと、「欣求浄土」の象徴としての當麻曼荼羅がそうした教団から注目されるようになります。 南北朝時代の応安3年(1370)、京都知恩院が當麻寺に目を向け、境内奥に往生院(現・奥院)を創建しました。真言宗に浄土宗が同居するようになったのはこの時からです。  
やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになり、曼荼羅堂での行事に限っては伝統行事にも参加していくようになりました。また、當麻寺の護持運営にも少しずつ関与するようになって二宗共存の今の形ができていきます。  
そして、現在は真言宗五ヶ院(中之坊・西南院・竹之坊・松室院・不動院)に加え、浄土宗八ヶ院のうち二ヶ院(護念院・奥院)が當麻寺の護持・運営に携わっているのです。  
現在では、この真言宗・浄土宗の二宗共存について注目される方が多いようですが、法会を真言宗・浄土宗の両宗で勤めるのは曼荼羅堂においてだけで、それ以外の金堂、講堂などで行われる伝統法会は今も真言宗の塔頭だけで勤められています。むしろ興味深いのは、そうした真言宗で行われている當麻寺の伝統法会が、真言宗の作法だけで行われているわけではないというところでしょう。南都寺院伝統の悔過(けか)作法や、最勝王経、法華経の購読など、真言以前のものから中世以降に影響を受けたものまで、さまざまな儀式・所作が混在して残っており、こうした部分にこそ當麻寺らしさを感じることができるのかもしれません。  
當麻寺で最も大切な行事である「蓮華会(7月23日)」では、曼荼羅堂にて勤行が早朝に勤められていますが、一時絶えていた古式の「蓮華会法則」に基づく法会が近年再興され、中之坊写佛道場にて午後にもう一座勤められています。中之坊においてはこのような伝統の復興も行われている反面、「導き観音祈願会(毎月16日)」では「音楽法要」などの新たな試みがとり入れられています。  
故きを大切にしながらも固執することなく、宗派にとらわれることもなく、伝統と革新を繰り返してきた當麻寺の象徴的な姿をここに見ることができます。 
 
元興寺 / 奈良市中院町  
さるさわ池をはさんで北の興福寺、南の元興寺と平城京左京(外京)の台地に広大な寺地と伽藍を有した。平安遷都後も、この外京と東大寺、春日社一帯は南都の中心地であった。  
飛鳥時代以来、伝統の三論宗、(『大安寺流』に対し『元興寺流』)と法相宗(興福寺の北寺伝『御蓋流』に対し南寺伝『飛鳥流』)が主に学問されていたが、平安中期には衰えてしまう。むしろ真言宗に属する多くの僧を輩出した。  
その後、伽藍は荒廃し、堂塔が分離してゆくことになる。中でも伽藍の中央部、金堂、講堂など中枢部の北に当たる僧坊の地域に、東室南階大房が十二房遺って、その一室が特に極楽坊と呼ばれるようになる。この場所は奈良時代の元興寺三論宗の学僧智光法師が居住した禅室で、我が国浄土三曼荼羅(智光、当麻、清海)の随一である智光曼荼羅(掌中示現阿弥陀如来浄土変相図)発祥の地とする信仰が生まれた。  
極楽坊では嘉応3年(1171)頃から盛んに百日念仏講が営まれ、南都の別所的役割を担ったようである。その後、高野聖西行法師が極楽房天井の改築勧進を行ったとか、東大寺戒壇院の圓照実相上人が僧房改築の勧進をしたとか、西大寺信空慈道上人が僧房修理のため南市で勧進を行ったとか伝わる。要するに、遁世僧や律僧の大切な道場として再出発したようである。  
治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって、興福寺大乘院(今の奈良県文化会館あたり)が焼失し、元興寺禅定院に寄生した事によって、特に極楽坊は大乘院が支配することになり、住持は光圓上人を初代としてその法流が八代続いた。  
寛元2年(1244)には極楽房を中心に大改築が行われ、元興寺極楽坊本堂(極楽堂)と禅室(春日影向堂)の二棟に分離された。この事から極楽房は東向き(旧元興寺は南向き)の独立的な寺院となったようである。  
さらに、文永五年(1268)には約5,000人に及ぶ道俗の勧進からなる聖徳太子立像(十六才孝養像)、弘安年間に弘法大師坐像が造立され、聖徳太子と弘法大師に係わる寺院としての性格を確立していった。この時点で、恐らく西大寺叡尊思円上人や東大寺聖守中道上人の影響を多大に受けたようである。  
応安年間(1368〜1374)に興正菩薩叡尊の末資である大安寺巳心寺開山、光圓道種律師が入寺し、極楽律院として結界され、応永年間(1394〜1428)には、東大寺西南院四脚門を極楽坊正門(東門)として移築し、太子堂を新造し、本堂等も修理された。ここに初めて極楽院が成立したのである。  
永享8年(1436)『西大寺末寺帳』に第9世長老小塔院覚真悟妙上人の時に元興寺中の極楽坊が西大寺の末寺となったようである。が、興福寺勢力が強大な間はずっと大乘院の有力な末寺であり、その菩提祈願所(墓所)でもあった。  
江戸時代に入ると、幕府から100石朱印地を与えられ、西大寺役者を次々と輩出している。49世長老賢瑜栄順上人、51世長老尊信春識上人、53世長老尊覚春賢上人、57世尊静真覚上人、59世長老尊員真乗上人などである。この法流は明治五年の尊誓和尚で終わっている。  
明治期は、無住で、西大寺住職兼務預寺となり、堂舎は小学校(市立飛鳥小学校前身研精舎)や私立女学校(浄土真宗東本願寺経営の裁縫学校)などに使用されている。  
昭和18年に生駒山宝山寺より辻村泰圓和尚が特任住職として入寺し、同24年から堂宇の解体修理が再開、旧庫裡を極楽院保育所として移転改築して、同30年に重修の竣工を期に、寺務所が新築され定住することとなった。 
元興寺の名称  
『佛法元興之場、聖教最初の地』の言葉より起こったとされます。南大門には、元興寺の扁額があり、他には飛鳥寺、法興寺、建初寺、建通寺、法満寺とも標したと伝えられています。  
鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えてきました。建初寺=桜井道場、建通寺=向原寺、法満寺=飛鳥寺の歴史を示しているのでしょうか、朝廷および天皇家が仏教を容認し、唐式の仏教政策を取り入れてから、遡って意味付けされたのだといえます。因みに、法興寺は『佛法興隆』の言葉からきており、法隆寺とは対の名称といえるでしょう。  
元興寺の開基  
蘇我氏の氏寺としては蘇我稲目であり、蘇我馬子を本願とします。飛鳥大寺としては推古天皇勅願、聖徳太子創建と称します。 平城移建に際しては元正天皇、聖武天皇勅願と伝わります。極楽坊としては興福寺大乘院門跡孝覚大僧正を中興開基とします。 
元興寺の開祖  
佛法初伝の歴史から言えば、三論の初伝たる慧潅、法相の初伝といわれる道昭(照)です。  
元興寺流法相の祖で言えば、神叡、護命(勝虞)  
元興寺流三論の祖で言えば、智蔵、智光(礼光)  
真言宗の祖たる遍照金剛 弘法大師  
真言律宗の宗祖たる興正菩薩 叡尊思圓上人  
極楽律院の初代としては、光圓道種律師  
西大寺長老に初めて選任された賢瑜和尚栄順上人  
昭和中興開山による乗瑞泰圓大和尚 (辻村泰圓大和上)  
元興寺は、藤原、奈良時代は崇佛派の蘇我氏による仏教政策や、朝廷(僧綱)の管理下にある三宝常住の官寺でした。しかし平安時代になると、律令制度の崩壊によって、官大寺は無くなり、権門寺院でもある興福寺や東大寺の支配下に組み込まれました。更に鎌倉時代になると、元興寺は伽藍が解体し、堂塔が分散してしまいました。その中で僧坊遺構の極楽坊は室町時代には、興福寺大乗院の支配となり、坊主は己心寺(大安寺)門流(真言律の西大寺流)とされました。江戸時代には、西大寺直門として多くの重役を輩出しました。  
明治維新の回禄により門流が途絶え、無住化しました。しかし、昭和十七年より真言律宗大本山宝山寺の実質支配となり中興されることになりました。そして、戦後の文化財保護法や宗教法人等の制定によって復興されました。 
元興寺の歴史年表   
年号 西暦 法興寺・元興寺関係事項 関連事項  
宣化三 538 仏教公伝  
用明二 587 丁未の乱  
崇俊元 588 蘇我馬子が飛鳥に法興寺の工を起す  
推古元 593 法興寺に塔を建て仏舎利を納入する  
推古二 594 三宝興隆の詔  
推古四 596 塔ができ、恵慈・恵聡が入寺する  
推古一五 607 法隆寺建立・遣隋使 ●  
推古一七 609 丈六釈迦像を金堂に安置する 道欣・恵弥らが入寺する  
推古三〇 622 聖徳太子没 ●  
推古三二 624 観勒が最初の僧正になる 僧官職の設置  
推古三三 625 恵灌が入寺して三論を講ずる  
推古三四 626 蘇我馬子没  
皇極二 643 山背大兄王一族滅亡  
大化元 645 法興寺が中大兄皇子方の陣になる 大化のクーデター  
大化二 646 道登が宇治橋をかける 大化改新詔 ●  
白雉二 651 塔露盤の銘  
斉明三 657 盂蘭盆会を営み都貨羅人を饗する  
斉明四 658 福亮が維摩経を陶原に講ずる(維摩会の起原)  
天智元 662 道昭が帰国し、禅院を建て摂論宗を伝える  
天智二 663 白村江の戦 ●  
天智九 670 藤原鎌足の家財をさいて法興寺に入れる  
天智一〇 671 天皇の病により珍財を施入する  
天武元 672 封戸千七百が施入される  
弘文元 672 寺辺一帯が戦場となる 壬申の乱 ●  
天武五 676 大官大寺改名  
天武六 677 多祢島人を饗する(同一〇年にも)  
天武八 679 薬師寺建立 ●  
天武九 680 法興寺を特に官治の寺とする  
天武一二 683 僧綱制制定  
天武一四 685 法興寺に行幸し珍宝を施入する  
持統二 688 蝦夷を饗する  
文武四 700 道昭が禅院で没  
大宝元 701 大宝律令頒布 ●  
和銅二 709 智光法師河内に誕生す  
和銅三 710 平城遷都 ●  
和銅四 711 法興寺禅院を平城に移し禅院寺とする  
養老二 718 法興寺を平城に移し元興寺とする  
養老三 719 神叡が入寺し封五十戸を賜る  
養老六 722 金堂造営説あり  
天平元 729 長屋王が元興寺大法会の司となる 長屋王自殺  
天平五 733 隆尊の請により栄叡・普昭が入唐する  
天平八 736 婆羅門僧正の仏舎利を小塔院に納める  
天平一三 741 国分寺建立の詔 ●  
天平一五 743 大仏造立の詔 ●  
天平一九 747 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』が提出される  
天平勝宝元 749 拓殖郷懇田を買得する  
天平勝宝元 749 墾田所有の限界を二千町と定める 拓殖郷墾田を買得する  
天平感宝元 749 経典転読・購読料として布稲墾田が施入される 行基没  
天平勝宝四 752 隆尊が大仏開眼で講師をつとめる 智光が『摩訶般若波羅蜜多心経述義』を著す 東大寺大仏開眼 ●  
天平勝宝五 753 この年または翌年近江愛智荘を買得する  
天平勝宝八 756 石川年足・池田王を講経のため元興寺に遺す  
天平宝字元 757 五重大塔が建立されたという  
天平宝字四 760 隆尊没  
天平神護二 766 円興が法臣、基真が法参議となる 道鏡法王となる  
天平神護三 767 称徳天皇が行幸し綿等を施入する  
神護景雲四 770 百万塔を小塔院に納める  
宝亀一一 780 飛鳥寺に封百戸を加える 慶俊が食堂を造る  
延暦三 784 長岡遷都 ●  
延暦一三 794 平安遷都 ●  
延暦一七 798 十大寺の三綱の従僧数を定める  
延暦二一 802 三論と法相の争いを止める  
延暦二四 805 最澄帰国 ●  
弘仁元 810 薬子の変 ●  
弘仁三 812 空海の高雄山寺灌頂会に元興寺泰範らが参加する  
弘仁六 815 慚安が『法相灯明記』を著す  
弘仁一〇 819 護命らが最澄の大乗戒壇設立に反対する  
弘仁一三 822 最澄没、比叡山戒壇許可 ●  
弘仁一四 823 空海東寺を与えられる ●  
天長五 828 泰善が文殊会を始める  
天長七 830 護命が『大乗法相研神章』を著す  
承和六 839 渡唐僧円行・常暁が帰国する  
承和七 840 静安が初めて灌仏会を修す  
承和一〇 843 本元興寺の万花会と万灯会の料を給する  
承和一三 846 静安の始めた仏名懺悔の行事を天下に広める  
嘉承元 848 円仁の常行三昧堂  
天安二 858 『元興寺縁起』(『仏本伝来記』)が書かれる  
貞観元 859 延保が愛智荘を検田し報告する  
貞観三 861 明詮が玉華院弥勒堂を建て竜華初会を修す  
貞観六 864 僧位制定  
貞観七 865 賢和が近江奥嶋に神宮寺をたてることを許される  
貞観九 867 賢和が播磨魚住の船瀬修造を許される 賢和が近江和邇の船瀬を修造する  
貞観一〇 868 明詮没  
貞観一八 876 賢護が仏名会の画像を諸国に置く  
元慶元 877 禅院寺を元興寺の別院とする  
元慶八 884 藤原冬緒を元興寺俗別当とする  
寛平六 894 遣唐使廃止 ●  
寛平三 903 義済が観音堂を建立?  
寛平五 905 聖宝が東大寺東南院に入る  
延喜九 909 聖宝没  
延喜一四 914 安遠が『三論宗章疏』を著す  
承平四 934 義昭が維摩会で良源と対論する  
承平五 935 承平天慶の乱  
天慶元 938 空也の念仏 ●  
天徳元 957 大和の不動穀を元興寺ら十七寺に頒つ  
 
大安寺 / 奈良市大安寺
白鳳時代  
622 推古二十九 推古天皇、田村皇子を遣わして聖徳太子の病気を見舞う。太子、熊凝精舎を大寺と成すことを欲す。  
639 舒明十一 百済川の側に百済大寺を建て、九重塔建つ。九重塔と金堂石鴟尾が焼ける。  
645 大化元 恵妙法師、百済寺の寺主となる。  
668 天智七 丈六釈迦仏像并脇士菩薩等の像を安置する。  
677 天武六 高市大寺を大官大寺とあらためる。  
682 天武十一 百四十余人、大官大寺にて出家する。  
684 天武十三 天皇不豫、群臣百官、大官大寺に詣ず。  
685 天武十四 天皇不豫、大官大寺・川原寺・飛鳥寺において経典を読誦させる。  
699 文武三 九重塔を建て七宝を施入する。  
701 大宝元 下道君首名、大安寺にて僧尼令を説く。大安寺・薬師寺を造る官を寮に准することを定む。  
奈良時代  
711 和銅四 大官大寺、藤原宮とともに焼ける。  
716 霊亀二 大官大寺、平城京へ移る。  
722 養老六 元正天皇、供養具と幡を施入する。  
723 養老七 元正天皇、一切経を施入する。  
729 天平元 道慈、大安寺の造営に関与する。  
733 養老五 大安寺僧普照・栄叡、授戒師を招聘するために遣唐使として入唐。  
736 天平八 中門・回廊に羅漢画力士像等を造る。唐僧道、インド僧菩提僊那、ベトナム僧仏哲が来朝し、大安寺に住す。  
745 天平十七 大官大寺を大安寺とあらためる。  
747 天平十九 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を進上する。  
754 天平勝宝六 普照帰朝、鑑真招聘を成功させる。  
767 神護景雲元 称徳天皇、大安寺へ行幸する。  
平安時代  
791 延暦十 四天王像(興福寺北円堂)造立される。  
829 天長六 空海が大安寺の別当に補せられる。  
859 貞観元 八幡神が勧請され、唐院が建立される。このころ八幡宮が勧請される。  
911 延喜十一 講堂・僧坊が焼ける。  
949 天暦三 西塔、雷火のため焼失する。  
1007 寛弘四 藤原道長、金峯山詣の際に大安寺に宿す。
創建から百済大寺へ  
大安寺は、聖徳太子が平群郡額田部に熊凝道場を創建したことに始まります。やがて百済大寺、高市大寺、大官大寺と名と所を変え、平城京に移って大安寺となりました。この間の事情を『三代実録』元慶四年(880)冬十月の条には次のように記します。  
「昔日、聖徳太子平群郡熊凝道場を創建す。飛鳥の岡本天皇、十市郡百済川辺に遷し建て、封三百戸を施入し、号して百済大寺と曰う。子部大神、寺の近側にあり、怨を含んで屡々堂塔を焼く。天武天皇、高市郡の夜部村に遷し立て、号して高市大官寺といい、封七百戸を施入す。和銅元年平城に遷都し、聖武天皇詔を下して律師道慈に預け、平城に遷し造らしめ、大安寺と号す」   
天平十九年(747)に作成された「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」(重要文化財・文化庁蔵)には、そもそも百済大寺の造営は、聖徳太子の遺言によるものであったとされております。  
舒明天皇がまだ田村皇子と呼ばれた頃、聖徳太子の病が重くなった為、推古天皇は皇子を見舞いに遣わしました。太子は、自らが熊凝村に建てた精舎を、御世御世の天皇のために大寺となし永く三宝を伝えてほしいと皇子に遺言されました。太子の付嘱をうけて皇子は舒明天皇となった時、百済川の畔に熊凝精舎を移し建て百済大寺とされました。  
これは九重の塔を持つ当時最大の大規模な伽藍であったとされます。ところが舒明天皇の時代には完成を見なかったようで、造立工事はその後、皇后の皇極天皇に引き継がれました。これには当時最盛期にあった蘇我氏はまったく関与していないようであり、太子の遺志を承けて天皇家が威信をかけて造営した最初の官立寺院であったといえます  
百済大寺は今日までその所在がはっきりせず、広陵町の百済寺が比定されてもおりました。しかし数年前に桜井市にある吉備池から巨大な寺跡が発掘され,吉備池廃寺と名付けられました。その群を抜いた規模からこれが従来云われてきた幻の大寺、百済大寺に違いないと考えられています。
高市大寺から大官大寺へ  
時は巡り、皇位継承問題に端を発し、国内を二分しての争乱となった壬申の乱に勝利した天武天皇は、即位後まもなく同天皇二年(673)には「高市大寺」の造営にとりかかります。  
高市大寺は、百済大寺を新たに高市の地へ移し建てたものでした。高市は今日の明日香村が高市郡です。しかし移建された高市大寺がどこであったかという問題も諸説があり、今後の研究課題となっています。  
天武天皇はさらに、同天皇六年(677)に高市大寺を大官大寺と改めました。「大寺」とは私寺に対する官寺を意味しています。また、「おおつかさのおおてら」と訓じられ、大官=おおつかさとは天皇をさす言葉でもあります。すなわち天皇自らの寺として、国の安泰と人心の安寧を祈る公の寺という意味でもあり、また全僧尼を統制する僧綱所でもありました。  
大官大寺は川原寺、飛鳥寺の三大官寺の首座として重きをなしますが、伽藍の完成には至らなかったようで「大安寺資財帳」には天武天皇不予の時、大寺の造営を三年延長する旨の誓いをたてたところ、天皇の寿命も三年延びたと云う記事を伝えています。  
天武天皇の崩御後、その遺志は持統天皇・文武天皇へと引き継がれます。大官大寺は再び場所を移して、現在の明日香村大字小山、香具山の南約700メートルの地に造立されました。藤原京の造営に伴い、造宮と造寺の一環であったとも考えられます。その跡は昭和49年以降の発掘調査によって巨大な金堂、講堂、塔などの遺構がしめされ、いにしえの大寺建立の気宇の壮大さが偲ばれます。ここは国の史跡に指定されています。
大伽藍と国際交流  
和銅三年(710)都は藤原京から平城京に遷され、大安寺(大官大寺)もそれにともない遷寺しました。造営の時期には諸説ありますが、養老二年(718)に唐より帰朝した遣唐僧道慈の勾当によると考えられ、本格的な工事は天平元年(729)以降とみられています。  
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」には、その実状が詳しく記されています。  
平城京左京の六条と七条4坊の地に15の区画(坪)に分けられた広大な寺域を占め、金堂・講堂を中心とする主要伽藍には三面僧坊が建ち並び、その中に887人もの僧侶が居住して勉学修行に励みました。  
南大門は平城京の朱雀門と同じ規模を持つ重層の楼閣で、そのはるか南に七重の塔が二基、東塔、西塔と聳えていました。尤も塔院は天平十九年当時にはまだできていなかったようで、資財帳にその記載はありません。塔院が完成した時期は明らかではありませんが、残された基壇の規模から推測すると70メーターを超える巨大な塔がたったようでもあります。   
金堂の本尊丈六釈迦如来像をはじめとして、諸堂には菩薩像、四天王像、十大弟子や八部衆像などおびただしい数の仏像がまつられ、大般若四処十六会図、華厳七処九会図などの画像、繍帳がきらびやかに堂塔を荘厳し、金剛般若経、金光明経、大般若経、一切経など膨大な数の経典が経蔵に収蔵されていたようです。  
その当時居住した数多の学僧は歴史に名を留める人物も多く、三論を伝えた道慈の活躍は後に大安寺を三論宗の本拠とし、審祥は華厳の大家として知られました。律、法相、倶舎、成実といった南都六宗が共に学ばれ、さしずめ仏教の総合大学の様相を呈していました。  
海外の渡来僧も多く、東大寺大仏開眼の大導師をつとめたインド僧菩提僊那(ボダイセンナ)、呪願師をした唐の道セン(どうせん) 、さらに盛儀に華を添えたのは、林邑楽を披露した林邑僧(ベトナム)の仏哲でした。共に大安寺に居住し、生涯を日本で過ごした人たちです。  
前後しますが、聖武天皇は伝戒の師(授戒の導師となる高僧)を求め、大安寺の普照(ふしょう)と興福寺の栄叡(ようえい)が唐に遣わされました。天平五年(733)四月、二人は遣唐船で難波津を出航して長安に達し、先の道せん(どうせん)、菩提僊那、仏哲等に渡日を要請。その来朝がかないました。さらに十年、明師を求め、ついに楊州の大明寺に鑑真を訪ねます。その招請に応えて鑑真和上は自らの渡日を決意されたと云います。  
鑑真和上の渡航は困難を極め、五度の失敗、六度目にしてようやく日本に到達することになります。その間十二年が経過し、鑑真和上は視力を失い、栄叡は病を得て亡くなってしまいました。一人普照が和上一行二十五名と共に歓喜の帰還を果たしたのでした。  
和上は天平勝宝六年春、大仏殿に戒壇を設け、聖武・孝謙天皇をはじめ、衆僧・文武百官など四百余人に戒を授けました。鑑真和上の来朝は授戒という仏教の根幹に寄与するところが大きく、それだけに大安寺僧普照の功績を忘れることはできません。
真言密教の胚胎  
東大寺が建立され、興福寺が藤原一族の氏寺として強大な力を持つようになり、また称徳女帝により西大寺が建立されるなどして、後世にいう南都七大寺が成立しますと、大安寺は南大寺ともいわれて尚威厳を保ちますが、次第にその勢力も分散されていきます。  
奈良時代末ごろには難解な三論宗が敬遠され、法相唯識が好まれる傾向がでてまいりましたが、その所依であった三論宗の系譜の中から次の時代の立て役者、最澄、空海が登場します。   
伝教大師最澄の剃髪出家は近江の国分寺でありましたが、剃髪の師は国師として赴いていた大安寺の行表でした。師について学んだ最澄は後に大安寺の塔院で法華経の講義をしたといわれます。  
弘法大師空海の師は大安寺の勤操だといわれいます。近年、直接の師弟関係を疑問視する見方もありますが、二人の間には深い親交があったことは否めません。空海は「勤操大徳影の讃」を表わして、大徳を讃えています。  
また大師が若い時代に虚空蔵菩薩求聞持法を修したことはよく知られますが、この法の初伝は大安寺の道慈律師でした。入唐留学の長安で善無畏三蔵にまみえ、直接に経典を承けたと云われます。  
これが大安寺に伝えられ、勤操を始め多くの大安寺に関わる人たちの間で修されていました。大師もこのような中で求聞持法に出会い、山林斗籔をすると共に大安寺経蔵の奥深くに入って膨大な経典を紐解き勉学に励んだのです。  
凝然は『三国仏教伝通縁起』において、「道慈、真言の法を以って善議・慶俊に授け、議公これを勤操僧正に授け、勤操、求聞持の法を弘法大師に授く」といって、道慈−勤操−空海という三論系譜の線によって奈良時代の密教が空海に及んだとみています。  
とりもなおさず大安寺は、青年空海が、燃えるような思いで仏道に突き進んだ時代の姿がある場所といえます。  
弘法大師は二十五箇条の『御遺告』第八において、道慈を「わが祖師」と称し、勤操を「わが大師」と呼んでいます。天長六年(829)には、空海は大安寺の別当に補せられましたが、さらに「大安寺を以て本寺となし釈迦大士に仕え奉るべし」として弟子達を多く入住させたと言われます。  
空海の弟子中、大安寺に住した人として實恵、真然、智泉、仁和寺の益信、八幡神を京に勧請した行教などがあげられます。
中世の罹災と復興への願い  
都が京に移りますと、旧都は次第に寂れますが、残された諸大寺はなお盛観を保っていました。しかし、やがてはそれぞれの栄枯の歴史をたどることになります。  
大安寺の最初の火災は延喜十一年(911)と伝えられていますが、大きな打撃となったのが寛仁元年(1017)三月一日の火災です。西塔・講堂・食堂・宝蔵・経蔵・鐘楼などが焼けてしまいました。  
当時、栄華の絶頂にあった藤原道長は吉野詣でで大安寺に宿泊していますが、治安三年(1023)の南都七大寺巡礼の際には変わり果てた寺容に心を痛めたことでしょう。  
その後の再建も旧態に及ばず、藤原氏庇護の興福寺に支配されるようになりました。  
平安末期の源平争乱で南都は、平重衡の「南都焼き討ち」にあい、文字通り焦土と化しました。  
その後、鎌倉の世になると、重源による東大寺再建をはじめとした南都再興が着手されました。大安寺でも永久四年(1116)に鐘楼が再建されたとの記録があります。  
また蒙古襲来の時、幕府は諸国の社寺に異敵降伏の祈祷を命じました。大安寺は永仁六年(1298)四月十日、西大寺・唐招提寺・法華寺などとともに将軍家祈祷所とされたことが記録されています。  
室町時代にも大安寺は修理再建が続けられていたことが記録されています。文明十五年(1483)には大安寺再興勧進の踊念仏が行われたという興味深い記録があります。  
しかし、秀吉の時代、慶長元年(1596)閏七月二十日に起こった大地震により大安寺は決定的な打撃を受けました。しかし、その中で、九体の天平仏は難を逃れ、今日に残りました。  
堅雄,和尚,大安寺 廃墟と化した大安寺の再興には江戸時代の海龍王寺高籖や江戸室山寺の堅雄による尽力がありましたが、なかなか実を結びませんでした。  
しかし、明治十五年(1882)、奥山慶瑞・佐伯泓澄が私財を投じて小堂と庫裏一棟を建立し、大安寺再興の第一歩を記し、さらに石堂恵猛等によって現本堂が建立されました。  
大正八年(1919)に史跡名勝天然記念物保存法が公布され、「大安寺塔跡」が大正十年(1921)に指定されました。これは奈良県で最初の指定でありました。  
昭和に入ると先代河野清晃が大安寺住職を拝命し復興をめざしました。昭和三十一年(1956)には奈良日独協会を設立し国際的視野での再興もめざし今に継続されています。  
年中行事として光仁会・笹酒祭りや竹供養、正御影供法要などを興し、わけても一月二十三日と六月二十三の笹酒まつりは、がん封じ祈祷とあいまって毎年多くの参詣者で賑わい、古都の風物詩として高く評価されています。  
境内の整備は平成になって格段と進みましたが、更なる復興に尽瘁し、栄枯盛衰の歴史の中で脈々と伝えられた一四〇〇年来の法灯を後世に伝え、三論宗の復興をめざして努力してまいります。 
 
和歌山県

 

●高野山町石道 (和歌山県伊都郡) / 高野山町石道(こうやさんちょういしみち)は、慈尊院(和歌山県伊都郡九度山町)から高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ通じる高野山の表参道で、弘法大師が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。  
●花園の御田舞 (和歌山県伊都郡) / 弘法大師の高野山開創とともに拓かれ、その寺領として保護を受けてきた旧・花園村は、山内へ花を奉献したことから花園村の名があるなど高野山との深い関わりがあり、伝統的な民俗芸能が長く伝えられてきた。  
●橋杭岩 (和歌山県東牟婁郡串本町) / 昔 弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。  
●龍神温泉 (和歌山県田辺市) / 開湯は約1300年前とされているが、弘法大師による開湯伝説も残っている。  
●丹生官省符神社 (和歌山県伊都郡九度山町) / 『紀伊続風土記』によれば、七社のうち丹生・高野の両神は弘仁年間に空海が勧請し、十二王子と百二十番神の2社が同時に勧請され、気比・厳島の2神は文明年間に勧請されたと伝えられており、これら4社は天文年間の洪水によって昔の境内が沈んでしまったので移転したという。  
●丹生都比売神社 (和歌山県伊都郡かつらぎ町) / 『今昔物語』には、密教の道場とする地を求めていた空海の前に「南山の犬飼」という猟師が現れて高野山へ先導したとの記述があり、南山の犬飼は狩場明神と呼ばれ、後に当社の祭神である高野御子大神と同一視されるようになった。  
●根来寺 (和歌山県岩出市) / 覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。  
●高野山 / 和歌山県伊都郡高野町  
弘法大師 弘仁7年(816) 真言密教の根本道場を開く  
高野山は、平安時代のはじめ、日本が生んだ偉大な聖人、弘法大師によって開かれた日本仏教の一大聖地です。弘法大師・空海は、国家の安泰、世界の平和、また、修行者のために、人里離れた山奥に、真言密教の根本道場を建立する願いを持っておられました。  
その願いが叶い、弘仁7年(816)に当時の帝・嵯峨天皇より、真言密教の根本道場を開くためにこの地を賜りました。海抜1000mの山上に広がるこのお山は、東西約6km南北約3kmの盆地で周囲を内八葉外八葉の峰々に囲まれ、蓮(はす)の華のような地形をなしております。  
10世紀後期頃から大師入定信仰が生れ、高野山を弥勒浄土(みろくじょうど)とする信仰や阿弥陀浄土(あみだじょうど)とする信仰と合いまって、高野山は、一般民衆の信仰と尊敬を集め、千年以上も前から、現在に至るまで多くの人々のお参りが絶えません。
高野山2  
和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。  
足跡  
一般的に「お大師さま」の名称で親しまれている弘法大師は、光仁天皇の宝亀5年(774)讃岐の国(現在の香川県)に生誕しました。父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀家(あとうけ)の出身で、お大師さまの幼名は真魚(まお)といいます。仏教に対する信仰心の厚い家庭であったといわれています。  
15才の時、伯父の文学博士阿刀大足(あとうおおたり)に従って上京し、漢学や史学を学び、18才の時に都の大学の明経科(現在の文学部)に入って、中国の古典や儒教の学習を積まれました。  
大師は、漢詩についてすぐれた才能があり、これはこの時代に一層磨きをかけたということです。  
当時の大学は儒教中心の官吏養成機関で、大師の苦しみ悩む人々を救いたいという思いとは異なるものでした。そうした折、奈良の勤操大徳(ごんそうだいとく)から仏教の教えを学び、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法を授けられたことが、大師の大きな転身の端緒となり、ついに延暦12年(793)19歳にて和泉国槇尾山寺で、勤操大徳を師として出家されました。僧名は教海(きょうかい)、後に如空(にょくう)と改められ、さらに22歳の時、東大寺戒壇院で具足戒を授かり空海(くうかい)と改めました。  
出家後は勤操大徳のおられる大安寺にてあらゆる経典を読破されましたが、心に満足を与えてくれるものがありませんでした。その後、久米寺にて大日経を感得され、研究に専念されましたが、お経の中には梵語(インドの古語)があり、理解しにくかった為、唐に渡る決心をされました。勤操大徳の並々ならぬ尽力で延暦23年(804)7月6日大師は藤原葛野麿(かどのまろ)を大使とする遣唐使の第一船に便乗して肥前松浦郡田の浦港を出発、8月10日福州の浜に漂着、その年の12月に唐の都長安に到着されました。この都で第七祖青龍寺恵果阿闍梨(けいかあじゃり)の門に入られ、阿闍梨は僅か8ヶ月の間に密教の大法を授け『遍照金剛』の名を与え、大師を第八祖にされました。そして2年後の大同元年(806)に帰国し、真言密教を各地に広められました。  
812年(弘仁3年)11月15日には高雄山寺にて金剛界結縁潅頂を開壇しました。入壇者には伝教大師も含まれており、弘法大師の仏教界、朝廷への評価を一気に高めました。また、弘法大師の元に、多くの弟子があつまりました。このころに真言宗が成立したと言われています。  
816年(弘仁7年)、嵯峨天皇より高野山を賜わり、西暦817年(弘仁8年)には諸弟子が工人等多数を伴って登山し開創に着手され、これが高野山金剛峯寺のはじめといわれています。  
821年(弘仁12年)5月、朝廷は、弘法大師を讃岐国にある万濃池(まんのうのいけ)の修築別当に任ぜられました。弘法大師は、讃岐国出身で、中国留学によって、先進技術文明を見聞し、土木事業についての高度の知識と技術を身につけておられたと言われ、大きなため池を修復するという難工事を3ヶ月で見事に完成させました。  
822年(弘仁13年)2月、東大寺に潅頂道場(真言院)を建立し、高雄山寺において、鎮護国家の為に仁王経法(にんのうきょうほう)を修し、平城上皇に密教独特の戒である三昧耶戒を授け、潅頂し、翌(弘仁14年)には、嵯峨天皇にも潅頂を授けたという記録が残っています。  
823年(弘仁14年)正月、朝廷より弘法大師に東寺を賜りました。それ以後、真言宗の根本道場として、社会活動の拠点としておりました。弟子の僧50名を常住させ、他宗の僧がここにまざり住む事を禁じ、真言密教の研究に専念するようにとの官符が下されています。  
824年(天長元年)2月、大師は勅命によって神泉苑(しんぜんえん)において雨をいのり、翌月、少僧都に任ぜられ、同(天長4年)5月には内裏において祈雨法を修し、大僧都に任ぜられました。  
弘法大師は、多忙な生活の中で多くの書物を著されていきました。広法二種類の「付法伝」は、大日如来から恵果和尚までの正統な密教を受け継ぎ伝えた祖師たちの系譜とその伝説をあきらかにしています。真言の教えの理論的な根拠を明らかにした「即身成仏義」「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」「吽字義(うんじぎ)」の真言宗の三部書等を著しています。他にも、「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)」「文筆眼心抄(ぶんぴつがんじんしょう)」「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」や、最も晩年の著作「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」等もあります。  
828年(天長5年)には、東寺の東隣に綜芸種知院(しゅげいしゅちいん)という学校を開き、貴賎・貧富の区別によって入学制限を設けない広く門戸の開かれた学校でした。  
ですが、経済的と人材不足の理由で20年で廃せられました。  
造営が続いているさなか、大師は62歳の西暦835年(承和2年)3月21日に入定され、即身成仏をとげられました。その後、西暦921年(延喜21年)10月27日醍醐天皇より“弘法大師”の諡号を賜りました。真言宗の修行の道場、高野山においては、お大師様はいまも、私たちの側にいつも一緒にいてくださいます。四国お遍路においては、巡拝者が持つ金剛杖には同行二人という意味があり、お大師さまは足になり、心の支えとなってお遍路さんとともに歩んで下さっています。 
高野山3  
弘法大師 弘仁10年(819)頃 修行場として開いた  
和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。  
平成16年(2004)7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。  
地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」もおおよそこれと同じ地域である)。8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては「八葉蓮台」という大変良い場所であるとされている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称の山は無い。  
気候  
金剛峯寺境内にあるアメダスの観測値で年平均降水量1851.6mm。年平均気温は10.9℃と大阪管区気象台より6℃低い。一般的に温暖な地域が多い和歌山県としては異例で、冬の寒さが厳しく、1月の平均気温は-0.5℃と氷点下になる。極値は最高33.2℃(1994年8月6日)、最低-13.4℃(1981年2月28日)。  
主な施設・寺院  
壇上伽藍(壇場伽藍) / 弘法大師・空海が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不動堂などが境内に立ち並び、不動堂は世界遺産に登録されている。また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。  
奥の院 / 弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。その途上には「弥勒石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。  
金剛峯寺 / 高野山真言宗の総本山で座主の住寺(世界遺産)。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869)に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院は文禄2年(1593)、豊臣秀吉の建立、文久3年(1863)、再建。歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。大主殿、別殿、新別殿と分かれており、別殿では観光客に湯茶の施しがある。襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られたが今も置かれているのはここのみ。また、金剛峯寺境内にある「蟠龍庭」(2,340m2)は日本最大の石庭。  
大門(だいもん) / 高野山全体の総門。1705年再建。国の重要文化財と世界遺産に指定されている。  
苅萱堂(かるかやどう) / 苅萱道心と石童丸の哀話の舞台として知られる。  
徳川家霊台 / 寛永20年(1643)、徳川家光の建立。家康と秀忠の霊廟がある。世界遺産に登録されている。  
女人堂 / 女人禁制の時代は女性はここまでしか入れなかったとされている。  
金剛三昧院 / 建暦元年(1211)、北条政子の発願による建立。源頼朝と実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝・世界遺産)がある。 
●総本山金剛峯寺 / 和歌山県伊都郡高野町高野山  
弘法大師 弘仁7年(816) 開創  
このお寺の場所は真然大徳(しんぜんだいとく)のご住坊があったところでした。天承元年(1131)10月17日には覺鑁(かくばん)上人が鳥羽上皇の勅許を得て小伝法院を建立され、その後の文禄2年(1593)には豊臣秀吉公が亡き母堂の菩提を弔うため、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立されました。当時は、秀吉公の母堂の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうですが、のちにその名を青厳寺(せいがんじ)と呼び、応其上人の住坊となりました。その後は法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は文久3年(1863)に再建されました。  
明治元年に行政官から青巌寺を金剛峯寺へ改号するよう指導されました。また、明治2年には古くからの高野山の管理制度を改めて総宰庁がおかれ、執政、副執政、参政、顧問、監司といった五役を設け、さらには隣接していた興山寺というお寺を庁舎として使用することになりました。その後、この二つのお寺は合併され、総本山金剛峯寺として現在に至っています。ちなみに、このお寺の住職は座主と呼ばれ、高野山真言宗管長が就任することになりました。  
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられ、東西30間(約60m)、南北約70mの主殿(しゅでん 本坊ともいう。県指定文化財)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内(じない)には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪の広大さと優美さを有しています。  
真言宗各派総大本山会(十八本山)  
金剛峯寺(こんごうぶじ)高野山真言宗総本山  
教王護国寺(きょうおうごこくじ)(東寺)東寺真言宗総本山  
善通寺(ぜんつうじ)真言宗善通寺派総本山  
随心院(ずいしんいん)真言宗善通寺派大本山  
醍醐寺(だいごじ)真言宗醍醐派総本山  
仁和寺(にんなじ)真言宗御室派(おむろは)総本山  
大覚寺(だいかくじ)真言宗大覚寺派大本山  
泉涌寺(せんにゅうじ)真言宗泉涌寺派総本山  
勧修寺(かじゅうじ)真言宗山階派(やましなは)大本山  
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)信貴山真言宗総本山  
中山寺(なかやまでら)真言宗中山寺派大本山  
清澄寺(せいちょうじ)真言三宝宗大本山  
須磨寺(すまでら)真言宗須磨寺派大本山  
(以上、古義真言宗系)  
智積院(ちしゃくいん)真言宗智山派(ちさんは)総本山  
長谷寺(はせでら)真言宗豊山派(ぶざんは)総本山  
根来寺(ねごろじ)新義真言宗総本山  
(以上、新義真言宗系)  
西大寺(さいだいじ)真言律宗総本山  
宝山寺(ほうざんじ)真言律宗大本山 
金剛峯寺2  
このお寺の場所は真然大徳(しんぜんだいとく)のご住坊があったところでした。天承元年(1131)10月17日には覺鑁(かくばん)上人が鳥羽上皇の勅許を得て小伝法院を建立され、その後の文禄2年(1593)には豊臣秀吉公が亡き母堂の菩提を弔うため、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立されました。当時は、秀吉公の母堂の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうですが、のちにその名を青厳寺(せいがんじ)と呼び、応其上人の住坊となりました。その後は法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は文久3年(1863)に再建されました。  
明治元年に行政官から青巌寺を金剛峯寺へ改号するよう指導されました。また、明治2年には古くからの高野山の管理制度を改めて総宰庁がおかれ、執政、副執政、参政、顧問、監司といった五役を設け、さらには隣接していた興山寺というお寺を庁舎として使用することになりました。その後、この二つのお寺は合併され、総本山金剛峯寺として現在に至っています。ちなみに、このお寺の住職は座主と呼ばれ、高野山真言宗管長が就任することになりました。  
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられ、東西30間(約60m)、南北約70mの主殿(しゅでん 本坊ともいう。県指定文化財)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内(じない)には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪の広大さと優美さを有しています。 
●橋杭岩 / 和歌山県串本町  
弘法大師 修行  
弘法大師は天の邪鬼(あまのじゃく)と賭けをして、夜が明けるまでにこの海岸から大島まで橋を造ることとなった。あともう一歩で完成というところで、天の邪鬼は鶏の鳴き声を真似して啼いた。大師は夜が明けたと思い架橋を中止したため橋杭だけがこのような姿で残ったという。 
●丹生都比売神社 / 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野  
弘法大師 伝説 丹生都比売大神よりご神領の高野山を借受  
紀ノ川より紀伊山地に入り標高450mの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞 にうだいみょうじんのりと』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。  
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。  
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。  
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ(絵図参照 3DCG再現映像)明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。  
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。  
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。  
尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録されました。
丹生都比売神社2  
和歌山県伊都郡かつらぎ町にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。また、日本三大厄神のうちの一つとされる。  
創建  
創建の年代は不詳。『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造・石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(位置)に比定され、丹生川の水源地にあたる。また同地は当社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲り(後述)に際して遷ったとする説がある。  
一方『丹生大明神告門』では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したと伝える。  
また『日本書紀』神功皇后紀には、紀伊国の小竹宮において、天野祝と小竹祝を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話がある。この「天野祝」(丹生祝)は当社の神職と見られている。  
空海への土地譲り伝説  
弘法大師・空海が高野山金剛峯寺を開いたのは、地主神たる当社がその神領を譲ったことによると伝えられている。高野山と当社の関係をかたる最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある。これによると、弘仁7年(817)、空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。以上の説話は『今昔物語集』等にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神(丹生明神)の化身だといわれる。『丹生祝氏本系帳』には、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている。  
空海の死後、その弟子達により当社の神領はさらに高野山の寺領となっていった。当社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校・第4代執行の雅真の頃と見られている。  
概史  
国史での初見は『日本三代実録』貞観元年(859)正月27日条で、従四位下勲八等の神階が奉授されたという記録である。六国史では、神階は元慶7年(883)に従四位上勲八等まで昇叙されている。『延喜式』神名帳では紀伊国伊都郡に「丹生都比女神社 名神大月次新嘗」と記載されており、名神大社に列するとともに宮中の月次祭・新嘗祭には官幣を受けていた。また『紀伊国神名帳』には天神として「正一位勲八等 丹生津比淘蜷_」の記載があり、同じく天神として「正一位 丹生高野御子神」の記載もある。  
高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された。この記載は、文献では『太政官符案』寛弘元年(1004)9月25日や『百錬抄』寿永2年(1183)10月9日に見える。また、高野山の火災では当社が仮所とされたほど重要視されていた。  
平安時代末頃から、当社の祭神は二座から四座になったと見られている。仁平元年(1151)の文書に「第三神宮」の記載があるほか、正応6年(1293)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる。祭神の増加について、年代が上記と食い違うものの、『高野春秋』によれば承元2年(1208)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたといい、現在の祭神はこれに基づいている。  
以後も当社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には当社が勧請されて各地に丹生神社が建てられた。そのために当社の境内にも仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている。後世には、当社は修験道の修行の拠点ともなっていた。  
元寇の際には、当社は神威を表したとして一躍有名なり、公家・武家から多くの寄進を受けた。この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている。紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮を構成していたが「一宮」の呼称自体はなく、当社が弘安8年(1285)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した。なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。  
中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された。近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された。  
明治に入り、神仏分離で高野山から独立した。しかし、今日に至るまで多くの僧侶が当社に参拝しており、神前での読経も行われている。大正13年(1924)、近代社格制度において官幣大社に列した。 
丹生都比売神社3 
「丹生都比売神社」(にうつひめじんじゃ)が創建されたのは空海が高野山を開創した時期よりも古く、今から約1700年前のことと伝えられている。  
丹生都比売大神は天照大御神の妹神で神代に紀ノ川流域に降臨し、紀州、大和に農耕を広め今の天野の地に鎮座されたという。丹は朱砂の鉱石から採れる朱を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の地名と神社があるといわれている。丹生都比売大神はここに本拠を置く日本の朱砂を支配する一族の祀る女神とされている。  
高野御子大神は丹生都比売大神の子で密教の道場を求めていた弘法大師の前に現れ高野山へ導いたと伝えられている。弘法大師は神領である高野山を丹生都比売大神より譲り受け高野山を開いたという。以来、「丹生都比売神社」は高野山と深い関係が生じることになる。  
「丹生都比売神社」は高野山参詣の表参道である町石道の途中にあり、かつてはここに参拝した後、高野山に上るのが普通だったようである。  
鎌倉時代に気比神宮から大食都比売大神が、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子より寄進されて本殿が四殿となった。 
●丹生官省符神社 / 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院  
弘法大師 弘仁七年(816) 創建  
丹生官省符神社の草創は古く、弘仁七年(816)弘法大師(空海)によって創建されたお社であります。  
空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出で立ち各地を行脚され途中大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。  
猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。此の処は実に天下無双の霊地であり、空海は、此の処を教えくださった猟師は、1神さまが姿を猟師に現し2化現狩場明神となり神託として一山を与え下さったものであると3想念の内に感得されたのでした。その事を嵯峨天皇に上奏し、天皇は深く感銘され、高野山を空海に下賜されたのでした。  
狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。仏教・真言密教の布教の基となった狩場明神との運命的な出会い。空海はその思いを4政所として5慈尊院を開いたとき、参道中央正面上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の壇と併せて萬年山慈尊院と称されました。  
空海によって創建鎮座爾来、御社号も慈尊院丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、県内外を問わず尊崇を受け6官省符荘(荘園)の総社として栄えました。  
7紀伊名所図絵(天保年間)では、数多くの御社殿等が立ち並び荘厳を極めていましたが明治維新後、神仏判然令(神仏分離令)等により多くの建物は取り除かれ、天文十年(1541=室町時代)に再建された本殿の内、三棟(国指定重要文化財)が往年の姿をとどめ今日に至っています。  
 
1 神さま(地主神)…高野御子大神(高野明神)  
2 化現狩場明神…神さまが姿をかえてこの世に現れること。  
3 想念の内に感得…心の目を開かれ感じとること。  
4 政所…一山(高野山)の政務、庶務をつかさどる所。  
5 慈尊院…神通寺の壇(明神の壇)と慈氏寺の壇(みろくの壇)を併せて萬年山慈尊院としました。  
6  官省符荘とは、太政官と民部省から認可された荘園という意味で、国の干渉を受けない不入の特権と、国へ税金を納めることがいらない不輸祖の特権をもつ正式な荘園でした。  
7 紀伊名所図絵(天保年間=江戸時代)  
 
「狩場明神の従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へ導かれました」という伝説は、今も受け継ぎ語られています。丹生官省符神社の神さまの使いである白・黒二頭の犬は、安産(子授け)祈願としてまた、導き(縁結び)の神さまとして尊崇され家内安全、試験合格、商売繁盛、交通安全、厄祓、厄除、病気平癒等生きるものすべてのお導きを下さる霊験あらたかなお社として知られています。  
丹(に・たん・あか) / 銅の製錬技術にはなくてはならないもので、古墳にみられる赤土は、魔除けやくすり(不老不死=長寿の妙薬=即身成仏の考え)、日の丸など契約を交わす証としても朱印は現在に伝わっています。  
忌明清祓社 / 丹生官省符神社は古来より忌明清祓社として崇敬されています。帰幽後五十一日、百一日をもって親族家族が当神社に参拝して御祈祷を受け御幣を賜る儀式で、神さまの御加護を戴く大変重要な神事です。
丹生官省符神社2  
和歌山県伊都郡九度山町にある神社。九度山町慈尊院集落の南部に位置する。本殿は国の重要文化財(建造物)、境内は国の史跡「高野山町石」の一部。本殿はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部。  
主祭神 / 丹生都比売大神 / 高野御子大神 / 大食都比売大神 / 市杵島比売大神  
もとはこの四神に太神宮(天照大御神)、八幡宮(誉田別大神)、春日明神(天児屋根大神)の三社を祀り、神宮寺の神通寺をあわせ神通寺七社明神とも呼んだ。  
社伝では弘仁7年(816)に空海によって創建されたという。高野山の領する官省符荘の鎮守とされ、応永3年(1396)の文書に「官省符鎮守・神通寺七社」と記録がある(『官省符荘庁番殿原請文』)。  
この他にも神通寺七社明神の記録があり、七社のほかに十二王子社・百二十番神社などの名前が挙げられている。また、『紀伊続風土記』によれば、七社のうち丹生・高野の両神は弘仁年間に空海が勧請し、十二王子と百二十番神の2社が同時に勧請され、気比・厳島の2神は文明年間に勧請されたと伝えられており、これら4社は天文年間の洪水によって昔の境内が沈んでしまったので移転したという。  
1910年(明治43年)に九度山、入郷、慈尊院(現・九度山町)にあった諸社を合祀し、1946年(昭和21年)、丹生官省符神社の社号にあらためた。
丹生官省符神社3  
弘法大師によって慈尊院とともに創建された古社。地主神の丹生都比売大神[にうつひめのおおかみ]の御子・高野御子大神[たかのみこのおおかみ](狩場明神)が猟師の姿で現れ、従えていた2頭の犬を放たれ大師を高野山に導いたことから祭られた。また、朝廷(国)から免税などの特権のある官省符を下賜されたと伝わる。1541年(天文10)に再建された本殿は3棟からなり、国の重要文化財に指定されている。いずれも一間社春日造、檜皮葺。極彩色の美しい社殿だ。文化財として鼎、獅子頭等、また、真田幸村が奉納したと伝えられる太刀を所蔵する。 
●万年山 慈尊院 (女人高野・結縁寺) / 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院  
弘法大師 弘仁7年(816) 開創  
慈尊院は、弘仁7年(816)弘法大師(空海)が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。(当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられていますが、天文9年(1540)紀の川の大洪水にて流失しました。しかし、弥勒堂だけは天文6年(1474)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれました。  
「我が子が開いている山を一目見たい」弘法大師の御母公が香川県の善通寺より訪ねてこられました。しかし、当時の高野山は女人禁制でありましたので、弘法大師の元には行くことができず、この慈尊院で暮らしておられました。  
慈尊院2  
慈尊院は弘仁7年(816)に空海(弘法大師)によって開かれ、当初は慈氏寺と呼ばれていたと伝えられている。弘法大師は高野開山に際し、高野山参詣の玄関口として伽藍を整え高野山の庶務を司る高野政所をここに置いたとされている。高野政所は高野参詣時の宿所にもなり、藤原道長や鳥羽・後宇多上皇などが利用したという。  
弘法大師の母が香川県善通寺から高齢をおして訪ねてきたが、高野山への女人の立ち入りを厳しく禁じていた弘法大師は母をも入山を許さなかった。弘法大師の母は慈尊院に住んでいたが承和2年(835)2月に83歳で逝去した。母は本尊弥勒菩薩を深く信仰していたため、入滅して本尊に化身したという信仰になり、女人の高野参りはここ慈尊院ということになり女人高野とよばれるようになった。  
もともと慈尊院は紀ノ川の河川敷に位置していたが、洪水によって伽藍が流され、天文9年(1540)に現在の場所に移されたといわれている。  
この地を九度山と呼んでいるが、これは弘法大師は月に9度は高野山から山道を下り母を訪ねられたことに由来しているという。
慈尊院3 
弘仁7年(816)に弘法大師が高野山開山のために雨引山麓に政所(寺務所)として建立した古刹。高野山表参道の入口にあり、宿泊所も兼ねていた。開山当時は、女人の高野参りはここまでで、大師を訪れた母親もここで逗留。そのため、大師は月に9度下山し、そのことから九度山[くどやま]の地名が付いた。境内にある弥勒堂[みろくどう](重要文化財)は、母親没後、信仰を寄せていた本尊の弥勒仏坐像[みろくぶつざぞう](国宝)を安置して大師の母の「御廟所」とした。4方3間、宝形造、檜皮葺[ひわだぶき]の堂で、平安時代末期の堂宇建築の特徴を残す。また女人高野ともよばれ、現在も安産、子授け、乳ガン平癒などへの信仰が篤い。
●阿弥陀寺 / 和歌山県那智勝浦町南平野  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基  
妙法山の山頂付近にある真言宗の名刹。弘仁6年(815)に空海(弘法大師)が開基し、その後鎌倉時代になって心地覚心(法燈国師)が再興した。山門をくぐると正面が本堂で、すぐ左側に有名な「ひとつ鐘」がある。熊野では人が亡くなると霊魂は枕元のシキという木の枝を持ってこの妙法山に飛び「ひとつ鐘」を撞いてからあの世に旅立って行くと信じられていて、宗旨を問わず親族が亡くなるとその遺髪、遺骨を納めに来る「おかみあげ」という風習が鎌倉時代により続いている。頂上の奥の院周辺には信者たちが供えたシキミが根付き群生していて、妙法山は別名シキミ山とも呼ばれる。 
●高山寺 / 和歌山県田辺市稲成町  
弘法大師 中興  
紀伊田辺駅の北、会津川のほとりに立つ「弘法さん」で親しまれる寺。寺伝によると、草創は聖徳太子で、弘法大師が中興したとされ、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちされた。境内を見渡すと、文化年間(1804〜18)に建てられた多宝塔がひときわ目を引く。また、縄文時代の貝塚跡や、墓地には南方熊楠[みなかたくまぐす]や合気道創始者の植芝盛平[うえしばもりへい]の墓もある。 
●温泉寺 / 和歌山県田辺市龍神村龍神  
弘法大師 開創  
龍神温泉元湯前の高台に立つ温泉寺は、弘法大師が開湯の折に瑠璃光薬師如来[るりこうやくしにょらい]を安置した草庵が始まり。1705年(宝永2)に明算[みょうざん]という僧侶が頑固な腫れ物を治した礼に薬師堂を再建したといわれる。 
 
弘法大師の歩いた道を探る  
その記念事業を考えるとき、弘法大師が高野山開創を計画されたはじまりが、年少の日の高野の地の発見にあったことは間違いのないところです。そこで、大師が吉野から高野の地に足を踏み入れられた実際のルートを確定してみたいと考えたのが、このプロジェクトのはじまりでした。  
古代の道が尾根道であることは予想できるとしても、実際にはどうであるのか。たとえば、考古学や古代史や山岳学会の専門家から見てどうであるのか。宗教民俗学から見て山に入るとはどのような制約を受けるのか、等々のことを考える必要があります。  
それでも、まず歩くことだということで、平成20年の3月に、とにかく高野山から吉野に向かって和歌山県高野町と奈良県野迫川村の尾根道を6時間ほど歩いてみたのがこの企画の誕生であったのです。  
問題は、高野町や野迫川村の地域については土地勘がありますが、奈良県の天川村や吉野町の山々のルートについてはまったくわかりません。どうするか思案していたとき、世界遺産関係のシンポジウムで吉野・金峯山寺の田中利典執行長と同席しました。雑談の中で高野から吉野への道について話し、困っていることを伝えると、同郷のよしみからか、即座にプロジェクトに賛成していただき、共同でやりましょうということになりました。  
具体的な進捗状況としては、予備会議が平成21年8月21日に金峯山寺を会場に開催されました。参加者は、金剛峯寺、金峯山寺、奈良県文化観光局、吉野町、天川村、近鉄から代表者が集まりました。  
まず道の発掘が議論になりました。そこで、考えられるルートを実地調査することになり、奈良県側を県庁、吉野町、天川村の各職員が行いました。弥山を経由するルートを実地踏破しましたが、9月の予備会議では、橿原考古学研究所の菅谷文則所長はじめ職員の出席もあり、報告後、このルートでは1日で弥山まで南下できないのではないかということになり、天川村北部の山岳道も考えることになりました。  
実は、弘法大師がどのルートを具体的に取られたのかは不明ですが、『性霊集』の記事には、ある具体性が記述されています。  
「空海、少年の日、吉野より南に行くこと一日、更に西へ向かって去ること両日程にして、平原の幽地あり、名づけて高野という」  
つまり、日程と歩いた方向が書かれているということです。季節は、おそらく晩秋から初冬ではなかったかと推測しています。そうすると、午前中に吉野川近辺を出発して、日没前に到達できる距離から1日目の地点が決まります。弥山では距離的に無理だということになります。  
そこで、推定したおおよそのルートを紹介しておきます。おそらく、比蘇寺(現在の世尊寺)から南下して1日目の地点としては、大天井ヶ岳近辺ではないかと考えます。山上ヶ岳まで南下すると、西へ向かう尾根道が無いし、下山すると天川の里に出ます。  
それゆえ、大天井ヶ岳(1439m)近辺で野宿して、西に向かったと考えます。2日目の行程としては、小南峠、扇形山(1053m)、天狗倉山(1061m)、高城山(1111m)、武士ヶ峯(1014m)、乗鞍岳(994m)、天辻峠までだと思います。  
 
  大師 吉野・高野の道

3日目は、出屋敷峠、天狗木峠、陣ヶ峰(1106m)、桜峠から高野の地へ入ったことになります。その後、西へ向かい、大門から尾根伝いに、基本的には現在の町石道をたどって天野に入り、丹生都比売神社を経て紀ノ川へ下りたと考えています。  
このようなコースを推定した上で、いよいよ、第1回「弘法大師 吉野・高野の道プロジェクト」実行委員会を立ち上げることになりました。  
平成22年9月24日、金峯山寺において、14団体の代表者が集まり、規約と役員を決め、今後のスケジュールを決定しました。その結果、実行委員長に筆者、副委員長に金峯山寺・田中執行長、顧問に橿原考古学研究所・菅谷所長を選出し、事務局を奈良県南部振興課に置くことに決まりました。  
参考までに参加団体を紹介しておきます。金峯山寺、金剛峯寺、奈良県立橿原考古学研究所、奈良山岳遺跡研究会、近畿日本鉄道、南海電気鉄道、奈良県、和歌山県、奈良県五條市、吉野町、天川村、黒滝村、野迫川村、和歌山県高野町です。  
早速、活動として、実地踏査をすることになり、平成22年10月に参加団体や新聞・放送関係者など三十数名の参加のもと、天川村北部の山々の尾根道を、歩いて3時間ほどの距離ですが踏査しました。その結果、大師を案内した人物が丹生川上神社や天野の丹生社に関係する狩人であるとしたら、紀ノ川水系の分水嶺である尾根道をたどったことは確実であることから、この道を候補とすることにしました。  
その後、平成23年9月の台風12号による紀伊半島南部を襲った集中豪雨とそれによる山崩れなどで、残りの道を実地調査をすることができなくなってしまいました。  
広報活動としては、同年11月20日に奈良県文化会館で奈良県主催のもとに開催された「祈りの回廊フォーラム」において、「空海を育てた奈良・吉野」という基調講演と座談会に参加しました。  
そして、平成24年2月26日、橿原考古学研究所講堂を会場に「空海を育てた道 吉野〜高野」というテーマで金峯山寺・田中執行長、橿原考古学研究所・菅谷所長と筆者の3名による鼎談を行い、大変好評を得ました。  
同日に開催された第2回実行委員会で、正式に先ほどのルートを確定することができました。このルートの活用として、実際に歩いていただくことを考える段階になっていますが、現在は、昨年の大災害の後遺症から回復しつつある段階かと思います。  
最近の動きとしては、奈良県や金剛峯寺では新しい企画を考えています。一部では実行に移っていますが、この道は、信仰の道として意味づけながら、その活用が幅広い層から期待されていることはたしかです。 

空海の「青春」たどる新たな巡礼道   
弘法大師空海(774〜835)が若き日、吉野山(奈良県吉野町)から歩き高野山(和歌山県高野町)を見つけたというルートを再生する「弘法大師の道」プロジェクトが進み、来年5月に新たな巡礼道として開闢(かいびゃく)(開山)される。平成27年の高野山開創1200年を前に世界遺産の2大霊場が結ばれることになる。関係者は日程の記録などから「空海は山を歩くというより走ったのでは」と推測し、トレイルランニングの大会も計画中だ。後に高野山を聖地として開く空海の青春をたどる巡礼、そして空海とトレイルランニングという異色のコラボは定着するか。(岩口利一)  
「南へ1日、西へ2日」  
プロジェクトのきっかけとなったのは、平安時代の漢詩文集「性霊(しょうりょう)集」にある「空海は少年の日、吉野山から1日南行し、さらに西に2日歩いて高野山に至った」という内容の記述。  
これに基づき5年ほど前に、高野山・金剛峯(こんごうぶ)寺執行だった村上保壽(ほうじゅ)・高野山大名誉教授と、吉野山・金峯山(きんぷせん)寺執行長だった田中利典・金峯山修験本宗宗務総長が吉野山と高野山を結ぶルートを再生する活動を開始。平成22年には両寺と奈良、和歌山両県などで実行委員会を結成し、研究者を交えて、ルートの選定や踏査を繰り返してきた。  
この結果、ルートは、吉野山から大峯山方面に南下し、途中から西進。奈良県天川村の北側稜線を進み、天辻峠を経て和歌山県に入り、高野山に至る約60キロと決定した。その後、倒木の除去などを行って、道標も付けるなど、巡礼道として歩けるよう整備。来年5月に実行委のメンバーらが吉野山から高野山まで歩くことになった。  
空海の夢の足跡  
空海の著作「三教指帰(さんごうしいき)」や遺談をもとにした「御遺告(ごゆいごう)」によると、空海は15歳のとき、故郷の讃岐(香川県)から都へ上り、18歳で大学に入った。当時、都は平城京(奈良市)から長岡京(京都府長岡京市、向日市など)に遷り、大学がいずれにあったかは不明だが、空海は大寺院の多い平城京やその周辺で修行したと推測されている。  
空海は大学で儒教や仏教、歴史などを学んだが、なぜか大学を中退して仏の道を志し、各地の山々で修行。吉野山付近から歩き、高野山に至ったのもこのころと考えられ、田中・宗務総長は「空海に奈良というイメージはないが、若いころは奈良で学んで吉野山でも修行し、高野山に至った」と「奈良の空海」を強調。空海の青春の道を知ってほしいという。  
空海はその後、30代初めに遣唐使船で中国・唐へ留学。密教を学び、帰国後は京都・高雄山寺(神護寺)に入った。40代前半に天皇から高野山を賜(たまわ)り、伽藍(がらん)の整備に着手。真言密教の聖地とする壮大な夢を実現した。  
空海が少年時代に吉野から歩いて見つけた高野の地。空海はこの山を一大聖地にすることを当時から思い描いていたのだろうか。村上・高野山大名誉教授は「中国の寺の様子などを見て山を聖地にしようと思い、高野山を思い出されたのでは」と推測する。  
空海の足は異常な速さ  
「南へ1日、西へ2日」。約60キロというこのルートを3日で踏破するには1日約20キロを歩かねばならない。しかも時期によって山の環境は大きく変わる。村上・高野山大名誉教授は「山にはクマやオオカミがいたと想定され、こうした動物が冬眠する時期、しかも雪が積もる前の秋から冬にかけて山に入ったのでは」と説明。日が落ちるのが早い時期のために、空海はかなり速く歩いたと考えられるという。  
こうした“空海のスピード”の推測にちなみプロジェクトの関係者らは、「弘法大師の道」でトレイルランニングの大会を開くことを計画。11月にはルートの一部で、「トレイルランニングアカデミー」を開催し、トレイルランナーの鏑木(かぶらき)毅(つよし)さん、横山峰弘さんと、参加者約20人が秋が深まる山道を駆け抜けた。  
「多感な年頃に歩いた空海はどんな思いだったのか、想像力がかき立てられる。アップダウンが激しいこのルートを進んだのはよほど強い思いがあったからこそでしょう」と鏑木さん。  
一方、奈良県南部東部振興課の福野博昭・課長補佐も「この道を走り、弘法大師が悩み、苦労しながら高野山へ至ったことを知ってもらいたい」とPR。高野山開創1200年の27年に本格的な大会、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(高野山、吉野・大峯、熊野三山)が登録10周年となる26年にプレ大会を開催することを目指しているという。  
吉野山〜高野山によみがえる「弘法大師の道」。そこを進む巡礼者やランナーの胸には力に満ちた「お大師さん」の姿があることだろう。 
伊太祁曽神社 (いたきそじんじゃ) / 和歌山県和歌山市伊太祈曽  
御鎮座の時期については詳らかでないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2年(702)の記事が初見になる。古くは現在の日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を開け渡したと社伝に伝える。その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、和銅6年(713)に現在地に遷座したと伝えられる。  
木の国、紀伊国の語源となった木の神、五十猛命を祭る古社で、一之宮。樹木の神、厄除け、大漁・航海安全の神としても知られる。「古事記」には因幡の素兎の続きに御祭神が大国主神を災厄から救った神話が記されており、この神話にちなむ厄除け木の俣くぐりが有名。また病人が飲むと元気になるという「いのちの水」も湧いている。 
 
滋賀県

 

●舎那院 (滋賀県長浜市) / 平安時代初期の弘仁5年(814)、空海(弘法大師)を開基として創建したと伝わる古刹。  
●玉桂寺 (滋賀県甲賀市) / 奈良時代に淳仁天皇が仮御所として造営した離宮「保良宮」跡に空海が開いたという保良宮の跡地は不明であるが、現在の大津市内にあったとする説が有力であり、玉桂寺の境内を保良宮の跡とするのは伝承の域を出ない。  
●宝厳寺 (滋賀県長浜市) / 空海請来目録 附:観応元年卯月十日宗光寄進状  
●園城寺 (滋賀県大津市) / 俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。  
●東方山 安養寺 / 滋賀県栗東市安養寺  
弘法大師 承和元年(834) 中興  
天平十二年(740) 聖武天皇の勅願により、金勝寺25別院の一つとして、良弁僧正が開基。本尊が薬師如来であることから東方瑠璃山安養寺勅願を賜りました。  
承和元年(834) 弘法大師空海が中興、真言宗に改宗。伽藍造立の本願は太政大臣藤原良房。  
弘長三年(1263) 亀山天皇は勅願所とされ七堂伽藍をはじめ二十余の僧坊の並ぶ大伽藍を建立、弘法大師作の愛染明王を 下賜される。  
長享元年(1487) 足利九代将軍義尚が佐々木(六角)高頼討伐のため、陣所とする。しかし、兵火に罹り堂宇を消失。その後大永年間に復興。  
元亀元年(1570) 織田信長の兵火のため、本尊の薬師三尊等の一部を除いて、すべて焼失する。  
貞享元年(1684) 戒山慧堅律師、旧跡の荒廃を惜しみ、仏殿僧舎を再建建立。  
享保三年(1718) 後西院の皇女宝鏡寺理豊宮より、後西院天皇真筆の「東方山」・「安養寺」・「放光院」の山号・寺号・院号の三額を賜る。 
安養寺2  
天平十二年(740)・聖武天皇の勅願により、金勝寺25別院の一つとして、良弁僧正が開基。本尊が薬師如来であることから東方瑠璃山安養寺勅願を賜りました。  
承和元年(834)・弘法大師空海が中興、真言宗に改宗。伽藍造立の本願は太政大臣藤原良房。
安養寺3  
安養寺山の麓に、良弁によって開基  
安養寺山の麓に、聖武天皇の勅願により、東大寺の建立に尽力し、金勝寺を開基した良弁によって開基されました。当初は法相宗に属していましたが、承和元年(834)太政大臣藤原良房の本願により、弘法大師こと空海が中興開基され、以後真言宗大本山大覚寺派の名刹として知られています。  
焼失と再建  
安養寺には、弘法大師が作ったとされる愛染明王や大黒天などが残っています。皇室の帰依も厚く、弘長3年(1262)に亀山天皇が諸堂を再建したと寺伝に記されています。その後、火災に遭いましたが、嘉元2年(1304)に復興しました。長享元年(1487)、室町幕府と対立し、近江で力を誇っていた六角高頼氏を討伐に出陣した第9代将軍足利義尚が、栗東で最初に陣を構えたのが、安養寺でした。安養寺に入った義尚は、本格的に甲賀郡内の六角勢掃討に着手しましたが、長期化を予想した義尚は、手狭な安養寺を出て、上鈎にある永正寺に陣を置きました。この戦いの時に、六角勢の兵火にかかり、十二ヶ院などの建造物が焼失しました。大永年間(1521〜1528)に再興されましたが、再び戦乱に呑みこまれてしまいます。元亀元年(1570)8月9日、織田信長が佐々木氏の残党と戦ったその兵火を浴びて、本堂・僧房などがことごとく焼け落ちました。  
本尊 / 薬師如来坐像 (国指定重要文化財)  
しかし、その戦火の中でも、本尊である薬師如来坐像(国指定重要文化財)は残ったのです。この薬師如来坐像は、奈良仏師の慶派の影響が色濃い作例で、運慶・快慶の次世代が活躍する鎌倉時代(13世紀前半〜中期)に作られたと考えられています。この坐像は、大きさはもとより、細部の表現など、栗東にある鎌倉彫刻の中でも屈指の作例であると言えます。  
再興  
貞享元年(1684)に京都から慧堅戒山が入山し再興し、その後、正徳元年(1711)に江戸幕府第6代将軍徳川家宣に末永く天下安全の祈祷を修する旨命じられました。 
●立木観音 立木山安養寺 / 滋賀県大津市石山南郷町奥山  
弘法大師 弘仁六年(815) ゆかりの地  
平安時代前期、諸国を修行中だった弘法大師(空海)。瀬田川のほとりに立ち寄った際“鹿跳渓谷(ししとびけいこく)”に向かいそびえる立木山の中に、光輝く"霊木"を発見しました。  
しかし、霊木の対岸に立っていた弘法大師は、急流のため川を渡れずにいました。すると突然、目の前に白い鹿が現れ彼を背中に乗せ、岩の上を跳んで渡ってくれたという伝説が残されています。  
この伝説から、この地は“鹿跳(ししとび)”と呼ばれるようになり、鹿跳渓谷には“鹿跳橋”という橋が架かっています。  
鹿に導かれて川を渡り、弘法大師が霊木の前に辿り着くと、白い鹿は、たちまち観世音菩薩に姿を変え、空に消えたといいます。  
この奇跡的な出来事に感激した弘法大師が、霊木に等身大の観音像を刻み、これを本尊として建立したのが“立木観音(立木山安養寺)”だと言われています。  
当時、弘法大師が厄年の42歳だったことから、立木観音は古くから"厄除け観音"として、広く人々に親しまれています。  
立木観音と言えば、境内本堂まで続く700段あまりの石段が有名で、瀬田川(南郷)洗堰から瀬田川を宇治方向へ南に2kmほど下ると、右手に登り口が見えます。  
登りごたえがある700余段の階段を登りきると、緑いっぱいの美しい景色が望め、静かで落ち着いた雰囲気の小さな境内。  
観音像を安置する本堂からまた少し石段を登ると、厄を落とすといわれる小さな鐘楼があります。  
地元の人からは「立木さん」と呼ばれ、毎月17日には、月詣りをする参詣者で賑わい、初詣の際も厄除けの御利益を求め、多くの人がお参りに訪れる立木観音。鹿跳の地の、美しく雄大な自然に触れると、慌ただしい日常から抜け出せるような癒しのひとときを過ごすことができます。  
立木観音2  
弘仁六年(815)、弘法大師が諸国を御修行中、瀬田川のほとりにおいでになりますと、この山に光を放つ霊木があるのにお目がとまり奇異に思っておられるところへ、白い雄鹿が現われ大師を背にのせて瀬田川を跳び渡り、霊木の御前に導き観世音に変げしました。  
それ以来麓の渓谷は「鹿跳(ししとび)」とよばれてきました。  
大師はこんな有難い奇瑞があろうか、これは自分がちょうど四十二才の大厄にあたっているのでお導きいただいたのだと歓喜され、おもえば人の世には何人も免れ難い厄難があり、中でも男四十二才、女三十三才は危難の年である。  
どうか自分の災厄のみならず未来永劫の人々の厄難厄病を救い給えと心願をこめて、根のある立木のままの霊木に大師の背丈にあわせて聖観世音菩薩の尊像をお刻みになりました。  
それから約千二百年、信心する人には必ず感応ましまし霊験あらたかな厄除の「立木の観音さま」、あるいは「たちきさん」と尊ばれ広く信仰されてまいったのであります。
立木観音3  
満々と水をたたえる琵琶湖から、京都、大阪へと唯一流れ出る瀬田川の南郷から大石の間にある景勝地、米かし岩や奇岩の間を流れる急流の鹿跳渓谷を望む急峻な立木山の山腹を、約800段の石段を登ったところに「立木観音 立木山安養寺」があります。  
平安時代前期、山に光を放つ霊木を見つけられた弘法大師が瀬田川の急流で渡れずにいる所、白い雄鹿が現れて、大師を背中に乗せて川を跳び越えられ、霊木の前まで導き、雄鹿は観世音菩薩のお姿になられました。以来、この地は「鹿跳(ししとび)」と呼ばれています。  
大師は自身が42才の大厄の年にあたっていたため、観音さまに導いていただいたのだと歓喜され、自身のみならず、未来永劫の人々の厄難・厄病を祓おうと発願し、霊木を立木のままに聖観世音菩薩を刻まれ、一宇の堂を建てて安置したと伝えられています。  
大師はその後、高野山を開基されたので、立木観音は「元高野山」とも呼ばれています。  
毎年、大晦日の夜から境内は参拝者でにぎわい、元旦会、初立木会等、特に一月中のお参りは多く、滋賀・京都・大阪・兵庫など関西はもとより、福井・愛知また遠くは東京・関東方面など遠方より参拝されます。節分会、新緑の季節、初夏から秋にかけて、9月5日の千日会をはさみ、小さな子供連れの家族、若い方たち、月参りの方など、日々変化する豊かな自然に親しまれながら一年を通してお参りされる方が絶えることはありません。  
このように立木観音は、昔から災難除・厄除の寺として多くの参拝者が自身や家族の無事息災・家内安全・諸願成就などを願って参られています。  
 
弘仁六年(815)、弘法大師が諸国を御修行中、瀬田川のほとりにおいでになりますと、この山に光を放つ霊木があるのにお目がとまり奇異に思っておられるところへ、白い雄鹿が現われ大師を背にのせて瀬田川を跳び渡り、霊木の御前に導き観世音に変げしました。  
それ以来麓の渓谷は「鹿跳(ししとび)」とよばれてきました。  
大師はこんな有難い奇瑞があろうか、これは自分がちょうど四十二才の大厄にあたっているのでお導きいただいたのだと歓喜され、おもえば人の世には何人も免れ難い厄難があり、中でも男四十二才、女三十三才は危難の年である。  
どうか自分の災厄のみならず未来永劫の人々の厄難厄病を救い給えと心願をこめて、根のある立木のままの霊木に大師の背丈にあわせて聖観世音菩薩の尊像をお刻みになりました。  
それから約千二百年、信心する人には必ず感応ましまし霊験あらたかな厄除の「立木の観音さま」、あるいは「たちきさん」と尊ばれ広く信仰されてまいったのであります。
立木観音4  
立木山は、滋賀県大津市、石山寺、南郷付近にある、立木山・安養寺(立木観音)のこと。お守りにお札を収めると共に、弘法大師さんに会いにやって来ました。新緑の季節、天気も良く、空は晴れ渡り、湖は青く、山は緑。最高の日曜日です。  
立木観音は、平安時代前期、山に光を放つ霊木を見つけられた弘法大師が瀬田川の急流で渡れずにいる所、白い雄鹿が現れて、大師を背中に乗せて川を跳び越えられ、霊木の前まで導き、雄鹿は観世音菩薩のお姿になられました。大師は自身が42才の大厄の年にあたっていたため、観音さまに導いていただいたのだと歓喜され、自身のみならず、未来永劫の人々の厄難・厄病を祓おうと発願し、霊木を立木のままに聖観世音菩薩を刻まれ、一宇の堂を建てて安置したと伝えられています。  
弘法杉(こうぼうすぎ)  
甲西町指定天然記念物 / 甲賀郡内の2町が合併して湖南市誕生。旧行政区は甲賀郡甲西町  
天井川(てんじょうがわ)をご存じの方も多いと思う。  
天井川とは、川床の標高が堤防の外側の地面の標高より高くなってしまった川のことである。例としては草津川が有名で、JR東海道本線が草津川を通過する際、川の上を橋で越えるのではなく、川の下をトンネルによって越えていることがよく知られている。  
弘法杉が立つ場所は、そんな天井川の一つ、大沙川の堤防上である。そして、弘法杉の下には、旧東海道のトンネルがある。  
トンネルの西口に、堤防上に至る小道があり、弘法杉の案内板が設置されていた。  
弘法大師がこの地に来て、食事後、2本の杉箸を地面に挿して置いたところ、それが根付いて、この大杉になったと伝承されているようだ。その後、朽ちてしまったので、里人が再び植えなおしたが、そのうち1本は、安永2年(1773)の台風で倒壊したとも伝えているらしい。  
なお、このスギの枝で箸を作って子に使わせると、左手で箸を持つ子も、右手で持つようになるとの伝承もあるようだ。(上記案内板より)  
なにしろ弘法大師の御利益である。左利きの矯正など朝飯前のことだっただろう。 
●不動寺(磨崖不動明王尊) / 滋賀県湖南市岩根  
弘法大師 創立 
湖南市岩根の里中から善水寺に向かう山道(岩根山中腹)に不動寺はある。不動寺は延暦年間に弘法大師が創建されたといわれています。本宮に覆いかぶさるように、磨崖仏が刻まれてた巨岩があります。 明王は、大きな自然の岩に磨崖仏としてきざまれ、信仰の本尊とされており、それがそのまま寺名となりました。 
塩野温泉 / 滋賀県甲賀市甲南町塩野  
弘法大師 伝説  
約1000年前、弘法大師(空海)により発見され、滋賀県随一の歴史ある古湯と言われています無色透明の湯は、ほのかに塩分を含んでいて、婦人病、胃腸病、神経痛 などに効果があるそう。
●摺針峠(中山道) / 滋賀県彦根市下矢倉町  
弘法大師 伝説  
中山道は、鳥居本の宿場町から山道を登って江戸へ下っていきました。山道を曲がると急に視界が開け、この峠から眺める琵琶湖や湖東平野の眺めは最高だったといわれています。  
摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。  
「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」  
その昔、また諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになって、この峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと悟った青年僧は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励み、後に、弘法大使になったと伝えられています。  
その後、再びこの峠を訪れた大師は、摺針明神宮に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。  
その杉が摺針明神宮の社殿前にあり、太いしめ縄が張られています。現在、峠より一段高いところにありますが、以前、峠はこの杉のすぐ脇を通っていたといわれています。また、杉の真下に「望湖堂」とい名の峠の茶店が保存されていましたが、平成3年(1991)に残念にも火災にあい焼失しました。 
●竹生島 宝厳寺 / 滋賀県長浜市  
弘法大師 修業  
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。  
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。  
それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。  
当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。 
宝厳寺2 
宝厳寺は、神亀元年(724)に聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神のお告げを受けて堂塔を開基させたのが始まりといわれています。その後、本堂に大弁才天を安置、翌年には観音堂を建立し千手観音像を安置したそうです。それ以来、天皇の行幸が続き伝教大師や弘法大師も来島し、修業したと伝えられています。  
慶長七年(1602)には、豊臣秀吉の遺命により京都伏見にあった豊国廟から観音堂や唐門を移築。国宝に指定されている唐門は鳳凰や獅子、牡丹などをモチーフとした美しい彫刻が施されており、豪華絢爛な桃山様式を味わうことができます。唐門の奥にある観音堂は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十番札所として白洲正子も参拝に訪れた場所です。 
 
比叡山 延暦寺 / 滋賀県大津市坂本本町  
最澄 開創  
百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。  
それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります。  
また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。 このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。  
比叡山へは、ケーブルやドライブウェイも完備し、諸堂拝観はもとより、自然散策や史蹟探訪にと気軽に親しんでいただくことができます。  
 
比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766〜822)でありました。最澄は延暦7年(788)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。  
最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。  
最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。  
特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。  
比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。  
その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536〜1643)の尽力により、比叡山は再興されました。  
さらに明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えて現在に至っております。  
信長焼き討ち以後、千日回峰行や12年篭山行も復興されています。また昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しております。 
多賀大社 / 滋賀県犬上郡多賀町  
古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。  
日本最古の書物「古事記」によると、この両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我国の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。このように、命の親神様であることから、古くから延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として信仰を集め、鎌倉から江戸時代にかけては、武家や民衆の信仰が一気に広まりました。  
例えば、甲斐の武田信玄は25歳の厄年に際し、黄金2枚を寄進して厄除けを祈願しておりますし、太閤秀吉は母大政所の病気に際して「命の議、三カ年、ならずんば二年、げにげにならずんば三十日にても」と祈願文を寄せ、米一万石を寄進しております。幸いに大政所は治癒され、その一万石で正面の太閤橋や奥書院庭園が築造されました。  
春のしだれ桜、秋の奥書院の紅葉などもみごとで、また、近辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖などの名所にも恵まれ、年間約170万人の参拝者を迎えています。 
三井寺(長等山園城寺) / 滋賀県大津市園城寺町  
三井寺は、日本最大の湖・琵琶湖を望む滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山です。正式には、長等山園城寺と称し、七世紀に天智天皇ゆかりの寺として創建されました。三井寺の名称は、天智・天武・持統の三天皇が産湯に用いられたという湧水(三井の霊泉)があり、「御井の寺」と呼ばれていたことに由来します。その後、三井寺の開祖・智証大師円珍(八一四〜八九一)が、この霊泉を密教の三部潅頂の法水に用いたことから三井寺と呼ばれるようになりました。三十五万坪に及ぶ広大な境内には、国宝、重要文化財の堂塔伽藍が建ち並び、古来より近江を代表する景勝の地として、また桜の名所として親しまれています。  
智証大師 円珍  
天台寺門宗の開祖。三井寺初代長吏。第五代天台座主として伝教・慈覚両大師の後を継ぎ、日本天台寺門宗の基礎を築かれた「天台三聖」の一人に数えられています。四十歳にして唐国に渡って仏教の奥旨を究められ、帰国後は三井寺を天台別院として中興されました。延長五(九二七)年には、醍醐天皇から「智証大師」の論号が贈られました。  
ご生誕 / 弘仁五(八一四)年三月二十五日、現在の香川県善通寺市金蔵寺町に生まれました。父は和気宅成、母は佐伯氏の出身で弘法大師空海の姪に当たります。母は海上にのぼる太陽が口の中に飛び込む夢を見て身ごもったとの奇端が伝えられています。現在の別格本山金倉寺の地がご生誕所で、近くには産湯を汲んだという井戸が現在も残されています。  
神童・智恵童子 / 智証大師は、幼いときから堂々として当意即妙の智恵にすぐれ、文殊菩薩の生まれかわりと敬愛されました。三歳の大師を見た弘法大師は、「智恵童子」と呼んだと伝えています。その聡明なことは、八歳にして「因果経」を父に所望し、仏典に親しみ、十歳のときには「論語」や「文選」など一度読んだだけで覚えてしまうほどでした。  
鬼子母善神の示現 / 五歳のときには、智証大師の目前に女神が降臨して、大師の将来を予言して守護することを誓ったといいます。その後、智証大師が三井寺を中興する際に再び影現され、そのときのお姿を智証大師自ら手刻したのが現在の護法善神像(重文)であると伝えています。  
比叡山へ / 十歳を過ぎるころから仏道への志が高まり、十五歳のとき、叔父の僧・仁徳につれられて天台宗の総本山比叡山延暦寺に登り、初代座主となられた義真和尚(七七八〜八三三)のお弟子となられました。 
近江神宮 / 滋賀県大津市神宮町  
第38代天智天皇をまつる近江神宮は、天智天皇の古都、近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社です。滋賀県西部、琵琶湖西岸の山裾に位置しています。旧官幣大社・勅祭社であり、社殿は近江造り・昭和造りといわれ、昭和の神社建築の代表として登録文化財となっています。開運・みちびきの神、産業文化学問の神として崇敬が深く、また漏刻(水時計)・百人一首かるた・流鏑馬(やぶさめ)で知られ、境内に時計館宝物館があり、漏刻・日時計なども設けられています。また、神前結婚式のほか、初宮詣(お宮参り)・七五三・車のおはらいや各種祈願なども申し受けています。  
天智天皇と大津京 / 史跡と伝承  
近江大津宮  
天智天皇は、その6年(667)、斉明天皇の御時より都を置かれていた飛鳥岡本宮より近江大津宮に都を移された。それまでの多くの都が置かれた飛鳥近辺から離れたこの地であるが、大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うために人心の一新を図るとともに、同盟国であった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍と戦った、4年前の白村江での敗戦後、深刻化した本土侵攻の危機に備え、国土防衛のための態勢を整えるなかで、その根幹として天然の要害であるとともに交通の要衝でもある大津に遷都したものと考えられている。  
5年後に起った壬申の乱の敗戦によりわずか5年半の都に終るが、この短い期間に大津宮において画期的な新政治を推進されることになり、ひいては近江国・滋賀県の発展の基ともなった。更にそのあとを受けた天武天皇は、壬申の乱で対峙したにもかかわらず、多く天智天皇の施策を受け継いでさらに発展させられたことにより、天智朝の意義もより大きなものとなったといえる。  
宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続いたが、昭和49年からの発掘調査により錦織がその中枢地区であることが確定的となった。『近江名所図絵』(文化11年・1841)『近江名跡案内記』(明治24年)などに記された、大津京は錦織字御所之内にあったという伝えに基づき、明治28年、この地に『志賀宮址碑』が建立されていたが、あたかも碑の建立地は復元推定地の中心地、内裏南門の跡に相当する。碑のある場所から近江神宮に至る県道は、まさにそのまま大津京のメインストリートの跡でもあったのである。  
なお、一般に大津京といわれているが、大津京の語は古い文献に表われておらず、藤原京・平城京などのように大規模な条坊制をともなったものを京というのであり、大津宮は京といえる程の規模には達していないとして、大津宮というべきだとする学者が多い。一方、中心部の宮域内を大津宮といい外延部まで含めた全体像を大津京というとする考え方もある。  
近江大津宮錦織遺跡  
昭和49年、錦織二丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域が大津宮の所在地であったことが確実視されるにいたった。その後十数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進展している。昭和54年7月に国史跡に指定された。  
昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行なう朝堂院とを分ける内裏南門であることがわかり、復原すると東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属している。この門の北側が内裏、南側が朝堂院である。門の真北には三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿がある。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されている。  
南滋賀町廃寺跡  
大津京跡の探索の過程で発掘された、天智朝当時の寺院跡。国指定史跡。かつては梵釈寺とも考えられ、大津宮そのものに比定されたこともある。文献には現れないが、崇福寺・園城寺前身寺院・穴太廃寺とともに大津京をめぐる四大寺院のひとつである。昭和3年・13年の発掘調査により、金堂を中心に塔・小金堂・講堂を配し、廻廊と僧房で囲む、川原寺式の伽藍配置となっていることが明らかとなった。白鳳期に創建され平安時代まで存続したことが明らかとなっている。  
崇福寺跡  
大津京の乾の鎮めとして天智天皇の勅願により創建されたと伝える。『扶桑略記』『今昔物語』などに創建説話が掲載されている。志賀の山寺として、平安時代を通じて多くの都人が往来した志賀越え山中の名所であった。  
波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕べさびしき志賀の山寺  藤原良経  
『扶桑略記』によると、天智天皇7年(668)の創建とされる。平安初期には、東大寺・興福寺・薬師寺などと並ぶ十大寺の一つとして朝野の信仰が厚く、弥勒信仰の聖地として繁栄した。その後火災・地震等で焼失・倒壊と再建を繰り返しながらも国家的な保護・崇敬が続聖けられていたが、鎌倉初期には園城寺の支院とされ、室町時代には廃絶することになる。  
大津京探索の一環として昭和3年・13年に発掘調査が行われ、三か所にわたる尾根上に主要伽藍が築かれていたことが明らかとなった。北尾根に弥勒堂、中央尾根に塔・小金堂、南尾根に金堂・講堂が推定され、周辺にも別の建物跡が発見されている。昭和13年からの発掘調査の際、塔跡の心礎孔中に仏舎利に見立てた水晶三粒が納められた舎利容器をはじめとする納置品が発見され、一括して国宝に指定され、近江神宮の所蔵となっている。  
なお近年、南尾根の建物群は桓武天皇が天智天皇追慕のために建立した梵釈寺跡とする説が有力である。  
崇福寺創建の縁起と金仙の滝  
滋賀里の西方山中にある崇福寺跡の谷筋に金仙滝と呼ばれる小さな滝と霊窟がある。この地は崇福寺建立にまつわる有名な伝説が残る地でもある。『今昔物語』『三宝絵詞』等に以下のように伝えられている。  
天智天皇はかねて寺を建立したいと考えておられたが、そのことで願をかけたその夜、夢に一人の僧が現われ「乾の方角(北西)にすぐれた良い所があります」 と告げた。目を覚まして外をご覧になると乾の方角に光が輝き、あたり一帯を明るく照らし出していた。翌朝使いを遣わして光を放っていた山を訪ね、奥に分け 入っていくと深い洞窟があり、怪異な老人がいる。天皇は自らそこに行き老人を訪ねると、翁は「ここは昔仙人の住んでいた霊窟です。さざなみや長等の山 に・・・」といって消え失せた。そこで天皇はこここそ捜していた尊い霊地だと考え、ここに寺を建てることに決められた。  
翌年正月に崇福寺が建立され、丈六の弥勒の像を安置したが、その開眼供養の日、天皇は自ら右の薬指を切って石の箱に入れ灯籠の土の下に埋められた。寺を建 てるための整地の際、地中から三尺程の宝塔が発見されたが、昔アショカ王が多くの塔を建てた、そのうちの一つだと知らされ、いよいよ誓願を深め、そのしる しに指を切って弥勒に奉ったものである。  
後の時代になり、その寺の霊験まことにあら たかであったが、一般の人にはなかなか近寄り難かった。寺の別当が「この寺に人が参詣しないのはこの指のせいだ。掘り出して捨ててしまえ」といって掘らせ ると、たちまちに雷が鳴り風雨が激しくなった。掘り出したその指は、今切ったばかりのように鮮やかに白く光っていたが、まもなく水のように溶けて消え失せ てしまった。その後、その別当はほどなく狂って死んでしまった。その後は霊験もなくなっていったという。  
榿木原(はんのきはら)瓦窯  
昭和49年から53年にわたる西大津バイパス建設にともなう発掘調査で、白鳳時代から平安時代にかけての瓦生産遺跡であることが判明した。この遺跡は、笵(型)によって粘土から瓦を形づくる作業をする工房と、それから乾燥させた後で焼成する瓦窯とで構成されている。焼成した瓦は、すぐ東方の南滋賀町廃寺で使用され、一部は崇福寺へも供給されたものとみられる。  
瓦窯は、白鳳時代の登り窯5基、奈良時代末から平安時代中ごろの平窯5基が入り交って3群をなしている。登り窯では、「サソリ瓦」と通称されている蓮華文方形軒瓦ろや複弁蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦・丸瓦・平瓦などが焼かれている。平窯では、流雲文で飾る軒瓦や鬼瓦、丸瓦・平瓦などが焼かれた。この瓦窯群のうち最も遺存状態の良好な登り窯1基は、バイパス建設で現地保存が困難なため、そっくり切り取り、原位置から北方約25メートルのバイパスと主要地方道下鴨大津線の間の斜面に移して保存されている。  
工房跡では、長大な掘立柱建物跡が重複して6棟検出されている。7世紀後半から8世紀初めころのもの2棟、8世紀前半ころの1棟、9世紀前半以降の3棟の3期に区分される。  
金殿の井  
天智天皇は都を近江に移してまもなく病の床に就かれた。そのとき重臣であった中臣金の夢に、都の西方の大木の根から湧き出る清水を汲んで天皇に奉れとのお告げがあった。そこで中臣金が宇佐山(近江神宮裏手の山)山中に分け入ると、お告げどおりの泉があり、さっそく天皇に飲んでいただいたところ、病気はたちどころに快方に向ったという。そこで、この泉を「金殿井」と名付けて賞賛した。  
後に源頼義が宇佐山山中に宇佐八幡宮を建立したとき、この泉の水を人々に拝受させ、霊験があったという。この神水は諸病に功験があり、特に八月初旬の土用の日にいただくと特に効き目があるという。現在も霊泉祭が行われている。  
近江神宮境内の井戸や手水の水もかつてはこの神水につながる山の水のであったが、西大津バイパスの宇佐山トンネルの開通後、水脈が断たれたためか、あまり水が出なくなった。 
都久夫須麻神社(竹生島神社) / 滋賀県長浜市  
琵琶湖の湖水を支配する浅井比売命(アザイヒメノミコト)や、天照大神の子で交通安全・開運厄除の神様とされる市杵島比売命(別名:弁財天・宗像大神)など四柱を祭神とする。千数百余りまつられている弁財天の中で、厳島神社、江島神社と並び日本三大弁財天の一つとして知られ、毎年6月10日には三社で合同の弁財天まつりが華々しく繰り広げられている。  
本殿は今から450年前、豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の束力使殿を移転したもので、国宝となっています。本殿内部は桃山時代を代表する、優雅できらびやかな装飾が施されています。天井画は60枚で狩野永徳光信の作。黒漆塗りの桂長押には金蒔絵(高台寺蒔絵)が施され要所には精巧な金の金具がうたれています。 
長濱八幡宮 / 滋賀県長浜市  
当宮は延久元年(西暦1069)、源義家公が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮より御分霊を迎えて鎮座されました。それよりこの地は八幡の庄と称えられ庄内十一郷の産土(うぶすな)の神として深く崇敬される事となりました。当時その社頭は三千石、一山七十三坊と伝えられ、本宮の石清水八幡宮を凌ぐくらいであったといわれます。しかし、その後、しばしば兵火にみまわれ、その社殿はほとんど消失されました。時は流れ、天正二年(西暦1574)羽柴秀吉公が長浜城主となるや、その大社の荒廃を惜しみ、社殿の修理造営をなし再興に努めました。この史実は、長浜曳山祭の起源とも言われています。 
太郎坊宮(阿賀神社) / 滋賀県東近江市  
当神社が創始されたのは、約1400年前と言い伝えられている。聖徳太子が当地箕作山に瓦屋寺を建立された時、当社の霊験が顕著であることを聞かれ、国家の安泰と万人の幸福を祈念されたと云われている。その後、最澄も参籠し、そのご神徳に感銘し、50あまりの坊を建立して当社を守護させられた。又、多数の行者が集まり、修験道もさかんになった。  
このように、明治の神仏分離令が発せられるまで、神道・修験道・天台宗が相混ざった形態で信仰されてきた。  
当社の御祭神は勝運の神と崇められ、どんな事にでも勝つと云うことで、商売繁昌・必勝祈願・合格祈願・病気平癒などのご祈祷の申し込みが数多くある。  
太郎坊というのは神社を守護している天狗の名前である。  
御本殿前の夫婦岩は神の神通力により開かれたという言い伝えがあり、古来より悪しき心の持ち主や、嘘をついた者が通れば挟まれると伝えられ,子供たちが足早に通り過ぎる姿がいまでも見受けられる。  
又、夫婦岩の名前の如く夫婦和合や縁結びのご利益もあるといわれている。 
金勝山 金勝寺 / 滋賀県栗東市  
良弁 天平5年(733) 草創  
天平5年(733)、聖武天皇の勅願により、良弁が平城京の鬼門鎮護のため、金勝山中に草創した寺院で、良弁が金肅菩薩(こんしょくぼさつ)と尊称されていたころから、当初は金肅寺又は金勝山大菩堤寺と言われていました。  
また、良弁は金勝寺(こんしょうじ)の建立時に、金勝山の最高所である竜王山に、八大龍王をまつり、早魃のときには社前において法華経を読誦したと言われています。 良弁は、東大寺の建立に力を尽くし、東大寺の初代別当になり、僧正の位まで進んだ高僧です。  
金勝寺が寺院として整備されたのは、弘仁6年(815)、願安が入山してからです。願安は、興福寺の僧で伝燈大法師という高僧で、弘仁年間(810〜824)に、国家の安寧を祈願するため、金勝寺に伽藍を建立し、天長10年(833)に現寺号に改められました。歴代天皇家の帰依も厚く、菅原道真が勅命によって参籠した事が寺伝に記されています。  
中世時代には、湖南仏教文化の中心として栄え、全盛期には金胎寺・安養寺など金勝寺25別院があったとされています。この時代、対岸の比叡山では、最澄が日本天台宗を確立し、南都仏教の流れである湖南仏教とは対峙していました。しかし、11世紀前半になると、天皇家や摂関家まで浸透していった天台宗が、湖南・近江国ばかりでなく、全国規模で勢力が大きくなり、金勝寺も天台勢力がおよんでいたと思われます。  
平安時代〜鎌倉時代にかけて、自筆ではありませんが、源頼朝・義経兄弟が古文書を残し、南北朝の内乱期には、南北双方から戦勝祈願の祈祷を要請された事が知られています。天文18年(1549)に火災で全山焼失し、住持賢法が徳川家康の援助により再興を図りましたが、旧観をとりもどすまでにはいたりませんでした。慶長17年(1612)5月3日、徳川家康の朱印状により、金勝山のほとんどが金勝寺領となり、山の管理は金勝寺に委ねられ、その後も、歴代将軍より朱印状が発せられ寺領は保障されていました。しかし、江戸時代にはかつての力はなく、宝永2年(1705)に、門跡寺院山科毘沙門堂(京都)の末寺になりました。  
山王総本宮 日吉大社 / 滋賀県大津市坂本  
比叡山の麓に鎮座する当大社は、およそ2100年前、崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれてよりは天台宗の護法神として多くの方から崇敬を受け、今日に至っています。 
 
京都府 

 

●醍醐寺 (京都府京都市伏見区) / 醍醐寺の創建は貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。  
●大覚寺 (京都府京都市右京区) / 嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。  
●楊谷寺 (京都府長岡京市) / 猿が瞑れた目をここの湧き水で洗っていたのを見た空海が眼病に効く独鈷水として広めたという。  
●石清水八幡宮 (京都府八幡市) / 中御前 - 誉田別命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇) 西御前 - 比淘蜷_(ひめおおかみ・宗像三女神) 東御前 - 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后) 清和天皇が即位した翌年の貞観元年(859)の夏、空海(弘法大師)の弟子であった南都大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受けた。  
●仁和寺 (京都府京都市) / 宗祖空海を祀る。  
●南禅寺 (京都府京都市) / 「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)空海の高弟である真紹僧都が建立し、清和天皇が定額寺とした。  
●広隆寺 (京都府京都市右京区) / 承和3年(836)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。  
●西芳寺 (京都府京都市) / 空海、法然などが入寺したと寺伝には伝える。  
●高山寺 (京都府京都市右京区) / 篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)− 空海の編さんとされる漢字辞書の唯一の古写本として貴重。  
●寂光院 (京都府京都市左京区) / 江戸時代の地誌には空海開基説(『都名所図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。  
●智積院 (京都府京都市東山区) / 境内奥には金堂(本尊金剛界大日如来、地下に胎蔵界大日如来)、明王殿(大雲院本堂を移築したもの、本尊不動明王)、大師堂(1789年築、空海を祀る)、密厳堂(1667年築、新義真言宗の祖・覚鑁を祀る)などが建つ。  
●五山送り火 (京都府京都市) / 大の字は弘法大師が画いたものである。  
●岩船寺 (京都府木津川市) / 平安時代初期の大同元年(806)に空海(弘法大師)の甥・智泉(ちせん)が入り、伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立した。  
●化野念仏寺 (京都府京都市右京区) / 弘仁2年(811)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。  
●東寺 [教王護国寺] / 京都市南区九条町  
弘法大師 弘仁14年(823) 真言密教の根本道場  
弘法大師空海  
讃岐の国、いまの香川県に生まれた弘法大師空海。幼名を真魚(まお)といいました。真魚は都に出て大学に入学。学問に励みますが、あるとき、「だれも風をつなぎとめることはできないように だれがわたしの出家をつなぎとめることができようか」と、僧の道を歩みはじめます。  
私費の留学僧として遣唐使船にて唐へ  
延暦16年、797年、12月1日。  
24歳になった弘法大師空海は、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書き上げました。のちに改定し『三教指帰(さんごうしいき)』といわれるものです。そのなかで、儒教、道教、仏教を比較して、仏教がどのように優れているかを解き明かし、真の仏教を求めて僧として歩みだすことを宣言します。  
それから7年間、四国や和歌山で山岳修行を行い、奈良などの寺院で仏教を学びました。その修行中、久米寺の東塔に納められていた密教の経典、『大日経』と出会いました。この密教の教えを深く理解するには、文字や言葉では伝えられないものを、師より学ばなければなりませんでした。  
そこで、弘法大師空海は、師を求め唐に行くことを決意。  
延暦23年、804年、私費の留学僧として遣唐使船に乗り込みました。26年ぶりに出航された遣唐使船には、偶然にも、桓武天皇により派遣された伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が乗船していました。 地位も待遇もまったく異なる弘法大師空海と伝教大師最澄。  
後に、平安の二大仏教、真言宗と天台宗の開祖となる二人の出会いでした。  
弘法大師空海が31歳のときのことです。  
師、恵果(けいか)との出会い、そして別れ  
延暦23年、804年、12月、弘法大師空海は唐の都、長安に入りました。この都で弘法大師空海は、密教の理解に必要なサンスクリット語などを学びながら、最新の知識や技術を吸収していきました。  
およそ半年たった初夏のこと。弘法大師空海は、唐の国師であり、正統な密教を受け継いだ僧、恵果がいる青龍寺(せいりゅうじ)を訪ねました。恵果(けいか)は会うなり、「われ先より汝の来れるのを知り、相待つこと久し」と告げたといいます。  
まもなく、弘法大師空海は、胎蔵界(たいぞうかい)、金剛界(こんごうかい)、そして正統な密教の師となる伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受けて、真言密教の第八祖となりました。灌頂名は、遍照金剛(へんじょうこんごう)。  
それとともに、恵果は、宮廷画家の李真(りしん)などに曼荼羅を描かせ、五鈷杵(ごこしょ)、五鈷鈴(ごこれい)、金剛盤(こんごうばん)という密教法具、経典、犍陀穀糸袈裟(けんだこくしのけさ)、仏舎利80粒などを弘法大師空海に授けました。  
そして、出会って6ヶ月後、真言第七祖、恵果は静かにご入滅になりました。  
このとき授かった密教法具は、現在も後七日御修法(ごしちにちみしほ)で使われ、犍陀穀糸袈裟も寺宝として残り、仏舎利は、生身供(しょうじんく)の法要で用い、お舎利さんと呼ばれ親しまれています。  
請来目録(しょうらいもくろく)を朝廷に提出  
正統な密教の師となった弘法大師空海は、入唐から2年後、膨大な経典や仏画を持って帰国しました。さきに唐より戻っていた伝教大師最澄は、弘法大師空海が朝廷に出した『請来目録』を見て、密教のほぼすべてが日本へ伝授されたことを知りました。経典類だけでも216部461巻、両界曼荼羅(りょうかいまんだら)などの図像を10軸、密教法具などが記されていました。  
異国の香りを含んだ密教という新しい教えは、朝廷内の人々の間に広まり、最大の関心事となりました。  
弘法大師空海は、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇の信任を得て親交を深めていきます。伝教大師最澄とも、交友を深めていきました。  
その後、東大寺の別当、乙訓寺の別当などを経て、弘仁7年、816年、修禅の道場を高野山に建立したいという旨を朝廷に願い出ました。  
唐より帰国して10年が経ったときのことです。  
東寺の寺宝である国宝の「風信帖(ふうしんじょう)」は、弘法大師空海が伝教大師最澄に送った手紙です。  
「東寺をながく空海に給預(きゅうよ)する」  
弘法大師空海は、決壊を繰り返し人々を苦しめていた満濃池の修築工事を完成させ、翌年には、東大寺に灌頂道場真言院を建立しました。  
そして、弘仁14年、823年1月19日。嵯峨天皇は、官寺だった東寺を弘法大師空海に託しました。弘法大師空海50歳のできごとです。『御遺告(ごゆいごう)』のなかには、このときの心情が、「歓喜にたえず、秘密道場となす」と記されています。  
弘法大師空海は、東寺を真言密教の根本道場と位置づけました。講堂、五重塔の工事に着手する一方、東寺から東に歩いて数分の場所に、一般の人々を対象とした私設の学校、綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)を設立します。  
この開校にあたり弘法大師空海は、「物の興廃は必ず人による。人の昇沈は定めて道にあり」と述べています。「物が興隆するか荒廃するかは、人々が力を合わせ、志を同じくするかしないかにかかっている。善心によって栄達に昇る、悪心によって罪悪の淵に沈むかは、道を学ぶか学ばざるかにかかっている」と、教育の必要性を語っています。  
身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく  
東寺の御詠歌(ごえいか)に、「身は高野、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」というものがあります。  
この御詠歌のとおり、弘法大師空海は、東寺に住房を構え、ここで、東寺の造営という大事業と並行して、高野山に壮大な伽藍の建立を進めていました。都にある東寺を密教の根本道場に、高野山を修禅道場とする計画でした。  
弘法大師空海は修行者を「これ国の宝、民のかけ橋なり」といっています。密教にとって修行者を育てる場は必要不可欠なものでした。弟子たちは東寺の造営と高野山での道場の建築を進めていました。  
天長9年、832年、ついに、高野山に金堂が完成、8月には、万灯会(まんどうえ)が行われました。  
承和元年、834年、弘法大師空海は朝廷に「宮中真言院の正月の御修法(みしほ)の奏状(そうじょう)」を提出しました。  
そして承和2年、835年を迎えます。弘法大師空海は、宮中真言院において、鎮護国家、五穀豊穰、国土豊穰を祈る後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行います。その後、およそ十数年過ごし住み慣れた東寺をあとにします。  
高野山にようやく春が訪れようとしている旧暦の3月21日、  
弘法大師空海は、弟子たちの読経のなか、ご入定(にゅうじょう)になりました。  
東寺とは  
東寺は、唯一残る平安京の遺構です。創建からおよそ、1200年。東寺は平安遷都とともに建立された官寺(かんじ)、つまり国立の寺院。その寺院を桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に託しました。ここに、日本ではじめての密教寺院が誕生します。  
東寺を託された弘法大師空海は、密教の主尊(しゅそん)である大日如来を境内の中心にすえ、広大な寺域に曼荼羅(まんだら)を表現しようとしたのかもしれません。造営にあたって、弘法大師空海は、御影堂(みえいどう)の場所に住房を構えました。御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、一の膳、二の膳、お茶をお出ししています。東寺に来られたら、まず御影堂にお参りください。お堂に上がり、ひととき弘法大師空海とお話しください。  
東寺の歴史  
平安京が遷都されたとき、寺院の建立は、東寺と西寺しか許されませんでした。西寺も羅城門も、時の流れに消え、現存する平安京の遺構は、唯一、東寺だけになりました。  
平安時代・一 / 平安京に左右対称に配置された東寺と西寺  
延暦13年、794年。桓武天皇により築かれた平安京は、時代の最先端をゆく都市でした。都の正門、羅城門から北へまっすぐに朱雀大路が伸び、その先に壮麗な大内裏(だいだいり)がありました。その羅城門を挟んで、両翼を広げたように建立されたのが、東寺と西寺です。東寺は国の東の王城鎮護、西寺は国の西の王城鎮護を担う、官寺でした。緑色をした緑釉瓦(りょくゆうがわら)に朱の柱、白壁の大伽藍(だいがらん)は、新しい首都を象徴するものでした。  
平安時代・二 / 弘法大師空海と東寺の出会い・密教寺院の誕生  
平安遷都より29年目の冬、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に、東寺を託します。ここに真言密教の根本道場(こんぽんどうじょう)東寺が誕生します。弘法大師空海は、まず、密教の中心伽藍となる講堂の建立に着手しました。講堂建立の翌年には、塔建立の材木を東山から運搬して欲しいと、朝廷に願い出た記録が残っています。このことから五重塔の工事は、この頃、はじまったといわれます。こうして、弘法大師空海は大伽藍建立の大事業をはじめました。いまの東寺は、弘法大師空海がこのとき計画した通りの姿といえるでしょう。  
鎌倉時代 / 天福元年、1233年のできごと  
源氏と平家の合戦が起こり、平安時代も終わりに近づきます。羅城門は崩れ落ち、東寺、西寺ともに衰退の一途をたどります。やがて、時代が鎌倉へと移り、東寺に復興の兆しが見えてきます。文覚上人(もんがくしょうにん)の依頼を受け、運慶(うんけい)が諸像の修復に着手。天福元年、1233年には、運慶の子、仏師康勝(こうしょう)により弘法大師空海の坐像が完成。御影堂(みえいどう)で法要がはじまりました。さらに、後白河法皇の皇女、宣陽門院(せんようもんいん)が財政の基盤をつくり、東寺は息を吹き返していきました。一方、西寺は、天福元年、1233年に境内に唯一残っていた五重塔が焼失。以後、西寺が復興することはありませんでした。  
室町時代・戦国時代 / 戦乱の痕跡 そして炎上  
東大門は、別名、不開門(あかずのもん)と呼ばれています。なぜ、そう呼ばれることになったのか。答えは、その門に残る矢の痕跡と無関係ではありません。南北朝時代、足利尊氏は東寺に陣を置き、新田義貞(にったよしさだ)と戦火を交えました。戦場は都から、東寺の近くへと移っていきました。そのとき、足利軍は、東大門の扉を固く閉ざし危機を脱したといわれます。このことから、東大門は不開門といわれるようになりました。東大門には、いまも戦乱の傷痕が残っています。その後、東寺は、幾多の戦火をかいくぐり、応仁の乱の戦禍も免れることができました。しかし、文明18年、1486年に起こった文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊(かいろう)や南大門(なんだいもん)などを焼失。東寺創建以来、もっとも大きな痛手を被った事件でした。  
江戸時代 / よみがえった東寺  
文明の土一揆のあと、復興できるだろうか、と思われた東寺でしたが、桃山時代になると、焼失した金堂が約100年ぶりに再建。新しい金堂に新しい薬師如来、日光菩薩、月光菩薩も誕生しました。続いて南大門も完成し、焼失後、すぐに再建した講堂も含めて、東寺は、ほぼ元の姿になりました。その後、落雷によって五重塔が焼失しますが、それも寛永21年、1644年に再建。また、徳川家康は、東寺の子院(しいん)である観智院(かんちいん)を、真言一宗の勧学院に定めました。 
東寺2  
京都市南区九条町にある仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。  
東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934)に国の史跡に指定、平成6年(1994)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。  
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。  
「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。ただし、「東寺」も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。平安時代の公式の記録や信頼できる文書類には「教王護国寺」という名称には一切見えず、すべて「東寺」である。正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年(1240)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。  
歴史  
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。  
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。  
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。  
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。 
東寺3  
弘法大師は嵯峨天皇から工事なかばの東寺を勅賜され、東寺を真言密教の根本道場と定めた。源平の争いで伽藍は荒廃したが、文覚上人が復興につとめ、頼朝の援助を得て伽藍の修理、再建が行われた。つづいて弘法大師の御影堂(大師堂)が造営され宗教活動も活発になった。 
東寺4 
東寺真言宗総本山であり、本尊は薬師如来。天長元年(824)に空海は造東寺別当となり、伽藍の造営にあたり、以後真言宗の根本道場となった。講堂内に、仏像で密教空間を表現した。堂内中央に、五智如来、東に五大菩薩、西に五大明王、その周りに梵天、帝釈天、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を安置している。五智如来は国の重要文化財、他の仏像は国宝に指定されている。
●化野(あだしの)念仏寺 / 京都市右京区嵯峨鳥居本化野町  
弘法大師 建立  
二尊院から念仏寺にかけて化野と呼ばれるあたりは、むかし死骸を風葬としたところという。弘法大師が死者を弔うために建立したのがこの寺といわれる。 
●頭巾山(とうきんざん) / 京都府南丹市美山町福居、綾部市故屋岡町  
弘法大師 祈祷  
頭巾山は、南丹市美山町と綾部市と福井県おおい町にまたがる標高871mの山です。弘法大師の雨ごいの祈祷も行われた古くからの水の守り神で、水不足のおりには近在から参詣する人があとを絶ちません。毎年4月には山麓の3市町から多くの人が参拝し共同で祭をおこなっています。山中には府内有数のブナ林、シャクナゲの古木等が生育し、カモシカ等の大型哺乳類も生息する等貴重な自然を有しています。 
●泉涌寺 来迎院 / 京都市東山区泉涌寺山内町  
弘法大師 大同元年(806) 開創  
大同元年(806)弘法大師が荒神像を安置したのが、来迎院の始まりとされている。唐で修行を行っていた弘法大師が感得した荒神尊の像を日本に持ち帰り、この来迎院の地に草庵を結び祀ったとされている。弘法大師が奉祀した400年後の建保6年(1218)泉涌寺第4世月翁智鏡律師が藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し再興している。  
智鏡は生没年不詳の鎌倉時代の僧。泉涌寺の第1世俊芿と第3世定舜に師事している。暦仁年代(1238〜1239)頃、宋に渡り律を学ぶ。この時、蘭渓道隆と交流し道隆の来日を勧めている。  
道隆は来日後、筑前円覚寺、泉涌寺来迎院、鎌倉寿福寺などに寓居し、執権北条時頼の帰依を受けている。建長5年(1253)北条時頼によって建長寺が創建されると開山に招かれている。そして元からの密偵の疑いをかけられ伊豆に逃れたり、讒言により甲斐国に配流されたりもしたが、建仁寺、寿福寺そして鎌倉禅興寺などの住持となっている。  
智鏡は間接的であるが、道隆による本格的な宋風の臨済宗を広める手助けをしたこととなる。帰国後の智鏡は、第4世として泉涌寺を嗣ぐ。後に来迎院に入り、上記のように来日した道隆を迎えている。 
泉涌寺2  
東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。  
当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。  
大師は肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、真俊大徳に師事して修学、大志をもって求法のため中国の宋に渡り、滞在12年、顕密両乗の蘊奥(うんおう)を究めて帰国した。帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、当寺を律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれた。  
したがって当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依された。大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。その後、南北朝〜安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。  
総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。  
全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。 
●不動堂 明王院 / 京都府京都市下京区油小路塩小路下る南不動堂町  
弘法大師 弘仁14年(823) 開基  
当堂の開基は今より一千年余前の弘仁14年(823)にさかのぼります。弘法大師空海が嵯峨天皇より都南に東寺を賜り、東寺より見て鬼門(東北)にあたる、すなわち後年に亭子院(ていじのいん)がつくられたこの地をえらび、東寺守護のために一体の不動尊を安置されたのに由来します。大師はこの地において一基の霊験あらたかな霊石を発見され、その石にみずから不動明王を彫刻してこれを石棺におさめ、さらに地中の井戸ふかくに安置なさいました。  
寛平十一年(八九九)宇多天皇の御代、宇多天皇は上皇となられたとき、京都西ノ洞院の宮殿東七条御所(亭子院)を離宮とされました。当時の亭子院は東西が二町(約二二〇米)南北四町という広大なもので壮麗の妙をきわめておりました。宇多天皇は亭子院をつくられるや、この霊験いやちこな井戸を勅命により封じ何人もうかがうことを許さずとして、霊石不動明王の号を賜って深く崇尊されたのです。  
下って室町時代には応仁の兵火により亭子院はじめ堂宇も焼失しましたが、井底に安置された不動の霊像はそのままに、再び篤志家たちの手により堂宇が再建され現在に至っています。  
現在の本堂は明和元年十一月(一七六四)の建立となっております。当堂の本尊である弘法大師の一刀三礼と伝える霊石不動明王は現在も井底に封じられたままにあるため、御前立として不動尊立像を安置してこれを拝することになっております。世俗に高野山波切不動尊と、成田不動尊と並んで、空海作の三体不動尊と称されるものです。 
●高雄山 神護寺 / 京都市右京区梅ケ畑高雄町  
弘法大師 大同四年(809) 入山  
平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。  
神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていないため、いまだ確認されていないが、その発願は和気清麻呂がかねて宇佐八幡大紳の神託を請うた時「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を読誦して一伽藍を建て,万代安寧を祈願せよ」というお告げを受け,その心願を成就するためと伝えられ、寺名もそこに由来している。  
また、私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900m以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。  
愛宕五寺または愛宕五坊と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。  
その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになるが、清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。弘世、真綱の兄弟は、比叡山中にこもって修行を続けていた最澄に、高雄山寺での法華経の講演を依頼している。  
この平安仏教の第一声ともいうべき講演が終わると、最澄は還学生として唐にわたることとなる。また、空海は留学生として最澄とともに入唐するが、二年で帰国、三年後にようやく京都に入ることが許されるや高雄山寺に招かれ、以後数年にわたる親交が続けられ、天台と真言の交流へと進展してゆく。  
やがて天長元年(824)真綱、仲世の要請により神願寺と高雄山寺を合併し、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海に付嘱し、それ以後真言宗として今日に伝えている。  
神護寺は最澄、空海の活躍によって根本道場としての内容を築いていったが、正暦五年(994)と久安五年(1149)の二度の火災にあい、鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た文覚は、生涯の悲願として神護寺再興を決意するが、その達成への道はとても厳しかった。  
上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ元以上の規模に復興された。その後も天文年中の兵火や明治初年の廃仏毀釈の弾圧にも消えることなく法灯を護持している。  
弘法大師と高雄山寺  
空海弘法大師は宝亀五年(774)、讃岐国多度郡に生まれた。母方の伯父阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王の侍講として、儒教をもって一家を成した学者である。十五歳のとき阿刀大足について論語、孝経、史伝等を学んだ空海は、十八歳で大学に入り明経科を専攻し岡田牛養、味酒浄成から学問の指導を受けた。後に優れた文筆活動の才能を発揮するのも、この時代に培われたものだろう。  
この頃、ある沙門から虚空蔵求聞持法を授かって、それを転機として大学を去り、霊山を遍歴して仏道に励んだ。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えることによって、すべての経典の文句が暗記できるという秘法で、記憶力を飛躍的に増進させることができる。  
空海は入唐までの空白の期間、山林修業に励む一方で、南都の寺々であらゆる経典を読破していたものと思われ、唐から請来した経典は、新訳、新来のものばかりで、しかも体系的に収集されたものだった。  
また佐伯氏にゆかりの深い大安寺で唐語を習得し自在に操ることもできた。  
東大寺で授戒した空海は、最澄とともに入唐するが、乗った船が違っていたため、二人の初対面があったかどうかは分からない。ただ、三筆の一人橘逸勢は、空海と行動をともにし、在唐中も交流を続けていた。洋上、暴風雨のため、船団は四散し、空海一行が長安に入ったのは半年後のことであった。  
年が改まった延暦二十四年(805)五月、空海は青龍寺の恵果を訪れる。恵果は「われ先より汝の来たれるを知り、相待つことひさし、今日まみゆるは、大いによし、大いによし」と喜び迎えたという。密教の第七祖である恵果から法流を伝授され、それとともに必要な経典、曼荼羅、法具などのことごとくを授けられた。恵果は同年十二月十五日入滅されるので、誠に得がたい出会いとなり、師の遺言に従って翌年鎮西に帰着、その後九州、四国、泉州などを経て、三年後の大同四年(809)、高雄山寺に入山した。その消息は、最澄から空海に宛てた八月二十四日付の経典借用状によって知られる。  
最澄は、弟子に託して空海請来の経典十二部を借覧したいと依頼したもので、手紙を弟子に託しているところから、すでに面識があったと想像される。それ以後数年間にわたり、高雄山寺を中心に両者の親交が続けられ、天台と真言の交流へと進展していった。  
都に入った空海は、その年、嵯峨天皇のために世説の屏風を書いて献上した。以後天皇は空海のよき理解者となるとともに、詩文を通じてもその交友を深められている。  
弘仁元年(810)、薬子の乱が起こり、世情騒然たるうちに薬子が服毒によって自殺すると、皇太子高岳親王は、東大寺に入って出家し、後に空海の弟子となった。この年、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を行った。この七日間の修法が空海によって行われた鎮護国家の修法の最初である。 
神護寺2 
京都市街の北西、愛宕山(924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称する。寺の根本史料である「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにももっぱら「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とあることなどから、本項でも「神護寺」の表記を用いる。  
平安京造宮(794〜)の最高責任者(造宮大夫)であった和気清麿公が、今の愛宕神社の前身、愛宕山白雲寺などとともに建てた愛宕五坊の一つです。当初「高雄山寺」と呼ばれていましたが、天長元年(824)、河内(大阪府)の神願寺(清麿公創立)の地が、よごれた所でふさわしくないという理由から「高雄山寺」に合併され、「神護国祚真護寺」と称したのが始まりです。これより先、和気一族は、叡山の最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)をこの寺に招いて活躍の場としました。その為、時の仏教界に新風を送ることとなり、平安仏教の発祥地となりました。ことに弘法大師は唐(中国)より帰朝して、大同4年(809)に入山、以来14年間住持して、真言宗立教の基礎を築いた所でもあります。のちの東寺や高野山金剛峰寺と並ぶ霊さつであり、弘法大師を初代としています。
●神光院 / 京都市北区西賀茂神光院町  
弘法大師 創建  
西加茂にある神光院(じんこういん)です。神光院は、真言宗系の単立寺院で山号は放光山、本尊は弘法大師像です。弘法大師が創建した「京都三大弘法」の一つです。明治初期廃寺となりましたが、1878年(明治11年)に再興されています。現在は厄除け大師として広く信仰されています。 
●大慈山 乙訓寺(おとくにでら) / 京都府長岡京市今里  
弘法大師 弘仁2年(811) 別当  
この地は、二千年前の弥生時代から多くの人々が住んでいた。継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築かれたともいわれるこの景勝の地に、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子は、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させた。この寺が即ち乙訓寺である。  
延暦三年(784)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都されたとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築された。この当時の境域は、南北百間以上もあり建てられた講堂は九間に四間の大建築で難波京の大安殿と同じ規模のもであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王を当寺に幽閉された。  
嵯峨天皇は、弘仁二年(811)十一月九日太政官符をもって弘法大師(空海)を別当にされた。大師の残されたご事跡も多く、八幡明神の霊告をうけて合体の像を造り(現在の本尊・八幡弘法合体大師像)また、境内に実る柑子を朝廷に献上された。(性霊集に記載)  
弘仁三年(812)十月には、当寺を訪ねられた天台宗祖・伝教大師(最澄)と、密教の法論を交わされ灌頂の儀の契りを結ばれる。(伝教大師の弟子・泰範に宛てた書簡に記載)  
永禄年間(1558〜1569)信長の兵火により一時衰微したが、元禄六年(1693)五代将軍綱吉は、堂宇を再建して乙訓寺法度をつくり、寺領を寄せ徳川家の祈願寺とせらる。  
昭和四十一年(1966)には、講堂や大師がご起居されたと考えられる単独僧坊跡が発掘調査され、出土瓦などにより平安期に隆盛を極めていたことがわかっている。草創から一千三百有余年、時に盛衰はあったが大師ゆかりの真言道場として今日に及んでいる。  
乙訓寺の歴史  
乙訓(おとくに) / 地名の諸説のうち、葛野(かどの)郡から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」(乙訓)としたと見るのが妥当。『日本書紀』によると、第26代継体天皇は河内で即位され、その12年(518)3月、都を弟国に移された。乙訓寺は当時の宮跡として有力視されている。  
乙訓寺の創建 / 日本に仏教が伝来したのは約1450年前。乙訓寺は太秦の広隆寺(603年創建)とほぼ同じく約1380年前の創建と見られ、寺伝では推古天皇勅願、聖徳太子創建となっている。これを裏付けるように、発掘調査の結果も、設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われているという。  
長岡京 / 延暦3年(784)、都は奈良から長岡京に移った。わずか10年で京都に都は移ることになるが、唐都・長安(西安)を模し、堂々たる都城づくりが進められ、乙訓寺は都の鎮めとして重要視された。  
早良親王事件 / 早良親王は桓武天皇の実弟で、皇太子であったが、長岡京遷都の翌延暦4年(785)9月23日夜、建都の長官・藤原種継が暗殺された。  
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁された。親王は身の潔白を示すため断食されたが、10余日後、流罪処分となり淡路島に護送途中、淀川べりで絶命、遺骸はそのまま送られ、淡路に葬られた。  
その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、悪疫の流行、天変地異が発生した。朝廷は事件15年後に早良親王を復権、崇道天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。  
今、全国至るところにある「御陵(ごりょう)神社」」「春秋の彼岸行事」(大同元年=806年=始修)も早良親王の怨霊鎮めが元になっている。また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という説もある。  
法皇寺 / 平安時代の宇多天皇は寛平9年(897)の譲位後、法体ととなられ、乙訓寺を行宮(あんぐう=仮宮)とされ、堂塔を整備された。このため、法皇寺と号した。  
室町時代 / 室町時代、衰えたりといえども十二坊あった。しかし、内紛があり、足利義満は僧徒を追放し、南禅寺の伯英禅師に与え、一時、禅宗となった。その後、織田信長の兵火で衰微した。  
将軍綱吉の援助で隆光が中興 / 長谷寺で修学後、江戸に出て、将軍綱吉の信任厚く、将軍の祈祷寺・江戸護持院住職となった隆光は、乙訓寺を請い受け自ら住職となった。  
綱吉は寺領百石を寄進し、徳川家の祈祷寺とし、諸大名・公卿の信仰も集まった。  
隆光は乙訓寺中興第一世として内外の尊敬のもとに、寺を再び真言宗に改め、堂宇の再建、乙訓寺法度(はっと=きまり)の制定などに復興を尽くした。  
当時の寺域は八千二百余坪あったという。  
現状 / 明治の廃物棄釈、第二次世界大戦後の農地改革など、苦難の経過をたどったが、「今里の弘法さん」と親しまれた伝統と牡丹の名所として知られている。  
乙訓寺と弘法大師  
歴史に残る二つの出来事 / 今から約1200年前、この寺で日本歴史に残る二つの大きな出来事があった。一つは日本密教の原点をつくられた弘法大師空海と伝教大師最澄がこの寺で最初の出会いをされ、日本の仏教が大きな発展を遂げる要因をつくったことである。  
もう一つは建都間もない長岡宮造営長官の暗殺事件に関連した早良親王がこの寺に幽閉され、淡路に護送途中憤死されたことに起因する社会不安の発生である。  
この事件は「怨霊のたたり説」が流布され、都を恐怖のどん底に陥れた。  
弘法大師の勅任 / 弘法大師は弘仁2年(811)11月9日、乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に嵯峨天皇から任命され、この寺に在住された。  
大師在任中の弘仁3年10月27日、弘法大師と同時に入唐、大師よりかなり早くに帰国していた最澄は空海をこの寺に訪れ、真言の法を教えてほしいと頼んだ。大師は親切丁寧にその法を伝授した。  
在唐期間の短かった最澄はその後も再山空海との交流を深め、二人はそれぞれ日本真言宗(弘法大師)、日本天台宗(伝教大師)を確立、それまでの日本仏教の流れに大きな変革を与えた。  
乙訓寺の弘法大師 / 弘法大師が中国から持ち帰られた仏典は、最澄も驚くほど、これまで日本にないものばかりであった。嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備された。  
大師はこの寺で仏典を研究される傍ら中国から持ち帰ったみかんの木を栽培されたり、狸の毛で筆を作ったりされた。みかんは当時、西域渡りの珍果であった。大師は「沙門空海言さく。乙訓寺に数株の柑橘の樹あり。例により摘み取り、来らしむ。・・・」としたため、「・・・よじ摘んで持てわが天子に献ず」の詩を添えて、嵯峨天皇に献上された(性霊集)。  
この史実に基づき、今、客殿前にはみかんの大樹がある。また「狸毛筆奉献帳(伝空海)」も醍醐寺に現存している。  
本尊・合体大師像 / 秘仏で、お姿を拝することはできないが、この寺で永年、お参りの人々に授けられている厄除け札のお姿だと信じられている。古文書によると、空海が八幡大神(大菩薩)の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々にお彫りになった。  
出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像はしび制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。学者らの話によると「恐らく僧形八幡像だろう。奈良時代末期より盛んになった本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想=神仏同体説=に基づくもので国宝に東寺、薬師寺、東大寺に同じような物があり、調査すれば国宝級の物だろう」という。  
今里の弘法さん / 弘法大師信仰は全国どこでも根強く、その偉大な御徳にすがろうと1200年の間に庶民信仰に発展した。京都・東寺を埋める毎月21日のご縁日と年初の初弘法と12月の終い弘法。それに似たような風景が、この地区では「今里の弘法さん」であった。  
今も、厄除け札を求めに来られる方が多く、特に春の彼岸は中日が大師の正御影供(しょうみえく)の3月21日と重なることもあって賑わう。  
四国八十八カ所霊場お砂踏み / 寺では毎年、秋に大師の霊場「四国八十八箇所お砂踏み」が催され、善男善女が法楽の一日を過ごす。一般の人も参加できる。ぜひ、お参りください。 
乙訓寺2 
聖徳太子が創建したといわれる乙訓寺。延歴4年(785)、桓武天皇の側近・藤原種継暗殺を疑われた皇太弟・早良親王が幽閉され、無実を訴えたまま絶命し、その後災厄が続いた。嵯峨天皇の命による空海の別当就任は、親王慰霊の祈祷の効験を期待したものだった。  
空海が滞在中、最澄がこの寺を訪れ、密教伝授を願い出たため受託し、のちに神護寺で結縁灌頂を授けた。 
●伏見稲荷大社 / 京都市伏見区深草薮之内町  
弘法大師 弘仁14年(823) 稲荷神を祀った  
主祭神は宇迦之御魂大神(下社)・佐田彦大神(中社)・大宮能売大神(上社)で、田中大神(田中神社)・四大神(四大神社)を配祀。式内社(山城国紀伊郡 稲荷神社三座並名神大 月次新嘗)。二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。史料上の初見は『続日本後紀』(承和十年[843]十二月戊午)の「奉授従五位下稲荷神従五位上」。  
『神名帳頭註』によると、和銅四年[711]二月十一日の創祀。同書の引用する『山城国風土記』逸文によると、秦氏の遠祖・伊侶具の秦公が餅を弓の的にしたところ、その餅が白鳥になって山の峰に飛来し、その白鳥が稲と化したので社名を「伊奈利」とした。  
『稲荷鎮座由来』によると、弘仁七年[816]に弘法大師は紀州田辺で身長八尺許の異相の老翁と出会った。大師が「霊山で面拝した時の誓約を忘れていません。形は異なりますが、心は同じです。私には密教紹隆の願いが有ります。神にも仏法擁護の誓いが在ります。帝都の坤角九条に一大伽藍が有り、東寺と号します。鎮護国家の為に密教霊場を興して、お待ちしております」と云うと、老翁は「必ず参じてお会いします」と答えた。同十四年[823]正月十九日、大師は東寺を賜り、密教道場と為した。同年四月十三日、稲を荷って椙の葉を持った紀州の老翁が、二人の女と二人の子供を連れて東寺の南門に来た。大師は歓喜して食事と果物を献じた。暫くの間、老翁らは二階の柴守に寄宿した。その間に大師は東寺造営の為の杣山を定め、十七日間鎮壇して稲荷神を祀った。  
伏見稲荷大社2 
(京都市伏見区藪ノ内町) 京阪電鉄・伏見稲荷駅から東へ、門前町筋を過ぎて朱塗りの大鳥居をくぐると、西向きに壮大な本殿が建っている。全国最大の社祠数を誇る稲荷社の総本社・伏見稲荷大社で、見えるものすべてが真っ赤な“稲荷の朱”で彩られている。  
稲荷信仰の原点は拝殿のうしろに聳える神奈備山(カンナビヤマ=稲荷山)に坐す“山の神”への信仰で、山中にある一の峰(上社)・二の峰(中社)・三の峰(下社)・荒神峰(田中社)と、それを取りまく「お塚」への信仰といえる。  
伏見稲荷・二の鳥居  
伏見稲荷大社・二の鳥居 伏見稲荷・本殿  
伏見稲荷大社・本殿 伏見稲荷・楼門  
伏見稲荷大社・楼門  
「お塚」の前身  
「お塚」の前身は古墳である。古墳時代前期頃(3世紀)から稲荷山の峰々には大小の古墳が築かれ、秦氏進出以前からこの辺りを支配していた首長の墓域であった。一の峰古墳は円墳(径約50m)・二の峰古墳は前方後円墳(長約70m)、三の峰古墳は墳形不明の前期古墳で、その他にも円墳3基(後期古墳)などがあったという。  
今、これらの古墳は姿を替えて、それぞれ「上社」・「中社」・「下社」と呼ばれ、周りには大小の「お塚」が群集していて、そこに古墳の痕跡をみることはできない。  
民俗学では、死者の霊は時が経つにつれて故人としての個性を失い、最後には祖霊の中に融けこむという。仏教で33回忌(処によっては50回忌)の“弔い揚げ”以降、その故人への供養を終わらせる風習は、これによっている。  
また、祖霊は村里近くの山に鎮まって山の神となり、春に里に降りて田の神となって子孫の豊饒を見守り、秋の稔りを見届けて山に帰るという、所謂“山の神・田の神交代説”がある。死者→祖霊→山の神→田の神→山の神という構図で、田の神・山の神は穀神・豊饒神的性格をもっている。  
伊奈利伝承で、穀神が三つの峰に降臨してイナリ神として祀られたことは、神奈備山を中心とする祖霊信仰を受け継いだもので、稲荷伝承で山の神・竜頭太から譲与をうけたことは、古来からの山の神信仰を引き継いだともいえ、そこから豊饒神=穀神としてのイナリ神が誕生したといえる。
稲荷社の創建  
稲荷神の社殿が何時何処に創建されたかについても、またはっきりしない。  
古来の神社は、今のように常設の社殿があったわけではなく、祭祀の都度“仮の屋代”を建てて神を迎え祀り、終わると神のお帰りをまって取り壊していたという。いま地鎮祭で、その始まりと終わりに降神・昇神の儀がおこなわれるのも、その土地の神を迎え・お送りするという意で、古いカミ祭の姿をひいたものである。和銅年間の伊奈利神顕現に際しても、祭祀の度ごとに簡単な屋代(ヤシロ=社)を設けて祀っていたと思われる。  
一方、「類従国史」天長4年(847)条の「従五位授与」の記事を嚆矢として、六国史などの古文書に稲荷神に対する神階授与の記事が散見される。また公卿等の日記あるいは枕草子などの文学書にも稲荷社に関する記事が見られ、これらからみて、9世紀初め頃には何らかの社殿があったことが伺われる。  
続く9世紀後半になると、“稲荷三神”・“稲荷上中下社”といった記述が現れ、稲荷三峰の社が視野に入り、10世紀にはいると“上社・中社・下社”として定着し、そこに人々が参詣していたことが記されている。  
例えば「枕草子」(1000年頃)には、稲荷に詣でた清少納言が、暁の頃から登り始めたものの途中の坂道に疲れはて、巳の刻(am10)にやっと“中の御社”に着いたのに、中年の太った庶民の女性が「今日は七度参りをする。もう三度お詣りした、あと四度ぐらい何ともない」と話ながら山を降っていくのを聞いて、そのたくましさに感嘆した、との記述がある。  
ただ、この頃、今のように山麓に社殿があったかどうかは不明。上中下の3社がすべて山上にあったとする説、上社・中社は山上にあったが下社は山麓にあったとの説など、諸説がある。
伏見大社社殿の建立  
今、上中下の三社はそれぞれ山中に祀られているが、いずれも社名を刻した石碑が立つだけで、簡単な礼拝所はあるものの社殿はなく、壮麗な社殿を構えるのは山麓の伏見大社本殿のみである。  
稲荷社が、稲荷三峰から麓の現在地に遷座した時期については諸説がある。主なものとしては、古いものから、  
1 弘法大師による弘仁14年(823)説で、別記(稲荷神顕現伝承参照)稲荷伝承によるもの、  
2 僧・長厳による鎌倉時代(13世紀初頭)説で、「稲荷大明神縁起」の「長厳僧正が、稲荷大明神が山坂八町の山上に坐すため人々が参詣するのに難儀しているとして祈ったところ、空中に神が現れた。その時、藤森大明神が山麓に鎮座していたので、天皇に奏上してこれを深草に遷し、その跡に社壇を建立した。今の社頭である」によるもの、  
3 社史にいう永享10年(1438)説で、「稲荷谷響記」の「当社下山の年紀未詳也。或記にいう、永享10年正月五日、足利6代将軍・義教公の命により稲荷社を山より今の地に遷し奉る」(大意)によるもので、伏見大社ではこの説を採っている。  
これらはあくまでも伝承であって、今これを検証する手段はないが、  
・平安末期に成立した枕草子(長保2年-1000-頃という)に、“清少納言の稲荷三座参詣”の記事があることからみると、弘法大師・弘仁14年遷座というのは疑問といえる。  
・史書・増鏡(14世紀中頃・南北朝時代)に、「鎌倉期の大風によって上・中社が破壊された」とあるという。  
・長禄3年(1459、室町初期)に書写された「稲荷社指図」には、山麓に五座の神を祀る“下社”、山上に稲荷大明神を祀る“上社”、山中に中御前を祀る“中社”、その間に神宮寺・五重塔などの寺社が描かれ、神仏習合時代の姿を示している。  
・この山麓にあった稲荷社は応仁の乱(1467〜77)のとき一武将が陣を張ったため攻められて焼失したというから、上記絵図は応仁の乱以前には現在地に社殿があったことを示している。  
これからみると、少なくとも鎌倉時代までは稲荷山中に上・中社が、麓に下社があり、これが発展して現伏見大社社になったとも推察される。  
なお、応仁の乱で焼失した社殿は明応8年(1499・室町中期)に再建されたといわれ、その後、豊臣時代・江戸時代にも何度か修復されている。
祭神  
本殿には、中央に宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)、その左右に各2座の神を祀り、これら5座を総称して『稲荷大神』と呼ぶ。神と仏を一体化していた江戸時代までは『稲荷大明神』と呼んでいた(今も俗称として残っている)。明神とは、本来は中国古典で神に対する尊称として用いられた呼称というが、わが国では仏教の側から神を呼ぶ場合に用いられる場合が多い。  
祭神名 田中大神(タナカ) 佐田彦大神(サタヒコ) 宇迦之御魂大神(ウカノミタマ) 大宮能売大神(オオミヤノメ) 四大神(シノ)  
神格 田の神? 地主神 穀物神 水神 (不明)  
三峰との対応 下社の摂社 中 社 下 社 上 社 中社の摂社  
神仏習合での本地仏 不動明王 千手観音 如意輪観音 十一面観音 毘沙門天  
ウカノミタマ(日本書紀では「倉稲魂神」と記す)は“穀物の神”、特に“稲の霊”とされる神で、稲荷神本来の姿といえる。古事記ではスサノヲの子・日本書紀ではイザナギ・イザナミの子とされ、穀神であることから伊勢・外宮の祭神・トヨウケ大神(穀神)と同体ともいう。水神とするオオミヤノメは農耕に必要な水を司ることから山の神に連なるが、地主神としてのサタヒコ=サルタヒコはわからない。高天原から降臨するニニギの道案内の神として現れたサルタヒコは、塞の神や道祖神などいろんな神格と習合しているが、地主神というのはあまり聞かない。  
延喜式・神名帳に「稲荷神三座」とあることからすると本来の祭神は三座のはずだが、「梁塵秘抄」(リョウジンヒショウ、平安末期の流行歌・今様-イマヨウ-を集めたもの、1169頃)にある  
『稲荷をば 三の社と聞きしかど 今は五つの社なりけり』  
との一首からみると、平安末期には田中大神・四大神の2座が合祀されていたらしい。  
田中大神は古くからの“田の神(=山の神)”らしいが(巡拝記参照)、四大神は五十猛(イタケル)・大家姫・ツマツヒメ・事八十神(コトヤソ)との説もあるようだが、詳細不明(イタケルはスサノヲの子で木の神)。  
また、本来の神である上中下三社の祭神も、その神名は古書によって異同が多く、いろんな神名が記されている。その内の一座は穀神だが、それ以外は何故その神を当てるのかわからないのが多い。  
ただ江戸期までの神仏習合時代には、神よりも、その本地仏としての十一面観音(上社)・千手観音(中社)・如意輪観音(下社)を祀るとされていた。庶民にとっては、難しい名前の神より身近に見聞きする仏・菩薩の方がより親しみやすく、その中でも特に観音信仰と習合したことが稲荷信仰隆盛の由縁かもしれない。ただ三社それぞれの神に何故この観音を当てたのかといえば、必然性はなく、よく知られていた観音を適当に当てたという以外に言いようはない。 
 
三尾めぐり  
神護寺は高雄に、西明寺は槇尾に、高山寺は栂尾にあることから「三尾(さんび)めぐり」と呼ばれています。  
乱れ積みの石段を登る神護寺、五代将軍 徳川綱吉の生母、桂冒院ゆかりの西明寺、山深い高雄の古刹、高山寺の順に訪ねると良いでしょう。どのお寺も、もみぢ家から歩いて行ける距離です。秋の紅葉は、例年10月下旬ごろから始まり11月10日前後が見ごろになります。清川沿いの道でも紅葉狩りが楽しめます。  
稲荷信仰 / 稲荷神顕現伝承  
稲荷信仰の総本社である『伏見稲荷大社』(以下「伏見大社」という)は、延喜式・神名帳(927撰上)に「山城国紀伊郡 稲荷神社三座」とある式内社だが、鎌倉時代の古書・年中行事秘抄に『くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し』というように、よくわからない。ただ、同書に『彼の社の禰宜(ネギ)祝(ハフリ)らが申状にいふ、この神、和銅年中(708〜14)、始めて伊奈利山の三箇峰にあらはれ在したまふ』とあることなどから、8世紀初頭というのが一般の認識である。  
ここで“確かなる所見無し”というように、その創建に関する伝承には大きくみて秦氏系と荷田氏系のふたつの流れがある。ここでは、前者を「伊奈利伝承」後者を「稲荷伝承」と区別して記す。なお、どちらもイナリと読む。
伊奈利伝承  
一般によく知られているのは、山城国風土記逸文・伊奈利の社条にいう  
『秦氏・中家忌寸(ナカツイエノイミキ)等の遠祖・伊侶具(イログ)は稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいた。ある時、餅を使って的として弓で射たら、餅は白い鳥になって飛び去って山の峰に留まり、その白鳥が化して稲が成り出でたので、これを社名とした。その子孫の代になって、先祖の過ちを悔いて、社の木を根こじに引き抜いて家に植えてこれを祀った。いまその木を植えて根つけば福が授かり、枯れると福はない、という』(大略)  
との伝承で、秦氏系の創建伝承である。  
この伝承はふたつの部分からなっている。前半は、富み栄えた秦氏の祖・イログが餅を的にして弓を射たところ、餅が白鳥になって飛び去り、山の上に留まって稲と化した。そこで社の名を伊奈利と称したという社名起源説話で、イネニナル→イネナリ→イナリとの変化である。  
後半の、的を的にした先祖の過ちを悔いた子孫が社の木を引き抜いてきて移植して云々との説話は、樹木の活着によって禍福を占うという呪的行為で、稲荷神のご神木とされる「験(シルシ)の杉」の起源説話でもある。  
この伊奈利伝承に類するものとして、豊後国風土記・冒頭に『景行天皇の頃、豊国の長として派遣された菟名手(ウナテ)が豊前国・中臣村に宿ったとき、翌日の明け方多くの白い鳥が飛来して村に舞い降り、見ている間に餅となり、更に数千株の芋草(イモ)となった。その花葉は冬になっても枯れなかった。ウナテは不思議なことと思い天皇に報告した。これを聞いた天皇は喜び、ウナテに豊国直(トヨクニのアタイ)の姓(カバネ)を与えた。ここから豊国と呼ぶようになった』(大意)との一文がある。風土記に多い地名起源説話のひとつだが、その因となった白鳥は穀霊そのもの、あるいは穀霊を運ぶものとして記されている。鳥が穀物の種子を運んできたという穀物起源神話は、世界各地に残っている。  
一方、同風土記・田野の条には『昔、田野の野はよく肥えていて食べ物が有り余るほどだった。農民たちは富み奢り、ある時、餅を的として弓を射たところ餅が白鳥となって飛び去った。その年のうちに農民は死に絶え、水田を耕す人もなくなり田畑は荒れはててしまった』(大意)との一文があり、ここでは、餅が白鳥となって飛び去った後に破滅がもたらされている。豊かさをもたらす穀霊が飛び去ったためである。  
伊奈利伝承での餅は“穀物の霊=穀霊”であり、白鳥は穀霊あるいはその運搬者である。食物である餅を弓の的としたために、餅に潜んでいた穀霊が白鳥となって飛び去ったというのは風土記・田野条と同じである。ただ、それが破滅をもたらすのではなく、近くの山に留まって稲と化したというのが異なっている。本来は、前半と後半の間に、“餅を的としたために秦氏に何らかの災厄がもたらされた”という話があったのかもしれない。そのため、子孫がその行為を悔いて山の木を移し植え祀ったのであろう。また、この山の木というのは、白鳥すなわち穀霊が化身した“神の稲”なのかもしれない。神の稲を植えることで豊饒=富の再来を祈ったと理解することもできる。  
なおわが国には古くから、年の初めに四方の邪気を祓い天下泰平・五穀豊穣を祈って弓を引き、併せてその年の豊凶を占う『射弓の神事』が広くおこなわれてきた(今も残っている)。伊奈利伝承でイログが弓を射たのも正月の予祝儀礼だったのかもしれない。ただ、餅を的にしたのが誤りで、そのため本来豊饒をもたらしてくれるはずの穀霊が飛び去ったともいえる。  
以上が伊奈利伝承にかかわると思われる事柄だが、肝心のイナリ神が顕れた時期については何も語っていない。風土記は和銅6年(713)撰上というから、伝承後半にいう“今”が風土記撰上の頃を指すとすれば、伊奈利神の顕現は8世紀初頭以前ということになる。伏見大社では和銅4年(711)に神が顕現し社を創建したとして、平成23年(2011)に創建1300年祭を催すべく準備している。
稲荷伝承  
上記・伊奈利伝承に対して、イナリ神の顕現を“稲を荷なう老翁”に求める伝承がある。伏見稲荷で秦氏とともに神官を勤めた荷田氏系の伝承という。  
稲荷大明神流記(鎌倉中期)によれば、  
『弘仁7年(816)4月の頃、弘法大師が紀州田辺の宿で、身の丈八尺あまりの異相の老翁に遇った。(これを神と知った)大師は、鎮護国家のため密教紹隆の道場・東寺において神の加護を待つと告げると、老翁はそのみぎりには必ず参会して大師の法命を守るであろう、と答えた。  
降って弘仁14年(823)4月13日、彼の紀州の老翁が、稲を担い杉の葉を提げ、二人の女性と二人の童子をともなって東寺の南門にやってきた。大師は喜んでこれを歓待し、道俗もこれに習った。老翁は、しばらく柴守の家に寄宿していたが、その間大師は東寺の杣山に勝地を定めて17日間鎮壇し、稲荷の老翁を神として祀った』(大意)とある。これによれば、伊奈利伝承より約100年ほど遅れての顕現となる。  
また東寺に伝わる稲荷大明神縁起には、『100年の昔から、当山の麓には「竜頭太」(リュウトウタ)という山の神が住んでいた。その面は龍のようで、光り輝き、昼は田を作り夜は薪をとっていた。稲を荷づくことから、姓を「荷田」といった。  
弘仁のころ、弘法大師がこの山で修行していると、竜頭太が現れて「吾は当の山の神である。仏法を守護しようと願っているので、真言の妙味を説いてほしい。そしたら、当山を大師に譲りわたそうと思う」といった。大師は喜んで法を説き、その面を写してご神体として東寺の竈殿(台所)に安置した。  
大師は、竜頭太から稲荷山を譲り受けた後、稲荷明神をこの地に勧請した。その時、山麓には藤尾大明神が鎮座していたが、嵯峨天皇に奏上して深草に遷座せしめた』(大意)  
との伝承が記されている。  
竜頭太とは自ら名乗るように山の神で、その龍のような姿からみて雷神・水神的神格をもつ田の神すなわち穀霊である。山の住む精霊あるいはカミの初現の姿ということもできる。その竜頭太の顔を写して竈殿に祀るとは、竜頭太を水火を司る竈神として祀ったことを意味する。家の裏手にあって火・水に関係の深い竈殿は、異界との境界にあってカミが去来する場として神聖視され、そこに祀られる竈神は、丁重に祀ればその屋を隆盛に導き、疎かに扱えば衰退を招くという。大師は、東寺の隆盛を願って祀ったのであろう。  
このふたつの伝承を合わせると、秦氏のいう伊奈利神の鎮座以前から、稲荷山には竜頭太なる山の神が鎮座していたが、弘法大師の来山を機に稲荷山を大師に譲渡した。その後、稲を荷づく翁=稲荷神の来訪をうけた大師は、譲り受けた稲荷山に齋き祀った。その際、山麓にあった藤尾大明神を深草に遷し、その跡に社を建立した、ということになる。稲を荷づく翁=稲荷神とは、山の神・竜頭太の化身とみることもできる。  
この弘法大師勧請の稲荷社の鎮座場所が現伏見大社で、その辺りに藤尾大明神が鎮座していたというが、確証はない。ただ、今も大社二の鳥居の脇に末社・藤尾社が鎮座していること、伏見大社門前町のほとんどが藤尾明神の後身とされる藤森神社の氏子であること、藤森神社(伏見区深草)に、「藤森の旧地は現伏見大社の社地」との伝承があることなどからみて、信憑性は高いといえる。因みに藤森神社の祭礼で、氏子たちが御輿を伏見大社に繰り込み「土地返しや、土地返しや」と囃したてるという。旧地返還の要求である。
伊奈利伝承と稲荷伝承  
ふたつの伝承を比べるとき、秦氏の伊奈利伝承は8世紀初頭、一方の荷田氏の稲荷伝承は9世紀初頭と、その間に約100年が流れている。そこから、伊奈利伝承をもって伏見大社の創建伝承とし、稲荷伝承は後世の偽作とする見方があるが、一方では、稲荷山を表裏二分するふたつの集団・秦氏と荷田氏があり、それぞれに異なる信仰形態・伝承をもっていたのが、いつの世にか合体して今の伏見大社になったとする見方など諸説がある。  
伊奈利伝承には、秦の伊侶具とその子孫とが登場はするものの、その実態は霧のなかで神話・伝承の域を超えない。対する稲荷伝承は、弘法大師という実在の人物が登場するなど史実を語る呈をなすものの、竜頭太なる山の神が登場するなどこれまた諸寺縁起の類型を越えていない。稲荷伝承は、荷田氏が東寺(弘法大師)と組んで自家の勢力拡大を図ろうとする思惑と、平安遷都後に創建された後発の東寺が、先住する荷田氏と組んで教勢拡大を図るために作られたものかもしれない。ただ稲荷信仰は、東寺(真言密教)の教勢拡大、特に大師信仰の広まりとともに各地へ広まったという一面もある。  
(付記)秦氏と荷田氏  
前述のように、伏見大社の神官(社家)には秦氏系と荷田氏系がある。  
秦氏 / 新撰姓氏禄(815撰上)では、「応神天皇14年に127県の百姓を引き連れて帰化した弓月王の子孫とされる氏族で、秦始皇帝の後裔」とするが、始皇帝云々は中華思想によって祖先を中国に結びつけたもので、実態は朝鮮半島からやってきた渡来人だろうという(新羅国に波旦-ハタ-の地名があったという)。秦氏は、多くの渡来人の中の有力氏族で、京の太秦を根拠に絹織技能・稲作技術などをもって朝廷から優遇された。聖徳太子に仕えた秦河勝が有名。伊奈利伝承にいう秦伊侶具は、松尾大社を祀った本家筋・秦忌寸都理の弟との説がある。  
荷田氏 / 伝承では、雄略天皇の皇子・磐城王の後裔というが出自不明。秦氏進出以前から深草辺りにいた有力氏族とも、秦氏の傍流との説もあり、よくわからない。この系譜から、江戸中期の国学者・荷田春満(アズママロ、1669〜1736)が出ている。
黄台山 長楽寺 / 京都市東山区円山町  
延歴24年(805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建された。当初(平安時代)は天台宗・比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、その後室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併され今日に至ります。  
また、当寺はもともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持った有名寺でありましたが、大谷廟建設の際幕命により境内地を割かれ、明治初年、境内の大半が円山公園に編入され今日に至る。  
御本尊准胝観世音菩薩は、伝教大師入唐の際、海上俄に暴風起り、船まさに破れんとした時、大師舳にすすみ、除難のため三宝の救護を祈願し給うに、忽然として光明照耀して、二頭の竜神その頭に准胝観世音を奉戴して、大師の船側に近づき、観世音菩薩大師の御衣の袖に飛び移り拾うと覚えて、風波鎮まり無事御帰朝の後、この海上示現の尊像を自ら刻んで当寺の本尊として奉安し給うもので、霊験たぐいなく、古来勅願所として歴代天皇の御帰依深く、勅封の秘仏として奉安せられ、歴朝の御即位式及び御厄年のみに御開帳される秘仏でございます。 
槇尾山 西明寺 / 京都府京都市右京区梅ケ畑槇尾町  
智泉大徳 天長年間(824-834) 創建  
京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は槇尾山(まきのおさん)、本尊は釈迦如来。京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。  
寺伝によれば、天長年間(824-834)に空海の高弟 智泉大徳が神護寺の別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(1175-1178)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。正応3年(1290)神護寺より独立した。永禄年間(1558-1570)の兵火により堂塔は焼亡し、神護寺に合併されるが、慶長7年(1602)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄13年(1700)徳川綱吉生母桂昌院の寄進により再建されたものと言われるが、東福門院(後水尾天皇中宮)の寄進によるとする説もある。  
西明寺は、古義真言宗に属し槇尾山と号す。高雄(尾)山・神護寺、栂尾山・高山寺と共に三尾の名刹の一つとして知られる。古来から、清滝川のせせらぎと共に、春の桜、つつじ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季を通じて豊かな自然を現わしている。天長年間(824〜834)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。荒廃後、建治年間(1275〜1278)に和泉国槇尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。 また、正応三年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜わり、神護寺より独立した。さらに、永禄年間(1558〜1570)に兵火にあって焼亡したが、慶長七年(1602)に明忍律師により再興された。現在の本堂は元禄十三年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである。堂内には、唐様須弥壇上の本尊釈迦如来像(重要文化財)を始め、多数の仏像が安置されている。
栂尾山 高山寺 / 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町  
明恵 鎌倉時代 開基  
(こうざんじ、こうさんじ) 京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。  
高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。  
高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁(1173-1232)は承安3年(1173)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。  
明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。  
明恵は建永元年(1206)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
高山寺2  
高山寺は、紅葉の名所三尾(高尾、槇尾、栂尾)の北のはずれにあり、清滝の清流をはさむ境内には、老杉や巨松や老楓でおおわれ、自然の佳景をなし「華厳浄土」にふさわしい寺域である。  
古くは比叡山の尊意僧正によって開かれたが、荒廃の後、鎌倉時代に明恵上人が後鳥羽上皇の院宜を拝してこの地を得、上皇から「日出先照高山之寺」の号を賜わり、華厳道場を創立し、学問・美術の府としても盛んであった。  
明恵上人時代の遺構である住宅建築の傑作、石水院(国宝・世界歴史遺産)や鳥獣戯画(国宝)をはじめ多くの文化財を蔵している。
 
大阪府

 

●大威徳寺 (大阪府岸和田市) / 空海も当山で修行をし、多宝塔などを建立したと伝える。  
●高貴寺 (大阪府南河内郡河南町) / 弘仁年間に、空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。  
●慈眼院 (大阪府泉佐野市) / 弘仁6年(815)、空海(弘法大師)によって多宝塔、金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝える。  
●弘川寺 (大阪府南河内郡河南町) / 平安時代の弘仁3年(812)空海によって中興され、文治4年(1188)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願している。  
●大門寺 (大阪府茨木市) / 空海がこの地を来訪し、安居九旬に及んで、その際に金剛・蔵王の2像を彫刻し、大門寺の守護神としたという。  
●瀧安寺 (大阪府箕面市) / 山岳霊場として栄え、空海や日蓮や蓮如が修行したほか、現在も護摩法要が行われている。
●石尾山 弘法寺 / 大阪府和泉市万町  
弘法大師 大同年間(806-810) 道場開創  
高野山真言宗の寺院。山号を石尾山といい、昔から「石尾のお大師さん」として親しまれている。本尊は大日如来、脇仏は地蔵菩薩と弘法大師。脇仏の地蔵菩薩は福徳地蔵と呼ばれる色付きの立像。  
本堂の裏の、おがみ山には白衣観音があり、そこに至る参道には四国八十八箇所霊場を模した石仏群がある。  
大同年間(806-810)に空海が槇尾山に登頂の際、座禅観法修行の道場として開創され、弘仁年間(810-824)に地元豪族の伏屋長者の寄進によって一宇が建立されたという。 
弘法寺2 
弘法大師 延暦の頃 開山  
一番近い最寄駅は、泉北高速鉄道の終点『和泉中央駅』、ここから和泉中央道を南に700m歩けば、もう目の前に石尾山(森林)と山門が見える。十九番の羅漢寺から訪ねるとすれば「和田南」のバス停を左に折れ、1.5km程行って、和泉中央道の信号を左折すると山門が見え、石尾山弘法寺と大書きされた看板が立てられている。駐車場は山門の前の歩道沿側か山門横より入る。この石尾山は、槇尾山(西国第四番)、及び松尾山(豊臣秀頼再建)と共に「泉州のさんび三尾」と呼ばれた古刹である。  
延暦の頃、弘法大師が槇尾山にお登りになった時、この地に立ち寄って、座禅観法の修行道場として開かれた。その後、淳和天皇の弘仁13年にこの地の豪族、伏屋長者が一寺を建てて大日如来を本尊としてまつり、地蔵菩薩を脇仏とした。大師草創の故をもって一般に『石尾のお大師さん』とよばれ、弘法寺の名もそれに由来するものと思われる。  
また脇仏の地蔵菩薩は福徳地蔵として庶民に親しまれて来たという。事実、福徳円満、除災招福、五穀豊穣のご利益があったらしい。この町が万町と呼ばれるようになったのも、このお地蔵さんのお陰で万金を持つ長者が沢山この地に住んでいたというところから名付けられたそうだ。  
石尾山とは山の中に獣の尻尾の形をした大石が埋まっていたからだといわれる。 
●観心寺 / 大阪府河内長野市  
弘法大師 弘仁6年(815) 再興  
役行者が開き弘法大師が再興したといわれています。また楠木正成の菩提寺としても有名で、山門の手前左側に楠木正成の像があります。金堂は大阪府内最古級の国宝指定の建造物。この金堂前には弘法大師が七星降臨を礼拝された礼拝石もあります。  
観心寺2  
檜尾山観心寺は、文武天皇の大宝元年(701)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。その後、平安時代の初め大同3年(808)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁6年(815)衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827)より 造営工事に着手された。  
以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。
●星田神社 / 大阪府交野市星田  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 修行  
妙見宮の天之御中主は、金属に関する神だそうである。地中にある鉱床は星の恵みとの理解からだそうで、古来からの金山の近くに妙見さんが多いのはそれゆえである。 当妙見宮にも北斗七星の精が降臨したとの伝承があるが、金属との関わりの伝承は聞かないが、字を鐘鋳谷(カネイダン)と云うのはただごとではない。  
注釈 / 一本の大杉を聖樹として、交野物部の遠祖である饒速日命を祀っていたとのことである。 蘇我物部戦争の後、饒速日命を祀ることができなくなり、やはり物部系の津守氏の奉祭していた住吉大社の神を表の祭神としたと伝わる。 饒速日命は交野社として脇の摂社に祀られている。海の神である住吉大神が海と離れた場所で祀られているのはこのようなケースが多いとのことである。この近くを流れる天の川上流に饒速日命の降臨伝説のある磐船神社があるがここも住吉大神を祀っている。 また更に上流の生駒の住吉神社にも摂社に饒速日命が祀られている。なお交野ヶ原は平安貴族の遊びの野であり、和歌を詠んだ地であるので、和歌の神である住吉神を祀ったとする節もあり、定まらないようだ。  
当社は宝永年間(1704-11)にこの地の総社である磐船神社から住吉三神と息長帯姫命を勧請して大きい社殿を建立した。  
星田妙見宮について  
生駒山系の端の磐座を祀る。磐座と天の川とは天磐楠船の通路としてその組み合わせは多く、饒速日命の伝承が残る場合が多いとのこと。 この妙見宮は弘法大師の修行地で、七曜の星が降りたと云われる。それを磐座としているが、恐らくはもっと古い時代の磐座信仰の地に弘法大師伝説が覆さったのであろう。  
当霊山は平安時代の弘仁年間(810-824)に弘法大師空海上人が私市の獅子窟寺の岩屋で仏眼仏母尊の修法をされたときに当霊山に七曜の星が降臨し大師自ら「三光清岩正身の妙見」と称され北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳、神仏の宣宅諸天善神影向来会の名山、星の霊場としてまつられました。  
また当宮を一 点として、当村内の光林寺と星の森の三点に一辺を八丁として降臨するを以て「八丁見所」と云われ、当村を三宅庄星田村と称されました。当御祭神は神道にては天御中主大神、仏教にては北辰妙見大菩薩、陰陽道にては太上神仙鎮宅霊符神と申されます。 
●槇尾山 施福寺 / 大阪府和泉市槙尾山町  
弘法大師 出家得度  
西国三十三所の第四番札所『槇尾山 施福寺』(別名:槇尾寺)は、東西約50kmにわたって続く和泉山脈にある、標高約600mの槇尾山上にあります。古くから山岳修験の地として栄え、役行者・行基・空海(弘法大師)などが修行をした逸話も残されており、「愛染堂」では、空海が剃髪を行った地と伝わっています。  
施福寺の縁起は、欽明天皇の勅願によって、仏教伝来から間もない6世紀ごろ、行満上人(ぎょうまんしょうにん)が丈六の弥勒菩薩像を本尊として開いたとされています。これは西国三十三所の全札所の中では、一番札所の「青岸渡寺」に次ぐ古さなのだそうです。西国三十三所の札所ご本尊は「十一面千手観音立像」。771年、行基の高弟であった法海上人によって造立された像だったとされており、以下のような逸話が残されています。  
法海上人のもとで、あるみすぼらしい僧が熱心に修行をしていました。この僧が修行を終えて下山する際に、お寺に旅費を無心したところ、寺の僧にこれを拒絶された上に、激しくののしられてしまいました。修行僧は「何と情け無い出家者かな」と嘆き、立ち去っていきました。その話を聞いた法海が後を追うと、すでにその姿は海上にあり、周囲には紫雲がたなびいていたのです。その修行僧は千手観音の化身でした。このことを悔いた法海上人は、他の僧ともども後悔し、千手観音像をお祀りするようになりました。ただし、この逸話に登場する千手観音像は、当初の像は焼失してしまい、残念ながら、現在は江戸時代に再興されたご本尊が祀られています。  
施福寺は、平安時代まで修行の寺として繁栄し、全盛期には千近い堂宇が立ち並ぶほどでした。しかし、1581年に織田信長の兵火にあい焼失。豊臣秀頼の寄進によって復興し、その後は徳川家の庇護も受けて繁栄を取り戻し、真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となりました。  
しかし、1845年の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失してしまい、現在残された本堂などは、その後に信徒らの寄進によって再建されたものとなります。  
参道の途中にあった「弘法大師 姿見の井戸」。空海さんもこの槇尾山で修行していたそうですので、弘法大師さんに関連したものも豊富です  
施福寺2  
当山は第29代欽明天皇の勅願寺。 仏教公伝538年頃の創建で日本有数の古い寺です。役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり弘法大師 空海が勤操大徳について出家得度した寺と有名です。  
西国第4番札所。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩で 御詠歌は、花山法皇のよまれた 「深山路(みやまじ)や檜原(ひばら)の松原分(まつばらわ)けゆけば巻(まき)の尾(を)寺に駒(こま)ぞいさめる」 で巻の尾とは役の行者が法華経を峯々に納経て、最後に当山に納経したので山号となっております。 古来より経塚がきずかれ故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めて下さい。 槙尾寺は納経の寺です。
●遍照寺 / 大阪府貝塚市  
弘法大師 開山  
弘法大師によって開かれたと伝えられる真言宗御室派の寺院。16世紀に阿観によって中興され、岸和田藩主の松井氏、岡部氏から崇敬され保護を受けた。当寺にはこれら藩主からの黒印状が多数残されている。太子堂は江戸時代の様式。太子講や般若講が現存し、毎年5月には文化13年の大般若経600巻の転読が行われるほか、4月には境内の行場で修験者による「柴燈大護摩法要」が行われ、多くの信者で賑わう。 
●瀧谷不動 明王寺 / 大阪府富田林市彼方  
弘法大師 弘仁12年(821) 創建  
寺伝によれば、弘仁12年(821)に空海が龍泉寺に参籠したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子(せいたかどうじ)の像を刻み、それら3体の仏像を祀るために諸堂が造営されたことを起源とするという。造営当初は今より、約1km離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。  
瀧谷不動明王寺(たきだにふどうみょうおうじ)は大阪府富田林市にある真言宗智山派の仏教寺院。日本三不動のひとつ。山号は瀧谷山。正式な寺号は明王寺。一般には山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動、滝谷不動尊と言う。また、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。 
明王寺2 
寺伝によると弘仁12年(821)に弘法大師の開基と伝わる。本尊の不動明王と二童子立像は重要文化財に指定されている。眼病、厄除にご利益があるといい、毎月28日の縁日には多くの参拝者で賑わう。縁日の日は、駅から寺まで露店が出て車両通行禁止となるので注意が必要。 
●太融寺 / 大阪府大阪市北区太融寺町  
弘法大師 弘仁12年(821) 開基  
扇町通の南沿いに立つ真言宗の寺。弘仁12年(821)弘法大師による創建と伝わる。朝廷や武将からの信仰が厚く、かつては広大な寺域を所有して...  
●大澤山 久安寺 / 大阪府池田市伏尾町  
弘法大師 天長年間(824-834) 留錫  
神亀2年(725)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創。天長年間(824-834)に弘法大師留錫し、真言密教道場として栄えた「安養 」が前身であります。保延6年(1140)安養院は灰塵に帰しましたが、薬師如来像、阿弥陀菩薩像は損傷を免れ、本尊千手観音像は岩 の上に飛行して、光明を放ったと伝えられています。久安元年(1145)に、桜門、堂塔伽藍、四十九院などが再興され、久安寺と改称され ました。安土桃山時代には、豊臣秀吉が参拝、江戸時代には歌人平間長雅が在住して観音信仰を広め、衰退を繰り返す中で法灯を護持 してきました。昭和興隆事業により、諸堂を造営し、ア字山とバン字池からなる庭園「虚空園」の整備、旧伽藍跡に霊園および仏塔を造営し ました。現在、花の名所・観光修行道場となっております。 
●和宗総本山 四天王寺 / 大阪府大阪市天王寺区四天王寺  
弘法大師 修行  
弘法大師のご命日、毎月21日は俗に「お大師さん」と呼ばれ、境内に露店が並び、たくさんの参詣の方が来られます。四天王寺と弘法大師のつながりは、弘法大師が修行法の一つである「日想観」を修法したといい伝えられることなどに認められますが、21日に大師会として、お詣りが盛んになったのは、 江戸時代以降のようです。この日は、中心伽藍を無料開放し、五重塔最上階回廊も開放 (志納100円) しております。また、境内一円に食べ物屋や日常品、アンティークのお店などの露店が出ます。 お詣りがてら覗いていかれるのも一考です。  
四天王寺の歴史  
聖徳太子が四天王寺を建てられるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが『四天王寺縁起』に示されています。「四箇院」とは「帰依渇仰 断悪修善 速証無上 大菩提所」つまり仏法修行の道場である“敬田院”、病者に薬を施す“施薬院”、病気の者を収容し、病気を癒す“療病院”、身寄りのない者や年老いた者を収容する“悲田院”の四つの施仏教の根本精神の実践の場として、四天王寺を建てられたといえるでしょう。これらの施設は、中心伽藍の北に建てられたようです。
四天王寺2  
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。  
その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6〜7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされています。 
●観心寺 / 大阪府河内長野市寺元  
弘法大師 再興  
役行者[えんのぎょうじゃ]が開き、弘法大師が再興したといわれる寺。金堂は室町初期の建立で、国宝指定。本尊の如意輪観音も国宝だ。梅・桜をはじめ、ツツジ・モミジ・椿など四季各々の花木が美しい花の寺としても有名。
観心寺2  
西暦701年に役小角(えんのおづぬ)が開き、当初は「雲心寺」と称していました。815年弘法大師が如意輪観音菩薩[国宝]を刻まれ本尊とし、「観心寺」と改め、大師の筆頭弟子実恵(じちえ)が伽藍造営し、高野山と京都の中宿として発展しました。南北朝時代の武将である楠木正成の幼少時の学問所でもあり、南朝ゆかりの寺として有名です。寺に伝わる文化財は、和様に禅宗様の建築要素を取り入れた折衷様の代表として有名な金堂 [国宝]や重要文化財の楠公建掛塔など多数あります。 
●葉樹山 延命寺 / 大阪府河内長野市神が丘  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 起源  
平安時代に弘法大師が当地方を巡錫(じゅんしゃく)の時に建立し、自ら地蔵菩薩の尊像を刻んで安置したのが起源と伝えられ、江戸時代にこの地で生まれた浄厳和尚(じょうごんわじょう)が20余年間高野山にて修行の後中興し、葉樹山延命寺と号した。  
当地には古来薬草が多く、また浄厳の父道雲は医術の心得があり、よく難病を治したので、父への感謝の心もあって薬樹山と号したと云われています。また浄厳は五代将軍綱吉をはじめ諸大名の帰依を受け、幕命により江戸湯島に霊雲寺を創建しています。  
この寺は、紅葉の名所としても有名で、特に樹齢1000年とも言われるカエデの巨木は弘法大師御手植えと伝えられ、夕日に映えるその美しさから「夕照(ゆうばえ)もみじ」と呼ばれ、府の天然記念物に指定されています。また、もみじ山には西国三十三ケ所の観音石仏が勧請されており、晩秋[10月下旬〜11月下旬]の満山は美しい紅葉につつまれます。もみじ山は大阪府立公園に指定されています。 
延命寺2 
延命寺は大阪府河内長野市の真言宗御室派の寺院。山号は薬樹山。弘仁年間(810-824)、空海が地蔵の石仏を刻んで本尊としたのが当寺の始まりとされる。寛永16年(1639)に、この地に生まれた浄厳が伽羅山延命寺に寺号を改め中興する。延宝5年(1677)、薬樹山延命寺に寺号を改め、本尊も如意輪観音に改められた。紅葉の名刹として有名で大阪みどりの百選に選ばれている。樹齢1000年とも言われている巨大なカエデ(もみじ)の老木は「夕照もみじ」といい大阪府天然記念物に指定されている。また、すぐ近くには長野公園・延命寺地区がある。 
延命寺3 
河内長野市にある古刹・延命寺は平安時代、弘法大師により「宝憧寺」として創建された。その後、廃寺になったが、江戸時代に高僧・浄厳(じょうごん)により「延命寺」として再建され、明治時代には常楽寺を合併して現在に至る。古来は薬草が多く自生していたことから山号を薬樹山といった。寺宝に鎌倉時代の清涼寺式釈迦如来や、都卒内院曼荼羅があり、共に国指定重要文化財。また境内には、高さ9m、樹齢千年とも言われる「夕照(ゆうばえ)の楓」があり、大阪府の天然記念物に指定されている。弘法大師のお手植えとも伝えられ、晩秋の夕陽に映える姿が美しいことからこの名がついたとか。紅葉シーズンには多くの人が訪れ、「大阪みどりの百選」にも選ばれている。 
●天野山 金剛寺 / 大阪府河内長野市天野町  
弘法大師 修行  
女人高野 天野行宮(あまのあんぐう) / 奈良時代の僧行基が聖武天皇の勅願によって草創し、のち弘法大師が密教の修行をしたと言われている。八条女院は高野山より真如親王筆の弘法大師像を奉安し、女性が弘法大師と縁を結ぶ霊場とされ、女人高野と呼ばれている。南北朝時代に、後村上天皇の行在所となった後、20年間の行宮であり、「天野行宮(あまのあんぐう)」と呼ばれるようになった。  
多数の重要文化財 / 内部のほとんどが、重要文化財に指定されており、室山時代に造られた枯山水式の庭園は一見の価値がある。また、春は桜、秋は紅葉と四季を通じて楽しめ、観月亭から見る中秋の名月は有名だ。天野川の渓流に沿って建物がたちならび、山も水も空気も清く、自ずと心まで浄化されるようである。 
●盛松寺 / 大阪府河内長野市楠町西  
弘法大師 伝説  
盛松寺(せいしょうじ)は、大阪府河内長野市にある仏教寺院で、高野山真言宗の準別格本山。山号は仏日山、本尊は弘法大師。弘法大師が「冬至に柚子味噌をつくって、食すると疫病ならない」と伝えたという伝承がある。それにちなみ毎年12月21日(終い弘法)に柚子味噌が参拝者に配られる。また、本寺のある場所は、弘法大師が修行のために槇尾山に向かう途中、昼食を摂った場所である。 
●恩智神社 / 大阪府八尾市恩智中町  
弘法大師 (810) 参詣  
当社の創建は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国を御守護のためにお祀りされた神社で国内でも有数の古社であり、後に延喜式内名神大社に列する神社であります。  
「恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉ニ圭田一行ニ神事一云々」と記されています。(総国風土記)奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神である『天児屋根命』を常陸国「現香取神宮」より御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年間に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀られました。従って当社は元春日と呼ばれる所以であります。  
神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に朝廷から七郷を賜りました。  
以来、朝廷からの崇敬厚く、持統天皇の元年(689)冬10月に行幸されて以来、称徳天皇(第48代)天平神護景雲二年(768)には、河内、丹後、播磨、美作、若狭の地三七戸を神封に充てられ、文徳天皇(第55代)嘉祥3年(850)10月に正三位、清和天皇(第56代)貞観元年(859)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式、名神帳に登載されました。以後醍醐天皇、村上天皇の御字(延喜及び応和3年)の大旱ばつに勅使参向して祈雨をされ、その霊験があり、それぞれ蘇生したと伝わっています。  
また、一條天皇正暦五年(994)4月中臣氏を宣命使として幣帛を奉り、疫病等の災難除けを祈願されました。これが当神社の大祓神事(夏祭・御祓い祭)の始まりとされています。  
尚、三代実録によれば神社は下水分社といわれています。これは建水分神社(千早赤阪村)上水分社、美具久留御魂神社を中水分社といわれ、三社とも、楠一族が崇拝した神社であります。  
明治維新前迄は、奈良春日社の猿楽は当神社が受けもち、この猿楽座に対して、春日社より米七石五斗と金若干が奉納されていました。  
社殿は、当初天王森(現頓宮)に建立されていましたが建武年間に恩地左近公恩智城築城の折、社殿より上方にあるのは不敬として現在の地恩智山上に奉遷され、現在に至っています。  
本殿の建築様式は、王子造り(流れ造りの一種)で極めて珍しい貴重な建築様式であります。拝殿は、多くの人たちの熱い願い(浄財)で平成12年流造千鳥破風の社殿が建てられました。  
閼伽井戸(清明水)  
弘仁の昔 空海(弘法大師)(810年頃)が当社に参詣の折、供饌粢炊(ごくしすい)の水の乏しさに歎き、峡谷に水を求め一度岩底に錫杖(しゃくじょう)を突き立てれば霊水滾々(こんこん)と湧き出したと伝わります。この一掬(ひときく)の霊水は、難病を治すと伝えられています。現在もこの霊水は境内に湧き出ています。 
●磯長山 叡福寺 / 大阪府南河内郡太子町  
弘法大師 参籠  
山号を磯長(しなが)山といいます。聖徳太子の御廟を守護するために推古天皇から土地を譲り受け、墓守の家10軒を置いたのが始まりといわれています。またここを廟地として選定したのは聖徳太子ご自身で、磯長山の丘陵を利用して高さ7.2m径54.3mの円墳が造られています。この選定の際には、遠国の訴えにも配慮するため、甲斐国(現在の山梨県)から献上された黒駒(馬)に乗って雲の中を走っていた折に(富士山頂から)この地をご覧になり、廟地に選定されたという”黒駒伝説”が残っています。  
円墳の内部は横穴式石室で推古30年(622年)4月11日に聖徳太子が49歳で薨去(亡くなる)され 母・妃と共に埋葬されます(三骨一廟)、このことは”日本書紀”に記述されています。  
聖徳太子はご存知のように、”十七条憲法”を制定することで役人の汚職を禁止し、人は皆 長所と短所を併せ持つ平凡な存在で話し合いによって”和”を保つことを決まりとしています。  
万民に対して配慮した行政を行ったため、人々から慕われ敬われ、救世観音の生まれ変わりとされ、太子信仰が生まれます。  
このため、天台宗の最澄は永く比叡山で太子信仰の伝統を守ります、浄土真宗の親鸞聖人は29歳の春、修行に行き詰って苦心していたところに太子が救世観音となって現れ お導き下さったとし、生涯 太子を信仰するようになります、また叡福寺に参籠(一定期間この寺にこもって昼夜祈り続けます)します。他にも時宗の一遍上人、日蓮宗の日蓮上人、真言宗の弘法大師(弘法大師堂が境内にあります)がそれぞれ参籠しています。 
●開口神社 / 堺市堺区甲斐町東  
弘法大師 修行  
平安期には空海や空也とゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈したことから、大寺の通称が定着するに至った。  
神功皇后により創建されたと伝わり、奈良時代には開口水門姫神社と称され、海を護る役割をもち最古の国道といわれる竹内街道の西端にありました。また、行基により念仏寺も建立され通称が「大寺」であったことから、念仏寺が廃寺となった今も堺の人々に「大寺さん」の通称で親しまれています。  
平安時代の終わりごろ、当時堺の中心部にあった開口村・木戸村・原村の三村の祭神が合祀され、三村宮(三村明神)とも呼ばれるようになりました。中世には堺南荘の鎮守としても知られ、神社の会所は堺の自治の中心を担った会合衆と呼ばれる人々の集会の場としても利用されました。  
明治時代には、神社境内に現在の堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園などが置かれたこともありました。  
神社には堺の人々の深い信仰を背景にして、多くの古文書や美術工芸品が今に伝えられ、堺にゆかりの深い絵師土佐光起が神社の創建を描いた「大寺縁起」や、古くから伝来する「伏見天皇宸翰御歌集(ふしみてんのうしんかんおんうたしゅう)」、「短刀(銘吉光)」は重要文化財に指定されています。  
塩土老翁神・素盞嗚神・生国魂神を祀る旧市内唯一の式内社  
西暦200年頃神功皇后勅願により建立されたと伝えられ、奈良時代には開口水門姫神社と称され大阪湾の出入口を守る神社でした。堺の集落はこの辺りから発展し町となり、平安末期には開口・木戸・原村の三神社が合祀され堺の総氏神として崇敬を集めました。  
また、天平18年(746年)行基が念仏寺、その後空海が宝塔を建立。江戸時代までお寺が境内にあったことから、今も「大寺さん」と呼ばれています。明治に入り神仏分離で寺は取り壊され釣鐘は本願寺堺別院に移転、三重塔は昭和20年の空襲で焼失しました。  
旧市内唯一の式内社で海の神様として知られ、大阪住吉大社の奥の院とされています。昭和39年に本殿が再建され旧市内南荘の氏神として、南北両荘の総氏神として親しまれ、塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくたまのかみ)が祀られています。  
大寺縁起をはじめ数々の宝物や古文書が・・・  
重要文化財「大寺縁起」は元禄3年(1690年)制作された三巻より成る縁起絵巻。絵は土佐光起の筆、詞書は関白近衛基煕など25名の公家による寄合書となっています。上巻には開口社の草創と住吉社との関連、中・下巻では念仏寺を開いたとされる行基の生涯、最後に開口社に住む天狗三村(みむらん)坊の伝承が記されています。  
堺に生まれ京に帰って近世土佐派の再興に尽力した光起。堺ゆかりの絵師による記念碑的な大作の絵巻として大変貴重です。(大阪市立美術館寄託)  
鎌倉時代の仮名の名筆、和歌の詠み手として知られる伏見天皇の「伏見天皇宸翰御歌集」(大阪市立美術館寄託)、室町幕府10代将軍義稙(よしたね)寄進といわれる「短刀銘吉光」(大阪城天守閣寄託)も重要文化財です。  
また、「開口神社文書」(大阪歴史博物館・大阪城天守閣・堺市博物館寄託)は鎌倉時代〜江戸時代の開口神社と大寺念仏寺関係の古文書。田地寄進状・売券、所領安堵状、室町幕府関係文書、秀吉朱印状など多岐に渉り府の指定有形文化財です。  
22社の境内神社と薬師社  
境内東側には豊竹稲荷神社、三宝荒神社(竈神社)の2社、白髭神社・塞神社(庚申さん)、舳松・松風神社、菅原・岩室神社の2社合祀殿3棟。社殿裏手には熊野・厳島(弁天さん)・兜・三宅八幡・琴平・神明・豊受神社、産霊・北辰・大国魂(大黒さん)・恵比須(戎さん)・少彦名・舟玉・楠本神社の7社合祀殿2棟の22社の境内神社があります。  
また、本殿北側の念仏寺の名残りである薬師社には、ご神体として平安後期の作とされる薬師如来坐像が祀られています。神宮寺の念仏寺本尊は戦前には廃仏毀釈で外部に出さず秘蔵、昭和39年「節分祭」に開帳され毎年行者による護摩供養が行われています。(節分祭のみ拝観可)  
泉南一の名泉と伝えられた金龍井に伝説が・・・  
海会寺が開口神社西門付近にあった1338年、名僧乾峯和尚が徳を慕って教えを乞いに訪れた金面龍王という龍に、ありがたい戒を授けました。龍はお礼に干ばつに困る人々のために、「地面に鵜の羽を敷き白露が浮かぶところに井戸を開けば清水が・・・」と教えました。そこに井戸を掘ると水が湧きだし、枯れることなく泉南第一の名泉と伝えられたそうです。  
海会寺が元和の大火で南宗寺境内に移転後、開口神社の井戸となり西参道入口の大鳥居南側にあります。金龍の名は金面龍に由来、平成16年に大小路界隈『夢』倶楽部により井戸前に館が完成し金龍井が復活しました。 
 
住吉大社 / 大阪府大阪市住吉区住吉  
住吉大社は、いつ、だれが建てたのですか?  
神功皇后ご自身が住吉大神をお祀りになり建てられました。  
これは鎌倉時代に編纂されたという『帝王編年紀』によりますと、ご鎮座が神功皇后摂政11年、辛卯の年(西暦211)とされています。やがて神功皇后ご自身も御祭神として祀られるようになりました。平成23年には御鎮座より1800年を迎えました。  
住吉大社はなぜ大阪に建てられたのですか?  
神功皇后が新羅を平定されたのちの帰り道、急に船が動かなくなるという変事がありました。神さまにお尋ねすると、住吉大神が「大きな港があって玉のように美しく細く突き出た場所に鎮まりたい」とお告げになられました。そこで住吉の地に祀られることになりました。  
当時の住吉の地は、大阪湾が今よりも内陸に広がっており、そこに上町台地が南に突き出た場所でした。仁徳天皇の時代には住吉津がおかれ、のちには遣唐使などが出発したという良港であったということからも、住吉の地理は海上交通の要所であったともいえましょう。  
住吉大神さまはどのような神さまですか?  
住吉大神さまは底筒男命・中筒男命・表筒男命といわれる三柱の神さまの総称をいいます。この住吉大神さまは、お祓い・航海安全・和歌の道・産業育成などのご守護をされることで有名です。古くより多くの人々の崇敬を受けてきました。  
『古事記』『日本書紀』など日本最古の伝説と歴史が書かれている書物によりますと、イザナギノミコトが亡き愛妻イザナミノミコトを追いかけて、ついに黄泉国(死者の国)にまで行かれました。しかし、妻を連れ戻すことは出来ず、地上へと帰ることになりました。地上に戻ったものの、その身には黄泉国のケガレを受けてしまったので、海に入って禊 (みそぎ) を行ないました。禊とは身体を清める行為で、これを行なった時に、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱、つまり住吉大神がお生まれになりました。よって「海の神」「おはらいの神」として特に崇敬されます。海は生命の源であり、禊や祓という行為も水でもって生命力を更新するものですから、住吉大神は「生命」そのものを守護育成される尊い神さまです。  
神功皇后さまはどのような神さまですか?  
神功皇后の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命で、第14代仲哀天皇の皇后です。皇后の父は、第9代開化天皇の曾孫で、母は朝鮮半島の新羅から帰化した天日槍 (あめのひぼこ) の子孫にあたります。  
皇后は仲哀天皇と一緒に九州の熊襲征伐に向われ、途中で天皇が崩御せられた後も、女性の身で、しかも懐妊中であるにもかかわらずに、国内を平定しました。またさらに進んで朝鮮半島にまで進出し、ことごとく勝利を得られました。この後、凱旋してからお産まれになられたのが応神天皇です。皇后はご守護をいただいた住吉大神を祀られましたが、ご自身も住吉大神と一緒に住みたく思われましたので、この地に共にお祭りされることになりました。  
国宝の住吉造にはどんな特徴がありますか?  
本宮の建築様式は「住吉造」と呼ばれます。日本の古代建築をよく遺したものには伊勢神宮の「唯一神明造」、出雲大社の「大社造」がありますが、住吉造はそれらに次ぐ古風を伝えるものです。屋根はヒワダ葺き(ヒノキの皮を敷き詰めたもの)の切妻(屋根の端を切り揃えたもの)という形式です。室内は外陣と内陣の二間に分かれ、柱は丹塗り、壁は胡粉塗りという様式になっています。また住吉造の構造は、天皇陛下の大嘗祭で造営される「大嘗宮」という神殿と類似した平面構造をしていることも特徴として挙げられます。現在の四本宮は江戸時代の文化7年(1810)の造営で、国宝に指定されています。  
このように古代の様式を連綿として伝えていくことは大変に重要なことです。昔の文明に想いを偲ばせるような古代の「遺跡」ではなく、現在に至るまで祭祀が途切れなく、また伝統をよく守り続けられてきた事実が意義深いものでしょう。  
住吉大社は全国にある神社のなかでもどういう位置づけですか?  
日本全国には八幡さま稲荷さまをはじめ数多くの神社がお祭りされています。その中でも住吉神社はおよそ2000社以上も祭られており、それら住吉神社の総本宮にあたるのが住吉大社です。現在は各神社が独立した宗教法人となっております。  
歴史的にも古くから朝廷からのご崇敬をあつめ、神さまの位として最も高い「正一位」とされました。昔の国ごとにおかれた一宮でもあり、住吉大社は「摂津国の一宮」です。また後には国家より格別の扱いである神社の社格が「官幣大社」とされました。  
住吉の地名には何か由来がありますか?  
神功皇后が住吉大神をお祀りされる際、それに相応しい土地をあちこちと探しましたが、この地を見つけた時に、「真住吉」との託宣を得られました。よってこの地を住吉と名づけて鎮座しました。  
この「住吉」は、スミヨシと読みますが、古くは「スミノエ」と読みます。スミノエの「エ」とは、今でも関西圏では、良い事を「ええ」(良い)というのと同じで、神さまが「住むのに良い」という意味です。神さまの御心にかなう土地ということで住吉といいます。  
また、住吉大神は祓の神さまでもあり、昔の住吉の海岸は水が美しかったということもあり、まさに「澄み良し」という意味もあるのです。  
全国には住吉神社が多く祭られており、この住吉の地名が全国の同じ神さまをお祭りする土地へ広まったため、そこの地名を住吉と名付けたことにより、現在でも全国に住吉という地名が多く存在しているのです。  
大阪市には、住吉区・住之江区があり、また住吉区には墨江などの地名がありますが、もともとは住吉大社より起こった名称であります。  
住吉大社の巫女さんは、なぜ頭に飾りがついているのですか?  
まず、当社は巫女とは呼ばずに「神楽女」 (かぐらめ) と呼んでいます。住吉大社は伊勢の神宮や春日大社など古社とならび、伝統ある神楽を継承しており、その神楽舞に奉仕するのが神楽女です。神楽を舞うことで神霊を神楽女に御招きする意義がありますので、頭上には鏡を中心に、神木である「松」が掲げられ、神使の「白鷺」が飾りつけられています。  
お神楽とはどういうものですか?  
神楽とはカグラと読み、歌や舞をともなって、神さまに奉納して御心をなごませる神事芸能のことです。神霊が降臨して舞人自身が神さまの依代となるものでもあります。神話では日神の天照大神が岩戸隠れなさった時、アメノウヅメという神が舞を行ったことに起源を発するともいわれます。  
住吉大社には古来より伝統ある神楽が伝承され、宮中御神楽と同様に、優美で典雅な古い手振りをのこす巫女神楽です。神楽歌には数多くのものがあり、神事や祭典で神饌を供える際、本殿の御扉の開閉時などで行われます。また神楽女が舞を行うものには、神降・倭舞4段・熊野舞4段・白拍子・田舞(八乙女舞)・初辰神楽などが伝承されています。 
如意山 藤次寺 / 大阪市天王寺区生玉町  
任瑞上人 弘仁年間(810-824) 開山  
大阪の融通さんには今も多くの参詣客が集まる。地下鉄谷町九丁目駅のほど近くに佇む藤次寺。開山は弘仁年間(810〜824)と伝えられ、現在の住職、桑原昌道師で100代を数えるといわれる(詳細は不明)、真言宗の古刹です。見事な朱塗りの山門をくぐると、立派な金堂が目にはいります。昭和20年の戦災で、寺内の建物は全焼したといいますが、昭和35年、京都大学の村田治郎教授および棚橋諒教授の設計管理により、当時の建築技術の粋を集めて復興されました。
藤次寺2  
藤次寺は弘仁年間(810-824)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上人を開基とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、藤冶寺と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つである地蔵院を合併し、藤次寺と改称し、現在に至っている。  
藤原氏の祈願寺として、藤原氏一門より、深い帰依を受け栄えていたが、寺運の盛衰があった。慶長年間(1596-1615)に、加藤清正が大檀主となり、金堂、伽藍、堂宇などを建立した。広大な寺域(境内)を持ち、壮観であったと言う。  
中興憲遵阿闍梨の時には、如意宝珠融通尊への信仰が盛んになり、「大阪の融通さん」と称されて、多くの人々の信仰を集めている。 明和元年(1764年)、中興清範和上の時、九条尚実が家運長久を祈るため永代不易の祈願寺として改めて、旨辞を授けた。江戸時代末まで、九条家(五摂家の一つ。藤原兼実が祖。)の祈願寺であった。  
しかし、昭和20年(1945年)3月、戦災により藤次寺は全焼した。都市計画のために境内地の移転があった。昭和35年(1960年)に金堂、庫裡、寺務所が完成した。  
藤次寺の塀の前(山門近く)に、如意山 藤次寺、融通さんまいりと記された石碑がある。  
 
兵庫県

 

●神呪寺 (兵庫県西宮市) / 天長元年(823)、空海は雨乞い争いで、妃の水江浦島子の筐を借り受けて、勝ちを得たという。  
●門戸厄神東光寺 (兵庫県西宮市) / 空海は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、高野山の天野社、山城の石清水八幡宮、門戸東光寺へそれぞれ国家安泰、皇家安泰、国民安泰を願って勧請したが、現在残っているのは東光寺のもののみであるという。  
●再度山 (兵庫県神戸市) / 弘法大師(空海)が延暦23年(804)に入唐するに当たって、船旅の無事と学問成就を念じてこの山(当時「摩尼山」と呼ばれていた)に参詣した。  
●善楽寺 (兵庫県明石市) / 大同5年(810)空海(弘法大師)が土佐一宮(現在の土佐神社)の別当寺として創建したといわれている。  
●白毫寺 (兵庫県丹波市) / 石淵寺は空海の剃髪の師であった勤操が建てたとされる寺院である。  
●月照寺 / 兵庫県明石市人丸町  
弘法大師 弘仁2年(812) 創建  
弘仁2年(812)、弘法大師が創建したと伝わる古刹で、現在は曹洞宗の禅寺。山門は市指定文化財で伏見城の薬医門、明石城の切手門として二役を果たし明治初年に移築された。 
●黒澤山 光明寺 / 兵庫県赤穂市東有年  
弘法大師 大同元年(806) 開基  
寺名の由来 / 山号の黒澤山は、山上にあった大きな黒い澤より。光明寺は、山上に懸かっていた光り輝く紫の雲をご覧になられ、弘法大師(お大師さま)が付けられたと言われています。  
播磨にはお大師さまが開かれたお寺が2ヶ寺あり、1ヶ寺は高砂市の十輪寺、もう1ヶ寺が赤穂市の光明寺です。寺伝に依りますと、大同元年(806)お大師さまが唐の国より帰郷の後、この地に立ち寄られたとき、宿の老婆より「私は行基菩薩の弟子僧の出家前の妻だったものですが、あなたのお越しをお待ちしていました。」と前置きして、行基菩薩が使用していたと云う鉄鉢を、お大師さまに献上されました。お大師さまは、その奇縁を深く感ぜられて、山上に紫に光棚引く雲の懸かるこの山に登られ、黒い水を満たした澤の傍らの霊木で、背丈3尺余りの千手観音と、脇仏に不動明王と毘沙門天を刻まれて、伽藍を建立されました。  
開山以来代々輪首を賜って、鎮護国家の霊場として平安末期頃は東の書写山、西の光明寺と称せられる程になり、山上には三十三の寺屋敷が建ち並び、播磨では最も栄えた寺のひとつでもあり、太平記によりますと、後醍醐天皇が隠岐の島へ配流の時の宿ともなっています。  
その後は衰退を繰り返し、江戸末期に山上より現在の地へ移転されました。現在山上の光明寺跡地は、光明寺奥の院として諸堂を建築、再興され「近畿樂寿観音霊場・第十一番札所」に指定されています。  
近畿樂寿観音霊場・第十一番札所「光明寺 奥の院」について  
お大師さま(弘法大師)は、宝亀5年(774)6月15日讃岐の国の屏風ヶ浦(香川県善通寺市)でお生まれになりました。幼い頃より「神童」と呼ばれ、18歳の時には当時の最高の学問所(大学)に合格され、まさにエリート的な存在でした。  
しかし、最高の学問でも人々を救うことはできないと覚えられ、学問所を中退され出家されます。そして、最高の覚りを得るために遣唐使として中国へ渡られ修行を続け「密教」を学ばれました。2年間の留学後、お大師さまは帰国し、嵯峨天皇より密教を広めるための許しを得られ、国中に広められました。これが現在の「真言宗」です。  
また、お大師さまは真言宗だけを広められたのではなく、土木工事や筆、鉱物学等も広められました。有名な「いろは歌」(いろはにほへとちりぬるを・・・)も、お大師さまが人々の為に分かりやすく仏教を説かれた歌です。  
光明寺は、お大師さまの教えを色々な形で受け継いだお寺です。年中行事はもちろんのこと、いつでもお話をお聞きにお詣りくださいませ。 
●岩瀧寺 / 兵庫県丹波市氷上町香良  
弘法大師 弘仁年間(809〜823) 開創  
五台山(655m) 「中国の五台山に似ている山」  
市島町との境界にあるが、氷上町の岩滝寺から登る。雨で濡れた自然石の石段を登ると、岩の割れ目に納められた浅山不動に着く。隣の小さい割れ目にも行者大菩薩が祀られている。ここから山道となる。水量を増した一筋の独鈷の滝を巻いて急登し、不二の滝への分岐をやり過ごし、沢沿いの杉林の道を登り詰めると尾根に着く。ヒノキの間伐が進められている尾根道も急登である。右に山腹道の分岐があるが、尾根道を直登し、雨とガスの山頂に着く。南に開けるがガスで展望はない。三角点がある。ふるさと兵庫50山の表示と新しい文殊菩薩像、ベンチがある。  
五台山の北に親不知山があり、南に鷹取山、愛宕山、五大山と並ぶ。総称して唐の五台山に似ているとして、そう呼ばれていたものか。東西の山麓の谷間に白毫寺や安養寺、岩滝寺等があるが、白毫寺を中心に峰入修行が行われていたものだろう。  
同じ道を下り、独鈷の滝の浅山不動に着く。  
洞窟の中に新しいお堂があり、不動明王が祀られている。独鈷の滝の守護神である。  
小さい説明板がある。剣客はこの様な滝で修行することもあり、浅山一伝斎が修行し悟りを開いた根元地である。浅山一伝流は北は仙台藩から南は薩摩藩まで20余藩で伝承され、今も警視庁流に受け継がれている、と説明してある。  
弘法大師が唐から投げた独鈷が落ちたところに寺を建てたという伝承は各地に多い。土佐の独鈷山青龍寺がそうで、そこにも不動明王が祀られていた。この滝は独鈷が落ちたのでなく、独鈷のように細く鋭く落ちるのでそう呼ばれるようだ。  
岩滝寺(真言宗)は弘法大師開基と伝えるが、嵯峨天皇の勅願寺であった。天正年間兵火で焼失したが、領主別所氏が再興した。 
岩瀧寺2 
開創は弘仁年間(809〜823)、嵯峨天皇が住吉明神の夢のお告げに依り、弘法大師に命じて、七堂伽藍を建てたと伝えられています。本尊不動明王は弘法大師の御作で、丈五尺六寸、岩窟内に祀られています。洞の高さ10m、幅5m、奥行7mで、北方を向き、独鈷の滝と対峙しております。  
寺の歴史に関しては、天正時代の兵火により、一山悉く焼失し、詳しい資料は寺には殆ど残されていません。ただ、寺がある香良という村に残っている資料や語り伝えにより、歴史の一端を知る事ができます。「香良の史談会」(文責臼井敏夫)による「物語り村の歴史 故郷のあゆみ 香良」という資料がありますので、その中から岩瀧寺にかかわる部分を引用(文字茶色)いたします。  
浅山不動尊護摩堂の謎  
岩瀧寺の奥の院。本尊不動明王の安置されている洞窟の前に、護摩祈願をする護摩堂がある。現在の建物は二間半に三間半の瓦葺き、頑丈な建物である。  
岩瀧寺の古文書によれば、安政五(1858)年に改築された建物であると云う。丹波史年表には、慶長十九(1614)年「北由良領主・別所吉治、息女の眼病にて香良不動尊に祈り護摩堂を建つ」とある。  
又、明和四(1767)年。時の香良村庄屋銀十郎が京都の寺社奉行に提出したと思われる、「寺社改控」と云う文書に、不動尊の護摩堂は、二間に二間半、草葺きとなっている。  
寛政五(1793)年編集の丹波志によれば、護摩堂は、二間の二間半・銅瓦葺きと記されている。  
明和四年の時点で草葺きであった屋根は、丹波志が編集される寛政五年までの、二十数年の間に銅瓦葺きになったのである。そして、安政五年。二間半の三間半と広く建替えられた時瓦葺きに変わっている。銅瓦はどこへ行ったのであろうか?(後略)  
浅山不動尊・奥之院石段の由来  
不動尊の祀られている洞窟から、独鈷の滝までの間に、高い石段が敷積まれている。  
天明五年九月と刻まれた石柱があるので天明年間に完工したものである。古老の言い伝えによると、この石段の石材は、香良の奥山三の谷から切り出されたものであるといわれている。この交通不便な時代、この石段の石が遠い他地区から運ばれたものとは、思われないので、この伝説も実説だと思われれる。  
三の谷は、香良では一番奥深い谷である。この当時は、まだ雌滝の上を通る、牛の首の林道ができていなかった頃のことである。不動山から三の谷まで行くのには、美和坂の途中から牛の首の難所を越えなければ、三の谷へ行く事ができなかった。そのころは薪でも山桑でも、皆、この難所を歩いて運んだものである。  
しかし、石段に使われている石は、一人で背負える程に加工されているものもあるが如何に、昔の人の力が強かったといっても、到底二人掛かりでも動かせないと思えるものも多い。だが現実に石段は積まれている。三の谷で切り出し、加工した石材を信仰心一途に、各々の力に応じ、細い山道を上り下りしながら運んだものであろう。  
今の人は、この話をしても信じないかも知れないが、誰か試しに、三の谷の石片を石段の石と照合してみれば、納得のいくこと間違いなしである。  
また、この石段とは別に、不動尊の護摩堂の敷地に積まれている、石垣の石はどこから持って来たのであろうか?。 香良の岩山の石質は脆くて、石材にはならないと言われている。事実すぐ割れる。護摩堂に城のように積まれている石垣。勿論、現地の石も使ってあるであろうが、近くで大量に切り出した跡も見当たらない。  
これも、古老の伝説では、香良の通称、観音奥と呼ばれる、滝なめら、狸岩という奥山に石切場が残っている。ここから、石を運んで石垣が積まれたとの話がある。  
これも又、難事業であったろう。観音奥から不動さんまでは足場の悪い、谷川のような道が七、800mもあって、今の常識では信じ兼ねることではあるが、立派な石垣が積まれている現実を見る時。これを信じない訳にはいかない。信仰の力は偉大だ。(後略)  
一伝流不動剣と岩瀧寺  
県道・香良口に「浅山一伝流兵法根元地」と刻んだ石碑が建っている。氷上郡市島勅使の旧家・稲上氏の建立したものである。  兵法根元之地」が何を意味するものかはっきりしない。この地に一伝斎の道場か住居があったのか、或は彼が籠った不動滝への入口表示であるのか判断に苦しむ。しかし、何れにしろ浅山一伝斎がこの地に関係のあることは、いろいろの証拠によって確かめる事ができる。浅山一伝斎が有名であるのは、寛永の御前試合に於いて、当時の名人上手の剣豪として出場している為である。出場者は二十二名。荒木又右ェ門・宮本八五郎・大久保彦左ェ門の名もみえる。この上覧試合は寛永十一年(1634)年九月二十一日。吹上上覧所で、三代将軍家光。出席の下で行われたと伝えられる。  
浅山一伝斎は、井場泉水軒と云う下谷御徒士町の住人と戦って負けている。ところが奇怪なのは、この寛永御前試合は実は偽物だと云う事だ。「徳川実記」によると、同じ日に三代将軍は、日光へ参詣している。将軍のいない御前試合などと云うことは考えられない。  
それに出場者中、荒木又右ェ門は義弟・渡辺数馬を助けて、敵の河合又五郎を探しに関西を旅行中であったと云うのだから、この試合の信憑性は益々薄くなる。この話はおそらく講談から出たものであろう。それとしても浅山一伝斎が二十二名の中に入っている事は名のある剣客であった証拠にはなる。一伝斎が実在したのは確かであるようだ。  
一伝斎は上州碓氷の郷士。或は伊賀出身だとも云われているが定かでない。  
東京の徳源院墓地に「帰雲院殿別峰一伝居士」と墓があって、これが一伝斎の墓である。  
寛政九年丁己閏七月六日死亡と刻まれている。寛政は十一代将軍家斉の時代の年号だから、寛永年間とは百年以上ずれがある。従って、一伝斎と云う名は代々受け継がれていて、丹波に来たのはその中の一人だと云う解釈も成り立つ。  
浅山一伝流と云うのは、柔剣・捕手棒・手裏剣などを総合したもので、いわば現在の逮捕術のようなものであるから、平和時代に適した武術であり、全国的に広く普及した。  
門下は三千人とも五千人とも云われるが、著名な門人には、生涯一度も喧嘩をしなかったと云う上州の侠客・大前田英五郎がいる。一伝斎は遠い丹波にどうして来たのであろう、臼井芳郎氏は「香良不動山岩瀧寺の古い什器には、浅山姓を記したものがある。三代前の住職が浅山姓であったから、三五郎一伝斎は親戚か友人かの縁でここへ来て、幽遂厳粛な風致を好み、修行の場としたのであろう」と述べておられるが、間違いなかろう。(後略)
佐渡に残る岩瀧寺の歴史  
丹波志によれば、岩瀧寺の古記が佐渡にありと記載されている。  
最近までその古記がどんなものであるか、知ることが出来なかった。偶々、昭和五十七年、佐渡に於いて「佐渡流人展」が開かれることになり、佐渡の郷土史研究の方から、氷上郡教育委員会を通じて問合わせがあったことから、真相が解ってきたのである。  
寛文三年。丹波氷上郡の真言宗・岩瀧寺住職、賢清と云う人が、直訴の罪によって佐渡へ流罪となり、元禄八年・御赦免になった後も、引続き佐渡在住を許され、医業を職として土着し、名も北条道益と改め、子孫代々医者を継ぎ、現在も地方の名家として繁栄していると云うのである。  
「佐渡流人展」の資料として岩瀧寺の写真等が欲しいとの要求があった。それと引換えに、佐渡の郷土誌「近代佐渡の流人」(昭和四十四年発行)と東京雄山閣発行の「佐渡流人史」の内の北条道益に関する記事のコピーが送付されてきた。  
全文は相当長いので、一部を要約して載せる。・・コピーなどは、岩瀧寺にある・・  医師 北条道益 (直訴)  
漢方医として、自活した流人がある。北条道益である。彼が赦免になると国仲へ疎開して在地の地主になった。今も子孫が続いている珍しい例である。道益の科書は次のように書かれている。  
 丹波国氷上郡 真言宗 岩瀧寺 寛文四亥八月晦日御赦免  
 此の岩瀧寺 二十四年以前子年(慶安元年)より江戸へ相詰  
 候て寺領の儀訴訟仕罷*其の上九年以前寛文三卯四月 下野  
 国小山と申所にて直訴申上候 科に 流罪 「佐渡風土記」  
この岩瀧寺が北条道益であった。丹波氷上郡は、兵庫県の氷上である。岩瀧寺の住職であったに違いない。寺領の事で、何か容易ならぬことが起こり、慶安元年(1648)江戸へ出て寺社奉行に訴え裁判を起こしている。しかしその後、寛文三年、下野国(栃木県)小山と云う所で直訴したとあるから、寺領の問題は奉行段階で決着がつかなかったとみえる。  
この直訴が遠島の原因となった。(中略)  
岩瀧寺の方には、これらの史実を裏付ける資料は皆無であるが、賢清上人を直訴にまで決意させた、寺領の争点は果たして何であっただろうか。今は推量するより致し方ないのであるが、丹波志等の伝える如く、弘法大師の創建で、嵯峨天皇の勅願所であり、また、瀧寺千軒の盟主であり、鎌倉幕府源頼朝の禁札の事と云い、戦国騒乱で消滅するまでの、岩瀧寺には、寺領としての既得権が相当あったと想像される。騒乱後、岩瀧寺の再興に努力し、建物の再建と寺領の復権に励んだのであるが、中央政権の交替で支配者も変わり、種々の悶着が起きたことは想像出来る。  
賢清上人はこれらの解決に東奔西走するも、志を達する事を得ず、失意の中にも宗教人としての余生を佐渡で全うし、九十六才の大往生を遂げたのである。  
現在の岩瀧寺の墓所には、寛文以前の墓石は一基も見当たらない。宝永年代の墓石が中興の祖として祭られ、以後歴代の墓石が並んでいる。(後略)(以上香良誌より)  
●修法が原 / 神戸市北区  
弘法大師 唐に渡る前 修行  
菊水山(459m)「楠木正成の菊水の家紋から名付けられた」  
桜が咲いている。ここから再度山はすぐであると歩き出したら、登山口の大竜寺は一度下ることになるので、菊水山を往復してからと後回しにする。  
六甲全山縦走路に入る。緩く上り下りして鍋蓋山に着く。ここから一旦下り、天王吊橋に向かうが、遙か下に橋が見える。高度差200mはあろうか、これを帰り再び下りそして登らなければならないので愕然とする。  
天王谷の峠は掘り割りのように国道428 が越えている。ここに吊橋が架かっている。道路工事中の騒音がどこまでも追いかけてくる。歩き出して10人ばかりの登山者にすれ違って、菊水山に着く。  
三角点、菊水山の石碑、四阿、無線中継塔がある。  
広い山頂は大きく開けて、15人ばかりの人が神戸の町を見下ろしている。神戸市街地やポートアイランドが見える。神戸の夜景展望台である。  
この山の信仰についてはよく分からないが、強いて上げれば次のようなものがある。  
天王吊橋のある谷を天王谷という。大昔下方に湖水があり竜が棲んでいた。牛頭天王(スサノオ)が湖を干して竜を退治した。谷の入り口に祇園社があり牛頭天王を祀ったので、この谷を天王谷というようになった。  
山麓に「湊川の合戦場」がある。建武の新政に反旗をひるがえし、九州に落ちていた足利尊氏、直義軍が東上し、延元元年(1336)それを迎え撃つ新田義貞、楠木正成軍が激突した決戦場で、敗れた正成一族70余名が自害した。  
この山は昔は大角木(おおつぬき)、あるいは烏山などと呼ばれていたようだが、昭和10年(1935)、楠木正成没後 600年記念に神戸市は、中腹に正成の家紋である「菊水」の形に松を植えた。以来菊水山と呼ばれるようになったという。山頂の「菊水山」の碑もその時立てられた。  
昭和10年といえば私の生まれた年で、日本は第二次世界大戦に向かい、風雲急になりつつある頃であった。  
そういう時節に湊川の合戦は神戸市民、いや日本人に良かれ悪しかれインパクトを与えた。  
第二次大戦では「菊水作戦」、あるいは特攻隊は「菊水隊」、出撃する軍艦は鑑側に菊水マーク、など「菊水」という言葉が盛んに使われたという。  
そういう歴史とは別に、「菊水」は本来、菊の咲く谷間の水のことで、中国ではこれを飲めば不老長寿になる、と信じられた。私は、山に登れば谷間の水は山の神の「おしっこ」と思って飲んでいる。これからは「菊水」と思って飲もう。しかしすぐ酒を思い出して良くないか。  
同じ道をやや疲れを覚えながら引き返す。天王吊橋に近づくと再び工事の騒音に夢から覚める。吊橋から鍋蓋山への登りで、とうとう岩に腰を下ろし休憩する。どうにか再度山公園と、再度山大竜寺の分岐に着く。  
再度山(470m 神戸市北区)へ登るとすればこれを大竜寺に下る。大竜寺へ下りそして再度山へ登り、帰り再び下り登りの繰り返しをしなければいけない。今菊水山に再度の下り登りをしてきたばかり、また再度の下り登りの元気がなく、再度山は割愛し、再度山公園に下る。  
再度山公園駐車場の辺りは修法が原で、弘法大師は唐に渡る前ここで修行したところ。この谷に棲んでいた竜(大竜寺の本尊)が大師の往復の航海を守護し、大師は無事帰朝できたので、お礼に再びこの山に登り修法された。ここから再度山と呼ばれた。  
公園はサクラ、ミツバツツジなどが花盛り。発泡酒を飲んでしばし昼寝をする。 
●摩耶天上寺 / 神戸市灘区  
弘法大師 摩耶夫人(釈迦の生母)像を持ち帰り安置  
摩耶山(702m)「釈迦の生母摩耶夫人の像を安置した」  
六甲スカイライン(県道16)で摩耶別山の国民宿舎摩耶ホテル駐車場に着く。隣に摩耶天上寺(真言宗)がある。元は中腹にあったが、昭和51年失火で焼失し、昭和60年摩耶別山に金堂を建て、後に全面移転した。摩耶夫人堂は新築(平成13〜14年)されたばかりである。寄付者名に数百万円の有名企業がずらりと並ぶ。  
縁起によれば、本尊は釈迦42才のときの作とされる十一面観音像。大化2年(646) インド僧法道が授かって来山し開創した。弘法大師は梁の武帝が作った摩耶夫人(釈迦の生母)像を持ち帰りここに安置した。以来摩耶山と呼ばれるようになった。  
お釈迦さんの産湯と同じ水が湧くという「産湯の井」は安産祈願で女性の信仰を集めた。観音星下り会式の8月9日の午前0時に登り祈願すれば、4万6千回お詣りしたと同じ功徳があるという。  
4万6千回分の功徳の幸せとはどのような幸せであろうか。  
天上寺の元の場所は中腹に残り、刀利天上寺跡として史跡公園になっている。石仏、五輪塔などが多数残されているという。  
天上寺は要害の地にあり、中世はこの地の豪族の城郭としても利用され、赤松則村、則祐親子は鎌倉幕府の六波羅勢に対抗していた。  
天上寺から歩いて遊園地を抜けて星が掬えるほど高い掬星台にくる。広い園地で神戸市街地への展望台である。ロープウエー山上駅があり、多くの登山者がいる。  
三角点のある山頂は、ここからやや分かり難い山道を辿ると鳥居が見え、天狗岩大神に着く。裏に三角点がある。  
脇に立てられた説明版がある。解読すれば、この岩は神の降臨された磐座である。やがて修験者や山伏が六甲の峰を歩き回るようになって、村人は彼らを天狗と思い、天狗道、天狗岩、天狗滝などの名前を付けた。この岩は広さ8畳もあり、摩耶山の僧が天狗を封じ込め祀った岩である。  
天狗を封じ込めたということは、黒衣を着、法螺貝を吹きながら山を徘徊した山伏や修験者は天狗であり、その天狗への恐怖感が現れている。封じ込められた天狗はおとなしくなり、今は修験者の信仰を集めている。  
隣に猿田彦大神の丸い岩がある。杉林の中で展望はなく、ここは訪れる人影もなく静かである。 
●六甲山 鷲林寺 / 兵庫県西宮市鷲林寺町  
弘法大師 天長10年(833) 開創  
当山は、天長10年(833)人皇53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願(ちょくがん)にて弘法大師(空海)により開かれました。お大師さまは観音霊場(かんのんれいじょう)を建立(こんりゅう)しようと地を求めて広田神社(西宮市広田町)で夜を通して拝んでおられました。すると化人(けにん)が現れて「ここを去って西山に入るべし。汝の所期をみたすであろう」と告げられました。お大師さまは早朝、西の方角にある山に向かいました。すると途中で大鷲(おおわし)が現れ、口から火を吹きお大師さまの入山を妨げました。その大鷲は「ソランジン」という悪い神で、このあたりの山に住む支配者だったのです。お大師さまはかたわら木を切り、わき出る清水をそそぎ加持(かじ)をして大鷲を桜の霊木に封じ込めました。再び化人が現れて「観音示現(かんのんじげん)の地、なんじの求める霊域はこの処なり。なんじ、しばらく礼拝(らいはい)せよ」と告げられました。お大師さまはご自分の体を地に投じて礼拝をすると、不思議にも観音さまが現れました。  
そのお姿を写して大鷲を封じ込めた桜の霊木にて十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)を刻み寺号を鷲林寺(じゅうりんじ)と名付けられました。その後八幡高良(はちまんこうら)などの社を再建し新たに白山権現(はくさんごんげん)、栂尾明神(とがのおみょうじん)などの神々を祭り、さらに八面臂(はちめんひ)の荒神(こうじん)をまつられました。先の十一面観世音菩薩を本尊として、脇立に薬師如来(やくしにょらい)・鷲不動明王(わしふどうみょうおう)・毘沙門天(びしゃもんてん)をおまつりしました。永い間貴族寺院として大変栄え一時は寺領70町歩・塔頭(たっちゅう)76坊の大寺院に成長しました。しかし、戦国時代に入り寺領はとられてしまい、天正6年(1578)11月に荒木村重(あらきむらしげ)の乱が起こり、それを期に翌7年織田信長(おだのぶなが)軍のために諸堂塔はすべて焼き滅ぼされてしまいました。信長軍の兵火から逃れるために有馬温泉まで逃げ延びた鷲林寺の僧侶が温泉宿を経営したという伝説も残されています  
本尊をはじめとする仏像は瓶(かめ)に入れ地中に埋めて隠されていたため兵火から逃れることができました。後に掘り出されて小堂宇(しょうどうう 小さなお堂)を建立し観音堂としましたが、幾多の山津波や火災にあい住職がいない時代が長く続きました。昭和の時代に入ってようやく復興され始め現在に至っております。  
また、時期は不詳ですが、武田信玄公(たけだしんげんこう)が僧侶になるため得度(とくど)をし、その頭髪を埋めたという伝説がある七重の石塔があり、現在西宮市の文化財に指定されています。  
鷲林寺の開基伝説  
開基伝説としては、大化の改新の頃、インドから来日した法道仙人(ほうどうせんにん・・・伝説上の人物)が開いたとも、天長5年(828)淳和天皇(じゅんなてんのう)の后(きさき)の如意尼(にょいに・・・その名は正史に実在が確認出来ないが、実在の皇后正子内親王をモデルにしたともいわれる)が弘法大師の助力で神呪寺(かんのうじ)を建立した際、開いたともいうが詳細は不明である。(西宮市史T)  
その他いろいろな言い伝えがあるが最もポピュラーなのは、天長10年(833)弘法大師の開基説である。それは、淳和天皇(786〜840)の命を受け、霊場を物色していた弘法大師が広田神社に泊まっていたとき、夢枕に仙人が現れ  
「西の山に入れ」  
との指示を受けた。西の山に向かったが、途中で大鷲が現れ、火炎を吹き邪魔をした。大師は木の枝を切り、湧き出る清水にひたして加持をして大鷲を追い払った。桜の霊木で「十一面観音」の像を彫り本尊とし、大鷲を封じ込めた「鷲不動明王」を伽藍守護神とし、寺院を建立して「鷲林寺」と名付けた。その後、大いに栄え、盛時には寺領が鳴尾方面(現在の西宮市鳴尾町近辺)にまで及んだ。(摂陽群談伽藍開基説) 
鷲林寺2  
観音山(526m)「白山大権現の石祠がある」  
六甲スカイラインで西宮市に入る。再び登って鷲林寺町から西に入り鷲林寺に着く。東に入れば甲山の神呪(かんのう)寺で、両寺とも六甲山を背景とする山岳寺院であった。  
正面石段の手前から右に沢を渡り、若宮神社から登山道となる。地形図の沢沿いの道でなく、花崗岩の尾根道で急登する。鉄塔のところで下ってくる登山者に会う。地元の方で、鷲林寺一丁目から登る道が鉄塔の先で合流するといわれる。尾根道が緩くなると岩の山頂に着く。風化した丸い岩の山頂で、東から南の西宮方面に展望がある。溜池とゴルフ場が広がる。三角点も祠もない。  
鷲林寺(真言宗)はこの地方に多い法道開基説の他に、淳和天皇妃の真井御前如意尼が甲山神呪寺とともに開いた。別に淳和天皇の勅願で弘法大師が開いたなどの説がある。  
弘法大師が入山するとき大鷲が現れ妨害したが、桜の霊木に封じ込めた、ここから鷲林寺と名付けられた。中世は隆盛し70余坊があったが、天正7年(1579)荒木村重を攻めた織田信長により焼失した。  
本尊十一面観音。大師堂がある。境内に神仏混淆の頃の神祠や石碑がある。八臂荒神、当山地神、松尾明神、六甲大神、青龍大神などに混じって白山大権現の石碑がある。  
西宮の広田神社の末社の六甲山神社は「むこやま」と読むが、この神社の祭神は白山菊理姫であり、慶長以前(1600年頃)まで六甲山山頂に白山権現石宝殿として祀られていたという。六甲山にも白山権現が降臨していたのである。六甲の峰々を跋扈していた天狗は白山天狗であったということであろう。  
●神呪寺 / 兵庫県西宮市  
弘法大師 ゆかりの寺  
甲山(309m)「神功皇后が山頂に兜を埋めた」  
ほぼ水平に東に進み、神呪寺(かんのうじ)駐車場に着く。甲山は兜のように丸く盛り上がっているが、周りは台地状に開ける。墓地がたくさん見られるので、都会の檀家寺として隆盛しているようで、境内は整備されている。本堂右手から登山道があり、擬木の階段が山頂まで続く。広く平たい山頂に着く。  
三角点がある。そこに説明版があり、六甲山系は花崗岩の山であるが、甲山だけ安山岩で、溶岩は粘りが少なく広く拡がった。この安山岩は大阪城に使用された。  
祠はないが平和塔(昭和31年)がある。神功皇后が平和を祈願して金の兜を埋めたという伝承がある。昭和49年、この脇から銅戈が発掘され、甲山山頂遺跡と名付けられた。銅戈は祭祀のため埋めたものとされる。伝承のように金の兜も一緒に埋められているのでないか。  
神呪寺(かんのうじ)(真言宗)は如意輪観音(国重)を本尊とする。真井御前が弘法大師により得度して如意尼となり、建立したと伝える。  
一方別説では、淳和天皇は皇后の霊夢で橘氏公等を派遣して建立したという説もある。  
甲山大師として知られる。七堂伽藍が甲山東にあったが、天正年間信長の兵火で焼失した。宝暦5年(1755)現在の位置に再建された。 
●法宝寺 / 兵庫県和田山町  
弘法大師 巡錫  
室尾山(630m)「昔法宝寺が山中にあった」  
私は出雲の生まれだから、大阪京都へ出るときは、SLの山陰本線に何度も乗ったから、八鹿、養父、和田山と特徴のある駅名が懐かしい。和田山町の室尾森林公園キャンプ場に着く。雨なのでよけいそう感ずるのか、やや寂しげな素朴なキャンプ場である。カッパの上下を着て、標識にしたがって登山道に入る。  
すぐにデジカメを忘れたことに気が付くが、そのまま登る。広く緩い谷状の杉林だが、棚田のように石を積んだ箇所をいくつか越える。急登すれば尾根道でヒノキ林となり、緩く登って山頂である。標識と三角点があるが、祠はない。ヒノキの林で、雨は止むが深いガスで展望はない。  
鹿が横切るのを見る。さすがに但馬の深い山である。昨日の粟鹿山では鹿を見なかったが、ここでは出迎えてくれる。  
巣箱が多数掛けてあるが、鳥が利用しているようには見えない。このところ山でうぐいすの声を全く聞かない。風向きで下から拡声器の声が聞こえる。  
キャンプ場に帰ると、ここに大きな作業体験施設がある。「みんなで作ろう、ほうほうじ」と看板に書いてある。小さい五百羅漢が窓際に並んでいるので、陶芸小屋かとよく見れば、断熱煉瓦を削って作ったものである。断熱煉瓦は多孔質で軽く柔らかいものだから、子供でも簡単に削れる。  
実は昨日法宝寺に行って来た。  
法宝寺は天平20年(748) 行基が開基し、弘法大師が巡錫し本尊薬師如来を開眼した。室尾別宮(石清水八幡宮の別宮)の神宮寺として隆盛した。  
かって、法宝寺は室尾山中腹にあり、何度かの災難に遭い、再建を繰り返した。昭和11年室尾山の南山麓に移った。四国八十八ヶ所石仏がある。今は檀家寺として、地域の寺として盛況のようで、折から大師講が営まれていた。 
●甲山 神呪寺 / 兵庫県西宮市甲山町  
真井御前 天長8年(831) 開基 弘法大師に帰依  
(かぶとやま かんのうじ) 淳和天皇の妃、真井御前(まないごぜん)は弘法大師に帰依し仏門に入り如意尼と改名して、天長8年(831)に本堂を竣工し、神呪寺を開基したと伝えられている。如意尼は弘法大師から真言秘法を授けられ、承和2年(835)33歳で亡くなるまで、仏道に帰依し精進したという。その後、寺は栄枯盛衰を繰り返したようであり、最も栄えた頃の境内は現在の境内の十倍以上あったといわれている。この寺は弘法大師に縁が深いため、正式名称の「神呪寺」よりも、通称名の「甲山大師」の方がよく使われており、有名である。 
●松泰山 東光寺 / 兵庫県西宮市門戸西町  
弘法大師 天長6年(829) 開基  
「門戸厄神」の愛称で人々の崇敬を集めるこの寺院の正式名称は、松泰山東光寺。嵯峨天皇の勅願によって829(天長6)年に弘法大師空海が開基されたと伝えられますが、御本尊よりも厄神信仰を集める厄神明王のほうがよく知られています。おそらく最初に厄神明王像を祀る厄神堂が建てられ、その地を真言宗寺院として空海が整備したために、真言宗の御本尊である薬師如来像を納める薬師堂は主役の位置から一歩引いたところに建てられているのではないかと考えられます。 
 
丹生山 / 神戸市北区  
丹生山(515m)「この山で丹生が採れたので名付けられた」  
山頂にある丹生神社には表参道があるが、市街地を走ったり、駐車場を探したりで時間がかかるから、双坂池から帝釈山を経て尾根伝いに往復することにする。国道428 の岩谷峠から標識で山道に入る。尾根道は思いの外アップダウンがあり、急登して帝釈山である。  
帝釈山は南に開け祠がある。一人の老登山者が休んでいる。  
ここからの尾根道は丹生山を見ながら歩ける。シビレ山分岐を過ぎれば神社境内で、石段を登り山頂の丹生神社に着く。木の間から神戸方面が望める。  
丹生山は「たんじょうさん」と読むようであるが、丹生は普通は「にう」と読む。丹生は丹、辰砂(水銀)である。  
丹生神社の祭神は丹生都比売命で「にうつひめ」である。丹生山を「にうさん」では語呂が悪いので「たんじょうさんと」なったものか。  
神功皇后が三韓征討の戦勝を念ずると、ある神が「六甲の北の山から丹を採って船、武器、衣類などに塗れば勝てる」と告げたので、皇后が丹を採った山が丹生山と呼ばれた。播磨風土記にこう書いてあるという。  
丹生山の隣に「シビレ山」という面白い名の山がある。修験者や山伏は丹を使い不老長寿の妙薬を調合したが、一方毒にもなった。丹の鉱毒、水銀中毒でシビレることもあったのだろう、などと推理する。  
廃寺となった明要寺縁起によれば、欽明天皇の頃(6世紀)百済王子童男行者が渡来し、赤石(明石)の浦に漂着した。その時老翁が現れ、持っていた独鈷を投げたので行者が追いかけたら、丹生山の桜樹にかかっていた。行者はここに伽藍を建てたのが明要寺の始まりである。明要寺の守護神に丹生神社を祀っていた。  
福原に遷都した平清盛は、福原の鎮護神として日吉山王権現を合祀したので、山王権現と呼ばれた。参道には清盛が寄進した町石が残っているという。  
戦国時代、信長に反抗した三木城の別所長治に組みしたので、秀吉に焼き払われ、東に逃れた寺僧や、稚児数千人が多数殺された。その山が先に登った稚児が墓山であり、村人が手向ける花を折ったのが花折山であった。  
明要寺は1坊だけ復興したが、明治の廃仏毀釈で寺は廃寺となり、神社だけ残り、丹生神社に戻った。  
「太陽と緑の道」を引き返し、帝釈山に戻る。登りに出会った老人は居られないので、誰にも会うことなく岩谷峠に帰着する。 
 
■中国
岡山県

 

●白石島 (岡山県笠岡市) / 弘法大師空海ゆかりの開龍寺や白石島の鎧岩(天然記念物)などがある。  
●医王山 木山寺 / 岡山県真庭市木山  
弘法大師 弘仁6年(815) 開山  
御本尊 十一面観自在菩薩 開山・創建 弘法大師空海・弘仁6年(815)  
当山は標高430mの山上にあり、老杉古柏の鬱蒼とした静寂な境内と、そして周辺一帯は郷土自然保護地域に指定され、誠に自然環境の美しい霊峰につつまれている。  
近隣には後醍醐天皇ゆかりの古桜醍醐桜があり、神庭の滝・鍾乳洞そして国の重要文化財である弘法大師作の不動明王を祀る勇山寺等々名所の多い地域である。  
当山の御本堂、医王の霊薬をもって全ゆる衆生の病気や迷いを救われる薬師如来である。鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀る。このため本堂正面の寺額に牛頭天王と善覚稲荷の二神が刻まれている。参詣の人々は他の霊場寺院と異なるので不審に感ぜられる。これは往古の神仏習合の伝統が今日もなお継承されているからである。  
牛頭天王は本地の薬師如来が化身したお姿であり、善覚稲荷は本地十一面観音の化身である。この十一面観音を本尊として中国観音霊場になっている。
木山寺2  
木山寺の創建は、遠く弘仁6年(815)の初冬、高祖弘法大師が美作の地を訪れた際、木樵姿の翁がこの霊山に大師を導き、仏堂建立にふさわしい地であると説きました。この翁こそ本尊薬師如来の仮の姿であり、大師はこの不思議な因縁をたいそう喜び、ここに寺を建立、これが木山寺の始まりであると伝えられています。 そして、仁寿年間(9世紀中頃)には鎮護国家の勅願寺となりました。その後は、赤松義則をはじめ、毛利・尼子らの戦国武将や、森・三浦など諸大名の尊信を集め、現在でも中国各地に多くの信者を有する名刹として知られています。  
木山寺と木山神社 / 木山寺のほど近くにある木山神社…、この2つは、もとは神仏習合で、木山宮として、多くの人々の信仰を集めてきましたが、明治時代の神仏分離政策によって木山寺、木山神社に別れたという歴史があります。  
木山寺の神仏 / 木山寺のご本尊は、医王の霊薬をもってあらゆる衆生の病気や迷いを救われる薬師如来。鎮守神の木山牛頭天王は薬師如来の化身で、除災招福の大願を成就されています。 善覺稲荷大明神は、ご本地十一面観音の化身で、正徳年間(1714)京都伏見稲荷より勧請された明神様です。当時の僧が善覚という名僧で、その徳を称えて善覺稲荷と呼ぶようになりました。 木山寺は、商売繁栄、五穀豊穣、諸願成就、交通安全の願いを叶えられ、今も広く中国各地で崇敬帰依されています。 
木山寺3 
創建は弘仁6年(815)、高祖弘法大師がこの地を訪ねた際、木樵姿の翁がこの霊地に大師を導き、仏堂建立にふさわし地であると説きました。この翁こそ本尊薬師如来の化身であり、大師はここに寺を建立したのが木山寺の始まりと伝えられています。本堂は医王の霊薬をもって全ゆる衆生の病気や迷いを救われる薬師如来です。鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀り、このため本堂正面の寺額に「牛頭天王」と「善覚稲荷」の二神が刻まれています。これは往古の神仏習合が今日もなお継承されています。 
●補陀洛山感神院 衹園寺 / 岡山県高梁市巨瀬町  
弘法大師 弘仁3年(812) 開山  
弘法大師の開いた古刹。牛頭天王(ごずてんのう)をまつる祇園宮があり、神仏混淆(しんぶつこんこう)。推定樹齢約1,000〜1,200年、根まわり周囲11.4mの天狗大杉が有名です。
補陀洛山感神院 衹園寺2  
真言宗善通寺派別格本山祇園寺は,標高500m,境内の広さは4500平方mで,弘仁3年(812)夏,弘法大師が自らこの山頂に達し,寺門の基礎を固められた。ここには石造宝塔(鎌倉時代)天狗杉(大師お手植)千手観音(藤原時代)仁王尊(伝運庭作)大師作秘伝(牛頭天王(ごずてんのう))社)など数々の文化財があり開創以来の繁栄を物語っています。毎年8月27日の夏祭りに踊られる祇園踊(ぎおんおどり)は300年の歴史をもち,貴重な無形文化財としてまた,郷土の誇りとして受け継がれています。この寺の周辺には害を封じられたマムシとヒル,大師河など弘法大師にまつわる伝説が豊富です。 
●霊雲山蓮華院 弘法寺 / 岡山県久米郡美咲町錦織  
弘法大師 天長年間 開創  
当山は淳和天皇、天長年間に弘法大師御開創の霊域と伝えられ、弘法寺と号す。万治二年、当山中興快英上人再建し、仏師を乞い本尊を剋造し胎内に大師御製作の塑仏頭面を納む。願主当村、丹沢六郎兵衛なり。以後、延享年間宥善上人当山中興。近年本堂再建現在に至る。 
●感応院 木山寺 / 岡山県落合町  
弘法大師 弘仁6年(815) 開山  
木山(414m) この山は正規にこう呼ばれているわけではない。名前はないが山頂に木山神社と木山寺があるからこう名付けておく。また後で登る木野山、木野山神社、木ノ山と同じようにキノヤマと呼ばれたのでないかと推理し、とりあえずこう名付ける。  
神社と寺が同じところにあるので山岳信仰に関係あるだろうと立ち寄ったのである。落合 町の垂水から立派な道路があり、木山神社に至る。これは昭和37年に建てた里宮で拝殿である。本殿の奥の宮は山頂にある。神社の裏の広い道を登ると丁目石があり10丁で山頂の奥の宮に着く。  
祭神は午頭天王 (スサノオノミコト) 及びその子孫である。かっては木山午頭天王とか木 山感神院と呼ばれた。善覚稲荷神社もあり、木山狐七十五匹を祀っている。奥の宮は随所に 彫刻のある中山づくりといわれる派手な様式の神社である。岡山県指定文化財である。  
隣に道を隔てて木山寺がある。こちらは随分大きな寺である。  
高野山真言宗別格本山感応院木山寺とある。美作三十八ヶ寺の三十四番である。午頭天王の化身・薬師瑠璃光如来、善覚稲荷大明神の化身・十一面観音を本尊とする。隣の神社と同じ神様だともいえる。弘仁6年弘法大師開山と伝える。由来によれば、樵姿の老人が弘法大師をこの山に導いた。樵の姿 を借りた十一面観音であったという。  
吉備高原は山頂部がなだらかで良く開発されて田畑集落がある。ここもなだらかな台地の 最高部に神社と寺がある。従って山頂はどこというものでもない。というわけで私が勝手に 木山と呼ぶとにする。  
ここから北房町と新見市の境界にあるの三尾寺に回る。三尾寺は神亀4年行基開山。如 意山三尾寺という。応仁の乱で焼失。永禄 2年丸山城主庄兵部大輔勝資が本堂を再建したの が現在の建物である。室町時代の様式を伝え貴重なもので岡山県指定文化財である。本尊は 行基作の十一面千手観音。脇仏は弘法大師作と伝える。いずれも国重文。本尊に千手観音を 祀る寺は岡山県下ではここだけという。この寺もなだらかな丘陵の山頂部にあるが、山というほどのものではない。 
●黒髪山(648m) / 岡山県新見市  
弘法大師 唐帰朝後 巡錫  
おばあさんの教えで太子堂から山道に入る。山頂へは周遊路があり四国八十八ヶ寺巡りを 模して仏像が配置されている。回遊路を一周すると八十八の仏像を拝むことが出きる。山頂 に祠はない。    
青竜寺は南に面し開けたいい場所にある。  
弘法大師が唐から帰朝し諸国巡錫の折り、この山が長安の黒髪山に似ていたので堂を建てた のが始まりと書いてある。鐘楼があり漢文で長々と説明がしてあるが読めない。岡山県は四 国香川県と向かい合っているから弘法大師のゆかりの地がたくさんある。境内にアテツマンサク(市天)の巨樹がある。マンサクの変種とされる。 
●荒戸山(762m) / 岡山県哲西町  
弘法大師 伝説  
哲西町から山越えをして哲多町に来ると直ぐに林道がある。荒戸神社に着。  
昔は鍋山と呼ばれ新生代第 3 紀初期に噴出した玄武岩で、トロイデ状の山形をなしている。中腹に柱状節理の露出が多い。 弘法滝、西の滝などの名前が付けられている。頂上付近は天然林で、ケヤキ、コ ナラ、クヌギの大木が残っている。山頂に祠はない。展望台がある。樹木が茂っているが、裸の木々の間から眼下の集落がわずかに見える。  
荒戸神社は大錦積命、天照大神他16神を祀っている。正中元年(1324)山頂に建立され、嘉吉2年火災で焼失し、文安元年(1444)現在地に再建された。麓から参道があり、石段の両側には 杉の並木がある。 
●愛宕山(371m) / 岡山県成羽町  
弘法大師 伝説  
成羽川に沿って下り、成羽町の中心から愛宕山山麓の寺院群に来る。地形図にあ る登山口に一番近い龍泉寺の急な坂道を上り詰めて境内に入る。  
手入れの行き届いた境内は高台にあり町並みが見下ろせる。背後に墓地が連なる。その墓 地に山頂の神社の入り口を示す鳥居があり、愛宕山への登山道だと分かる。荒れた道筋に観音仏があるから登山道に違いないが、やがて風倒木や枯損木が道を塞ぎ歩 けなくなる。  
龍泉寺は真言寺院で瀬戸内三十三観音霊場の一つである。境内に弘法大師像が建つ。弘法大師作と伝える木造聖観音立像を安置し、県下最古級のもので県文化財である。他に鎌倉期 の方柱碑、木造南無仏太子像 (太子 2才像) がいずれも県文化財である。  
この愛宕山の西に鶴首山があり、その山麓に成羽美術館や役場がある。 
●祇園寺 / 岡山県高梁市  
弘法大師 開基  
祇園山(550m) 県道を西に進んで横田バス停に祇園寺への道がある。立派な舗装道路を進むと大 きく南に開けた高台に来てここに祇園寺がある。  
門前は目下整備中である。医王堂の脇から薄暗い林の中の荒れた道に入る。やや広い道に 来ると秋葉山にあったと同じ形の地蔵が並ぶ。番号は50番台である。  
林は雑然とした植生で、ヒノキの植林を進めているところもある。「明治23年檜苗八百本 植樹 安田弥五郎」の石碑があるから、昔から檜が植えられていたようだ。コナラ、クリ、な どは雑木として伐採され、その辺りに放置されている。そんな林がわずかに開かれて山頂である。わずかに地蔵2体が それを示している。  
祇園寺は本尊千手観音を祀る。お寺の開基は弘法大師開基で、この山に紫雲棚びくを見て観音堂を建て千手観音を祀った。境内に は仁王門や石造宝塔などがある。また大師が植えたと伝える天狗杉は大師遠忌1100年記念に 玉垣が作られ保護されている。  
別に午頭天王を祀る祇園宮(神社)がある。後に京都祇園社が勧請され、観音堂と祇園宮の神仏混淆し、祇園寺ができたものと思われる。祇園寺は補陀落山感神院ともいわれるから、名前からして混淆している。祇園宮の祭神午頭天王はスサノオであるから、植林の神である。寺の周りの植林もその教えに従って進められている。その背後にはこれも神仏混淆した荼枳尼天大権現、西行坊大権現、虚空天王の社が建っている。仁王門の全面には棚田が広がり寺も農業を兼業していおられ、これからも歴史を刻むこと ができるようである。 
 
広島県

 

●中道山円光寺 明王院 / 広島県福山市草戸町  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
平安時代の大同2年(807)弘法大師が開かれたと伝えています。その頃は福山市の前身である草戸千軒の港町が門前町として栄えていました。本尊十一面観世音菩薩は、伝教大師一刀三礼の霊像で平安初期一木彫の秀作と言われ重要文化財であります。  
鎌倉時代、元応3年、住持頼秀の時、紀貞経の寄進により、国宝の現本堂(観音堂)が再建されました。南北朝時代、貞和4年住持頼秀の時、広く庶民の浄財により五重塔が建立されました。一文勧進の塔と呼ばれ国宝になっています。全国の中5番目の古塔です。  
江戸時代、初代藩主水野勝成は福山城を築き、裏鬼門鎮守のため、当寺を御祈願所と定め、末寺48を統べる大寺とし、五重塔、本堂、大門などの大修理を施すとともに、護摩堂、庫裡、書院、弁天堂、愛宕神社、十王堂等を建立しました。  
昭和時代、昭和34年から昭和大修理が始まり、五重塔本堂の解体修理を始め7棟の文化財修理を終え、防災設備も完了しました。  
京都嵯峨大覚寺を本山とする真言宗寺院です。 
●龍泉山 三瀧寺 / 広島県広島市西区三滝山  
弘法大師 大同4年(809) 開山  
御本尊 聖観世音菩薩・三鬼大権現 開山・創建 弘法大師・大同4年(809)  
7つの川を有する広島デルタの北西、三滝山(宗箇山)の中腹に位置する三瀧寺は、原爆によって廃墟と化し、艱難辛苦の後、近代的な都市へと再生した広島には数少ない、趣深き寺である。  
境内入口の上に立つ多宝塔は、元は和歌山県の広八幡神社にあったが、原爆死没者の慰霊のためにこの三瀧寺に移築され、毎年8月6日と秋の多宝塔 本尊・阿弥陀如来御開帳法要の折には、慰霊法要が厳修され、幾十万もの犠牲者の菩提が念じられている。  
街から程遠からぬ場所でありながら、境内は深山幽谷の風情があり、瀬音を耳にしながら苔むした参道を歩むと、日常空間から離れ、仏様の世界に身を置いたようであり、広島市民によっては安らぎの聖地、心の故郷となっている。  
曾ては多くの修行僧が滝にうたれ、岩窟で禅定に入り、幾つもの堂塔を構えていたようであり、今は緑陰の下、静けさが漂い、忘れられた何かを思い起こさせる地となっている。 
●多喜山水精寺 大聖院 / 広島県廿日市市宮島町  
弘法大師 大同元年(806) 開山  
御本尊 十一面観世音菩薩・波切不動明王 開山・創建 弘法大師・大同元年(806)  
大聖院は、真言宗御室派の大本山で、関西屈指の名刹であり、遠く鳥羽天皇勅願道場以来、近く明治18年大帝御行在までは歴代皇室との因縁深く、明治維新までは12坊の末寺を有し、厳島神社の別当寺として祭祀を行っていた厳島の総本坊です。  
仁和寺と当院は本山と末寺という結びつき以前に脇門跡、仁和寺院室、厳島御室などの称号を賜った深い関係があります。仁和寺第20世・任助法親王(厳島御室)は法流流布のため当院に御止往されましたが、仁和寺塔頭に大聖院があったため、特に当院を法流相伝の御室に充てられたものと思われます。  
また、当院の本堂は鳥羽天皇の勅願道場であり、仁和寺第5世・覚性法親王は鳥羽天皇の第5皇子です。  
治承4年3月の高倉上皇の御社参について記した土御門内大臣源通親公の「高倉院厳島御幸記」には厳島神社の別当寺といわれる所以が示されています。  
現在、厳島神社の恒例行事である玉取延年祭(旧暦7月18日)や、大晦日の鎮火祭は当院から始まったもので、神仏習合の密接な関係が伺われます。 
●弥山(みせん) / 広島県廿日市市宮島町  
弘法大師 大同元年(806) 開山  
広島県廿日市市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高535 mの山。古くからの信仰の対象になっている。山頂には2013年に建て替えられた展望台「宮島弥山展望休憩所」がある。伊藤博文は「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と絶賛した。  
周辺海域(瀬戸内海)および島全体として、瀬戸内海国立公園内に位置しており、弥山の山麓は、ユネスコの世界遺産「厳島神社」の登録区域の一部となっている。  
北側斜面には、国の天然記念物となっている「瀰山原始林」が存在し、暖温帯性針葉樹のモミと南方系高山植物ミミズバイの同居やヤグルマの群落など、特異な植物・植生の分布が見られる。登山中には鹿に出会うこともある。  
平安時代の大同元年(806)に空海(弘法大師)が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられる。ただし、空海が厳島を訪れたことを示す記録は存在しない。  
山頂付近には御山神社(みやまじんじゃ)、山頂付近から山麓にかけては大聖院の数々の堂宇、裾野には厳島神社を配し、信仰の山として古くから参拝者が絶えない。  
山名については、山の形が須弥山に似ていることからという説や、元は「御山」(おやま、みやま)と呼んでいたのが「弥山」となったという説などがある。なお、山頂にある三角点の名称は「御山」である。  
近年、山頂から北に向かって延びる尾根上の、標高270-280m地点にある岩塊群周辺から、古墳時代末-奈良時代に掛けての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座だったのではないか、と考えられている。  
また、本堂付近からは、奈良-平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などの遺物が発見され、鎌倉期に対岸から移建されたと考えられて来た「弥山水精寺」の創建年代を遡らせるもの、として注目されている。  
三鬼堂  
弘法大師空海が大同元年(806)に弥山を開基した時、三鬼大権現を勧請し祀ったのが始まりとされており、初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれています。鬼というと恐れの対象として捉えられがちですが、地元の方々から三鬼さんと親しまれており「福徳」「知恵」「降伏」の徳をそれぞれ司る三鬼神として有名です。  
弥山の七不思議  
消えずの火(きえずのひ) / 大同元年(806)、弘法大師が弥山山頂で百日間に及ぶ求聞持(ぐもんじ)の秘法を修して以来、今日まで途絶えることなく燃え続ける霊火。この火で沸かした霊水は万病に効くと言われています。また、明治34年(1901)に操業を始めた八幡製鉄所の溶鉱炉の種火や広島市の平和記念公園の「平和の灯」の元火にもなりました。  
錫杖の梅(しゃくじょうのうめ) / 弥山本堂のすぐ西の脇にある八重咲きの紅梅。弘法大師が立てかけた錫杖が根をはり、ついには梅の木になったという伝説が残っています。毎年美しい花を咲かせますが、山内に不吉な兆しがあると咲かないとも言われています。  
曼荼羅岩(まんだらいわ) / 弥山本堂の南側の下方にある畳数十畳分もの巨大な岩盤。「三世諸仏天照大神宮正八幡三所三千七百余神…」という文字や梵字が刻まれており、古来より弘法大師の筆と伝えられます。現在は立入禁止となっていますが、『厳島図会』には、この岩の上で拓本をとっている人たちの姿も描かれています。  
干満岩(かんまんいわ) / 弥山山頂から大日堂に向かって下りる西側の道を少し下ったところにある巨岩で、その名の通り、側面にあいた直径10cm程の穴に溜まった水が潮の満ち引きに合わせ上下するといわれます。さらにはその水には塩分が含まれているとか。岩穴は標高約500mの地点にあり、いまだに科学的な証明がなされていない不思議な現象です。  
龍燈の杉(りゅうとうのすぎ) / 旧正月初旬の夜になると宮島周辺の海面に現れる謎の灯りを龍燈と言い、この龍燈が最もよく見える弥山頂上の大杉は「龍燈の杉」と呼ばれていました。現在この杉は枯れてしまったものの、それらしき根株が残されています。  
拍子木の音(ひょうしぎのおと) / カチーン、カチーン。人気のない深夜、どこからともなく拍子木の音が聞こえてくると言われています。弥山に棲む天狗の仕業と語り継がれ、音が鳴っている間は家にこもっていないとたたりがあると恐れられていたそうです。  
時雨桜(しぐれざくら) / どんな晴天の日でも時雨のように露が落ち、地面は通り雨が過ぎ去ったように濡れる不思議な桜。江戸時代に発行された『厳島図会』にもその奇妙な現象が記されているとか。残念なことに現在は伐採され、切り株だけが残っています。 
弥山2 
日本三景のひとつであり世界遺産、広島県・安芸の宮島は厳島神社だけではない。この島には「奇跡の空間」とも云われ、宮島信仰の聖地「弥山」がある。宮島に行って厳島神社だけなんてもったいない。弘法大師ゆかりの地であり、宮島の神秘な力の源・パワースポット「弥山」に登ってみよう。  
弥山(みせん)は弘法大師空海が開山した由緒ある霊場である。その歴史は千二百年以上の時を重ねているという。  
歩いて登るならルートは3ルート。宮島最高峰「弥山」は535m。もちろん海抜0mからのスタートだ。どれも約1時間半から2時間を想定しておくとよい。宮島は国天然記念物の原生林でもあり、急峻で迷い込むと危険な山であることは承知しておいて欲しい。体力に自信のない方、時間に余裕のない方はロープウェイで登ってしまおう。  
厳島神社裏手からロープウェイ乗り場に向かうシャトルバスが運行されている。ロープウェイ乗り場には紅葉谷公園を歩いて行くのもいいだろう。10分程の坂道になるが自然にふれあえ気持ちがよい。  
ロープウェイは途中、榧谷(かやたに)駅で乗り換える。ここまでは乗車時間約10分の循環式で1分おきに、ここから先は乗車時間約4分の交走式となり15分おきにでている。写真は循環式のゴンドラだ。まるで空を歩いているかのような空中散歩が楽しめる。 
●俄山弘法大師 / 広島県福山市津之郷町津之郷  
弘法大師 伝説  
(にわきやまこうぼうだいし) 人里離れた山中にある温泉寺院。  
備陽六郡誌には「俄山弘法大師」と「弘法の水」についていずれも記載がないが、西備名区には津之郷村の項に「弘法水 大刀洗水 山伏塚」として「俄来越南の小谷にあり。里諺(りげん)に云、昔いつの比にやありけん、一人の山伏、女をこの山中にて斬り、其刀を此谷水に洗ふ。然るを里人見付け大勢集まり、石こつめにして小石を以て埋殺しぬ、是を山伏塚と伝ふ。其の太刀を洗いし谷水を人飲む時は腹痛す。其比空海師、此の所を通り給い、此よりを聞召、大刀洗より南の小谷の巌石に加持して霊水を出し、里人に教へ示して曰く、若、人、大刀洗の水を飲みて腹痛せは、此の水を飲むへし、必ず其の災を免るへしと、夫より此の水を弘法水という・・・」と記される。福山志料では津之郷村の項に「毒水」として「今岡永谷あたりへ超ゆく山中にあり 人飲めば腹痛す その南に又霊水あり これを飲めばその痛たちまち治すと云」とある。「弘法水」とは書いていないがこれに違いないだろう。 
●野路伊音城 弘法寺 / 広島県呉市・野呂山山頂近く  
弘法大師 (792)19歳(822)49歳と2度修業  
野路山伊音城・弘法寺は弘法大師空海が御年19歳49歳と2度にわたり登山され、岩屋で修業に専念された地として伝えられる霊山です。  
伝えられるところによると『川尻海上に漁人あり、毎夜野路山上に火光を認め、奇異の思いをなして登り見れば弘法大師の像と梵鐘の破片散乱せり』中切地区の住民が相はかりて岩窟に堂を建て弘法大師を祀り毎月21日の大使の命日に御影供養の法要をするようになり、現在に連綿として続けられおる地区の伝統祭事です。  
大師堂の堂字の起源は、明應年間(1492-1500)と思われ、村民2名が燈明供養する古例があり、その後 度々の補修・再建・改修を経て大師堂は宗教法人『弘法寺』となり、現在に至っています。  
弘法水について / この弘法水は千二百有余年に、この地において修業された弘法大師に降り注いだ雨と共に一体化し、岩盤に浸透して地下水となり、四国八十八ヵ所と同じ八十八mの地下から再びここに蘇ってきた霊水です。 
●医王寺 / 広島県福山市鞆町後地  
弘法大師 天長3年(826) 開基  
平安時代の天長3年(826)、弘法大師の開基とされる真言宗の古刹。境内からは鞆の浦の町並みと瀬戸内海の美しい島々が一望できる。 
●宇根山 至幸院 (宇根山弘法大師) / 広島県三原市久井町吉田  
弘法大師 修行  
往年弘法大師は此の山で滞在と修行されたと伝えられ、大師の足跡及び柴栗伝説は広く知られている。5.5mの巨像で長寿の里として健康と幸福を念願し多くの人が参詣に訪れ、四国連山の眺望とあわせて信仰と観光のメッカとなっている。 
●龍水山 松笠観音寺 / 広島市東区戸坂山根  
弘法大師 水伝説  
『斯くの如くにして、松笠観音寺は地方有数の霊場なるが、霊験常に著し。又境内の東南にある龍水の池と云う井戸あり。これは一千余年前、弘法大師諸国修行の際自ら之掘られたものとして、此の功徳に依り此の井水を戴けば四万四病何れを問わず、重きも一週間位にして全治すべしと伝えられる。』「口田村史」より  
「龍池」は大峯山や白山のような霊山の中にある池の名である。伝説の人物がその池に龍を封じ込たといわれる。水の神である龍の棲み家として神聖視される。弘法大師は讃岐の満濃池修築など、水にまつわる伝説を各地に多く遺しています。安芸国広島では宮島弥山、霊火堂『消えずの火』、西の高野山といわれる福王寺山の古刹、福王寺。また、名刹、蓮華寺、そしてここ松笠観音寺の地にお大師さまは自ら井戸を掘られたと伝えられます。  
松笠観音寺は、天文年間(1530)戦国時代の動乱期、中国地方の守護職として君臨した銀山城・安芸武田家の家臣であった、戸坂入道道海(へさかにゅうどう どうかい)によって開基されたといいます。しかし、銀山城は大内・毛利両氏の軍勢に攻められて落城。落城の時に後の外交僧、安國寺恵瓊(幼名・若竹丸1539〜1600)を脱出させたのが道海でした。しかし、戸坂城主であった道海も1540年自刃して果て観音堂もそれを開いた道海と運命をともに荒廃したと思われます。 
●古保利薬師(木造薬師如来) / 広島県山県郡北広島町古保利  
弘法大師 建立  
古保利薬師(こおりやくし)は9世紀始めに弘法大師によって建立された真言宗古保利山福光寺(現廃寺)と伝えられる。後に戦国大名となった吉川氏の菩提寺として栄えましたが、吉川氏がこの地を去った後は衰退し廃寺となった。  
正面の参道上の山門には、木造金剛力士立像2体(町指定文化財)があり、山門の正面に古保利薬師収蔵庫が設置されている。  
庫内には24体の仏像が安置されており、いずれもおよそ千百年を経た木造一木造りの仏像。うち本尊の薬師如来坐像が昭和17年の国宝指定を経て、日光菩薩、月光菩薩とともに昭和25年に国の重要文化財に、また他の仏像のうち千手観音立像をはじめ9体が昭和39年に国の重要文化財に指定され現在に至る。 
●品秀寺 / 広島県広島市安芸区畑賀  
弘法大師 大同元年(806) 開基  
遣唐使として中国より帰られた弘法大師空海は、大同元年(806)安芸地方を巡錫(じゅんしゃく)厳島の弥山・可部の福王寺とこの地に蓮華寺を開基されました。蓮華寺の塔頭(たっちゅう)の一つ「谷ノ坊」が、品秀寺の前身です。その後慶長年間、蓮華寺は廃寺となりますが、慶長7年山県郡戸渓村松尾出身の僧西雲大和尚が西本願寺八代蓮如聖人直筆の『六字名号』を携え、谷ノ坊を浄土真宗「谷ノ坊慈雲院品秀寺」として再興されました。  
三十二世住職大運は、安芸の学僧芸轍(げいてつ)≠フ一人で、「畑賀社」を開き、たくさんの門弟を育成し、五社分流の一学派を成していました。大運往生後の文政五年(1822)に現在の総欅造りの本堂が再建され「畑賀のお寺は、よいお寺、よいお寺、田舎におくには、やれ惜しや」と地元で歌われたほど、山門・鐘楼とともに立派な伽藍です。蓮華寺からは、1200年を超える歴史があります。品秀寺から蓮華寺跡の山道は弘法大師の歩まれた道≠ニして、2006年に畑賀町内会によって整備されました。 
 
大聖院 / 広島県廿日市市宮島町  
草創については定かでない。空海と宮島の結びつきは、史実としては確認できない。  
霊峰・弥山には、弘法大師の足跡を残す遺跡が各所にある。大聖院はそれらを統括する真言宗御室派の大本山であり、宮島で最古の歴史を持つ寺院である。本堂には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、海上安全を祈願した波切不動明王が、観音堂には十一面観音菩薩が祀られている。
大聖院2  
宮島にある寺院の中で最も歴史が古いのが、真言宗御室派(総本山仁和寺)の大本山大聖院です。空海が宮島に渡り、弥山の上で修行をして開基したのが806年といいますから、歴史の重みを感じない訳にはいきません。皇室との関係も深く、古くは鳥羽天皇勅命の祈願道場として、近くは明治天皇行幸の際の宿泊先になるなど、格式の高いお寺といえます  
大聖院は、真言宗御室派の大本山であり、関西屈指の名刹です。遠く鳥羽天皇勅願道場以来、近くは明治18年大帝御行在まで歴代皇室との因縁深く、明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の別当寺として祭祀を行っていた厳島の総本坊です。仁和寺と当院は本山と末寺という結びつき以前に脇門跡、仁和寺院室、厳島御室などの称号を賜った深い関係があります。仁和寺第二十世任助法親王(厳島御室)は法流流布のため当院に御止往されましたが、仁和寺塔頭に大聖院があったため、特に当院を法流相伝の御室に充てられたものと思われます。  
また、当山の本堂は鳥羽天皇の勅願道場であり、仁和寺第五世覚性法親王は鳥羽天皇の第五皇子です。治承四年(1180)三月の高倉上皇の御社参について記した土御門内大臣源通親公の「高倉院厳島御幸記」には厳島神社の別当寺といわれる所以が示されています。現在、厳島神社の恒例行事である玉取延年祭(旧暦七月十八日)や、大晦日の鎮火祭は当山から始まったもので、神仏習合の密接な関係が伺われます。 
嚴島神社 / 広島県廿日市市宮島町  
嚴島神社は海を敷地とした大胆で独創的な配置構成、平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちてくるとあたかも海に浮かんでいるよう。背後の弥山の緑や瀬戸の海の青とのコントラストはまるで竜宮城を思わせる美しさです。  
嚴島神社の創建は、推古元年(593)、佐伯鞍職によると伝えられます。平安時代後期の仁安3年(1168)には、佐伯景弘が嚴島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営。本殿以下37棟の本宮(内宮)と、対岸の地御前に19棟の外宮が設けられ、全て完成するまでに数年が費やされたといわれます。社運は平家一門の権勢が増大していくにつれ高まり、その名を世に広く知られるようになりました。  
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になり荒廃した時期があったものの、弘治元年(1555)、厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就が神社を支配下に置き庇護したことから、社運は再び上昇。天下統一を目前にした豊臣秀吉も参詣して武運長久を祈願しており、その年安国寺恵瓊に大経堂(千畳閣)建立を命じています。  
嚴島神社は社殿が洲浜にあるため海水に浸る床柱は腐食しやすく、また永い歴史の間には幾度となく自然災害や火災に見舞われてきましたが、その度に島内外の人々の篤い信仰心に支えられて修理再建され、今日まで平安の昔さながらの荘厳華麗な姿を伝えています。  
 
嚴島神社社殿は、推古天皇の時代に佐伯鞍職による創建と伝承されています。嚴島神社の社殿の基礎が確立し、社運が盛大になったのは平清盛が久安2年(1146)に安芸の守に任官し、その一門の崇敬が始まってからです。嚴島神社の社殿の主要部分はほぼ平安時代に造営されましたが、その後2度の火災に遭い、現在の本社本殿は元亀2年(1571)、客神社は仁治2年(1241)の建築です。細部にはそれぞれ時代の特色が見られますが、全般に造営当初の様式を忠実に守っており、平安時代末期の建築様式を知ることができる貴重な遺産といえます。  
平安時代の古式を伝える寝殿造り / 嚴島神社の社殿は長い歴史の間に幾度か手が加えられているものの、造営当時の佇まいを忠実に伝えています。108間(約275m)の廻廊が結ぶ社殿は、寝殿造りの影響を強く受けた平安様式。寝殿造りとは平安貴族の住宅様式で、敷地の中央に寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物、その東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを通路で結ぶ対称形の配置を基本とするもの。寝殿の前面には舞や儀式の場となる庭、その先には池も設けられました。その寝殿造りの様式を神社建築に巧みに取り入れ、瀬戸内海を池にみたてた壮大な発想で平安の雅(みやび)を映した究極の日本建築といえます。大鳥居を背にして祓殿を正面からみると、中央の軒が左右に較べて一段高くなっているのは寝殿造りの典型的な工法。また桧皮葺の屋根に瓦を積んだ本殿の化粧棟など随所に寝殿造りの様式が加えられています。  
海を敷地とした奇想天外な発想 / 嚴島神社の境内は、弓状に広がる遠浅の浜・御笠浜にあります。干潮時には大鳥居まで歩いていけますが、潮が満ちると社殿や廻廊はあたかも海に浮かんでいるよう。このように刻々と潮の干満で姿を変える海を敷地とする奇想天外な発想は世界でも類をみません。神社が浜に創建されたのは、島全体がご神体とされ神聖視したためとみられますが、12世紀に平清盛と神主・佐伯景弘によって調えられた壮大な社殿群は平安時代の浄土信仰に基づく極楽浄土を現したものとも言われます。前面には瀬戸内海、背後には神が降臨する場所と考えられた弥山。自然に神をみる日本古来の信仰をそのまま形にし、みごとに自然美と人工美とを調和させたのが嚴島神社なのです。 
 
鳥取県

 

●仙龍寺 (鳥取県岩美郡) / 修行満願成就の後に空海は自身の姿を刻んだと言われ、この本尊は「厄除大師」または「虫除大師」と呼ばれるようになった。  
●関金温泉 (鳥取県倉吉市) / 鶴が入浴しているところを行基が発見したといわれ、弘法大師が荒れ果てていた温泉地を整備されたとも言われる。  
●氷ノ山 / 兵庫県関宮町・鳥取県若桜町  
弘法大師 伝説  
氷ノ山(1510m)「山頂の須賀の山権現は若桜町舂米(つくよね)神社に降ろされた」  
氷ノ山キャンプ場へ少し登ると、登山道の標識があ、氷の越1.6kmとある。直ぐ沢を渡り、沢を右に見下ろしながら杉林を緩く登る。石畳が残り旧伊勢道の標識がある。なるほど国道9(山陰道)を京都から来ると、関宮で北に向きを変え、但馬妙見山の西を通って浜坂に抜けるが、昔は関宮から氷の越で若桜に抜けるのが最短であったろう。  
道は峠に近づくと大きくジグザクとなり、1250mの氷の越に着く。雪は全くない。二人の夫婦の登山者がおり、兵庫県側の福定から2時間で登ったとのこと。  
私は但馬妙見山に来ていながら鳥取県側に回ったのは、氷ノ山の信仰は若桜が主であったこと、何より鳥取県側は登山距離が短いからであった。  
因幡堂跡の碑と峠の地蔵が祀られており、避難小屋がある。ここからは緩い尾根道をのんびり歩き、こしき岩に着く。この岩で米をふかし餅をつき権現に供えたと伝える。やや傾斜を増したが急登はなく山頂に着く。  
山には雪は全く見えない。避難小屋や太陽光発電水洗トイレ、尼工氷ノ山ヒュッテ跡碑などがある。遙かに大山が見える。  
避難小屋の脇に須賀の宮神宮跡とあり、真新しい石祠(平成6年)があり、次のような説明板がある。  
素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治し、奇稲田媛を妻とし陵と宮を造った。この宮を須賀の山神宮といった。因幡、但馬、美作、播磨四か国の総社で皇室が管理していた。頂上と中腹に五十八ヶ所の宮跡と礎石が現存している。茲に須賀山の古代遺跡を後世に伝えるため、之を建てる(須賀ルーツを探る会)。  
古くは須賀の山と呼ばれ、主に因幡側の人の信仰の山であったようだ。因幡側では北隣の赤倉山を氷の山と呼んでいたが、但馬側の人はこの山を標の山、豹の山、氷の山などとと呼んでいた。  
大正初期陸軍省測量部が地形図を作成するとき、但馬側の呼び名「氷の山」と記入した。因幡側では不満があっても軍にもの申すことができなかった。第二次大戦後、因幡側から異議がでて昭和51年「須賀の山」と訂正されたが、やがて再びこれまで定着していた氷ノ山に戻された。  
山頂に須賀の宮権現があった。この神社は明治3年周辺3か村で下ろすことになった。鵜縄村(関宮町)は志賀峰神社、横行村(大屋町)は四ヶ峰神社、舂米(つくよね)村(若桜町)では舂米神社となった。但馬側でも須賀の山に由来する神社名が使われている。  
下り日当たりのいいところに早くもネマガリダケが顔を出している。20本ばかりを採取する。出会った人は6月が採取のシーズンで沢山の人が登るといわれる。尾根道から山腹道にかけてネマガリダケが拡がっている。これを茹でてマヨネーズで食べれば、アスパラガス以上においしい。  
氷の越から若桜への下りでは誰にも会わないで、響きの森に帰着する。一帯は宿舎、野外活動施設が整備されている。  
舂米(つくよね)神社に回る。ここに面白い縁起が書いてある。須賀の山山頂では管理が大変なので、周辺14ヶ村が祭神をどの村に降ろすかと争った。ある古老が「翌朝早く登ったものが下遷する」といったので、これに決まった。舂米村のものは一計を案じ、翌朝を待たず下山途中で引き返し、ご神体を奉持し下遷してしまった。この縁起でも、山頂にあった須賀の宮権現の総社は舂米神社ということになる。  
舂米(つくよね)は米を搗くことだろうが、こんな珍しい字が使われているので何故か思えば、次のような話が伝わる。  
弘法大師がこの山麓を訪れたとき、村人が米を搗いていたが米を惜しみ、稗をつまんで渡した。大師はこれを怒り、山を超えながら稗を捨ててしまった。ここから「ヒエの山」となった。この話では、あの弘法大師が怒ったところが面白い。それほど珍しい地名ということだろうか。 
●関の地蔵さん / 鳥取県倉吉市  
弘法大師 霊泉  
地蔵院は昔から開運巡礼「関の地蔵さん」の愛称で全国に有名です。また、近郷の善男善女によって古くから尊崇され、親しまれてきました。弘法大師の法力によって霊泉が湧き出したという由緒とともに、古来から当国きっての古刹で、その縁起によれば、本坊の祖、孝謙天皇の御代、天平勝宝8年(756年)行基菩薩の開創に始まると伝承されています。広い境内には国の重要文化財に指定されている「木造地蔵菩薩半跏像」のほか、美術品、壁画、お地蔵さん、御堂などがあります。 
 
島根県 

 

●清水大師寺 / 島根県大田市温泉津町  
弘法大師 弘仁3年(812) 開山  
清水大師寺(しみずだいしじ)は、弘仁3年(812)、全国行脚中にこの地を訪れた弘法大師が、堂床山麓に一字を建て、観世音菩薩を勧請したのが始まりであるとされています。大師は、寺付近の人々に柿の果樹栽培を教えたそうです。栽培して実った柿は、弘法柿(清水柿)といって村人達は喜んだそうです。 その後、石見銀山争奪戦の犠牲者を弔うため、勝尊法師が一堂を建てたと伝えられています。 降って、天文8年(1539)に堂床山が崩壊流出し、清水大師寺の建物も消失してしまいました。時の庄屋「石原安左右衛門」がお堂を再建したことから、現在も山陰地方屈指の弘法大師霊場となっています。 
●天応山 神門寺 / 島根県出雲市塩冶町  
弘法大師 天長9年(832) ゆかりの寺  
「いろはにほへとちりぬるを……」。今様式のかな歌として親しまれている47文字の「いろは歌」。その弘法大師空海真筆を蔵し「以呂波寺(いろはでら)」の名で親しまれている神門寺(かんどじ)を島根県は出雲市に訪ねた。  
神門寺は天応元年(781)、光仁天皇の勅願所として創建。その昔、地元の豪族・神門臣(かんどのおみ)が、この付近に出雲大社の神門を建立したことに由来するという寺名が、いかにも神の国・出雲の古刹らしい。  
仁王門をくぐると唐破風造りの堂々とした本堂、左手には観音堂と弘法大師堂が。2世に伝教大師最澄を、3世に弘法大師を仰ぎ、かつては7堂伽藍を具えた出雲国随一の密教寺院だったという。浄土宗になったのは、第3祖良忠上人の弟子良空上人が38世となってからで、出雲の守護・塩冶(えんや)氏、毛利氏などの外護を受け、山陰屈指の念仏道場として栄えた。  
寺宝の「いろは歌」は、香川県の善通寺、高野山に伝わるものとならぶ真筆。近くの旧家で航海安全の祈願文が見つかっていることなどから、804年の渡唐前に空海が当寺を訪れ、その滞在中に書いたものと推される。さらに本堂裏手には「この世から文字が失われた時に掘り返してみよ」と言い添え、自ら裏に「いろは歌」を刻んだとされる、直径60cmほどの丸みを帯びた「弘法の石」も。浄土宗としては珍しい“弘法大師ゆかりの寺”だ。  
境内にはまた、出雲守護で鎌倉幕府の御家人、1333年のいわゆる「建武中興」を支えたことでも有名な塩冶判官高貞公の墓所もある。出雲には高貞公を慕いしのぶ人が多く、常に参詣者が絶えないという。
神門寺2  
出雲市駅から南へ2キロ島根医大の近くにあり、別名「いろは寺」と呼ばれている。創建は天応元年(781)宗肇菩薩が開山し、年号を以って山号とした。また出雲風土記に依ると「神門臣衆が造るところなり」とあり、開基の神門を寺号にしたと記している。のち神門寺の二世が伝教大師であり、三世に弘法大師が住持したことを伝えているが、当時、平安仏教を興して共にその教義を弘通されていた祖師が、本地垂迹の密教思想から出雲大社に詣でたことを想像するとき、この神門寺に掛錫されたと推案するのも、既に神門寺がこの地方で大きく隆盛していたことを語るものである。更に弘法大師は天長九年(832)神門寺の御堂で「いろは四十八文字」を著して、出雲大社に参籠し四方に弘められたと伝えているが、神門寺ではこの仮名文字の御真筆を現在も収蔵している。  
本尊は阿弥陀如来で行基菩薩の作と伝えられている。法嗣は永く密教厳修の寺院だったが、三十八世良空上人が法然上人の専修念仏に帰依して上洛し、法然上人から教戒を受け、七條の架裟と真筆の六字名号を賜り、山陰地方における最初の念仏弘通の霊場とした。以来、念仏の教えに帰依する人々の信仰に育まれた寺運は、七堂伽藍を備えた壮大な寺構に発展したが、歴史の変遷に再三の火災に罹れて、昔日の景観は失せてしまったが、本堂、宝物殿などの諸堂に往時の栄華が偲ばれている。 
●高野寺(たかのじ) / 島根県大田市温泉津町  
弘法大師 弘仁5年(814) 開基  
真言宗御室派の寺院。石見観音札所の33番札所であり、「西の高野山(こうやさん)」とも称されますが、寺の名前は高野寺(たかのじ)である。創建は弘仁5年(814)の古刹で開基は 弘法大師である。 
●金亀山清浄院 満願寺 / 島根県松江市西浜佐陀町  
弘法大師 天長9年(832) 開基  
当山は平安時代53代淳和天皇の天長9年(832)に真言宗の開祖、弘法大師空海上人によって開かれた寺である。縁起によると、空海上人は諸国巡化の為杵築(出雲)大社へ参篭しようとして、この地を通られた。  
たまたま日が暮れてきたので、「どうせ急ぐ旅でもないから、このあたりで一泊しよう・・・。」と、この山で旅姿をとかれた。  
身軽くなって山頂に立って四方を見わたされると、まことに風光明媚である。  
地位乾燥の地にあって、南の宍道湖はその脚下を洗い、おりからの夕陽にかがやくばかり、東には遥かに出雲富士の霊峰が見え、北には佐陀の入海があってさざ波が打ち寄せ、北山山脈が静かに浮かんでいる。西は重畳と山々が折り重なって道が走り、絵に描いたようなすばらしい景色だ。  
空海上人はしばらくこの景観に見とれておられたが、「この風景はまことに美しく、まさに四神相応の地(天地の神のみ心に相応の地)である。この地に暫く逗留し開山しよう・・・・。」と、その夜より一刀を刻むごとに三拝の礼をする)をし、真心をこめて彫りあげられたのが聖観世音自在施無畏菩薩座像で御丈二尺三寸(約75センチ)の本尊である。  
胎内仏に天長9年3月17日と記して納められると自ら壇を設け、入仏加持開眼供養された。するとにわかに宍道湖の水面がざわめきたち、数十mの水柱と共に数尋の竜神が姿を顕わしたのである。  
空海上人は直ちにその竜神に向かって、「諸仏大悲方便力、普利法界群生類、尽未来際無疲倦、汝当得四無尋智」と四句の文を授けられると、竜神は感応して五色の大亀と変じ、背に金の釜を負って大師にささげたのである。  
この竜神は高野山開創のおり縁のあった丹正津姫神であるという。空海上人は「今この神国出雲に来て世にも不思議な出来事に出会い、この清浄の地で祈願が通じ満足した」として、この寺を金亀山清浄院満願寺と名づけられたのである。 
●金剛山 楞厳寺 / 島根県大田市温泉津町  
弘法大師 弘仁四年(813) 巡錫  
楞厳寺(りょうごんじ)は、元は法曹相宗ともいわれ、弘仁4年弘法大師が諸国巡錫のおり真言宗に改宗したと伝えられ、延応元年(1239)知見上人によって再興された古刹(こさつ)です。室町時代後期福光美濃守兼国がこの地を所領とし、福光氏の武運長久を祈る祈願寺として信仰されていました。永禄2年(1559)福光氏の所領を吉川経安がもらい、不言城を居城としました。その10代目城主経家にまつわる石見吉川家系図に「営寿墳矣、石州福光県内楞厳寺方」と記されています。  
また当寺は、石見観音札所32番に指定され、石見銀山天領七福神霊場の七箇所の一つとして、布袋尊が祀られています。 
 
山口県

 

●於福温泉 (山口県美祢市) / 弘法大師が開いたという伝説が残る市内唯一の古湯だが、湯量が少なく、一軒の温泉旅館(現在は2軒)が佇む鄙びたいで湯の雰囲気を漂わせていた。  
●湯免温泉 (山口県長門市) / 弘法大師が唐からの仏教修行の帰途、長門国俵山村にあった能満寺にしばらく滞在した時、ある夜夢の中で「俵山より北北東、三隅の里に効能の高い温泉が湧き出ている」というお告げを聞いた。  
●桜山 南原寺 / 山口県美祢市  
弘法大師 留錫  
山口県美祢市、桜 山の九合目に位置し、神功皇后を草創、聖徳太子を開基、花山法皇を中興とする県内最古刹の真言宗寺院で、寺伝によると聖徳太子が仏教を広める為、諸国の霊地を選んで46ヶ寺を建立されたその内の1ヶ寺といわれ、難払寺、難波羅寺、又は難波羅密寺と称していた。  
神功皇后、三韓征伐(4世紀前後)の折、瀬戸内を御通行の皇后は、北の方角の山麓から不思議な光明がしきりに差しているのをご覧になり。武内宿祢を遣わし、この地を調査、光明は自然石から盛んに光りを発していた。皇后はそのことを知り「これは瑞兆である」と喜ばれた。皇后はこの山に登られ、光明が出ている岩に宝剣を納め「永く夷敵の難を払い給え」と誓願され、この地において三韓征伐の軍議をされた。軍議は平たい大きな岩( 評定岩 )の上で行われた。側には桜の大樹が見事に咲き誇っていたので、皇后は「あら住吉の桜山かな」と喜ばれたという。それから楠町船木において楠の大樹で軍船を建造、軍備を増強し出兵されたという。  
後に聖徳太子は全国に46ヶ寺の寺院を建立するにあたり。この地を聖地の1つと定め寺院を建立(593)、当山と神功皇后の故事に因んで、 「難を払う寺」として「難払寺」と名付けられ、山号は 「桜山」 となずけられた。  
後に役行者や弘法大師も留錫され周囲仏閣は三十有余と修験道、密教の聖地として寺運の隆盛は栄華を極めていたが平安後期にはさびれていったという。  
その後、正暦2年(991)諸国巡歴の途に掛錫された花山法皇は衰退していた寺運を再興され寛弘5年(1008)2月8日、御年41歳、当寺に於いて崩御されたと伝えられている。 以来国家の祈祷所として歴朝の尊信篤く、特に四条天皇(1232〜42)は綸旨を下して近隣の里を多く寄進され東厚保、大嶺、伊佐、於福、秋芳にわたり多くの寺領を有した。  
建武2年(1332)佐々木直綱による花山法皇秘密法会の供養田など多くの寄進により益々栄え、当時は里に阿弥陀堂、法華堂、地蔵堂、鳴滝寺、光照寺、御影堂、小杉寺等多くの寺領と末寺を有し、山内には西の坊、東の坊、中の坊、上の坊、谷の坊、中谷坊などの諸堂宇が散在し末寺を含め周囲仏閣は124坊を数えるに至り、※長門三山 ※長門四峰と呼ばれた。  
又長門の国の鎮護寺として大内家代々の祈願寺としての庇護を受けた。山内の鎮守である日吉山王権現は山内に七社、里に七社の社を持ち、美祢郡中大田宰判と下関吉田宰判内の総鎮守としての権威を持っていた。  
宝永2年(1705)頃には、長門三十三観音霊場が開創され、当寺観音堂は17番の札所となり、この頃より明治初期まで善男善女の列が桜山の参道をにぎわせたという。  
以来1400年の間、時世の変遷につれ、又幾多の災害により諸尊、宝物を焼失するなど栄枯盛衰を経て今日に至っている。  
山中には坊の跡、祭祀遺跡、経塚群、古墓群など点在し、遺物も多く出土し往時の勢力を窺い知る事ができる。 
●帯石観音・帯石山普門寺 / 山口県大島郡周防大島町  
弘法大師 弘仁2年(811) 開基  
弘仁2年(811)、弘法大師は、千手観音、脇士として不動明王、毘沙門天の三尊を自手彫刻、観音堂に安置され、さらに奇石「帯石」に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を投筆、その下に子安の地蔵尊を自刻安置された。  
この名号は、金色に輝き、昼夜を問わず遠く伊予路からも見え、船人達の指針となって礼拝されたという。摩滅を恐れた石工が名号を彫ったので、その光は消えてしまったと言い伝えられている。   
さらに弘法大師は、この岩に帯の形を刻まれ、「懐胎の者がこの岩の図を帯にして信心なる時は、その産安し。」 と後の世の女人安産を祈願された。以後、この大師入魂の因縁により、かつては岩の苔をお守りとし、今日は安産守り、安産岩田帯祈願の観音様として、県内外から広く信心尊嵩されている。  
当寺は弘法大師の開基である。帯石の奇石あるをもって「帯石山」と号し、法華経普門品(観音経)の高徳を示す仏説により、「普門寺」と名づけられた。 
●室積・象鼻ヶ岬 / 山口県  
空海 大同元年(806) 帰国途中 護摩供養  
八十八ヶ所霊場のはじまりについて    
石仏が作られたのは、寛政2(1790)年。今津屋善兵衛と鉄砲屋藤右衛門の2人が発起 人となり、商家を中心に寄付を集めて、弘法大師ゆかりの大師堂まで、四国八十八ヶ所にちなんで仏様を据えた。  
台座には寺の名とご本尊が彫られていて、側面には寄付をした者の名が、残されている。  
いきさつ 平安時代になったばかりのころ、象鼻ヶ岬にお堂(現大師堂)がありあった。空海と言う僧が唐(中国)の国へ仏教を授かるために留学をした。2年の間に唐の国で1番と言われた恵果阿闇利に出会い、教えを授かり経典一法典を多くもらい、自身も遍照金剛と言う仏の呼び名をもらった。大同元(806)年、空海は帰ってくる途中、この象鼻ヶ岬のお堂(現大師堂)で、国の平和と自分の安穏を七日七夜の護摩供養をして祈った。そして、自分の姿を木に彫って石の厨子と共に残して行った。(1841年藩作成の風土注進案より)  
空海の身の安穏 空海をお大師様というのは弘法大師の諡号を賜る(921) 空海の伝説 信仰が全国に広まる。象鼻ヶ岬のお堂はその後も人々の信仰が続いた。  
石仏で 最初に作られたままのものは、36番青龍寺・不動明王で一番古いもの(波切り不動)である。  
45番岩屋寺の大きな不動様も正式には「波切り不動」と言うのですが、今は「難切り不動」とも言って、災難・難儀ごとを切ってくださるというので、特別に信仰される人がある。  
江戸時代、明和年間(1764〜71)に湧水があり、峨媚山と象鼻ヶ岬を象の姿に見たてた時、丁度目にあたる所に湧水したので「象眼水の井戸」と呼び、目に良いお水と言われ、お大師様を大切にしたご褒美じゃ。」と村人は大喜びをし、ますますお参りの人は増えた。  
そこで、今津屋と鉄砲屋はひらめいて、石仏霊場作りを始めた。四国のお大師様を岬まで並べて霊場にしょう」、室積をお守り下さるようにと、仏様は皆、御手洗湾に向いている。 
●三ヶ岳 / 山口県柳井市  
弘法大師 霊場  
山腹は弘法大師が開いた霊域である。  
街の中を通り抜けて三ヶ岳林道を上がり、三ヶ岳憩いの森キャンプ場に着く。キャンプ場のやや上に六道能化地蔵尊が祭られている。説明では、古来この地域は霊域で連行の場であった。享保3年(1718)普慶寺高和尚が巨岩に彫刻されたが、その後土砂で埋もれていた。昭和40年掘り出され復活した。普通は六地蔵を安置するが、1体に能化された地蔵だという。  
林道を三ヶ岳峠に上がると、一願地蔵が祭られている。こちらは日積と柳井を結ぶ往来をのお守りとしてきた地蔵、いわゆる峠の地蔵さんである。  
三ヶ岳には舗装林道が伸びているので車でさらに上がったが、舗装が切れ道は荒れ草が茂るので峠に戻り、路側に車を置く。  
林道は切れ切れに舗装してあり、舗装されないところは夏草が伸びている。終点に車回しがある。終点手前に山道を分けこれを登るとすぐ尾根に出る。よく踏まれた道で急なログステップを上ると山頂に着く。  
太陽が照るようになり暑く、木陰に退避する。  
瀬戸内海への展望があり、大島から笠戸島までの展望風景図が案内してくれる。  
眼下に柳井港が見え、折から半球形のタンクを積んだLNG船が停泊している。柳井火力発電所は市内にあり、140万kwの能力があり、原発に匹敵する。  
山頂は無線中継所が占拠し、一隅に岩屋らしきものがある。中は何もないがお賽銭が供えられているから神仏が祀られた岩屋であったのであろう。  
琴石山2.4km、大師山2.0kmの標識があるが、大師山がどこにあるか調べてこなかった。  
六道能化地蔵のところに弘法大師の祠があり、山域一帯は大師によって開かれたとあったから、大師山があるのだ。  
下りは林道ではなく尾根道を下ったが、途中で結局林道に出てしまった。  
琴石山には以前登ったが別の登山口から登った。 
●千坊山 / 山口県光市大字室積村  
弘法大師 西千坊を開く  
千坊・大峰鳥獣保護地区、特別保護区に指定されている。小雨なので傘をさして広い道をゆるく登って山頂に着く。樹木に囲まれた草地の広場だが、展望はなく、少し手前に開けた広場がある。晴れておれば展望が素晴らしいのだろうが、雨模様でまったく見えない。  
山頂に石祠、石仏はない。千坊山について観光協会の説明板がある。  
東千坊は伝教大師、西千坊は弘法大師が開かれたと伝え、この山の谷に約三百の僧坊が営まれ、千人の僧兵を擁していたという。三百坊、二王堂、鐘楼堂などの地名が残る。大内氏の保護を受けたが次第に衰微した。この山頂は西千坊である。  
こう説明してあるが、東千坊がどこにあるか確認できない。  
市が公園として整備した山だが、行政は信教の中立を保つため宗教についてはほとんど触れることはない。現代人もそうしたものに関心は少ない。次第に忘れられていくのはやむを得ないことである。観光協会の説明板で、わずかに知ることができる。天気が良ければ瀬戸内海の展望が楽しめたが残念であった。 
千防山2 
千坊山の名の由来は、多くの宿坊を持つ寺院があったからといわれます。旧熊毛郡南部一帯は、弘法大師が開山したと伝えられる千坊山三百坊宝積院妙相寺の末寺が数多くあります。今も千坊山一帯には千坊・三百坊・仁王堂・鐘突き堂など当時を偲ばせる地名が散在しています。現如宝寺由来記によると、宝積院妙相寺は939年藤原純友が瀬戸内海を暴れまわったときに焼失し、江戸時代に至って1624年賢勝僧が本尊・宝物を引継ぎ、蓬莱山宝積院を建立しました(現宝来山)。1870年に近くの宝珠山如意寺と合併し、宝珠山如宝寺となったとあります。 
●回春山薬王院 東山寺 / 山口県下関市豊北町大字神田  
弘法大師 大同元年(806) 開基  
「附野薬師」東山寺に安置せる薬師如来は、弘法大師一刀三礼の御作仏にして、延暦23年(804)御入唐の砌船中において御彫刻せられし尊像なり。大同元年御帰朝の折当地の沖、海土ケ瀬御通船の時暴風俄に起り、御船も既に危きところ不思議に薬師如来の御示現こうむり給い当地の砂浜に無事着船ましましたり(依って郷名を附野と申す)当地は尊像有縁の地として一宇を建立したるが、回春山、東福寺(当寺)当薬師の開基なり。慈恵一切衆生に遍く諸病悉く除き就中眼疾の者祈願立所に霊経現れ平癒する。参詣者常に絶えず7年目毎に開扉し奉る。 
●修禅寺 / 山口県  
弘法大師 大同2年(807) 登山  
由緒は古く、遠く古墳時代にまでさかのぼり、現本堂右の高さ10数mのそびえたった巨岩(陽)とその下段の長さ5mの洞穴を持つ重なり合った岩石(陰)は、共に古代自然崇拝の遺跡です。この巨岩(陽)=御霊石は、寺伝に観音岩と称され、往昔、沙褐羅(釈迦面しゃかつら)龍王が、狗留孫仏に請い建てるところの塔婆の頭で、観世音菩薩の化身であるといわれています。  
御霊石 観音岩  
狗留孫山修禅寺(下関市豊田町杢路子)の観音岩について  
本殿右に露出する観音岩は非アルカリの苦鉄質マグマが水中で冷えて固まった安山岩であり、およそ1億3200万年前〜1億万年前の白亜紀前期後半に形成されたと考えられます。  
当時、日本海はまだ無く、将来日本列島になる地域はアジア大陸の縁の部分に位置していました。  
この時期に湖や池・河口域に堆積した土砂や火山岩、火山灰などは現在関門層群と呼ばれており、中国地方西部〜九州北部にかけて広がっている他、特徴のよく似た地層が朝鮮半島南部でも確認されています。  
この岩石は関門層群のうち下関亜層群上部層と呼ばれる地質帯に属するものであり、当時の火山活動や日本の様子を知る重要な手がかりの一つになっています。  
奈良時代  
天平13年(741)には東大寺建立の四聖の一人である「行基菩薩」が、当山で修行したといわれ、奥の院(聖観音堂)には行基菩薩の御作と伝えられる「聖観世音菩薩」が安置されています。  
天平勝宝6年(西暦754)東大寺の寺基を確立した東大寺二世、実忠(じっちゅう)和尚が諸国遍歴の折、当山を尋ねられ御霊石(本堂向って右の巨石)より大悲観音の尊容を感得され、以来この御霊石を「観音岩」と称するようになりました。  
平安時代 初期  
平安時代の初め、大同元年(西暦806)中国「唐」より帰朝された真言宗 宗祖「弘法大師」空海は九州は筑前箱崎沖の船中より、はるかに当山の霊光を拝し、翌年大同2年(西暦807)霊光を目指して登山されました。  
そして「観音岩」から発する霊光の中から、大悲の「十一面観世音菩薩」の尊容を実忠和尚と同様に感得され、当山の本尊として彫刻、奉安されました。  
大師のお言葉〜「加持について」  
加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影衆生の心水に現ずるを「加」といい、行者の心水よく仏日を感ずるを「持」と名づく。 
●通化寺 / 山口県岩国市  
弘法大師 開山  
弘法大師が唐からの帰途、この地に足を止めて開山したと伝えられる名刹。境内には雪舟の作と伝えられる石庭もあり、幕末、四境戦争の時には長州藩の游撃隊の本拠地ともなった。 
●寄舟山 弘法寺 / 山口県萩市土原  
弘法大師 大同元年(806) 伝説  
さて当山[寄舟山 弘法寺]の古い記録を調べてみると。真言宗開祖弘法大師(空海)仏法の勉学のため唐にわたり(延暦23年・804)、帰途(大同元年・806)、海上より祖国日本の国が遙に眺められる時に、一人の老人が小舟に乗って弘法大師の船を尋ね来て言うことには、「私にはかねてより念願していることがあります。どうか私の島にお立ちより下さい。」と。弘法大師はその願いに応じて行き、一つの小島に上陸したところ、急に老人の姿が見えなくなり、天女が現れて、「仏法の法縁の導きによってかねてからの念願がかない弘法大師の尊いお姿を島にお迎えすることができました。」と喜び、大師のお姿を石に彫刻いたしました。これが当寺(弘法寺)の御本尊である。  
老人はこの島の地主であった弁才天(弁天様)が姿を変えて現れたものである。以上の理由により、この地(島)を浮島または弘法島と呼び、山号を寄舟山と呼ぶ。仏様の教えの導きによって生まれた奇蹟的な土地である。明治二十五年二種類の霊験あらたかな温泉が発見された[浮島温泉(弘法寺温泉)]。 
●大師堂(海蔵寺跡) / 光市大字室積村  
弘法大師 唐帰朝 護摩供養  
象鼻ヶ岬の突端に大師堂があります。弘法大師が唐より帰朝のおり、七日七夜の護摩供養の後、浄水で身を清め、自像を刻み、さらに一個の自然石に厨子を彫られたという霊場です。この地は元禄年間に移された海蔵寺跡であり、境内には御手洗観音・弘法大師像・遊女の歌碑などがあります。また、ここに至るまでの路傍には四国八十八ケ所ゆかりの弘法大師像が立ちならび、室積象鼻ヶ岬八十八ケ所霊場として親しまれています。 
●象眼水井戸 / 光市大字室積村  
弘法大師 伝説  
室積半島を象の頭部に、そこから海に長く突きだした砂嘴を象の鼻と見立てて「象鼻ヶ岬」と名付けています。その象の目に当たる位置から湧き出たので象眼水井戸といわれます。明和年間(1764〜1771)に湧き出たと伝えられています。弘法大師にまつわる伝説と合わさり、俗に御水とも言われ、大師は浄水で体を清め、自像を刻まれたといいます。大師の御霊験でこの水にて目を洗うと、いかなる難病もたちどころに平癒すると、伝えられていました。 
●妙宝寺 / 室積西ノ庄  
弘法大師 ゆかりの版木  
西ノ庄の高台、瀬戸内海を眺望できる地に如宝寺(臨済宗)があります。明治4年(1871)、宝積院と如意寺を合併して如宝寺となりました。いずれもその昔千坊山にあった妙相寺(真言宗)の末寺で、室町期に再興されて当時大内氏の庇護により栄えました。現在如宝寺には、大内家伝来の能面を大内義隆が奉納したものと伝えられる五面があり、これは大内菱金紋の箱入りで、この大内菱が同寺の紋となっています。また、妙相寺より宝積院へと伝来された不動明王を彫った版木があり、刻字に空海とあることから弘法大師の作と伝えられています。 
●西長寺 / 山口県大島郡周防大島町大字日見奥田中  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
弘法大師空海が唐からの帰朝の際、周防大島に立ち寄られています。弘法大師が807年に開いた日見の西長寺。弘法大師の建立といわれる日本三大文殊が京都、奈良、そして周防大島にあります。周防大島町三蒲地区の文珠堂は珠(殊)の字が違いますが、京都・奈良・周防大島、3つの並びを見るたびにグッときますね。弘法大師が南無阿弥陀仏と書かれたと伝わる巨石を信仰する帯石観音など、お大師様の気配を感じることのできる島です。それ故お大師様信仰も厚く、周防大島オリジナルのお遍路八十八霊場も整備されています。 
●八相権現社 / 萩市須佐   
弘法大師 弘仁元年(810) 建立  
伝によれば、弘仁元年(810)秋、弘法大師が紀州熊野から勧請して建立したといわれる。 
●潮明神社 / 山口県周南市大字大潮  
弘法大師 伝説  
片山地区の国道315号線から、錦川をはさんだ向かい側の田んぼの真ん中にある小さなお社が潮明神社です。鹿野といえば山奥ですが、そのまた一番奥まった大潮に、海に縁のある潮明神があることを不思議に思われることでしょう。この明神様に伝わる伝説は、大潮という地名にもかかわる興味深いものです。  
ころは弘仁5年(814)、ときの天皇に国家安全と五穀豊饒の祈祷を命ぜられた弘法大師は、相模国の江ノ島の弁財天宗社で、万座の護摩の祈祷をされ、できた灰で弁才天15童子の像を三体作られそうです。その一体を弁財天宗社に祀られ、残る二体の祀り場所を探して各地を行脚され、一体を大和国の吉野の吉水寺に祀られ、最後の一体を持って旅を続けられ、この地に来られたといいます。  
当時の大潮は人里を遠く離れ、流れる水も清く、鳥のさえずりも美しい山里で、大師は感嘆されて、この地に像を祀ることに決められそうです。大師は弁財天15童子の像をとりだされ、綺麗に清められたところ、谷川の水は潮水となり、辺りの葦原は青い海となり、カモメが飛んできたといいます。空には紫雲がたなびき、どこからともなく琵琶の音が聞こえ、それに合わせて天女が舞い降り、「我、ここに跡を垂れて万民の安全と福徳円満を守り、火災を除き、万病を治さん」と告げましたので、大師はこの地こそ神託に適う地であるとして、社を建て、社号を潮明神と定められて神事を行い、崇め奉られたといいます。  
その後、潮明神を信心する人々が次々と集まり、山林を切り開き、大潮村と名づけて、農業を営み始めたといわれています。圃場整備がされるまでは、潮が湧き出したといわれる「潮壷」という田んぼがありましたが、今はその姿をとどめていません。 
 
須佐 / 山口県萩市須佐  
入り組んだリアス式海岸の須佐湾は、古代より良港として海上交易の重要な寄港地でした。須佐之男命の信仰以来、海の神の聖地として、北前船時代には神山(現:高山)への参拝、絵馬(国の重要有形民俗文化財)の奉納が行われており、日本海航路を通る舟人の習慣となっていました。神山への信仰や、様々な神話・逸話は残っており、近隣の地にもその霊山としての名は高く評価され、須佐を語る上で、「風光明媚な須佐湾」と「神山信仰」は欠かせません。この2つが、その後須佐に、人や信仰・ものが集まるようになった源で、益田氏が関ヶ原以降、この地を治めてからは、更に発展してゆきました。  
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)  
アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約(アマテラスとスサノオの誓約)の際に、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神を宗像三女神という)の一柱である。『古事記』では2番目に生まれた神で、別名が狭依毘売命(さよりびめのみこと)であり、宗像大社(福岡県宗像市)の中津宮に祀られているとしている。神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる。厳島神社(広島県廿日市市)の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。  
弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvat)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。弁天(べんてん)とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。  
本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある。  
また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。   
現在、須佐では「弁天様」の呼び名で親しまれ、漁師も又、そう呼んで信仰されているが、本来、古代より須佐之男命との縁強い、市杵嶋姫神の信仰が元となっており、明治時代の政策によって、仏教的呼び名の「弁天」の方が根付いていると思われる。市杵嶋姫の別名「中津嶋姫命」が、島名の「中嶋」の由来とも言われている。  
神山起源  
市杵嶋姫神(弁天様)は、1700年(元禄13年)6月27日、既に高山(当時:神山)に祀ってあった社殿・御神体を、関が原の戦い後に須佐に移住してきた(第20代益田元祥公の玄孫)第26代益田就賢公が、須佐湾内の中嶋に御遷座(移設)している。元々の高山に勧請されたと思われる古さは、須佐の歴史でも1・2といわれている。  
古代須佐の信仰の地として神山神社(現:八相権現社跡地)に、須佐之男命を主祭神として伊邪那美命(イザナミ)も配祀されていたが、この場所、もしくは周辺に、市杵嶋姫神も祀られていたのではないかと推測されている。  
神山神社  
その神山神社は、古代須佐の中心地ともいわれている「三原」地区(大原本郷)から高山を望むと正面に位置し、又、旅人が参拝できる定設遥拝所が2箇所あったとされ、その一つが三原に「花立」という字名で残っている。その「花立」と「神山神社」跡地は、ピタリと南北に位置し、神社参道も又、南北に伸び、静寂な山間に神妙なる立地となっている。  
高山の中腹にある跡地は、小字名を「神山」といい、山麓には御祭田等もあったとされ、やはり小字に「神田」の名がある。鐘楼・御手洗川などの設備も整えた(「鐘楼免の字名もあり」)広壮な経営とみられ、海浜より社殿にいたる間に、華表(鳥居)三基が配置、その柱の土台となった敷石が現在の前地部落(高山の麓)に現存するという。  
須佐湾「中嶋」へ  
幾多の野火で火災にあい、時代とともに縮小・衰退していった中で、須佐之男命とも縁深く、海の神の崇敬の念・信仰を絶やさないために、須佐に移住してきた益田公によって、須佐湾内に御遷座される。  
以来、須佐の海の神として、高山の黄帝信仰(起源は、神山神社の須佐之男命信仰が誤称され替わってしまっという説あり。) と共に、漁民のみならず、住民、航行する北前船などからの信仰を受け続けている。特に、市杵嶋姫神への信仰は、その神事とともに、漁民に強く根付いており、遙か昔の神への信仰を連綿と紡いでいる須佐で唯一最古の信仰である。  
ホルンフェルス  
(hornfels)は変成岩の一種。熱による変成(接触変成作用)によって生じる接触変成岩。語源はドイツ語のHorn(角)とFelsen(崖・岩石)から。「固い岩石」という意味らしい。ブロンニャール(1827)がはじめて使用したと一般にいわれているが、ブロンニャール自身によると命名者はウェルナーである。  
分類は、ホルンフェルスは、原岩の種類により分類される場合と、ホルンフェルス形成後に特徴的に生成する鉱物種により分類される場合とがある。  
原岩の種類による分類 / ホルンフェルスとなる岩石は主に、泥岩や砂岩などの堆積岩である。原岩が石灰岩の場合には結晶質石灰岩(大理石)、チャートの場合には珪岩と呼ばれる。  
生成した鉱物による分類 / ホルンフェルス中(特に泥質ホルンフェルス)に特徴的に見られる鉱物として、菫青石、紅柱石、珪線石などがある。これらの鉱物は、形成する温度圧力条件が決まっているものが多い。そのため、ホルンフェルス中にどの鉱物が形成しているかにより、そのホルンフェルスを形成した接触変成作用の温度条件を推定することもできる。また、ひとつのホルンフェルス岩体中で、熱源となったマグマを中心に累帯構造が形成されることもある。 
須佐津考 [長門可美山麓稔廼舎(ねんししゃ)主人記(津田公輔常名)]  
大原郷  
わが須佐村は、和名抄に記せる長門国阿武郡六郷中の大原郷にして、須佐は須佐之男命の由緒に起れる大原港湾の称呼なりしが、久しき年序を経るに従ひ、海浜漸々に埋りて陸地を拡大し、 大原本郷の人戸は続々此新開地域に転居せしを以て、須佐の湾名はいつしか其村称と為りて、次で慶長五年(1600)益田氏の移住せらるるや、数百の士卒は相踵ぎて此地に来り、 俄然、人煙櫛比の一市街を現出して、其の領内七か村の物資集散地と為りたり。大原の郷名は全く廃るる随(まま)に、元大原本郷をば上原・中原・下原と大別し、之(これ)を総称して三原とも云い、現今は上三原・下三原と二分して、中原は上三原内に野中原の小字を残せり郷庁の所在地跡を三原原(みはらばら)と呼び、郷長の居住せし地を長者が原と呼び、尚其大字中の小区域を劃して桑原・春日原・宮原(みやのはら)・宅原・堂原(どうのはら)・黒谷地ヶ原・荒神原・後原(うしろばら)・火打が原等の名称を存せしは、郷名大原の記念と為したるものの如し。 故に現今の三原は、益田氏旧臣以外なる須佐先住民族の母郷たるや論なし。  
北谷  
三原原(みはらばら)の正北なる山間に北谷ありて数十軒の農家散在せり。此字(あざ)の方位に出たるを以ても、三原原(みはらばら)は大原本郷の首脳地点たりしを証すべし。  
松崎宮八幡宮  
八幡宮は源氏旺盛時代、武門の崇敬殊に厚かりしかば、石見国津和野三本(松)城主・吉見正頼家の此地方を領有し、笠松山(かさまつやま)築城の時に当り、海岸松崎の地を卜して神社を創建し、其崇敬凡(およそ)ならざりしかば、同家より鼓頭給之袖判・御祭田寄附の証文・御修理田寄附の証文、更に毛利家の封内に転(うつ)りて、元就公より五石の社領を増加せられし等、数通の古文書は世襲大宮司家に伝来せしも、維新後司祭者の更迭数回にして今は其の所在を知らざるものの如し。益田氏移住後、星霜を累(かさ)ぬるに従ひて、街区整頓し、其の面目を一新したる を以て、産土(うぶすな)神社移転の必要を感じた れば、益田元祥の孫・就宣領主の時、更に現今の社地を撰定し、寛文元年(1661)八月、神殿竣工して遷宮式を挙げたりしが、就宣の子・就恒領主の代に至り、 舞殿・拝殿・回廊等を築造して、元禄五年(1692)の秋、全く落成を告げたり。其の旧趾は現今共葬墓地と為りたるも、鬱蒼たる老松は点々散在して、三百年前松崎時代の面影を偲ばしめ、 脚下の水涯には今猶八幡(やわた)が浜の称呼を存し、松崎を松嶋と誤れるは、湾内鶴崎を鶴嶋と言へる例なるべし。  
寛文八年(1668)(【注】阿闍 【注】(草稿本)=寛文元年8月) 梨某堅謹書の棟札に、孝徳天皇大化六年(650)五月十八日、豊前国宇佐本宮より勧請せし由に記せるは、社家の杜撰に出たる縁起などに拠れるにもあるべけれど、地勢の沿革、 時代の推移をも弁えざる俗説にして信ずるべからず、凡て神社仏閣倶(とも)に、其資格由緒を飾らんとして、某大社の分幣、某名刹の直末など誇称し、創立を以て再建と偽り、 為めに貴重なる考証材料を失うもの其の例尠からず、又、宇佐と須佐と五音相通なれば、須佐の地名は茲に起これりなど言えるは棒腹絶倒すべきなり。  
三原八幡宮  
創立の時代詳(つまびらか)ならざるも、現今の上三原区内なる字八尾(やお)の地に鎮座ありしを、後土御門天皇の文明二年(1470)に遷座し奉れりと言えば、大原郷時代の産土神社たりしが如し。果して然らば松崎八幡宮より百年以上旧かるべし。松崎八幡宮の外、社領(壱石)ありしは此神社のみなりしも、殊なる由緒なかるべけんや。  
真宗・浄蓮寺  
本村寺院中の最古刹にして、大原郷時代の開基なる由来確実にして、其遺跡、上三原区内に在りて浄蓮の字を存せり。小早川隆景公、石見国出陣の途次、当寺に宿泊せられし事数度なりと言う。  
当寺の外大原本郷に浄(常)福寺ありしも、郷庁廃絶の後、自然解除の運に遭えるものの如し、今猶其の字を存せり。
須佐  
既にも云へる如く大原郷の湾名なりし、須佐津時代は海浜深く曲入せるを以て、現今人家稠密の浦東町・浦西町・中津町・水海(元御津海)等の地は、水波瀲灔(れんえん)たる海中にして 大港湾なりしは、 水海に接続して津田在り、町名に中津あるは更なり。土質其の他、証となすべき事多くあり、上古出雲政庁時代に於ける出雲・志良岐(今の朝鮮)間航路の好錨地点なれば、 往復共に薪水食糧 (草稿本=糧食)其の他の闕(欠)損を補充し、更に天候を測定して出帆為(し)給いしなるべし。  
上古の諸神は平素釼を佩き、戟を執りて不虞の変に備え給えり。況や海外拓殖の政策に於いて、一日も武装を解くべからざる時に当たり、 本港の如き一定の碇泊津に於ては、当代相応の軍政的設備ありし事は、出雲・古志(越の国)間の、能登・岬角・日向・西渕間の宗像港等の如き断片的事実を参照して推測せらるるなり。  
能登・岬角・宗像湾等の事は、上古三大航路考の題下に於いて別に詳述すべし如斯(かか)る重大なる関係由緒あるを以て、須佐之男命は御親(みゝづか)ら其御霊を鎮め置き給ひて、其神号を存し給ひしなるべし。  
出雲国飯石郡に郷名須佐あり、紀伊国在田(有田)郡にも同一郷名ありて、孰(いず)れも須佐之男命の縁故に出たり。殊に出雲国なるは同国風土記に神須佐之男命詔 此国者雖小国国処(くにところ)故、我名非著木石、詔而即、己命之御魂鎮置之処、然大須佐田小須佐田定給故、言須佐 即有正倉 此の国は小国といえども、国どころ故に私の名前を木や石につけるべきではない、と詔して即ち自分の御魂をここに鎮められた所、 然るに大須佐田・小須佐田と定め給う、故に須佐と言う、即ち正倉がありと伝えたり、正倉は保久良と訓(よ)みて御霊を祀れる小祠宇なり)、千家清主(せんげきよぬし)出雲宿禰俊信主国造(こくぞう)の本村の文士・松井某に賜いし短冊に、「須佐能里(すさのさと)、須佐弖婦(すさてふ)名古曽(なこそ)石乃上(いそのかみ)、経留起(ふるき)神代廼(かみよの)安所能古流良士(あとのこるらし)」とある歌をも思うべし。 
御津海 
今は水海と記(か)けるも湖水の痕跡と見るべき地勢に非ざるのみならず、之(これ)に接続して津田の字あるを以ても、水涯の漸次に埋もりし耕地たるは知るべきなり。然れば水海(みずうみ)の「豆」(づ)は美都海の都を濁音に呼び転(うつ)せしものなるべし。当湾内に入り、物資の需要其他、大原本郷の民家に対する交渉談判の必要なる船舶は、此の曲汀に深く櫂入するの便宜なるを以て、須佐之男命の御船も屡々着岸せし遺跡なれば、殊に御津海の敬称を存せしなるべし。 
摂津国難波津(なにはづ)を難波の御津(みつ)・住吉(すみこ)の御津(みつ)・大伴(おほとも)の御津などいへるは住吉神社あるに因り、近江国湖畔の御津は七社に対していへるにて、みな敬称なり。尚出雲国仁多郡三津郷名を始め、同義の称呼は例多し津田の字は恰も其津頭なる投錨地点にあたれり。  
神山 海抜1758尺  
此山岳は石見国三瓶山以西、馬関海峡以東の航海線に於いて、最大目標たる位地を有し、遠距離の舟子・船客、此方位に向へば東西の陸地は殆眼界に入らずして、洋中に突兀たる一嶋嶼あるの観あり。出雲政庁時代に於ける志良岐行は、同国日御崎(ひのみさき)より此山岳を指して石見海岸を通過し、帰航の時は、遠く数十里外より此山岳を望みて、海峡を横断せしなるべし。山名加宇山(こうやま)は須佐之男命の由緒に起これる神山(かみやま)の音便にして、神山中に神山の小字あるも此の神社の所在地なればなり神を加宇と唱うるは神戸・神崎・神代・神足など地名姓氏等に其の例枚挙に遑あらず。 
高の字を填(あ)てたるは、音便に泥める後世人の妄なり。 
鎌倉幕府時代に於て、此山腹に東山・西山の二牧場ありて、東山は野原九郎右衛門、西山は西山左近なる司牧者在り。幕府の徴発に応じて続々馬匹(ばひつ)を貢献せり。宇治川の役、其先陣を争ひし佐々木高綱の乗たりし生食(いけづき)の名馬は、此牧場より出たりと口碑に伝ふるは更なり。其遺跡とさえ称ふる零残(零散)の地区在るも、出雲・志良岐間航路の休泊地点として武的設備の在りし由来に基き、佐々木高綱の長門守護職たりしてふ伝説を連結して、好事家の捏造せる変形談片(断片)なるべしと思わるれども、当代猶此山の他群峯に超越せる一霊山として、神聖視せられし一斑を窺ふべき価値ある伝説なり。
神山(かうやま)神社 
此山に神山の小字ありて、其地に神山神社と称へたる旧社在り。 
後世、神山の分区前地に属したり。 
前地・広潟等に御祭田等ありて其経営の宏壮なる、鐘楼・御手洗川等の設備あり。 
鐘楼の廃跡は今猶鐘撞メン(免)の字(あざ)を残せり海浜より社殿に至るの間、華表(鳥居)三基を配置せり。其祭儀の厳粛なる、毎年九月朔より同十四日に至る満日には、御輿三躰、麓なる広潟の浜に出御ありて、夫れより御幸地海老嶋また鶴崎とも言いたりしが、今は鶴嶋と呼べりまで船橋を仮設したり、往古の社地は後の社地より聊東に寄り二町許(ばかり)上れり、今猶石垣の跡を存し、堤及び老松一株在り、南朝後醍醐天皇延元二年(1337)、野火の災に罹れり、此の時、大神[は]飛鳥の如く空を翔り、此地なる一大石上に影向(えごう、神仏の姿)ありしを以て社地を変更し、社殿を再建せりと言う。 
尚其有名にして崇敬非凡なりし事は、湾外往復の船舶は必ず其の帆を下し丹誠を凝らして航路の安全を祈り、本港碇泊の時は必此の神社に参詣するを例と為せしのみならず、大原本郷の住民は更なり。陸行旅客の為には二箇所の定設遙拝所在り、四季随時の花を供へて、各自の安全幸福を祈りしかば、今尚其跡を存し、号(なず)けて上花立・下花立といえり。其祭神は、上古須佐之男命の御親(みみずから)鎮め置き給ひし御霊を祀れるは上にも言へる如くなれど(【注】(草稿本)=論(あげつら)うまでも無けれど、其の)御母神伊邪那美命をも配祀せしものなるは、花立ての故事にて知らるるなり。 
然らば、神社創設の当時に於ける其規模の如何を論せず、実に長門国第一の旧祠宇なりしを思うべし然るを須佐之男命をば加良神(からかみ)と称し須佐之男命の御子・五十猛命を加良神と称して宮内省に祀られし例あり。御父子倶に大陸からの神、韓神で守護神として宮内省に祀られていた神か御父子倶に大陸地方の治水事業、拓殖政策の為め屡往復し給ひし御事跡あるを以て、孰(いずれ)も加良神と称すべし、加良は上古大陸地域を指せる汎称なればなり。 
又於吾児所知之国不有浮宝則未佳あがみこの、しらすくににおいて、うきたからあらずはよからずと、詔(のりたま)ひて、船舶製造の用材たるべき杉・桧等を始め、植林事業に御功績ありし史実によりて、船霊(ふなだまの)神とも称せる故に儒学の権威ある時代に於て、漢土黄帝[号は]軒轅氏の、刳木為舟剡木為楫舟のために木をそぎ、楫のために木をけずるの伝説に附会して黄帝と誤称せられ、次で神山を高山と書ける時代と為りては、弘法大師云々など紀州高野山の縁起を加味して、終に寛文十二年(1672)十月、厚狭郡小野村より瑞林禅寺を移して紹孝寺の末寺と為し、其境内に一社殿を建立し、誤称黄帝を之(これ)に移して、領主より社領米三石四斗を給与し、紹孝寺住職の弟子大宥を住職と為して、社務を司らしめ船霊の神徳を宣揚せしめしかば、神山神社に対するの信仰は全然此神社の有に帰したるものなり。爾来数代継承、以て今日に至り神聖なる古跡、貴重なる伝説を忘却して村名須佐の由来をさえ知らざるに至りしは遺憾の極みというべし。如斯(かく)て相殿伊邪那美命は紀州熊野神社より勧請せしものの如く、熊野八相権現など称して、依然其の社殿に在座(ましま)せしも、漸次衰頽の悲運に傾き、其規模を縮小しつつ、猶一社の資格を保有するに努めたりしが、維新後、神社整理の命令下に産土神社に合併して、其の社殿を解除するに至りしは痛嘆に耐えず、時ありて神山神社の復旧を図るは神人の期待する所なるべし 
天保年間、神仏淫祠廃除の厳達ありし時、瑞林寺境内黄帝の祠宇は淫祠なるに依りて解除すべきの命ありしに依り、住職信徒協議の結果、沖浦区鎮座山王神社を移して、須佐之男命の誤称黄帝をばこれに合祀すべき双方の交渉相纏り、其認可を得たれば、爾後山王神社を公称したりしも、歳月の久しき、其制度の緩むに従ひて、いつしか黄帝に復帰せり。  
又瑞林寺は一仏閣たるべき資格を具せざるを以て、明治八年、官より廃寺の命ありて妙高庵と号す。
高山狗留孫仏縁起並高山の縁由  
大日本国長州阿武郡高山は、その高きこと雲間にそびえ、続きの尾根は四方に広がって須佐、 江津、野頭に根を張り、多くの山々から離れてただひとり北海の中に姿をあらわしている。  
昔、鎌倉の右大将源頼朝卿は、この山を牧場となし、西の山の奉行を 西山左近、東の山は野原九郎右衛門と云った。その子孫は今も (元禄の頃)頼朝卿の御教書と判物(お墨付き)を伝えて家宝となし、頼朝最愛の名馬生食(池月の こと)もこの山から出たと伝えられる。  
林下を過ると民家があって、渓流は泉石のごとき岩をめぐり、人々はその間に定住している。林がひらけると茅ぶきの家が並び、 桃や李の間に小道があって、風にはかすかな香りがある。まことに古風みやびやかなたゝずまいで、中国武稜の桃源境をしのばせる ものがある。白砂緑樹竹林麓をめぐり、そのあたりに住むものは漁師である。御崎大明神の社がある。 また、前地から峯に登る一すじの小路がある。横峯を越えて急な尾根 を登れば、かたわらには由緒ありげな家が多い。地形の変化に従って遠くまた近く、岩石の転落する音が聞こえる。雲間をぬけ、霧の 中を通ってかすかな緑の中を行けば権現の社がある。その縁由を尋ねれば、昔、弘法大師が熊野権現 を勧請(迎えて祀る)し鎮国護法の霊神として仰ぎ奉ったという。嵯峨天皇のみ代、弘仁元年(810)庚寅の秋、御杜という所に四丁四方 を社地と定め、社を建立し御殿、拝殿、舞殿、御供殿、廻廊何一つとして備わらぬものはなかった。麓に湖水があり 広潟と云った。この所に大鳥居がある。社頭への道を示し、御供田「シシメン」「鐘ツキメン」 という神田がある。また、広潟の中に「エビ島」があり大鳥居があって御幸がある。麓の陸地に 手水川という所があり、ここから社頭に登れば三重の鳥居があったが野火の災にあって社中残らず灰燼に帰してしまった。頼朝卿の時再建されたが、山は深く茅山に続いているので、数度の野火によってそのつど烏有 に帰した。しかしそのたびに不思議なことが起こって、神体は岩上に飛び上がり、樹上に飛び上がって火災を逃れること数度であった という。しかしその為に昔の社頭にもどすことができず、今はわずかに社殿を営んではいるものゝ年月久しく階段は草いちごや苔に閉 ざされ、社も神檀も風雨に朽ち古びてしまった。松風は緑の梢を鳴らし泉水は石を打って.音楽を奏でるようである。杉や松は深々とし て静かでもの淋しく神気おごそかに思わず仰いで掌を合すばかりである。また、ここまで登って峯を仰げば自分の位置の高さも忘れる 程である。切り立った岩をふみ、かぶさる草を分けてよじ登ると重なる峯に更に峯が重ななり、これをふみ越えて頂上に至ると、はじ めて宇宙の限りないことが知られる。心は広々とし体はゆったりとして身内にこもる汚れは総てを忘れ、あたかも天上に居るようである。  
先ず南の方を望めばまっ青な海が漫々として果てしなく水をたゝえ、その遠くには三韓、 鬼界ヶ島、高麗、近くは九州と連なり、この 間を上り下りの船が柱来し風をはらんだ帆、飛ぶ鳥、煙雲、竹木の緑が目を楽しませ誰ひとりとして宇宙の外に思いを馳せるものはあ るまい。また、東南には長州、石州、周防、 安芸の山々が重なり合って、万里の果て東の京に連なり、りっぱな建物や民家、多くの村落 は数えきれぬほどである。十里ばかり彼方に石見の高角山があって、すぐ真下のように見える。この山には 人丸の墓があって柿本と呼ば れる。柿本人磨はその生死は確かでなく、権化の人(神が人に姿をかえた)との云い伝えがある。位階は従三位で奈良の都の頃、持統、 文武の両朝に仕えた。和歌の神として人間第一の誉を得た人である。入丸は老いて此の地(石見)に来り高角松の一詠を残した。今も人々から信仰され尊ばれている。その他同州の当麻、伯州の 大仙、雲州の大社など百里の遠くにありながら霊験はこ とにいちじるしく、佳景は目のあたりに見える。峯の風景、珍樹、異形の岩はあたかも仙人の洞窟に遊ぶこゝちがする。かたわらに穴 がある。さし渡し三尺ばかりで深さははかり知れない。木や石を落すと転がり落ちて止ることを知らず、昔臼を落したところ、日を経 て麓の浦に浮かび出たのでその所を臼ヶ浦と呼ぶ。また、奇岩があり、.象の鼻 と云い馬の背のようである。この上に登って眼下を望めば、高さは万仭におよび、危険きわまりなく故に名づけて「 馬鹿だめし」と呼ばれる。或は古仏が並び百獣のわだかまる姿の岩があり或は屋形のごとく、また屏風のごとき岩がある。 数仭の高さに立ち上がり、その下に狗留孫仏黄帝の社がある。  
その由来を尋ねるに、四千余年の昔、異国の黄帝を軒轅黄帝と称した。また、その臣に貨狄という大臣がいた。ある時池の面を跳めると 折から秋の嵐に散った柳の葉が.水面に浮ぶ上で蜘蛛がふるまうさまを見て、なるほどと思い、はじめて船を作ったといわれる。黄帝は 貨狄を召して諸国を巡り財政を豊かにして民をいつくしみ育て世を治め給うた。また、音楽、文字、暦、算術、車馬、農具等もこの時に 始められたといわれる。その後わが朝崇神天皇の時、かの黄帝の神霊が我国に飛び渡られ、.もったいなくもこの山に御跡を止められ、 初めて船を作って万民に教えられたといわれる。その時の道具を出された所として、かわら谷、 帆柱、柄木、梶穴、碇江、槽置場さて又種々の材料木の集る所を木来谷 と云い今もなお地名とされている。人々はこれに便を得て商道は益々開け利益を受けたと云う。異国の珍物、良質.の錦布、良薬の類までも 力を労せず足を運ぶことなくして自由に求められることは船にこしたことはない。利を生み生活を営む御はからいもこれに過ぎることはあるまい。ひとえに黄帝の御恩のたまものである。その故に昔は北海万里を渡る商旅の 船も、この山が見えた時は急いで帆を下げはるかに.彼の帝宮を拝して通り、また、陸地を往来する旅人も、この山を見る時は花をたむ け礼拝して通ったものである。今も三原村に「花立て」の地名があり、古来狗留孫仏権現の礼拝所となった。 もし帆も下げず礼拝もせずに通り過ぎる時は忽ち悪風吹き来って帆柱は傾き梶はくじけ遂に海底の藻くずとなるという。このように本を 忘れ恩を忘れる悪趣の者を罰し給う霊験の激しいことは云うまでもないことである。  
弘法大師はこの山をもって自分の霊場にしたいとおぼしめし、高野山と名づけ給うた。しかし、そのためには 百の峯と百の谷がなければ大法は成就しがたいと或る時峯や谷の数を数え給うた。黄帝はこれを見てこの山を奪われるのを悲しみ神力をもって 一峯一谷を隠された。大師は九十九の峯と九十九の谷はあるものゝいま一峯一谷が足りず遂に仏心に叶うことができなかった。しかしこよなく 景色のすぐれた所としてなお暫くこの山に住み給うたといわれる。鐘の段.、塔の峯、北谷、南谷などその時 の峯や谷の名残りは数えきれぬほどである。大師はその後紀伊の国で今の高野山を開かれたということである。それでこの山のことも高野山 と書いて「こうやま」と伝えられるようになった。その時大師は、黄帝の霊験があまりにも高く衆民の苦しみ を憐れんでかりにこの地に姿を現し恵みを垂れ給うた様を見て、狗留孫仏本地法身の如来とあがめ給うた。  
尓来本覚の月は高く輝き柔和忍屏の光は新しく万民の疑暗を照らし給うたのである。本地と垂跡(かりに姿を現す)の地に分れるとは云え 神徳は感応して衆民を救い豊かにすることは、まことに尊ぶべく崇めるべきことである。  
狗留孫山道昌庵後良依  
公儀の命によって見記された縁起はこれまで秘せられて年久しく民間に有った。近頃これを手に入れたが、紙は腐り字は損われて読む人を して口惜しがらせた。野頭村の小吏御手洗氏治部がこれを読み正し.て欲し いと乞うので、禅修行の余暇をみて、繁雑な所はこれを除き略された所はこれを詳しく付加し誤りの所は訂正してこの記録を作ったのである。  
  元禄16年(1703)    龍集  
   癸 正月吉日  
     前総持紹孝現住門超叟宗岩 謹誌  (村岡家文書より)  
【注】以上は、元禄16年に紹孝寺住職宗岩翁が書き残したものを口訳したもので、内容の真偽は別として高山、黄帝社、八相権現に関した記録としては古く、風土注進案などにも引用されています。たゞ、本文の中では黄帝杜と八相権現社を混同している個所もありますが、両社はもともと別個のものであると考えられます。  
狗留孫とはサンスクリット語(梵語のことで印度古代の文章語)で「願いごとが 叶う」という意味をもっています。「山口県風土誌」の編者近藤清石翁は「黄帝 はもともと須佐之男命であったのが後に黄帝と誤つて伝えられたものでスサの地名、古くは神山と書いたが後に山が高いので高山と書くようになった」という千家清主 の論も併せ引用して、この方が正しいのではではないかと記しています。  
高山(532.7メートル)は山口県最北端に海に突出してそびえ、直接海から屹立する 山としては日本海沿岸屈指の山とされ、その成因も複雑で山容、地質、奇岩など特異な特徴をもっているので古来信仰や伝説発祥の格好の母胎となったであろうことが考えられます。  
会員の金谷清氏が黄帝社が現荘地に移る以前に有ったとおぼしい所を尋ねあてた ということで12月5日教委の黒田氏や会員の品川晴氏らと金谷氏の案内で現地を探索しました。  
高山の八合目あたり標高約420メートルの北側斜面を雑木林の中にわずかに残る獣道のような山道をたどると山の傾斜地を幅約20メートル 奥行10メートルばかりが平坦になって周囲を石だゝみで囲い中央に風穴のようなものがあって祭杞の跡があり、現在も何ぴとか信仰する人が詣ったことを示す供物などの跡がありました。おそらく古くから黄帝社があった「沖原」 というのが此所で臼ヶ浦の伝説が生まれたのも風穴の存在から見て此所であろうかと思われます。かたわらに「当山峠塔尊霊塔」の碑があり、宝永元年(1704) 甲申三月二十一日と刻まれているので、後の人が供養顕彰のために建てたものと思われますが、いずれ山林所有者の許しを得て綿密に調査の上報告したいと思います。
浄蔵貴所の縁由  
そもそも浄蔵貴所は諌議太夫殿中監三善清行公の第八子である。 母は嵯繊天皇の御孫で、夢中に剣を呑むと見て懐妊し、仁和3年(887)3月8日出生した。誕生の時、室内に光明が輝き霊香が漂っ たと云う。  
四才にして千字文を読み、一を聞いて十を知り、七才にして出家を望んだ。殿中ではこれを聞 いて「汝が三宝の数に入りたいのであれば一つの霊力を示せ、さもなくば先々業を失うであろう」と告げた。その児(浄蔵)が答えて云うには「厳しい云いつけ をどうして背くことがありましょうか」と。時あたかも春の初めで庭前には梅が咲き誇っていた。児は戸外に出て天に向かって神人を呼び、梅一枝を折り取ら せて献上した。殿中の人々は皆驚き怪しんで誰も出家を止めることができなかった。それより諸々の勝地に詣でて修練を重ね或は稲荷山に住んで神童に花を採らせて過した。  
或る時熊野川に至って洪水に会ったが異形の人が現れて舟を操って渡した。岸について後をふりかえるとすでに人も船も姿は見えなかった。  
十二才の時、京都松尾神社より旅立ち日を重ねるうち、たまたま寛平上皇が西京に行幸になり、 洛中で浄蔵をごらんになってたいそう喜ばれ、弟子として叡山に登らせて受戒せしめられた。上皇はその才能を称え、玄照法師に命じて 密教(大日如来がその心境を説いたといわれる奥深い教法で加持、祈祷を重んじる)を教えさせ、又大恵法師に従って悉曇(しったん)章 を学んだところ、もとより書物に通じていたので忽ちその奥旨を極めることができた。しかして顕密、悉曇、天文、医法、弦歌、文章、技芸等ことごとく通ぜぬものはなく、中でも修業によって呪力はいっそう高まった。  
その当時毎年7月15日に修業者が集まり霊角という法力を戦わせる催しがあった。釈の修業者に同じく神霊の力を持つ者があった 。その修業者と浄蔵は同時に出て、先ず浄蔵が石に対して祈念すると石はみずから躍り上がって上下した。修業者もまた祈ったが石は動かなかった。両者互に持念すること久しくするうち、石は遂に中程から割れて二人の前に動いて来た。この神変不可思議の現象に衆人は皆目を拭うて驚嘆した。  
延喜の御門が御腰を病まれたので浄蔵が加持を行うと御病は忽ち癒え給うた。よって上皇は浄蔵に袈裟を賜った。浄蔵はその衣を着て 口から火を吹き衣を焼かれると、衣は焼け失せたが、元から着ていた衣は焦げることもしなかった。人々は怪しんでそのわけを問うと浄蔵答えて云うに,「血に汚れた 婦人が裁縫したので、それで焼けたのである」と。  
その後浄蔵は横川の如法堂に一庵を設けて住んだ。或る時庭を歩いていると折りから南方から異様な姿の人が来たので浄蔵が何者かと問われると、答えて云うに「我は加茂の明神である。昔慈覚大師が京畿に百余柱の神を集めて番々北経を究めさせられた。今は我が番に当たったが、この地面には汚れがある。自分はこの地を清めて師所となそうと思うが、自分では如何ともすることができない」と。そこで浄蔵は神人を呼び寄せて、汚れた地面を穿って持ち去らせた。  
延喜9年(909)時平大臣が菅霊(菅原道真の霊のことで、道真ば時平の讒言によって太宰府に流された) の恨みを受けて病の床に伏せてしまった。そこで浄蔵を召して持念させると、時平の両方の耳から青龍が頭を出して善諌議に告げて云うには「我は天章に告げて讒者 (無実の罪に陥し入れた者)の恨みを報いるのである。しかし貴子浄蔵の法力は私を抑えた。願くは時平に厳しい戒めを加えてこらしめよ」と云ってひそかに浄蔵を去 らせた。浄蔵が門を立ち出ることわずかにして時平は忽ちに死んでしまった。  
天慶三年(941)正月、勅命によづて横川において大蔵徳法の修法を行ない、迷賊平将門を降伏せしめた。その時平将門は弓矢を帯びて燃えさかる炎の上に立ちはだかったので群がる僧兵らは皆恐れて(脱漏か)瞬時にして流矢の音が聞こえ、東を指して飛び去った。朝廷は更に仁王会の修法を行なって迷賊をことごとく降伏させた。そこで浄蔵は待賢門の講師とされたが、その時同輩や弟子が急を告げて「将門が都に侵入した」と告げた。朝廷は皆驚き怖れたが浄蔵は「それは将門の全身ではありません、たゞ死後の頭だけです」と申し上げた。果してその通りであった。  
南院の皇子が病に臥され、然るべき人に加持させたが、三日を経て薨じた。そこで浄蔵に哀訴して救いを請われたので、浄蔵は火界呪を以て加持し皇子は蘇生された。  
延喜帝が病を得られた時浄蔵は呪して云うに「御門の御病気は重くはない。やがて癒えられるであろう。しかし明年は宮中に火災がおこるであろう」と。果してその通りであった。  
殿中監は浄藏の父である。浄蔵が熊野に詣でたとき殿中監が死去した。浄蔵は、これを途中で聞いて馳せ帰ったが、すでに五日が経ち葬礼は出発した。浄蔵は北橋の上で葬列に出合い、その場で加持されると忽ち蘇生された。蘇みがえった父殿中はその場で浄蔵を伏し拝んだ。親として子を礼拝したのである。故にこの橋をもどり橋と云う。  
玄昭師は浄蔵の師であるが真済という者の恨らみを受けていた。真済は、妖怪小僧と化して空から玄昭を襲い、玄昭はこれを見て心身ともに悶え苦しんだ。浄蔵はこれを加持して救い、玄昭は弟子の浄蔵を敬拝したのである。  
或る時長秀が船に乗って来た。船の中で病にかゝり浄蔵によっで救われんことを求めた。浄蔵が持念すると長秀の病は忽ち癒えた。 長秀は感伏して「我が国および隣国天竺にもこのような矣人(才能すぐれて美しい人)は居ない」と云った。  
応和3年(964)8月、空世上人により六波羅において「慶讃金子大般若経多会明徳」があり、この時物乞いが夥しく集った。その中に一人比企の姿をした者がいた。浄蔵はこれを見て大いに驚いて上座に導いたが、この人は 辞退もせず言葉も発しない。浄蔵が一杯の飯をさし出すと、飯四斗ばかりを食いつくしたので又すゝめるとさらに食いつくした。衆人はこの比企があまりに大食 なので怪しんで見守るばかりであった。そこで浄蔵は加持して見送り立ち去らせた。後で見れば飯は元の通りになっていた。或る人がこのわけを聞いたので浄蔵は 「あれは文珠大師が仮りに姿を現わされたのである」と答えた。居合わす者は、一皆感嘆して伏し拝み、これ以後人々はなおいっそう 浄蔵を敬い浄蔵もまた応化の人(神仏が人の姿となって現われた)かと怪しんだ。  
浄蔵が又思うに、寒山拾得は官吏が自分を拝礼するのを嫌って遂に寒山岩に姿を隠し給うた。自分もまたこの地に住んでいたならば驕慢の心を生ずるであろうと 云ってひそかに王城を出て諸所の霊地を巡礼し、たまたま10月雲州大社に行くと、毎年10月には日本国中の神々が相会してよろずの政事をなし給う月である。 浄蔵が床の下に伏してその有様を聞いておられると、会談は皆男女の縁を定められる事であった。一人の神が云われるには「こゝに居給う浄蔵には誰をめ合わせたらよかろうか」と。他の神が「京の下鳥羽の仁直というものゝ娘がよかろう」と云うと諸神は皆これに賛成された。浄蔵はこれを聞いて「自分の心は鉄石の如く堅い。 どうしてそのようなことができようか」と思った。その後諸所を巡礼してひそかに帰京した時下鳥羽まで来るとしきりに足の病が起こり、やむなく或る家に入った ところ、その家の主人は丁重に迎えて宿をした。そして通された座に着くと一人の女牲が出て給仕をし、夜中になるとその女性はいとも懐しげに寝所に入って来て 挨拶をするので、浄蔵はふと大社のことを思い出してこの家の名を問うと、女性は「下鳥羽の仁直と申し私はその娘」と云う。浄蔵は驚いて「さては我が為には天魔である」と叫んで手許に引き寄せ剃刀で咽を 引き切って外へ逃げた。然しその傷は浅手であったので、その後御門の目にとまり、大裏(宮中〉に召されで妃となり、寵愛を受けるようになった。 天暦7年(954)のこと、その年は旱魃が続き、天台の有徳の僧や真言の知僧と呼ばれる人たちが勅を受けて雨乞いの祈祷をしたが、3月から6月に至るまで一滴の雨 も降らず、民衆は術もなく農事をやめてたゞ天を仰いで憂えるばかりであった。御門は「国中が皆このような憂いにかゝるのはすべて我が不徳の致す所であり、 我が罪にほかならぬ」と涙を流された。この時関白が「浄蔵は神霊の人でございます。お探しになって雨乞いの祈りをさせられては」と申しあげると、御門は たいそうお喜びになり、国内六十余州に勅を発して尋ねさせたところ、丹後の国の相の文珠に居ると知らせて来た。早速、勅使をつかわして召されると、 浄蔵答えて云うには「私はもはや再び都には入るまいと心に決めております」と再三辞退したので、勅使は「天下にわずかの土地、一人の民といえども御門の 臣でないものはない。ともかくも理を曲げておいでになるよう」とすゝめるので、浄蔵もその道理に服して共に京に上ったので御門はたいそうお喜びになり、 雨乞いの祈祷をするよう勅命を下された。そこで浄蔵は神衆苑に檀を設け、一日一夜の祈祷を行なったところ、俄かに黒雲が たなびいて雷電がおこり、忽然として神龍が舞い降りて二日二夜にわたって雨が降りそゝいだ。人民たちは歌をうたい手を打ち合って歓喜したということである。 御門はたいそう感激されて僧上の位をさずけられた。  
寛平上皇の更衣妃が或る時狂気の病にかゝられ、医師も祈祷師も手をこまねくばかりであっだ。浄蔵は勅を受けて宮中に入り、法人を祭り、先ず妖怪を降し妃を縛ると病は忽ち癒えた。浄蔵が御殿の内に入ると、上皇は思わず立ち上がって浄蔵を拝み給うた 。これは四海の主たる上皇が臣下である僧を拝み給うことは、これこそ礼敬の極地と云うべきであろう。御門が仰せられるには「浄蔵のような者が、これから先 二人とあるだろうか、願わくは大唐の三蔵法師の例にならい妃を賜わってその子孫を残させよう」とて妃を下しめ合わせられた。浄蔵がその妃をよく見ると咽に疵があるのでそのわけを問うと、妃が答えるには「私はもと下鳥羽のものです。この疵は或る僧のせいです」と云う。浄蔵は「さてはあの時の女姓であったのか、 因縁のなす所はのがれることができない。もしこれを辞退したらどのような凶事が起らぬとも限らぬ」と思い遂に勅に応じて妃を妻とされた。昔久米の仙人は女の あらわな脛の白く美しいのを見て通力を失い、遂にその女人の色香にとらわれたということである。とさまざまに嘆かれ、とやかくと思いなやむうちに二人の子を もうけた。  
その頃京中の者がうわさし合うには、八坂の塔の傾いた方向に必ず凶事がある。浄蔵は神人であるから、これに勅を下して対処されるにしくはないと云い合った。 浄蔵はこれを聞いて「自分は妻帯の身である今、どのようなものであろうか」、まずおのれの法力を試みようと二人の児をつれて鴨川のほとりに出て水に向い、 二児を左右において水に向って祈ると、水は忽ち逆に流れて三条、五条の橋の下は干あがって白い河原となった。そこでこのありさまなら心配はないと勅に応じた。 天暦10年(956)6月21日、浄蔵が八坂の塔を祈念するということが京中に聞こえたので、貴賤男女誰一人として見物しない者はなかった。浄蔵は二人の児を左右に置き 塔に向かって暫く持念すると、西の方から微風が吹き来たり、塔は揺れて震動し、吊された宝鈴が鳴っていたが、傾いた塔は忽ちまっすぐなもとの姿にかえった。見物の貴賤男女は誰一人として喜び感嘆せぬものはなかった。  
また、浄蔵がこの地に居る時、夜中に数十人の盗賊が侵入してきた。浄蔵が声をはげまして呪願すると、群盗らは手足が動かず枯れ木のようになってしまった。 夜が明けて浄蔵が呪縛を解くと、盗賊らはうやうやしく伏し拝んで立ち去った。  
このように神変不思議なことばかりが多かったので、上下万民ともに浄蔵を崇め敬い、神人であるとか生き神様、生き仏と尊んだ。  
かくて年月がたつうちに、浄蔵は思うに悉達太子(釈迦のこと)は中天竺(印度)の皇子であったが、耶輸陁羅羅睺(この世の栄華や楽しみのことか?) を思い捨て、金泥駒にむち打って城中を逃れ出、車匿童子を伴って坦持山に籠り、難業苦行をして遂に悟りを開かれた。それに対して、あゝ自分はいったい何たる ありさまか、と涙を流して嘆いていたが天徳元年(957)の春、66才にして妻子を捨て、忍んで都を 出て不動明王の尊い姿を学び、山伏の姿となって霊仏霊社を巡拝し、再び出雲の大社に参詣したが、先ず神に向って「昔神の御結びによって思いもかけず俗姓の家 に堕ちたとはいえ、これはすべて、前世の悪因縁罪業のためでありましょう、願わくば未来は必ず真実の悟りの都へ帰らせて下さい」と涙を流して懺悔し、それ より伯州大仙、石州の当麻諸山の霊地に参詣され、次に長州の高野山(高山)に登って狗留孫仏黄帝 の垂跡(かりに姿をあらわした所)を拝し、弘法大師の創造し給うた八相権現に参寵し、暫くこの地に留りたいと思い、先ず四方の 景色を見ると峯の高いことは常に白雲が山の腰をめぐり、北の海は漫々と水をたゝえて九州、三韓(朝鮮)の雲が往来し、幾百という島々は常の山とは異なり 「三千世界は眼前に十二因縁は心の底」と昔歌に詠まれたのはこのよのものであろうかと感嘆したが、又向うの山を見ると西の方にあたって山間にひとつの光明があらわれた。これは不思議なことと思い、光を尋ねてゆくと 先ずマテ潟の里に着き、そこから流れにそうてさかのぼり、谷を登って尋ねてゆくと道の左右の景色は尋常でなく大きな岩がそびえ 立って麓を流れが洗い、這い松やつゝじは峯を輝かし又深い淵があって神龍が住むようなけはいである。又瀑布があり落ちること 数千尺、住む鯉も龍に化身するであろうとあれこれと風景を眺めると、又目を驚かすほどの岩が構たわっている。古樹はうっそうとして中に九折の狭い道がある。 登ってみると一段高い所に石造の観音菩薩が安置してあり、その不思議なさまは金輪際(地の最も深い底)から湧き出たのではないか と怪まれる。さてはこの間の夜々の光明は此所からであったに違いないと思いその夜はそこで泊った。夜中頃夢の中にどこからともなく光明が輝くかに見えてあたりに 霊香が漂い、観世音菩薩が現われ給うて、天冠や瓔珞(金銀宝石の首かざり)も鮮かに、何びともが喜び仰ぐ御姿で浄蔵に向かって申されるには「御身はもともと並の 人ではない、私心のために姿を凡夫に変えて真言三密の奥義を極めたとはいえ悪い因縁によって一度は俗姓に堕ちた。然し再び不動明王の尊体を仰ぎ山伏の姿となり 様々に不思議を現してこの世の苦しみに悩む衆生を救う為に諸国を巡ることは、本願を遂げ殊勝なことである。然しながら人の寿命には限りがある。そなたも 70才に及んだ。この地は凡愚の人間も迷いを蒙ることなく、鳥獣も侵すことのできぬ浄蔵第一の霊地であるから、願わくはこの地にとどまって身心を安楽にし弥勒三会の暁を待たれよ」とねんごろに教え訓して何所ともなく消え給うた。浄蔵は夢から覚めて 眼を開いてみると、光明は未だ消えやらず霊香も薫しくまだ残っていた。浄蔵は菩薩の御跡を伏し拝み歓喜の涙を流し俗世に生きる衆民はどうしてこのような有り難い御姿を拝することができようかと、この地に草庵を結んで住んだ。村人らは生き仏 の如く浄蔵を敬い、我も我もと食物などを運んでもてなせば、猿の群れも果物を抱えて親しげに近づいてさし出し、鳥たちも花をくわえて捧げる。 あたかも昔、待の牛頭の□融大師が金山の玄真の虎を愛したのもこれ程ではなかったであろうと思われる。浄蔵は朝には深淵にのぞんで 垢離をとり、夕べには瀑布に向かって修行を積み重ねたので村人らは観音の涙があまりにも厳しくて出入の困難なことを憂え、麓に寺を立て 雲居寺と号したので、浄蔵はたいそうお喜びになり、心静かに終業に励んだ。 浄蔵が或る日村民に語って云うには「自分は久しい間皆から供養を受けた。結ばれた縁はどうして浅かろうか、自分は故郷を離れること万里、 独りこの地に隠れ住んでいるのは妻子肉身の恩愛を断ち、仏道を修行して一切の衆生を救い無上の道を求めようが為である。自分が死んだ後、 もし塚に向かって願い求めることがあれば、自分はその人の願いのまゝにことごとくこれを叶え、縁を億万の衆生と結び、ともに三会の暁に会 することこそ我が本願である」と。康保元年(964)11月21日、御年74才にして安らかに円寂(聖者や高僧が死去すること)した。その夜寺のあたりには おびただしい光が輝いたので、村民は出火であると驚き我も我もと馳せ登ってみれば、光明の中に不動明王の尊体をあらわし、児童二人が左右 につき従って霊香かんばしく花が降りそゝいでいたが、遂に西の空へと消え入り給うた。人々はなお父母を慕う思いでねんごろに葬礼をとり行ない、 それ以後祭時も礼奠怠ることなく、どのように忙しい時でも必ず祭りを行ない、さし迫った事態の時も祭りを怠らず長雨、旱魃、病疾等およそ 願いごとのある時は必ず祭事祈願して、もろもろの願いは立ちどころに満たされたという。  
今年享保7年(1722)寅の年に至って759年、年久しいというとも、なお祭りの絶えることはなかった。享保5年の春、不思議な霊験があったので、 参詣するものはいっそう多くなった。  
我が思うに浄蔵貴所とはいったい何びとであろうか。又どのような因縁でこの地に来たのであろうか。自分はこれを知りたいと思い人にもこれを 知らせたいと考えた。そこで古典を考え、多くの歴史を調べ、又云い伝えのよって来たる所を総合して後世の人の為にこれを記した。後の人はこの 記によって浄蔵貴所を知り、又知った上で諸事祈願すれば、たとえ千年万年の後であっても、霊感空しからず、あらたかなることを知るべきである。  
時に享保7年壬 霜月(11月)8日  
釈禅誦比企宗岩 門起 謹記  
【注】以上は前掲高山狗留孫仏縁起と同じく、紹孝寺住職宗岩和尚が書き残したものを、故村岡元治翁が写し残しておられたものです。その中の 一部は風土注進案や山口県風土誌にも引用されています。会員の堀勇氏(大井)がいろいろ調査しておられ、出雲の豪族赤穴氏、佐波氏はその子孫 であることを萩藩閥閲録などから究明されていますので、今後の調査に待ちたいと思います。前記宗岩和尚の縁起書の中に、享保5年に不思議な 霊験があったとありますが、現存する浄蔵貴所の塚は翌享保6年、時の領主益田元道公によって建てられているので、それに匹敵する何かがあったことも推察されます。また安永8年(1780)には益田就恭(兼恭)公寄進の灯籠があり、上下広く信仰されたことがわかります。前文に羅列された さまざまな浄蔵の奇跡は、その偉大さ尊厳さを誇示したものと思われますが、人物、年代等史実に合うものもあって、どのような根拠によるものか興味がもたれます。 境内の石段の玉垣などに出雲や広島等の遠国から寄進されたものも多く、特に海上関係者の信仰が厚かったことがわかります。また、眼病に霊験がある といわれるのは出雲の一畑薬師に似ていますが、阿武町や珂東町の古老が幼い頃親につれられて参詣したという人もおり、墓所のある台地の石垣の中に 「銀三匁、なご」と刻んであるのは、奈古の有志が出資して石垣を献納したものと思われます。 
 
■四国
四国八十八ヶ所霊場  
お大師様(弘法大師・空海)が弘仁6年(815)にご開創されたと伝えられています。お大師様から現代へと受け継がれてきたその歴史も、平成26年(2014)、ご開創1200年という吉祥の年を迎えました。この節目の年に是非多くの方に「同行二人」の信仰を感じて頂きたく思います。  
 
弘仁6年(815) 春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。また時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃「弁顕密二教論」を著す。  
  
現在の88カ所霊場に含まれている太龍寺(21番)、金剛頂寺(26番)、曼荼羅寺(72番)、善通寺(75番)などは、史実の上からも大師とのつながりが分かっていますが、この頃には大師信仰の霊場として地位を固めたようです。しかし、「四国辺地」との関係はわかりません。 
空海(弘法大師)の仏道修行と霊場の謎  
   大龍嶽(21番札所、大龍寺、コ島)  
   御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)  
   高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)  
   四国遍路の歴史  
空海、774〜835年(宝亀5〜承和2年)は、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(善通寺、香川)の豪族、佐伯(さえき)氏、直田公の父、安刀(あと)氏、玉依の母の三男として生れ、幼名は真魚(まお)と呼ばれていました。788年(延暦7年)、15才のとき都に出て、791年(延暦10年)、18才のとき大学に入学していますが、その頃は、桓武天皇が奈良の平城京を長岡京に遷都した7年後で、3年後の794年(延暦13年)に京都の平安京に2度目の遷都を行うなど、政情が非常に不安定な時期でした。  
貴族の子弟の教育機関である旧都、奈良の大学寮に18才で入学したものの中途退学し、一沙門から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を受け、20才で山岳修行僧の群れの中に身を投じたのですが、修行の道場は奈良や和歌山の山林(吉野の金峰山、紀州の高野山)から故郷の四国の山や海(阿波の大龍嶽の頂上と近くの洞窟、土佐の室戸御崎の洞窟、伊予の石槌山)に及んでいます。  
(解説) 空海は、797年(延暦16年)、24才のとき、儒教と道教と仏教を比較して、仏教の優位性を示した戯曲、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(官吏になるための難解な試験対策への解答、すなわち、大学入学での学習成果を披瀝した報告書、とも考えられています)、後に序文と後書きを加え、本文の誤謬を修正した「三教指帰(さんごうしいき)、上、中、下の3巻」(唐への留学の資格試験の審査参考資料として朝廷に提出したものとも考えられています。また、出家宣言とも考えられ、この下巻の中で、老いた両親への親孝行ができず、先だった二人の兄への思いに涙が止まらず、仕官も進退極まり、来る日も来る日も、嘆き悲しく、うろたえるばかりです、が、自分は仏道の道に進む、という強い出家の覚悟を仮名乞児(かめいこつじ、空海の化身)に代弁させたものとも考えられています)を著しています。空海の唐(中国)への留学に至る20〜30才の頃の10年間の修行の様子は、これらの著書以外にはなく、今も多くの謎につつまれています。  
その後、804年(延暦23年)、31才のとき、第16次遣唐使船により入唐し(このとき、留学した最澄は正式な官僧なので問題はないのですが、一方空海は一介の私度僧の立場であり、朝廷への留学の推薦、留学僧資格試験、膨大な留学資金の支援などについて、謎が多い)、当時の世界都市であった長安に行き、青龍寺(せいりゅうじ)に住む恵果(けいか)と出会い、805年(延暦24年)、師からインドから伝わった本流の密教のすべての法を伝授されています。  
空海が日本に帰ったのは、806年(大同元年)、33才のときですが、当初20年間の留学期間をわずか2年に縮めての勅許による謎めく帰国でした。その後の空海の活躍は目覚ましいものがあり、宗教の世界ばかりでなく、文学、思想、また、社会事業家(満濃池の築堤、綜芸種智院の創設など)として花開いています。  
空海の巨大な謎を秘めた活躍のなかで忘れられないのは、紀伊国(和歌山)における高野山金剛峯寺の創設(嵯峨天皇による高野山下賜)です。空海はこの山岳霊場を密教(大日如来を中心に、あらゆるものが共存共栄する、心を形に表した曼荼羅の世界)の修行道場として開いたのですが、ここはまた古代から水銀の採掘地でもあり、高野山の奥の院をはじめとするこの山の聖地一帯には、現在も水銀や金、銀、銅などの鉱石が埋蔵されていると言われています。高野山は、以前は丹生明神(にうみょうじん)が祀られ、丹生氏が支配していましたが、空海は、はじめ奥の院の洞窟、のちに近くに建てたお堂、お寺の中でも修行し、人生の最後は、もとの奥の院で入定(にゅうじょう)したものとも考えられます。  
(解説) 日本各地に水銀を意味する丹の名のつく地名(丹生、丹波など)が残っていますが、これはその地域で水銀鉱石(朱色の硫化第二水銀、辰砂)や、赤色顔料(丹朱)を産出していた証拠です。来世での再生を願って遺体を保存するミイラ作りにも水銀は必須で、日本でも縄文の古墳でも朱の水銀鉱石は重用され、古代から戦国時代に至るまで、そうした鉱物資源の採掘、製錬の秘密を握り、鉱業に従事する山の民を指導したのは山岳宗教者でした。水銀の神をまつる丹生神社の分布(中央構造線と丹生神社および水銀鉱山 / 水銀の神様をまつっている丹生神社の多くは中央構造線上にあります。特に高野山の周辺や、伊勢周辺に多いです。伊勢の水銀はは最近まで伊勢の白粉(水銀を使って作る)として有名で、その鉱山は明治時代まで創業していました。)  
空海は、その山岳宗教者の間で若き日を過ごしたものと思われます。このことは、四国八十八ヶ所の約半数の霊場が、著名な銅及び水銀を産出する鉱山が存在する地質の中央構造線の外側に分布することとも深いつながりがあると考えられ、空海の密教山相ラインと呼ばれています。  
空海は、835年(承和2年)、62才のとき、高野山奥の院の裏側の洞窟の中で入定し、永遠の命の本源に帰って行きました。その86年後、921年(延喜21年)、第59代醍醐天皇は、夢枕に立つ空海の徳を称え、弘法大師の称号を下賜されました。
四国遍路の歴史  
空海(弘法大師)と二人づれの四国遍路、同行二人(どうぎょうにん)の信仰は、捨身の行(しゃしんのぎょう)の一つ、土中入定(どちゅうにゅうじょう)にあると考えられています。空海(弘法大師)は、835年(承和2年)1月に五穀を断ち始め、3月10には水も断ち、それから7日後には、高野山の奥の院の岩窟に入られました。  
お弟子達は、空海の指示に従い、その岩窟の入口に自然石を積み、その口を塞(ふさ)ぎました。これは、石小詰(いしこづめ)という葬法です。自然石の隙間(すきま)から空気が通り、空海の御真言の読教が聞こえていましたが、3月21日には、いくらその岩窟に耳を近づけても聞こえなくなりました。空海(弘法大師、62才)は、生死を越えた修行によって、永遠の生命と一つになって行きました。その後、どこからともなく、お四国でお大師さまに出会ったとの噂(うわさ)を耳にするようになりました。  
紀伊山地の霊場と参詣道  
弘法大師、空海は、24才の時、出家の宣言書(三教指帰)を書き、その後、修行の場を紀伊の山に開きました。  
町石道(ちょういしみち)には、町石と呼ばれる道標(みちしるべ)が1丁ごとに立っています。高野山に詣でる人々が迷わないためです。巡礼者は町石を仏と見なし、参拝しながら歩きます。町石道を歩いて20km、標高800mの山頂に空海の開いた真言密教の霊場が現れます。平安時代の初めに建てられた大伽藍(だいがらん)、鮮やかな朱色(しゅいろ)の塔は、真言密教の根本大塔で、空海の開いた真言密教の教義を表した空間です。大日如来(だいにちにょらい)は宇宙の根本原理を示す最も重要な仏です。  
奥の院の空海廟、空海はここに眠っています。この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける。そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。835年のことです。  
空海の死後、高野山は200年以上にわたって荒廃します。平安中期に立ち上がったのは、空海の徳を慕った他宗派の僧たちでした。国宝、仏涅槃像(ぶつねはんぞう)、復興にあたった僧たちが絵師に描かせたのは、真言密教の大日如来ではなく、全ての仏教徒に受け入れられる釈迦如来(しゃかにょらい)でした。  
釈迦の臨終に接して慟哭(どうこく)、嗚咽(おえつ)する弟子たち、復興にあたって僧たちは、この仏画を中心に法会を開き、資金を集めたと言われています。  
幅広い信仰を集めるようになった高野山には、さまざまな宝物(ほうぶつ)が納められました。八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)、鎌倉時代に活躍した仏師(ぶっし)、運慶(うんけい)とその弟子たちの作とされています。豊かな肉体表現と凛々(りり)しい表情、生き生きとした目には水晶が入っています。  
国宝、阿弥陀衆生来迎図(あみだしゅじょうらいこうず)、人が死ぬ時には阿弥陀如来が迎えに来てくれるという、浄土信仰(じょうどしんこう)に基づいて描かれた傑作です。もとは比叡山の秘宝でしたが、織田信長の焼き討ちの時に持ち出され、それを入手した豊臣秀吉が高野山に奉納したと言われています。  
空海の眠る奥の院への参道には、無数の墓石が立ち並び、中には公家や大名の墓もあります。無縁仏となった墓碑や地蔵が積まれた巨大な塚、聖地高野山の空海の膝元(ひざもと)で永遠の眠りにつきたい、そう願った無数の人々の思いの結晶です。  
○1157年(保元2年)、梁塵秘抄(りょうじんひしょう、今様歌謡集、後白河法皇編著)の中に、「はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろずの仏に 疎(うと)まれて 後生(ごしょう) わが身をいかにせん」と、全ての仏たちに見放された人々の切ない歌があります。法然上人は、そのような人々も念仏により阿弥陀如来によって救われる(浄土信仰!)という。 
 
愛媛県

 

●杖ノ淵公園 (愛媛県松山市) / 空海がここに杖を突き立てると清水が湧き出たという。  
●石手寺 (愛媛県松山市) / 創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。  
●南道後温泉 (愛媛県松山市) / 「杖の淵」という泉があり、空海が巡錫で訪れた際、旱魃を見かねて錫杖で地を突き、涌き出たものという。  
●出石寺 (愛媛県大洲市) / 開山当初の山号は雲峰山と称していたが、この山に鉱山があることから空海が金山と改めたという。  
●石鎚山 (愛媛県西条市) / 石鎚山は奈良時代から修行道場として知れ渡り、空海も修行したとされる。  
●石鎚神社 (愛媛県西条市) / 役小角によって開かれたと伝えられ、その後、寂仙・上仙・空海・光定といった高僧が修行した。  
●新長谷寺 (愛媛県四国中央市) / 美濃七福神(毘沙門天) 貞応元年(1222)、後堀河天皇の勅命により、空海の四世護認上人の開山という。  
●大野ヶ原 (愛媛県西予市) / 弘法大師(空海)がこの地を訪れた際に真言宗の本山と一千軒の伽藍町とを建立したが天の邪鬼の計略によって失敗し、夜が明けると原野に大きなうねりができていた。  
●40 平城山薬師院 観自在寺 / 愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
807年(大同2)、弘法大師が平城天皇の勅願所として開基したとされ、本尊の薬師如来、脇仏の阿弥陀(あみだ)如来、十一面観世音の3像は、大師が一本の木から作ったと伝えられている。第一番札所霊山寺から最も遠い場所にあることから「四国霊場の裏関所」と呼ばれる。  
 
一本松、城辺から昔青蓮院の荘園だったという御荘の町へ。平城はこの町中にあり、観自在寺がある。大同二年、平城天皇の勅願所として弘法大師によって開創され、後に平城天皇は落髪し弘仁十二年には弘法大師から潅頂を授けられた。大師は一木に本尊薬師如来、脇仏阿弥陀如来、十一面観世音の三体を刻まれ、残りの霊木で舟形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた。この宝判は、大師が諸人の病根を除くことを祈願したものといわれ、現在もこの宝判でおかげをうけた人が多く、唖や盲目や心臓病が治ったという。昔は七堂伽藍が整い、四十八坊の末寺を有したが、その後火災で灰燼に帰し、延宝六年(一六七八)に再建されたが、昭和三十四年の失火で本堂が焼失し、現存の本堂はその後の建立。平城天皇の御陵に五輪塔があり「春の夜の籠人ゆかし堂のすみ」と記した芭蕉の句碑がある。  
 
愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。  
縁起をひも解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806〜09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。  
平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇(在位809〜23)とともに親しく行幸され、御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで「平城」とも呼ぶようになっている。  
寛永15年(1638)、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、「薬師院」の院号を授かっている。このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として旧観の回復につとめ、法灯を守っている。  
  
大同二年弘法大師の御開創の名刹で平城天皇の勅願所で、本尊は薬師如来であります。四国霊場の裏関所として万民の尊崇を受け、特に平城嵯峨両帝は親しく行幸され、御朱印を下し一切経並に大般若経を納められ、又毎年勅使を遣わされて護摩供の秘法を修せられた。これよりこの地一円を御荘と称し勅額山号に因んでこの地を平城と呼ぶようになった。寛永十五年京都大覚寺宮空性法親王巡拝の時、当山に一泊され薬師院の院号を賜わった。往時は七堂伽藍がそびえ、四十八坊の末寺があったといわれているが回禄の災に罹り焼失、宇和島藩主伊達宗利侯の祈願所として延宝六年旧観の幾分を回復したが、更に昭和三十四年の災に会い、本堂焼失、昭和三十九年大師創建当時の姿に復旧し、本堂、大師堂、心経宝塔、宝聚殿、書院等、諸堂宇が完成しました。お大師様が残された宝判は特に霊験あらたかです。 
●41 稲荷山護国院 龍光寺 / 愛媛県宇和島市三間町戸雁  
弘法大師 大同2年(807) 伝説 
807年(大同2)、弘法大師が三間平野で出会った、稲を背負った白髪の老人が五穀豊穣(じょう)をつかさどる神の化身と考え、稲荷大明神像を刻んで本尊とした。明治初期に本堂を稲荷神社として、一段したに寺の本堂が建てられ、寺の本尊は十一面観世音菩薩(ぼさつ)となった。  
  
南伊予路をたどる。山の傾斜は急で海へせり出し、海面はおだやかで大小の島が浮び美しい。宇和島から約十`ほどで三間平野に出る。寺は三間平野を見下す小高い山の上にあり、山上に諸堂が建ち並んでいる。縁起によれば、大同二年二月初午の日、弘法大師がこの地へ巡錫すると、白髪の老翁に導かれた。そこで大師はこの地が霊場であることを悟り、その尊像を刻み、堂宇を建てて安置し、稲荷山龍光寺と号し、四国霊場の総鎮守とされた。 その後人々から稲荷寺として信仰され、明治の廃仏毀釈で旧本堂は稲荷社となり、これまで稲荷の本地仏であった十一面観世音が本尊となった。いまも参道入口に鳥居があり、正面石段を登りつめたところが稲荷社で、本堂は参道途中の左手に、大師堂は右手にある。地元の人からは「三間の稲荷さん」と親しまれ、商売繁昌や開運出世を願う人が多いという。  
  
宇和島は伊達家十万石の城下町、その市街地から北東に10kmほどのところが三間平野。地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。  
縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる。  
創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。  
三間平野は四季折々の草花が美しく、毎年11月ころにはコスモス祭りが開かれる。  
 
平城天皇の御宇、大同二年(807)初午の日、弘法大師がこの地に巡錫なったとき、ひとりの白髪の老人が、稲を荷って大師の前にあらわれ「われこそこの地の住み、法教を守護し、諸民を利益せん」といい残して、忽然として姿を消した。大師はこの老人こそ五穀大明神の化身であろうと、その尊像を刻み堂宇を建てて、尊像を安置し、明神を勧請して、稲荷山龍光寺と名付け、四国霊場の総鎮守とされ本尊とせしが、明治維新より本地仏十一面観音が本尊に代りしが、大師勧請の明神は現本堂に鎮座する。 
●42 一カ山毘盧舎那院 仏木寺 / 愛媛県宇和島市三間町字則  
弘法大師 大同2年(807) 開山  
807年(大同2)、弘法大師が、牛を引いていた人に勧められて牛の背中に乗り、クスの大樹に宝珠が掛かってるのを見つけ、このクスの木で大日如来像を刻み、建立したと伝えられる。 境内には本堂、不動堂、新大師堂などが並び、かやぶき屋根の鐘楼がある。 牛馬などの家畜の守り神として知られ、本尊が大日如来であることから「大日さん」ともよばれる。  
 
仁王門があり、石段を登ると鐘楼、左の奥まったところに本堂、大師堂がある。本堂左手にはかつての通夜堂がある。縁起によれば、大同二年、この地を巡錫していた大師は、牛をひいていた老翁に出会いすすめられるままにこの牛にのった。すると近くの楠の杖に一つの宝珠がかかっているのを発見した。この宝珠は大師が唐におられるとき、有縁の地を選ばれるようにと、三鈷とともに東へ向けて投げた宝珠であった。大師はこの地こそ霊地と直感し、楠で大日如来を刻み、その尊像のマユの間に宝珠を納めて本尊とし、堂宇を建立して一 山仏木寺とした。その後牛馬安全の守り仏むして信仰をあつめた。宗尊親王の護持仏や西園寺氏の祈祷ならびに菩提所となったこともあり、慶安以降は藩主の保護によって伽藍は再建された。  
  
牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。  
大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。  
その後、寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰をあつめ、鎌倉時代には宇和島領主・西園寺家の祈祷、菩提寺となるなど隆盛を誇った。戦国時代には戦乱に災いされるなど、苦難の道を余儀なくされたが、再建に励んで面目を一新し、活気に満ちている。  
 
大同二年(807)この地を巡錫していた大師は、楠の大樹の梢に一つの宝殊がかかって光を放っているのを発見、此の地こそ霊地と直感し、楠で大日如来をを刻み、宝珠を白毫として納め、一寺を建立して一カ(カは王偏に果)山仏木寺と名づけ、草字体の心経と華厳経一巻を書写して奉納されました。寺はその後俗に大日さまと呼ばれて、ホウソウよけと、牛馬家畜の守り仏として信仰が厚く今もそのお守り札を出しています。宇和島藩主西園寺家の祈祷ならびに菩提寺として栄えましたが、永禄、元亀のころの戦乱に災され寺宝が散逸しましたが、西園寺宣久公の尽力により大半を納めたといわれます。慶安元年(1648)以降は藩主の保護により伽藍を再建し今日に至っていきます。 
●43 源光山円手院 明石寺 / 愛媛県西予市宇和町明石  
弘法大師 (822) 再興  
その昔、若い乙女に化身した千手観音菩薩が、大石をいただいて山にこもり、霊場となった伝わる。 この時、石を山に上げたことから上げ石の名がつき、明石(あげいし)に転化したとされる。5世紀前半、欽明天皇の勅願によって行者が開創し、734年には別の行者が紀州より熊野権現を勧請して山岳信仰の道場となる。822年、弘法大師が四国巡礼の際、とどまって再興に貢献したとされる。中世には国主の西園寺家、江戸時代からは伊達家祈願寺として栄える。  
  
歯長峠を越えて約十五`。宇和町よりは約5kmほど、静寂な山地へ入る。仁王門からは、山を背景に唐破風造りの本堂がみえる。欽明天皇の勅願により、円手行者が千手観世音を安置し、七堂伽藍を建立して開創し、後の天平六年(七三四)には寿元行者が、紀州熊野より十二社権現を勧請して十二坊を建立し、修験道場として法灯を伝承した。やがて弘仁十三年(八二二)弘法大師が巡錫し、嵯峨天皇の勅願により荒廃した伽藍を再興して霊場に定められた。また、建久五年(一一九一)には源頼朝が池の禅尼の菩提のため阿弥陀如来を造顕し、経塚をきずいて堂宇を再興し、山号を「源光山」に改めている。現存の御堂は宇和島藩主伊達氏が寛文十二年(一六七二)に建立したもの。第三十五世の尊栄が西園寺氏と縁戚関係を結んでから、寺は明石家代々の世襲による管理となった。次の大宝寺への途中、大師が橋の下で一夜をすごされた番外十夜ヶ橋がある。  
  
明石寺が所在する宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町である。明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。  
まず、この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532〜71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。  
弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。  
以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。  
 
住古、若い乙女に化身した千手観音菩薩が、大石をいただいて当山にこもり、以来霊場として,人々に尊崇されたが、寺伝によると欽明天皇の勅願によって五世紀の前半、円手院正澄という行者が開創したといわれていますが、のち天平六年(734)役の小角より五代目の寿元という行者が、紀州より熊野権現を観請し、十二坊を建て、修験宗の中心道場にした。更に弘仁十三年(822)弘法大師が四国巡錫の砌、この霊場にとどまり、寺院の再興に貢献されたということです。その後、建久五年(1194)には源頼朝がかつて自分の命を助けてくれた池の禅尼の菩提をとむらうため一堂を建て、経塚を背後の山に築いたと伝えられるが、そのとおり現光山を源光山と改めたといわれております。中世国主西園寺家、伊達家祈願寺として栄えて今日に至る。 
44 菅生山大覚院 大寶寺 / 愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生  
文武天皇の勅願により701年(大宝元年)に建立され、年号にちなんで名付けられた。用明天皇の在位当時(585−587)、安芸国(広島県)から来た狩人が十一面観音像を見つけ、手持ちの蓑(みの)や笠(かさ)で草庵(そうあん)を作りまつった。菅生寺と呼ばれて民間信仰の対象となっていたが、大宝寺が建てられると本尊とされた。  
  
昔から足摺岬の金剛福寺に次ぐ約80kmの長い旅路で、札掛、下板場、鴇田の三つの大きな峠を越えるもっとも苦しい道中。札所もちょうど半分。遍路にとってまさに峠の寺でもある。久万という老女が大師と出会い、その名が地名となった久万町は、海抜490mの高地にあり、大宝寺の境内は樹齢数百年の杉や桧の老樹が林立し、幽寂な空気がただよう。寺は大宝元年(七〇一)に、百済の僧がこの地に草庵を結び十一面観世音を安置したのがはじまりで、後に開削当時の年号にちなみ、大宝寺として創建され、やがて弘法大師が霊場に定めた。保元年間に後白河法皇が、元禄年間に住持の雲秀法師がそれぞれ再興し、現存の本堂は大正十四年の再建。寛保や天明の農民一揆の時など、藩主や農民からの信頼はあつく、また寺の権威も高く、そのころ十二坊を有し、隆盛をきわめた。昭和五十九年に大師堂が新築建立された。宿坊で出る心のこもつた精進料理は評判がよい。  
  
四十三番明石寺からの道のりは約80km、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高四90mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。  
縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。  
仁平2年(1152)、全山を焼失。だが、直後の保元年間(1156〜59)に後白河天皇(在位1155〜58)が病気平癒を祈願して成就され、ここに伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺とした。このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に48坊を数えるほどであった。  
その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったが、さらに明治7年には3度目の全焼、火災との苦闘を宿命にした。  
  
その昔、明神右京、隼人という兄弟の狩人が当山で観音菩薩の尊像を発見、安置したのがはじまりでその後、文武天皇の勅願により大宝元年に創建されました。霊場唯一の年号を寺号とした寺です。弘法大師が、此処で密教の修法を厳修されてより霊場となり今日に至っております。仁平二年一山焼失。保元年間(1156〜58)、後白河天皇が病気平癒を祈願全快され、妹の宮を住職とし当山を再興され、盛時には、山内に四十八坊を数えたという大寺でありました。寛保元年(1741)の久万山農民一揆に時の住職斉秀の説得でみごとな平和解決をみて寺禄百五十石を増し、松山藩主松平家の祈願所になりました。六十年後の天明七年、土佐藩池川の紙漉一揆にも舞台となりました。明治七年の火災以来、代々の住職は、再建に努め、今日、本堂、講堂、仁王門、総門、客殿、方丈、御影堂、掘出観音堂、宿坊が完成しました。参道の老杉檜の美林、楓の繁る薬師堂跡等一円が、指定名勝地となっています。 
●45 海岸山 岩屋寺 / 愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥  
弘法大師 (815) 開山  
空を自由に飛び、神通力を持つ女人の法華仙人は、815年に入山した弘法大師に山を献上、大往生を遂げた。大師は木と石の不動明王を刻み、木像本堂に、石像は洞窟に封じ込めて山全体を本尊とした。 境内には、大師の行場「迫割禅定(せりわりぜんじょう)」、大師が掘ると湧き出た「独鈷(とっこ)の霊水」がある。  
 
弘仁六年、弘法大師がこの地を訪れた時、怪岩奇峰の深山に、不思議な神通力をもった法華仙人と称する女がいた。この女は大師に帰依し、一山を献じて大往生をとげた。そこで大師は不動明王の木像と石像の二体を刻まれ、木像は本堂へ、石像は山に封じこめ、山そのものをご本尊不動明王として護摩修法された。そして寺号を海岸山岩屋寺と名づけた。それ以来修行の霊地として法灯は継承され、現存の本堂は昭和二年の再建。 この山には七種の霊鳥が住んでいたことから古くより七鳥という地名でよばれている。山麓から六百b急勾配の参道を登る。道中行倒れの遍路の墓もある。本堂は巨大な岩石におおわれている。岩そのものは凝灰岩だがこれが五十あまりそれぞれ空にそびえ、山容は奇怪そのもの。いずれも名称があり本堂左右の岩山は胎蔵界峰、金剛界峰とよばれ、大師の行場は「迫割禅定」と称する岩山。山頂には白山権現がまつられている。  
  
標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。  
弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。  
一遍上人(1239〜89)が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、『一遍聖絵』にも描かれており、13世紀末ごろまでにはこれらの不動尊像をはじめ、護摩炉壇、仙人堂、49院の岩屋、33の霊窟などがそのまま残っていたと伝えられる。いつの頃からか、四十四番大寶寺の奥の院とされていたが、明治7年に第一世の住職が晋山した。だが、同31年(1898)に仁王門と虚空蔵堂をのこし諸史料ともども全山を焼失した。大正9年に本堂より一回り大きい大師堂を再建、その後、昭和2年に本堂、同9年に山門、27年鐘楼を復興、宿坊遍照閣は38年、逼割不動堂・白山権現堂は同53年にそれぞれ建立されている。大師堂は国指定重要文化財、寺域は国の名勝、県立自然公園の指定地でもある。  
 
弘法大師が四国巡錫の砌、既に籠山年を重ね法華三昧を成就して飛行自在の身を得た土佐の国生まれと称する女人が住んでいました。大師は自ら不動尊像を刻み、石造一軀を巖峰に封じて全山これ明王と観じ、又木造一軀を本尊として転禍為福の護摩供を修せられました。時に、弘仁六年(815)であったといわれております。十三世紀の末、この不動尊像及び護摩炉檀がそのまま残っており、他に、仙人堂、四十九院の岩屋・三十三所の霊崛等のあったことが伝えられています。いつの頃からか、第四十四番大宝寺の奥の院として輪番管轄されてきましたが、明治七年、第一世の住職が晋山しました。明治三十一年、わずかに仁王門、虚空蔵堂を残して、諸史料ともども全山焼失しました。昭和十九年十一月、国の名勝に、同三十九年三月、県立自然公園に指定されています。 
●46 医王山養珠院 浄瑠璃寺 / 愛媛県松山市浄瑠璃町  
弘法大師 弘仁3年(812) 命名  
708年(和銅元年)、行基が奈良・東大寺の大仏開眼に先立って訪れ、薬師如来を安置し開基。 812年(弘仁3年)、弘法大師が薬師瑠璃光如来にちなんで浄瑠璃寺と名付けた。 参道の石段を上ると、正面に本堂右に大師堂、左に弁財天がある。本堂前にの「仏足石」に自分の足を合わせると健脚、交通安全に利益があるとされる。  
  
三坂峠(海抜710m)は「三坂越えれば吹雪がかかり、戻りやつま子が泣きかかる」とうたわれたほど、馬子泣かせの峠で、土佐街道最大の難所であった。久万の町から国道を登り坂で、三坂峠を越え途中の塩ガ森より旧へんろ道を下ると浄瑠璃寺の門前へ出る。道中松山城や瀬戸内海が遠望できる。歩きお遍路様は峠から旧道を下り丹波を経て浄瑠璃寺に至る。寺の境内は天然記念物の伊吹柏槙が生い茂り、本堂前には仏足石がまつられている。本堂は天明五年(一七八五)の再建。ご本尊は行基菩薩が刻まれた薬師如来、寺の創建は和銅元年(七〇八)。薬師如来の別名瑠璃光如来から寺号を浄瑠璃寺と名付けた。後にこの寺を再興した尭音は、社会事業家としても知られ、寺の復興後は托鉢の日々をすごしその浄財で岩屋寺から松山へいたる土佐街道の八力所に橋をかけ、松山寄りの立花橋は大水のたびに流出していたのを、岩国の錦帯橋の構造を研究し、架橋に成功している。いまも立花橋の近くに尭音の供養塔が立っている。石段の登り口に正岡子規の句碑があります。  
  
浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。  
縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。  
約百年後の大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。室町時代の末期に足利幕府の武将、平岡道倚が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、ご利益で全快したのに感激し、寺塔を再興して厚く帰依した。  
江戸時代の正徳5年(1715)に山火事で本尊と脇侍をのぞいてほとんどの寺宝、伽藍を焼失したが、70年後の天明5年(1785)、地元の庄屋から住職になった僧・堯音が復興に尽力した。堯音は、托鉢をしながら全国を行脚してその浄財で現在の本堂その他の諸堂を再興している。また、社会事業家としても知られ、岩屋寺から松山市にいたる土佐街道に、苦難の末に8つの橋を架けている。  
境内の樹齢1,000年を超す大樹イブキビャクシン(市天然記念物)が、信仰を得ている。  
  
行基菩薩が、奈良の大仏開眼に先だち仏教宣布のため伊予に来られた時ここを讃仏修業の適地として伽藍を建立、自ら医王仏を手彫して本尊となし薬師如来のおられる浄瑠璃浄土の名を取り浄瑠璃寺と命名された。時に和銅元年(708)のことであります。弘法大師が唐より帰朝し大宰府観音寺に留在中、大同二年(807)当寺に来錫、伽藍を再興し四国霊場の一つに加えられました。戦国の世、足利幕府に属していた河野家の武将、平岡遠江守道倚は、本尊の利益に感激し荒廃せる寺塔を中興しました。正徳年間(1705)山林の火災から堂坊悉く焼失したが天明五年(1785)再建なり現在に至っております。 
●47 熊野山妙見院 八坂寺 / 愛媛県松山市浄瑠璃町八坂  
弘法大師 再興  
行者・役小角(おずぬ)が開基し、伊予国司の越智玉興が文武天皇の勅願寺として701年(大宝元年)に創建した。伽藍(がらん)を建立するため、8つの坂を切り開いたことから寺号がついた。 荒廃したが、弘法大師が長く滞在して再興したと伝わる。本尊は秘仏の阿弥陀如来。 平安時代の僧、恵心僧都(えしんそうず)の作といわれ、県指定文化財。  
  
当山の歴史は古く、大和時代から約千三百年余りも続く古刹であり、お大師さまがお生まれになられる、百数十年ほど前に修験道の開祖、役の行者小角(神変大菩薩)によって開かれました。八坂寺の寺号はますます栄えるを意味する「いやさか(八坂)」に由来し、大宝元年に第四十二代文武天皇の勅願寺として小千伊予守玉興公が、七堂伽藍を建立するにあたり、大堂山(現在は大友山)に八ヶ所の坂道を切り開いて寺を創建したからとも言われている。又、都の朝廷とも関係深く、勅使の出入りの盛んな寺でもあり、弘仁六年お大師さまが八十八ヶ所の霊場に定められた。その後は、修験道の根本道場として栄え、紀州から熊野権現の分霊を移して十二社権現と共にお祀りして、山号を熊野山とし「熊野山八坂寺」と呼ばれるようになった。当山は修験道場のため開基以来、住職は代々八坂家の世襲であり、今に至っております。  
  
浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。  
修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。  
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942〜1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に12坊、末寺が48ヶ寺と隆盛をきわめ、僧兵を抱えるほど栄えた。  
だが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが建ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。  
本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約8,000祀られている。  
 
当山の開基は役の行者小角と伝えられ後弘法大師によって再興されたものであります。伽藍を建立するとき八ヶ所の坂道を切り抜いて道路を作ったところから、八坂寺と称え、裏山を御堂山又は行道山といいます。寺は山の中腹にあり、大宝元年小千伊予守玉興公が開き、文武天皇の勅願所となり、弘法大師は弘仁六年八十八札所に加えたということであります。本尊は阿弥陀如来、脇立毘沙門天は鎌倉期の傑作であります。その後、紀州から熊野山八坂寺と呼ばれました。末寺を有する本山として盛大を極め、修験道の根本寺として僧兵を有するほどであったといいます。しかし、大正の兵火やたび重なる火災のために寺の規模は縮小し現在にいたっていますが、鎌倉期の石造層並びに宝筐印塔が残っています。 
●48 清滝山安養院 西林寺 / 愛媛県松山市高井町  
弘法大師 大同2年(807) 再興  
741年(天平13年)、聖武天皇の勅願により行基が建立。807年(大同2年)、弘法大師は現在地へ移して再興したと伝わる。本尊は十一面観世音菩薩。 近くには干ばつに苦しむ民を救うため、弘法大師がつえを突き立てると清水が沸きでたとされる「杖ノ淵(じょうのふち)」があり、「名水100選」にも選ばれ、池には刺身のつまに用いられる水藻のテギレイが自生する。  
  
松山方面に向かって約5kmほど行くと田園の中に西林寺がある。川の土手より低い所に寺があることから、罪ある者が門を入ると無間地獄に落ちると遍路はよび、関所寺といっている。前を流れる内川の附近には「ていれぎ」という草が自生し、市の天然記念物に指定されている。本堂は、元禄十四年(一七〇一)の再建。縁起によれば聖武天皇の勅願によって天平十三年(七四一)行基菩薩が徳威の里に堂宇を建立し、一宮別当寺として開創した。大同二年(八〇七)には弘法大師は現在地に寺を移し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として安置した。また、大師は大旱魃に悩む村民を救済するため、杖を所々に突いて清水の湧く水脈を発見し、村民をうるおした。寺の西南にある「杖の渕」はその遺跡だという。寺の周囲のいたるところに小川が流れている。「お大師さまのおかげで水だけは不自由しない」と地元の人々は杖の渕に修行大師像を奉安し感謝している。  
 
寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。  
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。  
このころ村は大旱魃で苦しんでおり、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。  
時代は江戸・寛永年間(1624〜44)、火災で堂塔を焼失した。元禄13年(1700)に松平壱岐守はじめ、家老、奉行など諸役人の手により一部を再建、宝永4年(1707)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、本堂と鐘楼堂の再興に尽力、さらに江戸末期に大師堂と仁王門を復興している。  
  
当寺は清滝山安養院西林寺と称し第四十五代聖武天皇の天平十三年行基菩薩諸国を巡化して伊予に入り、浮穴郷、来目部、徳威の里、王楯に錫を留め国司越智宿称玉純と共に一宇の仏堂を建立し本尊十一面観音を彫みて安置しました。降って第五十一代平城天皇の大同二年弘法大師は普ねく四国の霊跡を巡礼し給い当国に至り国司越智宿称実勝と謀り当山を現地に移して霊場第四十八番に定め国家の安泰を祈願する道場と定められました。江戸時代に及んで、寛永年中一山烏有に帰し元禄十三年松平隠岐守及び家老、奉行、御代官、久米、浮穴郡役人等により再建しました。宝永四年当山中興覚栄法印代に本堂及び鐘楼堂を再建、文化十年に大師堂、天保十四年に仁王門を再建し今日に至っております。 
49 西林山三蔵院 浄土寺 / 愛媛県松山市鷹子町  
天平年間(729−749)に、考謙天皇の勅願ににより、恵明上人が創建。 本尊の釈迦如来は行基の作と伝えられている。天徳年間(957−961)に、空也が訪れ、3年間、滞在した。 自分で彫ったといわれる重要文化財の「空也上人立像」がある。寄せ木造りで、かねをたたきながら「南無阿弥陀仏」を唱え、遍歴する姿で、口からは六字の名号が仏となって現れている。  
 
西林寺から約3.3kmほど歩くと空也谷というところがある。山裾の静かなところだがこれは村人が空也上人を慕ってつけた地名でここに浄土寺がある。空也上人はやせて腰のまがった身に鹿の皮を裘にしてまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、念仏の一言一言が小さな仏になって口から出ている姿をされている。天徳(九五七〜六○)のころ、上人が四国へ渡って浄土寺に三年間とどまり民衆の教化に励まれた。浄土寺にある上人像は、上人がこの地を去るにあたって、村人がお姿だけでも留められるようにと懇願したので、自像を刻んで残したといわれる。大正十一年建立の仁王門を入れば正面に寄棟造りの本堂がある。本尊は行基菩薩作の釈迦如来。寺は天平年間に開創され、孝謙天皇の勅願所であった。後に弘法大師が巡錫し、伽藍を再興している。現存の本堂は文明十四年(一四八二)領主河野通宣の再建で国の重文。本尊厨子と空也上人像も重文に指定されている。  
  
境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。浄土寺は空也上人(903〜72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。  
この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。  
空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。  
本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。  
  
天平年間(729〜48)恵明上人の手によって開基せられ、孝謙天皇の勅願寺として盛時には、寺内八丁四方に及び、六十六坊の末寺をもつ大伽藍であったが、応永年間の兵火で焼失。文明十三年当時の領主河野氏によって再建せられ、現在の本堂はその時のもので和唐様折衷の代表作として重要文化財に指定されています。又当山には、浄土宗の開祖円光大師、二世聖光上人、三世良忠上人の自作の像があったところから三蔵院と呼ばれています。又、空也上人が天徳(957〜60)の頃当寺をを訪れ、三年後この地を去るとき村人が名残りを惜しんでせめてお姿なりともーという懇願により自像を刻まれたのが、寺に伝えられている重要文化財空也上人像であるといわれています。民衆教化の旅の空也上人像であります。 
50 東山瑠璃光院 繁多寺 / 愛媛県松山市畑寺町  
天平勝宝年間(749−757)に考謙天皇の勅願で行基が開設。 薬師如来が本尊。 各地を行脚した時宗の開祖で松山出身の一遍上人(1239−1289)も一時滞在した。 江戸時代には徳川家の帰依を得て、本堂の左側の聖天堂におは四代将軍家家綱の念持仏の一体、歓喜天がまつられている。 盛時には末寺が120あったと伝わる。  
  
この付近は松山市の郊外で、人家も多く道ゆく人との出会も多い。空也谷から八幡神社を経て、なだらかな坂を登ると、右手淡路山の中腹に山門がみえてくる。門を入れば正面に本堂、右に大師堂、左に聖天堂、庫裡がある。ご本尊は薬師如来。寺の開基である行基菩薩の作で孝謙天皇の勅願所であった。その後、伊予入道頼義や尭運によって再興され、光明寺と号したが、弘法大師が長く留まって東山繁多寺に改称した。時宗の開祖である一遍上人もこの寺にとどまって学問修行したと伝えられる。上人はその後「捨聖」として遊行し、正応元年(一二八八)亡父如仏の追善のために三部経を繁多寺へ奉納している。応永元年(一三九四)には京都泉涌寺二十六世快翁師が後小松天皇の命で繁多寺第七世の住職となり、それより高僧が相継いで住職となったが、天和のころ龍湖という名僧が出て徳川家の帰依を得ることとなり、四代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天を安じた。  
  
寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。  
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。  
その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。  
また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382〜1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。  
さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。  
  
東山瑠璃光院繁多寺は孝謙天皇勅願、行基菩薩開基で、今を去る約千二百年前天平勝宝年間に建立されました。後、弘仁年間に弘法大師は当寺に留錫され、その後、源頼義が再興し、後宇多天皇の弘安二年には、闌誌辮lが勅命を受け、当時の国難蒙古襲来の退散祈祷を行いました。この闌誌辮lと同時代の時宗の開祖一遍上人は、当寺参籠の際、浄土三部経を納めました。その後、京都泉涌寺代二十六世快翁宗師は、後小松天皇の応永元年に綸旨を受け、当寺の第七世となられました。この泉涌寺は御寺ともよばれ皇室の菩提寺であります。この因縁で当寺には十六弁の菊の御紋章のついた瓦が残されています。なお、当寺に奉祀されている歓喜天は徳川四代将軍家綱の念持仏、元禄九年鋳造の梵鐘の願主は法雲律師であります。 
51 熊野山虚空蔵院 石手寺 / 愛媛県松山市石手  
728年(神亀5)、聖武天皇の勅願により、伊予の大守越智玉純が創建したと言われる。 当初は安養寺と呼ばれていた。本尊は行基が開眼した薬師如来。国宝の仁王門や重要文化財の本堂、三重塔、護摩堂、鐘楼のほか、境内にはたくさんの堂がある。東側山頂に立つ高さ16mの大師像は、1984年に建立されたもので、遠くからも望める。  
  
四国観光のメッカだけに道後の湯治客もまじって賑わい、門前には名物の草餅を売る店が並び繁昌している。仁王門までの回郎は絵馬堂にもなって句や連歌、能役者などの名前を書いた額が納められている。縁起によれば、道後湯築城主河野息利の妻が男児を生んどがその子は生後三年たっても左の手がひらかず、安養寺の住職が祈祷したら手をひらき、「衛門三郎再来」の小石がころげ落ちた。その子は息方と名づけられ十五歳で家督をついだが、この子こそ天長八年十月、十二番焼山寺の山中で亡くなった衛門三郎の生まれかわりなのである。やがて安養寺を石手寺に改め、この石は寺に納められた。寺の草創は聖武天皇の神亀五年(七二八)伊予大守越智玉純が勅を奉して鎮護国家の道場として伽藍を建立し、安養寺と名づけたことにはじまる。ご本尊の薬師如来は天平元年(七二九)行基菩薩の開眼。現存の本堂、三重塔、仁王門、鐘楼堂などは鎌倉末期の再建。  
  
日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。  
そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。まず、一部を簡略にふれておこう。国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。  
縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。  
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。  
鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。  
  
当山は、行基菩薩の開基と伝えられている。後、天平年間に伊予の大守越智玉澄が勅を奉じて、鎮護国家の道場として建立したという。法相宗の安養寺と称していたが、弘仁四年(813)弘法大師によって真言宗となり、寛平四年(892)に石手寺と改称したとのことです。平安時代の末には七堂伽藍が完備し、鎌倉時代の末期、文保から元弘年間にかけて河野氏等によって相ついで堂塔が再建され、現在の本堂(五間四面入母屋造り)、仁王門、三重の塔は文保二年(1318)頃の建築として、鐘楼堂は元弘三年(1333)、梵鐘は建長三年(1251)と共に国宝重要文化財に指定されていますが、天正の争乱にあたって長曾我部の兵火に会いその大方を焼失したと伝えられています。 
52 龍雲山護持院 太山寺 / 愛媛県松山市太山寺町  
6世紀、豊後の国の商人真野長者が瀬戸内海を航行中、松山市沖で嵐に遭い、観音様に祈りを込めると、山の頂上から一筋の光が夜の海を照らし、船は無事に高浜の岸にたどり着いたことから、報恩に開基したと伝わる。本尊は九一面観世音菩薩(ぼさつ)像。鎌倉時代に和、唐、天竺(てんじく)の様式で再建された本堂は国宝。夢殿には聖徳太子がまつられ、毎年1月15日には太子祭も営まれる。  
  
太山寺への途中に道後温泉がある。万葉集に「伊予湯」とあるように古くから霊泉として知られ遍路もこの霊泉で旅の疲れをいやす。松山は四国一の人口を有する県都。人々で賑わう市街を抜けて西へ向かう。寺は瀧雲山の中腹にあり、高浜港と背中合わせになっている。仁王門からは杉の大樹が並び、登り坂の参道に本坊や、遍路宿の面影をとどめる民家があり、急な石段を登り山門を入ると、正面に嘉元三年(一三〇五)再建の本堂(国宝)がある。用命天皇の二年、豊後の国の真野という長者が、大阪へ向かう途中、高浜沖で難破しようとした。ところが信仰していた十一面観世音に救われたので、報恩のため一寺を創建し、その尊像を安置した。後に聖武天皇をはじめとする歴代天皇の勅願で十一面観音像を奉安している七躰が重要文化財。境内には開基の真野長者をまつる長者堂があり、毎年四月第三日曜日に長者の供養が営まれる。  
  
開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。  
長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、いらい運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。  
その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724〜49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749〜58)のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。  
のち、後冷泉天皇(在位1045〜68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。本堂内陣の厨子に安置されている。なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。  
  
用明天皇の二年(千三百六十年前)九州豊後国(大分県)に真野長者という大富豪が海路難船を免れたので本国に帰ると、工匠を集め、十間四面の御堂の木組みをして運び、一夜のうちに建立したと伝えられています。後に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が十一面観世音を刻まれたがいまは正面厨子内に安置され、厨子の両側に後冷泉以下六帝の勅願による像高1.5mの十一面観音像六体が安置され、いづれも国の重文であります。現本堂は、真野長者の建立後三度目の建立で、鎌倉時代嘉元三年(1305)六百七十年前のことでありました。真言密教の本堂としては、屈指のもので国宝であります。又仁王門も鎌倉時代のもので重文となっています。 
53 須賀山正智院 円明寺 / 愛媛県松山市和気町  
円明寺は聖武天皇の勅願により、天平年間(729−49)、行基を開祖に創建されたと伝わる。 兵火により荒廃し、1633年(寛永10)、地元の豪族・須賀重久が現在地に再建した。本堂内には左甚五郎の作とされる竜の彫り物があり、境内にはキリシタン石塔が安置されている。 同寺から少し離れた大川に「遍路橋」と呼ばれる橋がある。遍路橋は、松山市内にはこのほか、51番・石手寺の近くなど2ヶ所がある。  
  
四国遍路に関心の深かったアメリカのスタール博士は大正十三年に八十八ヵ所を巡拝するが、円明寺の本尊厨子に打ちつけてあった鋼板の納札を高く評価した。以来円明寺は納札のある寺として知れわたり、スタール博士は「お札博士」といわれた。この納札は慶安三年(一六五〇)京都の住人家次が巡拝中打ちつけたもので、遍路の歴史を知る上で貴重な資料といえる。厨子内に安置されているご本尊は、行基菩薩作の阿弥陀如来。天平勝宝元年(七四九)聖武天皇の勅願により、和気西山の海岸に創建され、寛永十年(一六三三)現在地に再興された。松山の郊外とはいえ、民家に囲まれた町なかの寺。山門、楼(中)門、本堂、大師堂、観音堂が狭い境内に建ち並ぶ。河野家の遺臣たちの追善供養のために建立された観音堂には十一面観音像が奉安されている。境内の片隅にマリアの像を浮き彫りにした石塔があり、キリシタン禁制の名残をとどめている。  
  
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。  
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。  
奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。  
縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。  
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。  
  
聖武天皇の勅願所で、天平正暦年間に、行基菩薩を開基として、和気の海浜西山に創建せられて、海岸山円明密寺と名づけられました。七堂伽藍の備わった大寺として栄えましたが、たびたびの兵火にかかって、衰微していたのを元和年間(1615〜1623)に須賀重久が、今の地に再興した。寛永十三年に御室の宮覚深法親王の令旨を受け、仁和寺の直末となり、須賀山を賜わり正智院円明寺と号しました。降って、文政九年御室の宮から、金剛幢院の御下文がありました。時に盛衰はありましたが法灯は今に新たであります。当寺の寺宝としては古納経札、当寺本尊の厨子に止められある銅製の納め札は慶安三年の奉納。四国仲遍路同行二人の今月今日京極平人家次と刻まれている。 
●54 近見山宝鐘院 延命寺 / 愛媛県今治市阿方甲  
弘法大師 修行 
奈良時代、行基が不動明王を刻み、近見山の山頂に寺をたてて安置したのが始まりとされる。平安時代に嵯峨天皇の 勅願を受けて訪れた弘法大師が修行し、円明寺として54番札所に定められた。以後、数回の戦火に遭い1727年、近見山から現在地へ。明治初期、寺名も53番円明寺と同じだったため、延命寺と改名した。  
  
松山から瀬戸内海沿いにたどると、今治の手前六`ほどのところに近見山(海抜二四四b)がある。いまでは斎灘、燧灘にかこまれた芸予諸島の南半と、来島海峡の全景を展望する絶好の地となっているが、昔この山頂に延命寺があった。寺の創建は行基菩薩が不動明王を刻んで本尊として安置したのにはじまり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が再興し、近見山円明寺と号した。そのころ七堂伽藍が整い、荘厳をきわめていたが、たびたびの兵火にかかり、そのたびに寺は移転し、天正年間の兵火にあってから山の麓に移建された、明治以降寺名が円明寺から延命寺に改められた、宝永元年(一七〇四)の梵鐘は住職の私財で鋳造したもの。それ以前の梵鐘は戦乱の合図の鐘に使われ夜になると叩かないのに「いぬるいぬる」と鳴くので恐れられた。また、松山城へ持出されそうになって「イヤーン、イヤーン」と鳴くので置き去りにされたという。  
  
今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている近見山という標高244mの山がある。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。  
縁起によると、養老四年に聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810〜24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809〜23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。  
その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。この間、鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然(1240〜1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。  
寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている。  
  
この寺は行基の開基、弘法大師の御再興、嵯峨天皇の勅願所でありました。昔は背後に聳ゆる近見山(国立公園)にあり、七堂伽藍は甍を連ね、百坊が谷々にあって、信仰と学問修行の中心道場でありました。再三の火災で古いものは一切焼失しましたが、本尊不動明王は、その都度火難を免れました。鎌倉時代に大学僧凝然国師が、この寺の西谷の坊で「八宗綱要」を著わしたことは余りにも有名であります。寺名の円明寺(俗称延命寺)は、松山市の西国五十三番円妙寺と間違って困り円明寺の称をやめて、俗称の「延命寺」を正式の寺号としました。境内には「あせびの木」が沢山あって、春彼岸頃から約一ヶ月間可愛い花をつけます。伝説には、梵鐘の伝説・孫兵衛伝説・自覚法師伝説などがあります。 
55 別宮山金剛院 南光坊 / 愛媛県今治市別宮町  
88箇所で唯一坊のつく寺。今治市沖の大三島にある大山祇(おおやまつみ)神社の境内にあったが、船でおまいりしなければならない不便さから712年(和銅5年)に現在地に分社して建立した。 戦国時代の兵火と第二次大戦の空襲で大師堂と金毘羅堂を除いて焼失。再建された本堂は鉄筋コンクリート造り。  
  
今治から船で一時間のところに大三島があり、大山祗神社がある。大宝三年(七〇三)この神社の別宮を越智郡日吉郷に移し、二十四坊あった別当のうち八坊を和銅五年(七一二)との二回にわたって同地へ移した。弘法大師は四国巡錫のとき、別宮に参拝し、坊で法楽をあげて霊地とした。後に天正年間の良曽我部元親の兵火で八坊は焼失し、その中で禄の少ない南光坊のみが再興され、明治の神仏分離まで別宮の法楽所として存続した。この間藤堂高虎は今治城修築中に薬師堂を建立し、次の城主久松氏も祈祷所に定めて祭祀料を奉納したという。明治以降は本社本尊である大通智勝仏を移したが、昭和二十年八月の戦災で本堂、薬師堂などを失い、大師堂と護摩堂が残された。近年本堂が再建されている。ご本尊の大通智勝仏は法華経第七化城諭品に説かれており、釈迦如来は大通智勝如来の第十六番目の弟子である、と法華経に説かれる。寺には書家、川村驥山の菅笠や筆塚がある。  
  
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。  
縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。  
のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。  
さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。  
太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。  
  
当山は、今から千二百七十年余前越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、大山積明神を、大三島に勧請し、御法楽所として二十四坊の梵刹を建立しました。後十一年を経て和銅5年、日吉の郷にも勧請して、日本総鎮守三島の御前と称して奉祭した。天正年間、兵火に罹り、社殿伽藍悉くが焼失して、僅かに、当山の一坊だけ別宮明神の別当として再建され、慶長五年、薬師堂も再建されましたが、明治初年の廃仏毀釈により、御本地仏として社殿に奉安してあった大通智勝如来、二大脇士、十六大王子を薬師堂に遷座し、別宮明神と分離独立したが、昭和二十年八月戦禍に遇い、大師堂、護摩堂を残して、本堂、薬師堂、鐘楼、庫裡、付属建物、什器、宝物等一切を灰塵に帰し、現在に至りましたが本堂は昭和五十六年秋、薬師堂は平成三年春に再建しました。 
●56 金輪山勅王院 泰山寺 / 愛媛県今治市小泉  
弘法大師 弘仁6年(815) 建立 
淳和天皇の勅願所。815年(弘仁6年)、弘法大師がこの地を訪れた時、蒼社川が長引く梅雨のために氾濫をおこし、地元の農民が苦しんでいることを聞き、堤防を築造。さらに土砂加持の秘法を7日間修行し、満願の日に本尊地蔵菩薩(ぼさつ)を感得し、祈願成就をはたした。本尊をまつるために寺を建立したとされる。  
  
弘仁六年、弘法大師がこの地を巡錫した時梅雨のため蒼社川の水が氾濫していた。伊之子山(八七二b)附近に源を発する蒼社川は、玉川村から今治市の東南を抜けて燧灘へ流れ込んでいる。そのころこの地に伊予の国府があったが、国の力では防ぎようがなく、毎年梅雨期になると川が氾濫して田地や家屋を流し、人命を奪った。農民は恐れ苦しみ、この川を人取川といって悪霊のしわざと信じていた。そこで大師は川原に壇を築き「土砂加持」の秘法を七座厳修された。満願の日にご本尊地蔵菩薩を感得し、祈願成就したので一寺を建立してご本尊を安置し、延命地蔵十大願の第一「女人泰産」から寺名をとられ「泰山寺」とした。後の天長元年(八二四)淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍も完備、塔中十坊を有する大寺となった。しかしたびかさなる兵火で縮少し、山麓の現在地へ移建されるのである。近くに遍路へのサービス機関の同行新聞社がある。  
  
泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。  
弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。  
大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。  
寺はその後、淳和天皇(在位823〜33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。  
泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然(1240〜1321)が誕生した地とされている。  
  
弘仁六年弘法大師がこの地を巡錫しているとき、梅雨のため蒼社川の水が氾濫していました。大師は川原に檀を築き「土砂加持」の秘宝を七座厳修されましたところ、満願の日にご本尊延命地蔵菩薩が空中に出現したといいます。大師は示現せられた地蔵尊を刻まれて本尊とせられました。二尺四寸(八〇センチ)座像の秘仏でありましたが、一寺を建立して本尊を安置し、延命地蔵経十大願の第一「女人泰山」から寺号をとられ「泰山寺」と名づけられました。往古は、裏山に寺があり、七堂伽藍がととのい塔中に地蔵坊、不動坊等十坊を有した程の巨刹でありましたが、度重なる兵火に焼かれ今日に至ったのであります。泰山寺の横の「塔の元」と言う所に華厳学僧凝然大徳の御誕生推定地があります。 
●57 府頭山無量寿院 栄福寺 / 愛媛県今治市玉川町八幡甲  
弘法大師 開基 
嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が開基。大師が周辺の海で多発する事故を憂い、府頭山の山頂で安全を祈願したところ、満願の日に阿弥陀如来が現れ、本尊としてまつったとされ、海運業に携わる人たちの信仰が厚い。その後、境内に社殿設けられ、神仏混同の石清水八幡宮を創建。 後の神仏分離令で社殿は近くに移転された。  
  
府頭山(八幡山)を目指して田圃道を歩み山麓からの急な参道を登る。正面は八幡宮、途中から右へ折れて栄福寺の境内へ入る。明治の神仏分離まで栄福寺は勝岡八幡と称し、神仏が同居していた。縁起によれば、嵯峨大皇の勅願により弘法大師の開創。大師が瀬戸内海を巡錫し、内海の風波海難の平穏を祈って大護摩を修されていると、海上はたちまち穏やかになり、海中より阿弥陀如来を感得し、ご本尊として奉安した。本堂は八幡宮への参道を背にし、他の堂より一段高い所にある。本堂向かって右手に回廊があり、大師堂、薬師堂など諸堂がコの字型に結んでいる。本堂回廊には昭和八年に奉納されたイザリ車と松葉杖がある。奉納者の宮本武正さんは当時十五歳で、巡拝中にこの地で歩けるようになり、感謝のあまりイザリ車を奉納したのである。  
  
瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。  
縁起によると、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。  
栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。  
明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。  
  
五十二代嵯峨天皇の勅願所で、高祖弘法大師の御開創による。大師が四国巡錫の砌、この地方に海難事故がしばしば起こるのを、あわれに思召され当府頭山頂で海供養の護摩供を修法されると風波平穏となり阿弥陀如来が出現した。これを本尊様とし、府頭山頂に一宇を建立しました。これが当山のはじめであります。その後清和天皇の貞観元年(八五九)大安寺の行教和尚が、宇佐八幡の霊告をお受けになり、山城の男山八幡創建に行く途中、暴風にあいこの地に漂着しました。その時当山の山姿水態がよく男山ににていると感激して、境内に八幡宮を勧請し、社殿を造営し、神仏合体の八幡宮を創建しました。昔から破邪討逆、海陸安全、福寿増長の祈願寺として、諸人の尊信をうけています。明治の神仏分離政策により、当寺は旧地を転じて、現地に移りました。大師堂は、その遺形であります。 
●58 作礼山千光院 仙遊寺 / 愛媛県今治市玉川町別所甲  
弘法大師 弘仁年間(810−824) 再興 
天智天皇(661-671)の勅令により、伊予の国主・越智守興が建立。本尊の千手観世音菩薩は、海から上がった竜女が、一刀三礼して彫り上げたと伝えられている。弘仁年間(810−824)弘法大師が訪れ、荒れていた寺を再興したという。  
  
仙遊寺は、天智天皇(662〜672)の勅願より創建された。本尊は千手観音。海から上がった竜女が一刀三礼して彫り上げたといわれ、作礼山の名の由来にもなっています。その後、養老2年までの40年間阿坊仙人という僧がここで修行、諸堂の整えたが雲と遊ぶかのように、ある日こつ然と姿がかき消えた。仙人の話は人々の口から口へと伝えられ、いつの間にか寺の名となった。明治時代、宥蓮上人という高僧がこの寺の山主となり、その法力で人々の信仰を進めたが衆生済度の思いをこの世に残すべく、生きながら土中に埋まって入定した。境内にはこの僧の入定塚がある。仙遊寺の参道途中に、弘法大師の御加持水があり、この井戸から湧き出た霊水は、多くの村人を諸病から救ったと伝えられ、いまだに人々の足がたえない。仙遊寺文庫には天皇、諸大名の御文、諸状が多数残されています。  
  
境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。  
創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。  
さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。  
弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。  
江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけとなっていたが、明治時代の初期、高僧・宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力した。宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏として入定している。境内には、上人を供養した五輪塔がある。  
  
当山は、第三十八代天智天皇の勅願により伊予の大守越智守興公が建立した名刹。弘法大師が四国霊場開創のおり、当地に留り御修法され、大師自らの手で掘られた御加持水が旧参道に残る。天智天皇の念持仏である本尊千手観音菩薩を龍女が一刀三礼をしてお刻みになったことから作礼山と号し、阿坊仙人が二百四十年間遊戯三昧に住し、七堂伽藍は整ったが、或る日雲の如く消えてしまったと言う伝説により、仙遊寺と名付けられた。古くから近隣の信仰の中心であり、境内には日本最後の入定仏、宥蓮上人の五輪塔がある。伝説が多く残る山寺である。 
59 金光山最勝院 国分寺 / 愛媛県今治市国分  
741年(天平13年)に聖武天皇の勅願で行基が建立。 藤原純友の乱(939)など戦火で4度焼失した。現在の本堂18世紀末の建立。創建当時の国分寺は現在の場所から150m東にあり、七重塔の礎石13個が残る。 「伊予国国分寺塔跡」として国指定史跡。  
  
創建当初の規模からすれば現在の寺域は縮少されているが、本堂を中心に大師堂、金毘羅堂など整備されて建ち並んでいる。ご本尊は薬師如来(重文)。天平十三年(七四一)聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開創し、七堂伽藍は整備されて諸国の国分寺にくらべ豪壮なかまえであった。第三世智法律師のときに弘法大師が長く留まって五大尊の絵像一幅を残し、真如も二ヵ年滞留し、法華経の一部を染筆して残した。その後三度の戦火にあいながら、いずれも国主などの力によってまもなく復興された。しかし天正十二年(一五八四)の戦火で四たび堂塔を焼失してからは、経済的な支援者がなく、その後は復旧せず茅華の小堂が建っているのみだったが、寛政元年(一七八九)恵光上人が金堂(本堂)を建立し、その後、諸堂が再建された。書院の展示室には、奈良時代から平安時代初期にかけての鐙瓦や字瓦が保管されている。近くに七重塔の礎石がある。  
  
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。  
国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(?〜862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。  
その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。  
幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。  
四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。  
  
国分寺は、聖武天皇の勅願によって、天平十三年(七四一)行基菩薩が開創し、七堂伽藍が整備されて、他の国分寺にくらべ豪壮なかまえでありました。第三世住職智法大師の時、弘法大師が杖を留めて滞在、五大尊の絵像を残され、大師の弟子真如も二年間滞留、法華一部を染筆しました。それから後は、受難の歴史で、天慶二年(九三九)藤原純友の乱、さらに治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵で、河野道信は、元暦元年(一一八四)平氏と戦火を交え、さらに南北朝時代貞治三年(一三六三)細川頼之の兵火に焼かれること三度、そのつど国司の力によって再建されましたが、天正十二年(一五八四)年長曾我部元親と伊予の国主河野通直の戦いで、四たび堂塔を焼失してからは、四十三世恵光上人が寛政元年(一七八九)金堂を再建されたのが、現在の本堂であります。 
●60 石鈇山福智院 横峰寺 / 愛媛県西条市小松町石鎚甲  
弘法大師 大日如来坐像安置 
修験道の開祖、役小角が651年に開祖したとされる。 弘法大師が、シャクナゲの木に刻んだ大日如来坐像が本尊として安置されており、愛媛県有形文化財に指定されている。石鎚山の北側中腹(標高約750m)にあり、四国霊場では3番目の高所。悪いことをした人、邪心を持ってる人は、弘法大師のおとがめを受け、ここから先へは進めなくなると言われる関所でもある。5月上旬から中旬にかけて、境内一面に咲く薄桃色のシャクナゲの花は、参拝者の心を和ませてくれる。冬場は雪が積もり道路が凍結するため、通行禁止になる。  
  
昔から難所のひとつに数えられ、近年林道が開通し、境内近くまで自動車が入れるようになったけれど、今もここだけは歩くという遍路も多い。五十九番からは湯浪より登る。谷川沿いの山路だが、やがて勾配の急な狭い道になる。一方、石鎚農協前からは道巾も広く歩きやすいが、急勾配の坂道で2.5km登ったところに小堂があり、さらに500m登れば頂上の星ガ森(海抜800m)。石鎚山(一九八二b)の西の遥拝所になっており、石鎚山のながめはすばらしい。横峰寺へはここから500m下る。仁王門を入ると右に権現造りの本堂がある。白雉二年(六五一)役行者小角が星ガ森で練行中に石鎚山項に蔵王権現が元現した。そこで小角はその尊像を刻み小堂を建立して安置した。弘法大師はこの地で星供を修され、石鎚山へ二十一日間日参された。結願の日再度蔵王権現が示現したので大師は当山を霊山と思われ、大日如来を刻み本尊とし、霊場に定めた。  
  
西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は山の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。  
縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。  
弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806〜10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。  
  
大同六年弘法大師登山、当地を霊山と定め本尊に大日如来を刻み安置した。石鎚山の興隆者石仙菩薩は延暦年間、その法力により桓武天皇の脳病に霊験あらたかな菩薩とよばれ現在にいたり、当山の脇仏として祀られている。当寺は、明治四年より四二年迄神仏分離、廃仏毀釈により廃寺となりましたが、檀信徒の協力で明治四二年横峰寺に復元した。本堂は権現造りである。歴代諸帝を初め武人の特別な信仰を受けましたが、山岳仏教のう崇高なる霊刹も今は便利が良く成り0.5キロの徒歩となっています。但し、冬期には車にての参詣は屡々不能となります。 
●61 栴檀山教王院 香園寺 / 愛媛県西条市小松町南川甲  
弘法大師 大同年間(806−810) 伝説 
聖徳太子が創建し、本尊は大日如来。 1976年に本堂と大師堂を兼ねた鉄筋コンクリート3階建ての聖堂を建立。 大同年間(806−810)に弘法大師が訪れ、寺の近くで苦しんでいた妊婦に祈とうし、無事男児を出産させたと伝えられる。 境内には赤子を抱いた子安大師像があり「子安大師さん」として親しまれてる。  
  
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈って聖徳太子が創建し、このとき金衣白髪の老翁が飛来してご本尊を安置したという。天平年間には行基菩薩も留錫し、大同年間になると弘法大師が巡錫された。あるときこの地で身重な女が苦しんでいたが、大帥のお加持で安産した。この勝緑によって大師は唐から奉持した大日如来の金像をご本尊の胸に納め、栴檀の香をたいて護摩修法された。これにちなんで栴檀山香園寺と号した。大正のはじめ、住職の山岡瑞圓師は子安講を創始し、難産で苦しむ女性の祈祷をされた。子安講は発展し、「子安の大師」で知られる。寺は小松町のはずれにあり、山麓の一万坪の境内には、昭和五十一年建立の大聖堂(本堂、大師堂)二百五十名収容の宿坊、庫裡などが建ち並んでいる。それだけに大きな団体や、巡拝日程の変更などで宿泊に因っている遍路など、受入れ体制が整っているだけに安心して参籠を願うことができる。  
  
香園寺は聖徳太子(574〜622)の開基という四国霊場屈指の古刹であり、一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。また、寺が創始した子安講の輪は、海外にまで広がり現在20.000人を超えている。  
縁起によると、用明天皇(在位585〜87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729〜49)には行基菩薩(668〜749)が訪ねている。  
弘法大師が訪れたのは大同年間(806〜10)であった。ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。  
以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが「天正の兵火」で焼失、寺運は明治・大正になって復興している。明治36年に晋山した山岡瑞園大和尚により、大正3年に本堂を再興し、同7年には「子安講」を創始して、全国の行脚はもとより、東南アジアやアメリカまで足を延ばし、講員の拡大と寺の隆盛に尽力している。  
  
千三百八十有余年の昔第三十一代用明天皇のご病気平癒を祈願して聖徳太子の建立し給うたもので、弘法大師がこの道場のふもとで難産の婦人を祈念され、健康な男子を安産し、この勝縁により、安産、子育て、お身代り、女人成仏の四誓願と祈祷の秘法を遺された。先師山岡瑞円大和尚は、無我、大我の御体験により、生死の境を突破して御祈念の体験により遍路を救い、祈祷寺としての基礎を固められた。大正の初め、さきの四誓願を中心として心身の健康、家庭の円満、事業の順調な発展ならびに善願の成就を祈り、最終的には人格の完成すなわち人つくりを目標とする。子安講を創始された。 
●62 天養山観音院 宝寿寺 / 愛媛県西条市小松町新屋敷甲  
弘法大師 修行 
天平年間(729−749)、聖武天皇の勅願により伊予一国一宮の法楽所として中山川下流の白坪(しらつぼ)に創建され、僧道慈に金光明最勝王経を購読させた。その後、弘法大師が修行で長くとどまり、国司・越智氏の妻の難産を助けた言い伝えから、安産の信仰を集める。本尊は十一面観世音菩薩(ぼさつ)。 移転と再建を繰り返し、1921年に現在地へ。  
  
伊予小松町の中心、国道沿いに寺はある。当初は聖武天皇の勅願により伊予一宮の法楽所として中山川下流の白坪に建立された。そして金光明最勝王経を奉納し、僧道慈を任じて講読させた。その後弘法大師は寺に長く留まり、光明皇后にかたどって十一面観世音を彫刻して本尊とし、寺号を宝寿寺とされた。そのころ国司越智公の夫人は難産で大師に祈祷を乞われた。大師は境内の玉ノ井の水を加持して夫人に与えた。その結果夫人は若君を安産し、玉澄と命名し「さみだれのあとに出でたる玉ノ井は、白坪なるや一ノ宮かな」と詠じられ、この歌を献納した。それ以来安産の観世音として信仰をあつめた。白坪にあった寺は洪水のため堂宇が破損したので天養年間に修復され、山号は天養山となったが、その後荒廃し、寛永年間に一柳氏が現在地近くに移建し、四国遍路の行者宥信上人が再興した。明治に入って廃寺となるが、同十年に大石龍遍上人が再建している。  
  
JR伊予小松駅から西へ歩いて1分、100m近い。境内は、しっとりとした日本庭園の風情が満ちており、遍路の気分を和ませてくれる。往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。  
縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724〜49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?〜744四)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。  
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806〜10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。  
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い、明治10年に再建されている。  
  
聖武天皇の勅願により天平年間(七〇八〜七八一)伊予一国一の宮の御法楽所として建立されましたが、洪水のためしばしば被害を受け、天養二年(一一四四)に再建されたので天養山と山号を改めました。弘法大師は、四国御開創の折、久しく当山に留錫せられ、聖武天皇の后、光明皇后にかたどり、十一面観音を刻み、当寺の本尊とせられた。後、天正十三年(一五八五)秀吉の四国攻略の争乱によって荒廃し、寛永十三年(一六四二)四国遍路の行者、宥伝上人によって再興されました。これは一宮との習合による神仏混合であったため、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、明治十年遍路の行者大石龍遍上人によって再建大正十年予讃線開通のため現在地へ移転しました。 
●63 密教山胎蔵院 吉祥寺 / 愛媛県西条市氷見乙  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 建立 
弘仁年間(810-824)、弘法大師が坂元山に建立。天正13年(1585)、秀吉の四国攻めで全山焼失し、万治2年(1659)、末寺の檜木寺と合併、現在地に再興された。本尊は四国霊場唯一の毘沙門天(びしゃもんてん)で、60年に一度開帳される。 秘仏としてマリア観音像がある。 「成就石」と呼ばれる丸い穴の空いた石は有名で、目を閉じて願い事を念じながら、杖を前につきだして進み、穴に入れば願いがかなうと云えられる。  
  
宝寿寺から国道十一号線を1.3kmゆくと道沿いに吉祥寺がある。ご本尊は毘沙聞天で脇士は吉祥天と善膩師童子。弘法大師が人々の貧苦を救わんものと一刀三礼して刻まれた。そのころ寺は坂元山にあり、寺域も広く塔中二十一坊を有する大伽藍であったが、天正の兵火で全山焼失し、万治二年(一六五九)末寺の檜木寺と合伴して現在地に建立された。ご本尊と大師堂の参拝がすんだ遍路は、本堂前の成就石に向かって歩き出す。目をつぶり、願いごとを念じながら、金剛杖を下段にかまえる。そして石の穴に金剛杖が通れば願いごとが成就するという。寺宝にマリア観音像がある。高麗焼の純白な像(高さ30cm)は長曽我部元親がイスパニア船サン・クェリッペ号の船長バードレから託されたもので、その後家臣の秦備前守が秘蔵し、家族に不幸が続いたので吉祥寺へ預けたという。慈愛あふれる美しい尊容。  
  
東西に走る国道11号線と、JR予讃線に挟まれて所在する。かつては塔頭21坊の伽藍を誇った大寺域は、やはり近代化された道路と鉄道によって狭められた。四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。  
弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。  
そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していた。だが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。  
寺宝に「マリア観音像」(非公開)がある。高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。土佐沖で難破したイスパニア船の船長が、長宗我部元親に贈ったもので、元親はマリア像とは知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝えられ、徳川幕府のキリスト教禁令にも難を逃れている。寺にはほかに鎌倉時代の「十二天屏風」、室町時代の「山越阿弥陀三尊像」(紙本著色)などが保存されている。  
  
当山は、弘法大師の開基と伝えられています。昔大師がこの附近を通られたおり、光を放っている桧を発見され、この霊木で本尊をはじめ、吉祥天、善尼士童子の三像を刻まれたといわれています。毘沙門天を本尊とするのは、四国霊場中当寺だけです。昔、寺は坂元山にあり、寺域も広く塔中二十一坊をもつ大寺院でありましたが、天正十三年(一五八五)秀吉の四国征伐で、小早川隆景と土佐の長曾我部元親との戦いで、兵火にかかり全焼しました。その後万治二年(一六五九)に末寺の桧木寺と合併して現在の地に再建されました。 
64 石鈇山金色院 前神寺 / 愛媛県西条市洲之内甲  
役小角(えんのおづぬ)が修行道場として675年、石鎚山中腹に開基。その後、桓武天皇がふもとに金色院前神寺を建立し、霊場となった。1871年(明治4年)も廃仏毀釈でともに廃されたが、ふもとの寺は直後に現在地に再建され、里前神寺と呼ばれる。中腹の寺もその後再建され、奥前神寺と呼ばれる。里前神寺には本堂、大師堂、お滝不動、権現堂などがある。  
  
石鎚山(1981m)は七〜八世紀のころ、役小角によって開かれたと伝えられ、古くから日本七霊山の一つに数えられている。小角は山頂で苦修練行し、蔵王権現を感得し、尊像を刻んで奉安した。その後桓武天皇が病気平癒を祈願し成就したので七堂伽藍を建立し金色院前神寺とした。弘法大師も登山して断食行求聞持法を修し、霊場に定めた。前神寺は山頂天狗岳にある石鈇権現の別当寺で、また、明治の神仏分離で寺は現在地に移り、慶長年間に建てられた山頂近くの常住(海抜1500m)には前神寺の出張所があり、ここを奥前神寺といい、麓の本寺を里前神寺という。毎年七月一日から十日間が「お山開き」里前神寺より黒瀬峠を越え成就から石鎚山頂へ、白衣に身をかためた数万の信者が仏名を称えながら登る。本堂にはご本尊の阿弥陀如来が安置され、境内には大師堂、金毘羅堂、お滝不動、薬師堂、石鈇権現堂不動堂などがある。  
  
前神寺は、山岳信仰の山として崇拝される富士、大山など日本七霊山の一つ、国定公園・石鎚山(標高1982mの麓にある。真言宗石派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。弘法大師は若い空海のころ、この石鎚山に2度入山しており、虚空蔵求聞持法や37日におよぶ護摩修法、あるいは三七日(21日間)の断食修行をしたことが知られている。  
縁起によると、修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行をしたのは天武天皇(在位673〜86)のころとされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石蔵王権現となって現れたのを感得した。その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇(在位781〜806)が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院・前神寺」の称号を下賜した。  
以来、歴代天皇の帰依が厚く、仏像や経巻がしばしば奉納され、諸堂の修復や増築にも寄与されている。また、江戸時代には西条藩主・松平家の祈願所になるなど、寺運は隆盛を極めた。しかし、明治新政府の神仏分離令により寺領を没収され、廃寺を余儀なくされた。その間、石鎚神社が建立されたりしたが、明治22年に霊場として復興した。  
信徒は、現在300,000人を超すといわれ、毎年7月1日からの「お山開き」には数万人にのぼる白衣姿の信者たちが集まり、法螺貝の音に「なんまんだ」を唱和している。  
  
当山は、役の行者の開基と伝えられています。千三百年の昔、石鎚山中で修業するうち、釈迦如来及び当山の本尊釈迦如来及び当山の本尊阿弥陀如来が、衆生済度のため大悲蔵王権現の尊影を現わされたといわれ、これをおまつりしています。昔から皇室や武家の尊信があつく度々堂宇を造修したと伝えられ、現在においても石鉄行者をはじめ数多くの信者を持つ名刹であります。 
●65 由霊山 慈尊院 三角寺 / 愛媛県四国中央市金田町三角寺甲  
弘法大師 (815) 42歳 十一面観音菩薩安置 
天平年間(729−749)に、桓武天皇の勅願で僧の行基が開基したとされる。815年、弘法大師が42歳の時に訪れ、十一面観音菩薩を彫り本尊として安置。さらに三角の護摩壇を築いて、21日間の秘法を修行したことから三角寺と言われるようになった。 観音菩薩像は愛媛県指定文化財で、安産や子育ての仏様として知られる。開帳は60年に一度で、次は2044年。 境内には護摩壇の跡が残る三角(みすみ)の池があり、1795年に訪れた俳人小林一茶が、山桜に感嘆して詠んだ「これでこそ 登りかいあり 山桜」の句碑も建立されている。  
  
三角寺山(海抜450m)の中腹にある寺まで急な坂道を登る。仁王門からは正面に庫裡、左に本堂がある。聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基し、弘法大師が登山されてご本尊十一面観世音菩薩を刻まれ、さらに不動明王を彫刻し、三角形の護摩壇を築き、二十一日の間降伏の秘法を修された。三角寺の寺号はこの護摩壇に由来する。嵯峨天皇はご本尊を深く信仰し、寺領三百町歩を下賜し、堂塔を造営している。ところが天正九年の兵火で灰燼に帰した、現在の本堂は嘉永二年(一八四九)の再建という。ご本尊は子安観音・厄除観音として信仰されている。それは子宝に恵まれない婦人が寺の庫裡にある杓子をひそかに持出し、そのしゃもじを使い夫婦仲良く食事をすると子宝に恵まれるという風習で、安産すれば新しい杓子を持ってお礼まいりにくる。これで伊予の二十六ヵ所の霊場を打ち終え讃岐路へ入る。雲辺寺への途中に番外椿堂があり参拝したいもの。  
  
江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。伊予最後の霊場で、標高は約430m、平石山の中腹にある静かな境内。  
縁起では、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために開創したと伝えられる。その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来ともなっている。また、嵯峨天皇(在位809〜23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩をいただき、七堂伽藍を備えて寺運は隆盛だったと伝えられる。  
だが、長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、本尊以外を焼失した。現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)で、昭和46年に修復されている。  
本尊は古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、信仰を仰いでいる。ご祈祷をうけたお守りと腹帯が授けられ、また、「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。子供を授かった後に、新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをする。  
 
天平年間(千二百余年前)行基菩薩が、聖武天皇の勅願により、弥勒菩薩都卒の浄土に模して開創せられました。畏くも嵯峨天皇は、当山の本尊を深く御信仰遊ばされました。弘仁六年、弘法大師当山に巡錫、本尊十一面観音の尊像を彫刻し、更に三角の護摩檀を築いて二十一日間、国家の安泰、万民の福祉を祈念して、降伏護摩の秘法を修行せられました。古来当山は、四国八十八ヶ所の中でも、「伊予の関所」と呼ばれ、本尊は、開運厄除けの観音、安産子安の観音といわれ、霊験あらたかで、信仰崇拝する人が、四時絶えることがありません。 
 
●十夜ヶ橋 / 愛媛県大洲市東大洲  
弘法大師 巡錫  
今を去ること一千二百有余年の昔、弘法大師は衆生済度大願のため四国の各地を行脚し給い、当大洲地方をも御巡錫になりました。そして当時、宿も民家も近辺には無く、ご修行中の身であったため、橋の下で一晩お休みになられました。その時お大師様は詩を詠まれました。  
それは『行き悩む浮世の人を渡さずば、一夜も十夜の橋とおもほゆ』という詩でありました。この歌の意味は『行き悩む浮世の人』というのは、日々の生活を過ごすので精一杯で、自分のことを考える時間も無く、悟りを得ることもできず、まよい悩みの世界にいる我われのことです。『渡さずば』悟りの世界にいけるようにするには、日々充実した生活を、心安らかな生活を送ってもらうためには、どうしたら良いのだろうか。どのような方法があるのだろうか。という意味であり、『一夜も十夜の橋とおもほゆ』とは、この事(衆生済度)を考えていると、一晩が十日ほども長く感じたと詠まれたのです。  
お大師様は人々が充実し明るい気持ちで生きていくにはどうしたらよいかと考えていたら、長い長い夜であったと歌を詠まれたわけです。それより十夜ヶ橋という名が起こったと伝えられています。  
大洲の人はこの詩を通じて、自分たちのことを考えていて下さったお大師様に感謝して、橋の下に横になって休まれているお大師様をお祭りし、今に到っているのです。  
お遍路さんが橋の上を通る時、杖をつかないという風習はお大師様を「上から杖でつかない、杖の音で起こさない」という思いから起こったものです。 
 
徳島県

 

●大瀧寺 (徳島県美馬市) / 空海は西照大権現の像を安置したといわれる。  
●太龍寺 (徳島県那賀郡那賀町) / 同嶽は延暦16年(797)に空海が24歳で著した『三教指帰』の序文において修行をした地として最初に記述されている。  
●童学寺 (徳島県名西郡石井町) / 「いろは歌」については、「上代特殊仮名遣」との関係から、空海作であることは否定されている。  
●箸蔵寺 (徳島県三好市) / 空海は自ら金毘羅大権現の像を刻み堂宇を建立したことが当寺院の始まりと伝えられている。  
●恩山寺 (徳島県小松島市) / 本堂 大師堂:本尊は空海自刻と伝える。  
●1 竺和山一乗院 霊山寺 / 徳島県鳴門市大麻町板東霊山寺  
弘法大師 弘仁6年(815) 修行 
815年、空海は人間の持つ八十八の煩悩をなくそうと四国霊場を開く願いをたてる為に訪れたとされる。本尊は釈迦如来で、天竺(インド)の霊山を日本に移すという意味から竺和山一乗院霊山寺」と名づけられた。巡礼者が巡拝を始める前に満願成就を祈る”発願の寺”一番さんなどいわれ親しまれている。  
 
聖武天皇の勅願により、天平のころ行基菩薩が開基し、弘仁六年(八一五)弘法大師が二十一日ほど留まって修法され、この間霊感を得て釈迦如来を刻み、印度(天竺)の霊山を日本(和国)にうつされる意味から竺和山霊山寺と号し、第一番の霊場としたと伝える。  
 
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。  
このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である。往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。しかし天正10年(1582)、長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。その後、阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891)には出火により本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。別格本山。地の利を生かした寺観の配置は妙で美しく、お遍路さんに彩りを添えている。  
 
天平年間、行基の開いた寺で、弘法大師が四国霊場を開く為、四国の東北から右廻りに八十八使の煩悩の数にちなんで霊場を開こうとして当地においでになった時、たくさんの菩薩が座られて、一人の尊い方が立って何かを説いておられる姿を見て、丁度、釈迦如来が印度の鷲峯山での説法の場にそっくり似ていると感じ、印度の霊山を大和国日本に移す意味で竺和山、霊山寺と名付け、持仏の釈迦誕生仏を本尊に収め、八十八ヶ所霊場第一番と定め、霊場の開設成就を祈願されました。その時の御持仏は当寺にございます。白鳳時代の作とされている身の丈三寸の誕生仏です。大師も霊場開創成就を祈願なされた寺であり、巡拝者は至心に道中の無事と、願いの成就を祈願しておられます。 
霊山寺2 
空海と倭(やまと)の神々 四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。  
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。弘仁6(815)年、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。  
その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山霊山寺」と名づけられた。  
このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。竺+和で竺和山というのは後付けではないでしょうか。それまでの倭国を和国と称するようになったのは聖武帝の後ぐらいに始まったようですし。  
 
寺伝その他の言い伝えでは空海(弘法大師)が弘仁6(815)年に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは 史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の 修験道 )の修行地で、空海も渡唐前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。  
実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。  
江戸時代 に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人が大坂で 四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ) を出版した 真念 であり、この真念がはじめて八十八箇所を特定し札所番号を定めた。  
当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが一般的であったので、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第一番札所と定めたと推測される。  
 
起点を大阪に置くとここが一番にしやすかった、というわけです。でも、私はやっぱり霊山寺が一番である理由は、その後ろにあったと考えています。  
後ろには、阿波一ノ宮 「大麻比古神社」。  
そのご神体とされるのが大麻山が、さらに後ろ(北;阿讃山脈) にきれいな曲線を描いています。この配置はいったい何を意味するのだろうと、昔から気になっていました。それが阿波古代史に出会って、少しずつ感じがつかめてきた気がします。ヒントになりそうな記述が、霊山寺の2.5kmほど東にある “種蒔大師”こと 「八葉山神宮寺東林院」さんについて書かれたサイトにありました:  
1番札所霊山寺の奥の院は大麻権現(大麻比古神社)であった が、明治の神仏分離で切り離された。現在は一般に東林院が奥の院とされている。  
四国曼荼羅霊場の第1番札所であり、阿波北嶺薬師霊場の第16番札所でもある。撫養の港から霊山寺に向かう途中にあり、かつてはここを 札始めとする遍路も多かった という。  
天平5(733)年 行基菩薩の開創と伝えられる。  
隣接する 式内社(論社)・宇志比古神社(旧称・八幡宮) の別当であり、寺号も同社の神宮寺であったことに由来するのではないかと思われる。  
大同年間(806〜10) 弘法大師が留錫し、農業を勧める自ら鍬を取って米麦の種を蒔いたという。この地を離れるにあたり、人々の熱望に応じて等身大の自刻像を残した。種蒔大師として崇められ、広く信仰を集めたという。  
元禄年間(1688〜1704)の火災で旧記等焼失し、古い記録は残っていないが、石清水八幡宮の古文書に、治承2年(1178)東林院についての記録があるという。  
中世には薬王寺・太龍寺などとともに 阿波国八門首 の一として、末寺18ヶ寺を擁し、大伽藍を誇ったという。学問寺として名高く、高野山の歴史に名前を留める幾多の名僧を輩出している。  
大事なことがいくつかありました:  
神仏分離までは、寺(特に真言宗寺院)は神社と一体化していた。  
霊山寺の奥の院は“権現”とされた大麻比古神社だった。  
大伽藍を誇った東林院を抑えて一番に選ばれたのが霊山寺だった。  
東林院は阿波を代表する名刹のひとつであり、霊山寺よりも撫養港に近いのですから、一番札所としての資格は十分だったわけです。東林院の周囲には阿波神社、宇志比古神社、葛城神社、吉田神社、御嶽神社などなど、おっ!と思う名前の神社がざくざくしているにもかかわらず、大麻比古神社をより重視された証左でしょう。  
私は“霊山”とは“鷲”の一字をもつインドの霊鷲山をカモフラージュに使って大麻山の大切さを示した可能性を想像しています。それにしても“種蒔”というのは実に忌部的。
●2 日照山無量寿院 極楽寺 / 徳島県鳴門市大麻町檜段の上  
弘法大師 弘仁6年(815) 修行 
弘法大師が815年(弘仁6年)、21日間の修行を行った後、札所に指定されたとされる。難産の女性が祈願して子供を授かったという言い伝えが残る。本尊は阿弥陀如来。 薬師堂の前には、弘法大師のお手植えとされる樹齢1200年の長命杉(高さ30mがそびえる)。  
 
行基菩薩の開基と伝えられる。 後に弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の際、当寺に二十一日間にわたり、阿弥陀経を読誦(どくじゅ)し修法された。 その結願の日に阿弥陀如来がいずこからともなく現われ、大師におことばを賜ったという。 大師はそのお姿を忘れないうちにと、ただちに刃をとって、阿弥陀如来を刻みはじめ、旬日で完成させ当寺のご本尊としてお納めしたという。ところが、後に、御本尊の後光が鳴門の長原沖まで達し、漁業に支障を与えた。漁民たちは悩んだ末にこの光をさえぎろうと本堂の前に小山を築いたところ、それからは大漁が続いたという。「日照山」の山号もそれにちなんでつけられたと云われている。  
 
行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師がこの地で三七日間『阿弥陀経』を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、「日照山」と号した。その後、天正年間(1573〜92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659)、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。  
三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような庭園が広がる。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂がある。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもので、安産祈願に霊験があるとされている。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31m、周囲約6mもある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定されている。千古の風雪に耐えてきた巨杉だけに、巡礼の折にはぜひ触れてみたい。  
 
天正の兵火で焼失したが、本堂は万治二年(1659)の再建。本尊も鎌倉時代の作で、共に国宝に指定されています。行基菩薩の開基と伝えられ、本尊阿弥陀如来は、弘法大師の作。その出現されたのが、大師が無量寿の秘法を修せられると結願の十七日、これを刻んで安置したとのこと、顔容が美しく、それから発する光が遠く長原の沖まで達して漁の妨げになるので、人工の山を作り光をさえぎったといわれる故事から、日照寺と号するようになったといわれています。尚方丈の前の大杉は大師のお手植といわれ名付けて長命杉といいます。 
●3 亀光山釈迦院 金泉寺 / 徳島県板野郡板野町大寺亀山下  
弘法大師 伝説 
当時は「金光明寺」と呼ばれていたが、弘法大師が寺を訪れた時、水の湧き出る場所を言い当てたことから「金泉寺」と名を変えた。本尊は釈迦如来。 本堂の前には寿永4年(1185)、源の義経が平家討伐の戦勝祈願に訪れた際、弁慶が力試しに持ち上げたと言われている「弁慶の力石」がある。また、水面に自分の顔が映れば長生きできると言われている「黄金の井戸」もある。  
 
古くは聖武天皇の勅願で行基菩薩がご本尊を刻み、金光明寺と称していたが、弘法大師が巡錫された時、黄金井の霊水がわき出たので、寺名を金泉寺に改めたという。この由緒ある井戸は、大師堂近くの黄金井地蔵の前にあり、ここをのぞいて顔がうつれば長寿のおかげをうけると伝えられている。また、亀山法皇も深く信仰し、堂塔の再興や三十三間堂などを建立して山号を亀光山と号し、勅願道場とした。しかし、天正十年(一五八二)には長曽我部元親の兵火によって大師堂を除く大半の建物を焼失してしまった。 現在の建物はその後再建されたもの。源平の戦いの時、源義経がこの寺で休息し弁慶の力量をみせたといわれる「弁慶の力石」や、応永五年、南朝の長慶天皇がこの寺で、五十一歳にして崩御され、その御陵といわれる墓石などがある。また、黄金井地蔵の隣には朱塗で八角の観音堂がある。格天井には美しい花鳥図が描かれている。  
 
聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。  
その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。  
 
聖武天皇が天平年間に建設、金光明寺と賜号、釈迦、阿弥陀、薬師の三如来を本尊として安置、そのご弘法大師が四国巡錫の砌四国八十八ヶ所第三番霊場とお定めになりました。日照りに苦しむ住民のために掘られた井戸は今も「長寿をもたらす黄金井戸」として、黄金地蔵とともに霊験あらたかであります。その後、亀山法皇が精藍を御再興、三十三間堂を建て、千手大悲の観音菩薩を安置し、山号を亀光山と賜号されました。源平合戦のおり、義経が屋島に向う時、当寺に立ち寄り戦勝開運を祈願した。当時の慈母観音子安大師は、すこやかに育てという親心を、又義経が戦勝開運を祈願した観音菩薩は、今も人生への開運を祈願して参詣者の香煙、日夜絶えることがありません。 
●4 黒厳山遍照院 大日寺 / 徳島県板野郡板野町黒谷字居内  
弘法大師 弘仁6年(815) 42歳 修行 
弘法大師がこの地で大日如来を感得したことから「大日寺」と名づけられた。 三方を山に囲まれ、ひっそりとたたずむ。山門は鐘楼を兼ねており、山の緑とは対照的な朱の鮮やかさが引き立つ。土堀は囲まれた参道を歩き、山門を通り抜けると、正面に本堂、右手に大師堂があり、本堂と大師堂は回廊でつながっている。回廊には、33体の観音像が安置されている。  
 
真言宗のご本尊は大日如来。私たちが生きてゆくためのあらゆるものを養護され、目には見えないが、その力によって私たちは生かされており、いま遍路となって巡拝している。弘法大師は、この地にしばらく留まり、大日如来を感得し、その尊像を刻んでご本尊とし、寺号を大日寺と名づけられた。三方を山に囲まれ、山間を奥深く入った静寂な地。楼門を入ると正面に本堂があり、右手の大師堂とは、西国の三十三観音像を安置した廻廊でつながっている。古くは本堂左手に通夜堂があり、先々代の住職のころは、癩病の遍路乞食が多く、伝染の危険があったにもかかわらず、通夜堂に泊った遍路乞食に「信仰心さえあればお大師さんがお加護してくださる」といって、いろいろ接待世話をしていたという。恐れられた難病も信仰の力によって克服したのである。  
 
弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられる。また「黒厳山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたという。寂本(1631〜1701)の『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)によると、かつては立派な堂塔が並び、美しく荘厳な小門から入った境内は広々としていた。しかし、歳月が経ち、伽藍の軒は風化していたが、応永年間(1394〜1428)に松法師という人に夢の託言があって修復されたという旨が記されている。  
伽藍は再び荒廃し、天和、貞享年間(1681〜88)に再興されている。また、阿波藩主・蜂須賀家は代々大日如来を守り本尊としており、とくに5代藩主・綱矩公の帰依があつく、元禄から宝暦年間(1751〜64)には手厚い保護をうけ寺塔の大修理がほどこされている。本堂と大師堂を結ぶ回廊には、西国三十三観音霊場の木造観世音像三十三を安置している。江戸時代の中頃、大阪の信者により奉納されたという。また、先々代の住職は不治の病とされたハンセン病の遍路さんを、手厚く接待していたことで知られる。境内は、板野町史蹟に指定された防災区域で、霊地にふさわしい幽玄な雰囲気を漂わす。  
 
象徴として板碑がある。県下最古の板碑、裏側に塔姿の形を深く細くほり、五梵字を浅く広く刻んである。弘法大師四国巡錫の砌り開基と伝えられ、本尊大日如来は一寸八分(5.5cm)の秘仏で、大師の刻まれたものといわれ大日寺と号しています。その後一時さびれて廃寺となりましたが、天和貞享の頃再建されました。当時は藩主蜂須賀家の尊信帰依が篤く、今の堂塔も元禄年間に大改修をされたと聞いています。これは、大日如来が蜂須賀家の守り本尊であった関係だろうかとおもいます。この寺の特長は、人里はなれた渓流にのぞみ、盛りあがる森の木々に囲まれた閑静な自然にあります。 
●5 無尽山荘厳院 地蔵寺 / 徳島県板野郡板野町羅漢林東  
弘法大師 弘仁12年(821) 開基 
821年(弘仁12)に嵯峨天皇(在位809−23)の勅願で弘法大師が開基。 紀伊の国の霊木を運び、弘法大師が自ら勝軍地蔵尊を刻んで本尊とした。仁王門をくぐると、右手に樹齢800年と言われる大イチョウ。 太い幹の所々に祈願の小銭が挟まれている。 右に大師堂、左に本堂が立つ。 本堂の裏道を通って同寺の北隣に出ると、羅漢堂がある。等身大で極彩色の五百羅漢像が様々な表情で立ち並び、この中には縁深い故人に似た人が必ずいると言われている。  
 
この地は「羅漢」とよばれているが、昔から「羅漢さん」の名で親しまれている寺。境内へ入ると弘法大師お手植えのイチョウの巨木があり、左に本堂、正面が本彷、右に大師堂と淡島堂がある。ご本尊は地蔵菩薩。胎内に弘法大師が刻まれた勝軍地蔵が納められている。かつては三百の末寺をもつ中本寺で、高野山の管長、大覚寺、仁和寺門跡を出した名刹。本堂裏手の石段を上ると、コの字型の羅漢堂がある。正面に釈迦如来、左に弥勒菩薩、右に弘法大師を奉安し、廻廊に等身大の五百羅漢が安置されている。実名、実聞の二僧が生涯を通じて諸国を行脚し、それによって得た浄財で羅漢像をおさめて堂宇を建立した。大正四年の火災で堂宇を焼失し、その後再建したのが現在の御堂。喜怒哀楽の表情をして、薄暗い堂内で身動き一つせずに立ち並ぶ五百の羅漢さんは、どこか親しみ探く、身近に感じられる。  
 
嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。大師は、自ら約5・5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。その後、淳和天皇(在位823〜33)、仁明天皇(在位833〜50)の3代にわたり天皇家が篤く帰き依えされた。さらに紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。  
しかし、天正年間(1573〜92)の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、いまでも寺領は40,000平方m(12,000坪)にもおよぶ古刹である。本堂左の参道をとおり、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。安永4年(1775)の創建で、五百羅漢堂とされていた。だが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んでいる。境内の大銀杏。樹齢は800年を超え、母なる大木につつまれ歴史が刻まれている。  
 
弘仁十二年(811)嵯峨天皇の勅願により高祖弘法大師の開創による霊場。かつては、阿波、讃岐、伊予の三国に2百の末寺を擁し、塔中二六ヵ寺を数えたという。しかし、天正年間長曾我部元親の兵火にあい堂塔悉くが灰燼に帰した。境内4万平方米、建物面積三千平方米の広大さ。又境内の裏庭に五百羅漢堂がある。コの字型の堂内に木像等身大(日本最大)の羅漢さんがたくさんならんでいる。羅漢さんとはお釈迦さんの弟子であり、仏道修行して阿羅漢果という人間として最高の位を得た人である。その羅漢さんを500人集めたのが五百羅漢である。創建は安永四年であるが大正年間焼失し、現在あるのはその後に復興したものである。 
●6 温泉山瑠璃光院 安楽寺 / 徳島県板野郡上板町引野寺の西北  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
かつて近くに万病に効く温泉が沸き出ていたとされ、815年(弘仁6)、空海が訪れた際に薬師如来と深い因縁があると直感、温泉山安楽寺と号して同薬師如来を本尊に開基したいわれている。境内は広く、赤白緑の色鮮やかな鐘楼門をくぐると正面にコンクリート造りの大きな本堂、左手に弁財天池と多宝塔がある。 右手には茅葺(かやぶき)屋根の宿坊があり、遍路客にも人気が高い。同寺は江戸時代に困った人を泊めて保護するよう藩から特別に指定されてた寺(駅路寺)で、その名残とされる。  
 
田園の中の平坦な道をゆくと、前方に本堂それに幾棟もの建物が見えてくる。四国でも一、二といわれる五百名収容の宿坊をもつ。昔この地方で温泉が湧き、諸病に特効があったので、弘法大師が留まって厄難や病苦を救うために薬師如来を刻み、堂宇を建立してそこに安置し、温泉山安楽寺と名づけられた。創建当初は、1kmほど離れた安楽寺谷にあり、兵火で焼失したため現在地へ再建され、その後蜂須賀氏によって設けられた駅路寺の瑞運寺を併合している。駅路寺は徳島を中心に五つの街道に設けられ、旅の便利を計るとともに軍事、治安上の取締りなどに役立てたのである。現在の本堂は鉄筋コンクリート造りで昭和38年の再建。難病であった名古屋の水谷しづさんが四国遍路中霊験を得て全快し、その感謝でご本尊の造顕を発願し、仏師松本明慶師が刻み、ご本堂に奉安されている。寺の宿坊は温泉山の名にふさわしい天然温泉が湧き出る。寺人は親切で家族的な温かさがある。  
 
『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。  
ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」(慶長3年=1598)が今も残されており、宿坊はいらい400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。  
愛知県尾西市の水谷しづさん(当時49歳)は、脊髄カリエスの難病にかかり床についていた。当寺の住職は、夫の繁治氏に病床で苦しむしづさんを伴い、四国遍路をすすめた。二人は遍路の旅を決行した。ところが不思議にも巡礼の途中に、しづさんの難病が快癒した。現在の本尊・薬師如来像は、その報恩のために奉納されたもので、43センチほどの古来の本尊は胎内仏として納められている。昭和37年のことである。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師(1945〜)が無名時代から彫り続けた仏像三十五体が各御堂に祀られている。大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。また、性霊殿には胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅がかけられ、石の壁には「五筆和尚」と称された弘法大師のさまざまな筆法の書が刻まれている。  
 
当山は、弘仁6年弘法大師により開創されたと伝えられている。元禄時代の霊場記に「この地に昔温泉ありて諸方の病人入浴治の利益を得しこと久く、まこと仏の大悲の極みなるものなり。これによって弘法大師、薬師如来の尊像をきざみ、精藍(伽藍)を建て安置したもう、相追い来たりて人皆、医王の神化と仰ぎ、寺院繁栄に至り、鈴鐘のひびき絶えることなし・・・。」とあり、いつの時代に温泉が枯渇したかは定かではないが、山号も寺号も温泉に由来したものである。天正年間(約四百年前)に兵火にあい、現在の地に再建された。安楽寺の寺号は江戸時代には藩主蜂須賀侯より寺資をつけられ、瑞運寺と改められたこともあった。現在のご本尊薬師如来像は脊椎カリエスの難病が四国遍路で快癒した水谷しづさん、夫の繁治氏らの奉納されたものである。「さか松」と称せられる弘法大師お手植えの松があります。 
●7 光明山蓮華院 十楽寺 / 徳島県阿波市高尾法教田  
弘法大師 開基 
弘法大師が、人間の持つ病や死など8つの苦しみから逃れ、極楽浄土の輝く10の楽しみを得られ名づけた。本堂には、大師が感得して彫ったとされる阿弥陀如来像が本尊としてまつられている。戦国時代には焼き討ちに遭い、建立時は阿波の国の北方(吉野川北岸)で最大規模を誇った伽藍(がらん)は約3キロ南に移転、江戸時代以降も増改築をくりかえした。  
 
この地に留錫された弘法大師は、阿弥陀如来を感得し、ご本尊とし刻まれ、安置したのが寺のはじまりで、人間のもつ八つの苦難(生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛)を離れ、十の光明に輝く楽しみ(極楽浄土に往生する生が受ける十種の快楽)が得られるようにと、寺号を光明山十楽寺とした。そのころは現在地から離れた十楽谷の奥に広大な伽藍を擁していたが、天正年間の長曽我部元親の兵火ですべてを焼失した。このとき住職の真然は本尊を背負い、大門ケ原の小屋に仮安置し、弟子に経本を背負わせて避難させたが、その途中で矢に射られた弟子は経本を置いたまま逃がれたので経本も焼失し現在そのあとが経塚として残っている。寛永十二年に現在地に再建され、現在の本堂は明治の再建。楼門、大師堂、書院などが建立された。参籠者に出されるたらいうどんはこの寺独特の味で、評判がよい。  
 
寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。  
創建からしばらくは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正10年(1528)長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。寛永12年(1635)に現在の地に移り、再建された。  
明治時代になり本堂が再建され、本格的な大師堂、書院などを整え、さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立している。本堂左前にある「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、眼病に悩むお遍路さんの参詣が多い。尊像の前には熱心に祈る人の姿がよく見られ、信仰者のなかには、開眼したという例も数多く伝えられている。四国霊場には、24番最御崎寺、39番延光寺の目洗い井戸、52番太山寺の一畑薬師など、目の不自由なお遍路さんの祈願所が多く、霊験の力をお祈りしたい。  
 
年代は定かではないが、当寺は弘法大師の開基と伝えられています。寺はもと現在地から3キロ奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定され、阿波の北方切っての広大な大伽藍を誇っていたといわれますが、天正年間、長曾我部氏の兵火にあってすべて焼失し、天保年間(1830〜44)現在地に移り再建されましたが、今尚附近に大門原、法教田堂ヶ原などの地名があり、当地の名残りをとどめております。尚当寺は、昔から盲目の治療に霊験あらたかで、信仰者の中に開眼した例も数多いといわれています。寺宝として、光高等竜宮真田幸村の茶釜などがあります。 
●8 普明山真光院 熊谷寺 / 徳島県阿波市土成字前田  
弘法大師 弘仁8年(817) 開基 
弘法大師が817年(弘仁8)、この地で修行中に紀州熊野権現のお告げがあり、開いたといわれる。 本尊は千手観音菩薩。2体の仁王像が立つ山門(高さ13.2m)、大師堂に安置されている弘法大師像は、ともに県指定有形文化財。四国霊場の中でも山門は最大、多宝塔は最大かつ最古といわれている。  
 
のどかな遍路道をゆくと、ゆるやかな山の斜面に二層の山門がみえてくる。古い農家が点在し、いかにも四国の山村の風景が展開する。やや上り坂の参道には昔の遍路宿の面影をとどめた農家もある。山門を入ると右に弁天池、左に庫裡、羅漢堂、多宝塔があり、中門から石段を登ると昭和45年再建の本堂になる。左手の大師堂へは更に石段を登る。寺伝によれば、弘法大師がこの地のやや奥に当る閼伽ケ谷という所で修行されているとき、紀州の熊野権現があらわれ、観世音菩薩の尊像を感得した。そこで大師は結伽趺坐(足の表裏を結んで坐する円満安座)されて日夜精進し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音を刻まれ、仏舎利百二十粒とともに金像の本尊を胸に納め、堂宇を建立して安置された。  
 
四国霊場のなかで最大級の仁王門を構える。縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていた。その折、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀三礼して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられている。元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記』には、「境内は清幽で、谷が深く、水は涼しく、南海が一望できる。千手観音像の髪の中には126粒の仏舎利が納められてある」という意の記述がある。境内にその鎮守堂があり、熊野権現が祀られている。  
元禄のころ(1688〜1704)までに幾度か火災にあった説もある。ただ、昭和2年(1927)の火災では本堂とともに弘法大師作のご本尊も焼失している。その後、歴代住職の尽力により本堂は昭和15年に再建されたが、第2大戦で工事が中断、ようやく同46年に堂宇の全容が完成、新造された本尊の開眼法要が営まれた。前述の仁王門は、貞享4年(1687)の建立で、徳島県の指定文化財である。和様と唐様の折衷様式で、間口は9m、高さは12.3m。2層目の天井や柱には極ごくさいしき彩色の天女の姿などが描かれている。大師堂に安置されている弘法大師坐像は室町時代の作で、県指定の文化財である。  
 
真光院、普明山、熊谷寺は、第五十二代、嵯峨天皇の御世、弘仁6年(815)にお大師様が、当地巡錫の砌闊伽ヶ谷において御修行中、紀州熊野権現が出現したまい末世主衆生を永く済度の為、千手観音像を当山に安置せよとお告げになり、一寸八分の金の観音様を大師にお授けになり、虚空遥かにお去りになりましたと伝えられています。大師は、その場に一字を建立して、自ら等身の千手観音像をお刻みになり、その胸の中に、当の金像をお納め本尊となされました。これが熊谷寺霊場の縁起です。昭和二年には火災にあい、旧本堂全焼し、以後復興事業は戦時中に中断したまま、昭和四十六年に至って現在の本堂の全容が完成しました。 
●9 正覚山菩提院 法輪寺 / 徳島県阿波市土成町土成字田中  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
空海が815年(弘仁6)に現在の場所から北に約3キロの所に建立したが、16世紀後半に長曽我部氏の兵火に遭い焼失。天保年間(1644−48)に再建され、正覚山法輪寺と改められた。 広々とした田んぼに囲まれてしっそりと立つ姿から「田中の法輪さん」と親しまれている。本尊は四国霊場88箇所で唯一横に寝ている涅槃釈迦如来(ねはんしゃかにょらい)で、空海が彫ったとされる。  
 
田園の中にぽつんと建つ法輪寺。どこからも入れそうなお札所。歴史をたどってみると永禄十二年(一五六九)長曽我部元親は土佐一国を平定し、やがて四国を平定して京に上る意志をもち、まず攻めたのが阿波であった。天正三年(一五七五)に大西城が落ち、そして拠点であった勝瑞が落城したのは七年後である。この戦乱で寺々は兵火にあい、そのほとんどが焼失した。法輪寺もこの時党宇を焼失したが、そのころは山麓の法池ケ溪にあって、白蛇山法林寺と称し、広壮な寺域を有していたが、後の正保年間に山号を正覚山法輪寺に改め現在地に再建したのである。その後、安政六年に火災にあい、現存の建物は明治以降の建立といわれる。ご本尊は弘法大師が刻まれた釈迦如来涅槃像。頭を北に、顔は西に向け、右脇を下にして涅槃に入られ、周囲には悲歎にくれる大衆の姿が刻まれている。本堂には、不治の難病が全快した山口庄太郎という遍路の感謝の奉納額がある。  
 
古くは「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。その礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。縁起によると、弘法大師がこの地方で巡教されていたときの弘仁6年、白蛇を見つけた。白蛇は仏の使いであるといわれていることから、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、本尊として寺を開基したとされている。涅槃釈迦如来像は、北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているが、そばの沙羅双樹は白く枯れ、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像も安置されている。開帳は5年に1度で、最近では平成14年2月15日に行われた。  
現在地に移転し、再建されたのは正保年間(1644〜48)で、当時の住職が「転法林で覚をひらいた」とされ、山号と寺名をいまの「正覚山法輪寺」と改めた。しかし、安政6年(1859)にまたしても罹災している。これは村人が浄瑠璃芝居の稽古をしていた際に、堂内から出火したと伝えられ、鐘楼堂だけを残して全焼した。明治時代になって再建されたのが現在の堂塔である。寺宝に「弘法大師御おころも衣」が伝えられている。高野山奥の院で入定されている御衣替えの恒例にちなんで、明治15年(1882)、明治天皇が法輪寺に下賜されたものである。  
 
当山は、弘仁6年弘法大師の開基と伝えられています。木像の釈迦如来は、弘法大師の作と言われ、四国霊場では、唯一の涅槃像として珍重なものとされています。当寺はもと白蛇山法林寺と号して、ここの北十町余山間法地ヶ渓とよばれるにあって、壮大な伽藍を誇っていたといわれ、磁石や焼土が残っていますが、これは天正時代、長曾我部氏の兵火に悉く焼失した遺跡であります。正保年間(1644〜48)現在の地に移されて再建されたおり、今の正覚山法輪寺の山号に改めたといわれています。 
●10 得度山灌頂院 切幡寺 / 徳島県阿波市市場町切幡寺字観音  
弘法大師 開基 
機織りの女性宅に立ち寄った弘法大師が、旅の衣を繕うため布を請うたところ、女性が機織り途中の布を惜しげもなく切って差し出したことから名づけられたとされる。女性は得度し、即身成仏して千手千眼観音菩薩(ぼさつ)になったといい、本尊としてまつられている。境内の大塔は、徳川秀忠が1616年(元和2年)、大阪・堺の住吉大社神宮寺に寄進したもので、明治時代に当寺に移築された。  
 
最初におとずれた急な参道。山麓から中腹の本堂まで約八百b。麓には遍路用具店があってささやかながらも門前町になっている。仁王門からは三百三十三段の石段になり、登りつめたところが本堂。ご本尊は女人済度で名高く、女性の信者が多い。弘仁のころ、山麓の貧しい小部落にハタを織る若い女がいた。たまたま弘法大師が立寄って喜捨を乞うたところ、女はこころよく接待した。七日後も女はいま織っていた白布を惜しげもなく切り裂いてさしだした。大師は感激してその理由をたずね、女の願いを聞いて哀れに思い、その家に留まり、千手観世音を刻み、女を得度させて潅頂を授けた。すると女はたちまち即身成仏して観世音菩薩に化身した。そこで大師はこの地に堂宇を建立し得度山切幡寺とした。潅頂院の院号も、またご本尊が二体あるのもこの縁起に由来する。  
 
切幡山の中腹、標高155mに境内がある。国指定重要文化財である大塔からの眺望はすばらしく、眼下には吉野川がゆったりと流れ、前方には四国山脈の雄大な山々が連なる。古く、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。  
大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。得度山、灌頂院、切幡寺それぞれの名称もこうした由縁による。麓には遍路宿があり、巡礼用具店などがならぶ門前町となっている。「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。  
 
弘仁の昔、当山山麓に、機を織って暮らしている娘がありました。そこへ後の弘法大師が旅僧姿で現われて、衣服を繕う布きれを所望されたところ、その娘は今自分が織っている布のまん中から惜しげもなく切って差し出しました。僧はこの行為に感動して、娘の願いをいれ千手観音の像を刻み、また娘の願いによって剃髪得度させ、灌頂を授けたところ、娘はその身から光明を放って千手観音の姿にかわった。そこで、大師は嵯峨天皇に奏請して一寺を建立して得度山灌頂院切幡寺と名づけた。 
●11 金剛山一乗院 藤井寺 / 徳島県吉野川市鴨島町飯尾  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
弘法大師が厄難を取り除こうと刻んだ薬師如来像を本尊として安置。江戸時代、2度の火災に見舞われながら本尊だけは被害に遭わなかったことから「厄よけのお薬さん」として厚く信仰されている。 弘法大師が金剛不壊(永遠不滅の意)の護摩壇を築いて修行し、その後、山門脇に5色の藤を植えたと伝わることから金剛山藤井寺と名づけられた。春には棚からぶら下がる藤の花が咲き誇り、お遍路さんの目を楽しませる。 四国88箇所では珍しい臨済宗の寺。  
 
四国第一の川・吉野川を渡る。四国三郎とよばれ、二百三十六`の長さを持つ。この川を壊れば鴨島の町。そして、山麓の藤井寺までは三`あまり。門前に遍路宿があり、境内にも古い遍路宿がある。右手の一段高い所にある本堂には、弘法大師が刻まれたと伝えるご本尊の薬師如来が奉安されている。大師は三方を山に囲まれた幽すいな霊地に心ひかれ、堂宇を建立し、自刻の尊像を奉安し、十七日間護摩修法され、堂塔の前に五色の藤を植えられ、藤井寺と名づけられた。その後、天正の兵火で焼失し、寛永年間に再建されるが、天保二年に再び焼失し、現在の本堂はその後の建立という。この間、真言宗から臨済宗に改宗している。歩く遍路は近くの宿で泊り、翌朝出発して焼山寺へ向う。長戸庵、柳ノ水奥ノ院、柳水庵、一本杉庵など大師の遺跡があり、男八時間、女九時間の難行。十六`の貴重な遍路みち。車なら石井、寄井を経る迂回路をゆく。  
 
全長236キロ、四国最大の吉野川が阿波の北部を貫流している。阿波中央橋を南に渡り、およそ3キロの山麓に十一番霊場の山門が見えてくる。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと伝えられている。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200m上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。  
寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展した。だが、天正年間(1573〜92)の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832)に再び火災に遭い、本尊以外の伽藍はすべて灰燼に帰した。現在の伽藍は、万延元年(1860)に再建されたもの。本尊は、「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されている。藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、往古の姿を留める「へんろ道」が通じている。弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。  
 
弘仁六年、弘法大師の開基と伝えられています。大師42歳の時諸人と共に危難を除くために、薬師如来の尊像を刻んで寺を建て、金剛不壊の護摩壇を八畳岩に築き、十七日間の御修法を行って、堂塔の前に五色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺の山号がおこったのだといいます。現在の伽藍は、幕末、万延元年(1860)に再建されたものであります。約三百米の山上には、大師が護摩壇を築かれた八畳岩があり、弁財天を奉祀しています。本堂より焼山寺への道を四百米を登った所に奥の院があり本尊に大日如来を安置してあり、明治四十四年国宝に指定されました。 
●12 摩廬山正寿院 焼山寺 / 徳島県名西郡神山町下分字地中  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
弘仁6年(815)、弘法大師が虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)を本尊として開基。 大雨や台風などの災害を引き起こして人々を困らせていた大蛇を、大師が法力で岩つくに封じ込めたという伝説が残る。 大師の行く手を阻もうと、大蛇が山一面に火を放ったことから「焼山」の名がついた。三面大黒天堂には、招福除災を願って大師が自ら彫ったとされている像が安置されている。  
 
昔から「遍路ころがし」といわれるほどけわしい山の寺が、四国には六カ所あり、焼山寺もこの難所に数えられていたが、現在自動車通が山上まで開通し、苦行せずして参拝できるようになった。歩く遍路にとつて、とくに垢取川にかかる一つ瀬橋を渡ってから急な坂道になる。山門までおよそ二・五`(海抜八百b)杉本立の中をあえぎながら登る。寺伝によると、この山中の魔の毒蛇が火を吐いて危害を加え、大師が登山しようとしたときも全山火の海であった。大師が垢取川で身を浄め、真言を誦して登ると火は消え、九合目の岩窟から毒蛇が飛びかかった。この時虚空蔵菩薩があらわれ、毒蛇を岩窟に封じこめた。大師は虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし、寺号を火の山にちなみ「焼ケ山ノ寺」山号を火の恐れがあるので「摩盧(水輪の意)山」とした。参道途中に四国遍路の元祖といわれる衛門三郎最期の遺跡上、杖杉庵がある。遍路二十一回目に逆打ちして大師と出会った所である。  
 
焼山寺山(標高938m)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。剣山や白髪山など四国山脈の山々がひろがる眺望はすばらしい。四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所がいくつかあるが、焼山寺もその一つで、昔から嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」であった。いまは山上まで車道が通っている。縁起によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされている。ところが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていた。弘仁6年ころ、弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいた処、阿弥陀様があらわれた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海になっている。そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は「摩廬(水輪の意)の印いん」を結び、真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。  
大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。また山は「焼山」となってしまったので大師が「焼山寺」と名付けた。「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来しており、鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138〜39)の勅願所となっている。境内は樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)が並び、巡礼者を迎えている。  
 
伝説によれば昔、この山に大蛇が棲んでいて村里に出ては、人や農作物に火を吐いて害を与えることがしばしばあった。弘法大師が開山のために登って来られると、大蛇はこれを妨げようと満山を火の海としたが、大師が印を結び、真言を詔して登り賜うと、不思議にも火は、順次衰える。九合目の岩窟によって、山の主の大蛇が激しく抵抗したが、虚空蔵菩薩と三面大黒天の加護によって、大師は遂に大蛇を岩窟に封じこめてしまわれたといわれる。全山火の海となって焼けたため、焼山の寺と呼び、山号を「摩櫨山」とした。摩櫨とは、梵語で水輪すなわち水を意味している。 
●13 大栗山花蔵院 大日寺 / 徳島県徳島市一宮町西町丁  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
弘仁6年(815)、弘法大師が境内北側の大師の森で修行していtら際、大日如来が現れ、お告げがあり、大日如来像を刻んで、その像を本尊としてお堂を建てたと言われる。別名、一宮寺とも言われ、道路をはさんで一宮神社が建っている。 もともとは一つだったが、明治元年の1868年に神仏分離令で分離し、十一面観音を新たに本尊とした。  
 
弘仁六年(八一五)弘法大師がこの地に巡錫され「大師の森」という所で護摩修法されているとき、現在、寺のある附近から大日如来が示現し「この地は霊地なれば一宇を建立すべし」と告げられた。そこで大師は大日如来を刻み、堂宇を建立し、この尊像を本尊として安置し、大日寺とした。その後、兵火で焼失するがまもなく再建され、諸国に国の総鎮守である一ノ宮が建てられたとき、その別当寺として門前の一ノ宮を管理した。一ノ宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観世音だが、明治の神地分離にあたり、十一面観世音を大日寺へ移遷し、本尊として安置した。このため、現在は大日如来が脇仏となっている。  
 
徳島市には5ヶ所の霊場がある。そのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。  
ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。  
 
大栗山花厳院と呼ばれる当山は、弘仁6年(815)弘法大師がこの地に巡錫され「大師が森」に堂を結び、護摩修法をされている時大日如来が出現し、「この地は霊地なれば一字を建立すべし」と告げられました。そこで大師は、大日如来を刻み本尊とし、堂字を建立した。その後、元亀天正の兵火にかかって堂字は全焼したが、間もなく再建され、諸国に国の総鎮守である一の宮が建てられたとき、その別当寺となり現在の所に移り、門前の一宮神社を管理しました。一の宮の本地仏は十一面観音ですが、明治の神仏分離にあたり、観音像を大日寺へ移遷して本尊として安置した。  
一宮神社 / 徳島県徳島市一宮町  
弘法大師 弘仁6年(815) 大栗山大日寺建立  
祭神は大宜都比売命・天石門別八倉比売命。式内論社(阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社名神大)。旧・県社。  
史料上の初見は『続日本後紀』(承和八年[841]八月戊午)の「奉授阿波国正八位上天石門和気八倉比盗_・対馬島無位胡禄神・無位平神並従五位下」であるが、この天石門和気八倉比盗_が現在の一宮神社・上一宮大粟神社(名西郡神山町神領)・八倉比売神社(徳島市国府町矢野)の何れに該当するかは不詳。  
社伝によると、大宜都比売命は別名を大粟姫命と云い、元は伊予国大三島に鎮座していた。伊予国丹生之内から、阿波国神領、同国鬼籠野に遷座し、成務天皇の御宇[131-190]に息長田別王が阿波国造になった時に現在地に奉斎した。  
弘仁6年(815)、弘法大師が四国巡拝中に一宮神社を四国八十八箇所霊場の第十三番札所と定め、大栗山大日寺を建立して別当とした。神仏分離以降は大栗山大日寺が札所となり、本地仏の十一面観音像も同寺の本尊となった。なお、阿波国一宮に関しては、上一宮大粟神社や大麻比古神社(鳴門市大麻町板東)とする説もある。  
●14 盛寿山延命院 常楽寺 / 徳島県徳島市国府町延命  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
弘仁6年(815)、弘法大師が開基。四国霊場の中で唯一、弥勒菩薩を本尊として安置している。 自然の岩盤の起伏を利用し石段は「阿波の青石」と呼ばれる岩で出来ている。イチイの大木「あららぎの霊木」は、弘法大師が自らさし木をしたと言われ、糖尿病などに効果があるとされている。木のまたにまつられた小さな石仏「あららぎ大師」が有名。  
 
弥勒菩薩は五十六億七千万年後、兜率天という所からこの世に下られ、釈迦の救いが得られなかった人々を救済するといわれているが、弘仁六年、弘法大師がこの地で修行されているとき、弥勒菩薩を感得され、ただちに尊像を刻み、堂宇を建立して安置した。そして「私が目をとじたならば必ず弥勒菩薩のおられる理想の世界に往生して、五十六億余年後に、弥勒菩薩に従ってこの世にまいり、私の歩いた跡をたどりたい」といわれたという。大師が弥勒菩薩を信仰されていたことは、高野山麓にある九度山慈尊院に本尊として安置されていることからもうかがい知れる。後に、大師の弟子真然僧正は、常楽寺に金堂を建立し、祈親法師は講堂・三重塔・仁王門など増築したが、天正の兵火で焼失し、万治二年に再建し、文化十五年に現在地へ移建された。大日寺から鮎喰川を渡り、寺の創設した養護施設の常楽園を経ると、まもなく常楽寺がある。  
 
四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。とくに京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手でささえ考える半跏思惟の弥勒像は、そのやさしいお顔の表情が美しく、お大師さまとともに光明を授けてくれるような仏といえよう。縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。  
後に、大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にもなっているが、「天正の兵火」により焼失し灰燼に帰している。だが、江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」。自然の美しさにとけ込む魅力を醸し出す。  
 
弘仁6年弘法大師四国巡錫の砌り、当地に修禅し給い、弥勒菩薩の御来迎を拝し随喜の余り、直に感得の慈尊二尺六寸の尊像を彫り九間四面の中堂に安置し、四国霊場第十四番の本尊とし給う。四国霊場中弥勒菩薩を本尊に安置するは唯一寺当山だけです。弘法大師御入定の折「吾閉眼の後必ず将に都卒陀天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍り五十六億余の後、慈尊に随い余らせて吾旧跡を問い尋ねん云々」と御遺告あらせられしによるも、当山本尊弥勒菩薩と弘法大師の御因縁の浅くないことがわかります。其後祈親法師等、金堂、講堂、三重塔、二天門を増築し七堂伽藍歴然として境内に聳えたけれども、数度の兵火に殿堂伽藍は焼失いたしましたが、当山本尊弥勒菩薩は、今に至るも霊験愈々あらたかであります。 
15 薬王山金色院 国分寺 / 徳島県徳島市国府町矢野  
天平13年(714)、聖武天皇の詔勅で各国に建立された国分寺の一つ。本尊は行基が彫り上げたと伝えられる薬師如来。現在は本堂、大師堂、鐘楼のほか、鐘楼の南に七重塔の心礎石がある。建設当時は講堂、南大門などの大伽藍(がらん)が建設されたとされる。1978年から3年間にわたって行われた発掘調査では、約200m四方の」寺域が確認された。  
 
常楽寺をあとに山沿いの道を八百bほど歩くと、国分寺の山門の前に出る。境内に入ると、創建当時の塔の心礎がある。正面に重厚な感じの二層の本堂。ありし日の大寺としての面影さえうかがえる。天平十三年(七四一)二月、聖武天皇は国ごとに最適の地を選んで金光明四天王護国之寺という僧寺と、法華滅罪之尼寺という寺を建立するよう命じた。いわゆる国分二寺の造営である。阿波は粟の国と長の国が合して阿波の国となり、国府はいまのJR国府駅附近におかれ、国分寺は政治の中心から南へ一`ほどの矢野に建てられた。いまの本堂のあるところは、もと講堂であったという。ご本尊は行基菩薩作の薬師如来。当初は法相宗であったが、弘法大師が留錫して真言宗になった。その後、寛保元年に吼山養師和尚が堂宇を再建し、曹洞宗に改宗している。弘法大師が参籠して刻んだ烏瑟沙摩明王は一切のけがれを清浄にすることから寺で授けるお札はお手洗にまつる。  
 
四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724〜49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建した。奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。縁起によると、阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。この寺域からは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。  
弘法大師が弘仁年間(810〜24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」によって灰燼に帰しており、境内は相当に衰微していた様子が寂本著『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)からも知ることができる。寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されていらい、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。境内の遺跡から往時の栄華がしのばれる。  
 
当山は行基菩薩の開基と伝えられる。本堂は寛保年間(1741〜3)大師堂は、天保年間(1830〜43)の再建という。第四十五代聖武天皇が勅命を発して諸国に国分僧寺と尼寺の造営を命じられた。当寺は、阿波の国分寺として行基菩薩によって開基し、釈迦如来の尊像と大般若経を納め、本堂には、光明皇后の御位牌厨子(一尺七寸)を奉祀したといわれ、天正の兵火にかかって焼失するまでは、二キロ四方という広大な寺域に、金堂を中心に七重の塔が建ち、規模の広大建築の巧妙さは一世をおどろかせたと伝えられている。本堂を囲む廃園の石組みは豪快な桃山時代の作だという片鱗をみせている。 
●16 光耀山千手院 観音寺 / 徳島県徳島市国府町観音寺  
弘法大師 弘仁7年(816) 巡錫 
714年、聖武天皇勅願の道場として建てられ、816年、弘法大師が等身大の千手観音音菩薩(ぼさつ)像を刻んで本尊とし、両脇に不動明王と毘沙門天(びしゃもんてん)を置いて霊場とした。天正年間(1573−92)に兵火で焼かれたが、1659年に再建。古い民家や商店が立ち並ぶ中にあり、道に面した門をくぐるとすぐに本堂が迫る。  
 
「右へんろ道」と刻まれた古い地蔵尊の道標がへんろ道の曲り角にある。道の両側は商店が並び、その中に観音寺の山門がある。のんびりとした田舎の町中に、ひっそりとたたずむ札所、そんな感じがする。山門を入れば本堂が目の前にあり、左右に納経所と大師堂。天平十三年に寺は創建されたと伝えられ、聖武天皇勅願の道場であった。弘仁七年に弘法大師が留錫し、ご本尊の千手観世音と脇士の不動明王・毘沙門天を刻まれ、それぞれ安置された。中世のころは荒廃し、万治二年に僧宥応が再興して旧観に復した。また、領主の蜂須賀氏は信仰が厚く、現在の堂宇はそのころ再建されたものという。ご本尊の霊験により、高松伊之助という盲目の遍路が、目が見えるようになったことや大師のいましをうけた宮崎シヨさんという遍路のことなどいまも実話として語りつがれている。  
 
寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724〜49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。  
その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、「天正の兵火」(1573〜92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っていると伝えられる。大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したはなしが語りつがれている。遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。  
 
当山は第四十五代聖武天皇の勅願道場として創立せられたと伝えられる。其の後弘仁七年弘法大師巡錫の砌り、当山に滞留せられ、娑婆世界有縁の導師たる大慈大悲の千手観音を自ら刻まれ、殊に脇士の不動明王は悪魔降伏の為、又毘沙門天は、鎮護国家のため一刀三礼の誠を尽くされた霊像であります。爾来千有余年寺運の栄枯盛衰があり、加えて天正年間長曾我部氏の兵火に焼かれたという。万治2年(1659)宥応法師が再建したと伝えられているが、法灯蓮綿として長く世人の信仰を集めている。当山の印版は其の昔弘法大師の御筆を刻印したものを代々伝えるものであり、衆生に一見阿写の利益を施し、自ら無始の重罪を消滅し真言不思議の果を得るものとしてあがめられる。 
●17 瑠璃山真福院 井戸寺 / 徳島県徳島市国府町井戸字北屋敷  
弘法大師 弘仁6年(815) 修行 
天武天皇の勅願道場として673年、「妙照寺」と名付けて建立。815年、42歳だった弘法大師が修行で訪れた際、濁水に困る地元民を哀れみ、自らのつえで一夜にして清水のわき水が出る井戸を堀り、以後、井戸寺と呼ばれるようになったと言い伝えられている。 日原大師堂にある井戸は、上からのぞいて顔が水面に映れば長寿、映らなければ不幸に見舞われるという言い伝えもある。  
 
かつて古代阿波の中心地であったこの附近は、いま、農村地帯となり、はなやかりしころの面影はない。大谷の藩主の別館の長屋門を移築したという山門を入ると、正面に本堂がある。昭和四十三年の焼失以後に再建されたコンクリート造りの建物。縁起によれば、天武天皇の勅願道場として白鳳二年(六七四)に開創され、そのころは妙照寺とよばれ、八町四方の広大な寺域と十二坊を有する大寺であった。本尊の七仏薬師は聖徳太子の作。脇仏の日光・月光菩薩は行基菩薩の作。弘仁五年弘法大師はこの地にとどまり、ご本尊を拝して修行され、十一面観音立像を刻まれて安置した。そして、この地方の水が悪いのを憂いて、錫杖で井戸を堀られたら、清水がこんこんと湧き出て大師のお姿を写された。そこでご自身の姿を石に刻まれた。面影の井戸や井戸寺の名もこれに由来する。大師の石像に日を限って祈願すると願いがかなうので日限大師として多くの信仰をあつめている。  
 
7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9mの十一面観音像を彫って安置されている。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。  
ただ、南北朝時代以降の寺史は激変する。まず貞治元年(1362)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災している。江戸時代に本堂が再建されたのは万治4年(1661)であった。 七仏薬師如来は全国でも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。  
 
当山は第四十代天武天皇の御勅願の道場として、白鳳二年(西暦673)の御開基です。元妙照寺と号し、境内八町四方寺家十二坊、阿波国司庁に隣接し盛隆を極めておりました。弘仁六年春、宗祖弘法大師が四国霊場開創の砌、昼夜斎戒汁洛して、御丈八尺余の十一面観音菩薩を刻まれ、尚大師自ら楊杖で一夜の裡に井戸を掘られ、井戸寺と称えました。其の後何度か災難に遭いましたが、今では立派に再建成り、輪喚の美、昔をしのいでおります。重要文化財としては、十一面観音像、弘法大師作(平安初期)・日光 月光菩薩二軀(平安時代)金剛胆蔵大日如来二軀(室町時代)・仁王像(一丈二尺)二軀(鎌倉時代)。 
●18 母養山宝樹院 恩山寺 / 徳島県小松島市田野町字恩山寺谷  
弘法大師 滞在 
聖武天皇(在位724−49)の勅命により、行基が薬師如来を本尊として開基。「大日山密厳寺」と名付けられ、当初女人禁制の寺だった。弘法大師が滞在中、母の玉依御前が寺を訪ねてきたことから、大師が女人解禁を祈念し「母養山恩山寺」と山号、寺号を改めたとされる。山門のそばには、母の来山を記念して植えられた「びらん樹」(バクチノキの異称、高さ約18m)がそびえる。  
 
徳島市のシンボルといわれる眉山を右手に見ながら街中を通り抜け、勝浦川を渡って小松島市へ入る。中田駅から四`ほどの小高い山の中腹に恩山寺がある。樹木がおおう参道を登りつめると大師堂があり、本堂へはさらに石段を登る。縁起によると、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が厄除けのために薬師如来を刻み、本尊として開基し、大日山密厳寺と号し、女人禁制とした。創建後百年を経て、弘法大師がこの寺へとどまり、そのとき母君の玉依御前が大師を慕ってお出になったが、女人禁制のため登ることができなかった。大師は仁王門の近くで秘法を修して女人開禁の祈念を成就し、母君を伴なって登山し、日夜孝養をつくされた。やがて母君は剃髪してその髪を納められ、大師は寺号を母養山恩山寺と改めた。大師堂つづきに玉依御前をまつる小堂があり、母君に孝養をつくした記念の唐木が境内にある。大師の母をおもう御心が感じられる。  
 
小松島市郊外の小高い山の樹林が心地よい、県指定の風致地区にある。縁起をたどると、創建は聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、女性が入ることは許されていなかったのである。延暦年間(782〜806)になって、弘法大師がこの寺で修行をしていたころという。大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。だが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。弘仁5年(814)ころのことと伝えられる。  
寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804〜30)ころに建立された由緒ある建造物である。境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は、県の天然記念物にもなっている。母君を慕いつくした大師のこころが、いまも宿っているような寺である。  
 
当山は第四十五代聖武天皇の勅願により草創せられました。本尊、薬師如来は、行基菩薩が厄除けの為作って安置したてまつり、大日山福生院密厳寺と号した。其の後百有余年を経て弘法大師四国霊場跡を開かれた時、当山の霊勝を賞でられ暫く滞留せられ女人解禁の祈念を成就し、母公を伴って登山し朝夕孝養を尽されたという。其の後、弘仁五年大師四十一歳の御時、自ら生像を刻まれ大殿に安置(現今大師堂の本尊)したまい、自ら「我が願は末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われたという。 
●19 橋池山摩尼院 立江寺 / 徳島県小松島市立江町字若松  
弘法大師 弘仁6年(815) 留錫 
「立江の地蔵さん」で知られる。奈良時代、行基が皇后の安産を祈念して高さ約6センチの金の地蔵菩薩を安置、平安時代初期に訪れた弘法大師が高さ1.8mの地蔵菩薩を刻んでこの金の像の体内に納め、本尊としたと伝わる。昔から四国の関所と言われ、「邪心あるものは進めない」とされる。 江戸時代、石見(現島根県)の女が夫を殺し、密通相手と遍路となってこの寺を訪れたところ、髪が鉦(かね)の緒に絡みついてしまった。 女が罪のすべてをざんげすると、髪は肉もろともはぎとられたが命は助かった。 二人は改心して出家し、以後地蔵を拝んだという。 この「肉付鉦の緒」は大師堂横の黒髪堂に納められている。  
 
享和のころ、お京という女が夫を殺し、情夫とともにこの地へ逃れてきたところ、お京の黒髪は本堂の鉦の緒に巻き上げられ、お京は懺悔し改心する。また、参道の九ツ橋(十戒とする椅)に白鷺が出たら、心の邪悪なものは渡れず、前途に凶事があるという。立江寺は四カ所ある関所の一つ。悪いことをした罪人や邪心をもつた人は、関所で大師のおとがめをうける。ここは信仰の度合をはかる所で、遍路にとって、最初の関所。寺伝によれば、聖武天皇の勅願で天平年間に行基菩薩が開基し、光明皇后ご安産のために地蔵菩薩が造顕され、白鷺の暗示を受け、堂宇を建立し、尊像を奉安した。その後、弘法大師が地蔵菩薩を刻み、行基作の尊像を胎内へ納めた。天正の兵火や近年災火にあったが、昭和五十三年に本堂は再建され、別格本山にふさわしく豪荘な建物、大師堂、多宝塔、観音堂、客殿など諸堂がある。春の遍路シーズンには紀州接待所が開かれる。  
 
高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9mもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。当時は現在地より西へ400mほど山寄りの景勝地にあって、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。  
「天正の兵火」(1575〜85)では立江寺も逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に移って再建された。また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救い出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授等により花鳥風月などが描かれており、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財であると高く評価されている。寺伝の「釈迦三尊図」は、国の重要文化財指定品である。 邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と親しまれている。  
 
高野山真言宗の別格本山橋池山地蔵院立江寺は、聖武天皇の勅願寺で天平十九(747)年、行基菩薩が光明皇后の安産を祈って、高さ六センチの黄金の地蔵菩薩を安置したのが起源で、その後弘仁六年(815)弘法大師が当山に御留錫の折、自ら1.96mの大像を刻まれ、小像を其の胸中に納められ、立江寺と号し第十九番の霊場とされました。 
●20 霊鷲山宝珠院 鶴林寺 / 徳島県勝浦郡勝浦町生名字鷲ケ尾  
弘法大師 延暦17年(798) 開基 
本尊は地蔵菩薩(ぼさつ)。 延暦17年(798)、桓武天皇の勅願により弘法大師が開基。修行中の弘法大師が、雌雄2羽の白鶴(はくつる)が地蔵菩薩を抱いてこの地に降臨したのを見つけたという伝説が名の由来。 山門の仁王像は運慶作とされる。標高500mにあり「一に焼山(焼山寺)、二にお鶴(鶴林寺)…」といわれる難所。  
 
お遍路さんから「お鶴さん」などと呼ばれる阿波の最大の難所の一つで、標高約五百bの山頂にある。険しい遍路道の道中には、南北朝時代に建立された寺までの距離を示す「丁石」が13基残る。2010年には、四国霊場を巡る遍路道では初めての国の史跡に指定された。山門を入ると、緑に萌える苔、四季折々の花々がお参りに訪れる人々の心を和ませてくれる。杉の老樹そびえる参道をゆくと六角堂・忠霊殿、修行大師像があり、右手石段を上がると三重塔と本堂がある。本堂の前には二羽の白鶴が向かい合っている。当地を弘法大師が修業中、雌雄二羽の白鶴が交互に翼をかざして1寸8分の金色の地蔵菩薩を守護しながら杉の梢に降りてきた。大師は三尺の地蔵菩薩を刻み、金色の尊像を納めた。白鶴が舞い降りた杉は今も本堂の左手にそびえる。  
 
標高550mの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、寺門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせる。寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781?806)の勅願により、弘法大師によって開創された。大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。  
また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573?92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。  
 
当山は延暦の昔、高祖弘法大師がこの地で御修行中、一米ほどの地蔵菩薩を彫刻し、黄金仏をその胎内に納めて一寺を建て本尊として安置しました。山号を霊鷲山、寺号を鶴林寺と名づけ、延暦十七年(798)桓武天皇が勅願を以って、七堂伽藍を造営せられて以来、歴代の天皇が尊信を依せられ、源頼朝、義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将も深く帰依し、特別の保護を講じたようであります。阿波一帯の寺が兵火で焼失した時も、難を免れ、四万一千坪の境内をおおった老杉とともに千有余年後の今日も塔中、末寺十五寺ヶ寺を持つ大寺として寺門愈々清謐であります。 
●21 舎心山常住院 太龍寺 / 徳島県阿南市加茂町龍山  
弘法大師 延暦17年(798) 開基 
延暦17年(798)に桓武天皇勅願で開基。弘法大師が25歳の時に刻んだとされる虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)像が本尊。太龍寺山(618m)の山頂近くにあり、焼山寺、鶴林寺共に「阿波の三難所」と言われていた。  
 
歩く遍路は鶴林寺から2km下り、麓の道を500mほど歩いて那賀川を渡り、鶴山よりもきつい山頂までの3kmの急な山道を登る。車は下車後約1kmの急坂を歩いて登る。かつての難所だけあって今もきびしい。青年のころの太師は、一沙門に求聞持法を授かってより、阿波の大龍岳や土佐の室戸崎を修行の地とされた。大自然の中にあって苦修練行を積み、探い宗教的な体験を重ねたのである。太龍寺は標高六百bの大龍寺山の頂上にあり、樹齢数百年の老杉が林立する中に、江戸時代に再建された諸堂が建ち並んでいる。寺の草創は神武天皇で、その後延暦十一年弘法大師がこの山に登り、南舎心嶽で百日間修行され、同十七年嵯峨天皇の勅命で国司が伽藍を創建し大師は本尊をはじめとする諸仏を刻んで安置された。その後、皇室や、武将等の尊信もあつく、伽藍は維持されてきた。難所ほど大師のおかげが多い。本堂には難病が全快した感謝の額が何枚も納めてある。  
 
「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高618mの太龍寺山の山頂近くにある。樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約6mの「舎心嶽」という岩上で、1日間の虚空蔵求聞持法を修行されたという伝えは、大師が24歳のときの著作『三教指帰』に記されており、よく知られている。虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法で、大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼしている。縁起によると延暦12年、桓武天皇(在位781〜86)の勅願により堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。  
皇室や武家の尊信が厚く、平安時代の後期には子院12ヶ寺をもつほどに栄えていた。だが、「天正(1573〜92)の兵火」からは逃れられなかった。また、江戸時代になっても幾たびか罹災し、荒廃の途を余儀なくされているが、その都度ときの藩主の保護をうけ再建されている。仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興している。四国巡礼者にとって、屈指の難所であったこの山岳寺院にロープウエーが開通したのは平成4年である。徒歩では、中腹の駐車場から坂道を登るのに30分も要していた。1,200年のむかし、大師の修行時代をしのばせる迫力、風格をそなえた古刹である。  
 
当山は舎心山常住院太龍寺と号し、高野山真言宗に属する名刹で、古来より「西の高野」と称されています。四国山脈の東南端、海抜600mの太龍寺山頂近く、古く桓武天皇の延暦十七年に弘法大師が開基され、幾多の変遷、興廃の歴史を経つつ現在に至っております。弘法大師24歳の時の著作として有名な「三教指帰」に゜19歳の時阿波の国太龍獄に登り虚空蔵求聞持の法を修し・・・″とあり、境内より南西方向へ600mの舎心獄が正に大師御修行の史跡であります。青年時の大師の思想形成に多大な影響を及ぼした当山は大師信仰の歴史の中で重要な位置を占めています。 
太龍寺2  
弘法大師 延暦12年(793)19歳 修行  
太龍寺は徳島県鷲敷町の東北にそびえる海抜600mの太龍寺山の山頂近くにあり、古来より「西の高野」と呼ばれています。 延暦12年(793)19歳の弘法大師空海が、太龍嶽(舎心嶽)の上で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法」を修法なされたことは、大師24歳の時に著された「三教指帰」の中に「阿国太龍嶽にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星 来影す」と記されています。つまり、太龍寺と室戸岬は青年期の大師の思想形成に重要な役割を果した修行地である ことがうかがわれます。
太龍寺3  
舎心山太龍寺縁起 金剛遍照撰  
それをもって諸仏鎮場多しといえども、或は劫初より以後、出ずる砌をもって徳を揮う、或は仁王即位より以後、当某御宇、宿に困り用を積み威力を数う、かたじけなくも勅にしたがい、紫宸の宣に応じ某、霊地に開くあり、或は高賤平等もって益、信、新に初め成り、興隆正により運び歩みあり。  
(中略)  
在々処々是くの如し、その阿波国那賀郡舎心山太龍寺に及ぶ。天神七代の内、六世、面足尊、惶根尊降り磯輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟うち国産み八嶋あり。まず淡路州を生む、これを淡道穂狭別という。  
つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛止比売と言い、これ与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言いこれ阿波国なり、四に(建)依別と言い、これ土佐州なり元根は伊与二名国ところ人情の賢別二名を称すと言う。四国名中、この大宜都比売、天神のため相応に玉墟内国のため恵会す。天地開闢以後、天棚霧中、金色雲登る。一茎二神、金色雲に乗り、大雨降り濁潮となる。和泥、世界を建立す。  
(中略)  
空海、両手かたじけなく大神宮を作る。両賓童子を作す。五身あり、衣体作り奉り空海の両足、鷲敷一殿大己貴尊を作す。この不動明王一度、輩に見せ奉る。生々世々無病息災うたがいなし。また金剛の登山日より本堂閣、新に空海の峰承聞伝所を造らしめ奉る。往昔、神武天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心山、行幸あり、舎心の峰の明星、御影向石に通じ夜上に向き明星に礼し給う。公卿数輩、軍兵、蹲踞す。低頭出現し明星を念じ奉る。神武五十四年歳次甲寅五月十六日寅時、明星出現在り、自光の中漏降す、五寸虚空蔵あり、舎心峰の石盤、安坐を示す。その円き光の連三十五脈、輝き天地に在り、その光数、滴り集合する所、閼伽水涌出す。和修吉龍王を守護し常住なり。  
また、西南方に当る地を鎮め三十二町敷、三十二相の霊地有り。神代の初二神上、珍貴尊を産し、祝後上に三柱彦神を産す在り、当に三生の上産に蛇あり、蛭子、足無し分間無し、天豫(にんべんに豫)樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、和修吉龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり、その時、天豫(にんべんに豫)樟船に乗りあって上、久しく御鎮座の辺と為す。また鎮殿造社三間形、南殿三柱神あり、かたじけなくも天照大神宮鹿嶋一御殿、春日太明神、ならびに天照大神宮第一稚子神あり。中殿西宮に愛敬戎三郎神を祝う。坎殿三柱神あり。白山に弁財天、三輪に大己貴尊あり、閼伽水を涌出し守護なし遷宮奉る。空海天長二年歳次乙巳六月一日本堂再興成就、元を治納す。  
去る五月十六日より御本尊作を企て奉り誓う。神武行幸日、五寸虚空蔵涌降なり奉る等□服身なり、同六月一日寅時御本尊安坐鎮静す。真実恭敬勤行し満足せしめ畢わんぬ。これひとえにかたじけなくも天照大神宮御正勅に依る者なり。  
(中略)  
かたじけなくも天照太神宮、毎日午時、御影向を垂れ摩頂に至る。大弁財天女十五童子、戎愛敬神、たちまち守護を加う。草木萬情、種子を絶やさず萬民を与えしめ衣食、意の如し。この山これ和修吉龍王、婆竭羅龍、坐を示し守護せしむ。霊地は、龍神直に勅言を誓う。尽未来際、燈明を檠け毎夜、生死長夜を照らす。求聞持、成就力。  
一切衆生悪道に堕すべからず誓約堅固。もって信言かたじけなくも天照大神宮の額字を奏請す。かたじけなくも天照大神宮勅宣を返し、龍神と偽り霊地を守護す、吾また守護を加うる所の者なり、太龍寺と号し奉る。かたじけなくも勅言を訖す。  
帝釈天、その額形、献上の勅あり、時に四天大王中、毘沙門天その額形、帝釈天に献上す。その時、広目天撃硯筆あり、帝釈天舎心山居三字、空海に賜る。余り微妙、歓喜、覚めず了知、三字を奉書す大龍寺額これなり。今よりのち当山において本求聞持し奉らず滅亡知るべし。帝釈天帰幸ののち、厚恩を報じ奉らす。北方五十町を隔て毎夜、初丑の刻参詣奉る。  
天長地久のため、一切衆生求める所、円満無病延命なり、仏法人の境、常安隠常住繁昌治定なり。  
天長二(八二五)年歳次乙巳六月十三日 金剛遍照 啓白 
太龍寺4 
弘法大師 青年時代の修行  
空海の青年時代の修行地・大瀧獄であり、四国八十八箇所霊場第二十一番札所の太龍寺は、桓武天皇の勅願により開基した。標高600mの太龍寺山の山頂付近にある。 境内から南西650mの舎心ヶ獄は、空海が著した『三教指帰』に『阿国太瀧嶽にのぼりよじ』とあるように、虚空蔵求聞持法を修した場所としても有名である。舎心は捨身を通じ、空海は百日間修行をしても悟りを得られず、谷に身を投げようとしたとも伝えられている。本堂には空海像があります。
●22 白水山医王院 平等寺 / 徳島県阿南市新野町秋山  
弘法大師 延暦11年(792) 開基 
792年(延暦11年)、弘法大師がこの地を訪れると、空に5色の霊雲がたなびき、薬師如来の姿が現れたため、像を刻んで本尊としたといわれる。 弘法大師が祈とうに使う水を求め井戸を掘ると、乳白色の霊水が沸き出たとされる。 どんな日照りも枯れることはなく、万病に効くと「弘法の霊水」として伝わってる。  
 
当山は、弘法大師御修行のみぎり空中に五色の霊雲たなびき、その中に金色の梵字(バン)現われ、大師が歓喜して加持されると薬師如来の尊像が現われ光明が四方に輝きました。大師がさっそく加持水を求めて一つの井戸を掘られたところ乳の如き白い水が湧きあふれたのであります。その霊水で身を清められた大師は、百日間の修行の後、薬師如来を刻み、本尊として安置し一切衆生を平等に救済されるため、寺号を平等寺(山号を白水山)と名づけられました。この霊水は開運鏡の井戸として、本堂石段の左にあり、どんな日照りにも枯れることなく、こんこんと湧き出ています。万病にきく「弘法の霊水」として、全国に知られています。  
 
弘法大師がこの地でご修行のみぎり空中に5色の霊雲がたなびき、その中に黄金の梵字が現れました。大師が歓喜して加持されると薬師如来の尊像が現れて光明が四方に輝いたのです。大師がさっそく加持水を求め杖で井戸を掘られたところ、乳のごとき白い水が湧き溢れました。その霊水で身を清められた大師は100日の修行の後に薬師如来像を刻み本尊として安置し、人々が平等に救済されるようにとの願いをこめて山号を白水山、寺号を平等寺と定められたのです。  
以後、寺は大規模に栄えましたが天正年間に長宗我部の兵火によって焼失し、江戸時代中期に再興されて現在に至っています。大師が杖で掘られた霊水は男坂の左下にあり、どんな日照りにも枯れることなくこんこんと湧き出ております。現在は無色透明で、万病にきく「弘法の霊水」として全国に知られています。容器が用意されているので持ち帰ることもできます。  
 
当山は弘法大師41歳の時厄除け修業のため巡錫せられた時、空に五色の霊雲がたなびき、その中で金色の梵字が現われたので、大師はその瑞相に歓喜せられ、梵字を加持せられたら薬師如来の尊像が現われ光が四方に照り輝いたので、さっそく祈祷に使う水を求めて、一つの井戸をお堀りになった。ところが、白い乳色をした水が湧き溢れたということであります。その水で身を清めた大師は、一百日の修行の後薬師如来像を刻み、本尊として安置し、一切衆生を平等に救済されるため、寺号を白水山、平等寺と称えられた。この霊水は開運鏡の井戸として、本堂石段の左にあり、どんな日照りにも枯れることなく、こんこんと湧出ていきます。万病に効く「弘法の水」として、全国に知られています。 
●23 医王山無量寿院 薬王寺 / 徳島県海部郡美波町日和佐  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
815年(弘仁6年)、弘法大師が自ら厄よけ薬師如来を刻んで本尊として開いた。本堂に続く石段は「厄坂」と呼ばれ、最初の33段が女坂、次の42段が男坂。 一段ごとに「厄銭」を置いてお参りをする。本堂の右手の高台には、鮮やかな朱と白壁に彩られた瑜祇塔(ゆぎとう)が立つ。 本堂から瑜祇塔に続く石段も61段の遍歴の坂になっていて、「厄よけ寺」としても多くの参拝者が訪れる。  
 
美波町へは平等寺から三つの峠を越える。薬王寺は日和佐の町を見下す山の中腹にあり仁王門から三十三段の女厄坂。本堂までの四十二段の男厄坂がある。女三十三歳、男四十二歳が厄年で厄年の人は厄銭を落としながら登る。四国一の厄除けの寺だけに年間百万の人が参拝する。弘仁六年、弘法大師四十二歳のとき、自他の厄除を誓願してご本尊の薬師如来を刻み、大師の奏聞により、平城・嵯峨・淳和の各帝は厄除の勅使を下して官寺とした。文治四年(一一八八)の災火でご本尊は玉厨子山へいったん移られたが、再建後は新しい尊像が造顕されたため、後向きに本堂へ入られ「後向薬師」とよばれている。現在の本堂は明治三十六年の建立。本堂右の瑜祗塔へは六十一段の還暦の坂を登る。塔内には五智如来が奉安され、階上は寺宝の展示室、また、塔からは美しい町並や海岸が望まれる。阿波発心の霊場もここで打ち終えとなる。  
 
「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でもある。厄除けの寺院としては全国的に有名で、「やくよけばし」を渡って本堂に向かう最初の石段は、「女厄坂」といわれる33段、続く急勾配の石段「男厄坂」が42段で、さらに本堂から「瑜祇塔」までは男女の「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっている。各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、参拝者は1段ごとにお賽銭をあげながら登る光景が見られる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって行基菩薩が開創したとされている。弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とされ、厄除けの根本祈願寺とした。大師は、この厄除け本尊の功徳を平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の3代に相次いで奏上したところ、各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされている。  
文治四年(1188)、火災で諸堂を焼失しているが、このとき厄除け本尊は、光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。のちに嵯峨天皇が伽藍を再建して新しい薬師如来像を開眼供養すると、避難していた本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られたと伝えられる。以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされている。境内には吉川英治著『鳴門秘帖』、司馬遼太郎著『空海の風景』に登場した石碑がある。  
 
全国の寺々の中でも、全くユニークなシンボルとなっている瑜祇塔の姿を最右翼に展開する。そして、其処に至る長い厄坂をもつこの寺は、弘仁六年(815)弘法大師四十二歳の時、広く世の人々の厄難を払うための誓願を立て平城天皇の勅命により、厄除け薬師如来を刻んで本尊とし、嵯峨上皇、淳和天皇などから、厄除けの勅命が下向し官寺とされたが、文治四年(1188)の火災で堂宇が灰塵となりましたが、本尊は光を放ちながら西の玉厨子山に飛び去って難をさけられ、後に嵯峨天皇が伽藍を再建し新しく薬師如来の尊像を刻ませ、入仏供養をされると、先に玉厨子山に移られた本尊が戻って後向きに本堂へ入られた。厄除けの寺として又観光名所として来訪者多く、全国的な評判を呼んでいる。 
●66 巨鼇山千手院 雲辺寺 / 徳島県三好市池田町  
弘法大師 延暦8年(789) 開基 
789年(延暦8)、16歳の弘法大師が雲辺寺山に登った時、霊力を感じてお堂を建てたと言われる。後に嵯峨天皇の依頼で千手観世音菩薩を刻み、本尊とした。 88箇所の中で最も高いところにある札所。 かつては学問の道場としても栄え、「四国高野」と呼ばれた。  
 
山麓の雲辺寺口から寺への5.5kmの登りは「へんろころがし」といわれる急勾配の坂道で横峰寺を上廻る難所。しかし、自動車道が開通し、中型車までは海抜1000mの寺までゆける。大師が十六歳のとき、寺の建築材を求めて登山したところ、深遠な霊山のおもむきに心うたれて堂宇を建立したのがこの寺のはじまりで、大同二年(八〇七)嵯峨天皇の勅を奉じてふたたび登山し、ご本尊を彫刻して仏舎利と毘盧遮那法印(仏法石)を山中に納め、霊場に定めた。その後四国高野といわれ、阿波、土佐、伊予、讃岐の各坊があって学僧が集まり、学問道場として盛んであった。鎌倉時代には七堂伽藍が整備され、阿波、伊予、讃岐の関所でもあった。また、江戸時代になってからは蜂須賀家の祈願所にもなり、手厚い庇護をうけたが、現在は往時面影はみられない。寺域はまさに雲上の世界。周囲の山々に霧がかかり雲の中の霊場。  
 
四国霊場のうち最も高い標高911m、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。最初は延暦8年、大師が16歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立した。これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁9年(818・大師45歳)、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。  
霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。貞観年間(859〜77)には清和天皇(在位858〜76)の勅願寺にもなっている。鎌倉時代は七堂伽藍も整備されて、境内には12坊と末寺8ヶ寺を有した古刹として阿波、伊予、讃岐の関所でもあったという。 天正年間(1573〜92)に土佐の豪族・長宗我部元親がこの地の白地城に陣して雲辺寺に参拝し、裏山から眼下を望み四国制覇を目指したが、当時の住職に諫められた。雲辺寺の歴史にも消長はあるが、江戸時代になってからは阿波藩主・蜂須賀公の手厚い保護をうけた。千古の杉に囲まれ、雲に包まれながら法灯を守っている。  
 
桓武天皇の延暦八年、弘法大師の建立。大同二年(807)嵯峨天皇の勅を奉じて再び登山し、本尊を彫刻して、仏舎利と毘櫨那法院(仏法石)を山中に治め、霊場と定められた。鎌倉時代には七堂伽藍が整備され、十二坊、末寺八ヶ寺を有し、阿波、伊予、讃岐の関所でもあった。四国高野とも云われる当霊場は海抜1千米の高所にあって、古来多くの学僧が勉学に励んだ記録も残されている。天正の頃、土佐の豪族長曾我部親元が当山に登り、眼下に横たわる讃岐平野・瀬戸の島々、はるかに望まれる伊予・阿波の国々を大観して、四国平定の野望を抱いた所。時の住職俊崇坊に「お主の器量なら土佐一国で充分」と言われた話は有名。後に蜂須賀家の祈願所となった。現在は広い境内に本堂、護摩堂、大師堂などが千古の杉に囲まれ雲に包まれながら創建以来七十八代の法灯を厳として護っている。 
 
●如竟山大慧金剛密寺 吉祥院 / 徳島県名西郡神山町神領字北上角  
弘法大師 延暦19年(800) 開基  
当院は平安時代前期の延暦19年庚辰(800)四国でご修行中の弘法大師が当地に来錫し開基されたと伝わる。  
当時この地は山々に囲まれた大きな湖で村人は山の急斜面に痩せた田畑を作り細々と暮らしていた。この状況をご覧になられた大師は大変哀れに思われ、湖の水を抜き開拓すればよい農地になると確信され、村民を集めて吉良山の一部(今の滝津の辺り)を自らも鍬を振り、牛に鋤を引かせて村民と共に切り崩し豊かな地とされた。  
その折、吉良山にご自身の住まいとして草庵を結ばれ、村人の無事安穏を祈って般若心経を書写し、苦を抜き楽を与える般若菩薩を本尊として庵に安置されたのが当院の始まりである。  
庵は、大師が旅立たれた後、時代の変遷とともに自然に廃絶し、大師御筆の心経と本尊も紛失したと伝わる。  
時代は下り平安後期の天永2年辛卯(1111)興教大師の恩師である阿波上人青蓮大和尚(当国出身で高野山の念仏聖として活躍し、熊野権現に祈願して霊験を得たため人々に半権現として崇められた)が弘法大師を慕って廃絶していた庵の再建を発願された。  
これに際し上人と親交の深かった白河天皇の第五皇子聖恵法親王が自ら本願となり、庵に再び本尊とするため般若菩薩の尊像を御寄進。正式名称が無かったため吉祥尊院の院号を下賜される。しかし、「尊」の字が恐れ多いということで通称を吉祥院としました。  
上人は大師に習い心経を書写し安置、日頃より信仰する熊野権現の本地仏阿弥陀如来を謹刻し、本尊の傍らに祀り念仏三昧の修行をされたが、後に高野山に帰山された。  
庵は聖達の念仏道場として残り、保延3年丁未(1187)には、後に奈良の東大寺を再建した重源上人が参拝され、念仏修行をされるなど聖の拠点のひとつとなった。  
鎌倉時代、承久の乱により土佐に流された土御門上皇が、貞応2年癸未(1223)阿波に御遷幸された。重源上人を崇敬されていた上皇は、上人に縁の庵があるのを聞かれて上人の菩提、ご自身と後鳥羽、順徳両帝の後生得楽を祈り、阿弥陀の陀羅尼を書写して院使を遣わし、当院に納められた。  
しかし、戦乱期の天正5年丁丑(1577)に土佐の長宗我部元親が阿波に攻め込み、その戦火に遭って炎上し再び廃寺、本尊や什物は散逸した。  
この伝説の庵を現住職が新たに般若菩薩を造立し、台座に大師の故事に因み般若心経を書写し納め、大師開拓の姿を写した鍬持大師像と共に本尊とし、阿波上人の故事から本尊の横に阿弥陀如来を祀り、勧請中興開山に真言宗長者・仁和寺門跡裕信大僧正をお迎えして院家格の寺院として再建した。  
宗派は真言宗御室派で京都仁和寺の直末寺院である。  
尚、当院の山号は「如竟吉良山」と申しますが、普段は長い為、山号を省略し「如竟山」としております。現在、開基の故地である山を「吉良山」といっておりますので、あえて略号を使われてない如竟を使い「如竟山」としております。  
略称を「如竟山 大慧金剛密寺 吉祥院」、正式名称は「如竟吉良山 大慧金剛密寺 吉祥尊院」と号します。 
●金泉寺・黄金の井戸 / 徳島県板野郡板野町大寺亀山下  
弘法大師 ゆかり  
四国霊場第3番札所。弘法大師ゆかりの「黄金の井戸」があり、井戸に自分の顔が映れば長寿になるという。寺域からは藤原時代の瓦も発掘された古い歴史をもつ。大師堂は土足のまま参拝できる。 
●犬墓大師堂 / 阿波市  
弘法大師 ゆかり  
犬を連れてこの地の山に分け入った弘法大師が猪と遭遇したところ、その犬が弘法大師を猪から守りました。しかし犬は、誤って滝壺に落ちてしまい、犬の死を憐れんだ弘法大師が犬の墓を立てこの地を犬墓と名づけたと言われています。墓は享保(1716〜36)の頃、犬墓村庄屋松永傳太夫が造ったとされています。 
●丈杉庵 / 徳島県名西郡神山町  
弘法大師 天長8年(831) 葬送  
衛門三郎 天長年間(824-833)  
杖杉庵(じょうしんあん)は徳島県名西郡神山町に所在する高野山真言宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。弘法大師伝説の残る四国八十八箇所霊場番外札所である。  
最初に四国八十八箇所を巡った伝説の人物とされる衛門三郎の終焉の地伝説が残る場所に建つ寺院である。伝説によれば、平安時代前期の天長年間(824-833)に、伊予国の人であった衛門三郎は四国巡錫中の弘法大師に行った無礼な行いを詫びるため弘法大師を追って旅に出たという。21回目に逆回りを行っている途中、四国八十八箇所12番札所焼山寺近くのこの地で力尽き病に倒れた。そこに弘法大師が現れ、衛門三郎は非礼を詫びた。大師が衛門三郎に来世の望みを訊くと、生まれ変われるなら河野家に生まれたいと望んで息を引き取った。そこで大師は「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長8年(831)10月20日のこととされる。大師は衛門三郎をこの地に葬り、墓標として衛門三郎が遍路に使用した杉の杖を立てた。これがやがて根を張り杉の大木となったという。  
この地に庵が設けられ、伝説にちなんで杖杉庵と名付けられた。なお、伝説の大杉は江戸時代中期の享保年間(1716-1735)に焼失したとされる。この頃に京都仁和寺より衛門三郎に「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られた。
 
四国遍路元祖・衛門三郎 / 徳島県名西郡神山町下分字地中  
(河野衛門三朗菩提寺 別格20霊場第9番札所 文殊院)  
伊予の国、浮穴郡荏原の庄に衛門三郎という長者がありました。衛門三郎は大変な長者で勢いが強く、倉荷は金銀財宝がみちみち、何不自由なく暮らして近国に比べる者もない程度の長者でした。ところがどうしたことか非常に欲が深く、その上使用人をいじめたり、村人たちを苦しめ、飢えに泣いているまずしい人を見ても一銭の金も一粒の米もめぐんでやることを知りませんでした。道で病にたおれ、苦しみもだえている者を見ても振り向きもせず、これをいたわる情けもありません。時には木や竹をふり上げてたたいたり、追い払うという、それはそれは強欲非道な長者として、だれ知らぬ者もなく、人々から鬼の長者として大変恐れられていました。ある日のことでした。荏原の村に辿り着いた弘法大師は、衛門三郎の強欲非道を聞き、これを戒めて良い人間にしようと、破れた草履をはき、破れた衣服を身にまとい、見るからにみすぼらしい姿で鉄鉢をもって、長者の門前に立って食物を乞いました。衛門三郎は使用人に言いつけて直ぐ追い返しました。大師はあくる日も同じように門前に立ちましたがすげなく追い返されました。次の日も門前に立ちますと、これを見た衛門三郎は怒って顔を真っ赤にし「凝りもせず又来たか、きたないくそ坊主め、早く帰れ帰れ」とののしりました。大師はすごすごと帰りましたが、何とか衛門三郎の非道をためなおそうと、そのあくる日も又門前に立っていくらかのお米を恵んで下さいと申しますと、衛門三郎は悪魔のような恐ろしい顔で、「早く帰れ帰れ、お前のようなきたないくそ坊主の顔は見とうもないわい」と大声で怒鳴りちらしたので大師はすごすごと帰りました。あくる日も、そのあくる日もこりずに門前に立ち立っては追い返されました。このようにしてやがて8日目のことです。大師はいつものように門前に立ち鉄鉢を差し出して食べ物を乞うと、いよいよ怒った衛門三郎はもう我慢しきれず、「一度ならず二度ならずよくも来たものじゃ」とものすごく怒って、門前に踊り出たかと思うと、大師がささげ持っていた鉄鉢を掴んで大地に投げつけました。するとどうでしょう、鉄鉢は八つに砕けて光を放ちながら、大空高く舞い上がり、遥か彼方の山すそに落ちたかと思うと、今まで門前に立っていた大師の姿はかき消すように見えなくなりました。強欲非道な衛門三郎も、このありさまを見て大変驚きましたが、強欲非道な心を改めようとはしませんでした。仏の心を表す鉄鉢を砕いた罪は決して軽くはありません。天罰はてきめん現れて、そのあくる日、衛門三郎の長男が病気もしないのに急に死にました。その次の日は次男が死に、その次の日には三男というように、8日間の間に次々と8人あった男の子が一人も残らず死んでしまいました。  
さしもの強欲非道で涙を流したことの無い衛門三郎も、この時ばかりは大声をあげて嘆き悲しみ、涙乍らに8人の子供を葬りました。(その地を八塚といって今も古い跡が残っています)  
衛門三郎はこのようなたび重なる不思議な出来事に感じ入ってはじめて自分の非道を後悔し、恐ろしい戒めを悟って妻に言うことには。「このごろ、空海上人とやら言う、えらーいお坊さんがあって、四国霊場をお開きになるため、この島国にこられて廻っておいでになると言うが、何時ぞや門前に立たれたお坊さんが、その空海上人様ではなかろうか」「わしが坊さんを、あざけりののしって、鉄のお碗を砕いたために、世にも不思議なおとがめを受け、その上かわいい八人の子供はその天罰によって、一人残らず死んだのに違いない、この上は四国を巡拝することにしよう」広い田畑や山林をことごとく売り払ってお金に換え、近隣の人々に分け与え、少し残したお金を布の袋に詰め込んで、これで大丈夫だ行き先ざきの旅費にしようと背中に背負い旅の支度を整えて、空海上人の後を慕って四国巡拝の旅をすることにしました。そして、もし大師にお目にかかることが出来たら、これまでの罪を懺悔し、せめてあの世の罪をまぬがれたいと、妻にも別れをつげて家を出ました。それからは、ただひたすら大師様のあとをしたって、四国八十八ヶ所を二十回もまわりました。それでも、大師様のお姿をおがむことは出来ませんでした。しかし何としても大師様に巡り合いたいものと、こんどは逆にまわることにして、ようやくこの地までたどりり着きました。  
(阿波・12番札所焼山寺)長い旅のことで疲れもひどく、やれやれと、一休みしようと背中の袋をおろして中をのぞいて見ると、さあ大変、これまで黄金とばかり思い込んでいたお金が、いつの間にやら石になっているではありませんか。衛門三郎は、いよいよ恐ろしくなって驚き悲しみ、自分の強欲非道の罪の深かったことを思い知り、両手を合わせてしばらくうなだれていました。旅の疲れが一度に出たのか、体もすっかり弱りはててしまい、その上熱も出て一歩も動けなくなり、大地にうちふして息もたえ だえに苦しみもだえ、衛門三郎の命ももうこれまでと見えた時です。不思議にも大師様の神々しいお姿がどこともなく現れて「我は前に汝の門前に立ちし空海である。汝は強欲非道のかぎりをつくし、わが鉄鉢を砕いたではないか」という声に驚いた衛門三郎は、ありし昔の非道を後悔し「大師様でございますか、もったいなくも大師様とも知らず一粒の米も差し上げずあざけりののしり、その上尊い鉢を砕いた罪をしみじみと身にしみて恐ろしくなり、この上のおとがめに耐え兼ねてにわかに四国巡拝を思い立ち、今一度大師様にめぐりあい、今までの罪を後悔して許して下さいと、雨の日も風の日もいとわず霊場を二十回廻り今二十一回ぶりに大師様に巡り合うことが出来るとは、何と言う因縁でございましょう。私は今はもう余命もございません。どうか今までのおかした罪をお許し下さい」と苦しい息のの下から、息もたえだえに、いちぶしじゅうを物語り、両手を合わし真心をこめてお願いいたしました。すると大師様は、けだかい仏様のようなお顔で「お前は一度は悪い心がつのっていたが、今は本心に立ち返って善心も強いであろう。今までにこの世の果報はすでにつきているが、次の世の果報はうけたいであろう。願うことがあればかなえてやろう。」と申されました。衛門三郎はいよいよ大師様のおなさけ深いお心に感じ入って、落ちる涙をふきもせず「有難いことでございま。私のような罪深い悪人をお許し下さいますか、私は河野家の一族でございますので、願わくば河野家の世継ぎとして生まれ変わらせていただきたいと思います。」とおそるおそる申し上げると、大師様は、「その願いかなえてやろ う」と申されて、一つの小石を拾い、衛門三郎再来と書いて左の手に堅く握らせ、又古い一巻の経文を胸にいだかせて、「来世には必ず一国の主君の家に生れよ」と申されると、衛門三郎は大師様をふしおがみながら安らかに眠るように息をひきとりました。  
時は天長8年10月20日のことでした。  
こうして大師様は御みずから穴を掘り、土砂を加持して衛門三郎の死体を埋め、残された杖を立てて墓標とし、後世には良い家に生れてりっぱな人になるよう、ねんごろに回向し合わせて後世の人々も共に栄え給えと、この小石と小砂を加持せられたと伝えられています。それから何年かたって、伊予の国の大名河野左衛門助息利の家に、丸々と太ったかしこそうな若君が生れました。  
ところがどうしたことか、生れてから何日たっても左手を堅く握って開きません。そこで、菩提寺である安養寺のえらいお坊さんを呼んで祈願してもらいました。すると今まで堅く握っていた手を開きましたが、不思議なことに衛門三郎再来と書いた小石を握っておりました。  
これこそ何年か前に死んだ衛門三郎が、大師様の情け深い加持のお導きによって伊予の殿様の若君として生まれ変ったもので、若君はその後成長してりっぱな国司になったと、いい伝えられています。石を手に握っていたということから、菩提寺である安養寺はそれから石手寺と名づけられ、若君が握っていたという小石は、今の四国五十一番札所石手寺に保存されていると伝えられています。又、衛門三郎が四国を廻ること順に二十回、逆に一回という長い間、黄金と思い込んで背中に背負って歩いた袋の中の石はこの庵に保存され、ここに参拝する人々は皆その不思議なありがたさに感じ入っています。このようなありがたい因縁によって、この庵の庭に有る小石は安産のお守りとなり、生れた子は丈夫でかしこく育つといわれ、又この砂は大師様が加持して衛門三郎の亡骸にかけられた小砂であるということから、布で包んでなでたり、又これをふくむと脚気の病もなおると言い伝えられています。大師様が衛門三郎の墓標にと立てた杉の杖は、これ又不思議なことに根をおろして大きく成長して、廻り12m、 高さ57mにもあまる大木になりました。 
 
香川県

 

●満濃池 (香川県仲多度郡まんのう町) / 弘仁12年(821) 空海が築池別当として派遣され、約3ヵ月後改修完了。  
●善通寺 (香川県善通寺市) / 空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。  
●大窪寺 (香川県さぬき市) / 空海が納めたとされる錫杖は、空海が唐から持ち帰った三国伝来のものと伝え、本尊とともに祀られている。  
●弥谷寺 (香川県三豊市) / 大同2年(807)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し伽藍を再興、その時点で山号を剣五山千手院、寺名を弥谷寺と改めたという。  
●覚城院 (香川県三豊市) / 弘仁10年(819)空海(弘法大師)により創建されたと伝えられる。  
●瀬戸内海国立公園 (香川県観音寺市) / 東側にある我拝師山や火上山は弘法大師空海に関わりが深く、善通寺界隈の景観と一体化した、文化的景観の様相が強い。  
●塩江温泉 (香川県高松市) / 空海も修行し、湯治を万人に勧めたといわれる。  
●白峰宮 (香川県坂出市) / 摩尼珠院は空海(弘法大師)の創建と伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。  
●香川縣護國神社 (香川県善通寺市) / 善通寺駅から善通寺市民バス「空海号」(東コース左廻り)に乗車、善通寺西高下車。  
●寿覚院 (香川県丸亀市) / 境内の観音堂にある十一面観音菩薩像は空海の作とされる。  
●神谷神社 (香川県坂出市) / 弘仁3年(812)、空海の叔父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)が社殿を造営し、相殿に春日四神を勧進したと伝えられている。  
●琴弾八幡宮 (香川県観音寺市) / 大同2年(807)、四国を行脚中の空海が当社に参拝し、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来の像を描いて本尊とし、琴弾山神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めたという。  
●與田寺 (香川県東かがわ市) / 奈良時代の天平11年(739)に行基を開山として醫王山薬王寺薬師院の号で法相宗の寺院として創建されたといい、後に空海により宗派を真言宗、寺号を神宮寺に改められたという。  
●67 小松尾山不動光院 大興寺 / 香川県三豊市山本町辻  
弘法大師 弘仁13年(822) 開創 
822年に開祖。真言宗と天台宗の2派の僧が並んで修行をしたという珍しい歴史がある。仁王門を抜けると、樹齢1200年を超えるカヤとクスノキが構え、本堂では参拝者が願い事を書いて奉納した「七日燈明」と呼ばれる赤い大ロウソクが揺らめく。  
 
縁起によれば、弘仁十三年(八二二)嵯峨天皇の勅命で弘法大師が熊野三所権現鏡護の霊場として開創し、ご本尊の薬師如来を彫刻して安置された。後に真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あって本堂の左右に真言、天台の大師堂があった。その後天正の兵火で本堂を残して他の堂塔を焼失し、現存の建物は慶長年間に再建されたもの。雲辺寺から約12km下って、仁王門より、大師お手植えの楠と榧の老樹を見ながら石段を登ると正面の本堂へ達する。かつて東大寺の末寺に属し台密二教の道場として栄えたがその面影はない。しかし現存の諸堂はいずれも修築し整備されている。仁王門は八百屋お七の父か恋人の吉三のいずれかが、お七の菩提を弔うために遍路となり、その途中に寄進したとも伝えられる。寺の名は大興寺だが、地元の人や遍路は山号にちなんで小松尾寺と親しみよんでいる。  
 
地元では大興寺というより、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれ、近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。  
縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。  
現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、右側に天台宗第三祖智を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。  
香川県の文化財として指定されているのは次の4件である。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチ。天台大師の彫像は極めて少ない。仁王門にある雄渾な2の金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがある。  
 
当山は小松尾山不動光院 大興寺 泉上坊と号します。弘仁十三年(822)嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が熊野三所権現鎮護の霊場として開創され、御本尊は薬師如来、脇侍は毘沙門天・不動明王ともに弘法大師一刀三礼の尊像と云われ、嘗ては東大寺の末寺とし、四国第六十七番霊場とせられました。昔は山上・山下に三六坊の僧坊がいらかを連ね、空海・最澄の教えが渾然としてひかり栄えておりましたが、天正の兵乱で長曾我部親元により本堂を残しことごとく焼亡しました。現在の本堂は慶長年間(千五百九十六〜一六一四)に再建せられたものです。尚、寺宝として約六百年前、藤原経朝卿が病気平癒の礼額として奉納した大興寺の扁額がありますが、「文永四年丁卯七月二十一日書之従三位藤原朝臣経朝」と裏書きされています。又、弘法大師御手植の楠の大樹、四国で最大をほこる仁王尊像、辻の八幡神社に祀られてい貞亨年間の梵鐘は数百の間、四海にひびき渡っています。 
●68 七宝山 神恵院 / 香川県観音寺市八幡町  
弘法大師 大同年間 巡錫 
約1300年前、日証上人が琴禅八幡宮の別当として創立。弘法大師が7代目の住職の時、観音寺と改めた。琴禅八幡宮が68番、観音寺は69番だったが、明治初期、神仏分離で琴禅八幡宮の本地仏を移して神恵院を68番の本堂としたため、四国霊場唯一の珍しい1寺2霊場となっている  
 
観音寺市へ入り、財田川を渡ると琴弾山(58.6m)の麓。それから中腹へと石段がつづいている。神恵院と次の六十九番観音寺は同一境内にある。文武天皇のころ、法相宗の日証上人が山頂に草庵を結んで修行していたとき、海のかなたに神船が浮んで琴の音が聞こえ、宇佐八幡のおつげがあり、その神船と琴をひきあげて山頂にまつった。この神船は神功皇后ゆかりのある船なので皇后の像も合祀し、大宝三年(七〇三)八幡の本地仏である阿弥陀如来の尊像を安置した。養老六年(七二二)には行基菩薩が巡錫し、後に弘法大師もこの地に巡錫して阿弥陀如来の尊像を描いて本尊とし六十八番の霊場に定め、寺号を琴弾山神恵院と名づけた。明治の神仏分離で八幡宮に安置の阿弥陀如来は観音寺の境内に移遷され、琴弾八幡宮と神恵院に分離し、それぞれ独立して神恵院は観音寺と同居のかたちをとり、本堂、大師堂は一段高いところに移建した。  
 
六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。  
開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場としました。  
その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂(さいこんどう)に移されました。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。  
 
大宝三年(703)三月、西の方の空が鳴動してあたりがうすぐらくなったので、おどろいた僧日証が浜に出てみると、一そうの舟があり舟中で琴を弾く者がおりました。「われは八幡大明神なり、宇佐より来たる、この地の風光、去りがたしと覚ゆ」とのたまう。日証は大変驚いて、里人とともに神船と琴を山上に引き上げて、社殿をつくり奉安し琴弾八幡と号しました。大同年間に弘法大師が当寺に巡錫された折、琴弾八幡の本地仏阿弥陀如来像を画かれて安置し、当山を四国六十八番霊場とせられました。明治初年の神仏分離令によって、六十八番本尊、阿弥陀如来を観音寺金堂に移座しました。これで四国霊場唯一の寺二霊場の札所となりました。 
●69 七宝山 観音寺 / 香川県観音寺市八幡町  
弘法大師 大同3年(808) 巡錫 
703年(大宝3年)、日証上人が琴禅山上に八幡宮を建立した際、別当寺として開いた。808年(大同3年)、弘法大師がこの地を訪れ、聖観世音菩薩を刻んでお堂に安置。 寺号を現在の名前とした。  
 
寺伝によれば、大師は神恵院を霊場に定めた時、神功皇后は観世音の生まれかわりとして聖観世音菩薩の尊像を刻まれ、山の中腹に七宝山観音寺を創建して尊像を安置し、八幡宮の別当寺として六十九番の霊場に定めた。仁王門を入った右に本堂(金堂)がある。文明四年から大永五年(一四七二〜一五二五)の間に大修復し、昭和三十四年にも解体修理して、重要文化財に指定されている。観音寺の伽藍配置は奈良興福寺の東西金堂、中本堂の制にならっており、中本堂には聖観世音、西金堂には薬師如来と十二神像、東金堂には弥勒菩薩を安置していた。現在は西金堂に神恵院があり、薬師如来は本堂に奉安されている。大師堂は神恵院への石段の登り口にある愛染堂に隣接し、庫裡では一山二ヵ寺分の納経朱印を扱っている。ところで本尊厨子の裏板には、貞和三年(一三四七)常州下妻の僧の落書があり、このころ下妻(茨城)から四国遍路に訪れていることが知られる。  
 
観音寺が第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山している。大師はそのころ、琴弾大明神が乗っていた神船は神功皇后とゆかりがあり、観音の化身であると感得した。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣ならって中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。  
桓武天皇(在位781〜806)はじめ3代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。だが、やはり明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。本堂は、金堂とも呼ばれて室町時代の建築で国指定重要文化財。朱塗りの柱が色鮮やか。境内には宝物館があり、彫刻としては珍しい「仏涅槃像」(厨子入り、平安〜鎌倉時代)をはじめ、絵画では「琴弾宮絵縁起」(絹本著色、鎌倉時代)、「不動二童子像」(絹本著色、室町時代)のほか、前項で触れた本地仏像など国の重要文化財が数多く収蔵されている。  
 
当山は大宝年間に、法相宗の僧日証上人によって開山され神宮寺宝光院といっていました。大同年間に弘法大師が第七世となられ、南都興福寺にならい、中金堂、東金堂、西金堂の制をとり、七伽藍を造営して、中金堂に聖観音像を彫刻されて安置し、神宮寺を観音寺と改め、四国第六十九番霊場とせられました。七種の珍宝を埋めて地鎮し山号を七宝山と号しました。貞観時代第十世、理源大師の時に院号をも改めて神恵院としました。明治初年の神仏分離により、六十八番の本尊を西金堂に移座して四国霊場唯一の一寺二霊場となりました。 
●70 七宝山持宝院 本山寺 / 香川県三豊市豊中町本山甲  
弘法大師 大同2年(807) 建立 
807年(大同2)、平城天皇の依頼を受けた弘法大師が、たった一晩で建てたと言う「一夜建立」の言い伝えが残る。本尊の馬頭観世音菩薩と阿弥陀如来、薬師如来も大師が刻んだと言われる。四国霊場八十八箇所のなかで五重塔があるのは、本山寺と善通寺(香川県善通寺市)だけ。本山寺本堂は国宝、仁王門は重要文化財に指定されており、建築史上、価値が高い。  
 
琴弾山をあとに東北へ向うと前方に五重塔の塔身がくつきりと浮かぶ。大正二年の再建だが、古くは大同四年に弘法大師が建立し、天暦二年(九四八)に修理したが、その後上の四層が破損したため下の一重のみを修理し塔堂として残っている。本堂は大同二年(八〇七)平城天皇の勅願により弘法大師が一夜のうちに建立したと伝えられる。この用材は徳島県井ノ内村の山中より伐採し、香川県財田村で組立ててこの地へ運んだという。ご本尊の馬頭観世音、脇士の阿弥陀と薬師如来はこの時に彫刻して安置された。本堂は鎌倉時代に大修復され、昭和三十年にも解体修理し国宝になっている。美しい仁王門(八脚門)は久安三年(一一四七)の建立で重文。伝説によれば、天正のころ、長曽我部元親は寺へ進駐しようとしたが住職が拒んだため切り殺してしまう。やがて内陣厨子が開き、脇士の阿弥陀如来のおからだから血が出ており、驚いた武士は境内から退き寺は戦禍から免れたという。  
 
四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。大同4年(809)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建されました。また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えています。  
大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残ります。およそ2万平方mの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせます。  
天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れたといわれます。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれています。その後、「本山寺」と名を改め、今に至ります。  
 
当山は、大同二年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が鎮護国家のため創立せられたのであります。昔は二十四の塔頭、二千石の寺領を持ち、隆盛を極めたものでありました。天正の兵乱、長曾我部の焼き討ちにもまぬがれ、古代の美を誇る本堂、仁王門、五重塔等は、千年余りの歴史の香を止め、国宝或いは特別保護建造物に指定されています。本堂は、香川県内の寺で、ただ一つの国宝建造物で正安二年(1300)鎌倉後期に建築せられたものであります。 
●71 剣五山千手院 弥谷寺 / 香川県三豊市三野町大見乙  
弘法大師 伝説(入唐受法後、再度登嶺) 
「死霊が帰る山」と言われる弥谷山の中腹にある。 山門をくぐり、石段を約300段上ったところに高さ6mの金剛拳大菩薩像。さらに108段上ると、弘法大師が岩くつを掘ったという大師堂があり、修験の場の厳かな雰囲気が漂う。奈良時代、行基が神秘な山にひかれ、堂を開いたのが始まりと伝えられている。  
 
寺は標高382mの弥谷山の中腹にある。三つの峰からなっているので三朶の峰といわれ、昔から死霊のゆく山と信じられている。山麓までの坂道を登ってゆくと、仁王門の手前に名物のあめ湯とトコロテンを売る俳句茶屋がある。門を入ってからは二百六十二段の石段。元禄年間に住僧覚林が造顕した金剛挙菩薩が奉安されており、さらに段を登れば、大師堂、鐘楼堂、岩窟の護摩堂、岩壁に刻まれた弥陀三尊などがあり、本堂には千手観世音がご本尊として奉安されている。寺は行基菩薩の開創。聖武天皇が堂塔を建立し、後に、弘法大師が七歳のときこの山で苦行し、大同二年(八〇七)再び登山して真言密教の秘法を修されている時、五柄の剣を得るとともに蔵王権現のおつげがあり、これにもとずき大師は千手観世音を刻み本尊とした。大師堂につづく奥ノ院は「獅子の岩窟」大師が求聞持の法を修されたところ。  
 
創建について / 今からおよそ1300年前。人皇第45代聖武天皇の勅願により、行基菩薩が堂宇を建立し、光明皇后の父母の菩提を弔う為、『大方広仏華厳経』をお祀りし、寺院を創建したといわれています。また、華厳経以外にも、寺宝の経典の中には天平年間724年頃につくられた経典が残っており、少なくとも724年以前には寺院が建立されていた事が伺へ、大師生誕(774)の50〜100年程前に弥谷寺が創建された事が分かっています。  
霊山信仰 / 弥谷寺のある弥谷山は、古来より霊山(仏山)として信仰されたといわれ、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられたとされる。古来より、人々は山々に仏や神が宿ると信じ、その山を霊山(霊峰)と呼び信仰の対象としたとされる。また、この信仰は、お遍路の元となった、辺(遍)路信仰(へじしんこう)の1つともいわれている。弥谷山の霊山信仰では、『山域全体が仏の住む世界であり、水場横の洞窟が極楽浄土の入口だといわれ、特別強く信仰された。』とされ、霊山信仰を持った修験者により刻まれた摩崖仏が今も無数に点在している。また、こういった信仰は現在も残され、水場の洞窟に水経木と呼ばれる真言を書いた木札をお供えし、山頂から流れ落ちてくる霊水で、経木を洗い清める事で(お水まつり)、子孫末裔が現世で安穏(幸せ)に過ごせるよう、多くの方が参拝している。  
獅子之岩屋 / 獅子之岩屋は、寺院創建の頃よりあった洞窟といわれ、『弘法大師が9〜12歳の頃、この岩屋にて修学(学問)に励まれた』といわれています。また、寺院創建の頃より、この岩屋の右手奥にある洞窟は経蔵として使われていたとされ、大師はこの経蔵から経典をとりだし、岩屋の窓(明星之窓)から明かりを取り込み、写経や学問に昼夜問わず励まれたといわれています。岩屋の形が『獅子が咆哮をあげた形に見える事から獅子之岩屋』と呼ばれ、「獅子の咆哮は仏の説法と同じ」という仏教の信仰から、この岩屋の前で信心をおこし参拝する事で、『その身につくあらゆる厄災を獅子が食べ尽くし、その身を護る』といわれ、信仰されています。  
洞地蔵尊(ほらぢぞうそん) / 首から上の病に御利益があるといわれるお地蔵様です。獅子之岩屋に向かう途中の大師堂内より参拝でき、座って岩壁の10b上方を見上げないと姿を見る事ができないお地蔵様です。  
修学ノ地としての弥谷寺 / 現在、寺院に伝わる書簡の調査によると、大師修学以後も多くの僧侶が弥谷寺へ訪れていた事が伺へ、近年では、西郷隆盛と入水した月照の手紙とされる書簡なども見つかっており、明治初期まで様々な僧侶が来山し、修学・修行に励んでいた事が分かっています。  
 
人皇第四十五代聖武天皇の勅願、天平年間、行基菩薩が此所に寺を創り、この山より、中四国の八国が眺められたので蓮花山八国寺と名付けたという。後、弘法大師が真魚の幼少期に岩窟に篭り学問をしたと伝えられています。入唐受法後、再度登嶺、樹下石上に苦修練行を積まれました。金堂への途中の岩壁に刻まれた弥陀三尊(鎌倉時代の作)は四国霊場中希有の摩崖仏として有名(県指定文化財)又、大師が唐より招来したと伝えられる金剛五鈷鈴は重文として有名であります。 
●72 我拝師山延命院 曼荼羅寺 / 香川県善通寺市吉原町  
弘法大師 大同2年(807) 巡錫 
596年、弘法大師の祖先で讃岐の豪族、佐伯氏の氏寺として建立。弘法大師が807年、唐から持ち帰った大日如来を本尊とし、金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置した。境内には、弘法大師が手入れしたとされ、2枚の菅笠を重ねて伏せたような樹齢1200年の「不老の松」がある。  
 
寺は弘法大師の先祖である佐伯家の氏寺として推古四年(五九六)創建され、世坂寺と称していたが、弘法大師が留学後、ご本尊の大日如来を勧請し、大同二年、金胎曼荼羅を安置し、唐の青龍寺に模して堂塔を建立し、寺号も我拝師山曼荼羅寺と改めた。本堂から廻郎づたいの観音堂には聖観世音が安置されている。桧材一木造りの豊満端厳な尊容で、藤原時代の造顕という。境内には西行法師の「笠掛桜」と「昼寝石」の遺跡がある。西行法師は諸国を行脚中、この近くに滞在し、寺の境内でしばしば休息し、あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れ、それを見て「笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめが下かな」とよんだという。自然の中に人間性を見出して表現したところにその特徴があるといわれる。  
 
縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれています。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めました。  
また、四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの「不老松」の存在も紹介されています。高さは4m足らずですが直径が17〜18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていました。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されています。  
曼荼羅寺の近くには「水茎の丘」という丘がありますが、ここに庵を建てて7年余り暮らしていたのが西行法師。この寺に通い、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたようで、この石は「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にあります。また、その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木も。西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたまま出発したのを見て「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」という歌を詠んだそうです。  
 
当山は、弘法大師の御先祖たる景行天皇の御後裔にして讃岐国の領主であった佐伯家一族の氏寺として推古帝四年に建立されました。はじめ「世坂寺」と称したが、弘法大師入唐後留学を終せ給い、御帰朝の後、御請来の金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅を安置供養し奉り、本尊大日如来を勧請して、上は宝祚の無窮を祈り、下は万民の災厄を除去せしめんがため、殊に御母玉依御前の仏果菩提を祈らんがために、唐土の青竜寺に模して、大同二年に起工し三ヵ年の歳月を経て、造営全く成り、弘法大師自ら寺号を命名なし給い「曼荼羅寺」と改称せられたのであります。畏くも、寛喜の御帝、御堀川天皇の下し給いし御綸旨に、「曼荼羅寺は、仏法興隆、鎮護国家の霊場なるにより未来際を限って、寺領を此寺に下し給う」とあります。 
●73 我拝師山求聞持院 出釈迦寺 / 香川県善通寺市吉原町  
弘法大師 伝説 
弘法大師捨身ヶ岳の奇跡で知られる寺。 本堂から1.8キロ登った我拝師山の頂上(481m)に奥の院がある。弘法大師が7歳の時、仏門に帰依した自分の決意を仏にゆだねるため、頂上の断崖から飛び降りたところ、釈迦如来と天女が現れ抱きしめたという言い伝えがあり、寺号の由来となっている。平安時代の歌人西行も近くに庵(いおり)を構え、しばし座禅を組みに訪れたという。  
 
前方に我拝師山(標高481.2m)がある。昔は倭斯濃山といったという。伝説によれば、弘法大師が七歳のときこの山に登り、「仏門に入って多くの人々を救いたい。この願いがかなうなら釈迦如来あらわれたまえ、もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」といって、断崖絶壁から谷底へ身を投げるのである。この時釈迦如来と天女があらわれて雲上に抱きとめ「一生成仏」の旨をいわれた。一命を救われ、その願いが成就することを示された大師は、感激して釈迦如来の像を刻み、堂宇を建てて出釈迦寺とし、倭斯濃山を我拝師山に改めたという。曼荼羅寺からだらだら坂を五百bあまり登ったところに出釈迦寺がある。寺の境内には我拝師山々頂の捨身ヶ嶽の遥拝所があり、ここからは捨身ヶ嶽禅定の建物が仰がれる。山路一・八`約四十分の登り。山上の奥ノ院には釈迦如来と不動明王、弘法大師像が安置され身を捨てた行場は五百b先にある。  
 
出釈迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれています。  
また、弘法大師が身を投じた場所は、ここからさらに100mほど登った場所にあります。下を見れば足のすくむような深い谷底ですが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海を一望できる絶景が広がります。  
 
大師この地で修行中捨身の供養からも救われた神秘不可思議なる仏陀の霊光に感謝し、御誓願成就を歓喜し給い此の霊験を記念し世の人々に仏縁を結ばしめんが為め捨身ヶ嶽の下に一寺を建立し御自作の釈迦如来を安置し本尊として寺号を出釈迦寺と称し仏祖の御出現を拝し奉りし因縁により山号を我拝師山と改称し給いました。後、大師四国順錫の砌り、此の霊地にて求聞持法を修行遊ばされ長く無上の御霊験を記念し、虚空蔵菩薩の御尊像を刻み安置し奉りました。これにより院号を求聞持院と称します。以来、当寺の奥之院は即ち大師捨身の霊跡として捨身ヶ嶽禅定と唱へ、大師衆生済度発願の根本道場として古来道俗信仰の唯一の霊場であります。 
●74 医王山多宝院 甲山寺 / 香川県善通寺市弘田町  
弘法大師 弘仁12年(821) 建立 
甲山寺の寺伝によると、曼荼羅寺と善通寺の間に寺を建てたいと考えていた弘法大師が、霊地を探していると、山ろくの岩窟から1人の老人が現れて「この地に堂塔を建立すべし」と告げた。弘法大師は早速、毘沙門天の石像を岩窟(くつ)に安置。821年(弘仁12)、満濃池を修築して朝延から賜った報奨金の一部で寺を建て、薬師如来の木像を刻んで安置したと伝えられている。  
 
弘法大師は幼いころこの附近で遊ばれた。土の仏像や草木の小堂をつくったり、石を重ねて塔にしたり、愛犬をつれて歩かれたりした。近くの仙遊ヶ原地蔵堂は大師のそうした遊び場であったという。善通寺へ向かう道沿いに小高い山がある。山の名を甲山という。寺は山の裏側にあり、山門を入ると正面が本堂、左に大師堂、鐘楼毘沙門天の岩窟、右に護摩堂、庫裡がある。 大師が善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立しようと、その霊地を探していたら、甲山の麓の岩窟から老翁があらわれ、暗示を受けた。大師は歓喜のあまり、石を割いて毘沙門天の尊像を刻んで岩窟に安置し、供養された。その後大師は京都におられたが、弘仁十二年(八二一)満濃池築造の別当に任ぜられて当地へ赴任し、薬師如来を刻んで工事の成功を祈願した。その徳を慕う数万の農民によって工事は完了した。そこで堂塔を建立し、薬師如来を本尊として安置したという。  
 
甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。  
ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。  
その後、嵯峨天皇の勅命を受けてこの地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築工事を監督する別当に任命された弘法大師。朝廷が派遣した築池使さえも達成できなかった難しい工事です。弘法大師は甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法しました。すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させたのです。朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊とし、安置。山の形が毘沙門天の鎧、兜の形に似ていることから「甲山寺」と名づけられました。  
薬師如来は、心身に災いする一切のものを除くといわれる仏様。甲山寺を訪れた人々の力強い支えとなっていることは言うまでもありません。  
 
当山は、弘法大師の開基であり、大師後壮年のころ、善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍建立の霊地を探していた時、当山の岩窟より現われた老聖者のおしえに従い毘沙門天の尊像を岩窟に安置し、閼伽を供えられました。その後、弘仁12年日本一の大池である満濃池築造の別当に任ぜられました。大師自ら指揮監督するや、さすがの難工事もわずか3ヶ月で修築完成されました。朝廷は、大師の功に対して金二万銭が勅施され、大師はその賞の一部をもって当山の堂塔を建立し、薬師如来を本尊とし安置し、医王山と号しました。又毘沙門天出現の地に対して当山の山の勢望が自然と毘沙門天の甲冑に等しく多宝院、甲山寺と称しています。本尊薬師如来は如来像のうちでも特に優作とされています。 
●75 五岳山誕生院 善通寺 / 香川県善通寺市善通寺町  
弘法大師 弘仁4年(813) 建立 
高野山、東寺と並ぶ弘法大師の三大霊場。 大師は宝亀5年(774)にここで生まれたとされる。唐から帰国後の弘仁4年(813)、長安の青龍寺を模して建立した。寺号の由来は大師の父・佐伯善通(さえきよしみち)。広さ45万平方mの敷地は東院、西院に分かれ、南大門前の五重塔が有名。 国宝など多くの文化財が残る。  
 
大師生誕の地・善通寺のシンボル五重塔を前方に見ながら市街へ入ると、左に伽藍といわれる東院があり、約三fの境内にご本尊の薬師如来を奉安した金堂、五重塔、釈迦堂など。そして東に赤門、西に中門、南に大門がある。一方、右には誕生院といわれる西院があり、四fの境内に仁王門、勅使門、御影堂、産湯井、その他諸堂がある。善通寺派の総本山であるだけに、四国一の規模を誇り、大師ご誕生の地にふさわしい。大師は唐より帰朝後、大同二年(八〇七)真言宗弘通の勅許を得て、先祖の氏寺の建立を発願した。父の善通卿は自身の荘田を提供され、六年の歳月をかけて七堂伽藍を完成させた。堂塔は唐の青龍寺を摸してつくられ、寺名は父の名をとって善通寺と名づけられた。そして寺の背後に五峰がそびえていることから、山号を五岳山と称した。御影堂は四棟からなり、礼堂と中殿は大師の父善通卿、奥殿は母玉依御前の館の跡で、現在の奥殿がお大師さまの御誕生地と言われている。  
 
五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。  
鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります。  
現在の善通寺は「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号し、山号の「五岳山」は、寺の西にそびえる香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳に由来し、その山々があたかも屏風のように連なることから、当地はかつて「屏風浦」とも称されました。そして、「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示しています。御誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめてまいりました。  
総面積約45,000平方mに及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えています。  
 
当山は屏風浦五岳山誕生院総本山善通寺と称し、真言宗善通寺派の総本山であり、光仁天皇の御代、宝亀5年6月15日この地にて大師は御誕生遊ばされました。大師自ら建立された真言宗発祥の根本道場であります。紀州高野山、京都東寺と共に弘法大師の三大霊跡と称われている。大師御誕生の所は今の御影堂の地点に当り、神聖の場所とし奥之院と名づけ西院と称し又誕生院と称し、現に産湯井並に戒坦廻り等が残されている。山号五岳山と称するは伽藍の後方にある香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の五岳の連山より起り、屏風浦とは往昔この山麓まで入江の海原にして映ずる五岳の山影恰も屏風を立てる状に起因すと伝えられています。大師大同元年8月唐より帰朝、同2年(807)藤原藤嗣卿を以て真言宗弘通の勅許を得、先づ祖先の氏寺として屏風浦に一寺を建立せんと発願されるや御父善通卿はそのことを聞き随喜せられ、荘田四町四方を三宝に供養し伽藍建立の境内地とせられました。 
善通寺2  
お大師さまと善通寺  
日本の歴史上、朝廷から大師号(諡号)を賜った高僧は24人います。真言宗の宗祖空海も延喜21年(921)に「弘法大師」の諡号を賜りました。大師の諡号を持つ高僧達の中、「大師は弘法にとられ…」とも言われ、大師といえば弘法大師を指すほど、弘法大師は広く人々の信仰をあつめ、敬慕の念と親しみを込めて「お大師さん」「お大師さま」と尊称されています。  
お大師さまは、宝亀5年(774)6月15日、御父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)と御母・玉寄御前(たまよりごぜん)の子として、四国の香川県北部にひろがる讃岐平野の西端、そののどかな田園地帯の一角にある善通寺の地に御誕生になりました。幼名を「真魚(まお)」と名付けられ、ご両親の寵愛を受けてお育ちになりました。幼い真魚さまは非常に聡明で信仰心の篤いお子様だっだと伝えられています。  
現在、善通寺の西院が建つ地は、当時は佐伯家の邸宅がありました。その西院御影堂の奥殿が建つ場所は、母君のお部屋があった場所と伝わっており、お大師さま御誕生の聖地として大切にされています。  
現在の善通寺近隣には、真魚さまが泥土で仏像と小さな御堂を作って遊ばれた「仙遊ヶ原」や仏法により人々を救済するお誓いを立てて切り立った崖から身を投げられた「捨身ヶ嶽禅定」、幼少の頃の学問所「獅子の岩窟」など、幼少期のお大師さまを今に伝える史跡が幾つもあります。  
御誕生所善通寺  
五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。  
鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります。  
現在の善通寺は「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号し、山号の「五岳山」は、寺の西にそびえる香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳に由来し、その山々があたかも屏風のように連なることから、当地はかつて「屏風浦」とも称されました。そして、「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示しています。御誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめてまいりました。  
総面積約45,000平方mに及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えています。 
善通寺3 
弘法大師 誕生地・三大霊跡  
真言宗善通寺派の総本山であり、四国八十八ヶ所霊場の第七五札所として知られる善通寺。空海の誕生地とも知られ、高野山や教王護国寺とともに空海のゆかりの三大霊跡として、古くから信仰を集めている。空海が師の恵和和尚が住した長安の青龍寺を模したとされる。宝物館には「一字一仏法華経序品」や唐から持ち帰った「金銅錫杖頭」が国宝として保存されている。
76 鶏足山宝幢院 金倉寺 / 香川県善通寺市金蔵寺町  
弘法大師と血縁である天台宗派開祖・円珍の祖父、和気道善が宝亀5年(774)開基した。門前には格子戸が残る古い旅館が立ち並ぶ。隆盛時、132の坊舎があったことをうかがわせる広い境内には、善通寺師団長に赴任した乃木希典の「乃木将軍妻返し松」の碑が立つ。  
 
昔から文化の程度の高かったのは、四国では讃岐の那珂郡と多度郡で、この地からすぐれた人物を生みだした。多度郡弘田郷の豪族であった佐伯一門からも、弘法大師をはじめ、知泉、円珍(智証)真雅などの高僧が輩出している。なかでも智証大師は善通寺から四`はなれた金倉郷に弘法大師の姪を母として弘仁六年(八一五)に生まれた。幼少のころから経典を読み、十四歳で叡山に登り、後に唐へ留学し、やがて延暦寺五代座主となり、三井園城寺を賜わって伝法灌頂の道場とした。金倉寺は智証大師の祖父和気道麿によって宝亀五年(七七四)開創され、道善寺と称していた。智証大師は唐より帰国後しばらく留まり、先祖の菩提にと唐の青龍寺を模して伽藍を造営し、後に勅願寺となり、延長六年(九二八)醍醐天皇が金倉の郷にあるので金倉寺に改称した。当時の寺域は広大であったが、戦乱のために縮小した。明治三十一年から四年間、乃木将軍が滞在したことで知られる。  
 
金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。  
「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判でした。智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうです。また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説も。この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。  
 
光仁天皇宝亀5年、和気道善長者の開基で、智証大師(弘法大師の甥)誕生の地であります。訶利帝母が日本で最初に出現せられたところで、本尊薬師如来は、大師の作であります。はじめは寺号を道善寺と号したが、文徳天皇の御宇。仁寿元年初めて勅願寺になり、醍醐天皇の延長6年、金倉の郷の名をとり、金倉寺と改め、山号は鶏足山と号しました。全盛時代には、境内南北二里東西一里に及び、神祠仏閣数十宇、僧坊百三十二院を数え、勤務の大衆千余人に及んだが、建武の争乱のため掠奪され永正、天文以来四国の争乱に、伽藍悉く焼亡し重宝等も或は焼亡、或は散逸しましたが、幸に兵火をのがれた本尊、重宝を境内の一隅に安置し尊崇礼拝しておりましたが、百余年を経て、寛永の末期、松平頼重公が当国の太守に任ぜられると、此の霊蹟の廃絶するを嘆かれ、大檀主となり伽藍を再建寺領を寄進、一郡一ヶ寺の祈祷所となさいました。 
●77 桑多山明王院 道隆寺 / 香川県仲多度郡多度津町北鴨  
弘法大師 伝説 
言い伝えによると、奈良時代、道隆寺の一帯は豪族・和気道隆の桑園だった。ある日、道隆が光る桑の木を見つけ、弓を射ったところ、乳母が矢を受けて倒れていた。嘆き悲しんだ道隆がその供養のため、桑の大樹で薬師如来の小像を刻み、堂を建てて安置したのが始まりという。仁王門から本堂までずらりと並ぶ観音像が壮観だ。  
 
西暦七一二年、この辺りは大桑園であった。中で夜毎怪光を放つ最大の桑の木があり、道隆親王その桑で薬師如来の小象を刻み、草堂を建て安置し、廻向の日々を送る。これが道隆寺の始まりである。子朝祐、意思を継ぎ、折りから唐より帰国した弘法大師に師事、大師自ら薬師如来像を刻み、道隆親王の薬師像を胎内に納め(二体薬師)御本尊とし、朝祐、家財を投じて方六〇〇米の寺院を建立する。三代目法光、四代目智証、五代目理源、各大師晋住し、七堂伽藍を完備して密法を弘場し、四国随一宝崩祈願寺となる。然しながら天正の戦火の為、一山壊滅する。三十代目法印、再建を決意、一五八六年、現在の金堂を再建、更に歴代住職により、大師堂、護摩堂、観音堂、仁王門、鏡堂、客殿、茶堂、多宝塔、聖観音像等建立し、法灯連綿現在に至る。四代目智証大師、水子、嬰児の菩提を祈り、その母の身体建固を祈願する為、五大明王、聖観音菩薩の大像を刻んで安置する。水子の寺、之より始まる。境内に眼病平癒の仏、潜徳院殿堂あり。御本尊は御典医京極左馬造公。公幼少の頃、盲目、当寺薬師如来の御慈悲により全快する。公医学を学び典医となり、特に眼科は達人。公寿命尽くる時、「私の魂魄を道隆寺に留め世人を救わん」との誓願を残す。  
 
仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5m近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。  
大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90ンチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。  
朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。  
 
元明天皇御宇入江乙長和気通隆公の開基になる。同公の桑園に周り一丈5尺の大木があり、毎夜怪異なことがありました。其大木を切り薬師の小像を安置しました。後弘法大師御自作の薬師如来の胎中に入れハラゴモリとして安置し、之を当寺の本尊としました。二代朝祐法師は、曩祖より伝わる十六町を喜捨しその地に七堂伽藍を建立しました。三代宝光大師は二十三坊を建立、四代理源大師の代に宝祚祈願寺となりました。四十六世宥雄大僧正の代、修理、四十九世智隆大僧正の代に全建物大修理筋土塀改築客殿を再建しました。功績により大本山に昇格いたしました。寺運には盛衰はありましたが法燈連綿現在に及んでいます。五十代隆雄大僧正?裡改築、仁王門改築、多宝塔建立。境内に250体の観音像を祭る。眼病平ゆの寺で日本発の眼科医潜徳院殿賢叟大居士の墓所がある。 
●78 仏光山広徳院 郷照寺 / 香川県綾歌郡宇多津町  
弘法大師 大同2年(807) 霊場開く 
四国霊場唯一の時宗の寺。 行基が霊亀年間(715−717)、自作の阿弥陀如来像を本尊に仏光山道場として開基。弘法大師が伽藍(がらん)を改築して霊場に定めた。その後、時宗の開祖、一遍上人が病気療養で一時滞在したことから寛文4年(1664)に時宗に改めた。 境内には「天狗(テング)池」を囲んだ美しい庭園が広がる。  
 
宇多津の町へ入ると右手青野山の麓に郷照寺がある。霊亀年間(七一五〜一七)行基菩薩によって開創され、仏光山道場寺と名づけられ、ご本尊の阿弥陀如来は行基菩薩の作という。後に弘法大師が留錫して荒廃した伽藍を改築し霊場に定めた。やがて理源大師や道範阿闍梨が寺にとどまり、後に一遍上人が伽藍を再興した。天授年間より子院七ヵ寺を有して盛んであったが、元亀、天正の兵火で焼失した。その後伽藍は復旧し、文化二年(一八〇五)には藩主が病気平癒を祈願し、それが成就したので大書院を建立し、四石の保護料を寄進したという。寛永年間には時宗に改められている。急な参道を登りつめたところに本堂があり、さらに坂を登ると大師堂。この手前には万躰観音を安置した洞窟がある。一方、本堂近くの庚申堂にまつられた青面金剛は病魔を除くに霊験あらたかと地元の人や遍路が信仰している。参道入口の地蔵餅は大きくてうまいので、遍路に人気がある。  
 
境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の正面玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。  
京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832〜909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851〜54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942〜1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985〜87)とされている。さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を仮寓にした。「時宗」の開祖・一遍上人(1239〜89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となる。なお、道場寺を「郷照寺」と改めたのは、寛文4年(1664)のことである。  
 
聖武天皇神亀2年に行基菩薩来錫し、一宇を建立し阿弥陀如来を本尊と定めた。大同2年、弘法大師巡錫のおり、堂舎を修建し本尊を法楽し給う。仁寿年中、聖宝理源大師当院に篭山修行し寛和年代恵心僧都零告を受け釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建て給う。仁治4年高野山執行道範阿闍梨(学匠)は大伝法院争乱の責任を受け当院に配流されしばらく謫居された。したう者には当院に於て中院流の正統を伝え給う。正応元年一遍聖人四国廻巡化益の砌、寺に留り道俗を教化堂宇を修興し、一遍流易行の法門により衆庶に光明をあたえ、安心立命の境地を人々に教えた天授2年細川頼之金堂を修理し末寺十二ヶ寺を付し当山の興隆に尽力されたが、天正7年兵火により一山焼失した。時の住職覚阿存寂の奔走により、文禄2年再興、寛文年中清洋光寺に属し今日に至る。 
●79 金華山高照院 天皇寺 / 香川県坂出市西庄町  
弘法大師 弘仁年間(810−824) 建立 
寺伝によると、弘仁年間(810−824)に弘法大師が今も天王寺の近くに残る「八十場の泉」付近にさしかかると、霊気を感じ取り、霊木用いて十一面観世音菩薩と阿弥陀如来、愛染明王を刻んだ。 それらを安置したのが始まりと言われる。1164年(長寛2)、保元の乱(1156)に敗れて讃岐に流され、亡くなった崇徳上皇の棺を、二条天皇が八十場の泉に安置し、寺の敷地内に「白峰宮」を建立した。 以来、天王寺寺は神の信仰と仏教信仰を融和した「別当寺」となっている。  
 
宇多津から坂出の市街へ入ると右に金山があり、その麓に日本武尊ゆかりの泉がある。八十八の水とも八十場(矢蘇場の水)ともいわれ、弘法大師がこの泉の附近を巡錫中に霊感を得て、近くの霊木で十一面観音像と阿弥陀如来、愛染明王を刻み、堂宇を建てて安置した。また、大師は薬師如来を刻んで八十八の泉の水源に安置し、八十八の水をもって閼伽井とし、秘法を修されたが、山の鎮守金山権現があらわれ、それに舎利を感得したのでこれにちなみ金華山摩尼珠院と号した。これが寺のはじまりで、後の保元の戦乱で寺は焼失し、近くの高照院を移し再建したことから高照院とよばれるようになった。長寛二年(一一六四)この寺におられた崇徳天皇が歌会へ出席の途中亡くなられ、二十一日聞八十八の泉に仮安置され、やがて白峰山で茶毘にされた。それからは天皇寺ともいわれ、崇徳天皇をまつる白峰宮の別当に任じられた。現在寺は白峰宮の手前にある。  
 
寺伝によると、天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810〜24)にこの地方を訪ね、弥そ場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。  
保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242〜46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。  
 
当山は、宗祖弘法大師が開基せられた古刹であります。大師が四国を巡錫せられたとき、八十場の霊泉のほとりまで来られたとき一本の霊木があり、光を放っていました。大師は、その木で十一面観世音、愛染明王、阿弥陀如来の三体の尊像を彫刻し、一寺を草創して、是を安置せられました。当山は昔、金山の中腹にありましたが、後嵯峨天皇の御代に、今の地に移りました。それより前、崇徳上皇が、保元の乱に敗れ、讃岐の国に流され給い、長寛二年二六日御寿四六歳で、鼓カ岡でおかくれになりました。その旨を京都へ奏聞する間、玉棺を当寺に安置し、八十場のあかいをもって菩提を弔うことこそ大凡そ三十七日、毎夜神光がかがやくので、社檀を構えて明りの宮と唱え奉りました。後、寺号を天皇寺、院号を高照院と称えることになりました。 
80 白牛山千手院 国分寺 / 香川県高松市国分寺町国分  
聖武天皇が741年、国家安穏、万民豊楽を祈願するため全国に国分寺の建立を命じ、行基が十一面千手観世音菩薩像を自ら彫って本尊として安置、開基した。 鎌倉時代に建立された入り母屋造りの本堂と鐘楼は、国の重要文化財。本尊の千手観世音像はケヤキの一本造りの立像。たたくと音の出る「讃岐岩」は寺の西で産出される。  
 
国分の町へ入り国道から左へ折れて仁王門を入ると右に七重塔跡があり、十五個の礎石が残り、いまは石造の七重塔(鎌倉時代)が建っている。この前にある銅鐘(重文)は奈良時代の鋳造。大蛇の伝説や高松城の時鐘の伝説で知られた古鐘である。正面の本堂の前は金堂跡で三十三個の礎石がある。橋を渡ると創建当初の講堂跡に建てられた本堂がある。九間四面の入母屋造り、本瓦葺きで鎌倉中期の建築といわれ天正の兵火にも免れ、堂内にご本尊の千手観世音が奉安されている。縁起によれば、天平十三年(七四一)聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基しご本尊を刻まれた。後に弘法大師が留錫して尊像を補修され、霊場に定められた。ご本尊は一木造りの高さ五・二bの立像で、裳には牡丹の絵模様や円形の散らし模様が描かれ、お顔には髪や毛を墨で描き、唇には朱が施されている。大師堂は多宝塔形式で、堂内で休息もでき、千体地蔵が安置され、納経所にもなっている。  
 
創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟。本堂は、全面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。また周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせます。また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれています。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊としました。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至ります。  
また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)。当時の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町(ちょう)と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより重く、ひと苦労。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りたい」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。  
 
当山は、天平十三年(741)聖武天皇の勅願により、国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽を祈願して、一国に一寺建立された讃岐の国分寺であります。本堂は、鎌倉中期の建立であり、明治三六年国宝に指定された。本尊の千手観音は、一丈六尺余(5.3米)であり行基菩薩の作、明治三四年国宝に指定されている。銅鐘は日本有数の古鐘で奈良朝の作であって、昭和十六年国宝に指定されている。不思議な伝説も伝っている。往昔大蛇が冠っていたと云われる。又、慶長年間高松藩主に持ち帰られたが、再び帰されて来たと云う実説もある。 
●81 綾松山洞林院 白峯寺 / 香川県坂出市青海町  
弘法大師 弘仁6年(815) 開基 
弘仁6年(815)、弘法大師が開基。貞観2年(860)に智証大師が流木で千手観世音菩薩を刻み本尊として安置、堂塔を整えた。本堂は数回火災で焼失したが、慶長4年(1599)、高松城主生駒一正が再建した。寺の裏山の白峯御陵には崇徳上皇がまつられている。  
 
白峯は俗塵から離れた静寂な霊域で五色台(青、赤、白、黒、黄峰)の西にあり、崇徳天皇の御陵があることで知られている。参道途中には弘安と元享の銘の刻まれた崇徳天皇の二基の供養石塔がある。高麗門形式の七棟門を入ると、茶堂、御成門、勅使門があって門の中には客殿、庫裡、納経所がある。さらに左へすすむと宝物館や不動堂、宝庫などの建物が並び、正面が勅額門、ここを入れば崇徳天皇の廟所・頓証寺殿である。本堂は勅額門の手前からの石段を登りつめたところにある。はじめは弘法大師が登山して宝珠を埋めて閼伽井を掘られ、後に智証大師が山の鎮守から霊地であることを告げられ、智証大師は瀬戸内海で異香を放つ流木を引きあげて千手観世音を刻まれ、ご本尊として安置した。本堂は再三火災にあい、現存の建物は慶長四年(一五九九)高松城主生駒近規の再建。崇徳天皇をまつる頓証寺と勅額門は延宝八年に松平頼重が再建した。  
 
青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の5色山のうち、白峯にある静かな古刹。弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建されました。弘仁6年、白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願に堂宇を建立しました。後に智証大師は、山頂できらめく光を見つけて登頂。山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊にしたと伝えられます。  
白峯という、まろやかな響きを持つこの寺には、有名な物語が二つあります。  
「啼けばきく きけば都の恋しきに この里過ぎよ山ほととぎす」これは保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇の句です。都へ帰りたいという思いが叶わぬまま寂しくこの地で亡くなられました。三年後、上皇と親しかった西行法師が詣でた話は上田秋成作「雨月物語」の伝説で有名です。その後も都では異変が相次いだため、後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺殿」の勅額を奉納。また、悲話を伝える玉章木(たまずさのき)も佇んでいます。  
また白峯山には心優しい相模坊という天狗が住んでいると伝えられています。ある夕方、小僧さんが木綿豆腐を買いに出かけたところ、突然、何者かに背中を押され、空を飛ぶような感覚になりました。そして次の瞬間、田舎では見ることない上等の絹豆腐を受け取り元の場所に立っていました。これは、夕方買い物に走る小僧さんを気の毒に思い相模坊天狗が助けてあげたと語り継がれています。  
 
弘仁6年弘法大師が登峯して山頂に如意宝珠を埋め阿伽井を掘って衆生済度の誓願をお垂れになったところであります。次で貞観2年智証大師が山上瑞光を見て登頂し、山神白峯大権現の神託を受けて、海上に異香を放つ霊木で千手観音を刻み本尊として安置せられました。中世保元の乱が起り、崇徳天皇は当国に配流せられ、長寛2年8月行在所木丸殿に於て崩御、御遺詔によって当山稚児嶽上にて荼毘にふし御陵が営まれました。仁安元年10月の頃、西行法師が四国修行の砌、当山に詣でて御廟前でお通夜をし、御法楽を誦し爾来御代々の聖主、公家、武将等深く尊霊を畏敬し種々の霊宝詩歌等を献じ、御慰霊の誠をつくし今日に到って居ります。 
●82 青峰山千手院 根香寺 / 香川県高松市中山町  
弘法大師 (唐に渡る前) 開基 
弘法大師が唐に渡る前に航海の無事を祈願して五大明王を刻んでまつったのが始まり。天長9年(832)、智証大師が千手観音菩薩を香木で刻んで安置し、本尊とした。寺には天正年間(1573−92)に住民に危害を加えた怪物「牛鬼」を、弓の名人・山田蔵人高清が射止めたという「牛鬼伝説」が伝わっており、仁王門脇に牛鬼の像が立っている。  
 
弘法大師は入唐前にこの山へ登って草庵を結び、霊場とした。天長九年(八三二)智証大師が青峰の麓へ巡錫したとき、白髪の老翁(市之瀬明神)があらわれ「ここは観世音の霊地で三谷ある。毘沙門谷に行場を、法華渓に本堂、後夜谷には法華三昧の道場をつくり、また、蓮華谷の香木で本尊の観世音を刻むように」と告げた。その後智証大師は青峰に登り、老僧と出会うが、この老僧は山の守護神の山王権現であったことから、山を開くにあたり、市之瀬明神と山王権現を鎮守としてまつり、香木で観世音の尊像を刻んで先の老翁のいうごとく安置した。この香木の根の香りがあまりにも高いので寺名となり、また、香りが川に流れて香ることから「香川」の県名がつけられたともいう。智証大師が伽藍を建立後盛んになり、後白河天皇の勅願所にもなった。現存本堂への廻郎には戦後の勧進による万体観音像が奉安されている。  
 
五色台の主峰、青峯山に佇ずむ、かつての巨刹。五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峯に「花蔵院」を建立されました。後に大師の甥にあたる智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけました。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置しました。この霊木の切り株から芳香を放ち続けたことから「花蔵院」、「千手院」を総称して根香寺と名づけられたといわれます。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めました。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ改宗されました。  
寺には次のような伝説があります。昔、青峯山には人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいました。村人は、弓名人山田蔵人高清に頼み退治してもらうことしました。しかし、高清が山へ入れど、なかなか牛鬼が現れません。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけました。すると21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。逃げる牛鬼を追うと2kmほど西の定ヶ渕で死んでいるのを発見しました。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。その角は今でも寺に保存されています。また牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれています。  
 
弘仁年間に弘法大師が、当山に巡錫の折、金剛界マンダラの五智如来を感得され、此所を密教相応の地として山々に青峰、黄峰、赤峰、白峰、黒峰と命名されました。そして青峰に一院(花蔵院)を創建して末代衆生済度のため五智如来の教令輪身即ち五大尊合行護摩供を修行されました。又、大師の甥に当られる智証大師は天長9年、不思議な霊木をもって千手観音像を彫刻され千手院を創建されました。この両大師会期の二院(花蔵院と千手院)を総称して根香寺と号しました。現存の千手観音及び五大明王木像は共に重要文化財に指定されている。 
●83 神毫山大宝院 一宮寺 / 香川県高松市一宮町  
空海 大同年間(806−810) 再興 
大宝年間(701−704)、義淵僧正が開基。行基が堂宇を修築して讃岐一の宮(現・田村神社)の別当寺となり、大同年間(806−810)に空海が札所定めた。 戦国時代には戦火に巻き込まれて全焼したが、その後、僧侑勢によって復興された。本堂周辺に一の宮御陵と呼ばれる3基の宝塔のほか、堂内から地獄の音がすると言われる石造りの薬師堂がある。  
 
高松郊外にあり周囲が住宅化してゆく中で一宮寺は古い姿をとどめている。縁起によれば、大宝年間(七〇一〜三)に義渕僧正が開き、はじめは大宝院と称し、法相宗に所属していたが、諸国に一宮が建てられたとき、行基菩薩が堂塔を修築し、田村神社の第一別当職となり、寺号も一宮寺に改められた。大同年間(八〇六〜一〇)に弘法大師が留まり、聖観音像を刻んで安置し、本尊とした。後に兵火にかかり、第二別当職にあった弥勒寺と末寺は没収されたが、一宮寺は残った。しかし長曽我部元親の兵火で堂塔は灰燼に帰し、憎宥勢によって再興された。延宝七年(一六七九)には、高松城主松平頼重により田村神社の別当職を解かれ、神仏は分離するのである。現在もこの名残りをとどめ、仁王門の前は神社の境内地。本堂右に大師堂と庫裡・納経所があり、左に宝治元年(一二四七)建立の三基の石の宝塔がある。一宮御陵とよばれ、孝霊天皇百襲姫・五十狭芹彦命のものという。  
 
創建は、わが国に仏教が伝来して約160年後という歴史を誇ります。開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、南都仏教の一つ法相宗の普及をはじめ、行基菩薩、良弁僧正らを輩出。和同年間、諸国に一宮寺が建立の際、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名されました。また大同年間、弘法大師が訪れ約106cmの"聖観音" 聖観世音菩薩を彫造し、伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗されました。  
この寺も同じく、天正の兵火により灰燼に帰しましたが、中興の祖とされる宥勢大徳によって再興されました。また江戸時代に高松藩主により田村神社の別当を解かれました。神仏分離の200年も前の出来事です。  
この寺の本堂左手には薬師如来が祀られる小さな祠があります。これは「地獄の釜」と呼ばれ、祠に頭を入れると境地が開けるという言い伝えがあります。一方、悪いことをしていると頭が抜けなくなると言われます。昔、近所で暮らす意地の悪いおタネばあさんは、「そんなことはない、試してみよう」を頭に入れると、扉が閉まり、ゴーという地獄の釜の音が聞こえ頭は抜けなくなりました。怖くなったおタネさんは、今までの悪事を謝りました。すると頭はすっと抜けました。それからおタネさんは心を入れ替え、親切になったそうです。  
 
当山は、大宝院と号して大宝年間に、義渕僧正により開基せられましたが、後行基菩薩によって寺号を神毫山一宮寺と改め、末寺を併せて十四ヶ寺となりました。更に大同年間(806〜10)に弘法大師によって、聖観音菩薩が本尊として安置され、伽藍も再興せられたと伝えられています。天正の折、当山もことごとく灰燼に帰したが、再び中興宥勢大徳により復興され、現在に至っています。尚、延宝年間高松藩初代松平頼重公によって神仏が分離しました。 
●84 南面山千光院 屋島寺 / 香川県高松市屋島東町  
空海 大同5年(810) 再興 
唐の高層・鑑真が754年屋島山ろくの北側に伽藍(がらん)を建立し、弟子の恵雲津師が初代住職になったいわれる。 810年に空海(弘法大師)が伽藍を現在の山ろく南側に移した。入り母屋造りの本堂は、鎌倉時代末期の建物。 本尊、梵鐘(ぼんしょう)とともに国の重要文化財になっている。  
 
高松市街へ入ると紫雲山の東麓に、高松藩主松平家の別邸だった栗林公園があり、街中からは左に大きく横たわる屋島(標高二九三b)が近づいてくる。山上は平らで南北二つの嶺に分かれ、屋島寺は南嶺にある。天平勝宝六年(七五四)来日した唐僧鑑真は大宰府を出発して難波へ向かったが、その途中屋島へ立寄り、北嶺に普賢堂を建て、その弟子恵雲律師が堂宇を整備して住職となった。これが寺の草創である。弘仁六年(八一五)には弘法大師が登山し、勅命によって一夜のうちに本堂を建立し、自刻の十一面千手千眼観世音を本尊として安置した。その後山岳仏教の霊場として盛んであったが、戦乱で衰退し、藩主の援助などで再興されている。仁王門から天暦年間に明達律師が二天像を安置したという二天門を入ると、正面が朱塗の本堂、右に大師堂、平家供養の鐘で知られる梵鐘がある。弘法大師ゆかりの獅子の霊巌、源平の古戦場「壇ノ浦」などの古跡もある。  
 
屋島は高松市の東、標高293mの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺はその南嶺にある。屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。  
弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている。屋島寺はまた、山岳仏教の霊場としても隆盛し、天暦年間(947〜57)には明達律師が訪ねて四天王像を奉納された。現在の本尊・十一面千手観音坐像はこのころに造られており、国指定重要文化財になっている。やはり国指定重要文化財の本堂は鎌倉時代に造営されているが、寺運は戦乱によって衰退する。だが、国主・生駒氏の寺領寄進や、歴代藩主の援助により相次いで修築され、鎌倉・江戸時代の風格を現代に伝えている。  
 
奈良時代の末、天平勝宝年間に、中国の揚州龍興寺の名僧鑑真が、屋島北峰に伽藍建立の霊地を開創したのがはじまりでその弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が、この霊峰に精舎を構えて、後弘法大師が伽藍を現在の南嶺に造営し中興開山と仰がれました。天暦年中には明達律師が来山して、四天王像を安置せられ、藤原時代(10世紀頃)には現在の本尊、千手観音が刻まれましたが鎌倉時代に今の本堂が建てられてからは次第に衰えた。慶弔16年から元和4年にかけて、現在の本堂は、龍厳上人によって半壊体の大修理が施され、更に元禄2年、享保元年等にも大きな修理が加えられ、江戸時代の様式に改められました。昭和32年3月から2年間にわたり、解体修理が行われ、柱間装置や建具、縁廻りなどは、古い形に復元され、内外部共丹塗り、一部黒塗りの美しい建物になりました。本堂、本尊、梵鐘、共丹国の重要文化財。 
●85 五剣山観自在院 八栗寺 / 香川県高松市牟礼町牟礼  
弘法大師 延暦23年(804) 創建 
弘法大師が804年(延暦23年)、観世音菩薩を安置したのが始まりだとされる。 大師はその際、栗の実8つを植えた。唐から帰国ごの808年(大同3年)、再び訪れると、栗の木が8本、大樹に成長していた。 これが「八栗寺」の名の由来と言われる。五剣山は、その名のとおりかつては5つの峰が連なっていたが、1706年(宝永3年)の大地震で東端の峰が崩れ、今は4つ。  
 
五剣山の名は五つの峰が剣の尖のようにそびえ立っていることからつけられたが、元禄十一年(一六九八)の豪雨で西の峰が半分に割れ、宝永三年(一七〇六)の地震で東の峰が崩れ、現在は四峰になっている。山の中腹の寺までケーブルもある。仁王門を入ると正面が本堂で、弘法大師作といわれる本尊聖観世音が安置されている。寺は天長六年(八二九)の創建で、当初は千手観世音の小像を安置し、千手院と称していた。弘法大師は幼少のころよりこの山に登り、土で仏像などをつくられたが、後に求聞持の法を修されているとき五柄の利剣が虚空より降ってきたので五剣山と名づけ、山項からは八ヵ国が見えるので八国寺とし、大師が入唐前に植えた八個の焼き栗が、帰国後ことごとく生長繁茂していたので八栗寺に改めたという。本堂左手前の聖天堂には弘法大師作の歓喜天がまつられ、商売繁昌を願う信者で賑わっている。白みかげ石で知られる庵治の町が山麓にある。  
 
屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。八栗山はその8合目にあり、多くの遍路さんはケーブルカーで登られます。 天長6年、大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけらました。  
五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名でした。 延暦年中、大師は唐へ留学する前に、再度この山に登りました。そして仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えられました。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹いていました。これが八国寺を八栗寺へ改名した由来です。この寺も長宗我部元親による八栗攻略の兵火により全焼しました。しかし、江戸時代に無辺上人が本堂(三間四面)、さらに高松藩主松平頼重が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称するようになりました。五剣山は、宝永3年(1706)に、大地震を遭い、昔は五つの嶺のうち、東の一嶺が中腹より崩壊し、現在の姿になりました。  
 
当山は淳和天皇の天長6年(西紀827)の創建で弘法大師開基といわれ、寺伝によれば、大師がこの山に登って虚空蔵求聞持法を御修行のみぎり結願に至って五柄の利剣が虚空より降り金剛蔵王示現しこの山の鎮護を告げられました。大師はこの五剣を厳軸に埋めて山の鎮護としたので五剣山と名づけ、又大師の入唐前に再びこの峰に登られ入唐求法の前効を試みるために植え置かれた焼栗八枚帰朝後に悉く生長繁茂したという因縁で八栗寺とよばれるようになったのだということです。天正年間長曽我部元親の兵火に焼失したが、文禄年中無辺上人が、復興を企て、寛永19年に藩主松平頼重侯が現在の本堂を再建、延宝5年には木食以空上人が東福門院御下賜の歓喜天を当山に勧請、霊験あらたかにて四季を通じて参詣者が絶えません。当山鐘楼には昭和30年鋳造、日本有数の歌人で能書家として有名な故会津八一博士(秋草道人)作歌・揮毫の歌銘「わたつみのそこゆくうをのひれにさへひひけこのかねのりのみために」の梵鐘がある。 
86 補陀洛山 志度寺 / 香川県さぬき市志度  
真言宗の開祖・空海(弘法大師、774−835)が修行の場として求めた四国各地を、信仰者たちが聖地とし、空海の霊力にあやかろうと訪ねたのが「遍路の始まりといわれる。 それが1500年頃から、庶民の間にも広まった。「同行二人」とは一人の遍路旅でも空海が一緒に歩いてくれている、と考えること。 志度寺は625年、薗(その)子という尼がお堂を建てたのが始まり。江戸時代に初代高松藩主・松平頼重が寄進した仁王門は、重要文化財。  
 
仁王門を入ると左に海女の墓がある。謡曲「海士」で知られる伝説によれば、天智天皇のころ、藤原不比等が亡父鎌足の供養に奈良興福寺の建立を発願した。唐の高宗皇帝の妃であった妹はその菩提にと三つの宝珠を船で送ったが、志度の浦で龍神に奪われた。兄の不比等はあきらめきれず、姿をかえて志度の浦へ渡り、土地の海女と夫婦になり一子・房前をもうける。やがて海女は観世音に祈願し、夫とわが子のために命を捨てて龍神から宝珠をとりかえす。不比等は海辺の近くに海女の墓と小堂をたて「死度道場」と名づけた。後に房前は母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めるのである。寺伝によれば推古天皇の三十三年に志度の浦に楠の霊木が漂着し、園子尼がこの霊木で観世音の尊像を刻みたいと念じたのがそのはじまりという。現在の本堂・仁王門は寛文十年(一六七〇)の建立。五重塔は昭和五十年、大阪に出て成功した当地出身の竹部二郎氏の建立。  
 
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。  
室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館があります。  
 
当山は、天武天皇の御代に大臣藤原不比等が建立し、後数次にわたって修造されたと伝えられていますが、現在の本堂は、高松藩初代松平頼重、仁王門も寛文年間に松平氏が建立したもので国・重文であります。本尊十一面観世音菩薩は、遠く推古天皇の33年に観世音がこの地に化現して彫刻したものであると伝えられ、現在国宝に指定されています。又、当山の庭園は曲水式庭園の代表的なものとして、池塘仙木の幽寂雅味は、築造者細川氏の室町時代の趣を伝えて余りある名園であります。 
●87 補陀洛山観音院 長尾寺 / 香川県さぬき市長尾西  
弘法大師 (唐へ渡る前) 伝説 
聖徳太子の開創と伝えられる寺。 境内には根回りが6mもある大楠(くす)と、枝ぶりの良い松が並ぶ。弘法大師が唐へ渡る前にとどまり、護摩府を丘の上から人々に投げ与えたとされ、それが1月7日の大会陽福奪いの行事となった。大鏡もちを運ぶ力くらべも行われ、大勢の見物客でにぎわう。  
 
志度をあとに約7kmの道をたどると長尾の古い町並になる。寺は町中にあり、弘安六年と九年の銘のある石の経幢を拝みながら仁王門を入ると、広い境内に本堂、右に大師堂、左に護摩堂と常行堂が建ち並ぶ。天平十年(七三八)行基菩薩が巡錫の折、道端にある楊柳をもって聖観世音を刻み、小堂を建てて尊像を安置したのが寺のはじまりという。弘法大師は入唐するにあたりご本尊に祈願し、護摩修法された。このとき人々に護摩符を授け、それ以来「大会陽福奪い」の行事が今日までつづいている。大師は唐より帰朝してから大日経を一字一石に書写して入唐の大願を成就したことを謝し、万霊の供養塔をたてて修法された。この供養塔は現在護摩堂の前にある。後に天長二年(八二五)には伽藍が整備され、永仁六年(一二九八)伏見天皇の勅により開扉法要が営まれ、天和元年(一六八一)真言宗から天台宗に改めている。住職の説法は人気がある。  
 
明治維新以後、本坊は学校や警察、郡役所などの公共施設に提供された寺。地元では「長尾の観音さん」や「力餅・静御前得度の寺」として親しまれています。  開創は聖徳太子という説もありますが、天平十一年に行基菩薩の説が一般的。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊として安置。法相宗を開基しました。その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願されました。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されています。  
唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を設立し、その時に真言宗に改宗。長きに渡り多くの天皇から帰依された寺でしたが、天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰します。江戸時代に藩主松平頼重が、堂塔を整備。その時に天台宗に改めています。  
 
長尾寺は、聖徳太子の開創と伝え、天平11年(739)僧行基巡化の時霊夢により楊柳で本尊を刻み安置したということであります。後、弘法大師が、東讃岐巡錫の砌、一字一石の供養塔を建立し、年頭七夜の護摩秘法を修し、国家安泰・五穀豊熟を祈られ祈札を賽者に授けられました。(正月七日大会陽のかじまり大鏡力餅180キロ運搬競技実施) 天和元年(1681)松平頼重公、堂塔田畑を寄進、讃岐七観音の一に定め、藩命により天台に改宗、元禄7年現在の本堂・護摩堂・仁王門を再建改修寺観が整いました。維新後、警察・学校・郡役所等に本坊使用。昭和35年昭和大営繕を敢行、荘厳を確立しました。通常”長尾の観音さん”「力餅・静御前得度の寺」として親しまれ街の中にあり参詣の人が多い。 
●88 医王山遍照光院 大窪寺 / 香川県さぬき市多和兼割  
弘法大師 伝説 
88箇所最後の札所。 行基が養老年間(717−724)に草堂を建築、後に弘法大師が錫杖(しゃくじょう)をまつった。 山のくぼみに建てたのが寺号の由来。女人の入山を許したので「女人高野」とも呼ばれる。 大師堂には88箇所すべての本尊がまつられている。結願したお遍路さんは菅笠、金剛杖を奉納、護摩供養で炎に投ぜられる。  
 
結願への最後の十八`の山路をたどる。長い遍路の旅もここが終着・結願の寺である。「お大師さんのおかげで巡拝できた」そのよろこびははかりしれない。寺伝によれば元正天皇のころ、行基菩薩がこの地に留錫し、弘法大師が唐から帰国してより、現在の奥ノ院の岩窟で求聞持の法を修し、大きな窪のかたわらに堂宇を建立して自刻の薬師如来を安置した。これが大窪寺のはじまりで、後に女人高野ともいわれ、参拝者で賑わったという。そそり立つ胎蔵ヶ峰を背景に本堂があり、礼堂・中殿・奥殿(二重多宝塔)からなり、ご本尊の薬師如来は奥殿に安置されている。薬壺のかわりにほら貝をもった尊容をされ、このほら貝ですべての厄難諸病をふきはらうといわれる。強い信仰のささえがあってこそ巡拝中におかげをうけたのである。打ち終えた遍路は大師堂で感謝の勤行をすませ、決まり事ではありませんが、杖・菅笠を納めてゆく人がいます。  
 
八十八ヶ所結願(けちがん)の霊場「大窪寺」。徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置します。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われます。弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされました。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくありません。  
女性の入山が、早くから認められ女人高野としても栄え、一時は百以上の堂宇を誇っていました。しかし天正の兵火や明治33年の火災などで寺勢は苦難を繰り返します。しかし高松藩主の庇護や歴代住職の尽力により興隆。結願聖地の法灯を守り続けています。「同行二人」を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂(ほうじょうどう)へ奉納されます。これらは毎年春夏の「柴灯護摩供(さいとうごまく)」で供養されます。  
 
今を去る1千百余年の昔、元正天皇の御宇行基菩薩がこの地にこられて留錫持念し給うた霊場であります。その後、弘法大師が中国より御帰朝の後、この地に一宇の草庵を建立し自ら一刀三礼坐像等身の薬師如来を刻み本尊とせられました。本堂に向い左方に鎮守堂があります。その横を登ること八丁余りで奥之院がある。本尊阿弥陀如来を、おまつりしてあります。大師が八十八ヶ所の霊場御開創の砌、本尊様に奉げる清水がなく附近を尋ねると大きな杉の根元に清水が湧き出ると思われ、御持参の独鈷で加持するとたちまちに清水が湧き出て本尊様に御水を捧げることが出来たと伝えられ、現に年中絶えることなく清水が湧き出しております。これを世人は大師の加持水又は独鈷水と呼び喜んで持ち帰り加持用に又薬と共に服用し、古来御利益を受けたものが数知れずいると伝えられて居ります。結願所ではお大師様の納められた三国伝来の錫杖でお加持を受け金剛杖を納め無事巡拝出来たことを感謝します。なお錫杖でのお加持は予約してください。又、金剛杖も必ず納めるというのではありません。 
 
●満濃池について / 香川県  
弘法大師 弘仁12年(821) 修築  
弘法大師は、宝亀5年(774)、多度郡方田(かただ)郷屏風浦(善通寺市)で生まれた。12歳になって地方役人を養成する機関である讃岐国学に入学したが、あまりに優秀であったために中央に出向いて役人になるべきと考え、15歳のとき上京して歴史、詩文を学ぶとともに官史となる勉強に励んだ。しかし、たまたまある修験者から密教の「求聞持法」を授けられたことが契機となり、しだいに仏教を志し、延暦12年(793)20歳のときに出家した。以来、修行を積んだ空海は、同23年(804)に遣唐使に従い、唐に渡り、長安の青竜寺の恵果和尚から真言密教を授けられたほか、梵語や書法を大いに学んだと伝えられている。  
満濃池は、弘仁12年(821)、弘法大師が築造したと伝えらているが、実際はそれより120年ほど古い大宝年間(701〜703)に、当時の讃岐の国守 道守朝臣(みちもりあそん)によって築かれたといわれている。  
弘仁9年(818)に洪水のため堤防が決壊し、多くの田畑が流出した。このため朝廷は同11年、路ノ真人浜継(みちのまびとはまつぐ)を築池使として派遣、修築にあたらせたが、規模が大きいのと、人足も思うように集まらなかったため、着工して1年たっても、完成の見通しが立たなかった。  
そこで、国司をはじめ関係者が協議した結果、その高徳をうたわれていた讃岐出身の空海(弘法大師)にすがるほかはないと決め、国司 清原ノ夏野が弘仁12年4月に上京して、朝廷に空海を築池別当として派遣するよう願い出た。  
同年7月に始まった工事は、水圧を防ぐために堤防をアーチ型にし、台目(うてめ 余水吐)を堅固にするため、その場所の岩山を切り開いて造ったほか、堤防の崩壊防止のためたたきを造るなど、独創的な技術を駆使し、わずか2ヶ月間の短期間で完成した。修築にあたり、空海は、堤の東方にある小さな丘の上に座り、毎日護摩をたき、仏陀の加護を祈った。  
また、空海は、仏教だけでなく、博識多才の人であり、唐へ入唐した橘逸勢、嵯峨天皇とともに3筆(さんぴつ)と呼ばれ、平安京大内裏の「応天門」の額を書いたとき、書き終えて額を門に掲げてみると、「応」の字の点を書き忘れたことに気付き、筆を投げて点を打ったことから「弘法も筆のあやまり」と呼ばれるようになった。  
天長5年(828)には、我が国初の庶民教育機関の綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立し庶民の教育を志した。 
満濃池2  
古来、讃岐には、多くの溜池(ためいけ)があり、大宝年間(701〜704)に国守道守朝臣(みちもりあそん)により築造された満濃池(まんのういけ)もその一つですが、その規模において、池というよりは湖に近い。しかし、雨が多量に降ると水圧が高くなり、しばしば決壊してこの地方が泥海となりました。そこで朝廷は、820年(弘仁11年)に築池使の路浜継を派遣させましたが、3年かけても修築が完成できないので、国司は、改めて朝廷に対し、空海による溜池の修理(築池別当)を願い出ました。  
空海(弘法大師)は、奈良時代末期の774年(宝亀5年)、讃岐(香川)の豪族、佐伯氏の家の生まれですが、31才で留学僧として入唐のとき、越州で土木技術、薬学はじめ多くの分野も学んでいました。満濃池の修築の要請があった頃の空海は、48才、高野山と嵯峨天皇から下賜された京都の東寺を往復しながら、密教の体系化(真言宗の開祖)と布教、朝廷や貴族への修法で忙しかったようです。が、821年(弘仁12年)、故郷の人々のために、沙弥1人と童子4人を従えて讃岐に向かい、農民の奉仕もあり、難工事(アーチ型の堤防、洪水吐、取水栓ゆるの修築など)をわずか3ヶ月足らずで完成させました。  
(解説) その後も満濃池は、堤防の決壊と修築を繰り返していますが、この満濃池の修築工事の成功話、また水脈、鉱脈、温泉などを卜相する秘伝(占術)を知る高野聖(こうやひじり)が、諸国を遊行勧進(ゆぎょうかんじん)したとき、これらを空海の功徳として民衆に伝え、空海がのちに全国を回って橋を架けたり、道路を造ったり、清水の湧く井戸を掘ったり、あるいは温泉を発見し、無数の仏像を残し、多くの人々の病を救ったなど、北は北海道から南は鹿児島まで3000以上あると言われる伝説を生み出したものと思われます。  
その代表的な伝説の一つに、井戸掘り職人としての空海ゆかりの弘法の水があります。  
日本各地には、弘法大師が杖をついたら湧き出た泉とか、弘法大師が掘った井戸とか言い伝えられている数多くの有名な湧き水があり、今でも多くの人々の人気を集めています。1985年(昭和60年)に、環境庁が選んだ日本の「名水百選」の中の弘法大師ゆかりの湧き水として、熊野(ゆや)の清水(弘法の霊水、千葉県)、弘法池の水(石川県)、杖の淵(じょうのふち)(愛媛県)が選ばれています。  
このほかに、各都道府県が独自に選定した湧き水の中にも、赤井嶽弘法水(福島県)、弘法清水(新潟県、長野県)、弘法水(山梨県、石川県、京都府)、弘法の湧水・弘法の井戸(埼玉県)、弘法大師の芋井戸(千葉県)、弘法大師の清水(富山県)、弘法の井・押しのいずみ(石川県)、弘法大師の水(福井県)、お大師さんの井戸・花野弘法井戸(和歌山県)、お水の大師(香川県)、弘法大師御加持水・大師泉・弘法の泉(愛媛県)など弘法大師ゆかりの多くの湧き水が、古くから、病にかかった人々の身体を奇跡的に回復させたと言われる命の水として、また生活のための大事な水として親しまれ、大切に守られています。 
●小豆島八十八ヶ所 / 香川県小豆島  
弘法大師 修業  
全工程、約150km。香川県の小豆島にあるこの霊場は、弘法大師(空海)が生国である讃岐(現在の香川県)から京都へ上京または帰郷する際に、しばしば立ち寄り、島の各所で修業や祈念を行なったとされる霊験あらたかな霊場である。88ヶ所に奥の院6ヶ所を含めた94ヶ所が公認霊場となっており、寺院霊場30、山岳霊場10余、堂坊50余に分かれる。  
愛知県の「知多四国八十八ヶ所」、福岡県の「篠栗四国八十八ヶ所」と合わせて「日本三大新四国霊場」のひとつに数えられることもあるが、弘法大師が修行の場としていたその歴史から、島の人たちは「元四国」と呼び、その文化やおもてなしの心を現在まで大切に継承してきた。  
小豆島霊場会会長の言葉(親諭) / 西暦814年 弘法大師空海上人は真言密教によって国の安泰を願い守るための道場、そして世の人々を救うための優れた土地として小豆島に霊場を開いた。以来この仏の灯、教えを長く継承し、弘法大師が弥勒菩薩とともに我々を御救いに再びこの世にあらわれ、その功徳が広大限りなく行き渡ることを願う。この霊場はそんな願いをかなえられる、この世に2つとない霊場である。ここに宣べる。遍路行をすることにより心と体の穢れや災いを取り除き、弘法大師に誓い信仰心を明らかにするとき、霊場はたちまち神秘的な空間となり、大師の力によって皆の祈りを現在にも未来に於いても叶えてくれる。弘法大師はおっしゃられた。「後世に生れ私を信ずる者たちよ、私本人に会えずとも、私の形像を見たときは、私に出会えたと思い、人から私の教えを聞いたときは、私から聞いたと思いなさい。そうすれば私は仏の力を以って、あなたを必ずお救い申します。」と・・・  
四国八十八ヶ所との関係 / 小豆島八十八ヶ所霊場と四国八十八ヶ所霊場とよく混同される方がいらっしゃいますが、もちろん二つは異なる八十八ヶ所霊場です。大きな違いは、小豆島霊場には四国霊場にあまり見られない、山谷や自然の地形を利用した「山岳寺院」があり、そこには古から伝わる「行場」と言われるものがたくさん存在します。また全国の数ある霊場の中で唯一、八十八カ所(奥之院等を含めると94カ所)すべてが、弘法大師空海が開いた真言宗の寺院であります。ですから四国霊場には必ずある、いわゆる「大師堂」を別に構えている寺院は少なく、ほぼどの寺院も「本堂」に弘法大師をお祀りしています。もちろん大師堂のある寺院もあります。  
また、弘法大師が故郷の讃岐の国と当時の朝廷のあった京都までの道すがら、この小豆島に立ち寄り山野を歩かれ修行されたという伝説が残っており、これから皆さんが歩かれるたくさんの遍路道も、きっと弘法大師もご修行の折歩かれたことでしょう。 
 
大師って誰のことをさすのでしょうか?  
「お大師さんって誰?」と質問されたら、多くの人は「弘法大師、空海さんのことだよ。」と答えるのではないでしょうか。学校の授業を覚えている方は、「伝教大師の最澄さんも。」と言われるかもしれませんね。  そもそも大師とは、朝廷が有徳の高僧に対して贈る尊称の一種で、多くの場合は諡号(亡くなった後の呼び名)です。ですから、実は空海・最澄以外にも大師と呼ばれる人達がいます。各宗派の開祖(始めた人)の多くは大師号を贈られています。珍しい例として1697年に円光大師号を贈られた浄土宗の開祖である法然房源空は、500回忌にあたる1711年に東漸、そして以後は50回忌ごとに慧成・弘覚・慈教・明照・和順と計7つも贈られています。最新の和順大師号は、なんと1961年に贈られたものです。ちなみに、大師以外にも国師・禅師号や菩薩などという尊称もありますが、一般的にはあまり知られていないようです。  
讃岐に関係している人は?  
さて、現在までに大師号を贈られた個人は25名います。その中で讃岐国(現在の香川県)出身者は下記の5名です。  
弘法大師(空海)…讃岐の佐伯氏の出身、真言宗の開祖  
智証大師(円珍)…空海の姪の子、延暦寺の座主となる  
道興大師(実彗)…空海らと同じく讃岐の佐伯氏の出身  
法光大師(真雅)…空海の弟、京都の醍醐寺を開く  
理源大師(聖宝)…真雅の弟子、生まれは沙弥島か本島  
かつては60を超える国があった中で、讃岐国だけで5分の1を占めるとは、いかに突出しているかがよく分かると思います。讃岐国は、全国的に見ても大規模な遺構が発掘された讃岐国分寺跡が示すように、古代より仏教が盛んな土地でした。そのような環境の中で空海が生まれ、その後を追うように、一族や弟子の中から多くの高僧が生まれたのです。  
五色台とその周辺には、古代の仏教興隆の様子を見ることができる讃岐国分寺跡、真言宗の空海と天台宗の長となった円珍が創建した根香寺と白峯寺があります。 みなさんも、讃岐の古代に思いをはせながら散策してみませんか。  
 
高知県  

 

●最御崎寺 (高知県室戸市) / 空海は大同2年(807)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。  
●金林寺 (高知県安芸郡馬路村) / 大同2年(807)空海の創建といい、薬師堂には弘法大師一夜建立の伝説がある。  
●雪蹊寺 (高知県高知市) / 空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。  
●種間寺 (高知県高知市) / 弘仁年間(810-824)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したといい、その際に唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。  
●北寺 (高知県安芸郡安田町) / 大同年間(806-810)に空海(弘法大師)が金剛頂寺を建立した際、馬路村の西山深谷にその用材を杣取して、これを筏にして安田川に流した。  
●龍王の滝 (高知県長岡郡) / 梶ヶ森や滝の周辺には平安時代初期に若き日の空海が修行したという伝説も残されており、御影堂・定福寺奥の院がある。  
●24 室戸山明星院 最御崎寺 / 高知県室戸市室戸岬町  
弘法大師 大同2年(807) 建立 
大同2年(807)、唐での修行を終えた弘法大師が嵯峨天皇の勅願により建立。 本尊は虚空像菩薩(ぼさつ)。室戸は岬は弘法大師が若い頃に修行した土地とされ、伝説が数多くのこされている。 寺に続く山道にある「捻り(ねじり)岩」は、大師が念仏を唱えて風を鎮め岩をねじ伏せたときに出来たとされる洞くつ。  
 
室戸までは85kmあまり、途中の八坂八浜の美しい海岸で、弘法大師が鯖を蘇生させたと伝える番外「鯖大師」がある。土佐路は宍喰をすぎてまもない甲涌から。荒涼とした海岸沿いに一本の通がどこまでもつづく。岬の突端に洞窟があり、御蔵洞という。十九歳のとき大師は洞窟にこもつて「求聞持の法」を苦行のはてに成就する。「土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す」と自ら書かれ 「法性の室戸といえど、われすめば、有為のなみかぜたたぬ日ぞなき」と、ご自身で詠まれている。御蔵洞の先に最御崎寺への登り口がある。途中に「一夜建立の岩屋」や「捻岩」など大師ゆかりの洞窟がある。ウバメガシやアコウの密生林を抜け、登りつめたところが仁王門、大師堂、多宝塔、正面に本堂がある。ご本尊は大同二年(八〇七)大師が寺の創建と共に刻まれた虚空蔵菩薩。元和年間に最勝上人が再興し、大正十三年には本堂が復興している。  
 
「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋の白い波涛が吠えたてる室戸岬の突端にある。黒潮のしぶきにあらわれて鋭角になった黒い岩礁。そのすさまじい響き、空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。  
「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」  
大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。  
当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。  
 
19歳で仏門に入られた若き日の弘法大師が、ひたすら修業された洞窟がある。太平洋の白い波涛が吠えたてる岬の突端に近く、当山は室戸阿南海岸国定公園の中心、室戸岬にあり、最御崎寺と称し、俗に東寺ともいいます。大同二年(807)唐の修業を終え帰朝した大師は再びこの室戸岬をおとずれ、虚空蔵求聞持法、悉地成就の地に虚空蔵菩薩を刻んで当山の本尊とせられた後嵯峨天皇は以来皇室の勅願所となり、足利幕府からも尊崇を得て、領主長曾我部元親、山内侯の寄進も大きかったと記録されています。 
最御崎寺(ほつみさきじ)2 
大同2年(807)に弘法大師空海の開基によると言い伝えられています。本尊は嵯峨天皇の御代に、勅命により、国家を守り衆生の利益を願って、弘法大師自らが斧をとり、一削三礼の秘技をもって製作したといわれる「虚空蔵菩薩」で、秘仏となっています。足利幕府時代には、土佐の安国寺として定められてもいました。境内には、叩くと鐘のような音を発し、その響きは冥土まで届くといわれる「鐘石」や、土佐藩二代目藩主山内忠義公により寄進された「鐘楼堂」などがあります。地元では東寺(ひがしでら)の愛称で親しまれています。
最御崎寺3 
近くには、大師が修行中に行水されたという弘法大師行水の池や、池の水を加持し、衆生の眼病を治したという目洗いの池、弘法大師が灌頂の会式をしたと伝えられる灌頂ケ浜、大師が一夜にして建立したという一夜建立の岩屋、大師が有縁無縁の菩提と弔うために建立したという水掛け地蔵などがある。 
●25 宝珠山真言院 津照寺 / 高知県室戸市室津  
弘法大師 大同2年(807) 建立 
807年(大同2年)、弘法大師が海で働く人々の大漁と安全を祈って建立。 本尊は地蔵菩薩(ぼさつ)。1602年(慶長7年)、土佐藩主山内一豊が室戸沖を航行中に暴風雨に遭った際、本尊が僧に化身して船のかじを取り、無事室戸港に入港させたとのいわれがある。 本尊は「楫とり地蔵」とも言われ、信仰を集めている。  
 
室戸岬から海岸沿いを6kmほどゆくと町中に小高い山があり、その山上に本堂がある。参道右に大師堂と本坊。本堂へは125の急な石段があり、ご本尊は大同二年、弘法大師が巡錫されたときに刻まれた延命地蔵菩薩。秘仏で拝観はできないが、海上の安全と火難除けの霊験あらたかという。慶長六年十月、国守の山内忠義は室戸岬を航行中、突然暴風におそわれた。そこへ大僧があらわれて船の楫をとり、全員無事、室戸港へ避難することができた。港につくと僧の姿が見えないので後を追うと、津寺の本堂の中へ消えた。ご本尊を拝したら、全身潮でびしょぬれで、それ以来楫取地蔵(かじとりじぞう)とよばれ、多くの船人から信仰されるようになった。また、寛保二年の大火の時も、ご本尊が僧の姿となって、人々を避難させたという。境内に立つと眼下に室津港がある。野中兼山の部下一木権兵衛が難工事の築港を命じられ人柱となっており、参道沿いに一木神社としてまつられている。  
 
室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」(しんしょうじ)は、通称「津寺」(つでら)と呼ばれています。弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。   
はじめ長曽我部氏の庇護をうけ津寺村と称して七町余の地高を有しその後、山内氏が国主として入国してより更に一町五反余の田地を寄附され寺院の運営も全て藩営とされ中老格をもって遇され隆盛を極めておりましたが、明治の改革に遭い地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺とされました。   
荒廃にまかすこと約十数年明治十六年ようやく寺名復興を許され今日に至ったのでありますが寺域は極度に狭められ昔日のおもかげはなく、只本堂が地蔵堂としてのこり御殿と申された庫裏の一角が当時小学校として残っておりました。現在、小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築されたものです。  
楫取地蔵の由来  
御本尊延命地蔵を楫取地蔵(かじとりじぞう)という由来を申しますと、慶長七年秋の頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難いたされた時、何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。ほっとした所で先程の大僧の姿が見えないがともあれ探して津寺へ参詣してみると本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった事がわかった、之より本尊が楫取地蔵と申し伝えられるようになりました。この霊験記は、旧記南路史に明記されて居ります。   
また今昔物語には「地蔵菩薩火難ニ値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」第六として津寺の本堂が火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を変えて村人に知らせ、火難を逃れたという物語が出ており古くは火事取りの意味でも、かじとりじぞうと呼ばれております。  
 
大同二年(807)四国各地修業中の大師は、この地をたづね、高さ1米ほどの延命地蔵菩薩を刻み、一寺を建てて太平洋へ出で働く漁師のために、海上の安全を御祈念せられたのがはじまりであるといいます。中世、長曾我部氏の庇護を受け、山内侯の藩政時代には、祈願所として厚く尊崇され繁栄しましたが、維新の変革に遇い、一時廃寺となりましたが、明治十六年復興を許され今日に至っております。本尊の延命地蔵菩薩を一名゜カジ取り地蔵″と呼び、海上安全の守り本尊として海で働く人達との強い結びつきの歴史をくりかえしてきました。 
津照寺(しんしょうじ)2 
室戸のまちの小高い山に本堂を構える津照寺は、大同2年(807)弘法大師が漁業と海上の安全を祈願して刻んだと言われる高さ1mほどの延命地蔵菩薩を本尊とています。本堂には125段の急な階段を登って行きます。この寺には次のような逸話が残されています。土佐藩初代藩主山内一豊公が船でこの地を通った時、にわかに風雨が強くなったため、神仏に無事を祈りました。すると、突然僧侶が現れ、船の楫をとり無事港に入ることができました。その後、この僧侶を追いかけたところ、津照寺の本堂に消えていきました。この時、傍らの本尊がびしょ濡れであった...。これ以来、この本尊は揖取地蔵と呼ばれ、多くの船人から信仰されるようになりました。この揖取地蔵は、50年に一度御開帳されます。なお、前回の開帳は昭和50年(1975)でした。地元では津寺(つでら)の愛称で親しまれています。
●26 龍頭山光明院 金剛頂寺 / 高知県室戸市元乙  
弘法大師 大同2年(807) 建立 
807年(大同2年)に弘法大師が開いたとされる。本尊の薬師如来像のほか日光、月光菩薩、十二神将が安置されている。大師堂は境内に背を向けて立っているが、大師の修行の邪魔をするテングを足摺岬に閉じ込めるために大師像を足摺岬にむけて安置した、という伝説がある。  
 
津照寺をあとに、室戸から西北へたどると土佐湾に向って小さくつき出した岬がある。硯の産出で知られる硯ケ浦のある行当岬で、海抜二百bの頂上に金剛頂寺がある。室戸岬の最御崎寺と相対しているので最御崎寺を東寺、金剛頂寺を西寺ともいう。山麓からの急勾配の参道を登ると山門になる。広い境内をおおう椎の大木。弘法大師は若かりしころ、この山で修行され、大同元年には勅命を帯びて鎮護国家の道場として寺を創建し、ご本尊の薬師如来を刻まれた。その後、七堂伽藍は整備され、寺領三千五百石を有し後に長曽我部元親や山田忠義からも保護されている。文明と明治の火災のため、堂塔を焼失するが、いずれも再興され、昭和五十八年に、本堂が新しく建立された。霊宝館には、大師が背負って歩いた旅壇具や真言八祖像など重要文化財六点のほか、古美術六十点が保管され、境内の鯨昌館には泉井守一氏関係のめずらしい捕鯨具類などが展示されている。  
 
室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。その岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺であり、室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。朱印も「西寺」と捺される。当寺から4kmのところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、「行当」はその名残かもしれない。縁起によると、大師が平城天皇(在位806〜9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられている。創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。  
次の嵯峨天皇(在位809〜23)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823〜33)も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれており、以後、16世のころまで全盛を誇った。  
室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、わが国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されている。  
 
弘法大師青年の頃当山にて観法され、修禅降魔された霊跡であり、その玄志に因り、大同二年(807)に天城天皇の勅願で創建されたのであります。初代弘法大師より第十世までは、倫旨院宣により普住し、以後十六世迄はその全盛期と言われています。第二世智光上人は、世に隠れたる行力の聖人と讃えられ、弘法大師が高野山での御入定と知るや、御あとを慕いて、当寺にて入定留身し給うと伝えられています。今尚、智光上人の御廟は清浄なる聖域として信仰を集めています。恩廟の周囲には秋になると天然記念物の奴草が繁茂しています。寺宝としては弘法大師遺品の旅檀具を始め、真言密教における根本経である両部大経、浮彫八祖像等重要文化財七点、仏画類等多数収蔵されております。 
金剛頂寺(こんごうちょうじ)2  
金剛頂寺は、行当岬から連なる三角山の頂き近く標高200mの高台にあります。諸説ありますが、大同2年(807)に弘法大使の精舎建立により開基された説が有力です。開山の頃は三角山と号していましたが、龍頭山と山号を改めました。本尊は弘法大師自らが刻んだ薬師如来像です。この如来像は、お堂が完成したときに自ら歩いてお堂の中に入り、鎮座したと伝えられています。お像は、毎年12月31日から1月8日まで御開帳されます。境内の霊宝館には、弘法大師が背負って歩いた旅壇具や朝鮮高麗時代の鐘、平安末期の阿弥陀如来座像、白鳳時代の観音菩薩像、鎌倉時代の真言八祖像、経典、密教法具等の国の重要文化財が保存されています。地元では西寺(にしでら)の愛称で親しまれています。
金剛頂寺3 
807年に弘法大師が建立、後に淳和天皇の勅願所として栄えました。最御崎寺の「東寺」に対して、金剛頂寺は「西寺」と呼ばれています。寺域3万3,000平方mを誇る大寺院で、境内には木造阿弥陀如来像、銅造観音菩薩立像などの国の重要文化財が眠る霊宝殿や鐘楼が佇んでいます。
27 竹林山地蔵院 神峯寺 / 高知県安芸郡安田町唐浜  
神功(じんぐう)皇后が戦勝を祈願するために天照大神などをまつったのが始まりとされる。その後、行基が十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、神仏を合わせてまつった。809年(大同4年)、聖武天皇の勅命で、空海が札所に定めた。 三菱財閥創始者の岩崎弥太朗の母親が、息子の出生を願って、21日続けて参拝したことでも知られている。納経所の横には土佐の名水の一つ「神峯の水」が湧き出る。  
 
「真っ縦」といわれる勾配四十五度の1.3kmの急坂で知られた土佐の関所。寺のある山頂までは3.3kmあるが、遍路で難行した宮地達観氏の奉仕で自動車道が開通し、歩かずして山門までゆける。三菱王国を築いた岩崎弥太郎の母は、幕末のころ弥太郎の開運を祈願して、この急坂を登り、二十一日の間20km離れた井ノ口から神峯寺へ日参した。やがて、弥太郎は大成し後に山林を寄進し、報恩を感謝している。寺の縁起によれば、当初天照大神、その他諸神が祀られ、後に行基菩薩が自ら十一面観音を刻んで安置し、神仏を合祀した。大同四年には勅命によって観音堂と名づけられ、廷暦年間に四国霊場に定められた。明治の神仏分離で一時廃寺となったが、明治十七年再興された。山門は龍園尼の発願で建立。本堂、大師堂は急な山の斜面に建てられている。境内には清澄な霊水が湧き出ており眼下に美しい紺青の海原が望まれる。  
 
神峯山中腹の標高450mに山門、境内が広がる。  
幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から急な坂道を21日間(三七日)日参し、息子の出世を祈願した話は、いまも伝わっている。  
縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724〜49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。  
明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日にいたっている。   
昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例がある。  
 
当山は神功皇后の三韓征伐にあたり、勅命で天照大神其の他の諸神を祀った後に、行基菩薩が十一面観音の尊像を自作され、弘法大師が聖武天皇の勅命により弘法大師が神仏合祀の上四国二十七番の札所と定められた土佐の関所と言われる霊山である。明治四年の大法難の為、廃寺となり本尊を室戸の西寺へ遷し、明治二十年間崎天龍師竹林龍円尼と力を合わせ当山中興の大願を成就し、現在に至っている。当山信仰のあらたかな霊顕として伝えられる所によると、愛知県尾西市の住人水谷繁治氏の妻静さんは、長年の「セキズイカリエス」に苦しみ、大学病院でも手離され、夫妻は此の峰にて霊顕を得て全治を観た。その次第は奉納の碑に詳しい。 
●28 法界山高照院 大日寺 / 高知県香南市野市町母代寺  
弘法大師 弘二6年(815) 再建  
天平年間、聖武天皇の勅願により行基が開基したと伝えられ815年(弘二6年)、弘法大師によって再建された。 慶長年間以降は土佐藩の祈願寺として、800石余りの寺領があったという。1871年(明治4年)に廃仏毀(き)釈で廃寺となったが、84年(明治17年)に再興された。本尊の大日大級。  
 
江戸時代のころ土佐の国へ入るには、国手形(身分証明書)や添手形(通行許可書)指定された道の通行、期間、一定の旅費を所持した者などこまかい制約があった。遍路は大師の遺跡を苦行して歩く求道者であるが、このころは社会の敗残者がまぎれこみ、きびしい取蹄りとなった。現代は自由で物資も豊富、交通機関も発達し、それだけに信仰の旅が観光になりかねないけれど、土佐は修行の霊場、精進したい。神峰から野市を経て大日寺までおよそ四十`、小高い山の中腹までの参道を登ると、こじんまりとした本堂がある。寺の開基である行基菩薩が刻まれた大日如来(国重文)が安置され、大日堂と称していた。脇仏は二体の観音像。大同年間に弘法大師が巡錫されて楠に薬師如来を刻まれ「爪彫薬師」として知られ、この尊像は二百b先へ入った奥ノ院に安置されている。明治のはじめに廃寺となったが同十七年に再興し、寺名を大日寺に改称。近年になって、大師堂が新築された。  
 
境内は四季折々の花が咲き、巡拝者の目を楽しませてくれる。早春にはサンシュユの花、3月彼岸ごろにはしだれ桜、本坊前のコブシの花、10月中旬から十月桜や万両が咲き誇る。  
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、堂宇に安置して開創されたと伝えられる。その後、寺は荒廃したが弘法大師が四国を巡教された弘仁6年(815)、末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたという。  
以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間(1596〜1615)からは土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。しかし、明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。  
行基菩薩作とされる金剛界大日如来坐像は、高さが約146cmの寄せ木造りで、四国では最大級。また、脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作と伝えられ、これも高さ約172cmと大きく、ともに国の重要文化財に指定されている。また、大師が楠の立木に爪で彫られたという霊木は「爪彫り薬師」と呼ばれ、奥の院とされている。その楠は明治初めの大風で倒れたが、跡地に一堂を建て、霊木として安置している。この霊木は、頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があらたかとされている。薬師堂の脇には、土佐名水40選にも選ばれた大師御加持水が湧く。  
 
当山は、聖武天皇の御宇行基菩薩の御開基でありまして、弘法大師四国御巡錫の砌、中興遊ばされ、本尊は行基菩薩の作御丈四尺八寸脇仏聖観音五尺七寸と共に重要文化財です。本尊大日如来の御縁日二十八日に因み四国第二十八番の霊場と定められました。尚大師末世の衆生に利益を貽さんと楠の立木に薬師如来の尊像を彫刻せられ奥の院(一丁奥)となし給う、楠は明治初年の大風に倒れその跡に一堂を建て霊木を安置しました。世に爪彫り薬師とよばれ特に首より上の病に霊験あり遠近の参拝者多し又堂側の岩下より清水湧出す。これが大師加持水であります。住古は七堂伽藍、末寺脇坊等悉く備わり慶長以後寺堂の修繕総て藩宮でありましたが、明治四年廃寺となり同十七年再興せられ栄枯をたどり今日に至っております。 
大日寺2 / 爪彫り薬師  
聖武天皇の勅願により行基が開創。弘仁6年(815)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。本堂脇の御堂に安置されている聖観音像は本尊とともに重要文化財に指定されています。また、150mほど奥に入った奥ノ院には、弘法大師が楠木に爪で彫ったという薬師如来像「爪彫り薬師」が 安置されており、目や耳、鼻、口など、首から上の病に霊験があることで有名です。      
29 摩尼山宝蔵院 国分寺 / 高知県南国市国分  
741年(天平13年)、聖武天皇の勅願により行基が建立。本尊千手観世音菩薩がまつられたこけらぶきの金堂(本堂)を始め、創建当時のつり鐘、薬師如来2体は国の重要文化財。周辺は紀貫之が、国司時代に滞在したとしても知られる。  
 
野市から日章、後免へと田園地帯をたどる。「土佐はよい国南をうけて、年にお米が二度とれる」と、香長平野では水稲二期作が盛んで、水田開発にあたった野中兼山の名はよく知られている。国分寺は後免駅から北西へ約四`入った国分川の北にある。こんもりとした樹木におおわれ、その周囲には往時を物語る土壇が残っている。明暦元年(一六五五)の仁王門を入れば、柿茸き寄棟造りの金堂(本堂)がある。外観は天平様式を伝え、内部は室町末期の作風が見られるという。優雅でしっとりとした感じの建物。寺は聖武天皇の勅を受けた行基菩薩が、本尊千手観世音を刻んで天平十三年(七四一)に開創し、後に大師が巡錫し、毘沙門天を刻まれて奥ノ院へ安置し、本堂で厄除を祈られ、星供の秘法を勤修された。以来星供の根本道場といわれ、大師像は、星供大師といわれる。境内庭園は手入れがいきとどき、静かで落着いた書院がある。  
 
土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之(868〜945頃)が浮かんでくる。とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることはあまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国府は、国分寺から北東1kmほどの近くで「土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・文化の中心であった。  
聖武天皇(在位724〜49)が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。  
縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年(815)のころで、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。  
本尊千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂(金堂)は、長宗我部元親が、永禄元年に再建。柿葺き、寄棟造りで外観は天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ、室町時代の特色が見られて国の重要文化財に指定されている。また、仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・山内忠義公の寄進で豪壮な二層造りである。1250年余の面影を残す境内地は、全域が国の史蹟に指定され、杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」ともいわれる。  
 
当山は聖武天皇の勅を受け高僧行基によって天平十三年に開基された寺である。天皇自ら、金光明最勝王経を書写して納められ、天下泰平、五穀豊穣、万人豊楽を祈る勅願所として建立され、金光明四天王護国之寺と定められた。後に弘法大師巡錫の砌中興され、四国第二十九番霊場となった。歴代天皇の尊信篤く加護され、のち長曾我部国王、山内藩主より寺領を受け、伽藍の維持が計られてきた。明治三十七年金堂が当時の内務省より特別保護建造物の指定を受け、ついで昭和七年国の補助を仰ぎ、解体大修理が行われた。大正十一年には往時を偲ぶ土檀が残っていることから境内地全域が史跡として国の指定を受けた。現在、金堂や仏像、梵鐘等重文を有し、一二五〇年の歴史を今日に伝えている。 
30 百々山東明院 善楽寺 / 高知県高知市一宮しなね  
土佐神社の別当寺として大同年間(806-810)に建立。本尊は阿弥陀如来。明治初年の神仏分離令により、一時は廃寺になったが、1929年に再興。 本堂は82年建立、隣には大正時代に建てられた大師堂がある。優しい顔をした地蔵が並ぶ子安地蔵堂は、子宝祈願にご利益があると言う。  
 
国分寺から高知の市街へ入る手前に土佐一宮がある。かつては神辺郷といい、土佐では最も古く開けたところで、桓武天皇のころ、弘法大師がこの地に巡錫し、土佐一ノ宮の別当寺として善楽寺を建立し、三十番の霊場とした。以来、一ノ宮別当寺として法灯を維持してきたが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。昭和四年、大師像や寺宝がもどり、三十番善楽寺は復興する。なお善楽寺の廃寺を受け、三十番札所の代行を務めていた安楽寺は現在三十番奥ノ院となっている。霊場の中でも復興が遅く、アスファルトの境内に銅ぶきの本堂が建立する、近代的な寺院だが厄払いや、交通安全の霊験あらたかと言われている厄除大師や文化十三年に作られた首から上の病に、御利益があると伝えられている梅見地蔵等、御詠歌にもあるように昔も今も変わらず、お参りの方々で賑わっています。  
 
高知城へは約6km、JR高知駅まで約4kmというこの辺り一帯は、往時「神辺郷」といわれ、土佐では最も古くから栄えた地方である。 縁起によると、桓武天皇が在位(781〜806)されていたあとの大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。  
以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。  
本堂左隣の大師堂は大正時代の建立。ここの大師像は「厄除け大師」として知られ、厄年にお参りしたり、交通安全などを祈願すると霊験があらたかと伝えられる。また、境内には「子安地蔵堂」があり、弘法大師作といわれるやさしいお顔の地蔵尊が祀られている。難産で苦しんでいる妊婦を、大師が祈祷し安産させたという伝説があり、安産や子宝祈願にご利益があるといわれる。さらに水子供養の祈願にも参詣する人が多い。   
本坊前は開放的な雰囲気が漂う。土佐一ノ宮の別当寺として栄えた古刹である。  
 
当山は桓武天皇の時代に弘法大師四国巡錫の砌、この地に堂宇を建立し、一の宮の別当として、一国一宮を開創、四国三十番の札所と定められました。土佐の豪族であった長曾我部家江戸時代には、領主山内家の厚い信仰と庇護を受け繁栄しました。しかし、明治の大法難の為、一の宮は土佐神社となり、廃寺となってしまいました。本尊阿弥陀如来をはじめ大師像は国分寺に預けられました。明治九年、公許を経、本尊を安楽寺(現在の奥の院)へ遷座し、三十番札所を復興いたしました。昭和四年、当地の人達の努力により、国分寺より大師像を迎え、善楽寺を再興し、昭和三十九年開創霊場を善楽寺とし、二ヶ寺を札所と定めましたが、平成六年正月当山に第三十番札所を統一、安楽寺は三十番霊場奥の院として、今日に至っております。 
●31 五台山金色院 竹林寺 / 高知県高知市五台山  
弘法大師 弘仁年間 巡錫 
聖武天皇の命を受けた僧・行基が724年(神亀1)に建立本尊の文殊菩薩(ぼさつ)は行基自ら彫刻したと伝えられている。国の重要文化財の本堂、建指定文化財の客殿のほか、遍路の木札が数多く残る大師堂、五重塔が並ぶ。  
 
聖武天皇は唐の五台山で文殊菩薩を拝まれている夢をみられ、わが国にもこれに似た霊地があるにちがいないと、行基菩薩に探し出すよう命じられた。神亀元年(七二四)行基菩薩は五台山に似た山容を見つけ、ここに寺を建立し、栴檀の木に文殊菩薩を刻んで安置した。これが竹林寺のはじまりで、後に弘法大師が巡錫され、札所に定められた。五台山は高知市の中心から約6km。海抜134mの山頂からは高知市街や、浦戸湾、浜まで一望できる。ここは高知第一の景勝地。現存の本堂は文殊堂ともよばれ、文明年間の建立。単層、入母屋造り、柿葦で堂内には秘仏の本尊文殊菩薩が安置されており、本堂の向いに大師堂、一段高いところに総高32m朱塗もあざやかな五重塔がある。塔は昭和五十五年の建立。夢窓国師の庭園や宝物舘もある。はりまや橋で知られる純信・おうまの悲恋物語。純信は寺の脇坊、妙高寺の僧でその寺跡は牧野植物園になっている。  
 
♪土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…で有名な「よさこい節」の舞台であるほか、学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。鎌倉から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧、夢窓国師(1275〜1351)が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めた。また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士(1862〜1957)の記念館と県立牧野植物園があるように、土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。  
縁起では、神亀元年ころ、聖武天皇(在位724〜49)が中国・五台山に登り、文殊菩薩に拝した夢を見た。天皇は、行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じた。行基菩薩はこの地が天皇の霊夢にふさわしいと感得、自ら栴檀の木に文殊菩薩像を彫り、山上に本堂を建てて安置した。その後、大同年間(806〜10)に弘法大師がここに滞在して瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復、霊場にされたという。  
慶長6年(1601)に山内一豊公が土佐初代藩主になって以来、歴代藩主の帰依が厚く、祈願所として寺運は隆盛した。「文殊堂」と呼ばれる本堂は、江戸時代前期の建立で国の重要文化財。この他、山門左手の宝物館には藤原時代から鎌倉時代にかけての国指定重要文化財の仏像17躰が収蔵されており、まさに県内きっての文化財の宝庫といえる。  
眼下に高知の市街が眺められ、瓢箪形に食い込んだ浦戸湾が美しく広がって見える。  
 
当山は神亀元年今より約一千二百有余年の昔、聖武天皇の勅命により大唐(今の中国)の五台山を象徴して僧行基菩薩の草創された霊場です。昔聖武天皇霊夢により大唐の五台山に登り文殊菩薩を拝し、三解脱の法門を授けられしもので、本尊文殊菩薩尊像は僧行基の御自作にて明治三十七年国宝に指定されたる秘仏であります。弘仁年間に、空海弘法大師四国巡錫の砌り、当山に掛錫し、常瑜伽の大法を修し、堂宇を補繕、四国第三十一番の霊場として世に広められました。慶長年間土佐藩主山内一豊公以来歴代藩主の尊祟篤く、山内家の祈願寺として荘厳を極め、伽藍は土佐屈指の名刹であります。 
●32 八葉山求聞持院 禅師峰寺 / 高知県南国市十市  
弘法大師 大同2年(807) 十一面観世音菩薩を刻んで本尊 
神亀年間(724−729)にお聖武天皇の勅願により、行基が建立したとされる。その後、807年(大同2)に弘法大師が訪れ、航海安全を祈願しながら十一面観世音菩薩を刻んで本尊とした。土佐藩主・山内一豊も参勤交代で江戸に向かう際、必ず参拝したという。 本堂に向かう坂道や境内には奇岩を背に石仏が多く並ぶ。  
 
五台山をあとに、下田川を渡り、トンネルを抜けると、目前に100mあまりの小高い山があらわれる。この山容が観世音の補陀洛山(理想の山)さながらで八葉の蓮台に似ていることから、大同二年(八〇七)弘法大師が巡錫して八葉山の山号をつけ、霊場としたという。山麓から頂上の寺までの急な坂道を登り、仁王門へたどりつくと、奇怪な岩石があり、幽寂な空気がただよう。弘法大師はこの山に登られて求聞持の修法をされ、土佐沖を航行する船舶の海上安全を祈願して、自刻の十一面観世音を安置された。以来「…のりのはやぶね」とご詠歌にあるように船魂の観音」とよばれ、歴代の藩主は浦戸湾を出帆するとき、必ず海上安全を祈った。また、一般漁民の信仰もあつく、一般には峰寺ともよばれている。境内からは遠く桂浜がみえる。白砂青松の美しい砂浜で西に龍王、東に龍頭の岬があり砂浜は弓形にながくのびている。  
 
太平洋のうねりが轟く土佐湾の海岸に近い。小高い山、とはいっても標高82mほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みなこの寺に寄り航海の無事を祈った。  
縁起によると、行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。のち、大同2年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。このとき自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。  
以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。堂宇はこぢんまりと肩を寄せ合うように建っているが、境内は樹木におおわれ、奇怪な岩石が多く、幽寂な雰囲気を漂わせている。   
芭蕉の句碑「木がらしに岩吹き尖る杉間かな」は、本堂前の奇岩の間にある。  
 
当寺は、行基菩薩の開基です。大師御巡錫の砌り、この土佐沖を航行する船舶の海上安全祈願のため、一刀三礼自作の十一面観音菩薩を当寺の本尊として安置せられた。当山は、観音の浄土、天竺補陀洛山さながらの霊域で、その山容が八葉の蓮台に似ているので、八葉山と号し、大師が当山で求聞持の法を修せられたので、求聞持院と称えています。なお当寺で、旧藩主山内公が海上の安全を祈願せられたので、俗に船魂の観音といわれ、一般の崇敬が篤い。仁王門内の金剛力士二軀は、仏師定朝の作で重文に指定せられています。寺宝に、徳治三年銘の鐘と、永禄十三年銘の鰐口があり、本堂前の岩の間に芭蕉の句碑があり、「木枯らしに岩吹き尖る杉間かな。」 
●33 高福山 雪蹊寺 / 高知県高知市長浜  
弘法大師 延暦年間(782-806) 開山 
延暦年間(782−806)に弘法大師が開山。 一時、荒廃したが天正年間(1573−92)に月峰和尚が入山し、時の大名・長宗我部元親と親しかったことから再興。元親の宗派に倣って真言宗から臨済宗に改宗した。 八十八箇所のうち臨済宗の寺は他には第十一番札所・藤井寺(徳島県鴨島町)だけ。本尊の薬師如来像は運慶の晩年の作といわれ、国の重要文化財に指定。  
 
昔の遍路は種崎から長浜へ船で渡ったが、今は浦戸大橋ができて便利になった。長浜は長曽我部元親の城下町としてひらけたところで、町を抜けると秦神社があり、祭神に元親の像がまつられている。この神社の隣りに雪蹊寺がある。延暦年間に弘法大師によって開創され、当初少林山高福寺と称し、その後運慶、湛慶のゆかりで慶運寺に改めた。石柱の門を入れば観音堂、鐘楼、大師堂、本堂がある。ご本尊は薬師如来。脇他は日光・月光菩薩、いずれも運慶晩年の作。毘沙門天と脇仏の吉祥天女、善賦師童子は運慶の子湛慶の作。寺歴をたどると後に寺は荒廃し、月峰和尚が元親に依頼されて寺を再興し、元親の死後その菩提寺となり、元親の法号にちなみ、雪蹊寺となった。明治以後は大玄和尚が再興された。三島龍沢寺の今はなき山本玄峰師は、若い頃失明に近い眼病にかかり、その回復を祈願し素足で七回目の遍路中、大玄和尚と出会い「心眼をひらけ」の一言で出家したという。  
 
土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。雪蹊寺はそこから西へ約4キロほどである。雪蹊寺の縁起は、まず3つの特色から挙げておく。  
1つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。  
2つ目は、鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名のったのもこうした由縁で、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。   
3つ目は、「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生みだしている。  
雪蹊寺で出家し四国を17回遍路した山本玄峰師は、まさに行雲流水の禅僧であった。  
 
当寺は、弘法大師四国御巡錫の砌り種崎に御留錫ここを開基せられたと伝えられている。其の時に作られたと云われる御座大師が現存している当山は、元高福寺と称して真言宗であったが永禄の頃長曾我部元親が臨済宗に改めた。慶長四年元親卒するに及び当寺を菩提所とし寺号を改めて、高福山雪渓寺と改称された。僧月峰を中興の開山とする。明治初年神仏分離の際廃寺となったが、明治十二年再興を許可せられ、同四十四年寺地を拡張し現在に至る。朱子学南学派の祖とも云うべき僧天室は此の寺の住職で、その弟子に谷寺中があり寺中の弟子に小倉三省と野中兼山とが出た。雪渓寺は実に南学発祥の道場とも云われている。 
●34 本尾山朱雀院 種間寺 / 高知県高知市春野町秋山  
弘法大師 命名伝説 
577年、百済の仏師らが土佐沖で暴風雨に襲われ、流れ着いた時に海上安全を祈願して薬師如来を安置したのが種間寺の始まりと伝わる。平安時代初期に弘法大師が訪れ、唐から持ち帰った五穀をまいたことから寺名が付けられたという。本尊の国宝・薬師如来は「安産の薬師」として知られる。  
 
吾南平野の米とそ莱どころで知られるだけに、田園の用水に沿ってへんろ通がつけられている。田園の中に地蔵堂、本坊、持仏堂、大師堂、観音堂、本堂があり、それに相対して石仏が並ぶ。観光客とは無縁なだけに静かな札所。敏達天皇の六年(五七七)四天王寺造営のために来日した百済の仏師寺匠が、帰国の途中、暴風雨におそわれて避難しようと秋山の郷に寄港した。そして海上安全を祈って刻んだのが薬師如来で、本尾山の頂きに安置された。やがて弘法大師がこの地へ巡錫し、薬師如来をご本尊として寺を開創され、中国から持ち帰った五穀の種子をまかれた。種間寺の寺名はこれに由来する。ご本尊は安産の薬師として信仰され、妊婦は柄杓を持参して祈願する。寺ではその柄杓の底を抜き、三日の間ご本尊に祈祷してお札とともにかえし、それを妊婦は床の間にまつり、安産すれば柄杓を寺へ納めるという。  
 
土佐湾の沿岸は、四国霊場のメッカのようである。種間寺もその一つで、土佐湾の航海に結びついた興味深い縁起が伝えられている。  
6世紀のころである。敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。彼らが渡来したのは用明天皇(在位585〜87)の時代、大阪・四天王寺の造営にあたった。ようやく落慶し、その帰途の航海中であった。土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。彼らは、海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。  
その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁年間である。大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。その折に唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。  
天暦年間(947〜57)には、ときの村上天皇(在位946〜67)が「種間」の勅額を下賜され、また、土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われている。ただ、やはり廃仏毀釈の難では、容赦がなかった。   
本尊は「安産の薬師さん」で、また、底の抜けた柄杓に人気があり、信者が多い。  
 
当山は、人皇第三十代敏達天皇の六年(577)百済国の皇子が、仏工、寺匠を天皇に献上したが、其の後用明天皇の御代に、大阪の四天王寺が落成したので、一同いとまを賜って、帰国の途中、暴風雨におそわれて、秋山の郷に寄港した。そうして、海上の安全を祈って刻んだのが薬師如来で、本尾山の頂きに安置されました。其の後年を経て、弘法大師がこの地へ巡錫され、薬師如来を本尊として寺を開創されました。その時、大師が中国から持ち帰られた五穀の種をまかれた。種間寺の寺名は、それにちなんでつけられたといわれています。天歴年間、ときの村上天皇は、藤原信家を勅使として「種間」の勅額を下賜されました。藩主山内氏のころ、寺は保護され、田畑山林などが与えられて、堂字修築されたということであります。 
●35 醫王山鏡池院 清滝寺 / 高知県土佐市高岡町清滝  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 伝説 
723年(養老7年)、行基が薬師如来を刻んで開いた。弘仁年間(810−824)に弘法大師が来山し、地面を金剛杖(こうんごうづえ)で突くと清水が滝のようにあふれ出たことからこの名がついたと言う。本尊は薬師如来。標高400mの境内からは清流・仁淀川、その奥に太平洋を望むことが出来る。  
 
土佐の町から西へ向うと前方に山々が立ちはだかる。山麓の農家には土佐の手漉和紙の原料楮がみられ、急坂を約八百bほど登った山(海抜四百b)の中腹に清滝寺がある。この境内の一角に「いらずの山」と称し、誰人も近づかない所がある。そこに弘法大師の十大弟子に数えられる真如の建てた逆修の塔がある。真如は入唐後さらにインドへの求道の旅をつづけ、途中不慮の死を遂げた。おい茂った樹木の中に、真如の熱烈な魂は今なお生きつづけている。縁起によれば、養老七年(七二三)行基菩薩がご本尊薬師如来を刻み、寺を開別し、景山密院繹木寺とした。弘仁年間に弘法大師が巡錫し、山中で一七日の間修法され、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になった。そこで医王山鏡池院清滝寺に改め、霊場としたという。おかげをうけた人の感謝の奉納額、松葉杖、ギプスなどが本堂に奉納されている。  
 
土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころ。その源をたどると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。「みつまた」をさらし、和紙を漉く重要な水の源泉として、信仰の厚い札所である。  
縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・繹木寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ。本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。  
この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。  
寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、厄除け祈願のために寺領数百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。  
厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。  
 
元正天皇の養老九年(723)行基菩薩が、本尊薬師如来(重文)を刻み、開基、影山密院釈本寺と名づけた。その後、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜23)に弘法大師が巡錫せられ、五穀豊作のために門伽井権現と龍王を勧請し、当山の寺号を、医王山鏡池院清滝寺と改め、弘法大師の高弟高岳上人にゆかりのある寺として有名であります。貞観三年平城天皇の第三皇子高岳法親王が、大師の夢告げによって、来錫され、息災増益の密檀を造り、入唐されたと伝えられています。当山は境内には「入らずの山」といって、人の近づかない一角がありますが、これが、高岳法親王の逆修塔のある場所であります。とまれ、藩政期は寺領百石、七堂伽藍の完備した巨刹であり、現在は、厄除け祈願の名刹であります。 
●36 独鈷山伊舎那院 青龍寺 / 高知県土佐市宇佐町龍旧寺山  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 建立 
唐の長安の青龍寺で真言密教の奥義をすべて伝授された弘法大師が、持っていた密教の法具「独鈷杵」(とこしょ)を日本に向かって投げ、弘仁年間(810−824)に松の枝にひっかかっていた独鈷杵を大師が発見し、寺を建立。独鈷山(とっこさん)青龍寺と名付けたという。  
 
宇佐の渡し(龍ノ渡シ)は、弘法大師が八人の供を残し、その子孫がこの渡しを近年まで守りつづけてきた。しかし宇佐大橋が開通してこの渡しはなくなった。昔の遍路はいくつもの川や海を越えたが、その多くは渡し舟を利用した。ところが橋がかかり、海岸線に道路が開通するにおよんで渡し舟は姿を消してゆくのである。弘法大師は中国留学中、青龍寺の恵果阿闍梨について学ばれたが、帰国にあたって師の恩に報いるために有縁の勝地を選ばれるようにと、明州から東に向かって独鈷杵を投げられた。独鈷杵は東方に飛び、やがてこの地の山上にある松に止まった。帰国した大師はこの地へ巡錫して独鈷杵を感得し、弘仁六年(八一五)嵯峨天皇に奏聞して一宇を建て、自刻の浪切不動を安置し、恩師を慕って寺名を青龍寺とした。仁王門を入ると滝があり、行場になっている。百二十段余りの石段を登りつめたところが本堂。海上安全を祈る漁民の多くの絵馬が納められている。  
 
青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。お供をした8人を残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。  
弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。  
帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。  
明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹であった。また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されている。  
 
当寺は、弘仁年間弘法大師による御開基であります。大師が御入唐され青龍寺恵果和上より真言の秘法を悉く伝授され、その後継者として真言第八祖となられ、その報恩の為一宇を建立しようとの御誓願を発せられ、有縁の勝地を求め唐から独鈷杵を投げられたところ独鈷杵は忽ち紫雲に包まれ東方に飛び去りました。御帰国後四国巡錫の砌り当地山上の老松に独鈷杵の留まっているのをご覧になりそこに一寺を建立し恩師を偲ばれ寺名を青龍寺と名づけ独鈷杵飛留にちなみ山号を独鈷山としました。御本尊は大師御入唐の際大暴風雨にあわれた時、風波を切り静めた波切不動尊であります。海で働く人々の信仰が特に深い。近海はもとより遠洋漁業に出港する船の出る前には、乗組員一同が祈願に来ます。 
●37 藤井山五智院 岩本寺 / 高知県高岡郡窪川町茂串  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 建立 
本尊は不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の5体。弘法大師が弘仁年間(810−824)に建立した。1978年に増築された本堂の天井には、花鳥風月のほか、自画像、動物やマリリンモンローなど、県内外の芸術家や子供たちが描いた575枚の絵が貼り付けられている。  
 
かつては福円満寺といい、行基菩薩の開基で、聖武天皇の勅を奉じ、仁井田明神のかたわらに建立された。仁王経の七福即生の文にもとづいて、天の七星をかたどつてさらに六ヵ寺を建てて、仁井田七福寺とも称した。弘仁のころ、弘法大師が巡錫し、五社、五ヵ寺を増築し、本地仏のご本尊である不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五体を安置し、自ら星供秘法を修し、藤井寺五徳智院と号された。中世のころ兵火で焼失し、ときの釈長僧都が再興し、寺名を岩本坊(寺)に改めた。明治に入り廃寺となるが、同二十二年に再興されている。本堂には五体の本尊が安置され、なかでも観世音菩薩は、昔貧しい狩人の願いをきき入れて長者にさせたことから「福観音」とよばれ、その時狩人の身代りになった地蔵菩薩を「矢負の地蔵」とよんで信仰されている。七不思議の伝説もある。窪川は三つの峠を越えた高原(海抜三百二十b)の町。寺は町の奥まった所にある。  
 
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。歴史は天平の世まで遡る。寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。  
天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまう。再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。  
 
行基菩薩が、天平年間聖武天皇を奉じ仁王経の七難即滅、七福即生の心を以って宝福、長福など七つの寺を建てたのにはじまります。仁井田明神の傍に七福寺の根本寺として、福円満寺を創建せられました。のち弘仁年間(810〜23)弘法大師が四国巡錫の時、五社五寺を増建せられ、これを仁井田五社、十二福寺と称し、大師自ら星供曼荼羅を画かれ、三国相承の星供秘法を修せられました。天正五年、兵火にかかり悉く炎上しましたが、時の足摺山主、尊快法親王が弟子の尊信に命じて、現在のところに寺を再建されました。寺名を岩本寺と改めました。以後法灯は伝承せられましたが、明治二年廃仏毀釈の厄難にあい廃寺となりましたが、明治二十三年再興されて今日に及んでいます。 
●38 蹉跎山補陀洛院 金剛福寺 / 高知県土佐清水市足摺岬  
弘法大師 弘仁年間(810-824) 建立 
弘仁年間(810−824)嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が開創。 仁王門に掲げられた扁額(へんがく)は嵯峨天皇の直筆。本尊は三面千手観世音菩薩。平安時代後期には観音道場として信仰を集め、和泉式部も訪れたという。  
 
岩本寺から足摺岬へはへんろ道の中でもっとも長く、約110km、歩いて三泊四日ほどかかる。土佐の京都といわれる中村より四万十川を渡り、伊豆田峠を越え下ノ加江より以布利へ、ここから土佐清水を経て海沿いに窪津、稲荷崎、足摺岬へ。岬の突端に近づくと急激に海へ迫る。アコウや天然のツバキ林を抜ければ、十二万平方bの広大な境内に本堂をはじめ諸堂が点在する。弘仁年間に弘法大師はこの地を巡錫して千手観世音を感得し、日本の最南端に位置することから観世音の理想の世界(補陀洛法界)の地として朝廷へ奏聞し、嵯峨天皇より「補陀洛東門」の勅額を賜り、弘仁十三年、伽藍を建立し、千手観世音を安置した。(山号を蹉跎山に改めたのは金峰上人が住職のとき天魔を蹉跎して退かせたからという)岬の突端に立つと、紺青の海原が無限にひろがる。ここには弘法大師の七不思議の伝説がいまなお生きつづけている。  
 
四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は120,000平方mを誇る大道場。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳のころといわれる。  
岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音さんの浄土を連想させ、自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり着く遍路の旅もまた壮絶を極める。前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。  
縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに三面千手観音像を彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、別名、金剛杵ともいう。また、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。歴代天皇の勅願所となっていたが、武将からも尊崇された。とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。  
戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。  
大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在している。  
 
当山は、国定公園足摺岬の突端にあり、境内三六,000余坪(十二万平方m)の大道場。今を去る千百五十余年前、嵯峨天皇の勅を奉じて、弘法大師この地に来らせ、開創せられた。本尊は、三面千手観音菩薩、脇仏は、不動明王と毘沙門天であります。代々皇室の勅願所として栄え、また源家一門の尊崇をうけ多田満仲公は、多宝塔を建立し、源頼光公は家来の渡辺綱に命じて、諸堂を再営されたということであります。長曾我部氏、山内氏の帰依も篤く、寛文年間には二代藩主山内忠義公により、寺塔が再建されました。明治初年の変革で衰えたこともありましたが天俊僧正、純浄律師が鋭意再興に務められ、今日に至っております。「七不思議」と言う大師遺跡が岬突端をめぐるようにあります。 
金剛福寺2 
四国霊場38番札所。嵯峨天皇の勅願を受けて弘法大師が建立、今も寺周辺には大師にまつわる伝説が残されている古の地です。土佐随一の大寺院で、源氏や一条家、土佐藩主などの信仰を受けました。平安時代後期に創られたという寺宝、「愛染明王坐像」をはじめ、「高野大師行伏図画」など、貴重な品々を所有。本尊の「三面千手観世音菩薩」は秘仏で、特別な日だけ開帳されます。 
金剛福寺3 
白皇神社、亀岩、弘法爪彫りの石 / 土佐清水市足摺岬  
室戸岬も弘法大師の霊地で、四国第38番札所の足摺山金剛福寺は弘法大師の開創であり、近くの白皇神社も大師が建立、伊弉諾・伊弉冉尊を祀る。岬の海岸には大師が乗ったという亀石や亀岩(不動岩)、大師が爪で岩に「南無阿弥陀仏」と六字を刻んだという弘法爪書きの岩などがある。 
●39 赤亀山寺山院 延光寺 / 高知県宿毛市平田町中山  
弘法大師 延暦14年(795) 霊場 
724年(神亀元年)に行基が開いたいわれる真言宗の寺で、本尊は薬師如来。795年(延暦14年)に弘法大師が、桓武天皇の勅願所として日光、月光両菩薩を安置して霊場とした。 「安産厄よけ」の祈願所として栄えている。  
 
時代の流れで昔風の遍路宿がなくなってゆくが、いまなを旧来の姿をとどめているのが若松屋。洗濯したてのきれいなカバーをつけた夜具を廊下に積み、遍路とみれば声をかける。若松屋は三代もつづく遍路宿で、主人の小林等さんが気持よく接待してくれる。寺の山門を入れば、本堂、大師堂がある。 神亀元年(七二四)聖武天皇の勅命で行基菩薩が薬師如来を刻み本尊として安置し、堂塔を建立したのがはじまりという。延暦十四年(七九五)には弘法大師がしばらく留まり、桓武天皇の勅願所として再興し、脇仏を安置して堂塔を整備し、霊水を湧かせて宝医水と名づけられた。一方、境内の池に棲んでいた赤亀が竜宮から鐘を背負ってきたと伝える鐘には延喜十一年(九一一)の年号が刻まれ、国の重要文化財になっている。納経朱印も亀。十六ヵ所の修行の霊場を打ち終え、これから裏関所の観自荘寺へとたどることになる。  
 
土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。  
現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。  
縁起を寺の起源にもどそう。神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。  
弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。  
 
当山は、聖武天皇の神亀元年(724)行基菩薩が勅願により、自ら薬師如来を刻んで本尊とし一寺を創建されたのがはじまりであります。薬師の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺号を宝光寺、本尊の胸中には、行基菩薩感得の仏舎利を秘蔵したと伝えられます。桓武天皇の延暦十四年(795)大師が来錫され、勅願所として再建、日光月光の両菩薩を選んで脇侍とされ、七堂伽藍を整えたということです。この時大師は、錫杖で土を掘ったところ清水が湧き溢れた。いまも本堂の横にある、゜目洗い井戸゜がそれであります。延喜十一年(911)赤亀が梵鐘を背負って、海中から現われたので寺号を赤亀山院延光寺と改めました。 
●高岡神社 / 高知県高岡郡四万十町  
空海 創建  
越智氏の遠祖を祀る孝霊天皇奉斎神社。祭神は「大日本根子彦太邇尊(孝霊天皇)、磯城細姫尊、大山祇尊・吉備津彦狭島尊、伊豫二名州小千尊、伊豫天狭貫尊」とされる。孝霊天皇後裔の越智玉澄は伊予より土佐に移ったが、この地で祖神などを奉斎して創建した。越智玉澄はのち伊予に戻って河野氏の祖となる。その後、行基や空海が寺院をこの地に創建して、仁井田十二福寺と総称されるようになり、四国八十八箇所霊場の一つとなったという。近世には岩本寺が別当として残った。明治初年に神仏分離により、高岡神社となった。県社。(『神社探訪・狛犬見聞録』『古今宗教研究所』)  
 
●室戸三山  
四国霊場の第24番札所「室戸山最御崎寺」、第25番札所「宝珠山津照寺」、第26番札所「龍頭山金剛頂寺」を「室戸三山」と呼びます。室戸は高知県で最初に四国八十八ヶ所霊場がある所です。また、室戸は弘法大師の修行の地、悟りを開いた地として知られた場所です。室戸の地に3箇所も霊場がある事でも、弘法大師がここ室戸に対し特別な想いを持っていたことが良く分かると思いませんか。弘法大師の心に触れにいらして下さい。心が癒される時間が流れています。  
●毘沙門の滝、毘沙門堂、龍王院 / 南国市岡豊町滝本  
弘法大師 修行  
南国市の岡豊町にある毘沙門の滝は、大師が高野山を開く前年、この地を巡遊中にこの滝に身を浄めているとき、岩上に毘沙門天が現れたので、その像を刻んだ。後にこれを安置したのが、滝の傍らにある毘沙門堂とのことである。現在この地には毘沙門山龍王院が建てられている。朱塗りの建物と満開の桜が調和して平和の光景を現出していた。  
●見残し海岸 / 土佐清水市三崎  
弘法大師 伝説 
あまりの難所ゆえ弘法大師も見残したのでこの名がついたという。奇岩怪石の連なる海岸である。  
●弘法大師御影堂 / 高知県長岡郡大豊町  
弘法大師 修行  
梶ヶ森の登山道の途中、龍王の滝から約20分で「弘法大師御影堂」が見えてきます。弘法大師若年の頃「求聞持」の法を修行された処であり、大師がおさめたと伝える石と剣があります。石は「大師御手判の石」といい、剣は菩薩に献上するためのものと伝えられています。 
●御厨人窟(みろくど) / 高知県室戸市室戸岬町  
弘法大師 修行伝説  
高知県室戸市室戸岬町にある弘法大師伝説の残る海蝕洞である。御蔵洞とも表記される。日本の音風景100選、四国八十八箇所番外札所の一つ。隣接する神明窟(しんめいくつ)についても記述する。  
御厨人窟と神明窟は国道55号沿いの室戸岬東側に位置する隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である。御厨人窟の向かって右側に神明窟がある。それぞれ祠が祀られており、御厨人窟には五所神社があり祭神は大国主命、神明窟は神明宮があり祭神は大日孁貴となっている。  
御厨人窟は平安時代初期、当時青年であった弘法大師がこの洞窟に居住したと伝えられている。この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の法名を得たとされる。  
また、神明窟で難行を積んだと伝えられる。難行の最中に明星が口に飛び込み、この時に悟りが開けたと伝えられている。神明窟は2012年秋より、落石のため立入禁止となっている。  
洞窟の中で聞こえる豪快な波の音は「室戸岬・御厨人窟の波音」として環境省の残したい「日本の音風景100選」に選定されている。
御厨人窟2  
今から約1200年前、弘法大師(空海)が阿波の大滝獄から来て、難行苦行を重ねて虚空蔵求聞持法を修められ、かの有名な三教指帰の悟りを開かれたと伝えられる由緒ある海食洞(波の力によって削られた洞窟)です。 神明くつ(東のくつ)みくろど(西のくつ)。みくろどの中にあるお社は五所神社と呼ばれています。 みくろどの中で聞こえる波の音は「日本の音風景百選」に選ばれています。  
法性の室戸といえば我が住めば 有為の浪風よせぬ日ぞなき 空海  
これは、弘法大師が当時の苦行を歌ったものです。 
御厨人窟3  
約1,200年前、19歳の若き空海(弘法大師)が修業の場として選んだのが室戸岬でした。波に浸食されてできた洞窟・御厨人窟(みくろど)に寝起きし、隣の神明窟(しんめいくつ)で、空と海だけを眺めて修行。難行苦行の末に悟りを開いたと伝えられています。そのためか、この洞窟には空海の霊力が宿るとされ、近年には心と体を癒やすスピリチュアルなパワースポットとして人気を呼び、数多くの人が訪れています。海のエネルギーや、室戸という土地が持つ不思議は力が感じられるかもしれません。 
御厨人窟4 と神明窟(しんめいくつ)  
弘法大師 修行  
国道55号沿いに弘法大師が修行中の住居としていた御厨人窟(みくろど)と、難行を重ねたと伝えられる神明窟(しんめいくつ)の二つの洞窟が並んであります。御厨人窟で聞こえる波の音は、環境省選定「残したい日本の音風景100選」にも選ばれています。また、御厨人窟と神明窟周辺は、『地球の成長過程が分かる 室戸の地層』の一つでもあります。御厨人窟と神明窟は隆起した海食洞であり、駐車場として使われている平地は波食台、背後の切り立った崖は海食崖です。 
御厨人窟5  
弘法大師 悟りを開く  
「御厨人窟」は、高知県室戸市にある海の浸食によってできた洞窟である。別名「御蔵洞」とも呼ばれる。平安時代に当時青年であった弘法大師(空海)が洞窟の中で過ごし、悟りを開いたとされる伝説が残っている。この洞窟の中から見た外の風景は、「空」と「海」以外の一切も許さず、それを見た弘法大師は、自らの法名を「空海」と名付けた。また、洞窟の中で鳴り響く波の音は、「御厨人窟の波音」として環境庁の「日本の音風景100選」に選ばれている。隣接して「神明窟」という洞窟がある。 
●室戸岬 高知県室戸市室戸岬町  
弘法大師 修行  
室戸岬は若い頃の大師の修行の場である。修行の窟として東に神明窟、西に御廚窟(みくろど)がある。十九歳のとき、大師が難行苦行を重ねて虚空像求聞持法と修められ、かの有名な三教指帰の悟りを開かれたところという。近くの室戸青年大師像は高さ21mもあり、昭和59年信者や一般の方々の寄進によって建立されたものである。最御崎寺は弘法開基の寺で西国第24番札所となっている。 
弘法大師ゆかりの室戸岬  
若き日の弘法大師は室戸岬で苦行を行い悟りを開いたらしい。室戸岬には、弘法大師ゆかりのモノや場所が多数存在する。岬の少し手前の国道沿いにある2つの洞窟は、弘法大師が悟りを開いたとされる有名な洞窟で、御蔵洞(みくらどう)とも呼ばれている。2つある洞窟のうち向かって左側にあるのが大師が寝起きをしたといわれる御厨人窟、右にあるのが修行をしたという神明窟。空海の名はこの洞窟から見た海の広大さに、いたく感動したことに由来するという。  
最御崎寺  
弘法大師 若き日 修業  
弘法大師 唐帰国後 本尊を刻み安置  
室戸岬の頂上近くにある最御崎寺は、唐から帰国した大師が嵯峨天皇の勅願を受け室戸岬を訪ね、本尊を刻み安置したのがはじまりと伝えられている。宝物館には多数の文化財が収められており、なかでも石造如意輪観音半跏像(いしづくりにょいりんかんのんはんかぞう)、木造の薬師如来像と月光菩薩像の3体は国の重要文化財に指定されている。  
 
若き日の弘法大師(空海)が修業した洞窟がある、大師ゆかりの地。嵯峨天皇の勅願を受け、807年に弘法大師が伽藍を建立しました。地元では東寺と呼ばれ親しまれており、歴代の天皇からの信仰も厚い古寺。所蔵する大理石丸彫りの石像如意輪観音半伽像、木造薬師如来像、木造月光菩薩立像、足利時代の銘入りがある三足の丸盆一対の4件が国の重要文化財に指定されています。 
 
空海と室戸  
弘法大師 帰国後再び室戸の地を訪ね三山を開いた  
弘法大師、空海は774年6月15日、讃岐国(香川県)屏風ケ浦に生まれた。幼名を真魚(まお)といい、神童のほまれが高かった。15才で京に上がり、18才で大学に入り、勉学に励んだ。儒学を学ぶうち、仏教に心を傾けるようになり、仏教の研究を進め、俗世間を離れて苦行の道にいった。吉野大峰で修行したのち空海は、四国路を渡り阿波の大滝寺にこもって難行を続け、やがて山を下り、人跡まばらな海岸をたどって室戸崎に向かうのである。空海が室戸崎に来た年齢については諸説があるが「室戸町誌」では24才としている。この時の室戸崎は秘境であり、霊域であった。ここにたどりついた空海は「神明窟」にこもって修行した。隣の御厨人窟には毒蛇が住んでおり、往来の人畜に危害を加えるので、空海が加持力をもってこれを退出させたという。こうした室戸の荒磯乱礁のほとりで苦行修行を積みながら悟りを開くのである。  
弘法大師空海にとって、室戸崎の大自然は、まさに第二の誕生の地と言い得る霊地となった。室戸を去った空海はあらゆる仏典や諸学を学び、804年遣唐使に従って中国に渡った。入唐した空海は真言密教に没頭し、在唐二カ年にして日本に帰った。そして再び室戸の地を訪ね、室戸の地に三山を開いたのである。 
高知県の歴史  
「土佐日記」の頃  
仏教文化の伝来も往古の土佐に見のがしてならないものである。僧行基が長岡郡大島、すなわち五台山に竹林寺を草創したのは聖武天皇神亀元年(七二四)で、幡多郡平田の延光寺、長岡郡豊永郷の豊楽寺もその開基だと伝えられる。ついで平城天皇大同二年(八〇七)には弘法大師が長岡郡十市に峰寺を創建し、安芸郡甘三戸の最御崎寺、元村の金剛頂寺、高岡郡の青龍寺、幡多郡足摺崎の金剛福寺など大師の足跡は東西にあまねく、医療や殖産に関する衆生済度の事績は一千年後の現代にも到る所に伝承を残している。  
 
『土佐日記』は、紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を、虚構を交えて綴った日記文学である。成立は承平5年(935)頃といわれる。古くは『土左日記』と表記されていた。日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。  
延長8年(930)から承平4年(934)にかけての時期、貫之は土佐国に国司として赴任していた。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品である。57首の和歌を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現(ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を多く用いていることも特筆される。  
成立の過程は不明である。貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが、土佐日記そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。  
小松英雄は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は「漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう」という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだとしている[1][疑問点 – ノート]。ただしこの説は広く受け入れられるには至っていない。娘を亡くした悲しみを書くにあたって、「男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、「泣血(きゅうけつ)」のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです」という人もいる[2]。  
橋本治は仮名文字を使用した理由について、紀貫之が歌人であったことを挙げている[3]。当時の男性の日記は漢文であったが、和歌は男女ともに仮名文字を用いていた。そのため和歌の専門家でもある貫之が自分の得意な文字である仮名文字を用いた、というものである。 
足摺の七不思議  
亀石 / 亀呼場(岬先端)から弘法大師が亀の背中にのって灯台の前の海中にある不動岩に渡ったといわれています。この亀石は、その『亀呼場』の方向に向かっています。  
汐の満干手水鉢  
突き出した岸壁の近く、岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水が溜まり、汐がひいているときは水が無くなるといわれ、非常に不思議とされています。  
ゆるぎ石  
この石は弘法大師が金剛福寺を創立の時に発見された石で、この石の動揺の程度によって孝心をためすといわれています。  
不増不滅の手水鉢  
平安朝の中頃、賀登上人(カトウショウニン)とその弟子日円上人が補陀落渡海(観音様の世界)せんとしている時、弟子日円上人が先に渡海して行ったので非常に悲しみ、この岩に身を投げかけたそうです。その落ちる涙が不増不滅の水となったといわれます。  
大師一夜建立ならずの華表  
大師が一夜でとりいを作らせようとしたが、天邪気が鳥の鳴き声のまねをして大師は夜が明けたと思い、作るのをやめたといわれています。  
亀呼場  
弘法大師が前にある不動岩に亀の背中にのって渡り身体安全、海上安全の祈祷をされたといわれ、この所から亀を呼ぶとその亀が浮かび上がってきたといわれています。  
弘法大師の爪書き石  
この岩肌には大師が爪で「南無阿弥陀仏」と六字の名号を彫っています。  
地獄の穴  
この穴に銭を落とすとチリンチリンと音がして落ちていく。その穴は金剛福寺の本堂のすぐ下まで通じているといわれます。  
竜の駒と根笹  
竜の駒(まぼろしの駒)が来て、この地に生えている根笹を食べる。そのためか、この地の笹はこれ以上大きくならないと言われています。 
 
■九州
福岡県

 

●薬王寺温泉 (福岡県古賀市) / 弘法大師の薬湯があったという伝説が古くから存在した。  
●竈門神社 (福岡県太宰府市) / 平安時代には唐に留学する最澄や円仁が渡航の安全を祈り、空海等にも縁のある信仰の山である。  
●観世音寺 / 福岡県太宰府市観世音寺  
弘法大師 大同元年(806) 滞在  
かつては三戒壇院の一つが置かれ、九州寺院の中心だった観世音寺は、天智天皇が亡くなった母・斉明天皇の冥福を祈るために発願し、天平18年(746)に落慶した。 大同元年(806)に唐から九州・大宰府に帰り着いた空海だが、高階遠成や橘逸勢らと違い、朝廷から帰京の許しが出なかった。その間、滞在したのがこの寺といわれている。直筆の寺号額がある。  
●南岳山 東長寺 / 福岡県福岡市博多区御供所町  
弘法大師 大同元年(806) 創建  
本尊は弘法大師(空海)、大同元年(806)唐から帰国した弘法大師が建立 寺の中には、福岡大仏、六角堂、五重塔、などがある。  
真言宗九州教団の本山で、山号は南岳山。本尊は弘法大師(空海)。寺伝では大同元年(806)、唐から帰国した弘法大師が、密教東漸を祈ったと伝えられている。弘法大師創建の寺としては日本最古で、当初は海辺の地にあったが、福岡藩二代藩主・黒田忠之によって現在地へと移った。墓地には二代・忠之、三代・光之、八代・治高の墓がある黒田家の菩提寺となり、300石の寺領と山林15万坪の寄進がなされた。現在は市指定の史跡にもなっている。  
寺蔵の千手観音菩薩は平安時代の作で、槙材一木に彫られている。高さ87cmの小像であるにもかかわらず、重量感に満ちた仏像で、明治時代に国宝の指定を受けている。 
東長寺2 
唐から帰国した空海が、一軒の船宿に仏像や経本・仏具などを納めて寺としたのが起源とされている。そして密教が長く東に伝わるようにと祈願して「東長密寺」と名付けたともいわれる。 本堂には自作と伝えられる大師像や、不動明王像があり、正御影供の時にのみ開帳される。福岡市の指定文化財である六角堂には六体の仏像が安置され、毎月28日の不動護摩供のときにのみ開扉される。
東長寺3 
弘法大師:空海が建立した最古のお寺として知られる真言宗「東長寺」。こちらの寺院は、大同元年(806)に唐から帰国した空海が、密教が東に長く伝わるよう祈願して建てられたもの。境内には織田信長が本能寺の居間にかけていたとされる弘法大師筆千字文など貴重な資料が保管され、大仏堂には日本最大(木造)の「福岡大仏」が鎮座するなど、見所満載となっています!  
●屏風山 鎮国寺 / 福岡県宗像市吉田  
弘法大師 大同元年(806) 建立  
鎮国寺は宗像大社の神宮寺であったといわれるが、伝えるところでは大同元年(806)、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺であるとされ、後には嵯峨天皇の勅願寺となり、黒田藩主をはじめ、九州全域から広く崇敬を集めてきたといわれる。  
山門手前の丘にある「阿弥陀如来坐像板碑」は日本最古の紀年銘をもち、県の文化財に指定されている。また、奥の院には弘法大師練行の洞窟が遺り、岩窟内には、弘長3年(1263)の記銘のある「線刻釈迦如来石仏」も祀られている。  
広い境内には、本堂(五仏堂)や護摩堂、客殿、修行道場、庫裏などの伽藍が整然と並び、真言宗御室派別格本山の風格を漂わせるが、護摩堂には、大師作と伝わる木造不動明王が祀られ、身代わり不動として崇敬を集める。これは、国指定重文の秘仏で、柴灯護摩の厳修される四月二十八日だけ御開帳される。  
本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来と、札所本尊である如意輪観音の五尊像が安置され、そのいずれもが県指定文化財である。 
鎮国寺2 
遣唐使船で中国に渡った空海(弘法大師)は密教を学び帰国して、まず宗像大社に参拝しました。  
そのとき、屏風山に五色の雲たなびくを見て山中の洞窟(現、奥の院)を発見し、そこに籠(こも)って 修行の日々をすごされました。そして鎮護国家の根本道場として建立されたのが鎮国寺であり、真言宗最初の寺院なのです。大同元年(806)創建。  
御摩堂には弘法大師作と伝えられ霊験あらたな「身代わり不動」と呼ばれる不動明王立像 (重要文化財)が安置されており、毎年4月28日の紫灯大護摩供(さいとうだいごまく)の日に御開帳されます。下に御開帳された時の「身代わり不動」の写真がありますのでご覧ください。  
それと本堂にも5体の仏像が安置されており、中央の三体(大日如来、釈迦如来、薬師如来)は弘法大師作作と伝えられています。  
正月頃に開花する早咲きの梅、早春の椿、春の桜は染井吉野から御所桜まで4月いっぱい 咲きみだれ、つつじ、ユリ、蓮の花、晩秋の紅葉と年中美しい自然を楽しませてくれる所です。
鎮国寺3 
弘法大師(空海)は、第16次遣唐使船で入唐の砌(みぎり)、大暴風雨に遭遇されました。この時危難を救わんが為、海の守護神宗像大神をはじめ諸仏菩薩に祈誓を込められたところ、波間に不動明王が示現されました。右手に持たれる般若の利剣で波を左右に振り払われると、荒れ狂う風波は瞬く間に静まり、無事唐土に着くことが出来たのです。  
首都長安(西安)において、青龍寺の恵果阿闍梨から真言の秘法を授かり、大同元年(806)に帰朝された弘法大師は、まず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲が棚引くのを観られ、奥の院岩窟において修法を始められたところ、「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し、屏風山鎮国寺と号されました。  
「真言秘密の大法を伝え得たるは、危難をお救い下さった不動明王のお蔭に他ならず」と謹刻し祀られたのが、現在護摩堂に安置されている不動明王立像です。  
また、宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められました。  
本堂は慶安3年(1650)藩主黒田忠之公により再建されました。建立当時は瓦葺きでしたが、のち茅葺きに変わり、昭和54年の解体修理のときに銅板葺きとなりました。 
●若杉奥之院 / 福岡県糟屋郡篠栗町若杉  
弘法大師 独鈷水  
篠栗霊場をお参りするほとんどの人が必ず訪れるという若杉奥之院。ここではその昔お大師さまが独鈷で岩を掘った時に出たとされる「独鈷水(とっこすい)」が湧き、御霊水として持ち帰る人が多い。この水はもちろん飲用もでき、中には病気が治ったとの喜びの声もある。また、寺院に隣接した「はさみ岩」は、善人にしか通れないという言い伝えがあり、中国の僧がここを訪れた際に念力で岩を割ったという逸話も。 
 
佐賀県

 

●熊の川温泉 (佐賀県佐賀市) / 弘法大師が水鳥を見て発見したとされる。  
●稲佐神社 (佐賀県杵島郡白石町) / 平安時代に入り、空海により稲佐泰平寺が開かれ、その鎮守神として稲佐大明神が位置づけられ、真言寺十六坊と呼ばれる一大霊所となった。  
●山谷大堤 (佐賀県西松浦郡有田町) / 山谷大堤は山谷切口にあり、国見山の中腹に位置し、湖畔に建っている多くの石碑に明確に歴史が刻まれており当時の山谷村の人々が力を合わせて造り上げたことが記されており、「善女龍王」という文字が刻まれている、「善女龍王」というのは雨の神、竜神の化身で神泉苑に残る空海の法力比べ伝説に由来があるといわれている。  
●鵜殿窟磨崖仏 / 佐賀県唐津市相知町相知和田     
弘法大師 大同元年(806) 阿弥陀・薬師・観音の三像を刻む  
大きな丘の頂上近くに切り立つ岩壁を穿った石窟に不動明王像など多くの像を半肉彫りする。石窟は現在著しく崩れ、かって窟内にあった磨崖仏はほとんど露出している。現在58体が遺存する。歯を食いしばる形相は怪奇的で、地方色濃厚な磨崖仏である。  
鵜殿窟は、大同元年(806)、唐から帰った空海(弘法大師)によって阿弥陀・薬師・観音の三像が大洞窟にに刻まれたことに始まると伝えられている。天長年間には鵜殿山平等寺が建立され真言密教の寺院として栄え、その後、天文の戦火にあい、衰滅していったという。  
石窟の中心には十一面観音と不動明王、持国天・多聞天を彫る。その中でも、持国天と十一面観音は保存状態も良く、赤や茶、肌色の彩色が遺る。(十一面観音の彩色は後の補作か?)全体的に土俗的な怪奇さが漂う彫刻で、何となく、チベット仏教の仏像に印象が似ている。  
十一面観音や不動明王、持国天がある石窟の向かって左には如来座像を彫った小龕か続き、その左に不動三尊を彫る。そのうち、セイタカ童子は、エジプト絵画のように肩は正面を向き顔は横顔になっていて、手には蛇を握り、オリエント風で、印象的な彫刻である。  
鵜殿窟の諸像は豊後の石仏のような写実性を欠き、姿態・手足はアンバランスで、彫刻の技術自体は低いと思われる。しかし、下手ではあるが、宗教的な情熱が感じられる石仏群である。制作年代は、鎌倉時代末期から室町期と思われる。
鵜殿窟磨崖仏2  
鵜殿窟の由来  
ここらあたり一帯を『鵜殿窟』と言いますが、言葉の起こりは『うど』は『うどから』の『うど』で『の』は助詞『いわや』は『岩の家』という意味で『洞窟』というわけです。今から数十万年前の大古の時代は、海底でした。地殻の変動で海水が減退するにつれて、打ち寄せる波のため。大きな洞窟ができました。その、洞窟の一番奥に刻み込まれている仏様が、今見ることができる仏様です。今は青天井になっていますが、もとは大きな洞窟で、その中には『平等寺』というお寺が建っていました。  
その寺が天正年間に、佐賀の竜造寺と、植松浦党主波多氏との戦いのときに焼けたので、天井の岩石が落下して、今では全くその面影がなくなっています。  
最初に石仏の彫ったのは・・・  
鵜殿石仏群が最初に空海によって彫られたと言われています。この話しは、豊臣秀吉時代の文禄3年(1594)に書かれた『鵜殿山平等寺略縁起(うどのさんびょうじりゃくえんじ)』という古文書に初めて出てきます。しかし、現在確認されている石仏の中には、空海時代の平安時代(9世紀)のもの、さらには空海が彫ったとされる釈迦如来・阿弥陀如来・観音菩薩の3体の仏様は存在しません。  
空海は、大同元年(806)に唐での仏像修行を終え、遣唐使と一緒に博多に着岸しました。そして、翌年の大同じ2年(806)に京都に戻りますが、その間の約1年間の北部九州滞在時代の空海の行方については『性霊集(しょうりょうしゅう)』や『御遺告(ごゆいごう)』、『御広伝(ごこうでん)』などの空海関係の古文書にも書かれていません。しかし、その間空海が北部九州にいたことは、これらの古文書に記載されているので間違いはありません。 あるいは、空海は、この鵜殿山に来て仏像を彫ったのかもしれませんが、このあたりが歴史の推理的な面白さが残るところで、空海時代の石仏が発見されれば、空海伝説の信憑性が出てくるかもしれません。  
鵜殿山について・・・  
鵜殿山は仏教の修行場の1つで、当時は山岳仏教(密教)といわれるものを、山々の奥で修行していました。では、鵜殿山の修行には一体どのような意味があるのか・・・  
鵜殿山は、一種の「極楽浄土」や死後の「仏の世界」に例えられていて、ここで修行した人々は、様々な仏教修行に励んでいました。そして、修行が達成されたら仏教世界の最高神である「大日如来」(南北朝時代か室町時代の作か不明)が見守る入口から入り、仏教用語でいう「胎蔵界(たいぞうかい。ものや人を生み出す世界とされ、死後の世界とこの世を結ぶ道。ここでは、胎内くぐりといわれている)」と呼ばれる千体仏の仏たちが彫られていた洞窟をくぐり、再びこの世に戻ってくると考えられていました。  
こうした一連の修行は「擬死再生(ぎしさいせい。一時的に死んで仏の世界に行き、仏たちの見守る中で修行し、修行が達成されたら、頬脳や様々な悪い業(ごう)から開放され、胎蔵界をくぐって再び戻ってくること)」といわれ、多くの石仏や「胎蔵界」を備えたこうした山岳仏教の修行場は、和歌山県の熊野山などが有名ですが、この鵜殿山のように60体あまりの仏が現存する修行場は珍しいといえます。 
●高野寺 / 佐賀県武雄市北方町高野  
弘法大師 創建  
高野寺は千二百年余り前、弘法大使空海によって開かれた古刹です。鎌倉時代の古文書には『いかなる罪人も高野寺の境内に走り候えばその罪も免じる』とあります。山門をくぐれば、慈悲深い仏の懐にも似た深く静かな佇まい。『九州八十八ヶ所霊場』や『肥前の国七福神』の毘沙門天霊場として、子授け、安産祈願やボケ封じの祈願の道場として知られています。また高野寺は、癪投げ寺とも呼ばれ、かんしゃく玉の癪を病の種と解し、悩みや苦しみの種を投げ捨てる「ストレス解消の寺」であることから、本尊は別称、『癪投げ観音』と呼ばれております。 
●竜門峡 / 佐賀県西松浦郡有田町広瀬山  
弘法大師 伝説  
黒髪山 / 天にそびえる巨岩、奇岩と照葉樹の森が広がる黒髪山。神秘的な山水画の世界を彷彿とさせるその山は、鎮西八郎為朝の黒髪山の大蛇退治伝説や、弘法大師が修行を積んだ地と伝えられています。また、桜の名所としても親しまれている乳待坊公園は、黒髪山一番の景勝地。谷を挟んで向き合う雌岩雄岩の夫婦岩の雄大な景観が大迫力で目の前に迫ってきます。  
黒髪山の伝説 / 山の名の由来は、昔天竺(インド)の仏が諸国の神人に生まれ変わってこの山に飛来して仏法を広めたが、その時鬚(シュ)髪をこの山に納めたので黒髪という説、神話の中にイザナミノミコトがあの世から逃げるとき、投げた御鬘(カツラ)がこの山に止まったから黒髪山と名づけたという説などがあり、鎮西八郎為朝大蛇退治の説もあります。  
黒髪権現 / この山は神秘的な雰囲気があって、昔から山岳信仰地でした。鎌倉期(今から780年前)修験道場でしたので、乳待坊・勝学坊・里坊などの坊跡も多く、龍門洞や白山洞など当時を偲ぶ洞窟群がたくさんあります。頂上の天童岩のすぐ下に、黒髪神社の上宮があり、旱魃の時に雨乞い祈願をする場所として霊験あらたかであることで有名です。さまざまな歴史の変わり目で神佛混淆となって、権現と呼ばれるようになったといわれています。 
●いろは島 / 唐津市肥前町  
弘法大師 名付  
いろは島は玄海国定公園の一角を占める伊万里湾に浮かぶ、大小48ほどの島々の総称です。いろは48文字にちなんで、空海(弘法大師)が名付けたといわれ、青い海とその中に浮かぶ緑の島々の美しさには、さすがの弘法大師も筆を投げたと伝えられています。
いろは島2  
大小の島々が点在する佐賀県北部海岸(玄海国定公園)の景観は、かつて弘法大師がその美しさに筆を投げたと伝えられるほどの絶景ですが、その景観を背景にした浜野浦の棚田や大浦の棚田のまたすばらしいこと。長崎県福島町土谷の棚田同様、日本の棚田百選の中でも指折りの棚田です。5月に入って、あちこちで田植えが始まったばかりというのに、これらの棚田ではすでに農家の方々が一斉に田植えを終えていて、お蔭で素晴らしい棚田の風景を目にすることができます。農家の方々の並々ならぬご努力に感謝です。夕陽が沈む光景や漁火舟が行き交う光景が素晴らしいことで知られている棚田ですが、生憎天候に恵まれず今回は遭遇できませんでした。 
●弘法大使宝塔 / 佐賀県武雄市 
●良源寺(高野岳) / 佐賀市富士町大字関屋  
弘法大師 弘仁12年(821) 行脚  
由緒 / 「人皇五十二代嵯峨天皇之御宇弘仁十二年辛丑之秋大師行脚之際於当山鎮心持戒之折天女出現有八葉九尊之相曼茶羅石与大師仍大師於該秘石上修浄法臨発自身刻石像為法城鎮護遣給石像之礎石者共時与天女祕石也云云然矣」この古文は、奥之院高祖弘法大師の尊像(石仏坐像高さ1m余)の右下石面に遺され、今では風化して数十字が判読されるのみである。そもそも当山は神仏混合に依り、同一境内の白山大権現修験道即ち天台に属して第36代を経て明治の初期に至る。其の間第34代の玉泉坊、災火に合い、一切を全焼して古文書類の他何物をも残さず。大正の始め、真子弥三郎という行者の後を受けて、生国四国の浦川良源氏入山して寺堂を建立良源寺と号した。時に昭和38年6月30日当地区を急襲した集中豪雨は当寺の建造物家財一切を濁流にのまれるという災害を与えた。しかし昭和40年春、遠近信徒の懇念によって本堂、庫裡再建、全く大師遺徳の然らしむるところという外はない。
良源寺2  
良源寺は標高585.5mの権現山の北側の中腹に伽藍を構えている。 その山頂近くには白山神社が鎮座しているという。 麓の参道口にはかなり古い肥前鳥居がある。本堂脇には「弘法の水」と題された清水がある。 本堂より少し坂を登ったところには円形の広場があり中央に祭壇、広場の周囲は100体を越えるであろう石仏が取り囲んでいる。 壮観である。 お滝場もその脇にある。山門脇には嘉瀬川ダム建設で水没した所にあったという3基の古い道標が置いてあった。お滝場の脇には「高野岳奥の院弘法大師尊像・白山神社」への道標があり、道がある。 
●稲佐神社と泰平寺 / 佐賀県杵島郡白石町  
弘法大師 開山  
稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3(861)年8月24日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。  
平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。  
この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。  
『肥前古跡縁起』(江戸期)の稲佐太(泰)平寺の項に「流鏑馬祓様々にして神慮を冷め奉る…」とあるように、鎌倉時代には、武芸をともなう祭礼が盛んに行われるようになりました。今も毎年10月19日の供日には「流鏑馬(うまかけ)」が行われています。秋の祭りの楽しみのひとつです。  
現在では、稲佐神社と十六坊のうち、座主坊・観音院・玉泉坊の三つを残す以外はなくなってしまいました。自然石が丁寧に積まれた参道は往事の面影をしのばせてくれます。また、稲佐神社山門から望む有明海の眺望はすばらしいものです。  
《 案 内 》古代に創建。六国史の一つ『日本三大実録』に記録を残す。境内の楠二株は県天然記念物。自然石の長い参道は趣がある。
稲佐神社2 (いなさじんじゃ)  
杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3(861)年8月24日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。  
平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。  
この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。  
ここには県道錦江〜大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。  
これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。  
百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。  
佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)からとして …百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。…と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。  
本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、手間がかかりそうです。  
少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。  
この神社は、誰が祀られているかがあまり明らかにされていません。朝鮮渡来を憚っての事かも知れません。ただ、白石町に合併された旧有明町の人々の尊崇を一身に集める神社であり、その結束力は揺ぎ無いものがもののようです。以前、宮司に直接お話をお聴きしたことがありましたが、宮司家なるものはなく地元の校長先生が代々交代で宮司を行っているといった話をお聞きしました。  
古くは旧錦江村があり、錦江が百済の王都があった土地の名だけに考えさせられるものがあります。 
熊の川温泉 / 佐賀県佐賀県佐賀市富士町大字上熊川  
弘法大師 821年 開湯  
開湯は821年。弘法大師・空海が全国行脚の途中に立ち寄り、傷ついた水鳥の水浴びを見て発見したと伝わる温泉。
 
大分県

 

●椿堂 遍照院 / 大分県豊後高田市  
弘法大師 大同2年(807) 巡錫  
椿大師ご霊水 / 弘法大師(空海)が、約1200年前、宇佐神宮よりこの地に巡錫され本堂裏(奥の院)の岩窟にて椿の錫杖で湧き出されたご霊水は、今もご霊験あらたかな椿大師ご霊水として、ご利益を受けられています。  
椿堂の縁起 / 当山は、九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所、椿観音「善通寺椿大堂」と、弘法大師ご修行の霊窟(椿大師発祥の岩窟)のある第四十九番札所、椿大師「椿堂」が、一つの境内の中にあり弘法大師ゆかりの名刹、西の高野山と古来より称せられ、ご霊験あらたかな椿の観音さま、椿のお大師さまと、全国各地より参詣して香煙の絶え間がない。  
椿大師縁起に、「大同二年(807)に空海(後の弘法大師)が、遣唐使として唐国に渡り、恵果大阿闍利より密教を授かり帰国、約二年間九州に滞在なされ、その間に宇佐神宮(宇佐八幡大菩薩)さまに勉学の御礼参りをされた後、故郷お四国を眺める為に宇佐神宮より当山椿堂に巡錫し、持した椿の錫杖で奥の院のご霊水を、湧き出されたことから、椿大師「椿堂」といわれ、弘法大師巡錫後一千二百年の歴史とともに、国東半島の宗教文化財、庶民信仰の殿堂として参拝者の、家内安全、病気全快、交通安全、厄除開運、諸願成就、ご先祖・水子供養等を毎日奉修、祈願供養の根本道場である、椿堂「遍照院」(椿観音、椿大師の総称)の不思議なご利益は枚挙するにいとまない。 
●椿堂 遍照院 / 大分県豊後高田市黒土  
弘法大師 大同2年(807) 修行  
当山は、九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所、椿観音「善通寺椿大堂」と、弘法大師ご修行の霊窟(椿大師発祥の岩窟)のある第四十九番札所、椿大師「椿堂」が、一つの境内の中にあり弘法大師ゆかりの名刹、西の高野山と古来より称せられ、ご霊験あらたかな椿の観音さま、椿のお大師さまと、全国各地より参詣して香煙の絶え間がない。  
椿大師縁起に、「大同二年(807)に空海(後の弘法大師)が、遣唐使として唐国に渡り、恵果大阿闍利より密教を授かり帰国、約二年間九州に滞在なされ、その間に宇佐神宮(宇佐八幡大菩薩)さまに勉学の御礼参りをされた後、故郷お四国を眺める為に宇佐神宮より当山椿堂に巡錫し、持した椿の錫杖で奥の院のご霊水を、湧き出されたことから、椿大師「椿堂」といわれ、弘法大師巡錫後一千二百年の歴史とともに、国東半島の宗教文化財、庶民信仰の殿堂として参拝者の、家内安全、病気全快、交通安全、厄除開運、諸願成就、ご先祖・水子供養等を毎日奉修、祈願供養の根本道場である、椿堂「遍照院」(椿観音、椿大師の総称)の不思議なご利益は枚挙するにいとまない。  
椿大師ご霊水 / 弘法大師(空海)が、約1200年前、宇佐神宮よりこの地に巡錫され本堂裏(奥の院)の岩窟にて椿の錫杖で湧き出されたご霊水は、今もご霊験あらたかな椿大師ご霊水として、ご利益を受けられています。このご霊水は、平成11年5月20日木曜日 大分合同新聞(朝刊)、平成16年11月27日TBS世界ふしぎ発見!「空海 天才の秘密に迫る」で紹介された、誠にありがたいご霊水です。 
 
長崎県

 

●平戸八景 (長崎県佐世保市) / 行基伝説が伝わる石橋と同様に、眼鏡岩は遣唐使派遣の際に立ち寄った空海が千手観音と梵字を記念に刻んだ伝説が伝わっている。  
●福石観音 (長崎県佐世保市) / 本堂の裏、福石山の北側には弘法大師が羅漢像を安置したと伝えられる羅漢窟がある(なお、弘法大師が佐世保の地を訪れた確証はない)。 
●太良嶽山 金泉寺 / 長崎県諫早市  
弘法大師 大同3年(808-809) 創建  
「太良嶽縁起」書の冒頭に次のような事が書いてある。簡単に要約すると「肥之前の洲太良嶽三社大権現は、中インドのマガタ国王である。和銅年間(708-714)僧行基がこの地に来て阿弥陀如来・釈迦如来・観世音菩薩の三尊像を刻み大権現の本地とし、神祠を建て崇め祀る。」と以下略。以後 多良岳は山岳仏教の聖地として、山麓住民はもちろん北九州一円の人々に大変崇敬されていた。  
その後百年、延暦23年(804)空海(弘法大師)が遣唐使として唐に渡り、大同元年(806)帰国した。しかし上洛が許されず3年ほど筑前大宰府の観世音寺に身を寄せていた。この間に多良岳の聖地を訪ね行基ゆかりの山と知り、金泉寺を建立したのではないかと推測される。空海がこの大宰府滞在中に建立したとすれば大同3年(808-809)の創建となる。平安時代の初めである。  
●岩屋権現 / 長崎県東彼杵郡川棚町岩屋郷  
弘法大師 創祀  
岩屋権現杉木立の中を登る199段の石段は、鬼が一夜で築いたという伝説も。弘法大師の創祀になる岩屋権現は、長く修験道場として信仰を集めてきました。拝殿と神殿を結ぶ岩穴は耳の穴と呼ばれ、親不孝は尻がつかえて通り抜けられないと言い伝えられています。 
●太良嶽山金泉寺 / 長崎県諫早市高来町善住寺  
弘法大師 (806〜807) 創建  
多良山系は佐賀県と長崎県の県境にあり、南の雲仙岳より早い時期から長期にわたる火山活動でできた山地のため、 植物の種類がが多く、植物の宝庫といわれています。代表的なものとして、マンサク、ツクシシャクナゲ、オオキツネノカミソリ、センダイソウなどが見られます。また緑のダムとして両県の水資源に大切な役割を果たしています。  
この山系の最高峰である経ヶ岳(1,076m)は、佐賀県内の山としては背振山(1055m)、天山(1046m)を抜いて一番高く急峻な山で、 多良山系の主峰の貫禄を示しています。修行僧が経本を山頂に納めたことから、この名がついたと伝えられています。 頂上は狭いが低い潅木に覆われており、佐賀県から長崎県にいたる360度の景色が楽しめます。また頂上直下の南壁はロッククライミングの岩場として有名です。  
その南東にある多良岳(983m)は、僧行基が多良嶽三社大権現を開創したといわれ、弘法大師が神宮寺として創建した金泉寺があります。多良岳が古くから信仰の山として親しまれていた関係で、標高は低いがこの山系がこの名前で呼ばれるようになったものです。現在は、山頂に多良嶽神社上宮が、麓の太良町には多良嶽神社が祭られています。  
最南部にある五家原岳(1,058m)は多良山系では2番目に高く、諫早湾の向こうに雲仙岳を、そして有明海を越えて遠くに九州山地の山々を眺ることができます。北側の急斜面から多良岳に向かう山道には、コミネカエデ、ヤマボウシ、ベニドウダン、マンサクなどの広葉樹があり、ツクシシャクナゲの群落もあります。  
1999(平成11)年3月16日に岩屋越しの下に平谷黒木トンネル(総延長1889m:佐賀県側1160m,長崎県側729m)が開通して国道444号線が完成し、佐賀県鹿島市と長崎県大村市が最短距離で結ばれました。  
この山系は一峰登山、縦走登山、ロッククライミングなど色々な山行きが楽しめます。 大村市側からの登山口、黒木にはキャンプ場、民宿がととのっています。  
また、平谷黒木トンネルの鹿島市側入り口近くには平谷温泉があります。  
多良嶽神社と太良嶽山金泉寺  
709(和銅2)年、僧行基が釈迦、弥陀、観音を祀り多良嶽三社大権現を開創したと伝えられています。  
平安時代初期に弘法大師(空海)(774〜835)が修行し、自ら不動明王を刻んで本尊として金泉寺を創建し、多良嶽神社の神宮寺としました。  
ルイス・デ・アルメイダから洗礼を受けた領主大村純忠の庇護を受けた大村キリシタンによって、 1574(天正2)年(注1)に焼き討ちにあい神殿、仏殿などをことごとく焼失しました。 舜恵法印は本尊を背負って麓の高木町神津倉に逃れ、真言宗金泉寺別院(後の医王寺→)を建てて移しました。 禁教令が徹底し、キリシタンの勢力が衰えた1663(寛文3)年、覧海法印によって金泉寺が再興されました。  
真言密教の霊山として栄え30余りの僧坊を抱えていましたが、1868(慶応4)年の神仏分離令を経て明治時代以降、 次第に衰退しました。 1951(昭和26)年に庫裏が台風で倒れ、その後に長崎県営の山小屋が建てられました。本堂も朽ちて倒壊寸前になったので、1967(昭和42)年に建て直されました。  
多良嶽神社上宮は大山祇神を祀ってあり、かつては木造銅板葺でしたが暴風雨で倒れたため、1922(大正11)年に石祠に立て替えられました。  
(注1)天正弐甲戌年領内耶蘇徒蜂起焼滅神社仏閣且殺害居住之僧徒比時本宮太羅嶽里坊仙乗院下宮富松宮亦罹其災悉為焦土・・・。  
和銅寺縁起、多良嶽縁起では、天正11癸未年。  
役の行者(えんのぎょうじゃ)座像  
多良嶽神社の石鳥居の側にある、白髭に下駄を履いた石像。修験道の祖といわれ、奈良時代の初期(7〜8世紀)大和国葛城山で修行して、吉野の金峯山(きんぶせん)をなどを開いたとされ、また道を開き、堤を造り、橋を架けながら山岳仏教を布教したといわれています。役小角(えんのおづの、えんのしょうかく)ともいわれます。  
像の前には行者が一本足の下駄をはいて諸国を巡ったという足腰の強さにあやかり、腰痛、関節炎、神経痛の平癒祈願をし、願成就のお礼に下駄をお供えしてあります。石像は江戸時代中期の名石仏師といわれた小城市牛津町砥川谷の平川与四右衛門が正徳2(1712)年に彫ったもの。  
太良嶽山金泉寺の由来  
金泉寺は、空海(弘法大師)が平安時代の初め頃(806〜807)行基菩薩の遺跡を訪ね、ここに錫を留め山頂よりやや下った西側の清水のこんこんと湧き出る所に、身の丈四尺余の不動明王と二童子立像を刻んで本尊として建立した寺である。  
太良嶽大権現の神宮寺として肥洲の真言宗道場として多くの信徒に崇められて来た。即ち祈祷仏教として名高く「国家安泰、五穀豊穣、航海安全、神仏混交の名刹」として遠近の崇敬の聖地として栄え最盛期には30余の宿坊を数えたと言う。  
しかし、1200年余法灯を保っては来たが、その間には有為転変数々の歴史を刻んでいる。大村郷村記に「太良嶽大権現は、大村家鎮護の宗廟として崇められ神宮寺を「太良嶽山金泉寺」と号した。後に大村純伊(1459-1537)は池田の里の富松宮の傍らに坊舎を建立し富松山仙乗院と号し金泉寺の里坊とした。また太良嶽大権現の分霊を遷し奉り富松社を下宮とした。」とある。  
天正2年(1574)キリスト教徒の焼き討ちに遭い金泉寺とともにその被害を蒙った。  
太良嶽縁起には次のように記してある。「天正11年(1583)キリシタン教徒の焼き討ちに遭い舜恵法印は本尊を護って岩穴に留まっていたが3年後湯江神津倉に草庵を建て聖躯を安置した。今の別院医王寺である。  
その後78年寛文3年(1663)諫早第4代領主茂真の保護を得て、中興の祖と言われる賢海法印によって金泉寺は再建された。領主は30余石の扶持米を供進し、農民の加護と武家の守護を祈願した。金泉寺室町時代は大村氏が保護し、キリシタン焼き討ち後は諫早家が保護して来たようである。  
江戸時代には特に多良岳信仰が盛んになっている。 
●入唐山 開元寺 / 長崎県平戸市大久保町田ノ浦  
弘法大師 延暦23年(804) 顕彰碑  
弘法大師空海は、密教の奥義を学ぶため、唐(中国)に渡ることを目指した。そして、延暦二十三年(804)三十一歳の時、留学生として第十六回遣唐使船で難波を出航。その時の大使は藤原葛野麻呂。伝教大師最澄や義心、橘逸勢なども、同じく入唐して いる。瀬戸内の各所に立ち寄りながら九州に至り、最後に日本を離れたのが、田ノ浦である。寺号の由来は、嵐など苦労の末、弘法大師が十二月の終わりに唐に上陸後、一ヵ月の間とどまった福州の寺院が開元寺で、近年にその寺号を称したものである。入唐山開元寺というが、お寺であるわけではなく、顕彰碑と法要殿があり、顕彰碑には『弘法大師唐渡解纜之地』と刻まれている。石碑には、石造の厨子のなかに、弘法大師の石仏が安置されている。また、法要殿においては五月に『田ノ浦法要』が勤修される。弘法大師の時代と同じ風景を見、大師の心の内を垣間見ることのできる霊場である。 
●円福寺 / 長崎県長崎市香焼町  
弘法大師 修行  
弘法大師空海が修行したとされる場所。弘法大師(空海)が修行した場所で知られる円福寺は、町のほぼ中央に位置し、香焼行政センター横の約400段の石段を登り詰めたところにあります。平安時代の始め頃、唐(中国)からの帰途中に香焼島に立ち寄り、香を焚いて護摩密法を修したとされる岩壁の窪みには、今でもお香の煙の跡が残っており、西の高野山と呼ばれています。 
●滝の観音の滝 [長滝山霊源院内] / 長崎市平間町  
弘法大師 延暦25年(806) ゆかりの地  
市街地から矢上方面へ行く途中、川平へと抜ける道沿いにある「滝の観音」。長崎県名勝文化財第一号に指定されているこの霊場は弘法大師ゆかりの地。延暦25年(806)、唐の留学を終えた弘法大師がこの地に立ち寄った際にこの滝水をご覧になり「大悲示現の霊地なり」と、「行」を行われ水観音の梵字を懸崖に記されたと伝えられていている日本最古の霊場なのだ。  
入口の石造りの第一峰門を過ぎると、木々に覆われた参道が広がる。そこで、あっ!と驚くのが、伏樹門(ふしぎもん)と呼ばれる厳檀の古木の門。この古木は樹齢不明。どちらが根かわからず、それで不思議門ともいわれているのだという。さて、今回目指すは“滝”。近く再建された山門をくぐり苔むした庭園を過ぎると正面に本堂が見えてくる。  
本堂右脇の通路を進むと、木々の合間に流れ落ちる一条の滝があった。高さは約30m。今も弘法大師が刻んだ水観音の梵字は、滝中央の水苔深いところにその跡が残されているのだという。隆起した岩盤を勢いよく流れ落ちる姿はなかなか見応えあるものだが、何より周辺の景観と合わせ見ることでいろんな表情を見せてくれるところが素晴らしい。この滝に名前がないというのも不思議だが、人里にあって固有の名称を持たないのは国内ではこの滝だけだそうだ。  
滝の観音はその名で古くから親しまれているが、正式には長瀧山霊源院という禅宗の一派である黄檗宗の寺院。それ以前には真言系の寺院があったといういい伝えもあるが詳しくは不明で、寛文7年(1667)、唐商・許登授が観音堂を建立、中国伝来の魚藍観音像を本尊として納めて以来、初めて日本に黄檗宗を隠元禅師が伝えた興福寺や、崇福寺、福済寺、聖福寺と共に、日本における黄檗宗発祥の地である長崎に残された貴重な寺院なのだ。  
滝の観音の美しい景観に一役買っているのは、やはり許登授が元禄年間に献納した羅漢橋と普済橋。特に羅漢橋背後から見る滝の眺めがおすすめだ。 
●福石観音清岩寺 / 長崎県佐世保市福石町  
弘法大師 大同の頃(805) 来錫  
福石山清岩寺・福石観音 真言宗智山派 元明天皇の和銅三年(西暦710)名僧行基(ぎょうき)が諸国行脚の途中、福石山の霊境を訪ねて嘆賞し、しばしの間草庵を結んだと伝わっております。この時たまたま東乃浦の海に霊光を放つ仏木を発見して、これで三体の仏像を刻んだとのことです。  
世に言う、行基一刀三霊の作で、その中の「十一面観世音菩薩像」をここの岩窟に安置しました。これが福石観音の始まりで、ご本尊を安置してある内殿を、行基岩と呼んでおります。  
延暦、大同のころ(805)、弘法大師(空海)が行基菩薩行脚の跡を慕って来錫し、諸人救済の為御堂の傍らに清岩寺(せいがんじ)を建て、福石山の裏手にある岩窟に五百羅漢(ごひゃくらかん)を安置しました。  
以来、九州七観音のひとつに数えられ、諸人信仰の霊地と仰がれて色々な仏跡を残し、また旧平戸藩時代には平戸八景のひとつに、大日本帝国海軍の軍港になってからは佐世保名所の随一にあげられて、さまざまな歴史の跡が刻まれました。 
●黒髪山大智院 / 長崎県佐世保市戸尾町  
弘法大師 大同元年(806) 起源  
弘法大師空海上人が若かりし日、留学僧として渡唐の途中、留学の目的達成を(現在の武雄市山内町の)黒髪山大権現に立願され、松浦郡田ノ浦の港から出航、唐の国長安(現在の西安)において青龍寺恵果和尚より真言密教を伝えられ、(大同元年)帰国の後、博多に留まられていた際に、満願成就を奉告に再度黒髪山にご登嶺され、自ら爪で不動像を刻し、弟子快護に託して山上に庵を作らせたのが寺の起源と伝わる。  
 
熊本県

 

●大師のコウヤマキ / 熊本県球磨郡多良木町下槻木  
弘法大師 伝説  
みごとな自然が残る槻木(つきぎ)  
熊本県の南東側に位置する、ひょうたん型の多良木町。その広い町の中で、最南東の山奥に槻木という地域があります。多良木町の中心街からは、久米方面に車を走らせ、槻木峠を越えて行きます。バスの定期便はありません。自家用車で約40分の道のりを行くことになります。所々離合しにくい場所がありますが、周囲の山々(黒原山、花立山)の四季の景色を楽しみながらドライブできます。  
お大師(だいし)さんってよく聞くね!  
よく「お大師様」と聞きますが、弘法(こうぼう)大師のことをいいます。弘法大師は、お坊さんで、お寺を作るために九州各地を回ったという説があるようです。槻木のお大師様は40番目にあたるそうです。下槻木では、「お大師さん祭り」という祭りがあります。昔(戦前)は、太鼓踊りがあっていました。旧暦3月21日と8月21日に行われます。大師堂には、町の重要文化財の能面がまつられています。(この能面は年に1回しか見ることができないそうです。)  
大師堂と共に生きたコウヤマキ  
朝もやの中、静かな山奥にまっすぐにそびえ立つコウヤマキ。槻木大師堂の境内にあり、樹齢は600年くらいと言われています。幹の周りは約4m、木の高さは31.5mにもなります。根元には、ぽっこりと大きな空洞があったり、その横の切り株から別の木がはえたりしているのをみると、自然のゆったりとした流れを感じることができます。大師堂ができた時に、この大木は植えられたという説もあり、空洞に現れている年輪から計算すると、樹齢700年を越えるのではないかとも当時の村人たちは考えていたそうです。昭和44年3月20日に熊本県の指定天然記念物に指定されました。  
コウヤマキって何?  
イヌマキに対して、別名ホンマキとも言いますが、コウヤマキ科コウヤマキ属の常緑針葉高木で、1種しかありません。葉は、中央に深い溝があり、長さは8〜10cmになります。木の皮は赤褐色をしていて、少し灰色をおびています。雌雄同株で、雄花は黄褐色で、同じ場所に多数つきます。名前は、高野山に多いことからそう呼ばれているそうです。本州の一部の地域では、うら盆にはこの枝を仏に供えることもあるそうで、高野山では参拝者に売っています。木材は、ふろ桶として喜ばれ、近年は造園用として植裁されています。湿気に強いため、建築材としても使用されています。幼木の生長はやや遅いですが、30〜40mの高さになる木です。 
杖立温泉 / 熊本県阿蘇郡小国町大字下城  
弘法大師 伝説  
「杖立」という地名、不思議な言い伝えがあります。平安時代の初めの頃、旅の途中で訪れた弘法大師空海は、温泉の効能にいたく感銘されたそう。そして持っていた竹の杖を立ててみたところ、節々から枝や葉が生えてきたのが、その名の由来とか。また、杖をついて湯治にやってくる病人や老人も、帰る頃には杖を忘れるという、温泉の霊験をたたえた由来もあると言われています。 
●遍照山吉祥院 勘代寺 / 熊本県球磨郡多良木町  
弘法大師 大同元年(806) 請来  
高野山真言宗です。本山は和歌山県の高野山にあります金剛峯寺で、開祖は弘法大師(空海)です。  
熊本県球磨郡多良木町大字久米古城にあり、熊本県の南に位置し、三大急流の一つ球磨川の上流に位置します。本尊様は観音様です。正式には「十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)と言います。境内に守り本尊八体佛をおまつりし、厄避けの石段が男女対であります。  
九州八十八ヶ所百八霊場 / 九州を一周する壮大な巡礼霊場として昭和59年(1984)弘法大師入定千百五十年を記念して各派真言宗寺院を札所として創設されました。お大師様が大同元年(806)、唐より帰朝し筑紫(福岡)の国に二年間逗留されております。その間、御請来目録を御しるしになられる傍ら九州各地を訪ねられたとも伝えられます。 
●護国山佛性院 金剛乗寺 / 熊本県山鹿市山鹿  
弘法大師 天長2年(825) 開創  
そもそも当山のいわれは、人皇53代淳和天皇(後、仁明天皇。合わせて824年〜834)が治められて いた天長2年(825)、真言宗の祖師、弘法大師が開かれたもので、当時としては有名屈指の大伽藍 (仏僧が修行する建物)を建立し、世間で「西の高野(高野山の略:真言宗の総本山)」と言われるほどの真言一派の大寺院でしたが、その後衰退していたところ、元暦年度(1184)、後鳥羽院によって大いに再興されました。  
しかし、その後また衰退していたのを、元弘元年(1331)、権中僧正〔恵鏡法印〕により再興され、その後、文明年度(1469〜1487)、当山の中興権大僧都法印〔宥明大徳〕が、その祈祷による温泉の回復(山鹿の温泉はその頃一時お湯が出なくなっていました)に功があったとして、菊池肥後守〔藤原重朝公〕から、田畑一町余りの寄付をいただきました。これにより、寺敷一町三畝、寺領八十石、寺僧屋敷十八箇所になりましたが、その後、加藤清正公により、寺領、寺敷などを没収され、寺敷は僅か六反十九歩を残すのみとなりましたが、毎年、米二石はいただけることになりました。清正公のその時の書類は今なおここにあります。  
その後、当寺が火事に見舞われました時は、国中奉加奉行〔中嶋正規〕を通じ、御用木をいただきました。その後、細川忠利公は、寛永20年(1643)3月、清正公よりの寄付米を廃し、新たに寺敷だけを従来通り寄付されることになりました。  
その後も、高貴な方の病の時など、たびたび祈祷を頼まれるようになり、朝廷はじめ、代々の国主の方々も、当山の由緒を重んじ、度々再興していただきました。  
そんな中、湯の町に火事があり、当院が類焼した時などは、国主から先例通り、材木をいただき、これにより御位牌堂や客殿、庫裏など全部再建することができました。その後、壊れました時も、御郡代〔野田小三郎〕を通じ、材木をいただき、当郡中の人夫の協力により、本堂の御位牌堂、庫裏はおよそ修復できました。  
尚また、元禄年度(1688〜1704)の類焼の時は、御郡代〔関又左衛門〕を通じ、材木をいただき、 客殿、庫裏を再建することができましたけれども、本堂の御位牌堂はそのままでした。  
しかしその後、享保年度(1716〜1736)、材木をいただき、芝居見世物などの許可もいただき、再建することができました。  
天保7年(1836)、失火により本堂を除きすべて焼失しましたが、弘化4年(1847)、材木をいただき、現在にいたる庫裏、客殿などを再建することができました(記録あり)。  
このように、著名な由緒のため、(細川公が)江戸参勤の上下に当地に宿を取られる時は、必ず当院の主人は宿所に招かれ、公に面会を許されておりました。  
護国山佛生院金剛乗寺談議所由緒縁起略記  
抑當山由緒之儀ハ人皇五十三代淳和天皇之御宇天長二乙己年本宗祖師弘法大師開基ニシテ當時有名屈指之大伽藍ヲ建立シ世ニ西之高野ト称セシ真言一派之大院ナリシガ後大ニ衰弱ニ及ビシ処元暦年度 後鳥羽院勅願トシテ大二御再興ニ相成後又衰退ス然ルヲ元弘辛未年中興開山権中僧正恵鏡法印再興アリ其後文明年度當山中興権大僧都法印宥明大徳當所温泉涸渇回復祈[祷]功労ニヨリ菊池肥後守藤原重朝公田畑壱町余ヲ寄附セラル寺敷一町三畝寺領ハ十石寺僧屋敷十八ケ所然ルニ其後加藤清正公寺領及寺敷等悉ク没収シ寺敷僅カ六反十九歩ヲ残シ更ニ毎年米弐石宛ヲ寄附セラル−清正公在判之書今尚有−後當寺類焼之時モ御用木ヲ下附セラレ国中奉加御奉行中嶋正規ニ申付御取立之上下附セラル後細川忠利公寛永[二十]年癸未三月清正公ヨリノ寄附米ヲ廃シ寺敷丈従来通リ寄附セラル−之寄附有−其後真源院殿由緒出格之訳ヲ以テ御祈[祷]被申付付妙應院殿御疱瘡之節モ御祈[祷]被申付如*朝廷始メ代々之国主ニ対シ由緒アルヲ以テ度々御再興ヲ蒙ル就中往古湯町出火之節當院類焼之時ハ国主ヨリモ先例ニ任セ當所御茶屋御作事之材木ヲ下附之上国中奉加申付ラレ御郡代中ヨリ御取立下附セラル依テ御位牌堂及客殿 庫裡等悉皆再建其後大破ニ及ビタル時モ御郡代野田小三郎ヨリ被申付御山材木下附セラレ當郡中ヨリ人夫葺草等*合カニ相成本堂御位牌堂庫裡凡ソ修覆出来尚又元禄年度類焼之時モ御郡代関又左衛門ヨリ申渡サレ国中奉加御惣庄屋、取立被申付尚御山材木下附セラレ客殿庫裡再建然ルニ本堂御位牌堂ハ其儘ノ*享保年度御山材木下附セラレ芝居見世物等許可ニテ再建其後天保七年自火ニテ本堂ヲ除ク外悉皆焼失ス依テ弘化四年御山材木下附セラレ現今之庫裡客殿等再建ス(記録アリ)前顕特別著明ナル由緒ニ付江府御参勤御下国之節ハ當院之主ハ當所御宿所*御目見独礼定例申付ラ 
●樋島(ひのしま) / 熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島  
弘法大師 伝説  
樋島は不知火海(八代海)に囲まれた周囲12.2kmほどの小さな島です。そんな小さな島・樋島は実は歴史が古く、第12代天皇「景行天皇」が立ち寄ったという伝承もあるほど。また弘法大師伝説もあり、島の北にある「観乗寺」は建立が慶長6年(西暦1604)と古く、浄土真宗のお寺としては熊本県内でも有数のものです。  
樋島の「樋」の字は「とい」のことで、雨が降って屋根を流れる水を受け止め、地面の排水溝へと導く管は「雨樋(あまどい)」です。樋島は昔から水が豊富な島だったからそういう名前が付いたのでしょう。景行天皇が九州巡幸の帰りに、この島で水の補給をしたという言い伝えさえあり、古くは水島と呼ばれていたこともあるようです。  
立ち寄ったのは景行天皇だけではなく、弘法大師伝説もあります。弘法大師とは真言宗の開祖“空海”のことですが、日本全国に数え切れないほどの所縁(ゆかり)の地を持つ人でもあります。その弘法大師が樋島の南端にある大岩にお経を書いて、そのまま芦北へ向おうと舟に乗ると、一つの文字に点を打つのを忘れたのに気付き、舟の上から筆を投げて完成させたという話。「弘法も筆の誤り」の逸話として何処かで聞いたような話ですが、その大岩の下に不動神社が建てられています。不動神社の所には立派な土俵が作られており、毎年旧暦8月15日になると地元の人達が集まり奉納相撲が行われます。なかでも「赤ちゃん泣き相撲」は珍しい催し物で、いつも観客の笑顔を誘います。 
●大師堂 / 熊本県球磨郡多良木町  
弘法大師 建立  
大師堂は、日向灘(ひゅうがなだ)に流れ出る大淀川の源流域にあたる槻木(つきぎ)の集落に、弘法大師が九州行脚のとき建立したと伝えられます。その境内に高く佇立するコウヤマキの巨樹。お堂とともに人々に大切にされ、現在まで生きてきた歴史の重さが感じられます。県指定天然記念物です。国道219号を多良木駅前から南の槻木方面へ。約20km山道を進み、下槻木の集落のはずれに大師堂がある。参道を登りきった本堂の前。 
 
宮崎県

 

蓬莱山今山大師寺 / 延岡市山下町  
(通称/今山大師) 今山大師は真言宗のお寺で、九州49院薬師霊場第18番札所です。1839年(天保10年)ごろに大師庵を建てたことが縁起となっています。1889年(明治22年)に今山八十八ヵ所を開山しました。1918年(大正7年)に大師堂が出来ました。今山大師にある「日本一の弘法大師銅像」は1957年(昭和32年)4月に世界平和と平和幸福を願って、信徒の浄財1700万円で建立されました。高さ17m(台座から11m)、重さ11トン、足の大きさは1.3mです。境内(けいだい)には四国88ヶ所の分身が安置され、花塚、筆塚、髪塚、延岡空襲殉難者慰霊碑などもあります。  
延岡大師祭  
延岡市街地の今山大師で、毎年4月第3金曜日から3日間開催されます。県北最大の春祭りで、古くから「おだいっさん」の愛称で親しまれています。天保10(1839)年に延岡で疫病が流行ったことから、高野山金剛峰寺より弘法大師蔵を勧請し、大師庵を建てたことが今山大師の縁起。以来、「家内安全」「息災延命」「五穀豊穣」「商工発展」を祈願し、毎春の大法要は県外からの参拝者で賑わいます。  
[九州八十八ヶ所霊場] 宮崎県 
31 龍仙寺 真言宗醍醐派 宮崎県延岡市西階町  
当山は、今から約400年前、大和国より訪れた谷山覚衛門により、修験の道場として開かれました本尊に鎌持ち大黒天(右手に鎌を持つ)、荼吉尼天を安置し、農家の方の篤い信仰を受け、また藩主の祈願所として加持祈祷に専念したものと聞いております。現在でも修験の教えは着々と受け継がれ法螺貝の心地よい音色が、森林に響き渡っております。  
32 光明寺 真言宗醍醐派 宮崎県延岡市古城町  
延岡が県と呼ばれていた時代、土持相撲守が、延岡で最初の城となる井上城を築いた。古城町という地名は、この井上城に由来する。さらに、養和元年(1181)豊前国宇佐郡から智賢法印を招き、鬼門除けとして光明寺を創建した。鎌倉・室町時代をとおして隆盛したが、戦国時代になって大友宗麟の侵攻により土持氏が滅亡。光明寺も衰微し、現在地に再興される。慶長15年(1610)有馬直純が、肥前国高来から入国。当寺の尭意法印に帰依して、寺領百石を寄進し、高千穂など32村の廻檀を許された。これ以来、三浦家、牧野家、内藤家の代々の領主の祈願寺となった。さらに真言宗醍醐派の日向国の袈裟頭となり、修験道の中心となる。明治の廃仏毀釈および修験道禁止令により、末寺や修験の寺院とともに廃寺となった。明治13年(1880)再興の許可を得て、順次伽藍を再興している。  
33 永願寺 真言宗醍醐派 宮崎県東臼杵郡門川町加草    
現在、加草の鳴子川河口近くの丘上にある永願寺は、嘉祥元年(848年)門川を治めていた草野大膳弘利が創建したと伝わる寺です。かつては、中村受(うけ)にあり、江戸時代までは、たいへん隆盛を極めていました。この後明治28年、薬師如来像とそれを守る十二の神将像を残して永願寺は現在地に移転しました。その寺は「永願寺の奥ノ院」と呼ばれて中村の人々に敬拝されています。薬師如来像は奈良時代の高僧、行基の作とも伝えられています。  
永願寺2 門川町は、延岡市と日向市の間にあり、当、永願寺は日豊海岸国定公園である遠見半島、細島半島、乙島を見下ろす高台にあります。創建は、平安時代にさかのぼり、嘉祥元年(848)に江田城主草野大膳弘利が四海安徳を祈願して、能円了孝和尚によって開山しました。御本尊「薬師如来像」は奈良時代の高・行基の作とも伝えられています。薬師如来は修行中、人の生存をまっとうし、衣食住の生活を安穏にし、病苦不具などを祓うとしてこの12の大願をたてた、この事から万病を治し、人の寿命を延ばし、医薬を司る仏として信仰されてきましたが、まさに現在も多くの人々に敬拝されています。  
34 中野寺 真言宗醍醐派 宮崎県日向市平岩    
はまぐり碁石の里あたりから赤岩川に沿って右岸をさかのぼり寺標を左へ、急な坂を上った所に中野寺はあります。山門を入り境内には不動明王・地蔵菩薩・慈母観音などたくさんの仏様をお参りいただけます。御本尊は阿弥陀如来です。春にはたくさんの桜が参拝者をお迎えしてくれます。   
35 行真寺 高野山真言宗 宮崎県児湯郡都農町川北 白水大師/白水道場  
当山は大正十三年に行真和上によって開山されました。現在の本堂は平成10年に完成。先代住職順教和上の設計をもとに現住職が建立。宝塔をイメージした八角形をしています。南東方位を正面とし。朝日が本尊に当るようになっています。一階は空手道部の練習場として使用。二階が本堂となっています。行真寺は尾鈴山脈を背景に日向灘を望む高台に在り、朝夕6時の梵鐘の響きに、朝は日向灘の陽光に鳳凰の舞いを顕現し、夕は何事もなかったかのように地球を愛しく包み憩いと安らぎの世界へと誘います。 思想、宗教、国境を越え宇宙真理に生きる。全ての命は皆一つ、霊性(本性=神性の愛、仏の慈悲)を開発したい。自らの生命の要求に応えたい。等々。今この瞬間に胸のときめきを覚える方は行真寺の門をたたいてみて下さい。御来寺お待ち申し上げます。  
36 貫川寺 高野山真言宗 宮崎県児湯郡都農町川北    
延岡より日向灘を望みながら、国道10号線を南下し宮崎に向かう途中の国道沿いに、第36番貫川寺はございます。本尊は十一面観世音菩薩。立像と坐像がございます。立像は、その昔、九州連山の尾鈴山に祀られておりましたが、昭和の初期に当寺のご本尊としてお迎え致しました仏像であります。坐像は、黎明の時代とされる21世紀を迎え、人々の魂の目覚めを念願し、黎明十一面観世音菩薩と名付けて、平成16年に安置致しました左手に金剛鈴を持つ仏像であります。 境内には、三界萬霊の供養処として、水掛六地蔵尊・十一面観世音菩薩・水子地蔵尊、安産と子供の健やかなる成長を願う子育大師像を安置しております。  
37 香泉寺 高野山真言宗 高野山真言宗 宮崎県宮崎市丸山  
36番貫川寺さまより、車で1時間弱。国道から少し入ったところに香泉寺はあります。近隣にはマンションや商業ビルもあり、宮崎市街の賑わいを感じつつも、決して広くない境内に一歩足を進めると、その喧騒を忘れてしまうような野鳥のさえずりも耳に出来ます。開基については歴史的詳細は明らかではありませんが明治後期に高野山より回教で訪れた龍雲和尚が、近隣のお堂にあったお大師さまを現在地に移遷して香泉寺を建立し、既に大正末には『丸山の高野山』『江平のおだいっさん』として多くの方の信仰を集めていたようです。現在の本堂は昭和55年6月に落成。  
38 長久寺 高野山真言宗 宮崎県宮崎市大塚町城の下  
山号は蓬莱山。本尊は六観音を祀っています。蓬莱山城跡の山麓に位置し、創建年代は未詳ですが、室町末期に作られた木造観音像6体と弘法大師像1体が存在しています。像の頭部内面や台座に永禄6年(1563年)、奈良宿院仏師源次などの墨書銘があり、また、天正15年(1588年)在銘のある六地蔵幢、同16年在銘の板碑、慶長6年(1602年)の板碑も残っています。そういう点から見て、この時期に創建されたものと推測されます。明治4年神仏分離により廃寺となった古城町の伊満福寺の寺号を称しましたが、大正14年に長久寺と改めて現在に至っています。  
39 潮満寺 高野山真言宗 宮崎県日南市油津  
潮満寺は日南市を一望する津ノ峰の麓、油津港が眼下に見える高台にある。「日南地誌」「近世飫肥史稿」によれば、飫肥藩では最も猛烈に廃仏毀釈を実行したと伝えている。潮満寺は長満寺と称し願成就寺第6世重翁法印が1636年に再興し願成就寺の隠居寺とした。碑名に中興法印重翁とあり当初の創建年代は不詳である。明治5年の廃仏毀釈で廃寺となり。明治33年(1900)第27世俊照法印は廃寺再建に奔走、明治41年7月油津に大師堂を建立し大正5年(1916)現在地に移転、本堂・護摩堂を建立した。昭和9年(1934)28世俊範法印は願成就寺の廃寺となった末寺13ヶ寺と建(見)法寺を合わせて現本堂を再建し、寺号を潮満寺と改称して総本山金剛峯寺直末となった。中本山春日山願成就字は、日南市飫肥に天正年間に藩主伊東祐兵が飫肥城の鬼門の守護と戦勝祈願の意味を込め、僧勢誨を開基として創建し禄高150石を以て遇した。明治5年3月18日付け廃仏毀釈の令が元飫肥藩庁から発令され、他の全ての寺院と共に廃棄された。幸いにも唯一談義所と称された願成就寺の本堂だけが焼失されなかった。願成就寺は28世俊範法印の実弟が継承した。 潮満寺の本尊は波切不動で一願成就を祈願し、厄除け、福徳息災、海上安全、大漁祈願の仏として、また、身代わりの仏として日夜に済度の働きをされている。その霊験に多くの信仰をあつめている。  
40 西明寺 高野山真言宗 宮崎県南那珂郡南郷町目井津  
港の入り口に、虚空蔵菩薩を奉る児島山を有する遠洋漁業の基地の港町、目井津。その町の西の山腹に40番札所、西明寺はあります。西明寺のご本尊は不動明王ですが、霊場のご本尊としては、勝軍地蔵菩薩をお奉りしています。このご本尊、廃仏毀釈以前は南郷町内榎原神社に奉られていた仏様で、信仰深い方のおかげで難を逃れ、西明寺にてお奉りすることになった仏様です。西明寺の境内には、JR日南線が通っております。ご参拝の際には、十分気をつけて下さい。先述の虚空蔵菩薩様は、奥の院になっております。100mほどの石段になっております。    
41 天長寺 高野山真言宗 宮崎県都城市都島町  
天長寺は天文7年(1538年)、都城島津家第8代領主・島津忠相公により島津家の祈願道場として創建されました。現在天長寺があるあたりは、かつて千尺の老松が生い茂り、流水の絶えない場所であったと記録に見え、そのため山号を松林山(しょうりんざん)と号しています。創建以来、都城随一の寺院として隆盛を誇っていましたが、明治元年の廃仏毀釈によって破壊され、堂舎と共に多くの法物を失ってしまいました。その廃仏毀釈の難をかろうじて逃れた石仏群は、現在都城市の有形文化財に指定されています。静かにたたずむ阿弥陀如来・不動明王・地蔵菩薩や歴代住職の墓石等は、かつての隆盛を伝えると共に、現在も信仰を集める仏様の力強さを見せてくれます。  
42 弘泉寺 高野山真言宗 宮崎県えびの市原田  
当山は、霧島山麓を臨む八幡山の頂上に大正12(1923)年、高野山恵光院近藤本玄師の表敬開山を機に玄融和尚により飯野布教所として興りました。大正15(1926)年に現在地へと移転し、昭和24(1949)年、宗教法人となり、高野山真言宗弘泉寺と改称し現在に到ります。また本尊の大日如来さまは牛の上に座すという非常に珍しいお姿でお祀りされております。開基・玄融和尚より法灯が脈々と受け継がれ、先祖供養・水子供養など各種追善供養、開運厄除・交通安全など所願成就加持祈祷の寺であります。さらに高野山金剛流御詠歌や真言瞑想法阿字観、御写経も体験できます。 
宮崎県に伝わる弘法大師話  
むかしむかし、旅の途中の弘法大師がお腹を空かせていると、川で女の人が大根を洗っていました。  
とてもみずみずしく、おいしそうな大根です。  
大師はていねいに頭を下げると、女の人にお願いしました。  
「すみません。長旅で、腹を空かせております。どうかその大根を、一本めぐんで頂けないでしょうか?」  
すると女の人は、みすぼらしい大師を見て鼻で笑うと、  
「はん。こじき坊主が」  
と、わざと洗っていない、土のついた小さな大根を大師に投げ渡したのです。  
「・・・・・・」  
大師がとまどっていると、女の人は冷たく言いました。  
「その大根は、土がついたまま食べるんだよ。いらないのなら、さっさと消えな」  
「・・・・・・」  
大師は無言で頭を下げると、その大根を拾わずに、そのままどこかへ行ってしまいました。  
「あはははは。こじき坊主にも、少しは意地があるんだね」  
その後姿にアカンベーをした女の人は、再び大根を洗おうと川の方を向いたのですが、不思議な事にさっきまで流れていた川の水が一滴もなかったのです。  
「そんな、どうして?」  
びっくりした女の人が、ふと足下を見てみると、足下に一枚の紙切れが落ちていました。  
拾い上げてみると、そこにはこう書かれてありました。  
《土のついた大根をそのまま食べるのなら、洗う水はいらぬだろう。空海》  
それ以来、この川の水は大根がとれる頃になると干上がったので、人々はこの川を『大根川』と呼ぶようになったそうです。 
 
鹿児島県  

 

[九州八十八ヶ所霊場] 鹿児島県 
43 法城院 高野山真言宗 鹿児島県姶良郡加治木町朝日町  
桜島が浮かぶ錦江湾の一番奥。美しい景色に囲まれた加治木町に法城院はあります。街中の国道沿いということもあり小さなお寺ですが、御参拝者のお線香の煙が絶えることなくたなびいています。御本尊は、参拝者の願いを叶え、苦しみを取り除いてくださる不動明王(秘仏)です。また、境内では無病息災・長寿祈願の「延命地蔵菩薩」、子供の安全・発育を願う「子安地蔵菩薩」などたくさんの仏様をお参りいただけます。現在、地元では「加治木の高野山」として皆様に親しまれておりますが、はじめてお参りされる方でも気軽に本堂に上がって手を合わすことが出来る、ちょっとした悩みでも話せる、そんなお寺でありたいと願っております。  
44 不動寺 高野山真言宗 鹿児島県鹿児島市稲荷町  
美し風景で知られる鹿児島の名所、磯庭園。庭園の目の前には桜島と錦江湾が広がります。その近く、鹿児島市十号線沿いに稲荷町という町があり。この町に不動寺があります。 このお寺のある場所は、かつて真言宗大乗院というお寺が存在した地でありました。不動寺はそのような仏縁の深い場所に築かれています。由来を語ると、大隅半島にある西大寺の鮫島弘明住職が薩摩の地に祈祷道場を求めて行脚していた時、夢に不動明王の霊示を受けたという。急いでこの地を訪ねてみると茂みの中に石仏が放置されていた。鮫島住職はこの石仏を仮に安置し、後の昭和35年に仮道場を興された、これが不動寺の始まりであります。現在は真言密教を広める道場とし、平成8年5月26日に本堂を落慶法要し、寺院として今にいたります。  
45 大歓寺 真言宗御室派 鹿児島県鹿児島市草牟田  
大歓寺は、昭和45年に建立されたお寺です。御本尊様はお不動さまで、病気平癒、災害除け福徳や煩悩を滅ぼしたり、大変霊験あらたかな仏さまで、これまでもたくさんの信者さんからお不動さまのおかげを授かっておられます例えば鹿児島市で過去あった大水害にみまわれた時もお寺でご祈祷したお不動さまのお札を授かった方の中には、倒壊した道路を通行していたが、お不動さまのおかげで間一髪の所を救われたという方や、床下浸水で畳が浮き上がり、次々と家具が倒れる中、お不動さまのお札を納めたお仏壇だけは微動だにしなかったという信者さんもおられます、霊験談は数えあげるときりがないほどある。また大歓寺のご利益といえば、安産祈願が有名である。この安産祈願の安産お守りは護摩を焚き、祈りを込めた手づくりのお守りで、このお守りを授かりにくる方も多い。また老若男女の心のより所として開かれたお寺ですので、大いなる活気に満ち溢れています。  
46 峰浄寺 高野山真言宗 鹿児島県薩摩郡宮之城町虎居    
境内に足を踏み入れると、坂村真民先生の「念ずれば花ひらく」の真言碑と大きな修行大師さまが優しく出迎えてくれる。本堂奥には緑の散策路が広がり、八十八ヶ所の札所があり、入口には十二支えと地蔵、水子地蔵、弁財天堂、紺髪観音、子安観音などあり四季折々の花が咲き、親子や若い人たちのお参りが絶えない峰浄寺です。心を癒され、心のよりどころとなれば有り難いです。  
47 光明寺 高野山真言宗 鹿児島県指宿市西方  
薩摩半島の一角、縁に囲まれ全国に知られる温泉の里指宿天然砂蒸しは特に有名であります。この地に光明寺があります。 寺周辺には、そら豆、おくら等畑が多く季節を感じます境内に目を向けますと前面を駐車スペースとして広く取り高齢者の方、身体に障害のある方が安心して御参りができるように設計してあります。又、参拝者の皆様の健康を祈って、観音菩薩蔵を平成18年に建立しました。堂内に地蔵菩薩を本尊として安置しその側に寺宝で大師ゆかりの密教法具の一つ香炉と如意棒が島津家祖霊の願文とともに奉納してあり年に1回元旦の日にご縁にあう事が出来ます。 当寺は修行はもとより悩みのある方が“笑顔で帰っていただきたい“これを心より望むてらです。『今日を大切に、出会いを大切に、明日を元気よく』  
48 薩摩薬師寺 高野山真言宗 鹿児島県薩摩郡さつま町求名  
奥薩摩の小さな集落の中にある当寺は新寺建立したまだ新しい寺ですが、のどかな環境に囲まれ、故郷に里帰りしたような気軽さでお参りができます。 本尊薬師如来立像は、御身の丈十三センチと小さいながらも、高野山よりお迎えした大変霊験あらたかな仏さまで脇仏の不動明王は、男女の縁はもとより、あらゆる不思議な縁結びの仏様です。境内奥の八幡神と御神木の梛の木は永年に渡り、世の平和を見守っています。 これから歴史を刻んでいくお寺ですが、たくさんの方々の悩みや病がお薬師さまのお徳により救われることを願い、心のよりどころとなれば有り難いです。  
49 剣山寺 高野山真言宗 鹿児島県日置郡日置町日置  
鹿児島県の南にあり、東支那海の見える静かな町の小さなお寺です。廻りの人達はとても人情厚く笑いのたえない所です、お寺の後ろには熊野神社があります。本尊不動明王様は参拝のみなさまのお話しをいつも“ニコニコ”して聞いて下さいます、「あわてるな、急ぐな、あなたはあなたのままでよい」といつも、話かけてくださる様な気がします。境内には慶長九年(約400年前)の三重の塔があります。気軽にどなたでも参拝出来るそんな寺にしたいと思います。  
番外 大国寺 高野山真言宗 鹿児島県枕崎市別府国見岳北白木ヶ平  
本尊:胎蔵大日如来座像。昭和42年に住職によって開山され市民の悩みは台風だったので、百日間の願いをかけ禅をくんだ、すると国見岳が浮かび、観音菩薩の姿が現れた。さっそく手作りで御堂を建て、台風が一番やってくる方向に高さ8mの大日観音菩薩を造立した、すると不思議に大きな台風はあまり来なくなり枕崎市では、お大師様のお力と有名になった。 平成14年11月に佐賀県の七山村に如意輪観音庵を設立し、平成18年3月9日、金剛界大日如来様を建立した所、上空より大日如来の誕生の姿が現れた、写真に撮れた。またこの大国寺に参拝すると、お茶の代わりに水を勧められる。かつてはこの山には水がなく山下から桶で運んでいた。それが平成5年になって、弘法大師のお陰で湧き出した、この大師の恵みの水も参拝された方々には有り難くいただいてほしい。 
 
 

 

 
弘法大師・修行の年譜

 

 
( 下図の円の大きさは滞在期間をイメージ化しています )
 
以下、全国各地の寺社縁起にある、大師が開基や創建した年代、大師が修行した年代、大師の巡錫した年代をもとに、場所と年代を地図にまとめました。同一年代 (図マーカーの同じ色) が一つの線(昔の道・街道・航路)で繋がるところが、実際の行脚経路だったのかもしれません。 
 
行脚・唐より帰朝-入京

 

唐より帰った大同元年(806)〜大同 5年 (810)ごろの弘法大師  
各地の寺社と、その縁起にある、大師による開基、大師の修行、大師の巡錫年代。
 
 803-804      唐へ向かう前 
 大同元年(806) 唐より帰朝 
 大同 2年 (807) 
 大同 3年 (808) 
 大同 4年 (809) 平安京に入る許可  
 大同 5年 (810) 
 弘仁 2年 (811) 
 大同年間(806-810)
   / ● 縁起 に大師との関わりはあるが年代が不明
 大同元年(806) 唐より帰朝 
●1
10月空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。、この年の3月に桓武天皇が崩御、平城天皇が即位していた。10月22日付で朝廷に「請来目録」を提出。唐から空海が持ち帰ったものは目録によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである。「未だ学ばざるを学び、-聞かざるを聞く」(「請来目録」)空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。 
●2 恵果の全弟子を代表し、師の業績を称える碑文を起草。空海は仏法以外にも最先端の土木技術や薬学を学んだ。そして20年と決まっていた留学期間を、違法であることを承知で2年で切り上げ帰国した。独断行動をとった為に入京を許されず、3年ほど大宰府・観世音寺に留め置かれる。罪になることが分かっていて帰国したのは、彼が極めた密教奥義を早く日本に伝えたかったこと、手に入れた新訳の経論など216部461巻の重要な仏典、貴重な曼荼羅や法具、仏舎利(釈迦の遺骨)などを、早急に国内に届けたかったからだ。空海は従来から日本にある仏典を熟知していたので、461巻は選んで持ち帰ったもの。どれも内容がダブッていなかった。(当時、これがどれほど凄いことか分かっていたのは最澄だけだったという。彼は真っ先に経典の閲覧を希望している) 
●3 8月、明州を出発し、帰国の途につく。10月22日、高階遠成(たかしなのとおなり)に託して留学の報告書「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出する。  
●4 2月10日大使藤原葛野麻呂らが長安を発して帰国し、空海は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)ゆかりの古刹「西明寺(さいめいじ、ボタンの名所)」に落着き、学僧円照(えんしょう)と知り合い、醴泉寺(れいせんじ)に居た印度僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)からサンスクリット語(梵語)を、牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)からバラモン教などを学び、6月13日青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院で恵果(けいか)阿闍梨(あじゃり、密教の正統な後続者としての位)に会うと、「そなたが来るのを待っていた。私の生命は尽き様としている。早く伝法の潅頂壇(かんじょうだん)に入るように」と云われ、三昧耶戒(さんまいやかい)・受明潅頂(じゅみょうかんじょう)・胎蔵法(たいぞうほう)の潅頂を授戒し、7月上旬に金剛界潅頂を授戒し、8月10日伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の潅頂を授戒して、真言密教の奥義を伝授され、「遍照金剛(へんしょうこんごう)」の潅頂名を授かりましたが、そもそも、大日経、金剛頂経、蘇悉地経などを拠り所にして胎蔵と金剛の二部を立て、真言呪法の加持力で即身成仏を期するのを本旨とする真言宗は、印度で大日如来が金剛薩埵(こんごうさった)に伝法や灌頂を授け、金剛薩埵が真言密教の始祖初代龍猛(りゅうみょう)に授け、二代龍智(りゅうち)、三代金剛智(こんごうち)と伝授され、唐に入って四代不空(ふくう)が「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」を伝訳して大成し、五代善無毘(ぜんむい)、六代一行(いちぎょう)が「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を筆録して、七代恵果、そして八代が空海で、初代〜八代八祖大師の肖像画は、高野山の「根本大塔」や壺坂寺の本堂(八角円堂)に掲げられています。  
なお、恵果は、空海に密教の全てを伝授し、各種の法具や曼荼羅(まんだら、密教で宇宙の真理を現すため、仏の如来や菩薩を一定の枠内に配して図示したもの)を授け終わると間もなく、805年(永貞元年)12月15日60歳で遷化(せんげ、逝去)し、弟子1千人中で6人の受法高弟から空海が選ばれ、「恵果和尚(けいかかしょう)の碑文」を書きました。  
また、空海はその名筆を唐帝順宗に知られ、宮殿の壁に文字を書くように云われると、左右の手に筆を取り、左右の足にも筆を挟み、口にも筆を加え、5本の筆でもって王羲之(おうぎし)の5行の詩を同時に書き、更に1間に墨汁をそそぎかけると、たちまち巨大な「樹」の字が浮かび上ったので、皇帝順宗が舌を巻き、空海に「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与え、純金で作った念珠(ねんじゅ)を授けましたが、その念珠は現在高野山の「竜光院」に保管されています。
 大同 2年 (807) 
●1
空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、帰国後は、入京の許しを待って数年間太宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどしていた。 
●4 上京の許可が下りないまま筑紫(北九州)の名刹「観世音寺」に2年間も留まって、同年瀬戸内海を通り、都へ昇る途中、安芸の宮島、弥山(みせん)の頂上で護摩を焚きましたが、その灯は延々現在も霊火堂で「消えずの灯」として燃えています。なお、空海は難波津へ上陸の後、和泉国「槙尾山寺」に居を移していた頃、808年(大同3年)5月21日朝廷が旱魃に際し、丹生川上神社に黒駒を奉納すると、23日雨が降ったので、群臣万歳を称して終日宴会を開きました。
 大同 3年 (808)
 大同 4年 (809) 平安京に入る許可  
●1
平城天皇が退位し嵯峨天皇が即位した。空海は和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。最澄は「請来目録」を見て空海が持ち帰った密教の重要さを評価したためといわれる。その後、二人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816)初頭頃には訣別するに至る。二人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる。だが、近年その通説には疑義が提出されている。 
●2 仏教を深く信奉する嵯峨天皇が即位。最澄の力添えもあって空海は入京を許され、かつて最澄が道場を開いた高雄山寺に身を寄せた。その御礼もあるのか、翌年に空海は最澄に宛てて「最澄さんと修円(室生寺を開山)さんと私の3人で集まり、一度仏法のことを一緒に勉強しませんか」と手紙「風信帖」を書いている。 
●3 7月16日、平安京に入る許可が下がる。8月24日、最澄、密教教典十二部の借覧を願う。  
●4 4月平城天皇が病のため譲位して、賀美能親王(かみのしんのう、第52代嵯峨天皇)が即位し、7月16日やっと太政官符が和泉の国司に下り、空海は許可を得て和泉から入京し、高尾山寺(現在の神護寺)に入り、実慧(じちえ)ら二、三の弟子に密教を教え、弟の真雅(しんが)が讃岐から上京して弟子になり、8月24日最澄から密教経典12部の借覧を初めて請われ(その後請借は16回に及ぶ)、翌年即位まもない嵯峨天皇に書状を送って、国家安泰の加持祈祷を申し出ると、「薬子(くすこ)の変」などで頭を痛めていた天皇は空海の申し出にいたく感動し、空海を重用するようになったので、空海は京都の高尾山を拠点に、嵯峨天皇の庇護のもと、国家鎮護と衆生救済を掲げ、真言密教の布教に邁進(まいしん)するようになりました。  
また、この頃、空海36歳は奈良市高樋(たかひ)町の虚空蔵山(標高200m、別名高樋山)に明星が落ちるのを見て、そこに明星天子の本地仏である虚空蔵菩薩を安置して開基したのが高野山真言宗「虚空蔵寺(弘仁寺)」で、虚空蔵山・如意山・高井山などと号し、その奥之院「阿伽水ノ井戸」に空海が三鈷杵で彫った不動尊石仏を祀っています。
 大同 5年 (810) 
●1
薬子の変が起き、鎮護国家のため大祈祷を行った。 
●3 10月27日、高雄山寺において鎮護国家のために修法せんことを請う。 
●4 東大寺では僧が蜂に刺されて難儀していたけど、空海37歳が東大寺第14代別当(長官)に就任すると、蜂がいなくなり、今でも東大寺では月2回、空海が唐から持ち帰った密教経典を読み上げます。なお、この頃、空海が自らの「等身座像」を安置し、最初の真言道場としたのが元高野(もとこうや)「大蔵寺」で、また、同年空海が重文の「木造延命普賢菩薩坐像」を刻って、安置したのが、通常「普賢(ふげん)さん」と呼ばれる「常覚寺」で、空海の開基です。
 弘仁 2年 (811) 
●4
2月14日空海38歳に最澄が書状を寄せ、密経の伝授を請い、空海は唐から持ち帰った劉希夷集(りゅうきいしゅう)や劉廷芝(りゅうていし)の書を嵯峨天皇に献上し、東宮(後の第53代淳和天皇)に筆を献上して、過って早良親王が幽閉された「乙訓寺」の別当に補任され、翌年(弘仁3年)「乙訓寺」に生った蜜柑を天皇に献上しました。
 
行脚・四国遍路

 

弘仁 3年 (812)〜弘仁11年 (820)ごろの弘法大師  
各地の寺社と、その縁起にある、大師による開基、大師の修行、大師の巡錫年代。  
 
 弘仁 3年 (812) 
 弘仁 4年 (813) 
 弘仁 5年 (814) 
 弘仁 6年 (815) 四国遍路 
 弘仁 7年 (816) 
 弘仁 8年 (817) 
 弘仁 9年 (818) 
 弘仁10年 (819) 
● 弘仁11年 (820) 
 弘仁年間(810-824)   / ● 年代が不明 かまたは弘仁2年(811)以前
 弘仁 3年 (812) 
●1
11月15日高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には最澄も含まれていた。12月14日胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範の他190名にのぼった。 
●2 体調を崩した空海は、自分に万が一のことがあった場合を考え、唐で学んできた真言の秘法を他人に伝える決心をし、高雄山寺で最澄ほか多数の高僧に灌頂を授けた。 しかし翌年、さらに奥義(阿閣梨灌頂)を伝授するよう願った最澄に対し、空海は「まだ3年は修行して頂かないと」と断った。最澄にしてみれば、自分は年長であり、しかも空海が2ヶ月で伝授された奥義を自分は3年かかると言われ屈辱を感じただろう。また、最澄が空海所蔵の仏典を借りたいと願ったのを、「密教を極めるのは仏典の研究ではなく実践だ」と閲覧を断ったと伝えられている。さらには最澄が後継者と目していた弟子が空海のもとへ走るという事件もあり、日本思想史に名を刻んだ2人の巨人は決別した。 
●3 11月・12月、高雄山寺において、金剛界・胎蔵結縁灌頂を最澄らに授ける。 
●4 11月15日と12月14日空海は高尾山寺に最澄の訪問を受け、潅頂を請われたので、金剛界と胎蔵界の「結縁(けちえん)潅頂」と「学法(がくほう)潅頂」を授けたが、最澄の望んでいた「伝法(でんぽう)潅頂」は授けませんでした。また、空海が高見山で修行をしていると、不動明王が白馬に乗って麓の「清水寺」に降り立ち、境内の滝(投石の滝)に天の玉石を投げたので、「清水寺」は後に「白馬寺」と呼ばれました。  
なお、同年藤原北家を冬嗣(ふゆつぐ)が継いで、「どうすれば家運が盛り上がるだろうか」と空海に尋ねると、空海が「藤原氏の菩提寺・興福寺に八角形の堂を建立しなさい」と云い、不空院の八角円堂(1854年安政元年の大地震で倒壊、現在は本堂の下に礎石のみ)を雛型として、翌年(弘仁4年)創建されたのが現在の南円堂で、堂の前に建つ大灯籠の火蓋の願文(がんもん、趣意書)は空海が選び、文字は橘逸勢が書き、その後、藤原氏で北家が最も繁栄したのに、逸勢は藤原北家の良房(よしふさ)の諜略によって、842年(承和9年)「承和(じょうわ)の変」で捕らえられ、伊豆へ流される途中、非業の死を遂げました。なお、逸勢の書いた大灯篭の火蓋の文字は、現在興福寺の国宝館で見ることが出来ます。
 弘仁 4年 (813) 
●3
11月、最澄の「理趣釈経」借覧の求めに対して、断りの答書を送る。  
●4 3月6日最澄の弟子・泰範(たいはん)が空海から潅頂を受け、そのまま高尾山寺にとどまり、最澄が比叡山へ帰るように促したが帰らず、泰範は後に空海十大弟子の一人になり、7月朝廷の変化を鎮め、衆生の苦しみを救うため、宮中を始め五畿七道の寺院に国家護持の「仁王般若経」を講読するよう勅命があり、空海がその願文を趣筆し、また、空海が「大峯本宮天川大弁財天神社」に留まって、大峯山で修行中、天川弁財天を「琵琶山妙音院」と号し、一大聖地にした頃、11月23日最澄から書簡があり、真言第6祖不空訳の「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の借覧を云って来たが、9月1日に最澄が著した「依憑(えひょう)天台集」で、不空を天台宗の弟子呼ばわりにしていたので、請借を断り、考えを改めれば、お貸し致しますと云ってやりました。
 弘仁 5年 (814)
 弘仁 6年 (815)  
●1
春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。また時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃「弁顕密二教論」を著 す。 
●3 4月1日、弟子康守(こうしゅ)、安行(あんぎょう)らを東国の徳一、広智(こうち)らのもとに遣わし、密教教典の書写を依頼する。  
●4 空海は奈良県五條市犬飼町で狩場明神と邂逅(かいごう)し、高野山への道案内と道中安全守護のため、明神の使者である白黒2頭の犬を賜りましたが、現在そこに真言宗犬飼山「転法輪寺」が建ち、そこから少し西へ行った奈良と和歌山の県境「待乳峠」で、腫瘍で乳が出なかった女人に、空海が待乳膏を作って与えました。  
同年、空海は、役小角が701年頃(大宝元年頃)開いた河内長野の「雲心寺」で、七星如意輪観音を刻み本尊とし、寺号を「観心寺」と改称しましたが、当寺は観梅で知られ、南北朝時代後醍醐天皇の勅で楠木正成が金堂外陣を造営し、正成が湊川で戦死の時、敵の大将足利尊氏は正成の妻子が身を寄せていた「観心寺」に正成の首を届け、後に第96代後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇が、一時「観心寺」に行宮(あんぐう)し、崩御の後に同寺へ生母阿野廉子(あのれいし)と共に葬られています。  
また同年、空海が四国遍路を開いたが、今なお、多くの人々を魅きつける癒しの遍路は、発心の道場(阿波)第一番札所・笠和山「霊山寺」から、修行の道場(土佐)、菩提の道場(伊予)、涅槃の道場(讃岐)を経て、第八十八番札所・医王山「大窪寺」まで、空海と同行二人巡礼の道です。
 弘仁 7年 (816) 
●1
6月19日修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817)泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手、弘仁9年(818)11月空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在。弘仁10年(819)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。 この頃、「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」「文鏡秘府論」「篆隷万象名義」等を立て続けに執筆した。 
●2 東国や九州へ弟子を派遣し密教を全国に伝える一方、この年から活動の本拠地となる高野山の開山に着手。山上に草庵を造り始める。45歳から各種教義書を立て続けに執筆し、真言教学の体系を築き上げていく。また、詩歌論や日本最古の漢字辞書「篆隷(てんれい)万象名義」なども表す。彼はまた、この時期に東海地方を経て日光まで布教の為に足を運んでいる。 
●3 6月19日、修禅の道場建立のために高野山の下賜を請う。7月、高野山の地を賜う。  
●4 5月空海が泰範に代り、最澄に啓書(手紙)を書き、泰範が比叡山に帰ることを拒否して後、6月19日空海は高野山に弟子を育成する密教修行の道場を建立することを請願し、7月太政官府(だじょうかんぷ)をもって勅許(ちょっきょ)されました。また同年、空海は、高野山へ上がる途中の雨引山(和歌山県伊都郡九度山町)へ母の為に建立したのが、仏塔古寺十八尊第九番・万年山「慈尊院」で、空海は後に高野山へ移ってから、月に9度母に会いに来ましたが、それが九度山の由来です。
 弘仁 8年 (817) 
●4
空海は、真言宗の総本山「金剛峯寺(こんごうぶじ)」開創のため、弟子の実恵(じちえ)、泰範らを高野山に派遣しましたが、空海自身は翌年秋登嶺して、厳冬の中で高野山を整備し、また、空海はこの頃から8年かけて、825年(天長2年)まで、「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ、)」「声字義(しょうじぎ、)」「吽字義(うんじぎ、)」の三部書を著(あらわ)しました。
 弘仁 9年 (818) 
●3
一説に、悪疫流行により、「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」を表す。
 弘仁10年 (819) 
●4
高野山で伽藍の建立に取りかかると、樹上に空海が唐で投げた三鈷杵を発見し、なお、石龕中から宝剣を掘出したので、高野山がかつて仏のいた聖地であることを知り、また、水垢離をして建立祈願をしたのが、長谷寺の奥、桜井市笠の閼伽井で、そこに大日如来の化身である不動明王を祀り、それを更に勧請したのが、野迫川(のせがわ)村の「立里荒神社」で、その加護により高野山伽藍を結界しました。  
なお、この頃、空海は奈良市雑司(ぞうし、旧東大寺境内)に「空海寺」を開山し、像高4尺8寸の本尊「地蔵菩薩石像」、像高4尺5寸の脇侍「不動明王石像」、および、像高2尺5寸の「聖徳太子石像」を彫って、堂内の石窟に秘仏として安置すると、世俗で「穴地蔵」、「文(ふみ)地蔵」と呼ばれました。
● 弘仁11年 (820) 
●3
10月20日、伝灯大法師位に叙せられ、内供奉十禅師に任ぜられる。 
● 「日光山滝尾建立草創日記」に記される空海の事績 
7月26日来山。龍生滝(りゅうじょうのたき)に7日間念誦、菩提寺建立。中禅寺登山、湖岸に四条木叉(もくしゃ)寺・転法輪寺・法華密厳寺・華厳寺・般若寺を建立。羅刹窟(らせつくう)(風穴)を結界祈念して二荒(にこう)を日光(にっこう)に改める。  
9月1日、野口生岡(いくおか)に大日如来を祀る。次いで寂光寺を開く。  
9月7日、四本竜寺に帰る。その後、仏岩の北方に修行、女体霊神を勧請し、滝尾を開く。道珍に密教の法を伝授。  
12月4日、上洛して滝尾草創を奏上したと記されている。
 
行脚・満濃池修築

 

満濃池を修築した 弘仁12年 (821)〜天長 5年 (828)ごろの弘法大師  
各地の寺社と、その縁起にある、大師による開基、大師の修行、大師の巡錫年代。
 
 弘仁12年 (821) 満濃池の修築  
 弘仁13年 (822) 
 弘仁14年 (823) 
 天長元年 (824) 
 天長 2年 (825) 
 天長 3年 (826) 
 天長 4年 (827) 
 天長 5年 (828) 
● 天長 6年 (829-831) 
 天長年間(824-834)   / ● 年代が不明 かまたは弘仁11年(820)以前
 弘仁12年 (821) 
●1
満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。 
●2 故郷香川で満濃池(まんのういけ、日本最大の溜め池)が決壊・洪水を繰り返しており、地方官が「百姓たちが父母のように恋慕する空海殿に、堤防改修工事の指揮を執って欲しい」と要請。彼は唐で学んだ最新の土木技術を駆使して3ヶ月で工事を完了させた(空海の人徳を慕って多くの人々が力を結集した)。翌年、最澄が他界。 
●3 5月27日、讃岐国満濃池(まんのういけ)の修築別当に任ぜられる。  
●4 4月空海は、一人の沙弥(しゃみ、20歳未満の若い僧)と、4人の童子を連れ、故郷の讃岐に赴き、3000人の労務者を使って、3年前に決壊していた満濃池(まんのういけ、周囲21km、貯水量1540万トン、我が国最大の農業用溜め池、灌漑面積4600ヘクタール)をわずか3ヶ月で修築し、その時彼が用いた「余水吐け」の仕組みは、現代のダムにも採用されています。
 弘仁13年 (822) 
●1
太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に潅頂を授けた。 
●3 2月11日、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立すべき勅が下がる。 
●4 平城上皇が空海に従って三昧耶戒(さんまやかい)を受け、入壇灌頂し、空海が「平城天皇灌頂文」を著して、その中で奈良の法相、三論、華厳宗や、天台宗、声聞(しょうもん)乗、縁覚(えんがく)乗の六宗の概略を述べ、それら全てを批判し、密教と他宗の優劣を明確な表現で論じ、東大寺に「潅頂道場真言院」を建立して、国家鎮護の修法を行っていた頃、6月4日最澄が56歳で入滅しました。
 弘仁14年 (823) 
●1
正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称が用いられるようになるのは鎌倉時代になってからである。 
●2 嵯峨天皇より京都・東寺を受預し、講堂に仏像による立体曼荼羅を配置する。 
●3 1月19日、一説に、東寺を給預される。 
●4 1月空海は、嵯峨天皇に潅頂(かんじょう)を授けて、天皇から東寺(金光明四天王教王護国寺秘密伝法院)を下賜されたので、堂塔を整え、そこを真言密教の根本道場にし、空海自ら大日如来などの五仏、五菩薩、五大明王、六天の計21尊の仏像を束ねて立体曼荼羅を配置して、東寺を国家鎮護の祈祷道場にしました。  
なお、空海は唐へ共に入唐した橘逸勢、嵯峨天皇と共に「三筆(さんぴつ)」と云われ、筆を択(えら)ばず上手に字を書いたので、ある時、嵯峨天皇の勅命で、大内裏(だいだいり)十二門の内、南面三門と朝堂院正面の「応天門」の額を書くように云われ、書き終えて額を門に掲げると、「応」の字の点を書き忘れていました。そこで彼は、筆を投げて点を打ったが、これを「弘法も筆の誤り」と云います。また、同年4月27日第53代淳和天皇(じゅんなてんのう、桓武天皇の第三皇子)が即位しました。
 天長元年 (824) 
●1
2月勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)。6月造東寺別当。9月高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。 
●3 3月26日、少僧都に任ぜられる。6月16日、造東寺別当に任ぜられる。  
●4 3月17日空海は、淳和天皇から少僧都(しょうそうず、官職)を任命されたけど、4月6日辞退して、庶民のため利他行(りたぎょう、人々のためになる行為)に励み、仏教界を指導し、真言宗の開祖として基礎を確立し、東寺の経営にも心を配りましたが、彼の孫弟子の頃、東寺南大門を入って左右に潅頂院(かんじょういん)と、日本一の高さ(≒55m)を誇って復古的和式に富む「五重塔」が江戸時代に建ち、南北縦に金堂、講堂、食堂(じきどう)が配置されました。  
なお、空海は京都の神泉苑(しんせんえん)で「請雨経法(じょううきょうほう)」を修して、雨を降らせ、また、天皇の勅願により、大和神社の神宮寺として、山の辺の釜口(かまノくち)に「長岳寺」を建立し、なお、空海が唐から持参した如意宝珠を埋めた所が如意山(にょいさん)で、室生寺を再興して、真言修法の道場とし、「五重塔」を一夜で建立され、室生寺の末寺も建立して、慈尊院「弥勒寺(大野寺)」と称し、また、當麻寺の「中之坊」に参籠して、授法を授け、同寺の1院を真言宗の道場にして2宗とし、更に、不動明王を安置して「不動寺」を開基しました。
 天長 2年 (825) 
●3
4月20日、東寺講堂の建立に着手する。
 天長 3年 (826)
 天長 4年 (827) 
●3
5月26日、内裏において祈雨法(きうほう)を修する。5月28日、大僧都に任ぜられる。  
●4 空海が大僧都(だいそうず)に任じられた頃、畿内に一滴も雨が降らず、淳和天皇は恒例にしたがい、大極殿の清涼殿に百人の僧を招いて雨乞いに「大般若経」を読誦させ、空海も招かれ、雨乞いの願文に漢籍を引用して書いたことが「性霊集(しょうりょうしゅう)」巻第六に載っています。
 天長 5年 (828) 
●2
当時の大学は貴族の為のものだったので、空海は学問を学ぶ機会のない庶民の為に日本最初の学校「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」を開校する。総合教育を目指し、無料で儒教、道教、仏教の授業をした。 
●3 12月15日、庶民のために綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立する。 
●4 空海55歳は高尾山「神護寺」を委嘱され、また、12月15日中納言藤原三守(みもり)の私邸を譲り受け、日本初の私学校である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開校し、授業料無料で、貧富の差なく庶民にも、儒教、道教、仏教の総合教育を行い、空海作で我が国初の字典「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」を使い、また、この頃、涅槃(ねはん)経の四句の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」を表した七五調四句四十七文字からなる「以呂波歌(色は匂へど、散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ、有為の奥山けふ越えて、浅き夢見し酔ひもせず)」を作りました。
● 天長 6年 (829)
● 天長 7年 (830) 
●1
淳和天皇の勅に答え「秘密曼荼羅十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻を著した。 
●2 精神の成長過程を詳しく説く主著「十住(じゅうじゅう)心論」を記し、生きながら仏となる「即身成仏」の教義を完成させる。 
●3 諸宗に宗義の大綱を提出させる。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を先述する。 
●4 淳和天皇が勅を下し、仏教各宗の宗義綱要を撰進するように命じたので、空海57歳は、既に書き上げていた「秘密曼荼羅十住(菩薩が修行の過程でふむ52の階段中、第11〜第20までの階位で、発心住、治地住、修行住、生貴住、方便住、正心住、不退住、童真住、法王子住、灌頂住を云う)心論」十巻と、その略述書「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を資料編として献上しましたが、これにより平安仏教が古い南都の諸宗に対して理論的に優位を確認し、以後我が国の思想・宗教・文化が密教を基調として展開するようになりました。
● 天長 8年 (831) 
●1
5月病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。 
●4 悪瘡(あくそう、悪質なできもの)を患い、その経過が思わしくないので、6月14日「大僧都を辞する表」を奉じ、静養を願い出たが、天皇はねんごろな勅答を与えて許さず、でも病はやがて治りました。
 
弘法大師と栃木県

 

弘法大師と栃木県の関わり 
弘法大師は弘仁11年(820)ごろ日光に来たのでしょう。他の寺院の開山時期が大きく前後していますが、同一時期で行脚経路が繋がることを考えれば、他の寺院もこの時期に開山したり、関わりができたと思われます。
  
那須波切不動尊 金乗院 / 那須塩原市沼野田和 大同元年(806) 開山  
 唐から帰朝し、主に九州北部、山口、広島、四国を行脚している > 開山時期? 
東高野山弥勒院 医王寺 / 鹿沼市北半田 大同4年(809) 巡錫 
天開山千手院大谷寺 [大谷観音] / 宇都宮市大谷町 弘仁元年(810) 開山 
 薬子の変が起き、鎮護国家のため大祈祷を行うなど政情不安の時 > 開山時期?  
814年(弘仁元年)、弘法大師が「沙門勝道、山水を歴りて玄珠を螢くの碑(しゃもんしょうどう、さんすいをへ、げんじゅをみがくのひ)」を書き残されました。そこには日光山が補陀洛山(ふだらくさん)、観音の浄土であると書かれています。  
天應2年春3月に勝道上人は、男体山(二荒山)を登頂して山頂に三神を祀りました。空海の遺稿を載せた『性霊集』に「沙門勝道山水を歴りて玄珠を瑩く碑並序」によって知ることができます。この碑が「沙門遍照金剛文并書」とあることによって空海の文及書であることがわかります。ちなみに遍照金剛とは空海の灌頂名です。この『日光山碑』は勝道上人が二荒山(男体山)を開山したことを世に知らしめた最初の文として認識され、書かれたのは弘仁5年(814)となっています。  
赤岩山光恩寺 [赤岩不動尊] / 群馬県邑楽郡千代田町赤岩 弘仁5年(814) 再興開山 
 四国行脚の前年 > 開山時期?   
日光 / 日光市 弘仁11年(820) 来山、滝尾権現・寂光権現を奉る 
 「二荒」を「日光」に改める  
 知多、寿徳寺(埼玉県)、安国寺、満願寺から日光へ行脚経路が繋がる > 日光に来る 
岩崎観世音 [鶴の子観世音] / 日光市岩崎 弘仁11年(820年) 開山  
満願寺 / 栃木市出流町 弘仁11年(820) 参詣  
医王山 安国寺 / 下野市薬師寺 弘仁11年(820) 滞留  
(寿徳寺 / 久喜市上内 弘仁11年(820) 日光の帰路滞留) 
独鈷沢・塩原元湯温泉 / 日光市独鈷沢 天長6年(829) 伝承 
 同時期の行脚経路が繋がらない > 伝承時期? 
名草弁天(名草厳島神社) / 足利市名草上町 年代不明 開基  
佐貫観音院 / 塩谷郡塩谷町 年代不明 ゆかりの寺  
 
[参考] 古道・東山道と東海道
 
 
高野七口

 

弘法大師空海入定以来、大師信仰の広まりとともに、人々の参拝が盛んになり、高野山へ通じる七つの道が高野七口と呼ばれました。 明治5年(1872)まで高野山は女人禁制であったため、女性は高野山へ入れず、七口の各入口にはお籠り堂として女人堂が建てられていました。七つの女人堂を結ぶ道は高野山女人道と言われ、八葉蓮華の峰々をめぐりながら、女性たちは大師御廟に手を合わせたと言われています。
高野街道京大阪道(こうやかいどう きょうおおさかみち) 
京都府八幡市からの東高野街道と、大阪府堺市から下高野街道、中高野街道を合流した西高野街道が、大阪府河内長野市で高野街道京大阪道となり、高野山へ至る参詣道です。この街道は、江戸時代末期になると、圧倒的に利用者が多くなり、旅館や茶屋で賑わうようになりました。道中には堺市の十三里石から始まって不動坂口女人堂まで約一里(4km)ごとに里石(道標)が建っています。橋本市には、石堂丸の物語で知られる高野街道沿いの古刹、学文路苅萱堂があり、人魚のミイラや硯石などの文化財で有名です。また、到着点には、唯一現存する女人堂が残されています。高野山は、弘法大師空海が約1200年前に開創して以来、明治5年まで女人禁制でした。その昔、越後の国に本陣宿「紀の伊国屋」があり、そこに小杉という娘さんがおりました。数奇な人生を送りますが、女人禁制の高野山へ登って来られる女性たちのために不動坂口に籠もり堂を建てたのが、後に女人堂となったということです。
黒河道(くろこみち) 
橋本市の賢堂を起点として国城山を越え、玉川峡を渡り、市平、久保から高野山へ至る古道です。高野山の表玄関である高野山町石道より東に位置することから、橋本市や奈良県方面からの利便性が高かったともいえます。一方、高野山や周辺集落の生活道としても重要な役割を果たしてきました。長い歴史の中で幾多の改良工事が施され、車道(林道)化されたところもあります。しかし、いにしえの街道の原型が多く残されており、沿道の各集落や集落跡、随所に見られる祠や石仏などは悠久の歴史が偲ばれ、多くの魅力を秘めています。文禄3年(1594)高野山青厳寺(現:金剛峯寺)において、山内禁令の能狂言を催した太閤秀吉は、急な雷雨を大師の怒りと感じ、黒河道を馬で駆け下ったという伝説もあります。全行程の中で、3つの峠越えと、起伏の激しいところもありますが、人工林や雑木林、渓流など変化に富む景観も魅力のある、健脚者向きのコースです。
大峰道(おおみねみち) 
大峰口は、高野山の東の入り口であることから東口、あるいは麓の土地の名から野川口とも呼ばれています。一説によると、弘法大師空海はここから初めて高野山に入ったとも言われ、途中には野川弁財天をはじめ、弘法大師空海にちなむ伝説がいくつも残されています。この大峰口を通じて高野山と吉野大峰山を結ぶ高野大峰街道は、「すずかけの道」とも呼ばれ、修験者や巡礼者の往来で昭和初期まで大いに賑わっていました。今でも道沿いには往時を偲ばせる集落や旅館跡などの建物が数多く残り、古街道の面影を訪ねながら山歩きも楽しめる貴重なウォーキングルートとなっています。また、野川弁財天そばには高野豆腐伝承館があり、天然の高野豆腐の生産地として栄えた当時の名物を味わうこともできます。
有田・龍神道(ありだ・りゅうじんみち) 
「龍神道」は、熊野参詣道「中辺路」から北へ分岐し、龍神温泉を経て、南側から高野山を目指す街道で、有田川町清水町からの「有田街道」と辻の茶屋で合流し龍神口へ至ります。合流点の辻の茶屋には昭和28年の水害後まで茶屋があり、高野登りの休憩所として利用されていました。また、龍神道の新子には4軒の宿屋があり、龍神温泉の入浴客や大峯山参りの客で賑わっていました。現在は、民家もあまり見られず、緑の森の中、山に吹く風や降り注ぐ太陽の光に照らされ自然に触れながら散策ができます。途中、防災へリポート付近で西方に見える天狗岳には、昔、天狗がこの山の岩穴に住んでいて高野の弁天岳と往来していたという伝説があります。龍神口近くには「お助け地蔵」があり、お地蔵さまは疲れた旅人を導き、癒してくれることでしょう。境内から眺める夕陽は絶景で、日本の夕陽百選にも選ばれました。
相ノ浦道(あいのうらみち) 
高野槙の産地として知られる高野町相ノ浦地区と高野山を結ぶ街道で、高野七口のうちでは、もっとも利用が少なかったと言われています。江戸時代以前から、近隣からの物資輸送ルートとして利用されましたが、近年では林内道としてその形を留めています。
高野山町石道 
九度山駅(九度山町)〜上古沢駅(九度山町)  
このコースは、南海高野線九度山駅から戦国の名将真田親子隠棲の地「真田庵」に立ち寄り、古くから女人高野として名高い九度山町の名刹「慈尊院」の門をくぐるところからはじまります。慈尊院の裏手丹生官省符神社へ向かう石段の途中に町石道の起点180町石がひっそりと佇み、ここからがいよいよ高野山町石道。しばらく進んだ173町石付近から本格的な登りとなり、紀ノ川の眺望を背後に臨みながら高度を稼いでゆきます。杉林の中を気持ちの良い比較的平坦な地道に入り、一里石を過ぎると「丹生都比売神社」との分岐点である「六本杉峠」へ。ここでは静寂に包まれた天野の里に鎮座する「丹生都比売神社」に是非訪れてみてください。ここから2つのルートのどちらかを選択して町石道に戻った後、南海上古沢駅をめざして一気に下ります。ゴールの上古沢駅周辺は、日本有数の富有柿の産地としても知られています。  
上古沢駅(九度山町)〜壇上伽藍(高野町) 
このコースは、南海上古沢駅から柿畑の中を一気に駆け上がり、町石道に取り付くことから始まります。古峠で町石道に合流後、比較的平坦な尾根道を二ツ鳥居、二里石、笠木峠と進み、「矢立」に至ります。矢立は町石道上の要衝で国道480号との合流点付近に60町石があります。矢立から町石道は、高野山大門に向けての最後の登りにさしかかり、袈裟掛石・押上石・四里石と登って高野山大門へ。険しい町石道を登りきった者を讃えるかのごとき勇壮な大門の姿に、大きな感動を味わっていただけることでしょう。ここ大門を過ぎれば、山内の車道を通って、ゴールの壇上伽藍へは程なくで到着です。  
壇上伽藍(高野町)〜大師御廟(高野町) 
高野山内の二大聖地である「壇上伽藍」と「奥の院」を結ぶルートで、全行程を通じて高野山上の盆地を行く平坦なコースです。壇上伽藍から、高野山真言宗総本山「金剛峯寺」に立ち寄り、高野山内のメインルート沿いに、「苅萱堂」から奥の院参道入口の「一の橋」へと、見所の多いこの区間は時間に余裕を持って歩きたいもの。コースを外れて点在する寺院に参拝しながら進みましょう。一の橋を過ぎるといよいよ奥の院の霊域に。参道の両側には、戦国武将や江戸時代の大名、歴史に名を馳せる高僧を含む、20万基とも40万基ともいわれる墓石が所狭しと立ち並び、この世とは思えぬ幻想的な風景が広がります。最後に弘法大師が生き身のままご入定されているといわれる「弘法大師廟」に参詣すれば、見も心も清められることでしょう。
熊野古道小辺路 / 高野山(高野町)〜水ヶ峰(奈良県野迫川村)  
紀伊半島のほぼ中央部に位置する「熊野古道小辺路」と呼ばれる道は霊場高野山と神域熊野という二大聖地を最短で結ぶ街道で、熊野から高野へ向かう人々はこの道を単に「高野道」と呼んでいたようです。標高1000mを越える険しい峰々を行く「小辺路」は70km を越える距離と、宿泊施設の少なさから相応の準備が必要となりますが、このコースは日帰り感覚でお楽しみいただける区間です。  
高野山からろくろ峠、大滝の集落を通り、高野龍神スカイライン沿いの「野迫川村総合案内所前」まで、若干のアップダウンはあるものの初級者でも充分お楽しみいただけますが、標高が高く、交通機関も不便であるため、充分計画を練ってお楽しみください。水ヶ峰(奈良県野迫川村)〜三浦口(奈良県十津川村)〜柳本橋(奈良県十津川村) / 十津川温泉(奈良県十津川村)〜熊野本宮大社(本宮町) 
弘法大師が開いた祈りの道
高野山町石道は高野七口といわれる高野山の登山道七本のうち、弘法大師空海によって高野山の開創直後に設けられた参詣道で、紀ノ川流域の慈尊院(海抜94m)から高野山壇上伽藍(同815m)を経て高野山奥の院弘法大師御廟に至る高野山への表参道です。  
町石道が開かれた当初、弘法大師は慈尊院から高野山までの道沿い一町約109mごとに木製の五輪卒塔婆を建立したとされます。文永3年(1266)以降は、鎌倉幕府の有力御家人、安達泰盛らの尽力で朝廷、貴族、武士などの広範な寄進により朽ちた卒塔婆に代わって石造の五輪卒塔婆が建立され、ほぼ完全な形で今日に遺されています。  
町石にはそれぞれ密教の仏尊を示す梵字と高野山に至る残りの町数、そして寄進者の願文が刻んであり、巡礼者や僧侶はこの卒塔婆に礼拝をしながら、全長約24km(うち高野山内4km)、標高差700mの道程を一歩一歩、山上に導かれて行ったのです。  
町石道は三十六町一里制にもとづき、古代条里制がほぼ完全な形で遺る遺構であり、聖山・高野山とともに今後も注目を集めることでしょう。
高野山 町石道  
紀ノ川平野から天野の里へ(慈尊院〜丹生都比売神社)  
古くから女人高野として名高い九度山町の名刹、1.慈尊院(じそんいん)の門をくぐるところから高野山町石道が始まります。弘法大師の母君は晩年、讃岐国よりここに移り住み、高野山は女人禁制であったため、山下のこの地より高野山の開創を見守ったといわれます。  
門の左手にある檜皮葺のお堂は秘仏で国宝の弥勒仏を祀る弥勒堂(国重要文化財)です。境内の南にある石段を上ると慈尊院の守護神、2.丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)に至ります。石段の途中右手にひっそりたたずんでいるのが百八十町石五輪卒塔婆、すなわち最初の3.町石です。  
慈尊院、丹生官省符神社、勝利寺を過ぎると、町石道はどんどん急坂となって高度を上げていきます。特に百七十三町石から百六十六町石の上りはゆっくり歩いた方がいいでしょう。  
百六十六町石の西50mには休憩所を兼ねた展望台が整備されています。ここにはあずまやや休憩ベンチ、周辺の展望を解説した写真パネルがあり、紀ノ川平野から東に奈良県・三重県境の高見山(標高1248m)、その東南には高野山の山並みが意外と間近に見えます。  
再び展望台から町石に戻り、この地域で特産の富有柿の畑の中をさらに登っていくと、紀ノ川平野の眺望がますます良くなり、百五十六町石から百五十九町石あたりは紀ノ川河口あたりまで視界が開けています。また春から秋にかけて、町石道周辺ではさまざまな種類の蝶やトンボと出会えるのもここを歩く楽しみのひとつです。  
百五十四町石付近では雨引山(標高477m)との分岐に至り、さらにゆるかやな上りを続けながら百三十七町石から花崗岩の石段を上りきると六本杉峠(天野峠)に至ります。  
町石道はここで直角に左へ曲がります。分岐点の角にあるのは町石ではなく、碑伝形式の板碑で、建治2年(1276)の建立で、法眼泰勝の銘があります。  
町石道に入らず六本杉峠をそのまままっすぐ下っていくと、1.3kmで天野の里の4.石造卒塔婆群(せきぞうそとうばぐん)と5.丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)に至ります。神社の境内には国重要文化財の楼門、本殿があり、神仏習合の信仰で栄えた往時の面影をたどってみるのもよいでしょう。
自然林に囲まれた古道(二ツ鳥居〜大門)  
丹生都比売神社から西へ800m行くと6.二ツ鳥居(ふたつとりい)への登山口にあたる八町坂に至ります。ここから急坂をさらに800m上ると、右に百二十町石、左に二ツ鳥居が見えてきます。  
八町坂に至る途中には7.西行堂(さいぎょうどう)などの史跡が点在しており、時間に余裕があれば左の地図を参考に訪ねてみたいものです。  
峠の端に立つ二ツ鳥居の眼下には、丹生都比売神社と、天野の里が見えています。ここにも展望休憩所があるので、ひと休みするのもいいでしょう。  
町石道は百二十町石から百十五町石までは下りが続きます。百十六町石のやや下方には白蛇明神を祭る8.垂迹岩(すいじゃくいわ)があります。  
百十五町石まで歩くと前方に緑の草原が見えてきます。これはゴルフ場です。町石道はここから八十七町石あたりまで、その中を出たり入ったりしながら通過します。  
途中、水田が見えてきますがここは神田の里で、かつて丹生都比売神社に米を献上する神田があったところもあり、9.応其池(おうごいけ)や10.神田地蔵堂(こうだじぞうどう)があります。  
地蔵堂を過ぎると、それまで植林が中心であった景観が、照葉樹やアカマツに囲まれた爽快な自然林に変化してきます。さらに水田跡が残る八十五町石あたりからはせせらぎの音が聞こえてきます。ここから笠木峠までもうすぐです。  
町石道の道中で最後の集落である矢立まではあと2km足らずに迫り、笠木峠を過ぎると町石道はほとんど下りとなります。七十八町石から七十九町石あたりの路面はすべりやすいので特に気をつけてください。  
矢立に近づくにしたがって、それまで道中でほとんど耳にすることがなかった電車の音や車の音が聞こえてきます。町石道を下り切ると、国道480号との合流点の右手に六十町石があります。道路を横断し、民家と民家の間の舗装路を歩けばほどなく、五十九町石と六地蔵が見えてきます。  
矢立から先、高野山までの間に人家は一軒もありません。いよいよ、聖域の始まりといってもいいでしょう。五十四町石付近にはかつての女人禁制の結界であったと思われる11.袈裟掛け石と押上石(けさがけいしとおしあげいし)があります。  
四十町石手前で車道を横断すると、12.大門(だいもん)まで車と出会うこともありません。ちなみに三十九町石から三十七町石は、現在の町石道とややはずれて、車道沿いに立っています。三十四町石付近から山並みを眺めると、大門の屋根が遠くに見えてきます。旅人がその姿を映したほど光っていたという鏡石、昔の大門があった場所といわれる十一町石を過ぎれば、高野山まであと少しです。
高野山の二大聖地を歩く(壇上伽藍〜奥の院)  
大門から高野山の中心部に向け歩いていくと、左手に大きな杉や槙の林が見えます。西側の杉の木立に囲まれているのが13.壇上伽藍(だんじょうがらん)で、その東隣の高野槙に囲まれているのが高野山真言宗総本山15.金剛峯寺(こんごうぶじ)です。  
壇上伽藍金堂手前の国道沿いに慈尊院側の一町石、弘法大師ゆかりの14.三鈷の松(さんこのまつ)、根本大塔下の愛染堂の前には奥の院側一町石があり、ここが霊場・高野山の中心であることを示しています。町石道はここから蛇腹道を経て金剛峯寺、さらに3km先の奥の院弘法大師御廟へと続きます。  
高野山の街中の町石は、天災や火災などにより壊れたのか、当初のものは残っていません。しかし奥の院境内は大規模な災害にあまり遭遇しなかったため、鎌倉時代の建立当初の古い町石が残っています。  
金剛峯寺から千手院橋の信号を渡ってしばらく、国道371号の看板を目印に右の方へ進むと、16.金剛三昧院(こんごうさんまいん)に至ります。  
奥の院のほうに向かってさらに進んでみると、苅萱道心と石童丸の悲話で知られる苅萱堂が右に見えてきます。ほどなく道路はゆるやかな下り坂になって、二つに分岐します。どちらを歩いても奥の院に行けますが、町石にそってここは左側の旧道をそのまま歩くことにしましょう。  
すると巨大な杉木立と白い橋「一の橋」が見えてきます。ここから弘法大師御廟まで続く全長2kmの参道の周囲一帯が奥の院の聖域です。参道の両側には高さ3〜5mはある巨大な五輪塔が林立し、松平家や上杉家をはじめ、全国の大名の多くがこの境内に墓石を建立しています。そのかたわらには無名の庶民の墓や17.歌碑(かひ)なども点在し、奥の院の墓石の数は20万基とも40万基ともいわれています。燈籠堂の18.貧女の一燈(ひんにょのいっとう)は、貧富の差を乗り越えて高野山、しかも弘法大師のお膝元での供養を強く望んだ庶民の願いを今も受け継いでいます。  
金剛界三十七尊に見立てられた町石は、壇上伽藍から弘法大師御廟の瑞垣内の三十六町石が最後となります。37基目は弘法大師御廟であるともいわれます。  
 
弘法大師  年譜1

 

御誕生  
真魚(まお)さまは、宝亀五年(774)六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)でお生れになりました。讃岐の郡司の家系に生まれたお父さまは佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、お母さまは玉依御前(たまよりごぜん)といいます。その家は信仰心の厚い家柄でした。ある日のこと、お父さまとお母さまが、「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、お母さまのふところに入られる」という夢を同時にみられ、真魚さまがお生れになりました。この真魚さまが後の空海上人(くうかいしょうにん)、弘法大師さまです。真言宗では、このお生まれになった六月十五日を「青葉まつり」と称して、お大師さまのお誕生をお祝いしています。  
捨身誓願(しゃしんせいがん)  
幼年期の真魚さまの遊びは、土で仏さまを作り、草や木を集めてお堂を作ったりして、仏さまを拝むことでした。七歳の時、近くの捨身ガ嶽(しゃしんがだけ)に登り「私は大きくなりましたら、世の中の困ってる人々をお救いしたい。私にその力があるならば、命をながらえさせてください」と仏さまに祈り、谷底めがけてとびおりました。すると、どこからともなく美しい音楽とともに天女が現われ、真魚さまをしっかりとうけとめました。真魚さまは大変喜んで一層勉強にはげまれました。  
都での御勉強  
み仏を拝むのがお好きな真魚さまは、またお勉強もよくできました。十四歳まで讃岐で勉強されましたが、十五歳の時、都(長岡)に出て、叔父さんの儒学者阿刀大足(あとのおおたり)について文章などを学び、十八歳で大学に入られました。しかし、大学で習う儒学を中心とする学問は、出世を目的とするものであり、世の中の困っている人を救うものではなかったので、次第に仏教に興味をもつようになりました。そして、度々奈良の石淵寺(いわぶちでら)の勤操大徳(ごんぞうだいとく)を訪れて、み仏についての尊いお話をお聞きになりました。  
御出家  
世のため、人のために一生を捧げようとして、み仏の道の修行を始められた真魚さまは、まもなく大学を去って、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、あるいは土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所を求めて修行を続けられました。そうして、ついに親戚の反対を押し切って出家することを決心、二十歳の時、和泉国(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)において勤操大徳を師として剃髪・得度し、名を教海(きょうかい)とされたといわれています。のちに如空(にょくう)とあらため、身も心もみ仏のお弟子となられました。  
大日経の感得(だいにちきょうのかんとく)  
二十二歳の時、名を空海(くうかい)とあらためられたお大師さまは、当時の名僧高僧にみ仏の教えを聞きましたが、どうしても満足することができませんでした。そこで奈良の東大寺大仏殿にて「この空海に、最高の教えをお示しください」と祈願されました。すると、満願の二十一日目に「大和高市郡(やまとたけちのごおり)の久米寺東塔の中に、汝の求めている教法がある」という夢のおつげにより、大日経を発見しました。ところが、その大日経にはどうしても理解できないところがありましたが、たずねて教えをこう人は、この日本には一人もいませんでした。そこでついにお大師さまは、唐(中国)に渡る決心をなされました。  
入唐求法(にっとうぐほう)  
唐(中国)に名僧のおられることを聞いたお大師さまは、三十一歳の延暦二十三年(804)七月六日、留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出帆されました。天台宗を開かれた最澄(さいちょう)さまも、このとき唐に渡られました。今日とちがって船も小さく、いくたびか暴風雨にあったすえの八月十日、九死に一生をえて福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着しました。大使が手紙を書きましたが、唐の役人は一行をあやしんで、上陸させてくれません。そこでお大師さまは大使にかわって州の長官に手紙を書きました。長官はその文章と書の立派なことにおどろかれ、「これはただの人ではない」と早速上陸を許されました。その後、皇帝からの使者とともに長安(ちょうあん)の都に上られました。
恵果和尚に師事  
長安の都に入られたお大師さまは、青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚に会いに行かれました。恵果和尚は、正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧でした。恵果和尚はお大師さまに会われるや「我、さきより汝のくるのを知り、待つこと久し」と大層喜ばれ、ただちに灌頂壇(かんじょうだん)に入ることを勧められました。延暦二十四年(805)六・七・八月と三回にわたり灌頂を受法したお大師さまは、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、真言密教の第八祖となられました。恵果和尚はお大師さまに、「真言密教の教法(みおしえ)は、すべて授けた。早く日本に帰って真言のみ法(のり)を広めよ」と遺言なされ、同年十二月十五日、大勢のお弟子にみまもられて、お亡くなりになりました。  
五筆和尚の称号  
亡くなられた恵果和尚の生涯をたたえる碑を建てることになり、弟子四千人の中から、特にお大師さまが選ばれて、その碑文を撰び、書かれました。このことが唐全土に知れわたり、ついに皇帝のお耳に入り、以前王義之(おうぎし)の書があった宮殿の壁に書をしたためるよう、お大師さまに命ぜられました。お大師さまは、五本の筆を両手・両足・口にはさみ、一気に五行の書を書き上げました。その文字の見事なことに深く感心された皇帝は、お大師さまに「五筆和尚」の称号をお贈りになりました。  
御帰朝と飛行の三鈷  
恵果和尚について、真言密教の教法を余すところなく受けついだお大師さまは、大同元年(806)八月、明州(みんしゅう)から日本に帰ることになりました。お大師さまは明州の浜辺に立たれ、「私が受けついだ、教法を広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった「三鈷」を、空中に投げあげました。三鈷は五色の雲にのって、日本に向って飛んで行きました。この三鈷が、高野山の御影堂(みえどう)前の松の枝に留っていたので、これを「三鈷の松」とあがめ、この時の三鈷を「飛行の三鈷」と称しています。  
立教開宗  
真言密教の教法を日本国中に広めるために、明州から船に乗ったお大師さまは、途中何度も嵐にあって、今にも船が沈まんとした時、右手に不動明王の剣印、左手に索印を結び、口に真言を唱えて波をしずめ、大同元年(806)十月、無事九州の博多に帰りつきました。帰朝の御挨拶と共に、「真言密教を日本全国に広めることを、お許し願いたい」という上表文を天皇陛下におくりました。大同四年(809)、都へ上ったお大師さまは、翌弘仁元年(810)、時の帝嵯峨天皇(さがてんのう)に書を奉り、「真言宗」という宗旨を開くお許しを得て、いよいよ真言密教を日本に広め、世の中の迷える人、苦しむ人の救済と、社会の浄化におつくしくださることになりました。  
神泉苑の雨乞い  
天長元年(824)二月、日本中が大日照りとなり、穀物はもとより、野山の草木もみな枯れはてて、農民は勿論のこと、人々の苦しみは大変なものでした。この時、お大師さまは淳和天皇(じゅんなてんのう)の詔により、八人の弟子と共に、宮中の神泉苑で雨乞いの御祈祷をされました。すると、善女竜王(ぜんにょりゅうおう)が現れ、今まで雲一つなく照り続いた大空は、たちまちに曇り、三日三晩甘露の雨を降らせたので、生物はよみがえり、草木は生色をとりもどしました。人々は喜ばれ、お大師さまのお徳を讃え、その法力をあがめられました。  
般若心経を講義  
弘仁九年(818)の春、日本中に悪い病気が流行し、老人も若人も病気になり、国中が火の消えたように、暗い気持につつまれました。時の帝、嵯峨天皇はとても御心配になり、お大師さまを宮中にお召しになって、御祈祷を命ぜられました。人々を救うために、天皇は般若心経一巻を金字で写経して仏前にお供えされ、心経の講釈をお大師さまに命ぜられました。一心に、御祈祷なされると、今まではびこっていた病気はたちまちおさまり、苦しんでいた人たちは元気になって、お大師さまの御徳はいよいよ高くなりました。この時講義なされた内容が、有名な「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」といわれています。
八宗論、大日如来のいわれ  
弘仁四年(813)正月、嵯峨天皇はお大師さまをはじめ、仏教各宗の高僧を宮中へ招き、仏教のお話を聞かれました。当時の奈良の仏教では「長い間修行しないと仏様にはなれない」といってきましたが、お大師さまは「人はだれでもこの身このままで仏様になることができる(即身成仏 そくしんじょうぶつ)」と説かれました。奈良の高僧は即身成仏の教法を信じなかったので、お大師さまは、手に印を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を念じました。すると、たちまちそのお体からは五色の光明が輝き、頭上に五智の宝冠を頂き、金色の蓮台に坐した大日如来となられました。今まで非難していた高僧もお大師さまを拝まれ、天皇さまの信仰もいよいよ厚くなりました。  
綜芸種智院といろは歌  
お大師さまの当時、貴族の学校はありましたが、一般の人たちが勉強する学校はありませんでした。お大師さまは、だれでも勉強できるように、天長五年(828)十二月、京都に綜芸種智院という学校をお創りになられました。また、当時学校で習う文字は、ほとんど漢字で小さい子供たちには、読み書きはむずかしかったので、お大師さまは、子供たちにもわかるやさしい言葉で、お釈迦さまの「四句の偈(しくのげ)」を、四十八文字の仮名文字にして教えられました。有名な「いろは歌」がそれですが、お大師さまがお作りになったと長く語りつがれてきました。  
四国八十八ヵ所の開創  
お大師さまは若い頃、阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽や、土佐(高知県)の室戸崎で御修行されました。その因縁で四十二歳の時、阿波、土佐、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)の四カ国を御遍歴になり、各地でいろいろな奇蹟、霊験をお残しになり、お寺やお堂を建立されて、四国八十八ヵ所の霊場が開かれました。お大師さまの同行二人(どうぎょうににん)の御誓願を体し、御遺跡をしたって、お四国詣りをする人々が今は、年々数十万人にものぼり、悩み苦しむ人々が御利益をいただいておられます。  
満濃の池完成の事  
讃岐国(香川県)に、周囲16キロメートルに及ぶ満濃の池があり、雨の少ない讃岐では、田畑をうるおすのに大切な池でありますが、国の役人や、技師が何千人という人を使って何度改築しても、ちょっと雨が降ったり、風が吹くと堤防が決壊するので、農民たちは困っておりました。弘仁十二年(821)天皇は太政官符(だじょうかんぷ)を下し、土木技術にも秀れていたお大師さまに、満濃の池改築の責任者を依頼されました。お大師さまが讃岐へ着任されると、そのお徳をしたって多勢の人々が改築工事に加わり、僅か三ヶ月程で難工事は完成し、大風雨にも決壊しなくなりました。今でも、この地方の人はこのお蔭を喜んでおります。  
東寺御下賜  
お大師さまは大同四年(809)から高雄山寺(たかおさんじ)に住まわれ、真言密教を弘められました。しかし、高雄山寺では不便なことも多く、また、狭く感じるようになりました。お大師さまは弘仁十四年(823)正月、嵯峨天皇から京都の東寺を給預されました。お大師さまは、この御恩に応えるため、東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と称して、皇室の安泰を祈願され、また真言密教の弘通に努められました。  
応天門の額  
ある時、宮中諸門の額の字を書くよう命令が出されました。お大師さまは「応天門」という字を書いて額を掲げました。かけおわって下から額をみますと、「応」という字の第一の点がぬけております。いまさら額をおろすのも大変だし、登って書くこともできず、皆困りはてました。しかし、お大師さまは少しもあわてず、下から墨をつけた筆を投げられたところ「応」の第一点のところに命中し、立派な点が打たれたので、皆その神技に感心した、といわれています。「弘法も筆のあやまり」という諺があります。まさか、お大師さまが文字の最初の点を忘れることは考えられませんが、「弘法は筆を選ばず」などと共に、お大師さまの書芸のすばらしさを讃えた話の一つでしょう。
御修法(みしほ)  
お大師さまはつねづね天皇陛下の御健康と、国民一人一人が幸せになり、世の中が平和になるようにと、祈念しておられました。このことを末永く伝えるため、正月八日から七日間、御修法という御祈祷会を修され、結願の日(けちがんのひ)には、お大師さまが親しく、天皇陛下の御玉体(ごぎょくたい)に加持香水をそそがれました。この尊い法会は承和二年(835)正月からはじめられ、お大師さま御入定(ごにゅうじょう)後も、毎年かかさず続けられております。  
高野山御開創(1)  
お大師さまは真言密教を広める根本道場を開くために、適当な場所を求めて、各地を巡錫(じゅんしゃく)しておられました。ある日大和国(奈良県)宇智郡(五條付近)で、白黒二匹の犬をつれた狩人に出会い「どこに、行かれる」とたずねられました。そこでお大師さまは「伽藍を建てるのにふさわしい場所を求めて歩いています」と答えられました。すると狩人は、「ここから少し南の紀州(和歌山県)の山中に、あなたの求めているよい場所があります。この犬に案内させましょう」といって、そのまま姿がみえなくなりました。この狩人が、今日高野山におまつりされている狩場明神(かりばみょうじん)であるといわれています。  
高野山御開創(2)  
お大師さまは、白黒二匹の犬に案内されて高野山に登る途中、丹生明神(にゅうみょうじん)のお社のところまで来られました。すると、明神さまが姿を現わされて、お大師さまをお迎えし、「今菩薩がこの山にこられたのは全く私の幸せです。南は南海、北は紀ノ川、西は応神山の谷、東は大和国(奈良県)を境とするこの土地をあなたに永久に献上します」とつげられました。お大師さまは、この丹生明神と、さきの狩場明神の御心持に報いるために、二柱の神を高野山の地主の神様としておまつりになりました。今の伽藍のお社がそれであります。  
高野山御開創(3)  
高野山に登られたお大師さまは、「山の上とは思われない広い野原があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ真言密教を広めるのに適したところだ」とお喜びになられました。しかも、お大師さまが唐(中国)で御勉強の後、帰国に際して、明州の浜辺から投げられた三鈷が、この高野山の松の枝にかかっていました。お大師さまはこの場所こそ私が求めていた土地だと、早速、真言密教の根本道場に定められました。弘仁七年(816)、朝廷に上表して、嵯峨天皇からも許可を賜り、多勢のお弟子や職人と共に、木を切り、山を拓いて、堂塔を建て、伽藍を造られました。  
御遺告(ごゆいごう)  
お大師さまは、高野山を真言密教の根本道場と定められ、約二十年の間御苦心され、高野山を中心に、全国に教法を広められ、上は天皇をはじめ、老若男女の苦しめる者、悩める者に救いの法益を施されました。お大師さまは、早くから限りある肉身で生きるよりも、永遠の金剛定(こんごうじょう)に入って、未来永遠に迷える者、苦しめる者を救うために、御入定をお考えになり、承和元年(834)、多勢のお弟子を集めて御諭しをされました。  
御入定  
お大師さまは、六十二歳の承和二年(835)三月二十一日、寅の刻を御入定のときと決め、のちのちのことを弟子たちにのべつくされました。御入定の一週間前から御住房中院(ごじゅうぼうちゅういん)の一室を浄め、一切の穀物をたち、身体を香水で浄めて結跏趺坐(けっかふざ)し、手に大日如来の定印を結び、弥勒菩薩の三昧に入られました。御入定から五十日目に、お弟子たちはお大師さま御自身がお定めになった、奥之院の霊窟にその御定身を納められました。お大師さまは、天長九年(832)の万灯・万華会の願文に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されています。つまり、「この宇宙の生きとし生けるものすべてが解脱をえて仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」との大誓願を立てられました。  
諡号奉賛(しごうほうさん)  
お大師さまが御入定されてから八十三年後の延喜十八年(918)、寛平法皇(かんぴょうほうおう)は、醍醐天皇に「お大師さまに大師号を賜りたい」と願い出られ、さらに観賢僧正(かんげんそうじょう)も上表されましたが、勅許されませんでした。延喜二十一年(921)十月二十一日の夜、天皇の夢枕にお大師さまがお立ちになり、「吾が衣弊くちはてり、願わくは宸恵(しんけい)を賜らんことを請う」といわれました。すなわち、「衣が破れているので、新しい御衣をいただきたい」とおつげになったのです。そこで、桧皮色の御衣を賜ると同時に、「弘法大師」という諡号(おくりな)を賜りました。十月二十七日、勅使少納言平維助卿(ちょくししょうなごんたいらのこれすけきょう)が登山し、御廟前(ごびょうぜん)にて、詔勅奉告(しょうちょくほうこく)の式が執行われました。  
御衣替  
観賢僧正は、「弘法大師」の諡号をいただいたのち、天皇から御下賜の御衣を奉るため、高野山に登られました。そうして、御廟前に跪いて礼拝し、弟子の淳祐(しゅんにゅう)に御衣を捧げさせて、御廟の扉を開きましたが、お大師さまの御姿を拝することができませんでした。観賢僧正はご自分の不徳をなげき、一心に祈られました。すると、立ちこめた霧が晴れるようにお大師さまが御姿を現わされ、御衣をお取りかえ申し上げることができました。これ以来、今日にいたるまで毎年三月二十一日、御衣替の儀式が行われております。
さまざまな大師信仰
入定信仰(にゅうじょうしんこう) 
921年、醍醐天皇はお大師さまに「弘法大師」の諡号(しごう)を贈られました。この時、東寺長者の観賢(かんげん)はその報告のため高野山へ登られました。奥之院の廟窟を開かれたところ、禅定に入ったままのお大師さまに出会われ、その姿は普段と変わりなく生き生きとされていたと伝えられています。この伝説からお大師さまは、今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという入定信仰が生まれました。この入定信仰は、1027年に藤原道長(ふじわらみちなが)が高野山に登山してから急速に広がったとされています。その情景を「有りがたや、高野の山の岩蔭に大師はいまだ在(おわ)しますなる」と詠んだ歌が今も伝えられています。なお、高野山では毎月21日にお大師さまの御廟へ参拝する「廟参日」として、報恩の法会・儀式はもちろんのこと、たくさんの方々が御廟前へお参りされます。  
遍路巡拝と同行二人(どうぎょうににん) 
四国各地の、お大師さまの旧蹟を尋ねて、遍路修行を行うことです。昔は、お寺に札所番号はなく、大師ゆかりの史跡を巡り、木札や金のお札をお寺の建物に打ちつけて、お参りの証にしていたそうです。したがって現在でも、札所を巡ることを「打つ」と呼ばれる方もいます。近世になって、八十八ケ所の番号と札所が固定しました。全行程約1,450キロメートル、徳島県を発心の地、高知県を修行の地、愛媛県を菩提の地、香川県を涅槃(ねはん)の地として、四国を一周する遍路巡拝は、一人で巡拝するのであっても、お大師さまと共に心身をみがき、いつもお大師さまと共にあるという「同行二人」の精神が培われました。そのありさまは「あなうれし、行くも帰るもとどまるも、我は大師と二人連れなり」と詠われています。  
四国遍路のはじまりは、愛媛県荏原の郷に住む衛門三郎という人物であると伝えられています。衛門三郎は大変裕福な長者でしたが、非常に強欲非道な人物として有名でした。そこへ一人の薄汚れた修行僧が喜捨を乞いにやって来ました。誰であろう、その人はお大師さまでした。ところが、再三喜捨を乞いに訪れたお大師さまを、口汚くののしり、しまいにはお持ちになっていた鉄鉢(てっぱつ)を取り上げて、叩き割ってしまいました。それ以降、その修行僧はぷっつりと姿を見せなくなりました。しかし、しばらくたちますと衛門三郎の8人の子供たちが次々に不幸に襲われ、亡くなってしまいます。そして、「この前、喜捨を乞うた修行僧は四国を巡って修行している空海(くうかい)さまではないか」とのお話を耳にします。その時、衛門三郎は「自分自身が強欲非道で喜捨をしようとせず、さらには空海さまの鉄鉢を叩き割ってしまった。子供たちが不幸にあったのも、自分の犯した罪への天罰にちがいない」と悟ったのでした。そして、お大師さまにお会いしてお詫びをするため、財産を様々な人達へ喜捨し、自らはお大師さまの後を慕って、四国を巡拝したというのが始まりなのだそうです。  
九度山町石道(くどやまちょういしみち) 
古くから高野山へ向かう道は幾本もありました。それらの道は山に近付くにつれて合流し、七つの道に集約されていきました。これを高野(こうや)七口と呼んでいます。この七口のうち、九度山の慈尊院から山上の大門へ通じる参道を「町石道(ちょういしみち)」といい、お大師さまが高野山を開創された折、木製の卒塔婆を建てて道標とした道とされています。また、慈尊院にはお大師さまの御母公がお住みになっており、御母公へ会うために月に9回はこの道を通って下山しておられたことから、慈尊院周辺地域の地名が「九度山」となったともいわれています。時代が経つにつれ木製の塔婆の損壊は激しくなり、鎌倉時代に高野山遍照光院の第九阿闍梨、覚きょう僧正(かくきょうそうじょう)が再建を訴え、後嵯峨上皇や北条時宗(ときむね)などの権力者による援助を受けて、朽ちはてた木にかわって石造りの五輪塔婆形(ごりんとうばがた)の町石が一町(約109メートル)ごとに建てられるようになりました。この町石は根本大塔を起点として慈尊院まで180町石が建立されて胎蔵界曼荼羅の百八十尊を表し、更に大塔から奥之院まで36町石が建立されて金剛界曼荼羅三十七尊として両界曼荼羅の世界を象徴し、さらに36町ごとに里石(4本)も建てられ、約20年の歳月をかけて完成されたと伝わっています。また、各時代の天皇、上皇さまの御行幸をはじめ、多くの信者さまが一町ごとに合掌しながら登山され、信仰の道として親しまれました。 
弘法大師  年譜1  〜791年(延暦11年)18歳  
774年(宝亀5年)6月15日讃岐国(さぬきノくに、香川県)多度郡(たどノごおり)屏風浦(びょうぶがうら)の「善通寺(ぜんつうじ)」で生まれ、父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通(よしみち)、母は阿刀(あと)氏の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、兄二人は幼少に他界し、三男空海は幼少の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家)の跡取として育てられ、幼名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。なお、6月15日は密経経典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六祖「不空(ふくう)三蔵」が入滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。  
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777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳頃の空海は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国の時に遭難死しました。  
780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思います。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。  
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781年(天応元年)空海8歳の春、4月15日平城京で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わり、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王が立太子に立ちました。  
■■ 
784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(≒12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると3町(≒327m)の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として記載されていますが、この頃、平城京からの遷都(せんと)が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。  
785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親が同じ夢を見、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生まれた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄(さいちょう)19歳が東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が山城国(やましろノくに、京都府長岡京市)「乙訓寺(おとくにでら、現在ボタンの名所)」へ幽閉され、自ら食を断ち、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋付近で餓死しました。  
■■ 
788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃(かんばつ)が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社に黒駒を奉じて祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あとノおおたり)に論語・孝経・史伝などの漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めていました。  
■■ 
791年(延暦11年)空海18歳は、当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学びましたが、また、ある沙門(しゃもん)の一人から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう、もし人がここに示した修法によりこの真言を百万遍誦ずれば一切の教法文義を暗記する事ができると書かれている)を授けられ、大学を退学して、私度僧になり、阿波(徳島)の太瀧嶽(だいりょうだけ)などで求聞持法を行じ、土佐(高知)室戸岬の洞窟で、夜を徹して一心不乱に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の真言(しんごん、悟りを得る一種の呪文)を唱えていたら、夜明け前に太平洋の彼方から明星(みょうじょう、虚空蔵菩薩の化身)が飛来し、阿(あ)と叫ぶと、口より体内に飛び込みました。なお、吉野の大峯山や、伊予(愛媛)の石鎚山(いしづちさん)などでも修行をしましたが、いずれも何故だか水銀や金、銀、銅などが産出する地で、また、「弘法穴」と云えば、炭窯の煙を出す穴のことで、空海が考案しました。  
 
弘法大師  年譜2

 

弘法大師略年譜  
宝亀五年(774) / 1歳 この年、讃岐国多度郡(さぬきのくにたどのごおり)に生まれる。幼名真魚(まお)。父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)。母は阿刀(あと)氏。  
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延暦七年(788) / 15歳 この頃、叔父阿刀大足(あとのおおたり)について、論語・孝経・史伝・文章等を学ぶ。一説にこの年長岡京に上がる。  
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延暦十年(791) / 18歳 この年、大学明経科に入学し、岡田博士らについて「毛詩」「尚書」「春秋左氏伝」等を学ぶ。この頃、一人の沙門(一説に勤操 ごんぞう)から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)を授けられ、以後阿波国大瀧ガ嶽(あわのくにたいりゅうがだけ)、土佐国室戸崎(とさのくにむろとのさき)などで勤念(ごんねん)修行をする。  
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延暦十六年(797) / 24歳 十二月一日、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」一巻を著し、儒教・道教・仏教の優劣を論ず。のちに「三教指帰(さんごうしいき)」と改題する。  
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延暦二十三年(804) / 31歳 四月七日、出家得度する。  
   五月十二日、遣唐大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)と同船して難波を出帆する。  
   十二月二十三日、長安に到着する。  
延暦二十四年(805) / 32歳 二月十一日、空海、西明寺に移る。  
   六月〜八月、青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院灌頂(かんじょう)道場において恵和和尚(けいかかしょう)から胎蔵・金剛界・伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を受ける。  
   十二月十五日、恵和和尚、入寂、年六十。  
延暦二十五年(806) 大同元年[五月改元] / 33歳 八月、明州を出発し、帰国の途につく。  
   十月二十二日、高階遠成(たかしなのとおなり)に託して留学の報告書「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出する。  
■■ 
大同四年(809) / 36歳 七月十六日、平安京に入る許可が下がる。  
   八月二十四日、最澄、密教教典十二部の借覧を願う。  
弘仁元年(810) / 37歳 十月二十七日、高雄山寺(たかおさんじ)において鎮護国家のために修法せんことを請う。  
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弘仁三年(812) / 39歳 十一月・十二月、高雄山寺において、金剛界・胎蔵結縁灌頂を最澄らに授ける。  
弘仁四年(813) / 40歳 十一月、最澄の「理趣釈経(りしゅしゃっきょう)」借覧の求めに対して、断りの答書を送る。  
■ 
弘仁六年(815) / 42歳 四月一日、弟子康守(こうしゅ)、安行(あんぎょう)らを東国の徳一、広智(こうち)らのもとに遣わし、密教教典の書写を依頼する。  
弘仁七年(816) / 43歳 六月十九日、修禅の道場建立のために高野山の下賜を請う。  
   七月、高野山の地を賜う。  
■ 
弘仁九年(818) / 45歳 一説に、悪疫流行により、「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」を表す。  
■ 
弘仁十一年(820) / 47歳 十月二十日、伝灯大法師位(でんとうだいほっしい)に叙せられ、内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)に任ぜられる。  
弘仁十二年(821) / 48歳 五月二十七日、讃岐国満濃池(まんのういけ)の修築別当(しゅうちくべっとう)に任ぜられる。  
弘仁十三年(822) / 49歳 二月十一日、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立すべき勅が下がる。  
弘仁十四年(823) / 50歳 一月十九日、一説に、東寺を給預される。  
天長元年(824) / 51歳 三月二十六日、少僧都(しょうそうず)に任ぜられる。  
   六月十六日、造東寺別当(ぞうとうじべっとう)に任ぜられる。  
天長二年(825) / 52歳 四月二十日、東寺講堂の建立に着手する。  
■ 
天長四年(827) / 54歳 五月二十六日、内裏において祈雨法(きうほう)を修する。  
   五月二十八日、大僧都(だいそうず)に任ぜられる。  
天長五年(828) / 55歳 十二月十五日、庶民のために綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立する。  
■ 
天長七年(830) / 57歳 この年、諸宗に宗義の大綱を提出させる。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」十巻、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を先述する。  
■ 
天長九年(832) / 59歳 八月二十二日、高野山において、万灯万華会(まんどうまんげえ)を修する。  
■ 
承和元年(834) / 61歳 十二月二十九日、御七日御修法(ごしちにちみしほ)の勅許下る。  
承和二年(835) / 62歳 一月二十二日、真言宗に年分度(ねんぶんどしゃ)者三人を賜う。  
   二月三十日、金剛峯寺が定額寺(じょうがくじ)となる。  
   三月二十一日、高野山においてご入定(にゅうじょう)、年六十二、臈(ろう)三十一。  
延喜二十一年(921) / 十月二十七日、観賢(かんげん)の奏請により、弘法大師の諡号(しごう)を賜う。
高野山真言宗の年表  
弘仁七年(816) / 六月十九日 弘法大師、高野山の下賜を請う  
   七月八日 高野山開創の勅許を賜る  
弘仁九年(818) / 弘法大師、勅許後始めて高野山に登る  
弘仁十年(819) / 弘法大師、高野山上七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手し、はじめに明神社を建立する  
承和二年(835) / 三月二十一日 弘法大師、高野山奥之院にご入定  
元慶七年(883) / 真然が陽成天皇に高野山参詣による罪障消滅と弥勒の救済の功徳を説きすすめる  
昌泰三年(900) / 宇多法皇、高野山参詣  
延喜十九年(919) / 観賢、東寺と金剛峯寺座主を兼務する  
延喜二十一年(921) / 弘法大師号を賜る   
 
弘法大師  年譜3

 

民衆教化と天皇からの厚い信頼  
弘法大師は、嵯峨・惇和・諸天皇の三代にわたる天皇家からの依頼で国家安泰の修法を勤めました。  
しかし、その一方で、諸国を巡って人々の苦悩を解決し、有名な満濃池を修築し、文化の恩恵を受けない大衆のために、綜芸種智院を開かれ、民衆教化を進められた。それは、貴族やお金持ちの子弟だけが学ぶところではなく、文化の恩恵を受けることができなかった大衆の教化に努めたのでした。  
しかも、大師は都に留まることを望まず、やがて人里を遠く離れた高野山に移り、真言密教をそこで大成されました。  
(紀伊国伊都郡高野の峰にして入定の処を請け乞うの表)  
(前略)「空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向かって去ること両日程、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに、紀伊国伊都郡の南に当る。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。今、思わく、上は国家のおんためにして、  
弘法大師の生涯  
弘法大師は、宝亀五年 (七七四)年六月十五日、讃岐の国の屏風ケ浦に生まれ、幼名を真魚 (まお)と言われました。  
父の名を佐伯直田公 (あたいたぎみ)と言い、佐伯氏はこの地を治めた豪族でした。母親の玉依 (たまより)は阿刀氏の出であり、叔父の阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王の儒学の侍講(師)でした。大師は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていました。  
若き日の大師の苦悩と決意  
大師は十八歳のときに、大学の明経科の試験に合格して大学博士岡田牛養に春秋左氏伝等を、直講味酒浄成に五経等を学んだのです。明経科は正統儒教を教える学科でした。  
しかし、大学は若い大師を満足させませんでした。   
高級官吏として大師が立身出世することを望んだ一門の人々の期待にそむくけれども、儒教や漢文学は大師の高遠な理想から離れていたのです。  
大師の心は仏教に傾きます。しかし、官寺の僧としての学問を望まず、人里を離れた山林に修行する道にひかれたのです。  
その時の大師の苦悩と決意が『三教指帰』に書かれています。  
「夫れ父母覆育提挈すること慇懃なり。その功を顧みれば、高きこと五岳に竝び、其の恩を思へば、深きこと四涜に過ぎたり。」  
(大切に私を養育してくれた父母の苦労は五山のように高く、そのご恩は江・河・淮・済の四河よりも深いのです。骨身に刻みつけております。どうして忘れることができましょう。)  
しかし、両親への恩、国王への恩よりも、ひろく人びとに慈愛を及ぼす大きな孝行があると大師は考え、ついに仏道修行の道を選ばれました。  
「世間の父母は但一期の肉親を育ふ。国王の恩徳は凡身を助く。若し能く生死の苦を断じ、涅槃の楽を興ふるは三宝の徳。」  
「僕聞く、『小孝は力を用い、大孝は匱しからず』と。」  
(『小さい孝行は体を使ってするが、大きな孝行はひろく人びとに慈愛を及ぼし、不足のないようにすることである』と聞いている。)  
山林に修行する  
大師は大学を中途退学し、最高の覚りを求め仏道修行をはじめました。  
『三教指帰』には、吉野金峯山や四国の石鎚山にのぼって苦行したことを述べています。  
「或るときは金巌(金峯山つまり吉野の修験道の山々)に登って雪   
に遇うて困窮した。或るときは石峯(石鎚山)に跨つて糧を断つて轗軻(死ぬ程の苦の目に合う)た。・・・霜を払つて蔬を食ふ、遥かに子思の行に同じ。雪を掃うて肱を枕とす。還つて孔(孔子)の誡に等し。青空は天に張つて房屋を労せず。白雲は、嶽に懸つて幃帳を営まず。・・・」  
大師は大学を中途退学し、大自然の懐で修行をはじめました。そのきっかけは、一人の沙門から虚空蔵聞持法を伝授されたことでした。  
「時に一沙門有り。虚空蔵求聞持法を呈示す。其の経に説く。若し人法に依りて此真言一百萬遍を読めば、即ち一切経法の文義の暗記を得ん。是に於て大聖の誠言を信じ、飛焔を鑽燧に望み、阿波國大瀧之獄にはんせいし、土佐國室戸之崎に勤念す。幽谷は聲に応じ、明星は影を来す。」  
山中に篭もり、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ)を百万遍唱えれば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得ることができる。という教えを聞き、大師は太龍の岳や室戸岬に篭もりました。  
「大聖仏陀の神聖な言を信じ、木鑽によって火をおこす時のように休まずに努力し、阿波国の太龍寺(徳島県阿南市加茂町丹生谷)の山にのぼり、土佐の室戸崎(高知県安芸郡室戸崎)に修禅した。幽谷は私の声に応じて響き、明星は空に出現した。」  
太龍の岳は四国の深い山の中にあります。捨心岳からは淡路島本州を望める高台であり、室戸岬は太平洋の怒涛の激しい絶勝の地です。  
大師は山岳で苦行練行する近士(ウバソク)として虚空蔵求聞持法を行い、自然の中に宇宙の生命と交流し、大日如来と入我我入し、仏教の真髄を極めようとしたのでした。  
遺告諸弟子等にいう。「近士(ウバソク)と成って名を無空とす。名山絶之処、嵯峨孤岸の原、遠然として独り向ひ、淹留苦行す。或ひは阿波の大瀧嶽に上って修行し、或ひは土佐戸門崎に於て寂暫す。心に観ずるときは明星口に入り、虚空蔵の光明照し来て菩薩の威を現わし、仏法の無二を現ず。厥の苦節は則ち厳冬の深雪には藤衣を被て精進の道をし、炎夏の極熱には穀を断絶して朝暮に懺悔すること二十の年に及べり。」  
その後大師は、奈良の諸寺院で仏教研鑽を積まれました。  
父方の佐伯氏の氏寺である佐伯院が東大寺内にあったので、そこで学ばれたのでした。  
大師が入唐し帰朝後に朝廷に提出した請来目録に見える経論は新渡来書ばかりでした。それ以前に日本に伝わっていたものを含まないことから、大師が当時日本にあった仏教典籍を知悉していたことがわかります。  
入唐求法の志   
大師は三十歳の時に大和の久米寺の東塔の下に大日経を発見されました。(弘法大師遊方記による)  
しかし、密経の精要である大日経を探し当てたものの、真言独特の象徴や梵字などのためにその意味するところを理解するのが容易でないから、遂に入唐求法の志をおこしたのです。  
「吾仏法に従って常に要を求め、尋ねるに三乗五乗十二部経、心に疑いが残り、決をなさず。唯願わくば三世十法の諸仏、我に不二を示せと一心に祈れば、夢に人有り。告げて曰く。ここに経有り。名字は大毘盧遮那経これ即ち求む所。・・・大和の国高市郡久米寺の東塔の下に有り。」  
そこでまず大師は、東大寺戒壇院において元興寺僧泰信について具足戒をうけたのです。(延暦二十三年四月)  
そして、延暦二十三年(八〇四)大師は朝廷から入唐留学を命じられました。  
大師は葛野麻呂の第一船にのった。大師と同行した人に橘逸勢、最澄(後の伝教大師)がありました。  
大師空海は三十一歳無名の僧でした。  
四船が出帆したものの、暴風雨に会い、第三船と第四船が行方不明となり、大師の乗った第一船ははるか南に押し流されて福州についた。そして苦難の末、唐の都に辿り着きます。  
唐の青龍寺で大師は、恵果和尚に遭われました。  
不思議なことに、恵果和尚にお目にかかった時、恵果和尚は笑って  
「我先より汝の来るを知り相待つこと久し」  
(私はおまえが来ることをずっと前から知っていた。なんと遅かったことか)」  
と言われ、西明寺の志明、談勝ら五、六人と共にいた大師一人を指して、まるで以前からの知り合いのように語りかけられたといいます。  
六月に恵果和尚を師として胎蔵曼荼羅壇に入り投花は中台大日如来に附著し、七月上旬金剛界曼荼羅壇に入り花を投げると再び大日如来の上におちたので、和尚は驚歎した。  
両部の大法を授けたのは中国の義明と日本の空海沙門だけでした。  
和尚は八月に伝法阿闍梨位の灌頂を授けた後に、宮廷画家李真ら十余人を召して胎蔵金剛両部曼荼羅など十鋪を描かせ、また写経生二十余人をして大日経、金剛頂経等の密経経典論疏等を書写させ、鋳金博士趙呉を呼んで新たに法具十五点を造らせたのです。  
早く、日本へ帰り密教を広めるように和上より大師は勧められます。「如今此土の縁盡きぬ。久しく住すること能はず。宜しく此の両部大曼荼羅、一百餘部の金剛乗法、及び三蔵轉付之物竝に供養の具等、請ふ本郷に帰りて海内に流伝すべし。纔に汝の来れるを見て命の足らざるを恐る。今則ち授法在る有り。経像の功畢んぬ。早く郷國に帰て以て國家に奉じ天下に流布して蒼生(人民)の福を増せ。然らば則ち四海泰く萬人楽まん。是則ち仏恩に報じ帰徳に報ず。國の為には忠也。家に於ては孝也。義明供奉は此処にて伝へよ。海は其れ行け矣。之を東國に伝へよ。」と。  
大師は中国に留学した主な目的はほぼ達し、最初の予定を変更して早く帰れという師の指示に順って、早く帰国することになりました。密教経論の読誦と写経に寝食を忘れて努め、密教法具、曼荼羅図像を集めた。  
古来日本からの入唐留学生は多かったが、インドの阿闍梨に教をうけたのは大師だけである。大師はサンスクリット語および悉曇書についても教えられたのです・  
大師は帰朝してすぐ京都に行かずに筑紫や、和泉で滞在し翌年朝廷に召されて入京されましした。  
 
弘法大師 年譜4

 

774年(宝亀5年)6月15日讃岐国(さぬきノくに、香川県)多度郡(たどノごおり)屏風浦(びょうぶがうら)の「善通寺(ぜんつうじ)」で生まれ、父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通(よしみち)、母は阿刀(あと)氏の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、兄二人は幼少に他界し、三男空海は幼少の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家)の跡取として育てられ、幼名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。なお、6月15日は密経経典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六祖「不空(ふくう)三蔵」が入滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。  
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777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳頃の空海は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国の時に遭難死しました。  
■■ 
780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思います。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。  
781年(天応元年)空海8歳の春、4月15日平城京で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わり、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王が立太子に立ちました。  
■■ 
784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(≒12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると3町(≒327m)の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として記載されていますが、この頃、平城京からの遷都(せんと)が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。  
785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親が同じ夢を見、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生まれた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄(さいちょう)19歳が東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が山城国(やましろノくに、京都府長岡京市)「乙訓寺(おとくにでら、現在ボタンの名所)」へ幽閉され、自ら食を断ち、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋付近で餓死しました。  
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788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃(かんばつ)が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社に黒駒を奉じて祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あとノおおたり)に論語・孝経・史伝などの漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めていました。  
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791年(延暦11年)空海18歳は、当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学びましたが、また、ある沙門(しゃもん)の一人から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう、もし人がここに示した修法によりこの真言を百万遍誦ずれば一切の教法文義を暗記する事ができると書かれている)を授けられ、大学を退学して、私度僧になり、阿波(徳島)の太瀧嶽(だいりょうだけ)などで求聞持法を行じ、土佐(高知)室戸岬の洞窟で、夜を徹して一心不乱に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の真言(しんごん、悟りを得る一種の呪文)を唱えていたら、夜明け前に太平洋の彼方から明星(みょうじょう、虚空蔵菩薩の化身)が飛来し、阿(あ)と叫ぶと、口より体内に飛び込みました。なお、吉野の大峯山や、伊予(愛媛)の石鎚山(いしづちさん)などでも修行をしましたが、いずれも何故だか水銀や金、銀、銅などが産出する地で、また、「弘法穴」と云えば、炭窯の煙を出す穴のことで、空海が考案しました。 
 
793年(延暦12年)空海20歳が、和泉国(いずみノくに、大阪府)「槙尾山寺(まきのおさんじ、現在の施福寺、西国三十三ヶ所、第4番札所)」で剃髪(ていはつ)して出家し、高円山の麓にあった岩淵寺で、三論宗の勤操(ごんそう)僧正により得度して、大安寺、元興寺、興福寺、西大寺などで南都六宗(三論・成実・法相・倶舎・律・華厳)の経典を学ぶと、翌年(延暦13年)10月長岡京が未完のまま放置され、平安京へ遷都されました。  
 
795年(延暦14年)空海22歳は、東大寺で「華厳経(けごんきょう)」、「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」などを学び、また、十輪院で朝野宿禰魚養(あさのノすくねなかい)から書を学びました。  
796年(延暦15年)「羅城門」の東に王城鎮護のための官寺「教王護国寺(後に空海が譲り受ける東寺)」と「西寺」が創建され、4月9日この時は空海が退学していた大学寮の上空に5、6羽の不思議な鳥が飛来し、その内の1羽が寮の南、門前に落ちたので、捕まえてよく見ると、鵜の様な鳥で、毛は鼠に似て、背に斑(まだら)な毛があったが、誰も名を知らなかったと、「日本後紀(にほんこうき)」に記載されています。  
797年(延暦16年)空海24歳は、三教(孔子の儒教、老子の道教、釈迦の仏経)の優劣を論じた我が国最古の戯曲、国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき、空海の真蹟本として高野山に現存)」一巻を「秦楽寺」で、暑い夏にうるさい蛙を黙らせ、年も押し詰まった12月1日やっと書き上げましたが、この処女作は後の入唐時に持参し、帰国後に序文を改め、十韻の詩の韻(いん)のふみ方など字句を修正して三巻に分けられ、登場人物5人で、三幕一場を構成し、三教の中で仏教が最も優れていることを説き、「三教指帰(さんごうしいき)」三巻に改名されて世に出ました。  
なお、空海作の「遍照発揮性霊集{しょうりょうしゅう、編纂は弟子の真済が当り、10巻から成る漢詩文集で、甥で弟子の智泉(ちせん)の夭折(ようせつ、死)を惜しんで書いた法事に用いる願文が巻8に書かれている}」によると、彼は若い頃、好んで山中を歩き回り、「吉野山から南へ1日、そこから更に西へ2日、高野と云う地がある」と書き、空海が唐に渡る以前の無名時代、生駒山や大峯山、玉置山といった山々を巡って激しい修行を重ねましたが、大峯山は古くから修験道のメッカで、今も山岳修行が盛んに行われ、山頂(山上ケ岳)へ至る山道には、修験道の行場(ぎょうば)が沢山点在しています。  
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800年(延暦19年)富士山が噴火し、早良親王に崇道天皇の追尊があり、801年(延暦20年)坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された頃、空海は「青龍寺」、「戒長寺」で修行し、諸国を行脚(あんぎゃ)の時、錫杖(じゃくじょう)を突き立てると水が滲み出し、「弘法水」と云われる井戸(柾の井、弘法井戸、薬水、弘法の井戸、硯石など)を掘ったが、大和国高市郡の久米寺の東塔の下から「大日経(正式名は大毘盧遮那成仏神変加持経、最も洗練された大乗仏教の立場から印度の諸宗教の一切を統一し包括しようと云う意図で書かれた密教経典)」を見出して読みあさり、いくつもの難解な疑問が残ったので、この上はどうしても唐へ渡らねばならないと、入唐求法の思いが急速に膨らみました。  
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803年(延暦22年)第16次遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)が還学僧(げんがくそう)最澄らと共に難波津(大阪港)を出航したけど、日本を離れてから嵐に遭い、引き返して来ました。  
804年(延暦23年)4月9日空海31歳は、東大寺「戒壇院」で唐の僧・泰信(たいしん)律師を戒師として具足戒を授戒し、桓武天皇から入唐の勅(ちょく)を賜(たまわ)り、「大福寺」で航海安全の祈祷をして、5月12日一般の留学僧(るがくそう)になり、遣唐使の橘速勢(たちばなノはやなり)らと四つノ船の第一船に乗って難波津を出航し、7月6日肥前国(ひぜんノくに)松浦郡(まつうらごおり)田浦(たノうら)から大海へ出て、途中暴風に遭い、舵を取られ34日間漂流の後、8月10日福州長渓県(ふくしゅうちょうけいけん、現在の福建省霞浦県)赤岸鎮(せきがんちん)に漂着し、最澄らの乗った第二船も50日余り漂流して、明州の寧波(にんぽう)に漂着したが、第三船は孤島に漂着の後、命からがら日本へ戻り、第四船は消息不明です。  
しかし、予定地の蘇州から余りにも南に離れた福州に漂着した大使藤原葛野麻呂と空海らは、福州の観察使・閻済美(えんさいび)に海賊と疑われ、国書は第二船の副使が持っていて提示できず、大使が書状を書けどもなかなか上陸の許可が得られなかったけど、空海が大使に代って書いた嘆願書が功を通し、やっと一行は使節として認められ、11月福州を出発し、長安(ちょうあん、現在奈良市と姉妹都市の西安市)まで2000kmの道を昼夜兼行して、12月23日都に入り、新年の「朝賀の儀」に何とか間に合いましたが、1月23日皇帝徳宗(とくそう)が崩御し、28日に皇太子が即位して順宗(じゅんそう)皇帝になりました。  
805年(延暦24年)2月10日大使藤原葛野麻呂らが長安を発して帰国し、空海は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)ゆかりの古刹「西明寺(さいめいじ、ボタンの名所)」に落着き、学僧円照(えんしょう)と知り合い、醴泉寺(れいせんじ)に居た印度僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)からサンスクリット語(梵語)を、牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)からバラモン教などを学び、6月13日青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院で恵果(けいか)阿闍梨(あじゃり、密教の正統な後続者としての位)に会うと、「そなたが来るのを待っていた。私の生命は尽き様としている。早く伝法の潅頂壇(かんじょうだん)に入るように」と云われ、三昧耶戒(さんまいやかい)・受明潅頂(じゅみょうかんじょう)・胎蔵法(たいぞうほう)の潅頂を授戒し、7月上旬に金剛界潅頂を授戒し、8月10日伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の潅頂を授戒して、真言密教の奥義を伝授され、「遍照金剛(へんしょうこんごう)」の潅頂名を授かりましたが、そもそも、大日経、金剛頂経、蘇悉地経などを拠り所にして胎蔵と金剛の二部を立て、真言呪法の加持力で即身成仏を期するのを本旨とする真言宗は、印度で大日如来が金剛薩埵(こんごうさった)に伝法や灌頂を授け、金剛薩埵が真言密教の始祖初代龍猛(りゅうみょう)に授け、二代龍智(りゅうち)、三代金剛智(こんごうち)と伝授され、唐に入って四代不空(ふくう)が「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」を伝訳して大成し、五代善無毘(ぜんむい)、六代一行(いちぎょう)が「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を筆録して、七代恵果、そして八代が空海で、初代〜八代八祖大師の肖像画は、高野山の「根本大塔」や壺坂寺の本堂(八角円堂)に掲げられています。  
なお、恵果は、空海に密教の全てを伝授し、各種の法具や曼荼羅(まんだら、密教で宇宙の真理を現すため、仏の如来や菩薩を一定の枠内に配して図示したもの)を授け終わると間もなく、805年(永貞元年)12月15日60歳で遷化(せんげ、逝去)し、弟子1千人中で6人の受法高弟から空海が選ばれ、「恵果和尚(けいかかしょう)の碑文」を書きました。  
また、空海はその名筆を唐帝順宗に知られ、宮殿の壁に文字を書くように云われると、左右の手に筆を取り、左右の足にも筆を挟み、口にも筆を加え、5本の筆でもって王羲之(おうぎし)の5行の詩を同時に書き、更に1間に墨汁をそそぎかけると、たちまち巨大な「樹」の字が浮かび上ったので、皇帝順宗が舌を巻き、空海に「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与え、純金で作った念珠(ねんじゅ)を授けましたが、その念珠は現在高野山の「竜光院」に保管されています。  
806年(延暦25年)3月17日桓武天皇が崩御し、第51代平城天皇が即位した年、新皇帝の即位を祝う使節として高階遠成(たかしなノとおなり、真人)らが長安にやって来たので、留学期間20年の短縮を請う書簡を渡して許され、同年(大同元年)4月空海は帰国を前に越州(えんしゅう、現在の浙江省紹興)で経典を求め、8月空海と橘速勢が留学期間を2年に短縮して、遣唐使船に高階遠成らと共に便乗し、帰国の途に着きましたが、その際、空海が明州の港から師より授けられた八祖相伝の三鈷杵(さんこしょ)を空高く投げると、はるか日本の高野山まで飛来し、落ちた所に現在、3本松葉の「三鈷の松」が植わっています。なお、帰りの航海中、恵果の命によって刻んでいた不動明王像を舳(へさき)に祀ると、不動明王が荒れ狂う波を切り開き、航路を鎮め、無事10月四つの船を大宰府へ着岸させましたが、その不動明王は、現在高野山南院の秘仏「波切不動明王像」です。  
また、帰国後の10月23日空海が高階真人を通じて朝廷に提出した延々10mにも及ぶ「御請来目録(ごしょうらいもくろく、琵琶湖の竹生島「宝厳寺」に所蔵)」によると、彼が唐から持ち帰ったものは、仏舎利80粒(現在東寺の五重塔と講堂の諸仏の頭部に納められ、天下豊穣のときに増え、国土衰退のときに減る)、経典216部461巻を始め、仏像、曼荼羅などがあり、国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼陀羅図」2幅は「子嶋寺」に残っています。なお、中国で普及し始めたばかりのうどんの製法を修得して帰り、甥で十大弟子の一人智泉(ちせん)に教え、それが今の讃岐うどんの始りで、また、空海が唐から持ち帰ったお茶は高弟堅恵(けんね)に与えられ、「仏隆寺」の辺りで大和茶の起源になりました。  
807年(大同2年)空海34歳は、上京の許可が下りないまま筑紫(北九州)の名刹「観世音寺」に2年間も留まって、同年瀬戸内海を通り、都へ昇る途中、安芸の宮島、弥山(みせん)の頂上で護摩を焚きましたが、その灯は延々現在も霊火堂で「消えずの灯」として燃えています。なお、空海は難波津へ上陸の後、和泉国「槙尾山寺」に居を移していた頃、808年(大同3年)5月21日朝廷が旱魃に際し、丹生川上神社に黒駒を奉納すると、23日雨が降ったので、群臣万歳を称して終日宴会を開きました。  
 
809年(大同4年)4月平城天皇が病のため譲位して、賀美能親王(かみのしんのう、第52代嵯峨天皇)が即位し、7月16日やっと太政官符が和泉の国司に下り、空海は許可を得て和泉から入京し、高尾山寺(現在の神護寺)に入り、実慧(じちえ)ら二、三の弟子に密教を教え、弟の真雅(しんが)が讃岐から上京して弟子になり、8月24日最澄から密教経典12部の借覧を初めて請われ(その後請借は16回に及ぶ)、翌年即位まもない嵯峨天皇に書状を送って、国家安泰の加持祈祷を申し出ると、「薬子(くすこ)の変」などで頭を痛めていた天皇は空海の申し出にいたく感動し、空海を重用するようになったので、空海は京都の高尾山を拠点に、嵯峨天皇の庇護のもと、国家鎮護と衆生救済を掲げ、真言密教の布教に邁進(まいしん)するようになりました。  
また、この頃、空海36歳は奈良市高樋(たかひ)町の虚空蔵山(標高200m、別名高樋山)に明星が落ちるのを見て、そこに明星天子の本地仏である虚空蔵菩薩を安置して開基したのが高野山真言宗「虚空蔵寺(弘仁寺)」で、虚空蔵山・如意山・高井山などと号し、その奥之院「阿伽水ノ井戸」に空海が三鈷杵で彫った不動尊石仏を祀っています。  
810年(弘仁元年)東大寺では僧が蜂に刺されて難儀していたけど、空海37歳が東大寺第14代別当(長官)に就任すると、蜂がいなくなり、今でも東大寺では月2回、空海が唐から持ち帰った密教経典を読み上げます。なお、この頃、空海が自らの「等身座像」を安置し、最初の真言道場としたのが元高野(もとこうや)「大蔵寺」で、また、同年空海が重文の「木造延命普賢菩薩坐像」を刻って、安置したのが、通常「普賢(ふげん)さん」と呼ばれる「常覚寺」で、空海の開基です。  
811年(弘仁2年)2月14日空海38歳に最澄が書状を寄せ、密経の伝授を請い、空海は唐から持ち帰った劉希夷集(りゅうきいしゅう)や劉廷芝(りゅうていし)の書を嵯峨天皇に献上し、東宮(後の第53代淳和天皇)に筆を献上して、過って早良親王が幽閉された「乙訓寺」の別当に補任され、翌年(弘仁3年)「乙訓寺」に生った蜜柑を天皇に献上しました。  
812年(弘仁3年)11月15日と12月14日空海は高尾山寺に最澄の訪問を受け、潅頂を請われたので、金剛界と胎蔵界の「結縁(けちえん)潅頂」と「学法(がくほう)潅頂」を授けたが、最澄の望んでいた「伝法(でんぽう)潅頂」は授けませんでした。また、空海が高見山で修行をしていると、不動明王が白馬に乗って麓の「清水寺」に降り立ち、境内の滝(投石の滝)に天の玉石を投げたので、「清水寺」は後に「白馬寺」と呼ばれました。  
なお、同年藤原北家を冬嗣(ふゆつぐ)が継いで、「どうすれば家運が盛り上がるだろうか」と空海に尋ねると、空海が「藤原氏の菩提寺・興福寺に八角形の堂を建立しなさい」と云い、不空院の八角円堂(1854年安政元年の大地震で倒壊、現在は本堂の下に礎石のみ)を雛型として、翌年(弘仁4年)創建されたのが現在の南円堂で、堂の前に建つ大灯籠の火蓋の願文(がんもん、趣意書)は空海が選び、文字は橘逸勢が書き、その後、藤原氏で北家が最も繁栄したのに、逸勢は藤原北家の良房(よしふさ)の諜略によって、842年(承和9年)「承和(じょうわ)の変」で捕らえられ、伊豆へ流される途中、非業の死を遂げました。なお、逸勢の書いた大灯篭の火蓋の文字は、現在興福寺の国宝館で見ることが出来ます。  
813年(弘仁4年)3月6日最澄の弟子・泰範(たいはん)が空海から潅頂を受け、そのまま高尾山寺にとどまり、最澄が比叡山へ帰るように促したが帰らず、泰範は後に空海十大弟子の一人になり、7月朝廷の変化を鎮め、衆生の苦しみを救うため、宮中を始め五畿七道の寺院に国家護持の「仁王般若経」を講読するよう勅命があり、空海がその願文を趣筆し、また、空海が「大峯本宮天川大弁財天神社」に留まって、大峯山で修行中、天川弁財天を「琵琶山妙音院」と号し、一大聖地にした頃、11月23日最澄から書簡があり、真言第6祖不空訳の「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の借覧を云って来たが、9月1日に最澄が著した「依憑(えひょう)天台集」で、不空を天台宗の弟子呼ばわりにしていたので、請借を断り、考えを改めれば、お貸し致しますと云ってやりました。  
 
815年(弘仁6年)空海42歳は奈良県五條市犬飼町で狩場明神と邂逅(かいごう)し、高野山への道案内と道中安全守護のため、明神の使者である白黒2頭の犬を賜りましたが、現在そこに真言宗犬飼山「転法輪寺」が建ち、そこから少し西へ行った奈良と和歌山の県境「待乳峠」で、腫瘍で乳が出なかった女人に、空海が待乳膏を作って与えました。  
なお、同年(弘仁6年)空海は、役小角が701年頃(大宝元年頃)開いた河内長野の「雲心寺」で、七星如意輪観音を刻み本尊とし、寺号を「観心寺」と改称しましたが、当寺は観梅で知られ、南北朝時代後醍醐天皇の勅で楠木正成が金堂外陣を造営し、正成が湊川で戦死の時、敵の大将足利尊氏は正成の妻子が身を寄せていた「観心寺」に正成の首を届け、後に第96代後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇が、一時「観心寺」に行宮(あんぐう)し、崩御の後に同寺へ生母阿野廉子(あのれいし)と共に葬られています。  
また、同年(弘仁6年)空海42歳が四国遍路を開いたが、今なお、多くの人々を魅きつける癒しの遍路は、発心の道場(阿波)第一番札所・笠和山「霊山寺」から、修行の道場(土佐)、菩提の道場(伊予)、涅槃の道場(讃岐)を経て、第八十八番札所・医王山「大窪寺」まで、空海と同行二人巡礼の道です。  
816年(弘仁7年)5月空海が泰範に代り、最澄に啓書(手紙)を書き、泰範が比叡山に帰ることを拒否して後、6月19日空海は高野山に弟子を育成する密教修行の道場を建立することを請願し、7月太政官府(だじょうかんぷ)をもって勅許(ちょっきょ)されました。また同年、空海は、高野山へ上がる途中の雨引山(和歌山県伊都郡九度山町)へ母の為に建立したのが、仏塔古寺十八尊第九番・万年山「慈尊院」で、空海は後に高野山へ移ってから、月に9度母に会いに来ましたが、それが九度山の由来です。  
817年(弘仁8年)空海44歳は、真言宗の総本山「金剛峯寺(こんごうぶじ)」開創のため、弟子の実恵(じちえ)、泰範らを高野山に派遣しましたが、空海自身は翌年秋登嶺して、厳冬の中で高野山を整備し、また、空海はこの頃から8年かけて、825年(天長2年)まで、「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ、)」「声字義(しょうじぎ、)」「吽字義(うんじぎ、)」の三部書を著(あらわ)しました。  
 
819年(弘仁10年)高野山で伽藍の建立に取りかかると、樹上に空海が唐で投げた三鈷杵を発見し、なお、石龕中から宝剣を掘出したので、高野山がかつて仏のいた聖地であることを知り、また、水垢離をして建立祈願をしたのが、長谷寺の奥、桜井市笠の閼伽井で、そこに大日如来の化身である不動明王を祀り、それを更に勧請したのが、野迫川(のせがわ)村の「立里荒神社」で、その加護により高野山伽藍を結界しました。  
なお、この頃、空海は奈良市雑司(ぞうし、旧東大寺境内)に「空海寺」を開山し、像高4尺8寸の本尊「地蔵菩薩石像」、像高4尺5寸の脇侍「不動明王石像」、および、像高2尺5寸の「聖徳太子石像」を彫って、堂内の石窟に秘仏として安置すると、世俗で「穴地蔵」、「文(ふみ)地蔵」と呼ばれました。  
 
821年(弘仁12年)4月空海48歳は、一人の沙弥(しゃみ、20歳未満の若い僧)と、4人の童子を連れ、故郷の讃岐に赴き、3000人の労務者を使って、3年前に決壊していた満濃池(まんのういけ、周囲21km、貯水量1540万トン、我が国最大の農業用溜め池、灌漑面積4600ヘクタール)をわずか3ヶ月で修築し、その時彼が用いた「余水吐け」の仕組みは、現代のダムにも採用されています。  
822年(弘仁13年)平城上皇が空海に従って三昧耶戒(さんまやかい)を受け、入壇灌頂し、空海が「平城天皇灌頂文」を著して、その中で奈良の法相、三論、華厳宗や、天台宗、声聞(しょうもん)乗、縁覚(えんがく)乗の六宗の概略を述べ、それら全てを批判し、密教と他宗の優劣を明確な表現で論じ、東大寺に「潅頂道場真言院」を建立して、国家鎮護の修法を行っていた頃、6月4日最澄が56歳で入滅しました。  
823年(弘仁14年)1月空海50歳は、嵯峨天皇に潅頂(かんじょう)を授けて、天皇から東寺(金光明四天王教王護国寺秘密伝法院)を下賜されたので、堂塔を整え、そこを真言密教の根本道場にし、空海自ら大日如来などの五仏、五菩薩、五大明王、六天の計21尊の仏像を束ねて立体曼荼羅を配置して、東寺を国家鎮護の祈祷道場にしました。  
なお、空海は唐へ共に入唐した橘逸勢、嵯峨天皇と共に「三筆(さんぴつ)」と云われ、筆を択(えら)ばず上手に字を書いたので、ある時、嵯峨天皇の勅命で、大内裏(だいだいり)十二門の内、南面三門と朝堂院正面の「応天門」の額を書くように云われ、書き終えて額を門に掲げると、「応」の字の点を書き忘れていました。そこで彼は、筆を投げて点を打ったが、これを「弘法も筆の誤り」と云います。また、同年4月27日第53代淳和天皇(じゅんなてんのう、桓武天皇の第三皇子)が即位しました。  
824年(天長元年)3月17日空海51歳は、淳和天皇から少僧都(しょうそうず、官職)を任命されたけど、4月6日辞退して、庶民のため利他行(りたぎょう、人々のためになる行為)に励み、仏教界を指導し、真言宗の開祖として基礎を確立し、東寺の経営にも心を配りましたが、彼の孫弟子の頃、東寺南大門を入って左右に潅頂院(かんじょういん)と、日本一の高さ(≒55m)を誇って復古的和式に富む「五重塔」が江戸時代に建ち、南北縦に金堂、講堂、食堂(じきどう)が配置されました。  
なお、空海は京都の神泉苑(しんせんえん)で「請雨経法(じょううきょうほう)」を修して、雨を降らせ、また、天皇の勅願により、大和神社の神宮寺として、山の辺の釜口(かまノくち)に「長岳寺」を建立し、なお、空海が唐から持参した如意宝珠を埋めた所が如意山(にょいさん)で、室生寺を再興して、真言修法の道場とし、「五重塔」を一夜で建立され、室生寺の末寺も建立して、慈尊院「弥勒寺(大野寺)」と称し、また、當麻寺の「中之坊」に参籠して、授法を授け、同寺の1院を真言宗の道場にして2宗とし、更に、不動明王を安置して「不動寺」を開基しました。  
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827年(天長4年)空海54歳が大僧都(だいそうず)に任じられた頃、畿内に一滴も雨が降らず、淳和天皇は恒例にしたがい、大極殿の清涼殿に百人の僧を招いて雨乞いに「大般若経」を読誦させ、空海も招かれ、雨乞いの願文に漢籍を引用して書いたことが「性霊集(しょうりょうしゅう)」巻第六に載っています。  
828年(天長5年)空海55歳は高尾山「神護寺」を委嘱され、また、12月15日中納言藤原三守(みもり)の私邸を譲り受け、日本初の私学校である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開校し、授業料無料で、貧富の差なく庶民にも、儒教、道教、仏教の総合教育を行い、空海作で我が国初の字典「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」を使い、また、この頃、涅槃(ねはん)経の四句の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」を表した七五調四句四十七文字からなる「以呂波歌(色は匂へど、散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ、有為の奥山けふ越えて、浅き夢見し酔ひもせず)」を作りました。  
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830年(天長7年)淳和天皇が勅を下し、仏教各宗の宗義綱要を撰進するように命じたので、空海57歳は、既に書き上げていた「秘密曼荼羅十住(菩薩が修行の過程でふむ52の階段中、第11〜第20までの階位で、発心住、治地住、修行住、生貴住、方便住、正心住、不退住、童真住、法王子住、灌頂住を云う)心論」十巻と、その略述書「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」三巻を資料編として献上しましたが、これにより平安仏教が古い南都の諸宗に対して理論的に優位を確認し、以後我が国の思想・宗教・文化が密教を基調として展開するようになりました。  
831年(天長8年)空海58歳は悪瘡(あくそう、悪質なできもの)を患い、その経過が思わしくないので、6月14日「大僧都を辞する表」を奉じ、静養を願い出たが、天皇はねんごろな勅答を与えて許さず、でも病はやがて治りました。  
832年(天長9年)8月22日空海59歳は高野山で衆生救済の願いを込め、仏菩薩を供養して懺悔(ざんげ)し、滅罪のための願文「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」を書き、「万燈華会(まんとうげえ)」を修しましたが、これはその後、年中行事になり、今でも毎年旧暦3月20日の夕方、この世の全ての闇を照らすと云う、1万の灯明が「御影堂」の周りに灯され、人々が空海を慕って全国から高野山に集い、他でも薬師寺で3月、東大寺で12月行われるけど、最初に1万の灯明を灯したのは、744年(天平16年)金鐘寺(きんしょうじ、東大寺の前身)の法会でした。  
なお、同年11月12日空海が嵯峨上皇から「弘福寺(ぐぶくじ、川原寺)」を賜ったと、鎌倉時代初期の歴史書「水鏡」三巻に載っています。  
833年(天長10年)10月淳和天皇が譲位して、皇太子であった嵯峨上皇の第2皇子が第54代仁明(にんみょう)天皇に即位しました。  
834年(承和元年)5月28日空海61歳は弟子達に対し、初の遺誡(ゆうかい)をして、同年11月から空海は五穀を断ち、坐禅観法(ざぜんかんぽう)を好んだと、弟子の実慧が記していますが、空海は弟子達に「私はこの世に生きている期間がもう幾ばくもない、お前達と別れるのは来年3月21日寅の刻だ」と云われ、12月29日空海に後七日御修法(ごしちにちノみしほ)の勅許が下されました。  
835年(承和2年)1月8日空海は内裏真言院で、後七日御修法を行い(これは以後恒例となり)、3月15日弟子達に対し、最後の遺誡を終えると、香湯で身を浄(きよ)め、浄衣(じょうえ)を着て浄室に入り、この時以来床座(しょうざ)に上って結跏趺坐(けっかふざ)し、大日如来の定印(じょういん)を結んで弥勒菩薩の三昧に入り、そのままの姿で7日目を迎え、3月21日午前4時、予告通り、寅の刻に深く目を閉じ、唇を堅く結び、金剛定(こんごうじょう、三密金剛の大定)に入定(にゅうじょう)されました。また、同年2月25日母・玉依御前も死去しました。  
時に空海62歳、姿は生身(しょうしん)のままで、49日間法楽を捧げましたが、顔色は少しも衰えず、髪も長く伸びたので、50日目に髭を剃って、なおまだ温かい肌を持つ定身を輿に乗せ、弟子達が代わる代わる担ぎ、奧之院の「御廟」まで運び、尊体を石室に納め奉り、高野山真言宗総本山「金剛峯寺」が官寺に準ずる定額寺(じょうがくじ)になり、真言宗年分度者3名の設置を勅許され、空海に大僧正、法印和尚位が贈られました。  
853年(仁寿3年)円珍(えんちん、空海の甥、天台宗の高僧で後の智証大師)が入唐して、開元寺に滞在した時、寺主(てらし)の恵灌(えかん)から、「五筆和尚は元気ですか」と尋ねられ、「既に亡くなりました」と答えると、恵灌は酷く胸を打って悲慕し、「あのように才能豊かな方は未だ過っておられません」と申しました。  
855年(斉衡2年)円珍が唐の竜興寺(りゅうこうじ)浄土院にいた時、過って青竜寺で恵果に仕えていた義真(ぎしん)や義舟(ぎしゅう)に会うと、彼らは口々に50年前、わずか1年そこそこ唐に滞在した空海を懐かしみ、空海が如何に聡明で、書の達人であったかを述べ、深く崇敬(すうけい)し讃えましたが、円珍も入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、慧運、宗叡ら)の一人です。  
866年(貞観8年)我が国で初めて天台宗の最澄に伝教(でんぎょう)大師、円仁(えんにん)に慈覚(じかく)大師の号が贈られましたが、観賢(かんげん、空海の曾孫弟子)の要請により、入定から86年経った921年(延喜21年)空海は第60代醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう、おくりな)を下賜(かし)され、歴代27大師の中、今日単に大師と云えば「弘法大師」を指し、また、大師とは梵語(ぼんご)のシャーストリの漢訳で、偉大な師、優れた指導者という意で、高僧の尊称ですが、ただ「弘法」と云えば、空海が男色の元祖なので、衆道のことです。  
また、高野山「奥之院」の手前に、1023年(治安3年)藤原道長が建立した「灯篭堂」があり、堂内で「消えずの火」2灯が燃えていて、1灯は1088年(寛治2年)2月白河上皇が灯明30万灯を献じた内の1つ「白河灯」で、もう1灯は貧者お昭(あき)が自分の髪を売って献じた「貧女の一灯」、また、空海が灯した安芸の宮島「弥山の霊火堂」の法灯(新日鉄の高炉の種火と、広島平和公園の慰霊碑の灯に移す)と共に千年近く燃え続けています。  
 

 

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