僧侶修行の旅

比叡山延暦寺1延暦寺2天台宗浄土信仰比叡山〜法然栄西親鸞道元日蓮南都六宗1南都六宗2南都六宗3鎌倉仏教1鎌倉仏教2鎌倉仏教3布教と交通
浄土宗1浄土宗2知恩院臨済宗1臨済宗2臨済宗寺院浄土真宗西本願寺東本願寺東本願寺[東京]曹洞宗1曹洞宗2永平寺1永平寺2總持寺1總持寺2日蓮宗1日蓮宗2久遠寺1久遠寺2池上本門寺時宗遊行寺1遊行寺2・・・
法話 / 浄土真宗1浄土真宗2浄土真宗3曹洞宗日蓮宗・・・
仏教雑話 / 仏教仏教史1仏教史2仏教史3鎌倉仏教と親鸞親鸞と仏教精神近世の地方寺院と庶民信仰真言僧儀海
 

雑学の世界・補考   

 

  浄土宗 臨済宗 浄土真宗 曹洞宗 日蓮宗 時宗
平安時代 法然          
1133 美作          
1134            
1135            
1136            
1137            
1138            
1139            
1140   栄西        
1141   備中吉備        
1142            
1143            
1144            
1145 比叡山          
1146            
1147            
1148            
1149            
1150            
1151            
1152            
1153   比叡山        
1154            
1155            
1156            
1157            
1158            
1159            
1160            
1161            
1162            
1163   京都/備中        
1164            
1165            
1166            
1167            
1168   〜宋〜        
1169   京都/備中        
1170            
1171            
1172     親鸞      
1173     京都日野      
1174   鎮西        
1175 京都          
1176            
1177            
1178   京都/備中        
1179            
1180            
1181     比叡山      
1182            
1183            
1184            
鎌倉時代            
1186            
1187   〜宋        
1188            
1189            
1190            
1191   宋〜筑前・肥後        
1192            
1193            
1194            
1195            
1196   京都        
1197            
1198            
1199   鎌倉        
1200   京都   道元    
1201     京都 京都    
1202            
1203            
1204            
1205            
1206            
1207 讃岐   越後国府      
1208            
1209            
1210            
1211 京都          
1212 京都・東山大谷          
1213       比叡山    
1214     善光寺/上野      
1215   京都・建仁寺 常陸      
1216     笠間郡稲田郷      
1217            
1218            
1219            
1220            
1221         日蓮  
1222         安房小湊  
1223            
1224       〜宋    
1225            
1226            
1227            
1228            
1229       宋〜京都    
1230            
1231            
1232            
1233            
1234            
1235     京都      
1236            
1237            
1238         鎌倉 一遍
1239           伊予
1240            
1241            
1242         比叡山  
1243       越前    
1244            
1245            
1246            
1247            
1248       鎌倉    
1249       越前    
1250            
1251           太宰府/肥前
1252            
1253         安房小湊  
1254       京都・覺念邸 鎌倉  
1255           伊予
1256            
1257            
1258            
1259            
1260            
1261         伊豆  
1262     京都・善法院      
1263         鎌倉  
1264           京都
1265            
1266            
1267            
1268            
1269            
1270           伊予
1271         佐渡  
1272            
1273            
1274         鎌倉/身延 高野山/熊野/新宮
1275            
1276           太宰府
1277           豊後/薩州/対馬
1278           安芸/備前
1279           伊予/京都/善光寺
1280           松島/平泉/常陸
1281           武蔵八王子/当麻
1282         武蔵池上・宗仲邸 鎌倉/伊豆
1283           尾張
1284           京都/北国
1285           山陰/丹後/伊予
1286           天王寺/京都
1287           播磨/備後/安芸
1288            
1289

( 下図の円の大きさは滞在期間をイメージ化しています )

  摂津・光明福寺
     

浄土宗 法然
  

臨済宗 栄西
 

浄土真宗 親鸞
                           

曹洞宗 道元
  

日蓮宗 日蓮
                            

時宗 一遍 
 
 
比叡山

滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。
比叡山は、京都市の東北、京都・滋賀県境に位置する、標高848mの山である。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきた。
国土地理院による測量成果では、東の頂を大比叡、西の頂を四明岳、総称として比叡山としている。「点の記」では、東の頂に所在する一等三角点の点名を「比叡山」としている。この三角点は大津市と京都市の境に位置するが、所在地としては大津市にあたる。なお、比叡山は、丹波高地ならびに比良山地とは花折断層を境にして切り離されているため、比叡山地、あるいは比叡醍醐山地に属するとされる。
京都の南から見た場合、四明岳と大比叡をともに確認することができ、重量感のある印象である。だが、京都盆地から比叡山を見た場合、四明岳は確認できるが、大比叡の頂は四明岳に隠れてしまう。このときのバランスのとれた三角形の外観は、「都富士」ともいわれる。また、大比叡がみえない場合、四明岳を比叡山の山頂だと見なすことがあり、京福電気鉄道叡山ロープウェイにおいては、四明岳の山頂をもって比叡山頂駅と設定している。
比叡山の山頂からは、琵琶湖や京都市街のほか、比良連峰などの京都北山も眺めることができる。山の東側には天台宗の総本山である延暦寺がある。また、山頂の北の「奥比叡」は「殺生禁断」とされているため、貴重な野生動物や植物の姿を確認することができ、特に、鳥類の繁殖地として有名である。なお、真夏の京都市内と比叡山の山頂近くとでは、気温が5、6℃違うという。
比叡山は、登山も盛んである。京都市左京区修学院から登る雲母(きらら)坂(四明岳まで2時間30分かかるという)は古くから京都と延暦寺を往復する僧侶・僧兵や朝廷の勅使が通った道であり、現在も登山客は多い。滋賀県側からは、日吉大社の門前町・坂本から表参道を経て、無動寺谷を通って登る登山道などがある。山内には大津から京都大原方面へ抜ける東海自然歩道が通っている。
なお、四明岳の表記、あるいは読みには多数の説があり、国土地理院による「四明岳(しめいがたけ、しめいだけ)」のほか、「京都市の地名」では「四明ヶ岳(しめがたけ)」、「四明峰(しみょうのみね)」などを挙げている。比叡山の別称である天台山、ならびに四明岳の名称は、天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山、四明山に由来する。
歴史
古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。
延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡を大物主神とし小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」と慈円が詠んだことでも知られる。  
 
比叡山延暦寺 [天台宗総本山]

 

百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。
それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります。
また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。 このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。
歴史

 

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766〜822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。
最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。
最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。
特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。
比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。
その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536〜1643)の尽力により、比叡山は再興されました。
さらに明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えて現在に至っております。
信長焼き討ち以後、千日回峰行や12年篭山行も復興されています。また昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しております。  
教学

 

比叡山の教学は、開祖伝教大師が『山家学生式(さんげがくしょうしき)』において、比叡山で修学修行する者の専攻を「止観業(しかんごう)」と「遮那業(しゃなごう)」の両業と定めたことを基本としています。
「止観業」とは、中国隋代の天台大師(てんだいだいし)智(ちぎ)(538〜597)が自らの証悟により体系づけた『法華経』を所依とする天台の教理と実践のことをいい、また「遮那業」は、『大日経』を中心とする真言密教のことを指しています。 最澄は、比叡山で修学修行する者は、上記の止観業か遮那業のいずれかを専攻することと定め、日本天台宗の教学の根本をなす柱となりました。
この止観業である「法華一乗(ほっけいちじょう)」の教えと、遮那業である「真言一乗(しんごんいちじょう)」の教えは、共に成仏する為の究極の教えであり、両者に優劣をたてるべきではないと考えました。これを「円(えん・天台法華)密(みつ・真言密教)一致説」と言っており、伝教大師の門弟である慈覚大師円仁(794〜864)や智証大師円珍(814〜891)、五大院安然(841〜902〜)などによって教学的に体系づけられていきました。
ところで止観業で説く法華一乗の実践を「止観(しかん)」といい、「止」とは禅定、「観」とは智慧を指しています。具体的には「四種三昧(ししゅざんまい)」
1. 常坐三昧
2. 常行三昧
3. 半行半坐三昧
4. 非行非坐三昧
という修行形態で示されています。
このうち「常坐三昧」はもっぱら坐禅を行う修行法であり、この法門からは栄西禅師や道元禅師などを生み、禅宗が展開しました。
「常行三昧」は常に歩くという行道の形態の行法ですが、阿弥陀仏を本尊として念仏を唱えることから、この法門からは恵心僧都源信和尚や法然上人、親鸞聖人などの叡山浄土教が興隆しました。
「半行半坐三昧」は『法華経』による法華三昧の行法を指しますが、この法門からは、法華の題目を唱えた日蓮聖人による法華信仰が展開していきました。
「非行非坐三昧」は、坐禅や行道以外のあらゆる修行方法のことであり、写経などの行法があります。もっと端的に言えば、日常生活がそのまま止観の修行であるということになります。すなわち私たちの日頃の行いこそ悟りへの仏道修行であり、おろそかにしてはならないということなのです。
一方、「遮那業」は身と口と意の三業(行為)による真言念誦を指し、即身成仏を目指します。天台宗の密教は台密といい、胎蔵界、金剛界、蘇悉地の三部だてであり、中世以降になって台密13流が興隆し、現在も三昧(さんまい)流、法漫(ほうまん)流、穴太(あのう)流、西山(せいざん)流が伝承されています。
比叡山の修行は、真言密教の不動明王を本尊として礼拝行道する千日回峰(かいほう)行や伝教大師御廟浄土院での十二年篭山行など、現在に伝承されていますが、比叡山の天台仏教の特色は、教えと実践が一致しなければならないという点にあります。
これを「教観双美(きょうかんそうび)」とも「解行一致(げぎょういっち)」とも申していますが、天台大師は「智目行足(ちもくぎょうそく)もて清涼池に到る」と説かれました。すなわち仏の教えをよく学んで智慧の目を養うだけでなく、自らの足で歩むという実践が伴って始めて清涼池のごとき仏が目指す理想の境地「悟り」に到り着くことができると示されたのです。 
祖師

 

伝教大師
一乗止観院(根本中堂)を創建して比叡山を開山し、入唐求法の後、天台宗を開いたのは、伝教大師最澄上人(766〜822)であり、天台宗では「宗祖」と仰いでいます。 最澄の宝号は「南無根本伝教大師福聚金剛」といい、正式には「南無円戒高祖一乗禅密根本伝教大師福聚金剛」と称しています。
天台大師
最澄が天台宗を開くに当って用いた「天台」の名は、中国浙江省にある天台山で悟りを得た天台大師智(538〜597)よりとったもので、日本天台宗では天台大師を「高祖」と仰いでいます。 智の宝号は、隋の晋王広(後の煬帝)より「智者」の号を賜ったので「南無天台智者大師」と称しています。
天台座主
比叡山では、伝教大師の法灯継承者を「天台座主」と称し、伝教大師の後を継いだ義真(781〜833)が初代座主となり、現在は第256世半田孝淳猊下が天台座主に就任しています。
天台の祖師 - 比叡山から輩出した主要な祖師
修禅大師義真 781〜833 初代座主
寂光大師円澄 771〜836 第2世座主、比叡山西塔を開く
別当大師光定 779〜858 大乗戒独立に尽力
慈覚大師円仁 794〜864 第3世座主、比叡山横川を開く
智証大師円珍 814〜891 第5世座主、園城寺を天台別院とする
五大院安然 841〜902〜 天台密教を大成
建立大師相応 831〜918 回峰行の始祖
元三慈恵大師良源 912〜985 第18世座主、比叡山中興の祖
恵心僧都源信 942〜1017 叡山浄土教を確立
檀那院覚運 953〜1007 檀那流の祖
兜率先徳覚超 960〜1034 川流の祖
谷阿闍梨皇慶 977〜1049 谷流の祖
宝地房証真 〜1214頃 叡山中古の学匠
慈鎮和尚慈円 1155〜1225 第62・65・69・71世座主、歌人歴史家
慈眼大師天海 1536〜1643 比叡山再興、東叡山寛永寺創建、山王一実神道提唱
霊空光謙 1652〜1739 安楽律提唱
各宗の開祖 - 比叡山で修行して各宗を開く
聖応大師良忍 1073〜1132 融通念仏宗
円光大師源空(法然) 1133〜1212 浄土宗
見真大師親鸞 1173〜1262 浄土真宗本願寺派、真宗大谷派など
千光祖師栄西  1141〜1215 臨済宗
承陽大師道元 1200〜1253 曹洞宗
立正大師日蓮 1222〜1282 日蓮各宗
慈摂大師真盛  1443〜1495 天台真盛宗
 
延暦寺2

 

滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成6年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。 
歴史

 

前史
比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。
最澄
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。20歳の延暦4年(786年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)を研究した。
延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(803年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
大乗戒壇の設立
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。
大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる。823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった。
名僧を輩出
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった。
なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。
平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。
武家との確執
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。
永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。
なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移った(現在は比叡山に戻っている)。しかし、いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。 
修行

 

籠山行
比叡山の修行は厳しい。山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない。常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。
十二年籠山では好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得られるまで毎日一日三千回の五体投地を行うものである。好相とは一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もあるが、その内容は秘密とされている。早い者で1〜2週間、何年もかかって好相を得る者もいるという。
千日回峰行
千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。なお、「千日回峰」と言われているが、実際に歩くのは「975日」で、残りの25日は「一生をかけて修行しなさい」という意味である。
行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋履きといういでたちである。回峰行は7年間にわたる行である。
無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。1〜3年目は年100日、4〜5年目が年200日の修行となる。
5年700日の回峰を満行すると「堂入り」が行なわれる。入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺谷明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入る。堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨(あじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入る。6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻る。
満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」となる。延暦寺の記録では満行者は47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には酒井雄哉大阿闍梨(2013年9月23日に死去)も含まれる。満行した者はその後2〜3年以内に100日間の五穀断ち(米・麦・粟・豆・稗の五穀と塩・果物・海草類の摂取が禁じられる)の後、自ら発願して7日間の断食・断水で10万枚の護摩木を焚く大護摩供を行う。これも“火炙り地獄”といわれる荒行である。
なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への土足参内を行う。通常、京都御所内は土足厳禁であるが、千日回峰行を終えた者のみ、御所へ土足参内が許されている。
また、回峰行者(マラソンモンク)とチベット僧のルン・ゴム・パとの関連が指摘されている。 
境内

 

比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる寺院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。
三塔十六谷二別所 東塔−北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷 西塔−東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷
横川−香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷
別所−黒谷、安楽谷 
東塔
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。
根本中堂(国宝) - 最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。1953年(昭和28年)に国宝に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令が出たことにより幕軍や山徒により討たれる。
文殊楼 - 寛文8年(1668年)の火災後の再建。二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる。
大講堂(重文) - 寛永11年(1634年)の建築。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築した。重要文化財だった旧大講堂は1956年に火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。
法華総持院東塔 - 1980年再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置する。
戒壇院(重文) - 延宝6年(1678年)の再建。
国宝殿 - 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。
浄土院 - 東塔地区から徒歩約15分のところにある。宗祖最澄の廟があり、山内でもっとも神聖な場所とされている。ここには12年籠山修行の僧がおり、宗祖最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されている。
無動寺 - 根本中堂から南へ1.5キロほど離れたところにあり、千日回峰行の拠点である。不動明王と弁才天を祀っている。貞観7年(865年)、回峯行の創始者とされる相応和尚が創建した。
大書院 - 昭和天皇の即位にあわせ東京の村井吉兵衛の邸宅の一部を移築したもので迎賓館として使用されている。
阿弥陀堂
灌頂堂
八部院堂 - 790年草創、1988年再建。  
西塔
転法輪堂(重文) - 西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう。信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させたものである。現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)。
常行堂・法華堂(重文) - 2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって右が普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂で、文禄4年(1595年)の建築である。2つの堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから「担い堂」の称がある。
瑠璃堂(重文) - 西塔地区から黒谷(後述)へ行く途中にある。信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。様式上、室町時代の建築である。
黒谷青龍寺 - 西塔地区から1.5キロほど離れた黒谷にあり、法然が修行した場所として有名である。  
横川
西塔から北へ4キロほどのところにある。嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。
横川中堂 - 新西国三十三箇所観音霊場第18番札所。旧堂は1942年、落雷で焼失し、現在の堂は1971年に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。本尊は聖観音立像(重文)。
根本如法塔 - 多宝塔で、現在の建物は大正期の再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。
元三大師堂 - 四季に法華経の論議を行うことから四季講堂とも呼ばれる。おみくじ発祥の地である。
恵心院 
 
天台宗

 

仏教とは
仏教という言葉には、3つの意味があります。
先ず、仏陀の教えという意味があります。今から2500年ほど前に、現在のネパール南部でお生まれになった、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏、釈尊とも言う)の説かれた教えという意味です。
次には、その教えに従って生活をする事で、釈尊と同じように自らが悟りを開き、苦悩の世界から解脱する教えという意味があります。つまり自ら仏に成るための教えということです。
もう一つ大事な意味があります。それは、悟りの世界は全ての生きとし生けるものに平等に与えられており、多くの人々と共にその世界へ行こうと互いに努める教えということです。釈尊は菩提樹の下で悟りを開かれた後、45年にわたる生涯をこの真理を人々に伝えるために過ごされ、その旅の途中で亡くなられました。ですから仏教は釈尊のはじめから、多くの人々と共にということが大前提なのです。
天台宗の起源
釈尊の残された教えは、南は東南アジアの国々へ広まり、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わっていきます。多くの求法の僧により、数々の経典が伝えられましたが、その中でも「妙法蓮華経」という経典に釈尊の「全ての人に悟りの世界を」という考え方がもっとも明確に述べられています。
この教えに注目し仏教全体の教義を体系付けたのが智(ちぎ)です。智(538年〜597年)はその晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智を高祖と唱えるのはこのためです。
天台大師の教え
天台大師の教えを日本に伝え、比叡山を開いて教え弘めたのは伝教大師最澄(さいちょう)です。その教えは・・・
第一 全ての人は皆、仏の子供と宣言しました。(悉有仏性)
釈尊が悟りを開かれたから、悟りの世界が存在するのではありません。それはニュートンが林檎の落ちるのを見ようが見まいが引力が存在するのと同じことです。悟りへの道は明らかに存在するのです。そして悟りに至る種は生まれながらにして私たちの心に植付けられていると宣言しました。あとはこのことに気付き、その種をどのように育てるかということです。
第二 悟りに至る方法を全ての人々に開放しました。
仏教には八万四千もの教えがあると言われていますが、それらは別々な悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つでもあるのです。例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。(四種三昧の修行)
多くの開祖を輩出した天台宗が鎌倉仏教の母山と言われるのも、また日本文化の根源と言われるのもこのことからです。
第三 先ず、自分自身が仏であることに目覚めましょう。
そのために天台宗ではお授戒を奨めています。戒を授かるということは我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまとともに生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
第四 一隅を照らしましょう。(一隅を照らす運動)
心に仏さまを頂いた人たちが手を繋ぎ合って暮らす社会はそのまま仏さまの世界です。一日も早くそんな世の中にしたいと天台宗では考え「一隅を照らす」運動を進めています。
先ず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝きあい、手をつなぐことができればすばらしい世界が生まれます。  
天台宗の歴史

 

日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です。
最澄は神護景雲元年(767、766年誕生説あり)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。
早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は【願文】を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に日枝山寺(後の一乗止観院)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
【願文】の中で、
「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」
と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。
そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの【心願】をたてられたのです。
天台大師智の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗の国にしていかねばならないとの願いが募り、法華一乗による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました(天台宗開宗の日)。
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。
その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて【山家学生式】(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒壇の公認を願われたのでした。
しかしその願いも叶うことなく、弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。
そしてその7日後、最澄の願いが聞き届けられ、大乗菩薩戒を授ける得度授戒の勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。
円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。
また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。  
宗祖・高祖・祖師・開祖

 

宗祖伝教大師 最澄
誕生
約1200年ほど前、今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)という方がおられました。子どもに恵まれなかった百枝は、日吉大社の奥にある神宮禅院に籠もり、子どもを授かるように願を掛けました。神護景雲元年(767)8月18日、願いが叶って男の子が誕生し、広野(ひろの)と名付けられました。この広野こそ、後に比叡山に登り天台宗を開かれた最澄だったのです。お生まれになったところは、現在の門前町坂本にある生源寺といわれています。最澄の誕生日には、老若男女が集い、盛大な祭が行われます。また、近くには幼少期を過ごしたとされる紅染寺趾や、産湯に使われた竈を埋めたといわれるところがあります。
出家
広野は、両親の深い仏教への信仰の影響もあって、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り、14歳で得度し、「最澄」という名前をいただきました。厳しい修行と勉強に打ち込んだ最澄は、やがて奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受けました。
具足戒とは、僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれます。
国家公認の一人前の僧侶となった最澄には、大寺での栄達の道が待っていましたが、受戒後、故郷に戻り、比叡山に籠り一人修行を続けました。そしてすべての人々が救われることを願い、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、仏の教えが永遠に伝えられますようにと願って灯明を供えました。(延暦7年(788)年)
このとき最澄は、「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」と詠まれ、仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて(後の仏である)弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすようにと願いを込めたのでした。
この灯火はこのときから大切に受け継がれ、1200年余りを経た今日でも、根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いています。
入唐求法
比叡山で修行を続けていた最澄は、みずから天台山に赴いて典籍を求め、より深く天台教学を学びたいと考えます。そこで桓武天皇に願い出て、延暦23年(804)、還学生(げんがくしょう)として中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国に無事たどり着いたのは2隻だけでした。到着した2隻のうちの別の船には、後に真言宗を開かれた空海が乗っていました。
中国に着いた最澄は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学びます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携えて帰国したのでした。
天台宗の公認
帰国した最澄は、『法華経』に基づいた「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗の設立許可を願います。その際、「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない。」という最澄の考えが受け容れられ、延暦25年(806)、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになりました。ここに天台宗が公認されたのです。
この日を以て「日本天台宗」の始まりとし、比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、この日を「開宗記念日」として報恩報謝の法要を行っています。
布教・伝道
天台宗が公認された後、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(六条式)を弘仁9(818)年5月13日に天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示されています。
また最澄は、社会教化・布教伝道のために中部地方や関東地方、さらには九州地方に出かけ、天台の教えを広めました。出向いた各地で協力を得て『法華経』を写経し、これを納めた宝塔を建立しました(六所宝塔)。加えて、旅人の難儀を救うための無料宿泊所を設けました。
大乗戒壇
天台宗の年分度者が認可されたあとも、正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、『法華経』の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないと考えて、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立することを国に願い出ました。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま、最澄は弘仁13年(822)6月4日、56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒壇院の建立を許される詔が下されたのです。
最澄は死に臨んで、弟子たちに「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)」と遺誡し、大乗戒をいしずえにすることで誰もが「国の宝」になることを願ったのでした。
最澄の命日の6月4日には、延暦寺をはじめ各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われています。
嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しまれ、「延暦寺」という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺とよばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。
大師号
貞観8年(866)、清和天皇から最澄に「伝教大師」、同時に円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られました。大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味で、日本ではこれが最初の大師号です。これ以後、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになりました。 
高祖天台智者大師
大師ご誕生
西暦538年、天台大師は中国荊州華容(けいしゅうかよう)県に誕生されました。この年は日本に仏教が伝えられた年です。誕生の時に家が輝いたので皆から光道(こうどう)と呼ばれました。生まれた時から人並みでなく、二重の瞳を持ち、7才のころ喜んでお寺にかよい、一度『観音経(かんのんぎょう)』を聞いただけで覚えてしまったといいます。
17才の時、父の仕える梁(りょう)の国は陳国に攻められて、大師は親族と共に流浪(るろう)の運命となってしまいました。
大蘇開悟(だいそかいご)
18才の時、出家に反対だった両親が亡くなり、兄の許しを得て果願寺で出家し、「智(ちぎ)」と名付けられました。そして一心不乱に修行し、23才の時、当時高名な光州大蘇山の慧思(えし)禅師を訪ね入門を許されました。禅師は「お前とわたしは昔インドの霊鷲山(りょうじゅせん)でお釈迦さまの『法華経(ほけきょう)』を一緒に聞いたことがある」と不思議な因縁を語り、再会を喜んだのです。(霊山同聴(りょうぜんどうちょう))。
大師は『法華経』の重要な修行である四安楽行を教えられ、修行すること14日、薬王品の焼身供養の文に至って忽然(こつねん)と悟りを得ました。(大蘇開悟)。
これを慧思禅師に報告すると、「これはお前とわたししか味わえない高い境地である」と絶賛したのです。
この慧思禅師は、日本の聖徳太子に生まれ替わり『法華経』を弘(ひろ)めたといわれています。
金陵講説(きんりょうこうせつ)
30才。やがて慧思禅師は、大師に陳の首都建康(けんこう)(金陵(きんりょう)・南京)で布教せよと命じました。
大師は27人の弟子を連れて建康の瓦官寺(がかんじ)に移り住み、説法しました。大師の説法は、当時高名な大忍法師が賞賛したばかりでなく、皇帝宣帝(せんてい)までが群臣たちに、大師の『法華経』説法を聞くよう命令するほどすばらしかったのです。やがて名声を聞いて集まる弟子が100人200人と年々増えましたが、逆に悟りを得る弟子の数が少なくなっていることに気付いた大師は、そこで8年間の建康での布教に区切りをつけ、ついに聖地天台山でさらに修行を深める決心をしたのです。
華頂降魔(かちょうごうま)
38才。大師の決心を聞いた宣帝は、勅命(ちょくめい)をもって引き留(と)めましたがその決意は揺(ゆ)るぎませんでした。天台山に入ると、最も美しい場所「仏隴峰(ぶつろうほう)」に至ると、なんとそこは子供のころ夢に見た場所だったのです。さっそく大師はそこに道場を建て、「修禅(しゅぜん)道場」と名付けて修行をしました。そして翌年、天台山の最高峰である華頂峰(かちょうほう)に登り一人坐禅をしていると、雷鳴が響き山地が振動し、悪魔のような恐ろしい情景に大師はびくともせず、ついに暁(あ)けの明星を見て真の悟りを得たのでした。これこそ天台仏教の奥義である欠けたることのない完全な教え、法華円教の悟りでした。これにより大師は「中国のお釈迦さま」と呼ばれるようになりました(華頂降魔)。
放生会(ほうじょうえ)
44才。天台山から流れ出す川や河口では、漁業が行われていました。ところが水死者も多く、魚も多く殺されていました。大師はこれを憐(あわ)れんで衣や持ち物を売り、そのお金でやな(魚を捕る仕掛け)を買い取り、そこを放生(ほうじょう)の場所にしました。そして『金光明経(こんこうみょうきょう)』流水品(るすいぼん)の説教をすると、人々はだんだん殺生(せっしょう)が嫌いとなり、やなが廃止されるようになりました。これを聞いた宣帝は大変感動し、その流域を勅命で放生池(ほうじょうち)と定めました。この大師の放生会は、仏教史上初めてのことです。
光宅寺講説(こうたくじこうせつ)
48才。陳の永陽王(えいようおう)は、大師から受戒し、命も助けられたことがありました。永陽王は、大師を建康の都に迎えようとたびたび要請しましたが、なかなか承知しませんでした。
ついに三度目の願いにより、大師はようやく建康に行き、宮殿で『大智度論(だいちどろん)』や経典をたくさん説いたのです。皇帝は高僧を呼んで難問を質問させましたが、ことごとく明解に答えたので、人々は仏様のように敬(うやま)ったのです。
やがて50才の時、『法華経』の文章を解説した『法華文句(ほっけもんぐ)』を光宅寺で講説しました。
晋王受戒(しんのうじゅかい)
54才。隋(ずい)国が天下統一した後、晋王(しんのう)(後の煬帝(ようだい))は、揚州の禅衆寺を修復して大師を招請しました。
この時、大師は晋王に不思議な因縁を感じて揚州に向かいました。晋王は僧侶千人を招いて供養し(千僧斎(せんそうさい))、願文を記すなどして熱心に仏教に帰依し、受戒を願ったので、大師は、大乗菩薩戒を授けました。晋王は大師に「智者」の号を送り、弟子として一生誠実に仕えたのです。
これから智(ちぎ)禅師は智者大師(ちしゃだいし)として敬(うやま)われることになったのです。
後の煬帝は、日本聖徳太子の遣隋使、小野妹子(おののいもこ)の拝謁(はいえつ)を許し、慧思禅師使用の『法華経』を日本に伝えさせたのです。
玉泉寺講説(ぎょくせんじこうせつ)
55才。大師は晋王が引き留(と)めるのをやっと断(ことわ)り、廬山(ろざん)や南岳(なんがく)を訪(たず)ね、故郷である荊州(けいしゅう)に帰りました。そして56才。故郷の恩に報(むく)いるため玉泉寺を建立し、『法華経』の経題を講義した『法華玄義(ほっけげんぎ)』を説きました。次の年は、仏教の修行内容をまとめた『摩訶止観(まかしかん)』を説きました。これらは先に説いた『法華文句(もんぐ)』と共に天台三大部として伝えられ、それからの仏教にとても有益な大きな影響を与えました。
天台帰山(てんだいきざん)
58才。大師は晋王の願いにより再び揚州に向かいました。そこで王の求めにより『維摩経(ゆいまきょう)』を解説した本を献上しました。この『維摩経』は在家の維摩居士が仏教の深い真理を体得していることを説く経典です。晋王は、これを喜び、いつまでも揚州に留まるよう望みましたが、大師は天台山こそ帰るべき所と告げ、その秋、再び天台山に帰ったのです。
天台山に帰ってみると、昔の道場は荒れ果てていましたが、大師は、なつかしい渓谷や泉石に触れて深く喜びました。
やがて再び天台山に僧侶が続々と集まり、修行を始めたのです。
ご入滅(ごにゅうめつ)
60才。晋王に何度も要請され、大師はついに下山を決意しました。天台山西門まで下(お)りたところ病気になり、石城寺に入り、臨終が近いことを悟りました。そこで大師は弟子達に、「観音様が師匠や友人を伴って私を迎えに来ました。これからは戒律を師とし、四種三昧(ざんまい)に導かれて修行しなさい」と遺言(ゆいごん)し、11月24日未刻(昼2時)に入滅されました。大師は即身仏となられ、肉身塔にまつられ、晋王は天台山に国清寺を建立し、大師の偉業を賛えました。
・・・以来1400年、天台大師の教えは宗祖伝教大師によって日本に伝えられ、今も仏教の根本原理となっているのです。 
天台の祖師達
修禅大師 / 義真(781〜833) 第1世天台座主
平安初期、相模の人。22歳で得度、早くより最澄について天台を学び、延暦23年(804)、師に従って訳語僧(通訳)として入唐。帰朝後、最澄を補佐し、師の没後その遺志を継いで比叡山に大乗戒壇を設立。初の大戒の伝戒師となる。天長元年(824)初代天台座主となった。弟子に円珍がいる。
別当大師 / 光定(779〜858) 実務に徹して比叡山を護持
伊予の人。大同3年(808)、30歳で最澄の弟子となり、大乗戒壇設立のために尽力。円澄入滅後、天台座主不在の18年間を含めた36年間にわたり、延暦寺を護持・運営。延暦寺別当に任命されたところから、別当大師と呼ばれる。墓所は、伝教大師の廟所(比叡山浄土院)の隣に寄り添うようにある。
慈覚大師 / 円仁(794〜864) 第3世天台座主
下野の人。15歳で最澄に師事し、承和5年(838)中国に渡り、五台山・長安等で勉学、会昌2年武宗の仏教弾圧に遭い、艱難辛苦しながら多くの典籍・教法を持ち帰った。帰朝後は天台密教の大成につとめ、関東東北を巡錫して多くの霊場を開いた。
智証大師 / 円珍(814〜891) 第5世天台座主 天台宗寺門派の開祖
讃岐の人。母は空海の姪にあたるといわれ、15歳で比叡山に入り義真に師事した。仁寿3年(853)入唐。天安2年(858)四四一本一千巻の経論典籍とともに帰朝、比叡山山王院に住した。貞観8年(866)園城寺の別当となり、大いに天台の教風を宣揚した。貞観10年(868)安恵に次いで天台座主となる。同年園城寺を賜わると、ここを天台の別院とした。後に円珍の門流は園城寺において、円仁の門流(山門派)に対し寺門派を形成する。
安然和尚 / (841〜?) 五大院先徳 阿覚大師
近江の人。円仁・遍照に学び、比叡山に五大院を構え盛んに天台密教を講述した。『悉曇蔵』等の著がある、天台密教の大成者である。生涯、ただ研究と著作に没頭したので、世にもっぱら五大院の先徳といわれる。
相應和尚 / (831〜918、一説に908) 回峰行の始祖 建立大師 南山大師
近江の人。15歳で円仁の門に入り、宇多天皇の歯痛を鎮めるなどたびたび法験をあらわした。貞観7年(865、一説に貞観6年)回峰行の根本道場として無動寺を建立したので、後に建立大師といわれる。朝廷に奏上して最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号を賜った。
慈恵大師 / 良源(912〜985) 第18世天台座主 元三大師
近江の人。南都の学匠を論破し(応和の宗論)、名声が響き渡った。多くの門下があり、源信・覚運などの偉才を輩出した。学問を奨励し、荒廃した比叡山を復興・拡充したので、叡山中興の祖と仰がれる。角大師・豆大師として庶民に広く信仰される。おみくじの元祖でもある。
恵心僧都 / 源信(942〜1017) 日本浄土教の祖
大和の人。良源に師事し、学才の誉れ高かったが、母の教誡によって栄名を忌み、横川の恵心院に住んで浄業を修し、『往生要集』を著わして日本の浄土教の基礎を築いた。仏像・仏画の制作が多数にのぼる。浄土系各宗から特に尊祟されている。
空也上人 / (903〜972) 空也念仏の祖
京都の人。醍醐天皇の第5皇子とも伝えられる。在俗の修行者として遊行し、天歴2年(948)延暦寺の延昌に戒を受けた。応和3年(963)京都に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建てた。常に市井に立って南無阿弥陀仏を称え、庶民に念仏を広めて市聖(いちのひじり)と呼ばれた。その念仏を空也念仏とも称し、踊り念仏の祖とされる。
慈眼大師 / 天海(1536〜1643) 上野寛永寺と創建
14歳で宇都宮粉河寺(こかわでら)の皇瞬僧正に学ぶ。後に比叡山で天台三大部を学び、園城寺でも就学、興福寺で法相・三論等を研究。徳川家康に謁見してより、次第にその信任を得る。のち秀忠・家光にも信頼が厚かった。元和2年(1616)家康が亡くなると、その亡骸を久能山より日光山に移し、奥院廟塔(後の東照宮)を造営する。そして家康に東照大権現の諡号を贈る勅許を得た。また、秀忠に助言し、上野の東叡山寛永寺を創建し、その第1世となった。 
各宗の開祖達 [比叡山で学んだ開祖達]
法然上人 / (1133〜1212) 浄土宗の開祖
岡山県の人。13歳で比叡山に上り、黒谷の青龍寺にこもり経典を読破。「念仏によって正しい生活と往生が得られる」と確信し、1175年浄土宗を開く。
栄西禅師 / (1141〜1215) 臨済宗の開祖
岡山県の人。14歳で比叡山に入り、その後2度にわたって中国に留学。臨済宗黄龍派の禅と戒を学ぶ。帰国後博多の聖福寺を拠点に活動を始め、鎌倉の北条政子など、幕府の援助で京都と鎌倉に活動の拠点を設け、禅の教えが認知されるようになった。
親鸞聖人 / (1173〜1262) 見真大師 浄土真宗の開祖
鎌倉初期、京都の人。9歳で比叡山の慈円の門下に入り、29歳で法然の弟子となり、他力易行門を会得した。35歳で配流の身となってからは越後、関東と教化の旅を続け、在家往生の実を示すため自ら肉食妻帯をした。『教行信証』を著わし、浄土真宗を開いた。90歳、京都に寂す。
道元禅師 / (1200〜1253) 承陽大師 日本曹洞宗の開祖
京都の人。13歳で比叡山に登り、翌年、公円のもとで剃髪し天台の秘奥を学ぶ。後、建仁寺で栄西の高足の明全に師事し、禅宗に帰した。貞応2年(1223)、中国に渡って曹洞宗を学び、帰朝後は京都に興聖寺を開いて、只管打坐を唱導した。寛元2年(1244)、越前に大仏寺(永平寺)を創建し根本道場とした。
日蓮上人 / (1222〜1282) 立正大師 日蓮宗の開祖
安房の人。12歳で安房清澄山に登り、道善に師事。21歳で比叡山に登り修学すると共に、諸所を遊歴し、31歳帰郷。初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、以後『法華経』の法門を弘通した。文永11年(1274)身延山に住し、弘安5年(1282)、池上に寂した。
一遍聖人 / (1239〜1289) 智真 時宗の宗祖
伊予の人。母の死後10歳で出家、太宰府の浄土宗西山流聖達や肥前の清水寺の華台に学ぶ。在俗生活の後再出家し、信濃の善光寺にて他力念仏の安心を得る。以後一所不住の遊行を続け、空也にならって踊り念仏で布教した。
真盛上人 / (1443〜1495) 慈摂大師 天台宗真盛派開祖
伊勢の人。19歳のとき、比叡山西塔の慶秀に師事。恵心僧都に傾倒して浄業を修し、在山20有余年、後に坂本西教寺を再興して根本道場とし、戒律と称名念仏を唱導した。円戒国師の称号がある。 
声明

 

三礼(さんらい)
仏教の基本的な要素である仏(如来)とその教えである法(仏法)、その教えを実践する人(僧)の三つに帰依し、礼拝する声明。経典読誦法要などの最初に唱えられることが多い。
如来唄(にょらいばい)
出典は勝鬘経釈迦歎仏偈である。仏の徳を称える偈文であるが、全文は唱えず一部省略して唱える。
如来妙[色身] 世間[無與等 無比不思議 是故今頂礼]
如来色[無尽 知恵亦復然] 一切法常住 是故我帰依  ([]部分を省略)
また、この偈文はいろいろな旋律で、唱えられてている。
始段唄(しだんばい)では「如来妙色身 世」の部分を独特の旋律で唱え、中唄(ちゅうばい)では「間無與等 無比 不思議」の部分。行香唄(あんきゃんばい)では「如来色 無尽 知恵亦復然 一切法常住 是故我帰依」の部分を唱える。これらの「唄 」は大原魚山の伝法が必要でこの伝法のことを「唄伝」(ばいでん)と言う。
散華(さんげ)
道場に本尊・聖衆を招請し、香を献じ華を散じて供養し奉るために唱えられる曲で、三段からなります。
上段の出典は『金剛頂経』、中段は『倶舎論』、下段は『法華経』巻三化城喩品。中段の句は法要の本尊により異なります。
本儀には三段すべて同音より次第を取り、上段は列立のまま、中・下段で行道を一匝しながら唱えるのであるが、近年は上段のみ同音散華で唱えて行道することが一般的になっています。
四智讃梵語(しちさんぼんご)
梵語讃(ぼんごさん)とはサンスクリット音を漢字で表記した声明曲である。内容は仏の四つの知恵を讃える詩で、鏡のようにあらゆるものを差別なく現し出す智(大円境智)、自他すべてのものが平等であることを証する智(平等性智)、平等の中におのおのの特性があることを証する智(妙観察智)、あらゆるものをその完成に導く智(成所作智)の四つが唱えられる。
起立して唱える「列讃」(れっさん)、歩きながら唱える「行道讃」(ぎょうどうさん)などの通称がある。曲は緩やかな旋律で儀式の始めに唱えられることが多く、道場の静粛を促す。唱え終わってドラとシンバルに似た打楽器である鐃(にょう)と鈸(はち)が鳴らされる。
四智讃漢語(しちさんかんご)
別名、着座讃(ちゃくざさん)ともいう。四智梵語讃が起立して唱えるのに対して着座して唱えるためこのように呼ばれる。内容は梵語讃と同様の内容である。唱え終わって鐃(にょう)と鈸(はち)が奏せられるのも梵語讃と同様である。
諸天漢語讃(しょてんかんごさん)
諸天漢語讃(しょてんかんごさん)は大雲輪請雨経の一節で、仏法護法の天部衆を賛嘆する声明曲である。大般若転読会や護摩、地鎮作法など祈願法要に多く用いられる。曲は定曲という四拍子の曲で、三段に分かれており、各段の終わりに鐃(にょう)と鈸(はち)が打ち鳴らされる。 
全国の寺院

 

延暦寺 / 天台宗の総本山
延暦4年(785)、伝教大師最澄は比叡山に上り草庵を結びましたが、その三年後には一乗止観院を創建し、ここを鎮護国家の根本道場と定めました。これが今日の根本中堂です。
以後、慈覚大師円仁・智証大師円珍や慈恵大師良源の時代とともに整備され、盛時には三塔十六谷三千坊といわれる大寺院に発展しました。しかし、織田信長の焼打ちにあって大多数を焼失し、現存する建造物はほとんどがその後の再建です。
三塔とは東塔・西塔・横川(よかわ)をいい、主な伽藍として東塔には、本尊薬師如来を安置する根本中堂を中心に、大講堂・戒壇院・明王堂・大師堂・伝教大師廟である浄土院などの建物があります。西塔には釈迦堂を中心に、にない堂・黒谷青竜寺等があります。釈迦堂は転法輪堂ともいい、もとは大津の園城寺の弥勒堂金堂でしたが、豊臣秀吉が文禄4年(1595)に山上に移築したと伝えられています。横川には、円仁が創建した横川中堂(首楞厳院)を中心に、元三大師を祀った四季講堂、恵心院、安楽律院等があります。
比叡山は日本仏教の宗家ともいうべきもので、法然・日蓮・親鸞・道元など日本仏教の各宗の祖師がここで学び、あるいはここで出家得度しています。
また、比叡山の守護神として坂本の日吉大社があります。 (大津市・京都市)
滋賀院門跡
滋賀院は坂本にある延暦寺一山の総本坊で、代々の天台座主の御座所として、滋賀院御殿とも呼ばれています。
元和元年(1615)、慈眼大師天海が後陽成天皇から京都の法勝寺を賜って建立したもので、穴太衆積みという自然石の石垣の上に白土塀と勅使門が調和し、風格あるたたずまいを見せています。
また、徳川家光の命によってつくられた池泉築山式庭園はみごとなもの。庭に面した宸殿、その奥の客殿、二階の書院、階段を上がり奥まったところにある仏殿と、豪壮で落ち着きある造りが見られます。 (大津市坂本)
妙法院門跡
妙法院は、平安時代末期に後白河法皇の帰依を受けた僧昌雲が、法皇の御所法住寺殿に隣接して住坊を構えたことに始まる寺院。
鎌倉期には膨大な寺領と勢力を誇るまでに至りましたが、南北朝、応仁の乱などで堂塔を焼失。その後、豊臣秀吉が大仏殿(方広寺)を造営した時、妙法院を大仏経堂に定められたことから再び大きく発展しました。
近世に入って、後白河法皇の御所法住寺殿の御堂として長寛2年(1164)に創建された三十三間堂(蓮華王院)をも管理することになり、また皇族の入寺する門跡寺院として公家文化の伝統を守ってきました。
桃山建築の庫裏をはじめ、大書院や仏像など数多くの文化財があります。また、三十三間堂は、長大な単層入母屋造りで、内陣に並ぶ1001体の観音像は壮観です。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市東山区東山七条)
三千院門跡
三千院は、延暦7年(788)、伝教大師が東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、一念三千院、または円融房と称したのが起源とされています。
その後、清和天皇の勅願により滋賀県東坂本の梶井に御殿を建て、円融房の里坊とされました。また、元永元年(1118)堀川天皇第二皇子・最雲法親王が梶井宮に入室され、皇族出身者が住侍する宮門跡となり、歴代の天台座主を輩出してきました。
応仁の乱後、大原の魚山一帯にあった大原寺(来迎院・勝林院の総称)を管領する政所があった現在の地を一時仮御殿とされ、現在に至っています。
大原は、平安時代初期、慈覚大師(円仁)が中国五台山から伝えた五会念仏により声明梵唄の発祥の地となり、魚山来迎院を開いた良忍上人が天台声明を集大成された地でもあります。また、往生極楽を願う人々の隠棲の地として、往生極楽院を中心に念仏聖による不断念仏・引声念仏が盛んに行われ、天台浄土教の聖地となりました。
境内には国宝の弥陀三尊を祀る極楽院、特に来迎の相を表し、純日本式の座り方(大和坐り)をしている脇士の観音・勢至菩薩は類例がなく有名です。
また、本尊薬師如来(秘仏)などを祀る宸殿、明治の京都画壇を代表する下村観山・竹内栖鳳などの襖絵のある客殿、そして金森宗和の修築による池泉鑑賞式庭園の聚碧園、宸殿前の有清園など四季折々の景観を楽しむことができます。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市左京区大原)
青蓮院門跡
青蓮院は粟田口にあることから、粟田御所・粟田宮とも呼ばれます。本尊は、熾盛光(しじょうこう)曼荼羅。
開基は伝教大師最澄で、初め青蓮房といって比叡山の東塔南谷にあり、その第12代行玄大僧正に鳥羽法皇(1103-1156)が帰依され、その第7皇子をその弟子とし、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称されたのが始まりです。
青蓮院は平安時代末から鎌倉時代に及ぶ第3世門主慈円(1155-1225)の時に最も栄えました。慈円寂後20年して第6世門主となった道覚親王が天台座主となって以来、青蓮院は入道親王入寺の寺として明治に至りました。
明治26年(1893)大火にあい、本堂以下多くの貴重な建物が焼失しましたが、その後、清の竹林寺の一堂を移築して本堂とするなど境内が整備されました。
当院の多くの国宝・重要文化財中、青不動明王画像は日本3大不動の一つとして特に知られています。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市東山区粟田口)
曼殊院門跡
曼殊院は、もともと伝教大師の草創に始まり、是算国師が住持をつとめた時に比叡山西塔北谷に移り東尾坊と称しました。
是算は菅原氏の出身であったため、天暦元年(947)、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられました。以後歴代、明治までこれを兼務することになります。
天仁年間(1108-1110)、学僧 忠尋座主が当院の住持であった時、東尾坊を改めて曼殊院と称しました。
現在の地に移ったのは明暦2年(1656)で、八条(のち桂)宮智仁親王の次男良尚法親王(後水尾天皇猶子)の時である。親王は正保3年(1646)に天台座主に任ぜられ、当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の地に移し、造営に苦心されました。
庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところが多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮と深い関連があります。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市左京区一乗寺)
毘沙門堂門跡
毘沙門堂は、正式には護国山安国院出雲寺毘沙門堂といいます。
最初は比叡山延暦寺の別院でしたが、その後、後陽成天皇(1571-1617)が勅を下して、日光山輪王寺の座主慈眼大師天海に修興を命じ、徳川幕府も寺地を寄進しました。寛文5年(1665)堂宇が完成しました。のちに輪王寺の門跡であった公弁法親王が入寺したことにより、毘沙門堂門跡といわれるようになりました。以後、代々輪王寺宮法親王の兼務の寺となりました。
本尊の毘沙門天は、伝教大師最澄自作とされています。
寺宝の洞院公定の日記は国宝に指定され、南北朝史の貴重な史料とされています。
京都五ケ室門跡の一つ。 (京都市山科区安朱)
寛永寺
寛永寺は東叡山円頓止観院寛永寺といい、比叡山・日光山と並んで、江戸時代には天台宗三大本山の一つでした。
徳川家光の時、上野の山が江戸城の鬼門にあたることから、江戸城鎮護の祈願所として寛永二年(1625)本坊が竣工したので、その年号をとって寛永寺と名付けられました。また喜多院の山号をとって東叡山と称しました。
慈眼大師天海は、釈迦堂・多宝塔・三十番神社・清水観音堂・求聞持堂・弁財天堂・食堂・慈恵大師堂・山王社・別当本覚院等を建立しました。徳川家の菩提寺ということもあって、諸大名も競って諸堂を建立しました。
しかし、幕末の彰義隊の戦争によってほとんど焼失し、後に本堂は喜多院より移されましたが、山内は上地を命ぜられ、本堂・清水観音堂・御廟屋と若干の支院を除いてほとんどが官有となり、後に恩賜公園(現 上野公園)となりました。
本尊は薬師如来。両界曼荼羅図や愛染明王図など数多くの寺宝があります。 (東京都台東区)
輪王寺
輪王寺は日光山輪王寺といい、二荒山(ふたらさん)神社・東照宮とともに、日光の2社1寺として、日光山の運営にあたりました。開創は天平神護2年(766)沙門の勝道上人が初めて日光山内にいたり、四本龍寺を建立しました。当地は回峰修験の道場であり、観音信仰の霊地でした。
嘉祥元年(848)、円仁が勅を奉じここに来て、三仏堂・常行堂・法華堂を創建し、鎮護国家の道場としました。円仁入山の際、山内37ケ寺の支院ができ、その総号を「一乗実相院」といい、円仁を開祖としました。これを機に当山は天台宗に帰することになりました。
江戸時代の元和3年(1617)、天海は徳川家康の遺骸を久能山から日光山に遷座し、山王一実神道の祭祀形式によって家康を東照大権現として祀り、日光廟(東照社)を創建しました。
江戸時代を通じ、代々の日光山主は上野の東叡山寛永寺の宮が兼務し、天台一宗を管理しました。
明治4年(1871)、神仏分離令が発布せられると、東照権現は東照宮となり、輪王寺の称号や東叡山の山号もすべて廃され、寺は旧称の満願寺と改称されましたが、明治16年(1883)に輪王寺の寺号を許され、2年後には門跡号が充許され、今日の日光山輪王寺となりました。
本堂の三仏堂は、明治14年(1881)二荒山境内から現在の地に移されました。
主な国宝として、輪王寺大猷院霊廟や『大般涅槃経集解』等があります。 (栃木県日光市山内)
中尊寺
中尊寺は、関山中尊寺といいます。
嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁が東北に遊化した時、当地の藤原興世(おきよ)(817-891)が円仁に帰依して堂宇を造立し、円仁手刻の仏像、書写如経を安置、日吉・白山両権現を勧請して創建されました。
その後、源頼義、義家も寺領を寄進し、貞観元年(859)に清和天皇より「中尊寺」号を与えられました。長治2年(1105)に、藤原清衡が掘河天皇の勅命を受けて、当寺の再興を企て、以後、基衡・秀衡も当寺の維持にカを注いで、盛時は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」と言われるほど隆盛を極めました。しかし、建武4年(1337)、惜しくも野火のため金色堂をのこして多くの堂塔は焼失しました。
中尊寺は、今なお、金色堂はじめ3000余点の国宝・重要文化財を伝え、東日本随一の平安美術の宝庫です。また、源義経(1159-1189)のゆかりの地としても有名です。
他にも所蔵の宝物として、金銅孔雀文磬、螺鈿八角須弥壇、中尊寺経蔵堂内具等があります。 (岩手県西磐井郡平泉町)
善光寺
善光寺は定額山善光寺といい、天台宗および浄土宗の別格本山です。
本尊である秘仏「一光三尊の阿弥陀如来」は欽明天皇の時代(6世紀)に百済の聖明王から伝えられ、日本最古の仏像といわれています。
推古天皇の10年(602)、本多善光(若麻績東人-わかおみあずまんど)が、国師のお伴で上洛して故郷に帰る途中、難波(今の大阪市浪速区)の堀江に棄てられていた仏像を見つけ、故郷である信濃国麻績の里に持ち帰り祀ったのが善光寺のはじまりです。
一光三尊とは、一つの光背の中に阿弥陀・観音・勢至の三尊が立たれる姿をいいます。
善光寺の特徴は、天台宗・浄土宗の本山を兼ねていることです。天台宗の別格寺で、当寺の別当職であった寺を大勧進といい、浄土宗の別格寺で、主務職を大本願といいます。 大勧進の説によれば、弘仁6年(815)最澄が当寺に詣でて、その基礎をたてたものだといいます。
「牛にひかれて善光寺参り」の言葉の示すように、古くから信州一国に留まらず、全国に知られた名刹で、民間信仰の中心でした。 (長野市元善町)  
 
浄土信仰

 

無条件の救いを説く浄土信仰
貴族守護(国家鎮護)の古代仏教から衆生救済の鎌倉仏教への転換
老荘思想(道教)と儒教の原理的な考え方について書いた過去の記事で、『老荘の無為自然』と『仏教の悟り(解脱)』の類似性を指摘しました。仏教には、出家した僧侶が厳しい修行の中で悟りを目指す『上座部仏教(小乗仏教)』と在家の仏教信者である衆生(一般大衆)を仏法によって救済しようとする『大乗仏教』とがあります。日本仏教では、末法思想と政情不安定によって旧仏教(奈良・平安の仏教)が衰退した平安末期から鎌倉初期にかけて、大乗的な衆生救済の仏教が優勢となりました。
日本の仏教は、鎌倉時代の相次ぐ新宗教の成立によって様相を大きく変えますが、その変化の中核にあったのは、死後に阿弥陀如来が鎮座する西方極楽浄土に往生するという『浄土信仰』でした。そして、阿弥陀如来の『衆生救済の本願(慈悲)』にすがろうとする浄土信仰の大衆化に貢献したのは、学問や修行の経験などないあらゆる階層の人々を救済可能にする『念仏・題目という易行』の登場でした。釈迦の死後2,000年が経過すると釈迦の正法の教えの効力が失われていくという『末法思想』が、浄土信仰の普及を後押ししましたが、平安時代末期(11〜12世紀)には末法の到来を信じさせるような政情不安や社会混乱、天災による飢饉が多く起こっていました。
末法思想が広まった背景には、公家社会(貴族時代)から武家社会(封建時代)への転換に伴う源平の戦乱の恐怖があり、政権基盤の不安定化や相次ぐ天変地異(旱魃・洪水・地震)による民衆の耐えがたい飢餓と貧窮がありました。1,052年に関白・藤原頼通によって阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂が建立されたように、摂関家(藤原家)のような上流貴族の間にも末法思想と浄土信仰が流行していましたが、『民衆の災厄や苦悩』を救済する力(意欲)を古代仏教(天台・真言の平安仏教,南都・北嶺の奈良仏教)は失っていました。天災による飢えと戦乱による被害に苦しむ一般大衆は、政権を担う朝廷(貴族)に訴えても、次期政権を窺う武家(源平の武装勢力)に請願しても、困窮する生活と不安は改善しませんでした。
公家も武家も大きな時代の変革の中で、自己の権力を保持し拡張することに必死であり、貧しい民衆を利用することはあれ積極的に助け出すような姿勢を持っていませんでした。政治の担い手である公家も武家も全く頼りにならないのであれば、比叡山の天台宗や金剛峰寺の真言宗、興福寺を代表とする南都六宗の奈良仏教に救済を求めることになりますが、釈迦が衆生救済を説いた仏教も貴族の既得権益の場と化していて、貧しい民衆の暮らしを顧みることはありませんでした。奈良時代や平安時代の寺院建立が公共事業であり、高僧のほとんどが朝廷の皇族や上流貴族であったことからも明らかなように、平安時代までの古代仏教は『貴族仏教・官製仏教』としての色彩が非常に濃厚でした。
その為、南都・北嶺(興福寺や延暦寺の旧仏教)における仏教経典の研究や密教の加持祈祷の実施などは、大乗仏教的な衆生救済(菩薩行)につながるようなものではなく、飽くまで貴族階級・僧侶階級の繁栄や保護を祈願するという目的のもとに行われていたのです。また、平安時代になると不殺生戒を持っているはずの僧侶が武装して、寺社の所領(荘園)を武力で防衛したり他人の田畑を略奪したりするようになり、大寺社は宗教信仰の場というよりは、軍事的・経済的な一大勢力の様相を呈し、その世俗化(強訴・権力欲・肉食・色欲・高利貸し・金銭欲)は留まるところを知りませんでした。一般大衆は、堕落・腐敗した古代仏教に失望し、寺社相互の権力争いや領土紛争に明け暮れる古代仏教による救済を諦めつつありました。世俗化して衆生救済の責務を放棄した古代仏教は『平安貴族の権力』に守られていましたが、朝廷の貴族勢力が源頼朝(武家の鎌倉幕府)に政権を委託したことで、古代仏教にとって代わる新仏教成立の余地が生まれました。
即ち、『支配者階級の救済を主眼とした伝統仏教』は政治体制(貴族政治)の転換によって急速に衰退し、『一切衆生の救済を説く鎌倉仏教』が台頭してくることになるのです。それは、『学問・教養・経済力・身分・地位・性別』などによって『救済される対象』を選別する古代仏教とは違い、無条件にあらゆる人々を平等に救済するという革新的な仏教、支配階層にとって脅威となる仏教でした。旧仏教(奈良仏教・平安仏教)は貴族仏教であると同時に、『学問仏教・伽藍仏教・祈祷仏教』と呼ばれるような『条件付きの救済』を約束するエリート(選良)のための仏教でした。
これは言い換えれば、難解な仏教経典を解読できるような知性(識字教育)が無い民衆は救われないということ(学問仏教)であり、巨大で豪華な寺社建築を寄贈できるような豊かな経済力が無い貧乏な民衆は救われないということ(伽藍仏教)でした。天台宗や真言宗の祈祷仏教も、高僧による病気平癒や大願成就の加持祈祷を受けられる人は、基本的に貴族階級の上位に属するものが殆どでした。旧仏教は国家仏教あるいは貴族仏教と言われるように、『何らかの身分や条件によって選抜された人間』を主要な救済対象とする宗教であり、貧しくて無知な衆生の生活や悲惨を救い出すような気概・意図をもともと余り持っていなかったのです。
末法の世を救う浄土信仰は、教学的には『仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経』という浄土三部経に支えられているわけですが、浄土宗の始祖・法然や浄土真宗の親鸞は、最終的にはこういった経典を研究することは全く不必要であるという結論に達します。専修念仏(せんじゅねんぶつ)の悟りに達する以前の法然は、主に『観無量寿経』に依拠して自己の学識を深め、親鸞のほうは主に『無量寿経』に依拠して自己の念仏称名の阿弥陀信仰を固めていったのですが、法然や親鸞は弟子や民衆に対して教説の学問は不要であり、それらの知識修得にこだわることは救済の妨げになると説きました。
念仏信仰の浄土宗や浄土真宗は『一般大衆(農民・平民)の仏教』であり、あらゆる階層に属する人々を解脱させ救済することを目的としますから、できるだけ救済に至る敷居(必要条件)を低くする必要がありました。その為には、『学識教養・階級身分・経済的富裕・禁欲的戒律』など救済のためのさまざまな条件をつける旧仏教を全否定する必要があり、浄土系の鎌倉仏教では『選択(阿弥陀仏の選択)・専修(一つの行のみに集中)・易行(誰でも可能な簡単な修行)』によって一切衆生を平等に救いだす『専修念仏』という仕掛けを作り出しました。
つまり、『南無阿弥陀仏』(浄土宗・浄土真宗・時宗)という念仏、あるいは、『南無妙法蓮華経』(日蓮宗)という題目を唱えるだけで、輪廻からの解脱と極楽浄土への確実な往生が約束されるという教義を確立したわけです。  
末法思想と鎌倉仏教の台頭
仏教渡来(538年)から長い時が流れた平安時代末期になると、天皇を中心とする貴族階級の権力に陰りが見え始め、武力と荘園(私有地)を権力基盤とする新興の武士階級(平氏・源氏)が勢力を増してきます。日本の古代仏教の総本山には、奈良時代の南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)があり、仏法によって国家や貴族を守り繁栄させようとする「鎮護国家の思想」が盛んでしたが、東大寺の大仏(盧舎那仏像)を建立した聖武天皇(701-756)の時代に奈良仏教の勢威は頂点に達しました。聖徳太子が17条憲法(604年)で仏教を保護したとされる飛鳥時代の仏教は、国家の平和と繁栄のための宗教と考えられており、仏教の僧侶(官僧)の身分は大和朝廷の律令制に組み込まれていました。
奈良時代には聖武天皇が国分寺や国分尼寺を日本各地に建立し、中国の学識高い高僧であった鑑真(688-763)を招聘して唐招提寺を建立しましたが、この頃から奈良仏教の寺社勢力が権力を増して朝廷の政治に口出しすることが増えてきます。寺社勢力の政治干渉の弊害を嫌った桓武天皇(737-806)は、政務を一新するために平安京遷都(794)を断行しますが、平安時代の仏教は遣唐使として派遣された二人の天才的な学僧・最澄と空海の密教を中心にして展開されます。伝教大師と呼ばれる最澄(767-822)が開祖となった比叡山延暦寺(天台宗)と弘法大師と呼ばれる空海(774-835)が始祖となった高野山金剛峰寺(真言宗)は、日本の密教の二大霊場となり、山岳仏教(鎌倉仏教以前の古代仏教)の中心拠点となりました。
平安時代までの古代仏教は良くも悪くも国家の管理体制が行き届いた「官製の宗教」であり、天皇を頂点とする貴族階級の安寧や祈祷のための仏教でした。平安時代中期くらいから末法思想が流行し始め、従来の古代仏教では対応できない社会不安と民衆の困苦が深刻化してきました。「大集経」に根拠を持つ末法思想(まっぽうしそう)というのは、釈迦の入滅後に長い時間が経過すると仏教の正統な教えが衰退していくという下降史観であり、具体的には「正法(1,000年)→像法(1,000年)→末法(10,000年)」というように仏法の正統な教義が失われていくとされていました。日本では平安時代中期の1052年から末法の世に突入すると伝えられていて、この頃から死後に西方極楽浄土に生まれ変わりたいとする浄土信仰が盛んになり始め、天台宗の僧侶であった源信(恵心僧都, 942-1017)が極楽浄土へ往生するためにはどうすれば良いのかを書いた「往生要集」を著述しました。国家管理方式の官僧になることを嫌って、浄土信仰の民間布教と橋梁など技術教授に尽力した空也(903-972)のような異才を放つ僧侶も平安中期頃から現れ始めました。
本来の末法思想には、末法の時代に天変地異(飢餓・飢饉・疫病)や社会不安(戦乱・略奪・宗教や政治の腐敗)が起こるという悲観的な終末思想は含まれていないのですが、平安末期に次々と起こった天変地異(大雨・旱魃・洪水・台風)による飢餓(飢饉)や疫病を民衆は末法思想と結びつけました。天災による飢饉の問題だけではなく、朝廷の政治権力の不安定化や武装した寺社勢力の世俗化(堕落腐敗)なども顕著になり始め、飢えや寒さ、戦乱に苦しんだ一般民衆たちは弱体化した政治以上に仏教(宗教)に救済を求めました。しかし、政治権力への接近と宗教界内部の派閥闘争によって世俗化が進んでいた奈良・平安時代の古代仏教には、天災の増加と社会不安によって悩み苦しむ民衆を救済するだけの意志と能力がありませんでした。僧兵を抱える奈良の南都・北嶺の寺院は相互に荘園や勢力を競って世俗的な争いを繰り返し、民衆を苦しめる強訴や武装蜂起を起こしたりもしました。密教の本山である延暦寺や金剛峰寺も、難解な学問や過酷な修行に明け暮れるばかりで、庶民の生活や安全を守る菩薩行の実践を優先する僧侶が現れませんでした。
日本が古代社会から封建社会へと転換する平安末期の末法の時代(混乱と困苦の時代)に、古代仏教は「民衆の心の支え」や「民衆救済への動力源」になれなかったことで衰退していくことになります。奈良仏教や天台宗・真言宗などの古代仏教に取って代わる形で、一般庶民を救済する大乗仏教の特色を前面に押し出した鎌倉仏教が台頭してくるのです。法然・親鸞・日蓮・一遍・栄西・道元に代表される鎌倉仏教の最大の特色は、貴族階級の保護と繁栄を祈願した古代仏教と違って、一切衆生(すべての人民)の安寧と往生を祈願する大乗仏教としての性格を色濃く打ち出している点であり、古代仏教にあった本地垂迹説的(神道と仏教の融合的)な多神教(八百万の神々=八万四千の仏)の要素を捨象しているところです。
鎌倉仏教のエッセンスは、「専修(唯一の信仰法の選択)」と「易行(特別な修行や学問が不要であること)」にあり、浄土宗(浄土真宗)の“南無阿弥陀仏”の念仏や法華宗(日蓮宗)の“南無妙法蓮華経”の題目に象徴されるように誰でも簡単に完全な救済と極楽浄土の誓願を得られるようになったのでした。武家政権の鎌倉幕府の時代に入って、仏教は一般大衆化の度合いを強め、貴族階級の鎮護国家の役割や特別に優れた学識を持つ僧侶の学問(修行)から少しずつ分離していくのです。鎌倉仏教の各宗派の開祖の登場によって、国家が律令制の範疇で管理運営する官製宗教であった仏教は、本来の大乗の誓願(利他行)を実践するための「民間信仰の宗教」へと変質を遂げたのです。  
鎌倉仏教と親鸞聖人の自覚 
親鸞聖人や当時の日本の鎌倉時代の人々と同様に、私たちは目的を失った時代に生きています。仏教では、そのような時代を末法と呼びます。つまり、仏の教えが衰え、終末を迎える最後の時代を意味します。この場合、最早、以前に尊ばれた力強いシンボルが完全で意義があるものとして、多くの人の心を動かさなくなっています。このような時代では、人々の信念や決意をかき立て、全く心を動かすシンボルとか神話はあまりありません。鎌倉時代の仏教徒は、当時精神性に訪れた危機に瀕していろいろな解決策を模索していましたが、二十一世紀の今日、私たちは、当時の人たちが抱えていたと同じような問題に向かっています。
鎌倉仏教と親鸞聖人をよく理解するには、ここで一寸歴史について考えねばなりません。というは、歴史とそれが物語る人々の決意と誓約の例を通じて、現代の道を求める私たちは、自分たちの今後進むべき方向を決め、現代において決断する際の手引きを得るからです。親鸞聖人と同様に、私たちが住んでいる時代では、精神面を建て直し、現実の生活での意味と宗教面の遺産を解釈し直すことが必要です。
これを達成できる洞察を得ようとすれば、運動の起きた原点に戻り、当時の問題点を歴史と宗教の面から理解するしかありません。
日本の仏教で鎌倉時代は、独特な時代でした。この時代になって、以前仏教について認めた改革すべき重大な要素が、それぞれの性格と基盤を仏教の伝統に基づき、幅ひろく開花していきました。この時代とそれぞれの独自の人となりとの出会いで、各自が自分なりに自己を啓発し、仏教を、個性的に表しました。もっとも、これらは、最初余り広い範囲に影響を与えなかったのですが。
最近鎌倉仏教が、真に日本の仏教の改革であったかどうかという問題がかなり討論されていますが、ここではそういった論争に立ち入るわけにはいきません。しかし、これら宗祖たちの生涯および教えとそれらを代表すると主張する教団の発展との違いを考えると、それぞれ宗祖らの多様な考え方の中に、改革ないし更新の基盤がひそんでいました。
鎌倉時代に生まれた主な宗派の指導者は、法然、親鸞、および一遍(1239-1289)で、皆浄土教を代表していました。日蓮(1222-1282)は、法華経をたたえ、天台宗の教義を仏教の基盤としました。道元は、中国の曹洞禅を日本にもたらしました。当時のもう一人の高僧であった明恵(1173−1232)は、伝統的な教えに忠実に復帰しようと企てました。このような総ての努力の背景には、仏教の密教と顕教の組織がありました。これは、天台宗と真言宗の、当時の宗教界を支配していた寺院と荘園組織の念入りな行と華麗な儀式から成り立っていました。当時、宗祖・祖師であった人たちは、各々、改革者と見なされたか否かを問わず、独自の意義をもっていました。
鎌倉仏教の新しい宗派は長く続いた社会危機の時代に生まれました。この時代は、平安時代後期に始まり(おそらく十一世紀以降)、騒乱の波は首都の京都でも感じられ始めました。京都の北に聳える比叡山は平安時代の天台仏教の本山で中心地でした。西暦1052年は、日本仏教の歴史では、末法の始めと見なされるようになりました。この頃から首都京都の朝廷と多くの地方の豪族らと間のあつれきが激しくなりました。結局平家の一族が都の支配勢力となり、独裁政府を確立しました。平氏が自分たちの得た新しい勢力を当たり前と思い、驕りはじめると、源氏がやがて天下を取る兆しが出てきました。
源平合戦と言われた戦争は、壇ノ浦の悲しい合戦と幼い安徳天皇の入水による崩御で集結しました。この時点、1185年に鎌倉時代が始まったとされています。しかし、これで全て平穏になったわけではなく、朝廷は、勢力を取り戻そうと企み、これらの動きの結果、1221年に承久(じょうきゅう)の乱が起こりました。後に、十三世紀に至り、中国本土で得た勢力に乗じた蒙古の襲来が危ぶまれ、島国日本の混乱が高まりました。国内の政争と外敵(内憂外患)に加えて、疫病、飢饉、地震がしばしばあり、すべての人々がより悲惨になり、不安に陥れられました。主に上流階級で占められていた伝統宗教の教団も農民の労働に糧を仰いでいました。不安な状態のため、大衆は、その精神面での欲求を満たす新しい考えをもたらす、新らしい指導者が立ち上がることを望んでいました。 
既成の宗教が社会の支配階級による圧政やごまかしから解放されると、今度は、希望を呼び起こし人間の精神を自由に解放するものです。元々あった普遍的な本性と真実の探求心が現れてくるものです。私たちは、このような社会あるいは個人的生活に争乱の起きる時代を、決して喜んだり、望んだりすることはないでしょうが、人の精神面には良いことがあります。その訳は、悲しみの生活と世間に明け暮れる私たちを支えてくれる真実を求めて、私たちが自分の生活自体を深く洞察するようになるからです。
鎌倉時代は、日本にそのような現状打開に拍車をかけました。前にも述べた通り、仏教は様々な新しい精神性の道へと開花していきました。同時に仏教は、今までは出来なかった様式で、もっと大衆の手にたやすく届くようになりました。それまでの仏教は、世間から閉ざされていた貴族の占有物で、主に豪族か朝廷のためであったのです。
このような観点から、鎌倉仏教は、生き生きとした発展を遂げ、おそらく仏教の歴史上、最も人を鼓舞し、意義があった一つの出来事と見ることができます。 鎌倉仏教では、人々が銘々自分たちが長年親しんできた古くからの教えの中に意味を見出そうとしていたことが分かります。新しい型の仏教は、かって仏教を六世紀に朝廷の宗教として受け入れた国からの何ら補助を受けないで始まりました。新しく出てきたものは、あくまでも精神性の自由な表現でした。今日振り返って見ると、親鸞聖人および同時代の人々が決定した事柄、自分たちの命をかけた信仰、並びに此れまでの比叡山での快適な生活と自己満足を捨て、大衆の中で苦労し、難儀をする生活に飛び込んで行くように働いた心の中の力を理解するのは困難です。
法然、親鸞、および日蓮は弾圧を受け、首都から島流しの刑を蒙りましたが、一方道元は、自己に実質上の罰を与えました。歴史に向かって、鎌倉仏教の祖師たちは各々、当時の状勢に自分なりに対応していました。各々が自己の心境と理想に基づいた教えを発展させました。祖師らは、夫々、当時の仏教に不満でしたので、仏陀と同様に、自分達の快適な生活を捨て新しい生き方を探し求めるという個人的にはつらい苦難の道をとりました。主な祖師らが比叡山で天台僧として修行したために、今日でも天台宗は、鎌倉仏教の母であると称しているのは、興味ある点です。僧としての修行の傍ら、天台宗の精神的影響を吸収し、それにより自分達の到達した決断を強固なものにしました。しかし、天台宗が当時の政治と社会の悪と密着し過ぎて、真の精神的な導きとならず、人間として満たされないので、祖師らは、全て、そのような天台宗を教団としては受け入れないと感じました。
初期において、天台宗の教えは、仏教のすべての宗派を壮大に折衷総合されたかたちでまとめていましたので、主な仏教の伝統事項は、全部、比叡山で学べました。禅宗、浄土宗、真言宗(密教)および天台宗がありました。仏陀が生きとし生けるものを解放するためにもたらした色々な手段の一つとして、全ての教えに立派な意義があったのです。しかし、鎌倉仏教の師等は、このような折衷された仏教を打ち壊し、各自がそれぞれ自身にとって重要な唯一の真の悟りと思われた部分を選びました。
法然上人は、念仏に重点を置き、親鸞聖人は、この傾向を継ぎ、それにご自身の信心についての見解を加えました。一遍上人は浄土教の師でしたが、国内を巡回し、出会った人々皆に念仏の教えを施しました。道元は禅を選び、一方、日蓮は、天台宗を純粋な形で、法華経に一心に帰依することで復活させると主張しました。奈良の明恵(みょうえ)上人は、戒律と出家教団を復活しようとする保守的な意図を代表しました。
宗教で何時も出会う問題は、たとえ普遍の真実であっても、真実を探求していくと、人々はばらばらに分裂しがちです。一方、より実践的な宗教は、一般にもっと相対的で、他の教義に寛容な態度を採ります。天台宗を出て新宗派を建てた、鎌倉仏教の宗祖は皆、重要な共通する特徴をいくつか持っています。新しい宗派は、すべて人々の自由意志に基づいており、当時の伝統的な共同・氏族本位の宗教とは違って、信者は自分から決めて新宗派に加わりました。この新しい数々の宗派では、人々が一人一人解放される形をとりました。その際、平安時代の朝廷の仏教と違って、新宗派では、政治指導者に頼んでその教えを受け入れ、布教するのを支援してもらうよう働きかけませんでした。しかも、仏の道に従うことを第一とし、単に社会あるいは政治的問題を扱うのではなく、精神性に専念し、基礎的な問題点として仏教の真実に傾倒したのです。この方針は、是までの仏教の主な勤めは、災難を回避したり、天恵を獲得したりすることで日本(実際には、天皇)を守るという、当時の伝統的な仏教宗派の考えとは、鋭く異なっていました。以前には、病気を治したり雨を降らせたりすることが、国と貴族が仏教を支援した重要なわけでした。 とは言っても伝統的な教団に止まった真摯な求道者と学者が多数居たことを忘れてはなりません。
新鎌倉仏教は、全く単純にした、わかり易い教えで大衆に接しましたが、決して安易なものではなく、かつての出家宗派が使った学者的な教えと仏教語を止め、仏教の中心をなす教えを判りやすくし、仏の教えを世間のあらゆる階級の人に伝えようとしました。仏の教えを単純化しただけでなく、お勤めも単純にしましました。これらの教えは大部分、大衆のための宗教であって、大衆は生活のため懸命に働かなければなりませんでした。農夫、猟師、漁師、商人にとっては、従来の出家制度での複雑で骨の折れる修行の時間などありませんでした。法然上人は、念仏を唱えるだけでよいと主張しましたが、その一方で日蓮は、それ自身十分な勤めとして法華経典の題目を唱えることを教えました。道元が座禅(座って瞑想)を唯一の理想であるとしたのに対して、親鸞聖人は法然に従って念仏を唱えることを唯一のお勤めとしました。これらの師と教えの訴える内容は、いつどこでも通用する普遍的なものでした。救われると言う望みからは、誰も除外されることはありませんでした。偉大な人間愛および人間の福祉に対する関心がこれらのすべての運動の背後にありました。たとえどんな階級でも、どんなに裕福、貧困であっても、どんなに無知でも、弱者であっても、皆すべての人に仏の慈悲が届きました。
最後に、恐らくマイナス要因と見なされるかもしれませんが、新しい運動は、夫々宗派別に分かれる傾向がありました。大乗仏教の概念が末法の概念と合さり、師はそれぞれ自分の教えこそが当時の仏教では唯一の教えであると唱えました。更に、他の形式の教えを尊重しても良いが、それらは真の悟りおよび最終的な救済に必要な保証をもたらすのに無効であると考えました。
法然上人は武士の出で、教えは、より率直でより決定的な特徴を反映していますが、大げさでもなく、また、好戦的でもありません。急成長する運動の責任者として、上人は、より威厳を保たれ、外向性で敬虔な行動をとられました。そして、慈悲心を持った人として登場しました。平安時代の仏教では、貴族階級が優遇されましたが、それと対照的に、上人の教えることは、特に、人々の道徳的・社会的地位にかかわらず、すべての人達を確実に救うことを目標としました。また、上人の人となりについて、伝統的に、情に訴える面が伝えられてきましたが、法然上人は、数世紀に亘ってこの情の面を伝えてきた伝承とは裏腹に、芯の強さがありました。この強さによって、上人は、比叡山当局が加えた迫害に耐えることができ、またその強さ故、最後に上人が島流しされる結果になりました。ほかの諸点の中で、この強さが、特に親鸞聖人のような弟子を上人に引きつけたのです。
法然上人の浄土教は一見歴史を否定するように見えます。即ち、念仏を唱える功徳で、人は、この苦に満ちた不浄の世界(穢土)とは別な浄土に生まれるのです。平家物語で強調する浄土教は、特に幼少な安徳天皇の死と海底の浄土へ入水する物語の中に、この傾向が例証されています。法然上人の教えは、私たちが現在苦しんでいる、ひどい現実の代わりに、別の世界のビジョンを与えてくれます。世俗的な生活の厳しさは、来世への「ウパーヤ(方便、巧みな教育手段)」によって和らげられるのです。方便は、背負っている負担が最も重く、この負担がどんなものか、たやすく表現しない人たちへの慈悲の贈り物です。
親鸞聖人がどのような社会・階級の出であるかというと、藤原氏の血統を引いた人で、聖人の教えの趣旨から貴族出身であることが判ります。聖人は、他の教えと戦ったり、ひどく非難したりしませんでした。もっと正確に言えば、ご自分の和讃と自己告白の中で示されたように、親鸞聖人は感情が豊かな熱血にあふれるお方でした。しかも、内省的で、もっと内向性でご自分の心の世界を突き止められました。
自身の態度と感情を深く内省し、聖人は、運命の問題にたいする手掛かりあるいは解決策を見出すように努力されました。後に示しますが、聖人は、自分が完全ではないと言う気持ちに何年も苛まれ、世の衰退を心の中でご自身のものとして受け止められたようです。聖人は、自身の心の来歴を見つめられ、その結果自分が不完全な人間であると感じた気持ちを、阿弥陀仏を信ずることで、ご自分の意識の中で納得されたのです。自身の心中を巡礼された挙げ句に、親鸞聖人は新しい出発点に立ち、不安および歴史の束縛から解放され、聖人は、この世で建設的な、また意味のある生き方をされることができました。
その後、35歳位から、政治上の流人として日本の辺地に行き、親鸞聖人は、20年間通常の世俗的な生活を送りました。結婚後、家族を養い、大衆に混じって念仏を教えられ、修行されました。老齢に達してから京都へ引退され、そこで引き続き、教え、書き、そして生活され、後の信者のために世に残す学問的遺産および書き物を作成しました。
法然の教えが、大衆の手の届くところまで救いをもたらそうとした点に特徴があるとすれば、親鸞聖人の教えは、その救いをもたらすことが心の中で現実にどう出るかに関心をもっています。法然上人が、救いの現実すべてが歴史を超越するとしたのに対して、実存主義の親鸞聖人は、自身の煩悩と我欲の葛藤の最中でさえ、阿弥陀仏の慈悲が確実に約束されていることを体験されたことで、救いを自己の生活の中に見出そうとされています。
道元(鎌倉時代の曹洞禅の宗祖)は、相当な学問および哲学的な造詣を持った藤原家の一人だったようです。早くから両親を失ったことで、道元は、命の短いこととはかなさをひどく痛感された方です。このはかなさの意識から道元の教えの主なテーマが生まれ、毎日が私たちの最後の日であるかのように私たちは、実行するべきであると主張して、精神修行を緊急に行う必要性を強調しました。しかし、道元は、教義を深く追求し、親鸞聖人が内省的であったのとは違った意味で、主観的であり、内なる心に向けられていました。道元は、亦非常に厳格な人で、宗教に厳格さを求めました。中途半端なやりかたに満足せず、信者は仏教に全身全霊を尽くすことを主張しました。道元が中国で禅師の如浄から学んだ、基本とする言葉は、「身心脱落、脱落身心」でした。
禅宗では、空あるいは人の本性を直接理解することで歴史を超越せんと試みます。末法の教義が歴史上の衰退を若干認めたとしても、禅は、人々には、瞑想と洞察を通じて人々が本来持つ仏性を悟りうる可能性があると基本的に楽観しています。歴史を超越することでその束縛から解放されてこそ、人々は混乱した世の中に落ち着いて生きられるのです。
日蓮は、鎌倉仏教の祖師等の中で最後に現れ、当時最も新しい人であったのですが、師は、しがない漁師出身でした。それで、下層階級出身であることを誇りにし、何とかして、上流階級出の仏教徒に対して自分を見せつける必要がありました。従って、日蓮は、他のどの師より批判的でより好戦的で、考え方は、客観的で、字義通りで、経文に基盤を置きました。指導者たらんと熱烈に望んだ人でしたので、世の中に平和をもたらすために、仏教と世の中を統一する根拠を求めました。更に、愛国者で、当時の他の仏教徒より一般的な社会情勢について良く知っていました。
日蓮は、日本への蒙古襲来の危機を感じ、此の危機によって、国民に警告し、真の仏教国に変えようという使命感に打たれました。日蓮は、歴史と対決した代表者です。彼は、悪を心中で認識せよと要求したり、直接に超越せよとは主張していません。むしろ、日蓮は、「歴史と向かい合って、自分の判断を主張し、かつ、災難を避けるために真実に忠実に従うように。」と要請しています。使命感の為に、日蓮の信者に歴史の真実を見極めよと言っています。創価学会のような日蓮に基づいた今日の現代教団は、日蓮の闘争性および政治的・社会使命に関する感覚を持ち続けています。
鎌倉仏教のこれらの様々な伝統は、各々、私たちの現代とその問題に精神的な考え方を与える源点として有用ですが、親鸞聖人の見地、即ち、ご自身の中で歴史とどう取り組まれたか、宗教的生活を深く個人的に自身でどう理解されたかという点に焦点を絞ると、私たちの時代に役立つ見方が出てきます。聖人が教義を解釈し直し、生活様式を変え始められたことをよく知れば、親鸞の教えの特色が、ますますはっきり判ってきます。自己の意識の中で、歴史と遭遇し、取り組むことで現実の認識につながります。これは、自己の歴史的真実を認め、受け入れることを意味しますが、同時に、それがあくまでも私たちの本性と運命そのものではないと理解しなければなりません。歴史そのものが私たちの宿命ではないのです。その歴史の中でまだ生きている間でも、歴史(自意識としての)の束縛から解放されて、私たちは目的と決意を持って生活できます(自己認識)。
私たちが仏陀の慈悲に抱かれていると親鸞聖人が確信された以上、現代において、私たち人間は、歴史を超越し、またそれを包むなにものかの表れであると知って、歴史の中で行動し参加してもよいことが判ります。そのように自分で明確に認識すれば、自分自身が完全でないことからくる絶望感、或いは世の中で持つ自分達の期待はずれ感から守ってくれます。守るだけでなく、そのような認識は私たちの一生を通じて生きていくときに頼る基点であり、その基点から、歴史上、文化上、および個人的な束縛があっても、私たちは、なお自由であるという逆説についてもっともっとはっきりした、深い見方が得られるのです。  
 
比叡山と法然

 

1145 / 叔父の観学の紹介状をもって、比叡山に登り、西塔北谷の持法房源光に師事する。(異説1147年)
1147 / 東塔西谷の当時碩学と名高い皇円(功徳院の肥後の阿闍梨)の室に入る。
東塔の大乗戒壇院で剃髪受戒して、正式に天台宗の僧侶となる。このときに皇円から源空の名を授けられたと考えられる。竜樹の「菩提心論」(唐・不空訳・全一巻)の「心の源は空寂なり」の一文からとって「源空」と命名したと考えられるようです。
1148 / 天台三大部を読み始める。
1150 / 西塔黒谷の叡空の室に入る。法然房源空の名を受く。
1156 / 求法のため嵯峨清涼寺に7日間参籠、のちに南都の諸宗の学匠を歴訪。
1157 / 信空が叡空の室に入り、法然と法兄弟となる。
1175 / 専修念仏に帰入する。西塔黒谷を出て西山広谷に遊蓮房円照を訪ねる、やがて東山大谷に住す。立教開宗の年といわれる。 
法然1
比叡山に登り、初め源光上人に師事。15歳の時(異説には13歳)に同じく比叡山の皇円の下で得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。
承安5年(1175)43歳、善導の「観無量寿経疏」(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。
元久元年(1204)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、のち建永2年(承元元年・1207)法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。
法然2
13歳で比叡山に登って剃髪授戒。天台の学問を修めます。はじめ円明房善弘と名乗りますが、久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空となり、叡空のもとで勉学に励み、「智恵第一の法然房」と評されるほどになりました。以後、法然上人は遁世の求道生活に入ります。
この時代は、政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし、自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から、阿弥陀仏のご本願を見いだします。それが、「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。
法然上人はこの専修念仏(せんじゅねんぶつ)に確信を持つと、比叡山を下り、やがて吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実など貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れたり、また、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。  
法然3
14歳で比叡山に入り正式に出家、天台宗を学ぶ。ところが山の上では高僧までが権力争いに狂奔しており、失望した彼は師を変えていく。最終的に延暦寺中心から離れた場所に庵を結ぶ聖僧・慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)に師事し、法名“法然房源空”を与えられる。ときに法然17歳。それからは人々を苦しみから救う方法を思索する日々が続くが、「智恵第一」の名で評されるほど学問を探求するも、なかなか満足する答えを見出せないでいた。
だがしかし!出家から28年目の1175年(42歳)、平安中期の僧侶・源信の「往生要集」を学んでいる時に、中国で5世紀に浄土教を大成した善導大師の思想と出合う。民衆が救済される道は専修念仏=ひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える事=と悟った法然は、他の修行を一切やめ、師に別れを告げて比叡山を下りていく。※この1175年は「回心(えしん)の年」と呼ばれ浄土宗開宗の年とされている。
法然が説く「南無阿弥陀仏」の“南無”とは“お任せします”の意。つまり全身全霊で「阿弥陀仏」に身を委ねるということだ。他宗派まで名が轟くほど学問に長けていた法然が出した結論は、学んだ全ての知識を良い意味で捨て去ることだった。学問が阿弥陀仏を信じんが為にあるのなら、信じ抜いておれば何の仏教知識がいるのかと、教義の解釈論より「南無阿弥陀仏」と行動(念仏を唱える)で示すことが肝要と考えたのだ。
従来の仏教は貴族を対象にした貴族仏教で、教義が高遠で難解すぎるうえ、文字を読めない民衆からはかけ離れたものだった。しかし、度重なる戦で人心はすさんでおり、誰もが心の拠り所となる仏の存在を欲していた。そこに登場したのが「ただ一心に阿弥陀仏のお名前を称えれば、誰もが必ず極楽浄土に入れる」という単純で分かりやすい法然の教え。乾いた砂に水が沁み込んでいく様に、武士、農民関係なく爆発的に浄土宗が普及していった。
※なぜ阿弥陀仏なのか?…阿弥陀は仏になる為の修行の中で48個の誓い(願)をたてた。その中の18番目の願として“私の浄土に生まれたいと思って、わずかでも念仏を唱えた人を救えなければ仏にはならない”としており、仏になったいま、信徒はこの言葉を信じて阿弥陀仏に念仏を唱えている。
一方で、「悟りとは人々が修行や功徳を積んで得られるもの」(自力本願)と考えていた多くの学僧は、法然の念仏重視の思想に疑問を持っていた。そこで天台座主(延暦寺の長)は京都大原に法然を招き、学僧たちと論戦させる(1186年53歳、大原談義)。法然は「人々の修行には限界があり、念じていれば仏の方から助けに来て下さる」と阿弥陀の力を頼って往生する持論(他力本願※悪い意味ではない)を展開し、居合わせた者を感服させた。大問答を制した後は、ますます門徒が増えていく。後白河法皇や関白九条兼実というビッグネームの信仰も得て、彼が説法をする場には平敦盛を討ち取った熊谷直実や、鎌倉の北条政子の姿もあった。1198年(65歳)、九条兼実の薦めで生涯の主著となる「選択本願念仏集」を記す。1201年(68歳)には親鸞が入門してくるなど、有能な弟子も次々に増えていった。
やがて迫害の時代が訪れる。あらゆる階層、いかなる身分の者にも分け隔てなく救いの手を差し伸べる法然。浄土宗があまりに民衆にもてはやされ、浄土宗が宗教界の一大新興勢力になると、旧仏教界は警戒を強め大きく反感を持つようになっていく。法然が「念仏こそ民衆を往生に導く唯一絶対の行」と主張するにつれ、当初は寛容だった他宗派から邪教と呼ばれて激しく非難・弾圧された。人間というものは弱い生き物だ。法然の弟子の中には教えをはき違えたり、“悪事をしても念仏さえ唱えれば極楽に行ける”と都合よく曲解する者も出てきた。また、真面目に学問にいそしむ他宗派の学僧をあざ笑い馬鹿にする弟子もいた。教団はここを叩かれた。法然は一部の弟子の不品行を徹底的に攻撃される。
1204年(71歳)、比叡山の僧侶3千人が念仏禁止を求めて抗議運動を始めたので、法然は事態を深刻に受け止め、“他宗を攻撃してはならない”“悪事を為すべからず”と弟子たちを戒める「七箇条制誡」を起こし、主な門弟189名に署名させて延暦寺に送った。
だが浄土宗人気に危機感を持っていたのは京都の僧侶だけではなかった。翌年、今度は奈良興福寺の宗徒たちが、法然一派の罪科をあげて攻撃し、罪を問うべく朝廷に直訴したのだ。内容は、「阿弥陀仏の救いの光が浄土宗門徒のみに当たり他宗は救われぬとは許せない」「阿弥陀仏だけを供養し釈迦を供養しないのは仏教徒として本末転倒」「仏像や寺を造る善行を積む者をあざけり笑うとは言語道断」「法然は最澄や空海より偉いつもりか」「念仏は心の中で念じること。口で唱えるのは曲解だ」「妻帯、肉食など戒律を破壊している」「既に宗派が8つもありこれ以上必要なし」云々、最後に「全仏教徒が一丸となって訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、事は極めて重大だからであります。どうか天皇の御威徳によって念仏を禁止し、この悪魔の集団を解散し法然と、その弟子達を処罰して頂きますよう興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます」と結ばれていた。
そして翌年、後鳥羽上皇を激怒させる決定的な事件が起きる。弟子の住蓮と安楽に感化された宮廷の女官たちが、密かに宮廷から逃げて尼僧となったのだ。出家をそそのかした罪で2名の弟子は処刑、浄土宗は禁教とされ、1207年、法然は僧籍を剥奪されたうえ74歳という高齢にも関らず四国(讃岐)へ流されてしまう。
法然4
法然の出家と修行
法然は1133年、美作国は稲岡荘の押領使であった漆間時国(うるまときくに)の子として生まれた。美作国は現在の岡山県の北東部。押領使とは現在の警察官にあたる。
法然が9歳のとき、争いごとがおきて父が殺される。父は臨終時に幼い法然をよびよせ、「決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならばどうか、すべての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人々を救って欲しい」という遺言を残し、息を引きとった。
法然は母方の叔父に引き取られ、その叔父によって仏教の手ほどきを受けた。15歳のとき、比叡山にのぼって正式に出家し、父の遺言にしたがって天台宗を懸命に学んだ。
法然の比叡山での修行と学問の日々は、実に28年の長きにわたった。その間、ふつうではとうてい不可能であると思われる膨大な量の経典を5度も読み返したと言われる。しかし、彼が求める父の遺言でもあった「すべての人が救われる道」を見つけ出すことはかなわず、法然の苦悩が晴れることはなかった。
「選択本願」「専修念仏」
やがて法然は、唐の善導(ぜんどう)が著した書物の中に「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、すべての人が漏れなく救われる。なぜならそれが阿弥陀如来の本願(誓い)だからである」という一文を発見した。
長い長い修行と仏典研究の歳月をへて、法然はようやく「阿弥陀の本願を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に往生できる。」という悟りを得たのだ。このとき法然43歳で、浄土宗が誕生した。
悟りに達した法然は比叡山を下り、「選択本願」「専修念仏」の教えを説く。「阿弥陀の本願を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えさえすれば極楽浄土に往生できる。」「必要なことはそれだけであって、お金も学問もきびしい修行も、戒律も必要ではない。」とする法然の教えは、たいへん分かりやすく、また実行も容易で多くの人々が教えに耳を傾けた。
法然は求められれば身分の上下を問わず念仏の教えを説いた。その教えに関白であった九条兼実が帰依したこともあり、浄土宗は爆発的に流行した。あるとき法然は兼実から「念仏の教えは普段からうかがっているが、心得ないこともあるので、なにとぞ書物にして欲しい」との要請を受けた。求めに応じて、1部16章からなる「選択本願念仏集」を書き上げた(法然65歳)。  
法然5-1
天台宗の比叡山で学んだ法然
幼名を勢至丸(せいしまる)と言う法然(ほうねん, 1133-1212)は、美作国(岡山県)の久米南条稲岡荘という荘園の押領使(地方の軍事的な令外官)の子として生まれました。父は漆間時国(うるま・ときくに)、母は秦氏でしたが、勢至丸が9歳の時に、稲岡荘の領主・源内武者定明の不意の夜襲を受けて父を失います。父親が武力で仇討ちをするのではなく、僧侶となって自分の菩提(ぼだい)を弔って欲しいと遺言したため、勢至丸は母親の弟・智鏡房について学問をします。幼少期から法然は圧倒的な学習能力を有しており、後年には文殊菩薩の化身と賞されるほどの深遠な学識を誇ることになりますが、初めて法然に学問を教えた智鏡房は「一を聴いて十を悟る者」として法然の将来の大成を予見したといいます。
勢至丸の学問への優れた適性を惜しんだ智鏡房は、天台宗の総本山である比叡山で本格的な学問をするように勧め、勢至丸は母親との今生(こんじょう)の別れを覚悟して比叡山へと入山し、北谷の持法房・源光に師事しました。この時点ではまだ正式に得度しておらず勢至丸は垂れ髪のままでしたが、その二年後となる1147年(久安3年)に東塔・功徳院に居た皇円(1074-1169頃)の弟子になって剃髪し得度しました。当時の天台宗で座主を輩出する有力な門跡(もんぜき)は、青蓮院(青蓮院門跡)と三千院(梶井門跡)であり、法然が初めに弟子入りした源光と皇円は梶井門跡に属する僧侶であったと言われます。門跡というのは、皇室や有力貴族の子弟が出家して入る格式の高い寺院のことであり、青蓮院(しょうれんいん)や梶井(かじい)の門跡の門主には法親王が多くいたので由緒ある高貴な寺院として尊重されていました。
皇円の下で得度・受戒した15歳の勢至丸は、「菩提心論」の「心の源は空寂である」という言葉から法然房・源空と名づけられました。法然は、中観によって空や真如を体得しようとする比叡山延暦寺での高度な学問を行い、回峰行のような心身を疲弊させ衰弱させるような厳しい山岳修行に耐えました。しかし、高位の公家出身ではない地方武士の子に過ぎない法然は、幾ら学識と人格に優れていても天台宗の座主(ざす)の地位に就くことは出来ませんでした。法然自身、天台宗の比叡山で権勢を得ることには興味がなく、民衆を救済するための真の仏法と実践を求めていました。当時の比叡山は、藤原摂関家を背景にした青蓮院門跡と天台宗での地位を高めてきた梶井門跡が権力闘争を繰り返す「世俗化の弊害」が激しくなっており、真摯に学問と修行に励む法然が悟りを得る場としては適切ではないという問題もありました。
真の仏法の教えにもっと近づきたいと考えた法然は、比叡山の中でも最も世俗化の害が少なかった黒谷(くろたに)へと隠遁し、1150年9月、禁欲的に求道の生活を送っていた慈眼房・叡空(黒谷聖人)に師事します。法然は、黒谷で開かれていた二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)という「法華経」や「往生要集(おうじょうようしゅう)」を研究する講会に参加したことで、西方極楽浄土へ往生するという浄土思想や念仏信仰へ関心を向けていきます。「往生要集」を書いた源信は、難解な学問や議論を延々と行う奈良仏教(古代仏教)を非難して、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというような「易行」と「簡潔を極めた理論」の必要性を説きました。釈迦の正しい仏法の威光と恩恵が薄れていく「末法の時代」には、古代の貴族社会の秩序が崩れて、民衆を天災・飢餓・戦乱の苦しみが襲いました。法然はこういった末法の時代に、「貴賎・貧富・学識の違い」なく一切衆生を救うためにはどうすれば良いのかを考え、造像立塔(寺社・仏像の建築)や学識教養(経典の学問)では無知で貧窮している民衆を救うことは出来ないと結論せざるを得ませんでした。最澄の「山家学生式(さんけがくしょうしき)」で定められた比叡山の学修年限である12年を終えた法然は、比叡山を下山して「浄土教」や阿弥陀信仰(往生思想)を更に深く学ぶために南都仏教の寺院へと足を運びます。
仏教を学ぶ学僧の中では最高の知識水準に達していた法然は、教えを受けるために訪れた法相宗の碩学である蔵俊(ぞうしゅん)や華厳宗の英才である景雅(けいが)の知識を大きく上回っていたため、逆に師としての礼遇を受けたとも言われます。しかし、法然の浄土教理解に大きな影響を与えたのは、(法然よりも前の時代の仏僧である)東大寺別当にもなった永観(ようがん)と東大寺の禅那院に住居を定めていた珍海(ちんかい)です。永観は、阿弥陀仏信仰を説いた善導の「観経疏散善義(かんぎょうしょさんぜんぎ)」を引用して、阿弥陀仏の観念と称名の重要性を「往生拾因(おうじょうしゅういん)」という書物の中に書きました。
これを読んだ法然は、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教義の原点となる「観経疏(かんぎょうしょ)」を読むきっかけを得ました。珍海は、自身の「決定往生集(けっていおうじょうしゅう)」という書物の中で、阿弥陀仏の名前を呼ぶ「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」こそ「正中の正因(往生の正しい原因)」と述べています。しかし、珍海は八正道を基盤に置く観想的念仏(心を集中安定させた念仏)でないと有効ではないとしたので、念仏を唱えさえすれば誰でも極楽往生が約束されるとした法然の浄土宗とはまだ距離がありました。
永観や珍海の念仏称名信仰に決定的な影響を与えたのは、古代中国の僧侶・善導(ぜんどう)の「観経疏(かんぎょうしょ)」であり、法然もまた京都宇治にある平等院鳳凰堂の一切経蔵で観経疏を閲覧する機会を得て、無二無念の念仏信仰へと大きく突き動かされました。そして、観経疏の中に「百即百生(ひゃくそくひゃくしょう)の法」を発見した法然は、教義上の師となる善導こそが阿弥陀如来の化身であると信じるに至ります。煩悩を消し去ることが出来ない凡夫であっても、「称念(念仏を唱えること)」さえすれば全て阿弥陀如来(あみだにょらい)が救済してくれるということを法然は確信したのです。
法然は、ただ一心に念仏を唱える「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」に努めれば良いという「宗教的な回心(えしん)」に到達し、1175年に浄土宗が開祖されたと言われます。1175年の開祖については、その後に公家の九条兼実の病気平癒を祈祷したり受戒したりしているので、専修念仏者(純粋な浄土教信者)とは言えないという異説もありますが、仏教信仰上の念仏への回心が1175年に起こったことはほぼ間違いないとされています。九条兼実は、古代仏教界(延暦寺・興福寺)の圧力によって還俗した晩年の法然を保護・支援したパトロンのような存在でした。浄土教の根底にあるのは、どんなに煩悩や不安に塗れていても念仏を唱えさえすれば、必ず阿弥陀如来が救済して極楽往生させてくれるという「易行(いぎょう)による大衆の救い」なのです。   
法然5-2
専修念仏の浄土宗の開祖となった法然
念仏(「南無阿弥陀仏」)さえ唱えれば確実に阿弥陀如来が極楽往生させてくれるという「専修念仏(選択本願)」の教えへと回心した法然。その貴重な教えを民衆に伝えたいと思った法然は、1175年に、長年仏法を学んだ比叡山を下山して「西山の広谷」という気候風土の悪い場所に布教の拠点を構えました。1180年に平重衡(たいらのしげひら)の乱によって東大寺・興福寺(藤原氏の氏寺)・元興寺などの名刹が炎上しましたが、東大寺の復興がだいぶ進んできた1191年に、法然は東大寺大仏殿の近くで「浄土三部経」を元にした説法を行いました。この説法の中で、法然は「法相・三論・華厳」といった旧仏教だけでなく、「天台・真言」などの密教も批判し、仏の真の救済は浄土宗に窮まるといった話を展開しました。浄土宗には師から弟子へと連綿と語り継がれてきた相承血脈(そうしょうけつみゃく)や奥義口伝などは存在せず、ある意味で法然個人の「宗教的回心」と「浄土教の研究解釈」によって生み出された非正規的な宗教であると言えます。
つまり、法然は1191年の「浄土三部経」に基づく説法によって、古代仏教の骨格を為していた「聖道門(しょうどうもん)の教え=禁欲的な学問や修行によって悟りを開くという聖なる教え」を否定的に評価する教判(仏教教義の価値判断)を行ってみせたわけです。釈迦の正統な法の効果が薄まりつつある「末法の時代」には、従来の仏教の煩悩を消し去ろうとする方法論は有効性が乏しく、真に苦しみや迷いを取り除こうとすれば「弥陀の本願」に念仏で縋る(すがる)ほかはないという他力本願(たりきほんがん)が法然の教えです。法然は、浄土三部教を最高の教えとする教判(きょうはん)によって、念仏を唱えるだけで極楽に導かれる浄土教は「頓教中の頓(とんきょうちゅうのとん=最も迅速なご利益が得られる教え)」であると語りました。法然自身は、天台宗から独立した浄土宗を新たに開設する意志はなかったとされますが、法然は教養のある学僧や修行僧が悟りを開く「聖道門」とは別の、一般大衆が誰でも極楽往生できる「浄土門」を示すために民衆に布教を続けたのです。
法然は、浄土宗には師から弟子へと連綿と語り継がれてきた相承血脈(そうしょうけつみゃく)がないことを公言していました。しかし、天台宗や南都仏教など古代仏教の側から相承血脈(師資相承)がないことを非難された時、中国の僧・道綽(どうしゃく, 562-645)の「安楽集」を読めば、「菩提流支三蔵→恵寵→道場→曇鸞→法上→道綽→善導→懐感→少康」へと受け継がれてきた浄土宗の相承血脈を知ることが出来ると反論しました。民衆が飢餓・天災・戦乱などで絶望に打ちひしがれる末法の時代には、古代仏教(聖道門)の厳格な戒律、過酷な修行、煩雑な学問体系などは「一切衆生の救済」にまるで役に立ちませんでした。そういった社会不安が増大する平安末期の世に生きた法然は、苛烈で難解な「聖道門」に変わる万人を簡単に救済できる「浄土門」を開き、衆生に備わる仏性を具体的に開花させる「極楽往生の実践としての念仏称名(専修念仏)」を広めたと言えます。
法然は1186年に「選択集(せんぢゃくしゅう)」を著述し、1204年には浄土宗拡大を警戒する比叡山延暦寺の武装蜂起を受けて「七箇条制誡(ななかじょうせいかい)」を書いて、専修念仏に努める浄土宗信徒の破戒行為の増長や他宗派に対する挑発を戒めています。1212年に法然は大往生しますが、法然の弟子には證空、源智、聖光、幸西、長西などがいて、後に日本最大の宗教勢力へと拡大する浄土真宗(一向宗)を起こした親鸞も法然に師事していました。  
法然6
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
本師〈ほんじ〉・源空〈げんくう〉は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫〈ぼんぶ〉人を憐愍〈れんみん〉せしむ。
「正信偈」の「依釈段〈えしゃくだん〉」といわれている段落に、親鸞聖人は、七人の高僧の名をあげて、その徳を讃えておられます。源空上人というのは、親鸞聖人の直接の師であられた法然上人のことです。法然上人(一一三三〜一二一二)は、美作国〈みまさかのくに〉(今の岡山県)に、地方武士の子としてお生まれになりました。上人の九歳のとき、お父上は、抗争に巻き込まれ、夜討ちに遭われて亡くなられたのでした。命終に際して、お父上は、幼い法然上人に、次のようなことを言い遺されたと伝えられています。「仇を恨んではならない。出家して、敵も味方も、ともどもに救われる道を求めよ」と。このような出来事が縁となって、法然上人は、十三歳のときに比叡山に上られ、十五歳のとき出家されたのでした。上人は、はじめ源光〈げんこう〉という僧の弟子となられ、十八歳のとき、叡空〈えいくう〉という僧を師として天台宗の教えを学ばれたのでした。叡空師は、上人の非凡な才能を認め、「法然房」という房号を与えられ、また最初の師の「源光」と、ご自分の名の「叡空」とから、「源空」という名を授けられたのでした。法然上人は、僧侶としての栄達をかなぐり捨てられ、一人の孤独な求道者として、人は、どのようにして悩みや悲しみから離れることができるのか、その道をひたむきに探し求められたのでした。しかし、その願いは、比叡山の伝統の教えによっては満たされることがなかったのです。そこで、上人は、直接、仏の教えに正しい答えを求められました。厖大〈ぼうだい〉な数にのぼるお経と、それらのお経に対する先人たちの注釈書類を虚心に読みあさられたのでした。そのことを親鸞聖人は「本師源空明仏教〈ほんじげんくうみょうぶっきょう〉」(本師・源空は、仏教に明らかにして)と詠んでおられるのです。釈尊の教えであるお経によって道を明らかにされた、ということです。そのような求道の中で出遇われたのが、源信僧都〈げんしんそうず〉による「往生要集〈おうじょうようしゅう〉」の言葉でした。「自分のような愚かな者にとっては、ただ阿弥陀仏の本願を信じて極楽浄土に往生させてもらうしか方法はない」という教えだったのです。自分の努力によって悟りに近づくための教えではなかったのです。源信僧都のお言葉に導かれて、上人は、それまであまり深く関心を向けておられなかった善導大師〈ぜんどうだいし〉の教えに、衝撃的な出遇いをなさったのです。善導大師の「観経疏〈かんぎょうしょ〉」の「一心に弥陀の名号〈みょうごう〉を専念して」というお言葉に遇われたのです。それは、上人の四十三歳のことであったと伝えられています。それが衝撃であったのは、「念仏でもよい」という自力聖道門〈しょうどうもん〉の伝統的な教えとは異なり、「ただ念仏しかない」という教えだったからです。しかも、「ただ念仏」によってのみ救われるということは、誰かがそのように理解したというのではなく、それが「かの仏願に順ずるがゆえに」(同前)と説かれていますように、阿弥陀仏の願われた願いに順う道理だからなのです。法然上人は、やがて比叡山から下りられ、京都の吉水において、貧富・貴賎〈きせん〉を問わず、濁った世を生きなければならない人びと、真の仏教を求める人びとに、「専修〈せんじゅ〉念仏」(専ら念仏を修める)の教えを広められたのでした。この法然上人に出遇われ、その教えをまっすぐに受け取られたのが親鸞聖人だったのです。専修念仏の教えが広まるにつれて、権威を失うことを恐れた比叡山や奈良の伝統仏教からの攻撃が強まり、同じく権威を守ろうとした朝廷によって念仏は弾圧されることになりました。法然上人の門人の四人は死罪に処せられ、法然上人は四国の土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪となられたのでした。法然上人は、四年あまり後に赦免〈しゃめん〉されて京都にもどられましたが、ほどなく、念仏のうちに八十年のご生涯を閉じられたのでした。 
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
本師〈ほんじ〉・源空〈げんくう〉は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫〈ぼんぶ〉人を憐愍〈れんみん〉せしむ。
法然〈ほうねん〉上人は、人が、次々に襲ってくる悩みや悲しみから、どのようにして解き放たれるのか、その道を真正面から学ぼうとされたのでした。そのために、お若いころから、比叡山で、天台宗の修行や学問に励まれたのでした。そして、まれに見る逸材として、比叡山の誰からも一目も二目も置かれるようになっておられたのでした。比叡山ばかりではなく、南都(奈良)の法相宗〈ほっそうしゅう〉をはじめ、諸宗の宗義の研鑽〈けんさん〉にも努められたのでした。これらの修養によって、法然上人は、当時、日本に伝わっていた仏教の教義の最も深いところを究〈きわ〉められたわけです。このことを、親鸞聖人は「正信偈」に「明仏教」(仏教に明らかにして)と詠っておられるのだと思います。つまり、当時の仏教の教義に精通しておられたということです。しかし、それにもかかわらず、法然上人は、それらの学びからは、心から喜べる人生の答えを見出されなかったのです。そこで、諸宗の教義から離れて、直接、釈尊のみ教えの中に答えを探し求められたのでした。このため、上人は、釈尊の教説である厖大〈ぼうだい〉なお経と、それらのお経に対する先人たちの解釈〈げしゃく〉などを精力的に学ばれたのでした。この意味でも、親鸞聖人は、法然上人のことを「明仏教」(仏教に明らかにして)と讃えておられるのだと思います。諸宗教の一つである「仏教」ではなくして、釈迦牟尼〈むに〉仏の教えの全体を解明されたということです。このような経過の中で、前回述べました通り、法然上人は、「仏説観無量寿経〈ぶっせつかんむりょうじゅきょう〉」と、善導大師〈ぜんどうだいし〉による、その注釈である「観経疏〈かんぎょうしょ〉」に出遇われたのです。善導大師が「仏説観無量寿経」の教説から受け取られた「ただ念仏して」という教えこそが、釈尊のご本意であることを、法然上人はお気づきになられたのです。この劇的な出来事を契機に、上人は、ご自身が「専修〈せんじゅ〉念仏」の道を歩まれるとともに、世の貧富・貴賤・老若・男女・善悪の人びとに、一心に専ら阿弥陀仏の名号〈みょうごう〉を称〈とな〉える念仏を勧められたのです。その勧化〈かんげ〉を受けた多くの人びとの中に、実は、親鸞聖人がおられたのです。「正信偈」には、「憐愍善悪凡夫人〈れんみんぜんまくぼんぶにん〉」(善悪の凡夫人を憐愍せしむ)と述べられていますが、「凡夫」とは、普通の人ということで、真実に目覚められた仏以外の、どこにでもいる人のことです。法然上人は、善悪にかかわらず、真実に目覚めることができていないすべの凡夫を憐れまれたのです。しかし上人は、ご自分以外の凡夫を憐れに思われたということではないでしょう。阿弥陀仏の本願が、善悪にかかわらず、悩み多いすべての凡夫を憐〈あわ〉れんで発〈おこ〉されている慈愛であること、そして凡夫は、本願に素直に従うしかないことを説き示されたのが、釈尊の慈愛であることを、法然上人はまた明らかにされたのです。ここには、悪の凡夫も、善の凡夫も、ともに区別なく見られていることに、注意を向ける必要があると思われます。悪の凡夫は、自分が起こす欲望に自分が支配されて、法律を犯し、道徳に背き、仏が説き示された真実をないがしろにしているのです。善とされる凡夫は、現実には、法律は犯していないかもしれません。また道徳に背く行いはしていないかもしれません。しかし、わずかばかりの自重の努力をもとにして、知らず知らずのうちに、その果報を要求します。また、他人を見下して自らの優越を誇っているのです。これも、仏の真実をないがしろにしているのです。善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚かで悲しい存在であるのが凡夫なのです。そのように愚かで悲しい存在である凡夫のあり方に、法然上人は、ご自身のすがたを見ておられたのではないでしょうか。凡夫は、どこまでも憐れむべき存在であり、そのような凡夫であるからこそ、摂〈おさ〉め取って捨てられることがない阿弥陀仏の本願が一方的に差し向けられていることを、法然上人は強く受け止められたのです。自棄〈やけ〉になる他はないような絶望の中で思い知らされる歓喜〈かんぎ〉を、身をもって教えておられるのではないでしょうか。   
 
比叡山と栄西

 

1153 / 叡山に登る。 
1154 / 比叡山延暦寺にて出家得度して栄西と称す。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
1157 / 静心没す。千明の指導を受ける。
1158 / 千明より虚空蔵求聞持法を受ける。
1159 / 叡山の有弁に従い竹林院で天台教学を学ぶ。
1163 / 叡山を下る。安養寺。千明。金山寺。日応寺。三摩耶の行(穀物を断つ21日間)。 
栄西1
開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。永治元年(1141)4月20日、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として誕生しました。11歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、13歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学します。そののち、宋での禅宗の盛んなることを知り、28歳と47歳に二度の渡宋を果たします。2回目の入宋においてはインドへの巡蹟を目指すも果たせず、天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を5年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
都での禅の布教は困難を極めたが、建久6年(1195)博多の聖福寺(しょうふくじ)を開き、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著すなどしてその教えの正統を説きました。また、鎌倉に出向き将軍源頼家の庇護のもと正治2年(1200)寿福寺が建立、住持に請ぜられます。
その2年後、建仁寺の創建により師の大願が果たされることになりました。
その後、建保3年(1215)7月5日75歳、建仁寺で示寂。護国院にその塔所があります。また師は在宋中、茶を喫しその効用と作法を研究、茶種を持ち帰り栽培し、「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を著すなどして普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても尊崇されています。
栄西2
栄西は1141年に備中国(現在の岡山県)に生まれた。父は吉備津宮(きびつのみや)の神主であった。 8歳のときに仏教の勉強をはじめ、14歳で比叡山延暦寺に入って出家し、天台宗を学んだ。栄西は1168年と1187年の2度にわたって、宋へおもむき、仏教の知識を深く身につけた。2回目の入宋の目的は、インドに渡って釈迦の足跡をたずねることにあったが、当時はモンゴルの勢いが強く、許可がおりず、インド行は、断念せざるを得なかった。
栄西は天台山へおもむき、虚庵懐敞(こあんえしょう)について2年間修行し、臨済宗の禅を学び、1191年に帰国した。
帰国後、栄西は、まず九州で臨済宗の禅を広める活動を始めた。1194年に京にのぼって、さらに禅の布教を行ったが、ここで天台宗の妨害にあい、禅の布教停止を命じられた。そのため栄西は、1198年に「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著し、禅は天台宗の教えを否定するものではなく、禅を盛んにすることが天台宗を発展させ、国家を守ることにつながると主張したが、天台宗側の攻撃は止まなかった。
そこで栄西は京での布教に見切りをつけ、1199年、鎌倉に下った。朝廷との結びつきの強い天台宗に対抗するため、幕府の保護を受けようとした。鎌倉で栄西は北条政子の帰依を受け、政子が建立した寿福寺の住職となった。
1202年、栄西は2代将軍頼家の後ろ楯を得て、京都東山に建仁寺を建立した。翌1203年に朝廷は、建仁寺に天台宗・真言宗・禅宗の三宗を置くことを認め、1205年には建仁寺を官寺とした(この場合の「官」とは「国」の意味)。栄西は幕府の後ろ楯を得て、朝廷に禅宗を認めさせた。その後、栄西は1206年9月に東大寺大勧進職という位につき、1213年5月には権僧正ともなった。
僧でありながら、幕府や朝廷などの権力・権威に近づき、自分の地位を高めようとする栄西の行動は、当時から多くの批判があった。
1213年6月、鎌倉にもどった栄西は、翌1214年の2月、3代将軍実朝の病気平癒のための祈祷を行い、ついで「喫茶養生記」を献じた。「喫茶養生記」は、日本で最初の「茶」に関する書物として有名である。この中で、茶という当時の日本では一部の人しか知らなかった嗜好品を、健康にもよく、また仏の道にもかなう飲み物であるとして、大いに推賞した。
1215年、栄西は75歳で亡くなった。亡くなった場所については、鎌倉の寿福寺、京都の建仁寺とする2説がある。 
栄西3
「ようさい」ともいう。別名、葉上房、千光法師。鎌倉初期の禅僧で臨済宗の開祖。岡山で神主の家に生れる。13歳で出家して比叡山延暦寺で受戒し、18歳の時に鳥取・伯耆大山寺(だいせんじ)で天台密教の奥義を学んだ。1168年(27歳)、かねてから夢だった宋に博多から渡り、かつて575年に仏僧智(ちぎ)が天台宗を開いた聖地・天台山を訪れた。
当地は禅宗が強く支持を集めており、栄西も大いに感化された。一ヵ月半後に天台の経巻60巻を携えて帰国し比叡山へ戻るが、この頃の延暦寺は僧侶たちが権力争いに明け暮れていたので、仏法復興の為にもインドへ渡って釈迦の足跡を辿りたいと願うようになった。そして1187年(46歳)、19年ぶりに大陸に渡航する。
しかし、宋から陸路インドに入ろうとしたところ、金軍の南下という治安上の問題で許可が出ず泣く泣く帰国することに。だが、博多へ向けて乗船したが船が逆風で難破し温州に漂着。これがきっかけとなって天台山万年寺の高僧と出会い師事し、本格的に臨済禅(南宋禅)の修行を積み、明菴(みょうあん)の道号を与えられる。4年後(1191年)、宗の船に便乗して帰国に成功すると、筑前、肥後を中心に、まず北九州から戒律重視の臨済禅を伝え始めた。これは、当時の京都が天台宗&真言宗という平安時代が生んだ2大勢力の下にあり、すぐに新興宗教となる禅宗の布教活動を開始できる状況ではなかったからだ。
お経もなく、仏を拝むのではなく、座禅を通して自らが仏であることを悟る禅宗。栄西は旧仏教界との対立を避ける為に天台宗だけでなく真言宗も学ぶなど調和に努めたが、禅宗が広がるにつれ、それを快く思わない旧仏教界からの迫害を受ける。1194年(53歳)、比叡山からの告訴を受け、ついに朝廷から禅宗の布教禁止の命が出されてしまう。大宰府で尋問を受けた栄西は「禅は天台宗の復興に繋がる。禅の否定は最澄の否定だ」と主張してその場を押し切り、翌年には博多に日本初の禅寺となる聖福寺を建てた。
圧迫を受けて逆に禅を伝える使命感に火が付いた栄西は、1198年(57歳)、閉塞状態を打破する為に意を決して京都に入り、“禅は既存宗派を否定しておらず、目的はあくまでも仏法復興だ”と「興禅護国論」を記して弁明する。そして翌々年の1200年、今度は誕生から間もない幕府に庇護を求めて鎌倉へ赴き、禅宗の重要性を力説。厳しい戒律など精神性を重んじる禅に鎌倉武士は美学を感じ、将軍頼家や北条政子の帰依を得ることに成功した。そして政子の援助を受けて鎌倉での布教の根拠地となる寿福寺を建てた。
そして!幕府から京都に所有する直轄地を提供してもらうことで、1205年(64歳)、ついに禅寺(建仁寺)を「京都に建てる」という悲願が実現した。※スムーズに建仁寺を創建できるよう、栄西は同寺を禅宗、天台宗、真言宗の三派を学ぶ為の寺とした。
その後も栄西は禅宗の浸透だけにこだわるのではなく、日本仏教全体に活力を与える為に、1206年には東大寺勧進職に就任して同寺の復興に尽力した。朝廷や幕府の間を精力的に立ち回る姿が、比叡山から「政治権力に媚びる慢心の権化」などと批判されたが、この間も浄土宗が弾圧を受け法然が配流されており、逆にそこまでしなければ旧仏教側の妨害の中で新しい禅宗を広められなかったとも言える。1215年、寿福寺にて74歳で病没した。
栄西は2度目の渡航で大陸(宋)から茶の種子を持ち帰ると、長崎県平戸の千光寺、佐賀県背振山(せぶりやま、昔は茶振山と書いた)の雲仙寺・石上坊に植え、これが日本のお茶栽培の原点とされている。そして将軍源実朝に献上した「喫茶養生記」では「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とその薬効を説き、具体的に栽培の適地や製法、茶のたて方まで細かく解説し、日本における茶文化の祖となった。そして実際に実朝の二日酔いを茶が癒したことで、茶の普及が加速したという。
栄西が茶の栽培に積極的だったのは、単に健康に良いだけでなく、お茶の持つ不眠作用が禅の修行に不可欠と思ったからだ。
宇治以前の京茶の名産地は栂尾(とがのお)だった。栄西が栂尾・高山寺の明恵上人に茶の薬効を話して栽培を薦めた後、同地では茶栽培が盛んになり、栂尾の茶を「本茶」、それ以外のものを「非茶」と呼ばれたほどだったという。
法然は栄西より8歳年上。  
 
比叡山と親鸞

 

1181 / 慈円の下で出家。やがて比叡山での修行生活に入る。
松若丸9歳の時、京都東山の青蓮院を訪れ、出家得度を願い出られました。得度を明日にしよう、と言う青蓮院の慈鎮和尚に示されたお歌は有名です。「明日ありと 思う心の あだ桜  夜半に嵐の 吹かぬものかは」
伯父の範綱(のりつな)につれられて青蓮院(しょうれんいん)の慈円(天台座主)について得度・悌髪(9歳)、法名を範宴(はんえん)と授かった。
1191 / 磯長(しなが)の夢告 (聖徳太子が夢に現われお告げ) 。
1201 / 比叡下山
親鸞聖人は真剣に修行に励めば励むほど、絶対に助からないわが身の姿が知らされ、次のように告白されています。「定水を凝らすといえども識浪しきりに動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う。しかるに一息追がざれば千載に長く往く」(歎徳文)大乗院から見る琵琶湖は美しい。うっそうとした樹木の間から、鏡のように澄み切った水面を眺められ、聖人は、「ああ、あの湖水のように、私の心は、なぜ静まらないのか。静めようとすればするほど、散り乱れる。どうして、あの月のように、さとりの月が拝めないのか。次々と、煩悩の群雲で、さとりの月を隠してしまう。このままでは地獄だ。この一大事、どうしたら解決ができるのか」と、悲泣悶絶せずにおれませんでした。明けて、聖徳太子から「あと10年の命」と予告された最後の年、29歳を迎えられた親鸞聖人は、「天台宗法華経の教えでは救われない」と絶望され、ついに、下山を決意されました。9歳で出家されてより、20年めのことです。
他力念仏者「親鸞」の誕生 / 自分の宿願である出離の道が、山門にいてもとうてい満たされないことを知って、心痛のあまり、頂法寺の六角堂に百日の参籠を始めてから、九十五日目の夜、如意輪観世音の化身である聖徳太子から「末代出離の要路はただ念仏にしくことなり」との夢告を得て吉水の源空(法然)上人を訪ねる。
六角堂の祈願の時のように、親鸞は百日の間、法然のもとに通い続け、煩悩具足の悪人親鸞が、煩悩を身につけたままで仏になる道を尋ね続けた結果、上人の門下となる。このとき法然は「綽空(しゃっくう)」という法名を授けた。
これまで、親鸞、延暦寺で堂僧をつとめる。この年春、親鸞、延暦寺を出て、六角堂に百日を期して参寵、九十五日に聖徳太子の夢告を得て、吉水源空の門に入る(恵書・教証・伝絵)。
親鸞、延暦寺を出て六角堂に参籠。聖徳太子の夢告により法然の門に入る。
京都青蓮院において、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。
建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。
六角夢告 / 建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 12]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」意訳 - 「修行者が前世の因縁によって[注釈 13]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。 
親鸞1
出家
親鸞は1173年に藤原氏の末流である下級公家、日野有範(ありのり)の子として京都で生まれた。4歳のときに父を亡くし、8歳のときにその母を亡くした。9歳となった親鸞は「愚管抄」の著者として知られる慈円のもとで出家した。ちなみに慈円は関白九条兼実の弟にあたる人物である。出家した年齢から考えると、法然の場合とちがって、「自分の意志」による出家ではなく、おそらく周りの勧めによって親鸞は仏門に入ったのではないかと想像できる。
比叡山に入り、天台宗の僧として修行を続けた親鸞でだが、ある疑問から山をおり、京の六角堂という寺に参籠した(参籠とは、寺に籠もって祈り続けること)。
疑問
親鸞の疑問とはどのようなものであったのか。20代後半に達した親鸞には、どうやら恋人がいたらしいのだ、恵信尼(えしんに)という女性である。当時の仏教の戒律では僧侶は妻帯することはできない、つまり女性を愛することは禁止されていた。これはあくまでも「たてまえ」で、当時の仏教界では戒律をまじめに守る僧は少なくなっていた。むしろ偉い僧ほど「かくし妻」がいるということは、いわば「公然の秘密」であった。
親鸞はまじめな人だった、当時の仏教界の潮流に流されることなく、「僧侶は妻帯してはならない」という戒律を守ろうとして、「恵信尼を愛している」という自分の感情との対立に苦しんだわけだ。
親鸞の疑問とは「どうして僧侶は女性を愛してはならないのか」というものだ。もちろんだめであり、それはお釈迦様の定めたルールだからである。この矛盾の解決のため、親鸞は六角堂に参籠した 。
聖徳太子のお告げ
仏の教えと自分の感情、この矛盾の解決のため京の六角堂にこもった親鸞は、100日間、救世観音に祈り続けることによって解決しようとした。95日目の夜、親鸞の夢に聖徳太子が現れ、「お告げ」を与えた。ちなみに当時、救世観音と聖徳太子は同体であると考えられていた。その「お告げ」とは次のようなものだ。
行者宿報設女犯  我成玉女身被犯
一生之間能荘厳  臨終引導生往生
お告げの意味は次のようになる。
もし仏教を修行中の者が、前世からの宿命で妻帯するのならば、自分が玉女の身となってその妻となり、女犯の罪を犯すことはないだろう。そして一生の間、その身を飾り、死にのぞんでは極楽に導くであろう。
このとき親鸞は29歳であったといいます。「お告げ」を受けた親鸞は比叡山を離れ、法然のもとへ弟子入りした。ちなみに法然の弟子には九条兼実がいた(親鸞の師であった慈円は兼実の弟 にあたる)。 
親鸞2
浄土真宗の開祖。初期鎌倉時代の仏教僧。下級貴族・日野有範(ありのり)の子で幼名松若丸。4歳で父と別れ7歳で母と死別して天涯孤独と成り伯父に育てられるも、1181年(8歳)、源平争乱の真っ只中、飢饉と疫病が蔓延する都の中で、子どもながらに人の死後を憂い比叡山に出家。以後、心の救済を求めて約20年の修業の日々を送る。だが、最澄が開いた日本仏教の最高学府比叡山は、400年の間にすっかり俗化していた。裕福な貴族たちと結んで大荘園の領主となり、僧兵を組織して他派と争い、熾烈な権力争いが飽くことなく続いていた(もちろん、真面目に学問に励む者もいたが)。
親鸞はいっこうに悟りを得ることが出来ない自分自身と、堕落してしまった比叡山への絶望もあって、1201年(28歳)、ついに下山。都で説法していた法然の元へ足を運ぶ。そこで阿弥陀仏の慈悲を全身全霊で体感した親鸞は「たとえ法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちようとも後悔せず」と弟子入りを決意する。当時の出家者は独身を守らねばならなかったが、深く愛する女性・恵信尼と出会った親鸞は、30歳の時に法然の許しを得て結婚した(結婚は後の流刑後説もアリ)。昼夜を問わず勉学にいそしむ親鸞は、多くの門弟の中でも目に見えて頭角を表わし、入門4年目にして、法然の肖像を描くことと、師が記した「選択本願念仏集」の書写を認められた。
高い学識を持つ師の法然は、当時の旧仏教の最大勢力、奈良興福寺や叡山延暦寺からも一目置かれており、布教の当初は弾圧もなかった。しかし、浄土宗が栄えるにつれ、信者の激増が危機感を与え圧迫が始まった。1204年(31歳)、法然は綱紀粛正の為に弟子に向けて「七箇条制戒」を記し、親鸞はこれに綽空(しゃっくう)の名で連座署名した。しかし、門徒の中には「念仏を唱えれば何でも帳消しになる」と平気で悪事を行なう者もいて、弾圧はさらに厳しくなった。あげくに朝廷の女官と通じる弟子が出てきて、1207年(34歳)、とうとう朝廷から「念仏停止(ちょうじ)」の命令が下され、弟子の2名が死罪、法然は讃岐に、親鸞は越後(新潟)に流罪となった。この時代は出家者を法で裁けなかったので、わざわざ親鸞を還俗させて俗名・藤井善信(よしざね)と付けてから流した。この後、師弟は二度と再会することはなかった。 1211年(38歳)、親鸞は4年で流罪をとかれたが、法然の死を知り京都へ戻らず、東国で布教活動を始めた。41歳、関東を飢饉が襲う。当時は何回も経典を読むことが人々の救済に繋がるというのが常識だった為、根本経典(三部経)を千回読もうと思い立つが、人の渦に飛び込み伝道する事こそが重要だと悟って中止、約20年にわたって農民と共に暮らし、常陸、下総、下野を中心に、関東から東北まで教えを広めた。
この時代の僧侶は、律令制に従って国家によって認定を受け、寺の奥深くで厳しい戒律を守り、国土の安泰を祈っていた。だから、親鸞のように庶民の輪に入って仏法を説くことは極めて異例だった。この意味で親鸞は自身を「僧にあらず」と言い、一方で心底から阿弥陀を信仰する点では紛れもなく僧なので「俗にあらず」と位置づけた。非僧非俗。
封建制度の下で徹底的に痛めつけられ、他人を押しのけねば生きていけない悲惨な状況の民衆。生活の余裕から善根を積む貴族のようにはいかない。しかし民衆こそ切実に救いを求めていた。なのに多くの宗教者は、人々の弱い心につけこんで神仏を恐れの対象とし、祈祷や呪術に明け暮れている。仏は罰を与えるものではなく、救いを与えるものではないのか。仏罰の怯えの中で安らぎなど得られるはずもない。親鸞は「南無阿弥陀仏」の念仏だけで救われるという師・法然の教えの重要性をますます強く実感していく。
そして、法然が「悪人でも念仏を唱えれば“死後に”浄土に行けるが、善人の方がより救われる」とした思想(浄土宗)をさらに発展させ、「ひとたび念仏を唱えれば臨終を待つことなく“生きながら”にして救われる」(浄土真宗)との考えに至り、親鸞にとっての念仏は、“浄土に行きたい”という意味合いではなく、浄土に行くこと(往生)が決定したことで、阿弥陀に感謝する“報恩”の念仏であると説いた。そして「善人が救われるのは当たり前だが、悪人であればなおさら往生できる」とした(「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」=“悪人正機説”)。 
親鸞3
親鸞御影と恵信尼像
1921年に西本願寺でこの書状が見つからなければ、現代人の知る親鸞像はなかったと言っていい。親鸞が比叡山を出て六角堂にこもり、「後世をいのらせたまひけるに」、九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得て法然上人に帰したことがそこに書かれている。「恵信尼書状」は青年親鸞の求道のさまが描かれた実に貴重な資料であり、大きな発見だった。「恵信尼書状」により親鸞の比叡山下山の理由は「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るという仏道上の問題であったことがよくわかる。親鸞が法然に帰したのは「教行信証」に書かれているように1201年のことである。これまで何度か書いてきたが、「恵信尼書状」が発見された1921年は1201年と同じく60年に一度巡る干支が「辛酉」の年である。中国で革命の年と言われた辛酉の年に日本で初めに注目したのは、その在世中に601年の辛酉の年を経験した聖徳太子(574-622)だろう。1921年は1201年と同じ辛酉の年であるとともに、また聖徳太子千三百回忌の記念すべき年でもあった。私は聖徳太子の導きが今も続いているのだと思っている。
またこの「恵信尼書状」には、親鸞が聖徳太子の示現を得て「後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて」、法然上人のもとを訪れても、その場ですぐに弟子になったのではなく、またそこから百日間、雨の日も晴れの日も、来る日も来る日も法然上人の言葉を聞いて、やっと納得して法然上人に帰依したことが記されている。「また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわららせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」(「恵信尼消息一」)
こうして195日かけて、半年以上かかってやっと法然上人にどこまでもついていくという決意を固めたのである。おそらくはこれまで学んだ比叡山での聖道門の仏教に照らして法然の教えを考えるとともに、最後は分別を捨てて法然を信じるしかないという気持ちだったのだろう。親鸞の慎重な性格と思索、そして最後はただ信じるというあり方はここにもよく表れている。親鸞の著作を見ると思索とそこからの飛躍が見事に組み合わされているが、本当の思索というものはそういうものだろうと思う。分別知から無分別智へと飛躍するのである。
恵信尼書状に見る「聖道から浄土へ」
この「恵信尼書状」に記された親鸞の言葉から、親鸞の聖道門から浄土門への転向の過程が見えてくる。それは聖道門の教えが間違っていたということではない。その教えが自分にもたらすものを知った結果、次の道を求めざるをえなかったのである。聖道門を下敷きにしながら次の段階に進んでいるのである。やがて「教行信証」として結実する道のりがここから始まっている。それを仏教の根幹をなす「因果の法」を中心に見てみよう。
釈尊の説いた原始仏教は元来理知的な宗教で「因果(縁起)の法」(因果律)を中心としている。ただし単純な因果律だけなら、同じく因果律を基礎とする科学と同様に、理知的に受容するだけで済むだろうが、それが過去世、現世、来世に渡る「三世の因果」となると信が必要となる。それを信じないものにとっては何の価値もないものだろう。それどころか欲望の赴くままに生きたい人間にとってはかえって邪魔に見えるものだろう。残念なことに現代においてはこの因果の法を無視することがまかり通っている。まずこの因果の法を知ることから始めなければならい時代である。「信解脱」は原始仏教の中にもあり、親鸞浄土教ほどではないが、釈尊の言葉を信じることから仏教は始まる。因果の法について言えば、「善因善果、悪因悪果」が中心である。
そう言いながらも、実際にはこの世界では悪徳が栄えるように見えることがある。これについてはすでに釈尊在世中から疑問を持つ者がいたようであり、また現代でも因果の法を語るときには反論されることだろう。釈尊も因果の表れる時間的なずれは認めた上で、時間的にずれることはあっても必ずこの因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしている。「悪いことをしても、その業は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、悪い行いをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起こる。」(「感興の言葉(ウダーナ・ヴァルガ)」)天上から地獄までの悪趣を含めた世界があることは釈尊の言葉にはっきりと説かれている。
こうしてこの世のことだけではなく「三世の因果」が説かれる。その上でさらにそれを越えて「この世とかの世をともに捨てた」彼岸の涅槃の世界が説かれている。「奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)。親鸞が「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るというのは、「三世の因果」を信じた上で、六道輪廻の中の最高所である天上世界に生まれたいのではなく、仏教が目指した六道輪廻を越えた世界に至ろうとしたからである。
そこに至るのもまた因果の理法による。「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」を観じ実践することで可能になる。「道諦」がその実践で、原始仏教では「八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)」、大乗仏教では「六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)」が説かれる。その実践を因として煩悩を断じ尽くせばこの世で彼岸に至る。
では現世で煩悩が滅し尽くさなかったら迷いの生死輪廻の中にとどまるかというとそうではない。現世で解脱できなかったとしてもあきらめる必要はなく、釈尊は仮に煩悩が残ったとしても四諦を観じて行じた者は迷いの生存には戻らないと説いている。道諦の因はこの世だけで滅諦の果をもたらすわけでなく、死後にも迷いの生死を離れるという滅諦の果を生じる。これは先に述べた、時間的にずれることはあっても必ず因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしたことの延長上にあり、「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」の因果と「三世の因果」を組み合わせたものである。
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて素因に縁って起こるのであるというのが、一つの観察である。しかしながら素因を残りなく止滅するならば、苦しみの生ずることがないというのが第二の観察である。修行僧らよ、このように二種を正しく観じて、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。すなわち現世における証智か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)同様の言葉が十六回繰り返されている。
即ち親鸞の「現生正定聚」「往生成仏」と同様のことが説かれている。釈尊においては自分がそうであるように「此土得聖」が中心だっただろうが、それだけではなく浄土教の「彼土入聖」に当たるものもすでに説かれている。浄土教の原点は確かに原始仏教にある。浄土教はしばしば聖道門から仏教ではないと批判される。それはこれから述べるように聖道門の因果の法の上にさらに浄土の因果の法を説いたからだが、仏教の基本からはずれてはいない。原始仏教の延長上にあり、むしろ浄土門が開かれたことで仏教は完成した面がある。
問題はこの因果の理法が、原始仏教においては此岸の衆生を出発点とし、そこから解脱するか、解脱せず生死の迷いを繰り返すかの、此岸から此岸へか、此岸から彼岸への一方通行の因果であることだ。この因果に基づくと現在の苦の果は過去の迷いの因の結果であり、また現在の苦と迷いが因となって来世の苦をもたらす。この連鎖の中にあることを知らされる。もし過去世において解脱していればもはやこの生に還ってくることはないので、この生があることは過去世で解脱していなかったことを示している。何よりも現世を苦と感じる限りは過去世で解脱があったとは思えない。過去世の迷いが現世の苦となっていると受け取られるのである。
そのため釈尊であっても、自分はこれまで幾生となく無益に生死の苦しみを経巡ってきたと述懐するのである。「わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、-あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。」(「真理の言葉(ダンマ・パダ=法句経の原典)」)親鸞もまた「世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と言うが、これは聖道の因果を信じた結果である。これが実は此岸の衆生を起点とする「聖道の因果」の特徴の一つである。釈尊は実際には還相の如来・菩薩だったはずだが、自ら説いた此岸を起点とするこの因果に基づくとこのように言わざるをえないのである。
これがこの後に述べる浄土を起点とする「浄土の因果」になると違ってくる。法然はこの度の往生は三度目だが、今回はことに往生を遂げやすいと述べるし、また自ら還相の菩薩であることを述べるのである。「命終その期ちかづきて本師源空のたまはく往生みたびになりぬるにこのたびことにとげやすし」(親鸞「高僧和讃」)、「われ、もと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし」(「法然上人行状絵図三十七」)。
これは因果の起点が此土から浄土に転換したことによる。「此岸の因果」では此岸を出発点とするので、その因果によって生死を繰り返し此岸に留まり続けるか彼岸に至るかのどちらかで、生死輪廻か往相かである。「浄土の因果」となると浄土の如来を出発点としてその廻向である往相と還相の両方向が出てくる。真実が循環する因果の法である。往相はどちらにもあるので、還相があるのが「浄土の因果」の特徴である。もし釈尊を還相の如来・菩薩として受け取るなら結果的に浄土の因果を認めることになる。聖道門でも大乗仏教では「久遠実成の釈迦仏」を説き、釈尊はその化現とする。これは浄土教の還相と同様の方向であり、浄土の因果を認めたのも同然だろう。結局仏教、特に大乗仏教としては往相、還相の両相があるのが望ましいのである。このように親鸞浄土教は仏教の因果の完成という意味をもっている。
話を元に戻し、自力の修行で煩悩を絶ち迷いと苦の因果の連鎖を乗り越えることができるなら、生死を越えて涅槃に至り再び生死に戻ることはない。しかしそれができないとなると、生死を繰り返すしかない。この此土の衆生を起点とする「聖道の因果」を信じることは仏教の基本だが、その因果を信じた結果もたらされるが、聖者の場合は出離だが、我々凡夫にとっては出離不能である。これが「機の深信」である。欲望人間にとっての因果の信である。この因果は逃れがたい業の連鎖として、過去も現在も未来も三世に渡り我々にのしかかってくる。今この苦界にいることがその因果が働いている何よりの証しである。
「聖道の因果」は元来因果律というものの理知的な理解を中心として、「生死輪廻」の生命の連続性という三世の生を信じることを組み合わせたものなので、「機の深信」は自分を深く見つめた結果もたらされる理知的な自覚でもある。ただしそれは分別知である。
ここにおいてもう一つの因果が要請される。それはすでに浄土にある如来を起点とする因果である「浄土の因果」である。浄土の如来の本願を因として此土の衆生がここで信心を得て救われる果がもたらされ、さらにそれをまた因として浄土への往生成仏という果がもたらされる。如来を起点、出発点とする如来廻向の因果である。これを信じるのが「法の深信」である。ここでの法は「浄土の因果の法」「如来廻向の因果の法」である。これが他力の世界である。この信は知に対応させれば無分別智でもある。これが「信心の智慧」である。「二種深信」は聖道の因果の信と浄土の因果の信を組み合わせたものである。「二種一具の信」と言われるが、そこには仏教の因果である「二種一具の因果」があり、それを信じるものだ。聖道門の因果を無視してはこの信はなりたたず、「造悪無碍」に陥るのはそのことがわかっていないからである。
この「浄土の因果の法」は、浄土の祖師から始まるが、この時代では法然がその端緒を開き、親鸞の「教行信証」によって完成されたと言っていいだろう。これにより仏教の因果の法が完成したと言える。往相、還相の両相をもった仏教となる。今我々はありがたいことに、すでに法然、親鸞によって完成されたものを受け取ることから始まっているが、これまでにないものを説くことの難しさは想像を絶するものがあるだろう。親鸞はしばしば経典の読み替えを行うが、「浄土の因果の法」を完成させる営みがそこにある。
そのように後に完成した立場から見れば法然の教えを受け取ることは容易だろうが、親鸞は長年比叡山で聖道門の修行をした人間であり、聖道門の因果が身にしみ込んでいる。それから見れば浄土の因果の世界へ進むのは、次の段階といいながらも大転換である。親鸞が六角堂にこもってから法然の弟子になるまでの百九十五日間がその難しさをよく表している。「恵信尼書状」を読みながら感慨深いものがあった。
また六角堂で受けた夢告は観音があなたの妻になるというものだったと考えられている。その夢告を記したのが「熊皮御影」である。これも出展(後期)されている。親鸞の悩みとその解決、その後の親鸞と恵信尼の出会いもここにある。青年の悩みと男女の出会い。その背後に見えるのが法然と阿弥陀仏の存在である。 
親鸞4
「教行信証」「後序」
親鸞聖人の活動は、自分に働いているあるものを表し、伝え続けるものだった。教化、著述はみなその一環であり、そしてその活動は自分のこの世での生とともに終わるようなものではなかった。今回の講題は「教行信証」「後序」に引用された「安楽集」の言葉「前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆゑなり。」から採らしていただいた。私の好きな言葉の一つである。親鸞聖人は自分がこの「無辺の生死海」を尽くそうとする「連続無窮」の働きの中にあることを自覚されていた。また同じく「教行信証」「後序」に引用される法然上人との出会いも、法然上人からの「選択集」の付属も、この「連続無窮」の中にある。無窮の本願の表れである。「無窮」は「無休」となり、「休止せざらしめん」となる。その由来を語る「悲喜の涙」は本願海の潮が溢れ出たものである。
ここに限らず私は親鸞聖人の著述にしばしば「涙」を感じる。自分を飲み込む本願海の潮が、口からは念仏として、目からは涙として溢れ出る。溢れ出る念仏は「非行非善」だが、涙も「非行非善」である。念仏の中に阿弥陀様はおられるが、ナミダの中にもアミダ様はおられる。むしろナミダの中のアミダ様の方が人間の「自然」をよく表しているかもしれない。人がナミダを流す限りアミダ様は消えることなく、浄土教が消えることはない。このことは後で、宮沢賢治と中村久子の項においてもう一度述べたい。
「歎異抄」第二章
この「連続無窮」が人を介して歴史の上に展開しつつ、そのたび毎に直接「本願」から出ていることを表すものとして「歎異抄」の第二章を挙げたい。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」ここに浄土教が経典や人を縁とし、本願を因として伝わることがよく表されている。この中で直接の師弟関係があるのは法然と親鸞だけである。それ以前は普通に言う伝授ではない。またはじめにある阿弥陀仏と釈尊の関係も大乗非仏説を定説とする仏教学の常識からは否定される。
しかしこの伝授は間を飛ばして「弥陀の本願まことにおはしまさば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」でも成立する。誰であっても「本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき」である。しかしはじめにその存在を知らせていただいたのは経典であり、師である。本願という根本の因があってもこの縁がなければ、地図無くして荒野をさ迷うようなもので、本願と出会うことは極めて難しい。ここに継承ということの重要さがある。比叡山で長く迷いの中にあった法然上人も親鸞聖人も、そのことを誰よりもよく分かっておられた。
この「歎異抄」の第二章の背景には親鸞聖人の長子である善鸞の言動が関東の人々を惑わした事件があると言われている。親鸞聖人から義絶された善鸞は後に祈祷師のようなことをしていたと言われている。ここに親子にしてすでに伝わらないという問題が起きているのである。本願寺の系統では親鸞聖人から孫の如信に伝わったとする。父と子で伝わって当然のはずなのだが、現実には伝わらないこともある。そこで親子、近親者の間で、伝わらなかった例と、困難を越えて伝わった例をあげて継承の問題を考える参考としたい。 
親鸞5
学問修行
出家された聖人は天台宗の僧侶として学問修行に励まれました。聖人が比叡山でどのような修行をされたか定かでありませんが、恵信尼さまの手紙から「堂僧」であったことがわかります。
出家された親鸞聖人は、天台宗の僧侶として、比叡山において、学問修行に励まれました。その頃の比叡山は、天台宗の根本道場であったばかりでなく、日本における最高の仏教総合大学のような存在でした。
比叡山では、天台宗の開祖・伝教大師最澄(七六七〜八二二)が定めた「山家学生式」に従って、十二年間山に寵って、学問と修行に専念する厳しい龍山の制度がありました。また、少し後に、相応(八三一〜九一八)によって形成された、比叡山の峰々の諸堂で読経・礼拝をしながらいい山道を歩きまわる回峰行などの修行も行われていました。
聖人が学問惨行された頃の比叡山は、世俗と変わらぬ階級制度に縛られていたり、僧侶集団が互いに争うなど、俗化していたと言われていますが、心ある修行者ば、命がけで修行に励んでいたことは、間違いありません。
聖人が、比叡山でどのような修行をされたかは、定かではありませんが、後に聖人が書かれた書物から、天台宗の教えを深く学ばれていたことがわかります。また、九歳から二十九歳の二十年間、比叡山で仏道を歩まれたわけですから、さまざまな修行にも、懸命に取り組んだものと思われます。
ただ、「恵信尼消息(聖人の妻・恵信「恵信尼さまのお手紙)」に、「殿(聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日寵らせたまひて」とあることから、比叡山を去られる二十九歳の時点では、聖人は、堂僧であったことがわかります。
堂僧とは、常行堂で不断念仏(常行三昧)を行う修行僧のことです。
常行三昧 / 常行三昧とは、天台宗の修行である四種三昧(常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)の一つで、堂内の阿弥陀仏像の周囲を、口に阿弥陀仏の名をとなえ、心に阿弥陀仏を念じながら、九十日の間、歩き続ける行のことです。常行とは、常に歩き続けることで、三昧とは、心をひとつに集中して乱さないことです。この行を続けると、目の前に仏さまが現れるといわれています。しかし、これは妄想ではなく、かといって、実体的な仏さまが現れるのでもありません。行者が、深い三昧の境地に入り、真理を確認していることを意味するものなのです。
後に、最澄の弟子・円仁(七九四〜八六四)によって、五会念仏が持ち込まれ、常行三昧が変化していきました。それが、不断念仏(山の念仏)と呼ばれていたようです。
求道の悩み
修行に励めば励むほど迷いの深さを知らされた聖人は、敬慕する聖徳太子ゆかりの六角堂に百日問こもられ、今後の自らの進むべき道を太子に求められました。
出家された親鸞聖人は、天台宗の僧侶として、比叡山において、学問修行に励まれました。聖人が、比叡山でどのような修行をされたかは、明らかではない面もありますが、天台宗は、聖道門の教えで、自らの力をたよりに修行して、煩悩を滅し、さとりに至ろうというものでした。
聖人は、厳しい学問修行によって、自らの心をみがき、仏のさとりを目指されました。しかし、励めば励むほど、煩悩が無くなるどころか、見えてきたのは、自分の心の醜さでした。
後に、聖人の玄孫(孫の孫)の存覚上人が、その時の心境を、「定水の凝らすといえども識浪しきりに動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う(心を一点に集中し、安定させるといっても、ちょうど、水面がすぐ波立ってしまうように、いろいろな想いが浮かんでしまう。清浄なる心(仏)を観るといっても、月がすぐに雲に覆われてしまうように、妄想や妄念に覆われて隠れてしまう)」(「嘆徳文」)と伝えています。
比叡山での修行に行き詰まりを感じた聖人は、六角堂(頂法寺)に百日間参籠することによって、自らの進むべき道を問うことにしました。
聖人が六角堂を選ばれたのは、聖徳太子ゆかりの寺だったからです。聖人は、聖徳太子のことを救世観音の化身と仰ぎ、「和国の教主」と讃え、また、在家仏教の先達として、深く尊敬されていました。
聖道門(聖道教)と浄土門(浄土教) / 聖道門とは、自らの力(自力)をたよりに修行して、この世でさとりを得ようとする教えで、浄土門とは、仏の力(他力)によって、浄土に生まれ、さとりを得ようとする教えです。ただし、一般仏教では、100%自力か100%他力かではなく、聖道門でも他力の部分を認め、浄土門でも自力の部分を認めます。ただ、浄土真宗は、100%他力です。
叡山浄土教 / 天台宗は、基本的には、聖道門の教えですが、比叡山横川において、源信和尚が、浄土教を伝えており、聖人は、それを学んでいたと思われます。しかし、叡山浄土教は、自力の修行によって、浄土に往生しようとする自力の傾向の強いものでした。ただし、法然上人は、源信和尚の「往生要集」の中心は、他力の称名念仏を説くことにあると明らかにされました。
六角堂参籠
聖人が六角堂に参籠されて95日目の暁、聖徳太子の示現をうけられ、吉水の法然上人のもとへ。示現の文には諸説がありますが、代表的なものは2つです。
親鸞聖人が六角堂参籠を決意されたきっかけは、おそらく、法然上人の噂を聞かれたからだと考えられます。京都東山の吉水の地に法然上人という方がいて、出家・在家を問わず、念仏一つで、すべての人が救われる道を説いておられるという噂でした。この法然上人を慕い、多くの人々が集っていましたが、従来の仏教の教えを守っている人々は、出家の者も在家の者も、持戒の者も破戒の者も、平等に救われるなどありえないし、そのような教えは、世の中を乱す、とんでもない邪説であると、激しく批難していました。
しかし、比叡山での修行に行き詰まりを感じていた聖人は、法然上人の教えに強く引かれるものがありました。ただし、この比叡山を捨てて、法然上人の下に行くことは、とても大きな決心のいることでした。その最終判断を、六角堂参籠によって、聖徳太子の指示を仰ごうとされたのでした。
聖人が六角堂に参籠を始めから95日目の暁、聖徳太子の示現(夢告)にあずかったと伝えられています。示現の文については諸説ありますが、その内容は、阿弥陀仏への信仰・在家仏教の道、つまり、法然上人の教えに通じるものであったと考えられます。
この後、聖人は、法然上人の門をたたかれたのでした。
示現 / 示現とは、姿を示し現われるということで、具体的には、聖徳太子(または、そのの本地である救世観音)が夢で現われたということです。俗な言い方をすれば、夢のお告げを受けたということですが、一般的に言われるような、絶対者がお告げをするというものとは違います。夢は、普段意識していないもっと深い領域(深層心理)が現われたものであると考えられます。つまり、聖人は、夢によって、自分の心を確認されたと受け取るべきでしょう。
示現の文 / 示現の文については、はっきりわかっていませんが、次の二つの説が代表的なものです。
 行者宿報の偈
 行者宿報にてたとひ女犯すとも われ玉女の身となりて犯せられん
 一生の間よく荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしめん
 磯長の廟窟偈
 わが身は世を救くる観世音なり 定慧を契る女は大勢至なり
 わが身を生育する大悲の母は 西方教主の弥陀尊なり
 末世の諸の衆生を渡さんがため 父母血肉の身を所生し
 勝地たるこの廟窟に遺留する 三骨一廟は三尊の位なり
法然上人のもとへ
吉水に100日間通い、法然上人のお弟子となられた聖人は、このことを「数行信証」に「雑行を棄てて本願に帰す」と記されました。親鷺聖人29歳、法然上人69歳の時のことです。
親鸞聖人は、法然上人に会いに、吉水の草庵を訪ねられました。そこには、貴族や武士や農民など、さまざまな身分の人が集まっていました。それまでの仏教は、国家仏教であり、貴族と僧侶以外が、仏の教えを聞くことばほとんどありませんでした。そのような仏教をすべての人々に開放し、仏教を本来の姿にもどした人の一人が、法然上人だったのです。
それから百日のあいだ、雨の降る日も、日の照る日も、どんな支障があろうと、欠かさず法然上人のもとを訪ねました。そして、善人も悪人もすべての人が同じように救われていく念仏の道があることを、ただ一筋に仰せくださるのを聞き、これこそ、自らの歩むべき道であると聞き定められました。
聖人は、念仏の教えに遇い、煩悩から逃れられないこの自分の、生きる意味と方向を聞き定めることができたのでした。
聖人29歳、法然上人69歳の時のことでした。聖人は、その時のことを、「難行を棄てて本願に帰す」(「数行信証」)と述べられています。これは、聖人にとって、人生最大の精神的転換でした。
法然上人の教え
法然上人の教えをひと言で言えば「専修念仏」すなわち「ただ念仏して阿弥陀仏に救われる」教えです。上人は主著「選択集」で念仏一つを選び取られました。
法然上人の教えを一言で言えば、「専修念仏」、すなわち、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われていく教え」であると言えます。もう少し正確にいうと、阿弥陀仏が本願の中で、すべての人が救われる道として、念仏を選び取って下さったということから、「選択本願念仏」の教えであると言えます。
法然上人は、主著「選択本願念仏集」(「選択集」)において、さまざな修行の中で、念仏(称名)一つを選び取っておられます。
しかし、それは、法然上人の判断で選び取られたのではなく、念仏することが、阿弥陀仏の本願にかなった行為だからだというのです。阿弥陀仏が、すべての人を救うために、念仏を選び取って下さったのです。
では、なぜ念仏なのでしょう。それについて、法然上人は、念仏は、仏の救いのはたらきが収まった勝れた行であり、誰でも行うことのできる易しい行だからであると言われています。
ただし、「念仏は、勝れた易しい行だから、楽でいい」ということではなく、このような選びの根底には、阿弥陀仏の、すべての人を救わずにはおかないという、平等の大悲心があるということを、忘れてはならないでしょう。
ところで、この念仏は、たくさん称えて、その見返りとして救いが与えられるというものではありません。念仏を称えるということば、必ず救うという仏さまの願い(本願)を受け容れている姿であり、仏さまの救いのはたらきに包まれているということを意味するのです。
親鷲聖人は、法然上人から教えを受け、私が一生懸命修行をして、仏のさとりに近づくという「私から仏」という方向(自力)から、仏さまの救いのはたらきを受け容れるという「仏から私」の方向(他力) へと、一八〇度の転換がなされ、救われたのでした。
「選択本願念仏集」(三選の文) / 「速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種の勝れた法の中で、聖道門をさしおいて、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて、正行(阿弥陀仏に関する行のことで、具体的には、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五.正行)に帰せ。正行を修めようと思うなら、助業(読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)を傍らにして、専ら正定業(称名)を修めなさい。正定業(正しくく浄土往生が決定する因となる行い)とは、仏の名を称えることである。称名するものは、必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願に順ずる道だからである」(意訳)
承元の法難
法然門下での充実した生活は長くは続きませんでした。承元元(1207)年「承元の法難」で念仏が禁止され、法然上人は四国、親鷲聖人は越後に流罪となられました。
吉水において、法然上人のもとで過ごした日々は、大変充実したものであり、それからの親鷲聖人の一生を方向づける、かけがえのない日々でした。しかし、そのような平穏で充実した生活は、長くは続きませんでした。
法然上人のもとへ、多くの人々が集まる事を、快く思っていなかったのが、比叡山や奈良の伝統仏教教団でした。一二〇四(元久元)年、比叡山延暦寺の僧侶たちは、天台座主・真性に、専修念仏の停止を訴えました。それは、念仏の教えを正しく理解していなかったことと、人々が集まることに対しての妬み、そして、法然上人のもとに集まる人々の中に、念仏していれば悪を恐れることばないと、悪事を行ったり、戒律を守って修行する者を軽視したりする者がいたことが原因だったようです。
それに対して、法然上人は、門弟たちに、七箇条制誡を示されました。聖人は、僧綽空と嘗名されています。
これによって、専修念仏に対する批難は、ひとまずおさまったかに見えましたが、一二〇五(元久二)年、奈良・興福寺は、「興福寺奏状」(解脱上人貞慶)をつくり、法然教団の九箇条の過失をあげ、朝廷に専修念仏禁止を訴えました。
これは、従来の仏教教団から見れば当然の理由をあげての批判でしたが、朝廷の中にも、九条兼実をはじめ、法然上人の教えをよろこぶ人々が多くいたこともあってか、最初は、この訴えは、取り上げられませんでした。
しかし、時の権力者、後鳥羽上皇のかわいがっていた女官、鈴虫・松虫が、上皇の留守中に、法然上人の弟子、住蓮房・安楽房の行った念仏会に参加し、そのまま出家したことが、上皇の怒りにふれ、専修念仏禁止の命令が下されました。
そして、住蓮房・安楽房をはじめ、四名が死罪、八名が流罪になりました。法然上人は、藤井元彦という俗名を与えられ、四国「土佐(高知)に流される予定でしたが、実際は、讃岐(香川)」 へ、親鸞聖人は、藤井善信という俗名を与えられ、越後(新潟)に流されました。
この事件を、承元元(一二〇七)年に起こった、法に対する困難な出来事という意味で、「承元の法難」と呼んでいます。
法然上人七十五歳、聖人三十五歳の時のことでした。  
親鸞6-1
親鸞の誕生と比叡山延暦寺での修行
釈迦の死後1,000年間は正しい仏法がそのまま実施される『正法』の時代であり、その次の1,000年間は正法を筆写(表象)したような『像法』の時代となり、正法の時代よりも仏法の威光や効力が弱くなってしまうといいます。『大集経』を根拠にする仏教の末法思想では『像法』の時代が終結すると、仏法の正しい教えの効力が弱まる『末法』の長い時代が始まるとされています。親鸞(1173-1263)は、天変地異や政情不安、戦乱・略奪が渦巻く末法の時代の真っ只中である1173年(承安3年)に、下級公家の家系である日野家に生まれました。親鸞の父親は日野有範(ひの・ありのり)、母親は清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)と伝えられていますが、平安貴族の頂点(摂関家)に君臨する藤原家の流れの中では非常に不遇な立場にありました。日野家は、藤原家北家の傍流に位置する血筋で、日野有範は皇太后大進という皇太后の側近くに仕える閑職の地位に甘んじていましたが、日野家没落の原因を作ったのは親鸞の祖父・日野経尹(つねただ)であったといいます。日野経尹が、朝廷の不興を買ったことで日野家の栄華の道は閉ざされたといいますが、1180年(治承4年)に『以仁王の乱』が起きて日野有範の弟・日野宗業(むねなり)がその騒乱に巻き込まれることになります。
平安時代末期には、軍事力を背景にした平氏・源氏の武士勢力が伸張してきて、古代社会の主権者であった平安貴族の地位を脅かすようになってきますが、権勢を振るう平氏政権を打倒しようとした『以仁王(もちひとおう)の乱』も源平の戦乱の流れの中に位置づけられます。後白河天皇が崇徳上皇を打ち破った『保元の乱(1156)』で平家一門が台頭し、源義朝率いる源氏一門を平清盛の平氏一門が追い落とした『平治の乱(1159)』によって朝廷を圧倒する平氏政権が産声を上げました。その後、1177年に平氏政権を転覆しようとする後白河法皇(1127-1192)の『鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)』が起き、陰謀の実行に失敗した後白河法皇は1179年の『治承三年の政変(治承三年のクーデター)』によって院政の実権を剥奪されます。豪胆と才覚に恵まれていた皇族の以仁王(1151-1180)は、源頼政(1104-1180)と共謀して平清盛を首班とする平氏政権を打倒せよという令旨(りょうじ)を出しますが、事前に陰謀が露見して以仁王と源頼政は殺害されました。親鸞の叔父の日野宗僕が以仁王の学問の師であったことで、日野家も陰謀に加担していたのではないかという疑念をかけられ、朝廷における日野家の立身出世はいよいよ難しくなりました。
我が子を朝廷の権力闘争に勝ち抜かせることは無理と考えた日野有範は、親鸞を仏教(天台宗)の総本山である比叡山延暦寺に預けて、僧侶としての栄達(身分の上昇)を目指させようとします。源平の戦乱が激しさを増し、古代王朝(平安貴族)の権力が斜陽の過程にある末法の時代に、9歳の親鸞は比叡山延暦寺に入山して厳しい修行と学問の日々に励むことになります。古代の飛鳥時代や奈良時代の頃から、公家の貴族が生きる世界は大きく『朝廷の政界』と『寺社の宗教界』に分かれており、朝廷での栄誉や出世が望めない公家の中には、大寺社に所属する僧侶になるものが多くいました。ただし、世俗から離れた宗教界(仏教界)である『寺社の世界』においても、最高位の僧侶へと立身出世するためには『公家の世界』と同じように、皇族・摂関家・大臣を輩出した貴族などの『高い家柄や身分』が必要でした。
比叡山時代の親鸞は、天台宗の教学と奥義を極めて悟りを開く為に、懸命に過酷な学問や修行に励みましたが、延暦寺での僧侶の出世は『学識・修行・実績』などによって決まるのではなく、『生家の家柄や身分の高貴さ』によって決まるので、(生家の家柄が低い)親鸞が比叡山で高僧となる望みは殆どありませんでした。幾ら学術研究に専心して高い教養を得ても、どんなに苛烈で危険な修行をして煩悩を断ち切っても、『延暦寺での僧侶の評価』にまったくつながらないことに親鸞は疑問を抱きました。更に、親鸞に深い苦悩と絶望を与えたのは、学問を深く修得することや厳しい修行に耐え抜くことが『人間の苦悩や絶望の救済』に全く役立たないということであり、『民衆・俗世から離れた学問研究としての仏教』に原理的な誤りがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、学問や知識を勤勉に蓄積することで涅槃寂静の悟りの境地に達することが出来るという『声聞(しょうもん)の悟り=聖道門(しょうどうもん)』に親鸞は疑惑を抱いたわけです。自分一人さえ苦悩から救えないような『声聞の悟りの道=仏法の学術研究の道』では、『一切衆生を救済する』という壮大な仏教の目的を達成することなどは及びもつかないのではないかと親鸞は思いを巡らします。学鑽によって悟りを開く天台宗の教えに限界を感じ始めた親鸞は、救済宗教である仏教の本質に立ち返る必要があると思い直し、『不安・恐怖・絶望・憎悪が渦巻く末法の世(五濁悪世)』を救う真の仏法を探し始めるのです。
世の中のあらゆる人々、貴賎・貧富・賢愚を問わない一切衆生を救うという壮大な目的に向かう前に、親鸞には絶対にやり遂げなければならないことがありました。それは、末法の世の峻険な現実の前に打ち倒されようとする親鸞自身を救うことであり、親鸞自身の苦悩と迷いを克服することで『仏法には人間の苦を取り除く力がある』ということを証明することでもありました。『人間の抜苦与楽(ばっくよらく)』の道としての仏法を模索する親鸞は、末法思想が波及する中で力を持ち始めた『阿弥陀仏(あみだぶつ)の浄土信仰』に眼を向けていくことになります。末法が始まる1052年(永承7年)に、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が建立した京都宇治の平等院鳳凰堂の本尊は阿弥陀如来(阿弥陀仏)です。このように、末法が始まって以後の時代には、貴族の間でも民衆の間でも、人間を極楽浄土へと導いてくれる『阿弥陀如来の本願の慈悲』にすがる人が増えてきたのです。 
他力本願の念仏信仰へと向かう親鸞
生きる事に悩み悟りの道を歩むことに絶望した青年期の親鸞は、『比叡山延暦寺での学術研究・修行実践の道』では人間を究極的な絶望や苦悩から救済することは出来ないと感じるようになり、法然(1133-1212)の専修念仏(ただひたすら念仏を唱える)の仏教信仰に関心を寄せるようになります。法然も親鸞と同じように、元々は、比叡山延暦寺(天台宗)の敬虔で実直な僧侶でした。法然は比叡山で10年の修行をし、奈良仏教(南都仏教)で10年の学究生活を送り、更に比叡山に戻って10年の学問・修行の時間を過ごしましたが、『30年に及ぶ伝統仏教(古代仏教)との格闘』を通して天台宗や奈良仏教では自分と民衆を救済することは出来ないという結論に至りました。唐の僧侶・善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』と阿弥陀仏への帰依を説く『浄土教』を読んで、専修念仏(念仏信仰)こそが万民の苦悩を解決する究極的な仏法であると考え、京都の吉水を拠点にして念仏の信仰を広めました。
熱心な学僧であった親鸞も、当時流行していた浄土教の念仏信仰について知識・情報として知っていたので、早速、比叡山の常行三昧堂で念仏の修行を始めましたが、親鸞の悩みや迷いが念仏によって消え去ることはありませんでした。『なぜ、こんなに必死に一生懸命に念仏修行をしているのに私は救われないのだ』という疑念が親鸞を襲いましたが、親鸞が念仏によって救われない理由は正に『念仏を修行(苦行)として捉えている』という一点にあったのです。つまり、親鸞が『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』という念仏を必死に唱える時、それが『一生懸命に修行や学問をした人の努力』に対してのみ、阿弥陀仏の救済が与えられるという『自力本願の修行』になってしまっていたのでした。念仏を唱える『称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の信仰』の本質は、『阿弥陀如来(阿弥陀仏)の本願』に内在している「無限の慈悲」をただひたすら信じ抜くというところにあるのですが、生真面目な親鸞は『阿弥陀如来の慈悲よりも、自分自身の念仏の修行のほうを優先する』という根本的な間違いを犯していたのでした。
誰でも実施できる易行(簡単な修行)である『念仏』は、飽くまで、絶大な救済の力を持つ『阿弥陀仏の慈悲』を信じきることが重要なのであり、青年の親鸞のように『善行や努力を積み重ねる功徳』によって極楽浄土に行こうとする『修行の発想』では、親鸞が否定した『古代仏教(天台宗・南都仏教)の立場』と変わらないのです。比叡山の常行三昧堂で念仏修行をした親鸞が学んだ事は、『自力本願の善人正機の発想』では人間は救われないということでした。親鸞は、自分自身が煩悩具足(ぼんのうぐそく=煩悩を消尽できない凡人)の悪人であることを自覚して、阿弥陀仏の救済を信じきる『他力本願の悪人正機の発想』を持たなければならないと考えました。親鸞は、自分自身の『修行・学問・善行による功徳=自力本願』では真の極楽浄土に辿り着くことは出来ないと悟り、『善人正機=正しい努力や修行をした人だけが救われるの発想』そのものを捨て去ることでしか人は救われないと思うようになります。
しかし、『思うは易し、行うは難し』であり、阿弥陀仏を徹底的に信じる『絶対他力の念仏信仰』の正しさを思いながらも、親鸞はなかなか自力本願の念仏修行の日々を捨て切れずにいました。決定的な宗教的転回点が未だ親鸞には訪れていなかったのですが、29歳となった親鸞は『他力本願の念仏信仰』の正しさを日本仏教の父である聖徳太子(574-622)に問おうとすることになります。聖徳太子は既にこの世の人ではないので、聖徳太子に垂迹(化身)していたとされる救世観音(ぐぜかんのん)を本尊とする京都烏丸通の六角堂に親鸞は篭もって『他力本願の念仏信仰の真偽』を問いました。 
親鸞の悪人正機説と平等な救済
京都烏丸通の六角堂に篭もった親鸞は、100日間の間、聖徳太子の化身である救世観音に他力本願の念仏信仰について祈願を続けましたが、そうすると95日目の日に聖徳太子が親鸞のもとに示現して『法然のもとに向かって教えを聞け』というお告げを得ることが出来ました。早速、京都の吉水で念仏信仰を説く法然のもとに向かった親鸞は、念仏によって究極の悟りを得た法然に弟子入りをします。百日間の間、毎日法然の教えを受ける為に吉水へと足を運んだ親鸞に、突如、『宗教的な回心=阿弥陀仏への完全な帰依』の時が訪れます。親鸞は浄土教の開祖・法然との邂逅(出会い)によって、阿弥陀仏の本願を無条件に信じる『他力本願の念仏信仰』こそが、末法の世の唯一の救済であることを悟ることが出来たのです。20年間もの長きにわたって比叡山の伝統仏教を学んできた親鸞は、法然との出会いによって『他力本願の念仏者』へと決定的な回心をしたのでした。
この『宗教的な回心』について親鸞の事績・思想について書いた『歎異抄(たんにしょう)』では、『念仏が極楽浄土への種なのか、地獄に落ちる悪業なのかは分からないが、たとえ法然聖人に騙されていたとしても一切の後悔などない』という内容が記されており、親鸞の他力本願の念仏信仰に対する師・法然の決定的な影響力を読み取ることが出来ます。『歎異抄』自体は親鸞の著作ではなく、親鸞の弟子の唯円あるいは覚如の著作と考えられています。『歎異抄』に書かれた親鸞の教えによると、阿弥陀仏の広大無辺な本願(慈悲)を信じて念仏を唱える事が念仏信仰の本質であり、善悪や貴賎、貧富の別などは『救済の成否』に全く関係しないということになります。仏法は、『罪悪深重(ざいあくしんちょう)の罪深い人々』や『煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の欲望強い衆生』を救うために存在するのであり、極楽浄土を司る阿弥陀如来は『善悪・賢愚・貴賎の区別』などにこだわって救済する民衆を選ぶことなどはないということなのです。
阿弥陀仏の本願(慈悲)を超越するほどの善も悪も存在しないというのが親鸞の教えであり、一切衆生の救済は『阿弥陀仏の本願を心から信じて、念仏を唱えさえすれば良い』ということに行き着きます。阿弥陀仏の本願の慈悲を心から信じて、念仏称名をした瞬間に『往生決定(おうじょうけつじょう)』が起こり、いつも念仏を唱え続けなくても確実に極楽往生に行けることが決定するのです。『歎異抄』で念仏を信じる人のご利益について、『信心の行者には、天神地祇(てんしんちぎ)も敬服し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえなり』という風に記述されており、親鸞は念仏信者のことを『念仏者は無碍(むげ)の一道なり』と簡潔に表現しています。無碍とは『一切の障害や妨げがない』という意味であり、真の念仏信仰に目覚めればあらゆる障害や苦悩を越えた無碍の一道を歩むことが出来るというわけです。
親鸞の説いた悪人正機説(あくにんしょうきせつ)とは、念仏信仰へと信心決定(しんじんけつじょう)すれば、善人であっても悪人であってもあらゆる人々が救われるという教えであり、念仏は煩悩具足の衆生のためにこそあるという思想です。『歎異抄』に示された親鸞の思想は、『極楽往生するために念仏以外の何ものも必要ではない』という教えであり、阿弥陀仏の本願(救済)の慈悲の『信心』と『念仏称名』によって、衆生は仏と同等の存在になれるというものです。親鸞は、阿弥陀仏への信仰心が定まり念仏を唱えることを『信心決定(しんじんけつじょう)』と呼び、金剛(不退転)の信心が得られた時にあらゆる人々は諸仏と同等の位に就くとしています。特に、念仏者は、来世において仏陀となることが確実である『弥勒菩薩(みろくぼさつ)』と同等とされ、阿弥陀仏の誓願は念仏者に『摂取不捨(せっしゅふしゃ)』の利益(往生の確約)を与えるとしています。
摂取不捨というのは、阿弥陀仏の本願(慈悲)を信じる信心決定をすれば、阿弥陀仏は決してその人を見捨てることが無いということ、極楽往生の約束が破られることは絶対にないということです。つまり、信心決定した人が予期せぬ不徳を積んだり、悪事を働いたとしても、それによって極楽往生の権利が消滅したりすることはないのです。鎌倉仏教の中で親鸞を始祖とする浄土真宗がもっとも栄えた背景には、この『摂取不捨による極楽行きの絶対の保証』を考えることも出来ます。しかし、親鸞自身には独立した宗教宗派を打ち立てようという野心はなく、浄土真宗が本格的に巨大な権力を併せ持つ宗教教団になるのは、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如(1415-1499)の時代からでした。蓮如は、衰退していた浄土真宗の本願寺を再興した人物であり、京都・山科本願寺を建設するだけでなく、大坂の石山に石山御坊(後の石山本願寺)を建立しました。
蓮如の時期に浄土真宗(一向宗)は一気に勢力を拡大して、強大な戦国大名に匹敵するだけの軍事力と経済力を誇るようになり『仏教国(仏国)』さながらの威光を示していました。細川晴元と結託した日蓮宗の焼き討ちを受けた『天文法華の乱(1532)』で山科本願寺は消失しますが、石山本願寺のほうは顕如の時代の1580年まで存続しており、『石山本願寺城』と呼ばれるほどの難攻不落の要塞となっていました。天下布武(天下一統)を目的とする織田信長と信仰拠点を保持したい石山本願寺門主の顕如(1543-1592)との間に、11年の長きにわたる『石山合戦(石山戦争, 1570-1580)』が起こり、最終的に織田信長が石山本願寺を下して門主である顕如を退去させます。浄土真宗の総本山である本願寺は顕如の時代に最盛期となり、最強の戦国大名であった織田信長を大いに苦しませるほどの軍事力と政治力を誇っていましたが、石山合戦に敗れて石山本願寺が炎上してからは、農民や土豪勢力を糾合した一向宗(浄土真宗)の勢力は徐々に衰退していきました。
時代が進みすぎましたが親鸞の悪人正機の話に戻ると、悪人正機説は『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という有名なフレーズで表されますが、その部分をもう少し長く『歎異抄』(Wikipediaの参考ページ)から引用すると以下のようになります。悪人正機の思想そのものは親鸞の独創ではありませんが、親鸞(浄土真宗)が『無知・無能・欲深(貪欲)・下賎・悪徳であっても救済される』という意味で悪人正機を広めたことで、農民層が幅広く念仏信仰に帰依することになりました。悪人正機については親鸞の師の法然も言及しており、大乗仏教の学説としてはかなり古くから言われていたようで、7世紀の朝鮮の学僧である元暁(がんぎょう)も『遊心安楽道』の中で悪人正機の衆生救済について触れています。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。   
親鸞6-2
本願の土壌に根付いたもの 
親鸞聖人は、平家および源氏の武士階級が日本全国の支配をかけて動乱と闘争に明け暮れた、有名な源平戦の時代に、藤原氏の支流、日野家に生まれました。言い伝えでは、かなり幼い時に両親を失ったとされています。父の有範は傍系の皇太后に仕える、官位の低い朝廷の役人でした。親鸞の母親については知られておりませんが、源義親の娘、吉光女(きっこうにょ)であるとも伝えられています。
かつて、日本のしきたりでは、人の名前は生涯を通じて色々な段階を過ぎる度毎に変わりました。
親鸞聖人の幼名は松若丸でした。親鸞について書かれた最も初期の伝記では、聖人を神格化するために、聖人を藤原家の氏神である天児屋根尊の子孫として記載されています。日本の神話では、この神は、日本の国を設立するために地上に降りた初代の天皇家の祖先になった、天照大神(女性の太陽神)の孫に随行したとされています。
貴族であった親鸞聖人は朝廷で見込みのある将来性を持っていたかもしれませんが、聖人の宗教心の故に、九歳の時に出家されました。民間伝承によれば、親鸞聖人は、父母を若くして亡くしたことで、生命のはかなさに打たれたと言われています。唯、現代の研究では、聖人だけでなく、父親も兄弟達も比叡山の天台宗に入門したことが知られており、聖人が出家した理由については、謎に包まれています。ただ、親鸞聖人がほんの幼少だった頃に父の有範が尚生存していたことは、明らかです。隠居後、有範入道と呼ばれ、宗教的生活の道に入りました。親鸞聖人と家族が俗世間を捨てたのは、政治的、経済的理由から、或いは、家族や個人的事情によるものでしょうか、確かなことは知ることができません。
親鸞聖人ご自身は、剃髪し得度を受けた時に、名前、範宴を戴いた比叡山の高位の僧(天台座主、貫主)慈円(1155-1225)の弟子として見られていますが、その後、天台仏教を熱心に学び始めました。聖人は源信(浄土教を広めた)の教えを習得し、「天台宗の思想で、師の鋭い洞察を受けなかった事項は無かった等」と言われています。これらの伝承は厳密に評価するのが難しいのですが、親鸞聖人の著述から、聖人が浄土教の伝統についての広い知識、および人間性と宗教的信仰に突き詰めた鋭い洞察力を持っておられた事が分かります。聖人の解釈の鋭さおよび解釈の方法から、仏教の教えと御自分の人間関係に対して深く内省された事が拝察できます。
ある伝承によれば、親鸞聖人が比叡山で高位につかれ、お寺の貫(門)主にまでなられたとさえ述べられていますが、聖人は比叡山で20年間精進された後、その地位と決別して1201年に山を下り、仏教の真実の求道者として法然上人の門に入られたとされています。伝承とは反対に、聖人の妻恵信尼の手紙には、聖人が寺の一僧侶で常行堂の堂僧としてお勤めになられたこと以外、何もそのような高い地位であったことは、書かれてありません。当時、聖人がご自分の未来の救いについて懸念されていたとも書かれています。聖人は、天台宗の教義と仏教の理想を達成する望みを失ってしまったのです。初期の真宗聖典である嘆徳文には、「(止水に喩えた)瞑想に集中しようとしても聖人の意識の波は揺れ動き、心の月(悟りの象徴)を見ようとしても煩悩の雲に邪魔された。」と記されています。[原文:「定水を凝らすといえども識波しきりに動き心月を観ずといえども妄雲なお覆う」(心を静めようとしても煩悩の波が騒ぎ、法界を観念しようとしても、迷いの雲にかきみだされる。)]
御自分の運命に取り組まれ、聖人は京都の六角堂に百日間こもられました。九五日目に夢告の中で、法然上人を尋ねよとの示現を受けられた。恵信尼の書簡では、この示現は、そのお堂を建立されたと伝えられ、七世紀の日本で仏教を支持された事で有名な聖徳太子によるとされています。当時、法然上人は、既に浄土教の奥義とも言うべき「選択本願念仏集(選択集)(せんちゃくしゅう)」を著されていました。この書により、上人は浄土教がれっきとした独立の宗派であると宣言されましたが、それは、専ら阿弥陀仏の名号を称える(即ち、念仏で南無阿弥陀仏を称える)お勤めに基づき、さらに、阿弥陀仏の第十八願に遡るものです。法然上人は、仏法の最後の時代、つまり末法の時代では、悟りに達する、即ちお浄土で往生するには、僧侶でも一般の人でも念仏だけが唯一の道であると教えられました。
更に100日間、親鸞聖人は法然上人の許に教えを乞い、受けた教えに深く感銘され、ご自分の救いについてもたれていた懸念から解放されました。やがて、聖人は法然上人の書を筆写し、肖像を描くことを許されました。
法然上人が精神性の点で苦悩する人々を受け入れ、すべての人々を、人として短所や欠点があっても、慈悲の念を示された姿は、親鸞聖人にとって、ありのままの私たちを受け入れて下さる阿弥陀仏の限りない無条件のお慈悲を形に示されたものとなりました。法然上人の示されたお手本が親鸞聖人の生涯にわたって励ましとなり、聖人が会われた人なら誰とでもこの教えを分かち合ったのです。
歎異抄の中で、親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えは、多くの浄土教伝統の偉大な師を通じて法然へ伝わり、次いで親鸞に届いたと宣言しています。たとえ、聖人は法然上人によって偽られていたかもしれないと言う非難も若干ありましたが、 聖人は法然に従うことに何等後悔せず、それは、聖人にとって究極の悟りと生死の輪廻の業から解脱出来ることを約束し得るような道は、他に無かったからだったと述べられています。念仏に関して批評を受けると、聖人の返答は次の通りでした。
「法然上人のおいでになる所は、他の人がなんと言おうと、例え、地獄へ落ちるだろうと言われても、お供をする。遠い過去から、いつも迷いの世界をさまよって来たこの身なのだから、そうなったとしても、もともとのことであったろうとさえ思っている私なのであるから」と。([恵信尼文書 第三通, 原文では、「上人のわたらせ給はんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々(しょうじょう)にも迷ひければこそありけめとまで思ひまいらする身なればと、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。」教行信証のなかで、聖人は、次の様に述べられています。「もっぱら仏陀の慈悲の深さに気を取られているので、私は他の人からの愚弄を心に留めません。」   
これは重要な声明で、聖人の献身と、他の宗派とはっきり線を引き、迫害を受けることさえ辞さないとする程の意欲とを明確に表しています。世間に同調する主義と世間に受け入れて貰いたい気風の私達の時代に対して、親鸞聖人は、精神的な勇気および強さ、すなわち単に皆の後について行こうとする誘惑に打ち勝つべしというお手本を示されています。
自身が一体救われるかと深く失望されたことと、法然上人に会われたことで解放感を味われたことで、聖人の宗教的感受性が強くなられました。自身で深く阿弥陀様の本願に目覚められ、その結果、ご自身が誰かと言う観念が強められ、思想に生気を与えられたのです。聖人は、『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ』と述懐されています。(歎異抄、後序)
現代語訳 / 阿弥陀さまが五劫というたいへん長い間一生懸命の思案をして考え出された本願をよくよく考えてみれば、ただ親鸞一人のためであった、思えば、私はあれこれの多くの業を持っている罪深い身でありますが、その罪深い私をたすけようとお思いになった阿弥陀さまの本願の素晴らしさ、もったいなさよ。
聖人が浄土教を根本から解釈し直されたのは、御自分の精神的解放と宗教の実体を強く感じられたからであるかも知れません。
その後、聖人は、唯法然上人の弟子であると主張されました。後に法然上人の正当な承継者であると名乗る浄土教宗派から認められませんでしたが、歎異抄第二章で、聖人のみ教えは、釈迦牟尼、善導、法然を通じて表されてきた本願に基づくものであることを示されています。聖人は「法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。」と結ばれています。親鸞聖人は、ご自分が法然上人の本願に関する御教えを本当に理解していると、しっかりと確信しておりました。この確信があったからこそ、弟子達が聖人の信仰に就いて問い質したときに毅然とした態度がとれたとのです。
聖人は、新しい名、綽空を戴き、喜ばれましたが、後に再び法然上人により改名され、善信となられた。宗教指導者は、弟子達の精神性の位づけを示すのにそのような名前を与えたのです。聖人は、流罪に処せられ、師法然から離別後に、親鸞と名乗られましたが、これは、法然上人の御教に対するご自分の解釈が何に由来しているかを示す為でした。これにより、親鸞聖人は、御教えについて師法然よりさらに深く探求され、天親菩薩と曇鸞大師をご自分の宗教上の師と仰がれたことを示し、二人の師の名前から一字ずつ取られ、親鸞とされたことが分かります。
法然上人に帰依されて以来六年目に、聖人は、辺地越後に流されました。比叡山及び奈良の興福寺の教団当局は、法然上人が奉ずる仏教の教えが国を乱すもので、邪宗であり腐敗したと決め付け、亦、多くの法然上人の弟子達がふしだらな行動をしたとして絶えず朝廷に訴えていました。法然上人の弟子達のなかには、伝統的な神々を軽んじ、神道の氏集団宗教に基づいて、仏教も参加するようになった人々の社会連帯感を覆した者もありました。親鸞聖人がその著書で神道に敬意を払いながらも否認し、仏教の迷信的な信念や慣習も否認されているのは、留意すべきです。
法然上人及び親鸞聖人のような高弟達の迫害のきっかけになった事件は、天皇が参詣(熊野詣)で留守の間に天皇の側室(女御)二人が法然教団の二人の僧との会合を持ったことであった。この二人の僧は打ち首になり、親鸞を含めて法然の高弟等は都から配流に処せられました。法然上人は四国の土佐に、親鸞聖人は越後の国府 (現在の新潟市地域) に流されました。僧侶等は還俗させられ、聖人は藤井善信という俗名を受けましたが、その名前を認めず、禿(とく)と言う姓を名乗り、(「はげ」を意味し、僧侶と非僧侶の中間的な髪で無戒の僧に対する蔑称)(聖人は、その上に愚をつけ、「愚禿」と称され)僧侶でも俗人でもない、非僧非俗であると宣言されました。
流罪先の過酷な環境で、流人はそこで死亡するものとされてきました。でも、政冶の中心からは離れていたので、そこの住民達から流人等は援助を受けることが多かったのです。いずれにしても、聖人は、恵信尼と結婚し、六人の子供をもうけました。恵信尼は、娘の覚信尼に宛てた書状を通じて最もよく知られています。これらの手紙で恵信尼は歴史上の出来事について語っており、聖人が比叡山に居られたこと、聖人の宗教的悩み、それから結局法然上人の弟子になられたことの裏付けになっています。恵信尼自身は献身的な伴侶であり、親鸞聖人を慈悲の菩薩である観世音菩薩の化身と思われていたようです。また、かなりの資産と教養を備えられた婦人で、学問もあり、使用人がいた土地を所有しておりました。
親鸞聖人の結婚に関しては、十七世紀ごろから聖人の伝記の中に真宗派内に広まっていた伝えの所為で色々な説があります。法然上人を信奉する関白九条兼実(かねざね)は、上人にお弟子を結婚させて、仏教徒の禁欲の戒律を破ることで、阿弥陀様の無条件な慈悲心を実際に示して下さいと懇願したと言われています。法然上人に選ばれた親鸞聖人は、師の命に従い兼実の娘、玉日姫を娶られたと伝えられています。姫は息子、範意をもうけられましたが、流罪になった親鸞聖人に随行しなかったとされています。さらに聖人の書簡に信者等に「いや女」の息子である、即生房を援助してくれるようにと依頼されています。この中で強く要請されていますので、この方を聖人のもう一人の息子かもしれないと考える学者もいます。
これらの伝承や学説の基になったものは、六角堂の中で聖人が瞑想された時に得られたと言われている親鸞聖人のビジョンです。最も初期の伝記でよれば、この夢のお告げを得たのは1203年で、救世観音が現われ、戒律を犯して、仏法を伝道する聖人の伴侶として女性の姿を取ると親鸞聖人に約束したとされています。特定の年代が引用されていますが、元の文書(親鸞聖人が書かれたこの夢のお告げについての記述の写し)は、日付がなく、聖人のご結婚について人々が推測するきっかけになっています。
親鸞聖人の結婚は、この夢告に関する伝記の見地あるいは恵信尼との結婚に関する話を採るにしても、聖人の行動理念に基づいたものでした。当時、妻帯したり、同棲したりする僧侶がいましたが、彼らの行動は規律を破るものでした。親鸞聖人は、阿弥陀仏陀の本願に対する完璧な信頼を示す事として結婚の教義上の根拠を与え、末法の最後の時代に戒律の理想が得がたく、したがって、不適当であったと言う事実を教えておられます。
越後に流されていた間、仏法を広げようとする聖人の努力については、記録がほとんどありません。一人だけ聖人の教えに帰依した人が記録に残っています。聖人の流罪がとかれた時、家族と共に、関東に向かわれ、鹿島(今の茨城県)地方の稲田の町に定住されました。そこで、聖人は、僧侶でも俗人でもないと言う生活様式を採られ、農民と一緒の普通の生活を送る傍ら、み教えを広めつつ、約20年を過ごされました。聖人は僧侶の地位が剥奪されていましたので、僧侶の特権を持っていませんでした。しかし、使命を持った人であったので、聖人は単に普通の俗人ではありませんでした。
以前関東に行かれた際に、聖人は、仏法の真実を切望する大衆に出会われました。聖人にとって、流罪が、政府の厳重な監視に影響されない地方でみ教えを共に戴くよい機会であると理解されていました。疫病や飢饉、干ばつなどの脅威にさらされている地方で生き伸びている人々が、命のはかなさをいやと言う程体験していたのです。従って、人々は、阿弥陀仏の本願の慈悲と希望の教えを率直に受け入れました。聖人は、あらゆる階級の人々、猟師、農民、商人や武士さえもひきつけました。
信心に基づく新しい集団(僧伽、さんが)の基礎を築き上げた聖人は、60歳の時、理由は不明ですが、京都に戻り、信者との文通や訪問を受けたりして静かに余生を送られた。手紙をやりとりすることで、聖人は、み教えについての多くの疑問や発展途上のさんがで起こる論争に対処されました。あらゆる困難の中で最も大きなな問題は、信者間の論争の解決に聖人の名代として親鸞聖人が派遣された長男の善鸞を勘当することでした。善鸞は、父親から特別な教えを受けと称し、父の息子として権威を主張しようとしたのです。聖人は、其れまでに聞かれた言い分および非難を整理された結果、信者の信頼および尊敬を維持するために、息子と縁を切らなければならないという結論に達されたのです。 
一見引退とも見られた京都居住の間に、聖人は、ご自分の思想の基礎と内容を表す多数の著述をされました。聖人の代表的著作は、顕(けん)浄土(じょうど)真実(しんじつ)教行證(きょうぎょうしょう)文類(もんるい)、略して教行信証です(以下、本典)。この書は、インド、中国、朝鮮および日本で信仰の伝統を育成してきた多彩な師の教えを引用され、親鸞聖人のみ教えの基本となる教義を概説したものです。聖人は、より広い範囲から種々の教典を利用されましたが、ご自分の思想形成の根源として、これらの師のうちから七高僧を選ばれました。即ち、印度の竜樹(りゅうじゅ)大士(西暦150-250)と天親(てんじん)菩薩(ぼさつ)(4,5世紀)、中国の曇鸞(どんらん)大師(476-542)と道綽(どうしゃく)禅師(562-645)および善導(ぜんどう)大師(613-681)、並びに日本の源信和尚(げんしんかしょう)(942-1017)と法然(ほうねん)上人(1133-1212)です。
この主要な著作は、実際には完成することはなく、絶えず手を入れておられた状態でありましたが、このほか親鸞聖人は、注釈の書物および師のみ教えを歌える形式にした、詩である和讃(和語、日本語による歌)を表されました。聖人の最も学術的著作である本典は、漢文で書かれていますが、他の著作および手紙は、教育のない者でも解るように日常使われている言葉で書かれました。これらの書は寄り合いなどでも読めましたが、教行信証は、指導者らが学べるものであったと言えるでしょう。これを使いやすくする為に、現代語訳もあります。
親鸞聖人は、新しい宗派や宗教を始めたりすることを望んだり、意図されなかったかもしれませんが、師のみ教えを正式に文書に残され、これらの著書は、成長の途中にあった宗教的伝統の礎になりました。聖人が(教団のような)組織を作る意図が無かったことは、ご自分の後継者を指定せず、どんなお勤めを実行すべきかに就いて詳しく示されなかったという事実から明らかです。唯、信心を持つ人は、阿弥陀様に抱かれ、必ず救われることに感謝する以外の動機を持たないで、念仏を称えなさいと言われただけです。
親鸞聖人は、九十歳のお年で、1262年の11月28日、京都において、舎弟尋有の宅で安らかに遷化(逝去)されました。息女覚信尼がお傍で看取られ、息男の益方入道と数人の信者達の見舞いを受けました。
親鸞聖人がどのような方であられたかについては、数多くの言い伝えが残っています。しかし、聖人が仏教の深い理解と悟りへの路を求められた最初の時期から、どのように歩まれたか、その手がかりをつかむのには、私達は、聖人がご自身について語られている文章から推察するのが一番良いと思います。
親鸞聖人は、当時の修行僧等とは違って、ご自身の精神性の不安の起こる根源に遡られ、そこから人間性と宗教に対して師自身が現実的に得られた理解に基づいて、仏のみ教えを解釈されました。聖人は、仏教が目指すものは、私達が我欲に振り回される衝動や執着心を克服して、無我に達することだと悟られました。しかし、これらの衝動や執着心は、単に宗教の実践と自己啓発による努力だけでは、どんなに真心を込め、心を捧げた、苦行であっても克服出来ませんでした。聖人のなされた深い洞察から、宗教自身には、実際には、私達が他の人達から自分が優れているとか区別の意識を感じて、反って自分達のわがままな自我を唆し、育成してしまう危険性があることを見抜かれました。自己反省を通じて、どれほど自己が敬虔であっても、所詮は煩悩に悩まされるご自分であるので、唯一の悟りに到達する希望は、阿弥陀様の本願にあると悟られたのです。
親鸞聖人を理解する鍵は、善導大師が始めて述べられた二種類ある深い信心の教えです。宗教的意識には、二つの次元があると見るのがこの教えです。一方では、私たちは、深い精神的なレベルでの不浄のために自分の努力で悟りを得ることは不可能であると観念します。他方、私たちの不浄と不完全さをより深く意識すればする程、私たちは、阿弥陀仏−その光は私たちの暗闇にいる心を照らします−のお慈悲に素直になれるのです。善導大師は宗教的意識のこの二つの相反する点について明言されましたが、親鸞聖人は、ご自分の体でこれらの教えを捉えられました。余りにも聖人の体験が強力でしたので、師は、仏教での宗教生活について新しい理解に到達され、今まで観念的であったみ教えに具体的な中身を与えられたのです。  
聖人には、比叡山での修行に行き詰まりを感じられた体験があり、またそこでご自分に課された義務を果そうと二十年間真摯な苦闘をされましたが、その御苦闘のためにみ教えの解釈に、深みと創意が加わりました。聖人の生活は、ご自身の悪(煩悩)に対する深い自己反省と仏の条件をつけない、一人として見捨てる事のない慈悲に抱かれることに気付くことの両方をあわせたものでした。親鸞聖人は、決してご自分を皆のお手本にしなさいと胸を張って言われるような方ではありませんでしたが、私達が精神性の面で成長し理解する際の案内役になって下さいます。
聖人の素晴らしい点は、ご自分のみ教えがどこまでも自身の精神的な体験をそのまま映し出されていることです。単に定説を慣例に従って言い換えだけのものではありませんでした。親鸞聖人は師のお考えを確立するに当たって広範囲の資料を参考にされましたが、このような各種の文献を私達が読んだだけでは、聖人の到達された結論に行きつくことはできません。ご自身の得られた体験があるので、これらの資料が更に意味深いものになったのです。
親鸞聖人の持たれた二つの相反する形の体験に就いて、ご自身のお言葉を通じて幾つかの例を挙げます。 聖人は、ご自身が不浄な心を持つ者であると、あからさまに告白されています。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
浄土真宗に帰入するけれど、外面は真実らしく見せて、内心はうそいつわりのわが身であって、自分には真実の心はなく、清浄の心もさらにない。
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり
誰しも外面の姿は愚悪怠惰を隠して、賢善らしく見せてはいるが、内心には貪欲瞋恚とそれにもとづく邪偽が多く、人をたぶらかすような心が数多く身に満ちている。
親鸞聖人はご自分の邪悪の心について単に一般論からさらに深く追求され、つぎのように慨嘆されました。
是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
物事の是非も知らず邪正も解らない愚かなわが身である。小さい慈悲さえもないけれども、名聞利養のために人の師となることを好んでいる。
更に、
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし
しみじみと心から思い知らされる。なんと悲しいことであろうか。この愚禿釈の親鸞は はてしもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷いながら、浄土にうまれる人 のなかに数えられることを喜ぼうとせず、仏のさとりにちかづくことをうれしくともお もわないことを、本当に、恥じなくてはならない。心をいためなくてはならない。
親鸞聖人は、自身の人間としての能力と洞察力に限りがあることを認識された方でしたが、念仏が真実であることには、確信されていました。
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」(歎異抄・後序)
私は善悪の二つについては全く知りません、というのは、私が仏さまのような明晰な判断力を持ち、善悪をはっきり認識できるならば、善と悪について知っていることになりましょうが、実は私は煩悩をいっぱいもって持っている凡夫で、私の住む世界は不安に満ちた無常の世界。そういう私が、どうして善悪について確かな認識を持つことができましょうか。およそこの世界で人間がすることは、すべて空しいこと、ばかばかしいこと、真実のことは全くありません。ただ念仏のみが真実である。
ここで親鸞聖人ご自身が体験された信心について注目しなければ、聖人の全体像を示したことにならないと思います。聖人はご自分の能力や真実を見抜く力に就いて割り切っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を自身で体験されたことやご自身の生活にとって阿弥陀仏がどのような意味を持つかについては非常に明確でした。ご自分の体験に就いて親鸞聖人は、次のように言われています。
愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す。(教行信証化身土巻 百十八)((現代語訳「愚禿釈の親鸞は建仁元年の歳、(千二百一年)「それまでの自力の雑行を棄てて本願に帰いました。」
そして法然上人の名だたる弟子の一人として、聖人は法然上人の著「撰択集(せんちゃくしゅう)」を写し、師の肖像を描くことを許されました。その際の喜びを次のように残されています。
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(教行信証化身土巻 百十八)
なんと喜ばしいことであろう。いまわたしは心を広大な本願の大地にうちたて、思いを不思議な真実の海にまかせている。深く如来の慈悲の広大を知り、師の教えのご恩に報いたい思いはますます重くなるのを覚える。
親鸞聖人は、先達の高僧等が書かれた書を学ばれ、み教えの深さに気付かれた時に、絶えず数々の感想を述べられています。この御感想が聖人の正信偈(しょうしんげ)(信心の歌)の基になりましたが、正信偈は、浄土真宗信心の概要をまとめたもので、多数の真宗信者が毎日称えています。師が本願を悟られ、阿弥陀仏のお慈悲にあって喜ばれたことが、聖人の勇気の源になりました。ご自身が不浄で、知識も不足していることは、はっきり解っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を信じて,師のみ教えに関しては,毅然とされ明解でした。聖人は、「親鸞におきては」とか「親鸞は」と前置きをされてから、御意見を述べられていますが、これは、「親鸞としては」とか「私の考えでは」と言う様に解釈できると思います。聖人は、今日の言葉で言えば、「(大胆に行動され)ずけずけ言う」ことを躊躇されませんでした。これらのご意見を拝察しても、必ずしも総ての人々が聖人に同意することはない事をご存知であったことが解ります。それでも、師は決してもったいぶった、独り善がりになることはなかったのです。自己中心にならず、しっかりとした自覚を持っておられました。
親鸞聖人は、聖人の教えが真実であることを確信されておりましたが、他の人が皆、師に従えとは要求致しませんでした。又、聖人と意見が違ってもそのような人達を非難するようなことはありませんでした。従って、師の教えについて問われると、聖人は、これは私の信ずる事であって、何を信ずるかは−「面々の御はからひなり」−あなた方めいめいが自分で決める事ですと答えられました。
親鸞聖人のもとを去った弟子との論争の時、聖人は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。」と宣言されました。師に忠実な弟子達に、聖人がかっての弟子に与えた本尊・経文を取り返えす事は出来ないと言われ、その訳は、親鸞聖人の信心もその弟子の信心も同じく阿弥陀仏から戴いているからであって、聖人の持ち物として取り戻す事はできないと説明されました。(歎異抄第六章・口伝鈔第六章)
親鸞聖人が宗教上の信仰と人間関係についてどのように取り組んで行かれたかは、私達が真宗の信仰とそれに基ずく生き方を理解する上から大変重要です。聖人にとっては、人が頭では、お浄土に参らせて戴くことを信じていても、死後の世界がどうであるかについて、自分が持つ曖昧な気持ちを表しても構わなかったのです。聖人が正直に、隠さず、御自分をさらけだされたので、他の人々は皆、自由になれたのです。人を教える身であって、果たして何人が自分は、名声と利益を求める我欲のために教えているのですと認めるでしょうか?聖人には、権威主義・教条主義や支配・優越感を持たれる傾向は全くありませんでした。聖人は、弟子達を平等な仲間として遇され、お話しされるお言葉にも表れていました。聖人にとって、弟子達は、仏の道を共に歩む御同朋・御同行(おんどうぼう;おんどうぎょう)であったし、私達も同様です。
親鸞聖人のご人格が最も明らかに表れているのは、歎異抄第九章で、師唯円房と出逢いです。ある時、唯円房が親鸞聖人に向かって、私は、念仏しても、信心を持つ者なら当然抱く筈の、早く浄土へ行きたいと言う喜びや望みを感じませんと訴えました。親鸞聖人のお答えは見事でした。聖人は、直ちに、私、親鸞も以前、同じ問題と疑いを抱えていたと言われ、唯円房に安心しなさいと答えられました。次いで、阿弥陀様は私たちがどういう人間であるかをご存知で、私たちのような者の為だけに仏の本願を建てられたのですと説明されました。(歎異抄第九章)
法然上人の伝記の中にも同じ様な場面があります。弟子の一人が法然上人のもとに来て本願についても、お浄土に参りたいと言う望みについても疑いを持ちませんが、「とくまいりたきこゝろの、あさゆうはしみじみともおぼへずと仰候」(「朝な夕なに急いでそこに参りたいとも思いませんが。」)と述べたのに対して、法然上人は次の様に答えられたと伝えられています。「まことによからぬ御ことにて候。浄土の法門をきけども、きかざるごとくなるは、このたび三悪道よりいでゝ、罪いまだつきざるもの也と、経にもとかれて候。又此世をいとふ御心のうすくわたらせ給にて候、. . . .」 (「それは、まことに良いことではありません。大経にも浄土の教えを聞いても、聞いていないのと同然になる者は、まだこの三悪(地獄・餓鬼・畜生道)に満ちた世の中から抜け出て、自分の罪から逃れ得ていない人であると説かれています。 また、この世をそんなに嫌っておられるわけでもないでしょう。」)(法然上人行状絵図 第二十三 御法語 巻三 一六二ページ)
私たちはこの両方の出来事を比べてみますと、浄土真宗の伝統外の人々を引き付けた親鸞聖人のお人柄の高さと、人間関係が判ります。聖人は、他人の問題をご自分のものとして親身になって見ることができたのです。決して人の上に立って、人々の誤りを指摘されるような方ではなっかったのです。聖人は、誰も見下したりせず、誰にもご自分の持つ表準に達するようにと要求されることはありませんでした。聖人は、ご自分の弱点や限界をためらいなく認められましたが、同時に師が自ら体験されたことについては、自信を示されました。
親鸞聖人にとっては、本願はすべてのものとの比較や区別を許さないものでした。その点、次のように、述べられています。
弘誓一乗海は、無礙無邊、最勝深妙、不可説不可稱不可思議の至徳を成就したまへり。
本願の誓い−すべての者を救って捨てない阿弥陀仏の誓いを説く教え−は、なにものにもさまたげられない、限りがなく最も勝れた、深遠な、説くことも言い表すことも思い計ることもできない、無上の徳を成就されました。
金剛石のような信心は、絶対的で他に比べようがありません。親鸞聖人が本願が至上であると理解されていた内容は、教行信証の中のお言葉にありますが、これは、聖人の著作や宗教全般に於いて、信心、つまり、真にお任せすることについて書かれた中で最も大切なものの一つです。
よそ大信海を按ずれば、貴賎緇素をえらばず、男女老少をいはず、造罪の多少をとはず、修行の久近を論ぜず。行にあらず。善にあらず。頓にあらず、漸にあらず。
定にあらず、散にあらず、正觀にあらず、邪觀にあらず、有念にあらず、無念にあらず尋常にあらず、臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず。たゞこれ不可思議、不可称、不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、智愚の毒を滅するなり。
いったい、海のように広い大信について考えてみると、それには、身分の上下や,出家・在家のへだてなく、男女、老幼、の別なく、犯した罪の多少ともかかわりなく、 修行期間の長短も問題とならない。それは、自分が行う行でもないし、自分が行う善 でもなく、また自力ですみやかにさとる教えでもないし、漸次さとりに近づく教えでもない。心静かな観想によるものでも、普通の心で行なう善でもなく、正しい観想でも、まちがった観想でもなく、姿・形のあるものを 観想するものでも、姿・形のない ものを観想するものでもない。平生のきまった作法によるものでも、臨終の作法に よるものでもなく、数多く念仏するのでも、一遍とかぎったものでもない。それはた だ、思惟を超えた、口にも文字にもあらわせない信楽なのである。たとえば、不死の 薬が良く一切の毒を消すように、如来の薬はよく智者や愚者の自力の毒を消すのである。
私達は特に、最後の語句に注意すべきです。本願は私たちの持っている知恵や無知の害を無くしてしまいます。私たちは当然自分の無知を乗り越えようとしますが、知恵の持つ害に気がつき易くないのです。しかし、これこそ親鸞聖人が際立っておられることを示しています。聖人は、私たち自身がつくろう外見と見せかけを見破られ、私たちが他人に対して優位に立ち、権力を持ち、支配しようとする姿勢を見通されました。聖人は、阿弥陀さまの本願の教えに表された精神性の理想像に照らされ、さらされたときに、このような見せかけの姿勢を他人でなく、主にご自分の中に見られていたのです。  
 
比叡山と道元

 

1212 / 比叡山の麓に良観(良顕)の庵室を訪う、ついで横川般若谷千光房に入る。
1213 / 天台坐主公圓に就いて剃髮し、翌10日、戒壇院に於いて受戒す。
4月9日、14歳の禅師は比叡山の座主公円僧正について剃髪し、出家得度されます。比叡山では天台教学を中心に学ばれましたが、経文にある「本来本法性・天然自性身」という文言に大きな疑問をいだかれます。その解決のために園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ね、そのすすめにより建仁寺へ参じられた道元禅師は、栄西禅師の高弟である明全和尚に師事されます。
1214 /  園城寺長史公胤の指示を受け、栄西に参ず。
道元(禅師)、(比叡山にて)一切経を閲覧したまいしに、やがて一塊の大疑団、その胸宇の間に鬱結しきたれり。大疑団とは則ち顯密の二教において倶に談ずる所の「本来本法性、天然自性身」の那一著なり。もし自己の身心にして、本来に法性を存在し、天然に佛身なりとせば、三世の諸佛は何の故に発心出家して、無上正等正覚を願求したもうかと。即ち之を山門(比叡山)の碩学耆徳に歴参質疑したまいしかども、遂に之が理致の指教を受けたまうことを得ず。時に道元(禅師)は偶々三井寺の公胤僧正の観心に明らかなることを聞き、就いて之に質したまう。(公胤僧正は建仁寺の栄西禅師を訪ねるように進言する。) 栄西禅師に謁し、即ち問いて曰く「本来本法性、天然自性身、なんとしてか三世の諸佛は発心求道するや。」栄西禅師曰く「三世の諸佛は有ることを知らず、狸奴白狐は却って有ることを知る」と。道元(禅師)深く其の教示を服膺したまい、是れより留まりて栄西禅師に常侍し、佛祖嫡傳の正宗に帰入して、また四明(比叡山)に帰りたまわず。
1217 / 京都建仁寺に明全に参ず。
1221 / 明全に師資の許可を受く。
1223 / 明全、廓然、亮照等と共に京都を発し、入宋の途に就く。4月 明州慶元府(浙江省寧波)に著す。
求道の志をさらに強くした道元禅師は明全和尚とともに海をわたり、宋(中国)の地を踏まれます。正師を求め諸山をたずね、ついに天童山にて如浄(にょじょう)禅師とめぐりあわれます。道元禅師は如浄禅師を生涯の師として仰ぎ、坐禅修行に励まれます。そして、ついには悟りの境地を認められ印可証明をうけ、お釈迦さまより脈々とつづく正伝の仏法を受け継がれたのでした。
1227 / 28歳の道元禅師は5年におよぶ修行を終え、日本に帰国されます。後年、中国で体得されたことを『眼横鼻直』『空手還郷』という言葉であらわされ、「ありのままの姿がそのまま仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである」とお示しです。 
道元1
道元は1200年、京都で生まれました。彼の父源通親は、朝廷内の実力者でしたが、道元が3歳のときに亡くなった。8歳のとき母も亡り、13歳で出家し、延暦寺で学んだ。しかし、「貴族のための仏教」となっていた天台宗に満足できず、比叡山を下り、建仁寺に入って栄西の弟子の明全(みょうぜん)から臨済宗を学んだ。 
道元2
「仏家に、もとより六知事あり」で始まる道元の「典座教訓」は、禅寺(曹洞宗)運営管理に携る六つの役職の中から、食事・湯茶を管掌する典座(てんぞ)を取り上げ、その心構え、仕事に臨む姿勢といった精神的なものから、米の研ぎ方、仕事の手順、食材の扱い方、食膳の整え方に至る手順を記した手引書である。
因みに他の役職には、総監督の都寺(つうす)、事務長の監寺(かんす)、会計・出納の副寺(ふうす)、雲水の監督・指導の維那(いの)、伽藍の整備や田畑・山林を管理する直歳(しっすい)があり、現在の私たちが使っている知事は禅から由来したものと思われる。
ところで、道元が「典座教訓」を著すきっかけとなったのは、若かりし日の彼に大きな衝撃と影響を与えた二人の老典座であった。
その一人は、貞応2年(1223)道元24歳の5月、明州慶元府の港で待てど暮らせど降りてこない天童山の入山許可を待つ船において、日本商船入港の噂を聞きつけ、端午の節句に供する麺汁のだしに日本の椎茸を使おうと買いにきた阿育王山の典座であった。
阿育王山は南宋五山の一つに数えられる大陸の霊地であるから、道元はご馳走するから一晩ゆっくり語り合わないかと老典座に誘いかけたが、彼は明日の供養の支度があるから今すぐ戻らないと間に合わないと行ってしまう。
そのやりとりを道元は「典座教訓」に次のように記している。
「あなたはずいぶんお年を召しているのになぜ坐禅弁道や修行をしないで、こうした煩わしい典座の仕事に励んでいるのか。それで何か良いことでもあるのですか」と私が典座に聞くと、彼は大笑して「外国の青年よ、君はまだ弁道とは何かを理解せず、文字とは何かを知得していないよ」と言った。
私は彼の言葉に驚きうろたえ「文字とはどういうものですか。弁道とはどういうものですか」と聞くのが精一杯だったが、彼は「もし君がその問うところをあやまっていなければ望み無きにしもあらずだがね」と云い、まだわからないようならそのうち阿育王山でも来るがよいと言って立ち去った。
その二ヶ月後、入山許可が降りて道元がやっと足を踏み入れた天童山景徳寺にあの典座が帰郷の途次にと彼を訪ねてきた。その場面の「典座教訓」の記述は簡潔で、
「文字を学ぶ者は文字の故を知ろうとし、弁道する者は弁道の故を納得しようとするであろうね」と典座は云い、「文字とは何ですか」と聞く道元に「12345」と典座は答え、「弁道とは何ですか」と道元が問えば「徧界不曽蔵」と答えた。
それだけである。ホント、禅問答の見本だ。
因みに「道元典座教訓」藤井宗哲訳・解説によれば「徧界不曽蔵」を「宇宙は広く開けっぴろげ」と解している。
もう一人は、道元が天童山景徳寺で修行していたときに出会った老典座で、彼とのやりとりを「典座教訓」では次のように記している。
ある日私が食事を終えて宿舎の超然斎へ向かおうとしたところ、仏殿の前庭で、用さんという典座が杖を持ち、炎天下に笠もかぶらず体中に汗をかきながら一心不乱に苔(たい:きのこ)を干しているのをみかけた。
背は弓のように曲がり長い眉は鶴のように白い用さんの近くに寄って年齢を尋ねると68歳と答えるので、「そんなに辛そうな仕事をどうして寺男にやらせないのですか」と私が聞くと、「他人は私ではないから」と典座が答えるので、「あなたは真面目なのですね。ですが、こんなに強い陽射しが強いのに、どうしてそんなな仕事をしておられるのか」と聞く私に「陽射しの強い今でなければ、いつこれをするときがあるのかな」と逆に問われ私は言葉もなかった。
二人の老典座は、禅修行で大事なことは座禅を組み、お経を唱える事で、文字とは大蔵経(だいぞうきょう)や公案祖録を読むことと思い込んでいた若い道元に痛烈な一撃を喰らわせたのである。
後に道元は「禅苑清規(ぜんねんしんぎ)」によって典座職は大衆の斎粥を司る禅院六知事のひとつであり、衆僧の食事を管掌する役僧である事や、禅の修行において食事作りを含む日常生活の運営自体が修行であると知るのだが、これは道元が身を置いた叡山だけでなく日本の仏教界にはなかった事であったからその衝撃は大きかった。
宋から帰国後一時的に身を置いた建仁寺での、名ばかり典座が自らの手で食事を仕切らず寺男に任せきりにしていただけでなく、典座が台所に入る事を恥とする風潮に危機感を抱き、在宋中に出会った数々の名典座の教えを思い起こして後世に伝えるだけでなく、自ら禅院を営む上での手引書として著したのが「典座教訓」であった。
道元は正治2年(1200)の1月に、内大臣源(土御門)通親を父に、前摂政関白藤原基房(松殿)の娘・伊子(いし)を母に京の松殿の別邸で生まれた。
当時の貴族社会では生まれた子供は母方の家で育てられるのが一般的であったから、祖父の元房は孫をゆくゆくは有力な後継者とすべく英才教育をほどこし、道元は幼少時から聡明さを発揮して「前漢書」「後漢書」「史記」や唐代の帝王学書「貞観政要」を読んでいたといわれる。
しかし、道元が8歳のときに死別した母の伊子は道元の出家を強く望み遺言にその旨をしたためたとされるが、一体何故彼女は父・基房の考えに強く反対したのか。
それは彼女の人生に照らして極めて納得できる事で、彼女は源平争乱期には入京した木曾義仲と16歳で結婚させられて兄師家の摂政実現の生贄にされ、義仲討死後は後白河院政の頂点で辣腕を振るっていた内大臣・源通親に嫁がされるという二度の政略結婚を強いられたからである。
それでは、伊子にとって道元の父であり夫である源通親とはどのような男であったか。
源通親は村上源氏の嫡男でありながら平氏全盛期には高倉院に仕えて平氏の信頼を獲得し、清盛とのさらなる絆を強めて清盛の弟・教盛の娘と結婚するが、平氏が安徳天皇を擁して都落ちする際には、彼らを見切って比叡山に蓄電していた後白河院のもとに馳せ参じ後白河院に忠誠を誓っている。
その後の源通親は、院の寵妃・丹後の局と組んで愛娘大姫の後鳥羽後宮への入内を望む源頼朝を翻弄しつつ、娘任子を入内させている九条兼家との競合を利用して対後白河同盟にあった頼朝と兼実の間に楔を打ち込む一方で、通親自身は権勢を振るう後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を妻にして、範子の連れ子・在子を養女にして後鳥羽天皇に入内させて、兼家、頼朝と共に天皇の外戚競争を展開している。
そして、めでたく在子が第一皇子出産の暁には一方的に九条兼家を政界から追放し、天皇の外戚として内大臣にもかかわらず、摂政関白・藤原基通を押し退けて強力な政治力を発揮する。
この親にしてこの子ありというべきか、通親の子・道具(道元の父という説もある)は古女房の藤原俊成卿の娘(定家の姉妹)を離縁して、土御門天皇の乳母・従三位按察局(あぜちのつぼね)と結婚して定家を悲憤させたと、「定家明月記私抄」(堀田善衛)は述べている。
当時の天皇の乳母は絶大な権限を有しており、加階・昇進を望む貴族は天皇への口利きを期待して、乳母に金品や荘園を寄贈をする事が常態化しており、藤原定家もこの事では随分苦労したようである。
源平内乱期に木曾義仲に嫁がされ、源通親全盛期には彼に嫁がされ、まさに乱世に翻弄されたといえる藤原伊子は、裏切りと権謀渦巻く政治の世界にわが子道元を投げ込みたくはなかったのだ。
3歳で父・源通親と、8歳で母・藤原伊子と死別した道元(幼名:文殊)は9歳で「倶舎論」を読んだと伝えられてているが、出家を志した栄西も8歳で読んだとされる「倶舎論」は、4-5世紀ごろ西インドの僧・世親(せしん)によって著された30巻からなる仏教の基礎的教学であり、このことからも道元の強い出家の決意が読み取れる。
13歳になった道元は母方の叔父で後に天台座主となる良顕を叡山に訪ね出家の相談をする。道元を継嗣と願う藤原基房の意を知る良顕は一度は反対するが、結局は彼の意志に逆らえず横川の僧房に彼を預け、あくる年道元は天台座主・公円の導きによって正式に出家し、この時から仏法房道元と名乗る。
当時は出家して鎮護国家の祈念を理とする叡山のような大寺院の僧になるということは、国家公務員として一種の特権的な身分と生活の保証を手に入れることを意味した。
とりわけ、叡山を始めとする南都北嶺(※1)の僧には公務員としての身分保証だけでなく、朝廷・院・公卿の催す仏事や、大寺院の恒例の法会に招かれたり、教学の知識を試す論議にも参加して実績を重ね、その実績を評価されて朝廷から僧官(僧綱※2)に任叙される。これが僧としての立身出世の過程であった。 
※1 南都北嶺(なんとほくれい):南都の諸寺と比叡山。特に興福寺と延暦寺を指す場合が多い。
※2 僧綱(そうごう):僧尼を取締り諸大寺を管理する僧職。僧正・僧都・律師からなる。
しかし、摂関家と内大臣家との間に生まれた道元のようなサラブレッドには、このような階段を一段一段登る必要はなかった。
何故なら、比叡山延暦寺の長官ともいえる天台座主(てんだいざす)は朝廷によって任命される公的な役職で、院政期以降は皇室や摂関家の出身者の就任が常態化しており、例えば63世天台座主・承仁法親王は後白河院の皇子であったし、道元が出家の相談をした良顕は後に承円と名乗り68世、72世の天台座主を務め、祖父藤原基房の異腹の弟・慈円は62、65、67、71世と4回も天台座主を務めている。
備中吉備津神社の一神官の息子であった栄西と違って、いきなり天台座主・公円の導きで出家したたサラブレッドの道元には、忍耐を要する長い長い修行や雌伏を経ることなく、いずれは天台座主への道は用意されていたわけで、母の藤原伊子が彼の出家を望んだのも、醜い政治の世界でなくても息子が栄光を目指せるとの思いがあったからではないか。
しかし、18歳になった道元はそんな栄光に背を向け叡山を後にする。
道元は建保5年(1217)の夏に18歳で建仁寺の明全に入門し、その後明全と共に入宋するのだが、それ以前にも15歳で一度叡山を降りて三井寺の座主・公胤を訪ねている。
この頃の叡山は、清水寺の帰属を巡って興福寺と激しく争い、興福寺の衆徒が春日大社の神木を奉じて大挙して京に押しかけた混乱の責任を取って、道元の出家の師・公円が天台座主を更迭され、代わりに道元の父・源通親が引き下ろした慈円が後任になるといった騒ぎだけでなく、日吉社の神饌を巡る山門(叡山)と寺門(三井寺)の争いが、東大寺・興福寺・金峯寺をも巻き込む大きな抗争に発展して、僧兵が互いの寺院に焼討ちをかけて武闘を展開するという状況にあった。
だから、道元がそうした叡山に愛想をつかして飛びだしたかといえば、そのような武闘や破壊は彼の生前から、つまり律令制度が崩壊する過程で数世紀に亘って展開されており、鎌倉政権樹立により頂点に達しただけの事で、幼少時からこのような事態を見聞きしていた道元にとっては承知の上で出家であった。
彼にとっての問題は出家の理念にあり、道元が身を投じた当時の叡山では「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという思念が広く流布しており、その思念の如く修行という漸進的・段階的な過程を経ないで、自分がそのままで即座に仏になれるのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかと、自らの出家の根拠への根源的な問いかけが生まれるたのである。
これに関して道元の伝記「建撕記(けんぜいき)」では、
顕密の二教は共に「本来本法性(ほんらいほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」と語っているが、もしそうであるなら、過去・未来・現在の三世の諸仏は何を根拠にして、ことあらためて発心して菩提を求めたのであろうか、とあり、
人は生まれながらにして法性・性身、仏性を身につけているのであるなら、なぜ世俗のままではいけないのか。殊更出家して厳しい修行をする必要はないではないかと、出家の根拠に疑問が生じたとされている。
さらに、道元の弟子懐弉(えじょう)が深草の興聖寺における道元の説教を記録した「正法眼蔵随聞記」によると、
「この国の大師は土瓦の如くに思えて、正師に会はず善友なき故に、迷ひて邪心をおおこし」と道元は述べ、
師も友も見出せないまま孤立した道元は、僧として生きる場所を求めて叡山を去っていったのであろう。
14歳で道元が身を投じた当時の叡山を支配していたのは「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという本覚思想であった。
もし本覚思想が唱える通り衆生に本来仏性が具わっているのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかとの強い疑問が15歳の道元を突き動かし、密かに山を降りて訪ねた相手が三井寺の高僧として名をはせた公胤であった。
しかし何ゆえに三井寺の高僧・公胤なのか。
公胤は三井寺に入って天台・密教を修め、村上源氏の出であったことから北条政子の頼みで公暁を弟子にした事もあるが、後鳥羽院の信望を得て長吏(トップ)を勤めて三井寺の興隆を成し遂げた実力者であったが、建久9年(1198)に法然上人が著した「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」を痛烈に批判する「浄土決疑抄」を書いたものの、後に法然の法門を聞くに及んで深く帰依して専修念仏の唱道者となり、道元が訪ねた時は公職を退き里房で念仏三昧の生活をおくっていた。
九条兼実の「玉葉」に「顕真遁世久しく、念仏の一門に入るに依って、真言の万行を棄つ」と書かれた顕真も、叡山で顕密を修めて名声を高めたにも拘らず大原に遁世し、文治2年(1186)秋には法然上人を勝林院に招いて諸宗の碩学達と「大原問答」を展開し、それを機に法然に深く帰依して念仏三昧に入るものの、文治6年(1190)には朝廷に推されて天台座主になっている。
このように、当時は天台を修めた高位高僧であっても、同じ人格の中に天台・密教という旧仏教と、専修念仏という新仏教が同居する事は珍しくなかった。
であるからこそ、道元は、かつての三井寺の高僧で今は遁世して念仏三昧に暮らす公胤をひそかに訪ねたのである。
ほとばしる思いで本覚思想への疑問、出家の根拠への問いかけをぶつけた若き道元に対して、公胤はそれに直接答えることはしないで、宋では禅が盛んで、建仁寺には、その宋で禅を修めた栄西がいるよ、と示唆した、と、道元の生い立ちを記した書籍の多くは記しているが、
そうではないでしょ?と私が思うのは、
一度は痛烈に批判した法然の専修念仏に今や深く傾倒して念仏三昧の暮らしをする公胤であれば、道元に宋禅や栄西を提示する前に、自らが帰依する法然の「専修念仏」を提示しないはずはない。その時道元はどう反応したのか。法然の専修念仏よりも栄西の宋禅に向かうに至った道元のプロセスを知りたいものだと私はしきりに思う。
道元の伝記「建撕記」によれば、叡山の本覚思想に大きな疑問を抱いた道元に、三井寺の公胤は問題解決の糸口として入宋すること、そのためには宋の虚庵懐敞から臨済宗黄龍派を嗣法した栄西開祖の建仁寺の門を叩くよう進言したとされている。
ここでは道元が建保3年(1215)に75歳で入寂した栄西から直接指導を受けたか否かは脇に置いて、公胤の進言で入宋求法(にゅうそうぐほう)を志すようになった道元が建仁寺の門を叩いたのは正解と言える。何故なら、鎌倉前期に興った新宗派の禅宗では、仏法は書かれた教えよりも師から弟子への人格的陶冶(とうや ※1)を通じてこそ伝えられるとする「教外別伝(きょうげべつでん)」を原則としており、そのためには釈迦から達磨を経て今に至る法脈を伝える師から直に学ばなければならなかった。
であるからこそ数多の禅僧が命の危険をも顧みず中国渡航を熱望したのであり、その逆に鎌倉建長寺開祖の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元のような中国で高名な禅僧があえて辺境の日本に到来して禅宗をひろめたのである。
また、国家機構の面では、当事の国家は外交感覚が欠如していた事もあって外交機能を担うべき専門組織が存在せず、せいぜい名ばかりの担当組織として冶部省に属する玄蕃寮(げんばりょう※2)が存在しただけであり、そのうえ、中国の科挙のような高級官吏任用制度を持たない日本の律令体制では、官吏を養成する教育機関も存在せず、寺院こそが中世における代表的な教育機関であったし、そもそも僧侶には全文が漢文で構成される経典の読書きが不可欠なことから、中国との外交行為に必須とされる漢文能力も国風文化を重んじて漢文から遠ざかっていた貴族よりも僧侶の方が遥かに抜きん出ていた。
このような背景が、とりわけ禅宗における中国との人的交流を活発にし、その中でも日本禅宗の初祖とされる栄西が開いた建仁寺には、中国渡航経験者を始め、漢文能力や中国語能力に秀でた豊かな人材が集まり、最新の中国情報や中国人とのコミュニケーション・ノウハウが蓄積されてていたから、道元のような入宋を志す者にとっては打ってつけの場所であったといえる。
蛇足になるが、入宋間もない道元が出会った老典座との交流や、明全と道元が天童山で遭遇した出来事、これは、戒律の年次を無視して自国の僧を優遇して日本など外国僧を末席に置いた南宋ののやり方に対して、道元が外国僧に対する不当な扱いは仏教の平等に反すると天童山当局や皇帝の寧宗(ねいそう)に訴え、寧宗の勅宣で外国僧に対する待遇を改善させた成果は、まさに建仁寺で習得した語学力・コミュニケーション力の賜物であったと言える。
※1 陶冶(とうや):人材を薫陶育成する事。
※2 玄蕃寮(げんばりょう):律令制で冶部省に属し、仏寺や僧尼の名籍、外交使節の接待・送迎をつかさどった役所。 
道元3
日本禅宗の成立
一般に栄西が中国より禅を伝えたことをもって日本禅宗の出発点とするが、「元亨釈書」や「延宝伝燈録」などの僧伝や「興禅記」(無象静照著)・「将来目録」(入唐求法者が持ち帰った書物等の目録)などの史料から、鎌倉期以前にも禅を日本に伝えた人物が存在したことが知られる。まず飛鳥朝期に道照(629-700)が入唐し、法相宗や成実宗とともに禅を学び、元興寺に禅院を設けている。奈良期には唐僧の道璿(どうせん)が天平8年(736)に来日し、大和大安寺に禅院を設け、門弟の行表に法を伝えている。北宗禅というものであった。平安期に入ると最澄が入唐して円・密・禅・戒の4宗を伝えているが、彼は入唐する前にすでに行表から北宗禅を学んでいた。唐からは牛頭禅と称されるものを伝えた。空海にも「禅宗秘法記」という著述があったといい、在唐時に禅を学んだものと思われる。比叡山では円仁も入唐のおりに禅を学び禅院を設けており、円珍は代表的な禅籍である「6祖法宝檀経」を将来している。さらに平安期には唐僧の義空が南宗禅(以降、日本に入ってくる禅宗はこの南宗禅に属する)を伝えている。日本側の招きに応じたものであったが、数年にして帰国した。また日本から入唐した瓦屋能光(933年ころ没)は中国曹洞宗の祖である洞山良价の弟子となり、中国で没している。永延元年(987)帰国した三論宗の「然(ちょうねん)は宋朝禅を学び、禅宗の宣揚を朝廷に奏請したが許可されなかった。平安末期に禅を伝えた人物に覚阿がいる。覚阿は入宋し、南宗禅のなかの臨済宗楊岐派の禅を伝えて、安元元年(1175)帰国して比叡山に入った。高倉天皇の問法を受けたが、笛を吹くのみであったという。このように、平安期以前において中国の禅宗と関わりをもった僧侶たちが何人かいたが、法孫を残さなかったために、これまでの禅宗史上ではあまり重んじられなかった。しかし覚阿の伝禅などは、後述する大日房能忍におおいに影響を与えることになったのではないかと考えられる。さて、中国からの伝禅という視点のみでは、鎌倉期以降なにゆえに禅宗が受容されていったかが理解できない。その背景には、中国禅を受容できるだけの基盤が日本のなかに存在したとみなければならないとする新しい視点が提示されている。それは、「往生伝」などの説話文学のなかに登場する禅定を修する僧や行的な僧に見出すことができる。また、奈良期における山林修行僧や民間布教僧のなかに位置した看病禅師や、持戒・看病の能力をもって国家に登用されていった内供奉十禅師の存在、平安期には寺院内に置かれた十禅師から四種三昧の修行をもっぱらにし臨終往生への助勢(葬祭)を行なう禅衆へと変化していった事実にも注目する必要がある。中世における禅僧たちがもっていた葬祭や祈祷の能力は、古代の「禅師」たちがもっていたものであったとするのである。さらに、禅的なものを古代からの山林修行の伝統のなかにも見出すことができるとする説もある。つまり、古代仏教のなかから中世における浄土教の展開や法華宗・律宗などの展開のみをみるのではなく、古代の行的仏教のなかからは禅宗の展開もみなければならないという視点である。これらのことを考えると、入宋して禅を伝えた道元についてみるとき、中国からの伝禅という視点とともに、道元の入宋にいたるまでと帰国後の展開、特に道元のもとに参じた人びととの関連においては、古代仏教からの禅的な伝統や行的仏教の系譜などからの影響について考える視点が必要となってくる。  
 
比叡山と日蓮

 

1242 / 清澄山に帰る。京畿遊学(約12年)、比叡山に遊学する。
1253 / 32歳に至るまでの20余年間、鎌倉・京都・比叡山・園城寺・高野山・天王寺等をまわって修業をつとめ、故郷に帰るが、法華経の信仰を強く主張したため念仏者との間に対立が生じ、鎌倉に逃れる。清澄寺で初めて「南無妙法蓮華経」をとなえ立教開宗した。鎌倉に入り、名声の山中に小庵を結び、辻説法による布教活動を始める。 
日蓮1
日蓮聖人は、1222(貞応元)年2月16日、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡天津小湊町)でお生まれになり、「善日麿」(ぜんにちまろ)と命名されました。1233(天福元)年、日蓮聖人12歳のとき、生家近くの清澄寺(せいちょうじ)にのぼり道善房に師事、「薬王丸」(やくおうまる)と改名。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」(ぜしょうぼうれんちょう)と号されました。若き日の日蓮聖人は、清澄寺にて本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信されます。
そして、10有余年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住する清澄寺に戻った日蓮聖人は、1253(建長5)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋の彼方から暁闇をやぶってつきのぼる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのです。このとき日蓮聖人32歳、同時に名を「日蓮」と改められました。  
日蓮2
日蓮の疑問
17歳となった日蓮は清澄山を下り、鎌倉・京・比叡山延暦寺・三井寺・高野山金剛峰寺・四天王寺と、多くの寺をまわって修行を積み、仏法の修行に励んだ。この時代の日蓮が何を考えていたのか、後の彼の行動や著作などから想像するしかないのが、日蓮の問題意識は「なぜ日本は平和な国にならないのか」という点にあったのではないかと思われる。
日蓮にしてみれば、「仏を信じる者は救われ、仏を護持する国は平穏になるはずだ。しかし、現実はそうではない。いったいなぜなのか」という疑問があったのだ。
日蓮は、その理由を「現在行われている、人々が信じている仏教が、あやまった教えであるからではないのか。」と考えた。
世の中に勢力争いや内乱が起こったり、天災に襲われたりするのは、政治的な自然的な理由からなのだが、日蓮はそれを宗教的な理由、つまり「あやまった仏教」に原因があると考えた。「正しい仏教の教え」とは何なのか、それを見つけるために日蓮は各地の寺をめぐって修行に励んだのだろう。
各地の寺をまわって修行を積んだ日蓮は、最後に比叡山へもどり、ここでついに「正しい教え」とは何であるのか確信を得た。
自分の思想を確立した日蓮は、1253年に故郷の清澄山に戻り、伝説によれば、清澄山から昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と10回唱えたという(32歳)。
また、父と母をみずからの弟子とし、父に妙日、母に妙蓮という法号を授け、自分は二人の法号から1字ずつもらって、日蓮と改名したという伝説もある。実は日蓮はこのときまでは蓮長(れんちょう)と名のっていた。 
天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗…平安期、鎌倉期には様々な宗教が開かれたが、その中で日蓮宗だけが始祖の個人名が付いた宗教だ。といっても、日蓮自身がそう呼んだのではなく、弟子達が親しみを込めてこう呼び始めた。それほどズバ抜けて個性が強かったということ。一体どんな人だったのか。
千葉・小湊の漁師の家に生まれる。幼名薬王丸。親鸞と道元が貴族、法然が武士、栄西が神官階級出身ということを考えると、庶民出身というのは異例かも。世代的には法然の約90歳下、親鸞の約50歳下になる。1233年、11歳で清澄(せいちょう)寺に入り15歳で出家(1237年)。始めは鎌倉で学び、続いて比叡山、奈良、高野山、東寺、三井寺などで15年かけて各宗の経文を研究し、「釈迦が世に現れたのは法華経を伝える為、末法の世は法華経でなければ救えない」と悟りを開いた。
1253年、31歳で帰郷。4月28日に清澄山頂で、太平洋の日の出に向かって「南無妙法蓮華経(法華経に帰依します)」の題目を高らかに唱え、これが日蓮宗開宗の瞬間とされる。当時関東では禅宗が鎌倉幕府の保護で繁栄し、浄土宗も法然の開祖から約80年が経ち、弟子達の布教努力のおかげでかなり庶民の間に浸透していた。日蓮は山を降りると法華経第一の立場から、「禅天魔、律国賊、真言亡国、浄土念仏無間地獄」(禅宗信者は天魔、律宗信者は国賊、真言宗徒は亡国の徒で、浄土宗信者は地獄に堕ちるだろう)と苛烈に批判を展開。当然ながら他宗の信者は猛反発。特に、地獄堕ちを告げられた浄土宗(念仏宗)信者の怒りは激烈で、日蓮は故郷から追い出され鎌倉に身を移した。
鎌倉で日蓮がとった行動は、町中に立って人々に直接語りかける“辻説法”。他宗教を邪教と呼ぶ過激さは反感を買い人々から罵倒されたが、「南無妙法蓮華経」の題目と共に説かれる功徳に、耳を傾ける者も出てきた。おりしも1257年(35歳)に鎌倉を大地震が襲い、翌年には疫病が発生、飢饉まで重なって大量に餓死者が出た。日蓮はこうした天変地異を、幕府の為政者が邪宗を信仰するが故の国家単位の仏罰と捉え、1260年(38歳)、「立正安国論」を著して執権北条時頼に献上した。そこには禅宗や浄土宗を禁教にせねば内憂外患(国内に憂い生まれ国外より患い来る事)は避けられず、法華経を信じねば日本は滅ぶと書かれていた。しかし日蓮はまだ無名であり時頼はこれを黙殺。一方、日蓮に敵意を抱く念仏宗徒たちは彼の庵を焼き討ちし、世論に圧された幕府は翌年日蓮を逮捕、取り調べもせず伊豆(伊東)へ流した。※今の伊東は温泉のある景勝地だけど当時は世間から隔離されていた。
配流が許されたのは3年後。1264年(42歳)、これより7年前に父が没しており、墓参と病の母を見舞う為に約10年ぶりに故郷に戻ったが、「日蓮は阿弥陀仏の敵」と怨む念仏宗徒数百人の襲撃を受ける。日蓮を守った弟子と友人は殺され、彼自身も左腕を骨折した(小松原の法難)。
4年後の1268年、蒙古から幕府にフビライへの従順を迫る国書が届く。日蓮は「立正安国論」の懸念が当たったと再び幕府に進言し、他宗の代表的寺院11箇所に公開討論を申込むが、これらは全て黙殺され憤激頂点に達する。他宗への批判は輪をかけて激化し、極刑を覚悟した辻説法にも熱が入る。
3年後の1271年(49歳)、幕府に3度目の進言をしたところ、他宗からの告訴も重なってまた捕らわれ、表向きは「佐渡へ流刑」、実際はその途中で斬首という判決になった(龍口の法難)。いよいよ刑執行という時、対岸の江ノ島に激しく稲妻が走り、頭上で巨大な雷鳴が轟いたことから役人が恐れをなし処刑は中止。間一髪で佐渡への遠流となった。

この時の日蓮宗への弾圧は厳しいもので、弟子、信徒、そして話を少し聴いただけの一般人まで捕らえられ、謀反者として重刑に科せられた。
厳冬の島では飢えと寒さに苦しむが、“釈迦は真実(法華経)を語る者は迫害にあうと言われた。この法難こそ正しき道を行く証だ”と、ますます自説に自信を持ち、著作活動に励んで「開目抄」「観心本尊抄」等の代表作を記した。
「観心本尊抄」では信仰の中核となる三大秘法(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇)を示し、“現実世界こそが釈迦の住む浄土”であり、人は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで“生きながら救われる”とした。
1274年(52歳)、北条家は次の執権を争う内紛状態になり、外からは元軍の襲来が目前に迫り、まさに内憂外患そのものの状況になった。ここにきて幕府の態度は一変し、日蓮の流刑を解いて鎌倉に呼び戻す。幕府は根負けした形で「国家の安泰のみ祈る」との条件付で布教を許した。漁師の子に生まれた貧僧・日蓮が、時の政権に認められたのだ。社会的な不安もあり日蓮宗は門徒を増やし、信者によって妙本寺が創建された。しかし、いくら日蓮が「法華経のみを信ぜよ」と言っても幕府は聞く耳を持たぬので、ほどなく鎌倉を去って山梨の山間へ分け入り、身延山(みのぶさん)に隠棲し「報恩抄」を書くなど、弟子の育成に残りの人生を捧げた。
1282年、病に冒された日蓮は湯治にいく途中で容態が悪化し、後事を弟子の六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)に頼み武蔵池上にて60歳で他界した。遺骨は希望に従い身延山へ納骨された。 
日蓮3
日蓮に対する天台教学の影響
仏性 / 「仏性」という用語は直接的には妙法蓮華経にはみえないが、これは仏性が初めて説かれる中期大乗経典の大般涅槃経を依経とする涅槃宗を中国天台宗が吸収したことによるものと考えられる。
法華経の位置付け / 法華経の位置付けは、中国天台宗の流れを汲む天台宗の宗祖最澄の開いた比叡山延暦寺での修行の影響とされる。
そもそも仏教は、開祖である釈迦の教えをその死後に弟子達が書き顕した膨大な量の経典に基づいており、一般には、それらを全て読破することは勿論、ましてや全ての意味を正確に理解することなどはきわめて困難である。中国では、さまざまな宗派が乱立していく中で、「一体どの仏典が仏教の一番肝心な教えなのか」という論点が仏教者の間で次第に唯一最大の関心事となっていったことは、ある意味、時代の必然であったと言える。
天台大師智(ちぎ)は長年にわたる経典研究の結果、法華経(サンスクリット語名「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(「正しい法"白き蓮の花"」の意)を、釈迦が70数歳にして到達した最高の教えであると結論付け、とりわけ鳩摩羅什(くまらじゅう)の手が入ったと言われる漢訳「妙法蓮華経」を最もすぐれた翻訳とした。
こうした天台大師智の思想の影響を受けて日蓮は法華経を最高の経典とした、という見方が一般的である。と同時に日蓮の心理的内面に即して言えば、何よりも彼は、法華経に書かれている行者の姿と自身の人生の軌跡が符合したことに最大の根拠を見出して、上行菩薩(本佛釈尊より弘通の委嘱を受けた本化地涌菩薩の上首)としての自覚を得るに至ったのである(上行応生)。 
 
南都六宗1

 

奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教の6つの宗派の総称。奈良仏教とも言う。
法相宗(ほっそうしゅう、唯識)
倶舎宗(くしゃしゅう、説一切有部)- 法相宗の付宗(寓宗)
三論宗(さんろんしゅう、中論・十二門論・百論) - 華厳宗や真言宗に影響を与えた
成実宗(じょうじつしゅう、成実論) - 三論宗の付宗(寓宗)
華厳宗(けごんしゅう、華厳経)
律宗(りっしゅう、四分律) - 真言律宗等が生まれた
尚、当時からこう呼ばれていたわけではなく、平安時代以降平安京を中心に栄えた「平安二宗」(天台宗・真言宗)に対する呼び名である。当時はまだ寺院ごとに特定宗派を奉じる寺院は少なかった。現在華厳宗の総本山とされている東大寺において、平安時代には別院(院家)として真言宗の「真言院」が置かれる等、次第に密教の影響を受けていくことになる。
又、当初これらは、法相衆・華厳衆等と、「衆」の字を充てていたが、東大寺の大仏が完成した頃(748年頃)には、現在のように「宗」の字が充てられるようになったといわれる。
民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。但し、唐に渡り玄奘から法相宗の教理を学び日本に伝えた道昭は、このような国家体制の仏教活動に飽きたらず、各地へ赴き井戸を掘ったり橋を架ける等をして、民衆に仏教を教下する活動を行ったとされる。尚、同じく民衆への教下活動を行った行基の師匠も道昭であったといわれる。
南都六宗の開祖と中心寺院
法相宗 - 開祖:道昭、寺院:興福寺・薬師寺
倶舎宗 - 開祖:道昭、寺院:東大寺・興福寺
三論宗 - 開祖:恵灌、寺院:東大寺南院
成実宗 - 開祖:道蔵、寺院:元興寺・大安寺
華厳宗 - 開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺
律宗 - 開祖:鑑真、寺院:唐招提寺
南都六宗自体は、宗派というより互いに教義を学び合う学派の役割が強く、東大寺を中心に興隆し教学を学び合った。中世に入り、凝然、良遍や叡尊らにより、鎌倉仏教の展開に大きく寄与した。 
 
南都六宗2

 

「南都六宗」とは、奈良時代の六つの宗派、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗をいう。「南都」とは、後に京都(平安京)を北部といったのに対して、奈良(平城京)を指したものである。
日本にはじめて仏教が伝来したのは六世紀の欽明天皇の時代であるが、聖徳太子の時代に至って本格的に招来された。
聖徳太子は、仏教思想をもととした国家社会の構築を目指し、推古15年(607)、最初の遣隋使として小野妹子を派遣したのをはじめとし、その後も、多くの留学生や留学僧を隋に派遣して、積極的に大陸文化の摂取に努めた。さらに太子自らも四天王寺を建立し、敬田・悲田・施薬・療院の四院を設置して貧民救済事業を興し、飛鳥寺・中宮寺・法隆寺等を建立して仏教思想にもとづく政治を行い、飛鳥時代の繁栄を築いた。 
聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎなかった。奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。
聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎなかった。奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。 
これら南都六宗は独自に宗派を形成したものではなく、寺院も原則的には官立であり、国家の庇護のもと、鎮護国家の祈願所としての役割を担うと同時に、仏教教理を研究する場所でもあった。
聖武天皇は、国家の安康と五穀豊穣を祈るため全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立し、さらにこれらを統括する総国分寺として東大寺を建立した。また、全国的に律令体制が確立されるに伴い僧尼令等が布かれ、仏教も国の統治機構の中に組み入れられていった
平安時代に入ると伝教大師と南都六宗との間で幾多の論争が起った。延暦21年(802)、高尾山神護寺において、伝教大師は南都六宗七大寺の高僧等に対し、天台の三大部を講じて法華一乗思想を宣揚した。南都六宗は伝教大師の講説に反駁することができず、伝教大師を讃歎する旨の書状を桓武天皇に提出した。以後、南都六宗の教勢は次第に衰えていった。
律宗とは、梵網経の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、「四分律」「梵網経」「法華経」と道宣の著述を所依とする。戒律を持つことによって悟りを得ようとする宗旨である。
律宗は、中国の唐の時代に道宣(596〜667)が四分律南山宗を創唱したことにはじまり、日本には道宣の孫弟子である鑑真(がんじん)によって伝えられた。
天平勝宝6年(754)、鑑真は聖武天皇の勅請をうけて来朝し、東大寺に戒壇院を設け、聖武天皇をはじめとする多くの人に戒を授けた。日本には戒律を授ける正式な戒壇がなかったが、以後、この戒壇院において公式の授戒が行なわれるようになった。
天平宝字三年(759)、鑑真は朝廷より新田部親王の旧宅を賜り、そこに唐招提寺を建立して止住した。以後、唐招提寺は朝廷から驚く外護され、戒律の根本道場として栄えていった。
また、天平宝字五年(761)には、筑紫(福岡県)観世音寺、下野(栃木県)薬師寺にも戒壇が設けられた。東大寺を含む戒壇は日本三戒壇と称され、以後、僧尼の受戒はすべてこの三箇所で行なわれるようになった。
平安時代になると、伝教大師最澄が天台宗を弘め、法華一乗の教えに基づいた大乗戒を主張して、これまでの戒を小乗の戒律として退けた。そして最澄滅後、比叡山に円頓戒壇が建立され、さらには空海の真言宗が興隆したことも加わって、次第に律宗の勢力は衰えていった。
しかし平安末期には、唐招提寺の実範、鎌倉時代には覚盛や西大寺の叡尊等が出て律宗の復興が計られた。
これら東大寺戒壇院、唐招提寺、西大寺を中心とする奈良の律宗を南京律(南部律)と呼ぶのに対し、鎌倉時代の俊ジョウ(しゅんじょう)が中国宋代の南山宗を学んで、京都に創建した泉涌寺(せんにゅうじ)を北京律(ほっきょうりつ)と呼ぶ。 
 
南都六宗(国家仏教)3

 

日本に仏教が伝来したのは、文献の上では538年説と552年説がありますが、538年説が有力視されています。しかし、仏教は大陸の進んだ文化として朝鮮半島からの渡来人を介して、すでに6世紀前半には日本に伝わっていたのではないかと考えられています。
この頃、仏教の受容を巡る激しい対立が起こりました。受容を主張する蘇我氏と否定的な物部氏が対立しましたが、蘇我氏が勝利して、仏教が最初に芽吹いた飛鳥文化が開花しました。
645年の大化の改新に始まる律令制度のもとで中央集権国家が完成し、大宝律令が制定されて、7世紀後半〜8世紀初頭の藤原京に白鳳文化が生まれました。
奈良の平城京で花開いた天平文化の中で仏教が隆盛しました。
聖武天皇の時代、全国に国分寺、国分尼寺建立の詔が発せられ、仏教は国家の手厚い庇護を受けました。
南都六宗が成立したのは、東大寺大仏殿の建立が始まった747年(天平19)頃から大仏開眼供養の前年751年(勝宝3)の間と考えられますが、各宗を統括する宗務所が置かれ、国家の手厚い保護のもとに国家仏教としての国家の管理を受ける体制が整えられました。
仏教の初めは、鎮護国家を祈る国家仏教として成立しましたが、官立寺院であり、仏教の学術研究をする場所でした。当初の各寺院は、学派として自由に研究する場所であり、独立の宗派を形成していませんでした。諸学の兼学が推奨され、学派の対立はありませんでした。この頃の宗は学門上の区分の学派を意味するもので、平安末期にはじまる宗派とは異なるものでした。
754年、国家の要請により、中国から「鑑真」(律宗と天台宗の大家)を平城京に招請して国立戒壇院(1東大寺戒壇院、2大宰府・観世音寺戒壇院、3下野・薬師寺戒壇院)を設置し、国家公務員の身分を持つ公式な僧侶の受戒制度を整えました。国立戒壇の受戒は「年分度者」と呼称され、南都六宗から選ばれた優秀な人物が推薦を受けましたが、毎年10数名の狭き門でした。官僧以外は僧侶として国家から公認されていない存在でした。彼らは「私度僧」といわれ、山林修行によって霊的な力を身に付ける修行を試みる者でした。私度僧は国家から禁止されながらも淘汰されることはありませんでしたが、僧の大部分はこの私度僧であったと考えられます。
南都六宗は1三論宗、2法相宗、3華厳宗、4倶舎宗、5成実宗、6律宗の順に成立していますが、 南都六宗の概要は次の通りです。 
1 三論宗
中国・唐の吉蔵の弟子、高句麗の僧・慧灌によって、625年(推古33)に南都六宗の中で最初にもたらされた宗です。教学内容は、般若経の「諸法は皆な空なり」に基づくものですが、三論とは、鳩摩羅什の訳出した竜樹(150−250頃)の中論、十二門論と、弟子の提婆(170−270頃)の百論の三つの論をいいます。「破邪顕正」、「真俗二諦」、「八不中道」の三科を理論の中心としますが、人間や事物の一切のものに固定的な実体を考えることを否定する「一切皆空」を説くところから「空宗」ともよばれた中観派の宗です。元興寺・大安寺を本拠地としました。
中論では諸法が因と縁によって生起することを有(存在)と説くのが俗諦、一切を空と説くのが真諦です。 有と空を止揚し非有非空の中道に導くことが破邪顕正です。
八不(不生・不滅・不去・不来・不一・不異・不断・不常の八迷)とは、正しい道理を悟る八重の否定ですが、これによって究極の真理である中道が現れ、破邪が顕れる、という考えです。八不は、『般若心経』の不生不滅、不垢不浄、不増不減の六不とは言葉が異なるものの、表現する内容が同じと考えられるところから、六不=八不の表現と見られています。
2 法相宗
中国唐代に玄奘のもたらした唯識系の経論、特に、『成唯識論』に基づいて玄奘の高弟慈恩大師によって創立された宗派です。日本には、道昭、玄ムによってもたらされました。
法相宗の教理は「阿頼耶識縁起」といわれる唯心論的な理論です。
阿頼耶識は六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)、七識の未那識の最深層に位置する八識とされる瑜伽行派の独自概念です。
インドでは如来蔵と同一視する考え方があり、玄奘以前の中国ではこの識が「真識」か「妄識」かを巡る論争がありました。
この説は、自己の心身と世界のすべてが、自己の最深層にある阿頼耶識の中に蓄積された過去の経験の潜在余力(習気、種子)から生ずるとする学説に立つものです。
この深層心理学ともいうべき精緻な心理分析の理論を仏教界に提供したことは法相宗の教学の大きな貢献でした。
しかし、悟り(成仏)の可能性について、各人の先天的な資質の差別を(五性格別、三乗説)を認めたことが中国仏教界に大きな衝撃を与え、すべての人に成仏の可能性を認める一乗説(天台宗)との間で激しい論争(三一権実論争)を引き起こしました。
法相宗は中国仏教界の主流を占めることなく衰退しましたが、法相教学の概念の多くが華厳宗の教学に組み込まれました。
法相宗は、日本では南都六宗の中で最も有力な宗派として栄えましたが、中国の三一権実論争を引き継ぐ形で、徳一と天台宗の最澄の間で同じ論争が引き起こされました。
法相宗の本拠地は、元興寺、興福寺、薬師寺です。
鎌倉以降、法相宗の勢力は衰退に向かいましたが、教学は仏教の基礎学として各宗の学僧によって学ばれ今日に至っています。
尚、法隆寺は1980年に独立して「聖徳宗」に、清水寺は1965年に独立して「北法相宗」という新たな宗派を形成しました。
3 「華厳宗
1300年以上の歴史を持ち、中国・唐の初期に華厳経を最高・究極の経典として、その思想を研究した学派です。
地理的には東アジア全域に広まり、日本では東大寺系の教学を確立しました。禅者や念仏者に影響を与え、明恵の密教思想に影響を与えるなど宗派を超えた影響力があります。
華厳教学は時代的にも、地域的にもかなり大きな変容があり一概にまとめることは難しいもいのがあります。
華厳経は、もっとも古い『十地経』が紀元前1世紀頃から2世紀ごろに編集され、華厳経の全体が編集されたのは四世紀頃と推定されています。
華厳とは、美しく飾るという意味で、色とりどりの華によって厳(飾)られたものを意味します。すなわち蓮華蔵の世界ということになります。華厳経は真実教、一乗教、円教と評価されています。
仏教の考え方の基礎を形成した空の思想では、あらゆるものに固定的な実体は無く、縁起という関係性よって現象する、と考えました。
華厳の唯識思想は、空の思想を補完して、その現象は人が認識しているだけであり心の外に事物的存在は無いと考えます。
外界の形ある存在は心が作り出している幻想に過ぎず、あるのはただ(唯)意識だけであり、意識が外界の存在を作り出していると考えることが唯識の思考の特徴です。
心の作用は仮に存在するものとしてその心の在り方を瑜伽行(ヨーガの実践)でコントロールし、悟りを得ようとしました。これを唯識思想といいます。
唯識系の論書を理解するためには、この瑜伽行という深い瞑想の中で真実を見つめる行法の体験が必要です。
華厳経には現実の実践(菩薩行)を強調する特徴があります。真空から妙有への展開が見られます。
華厳経の根本的な特徴は、「事事無碍」(事物・事象が互いに何の障礙もなく交流・融合する「一即一切、一切即一」)の縁起を明らかにする点に見出されます。
華厳経の『入法界品』には、善財童子(求道の菩薩)が文殊菩薩の指導に発心して観音・弥勒菩薩など53人の善知識を歴訪して教えを受け、最後に普賢菩薩から大願の法門を聴聞して普賢の行位を具足し、正覚・自在力・転法輪・方便力などを得て法界に証入するという菩薩の修道の階梯が示されています。東海道五十三次はこれに由来するものです。
『十地品』(十地経)には、菩薩が修習の深まりによって到達する十地の階梯が説かれています。これは実践の体系を組織化した論書でもあります。
日本には、740年、良弁が新羅に留学して帰国した審祥に金鐘寺(東大寺三月堂)で華厳経60巻を講義させたことを最初とします。審祥が学んだ華厳は元暁と法蔵の影響が強い華厳学でした。これが東大寺の学派となりました。
元興寺や薬師寺など法相宗の大寺院でも講義され、西大寺(創建時は西の総国分寺、後、真言律宗の本山)でも兼学されるなど、南都(奈良)で重要な位置を占めました。
華厳宗は東大寺を拠点として「華厳思想」を専門に研究する学派です。
4 倶舎宗
インドの世親(ヴァスバンドウ)が著した教理を中心とする綱要書『阿毘達磨倶舎論』(倶舎論)を研究する宗派です。
この論は上座部仏教の最大の部派「説一切有部」の論書として知られる『大毘婆沙論』の教理を批判して著した論書です。有部に対抗する軽量部の立場から著したもので、大乗仏教に大きな影響を与えました。
ちなみに、大乗仏教も「空の理論」を展開して有部の『大毘婆沙論』を批判して対抗しました。
倶舎論は、唯識三年、倶舎八年といわれ、頭がクシャクシャになる難解な論として定評がありました。専門の南都の学僧でさえ研究に長期間かかったといわれています。
倶舎論は、法相宗の道昭が請来し東大寺などで仏教の教理の基礎学として研究されました。倶舎宗は、独立の宗派ではなく、法相宗の付属の宗として毎年1名の僧の得度が公認されていました。現在もその重要性は仏教研究者から認識されています。
5 成実宗
成実論の研究をする宗派です。成実論は訶梨跋摩(ハリヴァルマン)の著した、主として(上座部)部派仏教の「軽量部」の立場から「説一切有部」の思想を批判し、大乗仏教の教理を取り入れています。鳩摩羅什の漢訳(411-412)が現存しますが、書名の「真実を完成する論」の真実が四諦の教えを指すもので小乗論書との批判を受け衰退します。
日本には、三論宗とともに中国から伝来し、三論宗の寓宗として研究されるにとどまりました。
6 律宗
中国の道宣の説に基づき、『四分律』を重視し、菩薩戒として三聚浄戒の受持を主張する。教理的には唯識の影響を強く受けています。日本には、朝廷の招請により、道宣の孫弟子「鑑真」によって伝来されました。
754年、中国・唐より「鑑真」が招かれて東大寺に戒壇院が置かれ、761年には下野に薬師寺が、筑紫に観世音寺が置かれて僧の授戒制度が確立しました。
正式な授戒を許可された僧の身分は、今日でいう国家公務員の資格を与えられ、これに相応しい俸禄が朝廷より支給され厚遇されました。しかしこの人数は少なく(年10人程度)、大部分は「私度僧」となって山林に交わって修行をしましたが、山岳宗教の修験道との混交が一般的でした。
律宗は、平安初期頃まで栄え、その後次第に衰え、平安中期頃には衰退しました。授戒の儀式は興福寺や東大寺の堂衆という僧に継承されています。
本拠地は唐招提寺です。他に、真言律宗の西大寺があります。 
南都六宗は仏教研究の道場です。今日の寺院と異なり「檀家なし」「葬式はしない」という共通性があります。
南都六宗は学問の道場としての色彩が強く、一人の僧が2宗以上の兼学をし、複数の宗派を兼ねるのはごく普通のことでした。宗派間の垣根は低く、向学心の高い僧はどの宗派の学問でも修めることができました。当然、宗派間で学問上の争いを起こす必然性がありませんでした。
しかし、8世紀頃には、権勢を競い合う風潮があらわれ、学僧の囲い込みが始まり、次第に学僧の奪い合いや確執が表面化するようになりました。
学問研究の自由な姿勢が失われ、排他的となって、他の寺院に出向いて教えを乞う美風が次第に失われて行きました。
僧院(寺院)は、当時、最高の学府を形成するインテリ集団でした。王法の下に管理される仏法でしたが、権勢を競うが如く、自己顕示欲を示して次第に政治の乱れに意見具申をする形で政治に介入するようになりました。
8世紀末、桓武天皇は政権内部で暗闘が収まらず、怨霊の跋扈(当時の貴族の独特の感覚)と仏教界の腐敗(王法から見た独特の視点)を避けるため奈良の都・平城京から京都(平安京)に遷都しました。
桓武天皇は新たな都には新たな護国仏教を待望しました。これに応えたのがスーパスター空海と天才最澄でした。最澄と空海の登場により仏教は学派から宗派に衣替えすることになります。
南都六宗と天台宗はほとんど中国仏教の直輸入です。日本的な工夫は儀式などの通過儀礼しか見られません。
教義の体系は、中国でほぼ完成されており、ただこれを学ぶことが日本の仏教のありようでした。日本人の創意工夫は空海の出現まで待たなければなりません。
空海は、十住心論(『大日経』住心品、『大日経疏』、『菩提心論』等による教相判釈)の教判論で、十玄・六相の教理を持つ華厳宗を第九住心(極無自性心)に位置づけ、三融円諦の教理を持つ天台宗を第八住心(如実一道心)として、華厳宗を天台宗の上に置きました。八不を説く三論宗を第七住心(覚心不生心)に、法相宗(唯識)を第六住心(他縁大乗心)に、縁覚乗(独覚)を第五住心(抜業因種心)に、声聞乗(二乗)を第四住心(唯蘊無我心)に、位置づけています。
空海は『秘蔵宝鑰』巻下に、「九種の住心は自性なし、転深転妙にしてみなこれ因なり。真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり」といっています。この二句は「前の所説の九種の心はみな至極の仏果にあらず」ということです。
仏教哲学を実相論と縁起論の二大系統に分ければ、三論と天台は実相論に、法相と華厳は縁起論に分けられ、真言は実相と縁起の双方を止揚したものと考えられます。
鎌倉新仏教は(布教のために)庶民感覚を取り入れ実践論を単純化し特化した特徴をもつ祖師仏教で教理的な発展は特にありません。教理論としては四家大乗(天台・華厳・法相・真言)の教理で尽きていると考えられます。
後世に、鎌倉新仏教(祖師仏教)の立場から、あからさまな南都六宗の批判がされるようになりました。その要旨は「南都六宗」は、自分一身の解脱を目的とする自利の傾向が強く、あらゆる衆生を救済する大乗の「化他」の精神が乏しい」とするものです。しかし、この批判は本質的な批判とは言えず、一方的な批判と考えられるものです。大乗の化他の精神を世の中に身を持って献身した僧が一体何人いるでしょうか。わが宗は南都六宗を遥かに凌駕する大乗の菩薩を輩出してきたと胸を張れる鎌倉新仏教(祖師仏教)が一体いくつあるというのでしょうか。
仏教の本質を逸脱する思い込みの我見を初心な民衆に刷り込む異様なプロパガンダをしてきた鎌倉新仏教(祖師仏教)が、真実の大乗の菩薩の在り方であったと本当に信じているのでしょうか。自らの立ち位置に疑問を感じる感性を喪失した盲信の輩に、仏教の本質を語る資格があるとは到底考えられません。事実は南都六宗の研鑽がなければ、鎌倉新仏教(祖師仏教)が芽吹く土壌が醸成される可能性もなかったのではないかと考えられます。
南都六宗の日本仏教に与えた影響と功績は甚大であり、計り知れない感謝の念を持つべきだと考えられます。南都六宗の存在なしに、今日の日本仏教の存在はありません。南都六宗の仏教の研鑽があればこそ、これを土壌とするたくさんの日本仏教が花開くことができたのではないかと考えられます。 
 
鎌倉仏教1

 

はじめに
鎌倉時代は日本仏教史において、特徴的な時代でした。 現在に続く宗派の多くがこの時代に成立しています。 それまでの仏教との比較でその特徴を見れば、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対しての自立性の主張などがあります。
鎌倉時代に成立した仏教を鎌倉仏教と呼びますが、時代区分としての鎌倉時代と言うより、鎌倉時代が準備され、成立・安定し、やがて崩壊する歴史的潮流とともに生まれてきた仏教と考えるべきで、従って平安時代末期から始まると考えます。
鎌倉時代に至る時代的背景
平安時代末期には、貴族に対する武士階級の台頭など、政治・経済的権力の流動化が強まりました。 そのような中で、それまで貴族階級だけのものであった仏教に対して、民衆の間でも救い希求が高まってきました。
ところが一方で、続発する災害や戦乱は厭世的な雰囲気を高め、これに乗じて末法意識も高まっていました。 末法とは、お釈迦様の教えだけが残り、人がいかに修行して悟りを得ようとしてもとうてい不可能な時代をさします。
このような時代にあって多くの民衆に受け入れられたのが、前述のような特徴を有する鎌倉仏教だったのです。
さらに、鎌倉時代もやがて、外患を契機に衰退し、社会も人心も混乱をきたすこととなりました。
鎌倉仏教諸宗の概観
鎌倉仏教の諸宗を概観します。
大乗仏教の成立とともに興った浄土教は、日本では比叡山を中心に広まりましたが、その流れから、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、良忍の融通念仏宗、一遍の時宗が生まれました。 これらの宗派では、人々を救えるのは従来の自力修行の難行ではなく、仏の心を信じてひたすら「南無阿弥陀仏」と唱える他力であると説きます。 念仏によって極楽浄土に往生し、そこ(末法の現世ではなく)で悟りを開くことを目指すのです。
禅宗は、冥想して身心を統一することで悟りを得ようというもので、唐代の中国で興りましたが、日本にはまず臨済宗、続いて曹洞宗が伝わりました。 臨済宗では「見性成仏」、即ち、仏性は凡夫にも元来備わっているのだから徹見してそれに気付けばそれが悟りだと言い、曹洞宗では只管打坐と言い、坐禅することがそのまま仏の姿であるとします。
日蓮宗(法華宗)では、法華経こそがお釈迦様の悟りのすべてを表す唯一の正法であるとし、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題を説きます。 唱題のみによって、老若男女僧俗貴賎などの区別なく、現世利益と後生菩提の両方が得られるとします。
以上にように鎌倉仏教諸宗には、民衆中心であること、実践方法の単純(易行)化という共通点があります、これは中国から伝えられた禅宗よりも開祖が日本人である浄土系と日蓮宗に顕著であるように見えます。
鎌倉仏教と本覚思想
これら諸宗の祖師たちのほとんど全てが比叡山で学んでいることは重要です。
天台宗は法華経を根本としつつ、密教、禅、戒律、さらに浄土教も含む、総合仏教とも言えます。 ここでとくに注目すべきは、本覚思想と言われる考え方です。
本覚とは、一切衆生(凡夫)が本来的に持っている悟りの意味で、本覚思想は、あるがままの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想です。
本覚思想は、初期の仏教にはありませんでした。 しかし、本覚は大乗仏教に言われる如来蔵あるいは仏性と近い意味を持ちます。 如来蔵あるいは仏性は、凡夫が本来的に有する成仏の可能性であり、修行によってあるいは輪廻転生によってやがて悟りに至ることができることを言ういますが、この凡夫と悟りの距離を近づけていったものが本覚思想ということになります。
まとめ
以上、鎌倉仏教について見ました。 民衆中心の易行化した特長は、時代的な要請であり、その思想的基盤には本覚思想がありました。
なお、即身即仏とする本覚思想では、わざわざ修行をして悟りを開く必要がないことになり、宗教としての堕落の危険性も伴います。 この傾向に江戸時代の寺檀制度が重なって、日本仏教から本来的な宗教性が希薄化されたのではないかと思います。 
 
鎌倉仏教2

 

鎌倉時代というのは、オーバーにいえば、仏教上の革命が行われた時代でした。
というのも、それまでの仏教は、いわゆる貴族仏教であり、貴族を対象として布教し、貴族の支持を得て発展してきたものでした。だから武士や庶民など全く眼中になかったのです。
だいたいからして、庶民に、はげしい修行を積むとか、きびしい戒律を守るとか、難しいお経を読んだり写したりとか、大寺院の建立、修理、寄付などができるわけがありません。お金に困らない裕福な貴族だからこそそんなことができたわけです。
一家の大黒柱たるお父さんが出家なんかしちゃったら、家族はおまんまの食い上げになってしまいますよね。
武士も同じです。ある意味庶民より救われません。だって、極端な言い方をすれば、「人を殺すのが武士の商売」だったのですから、貴族仏教からすれば、まことに救い難い人種とされてしまうわけです。
しかしそれだからこそ武士や庶民の信仰への要求は熱心であり、真剣だったのです。生活のためにやむを得ずに殺生をしているからこそ、ひたすら仏の力にすがって救われたいという信仰要求が強かったのです。
はげしい修行を積むとか、きびしい戒律を守るとかして、自分の力で救われようとすることを「自力本願」と言います。そういうことができない庶民が望んだのが、「ひたすら仏の力によって救われたい」という「他力本願」でした。
簡単にいえば、「念仏さえ唱えれば救われる」のが「他力本願」の仏教です。
親鸞(しんらん)が開いた浄土真宗(元になった浄土宗は法念が開いた)も、日蓮(にちれん)が開いた日蓮宗(法華宗)も、念仏さえ唱えれば救われる仏教です。
浄土真宗の場合は「南無阿弥陀仏」で、日蓮宗の場合は「南無妙法蓮華経」ですね(日蓮宗の場合は念仏といわずに「題目」と言うんですけれど)。
これならどんな庶民でも行うことができます。なんたって「念仏さえ唱えれば救われる」のですから。
浄土系と日蓮系との違いは、浄土系が現世を否定して来世の極楽浄土を求めたのに対し、日蓮系は現世利益を求めた点です。
そんなこともあって、浄土真宗は主に農村の間に、日蓮宗は現世利益を求める町衆、商工業者の間に広まりました。
また、一遍上人(いっぺんしょうにん)が広めた仏教として、時宗(じしゅう)というのもあります。一遍上人は全国を遊行したことで知られています。踊念仏などに特徴がありますが「南無阿弥陀仏」と唱えた点で、念仏仏教の一種です。
そしてこれらの宗教は、日本人によって開かれた仏教として大きな意味をもっています。それまでの仏教は大陸から渡ってきたものですからね。
さて、ここまでずっと「念仏仏教」のことを書いてきましたが、実は北鎌倉には念仏仏教のお寺はたったの一つしかありません。光照寺です。光照寺は時宗のお寺です。
ではあとのお寺はなにかというと、すべて禅宗のお寺です。禅宗も新仏教ではあるんですけれど、大陸からもたらされた点でこれまで説明した念仏仏教系とは違います。
また、念仏や題目を唱えるだけの他力本願の念仏仏教系に対して、禅宗は座禅を組むことによって修行する「自力本願」の宗教であることも大きな違いです。
この、「座禅を組む」という素朴な修行が武士の心意気(心身の鍛錬)と通じるものがあったためか、武士の間に急速に広まったのです。
だから他力本願の象徴である念仏(題目)は当然ありません。
ちなみに禅宗には臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうとうしゅう)の二つがあり、北鎌倉の禅寺は全て臨済宗です。
というのも、曹洞宗が地方武士の支持を受けたのに対し、臨済宗は幕府の保護の下に発展していったからです。
なにしろ鎌倉に幕府があったわけですからね。当然鎌倉では臨済宗のお寺がメインになるわけです。
ちなみに、建長寺は北条時頼が、円覚寺は北条時宗が創建したお寺です。時頼も時宗も共に鎌倉幕府の、当時の最高権力の座である執権職に就いていた人です。 
 
鎌倉仏教3

 

平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した仏教変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを「鎌倉新仏教」(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する。 
概要
鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺はじめ南都の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが、鎌倉仏教ないし「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
これに対し、「旧仏教」(南都六宗、天台宗および真言宗)側も奈良時代に唐僧鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、官僧(天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧)の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存在であった。 
「新仏教」6宗の概要
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
 宗派 / 開祖 / 教義 / 教理の特色 / 主要著書 / 支持層 / 中心寺院
浄土宗 法然(源空)
1133年-1212年 絶対他力、専修念仏 難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説く。 『選択本願念仏集』(1198年ころ)
『一枚起請文』(1212年) 京都周辺の公家、武士、庶民 知恩院(京都市東山区)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
1173年-1262年 一向専修、一念発起、悪人正機 法然の教えをさらに進め、一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。 『教行信証』(1224年ころ)
唯円著『歎異抄』 地方武士や農民、とくに下層民 東本願寺・西本願寺(京都市下京区)
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
1239年-1289年 全国遊行(賦算、踊念仏) 賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。 (『一遍上人語録』) 全国の武士・農民 清浄光寺(神奈川県藤沢市)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
1222年-1282年 題目唱和、法華経主義、四箇格言 法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、題目(「南無妙法蓮華経」)唱和により救われると説く。辻説法で布教した。 『立正安国論』(1260年)
『開目抄』(1272年)』 下級武士、商工業者 久遠寺(山梨県身延町)、中山法華経寺(千葉県市川市)
臨済宗 栄西
1141年-1215年 坐禅、公案 坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。 『興禅護国論』(1198年) 公家、京・鎌倉の上級武士、地方有力武士 建仁寺(京都市東山区)、建長寺(神奈川県鎌倉市)
曹洞宗 道元
1200年-1253年 出家第一主義、修証一如、只管打坐 ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。 『正法眼蔵』(1231年-1253年)
懐奘著『正法眼蔵随聞記』 地方の中小武士・農民 永平寺(福井県永平寺町)

すなわち、他力本願を旨とする浄土系諸宗(浄土宗、浄土真宗、時宗)、天台宗系の法華宗(日蓮宗)、不立文字を旨とする禅宗系の臨済宗と曹洞宗である。
「鎮護国家」の思想のもと、律令国家によって保護された奈良時代の南都六宗(奈良仏教)が仏教研究者集団としての性格をもち、また、平安仏教においては、学問的能力を必要とした顕教にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする密教にしても、貴族仏教としての性格を免れなかったのに対して、上記の6宗は主として新たに台頭してきた武士階級や一般庶民へと広がっていった。
国風文化期に隆盛した浄土教にしても、平安時代にあっては、阿弥陀堂建立の盛行にみられるように経済力の裏づけあってのものであったが、それに対し鎌倉仏教は、概して、
   易行(いぎょう)…厳しい修行ではない
   選択(せんちゃく)…救済方法を一つ選ぶ
   専修(せんじゅ)…ひたすらに打ち込む
の諸特徴を有するといわれ、特に念仏を重んじる浄土系の浄土宗・浄土真宗・時宗に顕著にみられる。浄土系諸門はみずからを「他力易行門」と称し、禅宗(臨済宗、曹洞宗)の実践する坐禅を「自力」のわざであり、「難行」であると批判したが、悟りに到達する方法として一つを選び、それに打ち込むあり方においては、禅宗もまた鎌倉時代に成立した他の「新仏教」諸派に共通する要素をもっていた。
12世紀からの大転換期にあって、人びとは相次ぐ戦乱と飢饉に末法の世の到来を実感し、あたらしい救いを仏教に求めた。こうした要望にこたえたのが、信心や修行のあり方に着目した念仏と題目、および禅の教えであった。これらは、庶民や新興武士階級にも受容できる仏教のあり方だったのである。そして、民衆の生活に奥深く浸透していった点で、鎌倉仏教(「鎌倉新仏教」)は、大陸から伝わった仏教の「日本化」を示す現象として説明される。 
浄土系諸宗の開宗
法然と浄土宗
美作国の豪族の家に生まれた法然(1133年-1212年)は、9歳のとき、同じ荘園に住む武士の夜討ちにあって殺害された父の遺言にしたがい、その菩提をとむらうため仏門に入った。1147年(久安3年)、比叡山延暦寺戒壇で天台座主の行玄を戒師として授戒を受けた。当初は山門(比叡山)で皇円らのもとで天台宗の教学を学んだが、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、黒谷別所にうつり浄土教の学僧として知られた叡空に学び、「法然房源空」と号した。一切経を読むこと5回におよび、その学識の高さは「知恵第一の法然房」と呼ばれるほどであった。叡空やその師の良忍(融通念仏宗の開祖)は、源信の『往生要集』に発する浄土教の教えを信奉した。しかし、浄土に往生する行法としては念仏以外の諸行を認めていた。
1175年(承安5年)、黒谷別所での修行をへた法然は、もっぱら阿弥陀仏の誓願を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、中国の唐代の僧善導の著作『観無量寿経疏』に依拠して浄土宗を開いた。阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)とは、阿弥陀仏がまだ「法蔵比丘」とよばれる修行者だったときに立てた48の願のことであり、また、これらの願がすべて成就しなければ仏とはならないと誓い、すべての衆生を必ず救済しようとしたことを指す。ところで、すでに法蔵比丘は十劫のむかしに悟りを開いて仏となっているのだから、願いはすべて成就されていることとなる。法然は、阿弥陀仏が多くの行のなかから48を選び、さらにそのなかで最も平易な行は第十八願の念仏行なのであるから、人は、ただひたすらそのことを信じ、念仏を唱えればよいと説いたのである。ここでは、顕密の修行のすべては難行・雑行としてしりぞけられ、念仏を唱える易行のみが正行とされた。法然は浄土門以外の教えを「聖道門」と呼んで否定し、仏僧たちが口では戒律を尊びながらも実際には退廃した生活を送っている現状を批判した。
1186年(文治2年)、大原勝林院の丈六堂に、延暦寺の永弁・智海・証真、三論宗の明遍、法相宗の貞慶、嵯峨往生院の念仏房、大原来迎院の蓮契、それに念仏僧重源ら20名をこえる学僧や300名をこす聴衆が集まり、法然の真意を聴く大原問答がおこなわれている。ここで、法然は「乱想の凡夫」と自己規定し、それゆえ観念(仏や浄土を心に想い描いて念ずること)ではなく称念(仏や浄土を称えること)、観仏(仏を観ずること)ではなく念仏(仏を念ずること)に専修できると諄々と説いていった。これは、「鎌倉仏教」の名で総称される仏教変革運動の始まりを示す歴史上の一転換点となった。
東山の吉水を本拠に念仏の信仰を説いた法然の教えは、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族や平重衡など上級武士、さらに一般の武士や庶民にも広まった。1189年(文治5年)には兼実に授戒しており、1190年(建久元年)には東大寺大勧進職重源の求めに応じて、東大寺で浄土三部経の講説をおこなった。兼実の求めに応えて、その教義を弟子に記させた著作が『選択本願念仏集』であり、その完成は1198年(建久9年)ころと考えられる。また、法然の教えは京ばかりではなく、熊谷直実、宇都宮頼綱、結城朝光ら東国の武士や農民にも広がっていった。
戦乱の世にあって、つねに生きるか死ぬかの生活に身を置く武士たちにとって法然の教えは新しい救いになったのみならず、荘園を支配する公家や天台宗・真言宗の寺院、神社など既存の権威や権力と対抗していくため、阿弥陀如来のみに帰依する一神教的な信仰を受け入れたのである。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人救済に専念する姿勢を示した。
こうした専修念仏の教えは旧仏教からのはげしい反発を受けた。天台座主の慈円は、法然が称名念仏を唱え、それ以外の勤行をしてはならないと説いたことから「愚かな尼入道」の喜ぶところとなり、無知蒙昧な者に念仏が受け容れられたのだと批判している。1204年(元久元年)には、法然は国家権力による弾圧を回避しようと七箇条制戒を弟子たちに示し、その同意を求めた。しかし、法相宗の貞慶(解脱)から批判され、南都北嶺の大衆からも訴えられて、1207年(建永2年・承元元年)、国家からのきびしい弾圧にさらされた(承元の法難)。法然は流刑地への旅の途中でも布教をつづけ、塩飽島(讃岐国)に落ち着いたが10ヶ月あまりで許された。こののち数年間摂津国にとどまり、帰京をゆるされて1211年(建暦元年)に東山大谷にうつったが、翌年、同地で没した。なお、華厳宗の高弁(明恵)は法然死去の直後、『選択本願念仏集』批判の書である『摧邪輪』を著している。
浄土宗が広がった背景には、念仏という作善(善行を積むこと)をおこなうことによって救われるという、その簡便性に理由があったが、一面では、念仏が「能声(のうしょう)」とも呼ばれたように、「音芸」(音の芸能)という性格を有していたからでもあった。また、専修念仏の教えは、浄土門のなかに念仏を唱える回数の多寡により多念義と一念義の論議を生んでおり、法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、後述する弟子の親鸞は一念義の立場に立った。
法然門下からは多くの弟子があらわれ、浄土宗の教えを広めていった。のちに浄土真宗の開祖となった親鸞もそのひとりであったが、筑前国の武士の家に生まれた弁長は、京都に出て法然門下となり、その教えを筑後国の善導寺(福岡県久留米市)を本拠に九州一帯に広げて「鎮西派」を立て、その弟子で石見国出身の良忠は東国へ渡って熱心に布教に努めたので鎮西派は関東地方にも広まった。また、京都出身の証空は法然の没後、京都西山の善峯寺を本拠として「西山派」を称した。証空は、大和国の当麻寺で伝説として知られていた当麻曼荼羅を掘り出し、浄土宗の教えをそこに見いだして布教に努めた。
このように、浄土宗の教えは全国に広まっていったが、1227年(嘉禄3年)に再び弾圧を受けた。比叡山の僧兵によって法然の墓があばかれる事件も生じたが、その一方で教義は朝廷内部へも深く食い込み、信者を獲得していった。弟子の源智は、大谷の地に法然の遺骨をおさめ、法然の月命日ごとに開かれていた知恩講をもとにして、のちの浄土宗総本山知恩院を創建した。
親鸞と浄土真宗
日野家出身ともいわれる親鸞(1173年-1262年)は、9歳で比叡山にのぼり、「範宴」の名をあたえられた。20年近くにわたって延暦寺で学んだが悟ることができず、1201年(建仁元年)、京中の庶民が信仰していた六角堂(京都市中京区)に参籠し、そこで聖徳太子の夢告によって法然の門をたたいた。親鸞は師の法然に深く傾倒して「もし法然上人にだまされて、念仏によって地獄に堕ちることとなっても決して悔やまない」と誓ったといわれる。
1207年の承元の法難では僧の身分をうばわれて越後国に配流となったが4年後にゆるされた。すでに肉食妻帯を実行にうつしていた親鸞は、ほどなく法然の死を知るがそのまま越後にとどまった。1214年(建保2年)、42歳の親鸞は妻の恵信尼と子どもたちをともない東国への布教に旅立ち、常陸国で稲田の草庵を営んだ。
親鸞は、師の教えをさらに徹底させて稲田の地で『教行信証』の著述を開始し、絶対他力を唱え、阿弥陀仏を信じる心さえあればよく(信心為本)、信じることによって往生が決定(けつじょう)し(信心決定)、また、おかした罪を自覚する煩悩の深い者(悪人)こそ、むしろ仏が救おうとする人間であるという悪人正機説を説いて、東国の武士や農民に受けいれられた。
親鸞における徹底した絶対他力の姿勢は、願力回向の説によくあらわれている。念仏者である自己が、阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)第十八願に示された「浄土に生まれたいと信じ願う心」に成りきることは、法然にあっては念仏者がまずもって備えておかなければならない条件とされていたが、親鸞にあっては、それすらも阿弥陀仏の側からすでに回向されているとし、信ずる心さえも含めて極楽往生に必要な条件はすべて阿弥陀仏の願力によってすでに実現されていると説く。したがって、ここで唱える念仏は「行」でも「作善」でもなく、そうした性質を失って、純粋に感謝の意味で唱える報恩念仏となる。これは、一種、天台本覚思想に通じる考え方である。
悪人正機説は、弟子の唯円の著した『歎異抄』の一節「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で著名であるが、これは、法然にしたがって念仏行をおこなっていた親鸞が、みずからをかえりみて第十八願に示されるような純粋な心さえ持てない罪業深い人間であると自覚したところに端を発したと考えられる。「自力作善の人」すなわち「善人」は換言すれば不信心の人なのであり、それに対して、自分の罪深さを自覚し、ひたすら仏の慈悲にすがらざるを得ない人にこそ、むしろ真実の救済がひらかれていると親鸞は主張した。自力の作善をなしうる「善人」が救済されるのであるならば、生業として殺生などを営まざるをえないような「悪人」がいかにして救われないことがあろうか、「悪人」こそはむしろ「弥陀の本願」の正因を宿しているのではないかと親鸞は考えたのである。また、親鸞は阿弥陀仏の前では、誰もが平等なのであり、師もなければ弟子もないとして同じ信仰に立つ人びとを御同朋御同行と呼んだ。こうした親鸞における思想の深化は、常陸国にうつった親鸞が、そこでみた寛喜の大飢饉(1230年-1231年)の惨憺たる光景に遭遇したことと深くかかわっているとの指摘がある。なお、『歎異抄』については、室町時代に現れて浄土真宗(一向宗)の布教に尽力した蓮如が、歎異抄の教えは真宗にとっては大切な聖教であるので、宿善(「宿世の善根」の略。阿弥陀如来に救済される因縁のこと)もなく仏法に真摯に取り組む気のない者に対してはむやみに読ませるべきものではないという趣旨の奥書をしたためている。
1231年(寛喜3年)以降、親鸞は末娘の覚信尼をともない京都へ帰った。帰京後の生活は貧窮していたが、親鸞は極楽往生した者は再び現世にあらわれて人びとを救うという還相回向を説き、『教行信証』を完成させ、さらに、東国にのこした同朋のために和讃をつくった。親鸞はこののち、1256年(康元元年)、東国にあって念仏に呪術をもちこんだ長男の善鸞と義絶し、最晩年には、すべての事物は仏の誓いのままに姿かたちや是非善悪を超越して絶対真理として現われるとして、自力のはからいをすべて捨てて仏法にしたがうという自然法爾(じねんほうに)の境地に達した。90歳で没した親鸞は、みずからの生涯をかえりみて罪業深き一生であったとし、「遺体は灰にして賀茂川に捨てよ」と遺言した。
呪術的な救済を超えて来世への純化された信仰を説く親鸞の教えはのちに浄土真宗と呼ばれる教団をかたちづくることとなり、1272年(文永9年)には大谷御影堂が建立された。御影堂は、覚信尼の再婚相手である小野宮禅念の所有地だったところに建てられ、1321年(元亨元年)には大谷本願寺と改称された。「本願寺」の名称は1332年(元弘2年)に鎌倉将軍守邦親王から、その翌年には後醍醐天皇の皇子護良親王から、それぞれ令旨をえたものである。
承元の法難と信仰の自由
1207年、法然ひきいる吉水教団が延暦寺・興福寺によって指弾され、後鳥羽上皇によって、専修念仏の停止、および法然の門弟のうち安楽房遵西と住蓮房ら4人の死罪、さらに、法然自身と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処せられ、法然は土佐国(のち讃岐国)に、親鸞は越後国に流された。75歳の法然は僧の身分を剥奪されて「藤井元彦」という俗名をつけられたが、「たとえ死罪となっても念仏は停止しない。辺鄙な土地で田夫野人に念仏を勧めることができるのはむしろ朝恩というべきだ」と語ったといわれる。34歳であった親鸞は、老いた師と別れ、「藤井善信」の俗名で流罪となったが、越後国府で「愚禿(ぐとく)」あるいは単に「禿(とく)」と称し、非僧非俗(僧でも俗人でもない、ただ一個の人間)の立場を打ち出し、終生これを貫いた。親鸞はここで、朝廷に対し「信仰の自由」を主張し、弾圧に対する抗議の意を表明しているが、これは日本思想史上、画期的なできごとと評価される。
一遍と時宗
鎌倉時代中期に「遊行上人」と呼ばれた一遍(1239年-1289年)は、伊予国の豪族河野氏の出身といわれる。10歳のとき母を亡くし、1250年(建長2年)に大宰府近くの原山にいた浄土宗西山派の僧聖達のもとで出家した。聖達の紹介により、肥前国清水に住む華台という高僧に師事して浄土宗の教学を学び、智真の名をあたえられたが、1263年(弘長3年)にいったんは還俗して妻をめとって仏に仕える在俗生活を送った。しかし、所領に絡む事件に巻き込まれたことを契機として輪廻の業を断とうと再出家を決意、信濃国善光寺に参詣した。その後、再び伊予にもどり、修行を重ねて遊行の生活に入り、西国各地の霊場をめぐって参籠した。
1274年(文永11年)ころ、智真は高野山を経て熊野で100日間の参籠をしたとき、その満願の日に熊野権現の神託を受けたといわれる。そのことばは四句から成り、「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」という偈(げ)のかたちになっていた。これは、各句のかしら文字が「六十万人」となることから「六十万人の偈」と呼称されている。
神託により念仏信仰をさらに深めた智真は、神託中の語より「一遍」を自称して、空也を先師とあおいで古代以来の念仏聖の活動を受けついだ。以後15年にわたり、北は陸奥国江刺から南は薩摩国・大隅国にいたる諸国をくまなく遊行回国した。
時宗では、日常を「臨命終時」すなわち、毎日の生活を臨終の「時」と受けとめて念仏を唱える生き方を説く。一遍は、各地で「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と刷られた算(紙札)を配り、信仰の縁をむすんだ人びとの名を勧進帳に書き記した。この布教活動を賦算(ふさん)といい、記帳した人びとは誰でも救済の対象となった。
これはやがて、身分の上下や貴賤の別、有智・無智の別や男女の別、穢れの有無、また善人・悪人の区別、さらには信心の有無をさえ問うことなく、万人は阿弥陀仏によって救われるという教えとなり、1279年(弘安2年)以降、その喜びと感謝の思いは念仏によってあらわされるべきだと説いて信濃佐久郡の小田切の里で踊念仏をはじめた。一遍は、十劫以前に正覚を得て如来となった阿弥陀仏と、その阿弥陀仏を信ずる一念で浄土に往生することのできる衆生とは根本において同一であると説き、「となふれば仏もわれもなかりけり。南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と歌っている(『一遍上人語録』)。このように、一遍の浄土信仰には、天台宗の本覚思想との密接な関係がうかがわれる。
時宗は、その場に居合わせた人がつくる集団という意味で当初は「時衆」と表記された。一遍は、寺をつくらず、生前に自らの著作を全部焼いてしまったが、死後、弟子たちが『一遍上人語録』としてその教義をまとめた。一遍の布教で勧進帳に名を記した人は25万人を超えたといわれる。
時宗の教えは踊念仏や、古来の神々への信仰を取り込んだ教義を通じて民衆や武士に広められた。遊行回国には、高弟の聖戒や尼僧の超一がしたがっており、そのようすは絵巻物『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』に活き活きと描写されている。この詞書は聖戒によって書かれており、絵は法眼絵師円伊によって描かれたものである。
一遍没後、他阿弥陀仏(真教)があらわれ、遍歴をつづけながら時衆をまとめていった。その後、他阿弥陀仏の直系(遊行派)と奥谷派、六条派、四条派、一向派など他の諸派のあいだに様々な確執や緊張をともないながら、時宗の教団が確立されていった。こうした状況は、一遍や他阿弥陀仏同様、当時は各地を遍歴する聖が多数いて、みずからの教えをひろめていた事実を反映している。時宗の本山は、1325年(正中2年)に呑海のひらいた神奈川県藤沢市の清浄光寺である。 
法華宗とその広がり
日蓮と法華宗
一遍の活躍と同じころ、古くからの法華信仰をもとに、新しい救いの道をひらいたのが日蓮(1222年-1282年)である。日蓮は安房国長狭郡東条郷の生まれであり、のちに自らの出自を「旃陀羅(せんだら)が子」「片海の石中の賎民が子」と記している。
日蓮は、はじめ地元安房の天台宗清澄寺(千葉県鴨川市)に少童として入り、16歳で僧となり蓮長と名乗った。「日本一の智者になりたい」と願った日蓮は、はじめ鎌倉で学び、ついで京都・比叡山・南都をめぐって天台教学のみならず密教や浄土教、禅の教えも学んだといわれる。当時の天台宗の僧は、園城寺門徒を除けば延暦寺戒壇で授戒を受けることとなっていたので、日蓮も受戒したものと推定される。浄土教の著しい発展のなか、当時の比叡山は哲学的・神秘主義的な天台本覚思想がさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえしたが、日蓮は、天台宗のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意した。日蓮は、法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして選び、「南無妙法蓮華経」という題目をとなえること(唱題)を重視した。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。
1253年(建長5年)、日蓮は安房に帰り、清澄山の旭の森で題目を10回唱えて立教開宗を宣言した。翌年鎌倉にうつり、名越の地に庵をむすんだが、このころの鎌倉では大火・洪水・地震が相次ぎ、疫病もしばしば流行した。1259年(正元元年)には飢饉が全国に広がった。日蓮は、これら打ちつづく天変地異は末法の到来を示すものであり、邪教(専修念仏の教え)のために、正しい法である法華経が見失われてきたためであるとして、1260年(文応元年)、幕府が法華経にもとづく政治をおこなうよう求める『立正安国論』を著し、執権北条時頼の側近に提出した。このまま「邪教」を放置すれば、経典に記された三災七難のうち、まだ起こっていない「自界叛逆難」(反乱)と「他国侵逼難」(外国から侵略をうける災難)も必ず起こるであろうと訴えたのである。日蓮と弟子たちは幕府に期待をかけ、公衆の面前での法論を望んだが、日蓮の行動は念仏者たちの怒りを買い、草庵は焼き討ちされた(松葉ヶ谷法難)。この法難は、『立正安国論』を時頼に建白した約1ヶ月後のことであり、襲撃の背後には幕府の有力者やそれにつらなる仏僧がいたと考えられており、幕府による迫害のなかでも最大のものであった。日蓮はこののち、一時下総国に避難したが再び鎌倉にもどり、幕府によって2年余り伊豆国に配流された。
ゆるされて故郷にもどった日蓮は再び鎌倉で活動した。権力に屈せず、辻説法によって法華経への帰依をうったえ、鎌倉の諸寺に宗論をいどんで、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言で他宗を激しく攻撃しながら、国難の到来を予言した。かれのひらいた法華宗(日蓮宗)は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていったが、折りしも1268年(文永5年)には元からの国書が幕府に届き、日蓮は『立正安国論』で指摘した「他国侵逼難」の予言が的中したとして、執権北条時宗に対し、念仏、禅を退けて国難への対策を知っているみずからを国師として用いるよううったえた。また、時宗、平頼綱、蘭渓道隆、極楽寺の忍性(良観)などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫った。日蓮の教えには「旧仏教」的な要素が多くふくまれ、「われ日本の柱とならん」と述べて、法華信仰に依拠しなければ国が滅ぶと鎌倉幕府にせまったのも鎮護国家の思想のなごりを示す現象といえる。
1271年(文永8年)、日蓮は幕府や他宗を批判したとして佐渡国に配流された。この時期の日蓮は自身が末法の世に法華経をひろめる上行菩薩であるとの自覚に達し、『開目抄』(1272年)を著すなど独自の教義を展開させた。1274年(文永11年)、日蓮はゆるされて鎌倉にもどったが、ほどなく日蓮に深く帰依した甲斐国の地頭波木井実長により寄進された身延山にうつり、久遠寺(山梨県身延町)をひらいた。久遠寺には、天台宗の下級僧出身者など数十人の弟子が集まり、武士、地主、農民、職人などの帰依者が増加していった。
日蓮は、1276年(建治2年)の『妙密上人御消息』のなかで自身が「無戒の僧」で牛や馬のごとき者であるとし、そのような自分が法華経の行によって救われたとしている。佐渡配流以降(「佐後」)の日蓮の思想は、佐渡配流以前(「佐前」)の外向的な姿勢にくらべ内面的性格が強められており、自己を人間以下の者、無戒で罪深き者とする謙虚な姿勢には親鸞の悪人正機に通じる要素も認められる。日蓮は、また『本尊問答抄』のなかで自身を「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』では「海辺の旃陀羅が子なり」などと書き記しており、自分の信仰は、この時代に虐げられていた底辺の人びとの救済を強い動機としていることを表明しているのである。
法華本門の教え
法華宗の広がりの背景には、それに先だつ持経(経典への信仰)の伝統があった。それは、写経や埋経、暗誦(あんじゅ)などのかたちでおこなわれていたが、厳島神社への『平家納経』や、「法華の持者」と称されて常に法華経を暗誦していた後白河法皇、やはり「法華八幡の持者」と称された源頼朝など権力者にも広くみられた信仰のあり方であった。また、平安時代末期に陸奥国宮城郡松島にあって12年間法華経を読誦した見仏のように、鳥羽法皇から仏像や器物をおくられ、法華の行者として広く世に知られた僧もいた。
法華経はまた、元来は天台宗の理論の根拠をなすものとして重視されてきた経典であり、平安時代初期の最澄に始まる天台宗は「天台法華宗」とも称されてきたが、日蓮はその伝統を受けつぎながらも、かれ独自の法華宗、すなわち日蓮宗をはじめたのである。
日蓮の教えは、法華経を唯一の正法とし、時間と空間を超越した絶対の真理とするものであり、他の教義や信仰は否定される。題目は真理そのものであり、そのまま全宇宙をあらわす曼荼羅であるとされ、日蓮は中央に題目を記して周囲に諸仏・諸神の名を配した法華曼荼羅(文字曼荼羅)を本尊(本門の本尊)とした。また、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。すなわち、「教」(教え)にはおいては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質・能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経なのであり、「時」では、現在は末法であることから法華経が正法とされ、「国」では、大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのは法華経であり、「序」(順序)では、最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。
さらに日蓮は、天台教学を迹門(しゃくもん)の法華経であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁的・観念的なあり方を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的な行としての唱題を唱えた。とくに「佐後」は、法華経の呪力に依存するのではなく、法華経に説かれた精神を実践する者、すなわち「法華経の行者」としての自覚が深まっていった。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないとも説いている。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張した。また、王法(政治)の主体を天皇としたうえで、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむると考え、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」や「国」を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる。 
禅宗の広がりと幕府による保護
禅宗の広まりと日本達磨宗
インドの達磨大師(ボーディダルマ)に発し、坐禅を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教えは、宋の上流階級のあいだにひろまっていた。禅そのものは日本には奈良時代にすでに伝わっていたが、宋での禅宗の隆盛により平安末期以降あらためて注目されるようになった。栄西より少し前にあらわれた大日房能忍(生没年不詳)は、摂津国水田(大阪府吹田市)に三宝寺を建立し、日本で最も早く禅宗をうちたてようとした僧であった。能忍の活動は当時の社会に大きな影響をあたえたが、かれのひらいた日本達磨宗は、多くの人びとに教義を広める過程で中心を失ってしまった。
しかし、後述する栄西や道元の登場によって、禅宗は急速に広がっていった。阿弥陀仏への絶対的な救いを求める浄土門の他力の教えに対し、自力で往生を悟ろうとする禅宗の教えは自力で問題解決を図る武士の時代の風潮とも合致していた。
栄西と臨済宗
備中国の吉備津神社の神官の家に生まれた栄西(1141年-1215年)は、1154年(久寿元年)に比叡山で出家得度したのち、 2度にわたって宋(南宋)へ渡った。1度目は、天台教学を学ぶため1168年(仁安3年)に天台山万年寺を訪れたが、そこはすでに禅の寺院に変わっていた。栄西は禅に魅力を感じたが、同時期に宋に留学していた念仏僧重源の勧めで短期間で帰国し、『天台章疎』60巻を天台座主に献じた。1187年(文治3年)、栄西は再び渡宋し、足かけ5年、天台山と天童山(ともに中国浙江省)で臨済禅を学び、虚庵壊敞より嗣法を受けて、帰国後の1191年(建久2年)に臨済宗をひらいた。当初は聖福寺をひらいた博多や香椎、平戸など九州各地で布教して臨済禅の紹介に努めていたが、やがて京にもどり、禅こそが末法における正しい教えだとして、禅による天台復興を唱えた。しかし、建久5年(1194年)7月5日、日本達磨宗の大日房能忍らの摂津国三宝寺の教団とともに禅宗停止の宣下が下されている。
筑前国筥崎(福岡市東区)の良弁という人物が九州において禅に入門する人びとが増えたことを延暦寺講徒に訴え、栄西による禅の弘通を停止するよう朝廷にも働きかけたためであり、建久6年には関白九条兼実が栄西を京に呼び出し、大舎人頭の職にあった白河仲資に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言の葉室宗頼に対してはその傍聴の任にあたらせている。
栄西はこうした動きに対し、遅くとも1198年(建久9年)には、「大いなる哉。心や」ではじまる『興禅護国論』を著し、戒律がすべての仏法の基礎であり、禅は戒を基本とすること、また、禅宗が従来の仏教と根本的に対立するものではないこと、王法を仏法の上において禅を興して国を護り、もって王法鎮護となすことは最澄のひらいた天台宗の教義と何ら変わらないとして反論した。この書は、九州で著されたと考えられ、禅に対する誤解を解き、禅の主旨を明らかにしようとしたものであった。
延暦寺は止観の行と法華経を絶対の権威としており、栄西や上述した法然の教えはそれに違背するものとして、特に京洛の地でかれらの思想が広まることに対してこれを怖れ、徹底的に弾圧を加えようとしたのである。栄西は、これに対し、法然よりはやや妥協的な方法を選んだ。自分の意見が京都では容易に受け容れられないと判断し、1199年(正治元年)には鎌倉に下って北条政子や将軍源頼家に禅の教えを説き、その帰依を受けたのである。
臨済禅は、看話禅(かんなぜん)とも称され、坐禅をくむなかで、師から与えられる禅問答(公案)に答えることで、悟りの境地に達しようという教えであり、京の公卿の文化に対抗心をいだく武士層から新しい教学として迎えられ、歴代の北条氏もこれを保護した。
とはいえ、必ずしも禅宗への帰依が栄西を引き立てたのではなかった。1200年(正治2年)に北条政子の後援で鎌倉に建てた寿福寺も、1202年(建仁2年)に将軍頼家の保護により開かれ、のちに臨済宗総本山となる京都の建仁寺も、当初は臨済禅のみの寺院ではなかった。
栄西がめざしたのは、顕教・密教に禅を加え、禅を柱にして仏教を総合しようということであり、かれ自身は禅僧であると同時に密教僧でもあった。生涯を天台僧として生きた栄西は、大陸の新しい文化や京の文化を伝える僧として鎌倉幕府に認められたのであり、喫茶の風習もその一環として広まったものである。1211年(建暦元年)ころに将軍源実朝に献上した『喫茶養生記』は茶の効能を説いた著作であった。
宋で最新の学術文化を学習した栄西は、中国の建築技術等にも通じており、重源をたすけて東大寺の再建に尽くし、重源亡きあとの東大寺大勧進職となった。栄西はまた、1213年(建保元年)には鎌倉幕府の後援もあって権僧正という僧綱(僧官)になっているが、遁世僧の身でありながら権僧正に任じられるのはきわめて例外的なことであった。慈円や道元は栄西が僧正や大師号宣下をみずから運動していることを批判しているが、幕府要人が栄西に帰依したことによって、禅宗はやがて京都へも広まっていった。
栄西没後も中国の臨済禅との交流は活発であり、渡宋した僧や来日した宋・元の禅僧の活躍によって広まっていった。渡宋した円爾(聖一国師、1202年-1280年))は、帰国後、九条道家の帰依で京都に東福寺を建て、その弟子無関普門(1212年-1292年)は亀山上皇の帰依で南禅寺をひらいた。こうして臨済禅は、王朝国家たる朝廷の保護するところとなった。当初は外来宗教的な要素が濃厚であった臨済宗も、南浦紹明(1235年-1309年)などの活動により、しだいに独自の発展の道をあゆむこととなった。南浦紹明の弟子の宗峰妙超(大燈国師、1282年-1338年)は大徳寺、その弟子関山慧玄(1277年-1361年)は妙心寺を開創した。鎌倉末期には「七朝帝師」となった夢窓疎石(1275年-1351年)があらわれている。
鎌倉では、宋から来日した渡来僧蘭渓道隆(1213年-1278年)が執権北条時頼からの深い帰依を得て建長寺を建て、息子北条時宗は宋から無学祖元(1226年-1286年)をまねいて参禅し、円覚寺を建てて初代住持とした。時宗の子北条貞時は元出身の渡来僧一山一寧に帰依した。こうして臨済宗は、一方では、王朝国家からは独立した東国国家をめざす鎌倉幕府の保護するところとなった。
一山の門下からは最初の日本仏教史といえる『元亨釈書』を著した虎関師錬(1278年-1346年)、五山文学最盛期の中心をになった雪村友梅(1290年-1347年)があらわれた。竺仙梵僊(1292年-1348年)は1329年(元徳元年)に渡来した中国僧で、一山一寧同様、日本の禅宗文化を創始した一人と見なされる。以上掲げた人物以外にも大陸からはたくさんの禅僧が渡来し、いわば「渡来僧の世紀」とも呼ぶべき文化状況が生まれた。
道元と曹洞宗
曹洞宗の開祖である道元(1200年-1253年)は、内大臣であった土御門通親(久我通親)の子息として京に生まれた。道元も幼少にして父母を失い世の無常を感じて仏門に入った人物であり、13歳のとき比叡山で出家して天台教学を学んだ。仏法をきわめるために中国で禅を学ぶことを勧められ、栄西の建てた建仁寺の明全に師事し、1223年(貞応2年)明全とともに渡宋して足かけ5年間禅を学び、最後に天童山の如浄に師事して、ついに悟りの境地(「身心脱落」)の境地に達して、如浄の印可を受けた。曹洞禅は黙照禅(もくしょうぜん)ともいい、公案中心の臨済禅に対し、ひたすら禅に打ち込むことによって内面の自在な境地を体得しようというものである。
上述のように、禅宗は一般に外来宗教の要素が強いともいわれるが、道元の思想についてはしばしば独創性が豊かあると評される。道元が比叡山を離れた時、かれの念頭にあった疑問とは「人が本来、仏であるのならば、どうしてさらに発心修行して悟りを求める必要があるのか」ということであった。すなわち、天台本覚思想に対する根本的な疑問であり、それをどう乗り越えるかということであった。また、宋に渡って船が寧波の港に着き、積み荷のシイタケを買いに来た老僧との対話も、その後の道元の思想形成に強い影響をあたえることとなった。その老僧は、近くの育王山で炊事係をつとめているとのことであり、道元が「どうして、尊年(御高齢)でありながら、坐禅して、禅僧のことばを手がかりに考えるということをなさらず、炊事係のようなわずらわしい雑用に従事しておられるのですか。それが何のお役に立つのですか」と話しかけたところ、「外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざるあり」と答えた、つまり、あなた(道元)は、書籍に記してあることの本当の意味が分かっていないと「大笑」されたのである。これは、坐禅や勉学にくらべて炊事などの日常的な用務は低級ないし無意味と考えていた道元にとっては大きな衝撃であった。これは、後述する修証一如の思想に大きな影響をあたえることとなる。
道元は、時を経るにつれて仏法が失われていくとする末法思想は、かりそめの教えであり真の教えではないと否定した。そして自力による修行をすすめたが、これは天台本覚の教えで説くところの「人はみな仏性(悟りを得る力)を備えている」からこそ可能だという考えにもとづいている。
1227年(安貞元年)に帰国した道元は、建仁寺で正しい坐禅を説いた『普歓坐禅儀』を著し、禅こそが釈迦より伝えられた正法であると説いたため、延暦寺の僧たちの迫害対象となった。道元は、1230年(寛喜2年)建仁寺を去って深草(京都市伏見区)にのがれて『正法眼蔵』の著作を開始、1234年(文暦元年)、山城国宇治に興聖宝林禅寺を建て、坐禅修行を求める人びとの道場とした。道元は、唐代のきびしい禅を追求したところから「古仏道元」と呼ばれた。
道元は、不立文字を唱え、理論にとらわれず、一切を捨ててただひたすら坐禅に打ちこむことによってありのままの自己が現れ、身心脱落して悟りにいたる只管打坐を唱えた。これが正法禅である。道元は加持祈祷も念仏行を否定して正法禅の運動をつづけたが、それは従来の仏教における贅肉をいっさい削ぎおとす主張でもあったため、延暦寺からの迫害は年を追うごとにいっそう激化した。道元は、貴族の子として生まれた人物ではあったが、世俗的な権勢をいっさい拒否し、六波羅探題の武士であった波多野義重の招きに応じて1243年(寛元元年)越前国志比荘に向かい、永平寺で坐禅中心のきびしい修行と弟子の育成に努めた。
和文で記された道元の主著『正法眼蔵』は、その存在論や時間論、言語論が現代においても注目されている。また、その含蓄深い内容はもとより、言葉づかいや文体その他表現の上でも日本語による宗教的・哲学的論述の最高峰のひとつといわれる。道元は『正法眼蔵』冒頭「現成公按」巻において、「仏道をならふといふは自己をならふ也、自己をならふといふは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と説いている。すなわち、仏の道を学ぶということは自己を知るということであり、自己を知るということは自己へのとらわれを取り除くことであり、自己にとらわれなければ現実のすべてが明らかになり、現実のすべてが明らかになれば身心脱落(悟り)に達し、自身と他者との区別もおのずから無くなるというような意味であり、さらに、世俗の一切を捨てて、生活のすべてを修行とすることこそ悟りであると教え、自己放下(じこほうげ)を強調して、煩悩や迷いのもととなる自己意識をうち捨てて本来の自己や真実の自己のあり方にめざめるべきことを説いている。栄西が新しい国家仏教を指向したのに対し、道元は、あくまでも普遍的な思想としての仏教を追い求め、如浄の教えにしたがって政治権力から離れた。世俗化した当時の仏教については臨済禅もふくめて根本からこれを批判している。これは、仏陀本来の精神に立ち帰ることの提唱であり、その点では、道元の思想もまた仏教の純化を指向するものであった。
道元ならではの思想として「修証一如」がある。修証一如とは、「修証一等」とも称し、『正法眼蔵』の巻首「弁道話」のなかで説かれ、「修」すなわち修行と「証」すなわち悟りとは同じ一つのものであって、修行に終わりはなく、また、悟りにも始まりはないという考え方である。したがって、そこにおける坐禅(只管打坐)は、悟るための修行ではなく、すでに悟ったうえでの修行なのだから、たとえば、それが初心者の学問修行であっても、そこには完全な悟りが実現されているとみる。すなわち、道元の説くところにおいては、坐禅は、悟りを得るための手段にとどまらない。坐禅して無心の境地にあるとき、人はすでに覚者すなわち仏陀なのであって、坐禅は仏としての行為(仏行)となる。ただし、仏であるという事実に安住するのではなく、仏であるからこそ、無限の修行を続けていかなくてはならないと理解される。そこから敷衍するならば、生活のすべてが修行なのであり、修行となるような生活をこそ送らなければならない。
孤高の思想家である道元自身には元来一つの宗をおこす意思はなかったと思われるが、永平寺につどった道元の弟子たちは教団化に努めた。永平寺の2代貫主となった孤雲懐奘は道元の教えを『正法眼蔵随聞記』として記し、懐奘の弟子で鎌倉時代末期にあらわれた瑩山紹瑾は、越前国・加賀国・能登国など北陸道を基盤として曹洞宗教団を打ち立てた。坐禅の修行そのものが悟りであるという修証一如(修証一等)の教えはしだいに地方武士のあいだに広まっていった。
なお、この時代の遁世僧は、禅宗のみならず律宗や時宗などもふくめ、一般に顕密諸宗の官僧にくらべて諸国間を移動することが多かった。特に禅宗の場合は各地に「旦過」と称する宿泊施設を設けて僧の逗留に資している。 
旧仏教の刷新
信仰と実践を重んじる「新仏教」があいついで生まれ、武士や庶民に徐々に浸透していったものの、社会的勢力としては南都六宗や天台宗・真言宗などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。特に山門(天台宗)は大勢力を保ち、権門勢力と結んでしばしば新仏教に弾圧を加えた(権門体制)。しかし、「新仏教」の活発な活動に刺激をうけて、いわゆる「旧仏教」内部でも現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。なお、後述するように、「新仏教」と呼ばれる変革運動が実際に社会を動かすような力を持つようになるのは室町時代から戦国時代にかけてのことである。
法相宗
貞慶(解脱) / 1155年-1213年 興福寺の僧の堕落をきらって笠置山に隠棲、戒律の護持・普及につとめ、法然の専修念仏を攻撃した。
華厳宗
高弁(明恵) / 1173年-1232年 京都の栂尾に高山寺を開いた。戒律を重視し、『摧邪輪』を著して法然を批判した。
律宗
俊芿(我禅) / 1166年-1227年 渡宋して戒律を学び、京都に泉涌寺をひらいて台・密・禅・律兼学の道場とした。真言宗泉涌寺派の祖といわれる。
叡尊(思円) / 1201年-1290年 大和の西大寺を復興し、戒律の護持・普及や民衆の教化につとめた。架橋や道路建設などの社会事業も熱心におこなった。
忍性(良観) / 1217年-1303年 叡尊の弟子で鎌倉に極楽寺をひらいた。病人や貧民救済につとめ、奈良に救らい施設北山十八間戸を設営した。
凝然(示観) / 1240年-1321年 学問即行の立場で仏教史はじめ多数の著述をおこない、華厳、戒律の宣揚に努めた。特に『八宗綱要』は日本仏教史上重要である。
真言宗
覚鑁(正覚) / 1095年-1143年 諸流細分した真言宗の修行を大成し、大伝法院流を創唱して、新義真言宗の祖といわれた。
天台宗
恵鎮(円観) / 1281年-1356年 叡尊らの活動に刺激を受けて戒律「復興」運動をおこす。後醍醐天皇の討幕運動に参画、『太平記』編集の責任者でもあった。 
法相宗
京都に生まれ、法相宗中興の祖といわれる解脱房貞慶(1155年-1213年)は、南都の興福寺にはいって叔父にあたる覚憲に師事して法相教学と律を学んだ。しかし1193年(建久4年)、荘園領主として世俗勢力化した興福寺に失望、僧侶の堕落をきらって同寺を出て、弥勒信仰によりながら南山城山中の笠置寺に隠遁した。笠置寺では、海住山寺の再興に尽力し、戒律の復興につとめ、また1205年(元久2年)に浄土宗を批判する『興福寺奏状』をあらわしたが、これは上述の法然弾圧の契機をつくることとなった。1208年(承元2年)、貞慶は再興なった海住山寺にうつっている。
従来の法相宗の基本的教義である「五性各別式」は、人間のなかには仏性をもたない「無性」の者がいるというものであったが、貞慶は良遍とともに「無性」概念は方便として設定されたものであると述べて「悉有仏性」を説き、法相宗のあり方としては自己否定と称されるほど踏み込んだ考えを示した。
なお、海住山寺五重塔は、貞慶の弟子覚真が師の一周忌供養に建立したものであり、国宝に指定されている。
華厳宗
華厳宗中興の祖といわれる高弁(1173年-1232年)は、平重国の子として紀伊国で生まれ、明恵上人の名で知られる。高弁は後鳥羽上皇と北条泰時から帰依をうけた。
1188年(文治4年)、高弁は上覚を師として出家し、東大寺戒壇で受戒した。東大寺の尊勝院で華厳教学を学んだが、21歳のときに国家的法会への参加要請を拒んだのち、東大寺を出て遁世した。1206年(建永元年)、高弁は、後鳥羽上皇の院宣により京都北郊の栂尾に高山寺をひらき、法然の専修念仏に反論する『摧邪輪』をあらわした。かれは、仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の「復興」を身をもって実践した。
なお、高弁は栄西より茶の種子を譲られたことから、栂尾はのちに茶の名産地となっている。
律宗
戒律を重んじる律宗では我禅坊俊芿(1166年-1227年)が南宋からの帰国後、京都に泉涌寺を再興し、天台・真言・禅・律兼学の道場とした。俊芿の律は、唐招提寺や西大寺を中心とする奈良の律(南京律)に対し、北京律といわれた。また、宋学(朱子学)を日本に伝えたのも彼であるという。
律宗中興の祖といわれる思円房叡尊(1201年-1290年)は、興福寺の僧を父として現在の奈良県大和郡山市に生まれた。1217年(建保5年)、17歳で京都山科の醍醐寺で出家し、同年中に東大寺戒壇で受戒した。1236年(嘉禎2年)、興福寺の覚盛らとともに東大寺法華堂の観音菩薩の前で自誓受戒し、単にみずからの悟りをめざすのみならず、他人も救済しようとする菩薩僧になることを誓った。叡尊は大和国西大寺を再興し、殺生を悪としてきびしく禁じて戒律「復興」に努める一方、技術者集団をかかえて道路や港湾の修復や架橋、寺社の修造などの公共事業をおこない、非人や貧民・病者の救済など社会事業にも力を尽くして、民衆の教化に努めた。
中国から最新の戒律の教えを取り入れた叡尊の教団にあっては、厳しい戒律を守ることこそが多様な救済活動の原点になっていた。民衆に対しては、分に応じた戒律の護持を勧め、戒律を守れば、その呪術力によって願いがかなうと説き、鎌倉中期以降爆発的に発展した。叡尊は1262年(弘長2年)、金沢実時や三村寺にいた弟子の忍性の招きにより鎌倉を訪れ、実時や新しく執権となった北条時宗に授戒した。叡尊による直接の受戒者は出家者で1,694人、在家者6万人余におよぶと伝えられる。叡尊は、南都北嶺で受戒した官僧に対し、新たに西大寺と唐招提寺に戒壇を設け、遁世僧にも授戒の道をひらき、鎌倉時代の社会に大きな影響をあたえた。朝廷・幕府の権力者から最底辺の民衆にまで厚い支持を集めた叡尊はまた、元寇に際して敵国調伏の祈祷を石清水八幡宮でおこなったことでも知られる。
良観房忍性(1217年-1303年)は、16歳で母を失い官僧となったが、1239年(延応元年)、23歳で叡尊の西大寺再建に勧進聖として加わったことを契機として、叡尊に師事した。1240年(仁治元年)ころ、忍性は叡尊とともに西大寺を拠点として大和国内の宿々に文殊菩薩の図像を掲げて供養をおこない、住人に施物(せもつ)をあたえているが、このような慈善はそののちもしばしば繰り返された。師と同様、社会事業に尽力した忍性は、1243年(寛元元年)、奈良にハンセン病患者を救済するための施設として北山十八間戸を設立し、その経営にあたった。忍性は、1252年(建長4年)、東国に下り、常陸国三村寺(つくば市)に住み、その後、鎌倉に入って北条業時らの保護を受け、1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺を再興してそこを拠点に律宗復興のため尽力した。極楽寺境内には病宿・らい宿・薬湯室・療病院・坂下馬療屋などの施設が整えられた。また、和賀江島の修築や極楽寺坂切通しの開削など鎌倉で港湾の整備や道路整備などの土木事業にたずさわった。同時期に鎌倉で活躍していた日蓮からは「律国賊」と論争を挑まれたことがある。鎌倉はじめ各地に悲田院を設立した忍性は、とくに非人救済に尽力したが、それがことのほか重視されたのは、文殊菩薩信仰によるものである。文殊菩薩が貧窮・孤独・苦悩の姿に変わって人びとの前面にあらわれるという経文が信じられていたからであった。忍性はまた、重源・栄西とならび、東大寺大勧進職となった遁世僧であった。
他に律宗出身の学僧としては、円照(1221年-1277年)とその弟子凝然(1240年-1321年)がいる。特に凝然は、華厳経にも通じ、インド・中国・日本にまたがる仏教史を研究してその編述をおこない、日本仏教の包括的理解を追究して多くの著作をのこした。凝然の著した『八宗綱要』は日本仏教史上重要な文献である。
真言宗
高野山では平安末期に正覚坊覚鑁(1095年-1143年)があらわれて、山内に大伝法院をつくり、民衆への布教につとめたが、金剛峯寺と対立して紀伊国の根来に退いて円明寺(根来寺)を建てた。かれは、諸流細分した真言宗の修行方法を大成し、大伝法院流を創唱した。その後、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で抗争が長くつづいた。
鎌倉時代中期にあらわれた俊音房頼瑜(1226年-1304年)は、大伝法院をさかんにしたが、金剛峯寺側が大伝法院に圧迫をくわえたため、1286年(弘安9年)、頼瑜は大伝法院を根来円明寺にうつして高野山から分かれ、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて新義真言宗がひらかれた。
天台宗
近江に生まれた円観房恵鎮(1281年―1356年)は、1295年(永仁3年)に延暦寺で出家・受戒し、官僧名としては伊予房道政の名を付けられた。1303年(嘉元元年)、いったん遁世して禅僧となったが、翌年には黒谷にもどり、1305年(嘉元3年)ころ、師の興円にしたがって再び遁世し、以後、師に協力して円戒(天台宗の戒律)護持を主張した。この戒律復興運動は南都の叡尊らの活動に影響を受けたものである。恵鎮は、東大寺の大勧進となったり、法勝寺の復興に尽力するなど重要な役割をにない、『太平記』編纂の責任者も務めた。後醍醐天皇の討幕計画に参画し、文観とともに北条氏を呪咀したため、一時、陸奥国に配流された。建武新政が倒れたのちは足利尊氏の帰依を受け、建武式目の制定にかかわったといわれる。恵鎮は、円戒に関する多くの著作をのこしている。 
「旧仏教」諸派と「新仏教」の関係
このように、「旧仏教」は戒律の「復興」を掲げて、国家からの自立と非人などの社会的弱者や女人もふくんだ個人の救済に努めたが、「新仏教」とりわけ念仏に対する対抗意識も強く、これを排撃する側に加わることもあった。上述した承元元年の弾圧はそのことにより引き起こされたものであった。
そのいっぽう、華厳宗の高弁(明恵)は三時三宝礼により「南無三宝後生たすけさせたまえ」と唱えるだけで成仏できると説き、法相宗の貞慶は唯心の念仏をひろめるなど、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、これによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとした。
教学の面では、いわゆる「旧仏教」の側で「新仏教」に刺激されて集大成の気運が高まった。貞慶や高弁、また三論宗の明遍はじめ超人的な学僧が多数あらわれ、日本独特の教学を成立させた。また、東大寺の宗性は数々の僧伝を集成して日本仏教史を考察しようと努め、華厳教学を宗性に学んだ上述の凝然もまた仏教史を編述した。
鎌倉仏教と天台本覚思想との関連については、鎌倉仏教が本覚思想を否定することによって成立したという見方がこんにちの仏教学界では大勢をしめている。しかし、 鎌倉仏教を天台本覚思想の発展とする考え方も従来から存在しており、島地大等や宇井伯寿らすぐれた仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、「日本には『哲学』がない」と説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている。上述した親鸞の願力回向の説や一遍の思想などは本覚思想との連続性がみてとれる。日本思想史を専門とする尾藤正英は、日蓮の思想や道元の思想にも、本覚思想の実践化・具体化の要素があると指摘している。 
鎌倉仏教論
「新仏教」・「旧仏教」概念の提唱
鎌倉仏教を「旧仏教」「新仏教」と呼んで区分する考え方自体は近代以降に成立した比較的新しいとらえ方である。この語が最初に用いられたのは、日本仏教史研究の先駆者とされる村上専精が明治時代に発行した『日本仏教史綱』(1898年-1899年)であり、「新仏教」という表現には高弁(明恵)以下のいわゆる「旧仏教」側の改革の動きをも含めて解説し、こうした動きに加わらなかった既存寺院を「従来仏教」「古宗」と表記している。
大正時代に入ってから、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗をもって既存宗派と区別する見解が登場した。大正から昭和にかけては辻善之助が「旧宗」「新宗」と分類し、続いて大谷大学の大屋徳城が今日のような「旧仏教」「新仏教」の区分を用いて以降、この呼称が定着した。この6宗を「鎌倉新仏教」と称する見解は、戦後にもひきつがれ、家永三郎・井上光貞らをはじめとして長い間通説となっていたものであるが、ここでは、選択・専修・易行を特徴として広く武士や庶民に信仰の門戸を開いたことが重視される。
一方、前掲したように、奈良仏教や平安仏教、いわゆる「旧仏教」と称されるなかにも「新仏教」6宗に触発されて新しい動きが生まれた。具体的には、華厳宗の高弁(明恵)や凝然、法相宗の貞慶(解脱)、真言宗の覚鑁、西大寺流(後世「真言律宗」と称される教団。新義律宗教団)を開いて広く社会事業を展開した叡尊と弟子の忍性などの仏教活動である。これらについては単純に「旧仏教」と称してよいのかという疑問が提起されている。特に、叡尊・忍性の教団は「新仏教」と称すべき要素を持つのではないのかという指摘が各方面よりなされている。
真言律宗教団について
松尾剛次は、鎌倉新仏教の最も重要な要素を「国家からの自立」と「個人の救済」ととらえ、この2つがあって初めて貴族仏教から脱却して民衆仏教としての鎌倉新仏教が成立したとする立場に立っている。そこで、後世「真言律宗」と称される教団がどの新仏教宗派よりも先に国家公認の戒壇に代わる独自の戒壇を樹立して、独自の授戒を開始し、社会事業を通じて非人などの社会的弱者を救済し、あるいはこれまで国家から授戒を拒否されてきた女性(尼)への授戒を認めるなど、個人の救済を通じて社会に対する布教を行った事実を指摘した。そして、「鎌倉新仏教」と称されてきた6宗が天台宗を母体としていたように、真言律宗は律宗と真言宗に基礎を置きながらも、寺院外で活動する遁世僧を組織し、民衆救済を目的として活発な活動をおこなうなど、実態としては新仏教そのものであるとして、真言律宗教団を鎌倉新仏教の1つとする説を唱えた。
平雅行もまた、叡尊ら西大寺流は、従来の律宗とは戒律に対する考えが異なっており、人間集団としても全く異なることを指摘し、その点で、「鎌倉新仏教」の祖と称しうる内実を備えていると述べている。叡尊らの教団は、鎌倉時代の中期から南北朝時代にかけて爆発的に発展したが、その衰退も急速に進行し、江戸時代には独自の教団を構成することができず、真言宗と律宗に編入されている(それに対し、日蓮宗は室町時代以降天台宗より自立し、特に戦国時代に急速に発展し、江戸時代にあっては独立した宗派とみとめられている)。
さらに、蓑輪顕量・追塩千尋なども、その立脚する立場はそれぞれ異なるものの、真言律宗(西大寺流)を「鎌倉新仏教」の範疇のなかで把握している。
家永・井上説
上述した、家永三郎・井上光貞の見解は、法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍によってはじめられた6宗を「鎌倉新仏教」とし、ここでは、選択・専修・易行(反戒律)・在家主義・悪人往生などを特徴として、広く新興武士層や庶民などに対し信仰の門戸が開かれ、階層や身分を超越したあらゆる人びとの救済が掲げられたことが重視されており、多数の研究者の圧倒的な支持を得て定説化されたものである。
鎌倉仏教の研究史に画期をもたらすことになった家永の研究には1947年(昭和22年)の『中世仏教思想史研究』収載の一連の論文がある。家永によれば、天台・真言の平安仏教は、本質的に天皇と国家の消災到福の機能を果たしていくことに存在意義を見いだす「鎮護国家」の仏教にほかならなかったため、そこでは民衆の存在は視野になく、民衆救済は等閑視されており、それゆえ、民衆救済を掲げた「鎌倉新仏教」の画期性が強調される。
浄土教についてさらに深く追究し、克明かつ実証的な研究によって家永説をささえることとなった井上の理論的著作としては1956年(昭和31年)の『日本浄土教成立史の研究』がある。井上の視点には、石母田正の「領主制理論」の強い影響が認められる。石母田は戦後まもなく『中世的世界の形成』(1946年)を刊行し、伊賀国黒田荘(三重県名張市)を舞台として領主東大寺の古代的な荘園支配から武士団というかたちをとりながら在地領主が自立してゆく過程をえがき、このような在地領主層の台頭とそれに並行して展開していく農民の農奴化の動きこそが「領主制」という中世固有の社会関係の形成を示すものととらえた。井上は、このような古代国家の解体および武士団の成長という歴史過程と対応において浄土教の発達を論じているのである。
八宗体制論と顕密体制論
1969年(昭和44年)に日本仏教史研究者の田村圓澄によって初めて提唱された八宗体制論は、法然より始まる鎌倉新仏教の成立を、それ以前の貴族的・祈祷的な鎮護国家的な古代仏教に対し、個人の救済を主眼とする民衆仏教の成立として把握する家永・井上らによって唱えられた知見をベースとしており、1970年代以降の日本仏教史研究に影響をあたえた。田村は論文「鎌倉仏教の歴史的評価」において、『興福寺奏状』中の「八宗同心の訴訟」(伝統仏教八宗が心をひとつにしての訴え)の文言に注目し、八宗(南都六宗および平安二宗)がそのように同心して法然とその教えを排撃しようとする背景には、法然の教義から自分自身のもつ特権を防衛しようとする伝統仏教側の意図があったとみなし、そうした共通の利害にもとづく仏教界の古代的な秩序を「八宗体制」と名づけたのである。
なお、家永・井上の研究によって定説化され、田村圓澄の八宗体制論にひきつがれる通説をまとめると下表のようになる。
 項目 / 家永・井上・田村らの定説による説明
新仏教 法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍をそれぞれ祖師とする教団の仏教。
旧仏教と旧仏教改革派 八宗(南都六宗・平安二宗)は旧仏教。華厳宗の高弁(明恵)・律宗の叡尊は旧仏教のなかの改革派。    
新仏教の特色 選択・専修・易行。民衆救済の仏教。
旧仏教の特色 兼学・雑信仰・戒律重視。国家仏教・貴族仏教。
中世仏教 新仏教
布教対象 武士・農民・都市民
社会経済史とのかかわり 荘園制を古代的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた古代的である。
八宗体制論を軸とする田村の見解は、それまで混乱と分裂のイメージでとらえられがちであったいわゆる「旧仏教」の側にも、共通の利害に由来した一定の秩序があったことを指摘した点が従来説とは異なっており、これはやがて次の段階における鎌倉仏教研究にあって大きな課題として浮上していった。すなわち、中世社会において伝統仏教がたがいに共存する体制をどうとらえるかが問題になったのである。
こうしたなか、従来、思想史と宗門史によって進められてきた鎌倉仏教研究を宗教史への総合的な統一のなかで扱うことを提言した黒田俊雄は1975年(昭和50年)、『日本中世の国家と宗教』などにおいて、「新仏教」「旧仏教」という分析概念ではなく、「正統派」「改革派」「異端派」の分析概念を採用した。そして、鎌倉時代にあっても南都六宗や天台宗・真言宗は「顕密主義」という共通の基盤を有しており、むしろ密教化を進めてきた「旧仏教」の方こそが主流であったという「顕密体制論」(「密教を統合の原理とした顕密仏教の併存体制」と規定される)を唱え、これら主流派の寺社勢力に対する異端として法然・親鸞・日蓮・道元らを位置づけ、一方、高弁や叡尊らを改革者と位置づけた。ここでは、従来、古代的とのみ見なされてきた仏教勢力が封建領主の一形態として中世的な変化を遂げていく様態が重視され、黒田自身の提唱した権門体制論の国家像を前提としながら、政治社会史全体のなかで仏教をとらえることで仏教史に新たな視点を提供した。家永・井上らの「旧仏教=古代仏教、新仏教=中世仏教」という図式は完全にくつがえされた。なお、国家的寺院かつ古代寺院であった東大寺が、荘園領主としての中世寺院へ生まれ変わっていく過程については、稲葉伸道、久野修義、永村真らの研究がある。
かつて鎌倉新仏教によって克服されるべき古代的秩序とみなされた「八宗体制」は、日本中世史研究の新たな蓄積をふまえた黒田によって換骨奪胎され、「顕密体制論」として再構築された。そして、田村によって「八宗」と総称され、新仏教によって克服の対象とされた伝統仏教の側こそがむしろ中世における正統仏教とされたのである。黒田による顕密体制論をまとめると、以下のようになる。
 項目 / 黒田説(顕密体制論)による説明
新仏教 法然・親鸞・日蓮・道元による異端の仏教(弾圧を受けた一握りの弟子たちの仏教も含める)。
旧仏教と旧仏教改革派 南都六宗・平安二宗は旧仏教。高弁・叡尊・栄西・一遍は旧仏教改革派。法然・親鸞・日蓮・道元らの大部分の弟子の仏教も改革派に属する。
新仏教の特色 密教の否定。世俗権力と対決したため、異端として弾圧される。
旧仏教の特色 密教化・世俗権力との癒着。中世仏教における正統。
中世仏教 変質した旧仏教(新仏教は異端で少数派)
布教対象 荘園農民
社会経済史とのかかわり 荘園制を中世的制度ととらえる。荘園領主である寺社もまた中世的である。
法然・親鸞の研究からはじまって黒田の顕密体制論をひきついだ上述の平雅行によれば、「改革派」は祈祷を重視した戒律興行、仏法王法相依論の主張、禅律僧の諸活動(勧進、交通路の整備、葬送、慈善救済事業)を特色としており、「異端派」の特色は、雑行・雑信の否定をともなう仏法の一元化、此岸の宗教的平等思想、一切衆生(「穢悪の群生」)という身分思想、そして、顕密仏教の思想的呪縛や宗教的領主支配からの民衆の解放などの諸点である。
平はまた、中世においても、鎮護国家と五穀豊穣を祈念する「旧仏教」は津々浦々に末寺末社のネットワークを張り巡らし、全国一斉に豊作祈願をおこなっていること、なかでも比叡山延暦寺では、天台・真言のみならず南都仏教や浄土宗・禅宗まで仏教のあらゆる教学が講じられる一方、和歌、儒学、農学、医学、天文学から医学、土木技術にいたるまでの諸学が教授されていたことを指摘し、いわゆる「旧仏教」は「中世の知識体系の結節点」でもあったと述べている。いわゆる「旧仏教」はこのように、社会的にも、文化的にもきわめて大きな影響力を保持しており、平はその大きさを「中世社会を貫く文化体系」と表現している。それにくらべれば、いわゆる「新仏教」が同時代にあたえた影響力はほとんどなく、浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗が社会的意味合いをもつようになるのは戦国時代に入ってからとしている。すなわち、応仁・文明の乱以後、権門体制がくずれ、伝統八宗(顕密仏教)や五山派が凋落したのに対し、それに代わって一揆(一向一揆・法華一揆)を組織して多くの信者を獲得したのが浄土真宗であり、日蓮宗であった。浄土教においては、浄土真宗にくらべ多数の信者をかかえていた時宗が衰退し、禅宗のなかでは、五山に代わって林下の禅(曹洞宗系、臨済宗のなかでも大徳寺や妙心寺など五山派以外の寺院による禅)が勃興した。仏教界でも下剋上の動きがおこって「異端派」の教えが爆発的に広まっていったのであった。
「遁世僧」という視座
近年、松尾剛次が、官僧および遁世僧という分析視覚を設定して、新たな鎌倉仏教論を展開している。それによれば、国家公務員的な僧侶である官僧に対し、その世界から離脱して遁世僧となった僧を祖師として個人の救済につとめた教団こそが「鎌倉新仏教」と称されるべきであり、その意味からは高弁(明恵)や叡尊も何ら6宗との差異が認められないところから、「鎌倉新仏教」の範疇に含めて考えて問題ないと主張している。松尾は、上述の黒田に対して宗教史の展開は社会経済史の展開に対して自律的だとの見解を採っており、「新仏教」の呼称も中世仏教の新しさを典型的に示すという意味で用いている。松尾独自の視点をまとめると下表のようになる。
 項目 / 松尾説による説明
新仏教 法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、恵鎮などの遁世僧を祖師とする教団の仏教。
旧仏教 官僧僧団(天皇より鎮護国家を祈る資格を認められた僧侶の集団)による仏教。
新仏教の特色 「個人」救済を第一義とする個人宗教。祖師信仰を有する。
旧仏教の特色 鎮護国家の祈祷を第一義とする共同体宗教。
中世仏教 新仏教
布教対象 都市的な場での「個人」
松尾によれば、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍、高弁、叡尊、恵鎮らは、一遍をのぞけばすべていったんは受戒して正式な官僧となった人物であり、なおかつ、官僧集団との対抗関係や協力関係を通して、みずからの立脚すべき道を見いだしていった僧である。松尾は、「鎌倉新仏教」が一応社会的に認められるに至った鎌倉時代後半にあらわれた一遍もまた、事実としては官僧経験のなかった人物であるにかかわらず、延暦寺で学び、延暦寺戒壇で受戒したという一種の神話が『一遍上人年譜略』に記されていることから、遁世僧教団の核となった僧は、官僧から離脱して再出家した二重出家者(遁世僧)であるべきとの観念が流布していたことが裏付けられることを指摘している。そして、従来「旧仏教」にカテゴライズされていた高弁(明恵)、叡尊、恵鎮もふくめて、「新仏教」の祖師と称されるべき新しい仏教活動を開始し、在家信者を構成員とする教団を樹立したのである(松尾は、泉涌寺の俊芿、海住山寺の貞慶、三宝寺の大日能忍もその可能性が高いとしている)。さらに、これらの教団は祖師神話をもち、祖師である遁世僧を核として構成員を再生産するシステムをつくりだしているのであり、具体的には、松尾のいう「旧仏教」が国家的得度によって出家・受戒した僧によって担われ、法衣も律令の授戒制下にあって白色の袈裟を着用することが多かったのに対し、松尾のいう「新仏教」は、天皇とは無関係な独自の入門儀礼のシステムを持ち、「穢れ」や貴賤を超越した色と認識された黒衣を着るなどの違いがある。そして、着衣の色は、それを着ている僧の自己認識を象徴していたと考えられるのである。
さらに、松尾は、官僧が大きな特権を有していた反面、朝廷に仕えることによって「穢れ」を忌避しなければならず、公費によって活動するため、穢れた存在とみられた女人の救済や非人の救済、死穢にふれる葬送、諸国をめぐりさまざまな穢れにふれる可能性の高い勧進などの諸活動に大きな制約があったのに対し、黒い法衣を選んだ遁世僧僧団は、官僧の特権と制約を離れ、教義の母体をどこに置くかにかかわらず、あるいは、戒律を重視する・しないにかかわらず、女人救済・非人救済・葬送・勧進などの諸活動に従事することができたのであり、これこそが「新仏教」と称されるべき内実であると主張した。
「新仏教」概念の有効性について
一方、平雅行は、「鎌倉新仏教」の分析概念が有効であるかについて疑義を呈している。上述の通り、貞慶や良遍が法相宗において従来の教義から逸脱するかのような大胆な論理を展開したことや律宗の叡尊教団が従来とは異なる考え方にもとづいて新しい活動をおこない、その担い手も異なることから、ともに「新仏教の祖」と称されてよい内実を備えている一方、日蓮のめざしたことは「天台宗の復興」であり、南北朝・室町期の日蓮宗寺院は延暦寺の末寺であって日蓮宗僧侶も多くそこで学んでいることから、むしろ「旧仏教の復興」という範疇にふくめてよいとしたうえで、「旧仏教」と「新仏教」を分ける基準が、実は江戸時代にあったことを指摘した。すなわち平は、江戸時代に独自の宗派として認可されたもののうち、中世前半の宗祖をいただいている宗派だけが従来「鎌倉新仏教」と称されてきたのにすぎないと述べ、そうであるならば、「新仏教」はむしろ「江戸新仏教」と呼ぶのが実態としては正確であるとしている。
さらに平は、古代仏教は、9世紀から10世紀を境として、密教を核として諸宗諸信仰の統合がなされ、個人的仏教信仰が発達するという大変貌を遂げており、すでに平安時代中期において、末法思想を喧伝することによって、国司や武士の横暴から世を救い、自らを救うというかたちで民衆の不満を吸収しながら、仏教の民衆化をすでに達成していた事実を指摘した。その根拠として、平安時代の文献には悪人往生や女人成仏の話が多く収載されていること、また、当時おこなわれた「悪僧」たちの強訴にしても、民衆運動としての一側面があったことが掲げられている。
以上のことから、平は、従来、分析用語として用いられてきた「鎌倉新仏教」の呼称は、親鸞や日蓮らの影響力を過大視することを前提にしたものであり、これはむしろ、近世における宗派秩序を中世に投影させることによって生じた誤解ではないかと論じている。もとより、平は「新仏教」(平の用語では「異端派」)の歴史的意義として、上述のように、仏法の一元化(純粋化、絶対化)を進めて社会に批判の眼を向け、人間平等を主張して民衆を解放したことを挙げているが、同時に、鎌倉仏教の分類や定義は、その内在性に即して検討されるべきことを主張しているのである。
「鎌倉仏教」概念をめぐっては、以上のように活発な議論がおこなわれてきたが、こんにちでは鎌倉仏教の変容を時間的推移のなかで探究していくこと、および、経済史および政治史との関係性のなかで鎌倉仏教の全体史を構築していくことが重要な課題となっている。 
 
鎌倉時代の布教と當時の交通

 

原勝郎
佛教が始めて我國に渡來してから、六百餘年を經て所謂鎌倉時代に入り、淨土宗、日蓮宗、淨土眞宗、時宗、それに教外別傳の禪宗を加へて、總計五ツの新宗派が前後六七十年の間に引續いて起つたのは、我國宗教史上の偉觀とすべきものであつて、予は之を本邦の宗教改革として、西洋の耶蘇紀元十六世紀に於ける宗教改革に對比するに足るものと考へる、其理由は雜誌「藝文」の明治四十四年七月號に「東西の宗教改革」として載せてあるから、詳細はそれに讓つて今は省略に從ふ、併ながら講演の順序としては、此等各宗の教義の内容に深入せぬにしても、少くも此等の新に興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある。
王朝から鎌倉時代に遷つたのは、一言以て之を被へば、政權の下移と共に、文明が京都在住の少數者の壟斷から脱して、地方の武人にも行きわたるやうになつたのである、勿論この政權の下移に際して、眞の平民即ち下級人民までが政權に參與することを得るやうになつたと云ふ譯ではなく、寧ろ單に器械として使役されたのみに過ぎないので、從て移動のあつた後といへども、依然としてもとの下級の人民であつた、然れども既に社會の中心が政權と共に公卿から武家に下移したる以上、下級人民の立場から云つても、やはり社會の中樞に一歩近づいた譯であつて、社會史の上から論ずれば、下級人民の地位の比較的改良である、換言すれば鎌倉時代に於ては、王朝に於けるよりも、下級人民といふものをより多く眼中に置かなければならなくなつたのである。
時代の趨勢既に此の如くであるから、之に適應する爲めには、文明のあらゆる要素が、いづれも狹隘なる壟斷から離れて普遍洽及のものとなつた、殆ど佛畫に限られ、稀に貴顯の似顏を寫す位に止まつて居つた美術も、鎌倉時代に入ると、多く繪卷物の形に於てあらはれ、單に浮世の日常の出來事が畫題の中に收めらるゝに至つたのみならず、美術の賞翫者の範圍も亦大に擴がり、文學は文選の出來損ひの樣な漢文から「候畢」の文體となり漢字假名交りのものを増加した、但し藝術も文學も文明の要素としてはいづれも贅澤な要素であつて、生計に多少の餘裕あるものでなければ、之を味ひ娯むことが出來ぬ、であるから予と雖、鎌倉時代の水呑百姓が今日の農民の如く文學の教育もあり美術の嗜みもあつたとは思はぬ、然るに宗教は之に反し、當時の樣な人智發達の程度に於ては、殊に一日も缺くべからざる精神上の食物であるから、此の點に於ては如何にしても下層人民を度外に置くことは出來なかつた、要するに極めて玄妙にして而かも難解で、見世物としてはあまりに上品で、而かも高價に過ぐる從來の聖道門の佛教では、到底新時代の一般社會の渇仰を滿足せしむることが出來ず、必や下級人民をも濟度することの出來るやうな宗教が起こらなければならぬ、爰に於て此必要を充足する爲めにあらはれたのは、前に述べた易行門の諸新宗である、尤も易行門と普通に云へば多くは淨土門の諸宗派を斥すので、日蓮宗は天台の復興とこそ云へ、簡易佛教とは自稱して居らぬ、けれども日蓮宗の大體の性質から云へば、やはり鎌倉式の易行宗に似た所がある、また禪宗の如きも教外別傳と云ふからには、爾餘の鎌倉佛教と同日に論じられぬものの如くにも見えるけれども、其手數を必要とせず、つまり直指人心で、階級制度に拘泥することなき點に於て、慥に天台眞言などよりも平民的なるのみならず、悟入につきて豫備の學問を必要なりとせぬこと、正に新時代の宗派である、唯禪宗が不立文字を呼號しながら其實は立文字の極端に流れ易く、それ故に其感化は武士に止まつて、それ以下の下級人民にあまり行はれなかつたのは面白き現象といはなければならぬ。
因みに斷はつて置くが、前に鎌倉時代の文明の特徴として論じた諸の點は同時代に至りて始めて生じた者ではなく、其實は王朝の末に於て既に端緒を啓いたものである、但し機運の熟さなかつた爲めに、充分の發達を遂げ得なかつたのが、政治上の大變動と共に、一時に隆興したのである、故に文明史上に於ては、之を以て鎌倉時代のものとする方が寧ろ適當である、元來政治上の變遷と云ふものは必しも他の文明の諸要素の變遷に先ちて起るものではないが、社會百般の事物將に大に變ぜむとして未だ變すること能はず、只管に氣運の熟するを待て居る際に、之が導火線となつて大變動を起さしむるのは、多くは政治上の出來事である、而してかく政治が文明史に多大の貢献をなすは、單に鎌倉に限つた事ではない、古今東西例證に乏しからぬことである。
扨以上論じ來つた所によりて推すときは、文明を構成する諸の要素の中で、鎌倉時代を最もよく代表し得るものは、此時代に興隆した新宗教であつて、文學美術等は之に亞ぐものであることは明である、であるから今「鎌倉時代の布教と當時の交通」と題して一場の講演を試みるのは、實は宗教の流布を説くのみならずして、旁ら之によつて當時の文明一般の傳播せる徑路を辿らむと欲するのである、但し未研究の足らぬ所からして、今は文學や美術に説き及ぼすことの出來ぬのは、予の甚遺憾とする所である。
尚本論に入るに先ちて、いま一つ斷はつて置かなければならぬのは、此講演の論證の基礎とした根本材料の甚脆弱なものであることである、といふのは、予をして此講演をなすに至らしむるについて、最多く暗示を與へたのは、各寺院に存する縁起であるが、凡そ史料中で何が怪しいと云つても恐らくは此諸寺の縁起ほど信用し難いものはあるまい、いづれの寺院も皆我寺貴しの主義に基きて、盛に縁起を飾り立てるのが普通で、中には飾り損ひて、有り得べからざる事實を捏造する向きもないではない、例へば日蓮や法然の生れぬ以前に出來た法華寺や淨土寺もある、中に無學の甚しい僧侶は禪僧を以て門徒寺の開基としてすまし込んだ縁起を作つて居るのもある、よし假りに一歩を讓つて縁起に誤りが無いとしても、生憎僧侶には同じ樣な名稱が多い、即淨土宗や淨土眞宗に屬する僧侶の名は、多くは三部經中の字を繋ぎ合せたものであるから同じ名が屡※(二の字点、1-2-22)出來する、例へば芝居などによく出て來る西念などいふ僧は、實際幾たりもあり得るもので、甲の寺の縁起に見える西念と、同時代に乙の寺の縁起に載て居る西念と、一々異同を甄別することは容易のことではない、また同一の名稱が數多の僧侶に適用することが出來て、甚曖昧なることもある、例へば淨土眞宗に屬するもので常陸の國に居つた順信といふ僧がある此順信の二字の下に房の一字を加ふれば同じく常陸の僧證信の名となる、然るに證信の名ある僧は必しも順信房と號したもののみではない、外に明法といふ僧侶があつて、これも證信といふ號を持て居る、そして尚此外に單に順信とのみ稱する僧侶も別にある、コンナに混雜して居つては到底安心して考證をすることが出來ぬ、然るに此の如き困難は單に淨土宗と眞宗とに於て出逢ふばかりでなく、時宗にもある、日蓮宗にもある、また禪宗にもある、時宗では阿の字の上にいろ/\の字を加へて名とする習慣であるから時々重複を免れないが、日蓮宗の方はまた二字の僧名の中で上の一字は日の字と定まつて居るから、區別の用としては二番目の字だけであつて、これも同名異人が多い、禪宗に至つては、一人で同時に三以上の號を有して居るのが珍らしくない、殊に少しエライ禪僧になると隨分長い諡がついて居る、若し丁寧に吟味すれば全く同名と云ふことは殆どないが、其うちの二字だけ書いてある場合には屡※(二の字点、1-2-22)他の名僧の諡號と間違ふことがあつて、之を區別するには非常の手數が入る。
此の如く寺院の縁起を土臺として、宗教史を研究するには種々の危險と困難とを伴ふのであるが、それでも全く之を棄てるに忍ばざるのみならず、之を以て研究の根本材料としたのには、亦多少の理由がある、即個々の寺院の縁起の中には信用の出來ぬものあるけれども、さりとて如何なる縁起も盡く信用の出來ぬと云ふ譯ではないのみならず、宮廷にも出入しない、又幕府の眷顧をも得ない僧侶、及び僻陬にある寒寺につきては、縁起の外何等文獻に記載のなきことが多い、而して其他の場合に於けるよりも宗教界に於ては、此等無名の豪傑の手に成る事業が最も多いのであつて見れば、今講演せむとする問題の如きは、有名な本邦の佛教史籍を渉獵するのみに止まらず、世間に忘れられて居る寺や僧侶をも考察の材料とせざるを得ない、換言すれば此點に於て寺院の縁起も忽にし難い好史料である、唯此史料は甚危險な史料であるから之を採用するには一々査照を要するのであるが、予は未充分に此査照を了へて居らぬ、これは甚殘念のことであつて、而して講演に先ちて告白して置かなければならぬ義務があるのである、但し右の危險を自覺して今日演壇に上つた以上、成るべく安全な推論をなすに止め、あまり大膽な結論をなすのを避けるに力めるから、新奇な名論を紹介する能はざると、同時に大抵は動きのない邊で斷ずる積である、それでも尚怪しい所は更に他日の研鑚による外はないことになる。
隨分冗長に過ぎた前置をして、これから愈※(二の字点、1-2-22)本論にとりかゝる順序となつたが、新興の諸宗の地方に傳播した徑路を探ぐるには、五宗派の中で淨土と禪宗との二宗に徴するのが、最穩當な方法だと考へる、何故と云ふに、鎌倉時代に於て北は奧州のはてから西は九州まで、兎に角當時の日本六十六國の全體に及んだのは此二宗で、其他の三宗は東北方には、いづれも傳はつたけれども西は、京畿附近を限り、偶ま大に西進した所で、中國の西端に止まつて居る、即地方に於て前の二宗よりも多く偏在して居ると云てよろしい、就中日蓮宗の如きは殆ど關東地方特有の宗教としても差支ない程地方的制限がある、されば當時の新佛教の傳播を考察して併せて交通の問題にも及ぼさむとするには、先づ淨土と禪との二宗の場合につきて見る方が至當と云はなければならぬ、因て予は今此二宗の場合から歸納して得た結果を査覈するに他の三宗の例を以てせむと欲するのである。
淨土宗にも禪宗にも共通なる點の第一は、兩宗共に其布教上力を專ら東國に注ぎたることである、これは蓋し文明が毎に西方から始まつてそれから次第に東國に及ぼすことを以て習として居つた我國に於ては、當然のことではあるが、鎌倉時代には此歴史的惰性の外にも、尚ほ別に原因がある、それは即鎌倉に新に幕府が出來たが爲めに日本には爰に二つの中心が成立し、一は京都といふ在來の文明の中心で、これと鎌倉といふ政權武力の新中心が兩々相對立することとなつた、成り上がりの首府なる鎌倉は、文物の點に於て容易に京都と比肩することが出來ず、否遂に比肩することが出來なかつたけれども、しかし鎌倉に覇府が開けた爲めに東國の地位は著しく昂上し、今迄輕蔑して入らなかつた、或は入らうとしても受けつけられなかつた東國地方に、高等なる文物が翕然として流れ込むことゝなつた、而して文明の數多の要素の中でも特に政權を利用し得る性質を有する宗教は、文學や美術よりも一層速に其活動の中心を東方に移したので、相模の鎌倉といふものは彼等にとりては是非とも略取せざるべからざる根城であつた、京都の小天地にのみ跼蹐して滿足し得た時代は既に過ぎ去つたのである。
然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て[#「經て」は底本では「輕て」]、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである。
美濃以東に出でた淨土宗の布教僧は、宗祖法然上人の外數多あるが、其主なるものは相模地方まで傳道した隆寛(法然弟子)と善惠證空(同上)とである、就中善惠の事業はすばらしいもので、其布教路は中山道を信濃に出て、それよりして南は武藏、北は越後に及んで居り、其弟子隆信(立信)は三河地方に淨音法興は美濃から越前にかけて布教して居る、爰に注意すべきことは、同じく北陸道の國々でも、若狹や越前は京畿の布教圈内に入るが、越後は之と異りて、信濃から往復したもので、全くちがつた方面に屬することである、これは善惠の場合に於て然るのみならず聖光の弟子良忠一派の場合について考へても同じである、聖光は所謂鎭西派の開祖で其人自身は東國に關係を有して居らぬけれど、其弟子なる記主禪師即良忠は、實に善惠以後に於ける淨土宗の東國大布教者であつて、大往還に外づれて居る伊賀、志摩、伊豆、安房の四國を除けば、東海道中いづれの國も良忠か若くは其弟子なる唱阿性眞、持阿良心及び良曉等の風靡する所とならぬはない、否單に海道の諸國許りでなく東山道に於て信濃及び上野、下野、北陸の越後[#「越後」は底本では「趣後」]皆此良忠一派の化導を受けて居る、北陸諸國の中、加賀、能登、越中、佐渡は鎌倉時代の中にまだ淨土宗の風化に接しなかつた、これは地勢の不便によると思はれる。
新宗教に特有なる現象として、淨土宗に於ても之を認むることの出來るのは、奧州の布教について割合に大なる盡力をなしたことである、陸奧に入つた淨土宗の布教僧の中には、隆寛の弟子實成房と云ふ者もあるが、それよりも此宗旨の奧州に於ける傳播に與りて大功のあつたのは、源空の弟子の金光坊である、但し此人の足跡は、殆ど陸奧の北端に及んだけれども、遂に出羽には入らなかつた、これは蓋し陸奧出羽兩國間の交通は甚稀で、出羽に入らうとするものは越後よりして進んだからであらう、文治年間の頼朝の泰衡征伐にも、左翼軍をば越後國より出羽の念種關に出でしめ、それより比内まで北上して、それから陸奧の本軍に合せしめたのを見ても、王朝末より以來の北方交通路の有樣がわかる、而して淨土宗の日本海岸に於ける布教は鎌倉時代に在つては、また越後以北に及ぶ遑がなかつたのかも知れぬ。
淨土宗は此の如き布教路を辿り、東國に於て文永弘安の交其活動の盛を極めたのであるが、次に建長の頃より東國に頓に勢を得た禪宗の傳播は、果してどうであつたか之を淨土宗と比較すれば、極めて興味が多い。
抑も禪宗と云ふものは、其宗派としても性質組織大に他の諸宗と異り、其布教も群衆を相手として撫切りをするのではなく、個々の有志者をのみ相手とするのである、從て禪宗僧侶の布教上の活動を批評するには、必しも參禪者の多少のみを以てすることが出來ぬ、加之禪宗の傳播を研究するに別に困難なる事情がある、それは外でもないが、禪宗には他宗と同樣、師資相承といふことがあるのは勿論であるけれど、一人の禪僧で數多の先進に就いた場合が非常に多い、そこで他宗に於けるが如く分明に傳統を辿るのは甚困難であるからである。
禪宗の僧侶で東國に布教した主たる人々は、榮西、道隆、佛源禪師、大休、及び夢窓國師等であるが、一體禪僧と云ふものは、他宗の僧侶よりも一層世間離れがして居りながら、而かも頗る敏活に機微を察し得るものである、そこで鎌倉を取りこまなければ、將來の日本に於ての發展がむづかしいと云ふことは、禪僧の方が淨土宗の人々よりも、一層切實に考へた樣である即彼等の東方に向ふや、其徑路は淨土僧と同じ筋であつたけれど、其道筋を一歩一歩布教しつゝ進んだのではなく、驀地に鎌倉へと志したのである、されば伊賀、志摩の如き殆ど鎌倉時代の禪僧の顧みる所とならざりしこと、淨土宗の場合と同樣なるのみならず、伊勢又は尾張、三河の如き鎌倉街道筋の國々ですらも、禪宗の風化を受くること關東の諸國より後れ、而かも尾、參の兩國の漸次に禪宗の布教を受くるや、京都より東せる禪僧よりは關東よりして西に戻れる禪僧の感化をより多く受けたことは、頗面白き現象と云はなければならぬ、加之なほそれよりも奇妙なことは、後年禪宗界に於て一廉の根據地と目せらるゝに至りたる美濃の如きも其禪宗を接受したのは遙かに關東殊に相武よりも後くれ、近江と共に鎌倉中葉以後のことであつたのは、つまり淨土宗に比べて一層東進の方針の急劇な爲めである。
然らば關東に於ける禪宗は如何なる地方的傳播をなしたか、鎌倉時代に於て關東の禪宗の中心とも稱すべきものは相模武藏甲斐の三國であることは云ふ迄もない、甲斐は京鎌倉間の大道ではないけれど、北は信越を控へ、南は駿河から或は相模から、或は武藏から頻繁なる往來があつたと見え、禪宗の感化早く及んだのみならず、其成効も亦頗る目覺ましいものであつた、されば其甲斐の國に夢窓國師の樣な名僧の生れ出でたのも決して偶然ではない、之に反して一部は鎌倉街道に當て居る伊豆は安房上總と同じく、淨土宗のみならず禪宗の感化を受くることも遲く、且つ薄かつた。
關東に布教した禪僧及び其弟子等は、更に其活動の區域を擴張して信越及び奧州に入つた、即榮西の弟子記外の如きは陸奧の宣教を以て有名であつた、其後では道隆の風化も陸奧の南邊迄は及んだらしい、聖一國師辨圓の東方に於ける活動は甚目覺ましいものとは云ひ難いけれど、其弟子無關は陸奧に入りたりと覺ゆ、又歸化僧なる佛源禪師の如きは、其教化陸奧出羽二國に及んだ、然れども陸奧に入つた禪僧は、盡く佛源禪師の樣に出羽にも入つたのではない、淨土宗の場合に於ける同樣で出羽の禪宗は主として越後から入つたものである。
禪宗中の臨濟と曹洞との二宗派の、地理的分布の大體を述ぶれば、鎌倉時代には東海東山に臨濟割合に多く、曹洞が少い、これは曹洞が臨濟よりも後れて出たので、曹洞の起つた時に此地方には臨濟の地盤既に固まつて居つたからでもあらう、之に反して北陸道には曹洞が多い、即道元(永平)營山(總持)瑩山の弟子明峯素哲歸化僧明極等は主として其活動力を北陸道に集注した、但し其徑路に至つては北陸道を若狹から越後に向て順次に感化したのではなく、越前から海路能登に向ひ、それより加賀へも、また越中へも傳はつた如くに見える、これは當時の海陸交通の關係或は之を餘儀なくしたのかも知れぬ、又上述の曹洞の禪僧の中明峯と明極とは、單に北陸道のみならず、陸羽にも宣教して居る、出羽が鎌倉時代に臨濟よりも多く曹洞の影響を受けたのは、これが爲である。
時代を以てすれば禪宗は建長頃より關東に頓に盛にして鎌倉末葉に至るまで衰へず、中仙道は之に後くるゝこと半世紀、奧羽はそれよりも更に早きこと四分一世紀、これまた注意すべきことで、北陸道に至りては、鎌倉末の二三十年間に至つて始めて盛になつたのである。
以上の如く淨土と禪との二宗の傳播の跡を見れば、大に相類似して居る點がある、即布教地として特に關東に重を措いたことゝ、其傳播をした交通路の状態とである、而して此點に於ては五宗中の殘りの三宗も皆同じ結果を示して居るのが面白い、今先づ淨土眞宗から始めて、此原則を適用して見やう。
眞宗の開祖親鸞は京都の人と云ふことになつて居るけれども、眞宗の東方に於ける傳播の状態を察する時は、或はこれは東國の人の起こした宗教であるまいかとの疑を起こさしむる位である、今こそ眞宗と云ふものは京都風な宗旨であること紛ふ方なき樣であるけれど、鎌倉時代には、矢張關東を先きにした、これは親鸞が越後常陸の間に遍歴した爲と云へばそれ迄であるが、其痕跡は淨土や禪と殆ど同一轍である。
越後、下野、常陸の三國を連結した日本を横斷する線は眞宗の發剏線である、此中で常陸の方面が最多く發展した樣に見える、即改宗の當初三十箇年許りの間に、常陸から下總、武藏、甲斐、相模と云ふ順序に海道筋を押し上つて三河に活動の大勢力を集め、一方に於ては越後から信濃に入り、美濃を犯した、これが即眞宗西漸の始である、然らば此時代に東國の布教に從事したものは誰かと云ふに、これは甚だ答へ難い問題である。
何故と云ふに、東國と西國とを論せず、眞宗の傳播の仕方は餘程外の宗旨と違て居る所がある、他の宗旨で云へば、一人の名僧が足に任せて數箇國を行脚して、數多の歸依者改宗者を作ると云ふ順序になるのであるが、眞宗にありては右の如く諸國を遍歴する僧侶の全く無いではないが、甚僅少である、鎌倉時代に於ける眞宗は、潮の押寄せる樣に、洪水の氾濫する樣に、連續性を以て將棊倒しに傳播したもので、若干の個人が奔走した結果のみではない、他の宗旨から改宗した僧侶は、妻帶して其寺に居直つて、財産を私有にして動かない、俗人の改宗したものは、私宅を變じて寺としたとは云ふものゝ、今日で謂ふ説教所を開始したので、其寺號は數十年、若くは數百年の後に、始めて本願寺から許可になつたものである、故に斯かる俗人の説教所開始以後も、以前と同樣俗事に忙はしく鞅掌したのみならず、僧侶にして改宗した連中も以前より一層深く、而かも公然俗事の間に沒入し、中々遠國などへ布教に出かける餘裕はない、斯樣の次第であるから、眞宗では同一の僧侶の手で數個の寺が開かれた例が甚乏しく、從ひて布教の徑路を探ぐることが困難である、けれども今其等少數者の場合につきて考へると、關東に眞宗を流布せしめたのは、開祖親鸞の外、其弟子と稱する眞佛、了智、教名、明光、親鸞の孫唯善、其外明空、性信、西念、唯信、教念、善性、了海等である、中にも眞佛の一派は最盛に東國に布教した而して其基線より更に東北に進んだ眞宗僧には、陸奧に入つたものに前に擧げた性信や親鸞の弟子の是信房や、無爲信などゝいふ者があり、出羽の方へは淨土、禪と同樣越後からはいつて、明法や源海などゝいふ人があつた、しかしながら眞宗は禪宗ほど北陸に侵入はしなかつたのである。
爰に看過すべからざることは眞宗が三十箇年許り東國に盛に流宣して後、暦仁頃からバツタリと其活動を停止したことである、最も之と同時に近江、美濃、越前、加賀、能登、越中等に於ける盛なる傳道が始まつたのであるから、眞宗が全く活動を止めた譯ではなく、唯關東に於てしたのを、方面を替へて中山道に北陸道に移したものと云ふことも出來る、然るに奇妙なことには、此眞宗が活動を停止した跡へ、同地方即東國に日蓮宗の興隆したことである、日蓮宗の興隆の爲めに眞宗が之を西に避けたのか、或は眞宗が西に向つた空虚に乘じて日蓮宗が傳播し得たのか、其邊はなほ詳に研究して見なければ分明せぬ。
中山道から北陸道にかけて布教した眞宗の僧侶の重なるものを擧げれば、爰にも眞佛及び其派が中々働いて居る、其外には覺如及び其弟子宗信、覺善、覺淳、慶順、乘專、存覺、并びに善鸞法善など云ふ人々である、而して眞宗の氾濫的布教は、飛騨をも度外に置かなかつたが爲めに、越中から之に宣教師を進めて居る、要するに此地方に於ける眞宗の宣教の盛時は覺如以後と見て大なる誤はない。
何よりも不思議の念に堪えぬのは今日本願寺の所在地たる京都及び其附近の諸國、即所謂近畿に於て眞宗の弘布したのが、鎌倉時代の[#「鎌倉時代の」は底本では「鎌、倉時代の」]末十年間であることである、最も其以前にもポツ/\眞宗の寺と云ふものが見えるが、其教[#「教」はママ]は甚少く、擧げて云ふに足らぬ程であつて、正中頃から漸く、活動らしい活動を見るのである、これは主として存覺の弟子なる佛光寺の了源の力である。
日蓮宗に至りては其東國的宗教であること甚明瞭なもので、其傳播の著るしい地方と云へば、關東の八ヶ國に、駿、甲、豆の三國を加へたものであつて、遠江に入ると、其跡甚急に薄くなる、而して此東國地方に於ては文永の末から正應の末にかけての二十年間を以て最活動の盛な時期とするのであるけれども、其以後とても此範圍内に於ては、殆ど弛みなく其活動を持續して、以て鎌倉の末に達して居る、而して此地方に主として盡力した僧侶は宗祖の日蓮を第一とし、日昭、日朗、日頂、日向、日興、日持、日位、日辨、日朗の弟子日像、日善、日像の弟子日源等である。
而して日蓮宗も亦前の三宗と同じく北陲の感化に尠からず注意を持つた、即日蓮の直弟子では日辨が磐城に同日興が陸中まで、日目が陸前に入りたるを首として、日朗の弟子日善の又弟子日圓が岩代に、日持の弟子日圓は磐城に、日向の弟子の日進のその又弟子の日榮は岩代に入いつた、傳説によれば日蓮其人の感化も既に岩代の一部に及んだとのことである、が、それは信ぜられぬとしても、兎に角日蓮宗が東北地方に力を盡くしたのが明である、羽前へは日昭の弟子の日成と云ふ者が入つて布教したが、これも以前の場合と同じく[#「同じく」は底本では「同じ、く」]、越後からして進だのて[#「進だのて」はママ]、陸奧から入つたのではない。
北陸道では日蓮宗は他の宗旨と少しく異つた徑路をとつて布教して居る、これは日蓮が佐渡に配流せられた爲めであるので、一方に於ては北陸道を西から東に進んだものもあるけれど、又佐渡や越後からして海路をも利用し越中、能登等に布教した者もある、此後者のうちで重なるものは、日蓮の直弟子では日向、日乘等で、又弟子では日進の弟子の日榮の越前に赴いたのも、日印(日朗弟子)の越中に布教したのも、日印の弟子の日順日暹の越中に布教したのも皆此順路によつたものと見える。
日蓮宗が京師に入つたのは、日像が永仁年間に傳道したのが始まりで、夫より鎌倉時代の末まで、振はず、衰へずに續いて居る、東方から京都へ入るのに、遠江、三河、尾張等を殆ど素通りにして、眞一文字に京都に突入したのは、日本に於て宗教として勢力を得るには、どうしても京都と云ふ文明の中心を陷れなければならぬと云ふことを、純粹に關東式なる日蓮宗すらも感ぜざるを得なかつたが爲であるらしく考へらるゝが、此時代と兩統迭立の始まつた時代と大差なきことを考へ、而して兩統迭立といふことは、必しも關東の希望ではなく、寧ろ關東の方から讓歩したものとする時は、此日蓮宗が京都に入つた永仁正安の頃といふものは、鎌倉開府以來勢力を失て居つた京都の、日本の中心としての價値が、丁度此頃に回復されたものとも考ふることが出來るので、氣運の變遷から觀察して鎌倉時代史中の一段落と認むることが出來る樣にも思はれる。
日像の京都に於ける活動の影響は、他の畿内諸國には及ばなかつたが、丹波から若狹を經て越前、加賀、能登迄日像自身が巡錫した跡が見ゆるのみならず、其弟子の乘純及び日乘の能登に於ける、日禪の若狹に於ける布教、いづれも同系統に屬するものであるして見れば京都のみならず、中山道、北陸道に於ける日像の功績は、顯著なるものである。
五宗中最後に現はれた時宗に就いて之を考察しても、前に掲げた原則の尚誤らざることを示すに充分である、一遍上人の一宗を建立したのは、近畿に於てしたのであつて而して此宗旨は、遊行宗と稱する程あつて、遍歴化道を主として、千里を遠しとせず邊陲の地までも普く及んで居るけれど、其主なる布教地は矢張關東諸國であることは、二祖たる他阿眞教及び同じく一遍の弟子たる一向上人の活動を見ても明かに分かる、又奧羽に於ける時宗の布教は、其遲く起こつた宗旨の割合にしては、中々盛で、宗祖一遍自身は磐城岩代から陸前邊迄遊行して居るのみならず、二祖眞教も磐城殊に岩代に布教し、二祖の弟子其阿彌は陸中邊まで、湛然は陸奧の北端まで行つて居る、其外一遍の弟子の宿阿尊道といふ僧も陸中邊まで巡錫した、又五祖の安國上人は磐城より陸前迄遊行した、其外時宗の僧侶の出羽に多く入つて布教したことは、他宗の遠く及ばぬ所で、一向上人が岩代から羽前にはいつたのを始めとして無阿和尚、辨阿上人、崇徹、礎念、證阿、向阿等羽前地方に活動して居る、而して此等の僧侶が他宗に於けるが如く羽州に入るに越後よりせずして、岩代より直にせるのは、蓋し遊行の名に背かず、天險をも事とせずして、布教し廻はりしことを徴するに足るものである。
以上は畿内以東につきて觀察した所のものであるが、今にも述べた通り新宗教は、主力を東國に注いだのであるから、畿内以西に於ける布教的活動は其盛な點に於て到底東方と比べものにならぬ、然れども西國はまた西國で、其布教の徑路の研究に面白い點もあるから、一通り之を述べる必要がある。
東國を説明した順序に從つて、先づ淨土宗から始むれば、京師以西には淨土宗が布教上大に重きを措いたと云ふ譯ではないけれど、元來西國は之を東國に比して、京洛文明の影響を被つたこと久しく且つ深いから、源空の新宗教は自ら西方に傳はらざるを得ぬ次第である、けれども其傳播は當時の交通の關係によつて規定せられて居るのは已むを得ざることで即山陰道では、丹波は直接に京都の波動を受けて居るけれども、丹後から以西伯耆に至るまでは、鎌倉時代を通じて殆ど淨土宗の侵略を蒙つて居らぬ、山陽の播磨は猶山陰の丹波の如きものであるが、美作(源空の出生地)から西備中に至るまでの間も、山陰の丹後以西と同じく淨土宗の感化を受けて居らぬ、南海道の紀伊は播磨と同樣であるが、四國に於ては讃岐と伊豫に淨土宗が傳はり、これと前後して向ひ側なる山陽道では備後に傳はり、備後から更に出雲、石見に流布して居る、聖光の弟子良忠が中國に布教した時は、まさしく此徑路によつたものである、又九州に於て豐前の淨土宗は論ずるに足らぬに反し、豐後に於ける傳道の跡見るに足るものあるのは、豐後の佐賀の關が伊豫の佐田岬と相對し、兩國の交通が甚頻繁である爲めで、此等と中國の例并びに北陸の例を併せ考ふれば、當時の布教は必しも陸地傳ひにのみ進んだものでないと云ふことが分かり、從て當時の日本の主要なる交通線の中には海路も少からず含まれて居つたことが明になる。
然しながら九州の淨土宗の主なる活動は、此伊豫から豐後に渡つたものではなく、鎌倉時代の始に於て筑後の善導寺を根據とした聖光及び其弟子蓮阿等の努力によるのである、これが筑前、肥前、肥後と擴がつたが、日薩隅の三州には新宗教の布教者は足を入るゝことが出來なかつた樣に見える。
禪宗の山陰道に落莫なるは、淨土宗の場合と同じである、して見れば、丹後、但馬、因幡、伯耆の四ヶ國は、京都から左程遠くないにも拘はらず、鎌倉時代には天然の不便から、自ら別境をなして居て、一般に注意を惹く度に於て、奧州などにすら及ばなかつたのかも知れぬと思はれる、唯山陰道に於て禪僧の活動として見るに足るものは、法燈國師の弟子の三光國師の、鎌倉時代の末に出雲に活動したことのみである、山陽道は京都から九州に通ずる大道であるけれども、淨土宗の場合に於て見えたと同樣、當時は九州に赴くに主として海路を利用したものゝ如くで、播磨を除いて、其以西備中までは、あまり禪宗の影響を受けて居らず、備後以西に於て始めて其痕跡を見る、三光國師も淨土僧と同樣備後から出雲へ入つたらしい、宗派から云へば播磨には臨濟も曹洞も混入して居るけれど、備後以西は臨濟のみであつた。
南海道の禪宗と云へば紀伊の法燈國師の外、伊豫に傳道した聖一國師の弟子の佛道禪師、并びに南山士雲、寒岩義尹あるのみである。
九州に於て禪宗が他の宗旨に比べて一層の盛況を呈して居るのは、これは蓋し博多が當時支那との交通の要路にあたつて居る所からして、渡唐僧や歸化僧は、多くは暫く爰に滯留し、從つて、九州の禪宗は必しも京都の方からの布教のみによらずに傳播した爲めであらうと思はれる、であるから九州で禪宗の最流行したのは筑前、其次は豐後で、肥前、肥後はまた其次に位して居る、九州の布教に盡力した禪僧の有名なものは、先づ榮西を第一として、その外聖一國師、大應國師、(南浦)南山士雲、及び寒岩義尹などである、寒岩は南山士雲と似て、東國をも風化したのみならず、西國にも巡錫して居る、即南山同樣伊豫に布教し、それから九州に渡つた、但し南山は肥前筑前に傳道したけれども、寒岩は其弟子鐵山等と共に、專ら豐後、肥後の布教に盡力をした、されば禪宗が豐後に盛で、隣りの豐前に寥々として居るのは伊豫からの交通の關係から怪むに足らぬのである、而して寒岩は道元の弟子であるから、豐後と肥後とには筑前に比べて曹洞が多いのである、其外大應は主として力を筑前に注いで居る。
時代を以てすれば、九州の禪宗は仁治建長の間筑前に盛に、豐後より進んで兩肥に及んだのは、鎌倉の末六十年位の間のことである。
眞宗が京師以西に及ぼした影響は、頗る稀薄な状態で鎌倉時代を終つた、但しこれはさすが氾濫的傳播[#「氾濫的傳播」は底本では「※(「さんずい+巳」、第3水準1-86-50)濫的傳播」]をなす宗旨だけあつて乘專の如きは近畿布教の序に但馬へも入つた樣である、しかし因幡や伯耆に眞宗が殆ど入らなかつたのは、淨土や禪と同樣である、山陽道に於ては播磨に少しく入つた外にはやはり備後を中心として備中安藝の二國に及んだのみである、此眞宗の備後に於ける布教は專ら親鸞の弟子明光(光昭寺開山)の盡力によるもので、明光は眞宗には珍らしく遍歴布教をした人である、單に山陽のみならず、山陰の出雲も亦明光の手によつて眞宗の教化に接した、而して此明光のとれる布教路が、淨土宗及び禪宗のとつた布教の道筋と符合して居るのは甚面白いことである。
四國では眞宗の波動の及んだのは阿波と伊豫とのみであると斷言して差支ない位で、それも影響が甚少い、そしてこれもやはり明光の宣教の力による者の如くである、九州で鎌倉時代に眞宗の入つたのは殆ど豐後のみであるが、これも伊豫との交通の結果である。
日蓮宗でも山陰布教の微々たることは前の三宗と同樣である、これは純東國的宗旨であるから一層然るのであらうとも思はれる、中に目立つのはやはり出雲で、出雲に布教した人には日尊を始めとして日頼と云ふ者もある、之に對して他宗の場合に於ける如き備後の布教は見えぬが、備中には日印、日圓などの布教があるから、他宗の場合とあまり甚しく矛盾しては居らぬ。
九州では肥前に鎌倉時代の末に日祐(日高弟子)が入つて傳道したが、それよりも顯著なのは日向に入つた日郷の弟子の日叡の成績である、南海道には日蓮宗は全く入らなかつた。
時宗に於ては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊并びに四國の伊豫は勿論讃岐にも、九州では筑前にも及んだのであるが、其他の遊行僧では、四祖呑海及び、其弟子の隨音といふが、新に石見、隱岐に布教し、二祖眞教が備後と伊豫に巡錫した位のもので、外に取り立てゝ云ふ程のこともない。
終りに臨んで新宗派が從來の宗派を蠶食し、或は新宗派の間に互に相呑噬した樣子を簡單に述べて、此の論を結ぶことにする、淨土宗の最も多く蠶食したのは天台で、眞言之に次ぎ法相又之に次ぐ、新宗の中では禪の淨土に轉じたものもあるけれど、淨土がまた轉じて眞宗になつたことも稀ではない。
禪宗の最も多く侵略したものも亦天台で眞言は之に次ぐ、淨土に對しては侵し方が侵された分より多い。
淨土眞宗に至ては天台を侵略したこと最甚しく、今日現存の鎌倉時代からの眞宗寺で、天台から轉宗したのが二百許りある、眞言の七十三が之に次ぐ、遙かに下るが、之に次では法相である、又眞宗は新宗派の中で淨土と禪とを少しづゝ侵略して居る。
時宗の侵略したのも天台に最も多く眞言之に次ぐ、但し小規模の宗派丈け侵略した數は少い。
以上の四宗がいづれも天台を最も多く侵略して居るのは其以前に天台宗の寺が眞言其他の諸宗よりもすぐれて數多かつた爲でもあらうが、之と全く異つた有樣を示して居るのは日蓮宗で數字に於ては其侵略の度眞宗の多いのには及ばぬけれど、兎に角日蓮宗の最も多く侵略したのは眞言で、天台は却つて其三分一位である、これは注意すべき事だ、又新宗派の中では禪を少しく侵略して居る、眞言亡國、禪天魔を叫んだだけあると云つてもよろしい、但し念佛宗をば無間と譏つたけれど、淨土寺を少しく侵略したのみで、眞宗とは全く沒交渉である、眞言よりは少いけれども、天台も亦侵略を免れなかつたのは、假令日蓮宗が天台の復興を主張するとしても實際此兩宗の間には性質上大差があるからであらうと思はれる。 
 
浄土宗1

 

日本の仏教宗旨のひとつで、法然を開祖とする。本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。浄土専念宗とも呼ばれる。浄土真宗の別称もある(親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗とは別である)。
承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えをひろめた。この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。
その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故(意訳)一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意。阿弥陀佛の選択によって、浄土宗における念仏はここから始まったと言っても過言ではない。
法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。
日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。
歴史
法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空・弁長・幸西・長西・隆寛・親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年(安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。
その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。
一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、鎮西派も良忠の死後に第4祖良暁の白旗派の他、名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。
その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底は松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。
応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。更に松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いた事によって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けた。元和元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。なお、この際西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」を出されている。だが、これによって浄土宗は徳川将軍家、ひいては幕藩体制の保護を受けることとなる。
廃仏毀釈の混乱の中から養鸕徹定・福田行誡らによって近代化が図られて白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一されて現在の浄土宗の原型が成立する。第二次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする本派浄土宗(浄土宗本派)が分立するが、昭和36年(1961年)の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、16年後に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。
一方、西山派は現在も浄土宗とは別個に西山浄土宗(光明寺_(長岡京市)が総本山)・浄土宗西山禅林寺派(禅林寺_(京都市)が総本山)・浄土宗西山深草派(誓願寺_(京都市)が総本山)の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(一心院_(京都市)が本山)の勢力も存在する。
主要寺院
鎮西派
 総本山 
 知恩院…(正式名称)華頂山知恩教院大谷寺(京都市東山区)
 大本山 
 増上寺…(正式名称)三縁山広度院増上寺(東京都港区)
 金戒光明寺…(正式名称)紫雲山金戒光明寺(京都市左京区)
 百萬遍知恩寺(京都市左京区)
 清浄華院…(京都市上京区)
 善導寺…(正式名称)井上山光明院善導寺(久留米市)
 光明寺…(正式名称)天照山蓮華院光明寺(鎌倉市)
 善光寺大本願(長野市)(本堂)定額山善光寺(長野市)
西山派
 浄土宗西山禅林寺派総本山
 永観堂 禅林寺…(正式名称)聖衆来迎山無量寿院禅林寺(京都市左京区永観堂町48)
 西山浄土宗総本山
 粟生光明寺(長岡京市)
 浄土宗西山深草派総本山
 誓願寺(京都市中京区) 
 
浄土宗2

 

浄土宗 
浄土宗のおしえ
浄土宗は、法然上人(ほうねんしょうにん)(法然房源空(ほうねんぼうげんくう))を宗祖と仰いでいる宗旨です。
法然上人は、今から約860年前(1133)に現在の岡山県(当時の美作(みまさか) の国)にお誕生になりました。幼少にして父を失い、それを機会に父の教えのままに出家して京都(滋賀)の 比叡山(ひえいざん) にのぼって勉学し、当時の仏教・学問のすべてを修した後、ただひたすらに仏に帰依(きえ) すれば必ず救われる。すなわち 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) を口に出してとなえれば、必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力のおしえをひろめられました。
当時の旧仏教の中でこの新しい教えを打ち出されただけに、いろいろな苦難がつづきました。貴族だけの仏教を大衆のために、というこの教えは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。
法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏をとなえよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口にとなえて仕事をしなさい、その仏の 御名(みな) のなかに生活しなさい、と教えられています。
こうした教えがひろまるにつれて、それが新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけました。そのときでも、法然上人はこの教えだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられます。また、亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏をとなえるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。
亡くなってから間もなく800年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、いかに法然上人の教えがわれわれ民衆と共にあって、その教えを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。
南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出してとなえられます。できるだけたくさん口に出してとなえるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです。するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、活き活きとした、そして、平和なくらしができるようになります。それは明日の生活にもつづいて、日ぐらしの上に立派な花を咲かせてくれます。
法然上人の教えは、今生きることによろこびを感じることであります。
念仏をとなえながら、充実した日々をお過ごし下さい。 
開宗からのあゆみ
法然上人伝の多くが語るように、上人が諸行を捨て専修念仏(せんじゅねんぶつ) に帰したのは、承安5年(1175)の春3月でした。恵心僧都の『往生要集』を読み、その教えにより中国唐代の善導大師の『観経疏』の一心専念の文即ち「一心に 専(もっぱ)ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時節の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業(ごう) と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」の文によったのです。
この時より以後、上人は比叡山を下りて、まず西山の広谷に専修念仏の実践者であった遊蓮房を訪ね、その念仏生活に感激し、 東山の吉水におもむき、そこに草庵をむすび往生極楽の法を説き、念仏を人々にすすめられる生活にはいられました。これまでの 聖道門(しょうどうもん) 各宗の教えは、学問のある者、財力のある者におのずから限られていましたが、法然上人の念仏の教えは、いつでもどこでも誰にでも行える念仏で東山の庵室には老若男女の別なく、多くの人々が集まり集団を形成しました。この時をもって浄土開宗としたのです。
その後、法然上人は洛北大原の勝林院で、天台宗の顕真(けんしん) 法印の発議により、他宗の僧と仏教の教えについて広く意見を交換をすることになりました。三論宗の明遍、法相宗の 貞慶(じょうけい)、天台宗の証真、湛がく(たんがく)、嵯峨往生院の念仏房、東大寺の 重源(ちょうげん) 等、当代一流の僧が参集しました。上人はその席で浄土念仏の法門が今の時代の多くの人々に適した時機相応の教えであることを述べ、集まった上人に深い感銘を与えました。これを後に大原談義とか大原問答といい、時に上人54歳。この頃から次第に念仏の教えが社会に広く受入れられてきたのです。
また建久元年(1190)には、重源の要請により東大寺で浄土三部経の講説を行うなど積極的な伝道教化を進めました。門弟には黒谷別所で兄弟弟子であった信空をはじめ、 感西等がいましたが、この頃から証空、源智、弁長、明遍、熊谷直実などが入門します。
また文治5年(1189)には、時の摂政関白九条兼実公との道交がはじまり、建久9年(1198)には兼実公の請いをいれて、『選択本願念仏集』を書き、これを兼実公に献上されまた。但し病後のためか冒頭の題字と「南無阿弥陀仏往生之業念仏為先」の21字だけは自らが書かれたが、あとの本文16章は口述して門弟に筆記させられたものです。弟子のうち 真観房感西は執筆の役をつとめたといわれ、この草稿本(原本)は今も京都廬山寺に伝えられて国宝となっています。
またこの頃、『観経疏』によって心眼を開かれた上人は、夢定中に於て半金色の善導大師と対面され念仏の法を授けられたと伝えられています。
上人の門弟もふえ、念仏が京都をはじめ北陸、東海、西海にまでひろまるにつれて、これまでの仏教教団からの圧迫もはげしく、とくに元久元年(1204)は比叡山延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主真性に訴え、翌2年(1205)には奈良興福寺の衆徒が奏状を捧げて念仏の禁断を朝廷に訴えています。
このような時に、上人の弟子の住蓮、安楽が京都東山の鹿ヶ谷で六時礼讃法要をつとめたところ、多くの人が集り発心出家する者が出ました。その中に、後鳥羽院 の熊野行幸の留守をあずかる院の女房が無断で発心出家するという事件が起ました。このことを院に悪意をもって申し上げる者がいたので、住蓮、安楽は死罪になり、さらにその前後の事情もあって、門弟の咎が師の上人まで及び、四国の讃岐へ流罪という事になったのです。時に上人75歳。
配所の化導1年足らずで赦免になり、摂津の勝尾寺に入り、ここで5年の月日を送られ、やがて建暦元年(1211)11月入洛の宜旨が下り、20日慈鎮和尚(慈円)のはからいで東山大谷禅房に入いられ、翌年の正月25日お念仏をとなえつつ安らかに往生をとげられました。世寿80。それより2日前の23日、これまでの念仏の教えを簡潔にまとめられて弟子源智に授けられました。後世『一枚起請文』とよばれ、上人最後の御遺訓となりました。この『一枚起請文』は今も大本山金戒光明寺に伝えられています。 
浄土宗檀信徒信条
一、 私たちは、お釈迦(しゃか)さまが本懐(ほんかい)の教えとして説かれた、阿弥陀(あみだ)さまのお救いを信じ、心のよりどころとしてお念仏(ねんぶつ)の道を歩み、感謝と奉仕につとめましょう。
一、 私たちは、宗祖(しゅうそ)法然上人(ほうねんしょうにん)のみ教えをいただいて、阿弥陀さまのみ名を称(とな)え、誠実と反省につとめましょう。
一、 私たちは、お念仏の輪をひろげ、互いに助け合い、社会の浄化と、平和と福祉につとめましょう。  
極楽浄土とは何 / お浄土 → 極楽浄土
浄土のもともとの意味は、仏国土つまり仏さまの国、世界ということであり、そこは清らかな幸せに満ち、そこに生まれるとどんな苦しみもないところで、例えば薬師如来の東方浄瑠璃世界、大日如来の密厳浄土など、いろいろな仏さまがそれぞれに浄土を築き、そこで説法していると説かれています。その中で極楽浄土は、西方浄土ともいわれ、他に極楽界、 安養界(あんにょうかい) (土)などともいわれています。
阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に、「命ある者すべてを救いたい」と願って48の本願(ねがい)をたて、その願いが成就されて築かれた世界です。すなわち、阿弥陀仏が人々を救うためにお建てになった世界。どんな人々であろうとも、 念仏を唱えるならば、命終ののち生まれる(行きつく)ことができる永遠のやすらぎの世界。けがれや迷いが一切ない、真・善・美の極まった世界ですが、単に楽の極まった世界と考えてはいけません。
われわれは浄土において、仏になるために菩薩行をつみ、やがて仏になることができるのです。 48の本願の第18番目を「念仏往生の本願」といい、南無阿弥陀仏を口にとなえるものは、皆極楽に往生できると説かれています。『阿弥陀経』には、西方十万億土の彼方にある国と記されています。 
念仏の意味
念仏とは仏を念ずることであり、その念には次の三つの義がある。
一、 第一には、およそ経典に出てくる念仏の多くは仏を憶念することを 意味します。とくに古い経典にでてくる三念、五念、十念などはこれに属します。
一、 第二には、仏の相好等を見ることで見仏、観仏、観念といいます。
一、 第三には、仏の名を 称(とな) えること即ち称名で、浄土宗でお念仏という場合は、この阿弥陀仏の名号を口に 称(とな) えることと、法然上人はその著『選択本願念仏集』にお示しになっています。 
三部経に説かれていること
浄土三部経(じょうどさんぶきょう) / 浄土宗の教えのよりどころとする経典は「浄土三部経」と言って、一切経の中から、『無量寿経』二巻、『観無量寿経』一巻、『阿弥陀経』一巻の三典を法然上人が選ばれました。
『阿弥陀経』 毎日のおつとめ『阿弥陀経』 / 極楽浄土はどういうところかということが説かれています。それは西方十万億土の彼方にあり、六万の諸仏が念仏の教えの正しいことを証明し、いま現に阿弥陀仏が説法されており、その行者をまもると説かれています。また、その国をなぜ極楽というかといえば、その国の人びとにはなんの苦悩もなく、ただ楽だけを受けるからであると説かれています。
『観無量寿経』 / 釈尊時代の王舎城の妃(きさき)であった韋提希夫人(いだいけぶにん) を対象として極楽浄土に往生する方途が詳説されています。
『無量寿経』 / 阿弥陀仏の修行時代の衆生救済の本願(ねがい)とそのねがいが成就してからの御利益がのべられています。 
弥陀三尊(みださんぞん)の意味
浄土宗寺院の本堂の正面真中におまつりされている仏さまが阿弥陀如来(仏)、 向って右が観音菩薩、左が勢至菩薩です。
菩薩とは、もともとは仏になるために修行する人のことを言いましたが、観音菩薩や勢至菩薩の場合は阿弥陀仏の分身として、その働きを助ける者という考えです。
阿弥陀さまは、どのような人でも区別なくお救い下さいますが、阿弥陀さまが、慈悲として働かれる時には観音菩薩をつかわし、智慧として働かれる時は勢至菩薩をつかわされます。  
阿弥陀さまとお釈迦さま
阿弥陀さまも、お釈迦さまも共に仏さまであり、仏とは悟りを開いた方をさす。悟 りの世界では物事の成り立ちが手に取るようにわかり、悩みも苦しみもない自由で平安な世界です。
お釈迦さまは、今からおよそ2500年の昔、悟りを開いて仏となり、多くの人々を救うために教えを説かれました。その教えが仏教であり、その中でお釈迦さまは、遠い過去に悟りを開き、今も人々に救いの手をさしのべている仏さまの事を説き教えられました。そのお方こそが阿弥陀さまなのです。 
法然上人 [ 法然房源空 ]

 

誕生と父上の非業(1〜9歳)
法然上人(1133-1212)は崇徳帝の長承二年(1133)四月七日(太陽暦五月二十日)、美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に 押領使 (おうりょうし) (地方の治安維持にあたる在地豪族)である父の漆間時国と、その奥方である母の秦(はた)氏(うじ)のひとり子として誕生され、幼名を 勢至丸 (せいしまる) と名づけられました。その後、両親のふかい 寵愛 (ちょうあい) を一身にうけてすこやかに成長されましたが、保延七年(1141)、父の時国は 預所 (あずかりところ) (荘園を領主から預かって管理する人)の源内武者定明の夜討ちにあって、あえなく非業の最期をとげられました。ときに勢至丸は九歳でした。
父の遺言
父時国は臨終の枕辺にいならぶ家族にむかって、「われこのきずいたむ。人またいたまざらんや。われこのいのちを惜しむ。人あに惜しまざらんや」と、自他一体感にもとづいて、つよく仇討ちをいましめられたのでした。この遺言は仇討ちを当然視する武士の風習、とりわけ曾我兄弟の登場する時代とほど遠くない時代、五十年前ほど以前のことでしたが、それとはまったく逆の方向を示すものとして注目されています。 
出家・修学・隠遁(9〜24歳)
勧覚 (かんがく) のもとへ
四散を余儀なくされた漆間家の一子勢至丸は、悲歎にくれる母親とわかれて、母方の叔父に あたる菩提寺(岡山県勝田郡奈義町高円)の院主である観覚のもとにひきとられて、仏教の手ほどきをうけることになりました。 観覚は勢至丸の器量の非凡であることに気づき、このような辺境な地に埋もれることを惜しんで将来の大成を期待するのあまり、比叡の学府にうつることを勧めました。
比叡山へ
母にいとまを告げた勢至丸が遠く比叡の学府にいたったのは、天養二年(1145)十三歳(一説久安三年、十五歳)のときでありました。まず西塔北谷の 持宝房源光 (じほうぼうげんこう) について受学し、久安三年(1147)、十五歳のとき戒壇院で 戒 (かい) をさずかって文字通り出家者となりました。その後は功徳院阿闍梨皇円の指導のもとに「天台三大部」(『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』各十巻)の勉学にいそしみました。
かねてから仏教の学問は「生死をはなるばかり」とみてとっていた上人は、ミイラとりがミイラになるのをおそれ、出離のこころざしをはたそうとして、ついに久安六年(1150)十八歳で皇円のもとを辞し、西塔黒谷にうつり慈眼房 叡空 (えいくう) に師事することになりました。叡空は、この青年のこころざしをことのほか感激して、「年少であるのに出離のこころざしをおこすとは、まさに法然道理のひじりである」と絶賛し、法然房という房号を与え、さらに源光と叡空の一字ずつをとって、源空という 諱 (いみな) をさずけられたのです。かくして 円頓戒 (えんどんかい) の正当の伝承者である師叡空のきびしい指導のもとに、一切経の読破とその実践に若いエネルギーをおしみなく、そそぎこむ求道の生活を続けられることとなりました。 
求道の遍歴(20〜40歳前後)
南都の学匠を訪れる
保元元年(1156)、上人二十四歳のとき比叡山をくだって洛西嵯峨の清涼寺に詣で、三国伝来の 釈迦栴檀瑞像 (しゃかせんだんずいぞう) のみまえに、出離のこころざしをすみやかに実現せんことを祈願し、ついで南都の興福寺に法相宗の碩学 蔵俊をたずね、またあるときは醍醐におもむいて三論宗の学匠 寛雅を、あるときは御室に華厳宗の名匠 慶雅をたずねなどして、一日も早く目的をはたそうと努められました。
しかし「智慧第一の法然房」、「ふかひろの法然房」と讃えられることはあっても、だれひとりとして上人の問いかけに心ゆくまで教えをたれてくれる人はいなかったのです。そのたびごとに重い足をひきずりながら黒谷にもどり、報恩蔵にとじこもって、さらに一切経を読みかえし、くりかえしその実践にはげんだのでしたが、「自分は仏教の基本である戒・定・慧 三学の器ではない」ことを痛感するばかりで、なんの進展も感じられなかったのです。
「昨日もいたづらに暮れぬ、今日もまたむなしくあけぬ。今いくたびか暮らし、いくたびかあかさんとする」という、失意絶望にも似たつよい自責のおもいにかられる日がながく続いたのでした。 不撓不屈 (ふとうふくつ) の上人は「この三学のほかに自分の心にぴったりあった法門はなかろうか。かならずや自分の身に適した修行があるはずである」と焦点をしぼって、求道の旅を続けられました。
『往生要集』に導かれて
上人はまえから関心をよせていた比叡山における大先達である 恵心僧都源信 (えしんそうずげんしん) (942-1017)があらわした『往生要集』を、こころひかれるままに熟読したところ、「 慇懃 (いんぎん) な 勧進 (かんじん) のことばは、ただこの称名の一段だけにある」ことをみぬき、これこそ『往生要集』の本意であるとうけとるまでにいたったのです。
しかし、称名によってかならず往生をなしとげることができるという断定については、源信はみずからのことばをもって語らずに、唐の善導大師(613-681)の「十人は十人ながら、百人は百人ながら、かならず往生することができる」という『 往生礼讃 (おうじょうらいさん) 』のことばを借りていることに、注目せざるを得ませんでした。称名による往生の得失というような重要事項について、断定をくだしている善導大師その人の宗教体験のふかさにこころひかれた上人は、「恵心を用いるともがらは、かならず善導に帰すべし」と、その心情を善導大師にかたむけるようになりました。 
浄土宗をひらく(43歳まで)
善導大師への傾倒は伝統という厚い壁をやぶることでもあったので、強い抵抗を廃除しつつ漸次かためられていきました。 師の叡空との間に観仏と称名との優劣について行われたはげしい論難往復は、その一つのあらわれでした。上人にとってこのような抵抗を廃除することよりも、称名による往生に関して自分のこころのなかに残って消えない疑いを、うちやぶることに懸命でした。つまり上人のこころのなかは、称名によってかならず往生が得られるという確たる証拠を、人の上にこの眼でたしかめたい、直接善導大師にお会いして疑いをはらしたいという気持ちで一杯でありました。
あるとき上人は、西山連峯の吉峯の往生院に 高声 (こうしょう) 念仏の行者である遊蓮房 円照 (えんしょう)をたずね、その霊験に接するとともに、称名による往生を眼のあたりにみとどけることを得て、称名往生に確信をいだくことができました。「浄土の法門と、遊蓮房とにあえることこそ、この世に生をうけた思い出である」と述懐された上人のこころは、このことを指しています。
善導大師に導かれて −「散善義」との出会い −
さらにこれと平行して一方では、国をことにするばかりでなく、六百年のへだたりのある善導大師にお会いする道はただ一つ、 遺 (のこ) された著作に接し、熟読して疑いをはらすよりほか道のないことに気付かれました。
上人はあちら、こちらと宝蔵をかけめぐって、善導大師の著作をさがし求められました。「ひろく諸宗の章疏を被覧し、叡岳になきところのものは、これを他山にたずね、かならず一見をとぐ。黒谷の宝蔵に欠くところの 聖教 (しょうぎょう) をば書写したてまつりて、これを補う」ほどの人であったから、比叡山のどこにも見あたらなかった『 観経疏 (かんぎょうしょ) 』『散善義』を、かろうじて宇治の宝庫にさがしだし、これを一度ならず、二度、三度と読みかえすうちに、「こころのみだれたままで、ただ阿弥陀仏のみ名をとなえさえすれば、本願のみこころによって、かならず往生ができる」という確信をもつにいたりました。ときまさに承安五年(1175)春、上人四十三歳のことでありました。
上人のこころのなかに成立した称名往生に関する確信によって、今までの疑いの雲はのこりなく晴れ、今までとはうってかわったこころの世界が展開するにいたりました。この宗教的回心をさして浄土開宗というのです。したがって浄土開宗とは、既成の他宗教団に対抗して新しく教団をうちたてようという組織的、計画的な意図によって行われたわけではないのです。上人の心底は「ただ善導和尚のこころによって浄土宗をたつ。和尚はまさしく弥陀の化身なり。所立の義あおぐべし。またく源空の今案にあらず」という一語につきるのです。 
大原談義(43〜53歳)
その後、上人は一求道僧として誰からの束縛もうけずに、自由に称名念仏に打ち込むべく、三十年このかた住みなれた比叡の山をおりて、西山の広谷というところに居を占められましたが、しばらくして東山の吉水に住房をうつして、ここを根拠とされることになりました。
「われ聖教をみざる日なし。木曾の冠者花洛に乱入のとき、ただ一日聖教をみざりき」と述懐されているように、嘉永二年(1183)、木曾義仲が京都に乱入した日以外は、称名念仏と聖教の読破にあけくれ、たまたま「たづねいたるものあれば浄土の法門をのべ、念仏の行をすすめる」という静かな生活を続けられていました。
大原談義
上人の日ぐらしはこのようでありましたが、その人格のひかりは暗夜のともしびのように、多くの群萌をひきつけ、その説く専従念仏の教えは各階層の人たちにうけいれられていきました。このなか、とくに南都北嶺の僧たちの注視の眼は、文治二年(1186)の秋、五十四歳の上人をとらえました。それは天台宗の 顕真 (けんしん) (1130〜1192)が発起して上人の主張を聴取し、たがいに意見を交換しようとして、三論宗の明遍(1142〜1224)、法相宗の 貞慶 (じょうけい) (1155〜1213)、天台宗の証真や湛がく (たんがく) 、さらに嵯峨往生院の念仏房(1157〜1251)、東大寺大勧進の俊乗房 重源 (ちょうげん) (1121〜1206)らを洛北大原の里、勝林院に招じて会合を催しました。世にこの会合を大原談義と呼んでいます。
ときに上人は居ならぶ各宗の碩学を前にして、諸宗の法門、修行の方軌、得脱の有様についてのべ、さらにこれに対して浄土の法門こそ現今、万人に適したただ一つの教え( 時機相応 (じきそうおう) の法門)であることを強調されたのです。
この主張は「教えをえらぶにあらず、機をはかろうなり」という上人のことばどおり、いくら教えの優秀さを誇っても、末法の今どき(時)、 人間 (にんげん) の 性 (さが) に翻弄されている自分自身(機)に堪え得ない教えであるならば、その教えは存在理由を失ってしまうというものでした。
成等正覚という深い宗教体験に輝きたもう大聖釈迦牟尼世尊が、すでにこの世を去りたもうて、その人格のひかりは時の経過とともに次第に消え去った現今(時=末法時)、そのひかりに包まれながら直接その教えを仰ぐことができない、いわば教えを乞う師大聖釈尊をもたない自分、しかも人間の性にふりまわされている自分(機=底下の凡夫)にとっては、ただひたすらに時機に適した教え、現在仏であり、しかもすべての 群萌(ぐんもう) をもれなく救いとろうとなさる阿弥陀仏の本願のみこころのままに、そのみ名を南無阿弥陀仏と高声にとなえるよりほかに、出離生死の道はひらかれないという、上人ご自身の体験からにじみでた意見でありました。
上人のこの主張に対して共感をもっても、 反駁 (はんばく) すべき道理は微塵もなく、来聴者にふかい感銘を与えて、この会合の幕は閉じられました。顕真や湛がくはただちに発起して、勝林院や来迎院で不断念仏を始めるという、予想だにしなかったもりあがりのある結果をみるにいたりました。これこそ上人が「機根くらべには源空かちたり」という述懐を証してあまりあると言えましょう。ともかく大原談義は一種の浄土開宗の宣言として、伝統の厚い壁の一画をうちくだいたことを意味するのです。それは上人が比叡山をくだられて十二年目の出来事でありました。 
東大寺での講説(54〜57歳)
浄土三部経の講義 ― 東大寺講説 ―
治承四年(1180)十二月、南都の東大寺や興福寺は 平重衡 (たいらのしげひら) のひきいる軍勢によって焼きうちにあいました。その翌年、東大寺の復興に上人を動員せしめようとする後白河院の内命がくだされましたが、上人はかたく辞退して、その大勧進職に俊乗房重源が推挙されました。
かくして東大寺の復興は重源を大勧進に仰いで進められましたが、文治六年(1190)、上人五十七歳のとき、後白河院の命による重源の特請をうけた上人は、まだ半作りの東大寺大仏殿の軒下で、三日間にわたり浄土三部経を講説されることになりました。ときに南都各宗の碩学や覆面した大衆は、自宗のことについて問いかけて、もしその解答にあやまりがあれば、恥をかかさんばかりの意気込みで会座につらなったので、会場には異常な緊張感がみなぎりました。
しかし上人はこともなげに、称名念仏こそ凡夫出離の最適の教えであることを、浄土三部経の講説をとおして披瀝(ひれき)し、教えが時機に相応してこそ、教えは人に生き、人は教えによって生かされる所以を強調されたのです。この講説はある意味で、南都の諸宗を相手とした浄土開宗の宣言でもありました。今日伝えられている「浄土三部経釈」というのは、このときの講録です。重源はこの翌年、上人に対して十箇条にわたる疑問を提出したので、上人はこれに解答をよせられました。世にこれを『東大寺十問答』といっていますが、その記録は現在に伝わっています。 
上人の活躍と弟子たち(57〜65歳)
法然上人の門弟たち
法然上人はすでに黒谷におられるころから弟子をもっておられました。たとえば上人におくれて叡空のもとに弟子入りした法蓮房信空(1146〜1228)や西仙房心寂は、師の没後に上人の弟子となりました。また承安元年(1171)、上人三十九歳のときには真観房感西(1153〜1200)が弟子入りしました。さらに上人が醍醐に寛雅をたずねられたとき同道した阿性房印西といった人たちも、上人の身辺をとりまいていました。いろいろの階層の人たちが弟子入りしたり、帰依者となったのです。法談に耳を傾け、彼らの称名の声によって上人の身辺が活気づき、道交をふかめるようになるのは、なんといっても、大原談義をさかいとしてそれ以後のことでありました。そのおもだった人たちを、上人の活躍にそってあげてみましょう。
上人は、大原で不断念仏が行われていることを伝えきいた後鳥羽帝の皇姉、上西門院(統子)のお召をうけて浄土の法門を言上されました。それは大原談義がすんで一、二年のうちのことでありました。文治五年(1189)には上人と九条兼実(1149〜1207)夫婦の道交が始まり、ついに上人をして「九条殿と私とは、さきの世からの間柄である」とまで語らしめるほど、親しい関係をむすぶにいたりました。
翌建久元年(1190)に上人は、清水寺における説戒の会座で念仏を勧められたところ、寺家の大勧進沙弥印蔵は感激して、不断念仏を始めるようになりました。またのち西山義の始祖と仰がれる善恵房 証空(しょうくう) (1177〜1247)が、十四歳で弟子入りしたのもこの年でありました。その翌年上人は、兼実の娘で後鳥羽帝の中宮となった宣秋門院(任子)に戒を授けられました。
建久三年(1192)、上人は大和前司親盛入道見仏の招きをうけて、後白河院の追善菩提のために、八坂の引導寺において別時念仏を修し、 六時礼讃 (ろくじらいさん) を行いました。このときが礼讃 諷誦 (ふじゅ) の始まりです。また京都に大番勤仕中の武蔵国御家人、甘糟太郎忠綱が比叡山堂衆の横暴の鎮圧にでむく途中、上人に教えを乞うたのもこの年でありました。
ついで翌年には源頼朝麾下(きか)の豪のもの熊谷次郎直実(〜1208)が、頼朝がとった待遇に対する不満や境地争いに敗訴したので逐電入洛し、 聖覚 (せいかく) (1167〜1235)の紹介で上人の門をたたき、出家して 蓮生 (れんせい) と号しました。
さらに建久六年(1195)には頼朝の御家人、津戸三郎為守(1143〜1242)が東大寺供養に出席する将軍に供奉して上洛中、縁あって上人の門に入ったり、平家没落後、平重盛の孫にあたり、のち上人に常随給仕する人となった勢観房 源智 (げんち) (1183〜1238)が、十三歳で上人の弟子となりました。その翌年に上人は東山の霊山寺で三十七日におよぶ別時念仏を行いました。
さらに翌年には、浄土宗の第二祖と仰がれる聖光房 弁長(べんちょう) (1162〜1238)が、三十六歳にして上人の門をたたき教えをうけ、師弟のちぎりを堅くむすびました。
かくして上人の教えは、年とともに遠近を問わずひろがり、次第に念仏者とその支持者を増加せしめました。このことは上人の好むといなとに拘らず、仏教界内外にたいして新しい勢力を形成しつつあったことを示す物であります。 
建久九年のできごと(65〜66歳)
選択集の撰述
建久八年(1197)、老齢六十五歳の上人は病いになやまれたことがありました。ときに九条兼実はいたく心配されましたが、回復された様子をみとどけて、「浄土の法門については年来うけたまわっているが、まだ心にとどめ得ない点があるので、なにとぞこの際、肝要なことについて記述していただきたい」と懇請されました。上人は門弟の感西や証空や遵西の三人を動員し、執筆の助手役をつとめさせ、 撰述 (せんじゅつ) にとりかかられました。ようやく翌九年春、一部十六章からなる『 選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう) 』が脱稿されました。(この草稿本は京都の廬山寺に蔵されている)
上人の宗教体験の一部を記録した非公開の書『 三昧発得記 (さんまいほっとくき) 』(建久九年一月一日から元久三年正月までの記録)によると、上人はこの『選択集』撰述のさなかである建久九年一月一日から三七日間、毎日七万遍の念仏を行い、称名念仏中に浄土の聖相をまのあたりにみとめられたのです。上人のこの見仏は三昧中のできごとで、称名の行者の不求自得であり、あえて観察の意図があってのことではありませんでした。
ともかく、上人が『選択集』撰述のさなかに三昧中の人であったということは、この書が、上人の深い宗教体験によって裏付けられていることを物語るものであり、「念仏の行、水月を感じて昇降を得たり」という『選択集』巻末のことばは、この辺の消息を伝えるものです。
さらに上人はこの『選択集』撰述のあと、その年の四月に『 没後遺誡文 (もつごゆいかいもん) 』を、また五月に『 夢感聖相記(むかんしょうそうき) 』をしたためられました。前者はいわゆる遺言に属するものですが、上人があえてしたためられたということは、老齢もさることながら、前年からの病いがわざわいして、健康にご自信がなかったためであろうとも思われます。また後者は上人が夢中に半金色の聖者善導大師に会いたもうた体験を記録したもので、四十三歳浄土開宗に直接かかわりのある内容をもつものです。上人が二十数年も以前の体験を、記憶をたどってしたためられたということは、
『選択集』第十六章私釈段でふれられた「 偏依 (へんね) 善導一師」ということに関するあかしの必要性を痛感されたからでしょう。
『選択集』一部の要旨は
おもんみれば、それすみやかに生死をはなれんと欲せば、二種の勝法のなかには、しばらく 聖道 (しょうどう) 門をさしおきて選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば正雑二行のなかには、しばらくもろもろの雑行をなげうちてえらんで正行に帰すべし。正行を修せんと欲せば正助二業のなかには、なお助業をかたわらにし選んで正定をもはらにすべし。正定の 業 (ごう) とはすなわちこれ仏名を称するなり。名を称すればかならず生ずることを得。仏の本願によるが故なり。
という一文につきます。「諸師文をつくるにかならず本意一あり。予は選択の一義をたてて選択集をつくるなり」という上人の述懐のように、この書は選択という取捨をもってつらぬいています。生死を出離することについて仏教が説き示す数多い実践のなかから、とくに称名の一行を選びとるのは、あらゆる群萌をもれなく救いとろうとなさる阿弥陀仏の本願のみこころがなさしめたのです。この阿弥陀仏のみ心などについて八種の選択義を説いておられます。
このように『選択集』は阿弥陀仏が示したもうた選択のみこころを開顕するものであり、他面これほど真剣に生死をはなれるただ一筋の道を発見することにとりくんだ書は稀れであります。
しかし選択という取捨をもって臨むところに危険性をはらんでもいました。上人が「こいねがわくば、ひとたび御高覧をへてのち、壁底にうづめて窓前にのこすことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」という一文で、この書をむすんでいることによって察せられましょう。なぜならば、阿弥陀仏の本願のみこころを説かない天台や真言などの諸宗の教えや、また諸宗で説くところの生死を出離するための実践行をすべて選捨するのが、この書の建前であるからなのです。
ともかく『選択集』は兼実の要請によって撰述されたのですが、その内容はけっして兼実一個人を対象としたものでなく、いわゆる「念仏のひとりだち」を 闡明(せんめい) にした、浄土開宗の宣言書であり、専修念仏者の聖典であります。 
あいつぐ法難(67〜75歳)
『選択集』撰述後も上人は、念仏三昧の人として自ら実践し、さらに他の多くの人を導くこと(自行化他)につとめられました。正治二年(1200)、念仏によって往生することは本望であるが、上人に先だってみまかれば、上人のご臨終、続いて没後の追善はおろか、平常のお給仕すらできない、といって気をやむ病床の愛弟感西に、上人は自分の往生は御房の生没にかかわりないのであるから、こころおきなく念仏を相続せよと、いたわるようにはげまし、臨終の善知識となられました。この秋には大番勤仕のため上洛中であった上野国の御家人、薗田成実が上人の門に入りました。
元久元年(1204)二月、上人は伊豆山源延のために『浄土宗略要文』をしたためられました。上人は専修念仏に対する既成教団からの弾圧の強まることを肌に感じられたので、八月に膝下にあって六ヵ年受教した弁長を 鎮西 (ちんぜい) に帰国させました。弁長は帰国ののち教化活動をこころみましたが、かの地には上人から直接受けた法を素直に伝えない一念義や、金剛宝戒という邪義がひろがっていました。ともかくこのことは、京都をはじめ各地に伝播していた念仏の教えすべてが、上人の真意を伝えるものばかりでなく、かえって上人の名をかりた異説のあったことを物語っています。
元久の法難 ― 制誡七箇条 ―
はたせるかなこの年の十月、叡山三塔の大衆が 専修念仏 (せんじゅねんぶつ) の停止を、ときの天台座主真性に申請しました。上人は彼らのいきどおりをしずめるために、翌月門弟たちを集めていましめ、七箇条からなる制誡をつくり、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送られました。なぜ専修念仏の停止がさけばれるにいたったかについては、七箇条の制誡の上に読みとることができます。
それによると、念仏以外の行や阿弥陀仏以外の信仰対象をそしったり、念仏以外の行を実践している者を雑行人とののしったり、折伏したり、強いて念仏門にひき入れようとしたり、あるいは阿弥陀仏の本願をたのむ者は造悪をおそれないといって婬酒食肉を勧めたり、上人の説に違反して自分勝手な説(背師自立義)をとなえたり、あまつさえ上人の説といつわる者が続出していたことを知ることができます。
これらは上人の専修念仏に便乗する似て非なる者たちの言行でありますが、その被害者である叡山の衆徒たちは、その責任を上人にとらそうと立ちあがったわけです。
ともかくこの念仏停止の運動は、上人を庇護しようとした兼実が座主に宛てた消息もあって、一応さけることができました。このとき、 安居院 (あぐい) の聖覚法印は法然の命を受けて『登山状』を撰して天台座主のもとに送りました。
興福寺奏状
翌元久二年(1205)正月、上人は霊山寺で別時念仏を行い、八月に入って北白川の二階房で、寒熱が日をへだててきまった時間におこるという一種の熱病にかかられたことがありました。
ついで十月には南都興福寺の衆徒が、後鳥羽院に念仏禁断の奏状に九箇条の過失を書きそえ、上人およびその門弟、とくに法本房行空と安楽房遵西の処罰を強訴しました。その内容は勅許(ちょっきょ)を得ないで一宗をたてたこと、摂取不捨曼荼羅―専修念仏者だけが阿弥陀仏の光明によって救われ、これに対して念仏以外の諸善を行ずる者は光明を預からないことを絵画的に表現したものが流行していること、諸行をもって往生業としないで、称名一辺倒であること、最低の不観不定の口称念仏を勧めることは、最上の観念をすてることであり、念仏の真意をあやまること、阿弥陀仏の名号やその浄土のことを説き示された本師である釈尊を等閑視していること、宇佐や春日などの宗廟大社― 本地垂迹 (ほんじすいじゃく) の神々を礼拝しないなどです。この奏状を八宗同心の願いであるとしたのは、単なる一宗一派の奏状でなく、既成の仏教教団すべての要請であることを示すためでありました。
この年の十二月に専修念仏者の庇護を内容とする宣旨がくだされ、かえって衆徒たちの不満をつのらせたのでした。翌年二月、法本房行空と安楽房遵西が召しだす御教書が発せられ、上人は行空だけを破門されました。ついで衆徒たちは五師三綱を代表にたて、宣旨の内容が寛大なることをするどくつくとともに、念仏禁断の宣旨をくだすべきことを院宣奉行の責任者三条長兼や摂政である九条良経を相手に交渉せしめたのであります。
建永の法難
良経らは念仏禁断の件について慎重に評定をかさねていましたが、三月に急死され、かわって摂政についた近衛家実らによって諸公卿の意見聴取がすすめられました。緊迫した情勢下におかれた上人は、七月に入って兼実の別邸小松殿に移って庇護されることになりました。八月になると衆徒の代表は早急に宣旨をくだすべきことを要請しました。
そうしたなかにあって上人は、十一月に内大臣西園寺(大宮)実宗の戒師をつとめられましたが、翌十二月、門下の住蓮と安楽房遵西の二名が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と密通したという(捏造)事件がもちあがったので、上人はその責任を免れることができませんでした。兼実は免罪運動を行いましたが、功を奏せず、ついに翌建永二年(1207)二月十八日、上人の四国配流が決定し、安楽房遵西は六条河原で、住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。 
上人の配流・赦免・入滅(75〜80歳)
法然上人の意志
配流の決定した上人は 還俗 (げんぞく) せしめられて藤井元彦という俗名が与えられました。同門の道俗たちのなげきはふかく、老齢の上人に対する気づかいはひとしおでありました。ときに門弟が上人に、「一向専修念仏を停止する旨奏上し、内々に念仏教化なされては」と申し上げたところ、上人は悠々せまらず、「私は流刑を少しも恨んではいない。流罪によって念仏を辺鄙な地方に化導できることは、またとない結構なことである。これはまさに朝廷のご恩とうけとるべきではないか」とさとされました。この上人のことばに柔軟な態度とたぎるような使命感を感じることができます。
またある門弟にたいして「たとえ首をきられるとも、念仏のことだけは言わなければならない」とするどい気魄を示され、聞く人たちをして襟をたださしめました。さらに上人は自分の身のことを気づかっている人たちに、「老齢のことであるから、同じ都に住んでいようと、流罪地にあろうと死ぬときは死ぬのである。今生の別れに気をとめるよりも、お浄土での再会を約束すべきではないか。生きている間は、たとえ遠く住所をへだてていても、南無阿弥陀仏とみ名をとなえるもの同志は、いつもみほとけの慈光のもとにかたく結ばれていることを忘れず、念仏をはげむべきである」と、ねんごろにさとされました。兼実は一夜、上人を法性寺の小御堂に招じてもてなし、別れを惜しまれました。
京を離れて
三月十六日、多くの道俗の涙ながらのみおくりをうけた上人は、下鳥羽から川船で淀川をくだり都をあとにしました。摂津の経ヶ島(神戸市兵庫区)で村人を、播磨の高砂(兵庫県高砂市高砂町)で漁夫を、さらに同じく室の泊(兵庫県揖保郡御津町室津)で遊女をみちびき、同月二十六日讃岐の塩飽島(香川県丸亀市本島町)につき、地頭高階入道西仁の館に入り、のち四国にたって小松庄の生福寺におちつき、教化をかさねられました。流罪の身ではありましたが自由に教化ができてありがたかったと上人は受けとられました。しかし上人にとって、兼実の死(四月五日)をなによりいたまれました。
同年十二月八日、赦免の宣言がくだりましたが、洛中に往還することはかたく禁じられていました。ともかく上人は宣旨のままに摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)の二階堂におちつき、四年の歳月を送られました。この間の上人の心境は、「柴の戸をあけくれかかる白雲を、いつ紫の色にみなさん」という三十一文字の歌につきます。来り迎えたもうみ仏を思慕し、心ゆくばかり念仏を続けられた上人の心情が伺われます。また宇都宮頼綱は、上人を勝尾寺にたずねて念仏の人となりました。
帰京 ―『一枚起請文』撰述と法然上人入寂 ―
建暦元年(1211)十一月十七日帰洛を許された上人は、その月の二十日、五年ぶりに京都の地をふまれましたが、旧居吉水の禅房はほとんど荒廃していたので、『 愚管抄 (ぐかんしょう) 』の著者であり、兼実の弟にあたる青蓮院慈円(1155〜1225)の厚意にあまえて大谷の禅房(知恩院勢至堂)に入られました。門弟をはじめ念仏の道俗のあたたかい出迎えに、再会のよろこびをふかくされました。
ご老齢と所労がかさなって上人は翌年の正月から病床につかれました。底冷えのきつい京都、湿気の多い華頂山の禅房の冬は、老齢の上人にとって堪えがたいところでありましたでしょう。高弟の信空は最悪の事態を予期して、「ご入滅ののちは、どこを上人のご遺跡といたしましょうか」とたずねざるを得ませんでした。上人は「私の生涯は専修念仏の 弘通 (ぐつう) にある。遺跡はといえば、念仏の声するところがすべて皆、私の遺跡である」とまで答えられました。
上人の本懐の面目これに過ぎるものがありましょうか。
病床にふした上人の口からはたえず称名の声が聞かれ、枕辺に居ならぶ門弟たちの念仏のはげましとなられました。
「私は極楽から来た身であるから、やがて極楽に還ることは当然である」とも語られました。老衰は日を追うて加わり、二十三日から重態におちいられました。常随給仕首尾十八年の門弟源智は、念仏の肝要について一筆書きとどめて頂きたいと、上人に懇願しました。上人はこともなげに半身をおこして、
もろこし我が朝に、もろもろの智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず、また学文をして念の心を悟りて申念仏にも非ず、ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申て、疑なく往生するそと思とりて申外には別の子さい候はす、但三心四修と申事の候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するそと思ふ内に籠り候也 此外におくふかき事を存せは二尊のあはれみにはつれ、本願にもれ候へし 念仏を信せん人はたとひ一代の法を能々学すとも 一文不知の愚どんの身になして 尼入道の無ちのともからに同して ちしやのふるまいをせすして 只一かうに念仏すへし
   為証以両手印
   浄土宗の安心起行 此一紙に至極せり
   源空か所存此外に全く別義を存せす
   滅後の邪義をふせかん為めに 所存を記し畢
   建暦二年正月二十三日  源 空 花押
と、生涯の主張を簡潔に言いつくした『一枚起請文』をしたためられました。
かくして同月二十五日午の正中、頭北面西、
「光明へん照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
の経文をとなえ、眠るがごとく示寂されたのでありました。ときまさに建暦二年(1212)正月二十五日、上人八十歳でありました。 
滅後の法難
『選択集』開板印行
上人がなくなられた年の九月、その主著である『 選択集 (せんちゃくしゅう) 』が開板印行され、大きな波紋をなげかけました。真言の静遍(1166〜1224)や天台の明禅、三井園城寺の公胤(1145〜1216)などは専修念仏を心よく思っていませんでしたが、ひとたび『選択集』をひもといて専修念仏の人ととなりました。栂尾の明恵高弁(1174〜1232)は、上人の智慧と戒徳のすぐれていることに敬意をはらっていましたが、『選択集』をみるにおよんで、専修念仏の道俗が主張する邪見、邪説こそ『選択集』にそのみなもとがあるとし、建暦二年に『 摧邪輪 (ざいじゃりん) 』三巻を、また翌年には『 摧邪輪 (ざいじゃりん) 荘厳記 (しょうごんき) 』一巻を撰しました。
このような『選択集』に対する批難はあとをたたず、『弾選択』を書いた天台の定照、『立正安国論』をあらわした日蓮らが続きました。定照に論争をしかけられた長楽寺隆寛(1148〜1227)は、『顕選択』をあらわして『弾選択』を批判しました。この『顕選択』は叡山の衆徒の反発をひきおこしました。彼らは専修念仏者をみつけ次第、ところかまわず黒衣をひきさくなどの乱暴をはたらいたのです。
嘉禄三年(1227)六月二十二日には上人の墳墓を破却したり、七月六日には陸奥国へ隆寛を流刑にしたり、また叡山大講堂前で『選択集』の板木を焼却したりしました。
嘉禄の法難
上人の遺骸を鴨河へ流すという計画があったので、信空や覚阿らが相談し上人の遺骸を嵯峨の地に移しました。ときに宇都宮頼綱入道 蓮生 (れんしょう) 、千葉入道法阿、渋谷入道道遍、内藤入道西仏など関東御家人の念仏者が警備にあたって、 太秦 (うずまさ) の地に運ぶことができました。
翌年(安貞二年1228)正月二十五日、上人の十七回忌を ト (ぼく) して、西山粟生野の幸阿のもとに遺骸をうつして、ここで信空、証空、覚阿らの門弟がみまもるなかで荼毘に付せられるにいたりました。 
 
知恩院

 

み教え
月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ
この和歌は法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌です。
月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味です。
法然上人は「月かげ」のお歌に、『観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」のこころを説き、私たちにお示しくださったのです。
法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力のある者だけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは全く違ったものでした。
「南無阿弥陀仏」と称えればみな平等に救われる・・・。法然上人のみ教えは貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられ、800年を経た今日も、そのみ教えは多くの人々の「心のよりどころ」となっているのです。 
知恩院
法然上人は平安の末、長承2(1133)年4月7日、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄に押領使・漆間時国(うるまのときくに)の長子として生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸が9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」。
この言葉に従い勢至丸は菩提寺で修学し、その後15歳(一説には13歳)で比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。はじめ円明房善弘(えんみょうぼうぜんこう)と名乗りますが、久安6(1150)年18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の名を授けられられました。叡空のもとで勉学に励んだ法然上人は「智恵第一の法然房」と評されるほどになり、以後、遁世(とんせい)の求道生活に入ります。
この時代は政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から阿弥陀仏のご本願を見いだします。それは「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道でした。承安5(1175)年、上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。
法然上人はこの専修念仏をかたく信じて比叡山を下り、吉水(よしみず)の禅房、現在の知恩院御影堂(みえいどう)の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実(くじょうかねざね)などの貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れ、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。
加えて、上人の弟子である住蓮、安楽(じゅうれん、あんらく)が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、建永2(1207)年、上人は四国流罪の憂き目にあいます(建永の法難:けんえいのほうなん)。5年後の建暦元(1211)年に帰京できましたが、吉水の旧房は荒れ果てており、今の知恩院勢至堂(せいしどう)のある場所、大谷(おおたに)の禅房に住むことになりました。翌年、病床についた法然上人は、弟子の勢観房源智上人(せいかんぼうげんち)の願いを受け、念仏の肝要をしたためます。それが「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)です。そして建暦2(1212)年正月25日、80歳で法然上人は入寂されたのです。
門弟たちは房の傍らに上人の墳墓をつくりましたが、その15年後、叡山の僧兵により墳墓が破却されそうになったため、弟子たちは亡骸を西山粟生野(せいざんあおの)に移し、荼毘にふします。その後、文暦元(1234)年、源智上人は、荒れるがままの墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建て、知恩院大谷寺と号し、法然上人を開山第一世と仰ぐようになりました。知恩院の名は、遺弟たちが上人報恩のために行った知恩講に由来します。
ところで、法然上人を祖師と仰ぐ浄土宗の総本山として、知恩院の地位が確立したのは、室町時代の後期とされており、また、知恩院の建物が拡充したのは、徳川時代になってからのことです。徳川家は古くから浄土宗に帰依しており、家康は生母伝通院(でんつういん)が亡くなると知恩院で弔い、また亡母菩提のため寺域を拡張し、ほぼ現在の境内地にまで広げたのです。その後も火災に見舞われるなど、伽藍にいくたびかの盛衰はありましたが、多くの人々の支援によって乗り越え、800年以上、念仏の教えはここに生き続けてきました。
法然上人の御心を受け継ぎ、私たちに生きる喜びをよみがえらせてくれる念仏のふるさと、知恩院。きょうも、人々の心にすがすがしくあたたかい光を照らし続けてくれます。 
大遠忌の歴史
生前に「念仏の声するところ、みな予が遺跡なり」と言い、死後に供養を受けることを望まなかった法然上人でしたが、弟子たちはやはりご供養したいと思うものです。
50年ごとに、人々はお祖師様のご年忌を盛大にご供養してきたのでした。古くは100回忌・200回忌の記録も残っています。あいにく寛永10年(1633)の大火のときに、御影堂、集会堂、方丈などの堂宇とともに知恩院の古記録も焼失してしまいましたが、万治4年(1661)の450回忌以降のことは、書簡や図録などから様子を知ることができます。
法要の形態は、宝永8年(1711)の500回忌のときに定められて以来、平成23年(2011)の元祖法然上人800年大遠忌まで変わらず受け継がれております。しかし、図録や写真を見ると、参詣者の服装は時代とともに変わっています。遠忌を迎える人々の想いも、時代時代で異なっていたことでしょう。
800年前 / 報恩の想いは時とともに盛んに
50年に1度の法然上人の大遠忌―――その歴史をたどりゆけば今から800年前に遡ります。
建暦2年(1212)1月25日に法然上人がご入滅されたとき、遺された弟子たちは悲しみにくれます。師の報恩のため、弟子たちの長老であった法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)が中心となり、世間の風儀に順じて七日七日の仏事をお勤めいたしました。 月忌には追善法会「知恩講」が御廟堂周辺でいとなまれました。月忌の法式を定めた『知恩講私記』は、のちの時代に遠忌法要が確立されるときに影響を与えることになります。翌年には1周忌、さらに翌年には3回忌がお勤めされており、その後も、50回忌、100回忌、150回忌と、 節目ごとの法要は欠かさず行われています。
大遠忌の歴史とはいわば、800年という時間の中で、先達が変わることなく法然上人を讃えてきた道筋を示すものといえましょう。
もっとも、念仏の元祖 法然上人を仰ぐ想いは同じでも、歳月とともに法要のあり方は変化します。
800年の歴史の中で転換点となったのは、大永4年(1524)に当時の天皇である後柏原天皇より出された「大永の御忌鳳詔(ぎょきほうしょう)」でした。 これは、天皇の命により「知恩院にて法然上人の御忌を7日間にわたって勤めよ」と定めるものであり、 以降、毎年1月18日から25日まで法然上人の忌日法要がお勤めされることになります。 もちろん、50年ごとの遠忌も例外ではなく、この詔勅に基づいて行われます。なお、明治10年以降は法要期間が厳寒の1月から陽春の4月に変更されています。
江戸時代になると、徳川家康公と縁の深かった知恩院は、慶長8年(1603)に7万3千石(現在の通貨に換算して約146億円)という大規模な寄進を受け、 御影堂、集会堂、大方丈、小方丈といった大伽藍をいくつも建立します。このときには、山地を平地化するための大工事も併せて行われ、 境内はほぼ今日の形に整えられました。
知恩院は京都東山の中腹に位置するので、多勢の参詣者を迎え入れるのには地形的に適しません。 にもかかわらず、後述するように、1日に10万人をかぞえる遠忌法要の参詣者をも境内に収容できるのは、この造成に由来するのです。
その後、慶長12年(1607)には家康の奏請により知恩院に宮門跡を置く運びになり、慶長16年(1611)、知恩院は法然上人の400回忌を迎えます。 浄土宗の寺院は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて全国で多く開創されており、400回忌の頃は知恩院のみならず、浄土宗全体が発展を遂げた時期でした。 新たに造成された伽藍での法要はさぞ盛大だったろうと偲ばれるのですが、あいにく、知恩院は寛永10年(1633)に大火に遭い、記録を消失しています。
50年後の450回忌のおりには、知恩院から浄土宗末寺へ上洛し登嶺するようあらかじめ達しがあり、全国から知恩院へと来集して法要がお勤めされたと伝えられています。
350年前(450、500回忌) / 念願の大師号下賜と法式の確立
盛況だった450回忌のとき、当時の知恩院宮門跡 尊光法親王(そんこうほっしんのう)には1つの願いがありました。 それは、法然上人への贈官と勅会法要(ちょくえほうよう:朝廷から勅使を迎えての法要)によって遺徳を讃えたいということでした。 尊光法親王は幕府の内諾を取り付けようとはかったものの、残念ながらこのときはかなわぬ夢に終わります。
尊光法親王亡き後もこの願いがやむことはなく、幕府への上奏を重ねたところ、ご入滅から486年が経った元禄10年(1697)1月18日、 ついに「円光大師」の大師号が下賜されました。平安時代に朝廷と結びつきの強かった天台宗と真言宗では、「伝教大師」「弘法大師」などの宣下がありましたが、 それ以外の宗派では大師号の下賜は初めてのことでした。 当時知恩院の住職だった秀道(しゅうどう)上人は、あふれる喜びを「宗門の光花、比類なし」という言葉で記しています。
大師号の下賜に知恩院が沸いてから14年後の宝永8年(1711)には、法然上人の500回忌を迎えます。
このときも贈号と勅会法要によって遺徳を讃えたいという願いは強く、先の諡号(しごう)宣下からわずかの歳月しか経っておりませんが、 請願を出したところ認められ、「東漸(とうぜん)大師」と加諡(かし)されることとなりました。
知恩院における法然上人の遠忌は、ここに確立されることになります。500回忌以降の50年ごとの遠忌法要には必ず大師号が下賜されてきましたし、 勅会法要も万延2年(1861)の650回忌まで続きました。遠忌法要の形態についても、声明(しょうみょう)を中心とした法式が500回忌のときに整えられています。来る平成23年の800年大遠忌もこの法式を力強く継承いたします。
また、500回忌のときには、阿弥陀堂を御廟堂周辺より現在の位置に移し、御廟堂の修復と拝殿の新築も行っています。 霊元上皇ご親筆の「華頂山」の額が知恩院三門に掲げられたのもこのときでした。
江戸時代(550、600、650回忌) / 江戸時代の遠忌をめぐって
江戸時代の遠忌法要を記したものに『華頂山大法会図録』があり、550回忌、600回忌、650回忌と遠忌のたびごとに3度刊行されています。
その中には「勅使参堂の儀といい、勅修法会の式といい、またとない壮観で、浄土宗の盛事」であったと、その賑わいぶりが記されます。 勅使が御影堂中心に座りそれを満堂の僧侶が取り囲む図から、法要の厳粛さが伝わります。
遠忌に参詣したのは僧侶だけではなく、大衆も多く含まれていました。鉦(しょう)を叩き太鼓を打ちながら六斎念仏(ろくさいねんぶつ:現在の楷定念仏の源流をなすもの) を愉しむ人々の姿が記録されています。
ところで、この図録は、遠忌のたびごとに3度刊行されていながら、意外なことに、朝廷からの勅使の名前が変わっているなどの若干の改訂以外は、 図と文章にほとんど変更がありません。遠忌の様式が確立され、固定化されたことを示すものと考えられます。 一方、その陰で、法然上人の命日法要である御忌法要が浄土宗内で広くつとめられ、本山参りも盛んになるよう―特に、 遠忌の前後の時期に―努力がなされていたことは見逃せません。その証拠となるものを2つ紹介しましょう。
まず1つは、法然上人ゆかりの二十五霊場めぐりです。
法然上人の二十五霊場は、 僧 霊沢(れいたく)が550回忌を機に発起し、翌年の宝暦12年(1762)に創設されました。巡拝を通じて、ご誕生からご入滅までのご足跡を知り、正しい念仏信仰を持つようにと願ってのことでありました。 また、明和3年(1766)に『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』という霊場めぐりのガイドブックが刊行され、ゆかりのある二十五の霊場を選定するだけでなく、それぞれに法然上人ご自詠のご詠歌を1つずつあて、教化の一助とされています。 昭和49年(1974)浄土宗開宗800年を記念し再興され、その後この法然上人二十五霊場の巡拝は、現在まで盛んに続けられております。
また、600回忌を5年後に控えた文化3年(1806)には、毎年の御忌法要および50年に1度の遠忌法要を全国の寺院と檀家に浸透させるため、 『御忌勧誘記』が知恩院から刊行されています。「このたびの遠忌を報恩のことはじめとして、以後は毎年家ごとに御忌をつとめるように」 などと心構えが説かれている他、「新しい衣服を用いるか、洗い清めたものを着るように」「よく手を洗い口をすすいでから仏前に出なさい」と、 御忌をつとめるときの細かい作法までも記されています。もちろん、「知恩院をはじめ京都の本山の御忌や遠忌に参詣するように」との記述もあり、 そのためにはあらかじめ路銭を月掛けで蓄えておくようにと指示しています。
こうした霊場めぐりや本山参拝のガイドブックに促されて、遠忌に参詣した人は多かったことでしょう。 そして、次の時代に交通網が発達したとき、参詣の気運はいよいよ高まることになります。
明治時代(700回忌) / 鉄道時代の遠忌
江戸時代から明治時代に変わっても遠忌法要それ自体は過去を継承する形で行われます。が、欧米から輸入された科学技術が社会を一新させたことで、 遠忌を取り巻く雰囲気も変わりました。特に、交通網や通信網が発達したことは、参詣者へ大きな影響を与えました。
明治44年(1911)、明治時代になって初めての遠忌を迎えます。法然上人の700回忌は、奇しくも親鸞聖人(1173〜1263)650回忌の年にもあたり、 開通した鉄道を利用してかつてない規模の団体参詣者が京都に集まることが予想されました。事前に入念な準備が進められ、団体参拝に関する諸規定を取り決めた上で、明治43年7月には全国の浄土宗寺院に通達を出し、法要期日が3月1日から7日と4月19日から25日であり、団体参拝はこのうち前期のみで受け付ける旨を伝えています。
知恩院と東西本願寺の3つの遠忌法要のために鉄道を利用する団体は、遠忌法要まであと半年と迫った明治43年10月時点の見込みで、60万人にも達しました。 京都駅のみでは参詣者をとても収容しきれないことが判明し、急遽、梅小路駅が設けられることになります。旅館等の宿泊施設も当然不足するので、寺院に依頼して補っています。
遠忌法要は盛大を極め、特に前期1週間の中日に行われた庭儀式は「前代未聞の盛儀」「ただ見る満山これ人」で、この日1日で参拝者は10万人を超えました。 前期1週間を通じてでは、50万人の人出だったと記録されています。写真を見れば、境内を埋め尽くす参詣者に驚きを禁じえません。
1000人を超える布教師が登嶺し、知恩院およびその周辺での記念伝道に励んだ事も、この遠忌の特徴です。 50年後の750回忌の時に知恩院門跡をつとめることになる岸信宏上人も教化活動につとめられ、後に振り返って次の言葉をのこされています。
「この前の明治44年の700年御遠忌当時は、宗教大学に在学中で、全校こぞって知恩院へ参拝し、鹿ヶ谷にあった仏教専門学校を宿舎にして、 期間中毎日知恩院へ通い、天幕伝道や団参のお世話をしましたことを覚えています。」
700回忌の記念事業として、全国の檀信徒から浄財を募り、御影堂修理と阿弥陀堂建替えと華頂女学校の建設が実施されています。
明治時代になって徳川家の後ろ盾を失い、江戸時代と同じように大師号が宣下されるか心配されましたが、重ねて上奏したところ「明照大師」と諡(おくりな)されました。御影堂内部に掲げられる「明照」の額は、明治天皇崩御ののちに、大正天皇より下賜されたものです。
昭和時代(750回忌) / ヌーベル・バーグ時代の遠忌
750回忌がいとなまれたのは昭和36年のことです。およそ50年前の遠忌ですから、この文章をお読みいただいている方々の中にも、参詣された方はいらっしゃることでしょう。
明治時代の遠忌は、鉄道の開通によってかつてないほど多勢の参詣者を迎え入れました。それから50年を経た750回忌について新聞記事は、「大遠忌もヌーベル・バーグ時代とあって」と、 その様子を伝えています。
「ヌーベル・バーグ」とは今では馴染みのない言葉ですが、訳せば「新しい波」であり、 当時のフランスの映画界の新しい潮流を指していうものでした。もちろん、基本となる法要形式は伝統にのっとるわけですが、その環境は、 時代色をふんだんに取り入れた新しいものだったのです。
電気オルガンと合わせての音楽法要があったり、有線テレビが境内18ヶ所に設けられ、堂内に入りきれない参拝者に法要の様子を伝えたり、 飛行機をチャーターして花環とメッセージを投下したり―――今までにない試みが盛り込まれていました。花電車が走ったという記録もあります。 「空陸呼応の立体法要」という新聞の見出しは、今読むと大げさにも思えますが、当時としては新鮮な驚きがあったのでしょう。
参詣者の姿は、着物を着て襟には各参拝団名を記し、 数珠を手にして全国から登嶺するといった具合で、明治時代の遠忌が、尻絡げ(しりからげ)に信玄袋といった風俗だったのとは、大きく趣が変わりました。
しかし、多勢の参詣者が登嶺されたことに変わりはなく、3月1日から1週間の遠忌法要期間の参詣者総数は30万人とも50万人とも言われています。
しかしながら、750回忌のときに果たした歩みの中で最も意義深いことは、第2次世界大戦後分裂していた浄土宗が1つの教団に復したということでしょう。 合併後、最初の浄土門主に推戴された岸信宏知恩院門跡は、これについて次のように語られました。
「いよいよ元祖法然上人750年御遠忌大法要を目の前に迎うることとなりました。…中略…浄土宗が大きく2つに分れているということは何としても遺憾のことでありまして、 またもとの1つの浄土宗の教団に還って、このたびの御遠忌を迎えたいという要請が期せずして浄土両宗団の中に起り、合同の交渉が十余年の間、続けられたのであります。」
そして、大師号も下賜されました。「和順大師」です。知恩院の宿坊である「和順会館」はこの大師号に由来します。 
知恩院の七不思議
鴬張りの廊下 / 仏の誓い
御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、全長550メートルもの長さがあります。歩くと鶯の鳴き声に似た音が出て、静かに歩こうとするほど、音が出るので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされています。また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています。
白木の棺 / 不惜身命
三門楼上に二つの白木の棺が安置され、中には将軍家より三門造営の命をうけた大工の棟梁、五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められています。彼は立派なものを造ることを心に決め、自分たちの像をきざみ命がけで三門を造りました。やがて、三門が完成しましたが、工事の予算が超過し、夫妻はその責任をとって自刃したと伝えられています。この夫婦の菩提を弔うため白木の棺に納めて現在の場所に置かれ、見る人の涙を誘います。
忘れ傘 / 知恩・報恩
御影堂正面の軒裏には、骨ばかりとなった傘がみえます。当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて知恩院を守ることを約束したという説とが伝えられています。いずれにしても傘は雨が降るときにさすもので、水と関係があるので火災から守るものとして今日も信じられています。
抜け雀 / 心をみがく
大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたものです。紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれています。現存する大方丈の襖絵には飛び去った跡しか残っていませんが、狩野信政の絵の巧みさをあらわした話といえるでしょう。
三方正面真向の猫 / 親のこころ
大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるのでこの名があります。親猫が子猫を愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心、つまりわたしたちをいつでもどこでも見守って下さっている仏様の慈悲をあらわしています。
大杓子 / 仏のすくい
大方丈入口の廊下の梁に置かれている大きな杓子です。大きさは長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。このような大杓子はあまりないところから、非常に珍しいものとしてこんにちでも拝観の方が見上げます。伝説によると三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったということです。「すくう」すべての人々を救いとるといういわれから知恩院に置かれ、阿弥陀様の慈悲の深さをあらわしています。
瓜生石 / はげみ
黒門への登り口の路上にある大きな石は、知恩院が建立される前からあるといわれ、周囲に石柵をめぐらしてあります。この石には、誰も植えたおぼえがないのに瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜があおあおと実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し一夜のうちに瓜が生え実ったという説が伝えられています。また石を掘ると、二条城までつづく抜け道がある、隕石が落ちた場所である等、さまざまな話が言い伝えられている不思議な石です。 
 
臨済宗1

 

中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つ。
中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である南岳懐譲から、馬祖道一(洪州宗)、百丈懐海、黄檗希運と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本へは栄西以降、様々な僧によって持ち込まれ、様々な派が成立した。黄檗宗も元来、臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠が中興の祖として知られる。
中国における臨済宗
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度使の王紹懿(中国語版、英語版)(禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張したが、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延昭である。
臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋代であり、石霜楚円の門下より、ともに江西省を出自とする、黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。
南宋代になると、楊岐派に属する圜悟克勤の弟子の大慧宗杲が、浙江省を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。
日本における臨済宗
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。とくに室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
伝統
法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。
悟り
禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。
公案体系
宋代以降公案体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。
公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。
修行の初期段階に与えられる公案の例:
狗子仏性 - 「犬に仏性はありますか?」「無(む)」この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という涅槃経の知識があるが、その種の人を惑わす知識からの解脱を目的としている。隻手の声 -「片手の拍手の音」弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。知的な理解では片手では拍手はできず音はしないが、そのような日常的感覚からの解脱を目的としている。
宗派
建仁寺派
1202年(建仁2年)、中国・宋に渡って帰国した栄西により始まる。栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた。大本山は京都の建仁寺。
東福寺派
1236年、宋に渡り帰国した円爾(弁円)により京都で始まる。本山は京都の東福寺。戦国時代、毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊はこの宗派。
建長寺派
1253年、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が中国・宋から招いた蘭渓道隆により始まる。本山は蘭渓道隆が開山した鎌倉の建長寺。
円覚寺派
1282年 中国から招かれた無学祖元により鎌倉で始まる。本山は鎌倉の円覚寺。円覚寺は、無学祖元から高峰顕日・夢窓疎石へと受け継がれ日本の禅の中心となった時期もある。明治以降の有名な禅師は、今北洪川・釈宗演・朝比奈宗源。禅を西洋に紹介した鈴木大拙は今北と釈宗演の両師の元に在家の居士として参禅した。また夏目漱石も釈宗演に参じており、その経験は「門」に描かれている。釈宗演の法をついだ両忘庵釈宗活老師が日暮里の地に居士禅の両忘会を再興させ、両忘協会となり、若き日の平塚らいてう等が修行した。その後、両忘協会は人間禅となり居士専門の坐禅修行が続けられている。
南禅寺派
1291年、無関普門により始まる。本山は京都の南禅寺。
国泰寺派
1300年頃、慈雲妙意により始まる。総本山は明治時代に山岡鉄舟の尽力で再興した富山県高岡市にある国泰寺。鉄舟開基の谷中の全生庵も国泰寺派の名刹である。
大徳寺派
1315年、宗峰妙超により始まる。本山は京都の大徳寺。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興した。
向嶽寺派
甲斐国塩山の向嶽寺を拠点とする向嶽寺派は鎌倉後期から南北朝時代にかけて武家政権と結んだ夢窓派と一線を画し、独自の宗風を築いた。向嶽寺派は無本覚心の弟子である孤峰覚明に師事した抜隊得勝により始まり、抜隊は永和4年(1378年)に入甲し、康暦2年(1380年)には守護武田氏の庇護を得て塩の山に向嶽庵(向嶽寺、山梨県甲州市塩山)を築いた。向嶽寺派は抜隊の遺戒による厳格な戒律を定めていることが特徴で、抜隊の生前から法語などが刊行されている。
妙心寺派
1337年、関山慧玄により始まる。本山は京都の妙心寺。塔頭寺院には、桂春院・春光院・退蔵院・隣華院などがある。末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派。白隠慧鶴もこの法系に属する。
天龍寺派
1339年、夢窓疎石により始まる。本山は京都嵐山の天龍寺。
永源寺派
1361年 寂室元光により始まる。本山は滋賀県東近江市永源寺地区にある永源寺。末寺は滋賀県を中心に約150か寺。明治13年(1880年)までは東福寺派に属した。
方広寺派
1384年、無文元選により始まる。本山は静岡県浜松市北区引佐町奥山の方広寺。末寺は静岡県を中心に約170か寺。明治37年(1904年)までは南禅寺派に属した。
相国寺派
1392年、夢窓疎石により始まる。本山は足利義満により建立された京都の相国寺。末寺は日本各地に約100か寺。鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)は当派に属する。
佛通寺派
1397年、愚中周及により始まる。本山は広島県三原市の佛通寺。末寺は広島県内を中心に約50か寺。明治38年(1905年)までは天竜寺派に属した。
興聖寺派
1603年、虚応円耳により始まる。本山は京都の興聖寺。 
 
臨済宗2

 

禅とは 
宗旨
仏心宗、達磨宗とも呼ばれる、いわゆる禅宗は中国で起こり、発展し、やがて日本に伝来された仏教の一宗です。日本に伝わった禅宗には、臨済宗 [りんざいしゅう] や黄檗宗 [おうばくしゅう]、そして曹洞宗 [そうとうしゅう] があります。当ホームページを運営するわが宗門は、その中で、臨済宗と黄檗宗の流れです。
臨済宗や黄檗宗は、お釈迦さまの正しい教え(正法)をうけつがれた達磨大師(初祖)、臨済禅師(臨済宗祖)や、隠元禅師(黄檗宗祖)、さらに禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師 [はくいんぜんじ] から今日にいたるまで、「一器の水を一器へ」移すがごとく伝法された一流の正法を教えとし、我々に本来そなわる尊厳で純粋な人間性(仏性[ぶっしょう])を、坐禅・公案・読経・作務などの修行を通して、自覚(見性)することを旨とする宗派です。
宗祖臨済禅師には、
「赤肉団上 [しゃくにくだんじょう] に一無位 [いちむい] の真人 [しんにん] あり。常に汝等諸人 [なんじらしょにん] の面門 [めんもん] より出入す。未だ証拠せざる者は、看 [み] よ看よ」
という言葉があります。臨済宗の宗旨は、我々に本来そなわる、この一無位の真人を自覚することです。この臨済禅師の言行録は『臨済録』として伝えられ、語録の王と言われます。 
仏心宗
仏心宗と呼ばれるのは、禅宗が、文字や経典をたよらずに、仏の心(正法 [しょうぼう] )を、師匠から弟子へと直接伝えていくことを根本宗旨としているからです。その起源は、有名な「世尊拈華微笑 [せそんねんげみしょう] 」という故事に始まります。
ある時、お釈迦さま(釈迦牟尼仏)が、霊鷲山 [りょうじゅせん] という山に八万のお弟子をお集めになられました。
そこでお釈迦さまは、梵天(インドの神様)が献じられた金波羅華 [こんぱらげ] を手に取り、八万人ものお弟子に示されました。しかし、お弟子はその意味を理解することができませんでしたが、ただ、摩訶迦葉尊者 [まかかしょうそんじゃ] のみが破顔微笑されました。そこで、お釈迦さまは「我れに正法眼蔵 [しょうぼうげんぞう]、涅槃妙心 [ねはんみょうしん] あり、摩訶迦葉に付嘱 [ふしょく] す(我が仏心を摩訶迦葉に授けよう)」と言って、正法を伝授されました。
これが禅宗における師資相承 [ししそうじょう] (師匠から弟子への正法の直接伝達)の始まりと言われます。お釈迦さまのことを、臨済宗では、「大恩教主本師釈迦牟尼世尊」とお呼びして尊崇しています。
達磨宗
達磨宗とは、お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師 [ぼだいだるまだいし] の名前から来ています。達磨大師は、インドから中国に渡られ、嵩山少林寺 [すうざん しょうりんじ] というところで面壁 [めんぺき] 九年の坐禅を修行され、「不立文字 [ふりゅうもんじ]、教外別伝 [きょうげべつでん]、直指人心 [じきしにんしん]、見性成仏 [けんしょうじょうぶつ] 」の宗旨を標榜され、禅宗の初祖と仰がれています。達磨大師の「不立文字、教外別伝…」の意味も、文字や経典をたよらずに、仏の心(正法)を、師匠から弟子へと直接伝えていくということです。つまり、達磨大師の正法をさかのぼれば、お釈迦さまに行き着くことになり、達磨大師の正法は、お釈迦さまの正法と同じということです。
歴史
お釈迦さまの正法は、28代目の達磨大師にうけつがれ、達磨大師より6代目の祖師に、慧能大鑑 [えのうだいかん] 禅師(638〜713)が出現されます。普通、六祖慧能 [ろくそえのう] 禅師とお呼びしています。その慧能禅師より三代をへて、百丈懐海 [ひゃくじょうえかい] 禅師(749〜814)が出られ、『百丈清規 [ひゃくじょうしんぎ] 』をお書きになり、禅宗の規則を制定し、唐代のころより禅宗は叢林 [そうりん] (寺院)の形態を整えていきます。「一日作 [な] さざれば、一日食らわず」という言葉をよく耳にしますが、その言葉を残されたのが、百丈禅師です。
五家七宗
六祖慧能禅師のもとより、南岳懐譲 [なんがくえじょう] 禅師(677〜744)、青原行思 [せいげんぎょうし] 禅師(?〜740)の二大弟子が出現され、数代をへるうちに、やがて中国の禅宗は、雲門 [うんもん] 宗、 仰 [いぎょう] 宗、法眼宗、曹洞宗、そして臨済宗の五宗に分かれます。また臨済宗は楊岐派 [ようぎは]、黄龍派 [おうりょうは] の二派に分かれ、これを総称して五家七宗と呼んでいます。この五家七宗の呼称は、各宗祖の禅的個性によって分かれたものであって、お釈迦さま以来の正法を伝えているのにかわりはありません。
中国から日本へ
日本へ禅がもたらされるは、鎌倉・室町時代です。日本へ渡来した禅は、四十六伝あったと言われますが、そのうち、法をうけつぐ弟子ができ、流派を成したものは二十四流とされます。
現在、臨済宗には妙心寺派、南禅寺派など十四の大本山と、黄檗宗に分かれていますが、その由来はこの禅宗伝来の因縁によるものです。
その二十四流のうち曹洞系の三派を除けば、他はすべて臨済系に属し、しかも栄西禅師(1141〜1215)以外は、楊岐派の禅を伝えています。日本に始めて臨済禅を伝えたのは栄西禅師ですが、それは二十四流の中の一つであって、学校教科書などで日本臨済宗の開祖を栄西禅師と記述するのは適当ではないと思われます。
白隠禅師
さて、現在の日本臨済宗を確立したのは江戸時代に出られた白隠慧鶴 [はくいんえかく] 禅師(1685〜1768)です。
白隠禅師は、法系的には、妙心寺開山の関山慧玄 [かんざんえげん] 禅師の流れに属し、大応国師(南浦紹明 [なんぽじょうみょう] )……大灯国師(大徳寺開山・宗峰妙超 [しゅうほうみょうちょう] )……関山慧玄(妙心寺開山)……白隠慧鶴と次第し、その法系を特に「応灯関の一流」と呼んでいます。白隠禅師は、接化の手段(修行者を悟りに導く手段)として「公案[こうあん](禅問答)」を重視し、独自の公案も創られました。その中の一つに有名な「隻手音声 [せきしゅおんじょう]」があります。両手をパンと打ち、「どちらの手が鳴ったか」と問うのです。
白隠禅師の法を嗣がれた峨山慈棹 [がさんじとう] 禅師から隠山惟 [いんざんいえん] 禅師と卓洲胡僊 [たくじゅうこせん] 禅師が世に出て、現在の臨済宗の法系はこのいずれかに属します。白隠禅師を臨済宗中興の祖と仰ぐのはそのためです。
白隠禅師の教えを一言で言えば、その「坐禅和讃 [ざぜんわさん] 」にある「この身即ち仏なり」の自覚と言ってよいでしょう。それは臨済禅師の「一無位の真人」の自覚と一つのものであり、お釈迦さまが摩訶迦葉尊者に伝えられた「正法眼蔵 [しょうぼうげんぞう]、涅槃妙心 [ねはんみょうしん] 」ということです。この自覚(悟り)のために坐禅を修し、公案を用い、動的坐禅としての作務を行ずるのが、臨済宗の宗旨です。日々の勤行の際に、「逓代伝法 [ていだいでんぽう] 仏祖の名号 [みょうごう] 」として、過去七仏より釈迦牟尼仏(大恩教主)、摩訶迦葉尊者、阿難尊者、……菩提達磨大師(初祖)……臨済義玄禅師(宗祖)……と諷誦 [ふじゅ] するのは、お釈迦さまの正法が絶えることなく現在にまで伝えられていることの認識と、また未来永遠にそれを伝えていくことの誓いのためです。この正法が断絶した時、臨済宗は有名無実化すると言っても過言ではないでしょう。 
経典
開経偈 (かいきょうげ)
この偈は、我々お互いは、この受けがたい人身を受け、遇い難い仏法に遇わせていただいているのであるから、この上ない仏法をよろこび、お釈迦さまのお心を大切に会得し守らねばならない、という内容です。金剛経の前にかならず合掌してお唱えします。
懺悔文 (さんげもん)
私たちは、はかり知れない過去から、知らず知らずのうちに「身・口・意」(三業)から「むさぼり(貪)・いかり(瞋)・ぐち(痴)」(三毒)という悪いおこないをおかしています。いまこそ素直に懺悔します、という意味です。合掌して三遍お唱えします。
三帰戒 (さんきかい)
三帰依戒ともいいます。仏・法・僧(三宝)に帰依(信心の誠をささげること)し、けがれない心で、尊い仏さま・仏さまが悟られた真理・僧侶にすがり、仏さまの弟子となり、以後けっして悪魔や外道のために心を乱してはならぬ、という戒めのご文です。葬儀には、懺悔文につづき三遍お唱えします。
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経) (まかはんにゃはらみたしんぎょう)
この題目は、インドの古い言葉のサンスクリット語(梵語)を漢字に音訳したもので、「マカ」は大きく優れたということ、「ハンニャ」は智慧の意味で、「ハラミタ」は到彼岸と訳されています。「心経」は文字通り、心のお経ですが、中心となるお経、つまり仏さまの教えのエッセンスとも言えます。ですから、「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されます。わずか276文字(経名を含む)のこのお経は、宗派を問わず広く読まれるお経です。
消災妙吉祥神呪(消災呪) (しょうさいみょうきちじょうじんしゅ)
正式には『仏説熾盛光大威徳消災妙吉祥陀羅尼』といい、8世紀中頃の不空三蔵によって漢訳されたものです。お釈迦さまが浄居天宮(二度と迷いの世界には環ってこない、聖者・神々の住む世界)で諸菩薩・星宿らに向かって、天災・人災など一切の災難を消除する教えを説かれたのがこのお経です。一心にこの陀羅尼を唱えることによって、一切の災難を消除し、一切の吉祥を成就することができるという不思議な功徳をもつものとされています。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんだいにじゅうご)
『法華経』(妙法蓮華経)というお経は、経中の王などと呼ばれることもあり、お釈迦さまのお説きになったお経の中で、最も尊い経典だとされています。序品(章)から二十八品までありますが、臨済宗で常用されるのはその中の第二十五品『観世音菩薩普門品』です。これは『観音経』とよばれていますが、その後半の偈(韻文で書かれたお経)の部分を『世尊偈』『普門品偈』などといい、独立してお唱えすることがあります。観音さまは、広大無辺な大慈悲心をそなえられた仏さまで、ものに応じて三十三に身を変えて自由自在に人々を済度してくださいます。昔から多くの人々のあつい信仰を集めた仏さまです。このお経を念ずればあらゆる苦難から救われ、多くの幸せが授けられると説かれています。
大悲円満無礙神呪(大悲呪) (だいひえんまんむげじんしゅ)
『大悲呪』は臨済宗で、祖師方へ、また在家の法要など日常頻繁に読誦されるお経です。この「ナムカラタンノートラヤーヤー」という語呂のよいお経は、『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』という経典の中の陀羅尼部分だけをとり出したものです。千手千眼観自在菩薩(観音菩薩)の広大無辺、無量円満にして無礙融通なる大慈大悲心を表した陀羅尼という意味です。
開甘露門(施餓鬼) (かいかんろもん)
寺院でお盆に行われる山門施餓鬼会や、日課のおつとめにもよく読誦されるお経です。各家のご先祖さま方は、日常、その子孫の方々から手あついご供養を受けておられるのですが、多くの精霊のなかには誰からも供養されず、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる霊もたくさんあるはずです。このお経は、そのような餓鬼道におちて苦しんでいる多くの精霊を供養し、済度するためにお唱えするものです。お盆は、目蓮尊者の因縁によって起こり、毎年7〔8〕月15日に行い、『仏説盂蘭盆経』にその本拠が見いだせます。また、施餓鬼は『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』に根拠があり、毎日修すべきもので、阿難尊者の因縁に基づきます。今日では、お盆とお施餓鬼の区別があいまいですが、もともとの因縁は全く別のものであることを心得てください。
仏頂尊勝陀羅尼 (ぶっちょうそんしょうだらに)
このお経は、消災呪と共に鎮守火徳諷経でお唱えしたり、大般若会などでお唱えすることもある大切な常用経典です。正しくは、『浄除一切悪道仏頂尊勝陀羅尼』といい、『仏頂尊勝陀羅尼経』の中の呪文の部分をとり挙げたものです。禅宗では、多く滅罪・生善・息災延命のために祈る経典とされています。
金剛般若波羅蜜経(金剛経) (こんごうはんにゃはらみきょう)
般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているものです。多くの訳がありますが、一般に用いられているのは、後秦の鳩摩羅什の訳したものです。内容は、仏陀とその十大弟子の一人、須菩提の対話形式で般若思想の要点を簡潔に説いたもので、空の思想を基本としています。この『金剛経』にまつわる話として、中国禅宗の六祖、慧能大師(638〜713)の因縁があげられます。慧能大師が出家する前、市中で薪を売っていたところ、一人の人が『金剛経』を読んでいるのを聞き、心がたちまちカラリと開け(開悟)、禅宗五祖の弘忍大師の門を叩くきっかけになりました。禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ読みます。
大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんじんしゅ)
『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』の第七巻に載せる呪文で、「仏頂光聚悉怛多般多羅秘密神呪」というのが正式な題目です。今日では、歴代祖師の遠忌(斎会)、津葬などに、行道(お経を読みながら堂内をめぐること)して、あるいは座ってお唱えします。内容は、どんな誘惑に出会っても動揺しない本心(金剛堅固な本心)を説いたものです。このお経は三つの部分からできており、初めの四行を「啓請」、第一会から第五会を「平挙」、終わりの四行を「摩訶梵」といいます。
延命十句観音経 (えんめいじっくかんのんぎょう)
観音さまのご利益を十句に縮めて、唱えやすくしたお経です。その成立については、種々の議論があり一定しませんが、眼目は「延命」、つまり寿命を延ばすことにあります。修行するにしろ、善根を積むにしろ短命では何事も始まりません。このお経は、延命のために観音さまに対しお唱えするものです。
四弘誓願文 (しぐせいがんもん)
これは、仏教徒として心に掲げ精進すべき四つの弘大な誓願であり、すべての仏菩薩が発する四種の誓願でもあります。内容は、
一、数限りない一切の衆生を救済しようと誓うこと
二、尽きることのない多くの煩悩を断とうと誓うこと
三、広大無辺な法門をことごとく学ぼうと誓うこと
四、この上なく尊い仏道を修行し尽くして、かならず成仏しようと誓うこと
です。日課のおつとめや、法事の最後に、ゆっくりと心をこめて三遍お唱えします。
舎利礼文 (しゃりらいもん)
舎利は、梵語を翻訳して骨身、あるいは霊骨の意味とされます。舎利には、骨舎利・髪舎利・肉舎利の三種類がありますが、特にお釈迦さまが入滅して残されたお骨を仏舎利といって尊称しています。禅宗では、お葬式のときなどにお唱えします。このお経は、我々の熱心な信仰心の力と、仏さまから加わる神力により、菩提心を発し、菩薩の行願を果たそうとするものです。何はさておき、強い信心をもって、一心に仏さまを礼拝しましょう、というものです。
白隠禅師坐禅和讃 (はくいんぜんじざぜんわさん)
この和讃を作られたのは、今から250年ほど前にお生まれになった、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師です。そもそも、坐禅は臨済宗(禅宗)の宗旨です。しかし、座ることだけが坐禅ではなく、私たちの日常生活のすべて(行住坐臥)が坐禅です。謡うも舞うも法の声で、その場その場が直ちに浄土で、この身がそのまま仏であるということをわかりやすく説かれたものです。その眼目は「衆生本来仏なり。直に自性を証すれば。此の身すなわち仏なり」といわれます。くり返しくり返し、お唱えしてください。 
年中行事
修正会しゅしょうえ(元旦〜3日)
正月元旦から3日までの禺中ぐちゅうの刻(現在の午前10時)に勤める法要で、新年を祝うとともに、天下泰平、仏法興隆、寺門繁栄を祈祷して、大般若経を転読てんどくします。なお、大般若経を転読することが不可能な場合は、第五七八巻の第十般若理趣分だいじゅうはんにゃりしゅぶんを真読しんどくします。
修正満散会しゅしょうまんさんえ(1月3日)
正月三日間の修正会が無事満了し、一同退散する意味の法要です。三日目の修正会を終えて後、引き続き勤め、修正会回向にかえて修正満散会回向を誦えます。
臨済忌りんざいき(1月10日)
臨済宗祖、臨済義玄禅師の忌日で、報恩謝徳の法要を行ないます。
百丈忌ひゃくじょうき(1月17日)
百丈懐海禅師の忌日で、報恩謝徳の法要を行ないます。百丈禅師は、禅林清規、つまり禅宗寺院の規則を定めた『百丈清規ひゃくじょうしんぎ』 を著した方で、以後の禅林清規の開創者として奉られています。
善月祈祷会ぜんげつきとうえ(1・5・9月の各16日)
正月・5月・9月を善月といい、この三月には特に善をなすべきであるとされ、これらの月の16日、祈祷大般若会を執り行ないます。
仏涅槃会ぶつねはんえ(2月15日)
三仏会の一つ。お釈迦様の入滅の日にちなんで行なう報恩供養の法要で、壇の中央に涅槃像を掛けます。涅槃図の中央には、釈尊が沙羅双樹の下で頭を北に顔を西にして右脇を下に臥し、その周囲に仏弟子、神鬼、動物達が慟哭しているさまが描かれています。
彼岸会ひがんえ(春分の日 ・秋分の日)
彼岸会は聖徳太子の時代から日本のみで行なわれる先祖供養の法要で、春分 や秋分の日が昼夜が半分ずつに正しく分かたれた中正中道の日であることから、涅槃のおさとりを開く仏歓喜日、法悦感謝の日として選ばれた日です。わが宗門ではこの日、施餓鬼会せがきえを 行なうことが多いのですが、地方によっては大般若会だいはんにゃえを行ない、 五穀豊穣を祈祷しているところもあります。
仏誕生会ぶつたんじょうえ(降誕会)(4月8日)
三仏会の一つ。お釈迦様のご誕生を祝う法要で、降誕会ごうたんえ、潅仏会かんぶつえ、俗に花祭りともいいます。浴仏の偈げ
小施食会しょうせじきえ(7 または8月1〜14日)
大施餓鬼会に対して、小施餓鬼会、水施餓鬼会ともいいます。毎晩午後四時、施餓鬼棚に「三界万霊十方至聖さんがいばんれいじほうししん」 の牌を立て、供物を備えて餓鬼を供養する法要です。施餓鬼については、次項を参照のこと。
山門施餓鬼会さんもんせがきえ(7 または8月15日)
盂蘭盆会うらぼんえの当日に行なわれる施餓鬼をいうため、盂蘭盆会、大施餓鬼会ともいいますが、ここで、盂蘭盆会と施餓鬼会は本来、別法要であることを知っておかねばなりません。盂蘭盆会の起源は、『仏説盂蘭盆経』にあります。目連尊者もくれんそんじゃが、餓鬼道におちた母を救い出すためにお釈迦様に教えを乞いました。するとお釈迦様は、7月15日の自恣じしの日 (夏安居げあんごの解散日)にあらゆる僧侶に供養を施せば、必ずその功徳によって母を救え、また他の亡者にも利益が大きいというお示しを与えられ、目連尊者がその通りにされたことに起源を発するものです。施餓鬼はこの盂蘭盆とよく似ていますが、因縁は全く異なります。それは、同じくお釈迦様の弟子、阿難尊者あなんそんじゃが禅定ぜんじょうに入られているとき、餓鬼が現われて尊者にいうに、「尊者は三日後に命尽き、わが餓鬼道に生まれ変わる。それを免れたいのなら、無量無辺の餓鬼と百千の婆羅門ばらもんに無量の飲食を施し、また我が為に三宝を供養したならば、必ず自他ともに、天上にのぼることができるであろう」と。お釈迦様にその方法をお尋ねしたところ、お釈迦様は施餓鬼の法を授け、阿難尊者が初めてその利益を受けられたことを、数説あるうちでも代表的な起源としています。つまり、施餓鬼会は、盂蘭盆会のように日付が限定されていないのです。しかしながら、いつの時代にか、この二つの法要が似ていることなどから、違いが曖昧になり、盂蘭盆会と施餓鬼会を混同するようになったと思われます。また、古くからの土着信仰としてのお盆の先祖供養とも交わってしまったのでありましょう。
達磨忌だるまき(10月5日)
二祖忌の一つ。禅宗始祖、菩提達磨大師の忌日にちなんで行なう法要。初祖忌、少林忌ともいいます。壇の中央に達磨像を掛けます。
仏成道会ぶつじょうどうえ(12月8日)
三仏会の一つ。お釈迦様がブッダガヤの菩提樹の下で成道、つまりお悟りになった日を記念して行なう法要です。お釈迦様は29歳の時、人生の無常苦悩に悩まれて出家され、6年間の苦行をされましたが成道することができず、尼連禅河にれんぜんがに入って沐浴もくよくしスジャータという少女から乳がゆの供養を受けて気力を回復されました。その後、菩提樹の下に坐禅すること数日、ついに仏陀成道の自覚を得られたのです。これにならって、臨済宗や黄檗宗の各専門道場では、12月1日より8日朝までを一日とし、不眠不休の坐禅期間である臘八大摂心ろうはつおおぜっしんが行なわれています。
歳晩諷経・除夜の鐘(大晦日)
月末を三十日みそかといい、12月31日はその最終日ですから、大晦日おおみそかと いいます。一年の終わりにちなんで、諸仏諸祖、土地神や守護神に報恩の勤行をします。そして、108 あると言われる煩悩を消すとも言われる除夜の鐘をついて、自分自身を見つめ直し、一年の埃を落しましょう。
開山かいさん・祖師毎歳忌そしまいさいき( それぞれのご命日)
各寺ご開山をはじめ、歴代祖師の忌日に行なう法要で、特に、開山忌は達磨忌とともに二祖忌と呼ばれます。  
坐禅

 

坐禅とは
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。
「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、定着する、などの意味だと辞典にあります。要するに、動かないように安定させることです。
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。
次に「禅」ですが、これは「禅那」といい、サンスクリットの dhyana とか、パーリー語の jhana とかの音写で、静慮と漢訳されます。現代の中国語では、channa と発音するようですが、静慮の意味であることに変わりはありません。ただ静慮という訳は、適訳ではないので余り用いられず、「禅」で通っています。そして、禅那とは、心統一の因だといわれますから、坐ることによって身・息・心を統一し、または統一しつつある状態が坐禅だということになります。
その結果、完全に身・息・心が統一され、安定した状態を「定」といいます。定はサンスクリットで Samadhi といい、「三昧」の文字を当てます。
「定」は、ただ消極的に、あるいは単なる受動的な熟睡したのと同じような状態、つまり何もない恍惚境とは違います。そこには生き活きとした、動き出すものがなければなりません。三昧の世界、定の光明から、再びこの世の正しい姿を映し出す働きが出てきます。いいかえれば、定以前の常識的な見方を越えて、「覚」の立場から世界を再認識するものと言ってもよいでしょう。その照らし見る働きを「慧」と申します。
禅では、「定慧円明」といって、定は必ず慧を発し、慧は必ず定に基礎づけられ、打って一丸となった円かに融け合って明らかなものでなければなりません。
禅の目標は、実にこの「我に在る菩薩」を「見」るところにあるといってもよいでしょう。それを「見性[けんしょう]」といっておりますが、見性して観自在の自由自在、思いのままの日常行為をするところにこそ、禅はあります。そのために行住坐臥において、
衆生無辺誓願度 [しゅじょうむへんせいがんど]
煩悩無尽誓願断 [ぼんのうむじんせいがんだん]
法門無量誓願学 [ほうもんむりょうせいがんがく]
仏道無上誓願成 [ぶつどうむじょうせいがんじょう]
と、四弘 [しぐ]の誓願 [せいがん]に鞭うっていくのです。
それならば、健康になりたいとか、精神的な悩みを解消したいといって門を叩くものに対して、禅は門を閉ざすのかといえば、決してそうではありません。
「大道無門、千差路あり」です。有限的な概念を持ちませんから、科学とも、どんな宗教とも、もちろん一般常識とも、何ものとも衝突するものではありません。一切から超越しておりますから、東西南北どこからでも、自由にお入り下さい。禅は、仏祖の開いておかれた広大の慈門ですから、健康門から入ろうと、煩悩門から入ろうと勝手です。何ものでもついに発菩提せしめずにおかないでしょう。
そうなると、いったい目標はあるのか、ないのか、あるといえばあるし、ないといえばないようにもなりそうです。いいえ、そうではありません。
どの門からは入っても自由ですが、ただ、自分が禅によって救われたら、その福音を他にも分かとう、地上の人々みんながよくなるようにと、それだけはお考え下さい。これを「下化衆生[げけしゅじょう]」といいます。 
すわるにはどうするか
平素の生活の中でこれまで述べたような準備がととのえられたら、いよいよ坐ることになります。『坐禅儀』には、
坐禅せんと欲するとき、閑静処において、厚く坐物を敷き、ゆるく衣帯をかけ、威儀をして斉整ならしめ、しかるのち結跏趺坐す
とあります。この言葉を参考に、わかりやすく説明します。
坐る場所を選ぶ
ここには、まず坐る場所を閑静処、つまり静かなところと規定しております。しかし、現実の問題として、今の都会生活者にはその閑静な場所を選ぶことが容易ではないでしょうが出来るだけ閑静処を選ぶよう工夫した方がよいでしょう。
たとえば、庭の縁側などで自然と一体になって坐るのもいいと思われます。他には、できるだけ外の音や家庭内の雑音が入ってこない書斎や寝室など、精神が集中できる場所を捜して下さい。
また、少々の騒音は我慢するとしても、昔から強い風や、直射日光の当たるところでは坐らないように、と誡められていることを申し添えておきましょう。
道場などでは、本来、坐禅する場所には文殊菩薩を祀りますが、家庭では仏画や墨跡などを掛けるのもいいでしょう。
また、香炉を用意して、線香を立てられるようにしましょう。昨今、アロマテロピーとして知れ渡ってまいりましたが、香は部屋を清らかにし、心を落ち着ける効果があります。
なお、道場では線香一本が燃える時間(約30〜40分)を一[いっしゅ]と呼び、坐禅をする時間の目安にしています。
坐物の準備
場所の選定ができたら、そこに「厚く坐物を敷き」ます。座布団は薄いよりは厚いほうがいいです。決してぜいたくではありません。それに膝のはみ出さない程度に大きいものを使いたいものです。しかし薄いものしかないときは、仕方がないから二枚重ねて用いたらいいでしょう。その上に「坐蒲[ざふ]」という、普通の座布団を二つに折ったくらいの大きさ、厚さのものを尻の下に敷きます。もちろん薄い座布団を二つ折りして代用しても差し支えありません。
服装
次に「ゆるく衣帯をかけ」とありますが、それは着物をゆっくりとつけ、特に帯など強く締めないことです。洋服の場合ならバンドをゆるめるとか、ネクタイをはずすなどすることです。といってダラシなくならないように、「威儀をして斉しく整え」る必要があると、注意しています。厳然としたところがないと、坐禅に緊張味が欠けることになります。
坐る
1.身相を調える
「しかるのち結跏趺坐す」で、このような準備をしてはじめて足を組むことになります。『坐禅儀』には、その方法として結跏趺坐[けっかふざ]と半跏趺坐[はんかふざ]と、二つの方法が示されています。
足は普通のアグラの状態から、先ず、右の足を左のももの付け根にのせ、次に、左の足を右のももの上にのせます。この形を結跏趺坐といいます。
足が組めたら、先ず体を左右に、続いて前後に揺すって中心を決めます。
腰の位置が定まったという感覚を実感するために、右のように、伏せた形から腰の支点を感じながら、順に伸び上がっていくとわかりやすいかもしれません。
結跏趺坐が無理な人は、ひとまず片足だけをももにのせる半跏趺坐で坐って下さい。どちらの足でも、坐りやすい方を選んで下さい。
これも無理な人は、日本式の正座で坐って下さい。その時は、坐蒲を両足の間に挟み込むようしにして坐ると、長時間でも足がしびれないのでいいでしょう。
手は、先ず右手を下腹に組まれた足の上におき、左の掌を右の掌の上におきます。そして、左右の親指を合わせ、支えあうようにします。力を入れずに、中が卵の形になるようにして下さい。この形を法界定印[ほっかいじょういん]といいます。
坐禅をする時、目は開いています。顎を引き、まず、まっすぐ前方を向いたまま、視線だけを約1メートル前方に落とします。そうすると、自然に、目は半分開いた菩薩の半眼状態になります。目を閉じると消極的になり、余計な妄想がわいてきますので、閉じないで下さい。
背筋は、まっすぐに伸ばして下さい。頭のてっぺんが天井に着くような感覚が必要です。下腹部は、気海丹田と呼ぶヘソの下三寸のところに、力が充実している感覚があれば大丈夫です。
2.気息を調える
体が整ったら、次は呼吸を整える調息です。坐禅で一番大切なのは呼吸方法です。息を吸うことよりも、吐くことに主眼を置いて下さい。上記の気海丹田まで、体の中の空気を全部吐きだす感じで、吐ききってください。吐ききれば、自然に吸えます。
数息観というのは、呼吸を整えていくための方法で、一から十まで数えます。ヒトーで静かに長く深き吐き、ツで吸います。フターで長く深く吐き、ツで吸います。これを、何回も繰り返すのです。
呼く息は、自分の気海丹田に吐きかけるように、そして数えるのも気海丹田で数えるという観念でやることが大切です。
3.思量を調える
最後は、心を整える調心です。『坐禅儀』によると、こうあります。
臍腹を寛放し、一切の善意すべて思量することなかれ。念起こらば即ち覚せよ。これを覚すれば即ち失す。久々にして縁を忘ずれば自ずから一片となる。これ坐禅の要術なり。
身も心も解放し、腹の中になんの一物もなく、ゆったりと解放された状態になった上で、是非善悪などの相対的な想念を払い去った、無念無想になります。しかし、実際には、人間は、簡単に無念無想、無心になれません。ですから、妄念が起こったら、すぐさま省覚すれば、その妄念はたちまち切断されます。
また、「覚」するための具体的な方法として、前述の数息観を行なってください。
まとめ
以上、坐相(身)・気息(息)・思量(心)と、三つに分けて説明しましたが、この三つは、元来分けて考えるべきものではありません。本当は呼吸の働きに媒介されて、心と身とが渾然と一つになるというのが坐禅というものです。
身・息・心の三つは、どの一つを取り上げても、他の二つがついてきて調和するものです。坐相が凛然と正されれば、心も息もおのずから正しくなるし、心が願心に充たされれば、姿勢つまり坐相も呼吸も期せずして正しくなるものです。
このようにして、身・息・心が安定不動の状態で一如に調和されることが、すわるということの要だといってよいとおもいます。
願わくは四弘の願輪に鞭うって、ゆったりと、どっしりと、しかも凛然と、東海の天に突っ立った富士山のように、坐りたいものです。
そのためには、家の中で静かに坐れる環境を選び、楽な服装でゆっくりと坐る必要があるのです。毎日毎日、少しづつでもいいですから続けて下さい。 
 
臨済宗寺院

 

妙心寺
正法山妙心寺 京都市右京区花園妙心寺町
花園法皇は宗峰妙超に参禅し、印可(弟子が悟りを得たことを師が認可すること)されています。関山慧玄も宗峰妙超の法を嗣がれます。宗峰妙超は、大燈国師で知られる紫野大徳寺の開山です。
建武4年(1337)、宗峰妙超は、病に伏し重態となられますが、花園法皇の求めに応じて、宗峰妙超没後に花園法皇が師とされる禅僧に、弟子の関山慧玄を推挙され、また、花園法皇が花園の離宮を禅寺とされるにつき、その山号寺号を正法山妙心寺と命名されます。その年の12月22日、宗峰妙超は亡くなられました。妙心寺では、この建武四年を妙心寺開創の年としています。
花園法皇は、妙心寺のそばに玉鳳院を建てられ、そこから関山慧玄に参禅されます。暦応5年(1342)になりますと、花園法皇は仁和寺花園御所跡を関山慧玄にまかせられます。これで妙心寺の寺基が定まるのです。
貞和3年(1347)7月22日、花園法皇は妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」にしたためられ、翌貞和4年11月11日、世を去られます。五十二歳の生涯でした。
花園法皇が世を去られて三年、関山慧玄は、雲水の指導に専念されますが、延文5年(1360)12月12日に亡くなられます。風水泉わきの老樹の下が、息をひきとられた場所です。装いは行脚の旅姿であったと伝えられます。遺骸が葬られた処、それが開山堂微笑庵の地です。
やがて、妙心寺は、寺号を龍雲寺と改名されます。妙心寺の寺名が消えるのです。妙心寺開創50年を経た頃のことで、開山没後わずか39年後の事です。没収されて34年、その間の事は不明です。龍雲寺と名をかえた妙心寺は、永享4年(1432)春に返されてきます。尾張犬山の瑞泉寺から上京した日峰宗舜が、荒れた開山塔の地を整え開山堂を建てます。ここに妙心寺の中興がなるのです。
戦国期の妙心寺は、発展への大きな転機を迎える時代です。妙心寺の境内地が今日のように広くなるのは、永正6年(1509)のことです。利貞尼という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進されたからです。
そこには、やがて七堂伽藍が建てられます。また、塔頭も創建されていきます。とくに、塔頭では、龍泉庵、東海庵に加え、大永3年(1523)に聖澤院、大永6年(1526)には霊雲院が創建されます。これで、四派四本庵による妙心寺の運営体制が確立するのです。四派とは、龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派をいいます。四本庵は龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院のことです。
明治元年(1868)、神仏分離令が発布されます。各地で廃仏毀釈が起こり、寺院の取り壊し、仏像、経典などが破棄されます。妙心寺もその影響を受けますが、この明治期は、宗議会など今日に至る妙心寺の運営体制の基礎が出来ます。また妙心寺専門道場が設けられたり、今日の花園大学、花園高等学校の前身となる般若林が開設されます。
大正を経て昭和10年(1935)、妙心寺は開創六百年となります。その後の昭和・平成期の妙心寺は、開創七百年への歴史を刻む時代です。
この期には、禅の大衆化や教化活動の促進がはかられ、各地での坐禅会開催、「生活信条」や「信心のことば」の制定、おかげさま運動も起こされます。また、僧風の刷新にもとりくまれます。これらは、記憶に新しい事です。
もう一つ、この期には、防災や諸堂の保存修理など文化保護の事業も進められます。
今日、勅使門、三門、仏殿、法堂、庫裡、開山堂、大方丈、小方丈、浴室、経蔵、塔頭天球院の玄関・方丈、衡梅院方丈、霊雲院書院などをはじめ多くの重要文化財の指定建造物、玉鳳院、東海庵、退蔵院、霊雲院、桂春院などの史跡・名勝指定の庭園などがよく保存されています。また、史跡・特別名勝の指定をうける龍安寺が、ユネスコ世界文化遺産に登録されてもいます。
このように、妙心寺は、関山禅の伝灯を堅持し、臨済宗最大の大本山として展開し、且つ美しい寺観を呈している禅寺なのです。
関山慧玄(無相大師)
関山慧玄(1277〜1360年)は信濃の人で、建治3年、信濃源氏の流れを汲む高梨家に生まれました。高梨家は信仰心の厚い家で、とくに禅に心をよせた家柄でありました。鎌倉に出て仏門に入り、徳治2(1307)年建長寺で大応国師(南浦紹明)に相見し、慧眼という僧名を授けられました。大応国師は翌延慶元(1308)年に示寂しましたが、その示寂後も鎌倉にとどまって修行に専念しました。嘉暦2(1327)年建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆)の50年忌法要が建長寺の西来院で営まれ、関山も列席し、隣席の僧から「今日天下叢林中、明眼の宗師は宗峰和尚(大燈国師)である」と聞き、そのまま鎌倉を去って、霧眠草宿、一路京都に向かい、紫野大徳寺の宗峰和尚に相見し、門弟として入門しました。
大燈国師に相見し、ただちに「如何なるか、これ宗門向上のこと」と門法し、国師が"関字"を答えましたが、国師は関山の態度を見て「作家の禅客、天然自在」と称えたといいます。作家とは禅を手に入れ、自由な創造性をもつ力量ある禅者のことであり、それが天然にそなわっているというのです。修行三昧であった関山はついに"関字"をさとり、その見解を国師に呈したところ、国師はおおいに悦び、"関字"を透過したことを証明し、「関山」の号を授け、また諱の慧眼を慧玄と改めました。「関山号」は国宝として、妙心寺に所蔵されています。
関山の示寂は延文5(1360)年12月12日であり、世寿84歳でありました。遺骸を艮(北東)隅に葬り、塔を建てて微笑塔といい、のち堂を造って、微笑庵と称しました。これが開山堂で、堂に掲げる「微笑庵」という扁額は雪江の筆であります。
死寂に際しては、授翁を召し行脚に出るといい、二人相たずさえて、風水泉の大樹のもとにいたり、関山が承けつぐ仏法の由来を語り、関山が花園法皇の勅請でこの寺を創開したが、たとえ後世関山を忘却することがあっても、この応・燈二祖の深恩を忘却するなら、わが児孫ではない。「汝等請う其の本を務めよ」と遺誡し、立ちながら亡くなったといわれています。 
萬福寺
黄檗山萬福寺 京都府宇治市五ケ庄三番割
黄檗宗は、中国・明時代の高僧隠元隆g禅師が1654年に日本に来られ、伝え、広めた禅宗の一派です。臨済宗の流れをくんでいるのですが、四代将軍家綱より許可を得て、宇治に黄檗山萬福寺を開くことにより、正式に黄檗宗が認められたのです。
萬福寺は中国明朝の伽藍様式を取り入れて、他の宗派にはない中国風な香りを感じることができる寺院です。
総門の屋根の上には摩伽羅(まから)という像があります。摩伽羅とはガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息しているワニをさす言葉です。アジアでは、聖域結界となる入り口の門・屋根・仏像等の装飾に使われています。
天王殿正面には、中国で弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身だと言われている布袋さんが弥勒浄土の兜卒天(とそつてん)に椅坐(いざ)された姿で祀られています。すべての不平・不満を笑い飛ばすかのような福徳円満の相をしておられるので、諸縁吉祥、縁結びの神とされています。また、袋の中には財宝が入っているということから、布袋さんの行く所には幸せがもたらされるとされています。 布袋さんと背中合わせには韋駄天(いだてん)をお祀りしてあります。中国では、韋駄天はお釈迦さまをお守りする護法善神(ごぼうぜんしん)の一つです。
萬福寺では本堂を大雄宝殿(だいゆうほうでん)と呼びます。正面には釈迦如来。その両脇には迦葉尊者(かしょうそんじゃ)・阿難尊者(あなんそんじゃ)というお釈迦さまの十大弟子のお二人が祀られています。左右の壁面には十八羅漢が安置されています。日本のお寺では十六羅漢が一般的ですが、萬福寺では「慶友尊者(けいゆうそんじゃ)」「賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)」が加わって十八羅漢」となっています。
その他にも、木魚の原型だといわれている魚梛(ぎょはん・・・開梛〈かいぱん〉)・卍崩の勾蘭(こうらん)などがあります。
また、黄檗僧がもたらした中国風の精進料理である普茶料理もご賞味して頂けます。
ご開山である隠元禅師が日本に伝えた食べ物としては、皆さんがよく知っているインゲンマメ・筍の木の芽あえ等としてよく食べる孟宗竹・夏によく食べるスイカがあり、寒天の名付けの親でもあります。
隠元隆g(大光普照国師)
禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。
日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。
禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。
そしてまた、行と徳を積まれた禅師は、ご在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。 
南禅寺
瑞龍山南禅寺 京都市左京区南禅寺福地町
「南禅寺」は臨済宗南禅寺派の大本山であり、正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」という。南禅寺の歴史は、鎌倉後期の正応4年(1291)に無関普門を開山とし、東山にある開基亀山法皇の離宮を禅寺に改めた事から始まる。天皇として最初に禅僧となられた法皇は、発願文『禅林禅寺起願事』をしたためられ、その中で「日本で最も優れた禅僧」を南禅寺の住持とするよう定められた。つまり「南禅寺住持」は法系・派を超えた最高の禅僧の代名詞であり、夢窓疎石・虎関師錬・春屋妙葩などの名僧が代々住持に任ぜられる事となる。伽藍は明徳4年(1393)の大火・文安4年(1447)の失火や応仁の乱(1467)等によって荒廃したが、江戸初期に見事再興された。今も建っている三門の楼上からは京都市内が一望できる。しかし、南禅寺は徳川幕府との深い関係の中で再興・興隆しており、楼上からの眺望内に御所が見える構造は何か意図があるように感じられる。
そんな歴史的背景を考えつつも、境内を見れば、勅使門から法堂まで一直線に道がのびている。この道は「禅」に続いている。 
建長寺
巨福山建長寺 神奈川県鎌倉市山ノ内
由比ヶ浜を背に八幡宮の社を右手に巨福呂坂の切り通しを抜けると建長寺である。
当寺は臨済宗建長寺派の大本山であり、鎌倉五山の第一位に位する。建長五年(1253)後深草天皇の勅を奉じ、北条時頼(鎌倉幕府五代執権)が国の興隆と北条家の菩提の為に中国より名僧蘭渓道隆を招き建立した。
創建当初は中国宋の時代の禅宗様式七堂伽藍に四十九院の塔頭を有し厳然たる天下の禅林であった。また、建長寺は日本で初めて純粋禅の道場を開き、往時は千人を越す雲水が修行していたと伝えられるわが国最初の禅寺である。
皇帝の万歳、将軍家及び重臣の千秋、天下太平を祈り、源氏三代・政子並びに北条一族の死没者の冥福をとぶらうこと。
建長五年には丈六の地蔵菩薩を本尊とし、千体の地蔵菩薩像を安置した。
建長寺のある谷は地獄谷と呼ばれ、処刑場であって伽羅陀山心平寺という寺があり、当時は地蔵堂が残っていたという。仏殿の本尊が地蔵菩薩であるのはこの因縁による。そして本尊の胎内には、霊験のあった済田地蔵という小像を収めた。済田地蔵は現在は別に安置している。
蘭渓道隆(大覚禅師)
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いてからは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、知友智鏡をたよって泉涌寺来迎院に入ったが、智鏡の勧めもあって鎌倉の地を踏むことになった。
鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
そして時頼は建長五年(1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。
禅師はのち弘安元年(1278)七月、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。 
東福寺
慧日山東福寺 京都市東山区本町
東福寺は、京都東山月輪山麓に、渓谷美を抱く広々とした寺域を擁しています。
臨済宗東福寺派の大本山として、また、京都五山の一つとして750年の法灯を連綿としてつたえ、360余ヶ寺の末寺を統括し信仰の中心となっています。
東山を背景に国宝三門を始め重要文化財に指定されている大伽藍が甍を並べ、その壮観は古くから東福寺の伽藍面といわれています。
慧日山東福寺は摂政関白九条道家公の「浩基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」との発願によって創建された大道場です。南都東大寺・興福寺に比肩する大寺院ということで、両寺から各一字をとって東福寺と名付けられました。それは嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成し、時の仏殿本尊の釈迦仏像は15米、左右の観音弥勒両菩薩像は7.5米で、新大仏寺と呼ばれていました。
工事半ばの寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが、元応元年(1319)建武元年(1334)延元元年(1336)と相次ぐ火災の為に大部分を焼失しました。
延元元年8月、被災後4ヶ月目には復興に着手し、貞和3年(1346)6月には前関白一条経通により仏殿の上棟が行われ、火災後20余年を経て再建され偉容を取り戻しました。その後、足利義持、豊臣秀吉、徳川家康らによって保護修理が加えられ、永く京都最大の禅苑としての面目を伝えましたが、明治14年12月に仏殿、法堂、方丈、庫裡を焼失しました。
明治23年に方丈、同43年に庫裡を再建し、大正6年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着手して昭和9年4月に落成、鎌倉、室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築の精粋を発揮しています。
円爾弁円(聖一国師)
東福寺開山聖一国師(円爾弁円)は建仁2年(1202)10月15日駿河国(静岡県)栃沢の米澤家(現存)に生まれました。三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、後、栄西の高弟行勇・栄朝ついて禅戒を受けました。
嘉貞元年(1235)33歳で宋に渡り杭州径山万寿寺の無準師範(佛鑑禅師)の膝下にあること六年、無準禅師の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月帰朝されました。
先ず、筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、寛元元年(1243)には九条道家に迎えられて禅観密戒を授けました。次いで東福寺開山に仰がれ、山内の普門院を贈られて常住しました。その後、後嵯峨天皇に『宗鏡録』を進講し、また後深草・亀山両天皇も菩薩戒を授ける等、朝廷・幕府の帰信を次第に深めていかれました。
建仁寺の再建を委ねられ入寺、岡崎尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺等の大寺院を監閲し再建復興にも尽力されました。更に延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられました。
弘安3年(1280)10月17日79歳で入定、「利生方便 七十九年 欲知端的 佛祖不傳」の遺偈を残します。これは現存する遺偈としては我国最古のものです。
応長元年(1311)花園天皇より聖一国師と諡されたが、我が国での国師号の初例です。またその後、安永9年(1780)後桃圓天皇より大寶鑑廣照国師と加諡され、さらに昭和5年(1930)「神光」と加号されました。
国師は宋より帰朝の際、一千余の典籍を持ち帰り文教の興隆に多大の貢献をされました。又水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し、静岡茶の原種を伝え、博多織の創製、博多焼(博多人形)、博多素麺、博多祇園祭の山、栴檀の木、通天楓、伏見人形の将来等、その遺芳は枚挙に遑がありません。また国師の高弟東福寺第三世大明国師(無関普門)は南禅寺の開山に迎えられ、国師の偉徳を更に顕現しました。 
円覚寺
瑞鹿山円覚寺 神奈川県鎌倉市山ノ内
1282年(弘安5年)、鎌倉時代後期 北條時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建されました。
時宗公は18歳で執権職につき、不安な武家政治の中で心の支えとして、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。
時宗公は禅を弘めたいという願いと蒙古襲来による殉死者を(敵味方区別なく、冤親平等に)弔うために円覚寺建立を発願されました。
円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山、山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が佛殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿が集まったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれます。
開山国師(無学祖元禅師)の法灯は高峰顕日、夢窓疎石と受け継がれその流れは室町時代に日本の禅の中心的存在となり、五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府の篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。
室町から江戸時代幾たびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、修行者に対し峻厳をもって接しられ、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。
明治以降今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲衲や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日に至ってもさまざまな坐禅会が行われています。
静寂な今日の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、山門,佛殿,方丈と一直線に並び、(法堂はありませんが)その両脇に右側、浴室,東司跡、左側、禅堂(選佛場)があります。 
大徳寺
龍寶山大徳寺 京都市北区紫野大徳寺町
臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号する。
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。 
方広寺
深奥山方広寺 静岡県浜松市北区引佐町奥山
臨済宗方広寺派の大本山。静岡県引佐郡引佐町奥山に所在する。至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開かれた。当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、無文元選禅師を招いたのである。末寺170カ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。境内に修行道場である方広寺専門道場がある。
無文元選禅師
方広寺を開山する。元亨3年(1323)後醍醐天皇の皇子として京都に生まれる。
後醍醐天皇が崩御された翌年暦応3年(1340、南朝興国元年)、京都建仁寺において出家し、可翁宗然禅師、雪村友梅禅師について修行する。後に、康永2年(1343、南朝興国4年)、元代の中国に渡って禅の修行をすることを志して、九州博多に行く。当地聖福寺に住職をしておられた無隠元晦禅師に謁して、中国へ渡る意志を告げ、その指示を仰ぐ。やがて、船に乗り、数ヶ月をかけて中国漸江省の温州に着く。福建省の建寧府にある大覚明智寺に古梅正友(こばいしようゆう)禅師を訪ねて参禅修行して大悟する。後に諸方を行脚して天台山方広寺に行く。
元の至正10年、日本の観応元年(1350、南朝正平5年)、帰国する。京都岩倉に帰休庵を結び、やがて美濃(岐阜県)に了義寺、三河(愛知県)に広沢庵を結ぶ。この広沢庵に遠江(静岡県)奥山の豪族奥山六郎次郎朝藤(ろくろうじろうともふじ)が参禅する。至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、朝藤は禅師の父後醍醐天皇の追善供養と、禅師の師恩に酬いるために、所有する山林の中から50町余りを寄進して、堂宇を建立して禅師を招く。禅師はその招きに応じて当地に移り、その光景が天台山方広寺に似ていることから、この寺を方広寺と名付ける。
以来、師の下に、多数の弟子が集まって参禅弁道する。
康応2年(1390、南朝元中7年)閏3月22日、当寺において遷化(せんげ、亡くなること)する。 
永源寺
瑞石山永源寺 滋賀県東近江市永源寺高野町
南北町時代の康安元年(1361)、近江国の領守佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号した。
禅師が遷化された後の、応安2年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の諡号をおくられ、さらに昭和3年(1928)4月には正燈国師の称号がおくられている。応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、"文教の地近江に移る"といわれるほど隆盛をきわめた。
明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失。寛永年間一 絲文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受け再興された。明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、坐禅研讃、天下泰平、万民安穏を祈る道場となっている。
寂室元光禅師
禅師は正応3年(1290)岡山県勝山の藤原家に生まれ、5歳で教典を暗誦するほどの神童で、13歳で出家。京都東福寺の大智海禅師のもとで修行し、15歳の時仏燈国師に仕え、18歳で国師の一掌下に大悟された。元応2年(1320)31歳から7年 間、中国天目山の中峰和尚につき修行。帰国されたのちも自然を友に詩や和歌を賦し、生涯行脚説法の旅を続けられた。そして、康安元年(1361)72歳で永源寺に入寺し開山された。山紫水明な仙境をことのほか愛され、貞治6年(1367)78歳で遷化されるまで修行僧の教化に専念された。芳玉禅師、夫一関禅師といった名僧をはじめ、師の高徳を慕って全国から集まった修行僧は二千人もあったといわれている。 
天龍寺
霊亀山天龍寺 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
天龍寺は、京都の観光地・嵐山の、桂川中ノ島から渡月橋を渡って北へ向かう観光客で賑やかな通りに面して門を構える。嵐山・亀山を借景に緑豊かな境内が広がる。観光名所の渡月橋や天龍寺北側の亀山公園なども、かつては天龍寺の境内地であったという。
天龍寺の開基は足利尊氏である。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御したが、その菩提を弔うため、夢窓疎石が足利尊氏に進言し、光厳上皇の院宣を受けて開創されることになった。その後、堂宇の建築が進められ、康永4年(1345)秋、疎石を開山に迎えて後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。初め暦応資聖禅寺と号したが、比叡山が暦応の年号を寺号とすることに反対し、抗議したため、幕府は天龍資聖禅寺と改めた。
天龍寺の地は、檀林皇后が創建した檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、建長年中に後嵯峨上皇が新たに仙洞御所を造営し、次に亀山上皇が仮御所としていた地である。暦応4年(1341)7月、地鎮祭を行い、疎石や尊氏が自ら土を担いで造営を手伝ったという。
足利尊氏は、天龍寺造営のために備後国、日向国、阿波国、山城国などの土地を寄進し、光厳上皇も丹波国弓削庄を施入している。しかし造営の資金には足りず、それを補うため、尊氏の弟直義は疎石と相談し、元寇以来絶えていた元との貿易を結び、天龍寺造営の資金に充てる計画を立てた。いわゆる天龍寺船の派遣である。疎石は、博多の商人至本を綱司に推挙し、至本は、「商売の好悪」にかかわらず五千貫を納める約束をし、一方幕府は、この船を当時瀬戸内海に横行していた海賊などから保護する責任を負った。
こうして、康永元年(1342)には五山の第二位に位置づけられ、翌2年には仏殿、法堂、山門などが完成し、3年には霊庇廟(後醍醐天皇霊廟)も落成した。この完成により、翌康永4年(1345)8月に、光厳上皇と光明天皇の臨幸を仰いで、落慶法要と後醍醐天皇七回忌法要を行おうとした。しかしこれを見た延暦寺の僧侶が妬み、疎石の流罪と天龍寺の破却を強訴したため、上皇と天皇は法要当日の行幸を取りやめ、翌日に行幸にて疎石の説法を聴聞したという。
この法要にあたり、朝廷からは金襴衣、紫袍、錦帛、水晶念珠などが下賜され、尊氏からは銅銭三百万、鞍馬三十頭が施入された。さらに観応2年(1351)、疎石は千人収容可能な広大な僧堂を造営している。尊氏は子孫一族家人など、末代に至るまで天龍寺への帰依の志が変わることがないことを誓い、また光厳、光明の両院など、朝廷からも天龍寺は篤い帰依を受けている。
天龍寺の五山十刹の位置づけは、創建当初の五山第二位に始まる。次に至徳3年(1386)に京都五山第一位となり、鎌倉建長寺と同格と位置づけられたが、応永8年(1401)の改定では相国寺を第一位とし、天龍寺は第二位(鎌倉円覚寺と同格)に格下げされた。しかし応永17年(1410)にはまた第一位に戻っている。
天龍寺は創建後、たびたび火災に遭っている。まず延文3年(1358)、雲居庵などを除いて焼失したため、春屋妙葩が再建し、貞治6年(1367)の火災後も妙葩が請われて修復している。応安6年(1373)にもまた炎上し、翌年再建を始めている。さら康暦2年(1380)には公文書の多くが焼失する火災に遭っている。文安四年(1447)、雲居庵を除いてことごとく焼失。応仁2年(1468)には、応仁の乱の戦火に巻き込まれ、焼失している。
この応仁の乱以後、しばらくは火災も少なくなり、復興事業が進められている。しかし、数度にわたる火災の被害は甚大で、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまでは復興はままならなかったようである。秀吉は嵯峨、北山など一七二〇石の朱印を天龍寺に寄進し、この寄進によって本格的な再建が進められた。さらに慶長19年(1614)、元和元年(1615)、寛永10年(1633)にも朱印が寄進されている。
その後文化12年(1815)になって火災に遭い、翌年から再建が始まるが、元治元年(1864)七月には「蛤御門の変」で長州兵の陣所となり、天龍寺は兵火のためにまたも焼けている。
明治に入り、9年9月、他の臨済宗各派と共に独立して天龍寺派を公称し、天龍寺はその大本山となった。また、上地令を受けて、境内地など所有地が上地されている。そんな中、復興事業も始まり、明治32年に法堂、大方丈、庫裡、大正13年に小方丈、昭和9年に多宝殿などが再建された。
夢窓疎石
建治元年(1275)11月1日、伊勢国(三重県)に生まれた。父は源氏の流れをくみ宇多天皇の九世の孫という佐々木朝綱、母は平氏の出身である。疎石四歳の時、一家は甲斐国(山梨県)に移住したが、この年の8月に母を亡くしている。しかし、母によって信仰的に薫育された疎石は、仏像を見れば拝み、お経を唱えていたという。弘安6年(1283)九歳の疎石は父に連れられて平塩山の空阿を訪れた。疎石は空阿のもとで仏典や孔子・老子の典籍などを学び、10歳の時には七日で「法華経」を読誦して母の冥福を祈り、人々はその非凡さを嘆じた。
正応五年(1292)18歳で奈良に行き、東大寺戒壇院の慈観律師に従って受戒した。その後さらに遊学してより深く仏教の教学を学んだが、天台教学の講師が死に臨んで苦しみ、醜態をさらすのを見て、学問的研究だけでは生死の問題を解決することはできないと悟り、禅の教えに傾倒していった。そんなある日、疎石は夢の中で中国の疎山・石頭を訪れ、そこでであった僧から達磨大師の像を預かり、「これを大切にするように」と言われる。目覚めた疎石は自分が禅宗に縁があると考え疎山・石頭から一文字ずつとって疎石と名乗り、夢の縁から夢窓と号したという。
20歳になった疎石は京都に上がり、建仁寺の無隠円範について禅の修行に入った。翌年10月には鎌倉にて高僧に歴参し、いずれの師にもその聡明さを賞賛された。永仁5年(1297)京都建仁寺の無隠に再び侍すが、8月、一山一寧が来日すると、すぐに教えを受けている。正安元年(1299)、一山が鎌倉建長寺に住することになると、疎石も従い、諸家の語録を学び修行を重ねていった。
正安2年(1300)秋、疎石は出羽国に旧知の人を訪ねようとしたが、その人の訃報を聞き、途中にある松島寺にとどまった。当時この地に天台止観を理路整然と講じる一人の僧がおり、疎石もこれを聴講して悟るところがあったが、それはそれまでに聞き学んだ教えが開発されただけで、真実の悟りはやはり禅によるべきであると考えるに至った。
嘉元3年(1305)、疎石は常陸国臼庭に行き、小庵で坐禅三昧の生活を始めた。ある夜、疎石は長時間の坐禅から立ち上がり壁にもたれようとしたが、暗かったために壁のないところにもたれてしまい転倒し、その拍子にすっきりと悟りを得ることができた。すぐに疎石は鎌倉の高峰顕日のもとへ向かい悟ったところを提示すると、顕日は「達磨の意をあなたは得た。よく護持するように」と讃えたという。
正中2年(1325)春、後醍醐天皇が京都南禅寺の住持に疎石を招くが翌年には鎌倉へ赴きその後2年間円覚寺に住した。長年荒廃していた円覚寺は疎石によって復興している。元弘3年(1333)後醍醐天皇の詔により京都臨川寺開山、また南禅寺住持に再任され建武2年(1335)には夢窓国師の号を下賜されるなど、天皇の疎石への崇敬はますます深くなっていった。この頃、足利尊氏が疎石に対して弟子の礼を執り、疎石は尊氏を悔悟させるため怨親平等を説き、安国寺利生塔の建立を勧めた。
暦応2年(1339)8月に後醍醐天皇が崩じると、尊氏は疎石の進言を受け天龍寺の開創事業が始まり、康永4年(1345)には後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。観応2年(1351)には僧堂が落成し、疎石は一度は雲居庵に退いたが弟子の教化に当たっている。同年8月の後醍醐天皇十三回忌法要の翌日、疎石は病の兆候を見せて臨川寺に退去し、9月30日、衆生に親しく別れを告げて示寂した。77才であった。疎石の教化を受けた者は13045人いたと伝わり、朝廷からも篤く帰依され、歴朝は疎石の徳を尊び、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円の七つの国師号を下賜している。 
相国寺
万年山相国寺 京都市上京区相国寺門前町
相国寺(しょうこくじ)は正式名称を萬年山相国承天禅寺と称し、足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命をうけ、約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に完成した一大禅苑で、夢窓国師を勧請開山とし、五山の上位に列せられる夢窓派の中心禅林であった。その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが度重なる災禍にもかかわらず当山は禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、室町時代の禅文化の興隆に貢献した。後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の法堂を建立し、慶長14年には徳川家康も三門を寄進した。また後水尾天皇は皇子穏仁親王追善の為、宮殿を下賜して開山塔とした。他の堂塔も再建したが天明8年(1788)の大火で法堂・浴室・塔頭9院のほかは焼失。文化4年(1807)に至って、桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜を受けて開山塔として建立され、方丈・庫裏も完備されて漸く壮大な旧観を復するに至った。現在は金閣・銀閣両寺をはじめ九十余カ寺を数える末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
法堂(重文)は桃山時代の遺構でわが国最古の法堂、一重裳階付入母屋造りの唐様建築で本尊釈迦如来および脇侍は運慶作。天井の蟠龍図は狩野光信(永徳嫡子)筆。法堂北の方丈は勝れた襖絵を有し、裏庭は京都市指定名勝となっている。開山塔内には開山夢窓国師像を安置。開山塔庭園は山水の庭と枯山水平庭が連繋する独特の作庭である。その他に寺宝として多数の美術品を蔵している。
夢窓疎石
九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。  正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津、龍湫周沢、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷、仏統、大円国師とし諡号され、「七朝帝師」と称され尊崇された。 
建仁寺
東山建仁寺 京都市東山区小松町
心安らぐ、名刹の情景。東には東山山麓の緑が映え、西に歩けば鴨の流れ…。祇園の花街の中にあっては静けさに満ち、数々の宝物に包まれた荘厳な佇まい。ここは、日本最古の禅寺「建仁寺」。八百年の歴史と禅の心に、悠久の想いを馳せる…。
日本最古の禅宗本山寺院―建仁寺
臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁2年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓道隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。800年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。
明庵栄西
禅の心と茶の徳を伝える―開山 栄西禅師
開山の栄西という読み方は、寺伝では「ようさい」といいますが、一般には「えいさい」読まれています。字は明庵(みんなん)号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。 
向嶽寺
塩山向嶽寺 山梨県甲州市塩山上於曽
向嶽寺は山号を「塩山(えんざん)」と称します。山梨県塩山市に所在し、甲府盆地の東北部に 、こんもりと突き出た小高い山の南麓に抱かれるようにたたずんでいます。
この山を『志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく』と古今和歌集に歌われた塩山市の象徴「塩の山」と言い、塩山市と言われる地名はこの山の名に因んでいます。
中門と築地塀 JR中央線塩山駅から住宅街を通り、15分程歩くと寺の外門に到ります。外門を通り抜けると、両側を杉木立ちに覆われ100メートル程まっすぐな参道が続きます。正面には中門と称される総門が行く手を遮ります。室町時代の建造物で、向嶽寺は開創以来幾度もの火災に遭遇し、山内のほとんどの伽藍を消失していますが、この中門だけが残って、室町時代の禅宗様四脚門の代表的遺構として国の重要文化財の指定を受けています。檜皮葺き(ひわだぶき)で彩色や装飾要素がなく切妻屋根の簡素な造りです。また、この門の東西には漆喰(しっくい)製、瓦屋根の築地塀(ついじべい)が配されています。由来によれば、この付近の岩塩から「にがり」をつくり、漆喰に混ぜて築地を強化したと伝えられ、「塩築地」とも称されています。主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置上、見透かしを避けるために設けられたものと考えられ33.5mあります。
放生池 この中門は通常開かれることはありませんので、塩築地の東端にある通用門より境内に入ることになります。赤松や杉、檜の木に囲まれた放生池(ほうじょういけ)が目に入ります。瓢箪(ひょうたん)のような形をしていてその丁度くびれの部分に木の橋が架かり、その先に三門跡の礎石が残り、仏殿に到ります。この仏殿は天明6年(1786)の大火災後の再建建造物で「由緒記」によれば、「合棟仏殿開山堂、号して祥雲閣」と記されています。「合棟」つまり仏殿と開山堂を合わせ建てているものです。通例の禅宗仏殿とは異なった意匠による複合建築と言えます。
この仏殿・開山堂の東側に昭和42年(1967)再建成った庫裡。そして仏殿と庫裡の間を進むと再び閉ざされた門・方丈前門(仮称)に到ります。この門をくぐると平成9年(1997)向嶽寺一派の悲願の成就した方丈、書院を目の当りにすることができます。
新築なった方丈を目にしたならば、是非とも方丈裏手に足を運んで頂きましょう。
塩の山南麓斜面に作庭されている庭園です。平成2年(1990)に発掘調査が行われる前まではほとんど埋没した庭園で手を入れられていなかったために、ほぼ原形に近い状態で発掘、修復工事が行われました。平成6年(1994)国の名勝に指定されました。
庭園は方丈からの眺めを主目的に造られ、庭園正面上部の高さ2mを超す「三尊石(さんぞんせき)」をはじめ、上段池泉に注ぐ二ヵ所の滝石組、下段池泉の滝石組など、優れた景観を呈しています。つまり、かつては石に沿って水が流れていたのです。
山梨県に残る古庭園の典型として、さらに発掘調査の成果を基盤とした日本の伝統的庭園の歴史を伝える学術資料としても重要視されています。
抜隊得勝(慧光大円禅師)
向嶽寺の開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。禅師は鎌倉幕府が滅亡する直前の嘉暦2年(1327)10月6日、相模国中村(神奈川県足柄上郡中井町)に生まれました。父の姓は藤氏と伝わります。禅師は4歳の時に父を失いますが、その三回忌に供物を供えるのを見て、亡くなった父はどうしてこの供物を食べるのだろうと素朴な疑問を抱いたと言われます。このことについて後年抜隊禅師は、「少年より一つうたがいおこりて候ひし。そもそもこの身を成敗(裁くこと)して誰そと問えば我と答えるものはこれ何物ぞ。」(『塩山仮名法語』)と疑ったと述べられています。
この疑いが深くなるにつれて出家しようとの志が深まり、ついに正平10年(1355)29歳の正月「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と決意されます。この決意は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の大願と同じで極めて注目すべきことです。
出家された抜隊禅師は中国僧・明極楚俊(みんきそしゅん)の高弟(特に優れた弟子)で出世を嫌って山中に庵居していた得瓊(とっけい)を訪ね、自己の心境を披瀝(ひれき)し同じく山居修行を続け、やがてさらに心境が深まるにつれその究めたところをしかるべき師に証明してもらおうと、鎌倉・建長寺に肯山聞悟(こうざんもんご)を、常陸に復庵宗己(ふくあんそうこ)をというように各地を遍歴し正平12年再び得瓊の下に帰ります。13年得瓊の勧めで出雲・雲樹寺に孤峯覚明(こほうかくみょう)を訪ね修行を始めましたが、僅かに60日、その悟りの境地が認められついにその印可を得ることになります。孤峯は千挙を群といい万挙を隊というとして禅師に「抜隊」の道号を授けました。孤峯の法を嗣(つ)いだ抜隊禅師は近江の永源寺に寂室元光(じゃくしつげんこう)を、また能登の曹洞宗・総持寺に峨山紹碩(がさんじょうせき)を訪ねるなど各地を遍しました。その後も伊豆・相模の山中に庵居され、永和2年(1376)には武蔵横山(現八王子市)に移り、さらに永和4年(1378)には以前から志していた甲斐に入り高森(塩山市竹森)に庵居することになります。高森には禅師を慕って800人にも及ぶ僧俗が参集したといいます。ところで、昌秀庵主という人がいて、深く禅師の徳風を慕っていました。昌秀庵主は抜隊禅師の住む庵が風当たりが強く、山道が険しい所にあったため、教えを受ける者たちが苦労しているのを見て、時の領主・武田信成(のぶしげ)に要請して、塩山の地を寄進させ、康暦2年(1380)正月に「塩の山」の麓に庵を創建し抜隊禅師を招き入れています。抜隊禅師54歳の時でした。この庵は、かつて抜隊禅師が近江にいた頃、夢に富士山を見、今、塩山にいて目の前に富士山を眺めていることにちなんで「向嶽庵」と称されました。寺号をつけなかったのは抜隊禅師が道行のすたれることを心配し、修行を専一にという考えによります。
抜隊禅師は初発心時のお考えのごとく、まさに泥まみれになって僧俗の教化に努められました。至徳3年(1386)に上梓された『和泥合水集』は衆生を教化救済するためには、泥まみれ、びしょぬれになることをいとわないことを書名としています。また遠隔の地の人々からの質問に手紙で懇切に答えられた『塩山仮名法語』もあります禅師は至徳4年(1387)2月20日、端座して周りの弟子たちに向かって、「端的(たんてき)是(こ)れ什麼(なん)ぞと看(み)よ、什麼(いんも)に看ば必ず相い錯(あやま)らざらん」と2回にわたって声高に告げ、灯火が消えていくかのごとくに寂したといいます。61歳でした。
その後、天文16年(1547)6月、甲斐の実権を握った守護・武田信玄の朝廷への働きかけによって抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号(しごう)を賜ることになります。 
佛通寺
御許山佛通寺 広島県三原市高坂町許山
佛通寺は、應永4年(1397年)小早川春平公が愚中周及(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹である。
佛通寺の名称は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、彼の論号(佛通禅師)を寺名にしたことを起因とする。小早川家―族の帰依を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し、最盛期には山内の塔中88ヵ寺、西日本に末寺約3千カ寺を数えるに到った。
しかし、応仁の乱の後に荒廃にむかい、小早川隆景の治世になってやや再興したものの、福島家そして続いて浅野家と権力者が変わるにつれて、しだいに当時の面影を失ったのである。しかし、明治期に入ると一転して法灯は大いに挽回され明治38年、参禅道場をもつ西日本唯―の大本山として今日に到っている。
愚中周及(佛徳大通禅師)
美濃(岐阜県)で生まれ、13歳の時に夢窓疎石禅師(天龍寺の開山)の下で修行し、後に春屋妙葩禅師の下で修行した。19歳の時に中国(元の時代)に渡り、金山寺(中国)の住職であった即休契了(彿通禅師)の下で7年間修行に励まれた。
中国から帰国後(1351)、京都の五山叢林を嫌い、京都福知山の天寧寺において多くの弟子の育成を行った。春平の要望に応えて佛通寺を創建(1397)するとともに弟子の育成にあたった。応永16年(1409年)87歳天寧寺(京都府福知山)にて示寂し、佛徳大通禅師と論号された。 
国泰寺
摩頂山国泰寺 富山県高岡市太田
当寺は臨済宗国泰寺派の総本山である。慈雲妙意(清泉禅師慧日聖光国師)を開山とする。
慈雲妙意は、はじめ、当寺南方の二上山中の草庵で独り坐禅に励んでいたが、たまたま、行脚中の孤峰覚明のすゝめにより、紀伊由良の興国寺の法燈国師に参じて豁然大悟、その印記を受けた。慈雲、時に24才。後、再び、二上山へ帰り聖胎長養。正安年間(1300年頃)摩項山東松寺を創開。その禅風を慕って全国から集る雲水、その数を知らず。其の後、後醍醐天皇の帰依を受け、嘉暦2年(1327)には『清泉禅師』の号を賜り、翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王萬年禅寺』の勅額を下賜され、東松寺を改めて国泰寺と称すると同時に、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となった。
更に、北朝の光明天皇も慈雲妙意に深く帰依され、全国に安国寺を建立された際には、当寺をもって、越中国の安国寺と定められ、将軍足利尊氏も尊崇の念を表し、伽藍の修理、土地の寄進などをした。貞和元年(1345年)6月3日、慈雲は『天に月あり、地に泉あり』の末後の句を残して、72才で示寂。光明天皇より「慧日聖光国師』の論号を受けた。
その後、守護代神保氏の崇信を得ていたが、応仁(1470頃)から天文(1550頃)年間にかけての戦乱、特に上杉勢の越中侵攻によって当寺は荒廃した。しかし、雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興し、天正年間(1580頃)には二上山より現在地に移っていたようである。江戸時代に入り貞亨3年(1686)には現在の大方丈が建立され、将軍綱吉は当寺をもって法燈派総本山とし、亨保年間(1720頃)には高壑和尚等によって伽藍の大整備が行なわれ、(現在の法堂は当時のもの)ほゞ現在の形になった。明治維新になると排仏毀釈の余波を受けたが、越受・雪門両和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めた。また、日本を代表する思想家西田幾多郎や鈴木大拙が、若き日に、雪門に参じたことはあまり知られていない事実である。昭和11年には現在の庫裡を再建、42年に観音堂の建立、49年には月泉庭並に龍渕池(放生池)が完成、更に50年に台所。宿泊所を増築し現在の風趣を呈するに至った。
今日も北鎮第一禅刹の名に背かず、雨・雪安居の禅堂規矩を遵守しながら、大衆のために禅堂を開放して団体の坐禅、個人の指導にも一山をあげて努めている。参禅を希望する者、聞法を願う人はお申し出下さい。 
 
浄土真宗

 

日本の仏教の宗旨のひとつである。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。 
名称
親鸞における「浄土真宗」親鸞の著書に記されている「浄土真宗」・「真宗」(・「浄土宗」)とは、宗旨名としての「浄土真宗」(「浄土宗」)のことではなく、「浄土を顕かにする真実の教え」であり、端的に言うと「法然から伝えられた教え」のことである[2]。親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとした。
宗旨名としての「浄土真宗」宗旨名として「浄土真宗」を用いるようになったのは親鸞の没後である。宗旨名の成り立ちの歴史的経緯から、明治初期に定められた宗教団体法の規定(現在は、宗教法人法の規則による「宗教法人の名称」)により、同宗旨に属する宗派[3]の多くが宗派の正式名称を「真宗○○派」とし、法律が関与しない「宗旨名」を「浄土真宗」とする。過去には、「一向宗」、「門徒宗」とも通称された。 
教義
親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に、釈尊の出世本懐の経である『大無量寿経』[4]が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示し、この教えが「本願を信じ念仏申さば仏になる」という歎異抄の一節で端的に示されている。
このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する(なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない。[5])。[6]
如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、ただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。そのため浄土真宗では「信心正因 称名報恩」を強調する。あくまでも念仏は、報恩のために発せられるのであって、浄土往生の条件ではない。
『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐」に、
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなうまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」
と、「真実の心」は虚仮不実の身である凡夫には無いと述べ、如来の本願力回向による名号の功徳によって慚愧する身となれるとする[7]。
本尊は、阿弥陀如来一仏である。ただし、高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀三尊形式である阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩を本尊とする。 
習俗
他の仏教宗派に対する真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。そもそもは、「一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や、世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である」と、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子をもうけたことに由来する。そのため、真宗には血縁関係による血脈[8]と、師弟関係による法脈の2つの系譜が存在する。与えられる名前も戒名ではなく、法名と言う。
真宗は、ただ如来の働きにまかせて、全ての人は往生することが出来るとする教えから、多くの宗教儀式や習俗にとらわれず、報恩謝徳の念仏と聞法を大事にする。加持祈祷を行わないのも大きな特徴である[9]。また合理性を重んじ、作法や教えも簡潔であったことから、近世には庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い、「門徒物知らず」(門徒とは真宗の信者のこと)などと揶揄される事もあった。
また真宗は、本尊(「南無阿弥陀仏」の名号・絵像・木像)の各戸への安置を奨励した。これを安置する仏壇の荘厳に関しての「決まり」が他の宗派に比して厳密である。荘厳は各宗派の本山を模していることから、宗派ごとに形状・仏具が異る。仏壇に、本尊を安置し荘厳されたものを、真宗では「御内仏」と呼ぶ。真宗においては、先祖壇や祈祷壇として用いない。
真宗の本山には、そのいずれにおいても基本的に、本尊阿弥陀如来を安置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、宗祖親鸞の真影を安置する御影堂がある。真宗の寺院建築には他にも内陣に比べて外陣が広いなど、他宗に見られない特徴がある。また各派ともに、宗祖親鸞聖人の祥月命日に、「報恩講」と呼ばれる法会を厳修する。その旨は、求道・弘教の恩徳と、それを通じて信知せしめられた阿弥陀如来の恩徳とに報謝し、その教えを聞信する法会である。またこの法会を、年間最大の行事とする。ただし、真宗各派でその日は異なる。 
依拠聖典
正依の経典は、「浄土三部経」である。七高僧の著作についても重んじる。中でも天親の『浄土論』は、師である法然が「三経一論」と呼び、「浄土三部経」と並べて特に重んじた。親鸞は、『仏説無量寿経』を『大無量寿経』『大経』と呼び特に重んじた。
浄土三部経
『仏説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳
『仏説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎訳
『仏説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什訳
七高僧論釈章疏
親鸞の思想に影響を与えた七高僧の注釈書など。
龍樹造『十住毘婆沙論』全十七巻の内、巻第五の「易行品第九」 姚秦鳩摩羅什訳
天親造(婆藪般豆菩薩造)『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』) 後魏菩提留支訳
曇鸞撰『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)『讃阿弥陀仏偈』
道綽撰『安楽集』
善導撰『観無量寿経疏』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』)[10]『往生礼讃偈』(『往生礼讃』)『法事讃』[11]『般舟讃』[12]『観念法門』[13]
源信撰『往生要集』
源空撰『選択本願念仏集』(『選択集』)[14]
親鸞撰
『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)
『浄土文類聚鈔』
『愚禿鈔』
『入出二門偈頌』(『入出二門偈』)
『浄土三経往生文類』(『三経往生文類』)
『如来二種回向文』
『尊号真像銘文』
『一念多念文意』
『唯信鈔文意』
「三帖和讃」 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』 
名称について
開祖親鸞は、釈尊・七高僧へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]」を継承し、さらにその思想を展開することに力を注いだ。法然没後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、のちに浄土宗西山派などからの批判を受ける事につながる。
なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。
親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。
近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。 
歴史
蓮如の登場まで
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
蓮如の登場〜石山合戦
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。
やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
京都に再興
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)[15]と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)[16]とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、現在の名称に影響している。
また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。 
宗派
現在、真宗教団連合加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)、信徒を擁する。所属寺院数は、開山・廃寺により変動するため概数で表す[17]。
真宗十派(真宗教団連合)
真宗教団連合は、親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。加盟団体は以下の10派であり、「真宗十派」といわれる。
 真宗教団連合加盟宗派
 宗派名 / 本山 / 通称 / 本山所在地 / 所属寺院数
浄土真宗本願寺派 本願寺 西本願寺 京都市下京区 約10,500[18]
真宗大谷派 真宗本廟 東本願寺 京都市下京区 約8,900[19]
真宗高田派 専修寺 高田本山 三重県津市 約640[20]
真宗佛光寺派 佛光寺 京都市下京区 約390[21]
真宗興正派 興正寺 京都市下京区 約500[22]
真宗木辺派 錦織寺 滋賀県野洲市 約200[23]
真宗出雲路派 毫摂寺 五分市本山 福井県越前市 約60[24]
真宗誠照寺派 誠照寺 鯖江本山 福井県鯖江市 約70[25]
真宗三門徒派 専照寺 中野本山 福井県福井市 36[26]
真宗山元派 證誠寺 横越本山 福井県鯖江市 21[26]
その他の宗派
 単立寺院・無寺院教団
 宗派名 / 本山 / 通称 / 所在地 / 所属寺院数
(浄土真宗別格本山) 西念寺 稲田の草庵 茨城県笠間市 単立
原始眞宗 大本山願入寺 大網門跡 茨城県東茨城郡 単立
カヤカベ教 (形式的に)霧島神宮 (鹿児島県霧島市)
 明治以降に分派した宗派・団体
 宗派・団体名 / 本山・本部 / 本山・本部所在地 / 所属寺院数
真宗浄興寺派 浄興寺 新潟県上越市 14[26]
真宗長生派 長生寺 横浜市鶴見区 27[26]
真宗北本願寺派 北本願寺 北海道小樽市 1[26]
浄土真宗同朋教団 方今道平等院 石川県鹿島郡 6[26]
淨土真信宗浄光寺派(浄土真宗浄光寺派) 浄光寺 福岡市東区 2[26]
門徒宗一味派  北海道北見市
弘願真宗 聖玄寺 福井県福井市 34[26]
仏眼宗慧日会 霊鷲寺 神奈川県鎌倉市 単立
浄土真宗華光会 華光会館 京都市南区
浄土真宗親鸞会 親鸞会館 富山県射水市
真流一の会
仏教真宗 大菩提寺 熊本県荒尾市
 お東騒動により分派した宗派・団体
 宗派・団体名 / 本山・本部 / 本山・本部所在地 / 所属寺院数
浄土真宗東本願寺派 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺 東本願寺派 東京都台東区
本願寺維持財団 東本願寺東山浄苑 京都市山科区
本願寺 本願寺 大谷本願寺 京都市右京区 
 
西本願寺

 

宗名 / 浄土真宗
宗祖 / 親鸞聖人
   ご誕生 1173年5月21日(承安(じょうあん)3年4月1日)
   ご往生 1263年1月16日(弘長(こうちょう)2年11月28日)
宗派 / 浄土真宗本願寺派
本山 / 龍谷山本願寺 (西本願寺 )
本尊 / 阿弥陀如来 (南無阿弥陀仏)
聖典 /
釈迦如来が説かれた「浄土三部経」
 『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』
宗祖親鸞聖人が著述された主な聖教
 『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』
中興の祖蓮如上人のお手紙 『御文章』
教義 / 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
生活 / 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
宗門 / この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。 
本願寺の歴史
本願寺(ほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の本山で、その所在(京都市下京区堀川通花屋町下ル)する位置から、西本願寺ともいわれている。
浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっている。
もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展した。
親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳(いとく)を慕う東国(とうごく)の門弟(もんてい)達は寂莫(せきばく)の感を深めた。そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水(よしみず)の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置し遺骨を移した。 これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)である。
この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった。
大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が第3代に就任した。覚如上人は三代伝持(さんだいでんじ)の血脈(けちみゃく)を明らかにして本願寺を中心に門弟の集結を図った。三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然聖人から親鸞聖人へ、そして聖人の孫の如信(にょしん)上人へと伝えられたのであって、覚如上人はその如信上人から教えを相伝(そうでん)したのであるから、法門の上からも留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明らかにしたものである。
本願寺の名前は、元亨(げんこう)元年(1321)ころに公称し、覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置した。これを御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂(あみだどう)の両堂に別置するのは、第7代の存如(ぞんにょ)上人のときである。5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられた。
室町時代の中頃に出られた第8代蓮如(れんにょ)上人は、長禄元年(1457)43歳の時、法灯(ほうとう)を父の存如上人から継承すると、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり平座(ひらざ)で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれた。また本尊(ほんぞん)を統一したり、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な伝道を展開されたので、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆(こうりゅう)をみることになった。しかし上人の教化(きょうけ)は比叡山(ひえいざん)を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は比叡山衆徒(しゅと)によって破却(はきゃく)された。難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津の近松坊舎(ちかまつぼうしゃ)に安置して、文明3年(1471)に越前(福井県)吉崎(よしざき)に赴かれた。吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明5年には「正信偈(しょうしんげ)・和讃(わさん)」を開版(かいばん)し、朝夕のお勤めに制定された。
上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装して一揆(いっき)を起こすに至った。文明7年、上人は争いを鎮(しず)めようと吉崎を退去され、河内(大阪府)出口(でぐち)を中心に近畿を教化。文明10年(1478)には京都山科(やましな)に赴き本願寺の造営に着手、12年に念願の御影堂の再建を果たされ、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えられた。上人の教化によって、本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まり多くの人に慕われたが、明応8年(1499)85歳で山科本願寺にて往生された。
この後、山科本願寺は次第に発展したが、天文(てんぶん)元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われた。そこで蓮如上人が創建された大坂石山御坊(いしやまごぼう)に寺基(じき)を移し、両堂など寺内町を整備して発展の一途をたどった。
しかし、天下統一を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害となったので、ついに元亀元年(1570)両者の間に戦端が開かれた。本願寺は、雑賀衆(さいかしゅう)をはじめとする門徒衆(もんとしゅう)とともに以来11年にわたる、いわゆる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として天正(てんしょう)8年(1580)信長と和議を結んだ。顕如(けんにょ)上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊(和歌山)鷺森(さぎのもり)に移られ、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移られた。
天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄(ぶんろく)元年(1592)、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長(けいちょう)7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立した。これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。
これより先、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れた。翌年に御影堂の落成をみたものの、元和(げんな)3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失した。翌年阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永(かんえい)13年(1636)に御影堂が再建された。このころ対面所などの書院や飛雲閣(ひうんかく)、唐門(からもん)が整備された。ところが元和4年に建立された阿弥陀堂は仮御堂であったので、宝暦(ほうれき)10年(1760)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本願寺の偉容が整備されたのである。 
年表
年号 / 西暦 / 事項
承安3 1173 親鸞聖人、京都の日野の地にご誕生
養和元 1181 親鸞聖人、慈円について得度され、比叡山で修行
建仁元 1201 親鸞聖人、法然聖人の専修念仏に帰す
元久2 1205 親鸞聖人、法然聖人から『選択集』を付属され、影像を図画する
承元元 1207 親鸞聖人、承元お法難によって越後(新潟県)に流罪
建保2 1214 親鸞聖人、常陸(茨城県)へ入り関東を教化
元仁元 1224 親鸞聖人、このころ『教行信証』撰述
嘉禎元 1235 親鸞聖人、このころ帰洛
宝治2 1248 親鸞聖人、『浄土和讃』『高僧和讃』を著す
正嘉2 1258 親鸞聖人、『正像末和讃』を著す
弘長2 1263 親鸞聖人、ご往生
文永9 1272 京都東山に大谷廟堂を建立
文永11 1274 覚信尼、大谷廟堂の留守職となる
永仁2 1294 覚如上人、『報恩講式』を著す
永仁3 1295 覚如上人、『親鸞伝絵』を著す
元亨元 1321 初めて「本願寺」と公称
応永22 1415 蓮如上人、ご誕生
永亨10 1438 存如上人、このころ両堂を整備
長禄元 1457 蓮如上人、本願寺第八代を継職
寛正6 1465 比叡山の衆徒、大谷本願寺を破却
文明3 1471 蓮如上人、吉崎(福井県)に坊舎を建立
文明5 1473 『正信偈・和讃』を開版
文明7 1475 蓮如上人、吉崎を退去
文明10 1478 蓮如上人、山科に本願寺を再興
明応5 1496 蓮如上人、大坂石山に坊舎を建立
明応8 1499 蓮如上人、ご往生
天文元 1532 山科本願寺、六角定頼・法華宗徒等により焼かれる
         翌年、寺基を大坂石山へ移す
元亀元 1570 織田信長、大坂石山本願寺を攻め石山戦争始まる
天正8 1580 信長と講和し、紀州(和歌山県)鷺森へ寺基を移す
天正11 1583 和泉(大阪府)貝塚へ寺基を移す
天正13 1585 大坂天満へ寺基を移す
天正19 1591 京都堀川七条へ寺基を移す
慶長元 1596 地震により御影堂や諸堂舎が倒壊
元和3 1617 本願寺両堂焼失
寛永13 1636 御影堂再建
寛永16 1639 学寮(現・龍谷大学)落成
明暦元 1655 承応の教学論争終わる
宝暦10 1760 阿弥陀堂再建
明和2 1765 『真宗法要』刊行
明和4 1767 明和の法論終わる
文化3 1806 幕府より三業惑乱裁断される
明治14 1881 「本願寺」を公称・宗会を開設
大正12 1923 立教開宗700年記念法要を執行
昭和23 1948 蓮如上人450回遠忌法要を執行
昭和36 1961 親鸞聖人700回大遠忌法要を執行
昭和48 1973 親鸞聖人ご生誕800年・立教開宗750年慶讃法要を執行
昭和52 1977 即如門主、法灯を継職
昭和55 1980 即如門主伝灯奉告法要を執行
昭和60 1985 阿弥陀堂昭和修復完成慶讃法要を執行
平成3 1991 顕如上人400回忌法要・本願寺寺基京都移転400年法要を執行
平成10 1998 蓮如上人500回遠忌法要を執行
平成11 1999 御影堂平成大修復起工  
親鸞聖人の生涯
平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生された。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。親鸞聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。ついで比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。
しかし建仁(けんにん)元年(1201)親鸞聖人29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためであった。95日目の暁、親鸞聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられた。やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。
法然聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(えちご新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。
このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
嘉禎(かてい)元年(1235)、親鸞聖人63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、親鸞聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。
 
東本願寺

 

本尊 / 阿弥陀如来
正依の経典 / 仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)
宗祖 / 親鸞聖人
宗祖の主著 / 顕浄土真実教行証文類(教行信証)
宗派名 / 真宗大谷派
本山 / 真宗本廟(東本願寺)  
東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。
東本願寺は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それによって人として生きる意味を見出し、同朋(とも)の交わりを開く根本道場として聖人亡き後、今日にいたるまで、門徒・同朋のご懇念によって相続されてきました。
親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして「生死出ずべきみち」(凡夫が浄土へ往生する道)を見出されました。人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。
それは混迷の中にあって苦悩する人々にとって大いなる光(信心の智慧)となりました。そして、同じように道を求め、ともに歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として敬われたのです。
どうぞ心静かにご参拝いただき、親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、お一人お一人の生き方をお念仏の教えに問い尋ねていただきたく存じます。 
沿革
真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼かくしんには門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職るすしき」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。
第3代覚如かくにょ上人(1270〜1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。
戦国乱世の時代、第8代蓮如れんにょ上人(1415〜1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていく。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興さいこうの上人(中興ちゅうこうの祖)」と仰ぐ。
京都東山にあった大谷本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山:現在の大阪市中央区)へと移転する。しかし、第11代顕如けんにょ上人(1543〜1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如きょうにょ上人(1558〜1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如じゅんにょ上人が継職した。
しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺みょうあんじ(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものである。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、100余年の経年により屋根瓦や木部の随所に損傷が見られ、現在その修復工事に取り組んでいる。
江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺じ檀だん関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがあった。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈はいぶつきしゃく(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥った。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺であったが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられた。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのである。
そのような中、当派の僧侶である清沢きよざわ満之まんし(1863〜1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していった。この潮流は、昭和37年(1962)に「同朋会運動どうぼうかいうんどう」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀にわたって展開している。
ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではない。昭和44年(1969)、「同朋会運動」に抗する勢力により教団問題が顕在化する。当時、東本願寺の歴代は、法主ほっす※(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の3つの職を兼ね絶大な権能を有していたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのである。
また、数々の差別問題を引き起こし、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのである。
こういった教団の本義を見失う危機を経て、当派は、これらを深く懺悔さんげし、昭和56年(1981)、最高規範である「真宗大谷派宗憲」(当派の最高規範)を改正。「同朋社会どうほうしゃかいの顕現けんげん」(存在意義)・「宗本一体しゅうほんいったい」(組織理念)・「同朋公議どうほうこうぎ」(運営理念)を運営の根幹とし、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動たる「同朋会運動」を軸として歩み続けている。 
親鸞聖人関連書物
顕浄土真実教行証文類(教行信証)
親鸞の主著であり、浄土真宗の根本聖典で、『教行信証』と略称されています。教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻の6巻からなっており、冒頭に総序、信巻の前に別序、巻末には後序が置かれています。
歎異抄
親鸞聖人の弟子である唯円(ゆいえん)が著したと言われる書であり、親鸞聖人の言葉によりながら、聖人なきあとの異説を歎き、聖人の教えの真意、真実の信心を伝えようと書き記したと言われています。前後2部に分かれ、前半は、親鸞聖人から聞いた法語を記し、後半では、当時行われていた念仏の異議をあげて批判し、真実の信心に目覚めるように、法然上人や親鸞聖人の言行が引かれています。
正信偈
「正信偈」は、私たち真宗門徒にとって、古来からお内仏の前でおつとめしてきたお聖教です。親鸞聖人は、仏教の教えが釈尊の時代から七高僧を経て、自分にまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられました。この「正信偈」は、親鸞聖人がその感銘を味わい深い詩(偈文)によって、後の世の私たちに伝え示してくださったものです。
御文
第8代蓮如上人が、ご門徒たちに宛てた「御手紙」で、真宗の教えがわかりやすく、しかも簡潔に書き表されています。当時(室町時代)の「御文」は、ご門徒に広く公開され、法座につらなった読み書きが出来ない人々も、蓮如上人の「御文」を受け取った人が拝読するその内容を耳から聴いて、聖人の教えを身に受け止めていかれました。「御文」は、現在約250通が伝えられており、その中で、文明3年(1471年)から明応7年(1498年)にわたる58通と、年次不明の22通の合計80通を5冊にまとめた『五帖御文』が最もよく知られています。
本願寺聖人伝絵
親鸞聖人の曾孫である覚如上人が撰述した聖人の行状絵巻。詞書の部分を集めたものを『御伝ショウ』、図画の部分を軸装したものを「御絵伝」と称し、東本願寺(真宗本廟)をはじめ各寺院で勤められる報恩講の際に拝読されます。 
 
東本願寺 [東京]

 

宗名 / 浄土真宗東本願寺派
宗祖 / 親鸞聖人/見真大師
開基(東本願寺) / 教如上人(第十二世)
本尊 / 阿弥陀如来
本山 / 浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺
教典 / 『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』
( 本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。)  
法統 
念仏の教え
浄土真宗の御開山親鸞聖人(1172〜1262)は、平安時代の終わりに京都で生を受けられ、幼くして両親と死別されました。
9歳の時、青蓮院門跡慈圓和尚のもとで頭を丸め出家され僧侶となられました。
その後20年比叡山で厳しい修行をなされましたが、ついに世の人々を真に救いうる教えが何であるかを悟ることはできませんでした。 源平の争乱が長引き、京の町も荒れ果てて、多くの人々が苦しみ迷っていたのです。
「叡山での修行では、御仏の光を見つけることができないし、ましてや迷える人々に救いの手をさしのべることもできない」と親鸞聖人は思われ、山をおりる決心をされました。
その後、聖徳太子を奉安した六角堂での夢告もあり、新たな教えと出会うこととなるのでした。
その頃京都では法然上人(1133〜1212)がお念仏の教えを広めておられました。 お念仏の教えを聞きに法然上人のもとを訪ねられた親鸞聖人は、まるで雷に打たれたようにショックを受けたのです。
この法然上人のもとで、親鸞聖人は本願他力のお念仏の教えを、あたかも乾いた大地に雨がしみていくように吸収されました。
親鸞聖人は法然上人にお会いできたことを心から喜ばれたのでありますが、その後訪れる悲劇をこの時、一体誰が知っていたでしょうか。 
立教開宗
法然上人の念仏の教えが盛んになってきたことを快く思っていない人たちの陰謀によって、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流され(1207)離ればなれにさせられてしまいました。
親鸞聖人は深い悲しみに沈まれましたが、法然上人に教えていただいたお念仏の教えを越後の国でも広めようと思い立たれたのでした。遠く離ればなれになった法然上人のお心に通じるだけでなく、当時の都から離れたところに仏法を弘め人々を救うことが、阿弥陀如来の願いであると思われたのです。
その後、流罪を赦された(1211)親鸞聖人は一刻も早く法然上人と再会しようと、雪深い北陸路をさけ雪解けの早い関東から一路京都を目指されました。
その途中法然上人がお亡くなりになったという訃報を受けた親鸞聖人は、法然上人と再会できないならば、京都へは戻らず関東の地で布教をしようとお考えになり、稲田を中心に布教を始められました。
瞬く間にお念仏の教えは関東一円に広まっていきました。
この頃親鸞聖人は浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を著されました。その年(1224)を以て浄土真宗では立教開宗の年としてしています。
その後、関東から京都へ戻られた親鸞聖人は多くの著書を作られ、九十歳で御浄土に還られました。 
本願寺開創
親鸞聖人がお亡くなりになった後、末娘の覚信尼公が親鸞聖人の御骨を京都の大谷というところに御堂を建てて埋葬されました。これを大谷本廟といいます。
その後、親鸞聖人の御弟子の唯円(1222〜1289)という方が聖人のみ教えが正しく伝わっていないことを嘆かれ、『歎異抄』という書物で、その異義を正されました。
時は流れ親鸞聖人の曾孫の覚如上人(1270〜1351)の時代になると、真宗念仏のみ教えは日本中に広まりましたが、その一方で様々な異義もまた現れました。
このような状況の中で覚如上人はお念仏の教えの純粋性を高らかに主張され、大谷本廟を本願寺と改められ、親鸞聖人よりの本流はここ本願寺にあるとし、本願寺を中心として真宗教団全体としての統一を目指されました。
しかし当時の各地の御門徒は覚如上人の純粋にして高潔高邁な理想が理解できず、本願寺に参詣する人もまばらとなり、本願寺は衰退の道をたどるのです。そう、ある人物の登場までは・・・・。 
中興の偉業
参詣する人もない寒々とした状態の大谷の本願寺の一隅で産声が上がりました。御一代で本願寺教団を日本一にされた蓮如上人(1415〜1499)の御誕生です。
幼くして御生母と生き別れられた蓮如上人は大変な御苦労と御苦学の末、親鸞聖人御一流の御法義を修められました。この結果、み教えは、上人の人格の高みを感じさせながらも誰にでもわかるやさしいものとなったのです。
父、存如上人の後を受け42歳で本願寺住職となられた蓮如上人が、近江地方に布教にまわられるとお念仏の教えは、りょう原の火のごとく瞬く間に当時の民衆にひろがり、大谷の本願寺には参詣者が引きも切らず訪れるようになりました。
しかし、あまりにも爆発的にその教えが広まったために他の宗派から反感を買い、様々な迫害を受けるようにもなりました。そしてとうとう比叡山の衆徒により大谷の本願寺は跡形もなく破壊されてしまったのです。これを「大谷破却」といいます。
けれどもこんな事では蓮如上人の布教への情熱を止めることはできませんでした。
親鸞聖人の御真影を南近江にお移しし、今度はお念仏のみ教えを簡潔にまとめた『御文』(おふみ)というお手紙を数多く書かれたのです。
それが蓮如上人に代わって四方八方に広がって、お念仏の声が各地に轟くようになったのです。
しかし蓮如上人の活躍を快く思わない人たちから様々な妨害を受けるようになり、蓮如上人は争いを避け布教の新天地を求るため一路北を目指し旅立たれたのでした。 
本願寺再建
北陸に入られた蓮如上人は吉崎というところに落ち着かれ、北陸の人々に布教されました。 するとわずか一年で近くの越前・加賀は言うに及ばず奥州・出羽にまでお念仏の教えが弘まって、蓮如上人に会いたいという人々で吉崎は大変な賑わいとなり、大谷の本願寺以上の参詣者が集まるようになりました。
けれども、蓮如上人は南近江に預けたままになっている親鸞聖人の御真影を御安置する本堂を建てたいと思い続けておられました。
その思いを実現するため北陸の地を離れ、京都の隣、山科の地に本願寺を再建し御真影をお迎えしました。
その年の親鸞聖人の御命日には盛大な報恩講をお勤めし、お念仏の声高らかに大勢の御同行と一緒に本願寺の再建を親鸞聖人に御報告されました。
やっと念願の本願寺再建を果たされた蓮如上人は関西の各地を布教に歩かれ、所々に坊舎をお建てになりました。
中でも大阪の石山というところに隠居所として建てられた坊舎は、後に荒れ狂う歴史の荒波に飲み込まれることとなるのです。そう、天下大乱の足音はもうすぐそこまで迫っていたのです。 
争乱の足音
応仁の乱に端を発した天下の暗雲は日本全土を覆い尽くし、本願寺もそれと無縁ではいられなくなりました。
このころの本願寺は蓮如上人の曾孫の證如上人(1516〜1554)の時代でした。
證如上人はわずか五歳で父圓如上人と死別され、そして祖父實如上人がお亡くなりになり、十歳で本願寺を背負うという大変な御苦労をされました。
しかし御苦労はそれだけではとどまらず、あろうことか蓮如上人と御同行が心血を注いで建立された山科本願寺は、他宗徒と近江の大名六角氏に攻められ、紅蓮の炎に包まれてしまったのです。
證如上人は大阪石山の坊舎に移り、そこを本願寺と定められました。これが有名な「石山本願寺」です。世の乱れはますます勢いを増し、本願寺の歴史に大きな爪痕を刻み込むこととなるのです。 
戦国の世
顕如上人(1543〜1592)の時代はまさに戦国時代。織田信長が猛威を振るい各地で戦が絶えませんでした。
本願寺とていつ信長に襲われるか分からない緊迫した中で、顕如上人は布教活動をなさっておられました。
ついに本願寺にまでも信長の魔の手が伸びてきました。信長は本願寺を見て、一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と顕如上人に伝えてきたのです。
当然のことながら顕如上人はこれを頑なに拒否されました。蓮如上人が築かれた法城を再度失うことは思いもよらぬことです。
これに激怒した信長は本願寺を武力で攻めてきましたが、顕如上人は御門徒にこの事態を説明し、よくこれを防がれました。これが歴史の教科書などでお馴染みの、十一年間の長きにわたり繰り広げられた『石山合戦』なのです。
あまりの長期にわたる戦に、時の天皇陛下が和議に立たれたので、長引けば犠牲者が多くでるばかりであると考えられた顕如上人は、信長に石山本願寺を明け渡し、紀州鷺森に移られる御決心をなさいました。
しかし、当時新門であられた長男教如上人(1558〜1614)は、信長の過去の行為から講和後の奇襲も予想されるとお考えになられて、徹底抗戦の構えを崩されませんでした。
が、再度朝廷より和議の命を受け鷺森に退かれました。ついに蓮如上人御苦心の石山本願寺は信長の手に渡ってしまったのです。
顕如上人が鷺森を本願寺とし再興なさろうとしていた矢先、教如上人の予見通り、信長は家臣の丹羽長秀に鷺森襲撃を命じました。しかし命運が尽きたのは、信長の方だったのです。そのときちょうど本能寺の変が起こり、顕如上人も鷺森本願寺も難を逃れました。
その後、顕如上人は貝塚、天満と移られ、その都度本願寺の寺基も移り変わりました。
そして豊臣秀吉から京都七条堀川の地に十万余坪の土地を寄進され、顕如上人はそこに移られ、本願寺の寺基もまたその地に移されたのでした。
戦国の世も終わりに近づき天下太平の槌音が聞こえて参りましたが、この直後に思いもよらぬ出来事が起こるのです。 
東西分立
戦国の世も終わりに近づき、顕如上人は長男教如上人と共に京都堀川の本願寺に移られました。
その翌年(1592)顕如上人が御浄土に御還りになり、教如上人が本願寺を継職され、親鸞聖人御一流の御法義はより一層諸国に弘まろうとしていました。
ところがその三年後、急に時の天下人豊臣秀吉が介入、教如上人は突如として隠居させられる事となりました。
代わりに本願寺を継職されたのは三男の准如上人というお方です。
教如上人は時流を読むのに長けた方でしたので、秀吉は、日本最大の教団に教如上人がおられるのを恐れたのです。
さらに時は流れ、いつしか天下の趨勢は徳川家康の手に落ちていました。家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました。
時の天皇陛下の勅許を賜り、教如上人はこの本願寺に入ることとなりました。
ここに本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。
統治能力に優れた家康は、本願寺を東西に分かつことによって、本願寺の力を二分し、幕府の基礎を安泰ならしめたのです。
こで私たちが覚えていなければならないことは、親鸞聖人御一流の御法義に食い違いが生じて東西に分かれたのではないということです。 
昭和の法難
激動の現代にあって、親鸞聖人の法統を受け継がれたのは二十四代闡如上人(1903〜1993)でした。
闡如上人は、終戦後荒廃していた人々の心に、親鸞聖人の御教えにより、広く救済の手を差し伸べられました。
特に、大谷智子御裏方と共に、大谷楽苑を設立し、仏教音楽を通じて戦後日本の文化的復興に尽されて、その御感化は遠く海外にまで及びました。
多くの人々が教化を受けて闡如上人の下に集い、親鸞聖人七百回忌(1961)、並びに蓮如上人の四百五十回忌(1949)の法要も盛大に行われました。蓮如上人四百五十回忌の法要では、京都東本願寺の参詣者だけでも50万人を超えました。
しかし、この一見順風満帆に見えた東本願寺にも、世界の東西冷戦という時代の影響が、暗い影を落とし始めていたのです。
1969年本願寺と包括関係にあった真宗大谷派内部から、当時の反体制革命思想等の影響を受けた僧侶(宗政家)達に煽動され、教義を根底から覆し、親鸞聖人から続いた法統を廃絶しようとする反乱が起きました。
闡如上人は本願寺の法統を守るために、真宗大谷派との包括関係を解き、京都の本願寺を独立させようとされました。そして全国の別院末寺にも独立をするよう命を下されたのでした。
それを受けて闡如上人の長男の興如上人(1925〜1999)は、自身が住職をされている東京本願寺の独立を進められたのでした。 が、悲しきかな1981年改革派は、700年の法統を廃絶するように、宗憲を変更してしまいました。
ここに真宗大谷派は、従来の東本願寺とは全く異なった宗教団体へと変質してしまったのです。そればかりか、1987年「宗本一体」の実現という名目で、京都の本願寺を法的に閉鎖消滅させてしまいました。けれども、御仏の光はどんな時代にも、真に信仰ある人々を見捨てません。希望は残ったのです。 
真の法統
東京本願寺は、1981年6月15日東京都知事の認証を得て大谷派からの独立を達成しました。けれども1987年京都の宗教法人本願寺が閉鎖解散し、法主・住職・法統ともに全て消滅してしまいました。
700年に及ぶ法統が断絶するというこの危機に、興如上人(1925〜1999)は深く歎き悲しまれます。そして念仏三昧のなか阿弥陀如来の願いを憶念され、「これを逆縁として、自ら法統を継承せよ」との御冥意を受けられます。
1988年2月29日、興如上人は「今こそこの御冥意を直ちに具現せねばならない」との使命責務を痛感され、 阿弥陀如来の尊前で、東本願寺第二十五世を継承されました。
同時に、東京本願寺を本山とし、全国独立寺院の数百ヶ寺とともに「浄土真宗東本願寺派」を結成されました。 ここに、親鸞聖人から受け継がれた法統は、浄土真宗東本願寺派本山・東京本願寺において継承されたのです。
興如上人は、御開山親鸞聖人を始め歴代御法主の御真骨を茨城県牛久市に移し、高さ120mの阿弥陀大仏が立っておられる、東京本願寺の施設「牛久アケイディア」の一角に、「東京本願寺本廟」を建てられ、全国の門信徒の心のよりどころとされたのであります。 
法統伝承
御開山親鸞聖人から連綿として受け継がれて参りました東本願寺の美しい伝統は、1999年に遷化された興如上人の後を受け、そのご長男聞如上人(1965〜)へと受け継がれました。平成13年(2001)、21世紀の最初の年に賑々しく東本願寺第26世 大谷光見法主 傳燈式が挙行されました。

本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。これによって、名実ともに東本願寺の正しき法統を受け継ぐ本山として、御開山親鸞聖人立教開宗の御精神に基づき、御歴代上人のお心を体し、御法主台下のお導きのもとに和合の僧伽として、多くの御同行御同朋の方々と共に、新たなる一歩を踏み出すこととなりました。 
関東における歴史 
光瑞寺開創
1591年、教如上人は江戸神田に江戸御坊光瑞寺を開創。江戸における本願寺の録所(教務所・出張所)となる。一説には1603年の開創ともいわれる。
1609年、同じ神田域内で更に広い土地へ移転。俗に「神田明神下」といわれる場所がそれであるが、神田明神は1616年に同所へ移転したので、正確には神田筋違橋外というべきか。
1614年教如上人遷化後、光瑞寺は掛所(別院)となる。
補足:1621年、江戸浅草御堂(築地本願寺)が創建。この頃から東西分立が本格化。1622〜24年、本願寺末刹・輪番所となる。 
浅草へ移転
神田明神下においては、慶長16年(1612)、寛永9年(1632)、そして明暦3年(1657)と、度々火災に見舞われた。特に明暦の大火により、江戸市中ことごとく焼失、死者10万人以上。この頃、東本願寺は14世琢如上人の時代。明暦の大火以後、幕府は「築地か浅草か好きな方を選べ」とし、東本願寺は浅草を選び堂宇を建立。浅草本願寺時代が始まる。ちなみに江戸浅草御坊は築地へ移転し現在に至る。
寛文二年(1662年)頃の浅草本願寺
『江戸名所記』に記された東本願寺
『江戸名所記』は、寛文二年(1662年)に刊行された江戸初期の地誌である。 浅井了意の著といわれ全七巻にわたって、八十余ヶ所の江戸の名所について絵入りで解説し、歌を記している。
その巻二に「東本願寺」の項目があり、江戸時代に出版された地誌に、最初に本願寺が登場するものとなっている。そこには、
一向にたのむは彌陀の本願寺
すつるは雑行ひろひはするな
との歌と共に、教如上人が徳川家康より土地を拝領して東本願寺が創建され、神田に建立された東本願寺が、明暦三年(1657年)の大火を経て浅草へ移ったことが記載されている。また、そこ浅草の東本願寺の様子が、右挿絵に描かれている。(国立図書館 近代デジタルライブラリーより転載)文章中にも、「今は大にはんじょうなれば・・・」と記載されており賑わう山内の様子がわかる。
朝鮮通信使の宿館として使われる
朝鮮通信使の来朝は、慶長十二年(1607年)であったが、それ以降文化八年(1811年)まで、十二回に及び、その内江戸への来訪は十回であった。
江戸における宿館は、当初、馬喰町・誓願寺が充てられていたが、明暦の大火(1657年)に誓願寺が深川に移転したため、爾来、宿館は浅草本願寺が務めることとなった。
朝鮮は江戸時代において、幕府・将軍が結んだ唯一の対等な外交の相手国であり、朝鮮通信使の接待は、幕府にとってほぼ唯一の外交儀礼の機会であった。
同じにそれは、民衆にとっても異文化との交流の、もしくは異国の文物・風俗を見聞できる数少ない、貴重な機会であった。正徳元年(1711年)10月18日に、宝永6年(1709年)に江戸幕府の第六代将軍に襲職した徳川家宣(とくがわいえのぶ)の祝賀を主たる目的として、朝鮮通信使が来聘している。正使は趙泰億(チョ・テオク)であった。
記録によれば、宝永八年(改元して正徳元年)三月より、幕府の命にて浅草本願寺の改修が行われ、七月までに完了している。 『通航一覧』巻一一八)
当時の浅草本願寺は、東西一〇二間、南北一〇九間の広大な寺域に、徳本寺以下二十四の塔頭をもっていたが、ほとんど全ての施設がこの機会に改修をうけたとみられる。しかし、それでも境内の諸施設に収容しきれない分は、境内に仮屋を建て、下官を収容したらしい。
加えて、「鷹部屋」、「馬部屋」が設営されている。これは、将軍に献上される鷹や馬、および将軍に披露される馬技に用いる馬の収容施設である。
また、『正徳信使記録』第七四には、十月二十一日に浅草本願寺において振舞われた献立が詳細に記録されている。饗応の宴は、先ず、七五三の膳が供される。しかし、これは食べるための膳ではなく、歓迎の意を表す儀式の一環である。そしてこれを下げたあと、引替として三汁十五菜の料理がだされ、これを食したのである。
その後、享保四(1719)年、江戸幕府の第八代将軍に(1716年)襲職した徳川吉宗の祝賀を主たる目的として朝鮮通信使が来聘している。
加えて、延享五(1748年 改元して寛延元年)、第九代将軍に(1745年)襲職した徳川家重の祝賀のため、宝暦十三(1763)年には第十代将軍に(1760年)襲職した徳川家治の祝賀のために来聘し、浅草本願寺を宿館として利用している。
このうち寛延元年(1748年)の朝鮮通信使を描いていると推定される、江戸市中を宿館の浅草本願寺へ向かう通信使の行列の絵がある。
天保二年(1831年)頃の浅草本願寺
富嶽三十六景 葛飾北斎に表れた浅草本願寺
天保二年(1831年)〜五年(1835年)の間に刊行されたと考えられている、葛飾北斎の「富嶽三十六景」に、同寺伽藍が「東都浅草本願寺」として描かれる。当時の江戸庶民を驚かせたであろう浅草本願寺の巨大な屋根。雲をつくような火見櫓、空高くあがった凧、そして富士山、これらをほぼ同じ高さに描いたこの作品は、葛飾北斎の構図感覚を象徴しているともいえる。当時の浅草本願寺が、その地域の象徴となる建物、地域のランドマークであったことの証明と言ってもよいであろう。稀代の名浮世絵師、葛飾北斎には、甍の高さと鬼瓦は、富士山と比較する絶好の景色であったと思われる。
天保七年(1836年)ごろの御本山
『江戸名所図会』に表れた東本願寺
『江戸名所図会』全七巻二十冊の中、第六巻に東本願寺の記載があり、その部分は天保7年(1836年)に刊行されているので、当時の御本山の様子がうかがわれる。この図会は江戸の各町について由来や名所案内を記しているので、東本願寺の項目が設けられ、文章と挿絵が掲載されている。その文章には以下の如く記載されている。
第六巻 開陽之部 / 東本願寺
新堀端大通りにあり。開山教如上人(一五五八―一六一四)、その先本山の住職たりしを、豊臣家のはからひとして、順如上人[准如 一五七七―一六三〇。本願寺派](教如上人の舎弟なり)を本寺の門跡に定められ、教如上人をばゆゑなく退隠せしめ、裏屋敷に置かれしを(このゆゑ東門跡をば裏方とはいへり)、神祖[徳川家康、一五四二−一六一六]つひに召し出され、開山上人の真影を御寄附ありて、六条室町の末にて新たに御堂屋敷を下し賜る。それより後、東西とわかる(その後、江戸にて末寺建立ありたき由訴へ、すなはち神田にて寺地を拝領す。一宇を建てて京都よりの輪番所となり、江戸中の門徒を勧化す、その地いま昌平橋の外、加賀屋敷と唱ふところなり。明暦の後[一六五五―五八]、今の地に移されたり)。当寺は朝鮮人来聘のみぎりに旅館となる。
立花会 (毎年七月七日興行す。参詣の人に見物を許す)
開山忌 (毎年十一月二十二日より同二十八日までの間 読経説法等あり 俗にこれを御講と称す 一に報恩講ともいふ そのあひだ門徒の貴賎群参せり)
徳川家康(文中には『神祖』と記載)の寄進にて神田に建立され、明暦の大火以降に、現在の浅草に移転したこと、朝鮮通信使の宿館になったこと等々が簡潔に記載されている。中でも肝要なのは、「江戸中の門徒を勧化す」の一文であると思われる。即ち、御開山親鸞聖人の御教え聞き開く処、聞法求道の場として、大きな働きをしていたとうことであるからである。
江戸名所百人美女 東本願寺(1857年 安政4年)
『江戸名所百人美女』に現れる浅草本願寺
三代歌川豊国・二代歌川国久が描いた『江戸名所百人美女』に風景として「東本願寺」の甍が描かれている。この『江戸名所百人美女』は、江戸各地に美女を配した作品で、歌川豊国が美人図を、歌川国久が景色を描いている。見るとおり、景色はほんの付け足し程度であるが、名所図として浅草本願寺が選ばれたこと、そして高くそびえる本堂の大屋根が描かれたことには、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や、明治時代の井上安治の作品とも共通の感覚があったことを思わせる。それは即ち、この大屋根がお同行のみならず、江戸市中の人々に大きく安心させる雰囲気を与えていたのではないかと想像させる。
江戸の川柳に表れた浅草本願寺
十八世紀頃から江戸で大流行りした「江戸川柳」は、江戸っ子が大切にした「粋」や「洒落」が自由に表現され、寺や神社も遠慮なく「題材」にされ、面白おかしく表現されている。しかしそこに詠みこまれた内容を味わいつつその場に立つと、当時の様子が彷彿としてくる。実際に江戸川柳に尋ね入るならば、往時の浅草の東本願寺の報恩講の有り様が、生き生きと甦ってくるようである。以下にその幾つかを示そう。
  .「報恩講・御講(おこう)」との言葉のでるもの
    はりこんで報恩講もはれじや佛壇も
    せめて赤いが御講ろうそく
    世の中の姿は御講限りなり
  「御講日和」との言葉のでるもの
    御講日和にさい銭の雨がふり
  初逮夜の始まる「二十二日」が詠みこまれたもの
    廿二日にしつけ取るいゝきもの
    仕立やの受合二十二日まで
    ※これは、「御講小袖」と言われる着物を新調して報恩講に参詣するのが、
     当時のご門徒方の習わしであったため、こう詠まれている。
  報恩講に参詣する時に、男性が新調して着て入った「肩衣」の言葉の出るもの
    肩衣をかいとりにするいゝ日和
  当時、報恩講がお見合いの場、男女の出会いの場となっていたことについて
    いづもより御こうははでなゑんむすび
    いい天気婿を見つけに七日でる
    箱入りの出歩く御講日和かな
    御こうへはにうわな顔てつれて行く
    御講で見そめ御忌で逢ふ
    恋御宗旨がみんな指さすいい娘
  なかなか良縁に恵まれない娘さんのこと
    来る年も御講に目たつ縁遠さ
    四、五年も御講で目立つ縁遠さ
    二、三年お講で目立つ縁遠さ
  .「御取越(お取越)」の言のでるもの
    御佛事や牛盗人も斎に出る
    只たのめ茎漬の石も御取越
    御取越蝿も他力の生残り
    よき凪やお西お東お取越
    新発智に惚れし女やお取越
    ※当時の浅草の東本願寺が、江戸の生活にいかに浸透していたかを窺い
     知ることができるものであると思われる。
明治43年(1910年)の浅草本願寺
大洪水に襲われ、床下浸水となる / 1910年8月11日、日本列島に接近した台風は、房総半島をかすめ太平洋上へ抜ける際に、各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川水系の各河川は氾濫するとともに、各地で堤防が決壊。関東平野一面が文字通り水浸しになった。この洪水によって、当時の東京市の中心地や下町に被災し、被害は、死者18人、行方不明者3人、負傷者9人、建物の破壊・流出58棟、床上浸水88,495棟、床下浸水33,871棟、被災者数555,478人にのぼった。また、水が引くのに2週間もかかったと伝えられる。
浅草東本願寺の門、経蔵、御本堂、そして書院が水浸しになっていることが分かる往時の様子が絵葉書等に残されている。 
大正時代から昭和へ
大正12年9月1日、関東大震災が発生。地震には耐えたが、火災で焼失。昭和9年11月26日、定礎式を挙行し、本堂再建が始まる。コンクリート杭を480本打ち込んで基礎を造り、昭和11年には闡如上人御親修のもと、上棟式が行われ、同14年に遷仏法要が厳修された。しかし、第二次大戦末期の昭和20年3月、空襲により被災し、本堂内部は全焼したが、外郭は鉄筋コンクリートのため残った。
東京本願寺へ改称
昭和40年04月、宗祖700回御遠忌が厳修され、同年5月に浅草本願寺の名称を東京本願寺に変更する認証が下りた。翌年、大谷光暢法主のご長男、大谷光紹師が住職に就任した。
昭和48年5月3〜5日 立教開宗750年、親鸞聖人御誕生800年慶讃法要
昭和56年6月15日 大谷派との包括関係を廃止
昭和63年2月29日 東本願寺派結成 25世興如上人、法統伝承を宣言
平成05年4月13日 24世闡如上人遷化
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺へ改称
平成10年 蓮如上人500回御遠忌を厳修
平成11年12月24日 25世興如上人遷化
平成13年04月26日 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺の名称が文化庁より認証される
平成13年06月01日 第26世聞如上人傳燈式・奉告法要が厳修され、現在に至る 
教え
私たちのみ教え(浄土真宗)
いまから2500年以上前にお釈迦様によってお説きいただいた仏法は、いついかなる時代にあっても変わることのない、普遍の教え、真実の教えです。
その仏教は、インド、中国、そして、朝鮮半島を経て、幾多のご苦労の中、私どもの日本に伝来しました。その中でも、お念仏の教えは、インド、中国の高僧方によってお伝えいただきました。
そのお念仏の教えを日々の生活で悩み苦しむ私たち、苦しみを苦しみとも感じずにいる無明の中の私どもに、お念仏の教えとしてわかりやすくお説きくださったのが、親鸞さまです。
親鸞さまが私たちにお教え下さった浄土真宗のみ教えは、「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば仏となる」というお念仏のみ教えです。そのお念仏のみ教えは、私たち一人一人のかけがえのない人生を活かし、受け止め、生きる大いなる道です。
忙しい毎日に追われ、目先のことにとらわれて、人生において大切な意味を見失っています。私どもに伝わるまで長い年月受け伝えていただいた浄土真宗のみ教えは、その苦悩の中、何ものにも妨げられることのない、力強い生き方、明るく確かな真に安心して歩んでいける道へと導いてくださる教えなのです。 
私たちの仏さま(阿弥陀仏)
「五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、それ、衆生のつみにおいては、いかなる十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなりというとも、すくわんとちかいましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまいて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまえるを、すなわち阿弥陀仏と申すなり」
阿弥陀さまはすべての生きとし生けるものすべてをお救いくださる仏さまです。阿弥陀さまは、限りない命、限りない光として何ものにも障げられない無限にはたらく仏様です。ですから、阿弥陀如来、無量寿佛、無量光佛、不可思議光如来、尽十方無碍光如来とも申し上げるのです。
長い間の思惟と、長い間のご修行によって、どれほどの業にまみれたものでも、救ってやりたいとお誓いいただいた願いが成就されて、阿弥陀さまとなっていただいているのです。
仏教では沢山の仏さまが説かれていますが、悩み煩わされながら日々を送っている私たち、諸佛に捨て果てられる凡夫を救って下さる仏さまは阿弥陀さまです。阿弥陀さまは私たちの知識でははかりしれないほど大きなお心で、いつも私たちを見守って下さっている仏さまなのです。 
広大なるお心(本願)
「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじと誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします」
浄土真宗では阿弥陀如来の本願を信じることとお教えいただいています。その本願とは、その阿弥陀さまの誓われた願いです。その願いとは、生きとし生けるものすべてを救いたいという、この上なく深い願いです。
『仏説無量寿経』というお経には、四十八の願いが説かれています。これは阿弥陀さまが法蔵菩薩として修行されているときに立てられた誓願であり、その誓願が成就し、阿弥陀さまとなられたことが経典には説かれています。
親鸞さまは、その四十八の願いの中、十八番目の願いが、この世にあってさまざまな不安の中にいる私たちのために立てられた真実の願い(本願)であるといただかれ、蓮如さまはこのことを私たちに平易にお教え下さっているのです。 
仏さまの喚び声(名号)
「南無の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへともうすこころなるべし。 かやうに弥陀をたのむ人を、もらさずすくひたまふこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり」
お名号とは、「南无阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の六字のことを申します。このお名号には、私ども衆生を救いたいと願っていただいた阿弥陀さまの本願のお心そのままがそなわっているのです。お念仏は「南無」とたのむ私たちを、救おうと立ち上がられ、私の名を称えなさいと仰っていただいた「阿弥陀仏」の名告りであり、私たちを喚んでくださる声であります。 
信じること聞くこと(聞即信)
「信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり」
浄土真宗では、信心が肝要とお教えいただいております。真実の信心とは何か。疑いの心、自分の計らう心を捨てて、阿弥陀さまのみ教えを一心に信じる。私どもの身に起こる様々な迷いや疑う心を見とおして「おまえを救うぞ」と、阿弥陀様から願い続けていただいているのです。そのことを私一人のためにしていただいていたという、その心になった時、すでに摂取不捨のもと、すくいとっていただいていたと信じる心が発るのです。そして、その心も、すでに阿弥陀様から頂戴していた心といただけます。そして、我が身に起こる様々な迷いや疑いも、その迷う心も、ああ、阿弥陀様の願いによって受け止めていただいていると報恩感謝の心が発る。仏様の願いがそのまま私の信じる心になるので、その心を他力の信心というのです。 
仰せのままに(たのむ)
「それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり」
「仰せのまま」にとは、私どもにとって大切です。しかし、とても難しいことです。何を信じたらいいのか、ともすればどうしても疑う心になってしまいます。あるがままに受け取り、阿弥陀さまから「たのめ」の喚び声にその仰せのままに「たのむ」心を起こすことがどれほどの安心か。浄土真宗第八代の蓮如さまは、この「たのむ」ことの大切さ、私の自力のはからい、阿弥陀さまへの請い求める心、疑いの心が一切いらないということ、すべてをおまかせすることをお教え下さっております。 
あるがままの姿(凡夫)
「阿弥陀如来のおおせられけるやうは、末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべしとおおせられたり」
私どもは、日々の生活に追われ、一喜一憂しています。 仏教では、真相に明らかでない、真実を知らないことを無明と言います。闇の中にいるものがいくら目を開けても本当の姿はみえません。私たちは多くの命に育まれ支えられ、また多くの罪をつくりながら生きています。こうした本当の姿は、一筋の光に照らされてはじめて明らかに知らされるものです。
阿弥陀さまのまことの光に照らされたとき、はじめて私たちの本当の姿が照らし出されます。仏法をいただき、真実に触れることで、ようやく、ありのままがありのままに頂けます。虚仮不実のこの世界のありのままが、また我が身の姿が明らかに知らされた時、同時にそこに阿弥陀さまのはたらきに包まれた明るい道が開けてくることでしょう。 
生死をこえる(後生の一大事)
「人界の生はわづかに一旦の浮生なり。 後生は永生の楽果なり。 たとひまた栄花にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰会者定離のならいなれば、ひさしくたもつべきにあらず」
私たちは浄土や後生というと遠い先のことのように思ってしまいます。しかしながら、私たちの人生はいつ如何なることになるかわかりません。生死は表裏一体と申します。
この世は常に移り変わる無常の世界であり、そのような中で人生を生きているのです。そうした世にあってどんなに物質文明が進んでも、生死の世界を生きる本質は変わりません。そして、その真実に目覚めたとき、後生の一大事が知らされます。
そしてその後生が解決されたとき、自ずと今の不安、迷い、今生(こんじょう)が解決されてくるのです。後生の解決なくして、今生の解決(真に安心して進んで生ける道)はないのです。蓮如上人はこの今生こそ、その与えられたチャンスとお教え下さっています。今聞くことなくして、いつ聞くのでしょうか。 
お念仏(称名報恩)
「ありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」
少し以前の日本の風景を思うと、私どものまわりに、毎日の生活の中でお念仏を称えておられるおじいさん、おばあさんがおられたことを思い出します。
仏さまのお心を、真実を、ありのままに聞かせていただくときに、そのご恩報謝の心が起こり、思わずお称えするお念仏、そのお念仏を口に称えることを称名といいます。
真に仏法をいただくと報恩感謝のお念仏となって「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が私の口から自然に出てくるのです。
そのお念仏、南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀さまからの喚び声として、いつでもどこでも私どもによびかけられています。ですから、いつでもどこでも誰でもがお称えできるお念仏として私どもにお与えいただいています。
阿弥陀さまのお心をいただいたことは、そこにすでに仏さまの願いが成就されており、私の口からでるお念仏がすでに御恩報謝ともなっています。称名がそのまま仏恩報謝のお念仏となっているのです。お念仏を称えられることはまことに尊いことであり、私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。
信心というすがたは名号の体となるもので、さらに言えば、仏さまのお手もとにあるときは本願であり、名号であり、私の心に至って信心となり、口にはお念仏となり、体に現れて合掌礼拝となるのです。
それはすべて南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのです。仏さまのみ教えは、私たちがこの身にいただいたとき、はじめて生きた教えとなり、必ずや私たちに生きる力と勇気を与え、そして心の底から悦びに満ちた明るい生活を送ることができるでしょう。 
 
曹洞宗1

 

中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とする。
中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である青原行思から、石頭希遷(石頭宗)、薬山惟儼、雲巌曇晟と4代下った洞山良价によって創宗された。
中国における曹洞宗
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。また、道元をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑑慧能 638-713年)から採られている、という解釈がなされている。(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺につながる系統であったためである。)
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の六祖大鑑慧能にさかのぼり、その弟子青原行思−石頭希遷−薬山惟儼−雲巌曇晟−洞山良价−‥‥とつづく法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。
洞山良价から5代下った大陽警玄には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。
次代の芙蓉道楷の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚の系統と、江南に下る丹霞子淳の系統に分かれた。
丹霞子淳の門下には、宏智正覚と真歇清了がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉の系統が、「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日や東陵永璵によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨)、大明僧宝、玉山師体、雪巌慧満を経て、金代に万松行秀が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕、耶律楚材、林泉従倫などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライに認められ、「国師」に指名されると共に、現在では少林カンフーの発祥地・中心地として有名な嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。
以上の主な法嗣をまとめると、以下のようになる。
洞山良价-雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷
 鹿門自覚-普照一辨(青州希辨)-大明僧宝-玉山師体-雪巌慧満-万松行秀-雪庭福裕・・・
 丹霞子淳
  宏智正覚(宏智派)-自得慧暉・・・(東明慧日・東陵永璵)・・・
  真歇清了-天童宗珏-雪竇智鑑-天童如浄(- 道元)・・・
日本における曹洞宗
日本における曹洞宗は道元に始まる。道元は、鎌倉時代に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事し、1226年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、
洞山良价-雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷-丹霞子淳-真歇清了-天童宗珏-雪竇智鑑-天童如浄-道元
となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾とその後席峨山韶碩の頃からである。 日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓山慧能禅師(638〜713)と洞山良价(807〜869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。 曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
教義
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅により働きかける。
曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派も一部にあるが少数である。
また、道元の著書である『正法眼蔵』自体は仏教全般について記しており、不立文字を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。
2005年現在、三大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲げる。
主な経典
主によまれる経典
 『摩訶般若波羅蜜多心経』『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』『妙法蓮華経如来寿量品』『大悲心陀羅尼』『甘露門』『参同契』『宝鏡三昧』『舎利礼文』
基本となる祖録
 『正法眼蔵』-道元が著述(未完。後に弟子が編集)
 『伝光録』-瑩山の提唱を側近がまとめたもの
 『修証義』-明治時代に『正法眼蔵』から文言を抽出して信者用に再編
ご詠歌・和讃
 梅花流詠讃歌 / まごころに生きる(南こうせつ作詞・作曲)
歴史
正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248−49年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。
永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。
永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾は1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。四哲の一人峨山韶磧も優れた弟子に恵まれたが、高弟の一人通幻寂霊も通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出し、教線の拡大に寄与した。
峨山韶磧の弟子無底良韶は貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、通幻寂霊の弟子石屋真梁は西国大内氏の庇護を受け応永17年(1410年)大寧寺を開き、六百数十ヶ寺に及ぶ末寺を得て「西の高野」と称えられた。
元和元年(1615年)江戸幕府より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。
宗政
21世紀初頭の現在、曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の有道会と、總持寺派の總和会に所属が二分されており、宗務総長も両派が1期4年ごとに交代で担当している。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれている。系列の学校法人も永平寺系の駒澤大学、東北福祉大学、總持寺派の愛知学院大学、鶴見大学などに二分されており理事長や学長は実質的にそれぞれの派が指名権を持っている。
著名な寺院
大本山(根本道場)
両大本山の住職を貫首と呼び、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。2012年1月22日からは永平寺貫首の福山諦法禅師が管長を務めている。
永平寺-福井県永平寺町(貫首:福山諦法ふくやまたいほう禅師) / 寺紋=久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋) / 寛元2年(1244年)に、道元が越前の波多野義重の要請で開く。
 東京別院長谷寺-東京都港区
 名古屋別院-愛知県名古屋市東区代官町
 永平寺鹿児島出張所紹隆寺-鹿児島県姶良市平松
總持寺-横浜市鶴見区(貫首:江川辰三えがわしんざん禅師) / 寺紋=五七桐紋 / 元亨元年(1321年)に、瑩山紹瑾が能登の定賢律師の要請で石川県輪島市門前町に開く。明治31年(1898年)に火災で焼失し、明治44年(1911年)に現在地に移転。
 總持寺祖院-明治38年(1905年)より元の地(石川県輪島市門前町)に復興
 北海道別院法源寺-北海道松前郡松前町松城
歴史的には正法寺(岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺(熊本県熊本市)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、東皐心越によって開かれた曹洞宗寿昌派は祇園寺(茨城県水戸市)を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。
僧堂
大本山僧堂
永平寺-福井県永平寺町 / 總持寺-神奈川県横浜市
専門僧堂
定光寺-北海道釧路市 / 中央寺-北海道札幌市 / 善寳寺-山形県鶴岡市 / 好国寺-福島県福島市 / 永平寺別院長谷寺-東京都港区 / 西有寺-神奈川県横浜市 / 最乗寺-神奈川県南足柄市 / 大栄寺-新潟県新潟市 / 長国寺-長野県長野市 / 可睡齋-静岡県袋井市 / 豊川閣妙厳寺(豊川稲荷)- 愛知県豊川市 / 日泰寺-愛知県名古屋市 / 總持寺祖院-石川県輪島市 / 大乗寺-石川県金沢市 / 宝慶寺-福井県大野市 / 御誕生寺-福井県越前市 / 発心寺-福井県小浜市 / 興聖寺-京都府宇治市 / 智源寺-京都府宮津市 / 洞松寺-岡山県矢掛町 / 瑞應寺-愛媛県新居浜市 / 明光寺-福岡県福岡市 / 安国寺-福岡県福岡市 / 晧台寺-長崎県長崎市 
 
曹洞宗2

 

宗旨・教義(曹洞宗の教え)
宗旨
曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師(そし)方によって相続されてきた「正伝(しょうでん)の仏法(ぶっぽう)」を依りどころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。
そして坐禅の精神による行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します。)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。
教義
私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心(ぶっしん)」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。
お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が明らかとなります。
日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。
宗歌 / 「曹洞宗宗歌」意訳
曹洞宗宗歌は、お釈迦さまの正しい教え(正法・しょうぼう)が、今日まで脈々と伝えられてきたご様子と、その正法の尊さが示されたものです。
お釈迦さまはある時、大勢のお弟子さまの前で、一本の蓮華の花をかかげられました。それは、この世のあらゆるものが互いにかかわりあい、生かし生かされて存在しているということを、言葉ではなく華を拈ずるという行動で示されたものでした。このとき、お弟子のひとり、迦葉(かしょう)さまだけがお釈迦さまのこころを理解されて微笑まれたのです。お釈迦さまはその時、「私が修行して得たところの正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん・正法の真髄である仏心)を、いま摩訶迦葉(まかかしょう)に伝える」と宣言されました。「花の晨に片頬笑み」とは、このお釈迦さまがお弟子の摩訶迦葉さまに正法を伝えたという「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事をうたったものです。
お釈迦さまから迦葉さまへと伝えられた正法は、またそのお弟子さまへ、そしてインドの二十八祖達磨(だるま)さまへと伝えられます。達磨さまはさらに中国へ正法を伝えられることを決意され、長い旅路のはてに中国へと渡られ、以後面壁九年(めんぺきくねん)といわれる坐禅を修行されることになります。達磨さまと、中国の二祖となられる慧可(えか)さまの出会いには、大変有名な説話があります。
達磨さまが嵩山(すうざん)少林寺において坐禅の修行を続けられていた時のことです。それは12月9日、身も切れるほどの厳冬のことでした。慧可さまは、遠いインドから来られた達磨さまに道をもとめられ、その切なる願いに腰まで雪に埋もれながら、自らの体を傷つけるほどの強い思いを示されたと伝えられています。
達磨さまは慧可さまの熱意に応え、後に慧可さまにお釈迦さまからの正法が伝えられることになりました。「雪の夕べに臂を断ち」は、こうしてお釈迦さまの正法が中国に根を下ろした次第を述べているのです。
やがてお釈迦さま以来の正法は、中国での修行から戻られた道元さまによって日本に伝えられ、瑩山(けいざん)さまによりひろめられました。「荒磯の波も得よせぬ高岩に」は、荒波が打ち寄せる海岸の、波も寄せ付けないほどの高い岩に、ということです。
「かきもつくべき法ならばこそ」の「かきもつく」は書き尽くすと掻き付く、「法」は教えの法と海苔の二様のかけことばです。「べき」は可能をあらわします。
高岩に掻き付く海苔があるように、尊いおしえであればこそ、それを求め伝えようとする人々によって、書き尽くし、書き残そうとする努力が積み重ねられ正しく伝わるのです。
今一度、私たちは、摩訶迦葉さまの微笑みと慧可さまの断臂(だんぴ)のありように、身命をかけた求道の心と、そのようにして伝えられてきた正法の尊さを静かに学びたいものです。 
歴史
この道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二代の孤雲懐弉(こうん えじょう)禅師、永平寺三代で加賀(石川県)の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつう ぎかい)禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれました。そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺(ようこうじ)を継いだ明峰素哲(めいほう そてつ)禅師、總持寺を継いだ峨山韶碩(がさん じょうせき)禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのです。特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹(ごさんじっせつ)の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこたえ、地道な布教活動を続けていきました。しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学(しゅうがく)の研究を志す月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、卍山道白(まんざん どうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)等の優れた人材が出て、嗣法(しほう)の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法(めんじゅしほう)の精神に帰るべきことを主張した宗統復古(しゅうとうふっこ)の運動や、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をはじめとする宗典(しゅうてん)の研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士(おおうち せいらん こじ)が出て『修証義(しゅしょうぎ)』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)禅師、永平寺の滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師の校訂を経て宗門(しゅうもん)布教の標準として公布され、在家化導(ざいけけどう)の上に大きな役割を果たしました。
こうしてわが宗門は、今日全国に約1万5千の寺院と、800万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来にむけて更に前進しようとしています。 
一仏両祖
お釈迦さま
お釈迦さまは、詳しくは釈迦牟尼(しゃかむに、釈迦族出身の聖者)、世尊(せそん、世に勝れ尊敬される人)等と呼ばれ、釈尊と略称されます。
今から約二千五百年前頃、ネパールのルンビニーに、釈迦族の王子としてお生まれになり、姓をゴータマ、名をシッダールタと申されました。王子として裕福な暮らしに恵まれたものの、深く人生の問題に苦悩され、29歳で出家されました。6年もの厳しい修行の後、ブッダガヤーの地で35歳で成道され、仏陀(ぶっだ、覚者)とお成りになりました。縁起説や諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切行苦などに代表される教えを説かれました。
以後、クシナガラの地で入滅される迄、弟子の育成と仏法を伝道される旅をお続けになりました。曹洞宗のご本尊は、このお釈迦さまであります。お釈迦さまが成道され、その教えが説かれ、お弟子さま達により代々連綿と正しく伝えられてきたことによって、現在の私達も仏法に巡り逢うことが出来ているのです。
私達は、このご本尊であるお釈迦さまを礼拝すると共に、仏法僧の三宝を礼拝し、その教えを拠り所に正しく精進して生きていくことによって、お釈迦さまの慈悲と智慧、そして歓喜を、私達の身と心の上に体現していく事が出来るのです。
道元禅師
道元禅師は1200年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山(ひえいざん)にて得度(とくど)されました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄(にょじょう)禅師のもとで修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。
28歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著され、34歳のときに宇治に興聖寺(こうしょうじ)を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の執筆を続けられ、45歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。
その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1253年、54歳でそのご生涯を閉じられました。
瑩山禅師
瑩山禅師は1264年(1268年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳で永平寺に入り三世義介(ぎかい)禅師のもとで修行を始めました。
13歳で二世懐弉(えじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山紹瑾(じょうきん)と名を改め、19歳になると諸国行脚(あんぎゃ)の志をたて、求道(ぐどう)生活に精進されました。
そして35歳のとき、義介禅師の後を継いで加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に『伝光録(でんこうろく)』をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。また、50歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記(ざぜんようじんき)』を撰述されたといわれています。
その後、58歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、61歳のとき總持寺の住職を峨山(がさん)禅師に譲られ、翌年62歳でそのご生涯を閉じられました。 
両大本山
曹洞宗には、大本山が2つあります。ひとつは福井県にある大本山永平寺(だいほんざん えいへいじ)であり、ひとつは横浜市にある大本山總持寺(だいほんざん そうじじ)です。これを両大本山といいます。両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰の源であります。大本山の住職の正式な呼び方は貫首(かんしゅ)といい、「禅師さま」と親しくお呼びしております。
大本山永平寺
大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、波多野義重(はたの よししげ)公の願いによって、越前(福井県)に大仏寺(だいぶつじ)を建立し、2年後に永平寺と改められたことに始まります。深山幽谷の地にたたずむ山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす) の七堂伽藍(しちどうがらん)では、修行僧が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を営んでいます。
大本山總持寺
大本山總持寺は1321年、瑩山禅師が58歳のとき、能登(石川県)の諸嶽寺(もろおかでら)を定賢律師(じょうけんりっし)より譲られ、これを禅院に改めて諸嶽山(しょがくさん)總持寺と名づけたことに始まります。1898年に七堂伽藍を焼失し、1907年に能登から横浜市鶴見へ移りました。なお、旧地は總持寺祖院(そいん)として再建され、地域の信仰を集めて今日にいたっています。 
経典
経典とは
仏教は、お釈迦さまが説いた教えを根本とする宗教です。そのため仏教においては、お釈迦さまが説いたことばが絶対の権威をもつものであり、このお釈迦さまの説法をまとめたものを経(経典・お経)といいます。
経ということばは、サンスクリット語(古代から中世にかけて、インドや東南アジアで用いられた言語)である「スートラ」の漢訳ですが、スートラは古代インドの宗教であるバラモン教のさまざまな教えや規則を記した聖典類のことをさしていました。もともと仏教独自のことばではなく、本来の意味は「線」とか「糸」「紐」のことです。
仏教でも、お釈迦さまの教えをまとめたものを、インド古来のスートラという語で呼ぶようになり、中国ではそれを経という字に漢訳しました。
お釈迦さまが亡くなられたのち、その教えは、弟子たちによって口から口へと伝承されました。しかし語り伝えるあいだには記憶の誤りも生じ、しだいに教えの内容も変わることを心配し、弟子たちが集まってお釈迦さまの教えを整理しまとめることになりました。この会議は結集(けつじゅう)とよばれます。
この会議においては摩訶迦葉(まかかしょう)が中心となり、経は多聞(たもん)第一といわれ記憶力にすぐれた阿難陀(あなんだ)によって語られ、また律(教団の規則)は持律(じりつ)第一といわれた優波離(うぱり)が記憶にしたがって語るのを、大勢の弟子たちが聞いたものと照合し、承認してまとめあげたのです。
やがて、この経と律を研究した論が多くつくられるようになりました。これを総称して「経・律・論」の三蔵と呼んでいます。蔵とは「いれもの」という意味で、経と律と論を収蔵しているものということです。
のちには、仏教文献の総量は膨大なものとなったため、一切経あるいは大蔵経と呼ばれるようになりました。
基本経典
正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう)
『正法眼蔵』は、道元禅師が1231年8月より1253年1月にいたる、23年間にわたって説示されたもので、その題名が示すように、お釈迦さまから歴代の祖師を通して受け継いだ正しい教法の眼目を、あますところなく収蔵し、提示しようとした著ということができます。
その内容の多くは、道元禅師の深い悟りの境涯を、禅師独特の語法で説示した高度なもので、現代においても、日本の生んだ最高の宗教思想書とも評されています。
『正法眼蔵』は一般に95巻といわれていますが、それは道元禅師には最終的に100巻として仕上げる構想があったところから、のちに弟子たちがその意をくんで、1690年に編集したものです。
道元禅師自身には、自ら編集された75巻と12巻の新草とがあり、その他の巻と合わせてあらためて体系的に組織化していく意図がありましたが、思いなかばに示寂してしまい、それを果たすことができなかったといわれます。そのため、『正法眼蔵』はさまざまな形で伝承され、60巻本、28巻本などの諸本も存在しています。
伝光録 (でんこうろく)
『伝光録』は、瑩山禅師が1300年の1月から、加賀(石川県)の大乗寺で、師匠の義介禅師に代わり、修行僧たちに説き示した説法を、のちになって側近の僧がまとめたものです。
瑩山禅師の説法の記録(提唱録)ですから、禅師自身が筆をとって書いたものではありません。
釈尊をみなもととする坐禅の仏法が、インド・中国・日本の懐装禅師にいたる53人の祖師たちに、どのように正しく伝えられてきたか、各章ごとにさまざまな僧の伝記を引用しながら、各祖師たちの悟道(ごどう)の主題、伝記、悟道の因縁、それらに対する瑩山禅師の解説、修行僧たちに向けての激励のことばを述べ、結びの詩をもってまとめてあります。
本書は道元禅師の教えをふまえて、曹洞禅の教えを53人の祖師の史実のうえに跡づけようとしたもので、『正法眼蔵』とともに曹洞宗における代表的な宗典として尊重されています。
日用経典
修証義(しゅしょうぎ)
『修証義』は、おもに道元禅師の著わされた『正法眼蔵』から、その文言を抜き出して編集されたものです。
明冶の中ごろ、各宗派では時代に適応した宗旨の宣揚をしようとする気運が高まっていました。曹洞宗では曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)が結成され、多くの僧侶や信者の人々がそれに参加しました。
そのメンバーであった大内青巒(おおうち せいらん)居士(1845〜1918)を中心として『洞上在家修証義』(とうじょうざいけしゅしょうぎ)が刊行されました。これは在家教化のためのすぐれた内容となっていたため、曹洞宗では、ときの大本山永平寺貫首滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師と大本山總持寺貫首畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)禅師に内容の検討を依頼し、1890年12月1日、その名を『曹洞教会修証義』とあらためて公布したのです。その後、『修証義』と改名されて今日にいたっています。
曹洞宗の宗旨は、お釈迦さまから歴代にわたって正しく受け継げられてきた以心伝心の正伝の仏法、只管打坐(しかんたざ)、即心是仏(そくしんぜぶつ)の心を標榜する教えです。『修証義』は、このような心を日常生活のなかでどのように実践し、信仰生活を高めていくかを示しています。
般若心経 (はんにゃしんぎょう)
『般若心経』は膨大な『般若経』600巻の精髄をまとめたもので、字数にしてわずか262文字の短い経典ですが、深遠な仏教の思想と広大な慈悲のいとなみである宗教的実践を簡潔に説いています。この経は、日本ではほとんどの宗派で読まれています。
『般若心経』は、正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』と呼ばれ、大いなる(摩訶)、智慧(般若)の完成(波羅蜜多)の真髄を説いた経典のことです。その内容は『般若経』の中心思想である「空」の思想を簡潔に説いています。
この「空」の概念は、ただ単に何物もない・空っぽである、という意味ではありません。すべてのものには「固定的な実体はない」という哲学的概念を含んでいます。
ですから、経文中の「色即是空、空即是色」とは、色(すべての目に見える対象)は空(永遠に変化しないものはない)なのだ、そして空(変化生成するもの)なるものが色(対象世界)なのだ、という意味なのです。
この経典の異訳は全部で8種類ほどあるとされ、なかでも鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『摩訶般若波羅蜜大明呪経(まかはんにゃはらみつだいみょうじゅきょう)』と玄奘(げんじょう)訳の『摩訶般若波羅蜜多心経』がもっともよく知られています。
玄奘訳はのちに読誦用としてもっともひろく用いられるようになり、それが現在、一般に『般若心経』といわれているものです。 
曹洞宗の坐禅

 

曹洞宗の教えの根幹は坐禅にあります。それはお釈迦さまが坐禅の修行に精進され、悟りを開かれたことに由来するものです。禅とは物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指します。そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。
曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。
道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。修行というと日常から離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行なのです。 
坐禅の作法
1.合掌(がっしょう)・叉手(しゃしゅ)
合掌(がっしょう)
相手に尊敬の念をあらわす作法です。両手のひらを合わせてしっかりと指をそろえます。指の先を鼻の高さにそろえ、鼻から約10cm離します。ひじを軽く張り、肩の力は抜くようにします。
叉手(しゃしゅ)
立っている時、歩く時の手の作法です。左手を、親指を内にして握り、手の甲を外に向け、胸に軽く当てて右手のひらでこれを覆います。
2.入堂の仕方
手は叉手(しゃしゅ)にして、入口の左側の柱(襖・障子等)のそばを、柱側の足(左足)から、坐禅堂に入ります。坐蒲(ざふ)を持って入る場合は、必ず両手で持ちます。坐禅堂に入ったらいったん立ち止まり、聖僧(しょうそう)さまに合掌低頭(ていず)(問訊・もんじん)します。手を叉手にもどして、右足から進んで自分の坐る位置(坐位・ざい)に行きます。なお、堂内では聖僧(しょうそう)さまの前は横切らず、必ず後を通るようにします。
3.隣位問訊(りんいもんじん)・対坐問訊(たいざもんじん)
隣位問訊(りんいもんじん)
坐る両隣の人への挨拶です。自分の坐る位置に着いたら、その場所に向かって合掌(がっしょう)低頭(ていず)します。両隣に当たる二人はこれを受けて合掌します。
対坐問訊(たいざもんじん)
坐る向かいの人への挨拶です。隣位問訊(りんいもんじん)をしたら、合掌(がっしょう)のまま右回りをして向かいに坐っている人に合掌(がっしょう)低頭(ていず)します。向かい側の人は、これを受けて合掌します。
4.足の組み方(結跏趺坐(けっかふざ)・半跏趺坐(はんかふざ))
まず、坐蒲(ざふ)がおしりの中心に位置するようにして、深すぎず浅すぎず坐り、足を組みます。結跏趺坐(けっかふざ)でも半跏趺坐(はんかふざ)でも、大切なことは、両膝とおしりの三点で上体を支えるということです。ただし、体調・体質には個人差がありますから、無理をせず坐り方を工夫すると良いでしょう。
結跏趺坐(けっかふざ)
両足を組む坐り方です。右の足を左の股の上に深くのせ、次に左の足を右の股の上にのせます。
半跏趺坐(はんかふざ)
片足を組む坐り方です。右の足を左の股の下に深くいれ、左の足を右の股の上に深くのせます。
5.手の組み方(法界定印・ほっかいじょういん)
坐禅の時の、手の組み方です。右手を左の足の上におき、その上に左の手をのせて(右手の指の上に左の指が重なるように)両手の親指を自然に合わせます。この手の形を法界定印(ほっかいじょういん)といいます。組み合わせた手は、下腹部のところにつけ、腕と胸の間をはなして楽な形にします。両手の親指はかすかに接触させ、力を入れて押しつけたり、離したりしないようにします。
6.上体の姿勢
背筋をまっすぐにのばし、頭のてっぺんで天井を突き上げるようにしてあごをひき、両肩の力をぬいて、腰にきまりをつけます。この時、耳と肩、鼻とおへそとが垂直になるようにして、前後左右に傾かないようにします。
7.口の閉じ方
舌先はかるく上あごの歯の付け根につけて口を閉じ、口の中に空気がこもらないようにします。
8.視線の位置
目は、半眼といって、見開かず細めず自然に開き、視線はおよそ1メートル前方、約45度の角度におとします。目をつむると眠気を誘うので、目は閉じないようにします。
9.呼吸の仕方(欠気一息・かんきいっそく)
坐禅の姿勢が調ったら、静かに大きく深呼吸を数回します。その後、静かにゆっくりと、鼻からの呼吸にまかせます。
10.左右揺振(さゆうようしん)
上体を振り子のように左右へ、始め大きく徐々に小さく揺すりながら、左右どちらにも傾かない位置で静止し、坐相(ざそう)をまっすぐに正しく落ちつかせます。
11.坐禅の用心
さまざまな思いにとらわれないことです。坐禅をしている間にも、さまざまな思いが浮かんでは消えていくとは思いますが、思いは思いのままにまかせ、体と息を調えて坐ります。
12.止静鐘(しじょうしょう)
坐禅の始まる合図です。参禅者の坐相(ざそう)が調ったころ、堂頭(どうちょう)が入堂して堂内を一巡し、正しい坐にあるかを点検します。これを検単(けんたん)といいます。堂頭が自分の後に巡ってきた時は合掌をし、通り過ぎた後に、法界定印(ほっかいじょういん)にもどします。この後、止静鐘(しじょうしょう)(鐘3回)が鳴ります。止静鐘が鳴ったら堂内に出入りをしてはいけません。
13.警策(きょうさく)の受け方
坐禅中に眠くなったり、姿勢が悪かったり、心がまとまらなかったりした時は、警策(きょうさく)で肩を打ってもらいます。この警策は、聖僧(しょうそう)さまから励ましとしていただくのです。警策は自分から合掌(がっしょう)して受ける方法と、直堂(じきどう)(堂内を監督し警策を行ずる者)が入れる方法と、二通りあります。どちらの場合も右肩を軽く打って予告しますので、そうしたら合掌のまま首を左に傾け、右肩をあけるようにします。受けおわったら合掌(がっしょう)低頭(ていず)して、もとの法界定印(ほっかいじょういん)にもどします。
14.経行(きんひん)の仕方
坐禅を一炷(いっちゅう)(40分ぐらい)行った後、引き続き坐禅をする場合には、途中で経行(きんひん)を行います。経行とは、堂内を静かに歩行することをいいます。坐禅中に経行鐘(きんひんしょう)(鐘2回)が鳴ったら合掌(がっしょう)低頭(ていず)し、左右揺振(さゆうようしん)して足を解き、右まわりで向きを変え静かに立ちあがります。坐蒲(ざふ)を直してから隣位問訊(りんいもんじん)、対坐問訊(たいざもんじん)をし、そのあと叉手(しゃしゅ)にしてしばらくまっすぐに立ち、呼吸を調えてから経行(きんひん)に移ります。歩き方は一息半歩(いっそくはんぽ)といって、一呼吸する間に、足の甲の長さの半分だけ歩を進め、次の一呼吸で、反対の足を同じく半歩だけ進めます。列の前後を等間隔に保ち、堂内を緩歩(かんぽ)します。時間になり、抽解鐘(ちゅうかいしょう)(鐘1回)が鳴るのを聞いたらその場に両足を揃えて止まり、叉手(しゃしゅ)のまま低頭します。その後、普通の歩速で自分の坐位(ざい)に戻ります。
15.坐禅のおわり
放禅鐘(ほうぜんしょう)(鐘1回)が鳴ったら、まず合掌(がっしょう)低頭(ていず)し、左右揺振(さゆうようしん)をして、組んでいる足を解きます。そして、右回りで向きを変えて立ち上がります。(向きを変えてから足を解く作法もあります)立ち上がったら向き直り、坐蒲(ざふ)を元の形に整えて、隣位問訊(りんいもんじん)、対坐問訊(たいざもんじん)をし、合掌の手を叉手(しゃしゅ)にして入堂の時と逆に歩を進めて退堂します。 
 
永平寺1

 

福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
歴史
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
 
永平寺2

 

曹洞宗大本山永平寺
今から約750年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開創された「日本曹洞宗」の第一道場で出家参禅の道場です。
境内は約10万坪(33万平米)、樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。
永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の正治2年(1200)京都に誕生され、父は鎌倉幕府の左大臣久我道親、母は藤原基房の娘といわれています。
8歳で母の他界に逢い世の無常を観じて比延山横川に出家されました。 その後、京都の建仁寺に入られ、24歳の春、師明全とともに中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、悟りを開かれて釈迦牟尼仏より51代目の法灯を継ぎ、28歳のときに帰朝されました。帰朝後京都の建仁寺に入られ、その後宇治の興聖寺を開創されました。
寛元元年(1243)鎌倉幕府の六波羅探題波多野義重公のすすめにより、越前国志比の庄吉峰寺に弟子懐弉禅師(永平寺2世)等とともに移られました。
翌2年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、のちに山号を吉祥山に改めて、ここに真実の仏弟子を育てる道場が開かれました。
以来、御開山道元禅師が説き示された禅の仏法は脈々と相承護持され、今では全国に1万5千の末寺、檀信徒は800万人といわれております。 
歴史 
御開山 道元禅師略伝
永平寺の開山 道元禅師
勅謚
「佛性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし)」孝明天皇
「承陽大師(じょうようだいし)」明治天皇
俗性源氏、村上天皇九代の後胤(こういん)内大臣久我通親(ないだいじんこがみちちか)公を父とし、摂政松殿(藤原基房、ふじわらもとふさ)公の女(むすめ)を母として、正治2年(1200)京都に誕生されました。 3歳で父を失い、8歳で母の亡(ぼう)に逢い、世の無常を感じて13歳の春、比叡山横川般若谷(よかわはんにゃだに)に出家されました。
建保2年(1214)15歳にして京都建仁寺栄西禅師(けんにんじえいさいぜんじ)の門に参じ、貞応2年(1223)24歳の時、栄西の弟子明全和尚(みょうぜんおしょう)と共に求法(ぐほう)のため入宋、諸方の叢林(そうりん)に編算(へんざん)されました。
宝慶元年(1225,日本の嘉禄元年)5月天童山景徳寺(てんどうざんけいとくじ)如浄禅師(にょじょうぜんじ)の下に参じて、堂奥の聴許(ちょうきょ)を許され、釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)より51代目の法を嗣(つ)がれました。
その後、安貞元年(1227)秋に 帰朝、一時建仁寺に掛錫(かしゃく)し、次いで深草に閑居され、天福元年(1233)春、深草の極楽寺旧蹟を興し、藤原経家(ふじわらのりいえ)や正覚尼(しょうがくに)等の請により観音導利興聖宝林寺(かんのんどうりこうしょうほうりんじ)を開かれました。
これより先、道元禅師は帰朝の第一声として「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」一巻を撰述され、誰にでもできる坐禅の行法を説かれました。 さらに、興聖寺を開創するや法を求めて参集する者が多く、在俗のために説法され、佛法の弘法救生(ぐほうくしょう)につとめられました。
文暦元年(1234)の冬には多武峰(とうのみね)の日本達磨宗覚晏(にほんだるましゅうかくあん)の門人孤雲懐奘(こうんえじょう、永平寺2世)が入門し正式に弟子となりました。懐奘禅師は道元禅師より2歳年長で佛教学に精通されており、既に安貞2年建仁寺に掛錫していたころ道元禅師を訪ねて論談法戦(ろんだんほうせん)を試み信伏しておりました。
また、その頃、六波羅探題引付頭(ろくはらたんだいひっけとう)の一人で道元禅師に深く帰依された波多野義重公のもとで「正法眼蔵全機の巻(しょうぼうげんぞうぜんきのかん)」等を説かれるに及びました。 
永平寺の開創
寛元元年(1243)夏、波多野義重公の勧めによって義重公の領地、越前国志比庄(しひのしょう)に移錫されることになり、約10年間住みなれた京洛を後にされました。 本師天童如浄禅師(てんどうにょじょうぜんじ)の遺誡(ゆいかい)に従って深山幽谷(しんざんゆうこく)に居して一個半個を説得し、一人でも多く佛弟子を育成されることになりました。
翌2年7月、義重公や覚念(一説に斉藤基尚)等の外護者(げごしゃ)によって大佛寺(永平寺の前身)が建立され開道説法(かいどうせっぽう)されました。 寛元4年6月、47歳の時大佛寺を永平寺と改めて上堂説法されていますが、それは釈迦牟尼佛の誕生になぞらえ、永平寺の隆盛を尽未来際(じんみらいさい)にわたって祈念されたものでした。この頃盛んに修行僧を指導されると共に、教団の確立のために清規(しんぎ)を定められています。
鎌倉下向
宝治元年(1247)8月、北条時頼一族の北条重時や波多野義重公の請を断ち難く在俗教化(ざいぞくきょうか)の為に鎌倉へ下向し、約半年間名越(なごえ)の白衣舎(びゃくえしゃ)に在って説法され、翌2年3月に帰山されました。
その折りの上堂法語(永平広録巻三)に 
山僧(さんぞう)出で去り半年余り、猶(な)ほ孤輪(こりん)の大虚(たいこ)に処するが若(ごと)し、今日山に帰り山気(さんき)喜ぶ、山を愛するの愛初より甚(はなはだ)し
と帰山の心境を説かれました。これは永平寺山居の心情を強められたものであり、同時に只管打坐(しかんたざ)の峻巖綿密(しゅんげんめんみつ)な家風を物語るものです。
紫衣(しえ)の辞退
また、この頃の出来事として後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)が道元禅師に紫衣を贈られようという一件があり、禅師は再三辞退されましたが許されなかったので拝受されましたが、しかし紫衣を一生身につけることなく
永平谷浅しと雖(いえど)も、勅命(ちょくめい)重きこと重重(じゅうじゅう) 却(かえ)って猿鶴(えんかく)に笑われん 紫衣の一老翁(しえのいちろうおう)
という偈(げ)を作って上謝(じょうしゃ)されたといわれます。これは禅師の名利・世俗に対する超然とした態度の一端をあらわしています。
道元禅師の入滅
建長4年(1252)秋頃より道元禅師は病に罹(かか)られました。この年最後の示衆(じしゅ)となった「正法眼蔵八大人覚(しょうぼうげんぞうはちだいにんがく)」は、釈尊最後の垂誡(すいかい)である「遺教経(ゆいきょうぎょう)」にもとづいたもので、禅師の入寂近きを暗示されていました。
翌5年7月弟子懐弉禅師(えじょうぜんじ)に永平寺の住持を譲られ、8月5日には波多野義重公の勧めを受けて療養すべく上洛されました。 越前国を後にされた禅師は、この折弟子義介に永平寺の後事を託して木ノ芽峠より帰山させましたが、これが最後の訣別となりました。
道元禅師は上洛して高辻西洞院(たかつじにしのとういん)の俗弟子覚念の屋敷に入り、8月23日夜半入滅。世寿54歳でありました。
弟子懐弉禅師をはじめ波多野義重公、覚念等は遺骸を荼毘に附し永平寺に持ち帰られ、9月12日に入涅槃の式を挙げ本山の西北隅に塔を建て「承陽庵(じょうようあん)」と名づけました。 
永平寺二代懐弉禅師(えじょうぜんじ)
二代懐弉禅師は師の塔辺に庵を結ばれて生前と異なることなく孝順の誠を尽くされました。さらに道元禅師の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻や「永平広録(えいへいこうろく)」10巻等の著述を義介(ぎかい、永平寺三代)・義演(ぎえん、永平寺四代)」と共に集大成されました。今日の世界的名著「正法眼蔵」はこの時に校合編集されたものです。
一方、永平寺伽藍の整備にも尽くされ、法弟義介禅師に命じて入宋させ中国五山を見学させましたが、「五山十刹図(ござんじっせつず)」はその折に将来したもので加賀の大乗寺に伝えられています。
懐弉禅師は文永9年(1272)義介禅師に永平寺を譲られ、孝安3年(1280)8月24日、83歳を以て入滅されました。
三世義介禅師は、越前足羽郡(えちぜんあすわぐん)の出身といわれ、永平寺の門前に養母堂を建てて生母に孝養を尽くされること7年間に及びました。
孝安6年(1283)澄海法印(ちょうかいほういん)の請により加賀の大乗寺に移られ、永平寺は法弟義演禅師が四世に住職されました。 
五世中興義雲禅師(ぎうんぜんじ)
四世義演(ぎえん)禅師の滅後の永平寺は、道元禅師を慕って中国より帰化された寂圓(じゃくえん、越前大野宝慶寺)の弟子、義雲が正和3年(1314)に住職されました。
義雲禅師は開基波多野氏の助力の下に伽藍の復興に尽くされ、また、梵鐘(嘉暦の梵鐘、国の重要文化財)を鋳造されました。これ以降の住職は代々義雲禅師の法孫、寂圓派によって法燈が護持されることになりました。
北朝正慶2年(1333)五世義雲禅師が示寂し六世曇希禅師が入寺、暦応3年(1340)永平寺は南北朝の戦火に遭って炎上しましたが曇希禅師の尽力によって復興されました。 
中世の永平寺
九世宗吾禅師の北朝応安5年(1372)に、後圓融天皇(ごえんゆうてんのう)より「日本曹洞第一道場」の勅額を賜り永平寺は出世の道場となりました。文明5年(1473)兵火に逢い伽藍を悉(ことごと)く焼失し応安の勅書も亦(また)焼失したといいます。この頃越前の領主朝倉氏の外護を受けました。
天文8年(1539)後奈良天皇(ごならてんのう)より、「日本曹洞第一出世道場」の追認を賜り、さらに天正19年(1591)後陽成天皇(ごようぜいてんのう)より重ねて「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の諭旨(りんし)を賜りました。
20世門鶴は、関東より永平寺に昇住され、慶長7年(1602)8月、山門を再建されるなど伽藍を整備し、高祖大師の350回忌を奉修されました。 
近世の永平寺
元和元年(1615)21世宗奕禅師(そうえきぜんじ)は徳川家康より永平寺法度を受け、「日本曹洞の末派は永平寺の家訓を守るべし」という命が下されました。 また、宗奕禅師は参内し後水尾天皇(ごみずのおてんのう)より大通智光禅師(だいつうちこうぜんじ)の勅号を賜り以後の矜式(きんしき)となりました。
27世英峻禅師(えいしゅんぜんじ)は幕命により下総総寧寺(しもふさそうねいじ)より昇住して以来、関東三ケ寺より昇住することになりました。関東三ケ寺とは下総総寧寺、武蔵龍穏寺(むさしりゅうおんじ)、下野大中寺(しもつけだいちゅうじ)で、この三刹(さんさつ)を以て僧録と為し諸国の僧録を総轄しました。また、承応元年(1652)には高祖大師400回忌が奉修されました。
寛文元年(1661)越前藩主松平光通公(まつだいらみつみちこう)により寺領20石が、延宝4年(1676)には松平昌親公(まつだいらまさちかこう)により寺領20石が加増され都合70石となりました。
元禄2年(1689)35世晃全禅師(こうぜんぜんじ)は永平寺に昇住するや加賀大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)の助力を得て叢規を復興されました。
正徳4年(1714)3月庫院より出火し佛殿・祖堂・僧堂等9棟を焼失しました。39世則地禅師(そくちぜんじ)は龍穏寺より昇住して享保9年頃に伽藍を再建されました。42世江寂禅師(こうじゃくぜんじ)は寛延2年(1749)8月山門を建立。宝暦2年(1752)43世央元禅師(おうげんぜんじ)は高祖大師500回忌を奉修されました。
また、天明6年(1786)4月、小庫裏より出火して書院等5棟を焼失しました。50世玄透禅師(げんとうぜんじ)は龍穏寺より昇住して伽藍を復興すると共に、高祖大師の規範を復古し綱紀を刷新され、また、高祖大師の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を開版して、全国に流布せしめんとされました。享和2年(1802)8月高祖大師550回忌を奉修し、翌年、清規復興(しんぎふっこう)の効により、勅願「祈祷(きとう)」の御撫物(おなでもの)を賜りました。これは明治維新まで毎年の例となりました。
60世臥雲禅師(がうんぜんじ)は大中寺より普住され、嘉永5年(1852)に高祖大師600回忌を奉修しました。また、高祖大師御生家久我(こが)家の上奏により、安政元年(1854)4月孝明天皇(こうめいてんのう)より高祖大師へ佛性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし)の謚号(しごう)が下賜(かし)されました。 
明治時代と今日
明治元年(1868)6月、永平寺は太政官(だじょうかん)より関東三ケ寺の僧録を廃止し、宗政は一宗碩徳(いっしゅうせきとく)の公議に依るべきことが許されました。同4年勅願等も廃され三ケ寺からの昇住も止みました。
明治4年(1871)61世環渓禅師(かんけいぜんじ)は宇治興聖寺より昇住され、翌5年(1872)総持寺との両山盟約が成り、東京に曹洞宗宗務局を置き統治することになりました。
明治12年(1879)5月、承陽殿・孤雲閣等の回録の災いに罹(かか)りました。11月明治天皇より佛性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし、道元禅師)に承陽大師(じょうようだいし)の謚号が宣下され、同14年に承陽殿・孤雲閣等が再建されました。
64世悟由禅師(ごゆうぜんじ)は明治35年高祖大師650回忌を奉修されましたが、これに当たって僧堂と佛殿が再建されました。更に明治天皇より「承陽」の勅額が下賜せられました。同42年(1909)9月、皇太子殿下北陸見学の折り永平寺に行啓されました。
67世元峰禅師(げんぽうぜんじ)の昭和5年(1930)5月、大庫院・光明蔵等を新築して再び伽藍を一新し、二祖懐奘禅師(えじょうぜんじ)の650回忌を奉修され、この時、昭和天皇より懐奘禅師へ「道光普照国師(どうこうふしょうこくし)」の謚号が宣下されました。
73世泰禅禅師(たいぜんぜんじ)は戦後まもなく高祖大師700回忌の準備にかかり衆寮・不老閣等を再建され、昭和27年5月より700回忌を奉修されました。
昭和30年代に入るや永平寺も心の観光地として注目されるようになり、今日では全国末派15000ケ寺と、また全国800万人の檀信徒を擁する曹洞宗大本山として鶴見の総持寺と共に発展しています。
昭和55年は二祖道光普照国師孤雲懐奘禅師が入滅して700年に当たり、4月1日より9月30日までの準法要が挙げられました。4月23日から3週間は本法要として、特に5月13日の正当には故高松宮・同妃両殿下を始め比延山延暦寺座主(ざす)故山田恵諦(えたい)猊下、建仁寺管長故竹田益州(えきしゅう)猊下と妙心寺前管長故梶浦逸外(えつがい)猊下の御焼香を賜りました。
また、10月8日には皇太子・同妃両殿下が行啓され、10月30日には二祖国師700回忌も大円成を以て幕を閉じましたが、昭和56年の夜明けと共に豪雪による未曾有(みぞう)の被害を被(こうむ)りました。
昭和60年、77世貫首に丹羽廉芳(にわれんぽう)禅師が昇住され、昭和61年11月には中国を訪問、次いで昭和62年8月ヨーロッパを巡錫、ヨハネパウロ二世と謁見されるなど、ヨーロッパに於ける曹洞禅道場にも立ち寄られ親密を深められました。
さらに平成元年1月にはスリランカを訪問される等、海外への御親化も多くなっている一方、海外からの訪問も多く、昭和61年には本山内に「永平寺国際部」設置し、その対応に当たっています。また、毎月本山に祠堂入牌されたり、先祖供養される方々の台帳整理のため昭和63年からコンピューターを導入し事務を進めています。
平成5年9月6日に丹羽廉芳禅師が遷化され、78世貫首に副貫首であった宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師が昇住され11月30日に普山開堂の盛儀を挙げられました。
平成7年6月には、傘松閣の新築が成り、昭和初期に描かれた230枚の天井絵も修復され、11月には道元禅師750回大遠忌事務局が開設されスローガンは「慕古(もこ)」とされました。
平成8年10月には、比延山延暦寺にて天台大師1400年大遠忌法要の導師を努め、11月には、広く一般にお写経を勧めようと宮崎禅師発願による納経塔(のうきょうとう)が完成。さらに中国の浄慈寺・大梵鐘落成10周年記念法要の為に訪中されるなど、道元禅師750回大遠忌に向けて“慕古”の精神のもとに精力的な活動がなされています。 
いろいろな伝承

 

高祖大師紫衣の辞退
昭和4年に劇作家中村吉蔵博士によって「道元と時頼」が発表され、同16年には「道元の一喝」と題する短編が書かれましたが、その当時これらをもとにして帝劇において松本幸四郎主演で上演されたこともあるという逸話です。
道元禅師は越前永平寺に10余年住持している間にただの一度だけ、鎌倉幕府の副元帥北条時頼に法を説くため鎌倉に下向されました。
いよいよ道誉(どうよ)たかくなった宝治年間の終わりには天聴(てんちょう)に達し、後嵯峨上皇は紫衣を賜ろうとしました。高祖大師は再三辞退されましたが許されず、ついにこれを拝受しましたが一生紫衣を用いることなく、
   永平谷浅しと雖も(えいへいたにあさしといえども)
   勅命重きこと重重(ちょくめいおもきことじゅうじゅう)
   卻って猿鶴に笑われん(かえってえんかくにわらわれん)
   紫衣の一老翁(しえのいちろうおう)
という偈をもって上謝したといいます。もとよりのことは史実として疑わしいもので、江戸時代の「永平開山道元和尚行録」(延宝元年刊)等によって初めて語り伝えられるようになった逸話です。
しかし、この話は高祖大師が世人の讃仰のまととなっていたことを物語るものです。 
玄明首座(げんみょうしゅそ)
宝治元年(1247)8月3日、高祖大師は鎌倉に下向し、約半年間北条時頼に菩薩戒(ぼさつかい)を授け、また、俗弟子のために法を説かれましたが、時頼は寺を建立して開山祖師に招請したといいます。高祖大師は「越州ノ小院モ檀那アリ」として辞退されました。
この時西明寺殿(時頼)は、越前の六条の保に二千石の寺領の寄進を申されましたが、高祖大師はこれも受けられなかった。
たまたま、高祖に随行した玄明首座はこの寄進状の使いに当てられ、永平寺に帰って自分の高名を衆中に得意に語ったといいます。
このことを聞いた高祖大師は玄明首座の態度を罰し、堂内より擯出(ひんしゅつ、追い出すこと)し、玄明首座の坐禅していた僧堂の縁を切り取り、土台の土七尺をも掘って捨てたというのです。
これは史実として認められるかどうかあきらかでないにしても、高祖大師の真摯(しんし)にして峻厳(しゅんげん)な姿を伝えるものです。
明治35年5月、高祖大師650回忌に明治天皇より「承陽(じょうよう)」の勅額(ちょくがく)が下賜(かし)されました。この時、大遠忌法要に随喜(ずいき)中の伊藤巨寛等10名が発願して、時の貫首森田吾由(ごゆう)禅師に玄明首座の恩赦を請願しました。
吾由禅師は玄明首座に代わって高祖大師真前で大展懺謝(だいてんさんじゃ)され、650余年ぶりに破門追放が赦免(しゃめん)されることになりました。
いま、承陽殿下段右側に「玄明首座」という位牌が祀られ、その裏に由来が刻まれています。 
虎刎の柱杖(とらはねのしゅじょう)
高祖大師が入宗の修行中、江西の浙翁如炎(せつおうにょえん)和尚に相見のため径山(きんざん)に登らんとした時、路ばたで老虎と逢いしに、持っていた柱杖でもってハネノケたる故に虎刎の柱杖といいます。
また、この柱杖は龍と化して、その頂上には高祖大師が安坐せられていたととも伝えられています。 虎刎の柱杖は建撕記(けんぜいき)には宝慶寺に在りとされていますが、永平寺宝庫にも保存されています。 
火災の難を救った五百羅漢(らかん)
天正元年(1573)8月、越前の領主朝倉義景(よしかげ)が没落し、新たに織田信長の支配するところとなりましたが、この頃になって新支配に対する一揆が多数蜂起しました。
それは主として一向宗によるもので天正2年には永平寺も焼き討ちに会い、北の庄(福井市)へ避難し新永平寺を建立したといいます。
これが今日の鎮徳(ちんとく)寺の由来で、18世祚玖(そきゅう)禅師を開山とし、越前藩時代は永平寺の後見役を勤めていました。
ところで、山門上の五百羅漢は天正の始め、織田信長の軍勢が朝倉氏の残党を追って永平寺に至った時、数少ない雲水の代わりになって、山門楼上(ろうじょう)より列をなして廻り時間をかせいでついには信長軍を退散させたと語り伝えられています。
真意のほどはあきらかでありませんが、山門上の羅漢が修行僧を救ったという護法の三明六通(さんみょうろくつう)を示されたものです。 
豆殻太鼓(まめがらだいこ)
聖宝閣に展示されている太鼓を「豆殻太鼓」といい、豆殻で出来ているといいます。昭和の初めまで浴室入り口の廊下に鼓楼があり、そこで更点等に用いていたようです。
この太鼓、約250年前の享保の中頃、40世大虚喝玄(たいこかつげん)禅師代に寄進されたもので、九頭龍川の西側千石平という山の麓に住んでいた娘の寄進によるといいます。
この娘は先妻の子供で、ある時、継母は自分の娘と先妻の娘に豆を植えさせました。継母は先妻の娘に「いり豆」をわたしましたが、その中の一粒が芽を出し千石余りの豆が採れ、その殻で太鼓を造って永平寺に寄進したものといわれています。 
嘉永の大梵鐘
聖宝閣に保存されている梵鐘で、小さい方は嘉暦2年(1327)5世義雲(ぎうん)禅師が鋳造した梵鐘で重要文化財に指定されています。
いま一つの大きい梵鐘は嘉永5年(1852)8月、高祖大師650回忌を記念して鋳造された鐘ですが、昭和46年(1971)4月100年ぶりに帰ってきたものです。
幕末から明治10年頃までの祖山は疲弊(ひへい)のどん底にあり、とくに明治維新前後は諸規則の改制、地租改正等で生活の目途を失い、明治6年には当山伝来の諸私物及び釣鐘・衣類まで約160品もの法宝を売り払って借金の返済に当てています。
この時、嘉永の梵鐘も売り払われ、転々として東本願寺福井別院に吊られていました。これが昭和46年に返還されたもので、悲劇の梵鐘ともいうべき祖山の歴史を刻みこんでいます。 
菊華の紋章
永平寺の法堂や唐門(勅使門ともいう)等に菊の紋章をみますが、いつ頃より使用されたかは明らかではありません。
しかし、享和元年(1801)50世玄透(げんとう)禅師が古規復興の功績により、皇室より御撫物(おなでもの、陛下のお召し物)を下賜されて、玉体康寧(ぎょくたこうねい)と宝祚延長(ほうそえんちょう)を祈願するようになってからのことと思われます。
降って文政7年(1824)55世縁産大因(えんざんだいいん)禅師の上洛の折、菊の御紋の使用を許可されていますからそれ以降とも考えられます。 
久我龍胆(こがりんどう)の紋
承陽殿を初め、いたる処にみえる久我龍胆の紋は、高祖大師の生家、久我源氏の御紋です。永平寺で久我龍胆が盛んに使用され始めたのは、明治8年(1875)61世環渓(かんけい)禅師が久我建通(たてみち)の猶子(ゆうし)となり、姓を久我に改めてからと思われ、明治14年(1881)9月、承陽殿が再建され、それに使用されたのが先駆をなすと思われます。 
擂粉木(すりこぎ)
大庫院(だいくいん)前にある擂粉木は長さ15尺(約4メートル余)・太さ3尺5寸(1メートル余)という大きさです。このスリコギはもともと明治35年に改築された仏殿の地突き棒で、捨てるには惜しくスリコギとして残したものです。門前の観光みやげに「すりこぎ羊羹」や「永平寺みそ」が売られ永平寺の名物となっています。誰が詠ったものか「身をけずり人につくさんすりこぎのその味知れる人ぞとおとし」と高祖大師の御詠に準えています。 
大珠数(おおじゅず)
祠堂殿(しどうでん)入口の上に掛けてある珠数は、戦後名古屋の大平寺明禅会の岩田喜三郎氏が発願し、世界平和を祈念して寄進されたものです。長さ50尺(約18メートル)・重さ50貫(250キログラム)の大珠数です。 
永平寺の七不思議

 

夜鳴杉(よなきすぎ)
勅使門(唐門)より山門にいたる鬱蒼(うっそう)とした五代杉は夜々風と共にキィー、ヒィーと妙な音色を出します。ある雲水が門前の娘と恋仲におち、逢い引きができなくなった頃、その娘に子供ができ大杉の根本に捨てられたといいます。いま大杉の根本にある祠は、その霊をまつるとか。  
七間東司(しちけんとうす)
東司というのは御不浄(ごふじょう)・便所のことであるが、禅宗では三黙(さんもく)道場の一つでもあります。 七間というのは必ずしも七間を指すのでなく、七間僧堂といわれるごとく、七間(ななま)に区切られた柱の間をいうと思われます。ある時、新到(しんとう)の雲水があわてて褥子(べっす、親指のわれていない足袋)を履いたまま東司に入り、古参の雲水より罰策(ばっさく)を貰い、それを苦にして東司で自殺したという。それ以来その便所より幽霊が出たという。その為一時解体したが、最近になって再び七間にされました。 
山門の柱の礎石がない
山門は寛延2年(1749)今より約247年前に建立された永平寺最古の建物です。その柱の一つ、老梅橋に向かって左側、二番目の柱に礎石がありません。これは山門建立の時、棟梁の娘を人柱として供養したからだという。大建築につきものの一つのジンクスとでもいうべきか。 
首座(しゅそ)単の生首
ある時、首座(百日間の修行中、大衆の一番頭で何事も率先する)に決まった雲水は、やはり門前の娘と恋仲にあったが、百日間の禁足(一歩も境内よりでられないこと)によって他出することが出来ないのを苦に、 相手の娘を殺して、その娘の首を首座単の函櫃(かんき、行季物入れる戸棚)に入れていたという。時がたってだんだん悪嗅がたち、それが発見され大さわぎになったという。首座和尚にとっては安居禁足があまりに厳しく感じられ、弁道専一(べんどうせんいつ)への反感の心情を示したものか。 
中雀門の拳骨和尚の傷蹟
講談、立川文庫で有名な拳骨和尚こと物外不遷(もつがいふせん、1741〜1867)は伊予松山に生まれ幼少より怪力を以て聞こえ、伊予の竜泰(りゅうたい)寺に出家し不遷と称した。27歳頃に3年程永平寺に安居(あんご)し、ある時ささいな事より中雀門の向かって右側から二本目の柱を平手でたたいたという。その蹟が拳骨和尚によるものといわれる。拳骨和尚こと不遷はその後広島県尾道市の済法寺の住職になり、慶応3年11月25日、73歳で遷化(せんげ)し大阪禅林寺に葬られたというが、中雀門の傷蹟ははたして本当かどうか詳(つまびらか)でない。 拳骨和尚の怪力話は各地にあるから永平寺のものもその一つかと思われます。 
仏殿の「足場くれ」
明治30年10月、仏殿の新築工事中に門前大工の富田新左エ門があやまって二の小屋より足をはずし顛落(てんらく)し、頭脳を打破して死亡しました。それ以来、仏殿の左側鴨居(かもい)上に足場を附しています。時折、仏殿の天井を飛ぶムササビの声によるものか。”足場くれ、足場くれ”と聞こえるとか。 
二祖国師の点検
二祖国師は高祖大師に侍すること20年、高祖大師滅後も生きておられる時とかわらず巾瓶(きんびょう)に随侍(ずいじ)されました。それ故、承陽殿入口の扉は必ず少し開けておく。これは二祖国師が真夜中子刻(ねのこく)になると高祖大師の廟所(びょうしょ)を点検・見廻りされるからであるという。現在でも役寮(やくりょう)点検の時には二祖国師とかち会わないようにするという。 

總持寺1

 

神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院である。山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊は釈迦如来。寺紋は五七桐紋。境内にある鶴見大学を運営している。
能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が、「總持寺」の前身である。能登の「総持寺」は、明治44年(1911年)の寺基移転にともない「總持寺祖院」と改称されている。
1321年(元亨元年) 曹洞宗4世の瑩山紹瑾は、「諸嶽観音堂」への入院を住職の定賢から請われる。また同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され、寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し禅院とする。
元亨2年 後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称する。
住職を5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)からの輪番制となる。
1615年(元和元年)、徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。
栴崖奕堂以降独住制となる。
1898年(明治31年) 火災で焼失する。
1911年(明治44年) 現在地に移転。現在、旧地に總持寺祖院(石川県輪島市門前町)がある。
永平寺派の「有道会」と並ぶ、「總和会」(總持寺派)の中心寺。  
 
總持寺2

 

曹洞宗の歴史
曹洞宗の流れは、インドでお生まれになられたお釈迦さまの教え、おさとしを幾世代にも渡って祖師方が、悟りの生活を通して、師匠から弟子へと受け継がれ、インドから中国そして日本に伝えられてきたものです。
曹洞宗の源はお釈迦さまですから、ご本尊さまはお釈迦さまです。
そして、お釈迦さまの教えを日本に伝えられ、永平寺を開かれた道元禅師を「高祖」(こうそ)とあがめ、總持寺を開き、教えを全国に広められた瑩山禅師を「太祖」(たいそ)と仰ぎ、このお二人の祖師を「両祖」と呼び、この三師を「一仏両祖」としてお祀りしお慕い申し上げ、信仰のまことをささげています。
拝む時は「南無釈迦牟尼仏」と、お唱えして礼拝します。
現在では、全国に約15,000の寺院と、1,200万人の檀信徒がおります。
両祖
曹洞宗は大本山を二つもっています。福井県にある永平寺と、横浜市にある總持寺です。ちょうど、私達が父と母の両親を持つように、道元さまの永平寺と、瑩山さまの總持寺を両大本山とお呼びします。
道元さまが正しい仏教の教えを中国より日本に伝えられ、道元さまから四代目の瑩山さまが全国に広められ、曹洞宗の礎を築かれました。
大本山
大本山總持寺
石川県にあった諸嶽寺を、1321(元亨元)年、太祖瑩山禅師が諸嶽山總持寺と改められたのが始まりです。明治時代の焼失を機に横浜市に移転しました。交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。大本山總持寺
大本山永平寺
高祖道元禅師が1244(寛元2年)に、お釈迦さまの教えを正しく伝えられた仏道修行の根本道場であるという高い理想のもとに開山されました。約750年の伝統を誇る永平寺は、今もつねに二百余名の修行僧が日夜修行に励んでいます。  
瑩山禅師について
誕生〜出家
瑩山禅師瑩山紹瑾禅師は、文永5年(1268)10月8日、陽暦に換算して11月21日に、越前の国、多禰邑(たねむら)の豪族瓜生(うりゅう)邸に誕生されました。熱心な観音信者の母に育てられた禅師は、3歳にして観世音前に「ナムナム・・・」と唱えて拝み、5歳頃には土をこねて仏像をつくったり、経を読み、近隣から観音大士の応現と称されました。
禅師8歳の春、母に連れられ永平寺へ登り、3世徹通義介禅師のもとで沙弥(ひな僧)となり、13歳になると、2世孤雲懐弉禅師に随いて得度式(正式出家)を挙げ、幼名行生を紹瑾に改めて僧列に加えられました。
求法の旅〜總持寺開山
以来、本師徹通禅師に従って宗義を学び、仏経祖録の研鑚を積み、諸国行脚の旅に出られ、臨済・曹洞の宗要をたずね、比叡山では天台教学を修し、永平寺に戻られたのは21歳の秋でした。その後、師の徹通禅師に随って金沢の大乗寺に移り、寺門興隆と民衆布教に専念されました。そして28歳で徳島の城満寺を開き道元禅師のみ教えを広め、4年後大乗寺に帰り禅修行道場の体制を固め、その後数ヶ寺を創立するとともに、たくさんの弟子を導かれ教線の拡張をはかり、石川県能登の門前町に總持寺を開かれたのは禅師54歳の時でありました。
曹洞宗の太祖大師と仰がれる瑩山禅師は、正法を広め宗旨を布演することに全生涯を投じ、偉大なる足跡を残して正中2年(1325)9月29日、58歳で亡くなられたのであります。  
總持寺の概要
大本山總持寺の開創
總持寺の正式名は、「諸嶽山總持寺」といいます。その開創は、700年余もの昔にさかのぼります。
日本海にマサカリのように突き出た能登半島の一角、櫛比庄(現在の石川県鳳至郡)に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂がありました。そこの住職である定賢権律師が、ある夜に見た夢の物語から、總持寺のあゆみが始まります。
元亨元年(1321)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、
「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」
と告げて、姿を消されたというのです。
不思議な事に、その5日後の23日の明け方、やはり能登の永光寺室中(方丈の間)でいつも通り、坐禅をしていた瑩山禅師も同じような夢のお告げを聞きました。
諸嶽観音堂は、真言律宗の教院であり、瑩山禅師はかねてから禅院にしたいと念じていました。夢のお告げで、瑩山禅師は入山しようと観音堂の門前に進みます。すると門前に亭があり、禅師はそこの鐃鉢を打ち鳴らして、2つの屋根の楼門を仰ぎみます。山門の楼上には、「大般若経六百巻」が備えられ、手前には放光菩薩が安置されていました。すると、たくさんの僧侶たちと、律師自らが出迎え、歓迎しております。禅師は前に進み、この楼門をくぐります。おもわず、「總持の一門、八字に打開す(門を八の字のように打開する)」と唱えたのです。諸堂を巡り、その壮観さに驚きました。
このようにして瑩山禅師は、定賢権律師の入山の要請を快く受けいれて、諸嶽観音堂に入院します。
前述の『縁起』本文中に「入寺の後、30日を経てまた夢をみる云々」とあり、禅師の入寺は、元亨元年5月15日(夏安居)結制の日であったことが知られます。
禅師と律師は、ともに夢告が符合することに感応道交して、律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。
寺号を仏法(真言)が満ち満ち保たれている総府として、「總持寺」と改名し山号は諸嶽観音堂の仏縁にちなんで「諸嶽山」と決定しました。
翌元亨2年(1322)、瑩山禅師52歳の時、後醍醐天皇は、臨済僧、孤峰覚明和尚を使者として、10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答が深く帝の叡情にかなったので、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて、その住持は紫衣の法服着用を公に認められました。更に、この年、9月14日、藤原行房卿に命じられて「總持寺」の三字の書額を揮毫させ、これを賜りました。ここで、總持寺は官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。
鶴見が丘への御移転
瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりました。
しかし、明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。
明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、寺基を現在の地に移されたのであります
国際的な禅苑
現在の總持寺は横浜市の郊外、前に東京湾と房総半島を望み、後に富士の霊峰がそびえる景勝の地、鶴見が丘に位置し、JR鶴見駅より徒歩わずか5分という交通の便の良さに加え、わが国の海の玄関・横浜に位置するところから、国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。このすばらしい地に15万坪の寺域を有し、鉄筋製の大伽藍をはじめの多くの諸堂が建てられ、能登總持寺の開創から数えて591年目の明治44年11月5日、盛大な遷祖式が執り行われました。
山内には、学校法人総持学園として、三松幼稚園、鶴見大学附属中学校・高等学校、鶴見大学、さらに社会福祉法人諸岳会として、總持寺保育園、精舍児童学園等を経営し、社会に貢献しております。
本山に於いても、各種教化事業を推進し、約200名に及ぶ役寮、大衆(修行僧)、寺務職員、パート職員が一丸となって、 寺門の興隆につとめております。  
 
日蓮宗1

 

1.仏教の宗旨の一つ。法華宗とも称する。鎌倉時代中期に日蓮によって興され、かつては(天台法華宗に対し)日蓮法華宗とも称した。
2.仏教の宗派の一つ。
1.1872年(明治5年)、政策「一宗一管長」制に基づいて合同した日蓮門下の全門流の宗号。1874年(明治7年)、日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれ解散。
2.1876年(明治9年)、日蓮宗一致派が公称を許された宗号。1941年(昭和16年)、三派合同により解散。
3.1941年(昭和16年)、三派合同により成立した現行の「宗教法人・日蓮宗」。身延山久遠寺(くおんじ)を総本山とする。  
宗旨・日蓮宗の概要
開祖である日蓮の主要著作「立正安国論」のタイトルから類推して、国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る者がいる。 本節では鎌倉仏教の宗旨日蓮宗(法華宗)の宗祖日蓮の教えならびに分派の大要を紹介する。
教え
法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして選び、「南無妙法蓮華経」という題目をとなえること(唱題)を重視。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。
日蓮に対する天台教学の影響
日蓮は、天台の教観二門(教相門・止観門)を教学の大綱とし、法華経に対しては天台智の本迹分文により、方便品の開権顕実、寿量品の開近顕遠を二門の教意とする。二乗作仏と久遠実成を法華経の二箇の大事とする。などは天台教学を踏襲するとともに、「法華経の行者」としての自覚と末法観を基調とした独自性を示した。
末法観と法華経
日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。 そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。そして法華経にとかれた
   久遠本仏の常住
   遣使還告の譬
   勧持品二十行の偈文
等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
五綱教判
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。つまり、「教」(教え)にはおいては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる。
日蓮の一念三千
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
分派
思想面(本仏の位置付け、妙法蓮華経の解釈)から、大別して3つの分派(門流)が成立した。
釈尊を本仏とする一致派
 日昭門流(浜門流)---日蓮宗
  日朗門流(比企谷門流・池上門流)---日蓮宗
  日像門流(四条門流)---日蓮宗
   日奥門流---不受不施派、不受不施日蓮講門宗
  日静門流(六条門流)---日蓮宗
 日向門流(身延門流)---日蓮宗
 日常門流(中山門流)---日蓮宗
釈尊を本仏とする勝劣派
 日目門流より日郷門流のうち小泉久遠寺・北山門流(談所派)---日蓮宗
 日目門流より日尊門流(要山派)---日蓮本宗
 日像門流より日隆門流---法華宗(本門流)、本門法華宗
 日像門流より日真門流---法華宗(真門流)
 日静門流より日陣門流---法華宗(陣門流)
 日常門流より日什門流のうち妙満寺---顕本法華宗
日蓮を本仏とする勝劣派
 日興門流(富士門流)
  日目門流(戒壇派)
   日道門流(石山派)---日蓮正宗
   日郷門流のうち保田妙本寺---単立
  日代門流(西山派)---法華宗興門流
権力との距離という実践面から、桃山時代末期より江戸時代にかけて
受不施派
不受不施派(悲田派・恩田派)
という区分も生じた。
大正期の門下統合運動
大正時代、顕本法華宗の本多日生を牽引役として、門下各派による統合運動が展開された。
1914年(大正3年)には、日蓮門下7宗派の管長が池上本門寺に集まって、「各教団統合大会議」を開催。同年12月、「日蓮門下統合後援会」が組織された。翌1915年(大正4年)6月、一致派の日蓮宗が離脱したのを除く、勝劣派の6宗派の統合が成立した。また、1917年(大正6年)、門下合同講習会が開催され、同年11月には統合修学林を開校するにいたった。
この時期には門下の9宗派による、宗祖日蓮への「大師」号の授与運動が展開され、1914年(大正3年)11月にいたり、宮内省より日蓮にたいする「立正大師」の謚号宣下が行われた。  
宗派・日蓮宗の概要
中世・近世における自称は法華宗であり、ことに中世において日蓮宗は蔑称と捉えられる向きもあった。
1872年(明治5年)成立の日蓮宗
近代では、1872年 (明治5年) 神道国教化を画策する明治政府の仏教統制政策下、教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した 。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、日蓮宗一致派初代管長)らの活動で、身延山久遠寺(山梨・身延門流)、長栄山本門寺(東京池上・比企谷門流)、正中山法華経寺(千葉・中山門流)、具足山妙顕寺(京都・四条門流)、大光山本圀寺(京都・六条門流)、妙塔山妙満寺(京都・什門流)、長久山本成寺(越後・陣門流)を七大本山とする制度を実施した。しかし、これに京都要法寺を始めとする興門派及び八品派や一致派本山から異論が噴出する。教部省に訴えた結果、七本山の企ては頓挫し、管長は一致派・勝劣派に拘らない年番交代となった。
その後1874年 (明治7年) 3月、宗教行政の無理さや教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれたため、管長も各派別におくこととなる。前者は一致派全門流の合同教団となり、身延山久遠寺の新居日薩が初代管長に就任した。
1876年(明治9年)成立の日蓮宗
1875年(明治8年) 3月、 日蓮宗一致派は派名廃止を政府に求め、 単称日蓮宗 への変更を請願した。 しかし政府も勝劣派等との関連を考え一度は退けたが、 再三にわたる働きかけのため、 1876年 (明治9年) 2月、 承認する。
宗教法人・日蓮宗
成立までの経緯
宗教団体法による統合
大正期の統合運動は、「学林」(=僧侶の養成機関)問題により一致派の日蓮宗が離脱し、また勝劣派による統合も6宗派の個々の自律性を残すものであったが、1939年(昭和14年)4月、宗教団体を戦争協力させることを目的として制定された「宗教団体法」は、"統合運動"の様相を一変させることとなる。
この法律は仏教・神道・キリスト教の各宗教に対し、教団を国家権力下に管理するため宗派合同を求めるものであり、そして1940年(昭和15年)9月、同法第5条を根拠として、政府は神道・仏教・キリスト教の各宗教界代表を招集。1941年(昭和16年)3月末日までに各宗派の自主的合同を終えるよう通達した。
この通達を受け、1940年(昭和15年)12月、本門法華宗・法華宗・日蓮宗・本妙法華宗・顕本法華宗・本門宗・不受不施派・講門派 の日蓮門下八派が出席する門下合同準備会の第一回委員会 (委員長は日蓮宗の柴田一能) が開かれる。委員会は合同に賛成し、宗名・教義・本尊は特別委員会で決めることとなった。その後、3カ月間で、教義や管長推戴について比較的似通った主張をする宗派で合同する方向にまとまる。特別委員の苅谷日任が本迹問題から合同に反対したこともあって八派全ての合同はならず、1941年(昭和16年)3月、日蓮宗第37宗会は、日蓮宗・顕本法華宗・本門宗が各教団解散の上で対等合併する三派合同を承認し、宗名を日蓮宗とすることが決められた。  
概要
身延山久遠寺を総本山とし、宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)に置く日蓮系諸宗派中の最大宗派。中世期に成立していた門流の多くと、思想的潮流の相当部分を包含する。祖山1(総本山)、霊跡寺院14(大本山7、本山7)、由緒寺院42(本山42)、寺院数5,200ヶ寺、直系信徒330万人。なお、日什門流・日興門流は、門流に所属する寺院の一部が日蓮宗に帰属している。
1941年(昭和16年) / 日蓮宗、顕本法華宗(日什門流)、本門宗(日興門流)が、対等の立場で合併(三派合同)して発足。
1946年(昭和21年) / 大本山法華経寺と一部の末寺が離脱し、「中山妙宗」を立ち上げる。讃岐本門寺が離脱し、日蓮正宗に合流。
1947年(昭和22年) / 大本山妙満寺が離脱し、賛同して離脱した日什門流約200ヶ寺で、昭和25年に顕本法華宗をあらためて組織(合同の維持を主張した旧4ヶ本山と末寺180ヶ寺については日蓮宗什師会を参照)
1949年(昭和24年) / 真言宗智山派清澄寺、日蓮宗に改宗。
1950年(昭和25年) / 本山要法寺と末寺50ケ寺が離脱し、「日蓮本宗」を立ち上げる(日蓮宗にとどまった要法寺の旧末寺30ヶ寺は日蓮宗内部で興統法縁会(1941年発足)にとどまり、島根尊門会を組織。本山下条妙蓮寺が旧末寺6ヶ寺とともに離脱し、日蓮正宗に合流。
1954年(昭和29年) / 最上稲荷妙教寺が離脱し、「最上稲荷教」を立ち上げる。
1957年(昭和32年) / 法華宗陣門流大久寺(小田原市)、日蓮宗に改宗。本山西山本門寺と旧塔頭末寺の一部と共に離脱し、単立となる。日向定善寺が離脱し、日蓮正宗に合流。本山保田妙本寺が旧末寺4ヶ寺とともに離脱し、日蓮正宗に合流(のちに単立)。宮崎県の日郷門流寺院が離脱し、「大日蓮宗」を立ち上げる。
1959年(昭和34年) / 本派日蓮宗寂光寺(大津市)、日蓮宗に改宗。
1960年(昭和35年) / 下条妙蓮寺旧末寺(忠正寺)が離脱し、日蓮正宗に合流。妙見宗安国寺(宝塚市)、日蓮宗に改宗。
1964年(昭和39年) / 法華宗本門流上行寺(富士吉田市)、日蓮宗に改宗。
1965年(昭和40年) / 日蓮教団妙栄寺(大阪市)、日蓮宗に改宗。妙法日慎宗日慎院(奈良県吉野郡吉野町)、日蓮宗に改宗。
1968年(昭和43年) / 法華宗真門流本告寺(舞鶴市)、日蓮宗に改宗。
1972年(昭和47年) / 中山妙宗が解散し、法華経寺他19ケ寺が日蓮宗に復帰。単立寺院になった宝晃寺(台東区)、正中山奥之院(市川市)、雄瀧弁天堂(山梨県南巨摩郡早川町)ものちに日蓮宗に復帰した。本派日蓮宗妙蓮寺(大阪市)、日蓮宗に改宗。
1975年(昭和50年) / 法華宗真門流最然寺(京都市)、日蓮宗に改宗。
1981年(昭和56年) / 法華宗真門流恵光寺(大阪市)、日蓮宗に改宗。日蓮宗最上教妙仙寺(宮若市)、日蓮宗に改宗。
1984年(昭和59年) / 妙法宗護法寺(橿原市)、日蓮宗に改宗。
1986年(昭和61年) / 本山修験宗長徳寺(南丹市)、日蓮宗に改宗。
1989年(平成元年) / 大日蓮宗が解散し、日蓮宗に復帰。
2009年(平成21年) / 最上稲荷教が解散し、妙教寺他8ケ寺が日蓮宗に復帰。
2014年(平成26年) / 法華宗真門流日照寺(泉南市)、日蓮宗に改宗。  
主要寺院
現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は昭和16年の本末解体で消滅し実態はないが、日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている。
祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊跡寺院は日蓮一代の重要な事跡、由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する。
祖山、霊跡寺院、由緒寺院は「日蓮宗全国本山会」を組織している。総裁は身延山久遠寺内野日總法主、会長は飯田本興寺浅井日彰貫首、事務局長は北野立本寺上田日瑞貫首。
本山妙教寺は平成21年7月に一般寺院として日蓮宗に帰一したが、客員として長らく日蓮宗全国本山会に参加している為、その他本山としてあげておく。
祖山
総本山身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ、身延山、山梨県南巨摩郡身延町)
霊跡寺院
大本山小湊山誕生寺(こみなとさんたんじょうじ、小湊誕生寺、千葉県鴨川市)
大本山千光山清澄寺(せんこうざんせいちょうじ、清澄清澄寺、千葉県鴨川市)
大本山正中山法華経寺(しょうちゅうざんほけきょうじ、中山法華経寺、千葉県市川市)
大本山富士山本門寺根源(ふじさんほんもんじこんげん、重須本門寺、北山本門寺、静岡県富士宮市)
大本山長栄山本門寺(ちょうえいざんほんもんじ、池上本門寺、東京都大田区)
大本山具足山妙顕寺(ぐそくさんみょうけんじ、顕山、京都府京都市)
大本山大光山本圀寺(だいこうざんほんこくじ、光山、京都府京都市)
本山小松原山鏡忍寺(こまつばらざんきょうにんじ、小松原鏡忍寺、千葉県鴨川市)
本山長興山妙本寺(ちょうこうざんみょうほんじ、比企谷妙本寺、神奈川県鎌倉市)
本山寂光山龍口寺(じゃっこうざんりゅうこうじ、片瀬龍口寺、神奈川県藤沢市)
本山海光山佛現寺(かいこうざんぶつげんじ、伊東佛現寺、静岡県伊東市)
本山岩本山実相寺(がんぽんざんじっそうじ、岩本実相寺、静岡県富士市)
本山塚原山根本寺(つかはらさんこんぽんじ、塚原根本寺、新潟県佐渡市)
本山妙法華山妙照寺(みょうほっけざんみょうしょうじ、一谷妙照寺、新潟県佐渡市)
由緒寺院
本山光明山孝勝寺(こうみょうざんこうしょうじ、仙台孝勝寺、宮城県仙台市)
本山宝光山妙國寺(ほうこうざんみょうこくじ、会津妙國寺、福島県会津若松市)
本山靖定山久昌寺(せいていざんきゅうしょうじ、水戸久昌寺、茨城県常陸太田市)
本山開本山妙顕寺(かいほんざんみょうけんじ、佐野妙顕寺、栃木県佐野市)
本山広栄山妙覚寺(こうえいざんみょうかくじ、興津妙覚寺、千葉県勝浦市)
本山常在山藻原寺(じょうざいざんそうげんじ、茂原藻原寺、千葉県茂原市)
本山妙高山正法寺(みょうこうざんしょうほうじ、小西正法寺、千葉県大網白里市)
本山正東山日本寺(しょうとうざんにちほんじ、中村日本寺、千葉県香取郡多古町)
本山長崇山妙興寺(ちょうそうざんみょうこうじ、野呂妙興寺、千葉県千葉市)
本山真間山弘法寺(ままさんぐほうじ、真間弘法寺、千葉県市川市)
本山長谷山本土寺(ちょうこくざんほんどじ、平賀本土寺、千葉県松戸市)
本山長崇山本行寺(ちょうそうざんほんぎょうじ、大坊本行寺、東京都大田区)
本山日圓山妙法寺(にちえんざんみょうほうじ、堀之内妙法寺、東京都杉並区)
本山慈雲山瑞輪寺(じうんさんずいりんじ、谷中瑞輪寺、東京都台東区)
本山法華山本興寺(ほっけざんほんこうじ、飯田本興寺、神奈川県横浜市泉区)
本山妙厳山本覚寺(みょうごんざんほんがくじ、小町本覚寺、神奈川県鎌倉市)
本山明星山妙純寺(みょうじょうざんみょうじゅんじ、星下妙純寺、神奈川県厚木市)
本山経王山妙法華寺(きょうおうざんみょうほっけじ、玉澤妙法華寺、静岡県三島市)
本山大成山本立寺(だいじょうざんほんりゅうじ、韮山本立寺、静岡県伊豆の国市)
本山東光山實成寺(とうこうざんじつじょうじ、柳瀬實成寺、静岡県伊豆市)
本山富士山久遠寺(ふじさんくおんじ、小泉久遠寺、静岡県富士宮市)
本山龍水山海長寺(りゅうすいざんかいちょうじ、村松海長寺、静岡県静岡市)
本山貞松山蓮永寺(ていしょうざんれんえいじ、みまつ蓮永寺、静岡県静岡市)
本山青龍山本覚寺(せいりゅうざんほんがくじ、池田本覚寺、静岡県静岡市)
本山本立山玄妙寺(ほんりゅうざんげんみょうじ、見附玄妙寺、静岡県磐田市)
本山延兼山妙立寺(えんけんざんみょうりゅうじ、吉美妙立寺、静岡県湖西市)
本山徳栄山妙法寺(とくえいざんみょうほうじ、小室妙法寺、山梨県南巨摩郡富士川町)
本山大野山本遠寺(おおのさんほんのんじ、大野本遠寺、山梨県南巨摩郡身延町)
本山法王山妙法寺(ほうおうざんみょうほうじ、村田妙法寺、新潟県長岡市)
本山蓮華王山妙宣寺(れんげおうざんみょうせんじ、阿仏房妙宣寺、新潟県佐渡市)
本山金栄山妙成寺(きんえいざんみょうじょうじ、滝谷妙成寺、石川県羽咋市)
村雲御所瑞龍寺門跡(むらくもごしょずいりゅうじもんぜき、村雲御所、近江八幡市)
本山法鏡山妙傳寺(ほうきょうざんみょうでんじ、二条妙傳寺、京都府京都市)
本山聞法山頂妙寺(もんぽうざんちょうみょうじ、川端頂妙寺、京都府京都市)
本山叡昌山本法寺(えいしょうざんほんぽうじ、小川本法寺、京都府京都市)
本山広布山本満寺(こうふざんほんまんじ、本称広宣流布山本願満足寺、通称寺町本満寺、京都府京都市)
本山具足山妙覚寺(ぐそくさんみょうかくじ、鞍馬口妙覚寺、京都府京都市)
本山具足山立本寺(ぐそくさんりゅうほんじ、北野立本寺、京都府京都市)