「茶坊主」考

茶坊主会社組織経理屋組織を内から腐らせる太鼓持ちと茶坊主茶坊主対処法求められるリーダー像と育成課題外資系で働きますか倒産政界の「茶坊主」雑話外資系企業で働くゴマすり男は出世する「ゴマすり」効果超絶ゴマすり術ぶら下がり社員無能でも役員になれる「ゴマスリ」と「モーレツ社員」出世したければゴマをすれ保身の殿様と茶坊主の群世迷いごとサラリーマン醜態狂歌表を仕切る茶坊主茶坊主と河内山茶坊主僧侶雑話江戸城本丸御殿調所広郷君主論に学ぶ正気ではいられない橋下市長の職員アンケート追従者がリーダーに変わる条件「胡麻」河内山宗俊河内山宗俊2河内山宗俊3君主論
 

雑学の世界・補考   

茶坊主1

1 室町・江戸時代の武家の職名。来客の給仕や接待をした者。剃髪(ていはつ)していた。御茶坊主。茶道坊主。
2 権力者におもねる者をののしっていう語。1が権力者の威を借りて威張る者が多かったところからいう。  
茶坊主2
室町時代から江戸時代に存在していた職名の一つ。剃髪をしていたため「坊主」と呼ばれていたものであり僧ではなく武士。当時から現代に至るまで、権力者に取り入り出世や保身を図る者、権力者の威光をかさにきて傍若無人の振る舞いを行う者の例えとして、ネガティブに扱われることが多い。
将軍や大名の周囲で、茶の湯の企画や給仕、接待を行う者の総称。初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子息で、年少の頃より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった。主君のほか重要人物らと接触する機会が多く、言動一つで側近の栄達や失脚などの人事はもとより政治体制すらも左右することもあったことから、出自や格を超えて重要視、時には畏怖される存在となることもあった。 
茶坊主3
「茶坊主」・・・もう1年も前になるかもしれないけれども、某厚生労働大臣が社会保険庁の役人だかを評して使っていた記憶があります。その意味を「広辞苑」で調べてみると・・・
(1) 室町〜江戸時代、武家に仕えて茶の湯の事をつかさどった剃髪の者。茶職。茶道坊主。数寄屋坊主。茶屋坊主。
(2) ((1)が政治に口を挟んだことから)権力者におもねる者をののしっていう語。
(3) 遊戯の一つ。数人で輪をつくった中に一人が目隠しをして入り、鬼となって、ある一人の前に「誰さん、お茶召し上がれ」と茶台を出しながら、その人の名をいう。もし当たれば、当てられた人が代わって鬼となる。お茶坊主。
もちろん、某厚生労働大臣は(2)の悪口の意味で使っていたわけで。ところが、「いい茶坊主 悪い茶坊主」(立石優著)によるとすべての茶坊主が悪い人ばかりではないと書いてあります。茶坊主は江戸城内にいる大名たちの間を歩き、情報をささやく潤滑油としての役目を果たしていました。浅野内匠頭が茶坊主をうまく使っていたら吉良上野介への刀傷はなかったと言います。
では、いい茶坊主とは?
1 社交性に富む
2 協調性豊か
3 調整能力がある
4 情報収集力に優れる
5 礼儀作法をわきまえている
6 知性と教養がある
7 周囲に気配りする
有能な秘書というか、リーダーを支える陰の立て役者というか・・・。
いい茶坊主がいて初めて、リーダーは自分の力を発揮できるのだなあ、と思いました。
その反面、悪い茶坊主とは?
1 ごますり上手
2 何事につけ要領がいい
3 告げ口する
4 人の弱みにつけ込む
5 権力者に取り入るのがうまい
6 虎の威を借りていばる
7 人の顔色をうかがう
ついつい自分にとって都合のいいことばかり言ってくれる人を信じてしまいがちですが・・・。人を見抜くことも大切なことなのでしょう。某厚生労働大臣が批判した方々はこういう悪い茶坊主ばかりだったのかな?そういう人ばかりを官僚に据えてきたことも批判されるべきですよね。  
いい茶坊主
『いい茶坊主 悪い茶坊主』(立石優著)、副題に「強い組織とは何か」とつけられており、興味深く読んだ。扉には・・・
《「嫌なやつ」「ゴマすり」「おべっかいつかい」など、茶坊主には本当に悪いイメージがついている。職場内では、ゴマすり社員を指して「あいつは、茶坊主みたいなやつだ」という。しかし、本来、茶坊主とは武士の立派な職制の一つであり、高い教養と礼儀作法を身につけた者がなっていたのである。彼らは、職務上、老中・若年寄などの幕閣要人から、御三家・譜代・外様に至るまで、日常的に広く諸大名と接触する。そのための行儀作法を、幼少時から徹底的にしつけられていた。本書では、江戸幕府内の特殊な職業集団であった茶坊主を分析し、知られざる生態に陽の目を当てた。彼らの持つ、すぐれた協調性、情報収集力、交渉術を学び「いい茶坊主のススメ」として読んでほしい。》とある。
私も「茶坊主」に対して、いいイメージはなく専ら「批判語」として使っていた。
この本では、「茶坊主という身分と職業」「茶坊主の歴史学」「茶坊主の考現学」などが書かれているが、初めて知ることが多く、「茶坊主」の認識を新たにした。
そもそも茶坊主とは(本書からの引用)・・・
・江戸城内において、僧形(剃髪、法服)でいろいろな雑役に従事する者たちを総称して、「坊主」と呼んだ。広大な場内を整理・管理する必要性から生まれた、江戸城独特の職制である。いうなれば、「大奥」以外のところの雑役全般を役割としていた。
・身分は幕臣、すなわち武士であるが、「席以下」といわれる御家人の待遇であった。しかし、さまざまな特典が与えられていたという。この特典の一つである、「江戸城のどの部屋にも自由に出入りできた」、ということが、「茶坊主」の特性である、情報通、協調性、人付き合いのうまさなどを作り上げたといえよう。本書では、「いい茶坊主」と「悪い茶坊主」の比較を行い、特に「考現学」のところでは、「悪い茶坊主」事例を紹介しているが、納得できる解説である。どうやら、我々のいう「茶坊主」は悪い茶坊主ばかりの事を指しており、「いい茶坊主」の特性に眼を向けていなかったといえる。
・本家「茶坊主」は、身分の低い御家人にすぎない。その茶坊主たちが、一国一城の主である大名たちの相談役をつとめ、老中や目付けの御用も果たしていたのは、決して我を張らず、功を誇らず、相手を立てることに徹してきたからである。
・本家「茶坊主」は、人をそらさないのが持ち味だった。かれらは幼い頃から、対人関係の基本を厳しく教え込まれているからだ。代々茶坊主をつとめてきた家では、関係のある大名・旗本の祝事や葬儀、年始周りなどに、必ず跡取り息子を同行した。挨拶の仕方、話題の選び方や話術、慶弔の席での立ち振る舞いなどを、父親の見よう見まねで覚えさせるためである。基本から鍛え上げられ人づき合いのプロなのだ.
以上のように、ビジネスマンとして、また営業マンとして「いい茶坊主」を見習うことを勧めており、それが組織の中で生き抜いていく「術」とも述べられている。
我を張らず、相手の話をよく聞く、そして他人の悪口を口にしない。これらはよく言われることだが、実行するのはなかなか難しい。しかし、こうしたことの出来る「いい茶坊主」が組織の中に何人もいたとしたら、強い集団になること請け合いである。
本書の副題にある、「強い組織とは何か」。
いい茶坊主的人材が多くいたとしたら、「強固なチームワーク」(良好な対人関係と明確な役割分担)をもって、「環境へのすばやい対応」(柔軟な思考と行動)ができると思うのである。
「いい茶坊主」とは、感情系のネットワーカーである。これが私の読後感である。 
胡麻をする1
胡麻をするとは、人に気に入られるような振る舞いをして、自分の利益をはかること。ゴマスリ。ごますり。
語源・由来 / 煎ったゴマをすり鉢ですり潰すと、あちこちにゴマがくっつくことから、人にへつらう意味で用いられた言葉である。また、商人などの手を揉む仕草がゴマをする姿に似ていることから、その仕草を語源とする説もあるが、あまり有力とされていない。江戸末期の『皇都午睡(こうとごすい)』にも見られ、「追従するをおべっかといひしが、近世、胡麻を摺ると流行詞(はやりことば)に変名しけり」とある。
胡麻を摺る2
他人にへつらって自分の利益を図ることをいう。炒った胡麻をすり鉢ですると、四方につくことから、あちらこちらの人にへつらう意が生じたとする説がある。他には「護摩スル」で、護摩を修するという意からとする説がある。「護摩」は、梵語「homa」の音訳で、焚焼・火祭の意から生じたもの。ちなみに、「あちらの方」「こちらの方」の意から生じた語が、通常の状態とは反対であることをいう「彼辺此辺(あべこべ)」。なお、人にへつらって気に入られようとする者を「太鼓持」というが、これは念仏踊りで男達が鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らしたことから、お賑やかに囃し立てる人を指して「太鼓持」といったとする説があり、そこから江戸時代、遊郭で客の機嫌をとり、酒興を盛り上げる男の芸人のことをいうようになり、「調子のよいお世辞」の意が生じたという。正式名称は「幇間(ほうかん)」。  
『胡麻をする』と『媚を売る』の違い
ほぼ同じです。ただし、「媚を売る」には別の意味があります。
「女性(特に商売女)が客の気をひくためになまめかしい態度をとる」ことです。
元々『媚』の字は、女性が眉を動かして愛想をふりまく様子からできた、と言われています。それらから、『媚を売る』には、相手にへつらう言動で「こちらに気を向かせて」取り入るようなイメージがあります。
一方の「胡麻をする」は、すり鉢で胡麻をすると、あちこちにこびりついてしまう様子から、「あちこちにくっついて、取り入る」ことを言うようになりました。
「媚を売る」に比べ『胡麻をする』は、おだてて「相手を良い気分にさせて」取り入るイメージです。
胡麻をする、には「内股膏薬(うちまたこうやく)」なんて類義語もあります。今ほどしっかりした粘着力がない膏薬を内股に貼ると、歩くたび右脚にくっついたり左脚にくっついたり(和服で考えてください)。そんな風に「あっちこっちに取り入る」ことを言います。  
ごますり3
会社で出世するためには、仕事の能力だけではダメですよね・・・。
多かれ少なかれ、上司にゴマをする事が必要になってくる事もあります。
それが、世の中で要求される協調性というものです。
人間というのは、お世辞には弱い動物です。
多少は上司や得意先にお世辞を言ったり、気に入るような物を贈ったりしてご機嫌をとるほうが、こいつは俺の事をよくわかっている、いいやつだ。よし、かわいがってやろう、となるわけですね。
ところで、なぜこういう行為を『ゴマをする』と言うようになったのでしょうか?
それを知るには、実際にゴマをすってみるのが一番わかりやすいのです。
炒ったゴマをすり鉢の中ですってみると、やたらにあちこちにくっつきます。
このようにベタベタくっつく様子と、上司にベタベタ媚びへつらう様子とがダブってこう言われるようになったのです。
しかし、実際にやってみるとわかりますが、ゴマをするのは結構難しいのです。
どちらのゴマすりも、後でどっと疲れが出るのは同じようです。
追従1
ついしょう
1 他人の気に入るような言動をすること。媚へつらうこと。おべっかを使うこと。また、その言動。「お―を言う」「顧客に―する」「人に−する」
2 「ついじゅう(追従)」に同じ。「雛遊(ひひなあそ)びの―をもねんごろにまつはれ歩きて」「御気色賜はりつつ−しつかうまつる」
ついじゅう
あとにつき従うこと。また、人の意見に従うこと。人の言うとおりに行動すること。追随。「権力に―する」(ついしょう)
ついそう
「そう」は「しょう」の直音表記、「ついじゅう(追従)」に同じ。「それかれこそ―する者はあなれ」 「数ならずともおぼしうとまでのたまはせよ、など−し寄りて」
追従2
「お追従者からいかに身を守るか。大変難しいが、君主にとっては極めて重大な問題だ。」と、マキャベリが述べている。そもそも、お追従者から身を守る手段は、真実を告げられても決して怒らないと人々に知ってもらうしかない。しかし、誰が言ってもいいとなると尊敬の念が消えてしまう。そこでマキャベリが勧めたのは、何人かの賢者を集めて彼らに自由に真実を語って貰う。
お追従っていっても、私は国民の命まで手中に握っているような中世の絶対君主じゃないし、普通に社会生活を生きている訳だから、「君主論」をそのまま実践しようとすると相当無理があるし、或意味滑稽だ。
とりあえず、まず私たちが考えなきゃならないのは、どこからどこまでが媚へつらいかはっきりしないのとネ。相手が私にいい事を言ってくれるのは本当に心から尊敬してくれている場合だってあるし。そう言うときにこっちが「何言っちゃってんの?」なんて態度で接していたらきっと相手は傷つくと思うんだ。それに、そんな態度とるなんて傲慢な人だと思うし、どんな有名人か知らないけれどただの「へんくつ」じゃん。
相手が私にいいコトを言ってくれているのは、慰めてくれているのかもしれない。或いは、自信をつけようとしてくれているのかもしれない。人が、私にいいつもりで言ってくれている事ならば、その「いいことをしてあげよう」という優しい気持ちに感謝して、大事に受け止めなければならない。
もしかしたら媚へつらいかもしれない。でも、もしかしたらそれは「先輩」である私を単にたててくれているだけなのかもしれない。
お追従かどうかを見極めることなく、「気分がいいなー」「近う寄れ」でうきうきしてるのも馬鹿だけど、あんまり神経質になる必要性もないかもしれない。
ま、人にもよるのかな。うんうん。
私は考え過ぎちゃう方だから、逆にあんまり気にしない方がいいかも。それにもともと媚へつらってくる子に対して、なぜか生理的に受け付けないって言うか、嫌悪感を催してしまうので、あんまり神経質になりすぎると意地悪ばあさんになっちゃうヨ。
追従3
お追従者の、二枚舌の、ご機嫌とりの、欲深か者
昔、ある人の言うに、当世の人々が、あの男は賢明有能で英知を持っていてすばらしい、とほめる人をよくよく観察すると、みな、お追従者の、二枚舌の、ご機嫌とりの欲深か者である。なぜならば、家老や近習衆の言行をうかがっていて、大仰おにほめ上げ、おかしくもないことをも高笑いして迎合する反面、目下の侍や農民、町民を無慈悲に酷使、搾取して、蓄財に余念がない。精を出すことはといえば、遊山行楽に遊女若衆のうわさ、同僚のわる口、家老や近習衆が上戸だと知ると、「酒ほどすばらしいものはございません。憂いを払う玉箒(たまはばき)と言って、昔から賢人のたしなむものです。一ぱい聞こし召せばよろすの苦労を忘れ、憂気を散じ、血行を促し、まこと、百薬の長でございます」と誉め、下戸と知ると、「酒ほど害のあるものはございません。血気を乱し、肝臓をいため、不慮の恥をかくばかりではなく、酔いの余りに命を失ったりする基です」とけなし、好きでもない餅を食ってみせ、飲みたくもない茶を飲んで、「餅は老若とも筋肉の働きを盛んにし、茶は腹中の濁気を清め、病を除きます。まことに酒の十損、茶の十徳でございます」と誉めちらす。
(「可笑記」寛永年間) 
よいしょ1
「よいしょ」=重いものを上げ下ろししたり、すでに若い部類に入らない人が、何か動作をするときの掛け声(「新明解」国語辞典)
「よいしょする」=人をおだてて持ち上げること(同上)
私たちがとてもよく耳にし、口にする「よいしょ」という言い方ですが、いったいどこから来ているのでしょうか。以下、簡単に調べてみました。
1、「六根清浄」からきている?
六根とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六つで、知覚作用のもとになるものを意味します。六根清浄とは、仏教用語で、体を清めて修行すること。登山などで使うのをご存知かもしれません。
なぜ、六根清浄が「よいしょ」につながるのかというと、仏教の僧侶が修行中に「ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょう…」と唱えるのを一般人がマネをして、同じように唱えるようになった、というのです。すなわち、「ろっこんしょうじょう」→「どっこいしょ」→「よっこいしょ」→「よいしょ」と転化したとする説です。(相撲取りの「どすこい」もこの系列の言葉らしいです)
注意したいのは上のいずれもが「オ」音からはじまること(下線部分)ですね。これは、もしかして、人間が力を入れるときに自然に発する言葉(「オー」といううめき声のようなもの)に関係があるのかもしれません。ある意味、納得してしまう説です。
2、昭和初期に芸人が楽屋言葉として使っていた?
いわれはよくわかりませんが、客席が満席のとき(当時は桟敷席が多かったらしい) 「ちょっと譲ってもらえませんか」 を 「ちょっとよいしょしてもらえませんか」 と言った、というのです。しかし、これは先に「よいしょ」という言い方があったのを使っただけのような気がして、いささか説得力に欠ける説です。
3、古代ヘブライ語(ユダヤ)の「ヤ・イシュ」に由来する?
ヘブライ語では「神に救いを求める」という意味の言葉を「ヤ・イシュ」というそうで、そこからきているのではないか? とする説です。
「ヤ」=「神」、「イシュ」=「救い」
現在でもイスラエルでは物を持ち上げるとき「ヤイシュ」というらしく、日本人が聞くと「よいしょ」とあまりにも近い発音なので驚くそうです。ただ、もしもユダヤから日本にまで伝わってきたとするならば、その途中の国々でも似たような言い方をするはずです。それが、いきなりヘブライ語と日本語が同じというのはちょっと考えにくいです。明治以来、一部に「日ユ同祖論」なるものがあり、日本人とユダヤ人は同じ祖先から分かれた兄弟民族とする考え方があるようで、これもひとつの傍証とされているようです。
4、「用意しよう」からきている?
単純に、「用意しよう」→「よういしよう」→「よいしょ」の変化をたどった、説です。現に地方の農家では 作業前に「“よいしょ”は用意しようからきている。さぁ準備しよう!」と、親子代々伝えている家庭もあるようです。それならば前向きな意味になります。でも、現在普通に使っている「よいしょ」には、あまり前向きな意味はありません。どちらかといえば「疲れた」ときに発することが多い、ネガティブ表現です。なので「用意しよう」説はダジャレと紙一重のような気がします。

「よいしょ」の語源は、だいたい以上の4説に集約されます。思うに、六根清浄説に説得力がありますが、本当のところはよくわかりません。そもそも語源をたどってもはっきりしないことが多く、「よいしょ」のような感動詞的な表現はなおさらわかりにくいようです。もっともらしい説明に限って、後世の人のこじつけだったりします。
よいしょ2
『どっこいしょ』 / 民俗学者の柳田国男によると、「何処へ」が語源だと言うことです。この「どこへ」はもともと感動詞で、相手の発言や行動をさえぎる時に使う言葉です。「なんの!」や「どうして!」などと同じように思わず力が入る言葉だったのです。江戸時代には歌舞伎にもよく出てきていました。「どこへ!」が「どっこい!」となり、さらに「どっこいしょ!」と変化したと言われています。相撲で「どすこい!」と言うのも、この「どこへ」が語源のようです。
またこんな説もあります。日本は、古来から山には神様や祖先の霊がいると信じられていて、その信仰の対象として山に登る風習がありました。その際、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながらのぼっていたのです。六根とは、仏教の世界で“目・鼻・耳・舌・身・意(心)”のことをいい、これらは世間とふれあう部分のため、汚れていると罪が生まれるという考えから、清めるために「六根清浄」と唱えたのです。「ろっこんしょうじょう」が「どっこいしょ」と聞こえたのではないかという説です。
どっこいしょ
座る時、立ち上がる時、物をおろす時に「どっこいしょ」。力を入れたり抜いたりする時に言う掛け声の定番である。これを言い出すとトシだな〜となる。そもそもこの不思議な言葉は何を意味するのだろうか。
これは六根清浄(ろっこんしょうじょう)が語源となっている。六根は仏教語で感覚や意識の6つの器官、眼・耳・鼻・舌・身・意のこと。六根を清浄にして修行に臨むという意味が込められている。修行者が六根清浄と唱えながら滝に打たれる、山へ登るなどする。それが六根浄(ろっこんじょう)→どっこいしょとなり掛け声になったというもの。
どっこい=何処へ(「しょ」は強調)とも言われている。相撲で相手の動きを遮り止める時に、何処へ行くという意味の掛け声、力を入れる時の掛け声が語源。今でも「ところがどっこい」と言えば相手を遮る意味で使われている。力士の掛け声「どすこい」も元は同じである。
ヨイショもセコいも寄席のことばだった
「トリ」が寄席ボキャだったなんて、知られているようで知られていませんよね。他にも寄席や落語家から広まったことばってあるんですか。
結構ある。よく知られ、使われているのは「ヨイショ」だね。
「ヨイショ」も寄席がルーツとはね。他には?
もうひとつ、メジャーなところでは「セコい」。
へえ、セコいよ、ってよく言いますけど、あれも?
「ヨイショ」は寄席ばかりじゃなく、花柳界が職場の幇間(ほうかん=たいこもち)なども使った芸人一般の隠語だろう。いま一般に使われているのもルーツの隠語とほとんど同じ意味だ。お世辞を言ったり、おだてたり、ときにはまるで心にもないことを言って相手の機嫌をよくしておいて、うまく乗せてしまうことだね。「ヨイショッ」と、囃し言葉、掛け声のように使われているね。
語源は重い物なんか持ち上げるときの「よいしょ」という掛け声ですか?
まあ、そうだろうね。重い物体ばかりでなく、相手の重い気持ちを軽く持ち上げてその気にさせる。さっき言った「乗せる」意味合いだろう。ついでに寄席の世界で「ノセル」といえば飯を食うことだ。本格的な食事でなくても、ある程度まとまった量を食べるのを「ノセル」というんだ。
じゃ12時だから昼飯をノセよう、って言うんですか?
それじゃ、ことばに無駄があって締まらない。ことばをスッキリ整えるのも落語センスというものだよ。「昼だね。どっかでノセようか」って具合にいきたいね。
「セコい」はだいぶ前から学生や子どもまで使っていますね。
これもルーツとほぼ同じ意味で使われているようだ。セコいは、粗末なこと、拙劣なこと、陳腐なこと、見所がないこと、きたならしいこと―、とにかく、いい意味には使われない。値段が安いことにも言う。ただしお買得の安さには言わず、安かろう悪かろうの場合に使うのだね。
食物がまずい場合にも?
そう。応用範囲がとても広いから一般にも普及したのだね。もともとは仲間内で「あいつの芸はセコいね」とか、興行業者を目の前にして芸人同士が「ちょっとオタロがセコだよな」と内緒の相談をするなどの場合の隠語だった。相手にわからないように話すための暗号ことばだね。
なるほど。オタロって何です?
これは金銭、ギャラのことだ。「セコタロ」といえばひどい報酬、低賃金のことさ。「セコタレ」はブス。「タレ」は女の人だから。うっかり使ってはいけないよ。
ずいぶん寄席育ちのことばがたくさんあるんですね。寄席って案外メジャーなのかな。むかしは寄席がテレビのようなメディアの役をしていた。そのことはまたの機会に話そう。こんなに寄席ことばが外部で広まったのはわりあい近年のことだよ。落語家がタレントと一緒に仕事をすることばが多くなって、隠語を覚えたタレントがメディアでしゃべって、だんだん広まったのだろうな。
これからも寄席ことばが流行語になる可能性はありますね。
まだある。しかし、実際の寄席の楽屋では、必要がない限り隠語は使うものではない。むしろ落語オタクが好んで使うのだね。これは決してほめられない。粋でもなんでもないよ。 
よいしょ3
よいしょ
よいしょ(ヨイショ)とは、物を持ち上げるときなどに力をこめるためのかけ声だが、芸人の世界では、パトロンを持ち上げて(おだてて)いい気分にさせる行為をいい、「ヨイショする」と動詞形でも用いられる。芸人がお客をおだてるには口先三寸でなんの力も必要ないように思われるが、実は、心にもないお世辞を無理やりしぼり出し、ふつふつと湧き出るプライドを力づくで抑えこむというパワープレイなのである。
ヨイショは、男芸者ともいわれる太鼓持ちがパトロンを喜ばせるさいに主に用いられる言葉だが、それもそのはずで、色気で迫る女性と違い、男性が男性を喜ばせるには、やはり「ヨイショ」と気合いを入れる力業(ちからわざ)が必要なのである。
太鼓持ち
人にへつらって機嫌を取る人をいうようになったのは、宴席などで席を取り持つ職業の「太鼓持ち」からであるが、太鼓も持たないこの職業が「太鼓持ち」と呼ばれるようになった由来は定かでなく、語源は以下のとおり諸説ある。
太鼓の演奏でうまく調子を取ることと、大尽の調子を取ることを掛けたとする説。
踊りやお囃子などで、鉦を持たない者は太鼓を持っていることから、「鉦」を「金」に掛け、金持ちに合わせて調子を取るところからとする説。
相手をおだてたり褒めたりすることを「持ち上げる」というが、太閤の機嫌を取るためにおだてることを「太閤を持ち上げる」の意味で「太閤持ち」といい、それが「太鼓持ち」になったとする説など。
この職業の正式名称は「幇間(ほうかん)」なので、太鼓持ちの当て字として「幇間」が用いられることもある。
持ち上げる(もちあげる)
荷物・重量物などを持ち上げる / 上げる・引き上げる・(みんなで)押し上げる・(頂上まで)運び上げる・(背に)かつぐ・かつぎ上げる・(包みを)かかえ上げる・(ヘビがカマ首を)もたげる・(景気を)上昇させる
他人の自尊心・優越感情などを持ち上げる / 賞賛する・賞揚する・(高く)評価する・もてはやす・はやす・(盛んに)ほめる・ほめ上げる・ほめそやす・チヤホヤする・ゴマをする・ヨイショする・取り入る・へつらう・(気持ちを)くすぐる・おだてる・機嫌を取る・世辞を言う・甘言を弄する・ご祝儀(相場による〜)・(〜を)特別扱いする・(〜を)“後押し”する・“仲間ぼめ”(に終始する)・(〜には)愛想がよい  
 
会社組織

 

困った上司とのつきあい方
1.いばる、怒る、すねる権力型
提案には必ずキラーフレーズで対処する / 部下が成功すると「僕の言うとおりになったろう」式に手柄を横取りする / 茶坊主的部下を異様に可愛がる / できの悪い人間に妙にやさしい / 反論する部下に人事権をちらせることがある / 有能な人間に露骨に厳しい / 命令こそが部下を動かすと思っている / 私用や休日に部下をつきあわせる
対応 / 顔を立てよ。パイは上司に切らせてやれ。そういう部下としての器量を持たなければ人事考課や仕事で不利に扱われてしまう。
2.言うことがコロコロ変わる保身タイプ
朝令暮改が多い(朝出した命令を夕方には改める) / 他部署との受けが異常にいい / 無能な部下に慕われる / 説得力がない / ギラギラしたところがない
対応 / 自己責任で仕事を進めなさい。ただし周囲からアドバイスをもらいながら。組織や幹部を味方につければ上司もついてくる。
3.「やればできる」「できるまでやれ」の精神論的人間
対応 / 声のでかさに負けるな。上司の理論でなく、お客の論理で仕事せよ。「よいかげん」の自分のペースをつくれば成功する。
4.言葉と心が違う不気味な上司
対応 / 「ゆっくり」は「急いで」ということ。甘い言葉にのるかどうかで人間が問われる。上司は裏を読ませたがるときがあるのだ。
5.とにかくウマがあわない上司
対応 / プロ意識に徹するチャンスととらえよ。仕事の成果だけを評価してくれるタイプなので、ひたすら仕事で勝負すればよい。
6.何もしてくれない置き去り型
対応 / 私の好みはこれです。と強引にアピールして認めさせればいいまでのこと。上司のせいにしてオメオメするんじゃない。
7.まったく無能なトホホ上司
過度の自己中心性 / 部下を動かす工夫なし / 自己管理が出来ない / 規律の軽視 / 無責任 / 段取りを考えない / 上ばかり見る
対応 / 最低のホウ、レン、ソウだけは押さえておき、自分の専門性を高めることに邁進せよ。上司以外に援助者を見つけるといい。
8.やたらチェックを入れてくる疑り深い上司
対応 / 自己陶酔、無作法、教え下手などさまざまな要素が上司を疑り深くする。原因別に対処できるカウンセリング部下になろう。
9.欠点ばかりあげつらう減点評価タイプ
対応 / 賞賛を期待するからケナされるのがいっそうつらくなる。ほめられるより、ほめる側になろう。批判はあいづちで受け流せ。
10.仕事を任せてくれない上意下達タイプ
対応 / 仕事の枠を上司に狭められるな。しかし自分勝手もいけない。少しずつ越権しながら大きな権限をつかむ方法を知っておけ。
11.いつもマイナスモードで周囲を暗くするブラックホール上司
対応 / 君自身がムードメーカーになることだ。まず声を大きく。ノーも明瞭に言おう。でないとあいまい地獄に引き込まれたら共倒れだ。
12.なんでも部下性悪説で片づける無責任タイプ
対応 / 進まない仕事、規律のゆるみ、みんな上司たるアンタの魅力のなさが責任よ。原因自分論に立てない上司には辞表を書かせろ。
13.見て見ぬ振りをする自信消失型
対応 / 自信がなくて人を導けるか。パソコンができないなんて嘆くことなかれ。そんな上司を君はどうミコシに乗せるか。  
こんな部下ではますます損をする
1.直言だけが戦略の熱血部下
上司に感情を読まれ、時には露骨に口にしてしまう人は手玉に取られるタイプだ。好き嫌いは誰にも悟られてはならない。
2.怒りに油を注ぐ叱られタイプ
誠意が大切だ。心中反発しながら表面を取りつくろうのでは、上司にそれを悟られるばかりか、自分を伸ばすことが出来ぬ。
3.自分は悪くない」から思考が進まない
自分を責める態度に徹してみないか。上司に屈するのではなく、自分の反省心に屈して引き下がるのだ。負けて勝つのだ。
4.「我慢できない」VS「我慢しすぎる」
我慢はしすぎてもしなくても身を誤る。苦手なものにこそ継続的にグチを言わず自分をコントロールする本当の我慢をしよう。
5.会社は会社と割り切っていけないのですか」
心の豊かさなどという言葉は会社に不要だ。仕事の中で自分の専門性を高めるしたたかさがなければ清貧に甘んじるしかない。
6.会社依存症にかかった自称猛烈人間
会社に命を預けますなんて忠誠心をかけらでも持っていたら、首を切られてしまう。必要なのは能力であって心ではないのだ
7.悪い情報に口を閉ざす「その場いい子」
マイナス情報の集音装置を備えよ。上司がどうあれ、組織を正常に動かすのは君の責任だ。そういう勇気を持って欲しい。
8.「いつも一言多い」VS「いつも言葉が足りない」
文句を言うなら初めに言え。そして正しいことには服従する、グチは言わないという当たり前の論理を再確認して欲しい。
9.時間にルーズで忙しがる
忙しさを目的にしていないか。時間はあるないではなく、つくるもの。人生に「そのうち」はない。やりたい今がやる旬だ。
10.自分の「不快なクセ」に気づいていない
「まさか」「とっても」「どうせ」などの言葉グセは知らず知らずに上司をイライラさせている。同僚も顧客も同じだろう。
11.筋は通すが「愛嬌」がない
笑顔を出し惜しみするな。元気を出して堂々と歩け。人はそうそう君のことを理解しない。外見で多くを判断するのだ。
12.パワーに欠ける
成功は頭のよしあしより習慣にある。体力なき知性は長続きしない。人生に迫力をつけるメニューを毎日のクセにしてしまえ。
13.「困った上司」と同化してしまうケース
背水の陣を引け。あーでもないこーでもないと行動ぬきの屁理屈でご託を並べるより「私はやります」と宣言してみろ
14.パソコン思考で感情欠如と誤解されるケース
求められているのは生身の人間を動かす力なのだ。メールより電話、電話より実際に合う中から、いい信頼は生まれる。  
それでも伸びる人間の行動力
1.上司を「味方」に誘導する10の方法
下は上に従うだけという考えを捨てよ。目的や責任を共有すれば上司も動く。そうなれば互いに成果は最大になるのだ。
2.あなたを評価する人がふえれば上司の見方も変わってくる
当たり前のことをたゆまず継続する。この誰にでも出来ることが成功のカギ。気づきにくいマイナスのクセも一掃しよう。上司がどうあれこの「基本」だけは絶対実行せよ。効率主義や結果主義に走るあまり「三クセ」「三ナレ」を忘れてはならぬ。打たれ強い人は必ず基本がしっかりしているのだ。
3.「ストローク」を変えれば相手も自分も変えられる
人は感情で動く。たとえば相談をもちかけることで上司の心理を変えられる。人間関係を好転させるには働きかけることだ。
4.時には「軟」の説得より「硬」の説得を
上司に「うかつなことは言えない」と一目置かせているか。売り言葉に買い言葉を用意しておかないとナメられてしまうよ
5.ビジネス人生の決定的局面でどう「前に出る」か
何が何でも自分を通すべき「ここ一番」をどう制するか。上司や幹部の圧力に単身抗するには、日頃の生き方がものを言う。
6.余力を残して勝ち続けよ
上司は功績を欲しがっている。君が有能なほど上司は「手駒」にしたいのだ。こき使われて潰されないようにペースをつくっておけ。  
独立ビジネスマンのすすめ
1.あなたは組織に必要な人か、組織を必要とする人か
現実の独立は甘くない。独立型サラリーマンを志す人に私の人生の駒を紹介しよう。人は涙の量に比例して強くなるんだ。
2.「仕事人間」と「会社人間」では正反対
仕事は仕事と割り切ってプロになれるか。仕事にハマれ、熱中せよ。会社や上司の思惑で動くうちはまだプロじゃない。
3.自分をあと押ししてくれる強い言葉を持とう
自分語録をつくったらどうか。今日の体験や先輩のナマの言葉は明日の自分に渇を入れる教訓だ。強い言葉で人生を考えよう
4.会社の中で自分を変える五つの方法
プロビジネスマンなら「自営業感覚」を持たなければ。会社の心地よさを捨てよ。会社にいながらそれをする方法を教えよう。
5.自分で自分を評価出来る人だけが成功する
一人で考え一人でやってみな。人に期待しすぎるから失望するんだ。自己責任が人生を楽しみにする。当たり前のことじゃないか。
6.打たれても「出る杭」になる三つの戦略
頭角をあらわせば叩かれるのが組織の宿命。会社を喜ばせながら自分を伸ばす戦力が必要だ。鷹には爪の出しどきがあるのだ。
7.この知恵であなたは無限に伸び続ける
つねに考え、行動し、面白がる習慣を。マンネリの壁をつくりさえしなければ、君はもっともっと大きな人間になれるのだ。
コンプライアンス (Compliance)
「コンプライアンス/Compliance」という言葉に触れたのは今から5年半前の「日本病」について記載した時だった。あれから5年。日本人は「コンプライアンス」の意味を理解し、その目的とエッセンスを血肉として体得したのであろうか? 事態は全く逆の方向へ動いているのではないだろうか? と思うのは筆者一人ではないに違いない。
「日本病」でも触れたが、「Compliance」はその言葉の使い方次第では『全国民よ我に屈従せよ。全社員よお追従者になれ』と言っているのと等しい言葉で、決して『法令順守』等という高邁な精神に裏打ちされて使われている言葉ではない。
むしろ「法律や社内の規則に定めが無いならば、命令者の意のままに屈従するのが部下の役割である。」と主張する風潮が日本国全体を覆っている。
鰻に限らず各種の偽装工作は一向に無くならないし、粉飾決算等の隠蔽工作も後を絶たない。居酒屋タクシーなどは可愛い方で、社内交際費は禁止されていないのだから、「俺が飲んだ飲み屋の伝票は業者へ付回さないのだから、会社に請求して何が悪い。」とうそぶく輩まで出る始末。
そう言えばそれらの偽装・隠蔽・公私混同工作を指示したリーダー達が通っていた高級料亭は、客の食い残した残飯を使い回して利益計上工作をせっせと行っていたようであるから、類は友を呼ぶということであろう。
かのリーダー達にとっては、干からびたマグロの刺身に振りかけられた霧吹き水道水の味は、さぞかし美味であったのであろうと想像している。
このように書くと、『旦那、不平ばかり(=Complaint)を言っていると「出る杭は打たれる。」、「不平不満ぶんしだ。」、「密告者だ。」と誹謗中傷されて、将来良いこと有りませんぜ。』と忠告してくれる親切な(=Complaisant)人も出てくる。
親切な忠告には耳を傾けるにしても、「Compliance」を標榜すれば「コンプライアンス」が浸透し、「コンプライアンス」を尊重した企業や社会に生まれ変わっているのだとする、独善的ともいえる言葉遊びの社会現象に対してどうして素朴な疑問を持たないのであろうか?
我々日本人は遠い昔から、「信用第一」、「率先垂範」、「嘘をつくな」、「己の役割を果たせ」、「心の経営」等など、法律に書いてあろうとなかろうと人として生きる生き様について数々の教訓と知恵を積み重ねてきたと思う。
それを道徳と言うか倫理と言うかは人それぞれの好みであろうから筆者は制限するつもりは無いが、己の生き様に日本人はもっと自信と責任を持つべきではないかと思う今日この頃である。
 
「売れる経理屋」

 

「売れる経理屋」というテーマ自体、転職を意識したシリーズです。転職市場で生きてゆく以上、ステップアップを必ず意識すべきです。経理屋としてのステップアップは、当然のことながら経理管理職になる事です。今回は、「売れる経理屋」としてスキルを身につけて頂いた方が、「売れる経理・管理職」になるために、どう身を処したら良いのか、を考えてみます。
まず経理系の方への朗報です。経理は転職市場の「王道」だと思います。
と、言いますのは、「売れる」と言う以上、「転職可能」な仕事、と言う点が重要です。
その点、経理は「どの会社も財務諸表や予算があり」、「その作業原則は、日本はおろか、世界中がGAAPと言うルールで統一されていて」、その上「経理は経営と直結したツール」です。これは他の管理系部門にはない長所となっています。私自身、結局35歳から4回の転職は、全て「経理管理職」として入社しています。それは、私自身を「経理管理職」として売り込むのが最も簡単だったからです。では一体、何を売り込んだのでしょうか?
以下は、私個人の話ではなく、ほとんどの経理管理職として転職された方に当てはまる話としてお読み頂ければ有り難いです。
1. 「売れる経理屋」で述べた(ような)事が体に染みついている事
「売れる経理屋」シリーズは、私が経理屋として必要、と確信している事を書かせて頂きました。そこで述べた事が絶対、と言う訳ではありません。一方、多くの経理系管理職の方から、私のメッセージを肯定的にご評価頂きました。経理管理職の目から経理社員を見た場合、一般的には、経理知識は、簿記3級程度の知識がしっかり身についていれば充分で、より重要な事は「仕事の進め方」がしっかりと身についている事、それなのにその「仕事の進め方」が身についていない経理社員が非常に多い、と言うのが現実だと思います。この「経理屋」からステップアップを目指す場合には、当然、経理屋としての「仕事の進め方」が身についている事が重要です。
2. 売れる「ツール」がもう一つある事
私自身の人生を振り返り、正直に申し上げますと、経理屋として仕事がそこそこできる、と言うだけでは転職人生を泳ぎ続けるのは不可能だったと思います。私の場合、「英語」と言う売れるツールがあり、この英語と、そこそこの経理知識を組み合わせて世渡りしてきました。多くの経理屋も同じ組み合わせで世渡りをしています。この「英語ツール」、TOEICで900点位、あるいは英検1級位だと、かなり力のあるツールとして機能するようです。経理が判らない方(私の定義では、「ディープな経理話をしている時に、頭がdebit / creditになっていない方」を指します)でも、英語ができれば、かなり「持ってしまう」のが日本での経理社員転職市場の実態だと思います。要はそれほど重要なのです。また、転職市場を渡り歩く場合、外資系を排除して考えると、非常に選択肢が狭まります。
語学はただ鍛錬あるのみです。鍛錬さえすれば必ず点は上がります。是非頑張って下さい。
え、語学が苦手ですか?そうなると人事や、情報システム、法務などの「合わせ技」が次の選択肢でしょうか? 「しかしやっぱり英語でしょう、結局」、と言うのが私の意見です。
3. 「茶坊主」業が苦にならない事
「茶坊主」とは、室町・江戸時代において、将軍や大名に対し茶室・茶席の管理、給仕、接待を行う者の総称で、日常的に広く諸大名と接触し相談役的な仕事を担っていたことから様々な情報を得られる立場となり、大名達の潤滑油のような役割を果たしたり、政治に口を挟んだりすることもあり、身分を超えて重要視、さらには畏怖される存在となることもあったとされています。経理管理職は、まさに「茶坊主業」です。一方、「茶坊主」はネガティブな意味合いとして取られる時が多いのですが、私の言う茶坊主は、「会社側に立って物事を考える」姿勢を常に自覚しつつ仕事をする、と言うポジティブな意味合いです。私より、経理屋としてはよほど優秀なのに、この「茶坊主」姿勢がないがゆえに非常にもったいないないなあ、と思う方が多くおられます。
私も偉そうに評論できる立場ではありません。私の過去4回の退職事例を振り返ってみますと、この「茶坊主魂」を失ったために会社を去ったのが私の4回の退職回数中、3回を占めています。うーん、重要です。
4. 長時間勤務をいとわず、仕事を愛する事
何だ、結局根性論か、と思われるかもしれません。はい、ある意味そうです。
部下の「いけてない書類」から、ストーリーを組み立て、再提出を命じ、時には自ら仕事をすれば、自然と長時間勤務になります。また、社長の無理難題を社長の立場に立って考え直し、それを具体的な数値に落とし込む作業も、長い時間が必要です。それに加え、時間がたつのが苦にならないだけではダメです。前向きに考えないと良い案は浮かんできません。案が出てこないと「結局あいつは経理屋だからな…批判ばかりだ。」と言われます。
上司・同僚・部下の皆が納得感のあるアウトプットを、他人が出せていない中で自分が出す訳です。簡単ではありません。特に経理管理職の場合は、ストーリーを数値化し、それを判りやすい表にし、主文を考え…。 要するに時間がかかるのです。時間をかけても前向きに頑張ろうと思うためには、仕事を愛している部分がないとダメだと思います。
その一方、「対人スキル」とか「リーダーシップ論」などは、「あとから付いてきたり、学んだりすれば十分キャッチアップ可能」と考えています。経理屋の場合は、仕事の中で表やロジックの占める部分が大きいのでなおさら、と思っています。  
 
茶坊主が組織を内から腐らせる

 

茶坊主は、トップのまわりにいる腹心で、「権力をかさに着て会社を私物化する」ものだという。都合の良い情報だけをトップにあげるため、トップは適切な意志決定を行えず、また茶坊主の情報操作によって、有能な人材が組織から次々と去っていく状況が生ずる、というのがこの稿の趣意である。
組織には、その組織でないと生きていけない者が必ず出てくる。彼らは、組織から放り出されてしまえば生きていけないので、必死になって自己中心のシナリオを書き、その通りに劇を進行させようとする。その劇中、彼らのまわりにいるすべての者は脇役になる。トップでさえ脇役である。彼らには、本来、トップの地位につくだけの能力を持たないが、トップに取り入られるところまでは、本人の努力で十分いけてしまうのである。日本の組織は、そうした意図を持った人間を排除するだけの力はないのが現状なのである。
その理由は、組織が茶坊主を排除するためにとれる手段が、それほど多くはないということである。トップの眼力で的確な人事を行うこと、予算、決算などの面で商法で定められた以上のレベルの外部監視を入れることなどだろうか。しかし経営トップは、保守化するのが常である。茶坊主の書いたシナリオに乗ることで、きりきりと胃の痛むような意志決定をする必要がなくなり、安直な経営に流れてしまうのである。それこそ茶坊主の思うつぼである。
今日、三菱自動車で新たなリコール隠しが公表された。リコールは制度上、認められたものであるが、これほどまで多くの車種でリコールを余儀なくさせたということは、すでに三菱自動車のクラフトマンシップが崩壊していることを示すものである。しかもそのことが、茶坊主によって隠蔽されていたわけである。物づくりの会社として、これは致命傷であり、三菱自動車の再建に向けた道はきわめて険しいと考えざるを得ない。
数千億円にのぼる金融支援が三菱グループを中心に行われるといわれているが、この際会社を清算し、改めて同社が持つコアの技術や優秀な人材を活用した新会社を設立した方がむしろ良いのではないか。三菱グループ全体ののためにも、日本の企業社会のためにも、そうした選択肢が考えられてもおかしくないと思うのだが、いかがだろうか。 
 
太鼓持ちと茶坊主

 

一説によりますと賢いサラリーマンの処世術の一つなんて言う人もいますし、やっぱり人間は感情の動物と言われていますから、せっせとゴマをすったりお世辞を言う奴と、どうも仕事はできるけど反抗的な部下とを比べると前者を重宝するって部分が出てきてしまいますよね?
太鼓持ちとか茶坊主ってのはとにかく最優先事項は上司の機嫌を取る事で有りまして、それが曲がったことであろうとカラスは白いと言われれば、はいその通りカラスは白いと答える人なのであります。
同義語で他にはコバンザメってのが御座いまして、基本的には太鼓持ちや茶坊主と一緒なのですけど、コバンザメの場合は途中で張り付く先を状況に応じて変更したり致しますので、更に処世術に長けている人って事になると思いますが、コバンザメみたいな人は社内では非常に嫌われる存在でもあります。
でねその茶坊主ですとか太鼓持ちが発生する要因として勿論本人の資質に依る部分が一番大きいわけですけど、よいショされておべっかを使われて喜んでいる上司の側により問題が大きいと思いませんか?
とは言っても私も経験が有りますけど、忠実な部下と反抗的な奴と太鼓持ちと比べてと言いますか、あのね太鼓持ちも茶坊主もそれなりに進化をしていると言いますか、誰の目から見ても見え見えの太鼓持ちを演じる人なんてのは少数派なのでありまして、実際には上に対しても堂々と意見を言っているような素振りを見せつつ、巧みに機嫌をとりながら上司に取り入る高度な太鼓持ちが多いのでありますね?
そりゃいかにも立場上、自分の出世のために上司にゴマをすることを最優先でやってますよなんてのが、あまりにアカラサマですとそりゃ副作用が出てきちゃいますし、上司以外からの人望がゼロってのもこりゃまた出世に響きますしね。
ですから推測するに会社員の三割くらいは程度の差はあっても、どこかで太鼓持ちを務めているのでありますけど、それがまぁ社内の人間関係を円滑に守るために必要なものなのでは無いでしょうかね?
それが社内の上下関係とでも言えば良いのでしょうかね?
そんなわけですからサラリーマンの処世術は非常に奥がふかいのでありまして、アカデミー賞なみの演技力と仕事の遂行能力を兼ね備えた人が出世に一番有利だって事ですよね?
まぁ私の場合はその辺りが能力不足だったために途中でドロップアウト致しまして、独立開業の道を歩むことになったのですけどね。 
 
「茶坊主」対処法

 

究極のゴマスリ野郎
権力のある人には、「どこから声が出てるの?」と思うほどの猫なで声でお世辞を言って媚びへつらい、そのゴマすりっぷりはゴリゴリと音が聞こえるほど強烈で、見ていてヘドが出るほど。
いい顔を見せるのは「自分にとってトクになる」人だけ。
その見極め能力は最たるもので、利益になるかどうかを瞬時に見分け、一番の権力者に腰ぎんちゃくのごとくくっついて離れません。要領がいいのに加え、話題も豊富。さらには社内の情報にも精通していて、人の気をそらすことがないことから、上司からのウケはかなりのものです。
でも、肝心な仕事はというと、これといって功績があるワケではなく、どちらかというと目立たない凡庸な社員といったところ。ところが驚くことに、身分不相応の立派な肩書がついていて、周囲からは「おべんちゃらで勝ち取った肩書」と陰口を叩かれています。
上司のウケがいいので誰にでも愛想がいいかといったら大間違いで、入社したてのぺーぺーの新入社員をはじめ、部下という部下には掌を返したかのような高圧的な態度を取ります。
常に上から目線で、奴隷のごとく扱うことから、部下からの人望はゼロ。「こすっからい」という形容がピッタリで、できることなら一生関わりたくないとさえ思う。それが茶坊主じじいです。
茶坊主というと、若い世代にはあまりなじみのない言葉かもしれませんので、ここで茶坊主についてのお勉強をちょっと。
その歴史は江戸時代にまでさかのぼります。
江戸城において、僧形(剃髪・法服)で、さまざまな雑役に従事する人を総称して「坊主」と呼んでいました。
茶坊主と言われるようになったのは、大名たちに給仕するため、茶湯を持って城内をうろうろしていたため。
そもそも茶坊主は教養があって、礼儀作法もわきまえている知識人なのですが、それゆえにソツがなく、要領がいいため、嫉妬と羨望が入り混じった感情を抱く人は少なくなかったようです。
現在の茶坊主といえば、「知識人」のイメージからは程遠く、往々にして「上司にうまく取り入る要領のいいゴマすり」という、あまりよろしくない意味合いで使われています。もちろん、本書においてもです。
語源はさておき、この胸くそ悪い茶坊主じじいはどの会社にも生息していて、もちろん私の最初の職場にもいました。
メタボだるま(仮称)は、上司の言うことは何でも「はい、はい」と聞き、とにかく気が回るヤツでした。上司がタバコを出したらサッとライターを出して火をつけ、周囲が水を打ったように静まり返るほどつまらないオヤジギャグを言っても、涙を流して大笑い(のフリをする)。
上司に限らず、その愛人のゴキゲン取りも欠かさない隙のなさは「お見事」のひと言でした。
さして実力があるわけでもないのに、同期入社の同僚よりもいい仕事をしていたのは、上司の後ろ盾があったからでしょう。
メタボだるまも多分に漏れず、何のトクにもならない私のようなペーペーは眼中になく、挨拶すらまともにしてくれませんでしたが、「マメで、おべんちゃらがうまければ、さして実力がなくても出世できる」ということを嫌というほど教えてくれました。 
愚痴、悪口、噂話に気をつけろ
さて、こうした鼻持ちならない茶坊主じじいと付き合うなかで、もっとも気をつけたいのが「警戒心を忘れない」ということ。
特に、個人名を特定した悪口、噂話、愚痴は御法度。
茶坊主じじいは出世のためなら手段を選びませんので、あなたが出世の邪魔になると思ったら、間違いなく「アイツ、こんなことを言ってましたよ」と上司に告げ口し、立場を揺らがせようとします。
私自身、メタボだるまに上司とその愛人の噂話を無邪気に話したところ、愛人に告げ口され、エラくイジめられたことがあります。
足を引っ張られる要素を自ら増やさないよう、特に悪口は言わないほうが賢明です。
でも、いくら告げ口が怖いとはいえ、ストレスの多いサラリーマンが愚痴や悪口を言わないなんて、お釈迦様でもあるまいし、まず無理ですよね。ある意味、サラリーマンにとって愚痴や悪口は挨拶のようなもので、一種のコミュニケーションツールでもありますから。
といっても、すべての愚痴がコミュニケーションツールになるかといったらそうではありません。
愚痴には生産的やものと、非生産的なものの2タイプがあり、コミュニケーションツールになるのは言うまでもなく前者です。主となるのは妻や子ども、自分の体型(メタボなど)といった仕事を離れたものがそれに当たります。
たとえば、「うちのカミさん、結婚当初から10キロも太っちゃって、ハッキリ言って詐欺ですよ」という愚妻ネタは、結構盛り上がりますよね。職場以外の愚痴なら誰を傷つけることもないし、相手が茶坊主であっても、恐れることなく言うことができます。
しかし、コアな家族の愚痴ばかりを聞かされても、会ったことがない以上、うなずくしかないワケで、盛り上がるのはどうしたって共通の知人である社内の人間の愚痴や悪口です。
飲み会となれば、嫌な上司の愚痴大会になることもしばしば。
そんなとき、ひとり知らん顔をするのは、かえって非難を浴びるというもの。愚痴大会が始まったときは、迷わず参加されることを強くおススメします。
参加する際の注意点は二つあって、一つは「決定的なことは言わない」こと。
たとえば、「Aなんて早くクビになればいいのに」とか、「Aは社内一、仕事ができない」といった、「アンタ、それを言ったらおしまいよ〜」的なひと言です。
こうした爆弾発言は印象に残りやすいため、皆で愚痴を言っていたとしても、主犯格に仕立てられてしまいます。
自ら進んで愚痴を言うのは極力避け、「そうそう」「ったく、ムカつくよな〜」といった具合に、合いの手を入れる程度に抑えておくのが無難です。
もう一つは、「情報源にならない」こと。
愚痴大会が盛り上がってくると、次第に噂話が浮上してきます。このとき、うっかり、ちょっと小耳にはさんだ「そういえばAのヤツ、総務のB子と不倫しているらしいゼ」なんて噂話を口にしたら大変です。噂が広まると同時に、あなたは情報源として皆に認知されてしまいます。
根拠のない噂話は決して口にせず、もし噂話が出始めたら、「へー」と軽くスルーするのが賢明でしょう。
一方、非生産的な愚痴の代表格といえば、「給料が上がらない」とか「出世できない」といった類のもの。何らかの原因があるから給料が上がらず、出世できないワケで、それを自覚していないことがそもそも問題なんですけどね。
まあ、これはまだ許せるとして、もっとも非生産的な愚痴は嫉妬や、うらみやつらみといった個人的な感情が入り混じったもの。
聞いていて気分が良くないのはもちろんのことですが、「自分も陰口を言われているのでは?」と不信感を抱いてしまいます。
茶坊主じじいにそんな愚痴を聞かせる人はまずいないでしょうが、情報通のじじいのこと、巡り巡って耳に入ることも十分に考えられます。言ったところで何の解決にもならない非生産的な愚痴は、口にしないほうが身のためです。
とにもかくにも、愚痴を言うときは、「アイツはあのとき、こんなことを言っていた」とあとから言われるような強い言動は避けることです。
茶坊主じじいの前ではもちろんですが、同僚においても同様です。
どうしてかって? それはね、同僚のなかにも「茶坊主じじい予備軍」がいるかもしれないからです。
今、笑顔であなたの愚痴を聞いている同僚だって、「出世」というエサを目の前にぶら下げられれば、裏切る可能性がないとは言えないじゃないですか。
ドライと思うかもしれませんが、職場においては、そのくらいの警戒心があってちょうどいいんです。 
オネエから学ぶ「自分を下に見せる方法」
警戒心を抱きつつ、足元をすくわれないよう、不利になることは決して口に出さず、慎重に付き合うーー。「上司の間者」でもある茶坊主じじいと渡り合うにはこれがベストな方法ですが、生身の人間としては、そうそう優等生でいられるワケがありませんよね。
茶坊主じじいにとって、部下は奴隷同然。口のきき方はぞんざいだし、無茶な注文を平気で言ってきます。若い世代は、事あるごとにカチンとくることでしょう。
ムカつくのは当然ですが、そこはグッと耐えてください。ヘタに張り合おうと、むきになって正論をぶつけたり、口答えをすると、心象が悪くなるだけでなく、恨みを買って悪評を言いふらされかねません。
茶坊主じじいは端から部下を下に見ているので、何を言っても「バカがほざいている」としか思わないのです。
だったら思い切って、バカを演じてしまえばいいのです。
過日、テレビの仕事の際、茶坊主じじいの扱い方が実にうまいアシスタントディレクターのB君に出会いました。
上司である暴君ディレクターはB君を「お前」扱い。電車も止まるほどの激しい雷雨のなか、使うか使わないかわからない小道具を買いに行かせたり、出演者がいても大声で怒鳴りちらすといった横暴ぶり。
しかしプロデューサーの前に出ると、借りてきた猫のようにおとなしくなり、やたらお世辞を言うという、まさに典型的な茶坊主じじいでした。
出演者の私が見ていてもムカッとするのに、B君は感情を一切顔に出さず、いや、それどころか笑顔で暴君ディレクターの命令に素直に従っていました。
暴君ディレクターが「コイツ、バカでグズなんですよ」と私に向かって言うと、B君はすかさず「オレ、マジでバカで小学校も留年しそうだったんです」とさらに自分を落とす。暴君ディレクターはじめ、これを聞いて周囲はどっと笑うワケですが、これには「いやー、若いのに人間できてるなあ」と感心してしまいました。
上下関係が厳しいテレビ業界で、ディレクターに睨まれたら先がないことをB君はよくわかっているんですね。私には50代の暴君ディレクターより、20歳そこそこの B君のほうがずっと大人に見えました。
上から目線で人を小ばかにするじじいとは、バカを演じるくらいの余裕がないと、うまく渡りあえません。
そうそう、「バカを演じる」といえば、オネエこそがまさにその達人。
昨今は芸能界でもオネエキャラ枠がすっかり確立され、テレビで見ない日はありませんよね。彼女(?)たちは性別、年齢を問わず、皆から好かれ、親にも言えないような相談を持ちかけられたりしています。
ふだんは陽気なおバカだけど、いざとなると意見をキチンと言うし、怒るときはバシッと怒る。こうした一本筋の通ったところが誰からも好かれる所以。加えて、男でもなく、女でもないというニュートラルな部分に憧れを抱く人も少なくないはずです。
そんな彼女たちに学びたいのが、「バカを演じる」テクニック。
バカを上手に演じることで、どんな人の心をも掌握する方法を学びとり、常に上から目線の茶坊主じじい対策に役立てましょう。
オネエは自分が小ばかにされていることを知りつつ、自虐的なまでに自分を落とし込むことができる。
これって、実はなかなかできないことなんですよね。普通、小ばかにされていると思うと、悔しさが先立ってしまい、ついむきになって対抗しようとしてしちゃいますから。
オネエがバカを演じ切れるのは、小ばかにされた怒りを表面化させればさせるほど自分が滑稽に見え、相手をさらに助長させてしまうことを経験値として知っているからです。
知人のオネエ・ロバ子もまさにそうで、実家は世田谷に土地やビルを持つお嬢(?)で、本人は有名大学を卒業していますが、そんなことはおくびにも出さず、いつも能天気なバカを演じ切っていました。
高圧的な人間であっても、オネエを目の前にすると、自然と戦意が消失してしまいます。「私はあなたより下ですよ〜」というシグナルを常に発することで、警戒心もなくなりますし、敵として見なすことはまずなくなります。
オネエたちはそんな丸腰になった相手を見て、お腹の中でペロッと舌を出していたりするもの。実のところオネエは、こちらが思う以上にしたたかなんです。
このしたたかさこそが、茶坊主じじいのように、ひと癖もふた癖もある人間ともうまく付き合える最大の武器なのです。
そうは言っても、「バカになれ」というと、血気盛んな若い世代は拒否反応を示しがちです。そりゃ、そうですよね。バカにされた揚句、さらにバカにならなくちゃならないんですから、「冗談じゃない」と思って当然です。
でも、茶坊主じじいが先輩である以上、同じ土俵で戦っても勝ち目はないですし、たとえ勝ったとしても、「扱いにくい部下」という印象が付き、後の社内での人間関係や出世に大きく響いてしまいます。
そうならないためにも、とっとと土俵を降り、一段上のステージに上がってバカを演じ、その姿を見て笑っている茶坊主じじいを心の中で笑ってやればいいのです。
それこそが真の勝利だと思いませんか?
職場においては「角を突き合わせて戦うことばかりが戦いではない」ということを覚えておいてくださいね。 
合コンによく呼ばれるタイプとは?
さあ、バカを演じられるようになったら、今度は茶坊主じじいを利用することを考えましょう。
茶坊主じじいの最大の利点といえば、金脈ともいえる素晴らしい人脈を持っていることです。茶坊主じじいは社内の権力者という権力者をすべてロックオンしていますので、その人脈のおこぼれにあずかれば、出世への近道を手に入れたも同然です。
手っ取り早い方法は、そうした権力者との飲み会に誘ってもらうことです。
といっても、簡単に誘ってもらえるかといったらそうではありません。茶坊主じじいにとって、自分のトクとなる権力者は家族以上に大事なもの。若いうちからゴマをすりまくり、コツコツと構築してきた財産ですから、そう易々と下っ端の部下におこぼれをくれるワケがありません。
飲み会の席に誘われるようになる条件は2つ。
「連れて行って恥ずかしくない」
「連れて行くことで自分が引き立つ」
これはどこか、合コンの人選に似通っている部分があります。
男子でも女子でも共通していると思うのですが、合コンを主宰する際のメンバーを選ぶ基準をちょっと考えてみてください。
合コンからはだいぶ遠ざかっていますが、私自身を例に考えてみると、先に挙げたよう、「連れていって恥ずかしくない」、つまり、そこそこの容姿で、「可もなく不可もなく」という形容詞がハマる、誰が見ても「中以上、上以下」であることが第一条件となります。
わかりやすく言えば、「よく見ると美人じゃん」と言われるタイプですね。
ほら、とびきりの美人を連れて行くと、人気が一極集中して、獲物が獲れなくなっちゃうじゃないですか。かといって残念すぎる子だと、「類友」と言われかねませんからね。
そこそこの容姿に加え、敬語がキチンと使えて、挨拶やお礼が言えるといった一般常識を備えていることも欠かせないチェック項目。お育ちを疑ってしまうような人は自分の格を落とすことになるので、間違っても連れていきません。
これらの条件は合コンも、上司との飲み会も共通することで、不変のものですよね。
もう一つの条件である「連れて行って自分が引き立つ」というのは、容姿ではなく、人を立てるのが上手で、自分の代わりにPRをしてくれる役をかって出てくれる人を指します。
自分のことを自分で褒めるのははばかられますが、人の口を介してであれば、「いやぁ、そんなことないですよ〜」と謙遜しながらも堂々としていられますからね。
たとえば、「Cさんは休日返上で英会話学校に通ったり、資格を取ったりと、すごく努力家なんですよ」といった具合。
人の口を介すことで信用度もアップしますし、何よりも押し付けがましくない。
こちらが催促せずとも、自分を褒めて、引き立ててくれる人は、上司との飲み会の席では貴重な存在なのです。
それでもって、気がまわる人なら、もうカンペキ。グラスが空になりかける前にお酒を注ぐ、ひとりぽつねんとしている人がいたら話しかけるといった感じに、細かい部分に目が行く人は、私だったらゴールデンメンバーに認定しちゃいますね。
これに加えて、「決して、でしゃばらない」というのも大事な要素。
飲み会の主人公はあくまでも権力者であって、主たるホストは茶坊主です。茶坊主の立場を揺らがすような知識のひけらかしや、気を回し過ぎて、茶坊主の手柄を奪い取ってしまわないなど、場の空気を読む能力にも長けていることが要求されます。
つまりは、どれだけ「茶坊主の黒子」になりきれるかにかかっているのです。
これができて、初めて茶坊主の信頼を得られ、「人脈」という名のおこぼれをちょうだいすることができます。
「そんなことまでして、おこぼれにあずかりたくねーよ」という声が聞こえてきそうですが、つまらないプライドは損というもの。黒子になるのはホンの一瞬です。たったそれだけで、将来を左右する人脈がさして苦労せずに手に入るのなら、黒子になるくらい屁みたいなもの。
割り切っちゃった人から勝ち馬になれます。 
茶坊主の処世術「地固め戦法」
いい人脈を持っていること以外、何の価値もなさそうな茶坊主じじいですが、大いに学びたい部分もあります。
それは、上司から絶大なる信頼を置かれているという点です。
人並み以上に仕事ができるワケでもなく、部下からの人望がゼロの茶坊主じじいが、なぜ、上司の信頼を勝ち取ることができたのでしょうか?
その秘密は念入りな「地固め戦法」にあります。
「地固め戦法」とは、上司本人はもとより、上司を取り巻く妻や子どもといった家族までをも懐柔し、上司の周辺の地場を踏み固め、さらに揺るぎのない信頼を得ることです。
「実際に仕事をするのは上司なんだから、家族なんて関係ないじゃないか」
そう思った方は、まだまだ修業不足です。
ちょっと自分に置き換えて考えてみましょう。家族は唯一無二で、かけがいのない存在。その大事な家族を気にかけてくれる人がいたら……そりゃあ好感を抱くし、信頼を置くに決まっていますよね。まったくの他人であればなおさらです。
この不況時にいつも客でにぎわう京都のお茶屋バーのママは、まさに「地固め戦法」のプロです。
客と酒を飲みながら、ごく自然に誕生日を聞き出し、カウンターの下でササッとメモ。まあ、このくらいであれば、駆け出しのホステスでも、ちょっと気がきく子ならできるワザです。
「さすが!」と思わせるママのワザは、結婚記念日をチェックするところ。
客の誕生日にはメールで済ませることがほとんどですが、結婚記念日には手書きのカード、上客ともなると胡蝶蘭を本人と妻宛てに送るのだそう。
客の評判は上々で、何かとうるさい妻もこれには感服。朝、出かけに「今夜は飲みに行く」というと眉をしかめることがほとんどなのに、ママの店の名前を出すとにこやかに送り出してくれるというのですから、その効果たるや目を見張るものがありますよね。
家計を預かる妻を崩落したら、次なるターゲットは子どもです。
子どもの場合は誕生日ではなく、大学入学、就職といった人生の節目に万年筆や名刺入れを送るのだとか。子どもがいない客には、子どもと同等にかわいがっているペットにペット専用の高級おやつをプレゼントするといった具合に、匠の「地固め戦法」はぬかりがありません。
ママのような達人になるには、「相手の情報をいかに引き出せるか」にかかっています。
情報を聞き出すにはコツがあって、一つには「小分けにして聞く」というのがあります。「お子さんは?」「奥様は何をしていらっしゃるの?」「結婚何年目?」と矢継ぎ早に質問してしまうと、「何でそんな立ち入ったことばっかり聞くんだろう?」と逆に不信感を抱かせてしまいます。
恋愛においてもそうですよね。出会ってまもない相手に家族構成を根掘り葉掘り聞かれたら、「コイツ、もしや結婚詐欺なのでは?」と訝ってしまいます。怪しまれないためには、話の流れを見ながら、唐突感がないよう少しずつ探りを入れるのがポイントです。
またその際、相手のことを聞くだけではなく、同時に自分の情報も伝えると、安心感を与えられ、話がスムーズに流れます。
相手から聞き出した情報は必ずメモしておきましょう。瞬時にメモとなると、レシートの裏やコースターで、それらは大概紛失してしまいがち。
ママの場合は、仕事が終わったあと、その日のうちに手帳に書き込んでおくんだとか。携帯電話のスケジュール機能に書き込むのもおススメ。「地固め戦法」を成功させるには、こうしたマメさもまた必須条件なのです。
そういえば、父が定期的に出張していた福岡のスナックのママは、父が店を訪れるたびに明太子を送ってくれていたっけ。それも一般的に出回っているものではなく、「ザ・ママスペシャル」で辛味が強く、ぷっくりと太った極上の明太子を。
どこでも買えるありきたりのものではなく、送り主本人の舌で確かめ、「おいしい」と確信したものって、すごく心に響きますよね。
私と母はその明太子が食べたい一心から、父に「今度はいつ福岡に行くの?」と遠回しに催促していました。これもまた家族の胃袋までを掌握した立派な「地固め戦法」です。
ちなみに私も福岡のママ方式で、じじい本人ではなく、妻や子どもの好みのものを、出張などの折に手紙を添えて送るようにしています。
食べ物やお酒に関しては必ず自分で試し、絶対の自信を持っておすすめできるものしか送りません。
味見もせず、形式的に送ったものは、適当に選んだ感が必ず出ますし、返って心象を悪くするので注意しましょう。
これまででいちばん喜ばれた物はというと、意外と思うかもしれませんが、食べ物ではなく、お線香です。
お父様が亡くなられたことをあとから聞き、葬儀では何もできなかったので、京都に行った際、老舗の香の店で線香を買って送ったところ、今までにないほど喜んでいただきました。
私自身、父が亡くなったときがそうでしたが、大事な人を失い、心にぽっかり穴が空いているときほど、人の優しさが染みるものなんですよね。
心の隙間を狙ってしたことではありませんが、その後、信頼度が増したことは言うまでもありません。
茶坊主じじいが「地固め戦法」を行っているのを見ると、若い世代には「ただの媚び」にしか見えないかもしれません。
しかし一流のホステス、優秀な営業マン、敏腕編集者も、高確率でこの「地固め戦法」を使っているといったらどうでしょう? 軽視はできないですよね。
こういったことを敬遠する若者が多いからこそ、いち早く抜きん出て実践し、上司の信頼と寵愛を手に入れてくださいね。 
じじいの「乗り換え時」を見逃すな
「地固め戦法」といった見習うべき点を持っていたとしても、若い世代にとって、茶坊主じじいはやはり大嫌いな存在であることに変わりはないでしょう。私自身も人によって態度を変える茶坊主じじいは苦手ですし、反面教師にしている部分も多々あります。
こと、損得勘定だけで人と付き合う様は、義理人情を重んじる私にとって眉をしかめたくなります。
しかし、仕事をしていくなかで、「青いことばかりを言ってはいられない」ということを女性週刊誌の記者時代に身をもって知りました。
前にもちらりと触れましたが、私は女性週刊誌の記者をほぼクビ同然で辞めています。新任上司Bと合わなかったのが主たる原因ですが、「じじいの乗り換えがうまくできなかった」ことも大きく影響しているように思います。
私は前任上司Aに記者として一人前にしてもらったこともあり、上司Aイズムがいつまでも抜けず、上司Bが来てからも「私の上司はAしかいない」と頑なに思っていました。
ここが問題なのです。
上司Aがいくら素晴らしい人だったとしても、別の部署に行ってしまえばそれまで。権力はすべて新任上司Bに移るワケです。
私はそれを知りつつも、上司Aへの忠誠心を捨てられず、上司Bからうとまれ、結局、職を失いました。
記者を辞めたこと自体は後悔していませんが、あのときの私に柔軟さがあったら、もっとスマートな辞め方をしていたでしょうね。
いやはや、ホントに青かったというか、幼かったです。
大企業になればなるほど、人事異動は激しく、ときにはどうしようもなく合わない上司が直属になることもあるでしょう。前任上司が良ければ良いほど、その亡霊を追いかけてしまい、新任上司になかなか懐けなくなります。
しかし、ここで情に流され、「じじいの乗り換え」に失敗してしまうと、未来への道は閉ざされてしまいます。
考えるべきことは「誰に権力があるか」ということです。
特に社内で派閥があるときは、「人間性がいい」「気が合う」だけでつく人を選ぶと、往々にして失敗します。
悲しいかな、人がいいだけでは出世はできません。ときには茶坊主じじいのようなドライさを持って、権力のあるじじいへ乗り換えることも、サラリーマン人生においては必要です。
「保身」といってはそれまでですが、組織に身を置く以上、避けては通れない道なのです。
権力者をヤドカリのように渡り歩く茶坊主じじいの様は、けっして尊敬に値するものではありませんが、自身に置き換えると、全否定できなくなりませんか? 実際、自身が経験するとなおさらそう思うはず。
そのホンのちょっとの許容こそ、実は茶坊主じじいリテラシーの最大の秘訣なのです。  
 
中小企業において求められるリーダー像と管理職育成上の課題

 

はじめに
私は外資系組織・人事コンサルティング会社マーサーの社長を手始めに、建築CG会社のキャドセンターの社長、東証一部の企画会社カルチュア・コンビニエンス・クラブの代表取締役COO、株式会社大学のデジタルハリウッドの社長等を歴任し、現在は人材育成と経営コンサルティング会社IndigoBlueの社長を務めている。他にも上場企業の会長、取締役、顧問を複数経験してきた。これらを経験してきた者として、中小企業においてどのようなリーダーシップが求められ、それをどう育てていくか、また人事問題の専門家としての社労士のみなさんへ
の期待をまとめたい。 
求心力から遠心力へ
リーダーシップのスタイルは「求心力型」と「遠心力型」に分けられる。「求心力型」とは、リーダーが“俺の言ったとおりにやれ!”というスタイルである。PDCA(Plan-Do-Check-Action)のうち、Pをリーダーが担い、Dを部下、Cがリーダー、Aが部下というものだ。これに対して「遠心力型」ではPDCAの全てを顧客接点に近い部下が自分で回す。当然、リーダーの動き方、やるべきことが全く異なる。
求心力型のリーダーはビジョン(こうしよう!)、戦略(どのようにやるか)を描き、自らそれを体現し、部下が動くように“飴と鞭”を考える。
遠心力型のリーダーは、部下が動きやすくなるように環境を整える、ツールを与える、サポートする、それが役割だ。自分が最前線に出て動くことはむしろ控えたほうがいい。
立ち上げたばかりの企業やいわゆる個人商店型の企業は求心力型でやったほうがいい。この会社をどうしたいという「夢」をもっているのはトップ・リーダーのみ。それ以外の人たちは「トップを応援したい」と思っているのが一般的だ。事業の牽引者は社長だけで、それ以外の部下は、いわば“サポーター”である。この状況で「遠心力型」を期待しても、動くものが動かない。
しかしいつまでも求心力型でいくわけにはいかない。求心力型の場合、トップの器以上の大きな仕事はできない。また、そのトップがなんらかの理由で失速した途端に企業が終わってしまう。企業を成長させようと思ったら、どこかのタイミングで遠心力型に移行させていかねばならない。もっとも、このことも全ての社長はわかっている。
どのタイミングで、求心力型から遠心力型に移行すべきかは、事業の成熟度合や社内のヒトの問題により決めるべきなので一概には言えないが、意図的に変えていくためには、以下のステップを踏んだほうがいい。
STEP-1:社長の判断がないと物事が決まらないという状態から脱する
STEP-2:社内に社長以外に事業を社内外に対して熱く語れる人材を配置する
STEP-3 : 社内の組織を社長を頂点とした文鎮型ではなく、中間管理職を配置しチーム分けする
STEP-4:チームごとに予算管理・人事管理を始める(社長はいずれのチームの長も兼ねない)
STEP-5 : 社長からの社員へのダイレクトコミュニケーションを避ける(組織のラインを活用する)
STEP-6:中間管理職を増やし、チームを増やす
この中で最も重要なステップは「STEP-2の社内に社長以外に事業を社内外に対して熱く語れる人材を配置する」だ。社外でそれなりの営業トークをしていても、社内だとトップの指示がないと動けない、という人が管理職では遠心力型の運営は無理。自分で考え、責任をもって対処し、自ら修正できる人材を中間管理職として配置したい。
社内から登用するのが理想だが、立ち上げたばかりの企業や個人商店にはそもそも、そういう人材はいない。外部から採用するのが現実的だろう。その際に「大企業的な動きに慣れている」ヒトは採らないほうがいい。いかに相性が合って、頼りにできそうでも、大企業に慣れているヒトはリソース(ヒト、モノ、カネ)が潤沢にある組織運営に慣れている。
別の言い方をすると、自分がやらないと組織がもたない、という切迫感を経験していない。切迫感覚のないヒトの動き方を見ると、創業したリーダーは我慢ができないものだ。そうなると、自分で採用したものの、二人の間に変な確執が生まれ、組織が瓦解する。
人数規模で言うと、300人を超えたら遠心力型を目指したほうが絶対にいい。どんなスーパーマン社長でも、300名以上の組織で“俺の言ったとおりにやれ”だと、組織が停滞する。社長が見通せる規模には限界がある。 
素晴らしいリーダーの行動原則とモデリング
2009年に『39歳までに組織のリーダーになる』という本をかんき出版から改訂出版した。タイトルから若者向けの自己啓発本と思われるかもしれないが、実はそうではない。実績、人間的な魅力、部下たちの信頼等、素晴らしいリーダーたち約300名のインタビューを行い、そこから抽出された優れたリーダーのエッセンスをまとめたのがこの本だ。
この中でリーダーについて次の定義をしている。
「周囲に良い影響を与えて結果を出す」
優れたリーダーは社長や部長という肩書で仕事をしていない。部下へ仕事を依頼したときに、部下が「この依頼を断ると評価が下がるなあ…。しょうがない、やるか…」。これは、権限あるヒトから言われたので、自分の身に悪いことが起きないようにやる、という展開。リーダーが肩書をちらつかせて仕事をしている典型だ。 
一方で、優れたリーダーが口火を切ると、周囲が「なんだか面白そうだ。一緒にやりましょう!」という流れになる。そこに肩書は関係ない。部下を動かしているのはリーダーの魅力だ。魅力の源泉は、周囲から“一緒に仕事をしたい!”と思われていることにある。部下にしてみると、そのリーダーは「目標にしたい凄いヒト」であり、「自分のことをよくわかってくれるヒト」。だから、一緒に仕事をしていきたい!と思っている。だからリーダーの言葉に前向きに反応する。
中小企業は社長の個性が色濃く反映されている。事業も社長の魅力・力量で動いていると言っても過言ではない。社長には事業だけでなく、組織を意識し、部下との関係でこの「目標にしたいヒト」「自分のことをよくわかってくれるヒト」を目指してほしい。それが、前述の遠心力型リーダーシップへの第一歩でもある。
素晴らしいリーダーたちは、厳しい状況でもメゲない。リーダーをやっているとメゲてもおかしくないことが頻発する。決めたはずのことが実行されない。期待していた大きな商談が理不尽な理由で流れる…。人間だからメゲるのは当然。しかし、周囲にはメゲているように見えない。常に前向きだ。また、基本姿勢が利他である。そこに周囲が惹かれる。だから、このヒトのためになんとかしてあげたいという思いが生まれる。
リーダーになると情報が多く集まってくる。報告・連絡・相談メールも社内で一番多いはずだ。しかし、この処理が実にスピーディ。メールの処理を溜めない。その日のうちにほぼ全てのメールを処理する。ちなみに、メール処理については「24時間ルール」がグローバルスタンダードだ。時差のある中での24時間なので、国内であれば12時間だ。そうは言っても、中には簡単に返信できないメールもある。それなりの確認や関係者による議論が必要なものもあるだろう。その場合には、「メールありがとう。来週の火曜日までに返事します。」これでいい。要は“読んだ”という合図を送り手にその日のうちに送る。このタイムリーな動きが部下とのリズムを形成する。
加えて、部下からするとあっと驚くような発想をする。縛られない発想をする。さらには向上心が途絶えていない。情報収集のアンテナの感度が常に高い。一次情報(自分の目や耳で得る情報、誰かの編集が入っていないもの)を取りにいく姿勢が衰えていない。一緒に仕事をするのであれば、自分自身の向上心が刺激されるようなリーダーがいいに決まっている。
「自分のことをわかってくれる」という点では、「言いたいことを聞き出してくれる」ことに尽きる。部下からの相談に対して、指導も含めいろいろ言い過ぎてしまいがちだ。相談に来ている部下は「聞いてほしい」のであって、「説教してほしい」わけではない。聞くときはしっかり傾聴する。
どうすればこのような素晴らしいリーダーのような動き方ができるか。今の自分とは全く違う、と思われる方もいるだろう。そんなときに私がアドバイスしているのは、「真似しよう」だ。優れたリーダーの姿、行動様式をイメージして、それらを演ずる。真似していくうちに、そのリーダーの行動パターンが身についていく。これをモデリングという。
私自身、初めて社長を務めたときには全て素の自分で対応していたところ、“瞬間湯沸かし器”というあだ名のとおりの言動となり、多くの社員が辞めていく破目になった。そこで、上記の素晴らしいリーダーの“いいとこ取り”をしたハイブリットモデルをイメージして、それを演ずるようにしたところ、うまくいった。定着するのに2年くらいかかったが、なんとかなった。やればできるものだ。 
本人の“その気”を刺激する他流試合のススメ
「ヒトを育てることはできない。できるのは育つ環境を整えることだ」。人材育成に長く関わってきた結論だ。どんなに優れた育成プログラムを用意したところで、本人にその気がなければ全く意味がない。なによりも大事なのは本人をその気にさせることだ。ところが、中小企業では前述のとおり、社長の個性が色濃く反映されている。結局は社長がなんでも決めると思っている社員が多い。上のポジションに就いて大きな仕事をしようという健全な野心が育ちにくく、自らを成長させたいという原動力、つまりは“その気”が生まれにくい環境にある。
中小企業で管理職を育成するときのポイントは「他流試合」だ。「他流試合」を通じて、自分の実力を知り、“このままではいけない…”と感じてもらう。これが、自分を成長させたいと願う“その気”を作り出す。中小企業の場合、同じ仕事を同じメンバーで長くやることが多い。そうなると、どうしても馴れ合いになる。「あ・うん」の呼吸で仕事ができるという利点もあるが、育成という観点からするとマイナスだ。
仕事はインプット、スループット、アウトプットの組み合わせだ。インプットとは、知識、経験など自分で吸収するもの。それを材料に組み合わせたり、カタチを変えたりするのがスループット、その結果が資料であったり、発言であったり、立ち居振る舞いといったアウトプットになる。優れたアウトプットを出そうとしたら、インプットの質と量を充実させないと無理なのだ。もちろん、スループットを磨くことも重要だ。同じメンバーで同じ仕事をしていると、どうしてもこのインプットが固定化する。ここに意図的に刺激を与えて、本人のインプットの意識を広げることが育成の第一歩だ。
わかりやすいやり方は「異動」である。同じ会社の中でも新しいメンバーと、新しい仕事をする。これだけで、インプットに対する感覚が鋭敏になる。
ただし、中小企業の場合、社内異動がなかなかできない場合が多い。そんなときにオススメしているのが「他流試合」だ。最もシンプルには外部団体がやっているマネジメントスクールに中間管理職、またはその候補者を派遣することである。同じような環境に身を置く他社のヒトと数ヵ月一緒に課題に取り組むことで、そこに大きな気づきが生まれる。私が主催している「柴田塾」はまさにその場だ。月に一度、15名限定でやっている3日間の集中講座だが、受講生たちは大きな気づきを得て職場に戻っていく。
企業間の付き合いがある場合には一定期間だけ「見習い出向」をさせ合うというのも効果的だ。私がカルチュア・コンビニエンス・クラブのCOO時代にこんなことがあった。同社が展開しているTSUTAYAのオーナーさんたちから人材育成の相談を受け、この「見習い出向」を提案した。
TSUTAYAを実際に運営しているのは全国のフランチャイズのオーナーさんたちである。このオーナーさんたちの多くは中小企業だ。社内の昇進や配置転換には限界がある。いきおいTSUTAYAの店長、副店長を10年やっているというベテラン中間管理職が多く生まれてしまう。重要な役職ではあるが、同じ仕事を長くやっていると、どうしても馴れ合いになる。そこで、フランチャイズの加盟企業間で店長や副店長をスワップ(交換)するというものだ。実際に「見習い出向」をした人の話を聞くと、見習い出向初日の朝礼からして刺激的で、「ああ、こんな風にやっているのか」「この点は自社のほうがいい」などの多くの気づきがあり、長年慣れた同じTSUTAYAの店長職であっても背筋が伸びる毎日だったという。
そこまでやれないという場合には、自社が属する商工会で気心の知れている社長間で話しをつけて中間管理職同士を引き合わせるだけでもいい。非日常的ななんらかの気づきがあるはずだ。 
茶坊主の排斥
なんといっても注意したいのが、中間管理職に“茶坊主”が増えないようにすることだ。“茶坊主”とは、社長にとって心地よい情報だけを提供する側近のこと。社内にある様々な情報が、この“茶坊主管理職”のところでブロックされてしまう。時にこの茶坊主管理職、社内で起きている“まっとうな”動きをご進言として、ネガティブに報告したりする。それにより、自分の立場を守ろうとする。
中小企業、オーナー系の企業では“茶坊主”が自然発生しやすい。なにしろ、権限の所在が明確だからだ。茶坊主はその権限にすり寄る存在だ。しかも、そういう人間を重用してしまうと自然増殖する。
中間管理職に“茶坊主”が蔓延すると、一気に裸の王様化し、それに嫌気がさした若い有能な人材が会社を去ることになる。役職者以外の退職者が多い会社では“茶坊主”の存在を疑ったほうがいい。
育成においては、茶坊主とかけ離れた要素をもつ人材が育つように意識したほうがいい。そういう人材は自己主張が強く、扱いにくいかもしれない。しかし、それだけ当事者意識があるということなので、遠心力型組織を目指すときに戦力になる。
社長の話を鵜呑みにしない。自分で納得してから動く。社長が判断にあたって得ている情報に偏りがある場合には身体を張って情報の修正を図る。仮に自分の考えとは違っていても、いつまでもそれを引きずらない。組織のトップである社長がやりたいというのであればやる。こういう人材がいたら“当たり”だ。年齢は関係ない。 
最後に 〜社労士の役割
社労士の方々にお願いしたいのは、内部事情をよく知る第三者としての動きだ。冒頭に述べたように正論だけではダメだ。また、社長を含む一部の社員の代弁者というのも社内政治を複雑化するので困る。そうではなく、全体を俯瞰したアドバイスをしてもらえるとありがたい。
このためには、なんらかのアドバイスを求められた際には内部事情を効果的に聞き取る力を鍛えてもらいたい。表面的なことだけでなく、組織の中の心象風景を捉えてもらいたい。一般的なアドバイスであれば、本を読めばわかる。生きたアドバイス。それができる人事問題の専門家であってほしい。 
指導者なき追随者と?追随者なき指導者 
法律では第2条が定義と決まっている。
ISO規格でも本文の前には必ず『定義』という章がある。定義の章が、これが膨大になると、定義だけであたらな規格になったりする。少し厳密な話をする場合には語義をはっきりしなくてはならないということだ。たとえばISO9001を理解するにはISO9000を読む必要がある。
こんなウェブサイトで書くものにたいそれたものはない。しかし、お互いに誤解のないようにするために言葉の意味を決めておこう。 指導者とは目的に向かって他の人を導いていこうとする人とする。従う人がいない場合も含む。 追随者とは目的に向かって行動するさいに、指示を受けて行動する人とする。指示する人がいない場合も含む。指導者をリーダー(leader)、追随者はフォロワー(follower)とすべきかもしれない。しかしフォロワーというと信奉者・支持者という訳もあり、それでは意味がちと違うと思う。あるいは追従者というべきかも知れないが、俗に言うお追従とも違い、ここでは追随者とする。機械ではカムで駆動されるものをフォロワーといい直感的に理解しやすい。
さて、やっと本文である。
『指導者なき追随者が良いのか?追随者なき指導者が良いのか?』なんて問を30年以上前に見たことがあった。指導者なき追随者は一体どこに進むのか分からず、目的に向かう組織的行動はとられることはなく、最悪の場合はみなで断崖に向かって盲目に行進する可能性もある。一方追随者なき指導者は道化に過ぎない。ドンキホーテでさえ従者が一人いたのである。モーゼがエジプトから民を導いたのは指導者足りえる指導者がいて、それに従う追随者がいたという稀有な事例なのである。
いかなる時代においても、またいかなる組織においても指導者と追随者という二種に別れる。そしていかなる時代においても、またいかなる組織においても指導者と追随者が必要だ。みんながリーダーになることはありえない。リーダーを独裁者と決め付けることは間違いである。同様に追随者が自分の意思を持たないと決め付けることも間違いである。そして指導者になるのも追随者になるのも簡単ではない。誰でもなれるのではないのだ。
話はパット変って、

私が若いとき勤めていた工場では下っ端から、職長(しょくちょう)、掛長(かかりちょう)、課長、部長という職階であった。
職長は10人から30人を束ね、掛長は数人の職長、課長は数人の掛長の上に立つというハイラルキーである。大学を出てきた者はもちろんはじめは平社員であるが、やがては掛長からこの階段を上り始める。一方中学・高校を出てきたものは平社員となる。しかしやがて能があると認められると職長となる。さらに能があると皆が認められると掛長になり、中には課長にまでなるものもいた。
ところが、職長の仕事と、掛長の仕事、課長の仕事というのは量的なものではなく、質的にまったく違うのだ。有能な工員が職長として通用するかどうかはある程度リンクする。自分の腕で飯を食っているという自負のある人間は自分より腕の悪い人間の言うことを聞かない。私もその主義だ。
だから現場で腕のいい人間が職長になるとその職場で職長に逆らう者は普通はいない。
ところが腕のいい職長が掛長になれば、良い掛長になれるのか?といえば、まったく関係がないとしかいいようがない。なれる場合もあるし、なれない場合もある。
もちろん、大学を出てくれば良い掛長になれるのか?と言えば、なれる場合もあるし、なれない場合もある。掛長に求められるものは技能とか知識とはまったく異なるものなのだ。課長になればまた異なる能力を要求される。

ものすごい知識や知恵を持てば指導者足りえるかというと物事はそんなに簡単ではない。リーダーたる者はその能力と共に人望が必要なのである。ヒトラーがいかにして階段を上って行ったか?それは単なるスローガンと恐怖政治だけでできるわけではない。だいたい権力を持たずに野にいて恐怖政治を行えるはずがない。
以前書いたが、強権だけでは人は集まらないし、集まってもその話を聞くはずがない。指導者が分かりやすい言葉で自分の思いを伝えられるか?という点にかかっている。さらには聞く人がその情報に関心があるか否かということも重要だ。

ところでマスメディアはみな『自分は指導者である』と認識しているようだ。まあ、世の中を導くという気概のないマスメディアはイエローペーパーと言うべきだろう。
中にはパワーペーパーと自称している新聞社(広告社?)もある。すごい自信だ!スバラシイ! 
ところでパワーペーパーとは一体なんだ?パワーとは必ずしも・・・いや全然・・・正義とか善を意味しない。英英辞典でも広辞苑でも『力』であり、『悪』という意味もある。
パワーペーパーと自称するのは中身に価値があるのではなく単に元気がいいと宣言しているのだろうか?
先ほどの言い回しを修正せねばならない。世の中を導くという気負いがないマスメディアがイエローペーパーなのではなく、世の中を導けないマスメディアがイエローペーパーなのだ。
ほらを吹くマスメディアがあり、それを信じる追随者がいればその行く手には断崖しかあるまい。

正しい目的を持ち、実行可能な目標を提示する指導者がいたとしても、それに従わずあるいは怠惰に耽る追随者ではこれまた目標にも目的にも届かないだろう。先ほどあげたモーゼでさえも自ら疑問を感じることも多く、追随者に至ってはしょっちゅう脱線したのである。 
するといかなる組織においても皆がベクトルを合わせてより良くして行こうというには追随者と指導者がいれば要件を満たすわけではなく、よき指導者とよき追随者がいることが必要条件のようである。とすればますますもってその取り合わせは存在が稀有であり、理想状態は実現しないような気がする。
現実の世界ですばらしい指導者とすばらしい追随者が組み合せなどなかなか見かけない。日本を貶めれば外交がうまくいくとしか考えていない人間を政党指導者に担ぎ上げた人々の頭を疑う。もし、この人々が日本の実像ならば私はこのウェブサイトを閉じるしかない。日本の実像はそうじゃなく正義と信義に基づいた外交を行うべきだと考えている人が多いと信じているのだが・・・
あるいはものすごく説得力があり、多くの人にアッピールするプレゼンスを行う指導者もいるが中身は『エエ!』というのもある。こういったものを扇動という。
さらに話はパット変わって、インターネットの世界でもすばらしい指導者とすばらしい追随者で交換される掲示板などは見かけない。ものすごいアイディアを提示する方もいるが、その表現があまりにも学問的でそれを理解しようと努力する人だけが理解できるというと、なんか自己矛盾のような感じを受けることもある。だって、むずかしいことを理解できるならもともとその情報に触れる必要がなかったはずだ。
『理解するとはいかなることか?』という説明もこれまた多々あるのだが、ある本では『相手の中に自分を見つけること』とあった。
他方追随者にしても耳障りの良い言葉のみを聞き、苦味の利いた言葉には耳をふさいでしまう人もいる。目的を理解し、そのための最善策であると納得しないとよき追随者にはなれない。選挙のたびごとに、耳障りのいいキャッチフレーズに騙されてばかりいる方は、良き追随者にはなれないのだ。自分も嫌だ、他人も徳にならない、でも全体を考えればこれを選択するのが最善あるいは最少悪の選択であると理解できる人を市民というのではないか?
観念的、感情的に正義派ぶることは一人前の大人ではない。
今の日本には、指導者も追随者もいないのではないか?
私はバカなことばかり書いているが、多くの人に考えてほしいと願っている。そして考える追随者になって欲しいと念じているのだが・・ 
 
それでも外資系で働きますか?

 

そもそも会議とは、参加者に上意下達で何かを通達する場というより、衆議によってより深い智恵を得る、あるいはよく練られた解決策を生み出すためのものであるはずだ。これが多くの日本企業では認識されていても実行されない傾向がある。外資系でもゼロとは言わないが、相対的に無駄な会議は少ない。「自分の時間を他人によって無駄にされたくない」と考える自己中心的な人が多い職場であるので、至極当然のことではあるが、生産性の低い会議はなるべく短く、議論が必要な場合でも時間が来ると打ち切るのが普通だ。マネジメントーミーティング(幹部会)やアウティング(外部の施設に寵って徹底的に議論する)などは例外的に長く、根を詰めた会議になるが、それでも会議に費やされる時間は平均的な日本企業のそれに比べると少ない。
「ためにする議論」という言葉がある。外資系でも自分を目立たせるためにくだらない議論を延々と続ける人間が外国人にも日本人にもいるが、議長がまともだとそうした議論をぴしゃりと打ち切る。全般に外資系では会議の訓練度合いが日本人と違うように思われ、中断された人間もそれほど不快感を覚えない。この点は日本企業に働く社員も大いに見習うべきだろう。外資系の人間は、日本人でもズバリと核心に切り込む議論をする人が多く、これが日本企業にはぶっきら棒、無礼に映ることもあるようだ。確かに心底から無礼、かつ無神経な人間が外資系には少なくないが、会議の場での表現の仕方などは参考になる。自己ピーアールのやり方と併せて、ヒントになることが多い。
以上、日系から外資に会社が変わったときの変化について述べてきた。これらに加え、上司の権威を笠にきて専横する社員や、上司へのゴマすりだけで生き延びようとする社員、つまり茶坊主が増えるとか、屁理屈に強い社員が生きやすくなるなどの変化もあるが、これらについては後にふれることにしたい。茶坊主は、どの組織や会社にもいる。外資系には「語学バカ」とか「留学ゴロ」と蔑称される、語学だけはそこそこ(決して超一流ではない。超一流の人材はほかにも芸がある)できて、外国人と親密になる能力だけで社内で幅を利かせる類の社員が少なくない。
またMBAや社内研修プログラムに熱心な欧米系の会社では、屁理屈に強い社員が多い傾向がある。自分の失敗を糊塗したり、他人の業績をけなすことに長ける人間にとって、外資系は極めて過ごしやすい職場である。日本企業では屁理屈や自分勝手な論理と受け取られるような話でも、外資系では案外すんなりと受け入れられたり、それによって業績が過大評価されたり、過失が問われなかったりするのである。
反対に真面目一方で自己宣伝をよしとしない人には、外資系は往々にして針の趨の職場となることを付言したい。外資系でサバイバルするための三つの法則経営のやり方が日本企業と相当に異なる外資系企業で働くことは、買収により一朝にして外資系企業になってしまう場合も含めて、多くの読者にとって想像外のことであろう。そうした外資系未経験者のために以下簡単に、やや戯画的な風景も含めて外資系でのサバイバル(生き残り)方法を伝授したい。
日本国内にある外資系企業の支社・支店に就職・転職したいと考えている人達を主なターゲットとして、実力主義、高給、大きな権限など、外資系に対して良いイメージを持っている人達に、「外資系はそれほど理想的な職場ではありません。確かに良い面もありますが、恐ろしく悪い面もあります。まずは実態を知って下さい。」と諭しているのが本書「それでも外資系で働きますか」と言えよう。
外資系企業に務めた経験が豊富な著者3名が外資系企業の実態を暴露する内容だが、外資系企業に務めたことがない私には、本書「それでも外資系で働きますか」に書かれている内容がどこまで外資系一般に通用するものなのか全くわからない。かなり偏った見方であろうという印象は持ったが、それでも、確かに書かれているような面もあるのだろう。
日系企業と外資系企業における上司と部下の関係の違いについて書かれた箇所がある。印象に残ったので、そこだけ引用しておこう。
部下の育成に気を配り、愛情を持ちながらも毅然として部下に接し、部下のミスを庇い、自分の手柄も部下に与えるという「理想の上司」(あるいは理想の「本ジャパ」)は、外資系では必ず躓く。
理由は以下の通りである。
第1に部下を育成しすぎると部下から寝クビを掻かれる(下克上)。
第2に愛情をもって接すると、時に「セクハラ」と間違われる。
第3に毅然としすぎると部下に恐怖感を植え付けてしまい(これは外資系では悪いことではないが)、部下が本音を漏らさなくなる。
第4に部下のミスを庇うと誰も評価しないばかりか、時に職を失う羽目に陥る。
最後に、部下に手柄を与えると取って代わられる。まったくもっていいことはないのである。
部下は適当に育成し、決して自分を脅かすようなレベルの高い仕事はさせないのが賢く、愛情も厳しさも不要である。彼らとはただ、淡々と接してさえすればよい。ただし、忠誠心は絶対的に要求しなければならない(少しでも裏切ったら、即、切る)。部下のミスは部下に責任を取らせ、部下の手柄は自らのものとする、などが外資系で成功する最低の秘訣である。
仮に外資系の実態がこの通りなのだとすれば、そこで働きたいとは微塵も思わない。では日系ならいいのかと言われると、それは分からない。だから、大学で働いている。
はずれかもしれないが、斜め読みすれば十分な本だから、外資系企業に興味がある人は読んでみたらいいだろう。
ところで、かつては日本にそれなりの部隊を展開していた外資系が、日本には末端だけ残して、中国(香港を含む)やシンガポールにアジア拠点や環太平洋拠点を置くことが多いような気がする。俺は外資系だよ!という貴方、日本のプレゼンスを高めて下さい。それができないようでは、日本人が外資系に勤める意味がないのでは? 個人的な金儲けや働き甲斐が目的なら日本人である必要はないだろうし、外国人なら日本のプレゼンスなんてどうでもいいし。 
外資が嫌う日本人
抽象的な議論ばかりで、具体的アクションのない人
部下や他人の管理にばかり関心がゆき、自らは付加価値を生み出さない人
他人の顔色ばかり窺い、自分の意見を持たない人
謙遜が過ぎ、自信がなさそうに見える人
直属の上司に忠誠心がない人
一匹狼を気取って、他人との共同プレーができない人
他人の功績をすべて横取りし、自分の不始末は他人になすりつけて恥じない人
政治的手腕だけに頼り、見るべき業績もない人
直属の上司というのがポイントらしく、日本の企業であれば直属の上司とは仲が悪くてもその上や隣の部署の上司が実は見てくれていたりして何とかなったりしそうであるが、外資ではそういうわけにはいかないようだ。好むタイプについては、基本的に上記の嫌う人の逆パターンだが、追加の資質として4点ほど書かれていた。実際はどうであるかは別としてうまくアピールをしていないと難しい立場に立たされる。
外資が好む日本人
余人をもって替え難いと言わせる
この人間ならば、自分を脅かすことなく、力になってくれると思わせる
そのための秘密や内部情報を本社や外国人上司と共有する
仮に切られた場合、有形無形の損害が発生すると恐れを抱かせる
後半にあった外国人の日本観も興味深い。たまに出張で来る程度の人には良い印象であることが多いものの、長く住んでいる人ほど否定的な意見を述べていた。
他人に無遠慮で精神的に幼い日本人
弱い者いじめで、不正義に立ち向かう勇気のない国民  
 
倒産

 

倒産の原因は、会社により様々でしょう。最善を尽くしても売り上げが伸びず、倒産という会社もあるでしょう。しかし、今回の倒産のように、倒産するはずもない会社が放漫経営によって倒産あるいはひどい状態に陥るケースもあるのではないでしょうか。そんなことをほかの会社には繰り返して欲しくありません。たいそうな内容ではありませんが、こんな話でも十分に役に立つかもしれません。 
第一話 社長の質が会社を決める

 

倒産する以前、この会社は非常に多くの問題に直面していたため、その原因と対策に頭を悩ませない日はありませんでした。不満足な顧客サービス、製品クレームの多発、社員の定着率の低さ、過剰な労働時間、無駄な投資、朝礼暮改の繰り返しなど、およそ中小企業の抱えるすべての問題の見本市のような会社でした。しかし、それらのすべての根本的な原因がどこにあるのかを考えると、すべて社長に原因があることがわかっていました。
こんなことを書くと、社員は無責任だと思われるかもしれません。しかし、何の権限も与えられていない社員にどの程度の責任を問えるでしょうか。ましてや忠告すら聞かないワンマン社長では、なすすべがありません。もちろん、社員が与えられた命令や目標の範囲内でベストを尽くすのは当然ですが、所詮、そんなものには限界があります。命令や目標の的確性こそが、最終的な成果を左右するもっとも重要なファクターだからです。倒産のその日まで、社長の命令や目標の的確性が問われたことはありませんでした(問えば激怒するからです)。
社長の質が会社を決める。これは真理です。たとえば、一時期にブームになった日産ですが、それまでの社長ではまったく拉致が明かなかった企業が、カルロス・ゴーン氏が就任したとたんに大変貌しました。そのスタートとして何があったのか?まず、社長の首が変わったわけです。社長が変わらなければ、日産は未だに再起不能だったかもしれません。中央集権型の組織において権限の集中する社長のような人物の質(人間性、価値観を含む能力や知力全般)が組織を大きく左右するのはごく当然です。そして、社長が変わることで初めて社員は大きく変貌します。それが日産です。それが中央集権型組織の宿命です。当社の元社長は、自分自身は何も変わらないで、自分に都合の良いように社員にばかり変革を求めていましたが、それは不可能なのです。もし、社員に変革を求めるのであれば、まず自らが変革せずして何ができると言うのでしょうか?さらに、変革には仕掛けが必要ですし、権限を分散しなければなりません。単なる飴と鞭だけで社員が変わるなら、こんな簡単なことはありません。社長が自分の保身に甘んじる企業に改革はありません。自らを最も厳しく律し、率先垂範してこそリーダーシップです。
社長にすべての原因が帰結します。たとえば製品のクレームが発生した場合、その物理的な原因について詳しく検討され、何らかの物理的な原因が特定されますが、これがクレームを発生させた根本原因ではありません。どちらかといえば、クレームの発生する製品を生み出す土壌、つまり業務のシステムに問題があります。業務システム上の問題としては、たとえば、製品の実証試験が不十分なままで新製品の発売を開始することが挙げられます。これではクレームが発生するリスクがあって当然ですよね。しかし、実はこれも根本的な原因ではありません。社長がそうするように命令しているからです。つまり、実証試験もそこそこに新しい思いつきを製品化して自慢したいという社長の性格特性にこそ、製品クレームの根本的な発生原因があるわけです。これは一例です。すべての原因が同様に社長に帰結するのです。これは、権力のすべてが社長に集中していれば当然のことです。
そして、社長の質によって問題解決ができるか否かが決まります。たとえば、上記を例にして考えると、本来、問題の解決は簡単です。社長が自慢したいという欲望を我慢します。すると、製品の実証実験にもっと時間をかけることができ、未然にクレームの芽を摘んでおくことができますから、クレームは減少し、会社の損失は減ります。こんな恐ろしく簡単なことがなぜ出来ないのか不思議でなりません。しかし、二代目のワンマン社長には、これがとんでもなく難しいことらしいのです。甘やかされて育てられてきたため、我慢することを知らないのです。これでは、潰れるはずのない会社も、ひとたまりもありません。つまり、社長が当社の倒産の根本的な原因なのです。
とりわけ、株式会社といっても株式のほとんどを社長個人が所有し、名義だけの役員や監査役しかいない会社では会社の質は100%その会社の社長によって決まると断言できるでしょう。 
第二話 人の話を聞くのが最も大切

 

馬鹿みたいに思われるかも知れませんが、中小のワンマン企業の最大の問題はこれではないかと思うのです。当社の倒産の根本的な原因は元社長の能力と性格にありますが、その次にあるのはこれです。元社長が人の話を聞き、真剣に受け止めることができれば、当社の倒産は確実に防げています。
連鎖倒産の最初の引き金となった、粉飾決算は分譲事業の急拡大を開始した時期に始められたものです。当然ですが、分譲事業のように資金を大量に必要とする事業を急激に拡大した場合には、キャッシュがすぐに不足し、黒字倒産も起こしかねない危険な状態を招きます。ペースコントロールが非常に重要になりますが、元社長はおかまいなしにイケイケどんどんでしたから、すぐに資金がなくなりました。そのことの問題を指摘した社員もいたのですが、まったく聞く耳を持ちませんでした。しかも満足に原価管理もせずに、関連会社の与信も利用して借金をして、ひたすら拡大したため、利益がきちんと出ているのかもわからなくなり、そこに粉飾を持ち込むことになったわけです。
もちろん、人の話を聞かず、社員を信用しないのは元社長の性格そのものですから、根本的には社長が交代しない以上は解決できません。しかし、「人の話を聞かなければならない」ということを意識し、対策を講ずる事で状況は大きく変わります。当社の元社長が最も良く相談し、信頼していたのはイエスマンばかりでした。異を唱える社員は容赦なく罵倒され潰されるのです。
ところで、人の話を聞くなどあたりまえと考えている経営者は多いでしょう。しかし、自分では社員の話を聞いているつもりでも、第三者が客観的に判断した場合、実際にはぜんぜん聞いちゃいなかったということはありがちです。この文章を読んですぐに「俺は社員の意見は聞いている」と考えた社長さんが居たとすれば、私はその人をあまり信用しません。むしろ「俺は社員の意見を聞いているつもりでも、社員は本音を話しているのだろうか。お世辞しか話していないのではないか。社員は本当のところ、言いたい事が言えているのだろうか。」と考えた人は冷静で客観的だと思います。
「いちいち社員の意見など聞いて経営ができるか」という人もいるでしょう。確かに社員の意見など聞かなくとも的確な経営はできます、社員10名程度の中小工務店なら。しかし、企業は、なりわいとする事業の複雑さや成長段階に応じて経営の手法を変化せざるを得ないと言われています。単純に言えば、複雑な事業になると一人ですべてのことを理解し、管理する事は不可能だからです。元社長には最後までそれを理解する事ができず、自分はお殿様のような絶対権力のポジションを維持したまま、事業の拡大を押し進めようとして破綻したと言えます。
人の話を聞くという事は、実は単純ではありません(元社長は物事は何でも単純に考えろと言ってましたが)。聞くだけで行動に取り入れないのなら誰でもできますし、聞いたからと言って、それを全部取り入れて行動しては優柔不断になってしまいます。ですから、あらかじめ聞く人間には、明確な理論と明確なビジョンを持っていることが必要です。その理論とビジョンが優れていれば、社員の意見はその理論とビジョンの正しさを試すもの、あるいは裏付けを強化するもの、あるいは実現の助けとなるものとして大変に役立つはずです。せめて、その程度のことを理解して初めて「俺は社員の意見を聞いている」と言って欲しいと思います。 
第三話 ビジョンや計画は大企業のモノではない

 

元社長もそうでしたが、企業にビジョンや計画は必要ないと考える経営者も居るのではないでしょうか。元社長は自分の勘と経験だけを信じて会社の運営をすべて行ってきました。業務命令もすべて口頭指示で文書による業務指示はありませんでした。その方が、指示内容の証拠が残りませんから、後からどうにでも言い訳が効くので彼としては都合がよかったわけです。そして、それで万事うまく行くと考えていました。
中小企業は社員も少ないですから、社員に対してわざわざビジョンや計画を明確に文書で示す必要など無いだろう、経営者が普段から社員の顔を見る機会があり、社内の風通しも良くてコミュニケーションが十分に取れるので、経営者の考えや会社の方向性は十分に社員に伝わるものだ、そう考えることも出来ます。また、モチベーションや処遇に関しても、規模が小さいゆえに行き届いた配慮ができるため問題が起こりにくい、そう考えることも出来ます。しかし、実はまったく逆で、中小企業のほうがはるかにそのような問題を多く抱えていると、ドラッガーも書いていますし、事実、倒産したこの会社の実情がそのことを如実に示しています。
実態は、社員の誰一人として会社の目指す方向とその手段について明確に理解している人物はいませんでした。それはそうです。ビジョンと計画を示していないからです。理解しているのは、今、会社のやろうとしていることと、自分がすべきことだけです。しかし、それは表面的なことに過ぎません。元社長はそれで十分と考えていました。しかし、ビジョンと計画が明確に示されていないと言うことは、会社がなぜそれをしようとしているのか、それと現在の自分の行っている業務が有効にリンクしているのか、そのことを考え、理解するための情報が無いことを意味します。これでは、企業の目指す方向(ビジョン)を元にすべきことを社員が自発的に検討して企画し計画し実行することができません。家畜のように与えられた業務をただ黙々とこなすだけならOKですが。しかし、果たして元社長の求めていた社員とは、実は家畜だったのかも知れませんが。
企業に活力を与える最も重要な要素は社員のモチベーションです。技術だのノウハウだの、それは社員のモチベーションが高ければいくらでも生み出されてくるはずです。逆はありません。モチベーションゼロの企業から画期的な技術もノウハウも生まれてきません。モチベーション向上には処遇も重要ではあります。元社長はそれのみ、つまり賃金や肩書きだけでモチベーションをコントロールできると信じていたようです。しかしそのため、賃金や肩書きに敏感に反応する社員は残りましたが、他の社員は会社を辞めてしまいました。社員は自動車のようにガソリン(賃金)だけ与えていれば済む対象ではありません。彼らは自主的に自らの意思で目標を決め、計画を立案し、問題点を探して解決する能力を有し、またそれを希望しています。能力の程度に個人差はあっても、それこそが人間の、経営資源として最も価値の高い部分であると思います。そうでなければ、ただ命令に黙々と従うだけの社員、ロボット社員になるだけです。
社員が自主的に自らの意思で目標を決め、計画を立案し、問題点を探して解決するといった行動を行うにはビジョンが不可欠です。ビジョンはこんな会社になるという最も大きな目標で、もちろん具体的で明確にイメージできる姿を描き出さねばなりません。それが解りやすいもので、かつ、社員の共感を得ることができれば大きな原動力になるはずです。それだけでも社員の達成意欲つまりモチベーションが高まるでしょう。そして、そのビジョンの具体的な達成手段として計画が立案され、その計画がビジョンの達成に有効であることが見えると、社員の達成意欲はさらに高まるはずです。ですから逆に達成不能な計画など意味がありません。このようにして、ビジョンと計画は社員のやる気を増し、企業に活力を与えるはずです。
もちろんこれは理想的な状態の話であり、隅々までそうなるかといえば、それは難しいでしょう。しかし、それを目指すのでなければ永遠にそれを得ることはできません。しかも、それが最も隅々まで可能になりそうなのは、官僚制が進行していない中小企業のはずだと思います。それこそ、普段から顔を見る機会もあり、社内の風通しが良くてコミュニケーションが十分に取れるはずだからです。つまり、中小企業にこそビジョンと計画は重要なのであり、それは大企業のためのお飾りの大義名分などでは決してないということです。当社にはそれがなく、社員はただ与えられた業務の達成のみを追及され、未達成を罵倒され、社員は誰一人として当社がどこへ向かっているのかわからず(表面的な目標はわかるが)、なぜこれを行うのかわからず(表面的な理由はわかるが)、モチベーションは限りなく低く、次々に社員が辞めてノウハウも蓄積されない。当社が倒産したとしても何ら不思議はないのです。 
補足1 / 元社長は悪人なのではない 

 

このHPで書いていることは、事実の一つの側面であるがえに厳しすぎるかもしれません。これだけを読むと、なにやら元社長がとんでもない悪人のように思えるかもしれませんが、実はそうではないのです。彼が悪人であるがゆえにこのような事態を引き起こしたのではなく、無知で弱いが故にこのような事態を引き起こしたのです。
人間は自分の意識している意志で動いていると信じている人が未だにいるかもしれません。しかし意志と言うものは人間の行動を決定している本質ではなく、単に表面的なものに過ぎないことは、近代の心理学の研究により明らかにされてきたところです。もちろん、それによって意志の価値というものが低下したのではありません。むしろ向上したはずです。それはさておき、人間は生まれたときから仕組まれている「性格」と言う一連のプログラムに忠実にしたがって行動しています。どのような性格であれ、性格そのものに善も悪もありません。それは人間の本質であり人間性そのものです。性格というものが意識を介在して認識されるが故にそれを人間特有のものであると感じてしまいますが、客観的に観察してそれは行動特性にすぎません。行動特性は動物にもあります。しかし、行動特性のままに行動するのは動物であり、人間はそれを意識・無意識(超自我)により抑制・調整し、より機能的な判断を意志として認識して行動します。ですから、動物なら当然にありえるであろう、傷害も窃盗も殺人も基本的にはありえない社会を人間は形成しているわけです。
しかし前社長は生まれたときから次期社長という立場でしたから、その行動特性を抑制する必要性がないままに成長し、ゆえに性格のまま、欲望のままに行動することを習慣化したのです。簡単に言えば、あまりにも甘やかされて育てられたことにより、性格特性がむき出しのままなのです。元社長は自己をコントロールできない弱い人間なのです。
そして、そのような人間に能力以上の評価や権限を与えるとどうなるのか、彼はその生きた見本です。自分の能力も会社の力も取り巻く環境も冷静に判断することが出来ず、勝手に踊って自滅したのです。ですから、本人に悪意があるということではありません。無知ゆえの悲劇といえましょう。巻き込まれた方は大変な迷惑ですが。性格特性や行動特性は能力と同等かそれ以上に重要なファクターであり、能力がいくら高くても、その職務についての性格特性や行動特性の適合性が低ければ、まったく意味をなさないのです。
元社長がもっと厳しく育てられていたなら、状況はまったく変わっていたはずです。しかし、そのような場合に彼が型枠システムを作り出し、それを事業化していたかどうかはまったくわかりません。それは能力の問題ではないのです。それを運命と呼ぶのであれば、まさしくそうでしょう。 
補足2 / 具体的手法からこの倒産を論じることは無意味

 

「こうすれば倒産を防げた?」のコーナーを読んでも、財務的な原因と対策についての記述が無く、元社長の性格上の問題点をあげつらっているだけのように感じられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。確かに倒産は財務的な破綻のことですから、その直接的な原因と対策についての記述が無いのはその筋の方には不満かもしれません。しかし、そのような財務的破綻は経営上の判断の誤りから導き出されており、その経営上の判断は元社長の思考特性や行動特性から導き出されています。ですから倒産の根本的な原因は財務ではなくむしろ元社長の思考特性や行動特性にあり、それが改善しなかったために倒産に至ったことは疑いの無い事実です。つまり、そのような思考特性や行動特性を持つ経営者の方が居たならば、それを改善しなければ類似した現象は起こりえると思います。もちろん、十分に用意周到な人ならば思考特性や行動特性の改善によるのではなく、経営手法のみによってそのような事態を回避することも可能かもしれません。しかし、それは効率的でしょうか?効率的にリスクを軽減するためには、経営者の持つ企業経営にとって不向きな思考特性や行動特性について事前に改善、あるいは対策を施すべきではないかというのが本稿の立場です。
そして今回の倒産事件に際して、経営者の思考特性や行動特性よりも会社の製品力や財務分析などを元に経営者の能力あるいは企業の将来性を判断したが故に銀行やマスコミが判断を誤ったという事実(少なくとも数十億円の融資が回収不能になり、マスコミが持ち上げまくった人物が実は粉飾をしていたということ)は、上記の考え方が正しいことを示唆しているのではないでしょうか。銀行もマスコミも元社長とは実によく話をしていたようですが、もっと肝心な周辺の社員や取引企業からの聞き込みはしていたのでしょうか?マスコミはもともと無責任な立場(客観的無責任)ですから関係ないのでしょうが、少なくとも数十億円もの融資を行う銀行が財務的な視点を偏重して融資先の企業を判断することが如何に危険であるかを思い知らされたのではないでしょうか?財務内容は結果を示した数字に過ぎず、経営力は判断と行動、すなわちその根底にある経営者の思考特性と行動特性を分析しなければ評価できないということを、もっと重視すべきだと思います。日本を騒がせている不祥事事件の根底には、企業を評価する側にそういう視点が欠けており、そういう企業を野放しにしている(利益が出ているのだから内部の事には干渉しないという立場)ことにも原因があるのではないでしょうか。少なくとも、今回の倒産は、具体的な手法などという以前の問題から発生しているのです。
それでもご不満な向きの方に対して、元社長の性格特性ではなく具体的にはどのような経営上の判断の誤りがあったのかについて、大きな問題点についてだけ簡単に挙げてみたいと思います。
連鎖倒産の引き金となった親会社における経営上の誤り
・ 分譲事業を必要以上に急拡大したことによる資金不足
・ 無理な販売価格設定による低い売上高利益率
・ 不十分な原価検証による売上原価の増大あるいは読み違い
・ 不十分な技術検証に伴うクレームの激増による補修費用の増加
当社を連鎖倒産に巻き込まれるような体質にしてしまった経営上の誤り
・ 親会社への多額な貸付金や債務保証
・ 過大な設備投資と費用拡大のための借入金の増大
・ 不十分な技術検証に伴うクレームの激増と損害賠償の増加
・ 売上げの伸び悩みと見込みの甘さ、対策の不十分さ
しかし、これらのすべては表面的な原因にすぎません。なぜそのような事が引き起こされたかについては、元社長の思考特性や行動特性により根本的な説明をすることができます。そして、社長という一個人の思考特性や行動特性が企業をここまで大きく左右したのは、もちろん、二代目のワンマン社長がすべてを取り仕切るグループ企業であったからであり、そうでなければ結果はまったく異なったものになっていたであろうことは容易に想像できます。ですから、企業の組織体制、権限規定によって影響度は違ってくるでしょう。そのあたりの判断も会社を評価するうえで重要になってくるのではないでしょうか。
ついでに申し上げますと、元社長は発明家や企業家にはなれますが、経営者にはなれない人物です。能力がどうこういう問題ではなく、そういう性格特性だからです。性格と適正は能力と同等以上に重要だと思います。アメリカの偉大な発明家であるエジソンですら経営者としては完全に失敗したそうです。天才をして不可能なことを一工務店の息子にできるはずがありません。それを自ら認めるだけの度量が元社長に有ったのか無かったのかで、すべては決まったのです。 
第四話 自社の事業の本質を明確に捉えていますか?

 

ビジョンや計画も大切ですが、物事がビジョンや計画どおりにうまく進んで成功に至ると言うケースはなかなか難しいのではないかと思います。ですから、事業が曲がりなりにも成功している場合に良く考えなければならないことは、なぜいま成功しているかを十分に問うことでしょう。なぜなら、意図して行なわれたことが、その意図とは違う視点から評価されて成功することがあるからです(ドラッカー「イノベーションと企業家精神」)。意図したことと成功の要因が異なる、そんなことがあるのです。当社の場合、意図して行動したことが意図どおりにうまく進んで成功したという錯覚のままに、あらぬ方向に事業を突き進めたことが失敗の大きな要因の一つであろうと考えています。
元社長は技術大好き人間であるため、経営上のあらゆる課題が技術開発主導で解決すると思い込んでおり、そのため、技術がすばらしいから成功したと初めから信じ込んでいたようです。それは、自分の開発した技術がすばらしい=自分がすばらしいという希望的な解釈を甘受していたにすぎません。そして彼自身が、実際は「ビジネスにおける技術の優劣判断」というものの定義すらしていないことに気が付いていませんでした。仮に「成功=採用企業が増えて、売上げが増えて、利益が出た」とするならば、少なくとも短期的に当社が成功したことは事実でしょう。では、採用企業が増えて売上げが増えたのは、技術がすばらしかったからでしょうか?技術が評価されたからでしょうか?残念ながら、そういう視点から冷静に成功の実態を分析することは元社長にありませんでした。では、はたして当社の成功の要因はなんだったのでしょうか?それを推測するためには、製品がどのような経緯で普及にいたったかを見ることが重要だと思います。
当社の製品は鉄筋コンクリートの型枠システムで、それはリユース可能なFRP製の型枠材と使い切りの打ち込み断熱型枠材と副資材から構成されています。その型枠システムを使用することで主に小規模な鉄筋コンクリート建物を低コストで施工できるというものです。同様の形状を持つ鉄やアルミの型枠システムはその当時すでに実用化されていました。ですから、これが開発されたおよそ10年前の発売当初には、ほとんど見向きもされませんでした。また、当社の販売手法も未熟で、ゼネコンなど限定された顧客のみを対象にしており、幾つかの中小ゼネコンが購入ましたが、おそらくアルミ型枠か鋼製型枠の代用として購入したものと思われます。そのため、企業はなんらメリットを見出すことができず、ほとんど利用されることはありませんでした。
その後、外部から採用された社員のアドバイスにより、工務店などの住宅施工業者を対象に、同システムを利用して「幾らでどんな家ができるのか」という具体的な住宅商品とセットすることにより、住宅ビジネスとしての提案を行なうようになりました。また、導入後のフォローもしますというボランタリーチェーン様の販売手法を行い、さらに工務店の組織化によるフォローの充実という販売手法に変化する中で、徐々に採用企業が増加していったという経緯があります。
そのような経緯から判断して、このシステムは優れた型枠技術ゆえに顧客企業に採用されたのではありません(であれば、初めから評価されている)。同システムが採用されたのは、新しいボランタリーチェーンの一つとして、このシステムを導入することにより従来にない「RC住宅」というジャンルでビジネスができるようになる、ということが受け入れられたためと考えることができます。すなわち「型枠が売れているのではない」のです。「ビジネス手法に期待して買う客が居る」ということなのです。
となれば、次に打つ手はボランタリーチェーンあるいはフランチャイズとして採用企業が求める様々な支援サービスの拡充、あるいは施主の求める住宅商品の開発であるべきでしょう。しかし、当社では相変わらず「技術が優れていれば売れるんだ」という妄信の元に、型枠の開発やら工法の開発やら型枠製造工場の新造やらに何億円という経営資源のほとんどを振り向けた結果、サービスの開発などにはほとんど人員も予算も振り向けられませんでした。思い込みだけで突っ走る会社の悲劇です。
少々余談になりますが、技術技術と騒いでいるくせに、一つの技術についての掘り下げが浅いために完成度が低く、技術上のさまざまな問題が発生していました。にもかかわらず、それらの問題に目をそむけてひたすら目新しい新工法の開発を進めたため、処理不能なほど問題が拡大してしまったのです。しまいには海外進出を計画して日本逃避(現実逃避)まで図る始末でした。市場調査も満足に行なわないままにNAHB主催のIBSなどのお祭りに出展しただけで舞い上がって海外進出を決めるなどはお笑いもいいところでしょう。それを理由に大規模な工場を新造するなど論外の判断です。
これら経営上の判断ミスは、いま、なぜ当社が成功しているのか、何が顧客に受け入れられ、本当に顧客が求めているのは何なのかを冷静に分析して評価することが出来なかった元社長に起因しています。あなたの会社でも当たり前と信じ込んでいることを疑って見る必要はあるのではないでしょうか。たとえラーメン屋さんでも、ラーメンがうまいからお客が来ているとは限らないかもしれないのです。  
第五話 理論は体系化されていますか?

 

元社長は頭の回転が速く、理屈を言い合うと社員もなかなか太刀打ちできないものがありました。しかし、それだけのことです。元社長の持ち出す理論は一見すると、どれももっともな事が多く、それだけを取り出して考えると理屈が通っていて正しいのです。しかし、それだけのことです。それらは単なる理屈の寄せ集めであり、理論とは言えないのです。理論とは、たとえば物理の理論体系を見ても、それぞれの理論が矛盾無く連動し、自然法則を見事に記述していると言えます。すなわち、経営においてもすべての理論は矛盾無く相互に連動し、経営の成功法則を記述したものでなければならないと考えます。つまり、理論には体系があります。そうでなければ目的を達成することはできません。物理法則が個々にバラバラなのであれば、ロケットは月にたどり着きません。経営の法則が個々にバラバラの理屈の寄せ集めであるならば、企業を永久に存続させることはできないでしょう。残念ながら元社長に体系の大切さを理解することはできませんでした。
元社長は何でも単純に考えろと言っていましたが、経営においてそれは安易過ぎます。なんでも一つの方法論で済ませようというのは無理な話です。単純系である物理法則と異なり、複雑系である経営はモデル化により単純化して検討することは可能であるにしても限界があり、複雑なものをある程度は複雑なまま処理しなければならないはずです。そのためには企業活動を構成する要素の相互作用を記述した「体系」が不可欠です。余談ですが、私はそのようなシステムとして生物がモデルにならないかと考えています。環境に適応し、生存し、繁栄する。ちなみに生物には無駄が無いのではなく、無駄がある。それが環境の変動に対する柔軟性、強みですらあるのです。そして、このような驚くべき存在である生物は非常に複雑であり、それがゆえに柔軟で強力なシステムとして存在すると考えられます。同じことは、企業を理解し運営する場合においても言えるのではないかと思うのです。
事業の内容によっては業務のシステムが本当に単純な場合もあるでしょう。しかし、業務が単純な場合であっても、規模が大きくなるだけで組織に機能障害が発生するはずです。なぜならそれはロボットの集団ではなく、人間の集団だからです。人は相互に作用しあうので、人が集まって仕事するだけでもトラブルが発生するはずです。企業は社員の相互作用によって機能します。それだけでも複雑です。加えて、複雑な事業であれば業務のシステム設計の良し悪しが成果を大きく左右し、しかもそれぞれのシステムがさらに相互に作用し、しかもそのシステムに人間の能力や感情が絡んでくる。それらの相互作用に対する体系的な理解なくして経営など不可能と断言できるはずです。だから会社を経営する際に持ち出される理論(理屈)には体系が不可欠です。体系的に捉えてこそ、各理論を状況に応じて相互に最も効果的なバランスで運用することが出来るはずだからです。個々の理論の寄せ集めに終始して経営に関する体系的な理解の無かった当社が混乱を来たし、倒産したとしても不思議は無いのです。
ではなぜ彼には体系の重要性が理解できなかったのでしょうか?それは理論を体系化することによりその理論の有用性を向上させることよりも、むしろ自分に有利な状況を作るために理論を振り回すことが優先された(ご都合主義)ためです。体系化された理論間には矛盾の入り込む余地が無いため、個々の事象に都合の良い理屈を選んで当てはめるだけの対応はできなくなるのです。つまり、理論を体系化すれば理論に従わざるを得ません。法による支配のようなものです。それが自分には都合が悪かったのです。それはもはや経営と呼ぶべき次元ではありません。
あなたの会社の社長さんの理論に体系はありますか?  
第六話 経営者は自らに厳しくなければできない

 

自分に甘いと言うのは、自分は働かないで遊びまわっているという意味ではありません。そんなのは言うまでも無く管理職であろうと一般社員であろうと論外です。自分自身を客観的に観察し、批判することができない人間ということを意味しています。逆に自分に厳しいとは自分の立場や行動に対して常に自己批判的で自己改善の姿勢を持っているという意味です。元社長は自分の行動は棚上げにして、社員には非常に厳しい要求、それは業務の目標だけでなく、姿勢、考え方、習慣といった価値観にまでおよぶ要求をしてきたわけです。社員に厳しく、自分は思うがままに好き勝手に振舞うということは、オーナー企業だから誰にも文句を言われることはありませんが、そういうのは経営以前の人格の問題です。
言うまでも無くご都合主義で経営はできません。効果的な経営を目指すのであれば、自分の恣意で好き勝手に都合の良いように経営資源の利用(人や金の使い方)、事業展開などができるはずはありません。経営は総合的なアプローチですから、自分の都合で絶対的存在やタブーのような決まりを設けたり、たとえば開発が好きだからと言って、開発ですべての課題を克服できるとして開発偏重で事業を推進するなどという考えは成り立ちません。そんなことは自分を常に厳しく客観的に見つめ、自己改善の努力を怠らない人間であれば容易にわかる事でしょう。自己批判力のない人間は盲目と同じです。
元社長はコンサルタントは役に立たないと言って嫌っていました。確かに、コンサルタントを頼んでも、自分の都合で手を付けたくない分野をそのまま大切にしておいて、営業のノウハウだけ頂戴しようなどと虫の良いことを考えても結局は何の成果も得ることはできないでしょう。経営は総合的ですから、自分にとっておいしいところだけを寄せ集めても成り立つわけではありません。にもかかわらず逆にコンサルタントを無能と決め付けて「コンサルタントは役に立たん」などと言うのは単なる負け惜しみです。コンサルタントを導入する目的は、外部の目から客観的に会社を評価し批判してもらうことであり、それを甘んじて受け入れるだけの謙虚さがない人間には何の役にも立ちません。もとよりコンサルタントは答えなど持っていません。コンサルタントの利用目的を間違えています。
自分に甘いと、何につけ自分の都合の良い方向に話をもっていきます。ですから、ケースバイケースで言っていることが変わりやすいわけです。元社長が自分をして朝令暮改であると言わしめていた原因もここにあるのです(自分で豪語する人もめずらしいですが)。常に自分の言動に責任を持ち、体系的な理論に裏付けられた信念のもとに経営を行わなければ、当然ながら朝令暮改にならざるを得ません。
そして、社員に厳しく自分に甘い社長には、まともな社員は誰もついて行きません(逆に下心のある社員は利益のチャンスですからコバンザメのように付いていきます)。社員のモチベーションが低い原因もここにあるのですが、社長は社員のモチベーションが低いのは責任感がないからだと決め付けていました。本当は責任感がないからモチベーションが低いのではなく、モチベーションが低いから責任感がなくなるのですが。いくら社員を叱咤したところで社員は動きません。自らが先頭に立って率先垂範して見せてこそ社員の意識が変わるのは当然です。そのためには自分に厳しくなければなりません。
社長の真似をする社員は必ず発生します。特に社長の威光で権益を獲得したいと願うイエスマン管理職は社長とそっくりになります。古今東西これは必然です。もし、社長が自己に厳しく、常に自己改善を怠らない人間であれば、イエスマン管理職もそうなりますし、自分に甘く、場当たりで、部下にだけ厳しい人間であれば、イエスマン管理職もそうなります。彼らは社長の鏡です。そのような理由から、良しに付け悪しきに付け、社長の人格が相乗的に組織に影響を与えることになります。
余談になりますが、元社長の普段の会話等の内容から判断して、元社長は軍隊のような会社組織を望んでいたようです。とはいえ、彼は軍隊のことなど何も知るはずがなく、単に上官の命令に絶対服従で反論はせず、どんな無茶な命令でも喜んで従うような組織が欲しかったのです。もちろん、そのような組織がはたして機能的なのか、効率的なのか、自律的なのか、などということは関係ないわけです。本人にそういう自覚がなかったにせよ、客観的に観察すると実際にそのようなことが行われてきたわけです。本人に自覚が無いのであれば、単に自己観察力が不足しているために、無意識が顕在化しなかったにすぎません。会社とは自分の欲望を満たすための傭兵隊ではありません。少なくとも法人なのですから。でなければ、役職は「社長」ではなく「お殿様」という事になってしまいます。
あなたの会社の社長さんは自分に厳しい人間ですか?それとも自分に甘い人間ですか?それがあなたの会社の将来を左右します。 
第七話 社風の重要性

 

社風は極めて重要です。しかし、ワンマン経営であるがゆえに、社風はひどいものでした。他のコーナーにも書きましたが、社長に異を唱えれば容赦なく潰されますので、いわゆる「風通し」は極めて悪く、クレームがあっても、ごまかしの効かないほどひどくならないと、明るみにでないほどでした。これなどは、明らかに社風の問題ですが、元社長は「クレームを報告するのは社員の義務だから、それを怠るとは何事か」というピンとはずれの理由で社員をやり込めるため、ますます隠蔽体質が強化されるという悪循環を繰り返していました。社風を改善しなければ解決する問題ではない事は誰にでもわかる結論です。
社風は自然に出来るものではありません。仕掛けが必要です。しかし何より、企業トップの言動や率先垂範による模範行動こそが最も大きな影響を与えます。社風はその会社の社長の人格を映す鏡のようなものです。当社は社員の約束10か条なる標語を毎朝唱和しておりましたが、そこに書かれていることのほとんどを元社長が率先垂範しておらず、場合によっては逆の事をしていると、社員の間でもっぱら言われていました。それでは、まともな社風などできるはずがありません。
社風はお題目を唱えたさせたところで身につきません、ロボットじゃないんですから。心を込めて読むとか読まないとか、そんな子供染みた話ではありません。オ○ム真理経じゃないんですから、洗脳できるわけじゃありません。社風は、社員が毎日の社長を観察し、あるいは社員相互が仕事を通じて係わりあう中で感じる、相手の言動、姿勢、感情、それらが相互に影響しあってだんだんと形成されていくものです。また、集団の中に一人でも「この人はすばらしい人だ」という人がいると、それがゆっくりと周りに伝播します。それが社長であれば効果は絶大です。しかし、逆の場合の損害も絶大です。全社員を一発で腐らせるほどの威力があります。残念ですが、当社では毎週月曜日に全社員が腐る定例の会議が開かれていました。いわゆる昔の「つるし上げ会議」です。結果の出せない社員を怒鳴り散らすのは当然だとかいう常識論で弁明したところで、結局それは社風を悪化させ、社員のモチベーションを下げ、しかも何の結果にも結びつかないという「問題行動」に過ぎないのです。感情のままに動物的に反応するのではなく、もっと頭を使わなければなりません。
当社の社風形成におけるもう一つの問題は、元社長の強烈な権威主義的性格により、社員と社長の間に壁が出来ていたことです。明らかに「支配者VS使用人」のような構図ができていたのです。そのような、封建的な社風の中で、何が生まれてくるのか?茶坊主の登場となるわけです。茶坊主はご存知のように封建社会において、権力者の威光を借りて恩恵にあずかるという口の達者な坊主ですが、封建社会でしか通用しない存在です。それがあちこちで幅を利かせるようになると、社風もいよいよ末期に近づいてきます。新入社員にしろ、中途社員にしろ、最初はやる気満々で入社してきた社員も、その茶坊主が社長から信頼を得ている様を観察して、たちどころに腐るか、茶坊主になるかのどちらかになります。
いずれにしても、社風は社員のモチベーション、モラル、責任感などに大きな影響を与えます。元社長は、それらが低いのは社員の質が低いからだと決め付けていましたが、社風がそうさせていたことの方が、遥かに大きな要因です。社風を改善しなければモチベーション、モラル、責任感の問題は永久に解決することはありません。なぜなら、新しく入社してくる社員も次々に社風に染まっていくからです。実に単純明快な結論です。
逆に良い社風が形成されるなら、どれほど効果があるかしれません。風通しの良い組織、活発で自由な意見交換、積極的な提案、リスクテイキング、高いモチベーション、強い責任感、帰属意識と団結心、危機に対する抵抗力。それらは、社員手帳などにいくら「お前ら、そういう人間になれ」と書いて読ませても、絶対にそうなりません。トップの率先垂範は最低条件です。
そして、最も大切なことは「共感」だと考えています。人間の多くは感情に支配されています。相手の感情に働きかけなければ、良い社風は形成できません。モチベーション、モラル、責任感、それらはすべて感情です。感情は言語だけでコントロールできるものでは有りません。共感に裏付けられたコミュニケーションこそが相手の感情に働きかけ、相手の感情をコントロールすることが出来ると考えます。人を扱うマネジメントにおいては、この共感能力は必須だと思います。
残念ながら、当社の社長には共感能力が不足していました。そもそも権威主義的性格がそれを不可能にしていたのです。そのために、良い社風を築き上げることができませんでした。感情で社員をコントロールすることができず、飴と鞭によるコントロールに頼らざるを得なかったのです。片輪走行です。しかし、諸説によれば、人間には感情タイプと論理タイプと肉体タイプがあるらしいですから、理論も感情も肉体もすべてコントロールできる人材は稀です。ですから、自分の能力では対応できない部分を謙虚に認めて社員に教えを乞う姿勢さえあれば、道はいくらでも開けたはずです。
あなたの会社の社風は良いですか?もし悪いのなら、社長さんの共感能力を確かめてみてください。 
補足3 / 経営理論は役に立つのか?

 

当社の元社長もそうでしたが、中小企業の社長さんの中には「経営理論など役に立たない」と考えている人も多いのではないでしょうか。実際のところ私もあまり役に立たないと考えています、会社があまりにも小さいうちは。小規模の企業では社長がワンマンだろうが社員が無能だろうが、会社の経営はその会社の社長さんの舵取り一つでどうにでもなると考えられるからです。それに、小回りが利くので、間違えても直ぐに方向転換できます。小規模の企業ではシステム(仕組み)の存在は事業の継続や業績にとって必須ではないということです。それよりも、今日のお客さんの対応や当面の売上げや資金繰りのほうが大きな問題でしょう。
経営理論はまさに経営システム構築のための理論であり、経営システムが必要ない事業規模ではあまり役に立ちません。しかし事業規模が拡大し、業務と組織が複雑化すると、システムが無ければ企業活動に様々な問題が発生し、危機的状況に陥ります。この段階まで進むと、もはや後戻りはできません。大きくなることがリスクであるという一つの要因です。もはや経営システムなしで事業を継続することは不可能です。それを無視して勘と経験だけで経営するとどうなるか・・・という貴重な実例が当社なのです。普通の企業では恐ろしくて出来ないような、経営理論に「やってはいけない」と書かれていることを次々に実行し、まさに失敗実例の山を築き上げたのです。これは非常に貴重な経験です。普通はこんな体験はできません。このようなめったにない経験を後学のために何とか役立てたいと考えています。
企業は非連続的な段階(ステップ)を経て成長すると言います。これは、小規模の企業が中規模の企業になろうとする時、「徐々に」ということはあり得ず、ある状態に達した時に突然、かなり大きな変革が経営に必要となるということを言っています。戦略の立案方法、組織、業務の進め方など全体のシステムを一度に入れ替えなければ変革はできないということです。そして、その変革に失敗すると良くても低迷、普通は破綻すると言います。驚くべきことに、本に書かれていることがそのまま当社で起きるとは、自分も予測していませんでした。しかし、事実、起こったのです。当社は小規模の経営体質のまま、経営システムに何ら抜本的な変革を施すことの無いまま、事業規模だけが中規模の企業になって破綻したのです。
この時、当社が経営理論に基づき経営のシステムを構築して経営の変革を実施していれば、恐らく倒産するどころかさらに大きな飛躍が望めたはずです。たとえば、経営資源の配分一つとっても、勘と経験ではなく、理論的な分析に基づく戦略を立案し、無駄なく無理なく的確な分野に集中的に投資していれば、結果はまったく違っていたでしょう。つまり、町場のパパママ・ストアーならいざ知らず、成長を目指す企業であれば、事業規模の拡大に伴い、遅かれ早かれ経営理論は必須となるわけです。
経営理論は、小規模の企業がまさに中規模の企業になろうとしている段階、あるいは中規模の企業でシステムの構築に苦心している段階において、なくてはならない手法と言えるでしょう。そして、経営理論が無ければ倒産にすら追い込まれる危険さえあることを、当社は身をもって証明したと言えるのです。
皆さんの会社の社長さんには、ぜひお伝えください。経営理論を甘く見ると倒産します。 
経営理念(哲学)の本当の役割 

 

「顧客第一主義」はたてまえだけではダメ
お客様・顧客がいなければ取引は成立しません。逆に顧客のネットワークがあればそこに乗せる商材があれば商売が成り立ちます。当社にとっても最も大切なものは「技術」ではなくて「顧客」「顧客のネットワーク」であったはずです。しかし、当社は顧客第一主義を標榜しながらも、それは建前に過ぎませんでした。そういう中小企業は多いのではないでしょうか?結局は顧客ではなく、自社の都合が第一になり、それが当社の再建を大きく阻害することになったのです。
当社の元社長は技術さえあれば顧客は付いて来ると考えていました。そのため、顧客満足より技術開発に多大な経営資源を投入していました。確かに技術力はローコストあるいは性能に優れた建築を可能にすることにより顧客企業に利益をもたらす事があり、それは顧客満足に寄与することは間違いありません。しかし、それは顧客満足の一つの要因に過ぎません。技術だけで顧客満足を満たすことは不可能です。顧客が何を望んでいるのか、それを十分に分析して複数の施策を準備し、重要度を比較検討して順次実現するという手順は経営の常識でしょう。顧客の望んでいるものを提供するというと、すぐに「顧客の言いなりに行動する=客に振り回される」と考える人がいるのではないでしょうか?それは浅い考えです。顧客の言うことは表面的なことにすぎません。その中核にある顧客の本当の課題を分析し、それを解決する方法を提供することが最も効率的で効果的な顧客満足に繋がります。つまり、顧客の言うことをただ実行することなどありえないのです。それが理解できなければ、単に顧客に振り回される結果に終わるでしょう。
残念ながら当社にはそういう考えは無く、昔ながらの技術のお仕着せ(=プロダクト・アウト)的な発想で経営を続け、顧客の言うことを無視、あるいは顧客より自社が優れているかのような発言、自社が顧客を啓蒙してやるかのような印象を顧客企業に与えてしまい、さらには顧客の希望や都合など一切聞かずに基幹製品の改変を繰り返すなどしていました。その結果、多くの顧客企業の不満や反発を招き、当社の営業担当者は企業を訪問するたびにそのような不平不満を聞かされ続けてモチベーションは下がる一方でした。
そして、最終的には顧客の希望も聞かず、検証も十分にしないままに基幹商品の材質を変更し、非常に大きなクレームを引き起こしたにも係わらず、顧客の利益を考えるより、自社の利益を守るためにクレームを正当化する事に奔走し、顧客企業の信頼をことごとく失い、多額の補償問題へ発展し、その負債の総額は数億円にまで達するものになったのです。自社のエゴではなく顧客第一主義の姿勢を貫いていれば、こんな馬鹿げた事は起こりえなかったのです。実に悲しいことです。
「顧客第一主義」のような経営理念、経営哲学は具体的には何の役にも立たないものです。それだけでは1円の金にもなりません。ですから、それらを単なる「美しい言葉」として美辞麗句であるとしか考えず、馬鹿にしている経営者も多いのではないでしょうか。しかし、人間は現実の様々な状況に対応するうちに近視眼的となり、知らず知らずに次第におかしな方向へ進んでしまう危険をはらんでいます。そのとき、本当に経営理念や哲学を理解し、それを信念としていたなら必ず我に返り、軌道修正するはずです。そこにこそ本当の経営哲学の機能がある。それを表面的な言葉の美しさとしか理解できないようでは経営者を務めることは出来ないでしょう。
経営理念や経営哲学は信念でなければ意味がありません。お飾りとして利用しているだけではまったく役に立ちません。そして、それらが信念でなければ、平気で言うこととやる事が一致しない現象を引き起こします(言行不一致)。そういう人にとっては、経営理念は猫に小判でしかありません。たとえば「顧客第一主義」は単なる飾り文句ではないのです。それは企業が永遠に生き残るために必要絶対な「経営哲学」なのです。たとえ一時的に成功したとしても、結局はそれを忘れた企業に明日はありません。
皆さんの会社の社長さんに経営哲学はありますか?
そして、それは信念ですか?  
 
政界の「茶坊主」雑話

 

ミスター年金・長妻厚労相の苦悩をどう解決すべきか 
民主党の掲げたマニフェストの多くが厚生労働省マターであり、世論調査でも最も期待されているのが、長妻厚労相なのだが、官僚の抵抗のみならず官邸の妨害もあって大変だと山崎氏は見ている。民間企業にたとえると、長妻氏は、敵対的買収で獲得した子会社に社長として送り込まれて経営を任されたような立場だが、親会社の役員達に意地悪をされて仕事の邪魔をされているような状態に見える。民主党として、何を実現しようとしているのかを今一度整理して徹底すべきだし、調整が必要だ。企業なら、社是や経営方針の徹底が必要だし、社長(鳩山首相)ないし、実力オーナー(小沢幹事長)が組織を引き締める必要がある。
乗り込んだ先があれこれ抵抗するのは不思議ではないが、親会社の古株役員にじゃまされるのはなぜだろう。山崎氏は、問題の中心に官房長官がいるとにらんでいる。そして「民間会社でいうと、「社長室長」あるいは「経営企画室長」あたり(何れにしても社長に寄り沿う「経営茶坊主」)が、社長の威を借りて、社内に権力をふるうような構図」だと事態を描写する。
こうした状態は、トップがリーダーシップを発揮して解決すべきことである。ところが、トップが「経営茶坊主」に取り込まれ、山崎氏の言葉を借りれば「企業で言うなら、社長が、最も重要な事業部門の意見を聞かずに、経営企画室の話だけを聞いて、来年の事業計画を決めているような状態」は、一般に広く存在するのではないだろうか。側近と重臣の対立というのは、歴史小説でもよくあるテーマである。
トップの威を借りて自分の下位にある部下を指揮することは、組織の原理として当然である。問題は、公式には上位にないはずの側近が、事業部門の幹部の上を事実上支配しようとすることである(ただし、官房長官の場合、副総理を除く閣僚よりは上位にいるらしい)。それがトップの意向に忠実で、組織のビジョンにかなっていればまだいいが、そうでない場合(それがない場合)問題が深くなる。
側近の強みは、トップに助言する機会が多いだけでなく、トップが誰に会うか、どういう情報を見るかをコントロールできる点である。そして、トップと直接会う機会が少ない幹部に「トップは実はこうお考えです」と情報操作し、「私からうまく言っておきます」と恩を売る。それは裏を返せば、私を敵に回すと、トップから信頼されませんよ、という脅しである。そうして自らの影響力を着々と高めていくわけだ。
側近が横行するのは、基本的にはトップのリーダーシップが不足しているからだろう。現代社会のように管理すべきことが過多で複雑な状況では、トップが側近を持つことは必須だが、それがトップと重要幹部の間で情報を遮断したり歪曲したりするのを防がなくてはならない。そのために、情報技術が使えないだろうか。そこで、トップも幹部も twitter でつぶやき合う・・・とまではいかないまでも。
やっぱりそういうことじゃなくて、トップが人を見る目をちゃんと持っているかどうかじゃないか、などと結論は平凡なところに落ち着きそうだ。それにしても、君主−側近−重臣の不幸なトライアッドは大昔から繰り返されてきたはず。組織論では、どう扱われているのか興味がある。その意味で、上杉隆氏の『官邸崩壊』は、実は普遍的な組織論のための、有力な事例研究書なのかもしれない。 
政界の「茶坊主」日本維新の会

 

日本維新の会発足や自民党総裁選に比較し、世間の注目をほとんど浴びていない民主党代表選ですが、4人の立候補者の中で、私は個人的に原口一博氏及び氏を推薦した議員諸氏の動向に注目しています。
理由は原口氏自身の節操のない変わり身の早さが此度の代表選の後にどう発揮(?)されるのか、おおいに関心があるからです。
実は原口氏を支持するグループは20人に届かず他グループから推薦人を借りているのが実態ですが、彼を支持するコアな議員達は少なからず「民主党離党予備軍」と呼ばれており、タイミングをみて民主党から離脱しその多くが日本維新の会に合流することを目論んでいるとの見方が有力です。
原口氏自身、地元で「日本維新の会」という政治団体をすでに設立しており、今回団体名がバッティングしていること(総務省の見解では法的問題はないとのこと)で、中国まがいのこっちが先だ論を展開しだすのでは、と一部で冷かされているわけですが、橋下氏と親しい関係であることを公言、また維新の会をことあるごとにべた褒め、賞賛しているのも衆知の事実です。
この原口グループに代表される民主党離党予備軍たちも、日本維新の会は本当にすべて受け入れるのでしょうか。
維新の会合流が確実視されている東国原前宮崎県知事も最近維新の会がらみで頻繁にテレビに出ては橋下氏をベタベタに褒めてはその維新「茶坊主」振りを見せ付けているわけですが、あえて挑発的な言い方をさせていただきますが、このままでは、維新の会は、単に勝ち馬に乗らんがだけの、己に何の信念もない「政界茶坊主」たちの吹き溜まりになるのではないか、つまり、維新の会は政界の「茶坊主ホイホイ」になってしまうのではないか、と思えてしまうのです。
橋下氏は維新八策に従うことを絶対条件にしていますが、東国原氏や原口氏などの政界茶坊主にしてみれば、「従います、支持します」と発言することなど、何の支障もないことです、ずっとそうやって生きてきた人たちです。
その代わり、いざことに臨むとき、平気で人を裏切り、より自分が有利になる別の強者に擦り寄っていくのも「茶坊主」の特徴なのであります。
次の総選挙で300〜400の立候補者を擁立するそうですが、私は橋下氏の人物を見る目が心配です。
自力で選挙資金を用立てられて維新八策に従う者の中から立候補者を選ぶそうですが、その人物の有する信念、過去の政治的信条をしっかりと吟味することはできるのでしょうか。
ただ選挙資金が用意可能で維新八策を守るというだけで人選すれば、ここでも橋下「茶坊主」たちがわんさか湧き出す予感がしてならないのです。
私は会社経営を長くしています関係で今まで1000人を越える人たちの面接をしてきましたが、どんなに立派で耳に心地いい入社志望の動機を述べる人がいても、その美辞麗句はまったく信用しません。
それよりもその人が本来持っている資質、信念、性格、向上心、といったものを、いかに短時間の面接行為で見抜くか、ここが面接の要諦であると思っております。
・・・
日本維新の会の、いや橋下氏個人のと言ったほうが正確でしょう、その行動力、突破力、既存の政治を根本から再構築したいといった気概は、民主や自民など既存政党にはない魅力だと思います。
ビルを再構築する作業では、まずビルを解体しさら地にしたうえで新たなビルを建設いたします。
当然ながら解体作業と建築作業では業者は異なります。
橋下氏の突破力をもってすれば、政界の既存秩序を破壊するスクラップ業者の役割は担えるかもしれません。
しかし茶坊主ばかりの烏合の集団に陥れば、建設的なビルド業者の役割は人材面で不可能となることでしょう。
別に純血主義で行けとか閉鎖的な人選をせよと言っているのではないのですが、橋下氏はじめ日本維新の会の幹部諸氏に本当に人を見る目があるのか、今、厳しく問われているのではないでしょうか。
あえて強烈に風刺しておきます。
TPPに反対している元民主議員や人格的に問題がある(と私は確信しています)東国原氏など、ただ勝ち馬に乗らんがための、信念も何もない輩をどんどん受け入れるのなら、日本維新の会は政界の「茶坊主」であります。このような集団では、何かを壊すことには力になるかもしれませんが、建設的な作業は不可能でしょう。 
不破哲三批判

 

周知のように、日本共産党は昨年暮れの党大会で、党規約を改定して「前衛政党」の概念を否定し、また「自衛隊の活用」を打ち出すなど、いっそう決定的なブルジョア的転落をなし遂げた。
一九六一年の第八回大会で現綱領を採択して宮本路線が成立してから四十年、共産党は当初のスターリニズム丸出しの民族主義政党から次第にブルジョア社会に順応、融合し、今では俗悪極まる体制内の改良主義政党に成り下がってしまった。
この共産党の“ブル転”に、宮本顕治の忠実な茶坊主として理論的粉飾を施して来たのが不破哲三に他ならない。彼はこの四十年余、共産党の日和見主義とマルクス主義との折り合いをつけ、それをもっともらしく弁護し、正当化するために苦心惨憺、ただそのためだけに駄文の山を築いてきた。
その汚らしい手口はまさに「理論的詐欺師」と呼ぶほかにないものであり、本号執筆の四人の論者はそれぞれのテーマにそってこの不破の理論的ペテン師ぶりを完膚無きまでに暴き出すとともに、不破によって歪められ、ねじ曲げられたマルクス主義理論をよみがえらせ、その本当の姿を対置している。
このため、読者はこの四つの論文から、単に不破の詐欺・瞞着ぶりを知るにとどまらず、不破への批判を通して、マルクス主義の理論とその革命的な神髄をより生き生きと、具体的に、明瞭に理解することができるであろう。以下、四つの論文を簡単に紹介してみよう。
不破の国家論・革命論批判
森雅一氏の「不破の国家論・革命論批判」は、不破がマルクスやエンゲルスの理論を曲解し、あるいは全体の文脈から切り離してその片言隻語を抜き出すなど、その権威を隠れ蓑にしてレーニン批判を展開しつつ、「プロレタリア独裁」の理論や、「労働者は出来合いの国家機構をそのまま利用できない。この機構を粉砕しなければならない」という命題など、マルクス主義の国家論、革命論の根幹にかかわる理論をいかに歪め、換骨奪胎し、否定し去っているか、その卑劣な手口を徹底的に暴露している。「その手法は、マルクス、エンゲルスの権威を借りてレーニンを批判するというもので、あのカウツキーが採用した方法とそっくりである」と森氏は指摘する。その目的は言うまでもなく、「議会での多数を通じた革命」という共産党のブルジョア議会主義・合法主義の路線の擁護に務めことにある。
観念史観と御都合主義
田口弥一氏の「観念史観と御都合主義」は、不破が雑誌『経済』に連載中の「レーニンと『資本論』」で展開した一九二〇〜二一年のネップ導入に至る時期のレーニンの立場や見解についての論評を取り上げ、「九割の真実に一割の嘘」という詐欺師の常套手段を駆使して、いかにレーニンをご都合主義的に利用して「帝国主義との共存」や「商品経済の存続」を「希求」する自らの日和見主義を弁護しているかを丹念に跡づけている。また田口氏は、不破がネップを「資本主義から社会主義への移行過程での法則的な裏付けをもった措置」と賛美し、「市場経済を通じての社会主義の建設」という流行の理論に仕立て上げようとしているのを批判し、「この時期のロシアの条件のなかで採らざるを得なかった政策」としてのネップの歴史的な必然性と意義について、レーニンの見解を引きつつ明らかにしており、ネップの理解をより深めるものとなっている。
資本主義の温存に帰着
鈴木研一氏の「資本主義の温存に帰着」は、不破の著書『社会主義入門――「空想から科学へ」百年』を中心に、不破の“社会主義”論を批判したものである。第三章の「私有財産を容認する“社会主義”」および第四章の「小生産者に私的所有を“保証”する不破」では、「共産主義とは一言で言えば私有財産の否定である」(『共産党宣言』)というマルクス主義の根本命題を否定し、社会主義社会においても私有財産や私的所有や商品生産も存続するという不破の小ブルジョア的社会主義のたわごとを論破し、第五章ではソ連の崩壊で決定的に破綻の暴露された「生成期社会主義論」にも言及、不破の立場が「不可知論」に帰着することを明らかにしている。このほか、空想的社会主義について自分の身の丈に合わせた矮小で陳腐な不破の「解説」への批判も展開されており、本論文は『空想から科学へ』を読む上での一助ともなるであろう。
唯物史観と不破哲三
林紘義氏の「唯物史観と不破哲三」は、我々がこれまで本格的には論じてこなかった「経済的社会構成体」及び「アジア的生産様式」に関するものであり、両方とも唯物史観の根本概念に関するものである。そして、この問題は戦後スターリン批判と関連して日本を含め国際的な論争を呼んだものの、明確な決着を見ることなく未解決のままに残されているという事情からしても、きわめて興味深いテーマである。
林氏は、この問題でも知ったかぶりの衒学者を気取る不破のインチキ理論を徹底的に追及し、まず下部構造による上部構造の究極的な規定性という唯物史観の最も本質的な観点をあいまいにする不破の「経済的社会構成体」論を退け、それが「経済的な体制を重点に置いて理解された社会もしくは経済的関係によって根底的に規定された社会の概念である」ことを明らかにしている。
次いで、氏は「アジア的生産様式」の問題の検討に移り、ここでもまたそれを「原始共産主義社会」と同一視する不破の荒唐無稽の理論を排し、次のように批判する。
「確かに、アジア的生産様式の本質的な概念は、私有――主として、土地の――を欠いているということであり、その限り、原始共産主義の社会と同一であると言える。しかし、ここにはすぐに本質的な区別が現れるのだが、不破はこの区別を何一つ理解していないのである。その本質的な区別とは、つまり最初の階級社会としての規定である」
この点についての著者の詳しい論証は直接本文に当たっていただくとして、ともあれ、このようにアジア的生産様式を「原始共産主義から直接に生じてきた、最初の経済的社会構成体」、人類が最初に到達した階級社会として、地域的に特有のものではなく、人類史の継起的な発展段階の普遍的な一段階として明確な位置づけを与えたことは画期的であり、マルクスの『経済学批判序説』のいわゆる唯物史観の公式もまたこれによってはじめて合理的に理解されうるのである。
もちろん、林氏のこのアジア的生産様式の概念はその本質的な規定において与えられたものであって、具体的な歴史的研究を深めることでより豊かなものにされなければならない。しかし、この本質規定を「導きの糸」とすることなくしては実証的な歴史研究も横道にそれるか、迷路にはまりこんでしまいかねないであろう。
最近、単なる奴隷労働であの巨大なピラミッドが建設できたかという疑問が提出されているが、未だ多くの謎に満ちた古代エジプト文明や、古代ギリシャに先立つミケーネ文明などの謎を解くカギがアジア的生産様式には潜んでいるのであろう。思っただけでも、夢とロマンがかき立てられると言うものだ。 
渡邉美樹氏の周りは「お追従者」だらけ  
今回の参議院選挙の話題の1つに、ワタミの創業者、渡邉美樹氏の出馬がありました。ワタミは、いわゆる「ブラック企業」の代表格とされ、あまり良い評判を聞きません。渡邉氏を公認した自民党内でも、彼を公認候補にしたことには異論もあったようです。結果は、自民党が圧勝した選挙だったのにもかかわらず、朝方まで当確が出ない、ぎりぎりの当選でした。
なぜ渡邉氏だけが叩かれるのか
<お追従者から身を守る手段は、真実を告げられても決して怒らないと人々に知ってもらうしかない。ところが、そこで、だれもがあなたに真実を話してかまわないとなると、あなたへの尊敬の念が消えてしまう>
渡邉氏は、大学卒業後、給料も高いが重労働もすごいと評判を取っていた佐川急便に入って資金を作り、起業した人です。
独断と偏見で言わせていただければ、面構えはサービス業に最適化されています。言い換えると、「サービスのプロ」になろうとしてきた人の顔をしています。
彼はそうした姿勢を、おそらく社員にも求めたのでしょう。「24時間365日、死ぬまで働け」など、いかにも言いそうなタイプの経営者です。そんな経営者は他にもたくさんいるのに、なぜ自分だけが叩かれるのか、おそらく彼は相当な不満を持っているでしょう。
なぜ叩かれるのか? 私に言わせれば、その理由は簡単です。渡邉氏の言動には言行不一致があまりに多いからです。そして、それを指摘して修正したり、イメージの悪化を防いでくれたりするようなブレーンがいないからです。
市井に生きているブレーンが周囲にいない? 
ここで渡邉氏の公式サイトを引用しましょう。
<「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」 あまりにも有名な西郷隆盛の言葉だ。命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬという域に達した者こそが真の信念を貫けるのかもしれない。> 
書かれた日付は2013年の5月27日です。渡邉氏は以前にも東京都知事選(2011年4月)に出馬し、政治に関心があったのは間違いありません。「官位も金もいらぬという域に達した者こそが真の信念を貫ける」と書きながら、その一方で、自分は、まがうことなき「官位」である都知事や参議院議員の地位を得ようとしているのです。これは、自分は「真の信念を貫けない」と言っているのと同じことでしょう。
ビジネス論も同様です。ワタミが農業ビジネス参入10年にして初めて黒字化しそうなことをもって「農業も経営感覚を持ち込めば、変わることができる」と主張していますが、農家が聞いたら「ちゃんちゃらおかしい」という反応をすることでしょう(「農業法人黒字化から思うこと」)。
特に非農家出身の新規就農者には失笑されるでしょう。彼らは10年も赤字を垂れ流していられるほど十分な資金余力はありませんでした。そして早くて初年度から、遅くとも5年以内に黒字化を達成している人たちばかりです。ワタミより資金力がなくても上手に農業経営ができる農家や農業法人は、万単位で存在しているのです。
この程度のことを指摘する人すら、彼の周囲にはいないのか・・・おそらく渡邉氏は、お追従者や経営者仲間、有名人仲間の賛辞や慰めだけを聞いて生きているのではないでしょうか。ワタミがこれほど「ブラック」呼ばわりされて叩かれるのは、市井に生きているブレーンが渡邉氏の周りにいないことが大きな原因なのではないかと思います。
これから人の助言に素直に耳を傾けられるか
マキァヴェッリは、お追従者の“ペスト過”を防ぐのは難しいと認めます。お追従者に囲まれるのは快い。かといってこの汚染から身を守ろうとして多くの人の意見に耳を傾けると、なめられます。その上、多くの意見を聞いていると正反対の助言などざらにあるわけで、すべての意見を汲もうとすると結局何もできなくなります。
よってマキァヴェッリは一部の賢者からのみ助言を受けることを勧めます。そして彼らには忌憚のない意見を求め、彼らの意見を参考にしつつも、決定は自分で行うのがベストであるとするのです。
以前書いたように、君主は自分の頭でモノを考えられなくても、考えられる人を使いこなせるなら一流になれます。しかし、渡邉氏に優秀なブレーンを確保できるか、使いこなせるか・・・。
池上彰氏の選挙番組で渡邉氏は、過労で自殺した社員が出たことについて「それでブラック企業と言われたら、日本には千や万のブラック企業がある」と開き直ったような御仁です。
若い時から徒手空拳でやってきて、自分を恃(たの)むところすこぶる厚く、人に頼ることを潔しとしなかったであろう渡邉氏が、齢五十を超えてから人の助言に素直に耳を傾け、従うのは相当な苦痛が伴うでしょう。
一国民としては、渡邉氏に投入される税金がムダにならないことを祈るばかりです。
財務省と追従者どもの亡国遊戯    
安倍首相が消費増税派に屈するなら倒さなければならない。参院選が終わり、今秋に行われる来年4月からの消費増税判断へ向けて財務省が活動を再開した。
TVのニュースショーには、慎重を期し以前と異なりキャスターの辛坊次郎氏やみのもんた氏に一歩引かせる代わりに、大和総研の熊谷亮丸氏や慶応大学の小幡績氏ら財務省親派の証券会社系のエコノミストや経済学者を動員して、消費増税の必要性を語らせ増税既定事実化を図っている。
出身会社である住友化学が輸出戻し税により消費増税が法人税減税とバーターでプラスにこそなれマイナスにならない米倉経団連会長、弟の公金横領疑惑が影響し選挙公約と180度反対の消費増税を「国際公約」せざるを得なくなった野田前首相を始め、似たような事情と抱えるか定見のない与野党議員の過半、記者クラブ制度と放送電波割当制度、新聞の再販価格維持制度の既得権維持の為に霞が関官僚機構と一心同体のマスコミと電波芸者、米国債応札に日本の消費税を原資にしたい米国政府とその意を受けた外資系金融機関、財務省や日銀が外国為替取引等の顧客である日本の金融機関、東大法学部を頂点とする学際ピラミッドが財務省主計局を頂点とする官民ピラミッドと重なり出世の為に逆らえない経済学者等が増税翼賛会を構成している事は、インターネットの普及により以前よりは知られるようになってきた。
国家財政と会社経営
日本の財政は逼迫し、国債発行残高は遂に1000億円を超えた。
積極財政派からは、国家資産を差し引けば実質は巨額とは言えないとか、国債の殆どが日本人と日本法人の保有のため実質的な借金でないとかの楽観意見もあるが、永遠に借金を増やし続ける訳にもいかず、財政規律が必要な事は間違いない。
財務省主計局とそのファミリーは、消費税増税が国際公約であり、それを先送りにすれば国債の信用が失われ、売り浴びせられ金利が上昇するため、増税不可避を主張する。
それには賛否両論があるが、国際公約云々以前に、増税によって日本の実体経済がどういう影響を受けるのかが遥かに重要であり、それ基づき意思決定をし、対応策を含めて覚悟を持って国際社会へ説明すべきであり、議論の順序が逆である。
しかし、現在の日本はアベノミクス第一の矢である黒田日銀による異次元の金融緩和をもってしてもデフレ克服が未だ為されておらず、実質経済も安定した成長を実現していない。
国家経営は、会社の経営と根本的には変わらない。
国家財政も、会社の財務状況と根本的に変わらない。
正確ではないが非常に単純化して言えば、日本中の企業の利益を集約して、日本の経済が成り立っている。
日本経済は今、会社に例えるなら、売り上げが落ち赤字が嵩み、資金繰りの為に借入を増やし続けている状況にありこのまま行けば倒産する。
このような経営状況で会社の社長の取るべき事は、(1)賃金カットを含む冗費削減と不採算事業からの撤退、(2)死に物狂いの営業努力と工夫、(3)新規分野への研究開発投資の3つである。
これ無くして再建した企業の事例を、筆者はこれまで聞かない。
然るに財務省主計局は、政権を手玉にとり、危機に陥った企業が採るべき企業努力を十分に行わず、企業に於ける安易な値上げに相当する消費税増税を図らせようとしている。
危機に陥った企業が同じ事をすれば、顧客が離れ間違いなく倒産する。
企業が値上げするのは、企業努力により売上が伸び、利益が上がり、顧客に新しく十分な付加価値を提供した時以外にない。
唯一国家と企業の違いがあるとすれば、国家が公共サービスに於ける独占企業である事だ。
独占企業であるから、顧客は離れようがなく、従って値上げ(増税)をしても売り上げ(税収)は落ちないとも言える。
局所的に観ればそれは正しいが、大局的に経済全体を観れば、財布が軽くなった消費者は買い控え(実質GDPの下落)で対応するだろう。
アベノミクス成長戦略の不毛
では、政府は企業努力に相当するいかなる努力をすべきか。
企業に於ける「(1)賃金カットを含む冗費削減と不採算事業からの撤退」は、公務員賃金カット、天下り特殊法人の廃止、精査した上での不要な公共サービス撤廃である。
「(2)死に物狂いの営業努力と工夫」及び「(3)新規分野への研究開発投資」は、成長戦略に他ならない。
成長戦略は、大きく(1)政府の関与を減らす規制緩和と(2)逆に特定分野への関与を高める政府ターゲティングポリシーに別れる。
しかし、アベノミクス第3の矢である成長戦略は、何も具体化しておらず色々な思惑が渦巻いている。
現在政府の経済財政諮問会議と規制改革会議の中には、竹中平蔵氏の様な規制緩和派と藤井聡氏のようなターゲティングポリシー派が同居して、対立牽制し合いながら噛み合わない議論をしている状態だ。
しかし、お互いのレッテル貼りに終始した議論は意味がない。
筆者は、全体としては規制緩和に賛成だが、規制緩和に良いものと悪いものがある。
例えば、小さい事例だが竹中氏が小泉政権中手掛けたタクシー事業の規制緩和は、仙台駅前に空車タクシーを溢れさせたタクシードライバーを食えない職業にした。(因みにニューヨーク市ではタクシー営業許可の総数を絞る代わりに自由に売買賃貸させて自由競争と秩序を両立させている)
竹中氏の規制改革には、規制改革教に凝り固まったこう言った見通しが甘いものや、米国の代理人として日本の国益を損ね兼ねないものが含まれており、今回安倍政権に於いても十分な監視が必要だ。
一方で、筆者は、高速道路や新幹線、リニア新幹線等の交通・産業インフラ系の公共事業、新エネルギー、バイオ、航空・宇宙、防衛、人工知能等の新産業分野への基盤整備投資について、出資を含め政府が後押しするターゲティングポリシーは日本が国際経済競争で勝ち抜いて行く為にも不可欠であると考えるが、その判断をどのような仕組み・プロセスで行うのかが詰められていない。
これについて、民間の目利き能力と国家の推進意思を併せ持つ官民ファンド設立は答えの1つではあるが、現在の政府の野放し状態では乱立を招き、かつて第三セクターのような責任主体の曖昧さ等により、特定企業に不透明な発注が行われ使い物にならない代物だけが残り、官僚の天下りと資金プールの器と化す。
事業1本1本の国会報告義務、責任体制の明確化、一貫した監視体制が不可欠だろう。
このように、今安倍政権が行うべきは、消費税増税議論に現を抜かし時間を空費する事ではなく、増税凍結を粛々と決定し、アベノミクスの第3の矢を具体化し実際に使い物になるように仕上げ実行する事である。
散々に財務省主計局と東大法学部について皮肉交じりの事を書いてきたが、彼らは元々国家有為の存在である。
しかし財務経理部が、狭い視野だけで会社を牛耳っていては行けない様に、彼らが取らぬ狸の目先のソロバン勘定と、受験戦争の延長の様な手柄争いを目的に国家を牛耳っていてはいけない。
その為に、真に国家に資する仕事、それに基づく評価と名誉、然るべき処遇を含んだ公務員改革も必要だろう。  
脱「茶坊主」宣言   
自衛隊においては賞詞を与えるときなど部下を誉める際に「上司の意図を体し‥」という言葉が使われる。それでは上司の意図を体するとはどのように理解すればよいのか。それはそれぞれの上司と部下が置かれている状況によって少し異なってくる。下級指揮官とその部下の場合は、文字通り上司が考えていることを具現化することで十分かもしれない。しかし上級の指揮官と部下の関係においてはそれだけでは不十分である。
部隊等で業務を実施していると、幕僚作業を経ないで指揮官から「このようにしたい」と意図が示されることがある。しかし直ちにその具現化に走るのは禁物である。上級の指揮官になると状況判断のために考慮すべき事項が多くなり1つや2つは大事な考慮事項が抜け落ちる可能性もある。従ってこのような場合、上級指揮官を補佐する者の心構えとして、果たして上司の意図は任務遂行上正しいのか疑ってみる必要がある。何か重要な考慮要素が欠落しているようなら上司に対して意見具申を行い意図の再確認を実施する必要がある。そして正しいことが確認できてから、その意図の具現化に努力するのである。その確認作業をしないで上司の意図のみを後生大事にすることは、いわゆる茶坊主のすることである。部下が茶坊主ばかりになると指揮官が一歩間違えば部隊は間違った方向に大きく舵を切ることになる。だから茶坊主的に指揮官を補佐する場合、部下としてどれほど誠心誠意でも、それは指揮官にとってあだ仇になることがある。茶坊主は側に置くと心地良いが、指揮官にとっては毒にもなる。
20代の頃は5年とか7年とか年齢差があると若い部下が先輩の上司よりも広い考察をしていることなどないと言っていい。しかし10年以上もの部隊経験を積んだ3佐や2佐ともなると上司の考えが及ばない部分についても考えが及ぶようになる。上級の指揮官を補佐する場合、上司の考えを具現化する前に、上司の考えが及んでいない部分を補うことが必要である。それにより大きな部隊が正しい方向に舵を切ることが出来るのだ。だから佐官以上の部下ともなれば、上司に対し平生どれだけ意見を述べているかを自ら確認しておく必要がある。勤務半年以上も経過したのに上司の言ったことをひたすら真面目に実施するだけで、何ら採用されるような意見を言ったことがないとしたら、それは真剣に職務に精励しているとは言い難い。もっと勉強しなければならない。3佐や2佐にもなった者が茶坊主であってはいけない。
さて茶坊主は上司の満足がいつでも最優先であるから、とにかく上司の意図が示されればその実現に突っ走ることになる。しかし自衛隊における部隊の目的は上司の満足ではなく、作戦の目的、目標を達成することなのだ。これに関し部下は上司に対し責任を負うべきであるが茶坊主にはその覚悟がない。茶坊主は、結果が良くない責任は上司にも自分にもなく、状況が悪かった、不運だったということにしたいのである。上級指揮官を補佐する者が茶坊主になってはいけない。軍事作戦においては結果がすべてと言って過言ではない。目標とする結果を招来するために上司と部下は良く意見の交換をして意思疎通をしておくことが大切である。もっと尤も部下が上司に対し意見を言わないのは部下の勉強不足ばかりが原因ではない。上司の側に問題があることもある。上司は部下が意見を言いやすいような雰囲気を造ることが必要である。部下が真剣になっていないときや明確に命令違反をした場合は別にして、部下が一生懸命作った案や部下のやり方に対し、怒ったり怒鳴ったりすることが最もいけないことだ。これを頻繁にやると部下はみんな茶坊主になってしまう。部下がみんな茶坊主になるということは、もはや民主主義国家の軍における上司と部下の関係ではない。独裁国家北朝鮮と変わらないことになる。そうならないために上司と部下は穏やかに話し合わなければならない。それによってより効果的、より効率的な任務遂行が出来るのだ。
話はやや飛ぶが我が国における政治と軍事の関係では、我が国の政治は戦後、よく自衛隊を怒ったり怒鳴ったりしてきたのではないか。戦前の我が国はといえば今とは全く逆で、5.15事件や2.26事件に見られるように軍が政治家にテロを行っても軍の思いを実現しようとするような行き過ぎがあった。政治は無理矢理軍の意向に添わされたと言って良い。その反動で戦後は制服自衛官にはモノを言わせないという風潮が広がってしまった。だから自衛官は国家に対し茶坊主になるしかなかった。しかし、これらはいずれも民主主義国家における政軍関係のあるべき姿ではない。
自衛隊が行動しない時代には自衛隊は国家の茶坊主でも良かったと思う。しかし自衛隊の海外派遣が頻繁に行われるような情勢になると、自衛隊が茶坊主であっては我が国の国益を損なうことになる。自衛隊は最終的には政治の決定に従わなければならない。しかしながら国家の方針決定に当たっては、自衛隊は軍事専門的見地から意見を述べなければならない。だから2003年9月の自衛隊高級幹部会同において石破防衛庁長官が、自衛隊は茶坊主になってはいけないと戒められたのだと思う。石破長官は訓示の中で次のように述べておられる。少し長くなるが長官訓示を読んでおられない方のために引用させて頂くことにする。「‥‥。私はこの国において、本来の意味における民主主義的な文民統制を実現したいと考えております。それは主権者たる国民に説明責任を果たし、政治が正確な知識に基づく判断を下すということであります。その過程において、いわゆる軍事の専門家である自衛官のみなさんと法律や予算や技術などの専門家である事務官、技官などのみなさんが車の両輪となり、最高指揮官である内閣総理大臣を支えることがもっとも肝要であります。法律や、予算や、装備・運用に対して、それぞれの専門家であるみなさんが意見を申し述べることは、みなさんの権利であると同時に義務であると考えます。‥‥」。
昭和53年に栗栖弘臣統合幕僚会議議長が、我が国の有事に関わる法制上の問題点を指摘したいわゆる超法規的行動発言のときには、栗栖統幕議長は国民に対し無用の不安をあおったとかの理由で更迭された。その後自衛官はモノを言わずに言われたことだけやればよいのだというような時期が続いたような気がする。しかしあれから四半世紀を経て今明らかに時代は変わった。石破長官は「制服の自衛官が意見を述べることは権利であるだけではなく義務である」と言っておられるのだ。義務であるからには問題を認識しながら意見を言わなかった場合には義務の不履行になる。栗栖発言は、当時は言ったことが問題になったが、これからは言わないことが問題になるのだ。
時代が変わっているということを自衛官も認識する必要がある。自衛官も我が国の政治に対し軍事専門的見地から意見を言うべきなのだ。これは自衛隊の将官等高級幹部に課せられた義務であると考えなければならない。自衛官にとってはより厳しい時代になってきたと思う。高級幹部を目指す者は、若いうちからよく勉強し、それなりのことが言えるだけの見識を身につける必要がある。我々の仕事は部隊運用だなどという人がいるが、それでは責任の半分を回避しているようなものである。これまで自衛隊では政治的活動に関与せずということが強く指導されてきた経緯があり、政治家と接触することさえ臆病になっていたようなところがある。しかし政治家を知らずして政治に対し意見を述べることは出来ない。
かつて私は防衛庁長官政務官を辞めた後の岩屋毅議員のパーティーに出席したことがあった。グランドヒル市ヶ谷で実施されたそのパーティーには、当時の中谷防衛庁長官、石破現防衛庁長官初め歴代の防衛庁長官経験者、現在の安倍自民党幹事長、石原国土交通大臣ら多数の有力政治家が出席していた。そして内局からは事務次官以下ほとんどの局長、参事官とともに一部の課長が出席していた。一方、各幕僚監部はといえばそれぞれ総務課長が出席しているのみだった。また防衛政務次官を辞めた後の自由党の西村真悟議員の出版記念パーティーが九段会館で行われたことがあった。各幕僚監部の出席者はまた同じく総務課長のみだった。政治家及び内局の出席者は岩屋議員の時とほぼ同じ顔ぶれだった。当時自由党はすでに野党になっていたが、なんと野党の西村議員のパーティーにも拘わらず与党の防衛関係議員のほとんどが出席しているのだ。そして内局も政治家の出席状況に合わせたかのように事務次官以下各局長、参事官などが出席していた。内局と各幕の対応の差が如実に現れている。しかしこれでは政治家から見て制服の顔が見えないのではないか。また政治に対し意見を述べるチャンスをみすみす失っているのではないかと思うのである。石破防衛庁長官の訓示を生きたものにするためにも、自衛官も今後は政治家と積極的に接触するよう努めるべきではないのだろうか。国家のため国民のため、政治に対し軍事専門家としての意見を述べるためにはそれが第1歩である。因みに私はこのようなパーティーには時間のある限りお邪魔虫大作戦を敢行することにしている。確かに面倒ではある。しかしそれは自衛隊の高級幹部に課せられた任務ではないかと思う。
[航空自衛隊を元気にする10の提言の抜粋]  
国民の金融資産1400兆円のウソ・三橋と言う茶坊主  
国民の金融資産は1400兆円となっているが、これには個人事業主のビジネス資金が含まれている事と重複してカウントされているもの等があることから、実際は1400兆円よりはるかに少ない。国民は1400兆円もお金を持ってるから、これが消費に回れば景気が良くなると言われているが、果たしてそうか?
「日本国民の保有する金融資産額は、日銀の資金循環勘定にある「家計資産総額」から不動産等を差し引いた1400兆円という数値がしばしば引用されるが、白書によると、これには個人事業主の事業性資金が含まれており、いわゆる個人の資産という概念から、差し引いて考えるべきとの見方を示している。こうした見方をベースに、個人金融資産について2009年の全国消費実態調査結果を基に試算すると、個人金融資産総額は672兆円で、これは日銀の資金循環勘定から算出される家計金融資産の46%となった。このうち負債は206億円となり、これを差し引いた正味金融資産は466兆円、としている」
丹羽氏も同様の事を述べている。
「個人企業」のビジネス活動目的の金融資産額を、少なくとも、100兆円には達しているものと考えねばならない。これも、「個人家計の金融資産」の額からは差し引いて考えるべきであろうから、残額は538兆円となる。
「個人金融資産を動員・活用することができれば日本経済をそれによって回復・再生させることができるだろうなどと考えることが、そもそも、根本的に間違っているのである」
「個人金融資産が眠っているとする考え方の根底には、家計の消費性向が低下していることが不況の原因だとする思い込みがある。ケインズ的政策が有効性を失ったとする風説も、そこから来ている。しかし、実は、平成不況が発生してからは、不況による人々の困窮化を反映して、わが国の家計の消費性向は、はっきりと上昇傾向をたどってきているのである。要するに、わが国の経済を立て直すためには、個人金融資産などはあてにせずに、大々的なケインズ的政策によって総需要拡大をはかる以外にはないのである。」
所得が減ったから消費性向が伸びたという見方もできる。丹羽氏もそう見ている。(所得が低くても生活に必要なものは買わざるを得ない。)
丹羽氏の言うデフレギャップについて。デフレギャップとは経済学者の期待を述べたものに過ぎない。
国の借金がGDPの2.3倍に達し、年金はすでに実質破たんしている現状ではたとえ所得が増えたと仮定しても、また来年度からの消費税増税が無いものと仮定しても消費が大幅に増えることは考えられない。年金制度の根本的改善が必要だろう。老後の年金を最低限の生活を保証する程度の額にすべきだ。国債を発行して借金で高齢者に年金を払っているようでは将来が不安になるのは当然だ。高齢者に対する大盤振る舞いは長くは続かない。将来に対する不安がある限り、消費が大幅に増えることは無いだろう。
また外資系ヘッジファンドが所有する日本国債は70兆円に達しており、日本経済にとって危険な状態になっている。外資は逃げ足が早い。ヘッジファンドがそのうち10兆円や20兆円の国債を処分して逃げきろうとする方向に動くなら、日本経済が危機的状況に陥る可能性もある。
三橋とか言う茶坊主は、政府が破産宣言しなければ財政破たんではないと言う詭弁を弄している。戦後日本は実質破たんしたのだ。物価が100倍、預金封鎖や資産税で国民の財産を没収、国民が餓死しても政府が破産宣言していないから、戦後日本は破産していないなどとバカげたことを平然と唱え続けるのが三橋茶坊主だ。
三橋茶坊主はTPPに反対していて、TPPに賛成する者は売国奴だとまで言っていたらしいが、安倍氏がTPPに参加したことについて何も言っていない。だんまりを決め込んでいる。三橋は安倍・麻生の単なる茶坊主にすぎなかった。
英国は過去GDPの2倍以上の借金を抱えた国だった。一回目はナポレオン戦争時で、これは産業革命と植民地経営で乗り切っている。二回目は第二次大戦後で、通貨切り下げと緊縮財政で国民は倹約生活を強いられた。60年代に北海油田を開発し、80年代には石油輸出国となった。英国が米国に借金を返済し終えたのは2006年のことだった。
三橋茶坊主は産業革命と植民地経営の歴史をそっくり省き、英国は破綻しなかったから日本も破綻しないと妄言している。
通貨切り下げは当時固定相場制だからできたことだし、北海油田の存在は大きい。
日本は政府通貨でメタンハイドレートと地熱発電を開発すればよいのだ。原発以外ではメタンハイドレートと地熱発電くらいが石油の替わりとして利用可能なエネルギー資源である。太陽光、風力、水力、バイオエタノール、バイオガス等のバイオマスは役に立たない。特にバイオエタノールは作るだけ石油などのエネルギー資源を無駄にするだけである。先ず発酵させるのに一定の温度に保つ必要があり、そのためのエネルギーをどこかから持ってくる必要がある。蒸留する際にも膨大なエネルギーを必要とする。1Lのバイオエタノールを作るのにバイオエタノール1L分以上のエネルギーを必要とするなら、作るだけ資源の無駄と言うことになる。  
民主党茶坊主と老害官僚が自公政治へと舵をとり選挙公約を破棄へと  
民主党の自民党化が急速に進みつつある。民主党の最大の敵は、大マスコミと官僚組織であったはずだし(それを裏で操ってる財界・アメリカ)、そのために必要なのは「情報公開」であったはずなのに。
民主党は従来から約束してきた「政府会見を記者クラブ以外のメディアにも開放する」という方針を鳩山政権発足と同時に撤回してしまったようだ。鳩山首相が選挙前に約束していたにもかかわらず。
どうやらマスコミと裏取引したのは、異常にマスコミが持ち上げてる・・やることなすことが茶坊主の平野博文官房長官(松下電器労組)と、老害としか言いようのない財務省族議員の77歳藤井裕久財務大臣(消費税増税論や失業対策的公共事業反対には唖然)であるらしい。
この狡猾な二人のために、従来の自公財務省主導政治へと戻りつつあり、それは鳩山首相の指示を受けてのものに違いない。
《 ー前略ー その中でも、やはり最も問題と思われるのが平野博文の官房長官人事だろう。平野博文の官房長官と藤井裕久の財務相の人事に、鳩山首相の反動性と旧弊性が濃厚に滲み出ていて、鳩山首相の政治手法が旧来の自民党政権のものと同質同根であり、自民党的な古い体質を払拭する意思がないことを露呈している −中略− 山口一臣の断定によると、その民主党の「情報公開」の既定方針を覆したのは、官房長官の平野博文と財務相の藤井裕久の二人だと言う。この二人は、鳩山首相が総選挙が終わる前から任用を示唆していた重要閣僚で、鳩山政権の中枢の人物である・・
政治番組の視聴者としては、77歳の藤井裕久はコンテンツとして楽しくない。蓮舫や長妻昭を見ている方が面白いし、政策全般については菅直人からラディカルな議論を聞いた方が夢と興奮がある。だが、テレビ局は(特にテレビ朝日は)、夢と熱のある話をする菅直人は出演させず、藤井裕久を政策責任者として押し出して、毎度のように「消費税増税」の説教をさせるのである。バーターなのだ。藤井裕久がマスコミによる情報独占を守ってくれる権力者だから、マスコミは藤井裕久を持ち上げて絶賛するのである。マスコミが小沢一郎を叩くのは、小沢一郎が自分たちの商売の邪魔をするからである。小沢一郎によって記者クラブ制度が崩壊すると、自分たちの「政治情報商売」の特権を失うからだ。普通に考えれば、民主党の「政権交代」は清新なイメージであり、高齢で政界を引退した元大蔵族首領の藤井裕久は不似合いな旧時代の遺物でしかなく、マスコミの扱いも「老害」の表象で扱われて不思議ではない。それが「政権交代」のスーパースターのように美化され、民主党が国民に政策を説明する主役になっている。本当は単なる老害でしかないものを、星浩などは「民主党の塩爺」などと呼んで褒めそやかしている。星浩と朝日新聞が藤井裕久の権力と癒着している実態が瞭然だ。大蔵官僚の藤井裕久にとっても、情報操作のためにマスコミを抱き込むのは当然の手法なのである。
平野博文がテレビに情報を売り、テレビが平野博文を持ち上げる癒着の関係が、すでに8月下旬には出来上がっていたのだ。三田園訓は権力者と癒着する専門の政治情報の商売人で、小泉政権時代は官房副長官の安倍晋三と結託して商売を繁盛させていた。平野博文の手口を見ていると、安倍晋三からよく学んでいて、テレビ評論家と新聞記者に自分の方から積極的に声をかけて抱き込んでいる。山口一臣も書いているが、選挙後のマスコミによる常軌を逸した小沢叩きは、平野博文の意を受けたマスコミが、「情報公開」の撤回、すなわち記者クラブ制特権の保全とバーター取引でやった陰謀だったことは間違いない。平野博文は、民主党政権がマスコミに流す情報を一元管理して、菅直人の顔や話はマスコミから一切閉め出す作戦なのだろう。自分が鳩山政権の顔になり、自分に都合のいい情報だけをマスコミに流し、自分に都合のいい記事だけを親密になった記者に書かせるのである。平野博文の個性を特異に感じられたのは、記者会見する鳩山由紀夫の真後ろに直立して、鳩山由紀夫に大袈裟に耳打ちする姿を見た瞬間である。カメラに顔が映る位置で仰々しくやっている。茶坊主である自己の過剰な演出と露出衝動。こういう不愉快で非常識な行動様式を大胆に見せる政治家というのは、これまで、小泉純一郎の真後ろや真横で姿を映させていた(官房副長官時代の)安倍晋三以外にいなかった。だが、平野博文の場合は、特に茶坊主の行動様式が顕著なのである。 −後略− 》  
 
外資系企業で働く

 

1.外資系企業いろいろ 
ご存知のように、一口に外資系企業といっても、米国系、欧州系、アジア系等さまざまで、数人から数百人又は数千人と規模によっても会社環境は、かなり変わります。
やはり意外と多いタイプは、数人から数十人までの連絡事務所的な存在の会社で、設立後まだ10年以下の企業だと思われます。"外資系企業年鑑"等にも記載のないような会社。このような会社は、最初日本で登記される事もありますが、多くは法人税のかからない外国(例えば、米国ならばデラウェア州など)で設立され、本籍だけを残して、日本支社等の名称にて日本の現地法人を届出する。ですから、親会社とは別で、日本の現地法人の会社でありながら、本籍だけを外国に残し(名前だけ、無人)、その日本支社、支店等の名前で、実質的な組織を形成している企業も多いです。
なにせ、外国では、US$10ぐらいからの資本金で会社設立が可能であるため、このような企業も多いのです。実際株式会社(日本の商法には当てはまらない)ではありながら、○X○Xカンパニー(日本支社)や、△□△□インコーポレイテッド等の名称の企業に、このような会社が多い様思われます。ほとんどの企業は、実際の売上を計上申告しておりますが、連絡事務所的な企業の場合、5%企業と云われるように、実際に発生した費用金額に5%を上乗せした金額を収益として計上して、5%だけの利益を毎月計上して、実際の会社の運営費は、親会社より送金してもらっているところもあります。  
2.外資系企業で必要なこと

 

外資系企業の場合、一般的に日本の企業より自由であると云われておりますが、確かにどの外資系企業でも比較的日本企業よりは自由な雰囲気はあると思いますが、それは、各自が自立心を持って"すべき事をしている"事が前提に成り立っております。"すべき事をしている"ということは、当然といえば当然な事なのですが、やはり外資系企業の場合、より"結果"を重視される傾向があるためと思われます。外資系企業への転職に際し、採用する側は、まずその人の経験を買う訳であり(勿論経験だけではありませんが、教育をしている暇は無しというのが実状です)、仕事ができる経験が最も重要な要素のひとつである事は、間違いありません。採用された人は、過去の自分の経験を、新規の会社の状況に応じて生かしていくことが要求されます。外資系といっても、特に小人数の外資系企業の方が、その傾向が強いと思われます。小人数の方が、各自の役割の範囲が広く、責任が重くなるからです。特に経理関係の場合、求人内容が、ブックキーパーなのかアシスタントなのか、それともマネジャーかコントローラー、はたまたCFOなのかで、それぞれ求められるスキルがはっきりしておりますので、入社して要求された仕事が出来なければ、即アウトです。
但し、誰でもが直ぐに、いろいろな経験ができるとは限りませんので、与えられる仕事の範囲以外でも、自分のためだと思い積極的に、多少背伸びをしつつも、いろいろな仕事を取り込んでいく事は、大変重要な事だと思います。 
3.外資系企業への入り方―序文

 

やはり外資系企業へ入社したいと思っても、年齢と経験それに社会状況によって異なります。特に経験の全く無い新卒の場合は、タイミングです。特に経験を求められる経理関係の場合、経験の全く無い新卒は、どうすればいいのか? (誰でも始めから経験がある訳ではないのだが……)。 
4.ほんの一例―経験談より

 

ここで、ほんの一例にすぎないが、私の経験(外資系企業への入社のきっかけ)を紹介致します。英語が出来ないくせに英語を使う環境で仕事をしてみたいと思っていた私は、新卒時、海外か国内の外資系企業で働いてみたいと思っていたにもかかわらず、たまたま一番先に練習のつもりで受けた某国内企業から意外にも内定をもらい、いちおう一部上場の企業であったため、方針を変更して安にその会社(海外に支店等もあったため、もしかしたらいずれ行けるかもしれないという淡い期待を持ちつつ)に就職先を決めてしまいました。配属先は希望の部署とは異なり、いまいちやる気の出ない日々を過ごしておりました。がしかし、英語に関わる仕事がしたく、国際関係の部署へ移動を希望して、やっと認められて多少なりとも英語を使う仕事が出来る様になりました。しかしながら、自分は仕事がまだろくに出来ないくせに、会社の悪いところ(環境や将来性)ばかりが目に付くようになっていた生意気な若いその頃は、現状に満足できず、外資系で働いてみたいと思うようになりました。早速、2、3の人材紹介会社に登録をして、数社の面接を受ける事となりました。
その時感じた事は、自分が"いいな"と思った会社は、ダメで、"それ程でも"と思った会社は、OKの返事を貰ったりしたため、まさに、転職は結婚と同じようなもので、相性の問題だと思いました。自分の個性と経験が相手の企業が求めているものと合わなければ、いくら自分が希望しても、無理というものです。ただ実際に転職してその会社に入社してみると、"それ程でも"と思った会社が意外と良かったり、その逆の場合も(経験上)ありました。こればかりは、やはり入社してみないと分からないところがあります。
話が少しそれましたが、国内企業から最初の外資系企業への転職のきっかけは、国内企業の国際関係での経験をアピールして、それが認められた事でした。ただその仕事内容は、事務的なもので、全く経理とは関係なく、自分もそれまで経理の知識が全く無く"Debit"、 "Credit"の意味すら知りませんでした。そんな中で、その外資系企業が、取引先の会社とジョイントベンチャー(JV)で新会社を設立する事となり、経理を募集することとなりました。当初会社は、いろいろと求人を募集したそうですが、なかなか適当な人が見当たらず、どう云う訳か、経理の知識も経験も全くない私が、そのJVの経理を担当する事になりました。当初は、経理の学校に通いながら(経理の基礎の基礎より勉強)、その外資系企業の経理責任者の管理の元、テンポラリーとして雇った人材派遣の方と一緒にJVの経理をすることになりました。 これが私の経理の仕事をする最初のきっかけとなりました。 
5.外資系企業への入り方―本文

 

私の場合は極端な例かもしれませんが、とにかく外資系企業で働いてみたいと思う方は、自分がアピールできる範囲で企業を探して取敢えず入社してしまう。(始めから仕事内容にこだわらない。)そしてその会社の中で本当にやりたいと思う仕事へ移動していくというのも、ひとつの方法ではないでしょうか。元々経理のバッググランドがあり、それを元にして外資系企業へ入社できれば、それに越した事はありませんが。ただ、今これを読んでいる方々は、少なくても経理を勉強してそれを元にして仕事をしていきたいと思われている人が殆どだと思われますので、特に若い方であれば、多少の知識はあってもブックキーパーぐらいから始める気持ちで、誰かのアシスタントとして取敢えず小さめの外資系企業で働いてみることをお勧め致します。小さい企業の方が、経理としてやれる範囲が広く、その上司の仕事のやり方も学べるので、経理の仕事として伝票作成から財務諸表作成までひと通り学べます。ひと通り経理の仕事ができるようになれば、もうしめたものです。もうその会社ではあまり学ぶ事がないなあと感じたり、キャリアアップを図りたいと思った時には、今度は、正々堂々経理業務をひと通り出来ますと云えるのです。ハッキリ言って、経理業務はつぶしが効きます。金融関係や医療・建設業以外であれば、通常製造業等の会社で経理経験を積めば、殆ど業種を問いません。コンピューターであれ食品あれ、はたまた音楽業界であれ、基本的には、売るための商品があり、在庫があったりします。どの業界であれ、経理としてやる事はさほど変わりません。ただ始めに中規模以上の外資系企業に入社してしまうと、経理部門だけでも5、6人から2、3十人となります。そうすると、各自が担当する仕事内容は細分化され、ずっと長い期間売掛だけとか、小口現金だけとか、手形だけとかなってしまい、結局つぶしが効かなくなってしまいます。
ただ年齢が若ければ、特に5年10年と長期的に経理業務を経験していくことも大切だと思います。やはり他社でも通用するぐらいのキャリアを積むのにはそれなりに時間はかかりますので、焦らずに、ただ貪欲に何でも吸収しようとすることが大切です。
外資系企業への入社に際し、先ず受けなければならないのは面接です。面接といってもいろいろあり、私が経験したものでも、直接その企業のボス(外人)との面接や、本社の人との電話面接やテレビ会議システムによる面接等いろいろありました。
やはり外資系企業で一番面接で重要な事は、"何ができるか?"だと思います。その企業が求めているポジションの仕事内容が出来るのか?、経験があるのか?という事が、先ず始めに問われます。次にその人の個性がその会社に合うかということです。
経験を問われた時、多少のハッタリは必要な場合もあるかもしれませんが、やはり面接でいろいろ話しをしていると、採用する側の人は、この人は本当に仕事がやれるのかやれないのか見抜くものです。ですから面接を受ける人は、今までやってきた経験とやれる事、そしてその会社でやりたい事を最大限にアピール出来るよう自分の考えをまとめておくことが大切です。特に外人との面接にあまり自身の無い方は、有料で模擬面接やレジメの添削をしてくれる外国人や会社等もあります。面接に際しては、自分で出来る限りの準備をしてベストをつくして、後の結果は、相手の企業が決める事ですので、(OKの返事さえ貰えれば、最後に気に入らなければ、自分の方から断る事は、いくらでも出来ます)、取り合えず最善をつくす事です。
本題に戻りますが、外資系企業への入り方もこれまで書いたようにやはりいろいろあります。その会社が気に入れば職種にこだわらず、何でもいいから取敢えず入社してしまう。その後、希望の部署へ移動する。(出来るかどうかは保証の限りではないが)又は。職種(特に経理)にこだわるのであれば、多少回り道をして、経験の積めそうな会社に入り、経験と技術を磨いてから希望の会社、仕事へアップを図る事も可能です。それぞれどういう方法がベストなのかは、やはり自分の目標が何であり、それをいつまでに達成させるつもりなのかによると思います。あくまでも最後は自己判断で決めてください。 
6.おまけ / 外資系企業のメリット・デメリット

 

外資系企業の大小規模によるメリット・デメリットを一般的に下記にまとめてみました。
小規模企業のメリット
より自由な環境がある。フレックスタイム、カジュアルウエアー、休日等が取り易い。
やりたい仕事をアピールしてやらしてもらい易い。
仕事の評価を直接トップにアピールし易く、その分年収アップを期待できる(交渉もできる)。
自分にアピールできるものがあれば、入社時の交渉で、給料の大幅アップも期待できる。
小規模企業のデメリット
人数が少ない分、各自の個性がでやすい
福利厚生があまり期待できない。(クラブ活動や、社員旅行等の行事がない)その分、すべての報酬が、給料(年収:一般的に月給ではなく、年収契約となる)に反映される。
会社の雰囲気が、企業のトップ経営姿勢(性格)に反映され易い。
親会社(本社)の意向が反映され易い。親会社の買収、吸収合併による部門の撤退や会社そのものの撤退、再編等。
(中)大規模企業のメリット
福利厚生制度(施設)がある。社員割引制度、貸付金、クラブ活動、社宅、保養施設等
従業員組合がある。(実際は、あまり期待はできないが)
就業規則等がはっきりしている。
それ程貢献できなくても、One of Employeesとしてそこそこの昇給は望める。
他の部署への移動ができる。(会社は気に入っているが、上司が気に入らない場合等)
(中)大規模企業のデメリット
仕事が細分化され、一通りの仕事ができるまで時間がかかる。
会社組織に派閥や部門・セクション間の縄張りがある。
会社は組織で動くため、なかなか自分の成果をだしにくい。 
最後に

 

以上私の経験に基づく外資系企業の実情(これもほんの一例にすぎませんが)と私の考えが、ほんの少しでも読者のみなさんにお役に立てれば幸いと存じます。
特にここの読者は、経理の経験は無いが米国公認会計士の資格を生かして外資系企業へ入社、転職をしてみたいと思われている方が多いのではないでしょうか。
そんな中で、やはり経験してみないと解からない外資系企業の実情というものがあります。
転職については、外資系企業の入り方の始めの方に書いた"タイミング"がキーワードです。
一般的に転職回数が多い事は、歓迎されません。それでも外資系企業の場合、仕事の出来る方は、より良い環境(収入)を目指して2、3回の転職歴があるのは、普通です。
しかし現状の見極めや、キャリアアップも大切ですが、やはり忍耐も必要です。コツコツ努力していれば、自分から求めなくても相手から転職のいい話が舞い込むこともあります。
ただ、どうしても(特に中小規模の)外資系企業の場合、部門・会社そのもの閉鎖や、吸収合併等で、大きく職場環境が変わる事が多々あります。また転職に際しては、人との繋がりがとても重要ですし、いつでも自分の希望に合う求人会社があるとも限りません。これらすべて、巡り合わせ、タイミングの問題です。かといって何もしないのでは、良い巡り合わせも期待できません。やはりここで大切なのは、日々の努力と情報収集のアンテナを大きく広げ、目標をもって積極的に向かっていく姿勢だと思います。 
 
ゴマすり男は出世するか / すり方が下手だから軽蔑される

 

結論から言うと、ゴマすり男は出世します。人間、好きな人を依怙贔屓するのは当然ですから。ゴマすりが軽蔑されるのは、すり方が下手だから。上手にゴマをすれば、誰だって必ず出世します。
下手なゴマすりとは、どう見ても不細工な人に「すごいハンサムだね」と言うなど、皮肉と受け取られかねないもの。それから特定の人だけにゴマをすることです。目下には威張るくせに、目上には媚びを売るからよくない。上にゴマをすりながら、同時に下へもゴマをすることが大事です。
たとえば部下に「キミ、すごくできるよ。俺のほうが先に入社したけど、俺を気にせずどんどん上へ上がってくれ」などと言ってあげると、下の人たちからも「あの人はいい人だ」と持ち上げてもらえる。それを見た上司は「こいつなら上と下のいいパイプ役になる」と思って引き上げてもらえるので出世できる。
ゴマすりは人間関係のスキルですから、練習すればするほどうまくなる。相手の選り好みをしているとあまり練習の機会に恵まれませんが、会う人すべてにゴマをすっていれば、その分練習量が加算されてうまくなっていきます。上下の関係だけでなく、同僚や他部署の人、取引先にもゴマをすりましょう。相手を選んでゴマをすっているようじゃ、まだまだ。
しかもゴマをすりまくることが日常の一部になれば、まったく苦痛ではなくなります。呼吸したり歩いたりするのと同じように、無自覚に出るようになったらゴマすりも本物。どうせゴマをするなら、このレベルまでいかないと。
ただし「中途半端にゴマをするのはよくないんだな」と思ってやめてしまってはいけません。なぜなら最初はみんな中途半端だから。英会話と一緒で下手だからといってしゃべらなければ、いつまでも下手なまま。継続は力なりです。
ゴマすりとは歯の浮くようなお世辞を言うことではありません。ほめるのがイヤなら、話しかけるだけでも立派なゴマすりに。こちらから挨拶をするだけでも、「私はあなたを認めています」というサインになる。昔から言われるホウレンソウ、つまり「何もなくても上司に報告する」なんていうのはゴマすりの最たるものでしょう。それから笑顔をつくるのは、「あなたを受け入れています。あなたが好きです」というサイン。だから、そういうサインを出している人は、ゴマをすっているつもりがなくても、運とかビジネスチャンスが寄ってくる。いわゆる愛想があるというやつです。
言葉だけでなく動作もポイント。待ち合わせ先で相手の姿が見えたら100メートル先から小走りで走り寄る。上司に呼ばれたら声だけで返事をするのではなく、立ち上がって上司のほうに行こうとする素振りを見せるなど、細かいテクニックはたくさんあります。
高等テクとしては、人間はだいたい自分と似ているものが好きですから、上司の服装や持ち物を真似するのも効果的です。上司がいつもワイシャツの袖を腕まくりをしていたら、自分も腕まくりをする。上司がノーネクタイなら自分もノーネクタイ。
「その格好、俺と似てるな」と言われたら、「ああ、そうですね。自分では気がつかなかったけど、憧れてると自然に似ちゃうのかな」みたいな独り言をボソッと言えればもう完璧です。
「仕事を一所懸命やって成果を挙げれば、ゴマをする必要はない」という反論もあるかもしれません。しかしカーネギーメロン大学で行われた研究によれば、どのような業種であれ、仕事が成功する要因は85%が良好な人間関係によるもので、残りの15%が仕事そのものの実力だという結果が出ています。
「ゴマすり男は出世する」のは本当ですよ。 
 
「ゴマすり」は効果があるのか?

 

「ゴマすり」と評価の関係を考えます。
「評価されるヤツは上司にゴマをすっている。でも、自分はそんなことはしない。だから自分は評価が低い」という話をよく聞きます。これは本当なのでしょうか?
「ゴマすり」は効果があるのか、ないのか。「ゴマすり」はすべきなのか、すべきではないのか、を考えます。
上司の言い分
上司にゴマをすれば評価が上がるなんて、とんでもない。そんなことはありません。ミエミエのおだてに乗るほど、上司は間抜けではありません。
部下の中には「さすがマネージャー。仕事が早いですね」というようなことを言う者がいます。そう言われても単純には喜べないですね。「君に言われたくないよ」という感じがします。
「自分はゴマをすらないから評価が低い」と思っている部下もいるようですが、それは勘違いです。私はゴマすりなど求めていません。それよりも、アドバイスしたことについて結果を知らせたり、こちらが労力をかけて支援したことについてひとこと感謝の言葉を述べたりしてほしいものです。ゴマをする、すらないの問題ではなく、対人関係をもっと考えてほしいということです。
管理職の中には、部下のおだてに乗るタイプもいるとは思います。でも、そんな管理職は少数派です。いまどき、一部の部下と頻繁に飲みに行き、おだてに乗って評価を上げる上司など、めったにいませんよ。
【部下に求めること】
「ゴマすり」と評価は無関係と考えてほしい
アドバイスしたら結果を知らせてほしい
支援を受けたら感謝の言葉を述べてほしい
部下の言い分
職場に、大して実績をあげているわけではないのに、いつも評価が高い同僚がいます。たぶん、上司にゴマをすっているからです。しょっちゅう「マネージャーのおかげです」なんて言っており、それを聞いた上司は嬉しそうにしています。でも、自分は上司にゴマをするつもりはありません。そんなみっともないことはイヤです。いつか、誰かが仕事ぶりをきちんと見て正当に評価してくれると思っています。
「ゴマすり」に乗る上司もどうかと思いますが、ゴマをする同僚も嫌いです。彼は上司だけでなく、他部署のメンバーやサポートスタッフまで、あっちこっちでゴマをすっています。八方美人で軽薄なヤツです。でも、そういうミエミエの「ゴマすり」でも喜ぶ人がいるのが不思議です。どっちもどっちです。
【上司に求めること】
部下のおだてに乗って喜ぶのはやめてほしい
仕事ぶりを見て正当に評価してほしい

「ゴマすりは効かない」と言う上司、「ゴマすりが評価に影響している」と言う部下。両者の言い分は真っ向から対立しています。どうすればよいか、考えましょう。
上司への提案
部下の中には「評価される人は上司にゴマをすっている」と考えている人が多いものです。中でも評価されていない部下ほど、そう考えます。
自分に甘言ばかりを述べる部下を取り巻きとして重用し、苦言を述べる部下を遠ざけて冷遇するような上司の職場ならば、そう言われてもしかたがないでしょう。ただ、そういう上司は少ないはずです。それでは、チーム運営がうまくいかず、いずれ実績もあがらなくなり、マネージャーの立場を追われるからです。
ここで取り上げたいのは、誤解されているケース。客観的に評価しているにも関わらず、部下から「ゴマすりで評価が決まっている」と思われている場合です。
この場合の問題は、低評価の部下が自分の評価に納得していないこと。だから、その原因を「ゴマをする、すらない」に求めてしまうのです。
対策は、人事考課の際、個々の部下に「なぜそういう評価なのか」「どうすれば評価が上がるのか」をきちんとフィードバックすることです。
表向き「ゴマすりが評価に影響している」と公言していない部下も、腹の中ではそう思っているかもしれません。考課後のフィードバックをきちんとしましょう。
・多くの部下はゴマすりが評価に影響していると思っている
・人事考課の際、個々に「なぜそういう評価なのか」伝える
・あわせて「どうすれば評価が上がるのか」を伝える
部下への提案
上司は「ゴマすりは効かない」と言っています。だから、ゴマはすらなくてもよいのです。ただ、少し違う角度からこのことを考えてみましょう。
もし、あなたが様々な人々の助力を得られる状況だとしたら、どうですか。上司をはじめとする身近な仕事仲間、部門を越えた他部署の関係者、サポートスタッフまで、いざとなったら少々無理をしてでも、あなたのために一肌脱いでくれる。それは、とても心強い状況でしょう。
「そういう状況を作っておくのも仕事のうち」という話なら納得できますね。
そのためには、日頃から多くの人々とよい関係を築いておく必要があります。つまり、日常的によいコミュニケーションをしておく、具体的には声掛けです。そのことを「ゴマすり」と呼ぶならば、大いにした方がよいでしょう。
問題は「ゴマのすり方」です。例えば、上司に「仕事が早いですね」と言ってもあまり喜ばれません。その言葉に評価のニュアンスを感じ取り「なぜ上司の私が部下の君に評価されなくてはならないのか」と思ってしまうからです。これでは、逆効果。
評価のニュアンスを感じるのは、話の主語が「あなた(上司)」だからです。「さすが」をつけようが、言い方を丁寧にしようが、逆効果は変わりません。
そこで、主語を「私」に変えます。「(私は)マネージャーの仕事の早さを手本にしています」というように。これならば、評価のニュアンスを感じません。他部署の人々やサポートスタッフに対しても同様です。「(私は)力を貸してもらって感謝しています」とすればよいのです。
また、相談に乗ってもらったら結果報告とともに、「(私は)アドバイスしていただき感謝しています」とお礼をしたいものです。
支援してもらっても、相談に乗ってもらっても、その後なにも言わず、いざという時だけ力になってほしいというのは、ムシがよすぎます。
上で述べたような意味でなら、どんどん「ゴマすり」をして、自分の仕事環境を作っていきましょう。
・力になってくれる人との関係を良好にするのも仕事のうち
・「私」を主語に話す
・支援を受けたり相談に乗ってもらったら、感謝の言葉を
こういう「良いゴマすり」は部下だけでなく、上司も部下に対し、した方がよいものです。部下が力を貸してくれたら「私」を主語に感謝する。お互い様です。 
 
上司をオトす査定前2カ月の超絶ゴマすり術

 

『孫子』におけるゴマすりの用途
「正を以て合し、奇を以て勝つ」とは、高名な兵法書『孫子』の一節だ。正攻法で敵と相対し、奇策を使って勝つ。ある解説書の例えを借りると、野球は打撃という正攻法だけで勝てなくもないが、盗塁という奇策を絡めれば効果絶大。盗塁を卑怯だからと言って使わないのは見当違いだ。ただ、盗塁だけでは勝てない――。
一般通念でいえば、ゴマすりは奇策である。もともと地力のある人が使えば鬼に金棒だが、地力のない人が使ってもご利益は薄い。当落線上にある人が使って初めて生きる。
たかがゴマすりに兵法まで持ち出すのには理由がある。コンサルタントの今野誠一氏が語る。
「人事部の評価項目と上司の閻魔帳とでは、まず感覚が合わない。多くの上司は、自分で付けた部下の格付けに合うように評点を配分し、埋めていく。それが現実だ」
人事と現場の“二重基準”は深刻だ。自分では選べない上司という存在に人生を左右される最悪の事態を想定すれば、哀愁漂うゴマすりも重要な生き残り戦術となる。
効果的なゴマすりに必要なのはまず、上司を知ることだ。
「部下から見た上司は、自分とは別種の人間。しかし、実は部下以上に不安を抱え、くたびれ果て、誰かに助けてほしいと思っている」(今野氏)
その苦渋は、なってみて初めてわかるもの。そんな上司が愛でるのは、困っている自分を何とかしてくれる、安心させてくれる部下だ……という今野氏の指摘には盲点を突かれる思いだ。
では、具体策に移ろう。
今野氏はまず、「会議では進んで議事録を取れ」という。
「会議大好きと思われがちな上司にとって、最後に自分が結論を出さねばならない会議は、実は面倒くさいもの。そこで『ハイ! 議事録やります』と挙手する部下は、私が上司なら間違いなくポイントアップ。『うーん、こいつはいい』とツボにはまる」
結論の出ない会議の最後のほうで、初めて「こうやって決めればいいのでは?」と発言する部下も好印象である。ただし、「議論をリードし続けるのはやりすぎ」(今野氏)だから注意が必要だ。
次に、電話というツールの効能に触れよう。いつも不安を抱える上司にとって、“繋がっていること”は重要だ。
「例えば営業課長が、おのおの90%、60%の達成率を見込める2人の部下を持つとする。滅多に連絡をよこさない90%よりも、外から頻繁に『A社の総務課長が“今度、上に上げる”って言ってました』などと電話を入れる60%のほうが“安心させてくれる”部下。この積み重ねが評価に繋がる」(今野氏)
“上司は常に待っている”という法則
電話は魔物、と言う今野氏の決め技は、休日に上司に電話することだ。
「精神的なハードルは高いが、『忘れないうちに言っとこうと思って』という一報は、迷惑でも何でもない」
メールでは、ライバルとの差別化ができない。電話ならではの効能だ。ここから得られる“上司は常に待っている”という法則は、近年飲みの誘いを断られがちな上司を逆に誘い、相談事を持ちかけるという大技に応用できる。「そんなに俺に聞きたいか」と、にやける上司の“自己重要感”をアップさせられる。ただし、店から3時間は出られないことを覚悟しなければならない。
生き残り戦術において、手法と同様に大切なのがタイミングだ。今野氏は、「部下を査定前の1〜2カ月の印象で評価している上司が非常に多い。余裕がないからこれが精一杯」と指摘している。
相手の心情を推し量り、短期集中で技を駆使し、目的を果たす――奇策というよりも、相応のコミュニケーション力が必要な正攻法。真っ当なゴマすりのできる人は、実は仕事のできる人なのかも。 
 
もう一つの成功者?「スーパーぶら下がり社員」という道

 

目立たず、埋もれず、当たり障りなく、上司とはうまくやっていく……閉塞感漂う中堅・ベテラン社員の処世術。会社に居座り、ぶら下がると決め込んだ彼らの言葉はしかし、思いのほかポジティブだ。
波風立てずに定年を迎えるワザ
「おまえんとこの雑誌ってさ、デキる奴しか出ないよな」―筆者と20年以上の付き合いであるT氏(45歳、大手通信勤務)が呈する苦言?はまあ、ごもっともである。
「もっとさあ……何ていうか、会社で波風を立てずに定年を迎えるワザ、とかそういう記事はやらないの?そういうのを読みたい奴のほうが、ぜってー多いと思うんだけど」
T氏とて頭は結構切れるし、30代半ばで部長に昇進。上層部の評価も高い彼ですら、そんな願望を抱く。
会社生活も後半戦に入り、要領も覚え、いろいろなものが見えてきた結果だろうが、それだけではない。こんなご時勢、昇給も期待できない。でも今さら外に飛び出す気はない。責任取りたくない。切られたくない。目立ちたくない。生活水準は保ちたい。そういう人々が、恐らく今の企業社会の多数派である。彼らの処世術をルポするのも無意味ではない。
無論、エネルギーを内側にばかり向けることを潔しとしない者もいる。広告代理店勤務の並木氏は、「最低限の礼儀は尽くしますが、しなくていいゴマすりはしません」ときっぱり。
「それができない僕は、周囲から嫌われていると思います。今会社にいるのは家族4人を養うため。独身ならたぶん辞めていると思う」
隣のセクションの部長が、「同行してほしい」と乞う部下の目の前で、緊急会議への出席を打診してきた役員に「全然、大丈夫ですよ」と即答したのを見たという。
「その役員の誘いなら、そう重要でないものやオフィシャルでないものも含め、何を犠牲にしてでも最優先する人。クライアントとの用事があってもそう。部員はあきらめています。そのうちしっぺ返しがきますよ」
しっぺ返しには、目に見えるものと見えないものとがある。
「上司(のパーソナリティ)を見極めて、意見を言ったり同調してもらいます。嫌らしい言い方をすれば、人を選んでそちらになびく、人を選んで文句を言うことですね」
化学メーカーの商品部門に勤める内田茂樹氏(仮名、41歳)が言うように、部下は気付かぬところで上司を選び、見捨てる。
「この人には何を言ってもムダ、という上司の場合は、一つ飛ばして上の人に言います。もちろん、後で上司へちゃんとフォローしてくれるような人じゃなければダメですが」
20代の頃の内田氏は仕事一筋だった。職場の人間関係に恵まれ、“ウラ”を考えずに済む環境だった。自身も仕事をガツガツこなし、社内でのしあがることを考えていた。会社にとってかけがえのない存在になりたい、という一念があった。
しかし30代半ばで異動先の上司から手ひどいパワハラを受け、うつ病に。約1年の休職を強いられた。
「働き甲斐より生き甲斐。家族との繋がりを大切にすることにした。そのため、年功序列でそれなりに稼げるこの会社に居座ることにしました。一生懸命仕事はしますが、ムチャは禁物。目立ちすぎず、埋没しすぎず、当たり障りないように過ごします」
今後は資格を取るよりも、“この商品のことなら社内でトップ”“これはこいつにしかできない”などと言われるスキルを磨いていくという。
「今の会社の風土はわかっています。この人はここでこう言えば怒るし、こう言えばなびいてくる、とか、この部門のキーマンはこの人……等々、マニュアル化できない組織や人の急所も熟知しています」
そう語るのは、準大手電機メーカーの竹上氏。
「新天地で一から人間関係を積み上げるのは大変ですから、今の会社にい続けるつもり。社内の機密情報に他の部署より早く触れるから、仕事のモチベーションは高く保てます」
竹上氏は、今後の会社生活は上司とのコミュニケーションの密度で決まる、と言い切る。
「はっきり言って、上司は好き嫌いで部下の処遇を決めます。悪い意味で目を付けられないことが重要。パワハラの対象にもならないように、適度のコミュニケーションを心がけ、報・連・相を徹底しています」
上司の言うことには“イエスマン”に徹し、まずは「おっしゃるとおり」と受け容れる。上司と昼食を共にしたり、短い時間でもいいから話す場面を多くつくる。あいつはよくやっている、と思わせることが大事だ。
竹上氏は、社内で「最後の職場」と陰口を叩かれた部門に、30代で異動させられた。周囲は病気や左遷で飛ばされてきた50代が大半。現在も、部下は年上ばかりである。
「カラ元気でもいいから、明るく元気に振る舞うことを心がけています。暗くて元気のない人は、やはりリストラの対象になりがち」……単純だが、大切な処世術だろう。
億単位の貯金があっても不安
中沢氏は金融機関の課長クラス。リスク管理業務に従事し、年収は800万円台だ。
「仕事にはさほどやり甲斐を感じませんが、今の会社で活路を見出すしかないですね。他の人にできない業務に就いているから、頑張って何とか会社にぶら下がっていきたい」
若いうちは「仕事さえちゃんとやっていればいい」と周囲に角が立つくらい懸命だったが、今は根回しを最も意識する。部長は今もたくさんいるから、昇進は至難の業だ。酒に弱く、内輪で飲むことはほとんどないから、コミュニケーションの絶対量は同僚に比べてずっと少ない。
「出る杭といっても、出すぎるほど出るには力量が必要。税理士の資格も持ってるし、TOEICで930点を取った。米国公認会計士も一科目だけ合格したけど、資格ばかり取っても実務には関係ないですね」
3年前、20歳年上の男性にプロポーズされたが、「考えすぎちゃって」断った。一昨年に株取引で400万円損したおかげで、預貯金は約2000万円に減った。
「貯金が億単位あっても不安ですね。一人っ子だから、無事に定年まで勤めたら田舎の父の家で一緒に暮らすというのもいいな。あの世には私が先に行くつもりなので(笑)」
一見、後ろ向きのコメントばかりだが、どの方も仕事への意欲は低くはない。高度成長期やバブルの残像を逃れた“大人”な方々……と見るのは贔屓目にすぎるだろうか。 
 
無能でも役員になれる人、やり手でも躓く人

 

なぜ、あの人が……。サプライズ人事はなぜ起きるのか
日産自動車のナンバー2である志賀俊之COO(最高執行責任者)が46歳の若さで常務執行役員に大抜擢されたのは2000年4月のこと。生き残りを懸けたゴーン改革による経営再建のスタートと同じタイミングである。それまでは学閥や年功序列で役員が選ばれるケースが圧倒的に多かったが、ゴーン体制での異例の抜擢人事で最若手の役員の入社年次が5年以上も若返った。
日産自動車の志賀俊之COOは、本社傍流から“ゴーン効果”で一挙に出世した。(PANA通信=写真)志賀氏は決して出世コースを歩んできたわけではない。大阪府立大学経済学部を卒業し、入社後は傍流のマリン事業部に配属。海外部門に移ってからも花形の北米や欧州の担当でなく、東南アジアなどの未開の市場開拓が中心だった。約5年半、左遷同然で単身赴任したインドネシアの事務所へは本社から訪ねてくる社員もなく円形脱毛症になるほどの孤独感に悩まされたという。
若手の頃から数々の修羅場を経験した志賀氏だが、本社に復帰後、「企画室」という部署へ異動になったことが出世階段を一気にかけ上がるきっかけとなった。ルノーとの資本提携の際には企画室長・アライアンス推進室長として提携作業の実動部隊のメンバーに加わり、ゴーン社長(仏国立高等鉱業学校卒)の目にとまったのである。
しかも、志賀氏は英語が得意でコミュニケーション能力に優れていることも今日までゴーン社長の女房役を続けられる重要なスキルである。日産はかつて役員の半数以上を東大卒が占めていた時代もあったが、ルノーと提携後は学閥などによる優劣は通用しなくなった。もっとも、彼らが日常業務で大きな功績を挙げても、「英語はペラペラ」でなければ、役員どころか、部長職にも昇進できない。語学の壁にぶつかり不本意ながら会社を辞めた有能な幹部社員は多い。
海外生産のシェアが7割近いグローバル企業のホンダでは、役員を選ぶ条件として日産ほど語学力を重視しないが、現役員陣の中で、海外駐在を経験していないのは、開発部門出身で技術系の2人の執行役員だけだ。
青木哲会長(東京外国語大学卒)はイタリア、伊東孝紳社長(京都大学大学院工学研究科修了)は米国、近藤広一副社長(山口大学文理学部卒)はブラジルなどの赴任経験があり、役員になってもさらにステップアップを目指すために国際感覚を磨くことが必須の条件だ。ただ、「創業者の本田宗一郎が元気な時代とは様変わり。会社の規模が大きくなるにつれて、破天荒なサプライズ人事が少なく、順当な線で選ばれることが多い」(ホンダOB)と危機感を抱く声もある。ざっくばらんに、自由にモノがいえる企業風土を、後戻りさせないでほしいというのである。
確かに最近の役員陣の顔ぶれと高卒役員も存在した昔のそれとを比べると、バランスの取れたエリート集団であるがゆえに、「ホンダらしさ」が失われている面があることも否めない。ホンダに詳しい取引先の経営者は「人間というのは、失敗して初めていろんなことが見えてくる。失敗しないできた人はいつか大きな失敗をする可能性があり、大変危険」と指摘する。もちろん、同じ失敗を繰り返すような人間は論外だが、失敗の反省、教訓を次の仕事にプラスに生かせる人物こそ役に立つというのである。
御手洗氏が三顧の礼で招聘した役員
サプライズ人事といえば、キヤノンの御手洗冨士夫会長(中央大学法学部卒)の場合もそうだった。御手洗氏自身、社長になるとは思っておらず、四半世紀近く米国に赴任し、創業家の中では傍流のため、「副社長止まりだ」と思っていたようだ。
しかしながら、創業者の息子である御手洗肇社長が急死したため、急遽社長に昇格した。社長就任後、御手洗氏は、当時強力な権限を持っていた事務機事業部の出身者などを傍流に替える。「集中と選択」路線を推し進めることで、組織を強力な中央集権型にする狙いがあった。
その後、親戚や同郷に近い出身者を役員にするケースもあった。現社長の内田恒二氏(京都大学工学部卒)は御手洗氏と同じ大分県立佐伯鶴城高校の出身だ。
現在、CTOの立場にある元テキサスインスツルメンツ社長を務めた生駒俊明副社長(東京大学大学院工学系研究科博士課程修了)は、御手洗氏が三顧の礼で招聘したと言われる。今のところ社長になれるかどうかは、人事権を握る御手洗氏と親戚関係や大分の地縁も含めて、近い関係にあるかどうかが大きい。
役員体制を見てもその傾向が見られるが、最近は、急速な経済状況の変化で、従来キヤノンが得意としてきた米国、欧州中心のビジネスから、中国やインドなどの新興国にビジネスの比重が移りつつある。そのため、事務系では中国やアジアを熟知する役員が重宝されつつある。かつては欧米市場担当者が多かったが、ここ数年でアジア色が出始めているのは興味深い。
社長に選ばれるためのエリートコースが比較的鮮明なのは総合商社である。例えば、三菱商事は機械畑、住友商事は鉄鋼畑出身の社長が歴代続いている。しかし、三菱商事の次期社長に内定した小林健常務執行役員(東京大学法学部卒)は、佐々木幹夫会長(早稲田大学理工学部卒)、小島順彦社長(東京大学工学部卒)と同じ機械畑だが、登竜門といわれるニューヨーク勤務や企画部門の経験がなく、船舶関連の仕事が長い。海外赴任先もシンガポールなどでアジアの事情に詳しく、商社などでもアジアシフトの傾向が強まっている。
伊藤忠商事の場合は、ひと昔前は、大企業の社長像がぴったりくる人物が多かったが、1998年に丹羽宇一郎社長(現会長)の就任後は、より個性とスピード感が増す経営になった。当時、3900億円もの特損を計上するが、その後V字回復させ、ファミリーマート買収などを手掛ける立役者となった。その丹羽氏は6年で社長を辞めると明言し、「スキップ・ワン・ジェネレーション」(次世代の社長は、一世代下の幹部から選ぶ)で、後継者に10歳下の小林栄三社長を選んだ。
指名の理由は「論語の五常(仁義礼智信)に加え、儒教の精神である『温』を持っていること」だ。生き馬の目を抜く商社のなかで、従業員や取引先に対する人間的な優しさは群を抜いている。若手社員から、今でも飲みに誘われる親分肌でもある。丹羽氏は名古屋大学、小林氏は大阪大学卒で、戦後初代社長の小菅宇一郎においては、八幡商業高校出身である。4月1日付で社長への就任が予定される岡藤正広副社長は東京大学出身だ。伊藤忠には、学閥は存在しない。
ストリンガー会長と「四銃士」若手役員
個性派揃いの社長を輩出してきたのがソニー。創業者のひとりである盛田昭夫氏は大阪大学卒の国際的なビジネスマン、大賀典雄氏は東京芸大、ベルリン国立芸大卒業の指揮者で、出井伸之氏は早稲田大学政経学部卒、欧州帰りでソニーのデジタル化を大きく推進した経歴を持つ。
現トップのハワード・ストリンガー会長兼社長は英オックスフォード大卒、米CBS放送のプロデューサー、ジャーナリストとしても実績があり、エンターテインメント分野を熟知する。ハード分野の知識を補っていたのが、前社長の中鉢良治氏(東北大学大学院工学研究科博士課程修了)だが、09年4月の新経営体制で副会長となった。
ソニーブランドは、世界中に浸透しており、AV機器から、映画、音楽、金融、ゲーム、ネットワークなど幅広い分野を統括するソニーの社長、会長には高い国際能力とともに、ハードとソフトの未来を予測する力がないと務まらない。逆に言えば、デジタル化が進行する出井社長までは、「SONY」のブランドをいかに世界に広めるかが大切だったとも言える。
しばらくストリンガー体制は続くと思われるが、ストリンガー会長と思考を共有し、戦略を具現化する「テクノクラート」が重宝されている。目下、ストリンガー会長を支えるのが、「四銃士」と言われる役員で、吉岡浩執行役副社長(京都大学工学部卒)、平井一夫執行役EVP(国際基督教大学教養学部卒)、石田佳久業務執行役SVP、鈴木国正業務執行役SVPだ。
もともと、ソニーは技術志向が強く、「国際派」ではなくても技術をしっかり理解した役員も存在した。ただ、ハードとソフトというデジタル化時代に対応できる役員として四銃士の中から、次期社長が就任すると思われる。いずれも、海外経験が豊富で英語が堪能のグローバル志向の合理主義者。4人中3人が、40代から役員を経験し、ソニーの主流であるエレクトロニクスではなく、IT、通信、ゲームの分野からの登用である。
サラリーマンにとって「出世」は最大の関心事だ。しかし、どの企業でも、役員への昇格の道は、非常に厳しく、会社の規模が大きくなればなるほど至難の業であるのは言うまでもない。ただ年を追うごとに、役員への道は、確実に狭くなり、競争は激しくなっている。サラリーマンにとって、役員に選ばれることは、それまでの仕事が評価された一つの証明だが、巡り合わせも含めて多少の運、不運があることは避けられない。 
 
「ゴマスリ」と「モーレツ社員」

 

モーレツ社員は過去のものか?
かつて、1980年代後半を中心として日本企業の競争力が世界的に旺盛で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた日本経済の全盛期に、「モーレツ社員」「企業戦士」などという言葉が生まれた。これらは日本のビジネスパーソンが仕事一筋に猛烈に働くことを指すもので、一方で「働き過ぎだ」という揶揄でもあったが、他方で「われわれはこんなに働いていて素晴らしい!」という誇りに近い感情がこもった言葉だった。
当時の職場は、メーカーであれ商社であれ、あるいは証券会社であっても、「ウチの会社はこんなに忙しい」「ウチの会社はこんなやり方で(猛烈に)働いている」といったエピソードを豊富に持っていて、社員は概ねこれを誇りに思うような風潮があった。現在45歳以上くらいのビジネスパーソンなら、当時を振り返って懐かしく思い出すエピソードが幾つかあるのではないだろうか。
しかし、90年代前半にいわゆるバブルが弾けて日本が長引く不況に入り、経済の成長率が低下するに従って、「働き過ぎ」に対する修正の機運が出て来て、近年では「ワーク・ライフ・バランス」と呼ばれるような概念がもてはやされるようになった。
日本人の生活は随分豊かになったし、特に近年重要になっている知的な労働に関しては、単に時間をかけると生産性が上がるというものでもないので、労働時間よりも能率を意識し、企業以外に家族や社会とも十分に関わりをもって生活全体のバランスを取ることを良し、とするのは悪いことではない。とはいえ、日本の経済や多くの企業が、かつてのような熱意を伴った勢いを失っているようにみえるのも事実だ。良くも悪くも日本は成熟化したということだろう。
筆者は最近、韓国のサムスン社でマネージャーを務めた経歴を持つムン・ヒョンジン氏が著した「サムスン流仕事の流儀 〜5年で一流社員になる〜」(サンマーク出版)という本を読んだのだが、この本に出てくるサムスン社員の働きぶりと仕事場の雰囲気は、まさに1980年代の日の出の勢いの日本企業のものに近いと思った。
たとえばサムスンでは、出張報告は帰りの飛行機の中で書き、オフィスに戻る時には報告書が出来ていなければならないので、飛行機の中でノートパソコンを開いて仕事をしているのはたいていサムスンの社員だ、といった話が出てくる。
また、「退社時間を考えることは、自分の人生を考えることだ」と題する項目には、「自分の人生にとって退社後の時間が本当に重要だと考え、どうしても残業に耐えられないというのであれば、思い切って転職することも必要だ」という記述もある。
近年のサムスン社の業績が優れていることは世界に知れ渡っている事実だが、サムスンの社員が、スピードを重んじながらハードワークに耐え、こうした働きぶりを誇りに思っていることが伝わってくる。「そうだ。あの頃われわれもこうだった」と日本の中高年ビジネスパーソンには懐かしい思いのする本だ。
しかし、若いビジネスパーソンの中には、「そこまでする意味があるのか?」「それで本当にいい仕事が出来るのか?」といった疑問を覚える方も少なくあるまいと思う(同時に、そう思う若者の方が見込みがあると筆者は思う)。 
「ゴマスリ」をどこまでやるか?
前記の本を読んで若いビジネスパーソンがさらに疑問を持つかもしれないと思う点は、この本では上司に気に入られるように振る舞うこと、いわゆる「ゴマスリ」の効用が臆面もなく強調されていることだ。
サムスンの役員に扱いやすい人物は一人としていないので、誰が上司であるかによってこれに合わせて働き方を変えるべきだということが書いてある。たとえば、副社長が昼食の後に「誰か、歯ブラシと歯磨き粉を持っていないか」と問うたら、その翌日には複数の役員がポケットに歯ブラシと歯磨き粉を用意しているだろう、という例が出てくるし、上司の性格や癖、好みなどを細かく記録した手帳を武器にスピード出世を遂げた人(後の常務取締役)の話も出てくる。このエピソードの後には「結局、出世には業務処理力は不可欠だが、それがすべてではないということだ」「できるだけ上司といる時間を楽しみ、出世に強くこだわることが大事だ」という著者の見解が披瀝されている。
本には、仕事は出来るが勤務時間などについて社内の別の相手に合わせようとしない「『アメリカ式スタイル』にこだわる人」も登場するが、この人はサムスン社内の成功者としては描かれていない。
かつての日本でも、サラリーマンはゴマスリをするものとの理解があって、たとえば森繁久弥さんが社長として登場する一連の映画では、社員が競うように社長にゴマをする様子が面白おかしく描かれていた。筆者がはじめて入社した(1981年のことだ)会社でも、似たような場面が時々あって、「映画やテレビドラマのサラリーマン世界は冗談ではなかったのか。これは、ひどい会社に入ってしまった」と新入社員の頃に思ったことを思い出す。
読者は、どこまでゴマスリをやるべきだと思われるか。 
「モーレツ」と「ゴマスリ」の哲学その一
さきの本一冊だけからサムスン社の雰囲気や社員の働き方を決めつけることはできないが、同社の社員がハードワークと仕事以外の気遣いも含めた厳しい社内競争を戦いながら、自分の会社に大いに誇りを持って働いているらしいことはよく伝わってくる。
では、現在の日本の職場はどうなのか、ということになるがこの本のサムスン社ほどではないが、基本的な原理は変化しておらず、「モーレツ」も「ゴマスリ」も相変わらず有効性を保っていると言い切っていいと思う。
但し、これらの表し方がこの本にあるサムスン流ほどあけすけではないし、会社の先輩社員は、後輩たちにゴマスリの方法や社内の自己アピールまで含めた働き方のスタイルについて、かつてのように自信を持って教えることがなくなっている。この点を思うと、内容に全面的に賛同するわけではないとしても、サムスンについて書かれたこの本を一読することを、若いビジネスパーソンやこれからビジネス界に出る学生などにお勧めしてもいいのではないかと考えている。
尚、筆者の経験から判断しても、外資系の会社(米系、欧州系を問わず)の在地オフィスでは、「社員はモーレツに働くべし」と表だって強調されることは少ないが、「ゴマスリ」は有効だし、場合によっては日本の会社の職場よりも濃厚に行われている。また、「モーレツ」な仕事ぶりで自分をアピールする社員はいる。
働き方は人それぞれでいいわけだが、こうした現実に気付くのが遅れて後から後悔する場合もあるので、事前に心の準備をしておく方がいい。
「モーレツ(な働き方)」及び「ゴマスリ」は以下のような観点から効用が理解できる。
1 にとって会社は競争の場であるという現実を直視すべきだ。
2 はしばしば僅かな差で決着するので、努力を惜しむとそれまでの努力が無駄になりかねない。
3 事が最優先だ」という価値観を示すことが信頼と団結につながる。「モーレツ」と「ゴマスリ」はこのシグナルとして機能する。
4 は感情で意思決定が左右される生き物であり、上司も例外ではない。
5 に気持ちよく仕事をさせることは、自分の仕事、ひいては会社の業績の改善につなげる有力な手段の一つだ。
簡単に補足しよう。
職場が個人にとって競争の場であることは、昔も今も大きくは変わらない。ただ、市場や会社が成長している場合の方が、成功感を抱くことが出来る社員が多いとはいえる。
ビジネスに於ける人の評価は、「90点の業績に対して90の評価と報酬」といった成果に「比例」するものではなく、「A君よりもB君の方がデキる」といった「順位」によるもので、その差は何十点もあるかも知れないし、ほんの1、2点かも知れない。
また、上司・同僚・部下の別を問わず他人と一緒に仕事をする場合、相手がどのくらい働いてくれるのかが分からないと相手を信頼することができないが、「常に全力で(モーレツに)働く」、「仕事のためにはプライドも捨てる(ゴマスリも辞せず)」という態度を見せることが、会社と仕事に対する「忠誠心」を示すシグナルとして機能する場合がある。通常、他人同士の関係では、相手の能力や性格を詳しく知る暇がないこともあるし、それだけの十分な手間を他人にかける人も少ないのが現実だ。たとえばモーレツに働くことは、自分の価値観のアピールとしては分かりやすい方法の一つだ。
加えて、ゴマスリもこれが上司のコンディションを通じて仕事の役に立つなら、仕事の手段として使わない手はないという考え方もあるだろう。
「モーレツ」にも「ゴマスリ」にも、一定の合理性があることはご理解頂けるだろう。 
「モーレツ」と「ゴマスリ」の哲学その二
読者の中には、ワーク・ライフ・バランスを犠牲にしてまで働くことを有効だと考える会社のやり方自体に疑問を感じる方もおられるだろうし、ゴマスリに喜ぶ上司は人間としてレベルが低いと憤慨される方もおられるだろう。誤解を恐れずにいうと、筆者もその一人だ。先の本の中に書かれているサムスン社のような会社とは一線を画する職場で、あるいは人々と一緒に働きたいものだと思う。また、仮に自分が社長ならそうした職場を作りたいものだ、とも心から思う。
しかし、自分が社長でも社員でも、現実は必ずしも思い通りにはいかない。度を超した「モーレツ」や「ゴマスリ」が有効な場面に、実際に遭遇することは職業人生の中で何度もあるはずだ。
こうした時に、自分の価値観と現実の必要性との間で折り合いを付けるには、「社外の人も社内の人も、共に自分にとって『顧客』なのだ」と考えると、状況に納得できることが多いし何をしたらいいのかを直ちに理解出来る場合が多い。
サラリーマンの場合、自分にとっての「実質」を考えてみると、社外の顧客よりも、社内の上司や同僚、部下こそが「自分の顧客」(=サービスの対象)であることが少なくないはずだ。自分の人格ひとまとまりを一つのサービス会社のようなものだと考えて、社内の人々も自分の「顧客」だと考えるといい。たとえば、自分が社長で自分という社員を使ってどう仕事をしたらいいかを日々考えているのだ、と仮想すると分かりやすい。
ビジネスの場では、顧客に対してなら努力のポーズを見せたりお世辞を言ったりすることに抵抗がない人が多いのではないか。もちろん、嫌なものは嫌で構わないし、ワーク・ライフ・バランスを崩しても誰も助けてくれないので、どのように働くかは自分で決める以外にないのだが、有効な手段だと思えばこれらを使うこと自体に躊躇を覚える必要はない。また、さらに一歩進めて、これらを使うことも含めてビジネスを楽しんでいるのだと思う方便もある。自分に合った方法を柔軟に考えて欲しい。 
 
能力無きものが出世したければゴマをすれ!

 

サラリーマンが役員クラスまで出世するには、二つの行き方があります。当然、その王道は、頭脳明晰で仕事が真にできる人の出世です。このタイプは、業界状況に恵まれれば会社のトップまで上り詰めることが出来ます。そして、もう1つはゴマすりによる出世です。このタイプはトップまで上り詰めることはほとんどありませんが、運が良ければ平取締役くらいまではなることができます。王道で出世するほど頭が良くない人にとっては、このゴマすりによる出世方法がなんと言ってもお勧めです。しかし、どちらのタイプでも出世階段には大きな落とし穴がいくつも待ち受けていて、そう簡単にはものごとは進むものではありません。
出世と言っても、役員前の部長クラスまでの昇進については、頭脳明晰型もゴマすり型もありません。ひたすら一生懸命に会社に貢献して頑張っていくことです。ということは、この平社員の時代には、ゴマすり型で昇進していく人は殆ど皆無ということです。もしこの頃からゴマすり型だったら、同僚から嫌われ、会社では、つまはじきにされている場合が多いでしょう。平社員時代において出世街道の仲間入りをするには、少なくとも、同期の連中からは一目置かれるような存在であり、人間的にも優れていなければなりません。会社の仕事はもちろん、自己研鑽に努力し他人より優れた領域を持つことが必須です。また、チーム力を発揮できるようなリーダー的資質も絶対に必要です。
実力があり頭脳明晰で仕事がバリバリできる人は、間違いなく出世していきますが、その中には、上司から好かれるタイプ(ゴマすりとまではいかないが、上司の意見には逆らわない)と、どちらかと言えば上司よりは部下から好かれるタイプ(上司にもズバズバと意見を言い、ときとして逆らい生意気と思われている) に分けられます。しかしながら、どちらもタイプも実力があり、上司から目立つ存在であることは最低限でも備えていなければなりません。
私の知っている限り、会社のトップまで上りつめるような人達は、上司の意見には逆らわないタイプの人間のほうが圧倒的に多いのです。そこで現在、貴方のような頭脳明晰の実力サラリーマンが社長を狙うなら、この上司の意見には逆らわない路線が一番無難でしょう。なぜなら、自分を引き上げてくれる上司も、実は、以前に同様なタイプの上司から引き上げてもらっているからです。したがって、その昇格理由として、たいていの場合は人格が温和であり、バランス感覚が優れているという、これといって卓越した才能をもたない、上司にとって都合の良い人間が多くなるのです。こうして、日本企業の経営トップ周辺は、チャレンジを先送りして自分達の延命にしがみつき、うそっぱちのコーポレートガバナンスのみの、イエスマンの仲良し組合になっていくのです。最近での好例が、東京電力元会長子分のへろへろ小遣い社長、大王製紙の御曹司社長の110億円カジノ横領事件、そしてオリンパス天皇子分の手もみ総務課長並み社長らの巨額損失隠しに一言もいえない滅私奉公役員どもといったところでしょうか(これじゃ、日本企業が世界に勝ってこないということが良くわかるよねえ)。
個人的な立場から、このようなイスマン会社への出世方法の難点をあげれば、頭脳明晰な実力ある貴方がやっと社長までなったとしても、会社にいる限りは、社長よりさらに実力のある会長、顧問、最高相談役・・・・・などの院政によって、頑迷老人への親分子分の上下関係が死ぬまではっきりしていて、自分が死ぬ頃にならないと、本当の親分になれないことです。下手をすれば、本当の親分になる前に、死んでしまうこともしばしばなのです。
もし、上司の意見に逆らいながら社長までなる人がいたら、それは喝采すべき素晴らしい人間です。でも、これは本来、昇格して社長になった人より、社長昇格を決めた上司、即ち腹のすわった超大物社長が素晴らしい人間だからということにもなります。上司の意見に逆らいながら社長になるには、自分の意見に逆らう部下を容認し、かつ自由にさせるばかりでなく、抑えるところは抑えてコントロールできるスーパー社長の存在が必要なのです。なおかつ、権力にめんめんとせず、 あっさりと社長職をゆずる器量が求められます。日本にこんなトップを有する会社がいくつありますか?ということですから(ほとんど無いということ)、大抵の場合、上司に逆らって出世する頭脳明晰な実力者は良くて常務止まりで、悪ければ子会社へと、さっさと転籍させられてしまいます。このタイプは、親分子分関係になじまなく、また自信過剰の技術系出身者に多いと思われます。これが、日本の社長に技術系出身が少ない理由のひとつになっているのかもしれません。 しかし人生としては、誰にもこびることなく、思うがまま生きていくことができて(実際はそれなりの我慢も必要ですが)、この方が人間的には、ずっと幸せなのかもしれません。
ここからが、本題であるゴマすり出世の話になるわけですが、新橋あたりの居酒屋で酒を飲めば、必ず一人くらいは、“あいつは、ゴマをすったから出世したのだ〜”と、荒れているやからがいるものです。しかし、酔っぱらってこう言っている奴に限って、ゴマをすっても出世できない無能な人間が多いのです。ただ単に、ゴマをすっても決して偉くなれません。なぜなら、ゴマをすって出世するには、ゴマをするべき人(実力ある上司)を見抜く眼力、そして少なくとも、その環境に近づける実力が最低限は必要だからです。だから、“あいつは、ゴマをすったから出世したのだ〜”とか言っている人間は、間違いなく実力は、そのゴマすり人間よりずっと下で、決して出世などできません。まさに、“あいつは、ゴマをすったから出世したのだ〜”は、自分には出来ないねだりのやっかみ半分が入った、出世できない人の典型的な言い訳にすぎません。ゴマすりでの出世レースは、間違いなく、平均点以上の実力が備わっていなければ参加資格など無いのです。
“俺だって、あいつみたいにゴマすりゃ出世できるよ!”と言う人もいます。でも考えようによっては、ゴマすりが出来ることは、頭脳明晰よりすぐれている特質かもしれません。なぜなら、誰でもが一生懸命に努力すれば、ある程度は頭脳明晰組の仲間入りができ、出世の可能性が開けてきます。しかし、ゴマすりは天性のもので、決して努力では獲得できません。したがって、ゴマすりが出来る人間は、一生懸命に努力して出世するより人間より、優れた特質をもっているといえるのかもしれません。もう一度言います、“俺だって、あいつみたいにゴマすりゃ出世できるよ!”と言っている人間は、頭脳明晰でもなく、またゴマすり特質も持たない平凡な人間で、出世など到底できない種類の人間なのです。
しかしながら、このゴマすりの方法で役員へ、ましてや社長への出世はかなり無理でしょう。せいぜい、直轄役員の元での本部長クラス程度でまでが良いところでしょうか。なおかつ、会社や日常生活では、完全イエスマン型に徹し、上司のご機嫌取りにために、ゴルフや釣りなど休祝日も割いて、滅私奉公しなければなりません。もし家族旅行でもしたら、地元名産のおみやげは決して忘れはいけません。月曜日の朝一番で上司の部屋に伺い、世間話をして、ご機嫌をとりましょう。でも、大企業だったら本部長は素晴らしい役職で、そんなに簡単になれるものではありません。真の能力では出世できない部長止まりが、ゴマすりで本部長までの出世できることは、それなりにサラリーマン人生の大成功です。
ゴマすりタイプの出世にも危険はつきまといます。直属 上司が左遷、転勤、退職でもしたら、あっという間に自分の居場所が無くなります。もし直属上司の反対派が上司になったら、かなり悲惨な目にあうことは間違いありません。しかしながらこのような場合に、ゴマすり型の貴方は決してうろたえてはいけません。スーパーゴマすり人間ならば、その風を事前に察知し、さっと新上司にゴマすり先を鞍替えすれば良いのです。あっという間に権力に擦り寄る、風見鶏的な器用さが無ければ、勝ち得た役職を継続することなど出来ません。これが真のゴマすりの免許皆伝の極意なのです。
なお付け加えておきますが、ゴマすり出世での一番の弊害は、部下からまったく尊敬されなくなってしまうということです。したがって、それを抑えつけるため、上司へはもみ手でも、部下には権威を振りかざしているのが常套手段です。もし、部下が上司とでも直接に接触しようものなら、すぐさま呼び出し、“いま上司と何をしゃべっていたの?”と疑心暗鬼の眼で聞きにくるに違いありません。そして当然ながら、部下から嫌われていたゴマすりタイプが退職でもしたら、それ以後、会社の友人がまったくいなくなり、それはそれは、悲惨な老後になる危険性を十分に認識しておくことが大切です。
しか〜し、繰り返しますが、ゴマすり出世も並みの頭脳明晰以上には価値があり、決して誰でもができるものでもありません。自分自身の能力だけでは出世できないと感じている人は、積極的にこの特質“ゴマすり”を活かしてて出世することをお勧めします。繰り返しますが、ゴマすりは中途半端な頭脳明晰より、ずっと優れた特質なのです。特に本人よりも、給料の上がる奥様が喜ぶはずです。自分自身も家族も幸せにできるなんて、“ゴマすり”は間違い無く素晴らしいことなのです。 
 
保身の殿様と茶坊主の群

 

「K会」と「A会」などという、いかにもウシロメタイ名前を付けて、大手建設会社の47社が談合を続けていた悪事が発覚してしまいました。40年も世間の目を逃れて、旧建設省と道路公団の陰に隠れて、せっせと税金の無駄遣いをしていたようですが、厚生労働省が株でスッタ年金資金と同じように、弁償などしてはくれないでしょうなあ。談合の中心になっていた企業には、ちゃんとお役人様が天下りしていて、古巣の役所に行っては「御用聞き」に努めてもいました。こういう事件が起きたからには!と張り切って、奥様(オジョーサンと呼ぶらしい)方のアイドル?みのもんたさんが、脂ぎった御顔を朝っぱらから晒(さら)している『朝 ズバ』とか言うニュース・ショーを見てみようと思いました。随分と高いところから御説教を垂れるくらいに、テレビ業界では偉くなっておられるらしいのですが……  
結果は、心配していた通りにがっかりしたものでした。広いスタジオに設(しつら)えられた豪華なセットの中をハイ・テンションで動き回り、毒にも薬にもならない御話をしておりましたが、主要ニュースを紹介するコーナーになると、手下の娘っこアナウンサーに原稿を読ませて、どういう基準で選ぶのかは分かりませんが、図だの表だのをフリップにした小道具(準備するスタッフの皆さん、御苦労様です)が用意されている話題だけ、尤もらしい御説教付きでオシャベリのネタにする番組のようですなあ。 
問題の「談合事件」に、どんなコメントを付けるのか?固唾(かたず)を呑んで観ていましたが、どうしたのでしょう?娘っ子アナウンサーが原稿を読み上げている間、みのもんたさんは姿を現さず、原稿読みが終ると同時に切り替わった画面には、三菱自動車が大赤字になった話題に関連したフリップを持ってハシャイデいるみのもんたさんが映りました。結局、御自分が身を置いて、文化放送をクビになった傷心時代を過ごした「水道業界」で、きっと実際に体験(参加)した談合に関するコメントが出るかと、無理な期待をしてしまった自分が馬鹿でした。あんなにお喋りなみのもんたさんが、不思議なことに一言も発しませんでした。 
こういう卑怯なニュース番組の作り方をしていると、本当に「観ようと思って観てくれる」視聴者を逃がしてしまうのではないでしょうか?北朝鮮による拉致事件の被害者家族が大嫌いらしい筑紫哲也さんも、長い間、家族会の運動を一切取り上げなかったのですが、いよいよ番組で取り上げないのは不自然と思われ始めると、みのもんたさんと同じように、娘っ子アナウンサーや兄ちゃんアナウンサーに原稿を読ませて、取材映像を流すだけで、御自分の姿が出る時には、がらりと話題が切り替わっているという演出方法を厳守しているようですなあ。 
どうしても他のニュース番組を観られない時に『筑紫哲也のニュース23』を観るのですが、自分の名前を番組に冠する度胸も大したものですが、皆様のNHKで受信料を使って訓練されたはずの女性アナウンサー(と呼ぶには技術が稚拙過ぎますが……)が、つっかえたりトチッタりしながら原稿を読み、必ず「次ぎは筑紫サンの多事争論です」と、毎晩、「サン」を付けてオベッカを使います。企業内の電話の取り方をNHKでは訓練しないようです。子供じみた言葉遣いに不愉快になる人はいないのでしょうか? 
余り年を食ったキャスターに頼り過ぎると、テレビのジャーナリズムとしての機能が失われるような気がします。長年、書いたり話したりしている内に、イデオロギーの壁(バカの壁と同じもの)に取り囲まれてしまうのですから、70歳前後の有名人?を画面に出しておけば適当に視聴率を稼いでくれるだろう、などと暢気に構えていると、次世代を担う人材が見つからなくなるばかりか、最新の放送技術に見合う「コンテンツ」を得られないというホリエモンが大喜びするような失態を演じることになりますぞ!そうなれば、テレビ・メディア自体が朽ち果ててしまうのではないでしょうか?大体、人という物は、年を取るとセッカチになって頑固になるものですから、刻々と変化する情報を捌くのには向いていないのです。特に、過去の経験の延長では解釈不能の事態が続々と起きている時代に、古色蒼然たる自分の思い込みで何かを語るたびに、時代とのギャップを露呈させてしまうことになります。「この程度の有権者には、この程度の政治家」と言われるように、「この程度の視聴者には、この程度のキャスター」で宜しい、と舐めてかかっていると、すぐに人材払底の火の車になりますぞ。 
JR西日本が、民営化の過程で運転手の年齢に大きな谷が出来てしまった事が指摘されていますが、40代のキャスター候補がいないと、或る日突然代替わりしなければならなくなって右往左往する事は目に見えているのではないでしょうか?まあ、その頃にはテレビを観る人が減って、演歌とお手軽ドラマを楽しむ年金生活者と、暴力アニメが大好きなガキンチョと、「自分もアイドルになる!」と妄想している中高生ぐらいしか視聴者にならない可能性も有りますから、テレビにジャーナリズムを求める時代は終っているかも知れませんなあ。 
一度も観ていませんが、一時代を築いた久米宏さんがモーニング娘の誰かさんと組んで新番組を始めたそうです。何を考えての復帰なのか、業界の外にいる者にはさっぱり分かりませんが、案の定、余り観てくれる人がいないようですなあ。大橋巨泉さんという方も、既に身の置き所が無くなっているテレビ画面に闖入(ちんにゅう)して、恥を晒しているようですが、日本中がテレビを応援していた時代に働いた人たちの「老後」を誰かが心配してあげないと、トンデモナイことになるのではないか?と陰ながら心配しています。 
各テレビ局が抱え込んでいる「不良債権」のような看板キャスターや御意見番のような御老人方は、絶大な人事権を持っているはずですから、自分の看板には絶対に傷を付けるない、オベッカ使いやイエス・マンばかりを依怙贔屓して恥の上塗りの準備をしていそうです。先日も、週刊文春にJR西日本の垣内社長が抜擢された裏事情が掲載されていまして、あの歯切れの悪い、どこか他人事のような物言いが、どこから湧いて来るのかを解明していました。要は、我がまま放題の人事権を乱用して露骨な依怙贔屓をし続けた前任者が去った後には、その独裁者の気に入る事だけに熱心なゴミのような人材しか残されていないという当たり前の話なのでした。何とも恐ろしいことですなあ。 
際限も無く連続している大企業の不祥事を、得意になって放送して稼いでいるテレビ業界自身が、まったく同じ問題を抱え込んでいるのですから、これは潜在的な喜劇でしょう。そんな事を考えていたら、みのもんたさんが長年続けている昼のワイド・ショーで舌禍事件を起こしたらしい、との噂が耳に入って来ました。さてさて、どんな展開になるのやら。毎日のニュースで聞き飽きている「タイヘン、モウシワケアリマセンデシタ」の集団ペコペコ体操を披露して、強引に幕引きとするのか?テレビ局側が掌を返して、業界全体で「みのもんた抹殺作戦」を発動するのか?どちらにしても、見栄えの良いものではないですなあ。 
誰か止めなきゃ、みのもんた!

 

個人的に恨みが有るというわけではないのですが、メディアの大変革期に急成長したこの人物が気になって仕方がありません。余り上手な比喩ではないのですが、ちょっと昔に『積み木くずし』という箸にも棒にも掛からない馬鹿親子の半ドキュメント本が、理由も分からずに大流行して、テレビでドラマ化されたり映画化までされる騒動がありました。家庭を放り出して「役者馬鹿」の美名に隠れてクセの有る演技を売り物にしていた穂積某氏が、地獄図と化した自分の家庭を「赤裸々に」書き殴った文章を、多分、一流の編集者が丹念に手を入れて、有りもしない「家庭の復活劇」に仕立て上げたのでしょう。これを間に受けた人々が沢山いたのでしたなあ。 
黒澤明さんの『酔いどれ天使』という名作映画が引き起こした奇怪な現象を、監督自身が驚き呆れて見ていたという実話が有ります。主人公は貧民街で医療活動を続ける一人の医者で、彼が出会った救いようの無い人物の中に、エナメル靴に白いサマー・スーツを着た三船敏郎演じる馬鹿なヤクザ者が登場します。黒澤さんが狙ったのは、志村喬演じる無名の医師が放つブッキラボウなヒューマニズムだったのですが、映画が大ヒットすると、町中に馬鹿なヤクザを真似た兄ちゃんのコピーが大発生したのでした。 
『積み木くずし』という本も、親の自覚を呼び起こすどころか、テレビで再現された荒れ果てた家庭の風景と、そこで猛獣のように吼えては暴れる馬鹿娘の「ファッション」が大流行したのでした。奇妙な髪型に暴力的な化粧、一冊も教科書が入っていない学生鞄に、相手を区別しない「日本語」、そして親から毟(むし)り取った金で身を滅ぼしていく馬鹿娘を真似るタワケ者を大発生させました。「テレビで観た」というのが強力な免罪符になるのが、この国の大きな弱点で、今でもこの免罪符が親子代々、途切れる事無く伝えられているご家庭が沢山存在しているようでありますなあ。 
面白い演技をして楽しませてくれた穂積さんは、家庭よりもパチンコを愛するダメ親爺だったようですが、本の売れ行きに便乗して、「教育評論家」になってしまったのが大間違いで、話など聞かずに「話題の人の顔」を見たいだけの参加者を集めた講演会も大繁盛してしまい、大好きなパチンコの軍資金が溢れ返って、ますます現実の家庭の積み木は崩れるどころか、粉々になってしまいました。誰も、彼を止めてはくれなかったのです。それが世間と言うものだ、と割り切れば話は終わりですが、ブッコワレタ家庭の惨状をテレビ画面で学んだ人々が、現実の家庭を構築する努力を放棄した結果が、最近の奇怪な事件の続出に直結しているとしたら、過ぎ去った他人事だと放置してはおけなくなります。 
メディアを弄(もてあそ)ぶ者に対する警戒態勢が備わっていないのが、テレビ業界の弱点です。視聴率さえ取れれば、犯罪者であろうと、詐欺師であろうと、ご機嫌を取って使い切ってしまおうとする体質は恐るべきものがあります。作り手も受け手も、「所詮テレビではないか」と油断しているのですから、危険はますます増大します。テレビの人気者にさえなれば、現実社会の中でも万能の力を得たような錯覚に陥って人生を台無しにしてしまう人が後を絶ちません。萩本欽一さんが大活躍した『スター誕生!』という罪深い番組を怒ったことも有りましたが、芸能界を冷めた目で見詰める知恵を持っていた山口百恵さんという人材を発掘したという功績が有るので、やはり、自己責任の問題なのか、と見識を改めました。 
テレビにオモチャにされているのか、テレビをオモチャにしているのか区別が付かなくなるのは危険です。テレビ局と酒場を往復するような生活をしていれば、苦言も教訓も聞く必要は無くなります。2005年3月24日の朝日新聞に、決定的な記事を見つけてからは、テレビ蘭を注意して見るようになりました。
文化放送に入社して3年目、いきなり深夜放送「セイ・ヤング」を担当させられたんです。本名の御法川法男(にのりかわ・のりお)では分かりにくいから、「みのもんた」と野末陳平さんが名付けてくれた。……トークはめちゃくちゃ。ディクスジョッキーの訓練なんて受けてないし、音楽のことも分からない。お粗末なおしゃべりでしたよ。内容が無くて心配だから早口になっちゃう。 
当時を知っている方ならば、「本当にそうだった」と頷(うなづ)くはずです。妙にギーギー声の、一人でハシャイデいるだけで、聞いている方が居たたまれなくなるような放送だったと記憶しています。でも、こんなに的確な「自己批判」……懐かしいですか?……めいた台詞が吐けるというのは、余程の自信が手に入ったのでしょうか?「セイ・ヤング」時代を知っている者にとって、特に成長や上達は見当たらないのですがねえ。ところが、御本人には悟るところがあったらしいのです!それは「面白くなければテレビじゃない」フジ・テレビがヤケクソで作った『プロ野球、珍プレー好プレー』のアテレコ体験ではなくて、昼のワイド・ショーで「君のは無駄話だ。これはトーク・ショーなんだぞ。ゲストを4人も入れているんだ。ゲストに話をさえろ」と言われた時だったそうです。 
それで開発されたという今のスタイルは、単なるスタジオの「内輪話」でしかないような気がするんですが、当の番組をきちんと観た経験が無いので、もっと奥深い味わい方が有るのかも知れませんが、たまにチラリと覗く程度の視聴者としては、オバチャン(お嬢さんと言わねばなりません)達をスタジオに並べて、実物の有名人を見せて、少しだけテレビ画面に入れるというだけの仕掛けと、きわどい覗き趣味を利用して「人生相談」という名目で、電話という覆面性を利用した同情の名を借りた「アノ人よりはアタシは幸せ」感覚の満足を狙った企画と、どうでも良いような「食ったら健康」話を混ぜて、夕食の買い物を助けるだけの番組だったようにしか見えなかったのですがねえ。 
ここからが本題です。このオバチャンの喰いすぎた昼飯の腹ごなし用のワイド・ショーで悟ったみのもんたさんは、放送文化の頂点にまで舞い上がってしまいます。
しゃべりって、究極的にはイメージの広がる音が出るか、出ないか。言葉が巧みなのも大事かもしれないけれど、やっぱり音だと思う。技術じゃない。気持ちをそのまま音の波長に乗せられるか。
たとえば、徳川夢声さんの間と緩急。「そのとき」と言ってその後、放送事故と思われるギリギリまで沈黙して、「武蔵は」と続ける。先輩に言われて、ストプウォッチで間を計ったら6秒もあった。それをテレビでやったのは僕なんですよ。00年に始まった「クイズ$ミリオネア」。簡単よ。「ファイナル・アンサー?」と僕が尋ねるでしょ。そして、解答者が悩んだ末に「ファイナルアンサー!」と答える。僕はじーっとギリギリまで黙ってから、正解かどうかを告げる。その沈黙の時間に、解答者の色んな思いが画面を通じて伝わるんだよね。 
出来の悪いオカルト話です。こんなヨタ話を、「ご尤もです」と畏(かしこ)まって聞いている悪いヤツがいるのでしょうなあ。徳川夢声さんの『宮本武蔵』の朗読は、50年も経ってからCD化されるような日本の放送文化の至宝ですぞ!それが、どうしてあの不愉快な「ファイナルアンサー」なのでしょう?クイズというので、一度は観た覚えがありますが、今も続いているのは、ちょうど脂ぎった顔がアップになってからCMになるモッタイブッタ時間に、トイレに立ったり小さな用事を済ませているだけのことでしょう。あのクイズ番組で知識や教養を高めようなどと思っている者は皆無でしょうから、「色んな思い」ではなくて、大金欲しさに恥を晒しに出て来る馬鹿者をアザ笑うためだけに愛好者達は見ているに決っているじゃないですか。 
この不景気に、テレビ業界を弄んで、大金を稼ぎ捲くっている間に、自分ではどうにもならない所まで舞い上がってしまったようで、ご本人の墜落も心配ですが、暇つぶしの説教番組と健康情報番組で時間と知能を奪われる多くの人々の事も少し心配です。テレビという化け物の残酷さが、これから嫌というほど堪能できるでしょうから、みのもんたさんの行く末に注目しておくべきでしょうなあ。御本人は、朝から晩まで、放送時間いっぱい、自分が出ているテレビを夢想しているそうですから、誰か付き合ってあげて下さい。今のうちは「金持ち喧嘩せず」が効いていますが、増長慢からの墜落は悲惨なものになるでしょう。こんなことを考えている自分自身が、下らない暇つぶしをしているようにも思えますが、全国的な放送文化という物は、最も影響力を持っているので、徒(あだ)や疎(おろそ)かには出来ないのですよ。 
日本語を苛めないでおくれ

 

4月から新社会人になった若者の中には、根強い人気の有るテレビ局に就職した人もいるでしょうが、御自分の職業に課せられている責任を自覚して欲しい、と溜息をつきながら思っております。映像を伴って速報性の高いテレビは、今でも報道の中心に君臨しています。「局アナ」と呼ぶそうですが、民放テレビのアナウンサーも皆様のNHKのアナウンサーも不特定多数の視聴者に向って「日本語」を読んだり語ったりする仕事の重みをよくよく自覚して頂きたいと切に願っております。 
先日のチャイナで起こった「反日暴動」に関連した報道番組の中で、日本に留学中のチャイナの学生に感想を聞いていた民放が有りました。語学学習に関しては「習うより慣れろ」が徹底している文法無き言語の中国語を母語とする人達は、語学留学に熱心です。運良く留学出来たら、必死で友人を作ってひたすら聞いて覚えて口真似をしながら、日本語の会話能力を身に付けます。立派な態度だと賞賛すべきことだと思います。しかし、今回の街頭インタヴューに応じてくれた留学生の発言には驚きました。聞くに堪えない軽薄な日本語を流暢に話していたからです。その留学生が交流している日本人がどんな人物なのかが良く分かるインタビューでしたから、聞いている内に強い同情心が湧いて来たのです。 
同年代の日本人と交流しながら、生の日本語を身に付けていることに薔薇色の将来を夢見ているに違いないその留学生は、折角(せっかく)身に付けたその「生の日本語」が障害となって、日本企業には就職できないでしょう。本当に可哀想です。海外からの留学生と交流する時に、自分が相手にとっては唯一の日本代表なのだ、という自覚が無い人物と仲良しになるのは悲劇です。その日本人自身が、就職活動を始めれば、突如として話し方を豹変させる事実を、留学生は知りません。豹変させられない者には内定が届かないという現実を知らずに、ノッペラボウの「タメグチ」を熱心に口真似している留学生は本当に可哀想です。
「……っていうかぁ。……みたいな感じでぇ。……じゃないでかぁ。」
「てにをは」に不自然なアクセントを置いて、語尾をだらしなく引っ張る話し方を熱心に覚えている留学生の姿は痛々しいものが有りますなあ。 
チャイナの奥地から、幸運にも日本に技術研修留学する機会を得て2年間過ごした経験を持つ人を知っています。彼は或る地方都市の小さな工場で働きながら日本語を独学したのでした。彼の教材は、恐ろしいことに「テレビ」でした。彼が熱心に覚えた日本語は、敬語も改まった口調も無い、ブッキラボウな「タメグチ」日本語でした。初対面から馴れ馴れしく話す流暢な日本語に驚いていると、彼は自分の「自然な日本語」に驚嘆していると誤解したらしく、得意になって日本で覚えた「流行語」も熱心に混ぜ込んで話し続けるのでした。留学生を壊してしまうテレビ放送ならば、幼い日本人も壊してしまうでしょう。金貸しと博打の宣伝を垂れ流しながら、「内輪の悪ふざけ」と「醜い喰う姿」ばかりを無責任に放送しているテレビを、日本語の先生と思って凝視している人が沢山いるのです。何と恐ろしいことでしょう。 
頼みもしない番組予告を執拗に流す皆様のNHKも、既に日本語文化に対する責任を放棄しています。親しみを演出しているつもりなのか、馴れ馴れしい「タメグチ」が蔓延する傾向がはっきりして来ましたなあ。今は、受信料を食い散らしている企業体質を糾弾することに話題が集中していますが、NHKに迫るべきは「日本語文化」に対する態度ではないでしょうか?国会でも横領問題を追及するセレモニーを催しましたが、文部科学省がNHKを追求すべき問題は別に有るのです。
読書週間初日の10月27日を「文字・活字文化の日」と定め、「言語力」を育てることを目指した法案が今月下旬にも国会に提出される見通しとなった。超党派の国会議員286人がつくる活字文化議員連盟が成立を目指す「文字・活字文化振興法案」。子供たちの学力低下が指摘される中、国語力の向上につなげる狙いもある。…………
「人類が蓄積してきた知識や知恵の継承や向上、健全な民主主義の発展には文字・活字文化は欠かせない」と明記。知的で豊かな国民生活や、活力ある社会の実現に寄与することをうたっている。さらに、読み書きにとどまらず、調べる力や伝える力を含む幅広い能力を表わす言葉として「言語力」との概念を規定。教職員の資質の向上、学校図書館の充実などを通じて、学校教育における言語力の涵養(かんよう)を図るよう、国や地方公共団体に求めている。5月10日 朝日新聞記事より 
涙が出るくらい有り難い「御上の御威光」を感じますが、議員の先生方の日本語能力の向上がすっぽり抜けているのはどうしたわけでしょう?難問山積の日本の政治状況ですから、テレビでも「激論!」だの「討論」だのが企画されることが増えました。そこで語られる議員先生の奇怪な日本語を誰も問題にしないのは面妖ですなあ。個人的に「迷子のワタシ」と名付けているのですが、議員先生が所見を述べ始めると、唐突に「ワタシは」が挿入されるのです。一体、どこで完結するのかと心配していると、「述語」が無いまま「なんです。」で終ってしまうことが非常に多いのですよ。 
「○○の問題に関して、ワタシは△△と考えているので、ワタシは責任をもって×××という法案を提出します。」という具合に話す議員先生が余りいないようです。
「郵政民営化というのはですね。ワタシは、今の政府案ではユニバーサル・サービスの維持は不可能なんです。もう一つ言うとですね。ワタシはですね、ワタシは、民営化されれば、どうしても利益優先になって収益が上がらない地方が切り捨てられることは目に見えているんです。」
余り気の利いた例ではありませんが、こんな「迷子のワタシ」を強引に挿入して放置してしまう「言語力」をどうにかするべきでしょうなあ。本当は、「この○○県第△区の××は」と言いたいのでしょうが、文法的に破綻している発言は、論旨不明なだけでなく、無責任な放言で終ってしまうのです。 
テレビやラジオのアナウンサーが平気で使う恥ずかしい日本語の代表例は、「なんですが」の連打に尽きます。
「はい、というわけで、次ぎの話題ナンデスガ、先週もお伝えしたンデスガ、昨日の夜ナンデスガ、また放火事件が起こったンデスガ、犯人の手掛かりナンデスガ、警察が必死で探しているンデスガ……」
少しばかり誇張はしていますが、こんな滅茶苦茶な日本語を天下に向って喋っている社員に給料を払ってはいけませんぞ!原稿を正確に読み上げられないような素人に、気の聞いたフリー・トークをさせようとしても、無理に決っているでしょうに!これから続々と新人アナウンサーが出て来ますから、御用とお急ぎでない方は、一分間に何回「ナンデスガ」を使うか、ちょっと注意して数えてみて下さい。その多さに腹が立ったら、あなたは立派な日本語使いです。 
ちょっとした歴史や科学に関連する話題になると、「ぜんぜん知らないんですが……」などと気楽に白状するような人も画面に出してはいけませんなあ。入社時には「教養テスト」を実施しているはずなのですが、教養の厚みがまったく感じられない人が随分と増えました。それが正直さと親しみを醸し出しているのならば、視聴者はますます馬鹿になってしまいます。幅広い教養と知識を持っていないという事は、意味も分からずに報道原稿を読み上げているという事ですから、必要な情報がまったく得られない薄っぺらな報道番組しか作れないわけですなあ。 
苦し紛れと余った時間の埋め草用に、宣伝番組としか思えない「情報提供コーナー」があちこちに挿入される悪癖(あくへき)がテレビ界に蔓延してるようですが、何を食っても「おいしい!」。小物や衣類を見れば「かわいい!」。何も言わずに、宣伝費を貰っている商品を時間枠いっぱいに大写ししておけば良いものを、若い娘さんが大口開けて物を喰らっている姿と、貧弱な言語表現を垂れ流すのはいい加減にして貰いたいものです。大きな事件や事故が起これば、嫌でも実況放送を見る必要が有る場合、見たくもない画像と聞きたくも無い暇つぶしの「タメグチ」お喋りを聞かされるのは、大変な苦痛です。問題は、この苦痛に多くの人々がすっかり慣れてしまっていることなのですが……。 
話言葉も絶望的ですが、書き言葉の基礎となる漢字の扱いに関しても呆(あき)れたニュースを見つけました。
「人名漢字表」間違いだらけ
国のホームページ「電子政府の総合窓口」から見ることができる人名用漢字の一覧表に、誤字や字体の違いが多数あったことがわかった。……一覧表の字を使って名前をつけたところ、名前には使えない字だったため出生届が受理されなかった例もあり、HPを管理する総務省は正しい字に直す作業を進めている。……規則改正で大幅に増えた新しい人名用漢字に総務省のパソコンが対応していなかったことや、パソコンの操作ミスが原因とみられる。
なつかしい森総理大臣の時代に「IT化政策」を推進したのではなかったでしょうか?お上がコンピュータの基本ソフトを扱えないような国が、どんなデジタル技術を開発するのでしょう?漢字の扱いに関しては、戦後の「当用漢字」と「常用漢字」を決める時にも、専門家の意見を一切聞かずに、二流・三流の御用学者を呼び集めて強引に決定した負債がありますし、人名漢字の制限と追加の決定も素人仕事でした。お役人は、高度な知識を持つ専門家が嫌いです。パソコンの扱いにしても、専門家を入れないから、こんな恥をかくのです。 
テレビ局が視聴率を追い回している間に日本語口語が傷つき、お役人の縄張り根性が優先される間に表記文字がボロボロにされてしまいます。そして、最も弁舌と文章に敏感でなければならない国会議員が奇怪な言語を吐き散らしているのなら、将来を担う幼い日本人は誰を手本にして日本語を身に付ければ良いのでしょう?苦労してやって来る留学生は、どうやって「使える日本語」を身に付ければ良いのでしょう? 
 
世迷いごと十七個条の憲法

 

第一条 昨日まで貴方はいなかった 
あなたは所詮招かれざる客、誰も期待していません
貴方がどれだけ偉い方か、私は知りません。当社もいろいろな事情と思惑があって、このたび御恩義のある方面から貴方をお迎えしました。従って優良とはほど遠い会社です。社内を数日ご覧になるだけで、おかしなところや問題の個所が多々見えてくるはずです。
当社の弱さや欠点は私たちも充分承知しているつもりです。しかし、貴方がいない時でも会社は動いていました。昨日まで生きてきたという事実はお忘れなく。
会社も人間に似て、有機的な組織です。多くの細胞や部品の微妙なバランスのうえで機能しています。急にバランスを変えようとしても容易でないことは、ビジネス経験豊かな貴方のこと、百も御承知のはずです。机上の空論と診断書だけを頼りに急いで手術すると、病気は治ったが患者は死ぬということになりかねまません。
病気の究明と手術が怖くて、不健康なまま生き長らえるのに汲々としている会社もあります。恥ずかしながら、当社もその例外ではなく、それが貴方に入社して頂いた理由でもあります。ただし、短兵急な策に走ると、患者を殺すだけではなく、同僚の医師や看護師から見放されることもお忘れなく。
賢明なあなたのこと、誤解なさることはないと信じていますが、私どもが、この会社は昨日まで動いていたと言って、今まで通りでいいと不遜なことを申しているのではありません。
当社歴代の無能で無責任な幹部には、幾度となく裏切られ、つくづく愛想が尽きました。あなたの識見と手腕におすがりしたいのです。私たち社員の素直で真摯な気持ちを是非お汲み取りください。
いきなり辛気臭いお説教調で恐縮です。これから紹介する十七個条の憲法は、聖徳太子が定めた十七条の憲法を倣っていますが、太子が意図した格調の高い国政の基本ではありません。サラリーマンの心得レベル程度のレッスンです。
もっと具体的には、役人や銀行員が民間会社に転職する(ひらたく言えば天下り)に際して心しておくべき戒めです。私が日本開発銀行(現日本政策投資銀行)監事在職中の十五年前、数代前に監事を勤められた故西沢公慶先輩からこの講義を受けました。
小料理屋の二階で、美人女将立会いのもと、小宮・故村上両先輩と小生の三人で講義を受け、最年少の私が箸袋の裏に各条項をメモしました。第一条から第十七条までの条文に続く太字のカッコ書きは、条文を本音ベースで表現したものです。続く解説文(コメンタール)は、四時間に及んだ講義を最下級生の私が、鉄の年功序列に従って労務提供したノートです。
作業者には有権解釈の特権があり、私の我田引水が少なからず織り込まれていることを御承知おきください。表面の字句に加えて、行間に潜む含意もお読みとり頂ければと思います。
小生もこの五月でフルタイムのサラリーマン生活から退く時期に至り、これを機に講義録に少々加除筆した次第です。
ところで、お前はちゃんと憲法を守っているかなど、野暮なことは聞かないでください。憲法違反の最高裁判決を頂戴する毎日です。 
第二条 宛がい扶持に満足しろ 
給与、車など待遇に不満を言うな
転職といっても、若い人が簡単に会社を移るのとは意味が違います。役所や銀行のような官僚組織の文化に長年どっぷりと浸かったあとで民間会社に移った場合、環境変化のインパクトは想像以上に大きいのです。強烈なカルチャーショックとも言うべきものです。
しかも、貴方は仕事の能力を買われてスカウトされたのではありません。あなたが転職に満足しようと不満であろうと、以前の職場の影響力で今の職を得たのなら、それは間違いなく世間で言う天下りです。
天下りのポストですから、平社員ということはありません。社員トップレベルの部長職ということもないでしょう。普通は、取締役、いや常務や専務という役付役員もあります。役員ともなれば、これまでのサラリーマン生活で経験しなかった手厚い待遇を期待したくなるのが人情です。
運転手つきの専用車、個室と交際費という三つのKを、サラリーマン三種の神器と名付けた大学者(F T教授)がいます。大きな仕事と責任を伴うポストであれば、職務遂行のために相応の舞台が必要なのです。
車と個室、交際費いずれも、高級幹部がふんぞり返るためのお飾りではありません。あくまでも権限と責任の大きな仕事を円滑に行うための仕掛けで、親切心や好意のなせるものではないのです。くれぐれも勘違いなきよう。とらばーゆ早々の貴方に重要な仕事を任せていいものかどうか、決めかねています。
三種の神器は、これまでの功績や仕事の能力を認められた人だけに与えられるものです。サラリーマンの勲章は、名刺に印刷されたポストや肩書ではありません。肩書は、先日管理職に非ずとの判決があったコンビニ店長みたいなものと割り切るほうがいいでしょう。
肩書はサラリーマンの花ですが、お腹の足しにはなりません。三種の神器すなわち三Kがサラリーマンの果実なのです。実力の証明もせずに、三種の神器を露骨に求めるのは、足元を見られるだけです。ご褒美は後払いと決まっています。
三〇年前のことです。課長にもなっていなかったぺーぺーの私に、将来転職(天下り)するときの心得を諭してくれた先輩がいました。小坂さんという一回り年上の方で、早く銀行を辞め、四〇代半ばで石油会社の社長という要職に就かれた大人物です。
「福田君、いずれ転職する時、給料やその他の条件を自分で要求しては駄目だよ。こいつはこの程度のことで満足する奴かと見透かされることを覚えておきなさい。欲は大きく持たないと駄目だ」
一〇年以上早いレッスンでした。小学生が大学の講義を聞いたのです。私の日頃の心もとない言動を心配されて、親身な忠告を頂いたと思っています。このほかにも諸先輩から多くのことを教わりました。私は幸せ者です。 
第三条 二年間は交際費を一切使うな 
あなたの品性と度量が試されている
交際費は飲み食いやゴルフなど遊びに係る出費で、三種の神器の中で最も美味しい御馳走です。ここで言う交際費は会社や部門が組織的に行う行事を含みません。あなた個人として裁量の余地がないからです。問題はあなたの裁量に委ねられる交際費です。
飲み食いやゴルフは、それが業務上のものでも、美味しさや楽しさは個人に帰属します。自分のお金を出さずに楽しい思いが出来れば、こんないいことはありません。
仕事で必要だと屁理屈をつけて、友達や、ひどい場合は家族との私的な遊興費まで会社に廻す輩が跡を絶ちません。逆にどんなに清廉潔癖な人でも、その種の誘惑を感じたことのないピューリタンを私は知りません。
家族との飲み食いは論外として、公的に許される遊興費と私的費用の厳正な境界線は、理論の上では存在しますが、これを現実の問題に下ろすと、一刀両断に出来ない微妙な問題があります。
従いまして、しばらくは安全策をおとりになることを勧めます。経理や秘書から接待費を使うように勧められても簡単に乗ってはいけません。あなたがどのような基準で公私を峻別するか、周りはあなたの品性を見極めようとしているのです。
これまで経験しなかった裁量の幅に舞い上がっているうちに、意地汚いという評判が社内を駆け巡ります。
給料を沢山貰っているのだから、そんなことはないというご意見ですか。
「多々益々弁ず」が人間の性ですというのが私の答えです。
「己の欲するところに従って法を越えず」
凡人が孔子の心境に達するのは至難の業です。
あなたに対する評価が固まるのに最低二年はかかると思ってください。信頼が確立すれば、道は開けます。
親しい友人との会食は多忙な役員に必要なリフレッシュです。外部有識者からの貴重な情報収集の場でもあります。健康維持にはゴルフも欠かせません。
部下を連れて飲みに出かけるのも、社内のコミュニケイションのためです。社外からの役員である貴方が部下と交流を深めて早く会社に融和してほしいのです。高潔なあなたを邪魔する人はいません。
最後にしつこいようですが、ご家族との交流には会社を関与させないのが賢明です。まさかの時に弁明の余地がありません。 
第四条 自己主張を得意然とするな 

 

断定はさけ、疑問形を多発しろ
役所や銀行は知的集団と自画自賛しますが、ありていは頭でっかち世間知らずの集まりです。役人や銀行員の知識や議論をよくよく聞きますと、一般論や抽象論に終始し、具体的な肉付けに乏しいキレイ事の羅列です。
「SO WHAT? それで君はなにをしたいんだ? 俺に何をしろというんだ?」こんな毒にも薬にもならない理論家の化けの皮が剥がれるのに時間は要しません。
そうなる前に自衛することを勧めます。小賢しい理屈を滔々と述べ立てるのを避けるのです。だからといって、黙ってばかりで、こいつはアホでないかと疑われるのも癪でしょう。
沈黙は金という諺もありますが、初対面の人には通じません。貴方が不安になる気持はわかります。そこで疑問形に登場してもらうのです。
たとえ、貴方に百%自信があっても、そこはプロが相手です。同僚はその道で長年飯を食ってきたのです。貴方が議論で勝ったところでなんの得もありません。プロのプライドを傷つけて恨みを買う愚は避けましょう。
疑問形という形で、やんわりと自分の意見を披露すればいいのです。貴方が間違っていれば、可愛い素人だとして優しく指導してくれる筈です。もし正しければ、素人にしてはよく分かっているじゃないかという余裕のある態度で接してくれます。
間違ってばかりいますとあなたの知性が疑われますが、知り過ぎもいけません。この道数十年のプロの優越感を損ねるところまで知識をひけらかすのは危険です。知識を詰め込むのが得意な貴方だけに心配なのです。疑問形という形で教えを乞う謙虚な姿勢こそが、貴方の人柄を輝かせるのです。
この道数十年と言いながら、知識・見識ともにお粗末なプロも確かにいます。だからと言って間違いを正したり、指導したりする必要はありません。幹部の能力という貴重な情報を得たのです。
えっ!そこらの使い分けには自信があるとおっしゃるのですか。貴方がそんな天然ブリっ子とは存じ上げず、大変失礼しました。 
第五条 天下国家論をするな 
一文の儲けにもならぬ
床屋政談という言葉があります。行きつけの床屋で天下の情勢を論ずる心地よいひと時です。親父は毎日ラジオを聴きながら、客の頭を刈っていますから、情報は豊かです。毎日数時間弁舌を揮っていますのでなかなかの論客でもあります。
天下国家論も床屋政談に似ています。政治と行政に責任も権限もない仲間同士が酒の肴に窮した時の格好の話題です。高邁そうに見えて、何の役にも立たない酒飲みの与太ばなし、こんなことを会社で吹っかけられては迷惑千万、商売の邪魔にしかなりません。
いい年をしてこんな書生論を真面目に議論出来るのは、貴方がまだ若いことの証明ですが、同時に、学業成績優秀な友人に恵まれた学生時代の気分が抜けきっていない幼稚なエリート意識の証拠でもあるのです。 
第六条 少なくとも一年間はなにもするな 
じっと周りを見る期間である
第一条で、当社は昨日までそれなりに動いていた会社と申し上げました。貴方がちょっとやそっと「勉強」したからといって、浅い理解がすぐ役に立つわけではありません。にわか勉強を下敷きにした提案をしたところで、そんなことは誰もが先刻承知なのです。いまだ改善されずにいるのは、何らかの深い事情があると思うほうが無難です。謙虚はダイヤモンドです。
貴方は役員なのです。知識や技量の小出しはやめるほうが賢明です。一年間は、業界や社内事情、上下左右の人間関係などじっくりと様子を見極める時期です。下手な処方箋を書くべきでありません。いくら当社がボロ会社でも、貴方なしで昨日まで動いていました。
ただし、誤解しないでください。冷凍まぐろのようにゴロリと寝転がって、正真正銘何もするなと言っているのではありません。
あなたの職責上必ずしなくてはいけないことや、上司すなわち社長あるいは直属の部下に具体的に依頼された事柄は、当然キチンと片づけてきたいに応えないといけません。
私が一年間なにもするなと云ったのを真に受けて、字句通り何もしないのは、コチコチの石頭、あるいはなにも出来ない無能者と見られます。それどころか、命令に従わない反抗者のレッテルすら貼られかねません。
原理原則にはすべて、成り立つ条件があります。例外のない法則はありません。人材と見込まれて転職なさった貴方にこれ以上のお説教は失礼と思い・・・いやすでに充分無礼を重ねております。妄言多謝。 
第七条 冗談を言うな

 

文化が違えば以心伝心は通じぬ。下手な冗談は誤解のもと
なにがなんでも、冗談や洒落を言うなとは申しません。貴方が本物のユモリストで、自他共に認める言葉とジョークのセンスがあればなんの遠慮もいりません。しかし、一般に意志や事物を口頭で伝える場合、論理正しく単調な話し方は、話し手と聞き手双方とも疲れさせます。聞き手のほうが疲れる度合いが大きいのが普通です。
座談や講演の名手は、伝えたい事柄の真髄を、たとえ話(比喩)を駆使して、重層的な説明を試みます。聞き手は自らの体験と符合するたとえ話に共感を覚えて、本質の理解に至ります。また、聞き手を長時間の退屈と緊張から救うのに、数分ごとのジョークは有効です。
これらのテクニックは話術の基本ですが、高度な技術を使う前にあなたの言語能力を一度チェックされたほうがいいでしょう。喩えは適切な例示でしたか。これまで冗談を言って座が白けたことや、貴方の真意を理解されなくて困った経験がありますか? いくらあなたが親しみの表現として冗談を言っても、相手を白けさせてはマイナス効果です。
比喩とジョークはあなたの言いたいことを浸透させる潤滑剤です。したがってその効果がないものは駄洒落です。つまらぬ駄洒落は止めなしゃれ。出来もしないことに乏しい脳みそを絞るよりも、簡潔にわかりやすく話すことを心がけるべきです。
最後に、対話でもっとも留意すべきことがあります。簡潔に話すことの中心となる技術ですが、まず話す事柄を十秒から二十秒単位に分割してください。ワン フレイズ 話したところで必ず間をとり、相手の発言を促すのです。これを怠りますとあなたの長広告になり、対話でなくなります。確実に相手を退屈・無視、最後は怒りに追い込みます。政治家・役人・銀行員がもっとも心すべき落とし穴です。 
第八条 宴会は厳粛なる儀式である 
調子に乗って、ボロを出すな
社用で飲み食いする宴会は仕事そのものです。仕事の延長ではありません。仲間内、割り勘の飲み会とは根本的に違うのです。誰もが分かっていながら、ついつい忘れる戒めです。当たり前すぎるほど当り前で、なにを今更とおっしゃるでしょう、素面のうちはともかく、宴たけなわともなればついOBゾーンに飛び込むのが凡夫の悲しさです。
お酒は、仕事の儀式と覚悟して飲むと、案外酔っぱらわないものです。お酒と料理を心ゆくまで楽しめません。美しい女性に目尻を下げることも抑えないといけません。只で御馳走になっているのですから、それくらいは我慢しましょう。
かつて勤めた銀行の業務で、審査という仕事がありました。どの銀行にも審査業務がありますが、融資実務を担当する貸付部門のうしろに控え、企業の信用調査をする役割です。
長期設備資金を供給する日本開発銀行では、大型投資の事業採算性と、実施企業の体力調査が審査部の主な仕事でした。そんなわけで、一件の審査にかかる期間が長く、現地工場を見るのも大事な調査でした。
上司の課長と全国あちこちの工場に出かけました。昼間は書類を見ながらの工場見学ですが、大事な仕事が夜の会食時にも待っています。泊りがけの出張ですから、工場の幹部や本社から同行した財務担当者と会食の席が設けられます。
東京の本社や昼間の会議室では聞けない本音が、旅とお酒の解放感からポロリと出てくるのを、聞き逃さないのが大事な仕事です。当たり前ですが、決してノートをとってはいけません。
情報の交換は基本的にバーター取引ですから、こちらも意識的なリークが必要です。自らはなにも出さずに、貰うことしか念頭にない人はビジネスマンではありません。握り金玉、けちな男は、どんなイケメンでも、女性が相手にしません。
私の課長はお酒が人並み外れて不得手な「特技」の持ち主でした。相手と場所を問わず、コップ一杯のビールでコックリコックリ居眠りが始まるのです。私は必死の思いで上司の分まで酒席を保ち、情報の取得につとめました。お酒に酔っている暇などありません。学生時代の私はコックリ課長さんと似たようなもので、ビール一本で寝転ぶほどの下戸でした。この課長に仕えるようになって、一年も経たずに並みの酒量に達したのです。審査部での酒席は最大のオンザジョブ トレイニングでした。
出張から戻って、課長にレポートを出しますと 「僕はこんなこと記憶がないよ」「いやいや、あの夜の席で課長が居眠りしていた時に、私が聞いたことですよ」「ああ、そうか」 そんなこともありました。
長々と話しましたが、仕事上のお酒は、頭をクールにしておれば酔えるものではないと言いたかったのです。そして、健康に悪いことも。
社用の宴会が出てきましたところであとひと言。
課長に昇進するとき、羽目を外しがちな私を心配して、尊敬する先輩に諭された「接待三原則」です。まだ銀行が世間でチヤホヤされていた時代で、このルールは接待を受ける立場からの教訓です。
@誘わず A度重ねず B断らず
@とAは防衛省のおねだり次官夫婦の所業を引くまでもなく、説明の必要がありません。Bの「断わらず」が憎いではありませんか。深い含意にあふれた金言です。
品位と節度を保った接待は受けるべきです。万国共通のビジネス作法です。これをきちんとこなせないようでは、一人前のビジネスマンとは言えません。
接待を利用して、目前の商談を有利に運ぼうとする下司な手合いと、お酒を飲んではいけません。成熟した大人の企業ならそんなあさましいことはしません。君子たるもの、眼つき・振る舞いの卑しい人物や企業と酒席をともにするのは、避けるべきです。
ところで、もしあなたにどこからもお誘いがなければ、それは仕事の上で軽く扱われているという意味だけではありません。貴方が退屈な、食事の相手として面白くない人物、親密な情報交換に役立たずと評価されていることに思いを馳せ、猛省すべきです。おれは清潔だと威張っても、ひかれ者の小唄です。
お金を使って御馳走する立場で考えれば簡単なことです。限られた予算と時間を使うのなら、楽しく過ごせる人と飲み食いしたいのが人情です。
宴会は遊びでないと力説しました当初の解説から脱線しますが、宴会術もこのレベルに達しますと、接待を大いに楽しみましょう。接待する側だけではなく、接待されるほうにも宴会の心得あるいは大人の知恵が求められます。気持ち良く楽しみ、翌日きちんとお礼のメッセージを届けるのは言わずもがなです。相手方も、接待し甲斐があったと満足し、次もまた楽しく遊ぼうという気持ちになるのです。仲良くなれば仕事もスムーズに進むのです。
ビジネス宴会の神髄はここにあります。緊急時に電話一本で大事な仕事ができるほどの、緊密な信頼関係を築くことです。お互いに十分な理解ができていないうちに、キスを迫れば、頬っぺたを引っ叩かれるでしょう。原理は同じです。宴会一般論に飛び火したところで、第八条の迷走コメントを終わります。 
第九条 人材難を託つことなかれ 
商売は頭と関係ない。東大卒を誇るなど、論外のさらに外れ
日本国憲法と同じく、本憲法でも第九条は重要な条項です。中央官庁や金融機関の中枢部を経験した貴方は、きわめて特異な組織でサラリーマン生活を過ごしてきたことを自覚してください。
いわゆる一流大学卒が掃いて捨てるほどいて、十年も経つと半分以上(本当は八割以上)が使い物にならなくなる事実はご存じでしょう。
学校や書物で学んだ知識は、社会人としての実体験に触れて消化発酵し、知恵のレベルに達してはじめて役に立ちます。所謂一流大学を出た学校秀才の大半は、高校時代の記憶力と、遊び盛りを我慢して勉強する忍耐力の持ち主である証明にすぎません。知識は試験に役立ちますが、現実の世界で必要なのは、知恵です。知識は多くの場合、邪魔になります。
学校秀才がせっせと詰め込んだ知識が、頭と体を駆け巡る知恵にまで熟成転化しているかどうか、怪しいものです。ほとんどの秀才は学生時代に力尽き、ガス欠状態です。一流大学卒の落ちこぼれほど始末に困るものはないことをよくご存じですね。
「頭でっかち知恵足らず、不満ばかりの役立たず」
人材難を言い立てる人に限って、知識の量や出身大学のレッテルで人材の多少を測っているのです。
人材の基準は、社員が組織の目的にかなう「知恵」をもって日々の仕事をしているか否かなのです。社歴の浅いあなたが判断するのは早すぎます。しかも商売には役に立たない知識を言い立てるなど論外です。
商売は頭でするものでないことを強調しましたが、商売をすべて心と汗の産物というのも誇張です。軍隊に作戦をつかさどる参謀部があるように、企業にも経営全般を企画立案するセクションが必要です。トップの考えを戦略と作戦に具体化するのですから、一般の仕事より頭脳労働の割合が高いのが参謀部将校の特徴です。
要員には一般の社員には求められないプラスアルファの資質が求められます。業務に必要とされる広範な知識はもちろんですが、その知識が、充分な現場経験によって、知恵の域にまで高められていることは言うまでもありません。
さらに、何よりも大事な資質は、立案にあたってその戦略の実行可能性を緻密に検証する姿勢と能力です。これを欠きますと、脈絡のない文章と数字を綴じただけの「小学生作文集」です。調子のいいことを言い放って、都合が悪くなると頬かむりを決め込む口舌の徒をリーダーに持った企業と社員は悲劇です。
しかし、立派な人材が多すぎてもいけません。船頭多くして船山に登り、会社はつぶれます。しかし、知恵者と悪(ワル)はいかなる組織でも足りません。日本のように綺麗ごとが横行する社会では致命的に不足していますので、船が登山する御心配は無用です。
上級参謀は長期にわたって、計画的に育成するものです。本物は簡単に出来るものではなく、効率の悪い投資です。
J M ケインズの恩師 A マーシャルの有名な言葉がありますが、リーダー論に読み替えることができます。
「経済学者に必要な資質は、クールな頭脳と温い心である」
反対の資質、暖かい頭と冷たい心の組み合わせからはどんな指導者が出来るでしょうか。
本物のリーダーは三十年かけて育て、企業存亡の危機に際して一度働けばペイすればいい投資くらいに考えてください。投資対象の選定と投資の実務は、実地学習中心の超アドバンスコースです。失敗を容認しながら難題に挑戦させる他にありません。安直なリーダー育成法は、教条主義で、責任回避とゴマすりだけに長けた似非エリートの繁殖を招きます。 
第十条 以前の職場時代を引用するな

 

貴方の出自は誰もが知っている。鼻白らませるだけ
前条と関連する重要な戒めです。仕事がうまくいかなかった時に 「前の会社ではああだった、こうだった」と繰り言、ボヤキが出がちですが、これは絶対に禁句です。組織難を託っているわけで、人材難を託つのと同じです。ビジネス行為の結果は人的能力だけで決まるものではありません。天の時、地の利、人の和とも言います。企業内外の諸条件の相互作用が結果をもたらすのです。まえの会社ではこんなことはなかったなどと言って、あなたは視野の狭さを暴露しています。いまの職場のアラさがしをしているだけです。
かつてひどい類似ケースに出会ったことがあります。経済企画庁(現総務省)に出向していた昭和四五年、私は三〇歳前でした。香川県庁に行政調査に出かけたのですが、担当課長は私と同年齢、自治省からのキャリア出向者でした。話のはずみで、このアホ課長、五十歳過ぎ親父ほど年上の「部下」を前にして、「自治省の同期生は大きな県の課長なのに、自分は香川県という弱小県でくすぶっている。まことに不遇である」 自分を大きく見せようとして、現在の職場と同僚を侮辱していることに気がついていないのです。
第十一条 細かいことに首を突っ込むな
知らないふりをして、驚いてみせること
努力して会社に馴染もうとする努力は好感をもたれます。逆の、我関せずとばかりに見下した態度は最悪です。しかし生兵法は怪我のもと。過ぎたるは及ばざるが如しと申します。細かい事柄ばかりに没頭するのはいただけません。
ふたつの理由があります。まず人間の能力の総和は一定という事実です。詳細で、それゆえに専門的な知識に熱中しますと、頭の中はそれで満たされ、大局観がおざなりになります。五〇を過ぎたあなたがいくら勉強したところで、所詮は付け焼刃、実戦の役には立ちません。
社外からの役員であれば、世の中で一般に通用する常識を武器にすべきです。会社もそれを要望しているのです。実業世界の観察だけに徹し、広く浅い評論家的な活動を得意としてきた役人と銀行員の唯一の武器を、逆手に取りましょう。化学会社の技術者と化学構造式を議論して言い負かした開発銀行の先輩がいましたが、本人はそれで嬉しかったのでしょうか。
あとひとつはもっと本質的なことです。専門的な知識を口にするということは、同時にあなたの見解・意見を表明しています。高級幹部である貴方の意見を無視するわけにはいきません。貴方は知らないうちに、業務の細部に頭を突っ込んでいるのです。
プロが素人の意見に易々と従うものかと疑うかもしれませんが、上司である貴方の発言は重いのです。それに、企業の意思決定は学生時代のお勉強と違います。経営上の意思決定は、結果が百%分かったうえで行うものではありません。模範解答はないのです。常に失敗のリスクがつきまといます。
うまくいかなかった時の収拾策を門外漢のあなたは持ちあわせていますか。失敗した時の責任を取れますか。貴方の意向を奉じた施策は、貴方が自滅するのを狙って仕掛けられた罠かもしれません。生兵法は、まことに怪我のもとです。
細かいことには、素晴らしいことを初めて知ったふりをして、大げさに驚いてみせることです。間違っていることや、つまらないことを聞いた時は
「ああ、そうですか」と気乗りのしないふりをすればいいのです。ふたつの反応の使い分けで、あなたの高い知的レベルを知らしめることが出来るのです。
第十二条 下っ端と付き合うな
下手な民主主義には、不平・不満分子がすり寄ってくる
第十三条 家庭的つきあいはするな

 

企業は同質の人間の集合ではない。温情主義は通じない
この二個条は同趣旨の条項で、軽々しく社内の人間関係に首を突っ込むことに対する戒めです。
第一条で申し上げたことを思い出してください。あなたは所詮招かれざるお客さんなのです。通常の仕事の範囲を越えて、より一層の親密な付き合いを求められるのには、いろいろの思惑が隠されている場合があります。
社内で指導的な立場、すなわちリーダーと目される人物は、貴方をまだ完全に信じていません。当然です。貴方がどれくらい有能か、会社や社員を大事にしてくれるのか、それを探っているのです。それが分からないうちに、あなたをボスに担ぐようでは、リーダー失格です。
擦り寄ってくるのは、能力はあるが人望に乏しい鼻つまみ者など社内の不満分子である可能性があります。社内の人物評価に立ち入るのは、新参者として当面避けるべきでしょう。あなたの人を見る目が疑われます。新任の役員が早々に子分を作る、それも出来の悪い不満分子では、えこ贔屓の汚名すら立ちます。
リーダーの落ちやすい陥穽は、独断・傲慢・貪欲など多岐に亘りますが、もっとも危険な穴はえこ贔屓です。胡麻すり・茶坊主で周囲を固めたワンマンの独走は、社内で止める手段がありません。かつての優駿も老いては駑馬と化します。老いたる英雄が一旦トラブルに見舞われや、破滅まで一直線です。ワンマン会社が長続きしないのは、人材不足これに尽きます。
この二条の戒めは、人間関係を慎重に見極めなさいという意味です。高い地位の貴方に、偉そうな態度をとりなさいと言っているのではないことを、付言する必要はないでしょう。そんな子供に対するお説教は畏れ多いことです。条文を字句通り解釈なさらずに、冷静な頭と温かい心で、行間も読んでください。  
第十四条 上には徹底的にゴマを擦れ  
社長は絶対的存在である
これも官僚組織、あるいは擬似官僚組織にいらした貴方には、頭で理解できてもハートでは納得がいかないことです。
中央省庁のお役人(高級官僚)は全員が幹部候補生として採用され、均質な人材という前提で処遇されます。そこでは業績を考課して処遇に差をつけることは嫌われ、同期生は横並び、身分の上下は鉄の年功序列という原理が固く守られています。
高級官僚の世界では、貴方は能力が劣るからポストも給与も低いとは言わないのです。最終的には利益で評価される企業社会よりも、人事評価の基準が多元的で難しいという言い訳もまかり通っていますが、根拠に乏しいものです。とはいいつつ、表面の平等に隠れて、現実には愚かな差別が存在します。
国家公務員試験の成績順位や入省試験の順番などです。最初はいいでしょう。いつまでもそれが付きまとうのが問題なのです。平時の軍隊では、士官学校の成績が最後まで昇進に影響しました。戦争になって実戦で評価できるよりは幸せですが。日本銀行では、三〇代で将来の総裁が決まると言われてきましたが、最近のドタバタで見るように、遠からずそれも無くなるでしょう。
この議論には出口がないので入りません。ここで指摘したいことは、超客観的な基準で、同時に判断放棄でもあるルール 「同期生は横並びの同待遇、昇進は鉄の年功序列」 という官僚機構の秩序です。
君は能力がないから安い給料で我慢しろと言われるよりも、経歴が短いからだと説明されるほうが、プライドとやる気を傷つけないのです。もっとも、ある年齢を越えると、意欲をもたれては迷惑な人材に苦労するのは、役所も民間も同じです。オット、これは蛇足でした。
もちろん役所も、永遠に同期生を同じ扱いには出来ないので、いつか選別が行われますが、それは本省の局長次長ポストへの昇格時です。昇進から漏れると、公社公団への天下りが準備されています。昇進した同期生の邪魔にならないこと、勝ち組との給与格差を生じさせないためです。数年後、勝ち組みが公社公団のトップにつきます。天下りポストは官僚人事の潤滑油です。じつにうまく設計された知恵です。
このような原理が支配する組織では、権力者が生まれません。役所の最高権力者は大臣ですが、一年も経たずに変わる大臣を真の権力者と誰も思っていません。たまに、人事権を振りかざして官僚を屈伏させようとする大臣もいますが、役所の実務に疎く任期も見えている大臣が形式的な人事権を吠えても、所詮ドンキホーテです。
それでは人事権を行使できる真の権力者は誰かということですが、事務次官でしょう。でしょうという曖昧な表現は実態がそうだからです。次官の任期は一年、長くて二年です。先ほどから何度も指摘していますが、同期生の横並びと鉄の年功序列で統治される利益集団のトップとして、短期間座っているのです。来年は次の入省年次の出世頭がその地位に就きます。事務次官とは、相互支援組合の理事長です。
このようなポストでは、自らの権力機構を役所内で築くことが出来ません。事務次官という最高位の地位に登りつめても、来年は退官して後輩のお世話になるのです。
官僚組織は、トータルでは絶大な権力を持っていますが、属人的に行使できる権力者はいません。これが逆に、高級官僚同士の団結と「民主主義」の源泉となっています。組織トップの悪口を公言できる職場、やんちゃ坊主にも寛容な機構。それが権力者不在で、あなたや私のような跳ね返り者にとって居心地のいい組織なのです。
民間企業では事情が異なります。権力者不在の組織はないのです。民間企業のトップが一年や二年で交代することはありません。大会社の社長の座につきますと、社長、会長さらには相談役、最高顧問と長期にわたって権力機構に座り続けるのが通例です。
短くて十年、長いと死ぬまで二十年を超すことも稀ではありません。会長、相談役となるにつれて、日常業務から徐々に離れていきますが、最後まで手放さないのが人事権です。若い世代には無関心でも、社長OBとして一言あるのが、自分の最盛期に関与した部下の処遇です。
社長の人事権というのはそれほどまで強いのです。社長を辞任したあとも、会長・相談役としてあなたの身の上に影響を及ぼします。この影響力がマイナスの効果をもつ場合の怖さを想像してください。
「俺の眼の黒いうちはあいつを昇進させない」
背筋の凍る思いがしませんか。実例には事欠きません。
権力の源泉はこの人事権にあると言って過言ではありません。部下のポストと給与さらに将来の昇進まで掌中にあるのです。
実力会長や相談役がいなければ、企業はもっと風通しが良くなります。しかし、副社長なら子会社に転出させる方法もありますが、社長経験者を子会社に振ることは現実的ではありません。その結果、長寿社会における社長経験者が会長・副会長・相談役・最高顧問などの名称をかたって、雑貨店のドンキホーテチェーンよろしく、圧縮陳列されることになります。お金と暇は余るほどあるのですから、遊び呆ければいいと凡人は思いますが、長いあいだ秘書に頼りきっていたため、自分では何もできなくなっています。一人では電車に乗れない老人もいると聞きます。
面白い肩書も発明されました。かつて関西財界のドンと言われた関西電力の著名財界人は、代表取締役相談役という肩書を持っていました。代表取締役と相談役の兼務は論理矛盾ではないでしょうか。
最近聞いたケースも滑稽です。取締役を辞任したはずの元ボスが名誉会長を名乗っているのです。 会長とはアメリカ経営の猿真似で、CHAIRMAN OF THE BOARD の翻訳です。取締役でないものが取締役会の会長と称していいのでしょうか。
しかし、深く考えることはないのかもしれません。「名誉」をつけたのはそういう意味です。名誉教授は講義をしません。名誉市民はその街に住んではいません。私のように重箱の隅をつつく人は嫌われます。
いつもの大脱線で進行が遅れました。
アイザック ニュートンの法則があります。
「上役に対する親しみの大きさは地位の上での距離に比例し、怖さは距離の二乗に反比例する」
平たく言えば、新入社員にとって社長は優しいおじさんで、副社長には専制君主のような存在なのです。民間会社では社長の機嫌を損ね、睨まれたら一生浮かばれません。
かつて三越百貨店で悪名を馳せた故岡田社長の側近専務は、ゴルフ場の浴室で、衆人環視の下、ボスの背中を流したといいます。ティーグラウンドでは、ボールをティーアップしたそうです。ついでに下手な社長の代わりにボールを打ってやればいいのにと思います。
先ほどの代表取締役相談役殿は、長年仕えさせた秘書を代表権のある副社長に取り立て、毎朝自宅に迎えに来させました。代表取締役副社長秘書は、秘書の本文に背かず、前部シートに恭しく座って、ボスを会社にご案内したそうです。
馬鹿馬鹿しいことです。心貧しき老人たちです。官僚気質のあなたが真似することはないと思いますが、世間ではこれに近いことが往々にしてあります。あなたが慣れない胡麻すりに励んでも、痛々しくみえるだけです。いま挙げた例は見苦しい例ですが、私が得意とする洗練された胡麻のすり方があります。ご希望があれば、「忍法爺殺しの必殺技」を別料金で伝授します。
この第十四条では、社長の権力は強大であり、いったん睨まれると取り返しのつかない事態になるということを肝に銘じてください。不得意なゴマをすらなくても、恭順の意は表しておいたほうが御身のためです。
なお、ここでいう社長とは、独自の最終意思決定を保証された最高権力者で、いわゆる子会社の社長は含まれません。直属部下の人事権がないのでは、コンビニの店長とさして変わりません。権限はすべて親会社、それも出来の悪い下僚、に握られ、結果の責任だけは押し付けられる損な役です。世間では
「すまじきものは子会社の社長」と申します。  
第十五条 派閥争いは必ずあり、絶対に巻きこまれるな  
永世中立が唯一の生き残る道
派閥という言葉には、政治の世界や企業社会で、権力亡者が集まって私利私欲を貪るグループという陰険なイメージがあります。しかし、派閥には、志を同じくする同志が集まって理想の実現を求める集団という肯定的な面もあるのです。
従業員が十人に満たない零細企業なら、社長の意図や指示が末端まで行き届きます。しかし、参加メンバーの多い大事業では、リーダーが細部にわたって全体を把握するのは不可能です。
そこで、リーダーすなわちトップは、ある部分について自分の代役を求めます。目的達成のために、手段の分割と権限の移譲が行われるのです。組織とは同一目的を達成するために、複数の人間が仕事を分け合う仕組みです。指揮命令関係をはっきりさせるため、メンバー間で上下の関係が生じます。過度に平等な組織では各種のトラブルが生じますが、夫婦の関係を見れば納得いただけると思います。嬶天下こそが安定的な組織です。
トップは自らの意図を理解し、遂行する人物を部下とします。たとえ優秀といわれる人材でも、トップの意向に反した行動をとる、あるいその怖れがある人物は登用しません。
このように、仕事の手段としてのグループ(派閥)が生成されますが、仕事上の共感と信頼感は、人物に対する好き嫌いに直結しています。「気心のわかる男」というわけです。派閥は個人的な利害だけでつながる仲良しクラブともなる危険と紙一重です。
ともあれ、派閥はどのような組織においても必ず形成されます。派閥の持つインパクトはケースバイケースですが、ワンマン会社の場合、ワンマン派閥が圧倒的パワーとなります。
・・・派でなければ人に非ずと。
「民主的でおおらかな」会社の場合は、複数の派閥が共存し、お互いに牽制し合うので弊害は少ないでしょう。
どの派閥にも属していなければ、その人物は社内で評価されていないのです。社内の有望な人材は若い時期から、いろいろな形でリクルートされます。優秀なプロパー社員にとって無派閥ということはあり得ません。親分が失脚すると子分一同冷や飯を食います。親亀こけたら皆こけるしかありません。サラリーマンも上にいくほど、運も実力のうちなのです。
さて、社外出身のあなたが派閥に誘われても、これまでにお話した理由で勧誘されたのではないことをお分かり頂けるでしょう。多数派工作に取り込まれているだけかも知れません。都合が悪くなると、ボロ靴のように捨てられて、双方から軽んじられる損な役廻りです。数合わせの陣傘代議士みたい役どころは、社外役員として絶対に避けるべきです。あなたは天下り役員として、すでに相応の地位を確保しているのです。不用意に欲を出すと大怪我をします。
かつて倉庫業の担当課長だったころ、業界の大手に天下りしていた先輩が派閥争いにまきこまれ、というよりも、自ら積極的にのめりこんだことがあります。
副社長格の反主流派が日本開発銀行を欺く行動を取ろうとしたのです。その人質として愚か者の先輩を取り込み、ことがなった暁には後任の社長にとの空手形を交付しました。
陰謀は壮途むなしく途中で露見しました。私は、銀行として主流派の社長に詫びを入れ、この先輩の返品を受け、しかるべき時期に新しい役員を派遣(天下り)するべきだとの収拾策を進言しました。
結果的には、その方向で収まりましたが、そのプロセスで馬鹿先輩が銀行内外でばらまいた私への中傷はひどいものでした。私は先輩をないがしろにする人非人というのです。私は温厚な性格で、自ら騒ぎを起こすことはしませんが、仕掛けられた攻撃には、十倍以上のお返しを差し上げる主義です。このときも先輩にたっぷりと礼をしました。一人の馬鹿よりも銀行を護るのは当然です。時々OB会で見かけますが、この愚か者を窓から放り出したい衝動に駆られます。  
第十六条 周りの言うことに乗るな

 

貴方にゴマを擦っている
ゴマをすられているのなら、大した害はありません。ほめられて嬉しがっている並の老人と思われるだけです。しかし、具体的な行動につながる追従となると、よほど注意してかからないといけません。不満分子が事情を知らない貴方を担いで、長年の宿願を果たそうとしているのかもしれません。
そんな野望は仮に成功しても、主流派から黙殺されるのがおちです。失敗すると、反乱の首謀者は、あなたを神輿ごと放り投げて知らぬ顔の半兵衛です。もともと、失うものがない連中です。うっかり破れ神輿に乗って嘲りの的になる貴方は、失うものが大きいのです。破れかぶれの輩とリスクを共有してはいけません。  
第十七条 マスコミに顔写真付きで派手に出るな  
権力者は嫉妬心が強い
嫉妬は女性の独占物と思うと、大間違いです。男の嫉妬は陰湿です。女性の嫉妬は、私は女でないので良くわかりませんが、可愛いものだと思います。ファッションと色恋、結婚後は子供など、大半が私的なもので公的なものは少ないようです。
男の、特に政財界トップ老人の嫉妬は、名誉が対象になるだけに厄介です。老人たちの経済的な欲求は充足済ですが、金では解決できない欲望の不満だけに、扱いに困るのです。お金はうなるほどあるが、御馳走もお酒もかつてほど美味しくない。女性にも役立たなくなった。
あなたの顔と意見がマスコミに出ると、自分以外の者が会社の代表をするとは何事かと、老人は僻み、貴方に嫉妬するのです。自分以上に目立つ存在に、地位を脅かされると怖れるのは、老人に共通な被害妄想心理です。秀吉、ヒトラー、スターリン、毛沢東、過去多くの英雄が病の虜になりました。
権力者は、自らの上下左右に能力の劣るものを配置する性癖があります。自分が優れていることを自らと周囲に確認させるためです。寝首をかきかねない切れ者も遠ざけられます。「白雪姫」に、魔女が鏡に向かって自分が世界一の美人であることを確かめるくだりがあります。
ボスが長年かけて営々と築いてきた「偉大な俺様と可愛くて無害な取り巻き」というサンクチュアリー(桃源郷)に、よそ者の貴方が石を投じてはいけません。
さて、老人が最後まで拘るお飾りは生前叙勲です。自分と同格と思っている人物との勲章のバランスが気になるのです。勲章獲得作戦に携わる秘書課長や部長の気苦労は想像を絶するものがあります。
何年も苦労してようやく叙勲にこぎつけ、これで成仏してくれるかと思ったのに 「この栄誉を励みとしてますます社業と社会に尽くしたい」 と言われては、関係者一同ゲンナリです。
生前叙勲が七〇歳以上となっているのは 「ご御苦労さんでした。余生をゆっくり楽しみなさい」 という趣旨ですが、正しく理解されていないようです。勲章が老人を七〇歳まで権力に固執させる原因となりますと、それまで権力にしがみ付かせることになり、逆効果です。
勲章には縁のない私ですが、勲一等と文化勲章、それにノーベル賞以外の賞は断わるつもりで内示を待っています。これまでのところ、打診がないので断りようがありません。  
 
サラリーマン醜態狂歌

 

人の良い意見に、そうだろそうだろ、そう思うだろ、さも自分が先に言った風
自分がパソコンを、扱えるからとビギナーを笑う、職場の便利屋
酒席の戯れ言を、しっかりと、覚えてこだわる奴
部下が昇格すると、俺が推薦したんだと、恩を押し付ける奴
酒を飲まないと、言いたいことが言えない奴、
メールや掲示板でしか、強気になれない奴
人の揚げ足ばかりを取る、自己主張の無い馬鹿
横文字を、英語と和製英語の、区別のつかない年増ギャル
規則やルールを都合の良いように解釈する奴
自己主張だけで、人の意見を聞かない奴
俺を裸にするのかと、怒る裸の王様
昇格した、その日から出社時間が遅くなる
昇格した、その日から呼び方が変わる
上司が替わると、言うことも替わる
上司が替わると、考えも変わる
新入OLがくると、そわそわする
俺は風見鶏だと、開き直る茶坊主
名刺の肩書きばかり気にするやつ
3流週刊誌の記事を真に受けて、職場で実践する馬鹿
馬鹿でも、声がでかけりゃ何とかなる
一人では、昼食にいけない
話題が、社内(会社・仕事)にしかない
友人が会社関係以外にいない
お世辞でその気になる
ヨイショしないと機嫌の悪い
仕事より、ファッションにこだわる
仕事ができりゃ良いだろうと言う、仕事のできない
アメリカでは、ああだこうだと言う、いったことのない聞きかじり
一度外国にいっただけで、世界通を気取るやつ
おばさんを見て、ああはなりたくないと言っていたオバタリアン
社長が来ると大変だ、忙しいとドタバタしながら、顔が笑っている
新入社員が来ると、自分が引きつれて各部署を回る
掃除のおばちゃんに人気の在る
宴会や接待にしか出番の無い
他人のネクタイばかり難癖つけるセンス無し
人の人事ばかり気にする、会社人間
嫌いな人に聞けなく、苦労する馬鹿
嫌ってる人から教えられ、戸惑っている
何でも相談しろと言いながら、結局上司を通せと言う
あいつが、こいつがと人の名をかりてしか話が出来ない
人に意見に、反論するだけで自分を主張する
問題提起だけで、指針示さない管理職
お客が使えるかどうかは、売ってから考えろという
自分より優秀な部下を使えない
目の前にいるのが目下だと、そっくり返る記憶形状合金野郎
会議で、人の意見をホワイトボードに書きに出たり書記をするノンポリシー
同じ話しや小言を繰り返す、馬鹿の一つ覚え
会社看板や肩書きなしでは、一言も出ない
定年を信じたくない、ワーカホリック
仕事か家庭か、とまじめに聞く管理職自分が嫌われてると、マジで知らない幸せ者
沢山のコピーを待っているシングルタスク
FAXの送信終了をするまで待つ、非効率社員
電子メール、掲示板(フォーラム)を印刷回覧する縄文人
ウイルスとポルノが心配でインターネットを否定する弥生人
自分が知らない(自分と違う)と、間違った情報だと決めつける
両面コピーで、原稿を1枚ずつ上下を入れ替える旧テクニックを誇示する
課長以上昇格で、同期と呼ばなくなる
退職した社員にまで上司風をふかせる
会社のデスク(ロッカー)に、日用品を揃えてる
昇格して守りに入った
降格・左遷され、本気で試練と口に出す
会社購入のパソコンを家に持って帰れない
早く帰ってほしいが、何時も遅くまで会社にいる
己が氏姓の高さをj自慢する奴 (昔は華族?武士?それがどうした)
想像や私見を、さも事実のように言う奴 (まず自分が試せ)
物知り顔に言う奴 (耳学問・聞きかじり、最後は○○が言っていた)
若造の生意気な言葉使い (今だけだよもうすぐおじさん)
老人のごとく、くどく言う奴 (経験だけで威張るんじゃ無い)
若者の無駄話し (自分たちだけが主人公)
好んで外国の言葉を使う奴 (でもしゃべれ無いんだ)
田舎者の標準語 (無理するなって、故郷に誇りをもとう)
悟ったような口を利く奴 (この時点ですでに、悟っていない)
茶人のような口を利く奴 (なんで、そんな人がサラリーマンやってるの?)
流行をはやし立てる奴 (あんたも乗せられてる一人だよ)
ああしました、こうしましたしか言わぬ奴
わたしが、こうした、こうしたの自分しかいない奴
無駄口、言葉の多き奴 (言わなきゃわかってもらえない程度の奴)
きわどい言葉使いの卑怯者 (すぐに人の名前を口に出す奴)
早口な奴
話しが長い (何が言いたいんだ、結論を言え)
問わず語る差し出口 (そんなこと聞いていない)
手柄話しばかりする奴 (で、今がそれ?)
人の言いきらぬうちに、ものを言う奴 (最後まで聞きやがれ)
言葉が違う奴 (日本人だけど日本語を知らない)
たやすく約束する (その場だけの奴)
良く心得ぬことを人に教える (責任取れるのかテメー)
へつらう物言い (へつらうなと言う奴が一番多い)
意思決定が合議制、責任の所在が行方不明どこか政治とにた会社
経営陣の意思疎通はオーナに対する気遣いと気配りで過ぎる
人事配置は目先で決める、目に付かぬ部署は一生日陰者
スペシャリストは、煙たがられても優遇などされない
社員の自主性を求める本当の理由は、上司本人にビジョンがないから
上司に対して膨大な資料を作らされ、決定まで時間がかかる、決まればまだ良い
俺の責任と言う奴が居ない、俺の権利という奴ばかり
経営幹部が末端まで口出しするが、責任は取らず
対前年プラスしか言わない、環境変化に対応できない石頭
査定する幹部に査定能力があるのか不明、まず部下が上司を査定すべき
リストラ・年齢制限・定年打ち切りで、我慢が無くなり忠誠心も無くなるのは当然
社員を理解しない適材適所、上司の都合の適材適所
幾ら稼ぐかより、誰に好かれるかで出世が決まる、汗かくだけそんなところ
やめろ・ヤメロ・辞めろ、イエスマンに仲良しグループ
部下の失敗は絶対忘れず許さず、自分の失敗は、日々環境は変化すると
年齢だけで頭が硬いという、ガキ年寄り
終身雇用が保証されないなら、言いたい事いってやりたい事を言う
上司や客に罵倒されてまで我慢するほどの職場で無し、頭を下げて舌を出す
終身雇用崩壊で開き直った役立たず
サラリーマンは正論を言っちゃおしまいだよ、出世のためになれ合いで  
 
表を仕切る三百人の茶坊主

 

裕福な茶坊主
中国の宮廷には宦官(かんがん)という特殊な制度があったが、江戸城の茶坊主もいささか変わった風習だった。宦官は宮刑といって強制去勢させられた男たちが後宮の召し使いとなったものだが、茶坊主は頭を丸めているだけで、いわば外見だけの坊主であった。というのも僧体になることによって身分差をなくして、将軍や大名に茶を供したり、掃除や火の用心、あるいは弁当を運んだりと雑用を務めた。
歌舞伎では河内山宗俊という数寄屋坊主が有名だが、これも茶道家を数寄屋者といったことからきたのだろう。
江戸城の表御殿は、女性の姿を見ない男ばかりの世界で、茶汲みその他の雑用は茶坊主の任務となっていた。茶坊主(茶道頭)は定員三名で、将軍、日光門司(にっこうもんす)、御三家、溜の間詰の大名に茶を供するのと坊主たちの監督が役目だった。
役高百五十俵で、将軍用の茶を宇治から運ぶお茶壷道中が有名だが、その宰領は坊主頭の仕事で、この行列に会うと、大名も道を避け、道中の旅費として二十両(約百四十万円)支給された。また坊主頭は、四季施といって時服(季節の服)を将軍から賜わった。その他、御三家や諸大名から祝儀をもらうばかりか、将軍と接する機会が多いため、つけ届けの金品が多く、まことに裕福な暮らしぶりだった。表坊主、奥坊主、用部屋坊主など約二百名、西の丸を合わせると三百名を超えた。
つけ届けが少ない大名への意地悪
各大名は登城してくると、大手門をくぐって下馬先の供侍小屋に家臣たちを置いてくる。そこから先は大名一人で行動しなくてはならないので、一から十まで表坊主の世話にならなくてはならない。そこでつけ届けが必要で、謝礼金はむろんのこと、時服や特産品を坊主に与えないと意地悪をされた。
生まれついたその時から大名の子として育った諸侯は、幼稚園児と一緒で自分一人では服も満足に着ることができない。公式の服に着替える必要があると、坊主の部屋を貸してもらうことになるが、畳み一帖について大藩だと年に二両(約十四万円)、小藩で二分(一両の半分)、約三万五千円)の借代を払っていた。
厠へ行くのも坊主に案内してもらって、衣服の乱れを直してもらったから、坊主に対するつけ届けが少ないと、すぐ意地悪をされて、恥をかかされた。
昼になると、大名の屋敷から弁当が届けられてくるけれど、坊主が先にそのおかずを食べてしまって、知らぬ顔をしてご飯だけを差し出した。蒔絵を施した塗りの弁当の蓋をとると、ご飯しか入っていない。他の大名たちが見ている前で、坊主はしゃアしゃアと言ってのけた。「これは筑前守様は、お菜なしでございますか、それはまた御倹約なことで・・・」むろん大名は下城してくるなり、係の家臣に癇癪玉を破裂させたことだろう。
大名たちは交代で城内の宿直番を割り当てられ、家臣がそのために夜具を届けてくるが、坊主はわざと掛夜具を隠してしまって、敷布団だけ出しておいた。「ところで筑前守様、お掛け物がございませんが、このまま御寝なされますか」といって坊主の布団など借りられるものでなく、また貸しもしないし、もし借りでもしようものなら末代までの誹(そし)りとなってお笑い種になってしまう。
そこでまんじりともせず一夜を過ごした大名は、翌日、部屋へ帰って、係の家臣に閉門を命じた。それぐらいは年中茶飯事で、坊主たちは、たかが茶を運んで肥え太っていたのである。
江戸城を動かしているのは、表は茶坊主、大奥は老女
ただし大名の係となって、三、四名の大名を受け持つまでになるのが大変で、平坊主のうちは、泊まり番となると午前四時に起き、冬でも火の気の無い殿中で、まずふき掃除をして、それから賄所で味噌汁に香の物三切れで朝食を掻き込んだ。
午前六時になると役付きの坊主たちが登城してくる。それから表御殿の数多い広間や座敷、用部屋などをすっかり掃除して、組頭の検分を受けた。
坊主頭の次に位置する組頭は四十俵二人扶持で、上野同朋町の拝領屋敷に住んでいて、諸大名や諸役人からそっとつけ届けされる祝儀だけで年に五百両はあったという。十両盗めば首が飛び、一人の食い代が年に米一石といった時代の五百両は一財産である。
大名の前へ出ることを許されない平坊主から役付きの座敷番、屏風番、小道具番、城中の火元を取り締まる火番を経て、やっと組頭に出世するのだから、組頭となるとそれこそ江戸城の表と奥に精通している。
政治向きの機密から人間関係までよく知っているから、勢力争いの陰の役者となることもあった。江戸城を動かしているのは、表は茶坊主、奥は老女だった。
将軍、老中といったところで、彼ら陰の操(あやつ)り師に踊らされている人形といった趣きがないでもなく、茶坊主三百名、奥女中八百名によって構成された江戸城は、パレスであって、城砦とはいえない代物だった。
つまり茶坊主と奥女中の城であって、もしれっきとした軍団に襲われたなら、ひとたまりもなかっただろう。しかし、戦力なき江戸城であったからこそ、二百数十年の天下泰平がつづいたのかもしれない。  
 
茶坊主と河内山

 

茶坊主とは徳川幕府の下級役人です。坊主というように頭は剃髪していますが、出家しているわけではありません。職務上のコスチュームのようなものでしょう。組織上では若年寄の配下に組み込まれ、江戸城内で大名や旗本に茶を給するなどの雑用を司りました。
茶坊主の起源は、室町幕府の同朋衆(どうぼうしゅう)にまで遡りますが、徳川幕府に関して言えば、家康の時代に織田有楽斎が江戸城内の茶事の統括に当たり、その配下で雑用に司った者が起源だと言われています。
茶坊主にも様々な種類があります。代表的なものを挙げると、殿中で茶の給仕をする表坊主(おもてぼうず)、奥向きの雑用を司る奥坊主(おくぼうず)、茶室の管理を任された数寄屋坊主(すきやぼうず)など、色々な職分に分かれていました。
特に表坊主は、日頃、江戸城内で大名と接する機会が多い職分でした。彼らは担当の大名が決まっていて、茶時のみならず、城内での雑字の世話をします。そういう職務内容にあったので、担当大名からの付け届けが多かったと言われています。例えばある表坊主が正月に担当大名の屋敷に挨拶に行くと、散々接待を受けた揚句、10両貰って帰ったという話が伝わっています。
だいたい大名は普段から担当の茶坊主を厚遇しました。そうしないと江戸城内で何かと不便をするし、普段の素行を幕閣に密告されるからです。これは、幕府サイドが茶坊主に担当大名の身辺調査を命じているのであって、大名のよろしからぬ素行が耳に入れば、御家取り潰しに至る場合もありました。
ところが茶坊主としては、あまり幕閣の味方ばかりをしていては、現場で担当大名との人間関係がギクシャクする。だから、そこらは心得ていて、心付けをはずむ大名については、都合の悪い情報を幕閣に密告しませんでした。これが後になると、大名から金をもらうと、不利な情報を幕閣に報告しなかったり、密告を取り下げる代償に金品を要求する者まで現れました。そういう気風から、金でどちらにも転ぶような卑しい振る舞いを「茶坊主のような」というようになったのです。
ちなみに江戸では正月三が日に千代田城への年賀登城があります。元日に登城するのは御三家と譜代大名、昵懇旗本。2日が外様大名と格下旗本、御用達商人。3日が大名の嫡子と江戸町人に決まっていた。江戸町人とは単に江戸に住んでいる町人ではなく、家康の入府時から江戸に住んでいた家持町人です。
参賀では町人は裃を、大名や旗本は烏帽子に大紋付きの装束を着用しました。ところが装束は官位によって色が異なる。だからどんなに大きな藩の藩主でも、官位が低いと惨めな思いをしました。
官位は朝廷から与えられるものですが、幕府には朝廷と交渉する役職(高家)があって、彼等が実権を握っていた。そこで大名は官位獲得のために高家に賄賂を贈ったりした。吉良上野介は高家の筆頭格でした。
また、大名は普段は烏帽子を冠らないので、年賀で一斉にお辞儀をする時に、烏帽子を落とす者が多かった。しかし、自分で拾うのは礼を欠くので、そのまま引き下がります。すると、茶坊主が拾って持って来てくれる。それで大名は御礼にチップを渡しました。
大名がお辞儀して引っ込むと、数十個の烏帽子が落ちていたと言うから、これは茶坊主にとって大きな現金収入になったそうです。
江戸後期になると、茶坊主も幕府の給料では生活出来ず、悪事に手を染める者が現れました。その代表が河内山宗春(こうちやま そうしゅん)です。
河内山は江戸後期に実在した茶坊主です。殿中では無役の小普請坊主でしたが、市井の無頼と交わって様々な悪事に手を染め、所々から金を巻き上げました。
しかし悪事が露見し、文政6年(1823)に捕縛されます。どうも彼は水戸藩が邸内で蔭富(非合法の富くじ)を行っていたのを知って強請り、それが原因で逮捕されたらしい。捕縛後に牢中で突然病死しました。水戸藩の不正を隠蔽するために毒殺されたとも言われています。
この事件を幕末に講釈師の松林伯円が「天保六花撰」という講談にしたところ、大当たりしました。
これは、河内山が上州屋の娘が奉公先の松江侯に妾になれと迫られ、拒否して家に返してもらえないと知り、上野寛永寺の使僧に化けて松江屋敷に乗り込み、娘を取り返すという物語です。帰りに松江家用人の北村大膳に偽者と見破られるが、開き直って啖呵を切るので、家老の高木が上野の使僧として送り出すところがクライマックスになっています。
これが非常に好評で、明治に歌舞伎になりました。ご存じ「天衣紛上野初花(くもにまごう うえののはつはな)」です。河内山は九代目市川団十郎が演じて絶讃されました。
この劇中では宗春でなく、宗俊となっています。  
 
茶坊主僧侶雑話

 

城中での大名
まず、席順から・・・。
大廊下詰めが御三家、
大広間詰めが国主大名、帝観の間詰めが譜代大名、
その他にも雁の間、柳の間、菊の間などがあり、城持ちではなく陣屋の大名たちを振り分けました。
溜の間になると御家門という徳川家の親類筋でその中でも諮問にあずかる顧問待遇の人々であった。しかし、例外もあった。彦根の井伊家は将軍の親戚でも何でもないが、特に三河時代からの古い家臣で由緒ある家柄であったため、代々顧問待遇を受けて溜の間詰めであった。そして、役職に就けば必ず大老であった。
次に、何をしていたか・・・。老中などの役職者は日々これ忙しい毎日でしたが、大方の大名はただ出仕をするだけで何もせずにボケッとして刻を潰しました。そして、八ツ(午後二時)くらいになるとお城下がりをした。
湯茶の接待は・・・。まったくありませんでした。ただし、茶坊主という接待役がいて、御三家と大名の中でも賄賂を贈った者だけには出仕すると、こっそりと一回のみお茶を出してくれました。それ以後は、自分で湯茶場へ行き、自分で注いで飲みました。どんなに偉い大名でも、江戸城内では、ただの家来だったからしかたがありません。また、茶坊主に気に入られない(賄賂などを贈らない)大名などは、出仕しても茶坊主は知らん振りをして通り抜け、今でいうシカトされ、冷遇されていました。また、弁当を食べる時も自分でお茶を入れて飲みました。さらに、夏はともかく冬でも火鉢などは一個もなく、座布団さえありませんでした。
大名同士で世間話でも・・・。とんでもありません。大名同士が結束されては幕府転覆を狙うことも有り得るので、殿中ではいっさいの私語は禁じられていました。しかし、大名同士でも親戚もあれば親友もいました。そうした者を屋敷に呼ぶときは「別に騒動を招くような話ではない」という証に旗本に頼んで立ち会ってもらいました。 
通行中のトラブル
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(なりのぶ=家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通行中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまった。家臣がその子を捕まえて本陣まで連れて行った。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き「許し」を乞うたが、斉宣は聞き入れず、その子を切り捨てにしてしまいました。尾張藩はこれをおおいに怒り、使者を遣わし「このような非道をするようであるなら、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えました。斉宣は、行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで、町人か農民のようにコソコソと尾張領内をぬけました。さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で斉宣を射殺してしまいました。もちろん、源内は死罪となりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。 
大名の玄関
格式により決まりがありました。
御玄関・・・・正式な玄関で、「表大名」と「溜之間詰大名」。
中之口・・・・奏者番、寺社奉行などの役職者。また、役職ではないが「半役人」とされる「雁之間詰大名」「菊之間縁側詰大名」。
御納戸口(別名・老中口)・・・老中、所司代、大阪城代、若年寄りなど。
御風呂屋口・・・御三家とその家老、中奥役職者。
大名が玄関を入ると300人ともいわれる「表坊主衆」がお出迎えをし、坊主たちと懇意にしている大名を、それぞれの部屋まで案内をした。
殿中は、複雑な間取りとなっており、一人では自分の詰め所まで行けなかった。 
武士は名前を呼ばなかった
公式には官名で呼んだ。「越前殿」とか「掃部頭殿(かもんのかみどの)」というふうに呼んだ。苗字で呼ぶのはやや目上か同輩。名前で呼ぶのは目下の者を呼ぶときにもちいた。例えば、目付役が部下の徒目付(かちめつけ)を呼ぶように茶坊主に頼むと、茶坊主は呼び出す者の部屋の前で「正五郎さん。島崎殿」と声をかける。正五郎は呼ばれた者、島崎殿は呼んでいる者を指した。 
比丘尼(びくに)への憧れ?
「比丘尼」とは諸国勧進に回っていた「尼さん」が「娼婦」に落ちた者をさした。尼僧姿で娼婦とは変なものだが、坊主頭に色気を感じる変体男もいて、江戸ではなかなかの人気があったという。川柳で、「三ケ日(さんがにち)待たず比丘尼は見世を張り」というのがある。つまり、正月の三ケ日も休めないほど繁盛した、というものである。 
僧侶・神官
何かにつけて神仏頼みの世の中。「坊主」とは一坊の主(あるじ)を指す「坊主(ぼうしゅ)」からきている。坊主は殺生をしない、だから魚介類は食べない、と言われたが、浅草報恩寺の正月十六日の開山式典には「鯉」が供えられた。神社は古来からの日本伝統の宗教文化。寺を建てる時も「地鎮祭」を行った。神仏合体であった。坊主と同じく「神主(かんぬし)」と呼ばれた。 
被りもの
どこへ行くにも徒歩しかない時代。江戸の街は土埃がひどかったので、髪に付くと洗うのも一苦労。しかも、整髪用の油は結構高かったので、男も女も被りものが結構重要視された。男では、丸頭巾、角頭巾、船底(ふなぞこ)頭巾など。女は綿帽子(わたぼうし)や揚帽子(あげぼうし)、御高祖頭巾(おこそずきん=鞍馬天狗が被ったような頭巾)などが主流。手拭は一般的で、被り方や結び方で職業を表した。旅をする時は、男は深編笠。虚無僧は天蓋(てんがい)。坊主は網代笠。渡世人は三度笠など、女は市女笠や韮山笠などが有名。現代でも花嫁衣裳を着たときには揚帽子、つまりは、角隠し(つのかくし)などが伝統を受け継いでいる。 
風呂
江戸で火災が発生すると、一気に広範囲に焼失してしまうことから、風呂を造るには幕府への「届出」をし「許可」が必要でした。また、神田上水ができてからは水は割合自由に使えましたが、「薪(まき)」は近在の農家から購入しなれければならず、非常に高かった。従って、各家庭には風呂は造れず銭湯へ行きました。銭湯は、およそ、各町内に1軒はありました。相場は8文でしたので、蕎麦の16文の半分でした。豪商と言われ雇い人を多く使っていた「三井越後屋(現・三越)」の使用人たちでさえ、銭湯に行きました。また、商家のご隠居風情になると、朝晩の2回通う者もいたとか。
なお、女性も男性も髪を洗うのは「ご法度」で、頭を洗えたのは「座当(ざとう=あんま)」の丸坊主ぐらいのものでした。 
大名行列も道の端へ  
大名行列よりも格が上だったのが「御茶壷道中」。これは、毎年将軍家が飲用する新茶を京都の宇治から運ぶ行列のことで、この御茶壷道中の往復に出くわしたら、さあ大変。大名行列とすれ違ったりした時は、どんなに偉ぶっていた大名も籠から出て腰を深々と折って、敬意を表しました。 
幕府から茶器、十徳を賜ると・・・
幕府から茶器を賜ると、これは大名に「隠居せよ」という暗黙の命令でした。今で言う「肩たたき」だったわけです。それでも気づかぬ場合は十徳(じゅっとく=茶会の時に羽織る羽織)を下賜された。これらの二点をもらうのは珍しいが、薩摩藩主の島津斎興(なりおき)は、朱衣肩衡(あけごろもかたつき)という名茶器を賜ったが、無視していたため、重ねて十徳を下賜され、やっと隠居をして斎彬(なりあきら)に家督を譲った。二点下賜されたのは斎興が最初で最後であったとか・・・。 
吉原の誕生
慶長5年(1600)に家康が関が原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡神社の前に茶店を造り、揃いの赤ダスキに赤手ぬぐいを被った遊女8人にお茶を出させた。家康はこれを大変気に入り、戦いで勝利して江戸に帰ると、その男に遊女屋の開業を許可したのである。男は当時、柳町に遊女屋を営んでいた「庄司甚右衛門」という者で、許可がおりたのは元和3年(1617)だったという。日本橋葦屋町(ふきやまち)に公認の遊女屋を造ることを指示したが、このあたりは、まだ一面の葦(よし)野原であった。そこで、めでたくもじって「吉原」としたのである。 
遊女とは?
江戸時代、吉原で営業する公娼を「遊女」と呼び、潜りの私娼を「売女(ばいた)」といいわけた。したがって、「遊女」「売女」の違いができたのは、元和3年に元吉原ができてからである。 
花魁(おいらん)
宝暦年間(1751〜1763)以前は、遊女の最高の位は「太夫」または「傾城(けいせい)」と言ったが、格式が高く教養も良家の子女をうわまわるほどだったため、「遊び」には、かなりの物入りだった。そこで、もう少し「安く」遊べるようにと、「太夫」を廃止し「花魁(おいらん)」が遊女の最高ランクとなった。しかし、やはり「高値の華」だった。ちなみに、「花魁」の語源は「おいらの姉御」から「おいらんの」「おいらん」と呼ばれるようになり、「花魁」という漢字が当てられました。 
遊女の階級
まず、「太夫」そして「格子」、「散茶」、「梅茶」、「五寸局(つぼね)」、「三寸局」、「なみ局」、「次(つぎ)」の8階級であった。太夫は一番多い時で70人余りいたという。しかし、彩色教養兼備の遊女が少なくなったため、寛保年間(1741〜1743)には2〜3人にまで減少し、ついには、宝暦年間に「太夫」の位はなくなってしまった。 
なぜ「太夫」はなくなったか
「太夫」は容姿だけが資格ではない。声曲、お茶、お花、香合、そのほか芸事全般、和歌、文字の上手さ、などを身に付けていた。中には「八代集」や「源氏物語」、「竹取物語」を覇読したり、漢文を「レ(れてん、または、かえりてん)」なしに読める者までいて、当時の最高インテリ女性であった。だから、客も大尽らしく振舞わなくてはならず、寝るためだけに買うと大恥をかいたという。大名気分にはなれたものの、窮屈極まりなかった。そこで、「太夫」がいなくなった時点で、そこそこの容姿、教養を身に付けた「花魁」へと替わっていった。
しかし、京や大阪では「太夫」の名称は残りました。これは、京や大阪では、踊りや芸事に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。ただし、江戸の「太夫」のような教養はあまり必要ではなかった。 
花魁(おいらん)道中とは
「太夫」や「格子」をお客が指名するときは、まず、客は「待合茶屋」へあがって、そこの店の者を「使い」として遊女屋に走らせた。そして、指名された「太夫」あるいは「格子」が客の待つ茶屋まで着飾って高い朱塗りの下駄をはき、独特の八文字を描いて時間をかけて出向いた。これが「花魁道中」である。茶屋で客と出会った後、気に入れば自分の遊女屋へ伴ってきた。しかし、一度目、二度目は単なる「お話」程度で抱くことはできず三度通ってはじめて蒲団を一つにできた。茶屋への席代、茶屋での飲食代、使いの者への駄賃、遊女に付き添ってきた者一人ひとりへのご祝儀、遊女屋への支払い、そして、遊女へのご祝儀。実に、一晩だけで30両余りもとんだと言われている。よほどの大尽でなければこんな「遊び」はできなかった。
なお、京や大阪では「太夫道中」と言いました。 
では「手ごろな」ところでは?
遊女の格で第三位に「散茶」というのがいる。これは、お茶をたてる時、振って出すお茶と振らないで出すお茶があり、振らないでたてるお茶を「散茶」と言った。これがそのまま遊女の名称になった。つまりは、どんな客でも「振らない」という意味である。格子戸越しにずらりと並んで見世を張る。そして、覗き見の客に甘い言葉をかけて、とにかく、しゃにむに二階へとあげた。 
岡場所
幕府の許可を受けていない私娼(ししょう=売女「ばいた」とも呼ばれた)のこと。集団娼(しゅうだんしょう)と散娼(さんしょう)に分けられた。
集団娼・・・水茶屋や出会い茶屋などに抱えられて春を売った。また、湯屋(銭湯)にも私娼がおり、西神田の堀丹後守の屋敷前にあった「丹前風呂では「勝山」という湯女(ゆな)は人気NO1だったと言われている。
散娼・・・・
   蹴転(けころ)・・・上野のお山を中心に出没した。
   提げ重(さげじゅう)・・・明和〜安永年間(1764〜1781)頃流行した、提げた重箱に餅や
      饅頭を売り歩きながら春も売った。
   船饅頭(ふねまんじゅう)・・・天明(1781〜1789)頃流行。饅頭を売ることを表向きとして
      「大川(隅田川)」の船の中で春を売った。
   夜鷹(よたか)・・・元禄年間(1688〜)から出没するようになった。上記参照。
   比丘尼(びくに・・・天和〜貞享(1681〜1687)頃から出没し始めた。上記参照。 
花いちもんめ
子どものころ歌った「花いちもんめ」は、人買いに売られる少女を歌ったもので、1匁(もんめ)は、時代により換算金額は違うが、約1,500〜2,500円位であった。人買いが少女を売ったのは、主に、集団娼の水茶屋や出会い茶屋で、吉原に売られることは「めったに」なかった。 
遊女の揚代
寛永18年(1641)・・・太夫=1両=約25万円
明暦年間(1655〜1658)・・・太夫=60匁(もんめ)、格子=26匁、散茶=1分、局=3匁
元禄年間(1688〜1704)・・・太夫=37匁、格子=26匁、局=3〜5匁
享保19年(1734)・・・太夫=74匁=約19万円、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)・・・・太夫=90匁、格子=60匁
1匁は「花いちもんめ」で述べたように、約1,500〜2,500円位。 
身請け
史料として残るのは、元禄年間(1688〜1704)で「梅茶」あたりで40〜50両(約1千万円余り)。「梅茶」の借金が30両位で後は忘八の取り分。「太夫」になると借金は500〜600両で、身請け金額としては、それまで世話になった人々への「ご祝儀」も含めて、1,000両(約7,500万円位)かかったと言われています。
身請けの日には、妓楼(ぎろう)では、「赤飯」を炊き、豪勢な食事を用意し、一通りの「祝いの膳」を終えてから(全て、身請け人の銭で)、大門の前に用意された「籠」で廓(くるわ)を去った。 
浅草
浅草の代表といえば、もちろん「浅草寺(せんそうじ)」。奈良時代からの古刹(こさつ)である。浅草寺境内は見世物小屋や水茶屋が建ち並び「奥山(おくやま)」と呼ばれ賑わった。曲独楽(きょくごま)の松井源水や講談の志道軒(しどうけん)などが有名になった。浅草寺の裏手は「新吉原」があり、こちらも盛況だった。 
食通1
天下泰平の世が続くにつれて、人々の楽しみは「食」へと広がっていった。蕎麦(そば)、鮨(すし)、鰻の蒲焼も流行するようになった。料理茶屋の中でも深川洲崎の「升屋(ますや)」は、食通で知られる蜀山人(しょくさんじん)の書によれば「総門ひらけて別荘のごとく、玄関の体、黄檗(おうばく=黄檗宗という寺院)に似たり、建て続ける金殿玉楼、金張つけに朱塗りの欄干・・・」とあり、隠居した大名や大藩の留守居役、あるいは大店の商人などという上客筋であった。しかし、田沼時代が終わると、「升屋」もその終焉を迎えた。 
食通2
江戸で「料理茶屋」、つまりは「料亭」と呼ぶにふさわしい茶屋が出現したのは明和年間(1764〜)で、深川洲崎の「枡屋望汰欄(ますやぼうだらん)」という料理茶屋であった。それまでは宴会場といえば、吉原に限られていた。続いて、安永年間(1772〜)から天明年間(1781〜)にかけて隆盛を極めたのが、浮世小路の「百川(ももかわ)」、佐柄木町(さえきちょう)の「山藤(さんとう)」、向島の「葛西太郎(かさいたろう)」、中州(なかす)の「四季庵(しきあん)」などが通人の間の評判となった。しかし、老中田沼意次の失脚とともに贅沢禁止令が出たため衰退をした。それでも、「食」に対する人間の欲はいかんともしがたく、文化年間(1804〜)から文政年間(1818〜)にかけて、再び流行となった。この時江戸を二分したのが日本堤山谷(さんや)の「八百善(やおぜん)」と深川八幡前の「平清(ひらせい)」。 
行商人あれこれ
「初午(はつうま)の太鼓売り」・・・どこの町内にもあったお稲荷さんのお祭りが初午。子供た
   ちが叩きまわる太鼓を売り歩いた。口上はいわず太鼓を鳴らしながら歩いた。
「菖蒲刀売り」・・・五月五日の男の子の端午(たんご)の節句に、床の間に飾る太くてそりの
   ある木刀を「菖蒲刀」といった。
「金魚売り」・・・中級以上の町人に愛玩された。金魚といっしょにメダカを売る者もいて「メダ
   カ〜、金魚ゥ〜」と売り歩いた。
「虫売り」・・・秋の風物詩であった。虫の鳴き声が看板がわり。蟋蟀(こおろぎ)が一番手ご
   ろで安かった。
「ところてん売り」・・・夏限定商品。と言っても、春先から売り歩いた。水鉄砲式の突き道具
   も当時からあった。
「鰹(かつお)売り」・・・生きのいいところでは、鎌倉から毎朝仕入れ、1〜2本を天秤棒の前
   桶に入れ、後ろの桶にはまな板、包丁を入れて担ぎ、注文があると、その場でさばい
   てくれた。もっとも、鎌倉仕入れの鰹は高く、武士か大店しか買えなかった。
「飴(あめ)細工売り」・・・水飴を丸めてヨシの先につけて、息を吹き込んで丸くしたものを色
   々な形に仕上げて売った。現代にも受け継がれている。
「水売り」・・・江戸では井戸はほとんどなく、上水道であったが、水を売り歩く商売があっ
   た。砂糖入りの水もあったとか。現代のミネラルウオーターの元祖みたいなもの。
「小間物屋」・・・櫛、簪(かんざし)、紅、白粉(おしろい)などを売り歩いたが、女性相手なの
   で、噂話を面白おかしく話しながら客を引き付けた。また、淫具もこっそりと売っていた
   者もいた。
「古紙回収屋」・・・再生紙は「浅草紙」として、トイレット・ペーパーに。
「らう屋」・・・煙管の修理屋。
「傘の古骨買い」・・・再び、油紙を張り替えて売った。
「焼き接ぎ屋」・・・・・割れた茶碗を「ふのり」と「粘土」を混ぜた「天然の接着剤」を塗り炭火
   で焼いて、元の形にする。
「たが屋」・・・・・・・・桶のゆるんだ「タガ」を締めなおす。
「下駄の歯入れ屋」・・・磨り減った下駄の歯の入れ替え。
「古鉄買い」・・・・・・火事などで焼けた家から「クギ」を買い集めた。
「灰買い」・・・・・・・・火事などでの焼け跡の灰を買い取った。天然のアルカリ成分で、畑の
   土の再生に利用された。 
歌舞伎の始まり
慶長8年(1603)が定説になっています。
元亀3年(1572)頃に出雲に生まれた、「阿国(おくに)」が出雲大社の巫女となり、出雲大社の勧進(神社の修繕費などの資金集め)にまわるようになり、
記録としては、
(1)奈良興福寺・多聞院の院主、多聞院英俊の日記「多聞院日記」の天正10年(1582)の項に、「加賀国八歳十一歳の童が『ややこ踊り』を披露した」と、書かれており、この解釈として1加賀という八歳の娘とクニ(阿国?)という十一歳の子どもが踊った。と言う解釈と、2ただ単に、加賀国の八歳と十一歳の子どもが踊った。と言う二つの解釈があります。
(2)その後、慶長5年(1600)に、京都近衛殿の屋敷や御所で雲州(うんしゅう=出雲)の「クニ」と「菊」という二人の女性が、やはり、「ややこ踊り」を披露した。と、近衛時慶(ときよし)の日記「時慶卿記」に出てきています。
(3)しかし、これらの史料では、いずれも「ややこ踊り」をした。と、記載されており、「ややこ踊り」とは、幼い子どもが、ただ単に笛と太鼓に合わせて「舞」を披露するだけのものでした。
(4)慶長8年(1603)5月初旬に、京都の四条河原に小屋掛け(数本のクイを地面に打ちつけ、筵(むしろ)を掛けただけの粗末な小屋)をして、茶屋へ通う伊達男を「阿国」が男装をし、夫(夫ではない、と言う説もある)の名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)が茶屋の女将に女装をして、踊りを交えた寸劇を演じ、この男女の入れ替わった「性倒錯」が評判となり、連日、「大入り満員」だったといわれ、これを当時の京都の人は「傾く(かぶく=常識から外れている、突拍子もないこと)」と呼び、これが「かぶく」、「かぶき」と変化をし、後に「歌舞伎」の漢字が当てはめられました。
(5)阿国は、慶長12年(1607)に千代田城(江戸城)で勧進歌舞伎を披露しましたが、その後の消息は途絶えてしまいました。ただ、慶長17年(1612)に京都の御所でも歌舞伎を踊ったとも言われていますが、阿国だったのかどうか・・・。従って、没年は不明です。
(6)阿国が京都四条河原で披露した踊りの時に結ったと言われる髪型を「若衆髷(わかしゅまげ)」と呼ばれ、京都や大阪、そして、江戸までにも流行したといわれています。 
長屋の暮らし
標準的な造りは、間口9尺(1間半)、奥行き3間、つまり、入り口から土間の台所、そして、座れる空間(座敷)を入れても9畳(4.5坪)でした。
土間兼台所は、3尺位で、非常に合理的に食事道具などを収め、その後ろの半畳位の場所に衣類などを入れた長持ちや家財道具を置き、居間としては6畳位しかありませんでした。食事道具としては、箱膳が重宝がられ、箱の引き出しに、自分専用の茶碗や皿、箸などを入れて、家族はそれを重ねて積み上げ、空間利用しました。
また、所帯持ちですと、江戸時代後期あたりでも、子どもは4〜5人居ましたので、家族としては6〜7人が一般的でした。従って、わずか6畳に押し合い、ひしめき合って暮らしていました。夫婦の夜の「お楽しみ」は、屏風や衝立(ついたて)で子どもたちとは区切りをして行いました。
もっと貧しい、あるいは、独身者用としては、間口6尺(1間)、奥行き2間、土間や家財道具や仕事道具などを置く場所を除くと2畳の座敷のものもありました。
井戸やトイレは一箇所で共同使用しました。 
隅田川
四季を通じて風光明媚であるとともに、隅田川は江戸名物が獲れた場所でもあった。「鯉(こい)」、「鮒(ふな)」、「白魚(しらうお)」、「鰻(うなぎ)」、「鯰(なまず)」、そして「蜆(しじみ)」などである。鯉は神田上水の「紫鯉」が最上とされたが、これは将軍家専用で「お留川(おとめがわ=禁漁川」であったので庶民の口には入らなかった。それに替わって、向島や深川などの料理茶屋では隅田川の鯉を使った。また、隅田川名物の「白魚」は、佃島漁師の独占営業が許されており、漁の期間は毎日、将軍さまの食膳に出された、という誇りを持っていた。「佃煮」はここから発祥した。味噌汁にして飲めば「黄疸(おうだん)」が治るといわれた「蜆」は、業平橋(なりひらばし)付近が最上と言われた。 

せっかちな江戸っ子は「初物(はつもの)」好き。筆頭は何と言っても「初鰹(はつがつお)」。四月初旬に鎌倉から馬や船で運ばれた。しかし、目玉が飛び出るくらい高かった。文献に残るものとしては、文化9年(1812)3月25日江戸の魚河岸に着いた鰹船に乗せられていたのはわずか17本。6本は将軍家御買い上げ。3本は料理茶屋「八百善」が1本二両一分、計六両三分で入手。残り8本が魚屋が買い取ったが、その1本を歌舞伎役者の中村歌右衛門が三両で買って大部屋(下ずみ)の役者に振舞ったとか。また、鰹にかぎらず「初茄子(なす)」、「初胡瓜(きゅうり)」、「初茸(きのこ)」などと、何でも「初物」を自慢した。だが、これが災(わざわ)いして、江戸市中の物価は高値を極め、たびたび、幕府から売り出しの期間等の通達を出したが、それがかえって、逆効果となった。 
園芸
日本人はけっこう古くから植物を鑑賞用としていた。平安時代中期には宮廷内で長櫃(ながびつ)に「薄(すすき)」や「萩(はぎ)」を植えて鑑賞し、贈答品としても用いられていた。江戸時代も二代将軍秀忠や三代将軍家光などが花好きであったことから、大名や旗本連中もこぞって珍花や奇木を求める風潮が広がっていった。庶民も「菊」、「朝顔」などの鉢植えを路地に置いて楽しんだ。また、行楽地としては巣鴨の菊や堀切の菖蒲、大久保のつつじなどが有名であった。また、生け花も茶の湯とともに発展をし、町家から遊里まで女性の「たしなみ」としてもてはやされた。 
牢屋敷
小伝馬町にあった牢屋敷は、幕府最大の牢屋で、町奉行所からの囚人だけではなく、寺社奉行所、勘定奉行所、火付盗賊改など、すべての囚人が収容された。牢屋敷の広さは2700坪で、その一角に牢奉行を世襲する石出帯刀(いしでたてわき)の屋敷があった。同心50人、下男(しもおとこ)38人で囚人の監視にあたった。周囲を高さ八尺くらいの「練塀(ねりべい)」で囲い、その塀の表と裏に深さ七尺の堀をもうけていた。屋敷内には、ほかに、「死刑場」「拷問蔵」取調べ用の「穿鑿所(せんさくじょ)」などがあった。牢には「大牢」「女牢」「無宿牢」「百姓牢」などに分かれていた。武士や僧侶、神官は「揚(あがり)座敷」あるいは「揚屋(あげや)」に入れられ別扱いであった。さらに、大名や500石以上の旗本は、ほかの大名などに「お預け」となったので牢屋敷にはこなかった。また、江戸時代には「懲役刑」はなかったので、牢屋敷は、いわば未決囚の「拘置所」と同じであった。裁判は比較的早く、長くても半年以内には判決が下された。 
囲われ者
江戸時代は、妾(めかけ)を囲っても、誰も非難する者はいなかった。むしろ、羨ましがられた。将軍や大名に側室がいたから、当然といえば当然のこと。悋気(りんき=やきもち)をやいたのは本妻くらいなもの。妻帯を許されない僧侶も浄財を使い込みして女を囲ったほどだった。いつの世にも悪女もいて、「小便組」という女がいた。大名屋敷などに妾奉公にあがると言って、多額の支度金を取り、何としてでも「殿」の「お手付き」になる。しかし、しばらくして、枕を一緒にしながら床で小便をする。と、もちろん解雇される。だが、この時またしても「手切金」なるものをせしめる。そして、また他の大名などに目をつけて同じことをして優雅に暮らした女もいたという。 
 
江戸城本丸御殿

 

表(おもて)
将軍への謁見(お目通り)その他の儀式のための広間とか、ふだん役人たちが仕事をする座敷などがある。江戸城の「役所」のエリアだ。
 1.中雀(ちゅうじゃく)門
 2.能舞台 公の儀式の日などに、ここで能がおこなわれる。
 3.大広間 畳の数で400畳をこす、文字通りの大広間。儀式・公式行事用の部屋。
 4.松之廊下
 5.柳之間 大名が登城した時の詰所。(つまり控えの間)
 6.蘇鉄の間 大名の供侍の詰所。
 7.虎之間 書院番の詰所。書院番というのは江戸城の警備や、将軍の江戸市中への巡回に従うことなどが主な仕事。
 8.遠侍(とおざむらい) 御徒の詰所。お目通り以下の下級武士で、将軍の警備にあたるのが御徒だ。
 9.目付衆御用所 「目付」とは監督する役の人。江戸時代、大名を監督する役人を「大目付」、旗本・御家人の監督を「目付」といった。
10.帝鑑之間 ここも大名登城のさいの詰所。
11.白書院 公式行事用の部屋だけれど「大広間」にくらべると、ちょっと内輪の儀式用。
12.菊之間 番頭の詰所。警備、護衛の仕事をする人を番方(または番衆)といったが、番頭はその頭の人のこと。
13.雁之間 ここも大名登城のさいの詰所。
14.芙蓉之間 勘定奉行、寺社奉行、町奉行など江戸時代にはいろいろな「お奉行さま」がいたが、その詰所。
15.黒書院 11白書院と役割り同じ。
16.御用部屋 老中・若年寄が詰める。かなり奥まった位置にあるし、部屋の中に、密談の時、火ばしで字を書くための「いろり」があるところなど、なかなかのもんだ。
17.台所 将軍の食事を用意するところ。大名たちは、登城の時はそれぞれの屋敷からお弁当が届いたらしい。
18.台所前三重櫓
中奥
将軍の官邸。住居であるとともに、将軍が書類に目を通す仕事の場でもあった。「表」とひとつづきだ。
19.地震(じなえ)之間 耐震建築。さすがに地震国日本。こういう施設もあったんだねえ。
20.御休息 将軍の寝室。
21.湯殿 もちろん、おフロだ。
22.井呂裏之間 将軍がおそばの者と楽しくおしゃべりするための部屋。
23.御座(ござ)之間 将軍のふだんの部屋であるとともに仕事部屋でもある。
24.奥能舞台 こちらの能舞台は「表」の舞台とちがって、将軍自身の楽しみのためのもの。
25.側用人の部屋 このあたりは将軍の身のまわりの世話をする側用人の控えの部屋などがある。
26.奥坊主部屋 将軍にお茶をいれたり、大名の接待をする役の坊主を奥坊主といった。
奥(おく、またの名を「大奥」)
将軍の私邸。御台所(奥さん)を中心に、将軍の子どもや奥女中たちが生活する。「中奥」とは塀で仕切られていて、「御鈴(おすず)廊下」と呼ぶ、長い廊下だけでつながっている。中は大きく3つのエリアに分かれる。
 (1)大奥御殿向(むき) 将軍の御台所(奥さん)の住居のエリア。
 (2)御広敷(おひろしき) 大奥の事務をとり扱う役所のエリア。
 (3)長局向(ながつぼねむき) 奥女中たちの生活するエリア。
27.新座敷 将軍のお母さんの住居。
28.御殿
29.対面所 外からのお客さまを接待するための部屋。
30.御座(ござ)之間 このあたりが将軍と御台所(奥さん)が対面するための部屋。
31.御休息之間、御化粧之間 このあたりが御台所(奥さん)のふだんの部屋。
32.長局(ながつぼね) 奥女中たちの部屋。
虎之間
将軍と対面の儀式などをするのに大名たちは玄関からはいり、遠侍を通って大広間へ向かう。虎之間は遠侍と大広間をつなぐ位置にある部屋。大名や将軍の館では、玄関や、それにつづくお客を迎える部屋を虎と竹の絵で飾ることが多い。虎之間は36畳もある広い部屋だ。虎と竹のふすま絵は幕府の権威と武士の勇ましさの象徴だ。入側を通る大名たちが建具のすきまからこの部屋をのぞいた時に目にはいるよう、虎は部屋の東面と北面に描かれていた。
帝鑑の間
格天井(ごうてんじょう)で、ふすまには 唐(むかしの中国の王朝)の皇帝が描かれている。10万石以上の譜代大名や交代寄合(3、000石以上の旗本で役職につかない者。大名に準じる。)が詰める部屋。本丸御殿の表には大広間から白書院・黒書院のエリアにかけて柳之間・雁之間・大廊下など大名の詰所となる部屋があちこちにある。どの大名がどの部屋に詰めるかは、その格式によって、きっちり、厳しく定められていた。
(注)格天井(ごうてんじょう) / 木を1mくらいの間隔で正方形に組み、上に板を張った天井。
大奥新御殿
大奥新御殿(31.御休息之間など) 大奥新御殿の上段・下段・ニ之間・御休息之間の4部屋には、春の桜、秋の紅葉など、四季の風景が色あざやかに描かれていた。 
 
調所広郷 

 

調所広郷 1
破綻していた藩財政を立て直し、薩摩藩の地位高める
調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)は薩摩藩の前藩主(八代)・島津重豪(しげひで)に茶坊主として仕え、のち還俗。その後、御用人・側役を兼任、5年後、藩財政の困窮に際して財政改革担当を命じられ、大番頭・大目付格を経て1833年、家老となった。その間の改革全権を委任され、破綻していた藩財政を立て直した。
その過程で、琉球を通じた密貿易はじめ法スレスレの諸施策もあったが、その事績は薩摩藩への貢献大なるものがある。具体的にいえば、調所は財政改革に取り組んで20年で500万両の赤字を埋め、60万両もの黒字を出し、幕末政界において薩摩の位置を重くした人物だ。
調所広郷は下級士族、川崎主右衛門の子で、13歳で調所清悦の養子になった。幼名は清八、友治、笑悦。通称・笑左衛門。調所家は御小姓与(ぐみ)の家格だった。島津家の家臣では最も低い家格だ。西郷隆盛の家と同じだ。勤めは茶坊主だ。笑左衛門も15歳のとき茶坊主として勤めるようになった。茶坊主の給米は4石というわずかなもの。そのために髪を切らねばならない。その屈辱が彼の成長に何らかのプラスになったのではないか。生没年は1776〜1848年。
調所広郷は25歳で江戸に出、前藩主(島津氏25代当主)重豪付きの茶坊主になった。この重豪との出会いが調所の人生を一変させる。重豪は徳川八代将軍吉宗の武断主義に、十一代の家斉の豪奢を合わせたような傑物だ。その家斉は重豪の二女を夫人にしていた。
重豪は長崎を通じて外国の学問文化に目を注いでいた。参勤交代が終わって帰国の途中、わざわざ長崎に寄って20日間も滞在。出島やオランダの船を見学したことがある。数ある大名のうち、自分で長崎を見たのは彼ぐらいだろう。歴代の商館長とはいつも書信を交わしていたし、有名な医師シーボルトには自分から願って教えてもらったこともある。「成形図説」という大部の農学百科を編集、領内に頒布して農業技術の向上を図った。漢語もかなり話せたようだし、学術用語ぐらいならオランダ語も分かった。
重豪は77万石の大守で、将軍家斉の義父という体面があるから、江戸の外交経費も惜しまない。高輪の屋敷には西洋風の家を造ったこともある。また、薩摩には宝暦の木曽川治水工事お手伝いという財政上の大苦難があった。巨額の費用と多くの人材を失い、幕府の命令どおりに工事を終了したが、この痛手がすっかり直らないところに、重豪の収入を上回る積極財政が展開されたから、藩財政は困窮した。こうした事態に陥って、重豪はバカ殿様ではないから考え、本来この財政難を立て直すのが自分の任務だろうが、それは性分には合わないと判断。1787年(天明7年)、藩主の座を斉宣(15歳)に譲った。ただし、「政務介助」の名目のもとに実権は握り続けた。
新藩主・斉宣の側近、樺山主税・秩父秀保・清水盛之らは「近思録派」と呼ばれ、保守的・精神主義・素朴復古・倹約最優先だったから、重豪が32年間にわたって展開してきた開明政策を批判、あるいは否定するものだった。そうなると、重豪は黙っていられない。真っ向から対立、お家騒動に発展した。「近思録くずれ」「秩父騒動」などと呼ばれ、薩摩藩はこのとき完全に二分した。翌年、重豪は斉宣を藩主の座から引きずり降ろし、斉宣の子の斉興を据えた。
江戸詰めで重豪の側に仕えていた調所は、大騒動のあった2年目に茶道頭になった。それから4年、40歳で御小納戸頭取御用、御取次見習になった。この時点で調所は幹部の一員になったといっていい。彼を昇進させたのは重豪だ。その後、1822年(文政5年)から2年間、彼は鹿児島の町奉行を務めた後、江戸に呼び返され御側御用人、御側役になった。藩庁と藩主個人との間をつなぐ役だ。また同じ頃、先々代重豪と先代斉宣の生活費を工面する仕事を仰せつかる。実はこれが琉球貿易による独立会計だった。
1827年(文政10年)、調所の人生にとってヤマがきた。重豪の名代として改革をやれ、家老を指揮すべし、という命令が下ったのだ。調所は拝命にあたり「絶対に罷免しない、批判は許さない」という重豪の「直書」をもらい、この後、20年もの長期にわたって藩政改革を指導することになる。重豪は大坂商人との500万両踏み倒しの成功を見ぬうち、1833年(天保4年)、88歳で死んだが、斉興は重豪の改革方針継続を表明。以後、調所と斉興は二人三脚で大改革を推進していく。そして、破綻していた藩財政の立て直しに成功する。 
調所広郷 2
調所広郷とは江戸時代後期の武士であり、薩摩藩の破綻した財政を立て直した経済官僚である。幼名は良八。別名清悦、笑悦、笑左衛門など。
安永5年(1776年)、薩摩藩御小姓組(下級士族)、川崎主右衛門の次男に生まれる。
天明8年(1788年)、同じ御小姓組の調所家の養子となる。寛政2年(1790年)、清悦と改名し、表坊主(茶坊主)として勤め始める。
調所の若い頃の記録は余り残っていないが、大工の事は大工に、商売の事は町人に、農業の事は農民に詳しく聞き、問われた際には即座に答えられた事や、明け方まで書き付けをするなど、勉強熱心な青年であったことがわずかに伝わっている。
茶坊主から藩重役へ
寛政10年(1798年)、江戸への出府を命じられて出向。半年ほど勤めた後、御隠居御付の奥茶道に任じられ、既に隠居していた薩摩藩8代藩主・島津重豪(しげひで)に仕える事になった。
この後数年間重豪の側近として勤め、文化元年(1804年)頃に薩摩藩世子・島津斉興の奥茶道に転じる。
文化8年(1812年)、勤続20余年にして茶道頭に任じられる。次いで文化10年(1814年)、数え歳38歳の時に茶坊主から藩重役の御小納戸に抜擢され、蓄髪を許される。名も笑左衛門と改め、20年以上勤めた茶坊主生活から異例の栄転を遂げた。
薩摩藩の財政事情
江戸時代初期から薩摩藩の財政事情は不安定であったが、宝暦3年(1753年)から宝暦5年(1755年)にかけて起きた「宝暦治水事件」や、その直後に藩主となった重豪による施設建造、洋学振興、政略結婚など一連の藩政に伴う費用によって財政が圧迫され、享和元年(1801年)には藩の借財が120万両に達していた。
重豪から家督を継いだ9代藩主・島津斉宣(なりのぶ)はこの状況を改善すべく藩政改革を進めようとしたが、その方針が父である重豪の政策を否定する内容だった為重豪の怒りを買い、策謀によって強制的に隠居に追い込まれ、斉宣の子息である島津斉興を藩主に据えた重豪が再び藩政を後見することになった。この事件は文化朋党事件、別名近思録崩れと呼ばれる。
文化10年(1814年)、重豪は大阪に赴いて徳政令を実施し、120万両に上る借財の破棄を宣言したが、これが上方銀主達の不興を買い、以後薩摩藩への貸し出しに一切応じなくなった為、藩の財政が混乱に陥った。
また重豪は、財政再建策の一環として琉球を経由した唐物貿易の拡大を実行に移すべく幕閣に働きかけ、文政3年(1820年)に貿易の一部拡大が認められたが、なお財政を立て直すには至らず、加えて島津家一門の経費増大に歯止めが利かなくなり、文政12年(1832年)には120万両をはるかに越える500万両の借財を抱える羽目になった。
このような危機的な財政状況の中、調所は藩の財政再建に関わり始める事になる。
財政再建
文政7年(1824年)、唐物貿易の調達掛を命じられた調所は、まず貿易品目の増加に取り組むと共に、幕府から許可が下りていない品目の密貿易に関与し始め、一定の成果を挙げるが、膨大な借金の前では焼け石に水の状態であった。
文政10年(1827年)、上方商人との借り入れ交渉に失敗した薩摩藩では、事態に対処できる人材を捜し求めており、その際に重豪の目に留まったのが調所である。
調所を呼び出した重豪は財政改革の主任を勤めるよう命じたが、「財政問題に関しては詳しくなく自信も無い」と断ったところ、重豪が脇差を持ち出し今にも斬り付けるような強い態度で命じたため、止む無く引き受ける事になった。
前任者から上方銀主たちとの交渉を引き継いだ調所は、大阪に赴き交渉を始めたが全く相手にされず初っ端から躓きかけたが、この時出雲屋孫兵衛という商人の協力を得て、どうにか新たな銀主たちを集める事に成功し、調所の死までの20年間に渡る財政改革が始まった。
まず藩財政にとって以前から懸案となっていた藩主一門の支出の縮小を行い、薩摩藩領内では頼母子講(庶民金融の一種)の加入者から強制的に資金を徴収することで参勤交代の費用に当てた。
天保元年(1830年)、予想以上の進捗に気を良くした重豪は、調所に対して以下の指令を与えた。
1.天保2年から12年までの10年間に50万両の備蓄金を蓄える事
2.その他幕府への上納金及び軍資金を蓄える事
3.借金の証文を取り返す事
この後天保4年(1833年)に重豪は数え歳89歳という高齢で逝去。その前年に家老格にまで昇進していた調所は、藩主・島津斉興の側近として引き続き財政再建を進めていく。
藩政専断
重豪の死に伴い、それまで手を付けられなかった重豪の子息・有馬一純(島津久亮)に対する経費を削る為、強引に薩摩藩に帰国させた。この人物は丸岡藩有馬氏の婿養子に出ていたが、病弱を理由に廃嫡され、そのまま藩邸で部屋住み生活を送っており、経費節減の格好の標的となった。
商業の面では、米、生蠟(ロウソク)、菜種、ウコン、砂糖など国産品の品質向上から取引現場の不正取締りまで徹底的に行い、特に砂糖については、原産地の奄美大島において監視体制を厳しくし、一舐めしただけで厳罰に処し、生活必需品は生産した砂糖と交換させて金銭との交換は行わせないという異常なまでの過酷さを呈した。
そして財政改革の最大の懸案である500万両の借金にカタを付けるべく、天保6年(1835年)に、銀主たちに対して250年割賦、つまりこれまでの借金は今後250年間かけて返していき、返済も元金のみで利息は払わないと宣言。銀主たちから渡された証文を目の前で燃やしてみせ、「生かすも殺すも勝手にしろ」と啖呵を切ったという。
事実上の借金踏み倒しで当然銀主たちが大騒ぎし、奉行所に申し立てられたが、処罰を受けたのは調所の片腕となっていた商人・出雲屋孫兵衛だけで、調所や薩摩藩は咎められなかった。これは将軍・徳川家斉の正室が島津重豪の娘だったことや、幕府に対する事前の上納金などの根回しが効いていたためとされる。
天保6年(1835年)、当時禁教とされていた一向宗門徒の西本願寺への上納金に目を付けた調所は大規模な取締りを実施。 隠れ信者が大量に検挙され、拷問を持って取調べが行われた。この件が原因となり、薩摩藩からの脱走農民が続出し、後年まで尾を引く事になる。
対象となった人々からの恨みを一身に受けながら調所は改革を進めていき、弘化年間(1844年〜1847年)には50万両の備蓄に加え、150万両の余剰備蓄まで蓄える事に成功した。
更には軍制改革から、琉球に渡来した西洋列強との外交問題にまで関わり、薩摩藩政は調所政権の如き様相を呈していた。
最期
嘉永元年(1848年)12月、江戸藩邸にて調所は急死した。享年数え歳にして73歳。
死因については、薩摩藩の密貿易を疑った幕府から嫌疑を受けた為、その責任を取る形での自殺といわれている。密貿易の情報については、当時調所の政敵であった薩摩藩世子・島津斉彬がその情報を老中・阿部正弘に横流ししたとされる。
調所の死後、藩主継嗣問題で斉興派と斉彬派の争いが激化し、嘉永朋党事件(別名お由羅騒動または高崎崩れ)が発生。幕府が介入するに至り斉興は隠居に追い込まれ斉彬が藩主の座に着いた。
調所によって蓄えられた資金を梃子に、斉彬率いる薩摩藩は幕末の動乱に積極的に関与していく事になる。
専断の悪名を一身に背負った調所とその協力者や子孫は、本人の死後一斉にその憎悪を浴びることになり、免職、隠居、遠島、資財没収などの罰を受け悉く没落していった。
幕末に至る直前で消えていった調所にとってはその後の動乱など知る由もなく、ただ薩摩藩の財政を立て直すという命題に取り組んでいたがために藩政を事実上牛耳ることになり、後年開明的な君主として知られる島津斉彬に疎んじられ、西郷隆盛や大久保利通ら士族からも君側の奸と見做された。
だが調所の行った財政再建によって出来た資金がなければ、幕末における薩摩藩の活動も有り得ず、したがって明治維新も起こり得なかったことは歴史の皮肉と言えるかもしれない。  
 
君主論に学ぶ

 

マキャベリの君主論を読んだことがありますか? 君主を社長に、国を会社に置き換えると次のようになります。特に現代に通用しやすい内容を抜粋しました。( )内は私の勝手な解釈です。
会社を安定させるもっとも有効な対策のひとつは、社長がオフィスや現場に机をおくこと。こうすれば、社内は安定する。
(現場の雰囲気や会話は経営上の大切な定性情報です。また社長が現場にいると、野心家は企みにくくなる。野心家は社長への情報伝達を、いつも自分の有利な言い方で行います。可能ならばその人の仕事ぶりを直接見て評価するに限ります。)
社長が与える給料や報酬に対してそれなりの感謝を期待しても、社員は不満を持つ。その理由は、報酬を与える側の傲慢と、受ける側の傲慢が、報酬の値段について折り合えないためである。
(分配の最も難しいところです。)
社長は陰謀からわが身を守ろうとするならば、自分がえこひいきしていた人物こそ、十分警戒をしなければならない。
(不平等は、損する人に不満を与える危険性以上に、得する人を甘やかし、理不尽な考えを抱かせる危険性のほうが怖い。)
社長は自分に関わるあらゆる人に重大な侮辱を加えないように心がけなければならない。
(上から下への侮辱は、気がつかないうちに水面下で重大な問題を引き起こす原因となる。特に上がジョークと思って言っていることが、下には大変な侮辱として取られ、強く恨まれるケースは多い。)
反乱はほとんど成功しない。それは反乱が一人ではできないからである。つまり誘う人に、現状以上の成功報酬の約束をしなければならないが、実際、反乱を実行することすら困難なのに、実行後に成功報酬を満足に出すことはほとんど不可能なのである。
(永遠の真実)
社長が注意しなければならない相手は、少数の野心家だが、彼らの野心に対する対策には、いろいろな手段があり、それほど難しくはない。
(しかしそれを知っている人は、そのノウハウを絶対人に公開しないでしょう。)
乗っ取る会社内の社員を利用して会社を手に入れた場合、それに荷担した社員は後々問題をおこす。なぜなら新社長はとうてい彼らの期待する報酬に応えられないから。 それに裏切りやすい性格の人材は誰も危なくて使えないでしょう。経営者は、多少無能でも信頼できる人間を社員に選びます。
(裏切りやスパイ行為を他社から誘われてどんなに成功しても、あとで切り捨てられるのが離反スパイの末路であることは、いつの時代でも変わらぬ真理。だからこれだけは確実に身の破滅。)
上記のことから、元の会社に不満をもち、そのために乗っ取る側の社長に通じ、乗っ取りに手を貸した人々を味方にするよりは、旧政権に満足していて、新社長を敵視した人々を味方に引きつける方がはるかに安全である。
(前の会社の社長の悪口を言う人物を採用すると、たいてい失敗します。)
もっとも懸念しなければならないのは、お追従者である。自己愛こそはあらゆる追従者のなかで、もっとも気をつけなければならない。人間は自分のこととなると、実に身びいきである。この点をつかれると人にだまされる。
(お追従者を引き連れて、いつも飲み歩いている社長は必ず滅ぶと思います。)
天の使命を感じなければ、社長になってはならない。天の使命を感じている間は、社長は天の使用人になれる。
(至言ですね)

社長やリーダーの方はご参考になったでしょうか。君主論を書いたマキャベリは15世紀から16世紀にかけてのイタリアの政治思想家です。ローマの歴史を丹念に分析してまとめ、メディチ家のロレンツオに献呈した政治論です。有史以来、組織の中の人間の感情と行動はまったく変わらない、ということでしょう。
人間は感情的な生き物です。そして組織の中で自分を有利な立場に持っていこうとすることは人間の本性です。争いや分裂や陰謀はそういう人間の本性のぶつかり合いでおこります。
陰謀家は人の恨みやコンプレックスを巧みに利用します。そして人情家を装い、同情やおだてで人を誘います。極め付きの言葉は「僕たちの会社を作らない?」と周囲を誘います。しかし野心家はだれよりもあくなき野心をもっています。最後は、その周囲の人たちを蹴散らし、「僕」の会社にしてしまうのです。
シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は読んだことがありますか? カシアスはシーザーの暗殺の企てにブルータスを誘うとき、まずブルータスが、いかに民衆から人気があり、求められているか煽てます。そして次に正義と平等を前面に出し、シーザーのささいな欠点を責めます。シーザーが溺れかけたことや、発作をおこして醜態をさらしたことなどです。
ブルータスはシーザーにかわいがられていたにもかかわらず、シーザーにどこか嫉妬心を持っていたのでしょう。シーザーはブルータスをかわいがり、カシアスを嫌っていました。カシアスが陰謀を持つのは当然としても、ブルータスはシーザーの寵愛を受けているがゆえに、自分の能力や魅力を過信してしまったのです。トップからかわいがられることに慣れると、自分はトップ以上の能力を持つ、と錯覚するのです。本来リーダーの仕事能力と実務の仕事能力は別物です。つまり抜粋3の教訓です。カシアスはブルータスの心の隙間に情をもって入り込みます。そしてシーザーの暗殺は実行され、あの有名な「ブルータス、おまえもか」ということになります。
野心家を封じるために、君主論で言っていることは、トップは公平、平等に組織を治めなければならない、ということです。極論をいえば人よりシステマティックに組織を治めることが理想かもしれません。
人と人の関係は、目に見えないシステムで結ばれています。親と子、妻と夫、部課長と部下、社長と社員、経営者と株主、会社と顧客などなど。そしてそのコミュニケーションは言葉や文章で伝達されます。しかしコミュニケーションが届かないところがあります。そういうところは人間の信頼関係や正義感、理屈や道理で補います。しかし野心家が、ひとたび悪用しようとすると、確実なコミュニケーションの届かないところを狙います。だからそこをITで補う必要があるのです。 
 
正気ではいられない

 

私は政治に絶望しているのではない。私は日本国民に対して絶望している。
「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う」と平然と述べる首相を選んだのは日本国民だ。首相がこんなこと発言をしても、「株価を上げてくれた恩人」に対する支持は揺らぎもしない。
太平洋戦争中の従軍慰安婦制度について、「当時は軍の規律を維持するために必要だった」と述べ、わざわざ沖縄を視察して、その際米軍幹部に海兵隊員に風俗業者を活用させるよう求め、「そうしないと海兵隊の猛者の性的エネルギーをコントロールできない」と述べたりする人物を大阪市長に選んだのも、大阪市に住む日本国民。全国津々浦々にこういう人に喜んで投票する人々が生きている。東京ではイスラームへの偏見をさらけ出した人物が知事の座につく。
私はもはや「非国民」である。正気でいることは難しい。夜になると天井がぐるぐる回るほど、浴びるように酒をくらい、心の中で誰に対してか解らないののしり声をあげつつ、たおれるように床に伏す。
こんな政治家を次々に当選させる日本に世界があきれ、日本が孤立していくのは当たり前であり、それは世界がまだ正気を失っていないあかしでもある。
性的虐待であれ、虐殺であれ、奴隷的酷使であれ、いくら他の国がやっていたとしても、日本がしてもよかったことにはならない。もしこのような行為を本当になくそうと考えるのなら、他国がどうあれ自分の国の行為を正当化してはならない。「よそもしていたじゃないか」という発言、発想に立てば、永遠にそうした行為はなくならない。もし戦争犯罪を否定するのなら、自国の行いがどうだったかをまず判断せよ。そうして初めて他国の行為を論じる資格を得る。そこを素通りしていくら他国の行為をあげつらっても誰も聞かない。「「よそもしていた」と発言する者は、これからも過ちを繰り返し続ける。そして「状況がそうさせた」「他国の例もある」「おれだけじゃない」と言い続ける。
政府や与党に近い人々の橋下批判は、要するに「対外的にまずい」ということにつきる。発言自体の是非を論じていない。もし対外的に通用するのなら、彼らは何でも不問に付すだろう。
「失言」(という名の「本心」を吐露)した者たちは判で押したように、「真意が理解されていない」「報道がゆがめられている」という。彼らにとって、彼らを正当化しおもねってくれる報道だけが「真意」を伝える「公正」な報道である。普段お追従者たちに取り囲まれてる彼らは、自分を批判する報道に接することに耐えられない。
従来、「彼ら」の発言をいかに中国・韓国が批判しようと、「彼ら」には痛くも痒くもなかった。むしろ望むところですらあった。条件反射的に反中反韓感情で動く国内世論が「彼ら」の見方をしてくれたから。お山の大将にはそれで十分なのだ。ところがアメリカが本気で怒った瞬間、「彼ら」はしゅんと萎れ、意気消沈する。アメリカの怒りに普遍的道理を見るからではない。アメリカが強く、アメリカには逆らえないと「彼ら」が感じるからだ。
「彼ら」は、人類が血と涙のすえに獲得した、普遍的な道理で動くのではない。偏狭な好悪の感情と、強きを怖れ弱きを侮る心性だけで「彼ら」は動く。相手が好きか嫌いか。相手が強いか弱いか。それだけを基準に「彼ら」は口をぱくぱくさせる。
だから「彼ら」が本気で反省し、自らの言動を羞じることはない。風向きが変わったと思えば、ほとぼりが冷めたと思えば、性懲りもなく何度でも同じような恥ずべき発言をまき散らすだろう。
そういう「彼ら」を、日本人は自分たちの代表として選び続けてきた。
橋下の長ったらしい「謝罪」を読むのは全くの苦痛でしかない。橋下は辞任しなければならない。それ以外に彼の責任の取り方はない。しかし彼は「謝罪」と称して言い逃れを繰り返すばかりで、辞任する気はない。外国のプレスの共同記者会見で辞任の意志を問われて、彼は「選挙で審判が下れば、辞任する」といった。
彼は自信があるのだ。日本人が自分に審判を下すことはないと。いかに世界中から批判されようと、日本国内の選挙で勝てればそれで万事解決となるのだ。そのことを彼は確信している。だから彼は、アメリカには謝っても日本国民には一言も謝罪しない。彼の発朝日新聞をはじめ日本のマスコミはまともな反論一つしない。腰が完全に引けている。それに比べ、外国プレスの追求の厳しさはどうか。マスコミ人は彼我の差をどう考えているのか。恥ずかしくないのか。
いかに日本が彼のような政治家を甘やかしのさばらせようと、国際社会は決してそれを大目には見ない。そのことだけは今回のことではっきりした。しかし内向きの国内世論はそのことを理解しない。見ているがいい。橋下は次の選挙でも再び当選するだろう。そのとき、彼は声高に自分の正当性を叫ぶ。そして彼を選んだ日本人は、彼と同類であることが世界に証明される。 
 
橋下市長の職員アンケート、隠された本当の狙い

 

橋下徹大阪市長が、大阪市職員に対して組合活動や選挙活動の有無などを訊ねるアンケートを取ったことが話題になっています。
組合側が不当労働行為に当たるとして大阪府労働委員会に救済を申し立てたこともあってか、組合はもちろん、法曹界や法学界からも反対の声が上がっているようです。
橋下大阪市長はもともと弁護士です。彼自身、「法的にぎりぎりのところを狙っている」と言っているくらいですから、アンケートは法的にグレーゾーンに当たるのでしょう。
橋下市長の狙いは、こうした組合の反発があることを想定しており、組合との闘争で注目を集め大阪維新の会の支持者を増やそうとしていると見ている人が多いようです。実際そのような意図もあるでしょうが、それだけが理由でしょうか?
アンケート結果を橋下市長はどう使うのか
考えてみて下さい。反橋下派が言うように、アンケートに「勤務時間内に組合活動をやっていた。特定の政党の候補者の選挙活動を行った」と書いた職員が本当に減給や降格などの不利益を被ったら、グレーどころか間違いなくブラックになります。「ぎりぎりのところを狙っている」人がわざわざブラックゾーンに踏み込んでいくでしょうか。
橋下市長の深謀遠慮が、反橋下派には全く見えていません。
大阪市役所の職員の立場に立って考えてみましょう。大阪都構想を引っさげて誰が見ても暴れん坊の市長が誕生して、職員は期待と不安が入り交じった感情を持っていたことでしょう。
最初に主に左翼筋から大きな反発を招いたのは教育基本条例案で、教員を2年連続「D」評価で処分するとしていたのを橋下市長は撤回しています。職員は、強引なやり方だけで押し通そうとする人ではないような印象を受けたでしょう。
そして出てきたのが、今回のアンケートです。政治活動、選挙活動をやっていた、あるいはやらされていた職員は、確かに恐怖を感じたでしょう。アンケートをもとにして何をされるか気が気ではないでしょう。
はっきり言います。仮にアンケート結果が開封されたとして、橋下市長は正直に政治・選挙活動に携わったと回答をした職員には決して不利益を与えないでしょう。
それどころかそうした職員に橋下市長はチャンスを与え、昇級昇進の道はかえって開けることになると私は踏んでいます。
敵かもしれない人物を抜擢したバンドルフォ
君主、それもとくに新君主が経験するのは、政権の当初に疑わしく見えた人物のほうが、初めから信頼していた者より、より忠誠心があり、より役立つことである。
前回、チェーザレ・ボルジア(1475〜1507年、マキァヴェッリより6歳年下の軍人)が「マジョーネの乱」をどう処理したのかという話をしました。マジョーネの乱とは、チェーザレがロマーニャ地方を攻めた時に、子飼いの傭兵隊長たちの組織「マジョーネ連合」によって起こされた反乱のことです。
マジョーネの乱の首謀者でありながら、シニガッリアに行かず、チェーザレの手から逃げおおせた人がいます(首謀者たちはシニガッリアでチェーザレに捕らえられました)。シエナの僭主、パンドルフォ・ペトルッチです。パンドルフォは野心家でしたが、自分が表に出て活躍することを好まず、裏から手を回してごそごそやるのが好きなタイプの人でした。
マジョーネの乱の後、チェーザレにシエナから追い出されてもこの性格は変わらず、裏工作を好みました。フィレンツェ関連で何かことが起こった時、「また、あいつか・・・」という感じで、マキァヴェッリは何度もパンドルフォが裏にいると見抜いていました。
そんなわけでマキァヴェッリにとってパンドルフォはあまり印象のよい人物ではなかったのですが、唯一パンドルフォを褒めていることがあります。それは、大変優秀なアントニオ・ダ・ヴェナフロという人物を抜擢し、宰相に任命したことです。
パンドルフォは当初、アントニオを敵かもしれない不審人物だと思っていたようです。それにもかかわらずアントニオを抜擢した点が「人を見る目がある」とされ、評判を上げたのでした。
意のままに動く組織をつくるのがアンケートの本当の狙い
話を戻します。なぜ正直にアンケートに答えた職員にチャンスが与えられるのか。正直に答えた者こそ、市役所内で最強の「新橋下派」になる可能性が高いからです。
橋下市長は、当初からタレントとして人気があり、大阪府庁でも強硬な姿勢を貫き、大活躍していた人物です。彼の主催する政治塾には多くの人が群がっています。そんな人物が市長としてやって来た時、最初に近づいてくるのはどんなタイプの職員でしょうか?
1つは橋下市長の政治姿勢に共感している人。もう1つは橋本市長の腰ぎんちゃくになって生き残ろうとするタイプの人です。後者を橋下市長が信頼し、重要な仕事を任せるはずがありません。
これに対し、組合・政治活動に携わったと正直にアンケートに書いた職員は、今後どのような姿勢で仕事をするでしょうか? 罰は与えられません。しかしアンケートのことを知った時の恐怖感は覚えています。
たいていの人が、「自分は市長から組合員としてマークされている。不利益を被りたくなければ、いい仕事をするしかない」そんな思いを抱いているはずです。当然一生懸命仕事をせざるを得ません。
橋下市長は、そんな思いをしながら頑張っている職員にチャンスを与えるでしょう。そして成果と責任を分かち合おうとするはずです。職員が成果を上げれば、例えば「職員が頑張ってくれました」とマスメディアの前で褒めて、後に昇給や昇格で報います。失敗しても「職員は頑張ってくれました。しかし、私の考えが甘かったようです。職員には悪いことをしたと反省しています」と職員をかばう姿勢を見せるでしょう。
そうすれば職員は「市長は敵と見ていた自分を信頼してくれている。市長の信頼に応えなければならない」と、さらにいい仕事をしようとするでしょう。
お追従者や党派の活動家を無力化し、組合出身の敵を味方とする。そうしてつくられた士気の高い職員が橋下市長の意のままに動く組織づくり。それがアンケートの本当の狙いなのです。
賢明な君主は、機会があれば、奸策をろうしてでも、わざと敵対関係をこしらえ、これを克服することで勢力の拡大をはかる。
組合が橋下市長を引きずり降ろしたいのなら
これに対し、労働組合や組合を支援する党派の反応は、愚劣の一言に尽きます。ファシズムをもじった「ハシズム」などといった批判の声を上げれば上げるほど橋下市長の評判が上がることは前に書きました。
それに加えて、組合や支援する党派は、アンケートを批判することによって自滅の道をひた走るスピードを上げています。橋下市長が「痛い」と思うポイントに全く気がつかず、弁護士会や法学者といった権威者が反発していることを根拠に組合員を説得しようとするからです。
橋下市長は、仮想敵に仕立てた組合を叩くことで、人気をさらに上げようと画策している。ならば組合がやらねばならないのは、先手を打って自分から仮想敵を降りることです。
私の推定では、橋下市長は次の一手として、今後、党派に支配されない第二組合の新設を支援してくると思われます。もともと今の労働組合は人気がないのです。第二組合が新設されたら、党派のヒモがついていない組合員の多くが第二組合に移るでしょう。
そうなる前に、自分たちで党派のヒモがついていない第二組合をつくり、市長の次の一手を封じる。
そうした発想ができなければ、組合は左翼党派とともに事実上無力化されるしかありません。  
 
追従者がリーダーに変わる条件 / 江崎玲於奈氏が提言

 

問 / 企業社会と同様、科学技術の研究分野でも、世界に誇れる日本人リーダーがあまり誕生しないと懸念を抱いていらっしゃいます。
答 / 研究の世界において、相対的に日本人はフォロワー(追従者)になりがちです。欧米の研究チームリーダーがグループの研究指針を示し、器用で真面目な日本人はそれに対して忠実に従う。これはこれで非常に評価すべき点ではあります。でも、ノーベル賞受賞者の数を見ると、欧米に比べて日本を含めたアジア人は極端に少ない。日本やアジアの研究者を追従者でなく、リーダーとして世界に羽ばたかせたい。そう思って、アジアの研究者の交流、そして世界のノーベル賞受賞者と触れ合える機会を積極的に作っています。
問 / なぜ日本人は追従者になりがちなのでしょうか。
答 / 日本は明治維新まで鎖国を貫き、その後の産業革命も欧米から伝わってきた。知識習得志向は強いが、他人依存もまた強く、相対的に新しい知識は外から入ってくると思いがち。アジア全体的に同じことが言えると思います。もう1つ言えるのが、追従者はリスクが少ないということ。ただそれではリターンもまた少なくなってしまいます。 オリンピックのようなスポーツ競技では、金メダルを取れなくとも、銀メダルや銅メダルでも十分に価値が高いでしょう。しかし、科学技術の分野、それも特許が絡んでくるものに関しては、金メダルでなければ全く意味がなくなってしまいます。トップの人間がすべての果実を取る。だから常にトップを走らなければいけません。その意識が日本人には希薄だと感じます。
問 / どこに問題があるのでしょうか。
答 / 入学試験のように「与えられた問題」に答えてきたからではないでしょうか。どこに問題があるのかを自分で見つけ、その解決法を考えるという習慣が身についていない。学習面で過保護に育ったという問題もありますが、まずもって自分の興味がどこにあるのかを気づいていない人が多いのではないでしょうか。
問 / 人材育成の現場ではどのような意識改革が必要だと考えますか。
答 / 人間のDNA(デオキシリボ核酸)は99.9%同じと言われています。たった0.1%しかない違いですが、その違いを「タレント(才能)」としてどう引き伸ばすのか。それを上に立つ人間だけでなく、自分自身が意識を持つことが重要なのではないでしょうか。 欧米では「能力のある人間に一番勉強をさせる」のに対し、日本は「能力のない人間の底上げ」に力を注ぐ傾向があります。それと同様に、欧米は有能な人材の多くが大学卒業後にベンチャーに就職したり、起業したりして自らを高めるべく挑戦しています。一方の日本は、頭のいい人間ほど東京大学を目指し、その後は役人になるか巨大企業へ就職するかを選択しがちです。大企業の中で潤沢な予算をもらい、時間的にも余裕を持って研究をすることが、どれほど人材を育てられるのか。優秀な人材を囲い込み、過保護な環境下でダメにする。それが今の日本企業のように思えてなりません。 今や世界を引っ張る存在となった米マイクロソフトだって、かつては米IBMの下請け企業の1つに過ぎなかった。いつの時代も、産業構造を変えるのはベンチャーだというのが私の持論です。自らの意思とビジョンを持って、厳しい環境下で鍛え上げた人こそ、次代を担うリーダーなのではないでしょうか。  
 
「胡麻 (ごま)」

 

ごまとは
ここでは食べるゴマについてです。ゴマ(胡麻、学名:Sesamum indicum)は、ゴマ科ゴマ属の一年草。 英語ではsesame。アフリカあるいはインド原産とされる。古くから食用とされ、日本には胡(中国西域・シルクロード)を経由して入ったとされる。
植物学的特徴
ゴマは草丈は約1mになり、葉腋に薄紫色[要出典] の花をつけ、実の中に多数の種子を含む。旱魃に強く、生育後期の乾燥にはたいへん強い。逆に多雨は生育が悪くなる。
ゴマの品種
種皮の色によって白ゴマ、黒ゴマ、金ゴマに分けられるが、欧米では白ゴマしか流通しておらず、アジアは半々。金ゴマは主にトルコでの栽培。関東は40%が黒ですが、関西は最近、黒が増えてやっと20%です。全国的には白が多く75%。ちなみに昔から金ごまを食べる習慣があるのは、群馬、栃木の北関東、関西では奈良、和歌山。大阪や神戸の人は最近まで全く知らない人が多い。全国では金ゴマ消費量は1%。
日本で作りだした新品種
農研機構作物研究所において育成された「ごまぞう」(種苗登録2006年)は、ゴマでは初めての登録品種であり、種子中のリグナン(ポリフェノールの仲間)であるセサミン、セサモリン含有量が既存在来種と比較して高いことが特徴である。2009年には同じくリグナン含有量が高い黒ゴマ新品種「ごまえもん」と白ゴマ新品種「ごまひめ」が育成され、品種登録出願された。その後両品種はそれぞれ「まるえもん」と「まるひめ」に名称変更されている。まだ生産量も少なく貴重なのでサプリの原料として使われているようだ。
ゴマの原産地と日本への渡来
アフリカのサバンナに約30種の野生種が生育しており、ゴマの起源地はサバンナ地帯、スーダン東部であろうというのが有力である。ナイル川流域では5000年以上前から栽培された記録がある。日本列島では縄文時代の遺跡からゴマ種子の出土事例がある。室町時代に日明貿易での再輸入以降、茶と共に日本全国の庶民にも再び広まった。
日本でのゴマの産地
日本で使用されるゴマは、その99.9%を輸入に頼っている。財務省貿易統計によると、2006年のゴマの輸入量は約16万トン。一方、国内生産量は、約200トン程度に留まっている。全体の僅か0.1%に相当する国産ゴマのほとんどは鹿児島県喜界島で生産され、8〜9月頃の収穫時期には、集落内、周辺にゴマの天日干しの「セサミストリート」(ゴマ道路)*が出現する。 
セサミストリートとの名前の由来

 

「セサミストリート」とは
『セサミストリート』(SESAME STREET)は、アメリカの非営利番組制作会社「チルドレンズ・テレビジョン・ワークショップ(Children's Television Workshop)/現、セサミ・ワークショップ(Sesame Workshop)」が制作するマペットキャラクターを使った子ども向けテレビ教育番組、及び同番組の舞台となる架空の通りの名前である。
名前の由来
「セサミストリート」の名前は、1950年代に未開拓地方であったテキサス州近郊にジェイムズとロイというごま好きの兄弟(アンダーソン兄弟)が1952年にごまの会社を設立し、ごまの栽培をするために広大な未開拓の土地を購入して開拓。彼らはこの開拓地のメインストリートの名前を「セサミストリート」(ごま街大通り・現在も実在)としたことに由来する。開拓が進み、ごまの栽培地で働く労働者が増えてくると、子供達の教育が問題になり、アンダーソン兄弟はセサミストリートの一角に丸太小屋の教室を開いた。この教室ではジェイムズとロイの子供たちも含め、人種の違う子供たちが集まり、ロイ自身も先生となってお話からしつけまで授業を受け持ったのであった。こうしてセサミストリートでは主従や人種の差別のない教育が街をあげて行われた。人種差別が激しい当時のアメリカにおいて、このことはまさに画期的な出来事であった。熱心に教育に取り組むアンダーソン兄弟の「セサミストリート」に興味を持ったアメリカのあるテレビ会社は、このことをヒントに、独特のぬいぐるみを使った子供向け番組を作ったのである。『セサミストリート』は1969年にアメリカで誕生して以来、40年以上にわたって140以上の国と地域で愛され続けている。 
食材としてのゴマ、ゴマの食べ方

 

鞘の中に入った種子を食用とする。鞘から取り出し、洗って乾燥させた状態(洗いゴマ)で食用となるが、生のままでは種皮が固く香りも良くないので、通常は炒ったもの(炒りゴマ)を食べる。また、剥く、切る(切りゴマ)、すりつぶす(すりゴマ・下記参照)などして、料理の材料や薬味として用いられる。また、伝統的にふりかけに用いられることが多い。(赤飯など)
すりゴマ
すり鉢を使ってごまをすりつぶしたもの。また、少量のすりごまを得るには「卓上ごま擦り器」のような道具が便利である。ごまが半ば粉砕され、含まれていた油分が滲出してきて、ややしっとりとした感じになる。とくに和食において、胡麻和えをはじめとしてさまざまなレシピで活躍する食材である。
ゴマダレ
人気のあるタレの一種で、すりごまなどを材料に用いたもの。サラダなどに用いる「ごまドレッシング」も類似のものである。
練りゴマ
ごまを完全に粉砕し、ピーナッツバターのように油分を含んだままペースト状にしたもの。
ゴマ油 ゴマ油
含油率が約50%以上あるため、搾ってごま油として用いられる。独特の香気があり、中華料理を中心に、さまざまなレシピにおいて香りづけに用いられる。 
ゴマの栄養と効能・効用

 

古代エジプトではクレオパトラが健康飲料としてゴマ油とハチミツをミックスして愛用し、古代インド医術アーユルヴェーダでもゴマ油が利用され、中国でも不老長寿の薬として最古の医学書である「神農本草書」に紹介されており、ゴマの薬効は古くから世界的で認められ、愛用されています。日本でも特に最近は驚異の胡麻パワーとして注目されていますね。
ゴマの栄養
ゴマには体に必要な栄養素が小さな粒にギューッと詰まっていて、中国では「食べる丸薬」と言われるごま。植物性食品のなかではその栄養価はトップレベルなのです。胡麻は栄養面でも種類によって違いがあります。特に黒胡麻は一番栄養素が高いといわれていますから、胡麻を健康や美容のために取り入れようと思っている人は、白胡麻ではなくて黒胡麻を食べるようにしましょう。(見た目とか味にこだわる人はご自由に)
黒ゴマの主要栄養成分 / (100グラム中)
蛋白質21.9g・脂肪の61.7g ・カルシウム564mg(牛乳の11倍)・リン368mg・鉄50mg・リノール酸・リノレイン酸・ステアリン酸・レシチン・ビタミンE・ビタミンA・ビタミンB・ビタミンD・アントシニアン(ポリフェノール)・セレン・亜鉛・ミネラルなど
* 必須アミノ酸のそろった高たんぱく食品 / ゴマのたんぱく質には必須アミノ酸(人間の体内で作りだすことができないアミノ酸)がバランスよく含まれており、しなやかな血管を保つように働きます。年をとると血管が堅くもろくなって、生活習慣病を引き起こす原因にもなりますから、ゴマは若さを保つにはもってこいの食材です。
* 脂質はオレイン酸、リノール酸が80%を占め、たんぱく質も豊富に含み、コレステロール抑制にも効果もある。
* カルシウム、マグネシウム、鉄、リン、亜鉛等のミネラルが多く含まれ、骨粗しょう症の予防や貧血の改善に効果がある。他、肌につやを与え、白髪の予防にも大活躍。
* ビタミンB1は疲労回復に、B2は疲れ目などに効果があり、一日中パソコンなどで目を使っている人にもおすすめです。またビタミンEやアントシアニンは抗酸化作用やがん抑制効果も期待できます。
ゴマリグナンについて
栄養成分としては紹介しませんでしたがゴマの成分の中には、ゴマ特有の「抗酸化物質」があります。とても強力な抗酸化物質(活性酸素を抑制し細胞の老化やガン化防ぐ)で、セサミン、セサモール、セサモリン、セサモリノール、セサミノール、ピノレジノールの6種類もありこれらはすべて含めて「ゴマリグナン」という名前で呼ばれています。これはカテキンやポリフェノールなどの仲間で、活性酸素が体内で生成されるのを抑え、肝臓機能を強化し細胞の老化やガン化を抑制する作用があります。ゴマリグナンが驚異の胡麻パワーの源です。 
ゴマの健康効果(効能)

 

1.驚異のゴマパワー アンチエイジング効果
ゴマにはアンチエイジング(老化防止、若返り)効果があるとしても知られていますが、人間は年齢を重ねれば段々体力も弱っていきますし、年をとれば抗酸化物質が体の中で自分で作られる力もなくなっていきます。ですから抗酸化物質を作れなくなるのを防ぐためにも、食べ物から沢山摂取することが必要になりますね。黒い色の食べ物は抗酸化作用があるといわれていますが、黒ゴマも黒い色素に覆われています。これはアントシアニンで抗酸化作用や免疫力のアップにも力を発揮してくれます。黒ゴマの黒は、抗酸化物質ではありますが、髪の毛を黒くする効果もありますから、白髪予防にもつながります。これもアンチエイジングですね。ゴマの中には、特有の抗酸化物質があります。先に紹介したゴマリグナンです。肝臓でこれが大活躍して老化を食い止めるのです。そして抗酸化作用といえば欠かせないのがビタミンEですが、ゴマの中には含まれていて、別名若返りのビタミンと呼ばれるだけのことがあって、かなり効果的に働いてくれるのです。
老化の原因は肝機能の低下 / 老化の原因である活性酸素のうち7割は、エネルギー生産工場である「肝臓」で発生します。体内には元々活性酸素を撃退する酵素がありますが、年齢とともに減少してしまうので、肝機能が低下して、体内に老廃物が溜まり、肌あれや肥満などの老化を引き起こすのです。
肝臓に直接効くのはゴマリグナンだけ / 水溶性の抗酸化物質の代表であるビタミンC、カテキン、アントシアニンは血液中の活性酸素を撃退しますが、肝臓までは到達できません。それは、水溶性であるため、脂溶性の細胞膜を通過することができないためです。それに対し、ゴマリグナンは血液中では力を発揮せず、肝臓に到達してはじめて抗酸化作用を発揮するので、肝機能の改善にはゴマリグナンが最適なのです。
2.ガン予防
私たちの体内では絶えず活性酸素が発生しています。そのため、βカロテンやビタミンC・Eなどが細胞膜に存在して、絶え間ない活性酸素の攻撃から細胞を守り、ガンを防いでいます。さらに細胞内では数種類の酵素がせっせと活性酸素の掃除に働いています。この酵素の一種であるグルタチオンペルオキシダーゼの主成分は、セレンです。セレンはゴマに豊富に含まれている微量ミネラルですが、ガン予防にとって重要な役割を果たしています。ゴマにはβカロテンやビタミンEも含まれているので、抗酸化作用も同時に期待でき、特にセレンはビタミンEとの組み合わせで、さらにその効果はアップすることがわかっています。そのほか、ゴマには食物繊維も豊富に含まれていますので、便通を促し、発ガン物質をすみやかに体外へ排出します。また、ステロール、フィチン酸という成分も含まれており、これらもガンを抑制する効果があることが知られています。ゴマには白、黒、茶金などの種類がありますが、黒ゴマにはアントシアニンというポリフェノールの一種が含まれており、ガンの抑制効果がいっそう期待できます。
3.悪玉コレステロール退治 動脈硬化予防
ゴマには、動脈硬化が心配な人にも有効であることが、さまざまな実験により確認されています。動脈硬化の発症にはコレステロールが関与していることはよく知られていますが、なかでも悪玉コレステロールは血管壁にとりつきやすく、動脈硬化を促進します。また悪玉コレステロールが体内で活性酸素によって酸化されるとドロドロになって血管壁に付着し、ついには血管を詰まらせてしまいます。ゴマは血管に付着する悪玉コレステロールの過酸化を防ぐだけでなく、血中のコレステロールを減らす不飽和脂脂肪酸もたっぷり含まれているので、動脈硬化を抑えるのに、より大きな効果が期待できます。ゴマのビタミンEは血液だけでなく、血管壁にたまったコレステロールを、キレイに除去してくれるので、心臓の血液を送り出す負担を和らげるのです。
4. 脳梗塞を予防
夏は冷房による急激な温度変化の影響で血管の収縮・拡張が起こるため、血圧が乱高下しやすく、実は脳梗塞が起こりやすい時期。ゴマに含まれる成分ゴマリグナンは脳血栓形成抑制効果があるといわれ、脳梗塞を予防してくれるそうです。
5.二日酔い防止
ゴマに含まれているセサミンには、肝臓の働きを助けて、アルコールの分解を促進する作用があります。アルコールの分解が早くなれば、血液中に出るアルコールも減るので、酔いも少なくてすむわけです。アルコールの分解過程で、二日酔いの原因になるアセトアルデヒドが生じますが、ゴマにはこの有害物質を無毒化する働きがあります。また、アルコールを飲むと、副交感神経の活動が低下して、呼吸や心拍が乱れやすくなりますが、ゴマにはこれを抑制する作用もあることが明らかになりました。お酒を飲むときには、事前に少量のゴマを食べておくことをお勧めします。また、お酒のつまみにも、ゴマ和え、ゴマ豆腐などゴマを使った料理を一品注文すると良いでしょう。
6.ゴマの美容効果
肝機能が向上し、肌の細胞の代謝を促進するため、肌の水分・油分・弾力を取り戻し、美肌になる効果もあります。
7.ダイエット(体脂肪の減少)効果
ゴマリグナンには肝臓で脂肪の分解を促進し、脂肪を燃焼しやすくする働きもあります。体の細胞にはペルオキシソームという、脂肪を分解する働きをする物質があるのです。ゴマに含まれるセサミンがペルオキシソームを活性化し、脂質の代謝を高めることがわかってきました。 ゴマは血液の流れを良くする働きがあり、新陳代謝もアップしてくれる働きがあるのです。新陳代謝がよくなれば、脂肪が燃焼しやすい体質になりますから、今までと同じように食べていても、同じような運動量でも、自然に痩せることが出来るのです。それだけでなく、ゴマの中には、食物繊維も豊富に入っていますから、便秘解消に繋がります。
その他の健康効果
・生活習慣病予防(ゴマに含まれるリノール酸やリノレン酸など良質な不飽和脂肪酸)
・便秘解消(ゴマに含まれる不溶性食物繊維)
・冷え性予防(ゴマに含まれる鉄分) 
ゴマの効果的な摂取法、よい食べ方

 

少量でも毎日続けてとるのが、ゴマの効用を得るうえで最良の方法です。摂取量の目安は1日約10g(大さじ1杯)です。(1〜2杯という先生もいます、多少の食べすぎは問題なし、カロリーの問題だけ)
ゴマは炒ることで外皮が破れ、消化吸収が良くなります。また、加熱するとゴマリグナンの一種セサモリンがより抗酸化作用の強いセサモールに変化する利点があります。食べる直前に炒り、必ずすって使うのが効果的な利用法です。
食べる直前に炒るのは面倒だから まあできるだけ黒ゴマを、(すりごまを買うより炒りごまを買ってきて置き)、食べる直前にゴマすり器ですってふりかけて食べるのがいいですね。胡麻和えなどの時はできるものなら自分で炒ってすり鉢ですって調理したいですね。 
ごまの雑学

 

開けごま!のごまは?
「アラビアンナイト」の中の一話、「アリババと40人の盗賊」に出てくる、秘密の洞窟の扉を開ける掛け声が「開けゴマ!」(英語ではopen sesame)。これはアラビア語の「イフタフ(開け、動詞の命令形)、ヤー(やあ、って感じ呼びかけ)シムシム(胡麻)」を訳したものである。まさにゴマに開けと言っていますね。ゴマの種がはじけ出る様に由来するという説がある。おじさんは田舎育ちで子供のころ家でゴマを作っており、ゴマの実を稲みたいに刈り取ってきて筵(むしろ)上に並べて干しておくと勢いよくバーンとはじけて種が飛び出すのです。これがゴマがはじける様子です。
ゴマと赤飯の関係
赤飯に黒ゴマは定番ですがなぜでしょうか、白ゴマはダメなのか。
黒ゴマか白ゴマか / 黒ごまです。基本的にごま塩は、塩の白とごまの黒でつくり、色のバランスの良さもあります。赤飯しかり、おにぎりでも黒のほうが目立つことからはじまった習慣でしょう。ただし白ゴマを使う地方もあることはあるようです。
赤飯にすりゴマを使わないわけ / 祝いの赤飯に沿える黒ゴマは、「切る」「する」を縁起が悪いとして、炒っただけのゴマをそえるのだそうです。これは縁起を担いでのことです。武家の社会では厳しかったようですよ。
なぜ赤飯にゴマをかけるか / 赤飯 もともとは赤飯は赤米で作って神様に供え、おさがりを食べていた。その後品種改良で白米が主流になり、赤米を作る人がほとんどいなくなったが、赤いご飯を供えたり食べる習慣は残り、白い米に小豆やササゲを混ぜて炊き赤飯を作って供えるようになった。赤飯にゴマを乗せるのは、白いご飯を赤くしたことを神様にゴマかすためである。
ごまかす、ごまかしの由来
【見せかけだけで内容が伴わないこと】【人の目を欺いたり、出任せを言ったりすること】をいう『ごまかす』『ごまかし』ということばの由来が胡麻に関係があるとは意外でした。2つ説があり1つが胡麻由来説です。また、「胡麻化す」や「誤魔化す」と書かれるのはあて字。
(1)ゴマのお菓子、胡麻菓子から来たという説 / 江戸時代の文化・文政年間に、「胡麻胴乱(ごまどうらん)」というお菓子がありました。小麦粉にゴマを入れてこね、焼き膨らましたこのお菓子。ごまのよい香りはするけれど、なかはからっぽで、餡(あん)も入っていません。そこで人々は、見かけはよいけれど中身のないもののことを、胡麻菓子(ごまかし)のようだと言うようになり、これが転化して、人目を紛らすことの意味に使われるようになったそうです。
(2)護摩の灰から来たとする説 / 「護摩の灰」の「護摩」に「だまかす」あるいは「まぎらかす」の「かす」がついたものとする説である
護摩の灰とは
仏教の真言宗とか天台宗で護摩をたく行事がありますね。大みそかや正月の成田山の中継などでエライ坊さんが集まって火を焚いている中へお経を唱えながら木の札を放り込んで燃やしていているのをみたことあるでしょう。あれが護摩を焚いている状態で、そこでできる灰を護摩の灰といいます。この灰をありがたがってお守りにしたりしたそうです。これが前説。江戸時代、高野聖の衣装を着て偽物の護摩の灰をこれは弘法大師由来の高野山の護摩の灰だと灰の入ったお守りを押し売りして歩いた人がいたために、【人を騙したり、金品などを盗み取る者のこと】 を『護摩の灰』というようになりました。時代劇にも出てきますね。(あれはごまの蝿か,灰ではなく蝿と聞こえるのですが….) この「護摩の灰」の「ごま」に、「散らかす」などと同じ強調の接尾語"かす"がついて、『ごまかす』になったといわれているのです。
ごまをする
ゴマをすり鉢で擂ると、すり鉢やすりこ木など、あちこちにベタベタとくっつきます。その様子から、相手にこびへつらうことを「ごまをする」というようになった、といわれています。他にも「商人が手もみする姿が、ゴマを擂るしぐさに似ているから」という説もあるようです。
へそのごま
へそに溜まる垢。成分には諸説ある。分泌物、皮脂の老廃物、衣服の繊維など。へそは皮膚が薄くなっており傷つきやすく、また傷ついた場合の衛生管理が難しいので、掃除するときは十分な注意が必要である
胡麻班(ごまふ)
胡麻斑(ごまふ)とは、黒ゴマを散らしたような細かい斑紋のこと。「ゴマフアザラシ」などの生物種名に見ることができる。
ごま塩頭
白髪が混じっている状態の頭を指して「ごま塩頭」という。50代以降の男性に使われることが多い。髪の量は関係ない。
ごまめのはぎしり
ごまめの歯ぎしりとは、実力のない者が、いたずらに苛立ったり悔しがったりすることのたとえ。 また、その行為が無駄であるということのたとえにも使われる。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」
これは徳川幕府が農民に課した重税を象徴する言葉。享保の改革終期の勘定奉行・神尾春央の言葉とされている。
ごまたまご
上から読んでも下から読んでも「ごまたまご」。これは東京名物土産のお菓子、 銀座たまやの東京たまごのなかの一種 「ごまたまご」(卵の形をした中に黒ゴマの餡のはいったまんじゅう?)  
 
河内山宗俊 1 / 柴田錬三郎

 


晩秋の午さがり、ここ伝馬町の牢屋敷は、ねむったような静けさだった。たち並んだいくつかの土蔵のような棟が、ひっそりと、あかるい影を白砂の上へ這わせているきり、樹木一本もないだだ広い庭は人影もない。
と――。
ある棟と棟との露路に、跫音(あしおと)がした。
一人の同心に縄をとられて、ゆったりとした足どりであらわれたのは、長躯肥大のお坊主――御数寄屋(おすきや)坊主河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)であった。
みじかい仕立の黒八丈の羽織、すがぬいの定紋、縞縮緬(しまちりめん)の着物に茶献上の博多帯――どう見ても、今、吉原からの戻りがけ、という遊士の姿であった。それがまた、この堂々たる恰幅のお坊主にとっては、すこしもキザでなく、袖口からちらりとのぞく紅裏(もみうら)もすっきりと風流めいた。でっぷりとふとった肩幅胸幅、眉太く鼻翼張り、唇は彫られたようにかたちがいい。すべての造作が大きかったし、双瞳(そうどう)は、英傑などに多い褐色で、まばたきもせずにぐっと人を直視する力をたくわえていた。
歩一歩、その足のはこびぶりも、自らの貫禄を知るものであった。
だが――宗俊のこの自信にみちた姿勢は、なにげなく晴れあがった青空を仰いだ瞬間、心なしか、ふと崩れた。肩が落ち、細めた眸子(ひとみ)に、いちまつの淡い翳(かげ)が刷(は)かれた。
捕えられて、青空を仰ぐのは、今日がはじめて――三月ぶりであった。
澄みきったその深みどりが、この図太い反逆児の胸裡にふと、自然の美しさを感じさせたのである。そして、その美しさがそぞろな感傷を呼んだ。
――あいつらみんな、ちりぢりになってしまった。同じ悪党仲間の行方を、宗俊は、青空の中に追った。
義弟の直侍(なおざむらい)――片岡直次郎は、十里四方江戸を構われた。卑屈でなまけ者の暗闇の丑松(くらやみのうしまつ)は、殺された。底知れぬ無気味な腕前をもっていた金子市之丞(いちのじょう)は、妻子と心中して果てた。
唐人船の抜荷(ぬけに)買いの森田屋清蔵は、高飛びして行方不明になった。そして、自分は、今、歩一歩、どうやら、官許のいちばん手取早い処罰法――一服盛られるために足をはこんでいる……。
「ふん――」
宗俊は、この明るい陽ざしをまぶしいものに感じた自分を嗤(わら)うと縄尻つかんだ年老いた同心をふと、ふりかえった。
白髪まじりの本多髷(ほんだまげ)に粗末な小倉木綿、京桟留(きようざんどめ)の袴着――いずれも一時代前のくたびれた風体を、下から上へじろりと見あげて、「おい、とっつあん、大坂じゃ、天満(てんま)与力の大塩平八郎が、三郷の窮民救済のために兵を挙げたというじゃねえか」
「おれは知らん」
「ふん、徳川三百年の秕政(ひせい)もどうやらどんづまりに来たようだぜ。大名どもは金米を取立てることに血眼になり、役人どもは賄賂とりで日をくらしているひまに、目はしのきいた町人どもが、諸大名に貸しつけて、たんまり金銀扶持米(ふちまい)をかすめとって未曾有(みぞう)の裕福さ。こいつらの絹服酒宴のありさまを、とっつあん、いっぺんおがんでみねえ。その豪勢さにびっくり仰天、腰をぬかすぜ。……一方じゃ、何十万の貧民が乞食になったり餓死したり――え、おい、お膝元にも、二人や三人の大塩平八郎が、そろそろあらわれてもいい頃だろうじゃねえか」
「河内山! お主、かりにも直参(じきさん)だぞ。口をつつしめ。さ、あるいてもらおう」
「この世のなごりにお天道(てんとう)さまを仰いでいるんだ。あんまりせかしなさんな。……おれは小悪党だが、そこいらの木ッ葉大名よりは、ちいっと見通しがきくんだ。天下の権勢が、こんな乱れた政道のまま、あと五十年もつづく筈がねえ。と、おれはにらんだから、三十俵二人扶持の直参面がちゃんちゃら可笑(おか)しくなって、短く太く、博奕(ばくち)、女郎買い、押借ゆすり、とどのつまりはこうなんだが……思いねえ、どうあがいたって、このおれ程の器量者でも、せいぜい浅草田原町の川越屋で、金銀細工の懐中物をつくらせる贅沢が関の山、蔵前の札差の足もとにもおよばねえ、バカバカしいやな。御三家の水戸が、財政疲弊で、公儀に内密で富札を売るご時世だ。……とっつあん、お前さんの内職は、楊枝(ようじ)けずりか丸薬つくりか。……まったく、さむらいなんて味けねえと思わねえか」
「うるさい。あるけ!」
と、同心は、するどくどなったものの、宗俊の言葉は、矢になってわが胸を射ぬいていた。それが証拠に、宗俊があるき出すや、かえって、俯向いた同心の出足の方がにぶっていた。
――この坊主のいうことにまちがいはない。米が一升二百文、麦百五十二文、酒二百八十文……こう諸式高直(こうじき)で、われわれ下役人がくらされるかどうか……。
しかし、うそぶきすてた河内山の方は、もう、茫洋としたおちつきはらった表情にかえって、口辺にはかすかな微笑さえ含みつつ、ゆったりと歩をすすめていたのである。  

河内山宗俊は、時代の反逆児であった。まさしく、宗俊が生れ、育った文化文政の時代は、江戸の華であり、同時に、百年馴致(じゅんち)の慣習によって大名も武士も百姓も身うごきのとれぬ手かせ足かせをはめられていた。ひとり町人だけが、のびのびと翼をひろげはじめていた。
元禄時代が京坂文化の精粋ならば、文化文政は江戸町人趣味の極致である。
府内方四里、八百八町の街衢(がいく)は、江戸ッ児の気焔に満ち、野暮を追いはらい、吝嗇(りんしょく)をさげすみ、意気・通・粋をこらしていた。掛声いさましい山谷通いの駕籠の中や、長裾下駄穿(げたば)き酔歩まんさんたる茶屋の帰るさ、ふけてくるわのよそおい見れば宵のともし火うちそむき寝間の……などと鼻唄三味線を流してゆく風俗が時代を代表し、武家もまたこれにならって、横町新道の女師匠の下にかよって浮身をやつした。
これらのすべては、礼儀三千威儀三百、社会百般のものが皆形式にしばられ一寸の活用の余地を剰(あま)さず、いわば政治が化石した時、その下から燃えあがった雑草の花々であった。
怜悧俊敏に生れた貧乏直参の息子が、この雑草の花々をかいで、さて、それを手折る方法を考えぬ筈はない。所詮は、儀礼のいましめからのがれ、形式規例の間隙をぬい、法令の網をくぐらねばならない。河内山宗俊こそ、この好見本であった。
宗俊の祖父宗久、父宗築ともに、代々大奥紅葉山お時計の間の坊主をつとめていた。それをうけついで、一生を終らねばならない運命にあることは、天性俊敏に生れ、胆(きも)が太く、考えることなすことが巧智をきわめる宗俊にとっては、たまらないことであった。
将軍家斉(いえなり)は、二十一妾をたくわえ、子供を五十余人もつくったほどの内寵多い人物であったが、そうした慕府の栄華の頂点に立った大奥の裏表をつぶさに見聞して育った宗俊は、おのれの知恵才覚が、三十俵二人扶持の禄高を汲々としてまもるにはあまりにも器が大きすぎることをいつか自覚していた。扶持が尠(すくな)ければその直参の身分を利用して、貧乏神と袖をわかつよりほかに手はないのである。
宗俊は、悪事を働き乍らも、町方役人の手を出させないようにするために、自分を守護してくれる人物が必要だった。しかし、物色するまでもなかった。
格好の大物が――大奥において最も権勢をふるっていた中野五左衛門碩翁(せきおう)がいた。播磨守(はりまのかみ)。名は清茂。代々三百石の直参であったが、十年たたないうちに、新御番頭取格、二干石の大身になっていた。下総中山(しもうさなかやま)の法華寺(ほっけじ)日啓の隠し子およねという美貌の娘が、自分の屋敷へ奉公へ来るや、すぐに手をつけ、愛妾にするつもりで遊芸を仕込んでいるうちに、ふと思いついて、おみよと改名させて、将軍家斉の御前へ差出した。すると、おみよは、たちまち、その二十一妾中でも、最も家斉の寵愛をうける中(ちゅうろう)となったのである。やがて、溶姫が生れ、ついで仲姫が生れると、おみよの方の威勢は、まさにとぶ鳥を落すほどになり、したがって、中野碩翁の権力は、老中をしのぎはじめたのであった。この閨縁(けいえん)の威こそ、河内山宗俊にとって、笠にきるにはもってこいである。
中野碩翁は、頗(すこぶ)る下情に通じ、人情の機微を心得た曲者(くせもの)であったから、とり入ってきた河内山宗俊の俊敏が大いに気に入り、いつか二人の間には目で物言う黙契ができあがったのである。
こうして、河内山宗俊は、やがて、上は大名から、下は市井の無頼の徒にいたるまで、「御数寄屋坊主の河内山はおそるべきやつ」とひそかにおそれられるようになっていた。
しかし、宗俊は、決して弱い者虐(いじ)めをしなかった。捕えられてからも、悔悟の色を聊(いささ)かもあらわさなかったのは、この任侠の自負によって、挙げられた罪状二十八箇状、ことごとく申開きたてることができたし、悪事に対する見識は心の苛責(かしゃく)をおこさせなかったからである。
宗俊の悪事は、例えば――。
父祖の役をついで、お時計の間に勤めはじめた頃、宗俊は意地悪いので有名な御年寄が芝増上寺へ代参をした時、深川の料亭で、かねて愛しあっていた御広敷番々頭(おひろしきばんばんがしら)二百石どりの用人と逢引するのを目撃するや、その夜、達人の巾着切(きんちゃくきり)をそそのかしてその帰途を襲わせ、彼女の包切手(帯出許可証)をすりとらせた。
翌日、宗俊は、下御広敷口で、御年寄のもどりを待ちうけていた。
やがて、紅網代(べにあじろ)の鋲打(びょううち)乗物が、局(つぼね)、伊賀者にまもられて、しずしずともどりついた。
宗俊は、その前を、悠々と横切ろうとした。
「お待ち、お坊主、御代参のおん前を横切るは無礼であろうぞ」と、局の一人がとがめた。
すると、宗俊は、にやりとして、乗物わきへ大股に近づくと、ぴたりと膝をついた。
これを見た御年寄の情人である用人がとんできた。
「河内山、気が狂ったか」
「あわてるな。河内山宗俊、正気の正兵衛だわな……。え、もし、御年寄さま――」
下げ髪に鬱金(うこん)の間着(あいぎ)をつけて、数珠をにぎった御年寄は、眉を逆立てて宗俊を睨んだ。
「下りゃ、無礼者」
「いいや、下りませんや。御年寄さま、こんな話をご存じですかね。近頃稀有(けう)の大善知識と名高けえ比叡山の道善和尚がまだ若い所化(しょけ)の時、何かの使いで京都の往来をあるいている時、むこうから下に下にと制止声をかけて女乗物がやって来た。そこで雛僧(すうそう)も、路傍ヘヘいつくばらされた。乗物が目の前を通る時、ひょいと頭をあげてみると、なんと中にすましてのっているのは、御殿女中になっている自分の姉じゃねえか。和尚、かんかんに憤慨して、姉のくせに土下座をさせやがった、こん畜生今にこっちも緋の法衣を着る身になってやるぞ、と決心するや、いきなり立って、その乗物の前を横切ったてえ話を、ご存じですかい。……へっへっへっ、ところで、この御数寄屋坊主は、御代参の乗物を横切ってさて、どんな肚をきめたとお思いですかい」
「竹原、この無礼者をとらえよ」
御年寄は、悲鳴にちかい叫び声をあげた。用人は、宗俊にとびかかってねじ伏せようとした。
「止しやがれ、ひじき野郎」
宗俊は、いきなり、どっかとあぐらをかくと、走りよってきた局やタモン(下女)やゴサイ(下男)をぐるりと見わたして、にったり笑うと、懐中から包切手をとり
「さあ、皆さん、よくごらんなすって下せえ。これは、御代参さまの包切手じゃござんせんかね。あっしは、この包切手を深川のある料理屋でひろったんでござんす。お返し申そうとつい心がせいて、乗物を横切りやした。包切手をお返しして打首になったんじゃ、この坊主首が浮ばれねえというものさ」
包切手を眺めて、御年寄と用人の顔が一変したことは、いうまでもない。
宗俊は、包切手と引かえに、二百両せしめた。
宗俊の強権に対する反逆は、つねに、こういうかたちであらわれたのであった。  

河内山宗俊の家は、下谷練塀小路にあり、宏壮であった。宗俊は、酒と女には比較的淡泊であり、美衣美食に飽きるや普請道楽をおこし、大名もおよばぬ贅をつくした。
その居間は、床柱に皮つきの如輪木をつかい、天井は糸柾(いとまさ)とアララギを縞目にはり、床脇縁側寄りの窓には、埋れ木のように黒光りする薩摩竹で枠をとった。庭には、三代将軍家光遺愛の石燈籠を据え、築山の腰をあらう泉水には、琉球金魚を放してあった。
しかし、この邸宅の、江戸中さがしてもないといわれる程の目の細かい薩摩の杉柾門をくぐるのは――いずれおとらぬ悪党たち、片岡直次郎、森田屋清蔵、金子市之丞、暗闇の丑松……一人として、三尺高い木の上へのぼる恐怖を抱く無頼漢でない者はなかった。
この日も――。
ちょうど季節は、花の江戸――上野、隅田堤、御殿山、飛鳥山の桜花もどうやら散りはてて、そろそろ、品川の海で潮干狩がさかんになる頃であった。
粋をこらした座敷の広縁寄りに、ごろりと寝そべって、陶枕(とうまくら)に総髪銀杏(いちょう)の頭をのせた微塵縞(みじんじま)の武士は、金子市之丞であった。蒼白な皮膚、殺(そ)げた頬、血の気のない唇――肺を病んでいる者の特有の鋭い神経があらわになった容貌である。
その頭上にさがった籠の中では数十金の高価(たかね)のついた鶯がしきりにすり餌をつついていた。縁側には、鳥頭(とりかぶと)の葉をひろげた山橘(やまたちばな)や、斑(ふ)のぎんみのゆきとどいた万年青(おもと)の盆栽がならんでいた。
塀外の往来では、天神さまの細道の遊戯をしている子供たちのよく透った唄声が、のびやかにきこえてくる。
その唄声をきくともなくきいている金子市の心中は、泥のように重かった。
もう二十日も家をすてているのである。女にも博奕にも酒にも倦(う)み果てた空虚なけだるさが、頭の中に滓(かす)になってのこっているこのひととき――金子市は、ふと、妻と娘を思い泛(うか)べる。同じ貧乏旗本から嫁いできて八年、妻は、放埓(ほうらつ)むざんな良人(おっと)に仕えて、忍従の二字につきる日々をおくってきた。子もまた母に似て、影のようにおとなしい娘である。
金子市は、妻子をあわれと思わぬわけではない。いや、こうして、ふと妻子の姿を脳裡にえがく折は、いたたまれない程の愛情をおぼえるのだ。にも拘らず、金子市は、帰って、笑顔をみせてやることができないのである。
金子市もまた、時代の反逆児であった。
彼は十六歳の日から、当時、江戸随一と称せられた神道無念流の伝統をくむ戸ケ崎某という剣客の道場へかよって、二十三歳まで一心不乱に剣技をみがいた。そして、その天稟は師以上に練達し、おそらく旗本の子弟のうち彼の右に出ずる者はないであろうと噂されるようになった頃、酒と女と博奕にその身をもち崩しはじめたのであった。いかに非凡な頭脳腕前をもっていても、家柄の前には手も足も出ない武士階級の仕組に対する反逆、そしてはてしない窮乏生活が生む自棄であった。泰平に慣れ、無事に安んじ、腰の剣は装飾品になったこの時代――大名は次季の領米を抵当にして御用達商人から借金して奢侈(しゃし)に耽るていたらくであってみれば、金子市のまわりには、治にいて乱を忘れぬ志の士など一人も見あたらなかったのである。
道場あらし、無頼の博徒の喧嘩の助っ人、ゆすりかたり、はては辻斬さえも二度三度……。
金子市は、妻子の姿を追いはらうと、じっと瞑目したなり再び落莫とした虚無にひきもどされていた。何もかも面倒くさく、世の中がどうであろうが、自分がどうなろうが――ただ、すさんだ心を刺戟するものが、眼前にころがっていればいいのだ。
「へへん……。男がようて、ときたね、男がようて、ほどようて、はたらきぶりもよいけれど、浮気しやんすが、玉にきず」
ひどく陽気な唄声とともに、庭をまわって、暗闇の丑松があらわれた。
「いよう、金子市の旦那、こいつは珍しいや。……ここで会ったが百年目、ね、旦那、ひとつお供をいたしやしょう。……おっと、ご懸念あるな、勘定は、丑がひきうけた。……そう不景気な面をしてねえで、ひとつ吉原へぞめきに行こうじゃげせんか。ぞめきにごんせ、吉原へ、小野道風じゃあるまいし、かわずに柳を見てかえる、ってね」
金子市は、じろりと、卑屈でおっちょこちょいのやくざへ嫌悪の眼眸(まなざし)をくれた。
「どこの賭場でイカサマをつかった?」
「ちょっ、人ぎきのわりいことを仰言いますな。……へっへっと。暗闇の丑松、一世一代のはなれわざ、まアひとつきいておくんねえ。……昨日、神田の道具屋で糶市(せりいち)が立ったところへ行合せた、と思いねえ。本郷元町の金太という野郎がね――この頃は碌(ろく)なものが出ねえじゃねえか、誰か広徳寺の瓦でも剥がさねぇかな、一枚剥がしたら、十両やってもいい、とほざきやがったんでさ。こいつをきいて、丑松、ポンと片膝うって、しめた! 親分河内山の知恵にあやかって、ピンときたから、――やい金太、そのせりふ忘れるな、といいのこしておいて、くるり尻をまくって韋駄天(いだてん)走り、八丁堀葭屋(よしや)の手代吉兵衛に化けて、広徳寺へ、のんのんずいずいのりこんだと思いねえ。――門の瓦を寄進いたしとうございます、と何食わぬ顔で申込みやした。坊主の二つ返事はいわでものこと。細工はりゅうりゅう、あっしゃ、今日、金太をひっぱって、広徳寺へ行きやしてね、――瓦の寸法をとらして下せえ、とたのんで、おおぴらに瓦を剥がして、――さあ金太どうだ。……へっへっへ、まんまと十両せしめたというわけでさあ」
丑松は、小鼻をうごめかし乍ら、ちゃりんと十両、縁側へなげ出した。  

金子市と丑松が出て行ってしばらくしてから、河内山は、どこからか、ぶらりと戻ってきて、女中に茶漬を命じた。三年前に、玉川の上流に早飛脚を走らして香の物と煎茶一椀の茶漬飯に一両余の金子(きんす)をおしまなかった河内山であったが、今は、そんな通人ぶりに興味はうすれていた。
河内山の最近の心境は、もっと不逞な荒々しいものであった。
げんに、茶漬をかきこんだのち、袋戸棚から精巧な雛をとり出して、じっと見入る彼の片頬には、一種異様な――なんといおう、復讐の快感とでもいったふてぶてしい北叟笑(ほくそえ)みが刷かれていた。
この雛は、御台所島津氏が輿入れの時もってきたもので、三月にかざられると、大奥の女中たちは、御庭よりはるかに拝見をゆるされる世にたぐい稀な名品であった。
河内山は、この雛を、大奥の対面所からみごとにぬすみ出したのである。もちろん、彼自身がぬすんだのではない。御錠口番の女をわが者にして、それにやらせたのである。女は恋に狂うと、この必死の冒険も敢えて辞さなかった。
来年三月、対面所にこの雛を飾ろうという時になって、上を下への騒動がもちあがるであろう。
――ざまを見やがれ。
河内山は、その日を想像して、なんともいえぬ快感をおぼえるのだった。
――どうせ獄門晒首(さらしくび)のほぞをきめたからにゃ大きな博奕をうってやるんだ。
かえり見て、かさねた悪事のどれもこれも、河内山は、ケチくさく思えてならないのだ。
いずれゆすりかたりである。
二十歳の時、ある冬の日、老中脇坂淡路守が乗物で登城のみぎり、供侍の一人が、河内山の肩にイヤというほど突当ったまま挨拶しないで行過ぎた。もっけの幸いと河内山は、脇坂邸へ供頭増田市之丞をたずね、平あやまりにあやまらせた上で五十両取ってきた。これが強請(ゆすり)の手はじめであった。ある時は、神田橋外の阿州侯の大部屋で大賭場が開帳されていることをききこんで、すぐのりこんで二百両にした。またある時、箱根の福住楼に逗留中、隣座敷の若夫婦が同宿の篠崎竹庵という町医者と賭碁をして五十両あまり負けてしまい、竹庵がその女房を抵当に連れて行こうとするところへ、ぬっとあらわれて、その借金をはらってやり、あらためて自分が竹庵と手合せして、今はらった五十両のほかにまた五十両まきあげてひきあげたこともある。それからまた、品川の遊里で、清元の師匠の延清(のぶきよ)という美人をくどいてみると、この女が品川大蓮寺の外妾と知れた。そこで早速、寺社奉行の隠密に化けて、大蓮寺にふみこみ、内済金をとり、延清と縁をきらせて、自分のものにしてしまった。
つい去年には、浅草雷門の前で、鉦(かね)をたたいてお念仏をとなえている乞食婆(ばばあ)を見つけて、そばへより、
「おい、ばあさん、おれもおめえぐらいのお袋があったが、十年前になくなった。孝行をしたい時には親がねえ。おまえをかわりのお袋にして、せめて半年、孝行の真似事がしてみてえ」と、口車にのせ、坂本町の乾児(こぶん)の家へつれこんで、翌日は大家の御隠居さまにしたてて、松坂屋へ買物に出かけたのである。
緞子(どんす)羽二重など三十反およそ百両あまりの品をえらび出し婆さんを人質にのこして、ちょっと家へもって行って女房に見せてくる、と姿をくらましてしまった。
去りがけに、河内山は、
「おっ母さん、これは金の包みだから――」と袱紗(ふくさ)包みをあずけて行ったのであった。
あまりもどって来ないので、婆さんが、包みをひらいてみると、昨日まで自分が叩いていたうすぎたない鉦と撞木(しゅもく)があらわれた。
――ケチだぜ、河内山。大悪党のする仕事じゃねえ。
それらの悪事をかえりみて、河内山が、首をふった時、「旦那さま、片岡さんがお見えでございます」と、女中が取次いだ。
河内山は、雛をしまった。
上田の小袖に竜文の合着、花色唐こはくの帯を猫じゃらしに結んだ片岡直次郎の容子は、浪人というより深川通いの大家の商人息子のようにぞろりとしていた。それでも、あまりイヤらしくないのは、無類の美貌のせいであったろう。「とんと、ごぶさたいたしやして――」
「なんだか生気のねえ面しているじゃねえか」
「へえ」
直侍は、肩を落して坐ると、
「じつは、ちょっとおねがいの筋がござんして――」
「なんだえ?」
「じつは、三千歳(みちとせ)のことでござんすが――」
直侍と吉原の江戸町二丁目大口屋の花魁(おいらん)三千歳の浮名は、やくざや通客のあいだでかなりの噂にのぼっていた。
情夫客(まぶ)になると、無理な金を算段しなければならない。直侍の遊興費は、主として賭博で儲けた金であったが、それにつまると、ゆすりかたりをやった。しかし、河内山宗俊の悪事は、弱い者虐めをさけ、多分の茶目気をもっていたが、直侍の方は、どんな下等な悪事でもやった。時には、強盗もやってのけた。下谷から本郷にかけて、直侍は鼻つまみであった。
しかし、直侍と三千歳が真剣に惚れあっていることは、誰しもみとめざるを得なかった。
「三千歳に身請(みうけ)の客でもついたというのか」
「あたった。その通りでござんす。その相手がいけねえんだ。日本橋の小田原町回船問屋の森田屋清蔵なんで、―一千両二千両にビクともしねえ野郎なんでげす。そこで、おいらは――」
「待て、直侍、おめえは、その森田屋清蔵にこのあいだひどい悪さをしたそうだの?」
「へ、ごぞんじで――」
「直侍、おめえ、根性がきたねえぜ。……御家人崩れの山田なんとかてえやつの死骸を、森田屋清蔵の軒下へつりさげて、店の者をたたきおこして、死骸をすててやるから十両出せ、とかたりとったそうだが、そこまでは見のがせる。次の日には、死骸取捨ては天下の御法度、おそれ乍らと出た日にゃ森田屋の大黒柱もぐらつくぜ、といやがらせて百両あまりゆすりとったそうだが――おい、直侍、うすぎたねえ、あこぎなまねはいけねえよ、おれは、その死骸はたぶん、おめえが喧嘩で殺したやつにちげえねえ、とにらんだが、どうだ」
「へえ」
直侍は、首を垂れた。
山田某とは、一緒に強盗を働いた仲であったが、山田が酔うとそのことを口走るので、本郷湯島新花町霊雲寺横、俗に大根畑という売笑婦のいた付近の空地へ、山田を呼びよせて、酒で盛りつぶして、しめ殺したのであった。
森田屋清蔵が三千歳の身請客ときいていた直侍は、その死骸を、荷車につんで、日本橋まではこび、あくどい芝居をうったのであった。
森田屋清蔵は、そのゆすりには、だまって金を出し乍らも、三千歳身請の件はこの直侍という悪ひもつきを承知の上でどうしても、あとへひこうとしないのだ、という。
「ふん、森田屋め、ちょいと面白えやつじゃねえか」
「おいらにとってなにが面白えものか。……この直次郎に金がないので、三千歳をほかにとられたとあっちゃ、男がすたりまさア。といって、逆立ちしても、十日そこいらで千両はつくれねえ。やむなく……」
「どうした?」
「ゆうべ、三千歳をつれ出しました」
「なに――」
河内山は、思わず、川越屋つくりの金銀細工のキセルを口からはなした。
「袴をはかせて、宗十郎頭巾で顔をつつみ、大身のかくれあそびとみせかけて大門(おおもん)をごまかしました」
「どこにかくまった?」
「じつは、今、駕籠で、ここへつれこんで、次の間に待たせてありやすんで――」
河内山は、一瞬、唖然としたが、「しかたがねえ」と、呟いた。
かりにも義弟にした直侍である。そして、その惚れかたがこればかりは嘘ではなさそうなので河内山も度胸をきめた。
「よし、たすけてやろう」  

江戸町の格子女郎相手に三日の流連(いつづけ)をおえた金子市之丞と暗闇の丑松は、浅草奥山の盛場を、ぶらぶらあるいていた。
金子市は、一昨日も昨日もそして今日も、あいかわらずの陰鬱な表情で、まわりに目もくれない。そのうしろから近頃流行(はやり)の吉原冠り、やぞうをきめこんだ丑松が、鼻唄まじりですれちがう若い女に好色の視線をなげて行く。
おででこ芝居、鶴娘、丹波の怪獣、オランダ眼鏡、松井源水、三足一手の侏儒(しゅじゅ)、講釈場、蛇つかい、楊弓などの小屋掛から、耳を聾する鳴物囃し呼び声がわきたつ。それにならんで、饅頭、浅草餅、おかめ団子、甘酒、おでん、蕎麦の屋台店が、ひしめきあう。そのむこうに、本堂の方二十間の金朱が、煙のような白雲の中にまぶしく照り映えていた。
「へっ、美しい年増だぜ、あの横櫛(よこぐし)がこてえられねえ。――かねてより、とくらっ、くどき上手と知り乍ら、この手がしめた唐繻子(とうじゅす)の、いつしか解けてにくらしい、かりてたぼかく黄楊(つげ)の櫛――おっと、気をつけろい、唐変木(とうへんぼく)――」
つきあたったお店者(たなもの)を、したたかつきかえしておいて、丑松は、なおも女たちを物色して行く。
丑松の生甲斐は、こういう盛場で見出されるのである。江戸のまん中で「男」になる。これが彼の目的である。切見世(きりみせ)の端女郎(はしたじょろう)がたて引いてくれる。茶店の赤い前掛の女たちが、「ちょいと丑さん」と手まねきしてくれる。中村座といわぬまでも、湯島天神の落語、娘浄瑠璃(むすめじょうるり)、八人芸の寄席ぐらいは木戸御免になる。こんなところで、丑松の人生は満足するのである。
丑松は、もと小田原のういろう屋の職人であったが、そこは二年もつづかずに、とび出して、同じ小田原の香具師(やし)の取締である虎屋に入ったが、いつしかスメクラというイカサマサイコロをつかうことをおぼえ賭場あらしをやりはじめた。そのうち、ある賭場で、これがばれて、やくざの一人を殺すはめになり、そのまま高飛びして江戸へ出たが、香具師仲間の掟として行方出所不定の者は仲間に取らないので、しかたなく中野碩翁邸のうまや中間(ちゅうげん)になったのである。このうまやもんのうちに巾着切がいて、手さきの器用な丑松は、これをこっそりならって一人前になった。
四年前の初夏、山王(さんのう)祭の人ごみの中で、河内山の印伝(いんでん)の紙入を掏(す)ろうとして、つかまり、乾児になったのである。
「おい、丑」
金子市が、ふりかえって、声をかけた。
「おめえ、ゆうべ、おれは江戸で指折りの巾着切の名人だとたいそう女郎に自慢をしていたの」
「旦那、声が高けえ」
「おい、名人かどうか、ためしに、……ほれ、あのごたいそうに肩をいからした小倉木綿の田舎侍の印籠を掏ってみろ」
「へ――、あいつ……ようし」
丑松は、金壼眼(かなつぼまなこ)を光らせると、つと姿勢をかえた。
腕ぐみして、俯向いて、何やら思案にあまったていを装い乍ら、いそぎ足になる丑松の後姿を、金子市は、冷やかなうすら笑いを浮べて見おくった。
人ごみの中に、田舎侍と丑松の姿が、ちらちらしていたかと思うと、突然、そこから、「すりだッ!」と、叫び声があがった。
――ふん、どじをふみやがったか、おっちょこちょいめ。
胸の中でののしりすてると、くるりと踵(きびす)をかえし、反対の方角へ、ゆっくりと去って行く金子市のあくまで蒼白な顔は、ただ一色の虚無に沈んでいた。
丑松を捕えたのは、末永三十郎という八丁堀定廻り同心であった。
あらんかぎりの抵抗をしたので、丑松は、ざんばら髪になり、額や頬に血をにじませ、着物もひき裂けた。
物見高い群衆にとりまかれて、仁王門横の会所へひきたてられた丑松は、板の間へ、しょんぼり坐ってうなだれた。
もしこの時、おもてをうずめた見物人の中から、河内山宗俊の顔があらわれなかったならば、丑松はたぶん伝馬町送りになっていたであろう。
河内山は、三千歳の一件で、江戸町の大口屋へ行ってきた戻りであった。大口屋での交渉は失敗であった。
――しかたがねえ、こうなりゃ、森田屋清蔵にかけ合うよりほかはなかろう。
と考え乍ら、雷門までやってきて、ちょっと拝んで行こうと仁王門にさしかかり、「巾着切がつかまった」という声になに気なく会所をのぞいてみたのである。
――丑か、莫迦(ばか)野郎。
河内山は、舌うちした。が、人々をかきわけると、ぬっと出た。
「おい、丑松」
入口から声をかけられて、ひょいと顔をあげた丑松は、とたんに、喜色をみなぎらせると、今までの神妙さはどこへやら、太股(ふともも)はだけて大あぐらをかいた。
群衆は、ざわめいた。
「おう、見ねえ、あの巾着切、居直ったぜ」
「あのお坊主が今、なんとか松と呼んだろう。松に坊主じゃ居直らア」
「おや、そういやア、お前にこのあいだの花札で二分の貸しがあるぞ。そらとぼけやがって、こん畜生――」
河内山は、会所に入ると、
「丑松、お前のような正直者が、なんで、また、こんなところへしょっぴかれたんだ」
「へい、旦那、きいておくんねえ。おいらくやしくて、くやしくて」
丑松は、自分に都合がいいようにべらべら喋りはじめた。
「黙れ、下郎」
田舎侍は、あまりの出鱈目(でたらめ)に、かっとなって丑松を足蹴にしようとした。
「おっと、待った。この男は、その腰の印籠が落ちたのを、親切に、ひろってやろう、としたんだといっているじゃござんせんか。ひろって、蹴られて擲(なぐ)られて、こんな不浄場所でさらし者にされたんじゃ、間尺にあわねえ。この男は、神田駿河台、中野播磨守のお厩者(うまやもの)で、正直一途の丑松という男でね」
「お坊主、拙者がこの男が掏ったところをとらえたのだ。よけいなお節介は止してもらおう」
同心末永三十郎は、一歩前へ出た。
河内山は、じろりと一瞥(いちべつ)くれて、「ふん、この男が正直者で、巾着切とは縁のねえお厩者だ、と証人に立つのが、下谷練塀小路に住む直参河内山宗俊でもお前さんは、あくまで、掏ったといいはりなさるかね」
「えっ」
末永の顔色がさっと変った。
いっときのち、河内山は、末永や田舎侍や岡っ引どもを尻目にかけて、丑松をつれると、悠々と会所を出た。しかも、そのたもとには、会所頭取、浅草金竜山餅の竹村の亭主が、丑松の傷の治療代にとさし出した切餅ひとつを入れていた。
――うぬっ、河内山め。よくも恥辱をかかせたな。八丁堀の同心にも骨のあるやつがいることを今に思い知らせてやるぞ。
末永三十郎は、会所頭取になだめられてこの場は忍耐したものの、肚の裡(なか)で、いつか必ず、河内山の尻尾をおさえる決意に燃えたのであった。  

河内山が、日本橋室町の森田屋清蔵をたずねて行ったのはそれから四五日後であった。
その店は、大通りの目貫きの場所に構えられ、土蔵造りの宏壮な建物であった。
会ってみると、森田屋清蔵は、意外に地味な、唐桟留に花色繻子の帯を貝の口に結び、前垂かけたいでたちで、一見吉原などとは縁のない物腰であった。
しかし、河内山は、かねて想像した通り、対坐してほんのしばらくすると、じんわりと威圧してくる相手の貫禄を見てとって、終日薄暗い暖簾がけの店の中で客を相手の世辞追従に満足しているただの町人でないとにらんだ。
「ところで、森田屋さん、おねがいというのはほかでもねえ三千歳の一件でござるが、河内山はごらんのとおり大奥づとめも病気と称してめったに上らねえ不作法者、ざっくばらんに申上げるが、じつは三千歳はあっしの家にかくまってある」
「ほう」
森田屋は、一向におどろいた様子もなくうなずいた。
「ところが、この河内山、目下のところ手元不如意で、身請の金など五十両も出来ねえときている。ただ情夫(まぶ)の片岡直次郎と生命がけで惚れあっているいじらしさに、ひと肌ぬごうという気になったんだが、思案の果てが、これアひとつどうでも、森田屋さん、お前さんに、懸引なしで膝を割っておねがいするよりほかはねえ、と結着がでた。……森田屋さん、河内山が、坊主頭をさげてのたのみだが、三千歳を、一年、かこっちゃくれまいか」
森田屋は、河内山の視線をさけるようにして、膝のわが手を見ていたが、「私に、大口屋の身請金を払え、と仰言いますので――」
「そうだ」
「しかし、三千歳をかこっても、手生けの花にしちゃならない、と仰言いますので――」
「その通り、さすがは森田屋さんだ、話は通るね。……ひどく虫のいいおねがいだが、この河内山の顔をたててもらいてえのだ」
森田屋は、しばらく沈黙していたが、「よろしゅうございます」
「承知してくれるか」
「たしかに――しかし、私も三千歳に手を出さないかわりに片岡さんも、むこう一年の間は、絶対にお会いなさらぬこと。これをお約束して頂きとう存じます。一年たったら、この森田屋が仲人になって、二人を晴れて夫婦にしてさしあげましょう」
「ありがてえ。片岡の方は、おれがきっと我慢をさせよう。森田屋さん、礼をいうぜ」
「なんの――、河内山さま、片岡さんには一年間の我慢料として、三百両さしあげましょう」
――見上げたものだ。これだけの器量をもった人物が、旗本の中に一人でもいるか。松平定信以後、藩屏(はんぺい)に人なく、大名どもが町人に首根っこをおさえられるのはむりもねえ。あと五十年もたたねえうちに、世の中は町人どもの手でひっくりけえされるぜ。そうなりゃ、公方(くぼう)の一身だってあぶねえものさ。
河内山は、しみじみと、心で独語をもらしたことだった。
――しかし、これ程の人物が、吹けばとぶような直侍のゆすりに、なぜだまって百両も出したか、そいつがあやしい。
その点を、くさいとにらんで、実は、こんな虫のいい相談をもちかけてみた河内山であった。
悪党は悪党を知ることに素早い。河内山は、自分の直感に自信があったのである。
ともあれ――、三百両をふところにして、練塀小路へもどってきた河内山は、直侍と三千歳を前にならべて因果をふくませた。  

年が明け、伊勢屋稲荷に犬の糞、と江戸三名物の初午(はつうま)稲荷の祭もおわった頃――。
根岸のある小粋な寮へ、一夜、賊が押込んだ。
……朱塗りの絹行燈に仄暗(ほのぐら)く照らし出された部屋は、金と粋にあかしてつくられていた。黒檀の床の間、唐わたりの墨絵の掛物、銀縁の火桶、春信、豊春、春章、歌麿らの浮世絵を散らした金屏風、銀の鶴をあしらった欄間、高いあじろ天井……。箪笥、櫛笥(くしげ)、鏡台、いずれも金銀づくしの蒔絵がほどこしてある。
枕屏風をかこって敷かれた藤の花模様の京羽二重の蒲団がなまめかしくはねられ、一枚絵からぬけ出したような美女が恐怖におののき乍ら坐っていた。
投げ島田のびんのみだれ、婀娜(あだ)な薄化粧の襟すじ、加茂川染の緋縮緬にいずれ名高い絵師の手になる墨絵を浮せた長襦袢(ながじゅばん)の膝が崩れて――。
ぐっと生唾のんで、廊下との境に立って、この美女を見下しているふところ手の賊は旗本崩れ金子市之丞にまぎれもなかった。紬頭巾(つむぎずきん)もしていない無造作さである。
無言で、一歩、ずいと入った。雪駄(せった)のままである。女は眼も唇も肩も膝もふるわせた。
憮然として、あたりの華美豪奢な調度を見まわした金子は、「女、ごうぎな妾宅だな。おめえの旦那は札差か」頬の殺げた凄愴な風ぼう(=難漢字)がにやりと崩れた。その眼光の鋭さに、女は、うなだれた。
「女のいのちの髪を切って、わが子の正月の晴着を買う旗本の女房もあれば、十数両の縮緬を寝まきにする町人の妾もある。おめえのあたまの、その黒鼈甲(くろべっこう)の簪(かんざし)一本で、おれたち貧乏旗本の世帯は一月もつというものだ」
女は、ふたたび顔をあげて、男を、じっと瞶(みつ)めた。
なぜか、こんどは、金子市が視線をそらす番だった。そして、枕元になげ出された、みだらな絵草子へ眼を落した。
「お金は、あの鏡台の抽斗(ひきだし)に入っています。とったら、さっさと帰ってくんなまし――」
これをきくや、金子市の表情に、さっと狂暴な殺気が走った。
「なんだと――。五百や千の端金は、奪られたってかゆくもねえ、といった面しやがったぜ。それが気に入らねえ」
金子市は、寝具の端を、ぐいっと雪駄でふみつけた。
女は、極度の恐怖に、ひいっとかすかな悲鳴をあげた。
「やい、おめえは花魁あがりだな。身を売った野郎の中にゃ盗ッ人もいたろうじゃねえか。びくびくしやがるな」
金子市は、いきなり雪駄を、女の膝のあいだへ割りこませるや、ぱっとはねた。
女は、あっとのけぞり……紅裾が空に散り、純白の下肢は左右におしげもなくひらいた。
金子市のギラギラとかがやく双眸は、もうけだものの焔に燃えていた。
その翌日、めったに姿を見せぬこの寮の持主が、ぶらりとおとずれた。それは、森田屋清蔵であった。
清蔵は、女――三千歳の部屋に入った時、ふと、足もとに落ちている一文も入っていない男持ちの財布を発見した。
「三千歳、お前さん、約束をやぶったね」
穏やかな、それだけにうす気味わるい口調だった。
気分がわるいと臥っていた三千歳は反射的にはね起きた。
財布をつきつけられた三千歳は、弁解もなく蒼ざめた。
森田屋が、黙って立って廊下へ出たとたん、はっとわれにかえって、「待ってくんなまし」と、声をかけたが、もうおそかった。
森田屋は、寮を出ると、まっすぐに練塀小路へ駕籠を走らせた。  

「河内山さま、片岡さんは、約束をやぶって昨夜、三千歳のところへしのび入りました」
森田屋は、河内山をまっすぐに見据えて、口をきった。
「え――」
河内山は、大きく瞳をひらいたが、すぐ膝に両手を揃えて、「面目ねえ、森田屋さん。……河内山、はじめて人に詫びをいう」と、頭を下げた。
「河内山さま、お約束が反古(ほご)になったからにゃ、森田屋は、あの三千歳を、もう一度吉原へたたき売りますよ」
「うむ」
「では、これで――ご免下さいまし」
「ちょっと待った、森田屋さん。ききてえことがある。この河内山宗俊を、ぐっとおさえてぐうの音を出させねえ、その貫禄は――どうやら、おめえさん、ただの前掛あがりじゃねえとにらんだぜ」
森田屋は、こたえなかった。
一瞬、四つの瞳が、すさまじい火花を散らした。
「おめえさん、これか?」
河内山は、いきなり人差指をまげてみせた。
「ははははは、まアそんなところ――実は、私は、唐人船の盗品抜荷買です。と、こう打明けましたからにゃ、以後、御泥懇(じっこん)にねがいたいもので――。と申しますのも。かねてからあなたさまの小気味のいい悪党ぶりにすっかり惚れこんで居りましてね、できることなら、お近づきになって、いずれ、中野碩翁さまにもお目通りできるようおとりなしをしていただきたいものだ、と考えて居りました」
「よかろう、森田屋、よろこんで兄弟分のつきあいをしようじゃねえか」
「有難うぞんじます」
河内山は、森田屋を送り出すと、すぐ、直侍を呼びに下男を走らせた。
直侍が何事だろうといそいで入ってくるや、河内山は、物も言わずに、その頬げたを擲りつけた。
直侍は、ぶざまにのけぞった。
「な、なにをしやがるんでえ――」
「わけはてめえの胸にきけ。うぬのような下司(げす)たア、今日かぎり、兄弟の縁をきるぞ。この後、そのなまず面をおれの前へ出しやがってまごまごしやがると承知しねえぞ」
「ま、待ってくれ。お、おれがいったい、な、なにを――」
「おう、直! てめえ、この河内山がだませるとでも思っているのか。白ばくれるのもいい加減にしろ。いいか、何も言わずきかずに縁をきってやるのが、せめてもの慈悲だ。ひと言でも泣言ほざくと蹴殺すぞ! さ、とっとと消えうせろ」
と、はきすてておいて、河内山は、袋戸棚から、例の雛をとり出すと、さっさとおもてへ出て行った。
直侍は、狐につままれたような腑ぬけた顔で、しょんぼりもどって行くよりほかはなかった。
しとしと降りはじめた雨の中を、蛇の目の傘をさして河内山の出かけた先は、すぐ近くの御成道の質渡世(とせい)池田屋であった。
雨のためにあたりはほの暗かったが、軒さきに灯を入れるたそがれにはまだ早いのに、池田屋は大戸をおろして、暖簾をひっこめていた。
「おや、今日は彼岸にゃちげえねえが、一家そろって仏事供養でもあるめえ。
それとも、亭主、番頭づれで六阿弥陀詣(ろくあみだまいり)にでも出かけたか」と、いぶかり乍ら、戸をたたくと、しばらくして内から、
「ええ、まことに申しかねますが、少々取込みがございまして、今日は休ませて頂きました。明日におねがい致しとう存じます」
「おう、おれは、河内山だ。すこし急ぎのおねがいがあってやってきたんだが、それよりも、その取込みごとは、いってえ、なんでえ?」
「ああ、河内山さまでございますか。ただ今、開けましてございます」
河内山は、ひらかれた大戸のくぐりから中へ入った。
「河内山さまなら、ご用命をうけたまわりましょう」
日頃親しい番頭が、上へ招じた。
「それより取込みごとたアどんなことだ。大戸をおろす程なら――誰か、頓死でもしたのか?」
「いえ、まだ死んだのじゃございませんが、明晩までには、一人死ぬことになりまして――」
「妙なことをいうじゃねえか」
「へえ、実は、さっき、てまえどものお嬢さんが腰元にあがって居ります雲州さまの上屋敷から、おつかいがまいりまして、お嬢さんをお手討ちにするから、明日の夕方、不浄門から、死骸を受取にまいれ、というご通知なんで……大さわぎを致して居る次第でございます」
「なんだと――あの可愛らしい菊野をお手討ちだと――いってえ、菊野が何をしでかしたというんだ。色男でもつくったのか」
「へえ――まア、そうなんでございます」
「ふふん、あれくれえのべっぴんじゃ、家中の若侍どもがすててはおくまい。果報者はなんて野郎だ」
「殿さまづきの、お小姓須崎要(かなめ)とおっしゃる方でございます」
「不義は御家の御法度――というわけだろうが、ふん、あの雲州はきこえた助平じじいでな、そりゃ、きっと菊野に手を出してふられたぜ。そこで、痛い目にあわせて、色男の名をはかせて、腹癒せに、お手討ちということになったんだろう」
「その通りでございます。明日お手討ちにするとご通知を下さいましたのは、親の方から娘に、殿さまの意にしたがうように因果をふくめよ、というなぞではないか、と只今相談して居りました次第で――」
「べらぼうめ! そんな因果をふくめる必要はねえ。おい、この一件は、河内山が引きうけたぜ」
「え――それじゃ、あなたさまが――」
「おう、河内山が引きうけたからにゃ、安心しろ。そのかわりたのみがある」
河内山は、風呂敷包の中から、雛をとり出して、「これで三百両貸してもらいてえんだ」
「お安い御用でございます。……これはまた、見事なお雛さまで――」
「うむ、下手にとりあつかったら、首のとぶ険呑(けんのん)な雛だ。――で、三百両はすぐに、日本橋室町の森田屋へ、とどけてもらいたい。直侍がお約束をやぶりましたので、我慢料三百両を河内山からお返し申します、といってな。……さ、いそがしくなってきやがった」
ひさしぶりの、いやどうやら一世一代の大強請の一幕を演ずる計画を、またたくうちに脳裡にはりめぐらせた河内山は不敵な微笑を湛(たた)えて、すっくと立ちあがったのであった。  

ちょうどその日――。
金子市は、湯島の蔭間(かげま)茶屋の二階で寝ころんでいた。心中にどんよりよどんだ泥のような虚無感に堪えて、もう小半刻(こはんとき)も身じろぎもしない。時おり、化物屋敷のようなわが家の奥座敷で、女の児に何か喋ってきかせ乍ら繕い物をしているやつれた妻の姿が掠めて、ずきりと胸が痛む――。
窓から通りがかりの女をひやかしているらしい酔っぱらった丑松のだみ声がどこかでしている。
「こう……姉ちゃん、そんなにいそいでどこへ行くんだ。ひとつ、そこらで、けっつまずいて、へそのあたりまで見せてくんねえ。……なにをッ、情夫(まぶ)にしか見せられねえと。きいた風な口をきくねえ。情夫のできる面かえ、面を見ろ、面を――鼻べちゃ……。向う通るは、馴染じゃないか尻がよう似た、でっ尻がよしてくんな、人ちがいへっへ……尻に帆かけて、ひゅら、ひゅっひゅ、だ。……」
それっきり、丑松の声がやんだ。
金子市は、ふっとまぶたをひらいた。
今までの酔いをどこへけしとばしたのか、丑松がひどく狼狽(ろうばい)して白い眼つきで、そわそわと戻って来たのである。
丑松が、冷水を一杯ぐうっとひと息に飲んでどうやら気を鎮めたのも、束の間、廊下に無言で立った男があった。一見して、やくざ者と知れるいでたち、眼つきであった。
「丑、さがしたぜ。小田原の巽(たつみ)一家の仙太郎だ」
丑松は、仏頂面をそむけてこたえなかった。
「おめえに殺された佐吉の弟分のおれが、三年ぶりに挨拶に来たんだ。つきあってもらおうじゃねえか」
丑松は、こまかくふるえる手で猪口をつまんだ。
――なアに、金子市の旦那がついている。
金子市の起き上がる気配をうしろに感じ乍ら、丑松は、強いて自分を落着かせようとした。
だが――。
「巽一家とやら、つきあいたいのなら、ここでもよかろう。それともわしが邪魔なら消えてもいいぞ」
と、金子市は、にやりとした。
「へ、有難うござんす」
やくざ者も、会釈して、にやりとした。
丑松の両眼だけが、みるみる恐怖の色を散らした。
刀をひろってのっそり立ちあがる金子市に、丑松は、哀訴を湛えた惨めな眼で縋(すが)った。
金子市が廊下へ出てみると、仲間らしいやくざ者が三人、障子のかげで鋭い眼を光らせていた。
けたたましい物音が、階段を下りて行く金子市の耳にひびいたが、彼の無表情になんの変化もなかった。
それからいっときの後。
金子市の姿は、下谷広徳寺前の片側町に見出された。
人通りの稀な寂しい界隈だった。
次第に強く降ってきた雨を、傘でななめに受けた金子市の顔は、蛇の目の青い色を映して一層暗く、とがっていた。
「金子市ではないか」
すれちがおうとして、ふと立ちどまった若い武家の眼眸には、むかしとあまりに変った金子市の容貌に人違いではないかという疑いがただよっていた。
「む――」
金子市は、横をむいた。
「やっぱり、そうか」
身なりも恰幅も金子市と対蹠的(たいしょてき)に立派な相手は、無遠慮にまじまじと瞶(みつ)めた。
「ずいぶん久しぶりだったな」
それにも、金子市はこたえず、あるき出そうとした。
「金子――」
こんな男ではなかった、と相手は、急に、金子市の風体へ無遠慮な侮蔑の視線を投げた。それが金子市の疳(かん)に、ぴりりっとさわった。
「どうしているのだ、近頃は――」
金子市は相手にはっきりわかるように、ふふん、と冷やかに鼻をならした。
「貴公、市井無頼の博徒と交っているそうだが、まことか――いかんぞ、三河以来の由緒ある門閥に生れて、それでは父祖の墓碑に泥を塗るというものだ」
――この男は、むかしからすぐ昂奮して説教するくせがあったが、相変らずだな。
「博徒と交れば食えるのでな。この貧乏人の根性は、大身の貴公にはわかるまいて――」
「なに――」
「ふふふふ、貴公は、千五百石大事につとめをはげめばよかろう。おれがどう生きようと、いらぬお節介だ。もっとも、一牡(ぼ)百牝(ひん)の膃肭臍(おっとせい)のような公方の天下もあまり長くはなかろうが――」
「金子! 拙者と勝負する気か!」
道場で、一頭地を抜いて並び称された二人であった。
「神道、貴公は真剣を交えた経験があるか」
金子市は、傘をふかめにさしたまま、静かに訊ねた。
「言うな、無頼の徒隷(とれい)相手の刃物三昧を誇示しようとする心根が哀れだぞ」
金子市は、相手の背後の、雨に煙った寺院の黒い屋根までも視野にとどめて、無気味な凄い瞳を据えて立っていた。
神道は、傘をぱっと脇へなげすてると、腰を落して身構えた。
「行くぞ!」
全身の筋肉が一点に凝集した。
雨の色よりも薄く刀身が閃(ひらめ)き――つき出された傘がさっと裂かれた。とすでに、一歩退いた金子市の手には、ぴたりと正眼に抜きはなたれていた。
二人あまりの通行人が仰天して、泥道に釘づけになった。
やがて、大江戸は、夜に入った。
わが家への道を辿り乍ら、金子市の脳裡には、首を曲げ、膝を折って、どさっと泥土へ崩れる瞬間の神道の姿が、こびりついてはなれなかった。さしてる傘は神道のものである。
――斬るのではなかった。
斬ってよい愚劣な旗本は山ほどいる。神道のような生一本な武士は数えてもすくないのだ。
己よりたしかに四つ年下であった。
偶然、三年ぶりに自分に出会しただけで、洋々たる将来を一瞬にしてうしなってしまったのだ。いつどこで死んでもいい屑の人間である自分に出会したおかげで……。
金子市は、神仏をあざ嗤いたくなった。
二十日も戻らなかった屋敷へ入ると、雨にうたれた荒れ放題の庭や古ぼけた玄関のたたずまいを、妙になつかしくおぼえたのも常にないことだった。
玄関には鍵がかかっていた。台所へまわると、水口の戸は開いていた、屋内は、暗闇だった。
――彼岸の墓詣りに行ったか。
手さぐりで、奥座敷へ――襖をすっとひいたとたん、金子市は、悸(ぎょ)っと立ち辣んだ。
闇の中からいなずまのように頭へきた戦慄があった。
夢中で灯をさがした。燧石(ひうちいし)を幾度も切り直しつつ、金子市は、はじめて部屋に罩(こ)めた死臭をかいだのである。
女の児は夜具にくるまって寝顔そのままだった。その枕元に、膝をしばって妻は伏していた。
二十日前に、自分が出掛けようとした時、子供が、しきりに頭痛を母親に訴えていたが……それを記憶に甦(よみがえ)らせたのはよほど時刻を経てからだった。この世でたったひとつの希望であった子をうばわれて、母は生きて行く気力をうしなったのだ。長い長いあいだ、黙然とうなだれていた金子市は、やがておもむろに腹をくつろげ、抜きはなった脇差を手ぬぐいで巻いて右手に掴んだ。  

あれから一年半たった今日――。
伝馬町の牢屋敷の、とある古びた座敷に、ただ一人坐って、来るべき時を待っている河内山は、――思えば、あの雲州邸の玄関先での大見得が、おのれの生涯の華であったな。
と、いっそなつかしく思い出す……。
あの日、河内山は白綾の小袖、三十四襞(ひだ)の緋の法衣の金襴の袈裟をかけ、水晶の数珠を爪(つま)ぐりながら、飴色網代(あめいろあじろ)の切棒駕籠におさまり、先供、籠脇の青侍がそれぞれ二人、それに長柄の傘、挟箱(はさみばこ)、草履取、杖持、合羽籠など総勢十三人――いずれもたくみに化けた鶏鳴狗盗(けいめいくとう)をひきつれて、まことしやかに雲州邸へのりこんだのであった。
ふれこみは、「上野一品(ぽん)親王宮の御使い凌雲院(りょううんいん)大僧正」である。
河内山は、松平侯に対面するや、眉毛一本動かさず、いきなりずばりと、「法親王の思召(おぼしめし)なれば、下谷御成道池田屋の娘菊野を、すぐ親許へお帰し下さるよう――」といいはなったのであった。
松平侯は、宗俊の高圧的な気勢に圧されて、思わず、「はっ」と、頭を下げたのであった。
やがて、斎料(とき)五百両をせしめて、しずしずと玄関さきへ出た時、かねて見知りごしの供頭遠藤佐十郎が見つけて、重役の三浦和泉に耳打ちした。
三浦は、前後の思慮なく、「河内山宗俊、待てッ!」とあびせかけた。
――きやがったな。ぐっと丹田に力をこめた河内山は、一度はとぼけてみせ、恍(とぼ)け終(おお)せないと知るや、ぱっと法衣をまくって、どっかと大あぐらをかいた。
「こう――おいらが、御数寄屋坊主の河内山宗俊なら、いってえ、どうしようというんでえ。かねて馴染の池田屋が、娘を手討ちにされるとおろおろしているのを見うけて、黙ってすっこんじゃいられねえ性分から、頭の丸いのを幸いに、東叡山寛永寺の御使い僧に化けて乗り込む肚をきめた時から、生命はすてる覚悟はできているんだ。だが、かりにもあいつが河内山かと人に指さしされるように名を売ったこの悪党が、ただで命をすてるものか。これでも天下の直参だぜ。白洲で申しひらきをたてる時にゃ、松平出雲守の城を抱きこんで心中してやる方寸だぐれえ、おい、てめえたちにゃ見ぬけねえのか。三十俵二人扶持が、二十万石と心中するんだ。こいつをそっくり芝居にくんで、団十郎に演(や)らしてみねえ、中村座の鼠木戸まで客があふれて、やんやの大喝采だろうぜ。……おう、がん首ならべやがって、どいつもこいつも、両国の花火を見るんじゃあるめえし、なにをポカンと口をあけて待っていやがるんだ。百足(むかで)が毘沙門の御使い、鼠が大黒天の御使いになれるくれえなら、坊主の河内山が、寺の御使いになってなんのふしぎはねえ筈だ。それを、四の五のぬかしゃがって、奉行所へつき出そうというなら、それもこっちののぞむところだ、さアつき出してもらおうじゃねえか」と、きりまくった自分の啖呵(たんか)が、今でも、河内山はわが耳に小気味よくひびくのだった。
とどのつまり、凌雲院の大僧正とみとめさせて悠然とひきあげたあの日を絶頂に、河内山の運命も、目に見えて下り坂になったのである。というのも、老中水野越前守が、次第に為政の実権を手中にたぐりこみ、中野碩翁の影がうすくなったからであった。そして――どこから露見したか、突如、捕吏が池田屋を家宅捜索して、例の雛を発見した時、河内山はわが身の悪事がことごとく調査されたのを直感した。
捕えられたのは、それから一月もたっていなかった。
だが今、こうして、断罪を待つ河内山は、微塵の悔もなかった.襖が、しずかにあけられた。菓子器をたずさえて入ってきた同心を見やった河内山は、どこかで見うけた男だが、ときらりと眼を光らせたが、思い出せなかった。それは、浅草の会所で丑松をつかまえた末永三十郎であった。あの時のうらみをはらさんものと、あらゆる苦心をはらって、河内山の悪事の詮議、証拠がためをしてついに、大奥から雛をぬすみ出した件までつきとめたのはこの同心である。
「これは、中野播磨守さまが、内々に貴公におくられた塩瀬の饅頭でござる。召上られるよう――」
これをきくや、河内山は、あやうく、「なにをほざきやがる。うぬは、この河内山の目玉を節穴だと思ってやがるのか、見そこなうねえ」と、どなりかけたが、――待て、と怺(こら)えた。
――知っていて知らぬ顔で食うのが、江戸ッ子の心意気というものじゃねえか。
「有難く頂戴いたしやしょう」
河内山は、にんまり笑って、その毒饅頭へ手をのばしたのであった。  
 
河内山宗俊 2

 

以前、山中貞雄作品のうちで現存するものが、たったの3本しかないことを知り、その極端に少なすぎる状態に驚いた記憶があります。
聞いたところでは、上映が済んだフィルムは、切り刻んで駄菓子の「おまけ」としてばら撒き霧消させたという、まことしやかな話が残っていて、とりわけ時代劇とか喜劇などの分野の映画が見世物的な価値しか認められず、蔑視され卑しめられていたという当時の風潮などを考え合わせると、あるいは本当かなと、その仮説に信憑性が伴い始めて恐ろしくなるくらいです。
文字通り骨の髄までしゃぶりつくされる単なる消耗品として、映画はとことん商売の対象にされ、その結果、数々の名作がシラミつぶしにひとつひとつ完全に息の根をとめられ抹殺されてこの世から跡形もなく消えてしまったという筋書きが、やたら説得力を持ってきます。
もしそれが真実なら「これでは、ちと悲しすぎる」と言いたくなるような、それは、あまりにも残酷すぎる末路ですが、もちろん、そのような仮説など信じたくはないと思いながらも、しかし、この「末路」説、当時、作り手の側にも消耗品としての認識が十分にあったらしいという事情をすり合わせて考えていくと、あながち・・・という感じですね。
あるいはそれが、日本の活動写真の一貫して描き続けてきた被虐的な一面と妙にシンクロしてしまって、僕たちが当然に持っていいはずのこうした暴挙に対する憤りを、それでかなり薄められてしまっているという事実の一面を否定することはできないかもしれません。
それにしても残された作品が3本だけとは、極端に少なすぎると思いませんか。
他の監督のものと比較しても(正確な数を把握しているわけではありませんが)山中貞雄作品に関しては、その喪失に、なにか悪意ある「根こそぎ感」が付きまとって仕方ありません。
可燃性というフィルムの特性を差し引いて考えても、3本だけとはねえ。
全部「おまけ」にしてしまったとは、常識的にも考えにくいです。
戦後、占領軍が日本の民主化を推し進めていく中で忠君愛国・滅私奉公的なチャンバラ映画を全面的に禁止するとともに、かつて作られた優れた作品を没収したということで、その場合、単なる想像ですが、とりわけ大衆に人気があり影響力のあった優れた作品に危機感を感じたGHQが、真っ先に山中貞雄をターゲットにしたのではないか、などと被害妄想的に邪推しています。
GHQがどういう作品を没収して、それらの作品が、その後どのような運命をたどったのか是非知りたいと思います。
いつの日にか、失われたと考えられていた諸作品がごっそりと発見され、その豊饒な山中貞雄の世界をあますところなく堪能出来る日がきっとくるとかたく信じている自分です。
上品なくすぐりと底抜けに明るい「丹下左膳余話・百万両の壷」を見て腹を抱え笑い転げた者にとって、「人情紙風船」は、同じ映像作家のたった1年後の作品とは到底思えないような暗く絶望的な作品でした。
そしてこの「河内山宗俊」は、ちょうど、その中間に位置する作品です。
この作品でも、やはり真っ先に感じるものは、物語を終始支配している何ともいえない暗鬱さでしょう。
ういういしい原節子演じる甘酒屋のお浪の危機を救うために、無為徒食のヒモ生活を送る河内山宗俊(河原崎長十郎)とヤクザの用心棒に成り下がった浪人・金子市之丞(中村翫右衛門)が、顔を見合わせ「なにかに一生懸命になれることがあるというのは、いいことだ」と言葉を交わして、お浪救出に命をかける互いの決意を確かめ合う場面に、この山中貞雄作品のすべての魅力が描き尽くされていると思います。
この男たちが、いままさに闘おうとしている闘いは、大義のためとか功名のためとかいうご大層なもののために命を掛けようとしているわけではありません。
ひとりの甘酒屋の貧しい娘を女衒の手から助け出そうというただそれだけの、自分には何の得にもならない危険な闘いに我が身を晒そうとしているのです。
たとえ飲み屋のヒモでも、または、ケチなヤクザの用心棒でも、いやしくも名を惜しむ誇り高い男にとって、もし、こんな無意味な闘いで命を落とせば、何の利益も伴わないで終る、もちろん犬死です。
こう書いてきて、ふと黒沢明の「七人の侍」が描いたあの百姓たちと共闘した侍たちの戦いや、その決意のありようや高潔さなどを思わず重ねてしまいました。
確か、黒沢明が山中貞雄を畏怖と言ってもいいほど十分に意識していたという記述をどこかで読んだ記憶があります。
しかし、「河内山宗俊」にあって「七人の侍」にないものは何か、と考えれば、それは、既に世間から背を向けてしまっている者たちのなげやりとも見える虚無感ではないでしょうか。
それは「七人の侍」からは決して見つけることのできない種類の屈折した動機です。
これは、あるいは、死んだも同然の絶望的な日常の中で、腐りつくしてしまう前に、ひと花さかせて死んでいこうという者たちの死場所探しの映画かもしれません。
なによりもそれは戦いの場面によく表われていますよね。
「七人の侍」の雄々しく戦う数々の素晴らしい場面を見て、これを侍たちが犬死したと見る観客はひとりとしていないでしょう。
それに引き換え「河内山宗俊」のラストのドブの中で展開される斬り合い(というよりも、小競り合いといったほうが相応しいかもしれません)の寒々しさと、絶望の中で生きること・死ぬことに終始つきまとうなんとも遣り切れない無意味さには、山中貞雄という人が持っていたこの世の楽観的なもの総てに向けられた心からの悪意を感じないではいられません。
「人情紙風船」に登場する海野又十郎が仕官を求めてぎりぎりのところまで卑屈になって自分を追い込んでいくあの執拗な下降衝動を、僕はいまだかつて映像として見たことがありません。 
 
「河内山宗俊」にみる時代劇映画についての考察 3

 

1. 初めに 
昭和11 年(1936 年) に伊丹万作は「赤西蠣太」で一部ではあるが、衣装、出道具、衝立付近での立ち廻りなど、歌舞伎を模した様な表現を映画の表現形式に合わせて演出している。
伊丹は物語の一つの盛り上がりを歌舞伎の背景を利用し、片岡千恵蔵扮する原田甲斐の演技は、歌舞伎調の舞台芝居ではなく映画の芝居であった。つまり、歌舞伎の持つ様式美を映画に置き換えた映画であった。
山中貞雄もまた文芸映画が流行る中、歌舞伎の演目『天衣紛上野初花( くもにまごううえののはつはな) −河内山−』を素材にした映画「河内山宗俊」1 を製作する。「河内山宗俊」2 を扱った映画に関しては昭和9 年(1934 年) に衣笠貞之助が監督した「殴られた河内山」 がある。これは陸直次郎原作「殴られた宗俊」を改題し、衣笠貞之助が脚色3 したトーキー作品で、役名も河内山宗俊、金子市之亟、片岡直次郎など歌舞伎の演目「天衣紛上野初花−河内山−」と主要どころの役が同じである事から、歌舞伎「天衣紛上野初花−河内山−」の登場人物を利用した、陸直次郎のオリジナル小説を基にした文芸映画であった。
「殴られた河内山」が文芸映画に対し、映画「河内山宗俊」は前進座と契約を交わした日活が「前進座のレパートリーの中から、ヒットしそうな作品を選んで」4 山中貞雄に脚色、監督をさせている事から、歌舞伎の演目が直に映画の為に執筆された脚本だと考えられる。
山中貞雄は「河内山宗俊」に決まった時、あまり乗る気ではなく、前進座も消極的であったにもかかわらず、松竹の製作側( 営業部) では、「山中はどうせ、こっちの注文通りにしろといつてする監督ではない。従つて、ひねつた変わつた面白いものが出来る。」5 と山中貞雄の創作物語による作品を求めていたのである。
脚色は三村伸太郎となっているが、三村によれば先に脚本執筆に取り掛かったのは山中で、「河内山宗俊」の撮影が「間近に迫ってから、お前書いてくれと、私にバトンを渡した。それで途中から引き継いで書いた」6 と述べているように、大筋の物語の運びは山中が考えたものである。
山中は歌舞伎の演目通りに物語は進行させず、さらに登場人物の役柄を変え独自の解釈で新たに物語を創作している。しかし、歌舞伎「天衣紛上野初花」の“持ち味”である人情が絡む人道主義的なところとヒロイズムは、歌舞伎の演目そのまま映画に取り入れられている。本稿では歌舞伎の演目「天衣紛上野初花−河内山−」が、映画の表現形式としてどう“演出”されたのか。それを考察する上で、まず製作された時代とその状況を整理していこうと思う。 
2.前進座と舞台、そして時代劇映画 
前進座の中心的メンバーである三代目中村梅之助( 本名=三井金次郎) は大正9 年(1920) に、歌舞伎役者の等級を決める名題資格適任者検定試演を受け、名題7 に昇進後、二代目であった父の中村翫右衛門を襲名し、三代目中村梅之助から三代目中村翫右衛門となった。二代目中村翫右衛門はもともと下町の庶民的な芝居を行う小劇場の座頭で、歌舞伎座で公演するような歌舞伎一門8 ではなかったのだが、明治43 年(1910) に十一歳だった中村梅丸( 三代目中村翫右衛門) と兄を連れて、五代目中村芝翫( のちの五代目中村歌右衛門) の門弟となり中村梅雀から二代目中村翫右衛門を襲名した9。
三代目中村翫右衛門( 以下、中村翫右衛門) は歌舞伎仲間たちと、大正15 年(1926) に歌舞伎勉強会を兼ねたともだち座や、昭和2 年(1927) に松竹舞踏研究会10 などを開設する原動力となり、歌舞伎役者として芸に打ち込んだ。しかし小劇場とは違い、歌舞伎の上下関係や金銭問題、人間関係が仇となり前進座を起ち上げる発端となっていく。
また、中心メンバーである四代目河原崎長十郎( 本名=河原崎虎之助。以下、河原崎長十郎)も、義祖父に九代目市川團十郎、父に八代目河原崎権之助を持ち、初舞台は歌舞伎座であった事もあり、中村翫右衛門より歌舞伎の世界に近く環境は恵まれていた。
昭和3 年(1928) にソビエト連邦対外文化連絡協会の招きを受けた松竹の二代目市川左團次は、わが国初となる歌舞伎の海外公演を行った。この訪ソ公演に中村翫右衛門と河原崎長十郎が加― 102 ― 「河内山宗俊」にみる時代劇映画についての考察(1) ─製作された時代とその状況わった事もあり、二人が交流を深めるきっかけとなった。
中村翫右衛門は昭和4 年(1929) に下級俳優たちを集め、機関紙「劇戦」を発刊するのだが、その内容が元で師匠の歌右衛門とトラブルとなり、一門を破門宣告されてしまう。その後、中村翫右衛門は大衆座を起ち上げ、新興劇団協議会11 に加盟し警視庁から検閲されながらも、左翼的傾向( プロレタリア演劇) の強い芝居を継続した。
また中村翫右衛門は、河原崎長十郎から全日本無産者芸術連盟( ナップ) の村山知義12 を紹介され、イデオロギー的にかなり影響を受けていた。
同時代の映画作品でも傾向映画( 左翼的な傾向のある映画) が数多く制作され、当時は「マルクスを信奉する学生たちが、暮夜ひそかにプロレタリア解放を主張する国際の「無産者新聞」を抱いて、果敢な街頭闘争に走り去る姿が見られるようになった。文学や美術等の芸術分野にも、それは鋭く反映し、実践され、やがて映画作家の心の中にも浸潤した。傾向映画の中で時代劇の中に、階級闘争をテーマとした作品が、逸早く作られたのと同様に、その時代相の中に生まれたのが、あの内田吐夢の「生ける人形」である。」13。
昭和2 年(1927) に「傾向映画の嚆矢とされる伊藤大輔監督の日活太秦作品「下郎」」14 が公開され、その翌年に製作された「浪人街」15 に代表されるような、虚無的な時代劇映画はこの年でピークを迎え、「傾向映画が現れると共に、行き詰っていた映画界はすべてこれに走った。… ( 中略) …単に場面的な殺陣よりも、全体を貫く筋を欲しがる様になった大衆の心の動きが、直ちに影響したのである。」16
「生ける人形」はプロレタリア作家の片岡鉄兵で、左翼劇場で上演され評判となっていたのが、映画の題材に取り上げられ、興行が非常に好成績だった為、各映画会社は挙って傾向映画を積極的に製作していく17。
中村翫右衛門は歌舞伎の封建的な身分制度や子弟制、男衆制などの弊風をやめ、給料や劇団の経理など秘密主義をやめて公開し、劇団員は全員が運営・経営の仕事を分担してお互い助け合い、民主的な劇団を創ろう18 と、昭和6 年(1931 年) に河原崎長十郎、女形の五代目河原崎國太郎( 本名=松山太郎) たちが集まり、総勢三十二人で前進座19 が旗揚げされた。
この年に、わが国でも本格的 なトーキー映画「マダムと女房」( 監督・五所平之助)20 が製作され、各映画会社も挙ってトーキー映画を積極的に製作していった。
前進座はいわゆる新劇21 なのだが、舞台芝居だけではなくラジオドラマにユニット出演し、昭和8 年(1933) にはサイレント映画「段七しぐれ」22 に出演するなど、活動は多岐にわたっていた。
昭和10 年(1935) に日活と4 本の映画出演契約をした前進座は、提携第二作品目で山中貞雄監督の「街の入墨者」23 に出演する。「街の入墨者」は「河内山宗俊」と同様、前進座のレパートリーなのだが、今まで講演した演目の中で、一番人気のあった「街の入墨者」を中村翫右衛門たちが選び、山中が脚本を執筆している。
山中は前進座が浪花座で公演した時、よく観に行っていた事もあり、前進座の俳優や芝居はよく分かっていて、脚本執筆時の役のイメージは掴みやすかったであろう。しかし、舞台慣れた役者であっても、舞台の芝居がそのまま映画に生きることは無かった。提携第一作「清水次郎長」( 昭和10 年公開、監督・池田富保) で中村翫右衛門は、「セリフの技術は舞台とはまるで勝手がちがう。舞台では緩急、強弱をもっと自由につけられるのが、当時の技術では、急に調子を変えるとうまく録音できなかった。下手をすると一本調子になってしまうのを、録音機の性能の範囲でせりふの抑揚を工夫しなければならなかった。」24 と語っている。当時の録音機器の性能もあり、舞台と同じセリフの発声は出来ないという事だが、映画に求められる芝居は、「演技に於いても餘りに誇張された、わざとらしいものは排除されて、自然に近い現実に近いものが求められる。この映画の特徴は、ますます人物の実際に近いものを求める傾向となって現れている。
如何にメーキャップの技術が進歩し、演技が上達しても、キャメラの眼は現実を要求するのである。この特性は音声が加わっても同じである。」25 と述べられているように、確かに舞台の誇張された動作や科白の緩急をつけた舞台的な発声、またバストショットで捉えられた人物や、部屋の中で人物の心境を独白するセリフなどの場合は不向きである。
トーキー映画が製作され始めると、映画俳優たちもトーキーに合わせて科白を言う演技が必要になってくる。しかし科白を話す芝居が慣れないせいか、「映画之友」( 昭11) の誌上で山中貞雄と衣笠貞之助が座談を行った際、衣笠貞之助は「どうも映画の連中はセリフがおそいので、芝居の間が抜けて困る… ( 中略) …映画の人は1 カットづゝテストして撮って行く癖がある。その場で覚えられるとタカをくくってるんでいけけない。ろくに発声法も心得ぬのにと、腹が立つときがある。」26 と映画俳優を扱うのに辛苦している様子がうかがえる。
衣笠貞之助が映画俳優を批判しているのに対し、前進座の芝居を演出した中山は、「エロキューションは確かです。日活の人だと気にせねばならない言葉のナマリもない。… ( 中略)…「入墨者」は皆が早くしゃべるんで豫定より尺数が短くなり、おかげで暗い芝居がダレずに助かりました。… ( 中略) …セリフを完全に覚えて來るんです。… ( 中略) …前進座だと、ここは長ゼリフだから、二ツか三ツにカットを割らなきゃいけないと思っても、ペラペラ一気にシャベッて一ツのカットでできてしまう。」27 と芝居慣れしている前進座を高く評価している。前進座が日活と提携して、映画出演していくうち、前進座一門にも映画と舞台の、芝居の違いが分かってきたのであろう。中村翫右衛門は「街の入墨者」の試写を観た後、「本人の気付いてない長所や持ち味を映画のなかに生かした。」28 と山中貞雄の演出を語っている。
「街の入墨者」のフィルムは現存していないが、「キネマ旬報」のベストテン第2 位になり、「時代劇映画ではトップになった。この成功で“時代劇映画に新風”と前進座映画は一躍して注視の的となった。」 29 前進座の映画出演に関しては、当時流行っていたイデオロギー性と前進座の持つ性格がかみ合ったのだろう。
昭和5 年(1930) に山中貞雄も助監督時代に、東亜キネマの持統院宣伝部にいた“マルクス・ボーイ”30 の米田治からマルクス・エンゲルス論を教えられ、次第に興味を持ち始め、自ら米田のもとに話を聞きに行くまでになったのだが、加藤泰によれば「米田治のマルクス、レーニンにジーッと耳を傾けた山中貞雄のことだから、きっとこの傾向映画にも熱中したろうと思うと、それがどうもそうではないようだから面白いのである。小林多喜二、徳永直なんかも結構読んでいたし、後年、昭和六、七年になってからだが、エイゼンシュテイン、プトドフキンなんかも結構読んでいたのを見て知っているし、それと同じで、多分、傾向映画も全部見たと思うが、熱は上げなかったようである。」 31
山中貞雄にとって“左翼思想”は、イデオロギーを共有するという訳ではなく、当時流行した一つのカテゴリーであり、物語を創作する上で吸収せねばならなかった“お話”なのであろう。 
3. 「天保六花撰」と「天衣紛上野初花−河内山−」、そして映画「河内山宗俊」 
3-1 悪党たちと“悪に強きは善にもと”
二代目松林伯円が、河内山宗俊の実説をもとに講談に仕立てたのが講釈「天保六花撰」である。六花撰とは、講釈に登場する河内山宗俊( 数奇屋坊主)、片岡直次郎( 河内山の子分)、金子市之丞( 剣客)、三千歳( 直次郎が肩入れする女郎)、暗闇の丑松( 博徒)、森田屋清蔵( 商売人だが盗賊) の六人を平安の歌人「六歌仙」になぞられたものであるが、歌舞伎では森田屋清蔵は無く、六花撰の性格から考えると暴君松江出雲守であろう。
しかし、映画「河内山宗俊」では森田屋清蔵は地回りの親分役で登場している。前項で述べたように『「前進座のレパートリーの中から、ヒットしそうな作品を選んで」32 山中貞雄に脚色、監督をさせている事から、歌舞伎の演目が直に映画の脚本へとなり製作された物語だと考えられる。』のならば、森田屋清蔵の登場は偶然の一致なのであろうか。
「天保六花撰」をもとに河竹黙阿弥が劇化したものが、明治7 年10 月東京河原崎座で上演された「雲上野三衣策前( くものうえのさんえのさくまえ)」で、それを市川團十郎、尾上菊五郎、市川左団次の顔合わせに際し改めて脚色しなおしたものが、「天衣紛上野初花−河内山−」33である。初演は明治14 年(1881)3 月、東京新富座で上演され全七幕二十二場34 の大作であった。
物語は金子市之丞が登場する湯島天神境内の奉納試合から始まる。
〈序幕〉(湯島天神境内・長者町上州屋)
堀田原に道場を開いている剣客・金子市之丞は湯島天神境内で奉納試合を行い、下谷山崎町の暗闇の丑松から渡りをつけろと、難癖をつけられ大喧嘩になったが、御数寄屋坊主の河内山宗俊が中に入り双方を調停する。その後、河内山は質屋の上州屋の店先に現れ、たいして値打ちもない桑の木刀を質草に、五十両貸せとゆする。そこへ女主人のおまきが出て、四年前から娘の藤( 浪路) を松江候へ小姓奉公に上げたが、このごろ妾奉公をせよとの命があり、これを断ると無理に一室に押し込め親にも会わせず音信不通になっている。なんとか取り戻す工夫はないかと宗俊に頼む。宗俊は金になることをゆえ引き受け、百両の手付けを受け取る。
〈二幕〉(吉原大口入口・同三千歳部屋・日本堤金杉路)
大口屋抱え三千歳には、片岡直次郎( 直侍) という御家人くずれの情人があり、これに貢いだ百両を貸主の遣手のお熊から厳しく催促され、切羽詰って直次郎に心中を頼む。直次郎はただ金の為なら死ぬ気はないと、丑松から聞いた小石川比企の屋敷での賭場へ稼ぎに行こうと決心する。三千歳は金子市之丞の屋敷へ呼ばれたが、百両の金は実は市之丞から出たもので、今返せなければ身請けすると責められる。そこへ丑松が来合わせ喧嘩になるところを、直次郎が現れ百両を返して三千歳を救う。実はこの金は宗俊が上州屋から受け取った手付金で、浪路取戻しを約束して一時借用したものだった。恨みを持った市之丞は、直次郎を日本堤で待ち伏せしてその駕籠を襲ったが、抜身で垂れを上げてみると中には河内山がいて、ゆうゆうと眠っているのを見て、その度胸に感心する。
〈三幕〉(松江家上屋敷)
河内山は上野のお使い僧北谷道海、直次郎は桜井新之丞にばけて乗り込み、松江候を脅して浪路を取り戻す。その帰途、玄関先で北村大膳に正体を見破られたが、家を思う家老高木小左衛門の計らいで見逃され、河内山は罵って去る。
〈四・五幕〉
浪人寺田幸兵衛が、せがれ新之助の盗みから死を決したのを直次郎に救われる。また幸兵衛の義弟手代半七が比企の屋敷の陰富( 富籤の一種で非合法) で二百両を奪われたことを直次郎が聞き、単身屋敷へ乗込んで奪い返す。
〈六幕〉(入谷村蕎麦屋・大口屋別荘)
比企の屋敷の悪事が露顕し、お尋ね者になった直次郎は高飛びをする途中、ふと立ち寄った蕎麦屋で三千歳がこのあたりの別荘で出養生をしていると聞き、按摩の丈賀に文を持たせてやる。あとから直次郎は忍んで行き、三千歳と尽きない名残を惜しんでいると、市之丞が現れ、直次郎を散々罵ったあげく、三千歳の年季証文を投げ与えて去る。これは市之丞が三千歳を実の妹と知った為の行為だったが、直次郎はこれを知らず、丑松の証人によって立ち向かった捕り手の中を逃亡する。
〈七幕〉(上野屏風坂・池端宗俊妾宅・入谷浄心寺裏・広小路見世開)
宗俊と直次郎はついに捕えられ、三千歳は市之丞の情によってひかれる途中の直次郎に別れを告げる。35
物語のヤマ場である、三幕目「松江家上屋敷」の玄関先で「悪に強きは善にもと…」の出だしから「…馬鹿め」で終わる芝居36 までと、直次郎と三千歳の情愛を描いた六幕目「入谷村蕎麦屋・大口屋別荘」を独立させて「雪暮夜入谷畦道( ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」として上演する時もある。また四・五幕目の直次郎が比企屋敷に乗込んで二百両を奪い返す件は、初演後から上演しておらず全五幕となる。
主な登場人物は河内山宗俊、片岡直次郎、金子市之丞、三千歳、暗闇の丑松、松江出雲守、北村大膳である。映画「河内山宗俊」では片岡直次郎は名前が変わり、甘酒屋で働いているお浪の弟広太郎となっている他は、登場人物たちの役名と役柄はそう変わらない。
映画「河内山宗俊」の物語は、
地回りの親分森田屋清蔵の用心棒金子市之丞が島内の露店から所場代を取り上げているのだが、甘酒屋で働くお浪からは所場代を貰わず帰ろうとしたとき、昔なじみの松江候出雲守家来北村大膳に呼び止められる。金子市之丞は先へ急ごうするのだが、引き留めようとする北村大膳。その隙にお浪の弟広太郎が、甘酒屋に置いてあった北村大膳の大刀から小柄を盗む。河内山宗俊が帰宅すると、家の前で佇んでいるお浪を見つける。何事かと事情を聞くと、広太郎はいつも此処に来てるので、居たら呼んで来て欲しいと言う。河内山はイカサマ将棋屋の暗闇の丑松と勝負して、五十両もの大金が懐に転がり込んだので機嫌が良かった。直ぐに家の中に入り二階に駆け上がる。河内山の家は妾のお静が営む居酒屋で、河内山はお静のヒモであった。居酒屋の二階は非合法の賭場になっていて、広太郎は博打に加わらず煙管を吹かしている。河内山、上がって来て広太郎を探すが、広太郎が「今夜は広公来て居りませんよ」と言う。その事を親切にお浪に伝えると帰って行く。広太郎が降りて来て、河内山が名前を聞くと広太郎は「直次郎と申します」と答える。広太郎と河内山は話す内に徐々に仲良くなり、その晩二人は吉原へ出かけて行く。河内山に酒を呑まされた広太郎は部屋を出て中庭で吐いている時、幼馴染の花魁三千歳に見つかり、少し照れながら懐かしむ広太郎。
金子市之丞は暗闇の丑松から頼まれて、巻上げられた五十両を取り返そうと、甘酒屋で呑んでいる河内山に喧嘩を吹っ掛ける。河内山を斬りかかろうした時、とめに入ったお浪が怪我をしてしまう。驚いた金子市之丞は喧嘩を中断して手当しようと甘酒屋に戻る。金子市之丞のどことなく愛嬌のある雰囲気に、憎めなくなる河内山。それから二人ははしご酒で呑み明かす。その頃、吉原から三千歳を抜け駆けした広太郎、行く当てもなく一晩泊るところを探すが、お静にも断られ、この先を悲観した三千歳は吉原に戻ることは考えず「死のう」と決心する。広太郎、思い留まらせようとするが、三千歳の意思は固く、二人一緒に川の中へ飛び込む。
翌日、お浪の家( 駄菓子屋) に森田屋清蔵が現れ、三百両で身請けした三千歳を広太郎が何処に連れ出した、とお浪に凄む。お浪は知らないと言うが森田屋清蔵は納得せず、三百両返せと言う。しかし、そんな大金はないお浪に身体を身売りして返せと迫る。そして、金子市之丞が森田屋清蔵に言われ三百両を受け取りにお浪の家に行くと、お浪はおらず広太郎がいた。三文五文の甘酒を売っているお浪に三百両なんかあるはずないと不思議に思い、胸倉を掴んで広太郎に事情を聞くと、三千歳の三百両を工面するために稲荷横丁にある女衒に身売りしたと言う。慌てて金子市之丞は稲荷横丁近くに居がある河内山に伝えに行く。それを聞いた河内山は心当たりのある女衒に行き、案の定お浪を救い出す。そして二階で経緯を聞いた後、お浪の心情を察し三百両を工面することを約束する河内山。森田屋清蔵はなかなか帰ってこない金子市之丞にしびれを切らせ、お浪の家に行き、身売りした事を聞かされる。すると逆上した森田屋清蔵は、直接吉原に売れば五百、六百両になると言い出し、女衒からお浪を連れて来いと暗闇の丑松に言う。
丑松が稲荷横丁の女衒健太にお浪の居場所を聞くが、健太がいない隙に何処かに逃げられたと言う。丑松たち手当たり次第捜しに行く。健太は河内山が居る居酒屋に行き、お静にお浪の事を聞くが分からないと言う。お静は最近、河内山が歳若のお浪のことをお気にかけているのが気に入らない。健太に河内山から「絶対二階に誰も上げちゃいけない」と言われていると意味深げに言った後、湯屋の支度をして家を出て行く。健太は“何かあるな”と直感する。二階にはお浪がいる。
その晩、森田屋に忍び込んだ広太郎は清蔵を匕首で刺し殺す。
一方、河内山は松江出雲守上屋敷に出向き、御使僧北谷道海に化け、松江候と対座している。松江候が先代将軍から拝領された小柄を見て、これは偽物だという河内山。この小柄は広太郎が北村大膳から盗んだもので、広太郎は直ぐに質屋に入れ、それを松江上屋敷の御家来が買い落とし、それを北村大膳が買い受けたもので本物なのだが、北村大膳はその経緯を知らない。この小柄を偽物だと言い張る河内山に、隣で聞いていた北村大膳が割って入り、「この小柄は将軍様よりご拝領の小柄に相違ございません」と突っぱねる。しかし、河内山の気を吐く様な迫力に圧倒され、しどろもどろになったのを見て、「白痴者奴( たわけものめ) !!」と一喝する松江候。とうとう観念して平伏する大膳。それを見とどめた河内山はニヤリとして、「此の小柄は上様ご拝領の小柄に相違ござらん」と掌を返したかとみれば、すかさず「山吹色37 のお茶が頂戴したい」と言う。松江候も「有難き思し召し」とお金を用意する。まんまと大金を手に入れた河内山。悠々と屋敷を後にする。しかし、松江上屋敷の御家来により御使僧北谷道海ではないことがばてしまう。
家に帰ってきた河内山と金子市之丞だが、お浪が居ないのに気づき、お静に聞くと、広太郎が連れて行ったと答えるが、本当は健太が森田屋に引き渡していた。そこへ、広太郎がお姉さんを捜しにやって来るが、親分を殺された森田屋一家が広太郎を追って河内山の家を囲む。表戸を壊してなだれ込んでくる森田屋若衆たち。河内山は金子市之丞と広太郎は裏から逃げ出して行く。狭い水路で斬りかかってくる若衆たちを躱しながら、斬り込む金子市。その隙に広太郎を逃がす河内山。数人に斬り込まれ倒れる金子市。水路の出口で門を閉め、広太郎を逃がそうと河内山が盾となり、追ってくる若衆の刃を一身に受ける。ひつように鑓や刀で突かれ、気力を振り絞り水門を押し返す河内山の視線の先には、お浪の元へ一心に走って行く広太郎の後姿があった。
(終)
河内山宗俊がラストで広太郎( 直次郎) を逃がすところは映画も歌舞伎も似通っているが、物語の展開は歌舞伎では河内山宗俊と松江候の件と、直次郎と三千歳の件に分けられ、映画では河内山宗俊と松江候の件と直次郎とお浪の件が重なり合う構成となっている。
歌舞伎ではお尋ね者となった直次郎を捕手たちが召し捕らえようとする場面で、直次郎を追いかけようとする三千歳を河内山宗俊が止める芝居があるが、映画では広太郎( 直次郎) を捕まえようとしていたのは、捕手ではなく森田屋清蔵の手下たちである。山中貞雄は六花撰の一人を松江出雲守から森田屋清蔵に戻したのには意味があるのだろうか。また、甘酒屋で働いているお浪に河内山が命を懸けてまで助けようとする心情も理解できないわけではないが、広太郎より交流の少ないお浪の為に尽くすには、物語の進行を優先したような印象を受ける。講釈「天保六花撰」の主要登場人物は全員が悪党で、とりわけ河内山宗俊がか弱き者を助け、時には権力に立ち向かっていく任侠的な姿が好まれている物語である。歌舞伎「天衣紛上野初花−河内山−」の劇中の権力者は“お上”であり、社会を統制する側である。映画「河内山宗俊」では裏を取り仕切るやくざ者たちが権力者であり、逆らうものは暴力で制圧する。時には死を覚悟せねばならない。山中貞雄が森田屋清蔵を登場させた理由は、河内山と金子市之丞、そして広太郎が裏社会で悪事を行いながらも、人として、人に尽くす事が何であるのかを悟った時、身体を張って守らねばならない時があることを印象付けたかったのだ。つまり歌舞伎の科白で“悪に強きは善にもと”を描くためには裏社会を仕切る森田屋清蔵を登場させねばならなかったのであろう。 
3-2 河内山宗俊の親子愛
映画にしか登場しないお浪の存在は大きく、当時売出し中の新人原節子とは言え、中盤からラストまで物語を引っ張る展開の重要な役割となっている。三村伸太郎がお浪を広太郎の姉にするという発案38 を出したのだが、三千歳の存在感よりも印象深く描かれているのは、歌舞伎とは違った「河内山宗俊」像を出したかったのであろう。しかし、河内山宗俊に妾が居るとはいえ、お浪に対して我が子だと思えるような心情を醸し出している演出は少し過剰ではないかと思える。山中は姉弟に対してここまで父親と思えるような河内山宗俊像を作りたかったのだろうか。
山中の学生時代の友人で宮武宇之助は、山中がまだ映画界に入って間もない頃、「色々話に花が咲いて映画の原作と云う事に及んだ。僕が今、飯塚友一郎氏の歌舞伎概念…だったと思う、或いは歌舞伎細見だったもしれない部厚な黒い表紙で、昔からの歌舞伎劇をずーっと年代的にその作者と短い梗概と役名と評判記めいたものばかりでぎっしりつまった本だった…を読んでいると云うと、山中がそれを呉れと云う。僕は一寸惜しい気もしたが結局快諾して二三日後「中に映画にしたらいいのがあるぜ」等と云いながら彼に手渡したのだった。
後年僕等の歌舞伎熱が飽和状態になってしまって、山中に会った時等も、「おい、誰か一人秘書でも雇って、外国の面白そうな本を読まして、その内でこれは映画向きだと君が思ったものをピックアップさしたらどうだ」
なんて話をしだした頃になって、あんな河内山が、あんな金子市が、あんな直侍が、あんな髪結新三が、山中の息吹のもとに新しい粧いをして生まれ出ようとは誰が想像した事だったろうか。」 39
山中は歌舞伎に対する知識はあったであろうと推測できる。講釈「天保六花撰」と歌舞伎「天衣紛上野初花−河内山−」には、お浪らしき人物は登場していない。では物語のもとになった実説を見ていこう。
「十一代将軍徳川家斉の治世の頃、「宗俊40 は御本丸の奥坊主河内山宗築の子で、幼少から才智胆力人にすぐれ、やがて遊侠に身を投じた。そして御家人くずれの片岡直次郎と義兄弟の仲となった。御使僧に化けて松江候をゆすったのは、事実だといわれている。悪事を重ねたすえ、水戸の邸内の陰富41 をたねにゆすりに行き、その罪で文政六年( 一八二三)五月十三日新吉原の遊女屋で捕らえられ、七月二十三日に牢死した。松江や水戸の不祥事が表沙汰になるのを恐れた役人が、毒を盛ったのだとも伝えられる。
直次郎も一緒に入牢したが、模範囚としていったんは赦免された。が、ついに悪癖はなおらず再三召し捕られ、天保三年( 一八三二) 十一月二十三日、三十八歳で刑死している。千住小塚原の回向院の碑には、「吉原江戸町二丁目大口屋三千歳事なほ」の寄進と刻まれている。直侍と三千歳の情話にも、根拠はあったのだ。
そこで、伯円がこれを講釈に使用した動機は、天保弘化のころ両国の並び茶屋で名の高かったおとくという美女だという。したたかもので通った女だが、これが牢死した河内山の娘―と通客から聞き込んだ伯円は、娘より河内山の方に興味をそそられ、あれこれつづりあわせて講談に仕立てた。それが「天保六花撰」である。」 42
講釈「天保六花撰」が生まれた背景は、並び茶屋で働く河内山の娘おとくがきっかけであった。映画でお浪が働いているところは甘酒屋が印象強いが、脚本には、少し離れて小さい茶店の甘酒屋がある。お浪さん淋しく居る。金子市来る。43お浪が働いている所は茶店で、河内山の娘おとくが働いていた所も茶屋である。物語の構成から考えても茶店でなくてもいいはずである。お浪は実説の河内山の娘おとくをモデルにしているのであろう。
つまり、親のいない姉弟二人きりで貧乏ながらも生きているお浪と広太郎に、親身になって尽くすと言う、“親子の愛情”を描きたかったからではないだろうか。 
4.終りに 
本稿で時代の背後に覆いかぶさっていた状況から、作品分析を目指したのだが、あまりなされておらず少し不完全である。しかし前進座や山中貞雄の資料を集めている段階で、まだ未研究の箇所はあると再確認できたのが、せめてもの救いである。次の論考で役立てていきたいと思う。例えば、「後景と前景とを使った“縦の構図”。小道具による情景描写を心理描写として見せる方法があざやかに掬いだされている。」44 と千葉伸夫が指摘しているように、T 字セットを使用した山中貞雄の映像演出を今後さらに分析したいと思う。
また映画「河内山宗俊」では脚本には描かれていない、心理描写と思われるカットがあり、これに関しても考察を深めたい。  

 1 『河内山宗俊』 出演・河原崎長十郎、中村翫右衛門、原節子 日活京都( 太秦発声映画) 作品 昭和11 年4 月30 日公開
 2 『殴られた河内山』主演・市川右太衛門 松竹京都作品 昭和9 年12 月1 日公開
 3 『映画評論』に脚本が掲載 映画評論社 昭和9 年11 月号 pp.87-13
 4 『評伝山中貞雄』千葉伸夫著 平凡社刊 1999 年10 月15 日発行 p.268
 5 『評伝山中貞雄』千葉伸夫著 平凡社刊 1999 年10 月15 日発行 p.268
 6 『山中貞雄作品集』別巻 実業之日本社刊 1986 年11 月28 日発行 p.146
 7 順に名題、名題下、上分、相中、新相中、子役と伝統的な歌舞伎の身分制度。
 8 当時は大劇場でする大歌舞伎の他に、小芝居、緞帳芝居、二銭芝居などが蔑称で呼ばれていた。二代目中村翫右衛門は後者に属する。
 9 しかし、事情により父と兄とともに歌舞伎を辞するが、松竹の大谷竹次郎社長の計らいで三代目中村翫右衛門だけ復帰する。
10 顧問は大谷竹次郎社長( 松竹)、会長は二代目市川猿之助が務める。
11 左翼劇場、劇団築地小劇場、新築地劇団、心座などでつくっていた協会。
12 劇作家、演出家、マルクス主義者、日本共産党員。1901―1977
13 『日本映画発達史U』 田中純一郎著 中央公論社刊 昭和51 年1 月10 日発行 p.151
14 『映画監督 山中貞雄』 加藤泰著 キネマ旬報社刊 昭和60 年9 月30 日発行 p.92
15 『浪人街』 監督マキノ正博 脚本山上伊太郎 キネマ旬報ベスト一位 昭和3 年10 月13 日公開
16 『映画評論』 「日本映画藝術史」 映画評論社刊 昭和6 年9 月号 p.80
17 『日本映画発達史U』 田中純一郎著 中央公論社刊 昭和51 年1 月10 日発行 p.151
18 『劇団五十年 わたしの前進座史』 中村翫右衛門著 未来社刊 1980 年10 月30 日発行 p.98
19 「前進するんだから前進座でどうだろう」と村山和義が名付ける。
20 日本初のトーキー映画は昭和4 年(1929 年) 公開の「大尉の娘」( 監督・落合浪雄) であるが、これはレコードを使用するミナ・トーキー方式で、完全な同時再生ではなかった。
21 左翼的傾向( プロレタリア演劇) の強い舞台劇を主に上演。
22 出演・河原崎長十郎、中村翫右衛門 監督・小石栄一 脚本・稲垣浩 昭和8 年11 月23 日公開
23 『街の入墨者』 原作・長谷川伸 監督、脚色・山中貞雄
24 『劇団五十年 わたしの前進座史』 中村翫右衛門著 未来社刊 1980 年10 月30 日発行 p.162
25 『映画評論』 映画評論社 「映画俳優と性格」 昭和9 月21 日発行 p.60
26 『山中貞雄作品集』別巻 実業之日本社刊 1986 年11 月28 日発行 p.135
27   同  上    p.135
28 『劇団五十年 わたしの前進座史』 中村翫右衛門著 未来社刊 1980 年10 月30 日発行 pp.146-165
29   同  上    p.165
30 “マルクス・ボーイ”とは当時マルクス論を唱える若人の事。揶揄。
31 『映画監督 山中貞雄』 加藤泰著 キネマ旬報社刊 昭和60 年9 月30 日発行 p.93
  
『君主論』

 

1532年に刊行されたニッコロ・マキャヴェッリによる、イタリア語で書かれた政治学の著作である。歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量(徳、ヴィルトゥ)が必要かなどを論じている。その政治思想から現実主義の古典として位置づけられる。
マキャヴェッリがフィレンツェ共和国で失脚し、隠遁生活中の1513年 - 1514年に完成したと考えられており、1516年にウルビーノ公ロレンツォへの献上文を付してヴェットリ( Francesco Vettori )に託された。写本で読まれ、マキャヴェッリの死後、1532年に刊行された。著作には表題はついておらず、友人ヴェットリへの手紙の中で「君主体制」に関する本を書いたと述べているため、『君主論』(Il Principe)と呼ばれるようになった。
『君主論』は全体で26章から成る著作である。第1章において「君主政体にどのような種類があるか」と挙げ、その一つ一つについてを続く第2章から第11章までで解説する。第12章から第14章まではいかなる君主政体においても必要となる軍備について述べる。第15章から「臣民や味方に対する君主の態度と政策がどのようにあるべきか」と本来の意味での君主論に移る。マキャヴェッリはチェーザレ・ボルジアに理想的な君主の能力を見ている。第24章からは現実のイタリアに目を向ける。当時、イタリアは多くの小国に分裂し、外国の圧迫を受けて混乱の最中にあったが、イタリア統一への願いから「統一を実現し得るのはいかなる君主か」を論じ、メディチ家への期待を述べて論を終える。
君主の統治
マキャヴェッリはまず国家の政治体制から共和国と君主国に大別した上で、君主国に議論を限定することから始める。そもそも君主国の統治を行う場合により容易なのは世襲の君主国である。なぜなら世襲の君主ならば既に定められた政策を維持して不測の事態に対処するだけで統治は事足りるからである。この場合には君主は平均的な能力さえ持てば国民にも好感を持たれ、たとえ侵略にあったとしても奪還が可能である。
しかしながら、全く新しい君主国を建設する場合にはさまざまな問題に直面することになる。なぜならば君主は国家を建設または獲得する上で不可避的に国民に何らかの被害を与え、そのことによって反乱が発生するからである。征服によって領有した地域の住民の言語や風習、制度などが征服者のそれらと異なる場合、統治にはさらに深刻な困難が生まれると分析する。このような国民との対立を解決する施策としては、征服した地域における旧君主の血統の根絶、支配地域の法体系や税制の維持、征服者が本拠地をその地域に移すことや、移民を兼ねた部隊の派遣を政策として提示している。
このような君主国における民衆の心理の分析を踏まえてその対処については、「覚えておきたいのは、民衆と言うものは、頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである」という見解を示している。つまり領民を被治者としてだけでなく、有害な敵にもなりうる潜在的な存在として君主は認識することをマキャヴェッリは強調している。
君主の征服
征服を実施する場合には君主には多くの配慮が求められる。マキャヴェッリは征服地域に近接する諸外国に注意する必要について述べており、例えばある地域においてある弱小国を征服した場合にその周辺の弱小国もまた征服者に対して進んで服従を申し出ると考えられる。同地域に影響力を持つ大国がいるならば、征服によって得られた諸勢力と連合してその国を滅ぼすことでようやく完全に支配を確立することが可能となる。
このような征服の諸問題を克服した事例としてマキャヴェッリは古代マケドニア王のアレクサンドロスが東方遠征で得られた広範な領土を維持し続けたことを成功例として挙げている。この事業の成功については君主国の様式で説明されている。君主国には、君主が大きな権限を以って行政を担う大臣を任命し、集権的に統治する様式と、元々その地域で支持を得ている諸侯にある程度の自律性を認めて、君主が分権的に統治する様式の二つがある。前者の様式の国家を征服者が統治することは容易であるが、後者の場合では各地でさまざまな勢力が存在するために困難であると考えられる。したがってマキャヴェッリはアレクサンドロスの征服はペルシア帝国が集権的な君主国であったために安定的な統治が成功したと考察する。
征服においてはそれまで自由市民によって統治されてきた都市や国家を征服することもある。このような民衆を統治するためにはマキャヴェッリによれば一般に三つのやり方が考えられる。第一にそのような都市を滅亡させること、第二に君主がその地域へ移住すること、第三にある程度の自治を認めて君主に従順な寡頭政権を成立させること、この三つである。基本的に自由市民はかつての独立を回復しようと試みる傾向があるために、その地域の市民を統治政策の中で活用することが適当である。
君主の力量
新設された君主国の行政は征服者である君主の力量によって左右されるとマキャヴェッリは論じる。国家を樹立する途上での問題とは導入しようとする新たな社会秩序によってもたらされており、言い換えれば旧秩序の中で権益を持つ人々すべてと敵対することにある。このような問題を研究するためには、君主の力量に着目する必要がある。力量が不足していればその統治は失敗し、民衆を説得し続けることがむずかしくなるのである。
他人の武力や運によって新たな君主国を得たとしても、そのような成果は君主の指導力が不足しているために常に不安定にならざるを得ない。もしも運によって政権を得たとしてもその力量が不足していれば国の基盤を構築することはできない。具体的には、敵の排除、味方の確保、武力や謀略による勝利、民衆からの畏怖と敬愛、兵士からの畏怖と敬愛、政敵の抹殺、旧制度の改革、厳格かつ寛大な振る舞い、忠実でない軍の再編、諸侯たちと親交を保ちつつ便益をもたらすようにするか、攻撃の際には慎重であること、これら全てが君主国において不可欠な力量である。
非道な手段によって政権を得た君主は、力量があるとはいえない。なぜならばこのような手段によって獲得した権力には栄光がないためである。ある国を奪取する場合には征服者は残虐行為を一度で終結させ、その後に民心を獲得しなければならない。断続的な残虐行為は民衆の信頼を失わせてしまうからである。逆に恩恵は小出しにして継続的に実施することで民衆の支持を得ることができる。
君主の軍備
君主国の特質、征服、統治についての諸政策について述べた上で、軍事についてマキャヴェッリは述べている。君主にとって軍備と法律は不可欠なものであり、良い武力の下で初めて良い法がありうる。この思想は「すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである」との言葉で要約されている。そもそも軍隊は自国軍、傭兵軍、外国軍、混成軍のいずれかである。この中で傭兵軍や外国軍は無統制で不忠実であるために無用であるばかりでなく危険であると史実を引用して断定している。
傭兵軍の部隊長が、有能であれば君主はその傭兵からの圧力に晒され、無能であれば君主は戦争そのものに敗れてしまう。また外国軍についても同様に危険であり、援助や防衛のために派遣された外国軍は、援軍として勇猛であるがゆえに戦争が終結しても駐留し続け、事実上占領してしまう危険性がある。したがって君主は自国民から編制された自国軍に統治の基盤を求め、戦争においては他人の武力に頼らないことの重要性をマキャヴェッリは結論している。自国の武力がなければあらゆる君主国は破滅の危険があるだけでなく、自力で事態が動かせないために周囲の情勢に左右されるだけになってしまう。
さらにマキャヴェッリは軍事を統治者の本来的な任務に位置づけており、軍備を君主の力量を強化するものとしている。例えば武力あるものが無力な者に服従することや、無力な者が武力ある従者に包囲されて安心することはありえないことからも分かる。軍事に無能な君主は部下の兵士たちから尊敬されず、また君主は部下を掌握することができない。したがって君主は軍備には常に注意しなければならない。
軍事訓練には実践的な方法と精神的な方法がある。実践的な方法は、兵士を組織化し、基本教練を行わせるだけでなく、狩猟によって部隊を現地で鍛え上げなければならない。また、地形についての理解を深める必要がある。自国の国情について知らない君主は指揮官としての適性を欠落しており、このような知識がなければ宿営地を予定し、部隊を行軍させ、戦闘陣を展開することは不可能である。また精神的な方法では君主は歴史を学ぶことが必要である。作戦における指揮や戦術を研究して逆境における準備を思考の上でも進めなければならない。
君主の気質
マキャヴェッリは理想国家における倫理的な生活態度にこだわり、現実政治の実態を見落とすことは破滅をもたらすことを強く批判しており、万事にわたって善行を行いたがることの不利益を指摘する。君主は自身を守るために善行ではない態度をもとる必要がある。あらゆる君主はその気質が評価されるが、一人の君主があらゆる道徳的な評判を勝ち得ることは原理的に不可能であり、自分の国家が略奪されるような重大な悪評のみを退けることになる。しかしながら自国の存続のために悪評が立つならばそのことにこだわらなくてもよい。なぜならば、全般的に考察すると、美徳であっても破滅に通じることがあり、逆に悪徳であっても安全と繁栄がもたらされることが、しばしばあるからである。
このような気質の中で気前が良いこととけちに思われることについて考察する。一般的に気前の良さを発揮することは害悪である。一部の人々のために大きな出費がかさむ事で重税を課さざるを得なくなり、その他の大勢の領民に憎まれるだけでなく、そのような出費を止めようとすると逆にけちだという悪評が立つことになる。それよりも多くの人々の財産を取り上げないことが重要である。つまりけちという評判について君主は全く問題視すべきではなく、支配者にとって許容されるべき悪徳の一つである。
また君主の気質として残酷さと憐れみ深さについて考慮すると、憐れみ深い評判が好ましいことは自明である。しかしマキャヴェッリは注意を促しており、君主は臣民に忠誠を守らせるためには残酷であると評価されることを気にしてはならないと論じている。憐れみ深い政策によって結果的に無政府状態を許す君主よりも、残酷な手段によってでも安定的な統治を成功させることが重視されるべきである。原則的には君主は信じすぎず、疑いすぎず、均衡した思慮と人間性を以って統治を行わなければならない。しかし愛される君主と恐れられる君主を比較するならば、「愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である」と考えられる。なぜなら人間は利己的で偽善的なものであり、従順であっても利益がなくなれば反逆する。一方で君主を恐れている人々はそのようなことはない。
さらに君主にとって信義も間違いなく重大であるが、実際には信義を意に介せず、謀略によって大事業をなしとげた君主が信義ある君主よりも優勢である場合が見受けられる。戦いは法によるものと武力によるものがあるが、これら謀略と武力を君主は使い分けなければならない。もしも信義を守ることで損害が出るならば、信義は一切守る必要はない。重要なことは立派な気質を君主が備えている事実ではなく、立派な気質を備えているという評価をもたせることである。
評価
メディチ家に取り入り、職を得ようとして書かれたとも言われる。このため、抽象的に君主はどう在るべきかを説かず、ギリシア・ローマ時代からの歴史上の実例を数多く挙げながら、その成功・失敗理由を述べ、具体的な提言をするという、いわば実用書として作成された。『君主論』は共和制を論じた『リウィウス論』(『ローマ史論』岩波文庫)と対になるものである。本来マキャヴェッリは共和主義者であったが、イタリア戦争前の混乱した現実に直面し、チェーザレのような強力な君主によるイタリア統一が肝要と考えた。『君主論』では政治を宗教や道徳から分離して政治力学を分析している。一方、一般的にはマキャヴェッリの思想は冷酷・非道な政治を肯定するものと考えられ、マキャヴェリズムという言葉を生み出した。
○マキャヴェッリはメディチ家に献上するつもりだったが直接の反応はなかった。ただし、のちに教皇クレメンス7世となるジュリオ・デ・メディチ枢機卿から『フィレンツェ史』執筆の依頼を受けている。
○カトリック教会の対抗改革の一環で禁書目録が作られた際、『君主論』も加えられ、焼き捨てられた(1559年頃)
○フランスのジャンティエは、『反マキャヴェッリ論』(1576年)で裏切りを好む悪徳の作者、といった具合にマキャヴェッリを非難する。
○サン・バルテルミの虐殺の首謀者と目されたメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスは『君主論』を読んでいた可能性もある(『君主論』は、彼女の父ウルビーノ公ロレンツォに献じられていた。)
○プロイセン王フリードリヒ2世が、ヴォルテールがマキャヴェッリを偉人の一人に数えていることについてに反論しマキャヴェッリとその著作『君主論』に対する反論として『マキャヴェリ駁論』、あるいは『反マキャヴェリ論』を書き上げた(啓蒙主義的な書)。
○18世紀になると、『君主論』が再評価されることになる。最初に『君主論』を再評価したのはルソーである。『社会契約論』のなかで「国王たちは人民が力弱く貧困に苦しみ自分たちに反抗できないことを望んでいる。マキャヴェッリは王公に教えをたれるとみせかけて人民に偉大な教訓を与えた。君主論は共和主義者の教科書」と讃えた。モンテスキューやヘーゲルも『君主論』を支持し、見方が変えられることとなった。
○長い間、マキャヴェッリは道義や倫理を無視した冷酷な権力論を説いたと考えられてきたが、客観的・近代的な政治学の始祖と考えられるようになった。
○イタリアを代表するジャーナリストで歴史研究家のインドロ・モンタネッリは、著書『ルネサンスの歴史』において、『君主論』が世界中の為政者に最も影響を与えた政治思想書であることを認めつつも、マキャヴェッリ自身は政治家・軍人として失敗だらけで何一つ実績を残せなかったことを挙げ、「挫折した理想主義者の偽悪と自己韜晦を文中から読みとれないようではダメだ」と述べている。 
マキャヴェリ『君主論』を解読する
マキャヴェリ(1469年〜1527年)は、中世イタリア、フィレンツェ共和国の政治思想家・外交官だ。マキャヴェリはプラトンやアリストテレスのような古代ギリシャの哲学者と異なり、政治活動に直接携わっていた(主に政治コンサルタントとして)。そのせいか、マキャヴェリの議論にはかなり細かいテーマが出てくる。城塞は不要だとか、軍の指揮官はひとりであるべきだとか、原理論というよりはむしろ実践的なアドバイスを目にすることが少なくない。実践的な活動を通じて養われたマキャヴェリの政治思想のポイントをひとことで言い表せば、現実主義(リアリズム)だ。リアリズムという言葉には何か冷酷な響きがある。しかしマキャヴェリは、政治で理想を追い求めるべきではない、と言うわけではない。なぜなら政治の独自の運動性を見て取ることが「よい政治」にとって役立つはずだという信念が彼の議論を支えているからだ。本書『君主論』は、こうした信念のもと、当時の政争に巻き込まれて失脚し、隠遁生活を送っていた中で書き上げられた著作だ。マキャヴェリの死後、1532年に出版された。
君主は「力量」によって「運命」をつかめ
『君主論』はその名の通り、国家君主について論じた著作だ。フィレンツェ共和国を統治するメディチ家のために、国家を統治するための原理・方法を示している。
マキャヴェリは次のように言う。
(解読) 世襲君主制の場合は、国家を維持するのは難しくない。先代の君主たちの統治のやり方を見習い、それに従えば十分だからだ。しかし新たに生まれた君主国家の場合はそうは行かない。新しい君主は従うべき慣例自体をもたないからだ。新しい君主が国家を上手く統治するためには、何よりも君主自身の「力量」(ヴィルトゥ)が重要だ。しかし君主は「運命」(フォルトゥナ)もまた備えているはずなので、それによって統治は多少簡単になるはずだ。
(引用) まったく新しい君主国においては、国を維持するむずかしさは、征服した新君主の力量いかんにかかっている。ところで、一私人が君主になったばあいは、当然力量あるいは運を伴なうと予想されるので、二つの性質のどちらかが彼の多くの困難をある程度まで緩和することと思う。
(解読) 自分の信条に固執することなく、柔軟に“運命”をたぐりよせ、“力量”によってそれを味方につけよ。そうすれば国家の統治はうまくゆくだろう。
(引用) 人が自己流のやり方に固執すれば、運と人の行き方とが合致するばあいにおいては成功するものの、不一致のばあいにおいては、不幸な結末をみるのである。私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである。
シンプルだが、これがマキャヴェリの基本線だ。
国家の土台=よい武力・よい法律
また、マキャヴェリは続けて以下のように論じる。
(解読) 国家の土台は徳にはない。そうではなく、よい武力とよい法律にあるのだ。
(引用) 君主にとってよい土台をすえることがいかにたいせつであるかは、すでに述べたとおりである。でなければ、必然的に、われわれは破滅の道をたどる。ところで、昔からの君主国も複合国も、また新しい君主国も、すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである。
「よい武力」と言われてもピンと来ないかもしれないが、ここでは自国軍のことを指している。当時の戦争では、お金を出して雇われた傭兵が主役だった。フィレンツェの富裕層は、市民を戦争に参加させることで、彼らが自分たちの権利を主張し始めるのを恐れていた(古代ギリシアで重装歩兵が活躍するにつれて、政治権力が貴族から市民へと移っていったように、戦争への参加は政治への参加と密接に関係している)。一方、市民は市民で度重なる戦争に疲弊し始めていた。富裕層が政治権力を握るようになると、国内の反乱を防ぐためにも、傭兵が必要とされるようになった。13世紀中頃の話だ。しかし傭兵は、ありていに言えば、給料目当てに群がってくる暴力集団なので、練度も統率度も低かった。総コストの観点からすれば、傭兵軍は決して安くはなかった。ミラノ公国のような周辺国が次第に常備軍的な傭兵軍へと移行しつつあるなか、フィレンツェは軍の隊長さえも傭兵に頼る始末だったらしい。
マキャヴェリは『政略論』(ディスコルシ)で、軍隊には3つの種類があると主張している。第1にローマ帝国の軍隊、第2にガリア地方の軍隊、そして第3にイタリア各国の軍隊だ。マキャヴェリは、ローマ帝国の軍隊は勇敢で軍規が厳正であり、ガリア軍は蛮勇だったが軍規が乱れていたと一定の評価を与えている。しかしその一方で、イタリア各国の軍隊は勇敢さもなければ軍規も与えられていない全くの役立たずだ、と痛烈にこきおろしている。
(引用) 軍隊のうちで第三の部類に属するものは、本来から戦意もなければ、軍規も与えられていない軍隊をさす。現代のイタリア各国の軍隊がこれにあてはまる。彼らこそ、戦いにはなんの役にもたたない烏合の衆である。だから、なにか思いがけない出来事のために逃げだしてしまうような敵とぶつかることでもないかぎり、絶対に勝利を得ることのできない軍隊なのである。
強国となるためには、正規軍を国家の土台としなければならない。君主は傭兵軍や外国の援軍に頼るのではなく、自前で軍を用意しなければならない。そうマキャヴェリは考えたのだ。
(引用) 経験のうえからいえるのは、自立している君主や軍備のある共和国はきわめて栄えてきたのに対して、傭兵軍は損害のほかなにももたらさなかったということである。私はこう結論する。自分の武力をそなえていなければ、いかなる君主国といえども安泰ではないと。
必要であれば、悪徳も行使せよ
続けて、マキャヴェリは次のように主張する。
(解読) 君主の理想像を現実世界のうちに無造作に持ち込むような君主は破滅せざるをえない。自分の身を守るためであれば、また、自国の存亡がかかっているのであれば、悪徳であっても行えるのでなければならない。
(引用) 自分の身を保持しようとする君主は、よくない人間となりうることを習う必要があり、またこの態度を、時に応じて行使したり、行使しなかったりする必要がある。一つの悪徳を行使しなくては、自国の存亡にかかわるという容易ならぬばあいには、汚名などかまわずに受けるがよい。
マキャヴェリは、君主は悪徳者でなければならないと言っているのではなく、状況に合わせて柔軟に態度を変更する能力を身につけなければならない、みずからの理想のために国全体を危機に陥れてはならない、と言っている。ともすれば自分の理想に固執してしまう国王にとって、マキャヴェリの主張は強烈に聞こえたはずだ。
中央集権化によって国家を治める
各人が互いの権利を侵害することなく共生できるための第一の条件は、基本的な秩序を確立することにある。そのために最もシンプルかつ実効的なのは、中央集権化によって、暴力契機を縮減させることだ。法律によって武力を統治者のコントロールのもとに置くことが、その方法の内実をなしている。これはきわめて抑圧的で反民主主義的に見えるかもしれない。しかしマキャヴェリにとっては、個々人の自由は国家の独立あってこそだという直観があった。君主が悪徳さえも犯さなければならない根本の理由はここにある。
マキャヴェリは別の著書『政略論』で次のように主張している。
(引用) ひたすらに祖国の存否を賭して事を決するばあい、それが正当であろうと、道にはずれていようと、思いやりにあふれていようと、冷酷無残であろうと、また称讃に値しようと、破廉恥なことであろうと、いっさいそんなことを考慮にいれる必要はない。そんなことよりも、あらゆる思惑を捨てさって、祖国の運命を救い、その自由を維持しうる手だてを徹底して追求しなければならない。
他国の隷属下に置かれれば、国民の自由などという話ではなくなってしまう。優先すべきは祖国の独立である。ローマがあれほどの勢力を誇ることができたのは、他国に従属せず、自由な共和政体を維持することが出来たからだ。フィレンツェも偉大な国家になるため、ローマの先例にならうべきだ。そうマキャヴェリは考えた。そのための方法としてマキャヴェリは武力による中央集権化というプランを提示したのだ。 
君主論 「正しい目標を掲げて人を動かす」
 リーダーが身につけるべき「生き残るための条件」とは?
一国の外交を取り仕切る立場からすべてを失う
祖国を愛する偉才が、一国の外交官として、才能を存分に働かせていた日々から、突然すべてを奪われ、小さな山荘に閉じこもる生活を強いられたら……。
約500年前、諸国に派遣され、抜群の頭脳で祖国フィレンツェを戦火から守り続けた人物がいました。彼の名は、ニコロ・マキアヴェリ。『君主論』の著者です。
フィレンツェ共和国で内政・軍事を扱う第二書記局の長となったマキアヴェリは、小国である祖国の外交官として活躍します。しかし1512年、ドイツやスペインの連合軍により共和制は崩壊。彼は職を失い、街から追放されてしまいます。
外交の最前線から離れた彼が、経験と構想のすべてをまとめたのが『君主論』です。『君主論』は、権力の舞台に返り咲く武器にもなるとマキアヴェリは期待していました。そのため、当時フィレンツェで権力の座にいたメディチ家に向けた体裁をとっています。
『君主論』は欧州から世界に広がり、現代でも研究の対象となっています。「自らの集大成」はマキアヴェリの名を不滅のものにしたのです。
小さな国家は、リーダーに統率力がなければ生き残れない
目的のために手段を選ばないという意味で「マキアヴェリズム」という言葉が現代でも使われるほど、この人物の思想と『君主論』は広く浸透しています。その特徴は、ひとことで言えば「美化を排除した現実認識」にあります。
「人が現実に生きているのと、人間いかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。だから、人間いかに生きるべきかを見て、現に人が生きている現実の姿を見逃す人間は、自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである」
「加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の恨みを買わずにすむ。これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない」(共に池田廉訳『新訳 君主論』より)
なんとも辛辣な言葉ですが、現実社会の一面の真実を暴いているようでもあります。マキアヴェリと『君主論』の論旨は、人も組織も、国家さえもタテマエでは動かない、ということです。理想論や単なる人情論ではなく、現実の中で役立つ指導力を発揮しなければ、厳しい世界でリーダーはとても自分の立場と組織を守れないのです。
正しい目標を掲げ「あなたの地位も安泰ではない!」と告げよ
ビジネスで『君主論』を使う場合、典型的なケースは次のようなものです。
・ 組織と人を動かし成長させる「正義」を掲げ、指導力の基礎とする
・ いままで地位が安泰だと思いのんびりと過ごした人たちに「あなたの地位も安泰ではない!」と告げて発奮させる
京セラの名誉会長で、日本航空(JAL)を再生させたことでも有名な稲盛和夫氏は、会社の理念を「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類の進歩発展に貢献する」と決めたあと、はじめて社員を叱ることが可能になったと著書『こうして会社を強くする』で述べています。
それまで社員が働くこと自体が正義だったのですが、理念を決めたあとは、理念に一致しない働き方に対して、「怠けていると厳しく叱る」ことができたのです。
衣料品のユニクロ(ファーストリテイリング)を世界企業に育てた柳井正氏も、非常に厳しい経営方針、人材へ高い期待をかけることで有名ですが、その正義は「グローバルで戦える企業となる」ことです。この目標に沿った働き方であるか否かで、ユニクロ内では従業員への対応をより厳格にし、高い基準を社員に課しています。
「君主は自ら仕掛けよ」とはマキアヴェリの言葉ですが、現代ビジネスでも、非情であっても正しい目標を掲げなければ、人と組織は動かせないことが多いのです。何もしないリーダーに統率力はありません。正しい目標を掲げることは、時に厳しさと映りますが、組織に指針を与え、目標へ動かすため必要なことなのです。
目標がなければ必ずぬるま湯が生まれます。古株の社員さえも「安泰ではない」と焦る新たな目標を掲げるなら、怠惰を許さず全力疾走させることができるのです。これを非情、冷たさと考えるのは、『君主論』が説く現実がわかっていない証拠です。愚かなリーダーが、優しさや甘さで国家や会社を潰したとき、そこにいる人はすべて殺されるか、路頭に迷うことになるのですから。
リーダーが身につけるべき「生き残るための条件」
冷酷な統治術や、人心掌握術ばかりが有名な『君主論』ですが、全体を俯瞰すると、リーダーが学び、行動に活かすべき要素をバランスよく論じていることがわかります。ここでは本書なりに『君主論』の7つの要素をまとめてみます。
(1)「君主は歴史上のリーダーの成功と失敗から学べ」
多くの場合、君主が直面する選択は、すでに「過去のリーダーが答えを出した成功事例と失敗事例」があるのだから、重要な参考にすべきである。
(2)「状況こそが、常に最善手を決める」
用意周到な二人の人物がいても、一人が成功しもう一人が失敗するように、成功と失敗は「時代や状況と合致しているか否か」で決まる。栄枯盛衰も同じで、忍耐強い君主も時代が合えば繁栄するが、状況が変化すれば衰える。これは君主が生き方を変えないためで、即応できる賢明な人間は稀である。
(3)「人を従わせるリーダーは、恨みを買うことなく恐れられよ」
愛されてかつ恐れられることが理想だが、両方できないときは、君主は「恐れられる」ほうがいい。鷹揚な態度を見せると相手は甘く見て、たまに必要な厳しさを発揮すると反発される。一方、日ごろ恐れられている君主は、稀に鷹揚さを見せると人は慕うもの。愛されないのであれば、恨みを買わずに恐れられることが最上である。
(4)「国を守るための冷酷さを発揮せよ」
国を守り秩序を維持するため、冷酷さを発揮する人は、それで国が保たれるならむしろ憐れみ深い人である。悪名を免れるため国を混乱に陥れる者は、全領民を傷つける悪である。名将ハンニバルは多くの人徳と、過激な冷酷さを併せ持ち大軍を統率した。
(5)「運命は抵抗力がないところほど猛威を振るう」
この世のことは、たいてい運命に支配されているが、だからといって「宿命にすべてをゆだねる」態度で、人間の自由意志を奪われてはならない。運命が半分を思いのままに決めても、あとの半分は運命が我々の支配に任せているからだ。運命は抵抗力のないところに猛威を振るうから、「自らの意志」を発揮せよ。また、運命の女神が持つ「機会」を活かすには、荒々しい行動力が有効である。
(6)「民衆の気まぐれに頼るのではなく君主は自ら仕掛けよ」
愛情は相手の気まぐれに頼らなければいけないが、恐れられることは君主自らが仕掛けて能動的に行える。支配者は自らの立場を守るため、幸運に頼るのではなく、自ら仕掛けてその地位を強固にしなければならない。
(7)「平時にこそ、先を見据えて問題に備えよ」
天気のいい日に、嵐のことを想像しないのは人間共通の弱点だが、君主である者は、問題が起こる前にそれを考えておき、問題が小さなうちに素早く対処すべきである。病気と同じく、それと明確にわかるときにはすでに手遅れなのだから。
『君主論』は、「君主としての優れた演技」の必要性を強調しています。いい人になることが領民を傷つけ、国を失うことにつながるなら、むしろ「悪をうまく演ずる君主」のほうが領民は幸せだという理論です。
「状況こそが最善手を決める」「運命は抵抗力がないところほど猛威を振るう」などの指摘は、外交の最前線で体験した、世界の現実を反映した思想を強く認識させます。リーダーは常に、組織の外にある「生き残るための条件」に目を光らせるべきなのです。
優秀な人ほどライバルから敵対視される
マキアヴェリは残念ながら、失脚後、二度と権力の中枢で活躍できませんでした。復活したメディチ家に写本を送るも返答はなく、次の当主ジュリオ・メディチが彼に与えた仕事は「フィレンツェ史」を書くことだったのです。
なぜ、彼の目論見は失敗したのか。『君主論』でイタリア統一への英雄的な君主がいま、求められていると自らの理想を述べていますが、これは彼が出会ったチェーザレ・ボルジア(当時すでに戦死)が模範であり、一方でジュリオはチェーザレほど英雄的な人物ではなく、マキアヴェリの理想は重すぎると感じたであろうこと。
また、メディチ家を打倒した、新共和政府側にしても、『君主論』を書き上げたほど冷徹で優秀な頭脳を持つマキアヴェリが新政府に入れば、自分の地位が奪われると恐れた人が大勢いて、彼を遠ざけることが利益と判断したであろうことが挙げられます。
理想を持つ人間は為政者の純粋な道具になりきれず、あまりの優秀さを隠さず見せたなら、強力なライバルと見なされて遠ざけられる。彼ほどの人物が、自分の姿がどう見えるかをわからず、メディチ家に取り入った矢先に「共和政に戻る」という運命の冷たい仕打ちも重なり、絶望の中で夢を果たせずにこの世を去ってしまったのです。 
 

 

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