もったいない3

鱧(はも)の皮ごりがん神前結婚話の屑籠牛肉と馬鈴薯肱の侮辱眼前口頭一切存じ不申予ハ贊成者にあらず古本と蔵書印ある出版業者の話鬼を見た話坊つちやん小説に用ふる天然博士問題博士問題の成行假名遣意見空車津下四郎左衛門普請中夏の旅優能婦人を標準とせよ假名遣について表音的假名遣は假名遣にあらず日本の文字についてふりがな論覺書漢字御廢止之儀知的怠惰の時代道義不在の時代人間通になる讀書術暖簾に腕押し保守とは何か羨ましき保守主義「たけくらべ」論争
 

雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
鱧(はも)の皮 / 上司小劍

(かみつかさしょうけん 1874-1947) 小説家。奈良県生まれ。本名、延貴。小学校の代用教員を経て読売新聞社入社。在社中に徳田秋声・正宗白鳥・幸徳秋水・白柳秀湖らと知り合い、大正3年自然主義的写実小説『鱧(はも)の皮』で文壇的地位を獲得。のち社会主義に傾いた。新聞記者から転身、「灰燼」「鱧の皮」で自然主義作家としての地位を確立、他に「木像」「東京」、回想記「 U 新聞年代記」など。昭和22年歿、73才。  
還慮なく一  
郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて來た。
「福島磯……といふ人が居ますか。」
彼は焦々した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚貼つた封の厚いのを取り出した。
道頓堀の夜景は丁どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間になつたらしく、讃岐屋の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場もテンテコ舞をする程であつた。
「福島磯……此處だす、此處だす。」と忙しいお文は、銀場から白い手を差し出した。男も女も、襷がけでクル/\と郵便配達の周圍を廻つてゐるけれども、お客の方に夢中で、誰れ一人女主人の爲めに、郵便配達の手から厚い封書を取り次ぐものはなかつた。
「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」
怖い顏をした郵便配達は、かう言つて、一間も此方から厚い封書を銀場へ投げ込むと、クルリと身體の向を變へて、靴音荒々しく、板場で燒く鰻の匂を嗅ぎながら、暖簾を潛つて去つた。
四十人前といふ前茶屋の大口が燒き上つて、二階の客にも十二組までお愛そを濟ましたので、お文は漸く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつくづく見た。手蹟には一目でそれと見覺えがあるが、出した人の名はなかつた。消印の「東京中央」といふ字が不用瞭ながらも、兎も角讀むことが出來た。
「何や、阿呆らしい。……」
小さく獨り言をいつて、お文は厚い封書を其のまゝ銀場の金庫の抽斗に入れたが、暫くしてまた取り出して見た。さうして封を披くのが怖ろしいやうにも思はれた。
「福島磯……私が名前を變へたのを、何うして知つてるのやろ、不思議やな。叔父さんが知らしたのかな。」
お文はかう思つて、またつくづくと厚い封書の宛名の字を眺めてゐた。河岸に沿うた裏家根に點けてある、「さぬきや」の文字の現れた廣告電燈の色の變る度に、お文の背中は、赤や、青や、紫や、硝子障子に映るさまざまの光に彩られた。
一しきり立て込んだ客も、二階と階下とに一組づつゐるだけになつた。三本目の銚子を取り換へてから小一時間にもなる二階の二人連れは、勘定が危さうで、雇女は一人二人づつ、拔き足して階子段を上つて行つた。  
還慮なく二

 

新まいの雇女にお客と間違へられて、お文の叔父の源太郎が入つて來た。
「お出てやアす。」と、新まいの女の叫んだのには、一同が笑つた。中には腹を抱へて笑ひ崩れてゐるものもあつた。「をツさん、えゝとこへ來とくなはつた。今こんな手紙が來ましたのやがな。獨りで見るのも心持がわるいよつて、電話かけてをツさん呼ばうと思うてましたのや。」
お文は女どものゲラ/\とまだ笑ひ止まぬのを、見向きもしないで、飯場の前に立つた叔父の大きな身體を見上げるやうにして、かう言つた。
「手紙テ、何處からや。……福造のとこからやないか。」源太郎は年の故で稍曲つた太い腰をヨタ/\させながら、銀場の横の狹い通り口へ一杯になつて、角帶の小さな結び目を見せつゝ、背後の三畳へ入つた。
其處には箪笥やら蠅入らずやら、さまざまの家具類が物置のやうに置いてあつて、人の坐るところは畳一枚ほどしかなかつた。其の狹い空地へ大きく胡坐をかいた源太郎は、五十を越してから始めた煙草を無器用に吸はうとして、腰に插した煙草入れを拔き取つたが、火鉢も煙草盆も無いので、煙草を詰めた煙管を空しく弄りながら、對う河岸の美しい灯の影を眺めてゐた。對う河岸は宗有衞門町で、何をする家か、灯がゆら/\と動いて、それが、世を踏み蹂躪つた時のやうに、キラ/\と河水に映つた。初秋の夜風は冷々として、河には漣が立つてゐた。
「能う當りましたな。……東京から來ましたのや。……これだす。」
勘定の危まれた二階の客の、銀貨銅貨取り混ぜた拂ひを檢めて、それから新らしい客の通した麥酒と鮒の鐡砲和とを受けてから、一寸の閑を見出したお文は、後を向いてかう言つた。彼女の手には厚い封書があつた。
「さうか、矢ツ張り福造から來たんか、何言うて來たんや。……また金送れか。分つてるがな。」
源太郎は眼をクシヤ/\さして、店から射す灯に透かしつゝ、覗くやうに封書の表書を讀まうとしたが、暗くて判らなかつた。
「をツさんに先き讀んで貰ひまへうかな。……私まだ封開けまへんのや。」
かうは言つてゐるものの、封書は固くお文の手に握られて、源太郎に渡さうとする容子は見えなかつた。
「お前、先きい讀んだらえゝやないか。……お前とこへ來たんやもん。」
「私、何や知らん、怖いやうな氣がするよつて」
「阿呆らしい、何言うてるのや。」
冷笑を鼻の尖頭に浮べて、源太郎は煙の出ぬ煙管を弄り廻してゐた。
「そんなら私、そツちへいて讀みますわ。……をツさん一寸銀場を代つとくなはれ、あのまむしが五つ上ると金太に魚槽を見にやつとくなはれ。……金太えゝか。」
氣輕に尻を上げて、お文は叔父と板前の金太とに物を言ふと、厚い封書を握つたまゝ、薄暗い三畳へ入つた。
「よし來た、代らう。どツこいしよ。」と、源太郡は太い腰を浮かして、煙管を右の手に、煙草入を左の手に攫んで、お文と入れ代りに銀場へ坐つた。
豆絞りの手拭で鉢卷をして、すら/\と機械の廻るやうな手つきで鰻を裂いてゐた板前の金太は、チラリと横を向いて源太郎の顏を見ると、にツこり笑つた。
「此處へも電氣點けんと、どんならんなア。阿母アはんば儉約人やよつて、點けえでもえゝ、と言やはるけど、暗うて仕樣がおまへんなをツさん。……二十八も點けてる電氣やもん、五觸を一つぐらゐ殖やしたかて、何んでもあれへん、なアをツさん。」
がらくたの載つてゐる三畳の棚を、手探りでガタゴトさせながら、お文は聲高に獨り言のやうなことを言つてゐたが、やがてバツと燐寸を擦つて、手燭に灯を點けた。
河風にチラ/\する蝋燭の灯に透かして、一心に長い手紙を披げてゐる、お文の肉附のよい横顏の、白く光るのを、時々振り返つて見ながら、源太郎は、姪も最う三十六になつたのかなアと、染々さう思つた。
毛絲の辮當嚢を提げて、「福島さん学校へ」と友達に誘はれて小學校へ通つてゐた姪の後姿を毎朝見てゐたのは、ツイ此頃のことのやうに思はれるのに、と、源太郎はまださう思つて、聟養子を貰つた婚禮の折の外は、一度も外の髮に結つたことのない、お文の新蝶々を、俯いて家出した夫の手紙に讀み耽つてゐるお文の頭の上に見てゐた。其の新蝶々は、震へるやうに微かに動いてゐた。
「何んにも書いたらしまへんがな。……長いばツかりで。……病氣で困つてるよつて金送れと、それから子供は何うしてるちふことと、……今度といふ今度は懲り/\したよつて、あやまるさかい元の鞘へ納まりたいや、……決つてるのや。」
口では何でもないやうに言つてゐるお文の眼の、異樣に輝いて、手紙を見詰めてゐるのが、蝋燭の光の中に淡く見出された。
「まアをツさん、讀んで見なはれ。面白おまツせ。」
氣にも止めぬといふ風に見せようとして、態とらしい微笑を口元に浮べながら、殘り惜しさうに手紙を其處に置き棄てて、お文は立ち上ると、叔父の背後に寄つて、無言で銀場を代らうとした。
「どツこいしよ。」と、源太郎はまた重さうに腰を浮かして、手燭の點けツぱなしになつてゐる三疊へ、大きな身體を這ひ込むやうにして坐つた。煙管はまだ先刻から一服も吸はずに、右の手へ筆を持ち添へて握つてゐた。
「をツさん、筆……筆。」と、お文は銀場の筆を叔父の手から取り戻して、懈怠さうに、叔父の肥つた膝の温味の殘つた座蒲團の上に坐ると、出ないのを無理に吐き出すやうな欠伸を一つした。
源太郎は、蝋燭の火で漸と一服煙草を吸ひ付けると、掃除のわるい煙管をズウ/\音させて、無恰好に煙を吐きつつ、だらしなく披げたまゝになつてゐる手紙の上に眼を落した。
「其の表書なア、福島磯といふのを知つてるのが不思議でなりまへんのや。」
手紙を三四行讀みかけた時、お文がこんなことを言つたので、源太郎は手紙の上に俯いたなりに、首を捻ぢ向けて、お文の方を見た。
「福造の居よる時から、さう言うてたがな、お文よりお磯の方がえゝちうて、福島と島やさかい、磯と文句が續いてえゝと、私が福造に言うてたがな。……それで書いて來よつたんや。われの名も福島福造……は福かあり過ぎて惡いよつて、福島理記といふのが、劃の數が良いさかい、理記にせいと言うてやつたんやが、さう書いて來よれへんか。……私んとこへおこしよつたのには、ちやんと理記と書いて、宛名も福島照久樣としてよる。源太郎とはしよらへん。」
好きな姓名利斷の方へ、涼太郎は話を總て持つて行かうとした。
「やゝこしおますな、皆んな名が二つづつあつて。…げと福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
世間話をするやうな調子を裝うて、お文は家出してゐる夫の判斷を聞かうとした。
「名を變へてもあいつはあかんな。」
そッ氣なく言つて、源太郎は身體を貝ツ直ぐに胡坐をかき直した。お文はあがつた蒲燒と玉子燒とを一寸檢めて、十六番の紙札につけると、雇女に二階へ持たしてやつた。
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた序に聞いてやつたら福島福造といふ名と四十四といふ年を言うただけで、先生は直きに、『この人はあかんわい、放蕩者で、其の放蕩は一生止まん。止む時は命數の終りや。性質が薄情殘酷で、これから一寸頭を持ち上げることはあつても、また失敗して、そんなことを繰り返してる中にだん/\惡い方へ填つて行く』と言やはつたがな。はんまに能う合うてるやないか。」
到頭詰まつて了つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な厭な顏をしてゐた。
還慮なく三

 

源太郎がまた俯いて、讀みかけの長い手紙を讀まうとした時、下の河中から突然大きな聾が聞えた。
「おーい、……おーい、……讃岐屋ア。おーい、讃岐屋ア。」
重い身體を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰硝子の障子を開け、水の上へ架け出二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな聲が聞えた。
「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」
「へえ、あの……」と、變な返事をして、源太郎は河の中を覗き込んだが、色變りの廣吉電燈が眩しく映るだけで、黒く流れた水の上のことは能く分らなかつた。
「をツさん、をツさん。」と、お文の聲が背後から呼ぶので、銀場を振り返ると、お文は兩手を左の腰の邊に當てて、長いものを横たへた身振りをして見せた。
「あゝ、サーベルかいな。」
漸く合點の行つた源太郎は、小さい聲でかうお文に答へて、
「へえ、今直きに拵へて上げます。」と、黒い水の上に向つて叫んだ。
「さうか、早くして呉れ。」といふ聲の方を、瞳を定めてヂツと見下すと、眞下の石垣にびツたりと糊付か何かのやうにくツ付いて、薄暗く油煙に汚れた赤い灯の點いてゐる小さな舟の中に、白い人影かむく/\と二つ動いてゐた。其の白い人影の一つが急に黒くなつたのは、外套を着たのらしかつた。
通し物の順番を追はずに、板前を急がせた水の上からの註文は直ぐ出來て、別に添へた一品の料理と香の物、茶瓶なぞとともに、こんな時の用意に備へてある長い綱の付いた平たい籠に入れて、源太郎の手で水の上へ手繰り下された。
「サンキュー。」と、妙な聲が水の上から聞えたので、源太郎は馬鹿々々しさうに微笑を漏らした。雇女が一人三畳へ入つて來て、濡れ縁へ出て對岸の紅い灯を眺めながら、欄干を叩いて低く喇叭節を唄つてみたが、藪から棒に、
「上町の且那はん、……八千代はん、えらうおまんな。この夏全で休んではりましたんやな。……もう出てはりますさうやけど、お金もたんと出來ましたんやろかいな。」と、源太郎に向つて言つた。随一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、對岸でも灯の色が殊に鮮かで、調子の高い撥の音も其の邊から流れて來るやうに恩はれた。空には星が一杯で、黒い河水に映る兩岸の灯と色を競ふやうであつた。
名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。
手紙を前に披げて、ヂツと腕組をしてゐた源太郎は、稍暫くしてから、空になつた食器が籠に入つて雇女の手で河の中から迫り上つて來たのを見たので、突然銀場の方を向いて、
「これ、何んぼになるんやな。」と頓狂な聲を出した。
「よろしおますのやがな、お序の時にと、さう言はしとくなはれ。」
算盤を彈きながら、お文が向うむいたまゝで言つたのと、殆んど同時に、總てを心得てゐる雇女は、濡れ縁から下を覗き込んで、
「よろしおます、お序の時で。」と高く叫んだ。水の上からも何か言つてゐるやうであつたが、意味は分らなかつた。やがて、赤い灯の唯一つ薄暗く煤けて點いてゐる小舟は、音もなく黒い水の上を滑つて、映る兩岸の灯の影を乱しつゝ、暗の中に漕ぎ去つた。  
還慮なく四

 

腕組をして考べてゐた源太郎は、また俯いて長い手紙に向つた。さうして今度は口の中で低く聲を立てて讀んでみたが、讀み終るまでに稍長いことかゝつた。
お文は銀場から、その鋭い眼で入り代り立ち代る客を送り迎へして、男女二十八人の雇人を萬遍なく立ち働かせるやうに、心を一杯に張り切つてゐた。夜の更けようとするに連れて、客の足はだん/\繁くなつた。暖簾を掲げた入口から、丁字形に階下の間と二階の梯子段とへ通ぶ三和土には、絶えず水が撤かれて、其の上に履物の音が引ツ切りなしに響いた。
これから芝居の閉場る前頃を頂上として、それまでの一戰と、お文は立つて帶を締め直したが、時々は背後を振り向いて、手紙を讀んでゐる叔父の氣色を窺はうとした。
「二十圓送れ……と書いてあるやないか。」と、源太郎は眼をクシヤ/\さしてお文の方を見た。
「さうだすな。」と、お文は輕く他人のことのやうに言つた。
「福造の借錢は、一體何んぼあるやらうな。」
畳みかけるやうにして、源太郎が言つたので、お文は忙しい中で胸算用をして、
「千圓はおますやらうな。」と、相變らず世間話のやうに答へた。
この前に出よつた時は千二百圓ほど借錢をさらすし、其の前の時も彼れ是れ八百圓はあつたやないか。……今度の千圓を入れると、三千圓やないか。……高價い養子やなア。」
自然と皮肉な調子になつて來た源太郎の言葉を、お文は忙しさに紛らして、聞いてはゐぬ風をしながら、隅の方の暗いところでコソ者/\話をしてゐる男女二人の雇人を見付けて、
「留吉にお鶴は何してるんや。この忙しい最中に……これだけの人敷が喰べて行かれるのは、商賣のお蔭やないか。商賣を粗末にする者は、家に置いとけんさかいな、ちやツちやと出ていとくれ。」と、癇高い聲を立てた。男女二人の雇人は、雷に打たれたほどの驚きやうをして、パツと左右に飛んで立ち別れた。
「味醂屋へまた二十圓貸せちうて來たんやないか……味醂屋にはこの春家出する時二十圓借りがあるんやで。能うそんな厚かましいことが言はれたもんやな。」
何處までも追つかけるといつた風に、源太郡は福造の棚卸をお文の背中から浴びせた。
「味醂屋どこやおまへん。去年家にゐて出前持をしてたあの久吉な、今島の内の丸刈にゐますのや。あそこへいて、この春久吉に一圓借せと言ひましたさうだツせ。困つて來ると恥も外聞も分りまへんのやなア。」
また世間話をするやうな、何氣ない調子に戻つて、お文は背後を振り返り/\、叔父の言葉に合槌を打つた。
「味醂屋や酒屋や松魚節屋の、取引先へ無心を言うて來よるのが、一番強腹やな……何んぼ借して呉れんやうに言うといても、先方では若し福造が戻つて來よるかと思うて、厭々ながら借すのやが、無理もないわい。若しも戻つて來よると、讃岐屋の且那はんやもんな。其の時復讐をしられるのが辛いよつてな。取引先も考へて見ると氣の毒なもんや。」
染々と同情する言葉つきになつて、源太郎は太い溜息を吐いた。
「饂飩屋に丁稚をしてた時から、四十四にもなるまで、大阪に居ますのやもん、生れは大和でも、大阪者と同じことだすよつてな。私等の知らん知人もおますよつて、あゝやつて東京へほつたらかしとくと、其處ら中へ無心状を出して、借錢の上塗をするばかりだす。困つたもんやなア。」
漸く他人のことではないやうな物の言ひ振りになつて、お文は廣く白い額へ青筋をビク/\動かしてゐた。
「あゝ、『鯉の皮を御送り下されたく候』と書いてあるで……何吐かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を讀んで笑つた。
「鱧の度の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。」
夫の好物を思ひ出して、お文の心はさまざまに亂れてゐるやうであつた。
「鱧の皮、細う切つて二杯酢にして一晩くらゐ漬けとくと、温飯に載せて一寸いけるさかいな。」と、源太郎は長い手紙を卷き納めながら、暢氣なことを言つた。 

 

堺の大濱に隠居して、三人の孫を育ててゐるお梶が、三歳になる季の孫を負つて入つて來た。
「阿母アはん、好いとこへ來とくなはつた。をツさんも來てはりますのや。」と、お文は嬉しさうな顏をして母を迎へた。
「お家はん、お出でやす。」と、男女の雇人中の古參なものは口々に言つて、一時「氣を付けツ」といつたやうな姿勢をした。
「あばちやん、ばア。母アちやん、ばア。ぢいちやん、ばア。」と、お梶は歌のやうに節を付けて背中の孫に聞かせながら、ズウツと源太郎の胡坐をかいてゐる三疊へ入つて行つた。
背中から下された孫は、母の顏を見ても、大叔父の顏を見ても、直ぐペソをかいて、祖母の懷に噛り付いた。
「あゝ辛度や。」と疲れた状をして、薄くなつた髮を引ツ詰めに結つた、小さな新蝶々の崩れを兩手で直したお梶は、忙しさうに孫を抱き上げて、妻びた乳房を弄らしてゐた。
「其の子が一番福造に似てよるな。」と、源太郎は重苦しさうな物の言ひやうをして、つくづくと姉の膝の上の子供を見てゐた。
「性根まで似てよるとお仕舞ひや。」
笑ひながらお梶は、萎びた乳房を握つてゐる小さな手を竊と引き難して襟をかき合はした。孫は漸く祖母の膝を難れて、氣になる風で大叔父の方を見ながら、細い眼尻の下つた平ツたい色白の顏を振り/\ヨチ/\と濡れ縁の方に歩いた。
「男やと心配やが、女やよつて、まア安心だす。」
戰場のやうに店の忙しい中を、お文は銀場から背後を振り返つて、厭味らしく言つた。
それを耳にもかけぬ風で、お梶は弟の前の煙管を取り上げて、一服すはうとしたが、煙管の詰まつてゐるのに顏を顰めて、
「をツさん、また詰まつてるな。素人の煙草呑みはこれやさかいな。」と、俯いて紙捻を拵へ、丁寧に煙管の掃除を始めた。
「福造から手紙が來たある。……一寸讀んで見なはれ。」と、源太郎は厚い封書を姉の前に押しやつた。
「それ福造の手紙かいな……私はよツほど今それで煙管掃除の紙捻を拵へようかと思うたんや。」
封書を一寸見やつただけで、お梶は顏を顰め顰め、毒々しい黒い脂を引き摺り出して煙管の掃除を續けた。
「まアー寸でよいさかい、其の手紙を讀んどくなはれ。それを讀まさんことにや話が出來まへん。」
「福造の手紙なら讀まんかて大概分つたるがな……眼がわるいのに、こんな灯で字が讀めやへん。何んならをツさん、讀んで聞かしとくれ。」
煙管を下に置いて、巧みな手つきで短くなつた蝋燭のシンを切つてから、お梶はスパ/\と快く通るやうになつた煙管で、可味さうに煙草を吸つて、濃い煙を吐き出した。源太郎は自分よりも上手な煙草の吸ひやうを感心する風で姉の顏を見つめてゐた。
孫はまた祖母の膝に戻つて、萎びた乳も弄らずに、罪のない顏をして、すや/\と眠つて了つた。
「福造の手紙を讀で聞かすのも、何やら工合がわるいが、ほんなら中に書いてあることをざつと言うて見よう。」
源太郎はかう言つて、構へ込むやうな身體つきをしながら、
「まア何んや、例もの通りの無心があつてな。……今度は大負けに負けよつて、二十圓や。……それから、この店の名義を切り替へて福造の名にすること。時々浪花節や、活動寫眞や、仁和賀芝居の興行をしても、ゴテ/\言はんこと。これだけを承知して呉れるんなら、元の鞘へ納まつてもえゝ、自分の拵へた借錢は自分に片付けるよつて、心配せいでもよい。……長いことゴテ/\書いてあるが、煎じ詰めた正味はこれだけや。……あゝさう/\、それから鱧の皮を一圓がん送つて呉れえや。」と、手紙を披げ披げ言つて、逆に卷いて行つたのを、ぽんと其處へ投げた。
怖い顏をして、ヂツと聽いてゐたお梶は、氣味のわるい苦笑を口元に構へて、
「阿呆臭い、それやと全で此方からお頼み申して、戻つて貰ふやうなもんやないか。……えゝ加滅にしときよるとえゝ、そんなことで此方が話に乘ると思うてよるのか知らん。」と言ひ言ひ、孫を側の座蒲團の上へ寢さし、戸棚から敷蒲團を一枚出して上にかけた。細い寢息が騷がしい店の物音にも消されずに、スウ/\と聞えた。
「奈良丸を千圓で三日買うて來て、千圓上つて、損得なしの元々やつたのが、福造の興行物の一番上出來やつたんやないか。其の外の口は損ばつかり。あんなことに手を出したらどんならん。……一切合財興行物はせんこと。店の名義は戻つてから身持を見定め、自分の借殘のかたを付けてから、切り替へること。それから、何うあつても家出をせぬといふ一札を書くこと。これだけを確かり約束せんと、今度といふ今度は家の敷居跨がせん。」
もう四五年で七十の鐺を取らうとする年の割には、皺の尠い、キチンと調つた顏にカんだ筋を見せて、お梶は店の男女や客にまで聞える程の聲を出した。
銀場のお文は知らぬ顏をして帳面を繰つてゐた。 

 

夜も十時を過ぎると、表の賑ひに變りはないが、店はズツと閑になつた。
「阿母アはん、今夜泊つて行きなはるとえゝな。……今から去なれへん。」
漸と自分の身體になつたと思はれるまでに、手の隙いて來たお文は、銀場を空にして母の側に立つた。
「去ねんこともないが、寢た兒を連れて電車に乘るのも敵はんよつて、久し振りや、そんなら泊つて行かう。……をツさんは、もう去ぬか。」
其の日の新聞を披げた上に坐睡をしてゐた源太郎は、驚いた風でキョロ/\して、
「あゝ、去にます。」と、手を伸ばして姉の前の煙草入を納ひかけたが、煙管は先刻から煙草ばかり吸ひ續けてゐる姉が持つたまゝでゐた。
「狹いよつてなア此處は、……此處へ寢ると、昔淀川の三十石に乘つたことを思ひ出すなア。……食んか舟でも來さうや。」と、お梶は煙管を弟に返し、孫の寢姿に添うて横になつた。
「をツさん、善哉でも喰べに行きまへうかいな。……久し振りや、阿母アはんに一寸銀場見て貰うて。……なア阿母アはん、よろしおまツしやろ。」
何もかも忘れて了つたやうに、氣輕な物の言ひやうをして、お文は早や身支度をし始めた。
「いといで。眼がわるなつたけど、こなひだまでしてた仕事やもん、閑な時の銀場ぐらゐ、これでも勤まるがな。」と身を起して、お梶はさツさと銀場へ坐つた。
「またもや御意の變らぬ中にや、……をツさんさア行きまへう。」
元氣のよいお文を先きに立てて、源太郎は太い腰を曲げながら、ヨタ/\と店の暖簾を潛つて、賑やかな道頓掘の通りへ出た。
「牛に牽かれて善光寺參り、ちふけど、馬に牽かれて牛が出て行くやうやな。」と、お梶は眼をクシヤ/\さして、銀場の明るい電燈の下に徴笑みつゝ、二人の出て行くのを見送つた。 

 

筋向うの芝居の前には、赤い幟が出て、それに大入の人數が記されてあつた。其處らには人々が眞ツ黒に集まつて、花電燈の光を浴ぴつゝ、繪看板なぞを見てゐた。序幕から大切までを一つ一つ、俗惡な、浮世繪とも何とも付かぬものにかき現した繪看板は、芝居小屋の表つき一杯に掲げられて、竹に雀か何かの模樣を置いた、縮緬地の幅の廣い縁を取つてあるのも毒々しかつた。
お文と源大郎とは、人込みの中を拔けて、褄を取つて行く紅白粉の濃い女や、萌黄の風呂敷に箱らしい四角なものを包んだのを提げた女やに摩れ違ひながら、千日前の方へ曲つた。
「千曰前ちふとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は動もすると突き當らうとする群集に、一人でも多く眼を注ぎつゝ言つた。
「兵隊は別だすかいな。皆洋搬着てますかな。」
例もの輕い調子で言つて、お文はにこ/\と法善寺裏の細い路次へ曲つた。其處も此處も食物を並べた店の多い中を通つて、この路次へ入ると、奥の方からまた食物の匂が湧き出して來るやうであつた。
路次の中には寄席もあつた。道が漸く人一人行き違へるだけの狹さなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ聲は、通行人の鼓膜を突き破りさうであつた。藝人の名を書いた庵看板の並んでゐるのをチラと見て、お文は其の奥の善哉屋の横に、祀つたやうにして看板に置いてある、大きなおかめ人形の前に立つた。
「このお多福古いもんだすな。何年經つても同し顏してよる……大かたをツさんの子供の時からおますのやろ。」
妙に感心した風の顏をして、お文はおかめ人形の前を動かなかつた。笑み滴れさうな白い顏、下げ髪にした黒い頭、青や赤の着物の色どり、前こごみになつて、客を迎へてゐる姿が、お文の初めてこの人形を見た幾十年の昔と少しも變つてゐないと思はれた。
子供の折、初めてこのお多福人形を見てから、今日までに、隨分さまざまのことがあつた。とお文はまたそんなことを考へて、これから後、この人形は何時までかうやつて笑ひ顏を續けてゐるであらうかと思つてみた。
「死んだおばんが、子供の時からあつたと言うてたさかい、餘ツぽど古いもんやらうな。」
かう言つて源太郎も、七十一で一咋年亡つた組母が、子供の時にこのおかめ人形を見た頃の有樣を、いろ/\想像して見たくなつた。其の時分、千曰前は墓場であつたさうなが、この邊はもうかうした賑やかさで、多くの人たちが、店に並んだ食物の匂を嗅ぎながら歩き廻つてゐたのであらうか。其の食物は皆人の腹に入つて、其の人たちも追々に死んで行つた。さうして後から後からと新らしい人が出て來て、食物を拵へたり、並べたり、歩き廻つたりしては、また追々に死んで行く。それをこのおかめ人形は、かうやつて何時まで眺めてゐるのであらう。
こんなことを考へながら、ぼんやり立つてゐる中に、源太郎はフラ/\とした氣持になつて、
「今夜火事がいて、燒けて砕けて了ふやら知れん。」と、自分の耳にもハツキリと聞えるほどの獨り言をいつて、自分ながらハツと氣がついて、首を縮めながら四邊を見廻した。
「何言うてなはるのや。……火事がいく、何處が燒けますのや、……しようもない、確かりしなはらんかいな。」
お文はにこ/\笑つて、叔父の袂を引ツ張りつゝ言つた。
「さア早う入つて、善哉喰べようやないか。何ぐづ/\してるんや。」と、急に焦々した風をして、源太郎は善哉屋の暖簾を潛らうとした。
「をツさん、をツさん……そんなとこおきまへう、此方へおいなはれ。」と、お文はさツさと歩き出して、善哉屋の筋向うにある小粋な小料埋屋の狹苦しい入口から、足の濡れるほど水を撤いた三和土の上に立つた。小ぢんまりした沓脱石も、一面に水に濡れて、切籠形の燈籠の淡い光がそれに映つてゐた。
「あゝ、御寮人さん、お出でやす。まアお久しおますこと、えらいお見限りだしたな。さアお上りやす。」
赤前垂の肥つた女は、食物を載せた盆を持つて、狹い廊下を通りすがりに、沓脱石の前に立つてゐるお文の姿を見出して、ペラ/\と言つた。
「上らうと思うて來たんやもん、上らずに去ぬ氣遣ひおまへん。」
かう言つて駒下駄を沓脱石の上に脱ぎ棄てたお文の昔中を、ポンと叩いて、赤前垂の女は、
「まア御寮人さん……。」と、仰山らしく呆れた表情をしたが、後から隨いて入つて來た源太郎の大きな姿を見ると、
「お運れはんだツか。……何うぞお上り。さア此方へお出でやへえな。」と、優しく言つて、窮屈な階子段を二階へ案内した。
茶室好みと言つたやうな、細そりした華奢な普請の階子段から廊下に、大きな身體を一杯にして、ミシ/\音をさせながら、頭の支へさうな低い天井を氣にして、源太郎は二階の奥の方の鍵の手に曲つたところへ、女中とお文との後から入つて行つた。
「善哉なんぞ厭だすがな。こんなとこへ來るといふと、阿母アはんが怒りはるょつて、あゝ言ひましたんや。」
向うの廣問に置いた幾つもの衝立の蔭に飮食してゐる、幾組もの客を見渡しつゝ、お文はさも快ささうに、のんびりとして言つた
「御寮人さん、お出でやす。」
「御寮人はん、お久しおますな。」
なぞと、痩せたのや肥えたのや、四五人の赤前垂の女中が代る代る出て來た。其の度にお文が白いのを鼻紙に包んで與るのを、源大郎は下手な煙草の吸ひやうをしながら、眼を光らして見てゐる。
肥つた女中は、チリン/\と小さく鈴の鳴るやうな音をさして、一つ/\捻つた器具の載つてゐる杯盤を運んで來た。
「まアーつおあがりやへえな。」と、女中は盃洗の底に沈んでゐた杯を取り上げ、水を切つて、先づ源太郎に獻した。源大郎は酌された酒の黄色いのを、しツぽく臺の上に一寸見たなりで、無器用な煙草を止めずにゐた。
「こんな下等なとこやよつて、重亭や入船のやうに行きまへんが、お口に合ひまへんやろけど、まアあがつとくなはれ……なア姐はん。」
自分に獻された初めの一杯を、ぐツと飮み乾したお文は、かう言つてから、二度目の酌を女中にさせながら、
「姐はん、このお方はな、こんなぼくねん人みたいな風してはりますけど、重亭でも入船でも、それから富田屋でも皆知つてやはりますんやで。なか/\隅へ置けまへんで。」と、早や醉ひの廻つたやうな聲を出した。
「ほんまに隅へ置けまへんな。粹なお方や、あんたはん一つおあがりなはツとくれやす。」と、女中は備前燒の銚子を持つて、源太郡の方へ膝推し進めた。
「奈良丸はんと一所に行かはりましたのやもん。藝子はんでも、八千代はんや、吉勇はんを、皆知つてやはりまツせ。」
かう言つてお文は、夫の福造が千圓で三日の間奈良丸を買つて、大入を取つた時、讃岐屋の旦那旦那と立てられて、茶屋酒を飮み歩いた折のことを思ひ出してゐた。さうして叔父の源太郎が監督者とも付かず、取卷とも付かずに、福造の後に隨いて茶屋遊ぴの味を生れて初めて知つたことの可笑しさが、今更に込み上げて來た。
「阿呆らしいこと言はずに置いとくれ。」と、源太郎も笑ひを含んで漸く杯を取り上げ、冷めた酒を半分ほど飮んだ。
雲丹だの海鼠腸だの、お文の奸きなものを少しづつ手鹽皿に取り分けたのや、其の他いろいろの氣取つた鉢肴を運んで置いて、女中は暫く座を外した。お文は手酌で三四杯續けて飮んで、源太郎の杯にも、お代りの熱い銚子から波々と注いだ。
「お前の酒飮むことは、姉貴も薄々知つてるが、店も忙しいし、福造のこともあつて、むしやくしやするやらうと思うて、默つてるんやらうが、あんまり大酒飮まん方がえゝで。」
肴ばかりむしや/\喰べて、源太郎は物柔かに言つた。
「置いとくなはれ、をツさん。意見は飮まん時にしとくなはれな。飮んでる時に意見をしられると、お酒が味ない。……をツさんかて、まツさら散財知らん人やおまへんやないか。今度堀江へ附き合ひなはれ。此處らでは顏がさしますよつてな、堀江で結麗なんを呼ぴまへう。」
かう言つて、お文は少しも肴に手を付けずにまた四五杯飮んだ、果てはコツプを取り寄せてそれに注がせて呷つた。
もう何も言はずに、源太郎はお文の取り寄せて呉れた生魚の酢を喰ぺてゐた。 

 

お文と源太郎とが、其の小料理屋を出た時は、夜半を餘程過ぎてゐた。寄席は疾くに閉場て、狹い路次も晝間からの疲勞を息めてゐるやうに、ひつそりしてゐた。
「私が六歳ぐらゐの時やつたなア、死んだおばんの先に立つて、あのお多福人形の前まで走つて來ると、堅いものにガチンとどたま打付けて、痛いの痛うなかつたのて。……武士の刀の先きへどたま打付けたんやもん。武士が怒りよれへんかと思うて、痛いより怖かつたのなんのて。……其の武士が笑うてよつた顏が今でも眼に見えるやうや。……丁ど刀の柄の先きへ頭が行くんやもん、それからも一遍打付けたことがあつた。」
思ひ出した昔懷かしい話に、醉つたお文を笑はして、源太郎は人通りの疎らになつた干日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。
「をツさんも古いもんやな。芝居の舞臺で見るのと違うて、二本差したほんまの武士を見てやはるんやもんなア。」と、お文は笑ひ/\言つて、格別醉つた風もなく、叔父の後からくツ付いて歩いた。
「これから家へ行くと、お酒の臭氣がして阿母アはんに知れますよつて、私もうちいと歩いて行きますわ。をツさん別れまへう。」
かう言つて辻を西へ曲つて行くお文を、源大郎は追ツかけるやうにして、一所に戎橋からクルリと宗右衞門町へ廻つた。
富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠つたやうな灯が點いて、陽氣な町も濕つてゐた。たまに出逢ふのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如くに思はれた。
「私、一寸東京へいてこうかと思ひますのや。……今夜やおまへんで。……夜行でいて、また翌る日の夜行で戻つたら、阿母アはんに内證にしとかれますやろ。……さうやつて何とか話付けて來たいと思ひますのや。……あの人をあれなりにしといても、仕樣がおまへんよつてな。私も身體が續きまへんわ、一人で大勢使うてあの商賣をして行くのは。……中一日だすよつて、其の間をツさんが銀場をしとくなはれな。」
醉はもう全く醒めた風で、お文は染々とこんなことを言ひ出した。
「今、お前が福造に會ふのは考へもんやないかなア。」と、源太郎も思案に餘つた。 

 

日本橋の詰で、叔父を終夜運轉の電車に乘せて、子供の多い上町の家へ歸してから、お文は道頓堀でまだ起きてゐた蒲鉾屋に寄つて、鰓の皮を一圓買ひ、眠さうにしてゐる丁稚に小包郵便の荷作をさして、それを提げると、急ぎ足に家へ歸つた。三畳では母のお梶がまだ寢付かずにゐるらしいので、鱧の皮の小包を竊と銀場の下へ押し込んで、下の便所へ行つて、電燈の栓を捻ると、パツとした光の下に、男女二人の雇人の立つてゐる影を見出した。
「また留吉にお鶴やないか。……今から出ていとくれ。この月の給金を上げるよつて。……お前らのやうなもんがゐると、家中の示しが付かん。」
寢てゐる雇人等が皆眼を覺ますほどの聲を立てて、お文は癇癪の筋をピク/\と額に動かした。
「何んやいな、今時分に大けな聲して。……鬼も角明日のことにしたらえゝ。」と、お梶が寢衣姿で寒さうに出て來たのを機會に、二人の雇人は、別れ/\に各の寢床へ逃げ込んで行つた。
まだブツ/\言ひながら、表の戸締をして、鍵を例ものやうに懐中深く捻ぢ込んだお文は、今しがた銀場の下へ入れた鱧の皮の小包を一寸撫でて見て、それから自分も寢支度にかゝつた。
(大正三年一月) 
 
ごりがん / 上司小劍

 

一 
先づごりがんといふ方言の説明からしなければならない。言葉の説明は、外國語でも日本語でも、まことに難儀なことで、其の言葉自身より外に、完全な説明はないのだ。言葉をもつて言葉を説明するといふほど愚かなことはない。言葉を説明するものは、言葉の發する音による以心傳心で、他のいろいろの言葉を幾つ並べたとて、其の言葉を底の底まで透き通るほどに説明し得るものではない。しかし人間といふものがかうやつていろいろの言葉を作り上げて、そいつを滑かに使つて來た根氣には驚く。根氣ではない自然だといふかも知れないが、自然の奥には根氣がある。如何に不完全な國語を有する人民でも、それで一通りの用が辨ずるまでに仕上げた根氣は大層なものだ。言語學といふ乾枯らびた學問のやうな教ふるところは別として、たとへば日本語の柄杓といふ言葉を聞くと、それが如何にもあの液體を掬ふ長い柄の附いた器物のやうに思はれるし、箱といへば直にあの四角い容物を考へ出す。(圓いのもあるが)さういふ風に、柄杓と箱との名を取りかへて、「俺にはこれが柄杓で、これが箱ぢや」とごりがんを決め込んでも、世間には通用しない。それまでに言葉といふものの力を深く打ち込んだ根氣は大したものだ。どうせ人間の拵へた言葉と名稱とだもの、それをどツちへ取りかへたとて差支へはないのだが、大勢の人にそれを承知させるのが困難だ。柄杓が箱で、箱が柄杓で、火が水で、水が火であつても、一向差支へはないのだけれど、別に取りかへる必要もなければ、まア在り來りのままでやつて行かうといふことになる。
それでも、言葉や文字の中には長い間にちよいちよい間違つて了つて、鰒を河豚だと思ふやうな人も少しは出來たりしたが、それをまた訛言だの、方言だのと、物識りに顏に、ごりがんをきめ込むこともない。鰒だと言つても、河豚だと名づけても、肝腎の貝や魚は一向何も知らないでゐる──と、こんなことを言ふものもまた一種のごりがんだ。
別に言語學に楯を突いた譯でも何でもない。ごりがんの説明を自然に卷き込んで置かうと思つて、これだけのことを書いてみたのだ。ごりがんとは先づ、駄々ツ兒六分に、變人二分に、高慢二分と、それだけをよく調合してできあがつたかみがたの方言である。「てきさん、どこそこで、ごりがんきめ込んだにゃで」とか、「ごりがんでんなア」といふのを聞き馴れてゐる人には迷惑であらうけれど、これだけのことはぜひ書いておかねばならぬ。
「ごりがん事三月十二日永劫の旅路に上りました。此段お知らせいたします」といふ下手な字の葉書を受け取つたのは、三月十四日で、私はあゝあの老僧も到頭死んだかと、私は知人の訃報を得る度に感ずる痛ましさと寂しさとに打たれつゝ、また人生に對する思索を新たにして、ぼんやり其の葉書を卷いたり舒ばしたりしてゐた。
それにしても、自分の父の死をば、ごりがん事なんぞと戲れて通知する息子も息子だと思つて私は、其の息子の天南といふ名前を眺めてゐた。
生れては死に、生れては死にする隆法(老僧の名)の子は、四人目の天南に至つて、漸く火事が燒け止まるやうに、死なないで育つた。「頃者一男を擧ぐ天南と名づく」なぞと書いた隆法の葉書が、方々へ飛んだ。それから後に生れた子は、いづれも息災に育つて、隆法が老僧と呼ばるゝにふさはしくなつた時分は、三男二女の父になつてゐた。
困つたのは總領の天南であつた。本山の中學校を卒業してから、寺にぶらぶらしてゐたが、兔角父の老僧と氣が合はなかつた。老僧はごりがんの名で通るほどの人物で、檀家の評判はよくなかつたが、世襲住職の眞宗寺で、檀家から坊主を追ひ出すといふことは出來ない上に、また寺を追ひ出さうなぞと思ふ檀家があるほどの不評判でもなかつた。缺點はごりがんだけで、勤めることはちやんと勤めた。しかし天南はごりがんの上に大變人で、また怠惰者であつた。自分に氣の向いた事をさせるとさうでもなかつたが、寺の用となれば、目の敵のやうにして打ツちやらかして置く。禪寺は綺麗だが、門徒寺は汚いと昔しから言ふ通り、隆法の寺も眞宗だけに掃除が屆かないで、本堂の前だけは塵埃もないが、それは皆境内の隅々へ掃き寄せられて雜草の肥料になつてゐる。蛇、蜥蜴、螽●(虫篇に旁が斯:きりぎりす)、そんなものが、偶然に出來た塵塚を棲家にして、夏盛んに繁殖する。葱の白根を餌にして、天南はよく螽●(虫篇に旁が斯)を釣らうとしたが、時折り蛇に驚かされて、逃げ戻つて來たこともある。尻尾の斷れた蜥蜴のちよろちよろと出て來るのが氣味がわるかつた。
巽の隅にある殊に高い塵塚には、草ばかりか、漆の木なぞが自然に生えて、小ひさな森を作つてゐた。其處には殊に氣味のわるい虫が棲んでゐるらしく、片側の裾に水溜りが出來たりして、腹の赤い蠑●(虫篇に旁が原:ゐもり)が蛙とともに棲むが、蛙はよく蛇の餌食になつて、呆れ顏をした蠑●(虫篇に旁が原)に、半ば蛇の口へ入つた淺間しい姿が、見送られてゐた。
天南はよく蛇を擲つて蛙を助けた。幼い時竹片を持つて遊んでゐると、蛙がぎやアぎやア鳴くので、其の悲しさうな聲をたよりに竹片で雜草の中を叩き廻ると、蛇に呑まれかけた蛙が、跛足引き引き危いところを逃げて行つた。其の脚の先きは、もう蛇の毒で少し溶けかゝつてゐるやうであつた。「晩にはあの蛙が大きなお饅頭を持つて禮に來るぞ。」と、父が言つたので、天南はその夜どんなに饅頭を待つたか知れなかつたが、父の言葉は眞ツ赤の嘘であつた。それ以來天南は父を信用しなくなつた。
本堂のお花を取りかへるやうに、父から言ひ付かつたことが度々あつたけれど、天南は一度もそれをしたことがなかつた。須彌壇の花立てには、何時活けたとも知れぬ花の枝が乾枯らびて、焚き付けにでもなりさうになつてゐた。 

 

「天南ももう三十ぢやから、妻帶さしてやらんならん。わしは十七で妻帶したもんなア。」と、隆法は二三年前、それを最初にまた最後の上京の時にさう言つてゐた。
「さうですか。」と、わたしは田舎坊主の結婚なんか、別に氣にも留めなかつた。すると隆法老僧は、自慢の白髯のそれも甚だ疎らなのを、無理に兩手で扱きながら、
「歸りに京都へ寄つて、結納を渡して行かんならん。」と、獨言のやうに言ひ言ひ、中くらゐの信玄袋の口を開けて、「白衣料」と、飄逸な字で書いた奉書の一包みの見事なのを取り出した。其の炭色の薄いのが私は氣になつた。
「まア御立派でございますこと。」と、兔角かう言ふものを見たがる妻は、一尺ばかり開いたまゝになつてゐた襖から顏を突き出して言つた。
「いやアもう。」と、老僧は口癖になつてゐることを言つて、少しばかり鼻を蠢めかした。
「白衣料……はいゝね、普通には帶料としてやると、女の方から袴料として半分だけ返して來るんだが、お寺さんは白衣料かね。先方から袈裟料とでもして返して來るんですか。」と、私は老僧の手の裡を覗くやうにして言つた。小指の爪を一寸あまりも長く伸ばした老僧の掌は、其の奉書包みに全く掩はれつくして、包みがまだ兩方へ食み出してゐたが、小指の先きだけは少し見えてゐた。水引が景氣よくピンと撥ね上つてゐた。
「在家ではどんなことをするか知らんし、また寺方でも白衣料と書くかどうか、そんなこと知らん。わしはわしの書きたいやうにするんや。」と、老僧は少しばかりごりがんの本質を露はしかけて來た。
「へえん、お寺さんぢや、お芽出度にも黒と白の水引をお使ひになるんですこと。」と、妻は今まで氣が付かなかつたかのやうにして、老僧の前へにじり寄つて來た。老僧はただ「ふゝん」と笑つて、輕蔑したやうに妻の顏を見てゐた。其の水引には京紅が濃く塗つてあるので、紅白は紅白でも、紅の方は玉蟲色をして、ちょっと見たのでは黒と間違へさうであつた。
老僧は「東京見物に來たのぢや。」と言ひながら、一向見物に歩かなかつた。上野、淺草から丸の内、日比谷邊りを一廻りして來ようかと思つて、私が案内しようとしても、「いやそんなことは煩はしい。かうやつてゆツくり話をしながら、茶を飮んでるのがよい。あんた行きたけりゃ、一人で行くがよい。わしは其の間坐禪組んで待つてる。」と、空とぼけた風で言つた。私が一人で上野、淺草から丸の内、日比谷と、見物して歩いたら可笑しなものだらうと、馬鹿々々しくなつたが、これも老僧のごりがんの一うねりであつたのだらう。
「お嫁さんは、どちらからお出でになるんでございます。」と妻は水引に就いての無知を悟つたのか、テレ隱しのやうに言つた。
「矢張り寺です。寺は寺同志でなア。」と、老僧は持つてゐた煙管の吸口で耳の後を掻いてゐた。ずんど切りの變な形の煙管で、この老僧の持ち物にふさはしいと、私は子供の時から思つてゐた。老僧にも煙管にも、私はそれほど馴染みが深かつたのである。
郷里で、私の父は神主をしてゐた。老僧の寺は十丁ほど東にあつて、私の家から其の天臺に象つたといふ二重屋根の甍がよく見えるし、老僧の庫裡の窓から、私の方のお宮の杉並木や、檜皮葺きの屋根や、棟の千木までが見えたりした。坊主と神主とで、雙方とも退屈の多い職業であつたから、老僧──其の頃は血氣盛りの腥坊主であつたが、持ち前のごりがんはもう見えてゐた──と老神主とはよく往來してゐた。「願念寺のごりがん」と蔭でよく言つてゐたし、願念寺はまた父のことを「仲臣の朝臣」と眼の前でも呼んでゐた。父は本名を重兵衞と言つたのだが、祝詞なぞで、「宮地重兵衞鵜自物鵜奈彌突拔天白」も可笑しいからと言つて別に仲臣といふ名を命けてゐたのである。
「神主の社務所に眠る小春かな」といふやうなことを大きな聲でやりながら、願念寺はノツソリと私の邸の裏門から庭傳ひに、泉水の石橋を渡つてよくやつて來た。方言で文庫と呼ばるゝ猫背をして、鼠の着物に白の角帶、その前のところに兩手を挾み込んで、肩を怒らしてゐるのが、願念寺の癖であつた。自分の寺で盆栽を弄つてゐたまゝの姿で、不圖思ひ付いて、十丁の路を隣りへでも行くやうにしてやつて來るのである。
「願念寺さん、ようお越し。」と言つて、白衣に紫地五郎丸の袴を穿いた父は、禿頭を光らしつゝ煙草盆片手に、薄縁を敷き込んだ縁側まで出迎へると、
「いや願念寺は動きません、罷り出でたるは願念寺の住職隆法にて候。」なぞと戯れをば、莞爾とも笑はずに、口を尖らして願念寺は言つた。こんな時にも懷中にはちやんと、緞子の煙管筒を收めて、ずんど形の煙管を取り出したものだが、どうかすると煙管を忘れて來て、
「いち……ふく……頂戴。」と、氣取つた言ひかたをして父の煙草盆の抽斗に手をかけた。──私は其の頃まだ若かつた願念寺を思ひ出して、今の老僧の姿と相對して坐りながら、ずんど形の煙管の昔しのまゝなのを見て、妙に寂しさが込み上げて來た。
「わしは一體、あんたのお父つあんの友人ぢやがなア、いつの間にか、あんたに横取りされてしもた。」と、老僧は火箸の先きで煙管の雁首をほじりながら、私よりは妻の方を顧みて言つた。「お友達にしちや、だいぶお年が違ひますこと。」と、妻は氣の置けぬ老僧の人柄に早くも親しんでこんなことを言つた。
「さいや。……けどなア、わしとこの人。……」と、ずんど形の煙管で私を指して、「この人のお父つあんとは、矢つ張りこのくらゐ年が違うたが、意氣合てでなア。この人のお父つあんは學問はなし、碁は打たず、盆栽は知らんし、酒を飮む他に能のない老爺やつたが、それで別に話の面白い男でもなかつたのに、わしはあの漢が好きでなア、其漢愚漢と書いてありさうな闊い額を見ながら、默つて煙草を吸うてゐるだけで、氣持ちが好かつたわい。」と、老僧は私の亡き父の想ひ出に耽らうとしてゐるらしかつた。
私が郷里の邸を引き拂つて東京へ來てから十幾年、願念寺の隆法や、天南のことを忘れかけてゐるところへ、隆法が年よりはズツと老けた姿を私の家の玄関へ現はして、昔の風の「ものまう」と言つたのには、取次ぎの下女がどんなに驚いたか、願念寺のごりがんがだんだん甚だしくなるといふことは、郷里から流れて來るいろいろの噂さに混つて聞えてゐたが、私は別段それを氣にも留めなかつたのである。
丁度正月の寒い時であつた。老僧は中くらゐの信玄袋を提げ、セルの被布の胸へ白い髯を疎らに垂れて、頭には芭蕉頭巾を被つてゐた。昔しながらの薄着で、肩が凝ると言つて襯衣は決して着ないから、襦袢の白い襟の間から茶褐色に痩せた斑點のある肌が見えてゐた。
「御婚禮は何時なんでございます。」と、妻は妙に氣がかりな風をして問うた。
「まだきまりません」と、澄み切つたやうなハツキリした言葉で言つて、老僧は快ささうな眼をしながら、口を尖らして、煙草の煙りを眞ツ直にふうツと吹いた。
「見合ひをなすツたんでございますか。」
「いゝえ、そんなことはしません。」
「ぢやア、お互ひに御存じなかたなんでございますか。それはよろしいんでございますね。」と、妻は他人のことながら滿足氣な樣子をしてゐた。
「いゝや、本人同志はまた、ちよツとも知らんのぢや。ふうん。」と、老僧はそろそろごりがんの本領を見せかけた。
「それでお結納は可笑しいぢやございませんか。」と、妻は眉を顰めた。
「年頃になつたから、家内を持たせる。年頃になつたから、片付けてやる。……それでよいのぢや。……生れようと思うて、生れるものはないし、死なうと思うて、死ぬものもまア滅多にないのと同なしことぢや。婚禮だけが本人の承知不承知を喧しく言ふにも當るまい。親の決めたものと、默つて一所になつたらえゝのぢや、他力本願でなア。」と、老僧は事もなげに、空惚けたやうな風をして言つた。
「まア。……」と、妻は呆れてゐた。 

 

それから去年まで、私はこのごりがんの老僧に逢ふ機會がなかつた。一咋年の初夏、私の年中行事の一つとして、上國に遊んだ時、麥畑の間を走る小さな痩せた電車で、願念寺の二重屋根を見ながら通つたから、一寸立ち寄つて見ようかとも思つたが、おつくふでもあつたし、老僧の在否も分らなかつたので、停車中の電車の窓から、小學校歸りの子供を呼ぴ止めて、願念寺へこれを持つて行つて呉れと言つて頼んだ。スルと其の子供は嬉しさうな顏をして畦のやうな細路を一散に願念寺の方へ走つて行つた。電車が動き出してからも、小ひさな姿が麥畑の彼方に、吹き飛ばされてでもゐるやうに見えてゐたが、ある藁葺きの家の生垣の蔭になるまで、私は名刺を持つて行つた子供から眼を離さなかつた。
願念寺に近い村の麥畑で、柔かい穂を拔いて麥笛を作つたのが、ピイピイとよく鳴つたのを夏外套のかくしに入れて、私は東京へ歸つて來た。それが偶然音樂會の切符とともにかくしから出て來たので、妙に懷かしい氣持ちで見てゐたのは、上國の旅行後二週問ほど後で、空からは陰鬱な五月雨を催しかゝつてゐた。其處へ丁度郵便が一束になつて投げ込まれた中に、老僧からの葉書が混つてゐた。
「……東京にXXさんといふ人の居るのを忘れかけてゐるところへ、名刺のことづけで、漸く思ひ出し申し候。いづれまた出て來るであらう、其の節は久方振りに一ボラ試み度樂み居り候に、たうとう出て來なかつた。(老僧も時よ時節で、この節は少しづつ江戸辯を使ふやうになつた。それから言文一致とやらも、ちよい/\やらかしてみるが、こいつなか/\便利ぢや)そこで、塞夜ならずとも、鍋を叩いて、大に文字禪を提げ、天晴一小手進上申し度候ところ、どう考へても、筆ボラは舌ボラの妙には不如、儉約して葉書に相場を卸し申し候。筆法螺舌法螺。畢竟無駄法螺。渇來茶飢來飯。默々兮眞法螺。痩電灯の下にて、叩鍋僧和南」
これだけのことが、細かい字で書いてあつた。私は老僧の村にも電燈會社の蔓が延ぴて、あの簿暗い庫裡にタングステンの光つてゐるさまを想像するより外に、この葉書から感得する何ものもなかつた。それにしても天南と其の若い妻とはどうしてゐるのか、それが知りたいと思つた。
ところが去年の新緑の頃、また上國に旅をして、大阪船場の宿で雨に開ぢ籠められてゐると、夕方電話がかゝつて來た。取り付いだ女中がくすくす笑つてゐて、何んといふ人からかゝつたのか一向分らない。間ぴ詰めると、「ごりがんからや言やはりました。」と、袖を顏に當てて、笑ひ轉げた。
あの老僧と電話といふものとの對照が既に妙である。電燈を點けたり、電話をかけたり、流石のごりがんも征服されたかと思ひながら、電話口へ出ると、聲は老僧ではなくて、若い女らしく、「今夜これからお伺ひしようと思ふがいかがでせう。御都合がわるければ明朝でも結構です。」と、ハツキリした東京辮であつた。共の夜は奮友と寄席へ行く約束がしてあつたから、「明朝お待ちしてゐます。」と、答へて私は電話を切つた。
すると、翌朝まだ私の寢てゐるうちに、老僧はやつて來た。取り敢へず次ぎの室へ通させて置いて、私は顏を洗ひ、食事にかゝつたが、隣りの室では、咳拂ひと、吐月峯を叩く音が頻りに間えた。其の咳拂ひも、其の吐月峯を叩く音も、私には殆んど幼馴染のもので、調子に聞き覺えがあつた。
「喫飯か。」と、言つた聲とともに縁側の障子がさらりと開いた。老僧が待ち兼ねて闖入して來たのである。手には二三年前東京で見たあの中くらゐの信玄袋を提げてゐる。
「失禮します。」と言つて、私は食事を續けた。老僧は給仕の女中が進むる座蒲團の上に痩せた膝を並べつゝ、キチンと坐つた。薄セル被布の下に痛々しく骨張つた身體が包まれてゐた。
「喫飯が何んの失禮なもんか。次ぎの間で待たすのが、よつぼど失禮ぢや。煙草盆一つ出さずに。」と、老僧はむつかしい顔をして言つた。
「まアお煙草盆も出せえしまへんでしたか。
と女中は驚いたやうな顏をした。
「なに、吐月峯の音がしたよ。」と私は笑ひながら言つた。
「いや、煙草盆はあるにはあつた。けどもそれはわしに出した煙草盆やない。前に來た客にでも出したんぢやらう。それがそんなり置いてあつたんで、もとより火も何もない。わしはこの通り御持參の煙草盆で吐月峯だけを借つたんぢや。」と、老僧は袂の中をもぐもぐ探つて、ブリキ製の輕便點火器を取り出した。痩せた指の間から「賃用新案……」の文字が讀まれた。
「なかなかハイカラ坊主になりましたね、電燈は點ける、電話はかける。そんなものは持つ。……」と、矢張り笑ひながら言つて、私は食後の茶を飲んでゐた。
「いやア、便利ぢやからと言つて、人が勸めるんで、やつてはみるが、あんまり便利でもないて。……第一電燈の火では煙草が吸へんし、電話では相手の顏が見えんし、……人はどうか知らんが、わしは相手の顏が見えんと話をする氣にならん。そんなもんの中では、まだこれが一番ましぢや。」と言ひ言ひ、老僧は其の點火器を弄つてゐた。
「さうですか。」と、私は気のない返事をして、茶を飲み績けた。
「これさ、主人ばかり茶を飲んで、客に茶を出さんといふことがあるか。」と、老僧は叱るやうに言つた。
「えらいひつ禮でおましたなア。」と、女中も笑ひながら、老僧に茶を出した。
「其の茶碗、疵がある、そつちの無疵のと變へてんか。」と、老僧は埋れ木の茶托にのつた六兵衞の茶碗を見詰めつゝ言つた。
「何處にも疵はおまへんがな。」と、女中も茶碗を見詰めて、怪訝な顔をした。
「いやある。糸底に疵がある。臺所で洗ふ時に附けたんぢやらう。」と、老僧は眼を据ゑて睨むやうにした。女中は默つて其の茶碗を取上げ注いだ茶をこぼしへあけて、糸底を改めると、老僧の言つた通り、糸底が少し缺けてゐた。
「まア、ほんまや、あんたはん千里眼だツかいな。」と、女中は呆れたやうな顏をした。
「わしは器物に疵のあるのが嫌ひでなア、長年の經驗から直覺するんや。」と、老僧は得意らしく言つた。
「あなたはもう樂轄居でせう。まだ孫は出來ませんか。」と、私は手づから無疵の茶碗に茶を注いで老僧に進めつゝ言つた。
「孫どこかいな。天南の嫁に就いて、話がある。そいつを是非あんたに聽いて貰ひたうてな。新聞に宿が出てたから、わざわざやつて來て、昨夜電話をかけるとペケ、忌々しいから無理にも押し込んでやらうかと思うたが、まアまア辛抱して、今朝早う來て見ると、次ぎの問で待たしくさる。業腹で業腹で。」と、老僧は膝を乘り出した。 

 

老僧の話に據ると、天南は自分へ何んの話もなく、親が勝手に決めた縁談に、別段不服のやうでもなかつたが、婚禮の當日、花嫁が到着のどさくさ紛れに、何處かへ姿を隱して了つた。いざ三々九度の盃といふ時になつて、花聟の影を逸したのだから、混雑に混雑が加はつて、庫裡も、對面所も、本堂も、人々が織るやうに駈けちがつた。老僧もヂツとしてはゐられないので、病身ながら其の時はまだ生きてゐた老坊守りとともに「須彌壇の下まで探がしたが、鼠矢が一面に散らばつてゐるだけで∴積つた塵埃の上に人の足痕なんぞはなかつた。
本山の役僧が、末寺からの納め金を使ひ込んで、蒼い顏をして、願念寺に逗留してゐるうちに、便所で舌を噛み切つて死んだといふのは、老僧から三代も前のことだが、其の厠は今も戸を釘付けにしたまゝ、對面所の縁側の奥に殘つてゐる。老僧は念の爲めに其處まで改めたが、長い間に釘は腐つて、開けずの厠の戸が風にパタパタしてゐた。さうした蜘蛛の巣だらけの氣味のわるい中に、天南が潛んでゐようとも思はれなかつた。
途方に暮れた末、其の夜は取り敢へず花聟急病、祝儀延引と觸れ出して、媒妁人にも檀家からの手傅人にも皆な引き取つて貰つたが、花嫁と其の父母とは暫らく願念寺に泊り込んで、天南が姿を現はすのを待つてゐた。
三日、四日、五日、七日、十日、……天南の行方は皆目知れなかつた。「どうしたもんでせうか。一應引き取つて頂いては。」と、老僧が花嫁の親の、これも可なりな老僧に向つて、平生のごりがんがすつかり肩を窄めつゝ、氣の毒さうにして言ふと、
「いや、わしの方では結納まで貰うて、一旦差し上げたもんぢや。連れて歸ることは金輪際ならん。嫁にすることが出けなんだら、娘にして貰うて下され。またあんたの方から他へ片付けょうと、このまゝ此寺で婆にして了はうと、それはあんたの勝手ぢや。わしも用のある身體で、何峙までベンベンと逗留も出けんから、婚禮の盃の代りに親子固めの盃をして貰はう。」と、反對にごりがんをきめ出した。
乃でまた媒妁人を呼ぴにやると、媒妁人は花聟が戻つて來たのだと早合點して、喜ぴながら飛んで來たが、自分の役目は若い男女を取持つのでなくて、老僧夫婦と花嫁とに親子の盃をさせることであつた。
「XXさん、わしはまだあの時ほど心配したことは、前後にないがな。房子(坊守の名)はあれが因で死によつた。」と老僧は此處まで話して、ホツと息を吐いた。其の眼には涙があつた。
「それからどうしたんです。」と、私は少し性急に間うた。
「まア待つとくれ、ゆつくり話しするがなア。」
と、老僧は例のずんど形の吸口の煙管で、ゆるゆる一服吸ひ付けてから、
「XXさん、あんなもんかなア、今の若いもんといふもんは。……親のきめた縁談が不承知ぢやなんて、滅相な。」と老僧は驚いた顏をした。
「それはさうでせう、あなたの女房ぢやない、天南さんの女房でせう。人間は品物ぢやないから、さう勝手に行きませんよ。」
「勝手ぢや?……怪しからん、親が子の嫁をきめてやるのが、何んで勝手ぢや。」
「あなたは家の中に電燈を點けても、頭の中に行燈をとぼしてるからいけない。何百年も昔しの人だつて、さういふ場合には、一應本人の了簡を訊いてからと挨拶して、親の一存で子の縁談は決めなかつたものでせう。況して今時そんな乱暴な。」
「全體あんた等が、そんなことを言うて、若い者にけしかけるからいかんのぢや。まア聞いとくれ。……」と、言つて老僧は語り續けた。──
天南の行方は、其の後一と月ほども分らなかつた。ところが、少女歌劇で名高いあの寶塚の山の上に、無住の庵室があつて、荒れ放題に荒れてゐたが、諸國慢遊の旅畫師が來て、暫らく其處を貸して呉れと言つたので、村人はどうせあいてゐるのだから、火の用心さへ氣を付けて呉れるなら、入つてもよい。しかし雨が漏らうと床が腐らうと、手入れは出來ない。それから幾ら壞れてゐようと、腰板なんぞ剥がして、焚きものにすることはお斷りだと念を押して旅畫師をその庵室に住はせた。旅畫師は可なりの畸人で、いろいろの變つた動作が村人を驚かしたが、別に害にもならないことなので、皆笑つて見てゐた。
この振書師と天南とは何時のほどにか交りを結んでゐた。それを老僧は少しも知らなかつたので、少女歌劇とやらを觀に行くと言つて時々寶塚の方へ出かける天南をば、それも女欲しさの物好きと睨んだから、一目も早く家内を持たせるに限ると思つて、老僧の眼にも十人並を少し優れたあの娘なら、無斷で宛行つても喜ぶことと思ひの外、祝言の盃の間際を脱け出して、山の上の荒れた庵室に旅畫師をたよつたのであつた。
若しやと思つて、老僧は寺男に寶塚の方を探させたのであつたが、山の上の庵室へまでは氣が付かなかつた。もう死骸になつて、何處かで腐つてゐるのではないかと、老僧よりも坊守りが悲嘆の涙にくれてゐたが、生死一如と觀念瞑目して、老僧は疎らな腮髯を扱きつゝ、新たに養女となつた絹子をば、生みの娘のやうに可愛がつてゐた。
其のうちに漸く、山の上の荒れ庵室に、旅畫師と二人で自炊をしてゐるといふ天南の消息が判つたので、なまじひ他のものが行つては、また奥深く取り逃がすといけないと思つて、天氣の好い日、老僧が草履穿きで、杖を力にとぽとぼと山を登つて行つた。庵室の屋根はつい其處に見えてゐるのに、いざ辿り着くまでの細路がなかなか遠くて、石經斜なりといふ風情があつた。もう三月ではあつたが、山懐には霜柱が殘つてゐた。
久しく喘息の氣味で惱んでゐた老僧は、屡々絶え入るばかりの咳をして、里を見下ろす高い徑で杖に縋つて息んでゐた。其の咳の響きが庵室まで聞えたか、破れ戸が少し開いてまた閉つた。漸くに庵室の門まで辿り着くと、扉のなくなつた屋根の下には、樵夫が薪を積み上げて、通せん坊をしてゐたが、徑は其の脇の土塀の崩れたところに續いて、其處から人の往來する痕があつた。
戸の開つてゐる玄開へかゝつて、「頼まう」と呼ぶと、内郡でごとごとする昔がして、頭髮が肩まで伸ぴて垂れ下つて垢だらけの男が、汚れくさつた布子の上へ、犬の皮か何かで拵へた胴着のやうなものを羽繊つて、立ち現はれた。其の額には山伏のやうに兜巾を着けてゐた。これが旅畫師であらう、成るほど妙な男ぢやわいと思つて、老僧は何氣なく、畫家の香雲さんといふお方にお目にかゝりたい。わしはかういふものぢやがと、古帳面の端を切つて拵へて來た「願念寺住職橋川降法」と、大きく書いた手札を渡すと、「文人畫の香雲はわしぢやが、まア上りたまへ。」と、横柄なことを言つた。隨分老けては見えるけれど、まだ三十に足らぬ若造で、老僧は何糞ッと思つたが、腹を立てた爲めに天南を隱されると困ると考へたから、「御免下さい」と丁寧に會稗して、朽ちた式臺から上りかけたが、兎ても足袋では歩けるところでないので、一旦脱いだ草履をまた穿いて、塵埃だらけの中へ入つて行つた。見れば其の旅畫師はガタガタと日和下駄で破れ畳の上を歩いてゐるが、ところどころ雨漏りがして、畳から床板まで腐れ拔けた大きな穴から青々とした笹の葉が勢ぴよく伸ぴてゐた。それでも佛間になつてゐる一番奥には、破れながらも、畳が滿足に敷かれてゐて、經机の上に筆や紙もあり、傍には香雲と名乘る其の旅畫師の描いた山水だの蘭だのが、取り散らかつてゐた。まんざら下手でもないそれ等の畫を見て、老僧は少し感心しかけた。
丁寧に初對面の挨拶をしても、香雲は相變らず横柄に頷いてゐたが、やがて、「天南といふものが先生のお世話になつて居りますさうで、あれはわしの長男ですから、寺を相續する身分ぢやで、一應お歸しを願ひたい。と、老僧に取つては、殆んど生れて初めての慇懃さで言ふと、香雲は「ふゝん」と笑つて、「あれはお前の倅か。と言つた切り、ヂツと老僧の額を見詰めてゐた。ほんたうならごりがんをきめ込みたいところを、老僧はなほも患を殺して、俯向いたまゝでゐた。次の間で草履を脱いで、破れ畳の上に坐つてゐるのだが、唯一つの火鉢は香雲が自身に抱へ込んで客には煙草盆も座蒲團も出さない。
「どうか天南に逢はして頂きたいので。と、なほも泣き付くやうに言ふと、香雲はうるささうにして、「天南、……天南。」と、佛壇の方に向つて呼んだ。すると何を入れる爲めなのかと先刻から思つて見てゐた佛前に据ゑてある二つの長持の一つの方の蓋が、むくむくと動いて、「現はれ出でたる……」と、義太夫の節で唸りながら、長持の蓋を兩手に差上げつゝ、藁屑だらけの姿を見せて、大見得でも切りさうな樣子をしたのは、疑ひもない天南であつた。しかし、瞳を定めてよく見るまでは、全くそれと分らぬまでに、僅かの月日は彼れの樣子を變り果てたものにしてゐた。
まるで狂人ぢやと、其の時老僧は思つて、我が子ながらも氣味わるく、恐ろしくて、何んともいふことが出來なかつた。
「XXさん、よう聞いとくれ、わしは其の時、何の涙か知らんが、ぼろぼろと頬を傳うて涙が流れた。ほんまに。と老僧は兩眼に涙をいつぱい溜めて此處まで語つた。 

 

それ以來天南は全く變つた人間になつて了つた。時々ひよつこりと寺へ歸つて來るが、默つて戻つて、默つて飯を喰つて、默つて寢て、默つて歸つて行くことが多い。香雲の弟子になつて、文人畫の眞似事が出來るので、寺へ歸つて來た時、襖へ筍を描いたり、茘枝を描いたり、それに小生意氣な自贊をして行つたりした。
嫁に貰ふ筈で養女にして了つた娘は、其の後縁あつて、兵庫の寺へ片付けたが、西派の有福な門徒寺で、願念寺の坊守になるよりは仕合はせであらうと、老僧は漸く重荷を卸した氣になつたが、それにしてもあの優しい、素直な、氣だてのよい娘を、どうして天南が嫌つたのか、まだ兵庫へ片付かぬ前、山から歸つた天南に娘が挨拶をしても、天南は横を向いてゐた。
「XXさん、天南は不具者ぢやないかと、わしは思ふのぢやが、あんたはどう考へる。と、
老僧は舶場の宿で長話の末にさう言つて、こくりと首を傾けた。首を傾ける度に、骨が可なり大きな音を立てて鳴るのが、老僧の昔しからの特徴で、右に左に、首振り人形のやうにすると、骨がコトンコトンと鳴つた。それが老僧には按摩の代りにもなつたのである。
精紳的に不具なのか、肉體的不具なのか。私は其の天南といふ男を少し研究してみたいと思つた。小學校へ通つてゐる頃の天南を、私は薄く覺えてゐるけれど、其の後どんな男になつたか、私は全く知らない。それで其の日は先づそれきりとして老僧に別れたが、いづれ二三日のうちに願念寺を訪ふ約東をして置いた。さうして老僧と二人で、山の上の荒れた庵室に、香雲といふ旅畫師と天南とを見に行くことに定めた。
天南には弟が二人と、妹が二人とあるけれど、次ぎの弟は小學校も卒業しないで、諸國を彷徨うた末、今は滿洲に居るさうで、もとより住職を繼ぐ資格もない。季の弟は不如意な寺の財政の中から、無理に中學校へ通はしてあるけれど、これは何時物になるやら分らぬ。女の子の姉の方は或る山寺の梵妻になつて、生れた寺を省みることも尠く、十九になる其の妹が老僧の世話を一手に引き受けてゐるのである。天南の家出から落膽して病み付き、藥も碌に服まずに死ん
だ坊守房子の一週忌が、もう間もなくやつて來ると言つて、老僧は鼻を詰まらせてゐた。
「わしは肉身の縁が薄い生れぢや。」と、諦めたやうに言つて、私の宿から歸つて行く老僧の後姿を見てゐると、初夏の青々とした世界にも秋風が吹いてゐるやうで、いかつた肩には骨が露はに突つ立つてゐる。
約束の日は朝から好く晴れてゐた。船場の宿の座敷から眺めてゐると、梧桐の梢の青々としてゐる庭越しに、隣りの家の物干臺が見えて、幅一寸に長さ五寸ほどの薄い板が、●(魚扁に旁が及:めざし)のやうに細繩で繋いで、ドツサリ乾してあつた。あれは何んだらうと、私は先頃から度々考へたが、どうも分らなかつた。老僧にきくと、せゝら笑つて、「まアよう考へてみなされ。分らんことは苦心して知る方がえゝ。と、ごりがんの本性は違へずに、肩をいからして言つてゐた。
それ切り其のことを忘れてゐたが、今日はまた早くから、麗はしい朝日に照らされて、其の黄色い薄板が、●(魚扁に旁が及:めざし)のやうに乾してある。柔かい新緑の風は、こんなに市塵の深い瓦の上へも吹いて來て、乾された簿板が、搖々と動いてゐる。今日こそあれが何であるかを確めたいと思つて、私は欄千の側まで出て、伸べ首をしてゐたが、見れば見るはど、あんな木の端のやうなものを、どうしてあゝ大事にするのかと、それが分らなくなつた。掃除に來た女中に向つてきかうかと幾度か思つたけれど、老僧の言つたやうに、自分で考へて知つたのでなければ値打ちがないやうな氣がして、頻りに智慧を絞つたが、どうも分らない。
膳部を運んで來た女中にきかうとしては、何だか老僧の言葉を反故此にするやうに思はれ、この些細なことが俄に大事件の如く考へられて來て、私は輕い悶えさへ感じた。
「姉さん、あれ何んだね。彼處に干してあるあれ。」と、私は到頭思ひ切つて、隣家の物干臺を指さした。食事が濟んだので、茶をいれかけてゐた女中は、其方を振り向いて、「あれだツか。」と氣のない返事をしたが、「くし(櫛)でひよう。」と、事もなげに言つた。しかし私はまだ分らなかつたのである。くしをば串と解した私は、あんな幅の廣い串があるものか、事によるとこれからそれを細く割つて串にするのかも知れないが、それにしては短か過ぎるし、それに串は大抵竹ときまつてゐるのに、あんな本で串を拵へてどうするのか、團子の串にでもなるのであらう。けれども昨日からちよいちよい見るところでは、あれを扱つてゐる人が串にしては少し丁寧にやり過ぎてゐると思つて、私は不審の首を傾げてゐた。女中が膳部を下げてから、私はまた欄干の側へ出て、更に其の●(魚扁に旁が及:めざし)のやうな簿板が徴風に搖々してゐるのを眺めてゐたが、どうも串とは受け取れなかつた。
初夏にしては冷かな朝風が吹いて、宿の褞袍も重くはなかつた。串の疑問がどうしても解けないまゝに、私は褞袍を袷に着更へ、袷羽織を引ツかけて、ブラリと外へ出た。行く先きはもとより願念寺であつた。
客の込み合大きな郊外電車から、痩せ衰へたやうな小さな電車に乘り換へると、相客は多く草鞋穿きの道者連であつた。牡丹畑の見える村を過ぎて、縞のある大きな蛇の出さうな藪の間を通り、溪流に架けた危ツかしい橋を渡ると、眼の前に一帶に貧乏村が開けて馴染の深い願念寺の二重屋根が右手の方に見えた。電車を下りると、畑道が細くうねつて、絲のやうに願念寺へ續いてゐる。土が其のまゝ人になつたやうな農夫に、三人に行き逢つたが、無智と蒙昧との諸相に險惡を加へて、ヂツと私を見る濁つた眼が凄いやうである。最も多く天地の愛を受けて、自然の惠に浴することの多い人たちが、どうしてあんなに嶮しい顏になるのであらうか。私は田園に出る度に、土と親しみつゝ働く人々の姿を見て常にさう思ふのである。路傍の麥の穗は、丁度笛を作るのに頃合ひなほど伸ぴてゐた。
願念寺の庫裡の入口に立つと、足音を聞き付けたらしい老僧の聲で、早くも「ずツとお上り」と言つた。庫裡の一室は畳が破れて、自然木の大きな火鉢が置いてあつた。老僧は黒い布子の上に黄色いちやんちやんのやうなものを着て火鉢の前に端然と坐つてゐたが、幾ら心易い中でも、禮儀は禮儀だと言つたやうな顏をして、丁寧に挨拶をした。
「今日はあんたの案内で、山登りをせんならんと思うて、少し心配してたら、それに及ぱんことになつた。えてもんが向うからやつて來よつた。まるで出山の釋迦や。と、老僧は茶を淹れながら言つた。すると突然横の方の破れ障子の蔭から轉げ出すやうにして、一人の男が現はれた。
「天南です。お久しおます。」と、莞爾々々してゐる其の面ざしは、どうしても坊主顏であつた。頭髮も短く刈り、着物もさッぱりして、出山の釋迦といふ姿は少しもないのみか、親の老僧が殆んど骨と皮とに痩せてゐるのに比べて、これはデクデクと肉付きがよかつた。
「君は畫を習つてるんですか。」と、私が間ひかけると、「えゝ。……これが東京でいふしやれといふ、もんだツせ、解りまツか。と、北叟笑ひをした。
別にさう大して畸人とも變人とも思はれないで、後家の質屋にでも鑑定の附きさうな田舎坊主であつた。
「君は女嫌ひだツてほんとですか。」と、私はまた問ひかけてみた。
「さア、どう見えます、あんたの眼では。」と、天南は澄まし込んでゐた。あの張り切つたやうな體格から考へても、女嫌ひでは通らなさうなのに、或は身體が不具ででもあることかと、私は一種の痛ましい感じに打たれながら、天南の樣子を見詰めてゐた。
「また山へ歸るんですか。」
「えゝ。これはしやれやおまへんで。……下界は厭やだす。けどなア、飯だけは下界の方が可味いので、時々喰ひに來たりまんね。飯さヘなかつたら下界に用はない。」ど言ひ言ひ立つて天南は臺所の方へ行つて了つたが、それきりもう姿を見せなかつた。老僧は何時の間にか鼻の先きに汗を浮べて、ヂツと拳を握り詰めてゐた。 

 

それ以來、私は老僧に逢はなかつた。もう一度大阪の宿へ尋ねて行くかも知れないといふことであつたから、二三日心待ちにしたまゝで、東京へ歸つて了つた。
この最後の對面の時、老僧は蟲が知らしたとでもいふのか、「XXさん、わしが死んでも時々は思ひ出して呉れるやろな。思ひみ出す種にこれを一つ進ぜよう。」と言つて、朱●(土扁に旁が尼:でい)の急須を一つ呉れた。地肌が澁紙のやうに皺を見せた燒き方なので、老僧は澁紙●(土扁に旁が尼:でい)ぢやなぞと言つてゐた。
歸りに京都で宇治の新茶を買つて、早速其の澁紙●[土扁に旁が尼]の急須で淹れて飮んだことを、老僧に知らしてやると、「澁紙はうい奴にて候、仕合はせな奴にて候。貧衲はまだ新茶に縁なきに、彼れは早や其の香味を滿喫し居る由、舊主人も爾の幸運を喜んで居るとお傳へ丁され度候喉。といふ葉書が來た。老僧はまだ宋●(土扁に旁が尼:でい)、紫●(土扁に旁が尼:でい)、鳥●(土扁に旁が尼:でい)といろいろの急須を有つてゐて、それに取つかへ引つかへ粗末な茶を淹れて愛翫してゐたやうであつたが、子に縁が薄いので、急須をば子のやうに思つてゐたのかも知れない。
今年の一月に年始状を出して置いたが、先方からは何んとも言つて來なかつた。昨年の正月だつたか、骸骨の畫を書いた上へ、「ごしごしとおろす大根の身が滅りて殘りすくなくなりにけるかな」とした老僧の葉書が、多くの「謹賀新正」の中に混つてゐたのを思ひ出して、私はいよいよ大根が摺り減らされたかと、哀はれに思つてゐたが、一月も末になつてから、子供の字で「賀正」としたのが老僧の名で來た。さうして其の次ぎの日に、苦惱の痕のまざまざと見られる調はない字で、「世間並の流行感冒に罹つかつて漸く命は取り止めたり、それも束の間、肺がわるうなつて、旦夕に迫る」とした葉書が來た。偖こそと私は折り返へして、「何か喰べたいものでもあれば、還慮なく言つて來て下さい。直ぐ迭ります」と書いてやると、一週側ほどしてから、矢張り苦しさうな筆蹟で、「折角の御意、差し當り何も欲しいものはなけれども、流星光底長蛇を逸してはと、一日一夜考へ通した末、鮒の雀焼きを所望いたす。成るべく小なるがょし。それから寒夜頸筋の寒きに惱む。お女房の肩掛の古いのがあつたら一つ惠みたまヘ。頸卷き一つにも不如意な貧衲の境界を御身は如何に觀る。當より得る快さは曾つて知らねども、世貧より味ふ樂みは五十八年來嘗めつくしたり。……」として、まだ何か書きたかつたまゝで、筆を投げたさまが、葉書の餘白に現はれてゐる。表の宛名は例の子供の字であつた。
そこで私は、早速千住まで鮒の雀燒きを買ひにやつて、毛絲の肩掛けとともに迭つてやつた。すると直ぐ、「うまいあたゝかい、うれしい」と書いた苦し氣な葉書と、「鮒の雀燒を喰ふと、また雀の鮒燒きが喰ひたくなつた。隴を得て蜀……」と、これは中途で切れたながら、割合に元氣らしい字の葉書とが二枚一所に來た。
雑司ケ谷の鬼子母神へ行つて、雀の燒とりを買つて來て送つてやらうかと思つてゐるうちに、三月となつて、私は新らしい筆を起さなければならぬ長篇の準備に取りかゝつて、暫らく老僧のことを忘れてゐると、
「ごりがん事……永劫の旅路に」といふ天南からの訃報が來たのであつた。早速天南に宛てて、香料を途つておいたが着いたか、着かぬか、それさへ分らない。
近頃になつて上國から來た人の又聞の話に據ると、老僧の遣骸は滿洲に居る次男が歸つて來るまで、其のまゝにしてあつたが、次男のところがなかなか知れなかつたので、歸り着くまでに半月の餘もかゝつたといふことであつた。
(大正九年)  
 
神前結婚 / 嘉村礒多

 

(かむらいそた 1897-1933) 小説家。山口県生まれ。葛西善蔵に師事。「業苦」で文壇に登場、劣等感と自虐性にみちた私小説で知られる。代表作「途上」「崖の下」「神前結婚」。  
「お父さん、やはり私は、村の停車場からだと、村の人に逢ふのがイヤですから、恥づかしいですから、朝早く隣村の驛から發ちたいと恩ひますね。それで自動車を六時には迎へに來るやうに頼んで貰ひたいのですが」
父母の家に歸つてから二週間餘の日が經つた。一旦はユキを父母に預けようとの固い決心だつた。お互に孤衾孤眠の淋しさぐらゐ此際ものの數ではなかつたが、でも、自分に難治の病も持つてゐることだし、ユキ無しに自分は斯うしてここまで生きて歩いて來られたかしら? ユキは私にとつて永久にかけ換へのない女である。兎も角、も一度ユキをつれて明後日はいよいよ再び東京へ引き上げようとする日の朝飯の折、ユキが座を立つて皆のお膳を水口に退げ出した時、私は父に向つて言つた。「うん、そや、われが考へなら…」と、父は俯向いて舌で歯の間をチユツチユツ吸ひながら穩かに言つた。
「村の驛から行けや、何も盜ツとをして夜逃げしたわけぢやあるまいに、そねに逃げ隱れんでもええに」と、母が顏を上げて言つた。
盜ツとをして夜逃げしたのと、妻子ある三十近い男が餘所の女と夜逃げしたのと、面目玉にどれだけの違ひがあらうか! 私がユキと逐電してから離縁になつた先妻との結婚の翌々年に一人で東京見物に行つてゐて大震災に遭つて歸つた時は、部落では一軒殘らず喜びに來てくれた。だが、此度は私の仕打も仕打だし、それに父の家産も傾いて嘗ての飼大にまで手を咬まれてゐるやうな慘めな現在では何や彼と振り向くものもない有樣であつたが、それでも舊恩を忘れない人達が私が八年ぶりで歸つたといふので手土産など持つて挨拶に見えた。その都度、あわててユキを茶の間から奥へ隠し、續いて、合はす顏のない私も一と先づは隠れなければならなかつた。
逗留ちゆう私は事短に父母への不平不滿を色に出し口に出した。殊に生來仲らひの惡い母に對しては、私は持前の隔て心を揮り廻したが、しかし、親なればこそ、不孝の子、不名譽の子を、他人が眼で見るやうに不孝とも不名譽とも思はないのであつた。それなら親の御慈悲に恐れ入つたかと言へば、さ迷ひの子は、依然、さ迷ひの子に過ぎない。糞尿まで世話のやける老耄した九十の祖父、七十の父、五十六の母、先妻に産ませた明けて十四歳の松美──これだけを今まつしぐらに崩潰しつつある家に殘して到底蓮命の打開は覺束ない小説家に未練を繋いで上京するといふ私の胸中は、およそ説きやうのないものだつた。頻りに家にとどまれといふ父の心づくしを無下に斥ける以上、いろいろ作家稼業につき問ひ詰められて何んとか言つて父を安んじたいが、ウソも誤魔化しも、この年になつては言へなかつた。
「ご老體のところを濟みませんが、どうかアト一二年、長くて三年、家を支へてゐて下さい。どうしても駄目なら見切りをつけますから」と言へば、父は「うーむ」と唇を結んで私を見、父子は憮然として話が跡絶えるのだつた……
食後、父と私とは茶の間から臺所へ出、そこの十疊からの板の間の圍爐裏の自在鉤にかかつた五升入の鐡瓶の下に木ツ端をくべ、二人とも片膝を立てて頭を突き合せ默りこくつてゐた。
「村の驛から乘れえ。ユキさんぢやて、ええ着物を持つとつて、誰が見ても恥ぢになる支度ぢやない」と、母は炊事場の障子を開け濡手を前垂れで拭きながら座に加つた。
「お父さん」と私は一段聲を落した。「いづれユキを家に納めるとなれば、披露といふわけではないが、地下の女房衆だけでも招いて顏見せをして貰へませんでせうか?」
「そや、まア、オラ、どうにでもする」
私は眼で母を追掛けたが、母は答へなかつた。父の顏にも明かに迷惑げな表情が漂うた。去つた先妻への義理、親族への手前、何より一朝にして破壞し難い古い傳統、さうした上から世間體はただ内縁の妻として有耶無耶に家に入れたい兩親の腹だつた。
「茶飲友達ちふふうにしとかんかい。家の血統にかかはるけに。先先松美の嫁取りにも、思ふ家から來て貰へんぞい」と母が言つた。
私は口を噤んで項低れた。暫らくして緩い怒りに充たされた頭を上げて、怨めしさうに父を見ると、父は腕組みを解いて語気を強めて言つた。
「まア、時機を待て待て。この次に歸つた時にせいや。…おい、机の上の眼鏡を持つて來い」
母の持つて來た老眼鏡を耳に挾むと、父は手早く柱の暦を外し眞赤に燃える榾火に近よせた。
「一月十五日ぢやのう。さすればと……」と、太い指で暦の罫を押へて身體を反らし眼尻を下げて透かすやうにして「……先勝日か、よし、日は惡うない。そんぢや午頃から妙見樣に參るとせう。オラ、何かちよつぴり生臭けを買うて來う」
言ひざま父は元氣に腰を立てた。ついでに信用組合の出張所で精米をして來ると言つて、股引を穿き、ぢか足袋を履き、土蔵から米を一俵出し、小車に載せて出て行つた。
そこへ、先生が闕勤されて早びけだつたと、もう松美が歸つて來て學校鞄を放り出し、直ぐ濡縁の開戸の前にキユーピーを並べ立たせて私を呼んだ。
「父ちやん、キユーピー射的をやらう」
「やらう」
キユーピー射的といふのは、ユキが銀座の百貨店で買つて歸つた子供への土産だつた。初めはチヤンチヤン坊主とばかし思つてゐたが、よく見るとメリケンで、それ等七人のキユーピー兵隊を鐡砲で撃つて、命中して倒れた兵隊の背中に書いてある西洋數字を加へて、勝ち負けを爭ふやうに出來てゐた。一間の聞隔を置いて、私と子供とは代る代る縁板に伏せ、空気鐡砲の筒に黒大豆の彈丸を籠めては、鐡砲の臺を頬ぺたに當ててキユーピーを狙つた。
「松ちやん、何點」
「將校が五十點、騎兵八點、ラツパ卒十九點……七十三點」
「よしよしうまく出來た」
私が歸郷當座は、極端に數理の頭腦に乏しい松美は尋常六年といふのに、こんなやさしい加算にも、首を傾げて指を折つて考へたものだが、私の鞭撻的な猛練習でそこ迄でも上達させたのだと子供のために喜び、せめて心遣りとしたかつた。それにつけても、餘りにもユキとの營みにのみ汲々としないで、子供を東京につれて行き學業を監督してやるのが親の役目だと思ひ、殆ど一度はさう心を定めたが、子供を奪はれた後の年寄のさびしさを慮り、且つ、自分の生活境遇とカで併せ考へて取消した。東京へ行きたくて堪らない子供は「父ちやんの言ふこたア、當にならん當にならん」とすつかり落膽して二三日言ひつづけた。今の今まで、子の愛のためにはどんな犠牲をも拂はう、永年棄て置いた償ひの上からもとばかり思ひ詰めた精神の底の方から、隙間の小穴ふいごから、鞴のやうなものが風を吹出して呵責の火を煽るのであつた。
「ああ疲れた。父ちやんは休ませて貰はう」
私は居聞の炬燵に這入つて蒲團を引き掛け寢ころんだ。もう二月號創作の顏觸れも新聞の消息欄に出たのだらうが、定めしみんな大いに活躍してゐるだらう、自分などいつそのこと世を捨てて耕作に從事しようかしらと、味氣ない、頼りない心でぽかんと開いた空洞の眼をして、室の隅に積み重ねてある自分達の荷物の、古行季、バスケツト、萌黄色の褪せた五布風呂敷の包みやを見てゐた。
「父ちやん、ハガキ・…」
仰向けのまま腕を延べ、廻迭の附箋を貼つたハガキを子供から受取り裏を返すときやツ! と叫んで私は蒲團を蹴飛ばして跳ね起きた。
「おい、ユキは何處に居る、早く來い、早く來い」と喚き立てながら臺所へ走つて行つた。「おい、何處へ行つた、早く來い、早う早う」
只ならぬ事變が父の運命に落ちたと思つたのか、子供は跣足で土間に下り「母ちやん、母ちやん!」と二タ聲、鼓膜を劈くやうな鋭い異樣な聲を發した。途端、向うに見える納屋の横側の下便所からユキが飛び出し、「父ちやんが、どうしたの」と消魂しく叫んで駈け寄つて來て臺所に上ると、私は、「これを見い」とハガキをユキの眼先に突き附けた──御作「松聲」二月號のXX雜誌に掲載する事にしました、御安心下さい──といふ文面と、差出人の雜誌社の社長のゴム印とを今一度たしかめた刹那、忽然、私は自分の外に全世界に何物もまた何人も存在せぬもののやうな氣がした。私は「日本一になつた!」とか何んとか、そんなことを確かに叫んだと思ふと、そのハガキを持つたままぐらぐらツと逆上して板の間の上に舞ひ倒れてしまつた。後後は、野となれ山となれ、檜舞臺を一度踏んだだけで、今ここで死んでも更に恩ひ殘すところは無いと思つた。暫時の間、人事不省に陷ちたが、氣がついて見ると、ユキも私の傍に崩れ倒れて、「ああ、うれしいうれしい」と、細い長い長い咽び入つた聲で泣き續けてゐた。目前の活劇に、ただ呆氣にとられた子供は、その場の始末に困つて、「祖母さま祖母さま」と、母を呼んだ。
母が裏の野菜圃から走つて戻つて、
「あんた達、何事が起つたかえ」と仰天して上り框に立疎んだ。
忘我から覺めて、私は顏を擡げると、私の突つ伏した板の間は、啜り泣きの涙や洟水や睡液でヌラヌラしてゐた。
ユキが眼を泣き腫らして母の傍へ行つて仔細を話した。
「そんぢや泣くこたない。わたしら何か分らんけど、そねいめでたいことなら泣くこたない」と、母は眼をきよとんとさせて言つた。
「早くお父さんに知らせて上げたい。松ちやん迎へに行つて來い」
斯う子供に命じて置いて私とユキとは居間に引揚げた。「おお、びつくりした、松ちやんの聲がしたので、あなたがまた腦貧血を起したのかと思つて」とユキは手で胸を撫でて言つた。「ほんとに、たうとう出ましたね」
「ああ、出てくれた!」
二人は熱い息を吐き改めて机上のハガキに眼を移して、固く握手し、目にたまる鹽つばい涙をゴクリゴクリ呑んだ。さうしてゐる間に、いつしか私は自然と膝の上に手を置き項を垂れて、自分の貧しい創作を認め心から啓導の勞を惜しまなかつた先輩や、後押ししてくれた友達の顏やをいちいち瞑つた眼の中に浮べ、胸いつばいの感恩の念で報告してゐた。
「このハガキは十一日附のものだから、電報で御禮を言つて置かなければ……」
「ぢや、わたくし行つて參りませう」
「でも、郵便局まで三里もあるんだし、女の足にはちよつと……よろしい、淺野間の吉三をやらう」
取るも取り敢ず母に頼むと、母は二丁ばかし隔つた山添ひの小作男の家に行き、慌しく取つてかへして家の前の石垣の下から、「吉三は炭燒窯に行つちよるが、晝飯にや戻るけに直ぐ行かすちふて、お袋が言うたいの」
そして續けて、「お父さんが、向うに戻れたぞい」と言つた。
私とユキとは縁側に出た。左右に迫つた小山も、畑も、田も、悦びに盛り上つて見えた。高い屋敷からは父の姿は見えなかつたが、杉林の間の凸凹した石塊路をガタガタ車輪が躍つてゐる音が、清澄な空氣の中に響いた。と母は、埃だらけの髮の後にくくつた手拭の端をひらひら靡かせながら、自轉車を押した松美と並んで車を挽いた父に、林の外れで迎へ着いた。父と母とはちよつと立ち話をしてゐたが、直ぐ母は小車の後を押し、首に手拭を卷いた父は兩手で梶棒をつかみ、こつちに藥鑵のやうな頭のてつぺんを見せ、俄に大股に急ぎ出した。梶捧の先には鰓に葛蘿を通した二尾の鮎がぶらんぶらんしてゐた。
屋敷前の坂路を一氣に挽き上げた父は門先に車を置きつ放すが早いか、手拭で蒸氣の立つ頭や顏を拭き拭きせかせかと縁先に來て、「えらう立身が出來たちふぢやないか」と、相好をくづした輝いた笑顏で問ひかけた。
私は一伍一什を掻いつまんで話した。呼吸がせはしくなり、唇も、手もふるへた。思ふやう喜びが傳はらないのをユキが牾しがつて横合から、
「お父さま、ほんたうに喜んで下さい。大そうな立身でございますの。これで、ほんとに一人前になられましたから」と、割込むやうにして話を引き取つた。
私は口をもぐもぐさすばかり、むやみにそはそはして、何んだかひよつとしたら小説が組み置きにでもされさうな豫感がして、私はそれを打消さうと三度強く頭を振り、無性に吉三が待ち遠しく、
「松ちやん、淺野間のお袋に炭焼窯まで大急ぎで呼びに行くやう吩附けて來い。愚圖愚圖してるなつて、大至急の用事だからつて」と權柄がましく言つた。
瞬く間に、松美が自轉車を乘りつけると、お袋はあわてたやうに背戸の石段を下りて川の淺瀬の中の飛石を渡つて麥田の畦を走り、枯萱の根つこにつかまつて急勾配の畑に上り、熊笹の間をがさがさ歩いて雜木山の中に消えたのを、ぢいつと私は眼を放さずに見てゐて、何かぐツと堪へ難いものが心を壓へた。間もなくボロ洋服を着て斧をさげた吉三が、息せき切つて家に駈けつけた。
「お仕事中をお呼び立てして、どうもお氣の毒でした。あなたは電報を打てますね?買は非常に大事な電報なんでしてね」
「はあ、よう存じてをります」
「吉さんなら、間違ひないて。廣島の本屋へ二年も奉公しとつたけに」
と父の口添ひで私は安心し、ノートの紙片に書いた電文と銀貨二箇と、それから別に取り急いで毛筆でしたためた、御葉書父の家にて拜見致し感謝の外これなくお鴻思心肝に徹して一生忘れまじく候──といつた封書も一しよに渡して投函を頼んだ。吉三は軒下で子供の自轉車を股の間に挾み、スパナで捻子をゆるめてハンドルを引き上げ、腰掛けを引き上げして、片足をペタルにかけるとひらりと打跨つて出て行つた。
父は足を洗つて居間に來、私とユキとに取り卷かれて、手柄話の委細を重ねて訊ぎ返した。
「そんで、そのXX雜誌にわれの書き物が出るとなると、どういふ程度の出世かえ?」
多少の堕落と疚しさとを覺えながらも、勢ひに釣られて私は頗る大袈裟に、適例とも思へないことを例に引いて説明した。  
「なる程、あらまし合點が入つた」
「ぢや、われ、この次に戻る時にや金の五千八千儲けて戻つてくれるかえ?」と何時の間に來たのか襖際に爪をかみながら立つてゐた母が突然口を出した。
「いや、途轍もない、さうはいかん。そりや松美の教育費とか、その他ホンの少額のことは時をりアレしますけど、そんな滅法なことが、どうして……東京でも田舎で食べるやうなものを食べて、垢光りに光つた木綿を着て、儉約して臆病にしてゐるからこそ暮せてるんですしね。私の場合は、ただ名譽といふ丈ですよ。尤も、お母さんの金歯だけは直ぐ入れて差し上げませう」
兩親を失望させまいとはするものの、もう斯うなれば、私は心の中を完全に傳へることは不可能だと思つて、暗い顏をした。
「よう喉入りがした。實はのう、われが東京で文士をしちよるいふので、オラ、川下の藤田白雲子さん、あの方も昔東京で文士をしとりんされたんで、聞いて見たところ、文士といや名前ばつかり廣うて、そやお話にならん貧乏なものやさうな。大學を出とりんさる藤田さんでも、たうどわしらう見限つたと仰言れた」
と父は瀬戸火鉢の縁を兩手で鷲づかみにして躊躇した後、
「……今ぢやから言ふがのう。われが東京へ逃げて行つた時、村の人が、どんだけわれがことパカバカ言うたかい。出雲の高等學校の佐川一太が文部省の講習會に行つたついでとやら、われが二階借りの煎餅店の女房に聞いたいうて、ユキさんに縫物をさせて一合二合の袋米を買うて情ない渡世しちよるちふて近所の衆に言ひ觸らし、近所の者ア手を叩いて笑うたそよ。おほかた、一太めが、煎餅の二三十錢がほど買うて女房から話をつり出したらうが、高等學校の先生ともあるもんが、腐つたヲナゴ共のするやうな眞似をして、オラが子の恥ぢを晒すかと思うて、その晩は飯も喰はず眠れんかつた。有體に言や、われを恨んだぞよ。そんぢやが、三年前われの名前が小學校の先生に知れてから、前程パカバカ言はんやうなつた。山上の光五郎ら、天長節の祝賀會で、親類の居る前で、われがこと字村の名折れぢやと言うたぞよ。治輔めが飲食店で人の多人數をるところで、家の下男がをるのに、聞いて居れんわれが惡口を言うたげな。何奴も此奴も人の大切な子を輕率にパカバカ言ふない、とオラ歯がみをしとつたが、近頃ぢやみんな默つた。今度も、名前がええ雜誌に出たら、われが事バカパカ言ふものも少なうならうて。オラ、それ丈で本望ぢや」
父の温和な顏には一入の嚴しさが寵つた。私は聞いてゐて恐ろしくなつた。嘗ての父が小つぽけな權力を笠に着て、端から見てさへはらはらするやうに、思ふ存分我意を振舞ひ、他人の子をバカバカと言つた、その報復を受けたのではないか! 私は骨まで痛むやうな氣がしたが、又自己だけの問題とすれば、如何にも降るやうな罵詈を浴びてゐたことは、私にも思ひ半ばを過ぐるわけなのに、それ程とは氣附かず、我身の至らなさは棚に上げ、やれ官立學校の背景がないとか、私學のそれもないからとか、先日來さんざん老父母に當り散らしたものだが、衷心申譯ないと思つた。「松聲」は愚作でも次の作品には馬力をかけたい、歸京したら夜學に通つて英語の稽古をして外國の小説を學んで手本にしよう、願徒然ならず、一心でやりますから、萬事いい方に向けるやうにしますから、と無言で父に詫びた。「われも、東京に行くに精がええのう。まア、よかつたよかつた。……どれ、オラ、魚を切らにや」みんな臺所へ行き、私の居間の炬燵にもぐつた。裏の池の水際で鯖を叩き切る音、膾にする大根を刻む音、ふつふつ煮える釜の飯、それらに混つて賑かな話聲が入り亂れ、やがて薄暗い勝手の隅から、少年の頃には、その、きゆツきゆツといふ音を聞いても口に唾を溜めた四角な押壽司を押す音が懐しく聞えて來た。
ユキが來て何か話に事を缺き、
「松井さんは、疾うに東京へお歸りになつたでせうね。わたし共二人で歸ると、小説が出たので、わたしも一緒に歸つたとでも思つたりなさらないでせうか」と言ひ置いてまた忙しい臺所へ去つた。
それで、ふと、私も松井さんのことを思つた。
──下關行の急行が新橋を過ぎた頃、これが郡會との別れかといつたやうに潤んだ眼で師走の夜寒の街街の灯を窓から眺めてゐるユキを、どう慰めやうもなく横を向いてゐる私の肩を叩いて、「やあ、Kさん」と馴馴しい聲がかかつて、私は顏を上に向けた。思ひもかけず、大賣捌所T堂會計係の松井金五郎さんが、八端織の意氣などてらを清て、マントの兩袖を肩にめくり跳ね、右手に黄色い布につつんだ細長いものを握つて立つてゐた。
「僕、東京驛で、上車臺で押されていらつしやるところをお見かけしましたが、同じ箱に乘れませんでした。どちらへ?」
「やあ、これは松井さん。僕等Y縣の郷里へ……あなたは?……九州、久留米、あ、さうですか。これはいいお件れが出來た」
立所に救はれたやうな朗かな氣持になつた。ユキとの一晝夜からの愁ひを抱いた汽車旅は迚もやりきれないものに思へてゐた矢先なので。私は遽に快活になつて、きよろきよろと松井さんの持物に眼をくれた。
「それは何んですかね?」
「軍刀です」
「ほ、軍刀?」と、私は五體を後に引いて眼を丸くした。「ええ、その、僕、豫備少尉でしてね。滿洲の方ではのがれましたが、南方の戰では足留めを喰つてましてね。しかも、今日明日もあやしい状態で、それで、年越しに田舎へ行くにも、腰のものはちよつと離せませんでしてね。ハハハハハ」と、淺黒い顏の愛矯のいい目に皺を寄せ、漆黒の髮をきれいに梳けた頭を後に振り反らして笑つた。
「ちよつと私に見せて下さいませんか、軍刀といふものを」
私は手を出して軍刀を松井さんから引き取り、包みの紐を解き、鮫皮で卷いてきらびやかな黄金色の鋲金具を打ち附けた握り太の柄にハンカチを握り添へて、膝の上で六七寸ばかり抜いたが、水のしたたるやうなウルミが暗い電燈にぴかツとし慄然と神經が寒くなつて、直ぐ元通りにして返した。
座席のそつちでもこつちでも戰爭の話がはずんでゐて、列車内の誰の顏にも戰時氣分の不安の色が漲つてゐた。少時、私達も戰爭の話をした後、松井さんが先頭に立つて三人は食堂へ行つて紅茶を飲んだ。松井さんは文學が好きで、私の短い自敍傳小説も讀んで下さり、また私が毎月同人雜誌の集金にT堂へ行く關係で親密の度を加ヘ、かなり昵懇の間柄であつた。
「Kさん、何年ぶりです」
「まる八年、足掛け十年目ですよ」
「長塚さんなんか、大阪の新聞の懸賞小説で一等當選して羽前の郷里に歸省なすつた時は、村の青年團が畑の中から花火を上げたさうですよ。Kさんも、花火が上りませう」
言つてしまつて松井さんは、私の頭を掻く顏を見て、氣の毒したといふ表情をした。
「Kさんの場合は本當に困難ですね。長塚さんへ會ふたびにさう言つていらつしやいますよ」と松井さんは言ひ直したが、後に繼ぐ言葉はなかつた。
「……時に、松井さん、私もいろいろ考へたんですけれど、松井さんだからお打ち明けしますが、私もいよいよ都落ちの準備ですよ。今年なんか一ケ月平均原稿料としては八圓弱しか入りませんでした。不足の分を補助してくれる人もありますが三十五にもなつた男が、そんなに何時までも他人に縋つてはゐられませんしね。翌日の食物があるか無いかも知らずに藝術を作つてゐたといふ人もありますが、そんなことを思ふと私のはまだまだ豐滿なる悲哀で恥づべきですけれど、しかし、實のところを申上げますと、私のはその勇氣が有る無いよりも作つても發表が出來ないのですからね。賣れないといふことには困りますよ。いや賣れなくても、心の持方一つで純粹な制作を樂しむことは出來ますが、かと言つて、筋道の通らん女はつれてるし、だんだん年は取るし、老後を想ふと身に浸みますね。それで、行き暮れぬうちに女を遮二無二兩親に引き取つて貰つて、僕は流浪の身にならうてんです。いづれにせよ早晩旗を卷くとしても、女が郷里にをれば都落ちの口實が設けいいし……松井さん、ずゐぶん私は卑怯でせう。笑つて下さい」と、私はわざと聲高にカラカラと笑つた。
「さうですか。それは奥さんはお淋しいですね……」松井さんはしみじみとしてゐた。が誰にも口外してないこの擧を、うつかり松井さんに喋つて長塚なんかに暴れたら嗤はれると思つたが、さすがに口留めは出來なかつた。
車室に戻つてからも妙に氣になつた。或は長塚は嗤ふどころか、寧ろ心を痛めはしないだらうか。名聲の派手な割合に心實は孤獨で、その一點には理解を持つてゐる私を、彼は立場や作風の餘りにも異るに拘らず、蔭日向なく私を推奬してゐた。秋前、ある大雨の日、私達の同人雜誌を廢刊すろか否かの會議が、銀座裏の喫茶店で開かれた時、長塚は敢然として廢刊説を主張した。
「この雜誌はX社のバリケーイドのやうに思はれる。廃さう、損だから」と、古參の或口利きが言つた。
「さうだとも。X社系の雜誌なんか、廢したはうがいい。K君なんかX社系の文士だといふので、何處へも原稿が賣れやしない。僕が、雜誌の名は言へんけど、どんなに頼んでやつてもX社系といふので通らん。てんで受付けん」と、長塚はズパリと言つた。
二十人からの一座の視線は一齋に、襟首まで赤くなつた私に集まつた。私は泣き出したかつた。色彩が古く非文明的だといふことで、私が細い産聲を擧げたそのX社の雜誌でさへ、公器とあらば致し方がない。この一年に一篇の創作を載せて貰ふことも出來なかつた。右を向いても、左を向いても、仲間はみんな一流雜誌に乘り出して行くし、私は今にも發狂しさうだつた。私は白分の小説をユキに讀むことを許さず、ユキも決して讀まうとはしなかつたが、戸惑つた私は以前とは變り、文壇の不平小言を女相手に言ふやうな淺間しいことをして、後では必ず自分の不謹慎を後悔した。「いいから、おつしやいな。わたしをつかまへておつしやるぶんは、石の地藏樣にものを言ふやうなもので、何も判りやしませんけれど、おつしやいな。それで氣持をさつばりさせた方がいいですよ。胸に疊んで置いて、鬱憤を人樣に言つたら、それこそ取り返しはつきませんよ」とユキは注意した。會合などに行く時出掛けにはユキが念を押して口枷を嵌めんばかりに忠告をし、夜遲く歸つて玄關を入るなり、「今晩は別段言ひ過ぎはしませんでしたね?」と訊き糾した。段段さうなつた擧句、私は思ひ決して、厭がる彼女を無理往生に納得させ、國もとへ預けることにした。私は××雜誌に先輩の紹介で七十枚からのものを送つてゐたが、歸郷間際に思ひ立つて六十枚の新作を描き暮れの二十二日に持込んで前のと差し替へ、前のは郷里で描き改めようと、原稿紙やペン先の用意をしてトランクに入れて來て、頭上の網棚にのせてあつた。
汽車は濱松へんを夜中の闇を衝いて駛つてゐた。
「あれが出てくれるといいですがね」と、ユキは言つた。
「出てくれるといいけれど、待てど暮せど出てはくれん」と、私は溜息を吐いた。
「もし、萬が一出たら、直ぐ電報で田舎へ知らせて下さいよ。一年でも二年でも待つてゐますからね。」
「しかしね、私のは時勢に向かんからね大概は駄目でせう。それは、あなたも分つてゐてくれますね。田舎者が、今日流行の、都會派や享樂派に似せようとしたつて似ないから。。……藝術は夫自身が目的で、人生の幸福を得るための手段と心得たら大間違ひだ。成功するための手段ではなくて、實に此一道より他に道はないから結果は分らぬが、たとへ虎が口を開いてても、大蛇が口を開いてても、此一道を行かにやならん、といふのが私の信念なんだから」と、私は握拳を固めてわれと自分へ極めつけるやうに言つた。
「ええ、それは分ります。でもね、どうぞして出てくれるといいですがね。もし出たら、直ぐ迎へに歸つて下さいね、後生ですから」
そのうち私は眠つてしまつた。が、ユキのはうは、初對面である私の兩親、祖父、ユキには繼子の松美のゐる遠い山の家へ、欲しがつた箪笥も、鏡臺さへも買ふことを私に拒まれ、行李二個の持物で道ならぬ身の恥ぢを忍んで預けられに行く流轉生活を思うて、寢つけなかつた。程なく私が眼を覺ますと、私が讀みかけの本の表紙の文字を隠したカバーの紙に、
ま暗き海にただ一人漕ぎ出し背の舟を
我は渚に待ちて祷らん
と鉛筆で書いて、私に氣がつき易いやうに脇に置いてゐた。私に對ひ合つてハンカチーフで寢顏を隠してゐるユキを見詰めて、込み上ぐる憐憫と何うにもならぬ我身の不甲斐なさとを思つた。……
こんなことが、今、夢のやうに思ひ返されて來る。さうした囘想の間にも、喜びの餘震が何囘も襲うて來た。
ユキは又、手隙きを見計つて勝手から來た。
「靜岡に着いたら朝刊を買ひませうよ。大きな廣告が出てゐるでせうね。……毎日十九日が來るのが悲しかつた。十九目の新聞に方方の雜誌の廣告が出ると、あなたが頭を抱へて、ああイヤになつた、イヤになつた、僕ら親父の家に歸る親父の家に歸るつて四五日は機嫌が惡くて、ほんたうに、わたし、毎月毎月、十九日が來るのが辛かつたですね」
私は顏をばつと赧らめ、苦笑の唇を弱つたやうに歪めたが、赧らんだ顏が見る見る土色に褪せるのが自分に分つた。
「もう何んにも言うてくれるな」と私は眉根を寄せ手を激しく振つて叱つた。「奇蹟だよ、僥倖だよ。一つ二つ出たからつて、行く道は難い。これで前途が明るくなるとか、平安とか、さういふのとは違ふんだもの」
災なる哉災なる哉、と思つた。嬉しいやうな哀しいやうな、張合拔けのしたやうな、空無とも虚無とも言ひやうのない重い憂鬱が蔽ひかぶさつて、それきり私は押默つた。
一と時、覿面に來た興奮の祟りから顏が眞赤に火照つて咳が出て、背筋の疼痛がジクジク起つた。持つて歸つた藥瓶を取り上げると底の沈滓が上つて濁れたが、私は顏を蹙めて口飲みにして、小一時間ほど靜かにしてゐた。
外では小雨がそぼ降り出した。六里隔つた町から午砲が聞えて來た。「おい、行かうぞえ」と父の聲がかかり、私は大儀だつたが起きて丹前の上を外套でつつみ、戸口に立つて私を待つてゐる父と連れ立つて私だけ傘をさして家を出た。私は歸郷以來初めての外出だつた。一と足遲れて家を出た、茣蓙を持つた松美と、レース絲の編み袋に入れた徳利をさげて焦茶色のコートを着たユキと、重箱を抱へた母との三人が、家の下の土橋を一列に渡つて田の畦を近道して山寄りの小徑では一と足先になつて、父と私との追ひ着くのを待つた。學校服に吊鐘マントを着て長靴を穿いた子供は、小犬のやうにどんどん先へ走つて、積み藁の蔭や竹藪の蔭から、わツ!と言つて飛び出してユキを魂がしたりした。爪先上りの赭土の徑を滑らないやう用心しいしい幾曲りし、天を衝いて立つてゐる樫や檜の密林の間の高い高い石段を踏んで、やうやつと妙見神社の境内に着いた。ここからは遠く碧空の下に雪を頂いてゐる北の方の群峰が鮮かに見えた。
私は二十年もここに參詣に來てないわけであつた。が昔ながらに、森嚴な、幽寂な、原始氣分があつた。雨にしめつた庭の櫻の木で蒿雀が一羽枝を渡り歩いて、チチチと鳴いてゐた。亂雜な下駄の足跡を幾つものこしながら私達は燈寵の間を歩いて、茅葺の屋上に千木を組み合せた小ぢんまりした社の前に立つた。拜殿の鴨居の──舊在南山儀驗紳今遷干此、云云……寛文四年秋──と彫り込んだ掛額の前にぶら下つた鈴の緒を、てんでに振つて、鈴をヂヤランヂヤラン鳴らして拜殿に上り、正面の格子を開いて二疊の内陣に入つた。七五三繩を張つた扉の前には、白木の三方に土器の御酒徳利が二つ載つてゐた。そこへ持つて來た重箱や徳利を供へると、父は袂から蝋燭を三本出して、枯木の枝のやうな恰好した燭臺に立てて火をつけた。
そして畏まつて扉に向つて柏手を打ち、「ナム妙見、ナム妙見」と口の中でぶつぶつ言つた後、傍らの太鼓を叩くと、
マカハンニヤハラミタシンギヨウ、カンジザイボウサツ……と御經を高高と讀み出した。父の背後に私と子供とはきちんと畏まつてゐた。御經がずんずん進んでゐる最中、ユキが「お母さま、ほんとに靜かないいところでございますね」と話し出したので、私はユキを屹と睨んで默らせた。
讀經が終ると早速お重を下げ、ユキが壽司を皿にもつて配り、木がら箸を二本づつ添へた。私も子供も直ぐ壽司を食べ出した。父は徳利の酒を手酌で始めたので、ユキがお酌をしてやればいいのに氣の利かぬ奴だと腹立たしく思つてゐると、父は靜に飲み乾して、手首で盃の縁を拭いて、
「そんぢや、あなたに一つ差し上げませう」とユキの前に出した。
「いいえ、どうぞお構ひなく、わたくしお酒はいただきませんから」
私はくわツと胸が熱くなつて、「馬鹿、頂戴したらいいだらう、飲めなくたつて」とたうとう苦がり切つて言つた。
「いやいや、ご婦人の方は、ご酒は召上らんはうがええけど、まアまアーつ……」と、父は私の荒げた聲を宥めるやうに言つた。
ユキは母に酌をして貰つて飲むと、「お父さまにお返ししませう」と、盃を返した。父は如何にも滿足さうに、「ぢや、お受けします」と言つて受取ると、ユキがお酌をし、少しこぼれたのを父は片つ方の手の腹に受けて頭につけながら母に向つて、「お前もユキさんに上げえ」と命じた。
咄嵯に、はツとして何か私の胸に應へて來た。土蔵の朱塗の三つ組の杯を出し正式の三三九度は出來なくとも、父が心底ユキを赦して息子の嫁としての親子杯──さうに違ひない、すべて屹度父一人の考へなのだと勘付くと、心にしみて有り難さが湧いた。が、次の瞬間、それは恐ろしい速力で、あの、三つ組の赤い杯を中にして眞白の裲襠を着た先妻と、八枚折の鶴龜を描いた展風を立てた奥の間で燭宴の黄ろい灯に照らされて相對した婚禮の夜が眼の前に引き出され、燒き付くやうに苦惱が詰め寄せた。と同時に今日の一切の幸福が、その全部を擧げて暗黒の塊りとなつた。私は苦しみを一刻も速く俄雨のやうに遣り過ごしたいと箸を握つたまま鬪つてつてゐると、父が訝しげな面持で、
「ぢや、われにやらう」と盃を私にくれた。私は微笑を浮べて父に酬盃し、別の盃を予供にやつて「飲んだら母ちやんに上げなさい」と、ぐつたりした捨鉢の氣持で言つた。子供は私の注いでやつた盃を兩手でかかへ首を縮こめて口づけ乍ら上目使ひに「母ちやんの顏が赤うなつた、涙が出るやうに赤うなつとら」と、ヘうきんに笑つた。愚鈍なユキは、飲み慣れぬ一二杯の酒に醉つて、子供の言ふ通り涙の出さうな赤い顏して、神意に深く呪はれてあるとは知らず、ニコニコしてゐた。
(昭和八年作)  
 
話の屑籠 / 菊地寛

 


對米交渉の經過の發表を讀むと、今更ながら米國の頑冥不靈に驚かざるを得ないものがある。日本の對支方針が、無賠償不割讓と云ふ寛大公正なるものである以上、米國が眞に東洋の平和を想ふならば、蒋介石を説得して、その無益なる抗議を中止せしむべきが當然である。然るに、數年來の援蒋行爲、對日經濟壓迫に依つて、事變の解決を妨碍した上、今亦太平洋の平和維持のために、隱忍努力せんとする日本に對し、日本の過去に於ける血と汗の業績を無視せんとするのであるから、對米交渉が遂に決絶するのは當然である。之以上、日本が隱忍したならば、日本は衰退の一路を辿る外なかつたであらう。ルーズベルト大統領が、その獨善的理念に依つて、世界をリードせんとする野望が、今次大戰の直接原因として、後世史家の指彈の的となるであらう。

米國は、今より八十九年前、武力に依つて、日本の鎖國の妄を破つてくれた。これは、米國が世界の文化に貢献した事蹟に違ひない。今、日本は、武力に依つて、米國の獨善的迷妄を撃破せんとしてゐる。之は、米國に對する一つの返禮であると共に、人類文化の進展に對する大功業となるであらう。

自分は、前月號で、一度太平洋の風波が動かば、わが海軍が太平洋ばかりでなくインド洋、南洋に於ても、驚天動地の活躍をするだらうと書いておいたが、開戰劈頭の布哇空襲、開戰三日後の英主力艦隊撃滅などは、自分などの無想もしなかったことである。目の上のコブのやうな氣がしてゐたプリンス・オヴ・ウエールスの撃沈を聞いて、涙を流して喜ばなかつた日本人は、一人もゐないであらう。しかも、その犠牲は飛行機が三機と云ふことである。飛行機の建造費は、いくらかかるか知らないが、三機で百萬圓以下であらう。人命の損失も、十人以下であらう。敵主力艦二隻は、數億萬圓であり、人員の損失は四千五百人と云はれる。決死殉國の十人は、百倍千倍の物と人間とを撃滅したのである。今更ながら、皇軍將士に對する感謝の念が溢れると共に、國民凡てが殉國の決心を以て蹶起したならば、資源的不利などは、克服して餘あるであらう。我々國民は、この赫々たる書泉の大戰果に必勝の自信を確めた上、私心を斷絶し、鐵の如き意思を以て、あらゆる艱苦を克服し、戰爭目的完遂のために邁進することが必勝の道であらう。支那事變の四年半に於て、國民の臨戰體制の小手調べは出來たのだ。これからが、本格である。我々は、二千六百年來の先祖に對し、亦、子々孫々に代つて、皇國興亡の大戰を敢行すべき責任を負つたのである。一身一家の事などを考へて、先祖を汚し無限の子孫を裏切つてはならないのである。

歐洲の海面では、縱横に活躍してゐた英主力艦が、東洋の水面に姿を現はすと、開戰たつた三日目に沈んだことは、實に會心の事である。新聞記者が、ドイツの當局に(なぜ獨逸(ドイツ)空軍が、もつと英艦を沈めることが出來ないか)と、改めて質問したと云ふのも、尤もである。その答は、獨逸の空軍は陸上の敵を撃滅するのが主眼であると云ふのであつたが、日本の空軍の技術と氣魄が、世界一であることは、何人も疑ふことは出來ないだらう。海軍航空隊では、出動のとき、(參ります)とは云ふが、(行つて參ります)とか、(行つて來ます)とかは、云はないさうである。常に、生還を期してゐないのである。もつとも、これは、空軍ばかりでなく、陸海軍將士全體の出動のときの心がまへであらうが。

本誌も二十周年を迎へたが、平常ならば、何かお祝ひをしたいのだが、かうした時期であるから、何もやらない。本誌は事變以來、今迄も國策順應の態度であつたが、今後は、もつとその態度を強化徹底するつもりである。そのために、今迄の本誌らしい特色なども、無くなるかも知れないが、そんな事は言つて居られない。改めて、讀者諸君の支持を、お願して置くが、しかし雜誌がつまらなくなつたと云つてよす人は、よしてくれてもいゝと思つてゐる。

我々文壇の有志で、航空文學の樹立、航空思想の普及のために、陸軍航空本部の支援の下に、昨年以來航空文學會なるものを作つてゐるが、今度「航空文學賞」を制定し、本年度から授賞することになつた。文學賞と云へば、講談社で故野間清治氏の記念のために設立された「野間奉公會」の文藝賞(賞金一萬圓)が、眞山青果氏に授賞されることに内定した。審査員は、徳田秋聲氏、武者小路實篤氏、正宗白鳥氏と僕との四人である。眞山氏の戲曲は、その創作に際しての周到なる準備とその眞摯な努力と、相俟つて現代の文藝界に、特異な存在を示してゐるものだが、從來あまり窺はれることの少かつた人だけに、今度の授賞は、妥當であると信じてゐる。

十六年度の文藝銃後運動も、臺灣が都合で取り止めになつた外は、無事完了した。至るところ相當の效果を擧げたことを確信してゐる。講師諸君も、その多忙な時間をくり合はせて、皆快く東西をかけ廻つてくれたことは、主催者として感謝の外はない。情報局、鐵道省、大毎東日兩社の盡力に對しては感謝の外はない。いよいよ大東亞戰となつた以上、我々文壇人も來年は構想を新にして、もつと直接切實な御奉公をしたいと思つてゐる。

この原稿を書いてゐる十三日の夜、「小牧山合戰」と云ふ講釋の放送があつた。かう云ふ歴史物の講釋は、いつも史實が間違つてゐるが、この小牧山合戰でも、池田勝入齋信輝が、小牧山を拔けがけに攻めることになつてゐる。事實は、勝入齋が、家康が小牧に出陣してゐる隙に大迂囘して家康の本國三河を衝かうとするのを、家康が追撃して、長湫で勝入齋を討ちとるのである。今度は歴史物の講釋を放送する場合は、放送局であらかじめ誤謬があるかないか檢討して貰ひたいと思ふ。 
 
牛肉と馬鈴薯 / 國木田獨歩

 

明治倶樂部とて芝區櫻田本郷町のお堀邊に西洋作の餘り立派ではないが、それでも可なりの建物があつた、建物は今でもある、しかし持主が代つて、今では明治倶樂部其者はなくなつて了つた。
この倶樂部が未だ繁盛して居た頃のことである、或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火が點いて居て、時々高く笑ふ聲が外面に漏れて居た。元來この倶樂部は夜分人の集つて居ることは少ないので、ストーブの煙は平常も晝間ばかり立ちのぼつて居るのである。
然るに八時は先刻打つても人々は未だなかなか散じさうな樣子も見えない。人力車が六臺玄關の横に並んで居たが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。
すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被つたのが、眞暗な中からひよつくり現はれて、いきなり手荒く呼鈴を押した。
内から戸が開くと、
『竹内君は來てお出ですかね』と低い聲の沈重居た調子で訊ねた。
『ハア、お出で御座います、貴樣は?』と片眼の細顏の、和服を着た受付が叮嚀に言つた。
『これを。』と出した名刺には五號活字で岡本誠夫としてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上つて去つたが間もなく降りて來て、
『どうぞ此方へ』と案内した、導かれて二階へ上ると、煖爐を熾に燃いて居たので、ムツとする程温かい。煖爐の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄つて居る。傍の卓子にウヰスキーの壜が上て居てこつぷの飮み干したるもあり、注いだまゝのもあり、人々は可い加減に酒が廻はつて居たのである。
岡本の姿を見るや竹内は起つて、元氣よく
『まアこれへ掛け給へ。』と一の椅子をすゝめた。
岡本は容易に座に就かない。見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。竹内はそれと氣がつき、
『ウン貴樣は未だ此方を御存知ないだらう、紹介しましやう、此方は上村君と言つて北海道炭鑛會社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く舊い朋友で岡本君……。』
と未だ云ひ了らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で
『ヤ、初めて……お書きになつた物は常に拜見してゐますので……今後御懇意に……。』
岡本は唯だ『どうかお心安く。』と言つたぎり默つて了つた。そして椅子に倚つた。
『サア其先を……、』と綿貫といふ脊の低い、眞黒の頬髭を生して居る紳士が言つた。
『さうだ! 上村君、それから?』と井山といふ眼のしよぼしよぼした頭髮の薄い、痩方の紳士が促した。
『イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなつたハゝゝゝ』と炭鑛會社の紳士は少し羞にかんだやうな笑方をした。
『何ですか?』
岡本は竹内に問ふた。
『イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生觀を話すことになつてね、まア聽いて居給へ名論卓説、滾々として盡きずだから。』
『ナニ最早大概吐き盡したんですよ、貴樣は我々俗物黨と違がつて眞物なんだから、幸貴樣のを聞きませう、ね諸君!』
と上村は逃げかけた。
『いけないいけない、先づ君の説を終へ給へ!』
『是非承はりたいものです』と岡本はウヰスキーを一杯、下にも置かないで飮み干した。
『僕のは岡本君の説とは恐らく正反對だらうと思ふんでね、要之、理想と實際は一致しない、到底一致しない……。』
『ヒヤヒヤ』と井山が調子を取つた。
『果して一致しないとならば、理想に從ふよりも實際に服するのが僕の理想だといふのです。』
『ただそれだけですか。』と岡本は第二の杯を手にして唸るやうに言つた。
『だつてねエ、理想は喰べられませんものを!』と言つた上村の顏は兎のやうであつた。
『ハゝゝゝビフテキぢやアあるまいし!』と竹内は大口を開けて笑つた。
『否ビフテキです、實際はビフテキです、スチューです。』
『オムレツかね!』と今まで默つて半分眠りかけて居た、眞紅な顏をして居る松木、座中で一番年の若さうな紳士が眞面目で言つた。
『ハツゝゝゝ』と一坐が噴飯だした。
『イヤ笑ひごとぢやアないよ、』と上村は少し躍起になつて、
『例へてみればそんなものなんで、理想に從がへば芋ばかし喰つて居なきやアならない。ことによると馬鈴薯も喰へないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどつちが可い?』
『牛肉が可いねエ!』と松木は又た眠むさうな聲で眞面目に言つた。
『然しビフテキに馬鈴薯は附屬物だよ』と頬髭の紳士が得意らしく言つた。
『さうですとも!理想は則ち實際の附屬物なんだ!馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじやア全く閉口する!』
と言つて、上村はやや滿足したらしく岡本の顏を見た。
『だつて北海道は馬鈴薯が名物だつて言ふぢやアありませんか、』と岡本は平氣で訊ねた。
『其の馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷い目に遇つたんです。ね、竹内君は御存知ですが僕は斯う見えても同志社の舊い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、云ひ換へれば大々的馬鈴薯黨だつたんです!』
『君が?』とさも不審さうな顏色で井山がしよぼしよぼ眼を見張つた。
『何も不思議は無いサ、其頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯黨でしたがね、學校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れて居たもんで、清教徒を以て任じて居たのだから堪らない!』
『大變な清教徒だ!』と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸と腮で止めて、ウヰスキーを嘗めながら
『斷然この汚れたる内地を去つて、北海道自由の天地に投じようと思ひましたね、』と言つた時、岡本は凝然と上村の顏を見た。
『そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。傳道師の中に北海道へ往つて來たといふ者があると直ぐ話を聽きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪つたもんぢやアない!僕は全然まゐツちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを總合して如此ふうな想像を描いて居たもんだ。……先づ僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆を撒く、……』
『その百姓が見たかつたねエハツゝゝゝゝ』と竹内は笑ひだした。
『イヤ實地行つたのサ、まア待ち給へ、追ひ追ひ其處へ行くから……、其内にだんだんと田園が出來て來る、重に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さへ有りやア喰うに困らん……』
『ソラ馬鈴薯が出た!』と松木は又た口を入れた。
『其處で田園の中央に家がある、構造は極めて粗末だが一見米國風に出來て居る、新英洲植民地時代そのままといふ風に出來て居る、屋根がかう急勾配になつて物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個附けたものかと僕は非常に氣を揉むことがあつたツけ……』
『そして眞個に其家が出來たのかね』と井山は又しよぼしよぼ眼を見張つた。
『イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で氣を揉んだのは……さうださうだ若王寺へ散歩に往つて歸る時だつた!』
『それからどうしました?』と岡本は眞面目で促がした。
『それから北の方へ防風林を一區劃、なるべくは林を多く取つて置くことにしました。それから水の澄み渡つた小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨や鵝鳥が其紫の羽や眞白な背を浮べてるんですよ。此川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かつて居る。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないはうが自然だといふんで附けないことに定めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで滿足しなかつたのだ……先づ冬になると……』
『ちよツとお話の途中ですが、貴樣は其の『冬』といふ音にかぶれやアしませんでしたか?』と岡本は訊ねた。
上村は驚ろ居た顏色をして
『貴樣は如何してそれを御存知です。これは面白い!さすが貴樣は馬鈴薯黨だ!冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何だか其の冬則ち自由といふやうな氣がしましてねエ!それに僕は例の熱心なるアーメンでしようクリスマス萬歳の仲間でしよう、クリスマスと來ると何うしても雪がイヤといふ程降つて、軒から棒のやうな氷柱が下つて居ないと嘘のやうでしてねエ。だから僕は北海道の冬といふよりか冬則ち北海道といふ感が有つたのです。北海道の話を聽ても『冬になると……』と斯ういはれると、身體がかうぶるぶるツとなつたものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然家を埋めて了う、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる、折り折り風がゴーツと吹いて來て林の梢から雪がばたばたと墜ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛がモーツと唸る!』
『君は詩人だ!』と叫けむで床を靴で蹶たものがある。これは近藤といつて岡本がこの部屋に入つて來て後も一言を發しないで、唯だウヰスキーと首引をして居た背の高い、一癖あるべき顏構をした男である。
『ねエ岡本君!』と云ひ足した。岡本はただ、默言て首肯いたばかりであつた。
『詩人? さうサ、僕はその頃は詩人サ、「山々霞み入合の」といふグレーのチャルチャードの飜譯を愛讀して自分で作つてみたものだアね、今日の新體詩人から見ると僕は先輩だアね。』
『僕も新體詩なら作つたことがあるよ』と松木が今度は少し乘地になつて言つた。
『ナーニ僕だつて二ツ三ツ作たものサ』と井山が負けぬ氣になつて眞面目で言つた。
『綿貫君、君はどうだね?』と竹内が訊ねた。
『イヤお恥しいことだが僕は御存知の女氣のない通り詩人氣は全くなかつた、「權利義務」で一貫して了つた、如何だらう僕は餘程俗骨が發逹してるとみえる!』と綿貫は頭を撫てみた。
『イヤ僕こそ甚だお恥しい話だがこれで矢張り作たものだ、そして何かの雜誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハツハツゝゝゝ』
『ハツハツゝゝゝ』と一同が噴飯して了つた。
『さうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハツハツゝゝゝ竒談々々!』と綿貫が叫んだ。
『さうか、諸君も作たのか、驚ろ居た、其昔は皆な馬鈴薯黨なんだね』と上村は大に面目を施こしたといふ顏色。
『お話の先を願ひたいものです、』と岡本は上村を促がした。
『さうだ、先をやり給へ!』と近藤は殆ど命令するやうに言つた。
『宜しい!それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴして居たが、斷然と北海道へ行つた其時の心持といつたら無いね、何だか斯う馬鹿野郎!といふやうな心持がしてねエ、上野の停車場で汽車へ乘つて、ピユーツと汽笛が鳴つて汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言へない嬉しさがこみ上げて來て人知れずハンケチで涙を拭ひたよ眞實に!』
『一寸と君、一寸と「馬鹿野郎!」といふやうな心持といふのが僕には了解が出來ないが……其の如何いふんだね?』と權利義務の綿貫が眞面目で訊ねた。
『唯だ東京の奴等を言つたのサ、名利に汲々として居る其醜態は何だ!馬鹿野郎!乃公を見ろ!といふ心持サ』と上村もまた眞面目で註解を加へた。
『それから道行は拔にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十萬坪の土地が手に入つた。サアこれからだ、所謂る額に汗するのはこれからだといふんで直に着手したねエ。尤も僕と最初から理想を一にして居る友人、今は矢張僕と同じ會社へ出て居るがね、それと二人で開墾事業に取掛つたのだ、そら、竹内君知つて居るだらう梶原信太郎のことサ……』
『ウン梶原君が!?彼が矢張馬鈴薯だつたのか、今ぢやア豚のやうに肥つてるぢやアないか』と竹内も驚いたやうである。
『さうサ、今ぢやア鬼のやうな顏をして、血のたれるビフテキを二口に喰つて了うんだ。處が先生僕と比較すると初から利口であつたねエ、二月ばかりも辛抱して居たらうか、或日こんな馬鹿氣たことは斷然止さうといふ動議を提出した、其議論は何も自から斯んな思をして隱者になる必要はない自然と戰ふよりか寧ろ世間と格鬪しようじやアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いといふんだ。僕は其時大に反對した、君止すなら止せ、僕は一人でもやると力味んだ。すると先生やるなら勝手にやり給へ、君も最少しすると悟るだらう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨臺辭を吐いて直ぐ去つて了つた。取殘された僕は力味んではみたものの内々心細かつた、それでも小作人の一人二人を相手に其後、三月ばかり辛抱したねエ。豪いだらう!』
『馬鹿なんサ!』と近藤が叱るやうに言つた。
『馬鹿?馬鹿たア酷だ!今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かつたよ。』
『矢張馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食ふなんていふ柄じやアないんだ、それを知らないで三月も辛抱するなア馬鹿としか言へない!』
『馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいふ「柄にない」といふことは次第に悟つて來たんだ。難有いことには僕に馬鈴薯の品質が無かつたのだ。其處で夏も過ぎて樂しみにして居た『冬』といふ例の奴が漸次近づいて來た、其露拂が秋、第一秋からして思つたよりか感心しなかつたのサ、森とした林の上をバラバラと時雨て來る、日の光が何となく薄いやうな氣持がする、話相手はなしサ食ふものは一粒幾價と言ひさうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寢る處は木の皮を壁に代用した掘立小屋』
『それは貴樣覺悟の前だつたでせう!』と岡本が口を入れた。
『其處ですよ、理想よりか實際の可いはうが可いといふのは。覺悟はして居たものの矢張り餘り感服しませんでしたねエ。第一、それぢやア痩せますもの。』
上村は言つて杯で一寸と口を濕して
『僕は痩せやうとは思つて居なかつた!』
『ハツハツゝゝゝゝ』と一同笑ひだした。
『そこで僕はつくづく考へた、なるほど梶原の奴の言つた通りだ、馬鹿げきつて居る、止さうツといふんで止しちまつたが、あれで彼の冬を過ごしたら僕は死で居たね。』
『其處でどういふんです、貴樣の目下のお説は?』と岡本は嘲るやうな、眞面目な風で言つた。
『だから馬鈴薯には懲々しましたといふんです。何でも今は實際主義で、金が取れて美味いものが喰へて、斯うやつて諸君と煖爐にあたつて酒を飮んで、勝手な熱を吹き合ふ、腹が減たら牛肉を食ふ……』
『ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛國だつてなんだつて牛肉と兩立しないことはない、それが兩立しないといふなら兩立さすことが出來ないんだ、其奴が馬鹿なんだ』と綿貫は大に敦圏居た。
『僕は違ふねエ!』と近藤は叫んだ、そして煖爐を後に椅子へ馬乘になつた。凄い光を帶びた眼で坐中を見廻しながら
『僕は馬鈴薯黨でもない、牛肉黨でもない!上村君なんかは最初、馬鈴薯黨で後に牛肉黨に變節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の墮落したのだ、だから無暗と鼻をびくびくさして牛の焦る臭を嗅いで行く、その醜體つたらない!』
『オイオイ、他人を惡口する前に先づ自家の所信を吐くべしだ。君は何の墮落なんだ、』と上村が切り込むだ。
『墮落?墮落たア高い處から低い處へ落ちたことだらう、僕は幸にして最初から高い處に居ないからそんな外見ないことはしないんだ!君なんかは主義で馬鈴薯を喰つたのだ、嗜きで喰つたのぢやアない、だから牛肉に餓ゑたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰ふのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だつてがつがつしない、……』
『一向要領を得ない!』と上村が叫けむだ。近藤は直ちに何ごとをか言ひ出さんと身構をした時、給使の一人がつかつかと近藤の傍に來てその耳に附いて何ごとをか囁いた。すると
『近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言つて呉れ!』と怒鳴つた。
『何だ?』と坐中の一人が驚いて聞いた。
『ナニ、車夫の野郎、又た博奕に敗けたから少し貸して呉れろと言ふんだ。……要領を得ないたア何だ!大に要領を得て居るじやアないか、君等は牛肉黨なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマでもない!』
『大に贊成ですなア』と靜に沈重居た聲で言つた者がある。
『贊成でしよう!』と近藤はにやり笑つて岡本の顏を見た。
『至極贊成ですなア、主義でないと言ふことは至極贊成ですなア、世の中の主義つて言ふ奴ほど愚なものはない』と岡本は其冴え冴えした眼光を座上に放つた。
『その説を承たまはらう、是非願ひたい!』と近藤は其四角な腮を突き出した。
『君は何方なんです、牛と薯、エ、薯でせう?』と上村は知つた顏に岡本の説を誘ふた。  
『僕も矢張、牛肉黨に非ず、馬鈴薯黨にあらずですなア、然し近藤君のやうに牛肉が嗜きとも決つて居ないんです。勿論例の主義といふ手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいふ嗜好にも從ふことが出來ません。』
『それぢやア何だらう?』と井山が其尤もらしいしよぼしよぼ眼をぱちつかした。
『何でもないんです、比喩は廢して露骨に申しますが、僕はこれぞといふ理想を奉ずることも出來ず、それならつて俗に和して肉慾を充して以て我生足れりとすることも出來ないのです、出來ないのです、爲ないのではないので、實をいふと何方でも可いから決めて了つたらと思ふけれど何といふ因果か今以て唯つた一つ、不思議な願を持て居るから其のために何方とも得決めないで居ます。』
『何だね、其の不思議な願と言ふのは?』と近藤は例の壓しつけるやうな言振で問うた。
『一口には言へない。』
『まさか狼の丸燒で一杯飮みたいといふ洒落でもなからう?』
『まづ其樣なことです。……實は僕、或少女に懸想したことがあります』と岡本は眞面目で語り出した。
『愉快々々、談愈々佳境に入つて來たぞ、それからツ?』と若い松木は椅子を煖爐の方へ引寄た。
『少し談が突然ですがね、まづ僕の不思議の願といふのを話すにはこの邊から初めましよう。その少女はなかなかの美人でした。』
『ヨウ!ヨウ!』と松木は躍上らんばかりに喜こんだ。
『どちらかと言へば丸顏の色のくつきり白い、肩つきの按排は西洋婦人のやうに肉附が佳くつて而もなだらかで、眼は少し眠むいやうな風の、パチリとはしないが物思に沈んでるといふ氣味がある此眼に愛嬌を含めて凝然と睇視られるなら大概の鐡腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了つたのです。最初その女を見た時は別にさうも思つて居なかつたが、一度が二度、三度目位から變に引つけられるやうな氣がして、妙に其女のことが氣になつて來ました。それでも僕は未だ戀したとは思ひませんでしたねえ。
『或日僕が其女の家へ行きますと、兩親は不在で唯だ女中と其少女と妹の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女は身體の具合が少し惡いと言つて鬱いで、奧の間に獨、つくねんと座つて居ましたが、低い聲で唱歌をやつて居るのを僕は椽側に腰をかけたまま聽いて居ました。
「お榮さん僕はそんな聲を聽かされると何だか哀れつぽくなつて堪りません」と思はず口に出しますと
『小妹は何故こんな世の中に生きて居るのか解らないのよ』と少女がさもさも頼なささうに言ひました、僕にはこれが大哲學者の厭世論にも優つて眞實らしく聞えたが、その先は詳はしく言はないでも了解りませう。
『二人は忽ち戀の奴隸となつて了つたのです。僕はその時初めて戀の樂しさと哀しさとを知りました、二月ばかりといふものは全で夢のやうに過ぎましたが、其中の出來事の一二お安價ない幕を談すと先づ斯なこともありましたつケ。
『或日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別會に出席しましたが僕の戀人も母に伴はれて出席しました。會は非常な盛會で、中には伯爵家の令孃なども見えて居ましたが夜の十時頃漸く散會になり僕はホテルから芝山内の少女の宅まで、月が佳いから歩る居て送ることにして母と三人ぶらぶらと行つて來ると、途々母は口を極めて洋行夫婦を襃め頻と羨ましさうなことを言つて居ましたが、其言葉の中には自分の娘の餘り出世間的傾向を有して居るのを殘念がる意味があつて、斯る傾向を有するも要するに其交際する友に由ると言はぬばかりの文句すら交へたので、僕と肩を寄せて歩るいて居た娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかへした、これが母へ對する果敢ない反抗であつたのです。
『それから山内の森の中へ來ると、月が木間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加へて居たが、母は我々より五歩ばかり先を歩るいて居ました。夜は更けて人の通行も稀になつて居たから四邊は極めて靜に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しう反響して居たが、先刻の母の言草が胸に應へて居るので僕も娘も無言、母も急に眞面目くさつて默つて歩るいて居ました。
『森影暗く月の光を遮つた所へ來たと思ふと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添つて
「貴樣母の言葉を氣にして小妹を見捨ては不可ませんよ」と囁き、其手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが觸て一種、花にも優る香が鼻先を掠めました。突然明い所へ出ると、少女の兩眼には涙が一ぱい含んで居て、其顏色は物凄いほど蒼白かつたが、一は月の光を浴びたからでも有りましよう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒氣を覺えて恐いとも哀しいとも言ひやうのない思が胸に塞えて恰度、鉛の塊が胸を壓しつけるやうに感じました。
『其夜、門口まで送り、母なる人が一寸と上つて茶を飮めと勸めたを辭し自宅へと歸路に就きましたが、或難い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解りでもするといつたやうな心持がして、決して比喩じやアない、確にさういふ心持がして、氣になつてならない。そこで直ぐは歸らず山内の淋むしい所を撰つてぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時凝然と品川の沖の空を眺めて居ました。
「もしか彼女は遠からず死ぬるのじやアあるまいか」といふ一念が電のやうに僕の心中最も暗き底に閃いたと思ふと僕は思はず躍り上がりました。そして其所らを夢中で往きつ返りつ地を見つめたまゝ歩るいて「決してそんなことはない」「斷じてない」と、魔を叱するかのやうに言つてみたが、魔は決して去らない、僕はをりをり足を止めて地を凝視て居ると、蒼白い少女の顏がありありと眼先に現はれて來る、どうしてもその顏色がこの世のものでないことを示して居る。
『遂に僕は心を靜めて今夜十分眠る方が可い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑亂さする出來事にぶつかりました。といふのは上る時は少も氣がつかなかつたが路傍にある木の枝から人がぶら下つて居たことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水をかけられたやうに感じて、其處に突立つて了いました。
『それでも勇氣を鼓して近づいてみると女でした、無論その顏は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女といふことが分る……僕は一切夢中で紅葉舘の方から山内へ下りると突當にあるあの交番まで駈けつけて其由を告げました……』
『其女が君の戀して居た少女であつたといふのですかね』と近藤は冷やゝかに言た。
『それでは全で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
『翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懷胎したのが兵士には國に歸つて了はれ、身の處置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、兔も角僕は其夜殆ど眠りませんでした。
『然かし能くしたもので、其翌日少女の顏を見ると平常に變つて居ない、そして其うつとりした眼に笑を含んで迎へられると、前夜からの心の苦惱は霧のやうに消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい樂しいことばかりで……』
『成程これはお安價くないぞ、』と綿貫が床を蹶つて言つた。
『まア默つて聽き給へ、それから、』と松木は至極眞面目になつた。
『其先を僕が云はうか、斯うでしよう、最後には其少女が欠伸一つして、それで神聖なる戀が最後になつた、さうでしよう?』と近藤も何故か眞面目で言つた。
『ハツハツゝゝゝゝ』と二三人が噴飯して了つた。
『イヤ少なくとも僕の戀はさうであつた、』と近藤は言ひ足した。
『君でも戀なんていふことを知つて居るのかね』これは井山の柄にない言草。
『岡本君の談話の途中だが僕の戀を話さうか?一分間で言へる、僕と或少女と乙な仲になつた、二人は無我夢中で面白い月日を送つた、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰の戀でもこれが大切だよ、女といふ動物は三月たつと十人が十人、飽きて了う、夫婦なら仕方がないから結合いて居る。然し其は女が欠伸を噛殺して其日を送つて居るに過ぎない、どうです君はさう思ひませんか?』
『さうかも知れません、然し僕のは幸に其欠伸までに逹しませんでした、先を聽いて下さい。
『僕も其頃、上村君のお話と、同樣北海道熱の烈しいのに罹つて居ました、實をいふと今でも北海道の生活は好からうと思つて居ます。それで僕も色々と想像を描いて居たので、それを戀人と語るのが何よりの樂でした、矢張上村君の亞米利加風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で圖取までしました。しかし少し違ふのは冬の夜の窓からちらちらと燈火を見せるばかりでない、折り折り樂しさうな笑聲、澄むだ聲で歌ふ女の唱歌を響かしたかつたのです、……』
『だつて僕は相手が無かつたのですもの』と上村が情けなさうに言つたので、どつと皆が笑つた。
『君が馬鈴薯黨を變節したのも、一は其故だらう』と綿貫が言つた。
『イヤそれは嘘言だ、上村君に若し相手があつたら北海道の土を踏まぬ先に變節して居たゞらうと思ふ、女と云ふ奴が到底馬鈴薯主義を實行し得るもんじやアない。先天的のビフテキ黨だ、恰度僕のやうなんだ。女は芋が嗜好きなんていふのは嘘サ!』と近藤が怒鳴るやうに言つた。其最後の一句で又た皆がどつと笑つた。
『それで二人は』と岡本が平氣で語りだしたので漸々靜まつた。
『二人は將來の生活地を北海道と決めて居まして、相談も漸く熟したので僕は一先故郷に歸り、親族に托してあつた山林田畑を悉く賣り飛ばし、其資金で新開墾地を北海道に作らうと、十日間位の積で國に歸つたのが、親族の故障やら代價の不折合やらで思はず二十日もかかりました。
すると或日少女の母から電報が來ました、驚いて取る物も取あえず歸京してみると、少女は最早死んで居ました。』
『死んで?』と松木は叫けむだ。
『さうです、それで僕の總ての希望が悉く水の泡となつて了ひました』と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言つた、それが全で演説口調、
『イヤどうも面白い戀愛談を聽かされ我等一同感謝の至に堪へません、さりながらです、僕は岡本君の爲めに其戀人の死を祝します、祝すといふが不穩當ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧ろ喜びます、卻て喜びます、若しも其少女にして死ななんだならばです、其結果の悲慘なる、必ず死の悲慘に増すものが有つたに違ひないと信ずる。』
とまでは頗る眞面目であつたが、自分でも少し可笑しくなつて來たか急に調子を變へ、聲を低うし笑味を含ませて、
『何となれば、女は欠伸をしますから……凡そ欠伸に數種ある、其中尤も悲むべく憎くむ可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は戀愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、戀愛に倦みたる欠伸は女子の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである。』
と少し眞面目な口調に返り、
『則ち女子は生命に倦むといふことは殆どない、年若い女が時々そんな樣子を見せることがある、然し其は戀に渇して居るより生ずる變態たるに過ぎない、幸にして其戀を得る、其後幾年月かは至極樂しさうだ、眞に樂しさうだ、恐らく樂といふ字の全意義は斯る女子の境遇に於て盡されて居るだらう。然し忽ち倦で了う、則ち戀に倦で了う、女子の戀に倦だ奴ほど始末にいけないものは決して他にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言つたが實は寧ろ憐れむべきものである、處が男子はさうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、斯る場合に戀に出遇ふ時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧げて戀の火中に投ずるに至るのである。斯る場合に在ては戀則ち男子の生命である。』
と言つて岡本を顧み、
『ね、さうでせう。どうです僕の説は穿つて居るでせう。』
『一向に要領を得ない!』と松木が叫けむだ。
『ハツハツゝゝ要領を得ない?實は僕も餘り要領を得て居ないのだ、たゞ今のやうに言つてみたいので。どうです岡本君、だから僕は思ふんだ君が馬鈴薯黨でもなくビフテキ黨でもなく唯だ一の不思議なる願を持つて居るといふことは、死んだ少女に遇ひたいといふんでしよう。』
『否!』と一聲叫けむで岡本は椅子を起つた。彼は最早餘程醉つて居た。
『否と先づ一語を下して置きます。諸君にして若し僕の不思議なる願といふのを聽いて呉れるなら談しましよう。』
『諸君は知らないが僕は是非聽く』と近藤は腕を振つた。衆皆は唯だ默つて岡本の顏を見て居たが松木と竹内は眞面目で、綿貫と井山と上村は笑味を含んで。
『それでは否の一語を今一度叫けむで置きます。
『成程僕は近藤君のお察の通り戀愛に依て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女の死は僕に取ての大打撃、殆ど總ての希望は破壞し去つたことは先程申上げた通りです、もし例の反魂香とかいふ價物があるなら僕は二三百斤買ひ入れたい。どうか少女を今一度僕の手に返したい。僕の一念こゝに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平氣で白状しますが幾度僕は少女を思うて泣いたでせう。幾度其名を呼で大空を仰いだでせう。實に彼少女の今一度此世に生き返つて來ることは僕の願です。
『しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の眞實の願ではない。僕はまだまだ大なる願、深い願、熱心なる願を以つて居ます。この願さへ叶へば少女は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を賣つても宜しい。少女が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
『朝に道を聞かば夕に死すとも可なりといふのと僕の願とは大に意義を異にして居るけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶はん位なら今から百年生きて居ても何の益にも立たない、一向うれしくない、寧ろ苦しう思ひます。
『全世界の人悉く此願を有て居ないでも宜しい、僕獨りこの願を追ひます、僕が此願を追うたが爲めに其爲めに強盜罪を犯すに至ても僕は悔ゐない、殺人、放火、何でも關いません、もし鬼ありて僕に保證するに、爾の妻を與へよ我これを姦せん爾の子を與へよ我これを喰はん然らば我は爾に爾の願を叶はしめんと言はば僕は雀躍して妻あらば妻、子あらば子を鬼に與へます。』
『こいつは面白い、早く其願といふものを聞きたいもんだ!』と綿貫が其髯を力任かせに引て叫けんだ。
『今に申します。諸君は今日のやうなグラグラ政府には飽きられたゞらうと思ふ、そこでビスマークとカブールとグラツドストンと豐太閤みたやうな人間をつきまぜて一鋼鐡のやうな政府を形り、思切つた政治をやつてみたいといふ希望があるに相違ない、僕も實にさういふ願を以て居ます、併し僕の不思議なる願はこれでもない。
『聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釋迦や孔子のやうな人になりたい、眞實にさうなりたい。併し若し僕の此不思議なる願が叶はないで以て、さうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
『山林の生活!と言つたばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思はしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に國境をめぐる連山の雪を戴いて居るのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪らなくなる!然しです、僕の一念ひとたび彼の願に觸れると、斯んなことは何でもなくなる。若し僕の願さへ叶ふなら紅塵三千丈の都會に車夫となつて居てもよろしい。
『宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科學と哲學と宗教とはこれを研究し闡明し、そして安心立命の地を其上に置かうと悶いて居る、僕も大哲學者になりたい、ダルヰン跣足といふほどの大科學者になりたい。若しくは大宗教家になりたい。しかし僕の願といふのはこれでもない。若し僕の願が叶はないで以て、大哲學者になつたなら僕は自分を冷笑し自分の顏に『僞』の一字を烙印します。』
『何だね、早く言ひ玉へ其願といふやつを!』と松木はもどかしさうに言つた。
『言ひませう、喫驚しちやアいけませんぞ。』
『早く早く!』
岡本は靜に
『喫驚したいといふのが僕の願なんです。』
『何だ!馬鹿々々しい!』
『何のこつた!』
『落語か!』
人々は投げだすやうに言つたが、近藤のみは默言て岡本の説明を待て居るらしい。
『斯ういふ句があります、
Awake, poor troubled sleeper: shake off thy torpid night-mare dream.
即ち僕の願とは夢魔を振ひ落したいことです!』
『何のことだか解らない!』と綿貫は呟やくやうに言つた。
『宇宙の不思議を知りたいといふ願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいといふ願です!』
『愈々以て謎のやうだ!』と今度は井山が其顏をつるりと撫でた。
『死の祕密を知りたいといふ願ではない、死てふ事實に驚きたいといふ願です!』
『イクラでも君勝手に驚けば可いじやアないか、何でもないことだ!』と綿貫は嘲るやうに言つた。
『必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほどに此宇宙人生の祕義に惱まされんことが僕の願であります。』
『成程こいつは益々解りにくいぞ、』と松木は呟やいて岡本の顏を穴のあくほど凝視て居る。
『寧ろこの使用ひ古した葡萄のやうな眼球をゑぐり出したいのが僕の願です!』と岡本は思はず卓を打つた。
『愉快々々!』と近藤は思はず聲を揚げた。
『ラルムスの大會で王侯の威武に屈しなかつたルーテルの膽は喰いたく思はない、彼が十九歳の時學友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものゝ祕義に驚いた其心こそ僕の欲するところであります。
『勝手に驚けと言はれました綿貫君は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
『僕の戀人は死にました。この世から消えて失なりました。僕は全然戀の奴隸であつたから彼少女に死なれて僕の心は掻亂されたことは非常であつた。しかし僕の悲痛は戀の相手の亡なつたが爲の悲痛である。死てふ冷酷なる事實を直視することは出來なかつた。即ち戀ほど人心を支配するものはない、其戀よりも更に幾倍の力を人心の上に加ふるものがあることが知られます。
『曰く習慣の力です。
Our birth is but a sleep and a forgetting.
この句の通りです。僕等は生れて此天地の間に來る、無我無心の小兒の時から種々な事に出遇ふ、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、是に於てか此不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙萬般の現象も尋常茶番となつて了ふ。哲學で候ふの科學で御座るのと言つて、自分は天地の外に立て居るかの態度を以て此宇宙を取扱ふ。
Full soon thy soul shall have her earthly freight,
And custom lie upon thee with a weight,
Heavy as frost, and deep almost as life !
この通りです、この通りです!
『即ち僕の願はどうにかして此霜を叩き落さんことであります。如何にかして此古び果てた習慣の壓力から脱がれて、驚異の念を以て此宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義とならうが、馬鈴薯主義とならうが、將た厭世の徒となつて此生命を詛ふが、決して頓着しない!
『結果は頓着しません、源因を虚僞に置きたくない。習慣の上に立つ遊戲的研究の上に前提を置きたくない。
『ヤレ月の光が美だとか花の夕が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々たる詩人の文字は、あれは道樂です、彼等は決して本物を見ては居ない、まぼろしを見て居るのです、習慣の眼が作る處のまぼろしを見て居るに過ぎません。感情の遊戲です。哲學でも宗教でも、其本尊は知らぬこと其末代の末流に至ては悉くさうです。
『僕の知人に斯う言つた人があります。吾とは何ぞや(What am I ?)なんていふ馬鹿な問を發して自から苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、と斯う言つて嘲笑を洩らした人があります。世間並からいふとその通りです、然し此問は必ずしも其答を求むるが爲めに發した問ではない。實に此天地に於ける此我てふものゝ如何にも不思議なることを痛感して自然に發したる心靈の叫である。此問其物が心靈の眞面目なる聲である。これを嘲るのは其心靈の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、如何にかして此問を心から發したいのであります。處がなかなか此問は口から出ても心からは出ません。
『我何處より來り、我何處にか往く、よく言ふ言葉であるが、矢張り此問を發せざらんと欲して發せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもさうです、だから其以外は悉く遊戲です虚僞です。
『もう止しませう! 無益です、無益です、いくら言つても無益です。……アア疲勞た!しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に區別したい、曰く驚く人、曰く平氣な人……。』
『僕は何方へ屬するのだらう!』と松木は笑ひながら問うた。
『無論、平氣な人に屬します、こゝに居る七人は皆な平氣の平三の種類に屬します。イヤ世界十幾億萬人の中、平氣な人でないものが幾人ありましようか、詩人、哲學者、科學者、宗教家、學者でも、政治家でも、大概は皆な平氣で理窟を言つたり、悟り顏をしたり、泣いたりして居るのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
『死んだ夢を見ました。死んで暗い道を獨りでとぼとぼ辿つて行きながら思はず「マサカ死なうとは思はなかつた!」と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
『そこで僕は思ふんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思はなかつたと叫んで鬼に笑はれる仲間でしよう。ハツゝゝゝハツゝゝゝ』
『人に驚かして貰へばしやつくりが止るさうだが、何も平氣で居て牛肉が喰へるのに好んで喫驚したいといふのも物數竒だねハゝゝゝ』と綿貫はその太い腹をかかへた。
『イヤ僕も喫驚したいと言ふけれど、矢張り單にさう言ふだけですよハゝゝゝ』
『唯だ言ふだけのことか、ヒゝゝゝ』
『さうか!唯だお願ひ申してみる位なんですねハツゝゝゝ』
『矢張り道樂でさアハツハツゝゝツ』と岡本は一緒に笑つたが、近藤は岡本の顏に言ふ可からざる苦痛の色を見て取つた。
(明治三十四年) 「獨歩集」より  
 
肱の侮辱 / 國木田獨歩

 

東京市より汽車で何哩ほど往くと、某中學校がある。この中學校の通學生は殆ど無賃同樣の大割引の賃錢で汽車を利用し近在近郷から集り來る。英語教師の米國人など常に東京から通つて居た。又た教員の中には東京に家を持つて居て、一週に二度位、家に歸る者もある。木谷といふ洋畫の先生も其の一人であつた。或年の十月頃。日曜日の午後講演者は三人、其一人の矢島といふ文學者は木谷先生の盡力で來て呉れたのである。――と誰しも思つて居たが、其實講演會があると聞いて、矢島自身が木谷に口をきかして、講演者の一人に加はつたのである。最後に矢島が起つて壇に上つた。
諸君! 私は口無調法で、おまけに無學で、更におまけに文盲で、とても只今まで御講演になつたやうな理化學的に有益な「受賣」は出來ません、(前の二人の講演者ぢろりと矢島の顏を睨む。矢島は平氣。)其處で私は只私自身が此眼で見て、此心で感じた事の一つをお話いたさうと思ひます。
ツマラないと思はれる方々は御退場を願ひます、と申す處ですが、さうでない。若し、私の談話中、席を起つた方があつたならば、其方は私を侮辱したものと致します。(靜にコップに水を注いで一口飮む)
さて、お話はこれからですが、少々困つた事が出來ました(と言ひつゝ、洋服のポケットの所々を探す)、お話の草稿が失なりました、(生徒はクスクス笑ふ、前の二人の講演者はザマを見ろといふ顏つき、木谷先生は心配の餘、半分椅子から起ち上がつてゐる)。これは失禮、私は草稿を持つて來なかつたのでした。(生徒は益々笑ふ)私の草稿は腹の中に藏つて在つたのでした。紙へ書いてその一字が見えないと最早行きづまるやうな草稿では無かつたのでした。
諸君、これから此腹の中の草稿を少しつゝ繰出します。
私は子供の時から釣りが好きで、河や沼に出かけた者ですが、今でも此道樂は止みません。其處で今年の六月の初めでした、此學校の近所にある川のやうな川に釣りに參りました。此川は初めての事ゆゑ樣子が解らず、たゞぼんやりして川岸の礫の上に腰を下し四方の景色を眺めて居ますと、上流の方から岸をたどつて此方へ來る者がある。近づいたので見ますと、兼て私の知人である洋畫家でした。餘り立派でない和服を着て顏は例の如く髯ぼうぼうとしてゐました。
「寫生にでも出掛けて來たのですか」と聞くと、
「否、さうでありません」と言つて口をもごもごさして眼をパチクリパチクリさして、次の言葉を出さうとして居ますが直ぐは出て來ないのです。これが此人の癖の一つであります。
「私は其處にある中學校に出て居ます」
と聞いて私は初めて此人が此地方の中學校に洋畫の教師をして居ることを知りました。
「東京から通ふのですか」
「三日目に一度東京の家にかへります」
夫れから四方山の話を一時間もして、洋畫家は去りました。兔も角、今日は東京に歸る日であるから午後四時の汽車で同道致さうといふ約束をきめました。
此日の私の釣は大失敗でした。
午後四時の汽車に間に合ふべく、停車場へ急ぎました。
途中、諸君の樣な方に幾人も出會ひました。悉皆、肩で風を切るやうな歩きつきを仕て居ました。肩が歩いてるやうでした。其時私は思ひました。肩が歩くやうであるのが別に衞生に害があるのでもない。國家の存亡に關する次第でもない。しかし肩で風を切らないでも同じことだ。どちらでも可いなら彼の高慢ちきな、小にくらしい、いけづうづうしい、生意氣な、馬鹿なくせに利巧さうな顏をして見せる、臆病なくせに大膽な風をして見せる、所謂る肩で風を切ること丈けは見合した方がよろしい、と思ひました。
停車場の前で畫家は私を待つて居ました。そして洋服に着かへて居ましたが、それが又頗る古物である上にカラーもカフスも垢染みて鼠色になつて居ます。殊に他人の目につくのは、ボロボロしたネクタイが正面でヒン曲つて横でカラーから外れて居る事です。此仁の衣裝は此時ばかりでなく、何時見ても先づ斯んな風を爲て居るのです。
間も無く汽車が着いて二人は乘りました。同じ車室の中に語學の教師らしい西洋人が乘り込みまして、其れと一緒に生徒が七八人乘りました。覺束ない英語で小生意氣な樣子で西洋人に話し掛けて居るのが第一私の癪にさはりました。所が其の生徒逹は始め洋畫の先生が同じ車室に乘つて居る事を知らなかつたやうでしたが、其中一人が後ろをふり向いて洋畫先生を一目見るや肱で隣の生徒をつゝきました。すると其生徒が又後ろをふり向きました。そして小聲で何か言ひながら更に隣の生徒へ肱の相圖を致しますと、今度は他の三四人が一度に後ろを振り向いて同時に皆が顏を見合せて一種異樣な笑ひ方を致しました。語學の先生は氣が付かないやうでしたが、私と話をして居た洋畫先生はいくらか氣が付いたと見えて、恥かしい樣な悲しいやうな顏容――私は未だ嘗て此樣氣の毒らしい情けない顏付を見た事が有りません。――を仕て居ました。
此有樣を見た私は言ふに言はれぬ憤怒の情がこみ上げて來て、出來る事なら是れらの生徒を一人一人窓からつまみ出して遣りたい程に思ひました。
諸君! 諸君は如何思ひます、成程洋畫先生の風采は上りません、成程世辭も愛敬も無い男ですけれども、此人の心の全部が純白で透明で邪氣の無い事を知りながら、是に侮蔑を加へる事は善良なる學生の行爲でせうか。
けれども私が今皆さんに申し上げたいと思ふのは、さう言ふ簡單な倫理問題では無いので有ります。倫理問題の根本問題です。洋畫先生の如き人に侮蔑を加へると言ふ事は善か惡かと言ふ事を問ふ前に我々は性格の美を認めると云ふ事を學ばねばなりません。性格に對する同情と言ふ事を知らなければなりません。もし其等の事に一切夢中で、只空に善とか惡とか言ふ如き倫理の講義を聞けばこそ、彼の洋畫家を侮辱するやうな中学生が出來るのです。私から申しますと、彼の洋畫家の風采の上らない事やその行爲の何となく間拔けて居る事や、其顏付の爺々むさい事や總てがむしろ長所であつても短所ではないと思ひます。彼のお粗末な外形は其人の極めて單純な善良な心を示して居ると思ひます。
それらの事に少しも心を用ゐず、用ゐる事を知らず。只外形を見て師を侮辱するが如きは何たる卑しい且つ愚かなる根性でせう、諸君の中に一人でも斯くの如き少年の加はつて居るなら實に皆さんの恥辱で有ります。
講演會が終つて矢島が停車場まで來ると洋畫の先生木谷が送つて來た。汽車が出掛けると木谷は口をモグモグさして何か言はうとしたが言ふ事が出來ない。見ると眼に涙を充滿ふくませて居た。
(未詳) 
 
眼前口頭 / 齋藤緑雨

 

明治31年 
○今はいかなる時ぞ、いと寒き時なり、正札をも値切るべき時なり、生殖器病云々の賣藥廣告を最も多く新聞紙上に見るの時なり。附記す、豫が朝報社に入れる時なり。
○代議士とは何ぞ、男地獄的壯士役者と雖も、猶能く選擧を爭ひ得るものなり。試みに裏町に入りて、議會筆記の行末をたづねんか、截りて四角なるは安帽子の裏なり、貼りて三角なるは南京豆の袋なり、官報の紙質殊に宜し。
○啾々を鬼の哭くといふは非なり。こは一樂糸織若くは縮緬の、鹽瀬繻珍の類と相觸るゝをいふなり。紳士淑女の途行く音をきゝて知るべし。
○世に茶人ありて、せめて色とも名のつくことを得ば、今の小説家の望は足れるなり。されどもこれは目的にあらず、目的は孜々として倦まず、書肆の倉を建つるに在り。
○今の小説と、ながらとは離る可らず。寢ながら讀む、欠伸しながら讀む、酒でも飮みながら讀む。されどこの讀むといふことより、代金の手前といふことを差引きて、もし殘餘あらば、そは小説家が社會に與ふる偉大の功益なり。
○明治の政治史は、伊藤山縣黒田井上後藤大隈陸奥板垣松方が名を、いやでも脱すこと能はず。今の自ら政客と稱する者に至りては如何、芳を千載に傳ふる固より難し、寧醜を萬世とはいはず、わづかに其日々々の新聞紙に遺す。
○されども歴史とは、不幸なる世の手控なり、くらやみの耻をあかるみに出すものなり。憂目は虎の皮の留まれるが故に、敷棄にせらるゝ如く、人の名の留まれるが故に、呼棄にせらる。
○およそ人は、姿を畫につくられざる程なるをよしとす。畫につくらるゝ人の、壁に貼られざるは稀なり。即ち、英雄豪傑は壁に貼らるゝものなり。
○總理大臣たらん人と、われとの異なる點を言はんか。肖像の新聞紙の附録となりて、徒らに世に弄ばれざるのみ。
○拍手喝采は人を愚かにするの道なり。つとめて拍手せよ、つとめて喝采せよ。渠おのづから倒れん。
○學士と精リ水とは、製法に於て酷しく相似たるものなり。先づ大なる桶に藥を盛り、これに無數の小瓶を投入れ其ぶくぶくたる音を發するを待ちて、一々取上げて口紙を貼るなり。是れ卒業證書授與式なり。われは精リ水の吟香翁を富ましたるを聞けども、未學士の國家を富ましたる者あるを聞かず、門前の松屋のみ稍富みしとなり。
○途に、未學ばざる一年生のりきみ返れるは、何物をか得んとするの望あるによるなり。既に學べる三年生のしをれ返れるは、何物をも得るの望なきによるなり。但し何物とは、多くは奉公口の事なり。
○所謂政客の節を重んぜざるを以て、娼婦に比する者あれども當らず。賣る可き筈と、賣る可からざる筈と、筈たがへり。娼婦は鑑札を有す、至公至明なり。政客は有せず。
○兒を生まば女の事なり。誤ちて娼婦となるとも、代議士となることなし。
○一生の思出、代議士たらんとすといふ者あるを笑ふこと勿れ、寧渠等は見切賣の勇気ある者なり。已に未切賣なり、ひけ物きず物曰く物たるは論を俟たず。
○選む者も愚なり、選まるゝ者も愚なり、孰れか愚の大なるものぞと問はゞ、答は相互の懷中に存すべし。されど愚の大なるをも、世は棄つるものにあらず、愚の大なるがありて、初めて道の妙を成すなり。
○われは今の代議士の、必ずや衆人が望に副へる者なるべきを確信せんと欲す。衆人曰く、金がほしい。故に代議士は曰く、金がほしい。
○日本は富強なる國なり、商にもよらず工にもよらず、將農にもよらず、人皆内職を以て立つ。
○このたびの文相の世界主義なればとて、日本主義なる大學派の人々のために説をなす者あれども、そはまことに無用の心配なり。何となれば、再言す何となれば、主義を持することゝ、箸を持することゝは自から別なればなり。
○渠はといはず、渠もといふ。今の豪傑と稱せられ、才子と稱せらるゝ者、いづれも亦の字附きなり。要するに明治の時代は、「も亦」の時代なり。
○男のほれる男でなけりや、眞の年増は惚れやせぬ。窮めたりといふべし。されども惚れらるゝは、附入らるゝなり、見込まるゝなり、弱處にあらずんば凡處を有するなり。程や容子や心意氣や、其何れを以てするも、われより高き人のわれに惚れるといふの理なし。
○普通の解説に從へば、縁はむすぶの神業に歸すと雖も、これとても都々逸以外に存立す可くもあらず。おもふに結婚は、一種の冐險事業なり、識らぬ二人を相擁かしめて、これに生涯の徳操を強ふるなり。
○統計上、年々離婚の増加するは人の知る所なり。妻を迎ふるに同居籍を以てするもの、亦將に漸く多からんとす。古の所謂人倫の大綱とは、わづかに朝夕顏を見交はすに過ぎず。
○賣女が手管の巧なりとも、竟に智にあらず、三つ蒲團の上に於て初めて生ずる習慣なり。若今の夫妻間に、若干の徳ありといはゞ、恐らくは膳をかけ合せたる時に於て、初めて生ずるそれも習慣ならん。
○樂は偕にすべし、いづれ一間買ふべき桟鋪なればなり。苦は偕にすべからず、高利貸が門に合乘を停むるの要なければなり。
○敢て貞節のみとは言はず、身に守る者いよいよ多く、心に守る者いよいよ少し。心身の二字妥當を缺かば、宜しく表裏と改むべし。道徳は必ずしも實踐におよばず、口先のものなり、寧ろ刷毛先のものなり。霞の光のありとのみにて、雲の影のなきも可なり。治まる御代の景物なり、御愛敬なり。
○おもへらく、親子兄弟、是れ符牒のみ。仁義忠孝、是れ器械のみ。
○涙ばかり貴きは無しとかや。されど欠びしたる時にも出づるものなり。
○熱誠とは贋金遣ひの義なり。註に曰く、其目的の單に製造するに止まらず、行使するに在るを以てなり。
○眞實、摯實、堅實、確實、これらは或場合に於ける活字の作用に過ぎず。即ち今の精神界を支配するもの、勢力を以ていはゞ活字なり。これを六號にするも五號にするも、廣告料に於て差異なく、四號にするも二號にするも、工手間に於てまたまた差異なし。
○官人のために氣を吐くも、民人のために氣を吐くも、一つ口は同じ口なり、怪むを要せず。達辯と訥辯とは正反對のものなれども、共にタチツテトの行に屬す。
○國家といはず、箇人といはず清まばタメなるべきも、濁らばダメなるべきこと、これも假字より出でたり。
○犠牲に供すとは面白き語なり、天神地祇は之れを看行すのみ、何日ともなしに人の取下げて、多くは自ら啖ふなり。
○泥棒根性なきものは人にあらず、これありて初めて世に立つを得べし。格をいへば豪傑たり才子たり、分をいへば強盗たり巾着切たり、素は一なること今更にあらず。
○人は殺すよりも、殺さるゝに難きものなり。殺さるゝに資格を要するものなり。ねがはくは殺されん、殺さるゝを得ずば、ねがはくは殺さん。殺さず殺されざるも、猶人たるの甲斐ありや疑はし。勿論こゝに殺すといふは、刃に血塗る事なり。
○われは今の文學者の品位の、いかばかり高しとは得言はざれど、嘔吐を催すと學堂氏のいへるは稍過ぎたり。氏はおもに假名垣時代を見たるにはあらざるか、年も漸く遷り來れるを知らざるにはあらざるか。伊藤侯が十年前の政治家なるとゝもに、學堂氏も亦十年前の論客たるなくんば幸なり。
○小説家とは何ぞや。小説にもならぬ奴の總稱なり。われは之を以て、最も簡單なる、最も明白なる、恐らくは最も公平なる解釋とす。
○何故にといふ語こそ、沒風流の極みなれ。説明し得べきと、得べからざるとの間に、妙不妙の別ちは存するなり。豆腐を好む者にむかひて、いかなるを味の妙となすと言はゞ、それはとばかり孰しも逡巡すべし。即ち妙とは、説明すべきものにあらず、説明し得べきものにあらず、もしその幾分を説明し得たりとせば、説明し得たる幾分は、已にその妙を失へる者なり。
○不幸も弔はるゝ程なるは、猶樂しきものなり。これや限りの眞の不幸は、竟に弔はるゝことなし。
○あとなる人のおのれと同じく溝飛越えしを見て、ほいなきものに思ふことあるも人の性なり。あとなる人の己とおなじく、溝に陷りしを見て、氣味よきものに思ふことあるも人の性なり。樣々なるが如しと雖も、しかも是同一人の性なり。
○わが世に大人なる者ありや、君子なる者ありや。口にしばしば大人君子をいふ者は、手にしばしば追剥をなす者なり。後の世の人の前の世の人を捉へて、身の箔となすに必要なる威嚇文句を、字に書きて大人君子とは云ふなり。
○夙に何々の志ありなどいふも、後人の附會なり、傳紀家の道樂なり、立志編に限りて用ひらるゝ形容詞なり。偉人たらんことを欲ひし人の、偉人たりしことなく、多くは其邊の受附に隱れたまはず、曝されたまへり。
○有る智慧を出すに慣れたる果は、無き智慧をも絞るに至るものなり。凡人たれ、凡人たれ、勉めて凡人たれ、是れ處世の第一義なると共に、修身の第一義なり。めでたく凡人の業を卒へたる時に於て、較すぐれたるものあるは、自己も猶よく認め得べき事なり。
○偉人たるは易く、凡人たるは難し。謹聽すべき逸事逸話は、凡人に多く偉人に少し。われは今、世を同じうせる人々のために、頻に逸事逸話を傳へらるゝの偉人多きを悲む。
○問ふて曰く、今の世の秩序とはいかなる者ぞ。答へて曰く、錢勘定に精しき事なり。
○慈善は一箇の商法なり、文明的商法なり。啻に金穀を養育院に出すに止まらず、姓名を新聞廣告に出す。
○陰徳あり、故に陽報あるは上古の事なり。近代に入りては、陽報あり、故に陰徳あるなり。盛年重ねて來らず、こゝを以て學ぶべしと古人は言ひ、遊ぶべしと今人は言ふ。今は古にあらず、義理を異にする怪むに足らず。
○恩は掛くるものにあらず、掛けらるゝものなり。漫りに人の恩を知らざるを責むる者は、己も畢竟恩を知らざる者なり。
○恩といふもの、いと長き力を有す、幾たび報うるも消ゆることなし。こゝに於てか賣る者あり、忘るゝ者あり、枷と同義たらしむ。
○僞善なる語をきく毎に、僞りにも善を行ふ者あらば、猶可ならずやとわれは思へり。社會は常に、僞善に由りて保維せらるゝにあらずやとわれは思へり。
○若し國家の患をいはゞ、僞善に在らず僞惡に在り。彼の小才を弄し、小智を弄す、孰れか僞惡ならざるべき。惡黨ぶるもの、惡黨がるもの、惡黨を氣取る者、惡黨を眞似る者、日に倍々多きを加ふ。惡黨の腹なくして、惡黨の事をなす、危險これより大なるは莫し。
○まことの善とまことの惡とは、醫の内科外科の如し、稱は異れども價は一なり。亂世の英雄なるもの、まことの惡ならば、治世の奸賊なるもの、まことの善なり。僞惡の出づるもこれが爲のみ、僞善の出づるもこれが爲のみ。
○賢愚は智に由て分たれ、善惡は徳に由て別たる。徳あり、愚人なれども善人なり。智あり、賢人なれども惡人なり。徳は縱に積むべく、智は横に伸ぶべし。一は丈なり、一は巾なり、智徳は遂に兼ぬ可らざるか。われ密におもふ、智は兇器なり、惡に長くるものなり、惡に趨るものなり、惡をなすがために授けられしものなり、苟くも智ある者の惡をなさゞる事なしと。
○更におもふ、人生の妙は善ありて生ずるにあらず、惡ありて生ずるなりと。世に物語の種を絶たざるもの、實に惡人のおかげなり。吾をして歴史家たらしめば、道眞を傳ふるに勉めんより、時平を傳ふるに勉めん。吾をして戯曲家、小説家、若くは詩人たらしめば、徒らに神の御前に跪かんより、惡魔とゝもに虚空に踊らん。
○人の常に爲さゞるによりて善は勧むといひ、常に爲すによりて惡は懲すといふ。勸善懲惡なる語の、由來する所此の如くならずとするも、波及する所此の如し。
○善も惡も、聞ゆるは小なるものなり。善の大なるは惡に近く、惡の大なるは善に近し。顯るゝは大なるものにあらず、大なるものは顯るゝことなし。惡に於て殊に然りとす。
○善の小なるは之を新聞紙に見るべく、惡の大なるは之を修身書に見るべし。
○勤勉は限有り、惰弱は限無し。他よりは勵すなり、己よりは奮ふなり、何ものか附加するにあらざるよりは、人は勤勉なる能はず。惰弱は人の本性なり。
○元氣を鼓舞すといふことあり、金魚に蕃椒水を與ふる如し、短きほどの事なり。
○懺悔は一種のゝろけなり、快樂を二重にするものなり。懺悔あり、故に悛むる者なし。懺悔の味は人生の味なり。
○打明けてといふに、已に飾あり、僞あり。人は遂に、打明くる者にあらず、打明け得る者にあらず。打明けざるによりて、わづかに談話を續くるなり、世に立つなり。
○奠都三十年祝賀會の、初めは投機的におもひ附かれしものなること、言ふを俟たず。これが勧誘に應じたる人々の意をたゝくに、多くは勤王論の誤解者なり。たのもしき東京市の賑ひといへば、車に乘れる貧民の手より、車を曳ける紳士の手に、一夜の權利を移すに過ぎず。
○知己を後の世に待つといふこと、太しき誤りなり。誤りならざるまでも、極めて心弱き事なり。人一代に知らるゝを得ず、いづくんぞ百代の後に知らるゝを得ん。今の世にやくざなる者は、後の世にもまたやくざなる者なり。
○己を知るは己のみ、他の知らんことを希ふにおよばず、他の知らんことを希ふ者は、畢に己をだに知らざる者なり。自ら信ずる所あり、待たざるも顯るべく、自ら信ずる所なし、待つも顯れざるべし。今の人の、ともすれば知己を千載の下に待つといふは、まこと待つにもあらず、待たるゝにもあらず、有合はす此句を口に藉りて、わづかにお茶を濁すなり、人前をつくろふなり、到らぬ心の申訳をなすなり。
○知らるとは、もとより多數をいふにあらず。昔なにがしの名優曰く、われの舞臺に出でゝ怠らざるは、徒らに幾百千の人の喝采を得んがためにあらず、日に一人の具眼者の必ず何れかの隅に在りて、細にわが技を察しくるゝならんと信ずるによると。無しとは見えてあるも識者なり、有りとは見えてなきも識者なり。若し待つ可くば、此くの如くにして俟つ可し。
○かしこきは今の作家や、われたゞ一つを傳ふれば足るといひて、さるが故に平生勉むるにあらず、さるが故に平生なぐるなり。知己を待つこと、數ひく弓のまぐれ當りを待つが如し。
○ほまれは短く、耻は長し。譽れは身をつゝむものなり、頭にかゝるものなり、耻ぢは身をそぐものなり、面にのこるものなり。つゝみて懸かるは雲の如し、吹かば飛ぶことあるべく、そぎて遺るは瘢の如し、拭へども去ることなかるべし。譽れなきも耻にあらず、耻なきは譽れなり。ほまれを求めんよりは、耻を受けざるに如かず。されど譽れもなく、耻もなきを世は人といはず、耻とほまれと相半ばしたる間に於て、人の品位は保たるゝなり。
○唯それ活字の世なり、既に言へりし如く、活字に左右せらるゝ世なり。榮と辱と、一箇の活字を置換へたるに過ぎず。萬朝報が日々市内の死生を記すを見て、人は生れてより死するまで、遂に活字の縁を離れざる者なるをおもふ。尠くとも六號活字を脱離し能はざる者なるをおもふ。
○襃するに分あり、過ぐれば即て貶するなり。世に碑文書きほど、嘲罵の極意を辨へたるはあらじ。さもなきに父祖の墓をのみ輝かさんは、却て父祖の業を辱しむるものなり。
○死せる者は谷中に行くなり、生ける者は遊郭に行くなり。葬るに自他の別ありと雖も、その共同墓地たるに於ては一なり。 
○優れるが故に勝つなり、劣れるが故に敗くるなり。強者の弱者を拯はざるを責むと雖も、強者は何の度、何の點、何の域まで弱者を拯はざる可らざるか。いつまで艸のいつ迄も、ただ限り無くといはゞ、強者は己のために勝ちて、他のために敗けざるを得ず。
○力の強弱なり、理の是非にあらず。しかも代々、弱者の理に富めるが如き觀あるは、一に攻守の勢を異にするに由るなり。弱者の強者にくらべて、理をいふに都合よき地位なるによるなり。愚痴や、怨みや、泣言やを繰返すの便宜あるによるなり。要するに弱者の數多ければなり、口喧しければなり。
○強きを挫き弱きを扶く、世に之れを侠と稱すけれども、弱に與せんは容易き事なり、人の心の自然なり。義理名分の正しき下に、強に與せんはいといと難し。悶ゆる胸の苦少きを幸福といはゞ、弱者は強者よりも寧ろ幸福なり。
○劍を以てするも、筆を以てするも、強者は遂に弱者を扶くることなし。長く扶くることなし。弱者を扶くるは弱者なり。どの道のがれぬ弱者なり。同病相憐むに過ぎず。
○正義のために起つといふは、身正義に代れるなり。貫き能はで斃れたるとき、正義は猶存在するものなりや否や、埋沒せられざるものなりや否や。
○貧は強ち耻辱にはあらざる可きも、さりとて到底榮譽にあらず。まづしき也、とぼしき也、憂ふるに人さまざまの輕重ありとも、孰か心の奥を問はれて、富に優るといふ者あらんや。貧を誇るは、富を誇るよりも更に陋し。
○濫せざるは罕なり、世に清貧なるものあるべしとも覺えず。先ごろ人の之を言爭へるも、概ね字義に拘泥したるの論のみ。富は餘れるなり、貧は足らざるなり、鹽噌の料に逐はるゝも、酒色の債に攻めらるゝも、算盤の合はざるは一なり、貧は一なり。必要を辨ずる能はざるを貧といはゞ、貧に清濁の別ちあるなし。即ち清貧とは、寡欲を衒ふに過ぎざる假設文字なり。
○富は手段を要す、こゝに於てか貧に安んずといふことあれども、實は安んずるにあらず、安んぜざるを得ざるなり、餘儀なきなり。人は銅貨の大よりも、銀貨の小を取る者也、取らざる迄も、其貴きを知れる者也。貧に安んずる者ならぬは明らけし。
○今日しばし貧に安んずとも、有りし昨日、有るべき明日を夢みんは定のものなり。悠然、澹然などいふもつまりは、負惜しみの臺辭なり。
○謂れなきに富者の憎まれ、貧者の憫れまるゝことあり。アキタ(冠が厭で脚が食)らぬ人の心の、身を富者の地位に置かず、貧者の地位にのみ置きて考ふるに因るなり。
○金庫は前にす可きものにあらず、後にす可きものなり。金庫に向かへる人の膝は屈めるなり、うな垂るゝなり。金庫に倚れる人の肩は聳ゆるなり、そり反るなり。
○他人の迷惑を顧みず、慮らざるもの、傳紀家を以て第一とす。知られぬが幸ひの手形足形を、さがなき此世に掘返して、己が樂しみに耽るなり。傳紀家が文辭を修飾すればするだけ、他人の迷惑は加はるなり。
○われは傳紀家の筆によりて、前人が罪科の數へらるゝを悲まず、功績の列ねらるゝを悲む。靈あり心あらば、地下に其人の然ばかりならぬを泣かんかとて。
○罪は遺すべし、功は遺すべからず。人の眞價は、罪有るによりて誤られずと雖も、功有るによりて却て誤らる。迷惑は罪の大なるよりも、功の小なるを擧示せらるゝに在り。
○歌々ひ、舞々ふ人の常に曰ふ、やんやの聲はこゝぞの時に聞くことなく、さらでもの時に聞くこと多しと。巨人、偉人、大人なるものの傳紀に就ても、われは此憾なきを保する能はず。
○人間が標準相場は、功名を以て定む可きにあらず、假なれば也。過失を以て定む可し、眞なれば也。
○襃するに辭は限有れど、貶するに限無し。例せば利口といへる唯一つのほめ言葉に對し、馬鹿、阿房、間拔け、拔作、とんま、とんちきなど、惡口は數ある如し。世とて人とて、到底誹らで果つまじきことは、これにて知るべし。
○謂はゞそやすは義理づくなり、けなすは眞けんなり。人のたづぬるに遇へば、一はまあ爾言つて置くのさといひ、一はそれが當前ぢやないかといふ。
○恐る可きもの二つあり、理髮師と寫眞師なり。人の頭を左右し得るなり。
○さる家の廣告に曰く、指環は人の正札なりと。げに正札なり、男の正札なり。指環も、時計も、香水も、將又コスメチツクも。
○つとめて穿鑿すべし、つとめて穿鑿すべからず。かく反對せる二箇の用意を、一身に負ふべきは歴史家なり。爛熳たる嶺の櫻と見しは、白雲なりしと言ふとも、水蒸氣の凝れりしと迄は言ふこと勿れ。陷り易き歴史家が弊は、穿鑿家たるに在り。
○されど水蒸氣と知らず雲を敍し、雲と知らず櫻を敍するが如きは、最も愚劣なる歴史家の事なり。
○詩は建國のものにあらず、亡國のものなり。建つるよりは、亡ぶるに姿かなへり、品具はれり。畏くも後醍醐、後村上の帝を首めたてまつり、南朝の歌集の極めて誦すべく、北朝のゝ一として看るに足らざるが如き、轉ずれば即てよき例證にあらずや。
○亡國の臣など呼ばれぬる人の、いかばかり風情に富みたりけんと、おろかしき事をも時には想ひ出さる。こはわれの日本の民なるが爲か、深編笠の浪人姿を、土間の一二三邊りに在りて喝采したる日本の民なるが爲か。
○那翁が雄圖の遺憾なく遂げられたらんには、今の如く我邦に贔屓を有することなかるべし。徳川氏の治下に出でたる歴史なるにも拘らず、一枚上に置ける秀吉の如きも、亦然らん。
○例を低きに取らば佐倉宗吾を見よ、大方の人の渠に動かさるゝは、奮ひて起てる初めなり、中ばなり、終りにあらず。願達きて渠が身の全からば、稱する者九分を減ずべし。
○目的は巓に在れども、山に遊ぶの快は幾曲折せる坂路を攀づるに在り。登れる者は下らざる可らず。
○めでたきものは平凡なり、めでたき正月の生活は、人皆平凡なり。
○清竟に盛へんか、衰へんか、われ之を知らず。唯其動揺し、騷擾する毎に、急ぎて歸着點を明かにする者なるをおもふ。
○革命來を呼べる人あり、今猶呼ぶ人あり、倶に戲れなるべし。信仰なき民は、革命なる文字を議するといはず、弄するの資格だになき者なり。
○假に細民の群り起てりとせよ、襲ひ撃たんは何處なるべき。米屋、薪屋、炭屋、酒屋、日濟し貸、及び差配人のでこぼこ頭のみ。
○口若くは筆もて富豪を責めんは、徒勞に屬す。幾千萬言を重ねて其暴横をいふとも、暴横より得たる權勢は、其間も猶暴横を逞しうし續くるの餘地あるなり。勝を必せざる攻撃は攻撃にあらず、攻撃の甲斐無し、敵をして防備を嚴ならしむるに過ぎず。
○非を遂げよ、希はくは非を遂げよ、非は必ず遂ぐ可きものなり。成功は非を遂ぐるに由りて來り、失敗は半途に非を悔ゐ、非を悟り、非を悛め、能く遂げざるに由りて來る。
○獨り斃れて已まんとは、潔き言葉なり、唯夫れ言葉なり。われをして言はしめば、人一人なりとも多く倒したる後に、われは倒れん。ふびんなれども冥土の路連れ、彼れ倒れずば我れ斃れじ、獨りは斃れじ、斃るゝとも已まじ。
○萬歳の聲は破壞の聲なり。河原の石の積上げられたるよりも、突崩されたるに適す。
○今もちよん髷といふを戴きて、明るき都の兩側町を行く人あり。頑迷なりといふ勿れ、固陋なりといふ勿れ、尠くとも主義を頭に載せたる人なり。
○理ありて保たるゝ世にあらず、無理ありて保たるゝ世なり。物に事に、公平ならんを望むは誤なり、惑なり、慾深き註文なり、無いものねだりなり。公平ならねばこそ稍めでたけれ、公平を期すといふが如き烏滸のしれ者を、世は一日も生存せしめず。
○どうせ世の中は其樣なものだ。この一語は、泣ける者をも慰むべく、怒れる者をも慰むべし。斯くして人口は年々増加すとも、減少することなし、めでたからずや。
○家あり、妻なかる可らず。妻が一家に於ける席順を言はゞ、葢鼠入らずの次なるべし。人の之を米櫃の保管者となせども、任に能く保管に堪へんこと覺束なし、恐らくはそれの輕重を單に報告するに止まらん。
○與へられし或権限をすら守り得ず、然も與へざる或権限を越ゆる者は妻なり。
○凡ての場合に於て、妻は參考品なり。分別をなすに於て、なさしむるに於て、なさざる能はざらしむるに於て。
○二人だから何うもならないといひ、一人だから何うかなるだらうといふ。夫婦者のは晴れたる苦勞なり、獨身者のは陰れる苦勞也。世に遣瀬なき思ひといふは、おほむね頭數を以て算出せられ、判定せらる。
○少年諸君のために言はんか、腦病に倒れんよりは胃病に倒れよ。雜誌を買ふて腦病に倒れんよりは、ひとしく学資の上前也、くすねる也、はねる也、菓子を買ふて胃病に倒れよ。腦と胃と、機關の因縁淺からずと雖も、士は一に名分を重んぜざる可からず。
○漫りに隈板二伯を嗤ふを休めよ、人間らしき内閣を組織したることに於て、二伯が功は沒す可らず。われらが知見の及ぶ限りを以てすれば、何れは人間の手に由りて造らるゝ内閣の、斯の如く明白に、寧ろ斯の如く巧妙に、人間の心情を露出といはんよりは表示し、表示といはんよりは捧呈し得たるもの無し。是實に世界に於て空前の事なるとゝもに、恐らくは亦絶後の事ならん。但だ衆の望の、かく迄に人間らしき内閣を得んと欲したるに在りしや否ずやを知らずと雖も、今にして思へば藩閥打破を疾呼せる渠等が聲の、頗る人間らしかりしをわれは嘆稱せざるを得ず。
○一日も政治なかる可らず、茲に於てか月給を奪ひ合へり。一日も政黨なかる可らず、爰に於てか看板を奪ひ合へり。車宿の親方の常に出入場を爭ふの故を以て、内閣大臣の偶々出入場を爭ふを不可とするの理を我は發見する能はず。車宿の親方の果敢なきが故にあさましく、内閣大臣の然らざるが故にあさましからずといふの理をも發見する能はず。
○憲政の美といふことを一言に約すれば、壯士の收入を増すといふ事なり。
○あゝ政治家よ、あゝ我邦今の政治家よ、卿等は唯一つなる刑の名をも知らざる者也、熟せざる者也、諳ぜざる者也。竊盜をなすも、強盜をなすも、等しく刑に處せらるべしと雖も、刑に於てすら名を重んぜざる卿等は、遂に何等の肩書きをも有する事なし。
○政界今日の事を以て、狂的行動となす者あり。一應はきこえたり、再應はきこえ難し。愚人の大人と相隣れるが如く、狂人は傑人と相隣れり。渠等を愚と言はんか、愚は猶寛なるものあり。狂といはんか、狂は猶偉なるものあり。所詮渠等は愚人、狂人以下なるのみ。
○一の大人、傑人なしと雖も、隣れるを以て近しとせば、千百の愚人、狂人あらんも亦聊か慰するに足る。恰も一町先の酒屋の深けて起きざるによりて、角店の水臭きをも忍ぶが如けん。愚人の量、狂人の見だになき世となりては、政治といふもの、竟に一盃の寢酒に若かず。
○譬へて今囘の變を言はゞ、總領の狡獪に人の氣を許すことなかりしも、次男の正直にふびんかゝりて、おもはぬ相互の不手際を演出するに至りしなり。政治系統の外に立ちて、單に因果の理法よりすれば、國家を誤る者は大隈伯にあらず、板垣伯なり。
○政治運動とは、一名集會の栞なり。胸襟を披くと稱し、十二分の歡を盡くすと稱す。幾たび盡くすとも十二分なると共に、幾たび披くも舊の胸襟なり。
○鬱勃たる不平の迸り出づる時、これを支へんは酒なるかな。敢て段落を見計らふを要せず、まあ一杯とさしたる洋盞の渠が手に移らば、疑ひもなく麥酒は其場の結論たるべし。
○それが何うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文學といはず。
○絶えず貢獻なる語を口にする人あれども、おもふに腹のふくれたる後の事なるべし。尠くとも、一日三度の飯を食得たる後の事なるべし。片手業なるべし。小唄なるべし。
○與す可きにあらず驕りて觀下すか、齒す可きにあらず謙りて瞻上ぐるか、處世の要はこの二つを出づること莫し。されば朝夕の辭儀口誼もおまへは馬鹿だと言ふか、あなたはお利巧なと言ふかの二つよりあること莫し。
○上流に比すれば樂多かるべし、されども下流に比すれば苦多かるべし。社會の勢力は總て中流の有なること、今更にもあらざる可き歟。維持するに於て、壞亂するに於て。
○米錢の事と限るにあらず、力をお隣のをばさんに假るに、裏屋にありては味方なり、慰藉を得るの便り也。表店に在りては敵なり、誹謗を招くの基也。理の本は斯くひとしけれど、情の末は斯くたがへり。
○下なる人は之を寄せ合ふなり、上なる人は之を偸み合ふなり。同情なる文字の荐りに社會に稱せらるゝにも拘らず、解を求むればまさに斯くの如し。
○立身出世といふことあり、人のうまれの啻に怜からば、誰も爲し得んものに思ふは大なる誤り也。何處にか阿房の本體をとゞむるにあらざれば、立身出世はなり難し。立身出世を希はん者は、見え透きたる利口と、見え透きたる阿房とを兼有せざる可らず、兼有して而して巧に表出せざる可らず。
○虎といふものこそ可笑しきものなれ、身は動物園の鐵柵に圍まれて出づるに由なく、遂に自由なるまじき境と知りつゝ、猶其処に一分時を安んずる能はず、最も、最も柵に近き邊を、日夕往返し居るなり。
○軍人の跋扈を憤れる人よ、去つて淺草公園に行け、渠等が木戸錢は子供と同じく半額なり。
○山縣侯の手に成れるこの度の内閣は、雅味ある内閣也。一概に之を斥けんは、人類學攷究の價値を知らざる者也。組織と言はず、宜しく發掘と言ふべし。
○一の政治家なし、數多の政論家あり。一の政論家なし、數多の政黨屋あり。強て家の字を附す可くば、われは之を一括して、經世家といふの妥當なるを信ず。經綸の經にあらず、經過の經なり、即ち世を經るなり、どうかこうか渡り行くなり。
○正札だからまけますといふ世にありて、特り看板に僞りなきは、彼の自ら有志家を以て任ずる輩也。一定の職なく、業なく、右往左往に唯わやわやと立廻りて、團體と稱す、志の有る所知る可きのみ。三輪のうま酒うまさうなる時に、多くの人は志を呼ぶものなり。
○奔走家といふも新しき營業也。抱への車夫に給分を渡すことなくば、一層新しき營業也。
○曩に大臣の名の安くなりぬと説きし人に問はん、そは從來高上りせる我邦政治の價の、漸く平位に著かんとしたるものにあらざる乎。この度の内閣は如何、亂高下とも言ひかぬるなるべし。止むなくば休日越しの相場歟、開市の暁は直ちに改正せらる可き者なり。
○政治は人を亡し、文學は国を亡す。國のために政治をいひ、人のために文學をいふ。誤らずんば幸ひ也。
○極めて謂れ無き事なれども、姑く傳ふるに隨せて、醫は仁術なりとせんか。古は人を活すが故也、即ち患を除く也。今は人を殺すが故也、即ち苦を去る也。字義と雖も世とゝもに推移するに、怪しうはあらじ。
○諺に曰く地震雷火事親父と、是れたゞ危險の度を示したるに過ぎず。苦痛の量よりすれば、親父火事雷地震也。
○世は殿樣の謠なる哉、孃樣の琴なる哉、喝采の豫約せられたる如きものを以て、豫約せられたる如き喝采を得るも、猶長く悦べり。 月給は人の價にあらず、されども月給は人の價なり。各人が遭遇する場合の多少より言はゞ。
○官吏が權勢を射利の用に供すること、今始まりしにあらずと雖も、過ぎにし事の迹をひとかに察するに、藩閥内閣に屬するは、地位のために獲たる儲け口なりし。政黨内閣に屬するは、儲け口のために得たる地位なりし。即ち前者は偶然也、偶然といふを得可し。後者は必然也、必然といふの外無し。彼の杉田を看よ、肥塚を看よ、草刈を看よ、所謂憲政の賜としては、醜穢なりとは言はず露骨なりしをわれらは藩閥の前に耻ぢざるを得ず。
○風紀は一片の禁令の、能く支持す可きにあらず。學生を取締り、諸藝人を取締り、遊び人乃至物貰ひの徒を取締るといふも、畢竟威壓のみ。腐敗せしめよ、大いに腐敗せしめよ、世を擧げて全く腐敗し盡すを得ば、尠くとも人互ひに感染し、浸潤するの患を除くに庶幾からん。
○彼方には火鉢を取除け、此方には茶棚を取除くるは、朝々の掃除にも面倒なる事也。掃除し畢りて顧みれば、塵は塗盆の上に猶鮮かなるべし。如かず機を得て、一時にどつと掃出さんには。
○人は早晩、何の點と限らず墮落す可きに定まれる者也。強て墮落を抑へんは、發せしむるに過ぎず。あしき墮落をなさゞるの前に、噫われはよき墮落を誨へんかな。
○一夕、大學生の語るを聽く。曰く、彼奴もなかなか進化したと。茲に進化とは、繻珍の紙入を藏するの義也、われらが認めて墮落となす所の者也。要するに學問は自己を諒解するの道にあらず、辯解するの具なり。
○今の教授法といふは、泥水清水の混合物也、併せ飮ましむる也。よしや遡れば清水の多分なりとも、攪き交ぜられし末は泥水の行渡れるを以て、滿腹と稱す。宜なり渠等に清水を見ず、吐かば必ず泥水なることや。
○漫然、他を罵りて無學といひ、無識といふは重寶なる、但しは卑怯なる語也。いかなる大學者、大識者に向つても言得べきと共に、いかなる大學者、大識者と雖も、之を言釋かんに途なき事なればなり。眞正の學者、識者の口より、この語の出でしをきゝし事なし。 
明治32年

 

○教育の普及は、浮薄の普及也。文明の齎す所は、いろは短歌一箇に過ぎず。臭い物に蓋するに勉むる也。國運日に月に進むなどいふは、蓋する巧の漸々倍加し來ぬる事也。
○天保老人氏曰ふ、今を昔に比ぶるに、男次第に妍く、女次第に醜し、是れ何が故ぞと。戲謔にはあらざるべし、眞ならばげに是れ何が故ぞ。未能く答ふるを得ずと雖も、われは敢て風俗上の問題となさず教育上の問題として、之が因由をたづねんと欲す。
○女といふは榮ある者哉、紅きもの、白きものもて彩るを得るなりとは人の言也。女といふは效なき者哉、紅きもの、白きものもて彩らざるを得ざるなりとはわが言也。
○聖賢の道といふものこそ、いと心得ね。大方の場合に於て、女子は即ち色なりと解し、格外に之を忌み怖れたり。威を以てするも、つまりを言はゞ欺くなり。總ての意味の上に、教といふは元アザムキ也。僅に女一人をも欺き得ず、何者をか欺き得ん。女は欺く可し、欺かば足りぬべきものなり。
○炊がざれば米は食ふにたへず、炊ぐは當然のみ。女を欺くに何の罪ぞ。
○たまたま女の僞りを陳ずることありとも、たゞす勿れ、責むる勿れ、とがむる勿れ。僞りかあらぬかをさへ、問ふに及ばず。女の嘘は、唯聞いて置けば宜しき事也。
○女子の貞節は、貧の盜みに同じ。境遇の強ふるに由る。
○涙以外に何物をも有せず、女の涙は技術なり。
○女は猶鶯の如き者か。羽色のために拂はるゝよりも、啼音のために拂はるゝ價也。最もよく玩弄に適したるを、最もよき女とは謂ふなり。
○嘗て女の手に、剣を執れる世もありき。鬪へる也。扇を取れる世もありき。舞へる也。今は只男の肩に懸くるか、頸に懸くるかより能無き世となりぬ。寢ぬる也。
○才を娶らんよりは、財を娶れよ。女の才は用なきもの也、善用することなきもの也。なまなかなるは不具たるに殆かるべし。財あるに如かず。財を獲たらんは、才を得たらんより耐へ易く、忍び易し。
○人の妻を遇するを見るに、之を粧飾品となす者は座敷に置き、日用具となす者は臺所に置く。共に動産たり。妻みづからも亦身の置場、据場、寧ろ寢處とより上の觀念を有するものなし。若これありとせば、そは粧飾品の風通を買はれざるを恨み、日用具の繻子を賣らるゝを怖るゝのみ。この時初めて、夫あるを覺るに過ぎず。
○凡て女子の心にとは言難し、身に夫あるを覺るは、滿ちたる時にあらず、缺けたる時なり。全き時にあらず、乏き時なり。謝す可き時にあらず、訴ふ可き時なり。恩にあらず、怨也。
○已に動産と稱す、妻を迎ふるは一箇の富を増すなりといふ者あるにわれは抗論せざる可し。醫者樣の物置に、菓子、鷄卵の空箱の積まれたるを富なりといふ者あるにも、われは又亦抗論せざる可し。
○文字ばかりをかしきは莫し、實を傳へざるは莫し。内助の二字の如き、殊に然り。單に鍋釜を整理し、配置し、按排するの謂とせんも、猶諸買物通帳は、常に夫の前に提供せらるゝにあらずや。世に内助の功なんどといふもの、到底有得可しとも覺えず。
○彼の妻を見よ、飼犬を見よ、大差ありや。餌を與ふることを忘れずば、吠ゆることなし。
○寒い晩だな、寒い晩です。妻のナグサメとは、正に斯の如きもの也。多くもこの型を出でざる受答への器械のみ。之に由りて、世の寂寥を忘るといふ者あり、げに能く忘るべし、希望をも忘るべし。
○前なる夫に告ぐ、渠は今公に、後なる夫の膝によ(冠が馮で脚が几)りて笑ふ也。後なる夫に告ぐ、渠は今密かに、前なる夫の墓に詣でゝ泣く也。いづれぞ心の誠なる。いづれも形の僞り也。
○生殖作用は、生活作用也。飢ゑざらんが爲といふこと、女子が結婚の一條件たるを以て見れば。
○豫め轉賣を諾されたる者は娼妓なり。されども權利者の誤解をまねくこと多し。この誤解をまねくこと無き者は妾なり。
○雜誌、新小説の懸賞規則を見るに、當選者の肖像を寫眞版となし、之を卷頭に掲ぐべしとあり。あゝ明治の青年は、斯の如くにして犠牲に供せらるゝ也、葬らるゝ也。
○戀とは口にうつくしく、手にきたなき者也。こは嘗て神聖論を拒否するにあたりて、戀とはうつくしき詞もて、きたなき夢を敍するものぞとわれの言へるを、詳かにしたりとも、約かにしたりとも言得べきもの也。
○危きは世に謂ふ戀なるかな。一たびするも、十たびするも、符號を遺すことなく、痕跡を留むることなし。
○相見ば戀は止むべきか、相逢はゞ戀は止むべきか、相語らば戀は止むべきか。切に求めて休むことなきものは戀也。
○須らくわれも世につれて、相思ふを戀といふべし。最後やいかに。限りなきおもひの程を互に表示するに於て、通告するに於て、將又交換するに於て、唯一つなる方法は相擁きて眠るにあらぬか。
○ふたりが戀の契約書にありては、肉交は證券印紙なり。之を貼用するにあらざれば、自己も猶效力を認めず。
○戀は親切を以て成立す、引力也。不親切を以て持續す、彈力也。疑惑は戀の要件也。
○夫婦は戀にあらざること、言ふ迄もなし。夫婦は戀の失敗者と失敗者とを結び合せたるものなること、亦言ふ迄もなし。「鮨をと思つたが蟇口の都合で蕎麥にして置くのだ」とは、われの既に言へる所なり。
○握手は子をなす事なし。夫婦の愛は肉より生ず。かの婚姻なるものを看よ、そを四隣に吹聽して憚らず、以て儀式となすにあらずや。
○唄浄瑠璃は言ふにも及ばず、古の和歌の今に傳へて人の誠となすもの、戀となすもの、多くは肉慾也。倶に寢ねんことを望めり。いづれの邦の歴史と雖も、かげには必ず子宮病の伏在せる者なるを思ふ。
○劇にて見たる初菊は、いと率直なる婦人なりき。公衆の面前に於て、せめて一夜の祝言を強請せり。
○何故に女子は貞淑ならざるか。何故に女子をして貞淑ならしめざる可らざるか。女子に操ありと信ずる者は、自己の零落を知らざる者也。相携へて途上を行くとせよ、妻の眼の何ものに注がれ、妻の眼に何ものゝ映れるかを、夫は察知するの能力なき者也。況んや抑制をや。能力と言はざる迄も、妻が夜毎の夢の始終を、明かに聽く可き信用だに無き者也。
○希はくは安んぜよ、滿天下の女子諸君。現行犯ならざる限りは、すべての女子は操正しき者なり。
○恐らくは有夫姦は、法律の禁ず可きものにあらざるべし。
○われは貞婦、烈女の傳を讀みて、かゝりし人のまことに在りけんよしを確信したり、嘆稱したり。されど若われと同じき世に在らしめば、もはや理屈の要なし、これはたまらぬとより多くを言ふ能はず。
○十年の語らひも、一言によりて去り去らるゝを夫婦といふ。よしや倶々、あかぬ中にも子細ありて、啼いてくれるか初杜鵑、血を吐く程の別れをなしたりとも、十日、廿日、一月を隔つれば心全く他人也。女子の進退は、毫も暦日と關係無し。
○戀は花か、色は實か。花の實となるは必然にして偶然也、偶然にして必然也。散れよ花、花は初めより散るに如かず。忘れよ戀、戀は初めより忘るゝに如かず。
○花間に月下に、言はぬ思ひの唯打對ひて果つべき生涯ならば、われは戀の神聖を疑はじ。彼と此れとは倶に初戀の、つゆ動かぬ保證を公に得るものならば、われもさまでは疑はじ。
○戀ふるにいさゝかの價ありとも、戀はるゝに價なし。成就の一方より言はゞ、戀はまぐれ當り也、ぶつかり加減也、一寸したキツカケ也。
○獻身的戀愛となん、呼ばるゝものありとぞ。日に三たびは飯食ふべき身を獻げ來らるゝも、時に依りては迷惑なるものに思はる。
○戀と言はず、更に色と言はん。われは混ずることなかるべし。色とは富の副産物なり、屈託なき民の鬨の聲なり、今日の如くめでたきものなり。
○こゝを以て、われは一押二金といへる人よりは、一暇二金といへる人の炯眼に服せざるを得ず。其共に「をとこ」を三位に置けるも、故なきにあらず。男の器量を貨幣につもらば、僅かに三錢四錢の顏剃代を以て上下する者なればなり。
○爨婦も丁稚も打交りて臥せる低き屋根の下と、坊ちやまも孃樣も各お座敷を有せらるゝ高殿の上と、所謂醜聞の孰れに多きかを比較し看よ。是亦餘裕の一例なるべし。
○端なくもわが眼前口頭は、法の問ふ所となりぬ。正面と反面と、事の描写と理の表白と、わが文に於て殊に甚しく混読せられ、誤解せらる。われや黄口の一書生、字を知ること少きの罪か、将多きの罪か。全く知ることなからましかばと、今に及びて悔ゆるも詮無し。われら不文の徒、須く戒心を要す。
○道徳を言ふ者、道徳の仮面を被る者、近時著しく増加したり。未然に言ふに非ず、既然に言ふ也。言ふ者奚ぞ恃むに足らん、被る者稍恃むべし。一国文化の増進は、この仮面あるがためなること、夙に歴史のわれらに諭示する所也。
○何人も異議なき道徳の見解は、自身之を守るを必せず、他人之を守るを必すといふことに帰着すべし。
○偶々道徳を論ずるの故を以て、これが躬行を迫るは、箱根以東に化物あらしめんとする者也。思つたり、したりは出来ませぬとは、特に論者がために設けられたる好句ならんかし。
○喰はざれば佳人と雖も、桃花の晴に笑ひ、李花の雨に泣くの媚を競はんこと難し。こヽに喰ふといふは、大口あく事也。懸棟飛閣の人の目を眩するものありとも、或時は人の鼻を掩はしむべき下掃除の、門庭に出入するを禁じ得ざるものなることを忘る可らず。
○時弊を拯ふと称へて、人の秘事内行を訐くに力むる者あり、是亦一の時弊にあらざる乎。策を失したる矯風は、矯風にあらず、挑発のみ、勧誘のみ、助長のみ。悪を懲らすといふもの、まことは悪を励ますものなり。
○今の時、所謂ヒユーマニチイを説くといはず、好くといふべし。それら諸君子の前に、敢て一笑話を献げんか。橋詰の巡査は、諸君子のために有力なる同論者也。切に行人に誨へて、左へ/\といふ、是れ豈人道を主張する者にあらずや。
○偏に法律を以て防護の具となす者は、攻伐の具となす者也。楯の両面を知悉せる後にありて、人歩くは高利貸となり、詐偽師となり、賭博師となり、現時の政治家となる。
○謙信智あり、信玄胆あり、是古の戦なり。星移り、物変りぬ。すばしツこきをのみ智謀といひ、づうづうしきをのみ胆略といふ。掏摸と追剥とは、最もよく通俗的に、この二つの表現せられたる者也。
○罪の軽き者は監獄に行き、重き者は酒楼に行く。かしこには鉄の鎖あり、笞あり。こヽには金の轡あり、女あり。
○夜は休息のために附与せられ、計画のために使用せらる。総ての方面に渉りて、夜は見せ掛けの時間也。人の意の天の意に乖くや久し、戻るや久し。
○もろ/\の物価の尽く騰貴せる際にも、猶依然としてあげず、あがらざるものは夫れお賽銭乎。
○あヽ作家諸君、諸君は原稿料引上げの行はれざるを恨み給ふな。其時は神、若くは仏になり得たりと思ひたまへ。たヾの神仏に比すれば、諸君は口の働くだけでも多能也。
○老熟は或意味に於て意気の銷沈なれども、意気の銷沈は必ずしも老熟にあらず。新進作家に代りて白す。
○絶えず作を出さヾれば、作家にあらずといふ乎。作家は何の日を以てか、得て修養せん。今の批評家の言ふ所は、今の作家をしてお目留まりますれば、直ちに次なる藝に取掛るの軽技師たらしめ、手品師たらしめんとするもの也。何等の曲折をもとゞめず、絶えず語るを以て壮なりとせば、希はくは去つて九段公園の噴水器に観よ。
○今の作家は、今の批評家のために毫も開発せられたることなし。されども今の批評家は、今の作家のために常に生活するなり。
○身、貧にありて志を改へざるは易き事也、多き事也。富にありては難き事也、罕なる事也。人の節操を貧にのみ見て、富に見ざるは早計也、速断也、鼻元思案也。
○貧の堕落は要求なり、充たさんと欲して充たさるヽことなきなり。富の堕落は強請なり、飽かんと欲して飽くことなきなり。憐むべし貧の堕落は、一人の堕落なれども、憎むべし富の堕落は、一国の堕落なり。されど共に心の自然たるや、言ふを俟たず。
○智は有形也、徳は無形也。形を以て示すを得、故に智は進むなり。形を以て示すを得ず、故に徳は進むことなし、永久進むことなし。若有之りとせば、そは智の色の余れるをもて、徳の色の足らざるを一時、糊塗するに過きず。
○富をなすの道は智に在りて、徳に在らず。貧人と長く語らんは、富人の損害なること疑無し。闇夜の溝に陥れる者を救はんと欲せば、自己も手を泥に汚さヾる能はず。
○人の心の最きよらかなるは、人の心の最おろかなるなり。魚の多数は澄江に釣らず、濁流に釣るなり。
○稼がざる可らず、こは世に必要の事なれば、人皆知れり。何故に稼がざる可らざるか、こは更に世に必要の事なれども、知る者鮮し。
○納豆屋の声に明け、豆腐屋の声に暮るヽは、塵深き都の光景也。太く、短きを便とするものあり。細く、長きを便とするものあり。品さまざまなるとヽもに、声亦さまざまなり。われは茲に世間一切を、姑く売品といはん。利は日の中の声の大なるものに薄く、夜の間の声の小なるものに厚し。即ち売声の相違は、営業の相違也、反比例的に利得の相違也。
○号外売の声と、辻占売の声とは、新旧思想の比較の上に、最も顕著なる例証をわれらに与ふるものなり。何ぞ殊更に嗜好といはんや、趣味といはんや、将又品性といはんや。
○涙は誠意なりとぞ、猿はよく啼く者也。血は熱心なりとぞ、蚊はよく吸ふ者也。
○汝は犬なり、馬なりと言はヾ、人心ず憤怒すべし。されど場合によりては、身自ら犬馬に比して怪まず。辞は外に遜るなりといへど、意は内に飾るなり。利害の関係は、飾るに畜類を以てするも、猶安んじ得べきものと見えたり。
○口を極めて相罵るの時にも、畜類よりは下すことなし。人の身近く置かるヽがゆゑに、大、猫、牛、馬の常に標準とせらるヽこと、迷惑の至なるべし。若彼等をして言語の通ずるを得せしめば、其第一に訴ふる所は、人の身に関する事件なるや必せり。 
○鳥は高く天上に蔵れ、魚は深く水中に潜む。鳥の声聴くべく、魚の肉啖ふべし。これを取除けたるは人の依怙也。
○何様なるを世間とは謂ふと間はヾ、われは立どころに下の如き答辯をなすことを得べし。曰く、善人栄え、悪人亡ぶるの場処なりと。
○一に就かんよりは十に就け、是極めて当世の事也。諸人の感服することに感服し、諸人の感服するものに感服し、諸人の感服するときに感服せば、期せずして幸福は頭上に到来せん。断りたくも断れざるべし。
○按ずるに社会の智識は、売れぬ本といふものに由りて開拓せらるヽならん歟。売れぬ本といふは、すぐれて良きか、良からぬかの二つに出でず。この二つは先後別々に、大なる教訓を提げたる者なればなり。約言すれば社会の智識は、書肆の戸棚也、戸棚の隅也、隅の塵也、塵の山也。
○古の歌人の月花を脱し得ざるが如く、今の新体詩人は、唯一つの星を脱し得ずとは、某批評家の言なりと聞く。げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫なりと思へり。塒に還る夕烏、嘗て曲亭馬琴に告げて曰く、おれは用達に行くのだ。
○沈酔せり、醒さヾる可らず。老衰せり、葬らざる可らずとは、今の批評家の紋切形也。天才結構、大結構、今の批評家の召に応ずる天才あらば、われら一生の思出、疾く拝顔の栄を得んことを望む。もし其言の如く、悲壮なる其言の如く、われらをさへ交へて僅に五七人を葬るを得ずば、今の批評家は墓地の穴掘りにだも及かざる者也。悲壮は原稿の埋草也。
○現時の政党は、一の商売なりといふにあらずや。さらば其宣言書の、彼此共に異るなきを嗤ふを要せじ、各々様御機嫌克くの引札に過ぎざればなり。利をかヽげて勧誘に力むるを嗤ふを要せじ、何日間売出しの景物に過ぎざればなり。
○無鑑札なる営業者を、俗にモグリと謂ふ。今の政党者流は、昔このモグリなり。鑑札無くして売買に従事するものなればなり。
○正義を唱ふるの士は、正義を行ふの士なりと思へ。公徳の欠乏を慨する者にして、 一己私徳の上にだに欠乏せる者あるを思ふことなかれ。要は唯信ずるに在り。信ずるはめでたきものなり。天下太平の策、こヽに於てか定まる。
○豆蔵氏が言に曰く、見ると聞くとは大きな相違と。然り見ると聞くと、大いに相違することなくば、今日にありてはゆヽしき大事也、国家の大事也。
○一切の虚偽を排するは、一切の真実を排するなり。虚偽と真実との関係は、鰹に対する酢味噌の如し。まことそらごと取交ぜるにあらざれば、遂にお話はなり難し。
○嘘は薬か、誠は毒か、相待つて世は悠久に健かなるを得るなり。何事も造化の配剤に帰したる古人が言も、蓋この意に出でざるべし。
○嘘も誠も物の名のみ。時と処とによりて、おのづから運用の別あるのみ。浪速の蘆は伊勢の浜荻たるの類のみ。
○欺くは智也、欺かるヽは徳也。されども人は、欺くほどの智ある者に非ず、欺かるヽだけの徳ある者なり。
○秘する者は秘し、秘せざる者は秘せず、ことわると否とに関せざるべし。秘密を迫るは、公開を迫るなり。陰蔽は流布なり。人より秘密を語げられたる時は、われらが最も戒心すべき時なり。
○人の世に最大不必要なるもの、唯一つあり、名けて識者といふ。
○学問は宜しく質屋の庫の如くなる可からず、洋燈屋の店の如くなる可し。深く内に蓄ふるを要せず、広く外に掲ぐべし、ぶら下ぐべし、さらけ出すべし。其庫の窺知し難きも、其店の透見し易きも、近寄る可からざるは一なり、危険は一なり。
○換言すれば古の学者は、不透明体なり、今のは透明体なり。更に其説く所に由りて判ずれば、古のは固体、今のは気体なり。
○鏡を看よといふは、反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具にあらず、迷ひの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。
○何人か鏡を把りて、魔ならざる者ある。魔を照すにあらず、造る也。即ち鏡は、瞥見す可きものなり、熟視す可きものにあらず。
○老たる人の肖像といふを見るに、何処にか鬼相を止めざるは莫し。人の面は、など斯く恐ろしきや、老はなど斯くあさましきや。
○過去、現在、未来を分けてもいはず、総ての燈は、総ての人を悪業に誘かんがために、点ぜらるヽなり。罪の手引なり。
○燈の数は上野公園に少く、浅草公園に多し。着手以前に用あれども、以後に用なし。
○燈影明るき処、罪業あり。暗き処、悔悟あり。燈と鏡と枕とは、歴史家の遺棄す可からざるものなり。
○驕奢の風、都鄙に瀰蔓すといふは真歟。恐らくは是れ、驕奢の誤解なるべし。わが繹ね得たる所を以てすれば、昔時驕奢と称せられたるは、多く他を潤せり。今時のは単に、自己を潤すに過ぎず。
○故に一人倒るれば、昔は数人共に倒れたり。今は一人の倒るヽに止まる、寧倒さるヽに止まる。
○之を一家内に見るも、夫が驕奢は、妻に係はる事なし。妻が驕奢は、夫に係はる事なし。おのれ/\が驕奢のためには、夫が飯のつめたきも、妻が衣のいやしきも、相互ひに顧慮する事なし。
○あ、それ驕奢なるかな、豪侈なるかな。われは人の数十金、数百金を投ぜるを目撃す。併せて指環は其人の手に、時計は其人の胸に存在せるを目撃す。依然財産たり。
○聚めんと欲せば、先づ散ぜよといふは、転んでも只は起きぬの同義なりと信ず。
○公益を計らんものは、私益をも計らざる可からず。生命、栄誉、財産を擲つと称する際にも、猶万一といふ語を、成功の上に置かず、失敗の上に置くなり。
○誰にもあれ、一事一業を起さんとするを見たる時は、荐に之れに親めよ、寧ろ狎れよ。其漸く成らんとするを見たる時は、窃に之れを羨めよ、寧ろ嫉めよ。而して不幸、半途に敗るヽに遭はヾ、其時は唯其人の自業自得なりと言へよ。是れ今日の秘伝也。
○羅綾を穿ち、錦繍を纏ふ。之を今朝に見て駭くが如きは、都人士の事に非ず。昨夜に聞かばよその蔵に、拘禁せられ居たるは言ふ迄も無し。風嫋かに花を吹きて、春面白き小袖幕も、実は番頭を泣かせたるものなり。
○拘禁といふに若語弊あらば、改めて保管といふべし。吾家なるは鄭重にし、質屋なるは厳重にす。倶に与に、字は重んずるなり。
○体裁は夏向ならず、冬向なり。入りて悄然たる者は、出でヽ傲然たる者なり。質屋が店の格子の如く、人の心に急速なる変化を与ふるはあらじ。
○歳毎の春の花也、秋の月也。特り今年に限りて、物飲み、物食ふを要せんや。故に風通、一楽の車をつらねて駈行くは、山楼水亭の何れにもあらず、鹹き鮭一切れ、晩餐の膳の上にお還りを待てばなり。今の驕奢といふは、大抵此の如きものヽみ、所謂路人に耀かすに過ぎざるものヽみ、人前のみ。
○名は必ずしも紳士録、職員録に上れるをもて、遂げたりと思惟する勿れ。あまりにそれは軽はづみ也、早手廻し也、無論けちなる料簡也。高利貸といふ者の台帳に記入せられざれば、世間は決して名士と呼ぶことなし。
○名士の高利貸に於けるは、狐の稲荷に於けるが如し。司命者也。高利貸なかりせば、世は斯の如く静穏なる能はず、隆盛なる能はず、箸の上げ下しにまで万歳を唱ふる能はず。
○洋の東西、時の古今に論なく、国力充たず、国威揚らずなどいふことあるは、其処に高利貸を欠くがためなり。利のみならず、総てに高き営業なることは、文明国に多く栖息すといはんよりは、跋扈するを見て知るべし。
○縦横計不就、慷慨志猶存。高利を借れるなり。人生感意気、功名誰復論。情婦を持てるなり。
○待てと一人、わが言を遮りて曰く、驕奢者狭斜也、義者妓也、音相通ずるにあらずやと。げにもクンシは漢音也、キミコは和訓也。
○さらば儞等、酔へや眠れや夢よや。覚めざれば呼ばず、さめて初めて天を呼ぶは、人各々に定まれる義務にてもあるべし。
○衆皆酔ひ、吾独醒むといふは、九尺二間の事なり。裏長家の事なり。運命を総後架と、掃溜とに隣りて有する不理窟なり。今と雖も、遂に水に赴かざるを得ず。  
 
一切存じ不申 / 緑雨醒客

 

R.R.殿に申上まゐらせ候貴君の眼大いか小さいか我之を知り不申候へども拙者めをとらへて何となくこそばゆき事御風聽被遊珍重過て困入り候北邙散士の宇宙主義、大道を闊歩せらるゝ慷慨文は拙者めも豫てより感銘罷在たれども拙者嘲笑文を書いた覺えハ夜な夜な毎の現にも無之何が甚深ぢヤやら究理ぢヤやら根深か一文字か一向存じ不申却て貴君の御仁心と存候砂の中にもたまらぬ拙者めを、蓬の中にもあさましき拙者めを兔角仰せらるゝ事貴君がお名のアール怪き次第に候考ふるに貴君ハ我師正直正太夫と拙者めとを混じられしにハあらざる歟正太夫の所謂評註主義、これハ見ざまに依りてハ心肝より蒸發せる冷笑の影とも思はれ候ヘバ多分この間違ひかと存じ候果して然らバ甚深とかいふ勲章ハ改めて正太夫方へ御贈り被下度師も亦貴君の文讀で太く拙者の實無きに名あるを笑はれ死せる孔明生ける仲達を走らせし類ひぞと被申候拙者め正太夫の門にあるものゝ實ハ今より小説を書て獨樂自興の便法を恣まゝにせんと存候のみ不日「置炬燵」と題する温かい傑作を公に致候間それ見そなはして拙者めハそれだけの者と御承知被下度甚深及び嘲笑文〆て五文字ハまづまづ御手許へ御たぐり戻しの程願ひ上候拙者出世の妨げに付この段態々御斷り申上候也。 
 
予ハ贊成者にあらず / 正太夫

 

義損小説發行の廣告出づ、予を賛成寄稿者の内に加へしハ太だ不服なり
尾濃地方震災の慘状ハ予能く之を知れり然れども之れが爲めに小説を作つて其賣上金を義損すと云ふが如きハ大いに誤まり居れり極言すれバ義損小説の擧ハ強ひて我等に文を賣らしめんとするものなり
予ハ初め春陽堂主より寄稿の請ありしにより全く同堂主の義擧に出でたるものとのみ思ひて其擧の香ばしからぬを知りつゝも其志の篤きにめでゝ一文を草し遣りたるなり決して贊成者にあらず
然るに廣告に據れバ春陽堂主ハ特別贊成者にして別に發起者あり補助あり恰も天保度に行はれたる書畫會の「ちらし」を見るが如し
發起者得知予に一言の挨拶なし補助三昧亦予に一言の挨拶なし而して漫りに予を贊成寄稿者の内に加ふ、予ハ啻に不服なるのみならず彼輩の爲めに甚しく侮蔑せられたるものなり
怪む、予ハ逍遙露伴二子の如きが斯る分別なき企てに驅られて贊成寄稿者の内に列し居れるを。怪む、予ハ彼發起者補助等が友樂館一日の借賃幾干なるやを問合さゞりしを
水平は古襯衣を義捐したり眞宗徒は古足袋を義損したり義損小説の發起者ハ小説を以て古襯衣古足袋と同一視せんとする乎何ぞ街頭に立つて各自がカボチヤ頭を糶賣せざる
畢竟するに義損小説の連名附ハ或一二人の極めてきたなき名聞のために犠牲に供せられたるものなるを予ハ疑はず彼廣告をよみて吐息するを知らざる者ハ吐息を人界の虚飾物と心得たる者のみ、噫 
 
古本と蔵書印 / 薄田泣菫

 

本屋の息子に生れただけあつて、文豪アナトオル・フランスは無類の愛書家だつた。巴里のセイヌ河のほとりに、古本屋が並んでゐて、皺くちやな婆さんたちが編物をしながら店番をしてゐるのは誰もが知つてゐることだが、アナトオル・フランスも少年の頃、この古本屋の店さきに立つて、手あたり次第にそこらの本をいぢくりまはして、いろんな知識を得たのみならず、老年になつても時々この店さきにその姿を見せることがあつた。フランスはこの古本屋町を讃美して、「すべての知識の人、趣味の人にとつて、そこは第二の故郷である」と言ひ、また、「私はこのセイヌ河のほとりで大きくなつた。そこでは古本屋が景色の一部をなしてゐる」とも言つてゐる。彼はこの古本屋から貪るやうに知識を吸収したが、そのお礼としてまたいろいろな趣味と知識とを提供するを忘れなかつた。──といふのはほかのことではない。彼が自分の文庫に持てあました書物を、時折この古本屋に売り払つたことをいふのだ。
一度こんなことがあつた。──あるときフランスは来客を書斎に案内して、自分の蔵書をいちいちその人に見せてゐた。愛書家として聞えてゐる割合には、その蔵書がひどく貧しく、とりわけ新刊物がまるで見えないのに驚いた客は、すなほにその驚きを主人に打ちあけたものだ。すると、フランスは、
「私は新刊物は持つてゐません。はうばうから寄贈をうけたものも、今は一冊も手もとに残してゐません。みんな田舎にゐる友人に送つてやつたからです」
と、言ひわけがましく言つたさうだが、その田舎の友人といふのが、実はセイヌ河のほとりにある古本屋をさしていつたのだ。
そのフランスを真似るといふわけではないが、私もよく読みふるしの本を古本屋に売る。家が狭いので、いくら好きだといつても、さうさう書物ばかりを棚に積み重ねておくわけにもゆかないからである。
京都に住んでゐた頃は、読みふるした本があると、いつも纏めて丸太町川端のKといふ古本屋に売り払つたものだ。あるとき希臘羅馬の古典の英訳物を五、六十冊ほど取り揃へてこの本屋へ売つたことがあつた。私はアイスヒユロスを読むにも、ソフオクレエスを読むにも、ピンダロスやテオクリトスを読むにも、ダンテを読むにも、また近代の大陸文学を読むにも、英訳の異本が幾種かあるものは、その全部とはゆかないまでも、評判のあるものはなるべく沢山取り寄せて、それを比較対照して読むことにしてゐるが、一度読んでしまつてからは、そのなかで自分が一番秀れてゐると思つたものを一種か二種か残しておいて、他はみな売り払ふことにきめてゐる。今Kといふ古本屋に譲つたのも、かうしたわけで私にはもう不用になつてゐたものなのである。
それから二、三日すると、京都大学のD博士がふらりと遊ぴにきた。博士は聞えた外国文学通で、また愛書家でもあつた。
「いま来がけに丸太町の古本屋で、こんなものを見つけてきました」
博士は座敷に通るなりかう言つて、手に持つた二冊の書物をそこに投り出した。一つは緑色で他の一つは藍色の布表紙だつた。私はそれを手に取り上げた瞬間にはつと思つた。自分が手を切つた女が、他の男と連れ立つてゐるのを見た折に感じる、ちやうどそれに似た驚きだつた。書物はまがふ方もない、私がK書店に売り払つたなかのものに相違なかつた。
「ピンダロスにテオクリトスですか」
私は二、三日前まで自分の手もとにあつたものを、今は他人の所有として見なければならない心のひけ目を感じながら、そつと書物の背を撫でまはしたり、ペエジをめくつて馴染のある文句を読みかへしたりした。
「京都にもこんな本を読んでる人があるんですね。いづれは気まぐれでせうが……」
博士は何よりも奸きな煙草の脂で黒くなつた歯をちらと見せながら、心もち厚い唇を上品にゆがめた。
「気まぐれでせうか。気まぐれに読むにしては、物があまりに古すぎますね」
私はうつかりかう言つて、それと同時にこの書物の前の持主が私であつたことを、すなほに打ち明ける機会を取りはづしてしまつたことを感じた。
「それぢや同志社あたりに来てゐた宣教師の遺愛品かな。さうかも知れない」
博士は藍表紙のテオクリトスを手にとると、署名の書入れでも捜すらしく、前附の紙を一枚一枚めくつてゐたが、そんなものはどこにも見られなかつた。
私は膝の上に取り残されたピンダロスの緑色の表紙を撫でながら、前の持主を喘息か何かで亡くなつた宣教師だと思ひ違ひせられた、その運命を悲しまぬわけにゆかなかつた。
「宣教師だなんて、とんでもない。宣教師などにお前がわかつてたまるものかい。──だが、こんなことになつたのも、俺が蔵書印を持ち合さなかつたからのことで。二度とまたこんな間違ひの起らぬやうに、大急ぎでひとつすばらしい蔵書印をこしらへなくちや……」
私はその後D博士を訪問するたぴに、その書斎の硝子戸越しに、幾度かこの二冊の書物を見た。
その都度書物の背の金文字は藪睨みのやうな眼つきをして、
「おや、宣教師さん。いらつしやい」
と、当つけがましく挨拶するやうに思はれた。
私はその瞬間、
「おう、すつかり忘れてゐた。今度こそは大急ぎでひとつ蔵書印のすばらしく立派な奴を……」
と、いつでも考へ及ぶには及ぶのだつたが、その都度忘れてしまつて、いまだに蔵書印といふものを持たないでゐる。
(昭和4年刊『艸木虫魚』) 
 
ある出版業者の話 / 薄田泣菫

 


もう十年前のむかし事になつた。
出版業者のB氏は、つねづね自分の店から人気のある作家として知られたT氏の書物を出してみたい希望をもつてゐた。だが、T氏にはその頃きまつた出版書肆があつたし、それにふだんからこの作家の気むづかしい性分を知りぬいてゐるしするので、めつたなことも言ひ出せなかつた。
ある時B氏は、先日亡くなつた内田魯庵氏を訪ねてその話をした。
「先生。それについて何かいいお考へはありませんでせうか」
「ないこともない」内田氏は客の言葉を聞くと、即座に答へた。「どんな気むづかしい作家の原稿でも、請け合つて取れる秘法がここに一つある。ただそれには強い根気がなくちやならんが…」
出版業者は乗り出すやうに膝を進めた。
「先生。その秘法とかを是非ひとつお聞かせくださいませんでせうか。さういふ場合の根気なら、いくらでもこちらに持合せがございますから……」
「さうか。それぢやいつて聞かさうか。だが、ほんたうに根気が続くかな」
内田氏は軽く笑ひながら、その秘法といふのを話して聞かせた。それは月のうち幾日目でもいいから、ちやんと日をきめて、毎月その日になると、たとへ雨が降つても、風が吹いても、必ずその作家を訪問するのだ。さうすると一年経たないうちに、きつと原稿が貫へるやうな機会が到来するものだといふことだつた。内田氏は言葉を添へて念を押した。
「言つておくが、作家に会つても、原稿の話は最初の一度だけで充分で、その後はうるさく繰り返さないはうがいい。ただ会つて何がな世間話でもして帰ればそれでいいのだから、そこの呼吸を忘れないやうにな」
B氏は内田氏に教へられた通りに、毎月日をきめて遥々市外の片田舎にT氏を訪問することにした。かうして日をきめてみると、その日になつて、雨が降つたり、風が吹いたりして、髄分出にくくなるやうなこともなくはなかつたが、B氏はそれでも押し切つて訪問に出かけていつた。そんなをりには、T氏のはうでもこの思ひがけない来客を迎へるのに不思議な感じを持つてゐたやうだつたが、しまひにはその日が来るとやがて現はれるべきはずの客の顔を、まんざら待ち設けてゐないのでもないやうな節さへ見えるやうになつた。
さうかうしてゐるうちに、ちやうど一年ぶりのその日がやつて来た。かねて幾分の期待は持ちながらも、実際にはどうなることかと、内心危ぶまぬでもなかつた原稿の約束を、客はその日になつて主人の口から聞くことができた。
B氏は早速内田氏を訪ねて、そのことを報告した。そしてついでに訊いてみた。
「先生。月に一度の訪問はよかつたんですが、なぜまたきちんと日をきめてかからなければならなかつたんです。それがためには私も随分苦労しましたよ」
「さうか。それは気の毒だつたな。だが、君、観音さまだつて、縁日は月の十八日ときまつてるぢやないか」
内出氏は冗談のやうに言つて、声を立てて笑つたさうだ。
このことがあつてから間もなく、私はB氏の口から詳しくその話を聞いた。そして内田氏のやうに世情に通じた人でなければ、できない相談だと感心してしまつた。

書肆X堂の主人は、かねて知合のM氏といふ若い坊さんから、その著作の自費出版の世話を頼まれたことがあつた。M氏は真面目な時宗の学僧で、著作といふのは、何でも浄土教の発達についての研究論文とかだつた。この若い坊さんが住職をつとめてゐたのは、高槻在のろくに檀家もない貧乏寺だつたが、実家の兄といふのがかなり裕福だつたので、出版費の五、六百円はその手から融通せられて、引請けのそもそもから原稿と一緒にX堂の主人に渡されてあつた。
その頃書肆X堂は、商売の手違ひからかなり金には困つてゐた。で、M氏から費用が手に入ると、それを引き請けた自費出版のはうへは廻さないで、勝手に一時店のはうの穴填めに融通してしまつた。
不如意なX堂の内幕をいくらか勘づいてゐた印刷所では、約束の期日が来て、M氏の出版物が製本まですつかりできあがつてゐるのにもかかわらず、代金と引換へでなければといつて、本を渡さうとしなかつた。
自分の処女出版ができあがるのを、ひどく待ち焦がれてゐた若い坊さんは、約束の期日が来ても、一向本ができあがらないので、催促がてら毎日のやうにX堂の店さきにその姿を現し出した。
その都度店の主人は、
「あの印刷屋も困りもんですな。仕事が込み合つてくると、いつもかうなんですから……」
と、違約の責任を、印刷所の手順が悪いからといふことにして、言ひわけをするのだつた。X堂にとつては、さうでもして金の工面がつくまで、一日おくりに日を延ばすより仕方がなかつたのだ。
書肆の主人の言葉にあやふやなところがあるのを見て取つたM氏は、そんなわけだつたら、自分のはうでぢかに印刷所に掛け合つてみようと言ひ出した。それを聞くと、主人は慌ててなだめにかかつた。
「それは手前のはうにお任せください。明日にもきつと埒をあけませうから」
しかし、そんな一時の気安めが、長持ちするはずはなかつた。
それから四、五日して、自分でぢかに印刷所へ掛合ひに出かけていつたM氏には、すべてのいきさつが手に取るやうに判つた。
X堂の応接室で、主人と向ひ合つて坐つた若い学僧は、じつと相手を見つめたまま三、四十分がほどは物ひとつ言はなかつた。
あたりの重苦しい空気に堪へられないやうに、主人はそつと顔を上げた。学僧の眼は警へやうもなく悲しかつた。
「今度のことは何もかも私の不都合でした。重々お詫びを申し上げますから、どうかお免しくださいますやうに……」
若い学僧の唇は徴かに顫へた。
「お免しする?あなたをお免しするなぞ、そんなことが私にできようはずがありません。それはただ仏さまのなさいますことで……」
「ただ仏さまの?」主人は口のなかで繰り返して言つた。「それぢや、どうあつてもあなたからはお免しがいただけないんですか……」
「私は……私は、忘れませう。今度のことは、すつかり。──それだつたら私にもできると思ひます」
その時学僧の眼のうちに、やるせない悲しみとともに、一抹の苦しみの動きを感じたやうに相手の主人は思つた。
程経て、私は書肆の主人からこの話を聞いた。そして学僧M氏の心の持ち方にひとかたならず感心させられたものだ。
(昭和6年刊『樹下右上』) 
 
鬼を見た話 / 薄田泣菫

 

「鬼を見た」といふと、多くの人は、あまりにも突飛なその言葉を、笑ひもすれば、また怒りもするだらうと思ひますが、実際私は見たことがありますので、今日はひとつその話でもしてみたいと思ひます。
確か私が十二、三の頃でしたから、明治二十一、二年のことだつたと思ひます。ある夏の日、瀬戸内の海を少し離れた私の郷里の小村へ、一人の旅人が訪れてきました。旅人は、村で賭博者として顔を売つてゐた亀七といふものの家へ泊つてゐました。
「この頃亀七のところに変な男が泊つてるさうだぜ。鬼の首なんかもつて」
「鬼の首。ほんたうかい、そんなこと……」
こんな噂がすぐに村中に拡がりました。知合の誰彼と一緒に、私は父に連れられてその鬼を見に亀七の家へ出かけました。父は長く村の公の仕事に携はつてゐましたので、そんなことには便宜があつたやうでした。
いづれは賤しい香具師の一人に相違なからうとのみ思つてゐたのに、会つてみると旅人は案に相違して上品な老人で、神主のやうに白い顎髯を長く胸に垂れてゐました。
父が来意を告げると、老人は気さくに承知をしてくれました。そして取り出してきた真新しい白木造りの箱を自分の膝側に引き据ゑながら、こんなことを話しました。
安藝の広島から太田川に沿うて、石見街道を北へ入つてゆくと、加計といふ小さな町へ出ます。代々そこに住まつて猟師稼業で生計をたててゐる二人の男が、ある日のこと、連れ立つて雄鹿原といふ石見境に近い山地へ入つてゆきました。途中路を迷つて深い森の中に踏み込み、木の根を枕に長々と寝そべつてゐる大きな獣のやうなものを見て、狙ひ撃ちにすると、深手を負つた相手は、がばと跳ね起きざま死に物狂ひに手向つてくるので二人はてんでに山刀をふり廻してやつと仕とめることができました。
「格闘の真つ最中額の角を見た時には、二人とも急に怖ぢ気づいてへなへなとなつちまつたさうですよ。全く無理のないことですね」
語り畢ると、老人はものしづかに首箱の蓋に手をかけました。すると、その途端箱の中から折からの夏のうん気に蒸れたらしい不気味な、なまぐさい臭がむうと流れ出して、室中に拡がつてきたので、居合す皆は覚えず袖で鼻を抑へました。老人はもじやもじやと赤熊の毛で蔽はれた大きな首を持ち出して蓋の上に載せました。手先がぶるぶる顫へてゐるのを見ると、大分持ち重りがするらしく思はれました。
好奇な目をかがやかしながら、覗き込むやうにして鬼の顔に見入つた私たちは、覚えずぎよつとしました。鬼退治──それがどんなにむごたらしく叩きのめされてゐようとも、人間の勝利の犠牲として、どちらかといふと痛快にさへも眺められさうな気がしてゐたのに、今、目のあたりそれを見ると、赤銅色の額、黒牛のやうな一対の角、万力を思はせる角張つたおとがひ、ややたるんだ瞼の下からどんよりと光る二つの眼、──さういつたものに鬼が持前の負けじ魂がいまだに強く動いてゐて、脅かし気味に人に迫つてくるものがあるではありませんか。
私たちは怖ろしさに長くは見てゐられませんでした。めいめい口にこそ出さね、心の内では、これが鬼を見る最初で、そしてまた最後でもあることを願つてゐるやうでした。
このことがあつてから二週間ばかし後のことでした。父は縁先の往にもたれて、その頃岡山で発行せられてゐた「吉備日日」といふ新聞に読み耽つてゐましたが、急に声を立てて私を呼びました。
「おい。こなひだお前に見せてやつた鬼の首だがね、あれは贋物だつたさうだよ」
「どうしてわかつたの、そんなこと」
「ここにそれが載つてるよ」父は新聞を指さしながら言ひました。「あの老爺め、はうばう持ち廻つてこの二、三日岡山でも見せ物にかけてゐたんださうだ。ところが観衆のなかにほんたうの鬼を見たことのある男が一人ゐたので、手もなく見破られたんださうだよ。やつぱり真実のものを見た人にはかなはんとみえるて」
「ほんたうのものを見た人には……」
私は口の中で父の言葉をくり返しながら、次のやうなことを思つてゐました。
「もしか自分がほんたうの鬼を見ることができたなら、その次の折には、どんな贋物を見せられたつて、きつと石のやうに黙つてゐられるに相違ない」
(昭和18年刊『人と鳥虫』) 
 
坊つちやん / 夏目漱石

 

一 
親讓りの無鐵砲で小供の時から損ばかりしてゐる。小學校に居る時分學校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を拔かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出してゐたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張つても、そこから飛び降りる事は出來まい。弱蟲やーい。と囃したからである。小使に負ぶさつて歸つて來た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらゐから飛び降りて腰を拔かす奴があるかと云つたから、この次は拔かさずに飛んで見せますと答へた。
親類のものから西洋製のナイフを貰つて奇麗な刄を日に翳して、友逹に見せてゐたら、一人が光る事は光るが切れさうもないと云つた。切れぬ事があるか、何でも切つてみせると受け合つた。そんなら君の指を切つてみろと注文したから、何だ指ぐらゐこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かつたので、今だに親指は手に付いてゐる。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。
庭を東へ二十歩に行き盡すと、南上がりにいささかばかりの菜園があつて、眞中に栗の木が一本立つてゐる。これは命より大事な栗だ。實の熟する時分は起き拔けに背戸を出て落ちた奴を拾つてきて、學校で食ふ。菜園の西側が山城屋といふ質屋の庭續きで、この質屋に勘太郎といふ十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱蟲である。弱蟲の癖に四つ目垣を乘りこえて、栗を盜みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隱れて、とうとう勘太郎を捕まへてやつた。その時勘太郎は逃げ路を失つて、一生懸命に飛びかかつてきた。向うは二つばかり年上である。弱蟲だが力は強い。鉢の開いた頭を、こつちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべつて、おれの袷の袖の中にはいつた。邪魔になつて手が使へぬから、無暗に手を振つたら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまひに苦しがつて袖の中から、おれの二の腕へ食ひ付いた。痛かつたから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやつた。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ眞逆樣に落ちて、ぐうと云つた。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になつた。その晩母が山城屋に詫びに行つたついでに袷の片袖も取り返して來た。
この外いたづらは大分やつた。大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人參畠をあらした事がある。人參の芽が出揃はぬ處へ藁が一面に敷いてあつたから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取つたら、人參がみんな踏みつぶされてしまつた。古川の持つてゐる田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。太い孟宗の節を拔いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稻にみづがかかる仕掛であつた。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ插し込んで、水が出なくなつたのを見屆けて、うちへ歸つて飯を食つてゐたら、古川が眞赤になつて怒鳴り込んで來た。たしか罰金を出して濟んだやうである。
おやじはちつともおれを可愛がつて呉れなかつた。母は兄ばかり贔屓にしてゐた。この兄はやに色が白くつて、芝居の眞似をして女形になるのが好きだつた。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云つた。亂暴で亂暴で行く先が案じられると母が云つた。なるほど碌なものにはならない。ご覽の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きてゐるばかりである。
母が病氣で死ぬ二三日前臺所で宙返りをしてへつついの角で肋骨を撲つて大いに痛かつた。母が大層怒つて、お前のやうなものの顏は見たくないと云ふから、親類へ泊りに行つてゐた。するととうとう死んだと云ふ報知が來た。さう早く死ぬとは思はなかつた。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかつたと思つて歸つて來た。さうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おつかさんが早く死んだんだと云つた。口惜しかつたから、兄の横つ面を張つて大變叱られた。
母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮してゐた。おやじは何にもせぬ男で、人の顏さへ見れば貴樣は駄目だ駄目だと口癖のやうに云つてゐた。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやじがあつたもんだ。兄は實業家になるとか云つてしきりに英語を勉強してゐた。元來女のやうな性分で、ずるいから、仲がよくなかつた。十日に一遍ぐらゐの割で喧嘩をしてゐた。ある時將棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しさうに冷やかした。あんまり腹が立つたから、手に在つた飛車を眉間へ擲きつけてやつた。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘當すると言ひ出した。
その時はもう仕方がないと觀念して先方の云ふ通り勘當されるつもりでゐたら、十年來召し使つてゐる清といふ下女が、泣きながらおやじに詫まつて、漸くおやじの怒りが解けた。それにもかかはらずあまりおやじを怖いとは思はなかつた。かへつてこの清と云ふ下女に氣の毒であつた。この下女はもと由緒のあるものだつたさうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするやうになつたのだと聞いてゐる。だから婆さんである。この婆さんがどういふ因縁か、おれを非常に可愛がつて呉れた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした──おやじも年中持て餘してゐる──町内では亂暴者の惡太郎と爪彈きをする──このおれを無暗に珍重して呉れた。おれは到底人に好かれる性でないとあきらめてゐたから、他人から木の端のやうに取り扱はれるのは何とも思はない、かへつてこの清のやうにちやほやして呉れるのを不審に考へた。清は時々臺所で人の居ない時に「あなたは眞つ直でよいご氣性だ」と賞める事が時々あつた。しかしおれには清の云ふ意味が分からなかつた。好い氣性なら清以外のものも、もう少し善くして呉れるだらうと思つた。清がこんな事を云ふ度におれはお世辭は嫌ひだと答へるのが常であつた。すると婆さんはそれだから好いご氣性ですと云つては、嬉しさうにおれの顏を眺めてゐる。自分の力でおれを製造して誇つてるやうに見える。少々氣味がわるかつた。
母が死んでから清は愈おれを可愛がつた。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思つた。つまらない、廢せばいゝのにと思つた。氣の毒だと思つた。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣ひで金鍔や紅梅燒を買つて呉れる。寒い夜などはひそかに蕎麥粉を仕入れておいて、いつの間にか寢てゐる枕元へ蕎麥湯を持つて來て呉れる。時には鍋燒饂飩さへ買つて呉れた。ただ食ひ物ばかりではない。靴足袋ももらつた。鉛筆も貰つた、帳面も貰つた。これはずつと後の事であるが金を三圓ばかり貸して呉れた事さへある。何も貸せと云つた譯ではない。向うで部屋へ持つて來てお小遣ひがなくてお困りでせう、お使ひなさいと云つて呉れたんだ。おれは無論入らないと云つたが、是非使へと云ふから、借りておいた。實は大變嬉しかつた。その三圓を蝦蟇口へ入れて、懷へ入れたなり便所へ行つたら、すぽりと後架の中へ落してしまつた。仕方がないから、のそのそ出てきて實はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を搜して來て、取つて上げますと云つた。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗つてゐた。それから口をあけて壹圓札を改めたら茶色になつて模樣が消えかかつてゐた。清は火鉢で乾かして、これでいゝでせうと出した。一寸かいでみて臭いやと云つたら、それぢやお出しなさい、取り換へて來て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三圓持つて來た。この三圓は何に使つたか忘れてしまつた。今に返すよと云つたぎり、返さない。今となつては十倍にして返してやりたくても返せない。
清が物を呉れる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌ひだと云つて人に隱れて自分だけ得をするほど嫌ひな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隱して清から菓子や色鉛筆を貰ひたくはない。なぜ、おれ一人に呉れて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したものでお兄樣はお父樣が買つてお上げなさるから構ひませんと云ふ。これは不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとさう見えるのだらう。全く愛に溺れてゐたに違ひない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。單にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもつて將來立身出世して立派なものになると思ひ込んでゐた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くつて、とても役には立たないと一人できめてしまつた。こんな婆さんに逢つては叶はない。自分の好きなものは必ずえらい人物になつて、嫌ひなひとはきつと落ち振れるものと信じてゐる。おれはその時から別段何になると云ふ了見もなかつた。しかし清がなるなると云ふものだから、やつぱり何かに成れるんだらうと思つてゐた。今から考へると馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだらうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考へもなかつたやうだ。ただ手車へ乘つて、立派な玄關のある家をこしらへるに相違ないと云つた。
それから清はおれがうちでも持つて獨立したら、一所になる氣でゐた。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるやうな氣がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらへ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計劃を獨りで並べてゐた。その時は家なんか欲しくも何ともなかつた。西洋館も日本建も全く不用であつたから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答へた。すると、あなたは慾がすくなくつて、心が奇麗だと云つてまた賞めた。清は何と云つても賞めて呉れる。
母が死んでから五六年の間はこの状態で暮してゐた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰ふ、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思つてゐた。ほかの小供も一概にこんなものだらうと思つてゐた。ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云ふものだから、それぢや可哀想で不仕合せなんだらうと思つた。その外に苦になる事は少しもなかつた。ただおやじが小遣ひを呉れないには閉口した。
母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなつた。その年の四月におれはある私立の中學校を卒業する。六月に兄は商業學校を卒業した。兄は何とか會社の九州の支店に口があつて行かなければならん。おれは東京でまだ學問をしなければならない。兄は家を賣つて財産を片付けて任地へ出立すると云ひ出した。おれはどうでもするがよからうと返事をした。どうせ兄の厄介になる氣はない。世話をして呉れるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云ひ出すに極つてゐる。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配逹をしても食つてられると覺悟をした。兄はそれから道具屋を呼んで來て、先祖代々の瓦落多を二束三文に賣つた。家屋敷はある人の周旋である金滿家に讓つた。この方は大分金になつたやうだが、詳しい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿してゐた。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに殘念がつたが、自分のものでないから、仕樣がなかつた。あなたがもう少し年をとつていらつしやれば、ここがご相續が出來ますものをとしきりに口説いてゐた。もう少し年をとつて相續が出來るものなら、今でも相續が出來るはずだ。婆さんは何も知らないから年さへ取れば兄の家がもらへると信じてゐる。
兄とおれはかやうに分れたが、困つたのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくつ付いて九州下りまで出掛ける氣は毛頭なし、と云つてこの時のおれは四疉半の安下宿に籠つて、それすらもいざとなれば直ちに引き拂はねばならぬ始末だ。どうする事も出來ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする氣かねと云つたらあなたがおうちを持つて、奧さまをお貰ひになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりませうと漸く決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまづ今日には差支へなく暮してゐたから、今までも清に來るなら來いと二三度勸めたのだが、清はたとひ下女奉公はしても年來住み馴れた家の方がいゝと云つて應じなかつた。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易へをして入らぬ氣兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思つたのだらう。それにしても早くうちを持ての、妻を貰への、來て世話をするのと云ふ。親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだらう。
九州へ立つ二日前兄が下宿へ來て金を六百圓出してこれを資本にして商買をするなり、學資にして勉強をするなり、どうでも隨意に使ふがいゝ、その代りあとは構はないと云つた。兄にしては感心なやり方だ、何の六百圓ぐらゐ貰はんでも困りはせんと思つたが、例に似ぬ淡泊な處置が氣に入つたから、禮を云つて貰つておいた。兄はそれから五十圓出してこれをついでに清に渡して呉れと云つたから、異議なく引き受けた。二日立つて新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢はない。
おれは六百圓の使用法について寢ながら考へた。商買をしたつて面倒くさくつて旨く出來るものぢやなし、ことに六百圓の金で商買らしい商買がやれる譯でもなからう。よしやれるとしても、今のやうぢや人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいゝから、これを學資にして勉強してやらう。六百圓を三に割つて一年に二百圓ずつ使へば三年間は勉強が出來る。三年間一生懸命にやれば何か出來る。それからどこの學校へ這入らうと考へたが、學問は生來どれもこれも好きでない。ことに語學とか文學とか云ふものは眞平ご免だ。新體詩などと來ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌ひなものなら何をやつても同じ事だと思つたが、幸ひ物理學校の前を通り掛つたら生徒募集の廣告が出てゐたから、何も縁だと思つて規則書をもらつてすぐ入學の手續きをしてしまつた。今考へるとこれも親讓りの無鐵砲から起つた失策だ。
三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいゝ方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であつた。しかし不思議なもので、三年立つたらとうとう卒業してしまつた。自分でも可笑しいと思つたが苦情を云ふ譯もないから大人しく卒業しておいた。
卒業してから八日目に校長が呼びに來たから、何か用だらうと思つて、出掛けて行つたら、四國邊のある中學校で數學の教師が入る。月給は四十圓だが、行つてはどうだといふ相談である。おれは三年間學問はしたが實を云ふと教師になる氣も、田舎へ行く考へも何もなかつた。もつとも教師以外に何をしようと云ふあてもなかつたから、この相談を受けた時、行きませうと即席に返事をした。これも親讓りの無鐵砲が祟つたのである。
引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四疉半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに濟んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑氣な時節であつた。しかしかうなると四疉半も引き拂はなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大變な遠くへ行かねばならぬ。地圖で見ると海濱で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もつとも少々面倒臭い。
家を疉んでからも清の所へは折々行つた。清の甥といふのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさへすれば、何呉れと款待なして呉れた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。今に學校を卒業すると麹町邊へ屋敷を買つて役所へ通ふのだなどと吹聽した事もある。獨りで極めて一人で喋舌るから、こつちは困まつて顏を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寢小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思つて清の自慢を聞いてゐたか分らぬ。ただ清は昔風の女だから、自分とおれの關係を封建時代の主從のやうに考へてゐた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合點したものらしい。甥こそいゝ面の皮だ。
いよいよ約束が極まつて、もう立つと云ふ三日前に清を尋ねたら、北向きの三疉に風邪を引いて寢てゐた。おれの來たのを見て起き直るが早いか、坊つちやんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さへすれば金が自然とポッケットの中に湧いて來ると思つてゐる。そんなにえらい人をつらまへて、まだ坊つちやんと呼ぶのはいよいよ馬鹿氣てゐる。おれは單簡に當分うちは持たない。田舎へ行くんだと云つたら、非常に失望した容子で、胡麻鹽の鬢の亂れをしきりに撫でた。あまり氣の毒だから「行く事は行くがじき歸る。來年の夏休みにはきつと歸る」と慰めてやつた。それでも妙な顏をしてゐるから「何を見やげに買つて來てやらう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云つた。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違ふ。「おれの行く田舎には笹飴はなささうだ」と云つて聞かしたら「そんなら、どつちの見當です」と聞き返した。「西の方だよ」と云ふと「箱根のさきですか手前ですか」と問ふ。隨分持てあました。
出立の日には朝から來て、いろいろ世話をやいた。來る途中小間物屋で買つて來た齒磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。そんな物は入らないと云つてもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乘り込んだおれの顏をじつと見て「もうお別れになるかも知れません。隨分ご機嫌やう」と小さな聲で云つた。目に涙が一杯たまつてゐる。おれは泣かなかつた。然しもう少しで泣くところであつた。汽車が餘つ程動き出してから、もう大丈夫だらうと思つて、窓から首を出して、振り向いたら、矢つ張り立つて居た。何だか大變小さく見えた。 

 

ぶうと云つて汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて來た。船頭は眞つ裸に赤ふんどしをしめてゐる。野蠻な所だ。もつともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめてゐても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのださうだ。見るところでは大森ぐらゐな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出來るものかと思つたが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。續づいて五六人は乘つたらう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して來た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がつて、いきなり、磯に立つてゐた鼻たれ小僧をつらまへて中學校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云つた。氣の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中學校のありかも知らぬ奴があるものか。ところへ妙な筒つぽうを着た男がきて、こつちへ來いと云ふから、尾いて行つたら、港屋とか云ふ宿屋へ連れて來た。やな女が聲を揃へてお上がりなさいと云ふので、上がるのがいやになつた。門口へ立つたなり中學校を教へろと云つたら、中學校はこれから汽車で二里ばかり行かなくつちやいけないと聞いて、猶上がるのがいやになつた。おれは、筒つぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくつて、のそのそあるき出した。宿屋のものは變な顏をしてゐた。
停車場はすぐ知れた。切符も譯なく買つた。乘り込んでみるとマッチ箱のやうな汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思つたら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思つた。たつた三錢である。それから車を傭つて、中學校へ來たら、もう放課後で誰も居ない。宿直は一寸用逹に出たと小使が教へた。隨分氣樂な宿直がゐるものだ。校長でも尋ねやうかと思つたが、草臥れたから、車に乘つて宿屋へ連れて行けと車夫に云ひ付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ふうちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋號と同じだから一寸面白く思つた。
何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くつて居られやしない。こんな部屋はいやだと云つたらあいにくみんな塞がつてをりますからと云ひながら革鞄を抛り出したまま出て行つた。仕方がないから部屋の中へ這入つて汗をかいて我慢してゐた。やがて湯に入れと云ふから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がつた。歸りがけに覗いてみると涼しさうな部屋がたくさん空いてゐる。失敬な奴だ。嘘をつきやあがつた。それから下女が膳を持つて來た。部屋は熱つかつたが、飯は下宿のよりも大分旨かつた。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から來たと答へた。すると東京はよい所でございませうと云つたから當り前だと答へてやつた。膳を下げた下女が臺所へいつた時分、大きな笑ひ聲が聞えた。くだらないから、すぐ寢たが、なかなか寢られない。熱いばかりではない。騷々しい。下宿の五倍ぐらゐやかましい。うたうとしたら清の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしやむしや食つてゐる。笹は毒だからよしたらよからうと云ふと、いえこの笹がお藥でございますと云つて旨さうに食つてゐる。おれがあきれ返つて大きな口を開いてハハハハと笑つたら眼が覺めた。下女が雨戸を明けてゐる。相變らず空の底が突き拔けたやうな天氣だ。
道中をしたら茶代をやるものだと聞いてゐた。茶代をやらないと粗末に取り扱はれると聞いてゐた。こんな、狹くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだらう。見すぼらしい服裝をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだらう。田舎者の癖に人を見括つたな。一番茶代をやつて驚かしてやらう。おれはこれでも學資のあまりを三十圓ほど懷に入れて東京を出て來たのだ。汽車と汽船の切符代と雜費を差し引いて、まだ十四圓ほどある。みんなやつたつてこれからは月給を貰ふんだから構はない。田舎者はしみつたれだから五圓もやれば驚ろいて眼を廻すに極つてゐる。どうするか見ろと濟まして顏を洗つて、部屋へ歸つて待つてると、夕べの下女が膳を持つて來た。盆を持つて給仕をしながら、やににやにや笑つてる。失敬な奴だ。顏のなかをお祭りでも通りやしまひし。これでもこの下女の面より餘つ程上等だ。飯を濟ましてからにしようと思つてゐたが、癪に障つたから、中途で五圓札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持つて行けと云つたら、下女は變な顏をしてゐた。それから飯を濟ましてすぐ學校へ出懸けた。靴は磨いてなかつた。
學校は昨日車で乘りつけたから、大概の見當は分つてゐる。四つ角を二三度曲がつたらすぐ門の前へ出た。門から玄關までは御影石で敷きつめてある。きのふこの敷石の上を車でがらがらと通つた時は、無暗に仰山な音がするので少し弱つた。途中から小倉の制服を着た生徒にたくさん逢つたが、みんなこの門を這入つて行く。中にはおれより背が高くつて強さうなのが居る。あんな奴を教へるのかと思つたら何だか氣味が惡るくなつた。名刺を出したら校長室へ通した。校長は薄髯のある、色の黒い、目の大きな貍のやうな男である。やにもつたいぶつてゐた。まあ精出して勉強して呉れと云つて、恭しく大きな印の捺つた、辭令を渡した。この辭令は東京へ歸るとき丸めて海の中へ抛り込んでしまつた。校長は今に職員に紹介してやるから、一々その人にこの辭令を見せるんだと云つて聞かした。餘計な手數だ。そんな面倒な事をするよりこの辭令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
教員が控所へ揃ふには一時間目の喇叭が鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まづ大體の事を呑み込んでおいてもらはうと云つて、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いゝ加減に聞いてゐたが、途中からこれは飛んだ所へ來たと思つた。校長の云ふやうにはとても出來ない。おれみたやうな無鐵砲なものをつらまへて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、學問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなへらい人が月給四十圓で遙々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらゐは誰でもするだらうと思つてたが、この樣子ぢやめつたに口も聞けない、散歩も出來ない。そんなむづかしい役なら雇ふ前にこれこれだと話すがいゝ。おれは嘘をつくのが嫌ひだから、仕方がない、だまされて來たのだとあきらめて、思ひ切りよく、ここで斷わつて歸つちまはうと思つた。宿屋へ五圓やつたから財布の中には九圓なにがししかない。九圓ぢや東京までは歸れない。茶代なんかやらなければよかつた。惜しい事をした。しかし九圓だつて、どうかならない事はない。旅費は足りなくつても嘘をつくよりましだと思つて、到底あなたのおつしやる通りにや、出來ません、この辭令は返しますと云つたら、校長は貍のやうな眼をぱちつかせておれの顏を見てゐた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出來ないのはよく知つてゐるから心配しなくつてもいゝと云ひながら笑つた。そのくらゐよく知つてるなら、始めから威嚇さなければいゝのに。
さう、かうする内に喇叭が鳴つた。教場の方が急にがやがやする。もう教員も控所へ揃ひましたらうと云ふから、校長に尾いて教員控所へはいつた。廣い細長い部屋の周圍に机を並べてみんな腰をかけてゐる。おれがはいつたのを見て、みんな申し合せたやうにおれの顏を見た。見世物ぢやあるまいし。それから申し付けられた通り一人一人の前へ行つて辭令を出して挨拶をした。大概は椅子を離れて腰をかがめるばかりであつたが、念の入つたのは差し出した辭令を受け取つて一應拜見をしてそれを恭しく返卻した。まるで宮芝居の眞似だ。十五人目に體操の教師へと廻つて來た時には、同じ事を何返もやるので少々じれつたくなつた。向うは一度で濟む。こつちは同じ所作を十五返繰り返してゐる。少しはひとの了見も察してみるがいゝ。
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云ふのが居た。これは文學士ださうだ。文學士と云へば大學の卒業生だからえらい人なんだらう。妙に女のやうな優しい聲を出す人だつた。もつとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着てゐる。いくらか薄い地には相違なくつても暑いには極つてる。文學士だけにご苦勞千萬な服裝をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしてゐる。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんださうだ。妙な病氣があつた者だ。當人の説明では赤は身體に藥になるから、衞生のためにわざわざ誂らえるんださうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいゝ。それから英語の教師に古賀とか云ふ大變顏色の惡るい男が居た。大概顏の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれてゐる。昔小學校へ行く時分、淺井の民さんと云ふ子が同級生にあつたが、この淺井のおやじがやはり、こんな色つやだつた。淺井は百姓だから、百姓になるとあんな顏になるかと清に聞いてみたら、さうぢやありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教へて呉れた。それ以來蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食つた酬いだと思ふ。この英語の教師もうらなりばかり食つてるに違ひない。もつともうらなりとは何の事か今もつて知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑つて答へなかつた。大方清も知らないんだらう。それからおれと同じ數學の教師に堀田といふのが居た。これは逞しい毬栗坊主で、叡山の惡僧と云ふべき面構である。人が叮寧に辭令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに來給へアハハハと云つた。何がアハハハだ。そんな禮儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐といふ渾名をつけてやつた。漢學の先生はさすがに堅いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご勵精で、──とのべつに辯じたのは愛嬌のあるお爺さんだ。画學の教師は全く藝人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お國はどちらでげす、え? 東京? そりや嬉しい、お仲間が出來て……私もこれで江戸つ子ですと云つた。こんなのが江戸つ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考へた。そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際限がないからやめる。
挨拶が一通り濟んだら、校長が今日はもう引き取つてもいゝ、もつとも授業上の事は數學の主任と打ち合せをしておいて、明後日から課業を始めて呉れと云つた。數學の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であつた。忌々しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。山嵐は「おい君どこに宿つてるか、山城屋か、うん、今に行つて相談する」と云ひ殘して白墨を持つて教場へ出て行つた。主任の癖に向うから來て相談するなんて不見識な男だ。しかし呼び付けるよりは感心だ。
それから學校の門を出て、すぐ宿へ歸らうと思つたが、歸つたつて仕方がないから、少し町を散歩してやらうと思つて、無暗に足の向く方をあるき散らした。縣廳も見た。古い前世紀の建築である。兵營も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神樂坂を半分に狹くしたぐらゐな道幅で町並はあれより落ちる。二十五萬石の城下だつて高の知れたものだ。こんな所に住んでご城下だなどと威張つてる人間は可哀想なものだと考へながらくると、いつしか山城屋の前に出た。廣いやうでも狹いものだ。これで大抵は見盡したのだらう。歸つて飯でも食はうと門口をはいつた。帳場に坐つてゐたかみさんが、おれの顏を見ると急に飛び出してきてお歸り……と板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五疉の表二階で大きな床の間がついてゐる。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいつた事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣一枚になつて座敷の眞中へ大の字に寢てみた。いゝ心持ちである。
晝飯を食つてから早速清へ手紙をかいてやつた。おれは文章がまづい上に字を知らないから手紙を書くのが大嫌ひだ。またやる所もない。しかし清は心配してゐるだらう。難船して死にやしなひかなどと思つちや困るから、奮發して長いのを書いてやつた。その文句はかうである。
「きのふ着いた。つまらん所だ。十五疉の座敷に寢てゐる。宿屋へ茶代を五圓やつた。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寢られなかつた。清が笹飴を笹ごと食ふ夢を見た。來年の夏は歸る。今日學校へ行つてみんなにあだなをつけてやつた。校長は貍、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、數學は山嵐、画學はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さやうなら」
手紙をかいてしまつたら、いゝ心持ちになつて眠氣がさしたから、最前のやうに座敷の眞中へのびのびと大の字に寢た。今度は夢も何も見ないでぐつすり寢た。この部屋かいと大きな聲がするので目が覺めたら、山嵐が這入つて來た。最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに狼狽した。受持ちを聞いてみると別段むづかしい事もなささうだから承知した。このくらゐの事なら、明後日は愚、明日から始めろと云つたつて驚ろかない。授業上の打ち合せが濟んだら、君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、僕がいゝ下宿を周旋してやるから移りたまへ。外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出來る。早い方がいゝから、今日見て、あす移つて、あさつてから學校へ行けば極りがいゝと一人で呑み込んでゐる。なるほど十五疉敷にいつまで居る譯にも行くまい。月給をみんな宿料に拂つても追つつかないかもしれぬ。五圓の茶代を奮發してすぐ移るのはちと殘念だが、どうせ移る者なら、早く引き越して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に頼む事にした。すると山嵐はともかくもいつしよに來てみろと云ふから、行つた。町はづれの岡の中腹にある家で至極閑靜だ。主人は骨董を賣買するいか銀と云ふ男で、女房は亭主よりも四つばかり年嵩の女だ。中學校に居た時ウィッチと云ふ言葉を習つた事があるがこの女房はまさにウィッチに似てゐる。ウィッチだつて人の女房だから構はない。とうとう明日から引き移る事にした。歸りに山嵐は通町で氷水を一杯奢つた。學校で逢つた時はやに横風な失敬な奴だと思つたが、こんなにいろいろ世話をして呉れるところを見ると、わるい男でもなささうだ。ただおれと同じやうにせつかちで肝癪持らしい。あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのださうだ。 

 

いよいよ學校へ出た。初めて教場へ這入つて高い所へ乘つた時は、何だか變だつた。講釋をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思つた。生徒はやかましい。時々圖拔けた大きな聲で先生と云ふ。先生には應へた。今まで物理學校で毎日先生先生と呼びつけてゐたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯な人間ではない。臆病な男でもないが、惜しい事に膽力が缺けてゐる。先生と大きな聲をされると、腹の減つた時に丸の内で午砲を聞いたやうな氣がする。最初の一時間は何だかいゝ加減にやつてしまつた。しかし別段困つた質問も掛けられずに濟んだ。控所へ歸つて來たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと單簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかつた。
二時間目に白墨を持つて控所を出た時には何だか敵地へ乘り込むやうな氣がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。おれは江戸つ子で華奢に小作りに出來てゐるから、どうも高い所へ上がつても押しが利かない。喧嘩なら相撲取とでもやつてみせるが、こんな大僧を四十人も前へ並べて、ただ一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。しかしこんな田舎者に弱身を見せると癖になると思つたから、なるべく大きな聲をして、少々卷き舌で講釋してやつた。最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりしてゐたから、それ見ろとますます得意になつて、べらんめい調を用ゐてたら、一番前の列の眞中に居た、一番強さうな奴が、いきなり起立して先生と云ふ。そら來たと思ひながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちつと、ゆるゆる遣つて、お呉れんかな、もし」と云つた。お呉れんかな、もしは生温るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆつくり云つてやるが、おれは江戸つ子だから君等の言葉は使へない、分らなければ、分るまで待つてるがいゝと答へてやつた。この調子で二時間目は思つたより、うまく行つた。ただ歸りがけに生徒の一人が一寸この問題を解釋をしてお呉れんかな、もし、と出來さうもない幾何の問題を持つて逼つたには冷汗を流した。仕方がないから何だか分らない、この次教へてやると急いで引き揚げたら、生徒がわあと囃した。その中に出來ん出來んと云ふ聲が聞える。箆棒め、先生だつて、出來ないのは當り前だ。出來ないのを出來ないと云ふのに不思議があるもんか。そんなものが出來るくらゐなら四十圓でこんな田舎へくるもんかと控所へ歸つて來た。今度はどうだとまた山嵐が聞いた。うんと云つたが、うんだけでは氣が濟まなかつたから、この學校の生徒は分らずやだなと云つてやつた。山嵐は妙な顏をしてゐた。
三時間目も、四時間目も晝過ぎの一時間も大同小異であつた。最初の日に出た級は、いづれも少々ずつ失敗した。教師ははたで見るほど樂ぢやないと思つた。授業はひと通り濟んだが、まだ歸れない、三時までぽつ然として待つてなくてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して報知にくるから檢分をするんださうだ。それから、出席簿を一應調べて漸くお暇が出る。いくら月給で買はれた身體だつて、あいた時間まで學校へ縛りつけて机と睨めつくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな大人しくご規則通りやつてるから新參のおればかり、だだを捏ねるのもよろしくないと思つて我慢してゐた。歸りがけに、君何でもかんでも三時過まで學校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴へたら、山嵐はさうさアハハハと笑つたが、あとから眞面目になつて、君あまり學校の不平を云ふと、いかんぜ。云ふなら僕だけに話せ、隨分妙な人も居るからなと忠告がましい事を云つた。四つ角で分れたから詳しい事は聞くひまがなかつた。
それからうちへ歸つてくると、宿の亭主がお茶を入れませうと云つてやつて來る。お茶を入れると云ふからご馳走をするのかと思ふと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飮むのだ。この樣子では留守中も勝手にお茶を入れませうを一人で履行してゐるかも知れない。亭主が云ふには手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるやうになりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらつしやるらしい。ちと道樂にお始めなすつてはいかがですと、飛んでもない勸誘をやる。二年前ある人の使に帝國ホテルへ行つた時は錠前直しと間違へられた事がある。ケットを被つて、鎌倉の大佛を見物した時は車屋から親方と云はれた。その外今日まで見損われた事は隨分あるが、まだおれをつらまへて大分ご風流でいらつしやると云つたものはない。大抵はなりや樣子でも分る。風流人なんていふものは、画を見ても、頭巾を被るか短册を持つてるものだ。このおれを風流人だなどと眞面目に云ふのはただの曲者ぢやない。おれはそんな呑氣な隱居のやるやうな事は嫌ひだと云つたら、亭主はへへへへと笑ひながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いつたんこの道に這入るとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飮んでゐる。實はゆふべ茶を買つて呉れと頼んでおいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。一杯飮むと胃に答へるやうな氣がする。今度からもつと苦くないのを買つて呉れと云つたら、かしこまりましたとまた一杯しぼつて飮んだ。人の茶だと思つて無暗に飮む奴だ。主人が引き下がつてから、明日の下讀をしてすぐ寢てしまつた。
それから毎日毎日學校へ出ては規則通り働く、毎日毎日歸つて來ると主人がお茶を入れませうと出てくる。一週間ばかりしたら學校の樣子もひと通りは飮み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分つた。ほかの教師に聞いてみると辭令を受けて一週間から一ヶ月ぐらゐの間は自分の評判がいゝだらうか、惡るいだらうか非常に氣に掛かるさうであるが、おれは一向そんな感じはなかつた。教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗に消えてしまふ。おれは何事によらず長く心配しようと思つても心配が出來ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を與へて、その影響が校長や教頭にどんな反應を呈するかまるで無頓着であつた。おれは前に云ふ通りあまり度胸の据つた男ではないのだが、思ひ切りはすこぶるいゝ人間である。この學校がいけなければすぐどつかへ行く覺悟でゐたから、貍も赤シャツも、ちつとも恐しくはなかつた。まして教場の小僧共なんかには愛嬌もお世辭も使ふ氣になれなかつた。學校はそれでいゝのだが下宿の方はさうはいかなかつた。亭主が茶を飮みに來るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持つてくる。始めに持つて來たのは何でも印材で、十ばかり並べておいて、みんなで三圓なら安い物だお買ひなさいと云ふ。田舎巡りのヘボ繪師ぢやあるまいし、そんなものは入らないと云つたら、今度は華山とか何とか云ふ男の花鳥の掛物をもつて來た。自分で床の間へかけて、いゝ出來ぢやありませんかと云ふから、さうかなと好加減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釋をしたあとで、どうです、あなたなら十五圓にしておきます。お買ひなさいと催促をする。金がないと斷わると、金なんか、いつでもやうございますとなかなか頑固だ。金があつても買はないんだと、その時は追つ拂つちまつた。その次には鬼瓦ぐらゐな大硯を擔ぎ込んだ。これは端溪です、端溪ですと二遍も三遍も端溪がるから、面白半分に端溪た何だいと聞いたら、すぐ講釋を始め出した。端溪には上層中層下層とあつて、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼をご覽なさい。眼が三つあるのは珍らしい。溌墨の具合も至極よろしい、試してご覽なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。いくらだと聞くと、持主が支那から持つて歸つて來て是非賣りたいと云ひますから、お安くして三十圓にしておきませうと云ふ。この男は馬鹿に相違ない。學校の方はどうかかうか無事に勤まりさうだが、かう骨董責に逢つてはとても長く續きさうにない。
そのうち學校もいやになつた。  
ある日の晩大町と云ふ所を散歩してゐたら郵便局の隣りに蕎麥とかいて、下に東京と注を加へた看板があつた。おれは蕎麥が大好きである。東京に居つた時でも蕎麥屋の前を通つて藥味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなつた。今日までは數學と骨董で蕎麥を忘れてゐたが、かうして看板を見ると素通りが出來なくなる。ついでだから一杯食つて行かうと思つて上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と斷わる以上はもう少し奇麗にしさうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法きたない。疉は色が變つてお負けに砂でざらざらしてゐる。壁は煤で眞黒だ。天井はランプの油烟で燻ぼつてるのみか、低くつて、思はず首を縮めるくらゐだ。ただ麗々と蕎麥の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いうちを買つて二三日前から開業したに違ひなからう。ねだん付の第一號に天麩羅とある。おい天麩羅を持つてこいと大きな聲を出した。するとこの時まで隅の方に三人かたまつて、何かつるつる、ちゅうちゅう食つてた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、一寸氣がつかなかつたが顏を合せると、みんな學校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。その晩は久し振に蕎麥を食つたので、旨かつたから天麩羅を四杯平げた。
翌日何の氣もなく教場へ這入ると、黒板一杯ぐらゐな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顏を見てみんなわあと笑つた。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食つちや可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云つた。四杯食はうが五杯食はうがおれの錢でおれが食ふのに文句があるもんかと、さつさと講義を濟まして控所へ歸つて來た。十分立つて次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但し笑ふべからず。と黒板にかいてある。さつきは別に腹も立たなかつたが今度は癪に障つた。冗談も度を過ごせばいたづらだ。燒餠の黒焦のやうなもので誰も賞め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行つても構はないと云ふ了見だらう。一時間あるくと見物する町もないやうな狹い都に住んで、外に何にも藝がないから、天麩羅事件を日露戰爭のやうに觸れちらかすんだらう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねつこびた、植木鉢の楓みたやうな小人が出來るんだ。無邪氣ならひつしよに笑つてもいゝが、こりやなんだ。小供の癖に乙に毒氣を持つてる。おれはだまつて、天麩羅を消して、こんないたづらが面白いか、卑怯な冗談だ。君等は卑怯と云ふ意味を知つてるか、と云つたら、自分がした事を笑はれて怒るのが卑怯ぢやらうがな、もしと答へた奴がある。やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教へに來たのかと思つたら情なくなつた。餘計な減らず口を利かないで勉強しろと云つて、授業を始めてしまつた。それから次の教場へ出たら天麩羅を食ふと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終へない。あんまり腹が立つたから、そんな生意氣な奴は教へないと云つてすたすた歸つて來てやつた。生徒は休みになつて喜んださうだ。かうなると學校より骨董の方がまだましだ。
天麩羅蕎麥もうちへ歸つて、一晩寢たらそんなに肝癪に障らなくなつた。學校へ出てみると、生徒も出てゐる。何だか譯が分らない。それから三日ばかりは無事であつたが、四日目の晩に住田と云ふ所へ行つて團子を食つた。この住田と云ふ所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいつた團子屋は遊廓の入口にあつて、大變うまいといふ評判だから、温泉に行つた歸りがけに一寸食つてみた。今度は生徒にも逢はなかつたから、誰も知るまいと思つて、翌日學校へ行つて、一時間目の教場へ這入ると團子二皿七錢と書いてある。實際おれは二皿食つて七錢拂つた。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきつと何かあると思ふと遊廓の團子旨い旨いと書いてある。あきれ返つた奴等だ。團子がそれで濟んだと思つたら今度は赤手拭と云ふのが評判になつた。何の事だと思つたら、つまらない來歴だ。おれはここへ來てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めてゐる。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せつかく來た者だから毎日這入つてやらうといふ氣で、晩飯前に運動かたがた出掛る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染つた上へ、赤い縞が流れ出したので一寸見ると紅色に見える。おれはこの手拭を行きも歸りも、汽車に乘つてもあるいても、常にぶら下げてゐる。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云ふんださうだ。どうも狹い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八錢で濟む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいつた。すると四十圓の月給で毎日上等へ這入るのは贅澤だと云ひ出した。餘計なお世話だ。まだある。湯壺は花崗石を疉み上げて、十五疉敷ぐらゐの廣さに仕切つてある。大抵は十三四人漬つてるがたまには誰も居ない事がある。深さは立つて乳の邊まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見濟しては十五疉の湯壺を泳ぎ巡つて喜んでゐた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは斷念した。泳ぐのは斷念したが、學校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。何だか生徒全體がおれ一人を探偵してゐるやうに思はれた。くさくさした。生徒が何を云つたつて、やらうと思つた事をやめるやうなほれではないが、何でこんな狹苦しい鼻の先がつかへるやうな所へ來たのかと思ふと情なくなつた。それでうちへ歸ると相變らず骨董責である。 

 

學校には宿直があつて、職員が代る代るこれをつとめる。但し貍と赤シャツは例外である。何でこの兩人が當然の義務を免かれるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからと云ふ。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらへて、それが當り前だといふやうな顏をしてゐる。よくまああんなにずうずうしく出來るものだ。これについては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたつて通るものぢやないさうだ。一人だつて二人だつて正しい事なら通りさうなものだ。山嵐は might is right といふ英語を引いて説諭を加へたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の權利と云ふ意味ださうだ。強者の權利ぐらゐなら昔から知つてゐる。今さら山嵐から講釋をきかなくつてもいゝ。強者の權利と宿直とは別問題だ。貍や赤シャツが強者だなんて、誰が承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻つて來た。一體疳性だから夜具蒲團などは自分のものへ樂に寢ないと寢たやうな心持ちがしない。小供の時から、友逹のうちへ泊つた事はほとんどないくらゐだ。友逹のうちでさへ厭なら學校の宿直はなほさら厭だ。厭だけれども、これが四十圓のうちへ籠つてゐるなら仕方がない。我慢して勤めてやらう。
教師も生徒も歸つてしまつたあとで、一人ぽかんとしてゐるのは隨分間が拔けたものだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はづれの一室だ。一寸這入つてみたが、西日をまともに受けて、苦しくつて居たたまれない。田舎だけあつて秋がきても、氣長に暑いもんだ。生徒の賄を取りよせて晩飯を濟ましたが、まづいには恐れ入つた。よくあんなものを食つて、あれだけに暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまふんだから豪傑に違ひない。飯は食つたが、まだ日が暮れないから寢る譯に行かない。一寸温泉に行きたくなつた。宿直をして、外へ出るのはいゝ事だか、惡るい事だかしらないが、かうつくねんとして重禁錮同樣な憂目に逢ふのは我慢の出來るもんぢやない。始めて學校へ來た時當直の人はと聞いたら、一寸用逹に出たと小使が答へたのを妙だと思つたが、自分に番が廻つてみると思ひ當る。出る方が正しいのだ。おれは小使に一寸出てくると云つたら、何かご用ですかと聞くから、用ぢやない、温泉へ這入るんだと答へて、さつさと出掛けた。赤手拭は宿へ忘れて來たのが殘念だが今日は先方で借りるとしよう。
それからかなりゆるりと、出たりはいつたりして、漸く日暮方になつたから、汽車へ乘つて古町の停車場まで來て下りた。學校まではこれから四丁だ。譯はないとあるき出すと、向うから貍が來た。貍はこれからこの汽車で温泉へ行かうと云ふ計劃なんだらう。すたすた急ぎ足にやつてきたが、擦れ違つた時おれの顏を見たから、一寸挨拶をした。すると貍はあなたは今日は宿直ではなかつたですかねえと眞面目くさつて聞いた。なかつたですかねえもないもんだ。二時間前おれに向つて今夜は始めての宿直ですね。ご苦勞さま。と禮を云つたぢやないか。校長なんかになるといやに曲りくねつた言葉を使ふもんだ。おれは腹が立つたから、ええ宿直です。宿直ですから、これから歸つて泊る事はたしかに泊りますと云ひ捨てて濟ましてあるき出した。豎町の四つ角までくると今度は山嵐に出つ喰はした。どうも狹い所だ。出てあるきさへすれば必ず誰かに逢ふ。「おい君は宿直ぢやないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答へたら、「宿直が無暗に出てあるくなんて、不都合ぢやないか」と云つた。「ちつとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張つてみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢ふと面倒だぜ」と山嵐に似合はない事を云ふから「校長にはたつた今逢つた。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でせうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云つて、面倒臭いから、さつさと學校へ歸つて來た。
夫から日はすぐ呉れる。呉れてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寢られないまでも床へ這入らうと思つて、寢卷に着換へて、蚊帳を捲くつて、赤い毛布を跳ねのけて、とんと尻持を突いて、仰向けになつた。おれが寢るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云つて小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律學校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が逹者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寢る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのぢやない。下宿の建築が粗末なんだ。掛ケ合ふなら下宿へ掛ケ合へと凹ましてやつた。この宿直部屋は二階ぢやないから、いくら、どしんと倒れても構はない。なるべく勢よく倒れないと寢たやうな心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか兩足へ飛び付いた。ざらざらして蚤のやうでもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振つてみた。するとざらざらと當つたものが、急に殖え出して脛が五六カ所、股が二三カ所、尻の下でぐちやりと踏み潰したのが一つ、臍の所まで飛び上がつたのが一つ──いよいよ驚ろいた。早速起き上つて、毛布をぱつと後ろへ抛ると、蒲團の中から、バッタが五六十飛び出した。正體の知れない時は多少氣味が惡るかつたが、バッタと相場が極まつてみたら急に腹が立つた。バッタの癖に人を驚ろかしやがつて、どうするか見ろと、いきなり括り枕を取つて、二三度擲きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛げつける割に利目がない。仕方がないから、また布團の上へ坐つて、煤掃の時に蓙を丸めて疉を叩くやうに、そこら近邊を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩だの、頭だの鼻の先だのへくつ付いたり、ぶつかつたりする。顏へ付いた奴は枕で叩く譯に行かないから、手で攫んで、一生懸命に擲きつける。忌々しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまつてゐる。死にもどうもしない。漸くの事に三十分ばかりでバッタは退治た。箒を持つて來てバッタの死骸を掃き出した。小使が來て何ですかと云ふから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼つとく奴がどこの國にある。間拔め。と叱つたら、私は存じませんと辯解をした。存じませんで濟むかと箒を椽側へ抛り出したら、小使は恐る恐る箒を擔いで歸つて行つた。
おれは早速寄宿生を三人ばかり總代に呼び出した。すると六人出て來た。六人だらうが十人だらうが構ふものか。寢卷のまま腕まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と眞先の一人がいつた。やに落ち付いてゐやがる。この學校ぢや校長ばかりぢやない、生徒まで曲りくねつた言葉を使ふんだらう。
「バッタを知らないのか、知らなけりや見せてやらう」と云つたが、生憎掃き出してしまつて一匹も居ない。また小使を呼んで、「さつきのバッタを持つてこい」と云つたら、「もう掃澑へ棄ててしまひましたが、拾つて參りませうか」と聞いた。「うんすぐ拾つて來い」と云ふと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて來て「どうもお氣の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見當りません。あしたになりましたらもつと拾つて參ります」と云ふ。小使まで馬鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう體をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云ふと、一番左の方に居た顏の丸い奴が「そりや、イナゴぞな、もし」と生意氣におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まへてなもした何だ。菜飯は田樂の時より外に食ふもんぢやない」とあべこべに遣り込めてやつたら「なもしと菜飯とは違ふぞな、もし」と云つた。いつまで行つてもなもしを使ふ奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れて呉れと頼んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温い所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやあろ」
「馬鹿あ云へ。バッタが一人で御這入りになるなんて──バッタに御這入りになられてたまるもんか。──さあなぜこんないたづらをしたか、云へ」
「云へてゝ、入れんものを説明しやうがないがな」
けちな奴等だ。自分で自分のした事が云へないくらゐなら、てんでしないがいゝ。證據さへ擧がらなければ、しらを切るつもりで圖太く構へてゐやがる。おれだつて中學に居た時分は少しはいたづらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするやうな卑怯な事はただの一度もなかつた。したものはしたので、しないものはしないに極つてる。おれなんぞは、いくら、いたづらをしたつて潔白なものだ。嘘を吐いて罰を逃げるくらゐなら、始めからいたづらなんかやるものか。いたづらと罰はつきもんだ。罰があるからいたづらも心持ちよく出來る。いたづらだけで罰はご免蒙るなんて下劣な根性がどこの國に流行ると思つてるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云ふ連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。全體中學校へ何しに這入つてるんだ。學校へ這入つて、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意氣な惡いたづらをして、さうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違ひをしてゐやがる。話せない雜兵だ。
おれはこんな腐つた了見の奴等と談判するのは胸糞が惡るいから、「そんなに云はれなきや、聞かなくつていゝ。中學校へ這入つて、上品も下品も區別が出來ないのは氣の毒なものだ」と云つて六人を逐つ放してやつた。おれは言葉や樣子こそあまり上品ぢやないが、心はこいつらよりも遙かに上品なつもりだ。六人は悠々と引き揚げた。上部だけは教師のおれより餘つ程えらく見える。實は落ち付いて居るだけ猶惡るい。おれには到底是程の度胸はない。
それからまた床へ這入つて横になつたら、さつきの騷動で蚊帳の中はぶんぶん唸つてゐる。手燭をつけて一匹ずつ燒くなんて面倒な事は出來ないから、釣手をはずして、長く疉んでおいて部屋の中で横豎十文字に振つたら、環が飛んで手の甲をいやといふほど撲つた。三度目に床へはいつた時は少々落ち付いたがなかなか寢られない。時計を見ると十時半だ。考へてみると厄介な所へ來たもんだ。一體中學の先生なんて、どこへ行つても、こんなものを相手にするなら氣の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。餘つ程辛防強い朴念仁がなるんだらう。おれには到底やり切れない。それを思ふと清なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊とい。今まではあんなに世話になつて別段難有いとも思はなかつたが、かうして、一人で遠國へ來てみると、始めてあの親切がわかる。越後の笹飴が食ひたければ、わざわざ越後まで買ひに行つて食はしてやつても、食はせるだけの價値は充分ある。清はおれの事を慾がなくつて、眞直な氣性だと云つて、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢ひたくなつた。
清の事を考へながら、のつそつしてゐると、突然おれの頭の上で、數で云つたら三四十人もあらうか、二階が落つこちるほどどん、どん、どんと拍子を取つて床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の聲が起つた。おれは何事が持ち上がつたのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端に、はゝあさつきの意趣返しに生徒があばれるのだなと氣がついた。手前のわるい事は惡るかつたと言つて仕舞はないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前逹に覺があるだらう。本來なら寢てから後悔してあしたの朝でもあやまりに來るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入つて、靜肅に寢てゐるべきだ。それを何だこの騷ぎは。寄宿舎を建てて豚でも飼つて置きあしまいし。氣狂ひじみた眞似も大抵にするがいゝ。どうするか見ろと、寢卷のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段を三股半に二階まで躍り上がつた。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れてゐたのが、急に靜まり返つて、人聲どころか足音もしなくなつた。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分らないが、人氣のあるとないとは樣子でも知れる。長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隱れてゐない。廊下のはづれから月がさして、遙か向うが際どく明るい。どうも變だ、おれは小供の時から、よく夢を見る癖があつて、夢中に跳ね起きて、わからぬ寢言を云つて、人に笑はれた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾つた夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がつて、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねたくらゐだ。その時は三日ばかりうち中の笑ひ草になつて大いに弱つた。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違ひないがと、廊下の眞中で考へ込んでゐると、月のさしてゐる向うのはづれで、一二三わあと、三四十人の聲がかたまつて響いたかと思ふ間もなく、前のやうに拍子を取つて、一同が床板を踏み鳴らした。それ見ろ夢ぢやないやつぱり事實だ。靜かにしろ、夜なかだぞ、とこつちも負けんくらゐな聲を出して、廊下を向うへ馳けだした。おれの通る路は暗い、ただはづれに見える月あかりが目標だ。おれが馳け出して二間も來たかと思ふと、廊下の眞中で、堅い大きなものに向脛をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身體はすとんと前へ抛り出された。こん畜生と起き上がつてみたが、馳けられない。氣はせくが、足だけは云ふ事を利かない。じれつたいから、一本足で飛んで來たら、もう足音も人聲も靜まり返つて、森としてゐる。いくら人間が卑怯だつて、こんなに卑怯に出來るものぢやない。まるで豚だ。かうなれば隱れてゐる奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寢室の一つを開けて中を檢査しようと思つたが開かない。錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の室を試みた。開かない事はやつぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引つ捕らまへてやらうと、焦慮てると、また東のはづれで鬨の聲と足拍子が始まつた。この野郎申し合せて、東西相應じておれを馬鹿にする氣だな、とは思つたがさてどうしていゝか分らない。正直に白状してしまふが、おれは勇氣のある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしていゝかさつぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに濟ましてはおれの顏にかかはる。江戸つ子は意氣地がないと云はれるのは殘念だ。宿直をして鼻埀れ小僧にからかはれて、手のつけやうがなくつて、仕方がないから泣き寢入りにしたと思はれちや一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の滿仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違ふんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていゝか分らないのが困るだけだ。困つたつて負けるものか。正直だから、どうしていゝか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考へてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさつて勝つ。あさつて勝てなければ、下宿から辨當を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはかう決心をしたから、廊下の眞中へあぐらをかいて夜のあけるのを待つてゐた。蚊がぶんぶん來たけれども何ともなかつた。さつき、ぶつけた向脛を撫でてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだらう。血なんか出たければ勝手に出るがいゝ。そのうち最前からの疲れが出て、ついふとうと寢てしまつた。何だか騷がしいので、眼が覺めた時はえつ糞しまつたと飛び上がつた。おれの坐つてた右側にある戸が半分あゐて、生徒が二人、おれの前に立つてゐる。おれは正氣に返つて、はつと思ふ途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引つ攫んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向に倒れた。ざまを見ろ。殘る一人が一寸狼狽したところを、飛びかかつて、肩を抑えて二三度こづき廻したら、あつけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで來いと引つ立てると、弱蟲だと見えて、一も二もなく尾いて來た。夜はとうにあけてゐる。
おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問し始めると、豚は、打つても擲ゐても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けつして白状しない。そのうち一人來る、二人來る、だんだん二階から宿直部屋へ集まつてくる。見るとみんな眠さうに瞼をはらしてゐる。けちな奴等だ。一晩ぐらゐ寢ないで、そんな面をして男と云はれるか。面でも洗つて議論に來いと云つてやつたが、誰も面を洗ひに行かない。
おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答をしてゐると、ひよつくり貍がやつて來た。あとから聞いたら、小使が學校に騷動がありますつて、わざわざ知らせに行つたのださうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意氣地がなさ過ぎる。それだから中學校の小使なんぞをしてるんだ。
校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草も一寸聞いた。追つて處分するまでは、今まで通り學校へ出ろ。早く顏を洗つて、朝飯を食はないと時間に間に合はないから、早くしろと云つて寄宿生をみんな放免した。手温るい事だ。おれなら即席に寄宿生をことごとく退校してしまふ。こんな悠長な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向つて、あなたもさぞご心配でお疲れでせう、今日はご授業に及ばんと云ふから、おれはかう答へた。「いえ、ちつとも心配ぢやありません。こんな事が毎晩あつても、命のある間は心配にやなりません。授業はやります、一晩ぐらゐ寢なくつて、授業が出來ないくらゐなら、頂戴した月給を學校の方へ割戻します」校長は何と思つたものか、しばらくおれの顏を見つめてゐたが、しかし顏が大分はれてゐますよと注意した。なるほど何だか少々重たい氣がする。その上べた一面痒い。蚊がよつぽと刺したに相違ない。おれは顏中ぼりぼり掻きながら、顏はいくら膨れたつて、口はたしかにきけますから、授業には差し支へませんと答へた。校長は笑ひながら、大分元氣ですねと賞めた。實を云ふと賞めたんぢやあるまい、ひやかしたんだらう。 

 

君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは氣味の惡るいやうに優しい聲を出す男である。まるで男だか女だか分りやしない。男なら男らしい聲を出すもんだ。ことに大學卒業生ぢやないか。物理學校でさへおれくらゐな聲が出るのに、文學士がこれぢや見つともない。
おれはさうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣つた事がある。それから神樂坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引つかけて、しめたと思つたら、ぽちやりと落としてしまつたがこれは今考へても惜しいと云つたら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと笑つた。何もさう氣取つて笑はなくつても、よささうな者だ。「それぢや、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと傳授しませう」とすこぶる得意である。だれがご傳授をうけるものか。一體釣や獵をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくつて、殺生をして喜ぶ譯がない。魚だつて、鳥だつて殺されるより生きてる方が樂に極まつてる。釣や獵をしなくつちや活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮してゐる上に、生き物を殺さなくつちや寢られないなんて贅澤な話だ。かう思つたが向うは文學士だけに口が逹者だから、議論ぢや叶はないと思つて、だまつてた。すると先生このおれを降參させたと疳違ひして、早速傳授しませう。おひまなら、今日どうです、いつしよに行つちや。吉川君と二人ぎりぢや、淋しいから、來たまへとしきりに勸める。吉川君といふのは画學の教師で例の野だいこの事だ。この野だは、どういふ了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入して、どこへでも隨行して行く。まるで同輩ぢやない。主從みたやうだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極つてゐるんだから、今さら驚ろきもしないが、二人で行けば濟むところを、なんで無愛想のおれへ口を掛けたんだらう。大方高慢ちきな釣道樂で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘つたに違ひない。そんな事で見せびらかされるおれじやない。鮪の二匹や三匹釣つたつて、びくともするもんか。おれだつて人間だ、いくら下手だつて絲さへ卸しや、何かかかるだらう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌ひだから行かないんぢやないと邪推するに相違ない。おれはかう考へたから、行きませうと答へた。それから、學校をしまつて、一應うちへ歸つて、支度を整へて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて濱へ行つた。船頭は一人で、船は細長い東京邊では見た事もない恰好である。さつきから船中見渡すが釣竿が一本も見えない。釣竿なしで釣が出來るものか、どうする了見だらうと、野だに聞くと、沖釣には竿は用ゐません、絲だけでげすと顋を撫でて黒人じみた事を云つた。かう遣り込められるくらゐならだまつてゐればよかつた。
船頭はゆつくりゆつくり漕いでゐるが熟練は恐しいもので、見返えると、濱が小さく見えるくらゐもう出てゐる。高柏寺の五重の塔が森の上へ拔け出して針のやうに尖がつてる。向側を見ると青嶋が浮いてゐる。これは人の住まない島ださうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりぢや住めつこない。赤シャツは、しきりに眺望していゝ景色だと云つてる。野だは絶景でげすと云つてる。絶景だか何だか知らないが、いゝ心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは藥だと思つた。いやに腹が減る。「あの松を見たまへ、幹が眞直で、上が傘のやうに開いてターナーの画にありさうだね」と赤シャツが野だに云ふと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ」と心得顏である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから默つてゐた。舟は島を右に見てぐるりと廻つた。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平だ。赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。出來る事なら、あの島の上へ上がつてみたいと思つたから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸ぢやいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは默つてた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけやうぢやありませんかと餘計な發議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからさう云はうと贊成した。この吾々のうちにおれも這入つてるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちや。いゝ画が出來ますぜと野だが云ふと、マドンナの話はよさうぢやないかホホホホと赤シャツが氣味の惡るい笑ひ方をした。なに誰も居ないから大丈夫ですと、一寸おれの方を見たが、わざと顏をそむけてにやにやと笑つた。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだらうが、小旦那だらうが、おれの關係した事でないから、勝手に立たせるがよからうが、人に分らない事を言つて分らないから聞いたつて構やしませんてえやうな風をする。下品な仕草だ。これで當人は私も江戸つ子でげすなどと云つてる。マドンナと云ふのは何でも赤シャツの馴染の藝者の渾名か何かに違ひないと思つた。なじみの藝者を無人島の松の木の下に立たして眺めてゐれば世話はない。それを野だが油繪にでもかいて展覽會へ出したらよからう。
ここいらがいゝだらうと船頭は船をとめて、錨を卸した。幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらゐだと云ふ。六尋ぐらゐぢや鯛はむづかしいなと、赤シャツは絲を海へなげ込んだ。大將鯛を釣る氣と見える、豪膽なものだ。野だは、なに教頭のお手際ぢやかかりますよ。それになぎですからとお世辭を云ひながら、これも絲を繰り出して投げ入れる。何だか先に錘のやうな鉛がぶら下がつてるだけだ。浮がない。浮がなくつて釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるやうなものだ。おれには到底出來ないと見てゐると、さあ君もやりたまへ絲はありますかと聞く。絲はあまるほどあるが、浮がありませんと云つたら、浮がなくつちや釣が出來ないのは素人ですよ。かうしてね、絲が水底へついた時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食ふとすぐ手に答へる。──そらきた、と先生急に絲をたぐり始めるから、何かかかつたと思つたら何にもかからない、餌がなくなつてたばかりだ。いゝ氣味だ。教頭、殘念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違ひなかつたんですが、どうも教頭のお手際でさへ逃げられちや、今日は油斷ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしてゐる連中よりはましですね。ちやうど齒どめがなくつちや自轉車へ乘れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。餘つ程撲りつけてやらうかと思つた。おれだつて人間だ、教頭ひとりで借り切つた海ぢやあるまいし。廣い所だ。鰹の一匹ぐらゐ義理にだつて、かかつて呉れるだらうと、どぼんと錘と絲を抛り込んでいゝ加減に指の先であやつつてゐた。
しばらくすると、何だかぴくぴくと絲にあたるものがある。おれは考へた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくつちや、かうぴくつく譯がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、絲はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に滲いておらん。船縁から覗いてみたら、金魚のやうな縞のある魚が絲にくつついて、右左へ漾いながら、手に應じて浮き上がつてくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちやりと跳ねたから、おれの顏は潮水だらけになつた。漸くつらまへて、針をとらうとするがなかなか取れない。捕まへた手はぬるぬるする。大いに氣味がわるい。面倒だから絲を振つて胴の間へ擲きつけたら、すぐ死んでしまつた。赤シャツと野だは驚ろいて見てゐる。おれは海の中で手をざぶざぶと洗つて、鼻の先へあてがつてみた。まだ腥臭い。もう懲り懲りだ。何が釣れたつて魚は握りたくない。魚も握られたくなからう。さうさう絲を捲いてしまつた。
一番槍はお手柄だがゴルキぢや、と野だがまた生意氣を云ふと、ゴルキと云ふと露西亞の文學者みたやうな名だねと赤シャツが洒落た。さうですね、まるで露西亞の文學者ですねと野だはすぐ贊成しやがる。ゴルキが露西亞の文學者で、丸木が芝の寫眞師で、米のなる木が命の親だらう。一體この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まへても片假名の唐人の名を並べたがる。人にはそれぞれ專門があつたものだ。おれのやうな數學の教師にゴルキだか車力だか見當がつくものか、少しは遠慮するがいゝ。云ふならフランクリンの自傳だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知つてる名を使ふがいゝ。赤シャツは時々帝國文學とかいふ眞赤な雜誌を學校へ持つて來て難有さうに讀んでゐる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片假名はみんなあの雜誌から出るんださうだ。帝國文學も罪な雜誌だ。
それから赤シャツと野だは一生懸命に釣つてゐたが、約一時間ばかりのうちに二人で十五六上げた。可笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて藥にしたくつてもありやしない。今日は露西亞文學の大當りだと赤シャツが野だに話してゐる。あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。當り前ですなと野だが答へてゐる。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くつて、まづくつて、とても食へないんださうだ。ただ肥料には出來るさうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣つてゐるんだ。氣の毒の至りだ。おれは一匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになつて、さつきから大空を眺めてゐた。釣をするよりこの方が餘つ程洒落てゐる。
すると二人は小聲で何か話し始めた。おれにはよく聞えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清の事を考へてゐる。金があつて、清をつれて、こんな奇麗な所へ遊びに來たらさぞ愉快だらう。いくら景色がよくつても野だなどといつしよぢやつまらない。清は皺苦茶だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たつて恥づかしい心持ちはしない。野だのやうなのは、馬車に乘らうが、船に乘らうが、凌雲閣へのろふが、到底寄り付けたものぢやない。おれが教頭で、赤シャツがおれだつたら、やつぱりおれにへけつけお世辭を使つて赤シャツを冷かすに違ひない。江戸つ子は輕薄だと云ふがなるほどこんなものが田舎巡りをして、私は江戸つ子でげすと繰り返してゐたら、輕薄は江戸つ子で、江戸つ子は輕薄の事だと田舎者が思ふに極まつてる。こんな事を考へてゐると、何だか二人がくすくす笑ひ出した。笑ひ聲の間に何か云ふが途切れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本當ですよ」
おれは外の言葉には耳を傾けなかつたが、バッタと云ふ野だの語を聽いた時は、思はずきつとなつた。野だは何のためかバッタと云ふ言葉だけことさら力を入れて、明瞭におれの耳に這入るやうにして、そのあとをわざとぼかしてしまつた。おれは動かないでやはり聞いてゐた。
「また例の堀田が……」「さうかも知れない……」「天麩羅……ハハハハハ」「……煽動して……」「團子も?」
言葉はかやうに途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、團子だのといふところをもつて推し測つてみると、何でもおれのことについて内所話しをしてゐるに相違ない。話すならもつと大きな聲で話すがいゝ、また内所話をするくらゐなら、おれなんか誘はなければいゝ。いけ好かない連中だ。バッタだらうが雪踏だらうが、非はおれにある事ぢやない。校長がひとまづあづけろと云つたから、貍の顏にめんじてただ今のところは控へてゐるんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆でもしやぶつて引つ込んでるがいゝ。おれの事は、遲かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支へはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云ふ文句が氣にかかる。堀田がおれを煽動して騷動を大きくしたと云ふ意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいぢめたと云ふのか方角がわからない。青空を見てゐると、日の光がだんだん弱つて來て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香の烟のやうな雲が、透き徹る底の上を靜かに伸して行つたと思つたら、いつしか底の奧に流れ込んで、うすくもやを掛けたやうになつた。
もう歸らうかと赤シャツが思ひ出したやうに云ふと、ええちやうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお逢ひですかと野だが云ふ。赤シャツは馬鹿あ云つちやいけない、間違ひになると、船縁に身を倚たした奴を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたつて……と野だが振り返つた時、おれは皿のやうな眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやつた。野だはまぼしさうに引つ繰り返つて、や、こいつは降參だと首を縮めて、頭を掻いた。何といふ豬口才だらう。
船は靜かな海を岸へ漕ぎ戻る。君釣はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寢てゐて空を見る方がいゝですと答へて、吸ひかけた卷烟草を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪の足で掻き分けられた浪の上を搖られながら漾つていつた。「君が來たんで生徒も大いに喜んでゐるから、奮發してやつて呉れたまへ」と今度は釣にはまるで縁故もない事を云ひ出した。「あんまり喜んでもゐないでせう」「いえ、お世辭ぢやない。全く喜んでゐるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころぢやない。大騷ぎです」と野だはにやにやと笑つた。こいつの云ふ事は一々癪に障るから妙だ。「しかし君注意しないと、險呑ですよ」と赤シャツが云ふから「どうせ險呑です。かうなりや險呑は覺悟です」と云つてやつた。實際おれは免職になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どつちか一つにする了見でゐた。「さう云つちや、取りつきどころもないが──實は僕も教頭として君のためを思ふから云ふんだが、わるく取つちや困る」「教頭は全く君に好意を持つてるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸つ子だから、なるべく長くご在校を願つて、お互に力にならうと思つて、これでも蔭ながら盡力してゐるんですよ」と野だが人間並の事を云つた。野だのお世話になるくらゐなら首を縊つて死んじまはあ。
「それでね、生徒は君の來たのを大變歡迎してゐるんだが、そこにはいろいろな事情があつてね。君も腹の立つ事もあるだらうが、ここが我慢だと思つて、辛防して呉れたまへ。決して君のためにならないやうな事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入つてるんだが、まあだんだん分りますよ。僕が話さないでも自然と分つて來るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入つてますからね。一朝一夕にや到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分つて來るです」と野だは赤シャツと同じやうな事を云ふ。
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいゝんですが、あなたの方から話し出したから伺ふんです」
「そりやごもつともだ。こつちで口を切つて、あとをつけないのは無責任ですね。それぢやこれだけの事を云つておきませう。あなたは失禮ながら、まだ學校を卒業したてで、教師は始めての、經驗である。ところが學校といふものはなかなか情實のあるもので、さう書生流に淡泊には行かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はさう率直だから、まだ經驗に乏しいと云ふんですがね……」
「どうせ經驗には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思はぬ邊から乘ぜられる事があるんです」
「正直にしてゐれば誰が乘じたつて怖くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乘ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、氣を付けないといけないと云ふんです」
野だが大人しくなつたなと氣が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方で船頭と釣の話をしてゐる。野だが居ないんで餘つ程話しよくなつた。
「僕の前任者が、誰れに乘ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名譽に關係するから云へない。また判然と證據のない事だから云ふとこつちの落度になる。とにかく、せつかく君が來たもんだから、ここで失敗しちや僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか氣を付けて呉れたまへ」
「氣を付けろつたつて、これより氣の付けやうはありません。わるい事をしなけりや好いんでせう」
赤シャツはホホホホと笑つた。別段おれは笑はれるやうな事を云つた覺えはない。今日ただ今に至るまでこれでいゝと堅く信じてゐる。考へてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奬勵してゐるやうに思ふ。わるくならなければ社會に成功はしないものと信じてゐるらしい。たまに正直な純粹な人を見ると、坊つちやんだの小僧だのと難癖をつけて輕蔑する。それぢや小學校や中學校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教へない方がいゝ。いつそ思ひ切つて學校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乘せる策を教授する方が、世のためにも當人のためにもなるだらう。赤シャツがホホホホと笑つたのは、おれの單純なのを笑つたのだ。單純や眞率が笑はれる世の中ぢや仕樣がない。清はこんな時に決して笑つた事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツより餘つ程上等だ。
「無論惡るい事をしなければ好いんですが、自分だけ惡るい事をしなくつても、人の惡るいのが分らなくつちや、やつぱりひどい目に逢ふでせう。世の中には磊落なやうに見えても、淡泊なやうに見えても、親切に下宿の世話なんかして呉れても、めつたに油斷の出來ないのがありますから……。大分寒くなつた。もう秋ですね、濱の方は靄でセピヤ色になつた。いゝ景色だ。おい、吉川君どうだい、あの濱の景色は……」と大きな聲を出して野だを呼んだ。なあるほどこりや奇絶ですね。時間があると寫生するんだが、惜しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
港屋の二階に燈が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乘つてゐた舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなつた。お早うお歸りと、かみさんが、濱に立つて赤シャツに挨拶する。おれは船端から、やつと掛聲をして磯へ飛び下りた。 

 

野だは大嫌ひだ。こんな奴は澤庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。赤シャツは聲が氣に食はない。あれは持前の聲をわざと氣取つてあんな優しいやうに見せてるんだらう。いくら氣取つたつて、あの面ぢや駄目だ。惚れるものがあつたつてマドンナぐらゐなものだ。しかし教頭だけに野だよりむづかしい事を云ふ。うちへ歸つて、あいつの申し條を考へてみると一應もつとものやうでもある。はつきりとした事は云はないから、見當がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云ふのらしい。それならさうとはつきり斷言するがいゝ、男らしくもない。さうして、そんな惡るい教師なら、早く免職さしたらよからう。教頭なんて文學士の癖に意氣地のないもんだ。蔭口をきくのでさへ、公然と名前が云へないくらゐな男だから、弱蟲に極まつてる。弱蟲は親切なものだから、あの赤シャツも女のやうな親切ものなんだらう。親切は親切、聲は聲だから、聲が氣に入らないつて、親切を無にしちや筋が違ふ。それにしても世の中は不思議なものだ、蟲の好かない奴が親切で、氣のあつた友逹が惡漢だなんて、人を馬鹿にしてゐる。大方田舎だから萬事東京のさかに行くんだらう。物騷な所だ。今に火事が氷つて、石が豆腐になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたづらをしさうもないがな。一番人望のある教師だと云ふから、やらうと思つたら大抵の事は出來るかも知れないが、──第一そんな廻りくどい事をしないでも、じかにおれを捕まへて喧嘩を吹き懸けりや手數が省ける譯だ。おれが邪魔になるなら、實はこれこれだ、邪魔だから辭職して呉れと云や、よささうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向うの云ひ條がもつともなら、明日にでも辭職してやる。ここばかり米が出來る譯でもあるまい。どこの果へ行つたつて、のたれ死はしないつもりだ。山嵐も餘つ程話せない奴だな。
ここへ來た時第一番に氷水を奢つたのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢つてもらつちや、おれの顏に關はる。おれはたつた一杯しか飮まなかつたから一錢五厘しか拂はしちやない。しかし一錢だらうが五厘だらうが、詐欺師の恩になつては、死ぬまで心持ちがよくない。あした學校へ行つたら、一錢五厘返しておかう。おれは清から三圓借りてゐる。その三圓は五年經つた今日までまだ返さない。返せないんぢやない。返さないんだ。清は今に返すだらうなどと、かりそめにもおれの懷中をあてにしてはゐない。おれも今に返さうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こつちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるやうなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのぢやない、清をおれの片破れと思ふからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だらうが、甘茶だらうが、他人から惠を受けて、だまつてゐるのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に對する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で濟むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは錢金で買へる返禮ぢやない。無位無冠でも一人前の獨立した人間だ。獨立した人間が頭を下げるのは百萬兩より尊といお禮と思はなければならない。
おれはこれでも山嵐に一錢五厘奮發させて、百萬兩より尊とい返禮をした氣でゐる。山嵐は難有いと思つてしかるべきだ。それに裏へ廻つて卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。あした行つて一錢五厘返してしまへば借りも貸しもない。さうしておいて喧嘩をしてやらう。
おれはここまで考へたら、眠くなつたからぐうぐう寢てしまつた。あくる日は思ふ仔細があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て來ない。うらなりが出て來る。漢學の先生が出て來る。野だが出て來る。しまひには赤シャツまで出て來たが山嵐の机の上は白墨が一本豎に寢てゐるだけで閑靜なものだ。おれは、控所へ這入るや否や返さうと思つて、うちを出る時から、湯錢のやうに手の平へ入れて一錢五厘、學校まで握つて來た。おれは膏つ手だから、開けてみると一錢五厘が汗をかいてゐる。汗をかいてる錢を返しちや、山嵐が何とか云ふだらうと思つたから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握つた。ところへ赤シャツが來て昨日は失敬、迷惑でしたらうと云つたから、迷惑ぢやありません、お蔭で腹が減りましたと答へた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤臺面をおれの鼻の側面へ持つて來たから、何をするかと思つたら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、祕密にして呉れたまへ。まだ誰にも話しやしますまいねと云つた。女のやうな聲を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話さうと云ふ心持ちで、すでに一錢五厘手の平に用意してゐるくらゐだから、ここで赤シャツから口留めをされちや、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出來る謎をかけておきながら、今さらその謎を解いちや迷惑だとは教頭とも思へぬ無責任だ。元來ならはれが山嵐と戰爭をはじめて鎬を削つてる眞中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着てゐる主意も立つといふもんだ。
おれは教頭に向つて、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云つたら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法な事をしちや困る。僕は堀田君の事について、別段君に何も明言した覺えはないんだから──君がもしここで亂暴を働いて呉れると、僕は非常に迷惑する。君は學校に騷動を起すつもりで來たんぢやなからうと妙に常識をはづれた質問をするから、當り前です、月給をもらつたり、騷動を起したりしちや、學校の方でも困るでせうと云つた。すると赤シャツはそれぢや昨日の事は君の參考だけにとめて、口外して呉れるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしませうと受け合つた。君大丈夫かいと赤シャツは念を押した。どこまで女らしいんだか奧行がわからない。文學士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄の合はない、論理に缺けた注文をして恬然としてゐる。しかもこのおれを疑ぐつてる。憚りながら男だ。受け合つた事を裏へ廻つて反古にするやうなさもしい了見はもつてるもんか。
ところへ兩隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ歸つて行つた。赤シャツは歩るき方から氣取つてる。部屋の中を往來するのでも、音を立てないやうに靴の底をそつと落す。音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、この時から始めて知つた。泥棒の稽古ぢやあるまいし、當り前にするがいゝ。やがて始業の喇叭がなつた。山嵐はとうとう出て來ない。仕方がないから、一錢五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。
授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ歸つたら、ほかの教師はみんな机を控へて話をしてゐる。山嵐もいつの間にか來てゐる。缺勤だと思つたら遲刻したんだ。おれの顏を見るや否や今日は君のお蔭で遲刻したんだ。罰金を出したまへと云つた。おれは机の上にあつた一錢五厘を出して、これをやるから取つておけ。先逹て通町で飮んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云つてるんだと笑ひかけたが、おれが存外眞面目でゐるので、つまらない冗談をするなと錢をおれの机の上に掃き返した。おや山嵐の癖にどこまでも奢る氣だな。
「冗談ぢやない本當だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一錢五厘が氣になるなら取つてもいゝが、なぜ思ひ出したやうに、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷然とおれの顏を見てふんと云つた。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばゐて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合つたんだから動きがとれない。人がこんなに眞赤になつてるのにふんといふ理窟があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出て呉れ」
「一錢五厘受け取ればそれでいゝ。下宿を出やうが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が來て君に出てもらひたいと云ふから、その譯を聞いたら亭主の云ふのはもつともだ。それでももう一應たしかめるつもりで今朝あすこへ寄つて詳しい話を聞いてきたんだ」
おれには山嵐の云ふ事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知つてるもんか。さう自分だけで極めたつて仕樣があるか。譯があるなら、譯を話すが順だ。てんから亭主の云ふ方がもつともだなんて失敬千萬な事を云ふな」
「うん、そんなら云つてやらう。君は亂暴であの下宿で持て餘まされてゐるんだ。いくら下宿の女房だつて、下女たあ違ふぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うぢや、君に困つてるんだ。下宿料の十圓や十五圓は懸物を一幅賣りや、すぐ浮いてくるつて云つてたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになつたんだから、出ろと云ふんだらう。君出てやれ」
「當り前だ。居て呉れと手を合せたつて、居るものか。一體そんな云ひ懸りを云ふやうな所へ周旋する君からしてが不埒だ」
「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どつちかだらう」
山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌ひな大きな聲を出す。控所に居た連中は何事が始まつたかと思つて、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりしてゐる。おれは、別に恥づかしい事をした覺えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやつた。みんなが驚ろいてるなかに野だだけは面白さうに笑つてゐた。おれの大きな眼が、貴樣も喧嘩をするつもりかと云ふ權幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然眞面目な顏をして、大いにつつしんだ。少し怖わかつたと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
午後は、先夜おれに對して無禮を働いた寄宿生の處分法についての會議だ。會議といふものは生れて始めてだからとんと容子が分らないが、職員が寄つて、たかつて自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纒めるのだらう。纒めるといふのは黒白の決しかねる事柄について云ふべき言葉だ。この場合のやうな、誰が見たつて、不都合としか思はれない事件に會議をするのは暇潰しだ。誰が何と解釋したつて異説の出やうはずがない。こんな明白なのは即座に校長が處分してしまへばいゝに。隨分決斷のない事だ。校長つてものが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚圖の異名だ。
會議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張つた椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周圍に並んで一寸神田の西洋料理屋ぐらゐな格だ。そのテーブルの端に校長が坐つて、校長の隣りに赤シャツが構へる。あとは勝手次第に席に着くんださうだが、體操の教師だけはいつも席末に謙遜するといふ話だ。おれは樣子が分らないから、博物の教師と漢學の教師の間へはいり込んだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顏はどう考へても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遙かに趣がある。おやじの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかかつてた懸物はこの顏によく似てゐる。坊主に聞いてみたら韋駄天と云ふ怪物ださうだ。今日は怒つてるから、眼をぐるぐる廻しちや、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇かされてたまるもんかと、おれも負けない氣で、やつぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやつた。おれの眼は恰好はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときつと似合ひますと清がよく云つたくらゐだ。
もう大抵お揃ひでせうかと校長が云ふと、書記の川村と云ふのが一つ二つと頭數を勘定してみる。一人足りない。一人不足ですがと考へてゐたが、これは足りないはずだ。唐茄子のうらなり君が來てゐない。おれとうらなり君とはどう云ふ宿世の因縁かしらないが、この人の顏を見て以來どうしても忘れられない。控所へ呉れば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中をあるいてゐても、うらなり先生の樣子が心に浮ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顏をして湯壺のなかに膨れてゐる。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから氣の毒になる。學校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めつたに笑つた事もないが、餘計な口をきいた事もない。おれは君子といふ言葉を書物の上で知つてるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思つてたが、うらなり君に逢つてから始めて、やつぱり正體のある文字だと感心したくらゐだ。
このくらゐ關係の深い人の事だから、會議室へ這入るや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ氣がついた。實を云ふと、この男の次へでも坐わらうかと、ひそかに目標にして來たくらゐだ。校長はもうやがて見えるでせうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版のやうな者を讀んでゐる。赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。この男はこれが道樂である。赤シャツ相當のところだらう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語き合つてゐる。手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いてゐる、護謨の頭でテーブルの上へしきりに何か書いてゐる。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向應じない。ただうんとかああと云ふばかりで、時々怖い眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨め返す。
ところへ待ちかねた、うらなり君が氣の毒さうに這入つて來て少々用事がありまして、遲刻致しましたと慇懃に貍に挨拶をした。では會議を開きますと貍はまづ書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が處分の件、次が生徒取締の件、その他二三ヶ條である。貍は例の通りもつたいぶつて、教育の生靈といふ見えでこんな意味の事を述べた。「學校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪へんが、不幸にして今囘もまたかかる騷動を引き起したのは、深く諸君に向つて謝罪しなければならん。しかしひとたび起つた以上は仕方がない、どうにか處分をせんければならん、事實はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹藏のない事を參考のためにお述べ下さい」
おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの貍だのと云ふものは、えらい事を云ふもんだと感心した。かう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云ふくらゐなら、生徒を處分するのは、やめにして、自分から先へ免職になつたら、よささうなもんだ。さうすればこんな面倒な會議なんぞを開く必要もなくなる譯だ。第一常識から云つても分つてる。おれが大人しく宿直をする。生徒が亂暴をする。わるいのは校長でもなけりや、おれでもない、生徒だけに極つてる。もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治ればそれでたくさんだ。人の尻を自分で背負ひ込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの國にあるもんか、貍でなくつちや出來る藝當ぢやない。彼はこんな條理に適はない議論を吐いて、得意氣に一同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまつてるのを眺めてゐる。漢學の先生は蒟蒻版を疉んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顏をにらめてゐる。會議と云ふものが、こんな馬鹿氣たものなら、缺席して晝寢でもしてゐる方がましだ。
おれは、じれつたくなつたから、一番大いに辯じてやらうと思つて、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云ひ出したから、やめにした。見るとパイプをしまつて、縞のある絹ハンケチで顏をふきながら、何か云つてゐる。あの手巾はきつとマドンナから卷き上げたに相違ない。男は白い麻を使ふもんだ。「私も寄宿生の亂暴を聞いてはなはだ教頭として不行屆であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかつたのを深く慚ずるのであります。でかう云ふ事は、何か陷缺があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいやうであるが、その眞相を極めると責任はかへつて學校にあるかも知れない。だから表面上にあらはれたところだけで嚴重な制裁を加へるのは、かへつて未來のためによくないかとも思はれます。かつ少年血氣のものであるから活氣があふれて、善惡の考へはなく、半ば無意識にこんな惡戲をやる事はないとも限らん。でもとより處分法は校長のお考へにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその邊をご斟酌になつて、なるべく寛大なお取計を願ひたいと思ひます」
なるほど貍が貍なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんぢやない教師が惡るいんだと公言してゐる。氣狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、氣狂がなぐるんださうだ。難有い仕合せだ。活氣にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいゝ、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この樣子ぢや寢頸をかかれても、半ば無意識だつて放免するつもりだらう。
おれはかう考へて何か云はうかなと考へてみたが、云ふなら人を驚ろかすやうに滔々と述べたてなくつちやつまらない、おれの癖として、腹が立つたときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞つてしまふ。貍でも赤シャツでも人物から云ふと、おれよりも下等だが、辯舌はなかなか逹者だから、まづい事を喋舌つて揚足を取られちや面白くない。一寸腹案を作つてみやうと、胸のなかで文章を作つてる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意氣だ。野だは例のへらへら調で「實に今囘のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校將來の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの際奮つて自ら省りみて、全校の風紀を振肅しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになつたお説は、實に肯綮に中つた剴切なお考へで私は徹頭徹尾贊成致します。どうかなるべく寛大のご處分を仰ぎたいと思ひます」と云つた。野だの云ふ事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで譯が分らない。分つたのは徹頭徹尾贊成致しますと云ふ言葉だけだ。
おれは野だの云ふ意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立つたから、腹案も出來ないうちに起ち上がつてしまつた。「私は徹頭徹尾反對です……」と云つたがあとが急に出て來ない。「……そんな頓珍漢な、處分は大嫌ひです」とつけたら、職員が一同笑ひ出した。「一體生徒が全然惡るいです。どうしても詫まらせなくつちや、癖になります。退校さしても構ひません。……何だ失敬な、新しく來た教師だと思つて……」と云つて着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり嚴重な罰などをするとかへつて反動を起していけないでせう。やつぱり教頭のおつしやる通り、寛な方に贊成します」と弱い事を云つた。左隣の漢學は穩便説に贊成と云つた。歴史も教頭と同説だと云つた。忌々しい、大抵のものは赤シャツ黨だ。こんな連中が寄り合つて學校を立てていりや世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辭職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ歸つて荷作りをする覺悟でゐた。どうせ、こんな手合を弁口で屈伏させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願ふのは、こつちでご免だ。學校に居ないとすればどうなつたつて構ふもんか。また何か云ふと笑ふに違ひない。だれが云ふもんかと澄してゐた。
すると今までだまつて聞いてゐた山嵐が奮然として、起ち上がつた。野郎また赤シャツ贊成の意を表するな、どうせ、貴樣とは喧嘩だ、勝手にしろと見てゐると山嵐は硝子窓を振わせるやうな聲で「私は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。といふものはこの事件はどの點から見ても、五十名の寄宿生が新來の教師某氏を輕侮してこれを飜弄しようとした所爲とより外には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるやうでありますが失禮ながらそれは失言かと思ひます。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に滿たぬ頃であります。この短かい二十日間において生徒は君の學問人物を評價し得る餘地がないのであります。輕侮されべき至當な理由があつて、輕侮を受けたのなら生徒の行爲に斟酌を加へる理由もありませうが、何らの源因もないのに新來の先生を愚弄するやうな輕薄な生徒を寛假しては學校の威信に關はる事と思ひます。教育の精神は單に學問を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な元氣を鼓吹すると同時に、野鄙な、輕躁な、暴慢な惡風を掃蕩するにあると思ひます。もし反動が恐しいの、騷動が大きくなるのと姑息な事を云つた日にはこの弊風はいつ矯正出來るか知れません。かかる弊風を杜絶するためにこそ吾々はこの學校に職を奉じてゐるので、これを見逃がすくらゐなら始めから教師にならん方がいゝと思ひます。私は以上の理由で寄宿生一同を嚴罰に處する上に、當該教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至當の所置と心得ます」と云ひながら、どんと腰を卸した。一同はだまつて何にも言はない。赤シャツはまたパイプを拭き始めた。おれは何だか非常に嬉しかつた。おれの云はうと思ふところをおれの代りに山嵐がすつかり言つて呉れたやうなものだ。おれはかう云ふ單純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有いと云ふ顏をもつて、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面をしてゐる。
しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今一寸失念して言ひ落しましたから、申します。當夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたやうであるが、あれはもつての外の事と考へます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎める者のないのを幸に、場所もあらうに温泉などへ入湯にいくなどと云ふのは大きな失體である。生徒は生徒として、この點については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
妙な奴だ、ほめたと思つたら、あとからすぐ人の失策をあばゐてゐる。おれは何の氣もなく、前の宿直が出あるいた事を知つて、そんな習慣だと思つて、つい温泉まで行つてしまつたんだが、なるほどさう云はれてみると、これはおれが惡るかつた。攻撃されても仕方がない。そこでおれはまた起つて「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云つて着席したら、一同がまた笑ひ出した。おれが何か云ひさへすれば笑ふ。つまらん奴等だ。貴樣等是程自分のわるい事を公けにわるかつたと斷言出來るか、出來ないから笑ふんだらう。
それから校長は、もう大抵ご意見もないやうでありますから、よく考へた上で處分しませうと云つた。ついでだからその結果を云ふと、寄宿生は一週間の禁足になつた上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辭職して歸るところだつたがなまじい、おれのいふ通りになつたのでとうとう大變な事になつてしまつた。それはあとから話すが、校長はこの時會議の引き續きだと號してこんな事を云つた。生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飮食店などに出入しない事にしたい。もつとも送別會などの節は特別であるが、單獨にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい──たとへば蕎麥屋だの、團子屋だの──と云ひかけたらまた一同が笑つた。野だが山嵐を見て天麩羅と云つて目くばせをしたが山嵐は取り合はなかつた。いゝ氣味だ。
おれは腦がわるいから、貍の云ふことなんか、よく分らないが、蕎麥屋や團子屋へ行つて、中學の教師が勤まらなくつちや、おれみたやうな食ひ心棒にや到底出來つ子ないと思つた。それなら、それでいゝから、初手から蕎麥と團子の嫌ひなものと注文して雇ふがいゝ。だんまりで辭令を下げておいて、蕎麥を食ふな、團子を食ふなと罪なお布令を出すのは、おれのやうな外に道樂のないものにとつては大變な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元來中學の教師なぞは社會の上流にくらゐするものだからして、單に物質的の快樂ばかり求めるべきものでない。その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼすやうになる。しかし人間だから、何か娯樂がないと、田舎へ來て狹い土地では到底暮せるものではない。それで釣に行くとか、文學書を讀むとか、または新體詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯樂を求めなくつてはいけない……」
だまつて聞いてると勝手な熱を吹く。沖へ行つて肥料を釣つたり、ゴルキが露西亞の文學者だつたり、馴染の藝者が松の木の下に立つたり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯樂なら、天麩羅を食つて團子を呑み込むのも精神的娯樂だ。そんな下さらない娯樂を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいゝ。あんまり腹が立つたから「マドンナに逢ふのも精神的娯樂ですか」と聞いてやつた。すると今度は誰も笑はない。妙な顏をして互に眼と眼を見合せてゐる。赤シャツ自身は苦しさうに下を向いた。それ見ろ。利いたらう。ただ氣の毒だつたのはうらなり君で、おれが、かう云つたら蒼い顏をますます蒼くした。 

 

おれは即夜下宿を引き拂つた。宿へ歸つて荷物をまとめてゐると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云つてお呉れたら改めますと云ふ。どうも驚ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃つてるんだらう。出てもらひたいんだか、居てもらひたいんだか分りやしない。まるで氣狂だ。こんな者を相手に喧嘩をしたつて江戸つ子の名折れだから、車屋をつれて來てさつさと出てきた。
出た事は出たが、どこへ行くといふあてもない。車屋が、どちらへ參りますと云ふから、だまつて尾いて來い、今にわかる、と云つて、すたすたやつて來た。面倒だから山城屋へ行かうかとも考へたが、また出なければならないから、つまり手數だ。かうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだらう。さうしたら、そこが天意に叶つたわが宿と云ふ事にしよう。とぐるぐる、閑靜で住みよささうな所をあるいてゐるうち、とうとう鍛冶屋町へ出てしまつた。ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もつと賑やかな方へ引き返さうかとも思つたが、ふといゝ事を考へ付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでゐる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控へてゐるくらゐだから、この邊の事情には通じてゐるに相違ない。あの人を尋ねて聞いたら、よささうな下宿を教へて呉れるかも知れない。幸一度挨拶に來て勝手は知つてるから、搜がしてあるく面倒はない。ここだらうと、いゝ加減に見當をつけて、ご免ご免と二返ばかり云ふと、奧から五十ぐらゐな年寄が古風な紙燭をつけて、出て來た。おれは若い女も嫌ひではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清がすきだから、その魂が方々のお婆さんに乘り移るんだらう。これは大方うらなり君のおつ母さんだらう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似てゐる。まあお上がりと云ふところを、一寸お目にかかりたいからと、主人を玄關まで呼び出して實はこれこれだが君どこか心當りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございませう、としばらく考へてゐたが、この裏町に荻野と云つて老人夫婦ぎりで暮らしてゐるものがある、いつぞや座敷を明けておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいゝから周旋して呉れと頼んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいつしよに行つて聞いてみませうと、親切に連れて行つて呉れた。
その夜から荻野の家の下宿人となつた。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き拂ふと、翌日から入れ違ひに野だが平氣な顏をして、おれの居た部屋を占領した事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互に乘せつこをしてゐるのかも知れない。いやになつた。
世間がこんなものなら、おれも負けない氣で、世間並にしなくちや、遣りきれない譯になる。巾着切の上前をはねなければ三度のご膳が戴けないと、事が極まればかうして、生きてるのも考へ物だ。と云つてぴんぴんした逹者なからだで、首を縊つちや先祖へ濟まない上に、外聞が惡い。考へると物理學校などへ這入つて、數學なんて役にも立たない藝を覺えるよりも、六百圓を資本にして牛乳屋でも始めればよかつた。さうすれば清もおれの傍を離れずに濟むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しづに暮される。いつしよに居るうちは、さうでもなかつたが、かうして田舎へ來てみると清はやつぱり善人だ。あんな氣立のいゝ女は日本中さがして歩いたつてめつたにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いてゐたが今頃はどうしてるか知らん。先だつての手紙を見たらさぞ喜んだらう。それにしても、もう返事がきさうなものだが──おれはこんな事ばかり考へて二三日暮してゐた。
氣になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は來ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたんびに何にも參りませんと氣の毒さうな顏をする。ここの夫婦はいか銀とは違つて、もとが士族だけに雙方共上品だ。爺さんが夜るになると、變な聲を出して謠をうたふには閉口するが、いか銀のやうにお茶を入れませうと無暗に出て來ないから大きに樂だ。お婆さんは時々部屋へ來ていろいろな話をする。どうして奧さんをお連れなさつて、いつしよにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。奧さんがあるやうに見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと云つたらそれでも、あなた二十四で奧さんがおありなさるのは當り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰ひたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり擧げて反駁を試みたには恐れ入つた。それぢや僕も二十四でお嫁をお貰ひるけれ、世話をしてお呉れんかなと田舎言葉を眞似て頼んでみたら、お婆さん正直に本當かなもしと聞いた。
「本當の本當のつて僕あ、嫁が貰ひたくつて仕方がないんだ」
「さうぢやらうがな、もし。若いうちは誰もそんなものぢやけれ」この挨拶には痛み入つて返事が出來なかつた。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極つとらい。私はちやんと、もう、睨らんどるぞなもし」
「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦がれておいでるぢやないかなもし」
「こいつあ驚いた。大變な活眼だ」
「中りましたらうがな、もし」
「さうですね。中つたかも知れませんよ」
「しかし今時の女子は、昔と違ふて油斷が出來んけれ、お氣をお付けたがへえぞなもし」
「何ですかい、僕の奧さんが東京で間男でもこしらへてゐますかい」
「いゝえ、あなたの奧さんはたしかぢやけれど……」
「それで、やつと安心した。それぢや何を氣を付けるんですい」
「あなたのはたしか──あなたのはたしかぢやが──」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここ等にも大分居ります。先生、あの遠山のお孃さんをご存知かなもし」
「いゝえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし。あまり別嬪さんぢやけれ、學校の先生方はみんなマドンナマドンナと言ふといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ藝者の名かと思つた」
「いゝえ、あなた。マドンナと云ふと唐人の言葉で、別嬪さんの事ぢやらうがなもし」
「さうかも知れないね。驚いた」
「大方画學の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いゝえ、あの吉川先生がお付けたのぢやがなもし」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
「厄介だね。渾名の付いてる女にや昔から碌なものは居ませんからね。さうかも知れませんよ」
「ほん當にさうぢやなもし。鬼神のお松ぢやの、妲妃のお百ぢやのてて怖い女が居りましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしてお呉れた古賀先生なもし──あの方の所へお嫁に行く約束が出來てゐたのぢやがなもし──」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艷福のある男とは思はなかつた。人は見懸けによらない者だな。ちつと氣を付けやう」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、──それまではお金もあるし、銀行の株も持つてお出るし、萬事都合がよかつたのぢやが──それからといふものは、どういふものか急に暮し向きが思はしくなくなつて──つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺されたんぞなもし。それや、これやでお輿入も延びてゐるところへ、あの教頭さんがお出でて、是非お嫁にほしいとお云ひるのぢやがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツぢやないと思つてた。それから?」
「人を頼んで懸合ふておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出來かねて──まあやう考へてみやうぐらゐの挨拶をおしたのぢやがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるやうになつて、とうとうあなた、お孃さんを手馴付けておしまひたのぢやがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんぢやが、お孃さんもお孃さんぢやてて、みんなが惡るく云ひますのよ。いつたん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら學士さんがお出たけれ、その方に替へよてて、それぢや今日樣へ濟むまいがなもし、あなた」
「全く濟まないね。今日樣どころか明日樣にも明後日樣にも、いつまで行つたつて濟みつこありませんね」
「それで古賀さんにお氣の毒ぢやてて、お友逹の堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰ふかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしてゐるばかりぢや、遠山家と交際をするには別段古賀さんに濟まん事もなからうとお云ひるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻りたさうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以來折合がわるいといふ評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知つてますね。どうして、そんな詳しい事が分るんですか。感心しちまつた」
「狹いけれ何でも分りますぞなもし」
分り過ぎて困るくらゐだ。この容子ぢやおれの天麩羅や團子の事も知つてるかも知れない。厄介な所だ。しかしお蔭樣でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの關係もわかるし大いに後學になつた。ただ困るのはどつちが惡る者だか判然しない。おれのやうな單純なものには白とか黒とか片づけてもらはないと、どつちへ味方をしていゝか分らない。
「赤シャツと山嵐たあ、どつちがいゝ人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐といふのは堀田の事ですよ」
「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぢやけれど、しかし赤シャツさんは學士さんぢやけれ、働きはある方ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がへえといふぞなもし」
「つまりどつちがいゝんですかね」
「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」
これぢや聞いたつて仕方がないから、やめにした。それから二三日して學校から歸るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やつと參りました。と一本の手紙を持つて來てゆつくりご覽と云つて出て行つた。取り上げてみると清からの便りだ。符箋が二三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ廻して、いか銀から、荻野へ廻つて來たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留してゐる。宿屋だけに手紙まで泊るつもりなんだらう。開いてみると、非常に長いもんだ。坊つちやんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかかうと思つたが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寢てゐたものだから、つい遲くなつて濟まない。その上今時のお孃さんのやうに讀み書きが逹者でないものだから、こんなまづい字でも、かくのに餘つ程骨が折れる。甥に代筆を頼まうと思つたが、せつかくあげるのに自分でかかなくつちや、坊つちやんに濟まないと思つて、わざわざ下たがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で濟んだが、下た書きをするには四日かかつた。讀みにくいかも知れないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまひまで讀んで呉れ。といふ冒頭で四尺ばかり何やらかやら認めてある。なるほど讀みにくい。字がまづゐばかりではない、大抵平假名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句讀をつけるのに餘つ程骨が折れる。おれは焦つ勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五圓やるから讀んで呉れと頼まれても斷わるのだが、この時ばかりは眞面目になつて、始から終まで讀み通した。讀み通した事は事實だが、讀む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から讀み直してみた。部屋のなかは少し暗くなつて、前の時より見にくく、なつたから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながら鄭寧に拜見した。すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた歸りに、讀みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまひぎはには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴つて、手を放すと、向うの生垣まで飛んで行きさうだ。おれはそんな事には構つていられない。坊つちやんは竹を割つたやうな氣性だが、ただ肝癪が強過ぎてそれが心配になる。──ほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使つちやいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。──田舎者は人がわるいさうだから、氣をつけてひどい目に遭はないやうにしろ。──氣候だつて東京より不順に極つてるから、寢冷をして風邪を引いてはいけない。坊つちやんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらゐの長さのを書いて呉れ。──宿屋へ茶代を五圓やるのはいゝが、あとで困りやしないか、田舎へ行つて頼りになるはお金ばかりだから、なるべく儉約して、萬一の時に差支へないやうにしなくつちやいけない。──お小遣がなくて困るかも知れないから、爲替で十圓あげる。──先だつて坊つちやんからもらつた五十圓を、坊つちやんが、東京へ歸つて、うちを持つ時の足しにと思つて、郵便局へ預けておいたが、この十圓を引いてもまだ四十圓あるから大丈夫だ。──なるほど女と云ふものは細かいものだ。
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考へ込んでゐると、しきりの襖をあけて、荻野のお婆さんが晩めしを持つてきた。まだ見てお出でるのかなもし。えつぽど長いお手紙ぢやなもし、と云つたから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。ここのうちは、いか銀よりも鄭寧で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食ひ物がまづい。昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、かう立てつづけに芋を食はされては命がつづかない。うらなり君を笑ふどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になつちまう。清ならこんな時に、おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ燒を食はせるんだが、貧乏士族のけちん坊と來ちや仕方がない。どう考へても清といつしよでなくつちあ駄目だ。もしあの學校に長くでも居る模樣なら、東京から召び寄せてやらう。天麩羅蕎麥を食つちやならない、團子を食つちやならない、それで下宿に居て芋ばかり食つて黄色くなつていろなんて、教育者はつらいものだ。禪宗坊主だつて、これよりは口に榮燿をさせてゐるだらう。──おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗から生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割つて、漸く凌いだ。生卵ででも營養をとらなくつちあ一週二十一時間の授業が出來るものか。
今日は清の手紙で湯に行く時間が遲くなつた。しかし毎日行きつけたのを一日でも缺かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乘つて出懸けやうと、例の赤手拭をぶら下げて停車場まで來ると二三分前に發車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かしてゐると、偶然にもうらなり君がやつて來た。おれはさつきの話を聞いてから、うらなり君がなほさら氣の毒になつた。平常から天地の間に居候をしてゐるやうに、小さく構へてゐるのがいかにも憐れに見えたが、今夜は憐れどころの騷ぎではない。出來るならば月給を倍にして、遠山のお孃さんと明日から結婚さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやつてやりたい氣がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こつちへお懸けなさいと威勢よく席を讓ると、うらなり君は恐れ入つた體裁で、いえ構ふてお呉れなさるな、と遠慮だか何だかやつぱり立つてる。少し待たなくつちや出ません、草臥れますからお懸けなさいとまた勸めてみた。實はどうかして、そばへ懸けてもらひたかつたくらゐに氣の毒でたまらない。それではお邪魔を致しませうと漸くおれの云ふ事を聞いて呉れた。世の中には野だみたやうに生意氣な、出ないで濟む所へ必ず顏を出す奴もゐる。山嵐のやうにおれが居なくつちや日本が困るだらうと云ふやうな面を肩の上へ載せてる奴もゐる。さうかと思ふと、赤シャツのやうにコスメチックと色男の問屋をもつて自ら任じてゐるのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云はぬばかりの貍もゐる。皆々それ相應に威張つてるんだが、このうらなり先生のやうに在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のやうに大人しくしてゐるのは見た事がない。顏はふくれてゐるが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡くなんて、マドンナもよつぼど氣の知れないおきやんだ。赤シャツが何ダース寄つたつて、是程立派な旦那樣が出來るもんか。
「あなたはどつか惡いんぢやありませんか。大分たいぎさうに見えますが……」「いえ、別段これといふ持病もないですが……」
「そりや結構です。からだが惡いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫のやうですな」
「ええ瘠せても病氣はしません。病氣なんてものあ大嫌ひですから」
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑つた。
ところへ入口で若々しい女の笑聲が聞えたから、何心なく振り返つてみるとえらい奴が來た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奧さんとが並んで切符を賣る窓の前に立つてゐる。おれは美人の形容などが出來る男でないから何にも云へないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握つてみたやうな心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顏はよく似てゐるから親子だらう。おれは、や、來たなと思ふ途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見てゐた。すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がつて、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナぢやないかと思つた。三人は切符所の前で輕く挨拶してゐる。遠いから何を云つてるのか分らない。
停車場の時計を見るともう五分で發車だ。早く汽車が呉ればいゝがなと、話し相手が居なくなつたので待ち遠しく思つてゐると、また一人あはてて場内へ馳け込んで來たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬の帶をだらしなく卷き付けて、例の通り金鎖りをぶらつかしてゐる。あの金鎖りは贋物である。赤シャツは誰も知るまいと思つて、見せびらかしてゐるが、おれはちやんと知つてる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきよろきよろしてゐたが、切符賣下所の前に話してゐる三人へ慇懃にお辭儀をして、何か二こと、三こと、云つたと思つたら、急にこつちへ向いて、例のごとく猫足にあるいて來て、や君も湯ですか、僕は乘り後れやしなひかと思つて心配して急いで來たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがつてると云ひながら、おれの傍へ腰を卸した。女の方はちつとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めてゐる。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違ひない。
やがて、ピューと汽笛が鳴つて、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乘り込む。赤シャツはいの一號に上等へ飛び込んだ。上等へ乘つたつて威張れるどころではない、住田まで上等が五錢で下等が三錢だから、わづか二錢違ひで上下の區別がつく。かういふおれでさへ上等を奮發して白切符を握つてるんでもわかる。もつとも田舎者はけちだから、たつた二錢の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵は下等へ乘る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押したやうに下等ばかりへ乘る男だ。先生、下等の車室の入口へ立つて、何だか躊躇の體であつたが、おれの顏を見るや否や思ひきつて、飛び込んでしまつた。おれはこの時何となく氣の毒でたまらなかつたから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乘り込んだ。上等の切符で下等へ乘るに不都合はなからう。
温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に逢つた。おれは會議や何かでいざと極まると、咽喉が塞がつて饒舌れない男だが、平常は隨分辯ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくつてたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰めてやるのは、江戸つ子の義務だと思つてる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこつちの調子に乘つて呉れない。何を云つても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒らしいので、しまひにはとうとう切り上げて、こつちからご免蒙つた。
湯の中では赤シャツに逢はなかつた。もつとも風呂の數はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢ふとは極まつてゐない。別段不思議にも思はなかつた。風呂を出てみるといゝ月だ。町内の兩側に柳が植つて、柳の枝が丸るい影を往來の中へ落してゐる。少し散歩でもしよう。北へ登つて町のはづれへ出ると、左に大きな門があつて、門の突き當りがお寺で、左右が妓樓である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。一寸這入つてみたいが、また貍から會議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが團子を食つて、しくじつた所だ。丸提燈に汁粉、お雜煮とかいたのがぶらさがつて、提燈の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしてゐる。食ひたいなと思つたが我慢して通り過ぎた。
食ひたい團子の食へないのは情ない。しかし自分の許嫁が他人に心を移したのは、猶情ないだらう。うらなり君の事を思ふと、團子は愚か、三日ぐらゐ斷食しても不平はこぼせない譯だ。本當に人間ほどあてにならないものはない。あの顏を見ると、どうしたつて、そんな不人情な事をしさうには思へないんだが──うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのやうな古賀さんが善良な君子なのだから、油斷が出來ない。淡泊だと思つた山嵐は生徒を煽動したと云ふし。生徒を煽動したのかと思ふと、生徒の處分を校長に逼るし。厭味で練りかためたやうな赤シャツが存外親切で、おれに餘所ながら注意をして呉れるかと思ふと、マドンナを胡魔化したり、胡魔化したのかと思ふと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云ふし。いか銀が難癖をつけて、おれを追ひ出すかと思ふと、すぐ野だ公が入れ替つたり──どう考へてもあてにならない。こんな事を清にかいてやつたら定めて驚く事だらう。箱根の向うだから化物が寄り合つてるんだと云ふかも知れない。
おれは、性來構はない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで來たのだが、ここへ來てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騷に思ひ出した。別段際だつた大事件にも出逢はないのに、もう五つ六つ年を取つたやうな氣がする。早く切り上げて東京へ歸るのが一番よからう。などとそれからそれへ考へて、いつか石橋を渡つて野芹川の堤へ出た。川と云ふとえらさうだが實は一間ぐらゐな、ちよろちよろした流れで、土手に沿ふて十二丁ほど下ると相生村へ出る。村には觀音樣がある。
温泉の町を振り返ると、赤い燈が、月の光の中にかがやいてゐる。太鼓が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは淺いけれども早いから、神經質の水のやうにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も來たと思つたら、向うに人影が見え出した。月に透かしてみると影は二つある。温泉へ來て村へ歸る若い衆かも知れない。それにしては唄もうたはない。存外靜かだ。
だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらゐの距離に逼つた時、男がたちまち振り向いた。月は後からさしてゐる。その時おれは男の樣子を見て、はてなと思つた。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考へがあるから、急に全速力で追つ懸けた。先方は何の氣もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移してゐる。今は話し聲も手に取るやうに聞える。土手の幅は六尺ぐらゐだから、並んで行けば三人が漸くだ。おれは苦もなく後ろから追ひ付いて、男の袖を擦り拔けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顏を覗き込んだ。月は正面からおれの五分刈の頭から顋の邊りまで、會釋もなく照す。男はあつと小聲に云つたが、急に横を向いて、もう歸らうと女を促がすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
赤シャツは圖太くて胡魔化すつもりか、氣が弱くて名乘り損なつたのかしら。ところが狹くて困つてるのは、おればかりではなかつた。 

 

赤シャツに勸められて釣に行つた歸りから、山嵐を疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云はれた時は、いよいよ不埒な奴だと思つた。ところが會議の席では案に相違して滔々と生徒嚴罰論を述べたから、おや變だなと首を捩つた。荻野の婆さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍つた。この樣子ではわる者は山嵐ぢやあるまい、赤シャツの方が曲つてるんで、好加減な邪推を實しやかに、しかも遠廻しに、おれの頭の中へ浸み込ましたのではあるまいかと迷つてる矢先へ、野芹川の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしてゐる姿を見たから、それ以來赤シャツは曲者だと極めてしまつた。曲者だか何だかよくは分らないが、ともかくも善い男ぢやない。表と裏とは違つた男だ。人間は竹のやうに眞直でなくつちや頼もしくない。眞直なものは喧嘩をしても心持ちがいゝ。赤シャツのやうなやさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプとを自慢さうに見せびらかすのは油斷が出來ない、めつたに喧嘩も出來ないと思つた。喧嘩をしても、囘向院の相撲のやうな心持ちのいゝ喧嘩は出來ないと思つた。さうなると一錢五厘の出入で控所全體を驚ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。會議の時に金壺眼をぐりつかせて、おれを睨めた時は憎い奴だと思つたが、あとで考へると、それも赤シャツのねちねちした猫撫聲よりはましだ。實はあの會議が濟んだあとで、餘つ程仲直りをしようかと思つて、一こと二こと話しかけてみたが、野郎返事もしないで、まだ眼を剥つてみせたから、こつちも腹が立つてそのままにしておいた。
それ以來山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一錢五厘はいまだに机の上に乘つてゐる。ほこりだらけになつて乘つてゐる。おれは無論手が出せない、山嵐は決して持つて歸らない。この一錢五厘が二人の間の墻壁になつて、おれは話さうと思つても話せない、山嵐は頑として默つてる。おれと山嵐には一錢五厘が祟つた。しまひには學校へ出て一錢五厘を見るのが苦になつた。
山嵐とおれが絶交の姿となつたに引き易えて、赤シャツとおれは依然として在來の關係を保つて、交際をつづけてゐる。野芹川で逢つた翌日などは、學校へ出ると第一番におれの傍へ來て、君今度の下宿はいゝですかのまたいつしよに露西亞文學を釣りに行かうぢやないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々憎らしかつたから、昨夜は二返逢ひましたねと云つたら、ええ停車場で──君はいつでもあの時分出掛けるのですか、遲いぢやないかと云ふ。野芹川の土手でもお目に懸りましたねと喰らはしてやつたら、いゝえ僕はあつちへは行かない、湯に這入つて、すぐ歸つたと答へた。何もそんなに隱さないでもよからう、現に逢つてるんだ。よく嘘をつく男だ。これで中學の教頭が勤まるなら、おれなんか大學總長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなつた。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心してゐる山嵐とは話をしない。世の中は隨分妙なものだ。
ある日の事赤シャツが一寸君に話があるから、僕のうちまで來て呉れと云ふから、惜しいと思つたが温泉行きを缺勤して四時頃出掛けて行つた。赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔に引き拂つて立派な玄關を構へてゐる。家賃は九圓五拾錢ださうだ。田舎へ來て九圓五拾錢拂へばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮發して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやらうと思つたくらゐな玄關だ。頼むと云つたら、赤シャツの弟が取次に出て來た。この弟は學校で、おれに代數と算術を教はる至つて出來のわるい子だ。その癖渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が惡るい。
赤シャツに逢つて用事を聞いてみると、大將例の琥珀のパイプで、きな臭ひ烟草をふかしながら、こんな事を云つた。「君が來て呉れてから、前任者の時代よりも成績がよくあがつて、校長も大いにいゝ人を得たと喜んでゐるので──どうか學校でも信頼してゐるのだから、そのつもりで勉強してゐただきたい」
「へえ、さうですか、勉強つて今より勉強は出來ませんが──」
「今のくらゐで充分です。ただ先だつてお話しした事ですね、あれを忘れずにゐて下さればいゝのです」
「下宿の世話なんかするものあ劍呑だといふ事ですか」
「さう露骨に云ふと、意味もない事になるが──まあ善いさ──精神は君にもよく通じてゐる事と思ふから。そこで君が今のやうに出精して下されば、學校の方でも、ちやんと見てゐるんだから、もう少しして都合さへつけば、待遇の事も多少はどうにかなるだらうと思ふんですがね」
「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいゝんですが、上がれば上がつた方がいゝですね」
「それで幸ひ今度轉任者が一人出來るから──もつとも校長に相談してみないと無論受け合へない事だが──その俸給から少しは融通が出來るかも知れないから、それで都合をつけるやうに校長に話してみやうと思ふんですがね」
「どうも難有う。だれが轉任するんですか」
「もう發表になるから話しても差し支へないでせう。實は古賀君です」
「古賀さんは、だつてここの人ぢやありませんか」
「ここの地の人ですが、少し都合があつて──半分は當人の希望です」
「どこへ行くんです」
「日向の延岡で──土地が土地だから一級俸上つて行く事になりました」
「誰か代りが來るんですか」
「代りも大抵極まつてるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構ひません」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追つては君にもつと働いて頂だかなくつてはならんやうになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覺悟をしてやつてもらひたいですね」
「今より時間でも増すんですか」
「いゝえ、時間は今より減るかも知れませんが──」
「時間が減つて、もつと働くんですか、妙だな」
「一寸聞くと妙だが、──判然とは今言ひにくいが──まあつまり、君にもつと重大な責任を持つてもらふかも知れないといふ意味なんです」
おれには一向分らない。今より重大な責任と云へば、數學の主任だらうが、主任は山嵐だから、やつこさんなかなか辭職する氣遣ひはない。それに、生徒の人望があるから轉任や免職は學校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくつても用事はこれで濟んだ。それから少し雜談をしてゐるうちに、うらなり君の送別會をやる事や、ついてはおれが酒を飮むかと云ふ問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云ふ事や──赤シャツはいろいろ辯じた。しまひに話をかへて君俳句をやりますかと來たから、こいつは大變だと思つて、俳句はやりません、さやうならと、そこそこに歸つて來た。發句は芭蕉か髮結床の親方のやるもんだ。數學の先生が朝顏やに釣瓶をとられてたまるものか。
歸つてうんと考へ込んだ。世間には隨分氣の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める學校に不足のない故郷がいやになつたからと云つて、知らぬ他國へ苦勞を求めに出る。それも花の都の電車が通つてる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいゝここへ來てさへ、一ヶ月立たないうちにもう歸りたくなつた。延岡と云へば山の中も山の中も大變な山の中だ。赤シャツの云ふところによると船から上がつて、一日馬車へ乘つて、宮崎へ行つて、宮崎からまた一日車へ乘らなくつては着けないさうだ。名前を聞いてさへ、開けた所とは思へない。猿と人とが半々に住んでる樣な氣がする。いかに聖人のうらなり君だつて、好んで猿の相手になりたくもないだらうに、何といふ物數奇だ。
ところへあひかはらず婆さんが夕食を運んで出る。今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云つた。どつちにしたつて似たものだ。
「お婆さん古賀さんは日向へ行くさうですね」
「ほん當にお氣の毒ぢやな、もし」
「お氣の毒だつて、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしつて、當人がさ。古賀先生が物數奇に行くんぢやありませんか」
「そりやあなた、大違ひの勘五郎ぞなもし」
「勘五郎かね。だつて今赤シャツがさう云ひましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衞門だ」
「教頭さんが、さうお云ひるのはもつともぢやが、古賀さんのお往きともなひのももつともぞなもし」
「そんなら兩方もつともなんですね。お婆さんは公平でいゝ。一體どういふ譯なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん譯をお話したがなもし」
「どんな譯をお話したんです」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし逹が思ふほど暮し向が豐かになふてお困りぢやけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めてゐるものぢやけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしてお呉れんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、やうまあ考へてみとかうとお云ひたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か來月かと首を長くして待つておいでたところへ、校長さんが一寸來て呉れと古賀さんにお云ひるけれ、行つてみると、氣の毒だが學校は金が足りんけれ、月給を上げる譯にゆかん。しかし延岡になら空いた口があつて、そつちなら毎月五圓餘分にとれるから、お望み通りでよからうと思ふて、その手續きにしたから行くがへえと云はれたげな。──」
「ぢや相談ぢやない、命令ぢやありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行つて月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうさう極めたあとで、古賀さんの代りは出來てゐるけれ仕方がないと校長がお云ひたげな」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。ぢや古賀さんは行く氣はないんですね。どうれで變だと思つた。五圓ぐらゐ上がつたつて、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐變木はまづないからね」
「唐變木て、先生なんぞなもし」
「何でもいゝでさあ、──全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるつたつて、誰が上がつてやるものか」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるつて云ふから、斷わらうと思ふんです」
「何で、お斷わりるのぞなもし」
「何でもお斷わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものぢやが、年をとつてから考へると、も少しの我慢ぢやあつたのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが當り前ぢやけれ、お婆の言ふ事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言ひたら、難有うと受けて御置きなさいや」
「年寄の癖に餘計な世話を燒かなくつてもいゝ。おれの月給は上がらうと下がらうとおれの月給だ」
婆さんはだまつて引き込んだ。爺さんは呑氣な聲を出して謠をうたつてる。謠といふものは讀んでわかる所を、やにむづかしい節をつけて、わざと分らなくする術だらう。あんな者を毎晩飽きずに唸る爺さんの氣が知れない。おれは謠どころの騷ぎぢやない。月給を上げてやらうと云ふから、別段欲しくもなかつたが、入らない金を餘しておくのももつたゐないと思つて、よろしいと承知したのだが、轉任したくないものを無理に轉任させてその男の月給の上前を跳ねるなんて不人情な事が出來るものか。當人がもとの通りでいゝと云ふのに延岡下りまで落ちさせるとは一體どう云ふ了見だらう。太宰權帥でさへ博多近邊で落ちついたものだ。河合又五郎だつて相良でとまつてるぢやないか。とにかく赤シャツの所へ行つて斷わつて來なくつちあ氣が濟まない。
小倉の袴をつけてまた出掛けた。大きな玄關へ突つ立つて頼むと云ふと、また例の弟が取次に出て來た。おれの顏を見てまた來たかといふ眼付をした。用があれば二度だつて三度だつて來る。よる夜なかだつて叩き起さないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺ひにくるやうなほれと見損つてるか。これでも月給が入らないから返しに來んだ。すると弟が今來客中だと云ふから、玄關でいゝから一寸お目にかかりたいと云つたら奧へ引き込んだ。足元を見ると、疉付きの薄つぺらな、のめりの駒下駄がある。奧でもう萬歳ですよと云ふ聲が聞える。お客とは野だだなと氣がついた。野だでなくては、あんな黄色い聲を出して、こんな藝人じみた下駄を穿くものはない。
しばらくすると、赤シャツがランプを持つて玄關まで出て來て、まあ上がりたまへ、外の人ぢやない吉川君だ、と云ふから、いえここでたくさんです。一寸話せばいゝんです、と云つて、赤シャツの顏を見ると金時のやうだ。野だ公と一杯飮んでると見える。
「さつき僕の月給を上げてやるといふお話でしたが、少し考へが變つたから斷わりに來たんです」
赤シャツはランプを前へ出して、奧の方からおれの顏を眺めたが、とつさの場合返事をしかねて茫然としてゐる。増給を斷わる奴が世の中にたつた一人飛び出して來たのを不審に思つたのか、斷わるにしても、今歸つたばかりで、すぐ出直してこなくつてもよささうなものだと、呆れ返つたのか、または雙方合併したのか、妙な口をして突つ立つたままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で轉任するといふ話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば轉任するんです」
「さうぢやないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいゝから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、さう聞いたのですか」
「そりや當人から、聞いたんぢやありません」
「ぢや誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおつ母さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「ぢや、下宿の婆さんがさう云つたのですね」
「まあさうです」
「それは失禮ながら少し違ふでせう。おなたのおつしやる通りだと、下宿屋の婆さんの云ふ事は信ずるが、教頭の云ふ事は信じないと云ふやうに聞えるが、さういふ意味に解釋して差支へないでせうか」
おれは一寸困つた。文學士なんてものはやつぱりえらいものだ。妙な所へこだわつて、ねちねち押し寄せてくる。おれはよく親父から貴樣はそそつかしくて駄目だ駄目だと云はれたが、なるほど少々そそつかしいやうだ。婆さんの話を聞いてはつと思つて飛び出して來たが、實はうらなり君にもうらなりのおつ母さんにも逢つて詳しい事情は聞いてみなかつたのだ。だからかう文學士流に斬り付けられると、一寸受け留めにくい。
正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに對して不信任を心の中で申し渡してしまつた。下宿の婆さんもけちん坊の慾張り屋に相違ないが、嘘は吐かない女だ、赤シャツのやうに裏表はない。おれは仕方がないから、かう答へた。
「あなたの云ふ事は本當かも知れないですが──とにかく増給はご免蒙ります」
「それはますます可笑しい。今君がわざわざお出になつたのは増俸を受けるには忍びない、理由を見出したからのやうに聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかはらず増俸を否まれるのは少し解しかねるやうですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく斷わりますよ」
「そんなに否なら強ゐてとまでは云ひませんが、さう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹變しちや、將來君の信用にかかはる」
「かかはつても構はないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩讓つて、下宿の主人が……」
「主人ぢやない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事實としたところで、君の増給は古賀君の所得を削つて得たものではないでせう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で來て呉れる。その剩餘を君に廻わすと云ふのだから、君は誰にも氣の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも榮進される。新任者は最初からの約束で安くくる。それで君が上がられれば、是程都合のいゝ事はないと思ふですがね。いやなら否でもいゝが、もう一返うちでよく考へてみませんか」
おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がかういふ巧妙な辯舌を揮えば、おやさうかな、それぢや、おれが間違つてたと恐れ入つて引きさがるのだけれども、今夜はさうは行かない。ここへ來た最初から赤シャツは何だか蟲が好かなかつた。途中で親切な女みたやうな男だと思ひ返した事はあるが、それが親切でも何でもなささうなので、反動の結果今ぢや餘つ程厭になつてゐる。だから先がどれほどうまく論理的に辯論を逞くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めやうとも、そんな事は構はない。議論のいゝ人が善人とはきまらない。遣り込められる方が惡人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もつともだが、表向きがいくら立派だつて、腹の中まで惚れさせる譯には行かない。金や威力や理窟で人間の心が買へる者なら、高利貸でも巡査でも大學教授でも一番人に好かれなくてはならない。中學の教頭ぐらゐな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌ひで働くものだ。論法で働くものぢやない。
「あなたの云ふ事はもつともですが、僕は増給がいやになつたんですから、まあ斷わります。考へたつて同じ事です。さやうなら」と云ひすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかつてゐる。 

 

うらなり君の送別會のあるといふ日の朝、學校へ出たら、山嵐が突然、君先だつてはいか銀が來て、君が亂暴して困るから、どうか出るやうに話して呉れと頼んだから、眞面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは惡るい奴で、よく僞筆へ贋落款などを押して賣りつけるさうだから、全く君の事も出鱈目に違ひない。君に懸物や骨董を賣りつけて、商賣にしようと思つてたところが、君が取り合はないで儲けがないものだから、あんな作りごとをこしらへて胡魔化したのだ。僕はあの人物を知らなかつたので君に大變失敬した勘辨したまへと長々しい謝罪をした。
おれは何とも云はずに、山嵐の机の上にあつた、一錢五厘をとつて、おれの蝦蟇口のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込めるのかと不審さうに聞くから、うんおれは君に奢られるのが、いやだつたから、是非返すつもりでゐたが、その後だんだん考へてみると、やつぱり奢つてもらふ方がいゝやうだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな聲をしてアハハハと笑ひながら、そんなら、なぜ早く取らなかつたのだと聞いた。實は取らう取らうと思つてたが、何だか妙だからそのままにしておいた。近來は學校へ來て一錢五厘を見るのが苦になるくらゐいやだつたと云つたら、君は餘つ程負け惜しみの強い男だと云ふから、君は餘つ程剛情張りだと答へてやつた。それから二人の間にこんな問答が起つた。
「君は一體どこの産だ」
「おれは江戸つ子だ」
「うん、江戸つ子か、道理で負け惜しみが強いと思つた」
「きみはどこだ」
「僕は會津だ」
「會津つぽか、強情な譯だ。今日の送別會へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、濱まで見送りに行かうと思つてるくらゐだ」
「送別會は面白いぜ、出て見たまへ。今日は大いに飮むつもりだ」
「勝手に飮むがいゝ。おれは肴を食つたら、すぐ歸る。酒なんか飮む奴は馬鹿だ」
「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。なるほど江戸つ子の輕跳な風を、よく、あらはしてる」
「何でもいゝ、送別會へ行く前に一寸おれのうちへお寄り、話しがあるから」
山嵐は約束通りおれの下宿へ寄つた。おれはこの間から、うらなり君の顏を見る度に氣の毒でたまらなかつたが、いよいよ送別の今日となつたら、何だか憐れつぽくつて、出來る事なら、おれが代りに行つてやりたい樣な氣がしだした。それで送別會の席上で、大いに演説でもしてその行を盛にしてやりたいと思ふのだが、おれのべらんめえ調子ぢや、到底物にならないから、大きな聲を出す山嵐を雇つて、一番赤シャツの荒肝を挫いでやらうと考へ付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
おれはまづ冒頭としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳しく知つてゐる。おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬鹿野郎だと云つたら、山嵐は君はだれを捕まへても馬鹿呼わりをする。今日學校で自分の事を馬鹿と云つたぢやないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿ぢやない。自分は赤シャツの同類ぢやないと主張した。それぢや赤シャツは腑拔けの呆助だと云つたら、さうかもしれないと山嵐は大いに贊成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遙かに字を知つてゐない。會津つぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだらう。
それから増給事件と將來重く登用すると赤シャツが云つた話をしたら山嵐はふふんと鼻から聲を出して、それぢや僕を免職する考へだなと云つた。免職するつもりだつて、君は免職になる氣かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいつしよに免職させてやると大いに威張つた。どうしていつしよに免職させる氣かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考へてゐないと答へた。山嵐は強さうだが、智慧はあまりなささうだ。おれが増給を斷わつたと話したら、大將大きに喜んでさすが江戸つ子だ、えらいと賞めて呉れた。
うらなりが、そんなに厭がつてゐるなら、なぜ留任の運動をしてやらなかつたと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既にきまつてしまつて、校長へ二度、赤シャツへ一度行つて談判してみたが、どうする事も出來なかつたと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があつた時、斷然斷わるか、一應考へてみますと逃げればいゝのに、あの辯舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとからお母さんが泣きついても、自分が談判に行つても役に立たなかつたと非常に殘念がつた。
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだらうとおれが云つたら、無論さうに違ひない。あいつは大人しい顏をして、惡事を働いて、人が何か云ふと、ちやんと逃道を拵へて待つてるんだから、餘つ程奸物だ。あんな奴にかかつては鐵拳制裁でなくつちや利かないと、瘤だらけの腕をまくつてみせた。おれはついでだから、君の腕は強さうだな柔術でもやるかと聞いてみた。すると大將二の腕へ力瘤を入れて、一寸攫んでみろと云ふから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある輕石の樣なものだ。
おれはあまり感心したから、君そのくらゐの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだらうと聞いたら、無論さと云ひながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻轉する。すこぶる愉快だ。山嵐の證明する所によると、かんじん綯りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ卷きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるさうだ。かんじんよりなら、おれにも出來さうだと云つたら、出來るものか、出來るならやつてみろと來た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
君どうだ、今夜の送別會に大いに飮んだあと、赤シャツと野だを撲つてやらないかと面白半分に勸めてみたら、山嵐はさうだなと考へてゐたが、今夜はまあよさうと云つた。なぜと聞くと、今夜は古賀に氣の毒だから──それにどうせ撲るくらゐなら、あいつらの惡るい所を見屆けて現場で撲らなくつちや、こつちの落度になるからと、分別のありさうな事を附加した。山嵐でもおれよりは考へがあると見える。
ぢや演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸つ子のぺらぺらになつて重みがなくていけない。さうして、きまつた所へ出ると、急に澑飮が起つて咽喉の所へ、大きな丸が上がつて來て言葉が出ないから、君に讓るからと云つたら、妙な病氣だな、ぢや君は人中ぢや口は利けないんだね、困るだらう、と聞くから、何そんなに困りやしないと答へておいた。
さうかうするうち時間が來たから、山嵐と一所に會場へ行く。會場は花晨亭といつて、當地で第一等の料理屋ださうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買ひ入れて、そのまま開業したといふ話だが、なるほど見懸からして嚴めしい構へだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫ひ直して、胴着にする樣なものだ。
二人が着いた頃には、人數ももう大概揃つて、五十疉の廣間に二つ三つ人間の塊が出來てゐる。五十疉だけに床は素敵に大きい。おれが山城屋で占領した十五疉敷の床とは比較にならない。尺を取つてみたら二間あつた。右の方に、赤い模樣のある瀬戸物の瓶を据ゑて、その中に松の大きな枝が插してある。松の枝を插して何にする氣か知らないが、何ヶ月立つても散る氣遣ひがないから、錢が懸らなくつて、よからう。あの瀬戸物はどこで出來るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物ぢやありません、伊萬里ですと云つた。伊萬里だつて瀬戸物ぢやないかと、云つたら、博物はえへへへへと笑つてゐた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出來る燒物だから、瀬戸と云ふのださうだ。おれは江戸つ子だから、陶器の事を瀬戸物といふのかと思つてゐた。床の眞中に大きな懸物があつて、おれの顏くらゐな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手なものだ。あんまり不味いから、漢學の先生に、なぜあんなまづいものを麗々と懸けておくんですと尋ねたところ、先生はあれは海屋といつて有名な書家のかいた者だと教へて呉れた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思つてゐる。
やがて書記の川村がどうかお着席をと云ふから、柱があつて靠りかかるのに都合のいゝ所へ坐つた。海屋の懸物の前に貍が羽織、袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取つた。右の方は主人公だといふのでうらなり先生、これも日本服で控へてゐる。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だつたから、すぐ胡坐をかいた。隣りの體操教師は黒ずぼんで、ちやんとかしこまつてゐる。體操の教師だけにいやに修行が積んでゐる。やがてお膳が出る。徳利が並ぶ。幹事が立つて、一言開會の辭を述べる。それから貍が立つ。赤シャツが起つ。ことごとく送別の辭を述べたが、三人共申し合せたやうにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聽して、今囘去られるのはまことに殘念である、學校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に轉任をご希望になつたのだから致し方がないといふ意味を述べた。こんな嘘をついて送別會を開いて、それでちつとも恥かしいとも思つてゐない。ことに赤シャツに至つて三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失ふのは實に自分にとつて大なる不幸であるとまで云つた。しかもそのいゝ方がいかにも、もつともらしくつて、例のやさしい聲を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきつとだまされるに極つてる。マドンナも大方この手で引掛けたんだらう。赤シャツが送別の辭を述べ立ててゐる最中、向側に坐つてゐた山嵐がおれの顏を見て一寸稻光をさした。おれは返電として、人指し指でべつかんかうをして見せた。
赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬつと立ち上がつたから、おれは嬉しかつたので、思はず手をぱちぱちと拍つた。すると貍を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困つた。山嵐は何を云ふかと思ふとただ今校長始めことに教頭は古賀君の轉任を非常に殘念がられたが、私は少々反對で古賀君が一日も早く當地を去られるのを希望してをります。延岡は僻遠の地で、當地に比べたら物質上の不便はあるだらう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく上 代 樸 直の氣風を帶びてゐるさうである。心にもないお世辭を振り蒔ゐたり、美しい顏をして君子を陷れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必ずその地方一般の歡迎を受けられるに相違ない。吾輩は大いに古賀君のためにこの轉任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格あるものを擇んで一日も早く圓滿なる家庭をかたち作つて、かの不貞無節なるお轉婆を事實の上において慚死せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳拂ひをして席に着いた。おれは今度も手を叩かうと思つたが、またみんながおれの面を見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起つた。先生はご鄭寧に、自席から、座敷の端の末座まで行つて、慇懃に一同に挨拶をした上、今般は一身上の都合で九州へ參る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大なる送別會をお開き下さつたのは、まことに感銘の至りに堪へぬ次第で──ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辭を頂戴して、大いに難有く服膺する譯であります。私はこれから遠方へ參りますが、なにとぞ從前の通りお見捨てなくご愛顧のほどを願ひます。とへえつく張つて席に戻つた。うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされてゐる校長や、教頭に恭しくお禮を云つてゐる。それも義理一遍の挨拶ならだが、あの樣子や、あの言葉つきや、あの顏つきから云ふと、心から感謝してゐるらしい。こんな聖人に眞面目にお禮を云はれたら、氣の毒になつて、赤面しさうなものだが貍も赤シャツも眞面目に謹聽してゐるばかりだ。
挨拶が濟んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、といふ音がする。おれも眞似をして汁を飮んでみたがまづいもんだ。口取に蒲鉾はついてるが、どす黒くて竹輪の出來損なひである。刺身も並んでるが、厚くつて鮪の切り身を生で食ふと同じ事だ。それでも隣り近所の連中はむしやむしや旨さうに食つてゐる。大方江戸前の料理を食つた事がないんだらう。
そのうち燗徳利が頻繁に往來し始めたら、四方が急に賑やかになつた。野だ公は恭しく校長の前へ出て盃を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に獻酬をして、一巡周るつもりとみえる。はなはだご苦勞である。うらなり君がおれの前へ來て、一つ頂戴致しませうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまつて、一盃差し上げた。せつかく參つて、すぐお別れになるのは殘念ですね。ご出立はいつです、是非濱までお見送りをしませうと云つたら、うらなり君はいえご用多のところ決してそれには及びませんと答へた。うらなり君が何と云つたつて、おれは學校を休んで送る氣でゐる。
それから一時間ほどするうちに席上は大分亂れて來る。まあ一杯、おや僕が飮めと云ふのに……などと呂律の巡りかねるのも一人二人出來て來た。少々退屈したから便所へ行つて、昔風な庭を星明りにすかして眺めてゐると山嵐が來た。どうださつきの演説はうまかつたらう。と大分得意である。大贊成だが一ヶ所氣に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不贊成だと聞いた。
「美しい顏をして人を陷れるやうなハイカラ野郎は延岡に居らないから……と君は云つたらう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「ぢや何と云ふんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいゝ」
「おれには、さう舌は廻らない。君は能辯だ。第一單語を大變たくさん知つてる。それで演舌が出來ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩のときに使はうと思つて、用心のために取つておく言葉さ。演舌となつちや、かうは出ない」
「さうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やつて見たまへ」
「何遍でもやるさいゝか。──ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云ひかけてゐると、椽側をどたばた云はして、二人ばかり、よろよろしながら馳け出して來た。
「兩君そりやひどい、──逃げるなんて、──僕が居るうちは決して逃さない、さあのみたまへ。──いかさま師?──面白い、いかさま面白い。──さあ飮みたまへ」
とおれと山嵐をぐいぐい引つ張つて行く。實はこの兩人共便所に來たのだが、醉つてるもんだから、便所へ這入るのを忘れて、おれ等を引つ張るのだらう。醉つ拂ひは目の中る所へ用事を拵へて、前の事はすぐ忘れてしまふんだらう。
「さあ、諸君、いかさま師を引つ張つて來た。さあ飮まして呉れたまへ。いかさま師をうんと云ふほど、醉はして呉れたまへ。君逃げちやいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際へ壓し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に滿足な肴の乘つてゐるのは一つもない。自分の分を奇麗に食ひ盡して、五六間先へ遠征に出た奴もゐる。校長はいつ歸つたか姿が見えない。
ところへお座敷はこちら? と藝者が三四人這入つて來た。おれも少し驚ろいたが、壁際へ壓し付けられてゐるんだから、じつとしてただ見てゐた。すると今まで床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢さうに啣えてゐた、赤シャツが急に起つて、座敷を出にかかつた。向うから這入つて來た藝者の一人が、行き違ひながら、笑つて挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞えなかつたが、おや今晩はぐらゐ云つたらしい。赤シャツは知らん顏をして出て行つたぎり、顏を出さなかつた。大方校長のあとを追懸けて歸つたんだらう。
藝者が來たら座敷中急に陽氣になつて、一同が鬨の聲を揚げて歡迎したのかと思ふくらゐ、騷々しい。さうしてある奴はなんこを攫む。その聲の大きな事、まるで居合拔の稽古のやうだ。こつちでは拳を打つてる。よつ、はつ、と夢中で兩手を振るところは、ダーク一座の操 人 形より餘つ程上手だ。向うの隅ではおいお酌だ、と徳利を振つてみて、酒だ酒だと言ひ直してゐる。どうもやかましくて騷々しくつてたまらない。そのうちで手持無沙汰に下を向いて考へ込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別會を開いて呉れたのは、自分の轉任を惜んで呉れるんぢやない。みんなが酒を呑んで遊ぶためだ。自分獨りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別會なら、開いてもらはない方が餘つ程ましだ。
しばらくしたら、めいめい胴間聲を出して何か唄ひ始めた。おれの前へ來た一人の藝者が、あんた、なんぞ、唄ひなはれ、と三味線を抱へたから、おれは唄はない、貴樣唄つてみろと云つたら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちやんちきりん。叩いて廻つて逢はれるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちやんちきりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある、と二た息にうたつて、おほしんどと云つた。おほしんどなら、もつと樂なものをやればいゝのに。
すると、いつの間にか傍へ來て坐つた、野だが、鈴ちやん逢ひたい人に逢つたと思つたら、すぐお歸りで、お氣の毒さまみたやうでげすと相變らず噺し家みたやうな言葉使ひをする。知りまへんと藝者はつんと濟ました。野だは頓着なく、たまたま逢ひは逢ひながら……と、いやな聲を出して義太夫の眞似をやる。おきなはれやと藝者は平手で野だの膝を叩いたら野だは恐悦して笑つてる。この藝者は赤シャツに挨拶をした奴だ。藝者に叩かれて笑ふなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちやん僕が紀伊の國を踴るから、一つ彈いて頂戴と云ひ出した。野だはこの上まだ踴る氣でゐる。
向うの方で漢學のお爺さんが齒のない口を歪めて、そりや聞えません傳兵衞さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に濟したが、それから? と藝者に聞いてゐる。爺さんなんて物覺えのわるいものだ。一人が博物を捕まへて近頃こないなのが、でけましたぜ、彈いてみまはうか。やう聞いて、いなはれや──花月卷、白いリボンのハイカラ頭、乘るは自轉車、彈くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄ふと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心してゐる。
山嵐は馬鹿に大きな聲を出して、藝者、藝者と呼んで、おれが劍舞をやるから、三味線を彈けと號令を下した。藝者はあまり亂暴な聲なので、あつけに取られて返事もしない。山嵐は委細構はず、ステッキを持つて來て、踏 破 千 山 萬 嶽 烟と眞中へ出て獨りで隱し藝を演じてゐる。ところへ野だがすでに紀伊の國を濟まして、かつぽれを濟まして、棚の逹磨さんを濟して丸 裸の 越 中 褌 一つになつて、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と座敷中練りあるき出した。まるで氣違ひだ。
おれはさつきから苦しさうに袴も脱がず控へてゐるうらなり君が氣の毒でたまらなかつたが、なんぼ自分の送別會だつて、越中褌の裸 踴まで羽織袴で我慢してみてゐる必要はあるまいと思つたから、そばへ行つて、古賀さんもう歸りませうと退去を勸めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別會だから、私が先へ歸つては失禮です、どうぞご遠慮なくと動く景色もない。なに構ふもんですか、送別會なら、送別會らしくするがいゝです、あの樣をご覽なさい。氣狂會です。さあ行きませうと、進まないのを無理に勸めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して來て、やご主人が先へ歸るとはひどい。日清談判だ。歸せないと箒を横にして行く手を塞いだ。おれはさつきから肝癪が起つてゐるところだから、日清談判なら貴樣はちやんちやんだらうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰はしてやつた。野だは二三秒の間毒氣を拔かれた體で、ぼんやりしてゐたが、おやこれはひどい。お撲ちになつたのは情ない。この吉川をご打擲とは恐れ入つた。いよいよもつて日清談判だ。とわからぬ事をならべてゐるところへ、うしろから山嵐が何か騷動が始まつたと見てとつて、劍舞をやめて、飛んできたが、このてゐたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。どうもこれは亂暴だと振りもがくところを横に捩つたら、すとんと倒れた。あとはどうなつたか知らない。途中でうらなり君に別れて、うちへ歸つたら十一時過ぎだつた。 

 

祝勝會で學校はお休みだ。練兵場で式があるといふので、貍は生徒を引率して參列しなくてはならない。おれも職員の一人としていつしよにくつついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらゐである。學校の生徒は八百人もあるのだから、體操の教師が隊伍を整へて、一組一組の間を少しづつ明けて、それへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛けである。仕掛だけはすこぶる巧妙なものだが、實際はすこぶる不手際である。生徒は小供の上に、生意氣で、規律を破らなくつては生徒の體面にかかはると思つてる奴等だから、職員が幾人ついて行つたつて何の役に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌をうたつたり、軍歌をやめるとワーと譯もないのに鬨の聲を揚げたり、まるで浪人が町内をねりあるいてるやうなものだ。軍歌も鬨の聲も揚げない時はがやがや何か喋舌つてる。喋舌らないでも歩けさうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云つたつて聞きつこない。喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよからうと思つてゐた。ところが實際は大違ひである。下宿の婆さんの言葉を借りて云へば、正に大違ひの勘五郎である。生徒があやまつたのは心から後悔してあやまつたのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたづらは決してやめるものでない。よく考へてみると世の中はみんなこの生徒のやうなものから成立してゐるかも知れない。人があやまつたり詫びたりするのを、眞面目に受けて勘辨するのは正直過ぎる馬鹿と云ふんだらう。あやまるのも假りにあやまるので、勘辨するのも假りに勘辨するのだと思つてれば差し支へない。もし本當にあやまらせる氣なら、本當に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。
おれが組と組の間に這入つて行くと、天麩羅だの、團子だの、と云ふ聲が絶えずする。しかも大勢だから、誰が云ふのだか分らない。よし分つてもおれの事を天麩羅と云つたんぢやありません、團子と申したのぢやありません、それは先生が神經衰弱だから、ひがんで、さう聞くんだぐらゐ云ふに極まつてる。こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云つて聞かしたつて、教へてやつたつて、到底直りつこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なほれも、この眞似をしなければならなく、なるかも知れない。向うでうまく言ひ拔けられるやうな手段で、おれの顏を汚すのを抛つておく、樗蒲一はない。向かうが人ならはれも人だ。生徒だつて、子供だつて、ずう體はおれより大きいや。だから刑罰として何か返報をしてやらなくつては義理がわるい。ところがこつちから返報をする時分に尋常の手段で行くと、向うから逆捩を食はして來る。貴樣がわるいからだと云ふと、初手から逃げ路が作つてある事だから滔々と辯じ立てる。辯じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこつちの非を攻撃する。もともと返報にした事だから、こちらの辯護は向うの非が擧がらない上は辯護にならない。つまりは向うから手を出しておいて、世間體はこつちが仕掛けた喧嘩のやうに、見傚されてしまふ。大變な不利益だ。それなら向うのやるなり、愚迂多良童子を極め込んでゐれば、向うはますます増長するばかり、大きく云へば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こつちも向うの筆法を用ゐて捕まへられないで、手の付けやうのない返報をしなくてはならなくなる。さうなつては江戸つ子も駄目だ。駄目だが一年もかうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもさうならなくつちや始末がつかない。どうしても早く東京へ歸つて清といつしよになるに限る。こんな田舎に居るのは墮落しに來てゐるやうなものだ。新聞配逹をしたつて、ここまで墮落するよりはましだ。
かう考へて、いやいや、附いてくると、何だか先鋒が急にがやがや騷ぎ出した。同時に列はぴたりと留まる。變だから、列を右へはずして、向うを見ると、大手町を突き當つて藥師町へ曲がる角の所で、行き詰つたぎり、押し返したり、押し返されたりして揉み合つてゐる。前方から靜かに靜かにと聲を涸らして來た體操教師に何ですと聞くと、曲り角で中學校と師範學校が衝突したんだと云ふ。
中學と師範とはどこの縣下でも犬と猿のやうに仲がわるいさうだ。なぜだかわからないが、まるで氣風が合はない。何かあると喧嘩をする。大方狹い田舎で退屈だから、暇潰しにやる仕事なんだらう。おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に馳け出して行つた。すると前の方にゐる連中は、しきりに何だ地方税の癖に、引き込めと、怒鳴つてる。後ろからは押せ押せと大きな聲を出す。おれは邪魔になる生徒の間をくぐり拔けて、曲がり角へもう少しで出やうとした時に、前へ! と云ふ高く鋭い號令が聞えたと思つたら師範學校の方は肅肅として行進を始めた。先を爭つた衝突は、折合がついたには相違ないが、つまり中學校が一歩を讓つたのである。資格から云ふと師範學校の方が上ださうだ。
祝勝の式はすこぶる簡單なものであつた。旅團長が祝詞を讀む、知事が祝詞を讀む、參列者が萬歳を唱へる。それでおしまひだ。餘興は午後にあると云ふ話だから、ひとまづ下宿へ歸つて、こないだじゅうから、氣に掛つてゐた、清への返事をかきかけた。今度はもつと詳しく書いて呉れとの注文だから、なるべく念入に認めなくつちやならない。しかしいざとなつて、半切を取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き出していゝか、わからない。あれにしようか、あれは面倒臭い。これにしようか、これはつまらない。何か、すらすらと出て、骨が折れなくつて、さうして清が面白がるやうなものはないかしらん、と考へてみると、そんな注文通りの事件は一つもなささうだ。おれは墨を磨つて、筆をしめして、卷紙を睨めて、──卷紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨つて──同じ所作を同じやうに何返も繰り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、諦めて硯の蓋をしてしまつた。手紙なんぞをかくのは面倒臭い。やつぱり東京まで出掛けて行つて、逢つて話をするのが簡便だ。清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の斷食よりも苦しい。
おれは筆と卷紙を抛り出して、ごろりと轉がつて肱枕をして庭の方を眺めてみたが、やつぱり清の事が氣にかかる。その時おれはかう思つた。かうして遠くへ來てまで、清の身の上を案じてゐてやりさへすれば、おれの眞心は清に通じるに違ひない。通じさへすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮してると思つてるだらう。たよりは死んだ時か病氣の時か、何か事の起つた時にやりさへすればいゝ譯だ。
庭は十坪ほどの平庭で、これといふ植木もない。ただ一本の蜜柑があつて、塀のそとから、目標になるほど高い。おれはうちへ歸ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑の生つてゐるところはすこぶる珍しいものだ。あの青い實がだんだん熟してきて、黄色になるんだらうが、定めて奇麗だらう。今でももう半分色の變つたのがある。婆さんに聞いてみると、すこぶる水氣の多い、旨い蜜柑ださうだ。今に熟たら、たんと召し上がれと云つたから、毎日少しづつ食つてやらう。もう三週間もしたら、充分食へるだらう。まさか三週間以内にここを去る事もなからう。
おれが蜜柑の事を考へてゐるところへ、偶然山嵐が話しにやつて來た。今日は祝勝會だから、君といつしよにご馳走を食はうと思つて牛肉を買つて來たと、竹の皮の包を袂から引きずり出して、座敷の眞中へ抛り出した。おれは下宿で芋責豆腐責になつてる上、蕎麥屋行き、團子屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋と砂糖をかり込んで、煮方に取りかかつた。
山嵐は無暗に牛肉を頬張りながら、君あの赤シャツが藝者に馴染のある事を知つてるかと聞くから、知つてるとも、この間うらなりの送別會の時に來た一人がさうだらうと云つたら、さうだ僕はこの頃漸く勘づいたのに、君はなかなか敏捷だと大いにほめた。
「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯樂だのと云ふ癖に、裏へ廻つて、藝者と關係なんかつけとる、怪しからん奴だ。それもほかの人が遊ぶのを寛容するならひいが、君が蕎麥屋へ行つたり、團子屋へ這入るのさへ取締上害になると云つて、校長の口を通して注意を加へたぢやないか」
「うん、あの野郎の考へぢや藝者買は精神的娯樂で、天麩羅や、團子は物理的娯樂なんだらう。精神的娯樂なら、もつと大べらにやるがいゝ。何だあの樣は。馴染の藝者が這入つてくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化す氣だから氣に食はない。さうして人が攻撃すると、僕は知らないとか、露西亞文學だとか、俳句が新體詩の兄弟分だとか云つて、人を烟に捲くつもりなんだ。あんな弱蟲は男ぢやないよ。全く御殿女中の生れ變りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」
「湯島のかげまた何だ」
「何でも男らしくないもんだらう。──君そこのところはまだ煮えてゐないぜ。そんなのを食ふと絛蟲が湧くぜ」
「さうか、大抵大丈夫だらう。それで赤シャツは人に隱れて、温泉の町の角屋へ行つて、藝者と會見するさうだ」
「角屋つて、あの宿屋か」
「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが藝者をつれて、あすこへはいり込むところを見屆けておいて面詰するんだね」
「見屆けるつて、夜番でもするのかい」
「うん、角屋の前に桝屋といふ宿屋があるだらう。あの表二階をかりて、障子へ穴をあけて、見てゐるのさ」
「見てゐるときに來るかい」
「來るだらう。どうせひと晩ぢやいけない。二週間ばかりやるつもりでなくつちや」
「隨分疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜して看病した事があるが、あとでぼんやりして、大いに弱つた事がある」
「少しぐらゐ身體が疲れたつて構はんさ。あんな奸物をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代つて誅戮を加へるんだ」
「愉快だ。さう事が極まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
「まだ桝屋に懸合つてないから、今夜は駄目だ」
「それぢや、いつから始めるつもりだい」
「近々のうちやるさ。いづれ君に報知をするから、さうしたら、加勢して呉れたまへ」
「よろしい、いつでも加勢する。僕は計略は下手だが、喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ」
おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略を相談してゐると、宿の婆さんが出て來て、學校の生徒さんが一人、堀田先生にお目にかかりたいててお出でたぞなもし。今お宅へ參じたのぢやが、お留守ぢやけれ、大方ここぢやらうてて搜し當ててお出でたのぢやがなもしと、閾の所へ膝を突いて山嵐の返事を待つてる。山嵐はさうですかと玄關まで出て行つたが、やがて歸つて來て、君、生徒が祝勝會の餘興を見に行かないかつて誘ひに來たんだ。今日は高知から、何とか踴りをしに、わざわざここまで多人數乘り込んで來てゐるのだから、是非見物しろ、めつたに見られない踴だといふんだ、君もいつしよに行つてみたまへと山嵐は大いに乘り氣で、おれに同行を勸める。おれは踴なら東京でたくさん見てゐる。毎年八幡樣のお祭りには屋臺が町内へ廻つてくるんだから汐酌みでも何でもちやんと心得てゐる。土佐つぽの馬鹿踴なんか、見たくもないと思つたけれども、せつかく山嵐が勸めるもんだから、つい行く氣になつて門へ出た。山嵐を誘ひに來たものは誰かと思つたら赤シャツの弟だ。妙な奴が來たもんだ。
會場へ這入ると、囘向院の相撲か本門寺の御會式のやうに幾旒となく長い旗を所々に植ゑ付けた上に、世界萬國の國旗をことごとく借りて來たくらゐ、繩から繩、綱から綱へ渡しかけて、大きな空が、いつになく賑やかに見える。東の隅に一夜作りの舞臺を設けて、ここでいはゆる高知の何とか踴りをやるんださうだ。舞臺を右へ半町ばかりくると葭簀の圍いをして、活花が陳列してある。みんなが感心して眺めてゐるが、一向くだらないものだ。あんなに草や竹を曲げて嬉しがるなら、背蟲の色男や、跛の亭主を持つて自慢するがよからう。
舞臺とは反對の方面で、しきりに花火を揚げる。花火の中から風船が出た。帝國萬歳とかいてある。天主の松の上をふわふわ飛んで營所のなかへ落ちた。次はぽんと音がして、黒い團子が、しよつと秋の空を射拔くやうに揚がると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い烟が傘の骨のやうに開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。風船がまた上がつた。今度は陸海軍萬歳と赤地に白く染め拔いた奴が風に搖られて、温泉の町から、相生村の方へ飛んでいつた。大方觀音樣の境内へでも落ちたらう。
式の時はさほどでもなかつたが、今度は大變な人出だ。田舎にもこんなに人間が住んでるかと驚ろいたぐらゐうぢやうぢやしてゐる。悧巧な顏はあまり見當らないが、數から云ふとたしかに馬鹿に出來ない。そのうち評判の高知の何とか踴が始まつた。踴といふから藤間か何ぞのやる踴りかと早合點してゐたが、これは大間違ひであつた。
いかめしい後鉢卷をして、立つ付け袴を穿いた男が十人ばかりずつ、舞臺の上に三列に並んで、その三十人がことごとく拔き身を攜げてゐるには魂消た。前列と後列の間はわづか一尺五寸ぐらゐだらう、左右の間隔はそれより短いとも長くはない。たつた一人列を離れて舞臺の端に立つてるのがあるばかりだ。この仲間外れの男は袴だけはつけてゐるが、後鉢卷は儉約して、拔身の代りに、胸へ太鼓を懸けてゐる。太鼓は太神樂の太鼓と同じ物だ。この男がやがて、いやあ、はああと呑氣な聲を出して、妙な謠をうたひながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩く。歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。三河萬歳と普陀洛やの合併したものと思へば大した間違ひにはならない。
歌はすこぶる悠長なもので、夏分の水飴のやうに、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのやうでも拍子は取れる。この拍子に應じて三十人の拔き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速なお手際で、拜見してゐても冷々する。隣りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる拔き身を自分と同じやうに振り舞はすのだから、よほど調子が揃はなければ、同志撃を始めて怪我をする事になる。それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危險もないが、三十人が一度に足踏みをして横を向く時がある。ぐるりと廻る事がある。膝を曲げる事がある。隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遲過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。拔き身の動くのは自由自在だが、その動く範圍は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた、なかなかもつて汐酌や關の戸の及ぶところでない。聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易な事では、かういふ風に調子が合はないさうだ。ことにむづかしいのは、かの萬歳節のぼこぼん先生ださうだ。三十人の足の運びも、手の働きも、腰の曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのださうだ。傍で見てゐると、この大將が一番呑氣さうに、いやあ、はああと氣樂にうたつてるが、その實ははなはだ責任が重くつて非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
おれと山嵐が感心のあまりこの踴を餘念なく見物してゐると、半町ばかり、向うの方で急にわつと云ふ鬨の聲がして、今まで穩やかに諸所を縱覽してゐた連中が、にはかに波を打つて、右左りに搖き始める。喧嘩だ喧嘩だと云ふ聲がすると思ふと、人の袖を潛り拔けて來た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中學の方で、今朝の意趣返しをするんで、また師範の奴と決戰を始めたところです、早く來て下さいと云ひながらまた人の波のなかへ潛り込んでどつかへ行つてしまつた。
山嵐は世話の燒ける小僧だまた始めたのか、いゝ加減にすればいゝのにと逃げる人を避けながら一散に馳け出した。見てゐる譯にも行かないから取り鎭めるつもりだらう。おれは無論の事逃げる氣はない。山嵐の踵を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は今が眞最中である。師範の方は五六十人もあらうか、中學はたしかに三割方多い。師範は制服をつけてゐるが、中學は式後大抵は日本服に着換へてゐるから、敵味方はすぐわかる。しかし入り亂れて組んづ、解れつ戰つてるから、どこから、どう手を付けて引き分けていゝか分らない。山嵐は困つたなと云ふ風で、しばらくこの亂雜な有樣を眺めてゐたが、かうなつちや仕方がない。巡査がくると面倒だ。飛び込んで分けやうと、おれの方を見て云ふから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈しさうな所へ躍り込んだ。止せ止せ。そんな亂暴をすると學校の體面に關はる。よさないかと、出るだけの聲を出して敵と味方の分界線らしい所を突き貫けやうとしたが、なかなかさう旨くは行かない。一二間はいつたら、出る事も引く事も出來なくなつた。目の前に比較的大きな師範生が、十五六の中學生と組み合つてゐる。止せと云つたら、止さないかと師範生の肩を持つて、無理に引き分けやうとする途端にだれか知らないが、下からおれの足をすくつた。おれは不意を打たれて握つた、肩を放して、横に倒れた。堅い靴でおれの背中の上へ乘つた奴がある。兩手と膝を突いて下から、跳ね起きたら、乘つた奴は右の方へころがり落ちた。起き上がつて見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身體が生徒の間に挾まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと云つてみたが聞えないのか返事もしない。
ひゅうと風を切つて飛んで來た石が、いきなりおれの頬骨へ中つたなと思つたら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。教師の癖に出てゐる、打て打てと云ふ聲がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛げろ。と云ふ聲もする。おれは、なに生意氣な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやつた。石がまたひゅうと來る。今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行つた。山嵐はどうなつたか見えない。かうなつちや仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいつたんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入つて引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思ふんだ。身長は小さくつても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしてゐると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云ふ聲がした。今まで葛練りの中で泳いでるやうに身動きも出來なかつたのが、急に樂になつたと思つたら、敵も味方も一度に引上げてしまつた。田舎者でも退卻は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらゐである。
山嵐はどうしたかと見ると、紋付の一重羽織をずたずたにして、向うの方で鼻を拭ひてゐる。鼻柱をなぐられて大分出血したんださうだ。鼻がふくれ上がつて眞赤になつてすこぶる見苦しい。おれは飛白の袷を着てゐたから泥だらけになつたけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。しかし頬ぺたがぴりぴりしてたまらない。山嵐は大分血が出てゐるぜと教へて呉れた。
巡査は十五六名來たのだが、生徒は反對の方面から退卻したので、捕まつたのは、おれと山嵐だけである。おれらは姓名を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで來いと云ふから、警察へ行つて、署長の前で事の顛末を述べて下宿へ歸つた。 
十一

 

あくる日眼が覺めてみると、身體中痛くてたまらない。久しく喧嘩をしつけなかつたから、こんなに答へるんだらう。これぢやあんまり自慢もできないと床の中で考へてゐると、婆さんが四國新聞を持つてきて枕元へ置いて呉れた。實は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきの事に閉口たれて仕樣があるものかと無理に腹這ひになつて、寢ながら、二頁を開けてみると驚ろいた。昨日の喧嘩がちやんと出てゐる。喧嘩の出てゐるのは驚ろかないのだが、中學の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意氣なる某とが、順良なる生徒を使嗾してこの騷動を喚起せるのみならず、兩人は現場にあつて生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向つて暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記してある。本縣の中學は昔時より善良温順の氣風をもつて全國の羨望するところなりしが、輕薄なる二豎子のために吾校の特權を毀損せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然として起つてその責任を問はざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、當局者は相當の處分をこの無頼漢の上に加へて、彼等をして再び教育界に足を入るる餘地なからしむる事を。さうして一字ごとにみんな黒點を加へて、お灸を据ゑたつもりでゐる。おれは床の中で、糞でも喰らへと云ひながら、むつくり飛び起きた。不思議な事に今まで身體の關節が非常に痛かつたのが、飛び起きると同時に忘れたやうに輕くなつた。
おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、それでもまだ氣に入らなかつたから、わざわざ後架へ持つて行つて棄てて來た。新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。世の中に何が一番法螺を吹くと云つて、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの云つてしかるべき事をみんな向うで並べてゐやがる。それに近頃東京から赴任した生意氣な某とは何だ。天下に某と云ふ名前の人があるか。考へてみろ。これでもれつきとした姓もあり名もあるんだ。系圖が見たけりや、多田滿仲以來の先祖を一人殘らず拜ましてやらあ。──顏を洗つたら、頬ぺたが急に痛くなつた。婆さんに鏡をかせと云つたら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。讀んで後架へ棄てて來た。欲しけりや拾つて來いと云つたら、驚いて引き下がつた。鏡で顏を見ると昨日と同じやうに傷がついてゐる。これでも大事な顏だ、顏へ傷まで付けられた上へ生意氣なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
今日の新聞に辟易して學校を休んだなどと云はれちや一生の名折れだから、飯を食つていの一號に出頭した。出てくる奴も、出てくる奴もおれの顏を見て笑つてゐる。何がをかしいんだ。貴樣逹にこしらへてもらつた顏ぢやあるまいし。そのうち、野だが出て來て、いや昨日はお手柄で、──名譽のご負傷でげすか、と送別會の時に撲つた返報と心得たのか、いやに冷かしたから、餘計な事を言はずに繪筆でも舐めていろと云つてやつた。するとこりや恐入りやした。しかしさぞお痛い事でげせうと云ふから、痛からうが、痛くなからうがおれの面だ。貴樣の世話になるもんかと怒鳴りつけてやつたら、向う側の自席へ着いて、やつぱりおれの顏を見て、隣りの歴史の教師と何か内所話をして笑つてゐる。
それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至つては、紫色に膨脹して、掘つたら中から膿が出さうに見える。自惚のせゐか、おれの顏より餘つ程手ひどく遣られてゐる。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から眞正面にあるんだから運がわるい。妙な顏が二つ塊まつてゐる。ほかの奴は退屈にさへなるときつとこつちばかり見る。飛んだ事でと口で云ふが、心のうちではこの馬鹿がと思つてるに相違ない。それでなければああいふ風に私語合つてはくすくす笑ふ譯がない。教場へ出ると生徒は拍手をもつて迎へた。先生萬歳と云ふものが二三人あつた。景氣がいゝんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の燒點となつてるなかに、赤シャツばかりは平常の通り傍へ來て、どうも飛んだ災難でした。僕は君等に對してお氣の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手續きにしておいたから、心配しなくてもいゝ。僕の弟が堀田君を誘ひに行つたから、こんな事が起つたので、僕は實に申し譯がない。それでこの件についてはあくまで盡力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べてゐる。校長は三時間目に校長室から出てきて、困つた事を新聞がかき出しましたね。むづかしくならなければいゝがと多少心配さうに見えた。おれには心配なんかない、先で免職をするなら、免職される前に辭表を出してしまふだけだ。しかし自分がわるくないのにこつちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる譯だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順當だと考へた。歸りがけに新聞屋に談判に行かうと思つたが、學校から取消の手續きはしたと云ふから、やめた。
おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計つて、嘘のないところを一應説明した。校長と教頭はさうだらう、新聞屋が學校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに掲げたんだらうと論斷した。赤シャツはおれ等の行爲を辯解しながら控所を一人ごとに廻つてあるいてゐた。ことに自分の弟が山嵐を誘ひ出したのを自分の過失であるかのごとく吹聽してゐた。みんなは全く新聞屋がわるい、怪しからん、兩君は實に災難だと云つた。
歸りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなつたんぢやなからうと云ふと、君まだ氣が付かないか、きのふわざわざ、僕等を誘ひ出して喧嘩のなかへ、捲き込んだのは策だぜと教へて呉れた。なるほどそこまでは氣がつかなかつた。山嵐は粗暴なやうだが、おれより智慧のある男だと感心した。
「ああやつて喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。實に奸物だ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云ふ事をさう容易く聽くかね」
「聽かなくつて。新聞屋に友逹が居りや譯はないさ」
「友逹が居るのかい」
「居なくても譯ないさ。嘘をついて、事實これこれだと話しや、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本當に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「わるくすると、遣られるかも知れない」
「そんなら、おれは明日辭表を出してすぐ東京へ歸つちまはあ。こんな下等な所に頼んだつて居るのはいやだ」
「君が辭表を出したつて、赤シャツは困らない」
「それもさうだな。どうしたら困るだらう」
「あんな奸物の遣る事は、何でも證據の擧がらないやうに、擧がらないやうにと工夫するんだから、反駁するのはむづかしいね」
「厄介だな。それぢや濡衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」
「まあ、もう二三日樣子を見やうぢやないか。それでいよいよとなつたら、温泉の町で取つて抑えるより仕方がないだらう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「さうさ。こつちはこつちで向うの急所を抑えるのさ」
「それもよからう。おれは策略は下手なんだから、萬事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
俺と山嵐はこれで分れた。赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやつたのなら、實にひどい奴だ。到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でなくつちや駄目だ。なるほど世界に戰爭は絶えない譯だ。個人でも、とどの詰りは腕力だ。
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披ゐてみると、正誤どころか取り消しも見えない。學校へ行つて貍に催促すると、あしたぐらゐ出すでせうと云ふ。明日になつて六號活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論してをらない。また校長に談判すると、あれより手續きのしようはないのだと云ふ答だ。校長なんて貍のやうな顏をして、いやにフロック張つてゐるが存外無勢力なものだ。虚僞の記事を掲げた田舎新聞一つ詫まらせる事が出來ない。あんまり腹が立つたから、それぢや私が一人で行つて主筆に談判すると云つたら、それはいかん、君が談判すればまた惡口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本當にせよ、つまりどうする事も出來ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加へた。新聞がそんな者なら、一日も早く打つ潰してしまつた方が、われわれの利益だらう。新聞にかかれるのと、泥鼈に食ひつかれるとが似たり寄つたりだとは今日ただ今貍の説明によつて始めて承知仕つた。
それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやつて來て、いよいよ時機が來た、おれは例の計劃を斷行するつもりだと云ふから、さうかそれぢやおれもやらうと、即座に一味徒黨に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよからうと首を傾けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辭表を出せと云はれたかと尋ねるから、いや云はれない。君は? と聽き返すと、今日校長室で、まことに氣の毒だけれども、事情やむをえんから處決して呉れと云はれたとの事だ。
「そんな裁判はないぜ。貍は大方腹鼓を叩き過ぎて、胃の位置が顛倒したんだ。君とおれは、いつしよに、祝勝會へ出てさ、いつしよに高知のぴかぴか踴りを見てさ、いつしよに喧嘩をとめにはいつたんぢやないか。辭表を出せといふなら公平に兩方へ出せと云ふがいゝ。なんで田舎の學校はさう理窟が分らないんだらう。焦慮いな」
「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸り上到底兩立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思つてるんだ」
「おれだつて赤シャツと兩立するものか。害にならないと思ふなんて生意氣だ」
「君はあまり單純過ぎるから、置いたつて、どうでも胡魔化されると考へてるのさ」
「猶惡いや。誰が兩立してやるものか」
「それに先だつて古賀が去つてから、まだ後任が事故のために到着しないだらう。その上に君と僕を同時に追ひ出しちや、生徒の時間に明きが出來て、授業にさし支へるからな」
「それぢやおれを間のくさびに一席伺はせる氣なんだな。こん畜生、だれがその手に乘るものか」
翌日おれは學校へ出て校長室へ入つて談判を始めた。
「何で私に辭表を出せと云はないんですか」
「へえ?」と貍はあつけに取られてゐる。
「堀田には出せ、私には出さないで好いと云ふ法がありますか」
「それは學校の方の都合で……」
「その都合が間違つてまさあ。私が出さなくつて濟むなら堀田だつて、出す必要はないでせう」
「その邊は説明が出來かねますが──堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辭表をお出しになる必要を認めませんから」
なるほど貍だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き拂つてる。おれは仕樣がないから
「それぢや私も辭表を出しませう。堀田君一人辭職させて、私が安閑として、留まつていられると思つていらつしやるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出來ません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去つたら、學校の數學の授業がまるで出來なくなつてしまふから……」
「出來なくなつても私の知つた事ぢやありません」
「君さう我儘を云ふものぢやない、少しは學校の事情も察して呉れなくつちや困る。それに、來てから一月立つか立たないのに辭職したと云ふと、君の將來の履歴に關係するから、その邊も少しは考へたらいゝでせう」
「履歴なんか構ふもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりやごもつとも──君の云ふところは一々ごもつともだが、わたしの云ふ方も少しは察して下さい。君が是非辭職すると云ふなら辭職されてもいゝから、代りのあるまでどうかやつてもらひたい。とにかく、うちでもう一返考へ直してみて下さい」
考へ直すつて、直しようのない明々白々たる理由だが、貍が蒼くなつたり、赤くなつたりして、可愛想になつたからひとまづ考へ直す事として引き下がつた。赤シャツには口もきかなかつた。どうせ遣つつけるなら塊めて、うんと遣つつける方がいゝ。
山嵐に貍と談判した模樣を話したら、大方そんな事だらうと思つた。辭表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支へあるまいとの話だつたから、山嵐の云ふ通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから萬事山嵐の忠告に從ふ事にした。
山嵐はいよいよ辭表を出して、職員一同に告別の挨拶をして濱の港屋まで下つたが、人に知れないやうに引き返して、温泉の町の桝屋の表二階へ潛んで、障子へ穴をあけて覗き出した。これを知つてるものはおればかりだらう。赤シャツが忍んで來ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極つてる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を踏んで夜なかに下宿へ歸るほど馬鹿氣た事はない。四五日すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奧さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがへえぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違ふ。こつちのは天に代つて誅戮を加へる夜遊びだ。とはいふものの一週間も通つて、少しも驗が見えないと、いやになるもんだ。おれは性急な性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅黨でも飽きる事に變りはない。六日目には少々いやになつて、七日目にはもう休もうかと思つた。そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。宵から十二時過までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈の下を睨めつきりである。おれが行くと今日は何人客があつて、泊りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも來ないやうぢやないかと云ふと、うん、たしかに來るはずだがと時々腕組をして澑息をつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度來て呉れなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出來ないのである。
八日目には七時頃から下宿を出て、まづゆるりと湯に入つて、それから町で鷄卵を八つ買つた。これは下宿の婆さんの芋責に應ずる策である。その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乘せて、懷手をしながら、桝屋の楷子段を登つて山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のやうな顏は急に活氣を呈した。昨夜までは少し塞ぎの氣味で、はたで見てゐるおれさへ、陰氣臭いと思つたくらゐだが、この顏色を見たら、おれも急にうれしくなつて、何も聞かない先から、愉快愉快と云つた。
「今夜七時半頃あの小鈴と云ふ藝者が角屋へはいつた」
「赤シャツといつしよか」
「いゝや」
「それぢや駄目だ」
「藝者は二人づれだが、──どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてつて、ああ云ふ狡い奴だから、藝者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「さうかも知れない。もう九時だらう」
「今九時十二分ばかりだ」と帶の間からニッケル製の時計を出して見ながら云つたが「おい洋燈を消せ、障子へ二つ坊主頭が寫つてはをかしい。狐はすぐ疑ぐるから」
おれは一貫張の机の上にあつた置き洋燈をふつと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出てゐない。おれと山嵐は一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らしてゐる。チーンと九時半の柱時計が鳴つた。
「おい來るだらうかな。今夜來なければ僕はもう厭だぜ」
「おれは錢のつづく限りやるんだ」
「錢つていくらあるんだい」
「今日までで八日分五圓六十錢拂つた。いつ飛び出しても都合のいゝやうに毎晩勘定するんだ」
「それは手廻しがいゝ。宿屋で驚いてるだらう」
「宿屋はいゝが、氣が放せないから困る」
「その代り晝寢をするだらう」
「晝寢はするが、外出が出來ないんで窮屈でたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして洩らしちまつたり、何かしちや、つまらないぜ」
「なに今夜はきつとくるよ。──おい見ろ見ろ」と小聲になつたから、おれは思はずどきりとした。黒い帽子を戴いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違つてゐる。おやおやと思つた。そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打つた。今夜もたうとう駄目らしい。
世間は大分靜かになつた。遊廓で鳴らす太鼓が手に取るやうに聞える。月が温泉の山の後からのつと顏を出した。往來はあかるい。すると、下の方から人聲が聞えだした。窓から首を出す譯には行かないから、姿を突き留める事は出來ないが、だんだん近づいて來る模樣だ。からんからんと駒下駄を引き擦る音がする。眼を斜めにするとやつと二人の影法師が見えるくらゐに近づいた。
「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追つ拂つたから」正しく野だの聲である。「強がるばかりで策がないから、仕樣がない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似てゐますね。あのべらんめえと來たら、勇み肌の坊つちやんだから愛嬌がありますよ」「増給がいやだの辭表を出したいのつて、ありやどうしても神經に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思ふ樣打ちのめしてやらうと思つたが、やつとの事で辛防した。二人はハハハハと笑ひながら、瓦斯燈の下を潛つて、角屋の中へはいつた。
「おい」
「おい」
「來たぜ」
「とうとう來た」
「これで漸く安心した」
「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊つちやんだと拔かしやがつた」
「邪魔物と云ふのは、おれの事だぜ。失敬千萬な」
おれと山嵐は二人の歸路を要撃しなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見當がつかない。山嵐は下へ行つて今夜ことによると夜中に用事があつて出るかも知れないから、出られるやうにしておいて呉れと頼んで來た。今思ふと、よく宿のものが承知したものだ。大抵なら泥棒と間違へられるところだ。
赤シャツの來るのを待ち受けたのはつらかつたが、出て來るのをじつとして待つてるのは猶つらい。寢る譯には行かないし、始終障子の隙から睨めてゐるのもつらいし、どうも、かうも心が落ちつかなくつて、是程難儀な思ひをした事はいまだにない。いつその事角屋へ踏み込んで現場を取つて抑えやうと發議したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥けた。自分共が今時分飛び込んだつて、亂暴者だと云つて途中で遮られる。譯を話して面會を求めれば居ないと逃げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると假定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云ふから、漸くの事でとうとう朝の五時まで我慢した。
角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町をはづれると一挺ばかりの杉並木があつて左右は田圃になる。それを通りこすとここかしこに藁葺があつて、畠の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さへはづれれば、どこで追いついても構はないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まへてやらうと、見ゑが呉れについて來た。町を外れると急に馳け足の姿勢で、はやてのやうに後ろから、追いついた。何が來たかと驚ろいて振り向く奴を待てと云つて肩に手をかけた。野だは狼狽の氣味で逃げ出さうといふ景色だつたから、おれが前へ廻つて行手を塞いでしまつた。
「教頭の職を持つてるものが何で角屋へ行つて泊つた」と山嵐はすぐ詰りかけた。
「教頭は角屋へ泊つて惡るいといふ規則がありますか」と赤シャツは依然として鄭寧な言葉を使つてる。顏の色は少々蒼い。
「取締上不都合だから、蕎麥屋や團子屋へさへ這入つてはいかんと、云ふくらゐ謹直な人が、なぜ藝者といつしよに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出さうとするからおれはすぐ前に立ち塞がつて「べらんめえの坊つちやんた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云つたんぢやないんです、全くないんです」と鐵面皮に言譯がましい事をぬかした。おれはこの時氣がついてみたら、兩手で自分の袂を握つてる。追つかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、兩手で握りながら來たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やつと云ひながら、野だの面へ擲き付けた。玉子がぐちやりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だは餘つ程仰天した者と見えて、わつと言ひながら、尻持をついて、助けて呉れと云つた。おれは食ふために玉子は買つたが、打つけるために袂へ入れてる譯ではない。ただ肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまつたのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に氣がついたから、こん畜生、こん畜生と云ひながら殘る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顏中黄色になつた。
おれが玉子をたたきつけてゐるうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「藝者をつれて僕が宿屋へ泊つたと云ふ證據がありますか」
「宵に貴樣のなじみの藝者が角屋へはいつたのを見て云ふ事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊つたのである。藝者が宵に這入らうが、這入るまいが、僕の知つた事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨を食はした。赤シャツはよろよろしたが「これは亂暴だ、狼藉である。理非を辯じないで腕力に訴へるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴樣のやうな奸物はなぐらなくつちや、答へないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据ゑた。しまひには二人とも杉の根方にうづくまつて動けないのか、眼がちらちらするのか逃げやうともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりや、まだ撲つてやる」とぽかんぽかんと兩人でなぐつたら「もうたくさんだ」と云つた。野だに「貴樣もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答へた。
「貴樣等は奸物だから、かうやつて天誅を加へるんだ。これに懲りて以來つつしむがいゝ。いくら言葉巧みに辯解が立つても正義は許さんぞ」と山嵐が云つたら兩人共だまつてゐた。ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
「おれは逃げも隱れもせん。今夜五時までは濱の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云ふから、おれも「おれも逃げも隱れもしないぞ。堀田と同じ所に待つてるから警察へ訴へたければ、勝手に訴へろ」と云つて、二人してすたすたあるき出した。
おれが下宿へ歸つたのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どう御しるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行つて奧さんを連れてくるんだと答へて勘定を濟まして、すぐ汽車へ乘つて濱へ來て港屋へ着くと、山嵐は二階で寢てゐた。おれは早速辭表を書かうと思つたが、何と書いていゝか分らないから、私儀都合有之辭職の上東京へ歸り申候につき左樣御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。
汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寢込んで眼が覺めたら、午後二時であつた。下女に巡査は來ないかと聞いたら參りませんと答へた。「赤シャツも野だも訴へなかつたなあ」と二人は大きに笑つた。
その夜おれと山嵐はこの不淨な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいゝ心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、漸く娑婆へ出たやうな氣がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢ふ機會がない。
清の事を話すのを忘れてゐた。──おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や歸つたよと飛び込んだら、あら坊つちやん、よくまあ、早く歸つて來て下さつたと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかつたから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云つた。
その後ある人の周旋で街鐵の技手になつた。月給は二十五圓で、家賃は六圓だ。清は玄關付きの家でなくつても至極滿足の樣子であつたが氣の毒な事に今年の二月肺炎に罹つて死んでしまつた。死ぬ前日おれを呼んで坊つちやん後生だから清が死んだら、坊つちやんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊つちやんの來るのを樂しみに待つてをりますと云つた。だから清の墓は小日向の養源寺にある。 
 
小説に用ふる天然 / 夏目漱石

 

天然を小説の背景に用ふるのは、作者の心持ち、手心一つでせう。天然を作中に入れて引き立つ場合もあれば、入れなくても濟む場合もある。私はどちらとも言ひかねます。
現にゼーン、オーステン女史の如きは、其の作中に天然を用ゐたところがない樣に記憶してゐます。全く人間ばかりを畫いて居たかと思はれる。トマス、ハーデー氏の如きは、天然を背景に用ゐて居るが、それは、ウヱツセツクス附近の光景に限つたもんで、其地方的特色がハツキリと浮び出て居る。同氏の小説は、一名ウヱツセツクス小説と言はれて居る位で、其背景に用ゐた天然が、巧みに作中にある、人物の活動や、事件の發展を助けて居るやうです。だから此人の作からは殆んど天然を切り離す事が出來かねる位です。スチブンソン氏も亦、其の作中に、天然を用ふる側の人で、背景の趣が如何にも繪畫的に鮮明に見えます。而して其の天然は靜的よりも、動的の方面が多く、又それに深い興味を持つて居るやうです。即ち風の吹きすさむ有樣や、雨の降りしきる光景を、さながら寫し出すことが上手である。而して、其の觀察力は頗る神經的に鋭敏で、細かいところも脱さぬ爲めにいきいきした感じを與へます。全體を通じて、その溌剌たる才氣と、眼の好惡の極めて鋭い處を現はして居るやうです。
コンラツド氏になると、其の小説の中に天然を描くことが、人一倍好きな所が見えます。而して、その背景に、多く海を用ふるのは、氏が若い時から船に乘つて朝晩、海上の光景に親しんだ影響にも依るのでせうか。其作中には、舟火事、難船、航海、暴風雨などを細かく寫したところに、一種獨特の筆致が見えるし、作物の上に、多少の色彩を加味するやうにも思へるが、天然の活動を描く方に氣を取られ過ぎて、ともすると、主客顛倒の現象を呈する事があります。
メレヂス氏の場合には、其の戀物語などの背景として、それにふさはしい詩的な光景を描くことがあります。一口に言ふと、氏の書き方は曲つたねぢくれた書方ですが、自然に對する強烈な感じを、色や、匂ひなどの微妙な點に現はして、詩的な戀物語めいた小説の背景に、ふさはしいやうに出來上つて居る。且つ氏は、普通の物象を普通以上に鋭く濃かに畫いて、強い印象を與へんとして居るやうです。
之を概括すると、ゼーン、オーステン女史は、作中に天然を用ゐないでも、巧に纒まつた作を出して居りますが、コンラツド氏に至ると、天然に耽るの結果、背景に取り入れた天然の爲めに、却つて一篇の作意を打壞はして居る事があるやうです。他の三氏は、此の中間をいつて、天然を背景に用ゐて、適當の調和を得て居るのみならず、其の作意をも助けて居る點があります。して見ると、天然を作中にとり入れるについては、よいとも、惡いとも言へない。畢竟は、其の時と、場合と、事柄とを考へて、適宜に用ふるの外はありますまい。
四二、一、一二『國民新聞』 
 
博士問題 / 夏目漱石

 

何故學位を辭退したか其理由を話せと言ふんですか。さう几帳面に聞かれると困ります。實は私も朝日の社員ですし、社員の一人が學位を貰ふとか貰はぬとか云ふ事ですから、辭退する前に一應池邊君に相談しようかと思ひましたが、夫程社の利害と關係のある大事件でも無いと思ひましたから、差控へて置きました。實は博士會が五六の人を文學博士に推薦すると云ふ事は、新聞の雜報で一寸見た計りで、眞僞も分らず、一兩日を過しました。すると突然明日午前十時に學位を授與するから文部省へ出頭しろと言ふ通知が、留守宅へ(夜遲く)來たのださうです。左樣、家のものは慥か夜の十時頃とか云つてゐましたが、大方其時下女が夜中郵便函でもあけて取り出したのでせう。それで其翌日の朝電話で、本人は病氣で出られないと云ふ事を文部省へ斷つたさうです。其日の午後妻が病院へ來て通知書を見せたので、私は初めて學位授與の事を承知したのです。さうです。無論代理は出しませんでした。私は其夕方すぐに福原君に學位を辭退したいからと云ふ手紙を出しました。すると私の辭退の手紙と行違に、其晩文部省から――ヱヽと證書と言ひますか、何と云ひますか――學位を授與すると云ふ證書を――家のものは小使と云ひましたが、私は實際誰が持つて來たか知らない――に持たせて宅の方へ屆けて呉れたのです。夫は早速福原さんの手許迄返させました。辭退の出來るものと思つて辭退したのは勿論の事です。私は法律家でないから、法律上の事は知りません。たゞ私に學位が欲しくないと云ふ事實があつた丈です。學位令が勅令だから辭退が出來ないと云ふんですか。そんな法律の事は少しも知りません。然し勅令だから學位令を變更するのが六づかしいと云ふなら、私にも解るが、博士を辭退出來ないと云ふのは、何んなものでせう。何しろ文部省から通知して來て文部大臣が與れるから、唯文部省丈けの事と思つてゐました。文部省の人々に御面倒な御手數を懸けるのは好くないとは思ひましたが。已を得ませんでした。
貰つて置いて善い者か惡い者か、如其理窟に關係した問題は、大分議論が八釜しく成りますし、今必要もありませんから、個々の批評に一任するとして、茲に――私は實に面白いものだと思つて(看護婦に通知状を出させて)居るものがあります。文部省邊の人には當然かも知れませんがね、此通知状を御覽なさい。前文句無しの打突け書で突然「二十一日午前十時同省に於て學位授與相成候條同刻までに通常服云々」。是を見ると、前以て文部省が私に學位を呉れるとか、私が學位を貰ふとか言ふ相談があつて、既に交渉濟になつて、私が承知し切つて居る事を、愈明日執行するからと知らせてきた樣に聞えるでせう。それに此終の但し書に、差支があつたら代理を出せとあるでせう。然し果して此通知状を私が受取つてから、午前十時迄に相當の代理者が頼める者か頼めぬものか。善く分りませんものね。ヤツ。實は社の方計りで無く此方(病院)へも斯う祝ひ手紙が飛び込んで來るんで弱つてゐます。まさか「私は博士ではありません」、と新聞へ書くのも可笑しいと思つて差控へて居りますが。云々
四四、二、二四『東京朝日新聞』

拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知が參つたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました。
學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます。然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。敬具
二月二十一日 夏目金之助
專門學務局長福原鐐次郎殿 
 
博士問題の成行 / 夏目漱石

 

博士事件に就て其後の成行はどうなつたと仰しやるのですか。實はそれぎり何うもならないのです。福原君にも會ひません。芳賀君抔から懇談を受けた事もありません。文部大臣は學位令によつて學位を私に授與したにはしたが、もし辭退した時には何うすると云ふ明文が同令に書いてないから、其場合には辭退を許す權能を有してゐないのだと云ふのが、當局者としての福原君の意見なのですか。成程さうも云はれるのでせう。然しそれでは恰も學位令に博士は辭する事を得ずと明記したと同樣の結果になる樣ですが、實際學位令には辭する事を得ずとも又辭する事を得とも何方とも書いてないのぢやないですか。(甚だ不行屆きですがまだ學位令を調べてゐません。然し慥かさう云ふ風に聞いてゐます。)偖何方とも書いてない以上は、辭し得るとも辭し得ないとも自分に都合のよい樣に取る餘地のあるものと解釋しても可くはないでせうか。すると當局者が自己の威信と云ふ事に重きを置いて「辭する事を得ず」と主張すれば、私の方では自己の意思を楯として「辭する事を得」と判斷しても構はない事になりはしませんか。
又夫程重大なものならば、萬一を慮つて、(表向き學位令に書いてある通りを執行する前に)、一應學位を授與せられる本人の意思を確める方が、親切でもあり、又御互の便宜であつた樣に思はれます。兎に角に當局者が榮譽と認めた學位を授與する位の本人ならば、其本人の意思と云ふのも學位同樣に重んじてよささうに考へます。
私は當局者と爭ふ氣も何もない。當局者も亦私を壓迫する了簡は更にない事と信じてゐます。此際直接福原君の立場としては甚だ困られるだらうとは思ふけれども、明治も既に五十年近くになつて見れば、政府で人工的に拵へた學位が、さう何時迄も學者に勿體ながられなければ政府の威信に關すると云ふ樣な考へは、當局者だつてさう鋭角的に維持する必要もないでせう。實は先例があるとか無いとか云はれては、少し迷惑するので、私は博士のうちに親友もありますし、又敬愛してゐる人も少くはないのですが、必ずしも彼等諸君の轍を追うて生活の行路を行かねばならぬと迄は考へてゐないのであります。先例の通りに學位を受けろと云はれるのは、前の電車と同じ樣に、あとの電車も食付いて行かなければならない樣で、丸で器械として人から取扱はれる樣な氣がします。博士を辭する私は、先例に照して見たら變人かも知れませんが、段々個人々々の自覺が日増に發展する人文の趨勢から察すると、是から先も私と同樣に學位を斷る人が大分出て來るだらうと思ひます。私が當局者に迷惑を掛けるのは甚だ御氣の毒に思つてゐるが、當局者も亦是等未來の學者の迷惑を諒として、成るべくは其人々の自由意思通り便宜な取計をされたいものと考へます。猶又學位令に明記がない爲に、今回の樣な面倒が起るのならば、この面倒が再び起らない樣に、どうか御工夫を煩したいと思ひます。學位令のうちには學位褫奪の個條があるさうですが、授與と褫奪が定められて居ながら、辭退に就て一言もないのはちと變だと思はれます。夫れぢや學位をやるぞ、へい、學位を取上げるぞ、へい、と云ふ丈で、此方は丸で玩具同樣に見做されてゐるかの觀があります。褫奪と云ふ表面上不名譽を含んだものを、是非共頂かなければ濟まんとすると、何時火事になるか分らない油と薪を背負された樣なものになります。大臣が認めて不名譽の行爲となすものが必ずしも私の認めて不名譽となすものと一致せぬ限りは、いつ何時どんな不名譽な行爲(大臣のしか認める)を敢てして褫奪の不面目を來さないとも限らないからです。云々
四四、三、七『東京朝日新聞』 
 
假名遣意見 / 森鴎外

 

私は御覽の通り委員の中で一人軍服を着して居ります。で此席へは個人として出て居りまするけれども、陸軍省の方の意見も聽取つて參つて居りますから、或場合には其事を添へて申さうと思ひます。最初に假名遣と云ふものはどんなものだと私は思つて居るか、それから假名遣にはどんな歴史があるかと云ふことに就て少し申したいのであります。既に今日まで大槻博士、藤岡君等のやうな老先生、それから專門家の芳賀博士らが斯う云ふ問題に就いては十分御述べになつてありますから、大抵盡きて居ります。それから當局の方でもまた調査の初めから此事に關係して居られる渡部君の如きは詳しい説明を致されました。其外達識なる矢野君の如き方の議論もありました。又自分の後に通告になつて居ります中には伊澤君のやうな經驗のある人もあります。又その他諸先生が居られる。然るに私がこんな問題に就いて此處で述べると云ふのは誠に無謀であつて甚だ烏滸がましいやうに自分でも思ひます。併し私は少し今まで聽いたところと觀察が違ひますので、物の見やうが違つて居りますので、それを述べて置かぬと云ふと、後に意見が述べにくいのであります。それゆゑ已むことをえず申します。
一體假名遣と云ふ詞は定家假名遣などと云ふときから始まつたのでありませうか。そこで此物を指して自分は單に假名遣と云ひたい。さうして單に假名遣と云ふのは諸君の方で言はれる歴史的の假名遣即ち古學者の假名遣を指すのであります。而も其の假名遣と云ふ者を私は外國のOrthographieと全く同一な性質のものと認定して居ります。芳賀博士の奇警なる御演説によると外國の者とは違ふと云ふことでございましたが、此點に於ては少し私は別な意見を持つて居ります。主もに違ふと云ふことの論據になつて居りまするのは外國のOrthographieは廣く人民の用ゐるものである、我邦の假名遣は少數者の用ゐるものであると云ふことであります。併しさう云ふやうに假名遣が廣く行はれて居らぬと行はれて居るとの別と云ふものは、或は其の國の教育の普及の程度にも關係します。又教育の方向、どういふ向きに教育が向いて居るかと云ふことにも關係しますのであります。元來物の性質から云つて見れば外國のOrthographieと我が假名遣とは同一なものである、同一に考へて差支へないやうに信じます。一體假名遣を歴史的と稱するのは或る宣告を假名遣に與へるやうなものであつて私は好まない。一體假名遣を觀るには凡そ三つの方面から觀察することが出來ようと思ひます。即ち一は歴史的の方面である。一は發音的即ちPhonetikの方面である。其の外にまだ語原的即ちEtymologieから觀ると云ふ見方がございますけれども、是れは先づ歴史的と或る關係を有つて居るやうに思ひます。一國の言葉が初め口語であつたのが、文語になる時に、此の日本の假名のやうに音字を用ゐて書上げると言ふ、さう云ふ初めの場合には、無論假名遣は發音的であるには違ひない。然るに其の口語と云ふものは段々變遷して來る。一旦書いたものが其の變遷に遲れると歴史的になる。そこで歴史的と云ふことが起つて來ます。それであるから何の國の假名遣でも保守的の性質と云ふものを有つて居るのは無論である。日本のも同樣と思つて居る。さうして見れば之に對して改正の運動が起つて來ると云ふことは無論なのであります。必然の勢であります。又それを改正しようと云ふには發音的の向きに改正しようと考へるのは是れも亦必然の勢であります。此側の主張は殊に大槻博士の御説が最も明瞭に、最も純粹に私には聽取られました。假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。語原的と申す意味を此處に説明しますると云ふと、是れは歴史的と密接の關係を持つて居ります。外の國のOrthographieに於て語原的と云ふことには一種の特殊な意味を有たせてあります。一例を以て言ひますると、國語の「すう」と云ふことは之を「すゑ」と云ふときには和行の「ゑ」を書く。是れは獨逸の例で言ひますと、獨逸で「愛する」と云ふ言葉でliebenと云ふ動詞があります。之れを形容詞にするとliebとなります。けれども「プ」の字を書かずに「ブ」の字を書いてある。斯う云ふ意味に假名遣の發音と相違する點を、主もに語原的と外國では申して居るやうであります。斯う云ふ側のことを藤岡君の音義説に於て五十音圖に照して御説明になつたのであります。一體本會の状況を觀ますると云ふと、抑も假名遣と云ふものの存在からして疑はれて居る。有るか無いか有無の論、少なくも定つて居るか定つて居らぬかと云ふ定不定の御論があるのである。當局は兎に角極つた假名遣と云ふものはあるものだとお認めになつてをります。併し芳賀博士の如きは、三宅博士にお答になつた言葉で見ると云ふと、多少條件付で假名遣の存在を認めて居られるけれども、殆ど極つて居らぬと云ふやうな風に御述べになつて居るやうに聽きました。其の極つて居らぬと云ふのは少數者しか用ゐて居らぬと云ふ意義であつたやうに聽きました。之に就いては私は後に又自分の意見を申します。自分は假名遣と云ふものははつきり存在して居るもののやうに認めてをります。契冲以來の古學者の假名遣と云ふものは、昔の發音に基いたものではあるけれども、今の發音と較べて見ても其の懸隔が餘り大きくはないと思ふ。即ち根底から之を破壞して新に假名遣を再造しなければならぬと云ふ程懸隔しては居らぬやうに見て居ります。凡そ「有物有則」でありまして口語の上に既に則と云ふ者は自然にある。此の則と云ふことは文語になつて來てから又一層精しくなるのであります。世界中で最も發音的に完全な假名は古い所ではSanskritの音字、新しい所では伊太利の音字だと申します。而も我假名遣と云ふものはSanskritに較べてもそんなに劣つて居らぬやうな立派なものであつて、自分には貴重品のやうに信ぜられまする。どうか斯う云ふ貴重品は鄭重に扱つて、縱令それに改正を加へると云ふにしても、徐々に致したいやうに思ふのであります。Max Muellerの言葉に「口語に頭絡とキャウ(馬偏に彊の旁)とを加へて文語を作つて居る」と云つて居ります。馬の頭に掛ける馬具であります。日本の文語に於ける假名遣と云ふもの、此のキャウ(馬偏に彊の旁)は決して朽て用に堪へぬ樣になつて居るのでは無い、まだ十分力のあるものだと云ふことを自分は信じて居ります。 

 

そこで假名遣の歴史に付きまして自分の觀察を異にして居る點を二、三申したいと思ひます。古代の假名遣、殊に延暦遷都前の假名遣に付きまして大槻、芳賀兩博士等の御論がありました。其の大意は是れは其の當時の國民普通の口語であつて、是れが此頃出來た出來たての假名で發音的に書かれたものである、國民が皆之れを用ゐて居る、丁度現状の反對である、斯う云ふ風な御論でありました。そこでさう云ふ國民全體が用ゐて居りまする假名遣に、本當の存在權があるのである、今日のやうに少數者のものになつては、最早活きて居ない、死物になつて居ると云ふ風に聽取れました。扨それから時が移つて次の期に入ります。遷都後天暦までと限りませう。天暦まで即ち十世紀頃であります。この間に音便が生じて來たと云ふことは今までの御論にもありました。此の音便と云ふ者は最早是れは文語の衰替の現象である。其の事は本居あたりでも「くづれたるもの」と云ふことを云つて居ります。衰替の現象であります。併し兎に角それが直に發音的に寫されて居ります。扨是迄の假名は國民の共有物である、此後には少數者の使ふものになつたと云ふことに多くは見られて居ります。併し斯う云ふ古い時代の假名遣が果して國民一般のものでありましたか。此問題に付いては外國の例を較べて見ますと云ふと、餘程疑ふべき餘地があるやうに思ふ。Max Muller等は、Dialect即ち方言と云ふ言葉を斯う云ふ所に用ゐます。古代に於ては何處の國でも方言は澤山あつた。其の中或る者が勢力を得て、それが文語になると云ふと、他の方言は勢力を失ふからして、其の文語の爲に壓倒せられる。斯う云ふ風に認めて居りまするが、或は我邦の古代でも文語になつて居る言葉の外に澤山の方言があつたのではあるまいかと思ふのであります。さうして見ると假名遣は既に出來た初めから少數者の假名遣を多數者に用ゐさせるものではなかつたらうかと云ふ疑があり得ると思ひます。古い拉甸語の如きはあれはLatiumの中のRomaの中の上流者の言葉である。それをLivius Andronicusなどの力で文語として、それを編成して、そこで拉甸語と云ふものが段々に歐羅巴全體にまで行はれるやうになつたと論じてをります。或は日本のも初めからそんなものではあるまいか。さうして見ると云ふと、昔の假名遣は國民全體の用ゐたものであるから是れは存在する權利があるが、今日は少數者が用ゐるからさう云ふ權利がないと云ふ議論は、或はさう疑もない事實としては認められぬかとも思ふ。それから中世になりまして次第に此の一旦定つた文語の衰替を來し、言葉が亂れる、それを正さうと思ふ個人の運動が起つたのでありませう。先日も御引きになつた藤原基俊の保延のころ即ち十二世紀の「悦目抄」の假名遣、初て此の假名遣で言葉の上中下に置く假名と云ふやうなことが出て來ました。次いで所謂定家假名遣が出て參りました。定家假名遣と云ふのは定家卿が「拾遺愚草」を清書させるときに大炊介親行といふ人に之を命じた、其の親行が書き方を定めたと云ふことに傳はつて居ります。世間に流布してゐる定家假名遣と云ふものは親行の孫の行阿の「假名文字遣」に據るので、これには種々な版があります。假名遣と云ふ語は一體其の邊から起つたのでありませう。此の定家假名遣と云ふものを國語の變遷に伴つて發音的に作つたものだと云ふやうに見た人も前からあります。けれども、どうもさうでないやうに思ふ。兎に角素直に發音に從つて作つたものでない、いろいろな理屈がある。例へば四聲に由ると云ふやうなことを盛んに説いてあります。此四聲と云ふものに依つて定める定め方は頗るこじつけではあるまいかと思はれます。芳賀博士も獨斷だと仰しやいましたが、餘程獨斷でございませうと思ひます。醫者の本を見ますると、中頃に陰陽五行を以て有ゆる病氣のことが説明してあります。丁度あゝ云ふ氣持がします。一體此中頃の定家假名遣と云ふものを國語の變遷と見るべきでありませうかと云ふことが問題であります。一體國語の變遷と云ふものは無論口語即ち方言にのみある筈である。是れはさうではなくして文語だけの一時の現象である。變遷と云ふことをMullerは二つに別つてをりまして、言葉が本當に生長するのが本當の變遷である、それから言葉が衰替して來るのは別であると云つて居りますが、無論生長と云ふことは口語にしか無いのでありまして、假名遣にはないのでありますから、さうして見ると衰替現象であるのは明白であります。此の衰替の中でも殊に定家假名遣などは或時代の一の病氣のやうに見られるのであります。芳賀博士は少し之に付いて杞憂を抱いて御出でになる。それは若し斯う云ふ時代の中世の變遷を認めなかつたならば、鎌倉以後の文學が度外視せられはすまいかと云ふのであります。其の主もなる證據は所謂「いひかけ」が證據になつて居る。是れは私はさうは思ひません。「いひかけ」と云ふものは古代は少なかつたのであります。萬葉集あたりは極く少ない。「名が立つ」を「立田山」にかける等、成程皆同音である。同じ音でなければ「いひかけ」になつて居ない。然るに既に定家卿より前にも、是れが變化して來まして、變つた音の「いひかけ」がある。俊成卿は逢ひと云ふ波行の「あひ」を草木の和行の藍に、其の外戀を木居にかける。こんな「いひかけ」が出て來ます。是れが成程定家假名遣の出た後には愈々盛んになつて來て居りますけれども、是れは單に修辭上Rhetorik上の問題であります。昔は同音の「いひかけ」と云ふものがあつたのに、後世に至つて類音の「いひかけ」が出來たと斯う認定すれば、それで足つて居るのであります。之に付いて何か後世の人が極まりを付けようと思ふならば、上からかかつて居る假名に書くか、下で受ける方の假名に書くかと云ふことを極めて置きさへすれば、其位な規定を書方に設けたならば、之を認めて置いて一向差支ない。類音の「いひかけ」が新に修辭上に出來たと思へば何の差支もありませぬ。それから定家假名遣と云ふものは、之は少數者の用ゐたものであると云ふことになつて居ります。これには多少異義を挾み得るかも知れませぬ。北朝の文和、北朝の年號に文和と云ふのがあります、十四世紀の頃、彼の文和の頃に權小僧都成俊が萬葉集の奧書をしました。それに「天下大底守彼式、而異之族一人而無之」「彼式」と云ふのは定家假名遣であります。一人もこれに從はぬ者はないと云つて居りますけれども、併し此の天下と云ふのは詰り教育のある或社會を指したのでありませうから、成程定家假名遣を國民全體が用ゐたと云ふことにはなるまい。是れは多分少數でありましたでせう。それから古學者の假名遣が出て來ます。前に申しました成俊の萬葉集の奧書などを見ますると云ふと、既に假名遣の復古を企つて居ります。自分の古い假名遣を使ふのを「僻案」だと云つて謙遜してゐるけれども、兎に角古い假名遣に由つて假名を施した。それに次いで契冲の「和字正濫鈔」、これは元祿六年の序があります、十七世紀の頃であります。これが先づ復古の初りでありまして、其の後の歴史は私が此處で述べる必要はありませぬ。芳賀博士は之をRenaissanceだと云はれました。成程適當のことと思ひます。丁度西洋の復古運動と同じ性質を有つて居るやうに思ふ。此の復古の假名遣は勿論發音的に改正したのではありませぬ。若し定家の假名遣が國語の變遷であつたならばそれを元へ戻さうとする此の復古運動と云ふものは、非常な不道理なものに違ひない。併し前に申します通り定家假名遣と云ふものは一時の流行病であつたから、それを治療しようと思つて和學者が起つたのだらうと私は思ふ。尚ほ進んで考へますると云ふと、發音的の側から見ると、定家假名遣よりか、復古の假名遣の方が餘程發音的なやうに認められます。此の古學者の假名遣も、勿論諸君のお認めになつて居るやうに少數者の用にしかならないのであります。そんなら其の他の一般の人民はどうして居つたかと云ふと、或は定家の式に從つたと認める人もありませう。或は何にも據らずに亂雜に書いたと云ふことも認められませうと思ひます。斯う云ふ統計は殆ど不可能であります。無論定家の假名遣で書くと云ふ人は物語類でも讀むとか、北村季吟などが作つた「湖月抄」とか、あゝ云ふ物でも讀んで居る人の上であつて、其外は矢張亂雜でありませう。又漢學の方に主もに力を入れる人は假名遣などは構はぬと云つて亂雜に安んじて居つたのでありませう。併しこれらが多數のものに行はれないと云ふのは教育の方向、若は其の普及の程度に依つて定まるのではないかと思はれるのであります。そこで假名遣を排斥すると云ふことは極く最近に起こつて參りました。斯う云ふ運動にも例の陳勝呉廣のやうなものが早く前からあるのであります。既に南朝の藤原長親即ち明魏法師も假名は心の儘に書けと言ふことを云つて居ります。それから極く近くなりますと、澤山さう云ふ例があります。漢學者の帆足萬里先生、彼の人は嘉永五年に歿しました。彼の人の「假字考」と云ふものに斯う云ふことが書いてあります。「今の世の假名遣と云ふものは正理あるものにあらず、久しく用ゐるなれぬれば、強て破らんも好からぬ業なるべし、其の掟にたがひたりとてあながちに病むべからず」これは許容説の元祖とも言へませう。それから井上文雄と云ふ先生があります。明治四年に歿しましたが、此の人の「假字一新」と云ふ本があります。これも假名は心の儘に書けと云ふのであつて、復古の假名遣を排斥しまして、却つて定家の方に加擔して居ります。それから井上毅先生の字音假名遣のこと、これは當局が此席でも御引用になつて居る。斯う云ふやうな沿革を經て來て、さうして今日の假名遣改正の問題が出て參りまして、頗る堅牢な性質の運動になつて來たやうに思ひます。先づ斯う云ふ沿革だと自分は思つて居ります。 

 

これから少しく自分の意見を述べようと思ひます。最も私が感嘆して聽きましたのは大槻博士の御演説でありました。引證の廣いことは固より、總て御論の熱心なる所、丁度彼の伊太利のRenaissance時代のSavonarolaの説教でも聽いたやうな感がしました。私は尊敬して聽きました。併し其の御説には同意はしませぬ。少數者の用ゐるものは餘り論ずるに足らない、多數の人民に使はれるものでなければならぬと云ふのが御論の土臺になつて居ります。併し何事でもさう云ふ風に觀察すると云ふと、恐くは偏頗になりはすまいかと思ふのであります。政治で言つて見ても多數に依ればDemokratic少數ならばAristokratieと云ふ者が出て來ます。此の頃の思想界に於て多數の方から、多數の方に偏して考へますると云ふと、社會説などもそれであります。それから之に反動して極く少數のものを根據にして主張するNietzscheの議論などもある。之れに據ると多數人民と云ふものは芥溜の肥料のやうなものである、其中に少數の役に立つものが、丁度美麗な草木が出て來て花が咲くやうに、出て來ると云ふやうな想像を有つて居る。少なくも此の假名遣を少數者の用に供するものだと云ふ側から之を排斥しますれば、其の反對の側に立ちますると云ふと、斯う云ふ風に云へるかと思ひます。一體古來假名遣と云ふものは少數のものであつたかも知れぬ。又近世復古運動が起りましても、此波動は餘り廣くは世間に及んで居ないに違ひない。併し契冲以來の諸先生が出て來られて假名遣を確定しようとせられた運動に、之に應ずるものは國民中の少數ではあるけれども、國民中の精華であるとも云はれる。斯う云ふ意見を推廣めて人民の共有に之をしたいと斯う云ふやうな議論が隨分反對の側からは立ち得ると自分は信じます。兎に角多數者の用ゐる者に限つて承認すると云ふ論には同意しませぬ。次に當局始め諸君は假名遣の有無を論ずると共に、かなづかひに正とか邪とか云ふことはないと仰つしやつたやうに聽きました。渡部主事の御説明は私は初めの日に遲れて出まして半分しか聽きませぬけれども、大變精密な説明でありまして、其の中には自分が斯う言つたらば他の人が斯う言ふだらうが、それは斯うであると云ふやうに、先潛りまでせられまして有らゆる方面の防禦をして居られます。恰も其の老吏獄を斷ずと言ふ樣な工合、或はSophistの論とでも言ふ樣な工合に、大變巧みに出來て居りまして、御苦心の程を察するのであります。是れも十分の尊敬を拂つて聽きましたけれども、是れも同意は出來ないのであります。一體正邪と云ふことを説きまするは甚だ聽苦しいことでありまして、所謂芳賀博士の言はれた愛國説などにも關係を有つて來る。一體道義のことなどを口にすることは聽苦しい。口で忠義立をする程卑しいことはありませぬ。哲學者のTheodor Vischerが云ひましたことにdas Moralische versteht sich von slbstと云ふことがある。道義上のことは言を俟たない。之を口癖にVischerは言つて居ました。そんなことを言ふのは一體要らないことである。併し國運の消長が言語に關係を有ち又言語の精華たる文語に關係を有つて居る、從つて假名遣にも關係を有つて居ることは明白であります。獨逸の如きは新假名遣の運動が盛んに起りまして學校等で隨分廣く用ゐるやうになりましたけれども、Bismarckの生涯、公文書にだけはつひつひ新假名遣を排斥し通した。あゝ云ふ豪傑でありますから何か深い考があつたかも知れませぬ。當局の御説明に倫理には正とか邪とか云ふことがあるけれども、假名遣にそんなことがないと云ふやうなこともありました。けれども倫理だつても矢張變遷は始終あるもので、吾々が仇討とか腹切とか云ふことに對してどう云ふ倫理上の判斷を有つて居つたかと云ふことは、今日と前と較べれば大變な違ひであります。倫理に於てどんなAuthorityをも認めないとなりますると云ふと、終には善惡の標準がないと云ふやうな騷ぎになります。私にも假名遣に絶對的に正と邪があるとは云ひませぬ。併し前にも申します通り口語こそ變遷を致しますけれども、文語に變遷と云ふことはないのであります。衰替現象で變つて來るのでありますからして、口語の變遷を何時も見て居て、其中固つた所を拾ひ上げては假名遣を訂して行くと云ふ樣なことならば、漸を以てしても宜しからうと思ひますけれども、其の文語に定つて居るものは正として、之を法則として立つて置いて宜しいかと思ふのであります。芳賀博士もこの正邪に就いて御論がありまして、川の流の比喩を御引きになりました。河の流が今日流れて居る處は昔から流れて居る處ではない、必ず河流の方向は變つて居るだらう、さう云ふ變遷のごとく此の假名遣のことも考へねばならぬと云ふやうに言はれました。丁度Mullerの書いたものに矢張同じやうな譬があります。言語を河に譬へてあります。言語は流水の如きものであつて必ず變遷する、そこで之を文語として固めてしまふと云ふと、池水のやうになつて腐る、それが腐つてしまふと云ふと、初め排斥せられた方言が何處かに殘つて居つて、そのものが何時か頭を持上げて革命的に新しい文語が起つて來る。かう云ふ譬へを引いて居ります。故に此の池水のやうに文語が腐らないやうに假名遣を訂すのは必要でありますけれども、一旦文語となつたものは是れは法則である、正しいものであると云ふことを認めて宜しいかと思ひます。Muellerは同じ工合に又他の譬を使つて居ります。土耳古王は子供の時に遊友達があると云ふと、自分が位に即くと友達を絞殺してしまふ、自分が一人で權を握る。併し言語は或る方言が勢力を得て文語になつても、同時に其の附近に行はれて居つた方言が皆殺されてはしまはない、何處かに活きて居る、活きて居つて、それ等がいつか革命運動を起す。斯う云ふ風に言語のことを觀察するが宜しいと、斯う言つて居ります。兎に角土耳古の王が王になれば、それが一つの正統な王である。今のやうに腐敗して來て革命的なことが出て來ると云ふことを防ぐには、新しい貴族を作れば好い、新華族を作るやうにして、ぽつぽつ腐らないやうにして行けば宜しいかと思ふ。口語の廣く用ゐられて來るやうなものを見ては之をぽつぽつ引上げて假名遣に入れる。さう云ふやうに楫を取つて行くのが一番好い手段ではあるまいかと思ふのであります。私は正則と云ふこと、正しいと云ふことを認めて置きたいのであります。 

 

ところが古い假名遣は頗る輕ぜられて、一體にAuthoritiesたる契冲以下を輕視すると云ふやうな傾向がございますが、少數者がして居ることは詰らぬと云ひますと云ふとどうでせう。一體倫理などでも忠孝節義などを本當に行つて居るものは何時も少數者である。それが模範になつてそれを廣く推及ぼして國民の共有にするのであります。少數者のして居ることにもう少し重きを措くのが宜しいかと思ふ。古學者などのAuthorityはさう云ふ風に排斥せられると同時に、井上毅先生の字音假名遣説は殆ど金科玉條として立てられるやうでございますが、あれも餘りさう結構な御論ではないかと思ふのであります。一體漢字を假名に書くのは「易きに由る」のだと云ふのが井上毅先生の議論であります。併し假名に書くのは易きに由ると云ふのを本にすべきではあるまいかと思ひます。何處の國でも國語の中に外國の語が入つて來て國語のやうになる。そこで日本では漢語が國語になる。其の道中の宿場の樣になつて、假名で書いたものが行はれるのであります。中に全然國語になつたのもある。誰も知つて居る文の「ふみ」、錢の「ぜに」の類である。中には消息「せうそこ」などと云つて、是れも殆んど假名で通用する國語のやうになつて居る。さう云ふ字は假名遣を廢して「しょうそこ」と書いては分りにくいことになつてしまひます。其の外井上先生の今の支那音に引當てての御論と云ふものも餘り正確なものではないかと思ふ。要するに正だとか邪だとか云ふことが絶對的に假名遣にあるとは申しませぬけれども幾分か正しい側と云ふことがあるだらうと思ひます。西洋語のOrthographieのorthosは正と云ふことであります。正しく書く法をOrthographieと云ふ。詞などと云ふやうなものも人の思想を表出するものであるから、正しいと云ふ詞を用ゐるのであります。正しいと云事は云へると思ふ。それからこの正と邪との關係と云ふことに連係しまして街道の譬と云ふものが頻りに本會に於て行はれて居る昔の假名遣は舊街道である、そこへ持つて行つて發音的の新しい假名遣が作られる、是れは便利なる横道である、何も舊い街道を正道として便利な新しい假名遣を邪道とすることはないと云ふのであります。此の話は少しく自分の見る所では事實に違つて居る樣であります。決してさう云ふ便利な新しい道が出來て居らないのであります。例之ば「つくゑ」と云ふ詞を見ましても、此Wの子音に當る「う」と云ふ音、是が響かないのであります。其の響かないのを發音的に書くならば、誰が書いても「つくえ」と阿行の「え」を書いて居る筈であります。それならば新しい道が出來て居る譯で、それを認めてやつても宜しい譯であります。併し實際人の書いたのを見ましても、机の「ゑ」は阿行の「え」を書いたり、和行の「ゑ」を書いたり、波行の「へ」を書いたり、有らゆる假名を使つて居ります。さうして見ると人民一般は田とも云はず畠とも云はず、道のない所を縱横に歩いて居るのであります。實に亂雜極つて居る、むちやであります。そこで若し文部省に於て新しく發音的に訂して行きまして、阿行の「え」を書けと云ふ新道を開きますと云ふと、さうすると今度は道が二條出來ます。人民は又二條のどれにも由らずに縱横に田畠を荒して歩くかも知れないと思ふ。却つて問題は複雜になつて來る。さう云ふ關係は獨り此の假名遣のみではありませぬ。文法弖爾乎波にもございます。例之ば文部省で許容になつて居ります「得せしむ」と云ふ弖爾乎波がある。あれは「得しむ」と云ふ詞である。併し口語では決して「得しむ」も「得せしむ」もない。口語では「得させる」斯う云つて居る。「得さす」と云ふ詞になつて居る。だから口語の變遷即ち言語變遷には何の關係も無くして「得せしむ」と云ふ詞が生じて來た。何故生じて來たかと云ふと、是れは言語の變遷ではない、是れは文盲から生じ來たのである。「得しむ」といふ詞を知らない人が「得せしむ」と云ふ言葉を書いた。例の惡口の歌に「伊勢をかし江戸ものからに京きこえししとせしとは天下通用」と云ふ間違をひやかした歌があります。丁度あゝ云ふ譯で一時流行して來たのであります。斯う云ふことは又弖爾乎波ばかりではない、漢字にもあります。私は勿論何にも知らない、漢字も知りませぬ。併し模糊などと云ふ語はどの新聞を見ても「も」が米へんになつて居りますが、あれなどは木へんだと云ふことであります。斯う云ふのを一々變遷だと認めて來ると今度は新しい漢字までも拵へなければならぬことになつて來ようかと思ひます。兎に角私は今便利な新道が出來て居ると認めるのは觀察を誤つて居るのではないかと思ふ。それから街道の比喩に對して芳賀博士は又別な比喩を出されました。舊い街道は是れは街道ではない、廢道になつてしまつて居るのである。荊棘が一杯生えて居つて、それを古學者が刈除いて道にしようと思つたけれども、人民は從つて行かない。斯う云ふやうな比喩を出されました。私共の立場から見ると云ふと、此の假名遣は昔も或は國民の皆が行つた道ではない、初めも或少數者の行つた道であらう。それが段々に大きい道になつて來たのである。縱令中頃定家假名遣が出まして、一頓挫を來しましても少し荊棘が生えましても、荊棘を刈除いて、元との道を廣げて、國民が皆歩むやうな道にすると云ふことが、或は出來るものではないかと云ふやうな、妄想かもしれませぬけれども、想像を自分は有つて居ります。何處の國でも言語の問題に付いては國語を淨めようと云ふことを一の條件にして調査をするのであります。其の國語を淨めると云ふ側から行きますと云ふと、此の假名遣の道を興すのが一番宜しいかと思ふ。元の假名遣を興して、其の中へ新しい假名も採用する。それには先づ舊街道の荊棘を除いて人の善く歩けるやうにしてやります。そこへ持つて行つて文明式のMacadam式の築造をしようともAsphaltを布かうとも、何れでも宜しいと云ふ考へであります。 それから街道の比喩と共に許容と云ふことが先頃から問題になつて居ります。此の許容と云ふのはToleranceだと云ふ説明を聽きました。例之ば國で定つた宗教がありまして、人民が他の宗教を信じてもそれを許容する。それがToleranceである。Toleranceと云ふことを使はれる場合は多くは何か正則なものが先きへ認めてある。正則のものがなくてToleranceと云ふことはありませぬ。彼の弖爾乎波の許容になりましたときなどは、まだ元の語格を正則にしてある。それに背いて居る弖爾乎波を許容する。斯うなつて居ります。「得しむ」は正則である、「得せしむ」は許容すると云ふのでありますから、趣意は能く分つて居ります。此の比例が假名遣になつてから狂つて來ました。元の假名遣を正則にして發音的に新に作る假名遣を許容するなら宜しい。然るに發音的に新造する分の假名遣を正則にして、教科書に用ゐるのでありますと、それは許容ではない。之に就いては度々諸方から議論がありました。少し野卑なことを申しまするけれども、此度の假名遣に於けるところの許容と云ふことは稍々とんちんかんだと思ふのであります。此の許容に就きまして、どうも私共の見る所では、世間に便利な道が出來て居るから許容すると云ふ、其の便利な道が出來てゐると云ふ御認定が、稍々大早計である。早過ぎる場合が多いやうに思ふのであります。例之ば「得せしむ」と人が書いたところが、それを直に採上げて是れが言語の變遷であると云つて、是れが便利な新道であると云つて、御認めになつて御許容になる。そんな必要はないかと思ひます。文盲の人があつて「得しむ」と云ふ語を知らないで「得せしむ」と書く。決して「得しむ」が不便だから「得せしむ」にしようと云つて書くのではないのであります。さうすると新聞でも小説でもさう書く。それが媒介になつて次第に擴がる。是れも古びが着いて一つの歴史的のものになれば、誤謬から生じた詞でも認めんければならぬのでありますけれども、それを急いで認めることはどうも宜しくないかと思ひます。例之ば氣の狂つた人があつて道もない所を走り、衆人が附いて行く。直にそれが道だと云つて、大勢が附いて行くから道だと云つて直にそれを道にすると云ふのは、少し其の仕事が面白くないかと思ふ。間違を人のするのを跡を追駈けて歩いて居るやうに、吾々の立場から見ると見えるのであります。斯う云ふ工合で行きますと、例の漢字の間違なども、どうかすると流行つて來る。其の跡を追駈けると云ふと、新しく嘘の漢字の辭書を作らんければならぬ。嘘字盡を作ることになりはせぬかと思ひます。何處の國でも國語のことを調べるときには、國語を淨めると云ふことを運動の土臺にして居ります。それに反して斯う云ふ風な仕事をしまするのは國語を濁すのであります。勿論初め誤から生じましても、前に申しまする通り、時代を經て古びが着いて自然に新しい國語のやうになつたと云ふ場合には、無論それを取るべきであります。丁度華族のお仲間に新華族が出來て來るやうな譯であります。それは國語の歴史にも先例がある。例之ば「あらたし」と云ふ語がある。是れが「あたらし」となる。斯う云ふのは是れは口語の變遷に基いて新しい語を認めたのであります。それから同じ許容になつて居る弖爾乎波の中でも「せさす」を「さす」にするやうなことは、是れは口語の方で久しく一般に行はれて居る。斯う云ふのは是れは認めて宜しい。それから種々の漢語の字音に就きまして、間違の例が今までも引かれて居りますが、例之ば畜生と云ふのは本當は「きうしやう」だと申します。さう云ふのは「ちくしやう」と云ふ國語と認めて宜しい。新しい語で言ひましても輸出を「ゆしゆつ」と云ふ。此の位に固まつて來れば國語と認めるのに異義はないのであります。併し餘り早まつて認定をしないで、少しづゝ徐々に認定をするのが至當な方法であらうと思ふのであります。さう云ふやうに私は少數の人が用ゐて居つても、其の少數の人が國民の精華とも云ふべき人であるならば、其の用ゐて居るものを廣く國民に及ぼすと云ふことを圖りたいと云ふ考へであります。

 

此考へに付いて最も芳賀博士などのお説とは衝突を來すのであります。芳賀博士は必要不必要と云ふことを論ぜられます。多數の用ゐて居らぬものを多數に強付ける必要はないと云ふのであります。さう云ふことをする權能は文部大臣にあるかどうか疑はしいと、斯う云はれるのであります。芳賀博士の總ての御議論は實に達識な御議論であつて、感服して居ります。併し此の必要不必要の論、文部大臣にさう云ふ權能がありや否やと云ふ御論には、少し私は同意が出來ないのであります。言語の變遷は口語の上にあります。それは自然に行はれて行く。文語の方になりますと云ふと、是れは人工の加つたものである。假名遣も同樣である。併し文語になつてから初めて言語は完全になる。言語が思想を十分に表はすと云ふことが初めて文語になつてから完全になる。假名遣は其の文語の方の法則である。若し我邦の假名遣が廣く人民間に行はれて居なかつたならば、それは教育が遍く行はれて居らぬ爲であらうと思ふのであります。そこで丁度昔初めて假名が出來たときに、それを使ふことを當時の政府が人民一般に施し得た如く、今日の文部大臣が假名遣を一般に教へられると云ふことは正當なる權利と思ふ。權利ではない、義務である。教なければならぬのであると思ふ。之に反して文部大臣を始め教育の任に當つて居るものは、間違つたことを、正則に背いたことをしてはならぬかと思ふ。昔の話に羅馬のTiberius帝が或る時話をして語格を間違へた。さうすると傍に聽いて居たMarcellusと云ふ人が、今のは違つて居ると批難して云つた。さうするとCapitoと云ふ人が聽いて居て、帝王の口から出た詞は立派な拉甸語であると斯う云ひました。さうするとMarcellusの云ふには、成程帝王は人民に羅馬の公民權を與へることは出來よう、併し新しい言語を作ることは出來ない。斯う云つたと云ふ。正則に反いたことをすると云ふ權能は帝王と雖どもない。之が必要不必要の論であります。
併しながら必要不必要の論の外にもう一つ論があります。假名遣を國民一般に行はうと云ふことは不可能であると云ふ論があります。此の方の側は大槻博士の御論の中にありました。其の中の最も有力なる論據として仰しやるには、かうして委員が大勢居るけれども委員の中で一人でも假名遣を間違へないものはないと云ふのでありました。實に其の通りでありまして、自分なども始終間違へますけれども、間違つて居ても、間違つたことは人に聽いて訂して行かう、子供にも間違つて居ないことを教へてやつて、少しでも正則の方に向けようと云ふことを考へて居るのであります。當局に於ては不可能とまでは申されませぬけれども、困難だと云ふことは申されてあります。是れは一般にさう云つて居ります。困難となれば程度問題であつて、不可能ではないのであります。現に當局に於ては假名遣にも人の意識に入つて居る部分と意識に入つて居ない部分とがあると云ふことを言つて居られる。其の意識に入つて居る部分はいたはつて存して置いて、意識に入つて居ないものを直すと、斯う云ふ御論であります。併し或るものは意識に入つて居ると云ふことを認めると云ふと、未だ意識に入つて居らない部分も或は仕方に依つては意識に入り得るものではあるまいかと思ふ。扨古學者が假名遣のことをやかましく論じて居るのに、例之ば本居の遠鏡の如き、口語で書く段になると、決して假名遣を應用して居らぬと云ふことを、假名遣を一般に普通語に用ゐるのは不可能である、或は困難であると云ふ證據に引かれますけれども、是れは少し性質が違ふかと思ふ。古學者達は文語と云ふものは貴族的なもののやうに考へて居りますから。そこで貴族の階級を極く嚴重に考へまして、例之ば印度の四姓か何かのやうに考へまして、ずつと下に居る首陀羅とか言ふやうな下等な人民は、是れは論外だ、斯う云ふ風に見て居りますから、所謂俗言と云ふものを卑しんだ爲に、俗言のときは無茶なことをしたのであります。若し假名遣を俗言に應用する意があつたならば、所謂俗言を稍々重く視たならば、あんなことはしなかつたらうと思ふのであります。それでありますから芳賀博士が、若し本居先生などが今在つたならば決して假名遣を國民に布くなどと云ふことは云はれないだらうと云はれるのは、同意が出來兼ます。本居先生が今在つたならば、必ずや國民に假名遣を教へようとしただらうと思ひます。本居先生のみならず堀秀成先生の如きも、是れは死なれてから間もありませぬけれども、若し今日居られたら矢張假名遣を國民に行はうとしたであらうと思ふ。明治の初年に文部省では假名遣を小學校に使用しました。此の結果に就いても私は見方を異にして居る。たしか江原君でありましたか、存外此の假名遣は兒童に歡迎せられたと云ふことを言はれました。私もその時はまだ半分子供でありましたが、確に歡迎したのであります。若し彼の時の文部省の方針が確定して動かずに今日まで繼續せられて居つたならば、或は餘程人民に廣く假名遣が行はれて居りはすまいかと思ふ。稍々上の學校、中學以上になつて假名遣を誤る例を頻りに擧げられて、それを以て困難若しくは不可能の證明にしようとせられますけれども、是れは周圍に誤が多い、新聞紙を讀んでも小説を讀んでも、皆亂雜な假名遣である、目に觸れるものが皆間違つて居るのでありますから、縱令學校だけでどう教へても誤まるのであります。併し明治初年から今日まで若し假名遣を正しく教へることを努力せられたのであるならば、餘程新聞記者や小説家にも假名遣を知つて居る者が今日は殖えて居まして、新聞や小説が正しい假名を多く書くやうになつて居はすまいかと思ひます。さうしたならば中學以上の人などはそんなに間違へずに書きはすまいかと思ふのであります。  

 

それから、然らば假名遣を若し國民に教へようとするならば、どうしたらば好いかと云ふその方法手段であります。是れはたしか黒澤翁麿あたりの工夫でありませうがか、少數のむつかしい假名から教へて行くと云ふと、後との容易しいのは自然に分ると云ふ方法があります。今日でも假名遣を教へる人は大抵さう云ふ手段を執るやうであります。一種の記憶法のやうなものであります。斯う云ふ記憶法でありますが、是れなどを猶研究したならば、教へる方法は今日よりも一層完全に出來得るかと思ふのであります。假名遣の困難と云ふことに就いては主として字音假名遣のことが擧げられてあります。此の字音のことは洵に困難な問題でありまして、古い所の、古いと云つても是れは十八世紀ではありまするが、僧文雄の「磨光韻鏡」から以來、本居の「漢字三音考」と「字音假名遣」、文政中の太田全齋の「漢語音圖」、現存して居られる木村正辭先生の「漢語音圖正誤」、先づ斯う云ふやうな系統で、字音の研究がしてある。大槻先生の仰しやつた通りに實に是れは頭痛のするやうな本であります。詩を作つたことのない者などには所詮覺えられぬと云ふ御論は尤もに聽きました。併しながら是れも其の極く困難な部分は殆ど大槻博士の御演説の中に網羅してあつたやうに思ふ。兎に角一場の御演説で困難な部分は網羅し得られるのでありまして、其の外は割合に容易しいのであります。此の字音の假名遣に對する、是れに處する道を考へまするには、漢語がどの位日本化して居るかと云ふ程度を研究する必要があります。先刻申します通り全く字音が國語に化して居るのがある。それからそれに亞ぎまして、「文」「錢」の外に、あゝ云ふ類の之に準ずべきものがあります。例之ば「天地」と云ふことは「あめつち」よりか「てんち」の方が行はれて居る。是位に日本化すれば是れは國語と見なければならぬ。それに反して所謂漢字に隱れて居る字音と云ひまするものは、日本化した程度の極く低いものである。字音に隱れて居るから之れを改めることは容易だと云つてありまするけれども、字音に隱れて居る程ならば改めないでも宜しいかも知れないと云ふ一方には理由が立ちます。そこでさう云ふ日本化して居る程度の低いものは除いて、十分日本化して居るものを小學等に教へると云ふことになりますると云ふと、字數が自然に限られることになる。其の少數の字數ならば字音假名遣と雖ども教へられるかと思ふのです。そんなら久しく音の訛つて居るものはどうするか。例之ば今の「輸出」が「ゆしゆつ」になつて居ると云ふやうなことであります。斯う云ふのは「ゆしゆつ」と云ふ新國語と認めます。是れは音でない、訓だと思へば宜しいのであります。是れは字音としての取扱を停止すれば宜しいのであります。然らば未だ字音の考へられて居らぬものはどうするか。大槻先生は烏帽子の「烏」は「え」であるか「ゑ」であるかと云ふ疑を御引きになりました。かういふことこそ國語調査會と云ふやうな所で定案を作つて、兎に角一つの案を作つてそれを公認せられることが必要であるかと思ふのであります。
併し困難は獨り字音ばかりではない。國語の假名遣にもあります。此の場合では殊に少數のむつかしい假名から教へると云ふ手段を研究して、その方法をもう少し完全に作れば、假名遣を廣く教へることが出來ようかと思ひます。諮詢案では「動詞の活用から出て居る假名」と云ふものだけを保存することになつて居りまするが、其の御趣意は至極結構な御趣意と思ひます。併し實際の案に表はれて居るところはどうも容易周到でないやうに思ふのであります。例之ば和行の假名を以て言つて見ますると「居る」と云ふ語は假名遣を存して置く。是れが名詞になつて、例之ば坐に居る「位」、「圓居」、「芝居」と云ふ假名になると阿行の「い」になるやうに思はれる。又「据う」と云詞でも「すう」と云ふ假名遣が存してある。「つきすゑ」の「つくゑ」又「いしずゑ」の「ゑ」になると、是れは阿行になつてしまふ。斯う云ふことがあつて見ると云ふと、どうも境界がはつきりしないやうに思ひます。どうもこの案はまだ十分熟して居るまいかと思ひます。教育團とか云ふものの意見と云ふのが、此の頃新聞に出て居りますが、大いに參考すべきことがあるやうに見受けます。大體の論は私は取りませぬけれども、此の諮詢案に對する教育團の意見と云ふものには宜しいところがあるかと思ひます。又國語の假名遣で未だ考へてないもの、例之ば「くぢら」か「くじら」か、「たはら」か「たわら」かと云ふやうなこと、是れも先刻の字音と同じく、斯う云ふことこそ國語調査會などで研究せられて其の結果を公認せられたら宜しいかと思ひます。兎に角字音にも國語にも假名遣に困難はありますけれども、凌ぐべからざる程の困難はないやうに思ひます。  

 

そこで自分の意見を尚ほ約めて申しますれば次の通りであります。第一に假名遣は成程性質上から保守的なものである。併しながら發音的の側から見ても大なる不都合があるものとは認めない。夫故に教科書等では矢張假名遣の正則として之を用ゐられたいと云ふ、此點は陸軍省も一般に其の意見であります。第二は假名遣は發音的に改めると云ふことを爲し得るものである。政府は極く愼重に調査して漸を以て改められるが宜しい。其の時には國語を淨めると云ふことを顧慮して、徐々に直されたい。斯う云ふのであります。それから次に第三に此の假名遣を直すに先立つて、國語にも字音にも假名遣の未定問題があるから、さう云ふことは學者の團體にでも命じて兎に角定めさせてそれを公認せられたい。斯う云ふのであります。そこで此の諮詢案と云ふものはどうも未だ熟して居らぬやうに思ふ。尚ほ附け加へて申したい意見があります。どうか政府に於ては純粹に發音による國語の書き方と云ふことを一層深く研究せられて、丁度西洋で發音學者、Phonetikの學者がいろいろ研究して居るやうに國語を成るたけ完全に發音的に書くと云ふ方法を研究せられたいと斯う思ふのであります。どうも唯今改正案になつて居る發音的の假名と云ふものは發音的でない所があるやうに思ふ。矢野君でありましたか、斯う言はれました、「かう」だの「こう」だの「かふ」だの「こふ」だのを「こう」と書く、それは矢張發音的に「こお」と「お」の字を書いた方が宜しいと云ふことを言はれましたが、御尤もと思ひます。古い催馬樂などに阿行の母音を後へ添へて書いたやうな例があるかと思ふ。是れなどは寧ろ發音的で書くと云ふ側からは「こう」と書かずに、阿行の「お」を使つて「こお」と書いた方が宜しいやうに思ひます。其の外發音の必要なる研究の他の例を言ひますと、外國の語を書くときに英語で云ふ「あある」と「える」などは別々に表はされない。是れなども何か符號を以て表はすことが必要である。さうなればrとlの音を別々に表はすことが出來ると思ふ。さう云ふ發音的に國語を完全に書く法を十分研究して置かれると云ふと、其中からどれだけのものを採つて假名遣に入れると云ふときの基礎にならうと思ふ。さう云ふ元帳を作つて置いてそれから靜に改正をしたいのであります。それからもう一つ申して置きたいのは、小學などの教育に新しい發音假名を教へると云ふことは是れは混雜の原因となる。それは教なくても宜しいと云ふことであります。是非小學校の初めから假名遣は正しい假名遣を教へるが好い。教科書は正則の假名遣で書いてやりたい。そこで子供に自身で何か書かせる。書かせる段になると云ふと或は發音的に書くかも知れぬ。其の時に發音的に書いたのを誤としない、それを認めてやる。こんな時の教員の參考には、今云つたやうな發音的の書き方の調査が出來て居つたならば、それを使用することが出來るだらう。發音的に書いたのを、それを誤には勘定しない、斯うして行きます。さうすると云ふと一向差支ない。是れが本當の許容である。是れなれば許容と云ふ詞は正當に用ゐられて居るのであります。そこで目に觸れるものは悉く本當の假名遣になつて來る。斯の如くにしたならば、段々小學校から中學校に行くに從つて假名遣を覺えるだらうと思ひます。大略斯う云ふ意見であります。
(明治四十一年六月)  
 
空車 / 森鴎外

 

むなぐるまは古言である。これを聞けば昔の繪卷にあるやうな物見車が思ひ浮べられる。
總て古言はその行はれた時と所との色を帶びてゐる。これを其儘に取つて用ゐるときは、誰も其間に異議を挾むことは出來ない。しかしさうばかりしてゐると、其詞の用ゐられる範圍が狹められる。此範圍はアルシヤイスムの領分を限る線に由つて定められる。そして其詞は擬古文の中にしか用ゐられぬことになる。
これは窮屈である。更に一歩を進めて考へて見ると、此窮屈は一層甚だしくなつて來る。何故であるか。今むなぐるまと云ふ詞を擬古文に用ゐるには異議が無いものとする。ところで擬古文でさへあるなら、文の内容が何であらうと、古言を用ゐて好いかと云ふに、必ずしもさうで無い。文體にふさはしくない内容もある。都の手振だとか北里十二時だとか云ふものは、讀む人が文と事との間に調和を闕いでゐるのを感ぜずにはゐない。
此調和は讀む人の受用を傷ける。それは時と所との色を帶びてゐる古言が濫用せられたからである。
しかし此に言ふ所は文と事との不調和である。文自體に於ては猶調和を保つことが努められてゐる。これに反して假に古言を引き離して今體文に用ゐたらどうであらう。極端な例を言へば、これを口語體の文に用ゐたらどうであらう。
文章を愛好する人は之を見て、必ずや憤慨するであらう。口語體の文は文にあらずと云ふ人は姑く置く。これを文として視ることを容す人でも、古言を其中に用ゐたのを見たら、希世の寶が粗暴な手に由つて毀たれたのを惜んで、作者を陋とせずにはゐぬであらう。
以上は保守の見解である。わたくしはこれを首肯する。そして不用意に古言を用ゐることを嫌ふ。
しかしわたくしは保守の見解にのみ安住してゐる窮屈に堪へない。そこで今體文を作つてゐるうちに、ふと古言を用ゐる。口語體の文に於ても亦恬としてこれを用ゐる。著意して敢て用ゐるのである。
そして自分で自分に分疏する。それはかうである。古言は寶である。しかし什襲してこれを藏して置くのは、寶の持ちぐされである。縱ひ尊重して用ゐずに置くにしても、用ゐざれば死物である。わたくしは寶を掘り出して活かしてこれを用ゐる。わたくしは古言に新なる性命を與へる。古言の帶びてゐる固有の色は、これがために滅びよう。しかしこれは新なる性命に犠牲を供するのである。わたくしはこんな分疏をして、人の誚を顧みない。
わたくしの意中に言はむと欲する一事があつた。わたくしは紙を展べて漫然空車と題した。題し畢つて何と讀まうかと思つた。音讀すれば耳に聽いて何事とも辨へ難い。然らばからぐるまと訓まうか。これはいかにも懷かしくない詞である。その上輕さうに感ぜられる。痩せた男が躁急に挽いて行きさうに感ぜられる。此感じはわたくしの意中の車と合致し難い。そこでわたくしはむなぐるまと訓むことにした。わたくしは著意して此古言の帶びてゐる時と所との色を奪つて、新なる語としてこれを用ゐるのである。そして彼の懷かしくない、輕さうに感ぜさせるからぐるまの語を忌避するのである。
空車はわたくしの往々街上に於て見る所のものである。此車には定めて名があらう。しかしわたくしは不憫にしてこれを知らない。わたくしの説明に由つて、指す所の何の車たるかを解した人が、若し其名を知つてゐたなら、幸に誨へて貰ひたい。
わたくしの意中の車は大いなる荷車である。其構造は極めて原始的で、大八車と云ふものに似てゐる。只大きさがこれに數倍してゐる。大八車は人が挽くのに此車は馬が挽く。
此車だつていつも空虚でないことは、言を須たない。わたくしは白山の通で、此車が洋紙をきん(禾扁に旁が國構への中に禾)載して王子から來るのに逢ふことがある。しかしさう云ふ時には此車はわたくしの目にとまらない。
わたくしは此車が空車として行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覺えしむる。この大きい車が大道狹しと行く。これに繋いである馬は骨格が逞しく、榮養が好い。それが車に繋がれたのを忘れたやうに、緩やかに行く。馬の口を取つてゐる男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の靈ででもあるやうに、大股に行く。此男は右顧左眄することをなさない。物に逢つて一歩を緩くすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。傍若無人と云ふ語は此男のために作られたかと疑はれる。
此車に逢へば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。此車の軌道を横るに會へば、電車の車掌と雖も、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そして此車は一の空車に過ぎぬのである。
わたくしは此空車の行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしは此空車が何物をか載せて行けば好いなどとは、かけても思はない。わたくしがこの空車と或物を載せた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思はぬ事もまた言を須たない。縱ひその或物がいかに貴き物であるにもせよ。
(大正五年七月) 
 
津下四郎左衛門 / 森鴎外

 

津下四郎左衛門は私の父である。(私とは誰かと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名は只聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸本と同じく朽ちたと云はれても、私はさうでないと辯ずることが出来ない。
かうは云ふものの、若し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。其一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎の首を取つた男である。」
丁度世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠先生を知つてゐる。
私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥ある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎ある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。
此禍福とそれに伴ふ晦顕とがどうして生じたか。私はそれを推し窮めて父の冤を雪ぎたいのである。
徳川幕府の末造に当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。苟も気節を重んずるものは皆尊王に趨つた。其時尊壬には攘夷が附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらもニつ宛のものを一つ一つに引き離しては考へられなかつたのである。
私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。是は群集心理の上から云ふのである。歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧のある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃を食はせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするに若くはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹してゐなかつたのである。
開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時外夷とせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我に優つた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれを暁らなかつた一人である。
弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某と云ふ蘭法医に治療を託した。当時元田永孚などと交つて、塾を開いて程朱の学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。
嘉永五年に池辺啓太が熊本で和蘭の砲術を教へた時、横井は門人を遣つて伝習させた。池辺は長崎の高鳥秋帆の弟子で、高島が嫌疑を被つて江戸に召し寄せられた峙、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。
翌年横井が四十五歳になつた時、Perryが横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの便節に逢はうとして長崎へ往つた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者と智者との気息が漸く通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎に遣つてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝義邦と識合になつて、勝と横井とが交通し始めた。これも智者の交である。慶応二年五十八歳の時横井は左平太、太平の二人の姪を米国に遣つた。海軍の事を学ばせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎と曰ひ、弟を沼川三郎と曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平大の伊勢太郎に譲つた。 

 

智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光を晦ますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹しなかつたのは、智慧の秘密が善く保たれたのである。此間の消息を一のdrameの如くに、観照的に錬稠して見せたのは、梧陰存稿の中に、井上毅の書き残した岩倉具視と玉松操との物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村幽居の「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数が愚だからである。
私は残念ながら父が愚であつたことを承認しなくてはならない。父は愚であつた。しかし私は父を辯護するために、二筒条の事実を提出したい。一つは父が青年であつたと云ふこと、今一つは父の身分が低かつたと云ふことである。
父が生れた時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰は今の洋行帰と同じである。父が横井を刺した時、横井は六十一歳で、参与と云ふ顕要の地位にをつた。父は二十二歳の浮浪の青年であつた。
智者横井は知行二百石足らずの家とは云ひながら、兎に角細川家の奉行職の子に生れたのに、父は岡山在の里正の子に生れた。伊木若狭が備中越前鎮撫総督になつた時、父は其勇戦隊の卒伍に加はらうとするにも、幾多の抵抗に出逢つたのである。
人の智慧は年齢と共に発展する。父は生れながらの智者ではなかつたにしても、其の僅に持つてゐた智慧だに未だ発展するに遑あらずして已んだのかも知れない。又人の智意は遣遇によつて補足せられる。父は縦しや愚であつたにしても、若し智者に親近することが出来たなら、自ら発明する所があつたのかも知れない。父は縦しや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、遂にconsacresの群に加はることが出来ずに時勢の秘密を覗ひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議に渉ることを禁じ得ない。
私の家は代々備前国上道郡浮田村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼村と云つた所で、宇喜多直家の城址がある。其城壕のまだ残つてゐる士地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ぱかりで、何一つ人の目を惹くものもない田舎である。
私の祖父を里正津下市郎左衛門と云つた。旧家に善くある習で、祖父は分家で同姓の家の娘を娶つた。祖母の名は千代であつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠で岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母ではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。
父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太であつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏の丈と云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂の間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を間けば、其詞の中に何某は「正義」の人、何某は「因循」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧ろ大胆な、進取的な策であるべき害なのに、それが因循と云はれたのは、外夷の脅迫を懾れて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄に対して和親を議するのは奸臣だと云ふことが書いてあるのが、心理上にreminiscenceとして作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜のやうな歴史上の人物を憎む情が潜んでゐたのである。鹿太は早く大きくなりたいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。 

 

文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髮を剃り落した。骨組の逞ましい、大柄な子が、大綰総に結つたので天晴大人のやうに見えた。通称四郎左衛門、名告は正義となつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池国家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、公には矢張市郎で通つてゐた。
鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにして親んでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛の内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て間西に鳴つてゐたのである。
文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名を襲いで鹿太と呼ぱれた。
慶応三年の冬、此年頃●(酉に旁の冠がが囚で脚が皿:うん)醸せられてゐた世変が漸く成熟の期に達して、徳川慶喜は大政を奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主池田越前守茂政の家老に、伊木若狭と云ふ尊王家があつて、兼て水戸の香川敬三、因幡の河田左久馬、長門の桂小五郎等を泊らせて置いた位であるので、翌年明治元年正月に、此伊木が備中越前鎮撫総督にせられた。伊木の手には卒三百人しか無かつた。それでは不足なので、松本箕之介が建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募つたのである。四郎左衛門はすぐにこれに応ぜようとしたが、里正の子で身分が低いので斥けられた。
そのうち勇戦隊はもう編成せられて、能呂勝之進がそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程もない時、能呂がふと前方を見ると、隊の先頭を少し離れて、一人の男が道の真中を潤歩してゐる。隊の先導をするとでも云ふやうに見える。骨組の遑しい大男で、頭に鳥帽子を戴き、身に直垂を著、奴袴を穿いて、太刀を弔つてゐる。能呂は隊の行進を停めて、其男を呼ぴ寄せさせた。男は阿部守衛の門人津下四郎左衛門と名告つて、さて能呂にかう云つた。自分は兼てより尊王の志を懷いてゐるものである。此度勇戦隊が編成せられるに就いては、是非共其一員に加はりたいので、早速志願したが、一里正の子だと云ふ廉で御採用にならなかつた。しかし隊の勇ましい門出を余所に見て、独り岡山に留まるに忍ぴないから、若し戦闘が始まつたら、徴力ながら応援いたさうと思つて、同じ街道を進んでゐるのだと云つた。能呂は其風采をも口吻をも面白く思つて、すぐに伊木に請うて、四郎左衛門を隊伍に入れた。四郎左衛門が二十一歳の時である。
松山の板倉伊質守勝静は老中を勤めてゐた身分ではあるが、時勢に背き王師に抗すると云ふ意志は無かつたので、伊木の隊は血を流さずに鎮撫の目的を遂げた。それから隊が六月まで約半年間松山に駐屯して、そこで伊木は第二隊を募集した。備中の藤島政之進が指揮した義戦隊と云ふのがそれである。
或る日城外の調練場で武藝を試みようと云ふことになつて、備前組と備中組とが分かれて技を競べた。然るに撃剣の上手は備中組に多かつたので、備前組が頻に敗を取つた。其時四郎左衛門が出て、備中組の手剛い相手数人に勝つた。伊木は喜んで、自分の乘つて来た馬を四郎九衛門に与へた。競技が済んで帰る時、四郎左衛門が其馬に騎つて行くと、沿道のものが伊木だと思つて敬礼をした。
六月に伊木は勇戦義戦の両隊を纏めて岡山に引き上げた。両隊は国富村操山の少林寺に舎営することになつた。四郎左衛門は隊の勤務の旁、伊木の分家伊木木工の側雇と云ふものになつて、撃剣の指南などをしてゐた。
四郎左衛門は勇戦隊にゐるうちに、義戦隊長藤鳥政之進の下に参謀のやうな職務を取つてゐた上田立夫と心安くなつた。二人が会合すれぱ、いつも尊王攘夷の事を談じて慷慨し、所謂万機一新の朝廷の措置に、動もすれば因循の形迹が見れ、外国人が分外の尊敬を受けるのを慊ぬことに思つた。それは議定参与の人々の間には、初から開国の下心があつて、それが漸く施政の上に発露して来たからである。
或る日二人は相談して、藩籍を脱して京都に上ることにした。偕に輦轂の下に住んで、親しく政府の施設を見と云ふのである。二人の心底には、秕政の根本を窮めて、君側の奸を発見したら、直ちにこれを除かうと云ふ企図が、早くも此時から萌してゐた。 

 

二人は京都に出た。さて議定参与の中で、誰が洋夷に心を傾けてゐるかと探つて見た。其時二人の目に奸人の巨魁として映じたのは、三月に徴士となつて熊本から入京し、制度局の判事を縋て、参与に進んだ横井平四郎であつた。
横井は久しく越前侯松平慶永の親任を受けてゐて、公武合体論を唱へ、慶永に開国の策を献じた男である。其外大阪の城代土屋釆女正寅直の用人大久保要に由つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸斉昭に上書したこともある。世間では其論策の内容を錯り伝へて、廃帝を議したなどゝ云つたり、又洋夷と密約して、基督教を公許しようとしてゐるなどゝ云つたりした。
公武合体論者の横井が、純枠な尊王家の目から視て灰色に見えたのは当然の事であるが、それが真黒に見えたのは、別に由つて来たる所がある。横井は当時の智者ではあつたが、其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかつた。横井は攻治の歴史の上から、共和政の価値を認めて、アテエネに先だつこと数百年、尭舜の時に早く共和政が有つたと断じた。「人君何天職。代天治百姓。自非天徳人。何以●極天命。所以尭巽舜。是真為大聖。」これは共和政を日本に行はうと云ふ意ではない。横井は又ヨオロツパやアメリカで基督教が、人心を統一する上に於いて、頗る有力であるのを見て、神儒仏三教の不振を歎いた。「西洋有正教。其教本上帝。戒律以導人。勧善懲悪戻。上下信奉之。因教立法制。治教不相離。是以人奮励。」これは基督教を日本に弘めようと云ふ意ではない。同じ詩の未解にも、「嗟乎唐虞道、明白如朝霽、捨之不知用、甘為西洋隷」と云つてある。横井は政治上には尊王家で、思想上には儒者であつた。甘んじて西洋の隷となることを慣つた心は、攘夷家の心と全く同じである。しかし当時の尊王攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であつたので、遂に横井を誤解することになつた。
横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客が踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、創のために命を隕したが、横井は刺客の袖の下を潜つて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子巳熊は仇討に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での拳動が、いかにも卑怯であつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫はれた。
上田立夫と四郎左衛門とは、時機を覗つて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠に乘つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損じてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復之丞、跡の二人は皆十津川の人で、前岡力難、中井刀彌雄と云つた。
四郎左衛門は土屋信雄と変名して、京都粟田白川橋南に入る堤町の三宅典膳と云ふものゝ家に潜伏してゐた。そして時々七人の同志と会合して、所謂斬奸の手筈を相談した。然るに生惜横井は腸を傷めて、久しく出勤しなかつた。邸宅の辺を徘徊して窺ふに、大きい文箱を持つた太政官の使が頻に往反するぱかりである。
同志の人々はいつそ邸内に踏み込んで撃たうかとも思つた。しかし此秘密結社の牛耳を執つてゐた上田が聴かなかつた。なぜと云ふに、横井は処士に忌まれてゐることを好く知つてゐて、邸宅には十分に警戒をしてゐた。そこへ踏み込んでは、六人のカを以てしても必ず成功するとは云はれなかつたからである。
歳碁に迫つて、横井は全快して日々出勤するやうになつた。同志の人々は会合して、来年早々事を挙げようと議決した。さて約束が極まつた時、四郎左衛門は訣別のために故郷へ立つた。 

 

四郎左衛門が京都に上つてからも、浮田村の家からは市郎左衛門が終始密使を遣つて金を送つてゐた。同志の会合は人の耳目を欺くためにわざと祇園新地の揚屋で催されたが、其費用を払ふのは大抵四郎左衛門であつた。色が白く、柔和に落ち著いてゐて、酒を飲んでも行儀を崩さぬ四郎左衛門は、藝者や仲居にもてはやされたさうである。或る時同志の中の誰やらがかう云つた。かうして津下にばかり全を遣はせては気の毒だ。軍資を募るには手段がある。我々も人真似に守銭奴を脅して見ようではないかと云つた。其時四郎左衛門がきつと居直つて、一座を見廻してかう云つた。我々の交は正義の交である。君国に捧ぐぺき身を以て、盗賊にまぎらはしい振舞は出来ない。仮に死んでしまふ自分は瑕瑾を顧みぬとしても、父祖の名を汚し、恥を子孫に遺してはならない。自分だけは同意が出來ないと云つた。
大晦日の雪の夜であつた。津下氏の親類で、同じ浮田村に住んでゐた杉本某の所から、津下の留守宅へ使が来た。急用があるから、在宅の人達は皆揃つて、こつそり来て貰ひたいと云ふことであつた。市郎左衛門夫婦は何事かと不審に思つたが、よめの丈には、兎に角急いで支度をせいと言ひ附けた。若しや夫の身の上に掛かつた事ではあるまいかと心配しつゝも、祖父母の跡に附いて、当時二十二歳の母は、六歳になつた私を連れて往つた。杉本方に待つてゐたのは父四郎左衛門であつた。私は幼かつたので、父がどんな容貌をしてゐたか、はつきりと思ひ浮べることだに出来ない。只「坊主好く来た」と云つて、徴笑みつゝ頭を撫でゝくれたことだけを、微かに記憶してゐる。両親と母とには、余り逗留が長くなるので、一寸逢ひに帰つたと云つたさうである。父は夜の明けぬうちに浮田村を立つて、急いで京都へ引き返した。
明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠が、寺町を御霊社の南まで来掛かつた。鴛籠の両脇には門人横山助之丞と下津鹿之介とが引き添つてゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取が附いて供をしてゐる。忽ち一発の銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間から、五六人の士が刀を抜き連れて出た。上田等の同志のものである。短銃は駕籠舁や家来を威嚇するために、中井がわざと空に向つて放つたのである。
駕籠舁は駕籠を棄てゝ逃げた。横井の門人横山、下津は、兼て途中の異変を慮つて、武藝の心得のあるものを選んで附けたのであるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従著等を支へて寄せ附けぬやうにする。
上田と四郎差衛門とは一歩後に控へて見てゐると、駕籠の戸を開いて横井が出た。列藩徴士中の高齢者で、少し疎になつた白髪を髷に束ねてゐる。当年六十一歳である。少しも驚き慌てた様子はなく、抜き放つた短刀を右手に握つて、冷かに同志の人々を見遣つた。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたのである。今日は逃げられぬと見定めて、飽くまで闘はうと思つてゐる。
上田が「それ」と、四郎左衛門に目くはせして云つた。四郎左衛門は只一打にと切つて掛かつた。しかし横井は容易く手元に附け入らせずに、剣術自慢の四郎差衛門を相手にして、十四五合打ち合つた。此短刀は今も横井家に伝はつてゐるが、刃がこぼれて簓のやうになつてゐる。横井が四郎左衛門の刀を防いでゐるうちに、横山は鹿鳥の額を一刀切つた。鹿鳥は血が目に流れ込むので二三歩飛ぴしざつた。横山が附け入つて討ち果さうとするのを、上田が見て、横合から切つて掛かつた。其勢が余り烈しかつたので、横山は上田の腕に徴傷を負はせたにも拘らず、刃を引いて逃げ出した。上田は追ひ縋つて、横山の後頭を一刀切つて引き返した。
四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒を発し、勢鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髷を掴んで首を斬つた。四郎左衛門は「引上げ」と一声叫んで、左手に横井の首を提げて駆け出した。寺町通の町人や往来の人は、打ち合ふ一群を恐る恐る取り巻いて見てゐたが、四郎左衛門が血刀と生首とを持つて来るのを見て、ざつと遣を開いた。此時横井の門人下津は、初め柳田に前額を一刀切られたのに屈せず、奮闘した末、柳田の一肩尖を一刀深く切り下げた。柳田は痛痍にたまらず、ばたりと地に倒れた。下津は四郎左衛門が師匠の首を取つて逃げるのを見て、柳田を棄てゝ、四郎左衛門の跡を追ひ掛けた。 

 

下津が四郎左衛門を追ひ掛けると同時に、前岡、中井に支へられてゐた従者の中から、上野が一人引きはづして、下津と共に駆け出した。
上野は足が下津より早いので、殆ど四郎左衛門に追ひ附きさうになつた。四郎左衛門は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強く中つた。上野がたじろく隙に、四郎左衛門は逃げ伸びた。
上野が四郎左衛門を追ひ掛けて行つた跡で、従者等は前岡、中井に切りまくられて、跡へ跡へと引いた。前岡、中井は四郎左衛門が横井を討つたのを見たので方角を換へて逃げた。横山に額を切られた鹿島も、上田も、隙を覗つて逃げた。同志のうちで其場に残つたのは深痍を負つた柳田一人であつた。四郎左衛門の投げ附けた首を拾つた上野と一しよに下津が師匠の骸の傍へ引き返す所へ、横山も戻つて来た。取り巻いてゐた群集の中から、其外の従者が出て来て、下津等に手伝つて、身首所を異にしてゐる骸を駕籠の内に収めた。市中の警戒をしてゐた警吏が大勢来て、柳田を捕へて往つたのは、此時の事であつた。四郎左衛門は市中を一走りに駈け抜けて、田團道に出ると、刀の血を道傍の小河で洗つて鞘に納め、それがら道を転じて嵯峨の三宅左近の家をさして行つた。左近は四郎左衛門が三宅典膳の家で相識になつた剣客である。左近方の裏には小さい酒屋があつた。四郎左衛門はそこで酒を一升買つて、其徳利を手に提げて、竹藪の中にある裏門から這入つた。左近方には四郎左衛門が捕はれて死んだ後に、此徳利が紫縮緬の袱紗に包んで、大切に蔵つてあつたさうである。
捕へられた柳田は一言も物を言はず、又取調を命ぜられた裁判官等も、強ひて問ひ窮めようともせぬので、同志の名は暫く知られずにゐた。しかし柳田と往来したことのある人達が次第に召喚せられて中には牢屋に繋がれたものがある。
四郎左衛門は毎日市中に出て、捕へられた柳田の生死を知らうと思ひ、又どんな人が逮捕せられたか知らうと思つて、諸方で問ひ合深せた。柳田は深痍に悩んでゐて、まだ死なぬと云ふこと、同志の名を明さぬと云ふことなどは、市中の評判になつてゐた。召喚せられて役所に留め置かれたり、又捕縛せられて牢屋に入れられたりしたのは、多くは尊王攘夷を唱へて世に名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉の中瑞雲斎で、これは長男克已、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢した。四郎左衛門の同郷人では、海間十郎左衛門が召喚せられたが、これは一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助すると云ふ評判のあつたものである。
市中の評判は大抵同志に同情して、却つて殺された横井の罪を責めると云ふ傾向を示した。柳田の沈黙が称へられる。同志の善く秘密を守つて、形跡を晦ましたのが驚歎せられる。それには横井の殺された二三日後に、辻々に貼り出された文書などが、影響を与へてゐるのであつた。此文書は何者の手に出でたか、同志の干り知らぬものであつたが、其文章を推するに、例の落首などの如き悪戯ではなく、全く同志を庇護しようとしたものと見えた。貼札は間もなく警吏が剥いで廻つたが、市中には写し伝へたものが少く無かつた。其文はかうである。
「去んぬる五日、徴士横井平四郎を、寺町に於いて、白日斬殺に及ぴし者あり。一人は縛に就、余党は厳しく追捕せられると云。右斬奸之徒、吾未だ其人を雖不知、全く憂国之至誠より出でたる事と察せらる。夫れ平四郎が奸邪、天下所皆知也。初め旧幕に阿諛し、恐多くも廃帝之説を唱へ、万古一統の天日嗣を危うせんとす。且憂国之正士を構陥讒戮し、此頃外夷に内通し、耶蘇教を皇国に蔓布することを約す。又朝廷の急務とする所の兵機を屏棄せんとす。其余之罪悪、不遑枚挙。今王政一新、四海属目之時に当りて、如此大奸要路に横り、朝典を敗壊し、朝権を毀損し、朝土を惑乱し、堂々たる我神州をして犬羊に斉しき醜夷の属国たらしめんとす。彼徒は之を寛仮すること能はず、不得已斬殺に及ぴしものなり。其壮烈果敢、桜田の挙にも可比較。是故に苟有義気著、愉快と称せざるはなし。抑如此事変は、下情の壅塞せるより起る。前には言路洞開を令せらると雖も、空名のみにして其実なし。忠誠●(魚扁に旁が更)直之者は固陋なりとして擯斥せられ、平四郎の如き朝廷を誣問する大奸賊登庸せられ、類を以て集り、政体を頽壞し、外夷愈跋扈せり。有志之士、不堪杞憂、屡正論●(言扁に旁が黨)議すと雖、雲霧濛々、毫も採用せられず。乃ち断然奸魁を斃して、朝廷の反省を促す。下情壅塞せるより起ると云ふは即是也。切に願ふ、朝廷此情実を諒とし給ひ、詔を下して朝野の直言を求め、奸佞を駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体を明にし給はむことを。若夫斬奸之徒は、其情を嘉し、其罪を不論、其実を推し、其名を不問、速に放赦せられょ。果して然らぱ、啻に国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過の速なるに悦服し、斬奸の挙も亦迹を絶たむ。然らずんば奸臣朝に満ち、乾綱紐を解き、丙憂外患交至り、彼衰亡の幕府と択ぶなきに至らむ。於是乎、憂国之士、奮然蹶起して、奸邪を芟夷し、孑遺なきを期すべし。是れ朝廷の威信を繋ぐ所以の道に非ず。皇祖天神照鑑在上。吾説の是非、豈論ずるを須ゐんや。吾に左袒する者は、檄の至るを待ち、叡山に来会せよ。共に回天の大策を可議者也。明治二年春王正月、大日本憂世子。」  

 

此貼礼に吏に紙片を貼り附けて、「右三日之間令掲示候間、猥に取除候者あらぱ斬捨可中候事」と書いてあつた。これは後に弾正台に勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。
横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓で捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間が喚ばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問したが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創のある上田が捕へられて見れぱ、海間の心づくしも徒事になつた。
四郎左衛門が捕へられてから中一日置いて、十六日に柳田は創のために死んだ。牢屋にはまだ旧幕の遺風が行はれてゐたので、其屍は塩漬にせられた。上田と四郎左衛門とが捕へられた後に、備前で勇戦隊を編成した松本箕之介は入牢し、これに与つた家老戸倉左膳の臣斎藤直彦も取調を受けた。
当時の法廷の模様は、信憑すべき記載もなく、又其事に与つた人も亡くなつたので、私は精しく知らぬが、裁判官の中にも同志の人たちに同情するものがあつたので、苛酷な処置には出でなかつたさうである。私は又薫子と云ふ女があつて、四郎左衛門を放免して貰はうとして周旋したと云ふことを聞いた。幼年の私は、天子様のために働いて入牢した父を、救はうとした女だと云ふので、下髮に緋の袴を穿いた官女のやうに思つてゐた。しかし実はどう云ふ身分の女であつたかわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌を書いて遣つたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。
父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花を手向くぺき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記えてゐぬが、父の訃音が聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵があらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛ぴ降りて、木刀で山梔の枝を敲き折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。
父が亡くなつてから、祖父はカを落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗つて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦孤児として残つた。啻に寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余の人の妻子である。日蔭ものである。
母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつたが、種々の障礙のために半途で退学した。私は今其障礙を数へて、めめしい分疏をしたくは無い。しかし只一つ言ひたいのは、私が幼い時から、刑死した父の冤を雪がうと思ふ熱烈な情に駆られて、専念に学問を研究することが出来なかつたといふ事実である。
人は或は云ふかも知れない。学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以ではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜めることが出来なかつた。燃えるやうな私の情を押し鎮めるには冷かな理性のカが余りに徴弱であつた。
父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準は時と所とに従つて変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかつたか。其父の妻子がなぜ日蔭ものにならなくてはならぬか。かう云ふ取留のない、tautologieに類し、又circulus vitiosusに類した思想の連鎖が、蜘蛛の糸のやうに私の精神に絡み附いて、私の読みさした巻を閉ぢさせ、書き掛けた筆を抛たせたのである。 

 

私は学間を廃してから、下級の官公吏の間に伍して母子の口を糊するだけの俸給を得た。それからは私の執る職務が、器械的の糖神上労作に限られたので、私は父の冤を雪ぐと云ふことに、全力を用ゐようとした。しかしそれは譬へやうのない困難な事であつた。
私は先づ父の行状を出来るだけ精しく知らうとした。それは父が善良な人であつたと云ふことを、私は固く信じてゐるので、父の行状が精しく知れれぱ知れる程、父の名誉を大きくすることになると思つたからである。私は休暇を得る毎に旅行して、父の足跡を印した土地を悉く踏破した。私は父を知つてゐた人、又は父の事を聞いたことのある人があると、遠近を問はず訪問して話を聞いた。しかし父が亡くなつてから、もう五十年立つてゐる。山河は依然として在つても、旧道が絶え、新道が開け、田畑が変じて邸宅市街になつてゐる。人も亦さうである。父を知つてゐた人は勿論、父の事を聞いたことのある人は絶無僅有で、其の僅に存してゐる人も、記憶のおぼろけになり、耳の遠くなつたのをかこつばかりである。
私の前に話したのは、此の如くにして集めた片々たる事実を、任意に湊合したものである。伝へ誤りもあらう、聞き誤りもあらう。又識らず知らずの間に、私の想像力が威を逞うして、無中に有を生じた処も無いには限らない。しかし大体の上から、私はかう云ふことが出来ると信ずる。私の予想は私を欺かなかつた。私の予想は成心ではなかつた。私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。生命財産より貴きものを有してゐた人である。理想家である。
私はかう信ずると共に、聊自ら慰めた。然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出來ぬ昧者であつた、愚であつたと云ふことをも認めずにはゐられない。父の天分の不足を惜み、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。これが私の断案である。父の伝記に添へる論讃である。
私は父の上を私に語つてくれた人々に、ここに感謝する。主な一人は未亡人海間の刀自である。婦人の持前として、繊小な神経が徴細な刺戟に感応して、人の記憶してゐぬことを記憶してゐてくれたので、私は未亡人に、父の経歴中の幾多のdetailsを提供して貰つた。今一人は父を流離瑣尾の間に認識して、久しく家に蔵匿せしめて置いた三宅氏の後たる武彦君である。私は次に父を辯護してくれた二人の名を挙げる。丹羽寛夫君と鈴木無隱君とである。丹羽君は備前の重臣で三千石取つてゐた人である。それがかう云つた。四郎左衛門を昧者だと云つて責めるのは酷である。当時の日本は鎖国で、備前は又鎖国中の鎖国であつた。岡山の人は足を藩の領域の外に踏み出すことが出来なかつた。青年共は女が恋しくなると、岡山の西一里ばかりの宮内へ往つた。しかし人に無礼をせられても咎めることが出来なかつた。咎めると、自分が備中界に入つたことが露顕するからである。其青年共に世界の大勢に通じてゐなかつたのを責めるのは無埋である。己も京都にゐた時、或る人を刺さうとしたことがある。しかし事に阻げられて果さずに岡山に帰つた。そのうち比較的に身分が好いので、少属に採用せられた。それから当路者と交際して、やうやう外国の事情を聞いた。已は智者を以て自ら居るわけではないが、己と四郎左衛問との間には軒輊する所は無い筈だと云つた。鈴木君は内外典に通じた学著で、荒尾精君等と国事を謀つてゐた人である。それが私にかう云ふ伝言をした。己は四郎左衛門を知つて居た。四郎左衛門は昧者ではなかつた。横井を刺したには相応の理由があると云ふのであつた。しかし私の面会せぬうちに、鈴木君は亡くなつた。どんな説を持つてゐたか知らぬが、残惜しいやうな気がする。
私は父の事蹟を探つただけで満足したのではない。顔に塗られた泥を洗ふやうに、積極的に父の冤を雪ぎたいと云ふのが、私の幼い時からの欲望である。幼い時にはかう思つた。父は天子様のために働いた。それを人が殺した。私は其の殺した人を殺さなくてはならぬと思つた。稍成長してから、私は父を殺したのは人ではない、法律だと云ふことを知つた。其時私はねらつてゐた的を失つたやうに思つた。自分の生活が無意味になつたやうに思つた。私は此発見が長い月日の間私を苦めたことを記憶してゐる。
私は此内面の争闘を閲した後に、暫くは惘然としてゐたが、思量の均衡がやうやう恢復せられると共に、従来回抱してゐた雪冤の積極手段が、全く面目を改めて意識に上つて来た。私はどうにかして亡き父を朝廷の恩典に浴させたいと思ひ立つた。父は王政復古の時に当つて、人に先んじて起つて王事に勤めたのである。其の人を殺したのは、政治上の意見が相容れなかつたためである。殺されたものは政争の犠牲である。さうして見れば、時代が既に推移した今、恩讐両つながら滅した今になつて、枯骨が朝恩に沾つたとて、何の不可なることがあらうぞ。私はかう思つて同郷の先輩に謀り、当路の大官に愬へた。それは私が学問を廃することになつた後の事である。
明治十九年から二十年に掛けて、津下四郎左衛門に贈位する可否と云ふことは、一時其筋の問題になつてゐたさうである。しかし結局、特赦を蒙らずして刑死したものに、贈位を奏請することは出来ぬと云ふことになつた。私は落胆して、再び自分の生活が無意味になつたやうに思つた。尤も此時の苦悶は、昔復讐の対象物を失つた時に比べて、余程軽く又短かつた。私が老成人になつてゐたためかも知れぬが或は私の神経が鈍くなつたためだとも思へば思はれる。
私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなつた私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰つて、後世に残したいと云ふ位のものである。 

 


聞書はここに終る。文中に「私」と云つてあるのは、津下四郎左衛門正義の子で、名を鹿太と云つた人である。それだけの事は既に文中に見えてゐる。それのみでは無い。読者は、鹿太がどんな性質の人で、どんな境遇にゐて、どんな閲歴を有してゐると云ふことも、おほよそは窺ふことが出来たであらう。私は此聞書のediteurとして、多くの事を書き添ヘる必要を感ぜない。只これが私の手で公にせられることになつた来歴を言つて置きたい。私は既に大学を出て、父の許にゐて、弟篤次郎がまだ大学にゐた時の事である。私は篤次郎に、「どうだ、学生仲間にえらい人があるか」と云つた。弟はすぐに二人の同級生の名を挙げた。一人はKと云つて、豪放な人物、今一人は津下正高といつて、狷介な人物だといふことであつた。弟は後に才子を理想とするやうになつたが、当時はまだ豪傑を理想としてゐたのである。Kも津下君も弟が私に紹介した。Kは力士のやうに肥満した男で、柔術が好であつた。気の毒な事には、酒興に任せて強盗にまぎらはしい事をして、学生の籍を削られた。津下君は即鹿太で、此聞書のauteurである。
津下君は色の蒼白い細面の青年で、いつも眉根に皺を寄せてゐた。私は君の一家の否運がKainのしるしのやうに、君の相貌の上に見はれてゐたかと思ふ。君は寡言の人で、私も当時余り饒舌らなかつたので、此会見は殆ど睨合を以て終つたらしい。しかしそれから後三十年の今に至るまで、津下君は私に通信することを怠らない。私が不精で返事をせぬのを、君は意に介せない。津下君は私に面会してから、間もなく大学を去つて、所々に流寓した。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君を視野の外に失はずにゐた。
大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆其儘である。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑から流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡黙、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫の諸君に質して、二三の補正を加へただけである。津下君は久しく見ぬ間に、体格の巌畳な、顔色の晴々した人になつてゐて、昔の憂愁の影はもう痕だになかつた。私は「書後」の筆を投ずるに臨んで敬んで君の健康を祝する。
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上の中央会論に載せた初稿は媒となつて、わたくしに数多の人を識らしめた。中には当時四郎左衛門と親善であつた人さへある。此等の人々の談話、書牘、その所蔵の文書等に由つて、わたくしは上の一篇の中なる人名等に多少の改刪を加へた。比較的正確だと認めたものを取つたのである。わたくしは猶下の数事を知ることを得た。
津下四郎左衛門の容貌が彼の正高さんに似てゐたことは本文でも察せられる。しかし四郎左衛門は躯幹が稍長大で、顔が稍円かつたさうである。
京都で四郎左術門の潜伏してゐた三宅典膳の家の士蔵は、其後母屋は改築せられたのに、猶旧形を存してゐて、道路より望見することが出来るさうである。当時食を土蔵に運ぴなどした女が現存して、白山御殿町に住んでゐるが、氏名を公にすることを欲せぬと云ふことである。
本文にわたくしは上田立夫と四郎左衛門とが故郷を出でゝ京都に入る時、早く斬奸の謀を定めてゐたと書いた。しかし是は必ずしもさうではなかつたであらう。二人は京都に入つてから、一時所謂御親兵問題にたづさはつて奔走してゐた。堂上家の某が家を脱して、浪人等を募集し、皇室を守護せむことを謀つた。その浪人を以て員に充てむと欲したのは、諸藩の士には各其主のために謀る虞があると慮つたが故である。わたくしは此に堂上家の名を書せずに置く。しかし他日維新史料が公にせられたなら、此問題は復秘することを須ゐぬものとなるかも知れない。
浪人には十津川産の士が多かつた。其他は諸国より出てゐた。知名の士にして親兵の籍に入つたものには、先づ中瑞雲斎がある。
中氏は昔瓜上と称し、河内の名族であつた。承応二年和泉国熊取村五門に徒つて、世郷士を以て聞えてゐた。此中氏の分家に江戸本所住の三千六百石の旗本根来氏があつた。瑞雲斎は根来氏の三男に生れて宗家を襲ぎ、三子を生んだ。伯は克己、仲は鼎、季は建である。別に養子薫がある。瑞雲斎は早く家を克己に譲つて、京都に入り、志士に交つた。四郎左衛門等の獄起るに及んで、三子と共に拘引せられ、瑞雲斎は青森県に護送せられる途中で死し、克己、建は京都の獄合に死し、鼎は幽囚十年の後赦された。此間故郷熊取村には三女があつた。支配人某が世話をして、小谷村原文平の二男辰之助を迎へて、長女すみの婿にした。鼎は出獄後、辰之助等に善遇せられぬので、名を謙一郎と改め、堺市に遷つて商業を営み、資本を耗尽し、後に大阪府下南河内郡古市村の誉田神社の社司となつた。謙一郎の子は香苗、武夫、幸男で、香苗は税務属、武夫は台湾総督府技手、幸男は学生で史学に従事してゐる。一女は三宅典膳の孫徹男に嫁した。わたくしは幸男さんに由つて此世系を聞くことを得た。
瑠雲斎と事を写にした人に十津川産の官大柱がある。当時大木主水と称してゐた。太柱は和漢洋の三学に通ずるを以て聞えてゐた。四郎左衛門等の獄に連坐せられて、三宅島に流され、赦に遭うて帰ることを得た。太柱の子大茂さんは四谷区北伊賀町十九番地に住んでゐる。
同じく連坐せられた十津川の士上平(一に錯つて下平に作る)主税は新島に流され、これも還ることを得た。
一瀬主殿も亦十津川の士で連坐せられ、八丈島に流され、後赦されて帰つた。
中等の親兵団は成らむと欲して成らなかつた。是は神田孝平、中井浩、横井平四郎等に阻まれたのである。
此時に当つて天道革命論と云ふ一篇の文章が志士の間に伝へられた。当時の風説に従へぱ、文は横井平四郎の作る所で、阿蘇神社の社司の手より出で、古賀十郎を経て流伝したと云ふことである。其文に曰く。「夫れ宇宙の間、山川草木人類鳥獣の属ある、猶人の身体の四支百骸あるがごとし。故に宇宙の理を知らざる者は、身に手足の具あるを知らざるに異なることなし。然れば宇宙有る所の諸国皆是れ一身体にして、人なく我なし。宣しく親疎の理を明にし、内外同一なるニとを審にすべし。古より英明の主、威徳宇宙に薄く、万国の帰嚮するに至る者は、其胸襟闊達、物として相容れざることなく、事として取らざることなく、其仁慈化育の心、天下と異なることなきなり。此の如くにして世界の主、蒼生の君と云ふべきなり。若し夫れ其見小にして、一体一物の理を知らざるは、猶全身痿して疾痛●(病垂れに可)痒を覚えざるごとし。百世身を終るまで開悟すること能はず。亦憐むべからずや。(中略)今日の如き、実に天地開闢以来興治の機運なるが故に、海外の諸国、天埋の自然に基き、開悟発明、文化の域に至らむとする者少からず。唯日本、●(艸冠に脚が最)爾たる孤島に拠て、(中略)行ふこと能はず。其の亡滅を取ること必せり。速に固陋積弊の大害を攘除し、天地無窮の大意に基き、偏見を看破し、宇宙第一の国とならむことを欲せずんばあるべからず。此の如き理を推窮せば、遂に大活眼の域に至らしむる者乎。丁卯三月南窓下偶書、小楠。」 

 

わたくしは忌憚なき文字二三百言を刪つて此に写し出した。しかし其体裁措辞は大概窺知せられるであらう。丁卯は魔応三年である。大意は「人君何天職」の五古を敷衍したものである。そしてこれを横井の手に成れりとせむには、余りに拙である。
四郎左衛門等はこれを読んで、その横井の文なることを疑はなかつた。そして事体容易ならずと思惟し、親兵団の事を抛つて、横井を刺すことを謀つたのださうである。
四郎左衛門等の横井を刺した地は丸太町と寺町との交叉点を南に下り、既に御霊社の前を過ぎて、未だ光堂の前に至らざる間であつたと云ふ。此考証は南純一の風聞録に拠る。純一は後に久時と称した。
事変は明治二年正月五日であつた。翌六日行政官布告が出た。「徴士横井平四郎を殺害に及候儀、朝憲を不憚、以之外之事に候。元来暗殺等之所業、全以府藩県正籍に列候者には不可有事に候。万一壅閉之筋を以て右等之犠に及候哉。御一新後言語洞開、府藩県不可達の地は無之筈に候。若脱藩之徒、暗に天下の是非を制し、朝廷の典刑を乱候様にては、何を以て綱紀を張り、皇国を維持し得むやと、深く宸怒被為在候。京地は勿論、府藩県に於て厳重探索を遂げ、且平常無油断取締方屹度可相立旨被仰出候事。」此文は尾佐竹猛さんの録存する所である。尾佐竹氏は今四谷区霞丘町に住んでゐる。
四郎左衛門が事変の前に潜んでゐた家の主人三宅典膳も、事変の後に訪うた家の主人三宅左近も、皆備中国連島の人である。典膳、号は瓦全の嗣子武彦さんの左近の事を言ふ書は下の如くである。「御先考様の記事中、酒屋云々、徳利云々は、勘考するに、其頃矢張連島人にて、嵯峨御所の御家来に、三宅左近と申す老人有之、此人は無妻無子の壮士風の老人にて、京都左の嵯峨に住せり。成程其家の裏に藪あり、酒屋ありき。此三宅左近が拙宅(典膳宅)にて御先考様と出会し、剣術自慢なる故、遂に仕合ひいたし、立派に打負け、夫より敬服して弟子の如くなり居り候。御先考様は其左近の宅に酒を持ち行かれし者と想像致候。左近は本名佐平と申候。」中氏が武彦さんの姻戚なることは上に云つた。武彦さんは麹町区土手三番町四番地に住んでゐる。
本文に四郎左衛門を回護したと云ふ女子薫子は伏見宮諸大夫若江修理大夫の女ださうである。薫子の尾州藩徴士荒川甚作に与へた書は下の如くである。「当月五日横井平四郎を殺書致し候者御処置之儀、如何之御儀に被為在候哉。是は御役辺之儀故、決而可伺儀に而者無之候へ共、右殺害に及候者より差出し候書附にも、天主教を天下に蔓延せしめんとする奸謀之由申立有之、尤此書附而已に候へば、公議を借て私怨を価(一本作憤、恐並非)候哉共被疑候へ共、横井奸謀之事は天下衆人皆存知候所に御座候間、公議を借候とは難申、朝廷之参与を殺害仕候は不容易、勿論厳刑に可被処候へ共、右様天下衆人之能存候罪状有之者を誅戮仕候事、実に報国赤心之者に御座候間、非常之御処置を以手を下し候者も死一等を被減候様仕度、如斯申上候へば、先般天誅之儀に付彼此申上候と齟齬仕、御不審可被為在候へ共、方今之時勢彼之者共厳科に被行候へ者、忽人心離叛仕、他の変を激生仕事鏡に掛て見る如くと奉存候。且又手を下候者に無之同志之由を申自訴仕候者多分御座候由伝聞仕候。右自訴之人共何れも純粋正義之名ある者之由承候。是等の者は別而寛典を以御赦免被為在可然御儀と奉存候。実に正義之人者国之元気に御座候間、一人に而も戮せられ候へぱ、自ら元気を●(爿扁に旁が戈)候。自ら元気を●(爿扁に旁が戈)候へ者、性命も隨而滅絶仕候。此理を能々御考被為在候而、何卒非常回天之御処置を以、魁たる者も死一等を免され、同志と申自訴者は一概に御赦免に相成候様と奉存候。尤大罪に候へ共、朝敵に比例仕候へ者、軽浅之罪と奉存候。如此申上候へ者、私も其事に関係仕候者に而右様申上候哉と御疑も可被為在奉存候。若私にも御嫌疑被為左候へば、何等の辯解も不住候間、速に私御召捕に相成、私一人誅戮被為遊、他之者は不残御赦免之御処置相願度奉存候。若魁たる者も同志之者も御差別なく厳刑に相成候へ者、天下正義之者忽朝廷を憤怨し、人心瓦解し、収拾すべからざる御場合と奉存候。旧臘幕府暴政之節被戮侯者祭祀迄被仰出候由、既に死候者は被為察、生きたる者は被戮候而者、御政体不相立御儀と奉存候。此辺之処閣下御洞察に而、御病中ながら何卒御処置被遊候御儀、単に奉願候也。正月二十一日薫子。」此書を得た荒川甚作は、明治元年三月病を以て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎良知と云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。
薫子の書は田中不二磨若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相八代氏の実兄尾藩磅●(石扁に旁が薄)隊士松山義根を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡新荘村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日発兌」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本とし、遠近新聞の謄本を以て対校した。二本には多少の出入がある。倉知本の自筆なることは稍疑はしい。
御牧基賢さんの云ふを聞くに、薫子は容貌が醜くかつたが、女丈夫であつた。昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講した事がある。又自分も薫子の講書を聴いた事がある。国事を言つたために謹慎を命ぜられ、伏見宮家職田中氏にあづけられた。後に失行があつたために士林の歯せざる所となり、須磨明石辺に屏居して沒したらしいと云ふことである。 

 

薫子の詩歌は往々世間に伝はつてゐる。三宅武彦さんは短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古量の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。「幽居日日易凄涼。兀坐愁吟送夕陽。午枕清風知暑退。暁窓残雨覚更長。人間褒貶事千古。身世浮沈夢一場。設使幾回遭挫折。依然不変旧疎狂。早秋囚居。薫子。」印一顆があつて、文に「菅氏」と曰つてあつた。若江氏は管原姓であつたと見える。是は倉知氏の写して寄せたものである。又薫子が「神州男子幾千万、歎慨有誰与我同」の句を書したのを看たと云ふ人がある。
若江修理大夫の女薫子の事は、既に一たぴ上に補説したが、わたくしは其後本多辰次郎さんに由つて、修理大夫の名を量長と云ひ、曾て諸陵頭たりしことを聞いた。それゆゑ芝葛盛さんに乞うて此等の事を記してもらつた。下の文が即此である。
女子薫子の父若江量長は伏見宮家職の筆頭で、殿上人の家格のあつた人である。この著江氏はもと管原氏で、その先は式部権大輔菅原公輔の男在公から出てゐる。初め壬生坊城と号し、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後権介に任じ、同日院昇殿を聴され、その後弾正少弼を経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝によつて知ることが出来る。更に又野宮定功の曰記によるに、元治元年二月二十四曰に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介谷森種松と筑前守鈴鹿勝藝との両人に打ち委したやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢に亘り、とりわけ漢学を能くした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御入輿の儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等特の外心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修埋大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及ぴ候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上篤と御様子見上げ参るべき様にとの御内沙汰を蒙り、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当滞り無く御婚儀相済せられたり云々。此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内には、薫子の口入が与つてカがあつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定の事が発表せられ、次で御召抱上臈、中臈等の人選があつたが、その際この薫子にも改めて御稽古の為参殿の事を申付けられた。橋本実麗卿記是年八月九日の条に、「又若江修理大夫妹年来学問有志、於今天晴宏才之聞有之候聞、女御為御稽古参上可然哉否、於左大将殿可宜御沙汰に付被談由、於予可然存候間其旨申答了」と見えて居るが、一条家の書類御入用御用記を見ると、九月三日の条に、「伏見宮御使則賢出会之処、過日御相談被進候若江修理大夫女お文女御様御素読御頼に被召候而も御差支無之旨御返答也」とあつて、その十曰には、「女御御方、此御方御同居中御本御講釈之儀、お文殿に御依頼被成度候事」と見えて、十五日には御稽古の為局口御玄関より参殿、孝経を御教授申上げたことが見えて居る。是は蓋し女御御治定に付き改めてこの御沙汰があつたもので、この時初めて御稽古申上げたものではあるまい。但し実麗卿記に修理大夫の妹とせるは如何なる訳であらうか。又その名のお文といへるは薫子の前名であつたのであらうか。昭憲皇太后御入内後薫子の宮中に出入した事に就ては、その徴証を見出さない。恐くは国事に奔走した事などの為め、御召出しの運に行かなかつたものであらう。後失行があつて終をよくしなかつたのも惜しむべきである。上田景二君の昭憲皇太后史には、「皇太后御入内後も薫子は特別の御優遇を賜つたが、明治十四年に讃岐の丸亀において安らかに沒し、その遺蹟は今も尚残つてゐる」と書かれて居るが、その拠る処を明にしがたい。
私(芝氏)は量長が一時諸陵頭であつた関係から、其の寮官であつた故谷森種松(後に善臣)翁の次男建男さんに就いて何か見聞して居ることはないかを聞かうと試みた。(善臣翁は私の外祖父、建男さんは叔父に当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏は住んで居た。十歳位の時でもあつたか、或日父につれられて若江氏の宅を訪うた事があつた。その時量長の娘であるといふ二人の女子にも会つた。妹の方は普通の婦女で、髪もすべらかしにして公卿の娘らしい風をしてゐたが、姉の方は変つた女で、色も黒く、御化粧もせず、髮も無造作に一束につかねて居つた。男まさりの女で、頻に父に向つて論議を挑んで居つたことを記憶する。父もかういふ女には辟易すると云つてゐた。これが即ち薫子であつただらう。後に不行跡のあつた事も聞いてゐるが、何分家の生計も豊かでなかつたから、誘惑を受けたについては、むしろ同情に値するものがあつたであらう。讃岐辺で死んだ事も事実であらうが、普通の死ではなかつたかと思ふ。自分はこの婦人が量長の妹であつたとは思はない。娘として引きあはされたやうに記憶するといふことであつた。 
 
普請中 / 森鴎外

 

渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
雨あがりの道の、ところどころに残つてゐる水溜まりを避けて、木挽町の河岸を、逓信省の方へ行きながら、たしか此辺の曲がり角に看板のあるのを見た筈だがと思ひながら行く。
人通りは余り無い。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのに逢つた。それがら半衿の掛かつた著物を著た、お茶屋の姉えさんらしいのが、何か近所へ用達しにでも出たのが、小走りに摩れ違つた。まだ幌を掛けた儘の人力車が一台跡から駈け抜けて行つた。
果して精養軒ホテルと横に書いた、割に小さい看板が見附かつた。
河岸通りに向いた方は板囲ひになつてゐて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るやうに出来てゐる階段がある。階段は尖を切つた三角形になつてゐて、その尖を切つた処に戸口が二つある。渡辺はどれから這入るのかと迷ひながら、階段を登つて見ると、左の方の戸口に入口と書いてある。
靴が大分泥になつてゐるので、丁寧に掃除をして、硝子戸を開けて這入つた。中は広い廊下のやうな板敷で、ここには外にあるのと同じやうな、棕櫚の靴拭ひの傍に雑巾が広げて置いてある。渡辺は、己のやうなきたない靴を穿いて来る人が外にもあると見えると思ひながら、又靴を掃除した。
あたりはひつそりとして人気がない。唯少し隔たつた処から騒がしい物音がするばかりである。大工が這入つてゐるらしい物音である。外に板囲ひのしてあるのを思ひ合せて、普請最中だなと思ふ。
誰も出迎へる者がないので、真直に歩いて、衝き当つて、右へ行かうか左へ行かうかと老へてゐると、やつとの事で、給仕らしい男のうろついてゐるのに、出合つた。
「きのふ電話で頼んで置いたのだがね。」
「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ。」
右の方へ登る梯子を教へてくれた。すぐに二人前の注文をした客と分かつたのは普請中殆ど休業同様にしてゐるからであらう。此辺まで入り込んで見れば、ますます釘を打つ音や手斧を掛ける音が聞えて来るのである。
梯子を登る跡から給仕が附いて来た。どの室かと迷つて、背後を振り返りながら、渡辺はかう云つた。
「大分賑やかな昔がするね。」
「いえ。五時には職人が帰つてしまひますから、お食事中騒々しいやうなことはございません。暫くこちらで。」
先へ駈け抜けて、東向きの室の戸を開けた。這入つて見ると二人の客を通すには、ちと大き過ぎるサロンである。三所に小さい卓が置いてあつて、どれをも四つ五つ宛の椅子が取り巻いてゐる。東の右の窓の下にソフアもある。その傍には、高さ三尺許の葡萄に、暖室で大きい実をならせた盆栽が据ゑてある。
渡辺があちこち見廻してゐると、戸日に立ち留まつてゐた給仕が、「お食事はこちらで」と云つて、左側の戸を開けた。これは丁度好い室である。もうちやんと食卓が拵へて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた盛花の籠を真中にして、クウヱエルが二つ向き合せて置いてある。今二人位は這入られよう、六人になつたら少し窮屈だらうと思はれる、丁度好い室である。
渡辺は稍々満足してサロンヘ帰つた。給仕が食事の室から直ぐに勝手の方へ行つたので、渡辺は始てひとりになつたのである。
金槌や手斧の音がばつたり止んだ。時計を出して見れば、成程五時になつてゐる。約束の時刻までには、まだ三十分あるなと思ひながら、小さい卓の上に封を切つて出してある箱の葉巻を一本取つて、尖を切つて火を附けた。
不思議な事には、渡辺は人を待つてゐるといふ心持が少しもしない。その待つてゐる人が誰であらうと、殆ど構はない位である。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、殆ど構はない位である。渡辺はなぜこんな冷澹な心持になつてゐられるかと、自ら疑ふのである。
渡辺は葉巻の烟を緩く吹きながら、ソフアの角の処の窓を開けて、外を眺めた。窓の直ぐ下には材木が沢山立て列べてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水を湛へたカナルを隔てて、向側の人家が見える。多分待合か何かであらう。往来は殆ど絶えてゐて、その家の門に子を負うた女か一人ぼんやり佇んでゐる。右のはづれの方には幅広く視野を遮つて、海軍参考館の赤煉瓦がいかめしく立ちはたかつてゐる。 渡辺はソフアに腰を掛けて、サロンの中を見廻した。壁の所々には、偶然ここで落ち合つたといふやうな掛物が幾つも掛けてある。梅に鷺やら、浦島が子やら、鷹やら、どれもどれも小さい丈の短い幅なので、天井の高い壁に掛けられたのが、尻を端折つたやうに見える。食卓の拵へてある室の入口を挾んで、聯のやうな物の掛けてあるのを見れば、某大教正の書いた神代文字といふものである。日本は藝術の国ではない。
渡辺は暫く何を思ふともなく、何を見聞くともなく、唯姻草を呑んで、体の快感を覚えてゐた。
廊下に足音と話声とがする。戸が開く。渡辺の待つてゐた人が来たのである。麦藁の大きいアンヌマリイ帽に、珠数飾りをしたのを被つてゐる。鼠色の長い著物式の上衣の胸から、刺繍をした白いバチストが見えてゐる。ジユポンも同じ鼠色である。手にはヲランの附いた、おもちやのやうな蝙幅傘を持つてゐる。渡辺は無意識に微笑を粧つてソフアから起き上がつて、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ち留まつてゐる給仕を一寸見返つて、その目を渡辺に移した。ブリユネツトの女の、褐色の、大きい目である。此目は昔度々見たことのある目である。併しその縁にある、指の幅程な紫掛かつた濃い暈は、昔無かつたのである。
「長く待たせて。」
独逸語である。ぞんざいな詞と不吊合に、傘を左の手に持ち替へて、おほやうに手袋に包んだ右の手の指尖を差し伸べた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思ひながら、丁寧にその指尖を撮まんだ。そして給仕にかう云つた。
「食事の好い時はさう云つてくれ。」
給仕は引つ込んだ。
女は傘を無造作にソフアの上に投げて、さも疲れたやうにソフアへ腰を落して、卓に両肘を衝いて、黙まつて渡辺の顔を見てゐる。渡辺は卓の傍へ椅子を引き寄せて据わつた。暫くして女が云つた。
「大さう寂しい内ね。」
「普請中なのだ。さつき迄恐ろしい音をさせてゐたのだ。」
「さう。なんだが気が落ち著かないやうな処ね。どうせいつだつて気の落ち著くやうな身の上ではないのだけど。」
「一体いつどうして来たのだ。」
「おとつひ来て、きのふあなたにお目に掛かつたのだわ。」
「どうして来たのだ。」
「去年の暮からウラヂオストツクにゐたの。」
「それぢやあ、あのホテルの中にある舞台で遣つてゐたのか。」
「さうなの。」
「まさか一人ぢやああるまい。組合か。」
「組合ぢやないが、一人でもないの。あなたも御承知の人が一しよなの。」少しためらつて。「コジンスキイが一しよなの。」
「あのポラツクかい。それぢやあお前はコジンスカアなのだな。」
「嫌だわ。わたしが歌つて、コジンスキイが伴奏をする丈だわ。」
「それ丈ではあるまい。」
「そりやあ二人きりで旅をするのですもの。丸つきり無しといふわけには行きませんわ。」
「知れた事さ。そこで東京へも連れて来てゐるのかい。」
「えゝ。一しよに愛宕山に泊まつてゐるの。」
「好く放して出すなあ。」
「伴奏させるのは歌丈なの。」Begleiten(ベグライテン)といふ詞を使つたのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目に掛かつたと云つたら、是非お目に掛かりたいと云ふの。」
「真平だ。」
「大丈夫よ。まだお金は沢山あるのだから。」
「沢山あつたつて、使へば無くなるだらう。これからどうするのだ。」
「アメリカへ行くの。日本は駄目だつて、ウラヂオで聞いて来たのだから、当にはしなくつてよ。」
「それが好い。ロシアの次はアメリカが好からう。日本はまだそんなに進んでゐないからなあ。日本はまだ普請中だ。」
「あら。そんな事を仰やると、日本の紳士がかう云つたと、アメリカで話してよ。日本の官吏がと云ひませうか。あなた官吏でせう。」
「うむ。官吏だ。」
「お行儀が好くつて。」
「恐ろしく好い。本当のフイリステルになり済ましてゐる。けふの晩飯丈が破格なのだ。」
「難有いわ。」さつきから幾つかの控鈕をはづしてゐた手袋を脱いで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目に其手をしつかり握つた。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにゐて、暈の出来た為めに一倍大きくなつたやうな目が、ぢつと渡辺の顔に注がれた。
「キスをして上げても好くつて。」
渡辺はわざとらしく顔を蹙めた。「ここは日本だ。」
叩かずに戸を開けて、給仕が出て来た。
「お食事が宜しうございます。」
「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺は起つて、女を食卓のある室へ案内した。丁度電燈がぱつと附いた。
女はあたりを見廻して、食卓の向側に据わりながら、「シヤンブル・セパレエ」と笑談のやうな調子で云つて、渡辺がどんな顔をするかと思ふらしく、背伸びをして覗いて見た。盛花の籠が邪魔になるのである。
「偶然似てゐるのだ。」渡辺は平気で答へた。
シエリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附き切りである。渡辺は「給仕の賑やかなのを御覧」と附け加へた。
「余り気が利かないやうね。愛宕山も矢つ張さうだわ。」肘を張るやうにして、メロンの肉を剥がして食べながら云ふ。
「愛宕山では邪魔だらう。」
「丸で見当違ひだわ。それはさうと、メロンはおいしいことね。」
「今にアメリカヘ行くと、毎朝極まつて食べさせられるのだ。」
二人は何の意味もない話をして食事をしてゐる。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシヤンパニ工が注がれた。
女が突然「あなた少しも妬んでは下さらないのね」と云つた。チエントラアルテアアテルがはねて、ブリユウル石階の上の料理屋の卓に、丁度こんな風に向き合つて据わつてゐて、おこつたり、中直りをしたりした昔の事を、意味のない話をしてゐながらも、女は想ひ浮べずにはゐられなかつたのである。女は笑談のやうに言はうと心に思つたのが、図らずも真面目に声に出たので、悔やしいやうな心持がした。
渡辺は据わつた儘に、シヤンパニエの杯を盛花より高く上げて、はつきりした声で云つた。
”Kosinski soll leben !(コジンスキイ ゾル レエベン)”
凝り固まつたやうな微笑を顔に見せて、黙つてシヤンパニエの杯を上げた女の手は、人には知れぬ程顫つてゐた。
まだ八時半頃であつた。燈火の海のやうな銀座通を横切つて、ヱエルに深く面を包んだ女を載せた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行つた。 
 
夏の旅 / 與謝野晶子

 

高き梢に蝉じじと啼き初めて、砂まじりの青白き草いきれ南風に吹き煽られ、素足の裏を燒き焦す許り熱き日影縁より座敷にさし入れば、行き屆きたる夏の威壓の抗ひ難さよ。空仰ぎて一雨欲しと歎つも癡がましく、煽風器にてもあらばと云へど、他人の寶を數ふるにひとし、氷も喉元すぐれば熱さを増しぬ。團扇は見る目涼しけれど、勞力に伴ふ風の現金さ、屡〃しなば手もだるかるべし。遠からぬ電車の、軌道にきしみてキイと鳴るに街行く群集の齒軋を集めたる如く、門通る廣目屋の樂隊の騷音は熱を撒き行く如し。膝に寢たる子を寢臺に移せば、その下なる暗き陰より蚊の唸り立つも憎し。蠅も多けれど藪蚊の晝出づる家なれば枕蚊帳被せ置きて、われは湯殿に入り、水道を捻りて思ふさま水を浴びぬ。叩きを流るる水を、鹽原の鹽の湯の溪とも思ひ做すなり。
この季節に人は皆旅せん事を思ふ。狹き家に床低くして濕地の上に古畳敷きて起臥すと異らぬ我等の階級にてこそ然思はめ、高く廣き家と森の如き庭園との中に住める人達の、わざわざ不便なる田舎へ暑を避けずともと思へど、戀と名利と旅とは貴賤の別なき欲なるべし。夏は遊ぶべきものと西の國の人は定むと云へど、常に半ば遊び居る樣なる此國の人には、其言葉いよいよ惰氣を助長やせん。さりとて「滅却心頭火亦涼」など云ふ境地は我等の知らぬ事、とても變化を好む性持つ人が折々異る刺激に觸れて、疲れたる身を洗ひ、倦みし心を新しくせんとならば、彌が上に働きて彌が上に遊べと言はま欲し。
豫てより此夏は何處に遊ばん、かの山の温泉、その海邊と指折り居し人の必ず旅に出でしは尠し。人ばかり羨ませて罪なる事と思へど、其人自身は準備の樂しみに醉ひて、さて實行せんとする頃には心疲れて慵くなるにや。又北海道にせんなど言ひし人の近き箱根などへ、一二泊掛に行きて繪葉書寄越したるは、想ひの外にて興なし、すべて人などに前觸れせで行くぞよき。九月の中頃などに訪れ來る人の暫く無沙汰しつと詫びて、二月ほど駿州の靜浦に在りしと語るは心にくきまで奧ゆかし。後より其席に加はりし高等學校の生徒の、僕は日本アルプスの一部を探りしなど云ひて、袂より赤石山の石の赤きを土産に取出すも雄々しく、「人從蜀中歸。衣帶棧道雨」とも言ふべし。
名高き避暑地は人多ければうるさし、其れも初めて行く地ならば珍らかに覺ゆる節もあれど、曾遊の山水は全て再せぬこそ思出深けれ、大方は見劣りするが口惜し。われは雨女なり。夏の旅にも他の季節の旅にも濡れそぼたぬは稀にて、嵐山にて逢ひし夕立には中流に出でし我屋形船と舞姫を載せし彼方の船と二隻、千鳥が淵の精に魅入られしか、少時進むも退くも叶はでいざよひき。赤木山の裾野三里が間小止もなく、投槍の如く横に降りし白き強雨の凄じさ。男づれ五人、女は子守とわれと三人、幾筋の路の黒き大蛇の群と覺ゆる俄の濁流に膝を沒し、幾度か底の石塊を踏み逸してよろめき乍ら吹き折られし傘を杖に進めば、子守等は倒れて流さるるもあり。良人は三歳になる長男を、われは二男を細紐にて確と負ひぬ。流さるる子守をあれあれと叫べど、三間先に隔たりし男づれは雨に曇りて姿も見えず、聲も屆かぬに、良人の追ひ下りて子守を救ひ、「手を取り合へ、離れて歩むな、あと一里ぞ、もう大丈夫なり」など勵せば、脊なる長男の、濡れ通りたる合羽の下より、「もう大丈夫、もう大丈夫」と元氣好き聲に言ひ續けたる、今思ひ出づるにも目の濕みぬ。弱き子供等を惡しき山路に伴ひぬ、一人は山に著くも待たで死ぬべしと思ふに地獄道を辿る心地に悲しく、何の報に下さるる禍ひぞなど思ふ。麓の箕輪に行著く少し前より二人の子は冷たくなりて物も言はず、山にさし掛かりて小降となり、地獄谷にては月も出でぬ。頂なる大沼の宿に著きしは午後九時半、皆濡れし衣を脱ぎて湯に入る中に、夫とわれとは二人の子の衣を替へ毛布に卷きて、大きなる火鉢の山と盛りたる炭火の前に居さす。我等も衣を替へんとするに柳行李の中は大方濡れたり、命冥加の好かりし子等は次の朝より常の如くなりて親の心を喜ばせぬ。さて此山の涼しかりしこと其大雨の大難と共に永く忘れ難し。内にあれば大きなる火鉢幾つも取圍み、鈍銀の如き幹したる白樺を洩るゝ日影秋の樣にて汗を知らず、總て骨も淨まる心地とは斯かる人氣少き山の事なるべし、讀物と副食物とに事缺かずば夏を通しても留まらんをと思ひき。
其山の小沼の方に「大さん」と呼ぶ老いし獵夫住みて、一二年續きて此處に久しく在りし高村光太郎氏を我子の樣に戀しがりき。今は如何しけん。穴居の如き小屋の前に血に染める猿の皮を干しありし事、飴色に煤光したる大土瓶より番茶を注ぎて茶受に赤砂糖を侑めし事、狼の近頃現れて牧場の子馬を狙ひ居れば、そを退治に行くとて山刀を腰にさし、銃を肩にのつそりと木陰に入り去りし事、長男の朧氣に記憶し居て今も夢の世界の譚の如く語るなり。 
 
優能婦人を標準とせよ / 與謝野晶子

 

現在の婦人は、その最も聰明であると云はれる少數の婦人を除けば、悉くたわいもない凡庸の婦人である。私はこの事實を決して見逃しては居ない。寧ろ何人よりもこの事實を自分自身の事として確實に反省して居る積りである。けれども、この事實があるに由つて、大多數の婦人を在來の儘の屈從的位地に置かうとする議論には同意することが出來ない。
例へば學校に於て、同級生の中に、少數の優能者と多數の平能者とがあるのは免れない事實である。さればと云つて、優能者は特例であるに由つて之を無視し、多數の状態である平能者を標準として教育しようとすることは教育の威力を卑下して、人間の向上を悲觀的に解釋することである。私は反對に、少數の優能者を標準として大多數の平能者を出來るだけ其標準に近づけるやうに教育すべきものであると考へて居る。惡貨が榮えて居るからと云つて金貨本位を廢める理由にはならないと同じである。
男子が彼ら自身の地位にまで婦人を引上げようとすることを拒むばかりでなく、婦人の中の優秀な婦人の地位にまでも婦人の向上する機會と自由とを拒むのは決して寛洪な處置と云はれない。 
 
假名遣について / 橋本進吉

 

假名遣といふことは、決して珍しい事ではなく、大抵の方はご存じの事と思ひますが、さて、それではそれは全體どんな事かと聞かれた場合に、十分明らかな解答を與へる事が出來る方は存外少ないのではないかとおもひます。それで假名遣とはどんな事か、又どうして假名遣といふものが起つたかといふやうな、假名遣全般について、一通りの説明を試みたいとおもひます。
假名遣は、元來假名の遣ひ方といふ意味であります。今日に於ては、さう考へておいてまづ間違ひがないのであります。すなはち、假名遣が正しいとか違つてゐるとかいふのは、假名の遣ひ方が正しいとか間違つてゐるとかいふ事であります。
ご承知の如く、我國では、漢字と假名とを用ゐて言語を書く事となつて居りますが、假名遣は勿論假名で書く場合に關する事でありまして、同じことばでも漢字で書く場合は、全く之と關係がありません。しかし、假名はもと漢字から出來たもので、假名がまだ出來なかつた時代には、漢字を假名と同じやうに用ゐて日本語を書いたのでありまして、かやうに假名のやうに用ゐた漢字を、萬葉假名と申して、假名の一種として取扱つて居ります。この萬葉假名を以て日本語を書いたものについてもやはり假名遣といふ事を申すのであります。
かやうに、假名遣は、假名を以て日本語を書く場合の假名の用ゐ方をさしていふのでありますが、元來、假名は、言葉の音を寫す文字でありますから、言葉の音と之を寫す假名とが正しく一致して居つて、その書き方が一定し、それ以外の書き方が無い場合には、どんな假名を用ゐるかなどいふ疑問の起る餘地はないのでありまして、假名の使ひ方、すなはち、假名遣は問題とならないのであります。たとへば「國」を「くに」と書き「人」を「ひと」と書くやうなのは、その外に書き方がありませんから、その假名遣は問題となる事はありません。
然るに、違つた假名が同じ音に發音せられて、同じ音に對して二つ以上の書き方がある場合、たとへば、イに對して「い」「ゐ」「ひ」、コーに對して「こう」「かう」「こふ」「かふ」といふ書き方があり、キヨーに對して「きやう」「きよう」「けう」「けふ」といふ書き方があるやうな場合に、どの場合にどの書き方即ち假名を用ゐるかが問題となり、假名遣の問題が起るのであります。又「馬」「梅」の最初の音のやうに、之を「ウ」と書いても、又「ム」と書いても、實際の發音に正しくあたらないやうな場合、即ち適當な書き方のない場合にも、亦いかなる假名を用ゐてあらはすべきかといふ疑問が生じて、假名の用法が問題となるのであります。
かやうに、同じ音に對して二つ以上の書き方があつたり、又は、十分適當な書き方が無い場合に限つて、いかなる假名を用ゐるかが問題になるのでありまして、その他の場合は假名の用法は問題とせられないのでありますから、假名遣といふのは、その語義から云へば假名の用法といふ事ではありますが、實際に於ては、あらゆる場合の假名の用法ではなく、その用法が問題となる場合のみに限つて用ゐられるのであります。
さて、假名遣が正しいとか間違つてゐるとか云ひますが、それは、何かの標準を立てて、或る書き方を正しいと定め、之に違ふものを間違ひとするのであります。それは何を標準とするのでせうか。
右に述べたやうな、假名の用ゐ方について疑問が起つた場合に、之を解決する方法としては、いろいろのものが考へられます。
一つは、同じ音に對するいくつかの書き方をすべて正しいものとし、どの方法を用ゐてもよいとするのであります。たとへば「親孝行」の「孝行」は「こうこう」でも「かうかう」「こふこふ」「かふかふ」でも「こうかう」「こうかふ」「こうこふ」「こふこう」「かうこう」「かうこふ」「かうかふ」「かふこう」「かふこふ」「かふかう」でも、どれでもよいとするのであります。つまり「コーコー」と讀めさへすれば、どう書いてもよいといふのであります。かやうなやり方では、同じことばが、いろいろの假名で書かれる事となつて、統一がつかない事になります。
第二の方法は、同じ音を示すいろいろの書き方の中、一つだけを正しいものときめて、その音はいつもその假名で書き、その他の書き方はすべて誤であるとするものであります。コーの音に對して「こう」「こふ」「かう」「かふ」などの書き方があるうち、例へば「こう」を正しいものとし、その他を誤とするのであります。かやうにすれば、いつも同じ語は同じ假名で書かれ、假名で書いた形はいつも定まつて統一されます。さうしてどんな語であつても、同じ音はいつも同じ假名で書かれる事となります。即ち言語の音に基づいて假名を統一するのであります。語の如何に係はらず、同一の音は同一の假名で書き表はすといふ意味で、これを表音的假名遣といひます。
第三の方法は、第二の方法と同じく、同じ音を表はすいろいろの書き方の中、一つを正しいものと認めるのでありますが、それは、同じ音であれば、いつも同じ假名で書くのではなく、これまで世間に用ゐられてきた傳統的な、根據のある書き方を正しいと認めるものであります。かうなると、同じ音であつても、ことばによつて書き方が違つて來るのでありまして、同じコーの音でも「孝行」は「かうかう」、甲乙丙丁の「甲」は「かふ」、「奉公」の「公」は「こう」、「劫」は「こふ」と書くのが正しい事となります。これは傳統的の書き方を基準とするところから、歴史的假名遣といはれます。
どんな假名を用ゐるのが正しいかを定めるには、大體以上三つの違つた方法があるのでありまして、第一の方法は、さう發音する事が出來る假名であれば、どんな假名を用ゐてもよいとするのでありますから、特別に假名遣を覺える必要はないのであります。いはゞ假名遣解消論とでもいふべきものでありませう。之に對して第二第三の方法は、或一つのきまつた書き方を正しいとし、その他のものは誤であるとするのでありますから、特別にその正しい書き方を學ぶ必要があります。その中で、第二のは、言語の發音に基ゐて、その音を一定の假名で書くのでありますから、その言語の正しい發音さへわかれば、正しく書ける譯であります。第三のは、同じ音であつても、言葉によつてその正しい書き方が違つてゐるのであり、同じ音に讀むいくつかの書き方にはそれぞれきまつた用ゐ場所があるのであつて、どの語にはどの假名を用ゐるかがきまつてをり、又同じ假名でも、場合によつて違つた讀み方があるのでありまして、その使ひわけがかなり複雜であります。同じオと發音する假名でも、「大きい」の最初のオには「お」(「おくやま」の「お」)を用ゐ二番目のオには「ほ」を用ゐ、「青い」の二番目の音のオには「を」(「ちりぬるを」の「を」)を用ゐ、「葵」の二番目の音のオには「ふ」を用ゐます。又同じ「ふ」の假名を「買ふ」の時には「ウ」とよみ、「たふれる」(倒)の時にはオと讀みます。「けふ」(今日)の時は上の字と合して「キョー」とよみ、甲乙丙の時には「かふ」と書いて「コー」と讀みます。「急行列車」の急は「きふ」と書いて「キュー」とよみます。「う」の假名も「牛馬」の時には「ウ」とよみ「馬」の時にはウマと書いてmmaとよみます。
今日社會一般に正しい假名と認められてゐるのは、以上三つの方法の中、第三のもの即ち歴史的假名遣であります。これは今申しましたやうに、かなり複雜なものでありまして、實際に於ては、誰でも皆之を正しく用ゐてゐるのでなく、隨分誤つた假名を書く事もありますが、小學校や中學校の教科書の類も、この假名遣を用ゐてをりますし、政府の法令の類もこの假名遣に從ひ、新聞なども、大體この假名遣により、たまたま間違ひがあつても、それは少數で例外と見るべきであり、また、多くの人々は、十分この假名遣を知らない爲、間違つた書き方をする場合があつても、その自分の書き方が正しいので、之と違つた正しい假名遣の方が間違つてゐるとは考へてゐません。又、一部の人々は、發音に隨つて書くといふ主義(即ち前に擧げた第二の方法)を正しいと主張して實行して居りますけれども、これは、現今では、只一部の人々にとゞまつて、一般には認められて居ませんから、只今のところで、正しい假名遣と見るべきものは、第三の方法によるもの即ち歴史的假名遣であるといふべきでありませう。唯、その假名遣の知識が徹底してゐない爲に、正しい假名遣がわからず、讀めさへすればよいといふので、間違つた假名遣を用ゐる場合があるといふのが現在に於ける實状であると思はれます。
この假名遣は、かなり面倒なものでありますから、之をすべて發音の通り書く方法に改めようとする考や運動が、既に明治時代からありまして、時々世間の問題となり、現に一昨年も、この論の可否について新聞や雜誌の上で論爭がありました。しかし、將來はとにかく、今日に於ては右に述べたやうに歴史的假名遣が一般に正しいものと認められてゐると見るべきでありますから、この現に行はれてゐる假名遣について、もうすこし説明したいとおもひます。
現行の假名遣は、江戸時代の元祿年間に契沖阿闍梨が定めたものに基づいて居るのでありますが、契冲は決して勝手にきめたものではなく、平安朝半以前の假名の用法に基づいてきめたものであります。この時代には片假名平假名が出來て盛に行はれたのでありまして、「いろは」で區別するだけの四十七字の假名は、すべてそれぞれ違つた發音をもつてをり、現今では同音に發音するいとゐ、えとゑ、おとををも皆別々の音を示してをりました。即ち四十七字の假名が大體に於てその當時の言語の發音を代表してゐたのであります。平安朝半以後になると、これ等の音が變化して同じ音となり、それ等の音の區別は失はれました。もつと古く奈良朝の頃まで遡ると、これ等の區別はありますが、その外に、なほ假名では區別しないやうな音の區別がありました。たとへば、「け」でも「武(タケ)」や「叫(サケブ)」の「けは」「竹(タケ)」や「酒(サケ)」の「け」とは別の音であつたと認められます。この區別は平假名片假名にはないので、假名遣の問題とはなりません。これ等の音は、平安朝に入つては同音となり、假名の出來た時代には同じ假名で書かれたのであります。又奈良朝から平安朝の極初めまでは、ア行のエとヤ行のエの區別、即ちエ(e)とイェ(ye)の區別があつたのでありますが、この區別も、假名では書きあらはされないのであります。(例へば「獲物」のエはe「笛」「枝」のエはyeでありました。)
それ故、契沖のきめた假名遣は、平安朝の半以前の言語の發音の状態を代表するものであります。この時代には、現今同じ發音であつても、違つた假名で書くものは、違つた音であり、今は違つた音でよむものでも、同じ假名で書くものは、同じ發音でありました。それが、それ以後の音變化の結果、假名と音との間に相違が出來たのであります。犬のイは「い」(「いろは」の「い」)であり、田舎のイは「ゐ」(「ならむうゐ」)の「ゐ」)でありますが、「い」は古くはイ(i)の音、「ゐ」はウィ(wi)の音であつたのであります。それが後になつてウィ(wi)がイ(i)と變化して、どちらも同じiの音になりました。これによつて觀ますと、この假名遣は平安朝半以前の言語の發音を代表してゐるものであります。ところが、右のやうな發音變化の結果、もと違つた音が同じ音になり、又同じ音が違つた音になつたにもかゝはらず、その假名は昔のまゝの假名を用ゐるのを正しいとして之を守つて來た爲に、發音と假名との間に相違を生じ、違つた假名を同音に發音し、又同じ文字を違つた音でよむといふ事になつたのであります。
かやうに、日本語の發音の變化は、假名と音との間に不一致を生ぜしめる原因となつたのでありまして、これがまた假名遣なるものを生ぜしめる原因となつたのでありますが、日本語の音の變化が假名遣とどういふ風に關係してゐるかを猶少し考へて見たいと思ひます。
平安朝以前に於ても、前述べた如く音の變化はありましたが、その時代には假名遣の問題は起らなかつたのであります。これは萬葉假名のみを用ゐた奈良時代には、假名は同じ音ならばどんな字を用ゐてもよいといふ主義で用ゐられたのでありまして、平安朝に入つても、同じ主義が行はれた爲、古くは發音に區別があつても、既に同音となつた以上は同じ假名と認めて用ゐたからでありまして、かやうな時代に於ては、假名遣の問題などは全く起らなかつたのであります。
平安朝に入つて、片假名平假名が出來て、次第に廣く用ゐられるやうになりましたが、平安朝以後、言語が次第に變化して、イヰヒ、オヲホ、エヱヘ、ワハ、ウフなどが同じ發音になり、ウマやウメなどのウもm音となりましたが、假名に書く場合には、これまで通りの假名を用ゐる事が多く、假名と發音との間に違ひが生ずるやうになつたと共に、時には實際の發音の影響を受けて發音通りの假名を用ゐる事もあつて、假名の混亂が生じ、同じ語が人により場合によつていろいろに書かれるやうになり、鎌倉時代に入るとますます混亂不統一が甚しくなりました。この時、和歌の名匠として名高い藤原定家が、この假名の用法を整理統一する事を企て、所謂定家假名遣の基礎を作りました。こゝにおいてはじめて假名遣といふ事が起つたのであります。定家卿が定めたのは、「をお、いゐひ、えゑへ」の八つの假名づかひであつて、まだ不完全でありましたが、その後吉野朝時代に、行阿といふ人が、ほ、わ、は、む、う、ふ、の六條を補ひました。
言語の音の變化がこゝまでに及んで、はじめて假名遣といふ事が注意されるやうになつたのでありますが、音の變遷はその後もたえません。即ち室町時代までは、ジとヂ、ズとヅの區別があり、又、アウ、カウ、サウの類の「オー」と、オウ、コウ、ソウの類の「オー」と、の間にも發音上區別がありましたが、江戸時代には、この區別がなくなつて、それぞれ同音になつた爲に、これ等の假名遣が問題となるやうになりました。江戸初期以來の假名遣の書には、これ等の假名遣が説いてあります。
その後江戸時代に於て、菓(クワ)子、因果(イングワ)などのクワ、グワ音がカ音に變じましたので、又その假名遣が問題となりました。
かやうに音が變化して行くに從つて、假名遣の範圍がひろまつて行つたのであります。さうして今日の假名遣に於て見るやうな、いろいろな條項が生じたのであります。
要するに、假名遣といふものは、音の變化によつて起つたもので、現行の假名遣は、或程度まで、過去の日本語の音聲の状態をあらはし、その變遷の跡を示してゐるものでありまして、ことばの起源や歴史などを知る爲には有益なものであり、古い書物その他を讀むにも必要なものであります。
西洋の國々では主として、ローマ字をもつてその國語を書きますが、その場合に、綴字法(スペリング)といふ事があります。これが日本語に於ける假名遣に似たものであります。ローマ字は日本の假名と同じく音を表す文字であり、同じ音をあらはすにいろいろの書き方があり、どんな文字で書くかは、語によつてきまつてゐる事など今の假名遣と同じことであります。さうして、西洋語の綴りは、やはり、過去の發音を代表してゐるのであつて、その發音の變遷の結果、文字と發音との間に不一致が出來た事までも、日本の假名遣と同じことであります。たゞ違つた點は、西洋のスペリングは、どんな語に於てもある事でありますが、日本の假名遣は、假名が違つても同音である場合や、同じ文字に二つ以上の讀み方があつて、用ゐ場所が疑問になる場合にかぎられ、さうでない場合、たとへば、アサ(朝)やヒガシ(東)などの場合には全然關係がない事であります。 
 
表音的假名遣は假名遣にあらず / 橋本進吉

 

一 
假名遣といふ語は、本來は假名のつかひ方といふ意味をもつてゐるのであるが、現今普通には、そんな廣い意味でなく、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」、「お」と「を」と「ほ」、「わ」と「は」のやうな同音の假名の用法に關してのみ用ゐられてゐる。さうして世間では、これらの假名による國語の音の書き方が即ち假名遣であるやうに考へてゐるが、實はさうではない。これらの假名は何れも同じ音を表はすのであるから、その音自身をどんなに考へて見ても、どの假名で書くべきかをきめる事が出來る筈はない。それでは假名遣はどうしてきまるかといふに、實に語によつてきまるのである。「愛」も「藍」も「相」も、 その音はどれもアイであつて、そのイの音は全く同じであるが、「愛」は「あい」と書き「藍」は「あゐ」と書き「相」は「あひ」と書く。同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のアイであるかによるのである。單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである。
この事は古來の假名遣書を見ても明白である。たとへば定家假名遣といはれてゐる行阿の假名文字遣は「を」「お」以下の諸項を設けて、各項の中にその假名を用ゐるべき多くの語を列擧してをり、所謂歴史的假名遣の根元たる契沖の和字正濫抄も亦「い」「ゐ」「ひ」以下の諸項を擧げて、それぞれの假名を用ゐるべき諸語を列擧してゐる。楫取魚彦の古言梯にゐたつては、多くの語を五十音順に擧げて、一々それに用ゐるべき假名を示して、假名遣辭書の體をなしてゐるが、辭書はいふまでもなく語を集めたもので、音をあつめたものではない。これによつても假名遣といふものが語を離れて考へ得べからざるものである事は明瞭である。
表音的假名遣といふものは、國語の音を一定の假名で書く事を原則とするものである。その標準は音にあつて意味にはない。それ故、如何なる意味をもつてゐるものであつても同じ音はいつも同じ假名で書くのを主義とするのである。「愛」でも「藍」でも「相」でもアイといふ音ならば、何れも「あい」と書くのを正しいとする。それ故どの假名を用ゐるべきかを定めるには、どんな音であるかを考へればよいのであつて、どんな語であるかには關しない。勿論表音的假名遣ひについて書いたものにも往々語があげてある事があるが、それは只書き方の例として擧げたのみで、さう書くべき語の全部を網羅したのではない。それ以外のものは、原則から推して考へればよいのである。然るに古來の假名遣ひ書に擧げた諸語は、それらの語一つ一つに於ける假名の用法を示したもので、そこに擧げられた以外の語の假名遣は、必ずしも之から推定する事は出來ない。時には推定によつて假名をきめる事があつても、その場合には、音を考へていかなる假名を用ゐるべきかをきめるのではなく、その語が既に假名遣の明らかな語と同源の語であるとか、或はそれから轉化した語であるとかを考へてきめるのであつて、やはり個々の語に於けるきまりとして取扱ふのである。
以上述べた所によつて、古來の假名遣は(定家假名遣も所謂歴史的假名遣も)假名による語の書き方に關するきまりであつて、語を基準にしてきめたものであり、表音的假名遣は假名による音の書き方のきまりであつて、音を基準としたものである事が明白になつたと思ふ。 

 

それでは假名遣といふものは何時から起つたであらうか。
普通の假名、即ち平假名片假名は、平安初期に發生したと思はれるが、それ以前にも漢字を國語の音を表はす爲に用ゐた事は周知の事實であつて、之を假名の一種と見て萬葉假名又は眞假名と呼ぶのが常である。この萬葉假名の時代に於ては、國語の音を表はす爲に之と同音の漢字を用ゐたのであるから、當時は表音的假名遣が行なはれたといふやうに考へられるかも知れないが、しかしこの時代には假名として用ゐられた漢字は同音のものであれば何でもよかつたのであつて、それ故、同じ音を表はすのに色々の違つた文字を勝手に用ゐたのである(それは、諸書に載せてある萬葉假名の表に、同じ假名として多くの文字が擧げられてゐるのを見ても明らかである)。その結果として、同じ語はいつも同じ文字で書かれるのでなく、さまざま違つた文字で書かれて、文字上の統一は無かつたのである(たとへば「君」といふ語は「岐美」「枳瀰」「企弭」「耆瀰」「吉民」「伎彌」「伎美」のやうな、色々の文字で書かれて文字に書かれた形は一定しない)。處が、現代の表音的假名遣に於ては、同じ音はいつも同じ文字で書き、違つた音はいつも違つた文字で書くのが原則であり、從つて文字の異同によつて直に音の異同を知る事が出來るのであるが、上述の如き萬葉假名の用法によつては、異なる音は異なる文字で書かれてゐるが、同じ音も亦異なる文字で書かれる故、文字の異同によつて直に音の異同を判別する事は出來ない。又、萬葉假名の時代には同じ音の文字なら、どんな字を用ゐてもよいのであるから、もし之と同じ原則によるならば、現代に於て、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」、「お」「を」はそれぞれ同じ音を表はしてゐる故、「犬」を「いぬ」と書いても「ゐぬ」と書いても、「家」を「いえ」と書いても「いゑ」と書いても(又「いへ」と書いても)、「奧」を「おく」と書いても「をく」と書いても宜しい筈であるが、今の表音的假名遣では、かやうな事を許さない。さすれば、この時代の萬葉假名の用ゐ方は、現代の表音的假名遣とは趣を異にするものであるといはなければならない。
勿論萬葉假名の時代に於ても、或種の語に於ては、それに用ゐる文字がきまつたものがある。地名の如きは、奈良朝に於て國郡郷の名は佳字を擇んで二字で書く事に定められたのであつて、その中には「紀伊」、「土佐」、「相模」、「伊勢」等の如く、萬葉假名を用ゐたものがあり、又、姓や人名にもさういふ傾向がかなり顯著であるが、これは特殊の語に限られ、一般普通の語に於ては、同音ならばどんな漢字を用ゐてもよいといふ原則が行なはれたものと思はれる。かやうに、同音の文字が萬葉假名として自由に用ゐられ何等の制限もなかつた時代に於いては、どの假名を用ゐるべきかといふ疑問の起こる事もなく、假名遣といふやうな事は全然問題とならなかつたと見えて、さういふ事の考へられた痕跡もないのである。
平安朝に入つて萬葉假名から平假名片假名が發生して、次第に廣く流行するに至つたが、これらの假名に於ても同音の假名として違つた形の文字(異體の假名)が多く、殊に平假名に於ては多數の同音の文字があつて、それから引續いて今日までも行なはれ、變體假名と呼ばれてゐる。片假名もまた初の中は、同音で形を異にした文字がかなりあつて、鎌倉時代までもその跡を斷たなかつたが、これは比較的早く統一して室町江戸の交にいたれば、ほぼ一音一字となつた。
この片假名平假名に於ても、亦萬葉假名に於けると同樣、同音の假名はどれを用ゐてもよく、同語は必ずしもいつも同一の假名では書かれなかつたのであつて、從つて、假名の異同によつて直にそれの表はす音又は語の異同を知る事は出來ないのである。しかし、平安朝の初期には「天地<アメツチ>の詞」が出來、其の後、更に「伊呂波歌」が出來て、之を手習の初に習つたのであつて、これ等のものは、アルファベットのやうに、當時の國語に用ゐられたあらゆる異る音を表はす假名を集めて詞又は歌にしたものであるから、これによつて、當時多く用ゐられた種々の假名の中、どれとどれとが同音であり、どれとどれとが異音であるかが明瞭に意識せられ、同音の假名は、たとひちがつた文字であつても同じ假名と考へられるやうになつて今日の變體假名といふやうな考が生じたであらうと思はれる。とはいへ、かやうなものが行なはれても、假名の使用に關して或制限や或特別の規定が出來たのでなく、同音の假名ならどれを用ゐてもよかつたのであるから、やはり假名遣の問題は起らなかつたものと思はれる。現に平安朝初期に起つた音變化によつて、ア行のエとヤ行のエとが同音となり、その爲「天地の詞」の四十八音が一音を減じて「伊呂波歌」では四十七音になつたけれども、もと區別のあつた音でも、それが同音となつた以上は、もと各異る音をうつした假名も、同音の假名として區別なく取扱はれたものらしく、その假名の遣ひ方については何等の問題も起らなかつたやうである。 

 

然るに鎌倉時代に入ると、はじめて假名遣といふことが問題になつたのである。假名文字遣の最初にある行阿(源知行。吉野時代の人)の序によれば、假名遣の濫觴は行阿の祖父源親行が書いて藤原定家の合意を得たものであるといつてをり、藤原定家の作らしく思はれる下官集の中にも假名遣に關する個條があつて、先逹の間にも沙汰するものが無かつたのを、私見によつて定めた由が見えてゐるのであつて、鎌倉初期に定家などがはじめて之を問題として取り上げて、假名遣を定めたものと考へられる。
この假名遣は、「を」と「お」、「ゐ」と「い」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」の如き同音の假名の用ゐ方に關するものであつて、それらの假名をいかなる語に於て用ゐるかを示してをり、今日いふ所の假名遣と全然同じ性質のものである。
この時代になつてどうして假名遣の問題が起つたかといふに、それは平安中期以後の國語の音の變化によつて、もと互に異る音を表はしてゐたこれらの假名が同音に歸した爲である事は言ふまでもない。しかし、以前の如く、同音の假名は區別なく用ゐるといふ主義が守られてゐたならば、これらの假名が同音に歸した以上は、「を」でも「お」でも、又「い」でも「ゐ」でも「ひ」でも同じやうに用ゐた筈であつて、之を違つた假名として、區別して用ゐるといふ考が起るべき理由はないのである。もつとも、「を」と「お」、「い」と「ゐ」と「ひ」はそれぞれ違つた文字であるけれども、當時、一般にどんな假名にも同音の假名としていろいろの違つた文字(異體の假名)があつて、區別なく用ゐられてゐたのである故、これらの假名も同音になつた以上は同音の假名として用ゐて差支なかつた筈である。然るにこれらの假名に限つて、同音になつた後も假名としては互に違つたものと考へられたのは、特別の理由がなければならない。私は、この理由を當時一般に行なはれてゐた「伊呂波歌」に求むべきだと考へる。即ち、これらは、伊呂波歌に於て別の假名として教へられてゐた爲に、最初から別の假名だと考へられ、それが同音になつた後もさうした考はかはらなかつたので、同音に對して二つ以上の違つた假名がある事となり、それらの假名を如何なる場合に用ゐるかが問題となつて、ここに假名遣といふ事が生じたものと思はれる。 

 

前にも述べた通り、萬葉假名專用時代に於ても、片假名平假名發生後に於ても、假名は音を寫す文字として用ゐられた。當時の假名の遣ひ方は、同音の文字であればどんな文字を用ゐてもよいといふ點で現代の表音的假名遣とは違つてゐるが、音を寫すといふ主義に於ては之と同一である。しかるに、もと違つた音を表はしてゐたいくつかの假名が同音となつてしまつた鎌倉時代に於て、それらの假名がやはり假名としては別々のものであり、隨つて區別して用ゐるべきものであるといふ考の下に、その用法を定めようとしたのが假名遣であるが、この場合に、その假名を定める基準たるべきものは音そのものに求める事は絶對に不可能であつて(音としてはこれらの假名は全く同一であつて、區別がないからである)、これを他に求めなければならない。そこで、新に基準として取り上げられたのが語であつて、音は言語に於ては、それぞれ違つた意味を有する語の外形として、或は外形の一部分として、常にあらはれるものである故に、その一々の語について、同音の假名の何れを用ゐるかをきめれば、一定の語には常に一定の假名が用ゐられて、假名の用法が一定するのである。かやうに假名遣に於て假名の用法を決定する基準が語であつた事は、下官集に於ても假名文字遣に於ても、各の假名の下に、之を用ゐるべき語を擧げてゐるによつても知られるが、また、源親行が父光行と共に作つた源氏の註釈書「水原抄」の中の左の文によつても諒解せられる。
眞字は文字定者也。假字は文字づかひたがひぬれは義かはる事あるなり水原(河海抄十二梅枝「まむなのすゝみたるほどにかなはしとけなきもじこそまじるめれとて」の條に引用したものによる)
これは、「漢字は語毎に用ゐる文字がきまつてゐる。假名は音に從つて書けばよいやうに思はれるけれども、その文字遣、即ち假名遣を誤るとちがつた意味になる事がある」と解すべきであらう(源氏の原文の意味はさうではあるまいが、光行はさう解釋したとみられる)。假名遣を誤つた爲に他の意味になるといふのは、同音の假名でも違つた假名を用ゐれば、別の語となつて、誤解を來す事がある事を指していふのであつて、かやうに、假名遣を意味との關聯に於て説いてゐる事は、假名は語によつて定まるもの、即ち假名の用法は語を基準とすると考へてゐた事を示すものである。
それでは、假名遣に於けるかやうな主義は定家などが全く新しく考へ出したものかといふに、必ずしもさうではあるまいと思はれる。全體、當時の假名遣が、何を據り所として定められたかについては、假名文字遣は何事をも語つてゐないが、下官集には「見舊草子了見之」とあつて、假名文學の古寫本に基づいてゐる事を示してゐる。古寫本といつても何時代のものか明かに知る由もないが、平安中期以後、國語の音變化の結果として、もと區別のあつた二つ以上の音が同音となり、之をあらはした別の假名が同音に讀まれるやうになつたが、音と文字とは別のものである故、かやうに音が變はつた後も、假名(ことに假名ばかりで書く平假名)はもとのものを用ゐる傾向が顯著であつて、時としては同音の他の假名を用ゐる事があつても、大體に於て古い時代の書き方が保存せられてゐた時代がかなり永くつゞゐたものと考へられる。しかるに時代が下つて鎌倉時代に入ると、その實際の發音が同じである爲、同音の假名を混じ用ゐる事が多くなり、同じ語が人によつて違つた假名で書かれて統一のない場合が少なくなかつたので、古寫本に親しんだ定家は、前代にくらべて當時の假名の用法の混亂甚だしきを見て、これが統一を期して假名遣を定めようとしたものと思はれる。
さて、右の如く、もと異音の假名が同音になつた後も、なほ書いた形としてはもとの假名が保存せられて、他の同音の假名を用ゐる事が稀であつたのは、何に基づくのであらうか。これは、もと違つてゐた音が、同音になつた後にもなほ記憶せられてゐた爲とはどうしても考へられない。既に音韻變化が生じてしまつた後にはもとの音は全然忘れられてしまふのが一般の例であるからである。これは、古寫本の殘存又はその轉寫本の存在などによつて假名で寫した語の古い時代の形が之を讀む人の記憶にとゞまつてゐた爲であるとしか考へられない。即ち、古く假名で書いた或語の形は、後に同音になつた假名でも、その中の或一つのものに定まつてゐた爲、その語とその假名との間に離れがたき聯關を生じて、自分が新に書く場合にも、その語にはその假名を用ゐるといふ慣習がかなり強かつたのであると解すべきであらう。さすれば、明瞭な自覺はなかつたにせよ、既にその時分から、語によつて假名がきまるといふ傾向があつたとしなければならないのである。
一般に文字を以て言語を寫す場合に、いかなる語であるかに從つて(たとひ同音の語でも意味の異るに從つて)之に用ゐる文字がきまるのは決して珍しい事ではなく、表意文字たる漢字に於てはむしろその方が正しい用法である。漢語を表はす場合は勿論のこと(同じコーの音でも、「工」「幸」「甲」「功」「江」「行」「孝」「效」「候」など)漢字を以て純粹の國語を表はす場合にもさうである。(「皮」と、「河」、「橋」と「箸」、「琴」と「事」と「言」など)唯、漢字を假りて國語の音を表はす場合(萬葉假名)はさうでなく、同じ語を種々の違つた文字で表はす事上述の如くであるが、この場合には漢字が語を表はさず音を表はすからであつて、しかも、さういふ場合にも、或特殊の語(地名、姓、人名など)に於ては語によつて之を表はす文字が一定する傾向があつた事、これも上に述べた通りである。假名の場合は漢字とは多少趣を異にし、同音の假名は、文字としては違つたものであつても同じ假名と見做す故、同じ語をあらはす文字の形は必ずしも常に一定したものではないけれども、或語のオ音には常に「を」(又は之と同じ假名)を用ゐて、「お」又は「ほ」の假名(又はそれらと同じ假名)を用ゐないといふ事になれば、その語と「を」(及び之と同じ假名)との間には密接な關係を生じて、その假名でなければ直にその語と認めるに困難を感じ、又は他の語と誤解するやうになるのは自然である。
かやうに一方に於て漢字が語によつて定まるといふ事實があり、又一方に於て、假名で書く場合にも、同音でありながら違つたものと認められた假名は、語によつてその何れか一つを用ゐる傾向があつたとすれば、新に假名遣の問題が起り、かやうな同音の假名の用法の制定が企てられた場合に、語を基準とするのは最自然なことといはなければならない。(音を基準にしようとしても不可能な事は前述の通りである)。
以上述べ來つた如き事情と理由とによつて、假名遣といふものは、それが問題となつた當初から、問題の假名を、語を表はすものとして取扱つて來たのであり、その場合に假名を定める基準となつたものは、單にどんな音を表はすかでなく、更にそれより一歩を進めた、どんな語を表はすかに在つたのである。
かやうにして萬葉假名の時代から平假名片假名發生後に至るまで、純粹に音をあらはす文字としてのみ用ゐられて來た假名は、少くとも假名遣という{底本のママ}事が起つてからは、單なる音を表はす文字としてでなく、語を表はす文字として用ゐられ、明かにその性格を變じたのである。(但し、この時からはじめて語を表はす文字となつたか、又はもつと前からさうなつてゐたかは問題であつて、前に述べた所によれば、少くとも假名遣に關係ある問題の假名については以前よりそんな傾向はあつたとするのが妥當なやうであり、その他の假名については明瞭な證據が無いからわからないが、やはりそんな性質のものと考へられるやうになつてゐたかも知れない。同じ音の假名ならどんな假名を用ゐてもよいからといつて、それ故、音を表はすだけのものであると速斷するのは危險である。何となれば、萬葉假名の時代と違つて「天地」の詞や「伊呂波」のやうなものが行なはれてゐた時代には、それの中に現はれた假名だけが代表的のものと認められ、これと違つた假名は今の變體假名と同じく、代表的の假名と全く同樣なものと考へられ、從つて、假名で書いた語は、たとひ假名としての形は違つてゐても、或一定の假名で書かれてゐると考へた事もあり得べきであるからである)。 

 

かやうに、假名遣に於ては、その發生の當初から、假名を單に音を寫すものとせずして、語を寫すものとして取扱つてゐるのである。さうして假名遣のかやうな性質は現今に至るまでかはらない事は最初に述べた所によつて明かである。然るに今の表音的假名遣は、專ら國語の音を寫すのを原則とするもので、假名を出來るだけ發音に一致させ、同じ音はいつでも同じ假名で表はし、異る音は異る假名で表はすのを根本方針とする。即ち假名を定めるものは語ではなく音にあるのである。これは、假名の見方取扱方に於て假名遣とは根本的に違つたものである。かやうに全く性質の異るものを、同じ假名遣の名を以て呼ぶのは誠に不當であるといはなければならない。これは發生の當初から現今に至るまで一貫して變ずる事なき假名遣の本質に對する正當な認識を缺く所から起つたものと斷ぜざるを得ない。
表音的假名遣は、音を基準とし、音を寫すを原則とするものであるとすれば、一種の表音記號と見てよいものである。表音記號は、言語の音を目に見える符號によつて代表させたもので、同じ音はいつも同じ記號で、違つた音はいつも違つた記號で示すのを趣旨とする。さうして、表音記號を制定するについては、實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すものや、正しい音の觀念(音韻)を代表するものなど、種々の主義があり、又、ローマ字假名など既成の文字を基礎とするものや、全然新しい符號を工夫するものなど種々の方法があるが、その中、假名に基ゐて國語の音韻を寫す表音記號は、その主義に於ても方法に於ても、表音的假名遣と全然合致するものである。それ故表音的假名遣はその實質に於ては一種の表音記號による國語の寫し方と見得るものであり、又それ以外にその特質は無いものである。勿論表音的假名遣は、實用を旨とするものである故、必ずしも精細に國語の音を寫さず、又その寫し方に於ても多少曖昧な所もあつて、表音記號としては不完全であるが、表音記號でも、實用を主とした簡易なものもあるのであるから、かやうな故を以て表音記號とは全然別のものであるといふ事は出來ない。しかし表音的假名遣を實際に行ひ世間通用のものとする爲には、從來の假名遣と妥協しなければ不便多く、その目的を逹し難い憂がある爲に、これまで提出された表音的假名遣には、從來の假名遣に於ける用法を加味したものがある。例へば大正十三年十二月臨時國語調査會決定の假名遣改定案に於ては、助詞のハ・ヘ・ヲに限り從來の假名遣を保存した如きはその例であつて、この場合には、その音によらず、如何なる語であるかによつて假名を定めたのである。それ故、この部分だけは假名遣といふ事が出來やうが、これは二三の語のみに限つた例外的のものである。これだけが假名遣であるからといつて、全部を假名遣といふのは勿論不當である。
右のやうな論に對して或はかういふ説を立てるものがあるかも知れない。
表音的假名遣は、例へば同音の假名「い」「ゐ」「ひ」に對してその中の「い」を用ゐ、「え」「ゑ」「へ」に對してその中の「え」を用ゐるなど、同音の假名がいくつかある中でその一つに一定したものであつて、假名遣に於て、同音の假名の中、この假名はどの語に用ゐるといふやうに、その假名の用法を一定したのと同樣である。それ故、これも假名遣と呼んで、差支へないではないかと。
この説は當らない。表音的假名遣に於ては、いくつかの同音の假名の中、一つだけを用ゐて他は用ゐないのを原則とする(これは同じ音はいつも同じ假名で書くといふ主義からいへば當然である)。然るに假名遣では、同音の假名はすべて之を用ゐて、それぞれいかなる場合に用ゐるかをきめたのである。この事は實に兩者の間の重大な相違であつて、假名遣といふ問題の起ると起らないとの岐れるのは懸つて此處にあるのである。前にも述べた通り假名は最初から、同音の文字ならばどんな文字でもその音を表はす爲に區別なく用ゐられた。もしこの主義がいつまでも引續いて行なはれたならば、「い」も「ゐ」も「ひ」も同じイ音になつてしまつた時代では、「い」「ゐ」「ひ」は同音異體の同じ假名として區別なく用ゐられ、それ等の假名の用法については何等の疑問も起らず、假名遣といふ事が問題になる事はなかつたであらう。右のやうな假名の用法は、表音的假名遣に於ける假名の用法に近いものではあるが、まだ之と全く同じではない。何となれば「い」「ゐ」「ひ」をイ音を表はす同じ假名とみとめてその中の何れを用ゐてもよいといふのは、表音的假名遣に於てイ音を表はすに「い」を用ゐて「ゐ」「ひ」を用ゐないといふのと同じくないからである。しかし、かやうな假名の用法を整理して、一つの音にはいつも同じ一つの假名を用ゐる事にすれば、イ音を表はす「い」「ゐ」「ひ」は「い」で書く事になつて、表音的假名遣と全然同一になる。かやうな整理は、普通の假名に於て、同音の變體假名を整理して唯一つのものに定めると全く同性質のもので(カ音には「か」を、キ音には「き」を用ゐて、他の變體假名を用ゐないのと同樣である)假名遣に於ける假名の取扱方とは全然別種のものである。もし、實際に於て假名の用法がこんな方向に進んだのであつたならば、今普通いふやうな意味に於ける假名遣といふ事は起らなかつたであらう。然るに事實に於ては、前述の如く「い」「ゐ」「ひ」等の假名が同音になつた後も、猶これ等の假名は文字としては別の假名と考へられてゐたのであつて、そこで、それらの假名をどう用ゐるべきかといふ疑問がおこり、こゝにはじめてこれらの假名の用法即ち假名遣が問題になつたのである。もしこの場合に、これ等の假名はすべて同音であつて、その中の一つさへあれば音を表はすには十分である故、一つだけを殘して其他のものを廢棄したとしたならば、假名はどこまでも音を表はすものとして存續したであらう。然るに、當時に於ては、國語の音をいかなる假名によつて表はすかといふ事が問題となつたのでなく、もとから別々の假名として傳はつて來た多くの假名の中に同音のものが出來た爲、それを如何に區別して用ゐるかといふ事が問題となつたのである。それ故、同音のものを廢棄するといふやうな事は思ひも及ばなかつたであらう。即ち假名遣は最初から同音の假名のつかひわけといふ問題がその本質をなしてゐるのであり、從つて之を定める基準としては語によらざるを得なかつたのである。さすれば、同音の他の假名を廢して、音と假名とを一致させようとする表音的假名遣は、假名遣とはその根本理念に於て非常な差異があるもので、決して之を同視する事は出來ないのである。
かやうに考へて來ると假名遣と表音的假名遣とは互に相容れぬ別個の理念の上に立つものである。假名遣に於ては、違つた假名は、それぞれ違つた用途があるべきものとし、たとひ同音であつても別の假名は區別して用ゐるべきものとするに對して、表音的假名遣に於ては假名は正しく言語の音に一致すべきものとし、同音に對して一つ以上の假名の存在を許さないのである。もし同音の假名の存在を許さないとすれば、假名遣はその存立の基礎を失ひ雲散霧消する外ない。即ち、表音的假名遣は畢竟假名遣の解消を意圖するものといふべきである。然るに之を假名遣と稱するのは、徒に人を迷はせ、假名遣に對する正當なる理解を妨げるものである。 

 

以上述べたやうに、假名遣と表音的假名遣とはその根本の性格を異にしたものであつて、假名遣に於ては假名を語を寫すものとし、表音的假名遣に於ては之を專ら音を寫すものとして取扱ふのである。語は意味があるが、個々の音には意味無く、しかも實際の言語に於ては個々の音は獨立して存するものでなく、或る意味を表はす一續きの音の構成要素としてのみ用ゐられるものであり、その上、我々が言語を用ゐるのは、その意味を他人に知らせる爲であつて、主とする所は意味に在つて音には無いのであるから、實用上、語が個々の音に對して遙に優位を占めるのは當然である。さすれば、假名のやうな、個々の音を表はす表音文字であつても、之を語を表はすものとして取扱ふのは決して不當でないばかりでなく、むしろ實用上利便を與へるものであつて、文字に書かれた語の形は一度慣用されると、全體が一體となつてその語を表はし、その音が變化しても、文字の形は容易にかへ難いものである事は、表音文字なるラテン文字を用ゐる歐州諸國語の例を見ても明白である。かやうな意味に於て語を基準とする假名遣は十分存在の理由をもつものである。
しかしながら、假名遣では十分明瞭に實際の發音を示し得ない場合がある故、私は、別に假名に基づく表音記號を制定して、音聲言語や文字言語の音を示す場合に使用する必要ある事を主張した事がある(昭和十五年十二月「國語と國文學」所載拙稿「國語の表音符號と假名遣」)。然るに右のやうな表音記號としては、一二の試案は作られたけれども、まだ廣く世に知られるに至らないが、表音的假名遣は、前述の如く、その實質に於て假名を以てする國語の表音記號と同樣なものであり、表音記號としてはまだ不十分な點があつても、それは必要な場合には多少の工夫を加へればもつと精密なものともなし得るものであり、その上、臨時國語調査會の案の如き、多くの發音引國語辭書に於て發音を表はす爲に用ゐられて比較的よく世間に知られてゐるものもある故、これを簡易な表音記號に代用するのも一便法であらう。但しその爲には、表音主義を徹底させて、假名遣による規定を混入した部分は全部削除する事が必須であり、又名稱も假名遣の名は不當である故、明かに表音記號と稱するか、少くとも簡易假名表記法とでも改むべきである。
表音的假名遣に於て見る如き、假名遣を否定する考へは、古く我國にも全くないではなかつたが、今世間に行はれてゐる、歴史的假名遣及び表音的假名遣の名は、英語に於ける歴史的綴字法(ヒストリカルスペリング)及び表音的綴字法(フォネティクスペリング)から出たもので、假名遣を綴字法と同樣なものと見て、かく名づけたのである。然るに綴字法は歴史的のものも表音的のものも、共に語の書き方としてのきまりであつて、かやうな點に於て、語を基準とする假名遣とは通ずる所があつても、音を基準とする表音的假名遣とは性質を異にするものといはなければならない。私は從來世間普通の稱呼に從つて表音的假名遣をも假名遣の一種として取扱つて來たのであるが、今囘新に表音的假名遣に對する考察を試みて、その本質を明かにした次第である。
(昭和十七年八月稿) 
 
日本の文字について 文字の表意性と表音性 / 橋本進吉

 

國語の現状及び歴史
國語國字の本來の性質の認識
國語國字と國民との關係の認識
今日の國民生活に密接なる關係を有し、一日と雖もはなれる事の出來ない漢字と假名とについて、その根本の性質は何にあるか、中にも言語との關係がどうなつてゐるかを中心にして説明してみたいとおもふ。
これは珍しい事、新しい事ではなく、わかつた事で、或は無用の事と思はれるかも知れないが、實際、我々にあまり近しいものは、存外その眞實がわからないものである。國語國字の問題を論ずる人々にもこの危險がある。
文字は言語をあらはすものである。代表するものである。社會的拘束、習慣にすぎず、兩者の間に必然的の關係は無いのである。そしてもし言語を表さぬものとするならば文字でなく、唯符號にすぎない。
言語は、一定の音と一定の意味があり、一方から一方をおもひ出させるものである。音は意味を代表する。(兩者は同價値にあらず。目的は意味を他人につたへるにあり、音はその手段として用だつものである。)
文字が言語を代表するとすれば、それは意味を表はすとともに音をもあらはすのである。即ち表意性と表音性との二つの方面があるのである。
これが文字の最も根本の性質であつて、文字を考へるに當つては寸時も忘れてはならない事である。
漢字と假名とは文字としての性質を異にする。漢字は表意文字又は意字とよばれて意味を表はすもの、假名は(ローマ字などと共に)表音文字又は音字とよばれて音を表はすものと考へられてゐる。さすれば一寸見ると漢字には表音性なく、假名には表意性が無いかのやうに見えるが、はたしてさうであらうか。
まづ漢字について見るに、漢字には、從來、形音義の三つのものがあると考へられてゐる。形は、その字の形であり、音はその字のよみ方であり、義は、その字のあらはす意味である。そのうち音と義とは、言語に屬する事である。(漢字がなくとも、言語として音と意味とは存在する。)漢字には、それぞれきまつた形があつて、それが、きまつた意味を表はし、又きまつた音(よみ方)をもつてゐる。そのきまつた意味と音とをその形があらはすのであるから、漢字の形は、つまり言語を表すものである。即ち、表音性と表意性とをもつてゐるといふ事になるのである。即ち、漢字に形音義があると考へられてゐるのは、漢字には表意性のみならず、表音性もある事を認めてゐるのである。
次に假名はどうか。假名は表音文字といはれてゐるやうに、一々の假名はきまつたよみ方(音)をもつてをり、言語の音を表はすが、意味をあらはさないのが常である。さすれば假名には表意性はないかといふに、さうではない。なるほど一々の假名はきまつた意味を表はさないが、之を實際用ゐる場合には、之を以て言語を書くのである。その場合には一つの假名で或意味をあらはす事もあり、又一つで足りない場合には、いくつかの假名を連ねてそれで或意味をあらはす。即ち、個々の文字としてはいつもきまつた音を表はすだけで、きまつた意味をあらはすのではないが、實際に於ては、やはり意味を表はすのである。
全體、言語としては、いつでも音は或一定の意味を表はす爲に用ゐられてゐるのであつて、或一定の意味を有する言語の形として或きまつた一つづきの音が用ゐられるのである。假名はさういふ言語の音を表はすのであつて、その音を表はすに必要なだけ、即ち、或場合には一つ、或場合には二つ以上連ねてあらはすのである。それ故、假名が音をあらはすといつても、それは言語の音をあらはすかぎり、結局は意味を表はす事になるのである。(もし言語の音を表はさないならば、それは文字ではない。)
假名が音を表はす事は勿論であるが、前述の如く、漢字も亦音を表はすのである。それは即ち漢字のよみとしてあらはれてゐる。それでは音を表はすといふはたらきからみて假名と漢字との間に何等かちがひがあるかどうか。
假名が音をあらはすのは、言語の音を音として分解して、その分解したものを一つ一つの文字であらはすのである。即ち言語の音は意味を表はすものであつて、それは一つづきの音である。それは言語としては、即ち、意味をもつてをるものとしてはそれ以上分解出來ないものであつても、音としては更に之を分解出來る。假名は、音として分解して得た單位を代表するもので、それが言語を表はす場合には、分解したものを更に結合させて、言語としての一定の音を形にあらはすのである。然るに、漢字は、或意味を表はす一定の音の形全體を分解し分析せず、そのまゝ全體として之をあらはすのである。ここにその間の相違がある。
かやうに假名は音の形を分析して示し、漢字は分析せず全體をそのまゝ示すとすれば、假名の方は言葉の音の形を明かに精密に示し、漢字は之を明かには示さないやうに考へられる。また、それも事實である。しかしよく考へて見ると、これは唯反面の事實であつて、全局から見れば必ずしもさう言ひ切れないものがある。
假名は言語の形を分析して示す。分析すれば、精密に音が示せるやうに考へられるが、分析した爲に失はれるものはないかと考へてみるに、それはたしかにあるのである。その明かなのはアクセントである。
言語に於ては意味をあらはす音の一つづきには、必ず一定のアクセントがある。どこを高く、どこを低く、發音するかのきまりがある。同じ音から出來た語であつても、そのアクセントの違ひによつて、別の語になる(即ち、意味が違ふ)。それ故、アクセントは言語としては大切なものであるが、假名で書けば、このアクセントの違ひは書きわける事は出來ない。
然るに、漢字に於ては、その「よみ」は一定の意味をもつてゐる語の音の形そのまゝである故に、その語に使ふアクセントも亦一定してゐるのであつて、漢字は唯、音を示すばかりでなく、アクセントをも示すといふ事が出來る。かやうな點に於て、漢字の表音性は假名よりも一層精密であるともいへるのである。
もつとも假名は音をあらはす文字である故、假名で書いてあれば、普通の場合は、發音はわかる。勿論アクセントはわからぬまでも、大體の音はわかる。漢字の場合は、文字の音は、よみ方を知らなければ全くわからない。さういふ點に於て假名の方が便利だといへる。
しかしながら、元來、文字は知らない言語を新しく覺える爲のものではなく、わかつてゐる言語を書き、書いた文字から知つてゐる語をおもひ出す爲のものである。知らない語であれば、どんなにその發音だけが正しくわかつても之を理解する事が出來ず、又自分の知らない語ならば之を書くといふ事は出來る筈のものではない。それ故、もし讀み方のわからない場合には之を人に聞いてどんな語であるかを知るべきであつて、勝手に之をよむべきものではない。
世人はこの點に於て誤解してゐるものが多いやうであるが、まだ讀方を知らない文字に出會ひ又はまだ知らない語を書いた文字に出會つた場合に、それがわからないからといつて、之をその文字の責任に歸するのは根本的にあやまつた考であると信ずる。
次に、表意性について考へてみる。
漢字は、意味を表はすものである。たとへ同じ音の語であつても、意味のちがつたものは、違つた文字であらはすのが原則である。それ故、漢字で書いたものは意味を理解するのに容易である。
假名は、言語を書くのに、語の音を分解して、音に從つて書く。それ故、或る意味をもつてゐる一つづきの音は、一字のもあれば、二字、三字、四字などいろいろある。その上實際の言語としては、音のつながりが、意味にしたがつて區切られてゐるのであるが、普通の書き方としては、その區切が書きあらはされず、ずつとつゞけて書いてある。それ故、どこからどこまでが、一つの意味をあらはすかが、すぐはわからず、讀んでみなければならない。(普通の場合は言葉としてはわかつてゐるのであるから、讀んでみればわかるが、區切りが明瞭でない故、時として誤讀するおそれがある。)それ故、漢字の場合の如く、意味を理解する場合に一目瞭然とは行かない。かやうな點に於て、漢字は假名よりも數等すぐれてゐる。もつとも同じ表音文字であつても、今日の羅馬字の如きは、一語ごとに區切りがあつて、意味を表はす一かたまりの音は一かたまりの文字によつてあらはされてをり、それが意味を理解する場合に便利になつてゐる。かやうになれば、表音文字であつても、そのかたまりが一つのものとなつて、一つの漢字と同じやうな性質のものとなつたのである。我國の假名には、まだ、かやうな習慣が成立つてゐないのである。
以上は、漢字と假名との表音性と表意性とについての大體論である。勿論、我國では漢字を假名のやうにその意味にかゝはらず專ら表音的に用ゐる用法があつたのであつて、これを萬葉假名といふ。この場合には、その性質は漢字でも假名と同樣である。しかし、漢字はやはり漢字であつて、全く假名の如く表音文字になつたのではなく、同時に表意文字としても用ゐるのであつて、假名的用法は、漢字の特別の用法に過ぎない。
又一方假名は、表音文字で、言語の音を表はすのがその本來の性質であるが、しかし、又その意味によつて之を用ゐる事もある。假名遣の場合がそれであつて、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」、「お」「を」は音としてはそれぞれ全く同じ音であるが、之を同じ處には用ゐず、區別して用ゐるのであるが、どう區別するかといふと、意味によつて區別するのである。即ち「イル」といふ音の語であるとすると、音としては、「イ」は全く同じ音であるが、「入る」「射る」「要る」などの意味の語である場合には「い」を用ゐ、「居る」の意味の語である場合には「ゐ」を用ゐる。「得る」と「彫る」のエも音としては同じであるが、前の意味の語では「える」と書き、後の意味の場合では「ゑる」と書く。これらは假名の違ひによつて意味の違ひを示してゐるのである。
かやうに、漢字でも必ずしもいつも表意的にのみ用ゐるのでなく、又假名でも、時には音を表はすのみならず意味のちがひを表はす事もあるけれども、普通の場合に於て漢字は表意文字で、假名は表音文字である。さうして前に述べたやうに、漢字は意味を示すことをその特徴とするのであるが、しかし音をあらはさないのではなく、しかも、その音をあらはすはたらきは、或る點では表音文字たる假名よりももつと具體的であつて一層精密であるといつてよい點があるのであり、表意のはたらきに於ては、假名とは比較にならないほど、明瞭で適切である。假名は表音のはたらきに於ては、漢字のもたないやうな長所をもつてゐるとはいふものの、又一方からみれば、まだ不完全で不精密な點もあり、又表意の點に於ては漢字にくらべては、まだ不完全で不便な點が多い。
さうして、言語はつまり、思想交換がその目的である故、その最も大切なのは、意味であつて、その音の側にはないのである。音が言語に於て大切なのは意味を傳へる手段としてであるが、文字に書いた場合には、必ずしも音によらなくとも文字として目に見える形だけによつても意味を傳へる事が出來るのであるから、文字の場合に大切なのは、その表音性よりも表意性にあるのである。假名と漢字とをくらべて見ると、前に述べたやうに、漢字の方がその表意性が著しく意味を傳へるのに便益が多いとすれば、漢字の文字としての價値は假名にくらべて勝れた點がある事を認めないわけには行かないのである。
勿論私が、文字の意味を大切であるとするのは、その表音性を無視しようとするのではない。ことに、山田孝雄氏が國語史文字篇に文字の本質としてあげられた
文字は思想觀念の視覺的形象的の記號である。
文字は思想觀念の記號として一面言語を代表する。
といふ説に對しては、むしろ反對の意見をもつものである。文字は單に一面言語を代表するのではなく、全面的に言語を代表するものと考へるのであつて、言語には必ず一定の音があるもので、文字もこの音をあらはせばこそ文字であるのである。即ち、文字ならば必ず一定のよみ方を伴ふのである。もし、それがなく、只觀念思想を表するだけなら文字ではなく符合(記號)にすぎない。實際文字があつても、よみ方を知らない場合があるが、それでも文字である以上は何かきまつたよみ方があると考へるのである。無いとは考へない。又一方文字のあらはす思想觀念といふものも只抽象的の思想觀念ではなく、言語として一定の音であらはされる思想觀念、即ち言語の意味ときまつた思想觀念である。さすれば言語をはなれては、文字はないのである。しかし、それにもかゝはらず、言語の用といふ側から見て意味の方が實際上重きをなし、音の方が閑卻せられる事は事實である。甚しきは、文字は同じであつて、よみ方が全然違つても、やはり思想を通ずる役目をする事は漢文の筆録を見ても明らかである。
さうして、かやうな事情にあればこそ、更に一層文字のよみ方教育を重視する必要があるのである。
漢字と假名とが文字としての性質を異にし、それぞれ獨特の長所を有すること上述の如くである。さうして、我國では現今この二種の文字を共に用ゐ、同じ文の中に之を混用してゐる。これはどんな意義を有するものであるか。
現代の文に於て、主として漢字で書く語と、假名で書く語とは概していへば、その文法上の性質をことにしてゐる。即ち品詞の違ひによるといつてよい。助動詞、助詞及び用言の活用語尾は常に假名で書くのが原則であり、其他の品詞は主として漢字で書くのがならはしになつてゐる。助詞や助動詞及び活用語尾は、古く「てにをは」といはれたものであつて、いつも他の語に伴つて付屬的に用ゐられるものであり、其他の品詞は、比較的獨立性のつよいものであつて、「てにをは」の類を付屬せしめるものである。助詞や助動詞や活用語尾は、語と語との關係や、或は斷定、願望、要求、咏歎のやうな意味を言ひあらはして文の構成上極めて大切なものであるが、それは、其他の品詞のあらはす主要なる意味に付帶してあらはされるものであり、その上、いつも他の語の後に付くものである。その主要なる意味をあらはす語を、その意味をあらはすに適當な極めて印象的な漢字で書き、之に伴ふ意味をあらはす「てにをは」の類をその下に假名で書くのは、これらの各種の語の性質に適つたものであるといふべきである。かやうに漢字と假名とが適當に交錯し、さうして意味から見ても又音から考へても、漢字とそれに伴ふ假名とが一團となつて、その前後に區切りがあるのであつて、假名から漢字に移る所が、自然、音と意味との切れ目となつて、特にわかち書きをしなくとも、わかち書きをしたと同樣の效果をあげることが出來るのであつて、讀むにも甚便利に容易になるのである。これは極めて巧妙な方法であるといふべきである。かやうに考へて來ると、現今普通に行はれる漢字假名まじりの文は、一見複雜にして統一がないやうであるが、國語の文の構造の特質を捉へて漢字と假名との長所を巧に發揮させたもので、我が國民の優れたる直覺と適用の才とのあらはれを見る事が出來るといつて過言ではないであらう。
かやうな點から見ると、漢字をむやみに制限して、之を假名にかへる事は容易に贊成しがたいのであつて、かやうな事については、もつと廣い處から考へて十分の思慮を必要とするのである。 
 
ふりがな論覺書 / 橋本進吉

 

一、ふりがなの效用
一、漢字に種々のよみ方のあるのを、いかに讀むべきかを明示して、著者の欲する通りに讀者に讀ませる。即ち、著者の言葉を正確に傳へる方法である。
一、通讀を容易ならしめる。(ふりがなのある方が早く讀める事は、心理學の實驗で證明せられたと記憶する。)
一、同一の漢字を人によつて色々によんで言語が不統一になるのを防ぐ。
一、知らないものに漢字のよみ方を知らせ、又、言葉をどんな漢字で書くべきかを教へる。
以上の點から見れば、ふりがなは著者の言葉を正しく且容易に傳へるばかりでなく、漢字の正しい讀み方と使用法を教へて國語の統一に資するものである。それ故、國語を現状のままにして、振假名を全部除くとすれば、著者の欲するとは違つた讀み方をして、著者の本意に背く憂があり、又國語の統一を害する虞がある。
一、ふりがなの弊
一、一つの語を漢字と假名とで表はすので二重の手數を要する。
二、文字が細かい爲に視力を害する。
一は事實である。しかし讀むものからいへば、大して邪魔にはならない。必要のない場合にはふりがなを讀まなくても漢字だけ見ればよい。
二は、ふりがなよりも、むしろ漢字の方が問題である。近頃のやうに漢字を小さくすれば、やゝ複雜な漢字はその各部分を構成する點畫がはつきりせず、たしかに目によろしくないとおもはれる。ふりがなは小さくとも、字の形が比較的簡單で、その上違つた字の種類が少ないから、比較的よみやすい。あまり小さな漢字を用ゐない事になれば、勿論ふりがなも大きくなる。
一、以上のやうに見れば、ふりがなは、弊よりも功の方が多い。少くとも言語文章を現状のままにしてふりがなを全廢すれば、弊を生ずるおそれがある。しかし、之を節約する事は可能であらう。
一、節約するとすれば、ふりがなを除いてよい漢字は、
一、誤讀のうれひの無いもの。
二、ふりがなが無くてもたやすく讀む事の出來るもの。
たやすく讀む事が出來ると出來ないとは、その人の教育の程度によつて差があらう。普通の讀みものは、普通の教育をうけた人々の漢字の智識を標準とすべきであらうが、それでも、嚴密にきめる事は困難であらう。しかし、普通の文なら右の標準によつてふりがなを省いてよいものが、かなり多いであらうと思はれる。
一、右のやうな事情であるから、ふりがなを全く用ゐないで文を書く事とすれば、
一、誤讀のおそれある場合には漢字を用ゐない。
二、讀みにくい漢字は用ゐない。
といふことになつて、ふりがなの問題は漢字の使用制限の問題となる。さうして漢字を制限するとすれば、制限せられた漢字の代りに何を用ゐるかが問題となる。單に漢字を假名に代へたばかりでよい場合もあらうが、假名に代へては意味がとりにくくなる場合もあり、又誤解を生ずる場合もあらう。又假名ばかり多く續いては、通讀しにくくなる場合もあらう。(數年前に實行せられた新聞に於ける漢字制限の試は、今日では失敗に終つたといはなければならない)
一、以上は言語そのものには手を着けず、ただ言語を文字で書きあらはす方法についてのみ考へたのであるが、言語をそのままにせず、之に手を加へて、やさしい言葉しか用ゐないといふ事にすれば、ふりがな又は漢字の問題は、言語制限或は言語統制の問題となる。さうして右のやうな方法によつて、ふりがなの問題が全部解決するかといふに、必ずしもさうでない。
一、やさしい言葉といふのは、平生あまり用ゐないやうな耳遠い言葉でなく、國民一般に容易に理解されるやうな言葉をいふのであらうが、これは必ずしも、漢字に書いて讀みにくい言葉と同一ではない。やさしい言葉でも、漢字に書けば讀みにくい言葉もある。之を漢字で書くとすればふりがなが必要になる。もつとも、かやうな語は漢字をもちゐずすべて假名で書く事とすれば、ふりがなは不用になるが、さすれば、假名が多くなつて、讀みにくくなるやうな場合もあらう。
一、やさしい言葉で書けば、多くの國民に讀まれまた理解される。これは著者としては望ましい事である。しかし、やさしい言葉で書くといふ事は、著者としては、用語を制限せられるのである。この限られた用語で著者が讀者に傳へようと欲する通りの事實や感じを表現しようとするには、かなりの困難があり、これを克服するには多くの工夫努力を要することであらう。
一、かやうに考へれば、ふりがなの論は、單にふりがなだけに止まらず、漢字制限の問題や用語制限の問題となる。ここにこの問題の重大性があるのである。
一、私は、ふりがなの國民一般に對する國語教育上の效用を認める故に、いかなる場合にもふりがなを廢すべしといふ論には贊成しかねる。しかし普通の讀物に於てふりがなをずつと少なくしてもあまり弊を生じないであらうと考へる。
一、普通の讀物をやさしい言葉で書くといふ事は結構な事であると思ふ。これは著者にとつては面倒で骨の折れる事であらうが、その爲に、むづかしい言葉を用ゐないで、品位あり力ある數々の立派な表現法が工夫され見出されたならば、我が國語の向上發展の爲に慶賀すべき事である。
一、元來、新聞雜誌其他通俗の筆者は、自ら好むと好まざるとに係らず、言語文字の教師である。假名遣にせよ漢字の用法にせよ文法にせよ、これらの讀物に用ゐられたものは、日常國民の目に觸れて、知らず知らずの間に之に影響を及ぼす事、學校の國語教師よりも一層大なるものがあらうと思はれる。國語の向上發逹も、いかに學者が之を論じても其の效果は少く、文學者や新聞雜誌の記者が之を實行しなければ社會を動かすことが出來ないのは、言文一致の運動、即ち口語文流布の歴史が明かに之を語つてゐる。しかるに、我國の文學者や記者は多くはかやうな重大なる社會的影響を自覺せず、自己の用ゐる言語文字に對して充分の注意をしないやうに見えるのは誠に遺憾なことである。しかるに、山本氏のやうな有力なる文學者が、ふりがなの問題をとらへて、口語文の用語の平易化を提唱し且實踐を試みられたのは、我々の多とする所であつて、我々は山本氏がこの試を今後も續けられん事を希望するものである。
國語や國字の實踐上の問題については、私はまだ深く研究した事がありません。以上は唯思ひついたままを述べただけですから、素人論として御聞き下さい。 
 
漢字御廢止之儀 / 前島密

 

國家の大本は國民の教育にして、其教育は士民を論せす國民に普からしめ、之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひざる可らず。其深邃高尚なる百科の學に於けるも、文字を知り得て後に其事を知る如き艱澁迂遠なる教授法を取らず、渾て學とは其事理を解知するに在りとせざる可らずと奉存候。果して然らば御國に於ても西洋諸國の如く音符字(假名字)を用ひて教育を布かれ、漢字は用ひられず、終には日常公私の文に漢字の用を御廢止相成候樣にと奉存候。漢字御廢止と申候儀は古來の習用を一變するのみならず、學問とは漢字を記し漢文を裁するを以て主と心得居候一般の情態なるに、之を全く不用に歸せしむると申すは容易の事には無之候得ども、能く國家之大本如何を審明し、御廟議を熟せられ、而て廣く諸藩にも御諮詢被遊候はヾ其大利益たると判明せられ、存外難事仁非ずして御施行相成り得べきやと奉存候。目下御國事御多端にして人々競て救急策を講ずるの際、此の如き議を言上仕候は甚迂遠に似て、御傾聽被下置候程も如何有御坐歟と憚入奉存候得共、御國をして他の列強と併立せしめられ候は、是より重且大なるは無之やに奉存候に付不顧恐懼敢て奉言上條
學事を簡にし普通教育を施すは國人の知識を開導し、精神を發達し、道理藝術百般に於ける初歩の門にして國家富強を爲すの礎地に御坐候得ば、成るべく簡易に成るべく廣く且成るべく速に行屆候樣御世話有御坐度事に奉存候。然るに此教育に漢字を用ひるときは英字形と音訓を學習候爲め長日月を費し、成業の期を遲緩ならしめ、又其學び難く習ひ易からざるを以て、就學する者甚だ稀少の割合に相成候。稀に就學勉勤仕候者も惜むべき少年活溌の長時間を費して、只僅に文字の形象呼音を習知するのみにて、事物の道理は多く暗昧に附し去る次第に御坐候。實に少年の時間こそ事物の道理を講明するの最好時節なるに、此形象文字の無益の古事の爲めに之を費し、其精神知識を鈍挫せしむる事返す/\も悲痛の至に奉存候。抑御國に於ては毫も西洋諸國に讓らざる固有の言辭ありて、之を書するに五十音の符字あり(假名字)有之、(假名字の出所に種々の論説有之、又御國古文字等の論説も有之候得共、本議には不用に御坐候得ば爰には附記不仕候)一の漢字を用ること無くして世界無量の事物を解釋書寫するに何の故障も之れ無く、誠に簡易を極むべきに、中古人の無見識なる彼國の文物を輸入すると同じく、此不便無益なる形象文字をも輸入して、竟に國字と倣て常用するに至りたるは實に痛歎の至に御坐候。恐多くも御國人の知識此の如くに下劣にして、御國力の此の如くに不振に至りたるは、遠く其原由を推せば其素の毒を茲に發したるなりと痛憤に不堪奉存候
因みに米人ウ井リアム某が一話を御參考の爲めに記して御賢覽に奉供候。同人は亞米利加合衆國の基督教の宣教師にて、亞細亞地方に同教宣布の爲め先づ支那に渡航し、咸豊の末迄同國に於て支那語を學び、夫れより長崎に來りて近頃迄同所に本邦語を學び居たる者に御坐候。同人は始て支那に航りたる頃、 一日或る一家の門を過たるに其家中に多數の少年輩が大聲に號叫する頗る喧囂なるを以て、何やらんと門に入りて之を見れば、其家は學校にして其聲は讀書の音なり。何故に斯く苦しげなる大聲を發して囂號するかと疑ひだるに、後日其實況を知れば怪むに足らざる事なり。彼等は其讀習する所の書籍には何等の事を書たるやを知らずして、只其字面を素讀して其形畫呼音を暗記せんと欲するのみなり。其讀む所の書は經書等の古文にして、老成宿儒の解に苦む所のものなり支那は人民多く土地廣き一帝國なるに、此萎靡不振の在樣に沈淪し、其人民は野蠻未開の俗に落ち、西洋諸國の侮蔑する所となりたるは其形象文字に毒せらるヽと、普通教育の法を知らざるに坐するなり。今日本に來りて見るに句法語格の整然たる國語の有るにも之を措き、簡易便捷なる假名字のあるにも之を專用せず、彼の繁雜不便宇内無二なる漢字を用ひ、句法語格の不自由なる難解多謬の漢字に據り、普通の教育を爲すが如し。此の活溌なる知力を有する日本人民にして此の貧弱の在樣に屈し居るは、全く支那字の頑毒に深く感染して其精神を麻痺せるなり云々と。是等の話頭は漢字漢學を以て薫陶せられたる多敷の邦人及之を以て最上等の學文なりと妄信する學者輩の聞くときは徒に驚怪するのみならず、魔語賊言として排斥可仕候得共、深識遠慮の具眼者をして聞かしめ候はヾ沸泣賛歎可仕候。恐多き事ながら何卒賢明なる慧眼を以て深く此意を御洞見被遊度誠に悃願の至に不勝存奉候 
漢字を御廢止相成候とて、漢語即ち彼國より輸入し來れる言辭をも併せて御廢止可相成儀には無御坐、只彼の文字を用ひず假名字を以て其言辭を其儘に書記するは、猶英國等の羅甸語等を其借入れて其國語となし、其國の文字綴を以て書記すると同般にするの謂に御坐候。即ち「今日」を「コンニチ」「忠考」を「チウカウ」と記るす類に御坐候。此の如くせば橋箸端の混雜あるべく、又「霞ぞ野邊の香哉」を「カス。ミソ。ノ。 へノ。 ニホヒ。カナ」と誤讀する如き句切りを愆る恐ありなど非難仕候者も可有之候得共、是等は文典を制し、辭書を編し、句法語格接文の則を西洋諸國に既成のものと御國固有の者とを參酌折中して御制定相成候ときは毫末恐るヽに足らざる儀にして、而かも漢字の如く騒亂の亂字と亂臣の亂字の如き混雜も無く、又大將軍は大將の軍なるか、大なる將軍なるか、大ひに將さに軍せんとするなるか、大ひに軍を將ふると讀むなるかを排列し難き病は無御坐候。漢文の如き句法語格の無きものすら前後の語勢と人知の理會を以て大將軍は即ち大將軍たる官職と理念し、征夷大將軍を讀て「夷を征して大ひに將さに軍せんとす」とは執れも理會する者は無御坐候
國文を定め文典を制するに於ても、必ず古文に復し「ハベル」「ケルカナ」を司る儀には無御坐、今日普通の「ツカマツル」「ゴザル」の言語を用ひ、之れに一定の法則を置くとの謂ひに御坐候。言語は時代に就て變轉するは中外皆然るかと奉存候。但口舌にすれば談話となり、筆書にすれば文章となり、口談筆記の兩般の趣を異にせざる樣には仕度事に奉存候。是等の如きは學術上に渉つたる事柄にて、元より本議御採納の上其事業に御着手のとき學者輩の議に任すべきものに御坐候得共、御賢按の御資料に迄取摘み言上仕置候
漢字を普通一般の教育上に廢すること、素讀習字即ち文字の形畫呼音を暗記し、之を書寫するの術を得る爲めに費す時間を節減仕候に付、一般學年の童子には少くも三ケ年、專門高上の學を脩むる者には五六乃至七八年の時間を節省せしむべく、此節省し得べき時間を以て或は學問に、或は興業殖産に各某所望に任して用ひしめば、勝て算すべからざるの利益なるは毫末疑を容れざる事と奉存候。乍恐此時間利用の一件に就ては殊に賛意を被爲注度奉存候。御國人の時を徒費して惜まざるは實に歎しき至に御坐候。大禹が惜寸陰の格言を萬般の實業に實施せしむるこそ、實に治國の大要件と奉存候
次に普通一般の教育法を御改良不被遊候ては一般の知識を開達せしめず其愛國心を厚からしむるとは無覺束事と奉存候。前にも申上條通り、國人皆自國を以て無上至善の國と自信し、自ら自尊の志を懐ひて寸毫も他に讓らざるの氣象を保たざれば、眞誠の愛國心を被揚仕り兼ね候。御國人の所謂大和魂は一種特有の魂氣の如く御坐候得共、決して然るものには有御坐間敷、取りも直ほさず愛國の一心に外ならずと奉存候。(自盡決死に果敢なるが如きは大和魂の一部分なるに過ぎずと奉存候)
御國普通一般の教育は上下の二等に分れ、其下等なるものは只僅に姓名の記し方、消息の書き方及其職業に就て要用なる字面を諳ずるのみにして卒り、宇宙事物の道理の如きは分毫も之を教示するもの無之、國外國ある事をすら知る者少き状態に候得ば、愛國心の如きは是等の種族中には絶て影だに映出致せし事は有之間敷奉存候。其上等なるものに於ては先づ四書五經の素讀より支那の歴史に相渉り、文物制度より治亂興敗の順を講じ候にて、御國の古典歴史の如き課外の業に附し去りて、之を知るも知らざるも教育上には関係無きは一般に御坐候。故に彼を尊み己を卑むの病は早く已に彼等の腦裏に感染し、愛國心を傷け候。素より知識を開達せんには廣く宇内の事績を講明するを肝要と仕候得ば、支那は差措き西洋の書をも閲讀せしむるは勿論之儀に候得共、普通一般の教育に就ては尤も本邦の事物を先にし、他邦の事物も容れて自圖の事物の如く自國の言語を以て教授し、(即ち學問の獨立)少年輩の心腦をして愛我尊自の礎を固めしむること甚だ肝要の事と奉存候。他を學で而て后我を知るが如きは主客を轉倒し順叙を愆るの本にして、風習の大躰に就て大妨碍と相成候。學者の常に道ふ我民をして尭舜の民たらしむ、英雄を論じて楠正成は諸葛孔明に似たりと云ふ如きは、主客順序を轉倒するものにして、邦俗風習を卑屈ならしむるの一例に御坐候。西人某の談話に、日本人は大和魂と云々すれども、從來漢學を以て學間教育の基本とするゆへ、 一種の支那魂ありて大和魂(愛國心)に乏し、輓近に至りて漸く西洋學を爲す者増加せるゆへ、早く學問の順叙を改正して之を制せざれば、他日は自ら一種の西洋魂を輸入して支那魂と衝突し、不可謂の葛藤を起し、其極大和魂を皆無にすべしと。這は外人の妄評には御座候得共、亦全く御遠慮の外に可被爲措の一語とも不奉存候。故に願くは速に學問獨立の大本を被爲立、御國語を以て編纂したる徳育の書(孝悌忠臣徳誼品行上に係るもの)、智育(歴史地理物理算數等に係るもの)の書、下等上等の兩區に分ち、彼我主客等皆兵叙次を定て一般普通の教育に御適用被遊候樣、御廟議有御座度奉存候 
學問の順叙を立てざる教育は愛國心云何の一點に止らず御國人一般の智徳を發達せしめざる大病源に御座候。喩へば仁義とか、明徳とか、治國平天下とか云へるは、老成學者の猶明解に苦しみ、老練爲政家の難しとする所のものに御坐候處、童年初歩の教授本と致候に付可惜智力發揚の時間を之に費し、數年の苦學は僅に素讀の一事に止り、随て止れば從て其字面をさへ忘失し、全く無價の徒勞と相成候。又學問は只道徳上のものとのみ見做候に付、物理の學の如きは古來全く教育上の物とせず、技術上の教育に於ては之を職工の賤業とし學校の門に入れざるより、工事陋劣、風教浮薄、此貧弱未振の今日を致し、志士をして痛歎血泣せしむるの悲況に立至り候は畢竟自尊獨立の氣象を盛にし、愛國至誠の心を固からしむるは富強の二力に職由仕候は今更申上候迄も無之、其大原たる實に學問の順叙方法其宜を得ざるに歸着仕候段は、深く御賢慮被遊度。蓋し此儀は方今學者の多く力を極め言を盡て排斥する所と奉存候得共、是等俗儒庸士の能く知る所の者に無御坐候得ば、彼等の紛議は御峻拒被避何卒御廟議英明の果斷に被爲出度勘至奉悃願候。實に此儀は空前絶後千載の一事歩一乍恐奉存侯
前記第三と事項を分て申上候。御命令其他に漢宇を用ひざる云々は廢漢字の手續きまでにして、別に可申上程の緊要は無御坐侯。斯く御手段を不被遊候ては、一般をして速に漢字を用ひず國文を用ふるの時を得難く、又斯くあらぱ相互の私書には御立入無御坐旨を明にするの御便宜も可有と奉存候。但地名人名に漢字を用ひざるときは、喩へば松平を「マツタイラ」「マツヒラ」「マツヘイ」「シヤウヘイ」其外「シヤウヒラ」「シヤウタイラ」何と讀て然るべきや、其人に聞かざれば其正を得ざる如き、實に世界上に其例を得ざる奇怪不都合なる弊を除き、萬人一目一定音を發する利を睹ては此御美擧なるを普く賛賞仕候儀は尤速なる御事と奉存候
右は御用御多端の際御通覽の勞を憚り卑懐の幾分を言上仕候迄に御坐候間、幸に御一覽の榮を賜り候上にて尚御不問の御儀も被爲有候はヾ、難有謹て詳に言上可仕候。但微賤の分限をも不顧奉犯尊儼候段、其僭越の罪は元よリ湯钁をも不奉辭、謹て待罪罷在候恐々謹言
慶應二年十二月  前島來輔 
 
知的怠惰の時代 / 松原正

 

第一章 新聞はなぜ“道義”に弱いか 
馬鹿に保革の別はない
かつて新聞の「偏向」を批判して心ある識者は一樣に嘆いた。新聞が反駁できないのを看て取つて、次第に心無き識者までが嘆くようになつた。新聞は「公正中立」だの「不偏不黨」だのと口先だけの綺麗事を言うが、その實頗る「反體制的」であり、保守に嚴しく革新に甘く、それは「亡國の病」だという譯である。しかるに昨今、世の中は少しく右傾して、ために新聞の「偏向」も少しく改まつたという。信じ難い。なるほど、長年日米安保条約に反對してゐた新聞までが中國の安保支持に勇氣づけられてか、「安保条約の有効性の確保が求められなければならない」などと、臆面も無く書くようになりはした。が、それは新聞の病弊が改まつた事を意味しない。
新聞は舊態依然、少しも變つてはいない。漠然とした右があつて、漠然とした左があり、その中程に常に新聞はゐる。これまでは世の中が左へずれてゐたから、中程の位置も當然左へずれてゐた。ところが近頃、何となく世の中が右へずれたから、中程にゐる新聞も自動的に右へずれた。そういう事でしかない。「偏向」というからには何を基準にして片寄つてゐるかが明確でなければならないが、漠然たる左右の中程に新聞がいて時流のまにまに漂つてゐるのだから、それを「偏向」と斷ずる譯にはゆかぬ。
それゆえ、新聞の「偏向」を難ずるのはもはや意味が無いとさえ私は思ふ。保守派は新聞の「偏向」をけしからんと言い、新聞は世の右傾こそ憂うべきだと言う。右は左の「偏向」を難じ、左は右の「偏向」を憂える。だが、そういう事で問題は決して片付かない。所詮は不毛の水掛け論である。そうして保守と革新が水を掛け合つてゐるうちに、いつしか國際情勢は樣變りして、中國が日米安保条約を肯定したり、ヴェトナムへ攻め込んだりした。それかあらぬか、このところ革新は頓に自信を喪失し、保守の鬪爭心は稀薄になり、論爭は滅多に行われず、許し合ひと馴合ひの太平樂を今や保守派は享受してゐる。
とかく目高は群れたがる。右の目高は今なお左の目高を非難する。が、右の目高は右の目高を決して咎めない。私は一應右の目高に屬する。けれども、右の目高を難じたり、難じようとしたりして、私はしばしば嫌な顔をされた事がある。その度に私は「馬鹿に保革の區別は無い」と放言したくなり、放言せずに辛抱した。が、今囘は紙幅の關係上、新聞を難じて特定の個人を叩かないから、辛抱するには及ばないと思ふ。
昨今、新聞は新聞批判のコラムをもうけるようになつた。自社を批判する文章さえ載せるようになつた。けれども、『マスコミ文化』昭和五十四年八月號で辻村明氏が指摘してゐる通り、大方の新聞批判は手緩く、型に填つた、陳腐な文章である。それもその筈、かつて左の目高が意氣軒昂だつた頃、新聞批判は勇氣の要る仕事だつたのであり、それは林三郎氏の『知識人黨』(創拓社〕を讀めばよく解るが、左の目高が意氣阻喪してゐる今日、新聞の 「偏向」を難ずるのはた易い事なので、相も變らぬ紋切型の新聞批判ならもはや意味が無い。弱くなつた左の目高を叩くよりも、今や保守派の中の贋物を成敗すべき時である。それゆえ、ここで保守派と目される物書きの新聞批判の文章を引き、徹底的に批判したいところだが、その紙數が無いのは殘念である。それはまた別の機會にやるしかないが、要するに、保守にも革新にもぐうたらな手合はゐる。同樣に、保革を問わぬ新聞の短所というものがあるのであつて、それは新聞は平和だの、民主主義だの、人權だのに弱い、つまり美しいものすべてに弱い、取分け道義に弱いという事なのである。これこそサンケイから朝日までの、吾國のすべての大新聞が抱えてゐる厄介な持病であつて、新聞批判はそこを衝かねばどうにもならぬと思ふ。 
新聞には暴論が吐けない
例えば、日米安保条約や自衞隊の存在を肯定するかどうかという點で、サンケイと毎日とでは今なおかなりの隔りがある。けれども、先般の所謂航空機疑惑の報道に際しては、讀賣、朝日、毎日と同樣、サンケイもまた「灰色高官」の政治的・道義的責任を追及して大いにはしゃいだのであり、これを要するに、日本共産黨に對しては強いサンケイも、道義には頗る弱いという事實を例證するものである。しかも、寡聞にして私は、この保革を問わぬ新聞の短所を衝く新聞批判を讀んだ事が無い。けれども、この新聞の通弊は、言論の自由などという事よりも遙かに重要な問題だと私は考へる。道義に弱い者は決して道義的ではないからである。この點については追い追い述べるが、ここでまず、道義に弱い新聞の社説の一部を引用する事にしよう。
國民はこんどの疑惑に、政治腐敗のにおいを敏感にかぎとり、特に、長期にわたり政 權を獨占し、その中で汚職土壤を育てた自民黨政治に、深い不信を抱いてゐる。
この文章に人間はいない。これは筆者の意見ではない。社説の全文を引用できないが、文中何らかの意見を述べる時、主語は常に「國民」であつて「私」ではない。人間がいない以上道義的でないのは當然だが、社説とはそういうものであり、それゆえ臆面も無く綺麗事を並べ立てられるのである。右に引いたのは革新に甘い毎日の社説の一節だが、毎日だから綺麗事を言うのではない。僞善にも保革の別は無い。サンケイもまた今囘、「政治腐敗」を嘆いて毎日と大差無い綺麗事を書いたのである。いや、今囘に限らない。新聞は汚職に對して常にアレルギーを起す。つまり新聞は道義に弱い。そしてそれが保革を問わぬ新聞の持病なのである。
それゆえ、新聞の政治的「偏向」を難ずるだけでは決して問題は片付かない。いや、新聞は或る意味では「偏向」などしていない。むしろ偏向の度合が足りないのである。その證拠に新聞は次に引用するような「暴論」を決して載せる事が無い。載せないくらいだから、決して自ら吐く事が無い。
公然たる賄賂の横行を、私は難じない。むしろ、これを大聲で難じる人を見るといや な氣がする。私は役人ではなし、いわゆる會社重役ではないから、これまでついぞ袖の 下を貰わなかつたし、これからも貰うまいが、たまたまその機會に惠まれなかつたこと が、自慢の種になるとは思はない。人に説教する資格があるとは思はない。
これは山本夏彦氏の文章である(『編集兼發行人』、ダイヤモンド社)。誰でも認めるだらうが、この「暴論」は右にも左にも「偏向」していない。山本氏の「偏向」は、いわば道義的「偏向」であつて政治的「偏向」ではない。だからこそ、保革を問わず、新聞の忌諱に觸れるのである。
言論は自由だと言われるが、どうして新聞はこの種の「暴論」を吐けないのか。そしてそれをなぜ世人は怪しまないのか。山本氏も社説の筆者も同じく人間ではないか。山本氏は「非國民」ならぬ「非人間」なのか。だが、山本氏の文章を讀む者は必ず笑う。そして、この地球上で笑うのは多分人間だけである。それなら、人間を笑わせる人間が「非人間」である筈は無い。そして私は、新聞がこの種の「暴論」を吐けぬ事こそ新聞の何より恐ろしい非人間的な宿痾だと思ふ。
新聞は保革を問わず道義には弱い。道義論を振り囘されると忽ち弱腰になる。それを薄々知つてゐるのか、振り囘される前に自分が振り囘す。では、なぜ新聞は道義に弱いのか。思考が不徹底だからである。愚論なら馬鹿にも吐けよう。が、「暴論」は決して馬鹿には吐けない。そして、道義に關して「暴論」を吐けるほど道義について深く考へる、そういう事をやつていいない馬鹿だけが、山本氏の「暴論」に總毛立つのである。
ところで、何かに對して弱腰なのは、その何かに關して深く考ないからであつて、それは怠惰という事である。怠惰が徳目になる筈は無い。思考の不徹底とは知的怠惰という事だが、知的に怠惰な人間は實は道徳的にも怠惰な人間なのである。例えば、新聞は公然内密の別無く贈収賄を難ずる。それも必ず他人の増収賄を難ずる。なぜか。樂だからである。怠惰な連中が樂をしたがる事に何の不思議があるか。他人の惡行なら誰でも氣樂に指彈する。どんな惡黨も他人の惡行なら氣樂に斷罪する。そして新聞は、そういう誰にもできるた易い事しかやらないし、勸めもしない。自ら怠惰に堕して他人にも怠惰を勸める。それは道義的頽廢に他ならない。
けれども、道徳とは本來そういう生易しいものではない。道徳は「平均人」には實行困難なものであり、その點で「平均人」に實行可能な法とは決定的に異なる。新聞は法と道徳についても「深考」を欠いており、その事に今囘は觸れられないが、總じて新聞は封建制や封建道徳には批判的でありながら、汚職を難じる時は決つて道學者を氣取るのである。それはもとより矛盾だが、矛盾を矛盾と知らないから手輕に矛盾した態度が採れる。再び知的怠惰は道徳的怠惰なのだ。 
極論を吐けぬ事こそ不道徳
新聞は道學者を氣取る。善き人たらんと心掛けるよりも、善き人に見せ掛けるほうが樂だからである。だが考へてもみるがよい、善き人たらんと努めるのは決して善き人ではない。おのれの心中を覗いて、おのれもなお及ばざる事を認めればこそ、吾々は善き人でありたいと思ふのである。それは解り切つた事ではないか。道徳は道樂ではない。樂なものは道徳ではない。實を言へば、善き人に見せ掛ける事も決して樂ではないのだが、新聞の社説は無署名であり、常におのれを棚上げできるから、善き人に見せ掛けるのは至極造作も無い事なのである。
ところで、知的に怠惰な人間は道徳的にも怠惰だと私は書いた。これを要するに、汚職を辯護するかの如き極論を吐けぬ者は決して道徳的な人間ではないという事である。極論を吐く事も「平均人」には實行困難な事なのであり、してみれば、その困難を敢えてする人間が却つて道義的に立派であつたとしても怪しむに足りない。それゆえ私は、山本夏彦氏は「これまでついぞ袖の下を貰わなかつた」に違い無いと信じてゐる。では、袖の下を貰わなかつた山本氏が、なぜ袖の下を難じないのか。
一方、道學者を氣取る新聞も、叩けば結構埃が出る。それは『新聞のすべて』(高木書房)を讀めば解る。新聞はわが耳を掩いて鐘を窃んでゐる。その癖、口を拭つて綺麗事しか言わない。が、袖の下を貰つたにも拘らず吐く「暴論」も綺麗事も、或いは貰わなかつたから吐ける綺麗事も、貰わなかつたにも拘らず吐く「暴論」には遠く及ばない。山本氏の道義的「暴論」を評價するゆゑんである。それゆえ、山本氏の「暴論」は曲論にあらずして極論に他ならない。
それに、どの道、極論を吐くには勇氣が要る。皆が汚職をヒステリックに難じる時、汚職を肯定するかの如き極論はためらわれる。皆と一緒になつて汚職を難じるほうがた易いに決つてゐる。が、山本氏がた易い道を選ばないのは、詮ずるところ、頭が惡くないからである。頭が惡くないからこそ、誰も極論を吐かない世の中は充分に道義的でないという事が解るのである。人間は矛盾の塊りであつて不完全である。不完全な人間が綺麗事ばかり言うなら、それは嘘に決つてゐる。
ところで、頭が惡くないと、人間の臍と旋毛は必ず曲る。それゆえ山本氏は、極論を吐いて、にやにや笑つて、世間がどんな顔をするかと邊りを窺う、と書けばこれは少しく山本夏彦ふうの文章になる。 
新聞は密かに大衆を見下してゐる
一方、昭和二十九年『中央公論』に「平和論に對する疑問」を書いて以來、一度も「論敵に敗けた事が無い」福田恆存氏の臍曲りも相當なもので、はや昭和三十年に「戰爭はなければいいが、あつたらあつたでうまく」やればよいなどと言い、以來アメリカ空軍によるハノイ無差別爆撃を支持するなど、數々の極論を吐いてゐる。近著『私の幸福論』(高木書房)においても、福田氏は「醜く生れついた女性は損をする」という「書く側も、讀む側も觸れたがらない」極論から説き出してゐる。福田氏は邊りを窺わない。名指しで馬鹿を馬鹿と極め付ける。それゆえ讀者も友人も時に當惑するが、佐藤直方が言つたように「人の非を云はぬ佞姦人あり。人をそしる君子の徒あり」であつて、「英氣事を害す」と世人は言うが、政治の世界はともかく少なくとも論壇に。事を害する學者がほしい」事に、今も昔も變りは無いのである。とまれ世間が「絶對平和」の夢に酔い痴れ、「新聞多く默して政客また言はず」、平和主義者にあらざれば人にあらずの觀を呈してゐた頃、福田氏は孤軍奮鬪、淺薄なる平和主義者を完膚無きまでに懲らしめ、彼等の「平和か無か」という思ひ詰めた思考と僞善を嗤つたが、論壇史上有名なかの「平和論論爭」は、今にして思えば、福田氏の極論が平和論者の中途半端な思考を制壓したという事に過ぎない。つまり、福田氏には「最惡の事態にも應じられる人生觀」があつたのに、平和の美名に酔い痴れてゐた敵方はそれを全く欠いてゐたのである。
では、その「最惡の事態にも應じられる人生觀」とは何か。人間の中に獸がいて、その獸は何をしでかすやら解らぬと、それを承知してゐる者の抱懷する人間觀である。パスカルが言つたように、人間は天使でもなく禽獸でもない。人間は同時にその兩者であり、常にその兩極の間を揺れ動いてゐる。そしてそれは、おのれの心中を覗いてみれば、實は誰でも認めざるをえない事實なのだ。しかるに新聞は、おのれの中の獸には目を瞑り、他人の中の獸を發き立てて恥じる事が無い。それはもとより僞善である。そして馬鹿に保革の別が無いのと同樣、僞善にも保革の別は無い。だからこそ、日米安保条約や自衞隊や腰抜け憲法を認めると認めないとに關り無く、新聞は今囘、「灰色高官」の「汚職」を咎めて大いにはしゃいだ譯である。
事ほど左樣に新聞が道義に弱腰なのは、先に述べたように、知的、道徳的に「偏向」せずして怠惰だからだが、同時に新聞が何かと言うとすぐに頼りたがる大衆の善良を信じ、大衆を神聖視し、大衆に迎合したがるからである。が、その癖新聞は腹の中では大衆を見下してゐる。大衆の理解力には限界がある、大衆は單純明快な正義を好み、決して複雜怪奇を好まない、兩極の間を揺れ動く人間の偉大と悲慘などという厄介な問題を、大衆は決して理解しないし歡迎もしないと、自らを顧みて、或いは自らを棚上げして新聞は密かに思つてゐる。
周知の如く、新聞は善玉惡玉の二分法を好むが、それも大衆の理解力を氣遣つての事であろうか。だが、それも幾分は無理からぬ事なので、E・M・シオランの言うように、パスカルの著作の一節を大衆向けのスローガンに仕立てる事はできない。パスカルの文章は、シュプレヒコールに用いて、感傷的な連帶感を強められるような廉物ではないからである。
だが、實はそれが問題なのだ。大衆を動かすには込み入つた議論はおよそ役立たぬという事を、宣傳の名手だつたヒットラーは知り抜いてゐた。宣傳は眞理とは關係が無い、首尾一貫する必要も無い、大衆の貧弱な理解力と度し難い健忘症を、宣傳家は片時も忘れてはならぬ、宣傳の要諦は飽くまで單純明快な觀念を執拗に反復する事にある、ヒットラーはそう信じて「信じられぬほどの成功」をおさめた。ヒットラーの奇蹟が再び起らぬという保證は無い。ヒットラーを惡し樣に言う事を必ずしも私は好まないが、第二のヒットラーに乘ぜられるような事態は避けねばならぬ。が、それには、常日頃安手の正義感を嗤つて極論を吐く人々の數を殖やすか、これまた甚だ迂遠の策かも知れないが、極端な理想の追求は諸刃の劍だという事を、それにも拘らず、と言うよりはそれゆゑに、一方の極に思ひ切り「偏向」しなければ他方の極を理解できないという事を、要するに道義の問題に單純にして明快な解決などは無いという事を、倦まず弛まず説くしかないのである。 
新聞はもつと「偏向」すべし
例えばトルストイは、「人間は善行をなさねばならぬ、隣人を愛して自己を犠牲にせねばならぬ」と堅く信じた男である。かういふ立派な美しい信念に、道義に脆い新聞は喜んで同意するに違い無い。だが、その激しい信念は當然トルストイを激しい苦惱に追い込んだ。彼は一九一〇年の日記に、妻についてこう記してゐる。
實に苦しい。あの愛情の表現、あの饒舌、不斷の干渉。大丈夫、まだそれでも愛する 事が出來ることを私は知つてゐる。しかし、それが出來ないのだ。惡いのは私だ(中村 融譯)
忘れてはいけない、一九一〇年はトルストイが死んだ年であり、この文章は八十二歳のトルストイが書いたものなのだ。まさに感動的だが、ここまでは新聞もどうにか付き合へると思ふ。
けれども、ダニエル・ジレスによれば、トルストイは娘たちの結婚に常に反對した。長女タチヤーナが結婚した時も、「嫉妬深い父親はなかなか氣持を和らげようとしなかつた」。そしてこう書いた、「ターニャはスホーチンと行つてしまつた。いつたいなぜだ。情けなく屈辱的だ」。だが、トルストイが娘の結婚に反對したのは、所謂「花嫁の父」の感傷なんぞではない。結婚生活は「破廉恥極まる地獄」だと信じてゐたためである。『クロイツェル・ソナタ』の後書にトルストイは書いてゐる。
すべての男女の教育法を改めて、結婚前であれ、またその後であれ、戀愛および、そ れに伴う肉體關係を現在の如く詩的な崇高な心境と考へることをやめ、人間にとつて恥 ずべき動物的状態とみなす樣にしなければならぬ。
そして、この異樣な考への論理的歸結としてトルストイは、性行爲は自己愛であり、惡徳であり、吾々は斷乎として性行爲をやめるべきであり、その結果人類が滅亡しても仕方が無いと言切るのである。
これもまた極論に他ならぬ。そして新聞はもとより、吾々も誰一人としてこの極論には付き合へまい。けれども、トルストイを担いで彼の美しき人道主義を云々する所謂「平和主義者」は、どうしてかういふ極論にたじろがないのか。言うまでもない、思考が不徹底だからである。平和主義なり愛他主義なりを奉じてその極に觸れる、そういう所まで考へないからである。だが、激しい理想追求の念はトルストイを一方の極にまで追いやつた。そして一方の極を知る者は他方の極を知る。八十二歳にして家出をしたトルストイは寒村の駅長官舎で息を引き取るが、その枕許にはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が置かれてあつた。
言うまでもなく、トルストイとドストエフスキーは對蹠的な作家である。ドストエフスキーはマルクス主義の世界觀を完全に否定したが、レーニンはトルストイを世界最大の小説家とみなしてゐる。だが、兩極に二人が靜止してゐると考へるのは、國家、階級、組織などの集團を優先的に考へ、個人を無視する政治至上主義者の淺はかな誤解に過ぎない。死の前年、トルストイはドストエフスキーと知り合へなかつた事を殘念がり、「彼とは國家と教會にたいする見解が正反對であるにもかかわらず、年をとればとるほど彼が精神的にわたしに近しく思はれてならない」と語つてゐたのである。
トルストイもドストエフスキーも、政治的黨派に屬して、すなわち右の目高と左の目高に分れて對立したのではない。政治的な右と左とは漠然たる右と左である。保守派は新聞の左傾を憂えるが、左とは一體何か。社會黨左派なのか、共産黨なのか、それとも新左翼なのか。新左翼同士にも對立があつて、今なお殺し合ひをやつてゐるではないか。けれども、政治的にでなく道義的に問題を考へる時、兩極はもつと明確になる。一方の極に「汝の敵を愛せ」というイエスの言葉がある。他方の極に、例えば『カラマーゾフの兄弟』に登場する大審問官の言葉がある。が、再び言う、一方の極を知る者は他方の極を知る。イエスを散々に罵倒して大審問官が立ち去ろうとする時、それまで終始無言だつたイエスは何をしたか。イエスはやはり無言で相手に接吻したのである。
とまれ、新聞は道義的には少しも「偏向」していない、いや「偏向」の度合が足りぬ。そしてそれは新聞に限らない、新聞に寄稿する物書きの大半も保革を問わず「偏向」していない。新聞は汚職を咎めて安手の道義論に酔い痴れてたが、大方の保守派の論客もまた新聞の痴れ言を默認したではないか。ここで新聞は思ひ起すがよい、かつて日本が國際連盟を脱退せんとしてゐた頃、時事新報の社説の筆者は次のように書いたのである。
いま連盟脱退か留盟かの大問題を決するに當り、日本には未だ議論が戰はれない。言 ひたい人も何者かを憂ひて沈默してゐる實情である。新聞多く默して政客また言はず。 かくて此大國策が、論もなく理も尽されずに移り行かんには、悔いを後日に胎さんこと 必定であらう。
保守派の論客の中には相も變らぬ新聞の痴れ言に呆れ、何を言つても無駄だと諦めた人もいよう。かつて激しく新聞を難じた人ほど今囘ひどく失望したのかも知れぬ。が、「言ひたい人」が新聞と世論を恐れて沈默したのなら、それはゆゆしき事であり、「悔いを後日に胎さんこと必定」だと私は思ふ。ここで私も極論を吐く。北方領土なんぞどうでもよい。日本國の一部が占領されても構わぬ。いや、日本が滅びても構いはしない。大事なのは士氣である。日本が「毅然として」戰つて滅びる事である。だが、たかが汚職報道にはしゃぐ新聞を叩けぬほど日本人が腰抜けになつてゐるとすれば、ソ連軍と一戰交える勇氣なんぞが湧く筈は無い。 
考へる事、それは「往來通行」である
さて、話を本筋へ戻す。伊藤仁齋は、道徳とは「人の道」であり「對時」するものの間の「往來通行」だと考へた。人の道を行う事と同樣、「人の道」を考へる事も「往來通行」に他ならない。兩極の間を往來する事に他ならない。だが、そういう事が時流に棹さす新聞には全然解つていない。例えば、進歩的な三大紙は社會主義國に甘いという(それゆえ、朴政權にはやたらに嚴しい)。三大紙は資本主義を惡とし、社會主義を善とし、後者の善に幻惑されてゐるという。すでに述べたように、知的怠惰は道義的怠惰で、道義に弱い三大紙は道義に關する思考にも弱い譯だから、社會主義の善に弱いのはなんら怪しむに足りぬ。そして、道義に弱いのは三大紙に限らないから、保守系の新聞もまた、資本主義の將來に強い自信を持てずにゐるのである。
だが資本主義に少しでも引け目を感じるなら、いつそ思ひ切り社會主義のほうへと「偏向」してみるがよいのである。中國が日米安保条約を認めようと、なおその廢棄を唱え、ヴェトナムに攻め込もうと、なおその正義を稱え、斷々乎として社會主義を信じ、徹底的に社會主義について考へたらよい。徹底して物事を考へれば、どの道必ず行き詰まる。アポリアに辿り着く。例えば、ドストエフスキーが描いた『惡靈』の世界を覗いて、「無限の自由から出發して無限の壓制にいたる」という、かの「シガリョフの公式」を知れば、それが社會主義のどん詰まりだと知つて困惑するようになる。要は徹底的に「偏向」する事なのだ。偏向した擧句行き詰まる事なのだ。
それゆえ、資本主義を激しく憎み、一切の權力を嫌い、激越なアナーキズムを夢見るもよい。周知の如く、アナーキストが國家權力を憎んだのは、彼等の途方も無く善良な意志を行使するに當つて國家が障害になると信じたからである。けれども、有り樣は「人間の意志が惡であるからこそ國家が生じた」のである。しかもなお、E・Mシオランの言う通り、「一切の權威を絶滅しようとするアナーキストの理念こそは、人間がかつて抱懷したもつとも美しい理念」(出口裕弘譯)であつて、それも否定し難い事實なのである。シオランという思想家も、兩極の間を激しく「往來通行」して數々の極論を吐いてゐるが、シオランほど深く考へてゆけば、何々主義などという政治主義の概念は消え、保革を問わぬ赤裸々な生身の人間が見えて來るようになる。シェイクスピアの描いたリア王のように、徹底的に「人間の悲慘」を知れば、やがて「人間は唯これだけのものなのか」と呟けるようになる。そしてそうなれば、すなわち「人間存在の本質的な悲慘を深く究める」ならば、再びシオランの言う通り、「人は、社會の不平等に起因する悲慘に心を留めはしないし、それを改革しようなどとしなくなる」(及川馥譯)筈である。だが、誤解してはいけない、シオランはそうなればいいと言つてゐるのではない。シオランは同時に、アナーキストの「途方も無く善良な意志」を眞實美しいと思ひ、アナーキストを激しく妬んでゐるのである。
だが、すでに述べたように、かういふ兩極の間を揺れ動く思想家を、矛盾や複雜を好まぬ大衆が理解する筈は無い。彼等は「では、どうずればよいのか」と言うに決つてゐる。或いは「こうすればよい、こうしろ」と言つて貰いたがる。そしてそれはヒットラーがよく知つてゐた事である。「大衆は女の如し、常に支配者の出現を待望し、与えられた自由を持て餘してゐる」ヒットラーはそう言つてゐる。
けれども、俗受けしようがしまいが、考へるという事は「往來通行」なのである。ソクラテスのディアレクティックもそうであつた。ソクラテスは常に他者と問答し、問答しながら考へてゐるが、他者と問答するにはまず自分との問答が行われねばならぬ。自分の心の中で問いと答えが「往來通行」せねばならぬ。ソクラテスはそれを熱心にやつた。が、自問自答してゐるだけなら無事だつたろうが、他人と問答して「産婆術」などという差し出がましい事をやつたから、熱心にやればやるだけ人々に怨まれた。
バーナード・ショーは、「ソクラテスは折ある毎に吾々の愚昧を發くが、それには我慢できない、というのがソクラテスを告發した連中の唯一の主張だつた」にも拘らず、ソクラテスのほうでは「おのれの知的優越が他人を恐れさせ、ひいては他人の憎しみを招くに至る、その限界を知らず、問答の相手に對して善意と献身しか期待していなかつた」と書いてゐる。
そうかも知れぬ。が、それだけではない。ソクラテスが怨まれたのは、むしろソクラテスとの對話が不毛だつたからではないか。いや、不毛だと人々が考へたからではないか。ソクラテスは知者を自認する手合と問答して相手の無知を悟らせる、相手をアポリアに追い込む。けれども、メノンが言つてゐるように、その際ソクラテス自身も必ずアポリアに陥るのである。つまり、ソクラテスとの問答は何の解決にも到達しない。それなら、「無知の知」なんぞを自覺したところで何の役に立つか、振出しに戻るだけではないか。古代アテナイの市民はそう思つたに違い無い。ソクラテスが怨まれたのは、他人に無知を自覺させながら、單純にして明快な解決を示さなかつたからである。私にはそうとしか思えぬ。實際、ソクラテスに向つて「では、どうすればいいのか」と開き直つた奴もゐるかも知れぬ。古代アテナイの市民も、現代人と同樣、「こうすればよい」或いは「こうしろ」と言つて貰いたかつたに相違無い。自由を有難がらずして專ら支配されたがつたに相違無い。
ところでソクラテスはソフィストたちのレトリックを、似而非政治家の手練手管だと極め付けた。それは大衆に諂う技術であり、何が正しいかではなく「大衆が何を正しいと考へるか」を重視するというのである。だが、ヒットラーが見抜いてゐたように、大衆を動かすのはレトリックであつてディアレクティックではない。それに、プラトンの對話篇を讀めば解る通り、ディアレクティックは不毛に見えるばかりか辿るのに苦しい道で、易きにつく人々が、そういう割に合わぬ苦勞を好む筈が無い。それに引換え、當時、レトリックは立身出世に役立つ、頗る實用的な技術だつたのである。それかあらぬか、『プロタゴラス』に登場する青年は、全財産を砕いても高名なソフィストの弟子になりたいと言つてゐる。
しかるに、ソクラテスがやつてみせた通り、兩極の間を往來する思考は不毛であり、そこから「こうすればよい」との明快な解答は得られない。所詮、アポリアに陥るだけの事なのである。ニイチェはそれに苛立ち、ソクラテスをデカダンと評したが、ニイチェ自身認めてゐるように、ニイチェの中にもソクラテスがいたのだから、ニイチェの提案した大胆な解決が決定的なものになる筈が無い。トルストイとて同じ事だ。先に引いた日記の一節にトルストイは何と書いてゐるか。自分は妻を「愛する事が出來る」と彼は書き、すぐに續けて「しかし、それが出來ないのだ」と書いてゐるではないか。これも兩極に觸れる自問自答だが、かういふ苦しい自問自答から單純明快な結論なんぞが出て來る筈は斷じて無いのである。 
新聞はなぜ道義に弱いか
さて、徹底的に深く考へたところで、大衆が喜ぶような單純明快な解答は得られないという事については、これで充分かと思ふ。パスカルはスローガンにならないのである。皮相と性急は二十世紀の病であつて、新聞がそれを最も重く煩つてゐるとソルジェニーツィンは言つた。新聞は報道の自由を享受しながら、讀者のためを考へず、專ら世論に阿り、世論と矛盾しない程度の意見を述べるに過ぎない、というのである。その通りだが、それでは困る。パスカルはなるほど集團向きではないが、集團向きの皮相淺薄な道義論をぶつてゐるうちに、新聞記者の道義心も、讀者の道義心も、却つて麻痺の度を加えてゆくばかりだからである。集團に顔は無い。人格も無い。集團心理というものはあるかも知れないが、集團道徳というものは無い。道徳とは飽くまでも個人に對して強さを要求するものなのだ。これに反して集團は、個人を威壓する力としては強いかも知れないが、道徳的には決して強くはないのである。佐藤直方は「決斷してする事は茶一貼でも孝ぢゃ」と言つた。直方の言う「決斷」の意味はともあれ、新聞も吾々も、衆を恃まず、獨り胸に手を當て考へてみたらよい。孝行という徳目を嗤つて、吾々は「茶一貼」を親に贈るという至つてた易い事さえやらずにゐるではないか。それなら他人の惡徳を言う前に、他人の榮耀榮華を妬む前に、吾々はまずおのれの不徳を氣に掛けねばならぬ。他人の惡行を難じて悲憤慷慨しても、それだけ自分が有徳になる筈は斷じて無いからである。道義的であるためには人は強くあらねばならぬ。「茶一貼」にも強さが必要だが、その強さを時に或いは常に自分が欠くという事を認めなければならぬ。自分が弱いという事、或いは自分が惡いという事を時に認めなければならぬ。
ここで讀者はトルストイの日記を思ひ出して欲しい。自分は妻を愛せない、「惡いのはわたしだ」、そうトルストイは書いてゐるではないか。新聞に限らない、昨今吾々は「惡いのはわたしだ」とは決して言わなくなつた。惡いのは常に政府であり、政治家であり、大企業であり、文部省であり、或いはこう書けば保守派は嫌がるが、總評であり、日教組なのである。つまり、惡いのは常に他人なのである。
私は新聞に極論を吐けとは言わないし、吐けるとも思はない。だが、新聞記者は獨り密かに極論を呟いて貰いたい。そしてこの際、とくと考へて貰いたい。この數ヶ月、他人の惡徳を糾彈してはしゃぎ廻り、新聞は社會の木鐸として一體全體いかなる成果をあげたのか。自他の道義的頽廢に拍車をかけただけの事ではなかつたか。數ヶ月間の馬鹿騷ぎは途方も無い紙とインクの無駄遣いではなかつたか。新聞はおのれを棚上げして聲高に正義を叫べば、大衆を教導できると思つてゐる。とんでもない事である。大衆についての兩面價値的(アンビヴァレント)な私の考へについてここでは詳述できぬが、新聞の社説を讀んで道義心を養うような馬鹿は、「知的生活の方法」なんぞに關心を持つ似而非インテリに限られる。道義的であるという事は、美しい事を言う事ではない。常住坐臥、美しい事を行う事でもない。それはまず何よりも、美しい事をやれぬおのれを思ひ、内心忸怩たるものを常に感じてゐる事である。
トルストイのように、常におのれを省みて他人の事を言い、或いはおのれを省みて他人の事を言う事のできぬおのれを省み、極論を呟き、綺麗事の空しさを痛感し、兩極の間を往來してやまぬ人間の矛盾と戰う事なのである。その點新聞も讀者も、道義的という事について大變な勘違いをしていないか。
新聞はなぜ道義に弱いか。思考が不徹底だからである。頭が惡いからである。そしてそれは新聞に限らない。新聞記者の卵を教へる大學教授もそうである。私は或る大學で法學を講ずる教授に、「周知の如く、時効と職務權限の壁にはばまれて、檢察は松野頼三氏の刑事責任を問えなかつたが、刑事責任を問えない松野氏に對して、どうして道義的責任を追及できるのか」と尋ねた事がある。すると彼はこう答えた、「刑事責任を問えないからこそ道義的責任を追及してゐるのではないか」。法學者にしてこの程度である。そこで私はサンケイ新聞に「刑事責任を問えぬ者の道義的責任を追及するのは魔女狩りに他ならぬ」と書いた。また『經濟往來』七月號には、「私は法律の素人だが」とわざと何囘も斷つて同じ趣旨の事を書いた。が、これまでのところ、誰一人私に反論した者が無い。「躬自ら厚くして、薄く人を責むる」事のできぬ小人の私は次第に圖太くなり、圖に乘つて、誰も反論できる筈は無いと考へるようになつた。いずれ折をみて法と道徳に關する新聞や學者の無知を徹底的に發いてやろうと思ふようになつた。よろずの事に本氣になるのは馬鹿者だが、道徳だの戰爭だのについて本氣で考へぬ事だけは許せないと思ふからである。新聞記者に個人的に接すると、彼等は必ず「他紙が騷ぐからやむをえず騷ぐのだ」と弁解するという。やはり惡いのは他人なのである。つまり彼等は本氣でない。大學教授もそうである。極端な例かも知れないが、昨今は皆が内心輕蔑してゐる男を學部長に選出する事もある。それを聞いて、私はわが耳を疑つた。けれどもそれは本當の事であろう。選出された學部長がやたらに會議を開いて何事も多數決で決めたがる事を、私自身屡々見聞してゐる。それはおのれ一人で決斷して責任を一身に引受ける事を恐れるからである。皆の責任は皆の無責任だからである。「俺一人が惡い」と言い切るだけの覺悟が無いからである。「最惡の事態にも應じられる人生觀」を欠いてゐるからである。最後に讀者に問う、これを道義的頽廢と呼ばずして何と呼ぶのか。 
第二章 愚鈍の時代

 

エレホン國のお話
まず、エレホンという奇妙きてれつな國の話から始めよう。エレホン國にも法律はあつて、ただその法律が何とも奇妙きてれつなのである。エレホン國では風邪を引く事は重大なる犯罪と見做されるが、道義に反する行爲は一種の病氣と見做されて司直の追及を受ける事が無い。それゆえ、例えば肺病患者は終身幽閉されるが、年間二萬ポンド以上の高額所得者は天才として崇拝され、一切の税の支拂いが免除され、また、公金を使い込んだ者は大いに同情され、重病人として懸命な看護を受ける事になる。
さて、そういう國を讀者はどう思ふか。その餘りの不条理に、エレホンとは架空の國だらうと言うに違い無い。その通りである。エレホン國とは十九世紀イギリスの文人サミュエル・バトラーが創造した夢想郷であり、エレホンErehwonとはnowhereの綴りを逆にした所謂逆さ言葉であつて、バトラーは當時のイギリス社會を痛烈に風刺したのである。エレホンはどこにも存在しないどころか、今、ここに、諸君の目の前に、歴然として存在してゐるではないか、バトラーはそう主張してゐる譯である。
なぜ私はエレホン國の話から始めたのか。他でもない、日本國とエレホン國との径庭は見掛けほど大きくないという事が言いたかつたからである。吾々がエレホン國を笑止がるのは、目糞が鼻糞を笑うの類だと私は考へる。なるほど、病人が罰せられ、惡黨が病人と見做されるエレホン國は、途方も無い不条理の國である。これに反し、わが日本國は立派な法治國家であつて、病人は手厚い看護を受け、殺人犯には極刑が科せられる。つまり、殺人は日本國の法がかたく禁じてゐる行爲なのである。では、日本國において、法が禁じてゐる行爲を合法的なものとして認めよと、そういう事を聲高に主張して非合法の手段に訴えたらどうなるか。例えば殺人の權利を吾等に与えよと主張して殺人を犯したらどうなるか。エレホン國は知らず、日本國ではそういう狂人は委細構わず牢屋へぶち込まれるに相違無い。では、エレホン國は無茶苦茶だが、日本國は立派な法治國家なのか。その通りと答える讀者に私は尋ねたい、公勞協傘下組合の年中行事たる「スト權スト」はどうなのかと。
周知の如く、公勞協のストライキ權は法的に認められていないのである。それなら、「スト權スト」とは、法が禁じてゐる行爲を合法的なものとして認めよと主張し、その要求を貫徹すべぐ非合法の手段に訴える事ではないか。スト權ストとは、殺人權殺人と同樣、途方も無い不条理ではないか。しかるに、昭和五十四年六月、森山運輸大臣は、スト權スト參加者の處分について、何とその「凍結」を國鐵に要望したのである。それを傳え聞いた春日一幸氏は、「法治國家として斷じて許すべからざる」事である、かくなるうえは「運輸大臣のクビをとれ」と叫んだそうだが、熱り立つたのは春日氏だけで、政府も野黨も新聞も世論も一向に憤激せず、それゆえ運輸大臣の首はとばなかつた。吾々にエレホン國を嗤う資格は無いのである。 
「愚鈍以外に罪惡はなし」
この東洋のエレホン國では、政治家が「貧乏人は麦を食え」とか「國連は田舎の信用組合の如し」とかいう、どちらかと言へば、道義に係る失言をやらかすと、新聞も世論も頗る憤激するが、法に關する極論や暴論には至つて鈍感であつて、それはつまり、新聞や世論が法についてのみならず道徳についても「深考」を欠いてゐるからに他ならない。先般、所謂航空機疑惑の報道に際しては、愚鈍にして半可通の新聞が「灰色高官」の非を鳴らし、政界淨化を叫び、數カ月に亙つて浮かれ騒いだのであり、その輕佻浮薄を一歩離れて眺めてゐると、それはまさしく天下の奇觀だと思えて來る。法と道徳に關して新聞は無茶苦茶を書き、それに識者も讀者も一向に驚かない。不条理は不条理として扱われない。
例えば、五十四年七月二十六日付の朝日新聞は次のように書いたのである。
國民の大多數が自民黨の金權、金脈體質や政治の汚職構造を批判してゐる。松野氏は 次の選擧で「有權者の審判を受ける」というが、地縁、血縁、利害關係で結びついた一 選擧區の有權者だけの「民意」によつて、すべて疑惑が洗い流されるものだらうか。民 主主義政治を健全に發展させてゆくために必要なのは、まず個々の政治家のモラルであ ることを知らねばならない。
讀者はこの朝日の文章をどう思ふか。私にはこれは愚論としか思えない。そういう愚論が堂々と活字になるとは、正しく天下の奇觀としか評し樣が無い。公金を使い込んだ奴が同情の對象となり、病院で手厚い看護を受けるエレホン國におけると同樣の、これは不条理極まる言論である。そうではないか、朝日はいつから議會制民主主義を否定したがる「保守反動」に變身したのか。松野氏に「審判」を下すのは、飽くまでも「地縁、血縁、利害關係で結びついた一選擧區の有權者だけ」である。假に私が松野氏に一票を投じたいと思つても、或いは逆に松野氏を落したいと思つても、東京七區の選擧民である以上はどうする事もできはせぬ。私も朝日新聞の論説委員も、熊本一區の有權者の「審判」については、いかに不承不承であろうと、これを尊重せざるをえない。それこそ「民主主義政治を健全に發展させてゆくために必要な」事ではないか。
それに何より、有權者の「民意」は、いついかなる場合にも、政治家に對する「疑惑」を「洗い流」すものではない。多數の意見が正しいという保證なんぞどこにも無いからである。百人中の九十九人が松野氏の潔白を信じたとしても、それはそのまま松野氏が潔白である事を意味しない。ただ、百人中の五十一人が松野氏を支持する場合、四十九人は不承不承、それを認めざるをえないというだけの事である。そういう中學生にも理解できる筈の單純な理窟も解らずに、よくも大新聞の論説委員が勤まるものだと思ふ。民意と眞實とは全く無關係である。松野氏が潔白かどうかは松野氏自身と神樣にしか解りはしない。朝日の論説委員はプラトンの『ソクラテスの辯明』を讀んだ事が無いのだらうが、高給を食んで駄文を草する暇があつたら、月に一冊の文庫ぐらいは讀むように心掛けたらよい。そして、ソクラテスの死刑を多數決で決めたアテナイの法廷は正しかつたと、自
信を持つて言い切れるものかどうか、その事を一度とくと考へてみたらよい。そうすれば、「民主主義政治を健全に發展させてゆくために必要なのは、まず個々の政治家のモラルである」などという馬鹿げた事を、ぬけぬけと言い放つたおのれの馬鹿さ加減に愛想が尽き、本氣で筆を捨てる氣になる筈である。馬鹿げた事をぬけぬけと言う、それは畢竟頭が惡いからである。「愚鈍以外に罪惡は無い」とオスカー・ワイルドは言つた。その通りだとさえ言いたい。 
「本當に怒ろう」とは何事か・・・
だが、グラマン騒動に浮かれたのは朝日だけではない。サンケイもまたそうである。目下サンケイのコラムに執筆中の私が、かういふ事を書けば、讀者はそれをサンケイに媚びる私の保身の術と受取るかも知れないが、私がサンケイを叩くのは、叩いてもなおサンケイにしか期待できぬと考へてゐるからである。一夜枕を交しただけの女郎の變節なら、無念殘念に思ひはしない。が、サンケイは私にとつて徒し情けの一夜妻ではない。かつてサンケイは自民黨の意見廣告掲載問題をめぐつて日共と對決し、損を覺悟の孤獨な戰いを敢えてしたではないか、あの勇氣と矜持はどこへ行つたのかと、私はそれを無念殘念に思ふのである。
とまれ、朝日を叩いた以上サンケイも叩かねばならぬ。五十四年五月二十五日付のサンケイの「主張」は、次のように書いたのである。
「政治倫理の確立」という点にも、(國會が)《本氣》で取り組むつもりかどうか疑 わしい。倫理とはいうまでもなく善惡の意識である。起こつた事實を惡と認め、《たと え政權が倒れるようなことがあつても、》黨が大きな打撃をこうむるようなことがあつ ても不正をただそうとする正義の感覺である。
「人間は最も隱してしかるべきものをさらけ出して歩いてゐる、それは顔だ」と言つたのは、確かポール・ヴァレリーだつたと思ふ。これはつまり、人品骨柄はそのまま人相に顕われてゐるという意味である。「文は人なり」という。文章もまた書き手のすべてを裏切り示す。どんなに美しい言葉を並べ立てても、書き手が本氣かどうかは、文章の姿が寸分の狂いも無しに明かすのである。右に引いたサンケイの文章もそうである。筆者は國會が本氣かどうかを疑つてゐるが、その疑い自體が決して本氣ではない。同樣に「たとえ政權が倒れるようなことがあつても」のくだりも、自民黨政權が倒れるような事態にはなる筈が無いと高を括つてゐる人間の書いた文章なのである。それは丁度、髪結いの亭主が女房に捨てられる事はよもやあるまいと安心して、「たとえ女房が家出するようなことがあつても」と胸を張つてみせるようなものである。
それゆえ、右の「主張」を書いたサンケイの論説委員に私は尋ねたい。既往は知らず、將來サンケイ新聞社が何らかの不祥事をしでかし、世間の非難を一身に浴びる事になつたとして、その場合サンケイの社員たるあなたは、「たとえサンケイが潰れるようなことがあつても、病巣を徹底的に究明して、それを根治するという不退轉の決意を固める」か。もしこの私の問いにあなたが「イエス」と答えるなら、私はあなたの愛社心を疑う。自社の病巣の剔抉など、職場を愛する人間にやれる筈が無いし、また輕々にやるべきではない。少なくとも私はサンケイを潰したくはない。それゆえ、臭い物に極力蓋をすべく、應分の協力を惜しまぬであろう。
サンケイの社説はまことに美しい事を言つてゐる。いかなる犠牲を拂つても不正を糺すとは、目映いばかりに美しい言い種である。が、餘りにも美しいから、それは眞つ赤な嘘なのである。右に批判した通り、筆者は決して本氣でない。そして、本氣で口にしない言葉が人の胸を打つ譯が無い。けれども、この東洋のエレホン國では新聞も物書きも決して本氣にならず、また本氣で口にしない言葉のほうが持て榮やされる。今は「愚鈍の時代」なのである。愚鈍が咎められないから、愚鈍はしたり顔でのさばり、人々は決して本氣で物を考へようとしない。
もとより、よろずの事に本氣になるのは大馬鹿である。だが、不正義に怒る時さえ本氣でないという事だけは許せない。『中央公論』五十四年四月號に田原總一朗氏が書いてゐた事だが、「連日、健筆をふるつてゐる」田原氏の「友人の社會部記者」は、「他紙に抜かれると困るので走りまわつてはゐるけれど、正直いつて熱が入らないな」と言つたという。許し難い輕佻浮薄である。そして、そういう輕佻浮薄は、次に引く五十四年五月二十五日付の、「怒りと空しさの松野氏喚問」と題する朝日の社説にも實に鮮明に表現されてゐる。
それにしても、いまわれわれの政治が抱えた最大の危機は、これだけ世論の批判を浴 びながら、なおも温存され續けようとしてゐる汚れた政治構造の全容を、捜査も、國會 も、十分に明らかにできないことである。《そのもどかしさ、空しさをどうしたらよい のか。》だが、《あきらめるのはよそう。》空しさを吹つ切つて、《本氣に怒ろう。怒 りをねばり 強く持ち續けよう。》
讀者の理解を助けるため私は先に田原氏の證言を引いたのだが、實を言へばその必要は無かつたかも知れぬ。傍点を付した部分で、讀者は吹き出したに相違無い。
それゆえ、「本當に怒ろう」と書いてゐる當人が本當に怒つていない、その異常心理についてくだくだしく分析する必要は無い。が、これだけの事は言つておこう。朝日は「本當に怒ろう。怒りをねばり強く持ち續けよう」と書いてゐる。つまり朝日は徒黨を組んで怒ろうとしてゐる。それこそ朝日が本氣で怒つていない何よりの證拠である。本物の怒りなら、他人の同調を當てにする筈がない。 
本氣でないから新聞を許せない
次に引用するのは五十四年五月八日付のサンケイ及び五月二十九日朝日夕刊の「素粒子」の文章だが、いずれも他人を當てにして怒ろうとしてゐるぐうたらな筆者の面構えを彷佛とさせるような文章である。
近年、自民黨と汚職は“サシミとワサビ”のような不離不即の關係にあるとの“諦觀 ”が國民の間に定着してゐるからよけい盛り上がりに欠ける。しかし、である。《われ われはやはり怒るべきである。》それもカッという怒りでなく、長持ちするじつくりし た怒りを汚職裝置を内包したこの天下黨にぶつけ、自淨を迫るべきである。        (サンケイ)
いかにして《結集》せん、《われら市民》のゴマメの齒ぎしり。怪魚ライゾー、ゆう ゆうのとん走。
新聞の怒りは決して本氣ではない。女郎の千枚起請も同然の嘘八百である。では、新聞はどういう時に本氣で怒るのか。この問いに答える事は難しい。アリストテレスは「當然怒つてしかるべき時に怒らないのは痴呆だ」と言つてゐるが、怒つてしかるべき時に新聞が怒らなかつた例なら、私はいくらでも擧げる事ができる。例えば、昭和四十七年八月二十日、田中角榮首相は、輕井澤の料亭「ゆうぎり」において、九人の田中番記者に對し、「ハコ(政界エピソード)を書くときはひねつたり、おちゃらかしはいかん。つまらんことはやめろよ、わかつたな」と言い、かつて自分が郵政大臣及び大藏大臣として、放送免許や國有地拂下げに關して各社の面倒をみた事實を強調、「オレは各社ぜんぶの内容を知つてゐる。その氣になればこれ(クビをはねる手つき)だつてできるし、彈壓だつてできる。(中略)オレがこわいのは角番のキミたちだ。社長も部長もどうにでもなる」と放言した(『文藝春秋』昭和四十七年十一月號)。新聞はけれども怒らなかつた。そういう事實があつた事さえ報じなかつた。では、當然怒つてしかるべき時に怒らなかつた新聞は「痴呆」なのか。とんでもない。痴呆なら快く許せるが、新聞は小惡黨なのである。『文藝春秋』がすつぱ抜くまで新聞が沈默を守つたのは、田中發言が事實だつたからに他ならない。それを報道しない疚しさを日中友好ムードを盛り上げるためとの大義名分の蔭に隱し、周知の如く新聞は田中角榮氏を「今太閤」だの「庶民宰相」だのと持ち上げたが、やがて田中氏が落ち目になると、新聞は手の裏を返すように田中氏の非を打ち、憤つてみせたのであり、いずれの場合も新聞は決して本氣ではなかつたのである。
『現代』五十四年十月號は「我慢できない、新聞記者の驕り、非常識、ゆ着」と題する痛烈な新聞批判の文章を載せてゐる。辻村明氏に教へられて私はそれを讀み、新聞の愚鈍と傲慢と無節操を再確認する事ができた。辻村氏の場合と同樣、私の新聞批判も「記事内容の論理的矛盾とか、論理的不徹底を衝くものであつて、新聞社の裏面を暴露する」といつた類のものではない。けれども、『Voice』五十四年十一月號で縷々説いた通り、「論理的不徹底」とは思考の不徹底、すなわち知的怠惰という事であり、知的に怠惰で愚鈍な新聞は道義的にも怠惰なのである。『現代』の新聞批判は私の主張の正しさを證明してゐる。それゆえ「自民黨の次期總理を狙うA派の派閥記者には、ことしのお中元には五萬圓から十萬圓相當の商品券が送られた」とか、「田中六助官房長官の公邸では(中略)寿司も酒類も、官房長官事務費という名目の税金から出てゐる」とか、「自民黨の政經文化パーティが熊本で開かれたとき、お土産は肥後ずいきだつた」が、「同行の各記者連中は、ニヤリと笑つてポケットに入れてゐた」とかいう『現代』の記事のすべてを私は信ずる。『現代』は實名を擧げ新聞記者のでたらめを批判してゐるが、この眞劍勝負を物書きもジャーナリストも見習うべきだと思ふ。 
知的怠惰ゆえの痴れ言
とまれ、辻村氏も言つてゐるように、吾々大學教授は新聞社の内情には暗いのだが、實を言へば内幕を知るまでもなく、新聞の道義的頽廢は新聞の文章が掌を指すごとく明白に示してゐるのであつて、それはすでに分析してみせた通りである。
それゆえ、その一等資料とも言うべき新聞の文章を扱き下ろし、新聞の法及び道徳に關する恐るべき無知を發くとしよう。周知の如く、「時効と職務權限の壁」に阻まれて、檢察庁は松野氏の刑事訴追を斷念した。それはつまり、松野氏の刑事責任は追及できなかつたという事である。そこで新聞は松野氏の道義的責任を激しく執勘に追及した譯だが、刑事責任を追及できぬ者の道義的責任を追及するとは、斷じて許せぬ暴擧である。しかるに、サンケイから朝日までのすべての新聞が、松野氏の政治的、道義的責任を追及すべしと連日ヒステリックに喚き立てた時、大方の識者はその途方も無い無知と理不尽を咎めようとはしなかつた。それは正に天下の奇觀で、日本國はエレホン國だと私は今更のように納得したのであつた。例えば、五十四年五月二十五日付の朝日は次のように書いたのである。
ロッキード事件に續いて發覺したこんどの航空機輸入をめぐる疑惑は,自衞隊機購入 にからむ商社と政府高官の金錢の授受であり、國民の税金をめぐる不正であつた。刑事 訴追は時効などでまぬかれたとはいえ、政治家の政治的道義的責任の追及や、構造汚職 の解明は、民主主義や國會を守るために与野黨一致で最大限の努力を拂うべき問題であ つた。
また、同五月八日付の讀賣の社説もこう書いてゐる。
裁判で刑事責任を裁かれる被告は、刑でそれなりに罪のつぐないをする。しかし、容 疑が時効にかかつた人物は、罪のとがをなんら受けることがない。どくに政治家が、そ れで濟まされてよいのだらうか。刑事責任を解かれた分を含めて、むしろ、一層重い政 治的、道義的責任をとるべきはずだ。
もう一つ、五月十九日付のサンケイはこう書いた。
しかしいま問題にされねばならないのは、そのような刑事責任の有無による責任追及 ではない。古井法相もいうように、この構造汚職にかかわつた政治家の政治的、道義的 責任の追及なのである。國民の立場からいえば法律だ、時効だなんていうのは關係がな い。ただ一点、航空機賣り込みをめぐつて惡い金が動いたのではないかという点に關心 がある。
かういふ調子で各紙は、松野頼三民や岸信介氏の「政治的、道義的責任」を追及した。そして、私の知る限り、佐橋滋氏(五月十日「正論」)及び竹内靖雄氏(六月十四日「直言」)が、いずれもサンケイ新聞紙上で窘めただけで、保守と革新の別無く識者は新聞の愚鈍とでたらめを批判しなかつた。やはり日本國はエレホン國なのである。
そうではないか。「國民の立場からいえば、法律だ、時効だなんていうのは關係がない」とサンケイは言うが、これはまた何たる暴論か。これほどの暴論を吐く大手町のサンケイ新聞社を爆破すべし、と私がもしも本氣で主張したならば、私は世論の袋叩きに遇うであろう。いや、それどころか私の手は確實に後ろにまわるであろう。が、「サンケイ新聞社を爆破すべし」と「法律だ、時効だなんていうのは關係がない」との間に、一體どれほどの懸隔があるか。「法律だ、時効だなんていうのは關係がない」のなら、サンケイ新聞に對する一切のテロ行爲をサンケイ新聞は甘受せねばならなくなる。それだけの覺悟あつてサンケイの論説委員は書いてゐるのか。勿論、そうではない。法と道徳について「深考」を欠くがゆゑに、すなわち知的怠惰ゆゑに、我にもあらず痴れ言を口走つたまでの事である。
朝日と讀賣にしてもそうである。サンケイと同樣、兩紙は松野氏の刑事責任を問えぬ以上、その政治的、道義的責任を追及すべきだと主張してゐる。これまた、「サンケイ新聞社を爆破せよ」と同樣の暴論である。或いは、ロンドン大學の森嶋教授の「軍備計畫論」と同樣の愚論である。森嶋氏及び森嶋氏を支持する人々には、淺薄な事を言いたいだけ言わせておき、いずれ私は愚かなる國防論議の「道義的責任」を徹底的に追及しようと思つてゐるが、森嶋氏の愚論も、「灰色高官」の道義的責任を追及する新聞の暴論も、とどのつまり思考の不徹底に起因する道義的頽廢を物語る一等資料に他ならない。やはり「愚鈍以外に罪惡は無い」のであり、今は「愚鈍の時代」なのである。 
輕蔑と人權擁護は兩立する
ところで、その、新聞の愚鈍についてだが、例えば讀者はかういふ事を考へてみるがよい。甲が今、友人乙を殺したとする。そしてそれを丙が目撃したとする。言うまでもなく、丙にとつては乙殺しの犯人が甲である事は確實である。だが、丙が「犯人は甲だ」と主張した時、丙以外の人間は、その主張の正しさを確かめる事ができない。丙が本當の事を言つてゐるかどうかは、神樣と丙自身にしか解らないからである。證拠が物を言うではないかと反間する向きもあろう。が、指紋だのルミノール反應だのが殘らぬ場合もある。その他確實と思はれる證拠を蒐集して甲を起訴しても、最終審で甲が無罪になる可能性はある。いや、先般の財田川事件の場合のように、甲の死刑が決定して後に、最高裁が審理のやり直しを命ずる事さえある。
以上の事を否定する讀者は一人もいないと思ふ。これを要するに、甲が殺人犯かどうかは、究極のところ、甲自身及び目撃者丙以外誰にも解らぬという事である。大昔は、探湯という方法によつて事の正邪を判斷した。熱湯に手を突込ませ、爛れぬ者を正、爛れる者を邪としたのだが、嘘發見機などの近代的裝備を誇る現代の警察も、探湯の原始性を嗤う譯にはゆかないのである。たとえ、甲が一審で有罪、二審でも有罪となつたとしても、甲が最高裁に上告すれば、この段階でも世人は甲を罪人扱いする事ができない。やがて最高裁が上告棄却の決定を下す。さて、そうなつて初めて世人は甲の有罪を信じてよい。新聞もまた甲を呼捨てにして、その「道義的責任」を追及し、勤先に辭表を出せと居丈だかに要求するもよい。財田川事件の如く、三審制という慎重な手續を經ても、人間の判斷に誤謬は付き物だから、なお誤判の可能性はありうるが、それは止むをえない。最終審の決定があれば、吾々は被告の有罪を信じるしかないのである。ケルゼンも言つてゐるように「盗んだ者、殺した者は處罰される」というのは正確ではない、「その者がその行爲をしたことの絶對的眞理性はいかにしても認定」できず、從つて「ある者が盗んだこと、殺したことを特定の人間が特定の手續で確定した場合その者は處罰されるべきである」と言わねばならぬ。
再び、以上の事を否定する讀者は一人もいないと思ふ。では、私は讀者に尋ねたい。檢察は松野頼三氏の刑事訴追に踏み切らなかつたのである。松野氏が國會で何を喋ろうと、それはこの際問題ではない。松野氏は起訴されなかつたのである。起訴されない以上、裁判所の判定は下されようが無い。つまり、松野氏が有罪か無罪かは新聞にも吾々にも決して解らぬ事なのである。
それなら、有罪か無罪か解らぬ人間をどうして新聞は道義的に非難できたのか。
ここで讀者は、先に引用した朝日、讀賣、及びサンケイの文章を讀み返して貰いたい。三紙とも松野氏の道義的責任を追及する事の不条理に全然氣づいていない。エレホン國では七十歳以前に不健康になると、陪審員の前で裁判を受け、有罪と決まると、その症状に應じて、公衆の輕蔑を受け刑罰を執行されるのである。が、日本國とエレホン國とその不条理に甲乙は無い。日本は東洋のエレホン國だという私の言い分ももつともだと、そろそろ讀者は思ひ始めたのではないか。
松野氏に限らない、田中角榮氏の場合も海部八郎氏の場合も、まだ一審の判決さえ下つていないのである。にも拘らず、新聞は兩氏を呼捨てにして憚らない。例えば五十四年五月十日の朝日は「田中に痛撃、大久保淡々と“首相の犯罪史”檢察側の筋書きぴたり」などと、田中氏の有罪が確定したかのような事を書いた。そういう事が許されていて、日本は果して法治國なのか。
ここで無用の誤解を避けるために斷つておくが、私は松野、田中兩氏とは面識が無い。從つて兩氏には何の恩義も無い。田中氏の政策を私は肯定しないし、松野氏に對しては反感さえ抱いてゐる。ロッキード騒動の折、松野氏は政界淨化を叫んではしゃぎ廻り、「いまこそ自民黨から金權體質を除去しなければならない。それには政治家の良心が問われてゐる」などと、心にも無い綺麗事を言い、福田派をとび出して三木派に媚びたのであつて、以來私は松野氏を政治家として輕蔑するようになつた。だが、松野氏への輕蔑と松野氏の人權擁護とは兩立しうるし、また兩立させなければならない。田中氏も松野氏も新聞による「魔女狩り」の犠牲者である事は確實だからである。 
知的怠惰は道義的怠惰
十七世紀末、ヨーロッパ及びアメリカでは、多數の魔女が處刑されてゐるが、魔女なりや否やを見分ける當時の識別法は今日の吾々にとつて頗るつきの理不尽としか思えない。けれども、この東洋のエレホン國における「魔女狩り」のほうが、私は遙かに惡質だと思ふ。なぜなら、すでに述べたように、安手の道義論をぶち、道學者づらをする新聞は少しも本氣でないからである。
とまれ、新聞は數カ月間「魔女狩り」に熱中し、政治家も學者も世人もそれを本氣で咎めようとはしなかつた。いや、檢事さえも新聞と「世論」に怯え、あられもない事を口走つたのであつて、布施元檢事總長、伊藤榮樹元法務省刑事局長、及び東京地檢特捜部檢事の聞き捨てならぬ暴論についてここで論ずる紙數が無いのは殘念だが、新聞や學者のみならず、檢事さえも法と道徳に關する「深考」を欠き、途方も無い愚論暴論を吐き、無理が通つて道理が引込み、一犬虚に吠え萬犬實を傳えるこのエレホン國の無茶苦茶と愚鈍を眺めてゐると、私は鳥肌の立つ思ひがする。ニューヨークはセントラル・パークの北側、無法地帯といわれる所謂ハーレムを夜中に一人で歩いてゐるような氣がする。
言うまでもない事だが、法律は人間が拵えるものである。そしてもとより人間は完全でない。それゆえ、不完全な人間が拵える物は、法に限らずすべて不完全である。法に盲点ないし不備があるのは、してみれば至極當然の事で、法の抜け穴を利用して、巧妙に或いは狡獪に振舞い大儲けをする者があつても、或いは時効が成立して法の裁きを免れる者があつても、法治國家の國民である以上、吾々は斷じてそれを咎めてはならぬのである。そういう事を理解できぬ愚鈍な新聞が、道學者を氣取り大衆を煽動しようと企んだのが、例の「江川騒動」であつた。野球協約によれば、江川投手に對する西武球團の交渉權は十一月二十一日でその効力を失い、次のドラフト會議が開かれるのは二十三日であつた。つまり、そこに一日だけ江川が野球協約に拘束されない空白が生じたのであり、その空白の二十二日に江川が巨人軍と契約したのは完全に合法的な行爲だつたのである。けれども、法と道徳について「深考」を欠く愚鈍な手合ばかりがのさばるこのエレホン國では、合法的という事と道義的という事との峻別がなされず、新聞はもとより久野収氏の如き愚鈍な「哲學者」も、合法的な巨人軍や江川の行爲を道義的に非難して浮かれ騒ぎ、それにもそろそろ倦きて來た時分、時効と職務權限条項により合法的に刑事訴追を免れた松野頼三氏を、「法が裁けぬのなら道義で裁け」と、これまた數ヵ月に亙つて指彈して樂しんだ譯である。
けれども、合法的な行爲を道義的に批判するのは、法と道徳の双方を否定する事であり、法と道徳とを峻別できない頭腦の弱さ、すなわち知的怠惰は道義的怠惰であつて、それは法のみならず道義を輕視する風潮に拍車をかける事になる。その事を少々具體的に説明するとしよう。まるで小學生に教へてゐるような氣がして少々情け無いが、ここはエレホン國ゆえやむをえない。
誰でも知つてゐるように、前方の信號が青であれば、直進する車はそのまま進行してよい。が、左折しようとする車は、歩行者が横斷歩道を渡り終るまで待つていなければならない。それは左折車の「義務」である。そして信號が青である限り、歩行者には横斷歩道を悠然と渡る權利がある。權利がある以上、悠々と渡るのは合法的な行爲である。では、その悠々振りに業を煮やした左折車の運轉者が、歩行者を道義的に非難したら一體どういう事になるか。勿論、歩行者は、聖人君子ならばともかく、おのれの行爲の合法性を楯に取り、運轉者に楯突くであろう。そして、そういう事が度重なれば、やがて歩行者は「合法的でありさえずればよい」と考へるようになり、わざと悠々と渡つて嫌がらせをするようになるに違い無い。
勿論、「合法的でありさえすればよい」という開き直りは決して褒められた態度ではない。そして、合法的ではあつても道徳的でない人間は、いずれは法を輕視するようになる。が、その行爲が合法的である限り、吾々は彼を咎めてはならない。やがて彼が圖に乘つて、法の盲点に附け入るのみならず、法を無視して亂暴な振舞に及んだ時、例えば立場が變つて運轉者となつた彼が、クラクションを鳴らして歩行者を威嚇し、強引に左折しようとしたならば、その時初めて吾々はその無法を咎めてよいのである。
すでに明らかであろうが、法と道徳の間には微妙な關連があり、それゆゑに兩者は混同されやすいのだが、兩者の微妙な關連を考へる前に、吾々はまず兩者を峻別しなければならない。周知のごとく、現行の道路交通法は歩行者優先であつて、左折車が待つてゐるからとて、歩行者が足早に横斷せねばならぬ義務は無い。けれども、義務は無いが足早に渡つてやろうとする思ひ遣りは法とは無關係であつて、それは飽くまでも歩行者の道義心の問題なのである。そして法は、信號無視の運轉者を罰する事はできるが、これ見よがしに悠々と渡つたからとて、その歩行者を罰する譯にはゆかないのである。 
法と道徳とを峻別せよ
頗る卑近な例を擧げたから、以上の事を否定する讀者は一人もいないであろう。だが、新聞が數カ月間、「巨惡をとり逃がしてはいけない」と喚きつつ大騒ぎをやらかしたのは、悠々と渡る歩行者を道義的に非難する事と、本質的には少しも變らない。左折車を待たせつつわざと悠々と渡る歩行者を罰せられないのが法である。起訴されなかつた政治家を罰せられないのが法である。それが法の限界なのであつて、「法的義務の履行に關しては外的強制が可能だが、道徳的義務に關してはその履行を外的に強制できない」。カントは『道徳形而上學』において法と道徳の差異と關連を眞摯に考へたが、この東洋のエレホン國では、法と道徳のすさまじい混淆が行われており、カントなんぞは豚にとつての眞珠に他ならず、『道徳形而上學』の飜譯も出版されてはゐるものの、宝の持腐れに他ならない。
それゆえ、吾々エレホン國の住人は、まず法と道徳とを峻別しなければならぬ。「起訴されなかつた政治家を道義的に追及できないとしたら、惡い奴ほどよく眠り、世の中は暗闇で、正直者の庶民が馬鹿をみるではないか」などと、當分の間決して言つてはならない。氣安くそういう事を言う者は、すべて法と道徳について「深考」を欠く愚者である。日本人は、今後しばらく、倫理だの道義だの道徳だのという言葉を口にすべきではない。法と道徳を切り離し、法とは何かについて眞劍に考へ、少しく頭腦の鍛練をやるに如くはない。「解る」とは「分る」とも書く。他動詞ならば「分つ」もしくは「別つ」となる。法と道徳の差異を考へるために、吾々はまず兩者を分たねばならないのである。
そういう事ができて初めて、すなわち法の限界を知つて初めて、道徳について考へる事が許される。だが、それは頗るつきの難事である。なぜなら、法と道徳を分つには政治と道徳をも切り離さなければならないが、このエレホン國の新聞も住民も、政治と道徳の混同を頗る好むからである。その證拠に、私がもし「盗聽や汚職や暗殺も時によき政治にとつて必要である」と本氣で主張すれば、エレホン國の國民の殆ど全部が私の暴論を激しく非難し、『諸君!』の讀者さえ總毛立つであろう。だが、政治と道徳を分つには、その種の暴論に眞劍に立ち向かわなければならないのである。
とまれ、數カ月に亙る「グラマン騒動」は、政治と道徳及び法と道徳を分つ事のできぬ、この愚鈍な國の愚鈍な新聞が演じた何とも空しい茶番狂言であつた。愚鈍な新聞に道義を論う資格などありはせぬ。新聞に限らない、愚鈍な手合は、今後他人を道義的に非難してはならない。他人の惡行を難ぜずして專らおのれを省み、默々として仕事に精を出せばよい。差し詰めそれが、愚者にとつての唯一の道義的な生き方かも知れぬ。「愚鈍以外に罪惡は無い」からである。
そして、愚鈍な手合を斬るのに正宗の名刀は必要としない。牛刀をもつて鶏を割くには及ばない。愚鈍な手合を批判するに際して、道義論などを持ち出す必要は無い。專らその知的怠惰を衝けば足りる。 例えば、五十四年十月九日の讀賣新聞夕刊に、寿岳文章氏は「反骨の系譜」と題して次のように書いてゐる。
最近、元號問題は政治化さえしかねまじい樣相を呈してきてゐるが、東西文化の交流 に多少の寄与をしてきたと信じてゐる私にとつて、自分の墓石に西暦を採用することに 、何のためらいもなかつた。西暦は、言わば世界の共通語であり、人類の歴史が殘るか ぎり、この共通語は、どこの國のどんな人にもたやすく讀みとつてもらえるだらう。( 中略)生歿の月日を捨てて四季の表記だけにとどめたのは、やがていつかは苔むし、朽 ちはて、訪う人もなくなるに違いない墓石の半座をわかつ主人公である私には(中略) どんな季節に生まれ死んだかをしるしてさえおけば事足りるので、それ以上の望みは全 く無いからである。
寿岳氏は羞恥心を欠いていて、それを徹底的に批判する事はもとより可能である。が、愚者を道義的に難ずる必要は無い。寿岳氏は恥知らずであるばかりか愚鈍であり、愚鈍な物書きの文章なら當然矛盾があつて、それを衝くだけでよい。寿岳氏は自分の墓は「やがていつかは苔むし、朽ちはて、訪う人もなくなる」と言う。つまり、寿岳文章という英文學者をやがて世間は忘れるだらうという譯である。その癖、自分が「墓石に西暦を採用」したのは「人類の歴史が殘るかぎり」自分の生年と歿年を「たやすく讀みとつて」貰うためだと、寿岳氏は言つてゐる。何とも滑稽な矛盾である。それを私にこうして指摘されて、恐らく寿岳氏は反論できないであろう。 
愚鈍の効用
愚者を相手に道義を論うと、とかく水掛け論になりがちだが、論理の破綻を指摘してやれば、よほどの愚者でもない限り、勝敗を決める事ができる。その證拠に、都留重人氏や關嘉彦氏を相手にして存分に戰えた森嶋通夫も、福田恆存氏の一撃に敢え無い最期を遂げたではないか。福田氏は森嶋氏を「葱まで背負つて來てくれた鴨」と呼んでゐる。森嶋氏にせよ寿岳氏にせよ、愚鈍な物書きは默々と仕事に精を出し、「葱を背負つた鴨」の役割を果せばよいのかも知れぬ。嘲弄されるために存在し、飜弄されるために書けばよいのかも知れぬ。それが、愚鈍な手合にも言論の自由を認めてゐるこのエレホン國における、愚鈍の唯一の効用であろうか。
ところで、五十四年度の衆議院總選擧に際しても、新聞はその愚鈍を大いに發揮した。新聞は例えばこう書いたのである。
有權者ひとりひとりが一票にこめた願いはさまざまだらう。しかし、その總意は、大平首相と自民黨に對して、政治姿勢と政策方針の反省をきびしく促すものであつた。
國民が鼻をつまみながら、自民黨に背を見せたことは十分に考へられるだらう。
敗因がどうのこうのいう前に、大平政權は國民に熱いオキュウをすえられたことを思い知るべきである。
「手法が惡かつた」と首相は反省してゐるが、技術の問題では決してない。(中略) 腐敗した官庁ではなく國民のほうを向いた政治をというのが、投票に示された民意なのだから。
新聞だけではない、新聞の寄稿家もまた、保守革新の別無く、愚鈍ゆえの安つぽい道義論を振りまわし、何とも粗雜な議論を上下したのであり、世人もまたそれを一向に怪しまなかつた。朝日は「有權者の總意」が自民黨に「反省をきびしく促」したと言い、サンケイは「大平政權は國民に熱いオキュウをすえられた」と言い、讀賣は「國民が鼻をつまみながら、自民黨に背を見せた」と言う。どうしてこれほど馬鹿な事を新聞や學者が口を揃えて合唱するのか。五十一年に四一・八パーセントだつた自民黨の得票率は、今囘は四四・六パーセントに増加してゐるのである。それはむしろ、増税だのグラマンだの鐵建公團だの臺風だのと、自民黨に「不利な状況」があつたにも拘らず、自民黨を支持する國民が増加したという事であり、自民黨の「敗北」は專ら「選擧技術の問題」に過ぎぬという事ではないか。もとより政治家は結果に對してのみ責任を負うのだから、私は大平首相の技術的な失敗を辯護する譯ではないが、自民黨支持率が上昇したにも拘らず、新聞や政治學者が「自民黨のおごりに對する國民のきびしい審判」を云々するのは、そしてそれを國民の大多數が一向に怪しまないのは、これまたエレホン國ならではの天下の奇觀としか言い樣が無い。
そうではないか。そういう幼稚極まる事實認識の誤りは高校生にも指摘できよう。しかるに、よい年をして、新聞や學者がそれに氣付かないとは奇怪千萬である。考へてもみるがよい、國民一般だの「國民の總意」だのが審判を下すのではない。選擧に際しては、國民の一人一人が投票する。それだけの事である。その結果、自民黨を支持する者が増えたとしても、自民黨の「選擧技術」が拙劣ならば、得票率の上昇はそのまま議席の増加に繋がらない。早い話が、得票率が驚異的に伸びたとしても、自民黨が假に二倍の候補を立てれば議席數は激減する。その場合、「國民が自民黨の驕りを裁いた」などと、どうしてそのような事が言へようか。
そういう事を新聞は知つていながら、自民黨の「おごり」に「一撃を与えた國民の總意」(朝日、十月九日)だの、「國民はおごれる自民黨にはつきりと拒否反應を示した」(讀賣、十月九日)だのと書いたのであろうか。つまり、新聞は知能犯なのであろうか。そうではない。新聞は愚鈍なのである。ひたすら愚鈍なのである。愚鈍な國の愚鈍な新聞に、愚鈍な大學教授が馬鹿げた事を書き、愚鈍な國民もそれを怪しまない。やはり日本國はエレホン國で、今はまさしく「愚鈍の時代」なのである。
けれども、「いや、いや、待てよ・・・・・・」と私は密かに考へる時がある。こうして新聞と學者の愚鈍を嗤つて、おのれは利口だと思ひ込んでゐる、この私こそ途方も無い大馬鹿者なのではないか。これまで私が、他人の愚鈍を嗤つて一度も反論された事が無いのは、いずくんぞ知らん、他ならぬこの私が反論する甲斐も無い程の大たわけだからなのかも知れぬ。そういうふうに時々私は考へてみる。愚者はおのれを愚者とは思つていないという。私はそういう度し難い愚者なのか。「まさか、そんな筈は無い。桑原、桑原・・・・・・」と、けれどもやつぱり私は呟くのである。おのが愚鈍を承認したら、とても生きてはゆけないからである。そしてそれは私に限つた事ではない。 
第三章 「親韓派」知識人に問う

 

日本を愛する日本人として
「勿論、日本が將來、韓國を侵略しないとは斷言しませんよ。國家は戰爭をするものなのです、戰爭がやれないと人間は駄目になる」、私は韓國で『東亞日報』論説主幹の金聲翰氏にそう言つた事がある。金氏がその時何と答えたか、それは大方の讀者の想像を絶すると思ふ。につこり笑つて、彼はこう答えたのである、「そうですとも、仰有るとおりです。但し、日本が侵略するより先に韓國が日本を叩くかも知れませんがね」。
私は感動すると同時に慄然とした。日本では殆ど通じない話が韓國で通じる事を知つて感動し、一方、日韓戰爭が勃發したら、精鋭揃いの韓國軍に專守防衞が建前のわが自衞隊は齒が立つまいと、それを思つて慄然としたのである。
國家は戰爭をするものなのであり、日韓戰爭さえ起りうるのである。五十五年一月四日付『サンケイ新聞』の「正論」欄に猪木正道氏は、「八○年代には第三次世界大戰が破裂する公算はほとんど」無く、米ソの指導者が發狂でもせぬ限り熱核戰爭は囘避できるだらうと書いてゐたが、私は猪木氏の樂天的な占いを信じる氣には到底なれない。猪木氏は前年八月一日、同じ「正論」欄に、ソ連はアメリカとパリティ(均等性)を望んでゐると書き、それに對してアメリカ戰略國際研究センターのデニス・D・ドーリン氏が、「ソ連はパリティなど望んだ事は一度も無い。ソ連は優越性を求めてゐるのだ」と反論したが、私はドーリン氏を支持する。ソ連の指導者に限らず、人間はいつ何時「發狂」するか知れたものではないのだし、個人の他者に對すると同樣、國家もまた他國を凌ごうとして鎬を削るものだからである。日本は西歐先進國に追い付こうとしたのではない、追い付き追い越そうとしたのである。
ジョージ・オーウェルが言つてゐるように、ナショナリズムはなるほど強烈な感情だが、それがいかに壓倒的かを知り尽してゐる者だけが、それを理性的に制御しうるのであつて、それは丁度、おのがエゴイズムに手を燒く者が、時に激しく愛他的でありたいと願うのと一般である。そういう事が理解できぬナショナリストもインター・ナショナリストも、ともに私は信用する氣になれない。が、これは猪木氏の事ではないが、「親中派」にせよ「親ソ派」にせよ、「親米派」にせよ、「親韓派」にせよ、とかくわが國の知識人は、西義之氏の言葉を借りれば、おのれが親しみを感じてゐる他國の「欠陥を指摘されると、わがことを誹謗されたごとくに激昂し、一方、自國はこれ以上なく惡しざまに語る」のである。そういう手合は、間違い無く人間の姿をしていながら、人間というものが解つていない。そうではないか、他人の欠陥を指摘されてわが事のように激昂し、自分の事は惡しざまに言う、そこまで卑屈になれる人間がこの世に存在する譯が無いのである。それゆえ、金聲翰氏に對しても、私は日本を愛する日本人として振舞つた。が、金氏はそれを少しも不快に思はず、却つて胸襟を開いてくれたのであり、もとより「日韓、戰わば・・・・・・」などという物騷な話ばかりした譯ではないから、まことに樂しく有益な午後の一時を私は過したのであつた。
身近な友人を大切にしない者が遠い他人を愛せぬ如く、自國を大切にしない者に他國を愛せる道理は無い。日本人が韓國以上に日本を愛するのは當然過ぎるくらい當然の事である。それゆえ、韓國人に向つて日本の事を惡しざまに言う日本人を、心有る韓國人は決して信用しないであろう。民社黨の春日一幸氏に聞いた話だが、かつて春日氏は、外遊の途中日本に立寄つた韓國新民黨の李哲承氏に會い、その識見に惚れ込んだが、その折、春日氏が金大中氏を批判して「國外で自國の批判はすべきでない」と言つたところ、李氏は大きく頷き、實際、外遊中ただの一度も朴政權批判をやらなかつたという。また、春日氏自身、民社黨議員を率いて訪中した折、佐藤内閣を激しく批判する中國側と渡り合ひ、翌日の萬里長城見物に春日氏だけは出掛けようとしなかつた。それでよいのである。春日氏の事を、中國側は手強い相手だと思つたに相違無い。 
「親韓」とは何か
私は五十四年十月下旬、韓國政府の招待により韓國を訪れ、連日、韓國の知識人と意見の交換をしたが、韓國人に對して卑屈に振舞う事だけは一切しなかつた。また、そういう暇は無かつた。本氣になつて國家を語り人間を語れば、必ず相手が本氣で應じ、毎日それが樂しくて、私は屡々國籍を忘れたのである。例えば維新政友會の申相楚議員とは大いに語り、大いに意氣投合したが、私は今、申氏を敬愛する先輩のように思つていて、韓國人であるような氣がしない。
一見矛盾した事を言うようだが、國籍を忘れて語つたのだから、私は韓國人を前にして日本を批判した事もある。が、その代り私は韓國をも批判した。勿論、私の韓國批判は勢い控え目にならざるをえなかつたが、日本を批判する時は本氣で怒つた。怒つてゐる振りをして韓國人に媚びる氣なんぞさらに無かつた。それゆえ、日本に關する相手の意見に承服できない場合はそれをはつきり言い、徹底的に議論したのである。「お前は運がよかつたのだ、韓國人の反日感情は複雜で、そんな生易しいものではない」と言われればそれまでだが、私は十二日間のソウル滯在中、偏狭なナショナリズムを制御できる見事な知識人にばかり出會つた。そして眞劍勝負の國でそういう見事な知識人の存在を知り、一方、馴合ひ天國日本の親韓派知識人が、かつて韓國を訪れ、韓國の役人に、韓國の女を世話しろと言つたなどという話を聞かされると、私は日本人として、そういうでたらめな親韓派を憎んだのである。日本國内で馴合うのは致し方が無いし、女道樂も各人の勝手たるべく、何人妾を持とうとそれは當人の甲斐性次第だが、國外へまでぐうたらを輸出する事だけは許せない。日本人として許せない。けれども、私はここで親韓派の私行を發こうと思つてゐるのではない。それをやるなら、筒井康隆氏の『大いなる助走』の流儀でやるしかないであろう。私はただ、いかさま親韓派の文章のでたらめを批判しようと思つてゐるのである。そしてそれは何よりも日本のためを思つての事だが、それが日本のためになるのなら、韓國のためにならぬ筈は無い。
だが、親韓派、親韓派というが、「親韓」とは一體どういう事なのか。「親」とは兩親、肉親、親戚の事であり、轉じて身内であるかの如き親しみを感ずる事である。それゆえ、「親韓」とは一應韓國に對して親しみを感ずる事だと言へよう。が、韓國の何に親しみを感ずるのか。それは人により樣々であろう。
韓紙人形に親しみを感ずる者もあり、木工藝や民俗衣裳チマ・チョゴリに親しみを感ずる者もある。私も先日、韓國文化院でチマ・チョゴリの着付けを見學し、晴着の美女の歳拝の品位に感じ入つた。だが、周知の如く、韓國には今後の韓國はいかにあるべきかについて相容れぬ二つの考へ方がある。例えば金大中氏のように韓國の「民主囘復」こそ急務と信じてゐる者がおり、「金大中氏などには斷じて政權を渡せない」と言い切る者がゐる。「親韓」とは韓國に親しみを感ずる事だとして、では、かういふ對立する双方に等しく親しみを感ずる事は可能であろうか。そんな藝當がやれる筈は無い。なるほど高麗人參やチマ・チョゴリの話なら、車智2(撤の水偏)氏にも金載圭氏にも通じよう。が、眞劍勝負をしてゐる韓國人をして胸襟を開かしむるには、その種の「韓國文化」の話だけではどうにもならぬ。
例えば朴正煕大統領の場合、「外國の賓客との對話中、おおよそ三十パーセントが國防に關するものだつた」という。大統領にしてみれば、車智2(撒の水偏)派とも金載圭派ともつかぬチマ・チョゴリ派に對して肝胆を開く氣にはなれなかつたに相違無い。
だが、私が成敗しようと思つてゐるのはチマ・チョゴリ派ではない。また、金大中氏を支持する韓國人が確かに存在するのだから、例えば宇都宮徳馬氏も親韓派だらうが、私は宇都宮氏には全く興味が無い。『朝日ジャーナル』五十四年十一月九日號に宇都宮氏は、「今度の事件を契機として韓國の民主化が進むならば、現在の北の指導者の思考方法からいつて、緊張緩和は可能であり、相互軍縮によつて南北とも、經濟力をより多く國民生活の向上にまわすことさえ可能であると思ふ」と書いてゐたが、そういう樂天的な占いを私は信ずる氣にはなれないのである。
それに、今の私には、進歩派のでたらめ以上に保守派のぐうたらが腹立たしい。西義之氏は『變節の知識人』(PHP研究所)において戰後の進歩派知識人のでたらめぶりを丹念かつ辛辣に批判しており、私は色々と教へられたけれども、實は知識人のでたらめに保守革新の別は無いのである。 
朴大統領の弔合戰
ところで、保守派で親韓派の私が、宇都宮氏なんぞを叩く氣になれず、なぜ保守派の親韓派を成敗しなければならぬと考へるのか。それは敵を斬るよりも身方を斬るほうが困難だからであり、敵を斬るよりも身方を斬るほうが今や日本國のためになると信ずるからである。
とまれ、早速、成敗に取掛ろう。私が今囘斬つて捨てようと思ふのは、朝日新聞編集委員鈴木卓郎氏、及び京都産業大學教授小谷秀二郎氏である。
まず鈴木卓郎氏である。鈴木氏は月刊誌『ステーツマソ』に「新聞記者の社會診斷」と題する文章を連載中だが、五十四年十一月號に載つた「ソウル旅行から東京を見れば」と題する文章や、『諸君!』十二月號に寄せた「義士安重根は生きてゐる」という文章から察するに、朴大統領健在なりし頃の鈴木氏は朴體制支持の親韓派だつたのではないかと思はれる。『諸君!』に鈴木氏はこう書いてゐるからである。
今の日本人には韓國内のできごとを日本の國内問題のように錯覺してゐる人が全くい ないといえるだらうか。(中略)萬事が自由な東京の物差しで準戰時體制である韓國を 論評すると、マトはずれにとどまらず、お節介になつてしまう。
鈴木氏はさらに「日本が過去に韓國を侵略したからといつて韓國に《卑屈になることはないが、》大藏省と日銀が(安重根に暗殺された伊藤博文の)千圓紙幣の肖像畫に心の痛みを感じてモデル・チェンジに氣がつくことが、眞の日韓親善への出發ではないだらうか」と書いてゐる。何と愚にもつかぬ事を書く男かと思ふ。いつぞや志水速雄氏が、吾國では「尾籠な話だがと、一言斷ればかなり尾籠な話もできる」と斷つて少々尾籠な話を書いていて、私はなるほどと思ひ笑つたが、そういう人情の機微が鈴木氏にはさつぱり解らぬらしい。「卑屈になる事はないが」と斷つて卑屈な文章を書く事は許されるか。許されはしない。そして鈴木氏の文章は紛れもなく卑屈な文章なのである。韓國には「龜甲船」という煙草がある。確か二十本で三百ウォンである。龜甲船とは、昔、日本軍撃退に活躍した新鋭船の事である。が、煙草龜甲船の發賣中止を韓國政府が考へる筈は無く、またその必要も全く無い。なるほどソウルの町なかで「昔の朝鮮總督府はどこだ」などと口走るのは言語道斷の愚鈍だが、徒に過去の日韓併合の非を打ち贖罪を云々するのは無意味であり、日韓兩國にとつて何の得にもなりはしないのである。
それはさて措き、鈴木氏は『ステーツマン』十一月號にかういふ朴體制支持の文章を綴つたのである。
韓國は目下、北朝鮮とは休戰中の準戰時體制である(中略)。このような國で日本の ように野放しの自由を國民に許したならば、どうなることであろうか。(中略)いまの 韓國は北朝鮮の脅威に備えた準戰時體制をとつてゐるので、東京で通用するような完全 な自由が許されるはずがない。したがつて東京の物差しをもつて今日のソウルや朴體制 を論評することはマトはずれになつてしまう。
しかるに二カ月後、同じ『ステーツマン』の一月號に、鈴木氏は次のように書いたのである。
人間は神でも惡魔でもないし、その中間ぐらいのものであろうが、いつたん權力を握 つた人間は必ず、長い間には果てない權勢欲におぼれて腐敗することは政治學の古い法 則である。朴大統領の場合も、初心は崇高な民族の英雄にあこがれたのであろうが、權 力の座が長びくにつれて權勢を保持したい私心が露骨になつてきた。ついには他人に權 勢を譲渡することを考へず永久政權を策して、大統領の三選を禁止した憲法を改正(六 九年)、自己の選出を有利にせしめる維新憲法を制定(七二年)、大統領緊急措置一號 發令(改憲運動の禁止)など強權政治を確立した。(中略)朴大統領は自分の權力を防 衞するために秘密警察網をつくり、KCIA、大統領警護室、大統領秘書室の三者を相 互にけん制、競合させた。軍部は國家保安司令部と首都警備司令室に分割して、これら 五者の間には常に紛爭への火ダネを与えて一體化を防いだ。これらの秘密警察の策動に よつて多くの自由を國民から奪つたが、なんといつても最大の「罪」といわねば、なる まい。
《その「罪」の告發》は言論や協議では到底達せられない《深みにおちいり、》全く 皮肉なことに《朴體制の改良は》(中略)貴賓室で部下の發砲した拳銃しかなかつた。
この種の惡文に付合ひ丹念に批判するのは氣が腐るから、作文技術の劣惡については傍點(《》)を付した部分に限ろうと思ふが、それよりも、大方の讀者にとつては、この僅か二カ月の間隔をおいて書かれた二つの文章が、文體の下等こそ同樣ながら、同一人物の手になるものだという事が信じられぬくらいであろう。すなわち「東京の物差しをもつて朴體制を論評することはマトはずれ」だと書いた男が、二カ月後、朴大統領が「秘密警察の策動によつて多くの自由を國民から奪つた」のは最大の「罪」であると書き、朴體制を批判してゐるのである。人間にこれほど鮮かな轉向が可能だとは、讀者にとつて信じ難い事かも知れぬ。明らかに鈴木氏の轉向は朴大統領の死が契機だつたと思はれるが、「何たる變り身の早さか、許せぬ」などという事が私は言いたいのではない。愚者を相手に道義論は禁物であつて、論理の破綻を指摘してやればよいのである。但し、私が今この文章を綴つてゐるのは、尊敬する朴大統領の弔合戰の意味もあるから、鈴木、小谷兩氏を私は少々口汚く罵ろうと思つてゐる。朴正煕氏の無念を思ひ遣れば、愚者の論理の破綻を淡々と指摘するという譯にもゆかない。 
杜撰な論理と文章
まず、鈴木氏は朴大統領について、「次第に權力を保持したい私心が露骨になつてきた」と書いてゐるが、いかなる根拠あつてそう斷定しうるのか。いかにも大統領の三選を禁じた憲法の改正は六九年であり、維新憲法の制定は七二年である。だが、當時、韓國の内外でいかなる事態が起りつつあつたか、鈴木氏はそれを失念してゐるらしい。六八年一月二十一日には北朝鮮ゲリラによる青瓦臺襲撃事件があり、六九年にはニクソン大統領のいわゆるグアム・ドクトリン宣言があり、七〇年八月にはアグニュー副大統領が、駐韓米軍撤退を通告すべく訪韓、翌七一年にはアメリカ第七師團が韓國側との充分な協議無くして撤収、さらに七五年四月三十日にはサイゴンが陥落してゐるのである。またその頃、金日成主席は中國を訪問してゐるが、その折周恩來は、南進の決意を披瀝した金日成氏に對し「韓國へ攻め込むのは勝手だが、敗走して中國領土へ逃げ込む事は斷る」と言つたという。一方、韓國内では、第七師團撤収後も、金大中氏という「政敵」が、「國民の自由を最大限に保障し、貧富兩極化の特權經濟を棄てて、大衆經濟を具現して(中略)われわれの良心を保障する民主的内政改革を果敢に實行」すべきだとか、「韓國のように經濟的に惠まれない不幸な國の例が世界のどこにあるだらうか。(中略)私たちが一番大切にしてゐるのは、人間の生命だが、その生命を守る上でもつとも肝要なことは、國民が、どれほど平和を愛し、平和に徹するかということであろう」(『獨裁と私の鬪爭』光和堂)などと、空疎で無責任な戯言を書き綴つてゐた。そういう情勢にあつておのが「權勢を保持」しようとする事が、どうして「私心」ゆえの「權勢欲」なのか。そういう情勢にあつて鈴木氏の言う「多くの自由」を、金大中氏の言う「最大の自由」を、どうして韓國が享受できようか。朴大統領は「有備無患」を座右の銘にしてゐた。そしてアグニュー氏とは夕食も忘れて激論を交し、五十四年には民主囘復を要求するカーター氏を相手にして一歩も退かず、「國家の安泰こそ最大の人權擁護ではないか」と切り返し、カーター氏を壓倒したという。一方、米軍の完全撤退は不可避と見て取つた朴大統領は、自分の國は所詮自力で守るしかないと考へ、まずは内憂を絶つべく大統領緊急措置令第九號を公布したのである。當時、KCIAがアメリカの議會人を買収しようとしたのも、在韓米軍の撤退を少しでも遅らせ、自主防衞態勢を確立しようとする、いわば時間稼ぎのためでもあつた。買収と聞いただけで怖氣立つほど鈴木氏は純情なのか。さまで初々しい人物でなければ、大新聞の編集委員は勤まらないのか。奇怪千萬である。
人間は神と惡魔の「中間ぐらいのもの」ではない。そんな中途半端な存在ではない。人間は神たらんとして惡魔に堕するのである。「肉欲と慈愛とは兩立しない。オルガスムは聖者を狼に變える」とシオラソは言つてゐるが、鈴木氏に限らず、愚鈍な物書きにはそういう事がどうしても理解できぬと見える。これも鈴木氏に限つたことではないが、朴大統領の治世について必ずその功罪を論うのはそのせいであろう。が、神ならぬ人間に「罪」抜きの「功」なるものが可能かどうか、わが身を省みとくと考へてみるがよい。いたずらに罪を恐れるなら、人間、沈香も焚かず屁もひらずにゐるしかないが、そういう事勿れ主義者に、日本國の首相は知らず、大韓民國の大統領が勤まる筈は斷じて無いのである。
要するに、鈴木氏のような愚鈍な男が頭腦明晰な朴正煕氏の眉を讀み、「次第に權勢を保持したい私心が露骨になつてきた」などと書くのは、笑止千萬である。燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや、小人の器で天才を量るなと言いたい。そうではないか、滿足に胡麻も擂れぬ男に天才の心事を察しうる譯が無い。鈴木氏にはこんな具合にしか胡麻が擂れないのである。
本誌前囘の「新聞記者の社會診斷」では、「學歴社會を斬る」といつた視角から「學 歴なし、閨閥なし・・・・・・」といつた歿落者の家の少年秦野章が努力一筋で警視總 監、參院議員に大成したことを説いたが、朴大統領の場合も生い立ちを觀察すると學ぶ べきものが多い。
「本誌」とは『ステーツマン』の事である。
そして『ステーツマン』には毎號必ず秦野章氏が登場する。『ステーツマン』は秦野氏の息が掛つた雜誌ではないかと思はれる。それを鈴木氏が知らぬ筈は無い。これ以上は何も言わぬ、それだけ言へば讀者には充分理解できると思ふ。
次に愚鈍な人間はいかに劣惡な文章を綴るかについてである。六三頁に引用した文章の傍点を付した部分だが、まず「罪の告發」が「深みにおちい」るとはどういう事なのか。「告發」とは「犯罪事實を申告する事」、もしくは「罪人の非を鳴らす事」である。朴大統領の「罪」が「言論や協議では到達せられない深みにおちいつた」という事なら意味だけは何とか通じるような氣もするが、文の主語は「罪」ではなく「罪の告發」であり、とすれば「罪人の非を鳴らす事」が「深みにおちいつた」とはどういう事なのか、私には理解できない。いや、實を言へば理解できぬ事もない。が、それはおんぼろエンジンさながらの粗雜な頭腦というものは多分かういふぐあいに作動するのであろうと、勉めて好意的に解釋してやる場合に限られる。
また「朴體制の改良は・・・・・・拳銃しかなかつた」だが、これもまた杜撰な文章である。例えば「愚鈍な物書きの成敗は拳銃しかない」などと書く事は許されない。全體主義國であれ民主主義國であれ、そういう事は許されない。道義的に許されないのではなく、文章作法としてその種の迂闊は許されないのであつて、體制の如何を問わず「愚鈍な物書きの成敗には拳銃しかない」と書かなければならないのである。 
急遽バスを乘換えて
以上、道義論を持出さずして私は鈴木卓郎氏を斬つた。同じ流儀で次に小谷秀二郎氏を斬ろう。小谷氏は京都産業大學教授であり、『サンケイ新聞』の「正論」欄の執筆者であり、月刊誌『北朝鮮研究』の前編集長であり、『國防の論理』『日本・韓國・臺灣』『防衞力構想の批判』『朝鮮戰爭』『朝鮮半島の軍事學』などの著書があり、「朴大統領とは何囘か青瓦臺の大統領官邸でお目にかかつた」事があるという。その親韓派の小谷氏は、五十四年三月九日付の『サンケイ新聞』「正論」欄にこう書いた。
世界を賑わした中越戰爭は、韓國でもトップ・ニュースである。ところが北朝鮮では 、この戰爭が發生して以來今日に到る迄、そのニュースは一度も國内で流されていない 。完全な報道管制が實施されてゐる。一方が、いろいろな現象から判斷して、異常な國 家であることを問題にせず、韓國だけが反政府分子を抱えてゐる實情のもとで、更に民 主化を強化して統一のための對話にのぞんだとした場合、結果的には獨裁國家に民主主 義體制そのものすらも呑み込まれてしまう恐れがないわけではない。
しかるに小谷氏は、約八カ月後の十一月十四日、今度は小谷豪治郎と署名して、韓國の「國民感情」について次のように書いたのである(『正論』一月號)。
しかし、十八年はあまりにも長過ぎたというのも、同じ國民の感情である。強力な指 導者を今も必要としてゐることには變わりはない。しかし、獨裁制はもう必要はない、 というのが正直なところであろう。
さらにもう一つ引く。
午後十一時。ホテルの窓から見るソウルの街路には、一人の人影も見當たらない。( 中略)ソウルの眞夜中は外出禁止令によつて人影は完全に絶えるのだが、現在の状態は 、朴大統領時代とは何か違つてゐる。
それは本格的な政黨政治の幕開きが、國民の前に訪れてゐるという大きな期待であり 、そしてそれは國民生活の民主化につながるという希望である。
十一月十四日といえば、朴大統領が暗殺されてから十九日目である。大統領が健在であつた頃、『北朝鮮研究』の編集長として、「政治學者」として、北朝鮮の脅威を説いてゐた親韓派の小谷氏は、大統領の四十九日も濟まぬうちに、韓國における「民主囘復」は必至と考へ、急遽バスを乘換えた譯である。だが、その變り身の早さ、無節操を、道義的に難詰するには及ばない。鈴木卓郎氏の場合と同樣、愚鈍ゆえの矛盾を衝けば足りる。小谷氏は三月九日、「反政府分子を抱えてゐる」韓國だけが「更に民主化を強化」すれば、韓國の「民主主義體制」は北朝鮮という「獨裁國家に呑み込まれてしまう恐れがないわけではない」と書いたのだが、十一月十四日には、朴體制の「十八年はあまりにも長過ぎた」と韓國人は感じており、「獨裁制はもう必要ない、というのが正直なところであろう」と書いた。
小谷氏に尋ねたい。北朝鮮という「獨裁國家に呑み込まれてしまう恐れ」のある「民主主義體制」の韓國に獨裁者がゐる筈は無い。してみれば、韓國は三月九日には民主主義國だつたのだが、十一月十四日には「獨裁制はもう必要ない」と國民が感ずるような國家になつてゐた、という事になる。朴正煕大統領は三月九日から十月二十六日までの間に突如獨裁者に變貌したらしい。それは一體いつ頃の事なのか。また、もしも大統領が變貌したのでないとすると、三月九日には「更に民主化を強化」すれば韓國の「民主主義體制」は危殆に瀕する「恐れがないわけではな」かつたのに、十一月十四日には同じ朴體制を「もう必要ない」と國民が判斷するようになつたと小谷氏が判斷する根拠は何か。さらにまた、朴大統領が死んで「獨裁者はもう必要ない」という事になり、「本格的な政黨政治の幕開き」となり、それが「國民生活の民主化につながるという希望」を抱かせると、そのように判斷するに至つた根拠は何か。
小谷氏は私の問いに到底答えられまい。その場限りの愚者の判斷に根拠なんぞある譯が無い。今や韓國の民主化は不可避と見て取つて、バスに乘遅れまいと焦つた擧句、粗雜な思考の樂屋をさらけ出したまでの事である。愚者は往々にして鐵面皮だから、事によると小谷氏は、「自分は韓國人の感情をありのまま語つたのだ」などと弁解するかも知れぬ。それゆえ予め小谷氏の退路を斷つておくが、將來、日本國民が「北方領土奪還のため日本は再軍備をし、ソ連に宣戰を布告すべきである。弱腰外交の三十數年(或いは四十數年か)はあまりにも長過ぎた」と感じるようになつたとして、その場合、そういう偏狭なナショナリズムにもとづく「國民感情」をありのままに語るに過ぎない政治學者は政治學者のの名に値しないのである。 
無神經な文章
小谷氏はまた次のように書いてゐる。
京都で今囘の(朴大統領暗殺)事件を聞いたとき、驚きの餘り、思考が中斷して、そ れがなんとなく息苦しくて、一瞬もがいたように思つたのだが、こうしてお墓の前に頭 を垂れた瞬間、その時のことが信じられないような、平穏さに包まれてゐた。(中略) 花輪を捧げてお詣りできたことは、なんとなしに重荷をおろしたような感慨であつた。 (中略)このホッとした氣持ちを味わう人びとも決して少なくはないに違いない。何故 ならば、戒嚴令下であつてみれば、遠慮勝ちにしかものが言へないかもしれないが、彼 の人を絶對視しか許されなかつた雰囲氣は、もはや韓國には存在しないからである。
驚きのあまり「思考が中斷して、それがなんとなく息苦しくて、一瞬もがいたように思つた」などという拙劣な描寫は、文藝愛好クラブの高校生にも到底やれないのではないかと思はれる。そして、その程度の描寫力で、韓國國民の感情がありのまま語れる筈は無い。が、それはさて措き、朴大統領の墓前に花輪を捧げただけで「重荷をおろし」、「ホッとした氣持ちを味わ」つた小谷氏は、途端に「彼の人を絶對視しか許されなかつた雰囲氣」がもはや韓國に存在せず、それが「國民生活の民主化につながるという希望」を肯定できるようになつた譯であり、それなら朴大統領の訃音に接して小谷氏が韓國に駈けつけたのは一體全體何のためだつたのか。墓前に花輪を捧げるためではなくて、何かもつと樂しい旅行目的があり、墓參りは事のついでで上の空だつたのかも知れぬと、そうでも勘繰らぬ事には辻褄が合ぬほど小谷氏の文章は支離滅裂なのである。
そして、大統領の墓參りを濟ませ、大統領を「絶對視しか許されなかつた雰囲氣」がもはや存在せぬ事に「ホッとした氣持を味わ」つた小谷氏は、多分ホテルに戻つて、まず最初に民主囘復のバスに乘遅れてはならぬと考へ、ついで次の大統領は誰かと考へたのである。丁一權氏か、李厚洛氏か、朴鐘圭氏か。いや、この三人ではない、決つてゐる、金鍾泌氏である、そう小谷氏は考へた。そこで小谷氏は、金鍾泌共和黨總裁に胡麻を擂るべく『正論』に寄せた文章の三分の一を割いたのであつた。その一部を引用する。
新總裁・金鍾泌氏に對する人氣は、目下鰻のぼりにのぼつてゐる。それは大統領暗殺 事件のいわば布石となつた釜山の暴動ではJ・P(金鍾泌氏)を次の大統領に、という スローガンが學生たちの手で掲げられたことに明らかに示されてゐる。
朴大統領とは「何囘かお目にかかつてゐたし、特に北朝鮮に對する戰略構想については、個人的にいろいろと説明してもらうという光榮に浴し」た小谷氏が、早々、金鍾泌氏に胡麻を擂るとは少々不謹慎だが、くどいようだが愚者を道義的に批判するには及ばない。小谷氏はここでもまた愚鈍であるに過ぎないからだ。そうではないか、右に引用した件りを金鍾泌氏が讀んだならば、金氏は小谷氏の愚鈍に呆れ、顔を顰めるに相違無い。周知の如く、釜山の暴動は朴體制を覆そうとした連中、ないしは朴體制に不滿な連中が起したものである。そして、金鍾泌氏に限らず、老練な政治家ともなれば、多少は小手を翳して世間の動向も窺わねばならぬ。五十四年十一月、『東亞日報』がソウル大學社會科學研究所に依頼して行つた世論調査によれば、「經濟成長よりも民主化を支持する」との解答は七二・八パーセントに達したそうだが、その後、十二月十二日には、全斗煥國軍保安司令官の指揮によつて、鄭昇和戒嚴司令官が逮捕され、民主囘復を叫び結婚式を裝つて集會を開いた連中は一網打尽、尹3(水+普)善元大統領は軍法會議にかけられる事になつた。朴大統領が死んだ以上急速な民主囘復は必至であり、今や「彼の人を絶對視」する事なく朴大統領の功罪を論じなければならぬ、そう考へた手合は少々淺はかだつたという事になるが、金鍾泌氏ともあろう政治家がさまで淺はかである筈は無い。とすれば、釜山の學生たちが「J・Pを次の大統領に」と叫んだという話を持出されて金氏が喜ぶ筈が無い。まこと「愚鈍以外に罪惡は無い」のであり、愚者とはかくも無神經かつ不器用なのである。小谷氏は金氏を褒めちぎり、却つて金氏に迷惑を掛けたに過ぎない。鈴木卓郎氏の場合も同樣であつて、ここで讀者はすでに引いた秦野章禮讃の文章を思ひ出して貰いたい。「千慮の一得」というが、やはり愚者の千慮には一得すら無いのかも知れぬ。 
頼りにならない知識人
さて、これで朴正煕氏の弔合戰としての、無節操すなわち愚鈍な親韓派の成敗は濟んだ。鈴木、小谷兩氏は韓國における民主囘復は必至と早合點し、慌ててバスを乘換えた粗忽者なのである。『サンケイ新聞』によれば、韓國國防省のスポークスマンは、「全斗煥將軍は朴大統領暗殺事件捜査の最大の功勞者なのであり、將軍の予備役編入などという噂は事實無根だ」と言つたという。全斗煥將軍は親朴派だと言われてゐるが、鈴木、小谷兩氏は「全斗煥將軍が全軍を掌握したと思はれる」という『サンケイ』の記事を、どんな顔をして讀んだのであろうか。もしも將來韓國に鷹派の大統領が誕生し、弛んだ箍の締直しをやり始めたら、鈴木氏や小谷氏は韓國についてどんな事を書くのであろう。またぞろバスを乘換える積りであろうか。
けれども、バスを乘換えた粗忽者をそうして嗤つてゐるお前にしても、もしも全斗煥將軍が失脚したらどうなるか、お前もまた粗忽者だつたという事になるではないか、そう反駁する向きもあろう。實際、私は友人にそれを言われた事がある。十二月十二日の三日後、すなわち十二月十五日付の『サンケイ新聞』に私は、「全斗煥將軍が鷹派なら私は將軍を支持する」と書いたからである。私は勿論、全斗煥將軍とは面識が無い。韓國滯在中、テレビで記者會見中の將軍を見、歸國後、新聞で鄭昇和司令官逮捕の經緯を讀み、何と肚の坐つた軍人かと感心してゐるに過ぎない。それゆえ、將軍が朴路線を繼承する鷹派ならば、將軍の失脚を私が望む筈は無いが、萬一そういう事になつても、朴路線そのものの正しさを信ずる私の考へはいささかも揺らぎはしない。朴大統領の私生活についても、私は有る事無い事、色々と聞いてゐるが、何を聞かされようと、そういう類の事で私は衝撃を受けはしない。『世界』五十五年二月號のT・K生なる人物の「反動の嵐吹けども」という記事には「朴正煕氏の月四、五囘に及んだ歌手やタレントの女優とのスキャンダルは、この憂うつな季節の大きな話題である」と書かれており、それを讀んで私は笑つた。笑わざるを得ないではないか、朴大統領にも生殖器があつたと主張して喜ぶかういふ手合にも、間違い無く、生殖器はあるのである。英雄豪傑にも生殖器があつたという事實を發見して喜ぶのは愚劣な事で、進歩派の日本史學者が戰後にやつたのは、そういう無駄事、要らざるお節介であつた。自分と同樣に生殖器がありながら、朴大統領にはあれほどの事がやれたのだと、なぜ人々はそういうふうに考へないのであろう。
だが、すでに述べた如く、私は日本人であり、韓國が直面してゐる試練以上に日本の知識人の生態のほうが氣掛りなのである。太平洋戰爭末期、日本の敗色が濃厚となつても、依然として徹底抗戰を叫びつづけた高村光太郎は、「日本が敗けたら引込みがつかなくなるぞ、程々にしておけ」と忠告されたという。これは「早々、全斗煥將軍を支持すると危いぞ」という私の友人の忠告と同質だが、私にとつてはそういう忠告をする知識人の生態のほうが遙かに興味深い。朴大統領の死後、『サンケイ新聞』紙上で衞藤藩吉氏、鹿内信隆氏、『文藝春秋』で福田恆存氏、及び『言論人』で大石義雄氏が、それぞれ朴體制批判に興ずる風潮に冷水をぶつかけてゐたが、私の知る限り、朴體制支持の親韓派の發言はそれくらいのものであつて、朴大統領健在なりし頃あちこちでお見受けした親朴派知識人は、十月二十七日以後、忽然として行方不明になつたのではないか、私にはどうしてもそうとしか思えないからである。そして、愚鈍な粗忽者よりも、この行方不明の親韓派の生態を分析する事のほうが大事かも知れない。戰前、特高に逮捕され、ぬらりくらりと訊問を躱し、「貴樣は得體の知れぬ奴だ、右か左かはつきりしろ」と刑事に言われ、釋放されて後は「いかなる主義主張にも同調しなかつた」という大宅壮一は、日本人特有の處世術についてこう書いてゐる。
私にいわせると、日本人というのは、天孫民族でなくて、天候觀測民族である。とい うのは、大昔から日本人の生活は、主に農業と漁業に依存してゐた。どつちも天候に左 右されやすい。
おまけに日本は、地震國であり、臺風圈内でもある。臺風は毎年ほとんど定期便のよ うにやつてくるが、地震はいつくるかわからない。(中略)恐らくわれわれの先祖は、 毎朝目をさますと、まず空を仰いで、その日の天候をよく見きわめてから、仕事にとり かかつたことであろう。(中略)むかしは主に大陸から朝鮮半島を通つてきた文化的な 臺風が、明治以後はたいていヨーロッパからきた。最近はアメリカやソ連や新しい中國 の方からやつてくる。その臺風の性格、進路、強度を人より早く、正確に知るというこ とが、大多數の日本人にとつて、最大の關心事となつてゐるのだ。そこで、毎朝毎夕、 空を仰ぎ、小手をかざして天候をうかがうかわりに新聞に目を通し、ラジオに耳を傾け てゐるのだともいえる。
これこそ日本人特有の處世術である、それは「無思想人」の視點である、そう大宅は言つてゐる。なるほど「無思想人」の「天候觀測法」とは言い得て妙であり、日本人は常に「小手をかざして天候をうかがう」のである。その癖、かつて曽野綾子女史が言つたように、日本人は笊の上の小豆で、笊を「一寸左へ傾ければ一斉に左へ、右へ傾ければ一斉に右へ寄る」。天下の形勢が定かでないうちは小手を翳してゐるが、大勢が決定的になれば、どちらの方角へも吾勝ちに突走る。大勢に抗して不撓の信念を貫くなどという事は、大方の日本人の最も不得意とするところなのである。そしてそれは今に始めぬ事で、敗戰と同時に人々は先を爭い反省競爭に專念したし、極東軍事裁判においてA級戰犯に判決が下つた時も、インドのパール判事やオランダのローリングス判事の少數意見を知りながら、大方の日本人は「敗けたのだから仕方が無い」と考へ諦めたのであつた。
そして今、韓國の情勢が流動的であるかに見える今、例えば「早々、全斗煥將軍支持を打出すのはまずい」と親韓派は考へ、小手を翳して遙かソウルの雲行きを窺つてゐるのであり、それは彼等が「天候觀測法」の達人だからに他なるまい。なるほど「“現實”の進展」に對應して身を處するこの「天候觀測法」にもそれなりの利點はあろう。が、北朝鮮が朝鮮半島を武力統一し、釜山に赤旗が立つという現實に直面したら、そういう「現實の進展」に親韓派の知識人は一體どう對處する積りなのであろうか。
常に、「天候を觀測」し、常に「既成事實」に屈服して涼しい顔をしていられるのは、保守革新を問わぬ日本の知識人の特色ではないかと私は思つてゐる。つまり、日本の知識人は「無思想」なのではないか。これまで朴路線を支持してゐた親韓派が、韓國を取卷く國際情勢の嚴しさは少しも變つていないにも拘らず、朴大統領が死んだ以上韓國における民主囘復は必至と考へたり、小手を翳してソウルの雲行きを窺い、早々全斗煥氏を支持するのはまずいと考へたりするのは、彼等が大宅壮一の言う「無思想人」だからではあるまいか。だが、朴體制強固なりし頃はその現實に屈服して朴體制を支持したものの、目下韓國の情勢は流動的だからとてソウルの雲行きを窺つてゐるかつての親朴派は、萬一、釜山に赤旗が立つという「既成事實」に直面したら、反共の看板を下すばかりでなく朝鮮民主主義人民共和國との平和共存を聲高に叫ぶのであろうか。それは大いにありうる事だと私は思ふ。
五十四年三月、中國がヴェトナムに攻め込んだ際、社會主義國は戰爭をしないと信じ切つてゐた進歩派の知識人は激しい衝撃を受け、大いに狼狽した。けれども、それを笑止千萬だと嘲笑つた保守派の知識人にしても、福岡ならぬ釜山に赤旗が立つただけで、あつさり簡單に「反共の信念」とやらを擲ち、またぞろ反省競爭に現を抜かすのではあるまいか。愚鈍に保守革新の別は無い。例えば菊池昌典氏の純情を保守派が嗤つたのは、實際は「猿の尻嗤い」だつたのではないか。友邦韓國の前途を案じつつも、私はその事が何より氣掛りなのである。
最後に韓國に對しても私は苦言を呈しておきたい。それは、今日までいい加減な親韓派が罷り通つてゐたについては、韓國側にも責任があるという事である。かつて私は、歴代の自民黨政府のやり方を批判して「利をもつて釣上げた支持者は理に服してはいない」と書いた事がある。利とは必ずしも金錢を意味しないが、同じ事が、日本の親韓派に對する韓國側のやり方についても言へると思ふ。私は、『Voice』五十五年四月號でも、親朴派と言われる全斗煥將軍のために弁じたが、そういう事をやつた以上、反朴派が大統領になつたら、私は韓國政府にとつて好ましからざる人物となろう。私にとつて親韓は商賣ではないから、それは一向に平氣である。そして釜山に赤旗が立つたら、私はもはや親韓派ではありえない。が、朴正煕氏が死んだとたんに朴體制を批判したりする親韓派の中には、韓國と利で結び付いてゐる手合もおり、そういう手合にこれまで韓國側が頗る甘かつた事は事實である。私自身、不愉快な話を色々と聞いてゐる。
眞の親韓派は利をもつて釣上げる譯にはゆかない。眞の親韓派が韓國を大事に思ふのは、私利私欲とは無關係の筈である。とまれ、韓國側は今囘の不幸な事件を契機として、日本の保守派のすべてが眞の親韓派ではないという事を知り、眞の親韓派と利によつてではなく、理によつて繋がる事を眞劍に考へて貰いたいと思ふ。 
第四章 朴大統領はなぜ殺されたか

 

ニューズウィークは本氣なのか
米韓安保協議會に出席すべくソウルを訪れたブラウン國防長官は、五十四年十月十八日、朴正煕大統領と會見、韓國における人權抑壓の緩和を求めるカーター大統領の親書を手渡したが、憤慨した朴大統領は「内政干渉はやめて貰いたい」と言い、兩者は激しく口論、「互いに大聲を張り上げる程であつた」という。一國の大統領に對してかういふ事は言いたくないが、道義外交の元締カーター氏の「正義病」は病膏肓、朴氏はさぞ苛立つた事であろう。しかも正義病患者はカーター氏だけではなかつたのである。それより先、十月四日、アメリカ國務省のスポークスマンは、「アメリカは韓國國會が金泳三氏を追放した事を深く遺憾とする。それは民主政治の原則に反する」との非難聲明を出し、グライスティーン駐韓大使に一時歸國を命じたのであり、一方、意を強くした金泳三氏は、十月十五日、共同通信の記者にこう語つたのであつた。
「朴大統領は、野黨のすべての國會議員が現體制を批判して辭表を出した以上、憲法 を改正し、國民の直接投票による大統領選擧を實施すべきである。朴大統領がそれを拒 むなら、韓國は國際世論から孤立し、アメリカに見放され、國家の安全が危うくなる。 何より朴大統領が不幸な事態に遭遇するであろう」
周知の如く、朴大統領が兇彈に斃れたのは十月二十六日であつて、つまり、金泳三氏の十一日前の予告は的中した事になる。勿論「アメリカのCIAが事件の黒幕であつた」などという事を私は言いたいのではない。そういう事は私には解らぬ。だが、確實に言へるのは、アメリカの正義病患者たちが韓國における反朴勢力を勇氣づけたという事であつて、朴正煕氏はアメリカの正義病に手を燒き、アメリカの愚鈍に止めを刺されたのである。私は朴正煕氏を尊敬してゐる。それゆえ、朴氏の弔合戰をやらねばならぬと思ひ、最初は日本の新聞を斬る予定であつた。朴大統領暗殺を報じて、例えば朝日新聞は「獨裁十八年、流血の政變」と書き、サンケイは「銃彈に倒れた強權十九年、獨裁に人心うむ」と書き、毎日は「力で政權とり、隱された力で崩壞の、歴史の皮肉」と書いた。さらにまた朝日は、十二月二十三日、「獨裁者、ああ受難の年」と題し、何と「暗黒の大陸」に君臨した「三人の暴れん坊」、すなわちウガンダのアミン氏、中央アフリカのボカサ氏、赤道ギニアのマシアス氏と、朴大統領とを同列に扱つたのであつて、韓國の政變を論じて日本の新聞が口走つたこの種の暴論愚論の數々を、私は徹底的に批判しようと思つてゐたのである。だが、とどのつまり、日本の新聞の愚鈍はアメリカの愚鈍の反映に過ぎない。それなら日本の新聞を叩くのは迂遠の策であつて、アメリカの愚鈍をこそ叩かねばならぬ、私はそう考へるに至つたのである。
そういう譯だから日本の新聞を斬つても仕樣が無い、むしろアメリカの愚鈍を批判せね、はならぬ、取分けニューズウィークを成敗せねばならぬ、私は福田恆存氏にそう言つた。すると福田氏は殘念そうに答えた、「ああ、そいつは僕にやらせて欲しかつたなあ」。それは當然の事で、福田氏は『文藝春秋』一月號でニューズウィークの記事に觸れ、ニューズウィークの朴正煕氏に對する「惡意の誹謗」を批判し、「この十八年間、サン・グラスを懸けた小柄の峻嚴な男が、この國を恰も自分の私領の如く支配して來た」とニューズウィークが書いてゐるのは事實に反する、「朴正煕氏がサングラスを懸けてゐたのはクーデタ前のことで、大統領になつて以來、この十八年間は全く用ゐない」と書いたのだが、それを讀んだニューズウィーク東京支局から福田氏に電話が掛つて來て、「そんな事をわがニューズウィークは書いていない」と抗議して來たのである。だが、それは實は東京支局の失態であり、支局長のクリシャー氏は本國版しか讀んでおらず、十一月五日付の國際版に「サングラスを懸けた小柄の峻嚴な男」云々のくだりがある事を知らず、それを福田氏に指摘され、東京支局は謝つたという。
してみれば福田氏がニューズウィークのでたらめを成敗しようと思ひ立つたのは無理からぬ事である。だが、私としても朴正煕氏の弔合戰はどうしてもやりたかつた。福田氏にだつてそれは譲りたくなかつたのである。
以上少しく私事に亙つたが、それもニューズウィークが本氣で韓國について考へてゐるかどうかが甚だ疑わしいと、何よりその事が言いたかつたからである。私は正義病患者を一概に否定しない。けれども、本氣で物を考へようとせぬ知的怠惰ゆえの正義感ほど始末の惡いものは無い。そしてニューズウィークの韓國報道はまことに淺薄、かつ無責任であり、それは東京支局長クリシャー氏が自分の雜誌の國際版にも目を通していないという事實が雄弁に物語つてゐる。一事が萬事である。私はニューズウィークのこの種のでたらめを許す譯にはゆかない。 
アメリカが朴大統領を殺した
だが、こユーズウィークを斬る前に、指摘しておきたい事がある。それは、正義病患者アメリカの要らざるお節介によつて勇氣づけられたのは韓國の反體制派だけではない、という事實である。實際に朴正煕氏を暗殺したのは金載圭KCIA部長だが、金部長が軍の支持無しに朴氏を殺す事はありえず、軍の内部にも反朴勢力が存在してゐた事は確實であり、これら體制内の反朴勢力は度重なるアメリカの内政干渉によつて徐々に形成されたものに相違無い。
『世界』五十五年二月號にT・K生なる人物が、金載圭部長の軍事法廷における「發言の一部を再生」してゐる。それによれば金氏はこう發言したという。
(朴政權は)對内的には緊急措置で全くでたらめではなかつた。口を開けば捕えられ るといえるほどであつた。對米關係も傷だらけであつた。アメリカとの關係は、國防、 政治、經濟あらゆる面において不可分のものではないか。そのアメリカが民主化の道を すすめ、人權問題について忠告すると、内政干渉だという。アメリカはわが國の解放と 獨立を助け、六・二五(朝鮮戰爭)にはいつしょに血を流してくれた血盟の友邦である 。そのような忠告は、友情ある助言である。(中略)私は、朴大統領をそのままにして は、打開すべき道がないと思つた。
T・K氏は「國際世論が金載圭氏の命を救わねばならない」との友人の言葉を引いてゐるくらいであり、右に引いた金載圭氏の證言も事實かどうかは頗る疑わしい。が、右のとおり金氏が語つたとしても、それは少しも怪しむに足りぬ。暗殺直後の閣議の席上「俺にはアメリカが付いてゐる」と口走つたといわれる金載圭氏は「アメリカとの關係はあらゆる面において不可分のもの」であり、アメリカとうまくやれぬ「朴大統領をそのままにしては、打開すべき道がない」と思つたに相違無い。      勿論、金載圭氏に言われるまでもなく、目下のところ韓國は、日本と同樣、自力だけで國を守れる状態ではない。それゆえ、アメリカ軍の完全撤退は不可避と見た朴大統領は、その對策を眞劍に講じつつあつたのだが、それがまずアメリカには氣に入らない。例えばグライスティーン駐韓大使は九月十二日、「韓國の防衞力の水準はアメリカの核の傘による保障と第七艦隊の役割を必要とすべきだ」と語つたのである。グライスティーン大使はまた、朴政權は「アメリカの意圖について根拠の無い疑念を抱きがちである」と發言、それを傳え聞いた朴大統領は激怒したという。私は大統領に同情する。實際、大國アメリカの身勝手に大統領はさぞ手を燒いた事であろう。
一九六九年ニクソン大統領はグアム・ドクトリンを宣言、翌七〇年アグニュー副大統領が訪韓して駐韓米軍の一部撤収を一方的に通告、七五年四月三十日にはサイゴンが陥落、アメリカは南ヴェトナムを見捨てたのであり、大統領緊急措置九號が發令されたのは同年五月の事であつた。朴大統領ならずとも、そういう状況下にあつては、内憂を絶つべく反政府運動を規制する一方、アメリカ軍の完全撤収に備えて自主防衞態勢を確立しようとするのは當然の事だが、それをやれば軍事費の支出は増大し、經濟成長は鈍り、オイル・ショックなどの外的要因も加わつてインフレを招き、民衆の不滿は募り、それは緊急措置九號などにより抑え込まなければならない。
しかるに、身勝手なアメリカは「韓國の自主防衞能力は、その目覺ましい經濟成長ゆゑに増大したのであり、もはや在韓米軍の駐留は不要となつた」として自主防衞を肯定するかの如き言辭を弄しながら、一方では朴政權の抑壓政策を激しく非難しつづけたのである。そういう大國のむら氣と無理解に朴大統領はさぞ腹立たしい思ひをした事であろう。しかも隣國日本は平和憲法を護符として稼ぎ捲るばかり、韓國の苦惱なんぞ、まるで察しようとはしなかつた。五十四年九月、青瓦臺を訪れた福田恆存氏に朴大統領はこう言つたという。
「五年か七年したら、日本と韓國は安全保障条約が結べる時が來る、どうしてもさう しなければいけない、兩國が手を結んでアメリカを牽き付けておかなければなりません、一つ一つがばらばらでアメリカと繋つてゐるだけでは危い」。
その時、福田氏が何と答え、朴大統領がどういう反應を示したか。直接、福田氏の文章を引く事にしよう。
私が大統領の言葉に同感しながらも、「しかし、今の日本には韓國の脚を引つ張りこ そすれ、閣下の御期待に應へるやうに努力しようとする政治家が果してゐるでせうか」と答へた時、沈默のまま、じつと私の目を見詰めてゐた大統領の表情は沈鬱そのものだつた。
そうして孤立無援の自國を思ひ、朴正煕氏は屡々沈鬱な表情となつたに相違無い。他國の元首の事ながら、その胸中を思ひ遣る時、私は深い同情を禁じえないのである。アメリカ政府とアメリカのマス・メディアの、韓國に對する無理解と幼稚な正義感が、朴大統領を殺したのだと、私にはそうとしか思えない。 
おめでたき正義漢
そういう譯だから、朴正煕氏の弔合戰として、私はニューズウィークを斬る事にする。まず、ニューズウィーク昭和五十四年十一月五日號はこう書いた。
朴の人權抑壓に加え、最近數週間は經濟成長の鈍化が市民の不滿を募らせており、そ れは六十六名の野黨全議員の辭職、及び朴を釜山と馬山に戒嚴令を布かざるをえぬ羽目 に追い遣つた學生の暴動となつて一層明確な形をとるに至つた。(中略)「吾々が望む のは、吾々がすでに達成した經濟發展に見合う政治的自由だけなのだ」と欲求不滿に陥 つてゐる韓國知識人の一人は語つた。
この傳でニューズウィークは、常に韓國の反體制に嚴しく、朴政權にも言い分はあるかも知れぬという事を全く考へてみようともしない。右の文章の筆者にしても、「朴の人權抑壓」と「經濟成長の鈍化」が野黨議員總辭職と連動してゐたかの如く書いてゐるが、これは事實に反する。野黨議員の辭職は新民黨黨首金泳三氏の除名に抗議しての事である。 だが、金泳三氏はなぜ除名されたのか。實は除名されるまでに金氏は數々の愚行を演じたのである。まず、前囘の新民黨總裁選擧において、金氏は對立候補の李哲承氏を破つて總裁に就任したのだが、その際不正を行つたとして李哲承派に訴えられ、裁判の結果有罪となり、總裁の職を解かれるという事があつた。また、話が少しく前後するが、總裁就任後の金泳三氏は、新民黨役員の何と九割以上を自分の派閥で固めたのであつて、「日本の大平正芳氏が、總裁になつたからとて、自民黨役員の九割を自派で固めたら一體どういう事になるか。金泳三氏は口を開けば民主主義を云々するが、彼は黨内民主主義さえ守つていないのだ」と、これは李哲承氏から私が直に聞いた事である。
そればかりではない、金泳三氏はカーター大統領に單獨會見を求めて拒否され、白斗鎮國會議長に斡旋を依頼して、國會主催のリセプションの席上カーター氏に會えたに過ぎないのに、それをさも政治的な意味を持つ單獨會見であつたかの如く宣傳し、アメリカ大使館に抗議されるなどという失態をやらかしてゐるが、何よりも金氏が評判を落し、除名される直接の原因となつたのは、ニューヨーク・タイムズ東京特派員へンリー・スコット・ストーク記者のインタヴィユーを受けた際に吐いた暴論だつたのである。
すなわち金氏は、ストーク記者にこう語つたのであつた。
朴大統領に公的かつ直接的な壓力をかける事によつてのみ、アメリカは朴氏をコント ロールできるのだと、私はよくアメリカの高官に言うのだが、そういう場合彼等は常に 「韓國の内政には干渉できない」と答える。だが、それはおかしな理窟だ。アメリカは 吾國を守るべく三萬の地上軍を駐留させてゐるではないか。それは内政干渉ではないの か。
私はニューズウィークを批判しようと思つてゐるのであり、金泳三氏の「おかしな理窟」を嗤つてゐる暇は無いが、この「アメリカに對して内政干渉を要請するという事大主義的妄動」は、多數の韓國民の神經を逆撫でしたのであつて、反體制に同情的であるといわれる東亞日報までが金氏を批判する論説を載せたほどであつた。それに金氏の「妄動」は韓國の刑法に抵觸する行爲だつたのである。韓國の刑法第百四条その二にはこう記されてある。
第一項 内國人が國外において大韓民國または憲法によつて設置された國家機關を侮 辱または誹謗するか、それに關する事實を歪曲または虚僞事實を流布するか、その他の 方法にて大韓民國の安全、利益または威信を害するか、害する恐れがあるような行爲を なしたる時は、七年以下の懲役もしくは禁固に處す。
第二項 内國人が外國人もしくは外國團體等を利用して國内で前項の行爲をなしたる 時も、前項の刑を科す。
第三項 前二項の場合においては十年以下の資格停止を併科する事ができる。
つまり、アメリカに對して朴正煕大統領をコントロールせよと要望する事は、「外國人もしくは外國團體等を利用して、國内で、憲法によつて設置された國家機關」たる大統領を「侮辱または誹謗する」行爲に他ならず、してみれば金泳三氏は「七年以下の懲役もしくは禁固」、及び「十年以下の資格停止」の刑を受けても仕方が無いのであり、韓國國會が金氏の議員としての「資格停止」を決議したのも當然の事であつた。
韓國の刑法にそういう規定がある事をソウルに支局を置いていないニューズウィークが知つてゐたとは思はれぬ。知つてゐたなら、すでに引用したような、野黨議員の總辭職を「朴の人權抑壓」と「經濟成長の鈍化」に結びつけるといつた思考の短絡は到底不可能だつた筈である。言うまでもない事だが、充分な調査をせずに斷定する事はジャーナリストたる者の何より慎まねばならぬ行爲である。六年前、ハーバード大學のコーエン教授は「朴政權下の韓國は地獄であつて、毎日何百人もの人間が殺され、何百人もがリンチ同然の軍事法廷に送られてゐる」と發言したが、アメリカの知識人がこれほどの暴論を吐いて憚らぬのは、アメリカのマス・メディアが流すでたらめな韓國情報に惑わされての事ではないかと思ふ。
いや、事によるとニューズウィークは、「朴政權の人權抑壓は許し難く、またそれは自明の事で、今更調査の必要も無い」と考へてゐるのかも知れぬ。冬の鯔は眼にも脂肪がのつて物がよく見えなくなるという。ニューズウィークも冬の鯔で、脂肪ならぬ正義感ゆゑに盲い、眞實が見えないという慘めな状態にあるのかも知れぬ。例えば、十一月十二日號のニューズウィークはこう書いたのである。
公表された寫眞は、通常の刑事犯のように手錠を掛けられ、先週の訊問中に受けた打 撲のために顔面の腫れ上つた金載圭が寫つてゐた。
しかるに、同じ記事の中にはかういふ一節もあるのである。
(逮捕されて)車の中へ押込まれた時、金載圭は隱してあつた拳銃を取ろうとして空 手チョップを見舞われたという。(中略)これは金の顔面の打撲傷を説明するために流 布されたお話だと、解釋してゐる者が多い。
この二つの文章は明らかに矛盾してゐる。つまり前の文章で「金載圭の打撲傷は訊問の際に受けたものだ」と斷定しておきながら、後の文章では「反抗しようとして空手チョップを受けたというが信じない者が多い」と言つてゐるのである。勿論、ニューズウィークにも空手チョップ云々のお話を信じない自由はある。けれども、その代り、打撲傷は訊問中に受けたものだと斷定する自由も無い筈である。
だが、このニューズウィークの矛盾を、捜査本部の歿義道を印象づけようがための意識的犯罪だと考へるのは買被りであつて、金載圭氏の顔面に打撲傷があつた事自體が、ニューズウィークにとつては許せないのである。「それ見たか、金載圭は拷問を受けたではないか、許せぬ」ニューズウィークはそう考へ熱り立つたのである。何ともおめでたい正義漢だが、この手の正義漢が寄つて集つて朴大統領を斃したのである。
だが、當然の事ながら、ニューズウィークには朴暗殺に一役買つたなどという意識は無い。正義感ゆゑに盲いて愚鈍だからである。愚鈍とはつまり知的怠惰という事で、矛盾を矛盾と感じない無神經に他ならない。例えばニューズウィーク十二月十日號は、サッカー試合のキックオフで球を蹴つてゐる崔圭夏大統領の寫眞に、「彼の重い靴は反體制派を蹴るためのものでもあつたのか」というキャプションを付け、本文にはこう書いてゐる。
「一つの小さな孔も時に堤防全部の決壞に繋がるのである」と民主共和黨總裁金鍾必 は言つた。だが反體制派は、河は時に氾濫するものだと言う。「もはや誰も政府を信用 していない」と尹3(水+普)善大統領は言つてゐる、「國中にデモが擴がるだらう」 。
學生たちが長い冬休みに入つてゐるため激しい反抗は春まで起らないかも知れない。 が、春になつても、韓國の新しい指導部が時勢に從おうとせぬ場合、朴後の政府の存立 はますます困難になるかも知れない。
崔圭夏大統領について、「反體制派を蹴る重い靴も履いてゐたのか」と書いてゐるくらいだから、ニューズウィークは反體制派の反抗には同情的なので、「河は時に氾濫するものだ」と反體制派の言い草を肯定し、休暇明けの學生たちの活躍に期待してゐるのだと、そう勘繰られても仕方のない、これは書き振りである。しかるに、これより先、十一月五日號のニューズウィークはこんなふうに書いたのである。
イランにおけるシャーの歿落の際と同樣、アメリカは今囘、當然の事ながら、重要な 同盟國の元首の死に驚いた。が、韓國の場合、アメリカは、有力な後繼者と目される人 物や野黨の有力者と比較的よい接觸を保つてゐる。かてて加えて、好戰的な北朝鮮の繼 續的脅威ゆゑに、韓國のいかなる新政府も概ね朴路線を繼承するであろうと思はれてい た。が、政治的不安定は殆どいかなる事態をも招來するのであり、それゆゑにこそアメ リカは朴正熙に取つて代る人物を捜し求めた韓國を不安げに見守つたのであつた。
いかにも、時に河は氾濫する。が、この場合氾濫とは極度の政治的不安定を意味しよう。そういう甚だもつて穏やかならざる反體制の言い草を引き、少なくともそれを批判しないニューズウィークが韓國においても「政治的不安定は殆どいかなる事態をも招來する」のだから、アメリカは「不安げに見守つた」と言つてゐるのである。これは勿論、抑壓政策の繼續を危惧しての事であろうが、抑壓だけが政治的不安定をもたらすのではない。弱い政府の譲歩、すなわち急激な民主囘復もまた極度の不安定を招來しよう。そしてまた、「河は時に氾濫する」と言い放つ樣な手合に、どうして政治的安定をもたらす器量が期待できようか。このくだりに限らず、ニューズウィークの文章には矛盾葛藤に苦しむ韓國への同情が欠けてゐる。同情を欠きながら「不安げに見守」つてゐるかの如く言う。その自家撞着のいい加減は許し難い。 
民主主義は絶對善にあらず
無論、自家撞着は人の常である。相剋する肉體と精神を持つ以上、誰しもそれを免れはしない。が、それは飽くまでも意識されたものでなければならぬ。意識された自家撞着だけがディアレクティックたりうるのである。が、ニューズウィークの文章に、ディアレクティックなどありはせぬ。ニューズウィーク十一月五日號は「社會の健全は高層アパートの數によつて計らるべきではなく、同情と博愛によつて計られねばならぬ」との朴大統領の言葉を引き、「朴もまた同じ基準によつて計られねばならぬと、朴を批判する人々は考へてゐる」などと、したり顔に書いてゐるが、よき政治のためには時には好ましからざる手段も許されるし、また已むを得ず人道的ならざる手段を時折用いながらも、なお自身は高潔たらんと努めねばならぬ政治家の宿命を、ニューズウィークは全く理解していない。愚鈍なる正義病患者たるゆゑんである。
そして、もとより意識せぬ自家撞着とは怠惰という事に他ならない。そういう知的怠惰は法に關するニューズウィークの淺薄な意見が例證するところであり、例えばニューズウィークは、戒嚴令すなわちmartial lawもlawであり、維新憲法もまた法であるという事を忘れてゐるのではないかと思はれる。ニューズウィークはこう書いてゐるのである。
暗殺された大統領の一カ月に亙る服喪期間が過ぎると、政府は(反體制派の)取締り をやり始めた。今なお戒嚴令が布かれており、崔圭夏大統領代行は、反體制鎮壓のため 、そしてまたおのが政權の延命のため、非常大權を行使してゐるのだと、批判者たちは 言つてゐる。崔は今週、統一主體國民會議の投票によつて正式の大統領に就任するであ ろうが、この統一主體國民會議は、通常、朴の大統領としての地位を強固にするだけの 、忠順な選擧機關だつたのである。(中略)韓國の高官たちは(反體制派の)不滿は不 當だと主張してゐる。「民主囘復と戒嚴令の違犯とは別である」と、民主共和黨の總裁 であり、大統領たらんとの野心の持主である金鍾泌は言つた。
要するにニューズウィークは、アメリカ政府と同樣、戒嚴令や維新憲法が氣に食わない。それは市民の自由を抑壓し、獨裁を正當化する惡法であり、反體制派の憤激も當然だと考へてゐるらしい。そして「惡法」も法無きにまさるという事が、ニューズウィークには理解できないのであり、それは大方のアメリカ人と同樣、民主主義を絶對善と信じて疑わぬからである。君主制や貴族制を體驗した事が無く、舊體制との葛藤も知らず、國内に今なおイデオロギー的對立の存しないアメリカは、人間が大昔から、民主制と獨裁制の是非について激しい論爭を行い、今なおそれは決着がついていないという事實について考へてみようとはしないものらしい。ハインツ・ユーローはそのソロー論『路傍の挑戰者』にこう書いてゐる。
現代アメリカのリベラリストは、自分の考へる正義こそ絶對善だとする道徳的絶對主 義の立場をとりがちであり、それゆえ往々にして、自分と意見を異にする他人を認めよ うとせず、獨善的な批判を浴びせがちである。
そして、そういう獨善的なリベラリストは、道徳と道徳的現實主義とを峻別する事ができないとユーローは言い、續けて大要、次のように書いてゐる。
ここにいう道徳的現實主義とは、善惡の認識を意味するのではなく、道徳的生活を送 るに際して生ずる樣々な暖昧と異常性の認識を意味する。道徳とは對照的に、道徳的現 實主義の認知するところでは、善き結果と惡しき結果は對立的な可能性として存するの ではない。むしろ、兩面價値的な統一體として「善くもあり惡くもある」結果が生ずる のである。
ユーローの言う通りであつて、獨裁制にせよ民主制にせよ「善くもあれば惡くもある」結果を招來する。それゆえ、人事萬端、何が正義かという問いに對する決定的な解答なんぞは存在しないのである。パスカルが言つたように「力を持たぬ正義は無力であり、正義を伴わぬ力は暴力」なのだから、「正しき者を強くするか、強き者を正しくするか」、そのいずれかの解決しかありえない事になるが、殘念ながら、人間はいまだかつて「正しき者を強くする事ができず、それゆえ強き者を正しき者とするしがなかつた」譯である。そして、三百年も昔にパスカルが知つてゐたこの事實を、今日なお正義病に盲いたるアメリカは承知しておらず、強大な核兵器を笠に着る「強き者」として世界に君臨し、「強き者」をそのまま「正しき者」と認めたがらぬ國、例えば韓國に對して「獨善的な非難を浴びせ」、おのれの信ずる正義こそ絶對善と思ひ込み、執勘に「民主囘復」を迫つてゐるのであり、この道徳と道徳的現實主義とを峻別できぬ幼稚な正義病患者が、到頭、朴正煕大統領を倒したのである。
それゆえ、一種のショック療法として、ここで心行くまで民主制を罵倒し、獨裁制を辯護したいところだが、それはまた別の機會にやるとして、これだけはニューズウィークに言つておこう。ニューズウィークがいかに顔を顰めようと、例えば、大統領緊急措置令の發動は維新憲法第五十三条にもとづく合法的な行爲なのであり、統一主體國民會議の設置にしても、これまた憲法の定めるところ、もとより合法なのである。それゆえ、自國において正義とされてゐるもののみを絶對と考へる「道徳的絶對主義の立場」に固執して、韓國を十二歳の學童なみに扱い、韓國における人權抑壓を批判する前に、ニューズウィークはアメリカが國内の人種差別問題さえ滿足に解決できずにゐるという事實に思ひを到したらよいのである。
ところが、ニューズウィークはアメリカ國内の未熟を忘れ、韓國のやる事なす事に「獨善的な批判を浴びせ」るのであり、例えば、十二月十二日、全斗煥國軍保安司令官は、朴暗殺事件に關与したとの容疑にもとづき、鄭昇和戒嚴司令官を逮捕したが、ニューズウィーク十二月二十四日號は「將軍たちの夜」と題する記事にこう書いたのである。
なるほど朴暗殺當夜の鄭の行動は充分に釋明されていなかつた。けれども、國軍保安 司令官全斗煥の率ゐる反鄭の將軍たちが、速やかにかつ意表に出て權力鬪爭に勝つたと いうのが眞相であろうと、大方の評論家は信じてゐる。鄭逮捕の直後、駐韓アメリカ大 使ウィリアム・グライスティーンはワシントンに電話をかけ、民主囘復に反對してゐる 朴支持派がクーデターを起したと報告した。(中略)ワシントンは速やかに對應した。 數時間後、國務省は強い調子のステートメントを出し、韓國における混亂に付け入るな と北朝鮮に警告し、同時にソウルの將軍たちに對して、民主主義的統治に向いつつある 進展を阻害せんとするいかなる行爲も、米韓關係に「重大なる惡影響」を及ぼすであろ うと警告した。アメリカの高官たちは、今囘、國家の安全を考へずして、多數の韓國軍 を三十八度線近くから移動せしめた事に激怒した。かういふ遣り方はワシントンをして 、韓國における中南米共和國式用兵の惡夢を思ひ出させたのである。「もしも或る將校 のグループがそれをやれるなら」と一人の外交官が指摘した、「他のグループも同じ事 をやれるのである」。
「民主囘復に反對してゐる朴支持派がクーデターを起した」とワシントンに報告したグライスティーン大使も、韓國の將軍たちに「民主主義的統治に向いつつある進展を阻害せんとするいかなる行爲も、米韓關係に重大なる惡影響を及ぼす」と警告したアメリカ國務省も、全斗煥將軍の寫眞に「勝利をおさめた全、民主主義に關する疑惑」というキャプションを付けたニューズウィークも、いずれも何とも愚鈍な解らず屋である。ニューズウィークに尋ねたい。全斗煥將軍は戒嚴司令部合同捜査本部長なのであり、差し當つての任務は朴暗殺事件の徹底的究明である筈である。それはニューズウィークも否定しまい。それなら、「親朴派のクーデター」と極め付けたグライスティーン大使の言い分を、いかなる根拠あつて、ニューズウィークは肯定できたのか。つまり、「鄭司令官の暗殺關与」という合同捜査本部の主張は口實に過ぎず、實際は親朴派の全斗煥將軍がやらかした「クーデター」だつたのだと、いかなる根拠あつて判斷できたのか。ニューズウィークが好むと好まざるとに拘らず、國家の元首が暗殺された以上、その捜査は徹底的に行われねばならぬ。そしてその場合暗殺に關与したと思はれる容疑者は、それがいかなる權力者であろうと逮捕せざるをえまい。例えば、アメリカの大統領A氏が暗殺され。副大統領B氏がそれに加担したのではないかと疑われてゐる時、FBI長官C氏が副大統領を逮捕したとして、その場合、アメリカ駐在の韓國大使が本國に電話をかけ、「黒人の民主囘復に反對してゐる親A派が、CIAもしくはマフィアと組んでクーデターを起した」と報告し、それを韓國の週刊誌がそのまま報じたら、ニューズウィークは一體どんな氣がするか。ケネディ暗殺の眞相について樣々な揣摩臆測が流れたではないか。少しは我が身を抓つて他人の痛さを知つたらよいのである。
そういう次第で、親朴派の全斗煥本部長が、權力を握るための障害になる戒嚴司令官を、正當な理由無く、專ら權力欲ゆゑに逮捕したなどとは決して斷定できぬ筈である。そしてそれなら、捜査本部長全斗煥將軍のやれる事は「他の將軍のグループもやれる」などとは決して言へまい。全斗煥將軍の寫眞に「民主主義に關する疑惑」というキャプションを付してゐるニューズウィークは、合同捜査本部長としての全斗煥將軍の職權の合法性を疑つてゐるのか、それとも失念してゐるのか。職權の合法性を疑つていないのなら、なぜ將軍の行動を「民主主義に關する疑惑」と極め付けたのか。疑つてゐるなら愚鈍であり、失念してゐたのなら輕率である。 
全斗煥將軍を辯護する
一月二十一日號によれば、全斗煥將軍はニューズウィーク東京支局長バーナード・クリシャー氏のインタヴィユーを斷つたそうだが、クリシャー氏が單獨會見に成功した周永福國防相は、「どうか信じて貰いたい、今囘の事件は、朴大統領暗殺に關与したとの容疑のある將軍を、動かし難い根拠にもとづいて逮捕しようとしたという事に過ぎない」と語つてゐる。周國防相には惡いが、いくらそれを言つてもクリシャー氏には通じまい。ユーローの言葉を借りれば、クリシャー氏も「自分の考へる正義こそ絶對善だと思ひ込む道徳的絶對主義者」だからであり、それを承知してゐたからこそ、全斗煥將軍はインタヴィユーを拒否したのであろう。
ニューズウィークは全斗煥將軍を屡々「強者」と形容してゐるが、ニューズウィークは強者はすなわち惡黨だと考へてゐるのであろう。朴正煕氏を嫌い、維新憲法に「忌み嫌われてゐる」という形容詞を付し、全斗煥將軍の動機を疑つてゐるニューズウィークは、「力ある者は正しからず」という事は自明の理だと信じ切つており、それゆえ、民主主義と文民統制の萬能をいささかも疑つていないのであろう。「多數決は最良の道である。それは一目瞭然であるし、服從させるだけの力を有するからである。が、それは衆愚の意見に他ならぬ」とパスカルは書いたが、ニューズウィークはそういう事を一度も本氣で考へた事が無いらしい。何とも羨ましいほどの樂天家だが、朴大統領の弔合戰として、ここに全斗煥將軍を辯護すべく、そういうニューズウィークの樂天的正義感、すなわち道徳的絶對主義を徹底的に批判しておこうと思ふ。
ニューズウィークに限らず、アメリカ人には道徳的絶對主義の信奉者が多いのであり、かつてジョージ・ケナンが指摘したように、「國際問題に對する法律家的=道徳家的アプローチ」はアメリカ外交の特色であると言つてよい。とかくアメリカ人は、自國の法と道徳律が世界中すべての國々にそのまま適用できると信じていて、正義の相對性という事を考へてみようとしないのである。モンテーニュは「法律が信奉せられるのは、それらが正しいからではなくて、それらが法律であるからである」と書いた。わが芥川龍之介も「道徳とは左側通行の如きものである」と書いてゐる。これを要するに、正義とは約束事でしかなく場所により時代により變化する相對的な虚構に過ぎぬという事である。地上の正義たる法も同樣で世界各國の國内法が國により區々である事はここに改めて言うまでもない事であろう。
パスカルの言葉を借りれば「緯度が三度違うと」法體系は覆るのであり、「子午線が眞實を決定する」のである。何を正義とし何を不正義とするかは事ほど左樣に暖味なのだが、人間は正義の相對性を肯定する現實主義に徹しうるほどに強くはないから、いかなる支配者もおのが信じる正義に則つて國を始めるに際しては何らかの大義名分を必要としたのであり、一方、被支配者としては二つの道を選ばねばならず、それは正しい者に服するか、強い者に服するかの二者択一なのである。パスカルは書いてゐる。
正しいものに服從するのは正しいことであり、最も強いものに服從するのは必要なこ とである。力をもたぬ正義は無能力であり、正義をもたぬ力は暴力である。力をもたぬ 正義は反抗せられる、なぜなら惡人がつねにゐるから。正義をもたぬ力は非難せられる 。されば正義と力とを共に備えなければならぬ、そうしてそのためには、正しいものを 強くあらしめるか、力強きものを正しくあらしめるかしなければならない。
だが、すでに述べた通り、人間は正しき者を強くする事には成功しなかつたのであり、「正しきものをして力あらしめることができず、力あるものをして正しきもの」としたのである。そして被支配者が力ある者を正しき者とする場合、その國の政治は獨裁政治だという事になり、そういういわば「力は正義なり」の獨裁制に對して、被支配者の多數意見を重んずる、いわば「數は正義なり」の民主制があつて、今日の吾國においては、アメリカにおけると同樣、前者すなわち獨裁制は惡であり、後者すなわち民主制は善だと信じられてゐるのだが、それは決して自明の理ではない。
なぜなら、多數意見が正しいなどとは言い切れず、往々にして少數意見のほうが正しいという事があるからで、それに何より、何をもつて正しいとするかという事自體、決して自明の事ではないからである。そしてそれなら、力ある者が常に正しいと斷定できぬ代り、力ある者は常に正しくないとも言い切れぬ、という事になろう。
ところが、以上縷々説明した正義の相對性という事が、おのが正義こそ唯一の正義と信じ切つてゐるアメリカには理解できず、かつて禁酒法の如き世界史上殆ど類例の無い愚擧を敢えてして失敗した前科がありながら、アメリカは性懲りも無く「自分と意見を異する他人を認めようとせず」、韓國に對して「獨善的な批判を浴びせ」續けたのであり、何度でも繰返して言いたいが、そういうピュリタンの末裔の幼稚な正義感が朴正煕氏を斃したのである。
アメリカ國務省にしても、全斗煥將軍の行爲を「民主主義的統治に向いつつある進展を破壞せしめんとする行爲」と呼び、「米韓關係に重大なる惡影響を及ぼす」と警告した。つまりアメリカは自國の民主主義が韓國においてもそのまま行われねばならないと、頑に思ひ込んでゐる譯で、國務省の高官にもまた、不正不純を蛇蝎の如く忌み嫌い「見ゆる聖徒」同士の交わりを求め、果てしない分裂を繰返したかつての分離派ピュリタンの血が流れてゐる。それゆえ、アメリカが同盟國の不法行爲に對して甚だ非寛容なのは怪しむに足りぬ。例えばニューズウィーク十二月二十四日號はこう書いたのである。
先週、鄭昇和を倒すために使用された前線部隊は、理論的には米韓の合同指揮下にあ る。先週の部隊の移動は米韓二國間の防衞協定に違反するものであり、萬一、韓國の他 の將軍たちがそれぞれのクーデターを企てたなら、(韓國の)安全は崩壞してしまうの であろうとの恐怖を抱かしめた。
要するに、アメリカ國務省もグライスティーン大使もニューズウィークも、全斗煥少將が鄭昇和大將を逮捕したのは單なる下剋上であり、他の將軍たちがそれを眞似たら韓國は累卵の危機に瀕すると考へて「恐怖」に驅られたのであろう。ニューズウィークによれば、グライスティーン大使は大使館の門を閉じさせ、アメリカ人に外出せぬよう勸告したそうだが、朴大統領暗殺の當日ソウルにいた私は、グライスティーン大使の處置を嘲笑いはしない。
けれども、ニューズウィークはともかく、アメリカ大使までが全斗煥將軍の職權の合法性に思ひ至らず、「全斗煥氏のやれる事なら、他の將軍たちにもやれる」と思ひ込んだとすると、その餘りの認識不足に私は暗澹たる氣分にならざるをえないのである。
いかにも十二月十二日、全斗煥將軍は米韓防衞協定を無視して、「多數の韓國軍部隊を三十八度線近くから移動させた」のであつて、それは「アメリカの高官たち」を「激怒」させたとニューズウィークは言う。グライスティーン大使も激怒したのであろうか。「全斗煥將軍にかういふ無茶苦茶が許されるなら、他の將軍たちにもそれは許され、かくて韓國の政治的不安定に付け込んで、北鮮軍が攻め入るであろう」とグライスティーン大使も、ウィッカム司令官も考へたのであろうか。十二月十五日付のニューヨーク・タイムズによれば、全斗煥將軍麾下の兵士たちは、盧載鉉國防相の執務室のドアを蹴破り、國防相は秘密のトンネルを通つてアメリカ陸軍第八軍司令部へ避難したという。
また、十二月十六日付のサンケイ新聞によれば、盧國防相はグライスティーン大使やウィッカム司令官と共に、米韓合同司令部の塹壕の中で緊張の數時間を過したという。眞僞のほどは解らぬが、そういう體驗をしたグライスティーン大使に私は同情する。そして、全斗煥將軍が米軍司令官の承認無くして兵を動かした事は、確かに米韓相互防衞協定の違反であつて、私もそれは否定しない。けれども假に私が全斗煥將軍だつたなら、私もやはり米韓相互防衞協定を無視して、精強無比の第九師團をソウルに投入したであろう。なぜなら、非常の際にはおのずから非常の奇策ないし詭策を採るべきであり、もしも全斗煥將軍がのこのこウィッカム司令官に會いに行き、第九師團移動の承認を取り付けようとして、それが鄭昇和戒嚴司令官の察知するところとなれば、九仭の功を一簣に虧き、逆に全斗煥將軍が戒嚴司令部に逮捕されたかも知れず、或いは逮捕されぬまでも指揮系統の混亂から、韓國軍同士が激しく衝突、それこそ収拾のつかぬ混亂を免じたかも知れない。
實際、一説によれば鄭昇和戒嚴司令官は、公邸の非常ボタンを押し、全軍に非常出動を命じたが、全斗煥派に先手を打たれ萬事休したという。窮鼠猫を咬むという事も大いにありうる。とすれば、非常時には非常手段をためらうべきではない。テヘランのカナダ大使館に逃げ込んでいたアメリカ大使館員を、先日カナダ政府は詐術を用いて無事脱出させたが、バンス國務長官は一月十八日、カナダ外相マクドナルド女史に感謝の電話を掛けてゐる。これはつまり、カナダ政府が非常事態に際して非常の手段を用い、バンス長官はそれを認め感謝したという事ではないか。 
文民統制を絶對視する愚鈍
さて、ニューズウィークの韓國報道についてその非を打ちたい事はまだまだあるが、最後に、文民統制に關するニューズウィークの甘い考へだけはどうしても批判しておきたい。民主主義についてと同樣、文民統制についても、ニューズウィークはその萬能を信じ、解決無き事を解決あるかの如く主張して、これまで韓國を散々苦しめ、ニューズウィークの權威を信じ、その言い分を金科玉条の如く尊重する韓國の反體制知識人を勇氣づけて來たからである。
例えば、ニューズウィークはこう書いてゐるのである。
下級將校のグループが、先月、韓國の戒嚴司令官を強制的に逮捕した時、アメリカの アジア戰略上重要な同盟國は軍部の獨裁という危險な時期に入つたのではないかと危惧 する向きが多かつた。
もう一つ引こう。
最近、駐韓米軍司令官ジョン・ウィッカムは、「その任務を正しく遂行するために、 軍は常に軍務を念頭におかねばならぬ・・・・・・政治上及び憲法上の進展については 文民の指導に任せねばならぬ」と言つた。ウィッカムは全斗煥と直接取引きする事を拒 み、韓國の四つ星の將軍との交渉を好んでゐる。「吾々は(實權を握つてゐる將軍たち に)會つて、彼らの十二月十二日の行動を追認したかの如く思はれたくないのだ」と、 ソウルの或るアメリカの高官は語つた。
以上はいずれも一月二十一日號からの引用だが、同じ號のニューズウィークは、軍の政治的中立を求める記事を載せた韓國の新聞が發賣禁止になつた事を報じており、文民統制についてのニューズウィークの執心は頗る強いと言へよう。そして、ニューズウィークの權威に弱い日本の新聞や知識人もまた、文民統制の萬能を信じて疑わぬように思はれるから、彼らの迷妄を醒ますためにも、私はここで、文民統制について思ひ切り身も蓋も無い事を言つておこうと思ふ。
文民統制とは、要するに、軍人は常に文民の統制に服さねばならぬとする説である。從つてそれは、文民は常に軍人よりも賢いとの前提に立つてゐる。だが、これほど根拠薄弱な前提は無い。愚かな軍人は確かにいよう。が、愚かな文民も同樣に確かにゐるからである。正直、例えば全斗煥將軍が金大中氏よりも愚かだとは、私にはどうしても思えない。そして偉大な政治家朴正煕氏もかつては軍人だつたのであり、今や誰もが蛇蝎視するヒットラーは文民だつたのである。文民が常に軍人よりも賢いなどと、どうしてそのような事が言へようか。文民以上に賢い軍人がゐる。だが、どんな賢い軍人も、武器を持つてゐるという理由だけで、常に文民の後塵を拝さねばならぬのか。それは餘りの理不尽ではないか。
それに、もしも軍人が政治的に中立でなければならぬとすると、軍人とは專ら殺し合ひに精を出すロボットに過ぎぬという事にならないか。韓國の軍人にも、日本の自衞隊員にも、確かに選擧權が与えられてゐるが、軍人とは所詮殺し專門のロボットでしかないのなら、そんなものに選擧權を与えるのはこれまた頗るつきの理不尽である。一朝有事の際、その政治的信念にもとづいて行動する事を許されず、常に文民政府の意向に從つて行動し、左翼の文民の統制を受ければ右翼を殺し、右翼の文民の統制を受ければ左翼を殺す、そういう恐るべきロボットに、選擧權なんぞを与えるのは馬鹿げた事である。途方も無い無駄である。
文民統制については以上で充分かと思ふ。以上述べたような事を、ニューズウィークも、ニューズウィークの權威を盲信してゐる日韓兩國の知識人も、およそ考へた事が無いのであろう。そういう知的に怠惰な手合に對して、かういふ事を言い添えるのは無駄事かも知れないが、文民統制について以上の如き身も蓋も無い事を言つたからとて、私は「軍人統制」を善しと考へてゐる譯ではないのである。ニューズウィークに限らず、文民統制を金科玉条の如くに考へる手合の知的怠惰を私は嗤つたに過ぎない。民主主義と同樣、文民統制も絶對善ではなく、人事のすべてと同樣、それに決定的な解決なんぞありはしないのである。が、ニューズウィークに限らず知的に怠惰な人間は、解決無き事を解決あるかの如く思ひ込む。アメリカもそうであり、壓倒的な軍事力を笠に着て、自分の信ずる正義こそ解決濟みの絶對正義だと思ひ込み、「道徳的絶對主義者」として、「國際問題に對する道徳家的アプローチ」に固執し、ジョージ・ケナンの言葉を借りれば、「アングロ・サクソン流の個人主義的法律觀念を國際社會に置き換え、それが國内において個人に適用される通りに、政府間にも適用させようと」躍起になるのである。そして、政治的判斷を善惡の判斷と混同し、自國の規準で他國を裁こうとするこのアメリカの正義病こそ、これまで久しく朴大統領を苦しめ、韓國内の浮薄な反體制派を増長させたのであり、例えば金大中氏は「軍の役割はいかにあるべきか」とのニューズウィークの問いに、「それは明らかです。軍は中立でなければなりません。軍は人民の意志に從うべきです」と答え、また朴大統領の暗殺については、「あれは事故ではない。朴大統領は身近な側近に殺された。が、眞の原因は民主囘復を求める人民の願いです」などと言つており、その淺薄は論評の限りでない。が、金大中氏ほどの愚鈍な政治家が日本やアメリカで持てるのは、とどのつまり、金大中氏がアメリカ正義學校の優等生だからに他ならぬ。
けれども、果してアメリカは韓國よりも賢いのか。ここで私は、韓國の國會議長だつた白斗鎮氏から送られて來た、韓國の或る大學教授の論文の一部を引用しようと思ふ。讀者はそれを私がこれまで引いたニューズウィークの文章と比較して貰いたい。
しかしながら、自由の亂用は社會的混亂を招來し、放埓で無法な國家を作り出すだけ の事である。同樣に正しい政治權力の行使は、國家の建設を社會の進歩に資するところ 大であるが、その亂用は壓政と腐敗と獨裁を生むための有害な武器となろう。富の力は 人民を幸福にし、國家を繁榮せしむる大いなる手段となりうる。けれどもその亂用は、 腐敗、堕落、奢侈を招來し、社會の癌となるのである。正しく運用されるなら、民主主 義は人民に自由と平和と幸福とを保證する最上の策だが、その誤用は派閥抗爭と非能率 と不經濟を伴う衆愚政治をもたらすのである。健全な新聞とマス・メディアは、社會の 批判と啓蒙という本來の機能を果して大いに社會に貢献するが、マス・メディアの堕落 は、マス・メディアをして富と權力に追随する從僕、有害無益な詭弁と無駄口の方便た らしめるのである。
言うまでもなく、この文章の筆者は民主主義の萬能を信じてはいない。と言つて、例えば私がやつたように、民主主義や文民統制を罵つてショック療法を試みるという事もやつていない。ショック療法を施す餘裕が無いからであり、それはそのまま、韓國のおかれた立場の苦しさを物語つてゐる。私はその苦しさを理解する。が、そういう辛い立場にあつても、韓國の體制派の知識人は、少なくとも十二日間のソウル滞在中に私が知りえた限りでは、いずれも眞劍勝負を強いられてゐる者特有の見事な生き方をみせてくれたのである。十一月三日、長女朋子が急死したため、私は韓國滞在を切り上げ急遽歸國しなければならなかつたが、いずれ再び訪韓し、あの眞劍勝負の國の見事な知識人と存分に語り合ひたいと思つてゐる。彼らのひたむきな生き方は刹那的快樂に現を抜かす、その日暮らしの日本ではもはや滅多に見られぬもので、彼らの眞劍から吾々は實に多くの事を學べると、私は信ずるからである。 
むしろ日本を苛めるべし
かつてマッカーサーはアメリカ議會の聽聞會で、「アングロサクソンが四十五歳なら、日本人は十二歳である」と言つた。そして日本人は「なるほど敗けたのだから十二歳だ」と思ひ込み、正義病の教師アメリカの教へる民主主義を懸命に學び、卑屈なまでに善い子になろうと努め、押付けられた腰抜け憲法を後生大事に守り通し、かくて今日の道義小國、經濟大國を築き上げたのである。が、朝鮮戰爭を體驗し、今なお好戰的な北朝鮮と對峙してゐる韓國にそういう餘裕は無かつた。日本は勇み肌の坊ちゃんアメリカとうまく付合ひ、脇抜けになりはしたものの大儲けをしたが、韓國は勇み肌の坊ちゃんのむら氣に手古摺つて、大いに苦しまなければならなかつた。が、「艱難汝を玉にす」であつて、苦しめられた韓國はアメリカの身勝手と幼稚な正義病を知り尽した筈である。
四年ほど前、英誌エコノミストが、アメリカは「非民主主義的な」同盟國へのコミットメントの是非を絶えず檢討すべく、「日本という民主主義國を友邦とする爲に韓國という非民主主義國をも支持せざるをえぬ事は危ない」と書いていて、半可通のジョン・ブルが何を言うかと私は腹を立てた事がある。が、エコノミストは同時に「殆どのアメリカ人にとつて韓國民が朴正煕の右翼獨裁體制のもとに生きるか、それとも金日成の個人崇拝的共産主義體制のもとに生きるかは、さして重要な事ではないのかも知れぬ」と書いており、このエコノミストの推測は當つてゐるのではないかと私は思つた。ニューズウィーク十二月二十四日號は、韓國軍内部における下剋上によつて脅威にさらされるのは、韓國の民主主義ではなくて韓國の生存であると書いてゐるが、ニューズウィークがそれほど韓國の存亡を案じてゐるとは私にはどうしても思えない。エコノミストの言葉を捩つて言へば、ニューズウィークにとつては、韓國がアメリカ民主主義の優等生にならぬのなら、「韓國民が親朴派大統領の右翼獨裁體制のもとに生きるか、それとも金日成の個人崇拝的共産主義體制のもとに也きるかは、さして重要な事ではない」のであろう。そして、「韓國の安全は日本の安全にとつて不可欠だから」韓國を守るのだと、ニューズウィークも考へてゐるに過ぎまい。「朝鮮半島の平和は日本の安全にとつて頗る重要だ」と言つたのは日本の外務大臣だつたと思ふが、これくらい韓國にとつて屈辱的な言い草は無い。が、アメリカも日本も、その韓國の無念を思ひ遣つた事があるであろうか。
實際私は、韓國くらい割に合わぬ立場の國は無いと思ふ。アメリカが正義病の興奮から醒め、孤立主義に戻り、國益中心の現實主義に徹しようとすれば、眞先に見捨てられるのは韓國であり、またアメリカが正義病を煩つてゐる最中は、その抑壓政策を道學者アメリカに批判されつづけねばならない。そして、アメリカの核の傘の下で雨宿りしつつ、自由を謳歌してゐる日本は、捨てられるにしても韓國よりずつと先であり、それまではGNPの一パーセント以下を軍備に割くだけで、せつせと稼ぎ捲れるという譯である。なぜ、アメリカはかくも日本に甘く韓國に嚴しいのか。それは、いかに自堕落でも、ふんだんに自由のある民主的な國がアメリカは大好きだからである。チャイルド・ポルノのモデルに使つてくれと自分の娘を賣り込みに來る父親がアメリカにはゐるそうだが、そういう破廉恥な親がいても、自由があるのは何よりもよい事だと考へてゐるからである。
だが、この自由を絶對視するアメリカは、獨善的であるばかりか頗るむら氣であつて、孤立主義とメシアニズムとの間を揺れ動く。周知の如く、十九世紀のアメリカは孤立主義を守つてゐたが、二十世紀のアメリカは世界の憲兵として正義のための戰爭を一手に引受ける事となつた。けれどもその際も、助けようとする國におけるアメリカ的ならざるものを忌み嫌い、それを改革すべく躍起になつたのである。助けて貰う國が、例えば日本のように、アメリカの教へをそのまま受け入れればよいのだが、自國の文化を重んじ自尊心を捨てたがらぬ強情な國もあるから、アメリカの對外政策は勢い極度のお節介と極度の冷淡を交互に繰り返す事になる。正義漢のアメリカの事ゆえ、戰爭は常に正義のための戰爭でなければならないが、助けようとする國に不正義を見出せば、正義漢の戰意はとかく萎えてしまうのである。
時にアメリカは損得を無視して友邦のために戰う。けれども助けてやる友邦は常にアメリカ的な聖徒でなければならないのである。今のアメリカは、やはり、不純を徹底的に嫌つて、純粋な「見ゆる聖徒」との交わりだけを求め、ゆゑに分裂に分裂を重ねて孤立した先祖、分離派ピュリタンの氣性を失つてはいない。植民地時代の分離派ピュリタンの一人、ロジャー・ウィリアムズは「見ゆる聖徒」との交際に徹し、遂に妻以外の誰とも聖餐を共にしないようになつたという。ロジャー・ウィリアムズと同樣、今のアメリカも韓國が「見ゆる聖徒」でない事に失望し、いずれは韓國を見捨てるようになるであろう。
そして、かういふアメリカの道徳的絶對主義は容易な事では改まらぬ。それゆえ日本の如く、ぐうたらで愚鈍でも、アメリカの正義たる自由と民主主義に逆らわぬ國には滅法甘いアメリカの「道義外交」が、日本はもとより韓國の淺薄な反朴派を増長させ、それが朴正煕氏を殺したのだなどと、いくら言つてみても所詮は甲斐無い事かも知れぬ。けれども、三百五十萬の讀者を持つニューズウィークの絶大なる影響力を認めるがゆゑに、これまた甲斐無き業かも知れぬが、私はニューズウィークに一つ注文しておきたい事がある。それは、韓國ばかり苛めずに、日本をもつと苛めて貰いたいという事である。
アメリカは昨今、日本の蟲のよい安保只乘りに苛立ち始めたという。それは田久保忠衞氏が『カーター外交の本音』(日本工業新聞社)で入念に分析してゐる通りである。田久保氏は書いてゐる。
問題は米國がこれだけ繰り返して日本に(軍備強化を求めるという)眞意を知らせて ゐるのに對して、日本の反應がまるきり鈍いという事實である。それを米側はよく知つ てゐる。だから政策的に米政府がやろうとしてゐるのは、日本に自發的に軍備強化をさ せることであろう。日本列島周邊のソ連の海空軍力の脅威を絶えず日本にPRし、石油 の輸送路確保の必要性を強調することによつて、日本の自發的な軍備強化を促そうとい うのが米國のハラであろう。
田久保氏の推理を私も肯定する。そして田久保氏の著書は、アメリカの日本に對する苛立ちを詳細に分析してゐるから、私は『カーター外交の本音』をひろく江湖に薦めたいが、ただ一つ、田久保氏が次のように書いてゐるくだりだけは頂けない。
實は、この邊で肝心なことにふれたいのである。韓國駐留米軍撤退論の本當の狙いは なにかである。(中略)ニクソン政權下の外交教書からブラウン國防長官に至るまで一 つ一つの點をつないで一本の線にすれば、米國がいかに強く日本に防衞分担を要求して ゐるかは自づと明らかであろう。しかし日本はいくら防衞責任を米國から要求しても一 向に動こうとはしない。これを米國の戰略家たちはよく知つてゐる。だから國際環境を 變えることによつて、日本が自發的に國防を自前でやらねばという意識になるのを狙つ てゐるのではないかと考へられるのである。
このくだりを讀んだ時、信頼してゐる田久保氏の言だけに私は唖然とした。何の事はない、田久保氏の説は相も變らぬ他力本願の對米依存である。「日本が自發的に國防を自前でやらねばという意識になる」には、アメリカに助けて貰わねばならず、しかも韓國を犠牲にしなければならない、田久保氏はそう主張してゐる事になる。日本が他國に助けられ他國を犠牲にして初めて「國防を自前で」やる氣になつたとして、それを果して日本が「自發的に國防を自前で」やる氣になつたと言へようか。
だが、私はここで田久保氏を批判しようと思つてゐるのではない。人權さえ抑壓されていなければ、どんなに自堕落でぐうたらな國でも咎めないアメリカ、或いはニューズウィークの、淺薄かつむら氣の「道義外交」が、田久保氏ほどの頭腦をも鈍らせてゐるという事が言いたいに過ぎぬ。が、「こんな國家に誰がした」などという事は言いたくないから、ニューズウィークに對する注文を繰返しておこう。淺薄な認識にもとづいて韓國を苛めるのは程々にしておいて、ニューズウイークは今後、精々日本を苛めて貰いたい。エコノミストの言うように、アメリカの對韓政策は「人參と鞭」の使い分けであつた。そういうアメリカに手を燒いて、樣々な苦勞をし、韓國はもはや充分に賢くなつてゐる。それゆえ、韓國は當分そつとしておいてその代り、ニューズウィークは日本の安保只乘りを激しく批判し、憲法の改正を要求し、軍備の強化を迫る内政干渉的キャンペインを華華しくやつて、日本を存分に苛めてくれまいか。先に訪日したブラウン長官は、日本の軍事費をせめてGNPの一パーセントにせよと要求したが、○・一パーセント予算を殖やしたところで、自衞隊の土性骨を叩き直せる譯が無い。ニューズウィークを散々に扱き下した私が、こんな事を頼めた義理ではないが、田久保氏と同樣私も他力本願の佛教徒ゆえ、ここは一つ、絶大な影響力を持つニューズウィークに頼むしかない、と思ふ譯である。
日本の軍事力の増強は朴大統領が期待してゐた事でもあつた。が、朴正煕氏の場合、それは弛まぬ自主防衞の努力を傾注した上での友邦日本への期待であつた。十二日間のソウル滯在中、私が最も樂しみにしてゐた朴正煕氏との會見は、朴氏の急逝により果せなかつたが、語り合つた韓國の知識人の殆どすべてから私はそういう日本への期待を感じ取つた。しかもそれは、所詮空しい期待と知つての期待であつて、維新政友會の申相楚議員などは、別れの握手を交しながらこう言つたのである。「どうか日本は、隣國の迷惑になる事だけはしないで戴きたい」。
大平首相は朴大統領の葬儀に參列しなかつた。日本の新聞は十月二十七日以後、韓國について暴論愚論の數々を並べ立てた。日本は韓國の事なんぞついぞ本氣で考へた事が無い。そして、釜山に赤旗が立とうと、大方の日本人はもとより、自民黨も自衞隊も少しも狼狽しないかも知れぬ。昨今日本人がソ連の脅威をひしひしと感じ始めたなどと言う人もゐるが、私はそんな事は信じない。先に栗栖統幕議長が解任された際、自衞隊の幹部は誰一人追腹を切らなかつたし、久保田圓次氏の如き人物にも、短時日とはいえ、防衞庁長官が勤まつたのである。それに何より、ソ連の脅威を説く論文を讀んでいて、私が常に疑わしく思ふのは、筆者が果して日本國憲法前文を承知して書いてゐるかという點である。日本國憲法には吾國は「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼」して「陸海空軍その他の戰力はこれを保持しない」と書いてある。それなら、ソ連も「平和を愛する諸國民」であつて、北方領土を返そうとしないのも、アフガンに攻め込んだのも「公正と信義」ゆえの行爲であり、ソ連を憎んだり嫌つたりするのは平和憲法の精神に反する行爲ではないか。
底抜けに明るく、甘く、かつ卑屈な憲法を吾々は持つてゐる。そういう腰抜け憲法を改正せぬ限り、日本は軍隊を持てず、海外派兵も徴兵もやれはしない。日本がいずれ憲法改正に踏切るとして、それは一體何十年先の事なのか。私は時々朴正熙氏の寫眞を取り出して眺め「五年か七年たつたら、日本と韓國は安全保障条約が結べる時が來る」と福田恆存氏に言つた時の朴氏の眞劍な顔つきを想像し、「日本は閣下の御期待には應えられまい」と福田氏に言われ、沈鬱な表情で默り込んだ時の朴正熙氏の心中を思ひ遣り、日本もアメリカも韓國より賢くはない、賢い筈があるものかと、そう呟きながらこのニューズウィークを叩く文章を綴つて來た。「蜀犬、日に吠ゆ」。筆を擱くに當り、朴正煕氏の冥福を祈る。 
第五章 教育論の僞善を嗤う

 

善意は即ち商魂なり
日本は「經濟大國であるだけでなく教育大國」でもあるが、「怪物化した受驗戰爭、無氣力な教師、そして自信を喪失した親たち」によつて、今や日本の教育は「慘憺たる末期症状を呈してゐる」と知日派のユダヤ人トケイヤー氏は書いてゐる。外國人の批判を取分け氣にするのが日本人の習性である。それゆえトケイヤー氏の『日本には教育がない』はかなり廣く讀まれたという。つまり、日本の教育の現状を憂えるトケイヤー氏の善意を讀者は疑わなかつた譯である。だが、ユダヤ人がなぜそれほど深く日本の教育を憂えねばならぬのか。「日本のように偉大な歴史と文化を持つた國がどうしてこれほど病んでしまつたかを書きたい」と言うトケイヤー氏は、六年間日本に滯在し、次々に日本を憂えるベストセラーを書き上げた。トケイヤー氏は「日本のあり方に對して批判を投げかけるその一方で、自ら六年間を過ごした日本に深い好意を寄せ續けてゐると言へるだらう」と加瀬英明氏は言つてゐる。だが、私にはそうとは思えない、トケイヤー氏の動機はもう少しはしたないものではなかつたかと、どうしてもそう勘繰りたくなる。現在の日本病を憂え過去の日本を持ち上げ、ついでに必ずユダヤ人の聖典タルムードを引いてユダヤ人の知惠を稱えるトケイヤー氏の善意とは、實は拝外病と反省病という二つの持病を抱えてゐる日本人の弱みに附込もうとの商魂ではなかつたろうか。
「トケイヤー氏の本がひろく讀まれたということは、日本人が自分に對する外國人の指摘を受け容れるだけの國際性を身につけることができるようになつたことを示してゐる」と加瀬氏は言う。「外國人の指摘を受け容れるだけの國際性」なる代物も日本病の症状の一つだと考へるから、私は加瀬氏の意見に同じないが、それはともかく、日本の讀者はトケイヤー氏の善意を信じ、少なくとも讀んでゐる時だけは、善意の塊と化したのである。その證拠に、トケィヤー氏の日本病に對する處方箋が殆ど役立たないものであつたにも拘らず、誰もそれを咎めようとはしなかつた。トケイヤー氏は書いてゐる。
かつての日本には、筋の通つた社會道徳があつた。このような道徳というのはいつの 時代にも社會にとつて必要なものである。昔、嚴格な寺子屋の師匠を「雷師匠」と呼ん だが、彼の「雷鳴は近所にとどろいた」という。このように「雷師匠」が雷のような聲 を出して、生徒にあたる寺子たちを教へることができたのも、自信があつたからである 。(中略)寺子屋では教科書として『童子教』が廣く用いられた。「善き友に随順するも のは、麻の中の蓬の直きがごとし」とか「口はこれ禍の門、舌はこれ禍の根」、「それ 積善の家にはかならず餘慶あり」、「人は死して名をとどめ、虎は死して皮をとどむ」 といつた言葉は明治生まれの日本人であつたら、まず知つてゐることだらう。道徳は幼 いときにしつかりと教へなければならない。(加瀬英明譯)
山鹿素行は『語類』卷七第三章に「子弟皆手習物まなぶといへども、教ゆるもの學の道を知らざるゆへに、唯往來の文をいとなみ、日記帳のたよりとのみなりて、世教治道の助となり、風俗を正す基となることなし」と書いてゐる。してみれば、「雷師匠」の道徳教育が絶大なる効果をあげたかどうかはいささか疑わしいが、少なくとも今日『童子教』や『女大學』がそのままでは役立たぬ事くらい誰でも知つていよう。それにも拘らずこの種のおよそ役立たぬ處方箋を、讀者は一向に怪しまない。トケイヤー氏の著書に限らぬ、善意の教育論は善人の如くに退屈で、去勢された種馬の如くに役立たない。そして役立たぬ事を一心に論じて一向に咎められる事の無いのが教育論なのである。善意の教育論は、日本の教育は今や「慘憺たる末期症状を呈してゐる」との診斷にもとづき、「雷師匠」を懷かしみ、「無氣力な教師、そして自信を喪失した親たち」を叱咤する。なるほど親にも教師にも越度はある。けれども、叱られた親や教師が、緊褌一番「雷師匠」や雷親父に生れ變つたという話をついぞ私は聞いた事が無い。 
胡散臭い教育論
下手糞な醫者を俗に藪醫者と言う。藪醫者に掛つて症状が惡化したら、誰でも醫者を怨む。そしてその際、醫者の治療衝動が善意だつたかどうかはおよそ問題外であろう。しかるに、教育論の筆者は役立たぬ事を一心に論じて少しも怪しまれる事が無い。教育衝動の善意だけは決して疑われる事が無い。醫者に對しては專ら技倆の如何を問い、善意惡意は問わない癖に、世間は教育の專門家の善意は疑わず、その技倆の如何を問う事が無いのである。かくて綺麗事の教育論が野放圖にのさばる事となる。例えば、三木内閣の文部大臣だつた永井道雄氏は、『近代化と教育』の中で次のように書いてゐる。
しかし、教育には、經濟や政治につきないそれ自體の目標がある。人間とはそもそも 何であるのか。人類とは、歴史とは、そしてその中にある近代國民國家とは何であり、 それはどこに向つて進みつつあるのか、これらの基本的な問いが、いままでにない深い 意味をおびて、今日の教育になげかけられてゐる。《ただ經濟的な動物として生きるの ではなく、すべての人間が人間としてよりよく生きる》とはどのようなことか。人間が 地球をはなれて月に到達した同じ世紀に、教育もまた、有史以來、もつとも困難な挑戰 をうけてゐる。
トケイヤー氏の著書と同樣、永井氏の著書も廣く讀まれてゐるという。だが、「有史以來」の「もつとも困難な挑戰」の事なんぞ凡人は考へてゐる暇が無いから、こんな文章を讀まされても何の役にも立ちはしない。何の役にも立たぬ事を營々として論じるとは何とも奇特な御仁だが、そこがまた胡散臭いゆゑんであつて、人間は何の役にも立たぬと解つてゐる事に熱中する筈は無いのである。例えば本年二月、中國軍がヴェトナムへ侵攻するや、ヴェトナム駐在の日本大使はヴェトナム外務省を訪れ、速かな停戰を要望した。もとより、軍事的に非力な日本が何を言おうと、中國もヴェトナムも戰爭を止める譯が無い。日本の要望など何の役にも立ちはしない。日本國の大使とてそれはよく承知してゐる。大使は本國政府の訓令に從い、何の役にも立たぬ事を澁々やつたまでである。そういう甚だ空しい仕事を、弱小國の外交官は屡々やらなければならない。彼等とて一生に一度は、かつての松岡洋右よろしく國際政治の檜舞臺で啖呵を切つてみたいであろう。が、それは所詮叶わぬ夢であり、弱小國の悲哀を噛み締めつつ、彼等は心にも無い綺麗事の要望を傳えるしかないのである。政治家もそうであつて、もはや「貧乏人は麦を食え」などとは口が裂けても言へはしまい。そういう政治家や外交官の遣る瀬無さを思ひ、私は時々深く同情する事がある。
してみれば、政治家が憂さ晴しのために汚職をやつて私服を肥やすのも止むをえない。人生の絡繰りはどこかで必ず帳尻が合うようになつてゐるのであり、何の役にも立たぬ仕事をやらされ、常に綺麗事を口にしなければならない分だけ、政治家はどこかで密かに物欲や名譽欲を滿足させるのではないか。とすれば、永井道雄氏とても同樣であり、清潔が看板だつた三木内閣の文相に汚職をやれた筈は無いけれども、「すべての人間が人間としてよりよく生きる」などという事を臆面もなく口にする以上、永井氏の場合も、どこかできつと帳尻は合つてゐるに違い無い。が、それにしても、トケイヤー氏は日本列島に住む一億人の將來を案じたに過ぎないが、永井氏は何と、世界人類四十億人の將來を案じてゐる。この桁違いの善意に商魂逞しいトケイヤー氏も顔色を失うであろう。
そういう次第で、トケイヤー、永井兩氏の著書に限らず、大方の教育論は程度の差こそあれ胡散臭いのであつて、その種のいかさま教育論が親や教師の自信喪失を癒す事は決して無い。例えば子供の自殺が續發すると、教育學者やジャーナリストは胸に堪える振りをして、せつせと空しい處方箋を書いて稼ぎ捲り、親や教師は子供の「自殺のサイン」を見落すまいと懸命になる。けれども、そういう事で子供の自殺が減る譯が無いから、親や教師はますます自信を失い、ますます教育論の食い物になる。何とも滑稽な惡循環である。そろそろそういういかさま教育論の非力とぺてんに氣付いてもよい頃ではないか。子供の自殺に効果的な對策は一つしか無い。つまり、肚を据え「死にたい奴は勝手に死ね」と突放せばよいのである。 
いかさま教育論の正體
「死にたい奴は勝手に死ね」と突放して差支え無い理由については追い追い述べるが、自信喪失病を癒したいと思ふなら、まずはいかさま教育論の正體を看破る事から始めなければならない。そしてそれは簡單な事で、釋迦やクリストではあるまいし、吾々は決して「すべての人間が人間としてよりよく生きる」などという事は考へない。考へないほうが正常だと考へたらよいのである。手廣く救濟事業に勤しむ善人は、まず間違い無くぺてん師だと心得て、もつと氣樂になつたらよいのである。しかるに、親も教師も教育論のぺてんにはたわいも無く引掛る。「人類とは、歴史とは、そしてその中にある近代國民國家とは何であり、それはどこに向つて進みつつあるのか」などと言われると、一家眷屬の事しか考へない親や教師は、忽ちおのれの不徳を恥じ入るのである。「懺悔は一種ののろけなり。快樂を二重にするものなり。懺悔あり、故に悛むる者なし」と齋藤緑雨は言つた。親も教師も反省ごつこを樂しんでゐるのだらうか。子供の自殺を防げぬ非力を反省して樂しんでゐるだけの事だらうか。そう思える節も多々あるが、それならいつそ百尺竿頭に一歩を進め、「死にたい奴は勝手に死ね」と突放すだけの勇氣を持てそうなものである。が、實際には決して持てない。人々は反省を樂しんでゐるにも拘らず、樂しんでゐるという事實には決して氣付かない、或いは氣付きたがらない。そしてそれも無理からぬ事であつて、永井氏は「ロケットは月に着いたが、地上には人種間、國家間の爭いがある。東海道新幹線は走つても、教育界の混亂はつづいてゐる」と書き地上の戰爭を嘆いてゐるが、戰後の日本人はこの傳で巨大な産を成したのである。平和憲法を護符として遮二無二稼ぎ捲りながら、「ただ經濟的な動物として生きるのではなく」などと心にも無い綺麗事を言い、世界の平和を念じ、異郷の戰火を憂え、その僞善と感傷を他國に咎められぬよう、常に皇國日本の罪過を言い、そうして反省してみせる事がいかに儲かるかを知つたのであつて、これだけ味を占めたら、容易な事ではやめられまい。乞食も三日やればやめられないのである。
周知の如く、昭和二十年の敗戰は「在來の價値觀の崩壞」を齎し、親と教師は茫然自失、子供に何をどう教へたらよいか解らぬ、といつた體たらくであつた。そして今日なおその後遺症は癒えておらず、かくかくしかじかの事は絶對にしてはならないと子供に言い切るだけの自信が今や親にも教師にも無いという。けれども、日本國民の大半が戰前の價値觀を否定し、軍國主義の罪過を悔い、我勝ちの反省競爭に專念してゐた頃、「俺は馬鹿だから反省しない」と放言した男もいた。小林秀雄氏である。昭和二十一年一月、「近代文學同人との對談」で、小林秀雄氏はこう語つてゐる。
僕は政治的には無智な國民として事變に處した。默つて處した。それについては今は 何の後悔もしてゐない。大事變が終つた時には、必ず若しかくかくだつたら事變は起ら なかつたらう、事變はこんな風にはならなかつたらうといふ議論が起る。必然といふも のに對する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戰爭は一部の人達の無智と野心とか ら起つたか、それさへなければ、起らなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史 觀は持てないよ。僕は歴史の必然性といふものをもつと恐ろしいものと考へてゐる。僕 は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか。
この敗戰の五カ月後に開かれた座談會のメンバーは、小林氏のほか、荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五の諸氏だが、小林氏の發言以外は悉く凡傭であり、退屈であり、殆ど讀むに耐えない。例えば本多氏は、「知識の中には文明人がゐるが、信念の中には野蛮人がゐる」という小林氏の文章を引き、「しかし、やはり竹槍で戰爭するわけには行かないのです。アメリカ軍はジープを自轉車のやうに乘りまはしてゐます」と言つてゐる。本多氏はジープを乘り廻すアメリカ軍に驚き、竹槍で戰おうとした日本を反省した譯である。が、今や日本は經濟大國であり、吾々はもはやジープなんぞを羨みはしない。つまり本多氏の發言は六日の菖蒲となり果てたのである。しかるに、「知識の中には文明人がゐるが、信念の中にはいつも野蛮人がゐる」という小林氏の意見は今日なおいささかも古びていない。それは人間が人間である限り古びはしない。先に引いた永井道雄氏の言葉を捩つて言へば、ロケットが冥王星に達しても、人間の信念から野蛮人を追い出す事はできない。信念にもとづく蛮行や戰爭を根絶する事はできない。
ところで「一億總懺悔」の眞最中に、浮足立つ馬鹿を尻目に、「俺は馬鹿だから反省しない」と小林氏が放言できたのは、時代がどう變ろうと人間の愚昧は少しも變らないという事を知つてゐたからである。「政治の形式がどう變らうが、政治家といふ人間のタイプは變りはしない。だから、さういふ人間のタイプが變らぬ以上、どんな政治形式が現はれようと、そんな形式なぞに驚かぬ。面白くもない」と同じ座談會で小林氏は言つてゐる。敗戰から今日まで綺麗事に終始した教育論議が一向に「面白くもない」のだから、そしてそれが何り役にも立たない事だけははつきりしてゐるのだから、軍國主義が民主主義に變り、その民主主義がまた軍國主義に變ろうと、「そんな形式なぞに驚かぬ、面白くもない」と、三十餘年前に言い切つた小林氏の自信と、信念の中の野蛮人に驚かない度胸を、この際親も教師も見習つたらよいと思ふ。 
樂天家の苦しげな文章
要するに、自信喪失病を癒すには自己反省病を癒せばよいのである。「死にたい奴は勝手に死ね」と突放すためには、他人の死は所詮餘所事だと觀念して、餘計な反省をしなければよい。そしてそれが今も昔も少しも變らぬ人間の本性だと知ればよい。人間にはそういう度し難い本性がある事を認めればよい。人間は蛮行が好きで、「美徳の不幸」を喜び、善の無力を嘲笑う。何より度し難いのが權力欲で、權力欲はどんなに善良な人間にも潜んでゐる。ジョージ・オーウェルは作中人物の一人にこう言わせてゐる、「吾々が他人を支配して、特に生き生きとして來るのはどういう時か。他人に苦痛と屈辱を与えてゐる時だ。他人の顔は何のためにあるか、踏みつけるためにある」。ところが、かういふ始末に負えない人間の本性を樂天的な教育家は一心に矯めようとする。何とかして人間を變えようとする。變えられると信じてゐる。だが變えられた例しは無いし、變えられる筈も無い。『痴愚神禮讃』の著者エラスムスは、人間社會の悲慘と不幸はすべて人間の痴愚に由來するのだから、人間がおのれの痴愚を骨身に徹して知る事こそ焦眉の急であると考へた。が、やがて彼は絶望して『幼児教育論』を書く事になる。エラスムスに限らない、大人の度し難い本性を矯められないと知ると、教育家は幼児に期待するようになる。「子供を放置すれば獸になる。慎重に育てれば神のごとき存在になる」とエラスムスは書いた。口ックやルソーと同樣、エラスムスもまた幼児は大人の意のままに育てられると考へてゐる。大人の考へ方次第で「どのようにも形作られる蜜4」だと思つてゐる。形作つてやる事が善意だと信じてゐる。だが、自分がこんなに駄目な人間だから、他人を駄目な人間にしたくないなどと誰が本氣で考へるだらうか。自分が駄目な奴ならば、他人も駄目な奴になつて欲しいと考へるのが人情であろう。「姑に順ざる女は去るべし」とて姑にいびられたら、自分が姑になつてやはり嫁をいびるであろう。が、教育家はそういう情けない人間の本性を綺麗さつぱり忘れてしまうのである。
それに、ロックが考へたように、生れたばかりの赤子を「一枚の白紙」と假定したところで、教育家の努力を嘲笑うかのように、いずれ必ず幼児は度し難い人間の本性を現わす。そしてそれが誰のせいで出現したかを斷定する事はできない。とかくの議論も所詮は水掛け論に終る。けれども、子供が言葉を憶えなければならない以上、そして言葉が大人の邪惡な本性を反映してゐる以上、子供が大人同樣の本性を示すにいたるのは理の當然である。それゆえ、大人に絶望して子供に期待するのは無益な事だと思ふ。事によると子供は大人以上に利己的で殘忍なのかも知れないのであつて、例えば昨今、子供の自殺の頻發を憂えて大人は狼狽してゐるらしいが、子供は決して子供の自殺を憂えてはいないであろう。
東京國分寺市で、中學三年生の少年が自殺した。それを知つた同じく中學三年生の女生徒はかういふ詩らしきものを作つてゐる。「そのとき、少年は羽ばたいた。バベルの塔のような、高いビルディングから、重い鎖をひきずつて。そして少年は地に叩きつけられた。彼の友は悲しみ、泣き叫んだ。けれど友は、その心の隅で、ニヤリと笑つた」。
これは昭和五十四年の『文藝春秋』三月號に載つた近藤信行氏の論文「少年の自殺」に引用されたものである。この「詩」は「競爭相手がひとりすくなくなつたことにたいする安堵を正直にあらわして」おり、「教育の過熱の弊害、受驗地獄の深刻」によつて「ほんとうの人間味は失われてゆくのだ」と近藤氏は言い、何とも空しい反省の文章を綴つてゐる。
私自身にしても、子供の世界にはついてゆけないほど、彼らは流動的であり、良きに つけ惡しきにつけあたらしいものを身につけてゐる。たとえばいまはやりのディスコに 出かけて、いつしょに踊り狂うことのできる教師や父親は存在するだらうか。舊世代の 感覺で教育し、育てようとしても彼らがついてこないことは必定である。
これが僞善的教育論の典型的な遣り口なのであつて、親や教師はこの種のぺてんに引掛らないようにしたほうがいい。そこで、近藤氏には少々申譯無いが、讀者の理解を助けるため、少々口汚く罵らせて貰う事にする。まず、受驗に限らずこの世は生存競爭である。競爭相手の脱落を喜ぶのが人情である。近藤氏の文章は惡文であちこちに疵があり、暇と機會と根氣があればいくらでも指摘して差上げたいが、かういふ私の酷評を讀めば、いかに善良な近藤氏も、必ずや腹を立てるであろう。腹も立たないくらい遺り込められれば、世を儚んで自殺したくなるであろう。けれども、遣り込めた奴が頓死したら、近藤氏は「心の隅でニヤリと」笑うに違い無い。それなら、冗談と綺麗事は休み休み言うがよいのである。教育を論ずると人は思はず知らず善意の塊と化し、自他の邪惡な本性に氣づかない重症の樂天家になる。樂天家になつて苦しげな文章を綴る。樂天家が苦しむのならぺてんに決つてゐる。そういうぺてんに引掛つて深刻に考へ込む親や教師は、これはさて何と形容したものか。有り樣はどつちもどつちで、割れ鍋に綴じ蓋なのかも知れないが、丸損をするのは親や教師のほうである。俗に「坊主丸儲け」と言うが、子ゆえの闇に迷つていかさま教育論の丸儲けを許すのは、あまりにも間尺に合わない話ではないか。 
死にたい奴は勝手に死ね
近藤氏は「子供の世界」が「流動的」で「ついてゆけない」と言う。假に「子供の世界」が「流動的」だとしても、なぜ一方的に大人がついてゆこうと努力しなければならないのか。人々は昨今、口を開けば權利と平等を言う。が、近藤氏にとつては、大人と子供は平等でさえないらしい。それに何より、子供の自殺を憂え、子供の氣色を窺い、「ディスコに出かけて、いつしょに踊り狂う」大人を子供は決して歡迎しない。腹の突き出た中年男がディスコで踊るのは、老婆の厚化粧同樣に醜惡である。それに、子供も大人と同樣に天邪鬼だから、時に他人の好意を喜ぶが、時に好意的な他人を輕蔑したくなる。それに何より、「子供の世界」は決して「流動的」ではない。當節の「翔んでる女」も大正時代のモガも變りはしない。そして若き世代が「流動的」で、とても「ついてゆけない」と感じ、ついてゆこうと空しい努力をする古き世代の苛立ちと劣等感、それもまた明治この方少しも變つてはいない。「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という俗謡には、丁髷が散切り頭に對して抱いたに相違無い劣等感が表現されてゐる。明治の初期にも丁髷を結う古き世代は、散切り頭の新しき世代についてゆこうと痛ましい努力をしたに違い無いのである。
けれども、子供も大人と同樣に天邪鬼だとすると、大人の反省癖や善意が、ひょつとすると子供の謀反心を誘い出すのかも知れない。子供が自殺する、大人が無理解を反省する、別の子供が自殺して大人を反省させたいと思ひ自殺する、大人がまた無理解を反省する、そういう惡循環があるに違い無い。それなら「死にたい奴は勝手に死ね」と子供の甘つたれを冷たく突撥ねれば、子供の自殺は却つて激減するのではないか。自殺者も死ぬまでは生者だつたのであつて、生者同樣にあの世の事は確と解らない。そこで自殺しようとする人間は住み馴れたこの世の事を考へる。おのれの自殺が生者に及ぼす効果を計量する。その際、この世の生者たちがおのれの自殺を默殺すると考へただけで、彼は必ずや張合ひが抜けるであろう。實際、自殺者の死體を辱しめて頗る効果的だつた事もある。アルヴァレズは『自殺の研究』にこう書いてゐる。
プルタルコスによれば、あるときミトレスに、にわかに縊死する娘がふえて、ついに 町の古老のひとりが、死體を市場まで運んではずかしめることにしたらどうかといつた 。すると虚榮心が自殺の狂氣を克服したという。一七七二年に、パリの陸軍病院で、十 五人の傷病兵があいついで同じ掛けかぎで首をくくつたが、その掛けかぎを抜いたとこ ろ流行がやんだ。(中略)通稱「自殺橋」から入水自殺するボストン市民がたえなかつた ので、當局がやけをおこして橋をこわしたところ、やつとやんだ。それぞれが、氣違い じみた連鎖反應をたちきつた劇的な例である。
二十世紀の今日、まさか自殺者の死體を辱しめるわけにはゆくまいし、かつてのカトリック教會の如く自殺者の埋葬を許さないなどという嚴しい對策を講ずる譯にもゆくまい。だが私が解せないのは、自殺者を遇する生者の心理である。近藤信行氏もそうだが、なぜ生者が自殺者に引け目を感じなければならないのか。生者もいずれ例外無しに死ぬ。自殺者は一足先に、自分の都合で、あの世へ行つたに過ぎない。誰でも行ける所へ行くのに格別の才能は要らないし、誰でも行ける所へ行つた者に引け目を感じる必要は無い。それとも、この世に生き續けるのは疾しい事であると、或いは、あの世はこの世よりもすばらしいと人々は信じてゐるのだらうか。
「この世に生を享けぬに如くはない。が、生れた以上一刻も早く死ぬ事だ」とテオグニスは言つたという。人々はテオグニスに賛同してゐるのであろうか。まさかそんな筈は無い。とすれば生者が自殺者に引け目を感ずるのは之繞を掛けた不条理である。
自殺者は人生の敗者であるばかりか、あの世でも敗者なのだと私は思ふ。無論、近親が自殺者を憐れむのは當然の事である。子供に死なれて悲しまない親はいない。けれども、子供の自殺を報ずるジャーナリストや、自殺を憂える一文を草する物書きは、親の悲しみを食い物にしてゐるという自覺を欠いてゐる、そういう自覺を欠いてゐる死の商人を成敗するために、私は敢えて冷酷な事を言うが、自殺者も死の直前までは生者であつて、生者と同樣、エゴイズムを免れない。遺書に何と書いてあろうと、自殺者はおのれを敗者とは思ひたがらない。それどころか生者を輕蔑して死ぬ。自殺者は生者にこう言う、「俺はこの愚にもつかぬ人生を見限る事にした、お前たちはまだ見限れないのか」と。しかし、あの世のほうが遙かにすばらしいと假定して、自殺者が死後それを知つたとしても、それを生者に傳える術は無い。また友人知己がいずれ次々にあの世を訪れた時、先見の明を誇る譯にもゆくまい。なぜなら、先行者たる彼に何らかの特典が与えられる筈は無いからで、早く死んだ奴が偉いのなら、二十世紀の死者はあの世でピテカントロプスや北京原人の奴隷にされてしまう。それはあまりの理不尽ではないか。それゆえ、自殺者はあの世でもやはり敗者だという事になるのだが、あの世の事はともかく、この世を去ろうとする時の自殺者は、弱者にふさわしい怨念を籠め、敗者にふさわしい虚勢を張り、生者を輕蔑して死んで行くのだと、生者としてはそういうふうに考へたらどんなものか。そう考へれば自殺者の怨念や虚勢に生者がたじろぐ必要は無くなるであろう。他殺はたかだか數人の生命を奪うに過ぎないが、自殺は世界中の生命を否定する許し難き行爲だと、これは私が言うのではない、チェスタトンが言つた事である。その通りであつて、「お前たちはまだ見限れないのか」と呟く自殺者と、この世を肯定し、この世に執着しつつ死ぬ通常の死者とを、吾々ははつきり區別しなければならない。はつきり區別して、自殺は敗北だという事を子供に教へ、自らも死の商人のぺてんに引掛らないようにならなければならない。 
惡魔のいない教育論
ところで、アンドレ・ジードは「惡魔と協力せずにはいかなる藝術作品も創造できない」と言つた。それはトルストイが、信じたくない、信じたくないと思ひながら、その實密かに信じてゐた事である。『アンナ・カレーニナ』の冒頭にトルストイは、幸福な家庭は似たり寄つたりだが、不幸な家庭は千差萬別だと書いてゐる。トルストイについて語つて人は彼の人道主義や平和主義を言うが、實はトルストイくらいすさまじいエゴイストは滅多矢鱈にはいないのである。おのれのエゴイズムにトルストイは一生苦しんだ。不幸な家庭はなるほど千差萬別だが、千差萬別の他人の悲しみをおのれの悲しみとする事ができない、それがトルストイには何より腹立たしかつた。つまりトルストイの心中には惡魔がいたのである。他人の子供の自殺を食い物にする連中の心中にも惡魔はゐる。が、始末に負えないのは、そういう手合には、他人の不幸に乘じて稼いでゐるという意識が欠けてゐる事なのだ。もつともそれも無理からぬ事で、そういう意識があつたら稼げない。そういう意識があつたら稼げないという意識も無い。それがあつたら稼げないからである。
實際私は不思議でならない。文學も哲學も神學も教育も、すべて人間の營みである。それなのに、なぜ教育論議にだけ惡魔がいないのか。プラトンは人間が一切の謙抑を捨てたらどうなるかを案じたが、マルティン・ルターはその謙抑を擲ち、教會を否定し、人間の中にいかなる善性をも見ないようになる。「私は惡魔を首にぶらさげて歩いてゐた。奴は私のベッドで頻繁に寢た、妻よりも頻繁に」とルターは書いてゐる。また、一八四八年十二月十九日、英國ヨークシャーの牧師館で、エミリーという娘が三十年の短い生涯を閉じた。無口で内氣な男嫌いの娘であつた。娘は數篇の詩と長篇小説『嵐が丘』を遺した。その小説の作中人物はこんなふうに呟くのである。
法律がもう少し嚴しくなく、趣味がもつと優美で洗練されてゐる國に生まれてゐたな ら、俺は夕方、あの二人をゆつくりと生きたまま解剖して樂しめるのだが・・・・・・ 。
ジョルジュ・バタイユの言う通り、これは殆どサドの描いた極惡人にふさわしい臺詞であつて、これほどの惡魔を「道徳的なひとりの若い娘が創造した」のは「それだけでひとつの逆説ともいうべきこと」であろう。けれども、藝術作品の創造に惡魔の協力が不可欠なら、一見道徳的なエミリーの心中に惡魔がいた事に何の不思議も無い。不思議なのは文部大臣まで勤めた世間師が惡魔と無縁の文章を書く事である。いや、それとも「文部大臣まで勤めた世間師だから書ける」と言うべきか。それはともかく、文學や哲學に惡魔が顔を出す事は當然の事と考へる癖に、人々は教育論における惡魔の不在を一向に怪しまない。幕末から明治にかけて、小説家は「下劣賎業」の輩と見做されてゐた。假名垣魯文は「戯作者は愚を賣つて口を糊するものだ」と言つてゐる。勸善懲惡の戯作が惡魔と深く契つてゐた筈は無いが、今日もなお世人は、教育は聖職だが、文學は「下劣賎業」だと考へてゐるのだらうか。
だが、文學の効用は色々あるが、その一つに人間の悲慘を教へてくれるという事がある。偉大な文學は同時に人間の偉大を教へてくれるが、悲慘だけなら二流の文學も教へてくれる。『嵐が丘』は二流の作品ではないが、一見道徳的な娘の心中にも惡魔がいたと解れば、元文部大臣の心中に惡魔がいない筈は無いという事が解り、世界人類の事を考へるのは拙劣なぺてんだという事が解り、勿論、おのれの心中にも確かに惡魔がゐるという事が解り、かくて、いかさま教育論のぺてんに引掛らなくなるのである。
それに、教育が惡魔と縁の無い聖職なら、教師は非行少女の心中に潜む惡魔を操れないであろう。例えば、暴力團に加わり、賣春をやり、猥褻映畫の主役を演じた女子中學生が警察に補導される。家庭は荒んでいて、生活指導の教師もいかんともし難い。教師が訪問すると娘を殴る事によつて親の責任を果そうとする酒亂の父親、娘の暴力を恐れ腫物に觸るようにしてゐる病弱の母親・・・・・・。困惑した教師は非行問題の專門家の意見を仰ぐ。では、非行に關する書物にはどういう處方箋が書いてあるか。こうである。
少年非行をなくし、あるいはこれを防止するための原動力が愛情であることは述べる までもないことである。この深い愛情にささえられた科學的認識と理解、それにもとづ く慎重さと忍耐が、個別的にしろ一般的にしろ、少年非行問題を解決する要諦である。 (樋口幸吉『非行少年の心理』)
非行の原因を探り、「科學的診斷」を下し「深い愛情にささえられた」指導技術を説くこの種の書物の効用を私は信じない。「深い愛情にささえられた」家庭の子供も非行に走る。いや、子供に限らない、「孔子の倒れ」という事もある。いつぞや新聞で讀んだ事だが、中學だか高校だかの校長を停年退職して、何の不自由も無い暮しをしてゐた老人が、卑猥な春畫を描いては、それを他家の郵便受けに投げ入れ密かに樂しんでいたという。人間はそうしたものなのだ。そして、人間はそうしたものだという事を文學は教へるのである。シェイクスピアはリア王にこう喋らせてゐる、
やい、田舎役人め、酷い奴だ、手を控へろ!なぜその淫賣に鞭を當てるのだ?それよ り己の背を鞭打て、貴樣の欲情はその女の肉を求めてゐる、その疚きが女を鞭打たせるのだ。
淫賣婦の罪を咎めて鞭を振う男が、淫賣婦の肉を求め欲情に疚いてゐる。それがありのままの吾吾の姿なら、「少年非行問題を解決する要諦」などある筈がない。賣春を體驗し、猥褻映畫に出演し、その體驗を得々として物語る非行少女を前にして、教師や警官が心中密かにその少女の肉體に魅せられる。そういう事がある。そういう事が確かにあるという事を文學は教へるが、教育書は決して教へない。非行問題の或る專門家によれば、子供を非行に走らせるような「不適當な親子關係」として「親の過剰な保護、甘やかし、きびしすぎ、完全癖による子どもに對する干渉のしすぎ、權力的な支配、偏愛、拒否、放任、無理解など」が擧げられるという。かういふ事を言われて、さて親はどうするか。「適當な親子關係」を保つべく、適度に保護し、適度に甘やかし、適度に嚴しくし、適度に干渉し、適度に支配し、適度に偏愛し、適度に拒否し、適度に放任し、適度に理解する、そういう事をやるしかない。けれどもこれほど多岐に亙つて適度を保つのは人間業ではとても不可能だから、やがて「適度」は「好い加減」に變るしかない。人間の本性を無視して「好い加減」になるまいと力み返れば、いずれ必ず挫折して「やけのやんぱち」になる。それを稱して「育児ノイローゼ」と言うのである。 
非行少女はゴミタメに捨てろ
要するに樋口幸吉氏の著書は實用書である。それは「高踏的」な永井道雄氏の教育論よりも數等ましである。だが、教育や「知的生活」に關する限り、私は今流行りの所謂ハウ・ツーものを信用しない。『サボテン栽培法』を讀めば見事なサボテンが出來るだらうが、子供はサボテンではない。それに『金の儲け方』なるハウ・ツーものを書いた男が倒産する事もある。オスカー・ワイルドが面白おかしく書いてゐるように、稀代の占師がおのれの運命は占えずして殺されるという事もある。事實かどうか解らないが、ソクラテスの妻クサンチッペは惡妻だつたという。妻はよろしく仕込むべしとソクラテスが主張した時、アンチステネスが言つたという、「それだけの理窟が解つてゐるのなら、ソクラテス、なぜ自分でクサンチッペの教育をしないのか」。クセノポンの傳えるところでは、母親の度し難さを父親ソクラテスに訴えた息子ランプロクレスに對して、ソクラテスはこう答えてゐる。「しかし野獸の殘酷と母親の殘酷とどちらが堪え難いと思ふかね」。
偉大なるソクラテスでさえ惡妻を仕込めなかつた。それを知つたらずいぶん氣が樂にならないか。天才の弱點を知つて氣樂になる事を無条件ですすめる譯では決してないが、ソクラテスの言う通り、野獸の殘酷よりは母親のそれのほうが遙かにましである。いや、野獸よりもましだと言へないほど酷い母親を持つたとしても、それがわが身の不運と諦めて、子供はそれに耐えるしかない。親にしてみれば、駄目な子供ほどかわいいに違い無い。子供の親に對するも同じ事で、欠點の多い親だからとて親を取替える譯にはゆかないのである。少なくともそう考へて親はもう少し氣樂になつたらよい。それに、父親の後ろ姿を見て子供が育つという事は本當であつて、父親は專ら仕事に励めばよいのである。倒産しそうな中小企業を何とか支えようと、連日脂汗を垂らしてゐる父親を見てゐたら、子供は決して自殺はしない、非行にも走らない。ディスコで踊る暇のある父親を持つ子供こそ、得たりやおうと惡に走るのである。
それに身も蓋も無い事を言へば、浜の眞砂は尽くるとも、この世に非行の尽くる時は無い。大昔から賣春もあれば人殺しもあつた。人間誰しも姦通したくなる時があり、人を殺したくなる時がある。けれども皆が一斉に勝手氣儘はやれないから、姦通したくとも姦通せず、殺したくても殺さない連中が、自分たちの事を良民と呼び、非行、すなわち新潮國語辭典によれば「道理にはずれた行爲」を敢えてする手合を、牢に入れ隔離したのである。幸田露伴は『一國の首都』の理想を論じて次のように書いた。
娼妓の廢すべきは論なき也。考うべきは時機也。風呂屋、踊り子、岡場所の妓、藝者 等、すべて色を賣り淫を賣るものは、良民の間に雜居せしむべからざる也。(中略)藝 娼妓の市中に横行するを禁ずることは、猥せつ繪を市中にバクロするを禁ずるが如くす べき也。良民に不必要なる種類の待合・茶屋は遊廓内に逐ふべき也。大にして堅固なる ゴミタメを造るは、すなはち清潔を保つゆゑんなり。
この種のゴミタメの効用を誰も否定できないと思ふ。それに、ゴミタメを廢止してもゴミそのものは無くならない。遊廓は無くなつても賣春は無くならない。賣春防止法が施行されて、却つて我國は清潔を保つ事が難しくなつたのかも知れないのである。
とは言へ、私は遊廓復活を主張してゐるのではない。日本人の道徳心は所詮美意識だとよく言われるが、その美意識も頗る怪しくなつた今日、遊廓なんぞが復活する筈は無い。私はただ、娼妓をゴミタメに捨てろと主張した露伴の自信を見習うべきだと、そういう事が言いたいに過ぎない。つまり「死にたい奴は勝手に死ね」と同じ事であつて、「非行少女はゴミタメに捨てろ」と放言できるだけの、厚かましいまでの自信を、親や教師は持つべきなのである。「厚かましい」と形容したのは、すでに述べたように、男の教師なら非行少女の肉體に魅せられる事があるからで、魅せられながら突放すのはほんの少々「厚かましい」からである。が、その程度の厚かましさに耐えられないようで、教師がどうして勤まるか。魅せられるのはよい、手を着けなければよいのである。 
子供の未熟をうらやむな
さて、昨今流行してゐるらしい非行少年による所謂「校内暴力」を論ずる紙數が無いから、話を非行少女に限つたが、男の教師が非行少女の肉體に魅せられたとしても、五體滿足な教師ならそれは當然の事で、反省する必要など全く無いのである。しかるに、性に關する限り大人の自信喪失はかなりの重症であつて、所謂「不純異性交遊」や性教育には手を燒いてゐるという。それは性に關して大人が反射的に疚しさを感じてしまうためである。奇妙な事だと思ふ。假に性が不潔で忌わしいものだとしても、大人の性だけが不潔で忌わしい譯ではない。それにも拘らず、世間が大人の性の不潔のみを重視しがちなのは、子供を社會の汚染から守つて、飽くまでも善良に育てようとする主婦連的な善意のせいなのか。それとも主婦連的な善意が胡散臭い事を知りながら、その僞善を叩く氣にもなれず、かといつて開き直る事もできぬ臆病ないし怠惰のせいなのか。前者の僞善はかつて大學紛爭の際、あちこちにはびこつたものと同質で、進歩派の教師は大人は汚れてゐるが若者は純眞であると信じ、若者の正義に眩惑され、おのが不純を恥じ、反省競爭に專念した。或いは專念する振りをした。かういふ僞善は叩くのが面倒臭いから、問答無用、馬鹿は死ななければ癒らないとて切捨ててしまえばよいが、ポルノがこれほど市場に出廻つてゐるにも拘らず、後者の臆病と怠惰が一向に癒されないのは遺憾である。少々荒療治を試みよう。
「老いて智の若き時にまされること、若くしてかたちの老いたるにまされるが如し」と兼好は書いてゐる。老いたる教師が「若くしてかたちのまされる」非行少女に魅せられる事に何の不思議も無い。不思議なのは「老いて智の若き時にまされる」筈の教師が子供や若者の知的未熟に眩惑される事である。老ゐるとは汚れる事だ。けれども、汚れる代りに大人は何かを得る。その汚れる代りに得たものに、なぜ大人は自信を持てないのであろうか。若者もいずれは老いて汚れるのである。「聖を立てじはや、袈裟を掛けじはや、珠數を持たじはや、歳の若きをり戯れせん」と今樣にあるが、どんな馬鹿にも青春はあつて、大人も皆かつては「歳の若きをり戯れせん」とて青春を謳歌したのだが、やがて戯れて後の空しさが骨身に應えるようになり、「歡樂極まりて哀情多し」という事を知つたのである。「物を知る事は強い人間しか強くしない」とジードは作中人物に言わせてゐるが、それを言つては身も蓋も無い。大人が強くなれば、子供の知らぬ事を知つてゐる事に自信が持てるようになる。子供の無知ゆえの無邪氣なんぞに眩惑されなくなる。そして、そういう強い大人が子供を逞しく育てるのである。子供は大人にならなくてはならぬ。つまり、汚れなければならぬ。汚れてなおへこたれぬ根性無しに、この世は渡つてゆけないからである。それゆえ、大人が子供の純情に眩惑されるのは百害あつて一利無し、大人はおのが世間擦れに厚かましいまでの自信を持つたらよいのである。 。
大人は「歡樂極まりて哀情多し」という事を知つてゐる。子供は勿論それを知らない。知つてゐる事が幸福に繋がるかどうかは大問題だが、眞實子供のためを思ふなら、大人は知つてゐる事に自信を持つべきである。例えば、頓智の小坊主一休の事は子供なら誰でも知つていよう。が、大人はそれ以上の事を知つてゐる。すなわち、一休は淫房酒肆に遊んだ破戒僧であり、歳七十を越えて三十歳の盲女との性愛に惑溺した男であり、盲女の淫水を吸い陰に水仙花の香を嗅いだ男なのである。そういう事を大人は知つてゐる。
一休は心中に地獄を見、「野火燒けども尽きず、春風草又生ず」る事に苦しんだ。「一切の物をよしともあしともおもはざるところを、よしとも又思はず」との境地には達しなかつた。水上勉氏は「全盲女への哀れと、慈しみと、それに消えやらぬ性欲がまじりあい複雜な歡迎となつて手をさしのべる一休」と、「召し使いの眼あき女性如勝を庵に宿らせ、罪ふかい人間として惡人正機を説き、救いの名において閨をかさねてゆく蓮如とは多少事情がちがう」と言つてゐる。けれども、蓮如の場合は惡人正機が女犯の口實として用いられ、一休の場合は「一方は出家の、一方は盲者の垣根をこえて、肉體的に結ばれて、何の悔いものこらぬ悦樂境を」味わつたとしたとごろで、兩者に本質的な相違などありはしない。戒律が絶對善に支えられていない以上、戒律を破る破戒の行動たる逆行も惡とはなりえない。そしてそれなら、「坐禅するにもあらず、眠るにもあらず、 口のうちに念ぶつ唱ふるにもあらず」、大愚と稱し、托鉢して暮らし、米が餘れば雀にくれてやつた良寛を順行の僧とは言へず、かと言つて、盲女の楚臺に接吻する一休を逆行の僧とも言へぬという事になつてしまう。かくて、良寛ほど有徳でないという事は恥辱にならず、一休ほど不徳でないという事は辯解の種になるのである。
けれども、そうして良寛と一休を知り、恥辱を免かれ弁解の種を手に入れたら、ソクラテスもじゃじゃ馬に手古摺つたと知つた時同樣、吾々は氣が樂になる。「昨非今是、我が凡情」と言つた融通無礙の一休を知つたら、少々の事には驚かないようになる。子供は繪本を讀んで頓智の小坊主一休を知つてゐるに過ぎない。が、「老いて智の若き時にまされる」大人はそれ以上の事を知つてゐる。水仙花の香を嗅いだ一休を知つてゐる。だが、大人はそれを子供に語らない。語つても仕方が無いからである。 
性教育は茶番なり
それゆえ、「老いて智の若き時にまされる」事に自信を持てないという奇病を癒したら、次に大人は、子供の知らぬ事を知つていながら敢えてそれを語らず、しかもそれを語らぬ事に疚しさを感じないようにならなければならない。誰も小學生に微分積分を教へはしない。無常を説きはしない。相手構わずすべてを語るのは馬鹿か氣違いである。大人は隱すべきものを隱さなければならない。一休の頓智に感嘆するわが子に、一休の女犯について詳細に語る親は一人もいないであろう。それは有害無益だと親は誰しも考へる。ところが、性教育に關しては親も教師も自信を持てない。そしてそれは性をあからさまにする事を躊躇い、それに疚しさを感ずるためなのである。解せない事だ、躊躇うのは當然だとして開き直るだけの自信をなぜ持てないのか。性は隱すべきものであつて、あからさまに語るべきものではない。私的交際における性の活力を保つためには、性を隱蔽する事が必要なのである。ポルノ解禁論者は解禁した國々で性犯罪が減少しつつある事を言う。馬鹿な事を言う。性犯罪の減少は必ずしも歡迎すべき現象ではない。それは性に對する感性の鈍磨を意味するに過ぎない。
けれども、今や性は頗る公けのものになつてしまつてゐる、マス・メディアは性を賣物にし、街角にはポルノ自動販賣機が置かれてゐる、そういう時代に親や教師がどうして性を隱しおおせようか、どこから自分は生れて來たのかと子供に問われて、「あんたは、神樣にお願いして授けてもろたんや。滿願の日に、お宮さんの石段のところに神樣が置いとかれたのを、貰うて來たんや」などと答えるのは、「性がいやらしく、みだらなこと、人前では口にすべきものではないと教へこまれてゐた時代」には効果的だつたろうが、今はとてもそれでは駄目であつて、もつと科學的な解答を母親は用意していなければならない、そう反論する向きもあろう。が、それなら例えば、次のような解答が果して模範的解答と言へるであろうか。
お父ちゃんは働いて、お母ちゃんや、あんたを世話する責任がありますから、毎日外 へ出てゆきます。しかし、家にゐると、いつもお母ちゃんといつしょにいたいと思ふし 、夜は同じベッドに寢ます。二人は愛しあつてゐるので、できるだけ近づき、いつしょ になりたいと思ひます。夫婦はみんな、そうです。それで、いちばん密接にからだを近 づけ、ふれあつたとき、非常に特別な二人だけの方法で夫と妻は愛し合ひます。キッス したり抱きあつたりする以上の仕方です。これ以上には近づけない状態にまでからだが 接したとき、夫は彼のペニスを、妻のからだにあるバジャイナ(膣)とよばれる特別の 場所へ入れます。
これはアメリカの性教育書の一節であり、朝山新一氏の『性教育』から孫引きしたものである。何とも酷い日本語の羅列だが、それはともかく、ここまで客觀的に語れるようになるには、日本人の「考へ方がもつと合理的、科學的にならなければ」ならないし、「住居の条件などが完備」されなければならないと朝山氏は言い、氏自身が「當をえてゐる」と考へる「客觀的知識に導く」説明の實例を示してゐる。要するに雄蕊雌蕊を用ゐる「科學的方法」である。朝山氏の方法を私は紹介しないが、アメリカの方法も朝山氏の方法も、三つの點で「神樣がおいとかれた」式の古典的方法に及ばない。
まず第一に、二つの近代的方法は夫婦の事しか考へておらず、古典的方法に裏打ちされてゐる子供への愛情を欠いてゐる。「神樣にお願いして授けてもろたんや」という一見稚拙な説明には、母親の子供への愛情が見事に表現されてゐる。「お前のようなやんちゃな子は、私の子じゃない。紅葉橋の下を、箱にはいつて流れて來たのを拾つて來たんだよ」と母親に言われた今東光和尚は「俺の臍と、お袋の臍は繋がつちゃいなかつたんだと、ずいぶん長い間惱んだもんだ」と述懷したそうである。和尚の母親は和尚を突放してゐるのであつて、子供を憎んでゐるのではない。愛してゐるから突放してゐるのである。和尚は長い間惱んだかも知れないが、母親の愛情を疑つた譯ではないであろう。そういう事を母親に言われ續けて和尚は和尚になつたのである。今東光和尚ほどの人物でも惱んだのだから、「氣の弱い子なら、不當な答えが、正常な精神發達に影響するコンプレックスになる可能性は」充分にあると朝山氏は書いてゐるが、「氣の弱い子」なら母親の「不當な答え」に自殺しないまでも、いずれ必ず他人の「不當な答え」に衝撃を受けて死ぬ羽目になる。
第二に近代的方法は事實のすべてを語つていない。夫が妻の「陰に水仙花の香」を嗅ぐ事までは教へていない。つまり、古典的な方法は何かを隱そうとはしていないが、近代的方法は何かを隱そうとしてゐるのであり、隱すのは當然だと開き直つてゐる譯でもない。それはいずれ隱す事の後ろめたさを免れず、また、ここまで正直に話したのだから、子供はそれ以上の追及はすまいと密かに期待してゐる譯である。もとより他人の良識を期待するのは決して惡い事ではない。しかし、それは同等もしくはそれ以上の他人に對する場合に限るべきであり、少なくとも親が子供に良識を期待するのは滑稽であり、非常識である。とまれ、どんなに合理的な親でも、性のすべてをあけすけに子供に語る譯にはゆかぬ。ポルノ解禁論者といえども、まさかわが子に性の實地教育を施す度胸は無いであろう。雄蕊雌蕊の性教育など所詮茶番に過ぎない。そういう茶番を眞顔でやつてのけられる人間はどこか狂つてゐる。性のすばらしさは、そういう綺麗事の科學的方法では掬い取れない淫靡なものにあるのであり、それはあくまで隱すべきものなのだ。「性に關する器官には陰の字がつけられてゐるが感心できない。陰を除きたいが、解剖學上の術語でいたしかたない」と朝山氏は書いていて、私はこのくだりで笑い轉げたが、隱し所は英語でもprivate parts,フランス語ではles parties honteusesなのである。
第三に、近代的方法は子供の密かな願いを見落してゐる。子供はいずれ必ず秘密を知るが、兩親の性交を目撃したいなどとは斷じて思はない。性交の事實を惡友から教へられても、暫くはわが父母に限つてそのような事はないと考へたがる。つまり、子供は親や教師から性教育を受けたがらないのである。いかに非科學的であろうと、にやにや笑つて得意げに惡友が授ける性教育のほうを子供は好む。或いは密かに入手した性教育書やポルノによつて自ら研究する事を好む。それゆえ、親や教師がポルノ自動販賣機を憎むのは逆恨みというものであろう。雄蕊雌蕊の性教育も所詮は子供の良識に頼らなければならない。それならいつそ子供の性教育は性教育書やポルノの「良識」に頼つたらどうか。私はふざけてゐるのではない。子供は親や教師から性教育を受けたがらない。それは正常な子供の密かな願いなのであり、近代的性教育はそういう子供の願いを天から無視してゐるのである。
以上、私は自殺と非行と性教育を論ずる教育論のぺてんを發いたが、教育論はそれ以外にも樣々な問題を扱つてゐる。が、何を扱おうと僞善的教育論のすべては愚劣淺薄で、まともな事は何も言つていない。要するに惡魔不在の教育論、人間不在の教育論ばかりなのである。教育家もかつては子供だつた。そして惡友の性教育を喜んだのである。しかるに、彼等はそういう事を實に見事に忘れてゐる。そういう一番大切な事を忘れて教育の現状を憂え、彼等はとかく深刻な顔をしたがるのだが、それは子供の自殺や非行が飯の種だからである。重ねて言つておくが、そういう死の商人に煽られて騷いだり惱んだりするのは愚の骨頂である。子供が自殺したり警察に補導されたりすると、親は決つて「うちの子に限つて・・・・・・」と絶句し、その見通しの甘さを批判されるけれども、親は皆「うちの子に限つて」と思ひ込んでゐるのであつて、その事自體少しも咎めらるべき事ではない。自動車のハンドルを握る者は、皆「俺に限つて」と思つてゐる。けれども、皆が事故を免れる譯ではない。そして交通事故の死者は自殺者よりも遙かに多いのである。運不運という事がある。交通事故を絶滅できるとは誰も思ふまい。それなら、自殺や非行を根絶しうるなどと考へぬがよいのである。 
週刊誌時評

 

ポルノのみにて生くるものにあらず
「偉そうなことを言つてゐるが、ポルノはどうした」と言われて俯くのが週刊誌で、それゆえ週刊誌は信じてもいい、という意味のことをかつて山本夏彦氏が書いた事がある。かういふ考へには恐るべき眞實があつて、人間どこかで手を汚さずには生きてゆけない道理だから、脛の傷を隱さぬ週刊誌が大新聞や代議士の僞善をうさん臭く思ふのは當然である。が、それも程度問題であつて、「ポルノはどうした」、「ポルノ記事の低俗を少しは反省しろ」などと言われても一向に動じない週刊誌がやたらに多くなつた今日、週刊誌は低俗でその報ずるところはしばしば眉唾だと、例えばトルコ風呂探訪記の如き記事を讀まされて人は思ふのである。そしてそれも當然のことで、當然のことだからこそ政治家は何よりも清潔に見えるよう苦慮するわけなのだ。だから、そういう僞善の化けの皮をひん剥くには、週刊誌自身も信用をおとさぬようなにがしかの努力をしなければならない。
「新自ク機關誌にポルノ記事」が載つたという珍「事件」を報じた週刊讀賣六月四日號の文章は、そういう点で期待したのだが、新自由クラブの代議士諸公が大いに周章狼狽したというわけでもなく、清潔が賣物の政黨とポルノという興味深い組合せから、「責任者たるものは機關誌の原稿に目を通すべし」との至つて平凡な結論しか引き出せぬ記者の凡庸には落胆させられた。この事件が「新自クのつまずきになるか。それとも、消え去る瑕瑾ですむだらうか」と記者は結んでゐるが、文章というものは書き手のすべてを正確にあらわすものであり、この結びの文章は、筆者がこの事件を「新自クのつまずきになる」とは見ていないということをはつきり示してゐる。それにも拘らず「瑕瑾ですむだらうか」などという空々しい問いを發し、讀者の關心を引こうとしてゐるのであり、どんな低俗な讀者をも欺きえまいと思はれるこの種のぺてんは、低俗なよた記事と同樣、週刊誌の信用を失墜させることになるだけである。
ところで、編集長が交代して以來の週刊文春からは「ポルノ的なもの」が影を潜めた。六月二日號の「讀者からのメッセージ」には「全面的にピュリタニックになさらぬよう」との要望が掲載されてゐるが、人はポルノのみにて生くるものにあらず、最も讀み應えのある週刊文春と週刊新潮とがかなりの賣行きを示してゐるという事實は、兩誌を讀むことが人々の「知的生活」の一部となつてゐることの證拠であると言へよう。タイムやニューズウィークのような週刊誌がわが國にもあつていいのである。
ただし、週刊文春は讀み應えがあるばかりでなく、文章も明晰で調査も行屆いており、その点は高く評價するが、日本共産黨の上田耕一郎夫人が「皿洗い器を使つてゐるのも近所の主婦にはよく思はれていない」といつた類の事實の記述は單なる暴露戰術としか思はれまい。そういう瑣末な事實は、蒐集してもこれを思ひ切つて捨てるべきである。
(昭和五十二年六月七日) 
馬鹿を叱る馬鹿
慶應大學教授による入試問題漏洩事件を扱つてサンデー毎日はこう書いてゐる。「この事件に關係してゐるとニラんだ人物を洗うたびに、南青山や赤坂の豪邸に驚いた。(中略)白亞の豪邸を持ち、一戸で三つもバスをもつ高級マンションに住む。朝夕、滿員電車に揺られ、額に汗して働く大衆が狭いコンクリート長屋にあえいでゐるというのに」
かういふ下等な文章を、いかに鉤括弧で括つてであれ、自分の文章の中に取込まざるをえない事を、私はいささか腹立たしく思ふ。下劣な人物を作品に取込めば作品そのものが下劣になつてしまうと、フランス自然主義小説を論じてある批評家が言つてゐるが、それは確かな事である。それに、むきになつて馬鹿を叱るのは、これまた馬鹿にほかならないという事にもなるのだが、やむをえない、當分私は馬鹿を叱る馬鹿の役を演じなければならない。
サンデー毎日の記者は、白亞の豪邸に住む「幻の會社」の社長たちに義憤を感じた積りかもしれないが、このふやけた文章がはつきり示してゐるのは、記者の感情が義憤でなくて低級な嫉妬だという事である。「義憤的なひとは、その價値なくしてうまくやつてゐるひとびとについて苦痛を感ずる。嫉視的なひとはそれ以上に、あらゆるうまくやつてゐるひとびとについて苦痛を感ずる」(高田三郎譯)とアリストテレスは言つてゐるが、「幻の會社」の社長たちが「その價値なくして」うまくやつてゐると斷定しうるだけの充分な證拠を示さずに「コンクリート長屋」の「大衆」の苦痛について語るのは、低級な嫉妬のなせる業にほかならない。言うまでもなく嫉妬は卑しい感情である。それゆえ良識ある人間はそれを隱す。が、大衆の嫉妬心を煽る事を正義と心得てゐる記者にその種の良識は期待できないのかもしれぬ。それゆえこれは無理な注文かもしれないが、そういう記者は專ら足で稼いでもらいたい。頭を使うという作業は斷念して、拾い集めた事實だけを淡々と語つてもらいたい。
とまれ、前囘私は週刊讀賣の記者を批判したが、今にして思えばあれは少しく高度の批判であつて、讀賣にはこれほど浮薄な文章は無いのである。毎日は少し讀賣を見習つてもらいたい。例えば、先日、寢屋川市の主婦が體面を重んじ、生活保護を受けようとせずに餓死したが、その事件を扱つた讀賣の記事を見習つてもらいたい。「體驗レポート・ジーンズはどこまで許されるか」の如き愚劣な記事を追放してもらいたい。「ナァニがヒヒヒだ、ジーパン、いまや、ファッションですらない」・・・・・・何と下品な文章か。
ところで今囘は週刊新潮についても觸れる積りだつたが、馬鹿を叱る馬鹿になりすぎて紙數が尽きた。新潮は文春と同樣、多くの美點と多少の欠點を持つ週刊誌だが、その事については次囘に述べようと思ふ。
(昭和五十二年六月二十一日) 
左右を叩く無責任
週刊文春の「日本共産黨の金脈シリーズ」が完結した。『赤旗』は「もはや狂亂としか思えない」ほどの文春攻撃をやつてゐるそうだが、文春六月三十日號に掲載された「若き共産黨員に告ぐ」の中で共産黨元中央委員廣谷俊二氏が言つてゐるように、「このような猛烈な非難キャンペーンの集中砲火」によつて「批判者や、その同調者を萎縮させ沈默させようとする」のが共産黨の常套手段なのであり、それはつまり共産黨というナメクジにとつて自由とは鹽の如きものであるからに他ならない。文春の記事に多少の勘違いはあつたかも知れぬが、この際それは些事である。黨員に言論の自由を許さぬこの陰湿な政黨に對しては、今後とも勇氣と品位を失う事なく「批判のメスを入れて」もらいたい。
ただ、文春の田中編集長は「われわれは右でも左でも、イデオロギーと關係なく」批判してゐると言つており、それは編集者として當然の心構えだが、實は、右も左も蹴とばすという事は至難の業でもあるのである。例えば文春は野坂昭如氏の「右も左も蹴つとばせ」を連載してゐるが、これが何とも無責任かつ輕薄な文章なのだ。自民黨、新自由クラブから共産黨、革自連まで、當るを幸い蹴とばしてゐるつもりの野坂氏だが、革自連は知らず、自民黨も共産黨も、確實に野坂氏を輕蔑してゐるであろう。八つ當りをしながらも野坂氏は自分を愚かに見せる事を忘れない。そういう配慮をしておけば、野坂氏の文章に目くじらを立てるのは野暮な事だと、相手方が思つてくれるだらうとの狡猾な計算をしてゐるわけである。實際それは野暮なのである。週刊朝日も野坂氏の文章を連載してゐるが、六月二十四日號で開陳してゐる「君が代」をトルコ風呂やピンクキャバレーのBGMにせよといつた類の意見に腹を立てるのは、まこと大人氣無い事なのかも知れぬ。
要するに、人間、右も左も蹴とばすためには、信念やら羞恥心やらは捨てなければならないという事にもなるのだが、週刊誌には大新聞の「偏向」を是正するという役割もあつていいはずで、例えば週刊新潮が連載してゐるヤン・デンマン氏の「東京情報」は、そういう役割を充分に果たしてゐる。「東京情報」は世間が自明の理としてゐる事柄を徹底的に疑う人物の手になるもので、最近高木書房から單行本として上梓され、私は通讀したけれども、明らかにデンマン氏は專ら左を蹴とばしてゐるのである。が、野坂氏の文章は毒にも藥にもならぬ。純然たる娯樂記事ならばともかく、そういう戯作者ふうの無責任な八方破れの文士に、週刊文春は今後食指を動かさないでほしい。
最後に週刊サンケイについて一言。サンケイ六月三十日號にはトルコ風呂探訪記の如き下品な記事があつたが、七月七日號はかなり充實した内容であつた。今後は例えば「福田外交の六カ月を採點する」のような記事をふやし、「拳鬼奔る」の如き幼稚で汚らしい劇畫は追放してもらいたい。
(昭和五十二年七月五日) 
良藥は口に苦し
參議院選擧は終つたが、今囘の立候補者は大方嘘つきか僞善者であるに違いない、と週刊新潮七月十四日號でヤン・デンマン氏が書いてゐる。デンマン氏によれば「戰後の日本を惡くした元凶」は「怠け者を甘やかした」事であり「怠け者のクビも切れなくなつた」事なのだが、「不肖、私が當選したあかつきには、この日本から怠け者を退治します」と言い切つた候補者は一人もいなかつたのであつて、それはどうしてだらうとデンマン氏は訝しむのである。が、その理由は至極簡單であり、それは多分デンマン氏も承知していよう。
要するに、今や政治家は媚び諂う口巧者となつたので、怠け者退治の公約などを掲げようものなら、その候補者は必ず落選するのである。政治家たるもの本當の事は言つてはいけないのであつて、例えば國連は田舎の信用組合の如きものだと私は思つてゐるが、それを口走つた大臣の首は飛んだのだ。政治家は常に綺麗事を言つていなければならない。「巧言令色スクナシ仁」などという格言は、今や完全に死に絶えたのであり、してみれば綺麗事を言い澁つた川上源太郎氏が落選したのも當然の事かもしれぬ。もはや政治家は國民を教導しない、專ら國民を甘やかす。いやそれは政治家に限らない、ジャーナリストは讀者を甘やかし、教師は學生を甘やかし、親は子供を甘やかす。
けれども、國家も家庭と同樣、常に順境にあるとは限らない。そして孟子の言う通り、「敵國外患無きものは國つねに亡ぶ」である。とすれば社會の木鐸としてジャーナリストは、時に讀者に苦言を呈する勇氣を持たねばなるまい。讀者の機嫌を損ずるような事も言わねばなるまい。その點週刊新潮はあつぱれであつて、七月七日號の醫者は出身校を看板に明記せよとの提言にせよ、十四日號の寺尾判決批判の記事にせよ、明らかに一部の讀者の神經を逆撫でするような事を敢えて言つてゐるのである。七月七日號には「人間個々の能力はいかんともしがたい不平等主義に支配され、それがまた人類永遠の問題である」という文章があるが、良藥は口に苦し、かういふ苦い眞實を知らされて喜ばぬ讀者も多いはずである。が、これは否定しようのない眞實なのだ。人間には能力差がある、同樣に大學には格差がある。東大出にも馬鹿はいようが、それでも東大は一流であり、入試問題を漏らすような教員がいたとしても、慶應は「私學の雄」なのだ。
政治家は本當の事が言へない。それならせめて新聞や週刊誌が本當の事を言わなければならない。が、實態はどうか。讀賣、朝日、毎日の三大紙は、例えば寺尾判決にはしゃぎ、「集團ヒステリーに迎合した」のである。サンケイ新聞の讀者ならサンケイの報道の冷靜を知つてゐるだらうが、サンケイ一紙では所詮三大紙には太刀打ちならぬのである。それゆえ週刊新潮や週刊文春は貴重な存在であつて、兩誌は今後も、讀者を樂しませつつも、讀者の耳に逆らう直言をつづけてもらいたい。
(昭和五十二年七月九日) 
岡田奈々と川端康成
人間は度し難いほどスキャンダルが好きである。洋の東西を問わない。今も昔も變らない。人々は他人の不幸が好きなのであり、それはルナールが言つてゐるように「自分が幸福であるだけでは充分でなく、他人が不幸である事が必要」だからで、そういうけしからぬ根性が人間には確かにある。それゆえイギリス十八世紀の劇作家リチャード・シェリダンは、他人の惡口に興じて生き生きとして來る人間の姿を、喜劇『惡口學校』で見事に描いたのである。けれども、今日、他人のスキャンダルに興じたいという人々の根強い欲望をみたすには大新聞でも不充分であつて、それはもとより週刊誌の役割となつてゐる。例えば岡田奈々なる女優が暴漢に襲われた事件にしても、大新聞の記事は、岡田嬢の部屋に男が侵入し「岡田さんの兩手足を縛り、サルグツワをかませたあと(中略)血のついたパジャマを新しいのと着替えさせた」といつた程度の事實しか傳えない。當然讀者は欲求不滿におちゐる譯である。
そこで、例えばアサヒ藝能という週刊誌は、「岡田奈々と闖入男が過したナニもなかつた五時間への勘ぐり」という記事をのせ、こう書くのである。「岡田奈々ちゃんはナニもなかつた五時間をしきりに強調する。しかし(中略)ほんとうだらうか(中略)と疑いたくなるのが人情だらう。とは言へ、これを“下種の勘ぐり”ととられては非常に困る。ただ、奈々ちゃんの“貞操”が心配で心配でたまらないだけのハナシなのだから」
「奈々ちゃんの“貞操”が心配」というのはまつ赤な嘘であつて、これほどまつ赤な嘘も珍しいと、そう書けば、アサヒ藝能は低級な週刊誌なので、低級な週刊誌の低級な記事に目くじら立てる事はないと、そのように思ふ讀者もあるかも知れぬ。「奈々ちゃんの貞操」が守られたかはどうかは當事者しか解らぬ事であり、熱狂的なファンでもない自分にはそんな事は興味が無い、そう考へる讀者もいよう。
が、女優のスキャンダルは自分にとつて無意味と考へる讀者も、ノーベル賞作家のスキャンダルを騒ぎ立てる事を無意味だとは考へない。そこで、一流週刊誌はもとより一流總合雜誌までも、川端康成氏の「事故のてんまつ」にはとびつく譯である。岡田奈々の貞操など、亭主でも戀人でもない自分にとつては無意味だと考へる讀者はいよう。が、川端氏が少女を愛して自殺しようと、そんな事は自分にとつては無意味だと考へる讀者は少ない。臼井吉見氏の「小説」が賣れる道理である。けれども、少女への異樣な執着が川端文學にとつていかなる意味があるのか、それが明らかにされぬ限り、川端氏の私生活をあばくのは文藝批評家のなすべき事ではない。また、川端文學は世間がそう思ひ込んでゐるほど偉大な文學なのかどうか、それを疑う事なく「事故のてんまつ」に騒ぐのは、輕佻浮薄という點では女優のスキャンダルに興ずるのと大同小異なのである。
(昭和五十二年八月二日) 
   

 

怒らざる者は痴呆
川端康成夫人は、川端氏を好かぬお手傳いの少女に、「よい小説を書くためだから我慢して下さいね」と言つたそうである。夫人が事實その通りの事を言つたかどうか、それは知らない。が、これはいかにも小説家の妻が言いそうなせりふだと思ふ。いや、小説家に限らない、わが國の文化人はその女房に、この種の非人間的な寛容と物解りのよさとを期待しうるのである。例えば「反體制の進歩的文化人の雄といわれる羽仁五郎氏」は、目下、「家元制度粉砕を叫ぶ反逆の舞踊家・花柳幻舟と大戀愛中」だそうだが、週刊文春八月四日號によれば、羽仁氏夫人説子さんは夫君の戀愛に腹を立てていないのであつて、羽仁氏自身の言葉を借りれば、説子さんが怒らないのは「ボクの妻自身も(中略)幻舟がやつてることに理解があるんでしょうね」という事になる。
體制が寛大であれば反體制は堕落する。平和と自由を享受してゐるうちに人間の精神は弛緩する。亭主に對する女房の寛容も、度が過ぎれば亭主を堕落させるのである。羽仁氏の仕事は飯事だが、それは自由と寛容をモットーとする、ぬるま湯的な生活環境のしからしむるところなのかも知れぬ。羽仁氏が四十五も年下の舞踊家に戀をしたのも「幻舟は本當の藝術家だ」と思つたからなので、そういう幼稚な戀愛はよい年をした大人のやる事ではない。大人の戀愛はもつと醜惡なものである。が、發育不全の羽仁氏は、「普通なら隱す戀愛を大つぴらに週刊誌に賣つて、ギャラまで取つてゐる」事の醜さを醜さと感じない。當然である、飯事は醜惡ではない、お醫者さんごつこだつて醜惡ではない。
そう言へば、羽仁五郎氏に限らず、子息の映畫監督羽仁進氏も、その子未央ちゃんも、善惡や愛憎や美醜の葛藤には無縁の「人間失格」的人物である。週刊女性によれば、未央ちゃんは「母親の左幸子を、ときに“鬼婆あ”などと呼ぶ」そうだが、そういう羽仁家の人々の人間的欠陥が、なぜ週刊誌の記者には見えないのか。なぜそれに苛立たないのか。週刊ポスト八月十二日號は、羽仁進・左幸子夫妻の離婚を扱つた記事を、未央ちゃんの婿としてどのような男性が羽仁家に迎えられるのか、そこまで後をひく離婚のドラマだ」などというおよそ無意味な文章で結んでゐるし、週刊文春のイーデス・ハンソン女史による對談後記も頗る陳腐なものである。羽仁氏は「そろそろ八十になろうかという人が、若い女を好きになるなんて、およそ大胆ですよ。世間が、キスするのか、セックスはするのかつて氣にするのも無理はないよ」などと言つてゐる。そういうおよそ甘つたれたせりふを吐く五郎氏の人間的欠陥を衝けぬハンソン女史を、私は對談の名手だなどとは思はたい。いや、それとも對談の名手とは、「然るべき事柄についても怒らない」資質の持ち主なのか。が、そういう類の人間をアリストテレスは痴呆と呼んだのである。
(昭和五十二年八月十六日) 
性に關する殘酷な嘘
週刊文春八月二十五日號に「知的女性が眞劍に語り合つた」女性のセックスに關する座談會の記事が載つてゐたが、桐島洋子女史を除く他の二人は知的女性どころか、ただの女でさえない、人間でさえない。「膣にシコシコ入れて」もらうだの、「クリトリスかバギナどちらを使おうと、併用でもいい」だのと、人前でそういう正直なせりふを吐ける女は女ではない、氣違いである。氣違いは生眞面目な正直者だからである。その證拠にこの座談會は猥談にもなつておらぬ。猥談は氣のおけぬ友人たちと笑いながらやるものだが、なぜ「知的女性」は笑いながら性を語れないのか。週刊ポスト九月二日號の花柳幻舟もそうであつて、幻舟は羽仁五郎氏に對し、「もつと性を大らかに語らなアカン」と説いたそうである。が、大らかに性を語るには、人間、場所柄を弁えねばならない。性行爲に限らず、性に關するすべては適度に隱蔽すべきものなのだ。隱す事もまた美徳の一つなのである。
『微笑』という隔週刊誌があり、その八月十三日號に「女の性欲99の謎を解明」という記事が載つてゐる。醫者と心理學者の協力をえて作製した記事らしいが、『微笑』に限らず女性週刊誌の記事はすべて女をなめきつてゐるとしか考へられない。例えば、或る男性のセックス評論家は、「彼に一晩のうち何囘も抱いてもらいたい私つて異常なのでしょうか」という問いに對し、「いいえ。歡びを知つた女性は、オルガスムスにうねりがあるため、そうなりがちなのです」と答えてゐるが、これは馬鹿らしいばかりでなく、無責任きわまる囘答である。なぜなら、女の「オルガスムスにうねりがあるため、そうなりがち」だなどという事は、男性には絶對に解らぬはずの事柄だからだ。男が女を愛するのは、男が女でないからである。女というものが理解できないからである。いや、それは男女關係に限らない。相手に理解できぬ部分があつてこそ、人は他人を尊重し愛するのである。が、女性週刊誌はとかくこの種の女に對する敬虔な感情を欠いてゐる。女をなめきつてゐる。
いや、女をなめきつてゐるのは低級な女性週刊誌だけではない。まともな週刊誌の掲載するポルノ小説、キヤバレー探訪記、卑猥な劇畫の類も、女をなめきつてゐるのである。そしてまたそれらは、ジョージ・スタイナーの言うように、「すべての人々がエロスの世界に生き、大いなる忘我の境に到達しなければならぬ」という「殘酷な嘘」をついてゐるのだ。すべての男女が「愛の技巧にたけてゐる譯ではない」し、それがよき夫よき妻の条件なのでもない。これが眞實である。ポルノ小説の類を讀む未成年や愚かな夫婦は、「なぜ自分には(或いは相手には)もつと性的魅力がないのだらう」などと考へるようになる。これこそ性の解放がもたらす最大の害惡である。
(昭和五十二年八月三十日) 
何事もなせばなるか
王貞治選手が七五六號本塁打を記録して、日本中が「集團ヒステリー状態」を呈し、當然週刊誌もはしゃいだが、冷靜であろうとした週刊誌もあり、例えば週刊新潮がそうである。が、週刊新潮九月八日號によれば、今囘のヒステリーには「相當シンラツな皮肉屋さんたちも手こずつて」おり、山藤章二氏も「われわれ皮肉屋からみて、王をからかうのはむずかしい」と告白してゐるそうである。週刊新潮の本領は天邪鬼精神であつて、私も天邪鬼だからそういう氣質は尊重してゐるが、今囘の大騷ぎに水を差そうとして「皮肉屋さん」たる週刊新潮も少々「手こずつた」ようであり、しかもなぜ手こずるのかを充分に分析していない。説得力を欠くゆゑんである。では、なぜ王選手をからかうのが難しいのか。理由は簡單である。スポーツの世界だけは僞物と本物との區別がはつきりしていて、王貞治の實力は本物だからである。
週刊新潮はノーベル賞にもけちをつけており、それは私も同感だが、藝術や學問の世界では僞物が本物として通用するとしても、スポーツの世界ではそれはまず無い。時に八百長はあろうが、七五六本の本塁打を打つたのは王選手だけなので、まさか七五六囘もの八百長が行われた譯ではあるまい。週刊朝日九月九日號は、アーロンの記録を破つたと本當に言へるかどうかを問題にしてゐるが、確かに七五六號が世界新記録であるかの如くに騷ぎ立てたマスコミもおかしいのである。が、世界新記録であろうとなかろうと、王選手の實力にはけちのつけようがない。それで「シンラツな皮肉屋さんも手こずつてゐる」のであろう。
讀賣巨人軍の王選手は本物であつて、當然の事ながら週刊讀賣は大特集を組みはしゃいでゐるが、同誌に掲載されてゐる予備校の廣告には「なせばなる何事も」とあつた。何事もなせばなるか。もとより、否である。いかに努力しようと、能力の無い選手に七五六本の本塁打は打てはせぬ。つまり、人間には能力差があつて平等ではないという今日の日本では甚だ人氣のよくない眞理を、王選手ははつきり示してみせたのである。そして大騷ぎをしたマスコミも大衆も、それをはつきりと認めた事になる。つまり、彼等は英雄を求めてゐる、偉大な人間を稱えたがつてゐるのである。無論、そういう傾向を憂える人々もゐる。が、それとて、例えばサンデー毎日八月二十一日號の松岡英夫氏の如く、毎年八月になると戰爭體驗の風化を嘆いてみせるインテリと同樣、おざなりの憂え顔でしかない。「偉大な人間になろうではないか。さもなくば偉大な人間の奴隷になろうではないか」とニーチェは書いた。ニーチェは戰爭を禮讃したが、それを狂氣の沙汰とみなす樂天的な人間に大衆の集團ヒステリーを憂える資格は無い。本當に戰爭を恐れるには、そういう狂氣こそ大衆の求めるものだという苦い眞實を知る必要がある。たかが野球と言うなかれ、毛澤東も王貞治もともに英雄なのである。
(昭和五十二年九月十三日) 
甚だしい看板倒れ
「人間、四十を越えたら自分の顔に責任を持たねばならぬ」と言つたのはリンカーンではなかつたかと思ふ。週刊誌の顔は表紙である。週刊誌は表紙に責任を持たなければならない。週刊ポスト九月九日號の表紙には五十嵐夕紀という娘の寫眞が載つてゐるが、これは勿論週刊ポストの顔そのものではない。問題は表紙に並べられた見出しである。「欲望リサーチ、雄琴の接待トルコ、船橋の人海戰術ストリップほか、ピンク地帶の“秋一番”」、さらに「話題人間決戰の秋、本郷元教授から慶大へ、向坂逸郎から“四人組”への“果たし状”」。かういふ見出しが頗るつきの粗雜な頭腦から絞り出された記事にふさわしい「顔」である事については贅言を要すまい。「欲望リサーチ」だの「話題人間」だのという言葉は、週刊ポストが好んで用ゐる「直撃取材」の類と同樣、正しい日本語ではないのである。そして、言葉を正しく用いようと意を用ゐる人間は當然看板倒れのぺてんを嫌うけれども、言葉に無神經な人間は必ず羊頭を懸げて狗肉を賣る事になる。
例えば入試問題を漏らして慶應大學をやめたという「話題人間」本郷元教授からの「慶大への果たし状」という見出しをつけた記事は、看板倒れも甚だしい代物なのであり、「果たし状」にも何もなつてはおらぬ。それに、慶應大學の如き一流大學にも無能な教師はいようが、週刊ポストの傳えるところが事實なら、本郷廣太郎氏は下劣な人間であり、その品性の下劣に怒らず、あろう事か、本郷氏を辯護するかの如き記事を書いた記者は大馬鹿者である。馴染のバーのマダムに對して本郷氏は「ボクはもう大學教授じゃないんでね、これからはボクとも大つぴらにデートしようぜ」と言い、記者に對しては「慶應義塾は實に偉大」だが「その偉大な大學を支えてゐる個人、個人については(中略)誰一人、尊敬に値するような人はいません」と告白したという。下劣な教師が「實に偉大」な大學に「尊敬に値するような人」を見出せぬのは當然だし、「偉大な大學を支えてゐる」教師たちの大半が立派でなくてどうして大學そのものが偉大でありえようか。だが、そういう至極當然の疑問すら、この愚かな記者の頭には浮かばないのである。
とまれ、週刊誌の顔は表紙なのであり、週刊誌はもつと表紙に神經を使つてもらいたい。これは週刊ポストに限らないが、若い女の顔を使うのは全く無意味ではないのか。表紙のモデルの顔が氣に入つてその週刊誌を買うほど讀者は馬鹿ではない。その點、週刊新潮と週刊文春の表紙はすつきりしてゐる。他誌も見習つてほしい、と言いたいところだが、そんな事を言つても無駄なのである。内容の俗惡と表紙の洗練とは所詮水と油だからであり、また「鍍金を金に通用させようとするせつない工面より、眞鍮を眞鍮でとおして、眞鍮相當の侮蔑を我慢するほうが樂」(夏目漱石)だからである。
(昭和五十二年九月二十七日) 
輕信は子供の美徳
コーヒーや日本茶に含まれてゐるカフェインに發癌作用があるという事を、癌研の高山昭三氏が明らかにしたそうである。そのニュースを週刊ポスト十月七日號が取上げてゐるが、例によつて「カフェイン發ガン説がもたらした衝撃」という「衝撃」的な見出しをつけてはゐるものの、實は「カフェインが人間にとつてどれほどの發ガン性があるか」はまだ解つていないというだけの話なのである。週刊新潮十月六日號も同じニュースを取上げてゐるが、新潮のほうは客觀的であり、また解りやすい記事になつてゐる。同じニュースを扱つて、こうも違つた文章が出來上がるものか、その點頗る興味深かつた。ポストは「カフェインに發ガン性がある以上、命を永らえるにはコーヒーやお茶をひかえめに摂るよう、心がけるにこしたことはあるまい」などと書いてゐるが、何とも馬鹿らしい文章である。多分理解して貰えまいが、ポストの記者にこれだけ言つておこう、生きてゐる事が一番健康によくないのである。
週刊ポストはまた「岸元首相の渡米は“日韓・黒い霧”もみ消し工作だつた」という記事を載せてゐるが、これがまた岸・カーター會談に同席したかのような調子ながら、その實「ワシントンで取材してゐる本誌駐米特派記者」の「觀測」でしかない代物なのだ。カーター氏が岸氏に對しあまりにも少ない「日本の防衞費を批判」したのかどうか、眞相は結局「藪の中」である。九月十八日の朝日新聞とサンケイ新聞は、この點について對照的な記事を載せてゐたが、眞相が「藪の中」ならば「ナゾめく岸氏の(發言の)撤囘」をどう解釋するかは、日本の防衞費をGNPの一%以下でよいと考へるかどうかにかかつていよう。私は勿論サンケイを支持するが、それはともかく、週刊ポストの岸・カーター會談を「見て來たような話」は頗る低級であつて、「ワシントンで取材してゐる本誌在米特派記者」なるものが實在するのかどうか、私は疑問に思つてゐる。
週刊ポストはこのところ「日本原發帝國主義の研究」を連載してゐる。今囘はポストのセンセイショナリズムのあれこれを一括して批判しようと欲張つたので、この連載記事を具體的に批判する紙數は無いが、エネルギー危機を「幻想の危機」とする前提に立つ論議は著しく説得力を欠いてゐる。とまれ、週刊ポストは殆ど毎囘、「衝撃」的な記事を載せるのだが、金炯旭氏の「衝撃發言」(八・十九)にせよ、花柳幻舟・「衝撃」の履歴書(九・二)にせよ、一向に「衝撃」的ではない。そして煽情的な記事を書く記者自身は、通常、自分が書いてゐる事を「衝撃」的だなどと思つてはいないのである。つまり、讀者をなめきつてゐる譯なのだ。「輕信は子供の美徳」だとチャールズ・ラムは言つた。週刊ポストの愛讀者を想像するのは難事だが、それは子供並みの知能の持主なのであろうか。それとも「衝撃」に馴れ過ぎた不感症患者なのであろうか。
(昭和五十二年十月十一日) 
   

 

許せない人間侮蔑
以前、「あんたかて阿呆やろ、うちかて阿呆や」というせりふで人氣を博したテレビ役者がいた。他人にこう呼びかける人間も、「そうや、うちかて阿呆や」と答える人間も、ともに私は信じない。それは生きてゐる値打ちの無い人間だと思ふ。なぜなら、自分が阿呆だからとて他人もすべて阿呆だと決め込むのは、可能性としての人間のすばらしさを認めない事だからである。テレビ役者の道化に目くじら立てるのは大人氣無いが、赤軍ハイジャック事件を扱つたサンデー毎日十月二十三日號の、内容文體ともに下等な記事にも、「あんたかて阿呆やろ、うちかて阿呆や」と同質の人間侮蔑が潜んでゐるのであり、これを私は斷じて容認できない。
今囘のハイジャックについてマスコミは樣々な意見を述べてゐるが、私はサンデー毎日のそれに對して最も激しい怒りを覺える。毎日は「自分は決して人質にはなるまいという予感からか(中略)人質もろともの犯人抹殺論を(中略)平然とブツ無責任人士(中略)には今度ハイジャックが起きたら、まつ先に人質身代わり要員に名乘り出てもら(中略)いたいところだが、ふだん勇ましいことを言つてゐる人がいざとなると、逃げてしまうのは、これまでにも、まま、あつた皮肉である」と書いてゐるのである。
福岡市の結核療養所で、ハイジャックにおける人命尊重を主張するハト派が強硬策をよしとするタカ派を刺し殺したけれども、恐らく全國津々浦々でその種の激しい論爭が行われた事であろう。が、「お前が人質になつても強硬策をよしと考へるか」と反問されれば、タカ派は返答に窮したのではないか。私はもとよりタカ派である。が、私は返答に窮しない。私がもし人質となつたとする。そして赤軍に武器を突きつけられ、素裸になつて鰌掬いを踊れば助けてやると言われたとする。そして私が、誇りを捨て素裸になつて鰌掬いを踊り、無事に歸國したとする。それでも私は、サンデー毎日の記者のような意見は決して決して口にしない。自分が臆病者である事を認める事と、「勇ましいことを言つてゐる」他人もやはり臆病であろうと勘繰る事とは雲泥の差だからである。
例えば週刊新潮十月十三日號で勝田吉太郎氏は、「命あつてのモノダネ主義、命のためなら、人間的品位も國の威信も名譽も法體系遵守の氣風も、みんな消し飛んでしまう風土」を痛烈に批判してゐるが、そういう勝田氏が人質になつたら、私と同樣素裸で鰌掬いを踊るだらうなどとは、私は絶對に思ふまい。それは人間の美しさを否定する事だからであり、そうなれば生きてゆく事も無意味になるからである。そして私が、自分は所詮僞物であつたと自覺してその屈辱を忘れずに生きるとすれば、それは私がこの世のどこかに本物の人間がゐる事を信じてゐるためである。T・S・エリオットの言うとおり、そういう人生もまた生きるに値する人生なのだ。
(昭和五十二年十月二十五日) 
公正か人格の統一か
例えば辻村明氏は、我國の大新聞の無節操を批判し、正しい新聞のあり方を説いて倦む事を知らない。その情熱を私は大層立派だと思つてゐるが、氏の批判に新聞が耳を傾け多少なりとも反省したかということになると、それは大いに疑わしい。例えば朝日はかつて宮澤四原則を高く評價し、「何が何でも日ソ平和条約締結を急げ」という「やり方は自制すべきであろう」と書いたのだが、昨今は「条約の早期締結をためらうべきでない」と主張してゐるのであり、雄川健一氏の言うとおり、これはまことに「臆面もない話」である。
が、そういう鐵面皮の無節操は朝日に限らない。そこで週刊現代十一月三日號は、讀賣、朝日、毎日の「ソ連禮賛キャンペーン」を取上げ、その無節操ぶりを批判してゐるのである。現代が書いてゐるように「この數カ月の間にソ連がガラリと變わつたわけではあるまい」に、一轉して三大紙がソ連の鼻息を窺い始めたのはまさしく不可解である。
朝日と言へば週刊朝日は奇妙な週刊誌である。上品で落着いてはゐるが壓倒的な魅力が無い。サンデー毎日を讀むと私は腹が立つ。が、週刊朝日を讀むときの私はあまり腹を立てない。けれども、そのかわり、膝を打つて感動するという事も無い。朝日新聞の場合は、週刊現代が批判してゐるように、連載記事「ダッカ・ハイジャック・上」で強硬論の臺頭に不安を表明しながら、同じ紙面に「強硬論の最たるもの」というべき青木特派員の文章を載せてゐるのであり、これを要するに、朝日新聞社の中に、青木特派員の意見を支持する者がかなりゐるという事なのかも知れぬ。そして週刊朝日にも強硬論を唱える者がゐるのだらうが、どうやらこのほうは頁數の一部を占拠するほどの勢力ではないらしい。そのためか、出來上がる記事は白でも黒でもない灰色の、害も無いかわりに益も無い代物になつてしまうのではないか。
だが、週刊現代もいささか奇妙である。十一月三日號は赤軍ハイジャック事件を扱い、清水幾太郎氏と久野収氏の見解を紹介してゐるが、清水氏を支持する讀者にとつて久野氏の見解は、それこそ青木特派員の言う「エセ平和主義」者の世迷言としか思えまい。現代は「朝、毎、讀の赤軍報道」を「一貫して人命尊重は一紙もなし」と批判してゐるのだが、では夫子自身はどうなのか。三大紙のソ連賛美の無節操を叩く現代は、十月二十七日號では石原慎太郎氏の「爆彈發言」を載せ、四人の識者の意見を載せてゐるが、現代自身の見解という事になるとさつぱり解らないのである。
私は無論石原氏の「放言」を支持するが、石原氏を支持する事と(或いは、石原氏の 「爆彈發言」を掲載する事と)、所謂「日韓ゆ着」に騷ぎ立てる事(九月一日號)とが、いとも氣輕に兩立しうるらしい週刊現代の體質を、私は頗る奇異に感じる。福田恆存氏の言う通り、「公正よりは人格の統一のほうが、はるかに美徳」だと信じてゐるからである。
(昭和五十二年十一月十二日) 
私事を語れる天國
實はこのところ一週間ばかり、入院していました。なにもこれというほどの病氣じゃないんですが、痔を少しばかりこじれさせましてね。ちょうど大學は期末試驗とそれに續いての秋休みで、しばらくは授業のない時期にあたります。この際、二週間ほど休息の時間がとれそうなので、思ひ切つて手術を受けようと思つて、近所にある醫科大學の付屬病院に入院したんです。痔の手術というと、痛いことになつていますが、私は十二年前に一度やつていますから、どの程度の痛さかという點については、見當がついてゐる。なにもそれほど大層な痛さじゃないんです。せいぜい一晝夜がヤマで、それだつて耐えがたいというほどじゃない。なにしろ鎮痛劑その他が發達していますからね。ウツラウツラしてゐるうちに、いちばん痛い時期はいつの間にか過ぎてしまうのがわかつてゐるので、少しも心配はいらない。
以上でほぼ四百字である。かういふ調子でもしも私が、このコラムに痔の手術について長々と語り始めたら、サンケイ新聞は私の發狂を確信し、躊躇無く私の原稿を歿にするに違い無い。言うまでも無く、このコラムは週刊誌を批評する目的でもうけられたものだからだ。從つて引用したのは私の文章ではなく、週刊現代十月二十日號の江藤淳氏の文章であり、それを斷らずに敢えて長々と引用したのは、「この原稿料泥棒め」と讀者に思つて貰いたかつたからである。
江藤氏は三囘にわたつて痔の手術について書き、十一月十七日號では「醫大の眼科に出掛け」た話を書いてゐる。江藤氏の場合は特定の目的をもつた文章を書かねばならぬ譯ではないのだらうが、随筆にもせよ、その種の私事を書き綴つて原稿料を貰う無神經は、私にはどうにも納得出來ない。手術後、江藤氏のガスや大便が「めでたく貫通」しょうが、讀者にとつては何の關りも無い筈だからだ。
昔は綴方と稱し、今日作文と稱するものは、小學生が書くものである。「僕は六時に起きて顔を洗いました。そして僕は齒を磨きました。そして僕は朝御飯を食べました。そして僕は・・・・・・」。かういふ類の文章は小學生だけが書く事を許される。大人にとつて私事は語るに値しないからである。
江藤氏の大便が「めでたく貫通」しようと讀者には何の關りも無い筈だと私は書いた。が、遺憾ながらわが國では、私事を語る名士に對して讀者はすこぶる寛大なのである。
それゆえ私小説は今日まで生き延び、週刊誌は名士の私事をあばき、その手記を漁る。そういう例はそれこそ枚擧に暇無しだが、例えば週刊文春十一月十日號に寄稿してゐる羽仁進氏がそうである。別れた妻の妹と結婚しようとしてゐる「男の心情」なんぞ、決してありのままに語られる筈は無い。所詮は綺麗事である。が。大方の愚かな讀者はそうは思はない。アンブローズ・ビアスは天國を定義して、私事を長々と語つても皆が傾聽してくれる場所だと言つた。それは日本の事である。
(昭和五十二年十一月二十六日) 
非人間的な自己批判
これまで私は週刊新潮及び週刊サンケイの惡口を言つた事が無い。なぜ兩誌を批判しないのか、このコラムをもうけるに當つてサンケイ新聞は、「齒に衣着せぬ」自社に對する批判をも掲載すると宣言したではないか。にも拘らず、私が週刊サンケイを批判しないのは納得出來ないと、そういう文面の手紙を讀者から頂戴した。私が週刊サンケイを批判しないのは理由あつての事である。サンケイとしては、時に週刊サンケイをも批判して貰いたいと考へてゐるだらうが、私に無理矢理それをやらせる譯にもゆかず、少々困つてゐるかもしれぬ。それは人情として當然の事である。が、自分で自分を批判するという公正は、聖人君子ならばともかく、いや聖人君子といえども遂に身に付ける事の叶わぬ非人間的な美徳なのである。それがいかに非人間的かを知るためには、かつて中國で屡々行われた自己批判なる愚行を思ひ出せば足りよう。
要するに、サンケイの惡口を私がサンケイに書き、サンケイがそれを好んで掲載する、そういう事は望ましい事ではないのである。それは公正という美名に酔う愚かしい茶番でしかない。シェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』で、「友は友の瑕瑾を許すべきだ」とキャシアスに言わせてゐる。「恥部」は誰にもある、週刊サンケイにもある。例えばポルノの廣告は無いほうがよいに決つてゐる。が、サンケイは私の友である。友は友の瑕瑾を許してよいと私は考へる。ブルータスの公正は身方を破滅に追いやつたではないか。 週刊新潮の場合も同樣である。新潮もわが友であり、これは陰性の友である。もとより天邪鬼の新潮には天邪鬼特有の危險があつて、私も天邪鬼だからそれはよく知つてゐる。新潮もよく知つていよう。新潮は滅多な事では驚かない、度を越えて怒るという事が無い。それは美點であり欠點である。例えば新潮は時折猥褻なグラビアを載せるけれども、あれは擦れ枯らしの陰性の猥褻であつて、それゆえかえつて煽情的でないのである。一方、週刊文春にその種のグラビアが載る事は無い。そして文春はよく驚き、よく怒るのであつて、例えば十二月一日號、「朝日新聞の恥部」を扱つた記事は、「恐るべきといおうか、すさまじいといおうか」云々の文章で始まり、「こんなムチャクチャな話があるだらうか」云々で終るのだ。文春の記者は朝日新聞の暴力團的體質に驚き、怒つてゐるのである。そしてもとより文春もわが友であつて、こちらは陽性の友である。この陽性の友には陽性の友特有の欠點がある。それは美點と一體になつてゐる。文春はそれを承知してゐると思ふ。承知してゐると思ふから、私は敢えてそれを言わないのである。なるほどそれは公正ではない。が、人は公正たらんとして遂に公正たりえぬものなのだ。中國では親の犯した罪を共産黨本部に密告する子供の公正を稱えるそうだが、それこそは許し難い非人間的行爲なのである。
(昭和五十二年十二月十日) 
長持ちする同情
例えば企業が惡者だという事が明らかなら、所謂公害病患者はその企業を憎めばよい。「怨念」の筵旗を立て企業の責任を糾彈して、怒りに身を震わせる事も出來よう。が、この世には誰のせいでもない不幸というものもある。「拒食症のわが子を死に至らしめたとして殺人罪に問われ、その直後自殺した」銀行支店長針カ谷博氏の不幸も、そういう類の不幸だつたと思ふ。
針カ谷家には餘人の想像を絶する苦しみがあつたに相違無い、本當にお氣の毒だと思ふ。だが、週刊文春十二月十五日號が紹介してゐる針カ谷氏夫人の「痛哭の手記」を讀んで、私にはどうにも納得出來ない部分があつた。針カ谷氏を取調べた刑事の輕佻浮薄、警察の發表を鵜呑みにした新聞記者の怠慢、そういう事は多分夫人の言う通りであろう。
從つて針カ谷家に對するマスコミの非情を咎めた『支店長はなぜ死んだか』の著者上前淳一郎氏は無駄な事をした譯ではあるまい。が、上前氏の著書を「感謝と共に」讀み終えた夫人は「違う」と獨り呟いたという。そして夫人は「わたしが直子を殺した」のだと言い、自らを告發してゐるのである。果してそうか。針カ谷博氏は「佛の父親」であり、夫人は「鬼の母親」なのか。私はすこぶる疑問に思ふ。
「眠つてばかりゐる」子供をそのままにしておけば死ぬ。針カ谷氏は「明日の朝、先生に電話してみる」と言つた。夫人は哀願した、「止めて下さい」。「この一言を夫は默つて聞いて」いたと夫人は言う。非情な事を敢えて私は言う。針カ谷氏が夫人の「氣持を汲み」それに從つたのなら、罪は針カ谷氏にもある。夫婦は同罪である。私は所謂安樂死は絶對に認めない。「植物人間」とは植物の如き人間なのであり、人間の樣な植物では斷じてないのだ。
それに私は告白なるものを信じない。それはいかに赤裸々のものであつても必ず自己正當化の虚僞を含む。針カ谷夫人の告白もそうである。例えば、警察やマスコミに越度があつたという事實と、夫妻が直子ちゃんを死に至らしめたという事實とは無關係なのだが、夫人はその二つを分けて考へていない。但し、私は夫人を非難してゐるのではない。わが子を殺したのは夫でなく自分だと告白し、夫を庇おうとしてゐる夫人の動機の美しさを私は疑わぬ。だが、安易な同情は苦しみのた打つ人間に對する侮蔑なのである。相手には苦しみを耐え抜くだけの力が無いと判斷する事だからだ。それゆえ針カ谷夫人に言いたい、あなたは二人の子供を立派に育てなければならない。週刊文春によれば、あなたは手記を書くにあたつて「原稿のマス目の埋め方から」習つたという。が、今後のあなたは何も書かぬほうがよい。ひたすら耐えて生き抜いて貰いたい。
最後に週刊文春に一言。扇情的な週刊誌ならばともかく、文春は今後、他者の不幸に對してもう少し嚴しい同情をして貰いたい。嚴しい同情は長持ちするのである。
(昭和五十二年十二月二十四日) 

 

ニセモノ横行時代
いつの世にもニセモノはいたに違い無い。だが、所謂大衆社會化現象とともにニセモノ横行の風潮は顕著になつたのである。例えば先の參議院選擧における田英夫氏の得票は最高位であつた。が、その田氏は週刊現代十二月八日號で、サダト大統領がイスラエルを訪れた事は「福田首相が北朝鮮を訪れ、金日成主席と會談したことと同じ」だと言い、日本としては「何よりも中近東の平和を望み、イスラエルの占領地からの撤退と、パレスチナ國家の建設を支持する」との聲明を出すべきだと言つてゐるのである。何ともはや粗雜な意見であつて論評の限りではない。田氏はニュースキャスターとしてはプロだつたのかも知れないが、政治家としてはアマチュアである。
が、昨今人々はプロよりもアマチュアを喜ぶ。流行歌手も政治家も素人臭いほうが俗受けする。週刊新潮十二月十五日號は「戰前は李香蘭、戰後は山口淑子として一時代を畫した」大鷹淑子環境庁政務次官の實力を疑う記事を載せてゐるが、大鷹次官は初登庁の際、「少々うわずつた聲で」あらぬ事を喋り出し、聞いてゐた職員たちは「いつたいどうおさまるのかハラハラし」たそうである。けれども大鷹女史も、映畫女優としてはプロの實力を備えてゐたのであろう。
一方、週刊ポスト一月六・十三日號には高見山と三ッ矢歌子との對談が載つてゐる。何とも愚劣な對談であつて、紙代・印刷代の無駄遣いとしか言い樣が無い。高見山の場合も力士としてはプロだらうが、インタビュアーとしては素人なのだ。「夜のGOサインはドッチが出す?」とか「三ッ矢さんのところは一週間に何囘なんスか」とか、訊くほうも訊くほうなら、答えるほうも答えるほうである。そういうどんな馬鹿でも思ひつく樣な質問を連發して、それでギャラが稼げるとなると、横綱大關を狙つて稽古に精を出す氣には、とてもなれないに相違無い。
けれども、田氏にせよ、大鷹女史にせよ、高見山にせよ、プロとして通用する世界では一應の努力はした筈である。いわば三人とも、本物としての名聲を利用して目下ニセモノとして稼いでゐるという譯だ。そして、高見山の對談がいかに愚劣でも、力士高見山のファンにとつてはけつこう樂しく讀めるという事なのかも知れぬ。が、サンデー毎日新春特大號の元外相木村俊夫氏令嬢の特別手記「もちこの結婚」は、一體誰を樂しませる積りなのか。令嬢にはプロとしての名聲など何もありはせぬ。元外相の娘として生れた事は努力の賜物ではない。從つて手記を讀んで樂しむのは、もちこさんと木村家の人々だけという事になる。何たる無駄遣いか。もちこさんとサンデー毎日に、ラ・ロシュフコオの次の箴言を贈りたい。「われわれは、自分の話をするとき、はてしない樂しさを感ずるものだが、それにつけても、それを聽かされる人が、てんで嬉しくないことは、われわれのほうで心配してもいいはずだ」。
(昭和五十三年一月七日) 
見事なり、宮本顕治
週刊新潮は「反共週刊誌」だそうである。もしもそうなら、敵の失態は快いものだから、日共を除名された袴田里見氏の手記を入手して、週刊新潮がにんまりしたとしても不思議ではない。だから、新潮の記者が「袴田氏の眞實への情熱は(中略)生き生きと燃え續く」などと大仰な文を綴つても、私は快く不問に付す。
が、ふだん進歩的なポーズをとつてゐる週刊誌までが、日共の「一枚岩的組織のもろさ」を笑い、日共と袴田氏の論爭の低次元を批判してゐるのは納得出來ない。例えば週刊現代は今囘の除名騷動は「陰湿、醜惡な話」であり、「事態は泥沼化、低次元化するばかりで、前衞、革新のイメージなど、まつたくない」と書き、週刊ポストは日共の「權力抗爭」は「自民、社會黨以上の醜惡さを極めてゐる。天下の公黨のなりふりかまわぬメンツの捨て方に國民大衆は、ただただ、あきれかえるばかり」だと書いてゐるのである。
「國民大衆」の反應を直接確かめようが無い私としては、ポストのような斷定は控えるが、「國民大衆」は多分呆れてなどいまい。煽情的週刊誌に馴れ親しんでゐる「國民大衆」がさまで道徳的だとは思えない。
一方週刊現代は日共・袴田論爭を陰湿、醜惡、低次元と形容するが、週刊現代には陰湿、醜惡、低次元の派閥爭いは存在しないのか。週刊現代は君子の集まりなのか。そんな筈は無い。君子の集まりがあのように人間的な週刊誌を作る筈が無い。それなら、「前衞、革新のイメージ」なるものを政治に期待しないで貰いたい。「君子は交わり絶ゆるも惡聲を出さず」と言う。が、交わり絶えて口汚く罵り合うのが人間の常であり、その事に保守革新の別は無いのである。
ところで私は判官びいきは好まない。それゆえ敢えて宮本委員長を辯護したい。今囘の除名騷動について週刊誌は樣々な意見を述べてゐるが、宮本氏に對し同情的なものは皆無であつた。日共が「天下の公黨」なら、これは少々片手落ちだと思ふ。
私は以前、サンケイ新聞の直言欄に「日共は日本という特殊な風土の中で風化してしまうのではないか」と書いた事がある。私は日共の風化を望まない。それゆえ、この微温湯のような風土の中で、刎頸の友を斬つてまで「天上天下唯我獨尊の宮本獨裁」體制を維持せんとする宮本氏の決意をあつぱれだと思つてゐる。赤旗擴張か大衆運動かという所謂路線問題にしても、私は宮本氏を支持する。袴田氏は「赤旗擴販による黨員の精神的・肉體的疲勞」を言うが、たかが新聞を賣る苦勞に耐えられぬ黨員に、どうして「幾百萬の大衆が參加する大衆運動」などが組織出來ようか。
宮本氏としては、この微温湯的な日本國が亂世を迎える日まで、微笑戰術を續けつつ、非情な獨裁體制はこれを維持するしか無い。久しぶりの「宮顕のすごさ」を私は見事だと思ふ。
(昭和五十三年一月二十一日) 
新奇を追うなかれ
除名覺悟の手記を發表するにあたつて、袴田里見氏が週刊新潮を選んだ經緯を私は知らない。とまれ、週刊新潮二月二日號で袴田氏は「スパイ小畑を殺したのは宮本顕治である」と書き、再び世間は驚いたのである。
週刊文春編集長の言葉を借りれば、袴田氏が「宮本委員長と戰端を開くようになろうとは、かなり黨に近い人の情報でも予想できなかつた」そうであり、「それだけにこの手記は週刊誌界のイベント」だという事になる。
けれども私は、袴田手記の内容以上に、手記を入手したのが新潮だつたという事のほうを興味深く思ふ。なぜなら、手記を新潮が入手したのは、或いは袴田氏が新潮を選んだのは、新潮がすべての週刊誌の中で最も信頼しうる「反共」だつたからであり、日本に共産黨單獨内閣が成立する日まで、新潮の編集方針は變らないと考へるからである。
かつてこのコラムで私は、左右を無差別に叩く公正よりも人格の統一のほうが美徳だと書いたけれども、新潮はそういう美徳を持つ週刊誌なのだ。自らが正しいと信じた事を、新潮は貫き通して右顧左眄する事が無い。
例えば表紙がそうである。創刊號で谷内六郎氏の繪を表紙に用い、以來それを變える事が無い。谷内氏が繪筆を握りうる限り、新潮は表紙を變えぬだらう。新奇を追いマンネリを恐れるのも弱い精神なのである。
ヤン・デンマン氏の「東京情報」もそうであつて、氏の連載は九百囘に及ぼうとしてゐる。そして、デンマン氏はこう書くに違い無い、と讀者が期待するような事を、デンマン氏は書く。そういう樂しみがあつて新潮を買う讀者はかなりゐるに違い無い。新潮にはかなりの固定讀者がいてこれまた共産黨内閣成立までは新潮を買いつづけるという譯だ。
一方、週刊文春も日共から「反共週刊誌」と目されてゐる。實際、文春一月二十六日號の「讀者からのメッセージ」にもあつた通り、かつて文春に掲載された日共についての記事が、今囘袴田手記によつて「事實であつた事が證明された」とも言いうるのである。新潮が手記を入手して文春としては殘念だつたろうが、「週刊誌界のイベント」だと評し、ライバルの功績を稱えた文春の編集長は立派だと思ふ。けれども、文春を愛するがゆゑに私は編集長に一つ注文しておきたい。
文春は新潮以上に編集に工夫を凝らしてゐると思ふ。新潮のような傳統が無い以上、それは當然の事であり、試行錯誤もまたやむをえない。けれども、文春は少しくルポ・ライターに頼りすぎる。例外は勿論あろうが、ルポ・ライターにはとかく哲學が無い。つまり人格の統一が無い。右の「恥部」であれ左の「恥部」であれ、ハイエナの如く禿鷲の如く貧婪に食いつくのである。そういうルポ・ライターに頼りすぎると、雜誌の性格までが徐々にルポ・ライター的になる。それを文春は何よりも警戒して貰いたい。
(昭和五十三年二月四日) 
「ちょつとキザ」な文章
自衞隊の栗栖統幕議長が、防衞問題專門紙『ウイング』一月號に「專守防衞と抑止力は並存しない」と書き、社會黨の石橋氏が、衆院予算案で栗栖氏の意見を激しく批判した。すると、一月二十八日のサンケイ新聞紙上で牛場昭彦記者が「國會というところは極めて當たり前の事が時に問題になるまか不思議なところだ」と書き、「消極防衞」こそは虚構であつて、栗栖氏の「正論」を見直すべきだと主張したのである。牛場記者の意見に私は全面的に賛成だが、ここで防衞問題を論ずる譯にはゆかないから、なぜ賛成かについては書かない。とまれ牛場記者の文章は男性的なよい文章である。が、そういう文章は女性的な今日の日本では俗受けしない。俗受けを狙うなら、例えば磯村尚徳氏が書くような文章でなければならぬ。とまれ、牛場記者には防衞問題に關する豐かな知識があり、また自己の信念を貫くだけの覺悟がある。それは氏の文章が明確に示してゐる。「文は人」だからだ。
一方、週刊讀賣が連載してゐる「磯村尚徳のサロン」の文章には、この種の覺悟が全く欠けてゐる。磯村氏は「NC・9を放送してゐた當時“ミスター・ゴメンナサイ”というニックネームをちょうだいした」そうだが、最近再び自分の書いた文章について「ごめんなさい」という文章を書き、それが「讀者のご好評をいただいてゐるとのことでした。うれしいことです」と書いてゐる。何よりも磯村氏は俗受けを狙う「です」體のいやらしさを意識していない。氏の文章は甘くて、「ちょつとキザ」で、卑屈な文章である。そして甘い文章は甘い思考にふさわしい。福田恆存氏は劇團すばるの機關誌最新號で、「です・ます」體の文章をよしとする外山滋比古氏の輕薄を痛烈に批判してゐる。讀者及び磯村氏に一讀をすすめる。
ところで、進歩的だとされてゐる朝日新聞にも牛場記者の如き人物はゐるはずだと私は考へてゐる。なるほど、サンケイがすつぱ抜いた家永三郎氏の變節問題では、朝日新聞は奇怪な態度を採つたし、週刊新潮二月十六日號が批判してゐるように、「動勞千葉の甘つたれぶりも鼻もちならぬ」と書いた朝日が過激派の抗議に屈服したのはまことに嘆かわしいが、週刊朝日二月二十四日號の頗る啓發的な座談會「米海軍長官證言で問われる非核三原則の虚構性」、及びアメリカ總局の村上吉男記者による「日本だけが米核戰略の例外ではない」という文章を讀めば、朝日にも國際情勢について現實的な認識をする人々がゐるという事實を疑う事は出來なくなる。朝日には所謂タカ派もゐるに違い無い。そして、村上記者の文章もよい文章である。嚴しい認識を欠く者が甘い文章を書く。磯村氏の文章のような、讀者に媚びる女性的な文章で、どうして天下國家を論じられようか。氏はキッシンジャーに會う事は出來たが、キッシンジャーと國際問題を論じた譯ではないのである。
(昭和五十三年二月十八日) 
暴力も支持すべし
滋賀縣野洲郡で發生した中學生による殺傷事件について、週刊朝日三月三日號はこう書いてゐる。「事件は確かに異樣であつた。(中略)マスコミは少年たちの異常性を並べたて、世間のおとなたちはヒステリックに嘆いてみせた。だが、この事件は、本當に異常な例だつたのか。事件の騷ぎに惑わされて、大切な“何か”を見過ごしてはいないか。そんな思ひで現地へ向かつた」
のつけからかういふ文章を讀まされると、世人が見過ごしてゐる大切な「何か」とは何かという事を、記者は現地へ向う前から知つてゐたのではないかと、そんなふうに勘繰りたくなる。自分が見たいと思つてゐるものしか見ないのが、惡しきジャーナリストの常だからだ。週刊朝日の記者は、凶惡犯罪を犯した中學生が「みんなおとなしい良い子」だつたに違い無いと、新幹線に乘る前から考へてゐた。そして、現地で予想どおりの證言を集めて來た。わざわざ滋賀まで出掛けて得て來た結論の凡庸を思えば、そう解釋してやるのが好意というものであろう。とまれ結論はこうである。「ごく普通、といえる中學生が、仲間同士のスジを通すために、あるいは根性を見せるために、何のためらいもなく殺人に突つ走る、というのは確かに大人の理解を超えてゐる。恐るべき短絡、である」
では、大切な「何か」とは何か。どうやらそれは、「おとなしい良い子」といえども「何のためらいもなく殺人に突つ走る」ものだ、という事らしい。何とも馬鹿らしい結論である。朝日ジャーナル二月二十四日號によれば、滋賀縣警は、問題の中學生たちが「タバコは吸う。授業は抜け出す。酒は飲む。暴力は振るうし、恐喝まがいのタカリはやる」といつた状態だつたと語つたそうである。それが「おとなしい良い子」なのか。冗談ではない。それは紛れも無い与太者である。そして、非行少年の肩を持ちたがり、「大人の理解を超えてゐる」などと「嘆いてみせ」る大人の存在こそ、そういう度し難い子供を育て上げるのだ。
朝日ジャーナルにしても、「私たちはいまだに、彼らを殺人にかりたてた眞の要因をつかみがねてゐる」と書いてゐるが、笑止千萬である。成田空港反對派に對して同情的な朝日ジャーナルが、それを「つかみかねてゐる」とは何事か。滋賀の中學生は成田の大學生と同じ衝動に從つて動いたまでの事だ。朝日ジャーナルに限らぬ、前者の暴力には當惑し、後者の暴力には喝采をおくるジャーナリストには、暴力に關する嚴しい認識が無い。この際、そういう進歩的ジャーナリストに言つておく。過激派の正義を支持する以上は、その暴力をも公然と支持して貰いたい。安手のヒューマニズムなどをちらつかせず、正義のためには血を流すべしと堂々と主張して貰いたい。暴力に上等下等の別は無い。滋賀の中學生もまた、ささやかながらけちな正義のために血を流したのである。
(昭和五十三年三月四日) 

 

知識はタダならず
二月二十日、朝日新聞は値上げの社告を出した。が、讀賣新聞は定價の据え置きを決め、讀賣の販賣店は「かなりエゲツない内容」のチラシをばらまいた。憤激した朝日の販賣店は讀賣の販賣店を告訴し、かくて「朝日VS讀賣の“全面戰爭”が勃發した」という。すでに本欄で生田正輝氏も指摘してゐるとおり、これはまことに情け無い戰爭である。そこで週刊誌もこの大新聞の「恥部」を取上げ批判する事となる。例えば週刊文春は、朝日の二重價格について「讀者を愚弄してゐる」と書き、週刊ポストは「讀者不在のケンカざんまい−これほど國民を愚弄した話はあるまい」と書いてゐる。だが、愚弄する側を一方的に批判するのはよろしくない。愚弄される側にも越度はあるのである。
朝日は三百圓の値上げを決めた。つまりセブンスター二箱分である。一月三百圓の餘分の出費を嫌つて他紙に鞍替えするような讀者を、私は輕蔑する。それはいわゆる「擴材」に目が眩んで購讀紙を決める手合であつて、それなら愚弄されても仕方が無い。と同時に、そういう情け無い讀者をも取り逃がすまいとして「全面戰爭」を戰わねばならぬ大新聞を、私は「お氣の毒」に思ふ。そういう血腥い戰爭をやつてまで大新聞が獲得しようとしてゐる讀者とは、實は甚だ淺薄な讀者なのである。私はそういう讀者を一人知つてゐる。彼はサンケイから毎日に鞍替えしたのだが、その理由は經濟的苦境に立つ毎日が「お氣の毒」だから、というのである。
新聞は安すぎる。週刊誌も安すぎる。これまで週刊誌の惡口をずいぶん言つたから、ここらで少少週刊誌を喜ばせたいが、週刊現代にせよ週刊ポストにせよ、大新聞の批判勢力としての努力だけを考へても、百五十圓は安すぎると思ふ。新聞も週刊誌も値上げすべきである。一カ月に三百圓なら、一日十圓ではないか。知識というものの價値を見縊つてはいけない。「文盲は惡ならず」とE・M・シオランは言つてゐる。それは半面の眞理である。が、どんなに低俗な知識でも、無いよりは有つたほうがいい。そして知識を手に入れるには、それなりの金を支拂わねばならぬ。週刊誌一冊が提供する知識に對して百五十圓は、不當なまでに低額だと私は思ふ。けれども、そんな事を言つても無駄なのである。一方でテレビという怪物が、無料で大量の知識と娯樂を提供してゐるからだ。いや、吾々はNHKに受信料を、電力會社に電氣代を支拂つてゐる、と人は言うかも知れぬ。が、テレビを見てゐる時、吾々はそれを意識してはいまい。かくて、知識も娯樂も無料で受取るという嘆かわしい風潮が生じたのである。NHK受信料の不拂い運動なるものが行われてゐるそうだが、とんでもない事だ。この際、民間テレビも受信料を取立てたらよい、私は本氣でそう思つてゐる。
(昭和五十三年三月十八日) 
なぜ早稲田なのか
毎年の事ながら、このところ週刊誌は受驗戰爭に乘じて大いに稼いでゐる。例えば週刊朝日三月二十四日號は「受驗長期予報第二彈・來年の國公立大二次試驗」、「速報・大學合格者高校別一覽」、及び「東大二次試驗問題速報」の三本立てといつたあんばいだ。もつともそれは朝日に限らない。殆どの週刊誌が死の商人よろしく稼いでゐる。受驗戰爭も戰爭だから、死の商人が暗躍したところで不思議は無いが、「大學合格者高校別一覽」だの「東大入試問題速報」だのは、記者の頭を使う必要の全く無いしろものであつて、それを毎年繰返すとはまことに藝の無い話である。半人前のにきび面の高校生を相手にするのは、受驗雜誌かプレイボーイもしくは平凡パンチに任せておくがよろしい。
ところで、これまた「毎年の事」なのかどうか、それは解らないが、このところ週刊誌は屡々早稲田大學に關する記事を載せてゐる。例えば週刊讀賣は「“早大合格記念”のノボリを打ち立て、合格者をリヤカーに乘せて校内を一周する」という學生のアルバイトについての記事とグラビア、週刊現代は「直前指令!早稲田大學學部別入試突破のノウハウ公開」、及びこの三月早大文學部を定年退職する「名物教授暉峻康隆の全ワセダマンに告ぐ」、週刊ポストは「早大慶大三十倍競爭率の狂騒部分をえぐる」、そして平凡パンチは、早稲田大學受驗生十五萬人に接近遭遇」、といつた具合である。なぜこうもワセダばかりが持てるのか。察するに週刊誌界には早大出身の記者が多數いて、母校の事を話題にするのが樂しくて仕方が無いのかも知れぬ。が、そうだとするとそれはいささか公私混淆の母校愛である。この肌を擦り寄せる樣な盲目的母校愛は早大出身者の欠點の一つであつて、私は日頃唾棄すべきものと考へてゐる。また、他大學出身の記者が書いた記事だとすると、その心理は不可解である。他大學出身者の記者が早大の「學部別入試突破のノウハウ公開」などという記事をどうして書く氣になれるのだらうか。何十萬人の受驗生が押寄せようと、早稲田だけが大學ではないのである。
そして、これらの週刊誌の記者は早稲田が「ワセダらしくなくなつた」事を嘆く。ワセダマンは大隈精神を持つべし、野暮であるべし、反體制的であるべし、しかるに現今の早稲田大學は・・・・・・という譯だ。週刊讀賣四月二日號は「ますます“狭き門”早稲田、慶應」と題する記事の中で、「四年後の早稲田創立百周年事業として、早大カラーの強化を圖りたい」とする村井總長の言葉を引用してゐるが、「早大カラー」などというものの強化によつて、例えば大橋巨泉氏の如き人物をより多く輩出させる事が狙いなら、それは是非願い下げにしたい。早大に今必要なのは「名物教授」や「早大カラー」などではない。教員同士、學生同士の馴合ひを排しての嚴しい教育を行う事なのだ。
(昭和五十三年四月一日) 
健忘症もまた惡徳
週刊文春四月六日號によれば、成田空港反對同盟は「億の金を持つてゐるし、新左翼系の中の最も優秀な辯護士も用意してゐる」との事である。そこで文春は「かりに、めでたく開港になつたとしても、機動隊が常駐し、ゲリラがスキあらばと狙いすましてゐる空港が、どうして日本の“玄關”でありうるか」と書いてゐるのである。文春に限らない、殆どの新聞・週刊誌が、過激派による開港後の成田襲撃を懸念ないし期待してゐるようだが、私はそういう事態はまず起らないと思ふ。週刊新潮四月六日號によれば、反對同盟の戸村委員長は「パレスチナにくらべると我々の鬪爭はまだまだ甘い」と言つてゐるそうだが、その通りである。過激派を唆す譯では斷じてないが、成田を襲撃して政府に打撃を与えるには、開港後のほうが遙かに効果的だつた筈である。それを、開港前に管制室の機器を破壞して溜飲を下げるなどと、要するに彼等は戰爭ごつこをやつてゐるに過ぎない。戰爭ごつこだから、いずれ本氣ではない。どうでも廢港に追込もうなどとは思つていない。それゆえ私は、開港後の襲撃はまずないと考へる。が、新聞や週刊誌はこの戰爭ごつこに興奮し、「地元農民に十分な理解を求めず、權力を行使して、むりやりに空港を開こうとする政治の責任」を追及した。週刊新潮の言うとおり、すべてこれ猿芝居に他ならない。
しかしながら、過激派が開港後もゲリラ活動を續けるという事になつたとしても、それはそれで結構である。過激派が本氣なら政府も本氣になる。新聞も週刊誌も本氣で暴力と法について考へるようになる。それこそ私の何よりも望むところだ。政府は新聞を恐れてゐる、それゆえまず新聞がしつかりしてくれなければならぬ、と週刊新潮は言うのだが、それは百年河清を俟つようなものである。新聞に期待するくらいなら、私はむしろ過激派に期待する。過激派が本氣にならなければ、政府も野黨も新聞も週刊誌も、決して本氣になる事はない。
けれども、それも所詮は徒な望みであろう。日本の過激派は執念深くないのである。いや、過激派に限らぬ、日本人はすべて淡泊で執念深くない。新聞や週刊誌の讀者も執念深くない。執念深くジャーナリズムの既往を咎めるという事がない。例えば週刊ポストが、昨年十月、エネルギー危機は「幻想の危機」であると書き、二ヵ月後「世界的エネルギー供給危機が(日本の)經濟成長を減速させる」と書いても、讀者はそれを咎めない。週刊朝日四月十四日號で野坂昭如氏と井上ひさし氏は、開港後も自分たちは決して成田を利用しないと言つてゐる。が、いずれ成田から出國する兩氏の寫眞が週刊朝日に載るかも知れぬ。そしてその場合も、讀者は兩氏の食言を咎めないであろう。「新聞は讀者の健忘症の上に成り立つ」と林三郎氏は言つてゐる。それなら健忘症は惡徳に他なるまい。
(昭和五十三年四月十五日) 
相互理解の迷夢
尖閣諸島周邊における中國漁船群の領海侵犯事件が發生して以來、新聞や週刊誌は中國の動機をあれこれ詮索してゐるが、週刊ポストの表現を借りれば、目下のところ「中國内の内紛説から臺灣ロビーの陰謀説まで諸説紛々」であつて、その紛々ぶりを日本國民は大いに樂しんでゐると思ふ。
サンデー毎日で松岡英夫氏は、この問題が「突然の海底地震のように日本中をゆさぶつた」として、例の如く淺薄な文章を書いてゐるが、そんな事はない。領海を侵犯されたくらいでこの鈍感な日本國が地震のように揺れるはずはない。週刊新潮の言う通り「實に日本はのんびりした平和な」よい國なのだ。これは皮肉ではないと新潮は言つてゐるが、それは嘘なので、わざわざ皮肉でないと斷る事によつて、その實皮肉つてゐる譯である。
そういう譯で、出版社系の週刊誌は大いに讀者を樂しませたが、一向に樂しませないのがサンケイを除く大新聞の週刊誌である。週刊現代が批判してゐるように、大新聞は「社會面では“女郎屋の火事”式に騷ぎたて」ながら、社説では「意味のない解説と説教ばかり」を並べ立てた。が、例えば週刊讀賣は、騷ぎもせず説教もせずという全くの默りん坊なのである。
讀賣の編集長は「圓高も、成田も、尖閣諸島の侵犯事件も、すべてが別世界の繪空事のような氣が」すると言つてゐるが、これが本音なら、すなわち親中國の讀賣の社員として尖閣問題に騷げぬ辛さの表現でないのなら、ジャーナリストとして言語道斷の態度である。野次馬精神すら持ち合わせずにどうして編集長が務まるのか、私にはとても理解できない。
ところで、諸説紛々は自由社會においてのみ樂しみうる現象である。が、これまでのところ誰一人主張していない説があつて、それは尖閣諸島を放棄すべしという説である。新潮はそれを言いたげだが、さすがの天邪鬼も明言していない。朝日ジャーナルは、「海上自衞隊を出動させよ」といつた強硬論は「現實の論議としてこれほど虚ろなものはない」と言いながら、一方「日本にとつて主權を守る道は結局“武力”ではなく」近隣諸國との相互理解だと主張しており、これは全く馬鹿げた見解である。
強硬論の虚ろを言うなら、なぜ尖閣の放棄を主張しないのか。この期に及んで非武裝中立も等距離外交も「現實ばなれしてゐる」と週刊ポストは言う。その通りであつて、「相互理解」も同樣である。相互理解が不可能な相手というものはある。早い話が朝日ジャーナルと私との間にいかなる相互理解が可能なのか。
冗談と綺麗事は休み休み言つて貰いたい。強硬論を批判するのなら「日本の主權を捨てて屈從する」しかないと主張して貰いたい。それなら私も賛成する。日本は弱小國なのだ。最後はアメリカに助けて貰えると信じ切つてゐる甘つたれの弱小國なのだ。そして弱小國に屈辱感は不要である。この際日本は尖閣諸島も竹島も北方領土も放棄して、「のんびりした平和な」國でありつづけるに如くはない。
(昭和五十二年四月二十九日) 
思考の徹底を望む
ソ連領空に迷い込んだ大韓航空機が強制着陸させられた事件については、ソ連の對應を非人道的だとして非難する向きもあるようである。が、それは私には納得出來ない。例えば週刊新潮五月四日號は「ソ連機の發砲に、いかなる正當性の主張があろうとも、相手は無抵抗、丸腰の民間航空機である」と書いてゐる。勿論、新潮は「人命尊重のお題目」が今囘の「事件であつさり紛砕された」と言つてゐるのであり、サンデー毎日五月十四日號の如く、「國家の威信より乘客の命」を大切にしようなどという戯言を言つてゐるのではない。が、ソ連に對して抗議することはできないとする外務省の見解は正當であり、それが正當である事を認めながらも、なお外務省の「冷靜」のまやかしを發きたいと思ふなら、新潮はもつと物事を徹底して考へなければならない。今囘の新潮の記事はその點、中途半端であつて、それゆえ大韓航空機がコンピューターを積んでいないという事實と、大株主小佐野賢治氏のけちとを結びつけるが如き、けちくさい根性が丸出しになるのである。ジャーナリストたる者は、物事を考へぬいて貰いたい。國際法上正當な行爲とは何か。それはなにゆえ正當なのか。國際法に限らず、すべて法とは相對的なものではないのか。それなら、正義とは力なのか。
もとよりそういう問題を、かういふコラムで論ずる譯にはゆかない。それは例えばパスカルを苦しめた問題であつて、苦しんだ結果人は幸せになる譯でもない。それゆえパスカルも時々「これは大衆に言うべき事ではない」と書いたのである。が、ジャーナリストは世人が自明の理としてゐるものを徹底的に疑わねばならぬ。徹底的に疑えば「これは大衆に言うべき事ではない」と考へるようになる。それを言う事が政治的に賢明かどうかの判斷が必要となる。が、我國では、ジャーナリズムのみならず學者の世界でも、中途半端な思考を政治的賢明と誤認しがちなのである。
私はそういう不徹底な物の考へ方を好まない。前囘私は、尖閣も竹島も北方領土も放棄すべしと書いた。憲法前文に則して論理的に考へれば當然そういう事になるからだ。
ソ連も中國も韓國も、平和を愛し「公正と信義」を重んずる國家なので、ソ連が北方領土を返さないのも平和を愛する國の「公正」な行爲であつて、日本としてはソ連の「信義に信頼して」ゐる以上、北方領土は放棄するしかないという事になる。かういふ言い分は詭弁か、書生論か。週刊文春五月十一日號で野坂昭如氏は「自衞隊は人間の集團であり、これだけの歴史を持つてしまえば、違憲だとわめき立てても、無理なのだ」と言つてゐる。が、この卑屈な戯作者の文章は、合憲論としては頗る非論理的である。私は改憲論者だから、この種の野坂氏の輕佻浮薄を喜ぶ。が、一方、既成事實に揺がず、論理的に承服出來ぬものに對して「否」を言いつづける精神を欠く昨今の風潮を、大變危ないとも思ふ。
(昭和五十三年五月十三日) 

 

「討論ごつこ」の愚
『月曜評論』五月二十二日號のコラムニストは、『諸君!』六月號の「“ごつこ”の時代は終つたか」と題する江藤淳・中島誠兩氏の對談を痛烈に揶揄してゐる。兩氏の對談は「出來そこないの漫才」であり、江藤氏は「もう二度と左翼相手のニコポン」をやるべきでないと言うのである。全く同感だが、咎めらるべきは專ら江藤氏だと私は思ふ。中島氏は「無知無能」であり、それなら中島氏を咎めても仕方が無い。無知のほうは努力次第で何とかなるかも知れないが、無能につける藥は無いからである。が、江藤氏は無知でも無能でもない。江藤氏の對應ぶりを私は本氣だとは思はない。中途半端な新左翼相手に「まつたく同感だなあ」などと相槌を打ちながら、心中ひそかに中島氏を輕蔑してゐる。輕蔑しながら相槌を打つ事を政治的賢明ないし保身の術だと考へてゐる。そういうぬえ的狡猾を、私は無知無能よりも嫌う。何の事はない、江藤氏は「討論ごつこ」をやつてゐるに過ぎぬ。「出來そこないの漫才」たるゆゑんである。
週刊文春五月二十五日號に、鹽野七生女史がイタリアの元首相モロ氏の殺害事件について頗る興味深い文章を書いてゐる。モロ氏はキリスト教民主黨のアンドレオッティと共産黨のベルリングェルとが「虚々實々の驅け引きの末にあみあげた白と赤のレースあみの、中心に使つた一本の糸」であり、その糸は「白好きの人が見たら白に見えるが、赤好きの人が見たら、赤ではないがピンク色には見えるという、便利な糸」だつたと、鹽野女史は言う。要するにアンドレオッティもベルリングェルも、知能犯的狡猾をもつて「ごつこ」をやつてゐたのであり、モロ氏は「ごつこ」に不可欠のぬえ的存在だつたという事になる。そして、ごつこを飽くまで拒否したイタリアの過激派「赤い旅團」は、そのぬえ的人物を血祭りにあげたのである。鹽野女史の文章の一讀を江藤氏に勸める。
ところで、ごつこの時代の處世術のモットーは「どつちもどつち」、つまり「右も左も蹴つとばせ」である。週刊文春五月十八日號の「成田ミニ戰爭に躍る國辱人間たち」と題する記事は、この「どつちもどつち」というぬえ的根性によつて書かれてゐる。過激派と政治家・空港公團の双方を批判して自分一人だけが良い子になる事を、文春は不安に思はないのか。專ら過激派を叩いてゐるライバル週刊新潮(五月十八日號)は、今や「ごつこの時代であるにもかかわらず、まともにやろうと」してゐる青臭い跳ね上りだと、文春は思つてゐるのか。文春の態度は、「一部過激派の暴力行爲が非難さるべきだとしても、このような状況を招いたそもそもの出發點が政府・行政側にあつた」とする朝日ジャーナル五月二十六日號の小林直樹氏の考へ方と、本質的には變らない。文春はいずれ朝日ジャーナルと「討論ごつこ」をやる氣なのか。「出來そこないの漫才」をやる氣なのか。そうではあるまい。それなら、文春の猛省を望む。
(昭和五十三年五月二十七日) 
笑いを催促するな
落語協會の眞打亂造は許せないと、三遊亭圓生たちが協會を脱退した。すると、席亭會議なる組織が調停に乘り出し、週刊朝日六月九日號の表現を借りれば「結局のところは犬も食わない結果に落ち着」いた。圓生の動機が眞打亂造反對だけだつたかどうか、それは私にも解らないが、今日、眞打の多くが眞打としての實力を有しないという事だけは確實だと思ふ。
下手糞な藝で客がさつぱり笑わぬものだから「あたしが、それ、こうして、握り拳を耳の所へ持つて來たら、皆さん笑つて下さい」と、笑いを催促する言語道斷の咄家がいた。今でもそれをやつてゐるのかどうか。けれどもその場合、咄家だけを咎める譯にはゆかないので、催促されて笑う客も惡いと私は思ふ。騙される客が馬鹿だからこそ、咄家は下手な藝でも食つてゆけるのだ。「長袖善く舞い、多錢善く買う」と韓非子は言つてゐるが、にせもの横行は古今東西を通じて存在する現象なのであろう。
もとより、それは落語に限らない。例えば私は、はらたいら氏の漫畫を面白いと思つた事が無い。週刊現代に連載中のはら氏の漫畫は下手糞であり、淺薄であり、私はただの一度も笑つた事が無い。一度でも笑つた事の有る讀者というものを想像できた例しが無い。 週刊現代のはら氏の漫畫は「ツッパリ白書」と題するもので、六月八日號で連載五十一囘目である。五十一囘目は福田首相と大平幹事長とをからかう漫畫であつて、「獨斷と偏見日記」というこれまたつまらぬ作者自身の解説がついてゐる。そればかりではない、漫畫の最後の齣には、福田大平兩氏が肩を組んでゐるところが描かれ、作者の傀儡らしい人物がそれを見守り、拍手しながらこう言つてゐるのである。「ネッ、へたなドラマ見るより、よつぽどおもしろいでしょう」
言うまでもなく、これもまた笑いの催促である。勿論、笑わせるだけが漫畫の効用ではないであろう。が、はら氏の漫畫は政治的諷刺としてもすこぶる凡庸である。それは三流の床屋政談である。
漫畫家にせよ、咄家にせよ、喜劇役者にせよ、笑いの催促だけは斷じてやつてはならない。私も劇作家の端くれだから、笑いを催促する役者がいかに惡しき技術の持主かは身に染みて知つてゐる。が、嘆かわしいのは、今日、そのような惡しき技術がさほど輕蔑されていないという事であつて、現代がにせもの横行時代たるゆゑんである。
はら氏の漫畫を週刊現代はいつまで連載するのであろうか。五十一囘も續いてゐるのは、週刊現代の忍耐ゆえなのか。それなら、その忍耐ははら氏本人のためにもならないであろう。それとも、はら氏の漫畫は好評なのか。クイズ番組で大學教授をも凌ぐ才能を示すがゆゑに、漫畫も好評という事なら、また何をか言わんや、以後、私は漫畫について一切口出しはすまい。
(昭和五十三年六月十日) 
時に愚直たるべし
週刊文春六月十五日號は「朝日と武見太郎の“危險な關係”」なる記事を載せ、立腹した朝日新聞は文春の廣告掲載を拒否した。文春は「公器と自稱しても、商業新聞である以上、儲けなくてはならない」筈だから、「廣告スポンサーに對する“配慮”もある程度止むを得まい」が、「朝日新聞が醫師會の廣告をもらうため迎合的記事を掲載した」とすれば、それはいささか問題ではないか、と書いたのである。文春の言う通りであつて、朝日は「廣告と編集が連動するなんてことはありえない」と言つてゐるのだが、私にはそれは信じられない。「天下の公器も臺所の話となるとなりふりかまつていられない」筈だと思ふからである。但し、それは大新聞に限らない、週刊誌もそうである。例えば週刊新潮六月十五日號は、有吉佐和子女史と大鷹淑子女史の中國訪問についての記事の中で、この二人が中國で何を見て來るか、「世界の良心」が期待してゐると、「少々うわずつた」調子で書いてゐる。新潮は昨年十二月、大鷹女史の實力を揶揄する記事を載せたのであり、それが今、突如好意的になつたのは、新潮の臺所にとつて大切な有吉女史にだけ期待するのは、いかにもまずいと考へたからであろう。賢明な判斷だが、新潮はもう少し馬鹿になるべきである。
ところで、前囘、私ははらたいら氏の漫畫を批判したが、はら氏の漫畫はサンケイ新聞も連載しており、それゆえサンケイは少々困つたろうと思ふ。少々困つたがともかく私の文章を載せたのは、このコラムをもうけるに際して「齒に衣着せぬ自社に對する批判をも掲載する」と讀者に約束したからであろう。それが實は建前に過ぎず、サンケイは最初からやる氣が無かつたのだ、とは私は思はない。週刊文春によれば、健康保險法改正問題については醫師會も厚生省も本氣ではなかつたようであり、もしもそうなら、本氣で事態を憂えた者が馬鹿という事になる。問題の「迎合的記事」を書いた朝日の記者は新前で、「クラブの物笑い」になつてゐるという。要するに朝日の上層部が本氣でないのに、新前の記者だけが本氣になつたという事であろう。
その朝日の記者も、いずれ成長して本氣になる事の愚を悟るかも知れぬ。が、この世にはよろず本氣になれぬ馬鹿というものもあつて、このほうが遙かに厄介である。が、サンケイは本氣になる馬鹿だと私は信じたい。他の新聞が無視しても、例えば東大精神科病棟不法占拠問題や自民黨意見廣告掲載問題で、サンケイはいつまでも本氣になつてゐる馬鹿である。週刊文春も時々その種の馬鹿になる。文春の馬鹿を危ういと思ひ、私は文春を咎める事がある。が、それは本氣になる馬鹿が好きだからである。ソルジェニーツィンは六月八日、ハーバード大學で講演し、自由社會の堕落を痛烈に批判した。それはアメリカ人の神經を逆撫でし、評判は必ずしもよくないという。要するに、彼は偉大なる馬鹿なのである。
(昭和五十三年六月二十四日) 
時に惡魔たるべし
週刊現代六月二十九日號によれば、テレビドラマ『夫婦』の視聽率はついに三〇%を超えたそうである。私も一度だけ『夫婦』を見た事がある。案の定くだらないと思ひ、テレビドラマは結局テレビドラマでしかないと思つた事がある。だが、何しろ大變な評判である。それを言へば嫌われる。だから私は默つてゐた。が、先日、『夫婦』を見て笑い轉げたという惡魔的な友人の告白を聞き、少々安心した。
實は私も少々笑つたからである。淺薄なテレビドラマが受けるのは、人々の思考の不徹底のせいだと私は思ふ。しからば思考の徹底とは何か。それを知りたい讀者に、今、紀伊國屋ホールで上演されてゐる『ヘッダ・ガーブラー』をすすめたい。ヘッダに扮する鳳八千代の名演技は、作者イプセンの思考の徹底がいかに惡魔的なものだつたかを教へてくれるであろう。
『夫婦』と『ヘッダ・ガーブラー』との間には殆ど無限大の隔たりがある。それは日本の進歩的文化人と非暴力主義者ガンジーとの隔たりのようなものだ。ユダヤ人を救う爲にヒットラーと戰うべきか。平和主義者ガンジーは答える。いや、戰うべきではない、むしろドイツのユダヤ人が集團自殺すべきである。これも惡魔的な徹底であつて、私はガンジーを好かないが、敵ながらあつぱれだと思ふ。が、日本の平和主義者はその點、頗る中途半端であつて、例えば週刊現代六月二十九日號が叩いてゐる大島渚、富塚三夫、高澤寅男の諸氏もそうである。成田開港絶對反對を唱えてゐたこれらの進歩派が、いずれ必ず口を拭つて成田を利用するに違い無いと、週刊現代は網を張つて待ち受けてゐたのであろう。そして果せるかな、成田空港に現れ、網に掛つた雜魚の「ヘンないい分」を現代は手際よく料理してみせたのである。週刊現代の記者の勞を多とする。
一方、週刊新潮七月六日號によれば、園田外相はかつて中尾榮一氏に「私が日中条約を推進しようと思ふのは、日本が戰爭で中國に行き、彼らに可哀そうなことをしたから」であり、「私は福田政權を大平政權にバトンタッチする際の潤滑油の役に立てればいいと思つてゐる。その點からも日中を」やるのだと語つたそうである。政治家は惡魔と契約する、とマックス・ウエーバーは言つてゐる。惡魔との契約という事について全く無知な、途方も無い素人に、我々は外交を任せてゐる譯であろうか。
或いは園田氏は、永田町を舞臺にして政治的に賢明に振舞つてゐる積りかも知れぬ。が、「福田政權を大平政權にバトンタッチする」事の意味は何なのか。政治哲學を欠く政治的賢明など何の自慢にもなりはせぬ。それは惡魔とは無縁である。それは世渡りの術に過ぎず、大人なら誰でもそれを持合せてゐる。そして誰でもが持合せてゐるようなものに、一體何ほどの力があろうか。いやいや、それとも新潮の記事がでたらめなのか。それなら、たかが週刊誌などと言うなかれ、園田外相は斷固新潮に反論すべきである。
(昭和五十三年七月八日) 
權威を叩く無原則
『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三氏が、去る一日、器物損壞の現行犯として逮捕された。佐木氏は週刊サンケイ七月二十七日號に「我が酔虎傳始末記」なる一文を寄せ、自分は品行方正を理由に直木賞を貰つた譯ではないし、「たかが戯作者風情(中略)今後も似たような失敗は、どこかで演じるにちがいない」と書いてゐる。私は『復讐するは我にあり』を讀んでいない。が、讀むに値する作品ではないという事は察しがつく。佐木氏は週刊讀賣六月十一日號に「嚴戒の成田空港」と題する文章を書いており、それを讀んで呆れ果てたからである。これまでに私は、何囘か野坂昭如氏を批判した事があるが、野坂氏の文章は文士の文章である。が、佐木氏のそれは素人の文章である。文士というものは、いかにやつつけ仕事であつても、ああまで劣惡な文章は書けない。亂心して萬一書いてしまつたら、正氣に戻つて忽ち死ぬと思ふ。
週刊サンケイの佐木氏の文章もまこと劣惡であり、どういう積りで書かれたものやら、さつぱり解らぬしろものである。とまれ、佐木氏は少しも反省しておらず、世間をなめきつてゐる。いずれまた自分はこの種の罪を犯すに違い無いが、「品行方正を理由に、直木賞をいただいた」のではないのだから、それは仕方が無いではないか、と佐木氏は言う。何とも盗人猛々しい言い種ではないか。だが、佐木氏に限らず、作家は昨今とみに盗人猛々しくなつたりである。新聞や週刊誌は藝能人のスキャンダルは容赦しないが、作家の出鱈目は大目に見るからだ。文壇における情實と馴合ひは目に餘ると聞いてゐるが、ジャーナリズムはそれを決して暴かない。暴いたら原稿を書いて貰えない。それかあらぬか、週刊文春七月二十日號で田中編集長は佐木氏を庇う文章を書いてゐる。田中編集長も「臺所の話となるとなりふりかまつていられな」かつたのであろうか。何とも情け無い文章である。
一方、サンデー毎日七月十六日號は、醫師會報道をめぐる朝日新聞と週刊文春との大喧嘩の奇妙な落着を批判する記事を載せており、私は頗る興味深く讀んだ。毎日によれば、田中編集長は「無原則」であり、「權威を相對化する」事を樂しんでゐるという。田中角榮氏や共産黨を、「右も左も蹴つとばせ」とばかり叩いて來た田中編集長は、要するに「權威を相對化」して樂しんでいただけなのか。それなら、週刊文春の編集部員も、編集長の權威を相對化して樂しんでよい、という事になる。權威を叩く權威を叩いてもよい、という事になる。そうなれば、權威が權威を叩く事は天に向つて唾する事になる。文春七月十三日號は、「編集長が變わ」つて以來初めてのピンクサロン探訪記を載せてゐる。無原則が原則なら、それも怪しむには足りぬ。いずれ文春はすさまじいポルノを讀ませてくれるのではないか。
(昭和五十三年七月二十二日) 

 

栗栖支持は改憲支持
栗栖統幕議長の解任について週刊ポスト八月十一日號は、自衞隊は有事の際超法規的に行動せざるをえないとの栗栖發言に對する「防衞官僚・新聞の集中砲火は魔女狩り的發想」であり、「防衞論議にタブーを設ける」のは「愚擧」であると書いてゐる。まつたく同感である。
それゆえここで「防衞問題に關するポストの成熟を喜ぶ」と書きたいのだが、そう書く事を私はやはりためらわざるをえない。ポストは七月二十八日・八月四日合併號に、「憲法を變えなくても(中略)自衞隊の行動を十分に保障する法的根拠を得られる」とする意見と、それは「憲法の規定を事實上無視」する事であり、「實に危險なこと」だとする意見を紹介してゐるが、ポスト自身はいずれを支持するのか、それがよく解らない。防衞問題は冗談事ではないから、私は眞顔でポストに尋ねたいが、栗栖發言を支持する事は憲法改正を支持する事だという認識を、或いは少なくとも危倶の念を、ポストは持つてゐるのか、いないのか。
栗栖氏は今囘、「有事の際、自衞隊は超法規的に行動する」と發言して詰め腹を切らされたけれども、氏は本年一月、「專守防衞と抑止力は並存しない」と書いた事があるのであり、このほうが遙かに重大な問題提起だつたのである。それは憲法第九条の所謂芦田解釋のまやかしを粉砕するに足る發言だつたからである。ポストに注文しておきたい。「庶民本位の未來民主主義」などという怪しげな護符にすがりつかず、一度じつくり栗栖氏の發言について考へて貰いたい。
一方、週刊現代八月十日號は、今囘の栗栖解任は「文民統制の大原則上當然の歸結」だらうが、それで問題が解決した譯ではなく、栗栖氏の「發言の眞意はさらに冷靜に檢討されなければなるまい」と書いてゐる。これまた、まつたく同感である。何か事件が起らぬ限り動こうとせぬのがジャーナリズムの惡弊だが、週刊現代はその惡弊を打破し、栗栖發言の眞意を執勘に追究して貰いたい。制服を脱いだ栗栖氏を活用しないという法は無いと思ふ。
ところで、週刊現代が連載してゐる石原慎太郎氏の文章を、私は毎囘愛讀してゐるが、それは石原氏が、栗栖氏と同樣、常に勇氣ある發言をしてゐるからである。その石原氏は防衞庁内の文官を「無能で卑劣」と形容してゐる。が、私は制服組もだらしがないと思ふ。これまで、かくも久しく「無能で卑劣」な文官の統制に從い、それに甘んじて來たとは、私は制服組の情熱を疑わざるをえない。制服に戰意無く、土木工事に精を出し、日陰者として認知される事だけを望んでゐるとすればそれこそゆゆしき問題である。それをジャーナリズムはなぜ問題にしないのか。もはや紙數が無い。森鴎外の言葉を引用しておく。「要スルニ世間ハマダノンキナルが如ク被存候。多少血ヲ流ス位ノ事ガアツテ始テマジメニナルカト被存候」
(昭和五十三年八月五日) 
文民統制も虚構
八月第三週發賣の週刊誌のすべてが栗栖解任を話題にしてゐるが、私は週刊現代の記事が最も愚劣だと思ふ。いつぞや書いた事があるが、週刊現代という週刊誌は人格の統一を全く欠いてゐる。現代は例えば栗栖發言を是認する石原慎太郎氏や江藤淳氏の文章を載せながら、今囘、八月十七日號では栗栖氏が「ことあるごとにシビリアン・コントロールをののしり、外敵の脅威を言い續けてきた」と書き、また「栗栖發言は、その眞意はどうであれ、形の上ではクーデターの“ハシリ”といえる」と書いてゐるのである。栗栖氏の顰みに倣い、私は敢えて暴論めく事を言う。クーデターは惡逆無道であり、一方、革命は正義に發する美擧であると、多分、週刊現代は考へてゐるのだらうが、私はそういう中途半端な思考が大嫌いである。中途半端で淺薄な考へにもとづいて、したり顔に國を憂えてみせる手合ひが大嫌いである。クーデターも革命も「超法規的」手段による權力奪取なのであつて、してみればその絶對的善惡を論うのは詮無き事だと、少なくともそれだけの認識をもつて物を言つて貰いたい。
一方、週刊ポスト八月十八日號で栗栖氏は「法というものは何から何までカバ一できるものではない」と言つてゐる。その通りであつて、昨年赤軍による日航機乘取り事件が發生し、福田内閣は「超法規的」處置をもつて赤軍に屈服した。日本國においても法は決して萬能ではない。そしてその際、週刊現代は、人命尊重よりも法を守るべしと強硬に主張した譯ではない。また現代は栗栖氏が「シビリアン・コントロールをののしり」云々と書いており、どうやら現代は「罵」るという日本語の意味するところを皆目、理解していないらしいが、それはさておき、週刊現代に限らず、世間は文民統制を絶對善であるかの如くに考へてゐるようであつて、この點も私は甚だ氣に食わない。民主主義と同樣、文民統制も萬能ではない。愚かな武官もゐるだらうが、愚かな文民もゐるからである。そして賢い制服組が愚かな内局の統制に常に從わねばならないと、どうしてそのような事が言へようか。文民統制も民主主義同樣に虚構に過ぎない。そして「虚構に過ぎない」と書いたからとて、私は文民統制を罵つてゐる譯ではないのである。
ところで、週刊ポスト八月十八日號によれば、大新聞は栗栖解任を報ずるに際し、週刊ポストの「栗栖インタビューの内容を大幅に引用しておきながら、ニュースソースが週刊ポストであることを明記」しなかつたという。事實ならけち臭い話である。また週刊文春八月十日號によれば、大新聞の記者たちは栗栖氏が「新聞にしゃべらないで、テレビや週刊誌で話」した事を快く思つていないという。事實なら情け無い話である。佐藤前首相は新聞よりもテレビを信用したが、栗栖氏は新聞よりも週刊誌を信用してゐるのかも知れぬ。
(昭和五十三年八月十九日) 
平和憲法もまた虚構
週刊ポストが俗受けするゆゑんは、その煽情主義と頭の惡さだと私は思つてゐる。頭が惡いから「國防問題を“賢明な大衆”の立場から凝視すべき時だらう」などと書く。そう書けば「賢明な大衆」に支持されると思つてゐるのか、それとも自身が「賢明な大衆」に屬すると思つてゐるのか、とまれ度し難き愚かしさである。ポスト八月二十五日號は「自民黨の“全方位外交”も非現實的なものといわざるをえない」と書いており、「外交というのは、世界のどこの國とも仲よくできない現實があるから必要なのであつて、もしどの國とも仲よくやれるなら外交は必要ない」との加瀬俊一氏の言葉を引いてゐるが、加瀬氏の言葉の意味するところを、ポストはさつぱり理解していない。
倉前盛道氏や加瀬氏の尻馬に乘る事が何を意味するかについては考へない。全方位外交を批判する以上、「どの國とは仲よくやれないか」についてポスト自身の意見が無ければならぬはずだが、無論そんなものは無い。「事實を提示」するから皆で論議してくれ、「論議がタブーであつてはならない」とポストは「言つてゐるにすぎない」。「賢明な大衆」に考へてもらおうと「言つてゐるにすぎない」。
ポストはまた、日中平和友好条約は「領土棚上げ条約」であり、「日中条約でこんな先例ができてしまえば、ソ連にせよ韓國にせよ。こうした日本のウヤムヤ外交の弱味につけ込んでくる」と書いてゐる。私はかつて尖閣も北方領土も放棄すべしと書いた事がある。そして、憂國の士らしき讀者から「お前は純眞な青年に軟弱な精神を吹き込む教師である」云々の激しい非難の手紙を貰い、うれしく思つて笑つた事がある。愚かなポストにも多分理解して貰えまいが、北方領土なんぞ決して戻る事は無いと私は思ふ。それは、春秋の筆法をもつてすれば、平和憲法のせいなのである。ポストはまた、ミグ25事件の際、自衞隊が超法規的行動を起した事を問題にしてゐるが、超法規的存在たる自衞隊が超法規的に行動して何が惡いのか。が、これも愚かなポストには到底理解できぬ議論であろう。
ところで、福田首相が全方位外交を説くのは、これまた平和憲法のせいである。平和憲法を是認しながら全方位外交を批判するのは矛盾だからである。私自身は福田恆存氏と同樣「新憲法を女郎の誓紙同然にしか見ていない」。それゆえ私は、全方位外交に批判的なのだ。けれども、イザヤ・ベンダサンによれば、日本人とは『勸進帳』であつて、「虚構の舞臺で虚構の主人公が、虚構の從者のため虚構の文書を讀むと、相手が虚構に信ずる」のである。平和憲法も、もとより虚構であつて、馬鹿はそれを眞に受け、利口はそれを信じないか、さもなくば信ずる振りをしてゐる。週刊ポストは前者であり、福田首相は後者だと私は思ふ。が、昨今は馬鹿が利口を批判して、したり顔なのである。奇妙な事だと思ふ。
(昭和五十三年九月二日) 
中國に何を學ぶか
週刊文春九月七日號は飯田經夫名大教授の中國視察記を紹介してゐる。飯田氏によれば中國の民衆の動作は緩慢で、顔は無表情、敢えて言へばそれは「阿呆づら」だそうである。週刊新潮九月七日號の表現を借りれば「大熱狂のうちに日中条約が締結されて(中略)兩國の交流は、いまや、拍車にジェットエンジンがくつついたような勢い」だというのに、ずいぶん大胆な事を言う御仁だと思ふ。けれどもそれは本當の事に相違無いので、「阿呆づら」ぐらいで驚く事はない。週刊新潮に連載中の「有吉佐和子の中國レポート」は面白く讀ませるが、有吉女史は人民公社の便所の「床にまつ白な石灰を撒いてある事」に驚き、風呂場があつて「電氣もある」事に驚き、中國に「民法も刑法もなかつた」事、及び「辯護士がいなかつた」事を知らされて愕然とするのである。女史は腰を抜かさんばかりに驚いたのかも知れぬ。
ところが、週刊讀賣九月十日號によれば「中國では小さなものでも安價なものでも」落し物は「必ず本人の手もとに戻つてくる」という。刑法や民法が不要なのは泥棒がいない國だからであろう。これぞまさしく天國だと、讀賣の記者は思つてゐるらしい。が、泥棒のいない國とは地獄に他なるまい。わが日本國では窃盗ぐらいで重刑を課せられる事は無い。それゆえ泥棒諸君は安んじて稼業に精を出す。が、泥棒のいない國とは泥棒に重刑を課す國である。惡を犯す自由の無い國である。そういう清く正しく美しい國に住みたいと、讀賣の記者は本氣で思つてゐるのだらうか。
一方、週刊文春九月十四日號は、中國人民解放軍の張副參謀長の來日について、「人的交流も結構だが、中國側に鼻づらを引きまわされるような愚は冒して欲しくない」と書いてゐる。けれども、日本は今後大いに「中國側に鼻づらを引きまわされ」て欲しい、と私は思ふ。中國の民衆は阿呆づらだらうが、民衆を阿呆づらにさせておく權力者とは、これはもう何とも見事な知者である。「知者に從う事は知惠のある事と同じであつて、我々は健康を欲するが、自ら醫學を學ぶ必要は無い」とアリストテレスは言つてゐる。阿呆づらの中國の民衆は知惠ある權力者に從つて清く正しく美しいのであり、それなら日本も中國の支配に從つたほうがよい。中國の叡知に學んだぼうがよい。
昨今、日本の右傾化を案ずる向きがあるが、元を糺せばそれも、周恩來が日米安保条約を認めてくれたからではないか。日本は外壓によつて變る國なのだ。マッカーサーに日本は十四歳だと言われて(それとも十二歳だつたか)嬉々として十四歳になりきつた國なのだ。いずれ中國の指導者が「日本の憲法は非現實的である」などと言つてくれるかも知れぬ。サンケイ新聞によれば、河本通産相歡迎宴の席上、中國の對外貿易相は「天皇陛下のご健康」を祈つて乾杯したという。望み無きにあらず、である。
(昭和五十三年九月十六日) 
野暮を貫けぬ風潮
週刊朝日九月二十二日號で田中美知太郎氏は、文章は「内容を離れてもそれ自體で味わうことのできる一面をもつ」と書いてゐる。その通りだと思ふ。週刊文春に連載中の山崎正和氏の『プログラムの餘白から』は「内容を離れてもそれ自體で味わうことのできる」文章であり、例えば、芥川比呂志氏の著書を評する氏の文章はちと褒め過ぎであり、感心できないが、文章そのものは立派であり、粗雜な週刊誌の文章の中にあつて、それは「早天の慈雨」のように思えるのである。
一方、週刊文春九月二十八日號の書評欄の筆者は、外山滋比古氏の著書を激しく叩き、「ジャーナリズムでもてはやされてゐる學者の多くはニセモノ」であり「疑う人は外山滋比古『中年閑居して・・・』を讀むがいい」と書いてゐる。全く同感だが、そんな事を言つても、もはや駄目ではないかと思ふ。それは野暮な事だと思ふ。外山氏は「コトバについて論じて世間から尊敬されてゐる」そうだが、してみれば世間は、文章を論じて文章が粗雜な事を一向に怪しまない譯である。
ところで、私は山本夏彦氏の文章が好きである。雜誌『諸君!』に連載中の氏の文章は何とも見事なもので、一度だけ馬の交接を内容とする文章を讀まされて困惑したが、それ以外は常に一讀三嘆、友人知己にすすめて倦む事が無い。その山本氏が、週刊文春九月七日號でイーデス・ハンソン女史と對談してゐる。これも世間は一向に怪しんでいないらしいから、それを言うのは野暮かも知れないが、ハンソン女史は日本で日本語を喋つて飯を食つてゐる筈であり、外人であつてもその粗雜な日本語は批判されてしかるべきである。女史の敬語の使い方はでたらめであつて、對談の相手が私淑する山本氏だからという事もあり私は進歩的文化人なみの反米感情に驅られたのである。冗談はさておき、のつけから對談の相手に「あつちこつち浮氣はしない?」とは何事か。けれども昨今、横柄な板前を卑屈な客が咎めないように、ハンソン女史の非禮を咎める讀者はいないのであろう。咎めるのは野暮、と讀者は思ふのだ。
一方、週刊現代九月二十八日號で黛敏郎氏は、話題になつてゐる「皇太子殿下訪中」問題について「道義的戰爭責任をいうんであれば(皇族は)まず臺灣へ行くべきだと思ひます」と言つてゐる。全く同感だが、今時何と野暮な事を言う御仁か。今や世間は日中友好ムードとやらに浮かれ、かつて日本が問答無用とばかり臺灣を切捨てた事を心苦しく思ひ出す者は殆どいないのである。私はそれを苦々しく思ふ。よろず野暮を貫けぬ風潮を苦々しく思ふ。黛氏に倣い私も思ひ切り野暮な事を言う。私は臺灣に行つた事が無い、が、私は臺灣が好きである。臺灣は日本に對して何一つ惡い事をした事が無い。それにも拘らず日本は臺灣を捨てたのである。それを世人はなぜ思ひ起さないのか。
(昭和五十三年九月三十日) 

 

馴合ひかガス銃か
『新聞よ驕るなかれ』(高木書房)の著者辻村明氏は、新聞批判ばかりやつてゐると「人間が惡くなる、そのうち目付が惡くなる」と夫人に言われたそうである。辻村夫人は辻村氏を愛してゐるに相違無いから、目下のところ夫君の目付はうるわしいと思ひ、「そのうち惡くなる」事を心配したのだらうが、批判される新聞から見れば、辻村氏の目付はとつくの昔から惡かつたに違い無い。だが、氏の目付がもつと惡くなる事を私は望む。このコラムで毎囘のように週刊誌を叩いてゐる私の目付もずいぶん惡くなつてゐるはずだからだ。つまり同病相憐れみたい氣持は私にもあつて、それゆえ例えば、前囘も取上げた「風」というペンネームの週刊文春の書評欄の筆者を、これまた相當に目付の惡い御仁であろうと思ひ、貴重な存在だと思ふ譯である。「風」氏の書評はまことに辛辣だが、常に正鵠を射ており、馴合つて褒め合う書評が多い當節、書評中の白眉だと思ふ。
ところで週刊新潮十月五日號は、東大文學部長室出火事件を取り上げ、向坊總長と文部省を激しく批判してゐる。新潮は「精神神經科の赤レンガ(病棟)も、文學部長室も、われわれは占拠と見ていない」との向坊總長の言葉を引き、吉田茂が生きてゐたら「これこそ曲學阿世」と言つたに違い無いと書き、返す刀で文部省に斬りつけ、その弱腰を叩き、東大から「事情聽取」して「速やかな正常化」をお願いするだけしか能の無い文部省は「この際解散」したらどうかと言う。いかにももつともであつて、要するに東大も文部省も馴合ひの微温湯にどつぷりつかつており、馴合ひこそは日本國の美風なのである。それゆえ私はここで予言しておくが、週刊新潮が何を言おうと、またサンケイ新聞がいかに執拗に追及しようと、東大が「正常化」される事は無い。サンケイの執拗はあつぱれだが、それはいかんせん、「和をもつて貴しとなす」日本の風土になじまないのである。
それに東大の「正常化」問題に關しては、週刊新潮もサンケイ新聞も氣づいていないらしい事がある。大方の大學教授が知つていてジャーナリズムが知つていないらしい事がある。それは、大學の「正常化」のためには警察の協力が必要だという事である。今道東大文學部長は「學生の理性的對應に期待しすぎてゐた」と言う。それなら今後どうするのか。理性無き「學生の理性的對應に」今後も期待するのは、今後も馴合ひを續けるという事である。では、どうするのか。警察の協力無しに「正常化」する氣なのか。それなら教師がチョークを捨てガス銃を持つしかない。私はいつぞや「あの狂犬に等しいゲバ學生と、ガス銃を持つて戰つてみたい」と發言して、同僚に窘められた事がある。さて東大はどちらを選ぶのか。馴合ひでなくガス銃を選ぶなら、私は東大の傭兵になりたいと思ふ。呵々。
(昭和五十三年十月十四日)  
損を覺悟する精神
週刊現代十月二十六日號で曽野綾子女史は「人間と動物が違うのは、損ができる」かどうかという點であり、「私だつて、損ばかりしてゐるのは好きじゃないけど、損してゐる人には尊敬を覺え」ると言つてゐる。政治とは殆ど欲得ずくの行爲である。日中友好条約の締結も双方の欲得ずくの行爲であつて、對中國輸出に活路を見出した積りの日本と「四つの近代化」に活路を見出した積りの中國との、双方の利害得失が一致したという事である。週刊文春十月十九日號は、「不況にあえぐ日本企業も渡りに舟とばかりに中國詣」をしてゐるが「すべて萬々歳」と言へるかどうか、「その前途には容易ならぬ問題が待ちかまえてゐる」と書いてゐる。文春と同樣、私も日中友好を手放しで禮賛する氣にはなれない。週刊文春で長谷川慶太郎氏が言つてゐるように、中國が近代化を進めてゆけば、當然「どんどん貧富の格差がつく。そこでどういう反動が起こつてくるか」。勿論、それは「中國の政治にハネ返る」事となる。貧富の差をこのまま放置はできぬ、と中國の貧乏人は考へるに相違無い。「俺たちだつて損ばかりしてゐるのは好きじゃない」。
それは中國が早晩直面する困難であつて、近代化の過程で再び「造反有理」のスローガンが叫ばれる事もありうると私は思ふ。だが、日本の近代化と同樣中國の近代化も、所詮は損をする事を嫌う人間しか育てないのではないか。
週刊文春十月二十六日號によれば、日本美術界腐敗の構造」はすさまじく、畫家たちは「紙面に取り上げてもらうために記者を料亭に呼んで現ナマを五萬圓ぐらい包むのは日常茶飯事」であり、「藝術院會員になるには(中略)運動費に最低三〇〇〇萬圓は使わないと無理」だそうである。それは本當の事だらう。それくらいの事なら文壇でも行われてゐる、と私は聞いてゐる。そしてそれなら、文士にも畫家にも政治の腐敗を云々する資格は無い。曽野綾子女史は「宇能鴻一郎先生や川上宗薫先生の小説なら、非常に愛讀してゐる」と言う。宇能、川上兩氏の小説は論ずるに値しない。が、人間と動物との違いを本氣で氣にしてゐる小説家が、今の日本にどれだけゐるのだらうか。『エーゲ海に捧ぐ』は『濡れて開く』よりもどれだけ高級なのだらうか。
一方、サンデー毎日十月二十二日號で松岡英夫氏は「中國留學生に傳えたいもの」は「點取り主義や出世主義でなく、學術をささえる本當の精神」だと書いてゐる。途方も無い愚論である。今の日本に「學術をささえる本當の精神」など殆ど殘つてはいない。それは損を覺悟の精神であり、中國にはあつても日本には殆ど見出せぬ精神である。大正七年、森鴎外は『禮儀小言』を書いた。日本人はいまや「單に形を棄てて罷むか、形式と共に意義をも棄つるかの岐路」に立つてゐると書いた。今日なお松岡氏の愚論あるを、私は頗る奇怪な事だと思ふ。
(昭和五十三年十月二十八日)  
惡魔を見ない純情
このほど來日した「1(登+邑)小平氏は、中國人というより、どこか日本のいなかの小學校で見かける用務員のおじさんのように親しげで、終始、好感が持てました」と週刊讀賣十一月十二日號は書き、「初めて見たおじさんは、小柄な體ながら、きりつと締まつた物腰で貫録よろしく(中略)終始、親善ムードの盛り上げをリードする餘裕ぶり」とサンデー毎日十一月十二日號は書いてゐる。この種の腑抜けの戯言を讀まされると私は反吐が出そうになる。よい年をして何たる純情か、何たるお人好しか。讀賣も毎日も日中友好ムードを煽ろうと思つてゐるのではない。そういう意圖的なものは皆目ありはしない。そんな底意があるならそれは小惡黨で、それならまだ付き合へる。が、讀賣も毎日もただもう無邪氣に1(登+邑)小平氏に惚れ込んでしまつたのである。ウイリアム・ブレイクは「體驗を通過した無垢」は「體驗を知らぬ無垢」よりも貴重だと言つてゐる。讀賣も毎日もよい年をしておぼこ娘の如く純眞なのである。
一方、週刊朝日十月二十七日號で野坂昭如氏は、アメリカでランバート氏なる友人に「やさしく扱われ」て感動し、「かなりアメリカに洗腦され」、「おそまきながら向米一邊倒」となり、「小生は、これまでどちらかというと、革新側ということになつてゐた。ミッドウエストの、保守地帶で洗腦されたからには、自分なりに、これまでの革新というレッテルとおとしまえをつけなければならない」と書いてゐる。
これまた何たる純情か。私は保守派で親米だが、外交とはすべての外國を假想敵國とみなすものだと心得てゐる。アメリカも日本の假想敵國だと考へてゐる。
が、週刊誌にせよ野坂氏にせよ、どうしてこうもたわいなく外國に惚れてしまうのか。野坂氏は文士ではないか。「子供を虐待するのは樂しい、子供の無防備状態が加害者を誘惑する」とイワン・カラマーゾフは言う。が、イワンはまた、自分は子供が好きだ、「殘酷な人間、情欲的で、肉欲のさかんな、カラマーゾフ的人間というやつは、どうかするとひどく子供が好きなものなんだ」(小沼文彦譯)と言う。イワンの中に天使がいて惡魔がゐる。おのが心中に惡魔を見ない人間は惡魔と戰う事がない。そういう人間の善良には私は付き合へない。その浮薄に吐き氣を催す。
ところで今囘どうしても書いておきたい事がある。週刊文春の田中健五編集長が辭任した。今だから言うが、私は田中氏とは面識がある。田中氏の人柄を愛する事にかけて私は人後に落ちない。が、これまで私は田中氏をかなり叩いた。田中氏が編集長になつて週刊文春は確かによくなつたのであつて、その編集の洗練と工夫をいつか褒めようと思ひながら、その機を逸し、私情を殺して惡口ばかり言つたように思ふ。それが少々殘念である。辭任の事情についても釋然としないが、それは書かない。
(昭和五十三年十一月十日)  
おのれの器を知れ
國立武藏療養所の醫師、豐田純三氏は、ある日、いきなり患者に短刀を突付けて、こう言つた。「この前は、よくもナメた電話をかけてくれたな。(中略)オレを刺すだと。ふざけるな。命が惜しくて精神科醫がつとまるか」。そして豐田氏は患者の「左アゴに五ミリほどの傷をつけた」という。確かに異樣な事件だが、週刊新潮十一月二十三日號によれば、その患者は「前科五犯、逮捕歴は何と九囘」のアル中患者であり、豐田氏の一見異樣な行動も「治療の一環」であつて、患者は快方に向つており、「悠々と生活保護の恩惠に浴して」ゐるそうである。ところが醫師のほうは銃刀法違反及び暴力行爲の廉により書類送檢されたという。この種の事件について患者の人權擁護を言い、醫師の非を打つのはたやすい事である。實際、十月八日付の毎日新聞は「事實は弱い立場の患者を力でおさえただけだ」と書いたという。何とおめでたい記者かと思ふ。新潮は「危險な半可通」と評してゐるが同感である。
物事はそう簡單に割切れはせぬ。患者の「左アゴに五ミリ」の傷をつけた事も「治療の一環」として許さるべき事なのかも知れぬ。が、毎日の記者は「許さるべき事」ではないと言う。それは豐田氏の良心と邪心とを、いともたやすく弁別できるからであろう。醫者はすなわち強者であり、強者はすなわち惡玉である、と決め込んでゐるからであろう。「おめでたい」と形容するゆゑんである。
もとより私も新潮も豐田氏の行爲を是認してゐるのではない。醫者の良心がどこで終つて邪心がどこから始まるか、そういう事は確とは解らぬ。そして確と解らぬ事柄に對しては謙虚であらねばならぬ。が、昨今のジャーナリストは、おのれの器で人を計つて怪しむ事が無い。おのれがキャバレー探訪を樂しむ以上、すべての讀者も同樣だと考へる。例えば、「据え膳食はぬは男の恥」という諺がある。けれども据え膳食はぬ男もあるのであつて、ボードレールがそうだつた。彼はある美しき人妻を愛してゐたが、女が身も心も投出した時、それを受取ろうとはしなかつた。なぜか。その理由を書く紙數は無いが、週刊誌の記者も、男と女の安直な野合にばかり興味を持たず、偶にはそういう奇異なる人の心を考へたらよい。
サンデー毎日十一月二十六日號は、田中健五週刊文春編集長の辭任を取り上げ、「同業の“内紛”にあえて觸れてみる」と書いてゐる。が、讀者が一番知りたい事を毎日は何も書いていない。藝術院會員になるには三千萬圓の運動費が必要だという文春の記事は事實なのかどうか。田中編集長の迂闊を私は辯護しないが、大物の作家や畫家の機嫌直しのためとあらば、編集長の首はそんなに簡單にとぶものなのか。どの週刊誌でもよい、後學のためそれを是非教へて貰いたいと思ふ。
(昭和五十三年十一月二十五日)  
プロ野球の何が神聖か
私はプロ野球なるものを一度も見物した事が無い。また、讀賣新聞社には何の恩義も無い。けれども、このところ猫も杓子も巨人と讀賣を叩いて怪しまない事を私は怪しむ。「人が不正を非難するのは、不正を嫌うからではなく、不正によつて被るおのが不利益のためである」とラ・ロシュフコオは言つたが、新聞や週刊誌が讀賣巨人軍を叩くのは、巨人の不正を許せないからではなく、巨人と讀賣を叩かないとおのれが不利になるからかも知れぬ。けれども、新聞や週刊誌が讀賣巨人軍を叩いてどういう得があるのか、そういう事に私は興味が無い。人間、おのれの利には聰いものなので、それを私は咎めようとは思はない。例えばサンデー毎日十二月十日號は「新聞という公器性に思ひをいたせば、球界民主主義を敵とした巨人の江川盗り、讀賣新聞紙上でどう報じられるか關心を持たざるをえない」と書き、少々感情剥き出しで「巨人の江川盗り」を批判してゐる。讀賣新聞の失點は毎日新聞の得點に繋がるのだらう。だから、それはいい。同業の不幸はうれしいものなのだ。それが人間の淺ましい性なのだ。
けれどもサンデー毎日は「この度の一件は明朗だつたろうか。スポーツの社會らしいさわやかさを伴つてゐただらうか」と書いてゐるのである。毎日に限らぬ、巨人を批判する者は必ず「正々堂堂」だの「ルールの先行」だの「フェアなスポーツマンシップ」だのと、プロ野球を神聖視する美辭に酔う。憚るところ無く美辭に酔うとは何たる無邪氣か。週刊ポスト十二月一日號によれば、江川選手の巨人入團には「七つの大罪」があるという。あまりに馬鹿げてゐるからそれを列擧する必要はないが、その中に「スポーツに政治を介入させたる罪」と「少年ファンの心を傷つけたる罪」というのがあつて、この二つは論ずるに足る。まず「政治を介入させたる罪」だが、政治家もまたジャーナリストと同樣、おのれの利には聰いのである。政治家はおのれの利に繋がるものは何でも利用せねばならぬ。それなら、スポーツだけが政治の介入を免れる筈は無い。
また、「少年ファンの心を傷つけたる罪」についてだが、今囘の事件で「心を傷つけ」られた少年というものを私は想像できない。プロ野球では金もまた物を言うという事くらい、今時の少年は知つてゐるだらう。週刊讀賣はドラフト制度は「職業選択に對する束縛」だと言う。つまり人權無視だと言いたいらしい。が、プロ野球は金が目當てではなかつたのか。選手の人權は二の次ではなかつたのか。選手もまた金が目當てで、義理や人情は二の次三の次ではなかつたのか。金錢を輕蔑するのは僞善者か馬鹿だとモームは言つた。少年にはいつそこのモームの言葉を理解させたほうがよい。少年なみの無邪氣な正義漢にも。
(昭和五十三年十二月九日)  

 

泰平の世の茶番狂言
サンデー毎日十二月十七日號によれば、「ひき際あざやかに辭任した」阪急前監督上田利治氏は「いまあちこちからの講演依頼で悲鳴をあげてゐる」という。毎日はまた十二月二十四日號にも、福田赳夫氏は「引け際だけは徹底してさわやかな政治家」だつたと書いてゐる。毎日に限らない、福田前首相の「引け際のさわやかさ」に感心した人は多いのではないか。だが、「紫の朱を奪うを惡む」という事もある。大平氏を紫に擬する譯ではないが、日本國の前途を思えば大平氏には政權を譲れぬと、もしも福田氏が頑に信じてゐたならば、福田氏の往生際はかなり見苦しいものとなつてゐたに違い無い。かつてロッキード事件が世間を騷がせてゐた頃、私は田中角榮氏の人權を擁護すべし、と書いた事がある。けれども私は田中角榮氏を好かない。田中軍團によつて福田政權が潰されたとあつて、今はますます好かない。が、田中氏の形振り構わぬ執念は見事だと思ふ。それに引換え、蕎麦が好物だという福田氏の淡泊は齒痒くてならぬ。本選出馬を斷念した時、福田氏はおのれを美しく見せたいとの誘惑に屈したのであろうか。私はそれを殘念に思ふ。そして政治家の淡泊に感心し、どす黒い執念に反發するジャーナリストの幼稚を苦々しく思ふ。
ところで、週刊讀賣十二月二十四日號は、總選擧のやり方は不滿だとして、ただ一人「内閣總辭職への署名を拒否」した中川前農相の動機を詮索し、中川氏は田中派の竹下氏には腹を立てたものの田中角榮氏には「怒りらしい怒りを、何一つぶつけていない」のであり、それが中川氏の「政治家たるゆゑん」だと書いてゐる。中川氏は政治家である。おぼこ娘のように純情ではありえない。それなら、この際、中川氏の動機の詮索は無用の事で、中川氏の大平批判が正論か否かが問題なのである。が、新聞や週刊誌はそういう事を問題にしない。專ら舞臺裏の噂話に興ずるばかりである。そしてその際に動員される政治評論家は、地獄耳の鐵棒曳きに過ぎない。
一方、週刊文春十二月二十一日號によれば、河本内閣を樹立すべく畫策した春日一幸氏は「子供のように面白がつて」方々に電話をかけ、塚本民社黨書記長も「河本ならまとまる(中略)面白いということで他の友黨にも」働きかけ、新自由クラブの河野氏は矢野公明黨書記長に「面白いからやろう」と誘いの電話をかけたという。中道野黨の諸氏はさぞ面白かつたろう。何ともお粗末な企みだが、大學でもそういう事はあつて、學部長の選出に際して方々に電話をかけて樂しむ教師がゐる。が、學内が平和な時なら、そういう教師は、まず例外無しに二流の教師である。週刊文春は大平内閣成立までの紆餘曲折を「ドタバタ劇」と形容してゐるが、要するにそれは泰平の世なればこその茶番狂言であり、さればこそ週刊誌も讀者も、政界雀の噂話を面白がつたのである。
(昭和五十三年十二月二十三日) 
醒めたワイセツ屋
週刊新潮一月四日號によれば、 「三大エロ劇畫誌」の一つ、『劇畫アリス』の龜和田編集長は二十九歳、「七〇年安保のレッキとした“新左翼”」なのだが、警察に對しては挑發的でなく、「性表現の擴大ウンヌンを考へたことなんて全然ない」そうである。そしてその「なかなか醒めた“ワイセツ屋”さん」はこう語つてゐる。
「今囘の摘發で、いわゆるワイセツ裁判をやれつていう進歩的文化人の動きがあるんです。そういうお祭り騷ぎを期待してゐる連中のために、僕らがピエロ役をはたしてやる必要はない。自分は何も生み出すことができないのに、コトが起きると知つたかぶりで騷ぎ出す進歩的文化人てやつはタチが惡いですよ」
なるほど、新潮の言う通り、なかなかに「醒めたワイセツ屋」である。「四畳半襖の下張」裁判の被告野坂昭如氏は、週刊朝日一月五日號に「性の秘匿に普遍性はあるか」と題してくだくだしい文章を寄せてゐるが、「猥褻是か非か、でもなければ、猥褻何故惡いでもない。俺たちは、それを賣り物にしてゐる猥褻屋なのだ」と宣言してゐる龜和田氏にしてみれば、野坂氏など「お祭り騷ぎ」に踊る饒舌なピエロに過ぎまい。だが、冷靜なワイセツ屋と浮薄な野坂氏のいずれを採るかと問われたら、私は躊躇無く野坂氏を採る。一見虚無的に見えるワイセツ屋は死の商人に過ぎない。野坂氏の浮薄のほうがまだしも人間的である。新潮が「醒めたワイセツ屋」の非人間性を見抜けなかつた事は殘念だが、それが僞惡的な新潮の限界なのがも知れぬ。
だが、新潮によると「自動販賣機などで賣つてゐた“商品”が警察に摘發され」た時、週刊朝日は「エロ劇畫と朝日が共同戰線を張る」事を考へ、「連帶のアイサツ」を送つたという。ワイセツ屋は即ち權力の敵であり、權力の敵となら相手を選ばず連帶せねばならぬと考へる、この種の進歩的ジャーナリストの思考の短絡に對しては、馬鹿は死ななければ癒らないとしか言い樣が無い。
ところで、「性はわれわれを平等にする、それはわれわれから神秘を取り除く」とシオランは言つてゐる。が、人は必ずしも平等を喜ばない。そして、平等を望む事が人間的なら、神秘を望む事も人間的なのである。それゆえ、いずれ反動としての揺り返しが來るだらう。神秘的で清潔な獨裁者が現れて、人々はその裸體を見たがらないようになるだらう。いや、それとも、「良民に不必要なる種類の待合・茶屋は遊廓内に逐ふべき也。大にして堅固なるゴミタメを造るは、すなはち清潔を保つゆゑんなり」と幸田露伴は言つたが、毎號ポルノ的なものを欠かさぬ週刊誌は、日本國のゴミタメとして、安全弁の役割を果してゐるのであろうか。
(昭和五十四年一月六日) 
變節を咎むべきか
サンデー毎日一月十四日號によれば、作家の半村良氏は「汚いゴミとゴミが食いついたプロ野球なんか見たくない。私のプロ野球よ、さようなら」と言つたそうである。私は半村氏の作品を讀んだ事が無い。けれども、これほど子供染みた、やけのやんぱち的心情の持主に、果してよい小説が書けるものだらうか。毎日の記事もまた頗る感情的な惡文であつて「江川の出る試合になんか子供は連れていかないほうがいい」などと何とも幼稚な事を書いてゐる。だが、半村氏にせよ毎日の記者にせよ、いずれ必ず「變節」して「ゴミが食いついた」プロ野球とやらを見物するのではないか。もしも江川が巨人軍の投手として大活躍をしたとして、それでも毎日や半村氏は江川と巨人を憎みつづけるだらうか。それは甚だ疑わしい。目下、巨人を罵つて、大いに樂しんでゐる大方のファンにしても、執念無くて總崩れ、いずれ江川を英雄に祭り上げる事であろう。感情的で衝動的な人間は憎しみを持續させる事ができない。それはまた我々日本人の短所でもある。巨人を叩く毎日の「憤激大特集」は七囘にも及んでおり、日本人らしからぬ執念と言うべきかも知れぬが、毎日はいつその事、それを七七、四十九囘くらい續けては貰えまいか。それなら私は毎日を見直してもよい。
ところで、ここで或る週刊誌の文章を引用しよう。「かつて日本軍の“暴に報ゐるのに徳をもつてした”蒋介石總統、その後繼者が率ゐる臺灣の運命にも、日本人として無關心ではいられない」。さて、讀者は多分、この週刊誌の名を當てられないと思ふ。それは新潮でも文春でもサンケイでもない。何と朝日ジャーナルなのである(五十三年十二月二十九日號)。朝日ジャーナルは變貌しつつある、軌道を修正しつつある。その種の變節は朝日の特技であり、それゆえ却つて始末に負えないと、朝日を批判して識者は言う。けれどもそれは變節なのか。ジャーナルを一つの人格と考へれば確かに變節である。が、實際は編集スタッフが變つたまでの事ではないか。馬鹿を徐々に始末して利口を重用すれば、ジャーナルは一級の週刊誌になる可能性もある。しからばその變節は咎めらるべきか。「被害者」から一轉「惡役」に變じたヴェトナムに困惑する進歩的文化人を週刊文春一月十八日號は嘲弄してゐるが、小田實氏にせよ本多勝一氏にせよ多分一つの人格だから、あまりにも破廉恥な變節はやれないだらう。が、週刊誌にはそれがやれる。そしてそれは咎むべき事なのか。
朝日ジャーナルはまた、今は「視野狭窄症的ではない、複眼の視點が求められる」時代だと言う。ジャーナルは「視野狭窄症」を脱しつつあるのだらう。では、相も變らず反體制に固執して甘い文章を綴つてゐる毎日の執念は敵ながら天晴れと評すべきか。それとも、交代要員を欠く毎日の弱體をあわれむべきか。
(昭和五十四年一月二十日) 
教育は惡魔と無縁か
教育について語る時、人々は思はず知らず善意の塊になる。大方の教育論が退屈なのはそのせいだと思ふ。教育も文學も哲學も神學も、すべて人間の營みである。それなのに、なぜ教育論にだけ惡魔がいないのか。ルターは惡魔にインク壺を投げつけたけれども、ルターが苦しんだ問題は教育とは無縁だと人々は考へてゐるらしい。だが、文部省や日教組や教育の專門家が取上げる問題はすべて枝葉末節であつて、眞の教育論なら必ず惡魔に出會う筈である。
「淫賣を鞭打つ者もまた淫賣の肉體を求めて情欲に疼く」とリア王は言うが、教育論はかういふせりふを耳に留めて立止らなくてはならない。非行少女を叱る教師が、少女の肉體に眩惑されるという事もあるからだ。
高校一年生が祖母を殺して自殺した事件を知つて、私が最初に考へたのは、これは週刊誌の手に餘るだらうという事であつた。手に餘るから默殺するかも知れぬ、あるいは教育學者や心理學者の意見を徴してお座なりの説を並べ立てるかも知れぬ。私はそう思ひ、手ぐすね引いて待つ事にした。結果は案の定、例えば週刊讀賣二月四日號は、少年が遺した手記の「未公開部分」を公開しただけでお茶を濁してゐる。讀賣は少年の毒氣にあてられ息をのんだのであろうか。手記を紹介するだけでは藝が無いとも言へようが、「したたかな文章で」書かれた少年の大衆憎惡のすさまじさを、讀賣が持て餘したのはよい事なのかも知れぬ。少なへども週刊朝日のように、學者の意見にもとづいて空々しい意見を開陳するよりも、ずつとましである。少年の文體が「なにやら野坂昭如ふうになつて」くれば、少年は危機を脱しえたかの如く朝日は書いてゐるが、そういう聞いたふうの馬鹿よりも、「ある意味で“三島(由紀夫事件)”に劣らずショッキング」と書いた讀賣の正直を私は採る。なお、サンデー毎日は、例によつて朝日以上の大馬鹿ぶりを發揮してゐる。それゆえ論評の限りではない。
今囘の事件は、どう料理したところで週刊誌の手に餘る。週刊誌一冊分の頁數を費してなお足りぬであろう。それに今は、週刊新潮二月一日號がやつてゐるように、グラマンをめぐる空騷ぎに水を差す必要もある。が、そういう制約を認めても、新潮を除く週刊誌が少年の心中の惡魔を持て餘したのは興味深い。あの少年の毒を制するには、例えばドストエフスキーやニーチェの如き、文學的・哲學的な猛毒をもつてするしかないのだが、曲りなりにもそれをやつたのは新潮だけである。それに、少年の「知と情のアンバランス」は餘所事でないという意識が新潮にはある。朝日にはそれが無い。大方の學者と同樣、教育と文學とは無關係だと、すなわち教育は惡魔とは縁が無いと、多分、朝日は思つてゐるのであろう。そしてそれは、おのが心中に惡魔を見ないからである。
(昭和五十四年二月三日) 
金錢を輕蔑するな
週刊誌は新聞の「落穂拾い」だとする説がある。適切な比喩だとは思はないが、新聞は毎日稲刈りに追われてじつくり考へる暇が無い。そこで新聞が淺薄に考へた事を週刊誌が拾い集めてとくと考へる、それは確かに週刊誌の役割だと思ふ。そしてそのためには冷靜になる事が必要である。稲刈りは馬鹿力でやつてのけられるが、落穂拾いは冷靜な眼を必要とする。ところが興奮して落穂を拾うのが、例えばサンデー毎日なのである。阪神にトレードされた小林投手について毎日二月十八日號は、小林の「思ひ切り」のよさは「恥を知る男、小林の、男の美學であつた(中略)、端正な顔に似合わず、負けず嫌いで親分肌でもある小林、今シーズンの江川との投げ合ひが見ものである。厚顔無恥の江川に、意地でも負けるはずはないと思ふ」と書いてゐる。このところ毎囘、毎日の惡口を書いていて、私自身いささか食傷氣味なのだが、これはまた何とも酷い文章である。小學生にも理解できる事が、よい年をして毎日の記者には解つていない。それは人柄と能力とは別だという事であつて、いじめつ子に泣かされた事のある小學生なら、それくらいの事は知つてゐるだらう。「厚顔無恥」の投手が「恥を知る男」に投げ勝つ事もあるのである。これほど淺薄な記事を、何かの手違いで例えば週刊新潮が載せたなら、新潮の編集長は間違い無く切腹するだらう。毎日の編集部は一體どうなつてゐるのか。
一方、週刊文春二月十五日號によれば、小林投手は「金だけじゃなくて、將來の保證も求めてきた。先々、阪神でダメになつたら、讀賣の系列會社で何とか面倒をみてくれ」と要求したそうである。金が目當てのプロ野球だから、それは當然の事だらう。文春の「イーデス・ハンソン對談」で、プロ野球選手會會長の松原誠選手は、プロ野球の目的は金錢だと言つてゐる。このほうがよほど「さわやかな」態度ではないか。ハンソン女史の言う通り、金が目當てでないのなら「週末に草野球をやつてたらいい」のである。
週刊誌は新聞の落穂拾いかも知れないが、拾い方に筋が通つていて最も冷靜なのは週刊新潮である。二月十五日號の日商岩井島田常務の自殺を扱つた記事にせよ、「欠陥家庭」に大金を支拂う恩情を怪しむ記事にせよ、新潮はおのれの納得できぬ事柄について、冷靜にかつ少々意地惡に書く。冷靜になれば人間は意地惡になる。それは當然の事である。江川問題に關しても「スポーツ新聞がプロ野球を徹底的にたたくのは、自分の手足を切斷する」ようなものだと新潮は言う。その通りだらう。やがて江川が大活躍を始めたら、江川を叩きに叩いた新聞も週刊誌も忽ち變節するだらう。新聞も週刊誌も、プロ野球同樣、金が目當てだからである。新聞は天下の公器で金が目當てでないと言うのなら、損を覺悟でおのれが何をやれるかを、やつてゐるかを、新聞は時々考へたらよい。
(昭和五十四年二月十七日) 

 

世界有數の長寿國
國後、択捉にソ連軍の基地が建設されて「明日にも赤熊が押し寄せてくるみたいな、ヒステリックな論議が多い」けれども、「食いものの方が、外敵よりもはるかに心配だし、地震列島に住む以上、その被害を、より深く憂う」と、週刊朝日三月二日號に野坂昭如氏は書いてゐる。野坂氏の文章は八方破れ、矛盾だらけであつて、しかも野坂氏はそれを全然氣にしない。柳の枝に雪折れなし、野坂氏はきつと長生きするだらう。週刊朝日二月九日號で野坂氏は、三菱銀行人質殺害事件を論じ、犯人の言いなりになつた人質の臆病を怪しんだが、三月二日號では「自衞隊などいらない、日米安保はなるべく早く解消するべし、中小加工列島として、みなさんにかわいがられるよう」生きてゆけばよいと書いてゐる。野坂氏は時に勇ましい事を言い、舌の根も乾かぬうちに道化を言う。それですべては帳消しになり、「憎みきれないろくでなし」として「みなさんにかわいがられ」ると思つてゐる。情ない乞食根性である。
この種の戯作者の道化は週刊ポストの煽情主義よりも質が惡い。ポスト二月二十三日號は「ひところは騷々しかつた」國防論議が尻切れとんぼに終つたと言い、新聞や防衞庁を批判してゐる。それは正論である。けれども、かつてこのコラムで指摘したように、ポストの思考は不徹底なのだ。無視するよりは注文をつけるほうが相手を重んずる事になる。それゆえ再びポストに注文しておきたい。ポストは諸外國の「みなさんにかわいがられよう」などとは考へていまい。それなら「栗栖見解への賛否はともかく」などと逃げを張らず、栗栖氏の言う自衞隊の「超法規的行動」なるものについて一度とくと考へて貰いたい。野坂氏の如く「柳の枝に雪折れなし」で長生きしようと思つても、そうそういつも柳の下に泥鰌はいない。人間は安樂や安全を欲するが、同時に鬪爭や自己犠牲をも欲するのであつて、ヒットラーはそれをよく承知してゐた。ヒットラーは國民にこう言つた、「私は諸君に鬪爭と危險と死を提供する」。かくてドイツの「みなさん」はヒットラーの足下に身を投げ出す事になつたのである。
そういう事態にはもう決してならないと、多分野坂氏は思つてゐる。自國の領土に無斷で外國が基地を建設しても「今ならどうつてことはない」と思つてゐる。が、個人も國家も時に非理性的に振舞う。他人や他國に苦痛と屈辱を与えて樂しむ。オーウエルは作中人物に「他人の顔は何のためにあるか、踏みつけるためにある」と言わせてゐる。三菱銀行を襲つた犯人と同樣、ヴェトナムも中國もソ連も、そういう事を考へてゐるのである。朝日ジャーナル三月二日號の頗る啓發的な座談會で、笹川正博氏はアメリカの無能とソ連の脅威を憂えてゐる。が、平和惚けの大方の日本人は「どうつてことはない」と考へてゐるだらう。なにせ日本は世界でも有數の「長寿國」なのである。
(昭和五十四年三月三日) 
馬鹿は保護すべし
デュアメルの小説だつたと思ふが、社長の説教を聞いてゐるうちに相手の耳を引張りたくなり、堪えに堪えたあげく、結局引張つてしまう男の話を讀んだ事がある。私もそういう不条理な氣分を味わう時がある。例えば週刊朝日三月九日號で、小田實氏は「大きな國と小さな國とがけんかしたときは、だいたい小さな國に言い分がある」と言つてゐるが、かういふ小さな頭腦の持主に接すると、私はその耳を引張つてみたくなる。けれどもそれは不可能だから氣が晴れない。やむなく罵倒して腹癒せするか、嘲弄して樂しむ事になる。
どちらにするかは氣分次第だが、昨今は罵倒するほうが難しくなつた。言論の自由を謳歌してゐる我國でも、罵倒の自由は甚だしく制限されてゐる。林秀彦氏はマスコミの「私的檢閲」と「自己檢閲」を嘆いてゐるが、罵倒用語はマスコミの忌諱に觸れるのである。私はかつて愚劣な雜誌記事に腹を立て「編集長を獄門に掛けろ」と放言した事がある。勿論、活字にはならなかつた。
その種のあらぬ事を口走るのは不徳の致すところで、口汚いのは自慢にならぬ。口汚く罵る輕薄という事もある。けれども、この世に存在する物はすべて、どんなに小さな頭腦でも、存在價値がある。だから小田實氏を獄門に掛けるには及ばないが、その代り罵倒用語も文化財と同樣に保護されなければならない。      
宇能鴻一郎氏の小説に用いられる卑猥な言葉は、恥を捨てると人間がどこまで堕ちるかを知るために必要で、私的な場における使用は許されてしかるべく、公的な場における使用には覺悟が要る。罵倒用語の使用にマスコミは臆病だが、宇能氏の小説を連載してゐる週刊ポストの勇氣を、新聞や綜合雜誌は少しく見習つたらよいと思ふ。
ところで、先に週刊新潮は動勞のストを批判し、その「社會的信用を傷つけた」として訴えられてゐたが、このほど判決が下り、結果は新潮の敗訴に終つた。罵倒や嘲弄にも技術は必要で、新潮の技術が絶妙だつたとは思はないが、電車の横腹に幼稚な落書をして恥をさらす動勞には、宇能氏なみの覺悟があつてしかるべきところ、新潮のあれしきの嘲弄に「社會的信用」を云々するのは馬鹿げてゐる。
だが、新潮の「逆説的表現」は動勞の馬鹿に通じなかつた。逆説の通じない馬鹿とて馬鹿にはできぬ。今囘の新潮の如く馬鹿に敗れて馬鹿をみる事もある。當節は馬鹿が馬鹿に多いからである。が、幸い罵倒用語のうち「馬鹿」はまだ許されてゐる。馬鹿と戰つて馬鹿をみたからとて、戰う事を馬鹿らしく思ふような新潮ではあるまいが、萬萬一という事もあるから馬鹿念を押しておこう。「馬鹿」という言葉を私は日頃、愛用してゐる。新潮もせいぜい愛用し「馬鹿」を保護して貰いたい。お互い小さな頭腦の馬鹿がゐるからこそ成立つ商賣ではないか。
(昭和五十四年三月十七日) 
正義漢を嗤うべし
明治政府が學制の施行に際して國民に學問をすすめた時、國民はなかなかそれを信じなかつた。「我々には百姓すれば可なり、飯を炊いて食べれば可なり、板をけずれば可なり、算盤玉をはじけば可なり、豈何ぞ難かしい漢字などを見る必要あらんや」などと言う者もいた。しかるに今日、高校進學率は九三%に達したという。だが、新聞がこのところ連日のように載せてゐるグラマン「航空機疑惑」の記事を、日本國民の大多數が讀んでゐるとはとても思えない。新聞はまたぞろ正義の身方を氣取り、惡者を懲らそうと奮い立つてゐる。江川を叩きに叩いた新聞が、今は海部八郎氏を叩いてゐる。つまり「相手變れど主變らず」であつて、そうと解れば付合へるものではない。だから私は近頃全然讀まなくなつた。自分が讀まなくなつただけでなく、國民の大多數も家業に忙しく「豈何ぞややこしき疑惑記事などを見る必要あらんや」と思つてゐるに違い無い、そう信じるようになつた。
けれども、私の推測が正しいとすると、新聞は途方も無い無駄づかいをしてゐる事になる。九三%が高校へ進む事も無駄づかいかも知れないが、それはあれこれ美しい目的を考へ納得する事もできる。けれども、週刊朝日三月三十日號によれば、「日曜日にもかかわらず出勤した海部八郎副社長」を追い囘した報道陣は、逆に海部氏に追い掛けられたという。それは一體何のためだつたのか。日曜日の海部氏の寫眞をとつたところで事件解明に役立つ筈は無い。記者もカメラマンも弱い者いじめを樂しんだだけである。週刊朝日のグラビアにはカメラマンと揉み合う海部氏の姿が寫つてゐる。弱い者いじめはさぞ樂しかろう。まして今囘は辣腕の副社長が落ち目になつたとあつて、身震いするほど樂しかろう。そういう殘忍は私も知つてゐる。例えば、社會主義に幻滅した社會主義者菊池昌典氏の困惑を眺めてゐると、私は無性にいじめたくなる。が、そういう時、私は用心する。皆が菊池氏をいじめる時は、懸命に菊池氏の長所を探し出そうと努め、どうしても見付からない場合は菊池氏の短所を無理やりおのれの中に探し出す事にしてゐる。それだけの手順を踏んでおかないと、いつの間にか魔女狩を樂しんで阿呆面をしてゐるおのれを見出す、という事になりかねない。魔女狩も時によりけり、無駄でない場合もあるだらうが、これほど平和な國の魔女狩なら、いずれ無駄なものに決つてゐる。
三月二十九日號の週刊文春及び週刊新潮は新聞の「グラマン狂い」に冷水をぶつ掛けてゐる。新潮なんぞは新聞を嗤つて樂しくて仕樣が無いような書き振りである。興奮してゐる正義漢の足をすくうその種の樂しさを、なぜ他の週刊誌は味わおうとしないのだらうか。女の裸で稼ぐ事もある週刊誌が、新聞と一緒になつて「恥部」を忘れ正義の身方を氣取るのは、どう考へても馬鹿げてゐるのである。
(昭和五十四年三月三十一日) 
眞劍勝負を恐れるな
吾々日本人は「和を以て尊しとなす」民族である。馴合ひを喜び、眞劍勝負を忘れる事甚だしい。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ來て、妻としたしむ」と啄木は歌つた。何とも陰慘な歌である。友人すべてに憎まれて、孤立して、それでやむなく「妻としたしむ」のならまだしもの事だが、日本人は徹底的に他人を叩く事が無い。それゆえかういふ情け無い歌が詠まれる事になる。私はかつて週刊文春書評欄に「風」という。ペンネームで書いてゐる人物を褒めた事がある。齒に衣着せぬその率直と勇氣と頭腦明晰を頗る貴重と思つたからである。その「風」氏が文春四月五日號で廣中平祐氏を叩いてゐる。私も善意を裝い荒稼ぎをやつてゐる教育論のいかさまに腹を立て、いずれ善玉征伐をやらねばならぬと思つてゐる。
廣中氏を叩いて「風」氏は「世の人を善導しようという熱意にあふれた人が、稀にはゐる」が、「そういう人の意見は平板」であり、「こんな平板な考へかたしかできない頭腦でないと、人間は偉くなれないのではないかとさえ思ひたくなる」と書いてゐるが、全く同感である。
ただ、多分「風」氏は凡百の教育論を讀む暇が無いから、世人を善導しようとする善人が「稀にはゐる」と言つてゐるが、釋迦やクリストの事を言つてゐるならそれは正しいものの、教育界にはそういう始末に負えぬ「善人」が、實は掃いて捨てるほどゐるのである。極論すれば、教育論の大半は善人振る小惡黨によつて書かれてゐる。そして善男善女はたわいもなく似而非「善人」に騙される。
それゆえ私は讀者に言いたい。讀者はそれぞれ正業に勤しみ忙しい毎日を過ごしてゐるだらう。そんなに本を讀めないだらう。それなら毎週週刊文春を買い、「風」氏の書評を讀み、「風」氏の叩く本を買つて讀むがよろしい。人相が千差萬別であるごとく、讀者が「風」氏の意見に同じない事もあるだらうし、「風」氏が嘘をついたり間違つたりする事もあるだらう。要するに程度の問題だが、「風」氏ぐらい本當の事を言う書評家はめつたにあるものではない。それゆえ「風」氏が叩く本を讀めば、かつて彼が言つたように「ジャーナリズムでもてはやされてゐる學者の多くはニセモノ」だという事が解る。ニセモノに騙されてゐたおのれが口惜しくなる。それだけは請け合つておく。
さて、以上週刊文春の宣傳をやつたようなものだから、最後に一言、文春に苦言を呈したい。と言うより、文春に警告しておきたい。文春は去年「大變好評を博した」三浦哲郎氏と令嬢晶子さんの往復書簡『林檎とパイプ』の連載をいずれ再開するらしい。再開を手ぐすね引いて待つ事にして、今は一言「風」氏に倣い激しい事を言つておくが、あれは愚劣な文章であつた。廣中氏と同樣三浦氏も、善意ゆゑに恥を捨ててゐる。商策という事もあつてもはや止められまいが、聰明な文春編集長にはそれだけ言へば通じると思ふ。
(昭和五十四年四月十四日) 
賢なりや愚なりや
週刊文春四月二十六日號の「安井けん都知事候補の選擧日誌」を讀んで私はまず笑い、ついでこれは笑い事ではないと思つた。安井氏は黄中黨黨首、年中無休二十四時會長、先の都知事選で「6473票もとれた」ものの落選した人物である。しかも文春によると、安井氏は「顔面に投石をうけ」た太田薫氏よりも「さらにお氣の毒」だつたらしい。すなわち安井氏は都庁記者クラブに「出馬表明の記者會見を申し入れ」て拒否され、警視庁捜査第二課に記者クラブの不當を訴えて 「バカ」と言われ、「NHKに監禁され」、東京地檢では「手首をひねられ」捻挫したという。私が笑つたのは文春の文章が巧妙だつたからだが、笑い事ではないと思つたのは、なぜ記者クラブ、警視庁、NHK、及び東京地檢が安井氏をかくも邪險に扱つたのか、その理由を考へようとして解らなくなつたからである。同じく文春で野坂昭如氏は、美濃部前知事に「無責任、裏切り、大根役者」との烙印を押し、「美濃部さんのため三文の得にもならぬ勞を、これまで重ねて來た人たち、中野好夫氏中山千夏氏その他大勢の汗をどう考へるのか」と書いてゐる。が、例えば中山千夏氏と黄中黨の安井けん氏との間には、一體どれくらいの隔たりがあるのだらうか。
週刊現代五月三日號で江藤淳氏は「社會主義は善玉で、資本主義は惡玉だと、かねてから唱えつづけて來られたお偉い先生方は、どこでどうしておられるのだらうか」と書いてゐるが、「お偉い先生方」の一人は、何と後樂園でイースタン・リーグの試合を觀戰してゐたのである。週刊ポスト五月四日によれば、哲學者久野収氏は、「靜岡縣伊東市の自宅からわざわざ上京」して巨人・ロッテ戰を見物し、「國民が(中略)江川に罪の意識を持たせなくては(中略)戰後の民主主義が臺なしに」なるなどと愚にもつかぬ感想を述べてゐる。さて、安井けん氏と久野収氏と、いずれが賢なりや愚なりや、私はそれを考へ、笑うのをやめたのである。
けれども記者クラブやNHKや警視庁や東京地檢は、自信滿々、安井氏を冷遇した。やはり安井氏はまともな候補ではなかつたのか。だが、文春四月十九日號で三岸節子女史は、晩年のピカソの繪は「春畫よりひどい」と言つてゐる。三岸女史の説に反發する讀者もゐるだらう。が、三岸女史のように思ひ切つた事が言へずに、ピカソだから一流だと思ひ込んでゐる人々もずいぶんゐるに違い無い。例えば週刊現代と週刊ポストは渡部昇一氏の近著を紹介し、渡部氏を大いに持上げてゐる。私は『續・知的生活の方法』を讀んでいないが、『歴史の讀み方』は讀んだ。粗雜な論理のぞんざいな文章を讀んで呆れ返つた。渡部昇一氏をピカソもしくは安井けん氏並みに扱う事はできまいが、商策とはいえ、現代とポストの持上げようは少々度が過ぎるのである。
(昭和五十四年四月二十八日) 

 

惡文は害毒を流す
最近ビタミンB17による癌の治療法に關する書物が出版され、週刊誌にもその廣告が載つてゐる。それによれば、ビタミン療法は「死を宣告された患者4千人をすでに治癒してゐる」との事である。私はまだ癌を煩つていないからB17の効能を確かめた事がない。けれども「ニコチン・タールを段階的に減らして」ゆくため「小さな意志さえあれば、いつでも禁煙することができ」ると廣告してゐるパイプなら試した事がある。そして今、この原稿を煙草を吸いながら書いてゐる。が、「小さな意志さえ」發動させられぬおのが腑甲斐無さを反省する事はあつても、廣告に欺かれたなどとは少しも思つていない。あのパイプの廣告は正確で、けちのつけようがないからである。だが、ビタミン療法のほうは信用できない。治癒とは病氣がなおる事であつて、病氣をなおす事ではない。「4千人をすでに治癒してゐる」というような言い方はない。廣告は文章で勝負する。ずさんな文章なら損をする。ずさんな版元がすすめる藥ならいかさまに決つてゐる、そう讀者は思ふのではないか。
週刊ポストは日商岩井の島田常務の自殺は他殺ではないかと疑つて、華々しく「“血抜きの謀殺”キャンペーン」をやり、それが「大反響をよんでゐる」という。事實ならまことに嘆かわしい風潮だと思ふ。ポスト五月十八日號で加藤晶警察庁捜査第一課長は、他殺説を否定し、ポストの言葉づかいが「不正確」であり、そういう事では「共通の基盤にたつて物を考へることは」できないと語つてゐる。その通りであつて、ポストの文章はずさんであり、他殺説は眉唾に決つてゐる。
サンデー毎日が連載してゐる松岡英夫氏の文章もずさんである。靖國神社がA級戰犯を合祀した事について松岡氏は、戰爭責任はどうなるのか、「みんな水に流してしまえ、ということでは、餘り民族の犠牲が大き過ぎる」と書いてゐる。さて讀者諸君、この文章の欠陥がおわかりだらうか。かういふ限られた紙數のコラムで文章の巧拙を論ずるのは不可能だが、惡文を書く人間は危險なのであつて、松岡氏は國會議員には「プライバシーはないに近い」などと、何とも物騷な事を書いてゐる。
例えば山本夏彦氏が「三菱銀行猟銃強盗事件」の犯人について「可哀相な梅川」と書いても、私は少しも危ないと思はない。山本氏の文章に破綻がないからである。が、前囘叩いた渡部昇一氏の文章は、ずさんゆゑに俗耳に入りやすい。それゆえ世に害毒を流す文章なのである。「もう十年、二十年ぐらいすると、われわれが今ひじょうにぜいたくだというものが、絶對に普通になる。(中略)セントラル・ヒーティングのないような家屋はもう通用しない。これも十年ぐらいでくる」などという渡部氏の惡文が、惡文にも拘らず讀者を喜ばすとすれば、日本國にとつてそれほど危うい事はないと思ふ。
(昭和五十四年五月十二日) 
疑わしきは罰せず
週刊文春五月十七日號によれば、「捜査當局者」の一人は新聞記者に「H(威勢のいいことで知られる某政治家)を出せば(逮捕すれば)世論は納得するかね」と尋ねたそうである。事實なら言語道斷である。文春が書いてゐるように「檢察としては逮捕する政治家でさえ事前に名前を漏らすことは絶對にしないのがタテマエ。まして、逮捕もできない政治家の名前を漏らして傷をつけるなどあり得ないハズ」だからである。だが、文春はその言語道斷の言語道斷たるゆゑんを知つてゐるだらうか。その點少々心許無いのである。
五月十六日付の朝日新聞によれば、伊藤刑事局長は「秘密會にもかかわらず、松野氏の名前を明言しなかつた」のである。では、新聞や週刊誌はいかなる根拠あつて日商岩井から五億圓を受取つたのは松野頼三氏だと決め込んでゐるのだらうか。檢察がリークしたのならそれは言語道斷、檢察官こそ彈劾されねばならないし、また、かりに檢察がリークしたところで、松野氏が有罪か無罪かはあくまで法廷において明らかにさるべき事である。しかるに、新聞も週刊誌もこのところ松野氏喚問を主張していきり立つてゐる。奇怪な事である。松野氏自身が予算委員會に喚問されて五億圓の受取りを認めたとしても、それが事實かどうかはなお斷じ難い。本人の自白が正しいとは限らないからだ。
同じ號の文春で、立花隆氏は「岸も地檢に呼ばれると思ひます。ひょつとしたら、もう呼ばれてゐるかもしれない。檢察はこれもいずれリークするでしょう。(中略)ただし、それもこれも世論の盛り上がり次第でしょう」と言つてゐる。かういふ物騷な發言を世人が怪しむ事なく聞き流してゐるのは、まことに奇怪千萬である。「世論の盛り上がり」方次第で檢察がどのようにも動くのなら、そんな檢察は税金泥棒である。立花氏は淺薄で自分の喋つてゐる事の意味に氣づいていないのか、それとも立花氏の言う事が當つていて、日本の檢察はそれほどでたらめなのか。
週刊讀賣五月二十七日號によれば、自民黨の田中伊三次氏は岸、松野兩氏の喚問に反對する自民黨員に「四の五のいわずに應じろ」と言つたという。これもまた何とも物騷なせりふであつて、四の五の言わせまいとする「正義漢」の危うさになぜ世人は思ひ至らないのか。「はぐれ鴉」一羽では物足りぬ、「木戸錢返せ」と喚かれれば、政治家は四の五の言わずにいかようの事にも應ずるのか。それなら政治家もまた税金泥棒に他ならない。
私は松野頼三氏を好かない。かつて松野氏が「ロッキード事件のウミを出しきれ」とはしゃぎ廻つて以來好かない。いつそ世間に迎合して「ざまを見ろ」と口走りたいくらい好かない。が、それを口走つたらおしまいである。松野氏を好かぬとしても松野氏のために辯ずべき時がある。政治の腐敗を憂えながらも、疑わしきは罰しない、そういう理性的な態度をなぜマスコミは採れないのか。
(昭和五十四年五月二十六日) 
刑事責任と道義責任
週刊文春五月三十一日號によれば、捜査當局は松野頼三氏が五億圓の受取りさえ認めるなら「僞證罪には問わない」と言つたそうである。奇怪な事である。文春は松野氏喚問までの紆餘曲折を「黨利黨略・派利派略がミエミエの、なんともお粗末な田舎芝居だつた」と言う。多分、文春の言う通りだつたのだらうが、この數カ月、熱心に「田舎芝居」を報じた新聞や週刊誌は、物事を徹底して考へるという事をしなかつた。
例えばサンデー毎日六月十七日號に、松岡英夫氏は「五億圓の金が成功報酬という名のワイロであることは」明らかであり「テレビ放送を通じて國民は明確にこのことを感じとつた」と書いており、朝日ジャーナル六月八日號には立花隆氏が「檢察とともに、野黨のやる氣もまた國民から疑いの眼で見られてゐる」と書き、さらに週刊新潮五月三十一日號は、松野氏喚問は「“主役”の出番を待ちくたびれてゐた國民を滿足させることができるかどうか」と書いてゐる。右に引いた三つの文章は、いずれもその筆者の思考の淺薄を例證するものである。讀者はそれがお解りだらうか。
三つの文章に用いられてゐる「國民」は「私」でなければならない。新潮の文章について言うなら、いかなる根拠あつて新潮は「國民」が「“主役”の出番を待ちくたびれてゐた」と斷定しうるのか。私も「國民」の一人だが、私は「“主役”の出番」などついぞ待ちくたびれた事はない。「田舎芝居」の主役の登場なんぞを誰が心待ちにするものか、とさえ思つてゐる。
かういふ事を言へば、世人はそれを屁理窟に過ぎないと思ふだらう。が、少なくとも新潮は私に反論できないと思ふ。なぜなら、安直に「國民」だの「世論」だの「國民感情」だのという言葉を用ゐる事の危險を、新潮なら理解できるはずだからである。新潮は横山泰三氏の漫畫「プーサン」を連載してゐるが、あの安手の政治批判の愚劣淺薄を見習つてはならない。
新潮はまた六月七日號で、松野頼三氏に欠けてゐる「男のプライド」について論じてゐる。「新潮よ、お前もか」と言いたい。周知の如く「時効と職務權限の壁にはばまれ」て檢察は松野氏の刑事責任を問う事ができなかつたのである。航空機疑惑をめぐつて新聞週刊誌は樣々の臆測を書きまくつたが、この事だけは確實である。では、新潮にたずねたい。刑事責任を問えない人間に對して、どうして道義的責任を追及できるのか。
サンデー毎日六月十日號で古井法相は、政治的な、あるいは道義的な問題は檢察ではなくて國會が責任を負うべきだ」と語つてゐる。法務大臣も新聞週刊誌も少しも疑つていないらしい事を、すなわち「國民」がどうやら當然の事と考へてゐるらしい事を、私だけが怪しんでゐるとすると、私も少々心細い。が、刑事責任を問えぬ者の道義的責任を追及するのは魔女狩に他ならぬ。新潮はなぜそれを問題にしないのか。           
(昭和五十四年六月九日) 
あとがき

 

本書の第一部には昨年から本年にかけて『中央公論』、『Voice』及び『諸君!』に書いた五篇の評論を、第二部には三年前からサンケイ新聞に書いてゐる週刊誌批評の文章を、昨年六月九日に掲載されたものまで収録した。週刊誌批評は隔週四百字三枚の割で書いてゐるが、低俗な週刊誌が相手だからとて、或いは小さなコラムだからとて、手抜きをした事は一度も無い。伊藤仁齋の言うように「卑きときは則自實なり。高きときは則必虚なり。故に學問は卑近を厭ふこと無し。卑近を忽にする者は、道を識る者に非ず」だからである。そしてまた、『新聞はなぜ道義に弱いか』において縷々説明したとおり、知的怠惰は道義的怠惰に他ならないが、私は怠惰を當節最大の惡徳と考へてゐる。本書の題名を『知的怠惰の時代』としたゆゑんである。昨今「知的」なる形容詞を冠する題名の書物がかなり出廻つてゐるが、その種の書物の著者も讀者も、知的に怠惰な手合が多いのではないかと思ふ。本書はそういう知的に怠惰なマス・メディア及び物書きを批判した文章を一本に纒めたものである。
日本國は今や馴合ひと許し合ひの天國である。日本人は「和を以て貴しと爲す」民族だとよく言われるが、それは昔の事で、今は「馴合ひを以て貴しと爲す」民族だと私は思つてゐる。吾々は互いに許し合ひ、徹底的に他人を批判するという事をしない。許すとは緩くする事だが、他人に緩くして、おのれも緩くして貰いたがる。そういう許し合ひのお遊びの最中に、本氣になつて他人の知的怠惰を批判すれば、ドン・キホーテとして輕蔑されるか、野暮天として嫌われるか、いずれ得にはなりはしない。
それかあらぬか、私はこれまで、本氣になる事の損を何囘も思ひ知らされた事がある。だが、本氣で他人を斬るの眞劍勝負に他ならない。私は文弱の徒に他ならず、武人の勇氣は持合せていないけれども、文弱の徒にとつては文章を書く事が眞劍勝負なのであり、新聞や週刊誌や物書きを本氣で叩く以上、いつ何時、叩き返されても、それに應じられるだけの覺悟が無ければならぬ。そういう覺悟があつて私は文章を綴つてゐる。その事だけを私は讀者に解つて貰いたいと思ふ。
本書は私の最初の評論集である。その上梓に當つて私は福田恆存氏の三十年に及ぶ高誼を何より忝く思つてゐる。物を書く事が眞劍勝負であるゆゑんを、私はとりわけ福田氏から學んだからである。福田氏との邂逅無しに今日の私は無かつたと思ふ。
また、『中央公論』編集長青柳正美氏及び編集部の平林孝氏は、私が『教育論の僞善を嗤う』の原稿を持ち込んだ際、無名の新人たる私の文章を、一擧五十枚、『中央公論』に載せてくれたのであつて、『諸君!』編集長村田耕二氏、『Voice』編集長江口克彦氏及び編集部の安部文司氏、ともども、私は御禮を申述べねばならない。村田・江口兩氏が私の評論を掲載してくれたのは、同じく無名の新人を抜擢する度胸あつての事だつたからである。
だが、そもそも私が評論らしきものを書き出したのは、サンケイ新聞の『直言』欄以來のことであつて、それゆえサンケイ新聞の四方繁子氏、及び野田衞氏に、そしてもとより、本書の上梓は、PHP研究所出版部の宮下研一氏の尽力あつての事、それゆえ宮下氏に、心から御禮を申述べる。
昭和五十五年七月一日   松原正 
 
道義不在の時代 / 松原正

 

廉恥節義は一身にあり 序に代へて 
石川達三といふ三文文士は破廉恥であり、愚鈍であり、あのやうな穀潰しの益體無しは暗殺するに如くは無いと、もしも私が本氣で書いたら、一體どういふ事になるであらうか。言ふも愚か、私の手は後ろに廻るに決つてゐる。けれども石川氏は今年、『連峰』八月號に、法治國の國民にあるまじき愚論を述べたのである。それは「石川達三氏を暗殺すべし」との暴論とさしたる徑庭無きものだが、愚論を述べて石川氏が世の笑はれ者になつた譯ではなく、ましてや石川氏の手が後ろに廻つた譯でもない。まこと思案に落ちぬと言ひたいところだが、實はそれも一向に怪しむに足りぬ。何せ今や日本國は道義不在の商人國家だからであり、「唄を忘れたカナリア」ならぬ廉恥節義を忘れた大方の日本人は、他人の愚鈍と沒義道とを滅多に咎める事が無い。もとよりジヤーナリズムも同樣であつて、先般新聞週刊誌はかの榎本敏夫氏の品性下劣なる先妻を「女王蜂」なんぞと持て囃し、大いにはしやいで樂しんだが、これまた廉恥心が地を掃つた事の證據に他ならぬ。かの「女王蜂」は愚かであり、愚かであるがゆゑにおのが品性の下劣を滿天下に晒したのであつた。「知的怠惰は道義的怠惰」だと私は屡々書いた事がある。淺はかなりし「女王蜂」については後述するが、『連峰』八月號に、法について淺薄極まる駄文を綴つた石川達三氏の場合も、その知的怠惰すなはち愚鈍と道義的怠惰すなはち破廉恥とは、表裏一體のものなのである。
だが、石川氏の暴論を批判する前に、少しく石川氏の「前科」を洗つておくとしよう。石川氏は昭和十三年『中央公論』三月號に、『生きてゐる兵隊』といふ小説を書いた。底の淺い愚にもつかぬ小説だが、ここでは作品評はやらぬ。要するに、日本軍の殘虐行爲を描寫したといふ事で『生きてゐる兵隊』を載せた『中央公論』三月號は發賣禁止となり、石川氏は軍部に睨まれる事になつたのである。睨まれて石川氏はどうしたか。「前の失敗をとりかへし過ちを償」ひ「名譽を恢復」すべく、やがて再び從軍作家として武漢に赴き、歸國後『武漢作戰』を發表、やがて文藝興亞會の會則編纂委員となり、昭和二十年には日本文學報國會の實踐部長になつた。當時の石川氏が軍部に迎合して恥を捨て、いかなる愚論を述べたか、かうである。
極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はないと思ふ。さういふ小説は藝術ではないと言はれるかも知れない。しかし藝術は第二次的問題だ。先づ何を如何に書くかといふ問題であつて、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣傳小説家になることに悲しみを感ずる必要はないと思ふ。宣傳に徹すればいいのだ。(『文藝』昭和十八年十二月號)
しかるに、「國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつ」ぎ、「宣傳に徹」した甲斐も無く、昭和二十年八月十五日、日本は敗戰の憂き目を見る事となつた。石川氏は「われ誤てり」とて茫然自失、或いは祖國の命運を思ひ暗澹たる心地だつたらうか。否。石川氏は破廉恥なまでに鮮かに轉向した。そして敗戰後二ヶ月も經たぬうちに、今度はマツカーサー元帥に胡麻を擂るべく、十月一日附の毎日新聞にかう書いたのである。
私はマツカーサー司令官が日本改造のために最も手嚴しい手段を採られんことを願ふ。明年行はれるところの総選擧が、もしも舊態依然たる代議士を選出するに止るやうな場合には、直ちに選擧のやり直しを嚴命して貰ひたい。(中略)進駐軍総司令官の絶對命令こそ日本再建のための唯一の希望であるのだ。何たる恥辱であらう!自ら改革さへもなし得ぬこの醜態こそ日本を六等國に轉落せしめた。(中略)私の所論は日本人に對する痛切な憎惡と不信とから出發してゐる。不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑる親の心と解して貰ひたい。涙を振つてこの子を感化院へ入れるやうに、今は日本をマツカーサー司令官の手に託して、叩き直して貰はなければならぬのだ。
これもまた愚かしい、それゆゑ破廉恥な文章である。さうではないか。「不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑる親の心」の中に、眞實、親が子を愛してゐるのなら、「痛切な憎惡と不信」なんぞが潛む筈は無い。それに何より、「六等國に轉落」した日本を「不良化した自分の子」に擬へ、「涙を振つて感化院へ入れる」しかないと主張する石川氏とて、「自ら改革さへもなし得ぬ」日本人の一人だつた筈である。「自ら改革さへもなし得ぬ」日本人の一人だつだからこそ、「マツカーサー司令官に叩き直して貰」ひたいと書いたのではないか。
しかるに、愚鈍なる石川氏にはこのあからさまな矛盾が見えてゐない。そして無論、知的怠惰は道義的怠惰なのであり、「親の心」だの「涙を振つて」だのとは何とも白々しい限りだが、それはともかく「何たる恥辱であらう!」と書いた時の石川氏は、おのれが以前「六等國」の「政府のお先棒をかつ」いだ事の「恥辱」のはうはきれいさつばり失念してゐるのである。おのれ一身を棚上げして日本人全體の恥辱を云々できるのは道義心を缺くからに他ならぬ。恥辱とは何よりもおのが恥辱であり、おのれ一身が「痛切」に感ずべきものである。昔、福澤諭吉は「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。まさに至言であつて、大義名分に醉ひ癡れての憂國の情は、石川氏のそれのごとき頗る安手の紛ひ物さへ、とかく恥知らずにとつての恰好の隱れ蓑になる。 
だが、過去の大義名分の一切が崩潰したかに見えた敗戰直後の日本國にも、「私に在り一身に在」る廉恥節義を捨てなかつた男はゐた。例へば太宰治がさうである。太宰は石川氏と異り、戰時中も軍部に迎合する事の無かつた作家だが、敗戰直後、彼はかう書いた。
日本は無條件降服した。私はただ、恥づかしかつた。もの言へないくらゐに恥づかしかつた。天皇の惡口を言ふものが激増して來た。しかし、さうなつて見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して來たのかを知つた。(『苦惱の年鑑』)
もう一つ引かう。昭和二十一年一月二十五日付の堤重久宛の書簡である。
このごろの日本、あほらしい感じ、馬の背中に狐の重つてる姿で、ただウロウロ、たまに血相かへたり、赤旗ふりまはしたり、ばかばかしい。(中略)ジヤーナリズム、大醜態なり、新型便乘といふものなり。文化立國もへつたくれもない。戰時の新聞雜誌と同じぢやないか。(中略)戰時の苦勞を全部否定するな。(中略)天皇を倫理の儀表としてこれを支持せよ。戀ひしたふ對象もなければ倫理は宙に迷ふおそれあり。
いかにも「倫理の儀表」無くば「倫理は宙に迷ふ」のであつて、それは私が『僞りても賢を學べ』において縷々説いた事だが、それはさて置き、變り身の早い石川達三氏の生き方と太宰治のそれと、讀者はいづれをよしとするであらうか。いかにも太宰は女を抱いて玉川上水に飛込んだのであつて、その死樣は女々しい限りだつたかも知れぬ。が、太宰の文章と石川氏のそれとを比較考量するならば、吾々は皆、太宰の頭腦が石川氏のそれを凌いでゐた事實を承認するであらう。やはり知的怠惰は道義的怠惰なのである。戰中及び戰後における石川氏の時局便乘は破廉恥の限りだが、それも畢竟頭が惡いからであり、頭が惡いからこそ破廉恥に振舞ひ、道學先生を氣取り、綺麗事を書き擲つて今の世をも後の世をも欺き果せると思ひ込んでゐる。そして實際十中八九は欺き果せたのであつた。例へば『連峰』八月號所載の駄文だが、『週刊新潮』八月二十七日號は「有罪と無罪の間」と題するその駄文を紹介して、齒が浮く樣な世辭を言つたのである。石川氏の小説は新潮文庫に二十數點も收められてをり、週刊誌の雄たる新潮とて臺所の事情は無視できなかつたと見える。俗に「目明き千人、盲千人」と言ふが、今も昔も目明きの數は決して多くはないのだから、目明きばかりを相手にして算盤が合ふ譯が無い。それゆゑ私は新潮の商賣氣質を咎めようとは思はぬ。論ふべきは石川氏の知的、道義的怠惰である。石川氏はかう書いた。
田中角榮氏は遠からず無罪になるだろう。理由は證據不充分であつて、「疑わしきは罰せず」という原則がある。たとい有罪になつても被告は直ちに控訴、更に上告して、最終判決までにはなお七八年もかかり、その間も田中氏は當選が續く限り國會議員であり、國は歳費を拂いつづける。(中略)一體、有罪の判決が有るまでは無罪というのはどこに書いてある規定なのか。この言葉そのものが甚だ怪しげである。まるで中學生の理論のように短絡的であつて、筋が通らない。有罪の判決が有るまでは有罪では無いが、無罪でもないはずである。無罪だという根據はどこにも無い。したがつて選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり、疑問が解決しない限りは無罪も確定してはいない。無罪が確定していなければ議員としての資格をも確認することはできないはずである。當然、「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」されなくてはならない。勿論歳費の支給も保留されるべきであり、いわんや國會議事堂に入つて國政を論ずるなどは言語道斷であるべきだと思う。それを從來は「有罪がきまるまでは無罪」という變な考え方で、有罪かも知れない人物が國政を論じていた。つまり、犯罪人かも知れない人間が政治家づらをして、吾々庶民を支配し號令していた。(中略)私は法秩序恢復の一つの手はじめとして、「有罪の判決が有るまでは無罪だ」と言う一般的な論理を、是非とも訂正してもらいたいと思う。「無罪という判決が有るまでは無罪ではない」のだ。當然、無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇もまた保留されるべきである。この馬鹿々々しいほど當り前な事がなぜ今日まで歪められて來たのか。 
これは許し難き愚論であり、暴論である。法治國の國民の斷じて口走つてはならぬ戲言である。しかるに日本國は目下途轍も無い理不盡の國だから、人々はこの類の暴論を「馬鹿々々しいほど當り前な事」と受け取つて怪しむ事が無い。それゆゑ、「中學生の理論のように短絡的」な石川氏の愚論を『週刊新潮』が引用して提燈を持つたにも拘らず、新潮も石川氏も世論の袋叩きに遭ひはしなかつた。「目明き千人」と言切れぬゆゑんである。
「有罪の判決が有るまでは無罪というのはどこに書いてある規定なのか」と石川氏は言ふ。「どこに書いてある」かはおよそ問題外である。「有罪の判決が有るまでは無罪」なのではない。最終審による有罪判決が下されるまで無罪の扱ひをするのが法治國なのである。それくらゐの事は本來、中學生でも承知してゐなければならぬ。いかにも「有罪の判決が有るまでは有罪では無い」し「無罪でもない」。從つて「無罪だという根據はどこにも無い」。けれども「有罪だという根據」とてどこにも無いのである。ここまでは「短絡的」ならざる中學生なら理解できる筈だと思ふ。では、「有罪だという根據」が「どこにも無い」のに、一體全體、いかなる「根據」にもとづいて、吾々は田中角榮氏に對し「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を「保留」しうるのか。自分の文章を引くのは氣が引けるが、馬鹿念を押すに足る大事だと信ずるから、長い引用を敢へてする事にする。私はかつてかう書いた。
例へば讀者はかういふ事を考へてみるがよい。甲が今、友人乙を殺したとする。そしてそれを丙が目撃したとする。言ふまでもなく、丙にとつては乙殺しの犯人が甲である事は確實である。だが、丙が「犯人は甲だ」と主張した時、丙以外の人間は、その主張の正しさを確かめる事ができない。丙が本當の事を言つてゐるかどうかは、神樣と丙自身にしか解らないからである。證據が物を言ふではないかと反問する向きもあらう。が、指紋だのルミノール反應だのが殘らぬ場合もある。その他確實と思はれる證據を蒐集して甲を起訴しても、最終審で甲が無罪になる可能性はある。いや、先般の財田川事件の場合のやうに、甲の死刑が決定して後に、最高裁が審理のやり直しを命ずる事さへある。
以上の事を否定する讀者は一人もゐないと思ふ。これを要するに、甲が殺人犯かどうかは、究極のところ、甲自身及び目撃者丙以外誰にも解らぬといふ事である。(中略)たとへ、甲が一審で有罪、二審でも有罪となつたとしても、甲が最高裁に上告すれば、この段階でも世人は甲を罪人扱ひする事ができない。やがて最高裁が上告棄却の決定を下す。さて、さうなつて初めて世人は甲の有罪を信じてよい。新聞もまた甲を呼捨てにして、その「道義的責任」を追及し、勤先に辭表を出せと居丈だかに要求するもよい。財田川事件の如く、三審制といふ愼重な手續を經ても、人間の判斷に誤謬は附き物だから、なほ誤判の可能性はあるが、それは止むをえない。最終審の決定があれば、吾々は被告の有罪を信じるしかないのである。(『知的怠惰の時代』、PHP研究所)
再び、「以上の事を否定する讀者は一人もゐないと思ふ」。では、私は讀者に尋ねたい。田中角榮氏の場合は一審の判決さへ下つてゐない。即ち田中氏は有罪かも知れぬが、逆に無罪かも知れぬ。それなら、無罪かも知れぬ人間に對して、「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を、いかなる根據あつて「保留」しうるのか。警察が逮捕し檢察が起訴すれば、被告は即ち犯罪者と斷じうるのか。それなら判事なんぞは無用の長物である。そして判事や辯護士が無用の長物であるやうな國家では、善男善女は枕を高くして眠る事ができない。さういふ事態を「檢察フアツシヨ」と呼ぶのである。「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を「保留」すべしと主張する石川氏は、「檢察フアツシヨ」を待望してゐるのであらうか。もしもさうなら、石川達三の如き「穀潰しの益體無しは暗殺するに如くは無い」と言切りたくもなる。
さらにまた石川氏は、田中角榮氏が「無罪だという根據はどこにも無」く、「したがつて選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり、疑問が解決しない限りは無罪も確定してはいない」と言ふ。度し難き愚鈍である。「選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり」といふ事になれば、選擧制度そのものが崩潰してしまふ。石川氏はそれを望んでゐるのか。即ち民主主義を否定したがつてゐるのか。それとも新潟三區の選擧民は愚昧にして破廉恥だから、その意志は無視すべきだと考へてゐるのか。そのいづれにせよ、石川氏は公職選擧法そのものを否定してゐる事になる。實際、「多數決主義と言うのは民主主義的な運營の方法として、理論的には大變に理想的な方式であるけれども、その方式は永年のあいだに有りとあらゆる不潔な垢が附いてしまつ」たと石川氏は書いてゐるのである。要するに「不潔な垢が附いてしまつ」たから「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」すべきだといふ譯だが、さういふ事態となつたら、起訴された政治家の當選はまづ難しからう。「無罪の判決が有るまで議員としての」活動を禁止されるやうな政治家を、選擧民が選出する道理は無いからである。これほど見易い道理は無いが、粗雜な腦漿を絞つて雜駁な雜念を書き留める石川氏には、至つて見易い道理も見えない譯であり、その石川氏が「中學生の理論」を「短絡的」と稱するのは笑止千萬である。 
さて、石川氏の暴論の暴論たるゆゑんについて讀者はほぼ了解した事と思ふ。有罪の判決が下るまでは無罪の扱ひをし、「疑わしきは罰しない」、それが法治國なのである。田中角榮氏の場合も、最高裁は愚か地裁の判決も下つてゐない。すなはち、田中氏が「無罪だという根據はどこにも無い」かも知れないが、有罪だとする根據も今のところ「どこにも無い」。有罪か無罪か解らぬ被告人に對して「各種の權利、待遇」を「保留」したり、道義的に非難したりする事がどうして輕々にやれようか。
假りに田中角榮氏は無實だとしよう。しかるに最高裁が有罪の判決を下したとしよう。すでに述べたやうに、その場合吾々は初めて田中氏の有罪を信じてよい。だが、その代り、假りに田中氏が罪を犯したのに最高裁が無罪の判決を下した場合も、輕々に最高裁と政治權力との「癒着」を云々したり、田中氏は「無罪となつたが道義的責任は免れない」などと、吾々は斷じて言つてはならないのである。
人間は神ではない。それゆゑ、政治家や小説家と同樣、檢事や判事が間違ひをやらかす事もある。また、神ならぬ人間の拵へる法律も不完全だから、法の不備に附け込んで惡事を重ねる奴も跡を絶たぬ。だがその場合も、「法網を潛るとは何としても許せぬ、法が裁けぬなら道義で裁け」とて、惡黨を道義的に非難して吊上げるなどといふ事は斷じてやつてはならぬ。それは私刑であり、私刑は法治國において固く禁じられてゐる行爲だからである。しかるに先年、松野頼三氏が時效ゆゑに刑事責任を免れた時、新聞は松野氏を呼捨てにし、松野氏の道義的責任を躍起になつて追及した。あれは新聞による私刑であつた。そして今、石川達三氏は「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」せよと書き、田中角榮氏に對する法によらざる制裁を勸めてゐる。しかも石川氏には暴論を吐いたとの自覺は微塵も無く、世人も石川氏を決して咎めない。なぜか。世人は田中氏が賄賂を貰つたのは事實だと決め込んでをり、小説家が「國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつ」いだり、マツカーサーに胡麻を擂るべく「選擧のやり直しを嚴命して貰ひたい」などと書いたりするのは破廉恥ではないが、代議士が巨額の袖の下を貰ふのは破廉恥なのだから、貰つたらしいといふ事だけで充分、斷乎「疑わしきは罰」すべきだと、さう考へてゐるからである。それゆゑ、田中角榮氏を批判する者はすべて善玉と見做され、逆に田中氏のために辯ずる者は、例外無しに破廉恥漢と見做される。そして、さういふ輕佻浮薄な風潮を破廉恥な手合が利用しない筈が無い。かくて十月二十八日、かの「女王蜂」が檢察側の證人として出廷し、「蜂は一度刺して死ぬ」と大見得を切つた時、新聞は國家の一大事であるかのごとく一面トツプにでかでかと報じ、彼女の手記を掲載した『週刊文春』は發賣と同時に賣切れたのであつた。
「あえて證言臺に立つた理由の一つ」は「眞實を貫くということの尊さ」を子供たちに「知つて欲しかつた」といふ事だと、「女王蜂」は手記に書いてゐる。だが、夫君榎本敏夫氏と別れようと決心して田中角榮氏に相談した時、「子供はどうする」との田中氏の問ひに對して彼女は、「女一人で三人の子供を育ててゆく不安、子供達の環境が激變することへの心配」、及び「再婚して子供を」拵へられる「年齢ではない榎本から、子供を取り上げたら何が殘るのか等々」の理由を擧げ「子供は預けます」と答へたといふ。愚かな「女王蜂」の言分はもとより矛盾してゐる。「眞實を貫くということの尊さ」を子供に知つて欲しいといふ氣持が眞實だつたなら、すなはち彼女が子供達を、眞實、愛してゐたのなら、「女一人で三人の子供を育ててゆく不安」なんぞ物の數とも思へなかつた筈である。惡黨も「眞實」だの「良心」だの「愛情」だのといふ美しい言葉を口にする。彼女の母性愛とは所詮眉唾物でしかない。
「私はあの(證言臺に立つた)時、裁判官や檢事、辯護人に對してというよりも、ただひたすら子供達に向つて證言していた」と彼女は書いてゐる。昭和二十年、「親の心」だの「涙を振つて」だのと白々しい事を書いた石川達三氏と同樣、彼女もまた愚鈍ゆゑに品性の下劣を滿天下に晒したのである。「女親に離れぬるは、いとあはれなる事にこそ侍るめれ」と紫式部は言つた。昔も今も、眞實子を思ふ母親がそれを考へぬ筈が無い。
だが、矛盾だらけの「女王蜂」の手記を私は丹念に叩かうとは思はない。愚かな「女王蜂」は道義的にもいかがはしく、世間を舐め過ぎてすでにかなりの襤褸を出してゐる。今後もますます出すであらう。豆を植ゑて稗を得るといふ事になるであらう。それゆゑ放つておけばよい。世間もいづれ必ず相手にしなくなる。けれども、あれほど品性下劣な女に、ごく短期間の事とはいへ、新聞や週刊誌は飜弄されたのであつて、それこそ日本人の道義心の麻痺を雄辯に物語る事實であり、これは放つてはおけない。浮かれ過ぎた「女王蜂」は愚鈍ゆゑに日ならずして尻尾を出し、文春以外の週刊誌がその尻尾を掴んで振り廻し、いかがはしい素性をしきりに洗ひ立てたけれども、彼女の品性下劣は、檢察側の證人として出廷した事を報じた各紙の記事を讀んだだけで、充分に察せられた筈なのである。しかるに、新聞も週刊誌も「女王蜂」の道義心の麻痺を即座に看破る事が無かつた。これこそはジヤーナリズムの墮落を雄辯に物語つてゐる。
「證言拒否できる立場にありながら拒否しなかつた」のは、「私怨」のためもあるが「社會正義」を思つてでもあると「女王蜂」は言つたのである。けれども私怨ゆゑに「先夫を窮地に陷れ」た「女王蜂」の言動に、「公の義理」と「私の義理」の雙方を考へての葛藤は一向に感じられぬ。『週刊讀賣』十一月十五日號によれば、「衝撃的な證言をした翌日」彼女は玄關のドアに、「今囘の件は永い永い心の葛藤があつての事ですし、昨日終つてみて改めて悲しみがおそつて參りました。しばらく靜かにさせて頂けませんか」との張り紙をしたといふ。だが、その日彼女は湯河原にゐて、矛盾だらけの手記を書いてゐた。「永い永い葛藤」云々も眞つ赤な嘘だつたのである。
無論、吾々は誰一人聖人君子ではない。他人の不幸は眺めてゐて樂しいし、憎たらしい奴ならいつそ殺したいと思ふし、震ひ附く樣な別嬪なら友人の女房でも寢取りたいと思ふ。が、惡いと知りながらつい寢取つてしまふのと、惡いとの自覺無くして寢取るのとは雲泥の差なのである。すなはち、前者は不道徳といふ事に過ぎぬが、後者は沒道徳だからだ。私怨ゆゑに「先夫を窮地に陷れる」のは善い事ではない。決して善い事ではないが「社會正義」のために敢へてやらねばならぬと、さういふ「永い永い心の葛藤があつて」、すなはち「私の義理」と「公の義理」とに引裂かれた擧句、「女王蜂」は證言に踏切つたのか。さうとはとても思はれぬ。それなら彼女の行爲は沒道徳なのである。しかるに世人はその沒道徳に慄然とせず、却つて檢察を咎めた奧野法相を咎めたのであつた。例へば『選択』十二月號に「天鼓」なる匿名批評家はかう書いた。 
榎本被告前夫人の十月二十八日の爆彈證言は、榎本アリバイにとどめを刺す威力を發揮した。さすが「ハチは一度刺したら死ぬ」と覺悟しただけのことはある。(中略)ハチ證言は、田中復權を期待する自民黨内の幻想を吹き飛ばしたのである。
それに對するはかない抵抗が“隱れ田中派”の異名を頂戴した奧野法相の發言だつた。「檢察は人の道を外れてはならない」という奧野發言は、檢察への不當な牽制であるのはもとより、その倫理感の古めかしさを正直に告白したものだつた。法相は「亭主がどんな惡いことをしても、女房たる者は盲從し背くべからず」というのだろうか。
道徳とは百年千年經つてなほ變らぬものなのである。それは『道義不在の防衞論を糺す』で縷々述べた事だからここに繰返さないが、とまれ「古めかし」い「倫理感」などといふものは斷じて無い。天鼓氏のやうに駄文を綴る愚鈍な手合には所詮通じまいが、無駄を承知で思ひ切り「古めかしい」插話を紹介しておかう。或時、葉公が孔子に言つた、「吾が黨に直躬なる者あり。其の父羊を攘みて、子之を證せり」。孔子は答へた、「吾が黨の直き者は、是れに異なり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。直きこと其の中に在り」。『論語』子路篇の一節である。子が父親の罪を發くが如き行爲は「直きこと」ではない。これがどうして古めかしい倫理であるか。「亭主がどんなに惡いことをしても、女房たる者は」それを輕々に發いてはならない。「社會正義」のために發くとしても「私の義理」と「公の義理」との食違ひに苦しんだ擧句の果でなければならぬ。
「總ジテ私ノ義理ト公ノ義理・忠節トハ食違者也。國ノ治ニハ私ノ義理ヲ立ル筋モ有ドモ、公ノ筋ニ大ニ連テ有害事ニ至テハ、私ノ義理ヲ不立事也」と荻生徂徠は書いた。さう書いて徂徠は丸橋忠彌の陰謀を密告した手合を辯護したのである。だが、徂徠が今、「女王蜂」の手記を讀んだとしても、「私ノ義理ヲ不立事也」とは決して言はぬであらう。なぜか。『猪木正道氏に問ふ』にも書いたとほり、今日世人は「平和憲法護持を唱へればすなはち道徳的であるかのごとく思ひ込んでゐる」が、徂徠は政治と道徳とを混同するやうな愚物ではなかつたからである。徂徠は政治と道徳とを、「公ノ義理」と「私ノ義理」とを峻別した。峻別したうへで「公ノ義理」を重んじたに過ぎない。「天下ヲ安ソズルハ脩身ヲ以テ本ト爲ス」事は無論だが、ただしその場合の修身は飽くまで治國平天下のためである。「たとひ何程心を治め身を修め、無瑕の玉のごとくニ修行成就」したところで「下をわが苦世話に致し候心」無く、「國家を治むる道を知」らぬなら「何之益も無」き事ではないか。「己が身心さへ治まり候へば、天下國家もをのづからニ治まり候」と考へるのは誤りである。が、もとより修身が不要といふ事では斷じてない。「尤聖人の道にも身を修候事も有之候へ共、それは人の上に立候人は、身の行儀惡敷候へば、下たる人侮り候而信服不申候事、人情の常にて御座候」。
いかにもそれは「人情の常」である。それゆゑ「人の上に立候人」は、例へば教師は、「下たる人」たる生徒に侮られぬやう「身の行儀」を守らうと努めねばならぬ。「下たる人に信服さすべき爲ニ、身を修候事ニて」云々と徂徠は書いてをり、それは餘りに功利的だと思ふ讀者もあらう。だが、『僞りても賢を學べ』にも書いたやうに、教師が「身の行儀」を守らうとする事は、生徒のためであり教師自身のためなのである。
石川達三氏だの「女王蜂」だの「天鼓」氏だのといふ愚物を批判してゐるうちに、計らずも荻生徂徠といふ天才に言ひ及び、つい横道に逸れたが、品性下劣なる「女王蜂」に、たとへ一時にもせよ、新聞週刊誌が手玉に取られたのは、「公ノ義理」と「私ノ義理」とを峻別できぬ知的怠惰のせゐであつた。そして知的怠惰はもとより道義的怠惰に他ならない。今は「道義的怠惰の時代」なのであり、世人はおのが「心を治め身を修め」る事は考へず、專ら田中角榮氏を指彈して正義漢を氣取るのである。
明治の昔、福澤諭吉は、「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。昭和の今、石川達三氏は「法秩序恢復」を説き、「女王蜂」は「社會正義のため」とて胸を張る。だが、二人はともに品性下劣な人間であつた。しかるに世人はそれを一向に怪しまない。これを要するに「公」にして「表向」の「大義名分」を振り翳せば、「私に在り一身に在」るべき筈の「廉恥節義」は疑はれずに濟むといふ事である。すなはち、田中角榮氏を指彈したり、田中氏に楯突いたりすれば、造作も無く善玉として通用するといふ事である。だが、他人の惡徳を指彈して、その分おのれが有徳になる道理は無いではないか。斷じて無いではないか。 
I 教育論における道義的怠惰

 

1 僞りても賢を學べ 
かつて教育は聖職なりや否やとの論爭が流行した事がある。大方の教育論議と同樣、議論してゐる手合が本氣でなかつたから、忽ち下火になり、やがて消えてしまつた。教師のみが聖職者たりうる理由なんぞさう簡單に見附かる筈は無い。教師も人の子であつて、女の色香に迷ふ事もあらうし、慾に目が眩む事もあらう。例へばの話、中學校の教師が仲間と一緒にいかがはしい映畫を觀に行く事もある。そこで映畫に堪能した翌日、教室で生徒が休み時間に、いかがはしい雜誌に見惚れてゐる現場を掴む事もある。その時、教師はどういふ態度を採つたらよいか。
さういふ事態に日頃教師は屡々直面するであらう。いや、たまたまいかがはしい映畫を觀た翌日、いかがはしい雜誌に見惚れる生徒の姿を目撃するといふ事が屡々ある、といふ事ではない。教師が二日醉ひで氣分が惡い時、部室で密かに酒を飮んでゐる野球部の生徒を見附けるとか、禁煙しようと思ひ立つて挫折し、おのが意志薄弱にいささか愛想盡かしをしてゐる折も折、萬引癖のある生徒がまたぞろやらかした事を知るとか、さういふ類の體驗は屡々してゐるだらうといふ事である。いや、教師だけではない、親の場合も同じであつて、退社後、赤提燈で、上役の惡口を言つて樂しむのは、なるほど情けない根性ではあるが、勤人なら誰しも必ず身に覺えがある筈だ。では、さういふ情けない根性を大いに發揮して歸宅した翌日、わが子が擔任の教師の惡口を言ひ出したとする、さて、父親はどうしたらよいか。
これを要するに、おのれを省みて、生徒や子供を叱る資格なんぞありはせぬとしか思へぬ場合、教師や親は一體どう振舞ふべきか、といふ事である。坂口安吾はかう書いてゐる。「教訓には二つあつて、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、といふ意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまつてゐるが、さればといつて、だからするなとはいへない性質のものと、二つである」。けだし至言だが、例へば教室でいかがはしい雜誌に見惚れてゐる生徒に向かひ、教師は一體、いかなる理由を擧げ「だからするな」と言ふべきか。
かういふ事は日常茶飯事であつて、教師も親も屡々體驗する。しかるに、奇怪千萬だが、大方の教育書はその種の日常茶飯事を素通りするのであつて、巷間に流布する教育書は、やれ學校五日制がどうの、學區制がどうの、主任制がどうのと、制度をいぢりさへすれば萬事が解決するかの樣に思ひ込んでゐる學者先生の手になる淺見僻見の類か、さもなくば教育の場における明暗二通りの現象、即ち「のびのび教育」とやらの實例、もしくは目下流行の校内暴力や家庭内暴力の實例を、「客觀的」に記録するだけのルポルタージユなのである。無味乾燥なる制度論は無論だが、詰込み教育を止め、かくもすばらしき成果を收めたなどといふ話を讀んだ所で、愚かしき兩親は子供の塾通ひを止めさせはしないであらう。また、凄じい家庭内暴力の實態を知つた所で、俺の子は大丈夫だとて、胸を撫で下すだけの事であらう。要するに、何の役にも立ちはしないといふ事だ。では、何の役にも立たぬ教育書ばかりが、なにゆゑかくも氾濫してゐるか。その種の無駄を意に介さぬ程、日本が經濟大國となつたからに他ならない。
しかるに、「俺の倅は健全だ」とて高を括つてゐた父親が、或る日、倅の勉強机の引出しに、卑猥な雜誌や避妊器具を發見して驚くといふ事がある。母親が娘の日記を盜み讀みして、同級の男の子に寄せる切々たる戀心の表現を見出すといふ事がある。さういふ時、親はどうしたらよいか。放置すべきか、それとも斷然説教すべきか。多分、大抵の親は放置するであらう。だが、放置できぬほどの重症だつた場合はどうするか。無論、説教するしかあるまい。だが、一體全體どういふ具合に説教すべきか。穩やかに、醇々と言つて聞かすべきか、手嚴しく咎むべきか。大方の兩親は穩健な方法を選ぶであらう。が、窮鼠猫を噛む、子供が居直つた場合はどうするか。日頃温厚にして御し易しとばかり思つてゐた息子や娘が、「大人も昔は同じだつた筈ではないか」などと開き直つたらどうするか。いかにもその昔、父親も惡友と共に春畫春本の類を樂しんだ事があるし、母親も映畫俳優に熱を上げ、いつそ家出をしてとまで思ひ詰めた事があるであらう。要するに、子供が今やつてゐる事は、程度の差こそあれ、兩親にとつては身に覺えのある事なのであり、「先人」たる兩親は「そのために失敗」こそしなかつたらうが、「さればといつて、だからするな」とも、「だからせよ」とも言へまい。イギリスの劇作家プリーストリーに『危險な曲り角』といふ作品があり、人生には「もしもあの時あの曲り角を曲つてゐたら、今の私は無かつたらう」としか思はれぬ樣な偶然があるものだと、さういふ事を考へさせられる芝居だが、兩親が失敗しなかつたのも偶然であり、運が良かつただけの事だとすれば、兩親は子供にどう言ひ聞かせたらよいか。「後人」たる子供はいづれ「危險な曲り角」を曲るかも知れぬ。「先人」の親も神樣ではないから一寸先は闇であるし、それに何より「危險な曲り角」を曲らなかつた者に、曲つた結果どうなるかは所詮解らぬのである。
私は讀者を威してゐる譯ではない。劣惡なる教育書は親や教師を威す。「お前の子供も危いぞ」といふ類の事を必ず言ふ。つまり、親や教師の弱みに附込んで稼ぐのである。この、いはば「死の商人」とも評すべき教育書の惡辣な手口については、拙著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)に詳しく書いたから、ここでは繰返さないが、私は讀者を威してゐるのではない。息子や娘が色情を解する年頃になるといふ事態は、どの家庭にも起る、いたつて平凡な事態の筈だが、平凡な事柄を論じても儲からないから、教育學者は素通りして考へない。それはをかしいではないかと、私は言つてゐるのである。
とまれ、理想郷とも評すべき場所で行はれる氣まぐれな實驗なんぞに私は全く興味が無いし、一方、非行少年の實態なんぞ知りたいとも思はぬ。「理想郷」での實驗は、子供の中にも間違ひ無く惡魔が潛んでゐるといふ事實を知りたがらぬ樂天家の自慰に過ぎないし、一方、どう仕樣も無い非行少年は、拙著に縷々説明した通り、「ゴミタメに捨て」るしかないからである。これは許せぬ暴論か。さにあらず、吾々は本氣で不特定の非行少年に同情する筈が無い。かつてヴエトナム戰爭酣なりし頃、「ヴエトナムで毎日流されてゐる血を思ふと、三度の飯も喉を通らない」と言つた男がゐる。眞つ赤な嘘である。人間はさういふものではない。『ピーター・パン』の作者J・M・バリーがうまい事を言つてゐる、「花嫁に對しては常に嫉妬、死體に對しては常に善意」。
かういふ意味である。結婚披露宴で美しい花嫁を見、樂しさうな花婿を見る。さういふ時、聖人君子ならぬ吾々は密かに呟く、「畜生、うまくやりやがつたな」。けれども、ともに天を戴かぬとて恨んでゐた敵が頓死して、その棺桶を前にして燒香する時、吾々はかう呟く、「この世では敵同士だつた。が、惡く思ふな。俺も反省してゐるのだ。どうか成佛してくれ」。
何とも身勝手なものだが、人間とはさういふ甚だ身勝手な生き物なのだ。人間とは矛盾の塊だと言つてよい。美男美女の花婿花嫁を眞實うれしさうに眺めてゐるのは、親兄弟ぐらゐのものだと、さう言ひたい所だが、どうしてどうして、花婿の弟や花嫁の妹が心中穩やかでないかも知れぬ。しかるに、花婿花嫁を乘せた飛行機が墜落すれば、弟も妹も本氣で泣くのである。
兄弟姉妹といふ至極身近な關係においても、悲しむべし、人間はこれほど身勝手なのだから、どこの馬の骨とも知らぬ不特定の非行少年に心から同情し、「ゴミタメに捨てろ」との「暴論」に立腹する筈は無い。再び、人間はさうしたものではないのである。勿論、かく言ふ私も身勝手だから、わが子が非行に走つたら平氣ではゐられない。何とかして立直らせようと懸命になる。「ゴミタメに捨てろ」などと言つてはをられぬし、そんな事を言ふ奴を憎む。けれども、同じ境遇にある父親の手記を讀んで慰められる事はあるかも知れないが、まづまづ順調に子供を育てた物書きが、「非行少年を持つ親の苦惱を思へば、三度の飯も喉に通らない」などと斷つてから、非行の實態とやらを發くルポルタージユを書いてくれた所で、そんな物、決して信用しないであらう。
それに何より、昔、大盜賊石川五右衞門は「石川や浜の眞砂は盡くるとも世に盜人のたねはつくまじ」との辭世の句を殘し、京都は三條河原で釜茄での刑に處せられたが、「世に非行少年のたねはつくまじ」であつて、賣春婦も非行少年も昔から存在して、無くなつた例が無い。だから放置しておけと、言ふのではない。「すべて色を賣り淫を賣るものは、良民の間に雜居せしむべからざる」ものである、それゆゑ賣春婦だの藝者だのは「大にして堅固なるゴミタメ」に捨てるがよい、それで町は「清潔を保つ」事ができるのだと、幸田露伴は書いてゐる。これは決して暴論ではない。刑務所の無い國は存在しないのである。色町、遊里、花柳街、當世風に言へば「トルコ街」、さういふ特別地帶は世界中の都市に存在する。つまり、どうにも救ひ樣のない人間といふものは確かに存在する。とすれば、大事なのはゴミタメの中の少數を救はうとする事よりも、むしろ露伴の言ふ「良民」の子女を何とかしてゴミタメにぶち込まないやうにする工夫ではないか。かつてゴミタメは特定の區域に限られてゐた。色街の事を郭とも言ふが、郭とは元來、城や砦の周圍に巡らせた圍ひの事である。昔はゴミタメと「良民」の居住地域とをはつきり區別してゐた。しかるに今はさうではない。今、さうでなくなつて、萬事好都合であらうか。昔は普通の書店にポルノが竝べてある事は無かつたし、遊女とて分限を辯へてゐた。しかるに今は職業に貴賤無し、人間はすべて平等といふ事になり、トルコ孃だのノー・パン喫茶の女給だのが、胸を張つて週刊誌の座談會に出席し、「學校の先生つてのが一番いやらしいんだよねえ」などとぬかす始末である。さういふ次第となつて結構な御時勢だと、讀者は思つてゐるであらうか。中學生ともなれば書店のポルノを盜み讀みはするし、卑猥な週刊誌は藥屋でも買へるのである。よしんば父親が電車の網棚に捨てて來たとしても。
さて、少々廻り道をしたが、この邊で冒頭の問題に戻る事にしよう。あちこちに散在するゴミタメで、或る日「良民」たる中學校の教師が遊んだとする。「そんな教師がなぜ良民か」などと、もはや讀者は言はぬであらう。そこでその「良民」の教師が、翌日、教室でポルノ雜誌に見惚れてゐる生徒を目撃したとする。教師はどうしたらよいか。結論から先に言ふ。教師は本氣で叱らなければならぬ。昨日俺はゴミタメで遊んだ、叱れた義理ではない、などと考へ、「おい、お前たち、さういふ物は隱れて眺めろ」などと、にやにや笑ひながら窘める、さういふ教師は惡しき教師なのである。なぜ惡しき教師なのか。かういふ事を考へてみるがよい。吾々は神樣でも聖人君子でもない。それゆゑゴミタメで遊ぶ事もある。嘘をつく事もある。では、時たま嘘をつく教師には、生徒に對して「嘘をつく事は惡い」と言切る資格が有るのか無いのか。もしも無いといふ事になれば、教育といふものは成り立たなくなつてしまふ。すなはち、神樣の如く完全な存在でなければ教師は勤まらぬといふ事になる。では、よしんばおのれが不完全であつても、教師は生徒に對し「いかなる場合にも嘘をつくのは卑怯だ」と、ためらふ事無く言切つてよい、といふ事になるのであらうか。
假りにさう言切つた場合、つまりおのれを棚上げして、嘘をついた生徒を叱つた場合、教師は自分もまた嘘をつく卑怯者だといふ意識に苦しむ事になる。教師はさういふ僞善には耐へられないし、また耐へる必要も無い、いつその事、自分もまた時に嘘をつく不完全な人間だといふ事を、潔く生徒に打明けたらよいではないか、教師も人間、生徒も人間、平等は善き事である、「仲よき事は美しきかな」、さう思ふ讀者もゐるであらう。けれども、潔く打明けて問題はすつかり片附くか。教師はなるほど樂になる。だが、それが果して生徒のためになるであらうか。
昔讀んだ本の中に書かれてあつた事だが、或る日、少年が母親と二人で居間にゐた。父親は庭に出て盆栽の世話か何かをしてゐた。すると、飼猫が父親の大事にしてゐた壺に飛びかかり、壺が毀れてしまふ。そこへ父親が戻つて來る。父親はいきなり息子を大聲で怒鳴り附ける。少年は激しい衝撃を受け、顏面蒼白となり、物も言へない。さういふ話である。
無論、ただそれだけの話なら取立てて紹介するまでもない。少年が激しい衝撃を受け顏面蒼白になつたのはなぜか、そこが大事なのである。自分が壺を毀した譯ではないのに、父親は自分の仕業だと決め込んでゐる、それを無念がつて口もきけなかつたのだと、大方の讀者は思ふであらう。が、少年は濡衣を着せられて衝撃を受けたのではない。尊敬し、信頼し、萬能だと思つてゐた父親もまた誤るのだといふ事を知つて、すなはち完全無缺だと思ひ込んでゐた父親も不完全だつたと知つて、少年は激しい衝撃を受けたのである。
當節の父親は、家庭で同僚や上役の惡口を言ひ、テレビの野球中繼を觀ながら屁をひり、ありのままの不甲斐無い姿を子供の前に曝して平氣だらうから、子供のはうも父親を尊敬してはゐないだらうが、右に紹介した話は教育について頗る興味深い事實を暗示してゐる。すなはち、子供は或る年齢まで保護者としての兩親に頼らざるをえず、從つて兩親を偶像視してゐるものだが、子供はいづれ自立せねばならないのだから、やがて兩親を偶像視してゐる状態を脱する事になる。が、問題はいつ頃から、いか樣にして、脱するかなのだ。小學校一年生が「うちのお父さんは、怠け者で駄目の人なんだ」などと言つたとして、それが望ましい事だとは誰も思ふまい。兩親の權威失墜は遲ければ遲いほどよいのであつて、子供に早々弱點を曝すのは考へもの、それは決して子供のためにならないのである。
ここで讀者は、子供だつた頃の事を思ひ出してみるとよい。男と女の祕め事について、勿論幼兒は何も知つてゐない。小學生になつても、その種の事柄に關心は無く、昆蟲採集だの魚釣りだのに熱中してゐる。が、中學生になれば、性の祕密を知るやうになる。そこで、最初に祕密を知つた時の事を思ひ出してみるがいい。男女間の性行爲は嚴然たる事實だと知つても、なほ暫くの間は、わが父母に限つてそのやうな事が、と思つたに相違無い。少くとも、父母の祕め事を想像して樂しむなどといふ事は斷じて無かつた筈である。これはつまり、兩親の權威失墜を子供は望まないといふ事ではないか。
いや、それは子供に限つた事ではない、大人もまた同じなのであつて、吾々は他人の濡れ場を覗きたがるが、親友や尊敬する人物の濡れ場は覗きたがらない。これはどういふ事か。人間は矛盾の塊で、甚だ身勝手で、おのが權威はどうでも保ちたがる癖に、一方では強い人間や偉い人間を求めてをり、その權威に服從したいと願つてゐるものなのである。かの頗る民主的なワイマール憲法を持ちながら、或いは持つてゐたがゆゑにと言ふべきかも知れないが、なぜドイツは呆氣無くヒツトラーに席捲されてしまつたのか。ワイマール共和國のドイツ人も權威への服從を密かに望んでゐたのであり、ヒツトラーはそれに附込み壓倒的な成功ををさめたのである。ジヨージ・オーウエルが書いてゐるやうに、人間は安穩や私益を愛するが、時には鬪爭や自己犧牲をも愛するのであつて、ヒツトラーはさういふ人間の矛盾を知り拔いてゐた、ヒツトラーはドイツ國民にかう言つた、「私は諸君に鬪爭と危險と死を提供する」、それゆゑに彼は成功したのである。 
私はヒツトラーを稱揚してゐるのではない。ユダヤ人虐殺のごときは「人類史上最大の汚點の一つ」だと思ふ。けれども、第二のヒツトラーに丸め込まれないためには、自由と平和を謳歌してゐるだけでよいか、戰爭や獨裁は惡事だと空念佛よろしく唱へてゐるだけでよいか。所詮駄目である。そんな氣休めに何の效驗もありはせぬ。教育の場合とてまつたく同樣であり、吾々は人間の強さや美しさのみならず、弱さや醜さをも見すゑなければならぬ。それゆゑ私は、きれい事づくめの教育論を一切信用しない。マツクス・ウエーバーが言つてゐるやうに、「心情倫理家」はおよそ斑氣で頼りにならないからである。「心情倫理家」は「この世の倫理的非合理性を辛抱」できないからだ。
すなはち、平和は「倫理」的によき事だと「心情」的に思つてゐるに過ぎないやうな手合は、いつ何時、「大日本帝國萬歳!」と叫び出さないとも限らない。さういふ手合は到底信用できない。戰時中、大方の日本人は「心情倫理家」であつた。ロベール・ギランによれば、大東亞戰爭は「國民全體の輕率さによつて惹き起され、繼續」したのだが、日本人はまた、いかにも「無造作に敗戰に適應し」たのである。ギランは書いてゐる。
七千五百萬の日本人は、最後の一人まで死ぬはずだつた。一介の職人に到るまで、日本人たちは自分たちは降伏するくらいなら切腹をすると言い、疑いもなくその言葉を自ら信じていた。ところが、涙を流すためにその顏を隱した日本が再びわれわれにその面を示したとき、日本は落着いて敗戰を迎えたのである。(中略)外國人に對する庶民たちの微笑。私が列車で東京に向うため輕井澤を去つた際、ごつた返す日本人の中でひとりの白人だつたにもかかわらず、私は意外にも身のまわりにいささかの敵意も感じなかつた。(中略)報道機關の微笑。すべての新聞が一擧に態度を豹變した。かつてフアシスト的で軍國主義的な新聞として知られたニツポン・タイムスは、一週間足らずのうちに民主主義、議會主義および國民の自由の代辯者に早變りした。(中略)最後に市井の人びとの微笑。(中略)日本中で進駐軍に對する發砲事件は一度も起らなかつたのである。(『日木人と戰爭』、根本長兵衞・天野恆雄譯)
いかにもさういふ事はあつたが、もはや三十數年も昔の事ではないか、と讀者は言ふかも知れぬ。しかし、三十年やそこらで國民性が變る筈は無い。例へば、福澤諭吉の『學問のすゝめ』以來、日本人は「實なき學問は先づ次にし、專ら勤むべきは人間普通日常に近き實學」とて、實用に役立つ事柄ばかり重んじて來たけれども、この國民性は今なほ少しも變つてゐない。その證據に、「防衞論ではあるまいし、ヒツトラーだのマツクス・ウエーバーだの、ロベール・ギランだのとは辛氣臭い。いい加減に切上げて、息子の勉強部屋にポルノを見出した時、娘の日記を讀んで衝撃を受けた時、吾々はいかに對處すべきか、そこへ話を戻したらどうか」と、さう思つてゐる讀者もあらう。これを要するに、依然として日本人は「實用に役立つ事柄」ばかり重視してゐるといふ事に他なるまい。
再び、その證據に、書店の書架に竝んでゐる教育書の題名だけでも眺めてゐるとよい、『家庭内暴力がわかる本』だの、『親は子に何を教へるべきか』だの、『親の不安をなくす教育論』だのと、讀めば「すぐに役立つ」かのやうに見せ掛けようと懸命になつてゐる類の書物が多い事に氣づくであらう。さういふ教育書を一册購入して讀んでみるとよい。「親の不安」なんぞ一向に無くならない事に氣附くであらう。なぜ不安が無くならないのか。さういふ實用書は、例外無しに、道徳の問題を素通りしてゐるからである。それゆゑ、ここで讀者に眞劒に考へて貰ひたい。吾々にとつて何より大事なのは道徳の問題ではないか。道徳が何より大事などと言はれると、人々はとかく往年の徳目教育を思ひ浮かべて拒絶反應をおこしがちだが、そしてそれが誤解であるゆゑんについて詳述する暇は無いが、道徳とは「忠君愛國」だの「親孝行」だのを一方的に押し附ける事ではない。道徳とは人倫すなはち「人と人との間柄」について、人と人との附合ひ方について考へ拔く事なのである。そして、いかな苦勞人とて、他人との附合ひ方に關して「すぐに役立つ」やうな忠告なんぞできる譯が無い。すなはち、人生の難問に單純明快な解決なんぞある譯が無い。例へば、一つ屋根の下で暮らす嫁と姑との反目に惱んでゐる男にとつて、「別居するのが一番」などといふ忠告が「明快な解決」になりうるか。別居すれば若夫婦は幸福になるかも知れぬ。けれども、老いた夫と二人きりか、或いは一人ぼつちになつた姑の淋しさのはうは一向に解決しない。そしてもとより、若夫婦もまた、いづれは必ず老夫婦になるのである。
要するに、教育論議の不毛は、當座の事ばかり重んずる國民性のせゐではないかと私は思ふ。吾々はとかく當座役立つ事ばかり考へる。ひところ子供の自殺が流行した事がある。果せるかな、『あなたの子供も危い』とか『子供の自殺を防ぐ法』とかいつた類の本が氾濫した。けれども、自殺の流行がすたれてしまへば、誰も本氣で考へない。そして、目下「當座の用」として人々が求めてゐるのは、校内暴力防止法なのである。さうして當座の問題にばかり一喜一憂する輕薄と、ギランが指摘してゐる敗戰後の「豹變」及び「適應」とはもとより同根であつて、吾々日本人は出た所勝負で何事も運任せ、それでゐて結構器用に「適應」するのだから、百年千年經つて一向に變らぬ道徳上の問題は、なほざりにして顧みないといふ事になる。自殺は無論道徳上の問題である。嫁と姑の反目と同樣、流行とは一切無關係の筈である。しかるに今、子供の自殺について書いても決して編輯者は喜ぶまい。賣れないからである。だが、自殺は永遠の問題ではないか。今も昔も、資本主義國においても社會主義國においても、人間にとつて「生存の理由が消滅するのを見ることは我慢ができない」筈ではないか。實用書を書き捲る物書きにしても、「すぐに役立つ」原稿を貰つたとて喜ぶ編輯者にしても、いづれ自殺したくなるほど思ひ詰めるといふ事にならぬでもないし、親や子供や親友が自殺したら、へらへら笑つてもをられまい。
しかも、道徳上の問題は決して深遠高邁なのではない。「すぐに役立つ」實用書ばかりを喜ぶ手合は、當然「解りやすさ」を重んじて、例へば小林秀雄氏の文章は難解だと言ふ。だが、小林氏は「單純明快な解決」など有りえないやうな問題と取組むのである。それゆゑ讀者に迎合しない。迎合しないから、百萬二百萬と賣れるベストセラーなんぞ書ける筈が無いし、また書く積りも無い。それゆゑ漢字を多用するし、正字舊假名を墨守する。「墨守」などといふ言葉は避けて、當用漢字の中から選ばうなどとは考へない。必然的に字面は黒くなる。劇畫やスポーツ新聞しか讀まぬ手合が、どうして黒い字面の書物を喜ぶであらうか。
「上知と下愚とは移らず」といふ。そのとほりだが、運動をしなければ身體が鈍るやうに、粥ばかり食べてゐれば胃も腸も弱るやうに、解りやすい書物ばかり讀んでゐれば、頭だつて鈍くなる道理だし、讀者に媚びる書物ばかり讀んでゐれば、廷臣共のおべんちやらを喜ぶ王樣のやうに、惰弱な骨無しになつてしまふ。さういふ薄志弱行の徒に、どうして人生の難關を切拔ける事ができようか。
けれども、今し方言ひ止した事だが、道徳上の問題は、例へば嫁と姑との反目のやうに、た易く解決できないものではあつても、必ずしも深遠高邁ではないのであつて、吾々が常日頃直面する頗る卑近な問題なのである。「エコノミツク・アニマル」と稱せられる日本人は、目下のところ經濟ばかりを重視してゐるが、經濟學者も、大會社の社長も、小説家や八百屋と同樣、女の色香に迷ふ事がある。妾を圍ふ事もある。妾を圍つてゐる社長が、息子の勉強部屋にポルノ雜誌を見出す事もある。その時はどうするか。札束で解決するのか。聖人君子ではなし、私は金銭を汚がる譯では決してないが、きれい事の説教で解決できないのと同樣、これは金銭で片附く問題ではない。先頃パリでオランダ娘を殺し、その肉を食べた、かの日本人留學生も、懷が寒かつた譯ではない。彼は一流企業の社長の息子で、貧乏神も寄り付かなかつたのである。
要するに、教育について考へるといふ事は、卑近な問題について深く考へるといふ事なのである。「深遠」つまり深くて遠い事柄ではなく、「卑近」つまり身近な事柄について、ただし深く考へる、さういふ事でなければならない。そして深く考へる物書きが、讀者に迎合して稼ぎ捲る事を潔しとする筈が無い。宇能鴻一郎氏や富島健夫氏の小説は頗る解り易い。兩氏の好色小説に較べたら、幸田露伴は言はずもがな、夏目漱石の小説だつてずゐぶんと難解であらう。が、まさか、宇能氏や富島氏が漱石よりも深く考へてゐる、などと正氣で言切る者はゐまい。漱石は道徳上の問題を一所懸命に考へたのだが、その一所懸命を今や若者も大人も見習はうとはしない。難局に直面すれば誰しも一所懸命になる筈だが、何せ日本は今經濟大國であつて、大概の問題は金で片附く、或いは少くとも片附くと思はれてゐる。字面の白つぽいポルノ小説だの、一所懸命書いてゐないから誤字だらけで、しかも惡文のルポルタージユや實用書がはびこるゆゑんである。かくて一所懸命とは當節、「骨折り損のくたびれ儲け」といふ事でしかない。
「閑話休題」といふ言葉がある。「無駄話はさておいて」といふ意味で、話を元へ戻す際に用ゐられる決り文句である。私もこの邊で「話を元へ戻」さなければならないが、以上縷々述べた事は決して閑話ではない。「道徳上の問題を一所懸命に考へ」る事を無駄事と心得てゐるから、すぐには役立たぬ迂遠な事、すなはち遠囘りのやうに考へてゐるから、大方の教育論議は現象論に終始して、却つて何の役にも立たぬがらくたが山と積まれる事になるのである。
さて、おのれも結構好色であつても、教室でポルノ雜誌を眺めてゐる生徒を教師は本氣で叱らなければならない、と私は書いた。つまり、教師は時におのれを棚上げせねばならぬ、おのが好色を棚に上げて生徒を咎めなければならないといふ事である。「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」と孔子は言つたが、教師たる者は「己の欲する所」を生徒に「施すべからず」といふ事になる。それは身勝手ではないか、僞善ではないか。そのとほり、僞善である。が、當節教師が何より必要としてゐるものは僞善に他ならない。そして、もとより僞善とは道徳に關はる概念だが、凡百の教育書は、書物自體が僞善的ではあつても、決して積極的に僞善をすすめてはゐない。教育論議が道徳の問題を素通りしてゐると斷ずるゆゑんである。
では、なぜ教師は僞善を必要とするのか。ここで讀者は、飼猫が壺を毀したのに濡衣を着せられた少年の話を思ひ出せばよい。少年が衝撃を受けたのは「完全無缺だと思ひ込んでゐた父親も不完全だつた」と知つたためである。そして、その種の衝撃を受ける時期が早ければ早いほどよいとは言へぬ。數年前、父親が凶惡犯で母親は賣春婦といふ六歳の子供が、警察に保護された事がある。その子は警官に「おいらヤクが切れちやつた」とか言つたといふ。
無論、子供は衝撃を受けた事を切掛けにして自立心を養ふやうになるのだから、偶像崇拝から脱する時期をむやみに先へ延ばせばよいといふ事ではない。けれども、子供が偶像を欲してゐるのなら、仰ぎ見る尊敬の對象を求めてゐるのなら、教師はその願ひを叶へてやるべきではないか。子供の「欲する所」を子供に「施す」べきではないか。「のびのび教育」だの「思ひやりの教育」だのと當節は甘い言葉ばかりはびこつてゐるが、教師がおのれを棚上げする僞善に耐へ、子供に尊敬されるやうにならうと努力する事こそ、「思ひやりの教育」ではないか。そして、木石ならぬ教師が生徒の色好みをきつく窘めるのは確かに僞善だが、その僞善は生徒のためであるのみならず、結局は教師自身のためになるのである。僞善的に振舞つて一目置かれるやうでなければ、教師は教場の秩序さへ保てない、などといふ事が私は言ひたいのではない。そんな處世術は教師なら誰でも知つてゐる、取り立てて言ふに價しない。近頃校内暴力が流行して、「教師は何をしてゐる、もつと權威をもつて臨め」などと氣安く主張する向きもあるが、「權威をもつて臨」んだはうがよいぐらゐの事は、教師も先刻承知してゐる。問題は、封建時代と異り、年長者が權威をもつて臨みにくいといふ事實である。
けれども誤解しないで貰ひたい、教師が權威を保つための「すぐに役立つ」處世術の祕訣を、私は傳授しようと思つてゐるのではない。人間の容貌が千差萬別であるごとく、人間の性格も樣々であつて、ゴミタメに捨てるしかないやうな教師もゐるし、度し難い生徒もゐる。「人を見て法を説け」といふし、「豚に眞珠」ともいふ。教育に關しても「萬病に利く特效藥」なんぞ存在する譯が無い。
ところで、教師の僞善が教師自身のためとはどういふ事か。教室でポルノ雜誌を讀んでゐる生徒を、教師がきつく叱つたとする。ところが、その教師が遲刻缺勤の常習犯で、平生、情熱の無い授業をしてゐたらどうなるか。「君、君たらずといへども、臣、臣たらざるべからず」、すなはち、君主がぐうたらであつても、家來は忠節を盡くさねばならぬと、さういふ事が信じられてゐた時代もある。が、今はそのやうな良き時代ではない。平生ぐうたらな教師が叱つても、生徒は決して從ふまい。一度や二度なら澁々從ふかも知れないが、度重なれば徒黨を組んで教師を難ずるやうにならう。それゆゑ、尊敬の對象を求めてゐる生徒の欲求を滿たすためには、教師は自分自身に對して嚴しくあらねばならない。常日頃、生徒に尊敬されるやう努力しなければならない。それは生徒に「愛されるやう」努力する事ではない。生徒に迎合して愛されようと思つてゐる教師が、昨今はやたらに多いのだから、「愛される教師たれ」などと私は斷じて言ひたくない。
とまれ、さういふ次第で、僞善に耐へようとする事は生徒を利するばかりでなく、教師自身をも利するのである。おのれを體裁よく見せかけようとするだけの消極的な弱き僞善は、實はおのれを利する事にもならないが、生徒のためを思つての積極的な強き僞善は、教師自身にも努力を強ひるのであり、それは教師を利するのである。
教師は僞善に耐へねばならず、そのためには教へる事に情熱を持たなければならぬ。教師が情熱を持つてゐるかどうかは、所謂「落ちこぼれ」の子供にも解るのである。そして、情熱的な教師が本氣で叱つた場合、生徒は決して教師の僞善を咎めはしない。本氣で叱る情熱の見事に壓倒されて、教師の不完全には決して思ひ至らない。子供は尊敬の對象を求めてゐる。尊敬してゐる教師の缺點を知りたくないといふ氣持もある。それゆゑ、傾倒する教師が時に過つ事があつたとしても、クラス全體が教師を侮るなどといふ事は斷じて無い。山川均は『ある凡人の記録』に、同志社の教師だつた頃の柏木義圓についてかう書いてゐる。
私が一生涯に聞いた人間の言葉のなかで、柏木先生のほどトツ辯なのもないが、またそれほど熱誠のあふれたのもなかつた。聖書の講義のときの柏木先生のお祈りは、心から天の父に求める赤子の聲だつた。先生は、ハナ水が、開いた聖書の上に流れてゐるのにも氣づかずに祈りつづけてゐることが、しばしばだつた。私たちのクラスには、柏木先生よりも代數のよくできるのが一人ゐた。しかし、そのために先生にたいするクラスの尊敬は少しも變らなかつた。私は同志社を退學するとほんの少しのあひだ、山本と二人で、柏木先生の家庭でお世話になつてゐたが、先生夫妻の日常生活を見て、なるほどこれが聖徒の生活だなと思つた。私はそれまでも、またそれからも、貧しい人や貧しい家庭をいくらも見た。そして心から氣の毒に思つた。しかし柏木先生夫妻の貧しい生活には、氣の毒なと思はせられたり、同情やあはれみに似た感じをおこさせるやうなものは、少しもなかつた。この生活の苦しみからぬけ出さうとする焦躁のやうなものの、影さへもなかつた。私はほんたうの「清貧」といふものを、まのあたりに見たやうな感じがした。毎朝のミソ汁の中には、近くの小川の堤に生えてゐる小指くらゐのシノ竹のタケノコや、裏庭に自然に生えたタウの立つた三ツ葉が浮いてゐた。しかし私はそれをまづいとは思はず、イニスが割いてくれたパンを食べる敬けんな氣持で食べた。
長い引用を敢へてしたのは、この山川均の文章が、教育について樣々な事柄を教へてくれるからである。まづ、「柏木先生よりも代數のよくできる」生徒がゐたにも拘らず、「先生にたいするクラスの尊敬は少しも變らなかつた」。それはつまり、義圓の情熱に生徒たちが壓倒されてゐたからに他ならない。代數の問題がうまく解けず、黒板を睨んで義圓先生は脂汗を流したかも知れないが、そんな時でも、生徒ははらはらして見守つてゐたに違ひ無い。代數の苦手な「落ちこぼれ」にも、義圓の情熱はひしひしと胸に應へたであらう。訥辯は教師にとつては不利な條件だが、義圓の場合、「熱誠のあふれた」授業だつたから生徒は悉く心服したのである。
次に考へるべきは、義圓の情熱が「心から天の父に求める赤子」としてのそれだつたといふ事である。義圓には仰ぎ見る「天の父」に對する篤い信仰があつた。これが肝腎なところだ。つまり、教師自身にも仰ぎ見るものが、尊敬の對象が必要なのである。尊敬の對象とは努力目標に他ならない。日本國は目下のところ「モラトリアム國家」だから、國家としての目標も定かではない。けれども、努力目標無くして人間はどうして努力するであらうか。
教師としての義圓について、もう一つ考へさせられる事がある。それは彼の「清貧」である。勿論、教師は清貧に甘んずべしなどといふ事が、私は言ひたいのではない。今時、そんな事がやれる筈は無いし、敢へてやつたなら、狂人か馬鹿か吝嗇坊と見做されるのが落ちであらう。けれども、現在の「生活の苦しみからぬけ出さうとする焦躁のやうなもの」を少しも感じさせない悠揚迫らざる生活ぶりを、讀者は見事だとは思はないか。「部長は俺の才能を認めてくれない」とか、「社長のやり方は非民主的だ」とか、さういふ類の愚癡を、サラリーマンは酒場でこぼす。教師も同じ事、不見識な奴は生徒の目の前で同僚の惡口を言ふ。讀者とて多少は身に覺えがあると思ふ。けれども、自分には到底義圓の眞似はできないと思つた讀者も、義圓のやうな見事な男がかつて存在したといふ事實を知つて、まさか不愉快にはなるまい。いや、義圓の眞似はできないが、眞似できたらすばらしからう、と思ふに相違無い。それでよいのである。それが大事なのである。 
イギリスの詩人T・S・エリオツトは『カクテル・パーテイー』といふ見事な芝居を書いてゐるが、その劇でエリオツトの言はうとした事は、「僞者としての自覺を持つて生きよ。それもまた良き人生なのだ」といふ事であつた。僞者として生きる事がなぜ良き人生なのか。自分は所詮僞者でしかないとの自覺は、この世には本物がゐるといふ事實、或いはゐたといふ事實を知つてゐる者だけが持ちうる筈であり、それなら僞者たる事を自覺する事は、本物の存在を證す事になる、それは良き事ではないか。たとへ義圓のやうに生きる事はできなくても、義圓の眞似ができたら素晴らしからうと思ふ、それは良き事ではないか。義圓に肖りたいと思ふ時、吾々は背伸びをする。背伸びしてもなほ及ばぬと知れば、おのが怠惰と不徳を恥ぢるに相違無い。日本の文化は「罪の文化」ではなく「恥の文化」だとよく言はれるが、昨今はそれも頗る怪しくなつた。何しろ人品骨柄卑しからざる紳士が、電車の中で卑猥な劇畫週刊誌を眺め、一向に恥ぢない時代である。卑猥な春畫春本、笑ひ繪笑ひ本の類を眺める事自體に何の不都合も無いが、眺めて發情するおのが姿をなぜ人前に晒すのか。日本人から「恥の文化」を取り去つたら何が殘るであらう。知れた事、恥の何たるかを知らぬ畜生が殘る。畜生に堕ちても氣樂なはうがよいとは、讀者はまさか言はないであらう。
「狂人の眞似とて大路を走らば、則ち狂人なり。惡人の眞似とて人を殺さば、惡人なり。驥を學ぶは驥の類ひ、舜を學ぶは舜の徒なり。僞りても賢を學ばんを、賢といふべし」と『徒然草』第八十五段にある。至言である。吾々は「僞りても賢を學ばん」と努めねばならぬ。すなはち、吾々には肖りたいと思ふ「賢」が無くてはならず、肖らんとして及ばず、おのが不徳を恥ぢる事が必要なのである。そして恥を知る者は必ずおのが弱點を隱す。「どうせ俺はろくでなしさ」などと嘯く奴はろくでなしに決つてゐる。おのが劣情を隱さぬ奴は恥知らずに決つてゐる。さういふ手合は背伸びする事を斷念して氣樂になつた度し難き怠け者なのである。けれども、今は道義的怠惰の時代であつて、人々は他人の怠惰を許しておのが怠惰の目溢しを願ふ。背伸びをするのは辛い事だ、お互ひに無理はやめ、氣安く弱點を晒け出し、のんびり生きたらよいではないか、さういふ事になつてゐる。教師の場合も、尊敬される教師たるべく僞善に耐へようとするのは辛い事だから、上下を脱ぎ、おのが弱點を隱さず、生徒の喜ぶ事をやつてやればよい、さう考へて考へたとほりの事を實踐する奴もゐる。
以前、『週刊朝日』で讀んだ事だが、東京に立教女學院短期大學といふ學校があり、そこに村上泰治といふ教授がゐるさうである。村上教授は毎週金曜日、「愛と性のゼミ」と稱する授業をやつてゐる。すなはち、教授は女子學生に對して「ペツテイングは必要か」とか「皆さんはどういふ時に性欲を感じますか」とか質問する。そして、「私つてをかしいんです。この前、犯された夢を見て」云々と女子學生が告白すると、「男の場合はね、人爲的でありまして、夢精なんてのもあります」などと得意げに解説してやるのださうである。小中學校の教師と異り、大學の教師は免許状を必要としないし、採用試驗も無い。それゆゑ、時に途方もない山師が潛り込む。村上教授の場合がそれではないかと思ふ。言語道斷の愚にもつかぬ授業を樂しんでゐる村上教授は、およそ教師の風上におけぬ月給泥棒だが、さういふ山師の授業に、「十六人の定員のところ、百人以上が殺到する」立教女學院短期大學とは、これはさて何と評すべきか。往事、娼婦の置き屋でも、さまで淫靡な猥談は聞けなかつたであらう。
村上教授は『週刊朝日』の記者に教育觀を問はれ、教室では「緊張や隱しだてなく話ができることが大切」だと語つてゐる。「盜人にも三分の理あり」とはこの事だ。とんでもない事である。村上教授は女子學生に迎合し、共々恥を捨て、互ひに許し合ふ事によつて氣樂な商賣をやつてゐるに過ぎない。「緊張」や「隱し立て」はともに教師にとつての美徳なのである。暴力を揮ふ事と性行爲を樂しむ事は馬鹿にもできる。馬鹿にもできる事を「緊張」も「隱し立て」もせずに喋る教授の馬鹿話を樂しみ、それで單位が取れ、學士になれるのだから、「十六人の定員のところ、百人以上が殺到」する事に不思議は無い。けれども、村上教授の授業を一年間聴講しても、馬鹿はやつぱり元通りの馬鹿であらう。「上智と下愚は移らず」、死ななければ治らない馬鹿も確かにゐるだらうが、「緊張」せずして氣樂にしてゐたら、馬鹿はいつまで經つても馬鹿ではないか。
無論、人間は常に緊張してゐる譯にはゆかぬ。時に氣樂になり、羽目を外す事も必要である。けれども、それも時と場合によりけりであつて、教師は生徒の面前では「緊張」してゐなければならない。緊張してこちこちになれと言ふのではない。時に冗談を言ひ生徒を笑はせる事も必要である。が、生徒の劣情を刺戟したり、おのが弱點を晒したりしてはならぬ。教場で私事を語り、生徒に親しみを感じさせようなどと考へてはならぬ。薄給を嘆いたり、若かりし頃の過ちについて語つたりするがごときは言語道斷である。教師はおのが缺點を隱し、僞善に耐へ、本氣で生徒を叱り、私事を語らずして、おのれが肖りたいと思つてゐる偉大な人物について、熱心に語るべきである。例へば、先に引いた山川均の文章を生徒に讀んで聞かせるがよい。以後、教師はぐうたらな授業をやれなくなる。斷じてやれなくなる。そしてそれは、生徒にとつてと同樣、教師にとつても良き事ではないか。
さて、ここでなほ、色氣づいた息子や娘に親はいかに對處すべきかと、讀者は問ふであらうか。教師と親とは勿論違ふ。子供にとつて教師は所詮他人だが、親は血を分けた間柄である。これを要するに、親は教師と異り、子供との距離を保ち難いといふ事だ。それに、教師は高々數年間、特定の年齢の子供を扱ふだけでよいが、親は赤子の時から成年に達するまで、いや、どちらか一方が死ぬ時まで附合はねばならぬ。それゆゑ、子供の成長に應じて、附合ひ方は當然變へてゆかねばならぬ。
家庭教育についてここでは詳しく論じない。が、學校教育も家庭教育も本質的には同じ事なのである。教師について縷々述べた事は、そのまま親にも當て嵌る。親もまた隱さねばならず、情熱を持たねばならず、僞善に耐へねばならず、肖りたいと思ふ人物を持たねばならぬ。たとへおのれに至らぬ所は多々あつても、さうして「僞りても賢を學ばん」と努め、一所懸命に生きてゐるならば、息子や娘が色氣づいたくらゐの事で、慌てるには及ばない。放つておけばよい。親が一所懸命生きてゐるなら、子供は必ずそれを見習ふ筈である。例へば、倒産を食ひ止めようと日夜惡戰苦鬪してゐる父親を見てゐたら、父親が子供にかまけず、眼中に置かぬとしても、決して非行になんぞ走りはしない。
以上、頗る卑近な事柄について私は考へて來た積りである。道徳とは頗る卑近な事柄なのであつて、「道は近きにあり」と孟子も言つてゐる。けれども卑近な事柄ではあつても、氣樂にしてゐて片のつく事柄ではない。「事は易きにあり」とは言へない。しかるに屡々述べたごとく、易きにつくのが人の常とは言ひながら、吾々は今やあまりにも怠惰に堕してゐる。教育についても、人々は安くて甘い特效藥ばかりを求めるのである。だが、「安からう惡からう」といふ事があり、「樂あれば苦あり」といふ事があり、「良藥口に苦し」といふ事もある。教育とは詮ずるところ道徳の問題に他ならないが、道徳的に振舞ふのは難き事なのだから、道徳について考へる事もまた難事であつて不思議は無い。
教育に限らず、この世の人間の營みについて、卑近な事柄について、吾々は深く考へねばならぬ。一見迂遠のやうに見えてそれこそは、難局に臨んだ際、何よりも物を言ふのである。國家も個人もいづれは必ず難局に差し掛かる。そして「難に臨んで兵を鑄る」のは愚かしい事だ。金儲けの才に惠まれ、順風に帆をあげ得意滿面、道化て世を渡つたとしても、吾々はいづれ必ず死ぬのである。それも例へば老衰のやうに、安樂に死ねるとは限らない。往生際に吾々は、「苦しい、死にたくない」と叫び、家族や友人を困惑させ、見苦しい惡足掻きの果てに死ぬのであらうか。それとも最後まで他人への思ひやりを捨てず、從容として死ぬのであらうか。
永井荷風の傳へるところによれば、荷風が病床の森鴎外を見舞つた時、鴎外は死の床に横たはり、袴を穿き、兩腰にぴつたり兩手を宛ひ、雷のごとき鼾をかいてゐて、枕頭には天皇皇后兩陛下からの賜り物が置いてあつたといふ。「一センチほどの綿ボコリ」の積つた六畳間の萬年床で、鍋、茶碗、庖丁、七輪などに取り圍まれ、ただ一人血を吐いて死んでゐた荷風とはまさに對照的だが、鴎外は幼少の頃から、「侍の家に生れたのだから、切腹といふことができなくてはならない」と常々言ひ聞かされて育つたのである。鴎外が大正二年に書いた『阿部一族』にかういふくだりがある。主君の跡を追つて殉死する決心をした内藤長十郎は、家族と最後の杯を取り交してから、少し晝寢をするのだが、そこのところを鴎外はかう書いてゐる。
かう云つて長十郎は起つて居間に這入つたが、すぐに部屋の眞ん中に轉がつて、鼾をかき出した。女房が跡からそつと這入つて枕を出して當てさせた時、長十郎は「ううん」とうなつて寢返りをした丈で、又鼾をかき續けてゐる。女房はぢつと夫の顏を見てゐたが、忽ち慌てたやうに起つて部屋へ往つた。泣いてはならぬと思つたのである。
家はひつそりとしてゐる。(中略)母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、ぢつと物を思つてゐる。主人は居間で鼾をかいて寢てゐゐ。開け放つてある居間の窓には、下に風鈴を附けた吊葱が吊つてある。その風鈴が折々思ひ出したやうに微かに鳴る。その下には丈の高い石の頂を掘り窪めた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まつて、羽を山形に垂れて動かずにゐる。
見事な文章である。かういふ假定は馬鹿らしき限りであり、鴎外を冒涜する樣なものだとさへ思ふが、右の文章を例へば宇能鴻一郎氏の文體で書いたら一體どういふ事になるか。もうこの邊で終りにしたいから、詳しい説明はしないが、鴎外は殉死を闇雲に禮讃してゐるのではない。けれども一方、『阿部一族』における鴎外は殉死の不合理を批判してゐるなど主張するのもつまらぬ解釋だと思ふ。鴎外は背伸びをしてゐるのだ、内藤長十郎に肖らうとしてゐるのだ。それゆゑ鴎外は決して文章を等閑にしなかつた。そしてそれは、人生を等閑にしなかつたといふ事に他ならない。 
2 まづ徳育の可能を疑ふべし

 

日本人は「和を以て貴しと爲す」民族だとよく言はれる。が、それは昔の事で、今は「馴合ひを以て貴しと爲す」民族だと私は思つてゐる。吾々は互ひに許し合ひ、徹底的に他人を批判するといふ事をしない。許すとは緩くする事だが、他人に緩くして、おのれも緩くして貰ひたがるのである。
今や吾國は許しつ許されつの弱者の天國である。「すみません」の一言で、既往は咎めず、一切は水に流される。それゆゑ、ぐうたらを憎む者は必ず嫌はれる。必ずしも憎まれはしないが必ず嫌はれる。そして憎まれないのに憎むのは、憎まれて憎む以上の難事である。かくて「顏あかめ怒りしことが、あくる日は、さほどにもなきをさびしがるかな」といふ事になる。これは石川啄木の歌である。啄木はまたかう歌つてゐる、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ來て、妻としたしむ」。何ともやり切れないほど慘めな歌である。友がみな偉く見えるのなら、友を蹴落してでも偉くなつてやらうと考へたらよい。けれども、かういふ事を書けば皆に嫌はれる。嫌はれたくないのなら、啄木の如くわが身をあはれがり、妻を愛撫して寂寥を慰める歌を詠むに如くはない。徹底的に憎む事も憎まれる事もなく、何事も許し合ふ微温湯さながらの社會では、自分で自分をあはれむこの種の腑甲斐無い歌ばかりがやたらに流行るのである。
日本は許しつ許されつの愚者の樂園である。それゆゑ私は「世代の斷絶」といふ事をそのままには信じない。今や日本人は道義心を失ひ、何を善とし何を惡とするかの基準はもはや定かでなく、そのため「あれをしてはいけない、これはしてはいけない」といふやうな事を、親や教師は子供に言へなくなつたといふ。親にとつて自明の常識も今の子供にはまるで通用せず、ために親も教師も大いに困惑してゐるといふ。だが、實際は親も教師も口で言ふほどは困つてゐない、私にはさうとしか思へぬ。今、大人と子供の間に斷絶があるのなら、昔もそれはあつたのだし、昔それが無かつたのなら、今も無いのである。「和を以て貴しと爲す」のは日本人の度し難い本性で、敗戰くらゐの事でそれが變る筈は無い。それゆゑ何事も「ドライに割切る」といふ當節の子供もまた、許し合ひの快を知つてをり、親や教師から「あれはしてはいけない、これはしてはいけない」と言はれても、なぜそれをしてはいけないのかと執拗に食ひ下り、大人を理責めにするといふやうな不粹な事をやる筈が無い。この許し合ひの天國では、物事の善惡を突きつめて考へる必要など少しも無いからである。
日本人には罪惡の問題を識別する能力が「缺けているか、でなければ幼稚」であり、また「この難問題を解くことにある程度の氣のりなさを示している」とかつてジヨージ・サムソンは言つた(『日本文化史』福井利吉郎譯)。イギリス人からすれば日本人は「氣のり」しないやうに見えるのだらうが、日本人からすれば、善惡を突きつめて考へ、倫理的難問と惡戰苦鬪して、間缺的に殺し合ひまでやらかす西洋人は馬鹿か狂人に見える。資源さへ充分にあれば一刻も早く再び鎖國して、和よりも正義を尊ぶ愚かな狂人との附合ひをやめたはうがよい、私もさう思はぬではない。が、もとよりそれは出來ない相談である。とすれば、西洋人の愚昧と狂氣を嗤つてもゐられない。
しかるに、日本の大方の教育論は、倫理的難問と惡戰苦鬪する事が無い。かつて『中央公論』に書いた通り、苦しげな事を言ふ時も教育評論家は決して本氣ではない。それは教育論の文章が裏切り示してゐる。つまり大方の教育家は人間が矛盾の塊りである事を本氣で氣に懸けない。彼等が安つぽい僞善者なのは、してみれば當然の事である。彼等は「絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行する」。これはギユスタヴ・テイボンの言葉だが、T・S・エリオツトは教育論の第二章を閉ぢるにあたつて、シモーヌ・ウエーユを論じたテイボンの文章を引いてゐる。それを以下に孫引きする事にする。
絶對的な善を追求する精神は、この現世では、解決の無い矛盾に直面する。「吾々の人生は不可解であり、不條理なのだ。吾々が意志するすべての事柄は、状況やそれに附隨する結果と矛盾する。それは吾々自身が矛盾せる存在、すなはち被造物に過ぎないからである」。例へば子供を多く産めば人口過剩と戰爭を招來する(その典型的な例が日本である)。人々の物質的條件を改善すれば、精神的退廢を覺悟しなければならない。誰かに心底打ち込めば、その誰かに對して生存するのをやめる事になる。矛盾が無いのは想像上の善だけである。子供をたくさん産みたいと考へる娘、民衆の幸福を夢みる社會改良家、さういふ人たちは實際に行動を起さぬ限り何の障害にも出交さない。彼等は絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行するのである。現實にぶつかる事、それが覺醒の第一歩なのだ。
誰か他人に心底打ち込んで、おのれのエゴイズムを根絶した積りでも、必ずしもそれは他人のために生きる事にはならないのである。例へば男が女を激しく愛するやうになつたとして、男はいかやうの自己犧牲をも厭はぬやうになるか。何事も女の言ひなりになるか。そして、何事も女の言ひなりになつたとして、さういふ男に女はいつまでも魅せられるか。さらにまた、かういふ事もある。女が或る男に夢中になれば、女は當然男の時間と心と肉體を專有したいと考へる。その場合、男が自我持たぬ腰拔けならば問題は無い。けれども通常、女が男のすべてを獨り占めしようとすれば、そして獨り占めできぬ事に苛立つならば、その時女は男のために生きてはゐない譯であつて、男も當然その事に苛立つやうになるに違ひ無い。
昨年、東京世田谷區の高校生が祖母を殺して自殺した。が、彼は犯行の動機や計畫を克明に記したノートを殘してゐる。それにはかう書いてあつた。「祖母の醜さは私への異常に強い愛情から來ている。私の精神的獨立を妨害し、自分の支配下に置こうとする。祖母は私のカゼ藥の飮み具合を錠劑を數えてチエツクする。夜食、いちいち運んで來るのが耐えられない。眠つてからフトンがずれていないかのぞきにくる。私が怒つたとき、祖母はうす笑いを浮かべ“あなたのためを思つて”という言葉を武器にする。このままでは進學、就職、結婚すべてが祖母に引きずられてしまうのではないか」。
くだくだしい解説は要るまい。祖母は孫を一心不亂に愛してゐたのだらうが、それは孫の「ためを思つて」生きた事にはならなかつたのである。孫に對する「異常に強い愛情」は孫を「自分の支配下に置こうとする」エゴイズムであり、一方、孫はおのれのエゴイズムを棚上げしてその醜さを憎んだ譯である。それはまさしく地獄の體驗だつたに違ひ無い。そして私にはそれは餘所事とは思へない。同じ状況に置かれれば、十六歳の私は同じやうに行動したかも知れないと思ふ。
ところで、この十六歳で愛憎の地獄を體驗した高校生は大衆の愚昧に苛立ち、自分の犯行は「大衆のエリート批判に對するエリートからの報復攻撃」だと書いてゐる。十六歳にふさはしい粗雜な論理ではあるが、要するに彼は「人を殺してなぜ惡いか」と開き直つてゐるのである。そして「人を殺してなぜ惡いか」といふ問ひは、最大の倫理的難問であつて、古來偉大な思想家は必ず一度はこの難問と苦鬪した。拙文の讀者の中には教師もゐようが、祖母を殺す前日、生徒がこの問ひを突き附けて來たら教師はどうしたらよいか。もとより頭の惡い子供も人を殺す。さういふ子供は見捨てたらよい。が、頭のよい子供に「人を殺してなぜ惡い」と反問されて「殺人は惡だ、解り切つた事ではないか」としか答へられぬとすれば、さういふ教師は立派な教師ではない。殺人が惡だといふ事は、決して解り切つた事ではない。自明の理ではない。そして立派な教師とは、まづ何よりも世間が自明の理と考へてゐるものを徹底的に疑つた事のある教師だと、私は思つてゐるのである。
例へば、教育を論じて人々は教育の有用を自明の理と考へてゐるであらう。自明の理と考へて、それを疑つてみた事が無いであらう。無論、てにをはや掛け算は教へられ、それは確實に有用である。けれども、徳は教へられるのか。徳目を教へれば、教へられた生徒は人を殺すのをやめるのか。さういふ事を教育論の筆者も教師も少しも考へてゐないではないか。英語の教師なら分詞や動名詞の用法を教へられるであらう。が、「人を殺してなぜ惡い」と少年に開き直られたら、英語の教師は一體何と答へたらよいのか。殺人を惡とする常識を否定する小惡魔に、「殺人は惡だ、そんな事は解り切つてゐる」としか答へられぬやうな常識的な教師がどうして太刀打ちできようか。綺麗事を竝べ立て、小惡魔に嘲弄されるが落ちである。けれども、眞の教師なら、殺人を惡と言ひ切れぬゆゑんを説いて、小惡魔を壓倒する事ができる。「人を殺してなぜ惡い」と非行少年に開き直られたら、安手の道義論では到底齒が立たない。その場合はまづ「殺人必ずしも惡ならず」と答へねばならぬ。が、さう答へられる教師は殆どゐないであらう。なぜなら、さう答へるためには、殺人を惡とする常識を徹底的に疑つた體驗が無ければならないが、僞善と感傷の教育論ばかりが氾濫し、善惡といふ事を徹底して考へぬこの許し合ひの樂園では、教師や物書きがさういふ體驗をする事はまづ無いからである。けれども、ほんの一寸疑つてみればよい、殺人を惡とする常識は實に呆氣無く覆る。人を殺す事は惡いか。惡い。では、惡い人を殺す事も惡いか。それも同じく惡いと言ふのなら、死刑は廢止しなければならぬ。そればかりではない、例へば毛澤東は、モスクワ發表によれば二千五百萬人を肅清したといふ。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人であつて、一九四九年の共産黨政權樹立後、一九五四年初頭までに八十萬人を肅清したといふ事になつてゐる。八十萬人で結構である。八十萬人を殺す事は惡い事なのか。毛澤東が肅清したのはすべて惡い人々だつたのである。正確に言へば、毛澤東によつて惡いと判定された人々だつたのである。そして、その八十萬のすべてが本當に惡い人だつたかどうかを、神ならぬ身の誰が知らうか。
けれども、今はこの問題に深入りしない。深入りしてほしいと思ふ讀者がゐる事を私は信じてゐるが、これはここで深入りできぬ程重大な問題なのである。いづれ私は「戰爭論」を書くつもりなので、そこで徹底的に論じようと思つてゐる。とまれ、それは例へばドストエフスキーが徹底的に考へた問題だが、日頃からさういふ事を考へて考へあぐねてゐる教師なら、「人を殺してなぜ惡い」と生徒に開き直られたくらゐで驚きはしない。教師は生徒の知能に應じ見捨ててもよいし、見捨てずして共に人を殺す事についてとくと考へるもよい。祖母を殺した少年はドストエフスキーを讀んだ事が無かつたらしいが、彼がもし『罪と罰』を讀んだならば、十九世紀のロシアに大天才がゐて、自分と同じやうな(實は兩者の懸隔は甚だしいが)苦しみに耐へる作中人物を創造した事を知つた筈である。そして、自分を救はうと惡戰苦鬪した人間だけが他人を救へるのかも知れず、ドストエフスキーは或いは少年を救へたかも知れない、と私は思ふ。
勿論、人を殺してなぜ惡いといふ問題にドストエフスキーが決定的な解答を與へてゐる譯ではない。けれども、大天才も苦しんだと知れば、少年は少々氣が樂になつたかも知れぬ。さうして少々氣が樂になつたところで、教師は例へば次のやうな文章を少年に讀ませる事ができよう。
幸福は、われわれが何かをしないことにかかつてゐる。ところがそれは、われわれがいつ何時でもやりかねない事であつて、しかも、なぜそれをしてはならぬのか、その理由はよく解らない事が多いのだ。(中略)例へば、粉屋の三番目の息子が妖精に向つてかう聞くとする──「何だつて妖精の宮殿で逆立ちしてはいけないのですか。その理由を説明して下さい」。すると妖精はこの要請に答へて、まことに正當にかう言ふだらう。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜ妖精の宮殿がここにあるのか、その理由を説明して貰はう」。或いはシンデレラが聞いたとする──「どうして私は舞踏會を十二時に出なければならないのですか」。魔法使ひは答へる筈だ──「どうしてお前は十二時までそこにゐるのだい」。
これはG・K・チエスタトンの文章なのだが、「なぜ人を殺してはいけないのか」と少年に問はれたら、チエスタトンの妖精なら何と答へるだらうか。教師はそれを少年に考へさせたらよい。勿論、妖精はかう答へる筈だ。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜお前がこの世にゐるのか、その理由を説明して貰はうか」。つまり、教師は少年にかう語つたらよいのである。人間の幸福は何かをしない事にかかつてゐる。が、お前は祖母を殺したいと言ふ。それなら「なぜ殺していけないのか」などと言はず、今夜にも殺したらよい。けれども、殺すための理由をどうしても必要とするのなら、殺すのは少し先に延ばして、なぜ人を殺してはいけないのかといふ事について徹底的に考へてみたらどうか。さうすれば、チエスタトンの言ふ通り、この世には殺していけない理由に限らず、よく解らない事がたくさんあるといふ事が解るだらう。例へば、なにゆゑに或いは何の爲に自分はこの世にゐるのかと、お前はさういふ事も解つてゐないではないか。
けれども、さういふ問答によつて教師が生徒を救へるなどと私は言つてゐるのではない。死ななければ癒らないやうな馬鹿はゐるし、それに何より、人間に果して人間が救へるものか、それが甚だ疑はしいからである。サマセツト・モームに『雨』といふ短篇がある。あばずれ娼婦を改悛させようとして、改悛させた途端に娼婦に反對給付を求め、つまり娼婦の肉體に手を着け、娼婦に罵倒されて自殺する牧師の話である。けれども、娼婦トムソンを救へなかつたのはデイヴイドソン牧師だけではない。反對給付を求めなかつた温厚なマクフエイル醫師も救へはしなかつたのである。「彼らを捨ておけ、盲人を手引する盲人なり、盲人もし盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん」とイエスは言つた。人間が人間を救はうとする事は、盲人が盲人を手引きするやうなものである。ルターは人間の本性は惡だと信じ、人間は自らの意志で善を選ぶ事が決して無いと考へてゐた。自らの意志で善を選ぶ事が無い人間を、自らの意志で善を選ぶ事の無い人間がどうして救へようか。さういふ度し難い人間を全能なる神は救へるかも知れないが、ルターの言ふとほり、その際の神の知惠と正義は人間の理解を絶するものであらう。ルターは『奴隸意志論』の中にかう書いてゐる。
このようにして人間の意志は、いわば神と惡魔との中間にいる獸のようなものである。もし神がその上に宿れば、神の意志のままに意志し、動くであろう。あたかも詩篇が「われ聖前にありて獸にひとしかりき。されどわれ常に汝と共にあり」とのべているように。もし惡魔がのり移れば、惡魔の意志のままになる。どちらの乘り手のほうへ走るか、またどちらを求めるかはかれ自身の意志の力にはなく、乘り手自身がそれをとらえようと爭うのである。
つまり、かういふ事になる。「人を殺してなぜ惡い」と反問する少年の「上に神が宿れば」、少年は祖母を殺さないが、「惡魔がのり移れば」彼は殺すしかない。そして、ルターの考へでは、少年を神が捕へるか惡魔が捕へるかは少年自身の意志の及ばぬ領域で決定されるのである。ルターの考へが正しいとすれば、誰も少年を救ふ事ができない。が、それなら、教育とは所詮骨折り損のくたびれ儲けではないか、といふ事になる。
ルターは激しい男で、病的なほど良心にこだはつた。『奴隸意志論』はエラスムスに反駁すべく書かれたものである。人間に自由意志ありや否やをめぐるこの有名な論爭について、私はここで深入りしないが、要するに、エラスムスに與すれば神の助力を必要とせぬ人間の偉大を強調してやがて神を殺す事となり、ルターに與すれば神に縋らざるをえぬ人間の悲慘を強調してやがて人間を神のロボツトと見做す事になる。テイボンならばこの矛盾は「辛いものながらそのままに受け入れなければならない」と言ふであらう。けれども私は、ここではルターに與する。吾々人間を神が捕へるか惡魔が捕へるか、それは吾々の意志と無關係だとするルターの主張は、教育の有用を信じ切つて「架空の善の海を樂しげに航行」する手合に痛棒をくらはすために效果的だし、それに何より人間に人間は救へないと私は考へるからである。それゆゑ、人間にやれるのは知育だけだと私は思つてゐる。徳育なるものを私は一切信じない。教育勅語もそのままには信じないが、日教組の「教師の倫理綱領」にいたつては傍痛い。人間は事のついでに、うつかりして、つい善行をやるに過ぎず、意識的な徳育などやれる筈が無いのである。それゆゑ、徳育は無用の事である。有用かも知れぬのは知育だけである。日本の教育は知育偏重で徳育不在だと言はれるが、とんでもない事であり、不在なのは知育なのである。吾國で行はれてゐるのは無味乾燥で生氣の無い詰込み教育であり、眞の知育の持つ思考の徹底を缺いてゐる。知育に徹すれば、いづれ必ず惡魔に出會ふ。惡魔に出會つて、人間が人間を救へるかとの難問にたぢろぐやうになる。けれども、吾國ではその種の知育は行はれてゐない。本年三月六日付のサンケイ新聞に市村眞一氏は書いてゐる。
ここ三十數年間、わが國のジヤーナリズムの上で人氣のあつた思想や評論の流れには、顕著な一つの特色がある。それは「直線的思考」とでもいうべきものである。しかしそのような單細胞型の割り切り方では、現實の世界に對處できぬことは、つぎつぎに明らかになつてきた。(中略)そもそも多少でも思想哲學の歴史を學び、政治經濟史の記憶を喪失しなければ、ここに述べたような單細胞型の直線的思考におちいることはない筈である。それにもかかわらず、どうして同じような型のあやまちを繰り返すのかがむしろ不思議である。わが國のジヤーナリストのなかには、漱石の『坊つちやん』のように「世の中に正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか、考えてみろ」と割り切りたい單純・類型化・率直への希望的觀測が支配しているのであろうか。
市村氏のやうな學者だけが大學で教鞭を取つてゐるのではない。「直線的思考」を挫折せしむるほどまでに徹底した知育は大學では殆ど行はれてゐないのである。それゆゑ大學生は考へる習慣を失つてゐる。勿論、高校生も考へない。受驗勉強とは專ら記憶力に頼る勉強である。それゆゑ高校生は考へない。考へても仕樣が無い。 
私は最近高校で用ゐられてゐる倫理・社會の教科書を覗いて仰天した。そこには何とソクラテスからサルトルまでの西歐の哲學者についての「豆知識」が詰込んである。高校ではそれを一年で教へるのである。私は仰天し、ついで倫理・社會を教へる教師の情熱を疑つた。ソクラテスからサルトルまでを一年で教へる、それは曲藝以外の何物でもない。そのやうな曲藝を強ひられながらそれに耐へてゐる教師の誠實を私は疑はずにはゐられない。
けれども、責任の大半は實は大學が負はねばならないのである。これは倫理・社會の教師ではないが、大阪明星學園で日本史を教へてゐる福田紀一氏は、「大學側は、こちらが力を入れて解説したようなことは、めつたに出してくれない」と言ひ、次のやうに書いてゐる。
入試の合否を決めるのは、無學祖元はだれの保護を受けたかとか、解脱房貞慶は何宗か、といつた、本來枝葉ともいうべき小さな知識であり、すなおに授業を受けていればいるほど面くらうような問題が、合否を左右することになる。授業をしていても受驗問題を考えると、空しい氣持ちになつてくる。(『おやじの國史とむすこの日本史』)
福田氏の言ふ事は間違つてゐない。けれども、受驗本位の詰込み教育にはもつと大きな弊害がある。例へば、今年の國立大學共通一次試驗において、受驗生はセネカ、ポンペイウス、プロタゴラス、アリストテレス、アイスキユロス、アリストフアネス、カエサル、エラトステネス、トウキデイデス、及びアウグステイヌスの中から「ヘロドトスと同樣に戰史ないし戰記を書き殘した」人物を二人選ぶ事を求められてゐる。正解は無論カエサルとトウキデイデスである。けれどもこの種の問ひに正しく答へるためには、高校生はトウキデイデスの『戰史』を讀む必要は無い。いや讀んではいけない。讀んだら確實に入試に失敗する。それゆゑ高校生は讀まないし、高校の教師も多分讀まない。高校生も教師も、「ペルシア戰爭後アテナイが繁榮するが、ペロポネソス戰爭を契機に個人主義的な風潮が強くなつて、ギリシア世界は分裂し、ヘレニズム時代を迎へ」たが、トウキデイデスといふ男は、そのペロポネソス戰爭の歴史を書いたのだと、それぐらゐの事を記憶しておけば充分なのである。が、實際にトウキデイデスの『戰史』を讀むならば、高校生は確實に惡魔に出會ふ。例へば『戰史』卷五、所謂「メロス島對談」において、強者アテナイは弱者メロスに弱肉強食の理を説いて憚る事が無い。少しく引用しよう。
アテナイ側「われらの望みは勞せずして諸君をわれらの支配下に置き、そして兩國たがひに利益をわかちあふ形で、諸君を救ふことなのだ」
メロス側「これは不審な。諸君がわれらの支配者となることの利はわかる、しかし諸君の奴隸となれば、われらもそれに比すべき利が得られるとでも言はれるのか」
アテナイ側「しかり、その理由は、諸君は最惡の事態に陷ることなくして從屬の地位を得られるし、われわれは諸君を殺戮から救へば搾取できるからだ」
メロスはラケダイモンの植民地である。それゆゑメロスは、必ずやラケダイモンが「救援にやつて來る」と信じてゐる。「植民地たるメロスを裏切れば、心をよせるギリシア諸邦の信望を失ひ、敵勢に利を與へることになる。ラケダイモン人がこれを望まうわけがない」とメロスは言ふ。が、アテナイは冷やかに答へる、「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまいな。求める側が實力においてはるか優勢であるときのみ、要請は實を稔らせる」。
會談は決裂し、戰端が開かれ、メロスは降服し、アテナイは逮捕したメロス人の成年男子全員を死刑に處し、女子供を奴隸にした。今から二千四百年も昔の話である。けれどもロケツトが冥王星に達する時代になつても、地上におけるこの種の弱肉強食の爭ひは跡を絶たないであらう。カンボジアはヴエトナム正規軍の侵掠を受け、首都プノンペンは本年一月七日に陷落した。ポルポト政權は一月三日、國聯安全保障理事會に提訴したが、理事會の審議が始まつたのは十一日であつた。そしてカンボジアからの「外國軍隊の即時撤退」を求める決議案は、ソ聯の拒否權によつて潰されたのである。要するに、國際輿論を代表する筈の國聯も、インドシナ半島における弱肉強食の現實を前にしては全く無力であつた。そして二千四百年前のメロスと同樣、カンボジアは中國の支援を當てにしたのだらうが、中國は直ちに軍事介入に踏み切る事はしなかつたのである。「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまい」とアテナイは言つた。アメリカの核の傘の下にゐる日本が「いくら忠誠を示しても」、アメリカを「盟約履行の絆でしばることには」ならない。マツクス・ウエーバーは「政治家は惡魔の力と契約する」と言つたが、それなら「條約は破られるためにある」。そしてそれが國際政治の現實なのである。
すでに明らかであらうが、トウキデイデスを讀むといふ事は、さういふ惡魔の力と契約せざるをえない人間の現實の姿についてとくと考へる事なのであり、高校時代にそれをとくと考へたら、大學生になつて單純幼稚な正義感などに醉拂へる筈が無い。角材やヘルメツトで武裝して與太を飛ばせる筈が無い。いや、劇畫雜誌を愛讀し、女の尻を追ひ、麻雀に凝つて、虚ろな毎日を過ごす筈も無いのである。けれども、高校生はトウキデイデスを讀まない。そして高校時代に讀まないものを、遊園地と化してゐる大學に入つて讀む筈が無い。かくて高校、大學を通じて日本の若者は惡魔と無縁の教育を受け、やがて自分が教師になつて惡魔と無縁の教育を施す。どう仕樣も無い惡循環なのである。
明治時代、小崎弘道は『政教新論』の中に次のやうに書いた。
世の學者は徳行は教訓し得べしと爲し教育さへ盛にすれば人の品行は正しくなり、風俗は敦厚になると思惟する者多けれども是れ全く人生の根底に達せず、杜會の實情を詳に知ざるより起るの誤謬にして實際に適用し難き一場の空談たるに過ぎざるなり。抑人の善を爲さずして惡を爲すは善の爲すべくして惡の爲す可らざるを知らざる故歟。(中略)若し人の善を爲さずして惡を爲すの原因果して知識の不足に在りとせば、身を修め人を善に導くの容易なるは勿論、善を爲さず惡を爲す人今日の如く多からざるべし。
要するに小崎は「徳は教へられるか」と問うてゐるのである。「徳は教へられるか」とソクラテスも屡々問うた。徳は教へられるか。徳が知識なら教へられる。が、教へるには教師が必要である。では、徳の教師はゐるか。ゐない。ゐる筈が無い。それゆゑ徳は教へられない。ソクラテスはさう考へる。かういふソクラテスの考へについては、プラトンの『メノン』や『プロタゴラス』に詳しいが、詮ずるところ徳は教へられず、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではないとすると、徳育は無用の事で、教育がなしうるのは知識の傳達だけといふ事になる。それでよいのだし、昔からさうだつたのである。周知の如くトウキデイデス以來二千四百年、科學は長足の進歩を遂げた。それはつまり知識の傳達を事とする「知育」の勝利に他ならない。けれども、徳育において、ソクラテスの言ふ「魂の世話をする事」において、人間は少しも進歩してゐないのである。例へばヒポクラテスは神聖病すなはち癲癇について「腦の破壞は粘液によるほか、膽汁によつてもおこる」と書いてゐるが、今日この説を承認する精神科醫は一人もゐないであらう。けれども醫者の心得を説くヒポクラテスの次の文章は、今日そのまま通用するのである。
あまり不親切なやり方はしないように勸めたい。患者には餘分の財産があるのか、また生計の資力があるのかを考慮に入れるがよい。そして、ばあいによつてはかつて受けた恩惠や現在の自分の滿足な状態を念頭において、無料で施療するがよい。(中略)人間に對する愛があれば技術に對する愛もあるからである。(小川政恭譯)
ヒポクラテスは醫は仁術だと言つてゐるのではない。醫者が少々不親切になるのはやむをえないが、不親切の度が過ぎぬやうにせよ、「無料で施療」するのは時と場合による、と言つてゐるのである。
けれどもここで、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」が「知識の不足」のせゐでないのなら、徳育のみならず知育も空しいではないかと反論する向きもあらう。だが、人間は「善を爲さずして惡を爲」したいと常に思つてゐるといふ事實をまづ認めるべきだと私は言つてゐるのである。そして、それを認めさせるのは、度し難き馬鹿が相手ならばともかく、常に可能な事であつて、そのためには知育一本槍でよい。さういふ知育が眞の知育なのだ。つまり、善の無力、徳育の無力について徹底的に考へる、それが眞の知育なのである。そしてそれは吾國では行はれてゐない。善の力を稱へる僞善的教育論が横行するのは當然の事だと思ふ。
ところで、右に引いたヒポクラテスの考へを、メルヴイルに倣つて私は「道徳的便宜主義」と名附けようと思ふが、二十世紀の醫者もヒポクラテスの忠告に從つて行動してゐる筈であり、とすれば古代ギリシア以來人間の「どうにもならぬ本性」は少しも變つてゐないといふ事になる。小崎弘道の言ふ通り、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではない。今日、醫學的知識は豊かになつたものの、醫者と患者との人間關係は古代ギリシアのそれと變らず、大方の醫師は出來る事なら「善を爲さずして惡を爲」したいと考へてをり、時に善をなすとしても「技術に對する愛」に盲ひて、事のついでになすか、さもなくば有徳なる醫師と見做される事を處世術上の「便宜」と考へての事か、そのいづれかであらう。醫者に限らない、吾々は皆道徳的便宜主義者なのである。メルヴイルは『ピエール』の作中人物プリンリモンにかう語らせてゐる。
地上的な物事において、人間は天上的觀念の支配を受けてはならない。人間は生來、世間なみの幸福な生活を送りたいと願ふ。人間がこの世で或る種のささやかな自己抛棄をしようと思ふのも、さういふ本性のしからしむるところであらう。が、だからといつて、完全かつ絶對的な自己犧牲などは、他人のためであれ、何らかの主義のためであれ、奇想のためであれ、決してしてはならない。(中略)尋常の人間にとつてこの世で最も望ましく、また可能な生き方は道徳的便宜主義である。これこそ造物主が、一般の人間にとつての唯一の地上的卓越として考へてゐたものなのだ。
ささやかな自己抛棄ならばよろしい、とプリンリモンは言ふのである。幸福な世間なみの生活を送るためにそれは有用だからである。勿論、それは徳行などといふものではない、打算であり處世術であるに過ぎない。だが、時折のささやかな自己抛棄は確かに己れを利するのであつて、それは吾々のすべてが知つてゐる事である。しかるに、教育について考へる時、人々は或る種の條件反射を起す。パブロフの犬よろしく、教育といふ言葉を耳にしただけで、道徳的便宜主義の有用を忘れ、人間のどうにもならぬ本性を矯めうるとの錯覺を起す。それはすでに述べたやうに、徳育の可能を自明の理と考へ、己れの心中に惡魔を見ず、人間の度し難い本性を忘れてゐるからである。道徳に關する自明の理を疑ふ所まで徹底して考へようとしないからである。それは知的怠惰である。怠惰な人間に、眞の知育が行へる筈は無い。例へば日教組は「教師は人類愛の鼓吹者、生活改造の指導者、人權尊重の先達として生き、いつさいの戰爭挑發者に對して、もつとも勇敢な平和の擁護者として立つ」と「教師の倫理綱領」に言つてゐるが、かうして途方も無い綺麗事を言ひ、人類愛を説けるからには、個人のエゴイズムくらゐはた易く克服できると日教組は思ひ込んでゐる譯であり、してみれば日教組は、競爭原理による「人間性破壞」を憂へる進歩的教育學者と同樣、或いは外山滋比古氏のやうな保守派のいかさま師と同樣、徳育の可能を信ずる樂天家なのである。外山氏の教育論の許し難いでたらめについてはいづれ詳しく書くが、少なくとも日教組には、忠君愛國の徳目主義を嗤ふ資格は無いのである。
トウキデイデス以來人間の本性は少しも變つてゐない。しかるに、徳育に固執する教育家は、今日なほ人間の本性を矯めうると信じてゐる。左翼文化人が社會主義國は戰爭をしないといふ幻想に久しい間醉へたのも、良き社會體制は人間の本性を矯めうると信じたからに他ならない。しかるに先頃中越戰爭が勃發し大方の左翼文化人は衝撃を受けたといふ。笑止千萬である。東大助教授の菊地昌典氏などはやうやく夢から醒めたやうな事を言つてゐるが、私には信じられぬ。美しい夢を必要とするのは愚者と弱者の常だから、菊地氏の場合もまたぞろ夢から醒めた夢を見てゐるに過ぎまい。日教組の如きは軍國主義の惡夢から醒めた夢を三十餘年間も見つづけて今なほ飽きる事が無い。彼等は教師を「人類愛の鼓吹者」だと思つてゐる。平和を愛する「よい子」を育てる事が教育だと思つてゐる。それはつまり、徳育の可能を疑つた事が無いからである。いやいや、日教組だけを嗤ふ譯にはゆかぬ。教育基本法には「われらは、さきに、日本國憲法を確定し、民主的で文化的な國家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の實現は、根本において教育の力にまつべきものである」とある。それゆゑ文部省も同罪である。吉田茂は生前「新憲法、棚の達磨も赤面し」と詠んだけれども、腰拔け憲法と同樣、綺麗事の教育基本法に赤面してゐない以上、子供を善い子に育てるのが教育だといふ事を、保守革新を問はず、殆どの日本人が信じて疑はぬのも無理は無い。が、それはまことに嗤ふべき迷信である。考へてもみるがよい。自分の子供を「よい子」に育てたいなどと思つてゐる親など實は一人もゐはしないのである。親は決して子供の善良を望みはしない。むしろ子供が適度に惡に染まる事を望む。幼兒が無邪氣なのは幼兒が智慧を缺いてゐるからではないか。幼兒の如く無邪氣なままに子供が成人したらどうなるか。本氣でそんな事を望む親がどこにゐるか。子供が智慧づく事を親は望むのである。そして智慧がつくとは惡智慧がつく事に他ならない。
けれども、さういふ至極當り前の事を、人々は決して認めたがらない。それこそ知的怠惰に他ならぬ。社會主義國同士の戰爭に幻滅の悲哀を感じた文化人は、いづれ必ず性懲りも無く別樣の未來に期待をかけるであらう。それかあらぬか、最近小田實氏は「普遍的自由主義」などといふ怪しげな主義の前途に期待し始めたやうである。教育家も同樣であつて、大人の醜惡に幻滅した教育家は必ず子供に期待する事となる。尖閣諸島の歸屬問題は子孫に任せよう、吾々が今解決できぬ事も、後の世代は解決できようと鄧(登+大里)小平は言つたが、あれは飽くまでも政治的發言であつて、鄧(登+大里)小平自身はそんな事を信じてはゐまい。子供には洋々たる前途があつて、國際協調のため、今の大人のできないやうな事をやつてのけるだらうなどと、紅衞兵に吊し上げられたあの筋金入りの現實主義者が本氣で思つてゐる筈は無い。また、思つてゐるとすれば彼は大した政治家ではない。子供は大人と同じ道を歩むのである。子供は大人と同樣に愚かしく、殘酷で、長ずるに從ひ惡智慧がつき、この世における善の無力を知るやうになる。それゆゑ、子供の善良を望まないのなら、大人は善の無力といふ事を年齢に應じて子供に教へなければならない。そして、それを教へるのが知育の役割なのである。キエルケゴールの父親は子供が好む畫集の中に、十字架に掛けられたイエス・クリストの繪を插し入れておいたといふ。善の無力を雄辯に物語るクリスト受難を常に意識させる事こそ最善の教育だと信じたからである。この世における善の力を説くのが徳育だと世人は思つてゐよう。だが、善が無力なら、もとより徳育も無力で無用の事とならざるをえない。
では、善の無力とはどういふ事か。それを子供にどう教へるべきか。善の無力を教へるのは、子供を非行に走らせるためでは決してない、善の無力を知り、善を切に望み、惡に墮しがちなおのれを鞭打つためなのである。さういふ事も大方の教育論は考へてるないから、いづれ別の機會にとくと考へてみようと思ふ。 
II 防衞論における道義的怠惰

 

1 道義不在の防衞論を糺す 
言論を動かすのは外壓のみ
「君の意見に私は同じない。けれども、君が意見を述べる自由だけは、命を懸けても保證する」とヴォルテールは論敵に言つた。まことに立派な心構へであつて、いかなる場合も暴力は斷じて許されず、冷靜な談合が何より大事だと、昨今は猫も杓子も言ふのである。けれども、何事にも程がある。例へばかういふ文章を綴る政治學者を相手に、どうやつて冷靜な談合がやれようか。それこそ杓子で腹を切らうとするの類ではあるまいか。
われわれには軍備は要らないのですから、アメリカに對して經濟援助をする分だけ、防衞費を削つていけばいい。頭の中の空想だけで軍備が要ると思つているのだから、現實認識を深める議論を繰り返すことによつて、軍備必要という空想論をだんだんに減らしていけばいい。そういう空想論が減つた分だけ防衞費を削つていけばいい。
私は「非武裝平和」論こそ「空想論」の典型だと思つてゐる。それゆゑ、「空想的平和主義者」の口から、「頭の中の空想だけで軍備が要ると思つている」手合の「空想論」に對處すべく「現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」、などといふ臺詞を聞かされると、しばし茫然自失して、わが耳を疑ふのである。「大人は頭の中の空想だけで、國籍の違ひや年齢差が愛の障害になると思つてゐるのだから、現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」などと、十歳以上も年上の、首狩族の女を伴つて歸國した面皰面の倅に言はれたら、父親はどうしたらよいか。言語道斷、一家眷族の名折れとて、馬鹿息子をぶん毆るか。さうはゆくまい。今は民主主義の世の中で、暴力は斷じて許されない事になつてゐるからである。
ではどうするか。冷靜な談合が望ましいなどと言はれても、なにせ相手は草津の湯でも癒せぬ病に取り憑かれてゐる。首狩族と愛の巣を營み、共白髪までやつてゆけるなどとは所詮「空想論」でしかないと懇ろに説諭したところで、相手はさういふ現實主義こそ「空想論」だと信じ切つてゐるのだから、何の驗もありはしない。幸田露伴なら「婦女が何だ! 戀が何だ! たとひ美女だらうが賢女だらうが、我を迷はせりや我の仇敵だ。男兒の正氣になつて働かうといふ事業の、障(原文「しよう:石+章」)礙になる奴あ悉皆仇敵だ。戀たあ料簡の弛みへ出る黴だ、閑暇な馬鹿野郎の掌の中の玩弄物だ」と怒鳴るかも知れぬ。が、今時、そんな勇ましい啖呵を切れる雷親父がゐる筈は無い。かてて加へて、父親とて若かりし頃、戀愛至上主義に感れた事があらう。首狩族と昵懇の仲になる機會こそ無かつたものの、愚かしき青春の思ひ出には事缺くまい。それを思へば大きな顏をする譯にはゆかない。さう思つて父親は諦め、運を天に任せる事になる。つまり、しばし捨て置くのである。だが、捨て置きながらも父親はひたすら待つ。何を待つか。無論、破鏡を待つ。そして待つた甲斐あつて現實が倅の「空想論」を打ち碎いた時、父親は心中密かに凱歌を奏するのである、「それ見たか、言はぬ事ではない」。
私は防衞論と丸切り無關係な事を語つてゐるのではない。先に引いた文章は立教大學で政治學を講じてゐる神島二郎氏のものだが、かういふ空想的平和主義者が勝手な熱を吹く樣を、常識を辯へた人人は、首狩族の女に惚れ込んだ男を目の前に見る時さながら、呆氣にとられて眺めるのではあるまいか。俗に「鰯の頭も信心から」といふけれども、鰯の頭は所詮鰯の頭でしかないと、いくら言ひ聞かせた所で、何せ信心なのだからどう仕樣も無い。どう仕樣も無いから放つて置く。が、一旦、空想家が現實の壁に打ち當つて挫折した時は、「それ見たか」とて寄つて集つて痛め附けるのである。ヴエトナム軍がカンボジアに攻め込み、その「懲罰」として中國軍がヴエトナム北部に侵攻した時がさうであつた。戰爭は帝國主義國が仕掛けるもので、社會主義國同士が戰爭をする事は無いと信じ、常々さう主張してゐた進歩的知識人は衝撃を受け、周章狼狽、世の笑はれ者になつた。例へば菊地昌典氏は「人權彈壓は、民主主義の抑壓と同義語なのであり、現代社會主義國に共通した重大な缺陷である」とまで書いて、保守派の失笑を買つたばかりか、進歩派にまで袖にされる始末であつた。けれども私は釋然としなかつた。「それ見たか」との保守派の得意顏をいかがはしく思はざるをえなかつた。そこで私はかう書いた。日商岩井の海部八郎氏を新聞や週刊誌が袋叩きにして樂しんでゐた頃の事である。
弱い者いぢめはさぞ樂しからう。まして今囘は辣腕の副社長が落ち目になつたとあつて、身震ひするほど樂しからう。さういふ殘忍は私も知つてゐる。例へば、社會主義に幻滅した社會主義者菊地昌典氏の困惑を眺めてゐると、私は無性にいぢめたくなる。が、さういふ時、私は用心する。皆が菊地氏をいぢめる時は、懸命に菊地氏の長所を探し出さうと努め、どうしても見附からない場合は菊地氏の短所を無理やりおのれの中に探し出す。それだけの手順を踏んでおかないと、いつの間にか魔女狩を樂しんで阿呆面をしてゐるおのれを見出す、といふ事になりかねない。
これを書いた時、私はかういふ事を考へてゐた。なるほど菊地昌典氏は社會主義の夢から覺めたのではなく、實は夢から覺めた夢を見てゐるだけの事かも知れぬ。が、人間はいくつになつても性懲りも無く夢を見る。すれつからしの現實主義者も誰かを信じて騙される。男に騙されない男も女にはころりと騙される。それなら、菊地氏の困惑を小氣味よげに眺めてばかりゐず、彼の短所をおのれの中に探さねばなるまい。さういふ手數を省いてここを先途と菊地氏を叩くのはつまらぬ。さういふ言論はまことに空しい。菊地氏をして「轉向」せしめたのは保守派の言論の力ではなく、ヴエトナム軍と中國軍の行動であつた。これを要するに、吾國の言論は外壓によつてしか動かぬといふ事ではないか。
その後菊地昌典氏がどういふ事を書いたのか、私は知らない。けれども、ソ聯軍がアフガンに侵攻して以來、「右傾」の度合はますます強まつた。保守派は意氣揚々と胸を張り、一方、神島二郎氏のやうな樂天家は別だが、進歩派は今や意氣阻喪して、そろそろと逆艪を使ふ者まで出て來る始末である。だが、外壓次第ではこの状況とていつ何時ひつくり返らぬとも限らない。レーガン大統領の對ソ強硬路線が挫折して、またぞろ米ソ兩國は「平和共存」でゆかうといふ事にでもなれば、目下囂しいソ聯脅威論なんぞ跡形も無く消し飛んでしまひ、逆艪を使つてゐる進歩派までが「それ見たか」とて胸を張るに相違無い。サイゴン陷落後、朝日新聞の「素粒子」の筆者は「南ベトナムの“安定性”をいい續けてきた日本外務省、一部評論家のご意見を聞きたい」と、鼻蠢かせて書いたのである。 
百年千年經つて變らぬもの
殿岡昭郎氏の『言論人の生態』(高木書房)は、二年間にわたつてヴエトナム戰爭に關する言論人の發言を丹念に調べあげたあげくの成果であり、私は精讀して色々と教へられたが、殿岡氏もまた、風向き次第で脹らんだり萎んだりする言論の空しさを慨嘆してをり、それが私には頗る興味深かつた。殿岡氏はかう書いてゐる。
日本の論壇がきわめて“實證主義的”であり、言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつているということは、日本の言論のいつそうの脆弱さを證明していることにもなるだろう。言論は他の言論を傷つけることも、他の言論によつて傷つけられることもない。從つて言論による説得も勝敗もありえない。雙方は勝手放題にいい散らして、最後の審判は事態の變化である。
殿岡氏の言ふとほりである。だが、なぜなのか。なぜ「言論による説得も勝敗もありえない」のか。なるほど、首狩族に頸つ丈になつてゐる若者に何を言はうと徒勞だから、といふ事はあらう。だが、それだけではない。日本人は和を重んずるから、何が正しいかは二の次三の次であつて、仲間うちの批判はタブーなのである。實際、神島二郎氏の粗雜な論理に顏を顰める進歩派もゐる筈だが、そんな事、噯(おくび:口+愛)にも出せはせぬ。出したら村八分になる。そしてそれは保守派も同じであつて、それゆゑ「言論による説得も勝敗もありえない」といふ事になる。もつとも昨今は、「内ゲバはやめろ、進歩派を利するばかりだ」とて、留め男が割つて入つたりする程、改憲の是非を巡つて保守派同士の對立が目立つ樣になりはした。例へば『VOICE』八月號で、片岡鐵哉氏は猪木正道氏と高坂正堯氏の「現實主義」を批判してゐる。けれども、猪木氏も高坂氏も決して反論しないであらう。「雙方は勝手放題にいい散らして」といふ事にならぬ代り、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になるであらう。つまり、「軍備はいまの憲法でも充分可能」であり、「十年間は憲法論議を棚上げ」すべしと主張する高坂氏が正しいか、それとも「侵掠というシヨツクが來るまで改憲も國防も不可能ではないか」と危倶する片岡氏が正しいか、それは「最後の審判」待ちといふ事になる。それゆゑ、猪木、高坂兩氏としては、反論せずにおく方が賢明である。
だが、果して「言論上の勝敗」は「道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつている」と言切れようか。なるほど情況すなはち現實は變化する。が、この世には何百年何千年經つて一向に變化しないものもある。ヴォルテールは近代文明を稱へて、「おお、この鐵の世紀のすばらしさ、爽やかなワインも、ビールも、ジユースも、イヴのあはれな喉を潤す事が無かつた」と書いたが、何、百年千年經つて變らぬアダムとイヴの原罪はヴォルテールも背負込んでゐた。「科學と理性の勝利」を信じて、「パスカルの絶望なんぞ少しも感じない」と書いたヴォルテールのフランスにおいても、新幹線を凌駕する高速列車を有するミツテランのフランスにおいても、惚れた腫れたの刃傷沙汰の愚かしさに何の變化もありはしない。
さういふ譯で、十年經つたら變る物があり、百年千年經つてなほ變らぬ物がある。高坂正堯氏は憲法論議を十年間棚上げすべしと主張する。それはつまり、今は賢明でない事が十年經つたら賢明になるかも知れぬといふ事である。つまり、今は政治的にまづいといふ事であつて、道徳的によくないといふ事ではない。「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないからだ。しかし、今後十年間憲法論議をやる事が賢明でないと假定して、十年間賢明でない事がいつ賢明になるのであらうか。なるほど、けふ賢明でない事があす賢明になるといふ事はある。昔、會澤正志斎が言つたやうに「今日のいふところは、明日未だ必ずしも行ふべからず」といふ事もある。それゆゑ政治家がけふ賢明でない事をけふ口にせぬやう心掛けるのは是非も無い。けれども、いかに優れた政治家も所詮は不完全な人間であり、「けふ賢明でない」との判斷において過つ事がある。憲法についての「眞情を吐露」した奧野法相を批判して高坂氏は、法相の「誠實は婦人の誠實」ないし「書生の誠實」だと書いた。私は高坂氏に同じないが、百歩譲つて「政治は結果倫理の支配する世界」であり、「自分の心を忠實に語るというのは二の次」だとする高坂氏の意見を認めるとしても、政治家が「自分の心を忠實に語る」事を二の次にせず、「書生の誠實」に徹するはうが却つて結果的に賢明である場合もあらう。それに、現行憲法は「自主憲法」ではない、「作り直すしかない」といふ法相の發言は今は賢明でないとする高坂氏の判斷が、かりに今、賢明だとしたところで、それが今後十年間賢明であり續けるといふ保證はどこにもありはしない。なるべくけふ賢明と思はれる事をけふ語らふとするのは處世術であり、それは誰でも持合せてゐようが、けふ賢明と思はれぬ事をけふ語る政治家がゐたとして、誰もそれを「書生の誠實」として嘲笑ふ譯にはゆくまい。その誠實が「具體的に何の益もない」どころか「マイナスの效果」を齎したと斷じうる時期になつて初めて、吾々はその政治的責任を云々する事ができる。高坂氏の言ふとほり「政治は結果倫理の支配する世界」だからである。
高坂正堯氏はもとより神島二郎氏ではない。頭腦明晰なる高坂氏は右の私の批判に文句は附けぬであらう。私の言分を認めるであらう。私は高坂氏の人格を攻撃したのではなく、その論理の破綻を指摘したに過ぎないからである。これを要するに、高坂氏と私の「雙方は勝手放題にいい散らし」た事にならず、しかも「事態の變化」といふ「最後の審判」の手を煩はせる必要も無かつたといふ事に他ならないが、既に述べた樣に「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないのだから、「憲法論議を十年間棚上げすべし」とは政治的判斷なのである。全面講和や日米安保條約や非核三原則の是非についての甲論乙駁は、それが政治的判斷にもとづく限り、とかく雙方が「勝手放題にいい散らして」決着がつかず、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になる。けれども、論理には決着がつく。論理の矛盾は十年經つても矛盾だからである。いや、十年は愚か百年千年經つても、論理學のルールは變り樣が無い。「平凡な事は非凡な事よりも遙かに非凡である」とか、「狂人は論理的である、頗る論理的である」とかいつた類の逆説を賞味するためにも、吾々は論理學のルールを無視する譯にはゆかない。 
「事の實際を奈何せん」と言ひたがる愚かしさ
要するに、この世には、文化大革命だの非核三原則だの人力車だの皇國史觀だのといふ、十年經つて變る物があり、癡話喧嘩や思考のルールのやうに百年千年經つて一向に變らぬ物がある譯だが、中江兆民の『三醉人經綸問答』この方、吾國の防衞論議はとかく十年經つて變りうる事柄にのみ氣を取られてゐたのであつて、「言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつて」ゐたのは當然の事なのである。『三醉人經綸問答』の三醉人とは、空想的平和主義者洋學紳士と、空想的軍國主義者豪傑君と、現實主義者南海先生だが、まづ洋學紳士はかう主張してゐる。日本は「民主平等の制を建立し、人々の身を人々に還へし、城堡を夷げ、兵備を撤して、他國に對して殺人犯の意有ること無きことを示し、亦他國の此意を挾むこと無きを信ずるの意を示し、一國を擧げて道徳の園と爲し、學術の圃と爲」すべきであり、「兇暴の國有りて、我れの兵備を撤するに乘じ、兵を遣はし來りて襲ふ」などといふ事はよもやあるまいが、「若し萬分の一、此の如き兇暴國有るに於ては、(中略)我衆大聲して曰はんのみ、汝何ぞ無禮無義なるや、と。因て彈を受けて死せんのみ」。
この洋學紳士の非武裝無抵抗主義は、日本社會黨の非武裝中立主義よりも遙かに正直である。けれども、傲慢や自尊心やエゴイズムといつた百年千年經つて變らぬものを勘定に入れぬ空論だから、自由民權運動が退潮し「軍國主義への傾斜」の度合が強まるにつれて古證文も同然となつた。すなはち「事態の變化」といふ「最後の審判」に伏するしがなかつた。
空想的軍國主義者たる豪傑君の意見もさうである。洋學紳士に反論して豪傑君は言ふ。そのやうな非武裝平和主義は現實無視の空論に他ならぬ。「六尺男兒、百千萬人相聚りて四國を爲しながら、一刀刃を報ぜず、一彈丸を酬いずして、坐ながら敵冠の爲に奪はれて、敢て抗拒せざるとは、狂人の所爲」ではないか、「抑も戰爭の事たる、學士家の理論よりして言ふ時は如何に厭忌す可きも、事の實際に於て畢竟避く可らざるの勢なり。(中略)爭は人の怒なり。戰は國の怒なり。(中略)人の現に惡徳有ることを奈何せん、國の現に末節に徇ふことを奈何せん、事の實際を奈何せん」、されば日本は隣接する弱小國を侵掠し、植民地となし、先進國を凌駕せねばならぬ。
言ふまでもあるまいが、この豪傑君の主張は大日本愛國黨のそれよりも正直である。けれども、「自分の子供が戰爭に驅り立てられ、殺されるのが厭だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定」する「母親の感情」といふ、これまた百年千年經つて變らぬものを無視する空論だから、昭和二十年八月十六日からは古證文も同然となつた。もつとも昨今、その古證文の埃を拂つて懷かしげに眺め、あたりを窺ふ者もゐるが、さすがに「隣接する弱小國を侵掠し、植民地とせよ」とまでは言ひ出せずにゐる。
ところで、洋學紳士と豪傑君の主張は、恰も小田實氏と三島由紀夫の主張ほど眞向から對立し、妥協の餘地はまつたく無いかのやうに思へるであらう。しかるにさにあらず、三醉人はブランデーを飮み、ビールを飮み、南海先生が笑ひ、「二客も亦嘘然として大笑し、遂に辭して去れり」といふ事になる。どうしてさういふ事になるか。それを知るには南海先生の意見にも耳を傾けねばならぬ。洋學紳士と豪傑君の論述を締め括つて南海先生は言ふ。洋學紳士の説は「未だ世に顕はれざる爛燦たる思想的の慶雲」であり、一方、豪傑君の説も「今日に於て復た擧行す可らざる」ものである。そしてまた、兩君の説は一見「冰炭相容れざるが如」くであるが、實は同一の「病源」に發してゐる、すなはち「過慮」である。さうではないか、目下プロシアとフランスが「盛に兵備を張るは、其勢甚迫れるが如きも、實は然らずして、彼れ少く兵を張るときは或は破裂す可きも、大に兵を張るが故に、破裂すること有ること無し」、兩君ともに取越し苦勞をしてゐる、大事なのは「世界孰れの國を論ぜず與に和好を敦くし、萬已むことを得ざるに及ては防禦の戰略を守り、懸軍出征の勞費を避けて、務て民の爲に肩を紓(の:糸+予)ぶること」である。
要するに南海先生は「現實主義者」なのであり、それゆゑ、洋學紳士の説を「未だ世に顕はれざる」空論とし、一方豪傑君の説をも「今日に於て擧行す可らざる」空論と極め附けるのだが、「冰炭相容れざるが如」くに見えた洋學紳士と豪傑君は、あつけなく南海先生の説に伏するのである。つまり、明治二十年に出版された防衞論も、今日のそれと同樣、「其時と其地とに於て必ず行ふことを得可」き事柄にのみ心を奪はれてゐるのであつて、「事の實際を奈何せん」、そんな事をやれる筈が無い、と豪傑君に言はれると洋學紳士はお手上げになり、豪傑君もまた、「今日に於て復た擧行す可らざる政事的の幻戲」と南海先生に言はれると大人しく引下つてしまふ。かくて一見「冰炭相容れざるが如」くであつた平和主義者と軍國主義者は、「今日に於て」實行可能な事柄だけを考へる事の賢明を悟り、和氣藹々と現實主義者の茅屋を辭するのであつて、洋學紳士も豪傑君も、南海先生同樣、單純な現實主義者に過ぎない。「或は云ふ、洋學紳士は去りて北米に游び、豪傑の客は上海に游べり、と。而て南海先生は、依然として唯、酒を飮むのみ」と、兆民は『三醉人經綸問答』を結んでゐるが、北米や上海に遊んだところで、別人の樣になつて戻つて來るとは限るまい。
『三醉人經綸問答』の上梓は明治二十年、すなはち九十四年前の事である。だが、今日の防衞論議も、三醉人のそれと同樣、百年千年經つて變らぬものを無視する單純な理想主義か、さもなくば「事の實際を奈何せん」とて胸を張り、「情況の變化いかんに」よつては「それ見たか」と居丈高になる單純な現實主義であつて、それゆゑ吾々は、百年千年經つて變らぬものを無視ないし輕視するのが、百年千年經つて變らぬ日本人の特性ではないかと、さう疑つてみるはうがよいのではあるまいか。 
絶對者なき理想主義の虚妄
國木田獨歩は人間を「驚く人」と「平氣の人」の二種に分け、日本人の大半は「平氣の平三の種類に屬」すると書いた。一方、プラトンは「驚異の念こそ哲學者のパトスであり、それ以外に哲學のアルケーは無い」と言ふ。無論、吾々日本人も、百年前千年前に「驚異の念」をパトスとした先哲を有する筈で、それは獨歩も承知してゐたであらう。獨歩は「世界十幾億萬人の中、平氣な人でないものが幾人ありませうか」と書いてゐるくらゐだから、「驚く人」が少ない事に腹を立ててゐた譯ではない。ただ、世人が「平氣の人」である事に平氣でゐるのを怪しんだまでの事である。
獨歩は『牛肉と馬鈴薯』の作中人物岡本にかう語らせてゐる。「諸君は今日のやうなグラグラ政府には飽きられたゞらうと思ふ、そこで(中略)思切つた政治をやつて見たいといふ希望もあるに相違ない、僕もさういふ願を以て居ます、併し僕の不思議なる願はこれでもない」。その願ひは妻子を犧牲にしても、殺人強盜放火の罪を犯しても、どうしても叶へたい。「此願が叶はん位なら今から百年生きて居ても何の益にも立ない、一向うれしくない。寧ろ苦しう」思ふくらゐだが、それは「宇宙の不思議を知りたいといふ願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいといふ願」、「死の祕密を知りたいといふ願ではない、死てふ事實に驚きたいといふ願」である。「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほどに此宇宙人生の祕義に惱まされんことが僕の願であります」。
けれども、「信仰そのもの」を得ずして、「信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほど」の惱みを手に入れる事はできまい。岡本は「ヲルムスの大會で王侯の威武に屈しなかつたルーテルの膽は喰ひたく思はない、彼が十九歳の時學友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものゝ祕義に驚いた其心こそ僕の欲する處であります」と言ふ。だが、獨歩は遂にルターの「其心」をおのがものとはなしえなかつた。なぜか。皇帝カール五世の召喚状を受取つたルターは、火刑に處せられる危險を物ともせずにウォルムスへ乘込んだが、その搖ぎ無き信仰は、若かりし頃「學友アレキシスの雷死を眼前に視」、「聖アンナ樣、お助け下さい、私は修道僧になります」と誓つて以來十六年、孜々として育んだものであつた。「ルーテルの膽」を食ふ覺悟無しに「祕義に驚いた其心」をおのがものとなしうる筈は無い。
國木田獨歩と異り、絶對者への搖がぬ信仰を持つてるたルターは、「神のもの」と「カイゼルのもの」とを峻別し、百年千年經つて變らぬ「神のもの」を重んじて、「情況の變化いかん」によつて、右から左、左から右へと變りうる「カイゼルのもの」を徹底的に無視した。それは要するに、信仰のためとあらば「妻子を犧牲にする」事も、「殺人強盜放火の罪を犯す」事も恐れなかつたといふ事に他ならない。それゆゑ「戰爭は神の最大の刑罰」であり、「人は平和のために譲らなければならない」と書いた筈のルターが、農民一揆を難じてかう書いたのである。「今こそ劒を取るべき時であり、怒るべき時であり、恩惠を施すべからざる時である。領主よ、吾々を助けよ。彼奴等を皆殺しにせよ」。
絶對者への信仰があれば、相對的な現實を徹底的に無視するすさまじき理想主義と、逆に現實を徹底的に重視するしたたかな現實主義との、兩極端を激しく往來する事になる。しかるに吾々日本人は、絶對者を持たぬゆゑに、皇國史觀だの平和だの自由だのといふ相對的なるものを絶對視するしかない。そしてその弱みを忘れるや忽ち神憑り的な絶對主義者となり、現實の變化を無視する事になるが、そこまで徹底する者は稀であり、多くは現實の顏色を窺ふから、當然「情況の變化」に腰碎けとなる譯である。要するに、理想主義は強き現實主義に反撥する爲の強さを缺き、一方、現實主義は強き理想に反撥する強さを缺いて、理想主義といふ現實主義もしくは「平氣の平三」主義に堕するのである。例へば三島由紀夫は絶對者のために腹を切つた譯ではない。天皇も國體も相對的なものだといふ事を三島は知つてゐた。相對的なものに「殉じた」以上、一方に「狂氣の沙汰」と決めつける者がをり、他方にその「憂國」の至情を思ひ襟を正す者がゐて當然である。今後も同樣で、國體つまり「事態の變化」いかんによつては、十年經つて三島は神と祭られる樣になるかも知れず、或いは狂人扱ひされて誰も顧みない樣になるかも知れぬ。
三島は大方の日本人が「平氣の人」である事に腹を立て、頗る派手に振舞つた擧句、腹を切つたが、獨歩はせめてもの事おのれは「驚く人」でありたいと願つて果せず、「十年間人に認められ」ず、「認められて僅かに三年」、靜かに三十八年の生涯を終へた。なぜ獨歩は「驚く人」たりえなかつたのか。獨歩は『岡本の手帳』の中にかう書いてゐる。
何故にわれは斯くも切にこの願を懷きつゝ、而も容易に此願を達する能はざるか。(中略)英語Worldlyてふ語あり、譯して世間的とでもいふ可きか。人の一生は殆んど全く世間的なり。世間とは一人稱なる吾、二人稱なる爾、三人稱なる彼、此三者を以て成立せる場所をいふ。人、生れて此場所に生育し、其感情全く此場處の支配を受くるに至る。何時しか爾なく彼なきの此天地に獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつゝあることを感ずる能はざるに至るなり。(中略)何故にわれは斯くも切に「この願」を懷きつゝ、なほ容易に達する能はざるか、曰く、吾は世間の児なれば也。吾が感情は凡て世間的なればなり。心は熱くこの願を懷くと雖も、感情は絶え間なく世間的に動き、世間的願望を追求し、「この願」を冷遇すればなり。
獨歩は自分ばかりでなく大方の日本人が和と馴合ひを重んじ、「獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつつあることを感ずる能」はず、ひたすら「世間的願望を追求」する事實には無論氣づいてゐた。三島はそれに腹を立て、「生命尊重以上の價値の所在を(中略)見せてやる」と叫んだが、では、果して三島の死は「世間的」なものを超えてゐたかといふ事になると、それはここで論じ盡くすには少々複雜な問題になる。 
なぜ「自明の理」を疑はぬ
獨歩は「宇宙の不思議」と「人生の祕密」に「驚魂悸魄」したいと切に願つたのだが、世人は「知れざるものは如何にしても知れず」とし、簡單に諦めてしまふ、「閑人の閑事業と見做し」てしまふ、だが、それでよいのだらうかと問うたのである。古代ギリシアの哲學者タレースは「宇宙の不思議」を考へ、夜空の星を眺めてゐて溝に落ち、下女に笑はれたといふ。なるほど「宇宙の不思議」も「人生の祕密」も、百年千年經つて一向に變らないが、そんなものに驚き、その祕密を知らうとするのは「閑人の閑事業」であつて、十年經つて變るものばかり氣にする「世間的」な手合が「閑事業」なんぞに精を出す譯が無い。哲學者のパトスたる驚異の念なんぞに拘泥する譯が無い。
取分け明治この方、吾々日本人は「實なき學問は先づ次にし、專ら勤むべきは人間普通日常に近き實學」とて、「閑人の閑事業」を等閑にして怪しまず、世間有用の學を重んじて、當座の用に役立ちさうもないテオリアを輕んじたのである。テオリアといふギリシア語は實用を離れ、專ら見るためにのみ見る事を意味する。「宇宙の不思議」や「人生の祕密」を見据ゑたら、それについてとことん考へる樣になつて當然である。勿論、シヨーペンハウエルも言つてゐる通り、そんな事に沒頭してパン一つ燒ける樣になる譯ではない。溝に落ちて下女に笑はれるが關の山であらう。けれども、宇宙の不思議と人生の祕密に「驚魂悸魄」したからには、その「不思議を闡明せん」とする者がゐて當然である。例へばデカルトはバヴアリアの寒村で、「一切の憂ひから解放され、たつたひとり、平穩なる閑暇を得」、「ただの一度でも自分を欺いた物は決して信用すまい」と決意してそれをやつた。太陽は吾吾の目には小さく見えるが、實際は巨大であつて、それなら感覺は吾々を時に欺くのである。感覺の一切を疑はねばならぬとなれば、おのが肉體の存在すら覺束無いものになる。また、二足す二は四とは果して自明の理であるか。吾々が二に二を足す時、常に誤つて四としてしまふやう、もしも神が吾吾を創つたとしたら、一體どういふ事になるか。さういふ事をデカルトは本氣で考へた。
無論、これは多少なりとも西洋哲學を齧つた者なら誰でも知つてゐる事だが、デカルトの徹底的な懷疑について知る事は、そのまま自ら物事を合理的に究めようとする事を意味しない。
西周がフイロソフイアを「希哲學」と譯してから百年以上の歳月を閲し、知を愛して自明の理を疑ひ拔いたソクラテスやデカルトが譯されてこれまた久しいが、依然として吾國の論壇は、「事の實際を奈何せん」と言はれてぐらつく程度の、現實的であるがゆゑに空疎な防衞論を、囂しく上下してゐる。吾々の洋學は「恰も漢を體にして洋を衣にするが如し」と福澤諭吉なら言ふであらう。おのが肉體さへ疑つて掛つたデカルトは、西洋哲學史上有數の天才との定評ゆゑに尊敬されてゐるに過ぎない。「二二が四は死の端緒だ」と『地下室の手記』の主人公も言つてゐるが、これまた大天才ドストエフスキーが創造した人物だから、人々は一目を置いてゐるに過ぎない。日本人のドストエフスキー好きはよく知られてゐるが、『作家の日記』の中の次の樣な文章を、ドストエフスキーの愛讀者は一體どんな顏をして讀むのであらうか。
「しかし血だからな、なんといつても血だからな」と、賢者たちはばかの一つ覺えのようにいう。が、まつたくのところ、この血云々という天下ご免のきまり文句は、時とすると、ある目的のために乘ぜんとする思いきつた空疎な、こけおどかしの言葉の寄せ集めにすぎない。(中略)ずるずるべつたりに苦しむよりは、むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい。そもそも今の文明國間の平和のいかなる點が、戰爭よりもいいというのだろうか?それどころか、かえつて平和のほうが、長い平和時代のほうが、人間を獸化し、殘忍化する。(中略)長きにわたる平和は常に殘忍、怯儒、粗野な飽滿したエゴイズム、そして何よりも、知的停滯を生み出すものである。(米川正夫譯)
戰後三十數年、日本の「賢者たち」もまた、保守革新の別無く、「しかし血だからな、なんといつても血だからな」との「天下ご免のきまり文句」を空念佛よろしく唱へ續けた。戰爭を惡とし平和を善とする自明の理を人々は疑はず、戰爭の何が惡いかと開き直つた者は殆どゐなかつた。それゆゑ「日本は軍事大國になつてはいけない」と、保守も革新も口を揃へて言ふのであつて、猪木正道氏は「少くとも二十世紀中は、わが國は軍事大國になつてはいけない」と書き、三好徹氏は「日本が清水(幾太郎)氏の望むような軍事大國になつてから後悔したところで間に合わない」と書き、五味川純平氏は「自民黨としては(中略)軍事大國の道へ日本を推進しようとするであろう。そのツケは全部國民にまわつて來る」と書き、上山春平氏は「私たちは、いま、軍擴にたいする齒どめを失つた情勢のもとで、重大な決斷をせまられている」と書き、日本國の代表たる鈴木善幸氏も、ワシントンまで出向いて、「日本は軍事大國にならず、平和憲法を守り、專守防衞に徹する」とアメリカの大統領に言つたのである。「軍事大國になつてはいけない」とは天下御免の決り文句、自明の理なのであつて、自明の理だから誰も本氣で疑はうとしない。が、日本が軍事大國になれるか否かの詮議はさておくとして、軍事大國になる事がなぜ「いけない」事なのか。 
道徳と私情を素通りする怪
「日本は軍事大國になつてはいけない」と主張する人々は、日本がまたぞろ侵掠戰爭をやらかす事を恐れてゐるのであらう。だが、軍事大國になる事と侵掠戰爭をやる事とは別だが、それはともかく、侵掠戰爭であれ專守防衞であれ、戰鬪状態となつたら敵兵を殺さなければならぬ。それは專守防衞論者といへども否定しないであらう。「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまえ、前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げる」のが「一億一千萬の生きる道」だと野坂昭如氏は書いた。揉み手して愛嬌を振り撒いても、毆られる時はやはり毆られる。それは小學生でも知つてゐる常識だが、卑屈な「商人の氣がまえ」を説いた野坂氏にしても、侵掠されたらゲリラとして戰ふと言つてゐる。だが、戰へば當然敵兵を殺す事になる。では、敵兵を殺す事は善い事なのか。
昨今囂しい防衞論議が、かういふ道徳上の問題を素通りして怪しまぬ事を、私は怪しむのである。「軍事大國になつてはいけない」とか「侵掠戰爭はいけない」とか言ふ場合、その「いけない」とは道徳的に「いけない」事なのか。それとも政治的にまづいといふ事なのか。「侵掠戰爭はいけないが、專守防衞つまり正當防衞としての殺人は許される」と專守防衞論者は主張するであらうが、時と場合によつて許されたり許されなかつたりするのなら、戰爭は絶對的な惡事ではないといふ事になる。そしてそれを認めるなら、殺人は絶對惡ではないといふ事をも認めねばならぬ事とならう。だが、戰場において敵を殺す事が惡事でないとしても、敵兵のすべてが惡しき人なのではない。それゆゑパスカルはかう書いた。
或男が河の向うに住んで居り、彼の殿樣が私の殿樣と喧嘩をして居るというので、私は少しも其男と喧嘩などしては居ないのに、彼に私を殺す權利があるなんて、こんなおかしなことがあるものだろうか。
なるほどをかしな事である。山田氏がイワーノフ氏と親交を結んでゐても、ブレジネフ氏が鈴木善幸氏と「喧嘩」をすれば、戰場でイワーノフ氏が山田氏を殺す事は許されるやうになる。餘りにも當り前の話ではないかとて常人は決して怪しまないが、パスカルは常人が自明の理とするものを怪しんだのであつて、さういふ驚異の念が哲學のパトスなのである。しかるに常人は、「防衞力の整備」や「ソ聯の脅威」や「專守防衞」の要を説いて、それらがいづれも「殺人のすすめ」である事を意識しない。無論、當人も決して死にたくはないから、「平和はよい事に決つてゐるが」云々と一言斷らずには防衞を論ずる氣になれないが、なぜさう斷らずにゐられないかを決して考へないから、殺人が時と場合によつて許されたり許されなかつたりする不思議について熟と考へてみる事が無い。非武裝中立論とて同じ事であつて、何せ日本は戰後三十數年、戰爭に捲き込まれず、「それ見たか」と嘲弄される羽目には一度も陷らなかつたから、政治的に「よい事に決つてゐる」に過ぎぬ平和を説いて、道徳的善行をなしつつあると錯覺し、それゆゑ他の徳目の一切を輕んじて今日に至つたのである。愛情や友情は私事であり、私事であつて當然だが、公ばかりを考へる政治學者は私を無視して非人間的に振舞ひ、遂にその非人間性を悟らない。例へば坂本義和氏は、「民族解放」を旗印に戰つた筈の「ヴエトナムが侵掠的行動をとつたことを根據に、過去のヴエトナムの旗記に殘る反戰自體が誤りあるいは無意味であつたかのような言説が現れ、それがヴエトナム反戰の立場をとつた人々の間にも困惑を生んだ」事を遺憾とし、進歩派の結束を計るべくかう書いた。
われわれがヴエトナム民族の解放鬪爭を支援するというのは、ヴエトナム人のその特定の行動を支持することであつてをことであつて、ヴエトナム人のすべての行動を支持したり、ヴエトナム人であること自體を格別に好感することを意味しないのは當然のことである。
いかにも政治學者らしい、頗る非人間的な文章である。かつて高坂正堯氏が説いた樣に、「國際政治に直面する人びと」は、屡々「最小限の道徳的要請と自國の利益の要請との二者擇一を迫られる」。つまり、平時にあつては自國の利益ばかりを追求する事はできないが、一方、他國の「すべての行動を支持」するなどとは論外だといふ事である。だが、私生活において吾々は、友人の「特定の行動」だけを「支持する」事によつて親交を結ぶ譯にはゆかぬ。專らおのが利益を考へて友人の「特定の行動」だけを支持すれば、友人の信頼を得る事は難しからう。それゆゑ吾々は、時におのが利益や「最小限の道徳的要請」を無視しても、友人の「すべての行動を支持」する、或いは支持したいと願ふ。かくて世間がいくら指彈しようと、殺人鬼の妻は夫を庇はうとし、いくら拷問されても、天野屋利兵衞は赤穗浪士に義理を立て、「利兵衞は男でござる」とて頑として口を割らない。だが、それも百年千年經つて一向に變らぬ人情の不思議なのだが、坂本氏にはそれが全く見えてゐない。福澤諭吉は「立國は私なり、公に非ざるなり」と書き、「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。が、專ら公を重んじて平和を説き、私を忘れて非情になる政治學者に、福澤の説は理解し難いであらう。
そればかりではない。目下「滅公奉私」の氣樂を享受してゐるこの日本國において、私にこだはる人情の機微なんぞを云々すれば、漸う受け始めた「父親の論理」を振り廻して、おのれもまた死にたくないとの私情に氣附かぬ保守派には嫌がられ、一方、ただもう死にたくないの一念で、正直に、といふよりは俗受けを狙つて、女々しい「母親の論理」に縋り附く進歩派には喜ばれる、さういふ事にもなり兼ねない。けれども、「死にたくはないが死なねばならぬ」のが人間なのである。誰しもいづれは必ず三途の川を渡らねばならないし、自由などといふ抽象的なもののためでなく一家眷族親友のためにおのれを殺さねばならぬ事もある。死にたくないが死なねばならぬとは別段奇怪な事ではあるまい。いや、どうでも奇怪でならぬなら、その不思議を熟と考へたらよいのだ。さうすれば、公と私との、すなはち政治と道徳との對立緊張を合點する樣になるであらう。誰でも私としては死にたくない、けれども公の爲には死なねばならぬ。けれども、せめて一家眷族の爲ならばともかく、自由だの國體だのの爲に死ぬ氣にはなれぬ。けれども、神風特攻隊の若者は「天皇陛下萬歳」を叫んで死んだではないか。けれども、あれは若氣の至り、神憑りゆゑの輕はずみに過ぎぬ。けれども乃木希典が腹を切つた時……、この「けれども」の堂々巡りに決着はつくまい。そこで、專ら能率と實用を重んずる手合は「死にたくない」と「死なねばならぬ」との對立の平衡をとる事をやめ、おのれの屬する集團の正義に飛び附く事になる。死にたくないと公言するのは、さすがに憚られるからである。そしてさうなれば、おのが集團とそれに對立する集團との勢力均衡を案じ、世間の右傾や左傾を嘆く事を生甲斐とし、それを道徳的善事と錯覺する樣になる。おのが黨派の正義に合致せぬものをすべて惡とするのだから、いたつて解り易く頗る氣樂だが、死にたくないが死なねばならぬかと煩悶するのは氣骨が折れるし、それに何より、常住坐臥おのが死を考へる樣に人間は出來てゐないから、「公の爲に死なねばならぬ」と主張する保守派は自分が死ぬ事は考へず、「死にたくない」と口走る進歩派も、まさか死ぬ事はあるまいと高を括つてゐる。そこで政治と道徳とのごつた煮とも評すべき平和憲法を戴き、空念佛さながらに平和の善を唱へつつ、吾々は遮二無二稼ぎ捲つたのであつた。憲法前文には「政治道徳の法則は、普遍的なものであり」、「いずれの國家も、自國のことのみに專念して他國を無視してはならないのであつて」云々とあり、これは道學先生よろしく世界各國に説教してゐるのか、各國に憐みを乞うてゐるのか、いづれにせよ卑屈極まる文章だが、さういふ恥づべき憲法を改正せずして三十數年、毒はじわじわと利いて來たのである。「死なねばならぬ」、「いや死にたくない」と言ひ合つてゐるうちに、生きてゐる間に「死んでもやりたくない」と昔なら思つた事を、人々は平氣でするやうになつた。昔、白木屋百貨店が燒けた時、衣服が亂れるのを恥ぢて飛び降りずに燒死した女が數多くゐたといふ。が、今の女はパンツをはいて六本木を歩くのである。かくて福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃ひ、吾々は「人事國事に瘠我慢は無益なりとて、古來日本國の上流社會にもつとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着」して怪しまない。例へば猪木正道氏は、自衞隊に「非核裝備としては第一級の武器を配備すれば、精神面の問題もおのずから解決する」と書いてゐるが、私は猪木氏に同じない。よろづこれほどぐうたらに處して事無き日本國の軍隊である。「第一級の武器」を手にした位の事で奮ひ立つ譯が無い。
自國の軍隊を腐して樂しむのは言語道斷である。それゆゑ私は自衞隊を腐してゐるのではない。それどころか、私は自衞隊のフアンであり、自衞隊が國軍として認知される日を待ち侘びてゐる。だが何よりも私は「自衞隊」といふ名稱が氣に食はない。それは「軍備増強」と言はずして「防衞力整備」と言ふが如きもので、戰爭を惡事とする淺薄な思做しゆゑのまやかしに他ならぬ。そこで、わが愛する自衞隊の爲に、その思做しの淺薄を嗤つておくとしよう。 
「一匹」か「九十九匹」か
周知の如く、カンボジアのポル・ポト政權はプノンペン制壓後、百萬人のカンボジア人を虐殺したといふ。「百萬人の處刑とは途方もない」とポル・ポト氏は言ひ、ついで聲を潛めて「革命にとつて敵對的で、箸にも棒にもかからない人口の約五パーセントは處分した」と、NHK取材班に告白したといふ。ポル・ポト氏の信奉する正義がいかなるものか私は知らぬ。が、毛澤東は何と千五百萬の中國人を殺したと聞いてゐる。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人だが、八十萬で結構である。八十萬人殺したと聞けば人々は慄然とするであらう。だが、肅清されたのは「惡しき人々」だつたのである。共産革命以前、中國の農民は凄じい搾取に喘いでゐた。毛澤東は貧農の倅ではなかつたが、若き毛澤東が國民黨や地主や軍閥による社會的不正に憤り、革命運動に身を投じたとして、それを誰も非難する事はできまい。人民の塗炭の苦しみを餘所事として、ひたすら立身出世を願ふ青年を誰も好ましくは思ふまい。が、苛歛誅求を恣にする惡黨なら何十萬殺さうと構はぬと、果して言切れるか。言切れまい。なぜなら、毛澤東が殺した八十萬人のすべてが、虐げられた人々を搾取する惡黨だつたかどうかは疑はしいからだ。つまり正確に言ふなら八十萬人は「人間毛澤東によつて惡人と判定された人々」だつたのであり、絶對者ならぬ人間の判斷に誤謬は附き物だから、毛澤東が善人をも肅清した事は確實なのである。
これを要するに、暴政を憤り、社會正義の爲に戰ふのは立派な事だが、その爲には惡人を排除せねばならず、その際、惡人との判定を獨裁者がやらうと、多數決に從はうと、誤謬は避けられず、獨裁者の恣意や無責任な群衆心理ゆゑに、惡人を除かうとして善人が除かれる事は不可避だといふ事になる。それに、中國革命に限らず、元來は純粹な正義感に發する筈の革命が、たとひ政治的に良き事態を招來したとしても、その過程において、暗殺、裏切、密告、拷問などの道徳的惡事が行はれるのはこれまた不可避なのである。
以上の事を否定する者は一人もゐないと私は信ずる。が、それならここで私が、「暗殺、裏切、密告、拷問は、社會的不正を糺す良き政治にとつて不可缺だ」と言切つたら、讀者は私に同じるか。同じまい。では、なぜ同じないのか。無論、それは目的の爲に手段を選ばぬ事を認めたくないからであらう。だが、手段を選んでゐては、革命などといふ荒療治をやれる筈が無い。強者が恣に振舞ひ、弱者が極度の貧苦に喘いでゐる時、吾々はルソーと共に、同胞の悲慘を見るに忍びない「生來の感情」を信じ、「義を見てせざるは勇無きなり」とて荒療治を躊躇せぬであらう。他人の苦惱をおのが苦惱以上に苦しむといふのは嘘である。が、厄介な事に、人々はそれは決して嘘ではないと思ひたがるのである。ソクラテスは「不正をなすよりも不正を忍ぶはうがよい」と言つたが、そんな「理性的な徳」で人間は動きはしない、とルソーは言ふ。苦惱する同胞を見て「反省せずに助けようとする」のは憐憫の爲であり、それは「自然な感情」であり、ゆゑに「精密な議論」なんぞを必要としない、と言ふ。
なるほど、不正を忍び懊惱する同胞を尻目に、「死にたければ死ぬがよい、俺さへ安全なら何百何千死なうと構はぬ」などと嘯く冷血漢を、吾々は許せないのである。それなら、さういふ冷血漢は成敗せねばならないか。荒療治をやらねばならないか。それに何より、人を殺すのは道徳的に惡しき事だといふが、人を殺した惡い奴を殺す事は果して惡い事なのか。惡人を殺す事が惡いなら、なぜ死刑制度を撤廢しないのか。私は詭辯を弄してゐるのではない。これは難問中の難問であつて、古來多くの哲人が考へ拔いたが、今なほ決着はついてゐないのである。「汝の敵を愛せ」と言つたイエス・クリストは決着をつけた積りだらうが、吾々凡人は「カイゼルのもの」にこだはつて、「神のもの」だけを重んずる譯には到底ゆかない。
イエスはかう言つてゐる。「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」。けれども、九十九匹を重んじて、いや五十一匹を重んじて、「失せたる一匹」どころか「失せたる四十九匹」を切り捨てるのが政治といふものだ。道徳は切り捨てられる四十九匹は愚か「失せたる一匹」にもこだはるであらう。殺人鬼の妻は夫を何とか庇はうとするであらう。が、カイゼルの世界、即ち政治の世界では、殺人鬼はやはり切り捨てねばならない。すなはち處刑されねばならない。 
政治・道徳そして瘠我慢
既に充分であらうが、この政治と道徳との對立も百年千年經つて一向に決着がつかないのである。そして、防衞とはもとより一朝有時の際敵兵を殺す事だから、防衞を論じて道徳の問題を避けては通れぬ筈だが、吾國の防衞論議は核武裝がどうの、文民統制がどうの、ソ聯の脅威がどうのと、十年經てば變りうる政治の問題にのみかかづらつてゐる。だが、善人ぶるのも人間の性だから、當人は政治の次元で考へてゐる積りでも、ついうつかりして道徳の次元に迷ひ込む事はある。その時はどうなるか。政治と道徳とをいとも安直に混同する事になる。さういふ例は枚擧に遑無しだが、ここでは猪木正道氏の文章を引くとしよう。猪木氏は三十年前かう書いた。
ほんとうの革命は、──イギリスの革命もアメリカの革命も、フランスの革命も、ロシアの革命も、又中國の革命も、──破壞的であると同時に創造的である。否、破壞的であるよりは、創造的なのである。新秩序を創造する革命は、したがつて新道徳を創造するから、道義の頽廢等起りようがない。(『革命と道徳』)
若き日の猪木氏は革命と道徳に言及して屡々兩者を混同してゐる。現在の猪木氏は防衞や憲法を論じて「道義の頽廢」に言及する事が無いけれども、例へば次のやうな文章を讀めば、猪木氏が今もなほ政治と道徳とを峻別してゐない事は明らかである。
全世界を敵として戰うという暴擧をあえて行つた軍國日本は、敗戰と全土占領の結果、非軍事化されてしまつた。これはいわば天罰である。
無論、「全世界を敵として戰う」のは下策だが、大東亞戰爭は果して「暴擧」だつたか。個人と同樣に國家も、全世界を敵に廻してもおのが信念を貫かねばならぬ時がある。そして、全世界が相手だらうが、一國が相手だらうが、戰爭は所詮殺し合ひである。敵も身方も道徳的惡事たる人殺しに專念するのである。天罰とは「天が加へる罰」ないし「惡事の報いとして自然に來る災ひ」の謂だが、殺し合ひの結果、軍門に降つたはうにだけなぜ天罰が降るのか。猪木氏の論理の粗雜についてここではこれ以上論じないが、要するに、猪木氏は政治と道徳とを峻別してゐないのである。それゆゑ、大東亞戰爭は侵掠戰爭で、侵掠戰爭の惡事たるは自明の理だと思つてゐる。そして、世間が自明の理としてゐるものを疑はぬこの種の知的怠惰は、もとより猪木氏に限つた事ではないのであり、自衞の爲の戰爭はよいが、侵掠戰爭は惡いと信じてゐる手合は頗る多いのである。だが、自衞の爲の戰爭を肯定する以上、他國の侵掠を想定してゐる譯であつて、それなら專守防衞論者は、侵掠が絶對に許されないのは自國の場合だけだと主張してゐる事になる。けれども、自國には絶對に許さないが他國の場合は仕方が無いといふ事なら、それは絶對に「絶對的な惡事」ではない。專守防衞とは先に手出しをしないといふ事でしかないが、子供の喧嘩と同樣、先に手出しをしたのがどちらか常に解るとは限らないし、先に手出しをした方が惡いとも言切れまい。
さういふ次第で、戰爭を絶對惡とするのは知的怠惰ゆゑの虚説なのである。平和とは國際政治の場で巧妙に振舞つて保持するのが賢明、といつた程度のものでしかない。先に引いたドストエフスキーの文章にもある樣に、「むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい」といふ事があり、「長い平和」が「人間を獸」とし、「知的停滯」を齎すといふ事がある。平和がすなはち道徳的に善き事だなどと、どうして言切れよう。が、吾々日本人は今、平和と繁榮を享受し、「モラトリアム國家」を決め込み、政治と道徳を峻別せぬ「知的停滯」に落ち込んでゐる。俗に「味噌も糞も一緒」といふ。味噌と糞とを區別できない者には、味噌の何たるかも、糞の何たるかも遂に解るまい。政治と道徳を峻別出來ぬ者は、政治の何たるかも道徳の何たるかも知らず、その雙方を眞劒に考へる事が無い。それゆゑ、福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃つたのである。福澤は「強弱相對していやしくも弱者の地位を保つものは、單にこの瘠我慢によらざるはなし。ただに戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際においても瘠我慢の一義はけつしてこれを忘るべからず」と書き、自分は勝海舟と榎本武揚の「功名をばあくまでも認むる」が、兩氏が幕臣の身ながら「新政府の朝に立つの一段に至りては」感服できぬとて、二人の「瘠我慢」の無さを批判した。これに對して勝海舟は「古より當路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に當る者あらず。計らずも拙老先年の行爲において御議論數百言、御指摘、實に慙愧に堪へず、御深志かたじけなく存じ候」と、皮肉たつぷりの返事を出してゐるが、「行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與らず我に關せずと存じ候」と書いただけで、眞つ向からの反論はしなかつた。勝は「徳川幕府あるを知つて日本あるを知らざるの徒」が何を言ふかと、思つたのではない。瘠我慢の大事はこれを認めざるをえなかつたのである。榎本武揚も「そのうち愚見申し述ぶべく候」との短い返書を認めたが、榎本にしても、戰歿した「隨行部下の諸士」を思ふ時、「殘燈明滅ひとり思ふの時」、「死靈生靈、無數の暗鬼を出現して眼中に分明なること」があつた。明治三年、榎本は幕府軍の戰沒者について、「諸君を追想し、苟も涙あるものは慰弔の嘆あらざるなし。況や諸士と肩を竝べて幕府に仕へし我輩の如きをや、嗚呼哀しい哉」と書いたのである。
無論、勝にとつても榎本にとつても、福澤の批判は忌々しかつたらうが、福澤の批判は道徳に關るものであり、しかも二人には「殘燈明滅ひとり思ふの時」おのが心中を覗くだけの良心があつたから、反論はしなかつた。一方、福澤は勝と榎本に宛てた書簡に、「小生の本心はみだりに他を攻撃して樂しむものにあらず、ただ多年來、心に釋然たらざるものを記して輿論に質し、天下後世のためにせんとするまでの事」だと辯明してゐる。後世の吾々はそれを信じるであらう。勝の「奇にして大」なる功績や榎本の「あつぱれの振舞」を認めるとともに、福澤の本心をも信じるであらう。「立國の要は瘠我慢の一義にあり、いはんや今後、敵國外患の變なきを期すべからざるにおいてをや」と福澤は書いたのである。隔世の感に堪へない。 
2 猪木正道氏に問ふ / 現實的保守主義者か、空想的共産主義者か

 

日本は軍事大國になれない
吾國は「大國たりうる素質」を有しながら、怠惰のせゐか卑屈な根性のせゐか、身體障害者よろしく振舞つてゐるが、「日本こそ眞先に核兵器を製造し所有する特權を有しているのではないか」と清水幾太郎氏は書いた。そんな「突拍子もない」事を放言して無事に濟む日本國ではないから、案の定、清水氏は保守革新の雙方から叩かれた。「袋叩きに遭つても殆ど痛痒を感じない」と清水氏自身言つてゐるのだから、もとより清水氏に同情する必要は無い。私はただ清水氏を叩いて保守と革新が、判子で押したやうに同じ事を言ひ立てたのを、頗る奇異に感じたのである。例へば猪木正道氏は清水氏の防衞論を「空想的軍國主義」の所産と斷じ、「舊大日本帝國的な軍事大國に逆戻りするのは、ごめんこうむりたい」と書いたが、猪木氏に限らず、防衞を論じて大方の論者は「わが國は軍事大國になつてはいけない」とする奇説を自明の理と看做して一向に疑ふ事が無いのである。無論、政治家もさうであり、二月三日附のサンケイ新聞によれば、「二日から始まつた通常國會の豫算審議は、專守防衞を批判した竹田統幕議長の發言をめぐつて冒頭から紛糾し、同日午後、早くも審議中斷となつた」が、「制服組の發言が強化されれば日本は危うくなるのではないか」との社會黨議員の質問に對して、鈴木首相は「日本は平和憲法下にあり、從つて專守防衞に徹しなければならない。(中略)わが國が軍事大國になることはない」と答へたといふ。つまり「わが國は軍事大國になつてはいけない」と、自民黨も社會黨も、男も女も、猫も杓子も言ふ譯だが、吾國が軍事大國になつてなぜいけないのか私にはさつぱり解らぬと、私は前章に書いた。
何たる無知蒙昧か、思ひ起すがよい、軍事大國たらんと分限も辨へず背伸びした擧句、大日本帝國は敗戰の憂目に遭つたではないか、さればこそ「軍事大國に逆戻りするのは、ごめんこうむりたい」のだと、猪木正道氏に倣つて大方の讀者は言ふかも知れぬ。が、軍事小國でありさへすれば再び決して敗戰の憂目には遭はないと、いかなる根據あつてさう斷じうるか。猪木氏は書いてゐる。
一九四一年十一、二月の大日本帝國と一九八〇年の日本國とを比べて見れば、清水幾太郎氏の讚美する軍事大國と彼が輕侮する軍事小國との國際的な立場は餘りにもはつきりしている。“舊い戰後”の日本國は孤立せず、北方を除いては友好國にとりかこまれているのに反して、軍國日本はABCD包圍陣に自爆しなければならなかつた。
猪木氏に尋ねたい、日本が軍事大國にならない限り、以後決して「ABCD包圍陣」ごときものに「自爆」する事が無いと言切れるか。言切れるとすればその根據は何か。アメリカとソ聯は軍事大國である。が、兩國はそれぞれ友好國ないし衞星國に取り圍まれてゐる。軍事小國でなければ「友好國にとりかこまれ」ないなどと斷じうる根據などありはせぬ。軍事大國が四面楚歌となり「自爆」する事もあらう。だが、軍事小國が「自爆」もできずして滅ぼされる事もある。それに何より、日本はアメリカやソ聯のやうな軍事大國になれる筈が無い。なれる筈が無いのになつては大變と騷ぎ立てるのは滑稽の極みではないか。 
政治と道徳の混同
しかるにその滑稽を大方の日本人は意識してゐない。昭和二十年八月十五日、戰爭と道徳的犯罪とを混同するといふ途方も無い考へ違ひをして、すなはち本來失敗に過ぎぬ敗戰を道徳的惡事ゆゑの應報と勘違ひして、以來羹に懲りて膾を吹き續け、平和憲法を金科玉條として知的怠惰の三十數年を過して來たからだ。それゆゑ、ここでまづ、その勘違ひの發端に溯り、當時書かれた文章を吟味するとしよう。まづは小田實氏の文章である。
砲兵工廠の壞滅後、ビラの豫告通り、敗戰が來た。敗戰は「公状況」そのものを無意味にし、「大東亞共榮圏の理想」も「天皇陛下のために」も、一日にしてわらうべきものとなつた。私は、中學一年生という精神形成期のはじめにあたつて、ほとんどすべての價値の百八十度轉囘を經驗したのである。「鬼畜米英!」と聲高に叫んだ教師がわずかの時日ののちには「民主主義の使徒アメリカ」、イギリスの紳士のすばらしさについて語つた。その經驗は、私に「疑う」ことを教えた。すべてのものごとについて、たとえどのような權威をもつた存在であろうと、そこに根本的懷疑をもつこと、その經驗は私にそれをいまも強いる。(『「難死」の思想』)
小田氏が一切を疑ふやうになつたと言ふのは嘘である。嘘でないなら自己欺瞞である。小田氏は昭和二十年八月十四日まで「權威をもつた存在」として通用してゐたものの一切を、十五日から疑ふやうになつたに過ぎない。その證據に小田氏は、猪木正道氏と同樣、民主主義や文民統制の萬能をつひぞ「根本的」に疑つた事が無いであらう。そしてそれも、猪木正道氏と同樣、「第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」した結果、「おのずから嚴肅な精神」とやらを「體得」したからであつて、平和憲法の「前文や、第二章、第三章、及び第十章のあたりを熟讀玩味」(猪木氏)した結果、「わが國は軍事大國になつてはいけない」と頑に信ずるやうになつたために他なるまい。
ところで、かつての「べ平連」の「鬪將」が右に引いた文章を綴つたのは昭和二十六年だが、その前年、先の防衞大學校長猪木正道氏も、「空想的平和主義者」小田實氏の言分と大差無い事を書いたのであつた。かうである。
道義の頽廢の原因を究明してゆくと、結局ポツダム革命がほんとうの革命ではないというところに歸着するようだ。舊秩序はもう燒がまわつており、内部的に崩壞しているから、舊道徳の復活によつて、道徳の頽廢を防ごうという考え方は失敗するにきまつている。そこで正しい解決法は、ほんとうの革命をやるよりほかにないということになる。ところがこれが一番難題であつて、中國やロシアのような流儀で、共産主義革命をやろうとしても、日本では成功の公算はない。(中略)それではこの難問が解けるまでの間は、どうするか? 今まで道徳と革命との關係の面ばかりを強調して來たが、道徳には、實は連續的な面がある。道徳の現象形態は革命を通じて變化するが、道徳の本質は、人間が人間である限り變るものではない。(中略)この不變の道徳を何と名づけるか、これは名づける人の勝手だ。(中略)何かはつきり書いたものが欲しいというならば、憲法に限る。占領軍が作つたからいけないという人もあるようだが、これはとんでもない話で、誰が原稿を書いたにしても、よいものはよい。日本にほんとうの革命が行われるまで、あの憲法を精讀することだ。あの憲法の前文や、第二章、第三章、及び第十章のあたりを熟讀玩味すれば、第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪はまざまざと想起され、おのずから嚴肅な精神さえある程度體得できる。
猪木氏はここで政治と道徳とを混同してをり、その事については追ひ追ひ述べるが、とまれ、猪木氏は、平和憲法には「不變の道徳」が「はつきり」表現されてゐると信じ、日本に「ほんとうの革命」が「行われるまで」は平和憲法を護らねばならず、改憲など斷じて許されないと主張した譯である。猪木氏の言ふ「ほんとうの革命」とは、傍點部分の「あたりを熟讀玩味すれば」、共産主義革命の事だといふ事が解る。昭和二十七年上梓の『戰爭と革命』、百五十六頁にも、猪木氏は「イギリスでは、議會主義を堅持しながら、プロレタリアの獨裁が實現されるのかも知れません」などと書いてゐるのだが、プロレタリア獨裁と議會制民主主義とは水と油で、そんなものが兩立する筈は無い。さういふ突拍子もない事を言ふから、「貧弱かつ劣惡な知識しかなく、わが國の防衞政策を論じるに全く適さない人物」だなどと評されるのである。 
空想的平和主義者だつた猪木氏
ところで、昭和五十六年の今、猪木氏は依然として日本に「ほんとうの革命」が興ればよいと考へてゐるのであらうか。右に引いた三十年前の文章は「空想的平和主義」の所産に他ならず、猪木氏はさらに「新憲法の平和主義も、今日ではもう眞面目に問題とされていない」、遺憾であるとか、「第二次大戰の放火者であり、かつ完敗者であるわれわれ日本人が、そう簡單に動搖してはならないはずだ。第二次世界大戰を通じて、われわれは勝利者達に教えてもらつたが、今や敗北者が教えるべき時ではなかろうか」とか書いてゐるのだが、今日の猪木氏はどうなのか、空想的ならざる平和主義者なのか。
猪木氏は今なほ「日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」し、「新憲法の平和主義」が「今日ではもう眞面目に問題とされていない」事を遺憾に思ひ、「敗北者」たる日本が「勝利者」たる英米ソ中の四ヶ國に「新憲法の平和主義」の精神を教へてやるべきだと考へてゐるのであらうか。昨年、清水幾太郎氏を批判して猪木氏はかう書いた。
かねがねから私は、戰後日本の空想的平和主義が、空想的軍國主義を生むのではないかと懸念していた。戰後の空想的平和主義が戰前・戰中の空想的軍國主義の裏返しであるからには、敗戰後三十五年をへた今日、またその裏返しとしての空想的軍國主義が噴出したとしても決して不思議ではない。
その通り、決して不思議ではない。不思議なのは、さうして昭和五十五年に空想的平和主義を批判してゐる「現實主義者」の猪木氏が、昭和二十五、六年には空想的平和主義者だつたといふ事實である。「革命自體が、實は不變の道徳によつて可能となつた」のであり、それは吾國の平和憲法に表現されてゐるなどと主張する者を「空想的」と呼ばずして何と呼べようか。若き日の猪木氏には人間の度し難い權力欲が見えてゐない。正義感に燃える革命家の内面にも權力欲は潛んでゐる。そしてそれが仲間に向けられる時は肅清となり、民衆に向けられる時は獨裁となる。無論、猪木氏も人間なのだから、三十年前も今も、權力欲があつて當然である。が、三十年前も今も、猪木氏はおのが權力欲を一向に氣にしない。實生活においては、吾々と同樣、結構權力欲に駈られて行動する事もある筈だが、文章を綴る段になると、おのが權力欲には目を瞑り、とたんに空想的な道學先生になる。この手の空想家ほど始末の惡い存在は無い。それは計り知れない害毒を流す。おのがエゴイズムを抑へうる者はおのがエゴイズムに手を燒く者だけだといふ事を、すなはち有徳たらんと欲する者は、おのが不徳に思ひをいたす者だけだといふ事を、昨今人々は眞面目に考へようとせず、平和憲法護持を唱へればすなはち道徳的であるかのごとく思ひ込んでゐるが、さういふ僞善と感傷の流行に空想的平和主義者たちは大いに貢献したのである。
だが、猪木氏は清水氏を空想的軍國主義者と極めつけてゐる。「かねがねから私は、戰後日本の空想的平和主義が、空想的軍國主義を生むのではないかと懸念していた」と猪木氏は言ふ。「かねがねから」とは一體いつ頃からの事なのか。いつ頃から、いかなる囘心を經て、猪木氏は「現實主義者」に變貌したのか。昭和五十五年現在、空想的軍國主義と空想的平和主義の雙方を批判してゐるのだから、往時は知らず、今の猪木氏は現實主義者なのである。或いはその積りでゐるのである。それゆゑ猪木氏は人間の行動の「動機」よりも「結果」を重視する。猪木氏は書いてゐる。
清水幾太郎氏の思想の軌跡には、私は關心がない。(中略)ただ困るのは、清水幾太郎氏の今度の論文が、日本の防衞力整備にとつてむしろマイナスの效果をもたらすと思われる點である。單に國内的にそういう逆效果があるだけでなく、國際的にも、日本の“軍國主義化”といういわれのない非難を生む心配は大きい。歴史をふりかえれば、人間の行動がその動機とは正反對の結果をもたらした例は少くない。
いかにも「人間の行動がその動機と正反對の結果をもたらした例は少くない」。が、猪木氏の清水批判にしてからがさうではないか。現に東京新聞の「論壇時評」で奧平康弘氏は、猪木氏は「清水の憲法敵視論にも有效な批判を加えている」と評し、讀売新聞の「今月の論點」では正村公宏氏が、猪木氏の論文は「清水論文にたいするゆきとどいた批判である」と評した。猪木氏の清水批判が非武裝中立を主張する護憲派を勢附ける「結果をもたらした」といふ事も充分に考へられるのである。
もつとも、猪木氏は昭和二十七年、「民主主義と平和主義の憲法をかたく守つて行くことが、日本を世界に結びつけ、日本人を人類に媒介する唯一つの正しい道だ」と書いたのであり、この考へが今なほ變つてゐないとすれば、頑な護憲論者たる猪木氏の「改憲論批判」といふ「行動がその動機と正反對の結果をもたらした」とは言へなくなる。そしてそれなら、猪木氏の清水批判によつて非武裝中立論者が勢附くのは、猪木氏の望むところだといふ事にならう。 
改憲論者なのか護憲論者なのか
しかるに猪木氏は昨年、「憲法改正はほとんど不可能」だとする清水幾太郎氏を批判して、改憲は「不可能どころか、充分に可能」であり、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよい」と書いたのである。猪木氏に問ふ、「平和憲法をかたく守つて行く」との三十年前の信念を、猪木氏はいつ放擲してしまつたのか。堅く護るといふ事なら、部分的な改正にも應ずべきではない。猪木氏は清水氏を評して「狐が落ちたように變身」とか「百八十度の轉針」とか言つてゐるが、猪木氏もまた變身し轉身したのなら、それこそ目糞鼻糞を嗤ふの類ではないか。
しかも厄介な事に、三十年前の猪木氏の意見と今日のそれとが矛盾してゐるだけでなく、今日の猪木氏の主張も頗る不得要領なのだ。猪木氏は書いてゐる。
憲法第九條第二項を小、中學生が讀めば、自衞隊を違憲だと思うだろうというのならば、第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」とでも改正すればよい。(中略)國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよいと私は考えている。問題は改憲の國際的反響にある。そもそも日本國憲法が日本を國際社會へ復歸させるための條件をととのえるという國際條約的な意味をもつていたからには、改憲、特に第九條第二項の改正は當然國際的な反響を伴う。(中略)憲法、特に第九條の改正は日本が軍事大國化を決意したと見られる公算は大きいのである。
「平和主義の憲法をかたく守る」どころか、第九條第二項の改正私案まで披露し、しかも、いづれ述べるが、「憲法の前文削除」を主張し、輿論の風向き次第では「いつでも改憲に踏み切つてよい」と言ひ、舌の根も乾かぬうちに「第九條の改正は日本が軍事大國化を決意したと見られる公算は大きい」と言ふ。一體全體猪木氏は何が言ひたいのか。
かういふふうに考へる事ができる。「防衞大學の校長まで勤めた猪木氏が、まさか……」と大方の讀者は思ふに相違無いが、猪木氏は三十年前と少しも變つてをらず、依然として「日本にほんとうの革命が行われる」日を待ち侘び、「共産主義の誤謬ばかり見て、眞理を見落すのは片手落ちだ」と信じてゐるのであり、それゆゑ、空想的なものではあつても軍國主義的言動を許す事ができないのではないか。とすれば、猪木氏は三十年前の「空想」を今も捨ててゐないといふ事になる。今なほ「空想的平和主義者」なのだといふ事になる。勿論、この解釋には無理があつて、それはいづれ説明するが、無理があるといふ事はすなはち、別樣の解釋が成り立つといふ事である。つまり、三十年前「空想的平和主義者」であつた猪木氏は、その後「狐が落ちたように變身」して現實主義者になつたのであり、それゆゑ平和主義であれ軍國主義であれ、およそ「空想的」なものには我慢ができぬのだと、さう解釋する譯である。
説明の都合上、しばらくさう解釋しておくとしよう。すなはち猪木氏を現實主義者と看做すのである。昨年猪木氏は「少くとも二十世紀中は、わが國は軍事大國になつてはいけないのである」と書いた。なぜ二十世紀中はいけないのか理解できないが、好意的に解釋すれば、これも猪木氏の頭腦の粗雜の證しではなく、なんら理由を示さずに斷定するはうが政治的に賢明だといふ、現實主義者特有の判斷にもとづくのであらう。しかしながら、「日本國憲法第九條が、軍事大國になることを阻止していることはたしか」だが、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよい」、けれども「二十世紀中は軍事大國になつてはいけない」などと言はれると、「いつでも金を貸してやるが、二十世紀中は他人に借金するやうな男であつてはいけない」と言はれた時と同樣に面喰ひ、猪木氏が正氣なのか狂氣なのか、改憲論者なのか護憲論者なのか、私にはさつぱり解らなくなる。いや、それとも猪木氏は、護憲改憲いづれか一方の立場に立つ事が「マイナスの效果をもたらす」のであり、時に應じていづれの立場にも立つ事が「プラスの效果をもたらす」と考へてゐるのかも知れぬ。さういふ考へ方の是非については前章に縷々述べたから、ここでは繰返さないが、これを要するに、猪木氏もまた淺はかな實利主義者にすぎないといふ事になる。
ところで日本が軍事大國になつてなぜいけないのか、と私は書いた。吾國は今後遮二無二軍事大國を目差すべく、核の保有もためらふべきでないなどと、私はさういふ景氣のよい事が言ひたいのではない。軍事大國になる事を政治的に賢明ならざる事、もしくは道徳的に惡しき事であるかの如く言ふ知的怠惰を怪しむまでの事である。さういふ知的怠惰ゆゑに人々は政治と