もったいない3

鱧(はも)の皮ごりがん神前結婚話の屑籠牛肉と馬鈴薯肱の侮辱眼前口頭一切存じ不申予ハ贊成者にあらず古本と蔵書印ある出版業者の話鬼を見た話坊つちやん小説に用ふる天然博士問題博士問題の成行假名遣意見空車津下四郎左衛門普請中夏の旅優能婦人を標準とせよ假名遣について表音的假名遣は假名遣にあらず日本の文字についてふりがな論覺書漢字御廢止之儀知的怠惰の時代道義不在の時代人間通になる讀書術暖簾に腕押し保守とは何か羨ましき保守主義「たけくらべ」論争
 

雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
鱧(はも)の皮 / 上司小劍

(かみつかさしょうけん 1874-1947) 小説家。奈良県生まれ。本名、延貴。小学校の代用教員を経て読売新聞社入社。在社中に徳田秋声・正宗白鳥・幸徳秋水・白柳秀湖らと知り合い、大正3年自然主義的写実小説『鱧(はも)の皮』で文壇的地位を獲得。のち社会主義に傾いた。新聞記者から転身、「灰燼」「鱧の皮」で自然主義作家としての地位を確立、他に「木像」「東京」、回想記「 U 新聞年代記」など。昭和22年歿、73才。  
還慮なく一  
郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて來た。
「福島磯……といふ人が居ますか。」
彼は焦々した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚貼つた封の厚いのを取り出した。
道頓堀の夜景は丁どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間になつたらしく、讃岐屋の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場もテンテコ舞をする程であつた。
「福島磯……此處だす、此處だす。」と忙しいお文は、銀場から白い手を差し出した。男も女も、襷がけでクル/\と郵便配達の周圍を廻つてゐるけれども、お客の方に夢中で、誰れ一人女主人の爲めに、郵便配達の手から厚い封書を取り次ぐものはなかつた。
「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」
怖い顏をした郵便配達は、かう言つて、一間も此方から厚い封書を銀場へ投げ込むと、クルリと身體の向を變へて、靴音荒々しく、板場で燒く鰻の匂を嗅ぎながら、暖簾を潛つて去つた。
四十人前といふ前茶屋の大口が燒き上つて、二階の客にも十二組までお愛そを濟ましたので、お文は漸く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつくづく見た。手蹟には一目でそれと見覺えがあるが、出した人の名はなかつた。消印の「東京中央」といふ字が不用瞭ながらも、兎も角讀むことが出來た。
「何や、阿呆らしい。……」
小さく獨り言をいつて、お文は厚い封書を其のまゝ銀場の金庫の抽斗に入れたが、暫くしてまた取り出して見た。さうして封を披くのが怖ろしいやうにも思はれた。
「福島磯……私が名前を變へたのを、何うして知つてるのやろ、不思議やな。叔父さんが知らしたのかな。」
お文はかう思つて、またつくづくと厚い封書の宛名の字を眺めてゐた。河岸に沿うた裏家根に點けてある、「さぬきや」の文字の現れた廣告電燈の色の變る度に、お文の背中は、赤や、青や、紫や、硝子障子に映るさまざまの光に彩られた。
一しきり立て込んだ客も、二階と階下とに一組づつゐるだけになつた。三本目の銚子を取り換へてから小一時間にもなる二階の二人連れは、勘定が危さうで、雇女は一人二人づつ、拔き足して階子段を上つて行つた。  
還慮なく二

 

新まいの雇女にお客と間違へられて、お文の叔父の源太郎が入つて來た。
「お出てやアす。」と、新まいの女の叫んだのには、一同が笑つた。中には腹を抱へて笑ひ崩れてゐるものもあつた。「をツさん、えゝとこへ來とくなはつた。今こんな手紙が來ましたのやがな。獨りで見るのも心持がわるいよつて、電話かけてをツさん呼ばうと思うてましたのや。」
お文は女どものゲラ/\とまだ笑ひ止まぬのを、見向きもしないで、飯場の前に立つた叔父の大きな身體を見上げるやうにして、かう言つた。
「手紙テ、何處からや。……福造のとこからやないか。」源太郎は年の故で稍曲つた太い腰をヨタ/\させながら、銀場の横の狹い通り口へ一杯になつて、角帶の小さな結び目を見せつゝ、背後の三畳へ入つた。
其處には箪笥やら蠅入らずやら、さまざまの家具類が物置のやうに置いてあつて、人の坐るところは畳一枚ほどしかなかつた。其の狹い空地へ大きく胡坐をかいた源太郎は、五十を越してから始めた煙草を無器用に吸はうとして、腰に插した煙草入れを拔き取つたが、火鉢も煙草盆も無いので、煙草を詰めた煙管を空しく弄りながら、對う河岸の美しい灯の影を眺めてゐた。對う河岸は宗有衞門町で、何をする家か、灯がゆら/\と動いて、それが、世を踏み蹂躪つた時のやうに、キラ/\と河水に映つた。初秋の夜風は冷々として、河には漣が立つてゐた。
「能う當りましたな。……東京から來ましたのや。……これだす。」
勘定の危まれた二階の客の、銀貨銅貨取り混ぜた拂ひを檢めて、それから新らしい客の通した麥酒と鮒の鐡砲和とを受けてから、一寸の閑を見出したお文は、後を向いてかう言つた。彼女の手には厚い封書があつた。
「さうか、矢ツ張り福造から來たんか、何言うて來たんや。……また金送れか。分つてるがな。」
源太郎は眼をクシヤ/\さして、店から射す灯に透かしつゝ、覗くやうに封書の表書を讀まうとしたが、暗くて判らなかつた。
「をツさんに先き讀んで貰ひまへうかな。……私まだ封開けまへんのや。」
かうは言つてゐるものの、封書は固くお文の手に握られて、源太郎に渡さうとする容子は見えなかつた。
「お前、先きい讀んだらえゝやないか。……お前とこへ來たんやもん。」
「私、何や知らん、怖いやうな氣がするよつて」
「阿呆らしい、何言うてるのや。」
冷笑を鼻の尖頭に浮べて、源太郎は煙の出ぬ煙管を弄り廻してゐた。
「そんなら私、そツちへいて讀みますわ。……をツさん一寸銀場を代つとくなはれ、あのまむしが五つ上ると金太に魚槽を見にやつとくなはれ。……金太えゝか。」
氣輕に尻を上げて、お文は叔父と板前の金太とに物を言ふと、厚い封書を握つたまゝ、薄暗い三畳へ入つた。
「よし來た、代らう。どツこいしよ。」と、源太郡は太い腰を浮かして、煙管を右の手に、煙草入を左の手に攫んで、お文と入れ代りに銀場へ坐つた。
豆絞りの手拭で鉢卷をして、すら/\と機械の廻るやうな手つきで鰻を裂いてゐた板前の金太は、チラリと横を向いて源太郎の顏を見ると、にツこり笑つた。
「此處へも電氣點けんと、どんならんなア。阿母アはんば儉約人やよつて、點けえでもえゝ、と言やはるけど、暗うて仕樣がおまへんなをツさん。……二十八も點けてる電氣やもん、五觸を一つぐらゐ殖やしたかて、何んでもあれへん、なアをツさん。」
がらくたの載つてゐる三畳の棚を、手探りでガタゴトさせながら、お文は聲高に獨り言のやうなことを言つてゐたが、やがてバツと燐寸を擦つて、手燭に灯を點けた。
河風にチラ/\する蝋燭の灯に透かして、一心に長い手紙を披げてゐる、お文の肉附のよい横顏の、白く光るのを、時々振り返つて見ながら、源太郎は、姪も最う三十六になつたのかなアと、染々さう思つた。
毛絲の辮當嚢を提げて、「福島さん学校へ」と友達に誘はれて小學校へ通つてゐた姪の後姿を毎朝見てゐたのは、ツイ此頃のことのやうに思はれるのに、と、源太郎はまださう思つて、聟養子を貰つた婚禮の折の外は、一度も外の髮に結つたことのない、お文の新蝶々を、俯いて家出した夫の手紙に讀み耽つてゐるお文の頭の上に見てゐた。其の新蝶々は、震へるやうに微かに動いてゐた。
「何んにも書いたらしまへんがな。……長いばツかりで。……病氣で困つてるよつて金送れと、それから子供は何うしてるちふことと、……今度といふ今度は懲り/\したよつて、あやまるさかい元の鞘へ納まりたいや、……決つてるのや。」
口では何でもないやうに言つてゐるお文の眼の、異樣に輝いて、手紙を見詰めてゐるのが、蝋燭の光の中に淡く見出された。
「まアをツさん、讀んで見なはれ。面白おまツせ。」
氣にも止めぬといふ風に見せようとして、態とらしい微笑を口元に浮べながら、殘り惜しさうに手紙を其處に置き棄てて、お文は立ち上ると、叔父の背後に寄つて、無言で銀場を代らうとした。
「どツこいしよ。」と、源太郎はまた重さうに腰を浮かして、手燭の點けツぱなしになつてゐる三疊へ、大きな身體を這ひ込むやうにして坐つた。煙管はまだ先刻から一服も吸はずに、右の手へ筆を持ち添へて握つてゐた。
「をツさん、筆……筆。」と、お文は銀場の筆を叔父の手から取り戻して、懈怠さうに、叔父の肥つた膝の温味の殘つた座蒲團の上に坐ると、出ないのを無理に吐き出すやうな欠伸を一つした。
源太郎は、蝋燭の火で漸と一服煙草を吸ひ付けると、掃除のわるい煙管をズウ/\音させて、無恰好に煙を吐きつつ、だらしなく披げたまゝになつてゐる手紙の上に眼を落した。
「其の表書なア、福島磯といふのを知つてるのが不思議でなりまへんのや。」
手紙を三四行讀みかけた時、お文がこんなことを言つたので、源太郎は手紙の上に俯いたなりに、首を捻ぢ向けて、お文の方を見た。
「福造の居よる時から、さう言うてたがな、お文よりお磯の方がえゝちうて、福島と島やさかい、磯と文句が續いてえゝと、私が福造に言うてたがな。……それで書いて來よつたんや。われの名も福島福造……は福かあり過ぎて惡いよつて、福島理記といふのが、劃の數が良いさかい、理記にせいと言うてやつたんやが、さう書いて來よれへんか。……私んとこへおこしよつたのには、ちやんと理記と書いて、宛名も福島照久樣としてよる。源太郎とはしよらへん。」
好きな姓名利斷の方へ、涼太郎は話を總て持つて行かうとした。
「やゝこしおますな、皆んな名が二つづつあつて。…げと福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
世間話をするやうな調子を裝うて、お文は家出してゐる夫の判斷を聞かうとした。
「名を變へてもあいつはあかんな。」
そッ氣なく言つて、源太郎は身體を貝ツ直ぐに胡坐をかき直した。お文はあがつた蒲燒と玉子燒とを一寸檢めて、十六番の紙札につけると、雇女に二階へ持たしてやつた。
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた序に聞いてやつたら福島福造といふ名と四十四といふ年を言うただけで、先生は直きに、『この人はあかんわい、放蕩者で、其の放蕩は一生止まん。止む時は命數の終りや。性質が薄情殘酷で、これから一寸頭を持ち上げることはあつても、また失敗して、そんなことを繰り返してる中にだん/\惡い方へ填つて行く』と言やはつたがな。はんまに能う合うてるやないか。」
到頭詰まつて了つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な厭な顏をしてゐた。
還慮なく三

 

源太郎がまた俯いて、讀みかけの長い手紙を讀まうとした時、下の河中から突然大きな聾が聞えた。
「おーい、……おーい、……讃岐屋ア。おーい、讃岐屋ア。」
重い身體を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰硝子の障子を開け、水の上へ架け出二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな聲が聞えた。
「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」
「へえ、あの……」と、變な返事をして、源太郎は河の中を覗き込んだが、色變りの廣吉電燈が眩しく映るだけで、黒く流れた水の上のことは能く分らなかつた。
「をツさん、をツさん。」と、お文の聲が背後から呼ぶので、銀場を振り返ると、お文は兩手を左の腰の邊に當てて、長いものを横たへた身振りをして見せた。
「あゝ、サーベルかいな。」
漸く合點の行つた源太郎は、小さい聲でかうお文に答へて、
「へえ、今直きに拵へて上げます。」と、黒い水の上に向つて叫んだ。
「さうか、早くして呉れ。」といふ聲の方を、瞳を定めてヂツと見下すと、眞下の石垣にびツたりと糊付か何かのやうにくツ付いて、薄暗く油煙に汚れた赤い灯の點いてゐる小さな舟の中に、白い人影かむく/\と二つ動いてゐた。其の白い人影の一つが急に黒くなつたのは、外套を着たのらしかつた。
通し物の順番を追はずに、板前を急がせた水の上からの註文は直ぐ出來て、別に添へた一品の料理と香の物、茶瓶なぞとともに、こんな時の用意に備へてある長い綱の付いた平たい籠に入れて、源太郎の手で水の上へ手繰り下された。
「サンキュー。」と、妙な聲が水の上から聞えたので、源太郎は馬鹿々々しさうに微笑を漏らした。雇女が一人三畳へ入つて來て、濡れ縁へ出て對岸の紅い灯を眺めながら、欄干を叩いて低く喇叭節を唄つてみたが、藪から棒に、
「上町の且那はん、……八千代はん、えらうおまんな。この夏全で休んではりましたんやな。……もう出てはりますさうやけど、お金もたんと出來ましたんやろかいな。」と、源太郎に向つて言つた。随一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、對岸でも灯の色が殊に鮮かで、調子の高い撥の音も其の邊から流れて來るやうに恩はれた。空には星が一杯で、黒い河水に映る兩岸の灯と色を競ふやうであつた。
名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。
手紙を前に披げて、ヂツと腕組をしてゐた源太郎は、稍暫くしてから、空になつた食器が籠に入つて雇女の手で河の中から迫り上つて來たのを見たので、突然銀場の方を向いて、
「これ、何んぼになるんやな。」と頓狂な聲を出した。
「よろしおますのやがな、お序の時にと、さう言はしとくなはれ。」
算盤を彈きながら、お文が向うむいたまゝで言つたのと、殆んど同時に、總てを心得てゐる雇女は、濡れ縁から下を覗き込んで、
「よろしおます、お序の時で。」と高く叫んだ。水の上からも何か言つてゐるやうであつたが、意味は分らなかつた。やがて、赤い灯の唯一つ薄暗く煤けて點いてゐる小舟は、音もなく黒い水の上を滑つて、映る兩岸の灯の影を乱しつゝ、暗の中に漕ぎ去つた。  
還慮なく四

 

腕組をして考べてゐた源太郎は、また俯いて長い手紙に向つた。さうして今度は口の中で低く聲を立てて讀んでみたが、讀み終るまでに稍長いことかゝつた。
お文は銀場から、その鋭い眼で入り代り立ち代る客を送り迎へして、男女二十八人の雇人を萬遍なく立ち働かせるやうに、心を一杯に張り切つてゐた。夜の更けようとするに連れて、客の足はだん/\繁くなつた。暖簾を掲げた入口から、丁字形に階下の間と二階の梯子段とへ通ぶ三和土には、絶えず水が撤かれて、其の上に履物の音が引ツ切りなしに響いた。
これから芝居の閉場る前頃を頂上として、それまでの一戰と、お文は立つて帶を締め直したが、時々は背後を振り向いて、手紙を讀んでゐる叔父の氣色を窺はうとした。
「二十圓送れ……と書いてあるやないか。」と、源太郎は眼をクシヤ/\さしてお文の方を見た。
「さうだすな。」と、お文は輕く他人のことのやうに言つた。
「福造の借錢は、一體何んぼあるやらうな。」
畳みかけるやうにして、源太郎が言つたので、お文は忙しい中で胸算用をして、
「千圓はおますやらうな。」と、相變らず世間話のやうに答へた。
この前に出よつた時は千二百圓ほど借錢をさらすし、其の前の時も彼れ是れ八百圓はあつたやないか。……今度の千圓を入れると、三千圓やないか。……高價い養子やなア。」
自然と皮肉な調子になつて來た源太郎の言葉を、お文は忙しさに紛らして、聞いてはゐぬ風をしながら、隅の方の暗いところでコソ者/\話をしてゐる男女二人の雇人を見付けて、
「留吉にお鶴は何してるんや。この忙しい最中に……これだけの人敷が喰べて行かれるのは、商賣のお蔭やないか。商賣を粗末にする者は、家に置いとけんさかいな、ちやツちやと出ていとくれ。」と、癇高い聲を立てた。男女二人の雇人は、雷に打たれたほどの驚きやうをして、パツと左右に飛んで立ち別れた。
「味醂屋へまた二十圓貸せちうて來たんやないか……味醂屋にはこの春家出する時二十圓借りがあるんやで。能うそんな厚かましいことが言はれたもんやな。」
何處までも追つかけるといつた風に、源太郡は福造の棚卸をお文の背中から浴びせた。
「味醂屋どこやおまへん。去年家にゐて出前持をしてたあの久吉な、今島の内の丸刈にゐますのや。あそこへいて、この春久吉に一圓借せと言ひましたさうだツせ。困つて來ると恥も外聞も分りまへんのやなア。」
また世間話をするやうな、何氣ない調子に戻つて、お文は背後を振り返り/\、叔父の言葉に合槌を打つた。
「味醂屋や酒屋や松魚節屋の、取引先へ無心を言うて來よるのが、一番強腹やな……何んぼ借して呉れんやうに言うといても、先方では若し福造が戻つて來よるかと思うて、厭々ながら借すのやが、無理もないわい。若しも戻つて來よると、讃岐屋の且那はんやもんな。其の時復讐をしられるのが辛いよつてな。取引先も考へて見ると氣の毒なもんや。」
染々と同情する言葉つきになつて、源太郎は太い溜息を吐いた。
「饂飩屋に丁稚をしてた時から、四十四にもなるまで、大阪に居ますのやもん、生れは大和でも、大阪者と同じことだすよつてな。私等の知らん知人もおますよつて、あゝやつて東京へほつたらかしとくと、其處ら中へ無心状を出して、借錢の上塗をするばかりだす。困つたもんやなア。」
漸く他人のことではないやうな物の言ひ振りになつて、お文は廣く白い額へ青筋をビク/\動かしてゐた。
「あゝ、『鯉の皮を御送り下されたく候』と書いてあるで……何吐かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を讀んで笑つた。
「鱧の度の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。」
夫の好物を思ひ出して、お文の心はさまざまに亂れてゐるやうであつた。
「鱧の皮、細う切つて二杯酢にして一晩くらゐ漬けとくと、温飯に載せて一寸いけるさかいな。」と、源太郎は長い手紙を卷き納めながら、暢氣なことを言つた。 

 

堺の大濱に隠居して、三人の孫を育ててゐるお梶が、三歳になる季の孫を負つて入つて來た。
「阿母アはん、好いとこへ來とくなはつた。をツさんも來てはりますのや。」と、お文は嬉しさうな顏をして母を迎へた。
「お家はん、お出でやす。」と、男女の雇人中の古參なものは口々に言つて、一時「氣を付けツ」といつたやうな姿勢をした。
「あばちやん、ばア。母アちやん、ばア。ぢいちやん、ばア。」と、お梶は歌のやうに節を付けて背中の孫に聞かせながら、ズウツと源太郎の胡坐をかいてゐる三疊へ入つて行つた。
背中から下された孫は、母の顏を見ても、大叔父の顏を見ても、直ぐペソをかいて、祖母の懷に噛り付いた。
「あゝ辛度や。」と疲れた状をして、薄くなつた髮を引ツ詰めに結つた、小さな新蝶々の崩れを兩手で直したお梶は、忙しさうに孫を抱き上げて、妻びた乳房を弄らしてゐた。
「其の子が一番福造に似てよるな。」と、源太郎は重苦しさうな物の言ひやうをして、つくづくと姉の膝の上の子供を見てゐた。
「性根まで似てよるとお仕舞ひや。」
笑ひながらお梶は、萎びた乳房を握つてゐる小さな手を竊と引き難して襟をかき合はした。孫は漸く祖母の膝を難れて、氣になる風で大叔父の方を見ながら、細い眼尻の下つた平ツたい色白の顏を振り/\ヨチ/\と濡れ縁の方に歩いた。
「男やと心配やが、女やよつて、まア安心だす。」
戰場のやうに店の忙しい中を、お文は銀場から背後を振り返つて、厭味らしく言つた。
それを耳にもかけぬ風で、お梶は弟の前の煙管を取り上げて、一服すはうとしたが、煙管の詰まつてゐるのに顏を顰めて、
「をツさん、また詰まつてるな。素人の煙草呑みはこれやさかいな。」と、俯いて紙捻を拵へ、丁寧に煙管の掃除を始めた。
「福造から手紙が來たある。……一寸讀んで見なはれ。」と、源太郎は厚い封書を姉の前に押しやつた。
「それ福造の手紙かいな……私はよツほど今それで煙管掃除の紙捻を拵へようかと思うたんや。」
封書を一寸見やつただけで、お梶は顏を顰め顰め、毒々しい黒い脂を引き摺り出して煙管の掃除を續けた。
「まアー寸でよいさかい、其の手紙を讀んどくなはれ。それを讀まさんことにや話が出來まへん。」
「福造の手紙なら讀まんかて大概分つたるがな……眼がわるいのに、こんな灯で字が讀めやへん。何んならをツさん、讀んで聞かしとくれ。」
煙管を下に置いて、巧みな手つきで短くなつた蝋燭のシンを切つてから、お梶はスパ/\と快く通るやうになつた煙管で、可味さうに煙草を吸つて、濃い煙を吐き出した。源太郎は自分よりも上手な煙草の吸ひやうを感心する風で姉の顏を見つめてゐた。
孫はまた祖母の膝に戻つて、萎びた乳も弄らずに、罪のない顏をして、すや/\と眠つて了つた。
「福造の手紙を讀で聞かすのも、何やら工合がわるいが、ほんなら中に書いてあることをざつと言うて見よう。」
源太郎はかう言つて、構へ込むやうな身體つきをしながら、
「まア何んや、例もの通りの無心があつてな。……今度は大負けに負けよつて、二十圓や。……それから、この店の名義を切り替へて福造の名にすること。時々浪花節や、活動寫眞や、仁和賀芝居の興行をしても、ゴテ/\言はんこと。これだけを承知して呉れるんなら、元の鞘へ納まつてもえゝ、自分の拵へた借錢は自分に片付けるよつて、心配せいでもよい。……長いことゴテ/\書いてあるが、煎じ詰めた正味はこれだけや。……あゝさう/\、それから鱧の皮を一圓がん送つて呉れえや。」と、手紙を披げ披げ言つて、逆に卷いて行つたのを、ぽんと其處へ投げた。
怖い顏をして、ヂツと聽いてゐたお梶は、氣味のわるい苦笑を口元に構へて、
「阿呆臭い、それやと全で此方からお頼み申して、戻つて貰ふやうなもんやないか。……えゝ加滅にしときよるとえゝ、そんなことで此方が話に乘ると思うてよるのか知らん。」と言ひ言ひ、孫を側の座蒲團の上へ寢さし、戸棚から敷蒲團を一枚出して上にかけた。細い寢息が騷がしい店の物音にも消されずに、スウ/\と聞えた。
「奈良丸を千圓で三日買うて來て、千圓上つて、損得なしの元々やつたのが、福造の興行物の一番上出來やつたんやないか。其の外の口は損ばつかり。あんなことに手を出したらどんならん。……一切合財興行物はせんこと。店の名義は戻つてから身持を見定め、自分の借殘のかたを付けてから、切り替へること。それから、何うあつても家出をせぬといふ一札を書くこと。これだけを確かり約束せんと、今度といふ今度は家の敷居跨がせん。」
もう四五年で七十の鐺を取らうとする年の割には、皺の尠い、キチンと調つた顏にカんだ筋を見せて、お梶は店の男女や客にまで聞える程の聲を出した。
銀場のお文は知らぬ顏をして帳面を繰つてゐた。 

 

夜も十時を過ぎると、表の賑ひに變りはないが、店はズツと閑になつた。
「阿母アはん、今夜泊つて行きなはるとえゝな。……今から去なれへん。」
漸と自分の身體になつたと思はれるまでに、手の隙いて來たお文は、銀場を空にして母の側に立つた。
「去ねんこともないが、寢た兒を連れて電車に乘るのも敵はんよつて、久し振りや、そんなら泊つて行かう。……をツさんは、もう去ぬか。」
其の日の新聞を披げた上に坐睡をしてゐた源太郎は、驚いた風でキョロ/\して、
「あゝ、去にます。」と、手を伸ばして姉の前の煙草入を納ひかけたが、煙管は先刻から煙草ばかり吸ひ續けてゐる姉が持つたまゝでゐた。
「狹いよつてなア此處は、……此處へ寢ると、昔淀川の三十石に乘つたことを思ひ出すなア。……食んか舟でも來さうや。」と、お梶は煙管を弟に返し、孫の寢姿に添うて横になつた。
「をツさん、善哉でも喰べに行きまへうかいな。……久し振りや、阿母アはんに一寸銀場見て貰うて。……なア阿母アはん、よろしおまツしやろ。」
何もかも忘れて了つたやうに、氣輕な物の言ひやうをして、お文は早や身支度をし始めた。
「いといで。眼がわるなつたけど、こなひだまでしてた仕事やもん、閑な時の銀場ぐらゐ、これでも勤まるがな。」と身を起して、お梶はさツさと銀場へ坐つた。
「またもや御意の變らぬ中にや、……をツさんさア行きまへう。」
元氣のよいお文を先きに立てて、源太郎は太い腰を曲げながら、ヨタ/\と店の暖簾を潛つて、賑やかな道頓掘の通りへ出た。
「牛に牽かれて善光寺參り、ちふけど、馬に牽かれて牛が出て行くやうやな。」と、お梶は眼をクシヤ/\さして、銀場の明るい電燈の下に徴笑みつゝ、二人の出て行くのを見送つた。 

 

筋向うの芝居の前には、赤い幟が出て、それに大入の人數が記されてあつた。其處らには人々が眞ツ黒に集まつて、花電燈の光を浴ぴつゝ、繪看板なぞを見てゐた。序幕から大切までを一つ一つ、俗惡な、浮世繪とも何とも付かぬものにかき現した繪看板は、芝居小屋の表つき一杯に掲げられて、竹に雀か何かの模樣を置いた、縮緬地の幅の廣い縁を取つてあるのも毒々しかつた。
お文と源大郎とは、人込みの中を拔けて、褄を取つて行く紅白粉の濃い女や、萌黄の風呂敷に箱らしい四角なものを包んだのを提げた女やに摩れ違ひながら、千日前の方へ曲つた。
「千曰前ちふとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は動もすると突き當らうとする群集に、一人でも多く眼を注ぎつゝ言つた。
「兵隊は別だすかいな。皆洋搬着てますかな。」
例もの輕い調子で言つて、お文はにこ/\と法善寺裏の細い路次へ曲つた。其處も此處も食物を並べた店の多い中を通つて、この路次へ入ると、奥の方からまた食物の匂が湧き出して來るやうであつた。
路次の中には寄席もあつた。道が漸く人一人行き違へるだけの狹さなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ聲は、通行人の鼓膜を突き破りさうであつた。藝人の名を書いた庵看板の並んでゐるのをチラと見て、お文は其の奥の善哉屋の横に、祀つたやうにして看板に置いてある、大きなおかめ人形の前に立つた。
「このお多福古いもんだすな。何年經つても同し顏してよる……大かたをツさんの子供の時からおますのやろ。」
妙に感心した風の顏をして、お文はおかめ人形の前を動かなかつた。笑み滴れさうな白い顏、下げ髪にした黒い頭、青や赤の着物の色どり、前こごみになつて、客を迎へてゐる姿が、お文の初めてこの人形を見た幾十年の昔と少しも變つてゐないと思はれた。
子供の折、初めてこのお多福人形を見てから、今日までに、隨分さまざまのことがあつた。とお文はまたそんなことを考へて、これから後、この人形は何時までかうやつて笑ひ顏を續けてゐるであらうかと思つてみた。
「死んだおばんが、子供の時からあつたと言うてたさかい、餘ツぽど古いもんやらうな。」
かう言つて源太郎も、七十一で一咋年亡つた組母が、子供の時にこのおかめ人形を見た頃の有樣を、いろ/\想像して見たくなつた。其の時分、千曰前は墓場であつたさうなが、この邊はもうかうした賑やかさで、多くの人たちが、店に並んだ食物の匂を嗅ぎながら歩き廻つてゐたのであらうか。其の食物は皆人の腹に入つて、其の人たちも追々に死んで行つた。さうして後から後からと新らしい人が出て來て、食物を拵へたり、並べたり、歩き廻つたりしては、また追々に死んで行く。それをこのおかめ人形は、かうやつて何時まで眺めてゐるのであらう。
こんなことを考へながら、ぼんやり立つてゐる中に、源太郎はフラ/\とした氣持になつて、
「今夜火事がいて、燒けて砕けて了ふやら知れん。」と、自分の耳にもハツキリと聞えるほどの獨り言をいつて、自分ながらハツと氣がついて、首を縮めながら四邊を見廻した。
「何言うてなはるのや。……火事がいく、何處が燒けますのや、……しようもない、確かりしなはらんかいな。」
お文はにこ/\笑つて、叔父の袂を引ツ張りつゝ言つた。
「さア早う入つて、善哉喰べようやないか。何ぐづ/\してるんや。」と、急に焦々した風をして、源太郎は善哉屋の暖簾を潛らうとした。
「をツさん、をツさん……そんなとこおきまへう、此方へおいなはれ。」と、お文はさツさと歩き出して、善哉屋の筋向うにある小粋な小料埋屋の狹苦しい入口から、足の濡れるほど水を撤いた三和土の上に立つた。小ぢんまりした沓脱石も、一面に水に濡れて、切籠形の燈籠の淡い光がそれに映つてゐた。
「あゝ、御寮人さん、お出でやす。まアお久しおますこと、えらいお見限りだしたな。さアお上りやす。」
赤前垂の肥つた女は、食物を載せた盆を持つて、狹い廊下を通りすがりに、沓脱石の前に立つてゐるお文の姿を見出して、ペラ/\と言つた。
「上らうと思うて來たんやもん、上らずに去ぬ氣遣ひおまへん。」
かう言つて駒下駄を沓脱石の上に脱ぎ棄てたお文の昔中を、ポンと叩いて、赤前垂の女は、
「まア御寮人さん……。」と、仰山らしく呆れた表情をしたが、後から隨いて入つて來た源太郎の大きな姿を見ると、
「お運れはんだツか。……何うぞお上り。さア此方へお出でやへえな。」と、優しく言つて、窮屈な階子段を二階へ案内した。
茶室好みと言つたやうな、細そりした華奢な普請の階子段から廊下に、大きな身體を一杯にして、ミシ/\音をさせながら、頭の支へさうな低い天井を氣にして、源太郎は二階の奥の方の鍵の手に曲つたところへ、女中とお文との後から入つて行つた。
「善哉なんぞ厭だすがな。こんなとこへ來るといふと、阿母アはんが怒りはるょつて、あゝ言ひましたんや。」
向うの廣問に置いた幾つもの衝立の蔭に飮食してゐる、幾組もの客を見渡しつゝ、お文はさも快ささうに、のんびりとして言つた
「御寮人さん、お出でやす。」
「御寮人はん、お久しおますな。」
なぞと、痩せたのや肥えたのや、四五人の赤前垂の女中が代る代る出て來た。其の度にお文が白いのを鼻紙に包んで與るのを、源大郎は下手な煙草の吸ひやうをしながら、眼を光らして見てゐる。
肥つた女中は、チリン/\と小さく鈴の鳴るやうな音をさして、一つ/\捻つた器具の載つてゐる杯盤を運んで來た。
「まアーつおあがりやへえな。」と、女中は盃洗の底に沈んでゐた杯を取り上げ、水を切つて、先づ源太郎に獻した。源大郎は酌された酒の黄色いのを、しツぽく臺の上に一寸見たなりで、無器用な煙草を止めずにゐた。
「こんな下等なとこやよつて、重亭や入船のやうに行きまへんが、お口に合ひまへんやろけど、まアあがつとくなはれ……なア姐はん。」
自分に獻された初めの一杯を、ぐツと飮み乾したお文は、かう言つてから、二度目の酌を女中にさせながら、
「姐はん、このお方はな、こんなぼくねん人みたいな風してはりますけど、重亭でも入船でも、それから富田屋でも皆知つてやはりますんやで。なか/\隅へ置けまへんで。」と、早や醉ひの廻つたやうな聲を出した。
「ほんまに隅へ置けまへんな。粹なお方や、あんたはん一つおあがりなはツとくれやす。」と、女中は備前燒の銚子を持つて、源太郡の方へ膝推し進めた。
「奈良丸はんと一所に行かはりましたのやもん。藝子はんでも、八千代はんや、吉勇はんを、皆知つてやはりまツせ。」
かう言つてお文は、夫の福造が千圓で三日の間奈良丸を買つて、大入を取つた時、讃岐屋の旦那旦那と立てられて、茶屋酒を飮み歩いた折のことを思ひ出してゐた。さうして叔父の源太郎が監督者とも付かず、取卷とも付かずに、福造の後に隨いて茶屋遊ぴの味を生れて初めて知つたことの可笑しさが、今更に込み上げて來た。
「阿呆らしいこと言はずに置いとくれ。」と、源太郎も笑ひを含んで漸く杯を取り上げ、冷めた酒を半分ほど飮んだ。
雲丹だの海鼠腸だの、お文の奸きなものを少しづつ手鹽皿に取り分けたのや、其の他いろいろの氣取つた鉢肴を運んで置いて、女中は暫く座を外した。お文は手酌で三四杯續けて飮んで、源太郎の杯にも、お代りの熱い銚子から波々と注いだ。
「お前の酒飮むことは、姉貴も薄々知つてるが、店も忙しいし、福造のこともあつて、むしやくしやするやらうと思うて、默つてるんやらうが、あんまり大酒飮まん方がえゝで。」
肴ばかりむしや/\喰べて、源太郎は物柔かに言つた。
「置いとくなはれ、をツさん。意見は飮まん時にしとくなはれな。飮んでる時に意見をしられると、お酒が味ない。……をツさんかて、まツさら散財知らん人やおまへんやないか。今度堀江へ附き合ひなはれ。此處らでは顏がさしますよつてな、堀江で結麗なんを呼ぴまへう。」
かう言つて、お文は少しも肴に手を付けずにまた四五杯飮んだ、果てはコツプを取り寄せてそれに注がせて呷つた。
もう何も言はずに、源太郎はお文の取り寄せて呉れた生魚の酢を喰ぺてゐた。 

 

お文と源太郎とが、其の小料理屋を出た時は、夜半を餘程過ぎてゐた。寄席は疾くに閉場て、狹い路次も晝間からの疲勞を息めてゐるやうに、ひつそりしてゐた。
「私が六歳ぐらゐの時やつたなア、死んだおばんの先に立つて、あのお多福人形の前まで走つて來ると、堅いものにガチンとどたま打付けて、痛いの痛うなかつたのて。……武士の刀の先きへどたま打付けたんやもん。武士が怒りよれへんかと思うて、痛いより怖かつたのなんのて。……其の武士が笑うてよつた顏が今でも眼に見えるやうや。……丁ど刀の柄の先きへ頭が行くんやもん、それからも一遍打付けたことがあつた。」
思ひ出した昔懷かしい話に、醉つたお文を笑はして、源太郎は人通りの疎らになつた干日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。
「をツさんも古いもんやな。芝居の舞臺で見るのと違うて、二本差したほんまの武士を見てやはるんやもんなア。」と、お文は笑ひ/\言つて、格別醉つた風もなく、叔父の後からくツ付いて歩いた。
「これから家へ行くと、お酒の臭氣がして阿母アはんに知れますよつて、私もうちいと歩いて行きますわ。をツさん別れまへう。」
かう言つて辻を西へ曲つて行くお文を、源大郎は追ツかけるやうにして、一所に戎橋からクルリと宗右衞門町へ廻つた。
富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠つたやうな灯が點いて、陽氣な町も濕つてゐた。たまに出逢ふのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如くに思はれた。
「私、一寸東京へいてこうかと思ひますのや。……今夜やおまへんで。……夜行でいて、また翌る日の夜行で戻つたら、阿母アはんに内證にしとかれますやろ。……さうやつて何とか話付けて來たいと思ひますのや。……あの人をあれなりにしといても、仕樣がおまへんよつてな。私も身體が續きまへんわ、一人で大勢使うてあの商賣をして行くのは。……中一日だすよつて、其の間をツさんが銀場をしとくなはれな。」
醉はもう全く醒めた風で、お文は染々とこんなことを言ひ出した。
「今、お前が福造に會ふのは考へもんやないかなア。」と、源太郎も思案に餘つた。 

 

日本橋の詰で、叔父を終夜運轉の電車に乘せて、子供の多い上町の家へ歸してから、お文は道頓堀でまだ起きてゐた蒲鉾屋に寄つて、鰓の皮を一圓買ひ、眠さうにしてゐる丁稚に小包郵便の荷作をさして、それを提げると、急ぎ足に家へ歸つた。三畳では母のお梶がまだ寢付かずにゐるらしいので、鱧の皮の小包を竊と銀場の下へ押し込んで、下の便所へ行つて、電燈の栓を捻ると、パツとした光の下に、男女二人の雇人の立つてゐる影を見出した。
「また留吉にお鶴やないか。……今から出ていとくれ。この月の給金を上げるよつて。……お前らのやうなもんがゐると、家中の示しが付かん。」
寢てゐる雇人等が皆眼を覺ますほどの聲を立てて、お文は癇癪の筋をピク/\と額に動かした。
「何んやいな、今時分に大けな聲して。……鬼も角明日のことにしたらえゝ。」と、お梶が寢衣姿で寒さうに出て來たのを機會に、二人の雇人は、別れ/\に各の寢床へ逃げ込んで行つた。
まだブツ/\言ひながら、表の戸締をして、鍵を例ものやうに懐中深く捻ぢ込んだお文は、今しがた銀場の下へ入れた鱧の皮の小包を一寸撫でて見て、それから自分も寢支度にかゝつた。
(大正三年一月) 
 
ごりがん / 上司小劍

 

一 
先づごりがんといふ方言の説明からしなければならない。言葉の説明は、外國語でも日本語でも、まことに難儀なことで、其の言葉自身より外に、完全な説明はないのだ。言葉をもつて言葉を説明するといふほど愚かなことはない。言葉を説明するものは、言葉の發する音による以心傳心で、他のいろいろの言葉を幾つ並べたとて、其の言葉を底の底まで透き通るほどに説明し得るものではない。しかし人間といふものがかうやつていろいろの言葉を作り上げて、そいつを滑かに使つて來た根氣には驚く。根氣ではない自然だといふかも知れないが、自然の奥には根氣がある。如何に不完全な國語を有する人民でも、それで一通りの用が辨ずるまでに仕上げた根氣は大層なものだ。言語學といふ乾枯らびた學問のやうな教ふるところは別として、たとへば日本語の柄杓といふ言葉を聞くと、それが如何にもあの液體を掬ふ長い柄の附いた器物のやうに思はれるし、箱といへば直にあの四角い容物を考へ出す。(圓いのもあるが)さういふ風に、柄杓と箱との名を取りかへて、「俺にはこれが柄杓で、これが箱ぢや」とごりがんを決め込んでも、世間には通用しない。それまでに言葉といふものの力を深く打ち込んだ根氣は大したものだ。どうせ人間の拵へた言葉と名稱とだもの、それをどツちへ取りかへたとて差支へはないのだが、大勢の人にそれを承知させるのが困難だ。柄杓が箱で、箱が柄杓で、火が水で、水が火であつても、一向差支へはないのだけれど、別に取りかへる必要もなければ、まア在り來りのままでやつて行かうといふことになる。
それでも、言葉や文字の中には長い間にちよいちよい間違つて了つて、鰒を河豚だと思ふやうな人も少しは出來たりしたが、それをまた訛言だの、方言だのと、物識りに顏に、ごりがんをきめ込むこともない。鰒だと言つても、河豚だと名づけても、肝腎の貝や魚は一向何も知らないでゐる──と、こんなことを言ふものもまた一種のごりがんだ。
別に言語學に楯を突いた譯でも何でもない。ごりがんの説明を自然に卷き込んで置かうと思つて、これだけのことを書いてみたのだ。ごりがんとは先づ、駄々ツ兒六分に、變人二分に、高慢二分と、それだけをよく調合してできあがつたかみがたの方言である。「てきさん、どこそこで、ごりがんきめ込んだにゃで」とか、「ごりがんでんなア」といふのを聞き馴れてゐる人には迷惑であらうけれど、これだけのことはぜひ書いておかねばならぬ。
「ごりがん事三月十二日永劫の旅路に上りました。此段お知らせいたします」といふ下手な字の葉書を受け取つたのは、三月十四日で、私はあゝあの老僧も到頭死んだかと、私は知人の訃報を得る度に感ずる痛ましさと寂しさとに打たれつゝ、また人生に對する思索を新たにして、ぼんやり其の葉書を卷いたり舒ばしたりしてゐた。
それにしても、自分の父の死をば、ごりがん事なんぞと戲れて通知する息子も息子だと思つて私は、其の息子の天南といふ名前を眺めてゐた。
生れては死に、生れては死にする隆法(老僧の名)の子は、四人目の天南に至つて、漸く火事が燒け止まるやうに、死なないで育つた。「頃者一男を擧ぐ天南と名づく」なぞと書いた隆法の葉書が、方々へ飛んだ。それから後に生れた子は、いづれも息災に育つて、隆法が老僧と呼ばるゝにふさはしくなつた時分は、三男二女の父になつてゐた。
困つたのは總領の天南であつた。本山の中學校を卒業してから、寺にぶらぶらしてゐたが、兔角父の老僧と氣が合はなかつた。老僧はごりがんの名で通るほどの人物で、檀家の評判はよくなかつたが、世襲住職の眞宗寺で、檀家から坊主を追ひ出すといふことは出來ない上に、また寺を追ひ出さうなぞと思ふ檀家があるほどの不評判でもなかつた。缺點はごりがんだけで、勤めることはちやんと勤めた。しかし天南はごりがんの上に大變人で、また怠惰者であつた。自分に氣の向いた事をさせるとさうでもなかつたが、寺の用となれば、目の敵のやうにして打ツちやらかして置く。禪寺は綺麗だが、門徒寺は汚いと昔しから言ふ通り、隆法の寺も眞宗だけに掃除が屆かないで、本堂の前だけは塵埃もないが、それは皆境内の隅々へ掃き寄せられて雜草の肥料になつてゐる。蛇、蜥蜴、螽●(虫篇に旁が斯:きりぎりす)、そんなものが、偶然に出來た塵塚を棲家にして、夏盛んに繁殖する。葱の白根を餌にして、天南はよく螽●(虫篇に旁が斯)を釣らうとしたが、時折り蛇に驚かされて、逃げ戻つて來たこともある。尻尾の斷れた蜥蜴のちよろちよろと出て來るのが氣味がわるかつた。
巽の隅にある殊に高い塵塚には、草ばかりか、漆の木なぞが自然に生えて、小ひさな森を作つてゐた。其處には殊に氣味のわるい虫が棲んでゐるらしく、片側の裾に水溜りが出來たりして、腹の赤い蠑●(虫篇に旁が原:ゐもり)が蛙とともに棲むが、蛙はよく蛇の餌食になつて、呆れ顏をした蠑●(虫篇に旁が原)に、半ば蛇の口へ入つた淺間しい姿が、見送られてゐた。
天南はよく蛇を擲つて蛙を助けた。幼い時竹片を持つて遊んでゐると、蛙がぎやアぎやア鳴くので、其の悲しさうな聲をたよりに竹片で雜草の中を叩き廻ると、蛇に呑まれかけた蛙が、跛足引き引き危いところを逃げて行つた。其の脚の先きは、もう蛇の毒で少し溶けかゝつてゐるやうであつた。「晩にはあの蛙が大きなお饅頭を持つて禮に來るぞ。」と、父が言つたので、天南はその夜どんなに饅頭を待つたか知れなかつたが、父の言葉は眞ツ赤の嘘であつた。それ以來天南は父を信用しなくなつた。
本堂のお花を取りかへるやうに、父から言ひ付かつたことが度々あつたけれど、天南は一度もそれをしたことがなかつた。須彌壇の花立てには、何時活けたとも知れぬ花の枝が乾枯らびて、焚き付けにでもなりさうになつてゐた。 

 

「天南ももう三十ぢやから、妻帶さしてやらんならん。わしは十七で妻帶したもんなア。」と、隆法は二三年前、それを最初にまた最後の上京の時にさう言つてゐた。
「さうですか。」と、わたしは田舎坊主の結婚なんか、別に氣にも留めなかつた。すると隆法老僧は、自慢の白髯のそれも甚だ疎らなのを、無理に兩手で扱きながら、
「歸りに京都へ寄つて、結納を渡して行かんならん。」と、獨言のやうに言ひ言ひ、中くらゐの信玄袋の口を開けて、「白衣料」と、飄逸な字で書いた奉書の一包みの見事なのを取り出した。其の炭色の薄いのが私は氣になつた。
「まア御立派でございますこと。」と、兔角かう言ふものを見たがる妻は、一尺ばかり開いたまゝになつてゐた襖から顏を突き出して言つた。
「いやアもう。」と、老僧は口癖になつてゐることを言つて、少しばかり鼻を蠢めかした。
「白衣料……はいゝね、普通には帶料としてやると、女の方から袴料として半分だけ返して來るんだが、お寺さんは白衣料かね。先方から袈裟料とでもして返して來るんですか。」と、私は老僧の手の裡を覗くやうにして言つた。小指の爪を一寸あまりも長く伸ばした老僧の掌は、其の奉書包みに全く掩はれつくして、包みがまだ兩方へ食み出してゐたが、小指の先きだけは少し見えてゐた。水引が景氣よくピンと撥ね上つてゐた。
「在家ではどんなことをするか知らんし、また寺方でも白衣料と書くかどうか、そんなこと知らん。わしはわしの書きたいやうにするんや。」と、老僧は少しばかりごりがんの本質を露はしかけて來た。
「へえん、お寺さんぢや、お芽出度にも黒と白の水引をお使ひになるんですこと。」と、妻は今まで氣が付かなかつたかのやうにして、老僧の前へにじり寄つて來た。老僧はただ「ふゝん」と笑つて、輕蔑したやうに妻の顏を見てゐた。其の水引には京紅が濃く塗つてあるので、紅白は紅白でも、紅の方は玉蟲色をして、ちょっと見たのでは黒と間違へさうであつた。
老僧は「東京見物に來たのぢや。」と言ひながら、一向見物に歩かなかつた。上野、淺草から丸の内、日比谷邊りを一廻りして來ようかと思つて、私が案内しようとしても、「いやそんなことは煩はしい。かうやつてゆツくり話をしながら、茶を飮んでるのがよい。あんた行きたけりゃ、一人で行くがよい。わしは其の間坐禪組んで待つてる。」と、空とぼけた風で言つた。私が一人で上野、淺草から丸の内、日比谷と、見物して歩いたら可笑しなものだらうと、馬鹿々々しくなつたが、これも老僧のごりがんの一うねりであつたのだらう。
「お嫁さんは、どちらからお出でになるんでございます。」と妻は水引に就いての無知を悟つたのか、テレ隱しのやうに言つた。
「矢張り寺です。寺は寺同志でなア。」と、老僧は持つてゐた煙管の吸口で耳の後を掻いてゐた。ずんど切りの變な形の煙管で、この老僧の持ち物にふさはしいと、私は子供の時から思つてゐた。老僧にも煙管にも、私はそれほど馴染みが深かつたのである。
郷里で、私の父は神主をしてゐた。老僧の寺は十丁ほど東にあつて、私の家から其の天臺に象つたといふ二重屋根の甍がよく見えるし、老僧の庫裡の窓から、私の方のお宮の杉並木や、檜皮葺きの屋根や、棟の千木までが見えたりした。坊主と神主とで、雙方とも退屈の多い職業であつたから、老僧──其の頃は血氣盛りの腥坊主であつたが、持ち前のごりがんはもう見えてゐた──と老神主とはよく往來してゐた。「願念寺のごりがん」と蔭でよく言つてゐたし、願念寺はまた父のことを「仲臣の朝臣」と眼の前でも呼んでゐた。父は本名を重兵衞と言つたのだが、祝詞なぞで、「宮地重兵衞鵜自物鵜奈彌突拔天白」も可笑しいからと言つて別に仲臣といふ名を命けてゐたのである。
「神主の社務所に眠る小春かな」といふやうなことを大きな聲でやりながら、願念寺はノツソリと私の邸の裏門から庭傳ひに、泉水の石橋を渡つてよくやつて來た。方言で文庫と呼ばるゝ猫背をして、鼠の着物に白の角帶、その前のところに兩手を挾み込んで、肩を怒らしてゐるのが、願念寺の癖であつた。自分の寺で盆栽を弄つてゐたまゝの姿で、不圖思ひ付いて、十丁の路を隣りへでも行くやうにしてやつて來るのである。
「願念寺さん、ようお越し。」と言つて、白衣に紫地五郎丸の袴を穿いた父は、禿頭を光らしつゝ煙草盆片手に、薄縁を敷き込んだ縁側まで出迎へると、
「いや願念寺は動きません、罷り出でたるは願念寺の住職隆法にて候。」なぞと戯れをば、莞爾とも笑はずに、口を尖らして願念寺は言つた。こんな時にも懷中にはちやんと、緞子の煙管筒を收めて、ずんど形の煙管を取り出したものだが、どうかすると煙管を忘れて來て、
「いち……ふく……頂戴。」と、氣取つた言ひかたをして父の煙草盆の抽斗に手をかけた。──私は其の頃まだ若かつた願念寺を思ひ出して、今の老僧の姿と相對して坐りながら、ずんど形の煙管の昔しのまゝなのを見て、妙に寂しさが込み上げて來た。
「わしは一體、あんたのお父つあんの友人ぢやがなア、いつの間にか、あんたに横取りされてしもた。」と、老僧は火箸の先きで煙管の雁首をほじりながら、私よりは妻の方を顧みて言つた。「お友達にしちや、だいぶお年が違ひますこと。」と、妻は氣の置けぬ老僧の人柄に早くも親しんでこんなことを言つた。
「さいや。……けどなア、わしとこの人。……」と、ずんど形の煙管で私を指して、「この人のお父つあんとは、矢つ張りこのくらゐ年が違うたが、意氣合てでなア。この人のお父つあんは學問はなし、碁は打たず、盆栽は知らんし、酒を飮む他に能のない老爺やつたが、それで別に話の面白い男でもなかつたのに、わしはあの漢が好きでなア、其漢愚漢と書いてありさうな闊い額を見ながら、默つて煙草を吸うてゐるだけで、氣持ちが好かつたわい。」と、老僧は私の亡き父の想ひ出に耽らうとしてゐるらしかつた。
私が郷里の邸を引き拂つて東京へ來てから十幾年、願念寺の隆法や、天南のことを忘れかけてゐるところへ、隆法が年よりはズツと老けた姿を私の家の玄関へ現はして、昔の風の「ものまう」と言つたのには、取次ぎの下女がどんなに驚いたか、願念寺のごりがんがだんだん甚だしくなるといふことは、郷里から流れて來るいろいろの噂さに混つて聞えてゐたが、私は別段それを氣にも留めなかつたのである。
丁度正月の寒い時であつた。老僧は中くらゐの信玄袋を提げ、セルの被布の胸へ白い髯を疎らに垂れて、頭には芭蕉頭巾を被つてゐた。昔しながらの薄着で、肩が凝ると言つて襯衣は決して着ないから、襦袢の白い襟の間から茶褐色に痩せた斑點のある肌が見えてゐた。
「御婚禮は何時なんでございます。」と、妻は妙に氣がかりな風をして問うた。
「まだきまりません」と、澄み切つたやうなハツキリした言葉で言つて、老僧は快ささうな眼をしながら、口を尖らして、煙草の煙りを眞ツ直にふうツと吹いた。
「見合ひをなすツたんでございますか。」
「いゝえ、そんなことはしません。」
「ぢやア、お互ひに御存じなかたなんでございますか。それはよろしいんでございますね。」と、妻は他人のことながら滿足氣な樣子をしてゐた。
「いゝや、本人同志はまた、ちよツとも知らんのぢや。ふうん。」と、老僧はそろそろごりがんの本領を見せかけた。
「それでお結納は可笑しいぢやございませんか。」と、妻は眉を顰めた。
「年頃になつたから、家内を持たせる。年頃になつたから、片付けてやる。……それでよいのぢや。……生れようと思うて、生れるものはないし、死なうと思うて、死ぬものもまア滅多にないのと同なしことぢや。婚禮だけが本人の承知不承知を喧しく言ふにも當るまい。親の決めたものと、默つて一所になつたらえゝのぢや、他力本願でなア。」と、老僧は事もなげに、空惚けたやうな風をして言つた。
「まア。……」と、妻は呆れてゐた。 

 

それから去年まで、私はこのごりがんの老僧に逢ふ機會がなかつた。一咋年の初夏、私の年中行事の一つとして、上國に遊んだ時、麥畑の間を走る小さな痩せた電車で、願念寺の二重屋根を見ながら通つたから、一寸立ち寄つて見ようかとも思つたが、おつくふでもあつたし、老僧の在否も分らなかつたので、停車中の電車の窓から、小學校歸りの子供を呼ぴ止めて、願念寺へこれを持つて行つて呉れと言つて頼んだ。スルと其の子供は嬉しさうな顏をして畦のやうな細路を一散に願念寺の方へ走つて行つた。電車が動き出してからも、小ひさな姿が麥畑の彼方に、吹き飛ばされてでもゐるやうに見えてゐたが、ある藁葺きの家の生垣の蔭になるまで、私は名刺を持つて行つた子供から眼を離さなかつた。
願念寺に近い村の麥畑で、柔かい穂を拔いて麥笛を作つたのが、ピイピイとよく鳴つたのを夏外套のかくしに入れて、私は東京へ歸つて來た。それが偶然音樂會の切符とともにかくしから出て來たので、妙に懷かしい氣持ちで見てゐたのは、上國の旅行後二週問ほど後で、空からは陰鬱な五月雨を催しかゝつてゐた。其處へ丁度郵便が一束になつて投げ込まれた中に、老僧からの葉書が混つてゐた。
「……東京にXXさんといふ人の居るのを忘れかけてゐるところへ、名刺のことづけで、漸く思ひ出し申し候。いづれまた出て來るであらう、其の節は久方振りに一ボラ試み度樂み居り候に、たうとう出て來なかつた。(老僧も時よ時節で、この節は少しづつ江戸辯を使ふやうになつた。それから言文一致とやらも、ちよい/\やらかしてみるが、こいつなか/\便利ぢや)そこで、塞夜ならずとも、鍋を叩いて、大に文字禪を提げ、天晴一小手進上申し度候ところ、どう考へても、筆ボラは舌ボラの妙には不如、儉約して葉書に相場を卸し申し候。筆法螺舌法螺。畢竟無駄法螺。渇來茶飢來飯。默々兮眞法螺。痩電灯の下にて、叩鍋僧和南」
これだけのことが、細かい字で書いてあつた。私は老僧の村にも電燈會社の蔓が延ぴて、あの簿暗い庫裡にタングステンの光つてゐるさまを想像するより外に、この葉書から感得する何ものもなかつた。それにしても天南と其の若い妻とはどうしてゐるのか、それが知りたいと思つた。
ところが去年の新緑の頃、また上國に旅をして、大阪船場の宿で雨に開ぢ籠められてゐると、夕方電話がかゝつて來た。取り付いだ女中がくすくす笑つてゐて、何んといふ人からかゝつたのか一向分らない。間ぴ詰めると、「ごりがんからや言やはりました。」と、袖を顏に當てて、笑ひ轉げた。
あの老僧と電話といふものとの對照が既に妙である。電燈を點けたり、電話をかけたり、流石のごりがんも征服されたかと思ひながら、電話口へ出ると、聲は老僧ではなくて、若い女らしく、「今夜これからお伺ひしようと思ふがいかがでせう。御都合がわるければ明朝でも結構です。」と、ハツキリした東京辮であつた。共の夜は奮友と寄席へ行く約束がしてあつたから、「明朝お待ちしてゐます。」と、答へて私は電話を切つた。
すると、翌朝まだ私の寢てゐるうちに、老僧はやつて來た。取り敢へず次ぎの室へ通させて置いて、私は顏を洗ひ、食事にかゝつたが、隣りの室では、咳拂ひと、吐月峯を叩く音が頻りに間えた。其の咳拂ひも、其の吐月峯を叩く音も、私には殆んど幼馴染のもので、調子に聞き覺えがあつた。
「喫飯か。」と、言つた聲とともに縁側の障子がさらりと開いた。老僧が待ち兼ねて闖入して來たのである。手には二三年前東京で見たあの中くらゐの信玄袋を提げてゐる。
「失禮します。」と言つて、私は食事を續けた。老僧は給仕の女中が進むる座蒲團の上に痩せた膝を並べつゝ、キチンと坐つた。薄セル被布の下に痛々しく骨張つた身體が包まれてゐた。
「喫飯が何んの失禮なもんか。次ぎの間で待たすのが、よつぼど失禮ぢや。煙草盆一つ出さずに。」と、老僧はむつかしい顔をして言つた。
「まアお煙草盆も出せえしまへんでしたか。
と女中は驚いたやうな顏をした。
「なに、吐月峯の音がしたよ。」と私は笑ひながら言つた。
「いや、煙草盆はあるにはあつた。けどもそれはわしに出した煙草盆やない。前に來た客にでも出したんぢやらう。それがそんなり置いてあつたんで、もとより火も何もない。わしはこの通り御持參の煙草盆で吐月峯だけを借つたんぢや。」と、老僧は袂の中をもぐもぐ探つて、ブリキ製の輕便點火器を取り出した。痩せた指の間から「賃用新案……」の文字が讀まれた。
「なかなかハイカラ坊主になりましたね、電燈は點ける、電話はかける。そんなものは持つ。……」と、矢張り笑ひながら言つて、私は食後の茶を飲んでゐた。
「いやア、便利ぢやからと言つて、人が勸めるんで、やつてはみるが、あんまり便利でもないて。……第一電燈の火では煙草が吸へんし、電話では相手の顏が見えんし、……人はどうか知らんが、わしは相手の顏が見えんと話をする氣にならん。そんなもんの中では、まだこれが一番ましぢや。」と言ひ言ひ、老僧は其の點火器を弄つてゐた。
「さうですか。」と、私は気のない返事をして、茶を飲み績けた。
「これさ、主人ばかり茶を飲んで、客に茶を出さんといふことがあるか。」と、老僧は叱るやうに言つた。
「えらいひつ禮でおましたなア。」と、女中も笑ひながら、老僧に茶を出した。
「其の茶碗、疵がある、そつちの無疵のと變へてんか。」と、老僧は埋れ木の茶托にのつた六兵衞の茶碗を見詰めつゝ言つた。
「何處にも疵はおまへんがな。」と、女中も茶碗を見詰めて、怪訝な顔をした。
「いやある。糸底に疵がある。臺所で洗ふ時に附けたんぢやらう。」と、老僧は眼を据ゑて睨むやうにした。女中は默つて其の茶碗を取上げ注いだ茶をこぼしへあけて、糸底を改めると、老僧の言つた通り、糸底が少し缺けてゐた。
「まア、ほんまや、あんたはん千里眼だツかいな。」と、女中は呆れたやうな顏をした。
「わしは器物に疵のあるのが嫌ひでなア、長年の經驗から直覺するんや。」と、老僧は得意らしく言つた。
「あなたはもう樂轄居でせう。まだ孫は出來ませんか。」と、私は手づから無疵の茶碗に茶を注いで老僧に進めつゝ言つた。
「孫どこかいな。天南の嫁に就いて、話がある。そいつを是非あんたに聽いて貰ひたうてな。新聞に宿が出てたから、わざわざやつて來て、昨夜電話をかけるとペケ、忌々しいから無理にも押し込んでやらうかと思うたが、まアまア辛抱して、今朝早う來て見ると、次ぎの問で待たしくさる。業腹で業腹で。」と、老僧は膝を乘り出した。 

 

老僧の話に據ると、天南は自分へ何んの話もなく、親が勝手に決めた縁談に、別段不服のやうでもなかつたが、婚禮の當日、花嫁が到着のどさくさ紛れに、何處かへ姿を隱して了つた。いざ三々九度の盃といふ時になつて、花聟の影を逸したのだから、混雑に混雑が加はつて、庫裡も、對面所も、本堂も、人々が織るやうに駈けちがつた。老僧もヂツとしてはゐられないので、病身ながら其の時はまだ生きてゐた老坊守りとともに「須彌壇の下まで探がしたが、鼠矢が一面に散らばつてゐるだけで∴積つた塵埃の上に人の足痕なんぞはなかつた。
本山の役僧が、末寺からの納め金を使ひ込んで、蒼い顏をして、願念寺に逗留してゐるうちに、便所で舌を噛み切つて死んだといふのは、老僧から三代も前のことだが、其の厠は今も戸を釘付けにしたまゝ、對面所の縁側の奥に殘つてゐる。老僧は念の爲めに其處まで改めたが、長い間に釘は腐つて、開けずの厠の戸が風にパタパタしてゐた。さうした蜘蛛の巣だらけの氣味のわるい中に、天南が潛んでゐようとも思はれなかつた。
途方に暮れた末、其の夜は取り敢へず花聟急病、祝儀延引と觸れ出して、媒妁人にも檀家からの手傅人にも皆な引き取つて貰つたが、花嫁と其の父母とは暫らく願念寺に泊り込んで、天南が姿を現はすのを待つてゐた。
三日、四日、五日、七日、十日、……天南の行方は皆目知れなかつた。「どうしたもんでせうか。一應引き取つて頂いては。」と、老僧が花嫁の親の、これも可なりな老僧に向つて、平生のごりがんがすつかり肩を窄めつゝ、氣の毒さうにして言ふと、
「いや、わしの方では結納まで貰うて、一旦差し上げたもんぢや。連れて歸ることは金輪際ならん。嫁にすることが出けなんだら、娘にして貰うて下され。またあんたの方から他へ片付けょうと、このまゝ此寺で婆にして了はうと、それはあんたの勝手ぢや。わしも用のある身體で、何峙までベンベンと逗留も出けんから、婚禮の盃の代りに親子固めの盃をして貰はう。」と、反對にごりがんをきめ出した。
乃でまた媒妁人を呼ぴにやると、媒妁人は花聟が戻つて來たのだと早合點して、喜ぴながら飛んで來たが、自分の役目は若い男女を取持つのでなくて、老僧夫婦と花嫁とに親子の盃をさせることであつた。
「XXさん、わしはまだあの時ほど心配したことは、前後にないがな。房子(坊守の名)はあれが因で死によつた。」と老僧は此處まで話して、ホツと息を吐いた。其の眼には涙があつた。
「それからどうしたんです。」と、私は少し性急に間うた。
「まア待つとくれ、ゆつくり話しするがなア。」
と、老僧は例のずんど形の吸口の煙管で、ゆるゆる一服吸ひ付けてから、
「XXさん、あんなもんかなア、今の若いもんといふもんは。……親のきめた縁談が不承知ぢやなんて、滅相な。」と老僧は驚いた顏をした。
「それはさうでせう、あなたの女房ぢやない、天南さんの女房でせう。人間は品物ぢやないから、さう勝手に行きませんよ。」
「勝手ぢや?……怪しからん、親が子の嫁をきめてやるのが、何んで勝手ぢや。」
「あなたは家の中に電燈を點けても、頭の中に行燈をとぼしてるからいけない。何百年も昔しの人だつて、さういふ場合には、一應本人の了簡を訊いてからと挨拶して、親の一存で子の縁談は決めなかつたものでせう。況して今時そんな乱暴な。」
「全體あんた等が、そんなことを言うて、若い者にけしかけるからいかんのぢや。まア聞いとくれ。……」と、言つて老僧は語り續けた。──
天南の行方は、其の後一と月ほども分らなかつた。ところが、少女歌劇で名高いあの寶塚の山の上に、無住の庵室があつて、荒れ放題に荒れてゐたが、諸國慢遊の旅畫師が來て、暫らく其處を貸して呉れと言つたので、村人はどうせあいてゐるのだから、火の用心さへ氣を付けて呉れるなら、入つてもよい。しかし雨が漏らうと床が腐らうと、手入れは出來ない。それから幾ら壞れてゐようと、腰板なんぞ剥がして、焚きものにすることはお斷りだと念を押して旅畫師をその庵室に住はせた。旅畫師は可なりの畸人で、いろいろの變つた動作が村人を驚かしたが、別に害にもならないことなので、皆笑つて見てゐた。
この振書師と天南とは何時のほどにか交りを結んでゐた。それを老僧は少しも知らなかつたので、少女歌劇とやらを觀に行くと言つて時々寶塚の方へ出かける天南をば、それも女欲しさの物好きと睨んだから、一目も早く家内を持たせるに限ると思つて、老僧の眼にも十人並を少し優れたあの娘なら、無斷で宛行つても喜ぶことと思ひの外、祝言の盃の間際を脱け出して、山の上の荒れた庵室に旅畫師をたよつたのであつた。
若しやと思つて、老僧は寺男に寶塚の方を探させたのであつたが、山の上の庵室へまでは氣が付かなかつた。もう死骸になつて、何處かで腐つてゐるのではないかと、老僧よりも坊守りが悲嘆の涙にくれてゐたが、生死一如と觀念瞑目して、老僧は疎らな腮髯を扱きつゝ、新たに養女となつた絹子をば、生みの娘のやうに可愛がつてゐた。
其のうちに漸く、山の上の荒れ庵室に、旅畫師と二人で自炊をしてゐるといふ天南の消息が判つたので、なまじひ他のものが行つては、また奥深く取り逃がすといけないと思つて、天氣の好い日、老僧が草履穿きで、杖を力にとぽとぼと山を登つて行つた。庵室の屋根はつい其處に見えてゐるのに、いざ辿り着くまでの細路がなかなか遠くて、石經斜なりといふ風情があつた。もう三月ではあつたが、山懐には霜柱が殘つてゐた。
久しく喘息の氣味で惱んでゐた老僧は、屡々絶え入るばかりの咳をして、里を見下ろす高い徑で杖に縋つて息んでゐた。其の咳の響きが庵室まで聞えたか、破れ戸が少し開いてまた閉つた。漸くに庵室の門まで辿り着くと、扉のなくなつた屋根の下には、樵夫が薪を積み上げて、通せん坊をしてゐたが、徑は其の脇の土塀の崩れたところに續いて、其處から人の往來する痕があつた。
戸の開つてゐる玄開へかゝつて、「頼まう」と呼ぶと、内郡でごとごとする昔がして、頭髮が肩まで伸ぴて垂れ下つて垢だらけの男が、汚れくさつた布子の上へ、犬の皮か何かで拵へた胴着のやうなものを羽繊つて、立ち現はれた。其の額には山伏のやうに兜巾を着けてゐた。これが旅畫師であらう、成るほど妙な男ぢやわいと思つて、老僧は何氣なく、畫家の香雲さんといふお方にお目にかゝりたい。わしはかういふものぢやがと、古帳面の端を切つて拵へて來た「願念寺住職橋川降法」と、大きく書いた手札を渡すと、「文人畫の香雲はわしぢやが、まア上りたまへ。」と、横柄なことを言つた。隨分老けては見えるけれど、まだ三十に足らぬ若造で、老僧は何糞ッと思つたが、腹を立てた爲めに天南を隱されると困ると考へたから、「御免下さい」と丁寧に會稗して、朽ちた式臺から上りかけたが、兎ても足袋では歩けるところでないので、一旦脱いだ草履をまた穿いて、塵埃だらけの中へ入つて行つた。見れば其の旅畫師はガタガタと日和下駄で破れ畳の上を歩いてゐるが、ところどころ雨漏りがして、畳から床板まで腐れ拔けた大きな穴から青々とした笹の葉が勢ぴよく伸ぴてゐた。それでも佛間になつてゐる一番奥には、破れながらも、畳が滿足に敷かれてゐて、經机の上に筆や紙もあり、傍には香雲と名乘る其の旅畫師の描いた山水だの蘭だのが、取り散らかつてゐた。まんざら下手でもないそれ等の畫を見て、老僧は少し感心しかけた。
丁寧に初對面の挨拶をしても、香雲は相變らず横柄に頷いてゐたが、やがて、「天南といふものが先生のお世話になつて居りますさうで、あれはわしの長男ですから、寺を相續する身分ぢやで、一應お歸しを願ひたい。と、老僧に取つては、殆んど生れて初めての慇懃さで言ふと、香雲は「ふゝん」と笑つて、「あれはお前の倅か。と言つた切り、ヂツと老僧の額を見詰めてゐた。ほんたうならごりがんをきめ込みたいところを、老僧はなほも患を殺して、俯向いたまゝでゐた。次の間で草履を脱いで、破れ畳の上に坐つてゐるのだが、唯一つの火鉢は香雲が自身に抱へ込んで客には煙草盆も座蒲團も出さない。
「どうか天南に逢はして頂きたいので。と、なほも泣き付くやうに言ふと、香雲はうるささうにして、「天南、……天南。」と、佛壇の方に向つて呼んだ。すると何を入れる爲めなのかと先刻から思つて見てゐた佛前に据ゑてある二つの長持の一つの方の蓋が、むくむくと動いて、「現はれ出でたる……」と、義太夫の節で唸りながら、長持の蓋を兩手に差上げつゝ、藁屑だらけの姿を見せて、大見得でも切りさうな樣子をしたのは、疑ひもない天南であつた。しかし、瞳を定めてよく見るまでは、全くそれと分らぬまでに、僅かの月日は彼れの樣子を變り果てたものにしてゐた。
まるで狂人ぢやと、其の時老僧は思つて、我が子ながらも氣味わるく、恐ろしくて、何んともいふことが出來なかつた。
「XXさん、よう聞いとくれ、わしは其の時、何の涙か知らんが、ぼろぼろと頬を傳うて涙が流れた。ほんまに。と老僧は兩眼に涙をいつぱい溜めて此處まで語つた。 

 

それ以來天南は全く變つた人間になつて了つた。時々ひよつこりと寺へ歸つて來るが、默つて戻つて、默つて飯を喰つて、默つて寢て、默つて歸つて行くことが多い。香雲の弟子になつて、文人畫の眞似事が出來るので、寺へ歸つて來た時、襖へ筍を描いたり、茘枝を描いたり、それに小生意氣な自贊をして行つたりした。
嫁に貰ふ筈で養女にして了つた娘は、其の後縁あつて、兵庫の寺へ片付けたが、西派の有福な門徒寺で、願念寺の坊守になるよりは仕合はせであらうと、老僧は漸く重荷を卸した氣になつたが、それにしてもあの優しい、素直な、氣だてのよい娘を、どうして天南が嫌つたのか、まだ兵庫へ片付かぬ前、山から歸つた天南に娘が挨拶をしても、天南は横を向いてゐた。
「XXさん、天南は不具者ぢやないかと、わしは思ふのぢやが、あんたはどう考へる。と、
老僧は舶場の宿で長話の末にさう言つて、こくりと首を傾けた。首を傾ける度に、骨が可なり大きな音を立てて鳴るのが、老僧の昔しからの特徴で、右に左に、首振り人形のやうにすると、骨がコトンコトンと鳴つた。それが老僧には按摩の代りにもなつたのである。
精紳的に不具なのか、肉體的不具なのか。私は其の天南といふ男を少し研究してみたいと思つた。小學校へ通つてゐる頃の天南を、私は薄く覺えてゐるけれど、其の後どんな男になつたか、私は全く知らない。それで其の日は先づそれきりとして老僧に別れたが、いづれ二三日のうちに願念寺を訪ふ約東をして置いた。さうして老僧と二人で、山の上の荒れた庵室に、香雲といふ旅畫師と天南とを見に行くことに定めた。
天南には弟が二人と、妹が二人とあるけれど、次ぎの弟は小學校も卒業しないで、諸國を彷徨うた末、今は滿洲に居るさうで、もとより住職を繼ぐ資格もない。季の弟は不如意な寺の財政の中から、無理に中學校へ通はしてあるけれど、これは何時物になるやら分らぬ。女の子の姉の方は或る山寺の梵妻になつて、生れた寺を省みることも尠く、十九になる其の妹が老僧の世話を一手に引き受けてゐるのである。天南の家出から落膽して病み付き、藥も碌に服まずに死ん
だ坊守房子の一週忌が、もう間もなくやつて來ると言つて、老僧は鼻を詰まらせてゐた。
「わしは肉身の縁が薄い生れぢや。」と、諦めたやうに言つて、私の宿から歸つて行く老僧の後姿を見てゐると、初夏の青々とした世界にも秋風が吹いてゐるやうで、いかつた肩には骨が露はに突つ立つてゐる。
約束の日は朝から好く晴れてゐた。船場の宿の座敷から眺めてゐると、梧桐の梢の青々としてゐる庭越しに、隣りの家の物干臺が見えて、幅一寸に長さ五寸ほどの薄い板が、●(魚扁に旁が及:めざし)のやうに細繩で繋いで、ドツサリ乾してあつた。あれは何んだらうと、私は先頃から度々考へたが、どうも分らなかつた。老僧にきくと、せゝら笑つて、「まアよう考へてみなされ。分らんことは苦心して知る方がえゝ。と、ごりがんの本性は違へずに、肩をいからして言つてゐた。
それ切り其のことを忘れてゐたが、今日はまた早くから、麗はしい朝日に照らされて、其の黄色い薄板が、●(魚扁に旁が及:めざし)のやうに乾してある。柔かい新緑の風は、こんなに市塵の深い瓦の上へも吹いて來て、乾された簿板が、搖々と動いてゐる。今日こそあれが何であるかを確めたいと思つて、私は欄千の側まで出て、伸べ首をしてゐたが、見れば見るはど、あんな木の端のやうなものを、どうしてあゝ大事にするのかと、それが分らなくなつた。掃除に來た女中に向つてきかうかと幾度か思つたけれど、老僧の言つたやうに、自分で考へて知つたのでなければ値打ちがないやうな氣がして、頻りに智慧を絞つたが、どうも分らない。
膳部を運んで來た女中にきかうとしては、何だか老僧の言葉を反故此にするやうに思はれ、この些細なことが俄に大事件の如く考へられて來て、私は輕い悶えさへ感じた。
「姉さん、あれ何んだね。彼處に干してあるあれ。」と、私は到頭思ひ切つて、隣家の物干臺を指さした。食事が濟んだので、茶をいれかけてゐた女中は、其方を振り向いて、「あれだツか。」と氣のない返事をしたが、「くし(櫛)でひよう。」と、事もなげに言つた。しかし私はまだ分らなかつたのである。くしをば串と解した私は、あんな幅の廣い串があるものか、事によるとこれからそれを細く割つて串にするのかも知れないが、それにしては短か過ぎるし、それに串は大抵竹ときまつてゐるのに、あんな本で串を拵へてどうするのか、團子の串にでもなるのであらう。けれども昨日からちよいちよい見るところでは、あれを扱つてゐる人が串にしては少し丁寧にやり過ぎてゐると思つて、私は不審の首を傾げてゐた。女中が膳部を下げてから、私はまた欄干の側へ出て、更に其の●(魚扁に旁が及:めざし)のやうな簿板が徴風に搖々してゐるのを眺めてゐたが、どうも串とは受け取れなかつた。
初夏にしては冷かな朝風が吹いて、宿の褞袍も重くはなかつた。串の疑問がどうしても解けないまゝに、私は褞袍を袷に着更へ、袷羽織を引ツかけて、ブラリと外へ出た。行く先きはもとより願念寺であつた。
客の込み合大きな郊外電車から、痩せ衰へたやうな小さな電車に乘り換へると、相客は多く草鞋穿きの道者連であつた。牡丹畑の見える村を過ぎて、縞のある大きな蛇の出さうな藪の間を通り、溪流に架けた危ツかしい橋を渡ると、眼の前に一帶に貧乏村が開けて馴染の深い願念寺の二重屋根が右手の方に見えた。電車を下りると、畑道が細くうねつて、絲のやうに願念寺へ續いてゐる。土が其のまゝ人になつたやうな農夫に、三人に行き逢つたが、無智と蒙昧との諸相に險惡を加へて、ヂツと私を見る濁つた眼が凄いやうである。最も多く天地の愛を受けて、自然の惠に浴することの多い人たちが、どうしてあんなに嶮しい顏になるのであらうか。私は田園に出る度に、土と親しみつゝ働く人々の姿を見て常にさう思ふのである。路傍の麥の穗は、丁度笛を作るのに頃合ひなほど伸ぴてゐた。
願念寺の庫裡の入口に立つと、足音を聞き付けたらしい老僧の聲で、早くも「ずツとお上り」と言つた。庫裡の一室は畳が破れて、自然木の大きな火鉢が置いてあつた。老僧は黒い布子の上に黄色いちやんちやんのやうなものを着て火鉢の前に端然と坐つてゐたが、幾ら心易い中でも、禮儀は禮儀だと言つたやうな顏をして、丁寧に挨拶をした。
「今日はあんたの案内で、山登りをせんならんと思うて、少し心配してたら、それに及ぱんことになつた。えてもんが向うからやつて來よつた。まるで出山の釋迦や。と、老僧は茶を淹れながら言つた。すると突然横の方の破れ障子の蔭から轉げ出すやうにして、一人の男が現はれた。
「天南です。お久しおます。」と、莞爾々々してゐる其の面ざしは、どうしても坊主顏であつた。頭髮も短く刈り、着物もさッぱりして、出山の釋迦といふ姿は少しもないのみか、親の老僧が殆んど骨と皮とに痩せてゐるのに比べて、これはデクデクと肉付きがよかつた。
「君は畫を習つてるんですか。」と、私が間ひかけると、「えゝ。……これが東京でいふしやれといふ、もんだツせ、解りまツか。と、北叟笑ひをした。
別にさう大して畸人とも變人とも思はれないで、後家の質屋にでも鑑定の附きさうな田舎坊主であつた。
「君は女嫌ひだツてほんとですか。」と、私はまた問ひかけてみた。
「さア、どう見えます、あんたの眼では。」と、天南は澄まし込んでゐた。あの張り切つたやうな體格から考へても、女嫌ひでは通らなさうなのに、或は身體が不具ででもあることかと、私は一種の痛ましい感じに打たれながら、天南の樣子を見詰めてゐた。
「また山へ歸るんですか。」
「えゝ。これはしやれやおまへんで。……下界は厭やだす。けどなア、飯だけは下界の方が可味いので、時々喰ひに來たりまんね。飯さヘなかつたら下界に用はない。」ど言ひ言ひ立つて天南は臺所の方へ行つて了つたが、それきりもう姿を見せなかつた。老僧は何時の間にか鼻の先きに汗を浮べて、ヂツと拳を握り詰めてゐた。 

 

それ以來、私は老僧に逢はなかつた。もう一度大阪の宿へ尋ねて行くかも知れないといふことであつたから、二三日心待ちにしたまゝで、東京へ歸つて了つた。
この最後の對面の時、老僧は蟲が知らしたとでもいふのか、「XXさん、わしが死んでも時々は思ひ出して呉れるやろな。思ひみ出す種にこれを一つ進ぜよう。」と言つて、朱●(土扁に旁が尼:でい)の急須を一つ呉れた。地肌が澁紙のやうに皺を見せた燒き方なので、老僧は澁紙●(土扁に旁が尼:でい)ぢやなぞと言つてゐた。
歸りに京都で宇治の新茶を買つて、早速其の澁紙●[土扁に旁が尼]の急須で淹れて飮んだことを、老僧に知らしてやると、「澁紙はうい奴にて候、仕合はせな奴にて候。貧衲はまだ新茶に縁なきに、彼れは早や其の香味を滿喫し居る由、舊主人も爾の幸運を喜んで居るとお傳へ丁され度候喉。といふ葉書が來た。老僧はまだ宋●(土扁に旁が尼:でい)、紫●(土扁に旁が尼:でい)、鳥●(土扁に旁が尼:でい)といろいろの急須を有つてゐて、それに取つかへ引つかへ粗末な茶を淹れて愛翫してゐたやうであつたが、子に縁が薄いので、急須をば子のやうに思つてゐたのかも知れない。
今年の一月に年始状を出して置いたが、先方からは何んとも言つて來なかつた。昨年の正月だつたか、骸骨の畫を書いた上へ、「ごしごしとおろす大根の身が滅りて殘りすくなくなりにけるかな」とした老僧の葉書が、多くの「謹賀新正」の中に混つてゐたのを思ひ出して、私はいよいよ大根が摺り減らされたかと、哀はれに思つてゐたが、一月も末になつてから、子供の字で「賀正」としたのが老僧の名で來た。さうして其の次ぎの日に、苦惱の痕のまざまざと見られる調はない字で、「世間並の流行感冒に罹つかつて漸く命は取り止めたり、それも束の間、肺がわるうなつて、旦夕に迫る」とした葉書が來た。偖こそと私は折り返へして、「何か喰べたいものでもあれば、還慮なく言つて來て下さい。直ぐ迭ります」と書いてやると、一週側ほどしてから、矢張り苦しさうな筆蹟で、「折角の御意、差し當り何も欲しいものはなけれども、流星光底長蛇を逸してはと、一日一夜考へ通した末、鮒の雀焼きを所望いたす。成るべく小なるがょし。それから寒夜頸筋の寒きに惱む。お女房の肩掛の古いのがあつたら一つ惠みたまヘ。頸卷き一つにも不如意な貧衲の境界を御身は如何に觀る。當より得る快さは曾つて知らねども、世貧より味ふ樂みは五十八年來嘗めつくしたり。……」として、まだ何か書きたかつたまゝで、筆を投げたさまが、葉書の餘白に現はれてゐる。表の宛名は例の子供の字であつた。
そこで私は、早速千住まで鮒の雀燒きを買ひにやつて、毛絲の肩掛けとともに迭つてやつた。すると直ぐ、「うまいあたゝかい、うれしい」と書いた苦し氣な葉書と、「鮒の雀燒を喰ふと、また雀の鮒燒きが喰ひたくなつた。隴を得て蜀……」と、これは中途で切れたながら、割合に元氣らしい字の葉書とが二枚一所に來た。
雑司ケ谷の鬼子母神へ行つて、雀の燒とりを買つて來て送つてやらうかと思つてゐるうちに、三月となつて、私は新らしい筆を起さなければならぬ長篇の準備に取りかゝつて、暫らく老僧のことを忘れてゐると、
「ごりがん事……永劫の旅路に」といふ天南からの訃報が來たのであつた。早速天南に宛てて、香料を途つておいたが着いたか、着かぬか、それさへ分らない。
近頃になつて上國から來た人の又聞の話に據ると、老僧の遣骸は滿洲に居る次男が歸つて來るまで、其のまゝにしてあつたが、次男のところがなかなか知れなかつたので、歸り着くまでに半月の餘もかゝつたといふことであつた。
(大正九年)  
 
神前結婚 / 嘉村礒多

 

(かむらいそた 1897-1933) 小説家。山口県生まれ。葛西善蔵に師事。「業苦」で文壇に登場、劣等感と自虐性にみちた私小説で知られる。代表作「途上」「崖の下」「神前結婚」。  
「お父さん、やはり私は、村の停車場からだと、村の人に逢ふのがイヤですから、恥づかしいですから、朝早く隣村の驛から發ちたいと恩ひますね。それで自動車を六時には迎へに來るやうに頼んで貰ひたいのですが」
父母の家に歸つてから二週間餘の日が經つた。一旦はユキを父母に預けようとの固い決心だつた。お互に孤衾孤眠の淋しさぐらゐ此際ものの數ではなかつたが、でも、自分に難治の病も持つてゐることだし、ユキ無しに自分は斯うしてここまで生きて歩いて來られたかしら? ユキは私にとつて永久にかけ換へのない女である。兎も角、も一度ユキをつれて明後日はいよいよ再び東京へ引き上げようとする日の朝飯の折、ユキが座を立つて皆のお膳を水口に退げ出した時、私は父に向つて言つた。「うん、そや、われが考へなら…」と、父は俯向いて舌で歯の間をチユツチユツ吸ひながら穩かに言つた。
「村の驛から行けや、何も盜ツとをして夜逃げしたわけぢやあるまいに、そねに逃げ隱れんでもええに」と、母が顏を上げて言つた。
盜ツとをして夜逃げしたのと、妻子ある三十近い男が餘所の女と夜逃げしたのと、面目玉にどれだけの違ひがあらうか! 私がユキと逐電してから離縁になつた先妻との結婚の翌々年に一人で東京見物に行つてゐて大震災に遭つて歸つた時は、部落では一軒殘らず喜びに來てくれた。だが、此度は私の仕打も仕打だし、それに父の家産も傾いて嘗ての飼大にまで手を咬まれてゐるやうな慘めな現在では何や彼と振り向くものもない有樣であつたが、それでも舊恩を忘れない人達が私が八年ぶりで歸つたといふので手土産など持つて挨拶に見えた。その都度、あわててユキを茶の間から奥へ隠し、續いて、合はす顏のない私も一と先づは隠れなければならなかつた。
逗留ちゆう私は事短に父母への不平不滿を色に出し口に出した。殊に生來仲らひの惡い母に對しては、私は持前の隔て心を揮り廻したが、しかし、親なればこそ、不孝の子、不名譽の子を、他人が眼で見るやうに不孝とも不名譽とも思はないのであつた。それなら親の御慈悲に恐れ入つたかと言へば、さ迷ひの子は、依然、さ迷ひの子に過ぎない。糞尿まで世話のやける老耄した九十の祖父、七十の父、五十六の母、先妻に産ませた明けて十四歳の松美──これだけを今まつしぐらに崩潰しつつある家に殘して到底蓮命の打開は覺束ない小説家に未練を繋いで上京するといふ私の胸中は、およそ説きやうのないものだつた。頻りに家にとどまれといふ父の心づくしを無下に斥ける以上、いろいろ作家稼業につき問ひ詰められて何んとか言つて父を安んじたいが、ウソも誤魔化しも、この年になつては言へなかつた。
「ご老體のところを濟みませんが、どうかアト一二年、長くて三年、家を支へてゐて下さい。どうしても駄目なら見切りをつけますから」と言へば、父は「うーむ」と唇を結んで私を見、父子は憮然として話が跡絶えるのだつた……
食後、父と私とは茶の間から臺所へ出、そこの十疊からの板の間の圍爐裏の自在鉤にかかつた五升入の鐡瓶の下に木ツ端をくべ、二人とも片膝を立てて頭を突き合せ默りこくつてゐた。
「村の驛から乘れえ。ユキさんぢやて、ええ着物を持つとつて、誰が見ても恥ぢになる支度ぢやない」と、母は炊事場の障子を開け濡手を前垂れで拭きながら座に加つた。
「お父さん」と私は一段聲を落した。「いづれユキを家に納めるとなれば、披露といふわけではないが、地下の女房衆だけでも招いて顏見せをして貰へませんでせうか?」
「そや、まア、オラ、どうにでもする」
私は眼で母を追掛けたが、母は答へなかつた。父の顏にも明かに迷惑げな表情が漂うた。去つた先妻への義理、親族への手前、何より一朝にして破壞し難い古い傳統、さうした上から世間體はただ内縁の妻として有耶無耶に家に入れたい兩親の腹だつた。
「茶飲友達ちふふうにしとかんかい。家の血統にかかはるけに。先先松美の嫁取りにも、思ふ家から來て貰へんぞい」と母が言つた。
私は口を噤んで項低れた。暫らくして緩い怒りに充たされた頭を上げて、怨めしさうに父を見ると、父は腕組みを解いて語気を強めて言つた。
「まア、時機を待て待て。この次に歸つた時にせいや。…おい、机の上の眼鏡を持つて來い」
母の持つて來た老眼鏡を耳に挾むと、父は手早く柱の暦を外し眞赤に燃える榾火に近よせた。
「一月十五日ぢやのう。さすればと……」と、太い指で暦の罫を押へて身體を反らし眼尻を下げて透かすやうにして「……先勝日か、よし、日は惡うない。そんぢや午頃から妙見樣に參るとせう。オラ、何かちよつぴり生臭けを買うて來う」
言ひざま父は元氣に腰を立てた。ついでに信用組合の出張所で精米をして來ると言つて、股引を穿き、ぢか足袋を履き、土蔵から米を一俵出し、小車に載せて出て行つた。
そこへ、先生が闕勤されて早びけだつたと、もう松美が歸つて來て學校鞄を放り出し、直ぐ濡縁の開戸の前にキユーピーを並べ立たせて私を呼んだ。
「父ちやん、キユーピー射的をやらう」
「やらう」
キユーピー射的といふのは、ユキが銀座の百貨店で買つて歸つた子供への土産だつた。初めはチヤンチヤン坊主とばかし思つてゐたが、よく見るとメリケンで、それ等七人のキユーピー兵隊を鐡砲で撃つて、命中して倒れた兵隊の背中に書いてある西洋數字を加へて、勝ち負けを爭ふやうに出來てゐた。一間の聞隔を置いて、私と子供とは代る代る縁板に伏せ、空気鐡砲の筒に黒大豆の彈丸を籠めては、鐡砲の臺を頬ぺたに當ててキユーピーを狙つた。
「松ちやん、何點」
「將校が五十點、騎兵八點、ラツパ卒十九點……七十三點」
「よしよしうまく出來た」
私が歸郷當座は、極端に數理の頭腦に乏しい松美は尋常六年といふのに、こんなやさしい加算にも、首を傾げて指を折つて考へたものだが、私の鞭撻的な猛練習でそこ迄でも上達させたのだと子供のために喜び、せめて心遣りとしたかつた。それにつけても、餘りにもユキとの營みにのみ汲々としないで、子供を東京につれて行き學業を監督してやるのが親の役目だと思ひ、殆ど一度はさう心を定めたが、子供を奪はれた後の年寄のさびしさを慮り、且つ、自分の生活境遇とカで併せ考へて取消した。東京へ行きたくて堪らない子供は「父ちやんの言ふこたア、當にならん當にならん」とすつかり落膽して二三日言ひつづけた。今の今まで、子の愛のためにはどんな犠牲をも拂はう、永年棄て置いた償ひの上からもとばかり思ひ詰めた精神の底の方から、隙間の小穴ふいごから、鞴のやうなものが風を吹出して呵責の火を煽るのであつた。
「ああ疲れた。父ちやんは休ませて貰はう」
私は居聞の炬燵に這入つて蒲團を引き掛け寢ころんだ。もう二月號創作の顏觸れも新聞の消息欄に出たのだらうが、定めしみんな大いに活躍してゐるだらう、自分などいつそのこと世を捨てて耕作に從事しようかしらと、味氣ない、頼りない心でぽかんと開いた空洞の眼をして、室の隅に積み重ねてある自分達の荷物の、古行季、バスケツト、萌黄色の褪せた五布風呂敷の包みやを見てゐた。
「父ちやん、ハガキ・…」
仰向けのまま腕を延べ、廻迭の附箋を貼つたハガキを子供から受取り裏を返すときやツ! と叫んで私は蒲團を蹴飛ばして跳ね起きた。
「おい、ユキは何處に居る、早く來い、早く來い」と喚き立てながら臺所へ走つて行つた。「おい、何處へ行つた、早く來い、早う早う」
只ならぬ事變が父の運命に落ちたと思つたのか、子供は跣足で土間に下り「母ちやん、母ちやん!」と二タ聲、鼓膜を劈くやうな鋭い異樣な聲を發した。途端、向うに見える納屋の横側の下便所からユキが飛び出し、「父ちやんが、どうしたの」と消魂しく叫んで駈け寄つて來て臺所に上ると、私は、「これを見い」とハガキをユキの眼先に突き附けた──御作「松聲」二月號のXX雜誌に掲載する事にしました、御安心下さい──といふ文面と、差出人の雜誌社の社長のゴム印とを今一度たしかめた刹那、忽然、私は自分の外に全世界に何物もまた何人も存在せぬもののやうな氣がした。私は「日本一になつた!」とか何んとか、そんなことを確かに叫んだと思ふと、そのハガキを持つたままぐらぐらツと逆上して板の間の上に舞ひ倒れてしまつた。後後は、野となれ山となれ、檜舞臺を一度踏んだだけで、今ここで死んでも更に恩ひ殘すところは無いと思つた。暫時の間、人事不省に陷ちたが、氣がついて見ると、ユキも私の傍に崩れ倒れて、「ああ、うれしいうれしい」と、細い長い長い咽び入つた聲で泣き續けてゐた。目前の活劇に、ただ呆氣にとられた子供は、その場の始末に困つて、「祖母さま祖母さま」と、母を呼んだ。
母が裏の野菜圃から走つて戻つて、
「あんた達、何事が起つたかえ」と仰天して上り框に立疎んだ。
忘我から覺めて、私は顏を擡げると、私の突つ伏した板の間は、啜り泣きの涙や洟水や睡液でヌラヌラしてゐた。
ユキが眼を泣き腫らして母の傍へ行つて仔細を話した。
「そんぢや泣くこたない。わたしら何か分らんけど、そねいめでたいことなら泣くこたない」と、母は眼をきよとんとさせて言つた。
「早くお父さんに知らせて上げたい。松ちやん迎へに行つて來い」
斯う子供に命じて置いて私とユキとは居間に引揚げた。「おお、びつくりした、松ちやんの聲がしたので、あなたがまた腦貧血を起したのかと思つて」とユキは手で胸を撫でて言つた。「ほんとに、たうとう出ましたね」
「ああ、出てくれた!」
二人は熱い息を吐き改めて机上のハガキに眼を移して、固く握手し、目にたまる鹽つばい涙をゴクリゴクリ呑んだ。さうしてゐる間に、いつしか私は自然と膝の上に手を置き項を垂れて、自分の貧しい創作を認め心から啓導の勞を惜しまなかつた先輩や、後押ししてくれた友達の顏やをいちいち瞑つた眼の中に浮べ、胸いつばいの感恩の念で報告してゐた。
「このハガキは十一日附のものだから、電報で御禮を言つて置かなければ……」
「ぢや、わたくし行つて參りませう」
「でも、郵便局まで三里もあるんだし、女の足にはちよつと……よろしい、淺野間の吉三をやらう」
取るも取り敢ず母に頼むと、母は二丁ばかし隔つた山添ひの小作男の家に行き、慌しく取つてかへして家の前の石垣の下から、「吉三は炭燒窯に行つちよるが、晝飯にや戻るけに直ぐ行かすちふて、お袋が言うたいの」
そして續けて、「お父さんが、向うに戻れたぞい」と言つた。
私とユキとは縁側に出た。左右に迫つた小山も、畑も、田も、悦びに盛り上つて見えた。高い屋敷からは父の姿は見えなかつたが、杉林の間の凸凹した石塊路をガタガタ車輪が躍つてゐる音が、清澄な空氣の中に響いた。と母は、埃だらけの髮の後にくくつた手拭の端をひらひら靡かせながら、自轉車を押した松美と並んで車を挽いた父に、林の外れで迎へ着いた。父と母とはちよつと立ち話をしてゐたが、直ぐ母は小車の後を押し、首に手拭を卷いた父は兩手で梶棒をつかみ、こつちに藥鑵のやうな頭のてつぺんを見せ、俄に大股に急ぎ出した。梶捧の先には鰓に葛蘿を通した二尾の鮎がぶらんぶらんしてゐた。
屋敷前の坂路を一氣に挽き上げた父は門先に車を置きつ放すが早いか、手拭で蒸氣の立つ頭や顏を拭き拭きせかせかと縁先に來て、「えらう立身が出來たちふぢやないか」と、相好をくづした輝いた笑顏で問ひかけた。
私は一伍一什を掻いつまんで話した。呼吸がせはしくなり、唇も、手もふるへた。思ふやう喜びが傳はらないのをユキが牾しがつて横合から、
「お父さま、ほんたうに喜んで下さい。大そうな立身でございますの。これで、ほんとに一人前になられましたから」と、割込むやうにして話を引き取つた。
私は口をもぐもぐさすばかり、むやみにそはそはして、何んだかひよつとしたら小説が組み置きにでもされさうな豫感がして、私はそれを打消さうと三度強く頭を振り、無性に吉三が待ち遠しく、
「松ちやん、淺野間のお袋に炭焼窯まで大急ぎで呼びに行くやう吩附けて來い。愚圖愚圖してるなつて、大至急の用事だからつて」と權柄がましく言つた。
瞬く間に、松美が自轉車を乘りつけると、お袋はあわてたやうに背戸の石段を下りて川の淺瀬の中の飛石を渡つて麥田の畦を走り、枯萱の根つこにつかまつて急勾配の畑に上り、熊笹の間をがさがさ歩いて雜木山の中に消えたのを、ぢいつと私は眼を放さずに見てゐて、何かぐツと堪へ難いものが心を壓へた。間もなくボロ洋服を着て斧をさげた吉三が、息せき切つて家に駈けつけた。
「お仕事中をお呼び立てして、どうもお氣の毒でした。あなたは電報を打てますね?買は非常に大事な電報なんでしてね」
「はあ、よう存じてをります」
「吉さんなら、間違ひないて。廣島の本屋へ二年も奉公しとつたけに」
と父の口添ひで私は安心し、ノートの紙片に書いた電文と銀貨二箇と、それから別に取り急いで毛筆でしたためた、御葉書父の家にて拜見致し感謝の外これなくお鴻思心肝に徹して一生忘れまじく候──といつた封書も一しよに渡して投函を頼んだ。吉三は軒下で子供の自轉車を股の間に挾み、スパナで捻子をゆるめてハンドルを引き上げ、腰掛けを引き上げして、片足をペタルにかけるとひらりと打跨つて出て行つた。
父は足を洗つて居間に來、私とユキとに取り卷かれて、手柄話の委細を重ねて訊ぎ返した。
「そんで、そのXX雜誌にわれの書き物が出るとなると、どういふ程度の出世かえ?」
多少の堕落と疚しさとを覺えながらも、勢ひに釣られて私は頗る大袈裟に、適例とも思へないことを例に引いて説明した。  
「なる程、あらまし合點が入つた」
「ぢや、われ、この次に戻る時にや金の五千八千儲けて戻つてくれるかえ?」と何時の間に來たのか襖際に爪をかみながら立つてゐた母が突然口を出した。
「いや、途轍もない、さうはいかん。そりや松美の教育費とか、その他ホンの少額のことは時をりアレしますけど、そんな滅法なことが、どうして……東京でも田舎で食べるやうなものを食べて、垢光りに光つた木綿を着て、儉約して臆病にしてゐるからこそ暮せてるんですしね。私の場合は、ただ名譽といふ丈ですよ。尤も、お母さんの金歯だけは直ぐ入れて差し上げませう」
兩親を失望させまいとはするものの、もう斯うなれば、私は心の中を完全に傳へることは不可能だと思つて、暗い顏をした。
「よう喉入りがした。實はのう、われが東京で文士をしちよるいふので、オラ、川下の藤田白雲子さん、あの方も昔東京で文士をしとりんされたんで、聞いて見たところ、文士といや名前ばつかり廣うて、そやお話にならん貧乏なものやさうな。大學を出とりんさる藤田さんでも、たうどわしらう見限つたと仰言れた」
と父は瀬戸火鉢の縁を兩手で鷲づかみにして躊躇した後、
「……今ぢやから言ふがのう。われが東京へ逃げて行つた時、村の人が、どんだけわれがことパカバカ言うたかい。出雲の高等學校の佐川一太が文部省の講習會に行つたついでとやら、われが二階借りの煎餅店の女房に聞いたいうて、ユキさんに縫物をさせて一合二合の袋米を買うて情ない渡世しちよるちふて近所の衆に言ひ觸らし、近所の者ア手を叩いて笑うたそよ。おほかた、一太めが、煎餅の二三十錢がほど買うて女房から話をつり出したらうが、高等學校の先生ともあるもんが、腐つたヲナゴ共のするやうな眞似をして、オラが子の恥ぢを晒すかと思うて、その晩は飯も喰はず眠れんかつた。有體に言や、われを恨んだぞよ。そんぢやが、三年前われの名前が小學校の先生に知れてから、前程パカバカ言はんやうなつた。山上の光五郎ら、天長節の祝賀會で、親類の居る前で、われがこと字村の名折れぢやと言うたぞよ。治輔めが飲食店で人の多人數をるところで、家の下男がをるのに、聞いて居れんわれが惡口を言うたげな。何奴も此奴も人の大切な子を輕率にパカバカ言ふない、とオラ歯がみをしとつたが、近頃ぢやみんな默つた。今度も、名前がええ雜誌に出たら、われが事バカパカ言ふものも少なうならうて。オラ、それ丈で本望ぢや」
父の温和な顏には一入の嚴しさが寵つた。私は聞いてゐて恐ろしくなつた。嘗ての父が小つぽけな權力を笠に着て、端から見てさへはらはらするやうに、思ふ存分我意を振舞ひ、他人の子をバカバカと言つた、その報復を受けたのではないか! 私は骨まで痛むやうな氣がしたが、又自己だけの問題とすれば、如何にも降るやうな罵詈を浴びてゐたことは、私にも思ひ半ばを過ぐるわけなのに、それ程とは氣附かず、我身の至らなさは棚に上げ、やれ官立學校の背景がないとか、私學のそれもないからとか、先日來さんざん老父母に當り散らしたものだが、衷心申譯ないと思つた。「松聲」は愚作でも次の作品には馬力をかけたい、歸京したら夜學に通つて英語の稽古をして外國の小説を學んで手本にしよう、願徒然ならず、一心でやりますから、萬事いい方に向けるやうにしますから、と無言で父に詫びた。「われも、東京に行くに精がええのう。まア、よかつたよかつた。……どれ、オラ、魚を切らにや」みんな臺所へ行き、私の居間の炬燵にもぐつた。裏の池の水際で鯖を叩き切る音、膾にする大根を刻む音、ふつふつ煮える釜の飯、それらに混つて賑かな話聲が入り亂れ、やがて薄暗い勝手の隅から、少年の頃には、その、きゆツきゆツといふ音を聞いても口に唾を溜めた四角な押壽司を押す音が懐しく聞えて來た。
ユキが來て何か話に事を缺き、
「松井さんは、疾うに東京へお歸りになつたでせうね。わたし共二人で歸ると、小説が出たので、わたしも一緒に歸つたとでも思つたりなさらないでせうか」と言ひ置いてまた忙しい臺所へ去つた。
それで、ふと、私も松井さんのことを思つた。
──下關行の急行が新橋を過ぎた頃、これが郡會との別れかといつたやうに潤んだ眼で師走の夜寒の街街の灯を窓から眺めてゐるユキを、どう慰めやうもなく横を向いてゐる私の肩を叩いて、「やあ、Kさん」と馴馴しい聲がかかつて、私は顏を上に向けた。思ひもかけず、大賣捌所T堂會計係の松井金五郎さんが、八端織の意氣などてらを清て、マントの兩袖を肩にめくり跳ね、右手に黄色い布につつんだ細長いものを握つて立つてゐた。
「僕、東京驛で、上車臺で押されていらつしやるところをお見かけしましたが、同じ箱に乘れませんでした。どちらへ?」
「やあ、これは松井さん。僕等Y縣の郷里へ……あなたは?……九州、久留米、あ、さうですか。これはいいお件れが出來た」
立所に救はれたやうな朗かな氣持になつた。ユキとの一晝夜からの愁ひを抱いた汽車旅は迚もやりきれないものに思へてゐた矢先なので。私は遽に快活になつて、きよろきよろと松井さんの持物に眼をくれた。
「それは何んですかね?」
「軍刀です」
「ほ、軍刀?」と、私は五體を後に引いて眼を丸くした。「ええ、その、僕、豫備少尉でしてね。滿洲の方ではのがれましたが、南方の戰では足留めを喰つてましてね。しかも、今日明日もあやしい状態で、それで、年越しに田舎へ行くにも、腰のものはちよつと離せませんでしてね。ハハハハハ」と、淺黒い顏の愛矯のいい目に皺を寄せ、漆黒の髮をきれいに梳けた頭を後に振り反らして笑つた。
「ちよつと私に見せて下さいませんか、軍刀といふものを」
私は手を出して軍刀を松井さんから引き取り、包みの紐を解き、鮫皮で卷いてきらびやかな黄金色の鋲金具を打ち附けた握り太の柄にハンカチを握り添へて、膝の上で六七寸ばかり抜いたが、水のしたたるやうなウルミが暗い電燈にぴかツとし慄然と神經が寒くなつて、直ぐ元通りにして返した。
座席のそつちでもこつちでも戰爭の話がはずんでゐて、列車内の誰の顏にも戰時氣分の不安の色が漲つてゐた。少時、私達も戰爭の話をした後、松井さんが先頭に立つて三人は食堂へ行つて紅茶を飲んだ。松井さんは文學が好きで、私の短い自敍傳小説も讀んで下さり、また私が毎月同人雜誌の集金にT堂へ行く關係で親密の度を加ヘ、かなり昵懇の間柄であつた。
「Kさん、何年ぶりです」
「まる八年、足掛け十年目ですよ」
「長塚さんなんか、大阪の新聞の懸賞小説で一等當選して羽前の郷里に歸省なすつた時は、村の青年團が畑の中から花火を上げたさうですよ。Kさんも、花火が上りませう」
言つてしまつて松井さんは、私の頭を掻く顏を見て、氣の毒したといふ表情をした。
「Kさんの場合は本當に困難ですね。長塚さんへ會ふたびにさう言つていらつしやいますよ」と松井さんは言ひ直したが、後に繼ぐ言葉はなかつた。
「……時に、松井さん、私もいろいろ考へたんですけれど、松井さんだからお打ち明けしますが、私もいよいよ都落ちの準備ですよ。今年なんか一ケ月平均原稿料としては八圓弱しか入りませんでした。不足の分を補助してくれる人もありますが三十五にもなつた男が、そんなに何時までも他人に縋つてはゐられませんしね。翌日の食物があるか無いかも知らずに藝術を作つてゐたといふ人もありますが、そんなことを思ふと私のはまだまだ豐滿なる悲哀で恥づべきですけれど、しかし、實のところを申上げますと、私のはその勇氣が有る無いよりも作つても發表が出來ないのですからね。賣れないといふことには困りますよ。いや賣れなくても、心の持方一つで純粹な制作を樂しむことは出來ますが、かと言つて、筋道の通らん女はつれてるし、だんだん年は取るし、老後を想ふと身に浸みますね。それで、行き暮れぬうちに女を遮二無二兩親に引き取つて貰つて、僕は流浪の身にならうてんです。いづれにせよ早晩旗を卷くとしても、女が郷里にをれば都落ちの口實が設けいいし……松井さん、ずゐぶん私は卑怯でせう。笑つて下さい」と、私はわざと聲高にカラカラと笑つた。
「さうですか。それは奥さんはお淋しいですね……」松井さんはしみじみとしてゐた。が誰にも口外してないこの擧を、うつかり松井さんに喋つて長塚なんかに暴れたら嗤はれると思つたが、さすがに口留めは出來なかつた。
車室に戻つてからも妙に氣になつた。或は長塚は嗤ふどころか、寧ろ心を痛めはしないだらうか。名聲の派手な割合に心實は孤獨で、その一點には理解を持つてゐる私を、彼は立場や作風の餘りにも異るに拘らず、蔭日向なく私を推奬してゐた。秋前、ある大雨の日、私達の同人雜誌を廢刊すろか否かの會議が、銀座裏の喫茶店で開かれた時、長塚は敢然として廢刊説を主張した。
「この雜誌はX社のバリケーイドのやうに思はれる。廃さう、損だから」と、古參の或口利きが言つた。
「さうだとも。X社系の雜誌なんか、廢したはうがいい。K君なんかX社系の文士だといふので、何處へも原稿が賣れやしない。僕が、雜誌の名は言へんけど、どんなに頼んでやつてもX社系といふので通らん。てんで受付けん」と、長塚はズパリと言つた。
二十人からの一座の視線は一齋に、襟首まで赤くなつた私に集まつた。私は泣き出したかつた。色彩が古く非文明的だといふことで、私が細い産聲を擧げたそのX社の雜誌でさへ、公器とあらば致し方がない。この一年に一篇の創作を載せて貰ふことも出來なかつた。右を向いても、左を向いても、仲間はみんな一流雜誌に乘り出して行くし、私は今にも發狂しさうだつた。私は白分の小説をユキに讀むことを許さず、ユキも決して讀まうとはしなかつたが、戸惑つた私は以前とは變り、文壇の不平小言を女相手に言ふやうな淺間しいことをして、後では必ず自分の不謹慎を後悔した。「いいから、おつしやいな。わたしをつかまへておつしやるぶんは、石の地藏樣にものを言ふやうなもので、何も判りやしませんけれど、おつしやいな。それで氣持をさつばりさせた方がいいですよ。胸に疊んで置いて、鬱憤を人樣に言つたら、それこそ取り返しはつきませんよ」とユキは注意した。會合などに行く時出掛けにはユキが念を押して口枷を嵌めんばかりに忠告をし、夜遲く歸つて玄關を入るなり、「今晩は別段言ひ過ぎはしませんでしたね?」と訊き糾した。段段さうなつた擧句、私は思ひ決して、厭がる彼女を無理往生に納得させ、國もとへ預けることにした。私は××雜誌に先輩の紹介で七十枚からのものを送つてゐたが、歸郷間際に思ひ立つて六十枚の新作を描き暮れの二十二日に持込んで前のと差し替へ、前のは郷里で描き改めようと、原稿紙やペン先の用意をしてトランクに入れて來て、頭上の網棚にのせてあつた。
汽車は濱松へんを夜中の闇を衝いて駛つてゐた。
「あれが出てくれるといいですがね」と、ユキは言つた。
「出てくれるといいけれど、待てど暮せど出てはくれん」と、私は溜息を吐いた。
「もし、萬が一出たら、直ぐ電報で田舎へ知らせて下さいよ。一年でも二年でも待つてゐますからね。」
「しかしね、私のは時勢に向かんからね大概は駄目でせう。それは、あなたも分つてゐてくれますね。田舎者が、今日流行の、都會派や享樂派に似せようとしたつて似ないから。。……藝術は夫自身が目的で、人生の幸福を得るための手段と心得たら大間違ひだ。成功するための手段ではなくて、實に此一道より他に道はないから結果は分らぬが、たとへ虎が口を開いてても、大蛇が口を開いてても、此一道を行かにやならん、といふのが私の信念なんだから」と、私は握拳を固めてわれと自分へ極めつけるやうに言つた。
「ええ、それは分ります。でもね、どうぞして出てくれるといいですがね。もし出たら、直ぐ迎へに歸つて下さいね、後生ですから」
そのうち私は眠つてしまつた。が、ユキのはうは、初對面である私の兩親、祖父、ユキには繼子の松美のゐる遠い山の家へ、欲しがつた箪笥も、鏡臺さへも買ふことを私に拒まれ、行李二個の持物で道ならぬ身の恥ぢを忍んで預けられに行く流轉生活を思うて、寢つけなかつた。程なく私が眼を覺ますと、私が讀みかけの本の表紙の文字を隠したカバーの紙に、
ま暗き海にただ一人漕ぎ出し背の舟を
我は渚に待ちて祷らん
と鉛筆で書いて、私に氣がつき易いやうに脇に置いてゐた。私に對ひ合つてハンカチーフで寢顏を隠してゐるユキを見詰めて、込み上ぐる憐憫と何うにもならぬ我身の不甲斐なさとを思つた。……
こんなことが、今、夢のやうに思ひ返されて來る。さうした囘想の間にも、喜びの餘震が何囘も襲うて來た。
ユキは又、手隙きを見計つて勝手から來た。
「靜岡に着いたら朝刊を買ひませうよ。大きな廣告が出てゐるでせうね。……毎日十九日が來るのが悲しかつた。十九目の新聞に方方の雜誌の廣告が出ると、あなたが頭を抱へて、ああイヤになつた、イヤになつた、僕ら親父の家に歸る親父の家に歸るつて四五日は機嫌が惡くて、ほんたうに、わたし、毎月毎月、十九日が來るのが辛かつたですね」
私は顏をばつと赧らめ、苦笑の唇を弱つたやうに歪めたが、赧らんだ顏が見る見る土色に褪せるのが自分に分つた。
「もう何んにも言うてくれるな」と私は眉根を寄せ手を激しく振つて叱つた。「奇蹟だよ、僥倖だよ。一つ二つ出たからつて、行く道は難い。これで前途が明るくなるとか、平安とか、さういふのとは違ふんだもの」
災なる哉災なる哉、と思つた。嬉しいやうな哀しいやうな、張合拔けのしたやうな、空無とも虚無とも言ひやうのない重い憂鬱が蔽ひかぶさつて、それきり私は押默つた。
一と時、覿面に來た興奮の祟りから顏が眞赤に火照つて咳が出て、背筋の疼痛がジクジク起つた。持つて歸つた藥瓶を取り上げると底の沈滓が上つて濁れたが、私は顏を蹙めて口飲みにして、小一時間ほど靜かにしてゐた。
外では小雨がそぼ降り出した。六里隔つた町から午砲が聞えて來た。「おい、行かうぞえ」と父の聲がかかり、私は大儀だつたが起きて丹前の上を外套でつつみ、戸口に立つて私を待つてゐる父と連れ立つて私だけ傘をさして家を出た。私は歸郷以來初めての外出だつた。一と足遲れて家を出た、茣蓙を持つた松美と、レース絲の編み袋に入れた徳利をさげて焦茶色のコートを着たユキと、重箱を抱へた母との三人が、家の下の土橋を一列に渡つて田の畦を近道して山寄りの小徑では一と足先になつて、父と私との追ひ着くのを待つた。學校服に吊鐘マントを着て長靴を穿いた子供は、小犬のやうにどんどん先へ走つて、積み藁の蔭や竹藪の蔭から、わツ!と言つて飛び出してユキを魂がしたりした。爪先上りの赭土の徑を滑らないやう用心しいしい幾曲りし、天を衝いて立つてゐる樫や檜の密林の間の高い高い石段を踏んで、やうやつと妙見神社の境内に着いた。ここからは遠く碧空の下に雪を頂いてゐる北の方の群峰が鮮かに見えた。
私は二十年もここに參詣に來てないわけであつた。が昔ながらに、森嚴な、幽寂な、原始氣分があつた。雨にしめつた庭の櫻の木で蒿雀が一羽枝を渡り歩いて、チチチと鳴いてゐた。亂雜な下駄の足跡を幾つものこしながら私達は燈寵の間を歩いて、茅葺の屋上に千木を組み合せた小ぢんまりした社の前に立つた。拜殿の鴨居の──舊在南山儀驗紳今遷干此、云云……寛文四年秋──と彫り込んだ掛額の前にぶら下つた鈴の緒を、てんでに振つて、鈴をヂヤランヂヤラン鳴らして拜殿に上り、正面の格子を開いて二疊の内陣に入つた。七五三繩を張つた扉の前には、白木の三方に土器の御酒徳利が二つ載つてゐた。そこへ持つて來た重箱や徳利を供へると、父は袂から蝋燭を三本出して、枯木の枝のやうな恰好した燭臺に立てて火をつけた。
そして畏まつて扉に向つて柏手を打ち、「ナム妙見、ナム妙見」と口の中でぶつぶつ言つた後、傍らの太鼓を叩くと、
マカハンニヤハラミタシンギヨウ、カンジザイボウサツ……と御經を高高と讀み出した。父の背後に私と子供とはきちんと畏まつてゐた。御經がずんずん進んでゐる最中、ユキが「お母さま、ほんとに靜かないいところでございますね」と話し出したので、私はユキを屹と睨んで默らせた。
讀經が終ると早速お重を下げ、ユキが壽司を皿にもつて配り、木がら箸を二本づつ添へた。私も子供も直ぐ壽司を食べ出した。父は徳利の酒を手酌で始めたので、ユキがお酌をしてやればいいのに氣の利かぬ奴だと腹立たしく思つてゐると、父は靜に飲み乾して、手首で盃の縁を拭いて、
「そんぢや、あなたに一つ差し上げませう」とユキの前に出した。
「いいえ、どうぞお構ひなく、わたくしお酒はいただきませんから」
私はくわツと胸が熱くなつて、「馬鹿、頂戴したらいいだらう、飲めなくたつて」とたうとう苦がり切つて言つた。
「いやいや、ご婦人の方は、ご酒は召上らんはうがええけど、まアまアーつ……」と、父は私の荒げた聲を宥めるやうに言つた。
ユキは母に酌をして貰つて飲むと、「お父さまにお返ししませう」と、盃を返した。父は如何にも滿足さうに、「ぢや、お受けします」と言つて受取ると、ユキがお酌をし、少しこぼれたのを父は片つ方の手の腹に受けて頭につけながら母に向つて、「お前もユキさんに上げえ」と命じた。
咄嵯に、はツとして何か私の胸に應へて來た。土蔵の朱塗の三つ組の杯を出し正式の三三九度は出來なくとも、父が心底ユキを赦して息子の嫁としての親子杯──さうに違ひない、すべて屹度父一人の考へなのだと勘付くと、心にしみて有り難さが湧いた。が、次の瞬間、それは恐ろしい速力で、あの、三つ組の赤い杯を中にして眞白の裲襠を着た先妻と、八枚折の鶴龜を描いた展風を立てた奥の間で燭宴の黄ろい灯に照らされて相對した婚禮の夜が眼の前に引き出され、燒き付くやうに苦惱が詰め寄せた。と同時に今日の一切の幸福が、その全部を擧げて暗黒の塊りとなつた。私は苦しみを一刻も速く俄雨のやうに遣り過ごしたいと箸を握つたまま鬪つてつてゐると、父が訝しげな面持で、
「ぢや、われにやらう」と盃を私にくれた。私は微笑を浮べて父に酬盃し、別の盃を予供にやつて「飲んだら母ちやんに上げなさい」と、ぐつたりした捨鉢の氣持で言つた。子供は私の注いでやつた盃を兩手でかかへ首を縮こめて口づけ乍ら上目使ひに「母ちやんの顏が赤うなつた、涙が出るやうに赤うなつとら」と、ヘうきんに笑つた。愚鈍なユキは、飲み慣れぬ一二杯の酒に醉つて、子供の言ふ通り涙の出さうな赤い顏して、神意に深く呪はれてあるとは知らず、ニコニコしてゐた。
(昭和八年作)  
 
話の屑籠 / 菊地寛

 


對米交渉の經過の發表を讀むと、今更ながら米國の頑冥不靈に驚かざるを得ないものがある。日本の對支方針が、無賠償不割讓と云ふ寛大公正なるものである以上、米國が眞に東洋の平和を想ふならば、蒋介石を説得して、その無益なる抗議を中止せしむべきが當然である。然るに、數年來の援蒋行爲、對日經濟壓迫に依つて、事變の解決を妨碍した上、今亦太平洋の平和維持のために、隱忍努力せんとする日本に對し、日本の過去に於ける血と汗の業績を無視せんとするのであるから、對米交渉が遂に決絶するのは當然である。之以上、日本が隱忍したならば、日本は衰退の一路を辿る外なかつたであらう。ルーズベルト大統領が、その獨善的理念に依つて、世界をリードせんとする野望が、今次大戰の直接原因として、後世史家の指彈の的となるであらう。

米國は、今より八十九年前、武力に依つて、日本の鎖國の妄を破つてくれた。これは、米國が世界の文化に貢献した事蹟に違ひない。今、日本は、武力に依つて、米國の獨善的迷妄を撃破せんとしてゐる。之は、米國に對する一つの返禮であると共に、人類文化の進展に對する大功業となるであらう。

自分は、前月號で、一度太平洋の風波が動かば、わが海軍が太平洋ばかりでなくインド洋、南洋に於ても、驚天動地の活躍をするだらうと書いておいたが、開戰劈頭の布哇空襲、開戰三日後の英主力艦隊撃滅などは、自分などの無想もしなかったことである。目の上のコブのやうな氣がしてゐたプリンス・オヴ・ウエールスの撃沈を聞いて、涙を流して喜ばなかつた日本人は、一人もゐないであらう。しかも、その犠牲は飛行機が三機と云ふことである。飛行機の建造費は、いくらかかるか知らないが、三機で百萬圓以下であらう。人命の損失も、十人以下であらう。敵主力艦二隻は、數億萬圓であり、人員の損失は四千五百人と云はれる。決死殉國の十人は、百倍千倍の物と人間とを撃滅したのである。今更ながら、皇軍將士に對する感謝の念が溢れると共に、國民凡てが殉國の決心を以て蹶起したならば、資源的不利などは、克服して餘あるであらう。我々國民は、この赫々たる書泉の大戰果に必勝の自信を確めた上、私心を斷絶し、鐵の如き意思を以て、あらゆる艱苦を克服し、戰爭目的完遂のために邁進することが必勝の道であらう。支那事變の四年半に於て、國民の臨戰體制の小手調べは出來たのだ。これからが、本格である。我々は、二千六百年來の先祖に對し、亦、子々孫々に代つて、皇國興亡の大戰を敢行すべき責任を負つたのである。一身一家の事などを考へて、先祖を汚し無限の子孫を裏切つてはならないのである。

歐洲の海面では、縱横に活躍してゐた英主力艦が、東洋の水面に姿を現はすと、開戰たつた三日目に沈んだことは、實に會心の事である。新聞記者が、ドイツの當局に(なぜ獨逸(ドイツ)空軍が、もつと英艦を沈めることが出來ないか)と、改めて質問したと云ふのも、尤もである。その答は、獨逸の空軍は陸上の敵を撃滅するのが主眼であると云ふのであつたが、日本の空軍の技術と氣魄が、世界一であることは、何人も疑ふことは出來ないだらう。海軍航空隊では、出動のとき、(參ります)とは云ふが、(行つて參ります)とか、(行つて來ます)とかは、云はないさうである。常に、生還を期してゐないのである。もつとも、これは、空軍ばかりでなく、陸海軍將士全體の出動のときの心がまへであらうが。

本誌も二十周年を迎へたが、平常ならば、何かお祝ひをしたいのだが、かうした時期であるから、何もやらない。本誌は事變以來、今迄も國策順應の態度であつたが、今後は、もつとその態度を強化徹底するつもりである。そのために、今迄の本誌らしい特色なども、無くなるかも知れないが、そんな事は言つて居られない。改めて、讀者諸君の支持を、お願して置くが、しかし雜誌がつまらなくなつたと云つてよす人は、よしてくれてもいゝと思つてゐる。

我々文壇の有志で、航空文學の樹立、航空思想の普及のために、陸軍航空本部の支援の下に、昨年以來航空文學會なるものを作つてゐるが、今度「航空文學賞」を制定し、本年度から授賞することになつた。文學賞と云へば、講談社で故野間清治氏の記念のために設立された「野間奉公會」の文藝賞(賞金一萬圓)が、眞山青果氏に授賞されることに内定した。審査員は、徳田秋聲氏、武者小路實篤氏、正宗白鳥氏と僕との四人である。眞山氏の戲曲は、その創作に際しての周到なる準備とその眞摯な努力と、相俟つて現代の文藝界に、特異な存在を示してゐるものだが、從來あまり窺はれることの少かつた人だけに、今度の授賞は、妥當であると信じてゐる。

十六年度の文藝銃後運動も、臺灣が都合で取り止めになつた外は、無事完了した。至るところ相當の效果を擧げたことを確信してゐる。講師諸君も、その多忙な時間をくり合はせて、皆快く東西をかけ廻つてくれたことは、主催者として感謝の外はない。情報局、鐵道省、大毎東日兩社の盡力に對しては感謝の外はない。いよいよ大東亞戰となつた以上、我々文壇人も來年は構想を新にして、もつと直接切實な御奉公をしたいと思つてゐる。

この原稿を書いてゐる十三日の夜、「小牧山合戰」と云ふ講釋の放送があつた。かう云ふ歴史物の講釋は、いつも史實が間違つてゐるが、この小牧山合戰でも、池田勝入齋信輝が、小牧山を拔けがけに攻めることになつてゐる。事實は、勝入齋が、家康が小牧に出陣してゐる隙に大迂囘して家康の本國三河を衝かうとするのを、家康が追撃して、長湫で勝入齋を討ちとるのである。今度は歴史物の講釋を放送する場合は、放送局であらかじめ誤謬があるかないか檢討して貰ひたいと思ふ。 
 
牛肉と馬鈴薯 / 國木田獨歩

 

明治倶樂部とて芝區櫻田本郷町のお堀邊に西洋作の餘り立派ではないが、それでも可なりの建物があつた、建物は今でもある、しかし持主が代つて、今では明治倶樂部其者はなくなつて了つた。
この倶樂部が未だ繁盛して居た頃のことである、或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火が點いて居て、時々高く笑ふ聲が外面に漏れて居た。元來この倶樂部は夜分人の集つて居ることは少ないので、ストーブの煙は平常も晝間ばかり立ちのぼつて居るのである。
然るに八時は先刻打つても人々は未だなかなか散じさうな樣子も見えない。人力車が六臺玄關の横に並んで居たが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。
すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被つたのが、眞暗な中からひよつくり現はれて、いきなり手荒く呼鈴を押した。
内から戸が開くと、
『竹内君は來てお出ですかね』と低い聲の沈重居た調子で訊ねた。
『ハア、お出で御座います、貴樣は?』と片眼の細顏の、和服を着た受付が叮嚀に言つた。
『これを。』と出した名刺には五號活字で岡本誠夫としてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上つて去つたが間もなく降りて來て、
『どうぞ此方へ』と案内した、導かれて二階へ上ると、煖爐を熾に燃いて居たので、ムツとする程温かい。煖爐の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄つて居る。傍の卓子にウヰスキーの壜が上て居てこつぷの飮み干したるもあり、注いだまゝのもあり、人々は可い加減に酒が廻はつて居たのである。
岡本の姿を見るや竹内は起つて、元氣よく
『まアこれへ掛け給へ。』と一の椅子をすゝめた。
岡本は容易に座に就かない。見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。竹内はそれと氣がつき、
『ウン貴樣は未だ此方を御存知ないだらう、紹介しましやう、此方は上村君と言つて北海道炭鑛會社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く舊い朋友で岡本君……。』
と未だ云ひ了らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で
『ヤ、初めて……お書きになつた物は常に拜見してゐますので……今後御懇意に……。』
岡本は唯だ『どうかお心安く。』と言つたぎり默つて了つた。そして椅子に倚つた。
『サア其先を……、』と綿貫といふ脊の低い、眞黒の頬髭を生して居る紳士が言つた。
『さうだ! 上村君、それから?』と井山といふ眼のしよぼしよぼした頭髮の薄い、痩方の紳士が促した。
『イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなつたハゝゝゝ』と炭鑛會社の紳士は少し羞にかんだやうな笑方をした。
『何ですか?』
岡本は竹内に問ふた。
『イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生觀を話すことになつてね、まア聽いて居給へ名論卓説、滾々として盡きずだから。』
『ナニ最早大概吐き盡したんですよ、貴樣は我々俗物黨と違がつて眞物なんだから、幸貴樣のを聞きませう、ね諸君!』
と上村は逃げかけた。
『いけないいけない、先づ君の説を終へ給へ!』
『是非承はりたいものです』と岡本はウヰスキーを一杯、下にも置かないで飮み干した。
『僕のは岡本君の説とは恐らく正反對だらうと思ふんでね、要之、理想と實際は一致しない、到底一致しない……。』
『ヒヤヒヤ』と井山が調子を取つた。
『果して一致しないとならば、理想に從ふよりも實際に服するのが僕の理想だといふのです。』
『ただそれだけですか。』と岡本は第二の杯を手にして唸るやうに言つた。
『だつてねエ、理想は喰べられませんものを!』と言つた上村の顏は兎のやうであつた。
『ハゝゝゝビフテキぢやアあるまいし!』と竹内は大口を開けて笑つた。
『否ビフテキです、實際はビフテキです、スチューです。』
『オムレツかね!』と今まで默つて半分眠りかけて居た、眞紅な顏をして居る松木、座中で一番年の若さうな紳士が眞面目で言つた。
『ハツゝゝゝ』と一坐が噴飯だした。
『イヤ笑ひごとぢやアないよ、』と上村は少し躍起になつて、
『例へてみればそんなものなんで、理想に從がへば芋ばかし喰つて居なきやアならない。ことによると馬鈴薯も喰へないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどつちが可い?』
『牛肉が可いねエ!』と松木は又た眠むさうな聲で眞面目に言つた。
『然しビフテキに馬鈴薯は附屬物だよ』と頬髭の紳士が得意らしく言つた。
『さうですとも!理想は則ち實際の附屬物なんだ!馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじやア全く閉口する!』
と言つて、上村はやや滿足したらしく岡本の顏を見た。
『だつて北海道は馬鈴薯が名物だつて言ふぢやアありませんか、』と岡本は平氣で訊ねた。
『其の馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷い目に遇つたんです。ね、竹内君は御存知ですが僕は斯う見えても同志社の舊い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、云ひ換へれば大々的馬鈴薯黨だつたんです!』
『君が?』とさも不審さうな顏色で井山がしよぼしよぼ眼を見張つた。
『何も不思議は無いサ、其頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯黨でしたがね、學校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れて居たもんで、清教徒を以て任じて居たのだから堪らない!』
『大變な清教徒だ!』と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸と腮で止めて、ウヰスキーを嘗めながら
『斷然この汚れたる内地を去つて、北海道自由の天地に投じようと思ひましたね、』と言つた時、岡本は凝然と上村の顏を見た。
『そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。傳道師の中に北海道へ往つて來たといふ者があると直ぐ話を聽きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪つたもんぢやアない!僕は全然まゐツちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを總合して如此ふうな想像を描いて居たもんだ。……先づ僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆を撒く、……』
『その百姓が見たかつたねエハツゝゝゝゝ』と竹内は笑ひだした。
『イヤ實地行つたのサ、まア待ち給へ、追ひ追ひ其處へ行くから……、其内にだんだんと田園が出來て來る、重に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さへ有りやア喰うに困らん……』
『ソラ馬鈴薯が出た!』と松木は又た口を入れた。
『其處で田園の中央に家がある、構造は極めて粗末だが一見米國風に出來て居る、新英洲植民地時代そのままといふ風に出來て居る、屋根がかう急勾配になつて物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個附けたものかと僕は非常に氣を揉むことがあつたツけ……』
『そして眞個に其家が出來たのかね』と井山は又しよぼしよぼ眼を見張つた。
『イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で氣を揉んだのは……さうださうだ若王寺へ散歩に往つて歸る時だつた!』
『それからどうしました?』と岡本は眞面目で促がした。
『それから北の方へ防風林を一區劃、なるべくは林を多く取つて置くことにしました。それから水の澄み渡つた小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨や鵝鳥が其紫の羽や眞白な背を浮べてるんですよ。此川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かつて居る。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないはうが自然だといふんで附けないことに定めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで滿足しなかつたのだ……先づ冬になると……』
『ちよツとお話の途中ですが、貴樣は其の『冬』といふ音にかぶれやアしませんでしたか?』と岡本は訊ねた。
上村は驚ろ居た顏色をして
『貴樣は如何してそれを御存知です。これは面白い!さすが貴樣は馬鈴薯黨だ!冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何だか其の冬則ち自由といふやうな氣がしましてねエ!それに僕は例の熱心なるアーメンでしようクリスマス萬歳の仲間でしよう、クリスマスと來ると何うしても雪がイヤといふ程降つて、軒から棒のやうな氷柱が下つて居ないと嘘のやうでしてねエ。だから僕は北海道の冬といふよりか冬則ち北海道といふ感が有つたのです。北海道の話を聽ても『冬になると……』と斯ういはれると、身體がかうぶるぶるツとなつたものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然家を埋めて了う、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる、折り折り風がゴーツと吹いて來て林の梢から雪がばたばたと墜ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛がモーツと唸る!』
『君は詩人だ!』と叫けむで床を靴で蹶たものがある。これは近藤といつて岡本がこの部屋に入つて來て後も一言を發しないで、唯だウヰスキーと首引をして居た背の高い、一癖あるべき顏構をした男である。
『ねエ岡本君!』と云ひ足した。岡本はただ、默言て首肯いたばかりであつた。
『詩人? さうサ、僕はその頃は詩人サ、「山々霞み入合の」といふグレーのチャルチャードの飜譯を愛讀して自分で作つてみたものだアね、今日の新體詩人から見ると僕は先輩だアね。』
『僕も新體詩なら作つたことがあるよ』と松木が今度は少し乘地になつて言つた。
『ナーニ僕だつて二ツ三ツ作たものサ』と井山が負けぬ氣になつて眞面目で言つた。
『綿貫君、君はどうだね?』と竹内が訊ねた。
『イヤお恥しいことだが僕は御存知の女氣のない通り詩人氣は全くなかつた、「權利義務」で一貫して了つた、如何だらう僕は餘程俗骨が發逹してるとみえる!』と綿貫は頭を撫てみた。
『イヤ僕こそ甚だお恥しい話だがこれで矢張り作たものだ、そして何かの雜誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハツハツゝゝゝ』
『ハツハツゝゝゝ』と一同が噴飯して了つた。
『さうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハツハツゝゝゝ竒談々々!』と綿貫が叫んだ。
『さうか、諸君も作たのか、驚ろ居た、其昔は皆な馬鈴薯黨なんだね』と上村は大に面目を施こしたといふ顏色。
『お話の先を願ひたいものです、』と岡本は上村を促がした。
『さうだ、先をやり給へ!』と近藤は殆ど命令するやうに言つた。
『宜しい!それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴして居たが、斷然と北海道へ行つた其時の心持といつたら無いね、何だか斯う馬鹿野郎!といふやうな心持がしてねエ、上野の停車場で汽車へ乘つて、ピユーツと汽笛が鳴つて汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言へない嬉しさがこみ上げて來て人知れずハンケチで涙を拭ひたよ眞實に!』
『一寸と君、一寸と「馬鹿野郎!」といふやうな心持といふのが僕には了解が出來ないが……其の如何いふんだね?』と權利義務の綿貫が眞面目で訊ねた。
『唯だ東京の奴等を言つたのサ、名利に汲々として居る其醜態は何だ!馬鹿野郎!乃公を見ろ!といふ心持サ』と上村もまた眞面目で註解を加へた。
『それから道行は拔にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十萬坪の土地が手に入つた。サアこれからだ、所謂る額に汗するのはこれからだといふんで直に着手したねエ。尤も僕と最初から理想を一にして居る友人、今は矢張僕と同じ會社へ出て居るがね、それと二人で開墾事業に取掛つたのだ、そら、竹内君知つて居るだらう梶原信太郎のことサ……』
『ウン梶原君が!?彼が矢張馬鈴薯だつたのか、今ぢやア豚のやうに肥つてるぢやアないか』と竹内も驚いたやうである。
『さうサ、今ぢやア鬼のやうな顏をして、血のたれるビフテキを二口に喰つて了うんだ。處が先生僕と比較すると初から利口であつたねエ、二月ばかりも辛抱して居たらうか、或日こんな馬鹿氣たことは斷然止さうといふ動議を提出した、其議論は何も自から斯んな思をして隱者になる必要はない自然と戰ふよりか寧ろ世間と格鬪しようじやアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いといふんだ。僕は其時大に反對した、君止すなら止せ、僕は一人でもやると力味んだ。すると先生やるなら勝手にやり給へ、君も最少しすると悟るだらう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨臺辭を吐いて直ぐ去つて了つた。取殘された僕は力味んではみたものの内々心細かつた、それでも小作人の一人二人を相手に其後、三月ばかり辛抱したねエ。豪いだらう!』
『馬鹿なんサ!』と近藤が叱るやうに言つた。
『馬鹿?馬鹿たア酷だ!今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かつたよ。』
『矢張馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食ふなんていふ柄じやアないんだ、それを知らないで三月も辛抱するなア馬鹿としか言へない!』
『馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいふ「柄にない」といふことは次第に悟つて來たんだ。難有いことには僕に馬鈴薯の品質が無かつたのだ。其處で夏も過ぎて樂しみにして居た『冬』といふ例の奴が漸次近づいて來た、其露拂が秋、第一秋からして思つたよりか感心しなかつたのサ、森とした林の上をバラバラと時雨て來る、日の光が何となく薄いやうな氣持がする、話相手はなしサ食ふものは一粒幾價と言ひさうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寢る處は木の皮を壁に代用した掘立小屋』
『それは貴樣覺悟の前だつたでせう!』と岡本が口を入れた。
『其處ですよ、理想よりか實際の可いはうが可いといふのは。覺悟はして居たものの矢張り餘り感服しませんでしたねエ。第一、それぢやア痩せますもの。』
上村は言つて杯で一寸と口を濕して
『僕は痩せやうとは思つて居なかつた!』
『ハツハツゝゝゝゝ』と一同笑ひだした。
『そこで僕はつくづく考へた、なるほど梶原の奴の言つた通りだ、馬鹿げきつて居る、止さうツといふんで止しちまつたが、あれで彼の冬を過ごしたら僕は死で居たね。』
『其處でどういふんです、貴樣の目下のお説は?』と岡本は嘲るやうな、眞面目な風で言つた。
『だから馬鈴薯には懲々しましたといふんです。何でも今は實際主義で、金が取れて美味いものが喰へて、斯うやつて諸君と煖爐にあたつて酒を飮んで、勝手な熱を吹き合ふ、腹が減たら牛肉を食ふ……』
『ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛國だつてなんだつて牛肉と兩立しないことはない、それが兩立しないといふなら兩立さすことが出來ないんだ、其奴が馬鹿なんだ』と綿貫は大に敦圏居た。
『僕は違ふねエ!』と近藤は叫んだ、そして煖爐を後に椅子へ馬乘になつた。凄い光を帶びた眼で坐中を見廻しながら
『僕は馬鈴薯黨でもない、牛肉黨でもない!上村君なんかは最初、馬鈴薯黨で後に牛肉黨に變節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の墮落したのだ、だから無暗と鼻をびくびくさして牛の焦る臭を嗅いで行く、その醜體つたらない!』
『オイオイ、他人を惡口する前に先づ自家の所信を吐くべしだ。君は何の墮落なんだ、』と上村が切り込むだ。
『墮落?墮落たア高い處から低い處へ落ちたことだらう、僕は幸にして最初から高い處に居ないからそんな外見ないことはしないんだ!君なんかは主義で馬鈴薯を喰つたのだ、嗜きで喰つたのぢやアない、だから牛肉に餓ゑたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰ふのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だつてがつがつしない、……』
『一向要領を得ない!』と上村が叫けむだ。近藤は直ちに何ごとをか言ひ出さんと身構をした時、給使の一人がつかつかと近藤の傍に來てその耳に附いて何ごとをか囁いた。すると
『近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言つて呉れ!』と怒鳴つた。
『何だ?』と坐中の一人が驚いて聞いた。
『ナニ、車夫の野郎、又た博奕に敗けたから少し貸して呉れろと言ふんだ。……要領を得ないたア何だ!大に要領を得て居るじやアないか、君等は牛肉黨なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマでもない!』
『大に贊成ですなア』と靜に沈重居た聲で言つた者がある。
『贊成でしよう!』と近藤はにやり笑つて岡本の顏を見た。
『至極贊成ですなア、主義でないと言ふことは至極贊成ですなア、世の中の主義つて言ふ奴ほど愚なものはない』と岡本は其冴え冴えした眼光を座上に放つた。
『その説を承たまはらう、是非願ひたい!』と近藤は其四角な腮を突き出した。
『君は何方なんです、牛と薯、エ、薯でせう?』と上村は知つた顏に岡本の説を誘ふた。  
『僕も矢張、牛肉黨に非ず、馬鈴薯黨にあらずですなア、然し近藤君のやうに牛肉が嗜きとも決つて居ないんです。勿論例の主義といふ手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいふ嗜好にも從ふことが出來ません。』
『それぢやア何だらう?』と井山が其尤もらしいしよぼしよぼ眼をぱちつかした。
『何でもないんです、比喩は廢して露骨に申しますが、僕はこれぞといふ理想を奉ずることも出來ず、それならつて俗に和して肉慾を充して以て我生足れりとすることも出來ないのです、出來ないのです、爲ないのではないので、實をいふと何方でも可いから決めて了つたらと思ふけれど何といふ因果か今以て唯つた一つ、不思議な願を持て居るから其のために何方とも得決めないで居ます。』
『何だね、其の不思議な願と言ふのは?』と近藤は例の壓しつけるやうな言振で問うた。
『一口には言へない。』
『まさか狼の丸燒で一杯飮みたいといふ洒落でもなからう?』
『まづ其樣なことです。……實は僕、或少女に懸想したことがあります』と岡本は眞面目で語り出した。
『愉快々々、談愈々佳境に入つて來たぞ、それからツ?』と若い松木は椅子を煖爐の方へ引寄た。
『少し談が突然ですがね、まづ僕の不思議の願といふのを話すにはこの邊から初めましよう。その少女はなかなかの美人でした。』
『ヨウ!ヨウ!』と松木は躍上らんばかりに喜こんだ。
『どちらかと言へば丸顏の色のくつきり白い、肩つきの按排は西洋婦人のやうに肉附が佳くつて而もなだらかで、眼は少し眠むいやうな風の、パチリとはしないが物思に沈んでるといふ氣味がある此眼に愛嬌を含めて凝然と睇視られるなら大概の鐡腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了つたのです。最初その女を見た時は別にさうも思つて居なかつたが、一度が二度、三度目位から變に引つけられるやうな氣がして、妙に其女のことが氣になつて來ました。それでも僕は未だ戀したとは思ひませんでしたねえ。
『或日僕が其女の家へ行きますと、兩親は不在で唯だ女中と其少女と妹の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女は身體の具合が少し惡いと言つて鬱いで、奧の間に獨、つくねんと座つて居ましたが、低い聲で唱歌をやつて居るのを僕は椽側に腰をかけたまま聽いて居ました。
「お榮さん僕はそんな聲を聽かされると何だか哀れつぽくなつて堪りません」と思はず口に出しますと
『小妹は何故こんな世の中に生きて居るのか解らないのよ』と少女がさもさも頼なささうに言ひました、僕にはこれが大哲學者の厭世論にも優つて眞實らしく聞えたが、その先は詳はしく言はないでも了解りませう。
『二人は忽ち戀の奴隸となつて了つたのです。僕はその時初めて戀の樂しさと哀しさとを知りました、二月ばかりといふものは全で夢のやうに過ぎましたが、其中の出來事の一二お安價ない幕を談すと先づ斯なこともありましたつケ。
『或日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別會に出席しましたが僕の戀人も母に伴はれて出席しました。會は非常な盛會で、中には伯爵家の令孃なども見えて居ましたが夜の十時頃漸く散會になり僕はホテルから芝山内の少女の宅まで、月が佳いから歩る居て送ることにして母と三人ぶらぶらと行つて來ると、途々母は口を極めて洋行夫婦を襃め頻と羨ましさうなことを言つて居ましたが、其言葉の中には自分の娘の餘り出世間的傾向を有して居るのを殘念がる意味があつて、斯る傾向を有するも要するに其交際する友に由ると言はぬばかりの文句すら交へたので、僕と肩を寄せて歩るいて居た娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかへした、これが母へ對する果敢ない反抗であつたのです。
『それから山内の森の中へ來ると、月が木間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加へて居たが、母は我々より五歩ばかり先を歩るいて居ました。夜は更けて人の通行も稀になつて居たから四邊は極めて靜に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しう反響して居たが、先刻の母の言草が胸に應へて居るので僕も娘も無言、母も急に眞面目くさつて默つて歩るいて居ました。
『森影暗く月の光を遮つた所へ來たと思ふと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添つて
「貴樣母の言葉を氣にして小妹を見捨ては不可ませんよ」と囁き、其手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが觸て一種、花にも優る香が鼻先を掠めました。突然明い所へ出ると、少女の兩眼には涙が一ぱい含んで居て、其顏色は物凄いほど蒼白かつたが、一は月の光を浴びたからでも有りましよう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒氣を覺えて恐いとも哀しいとも言ひやうのない思が胸に塞えて恰度、鉛の塊が胸を壓しつけるやうに感じました。
『其夜、門口まで送り、母なる人が一寸と上つて茶を飮めと勸めたを辭し自宅へと歸路に就きましたが、或難い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解りでもするといつたやうな心持がして、決して比喩じやアない、確にさういふ心持がして、氣になつてならない。そこで直ぐは歸らず山内の淋むしい所を撰つてぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時凝然と品川の沖の空を眺めて居ました。
「もしか彼女は遠からず死ぬるのじやアあるまいか」といふ一念が電のやうに僕の心中最も暗き底に閃いたと思ふと僕は思はず躍り上がりました。そして其所らを夢中で往きつ返りつ地を見つめたまゝ歩るいて「決してそんなことはない」「斷じてない」と、魔を叱するかのやうに言つてみたが、魔は決して去らない、僕はをりをり足を止めて地を凝視て居ると、蒼白い少女の顏がありありと眼先に現はれて來る、どうしてもその顏色がこの世のものでないことを示して居る。
『遂に僕は心を靜めて今夜十分眠る方が可い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑亂さする出來事にぶつかりました。といふのは上る時は少も氣がつかなかつたが路傍にある木の枝から人がぶら下つて居たことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水をかけられたやうに感じて、其處に突立つて了いました。
『それでも勇氣を鼓して近づいてみると女でした、無論その顏は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女といふことが分る……僕は一切夢中で紅葉舘の方から山内へ下りると突當にあるあの交番まで駈けつけて其由を告げました……』
『其女が君の戀して居た少女であつたといふのですかね』と近藤は冷やゝかに言た。
『それでは全で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
『翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懷胎したのが兵士には國に歸つて了はれ、身の處置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、兔も角僕は其夜殆ど眠りませんでした。
『然かし能くしたもので、其翌日少女の顏を見ると平常に變つて居ない、そして其うつとりした眼に笑を含んで迎へられると、前夜からの心の苦惱は霧のやうに消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい樂しいことばかりで……』
『成程これはお安價くないぞ、』と綿貫が床を蹶つて言つた。
『まア默つて聽き給へ、それから、』と松木は至極眞面目になつた。
『其先を僕が云はうか、斯うでしよう、最後には其少女が欠伸一つして、それで神聖なる戀が最後になつた、さうでしよう?』と近藤も何故か眞面目で言つた。
『ハツハツゝゝゝゝ』と二三人が噴飯して了つた。
『イヤ少なくとも僕の戀はさうであつた、』と近藤は言ひ足した。
『君でも戀なんていふことを知つて居るのかね』これは井山の柄にない言草。
『岡本君の談話の途中だが僕の戀を話さうか?一分間で言へる、僕と或少女と乙な仲になつた、二人は無我夢中で面白い月日を送つた、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰の戀でもこれが大切だよ、女といふ動物は三月たつと十人が十人、飽きて了う、夫婦なら仕方がないから結合いて居る。然し其は女が欠伸を噛殺して其日を送つて居るに過ぎない、どうです君はさう思ひませんか?』
『さうかも知れません、然し僕のは幸に其欠伸までに逹しませんでした、先を聽いて下さい。
『僕も其頃、上村君のお話と、同樣北海道熱の烈しいのに罹つて居ました、實をいふと今でも北海道の生活は好からうと思つて居ます。それで僕も色々と想像を描いて居たので、それを戀人と語るのが何よりの樂でした、矢張上村君の亞米利加風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で圖取までしました。しかし少し違ふのは冬の夜の窓からちらちらと燈火を見せるばかりでない、折り折り樂しさうな笑聲、澄むだ聲で歌ふ女の唱歌を響かしたかつたのです、……』
『だつて僕は相手が無かつたのですもの』と上村が情けなさうに言つたので、どつと皆が笑つた。
『君が馬鈴薯黨を變節したのも、一は其故だらう』と綿貫が言つた。
『イヤそれは嘘言だ、上村君に若し相手があつたら北海道の土を踏まぬ先に變節して居たゞらうと思ふ、女と云ふ奴が到底馬鈴薯主義を實行し得るもんじやアない。先天的のビフテキ黨だ、恰度僕のやうなんだ。女は芋が嗜好きなんていふのは嘘サ!』と近藤が怒鳴るやうに言つた。其最後の一句で又た皆がどつと笑つた。
『それで二人は』と岡本が平氣で語りだしたので漸々靜まつた。
『二人は將來の生活地を北海道と決めて居まして、相談も漸く熟したので僕は一先故郷に歸り、親族に托してあつた山林田畑を悉く賣り飛ばし、其資金で新開墾地を北海道に作らうと、十日間位の積で國に歸つたのが、親族の故障やら代價の不折合やらで思はず二十日もかかりました。
すると或日少女の母から電報が來ました、驚いて取る物も取あえず歸京してみると、少女は最早死んで居ました。』
『死んで?』と松木は叫けむだ。
『さうです、それで僕の總ての希望が悉く水の泡となつて了ひました』と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言つた、それが全で演説口調、
『イヤどうも面白い戀愛談を聽かされ我等一同感謝の至に堪へません、さりながらです、僕は岡本君の爲めに其戀人の死を祝します、祝すといふが不穩當ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧ろ喜びます、卻て喜びます、若しも其少女にして死ななんだならばです、其結果の悲慘なる、必ず死の悲慘に増すものが有つたに違ひないと信ずる。』
とまでは頗る眞面目であつたが、自分でも少し可笑しくなつて來たか急に調子を變へ、聲を低うし笑味を含ませて、
『何となれば、女は欠伸をしますから……凡そ欠伸に數種ある、其中尤も悲むべく憎くむ可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は戀愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、戀愛に倦みたる欠伸は女子の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである。』
と少し眞面目な口調に返り、
『則ち女子は生命に倦むといふことは殆どない、年若い女が時々そんな樣子を見せることがある、然し其は戀に渇して居るより生ずる變態たるに過ぎない、幸にして其戀を得る、其後幾年月かは至極樂しさうだ、眞に樂しさうだ、恐らく樂といふ字の全意義は斯る女子の境遇に於て盡されて居るだらう。然し忽ち倦で了う、則ち戀に倦で了う、女子の戀に倦だ奴ほど始末にいけないものは決して他にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言つたが實は寧ろ憐れむべきものである、處が男子はさうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、斯る場合に戀に出遇ふ時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧げて戀の火中に投ずるに至るのである。斯る場合に在ては戀則ち男子の生命である。』
と言つて岡本を顧み、
『ね、さうでせう。どうです僕の説は穿つて居るでせう。』
『一向に要領を得ない!』と松木が叫けむだ。
『ハツハツゝゝ要領を得ない?實は僕も餘り要領を得て居ないのだ、たゞ今のやうに言つてみたいので。どうです岡本君、だから僕は思ふんだ君が馬鈴薯黨でもなくビフテキ黨でもなく唯だ一の不思議なる願を持つて居るといふことは、死んだ少女に遇ひたいといふんでしよう。』
『否!』と一聲叫けむで岡本は椅子を起つた。彼は最早餘程醉つて居た。
『否と先づ一語を下して置きます。諸君にして若し僕の不思議なる願といふのを聽いて呉れるなら談しましよう。』
『諸君は知らないが僕は是非聽く』と近藤は腕を振つた。衆皆は唯だ默つて岡本の顏を見て居たが松木と竹内は眞面目で、綿貫と井山と上村は笑味を含んで。
『それでは否の一語を今一度叫けむで置きます。
『成程僕は近藤君のお察の通り戀愛に依て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女の死は僕に取ての大打撃、殆ど總ての希望は破壞し去つたことは先程申上げた通りです、もし例の反魂香とかいふ價物があるなら僕は二三百斤買ひ入れたい。どうか少女を今一度僕の手に返したい。僕の一念こゝに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平氣で白状しますが幾度僕は少女を思うて泣いたでせう。幾度其名を呼で大空を仰いだでせう。實に彼少女の今一度此世に生き返つて來ることは僕の願です。
『しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の眞實の願ではない。僕はまだまだ大なる願、深い願、熱心なる願を以つて居ます。この願さへ叶へば少女は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を賣つても宜しい。少女が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
『朝に道を聞かば夕に死すとも可なりといふのと僕の願とは大に意義を異にして居るけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶はん位なら今から百年生きて居ても何の益にも立たない、一向うれしくない、寧ろ苦しう思ひます。
『全世界の人悉く此願を有て居ないでも宜しい、僕獨りこの願を追ひます、僕が此願を追うたが爲めに其爲めに強盜罪を犯すに至ても僕は悔ゐない、殺人、放火、何でも關いません、もし鬼ありて僕に保證するに、爾の妻を與へよ我これを姦せん爾の子を與へよ我これを喰はん然らば我は爾に爾の願を叶はしめんと言はば僕は雀躍して妻あらば妻、子あらば子を鬼に與へます。』
『こいつは面白い、早く其願といふものを聞きたいもんだ!』と綿貫が其髯を力任かせに引て叫けんだ。
『今に申します。諸君は今日のやうなグラグラ政府には飽きられたゞらうと思ふ、そこでビスマークとカブールとグラツドストンと豐太閤みたやうな人間をつきまぜて一鋼鐡のやうな政府を形り、思切つた政治をやつてみたいといふ希望があるに相違ない、僕も實にさういふ願を以て居ます、併し僕の不思議なる願はこれでもない。
『聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釋迦や孔子のやうな人になりたい、眞實にさうなりたい。併し若し僕の此不思議なる願が叶はないで以て、さうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
『山林の生活!と言つたばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思はしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に國境をめぐる連山の雪を戴いて居るのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪らなくなる!然しです、僕の一念ひとたび彼の願に觸れると、斯んなことは何でもなくなる。若し僕の願さへ叶ふなら紅塵三千丈の都會に車夫となつて居てもよろしい。
『宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科學と哲學と宗教とはこれを研究し闡明し、そして安心立命の地を其上に置かうと悶いて居る、僕も大哲學者になりたい、ダルヰン跣足といふほどの大科學者になりたい。若しくは大宗教家になりたい。しかし僕の願といふのはこれでもない。若し僕の願が叶はないで以て、大哲學者になつたなら僕は自分を冷笑し自分の顏に『僞』の一字を烙印します。』
『何だね、早く言ひ玉へ其願といふやつを!』と松木はもどかしさうに言つた。
『言ひませう、喫驚しちやアいけませんぞ。』
『早く早く!』
岡本は靜に
『喫驚したいといふのが僕の願なんです。』
『何だ!馬鹿々々しい!』
『何のこつた!』
『落語か!』
人々は投げだすやうに言つたが、近藤のみは默言て岡本の説明を待て居るらしい。
『斯ういふ句があります、
Awake, poor troubled sleeper: shake off thy torpid night-mare dream.
即ち僕の願とは夢魔を振ひ落したいことです!』
『何のことだか解らない!』と綿貫は呟やくやうに言つた。
『宇宙の不思議を知りたいといふ願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいといふ願です!』
『愈々以て謎のやうだ!』と今度は井山が其顏をつるりと撫でた。
『死の祕密を知りたいといふ願ではない、死てふ事實に驚きたいといふ願です!』
『イクラでも君勝手に驚けば可いじやアないか、何でもないことだ!』と綿貫は嘲るやうに言つた。
『必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほどに此宇宙人生の祕義に惱まされんことが僕の願であります。』
『成程こいつは益々解りにくいぞ、』と松木は呟やいて岡本の顏を穴のあくほど凝視て居る。
『寧ろこの使用ひ古した葡萄のやうな眼球をゑぐり出したいのが僕の願です!』と岡本は思はず卓を打つた。
『愉快々々!』と近藤は思はず聲を揚げた。
『ラルムスの大會で王侯の威武に屈しなかつたルーテルの膽は喰いたく思はない、彼が十九歳の時學友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものゝ祕義に驚いた其心こそ僕の欲するところであります。
『勝手に驚けと言はれました綿貫君は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
『僕の戀人は死にました。この世から消えて失なりました。僕は全然戀の奴隸であつたから彼少女に死なれて僕の心は掻亂されたことは非常であつた。しかし僕の悲痛は戀の相手の亡なつたが爲の悲痛である。死てふ冷酷なる事實を直視することは出來なかつた。即ち戀ほど人心を支配するものはない、其戀よりも更に幾倍の力を人心の上に加ふるものがあることが知られます。
『曰く習慣の力です。
Our birth is but a sleep and a forgetting.
この句の通りです。僕等は生れて此天地の間に來る、無我無心の小兒の時から種々な事に出遇ふ、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、是に於てか此不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙萬般の現象も尋常茶番となつて了ふ。哲學で候ふの科學で御座るのと言つて、自分は天地の外に立て居るかの態度を以て此宇宙を取扱ふ。
Full soon thy soul shall have her earthly freight,
And custom lie upon thee with a weight,
Heavy as frost, and deep almost as life !
この通りです、この通りです!
『即ち僕の願はどうにかして此霜を叩き落さんことであります。如何にかして此古び果てた習慣の壓力から脱がれて、驚異の念を以て此宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義とならうが、馬鈴薯主義とならうが、將た厭世の徒となつて此生命を詛ふが、決して頓着しない!
『結果は頓着しません、源因を虚僞に置きたくない。習慣の上に立つ遊戲的研究の上に前提を置きたくない。
『ヤレ月の光が美だとか花の夕が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々たる詩人の文字は、あれは道樂です、彼等は決して本物を見ては居ない、まぼろしを見て居るのです、習慣の眼が作る處のまぼろしを見て居るに過ぎません。感情の遊戲です。哲學でも宗教でも、其本尊は知らぬこと其末代の末流に至ては悉くさうです。
『僕の知人に斯う言つた人があります。吾とは何ぞや(What am I ?)なんていふ馬鹿な問を發して自から苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、と斯う言つて嘲笑を洩らした人があります。世間並からいふとその通りです、然し此問は必ずしも其答を求むるが爲めに發した問ではない。實に此天地に於ける此我てふものゝ如何にも不思議なることを痛感して自然に發したる心靈の叫である。此問其物が心靈の眞面目なる聲である。これを嘲るのは其心靈の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、如何にかして此問を心から發したいのであります。處がなかなか此問は口から出ても心からは出ません。
『我何處より來り、我何處にか往く、よく言ふ言葉であるが、矢張り此問を發せざらんと欲して發せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもさうです、だから其以外は悉く遊戲です虚僞です。
『もう止しませう! 無益です、無益です、いくら言つても無益です。……アア疲勞た!しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に區別したい、曰く驚く人、曰く平氣な人……。』
『僕は何方へ屬するのだらう!』と松木は笑ひながら問うた。
『無論、平氣な人に屬します、こゝに居る七人は皆な平氣の平三の種類に屬します。イヤ世界十幾億萬人の中、平氣な人でないものが幾人ありましようか、詩人、哲學者、科學者、宗教家、學者でも、政治家でも、大概は皆な平氣で理窟を言つたり、悟り顏をしたり、泣いたりして居るのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
『死んだ夢を見ました。死んで暗い道を獨りでとぼとぼ辿つて行きながら思はず「マサカ死なうとは思はなかつた!」と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
『そこで僕は思ふんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思はなかつたと叫んで鬼に笑はれる仲間でしよう。ハツゝゝゝハツゝゝゝ』
『人に驚かして貰へばしやつくりが止るさうだが、何も平氣で居て牛肉が喰へるのに好んで喫驚したいといふのも物數竒だねハゝゝゝ』と綿貫はその太い腹をかかへた。
『イヤ僕も喫驚したいと言ふけれど、矢張り單にさう言ふだけですよハゝゝゝ』
『唯だ言ふだけのことか、ヒゝゝゝ』
『さうか!唯だお願ひ申してみる位なんですねハツゝゝゝ』
『矢張り道樂でさアハツハツゝゝツ』と岡本は一緒に笑つたが、近藤は岡本の顏に言ふ可からざる苦痛の色を見て取つた。
(明治三十四年) 「獨歩集」より  
 
肱の侮辱 / 國木田獨歩

 

東京市より汽車で何哩ほど往くと、某中學校がある。この中學校の通學生は殆ど無賃同樣の大割引の賃錢で汽車を利用し近在近郷から集り來る。英語教師の米國人など常に東京から通つて居た。又た教員の中には東京に家を持つて居て、一週に二度位、家に歸る者もある。木谷といふ洋畫の先生も其の一人であつた。或年の十月頃。日曜日の午後講演者は三人、其一人の矢島といふ文學者は木谷先生の盡力で來て呉れたのである。――と誰しも思つて居たが、其實講演會があると聞いて、矢島自身が木谷に口をきかして、講演者の一人に加はつたのである。最後に矢島が起つて壇に上つた。
諸君! 私は口無調法で、おまけに無學で、更におまけに文盲で、とても只今まで御講演になつたやうな理化學的に有益な「受賣」は出來ません、(前の二人の講演者ぢろりと矢島の顏を睨む。矢島は平氣。)其處で私は只私自身が此眼で見て、此心で感じた事の一つをお話いたさうと思ひます。
ツマラないと思はれる方々は御退場を願ひます、と申す處ですが、さうでない。若し、私の談話中、席を起つた方があつたならば、其方は私を侮辱したものと致します。(靜にコップに水を注いで一口飮む)
さて、お話はこれからですが、少々困つた事が出來ました(と言ひつゝ、洋服のポケットの所々を探す)、お話の草稿が失なりました、(生徒はクスクス笑ふ、前の二人の講演者はザマを見ろといふ顏つき、木谷先生は心配の餘、半分椅子から起ち上がつてゐる)。これは失禮、私は草稿を持つて來なかつたのでした。(生徒は益々笑ふ)私の草稿は腹の中に藏つて在つたのでした。紙へ書いてその一字が見えないと最早行きづまるやうな草稿では無かつたのでした。
諸君、これから此腹の中の草稿を少しつゝ繰出します。
私は子供の時から釣りが好きで、河や沼に出かけた者ですが、今でも此道樂は止みません。其處で今年の六月の初めでした、此學校の近所にある川のやうな川に釣りに參りました。此川は初めての事ゆゑ樣子が解らず、たゞぼんやりして川岸の礫の上に腰を下し四方の景色を眺めて居ますと、上流の方から岸をたどつて此方へ來る者がある。近づいたので見ますと、兼て私の知人である洋畫家でした。餘り立派でない和服を着て顏は例の如く髯ぼうぼうとしてゐました。
「寫生にでも出掛けて來たのですか」と聞くと、
「否、さうでありません」と言つて口をもごもごさして眼をパチクリパチクリさして、次の言葉を出さうとして居ますが直ぐは出て來ないのです。これが此人の癖の一つであります。
「私は其處にある中學校に出て居ます」
と聞いて私は初めて此人が此地方の中學校に洋畫の教師をして居ることを知りました。
「東京から通ふのですか」
「三日目に一度東京の家にかへります」
夫れから四方山の話を一時間もして、洋畫家は去りました。兔も角、今日は東京に歸る日であるから午後四時の汽車で同道致さうといふ約束をきめました。
此日の私の釣は大失敗でした。
午後四時の汽車に間に合ふべく、停車場へ急ぎました。
途中、諸君の樣な方に幾人も出會ひました。悉皆、肩で風を切るやうな歩きつきを仕て居ました。肩が歩いてるやうでした。其時私は思ひました。肩が歩くやうであるのが別に衞生に害があるのでもない。國家の存亡に關する次第でもない。しかし肩で風を切らないでも同じことだ。どちらでも可いなら彼の高慢ちきな、小にくらしい、いけづうづうしい、生意氣な、馬鹿なくせに利巧さうな顏をして見せる、臆病なくせに大膽な風をして見せる、所謂る肩で風を切ること丈けは見合した方がよろしい、と思ひました。
停車場の前で畫家は私を待つて居ました。そして洋服に着かへて居ましたが、それが又頗る古物である上にカラーもカフスも垢染みて鼠色になつて居ます。殊に他人の目につくのは、ボロボロしたネクタイが正面でヒン曲つて横でカラーから外れて居る事です。此仁の衣裝は此時ばかりでなく、何時見ても先づ斯んな風を爲て居るのです。
間も無く汽車が着いて二人は乘りました。同じ車室の中に語學の教師らしい西洋人が乘り込みまして、其れと一緒に生徒が七八人乘りました。覺束ない英語で小生意氣な樣子で西洋人に話し掛けて居るのが第一私の癪にさはりました。所が其の生徒逹は始め洋畫の先生が同じ車室に乘つて居る事を知らなかつたやうでしたが、其中一人が後ろをふり向いて洋畫先生を一目見るや肱で隣の生徒をつゝきました。すると其生徒が又後ろをふり向きました。そして小聲で何か言ひながら更に隣の生徒へ肱の相圖を致しますと、今度は他の三四人が一度に後ろを振り向いて同時に皆が顏を見合せて一種異樣な笑ひ方を致しました。語學の先生は氣が付かないやうでしたが、私と話をして居た洋畫先生はいくらか氣が付いたと見えて、恥かしい樣な悲しいやうな顏容――私は未だ嘗て此樣氣の毒らしい情けない顏付を見た事が有りません。――を仕て居ました。
此有樣を見た私は言ふに言はれぬ憤怒の情がこみ上げて來て、出來る事なら是れらの生徒を一人一人窓からつまみ出して遣りたい程に思ひました。
諸君! 諸君は如何思ひます、成程洋畫先生の風采は上りません、成程世辭も愛敬も無い男ですけれども、此人の心の全部が純白で透明で邪氣の無い事を知りながら、是に侮蔑を加へる事は善良なる學生の行爲でせうか。
けれども私が今皆さんに申し上げたいと思ふのは、さう言ふ簡單な倫理問題では無いので有ります。倫理問題の根本問題です。洋畫先生の如き人に侮蔑を加へると言ふ事は善か惡かと言ふ事を問ふ前に我々は性格の美を認めると云ふ事を學ばねばなりません。性格に對する同情と言ふ事を知らなければなりません。もし其等の事に一切夢中で、只空に善とか惡とか言ふ如き倫理の講義を聞けばこそ、彼の洋畫家を侮辱するやうな中学生が出來るのです。私から申しますと、彼の洋畫家の風采の上らない事やその行爲の何となく間拔けて居る事や、其顏付の爺々むさい事や總てがむしろ長所であつても短所ではないと思ひます。彼のお粗末な外形は其人の極めて單純な善良な心を示して居ると思ひます。
それらの事に少しも心を用ゐず、用ゐる事を知らず。只外形を見て師を侮辱するが如きは何たる卑しい且つ愚かなる根性でせう、諸君の中に一人でも斯くの如き少年の加はつて居るなら實に皆さんの恥辱で有ります。
講演會が終つて矢島が停車場まで來ると洋畫の先生木谷が送つて來た。汽車が出掛けると木谷は口をモグモグさして何か言はうとしたが言ふ事が出來ない。見ると眼に涙を充滿ふくませて居た。
(未詳) 
 
眼前口頭 / 齋藤緑雨

 

明治31年 
○今はいかなる時ぞ、いと寒き時なり、正札をも値切るべき時なり、生殖器病云々の賣藥廣告を最も多く新聞紙上に見るの時なり。附記す、豫が朝報社に入れる時なり。
○代議士とは何ぞ、男地獄的壯士役者と雖も、猶能く選擧を爭ひ得るものなり。試みに裏町に入りて、議會筆記の行末をたづねんか、截りて四角なるは安帽子の裏なり、貼りて三角なるは南京豆の袋なり、官報の紙質殊に宜し。
○啾々を鬼の哭くといふは非なり。こは一樂糸織若くは縮緬の、鹽瀬繻珍の類と相觸るゝをいふなり。紳士淑女の途行く音をきゝて知るべし。
○世に茶人ありて、せめて色とも名のつくことを得ば、今の小説家の望は足れるなり。されどもこれは目的にあらず、目的は孜々として倦まず、書肆の倉を建つるに在り。
○今の小説と、ながらとは離る可らず。寢ながら讀む、欠伸しながら讀む、酒でも飮みながら讀む。されどこの讀むといふことより、代金の手前といふことを差引きて、もし殘餘あらば、そは小説家が社會に與ふる偉大の功益なり。
○明治の政治史は、伊藤山縣黒田井上後藤大隈陸奥板垣松方が名を、いやでも脱すこと能はず。今の自ら政客と稱する者に至りては如何、芳を千載に傳ふる固より難し、寧醜を萬世とはいはず、わづかに其日々々の新聞紙に遺す。
○されども歴史とは、不幸なる世の手控なり、くらやみの耻をあかるみに出すものなり。憂目は虎の皮の留まれるが故に、敷棄にせらるゝ如く、人の名の留まれるが故に、呼棄にせらる。
○およそ人は、姿を畫につくられざる程なるをよしとす。畫につくらるゝ人の、壁に貼られざるは稀なり。即ち、英雄豪傑は壁に貼らるゝものなり。
○總理大臣たらん人と、われとの異なる點を言はんか。肖像の新聞紙の附録となりて、徒らに世に弄ばれざるのみ。
○拍手喝采は人を愚かにするの道なり。つとめて拍手せよ、つとめて喝采せよ。渠おのづから倒れん。
○學士と精リ水とは、製法に於て酷しく相似たるものなり。先づ大なる桶に藥を盛り、これに無數の小瓶を投入れ其ぶくぶくたる音を發するを待ちて、一々取上げて口紙を貼るなり。是れ卒業證書授與式なり。われは精リ水の吟香翁を富ましたるを聞けども、未學士の國家を富ましたる者あるを聞かず、門前の松屋のみ稍富みしとなり。
○途に、未學ばざる一年生のりきみ返れるは、何物をか得んとするの望あるによるなり。既に學べる三年生のしをれ返れるは、何物をも得るの望なきによるなり。但し何物とは、多くは奉公口の事なり。
○所謂政客の節を重んぜざるを以て、娼婦に比する者あれども當らず。賣る可き筈と、賣る可からざる筈と、筈たがへり。娼婦は鑑札を有す、至公至明なり。政客は有せず。
○兒を生まば女の事なり。誤ちて娼婦となるとも、代議士となることなし。
○一生の思出、代議士たらんとすといふ者あるを笑ふこと勿れ、寧渠等は見切賣の勇気ある者なり。已に未切賣なり、ひけ物きず物曰く物たるは論を俟たず。
○選む者も愚なり、選まるゝ者も愚なり、孰れか愚の大なるものぞと問はゞ、答は相互の懷中に存すべし。されど愚の大なるをも、世は棄つるものにあらず、愚の大なるがありて、初めて道の妙を成すなり。
○われは今の代議士の、必ずや衆人が望に副へる者なるべきを確信せんと欲す。衆人曰く、金がほしい。故に代議士は曰く、金がほしい。
○日本は富強なる國なり、商にもよらず工にもよらず、將農にもよらず、人皆内職を以て立つ。
○このたびの文相の世界主義なればとて、日本主義なる大學派の人々のために説をなす者あれども、そはまことに無用の心配なり。何となれば、再言す何となれば、主義を持することゝ、箸を持することゝは自から別なればなり。
○渠はといはず、渠もといふ。今の豪傑と稱せられ、才子と稱せらるゝ者、いづれも亦の字附きなり。要するに明治の時代は、「も亦」の時代なり。
○男のほれる男でなけりや、眞の年増は惚れやせぬ。窮めたりといふべし。されども惚れらるゝは、附入らるゝなり、見込まるゝなり、弱處にあらずんば凡處を有するなり。程や容子や心意氣や、其何れを以てするも、われより高き人のわれに惚れるといふの理なし。
○普通の解説に從へば、縁はむすぶの神業に歸すと雖も、これとても都々逸以外に存立す可くもあらず。おもふに結婚は、一種の冐險事業なり、識らぬ二人を相擁かしめて、これに生涯の徳操を強ふるなり。
○統計上、年々離婚の増加するは人の知る所なり。妻を迎ふるに同居籍を以てするもの、亦將に漸く多からんとす。古の所謂人倫の大綱とは、わづかに朝夕顏を見交はすに過ぎず。
○賣女が手管の巧なりとも、竟に智にあらず、三つ蒲團の上に於て初めて生ずる習慣なり。若今の夫妻間に、若干の徳ありといはゞ、恐らくは膳をかけ合せたる時に於て、初めて生ずるそれも習慣ならん。
○樂は偕にすべし、いづれ一間買ふべき桟鋪なればなり。苦は偕にすべからず、高利貸が門に合乘を停むるの要なければなり。
○敢て貞節のみとは言はず、身に守る者いよいよ多く、心に守る者いよいよ少し。心身の二字妥當を缺かば、宜しく表裏と改むべし。道徳は必ずしも實踐におよばず、口先のものなり、寧ろ刷毛先のものなり。霞の光のありとのみにて、雲の影のなきも可なり。治まる御代の景物なり、御愛敬なり。
○おもへらく、親子兄弟、是れ符牒のみ。仁義忠孝、是れ器械のみ。
○涙ばかり貴きは無しとかや。されど欠びしたる時にも出づるものなり。
○熱誠とは贋金遣ひの義なり。註に曰く、其目的の單に製造するに止まらず、行使するに在るを以てなり。
○眞實、摯實、堅實、確實、これらは或場合に於ける活字の作用に過ぎず。即ち今の精神界を支配するもの、勢力を以ていはゞ活字なり。これを六號にするも五號にするも、廣告料に於て差異なく、四號にするも二號にするも、工手間に於てまたまた差異なし。
○官人のために氣を吐くも、民人のために氣を吐くも、一つ口は同じ口なり、怪むを要せず。達辯と訥辯とは正反對のものなれども、共にタチツテトの行に屬す。
○國家といはず、箇人といはず清まばタメなるべきも、濁らばダメなるべきこと、これも假字より出でたり。
○犠牲に供すとは面白き語なり、天神地祇は之れを看行すのみ、何日ともなしに人の取下げて、多くは自ら啖ふなり。
○泥棒根性なきものは人にあらず、これありて初めて世に立つを得べし。格をいへば豪傑たり才子たり、分をいへば強盗たり巾着切たり、素は一なること今更にあらず。
○人は殺すよりも、殺さるゝに難きものなり。殺さるゝに資格を要するものなり。ねがはくは殺されん、殺さるゝを得ずば、ねがはくは殺さん。殺さず殺されざるも、猶人たるの甲斐ありや疑はし。勿論こゝに殺すといふは、刃に血塗る事なり。
○われは今の文學者の品位の、いかばかり高しとは得言はざれど、嘔吐を催すと學堂氏のいへるは稍過ぎたり。氏はおもに假名垣時代を見たるにはあらざるか、年も漸く遷り來れるを知らざるにはあらざるか。伊藤侯が十年前の政治家なるとゝもに、學堂氏も亦十年前の論客たるなくんば幸なり。
○小説家とは何ぞや。小説にもならぬ奴の總稱なり。われは之を以て、最も簡單なる、最も明白なる、恐らくは最も公平なる解釋とす。
○何故にといふ語こそ、沒風流の極みなれ。説明し得べきと、得べからざるとの間に、妙不妙の別ちは存するなり。豆腐を好む者にむかひて、いかなるを味の妙となすと言はゞ、それはとばかり孰しも逡巡すべし。即ち妙とは、説明すべきものにあらず、説明し得べきものにあらず、もしその幾分を説明し得たりとせば、説明し得たる幾分は、已にその妙を失へる者なり。
○不幸も弔はるゝ程なるは、猶樂しきものなり。これや限りの眞の不幸は、竟に弔はるゝことなし。
○あとなる人のおのれと同じく溝飛越えしを見て、ほいなきものに思ふことあるも人の性なり。あとなる人の己とおなじく、溝に陷りしを見て、氣味よきものに思ふことあるも人の性なり。樣々なるが如しと雖も、しかも是同一人の性なり。
○わが世に大人なる者ありや、君子なる者ありや。口にしばしば大人君子をいふ者は、手にしばしば追剥をなす者なり。後の世の人の前の世の人を捉へて、身の箔となすに必要なる威嚇文句を、字に書きて大人君子とは云ふなり。
○夙に何々の志ありなどいふも、後人の附會なり、傳紀家の道樂なり、立志編に限りて用ひらるゝ形容詞なり。偉人たらんことを欲ひし人の、偉人たりしことなく、多くは其邊の受附に隱れたまはず、曝されたまへり。
○有る智慧を出すに慣れたる果は、無き智慧をも絞るに至るものなり。凡人たれ、凡人たれ、勉めて凡人たれ、是れ處世の第一義なると共に、修身の第一義なり。めでたく凡人の業を卒へたる時に於て、較すぐれたるものあるは、自己も猶よく認め得べき事なり。
○偉人たるは易く、凡人たるは難し。謹聽すべき逸事逸話は、凡人に多く偉人に少し。われは今、世を同じうせる人々のために、頻に逸事逸話を傳へらるゝの偉人多きを悲む。
○問ふて曰く、今の世の秩序とはいかなる者ぞ。答へて曰く、錢勘定に精しき事なり。
○慈善は一箇の商法なり、文明的商法なり。啻に金穀を養育院に出すに止まらず、姓名を新聞廣告に出す。
○陰徳あり、故に陽報あるは上古の事なり。近代に入りては、陽報あり、故に陰徳あるなり。盛年重ねて來らず、こゝを以て學ぶべしと古人は言ひ、遊ぶべしと今人は言ふ。今は古にあらず、義理を異にする怪むに足らず。
○恩は掛くるものにあらず、掛けらるゝものなり。漫りに人の恩を知らざるを責むる者は、己も畢竟恩を知らざる者なり。
○恩といふもの、いと長き力を有す、幾たび報うるも消ゆることなし。こゝに於てか賣る者あり、忘るゝ者あり、枷と同義たらしむ。
○僞善なる語をきく毎に、僞りにも善を行ふ者あらば、猶可ならずやとわれは思へり。社會は常に、僞善に由りて保維せらるゝにあらずやとわれは思へり。
○若し國家の患をいはゞ、僞善に在らず僞惡に在り。彼の小才を弄し、小智を弄す、孰れか僞惡ならざるべき。惡黨ぶるもの、惡黨がるもの、惡黨を氣取る者、惡黨を眞似る者、日に倍々多きを加ふ。惡黨の腹なくして、惡黨の事をなす、危險これより大なるは莫し。
○まことの善とまことの惡とは、醫の内科外科の如し、稱は異れども價は一なり。亂世の英雄なるもの、まことの惡ならば、治世の奸賊なるもの、まことの善なり。僞惡の出づるもこれが爲のみ、僞善の出づるもこれが爲のみ。
○賢愚は智に由て分たれ、善惡は徳に由て別たる。徳あり、愚人なれども善人なり。智あり、賢人なれども惡人なり。徳は縱に積むべく、智は横に伸ぶべし。一は丈なり、一は巾なり、智徳は遂に兼ぬ可らざるか。われ密におもふ、智は兇器なり、惡に長くるものなり、惡に趨るものなり、惡をなすがために授けられしものなり、苟くも智ある者の惡をなさゞる事なしと。
○更におもふ、人生の妙は善ありて生ずるにあらず、惡ありて生ずるなりと。世に物語の種を絶たざるもの、實に惡人のおかげなり。吾をして歴史家たらしめば、道眞を傳ふるに勉めんより、時平を傳ふるに勉めん。吾をして戯曲家、小説家、若くは詩人たらしめば、徒らに神の御前に跪かんより、惡魔とゝもに虚空に踊らん。
○人の常に爲さゞるによりて善は勧むといひ、常に爲すによりて惡は懲すといふ。勸善懲惡なる語の、由來する所此の如くならずとするも、波及する所此の如し。
○善も惡も、聞ゆるは小なるものなり。善の大なるは惡に近く、惡の大なるは善に近し。顯るゝは大なるものにあらず、大なるものは顯るゝことなし。惡に於て殊に然りとす。
○善の小なるは之を新聞紙に見るべく、惡の大なるは之を修身書に見るべし。
○勤勉は限有り、惰弱は限無し。他よりは勵すなり、己よりは奮ふなり、何ものか附加するにあらざるよりは、人は勤勉なる能はず。惰弱は人の本性なり。
○元氣を鼓舞すといふことあり、金魚に蕃椒水を與ふる如し、短きほどの事なり。
○懺悔は一種のゝろけなり、快樂を二重にするものなり。懺悔あり、故に悛むる者なし。懺悔の味は人生の味なり。
○打明けてといふに、已に飾あり、僞あり。人は遂に、打明くる者にあらず、打明け得る者にあらず。打明けざるによりて、わづかに談話を續くるなり、世に立つなり。
○奠都三十年祝賀會の、初めは投機的におもひ附かれしものなること、言ふを俟たず。これが勧誘に應じたる人々の意をたゝくに、多くは勤王論の誤解者なり。たのもしき東京市の賑ひといへば、車に乘れる貧民の手より、車を曳ける紳士の手に、一夜の權利を移すに過ぎず。
○知己を後の世に待つといふこと、太しき誤りなり。誤りならざるまでも、極めて心弱き事なり。人一代に知らるゝを得ず、いづくんぞ百代の後に知らるゝを得ん。今の世にやくざなる者は、後の世にもまたやくざなる者なり。
○己を知るは己のみ、他の知らんことを希ふにおよばず、他の知らんことを希ふ者は、畢に己をだに知らざる者なり。自ら信ずる所あり、待たざるも顯るべく、自ら信ずる所なし、待つも顯れざるべし。今の人の、ともすれば知己を千載の下に待つといふは、まこと待つにもあらず、待たるゝにもあらず、有合はす此句を口に藉りて、わづかにお茶を濁すなり、人前をつくろふなり、到らぬ心の申訳をなすなり。
○知らるとは、もとより多數をいふにあらず。昔なにがしの名優曰く、われの舞臺に出でゝ怠らざるは、徒らに幾百千の人の喝采を得んがためにあらず、日に一人の具眼者の必ず何れかの隅に在りて、細にわが技を察しくるゝならんと信ずるによると。無しとは見えてあるも識者なり、有りとは見えてなきも識者なり。若し待つ可くば、此くの如くにして俟つ可し。
○かしこきは今の作家や、われたゞ一つを傳ふれば足るといひて、さるが故に平生勉むるにあらず、さるが故に平生なぐるなり。知己を待つこと、數ひく弓のまぐれ當りを待つが如し。
○ほまれは短く、耻は長し。譽れは身をつゝむものなり、頭にかゝるものなり、耻ぢは身をそぐものなり、面にのこるものなり。つゝみて懸かるは雲の如し、吹かば飛ぶことあるべく、そぎて遺るは瘢の如し、拭へども去ることなかるべし。譽れなきも耻にあらず、耻なきは譽れなり。ほまれを求めんよりは、耻を受けざるに如かず。されど譽れもなく、耻もなきを世は人といはず、耻とほまれと相半ばしたる間に於て、人の品位は保たるゝなり。
○唯それ活字の世なり、既に言へりし如く、活字に左右せらるゝ世なり。榮と辱と、一箇の活字を置換へたるに過ぎず。萬朝報が日々市内の死生を記すを見て、人は生れてより死するまで、遂に活字の縁を離れざる者なるをおもふ。尠くとも六號活字を脱離し能はざる者なるをおもふ。
○襃するに分あり、過ぐれば即て貶するなり。世に碑文書きほど、嘲罵の極意を辨へたるはあらじ。さもなきに父祖の墓をのみ輝かさんは、却て父祖の業を辱しむるものなり。
○死せる者は谷中に行くなり、生ける者は遊郭に行くなり。葬るに自他の別ありと雖も、その共同墓地たるに於ては一なり。 
○優れるが故に勝つなり、劣れるが故に敗くるなり。強者の弱者を拯はざるを責むと雖も、強者は何の度、何の點、何の域まで弱者を拯はざる可らざるか。いつまで艸のいつ迄も、ただ限り無くといはゞ、強者は己のために勝ちて、他のために敗けざるを得ず。
○力の強弱なり、理の是非にあらず。しかも代々、弱者の理に富めるが如き觀あるは、一に攻守の勢を異にするに由るなり。弱者の強者にくらべて、理をいふに都合よき地位なるによるなり。愚痴や、怨みや、泣言やを繰返すの便宜あるによるなり。要するに弱者の數多ければなり、口喧しければなり。
○強きを挫き弱きを扶く、世に之れを侠と稱すけれども、弱に與せんは容易き事なり、人の心の自然なり。義理名分の正しき下に、強に與せんはいといと難し。悶ゆる胸の苦少きを幸福といはゞ、弱者は強者よりも寧ろ幸福なり。
○劍を以てするも、筆を以てするも、強者は遂に弱者を扶くることなし。長く扶くることなし。弱者を扶くるは弱者なり。どの道のがれぬ弱者なり。同病相憐むに過ぎず。
○正義のために起つといふは、身正義に代れるなり。貫き能はで斃れたるとき、正義は猶存在するものなりや否や、埋沒せられざるものなりや否や。
○貧は強ち耻辱にはあらざる可きも、さりとて到底榮譽にあらず。まづしき也、とぼしき也、憂ふるに人さまざまの輕重ありとも、孰か心の奥を問はれて、富に優るといふ者あらんや。貧を誇るは、富を誇るよりも更に陋し。
○濫せざるは罕なり、世に清貧なるものあるべしとも覺えず。先ごろ人の之を言爭へるも、概ね字義に拘泥したるの論のみ。富は餘れるなり、貧は足らざるなり、鹽噌の料に逐はるゝも、酒色の債に攻めらるゝも、算盤の合はざるは一なり、貧は一なり。必要を辨ずる能はざるを貧といはゞ、貧に清濁の別ちあるなし。即ち清貧とは、寡欲を衒ふに過ぎざる假設文字なり。
○富は手段を要す、こゝに於てか貧に安んずといふことあれども、實は安んずるにあらず、安んぜざるを得ざるなり、餘儀なきなり。人は銅貨の大よりも、銀貨の小を取る者也、取らざる迄も、其貴きを知れる者也。貧に安んずる者ならぬは明らけし。
○今日しばし貧に安んずとも、有りし昨日、有るべき明日を夢みんは定のものなり。悠然、澹然などいふもつまりは、負惜しみの臺辭なり。
○謂れなきに富者の憎まれ、貧者の憫れまるゝことあり。アキタ(冠が厭で脚が食)らぬ人の心の、身を富者の地位に置かず、貧者の地位にのみ置きて考ふるに因るなり。
○金庫は前にす可きものにあらず、後にす可きものなり。金庫に向かへる人の膝は屈めるなり、うな垂るゝなり。金庫に倚れる人の肩は聳ゆるなり、そり反るなり。
○他人の迷惑を顧みず、慮らざるもの、傳紀家を以て第一とす。知られぬが幸ひの手形足形を、さがなき此世に掘返して、己が樂しみに耽るなり。傳紀家が文辭を修飾すればするだけ、他人の迷惑は加はるなり。
○われは傳紀家の筆によりて、前人が罪科の數へらるゝを悲まず、功績の列ねらるゝを悲む。靈あり心あらば、地下に其人の然ばかりならぬを泣かんかとて。
○罪は遺すべし、功は遺すべからず。人の眞價は、罪有るによりて誤られずと雖も、功有るによりて却て誤らる。迷惑は罪の大なるよりも、功の小なるを擧示せらるゝに在り。
○歌々ひ、舞々ふ人の常に曰ふ、やんやの聲はこゝぞの時に聞くことなく、さらでもの時に聞くこと多しと。巨人、偉人、大人なるものの傳紀に就ても、われは此憾なきを保する能はず。
○人間が標準相場は、功名を以て定む可きにあらず、假なれば也。過失を以て定む可し、眞なれば也。
○襃するに辭は限有れど、貶するに限無し。例せば利口といへる唯一つのほめ言葉に對し、馬鹿、阿房、間拔け、拔作、とんま、とんちきなど、惡口は數ある如し。世とて人とて、到底誹らで果つまじきことは、これにて知るべし。
○謂はゞそやすは義理づくなり、けなすは眞けんなり。人のたづぬるに遇へば、一はまあ爾言つて置くのさといひ、一はそれが當前ぢやないかといふ。
○恐る可きもの二つあり、理髮師と寫眞師なり。人の頭を左右し得るなり。
○さる家の廣告に曰く、指環は人の正札なりと。げに正札なり、男の正札なり。指環も、時計も、香水も、將又コスメチツクも。
○つとめて穿鑿すべし、つとめて穿鑿すべからず。かく反對せる二箇の用意を、一身に負ふべきは歴史家なり。爛熳たる嶺の櫻と見しは、白雲なりしと言ふとも、水蒸氣の凝れりしと迄は言ふこと勿れ。陷り易き歴史家が弊は、穿鑿家たるに在り。
○されど水蒸氣と知らず雲を敍し、雲と知らず櫻を敍するが如きは、最も愚劣なる歴史家の事なり。
○詩は建國のものにあらず、亡國のものなり。建つるよりは、亡ぶるに姿かなへり、品具はれり。畏くも後醍醐、後村上の帝を首めたてまつり、南朝の歌集の極めて誦すべく、北朝のゝ一として看るに足らざるが如き、轉ずれば即てよき例證にあらずや。
○亡國の臣など呼ばれぬる人の、いかばかり風情に富みたりけんと、おろかしき事をも時には想ひ出さる。こはわれの日本の民なるが爲か、深編笠の浪人姿を、土間の一二三邊りに在りて喝采したる日本の民なるが爲か。
○那翁が雄圖の遺憾なく遂げられたらんには、今の如く我邦に贔屓を有することなかるべし。徳川氏の治下に出でたる歴史なるにも拘らず、一枚上に置ける秀吉の如きも、亦然らん。
○例を低きに取らば佐倉宗吾を見よ、大方の人の渠に動かさるゝは、奮ひて起てる初めなり、中ばなり、終りにあらず。願達きて渠が身の全からば、稱する者九分を減ずべし。
○目的は巓に在れども、山に遊ぶの快は幾曲折せる坂路を攀づるに在り。登れる者は下らざる可らず。
○めでたきものは平凡なり、めでたき正月の生活は、人皆平凡なり。
○清竟に盛へんか、衰へんか、われ之を知らず。唯其動揺し、騷擾する毎に、急ぎて歸着點を明かにする者なるをおもふ。
○革命來を呼べる人あり、今猶呼ぶ人あり、倶に戲れなるべし。信仰なき民は、革命なる文字を議するといはず、弄するの資格だになき者なり。
○假に細民の群り起てりとせよ、襲ひ撃たんは何處なるべき。米屋、薪屋、炭屋、酒屋、日濟し貸、及び差配人のでこぼこ頭のみ。
○口若くは筆もて富豪を責めんは、徒勞に屬す。幾千萬言を重ねて其暴横をいふとも、暴横より得たる權勢は、其間も猶暴横を逞しうし續くるの餘地あるなり。勝を必せざる攻撃は攻撃にあらず、攻撃の甲斐無し、敵をして防備を嚴ならしむるに過ぎず。
○非を遂げよ、希はくは非を遂げよ、非は必ず遂ぐ可きものなり。成功は非を遂ぐるに由りて來り、失敗は半途に非を悔ゐ、非を悟り、非を悛め、能く遂げざるに由りて來る。
○獨り斃れて已まんとは、潔き言葉なり、唯夫れ言葉なり。われをして言はしめば、人一人なりとも多く倒したる後に、われは倒れん。ふびんなれども冥土の路連れ、彼れ倒れずば我れ斃れじ、獨りは斃れじ、斃るゝとも已まじ。
○萬歳の聲は破壞の聲なり。河原の石の積上げられたるよりも、突崩されたるに適す。
○今もちよん髷といふを戴きて、明るき都の兩側町を行く人あり。頑迷なりといふ勿れ、固陋なりといふ勿れ、尠くとも主義を頭に載せたる人なり。
○理ありて保たるゝ世にあらず、無理ありて保たるゝ世なり。物に事に、公平ならんを望むは誤なり、惑なり、慾深き註文なり、無いものねだりなり。公平ならねばこそ稍めでたけれ、公平を期すといふが如き烏滸のしれ者を、世は一日も生存せしめず。
○どうせ世の中は其樣なものだ。この一語は、泣ける者をも慰むべく、怒れる者をも慰むべし。斯くして人口は年々増加すとも、減少することなし、めでたからずや。
○家あり、妻なかる可らず。妻が一家に於ける席順を言はゞ、葢鼠入らずの次なるべし。人の之を米櫃の保管者となせども、任に能く保管に堪へんこと覺束なし、恐らくはそれの輕重を單に報告するに止まらん。
○與へられし或権限をすら守り得ず、然も與へざる或権限を越ゆる者は妻なり。
○凡ての場合に於て、妻は參考品なり。分別をなすに於て、なさしむるに於て、なさざる能はざらしむるに於て。
○二人だから何うもならないといひ、一人だから何うかなるだらうといふ。夫婦者のは晴れたる苦勞なり、獨身者のは陰れる苦勞也。世に遣瀬なき思ひといふは、おほむね頭數を以て算出せられ、判定せらる。
○少年諸君のために言はんか、腦病に倒れんよりは胃病に倒れよ。雜誌を買ふて腦病に倒れんよりは、ひとしく学資の上前也、くすねる也、はねる也、菓子を買ふて胃病に倒れよ。腦と胃と、機關の因縁淺からずと雖も、士は一に名分を重んぜざる可からず。
○漫りに隈板二伯を嗤ふを休めよ、人間らしき内閣を組織したることに於て、二伯が功は沒す可らず。われらが知見の及ぶ限りを以てすれば、何れは人間の手に由りて造らるゝ内閣の、斯の如く明白に、寧ろ斯の如く巧妙に、人間の心情を露出といはんよりは表示し、表示といはんよりは捧呈し得たるもの無し。是實に世界に於て空前の事なるとゝもに、恐らくは亦絶後の事ならん。但だ衆の望の、かく迄に人間らしき内閣を得んと欲したるに在りしや否ずやを知らずと雖も、今にして思へば藩閥打破を疾呼せる渠等が聲の、頗る人間らしかりしをわれは嘆稱せざるを得ず。
○一日も政治なかる可らず、茲に於てか月給を奪ひ合へり。一日も政黨なかる可らず、爰に於てか看板を奪ひ合へり。車宿の親方の常に出入場を爭ふの故を以て、内閣大臣の偶々出入場を爭ふを不可とするの理を我は發見する能はず。車宿の親方の果敢なきが故にあさましく、内閣大臣の然らざるが故にあさましからずといふの理をも發見する能はず。
○憲政の美といふことを一言に約すれば、壯士の收入を増すといふ事なり。
○あゝ政治家よ、あゝ我邦今の政治家よ、卿等は唯一つなる刑の名をも知らざる者也、熟せざる者也、諳ぜざる者也。竊盜をなすも、強盜をなすも、等しく刑に處せらるべしと雖も、刑に於てすら名を重んぜざる卿等は、遂に何等の肩書きをも有する事なし。
○政界今日の事を以て、狂的行動となす者あり。一應はきこえたり、再應はきこえ難し。愚人の大人と相隣れるが如く、狂人は傑人と相隣れり。渠等を愚と言はんか、愚は猶寛なるものあり。狂といはんか、狂は猶偉なるものあり。所詮渠等は愚人、狂人以下なるのみ。
○一の大人、傑人なしと雖も、隣れるを以て近しとせば、千百の愚人、狂人あらんも亦聊か慰するに足る。恰も一町先の酒屋の深けて起きざるによりて、角店の水臭きをも忍ぶが如けん。愚人の量、狂人の見だになき世となりては、政治といふもの、竟に一盃の寢酒に若かず。
○譬へて今囘の變を言はゞ、總領の狡獪に人の氣を許すことなかりしも、次男の正直にふびんかゝりて、おもはぬ相互の不手際を演出するに至りしなり。政治系統の外に立ちて、單に因果の理法よりすれば、國家を誤る者は大隈伯にあらず、板垣伯なり。
○政治運動とは、一名集會の栞なり。胸襟を披くと稱し、十二分の歡を盡くすと稱す。幾たび盡くすとも十二分なると共に、幾たび披くも舊の胸襟なり。
○鬱勃たる不平の迸り出づる時、これを支へんは酒なるかな。敢て段落を見計らふを要せず、まあ一杯とさしたる洋盞の渠が手に移らば、疑ひもなく麥酒は其場の結論たるべし。
○それが何うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文學といはず。
○絶えず貢獻なる語を口にする人あれども、おもふに腹のふくれたる後の事なるべし。尠くとも、一日三度の飯を食得たる後の事なるべし。片手業なるべし。小唄なるべし。
○與す可きにあらず驕りて觀下すか、齒す可きにあらず謙りて瞻上ぐるか、處世の要はこの二つを出づること莫し。されば朝夕の辭儀口誼もおまへは馬鹿だと言ふか、あなたはお利巧なと言ふかの二つよりあること莫し。
○上流に比すれば樂多かるべし、されども下流に比すれば苦多かるべし。社會の勢力は總て中流の有なること、今更にもあらざる可き歟。維持するに於て、壞亂するに於て。
○米錢の事と限るにあらず、力をお隣のをばさんに假るに、裏屋にありては味方なり、慰藉を得るの便り也。表店に在りては敵なり、誹謗を招くの基也。理の本は斯くひとしけれど、情の末は斯くたがへり。
○下なる人は之を寄せ合ふなり、上なる人は之を偸み合ふなり。同情なる文字の荐りに社會に稱せらるゝにも拘らず、解を求むればまさに斯くの如し。
○立身出世といふことあり、人のうまれの啻に怜からば、誰も爲し得んものに思ふは大なる誤り也。何處にか阿房の本體をとゞむるにあらざれば、立身出世はなり難し。立身出世を希はん者は、見え透きたる利口と、見え透きたる阿房とを兼有せざる可らず、兼有して而して巧に表出せざる可らず。
○虎といふものこそ可笑しきものなれ、身は動物園の鐵柵に圍まれて出づるに由なく、遂に自由なるまじき境と知りつゝ、猶其処に一分時を安んずる能はず、最も、最も柵に近き邊を、日夕往返し居るなり。
○軍人の跋扈を憤れる人よ、去つて淺草公園に行け、渠等が木戸錢は子供と同じく半額なり。
○山縣侯の手に成れるこの度の内閣は、雅味ある内閣也。一概に之を斥けんは、人類學攷究の價値を知らざる者也。組織と言はず、宜しく發掘と言ふべし。
○一の政治家なし、數多の政論家あり。一の政論家なし、數多の政黨屋あり。強て家の字を附す可くば、われは之を一括して、經世家といふの妥當なるを信ず。經綸の經にあらず、經過の經なり、即ち世を經るなり、どうかこうか渡り行くなり。
○正札だからまけますといふ世にありて、特り看板に僞りなきは、彼の自ら有志家を以て任ずる輩也。一定の職なく、業なく、右往左往に唯わやわやと立廻りて、團體と稱す、志の有る所知る可きのみ。三輪のうま酒うまさうなる時に、多くの人は志を呼ぶものなり。
○奔走家といふも新しき營業也。抱への車夫に給分を渡すことなくば、一層新しき營業也。
○曩に大臣の名の安くなりぬと説きし人に問はん、そは從來高上りせる我邦政治の價の、漸く平位に著かんとしたるものにあらざる乎。この度の内閣は如何、亂高下とも言ひかぬるなるべし。止むなくば休日越しの相場歟、開市の暁は直ちに改正せらる可き者なり。
○政治は人を亡し、文學は国を亡す。國のために政治をいひ、人のために文學をいふ。誤らずんば幸ひ也。
○極めて謂れ無き事なれども、姑く傳ふるに隨せて、醫は仁術なりとせんか。古は人を活すが故也、即ち患を除く也。今は人を殺すが故也、即ち苦を去る也。字義と雖も世とゝもに推移するに、怪しうはあらじ。
○諺に曰く地震雷火事親父と、是れたゞ危險の度を示したるに過ぎず。苦痛の量よりすれば、親父火事雷地震也。
○世は殿樣の謠なる哉、孃樣の琴なる哉、喝采の豫約せられたる如きものを以て、豫約せられたる如き喝采を得るも、猶長く悦べり。 月給は人の價にあらず、されども月給は人の價なり。各人が遭遇する場合の多少より言はゞ。
○官吏が權勢を射利の用に供すること、今始まりしにあらずと雖も、過ぎにし事の迹をひとかに察するに、藩閥内閣に屬するは、地位のために獲たる儲け口なりし。政黨内閣に屬するは、儲け口のために得たる地位なりし。即ち前者は偶然也、偶然といふを得可し。後者は必然也、必然といふの外無し。彼の杉田を看よ、肥塚を看よ、草刈を看よ、所謂憲政の賜としては、醜穢なりとは言はず露骨なりしをわれらは藩閥の前に耻ぢざるを得ず。
○風紀は一片の禁令の、能く支持す可きにあらず。學生を取締り、諸藝人を取締り、遊び人乃至物貰ひの徒を取締るといふも、畢竟威壓のみ。腐敗せしめよ、大いに腐敗せしめよ、世を擧げて全く腐敗し盡すを得ば、尠くとも人互ひに感染し、浸潤するの患を除くに庶幾からん。
○彼方には火鉢を取除け、此方には茶棚を取除くるは、朝々の掃除にも面倒なる事也。掃除し畢りて顧みれば、塵は塗盆の上に猶鮮かなるべし。如かず機を得て、一時にどつと掃出さんには。
○人は早晩、何の點と限らず墮落す可きに定まれる者也。強て墮落を抑へんは、發せしむるに過ぎず。あしき墮落をなさゞるの前に、噫われはよき墮落を誨へんかな。
○一夕、大學生の語るを聽く。曰く、彼奴もなかなか進化したと。茲に進化とは、繻珍の紙入を藏するの義也、われらが認めて墮落となす所の者也。要するに學問は自己を諒解するの道にあらず、辯解するの具なり。
○今の教授法といふは、泥水清水の混合物也、併せ飮ましむる也。よしや遡れば清水の多分なりとも、攪き交ぜられし末は泥水の行渡れるを以て、滿腹と稱す。宜なり渠等に清水を見ず、吐かば必ず泥水なることや。
○漫然、他を罵りて無學といひ、無識といふは重寶なる、但しは卑怯なる語也。いかなる大學者、大識者に向つても言得べきと共に、いかなる大學者、大識者と雖も、之を言釋かんに途なき事なればなり。眞正の學者、識者の口より、この語の出でしをきゝし事なし。 
明治32年

 

○教育の普及は、浮薄の普及也。文明の齎す所は、いろは短歌一箇に過ぎず。臭い物に蓋するに勉むる也。國運日に月に進むなどいふは、蓋する巧の漸々倍加し來ぬる事也。
○天保老人氏曰ふ、今を昔に比ぶるに、男次第に妍く、女次第に醜し、是れ何が故ぞと。戲謔にはあらざるべし、眞ならばげに是れ何が故ぞ。未能く答ふるを得ずと雖も、われは敢て風俗上の問題となさず教育上の問題として、之が因由をたづねんと欲す。
○女といふは榮ある者哉、紅きもの、白きものもて彩るを得るなりとは人の言也。女といふは效なき者哉、紅きもの、白きものもて彩らざるを得ざるなりとはわが言也。
○聖賢の道といふものこそ、いと心得ね。大方の場合に於て、女子は即ち色なりと解し、格外に之を忌み怖れたり。威を以てするも、つまりを言はゞ欺くなり。總ての意味の上に、教といふは元アザムキ也。僅に女一人をも欺き得ず、何者をか欺き得ん。女は欺く可し、欺かば足りぬべきものなり。
○炊がざれば米は食ふにたへず、炊ぐは當然のみ。女を欺くに何の罪ぞ。
○たまたま女の僞りを陳ずることありとも、たゞす勿れ、責むる勿れ、とがむる勿れ。僞りかあらぬかをさへ、問ふに及ばず。女の嘘は、唯聞いて置けば宜しき事也。
○女子の貞節は、貧の盜みに同じ。境遇の強ふるに由る。
○涙以外に何物をも有せず、女の涙は技術なり。
○女は猶鶯の如き者か。羽色のために拂はるゝよりも、啼音のために拂はるゝ價也。最もよく玩弄に適したるを、最もよき女とは謂ふなり。
○嘗て女の手に、剣を執れる世もありき。鬪へる也。扇を取れる世もありき。舞へる也。今は只男の肩に懸くるか、頸に懸くるかより能無き世となりぬ。寢ぬる也。
○才を娶らんよりは、財を娶れよ。女の才は用なきもの也、善用することなきもの也。なまなかなるは不具たるに殆かるべし。財あるに如かず。財を獲たらんは、才を得たらんより耐へ易く、忍び易し。
○人の妻を遇するを見るに、之を粧飾品となす者は座敷に置き、日用具となす者は臺所に置く。共に動産たり。妻みづからも亦身の置場、据場、寧ろ寢處とより上の觀念を有するものなし。若これありとせば、そは粧飾品の風通を買はれざるを恨み、日用具の繻子を賣らるゝを怖るゝのみ。この時初めて、夫あるを覺るに過ぎず。
○凡て女子の心にとは言難し、身に夫あるを覺るは、滿ちたる時にあらず、缺けたる時なり。全き時にあらず、乏き時なり。謝す可き時にあらず、訴ふ可き時なり。恩にあらず、怨也。
○已に動産と稱す、妻を迎ふるは一箇の富を増すなりといふ者あるにわれは抗論せざる可し。醫者樣の物置に、菓子、鷄卵の空箱の積まれたるを富なりといふ者あるにも、われは又亦抗論せざる可し。
○文字ばかりをかしきは莫し、實を傳へざるは莫し。内助の二字の如き、殊に然り。單に鍋釜を整理し、配置し、按排するの謂とせんも、猶諸買物通帳は、常に夫の前に提供せらるゝにあらずや。世に内助の功なんどといふもの、到底有得可しとも覺えず。
○彼の妻を見よ、飼犬を見よ、大差ありや。餌を與ふることを忘れずば、吠ゆることなし。
○寒い晩だな、寒い晩です。妻のナグサメとは、正に斯の如きもの也。多くもこの型を出でざる受答への器械のみ。之に由りて、世の寂寥を忘るといふ者あり、げに能く忘るべし、希望をも忘るべし。
○前なる夫に告ぐ、渠は今公に、後なる夫の膝によ(冠が馮で脚が几)りて笑ふ也。後なる夫に告ぐ、渠は今密かに、前なる夫の墓に詣でゝ泣く也。いづれぞ心の誠なる。いづれも形の僞り也。
○生殖作用は、生活作用也。飢ゑざらんが爲といふこと、女子が結婚の一條件たるを以て見れば。
○豫め轉賣を諾されたる者は娼妓なり。されども權利者の誤解をまねくこと多し。この誤解をまねくこと無き者は妾なり。
○雜誌、新小説の懸賞規則を見るに、當選者の肖像を寫眞版となし、之を卷頭に掲ぐべしとあり。あゝ明治の青年は、斯の如くにして犠牲に供せらるゝ也、葬らるゝ也。
○戀とは口にうつくしく、手にきたなき者也。こは嘗て神聖論を拒否するにあたりて、戀とはうつくしき詞もて、きたなき夢を敍するものぞとわれの言へるを、詳かにしたりとも、約かにしたりとも言得べきもの也。
○危きは世に謂ふ戀なるかな。一たびするも、十たびするも、符號を遺すことなく、痕跡を留むることなし。
○相見ば戀は止むべきか、相逢はゞ戀は止むべきか、相語らば戀は止むべきか。切に求めて休むことなきものは戀也。
○須らくわれも世につれて、相思ふを戀といふべし。最後やいかに。限りなきおもひの程を互に表示するに於て、通告するに於て、將又交換するに於て、唯一つなる方法は相擁きて眠るにあらぬか。
○ふたりが戀の契約書にありては、肉交は證券印紙なり。之を貼用するにあらざれば、自己も猶效力を認めず。
○戀は親切を以て成立す、引力也。不親切を以て持續す、彈力也。疑惑は戀の要件也。
○夫婦は戀にあらざること、言ふ迄もなし。夫婦は戀の失敗者と失敗者とを結び合せたるものなること、亦言ふ迄もなし。「鮨をと思つたが蟇口の都合で蕎麥にして置くのだ」とは、われの既に言へる所なり。
○握手は子をなす事なし。夫婦の愛は肉より生ず。かの婚姻なるものを看よ、そを四隣に吹聽して憚らず、以て儀式となすにあらずや。
○唄浄瑠璃は言ふにも及ばず、古の和歌の今に傳へて人の誠となすもの、戀となすもの、多くは肉慾也。倶に寢ねんことを望めり。いづれの邦の歴史と雖も、かげには必ず子宮病の伏在せる者なるを思ふ。
○劇にて見たる初菊は、いと率直なる婦人なりき。公衆の面前に於て、せめて一夜の祝言を強請せり。
○何故に女子は貞淑ならざるか。何故に女子をして貞淑ならしめざる可らざるか。女子に操ありと信ずる者は、自己の零落を知らざる者也。相携へて途上を行くとせよ、妻の眼の何ものに注がれ、妻の眼に何ものゝ映れるかを、夫は察知するの能力なき者也。況んや抑制をや。能力と言はざる迄も、妻が夜毎の夢の始終を、明かに聽く可き信用だに無き者也。
○希はくは安んぜよ、滿天下の女子諸君。現行犯ならざる限りは、すべての女子は操正しき者なり。
○恐らくは有夫姦は、法律の禁ず可きものにあらざるべし。
○われは貞婦、烈女の傳を讀みて、かゝりし人のまことに在りけんよしを確信したり、嘆稱したり。されど若われと同じき世に在らしめば、もはや理屈の要なし、これはたまらぬとより多くを言ふ能はず。
○十年の語らひも、一言によりて去り去らるゝを夫婦といふ。よしや倶々、あかぬ中にも子細ありて、啼いてくれるか初杜鵑、血を吐く程の別れをなしたりとも、十日、廿日、一月を隔つれば心全く他人也。女子の進退は、毫も暦日と關係無し。
○戀は花か、色は實か。花の實となるは必然にして偶然也、偶然にして必然也。散れよ花、花は初めより散るに如かず。忘れよ戀、戀は初めより忘るゝに如かず。
○花間に月下に、言はぬ思ひの唯打對ひて果つべき生涯ならば、われは戀の神聖を疑はじ。彼と此れとは倶に初戀の、つゆ動かぬ保證を公に得るものならば、われもさまでは疑はじ。
○戀ふるにいさゝかの價ありとも、戀はるゝに價なし。成就の一方より言はゞ、戀はまぐれ當り也、ぶつかり加減也、一寸したキツカケ也。
○獻身的戀愛となん、呼ばるゝものありとぞ。日に三たびは飯食ふべき身を獻げ來らるゝも、時に依りては迷惑なるものに思はる。
○戀と言はず、更に色と言はん。われは混ずることなかるべし。色とは富の副産物なり、屈託なき民の鬨の聲なり、今日の如くめでたきものなり。
○こゝを以て、われは一押二金といへる人よりは、一暇二金といへる人の炯眼に服せざるを得ず。其共に「をとこ」を三位に置けるも、故なきにあらず。男の器量を貨幣につもらば、僅かに三錢四錢の顏剃代を以て上下する者なればなり。
○爨婦も丁稚も打交りて臥せる低き屋根の下と、坊ちやまも孃樣も各お座敷を有せらるゝ高殿の上と、所謂醜聞の孰れに多きかを比較し看よ。是亦餘裕の一例なるべし。
○端なくもわが眼前口頭は、法の問ふ所となりぬ。正面と反面と、事の描写と理の表白と、わが文に於て殊に甚しく混読せられ、誤解せらる。われや黄口の一書生、字を知ること少きの罪か、将多きの罪か。全く知ることなからましかばと、今に及びて悔ゆるも詮無し。われら不文の徒、須く戒心を要す。
○道徳を言ふ者、道徳の仮面を被る者、近時著しく増加したり。未然に言ふに非ず、既然に言ふ也。言ふ者奚ぞ恃むに足らん、被る者稍恃むべし。一国文化の増進は、この仮面あるがためなること、夙に歴史のわれらに諭示する所也。
○何人も異議なき道徳の見解は、自身之を守るを必せず、他人之を守るを必すといふことに帰着すべし。
○偶々道徳を論ずるの故を以て、これが躬行を迫るは、箱根以東に化物あらしめんとする者也。思つたり、したりは出来ませぬとは、特に論者がために設けられたる好句ならんかし。
○喰はざれば佳人と雖も、桃花の晴に笑ひ、李花の雨に泣くの媚を競はんこと難し。こヽに喰ふといふは、大口あく事也。懸棟飛閣の人の目を眩するものありとも、或時は人の鼻を掩はしむべき下掃除の、門庭に出入するを禁じ得ざるものなることを忘る可らず。
○時弊を拯ふと称へて、人の秘事内行を訐くに力むる者あり、是亦一の時弊にあらざる乎。策を失したる矯風は、矯風にあらず、挑発のみ、勧誘のみ、助長のみ。悪を懲らすといふもの、まことは悪を励ますものなり。
○今の時、所謂ヒユーマニチイを説くといはず、好くといふべし。それら諸君子の前に、敢て一笑話を献げんか。橋詰の巡査は、諸君子のために有力なる同論者也。切に行人に誨へて、左へ/\といふ、是れ豈人道を主張する者にあらずや。
○偏に法律を以て防護の具となす者は、攻伐の具となす者也。楯の両面を知悉せる後にありて、人歩くは高利貸となり、詐偽師となり、賭博師となり、現時の政治家となる。
○謙信智あり、信玄胆あり、是古の戦なり。星移り、物変りぬ。すばしツこきをのみ智謀といひ、づうづうしきをのみ胆略といふ。掏摸と追剥とは、最もよく通俗的に、この二つの表現せられたる者也。
○罪の軽き者は監獄に行き、重き者は酒楼に行く。かしこには鉄の鎖あり、笞あり。こヽには金の轡あり、女あり。
○夜は休息のために附与せられ、計画のために使用せらる。総ての方面に渉りて、夜は見せ掛けの時間也。人の意の天の意に乖くや久し、戻るや久し。
○もろ/\の物価の尽く騰貴せる際にも、猶依然としてあげず、あがらざるものは夫れお賽銭乎。
○あヽ作家諸君、諸君は原稿料引上げの行はれざるを恨み給ふな。其時は神、若くは仏になり得たりと思ひたまへ。たヾの神仏に比すれば、諸君は口の働くだけでも多能也。
○老熟は或意味に於て意気の銷沈なれども、意気の銷沈は必ずしも老熟にあらず。新進作家に代りて白す。
○絶えず作を出さヾれば、作家にあらずといふ乎。作家は何の日を以てか、得て修養せん。今の批評家の言ふ所は、今の作家をしてお目留まりますれば、直ちに次なる藝に取掛るの軽技師たらしめ、手品師たらしめんとするもの也。何等の曲折をもとゞめず、絶えず語るを以て壮なりとせば、希はくは去つて九段公園の噴水器に観よ。
○今の作家は、今の批評家のために毫も開発せられたることなし。されども今の批評家は、今の作家のために常に生活するなり。
○身、貧にありて志を改へざるは易き事也、多き事也。富にありては難き事也、罕なる事也。人の節操を貧にのみ見て、富に見ざるは早計也、速断也、鼻元思案也。
○貧の堕落は要求なり、充たさんと欲して充たさるヽことなきなり。富の堕落は強請なり、飽かんと欲して飽くことなきなり。憐むべし貧の堕落は、一人の堕落なれども、憎むべし富の堕落は、一国の堕落なり。されど共に心の自然たるや、言ふを俟たず。
○智は有形也、徳は無形也。形を以て示すを得、故に智は進むなり。形を以て示すを得ず、故に徳は進むことなし、永久進むことなし。若有之りとせば、そは智の色の余れるをもて、徳の色の足らざるを一時、糊塗するに過きず。
○富をなすの道は智に在りて、徳に在らず。貧人と長く語らんは、富人の損害なること疑無し。闇夜の溝に陥れる者を救はんと欲せば、自己も手を泥に汚さヾる能はず。
○人の心の最きよらかなるは、人の心の最おろかなるなり。魚の多数は澄江に釣らず、濁流に釣るなり。
○稼がざる可らず、こは世に必要の事なれば、人皆知れり。何故に稼がざる可らざるか、こは更に世に必要の事なれども、知る者鮮し。
○納豆屋の声に明け、豆腐屋の声に暮るヽは、塵深き都の光景也。太く、短きを便とするものあり。細く、長きを便とするものあり。品さまざまなるとヽもに、声亦さまざまなり。われは茲に世間一切を、姑く売品といはん。利は日の中の声の大なるものに薄く、夜の間の声の小なるものに厚し。即ち売声の相違は、営業の相違也、反比例的に利得の相違也。
○号外売の声と、辻占売の声とは、新旧思想の比較の上に、最も顕著なる例証をわれらに与ふるものなり。何ぞ殊更に嗜好といはんや、趣味といはんや、将又品性といはんや。
○涙は誠意なりとぞ、猿はよく啼く者也。血は熱心なりとぞ、蚊はよく吸ふ者也。
○汝は犬なり、馬なりと言はヾ、人心ず憤怒すべし。されど場合によりては、身自ら犬馬に比して怪まず。辞は外に遜るなりといへど、意は内に飾るなり。利害の関係は、飾るに畜類を以てするも、猶安んじ得べきものと見えたり。
○口を極めて相罵るの時にも、畜類よりは下すことなし。人の身近く置かるヽがゆゑに、大、猫、牛、馬の常に標準とせらるヽこと、迷惑の至なるべし。若彼等をして言語の通ずるを得せしめば、其第一に訴ふる所は、人の身に関する事件なるや必せり。 
○鳥は高く天上に蔵れ、魚は深く水中に潜む。鳥の声聴くべく、魚の肉啖ふべし。これを取除けたるは人の依怙也。
○何様なるを世間とは謂ふと間はヾ、われは立どころに下の如き答辯をなすことを得べし。曰く、善人栄え、悪人亡ぶるの場処なりと。
○一に就かんよりは十に就け、是極めて当世の事也。諸人の感服することに感服し、諸人の感服するものに感服し、諸人の感服するときに感服せば、期せずして幸福は頭上に到来せん。断りたくも断れざるべし。
○按ずるに社会の智識は、売れぬ本といふものに由りて開拓せらるヽならん歟。売れぬ本といふは、すぐれて良きか、良からぬかの二つに出でず。この二つは先後別々に、大なる教訓を提げたる者なればなり。約言すれば社会の智識は、書肆の戸棚也、戸棚の隅也、隅の塵也、塵の山也。
○古の歌人の月花を脱し得ざるが如く、今の新体詩人は、唯一つの星を脱し得ずとは、某批評家の言なりと聞く。げに歌人、詩人といふは可笑しきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫なりと思へり。塒に還る夕烏、嘗て曲亭馬琴に告げて曰く、おれは用達に行くのだ。
○沈酔せり、醒さヾる可らず。老衰せり、葬らざる可らずとは、今の批評家の紋切形也。天才結構、大結構、今の批評家の召に応ずる天才あらば、われら一生の思出、疾く拝顔の栄を得んことを望む。もし其言の如く、悲壮なる其言の如く、われらをさへ交へて僅に五七人を葬るを得ずば、今の批評家は墓地の穴掘りにだも及かざる者也。悲壮は原稿の埋草也。
○現時の政党は、一の商売なりといふにあらずや。さらば其宣言書の、彼此共に異るなきを嗤ふを要せじ、各々様御機嫌克くの引札に過ぎざればなり。利をかヽげて勧誘に力むるを嗤ふを要せじ、何日間売出しの景物に過ぎざればなり。
○無鑑札なる営業者を、俗にモグリと謂ふ。今の政党者流は、昔このモグリなり。鑑札無くして売買に従事するものなればなり。
○正義を唱ふるの士は、正義を行ふの士なりと思へ。公徳の欠乏を慨する者にして、 一己私徳の上にだに欠乏せる者あるを思ふことなかれ。要は唯信ずるに在り。信ずるはめでたきものなり。天下太平の策、こヽに於てか定まる。
○豆蔵氏が言に曰く、見ると聞くとは大きな相違と。然り見ると聞くと、大いに相違することなくば、今日にありてはゆヽしき大事也、国家の大事也。
○一切の虚偽を排するは、一切の真実を排するなり。虚偽と真実との関係は、鰹に対する酢味噌の如し。まことそらごと取交ぜるにあらざれば、遂にお話はなり難し。
○嘘は薬か、誠は毒か、相待つて世は悠久に健かなるを得るなり。何事も造化の配剤に帰したる古人が言も、蓋この意に出でざるべし。
○嘘も誠も物の名のみ。時と処とによりて、おのづから運用の別あるのみ。浪速の蘆は伊勢の浜荻たるの類のみ。
○欺くは智也、欺かるヽは徳也。されども人は、欺くほどの智ある者に非ず、欺かるヽだけの徳ある者なり。
○秘する者は秘し、秘せざる者は秘せず、ことわると否とに関せざるべし。秘密を迫るは、公開を迫るなり。陰蔽は流布なり。人より秘密を語げられたる時は、われらが最も戒心すべき時なり。
○人の世に最大不必要なるもの、唯一つあり、名けて識者といふ。
○学問は宜しく質屋の庫の如くなる可からず、洋燈屋の店の如くなる可し。深く内に蓄ふるを要せず、広く外に掲ぐべし、ぶら下ぐべし、さらけ出すべし。其庫の窺知し難きも、其店の透見し易きも、近寄る可からざるは一なり、危険は一なり。
○換言すれば古の学者は、不透明体なり、今のは透明体なり。更に其説く所に由りて判ずれば、古のは固体、今のは気体なり。
○鏡を看よといふは、反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具にあらず、迷ひの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。
○何人か鏡を把りて、魔ならざる者ある。魔を照すにあらず、造る也。即ち鏡は、瞥見す可きものなり、熟視す可きものにあらず。
○老たる人の肖像といふを見るに、何処にか鬼相を止めざるは莫し。人の面は、など斯く恐ろしきや、老はなど斯くあさましきや。
○過去、現在、未来を分けてもいはず、総ての燈は、総ての人を悪業に誘かんがために、点ぜらるヽなり。罪の手引なり。
○燈の数は上野公園に少く、浅草公園に多し。着手以前に用あれども、以後に用なし。
○燈影明るき処、罪業あり。暗き処、悔悟あり。燈と鏡と枕とは、歴史家の遺棄す可からざるものなり。
○驕奢の風、都鄙に瀰蔓すといふは真歟。恐らくは是れ、驕奢の誤解なるべし。わが繹ね得たる所を以てすれば、昔時驕奢と称せられたるは、多く他を潤せり。今時のは単に、自己を潤すに過ぎず。
○故に一人倒るれば、昔は数人共に倒れたり。今は一人の倒るヽに止まる、寧倒さるヽに止まる。
○之を一家内に見るも、夫が驕奢は、妻に係はる事なし。妻が驕奢は、夫に係はる事なし。おのれ/\が驕奢のためには、夫が飯のつめたきも、妻が衣のいやしきも、相互ひに顧慮する事なし。
○あ、それ驕奢なるかな、豪侈なるかな。われは人の数十金、数百金を投ぜるを目撃す。併せて指環は其人の手に、時計は其人の胸に存在せるを目撃す。依然財産たり。
○聚めんと欲せば、先づ散ぜよといふは、転んでも只は起きぬの同義なりと信ず。
○公益を計らんものは、私益をも計らざる可からず。生命、栄誉、財産を擲つと称する際にも、猶万一といふ語を、成功の上に置かず、失敗の上に置くなり。
○誰にもあれ、一事一業を起さんとするを見たる時は、荐に之れに親めよ、寧ろ狎れよ。其漸く成らんとするを見たる時は、窃に之れを羨めよ、寧ろ嫉めよ。而して不幸、半途に敗るヽに遭はヾ、其時は唯其人の自業自得なりと言へよ。是れ今日の秘伝也。
○羅綾を穿ち、錦繍を纏ふ。之を今朝に見て駭くが如きは、都人士の事に非ず。昨夜に聞かばよその蔵に、拘禁せられ居たるは言ふ迄も無し。風嫋かに花を吹きて、春面白き小袖幕も、実は番頭を泣かせたるものなり。
○拘禁といふに若語弊あらば、改めて保管といふべし。吾家なるは鄭重にし、質屋なるは厳重にす。倶に与に、字は重んずるなり。
○体裁は夏向ならず、冬向なり。入りて悄然たる者は、出でヽ傲然たる者なり。質屋が店の格子の如く、人の心に急速なる変化を与ふるはあらじ。
○歳毎の春の花也、秋の月也。特り今年に限りて、物飲み、物食ふを要せんや。故に風通、一楽の車をつらねて駈行くは、山楼水亭の何れにもあらず、鹹き鮭一切れ、晩餐の膳の上にお還りを待てばなり。今の驕奢といふは、大抵此の如きものヽみ、所謂路人に耀かすに過ぎざるものヽみ、人前のみ。
○名は必ずしも紳士録、職員録に上れるをもて、遂げたりと思惟する勿れ。あまりにそれは軽はづみ也、早手廻し也、無論けちなる料簡也。高利貸といふ者の台帳に記入せられざれば、世間は決して名士と呼ぶことなし。
○名士の高利貸に於けるは、狐の稲荷に於けるが如し。司命者也。高利貸なかりせば、世は斯の如く静穏なる能はず、隆盛なる能はず、箸の上げ下しにまで万歳を唱ふる能はず。
○洋の東西、時の古今に論なく、国力充たず、国威揚らずなどいふことあるは、其処に高利貸を欠くがためなり。利のみならず、総てに高き営業なることは、文明国に多く栖息すといはんよりは、跋扈するを見て知るべし。
○縦横計不就、慷慨志猶存。高利を借れるなり。人生感意気、功名誰復論。情婦を持てるなり。
○待てと一人、わが言を遮りて曰く、驕奢者狭斜也、義者妓也、音相通ずるにあらずやと。げにもクンシは漢音也、キミコは和訓也。
○さらば儞等、酔へや眠れや夢よや。覚めざれば呼ばず、さめて初めて天を呼ぶは、人各々に定まれる義務にてもあるべし。
○衆皆酔ひ、吾独醒むといふは、九尺二間の事なり。裏長家の事なり。運命を総後架と、掃溜とに隣りて有する不理窟なり。今と雖も、遂に水に赴かざるを得ず。  
 
一切存じ不申 / 緑雨醒客

 

R.R.殿に申上まゐらせ候貴君の眼大いか小さいか我之を知り不申候へども拙者めをとらへて何となくこそばゆき事御風聽被遊珍重過て困入り候北邙散士の宇宙主義、大道を闊歩せらるゝ慷慨文は拙者めも豫てより感銘罷在たれども拙者嘲笑文を書いた覺えハ夜な夜な毎の現にも無之何が甚深ぢヤやら究理ぢヤやら根深か一文字か一向存じ不申却て貴君の御仁心と存候砂の中にもたまらぬ拙者めを、蓬の中にもあさましき拙者めを兔角仰せらるゝ事貴君がお名のアール怪き次第に候考ふるに貴君ハ我師正直正太夫と拙者めとを混じられしにハあらざる歟正太夫の所謂評註主義、これハ見ざまに依りてハ心肝より蒸發せる冷笑の影とも思はれ候ヘバ多分この間違ひかと存じ候果して然らバ甚深とかいふ勲章ハ改めて正太夫方へ御贈り被下度師も亦貴君の文讀で太く拙者の實無きに名あるを笑はれ死せる孔明生ける仲達を走らせし類ひぞと被申候拙者め正太夫の門にあるものゝ實ハ今より小説を書て獨樂自興の便法を恣まゝにせんと存候のみ不日「置炬燵」と題する温かい傑作を公に致候間それ見そなはして拙者めハそれだけの者と御承知被下度甚深及び嘲笑文〆て五文字ハまづまづ御手許へ御たぐり戻しの程願ひ上候拙者出世の妨げに付この段態々御斷り申上候也。 
 
予ハ贊成者にあらず / 正太夫

 

義損小説發行の廣告出づ、予を賛成寄稿者の内に加へしハ太だ不服なり
尾濃地方震災の慘状ハ予能く之を知れり然れども之れが爲めに小説を作つて其賣上金を義損すと云ふが如きハ大いに誤まり居れり極言すれバ義損小説の擧ハ強ひて我等に文を賣らしめんとするものなり
予ハ初め春陽堂主より寄稿の請ありしにより全く同堂主の義擧に出でたるものとのみ思ひて其擧の香ばしからぬを知りつゝも其志の篤きにめでゝ一文を草し遣りたるなり決して贊成者にあらず
然るに廣告に據れバ春陽堂主ハ特別贊成者にして別に發起者あり補助あり恰も天保度に行はれたる書畫會の「ちらし」を見るが如し
發起者得知予に一言の挨拶なし補助三昧亦予に一言の挨拶なし而して漫りに予を贊成寄稿者の内に加ふ、予ハ啻に不服なるのみならず彼輩の爲めに甚しく侮蔑せられたるものなり
怪む、予ハ逍遙露伴二子の如きが斯る分別なき企てに驅られて贊成寄稿者の内に列し居れるを。怪む、予ハ彼發起者補助等が友樂館一日の借賃幾干なるやを問合さゞりしを
水平は古襯衣を義捐したり眞宗徒は古足袋を義損したり義損小説の發起者ハ小説を以て古襯衣古足袋と同一視せんとする乎何ぞ街頭に立つて各自がカボチヤ頭を糶賣せざる
畢竟するに義損小説の連名附ハ或一二人の極めてきたなき名聞のために犠牲に供せられたるものなるを予ハ疑はず彼廣告をよみて吐息するを知らざる者ハ吐息を人界の虚飾物と心得たる者のみ、噫 
 
古本と蔵書印 / 薄田泣菫

 

本屋の息子に生れただけあつて、文豪アナトオル・フランスは無類の愛書家だつた。巴里のセイヌ河のほとりに、古本屋が並んでゐて、皺くちやな婆さんたちが編物をしながら店番をしてゐるのは誰もが知つてゐることだが、アナトオル・フランスも少年の頃、この古本屋の店さきに立つて、手あたり次第にそこらの本をいぢくりまはして、いろんな知識を得たのみならず、老年になつても時々この店さきにその姿を見せることがあつた。フランスはこの古本屋町を讃美して、「すべての知識の人、趣味の人にとつて、そこは第二の故郷である」と言ひ、また、「私はこのセイヌ河のほとりで大きくなつた。そこでは古本屋が景色の一部をなしてゐる」とも言つてゐる。彼はこの古本屋から貪るやうに知識を吸収したが、そのお礼としてまたいろいろな趣味と知識とを提供するを忘れなかつた。──といふのはほかのことではない。彼が自分の文庫に持てあました書物を、時折この古本屋に売り払つたことをいふのだ。
一度こんなことがあつた。──あるときフランスは来客を書斎に案内して、自分の蔵書をいちいちその人に見せてゐた。愛書家として聞えてゐる割合には、その蔵書がひどく貧しく、とりわけ新刊物がまるで見えないのに驚いた客は、すなほにその驚きを主人に打ちあけたものだ。すると、フランスは、
「私は新刊物は持つてゐません。はうばうから寄贈をうけたものも、今は一冊も手もとに残してゐません。みんな田舎にゐる友人に送つてやつたからです」
と、言ひわけがましく言つたさうだが、その田舎の友人といふのが、実はセイヌ河のほとりにある古本屋をさしていつたのだ。
そのフランスを真似るといふわけではないが、私もよく読みふるしの本を古本屋に売る。家が狭いので、いくら好きだといつても、さうさう書物ばかりを棚に積み重ねておくわけにもゆかないからである。
京都に住んでゐた頃は、読みふるした本があると、いつも纏めて丸太町川端のKといふ古本屋に売り払つたものだ。あるとき希臘羅馬の古典の英訳物を五、六十冊ほど取り揃へてこの本屋へ売つたことがあつた。私はアイスヒユロスを読むにも、ソフオクレエスを読むにも、ピンダロスやテオクリトスを読むにも、ダンテを読むにも、また近代の大陸文学を読むにも、英訳の異本が幾種かあるものは、その全部とはゆかないまでも、評判のあるものはなるべく沢山取り寄せて、それを比較対照して読むことにしてゐるが、一度読んでしまつてからは、そのなかで自分が一番秀れてゐると思つたものを一種か二種か残しておいて、他はみな売り払ふことにきめてゐる。今Kといふ古本屋に譲つたのも、かうしたわけで私にはもう不用になつてゐたものなのである。
それから二、三日すると、京都大学のD博士がふらりと遊ぴにきた。博士は聞えた外国文学通で、また愛書家でもあつた。
「いま来がけに丸太町の古本屋で、こんなものを見つけてきました」
博士は座敷に通るなりかう言つて、手に持つた二冊の書物をそこに投り出した。一つは緑色で他の一つは藍色の布表紙だつた。私はそれを手に取り上げた瞬間にはつと思つた。自分が手を切つた女が、他の男と連れ立つてゐるのを見た折に感じる、ちやうどそれに似た驚きだつた。書物はまがふ方もない、私がK書店に売り払つたなかのものに相違なかつた。
「ピンダロスにテオクリトスですか」
私は二、三日前まで自分の手もとにあつたものを、今は他人の所有として見なければならない心のひけ目を感じながら、そつと書物の背を撫でまはしたり、ペエジをめくつて馴染のある文句を読みかへしたりした。
「京都にもこんな本を読んでる人があるんですね。いづれは気まぐれでせうが……」
博士は何よりも奸きな煙草の脂で黒くなつた歯をちらと見せながら、心もち厚い唇を上品にゆがめた。
「気まぐれでせうか。気まぐれに読むにしては、物があまりに古すぎますね」
私はうつかりかう言つて、それと同時にこの書物の前の持主が私であつたことを、すなほに打ち明ける機会を取りはづしてしまつたことを感じた。
「それぢや同志社あたりに来てゐた宣教師の遺愛品かな。さうかも知れない」
博士は藍表紙のテオクリトスを手にとると、署名の書入れでも捜すらしく、前附の紙を一枚一枚めくつてゐたが、そんなものはどこにも見られなかつた。
私は膝の上に取り残されたピンダロスの緑色の表紙を撫でながら、前の持主を喘息か何かで亡くなつた宣教師だと思ひ違ひせられた、その運命を悲しまぬわけにゆかなかつた。
「宣教師だなんて、とんでもない。宣教師などにお前がわかつてたまるものかい。──だが、こんなことになつたのも、俺が蔵書印を持ち合さなかつたからのことで。二度とまたこんな間違ひの起らぬやうに、大急ぎでひとつすばらしい蔵書印をこしらへなくちや……」
私はその後D博士を訪問するたぴに、その書斎の硝子戸越しに、幾度かこの二冊の書物を見た。
その都度書物の背の金文字は藪睨みのやうな眼つきをして、
「おや、宣教師さん。いらつしやい」
と、当つけがましく挨拶するやうに思はれた。
私はその瞬間、
「おう、すつかり忘れてゐた。今度こそは大急ぎでひとつ蔵書印のすばらしく立派な奴を……」
と、いつでも考へ及ぶには及ぶのだつたが、その都度忘れてしまつて、いまだに蔵書印といふものを持たないでゐる。
(昭和4年刊『艸木虫魚』) 
 
ある出版業者の話 / 薄田泣菫

 


もう十年前のむかし事になつた。
出版業者のB氏は、つねづね自分の店から人気のある作家として知られたT氏の書物を出してみたい希望をもつてゐた。だが、T氏にはその頃きまつた出版書肆があつたし、それにふだんからこの作家の気むづかしい性分を知りぬいてゐるしするので、めつたなことも言ひ出せなかつた。
ある時B氏は、先日亡くなつた内田魯庵氏を訪ねてその話をした。
「先生。それについて何かいいお考へはありませんでせうか」
「ないこともない」内田氏は客の言葉を聞くと、即座に答へた。「どんな気むづかしい作家の原稿でも、請け合つて取れる秘法がここに一つある。ただそれには強い根気がなくちやならんが…」
出版業者は乗り出すやうに膝を進めた。
「先生。その秘法とかを是非ひとつお聞かせくださいませんでせうか。さういふ場合の根気なら、いくらでもこちらに持合せがございますから……」
「さうか。それぢやいつて聞かさうか。だが、ほんたうに根気が続くかな」
内田氏は軽く笑ひながら、その秘法といふのを話して聞かせた。それは月のうち幾日目でもいいから、ちやんと日をきめて、毎月その日になると、たとへ雨が降つても、風が吹いても、必ずその作家を訪問するのだ。さうすると一年経たないうちに、きつと原稿が貫へるやうな機会が到来するものだといふことだつた。内田氏は言葉を添へて念を押した。
「言つておくが、作家に会つても、原稿の話は最初の一度だけで充分で、その後はうるさく繰り返さないはうがいい。ただ会つて何がな世間話でもして帰ればそれでいいのだから、そこの呼吸を忘れないやうにな」
B氏は内田氏に教へられた通りに、毎月日をきめて遥々市外の片田舎にT氏を訪問することにした。かうして日をきめてみると、その日になつて、雨が降つたり、風が吹いたりして、髄分出にくくなるやうなこともなくはなかつたが、B氏はそれでも押し切つて訪問に出かけていつた。そんなをりには、T氏のはうでもこの思ひがけない来客を迎へるのに不思議な感じを持つてゐたやうだつたが、しまひにはその日が来るとやがて現はれるべきはずの客の顔を、まんざら待ち設けてゐないのでもないやうな節さへ見えるやうになつた。
さうかうしてゐるうちに、ちやうど一年ぶりのその日がやつて来た。かねて幾分の期待は持ちながらも、実際にはどうなることかと、内心危ぶまぬでもなかつた原稿の約束を、客はその日になつて主人の口から聞くことができた。
B氏は早速内田氏を訪ねて、そのことを報告した。そしてついでに訊いてみた。
「先生。月に一度の訪問はよかつたんですが、なぜまたきちんと日をきめてかからなければならなかつたんです。それがためには私も随分苦労しましたよ」
「さうか。それは気の毒だつたな。だが、君、観音さまだつて、縁日は月の十八日ときまつてるぢやないか」
内出氏は冗談のやうに言つて、声を立てて笑つたさうだ。
このことがあつてから間もなく、私はB氏の口から詳しくその話を聞いた。そして内田氏のやうに世情に通じた人でなければ、できない相談だと感心してしまつた。

書肆X堂の主人は、かねて知合のM氏といふ若い坊さんから、その著作の自費出版の世話を頼まれたことがあつた。M氏は真面目な時宗の学僧で、著作といふのは、何でも浄土教の発達についての研究論文とかだつた。この若い坊さんが住職をつとめてゐたのは、高槻在のろくに檀家もない貧乏寺だつたが、実家の兄といふのがかなり裕福だつたので、出版費の五、六百円はその手から融通せられて、引請けのそもそもから原稿と一緒にX堂の主人に渡されてあつた。
その頃書肆X堂は、商売の手違ひからかなり金には困つてゐた。で、M氏から費用が手に入ると、それを引き請けた自費出版のはうへは廻さないで、勝手に一時店のはうの穴填めに融通してしまつた。
不如意なX堂の内幕をいくらか勘づいてゐた印刷所では、約束の期日が来て、M氏の出版物が製本まですつかりできあがつてゐるのにもかかわらず、代金と引換へでなければといつて、本を渡さうとしなかつた。
自分の処女出版ができあがるのを、ひどく待ち焦がれてゐた若い坊さんは、約束の期日が来ても、一向本ができあがらないので、催促がてら毎日のやうにX堂の店さきにその姿を現し出した。
その都度店の主人は、
「あの印刷屋も困りもんですな。仕事が込み合つてくると、いつもかうなんですから……」
と、違約の責任を、印刷所の手順が悪いからといふことにして、言ひわけをするのだつた。X堂にとつては、さうでもして金の工面がつくまで、一日おくりに日を延ばすより仕方がなかつたのだ。
書肆の主人の言葉にあやふやなところがあるのを見て取つたM氏は、そんなわけだつたら、自分のはうでぢかに印刷所に掛け合つてみようと言ひ出した。それを聞くと、主人は慌ててなだめにかかつた。
「それは手前のはうにお任せください。明日にもきつと埒をあけませうから」
しかし、そんな一時の気安めが、長持ちするはずはなかつた。
それから四、五日して、自分でぢかに印刷所へ掛合ひに出かけていつたM氏には、すべてのいきさつが手に取るやうに判つた。
X堂の応接室で、主人と向ひ合つて坐つた若い学僧は、じつと相手を見つめたまま三、四十分がほどは物ひとつ言はなかつた。
あたりの重苦しい空気に堪へられないやうに、主人はそつと顔を上げた。学僧の眼は警へやうもなく悲しかつた。
「今度のことは何もかも私の不都合でした。重々お詫びを申し上げますから、どうかお免しくださいますやうに……」
若い学僧の唇は徴かに顫へた。
「お免しする?あなたをお免しするなぞ、そんなことが私にできようはずがありません。それはただ仏さまのなさいますことで……」
「ただ仏さまの?」主人は口のなかで繰り返して言つた。「それぢや、どうあつてもあなたからはお免しがいただけないんですか……」
「私は……私は、忘れませう。今度のことは、すつかり。──それだつたら私にもできると思ひます」
その時学僧の眼のうちに、やるせない悲しみとともに、一抹の苦しみの動きを感じたやうに相手の主人は思つた。
程経て、私は書肆の主人からこの話を聞いた。そして学僧M氏の心の持ち方にひとかたならず感心させられたものだ。
(昭和6年刊『樹下右上』) 
 
鬼を見た話 / 薄田泣菫

 

「鬼を見た」といふと、多くの人は、あまりにも突飛なその言葉を、笑ひもすれば、また怒りもするだらうと思ひますが、実際私は見たことがありますので、今日はひとつその話でもしてみたいと思ひます。
確か私が十二、三の頃でしたから、明治二十一、二年のことだつたと思ひます。ある夏の日、瀬戸内の海を少し離れた私の郷里の小村へ、一人の旅人が訪れてきました。旅人は、村で賭博者として顔を売つてゐた亀七といふものの家へ泊つてゐました。
「この頃亀七のところに変な男が泊つてるさうだぜ。鬼の首なんかもつて」
「鬼の首。ほんたうかい、そんなこと……」
こんな噂がすぐに村中に拡がりました。知合の誰彼と一緒に、私は父に連れられてその鬼を見に亀七の家へ出かけました。父は長く村の公の仕事に携はつてゐましたので、そんなことには便宜があつたやうでした。
いづれは賤しい香具師の一人に相違なからうとのみ思つてゐたのに、会つてみると旅人は案に相違して上品な老人で、神主のやうに白い顎髯を長く胸に垂れてゐました。
父が来意を告げると、老人は気さくに承知をしてくれました。そして取り出してきた真新しい白木造りの箱を自分の膝側に引き据ゑながら、こんなことを話しました。
安藝の広島から太田川に沿うて、石見街道を北へ入つてゆくと、加計といふ小さな町へ出ます。代々そこに住まつて猟師稼業で生計をたててゐる二人の男が、ある日のこと、連れ立つて雄鹿原といふ石見境に近い山地へ入つてゆきました。途中路を迷つて深い森の中に踏み込み、木の根を枕に長々と寝そべつてゐる大きな獣のやうなものを見て、狙ひ撃ちにすると、深手を負つた相手は、がばと跳ね起きざま死に物狂ひに手向つてくるので二人はてんでに山刀をふり廻してやつと仕とめることができました。
「格闘の真つ最中額の角を見た時には、二人とも急に怖ぢ気づいてへなへなとなつちまつたさうですよ。全く無理のないことですね」
語り畢ると、老人はものしづかに首箱の蓋に手をかけました。すると、その途端箱の中から折からの夏のうん気に蒸れたらしい不気味な、なまぐさい臭がむうと流れ出して、室中に拡がつてきたので、居合す皆は覚えず袖で鼻を抑へました。老人はもじやもじやと赤熊の毛で蔽はれた大きな首を持ち出して蓋の上に載せました。手先がぶるぶる顫へてゐるのを見ると、大分持ち重りがするらしく思はれました。
好奇な目をかがやかしながら、覗き込むやうにして鬼の顔に見入つた私たちは、覚えずぎよつとしました。鬼退治──それがどんなにむごたらしく叩きのめされてゐようとも、人間の勝利の犠牲として、どちらかといふと痛快にさへも眺められさうな気がしてゐたのに、今、目のあたりそれを見ると、赤銅色の額、黒牛のやうな一対の角、万力を思はせる角張つたおとがひ、ややたるんだ瞼の下からどんよりと光る二つの眼、──さういつたものに鬼が持前の負けじ魂がいまだに強く動いてゐて、脅かし気味に人に迫つてくるものがあるではありませんか。
私たちは怖ろしさに長くは見てゐられませんでした。めいめい口にこそ出さね、心の内では、これが鬼を見る最初で、そしてまた最後でもあることを願つてゐるやうでした。
このことがあつてから二週間ばかし後のことでした。父は縁先の往にもたれて、その頃岡山で発行せられてゐた「吉備日日」といふ新聞に読み耽つてゐましたが、急に声を立てて私を呼びました。
「おい。こなひだお前に見せてやつた鬼の首だがね、あれは贋物だつたさうだよ」
「どうしてわかつたの、そんなこと」
「ここにそれが載つてるよ」父は新聞を指さしながら言ひました。「あの老爺め、はうばう持ち廻つてこの二、三日岡山でも見せ物にかけてゐたんださうだ。ところが観衆のなかにほんたうの鬼を見たことのある男が一人ゐたので、手もなく見破られたんださうだよ。やつぱり真実のものを見た人にはかなはんとみえるて」
「ほんたうのものを見た人には……」
私は口の中で父の言葉をくり返しながら、次のやうなことを思つてゐました。
「もしか自分がほんたうの鬼を見ることができたなら、その次の折には、どんな贋物を見せられたつて、きつと石のやうに黙つてゐられるに相違ない」
(昭和18年刊『人と鳥虫』) 
 
坊つちやん / 夏目漱石

 

一 
親讓りの無鐵砲で小供の時から損ばかりしてゐる。小學校に居る時分學校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を拔かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出してゐたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張つても、そこから飛び降りる事は出來まい。弱蟲やーい。と囃したからである。小使に負ぶさつて歸つて來た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらゐから飛び降りて腰を拔かす奴があるかと云つたから、この次は拔かさずに飛んで見せますと答へた。
親類のものから西洋製のナイフを貰つて奇麗な刄を日に翳して、友逹に見せてゐたら、一人が光る事は光るが切れさうもないと云つた。切れぬ事があるか、何でも切つてみせると受け合つた。そんなら君の指を切つてみろと注文したから、何だ指ぐらゐこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かつたので、今だに親指は手に付いてゐる。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。
庭を東へ二十歩に行き盡すと、南上がりにいささかばかりの菜園があつて、眞中に栗の木が一本立つてゐる。これは命より大事な栗だ。實の熟する時分は起き拔けに背戸を出て落ちた奴を拾つてきて、學校で食ふ。菜園の西側が山城屋といふ質屋の庭續きで、この質屋に勘太郎といふ十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱蟲である。弱蟲の癖に四つ目垣を乘りこえて、栗を盜みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隱れて、とうとう勘太郎を捕まへてやつた。その時勘太郎は逃げ路を失つて、一生懸命に飛びかかつてきた。向うは二つばかり年上である。弱蟲だが力は強い。鉢の開いた頭を、こつちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべつて、おれの袷の袖の中にはいつた。邪魔になつて手が使へぬから、無暗に手を振つたら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまひに苦しがつて袖の中から、おれの二の腕へ食ひ付いた。痛かつたから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやつた。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ眞逆樣に落ちて、ぐうと云つた。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になつた。その晩母が山城屋に詫びに行つたついでに袷の片袖も取り返して來た。
この外いたづらは大分やつた。大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人參畠をあらした事がある。人參の芽が出揃はぬ處へ藁が一面に敷いてあつたから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取つたら、人參がみんな踏みつぶされてしまつた。古川の持つてゐる田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。太い孟宗の節を拔いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稻にみづがかかる仕掛であつた。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ插し込んで、水が出なくなつたのを見屆けて、うちへ歸つて飯を食つてゐたら、古川が眞赤になつて怒鳴り込んで來た。たしか罰金を出して濟んだやうである。
おやじはちつともおれを可愛がつて呉れなかつた。母は兄ばかり贔屓にしてゐた。この兄はやに色が白くつて、芝居の眞似をして女形になるのが好きだつた。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云つた。亂暴で亂暴で行く先が案じられると母が云つた。なるほど碌なものにはならない。ご覽の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きてゐるばかりである。
母が病氣で死ぬ二三日前臺所で宙返りをしてへつついの角で肋骨を撲つて大いに痛かつた。母が大層怒つて、お前のやうなものの顏は見たくないと云ふから、親類へ泊りに行つてゐた。するととうとう死んだと云ふ報知が來た。さう早く死ぬとは思はなかつた。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかつたと思つて歸つて來た。さうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おつかさんが早く死んだんだと云つた。口惜しかつたから、兄の横つ面を張つて大變叱られた。
母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮してゐた。おやじは何にもせぬ男で、人の顏さへ見れば貴樣は駄目だ駄目だと口癖のやうに云つてゐた。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやじがあつたもんだ。兄は實業家になるとか云つてしきりに英語を勉強してゐた。元來女のやうな性分で、ずるいから、仲がよくなかつた。十日に一遍ぐらゐの割で喧嘩をしてゐた。ある時將棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しさうに冷やかした。あんまり腹が立つたから、手に在つた飛車を眉間へ擲きつけてやつた。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘當すると言ひ出した。
その時はもう仕方がないと觀念して先方の云ふ通り勘當されるつもりでゐたら、十年來召し使つてゐる清といふ下女が、泣きながらおやじに詫まつて、漸くおやじの怒りが解けた。それにもかかはらずあまりおやじを怖いとは思はなかつた。かへつてこの清と云ふ下女に氣の毒であつた。この下女はもと由緒のあるものだつたさうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするやうになつたのだと聞いてゐる。だから婆さんである。この婆さんがどういふ因縁か、おれを非常に可愛がつて呉れた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした──おやじも年中持て餘してゐる──町内では亂暴者の惡太郎と爪彈きをする──このおれを無暗に珍重して呉れた。おれは到底人に好かれる性でないとあきらめてゐたから、他人から木の端のやうに取り扱はれるのは何とも思はない、かへつてこの清のやうにちやほやして呉れるのを不審に考へた。清は時々臺所で人の居ない時に「あなたは眞つ直でよいご氣性だ」と賞める事が時々あつた。しかしおれには清の云ふ意味が分からなかつた。好い氣性なら清以外のものも、もう少し善くして呉れるだらうと思つた。清がこんな事を云ふ度におれはお世辭は嫌ひだと答へるのが常であつた。すると婆さんはそれだから好いご氣性ですと云つては、嬉しさうにおれの顏を眺めてゐる。自分の力でおれを製造して誇つてるやうに見える。少々氣味がわるかつた。
母が死んでから清は愈おれを可愛がつた。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思つた。つまらない、廢せばいゝのにと思つた。氣の毒だと思つた。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣ひで金鍔や紅梅燒を買つて呉れる。寒い夜などはひそかに蕎麥粉を仕入れておいて、いつの間にか寢てゐる枕元へ蕎麥湯を持つて來て呉れる。時には鍋燒饂飩さへ買つて呉れた。ただ食ひ物ばかりではない。靴足袋ももらつた。鉛筆も貰つた、帳面も貰つた。これはずつと後の事であるが金を三圓ばかり貸して呉れた事さへある。何も貸せと云つた譯ではない。向うで部屋へ持つて來てお小遣ひがなくてお困りでせう、お使ひなさいと云つて呉れたんだ。おれは無論入らないと云つたが、是非使へと云ふから、借りておいた。實は大變嬉しかつた。その三圓を蝦蟇口へ入れて、懷へ入れたなり便所へ行つたら、すぽりと後架の中へ落してしまつた。仕方がないから、のそのそ出てきて實はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を搜して來て、取つて上げますと云つた。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗つてゐた。それから口をあけて壹圓札を改めたら茶色になつて模樣が消えかかつてゐた。清は火鉢で乾かして、これでいゝでせうと出した。一寸かいでみて臭いやと云つたら、それぢやお出しなさい、取り換へて來て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三圓持つて來た。この三圓は何に使つたか忘れてしまつた。今に返すよと云つたぎり、返さない。今となつては十倍にして返してやりたくても返せない。
清が物を呉れる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌ひだと云つて人に隱れて自分だけ得をするほど嫌ひな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隱して清から菓子や色鉛筆を貰ひたくはない。なぜ、おれ一人に呉れて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したものでお兄樣はお父樣が買つてお上げなさるから構ひませんと云ふ。これは不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとさう見えるのだらう。全く愛に溺れてゐたに違ひない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。單にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもつて將來立身出世して立派なものになると思ひ込んでゐた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くつて、とても役には立たないと一人できめてしまつた。こんな婆さんに逢つては叶はない。自分の好きなものは必ずえらい人物になつて、嫌ひなひとはきつと落ち振れるものと信じてゐる。おれはその時から別段何になると云ふ了見もなかつた。しかし清がなるなると云ふものだから、やつぱり何かに成れるんだらうと思つてゐた。今から考へると馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだらうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考へもなかつたやうだ。ただ手車へ乘つて、立派な玄關のある家をこしらへるに相違ないと云つた。
それから清はおれがうちでも持つて獨立したら、一所になる氣でゐた。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるやうな氣がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらへ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計劃を獨りで並べてゐた。その時は家なんか欲しくも何ともなかつた。西洋館も日本建も全く不用であつたから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答へた。すると、あなたは慾がすくなくつて、心が奇麗だと云つてまた賞めた。清は何と云つても賞めて呉れる。
母が死んでから五六年の間はこの状態で暮してゐた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰ふ、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思つてゐた。ほかの小供も一概にこんなものだらうと思つてゐた。ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云ふものだから、それぢや可哀想で不仕合せなんだらうと思つた。その外に苦になる事は少しもなかつた。ただおやじが小遣ひを呉れないには閉口した。
母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなつた。その年の四月におれはある私立の中學校を卒業する。六月に兄は商業學校を卒業した。兄は何とか會社の九州の支店に口があつて行かなければならん。おれは東京でまだ學問をしなければならない。兄は家を賣つて財産を片付けて任地へ出立すると云ひ出した。おれはどうでもするがよからうと返事をした。どうせ兄の厄介になる氣はない。世話をして呉れるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云ひ出すに極つてゐる。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配逹をしても食つてられると覺悟をした。兄はそれから道具屋を呼んで來て、先祖代々の瓦落多を二束三文に賣つた。家屋敷はある人の周旋である金滿家に讓つた。この方は大分金になつたやうだが、詳しい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿してゐた。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに殘念がつたが、自分のものでないから、仕樣がなかつた。あなたがもう少し年をとつていらつしやれば、ここがご相續が出來ますものをとしきりに口説いてゐた。もう少し年をとつて相續が出來るものなら、今でも相續が出來るはずだ。婆さんは何も知らないから年さへ取れば兄の家がもらへると信じてゐる。
兄とおれはかやうに分れたが、困つたのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくつ付いて九州下りまで出掛ける氣は毛頭なし、と云つてこの時のおれは四疉半の安下宿に籠つて、それすらもいざとなれば直ちに引き拂はねばならぬ始末だ。どうする事も出來ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする氣かねと云つたらあなたがおうちを持つて、奧さまをお貰ひになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりませうと漸く決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまづ今日には差支へなく暮してゐたから、今までも清に來るなら來いと二三度勸めたのだが、清はたとひ下女奉公はしても年來住み馴れた家の方がいゝと云つて應じなかつた。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易へをして入らぬ氣兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思つたのだらう。それにしても早くうちを持ての、妻を貰への、來て世話をするのと云ふ。親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだらう。
九州へ立つ二日前兄が下宿へ來て金を六百圓出してこれを資本にして商買をするなり、學資にして勉強をするなり、どうでも隨意に使ふがいゝ、その代りあとは構はないと云つた。兄にしては感心なやり方だ、何の六百圓ぐらゐ貰はんでも困りはせんと思つたが、例に似ぬ淡泊な處置が氣に入つたから、禮を云つて貰つておいた。兄はそれから五十圓出してこれをついでに清に渡して呉れと云つたから、異議なく引き受けた。二日立つて新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢はない。
おれは六百圓の使用法について寢ながら考へた。商買をしたつて面倒くさくつて旨く出來るものぢやなし、ことに六百圓の金で商買らしい商買がやれる譯でもなからう。よしやれるとしても、今のやうぢや人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいゝから、これを學資にして勉強してやらう。六百圓を三に割つて一年に二百圓ずつ使へば三年間は勉強が出來る。三年間一生懸命にやれば何か出來る。それからどこの學校へ這入らうと考へたが、學問は生來どれもこれも好きでない。ことに語學とか文學とか云ふものは眞平ご免だ。新體詩などと來ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌ひなものなら何をやつても同じ事だと思つたが、幸ひ物理學校の前を通り掛つたら生徒募集の廣告が出てゐたから、何も縁だと思つて規則書をもらつてすぐ入學の手續きをしてしまつた。今考へるとこれも親讓りの無鐵砲から起つた失策だ。
三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいゝ方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であつた。しかし不思議なもので、三年立つたらとうとう卒業してしまつた。自分でも可笑しいと思つたが苦情を云ふ譯もないから大人しく卒業しておいた。
卒業してから八日目に校長が呼びに來たから、何か用だらうと思つて、出掛けて行つたら、四國邊のある中學校で數學の教師が入る。月給は四十圓だが、行つてはどうだといふ相談である。おれは三年間學問はしたが實を云ふと教師になる氣も、田舎へ行く考へも何もなかつた。もつとも教師以外に何をしようと云ふあてもなかつたから、この相談を受けた時、行きませうと即席に返事をした。これも親讓りの無鐵砲が祟つたのである。
引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四疉半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに濟んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑氣な時節であつた。しかしかうなると四疉半も引き拂はなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大變な遠くへ行かねばならぬ。地圖で見ると海濱で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もつとも少々面倒臭い。
家を疉んでからも清の所へは折々行つた。清の甥といふのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさへすれば、何呉れと款待なして呉れた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。今に學校を卒業すると麹町邊へ屋敷を買つて役所へ通ふのだなどと吹聽した事もある。獨りで極めて一人で喋舌るから、こつちは困まつて顏を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寢小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思つて清の自慢を聞いてゐたか分らぬ。ただ清は昔風の女だから、自分とおれの關係を封建時代の主從のやうに考へてゐた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合點したものらしい。甥こそいゝ面の皮だ。
いよいよ約束が極まつて、もう立つと云ふ三日前に清を尋ねたら、北向きの三疉に風邪を引いて寢てゐた。おれの來たのを見て起き直るが早いか、坊つちやんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さへすれば金が自然とポッケットの中に湧いて來ると思つてゐる。そんなにえらい人をつらまへて、まだ坊つちやんと呼ぶのはいよいよ馬鹿氣てゐる。おれは單簡に當分うちは持たない。田舎へ行くんだと云つたら、非常に失望した容子で、胡麻鹽の鬢の亂れをしきりに撫でた。あまり氣の毒だから「行く事は行くがじき歸る。來年の夏休みにはきつと歸る」と慰めてやつた。それでも妙な顏をしてゐるから「何を見やげに買つて來てやらう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云つた。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違ふ。「おれの行く田舎には笹飴はなささうだ」と云つて聞かしたら「そんなら、どつちの見當です」と聞き返した。「西の方だよ」と云ふと「箱根のさきですか手前ですか」と問ふ。隨分持てあました。
出立の日には朝から來て、いろいろ世話をやいた。來る途中小間物屋で買つて來た齒磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。そんな物は入らないと云つてもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乘り込んだおれの顏をじつと見て「もうお別れになるかも知れません。隨分ご機嫌やう」と小さな聲で云つた。目に涙が一杯たまつてゐる。おれは泣かなかつた。然しもう少しで泣くところであつた。汽車が餘つ程動き出してから、もう大丈夫だらうと思つて、窓から首を出して、振り向いたら、矢つ張り立つて居た。何だか大變小さく見えた。 

 

ぶうと云つて汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて來た。船頭は眞つ裸に赤ふんどしをしめてゐる。野蠻な所だ。もつともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめてゐても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのださうだ。見るところでは大森ぐらゐな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出來るものかと思つたが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。續づいて五六人は乘つたらう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して來た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がつて、いきなり、磯に立つてゐた鼻たれ小僧をつらまへて中學校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云つた。氣の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中學校のありかも知らぬ奴があるものか。ところへ妙な筒つぽうを着た男がきて、こつちへ來いと云ふから、尾いて行つたら、港屋とか云ふ宿屋へ連れて來た。やな女が聲を揃へてお上がりなさいと云ふので、上がるのがいやになつた。門口へ立つたなり中學校を教へろと云つたら、中學校はこれから汽車で二里ばかり行かなくつちやいけないと聞いて、猶上がるのがいやになつた。おれは、筒つぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくつて、のそのそあるき出した。宿屋のものは變な顏をしてゐた。
停車場はすぐ知れた。切符も譯なく買つた。乘り込んでみるとマッチ箱のやうな汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思つたら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思つた。たつた三錢である。それから車を傭つて、中學校へ來たら、もう放課後で誰も居ない。宿直は一寸用逹に出たと小使が教へた。隨分氣樂な宿直がゐるものだ。校長でも尋ねやうかと思つたが、草臥れたから、車に乘つて宿屋へ連れて行けと車夫に云ひ付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ふうちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋號と同じだから一寸面白く思つた。
何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くつて居られやしない。こんな部屋はいやだと云つたらあいにくみんな塞がつてをりますからと云ひながら革鞄を抛り出したまま出て行つた。仕方がないから部屋の中へ這入つて汗をかいて我慢してゐた。やがて湯に入れと云ふから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がつた。歸りがけに覗いてみると涼しさうな部屋がたくさん空いてゐる。失敬な奴だ。嘘をつきやあがつた。それから下女が膳を持つて來た。部屋は熱つかつたが、飯は下宿のよりも大分旨かつた。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から來たと答へた。すると東京はよい所でございませうと云つたから當り前だと答へてやつた。膳を下げた下女が臺所へいつた時分、大きな笑ひ聲が聞えた。くだらないから、すぐ寢たが、なかなか寢られない。熱いばかりではない。騷々しい。下宿の五倍ぐらゐやかましい。うたうとしたら清の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしやむしや食つてゐる。笹は毒だからよしたらよからうと云ふと、いえこの笹がお藥でございますと云つて旨さうに食つてゐる。おれがあきれ返つて大きな口を開いてハハハハと笑つたら眼が覺めた。下女が雨戸を明けてゐる。相變らず空の底が突き拔けたやうな天氣だ。
道中をしたら茶代をやるものだと聞いてゐた。茶代をやらないと粗末に取り扱はれると聞いてゐた。こんな、狹くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだらう。見すぼらしい服裝をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだらう。田舎者の癖に人を見括つたな。一番茶代をやつて驚かしてやらう。おれはこれでも學資のあまりを三十圓ほど懷に入れて東京を出て來たのだ。汽車と汽船の切符代と雜費を差し引いて、まだ十四圓ほどある。みんなやつたつてこれからは月給を貰ふんだから構はない。田舎者はしみつたれだから五圓もやれば驚ろいて眼を廻すに極つてゐる。どうするか見ろと濟まして顏を洗つて、部屋へ歸つて待つてると、夕べの下女が膳を持つて來た。盆を持つて給仕をしながら、やににやにや笑つてる。失敬な奴だ。顏のなかをお祭りでも通りやしまひし。これでもこの下女の面より餘つ程上等だ。飯を濟ましてからにしようと思つてゐたが、癪に障つたから、中途で五圓札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持つて行けと云つたら、下女は變な顏をしてゐた。それから飯を濟ましてすぐ學校へ出懸けた。靴は磨いてなかつた。
學校は昨日車で乘りつけたから、大概の見當は分つてゐる。四つ角を二三度曲がつたらすぐ門の前へ出た。門から玄關までは御影石で敷きつめてある。きのふこの敷石の上を車でがらがらと通つた時は、無暗に仰山な音がするので少し弱つた。途中から小倉の制服を着た生徒にたくさん逢つたが、みんなこの門を這入つて行く。中にはおれより背が高くつて強さうなのが居る。あんな奴を教へるのかと思つたら何だか氣味が惡るくなつた。名刺を出したら校長室へ通した。校長は薄髯のある、色の黒い、目の大きな貍のやうな男である。やにもつたいぶつてゐた。まあ精出して勉強して呉れと云つて、恭しく大きな印の捺つた、辭令を渡した。この辭令は東京へ歸るとき丸めて海の中へ抛り込んでしまつた。校長は今に職員に紹介してやるから、一々その人にこの辭令を見せるんだと云つて聞かした。餘計な手數だ。そんな面倒な事をするよりこの辭令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
教員が控所へ揃ふには一時間目の喇叭が鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まづ大體の事を呑み込んでおいてもらはうと云つて、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いゝ加減に聞いてゐたが、途中からこれは飛んだ所へ來たと思つた。校長の云ふやうにはとても出來ない。おれみたやうな無鐵砲なものをつらまへて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、學問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなへらい人が月給四十圓で遙々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらゐは誰でもするだらうと思つてたが、この樣子ぢやめつたに口も聞けない、散歩も出來ない。そんなむづかしい役なら雇ふ前にこれこれだと話すがいゝ。おれは嘘をつくのが嫌ひだから、仕方がない、だまされて來たのだとあきらめて、思ひ切りよく、ここで斷わつて歸つちまはうと思つた。宿屋へ五圓やつたから財布の中には九圓なにがししかない。九圓ぢや東京までは歸れない。茶代なんかやらなければよかつた。惜しい事をした。しかし九圓だつて、どうかならない事はない。旅費は足りなくつても嘘をつくよりましだと思つて、到底あなたのおつしやる通りにや、出來ません、この辭令は返しますと云つたら、校長は貍のやうな眼をぱちつかせておれの顏を見てゐた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出來ないのはよく知つてゐるから心配しなくつてもいゝと云ひながら笑つた。そのくらゐよく知つてるなら、始めから威嚇さなければいゝのに。
さう、かうする内に喇叭が鳴つた。教場の方が急にがやがやする。もう教員も控所へ揃ひましたらうと云ふから、校長に尾いて教員控所へはいつた。廣い細長い部屋の周圍に机を並べてみんな腰をかけてゐる。おれがはいつたのを見て、みんな申し合せたやうにおれの顏を見た。見世物ぢやあるまいし。それから申し付けられた通り一人一人の前へ行つて辭令を出して挨拶をした。大概は椅子を離れて腰をかがめるばかりであつたが、念の入つたのは差し出した辭令を受け取つて一應拜見をしてそれを恭しく返卻した。まるで宮芝居の眞似だ。十五人目に體操の教師へと廻つて來た時には、同じ事を何返もやるので少々じれつたくなつた。向うは一度で濟む。こつちは同じ所作を十五返繰り返してゐる。少しはひとの了見も察してみるがいゝ。
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云ふのが居た。これは文學士ださうだ。文學士と云へば大學の卒業生だからえらい人なんだらう。妙に女のやうな優しい聲を出す人だつた。もつとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣を着てゐる。いくらか薄い地には相違なくつても暑いには極つてる。文學士だけにご苦勞千萬な服裝をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしてゐる。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんださうだ。妙な病氣があつた者だ。當人の説明では赤は身體に藥になるから、衞生のためにわざわざ誂らえるんださうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいゝ。それから英語の教師に古賀とか云ふ大變顏色の惡るい男が居た。大概顏の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれてゐる。昔小學校へ行く時分、淺井の民さんと云ふ子が同級生にあつたが、この淺井のおやじがやはり、こんな色つやだつた。淺井は百姓だから、百姓になるとあんな顏になるかと清に聞いてみたら、さうぢやありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教へて呉れた。それ以來蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食つた酬いだと思ふ。この英語の教師もうらなりばかり食つてるに違ひない。もつともうらなりとは何の事か今もつて知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑つて答へなかつた。大方清も知らないんだらう。それからおれと同じ數學の教師に堀田といふのが居た。これは逞しい毬栗坊主で、叡山の惡僧と云ふべき面構である。人が叮寧に辭令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに來給へアハハハと云つた。何がアハハハだ。そんな禮儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐といふ渾名をつけてやつた。漢學の先生はさすがに堅いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご勵精で、──とのべつに辯じたのは愛嬌のあるお爺さんだ。画學の教師は全く藝人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お國はどちらでげす、え? 東京? そりや嬉しい、お仲間が出來て……私もこれで江戸つ子ですと云つた。こんなのが江戸つ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考へた。そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際限がないからやめる。
挨拶が一通り濟んだら、校長が今日はもう引き取つてもいゝ、もつとも授業上の事は數學の主任と打ち合せをしておいて、明後日から課業を始めて呉れと云つた。數學の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であつた。忌々しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。山嵐は「おい君どこに宿つてるか、山城屋か、うん、今に行つて相談する」と云ひ殘して白墨を持つて教場へ出て行つた。主任の癖に向うから來て相談するなんて不見識な男だ。しかし呼び付けるよりは感心だ。
それから學校の門を出て、すぐ宿へ歸らうと思つたが、歸つたつて仕方がないから、少し町を散歩してやらうと思つて、無暗に足の向く方をあるき散らした。縣廳も見た。古い前世紀の建築である。兵營も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神樂坂を半分に狹くしたぐらゐな道幅で町並はあれより落ちる。二十五萬石の城下だつて高の知れたものだ。こんな所に住んでご城下だなどと威張つてる人間は可哀想なものだと考へながらくると、いつしか山城屋の前に出た。廣いやうでも狹いものだ。これで大抵は見盡したのだらう。歸つて飯でも食はうと門口をはいつた。帳場に坐つてゐたかみさんが、おれの顏を見ると急に飛び出してきてお歸り……と板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五疉の表二階で大きな床の間がついてゐる。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいつた事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣一枚になつて座敷の眞中へ大の字に寢てみた。いゝ心持ちである。
晝飯を食つてから早速清へ手紙をかいてやつた。おれは文章がまづい上に字を知らないから手紙を書くのが大嫌ひだ。またやる所もない。しかし清は心配してゐるだらう。難船して死にやしなひかなどと思つちや困るから、奮發して長いのを書いてやつた。その文句はかうである。
「きのふ着いた。つまらん所だ。十五疉の座敷に寢てゐる。宿屋へ茶代を五圓やつた。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寢られなかつた。清が笹飴を笹ごと食ふ夢を見た。來年の夏は歸る。今日學校へ行つてみんなにあだなをつけてやつた。校長は貍、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、數學は山嵐、画學はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さやうなら」
手紙をかいてしまつたら、いゝ心持ちになつて眠氣がさしたから、最前のやうに座敷の眞中へのびのびと大の字に寢た。今度は夢も何も見ないでぐつすり寢た。この部屋かいと大きな聲がするので目が覺めたら、山嵐が這入つて來た。最前は失敬、君の受持ちは……と人が起き上がるや否や談判を開かれたので大いに狼狽した。受持ちを聞いてみると別段むづかしい事もなささうだから承知した。このくらゐの事なら、明後日は愚、明日から始めろと云つたつて驚ろかない。授業上の打ち合せが濟んだら、君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、僕がいゝ下宿を周旋してやるから移りたまへ。外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出來る。早い方がいゝから、今日見て、あす移つて、あさつてから學校へ行けば極りがいゝと一人で呑み込んでゐる。なるほど十五疉敷にいつまで居る譯にも行くまい。月給をみんな宿料に拂つても追つつかないかもしれぬ。五圓の茶代を奮發してすぐ移るのはちと殘念だが、どうせ移る者なら、早く引き越して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に頼む事にした。すると山嵐はともかくもいつしよに來てみろと云ふから、行つた。町はづれの岡の中腹にある家で至極閑靜だ。主人は骨董を賣買するいか銀と云ふ男で、女房は亭主よりも四つばかり年嵩の女だ。中學校に居た時ウィッチと云ふ言葉を習つた事があるがこの女房はまさにウィッチに似てゐる。ウィッチだつて人の女房だから構はない。とうとう明日から引き移る事にした。歸りに山嵐は通町で氷水を一杯奢つた。學校で逢つた時はやに横風な失敬な奴だと思つたが、こんなにいろいろ世話をして呉れるところを見ると、わるい男でもなささうだ。ただおれと同じやうにせつかちで肝癪持らしい。あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのださうだ。 

 

いよいよ學校へ出た。初めて教場へ這入つて高い所へ乘つた時は、何だか變だつた。講釋をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思つた。生徒はやかましい。時々圖拔けた大きな聲で先生と云ふ。先生には應へた。今まで物理學校で毎日先生先生と呼びつけてゐたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯な人間ではない。臆病な男でもないが、惜しい事に膽力が缺けてゐる。先生と大きな聲をされると、腹の減つた時に丸の内で午砲を聞いたやうな氣がする。最初の一時間は何だかいゝ加減にやつてしまつた。しかし別段困つた質問も掛けられずに濟んだ。控所へ歸つて來たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと單簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかつた。
二時間目に白墨を持つて控所を出た時には何だか敵地へ乘り込むやうな氣がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。おれは江戸つ子で華奢に小作りに出來てゐるから、どうも高い所へ上がつても押しが利かない。喧嘩なら相撲取とでもやつてみせるが、こんな大僧を四十人も前へ並べて、ただ一枚の舌をたたいて恐縮させる手際はない。しかしこんな田舎者に弱身を見せると癖になると思つたから、なるべく大きな聲をして、少々卷き舌で講釋してやつた。最初のうちは、生徒も烟に捲かれてぼんやりしてゐたから、それ見ろとますます得意になつて、べらんめい調を用ゐてたら、一番前の列の眞中に居た、一番強さうな奴が、いきなり起立して先生と云ふ。そら來たと思ひながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちつと、ゆるゆる遣つて、お呉れんかな、もし」と云つた。お呉れんかな、もしは生温るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆつくり云つてやるが、おれは江戸つ子だから君等の言葉は使へない、分らなければ、分るまで待つてるがいゝと答へてやつた。この調子で二時間目は思つたより、うまく行つた。ただ歸りがけに生徒の一人が一寸この問題を解釋をしてお呉れんかな、もし、と出來さうもない幾何の問題を持つて逼つたには冷汗を流した。仕方がないから何だか分らない、この次教へてやると急いで引き揚げたら、生徒がわあと囃した。その中に出來ん出來んと云ふ聲が聞える。箆棒め、先生だつて、出來ないのは當り前だ。出來ないのを出來ないと云ふのに不思議があるもんか。そんなものが出來るくらゐなら四十圓でこんな田舎へくるもんかと控所へ歸つて來た。今度はどうだとまた山嵐が聞いた。うんと云つたが、うんだけでは氣が濟まなかつたから、この學校の生徒は分らずやだなと云つてやつた。山嵐は妙な顏をしてゐた。
三時間目も、四時間目も晝過ぎの一時間も大同小異であつた。最初の日に出た級は、いづれも少々ずつ失敗した。教師ははたで見るほど樂ぢやないと思つた。授業はひと通り濟んだが、まだ歸れない、三時までぽつ然として待つてなくてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して報知にくるから檢分をするんださうだ。それから、出席簿を一應調べて漸くお暇が出る。いくら月給で買はれた身體だつて、あいた時間まで學校へ縛りつけて机と睨めつくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな大人しくご規則通りやつてるから新參のおればかり、だだを捏ねるのもよろしくないと思つて我慢してゐた。歸りがけに、君何でもかんでも三時過まで學校にいさせるのは愚だぜと山嵐に訴へたら、山嵐はさうさアハハハと笑つたが、あとから眞面目になつて、君あまり學校の不平を云ふと、いかんぜ。云ふなら僕だけに話せ、隨分妙な人も居るからなと忠告がましい事を云つた。四つ角で分れたから詳しい事は聞くひまがなかつた。
それからうちへ歸つてくると、宿の亭主がお茶を入れませうと云つてやつて來る。お茶を入れると云ふからご馳走をするのかと思ふと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飮むのだ。この樣子では留守中も勝手にお茶を入れませうを一人で履行してゐるかも知れない。亭主が云ふには手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるやうになりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらつしやるらしい。ちと道樂にお始めなすつてはいかがですと、飛んでもない勸誘をやる。二年前ある人の使に帝國ホテルへ行つた時は錠前直しと間違へられた事がある。ケットを被つて、鎌倉の大佛を見物した時は車屋から親方と云はれた。その外今日まで見損われた事は隨分あるが、まだおれをつらまへて大分ご風流でいらつしやると云つたものはない。大抵はなりや樣子でも分る。風流人なんていふものは、画を見ても、頭巾を被るか短册を持つてるものだ。このおれを風流人だなどと眞面目に云ふのはただの曲者ぢやない。おれはそんな呑氣な隱居のやるやうな事は嫌ひだと云つたら、亭主はへへへへと笑ひながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いつたんこの道に這入るとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飮んでゐる。實はゆふべ茶を買つて呉れと頼んでおいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。一杯飮むと胃に答へるやうな氣がする。今度からもつと苦くないのを買つて呉れと云つたら、かしこまりましたとまた一杯しぼつて飮んだ。人の茶だと思つて無暗に飮む奴だ。主人が引き下がつてから、明日の下讀をしてすぐ寢てしまつた。
それから毎日毎日學校へ出ては規則通り働く、毎日毎日歸つて來ると主人がお茶を入れませうと出てくる。一週間ばかりしたら學校の樣子もひと通りは飮み込めたし、宿の夫婦の人物も大概は分つた。ほかの教師に聞いてみると辭令を受けて一週間から一ヶ月ぐらゐの間は自分の評判がいゝだらうか、惡るいだらうか非常に氣に掛かるさうであるが、おれは一向そんな感じはなかつた。教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗に消えてしまふ。おれは何事によらず長く心配しようと思つても心配が出來ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を與へて、その影響が校長や教頭にどんな反應を呈するかまるで無頓着であつた。おれは前に云ふ通りあまり度胸の据つた男ではないのだが、思ひ切りはすこぶるいゝ人間である。この學校がいけなければすぐどつかへ行く覺悟でゐたから、貍も赤シャツも、ちつとも恐しくはなかつた。まして教場の小僧共なんかには愛嬌もお世辭も使ふ氣になれなかつた。學校はそれでいゝのだが下宿の方はさうはいかなかつた。亭主が茶を飮みに來るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持つてくる。始めに持つて來たのは何でも印材で、十ばかり並べておいて、みんなで三圓なら安い物だお買ひなさいと云ふ。田舎巡りのヘボ繪師ぢやあるまいし、そんなものは入らないと云つたら、今度は華山とか何とか云ふ男の花鳥の掛物をもつて來た。自分で床の間へかけて、いゝ出來ぢやありませんかと云ふから、さうかなと好加減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釋をしたあとで、どうです、あなたなら十五圓にしておきます。お買ひなさいと催促をする。金がないと斷わると、金なんか、いつでもやうございますとなかなか頑固だ。金があつても買はないんだと、その時は追つ拂つちまつた。その次には鬼瓦ぐらゐな大硯を擔ぎ込んだ。これは端溪です、端溪ですと二遍も三遍も端溪がるから、面白半分に端溪た何だいと聞いたら、すぐ講釋を始め出した。端溪には上層中層下層とあつて、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼をご覽なさい。眼が三つあるのは珍らしい。溌墨の具合も至極よろしい、試してご覽なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。いくらだと聞くと、持主が支那から持つて歸つて來て是非賣りたいと云ひますから、お安くして三十圓にしておきませうと云ふ。この男は馬鹿に相違ない。學校の方はどうかかうか無事に勤まりさうだが、かう骨董責に逢つてはとても長く續きさうにない。
そのうち學校もいやになつた。  
ある日の晩大町と云ふ所を散歩してゐたら郵便局の隣りに蕎麥とかいて、下に東京と注を加へた看板があつた。おれは蕎麥が大好きである。東京に居つた時でも蕎麥屋の前を通つて藥味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなつた。今日までは數學と骨董で蕎麥を忘れてゐたが、かうして看板を見ると素通りが出來なくなる。ついでだから一杯食つて行かうと思つて上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と斷わる以上はもう少し奇麗にしさうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法きたない。疉は色が變つてお負けに砂でざらざらしてゐる。壁は煤で眞黒だ。天井はランプの油烟で燻ぼつてるのみか、低くつて、思はず首を縮めるくらゐだ。ただ麗々と蕎麥の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いうちを買つて二三日前から開業したに違ひなからう。ねだん付の第一號に天麩羅とある。おい天麩羅を持つてこいと大きな聲を出した。するとこの時まで隅の方に三人かたまつて、何かつるつる、ちゅうちゅう食つてた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、一寸氣がつかなかつたが顏を合せると、みんな學校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。その晩は久し振に蕎麥を食つたので、旨かつたから天麩羅を四杯平げた。
翌日何の氣もなく教場へ這入ると、黒板一杯ぐらゐな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顏を見てみんなわあと笑つた。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食つちや可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云つた。四杯食はうが五杯食はうがおれの錢でおれが食ふのに文句があるもんかと、さつさと講義を濟まして控所へ歸つて來た。十分立つて次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但し笑ふべからず。と黒板にかいてある。さつきは別に腹も立たなかつたが今度は癪に障つた。冗談も度を過ごせばいたづらだ。燒餠の黒焦のやうなもので誰も賞め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行つても構はないと云ふ了見だらう。一時間あるくと見物する町もないやうな狹い都に住んで、外に何にも藝がないから、天麩羅事件を日露戰爭のやうに觸れちらかすんだらう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねつこびた、植木鉢の楓みたやうな小人が出來るんだ。無邪氣ならひつしよに笑つてもいゝが、こりやなんだ。小供の癖に乙に毒氣を持つてる。おれはだまつて、天麩羅を消して、こんないたづらが面白いか、卑怯な冗談だ。君等は卑怯と云ふ意味を知つてるか、と云つたら、自分がした事を笑はれて怒るのが卑怯ぢやらうがな、もしと答へた奴がある。やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教へに來たのかと思つたら情なくなつた。餘計な減らず口を利かないで勉強しろと云つて、授業を始めてしまつた。それから次の教場へ出たら天麩羅を食ふと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終へない。あんまり腹が立つたから、そんな生意氣な奴は教へないと云つてすたすた歸つて來てやつた。生徒は休みになつて喜んださうだ。かうなると學校より骨董の方がまだましだ。
天麩羅蕎麥もうちへ歸つて、一晩寢たらそんなに肝癪に障らなくなつた。學校へ出てみると、生徒も出てゐる。何だか譯が分らない。それから三日ばかりは無事であつたが、四日目の晩に住田と云ふ所へ行つて團子を食つた。この住田と云ふ所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいつた團子屋は遊廓の入口にあつて、大變うまいといふ評判だから、温泉に行つた歸りがけに一寸食つてみた。今度は生徒にも逢はなかつたから、誰も知るまいと思つて、翌日學校へ行つて、一時間目の教場へ這入ると團子二皿七錢と書いてある。實際おれは二皿食つて七錢拂つた。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきつと何かあると思ふと遊廓の團子旨い旨いと書いてある。あきれ返つた奴等だ。團子がそれで濟んだと思つたら今度は赤手拭と云ふのが評判になつた。何の事だと思つたら、つまらない來歴だ。おれはここへ來てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めてゐる。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せつかく來た者だから毎日這入つてやらうといふ氣で、晩飯前に運動かたがた出掛る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染つた上へ、赤い縞が流れ出したので一寸見ると紅色に見える。おれはこの手拭を行きも歸りも、汽車に乘つてもあるいても、常にぶら下げてゐる。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云ふんださうだ。どうも狹い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八錢で濟む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいつた。すると四十圓の月給で毎日上等へ這入るのは贅澤だと云ひ出した。餘計なお世話だ。まだある。湯壺は花崗石を疉み上げて、十五疉敷ぐらゐの廣さに仕切つてある。大抵は十三四人漬つてるがたまには誰も居ない事がある。深さは立つて乳の邊まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見濟しては十五疉の湯壺を泳ぎ巡つて喜んでゐた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは斷念した。泳ぐのは斷念したが、學校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。何だか生徒全體がおれ一人を探偵してゐるやうに思はれた。くさくさした。生徒が何を云つたつて、やらうと思つた事をやめるやうなほれではないが、何でこんな狹苦しい鼻の先がつかへるやうな所へ來たのかと思ふと情なくなつた。それでうちへ歸ると相變らず骨董責である。 

 

學校には宿直があつて、職員が代る代るこれをつとめる。但し貍と赤シャツは例外である。何でこの兩人が當然の義務を免かれるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからと云ふ。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を逃がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらへて、それが當り前だといふやうな顏をしてゐる。よくまああんなにずうずうしく出來るものだ。これについては大分不平であるが、山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたつて通るものぢやないさうだ。一人だつて二人だつて正しい事なら通りさうなものだ。山嵐は might is right といふ英語を引いて説諭を加へたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の權利と云ふ意味ださうだ。強者の權利ぐらゐなら昔から知つてゐる。今さら山嵐から講釋をきかなくつてもいゝ。強者の權利と宿直とは別問題だ。貍や赤シャツが強者だなんて、誰が承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよおれの番に廻つて來た。一體疳性だから夜具蒲團などは自分のものへ樂に寢ないと寢たやうな心持ちがしない。小供の時から、友逹のうちへ泊つた事はほとんどないくらゐだ。友逹のうちでさへ厭なら學校の宿直はなほさら厭だ。厭だけれども、これが四十圓のうちへ籠つてゐるなら仕方がない。我慢して勤めてやらう。
教師も生徒も歸つてしまつたあとで、一人ぽかんとしてゐるのは隨分間が拔けたものだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はづれの一室だ。一寸這入つてみたが、西日をまともに受けて、苦しくつて居たたまれない。田舎だけあつて秋がきても、氣長に暑いもんだ。生徒の賄を取りよせて晩飯を濟ましたが、まづいには恐れ入つた。よくあんなものを食つて、あれだけに暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまふんだから豪傑に違ひない。飯は食つたが、まだ日が暮れないから寢る譯に行かない。一寸温泉に行きたくなつた。宿直をして、外へ出るのはいゝ事だか、惡るい事だかしらないが、かうつくねんとして重禁錮同樣な憂目に逢ふのは我慢の出來るもんぢやない。始めて學校へ來た時當直の人はと聞いたら、一寸用逹に出たと小使が答へたのを妙だと思つたが、自分に番が廻つてみると思ひ當る。出る方が正しいのだ。おれは小使に一寸出てくると云つたら、何かご用ですかと聞くから、用ぢやない、温泉へ這入るんだと答へて、さつさと出掛けた。赤手拭は宿へ忘れて來たのが殘念だが今日は先方で借りるとしよう。
それからかなりゆるりと、出たりはいつたりして、漸く日暮方になつたから、汽車へ乘つて古町の停車場まで來て下りた。學校まではこれから四丁だ。譯はないとあるき出すと、向うから貍が來た。貍はこれからこの汽車で温泉へ行かうと云ふ計劃なんだらう。すたすた急ぎ足にやつてきたが、擦れ違つた時おれの顏を見たから、一寸挨拶をした。すると貍はあなたは今日は宿直ではなかつたですかねえと眞面目くさつて聞いた。なかつたですかねえもないもんだ。二時間前おれに向つて今夜は始めての宿直ですね。ご苦勞さま。と禮を云つたぢやないか。校長なんかになるといやに曲りくねつた言葉を使ふもんだ。おれは腹が立つたから、ええ宿直です。宿直ですから、これから歸つて泊る事はたしかに泊りますと云ひ捨てて濟ましてあるき出した。豎町の四つ角までくると今度は山嵐に出つ喰はした。どうも狹い所だ。出てあるきさへすれば必ず誰かに逢ふ。「おい君は宿直ぢやないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答へたら、「宿直が無暗に出てあるくなんて、不都合ぢやないか」と云つた。「ちつとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張つてみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢ふと面倒だぜ」と山嵐に似合はない事を云ふから「校長にはたつた今逢つた。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でせうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云つて、面倒臭いから、さつさと學校へ歸つて來た。
夫から日はすぐ呉れる。呉れてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寢られないまでも床へ這入らうと思つて、寢卷に着換へて、蚊帳を捲くつて、赤い毛布を跳ねのけて、とんと尻持を突いて、仰向けになつた。おれが寢るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云つて小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律學校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が逹者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寢る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのぢやない。下宿の建築が粗末なんだ。掛ケ合ふなら下宿へ掛ケ合へと凹ましてやつた。この宿直部屋は二階ぢやないから、いくら、どしんと倒れても構はない。なるべく勢よく倒れないと寢たやうな心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか兩足へ飛び付いた。ざらざらして蚤のやうでもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振つてみた。するとざらざらと當つたものが、急に殖え出して脛が五六カ所、股が二三カ所、尻の下でぐちやりと踏み潰したのが一つ、臍の所まで飛び上がつたのが一つ──いよいよ驚ろいた。早速起き上つて、毛布をぱつと後ろへ抛ると、蒲團の中から、バッタが五六十飛び出した。正體の知れない時は多少氣味が惡るかつたが、バッタと相場が極まつてみたら急に腹が立つた。バッタの癖に人を驚ろかしやがつて、どうするか見ろと、いきなり括り枕を取つて、二三度擲きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛げつける割に利目がない。仕方がないから、また布團の上へ坐つて、煤掃の時に蓙を丸めて疉を叩くやうに、そこら近邊を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩だの、頭だの鼻の先だのへくつ付いたり、ぶつかつたりする。顏へ付いた奴は枕で叩く譯に行かないから、手で攫んで、一生懸命に擲きつける。忌々しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまつてゐる。死にもどうもしない。漸くの事に三十分ばかりでバッタは退治た。箒を持つて來てバッタの死骸を掃き出した。小使が來て何ですかと云ふから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼つとく奴がどこの國にある。間拔め。と叱つたら、私は存じませんと辯解をした。存じませんで濟むかと箒を椽側へ抛り出したら、小使は恐る恐る箒を擔いで歸つて行つた。
おれは早速寄宿生を三人ばかり總代に呼び出した。すると六人出て來た。六人だらうが十人だらうが構ふものか。寢卷のまま腕まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と眞先の一人がいつた。やに落ち付いてゐやがる。この學校ぢや校長ばかりぢやない、生徒まで曲りくねつた言葉を使ふんだらう。
「バッタを知らないのか、知らなけりや見せてやらう」と云つたが、生憎掃き出してしまつて一匹も居ない。また小使を呼んで、「さつきのバッタを持つてこい」と云つたら、「もう掃澑へ棄ててしまひましたが、拾つて參りませうか」と聞いた。「うんすぐ拾つて來い」と云ふと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて來て「どうもお氣の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見當りません。あしたになりましたらもつと拾つて參ります」と云ふ。小使まで馬鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう體をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云ふと、一番左の方に居た顏の丸い奴が「そりや、イナゴぞな、もし」と生意氣におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まへてなもした何だ。菜飯は田樂の時より外に食ふもんぢやない」とあべこべに遣り込めてやつたら「なもしと菜飯とは違ふぞな、もし」と云つた。いつまで行つてもなもしを使ふ奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れて呉れと頼んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温い所が好きぢやけれ、大方一人で御這入りたのぢやあろ」
「馬鹿あ云へ。バッタが一人で御這入りになるなんて──バッタに御這入りになられてたまるもんか。──さあなぜこんないたづらをしたか、云へ」
「云へてゝ、入れんものを説明しやうがないがな」
けちな奴等だ。自分で自分のした事が云へないくらゐなら、てんでしないがいゝ。證據さへ擧がらなければ、しらを切るつもりで圖太く構へてゐやがる。おれだつて中學に居た時分は少しはいたづらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするやうな卑怯な事はただの一度もなかつた。したものはしたので、しないものはしないに極つてる。おれなんぞは、いくら、いたづらをしたつて潔白なものだ。嘘を吐いて罰を逃げるくらゐなら、始めからいたづらなんかやるものか。いたづらと罰はつきもんだ。罰があるからいたづらも心持ちよく出來る。いたづらだけで罰はご免蒙るなんて下劣な根性がどこの國に流行ると思つてるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云ふ連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。全體中學校へ何しに這入つてるんだ。學校へ這入つて、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意氣な惡いたづらをして、さうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違ひをしてゐやがる。話せない雜兵だ。
おれはこんな腐つた了見の奴等と談判するのは胸糞が惡るいから、「そんなに云はれなきや、聞かなくつていゝ。中學校へ這入つて、上品も下品も區別が出來ないのは氣の毒なものだ」と云つて六人を逐つ放してやつた。おれは言葉や樣子こそあまり上品ぢやないが、心はこいつらよりも遙かに上品なつもりだ。六人は悠々と引き揚げた。上部だけは教師のおれより餘つ程えらく見える。實は落ち付いて居るだけ猶惡るい。おれには到底是程の度胸はない。
それからまた床へ這入つて横になつたら、さつきの騷動で蚊帳の中はぶんぶん唸つてゐる。手燭をつけて一匹ずつ燒くなんて面倒な事は出來ないから、釣手をはずして、長く疉んでおいて部屋の中で横豎十文字に振つたら、環が飛んで手の甲をいやといふほど撲つた。三度目に床へはいつた時は少々落ち付いたがなかなか寢られない。時計を見ると十時半だ。考へてみると厄介な所へ來たもんだ。一體中學の先生なんて、どこへ行つても、こんなものを相手にするなら氣の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。餘つ程辛防強い朴念仁がなるんだらう。おれには到底やり切れない。それを思ふと清なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊とい。今まではあんなに世話になつて別段難有いとも思はなかつたが、かうして、一人で遠國へ來てみると、始めてあの親切がわかる。越後の笹飴が食ひたければ、わざわざ越後まで買ひに行つて食はしてやつても、食はせるだけの價値は充分ある。清はおれの事を慾がなくつて、眞直な氣性だと云つて、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢ひたくなつた。
清の事を考へながら、のつそつしてゐると、突然おれの頭の上で、數で云つたら三四十人もあらうか、二階が落つこちるほどどん、どん、どんと拍子を取つて床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の聲が起つた。おれは何事が持ち上がつたのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端に、はゝあさつきの意趣返しに生徒があばれるのだなと氣がついた。手前のわるい事は惡るかつたと言つて仕舞はないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前逹に覺があるだらう。本來なら寢てから後悔してあしたの朝でもあやまりに來るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入つて、靜肅に寢てゐるべきだ。それを何だこの騷ぎは。寄宿舎を建てて豚でも飼つて置きあしまいし。氣狂ひじみた眞似も大抵にするがいゝ。どうするか見ろと、寢卷のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段を三股半に二階まで躍り上がつた。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れてゐたのが、急に靜まり返つて、人聲どころか足音もしなくなつた。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分らないが、人氣のあるとないとは樣子でも知れる。長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隱れてゐない。廊下のはづれから月がさして、遙か向うが際どく明るい。どうも變だ、おれは小供の時から、よく夢を見る癖があつて、夢中に跳ね起きて、わからぬ寢言を云つて、人に笑はれた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾つた夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がつて、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねたくらゐだ。その時は三日ばかりうち中の笑ひ草になつて大いに弱つた。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違ひないがと、廊下の眞中で考へ込んでゐると、月のさしてゐる向うのはづれで、一二三わあと、三四十人の聲がかたまつて響いたかと思ふ間もなく、前のやうに拍子を取つて、一同が床板を踏み鳴らした。それ見ろ夢ぢやないやつぱり事實だ。靜かにしろ、夜なかだぞ、とこつちも負けんくらゐな聲を出して、廊下を向うへ馳けだした。おれの通る路は暗い、ただはづれに見える月あかりが目標だ。おれが馳け出して二間も來たかと思ふと、廊下の眞中で、堅い大きなものに向脛をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身體はすとんと前へ抛り出された。こん畜生と起き上がつてみたが、馳けられない。氣はせくが、足だけは云ふ事を利かない。じれつたいから、一本足で飛んで來たら、もう足音も人聲も靜まり返つて、森としてゐる。いくら人間が卑怯だつて、こんなに卑怯に出來るものぢやない。まるで豚だ。かうなれば隱れてゐる奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寢室の一つを開けて中を檢査しようと思つたが開かない。錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の室を試みた。開かない事はやつぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引つ捕らまへてやらうと、焦慮てると、また東のはづれで鬨の聲と足拍子が始まつた。この野郎申し合せて、東西相應じておれを馬鹿にする氣だな、とは思つたがさてどうしていゝか分らない。正直に白状してしまふが、おれは勇氣のある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしていゝかさつぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに濟ましてはおれの顏にかかはる。江戸つ子は意氣地がないと云はれるのは殘念だ。宿直をして鼻埀れ小僧にからかはれて、手のつけやうがなくつて、仕方がないから泣き寢入りにしたと思はれちや一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の滿仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違ふんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていゝか分らないのが困るだけだ。困つたつて負けるものか。正直だから、どうしていゝか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考へてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさつて勝つ。あさつて勝てなければ、下宿から辨當を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはかう決心をしたから、廊下の眞中へあぐらをかいて夜のあけるのを待つてゐた。蚊がぶんぶん來たけれども何ともなかつた。さつき、ぶつけた向脛を撫でてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだらう。血なんか出たければ勝手に出るがいゝ。そのうち最前からの疲れが出て、ついふとうと寢てしまつた。何だか騷がしいので、眼が覺めた時はえつ糞しまつたと飛び上がつた。おれの坐つてた右側にある戸が半分あゐて、生徒が二人、おれの前に立つてゐる。おれは正氣に返つて、はつと思ふ途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引つ攫んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向に倒れた。ざまを見ろ。殘る一人が一寸狼狽したところを、飛びかかつて、肩を抑えて二三度こづき廻したら、あつけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで來いと引つ立てると、弱蟲だと見えて、一も二もなく尾いて來た。夜はとうにあけてゐる。
おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問し始めると、豚は、打つても擲ゐても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けつして白状しない。そのうち一人來る、二人來る、だんだん二階から宿直部屋へ集まつてくる。見るとみんな眠さうに瞼をはらしてゐる。けちな奴等だ。一晩ぐらゐ寢ないで、そんな面をして男と云はれるか。面でも洗つて議論に來いと云つてやつたが、誰も面を洗ひに行かない。
おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答をしてゐると、ひよつくり貍がやつて來た。あとから聞いたら、小使が學校に騷動がありますつて、わざわざ知らせに行つたのださうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意氣地がなさ過ぎる。それだから中學校の小使なんぞをしてるんだ。
校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草も一寸聞いた。追つて處分するまでは、今まで通り學校へ出ろ。早く顏を洗つて、朝飯を食はないと時間に間に合はないから、早くしろと云つて寄宿生をみんな放免した。手温るい事だ。おれなら即席に寄宿生をことごとく退校してしまふ。こんな悠長な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向つて、あなたもさぞご心配でお疲れでせう、今日はご授業に及ばんと云ふから、おれはかう答へた。「いえ、ちつとも心配ぢやありません。こんな事が毎晩あつても、命のある間は心配にやなりません。授業はやります、一晩ぐらゐ寢なくつて、授業が出來ないくらゐなら、頂戴した月給を學校の方へ割戻します」校長は何と思つたものか、しばらくおれの顏を見つめてゐたが、しかし顏が大分はれてゐますよと注意した。なるほど何だか少々重たい氣がする。その上べた一面痒い。蚊がよつぽと刺したに相違ない。おれは顏中ぼりぼり掻きながら、顏はいくら膨れたつて、口はたしかにきけますから、授業には差し支へませんと答へた。校長は笑ひながら、大分元氣ですねと賞めた。實を云ふと賞めたんぢやあるまい、ひやかしたんだらう。 

 

君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは氣味の惡るいやうに優しい聲を出す男である。まるで男だか女だか分りやしない。男なら男らしい聲を出すもんだ。ことに大學卒業生ぢやないか。物理學校でさへおれくらゐな聲が出るのに、文學士がこれぢや見つともない。
おれはさうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣つた事がある。それから神樂坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引つかけて、しめたと思つたら、ぽちやりと落としてしまつたがこれは今考へても惜しいと云つたら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと笑つた。何もさう氣取つて笑はなくつても、よささうな者だ。「それぢや、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと傳授しませう」とすこぶる得意である。だれがご傳授をうけるものか。一體釣や獵をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくつて、殺生をして喜ぶ譯がない。魚だつて、鳥だつて殺されるより生きてる方が樂に極まつてる。釣や獵をしなくつちや活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮してゐる上に、生き物を殺さなくつちや寢られないなんて贅澤な話だ。かう思つたが向うは文學士だけに口が逹者だから、議論ぢや叶はないと思つて、だまつてた。すると先生このおれを降參させたと疳違ひして、早速傳授しませう。おひまなら、今日どうです、いつしよに行つちや。吉川君と二人ぎりぢや、淋しいから、來たまへとしきりに勸める。吉川君といふのは画學の教師で例の野だいこの事だ。この野だは、どういふ了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入して、どこへでも隨行して行く。まるで同輩ぢやない。主從みたやうだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極つてゐるんだから、今さら驚ろきもしないが、二人で行けば濟むところを、なんで無愛想のおれへ口を掛けたんだらう。大方高慢ちきな釣道樂で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘つたに違ひない。そんな事で見せびらかされるおれじやない。鮪の二匹や三匹釣つたつて、びくともするもんか。おれだつて人間だ、いくら下手だつて絲さへ卸しや、何かかかるだらう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌ひだから行かないんぢやないと邪推するに相違ない。おれはかう考へたから、行きませうと答へた。それから、學校をしまつて、一應うちへ歸つて、支度を整へて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて濱へ行つた。船頭は一人で、船は細長い東京邊では見た事もない恰好である。さつきから船中見渡すが釣竿が一本も見えない。釣竿なしで釣が出來るものか、どうする了見だらうと、野だに聞くと、沖釣には竿は用ゐません、絲だけでげすと顋を撫でて黒人じみた事を云つた。かう遣り込められるくらゐならだまつてゐればよかつた。
船頭はゆつくりゆつくり漕いでゐるが熟練は恐しいもので、見返えると、濱が小さく見えるくらゐもう出てゐる。高柏寺の五重の塔が森の上へ拔け出して針のやうに尖がつてる。向側を見ると青嶋が浮いてゐる。これは人の住まない島ださうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりぢや住めつこない。赤シャツは、しきりに眺望していゝ景色だと云つてる。野だは絶景でげすと云つてる。絶景だか何だか知らないが、いゝ心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは藥だと思つた。いやに腹が減る。「あの松を見たまへ、幹が眞直で、上が傘のやうに開いてターナーの画にありさうだね」と赤シャツが野だに云ふと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ」と心得顏である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから默つてゐた。舟は島を右に見てぐるりと廻つた。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平だ。赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。出來る事なら、あの島の上へ上がつてみたいと思つたから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸ぢやいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは默つてた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけやうぢやありませんかと餘計な發議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからさう云はうと贊成した。この吾々のうちにおれも這入つてるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちや。いゝ画が出來ますぜと野だが云ふと、マドンナの話はよさうぢやないかホホホホと赤シャツが氣味の惡るい笑ひ方をした。なに誰も居ないから大丈夫ですと、一寸おれの方を見たが、わざと顏をそむけてにやにやと笑つた。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだらうが、小旦那だらうが、おれの關係した事でないから、勝手に立たせるがよからうが、人に分らない事を言つて分らないから聞いたつて構やしませんてえやうな風をする。下品な仕草だ。これで當人は私も江戸つ子でげすなどと云つてる。マドンナと云ふのは何でも赤シャツの馴染の藝者の渾名か何かに違ひないと思つた。なじみの藝者を無人島の松の木の下に立たして眺めてゐれば世話はない。それを野だが油繪にでもかいて展覽會へ出したらよからう。
ここいらがいゝだらうと船頭は船をとめて、錨を卸した。幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらゐだと云ふ。六尋ぐらゐぢや鯛はむづかしいなと、赤シャツは絲を海へなげ込んだ。大將鯛を釣る氣と見える、豪膽なものだ。野だは、なに教頭のお手際ぢやかかりますよ。それになぎですからとお世辭を云ひながら、これも絲を繰り出して投げ入れる。何だか先に錘のやうな鉛がぶら下がつてるだけだ。浮がない。浮がなくつて釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるやうなものだ。おれには到底出來ないと見てゐると、さあ君もやりたまへ絲はありますかと聞く。絲はあまるほどあるが、浮がありませんと云つたら、浮がなくつちや釣が出來ないのは素人ですよ。かうしてね、絲が水底へついた時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食ふとすぐ手に答へる。──そらきた、と先生急に絲をたぐり始めるから、何かかかつたと思つたら何にもかからない、餌がなくなつてたばかりだ。いゝ氣味だ。教頭、殘念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違ひなかつたんですが、どうも教頭のお手際でさへ逃げられちや、今日は油斷ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしてゐる連中よりはましですね。ちやうど齒どめがなくつちや自轉車へ乘れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。餘つ程撲りつけてやらうかと思つた。おれだつて人間だ、教頭ひとりで借り切つた海ぢやあるまいし。廣い所だ。鰹の一匹ぐらゐ義理にだつて、かかつて呉れるだらうと、どぼんと錘と絲を抛り込んでいゝ加減に指の先であやつつてゐた。
しばらくすると、何だかぴくぴくと絲にあたるものがある。おれは考へた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくつちや、かうぴくつく譯がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、絲はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に滲いておらん。船縁から覗いてみたら、金魚のやうな縞のある魚が絲にくつついて、右左へ漾いながら、手に應じて浮き上がつてくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちやりと跳ねたから、おれの顏は潮水だらけになつた。漸くつらまへて、針をとらうとするがなかなか取れない。捕まへた手はぬるぬるする。大いに氣味がわるい。面倒だから絲を振つて胴の間へ擲きつけたら、すぐ死んでしまつた。赤シャツと野だは驚ろいて見てゐる。おれは海の中で手をざぶざぶと洗つて、鼻の先へあてがつてみた。まだ腥臭い。もう懲り懲りだ。何が釣れたつて魚は握りたくない。魚も握られたくなからう。さうさう絲を捲いてしまつた。
一番槍はお手柄だがゴルキぢや、と野だがまた生意氣を云ふと、ゴルキと云ふと露西亞の文學者みたやうな名だねと赤シャツが洒落た。さうですね、まるで露西亞の文學者ですねと野だはすぐ贊成しやがる。ゴルキが露西亞の文學者で、丸木が芝の寫眞師で、米のなる木が命の親だらう。一體この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まへても片假名の唐人の名を並べたがる。人にはそれぞれ專門があつたものだ。おれのやうな數學の教師にゴルキだか車力だか見當がつくものか、少しは遠慮するがいゝ。云ふならフランクリンの自傳だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知つてる名を使ふがいゝ。赤シャツは時々帝國文學とかいふ眞赤な雜誌を學校へ持つて來て難有さうに讀んでゐる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片假名はみんなあの雜誌から出るんださうだ。帝國文學も罪な雜誌だ。
それから赤シャツと野だは一生懸命に釣つてゐたが、約一時間ばかりのうちに二人で十五六上げた。可笑しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて藥にしたくつてもありやしない。今日は露西亞文學の大當りだと赤シャツが野だに話してゐる。あなたの手腕でゴルキなんですから、私なんぞがゴルキなのは仕方がありません。當り前ですなと野だが答へてゐる。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くつて、まづくつて、とても食へないんださうだ。ただ肥料には出來るさうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣つてゐるんだ。氣の毒の至りだ。おれは一匹で懲りたから、胴の間へ仰向けになつて、さつきから大空を眺めてゐた。釣をするよりこの方が餘つ程洒落てゐる。
すると二人は小聲で何か話し始めた。おれにはよく聞えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清の事を考へてゐる。金があつて、清をつれて、こんな奇麗な所へ遊びに來たらさぞ愉快だらう。いくら景色がよくつても野だなどといつしよぢやつまらない。清は皺苦茶だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たつて恥づかしい心持ちはしない。野だのやうなのは、馬車に乘らうが、船に乘らうが、凌雲閣へのろふが、到底寄り付けたものぢやない。おれが教頭で、赤シャツがおれだつたら、やつぱりおれにへけつけお世辭を使つて赤シャツを冷かすに違ひない。江戸つ子は輕薄だと云ふがなるほどこんなものが田舎巡りをして、私は江戸つ子でげすと繰り返してゐたら、輕薄は江戸つ子で、江戸つ子は輕薄の事だと田舎者が思ふに極まつてる。こんな事を考へてゐると、何だか二人がくすくす笑ひ出した。笑ひ聲の間に何か云ふが途切れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本當ですよ」
おれは外の言葉には耳を傾けなかつたが、バッタと云ふ野だの語を聽いた時は、思はずきつとなつた。野だは何のためかバッタと云ふ言葉だけことさら力を入れて、明瞭におれの耳に這入るやうにして、そのあとをわざとぼかしてしまつた。おれは動かないでやはり聞いてゐた。
「また例の堀田が……」「さうかも知れない……」「天麩羅……ハハハハハ」「……煽動して……」「團子も?」
言葉はかやうに途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、團子だのといふところをもつて推し測つてみると、何でもおれのことについて内所話しをしてゐるに相違ない。話すならもつと大きな聲で話すがいゝ、また内所話をするくらゐなら、おれなんか誘はなければいゝ。いけ好かない連中だ。バッタだらうが雪踏だらうが、非はおれにある事ぢやない。校長がひとまづあづけろと云つたから、貍の顏にめんじてただ今のところは控へてゐるんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆でもしやぶつて引つ込んでるがいゝ。おれの事は、遲かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支へはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云ふ文句が氣にかかる。堀田がおれを煽動して騷動を大きくしたと云ふ意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいぢめたと云ふのか方角がわからない。青空を見てゐると、日の光がだんだん弱つて來て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香の烟のやうな雲が、透き徹る底の上を靜かに伸して行つたと思つたら、いつしか底の奧に流れ込んで、うすくもやを掛けたやうになつた。
もう歸らうかと赤シャツが思ひ出したやうに云ふと、ええちやうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお逢ひですかと野だが云ふ。赤シャツは馬鹿あ云つちやいけない、間違ひになると、船縁に身を倚たした奴を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたつて……と野だが振り返つた時、おれは皿のやうな眼を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやつた。野だはまぼしさうに引つ繰り返つて、や、こいつは降參だと首を縮めて、頭を掻いた。何といふ豬口才だらう。
船は靜かな海を岸へ漕ぎ戻る。君釣はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寢てゐて空を見る方がいゝですと答へて、吸ひかけた卷烟草を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪の足で掻き分けられた浪の上を搖られながら漾つていつた。「君が來たんで生徒も大いに喜んでゐるから、奮發してやつて呉れたまへ」と今度は釣にはまるで縁故もない事を云ひ出した。「あんまり喜んでもゐないでせう」「いえ、お世辭ぢやない。全く喜んでゐるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころぢやない。大騷ぎです」と野だはにやにやと笑つた。こいつの云ふ事は一々癪に障るから妙だ。「しかし君注意しないと、險呑ですよ」と赤シャツが云ふから「どうせ險呑です。かうなりや險呑は覺悟です」と云つてやつた。實際おれは免職になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どつちか一つにする了見でゐた。「さう云つちや、取りつきどころもないが──實は僕も教頭として君のためを思ふから云ふんだが、わるく取つちや困る」「教頭は全く君に好意を持つてるんですよ。僕も及ばずながら、同じ江戸つ子だから、なるべく長くご在校を願つて、お互に力にならうと思つて、これでも蔭ながら盡力してゐるんですよ」と野だが人間並の事を云つた。野だのお世話になるくらゐなら首を縊つて死んじまはあ。
「それでね、生徒は君の來たのを大變歡迎してゐるんだが、そこにはいろいろな事情があつてね。君も腹の立つ事もあるだらうが、ここが我慢だと思つて、辛防して呉れたまへ。決して君のためにならないやうな事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入つてるんだが、まあだんだん分りますよ。僕が話さないでも自然と分つて來るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入つてますからね。一朝一夕にや到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分つて來るです」と野だは赤シャツと同じやうな事を云ふ。
「そんな面倒な事情なら聞かなくてもいゝんですが、あなたの方から話し出したから伺ふんです」
「そりやごもつともだ。こつちで口を切つて、あとをつけないのは無責任ですね。それぢやこれだけの事を云つておきませう。あなたは失禮ながら、まだ學校を卒業したてで、教師は始めての、經驗である。ところが學校といふものはなかなか情實のあるもので、さう書生流に淡泊には行かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はさう率直だから、まだ經驗に乏しいと云ふんですがね……」
「どうせ經驗には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思はぬ邊から乘ぜられる事があるんです」
「正直にしてゐれば誰が乘じたつて怖くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乘ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、氣を付けないといけないと云ふんです」
野だが大人しくなつたなと氣が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫の方で船頭と釣の話をしてゐる。野だが居ないんで餘つ程話しよくなつた。
「僕の前任者が、誰れに乘ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名譽に關係するから云へない。また判然と證據のない事だから云ふとこつちの落度になる。とにかく、せつかく君が來たもんだから、ここで失敗しちや僕等も君を呼んだ甲斐がない。どうか氣を付けて呉れたまへ」
「氣を付けろつたつて、これより氣の付けやうはありません。わるい事をしなけりや好いんでせう」
赤シャツはホホホホと笑つた。別段おれは笑はれるやうな事を云つた覺えはない。今日ただ今に至るまでこれでいゝと堅く信じてゐる。考へてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奬勵してゐるやうに思ふ。わるくならなければ社會に成功はしないものと信じてゐるらしい。たまに正直な純粹な人を見ると、坊つちやんだの小僧だのと難癖をつけて輕蔑する。それぢや小學校や中學校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教へない方がいゝ。いつそ思ひ切つて學校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乘せる策を教授する方が、世のためにも當人のためにもなるだらう。赤シャツがホホホホと笑つたのは、おれの單純なのを笑つたのだ。單純や眞率が笑はれる世の中ぢや仕樣がない。清はこんな時に決して笑つた事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツより餘つ程上等だ。
「無論惡るい事をしなければ好いんですが、自分だけ惡るい事をしなくつても、人の惡るいのが分らなくつちや、やつぱりひどい目に逢ふでせう。世の中には磊落なやうに見えても、淡泊なやうに見えても、親切に下宿の世話なんかして呉れても、めつたに油斷の出來ないのがありますから……。大分寒くなつた。もう秋ですね、濱の方は靄でセピヤ色になつた。いゝ景色だ。おい、吉川君どうだい、あの濱の景色は……」と大きな聲を出して野だを呼んだ。なあるほどこりや奇絶ですね。時間があると寫生するんだが、惜しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
港屋の二階に燈が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乘つてゐた舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなつた。お早うお歸りと、かみさんが、濱に立つて赤シャツに挨拶する。おれは船端から、やつと掛聲をして磯へ飛び下りた。 

 

野だは大嫌ひだ。こんな奴は澤庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本のためだ。赤シャツは聲が氣に食はない。あれは持前の聲をわざと氣取つてあんな優しいやうに見せてるんだらう。いくら氣取つたつて、あの面ぢや駄目だ。惚れるものがあつたつてマドンナぐらゐなものだ。しかし教頭だけに野だよりむづかしい事を云ふ。うちへ歸つて、あいつの申し條を考へてみると一應もつとものやうでもある。はつきりとした事は云はないから、見當がつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云ふのらしい。それならさうとはつきり斷言するがいゝ、男らしくもない。さうして、そんな惡るい教師なら、早く免職さしたらよからう。教頭なんて文學士の癖に意氣地のないもんだ。蔭口をきくのでさへ、公然と名前が云へないくらゐな男だから、弱蟲に極まつてる。弱蟲は親切なものだから、あの赤シャツも女のやうな親切ものなんだらう。親切は親切、聲は聲だから、聲が氣に入らないつて、親切を無にしちや筋が違ふ。それにしても世の中は不思議なものだ、蟲の好かない奴が親切で、氣のあつた友逹が惡漢だなんて、人を馬鹿にしてゐる。大方田舎だから萬事東京のさかに行くんだらう。物騷な所だ。今に火事が氷つて、石が豆腐になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたづらをしさうもないがな。一番人望のある教師だと云ふから、やらうと思つたら大抵の事は出來るかも知れないが、──第一そんな廻りくどい事をしないでも、じかにおれを捕まへて喧嘩を吹き懸けりや手數が省ける譯だ。おれが邪魔になるなら、實はこれこれだ、邪魔だから辭職して呉れと云や、よささうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向うの云ひ條がもつともなら、明日にでも辭職してやる。ここばかり米が出來る譯でもあるまい。どこの果へ行つたつて、のたれ死はしないつもりだ。山嵐も餘つ程話せない奴だな。
ここへ來た時第一番に氷水を奢つたのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢つてもらつちや、おれの顏に關はる。おれはたつた一杯しか飮まなかつたから一錢五厘しか拂はしちやない。しかし一錢だらうが五厘だらうが、詐欺師の恩になつては、死ぬまで心持ちがよくない。あした學校へ行つたら、一錢五厘返しておかう。おれは清から三圓借りてゐる。その三圓は五年經つた今日までまだ返さない。返せないんぢやない。返さないんだ。清は今に返すだらうなどと、かりそめにもおれの懷中をあてにしてはゐない。おれも今に返さうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こつちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるやうなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのぢやない、清をおれの片破れと思ふからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だらうが、甘茶だらうが、他人から惠を受けて、だまつてゐるのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に對する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で濟むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは錢金で買へる返禮ぢやない。無位無冠でも一人前の獨立した人間だ。獨立した人間が頭を下げるのは百萬兩より尊といお禮と思はなければならない。
おれはこれでも山嵐に一錢五厘奮發させて、百萬兩より尊とい返禮をした氣でゐる。山嵐は難有いと思つてしかるべきだ。それに裏へ廻つて卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。あした行つて一錢五厘返してしまへば借りも貸しもない。さうしておいて喧嘩をしてやらう。
おれはここまで考へたら、眠くなつたからぐうぐう寢てしまつた。あくる日は思ふ仔細があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て來ない。うらなりが出て來る。漢學の先生が出て來る。野だが出て來る。しまひには赤シャツまで出て來たが山嵐の机の上は白墨が一本豎に寢てゐるだけで閑靜なものだ。おれは、控所へ這入るや否や返さうと思つて、うちを出る時から、湯錢のやうに手の平へ入れて一錢五厘、學校まで握つて來た。おれは膏つ手だから、開けてみると一錢五厘が汗をかいてゐる。汗をかいてる錢を返しちや、山嵐が何とか云ふだらうと思つたから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握つた。ところへ赤シャツが來て昨日は失敬、迷惑でしたらうと云つたから、迷惑ぢやありません、お蔭で腹が減りましたと答へた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤臺面をおれの鼻の側面へ持つて來たから、何をするかと思つたら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、祕密にして呉れたまへ。まだ誰にも話しやしますまいねと云つた。女のやうな聲を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話さうと云ふ心持ちで、すでに一錢五厘手の平に用意してゐるくらゐだから、ここで赤シャツから口留めをされちや、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出來る謎をかけておきながら、今さらその謎を解いちや迷惑だとは教頭とも思へぬ無責任だ。元來ならはれが山嵐と戰爭をはじめて鎬を削つてる眞中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着てゐる主意も立つといふもんだ。
おれは教頭に向つて、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云つたら、赤シャツは大いに狼狽して、君そんな無法な事をしちや困る。僕は堀田君の事について、別段君に何も明言した覺えはないんだから──君がもしここで亂暴を働いて呉れると、僕は非常に迷惑する。君は學校に騷動を起すつもりで來たんぢやなからうと妙に常識をはづれた質問をするから、當り前です、月給をもらつたり、騷動を起したりしちや、學校の方でも困るでせうと云つた。すると赤シャツはそれぢや昨日の事は君の參考だけにとめて、口外して呉れるなと汗をかいて依頼に及ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしませうと受け合つた。君大丈夫かいと赤シャツは念を押した。どこまで女らしいんだか奧行がわからない。文學士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄の合はない、論理に缺けた注文をして恬然としてゐる。しかもこのおれを疑ぐつてる。憚りながら男だ。受け合つた事を裏へ廻つて反古にするやうなさもしい了見はもつてるもんか。
ところへ兩隣りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ歸つて行つた。赤シャツは歩るき方から氣取つてる。部屋の中を往來するのでも、音を立てないやうに靴の底をそつと落す。音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、この時から始めて知つた。泥棒の稽古ぢやあるまいし、當り前にするがいゝ。やがて始業の喇叭がなつた。山嵐はとうとう出て來ない。仕方がないから、一錢五厘を机の上へ置いて教場へ出掛けた。
授業の都合で一時間目は少し後れて、控所へ歸つたら、ほかの教師はみんな机を控へて話をしてゐる。山嵐もいつの間にか來てゐる。缺勤だと思つたら遲刻したんだ。おれの顏を見るや否や今日は君のお蔭で遲刻したんだ。罰金を出したまへと云つた。おれは机の上にあつた一錢五厘を出して、これをやるから取つておけ。先逹て通町で飮んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云つてるんだと笑ひかけたが、おれが存外眞面目でゐるので、つまらない冗談をするなと錢をおれの机の上に掃き返した。おや山嵐の癖にどこまでも奢る氣だな。
「冗談ぢやない本當だ。おれは君に氷水を奢られる因縁がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一錢五厘が氣になるなら取つてもいゝが、なぜ思ひ出したやうに、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷然とおれの顏を見てふんと云つた。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣をあばゐて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合つたんだから動きがとれない。人がこんなに眞赤になつてるのにふんといふ理窟があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出て呉れ」
「一錢五厘受け取ればそれでいゝ。下宿を出やうが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主が來て君に出てもらひたいと云ふから、その譯を聞いたら亭主の云ふのはもつともだ。それでももう一應たしかめるつもりで今朝あすこへ寄つて詳しい話を聞いてきたんだ」
おれには山嵐の云ふ事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知つてるもんか。さう自分だけで極めたつて仕樣があるか。譯があるなら、譯を話すが順だ。てんから亭主の云ふ方がもつともだなんて失敬千萬な事を云ふな」
「うん、そんなら云つてやらう。君は亂暴であの下宿で持て餘まされてゐるんだ。いくら下宿の女房だつて、下女たあ違ふぜ。足を出して拭かせるなんて、威張り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うぢや、君に困つてるんだ。下宿料の十圓や十五圓は懸物を一幅賣りや、すぐ浮いてくるつて云つてたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになつたんだから、出ろと云ふんだらう。君出てやれ」
「當り前だ。居て呉れと手を合せたつて、居るものか。一體そんな云ひ懸りを云ふやうな所へ周旋する君からしてが不埒だ」
「おれが不埒か、君が大人しくないんだか、どつちかだらう」
山嵐もおれに劣らぬ肝癪持ちだから、負け嫌ひな大きな聲を出す。控所に居た連中は何事が始まつたかと思つて、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋を長くしてぼんやりしてゐる。おれは、別に恥づかしい事をした覺えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやつた。みんなが驚ろいてるなかに野だだけは面白さうに笑つてゐた。おれの大きな眼が、貴樣も喧嘩をするつもりかと云ふ權幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然眞面目な顏をして、大いにつつしんだ。少し怖わかつたと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
午後は、先夜おれに對して無禮を働いた寄宿生の處分法についての會議だ。會議といふものは生れて始めてだからとんと容子が分らないが、職員が寄つて、たかつて自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纒めるのだらう。纒めるといふのは黒白の決しかねる事柄について云ふべき言葉だ。この場合のやうな、誰が見たつて、不都合としか思はれない事件に會議をするのは暇潰しだ。誰が何と解釋したつて異説の出やうはずがない。こんな明白なのは即座に校長が處分してしまへばいゝに。隨分決斷のない事だ。校長つてものが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚圖の異名だ。
會議室は校長室の隣りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張つた椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周圍に並んで一寸神田の西洋料理屋ぐらゐな格だ。そのテーブルの端に校長が坐つて、校長の隣りに赤シャツが構へる。あとは勝手次第に席に着くんださうだが、體操の教師だけはいつも席末に謙遜するといふ話だ。おれは樣子が分らないから、博物の教師と漢學の教師の間へはいり込んだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顏はどう考へても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遙かに趣がある。おやじの葬式の時に小日向の養源寺の座敷にかかつてた懸物はこの顏によく似てゐる。坊主に聞いてみたら韋駄天と云ふ怪物ださうだ。今日は怒つてるから、眼をぐるぐる廻しちや、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇かされてたまるもんかと、おれも負けない氣で、やつぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやつた。おれの眼は恰好はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときつと似合ひますと清がよく云つたくらゐだ。
もう大抵お揃ひでせうかと校長が云ふと、書記の川村と云ふのが一つ二つと頭數を勘定してみる。一人足りない。一人不足ですがと考へてゐたが、これは足りないはずだ。唐茄子のうらなり君が來てゐない。おれとうらなり君とはどう云ふ宿世の因縁かしらないが、この人の顏を見て以來どうしても忘れられない。控所へ呉れば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中をあるいてゐても、うらなり先生の樣子が心に浮ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顏をして湯壺のなかに膨れてゐる。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから氣の毒になる。學校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めつたに笑つた事もないが、餘計な口をきいた事もない。おれは君子といふ言葉を書物の上で知つてるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思つてたが、うらなり君に逢つてから始めて、やつぱり正體のある文字だと感心したくらゐだ。
このくらゐ關係の深い人の事だから、會議室へ這入るや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ氣がついた。實を云ふと、この男の次へでも坐わらうかと、ひそかに目標にして來たくらゐだ。校長はもうやがて見えるでせうと、自分の前にある紫の袱紗包をほどいて、蒟蒻版のやうな者を讀んでゐる。赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチで磨き始めた。この男はこれが道樂である。赤シャツ相當のところだらう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語き合つてゐる。手持無沙汰なのは鉛筆の尻に着いてゐる、護謨の頭でテーブルの上へしきりに何か書いてゐる。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向應じない。ただうんとかああと云ふばかりで、時々怖い眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨め返す。
ところへ待ちかねた、うらなり君が氣の毒さうに這入つて來て少々用事がありまして、遲刻致しましたと慇懃に貍に挨拶をした。では會議を開きますと貍はまづ書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が處分の件、次が生徒取締の件、その他二三ヶ條である。貍は例の通りもつたいぶつて、教育の生靈といふ見えでこんな意味の事を述べた。「學校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪へんが、不幸にして今囘もまたかかる騷動を引き起したのは、深く諸君に向つて謝罪しなければならん。しかしひとたび起つた以上は仕方がない、どうにか處分をせんければならん、事實はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹藏のない事を參考のためにお述べ下さい」
おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの貍だのと云ふものは、えらい事を云ふもんだと感心した。かう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云ふくらゐなら、生徒を處分するのは、やめにして、自分から先へ免職になつたら、よささうなもんだ。さうすればこんな面倒な會議なんぞを開く必要もなくなる譯だ。第一常識から云つても分つてる。おれが大人しく宿直をする。生徒が亂暴をする。わるいのは校長でもなけりや、おれでもない、生徒だけに極つてる。もし山嵐が煽動したとすれば、生徒と山嵐を退治ればそれでたくさんだ。人の尻を自分で背負ひ込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの國にあるもんか、貍でなくつちや出來る藝當ぢやない。彼はこんな條理に適はない議論を吐いて、得意氣に一同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏がとまつてるのを眺めてゐる。漢學の先生は蒟蒻版を疉んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顏をにらめてゐる。會議と云ふものが、こんな馬鹿氣たものなら、缺席して晝寢でもしてゐる方がましだ。
おれは、じれつたくなつたから、一番大いに辯じてやらうと思つて、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云ひ出したから、やめにした。見るとパイプをしまつて、縞のある絹ハンケチで顏をふきながら、何か云つてゐる。あの手巾はきつとマドンナから卷き上げたに相違ない。男は白い麻を使ふもんだ。「私も寄宿生の亂暴を聞いてはなはだ教頭として不行屆であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかつたのを深く慚ずるのであります。でかう云ふ事は、何か陷缺があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいやうであるが、その眞相を極めると責任はかへつて學校にあるかも知れない。だから表面上にあらはれたところだけで嚴重な制裁を加へるのは、かへつて未來のためによくないかとも思はれます。かつ少年血氣のものであるから活氣があふれて、善惡の考へはなく、半ば無意識にこんな惡戲をやる事はないとも限らん。でもとより處分法は校長のお考へにある事だから、私の容喙する限りではないが、どうかその邊をご斟酌になつて、なるべく寛大なお取計を願ひたいと思ひます」
なるほど貍が貍なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんぢやない教師が惡るいんだと公言してゐる。氣狂が人の頭を撲り付けるのは、なぐられた人がわるいから、氣狂がなぐるんださうだ。難有い仕合せだ。活氣にみちて困るなら運動場へ出て相撲でも取るがいゝ、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この樣子ぢや寢頸をかかれても、半ば無意識だつて放免するつもりだらう。
おれはかう考へて何か云はうかなと考へてみたが、云ふなら人を驚ろかすやうに滔々と述べたてなくつちやつまらない、おれの癖として、腹が立つたときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞つてしまふ。貍でも赤シャツでも人物から云ふと、おれよりも下等だが、辯舌はなかなか逹者だから、まづい事を喋舌つて揚足を取られちや面白くない。一寸腹案を作つてみやうと、胸のなかで文章を作つてる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意氣だ。野だは例のへらへら調で「實に今囘のバッタ事件及び咄喊事件は吾々心ある職員をして、ひそかに吾校將來の前途に危惧の念を抱かしむるに足る珍事でありまして、吾々職員たるものはこの際奮つて自ら省りみて、全校の風紀を振肅しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになつたお説は、實に肯綮に中つた剴切なお考へで私は徹頭徹尾贊成致します。どうかなるべく寛大のご處分を仰ぎたいと思ひます」と云つた。野だの云ふ事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで譯が分らない。分つたのは徹頭徹尾贊成致しますと云ふ言葉だけだ。
おれは野だの云ふ意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立つたから、腹案も出來ないうちに起ち上がつてしまつた。「私は徹頭徹尾反對です……」と云つたがあとが急に出て來ない。「……そんな頓珍漢な、處分は大嫌ひです」とつけたら、職員が一同笑ひ出した。「一體生徒が全然惡るいです。どうしても詫まらせなくつちや、癖になります。退校さしても構ひません。……何だ失敬な、新しく來た教師だと思つて……」と云つて着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり嚴重な罰などをするとかへつて反動を起していけないでせう。やつぱり教頭のおつしやる通り、寛な方に贊成します」と弱い事を云つた。左隣の漢學は穩便説に贊成と云つた。歴史も教頭と同説だと云つた。忌々しい、大抵のものは赤シャツ黨だ。こんな連中が寄り合つて學校を立てていりや世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辭職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ歸つて荷作りをする覺悟でゐた。どうせ、こんな手合を弁口で屈伏させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願ふのは、こつちでご免だ。學校に居ないとすればどうなつたつて構ふもんか。また何か云ふと笑ふに違ひない。だれが云ふもんかと澄してゐた。
すると今までだまつて聞いてゐた山嵐が奮然として、起ち上がつた。野郎また赤シャツ贊成の意を表するな、どうせ、貴樣とは喧嘩だ、勝手にしろと見てゐると山嵐は硝子窓を振わせるやうな聲で「私は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。といふものはこの事件はどの點から見ても、五十名の寄宿生が新來の教師某氏を輕侮してこれを飜弄しようとした所爲とより外には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるやうでありますが失禮ながらそれは失言かと思ひます。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に滿たぬ頃であります。この短かい二十日間において生徒は君の學問人物を評價し得る餘地がないのであります。輕侮されべき至當な理由があつて、輕侮を受けたのなら生徒の行爲に斟酌を加へる理由もありませうが、何らの源因もないのに新來の先生を愚弄するやうな輕薄な生徒を寛假しては學校の威信に關はる事と思ひます。教育の精神は單に學問を授けるばかりではない、高尚な、正直な、武士的な元氣を鼓吹すると同時に、野鄙な、輕躁な、暴慢な惡風を掃蕩するにあると思ひます。もし反動が恐しいの、騷動が大きくなるのと姑息な事を云つた日にはこの弊風はいつ矯正出來るか知れません。かかる弊風を杜絶するためにこそ吾々はこの學校に職を奉じてゐるので、これを見逃がすくらゐなら始めから教師にならん方がいゝと思ひます。私は以上の理由で寄宿生一同を嚴罰に處する上に、當該教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至當の所置と心得ます」と云ひながら、どんと腰を卸した。一同はだまつて何にも言はない。赤シャツはまたパイプを拭き始めた。おれは何だか非常に嬉しかつた。おれの云はうと思ふところをおれの代りに山嵐がすつかり言つて呉れたやうなものだ。おれはかう云ふ單純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有いと云ふ顏をもつて、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面をしてゐる。
しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今一寸失念して言ひ落しましたから、申します。當夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたやうであるが、あれはもつての外の事と考へます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎める者のないのを幸に、場所もあらうに温泉などへ入湯にいくなどと云ふのは大きな失體である。生徒は生徒として、この點については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
妙な奴だ、ほめたと思つたら、あとからすぐ人の失策をあばゐてゐる。おれは何の氣もなく、前の宿直が出あるいた事を知つて、そんな習慣だと思つて、つい温泉まで行つてしまつたんだが、なるほどさう云はれてみると、これはおれが惡るかつた。攻撃されても仕方がない。そこでおれはまた起つて「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云つて着席したら、一同がまた笑ひ出した。おれが何か云ひさへすれば笑ふ。つまらん奴等だ。貴樣等是程自分のわるい事を公けにわるかつたと斷言出來るか、出來ないから笑ふんだらう。
それから校長は、もう大抵ご意見もないやうでありますから、よく考へた上で處分しませうと云つた。ついでだからその結果を云ふと、寄宿生は一週間の禁足になつた上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辭職して歸るところだつたがなまじい、おれのいふ通りになつたのでとうとう大變な事になつてしまつた。それはあとから話すが、校長はこの時會議の引き續きだと號してこんな事を云つた。生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飮食店などに出入しない事にしたい。もつとも送別會などの節は特別であるが、單獨にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい──たとへば蕎麥屋だの、團子屋だの──と云ひかけたらまた一同が笑つた。野だが山嵐を見て天麩羅と云つて目くばせをしたが山嵐は取り合はなかつた。いゝ氣味だ。
おれは腦がわるいから、貍の云ふことなんか、よく分らないが、蕎麥屋や團子屋へ行つて、中學の教師が勤まらなくつちや、おれみたやうな食ひ心棒にや到底出來つ子ないと思つた。それなら、それでいゝから、初手から蕎麥と團子の嫌ひなものと注文して雇ふがいゝ。だんまりで辭令を下げておいて、蕎麥を食ふな、團子を食ふなと罪なお布令を出すのは、おれのやうな外に道樂のないものにとつては大變な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元來中學の教師なぞは社會の上流にくらゐするものだからして、單に物質的の快樂ばかり求めるべきものでない。その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼすやうになる。しかし人間だから、何か娯樂がないと、田舎へ來て狹い土地では到底暮せるものではない。それで釣に行くとか、文學書を讀むとか、または新體詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯樂を求めなくつてはいけない……」
だまつて聞いてると勝手な熱を吹く。沖へ行つて肥料を釣つたり、ゴルキが露西亞の文學者だつたり、馴染の藝者が松の木の下に立つたり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯樂なら、天麩羅を食つて團子を呑み込むのも精神的娯樂だ。そんな下さらない娯樂を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいゝ。あんまり腹が立つたから「マドンナに逢ふのも精神的娯樂ですか」と聞いてやつた。すると今度は誰も笑はない。妙な顏をして互に眼と眼を見合せてゐる。赤シャツ自身は苦しさうに下を向いた。それ見ろ。利いたらう。ただ氣の毒だつたのはうらなり君で、おれが、かう云つたら蒼い顏をますます蒼くした。 

 

おれは即夜下宿を引き拂つた。宿へ歸つて荷物をまとめてゐると、女房が何か不都合でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云つてお呉れたら改めますと云ふ。どうも驚ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃つてるんだらう。出てもらひたいんだか、居てもらひたいんだか分りやしない。まるで氣狂だ。こんな者を相手に喧嘩をしたつて江戸つ子の名折れだから、車屋をつれて來てさつさと出てきた。
出た事は出たが、どこへ行くといふあてもない。車屋が、どちらへ參りますと云ふから、だまつて尾いて來い、今にわかる、と云つて、すたすたやつて來た。面倒だから山城屋へ行かうかとも考へたが、また出なければならないから、つまり手數だ。かうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだらう。さうしたら、そこが天意に叶つたわが宿と云ふ事にしよう。とぐるぐる、閑靜で住みよささうな所をあるいてゐるうち、とうとう鍛冶屋町へ出てしまつた。ここは士族屋敷で下宿屋などのある町ではないから、もつと賑やかな方へ引き返さうかとも思つたが、ふといゝ事を考へ付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでゐる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控へてゐるくらゐだから、この邊の事情には通じてゐるに相違ない。あの人を尋ねて聞いたら、よささうな下宿を教へて呉れるかも知れない。幸一度挨拶に來て勝手は知つてるから、搜がしてあるく面倒はない。ここだらうと、いゝ加減に見當をつけて、ご免ご免と二返ばかり云ふと、奧から五十ぐらゐな年寄が古風な紙燭をつけて、出て來た。おれは若い女も嫌ひではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清がすきだから、その魂が方々のお婆さんに乘り移るんだらう。これは大方うらなり君のおつ母さんだらう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似てゐる。まあお上がりと云ふところを、一寸お目にかかりたいからと、主人を玄關まで呼び出して實はこれこれだが君どこか心當りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございませう、としばらく考へてゐたが、この裏町に荻野と云つて老人夫婦ぎりで暮らしてゐるものがある、いつぞや座敷を明けておいても無駄だから、たしかな人があるなら貸してもいゝから周旋して呉れと頼んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいつしよに行つて聞いてみませうと、親切に連れて行つて呉れた。
その夜から荻野の家の下宿人となつた。驚いたのは、おれがいか銀の座敷を引き拂ふと、翌日から入れ違ひに野だが平氣な顏をして、おれの居た部屋を占領した事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互に乘せつこをしてゐるのかも知れない。いやになつた。
世間がこんなものなら、おれも負けない氣で、世間並にしなくちや、遣りきれない譯になる。巾着切の上前をはねなければ三度のご膳が戴けないと、事が極まればかうして、生きてるのも考へ物だ。と云つてぴんぴんした逹者なからだで、首を縊つちや先祖へ濟まない上に、外聞が惡い。考へると物理學校などへ這入つて、數學なんて役にも立たない藝を覺えるよりも、六百圓を資本にして牛乳屋でも始めればよかつた。さうすれば清もおれの傍を離れずに濟むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しづに暮される。いつしよに居るうちは、さうでもなかつたが、かうして田舎へ來てみると清はやつぱり善人だ。あんな氣立のいゝ女は日本中さがして歩いたつてめつたにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いてゐたが今頃はどうしてるか知らん。先だつての手紙を見たらさぞ喜んだらう。それにしても、もう返事がきさうなものだが──おれはこんな事ばかり考へて二三日暮してゐた。
氣になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は來ませんかと時々尋ねてみるが、聞くたんびに何にも參りませんと氣の毒さうな顏をする。ここの夫婦はいか銀とは違つて、もとが士族だけに雙方共上品だ。爺さんが夜るになると、變な聲を出して謠をうたふには閉口するが、いか銀のやうにお茶を入れませうと無暗に出て來ないから大きに樂だ。お婆さんは時々部屋へ來ていろいろな話をする。どうして奧さんをお連れなさつて、いつしよにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。奧さんがあるやうに見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと云つたらそれでも、あなた二十四で奧さんがおありなさるのは當り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰ひたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり擧げて反駁を試みたには恐れ入つた。それぢや僕も二十四でお嫁をお貰ひるけれ、世話をしてお呉れんかなと田舎言葉を眞似て頼んでみたら、お婆さん正直に本當かなもしと聞いた。
「本當の本當のつて僕あ、嫁が貰ひたくつて仕方がないんだ」
「さうぢやらうがな、もし。若いうちは誰もそんなものぢやけれ」この挨拶には痛み入つて返事が出來なかつた。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極つとらい。私はちやんと、もう、睨らんどるぞなもし」
「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦がれておいでるぢやないかなもし」
「こいつあ驚いた。大變な活眼だ」
「中りましたらうがな、もし」
「さうですね。中つたかも知れませんよ」
「しかし今時の女子は、昔と違ふて油斷が出來んけれ、お氣をお付けたがへえぞなもし」
「何ですかい、僕の奧さんが東京で間男でもこしらへてゐますかい」
「いゝえ、あなたの奧さんはたしかぢやけれど……」
「それで、やつと安心した。それぢや何を氣を付けるんですい」
「あなたのはたしか──あなたのはたしかぢやが──」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここ等にも大分居ります。先生、あの遠山のお孃さんをご存知かなもし」
「いゝえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪さんぢやがなもし。あまり別嬪さんぢやけれ、學校の先生方はみんなマドンナマドンナと言ふといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ藝者の名かと思つた」
「いゝえ、あなた。マドンナと云ふと唐人の言葉で、別嬪さんの事ぢやらうがなもし」
「さうかも知れないね。驚いた」
「大方画學の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いゝえ、あの吉川先生がお付けたのぢやがなもし」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
「厄介だね。渾名の付いてる女にや昔から碌なものは居ませんからね。さうかも知れませんよ」
「ほん當にさうぢやなもし。鬼神のお松ぢやの、妲妃のお百ぢやのてて怖い女が居りましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしてお呉れた古賀先生なもし──あの方の所へお嫁に行く約束が出來てゐたのぢやがなもし──」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艷福のある男とは思はなかつた。人は見懸けによらない者だな。ちつと氣を付けやう」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、──それまではお金もあるし、銀行の株も持つてお出るし、萬事都合がよかつたのぢやが──それからといふものは、どういふものか急に暮し向きが思はしくなくなつて──つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺されたんぞなもし。それや、これやでお輿入も延びてゐるところへ、あの教頭さんがお出でて、是非お嫁にほしいとお云ひるのぢやがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツぢやないと思つてた。それから?」
「人を頼んで懸合ふておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出來かねて──まあやう考へてみやうぐらゐの挨拶をおしたのぢやがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるやうになつて、とうとうあなた、お孃さんを手馴付けておしまひたのぢやがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんぢやが、お孃さんもお孃さんぢやてて、みんなが惡るく云ひますのよ。いつたん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら學士さんがお出たけれ、その方に替へよてて、それぢや今日樣へ濟むまいがなもし、あなた」
「全く濟まないね。今日樣どころか明日樣にも明後日樣にも、いつまで行つたつて濟みつこありませんね」
「それで古賀さんにお氣の毒ぢやてて、お友逹の堀田さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰ふかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしてゐるばかりぢや、遠山家と交際をするには別段古賀さんに濟まん事もなからうとお云ひるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻りたさうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以來折合がわるいといふ評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知つてますね。どうして、そんな詳しい事が分るんですか。感心しちまつた」
「狹いけれ何でも分りますぞなもし」
分り過ぎて困るくらゐだ。この容子ぢやおれの天麩羅や團子の事も知つてるかも知れない。厄介な所だ。しかしお蔭樣でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの關係もわかるし大いに後學になつた。ただ困るのはどつちが惡る者だか判然しない。おれのやうな單純なものには白とか黒とか片づけてもらはないと、どつちへ味方をしていゝか分らない。
「赤シャツと山嵐たあ、どつちがいゝ人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐といふのは堀田の事ですよ」
「そりや強い事は堀田さんの方が強さうぢやけれど、しかし赤シャツさんは學士さんぢやけれ、働きはある方ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がへえといふぞなもし」
「つまりどつちがいゝんですかね」
「つまり月給の多い方が豪いのぢやらうがなもし」
これぢや聞いたつて仕方がないから、やめにした。それから二三日して學校から歸るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やつと參りました。と一本の手紙を持つて來てゆつくりご覽と云つて出て行つた。取り上げてみると清からの便りだ。符箋が二三枚ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ廻して、いか銀から、荻野へ廻つて來たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留してゐる。宿屋だけに手紙まで泊るつもりなんだらう。開いてみると、非常に長いもんだ。坊つちやんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかかうと思つたが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寢てゐたものだから、つい遲くなつて濟まない。その上今時のお孃さんのやうに讀み書きが逹者でないものだから、こんなまづい字でも、かくのに餘つ程骨が折れる。甥に代筆を頼まうと思つたが、せつかくあげるのに自分でかかなくつちや、坊つちやんに濟まないと思つて、わざわざ下たがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で濟んだが、下た書きをするには四日かかつた。讀みにくいかも知れないが、これでも一生懸命にかいたのだから、どうぞしまひまで讀んで呉れ。といふ冒頭で四尺ばかり何やらかやら認めてある。なるほど讀みにくい。字がまづゐばかりではない、大抵平假名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句讀をつけるのに餘つ程骨が折れる。おれは焦つ勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五圓やるから讀んで呉れと頼まれても斷わるのだが、この時ばかりは眞面目になつて、始から終まで讀み通した。讀み通した事は事實だが、讀む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から讀み直してみた。部屋のなかは少し暗くなつて、前の時より見にくく、なつたから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながら鄭寧に拜見した。すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた歸りに、讀みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまひぎはには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴つて、手を放すと、向うの生垣まで飛んで行きさうだ。おれはそんな事には構つていられない。坊つちやんは竹を割つたやうな氣性だが、ただ肝癪が強過ぎてそれが心配になる。──ほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたらに使つちやいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。──田舎者は人がわるいさうだから、氣をつけてひどい目に遭はないやうにしろ。──氣候だつて東京より不順に極つてるから、寢冷をして風邪を引いてはいけない。坊つちやんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらゐの長さのを書いて呉れ。──宿屋へ茶代を五圓やるのはいゝが、あとで困りやしないか、田舎へ行つて頼りになるはお金ばかりだから、なるべく儉約して、萬一の時に差支へないやうにしなくつちやいけない。──お小遣がなくて困るかも知れないから、爲替で十圓あげる。──先だつて坊つちやんからもらつた五十圓を、坊つちやんが、東京へ歸つて、うちを持つ時の足しにと思つて、郵便局へ預けておいたが、この十圓を引いてもまだ四十圓あるから大丈夫だ。──なるほど女と云ふものは細かいものだ。
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考へ込んでゐると、しきりの襖をあけて、荻野のお婆さんが晩めしを持つてきた。まだ見てお出でるのかなもし。えつぽど長いお手紙ぢやなもし、と云つたから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。ここのうちは、いか銀よりも鄭寧で、親切で、しかも上品だが、惜しい事に食ひ物がまづい。昨日も芋、一昨日も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、かう立てつづけに芋を食はされては命がつづかない。うらなり君を笑ふどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になつちまう。清ならこんな時に、おれの好きな鮪のさし身か、蒲鉾のつけ燒を食はせるんだが、貧乏士族のけちん坊と來ちや仕方がない。どう考へても清といつしよでなくつちあ駄目だ。もしあの學校に長くでも居る模樣なら、東京から召び寄せてやらう。天麩羅蕎麥を食つちやならない、團子を食つちやならない、それで下宿に居て芋ばかり食つて黄色くなつていろなんて、教育者はつらいものだ。禪宗坊主だつて、これよりは口に榮燿をさせてゐるだらう。──おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗から生卵を二つ出して、茶碗の縁でたたき割つて、漸く凌いだ。生卵ででも營養をとらなくつちあ一週二十一時間の授業が出來るものか。
今日は清の手紙で湯に行く時間が遲くなつた。しかし毎日行きつけたのを一日でも缺かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乘つて出懸けやうと、例の赤手拭をぶら下げて停車場まで來ると二三分前に發車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かしてゐると、偶然にもうらなり君がやつて來た。おれはさつきの話を聞いてから、うらなり君がなほさら氣の毒になつた。平常から天地の間に居候をしてゐるやうに、小さく構へてゐるのがいかにも憐れに見えたが、今夜は憐れどころの騷ぎではない。出來るならば月給を倍にして、遠山のお孃さんと明日から結婚さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやつてやりたい氣がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こつちへお懸けなさいと威勢よく席を讓ると、うらなり君は恐れ入つた體裁で、いえ構ふてお呉れなさるな、と遠慮だか何だかやつぱり立つてる。少し待たなくつちや出ません、草臥れますからお懸けなさいとまた勸めてみた。實はどうかして、そばへ懸けてもらひたかつたくらゐに氣の毒でたまらない。それではお邪魔を致しませうと漸くおれの云ふ事を聞いて呉れた。世の中には野だみたやうに生意氣な、出ないで濟む所へ必ず顏を出す奴もゐる。山嵐のやうにおれが居なくつちや日本が困るだらうと云ふやうな面を肩の上へ載せてる奴もゐる。さうかと思ふと、赤シャツのやうにコスメチックと色男の問屋をもつて自ら任じてゐるのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云はぬばかりの貍もゐる。皆々それ相應に威張つてるんだが、このうらなり先生のやうに在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のやうに大人しくしてゐるのは見た事がない。顏はふくれてゐるが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡くなんて、マドンナもよつぼど氣の知れないおきやんだ。赤シャツが何ダース寄つたつて、是程立派な旦那樣が出來るもんか。
「あなたはどつか惡いんぢやありませんか。大分たいぎさうに見えますが……」「いえ、別段これといふ持病もないですが……」
「そりや結構です。からだが惡いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫のやうですな」
「ええ瘠せても病氣はしません。病氣なんてものあ大嫌ひですから」
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑つた。
ところへ入口で若々しい女の笑聲が聞えたから、何心なく振り返つてみるとえらい奴が來た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奧さんとが並んで切符を賣る窓の前に立つてゐる。おれは美人の形容などが出來る男でないから何にも云へないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握つてみたやうな心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顏はよく似てゐるから親子だらう。おれは、や、來たなと思ふ途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見てゐた。すると、うらなり君が突然おれの隣から、立ち上がつて、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナぢやないかと思つた。三人は切符所の前で輕く挨拶してゐる。遠いから何を云つてるのか分らない。
停車場の時計を見るともう五分で發車だ。早く汽車が呉ればいゝがなと、話し相手が居なくなつたので待ち遠しく思つてゐると、また一人あはてて場内へ馳け込んで來たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬の帶をだらしなく卷き付けて、例の通り金鎖りをぶらつかしてゐる。あの金鎖りは贋物である。赤シャツは誰も知るまいと思つて、見せびらかしてゐるが、おれはちやんと知つてる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきよろきよろしてゐたが、切符賣下所の前に話してゐる三人へ慇懃にお辭儀をして、何か二こと、三こと、云つたと思つたら、急にこつちへ向いて、例のごとく猫足にあるいて來て、や君も湯ですか、僕は乘り後れやしなひかと思つて心配して急いで來たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがつてると云ひながら、おれの傍へ腰を卸した。女の方はちつとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めてゐる。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違ひない。
やがて、ピューと汽笛が鳴つて、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾れ勝に乘り込む。赤シャツはいの一號に上等へ飛び込んだ。上等へ乘つたつて威張れるどころではない、住田まで上等が五錢で下等が三錢だから、わづか二錢違ひで上下の區別がつく。かういふおれでさへ上等を奮發して白切符を握つてるんでもわかる。もつとも田舎者はけちだから、たつた二錢の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵は下等へ乘る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押したやうに下等ばかりへ乘る男だ。先生、下等の車室の入口へ立つて、何だか躊躇の體であつたが、おれの顏を見るや否や思ひきつて、飛び込んでしまつた。おれはこの時何となく氣の毒でたまらなかつたから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乘り込んだ。上等の切符で下等へ乘るに不都合はなからう。
温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に逢つた。おれは會議や何かでいざと極まると、咽喉が塞がつて饒舌れない男だが、平常は隨分辯ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくつてたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰めてやるのは、江戸つ子の義務だと思つてる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこつちの調子に乘つて呉れない。何を云つても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒らしいので、しまひにはとうとう切り上げて、こつちからご免蒙つた。
湯の中では赤シャツに逢はなかつた。もつとも風呂の數はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢ふとは極まつてゐない。別段不思議にも思はなかつた。風呂を出てみるといゝ月だ。町内の兩側に柳が植つて、柳の枝が丸るい影を往來の中へ落してゐる。少し散歩でもしよう。北へ登つて町のはづれへ出ると、左に大きな門があつて、門の突き當りがお寺で、左右が妓樓である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。一寸這入つてみたいが、また貍から會議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが團子を食つて、しくじつた所だ。丸提燈に汁粉、お雜煮とかいたのがぶらさがつて、提燈の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしてゐる。食ひたいなと思つたが我慢して通り過ぎた。
食ひたい團子の食へないのは情ない。しかし自分の許嫁が他人に心を移したのは、猶情ないだらう。うらなり君の事を思ふと、團子は愚か、三日ぐらゐ斷食しても不平はこぼせない譯だ。本當に人間ほどあてにならないものはない。あの顏を見ると、どうしたつて、そんな不人情な事をしさうには思へないんだが──うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのやうな古賀さんが善良な君子なのだから、油斷が出來ない。淡泊だと思つた山嵐は生徒を煽動したと云ふし。生徒を煽動したのかと思ふと、生徒の處分を校長に逼るし。厭味で練りかためたやうな赤シャツが存外親切で、おれに餘所ながら注意をして呉れるかと思ふと、マドンナを胡魔化したり、胡魔化したのかと思ふと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云ふし。いか銀が難癖をつけて、おれを追ひ出すかと思ふと、すぐ野だ公が入れ替つたり──どう考へてもあてにならない。こんな事を清にかいてやつたら定めて驚く事だらう。箱根の向うだから化物が寄り合つてるんだと云ふかも知れない。
おれは、性來構はない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで來たのだが、ここへ來てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騷に思ひ出した。別段際だつた大事件にも出逢はないのに、もう五つ六つ年を取つたやうな氣がする。早く切り上げて東京へ歸るのが一番よからう。などとそれからそれへ考へて、いつか石橋を渡つて野芹川の堤へ出た。川と云ふとえらさうだが實は一間ぐらゐな、ちよろちよろした流れで、土手に沿ふて十二丁ほど下ると相生村へ出る。村には觀音樣がある。
温泉の町を振り返ると、赤い燈が、月の光の中にかがやいてゐる。太鼓が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは淺いけれども早いから、神經質の水のやうにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も來たと思つたら、向うに人影が見え出した。月に透かしてみると影は二つある。温泉へ來て村へ歸る若い衆かも知れない。それにしては唄もうたはない。存外靜かだ。
だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらゐの距離に逼つた時、男がたちまち振り向いた。月は後からさしてゐる。その時おれは男の樣子を見て、はてなと思つた。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考へがあるから、急に全速力で追つ懸けた。先方は何の氣もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移してゐる。今は話し聲も手に取るやうに聞える。土手の幅は六尺ぐらゐだから、並んで行けば三人が漸くだ。おれは苦もなく後ろから追ひ付いて、男の袖を擦り拔けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顏を覗き込んだ。月は正面からおれの五分刈の頭から顋の邊りまで、會釋もなく照す。男はあつと小聲に云つたが、急に横を向いて、もう歸らうと女を促がすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
赤シャツは圖太くて胡魔化すつもりか、氣が弱くて名乘り損なつたのかしら。ところが狹くて困つてるのは、おればかりではなかつた。 

 

赤シャツに勸められて釣に行つた歸りから、山嵐を疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云はれた時は、いよいよ不埒な奴だと思つた。ところが會議の席では案に相違して滔々と生徒嚴罰論を述べたから、おや變だなと首を捩つた。荻野の婆さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍つた。この樣子ではわる者は山嵐ぢやあるまい、赤シャツの方が曲つてるんで、好加減な邪推を實しやかに、しかも遠廻しに、おれの頭の中へ浸み込ましたのではあるまいかと迷つてる矢先へ、野芹川の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしてゐる姿を見たから、それ以來赤シャツは曲者だと極めてしまつた。曲者だか何だかよくは分らないが、ともかくも善い男ぢやない。表と裏とは違つた男だ。人間は竹のやうに眞直でなくつちや頼もしくない。眞直なものは喧嘩をしても心持ちがいゝ。赤シャツのやうなやさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプとを自慢さうに見せびらかすのは油斷が出來ない、めつたに喧嘩も出來ないと思つた。喧嘩をしても、囘向院の相撲のやうな心持ちのいゝ喧嘩は出來ないと思つた。さうなると一錢五厘の出入で控所全體を驚ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。會議の時に金壺眼をぐりつかせて、おれを睨めた時は憎い奴だと思つたが、あとで考へると、それも赤シャツのねちねちした猫撫聲よりはましだ。實はあの會議が濟んだあとで、餘つ程仲直りをしようかと思つて、一こと二こと話しかけてみたが、野郎返事もしないで、まだ眼を剥つてみせたから、こつちも腹が立つてそのままにしておいた。
それ以來山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一錢五厘はいまだに机の上に乘つてゐる。ほこりだらけになつて乘つてゐる。おれは無論手が出せない、山嵐は決して持つて歸らない。この一錢五厘が二人の間の墻壁になつて、おれは話さうと思つても話せない、山嵐は頑として默つてる。おれと山嵐には一錢五厘が祟つた。しまひには學校へ出て一錢五厘を見るのが苦になつた。
山嵐とおれが絶交の姿となつたに引き易えて、赤シャツとおれは依然として在來の關係を保つて、交際をつづけてゐる。野芹川で逢つた翌日などは、學校へ出ると第一番におれの傍へ來て、君今度の下宿はいゝですかのまたいつしよに露西亞文學を釣りに行かうぢやないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々憎らしかつたから、昨夜は二返逢ひましたねと云つたら、ええ停車場で──君はいつでもあの時分出掛けるのですか、遲いぢやないかと云ふ。野芹川の土手でもお目に懸りましたねと喰らはしてやつたら、いゝえ僕はあつちへは行かない、湯に這入つて、すぐ歸つたと答へた。何もそんなに隱さないでもよからう、現に逢つてるんだ。よく嘘をつく男だ。これで中學の教頭が勤まるなら、おれなんか大學總長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなつた。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心してゐる山嵐とは話をしない。世の中は隨分妙なものだ。
ある日の事赤シャツが一寸君に話があるから、僕のうちまで來て呉れと云ふから、惜しいと思つたが温泉行きを缺勤して四時頃出掛けて行つた。赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔に引き拂つて立派な玄關を構へてゐる。家賃は九圓五拾錢ださうだ。田舎へ來て九圓五拾錢拂へばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮發して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやらうと思つたくらゐな玄關だ。頼むと云つたら、赤シャツの弟が取次に出て來た。この弟は學校で、おれに代數と算術を教はる至つて出來のわるい子だ。その癖渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が惡るい。
赤シャツに逢つて用事を聞いてみると、大將例の琥珀のパイプで、きな臭ひ烟草をふかしながら、こんな事を云つた。「君が來て呉れてから、前任者の時代よりも成績がよくあがつて、校長も大いにいゝ人を得たと喜んでゐるので──どうか學校でも信頼してゐるのだから、そのつもりで勉強してゐただきたい」
「へえ、さうですか、勉強つて今より勉強は出來ませんが──」
「今のくらゐで充分です。ただ先だつてお話しした事ですね、あれを忘れずにゐて下さればいゝのです」
「下宿の世話なんかするものあ劍呑だといふ事ですか」
「さう露骨に云ふと、意味もない事になるが──まあ善いさ──精神は君にもよく通じてゐる事と思ふから。そこで君が今のやうに出精して下されば、學校の方でも、ちやんと見てゐるんだから、もう少しして都合さへつけば、待遇の事も多少はどうにかなるだらうと思ふんですがね」
「へえ、俸給ですか。俸給なんかどうでもいゝんですが、上がれば上がつた方がいゝですね」
「それで幸ひ今度轉任者が一人出來るから──もつとも校長に相談してみないと無論受け合へない事だが──その俸給から少しは融通が出來るかも知れないから、それで都合をつけるやうに校長に話してみやうと思ふんですがね」
「どうも難有う。だれが轉任するんですか」
「もう發表になるから話しても差し支へないでせう。實は古賀君です」
「古賀さんは、だつてここの人ぢやありませんか」
「ここの地の人ですが、少し都合があつて──半分は當人の希望です」
「どこへ行くんです」
「日向の延岡で──土地が土地だから一級俸上つて行く事になりました」
「誰か代りが來るんですか」
「代りも大抵極まつてるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構ひません」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追つては君にもつと働いて頂だかなくつてはならんやうになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覺悟をしてやつてもらひたいですね」
「今より時間でも増すんですか」
「いゝえ、時間は今より減るかも知れませんが──」
「時間が減つて、もつと働くんですか、妙だな」
「一寸聞くと妙だが、──判然とは今言ひにくいが──まあつまり、君にもつと重大な責任を持つてもらふかも知れないといふ意味なんです」
おれには一向分らない。今より重大な責任と云へば、數學の主任だらうが、主任は山嵐だから、やつこさんなかなか辭職する氣遣ひはない。それに、生徒の人望があるから轉任や免職は學校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくつても用事はこれで濟んだ。それから少し雜談をしてゐるうちに、うらなり君の送別會をやる事や、ついてはおれが酒を飮むかと云ふ問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云ふ事や──赤シャツはいろいろ辯じた。しまひに話をかへて君俳句をやりますかと來たから、こいつは大變だと思つて、俳句はやりません、さやうならと、そこそこに歸つて來た。發句は芭蕉か髮結床の親方のやるもんだ。數學の先生が朝顏やに釣瓶をとられてたまるものか。
歸つてうんと考へ込んだ。世間には隨分氣の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める學校に不足のない故郷がいやになつたからと云つて、知らぬ他國へ苦勞を求めに出る。それも花の都の電車が通つてる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいゝここへ來てさへ、一ヶ月立たないうちにもう歸りたくなつた。延岡と云へば山の中も山の中も大變な山の中だ。赤シャツの云ふところによると船から上がつて、一日馬車へ乘つて、宮崎へ行つて、宮崎からまた一日車へ乘らなくつては着けないさうだ。名前を聞いてさへ、開けた所とは思へない。猿と人とが半々に住んでる樣な氣がする。いかに聖人のうらなり君だつて、好んで猿の相手になりたくもないだらうに、何といふ物數奇だ。
ところへあひかはらず婆さんが夕食を運んで出る。今日もまた芋ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐ぞなもしと云つた。どつちにしたつて似たものだ。
「お婆さん古賀さんは日向へ行くさうですね」
「ほん當にお氣の毒ぢやな、もし」
「お氣の毒だつて、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしつて、當人がさ。古賀先生が物數奇に行くんぢやありませんか」
「そりやあなた、大違ひの勘五郎ぞなもし」
「勘五郎かね。だつて今赤シャツがさう云ひましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衞門だ」
「教頭さんが、さうお云ひるのはもつともぢやが、古賀さんのお往きともなひのももつともぞなもし」
「そんなら兩方もつともなんですね。お婆さんは公平でいゝ。一體どういふ譯なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん譯をお話したがなもし」
「どんな譯をお話したんです」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし逹が思ふほど暮し向が豐かになふてお困りぢやけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めてゐるものぢやけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしてお呉れんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、やうまあ考へてみとかうとお云ひたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か來月かと首を長くして待つておいでたところへ、校長さんが一寸來て呉れと古賀さんにお云ひるけれ、行つてみると、氣の毒だが學校は金が足りんけれ、月給を上げる譯にゆかん。しかし延岡になら空いた口があつて、そつちなら毎月五圓餘分にとれるから、お望み通りでよからうと思ふて、その手續きにしたから行くがへえと云はれたげな。──」
「ぢや相談ぢやない、命令ぢやありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行つて月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうさう極めたあとで、古賀さんの代りは出來てゐるけれ仕方がないと校長がお云ひたげな」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。ぢや古賀さんは行く氣はないんですね。どうれで變だと思つた。五圓ぐらゐ上がつたつて、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐變木はまづないからね」
「唐變木て、先生なんぞなもし」
「何でもいゝでさあ、──全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるつたつて、誰が上がつてやるものか」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるつて云ふから、斷わらうと思ふんです」
「何で、お斷わりるのぞなもし」
「何でもお斷わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものぢやが、年をとつてから考へると、も少しの我慢ぢやあつたのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが當り前ぢやけれ、お婆の言ふ事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言ひたら、難有うと受けて御置きなさいや」
「年寄の癖に餘計な世話を燒かなくつてもいゝ。おれの月給は上がらうと下がらうとおれの月給だ」
婆さんはだまつて引き込んだ。爺さんは呑氣な聲を出して謠をうたつてる。謠といふものは讀んでわかる所を、やにむづかしい節をつけて、わざと分らなくする術だらう。あんな者を毎晩飽きずに唸る爺さんの氣が知れない。おれは謠どころの騷ぎぢやない。月給を上げてやらうと云ふから、別段欲しくもなかつたが、入らない金を餘しておくのももつたゐないと思つて、よろしいと承知したのだが、轉任したくないものを無理に轉任させてその男の月給の上前を跳ねるなんて不人情な事が出來るものか。當人がもとの通りでいゝと云ふのに延岡下りまで落ちさせるとは一體どう云ふ了見だらう。太宰權帥でさへ博多近邊で落ちついたものだ。河合又五郎だつて相良でとまつてるぢやないか。とにかく赤シャツの所へ行つて斷わつて來なくつちあ氣が濟まない。
小倉の袴をつけてまた出掛けた。大きな玄關へ突つ立つて頼むと云ふと、また例の弟が取次に出て來た。おれの顏を見てまた來たかといふ眼付をした。用があれば二度だつて三度だつて來る。よる夜なかだつて叩き起さないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺ひにくるやうなほれと見損つてるか。これでも月給が入らないから返しに來んだ。すると弟が今來客中だと云ふから、玄關でいゝから一寸お目にかかりたいと云つたら奧へ引き込んだ。足元を見ると、疉付きの薄つぺらな、のめりの駒下駄がある。奧でもう萬歳ですよと云ふ聲が聞える。お客とは野だだなと氣がついた。野だでなくては、あんな黄色い聲を出して、こんな藝人じみた下駄を穿くものはない。
しばらくすると、赤シャツがランプを持つて玄關まで出て來て、まあ上がりたまへ、外の人ぢやない吉川君だ、と云ふから、いえここでたくさんです。一寸話せばいゝんです、と云つて、赤シャツの顏を見ると金時のやうだ。野だ公と一杯飮んでると見える。
「さつき僕の月給を上げてやるといふお話でしたが、少し考へが變つたから斷わりに來たんです」
赤シャツはランプを前へ出して、奧の方からおれの顏を眺めたが、とつさの場合返事をしかねて茫然としてゐる。増給を斷わる奴が世の中にたつた一人飛び出して來たのを不審に思つたのか、斷わるにしても、今歸つたばかりで、すぐ出直してこなくつてもよささうなものだと、呆れ返つたのか、または雙方合併したのか、妙な口をして突つ立つたままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で轉任するといふ話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば轉任するんです」
「さうぢやないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいゝから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、さう聞いたのですか」
「そりや當人から、聞いたんぢやありません」
「ぢや誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおつ母さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「ぢや、下宿の婆さんがさう云つたのですね」
「まあさうです」
「それは失禮ながら少し違ふでせう。おなたのおつしやる通りだと、下宿屋の婆さんの云ふ事は信ずるが、教頭の云ふ事は信じないと云ふやうに聞えるが、さういふ意味に解釋して差支へないでせうか」
おれは一寸困つた。文學士なんてものはやつぱりえらいものだ。妙な所へこだわつて、ねちねち押し寄せてくる。おれはよく親父から貴樣はそそつかしくて駄目だ駄目だと云はれたが、なるほど少々そそつかしいやうだ。婆さんの話を聞いてはつと思つて飛び出して來たが、實はうらなり君にもうらなりのおつ母さんにも逢つて詳しい事情は聞いてみなかつたのだ。だからかう文學士流に斬り付けられると、一寸受け留めにくい。
正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに對して不信任を心の中で申し渡してしまつた。下宿の婆さんもけちん坊の慾張り屋に相違ないが、嘘は吐かない女だ、赤シャツのやうに裏表はない。おれは仕方がないから、かう答へた。
「あなたの云ふ事は本當かも知れないですが──とにかく増給はご免蒙ります」
「それはますます可笑しい。今君がわざわざお出になつたのは増俸を受けるには忍びない、理由を見出したからのやうに聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかはらず増俸を否まれるのは少し解しかねるやうですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく斷わりますよ」
「そんなに否なら強ゐてとまでは云ひませんが、さう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹變しちや、將來君の信用にかかはる」
「かかはつても構はないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩讓つて、下宿の主人が……」
「主人ぢやない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事實としたところで、君の増給は古賀君の所得を削つて得たものではないでせう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で來て呉れる。その剩餘を君に廻わすと云ふのだから、君は誰にも氣の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも榮進される。新任者は最初からの約束で安くくる。それで君が上がられれば、是程都合のいゝ事はないと思ふですがね。いやなら否でもいゝが、もう一返うちでよく考へてみませんか」
おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がかういふ巧妙な辯舌を揮えば、おやさうかな、それぢや、おれが間違つてたと恐れ入つて引きさがるのだけれども、今夜はさうは行かない。ここへ來た最初から赤シャツは何だか蟲が好かなかつた。途中で親切な女みたやうな男だと思ひ返した事はあるが、それが親切でも何でもなささうなので、反動の結果今ぢや餘つ程厭になつてゐる。だから先がどれほどうまく論理的に辯論を逞くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めやうとも、そんな事は構はない。議論のいゝ人が善人とはきまらない。遣り込められる方が惡人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もつともだが、表向きがいくら立派だつて、腹の中まで惚れさせる譯には行かない。金や威力や理窟で人間の心が買へる者なら、高利貸でも巡査でも大學教授でも一番人に好かれなくてはならない。中學の教頭ぐらゐな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌ひで働くものだ。論法で働くものぢやない。
「あなたの云ふ事はもつともですが、僕は増給がいやになつたんですから、まあ斷わります。考へたつて同じ事です。さやうなら」と云ひすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかつてゐる。 

 

うらなり君の送別會のあるといふ日の朝、學校へ出たら、山嵐が突然、君先だつてはいか銀が來て、君が亂暴して困るから、どうか出るやうに話して呉れと頼んだから、眞面目に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは惡るい奴で、よく僞筆へ贋落款などを押して賣りつけるさうだから、全く君の事も出鱈目に違ひない。君に懸物や骨董を賣りつけて、商賣にしようと思つてたところが、君が取り合はないで儲けがないものだから、あんな作りごとをこしらへて胡魔化したのだ。僕はあの人物を知らなかつたので君に大變失敬した勘辨したまへと長々しい謝罪をした。
おれは何とも云はずに、山嵐の机の上にあつた、一錢五厘をとつて、おれの蝦蟇口のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込めるのかと不審さうに聞くから、うんおれは君に奢られるのが、いやだつたから、是非返すつもりでゐたが、その後だんだん考へてみると、やつぱり奢つてもらふ方がいゝやうだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな聲をしてアハハハと笑ひながら、そんなら、なぜ早く取らなかつたのだと聞いた。實は取らう取らうと思つてたが、何だか妙だからそのままにしておいた。近來は學校へ來て一錢五厘を見るのが苦になるくらゐいやだつたと云つたら、君は餘つ程負け惜しみの強い男だと云ふから、君は餘つ程剛情張りだと答へてやつた。それから二人の間にこんな問答が起つた。
「君は一體どこの産だ」
「おれは江戸つ子だ」
「うん、江戸つ子か、道理で負け惜しみが強いと思つた」
「きみはどこだ」
「僕は會津だ」
「會津つぽか、強情な譯だ。今日の送別會へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、濱まで見送りに行かうと思つてるくらゐだ」
「送別會は面白いぜ、出て見たまへ。今日は大いに飮むつもりだ」
「勝手に飮むがいゝ。おれは肴を食つたら、すぐ歸る。酒なんか飮む奴は馬鹿だ」
「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。なるほど江戸つ子の輕跳な風を、よく、あらはしてる」
「何でもいゝ、送別會へ行く前に一寸おれのうちへお寄り、話しがあるから」
山嵐は約束通りおれの下宿へ寄つた。おれはこの間から、うらなり君の顏を見る度に氣の毒でたまらなかつたが、いよいよ送別の今日となつたら、何だか憐れつぽくつて、出來る事なら、おれが代りに行つてやりたい樣な氣がしだした。それで送別會の席上で、大いに演説でもしてその行を盛にしてやりたいと思ふのだが、おれのべらんめえ調子ぢや、到底物にならないから、大きな聲を出す山嵐を雇つて、一番赤シャツの荒肝を挫いでやらうと考へ付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
おれはまづ冒頭としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳しく知つてゐる。おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬鹿野郎だと云つたら、山嵐は君はだれを捕まへても馬鹿呼わりをする。今日學校で自分の事を馬鹿と云つたぢやないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿ぢやない。自分は赤シャツの同類ぢやないと主張した。それぢや赤シャツは腑拔けの呆助だと云つたら、さうかもしれないと山嵐は大いに贊成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遙かに字を知つてゐない。會津つぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだらう。
それから増給事件と將來重く登用すると赤シャツが云つた話をしたら山嵐はふふんと鼻から聲を出して、それぢや僕を免職する考へだなと云つた。免職するつもりだつて、君は免職になる氣かと聞いたら、誰がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいつしよに免職させてやると大いに威張つた。どうしていつしよに免職させる氣かと押し返して尋ねたら、そこはまだ考へてゐないと答へた。山嵐は強さうだが、智慧はあまりなささうだ。おれが増給を斷わつたと話したら、大將大きに喜んでさすが江戸つ子だ、えらいと賞めて呉れた。
うらなりが、そんなに厭がつてゐるなら、なぜ留任の運動をしてやらなかつたと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既にきまつてしまつて、校長へ二度、赤シャツへ一度行つて談判してみたが、どうする事も出來なかつたと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があつた時、斷然斷わるか、一應考へてみますと逃げればいゝのに、あの辯舌に胡魔化されて、即席に許諾したものだから、あとからお母さんが泣きついても、自分が談判に行つても役に立たなかつたと非常に殘念がつた。
今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだらうとおれが云つたら、無論さうに違ひない。あいつは大人しい顏をして、惡事を働いて、人が何か云ふと、ちやんと逃道を拵へて待つてるんだから、餘つ程奸物だ。あんな奴にかかつては鐵拳制裁でなくつちや利かないと、瘤だらけの腕をまくつてみせた。おれはついでだから、君の腕は強さうだな柔術でもやるかと聞いてみた。すると大將二の腕へ力瘤を入れて、一寸攫んでみろと云ふから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある輕石の樣なものだ。
おれはあまり感心したから、君そのくらゐの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだらうと聞いたら、無論さと云ひながら、曲げた腕を伸ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻轉する。すこぶる愉快だ。山嵐の證明する所によると、かんじん綯りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ卷きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるさうだ。かんじんよりなら、おれにも出來さうだと云つたら、出來るものか、出來るならやつてみろと來た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
君どうだ、今夜の送別會に大いに飮んだあと、赤シャツと野だを撲つてやらないかと面白半分に勸めてみたら、山嵐はさうだなと考へてゐたが、今夜はまあよさうと云つた。なぜと聞くと、今夜は古賀に氣の毒だから──それにどうせ撲るくらゐなら、あいつらの惡るい所を見屆けて現場で撲らなくつちや、こつちの落度になるからと、分別のありさうな事を附加した。山嵐でもおれよりは考へがあると見える。
ぢや演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸つ子のぺらぺらになつて重みがなくていけない。さうして、きまつた所へ出ると、急に澑飮が起つて咽喉の所へ、大きな丸が上がつて來て言葉が出ないから、君に讓るからと云つたら、妙な病氣だな、ぢや君は人中ぢや口は利けないんだね、困るだらう、と聞くから、何そんなに困りやしないと答へておいた。
さうかうするうち時間が來たから、山嵐と一所に會場へ行く。會場は花晨亭といつて、當地で第一等の料理屋ださうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買ひ入れて、そのまま開業したといふ話だが、なるほど見懸からして嚴めしい構へだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫ひ直して、胴着にする樣なものだ。
二人が着いた頃には、人數ももう大概揃つて、五十疉の廣間に二つ三つ人間の塊が出來てゐる。五十疉だけに床は素敵に大きい。おれが山城屋で占領した十五疉敷の床とは比較にならない。尺を取つてみたら二間あつた。右の方に、赤い模樣のある瀬戸物の瓶を据ゑて、その中に松の大きな枝が插してある。松の枝を插して何にする氣か知らないが、何ヶ月立つても散る氣遣ひがないから、錢が懸らなくつて、よからう。あの瀬戸物はどこで出來るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物ぢやありません、伊萬里ですと云つた。伊萬里だつて瀬戸物ぢやないかと、云つたら、博物はえへへへへと笑つてゐた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出來る燒物だから、瀬戸と云ふのださうだ。おれは江戸つ子だから、陶器の事を瀬戸物といふのかと思つてゐた。床の眞中に大きな懸物があつて、おれの顏くらゐな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手なものだ。あんまり不味いから、漢學の先生に、なぜあんなまづいものを麗々と懸けておくんですと尋ねたところ、先生はあれは海屋といつて有名な書家のかいた者だと教へて呉れた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思つてゐる。
やがて書記の川村がどうかお着席をと云ふから、柱があつて靠りかかるのに都合のいゝ所へ坐つた。海屋の懸物の前に貍が羽織、袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取つた。右の方は主人公だといふのでうらなり先生、これも日本服で控へてゐる。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だつたから、すぐ胡坐をかいた。隣りの體操教師は黒ずぼんで、ちやんとかしこまつてゐる。體操の教師だけにいやに修行が積んでゐる。やがてお膳が出る。徳利が並ぶ。幹事が立つて、一言開會の辭を述べる。それから貍が立つ。赤シャツが起つ。ことごとく送別の辭を述べたが、三人共申し合せたやうにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聽して、今囘去られるのはまことに殘念である、學校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に轉任をご希望になつたのだから致し方がないといふ意味を述べた。こんな嘘をついて送別會を開いて、それでちつとも恥かしいとも思つてゐない。ことに赤シャツに至つて三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失ふのは實に自分にとつて大なる不幸であるとまで云つた。しかもそのいゝ方がいかにも、もつともらしくつて、例のやさしい聲を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきつとだまされるに極つてる。マドンナも大方この手で引掛けたんだらう。赤シャツが送別の辭を述べ立ててゐる最中、向側に坐つてゐた山嵐がおれの顏を見て一寸稻光をさした。おれは返電として、人指し指でべつかんかうをして見せた。
赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬつと立ち上がつたから、おれは嬉しかつたので、思はず手をぱちぱちと拍つた。すると貍を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困つた。山嵐は何を云ふかと思ふとただ今校長始めことに教頭は古賀君の轉任を非常に殘念がられたが、私は少々反對で古賀君が一日も早く當地を去られるのを希望してをります。延岡は僻遠の地で、當地に比べたら物質上の不便はあるだらう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく上 代 樸 直の氣風を帶びてゐるさうである。心にもないお世辭を振り蒔ゐたり、美しい顏をして君子を陷れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必ずその地方一般の歡迎を受けられるに相違ない。吾輩は大いに古賀君のためにこの轉任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格あるものを擇んで一日も早く圓滿なる家庭をかたち作つて、かの不貞無節なるお轉婆を事實の上において慚死せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳拂ひをして席に着いた。おれは今度も手を叩かうと思つたが、またみんながおれの面を見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起つた。先生はご鄭寧に、自席から、座敷の端の末座まで行つて、慇懃に一同に挨拶をした上、今般は一身上の都合で九州へ參る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大なる送別會をお開き下さつたのは、まことに感銘の至りに堪へぬ次第で──ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辭を頂戴して、大いに難有く服膺する譯であります。私はこれから遠方へ參りますが、なにとぞ從前の通りお見捨てなくご愛顧のほどを願ひます。とへえつく張つて席に戻つた。うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされてゐる校長や、教頭に恭しくお禮を云つてゐる。それも義理一遍の挨拶ならだが、あの樣子や、あの言葉つきや、あの顏つきから云ふと、心から感謝してゐるらしい。こんな聖人に眞面目にお禮を云はれたら、氣の毒になつて、赤面しさうなものだが貍も赤シャツも眞面目に謹聽してゐるばかりだ。
挨拶が濟んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、といふ音がする。おれも眞似をして汁を飮んでみたがまづいもんだ。口取に蒲鉾はついてるが、どす黒くて竹輪の出來損なひである。刺身も並んでるが、厚くつて鮪の切り身を生で食ふと同じ事だ。それでも隣り近所の連中はむしやむしや旨さうに食つてゐる。大方江戸前の料理を食つた事がないんだらう。
そのうち燗徳利が頻繁に往來し始めたら、四方が急に賑やかになつた。野だ公は恭しく校長の前へ出て盃を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に獻酬をして、一巡周るつもりとみえる。はなはだご苦勞である。うらなり君がおれの前へ來て、一つ頂戴致しませうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまつて、一盃差し上げた。せつかく參つて、すぐお別れになるのは殘念ですね。ご出立はいつです、是非濱までお見送りをしませうと云つたら、うらなり君はいえご用多のところ決してそれには及びませんと答へた。うらなり君が何と云つたつて、おれは學校を休んで送る氣でゐる。
それから一時間ほどするうちに席上は大分亂れて來る。まあ一杯、おや僕が飮めと云ふのに……などと呂律の巡りかねるのも一人二人出來て來た。少々退屈したから便所へ行つて、昔風な庭を星明りにすかして眺めてゐると山嵐が來た。どうださつきの演説はうまかつたらう。と大分得意である。大贊成だが一ヶ所氣に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不贊成だと聞いた。
「美しい顏をして人を陷れるやうなハイカラ野郎は延岡に居らないから……と君は云つたらう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「ぢや何と云ふんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいゝ」
「おれには、さう舌は廻らない。君は能辯だ。第一單語を大變たくさん知つてる。それで演舌が出來ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩のときに使はうと思つて、用心のために取つておく言葉さ。演舌となつちや、かうは出ない」
「さうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やつて見たまへ」
「何遍でもやるさいゝか。──ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云ひかけてゐると、椽側をどたばた云はして、二人ばかり、よろよろしながら馳け出して來た。
「兩君そりやひどい、──逃げるなんて、──僕が居るうちは決して逃さない、さあのみたまへ。──いかさま師?──面白い、いかさま面白い。──さあ飮みたまへ」
とおれと山嵐をぐいぐい引つ張つて行く。實はこの兩人共便所に來たのだが、醉つてるもんだから、便所へ這入るのを忘れて、おれ等を引つ張るのだらう。醉つ拂ひは目の中る所へ用事を拵へて、前の事はすぐ忘れてしまふんだらう。
「さあ、諸君、いかさま師を引つ張つて來た。さあ飮まして呉れたまへ。いかさま師をうんと云ふほど、醉はして呉れたまへ。君逃げちやいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際へ壓し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に滿足な肴の乘つてゐるのは一つもない。自分の分を奇麗に食ひ盡して、五六間先へ遠征に出た奴もゐる。校長はいつ歸つたか姿が見えない。
ところへお座敷はこちら? と藝者が三四人這入つて來た。おれも少し驚ろいたが、壁際へ壓し付けられてゐるんだから、じつとしてただ見てゐた。すると今まで床柱へもたれて例の琥珀のパイプを自慢さうに啣えてゐた、赤シャツが急に起つて、座敷を出にかかつた。向うから這入つて來た藝者の一人が、行き違ひながら、笑つて挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞えなかつたが、おや今晩はぐらゐ云つたらしい。赤シャツは知らん顏をして出て行つたぎり、顏を出さなかつた。大方校長のあとを追懸けて歸つたんだらう。
藝者が來たら座敷中急に陽氣になつて、一同が鬨の聲を揚げて歡迎したのかと思ふくらゐ、騷々しい。さうしてある奴はなんこを攫む。その聲の大きな事、まるで居合拔の稽古のやうだ。こつちでは拳を打つてる。よつ、はつ、と夢中で兩手を振るところは、ダーク一座の操 人 形より餘つ程上手だ。向うの隅ではおいお酌だ、と徳利を振つてみて、酒だ酒だと言ひ直してゐる。どうもやかましくて騷々しくつてたまらない。そのうちで手持無沙汰に下を向いて考へ込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別會を開いて呉れたのは、自分の轉任を惜んで呉れるんぢやない。みんなが酒を呑んで遊ぶためだ。自分獨りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別會なら、開いてもらはない方が餘つ程ましだ。
しばらくしたら、めいめい胴間聲を出して何か唄ひ始めた。おれの前へ來た一人の藝者が、あんた、なんぞ、唄ひなはれ、と三味線を抱へたから、おれは唄はない、貴樣唄つてみろと云つたら、金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちやんちきりん。叩いて廻つて逢はれるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちやんちきりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある、と二た息にうたつて、おほしんどと云つた。おほしんどなら、もつと樂なものをやればいゝのに。
すると、いつの間にか傍へ來て坐つた、野だが、鈴ちやん逢ひたい人に逢つたと思つたら、すぐお歸りで、お氣の毒さまみたやうでげすと相變らず噺し家みたやうな言葉使ひをする。知りまへんと藝者はつんと濟ました。野だは頓着なく、たまたま逢ひは逢ひながら……と、いやな聲を出して義太夫の眞似をやる。おきなはれやと藝者は平手で野だの膝を叩いたら野だは恐悦して笑つてる。この藝者は赤シャツに挨拶をした奴だ。藝者に叩かれて笑ふなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちやん僕が紀伊の國を踴るから、一つ彈いて頂戴と云ひ出した。野だはこの上まだ踴る氣でゐる。
向うの方で漢學のお爺さんが齒のない口を歪めて、そりや聞えません傳兵衞さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に濟したが、それから? と藝者に聞いてゐる。爺さんなんて物覺えのわるいものだ。一人が博物を捕まへて近頃こないなのが、でけましたぜ、彈いてみまはうか。やう聞いて、いなはれや──花月卷、白いリボンのハイカラ頭、乘るは自轉車、彈くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄ふと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心してゐる。
山嵐は馬鹿に大きな聲を出して、藝者、藝者と呼んで、おれが劍舞をやるから、三味線を彈けと號令を下した。藝者はあまり亂暴な聲なので、あつけに取られて返事もしない。山嵐は委細構はず、ステッキを持つて來て、踏 破 千 山 萬 嶽 烟と眞中へ出て獨りで隱し藝を演じてゐる。ところへ野だがすでに紀伊の國を濟まして、かつぽれを濟まして、棚の逹磨さんを濟して丸 裸の 越 中 褌 一つになつて、棕梠箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して……と座敷中練りあるき出した。まるで氣違ひだ。
おれはさつきから苦しさうに袴も脱がず控へてゐるうらなり君が氣の毒でたまらなかつたが、なんぼ自分の送別會だつて、越中褌の裸 踴まで羽織袴で我慢してみてゐる必要はあるまいと思つたから、そばへ行つて、古賀さんもう歸りませうと退去を勸めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別會だから、私が先へ歸つては失禮です、どうぞご遠慮なくと動く景色もない。なに構ふもんですか、送別會なら、送別會らしくするがいゝです、あの樣をご覽なさい。氣狂會です。さあ行きませうと、進まないのを無理に勸めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して來て、やご主人が先へ歸るとはひどい。日清談判だ。歸せないと箒を横にして行く手を塞いだ。おれはさつきから肝癪が起つてゐるところだから、日清談判なら貴樣はちやんちやんだらうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰はしてやつた。野だは二三秒の間毒氣を拔かれた體で、ぼんやりしてゐたが、おやこれはひどい。お撲ちになつたのは情ない。この吉川をご打擲とは恐れ入つた。いよいよもつて日清談判だ。とわからぬ事をならべてゐるところへ、うしろから山嵐が何か騷動が始まつたと見てとつて、劍舞をやめて、飛んできたが、このてゐたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。どうもこれは亂暴だと振りもがくところを横に捩つたら、すとんと倒れた。あとはどうなつたか知らない。途中でうらなり君に別れて、うちへ歸つたら十一時過ぎだつた。 

 

祝勝會で學校はお休みだ。練兵場で式があるといふので、貍は生徒を引率して參列しなくてはならない。おれも職員の一人としていつしよにくつついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらゐである。學校の生徒は八百人もあるのだから、體操の教師が隊伍を整へて、一組一組の間を少しづつ明けて、それへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛けである。仕掛だけはすこぶる巧妙なものだが、實際はすこぶる不手際である。生徒は小供の上に、生意氣で、規律を破らなくつては生徒の體面にかかはると思つてる奴等だから、職員が幾人ついて行つたつて何の役に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌をうたつたり、軍歌をやめるとワーと譯もないのに鬨の聲を揚げたり、まるで浪人が町内をねりあるいてるやうなものだ。軍歌も鬨の聲も揚げない時はがやがや何か喋舌つてる。喋舌らないでも歩けさうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云つたつて聞きつこない。喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよからうと思つてゐた。ところが實際は大違ひである。下宿の婆さんの言葉を借りて云へば、正に大違ひの勘五郎である。生徒があやまつたのは心から後悔してあやまつたのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたづらは決してやめるものでない。よく考へてみると世の中はみんなこの生徒のやうなものから成立してゐるかも知れない。人があやまつたり詫びたりするのを、眞面目に受けて勘辨するのは正直過ぎる馬鹿と云ふんだらう。あやまるのも假りにあやまるので、勘辨するのも假りに勘辨するのだと思つてれば差し支へない。もし本當にあやまらせる氣なら、本當に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。
おれが組と組の間に這入つて行くと、天麩羅だの、團子だの、と云ふ聲が絶えずする。しかも大勢だから、誰が云ふのだか分らない。よし分つてもおれの事を天麩羅と云つたんぢやありません、團子と申したのぢやありません、それは先生が神經衰弱だから、ひがんで、さう聞くんだぐらゐ云ふに極まつてる。こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云つて聞かしたつて、教へてやつたつて、到底直りつこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なほれも、この眞似をしなければならなく、なるかも知れない。向うでうまく言ひ拔けられるやうな手段で、おれの顏を汚すのを抛つておく、樗蒲一はない。向かうが人ならはれも人だ。生徒だつて、子供だつて、ずう體はおれより大きいや。だから刑罰として何か返報をしてやらなくつては義理がわるい。ところがこつちから返報をする時分に尋常の手段で行くと、向うから逆捩を食はして來る。貴樣がわるいからだと云ふと、初手から逃げ路が作つてある事だから滔々と辯じ立てる。辯じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこつちの非を攻撃する。もともと返報にした事だから、こちらの辯護は向うの非が擧がらない上は辯護にならない。つまりは向うから手を出しておいて、世間體はこつちが仕掛けた喧嘩のやうに、見傚されてしまふ。大變な不利益だ。それなら向うのやるなり、愚迂多良童子を極め込んでゐれば、向うはますます増長するばかり、大きく云へば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こつちも向うの筆法を用ゐて捕まへられないで、手の付けやうのない返報をしなくてはならなくなる。さうなつては江戸つ子も駄目だ。駄目だが一年もかうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもさうならなくつちや始末がつかない。どうしても早く東京へ歸つて清といつしよになるに限る。こんな田舎に居るのは墮落しに來てゐるやうなものだ。新聞配逹をしたつて、ここまで墮落するよりはましだ。
かう考へて、いやいや、附いてくると、何だか先鋒が急にがやがや騷ぎ出した。同時に列はぴたりと留まる。變だから、列を右へはずして、向うを見ると、大手町を突き當つて藥師町へ曲がる角の所で、行き詰つたぎり、押し返したり、押し返されたりして揉み合つてゐる。前方から靜かに靜かにと聲を涸らして來た體操教師に何ですと聞くと、曲り角で中學校と師範學校が衝突したんだと云ふ。
中學と師範とはどこの縣下でも犬と猿のやうに仲がわるいさうだ。なぜだかわからないが、まるで氣風が合はない。何かあると喧嘩をする。大方狹い田舎で退屈だから、暇潰しにやる仕事なんだらう。おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に馳け出して行つた。すると前の方にゐる連中は、しきりに何だ地方税の癖に、引き込めと、怒鳴つてる。後ろからは押せ押せと大きな聲を出す。おれは邪魔になる生徒の間をくぐり拔けて、曲がり角へもう少しで出やうとした時に、前へ! と云ふ高く鋭い號令が聞えたと思つたら師範學校の方は肅肅として行進を始めた。先を爭つた衝突は、折合がついたには相違ないが、つまり中學校が一歩を讓つたのである。資格から云ふと師範學校の方が上ださうだ。
祝勝の式はすこぶる簡單なものであつた。旅團長が祝詞を讀む、知事が祝詞を讀む、參列者が萬歳を唱へる。それでおしまひだ。餘興は午後にあると云ふ話だから、ひとまづ下宿へ歸つて、こないだじゅうから、氣に掛つてゐた、清への返事をかきかけた。今度はもつと詳しく書いて呉れとの注文だから、なるべく念入に認めなくつちやならない。しかしいざとなつて、半切を取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き出していゝか、わからない。あれにしようか、あれは面倒臭い。これにしようか、これはつまらない。何か、すらすらと出て、骨が折れなくつて、さうして清が面白がるやうなものはないかしらん、と考へてみると、そんな注文通りの事件は一つもなささうだ。おれは墨を磨つて、筆をしめして、卷紙を睨めて、──卷紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨つて──同じ所作を同じやうに何返も繰り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、諦めて硯の蓋をしてしまつた。手紙なんぞをかくのは面倒臭い。やつぱり東京まで出掛けて行つて、逢つて話をするのが簡便だ。清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の斷食よりも苦しい。
おれは筆と卷紙を抛り出して、ごろりと轉がつて肱枕をして庭の方を眺めてみたが、やつぱり清の事が氣にかかる。その時おれはかう思つた。かうして遠くへ來てまで、清の身の上を案じてゐてやりさへすれば、おれの眞心は清に通じるに違ひない。通じさへすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮してると思つてるだらう。たよりは死んだ時か病氣の時か、何か事の起つた時にやりさへすればいゝ譯だ。
庭は十坪ほどの平庭で、これといふ植木もない。ただ一本の蜜柑があつて、塀のそとから、目標になるほど高い。おれはうちへ歸ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑の生つてゐるところはすこぶる珍しいものだ。あの青い實がだんだん熟してきて、黄色になるんだらうが、定めて奇麗だらう。今でももう半分色の變つたのがある。婆さんに聞いてみると、すこぶる水氣の多い、旨い蜜柑ださうだ。今に熟たら、たんと召し上がれと云つたから、毎日少しづつ食つてやらう。もう三週間もしたら、充分食へるだらう。まさか三週間以内にここを去る事もなからう。
おれが蜜柑の事を考へてゐるところへ、偶然山嵐が話しにやつて來た。今日は祝勝會だから、君といつしよにご馳走を食はうと思つて牛肉を買つて來たと、竹の皮の包を袂から引きずり出して、座敷の眞中へ抛り出した。おれは下宿で芋責豆腐責になつてる上、蕎麥屋行き、團子屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋と砂糖をかり込んで、煮方に取りかかつた。
山嵐は無暗に牛肉を頬張りながら、君あの赤シャツが藝者に馴染のある事を知つてるかと聞くから、知つてるとも、この間うらなりの送別會の時に來た一人がさうだらうと云つたら、さうだ僕はこの頃漸く勘づいたのに、君はなかなか敏捷だと大いにほめた。
「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯樂だのと云ふ癖に、裏へ廻つて、藝者と關係なんかつけとる、怪しからん奴だ。それもほかの人が遊ぶのを寛容するならひいが、君が蕎麥屋へ行つたり、團子屋へ這入るのさへ取締上害になると云つて、校長の口を通して注意を加へたぢやないか」
「うん、あの野郎の考へぢや藝者買は精神的娯樂で、天麩羅や、團子は物理的娯樂なんだらう。精神的娯樂なら、もつと大べらにやるがいゝ。何だあの樣は。馴染の藝者が這入つてくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化す氣だから氣に食はない。さうして人が攻撃すると、僕は知らないとか、露西亞文學だとか、俳句が新體詩の兄弟分だとか云つて、人を烟に捲くつもりなんだ。あんな弱蟲は男ぢやないよ。全く御殿女中の生れ變りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」
「湯島のかげまた何だ」
「何でも男らしくないもんだらう。──君そこのところはまだ煮えてゐないぜ。そんなのを食ふと絛蟲が湧くぜ」
「さうか、大抵大丈夫だらう。それで赤シャツは人に隱れて、温泉の町の角屋へ行つて、藝者と會見するさうだ」
「角屋つて、あの宿屋か」
「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが藝者をつれて、あすこへはいり込むところを見屆けておいて面詰するんだね」
「見屆けるつて、夜番でもするのかい」
「うん、角屋の前に桝屋といふ宿屋があるだらう。あの表二階をかりて、障子へ穴をあけて、見てゐるのさ」
「見てゐるときに來るかい」
「來るだらう。どうせひと晩ぢやいけない。二週間ばかりやるつもりでなくつちや」
「隨分疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜して看病した事があるが、あとでぼんやりして、大いに弱つた事がある」
「少しぐらゐ身體が疲れたつて構はんさ。あんな奸物をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代つて誅戮を加へるんだ」
「愉快だ。さう事が極まれば、おれも加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
「まだ桝屋に懸合つてないから、今夜は駄目だ」
「それぢや、いつから始めるつもりだい」
「近々のうちやるさ。いづれ君に報知をするから、さうしたら、加勢して呉れたまへ」
「よろしい、いつでも加勢する。僕は計略は下手だが、喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ」
おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略を相談してゐると、宿の婆さんが出て來て、學校の生徒さんが一人、堀田先生にお目にかかりたいててお出でたぞなもし。今お宅へ參じたのぢやが、お留守ぢやけれ、大方ここぢやらうてて搜し當ててお出でたのぢやがなもしと、閾の所へ膝を突いて山嵐の返事を待つてる。山嵐はさうですかと玄關まで出て行つたが、やがて歸つて來て、君、生徒が祝勝會の餘興を見に行かないかつて誘ひに來たんだ。今日は高知から、何とか踴りをしに、わざわざここまで多人數乘り込んで來てゐるのだから、是非見物しろ、めつたに見られない踴だといふんだ、君もいつしよに行つてみたまへと山嵐は大いに乘り氣で、おれに同行を勸める。おれは踴なら東京でたくさん見てゐる。毎年八幡樣のお祭りには屋臺が町内へ廻つてくるんだから汐酌みでも何でもちやんと心得てゐる。土佐つぽの馬鹿踴なんか、見たくもないと思つたけれども、せつかく山嵐が勸めるもんだから、つい行く氣になつて門へ出た。山嵐を誘ひに來たものは誰かと思つたら赤シャツの弟だ。妙な奴が來たもんだ。
會場へ這入ると、囘向院の相撲か本門寺の御會式のやうに幾旒となく長い旗を所々に植ゑ付けた上に、世界萬國の國旗をことごとく借りて來たくらゐ、繩から繩、綱から綱へ渡しかけて、大きな空が、いつになく賑やかに見える。東の隅に一夜作りの舞臺を設けて、ここでいはゆる高知の何とか踴りをやるんださうだ。舞臺を右へ半町ばかりくると葭簀の圍いをして、活花が陳列してある。みんなが感心して眺めてゐるが、一向くだらないものだ。あんなに草や竹を曲げて嬉しがるなら、背蟲の色男や、跛の亭主を持つて自慢するがよからう。
舞臺とは反對の方面で、しきりに花火を揚げる。花火の中から風船が出た。帝國萬歳とかいてある。天主の松の上をふわふわ飛んで營所のなかへ落ちた。次はぽんと音がして、黒い團子が、しよつと秋の空を射拔くやうに揚がると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い烟が傘の骨のやうに開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。風船がまた上がつた。今度は陸海軍萬歳と赤地に白く染め拔いた奴が風に搖られて、温泉の町から、相生村の方へ飛んでいつた。大方觀音樣の境内へでも落ちたらう。
式の時はさほどでもなかつたが、今度は大變な人出だ。田舎にもこんなに人間が住んでるかと驚ろいたぐらゐうぢやうぢやしてゐる。悧巧な顏はあまり見當らないが、數から云ふとたしかに馬鹿に出來ない。そのうち評判の高知の何とか踴が始まつた。踴といふから藤間か何ぞのやる踴りかと早合點してゐたが、これは大間違ひであつた。
いかめしい後鉢卷をして、立つ付け袴を穿いた男が十人ばかりずつ、舞臺の上に三列に並んで、その三十人がことごとく拔き身を攜げてゐるには魂消た。前列と後列の間はわづか一尺五寸ぐらゐだらう、左右の間隔はそれより短いとも長くはない。たつた一人列を離れて舞臺の端に立つてるのがあるばかりだ。この仲間外れの男は袴だけはつけてゐるが、後鉢卷は儉約して、拔身の代りに、胸へ太鼓を懸けてゐる。太鼓は太神樂の太鼓と同じ物だ。この男がやがて、いやあ、はああと呑氣な聲を出して、妙な謠をうたひながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩く。歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。三河萬歳と普陀洛やの合併したものと思へば大した間違ひにはならない。
歌はすこぶる悠長なもので、夏分の水飴のやうに、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのやうでも拍子は取れる。この拍子に應じて三十人の拔き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速なお手際で、拜見してゐても冷々する。隣りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる拔き身を自分と同じやうに振り舞はすのだから、よほど調子が揃はなければ、同志撃を始めて怪我をする事になる。それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危險もないが、三十人が一度に足踏みをして横を向く時がある。ぐるりと廻る事がある。膝を曲げる事がある。隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遲過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。拔き身の動くのは自由自在だが、その動く範圍は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた、なかなかもつて汐酌や關の戸の及ぶところでない。聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易な事では、かういふ風に調子が合はないさうだ。ことにむづかしいのは、かの萬歳節のぼこぼん先生ださうだ。三十人の足の運びも、手の働きも、腰の曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのださうだ。傍で見てゐると、この大將が一番呑氣さうに、いやあ、はああと氣樂にうたつてるが、その實ははなはだ責任が重くつて非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
おれと山嵐が感心のあまりこの踴を餘念なく見物してゐると、半町ばかり、向うの方で急にわつと云ふ鬨の聲がして、今まで穩やかに諸所を縱覽してゐた連中が、にはかに波を打つて、右左りに搖き始める。喧嘩だ喧嘩だと云ふ聲がすると思ふと、人の袖を潛り拔けて來た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中學の方で、今朝の意趣返しをするんで、また師範の奴と決戰を始めたところです、早く來て下さいと云ひながらまた人の波のなかへ潛り込んでどつかへ行つてしまつた。
山嵐は世話の燒ける小僧だまた始めたのか、いゝ加減にすればいゝのにと逃げる人を避けながら一散に馳け出した。見てゐる譯にも行かないから取り鎭めるつもりだらう。おれは無論の事逃げる氣はない。山嵐の踵を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は今が眞最中である。師範の方は五六十人もあらうか、中學はたしかに三割方多い。師範は制服をつけてゐるが、中學は式後大抵は日本服に着換へてゐるから、敵味方はすぐわかる。しかし入り亂れて組んづ、解れつ戰つてるから、どこから、どう手を付けて引き分けていゝか分らない。山嵐は困つたなと云ふ風で、しばらくこの亂雜な有樣を眺めてゐたが、かうなつちや仕方がない。巡査がくると面倒だ。飛び込んで分けやうと、おれの方を見て云ふから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈しさうな所へ躍り込んだ。止せ止せ。そんな亂暴をすると學校の體面に關はる。よさないかと、出るだけの聲を出して敵と味方の分界線らしい所を突き貫けやうとしたが、なかなかさう旨くは行かない。一二間はいつたら、出る事も引く事も出來なくなつた。目の前に比較的大きな師範生が、十五六の中學生と組み合つてゐる。止せと云つたら、止さないかと師範生の肩を持つて、無理に引き分けやうとする途端にだれか知らないが、下からおれの足をすくつた。おれは不意を打たれて握つた、肩を放して、横に倒れた。堅い靴でおれの背中の上へ乘つた奴がある。兩手と膝を突いて下から、跳ね起きたら、乘つた奴は右の方へころがり落ちた。起き上がつて見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身體が生徒の間に挾まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと云つてみたが聞えないのか返事もしない。
ひゅうと風を切つて飛んで來た石が、いきなりおれの頬骨へ中つたなと思つたら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。教師の癖に出てゐる、打て打てと云ふ聲がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛げろ。と云ふ聲もする。おれは、なに生意氣な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやつた。石がまたひゅうと來る。今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行つた。山嵐はどうなつたか見えない。かうなつちや仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいつたんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入つて引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思ふんだ。身長は小さくつても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしてゐると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云ふ聲がした。今まで葛練りの中で泳いでるやうに身動きも出來なかつたのが、急に樂になつたと思つたら、敵も味方も一度に引上げてしまつた。田舎者でも退卻は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらゐである。
山嵐はどうしたかと見ると、紋付の一重羽織をずたずたにして、向うの方で鼻を拭ひてゐる。鼻柱をなぐられて大分出血したんださうだ。鼻がふくれ上がつて眞赤になつてすこぶる見苦しい。おれは飛白の袷を着てゐたから泥だらけになつたけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。しかし頬ぺたがぴりぴりしてたまらない。山嵐は大分血が出てゐるぜと教へて呉れた。
巡査は十五六名來たのだが、生徒は反對の方面から退卻したので、捕まつたのは、おれと山嵐だけである。おれらは姓名を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで來いと云ふから、警察へ行つて、署長の前で事の顛末を述べて下宿へ歸つた。 
十一

 

あくる日眼が覺めてみると、身體中痛くてたまらない。久しく喧嘩をしつけなかつたから、こんなに答へるんだらう。これぢやあんまり自慢もできないと床の中で考へてゐると、婆さんが四國新聞を持つてきて枕元へ置いて呉れた。實は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきの事に閉口たれて仕樣があるものかと無理に腹這ひになつて、寢ながら、二頁を開けてみると驚ろいた。昨日の喧嘩がちやんと出てゐる。喧嘩の出てゐるのは驚ろかないのだが、中學の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意氣なる某とが、順良なる生徒を使嗾してこの騷動を喚起せるのみならず、兩人は現場にあつて生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向つて暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が附記してある。本縣の中學は昔時より善良温順の氣風をもつて全國の羨望するところなりしが、輕薄なる二豎子のために吾校の特權を毀損せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然として起つてその責任を問はざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、當局者は相當の處分をこの無頼漢の上に加へて、彼等をして再び教育界に足を入るる餘地なからしむる事を。さうして一字ごとにみんな黒點を加へて、お灸を据ゑたつもりでゐる。おれは床の中で、糞でも喰らへと云ひながら、むつくり飛び起きた。不思議な事に今まで身體の關節が非常に痛かつたのが、飛び起きると同時に忘れたやうに輕くなつた。
おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、それでもまだ氣に入らなかつたから、わざわざ後架へ持つて行つて棄てて來た。新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。世の中に何が一番法螺を吹くと云つて、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの云つてしかるべき事をみんな向うで並べてゐやがる。それに近頃東京から赴任した生意氣な某とは何だ。天下に某と云ふ名前の人があるか。考へてみろ。これでもれつきとした姓もあり名もあるんだ。系圖が見たけりや、多田滿仲以來の先祖を一人殘らず拜ましてやらあ。──顏を洗つたら、頬ぺたが急に痛くなつた。婆さんに鏡をかせと云つたら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。讀んで後架へ棄てて來た。欲しけりや拾つて來いと云つたら、驚いて引き下がつた。鏡で顏を見ると昨日と同じやうに傷がついてゐる。これでも大事な顏だ、顏へ傷まで付けられた上へ生意氣なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
今日の新聞に辟易して學校を休んだなどと云はれちや一生の名折れだから、飯を食つていの一號に出頭した。出てくる奴も、出てくる奴もおれの顏を見て笑つてゐる。何がをかしいんだ。貴樣逹にこしらへてもらつた顏ぢやあるまいし。そのうち、野だが出て來て、いや昨日はお手柄で、──名譽のご負傷でげすか、と送別會の時に撲つた返報と心得たのか、いやに冷かしたから、餘計な事を言はずに繪筆でも舐めていろと云つてやつた。するとこりや恐入りやした。しかしさぞお痛い事でげせうと云ふから、痛からうが、痛くなからうがおれの面だ。貴樣の世話になるもんかと怒鳴りつけてやつたら、向う側の自席へ着いて、やつぱりおれの顏を見て、隣りの歴史の教師と何か内所話をして笑つてゐる。
それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至つては、紫色に膨脹して、掘つたら中から膿が出さうに見える。自惚のせゐか、おれの顏より餘つ程手ひどく遣られてゐる。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から眞正面にあるんだから運がわるい。妙な顏が二つ塊まつてゐる。ほかの奴は退屈にさへなるときつとこつちばかり見る。飛んだ事でと口で云ふが、心のうちではこの馬鹿がと思つてるに相違ない。それでなければああいふ風に私語合つてはくすくす笑ふ譯がない。教場へ出ると生徒は拍手をもつて迎へた。先生萬歳と云ふものが二三人あつた。景氣がいゝんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の燒點となつてるなかに、赤シャツばかりは平常の通り傍へ來て、どうも飛んだ災難でした。僕は君等に對してお氣の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手續きにしておいたから、心配しなくてもいゝ。僕の弟が堀田君を誘ひに行つたから、こんな事が起つたので、僕は實に申し譯がない。それでこの件についてはあくまで盡力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べてゐる。校長は三時間目に校長室から出てきて、困つた事を新聞がかき出しましたね。むづかしくならなければいゝがと多少心配さうに見えた。おれには心配なんかない、先で免職をするなら、免職される前に辭表を出してしまふだけだ。しかし自分がわるくないのにこつちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる譯だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順當だと考へた。歸りがけに新聞屋に談判に行かうと思つたが、學校から取消の手續きはしたと云ふから、やめた。
おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計つて、嘘のないところを一應説明した。校長と教頭はさうだらう、新聞屋が學校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに掲げたんだらうと論斷した。赤シャツはおれ等の行爲を辯解しながら控所を一人ごとに廻つてあるいてゐた。ことに自分の弟が山嵐を誘ひ出したのを自分の過失であるかのごとく吹聽してゐた。みんなは全く新聞屋がわるい、怪しからん、兩君は實に災難だと云つた。
歸りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなつたんぢやなからうと云ふと、君まだ氣が付かないか、きのふわざわざ、僕等を誘ひ出して喧嘩のなかへ、捲き込んだのは策だぜと教へて呉れた。なるほどそこまでは氣がつかなかつた。山嵐は粗暴なやうだが、おれより智慧のある男だと感心した。
「ああやつて喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。實に奸物だ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云ふ事をさう容易く聽くかね」
「聽かなくつて。新聞屋に友逹が居りや譯はないさ」
「友逹が居るのかい」
「居なくても譯ないさ。嘘をついて、事實これこれだと話しや、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本當に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「わるくすると、遣られるかも知れない」
「そんなら、おれは明日辭表を出してすぐ東京へ歸つちまはあ。こんな下等な所に頼んだつて居るのはいやだ」
「君が辭表を出したつて、赤シャツは困らない」
「それもさうだな。どうしたら困るだらう」
「あんな奸物の遣る事は、何でも證據の擧がらないやうに、擧がらないやうにと工夫するんだから、反駁するのはむづかしいね」
「厄介だな。それぢや濡衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」
「まあ、もう二三日樣子を見やうぢやないか。それでいよいよとなつたら、温泉の町で取つて抑えるより仕方がないだらう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「さうさ。こつちはこつちで向うの急所を抑えるのさ」
「それもよからう。おれは策略は下手なんだから、萬事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
俺と山嵐はこれで分れた。赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやつたのなら、實にひどい奴だ。到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でなくつちや駄目だ。なるほど世界に戰爭は絶えない譯だ。個人でも、とどの詰りは腕力だ。
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披ゐてみると、正誤どころか取り消しも見えない。學校へ行つて貍に催促すると、あしたぐらゐ出すでせうと云ふ。明日になつて六號活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論してをらない。また校長に談判すると、あれより手續きのしようはないのだと云ふ答だ。校長なんて貍のやうな顏をして、いやにフロック張つてゐるが存外無勢力なものだ。虚僞の記事を掲げた田舎新聞一つ詫まらせる事が出來ない。あんまり腹が立つたから、それぢや私が一人で行つて主筆に談判すると云つたら、それはいかん、君が談判すればまた惡口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本當にせよ、つまりどうする事も出來ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加へた。新聞がそんな者なら、一日も早く打つ潰してしまつた方が、われわれの利益だらう。新聞にかかれるのと、泥鼈に食ひつかれるとが似たり寄つたりだとは今日ただ今貍の説明によつて始めて承知仕つた。
それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやつて來て、いよいよ時機が來た、おれは例の計劃を斷行するつもりだと云ふから、さうかそれぢやおれもやらうと、即座に一味徒黨に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよからうと首を傾けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辭表を出せと云はれたかと尋ねるから、いや云はれない。君は? と聽き返すと、今日校長室で、まことに氣の毒だけれども、事情やむをえんから處決して呉れと云はれたとの事だ。
「そんな裁判はないぜ。貍は大方腹鼓を叩き過ぎて、胃の位置が顛倒したんだ。君とおれは、いつしよに、祝勝會へ出てさ、いつしよに高知のぴかぴか踴りを見てさ、いつしよに喧嘩をとめにはいつたんぢやないか。辭表を出せといふなら公平に兩方へ出せと云ふがいゝ。なんで田舎の學校はさう理窟が分らないんだらう。焦慮いな」
「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸り上到底兩立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思つてるんだ」
「おれだつて赤シャツと兩立するものか。害にならないと思ふなんて生意氣だ」
「君はあまり單純過ぎるから、置いたつて、どうでも胡魔化されると考へてるのさ」
「猶惡いや。誰が兩立してやるものか」
「それに先だつて古賀が去つてから、まだ後任が事故のために到着しないだらう。その上に君と僕を同時に追ひ出しちや、生徒の時間に明きが出來て、授業にさし支へるからな」
「それぢやおれを間のくさびに一席伺はせる氣なんだな。こん畜生、だれがその手に乘るものか」
翌日おれは學校へ出て校長室へ入つて談判を始めた。
「何で私に辭表を出せと云はないんですか」
「へえ?」と貍はあつけに取られてゐる。
「堀田には出せ、私には出さないで好いと云ふ法がありますか」
「それは學校の方の都合で……」
「その都合が間違つてまさあ。私が出さなくつて濟むなら堀田だつて、出す必要はないでせう」
「その邊は説明が出來かねますが──堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辭表をお出しになる必要を認めませんから」
なるほど貍だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き拂つてる。おれは仕樣がないから
「それぢや私も辭表を出しませう。堀田君一人辭職させて、私が安閑として、留まつていられると思つていらつしやるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出來ません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去つたら、學校の數學の授業がまるで出來なくなつてしまふから……」
「出來なくなつても私の知つた事ぢやありません」
「君さう我儘を云ふものぢやない、少しは學校の事情も察して呉れなくつちや困る。それに、來てから一月立つか立たないのに辭職したと云ふと、君の將來の履歴に關係するから、その邊も少しは考へたらいゝでせう」
「履歴なんか構ふもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりやごもつとも──君の云ふところは一々ごもつともだが、わたしの云ふ方も少しは察して下さい。君が是非辭職すると云ふなら辭職されてもいゝから、代りのあるまでどうかやつてもらひたい。とにかく、うちでもう一返考へ直してみて下さい」
考へ直すつて、直しようのない明々白々たる理由だが、貍が蒼くなつたり、赤くなつたりして、可愛想になつたからひとまづ考へ直す事として引き下がつた。赤シャツには口もきかなかつた。どうせ遣つつけるなら塊めて、うんと遣つつける方がいゝ。
山嵐に貍と談判した模樣を話したら、大方そんな事だらうと思つた。辭表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支へあるまいとの話だつたから、山嵐の云ふ通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから萬事山嵐の忠告に從ふ事にした。
山嵐はいよいよ辭表を出して、職員一同に告別の挨拶をして濱の港屋まで下つたが、人に知れないやうに引き返して、温泉の町の桝屋の表二階へ潛んで、障子へ穴をあけて覗き出した。これを知つてるものはおればかりだらう。赤シャツが忍んで來ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極つてる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を踏んで夜なかに下宿へ歸るほど馬鹿氣た事はない。四五日すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奧さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがへえぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違ふ。こつちのは天に代つて誅戮を加へる夜遊びだ。とはいふものの一週間も通つて、少しも驗が見えないと、いやになるもんだ。おれは性急な性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅黨でも飽きる事に變りはない。六日目には少々いやになつて、七日目にはもう休もうかと思つた。そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。宵から十二時過までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈の下を睨めつきりである。おれが行くと今日は何人客があつて、泊りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも來ないやうぢやないかと云ふと、うん、たしかに來るはずだがと時々腕組をして澑息をつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度來て呉れなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出來ないのである。
八日目には七時頃から下宿を出て、まづゆるりと湯に入つて、それから町で鷄卵を八つ買つた。これは下宿の婆さんの芋責に應ずる策である。その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乘せて、懷手をしながら、桝屋の楷子段を登つて山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天のやうな顏は急に活氣を呈した。昨夜までは少し塞ぎの氣味で、はたで見てゐるおれさへ、陰氣臭いと思つたくらゐだが、この顏色を見たら、おれも急にうれしくなつて、何も聞かない先から、愉快愉快と云つた。
「今夜七時半頃あの小鈴と云ふ藝者が角屋へはいつた」
「赤シャツといつしよか」
「いゝや」
「それぢや駄目だ」
「藝者は二人づれだが、──どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてつて、ああ云ふ狡い奴だから、藝者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「さうかも知れない。もう九時だらう」
「今九時十二分ばかりだ」と帶の間からニッケル製の時計を出して見ながら云つたが「おい洋燈を消せ、障子へ二つ坊主頭が寫つてはをかしい。狐はすぐ疑ぐるから」
おれは一貫張の机の上にあつた置き洋燈をふつと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出てゐない。おれと山嵐は一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らしてゐる。チーンと九時半の柱時計が鳴つた。
「おい來るだらうかな。今夜來なければ僕はもう厭だぜ」
「おれは錢のつづく限りやるんだ」
「錢つていくらあるんだい」
「今日までで八日分五圓六十錢拂つた。いつ飛び出しても都合のいゝやうに毎晩勘定するんだ」
「それは手廻しがいゝ。宿屋で驚いてるだらう」
「宿屋はいゝが、氣が放せないから困る」
「その代り晝寢をするだらう」
「晝寢はするが、外出が出來ないんで窮屈でたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして洩らしちまつたり、何かしちや、つまらないぜ」
「なに今夜はきつとくるよ。──おい見ろ見ろ」と小聲になつたから、おれは思はずどきりとした。黒い帽子を戴いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違つてゐる。おやおやと思つた。そのうち帳場の時計が遠慮なく十時を打つた。今夜もたうとう駄目らしい。
世間は大分靜かになつた。遊廓で鳴らす太鼓が手に取るやうに聞える。月が温泉の山の後からのつと顏を出した。往來はあかるい。すると、下の方から人聲が聞えだした。窓から首を出す譯には行かないから、姿を突き留める事は出來ないが、だんだん近づいて來る模樣だ。からんからんと駒下駄を引き擦る音がする。眼を斜めにするとやつと二人の影法師が見えるくらゐに近づいた。
「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追つ拂つたから」正しく野だの聲である。「強がるばかりで策がないから、仕樣がない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似てゐますね。あのべらんめえと來たら、勇み肌の坊つちやんだから愛嬌がありますよ」「増給がいやだの辭表を出したいのつて、ありやどうしても神經に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思ふ樣打ちのめしてやらうと思つたが、やつとの事で辛防した。二人はハハハハと笑ひながら、瓦斯燈の下を潛つて、角屋の中へはいつた。
「おい」
「おい」
「來たぜ」
「とうとう來た」
「これで漸く安心した」
「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊つちやんだと拔かしやがつた」
「邪魔物と云ふのは、おれの事だぜ。失敬千萬な」
おれと山嵐は二人の歸路を要撃しなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見當がつかない。山嵐は下へ行つて今夜ことによると夜中に用事があつて出るかも知れないから、出られるやうにしておいて呉れと頼んで來た。今思ふと、よく宿のものが承知したものだ。大抵なら泥棒と間違へられるところだ。
赤シャツの來るのを待ち受けたのはつらかつたが、出て來るのをじつとして待つてるのは猶つらい。寢る譯には行かないし、始終障子の隙から睨めてゐるのもつらいし、どうも、かうも心が落ちつかなくつて、是程難儀な思ひをした事はいまだにない。いつその事角屋へ踏み込んで現場を取つて抑えやうと發議したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥けた。自分共が今時分飛び込んだつて、亂暴者だと云つて途中で遮られる。譯を話して面會を求めれば居ないと逃げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると假定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと云ふから、漸くの事でとうとう朝の五時まで我慢した。
角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾けた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町をはづれると一挺ばかりの杉並木があつて左右は田圃になる。それを通りこすとここかしこに藁葺があつて、畠の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さへはづれれば、どこで追いついても構はないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まへてやらうと、見ゑが呉れについて來た。町を外れると急に馳け足の姿勢で、はやてのやうに後ろから、追いついた。何が來たかと驚ろいて振り向く奴を待てと云つて肩に手をかけた。野だは狼狽の氣味で逃げ出さうといふ景色だつたから、おれが前へ廻つて行手を塞いでしまつた。
「教頭の職を持つてるものが何で角屋へ行つて泊つた」と山嵐はすぐ詰りかけた。
「教頭は角屋へ泊つて惡るいといふ規則がありますか」と赤シャツは依然として鄭寧な言葉を使つてる。顏の色は少々蒼い。
「取締上不都合だから、蕎麥屋や團子屋へさへ這入つてはいかんと、云ふくらゐ謹直な人が、なぜ藝者といつしよに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出さうとするからおれはすぐ前に立ち塞がつて「べらんめえの坊つちやんた何だ」と怒鳴り付けたら、「いえ君の事を云つたんぢやないんです、全くないんです」と鐵面皮に言譯がましい事をぬかした。おれはこの時氣がついてみたら、兩手で自分の袂を握つてる。追つかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、兩手で握りながら來たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やつと云ひながら、野だの面へ擲き付けた。玉子がぐちやりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だは餘つ程仰天した者と見えて、わつと言ひながら、尻持をついて、助けて呉れと云つた。おれは食ふために玉子は買つたが、打つけるために袂へ入れてる譯ではない。ただ肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまつたのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に氣がついたから、こん畜生、こん畜生と云ひながら殘る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顏中黄色になつた。
おれが玉子をたたきつけてゐるうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「藝者をつれて僕が宿屋へ泊つたと云ふ證據がありますか」
「宵に貴樣のなじみの藝者が角屋へはいつたのを見て云ふ事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊つたのである。藝者が宵に這入らうが、這入るまいが、僕の知つた事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨を食はした。赤シャツはよろよろしたが「これは亂暴だ、狼藉である。理非を辯じないで腕力に訴へるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴樣のやうな奸物はなぐらなくつちや、答へないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据ゑた。しまひには二人とも杉の根方にうづくまつて動けないのか、眼がちらちらするのか逃げやうともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりや、まだ撲つてやる」とぽかんぽかんと兩人でなぐつたら「もうたくさんだ」と云つた。野だに「貴樣もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答へた。
「貴樣等は奸物だから、かうやつて天誅を加へるんだ。これに懲りて以來つつしむがいゝ。いくら言葉巧みに辯解が立つても正義は許さんぞ」と山嵐が云つたら兩人共だまつてゐた。ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
「おれは逃げも隱れもせん。今夜五時までは濱の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云ふから、おれも「おれも逃げも隱れもしないぞ。堀田と同じ所に待つてるから警察へ訴へたければ、勝手に訴へろ」と云つて、二人してすたすたあるき出した。
おれが下宿へ歸つたのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どう御しるのぞなもしと聞いた。お婆さん、東京へ行つて奧さんを連れてくるんだと答へて勘定を濟まして、すぐ汽車へ乘つて濱へ來て港屋へ着くと、山嵐は二階で寢てゐた。おれは早速辭表を書かうと思つたが、何と書いていゝか分らないから、私儀都合有之辭職の上東京へ歸り申候につき左樣御承知被下度候以上とかいて校長宛にして郵便で出した。
汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寢込んで眼が覺めたら、午後二時であつた。下女に巡査は來ないかと聞いたら參りませんと答へた。「赤シャツも野だも訴へなかつたなあ」と二人は大きに笑つた。
その夜おれと山嵐はこの不淨な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいゝ心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、漸く娑婆へ出たやうな氣がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢ふ機會がない。
清の事を話すのを忘れてゐた。──おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や歸つたよと飛び込んだら、あら坊つちやん、よくまあ、早く歸つて來て下さつたと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかつたから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云つた。
その後ある人の周旋で街鐵の技手になつた。月給は二十五圓で、家賃は六圓だ。清は玄關付きの家でなくつても至極滿足の樣子であつたが氣の毒な事に今年の二月肺炎に罹つて死んでしまつた。死ぬ前日おれを呼んで坊つちやん後生だから清が死んだら、坊つちやんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊つちやんの來るのを樂しみに待つてをりますと云つた。だから清の墓は小日向の養源寺にある。 
 
小説に用ふる天然 / 夏目漱石

 

天然を小説の背景に用ふるのは、作者の心持ち、手心一つでせう。天然を作中に入れて引き立つ場合もあれば、入れなくても濟む場合もある。私はどちらとも言ひかねます。
現にゼーン、オーステン女史の如きは、其の作中に天然を用ゐたところがない樣に記憶してゐます。全く人間ばかりを畫いて居たかと思はれる。トマス、ハーデー氏の如きは、天然を背景に用ゐて居るが、それは、ウヱツセツクス附近の光景に限つたもんで、其地方的特色がハツキリと浮び出て居る。同氏の小説は、一名ウヱツセツクス小説と言はれて居る位で、其背景に用ゐた天然が、巧みに作中にある、人物の活動や、事件の發展を助けて居るやうです。だから此人の作からは殆んど天然を切り離す事が出來かねる位です。スチブンソン氏も亦、其の作中に、天然を用ふる側の人で、背景の趣が如何にも繪畫的に鮮明に見えます。而して其の天然は靜的よりも、動的の方面が多く、又それに深い興味を持つて居るやうです。即ち風の吹きすさむ有樣や、雨の降りしきる光景を、さながら寫し出すことが上手である。而して、其の觀察力は頗る神經的に鋭敏で、細かいところも脱さぬ爲めにいきいきした感じを與へます。全體を通じて、その溌剌たる才氣と、眼の好惡の極めて鋭い處を現はして居るやうです。
コンラツド氏になると、其の小説の中に天然を描くことが、人一倍好きな所が見えます。而して、その背景に、多く海を用ふるのは、氏が若い時から船に乘つて朝晩、海上の光景に親しんだ影響にも依るのでせうか。其作中には、舟火事、難船、航海、暴風雨などを細かく寫したところに、一種獨特の筆致が見えるし、作物の上に、多少の色彩を加味するやうにも思へるが、天然の活動を描く方に氣を取られ過ぎて、ともすると、主客顛倒の現象を呈する事があります。
メレヂス氏の場合には、其の戀物語などの背景として、それにふさはしい詩的な光景を描くことがあります。一口に言ふと、氏の書き方は曲つたねぢくれた書方ですが、自然に對する強烈な感じを、色や、匂ひなどの微妙な點に現はして、詩的な戀物語めいた小説の背景に、ふさはしいやうに出來上つて居る。且つ氏は、普通の物象を普通以上に鋭く濃かに畫いて、強い印象を與へんとして居るやうです。
之を概括すると、ゼーン、オーステン女史は、作中に天然を用ゐないでも、巧に纒まつた作を出して居りますが、コンラツド氏に至ると、天然に耽るの結果、背景に取り入れた天然の爲めに、却つて一篇の作意を打壞はして居る事があるやうです。他の三氏は、此の中間をいつて、天然を背景に用ゐて、適當の調和を得て居るのみならず、其の作意をも助けて居る點があります。して見ると、天然を作中にとり入れるについては、よいとも、惡いとも言へない。畢竟は、其の時と、場合と、事柄とを考へて、適宜に用ふるの外はありますまい。
四二、一、一二『國民新聞』 
 
博士問題 / 夏目漱石

 

何故學位を辭退したか其理由を話せと言ふんですか。さう几帳面に聞かれると困ります。實は私も朝日の社員ですし、社員の一人が學位を貰ふとか貰はぬとか云ふ事ですから、辭退する前に一應池邊君に相談しようかと思ひましたが、夫程社の利害と關係のある大事件でも無いと思ひましたから、差控へて置きました。實は博士會が五六の人を文學博士に推薦すると云ふ事は、新聞の雜報で一寸見た計りで、眞僞も分らず、一兩日を過しました。すると突然明日午前十時に學位を授與するから文部省へ出頭しろと言ふ通知が、留守宅へ(夜遲く)來たのださうです。左樣、家のものは慥か夜の十時頃とか云つてゐましたが、大方其時下女が夜中郵便函でもあけて取り出したのでせう。それで其翌日の朝電話で、本人は病氣で出られないと云ふ事を文部省へ斷つたさうです。其日の午後妻が病院へ來て通知書を見せたので、私は初めて學位授與の事を承知したのです。さうです。無論代理は出しませんでした。私は其夕方すぐに福原君に學位を辭退したいからと云ふ手紙を出しました。すると私の辭退の手紙と行違に、其晩文部省から――ヱヽと證書と言ひますか、何と云ひますか――學位を授與すると云ふ證書を――家のものは小使と云ひましたが、私は實際誰が持つて來たか知らない――に持たせて宅の方へ屆けて呉れたのです。夫は早速福原さんの手許迄返させました。辭退の出來るものと思つて辭退したのは勿論の事です。私は法律家でないから、法律上の事は知りません。たゞ私に學位が欲しくないと云ふ事實があつた丈です。學位令が勅令だから辭退が出來ないと云ふんですか。そんな法律の事は少しも知りません。然し勅令だから學位令を變更するのが六づかしいと云ふなら、私にも解るが、博士を辭退出來ないと云ふのは、何んなものでせう。何しろ文部省から通知して來て文部大臣が與れるから、唯文部省丈けの事と思つてゐました。文部省の人々に御面倒な御手數を懸けるのは好くないとは思ひましたが。已を得ませんでした。
貰つて置いて善い者か惡い者か、如其理窟に關係した問題は、大分議論が八釜しく成りますし、今必要もありませんから、個々の批評に一任するとして、茲に――私は實に面白いものだと思つて(看護婦に通知状を出させて)居るものがあります。文部省邊の人には當然かも知れませんがね、此通知状を御覽なさい。前文句無しの打突け書で突然「二十一日午前十時同省に於て學位授與相成候條同刻までに通常服云々」。是を見ると、前以て文部省が私に學位を呉れるとか、私が學位を貰ふとか言ふ相談があつて、既に交渉濟になつて、私が承知し切つて居る事を、愈明日執行するからと知らせてきた樣に聞えるでせう。それに此終の但し書に、差支があつたら代理を出せとあるでせう。然し果して此通知状を私が受取つてから、午前十時迄に相當の代理者が頼める者か頼めぬものか。善く分りませんものね。ヤツ。實は社の方計りで無く此方(病院)へも斯う祝ひ手紙が飛び込んで來るんで弱つてゐます。まさか「私は博士ではありません」、と新聞へ書くのも可笑しいと思つて差控へて居りますが。云々
四四、二、二四『東京朝日新聞』

拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知が參つたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました。
學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます。然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。敬具
二月二十一日 夏目金之助
專門學務局長福原鐐次郎殿 
 
博士問題の成行 / 夏目漱石

 

博士事件に就て其後の成行はどうなつたと仰しやるのですか。實はそれぎり何うもならないのです。福原君にも會ひません。芳賀君抔から懇談を受けた事もありません。文部大臣は學位令によつて學位を私に授與したにはしたが、もし辭退した時には何うすると云ふ明文が同令に書いてないから、其場合には辭退を許す權能を有してゐないのだと云ふのが、當局者としての福原君の意見なのですか。成程さうも云はれるのでせう。然しそれでは恰も學位令に博士は辭する事を得ずと明記したと同樣の結果になる樣ですが、實際學位令には辭する事を得ずとも又辭する事を得とも何方とも書いてないのぢやないですか。(甚だ不行屆きですがまだ學位令を調べてゐません。然し慥かさう云ふ風に聞いてゐます。)偖何方とも書いてない以上は、辭し得るとも辭し得ないとも自分に都合のよい樣に取る餘地のあるものと解釋しても可くはないでせうか。すると當局者が自己の威信と云ふ事に重きを置いて「辭する事を得ず」と主張すれば、私の方では自己の意思を楯として「辭する事を得」と判斷しても構はない事になりはしませんか。
又夫程重大なものならば、萬一を慮つて、(表向き學位令に書いてある通りを執行する前に)、一應學位を授與せられる本人の意思を確める方が、親切でもあり、又御互の便宜であつた樣に思はれます。兎に角に當局者が榮譽と認めた學位を授與する位の本人ならば、其本人の意思と云ふのも學位同樣に重んじてよささうに考へます。
私は當局者と爭ふ氣も何もない。當局者も亦私を壓迫する了簡は更にない事と信じてゐます。此際直接福原君の立場としては甚だ困られるだらうとは思ふけれども、明治も既に五十年近くになつて見れば、政府で人工的に拵へた學位が、さう何時迄も學者に勿體ながられなければ政府の威信に關すると云ふ樣な考へは、當局者だつてさう鋭角的に維持する必要もないでせう。實は先例があるとか無いとか云はれては、少し迷惑するので、私は博士のうちに親友もありますし、又敬愛してゐる人も少くはないのですが、必ずしも彼等諸君の轍を追うて生活の行路を行かねばならぬと迄は考へてゐないのであります。先例の通りに學位を受けろと云はれるのは、前の電車と同じ樣に、あとの電車も食付いて行かなければならない樣で、丸で器械として人から取扱はれる樣な氣がします。博士を辭する私は、先例に照して見たら變人かも知れませんが、段々個人々々の自覺が日増に發展する人文の趨勢から察すると、是から先も私と同樣に學位を斷る人が大分出て來るだらうと思ひます。私が當局者に迷惑を掛けるのは甚だ御氣の毒に思つてゐるが、當局者も亦是等未來の學者の迷惑を諒として、成るべくは其人々の自由意思通り便宜な取計をされたいものと考へます。猶又學位令に明記がない爲に、今回の樣な面倒が起るのならば、この面倒が再び起らない樣に、どうか御工夫を煩したいと思ひます。學位令のうちには學位褫奪の個條があるさうですが、授與と褫奪が定められて居ながら、辭退に就て一言もないのはちと變だと思はれます。夫れぢや學位をやるぞ、へい、學位を取上げるぞ、へい、と云ふ丈で、此方は丸で玩具同樣に見做されてゐるかの觀があります。褫奪と云ふ表面上不名譽を含んだものを、是非共頂かなければ濟まんとすると、何時火事になるか分らない油と薪を背負された樣なものになります。大臣が認めて不名譽の行爲となすものが必ずしも私の認めて不名譽となすものと一致せぬ限りは、いつ何時どんな不名譽な行爲(大臣のしか認める)を敢てして褫奪の不面目を來さないとも限らないからです。云々
四四、三、七『東京朝日新聞』 
 
假名遣意見 / 森鴎外

 

私は御覽の通り委員の中で一人軍服を着して居ります。で此席へは個人として出て居りまするけれども、陸軍省の方の意見も聽取つて參つて居りますから、或場合には其事を添へて申さうと思ひます。最初に假名遣と云ふものはどんなものだと私は思つて居るか、それから假名遣にはどんな歴史があるかと云ふことに就て少し申したいのであります。既に今日まで大槻博士、藤岡君等のやうな老先生、それから專門家の芳賀博士らが斯う云ふ問題に就いては十分御述べになつてありますから、大抵盡きて居ります。それから當局の方でもまた調査の初めから此事に關係して居られる渡部君の如きは詳しい説明を致されました。其外達識なる矢野君の如き方の議論もありました。又自分の後に通告になつて居ります中には伊澤君のやうな經驗のある人もあります。又その他諸先生が居られる。然るに私がこんな問題に就いて此處で述べると云ふのは誠に無謀であつて甚だ烏滸がましいやうに自分でも思ひます。併し私は少し今まで聽いたところと觀察が違ひますので、物の見やうが違つて居りますので、それを述べて置かぬと云ふと、後に意見が述べにくいのであります。それゆゑ已むことをえず申します。
一體假名遣と云ふ詞は定家假名遣などと云ふときから始まつたのでありませうか。そこで此物を指して自分は單に假名遣と云ひたい。さうして單に假名遣と云ふのは諸君の方で言はれる歴史的の假名遣即ち古學者の假名遣を指すのであります。而も其の假名遣と云ふ者を私は外國のOrthographieと全く同一な性質のものと認定して居ります。芳賀博士の奇警なる御演説によると外國の者とは違ふと云ふことでございましたが、此點に於ては少し私は別な意見を持つて居ります。主もに違ふと云ふことの論據になつて居りまするのは外國のOrthographieは廣く人民の用ゐるものである、我邦の假名遣は少數者の用ゐるものであると云ふことであります。併しさう云ふやうに假名遣が廣く行はれて居らぬと行はれて居るとの別と云ふものは、或は其の國の教育の普及の程度にも關係します。又教育の方向、どういふ向きに教育が向いて居るかと云ふことにも關係しますのであります。元來物の性質から云つて見れば外國のOrthographieと我が假名遣とは同一なものである、同一に考へて差支へないやうに信じます。一體假名遣を歴史的と稱するのは或る宣告を假名遣に與へるやうなものであつて私は好まない。一體假名遣を觀るには凡そ三つの方面から觀察することが出來ようと思ひます。即ち一は歴史的の方面である。一は發音的即ちPhonetikの方面である。其の外にまだ語原的即ちEtymologieから觀ると云ふ見方がございますけれども、是れは先づ歴史的と或る關係を有つて居るやうに思ひます。一國の言葉が初め口語であつたのが、文語になる時に、此の日本の假名のやうに音字を用ゐて書上げると言ふ、さう云ふ初めの場合には、無論假名遣は發音的であるには違ひない。然るに其の口語と云ふものは段々變遷して來る。一旦書いたものが其の變遷に遲れると歴史的になる。そこで歴史的と云ふことが起つて來ます。それであるから何の國の假名遣でも保守的の性質と云ふものを有つて居るのは無論である。日本のも同樣と思つて居る。さうして見れば之に對して改正の運動が起つて來ると云ふことは無論なのであります。必然の勢であります。又それを改正しようと云ふには發音的の向きに改正しようと考へるのは是れも亦必然の勢であります。此側の主張は殊に大槻博士の御説が最も明瞭に、最も純粹に私には聽取られました。假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。語原的と申す意味を此處に説明しますると云ふと、是れは歴史的と密接の關係を持つて居ります。外の國のOrthographieに於て語原的と云ふことには一種の特殊な意味を有たせてあります。一例を以て言ひますると、國語の「すう」と云ふことは之を「すゑ」と云ふときには和行の「ゑ」を書く。是れは獨逸の例で言ひますと、獨逸で「愛する」と云ふ言葉でliebenと云ふ動詞があります。之れを形容詞にするとliebとなります。けれども「プ」の字を書かずに「ブ」の字を書いてある。斯う云ふ意味に假名遣の發音と相違する點を、主もに語原的と外國では申して居るやうであります。斯う云ふ側のことを藤岡君の音義説に於て五十音圖に照して御説明になつたのであります。一體本會の状況を觀ますると云ふと、抑も假名遣と云ふものの存在からして疑はれて居る。有るか無いか有無の論、少なくも定つて居るか定つて居らぬかと云ふ定不定の御論があるのである。當局は兎に角極つた假名遣と云ふものはあるものだとお認めになつてをります。併し芳賀博士の如きは、三宅博士にお答になつた言葉で見ると云ふと、多少條件付で假名遣の存在を認めて居られるけれども、殆ど極つて居らぬと云ふやうな風に御述べになつて居るやうに聽きました。其の極つて居らぬと云ふのは少數者しか用ゐて居らぬと云ふ意義であつたやうに聽きました。之に就いては私は後に又自分の意見を申します。自分は假名遣と云ふものははつきり存在して居るもののやうに認めてをります。契冲以來の古學者の假名遣と云ふものは、昔の發音に基いたものではあるけれども、今の發音と較べて見ても其の懸隔が餘り大きくはないと思ふ。即ち根底から之を破壞して新に假名遣を再造しなければならぬと云ふ程懸隔しては居らぬやうに見て居ります。凡そ「有物有則」でありまして口語の上に既に則と云ふ者は自然にある。此の則と云ふことは文語になつて來てから又一層精しくなるのであります。世界中で最も發音的に完全な假名は古い所ではSanskritの音字、新しい所では伊太利の音字だと申します。而も我假名遣と云ふものはSanskritに較べてもそんなに劣つて居らぬやうな立派なものであつて、自分には貴重品のやうに信ぜられまする。どうか斯う云ふ貴重品は鄭重に扱つて、縱令それに改正を加へると云ふにしても、徐々に致したいやうに思ふのであります。Max Muellerの言葉に「口語に頭絡とキャウ(馬偏に彊の旁)とを加へて文語を作つて居る」と云つて居ります。馬の頭に掛ける馬具であります。日本の文語に於ける假名遣と云ふもの、此のキャウ(馬偏に彊の旁)は決して朽て用に堪へぬ樣になつて居るのでは無い、まだ十分力のあるものだと云ふことを自分は信じて居ります。 

 

そこで假名遣の歴史に付きまして自分の觀察を異にして居る點を二、三申したいと思ひます。古代の假名遣、殊に延暦遷都前の假名遣に付きまして大槻、芳賀兩博士等の御論がありました。其の大意は是れは其の當時の國民普通の口語であつて、是れが此頃出來た出來たての假名で發音的に書かれたものである、國民が皆之れを用ゐて居る、丁度現状の反對である、斯う云ふ風な御論でありました。そこでさう云ふ國民全體が用ゐて居りまする假名遣に、本當の存在權があるのである、今日のやうに少數者のものになつては、最早活きて居ない、死物になつて居ると云ふ風に聽取れました。扨それから時が移つて次の期に入ります。遷都後天暦までと限りませう。天暦まで即ち十世紀頃であります。この間に音便が生じて來たと云ふことは今までの御論にもありました。此の音便と云ふ者は最早是れは文語の衰替の現象である。其の事は本居あたりでも「くづれたるもの」と云ふことを云つて居ります。衰替の現象であります。併し兎に角それが直に發音的に寫されて居ります。扨是迄の假名は國民の共有物である、此後には少數者の使ふものになつたと云ふことに多くは見られて居ります。併し斯う云ふ古い時代の假名遣が果して國民一般のものでありましたか。此問題に付いては外國の例を較べて見ますと云ふと、餘程疑ふべき餘地があるやうに思ふ。Max Muller等は、Dialect即ち方言と云ふ言葉を斯う云ふ所に用ゐます。古代に於ては何處の國でも方言は澤山あつた。其の中或る者が勢力を得て、それが文語になると云ふと、他の方言は勢力を失ふからして、其の文語の爲に壓倒せられる。斯う云ふ風に認めて居りまするが、或は我邦の古代でも文語になつて居る言葉の外に澤山の方言があつたのではあるまいかと思ふのであります。さうして見ると假名遣は既に出來た初めから少數者の假名遣を多數者に用ゐさせるものではなかつたらうかと云ふ疑があり得ると思ひます。古い拉甸語の如きはあれはLatiumの中のRomaの中の上流者の言葉である。それをLivius Andronicusなどの力で文語として、それを編成して、そこで拉甸語と云ふものが段々に歐羅巴全體にまで行はれるやうになつたと論じてをります。或は日本のも初めからそんなものではあるまいか。さうして見ると云ふと、昔の假名遣は國民全體の用ゐたものであるから是れは存在する權利があるが、今日は少數者が用ゐるからさう云ふ權利がないと云ふ議論は、或はさう疑もない事實としては認められぬかとも思ふ。それから中世になりまして次第に此の一旦定つた文語の衰替を來し、言葉が亂れる、それを正さうと思ふ個人の運動が起つたのでありませう。先日も御引きになつた藤原基俊の保延のころ即ち十二世紀の「悦目抄」の假名遣、初て此の假名遣で言葉の上中下に置く假名と云ふやうなことが出て來ました。次いで所謂定家假名遣が出て參りました。定家假名遣と云ふのは定家卿が「拾遺愚草」を清書させるときに大炊介親行といふ人に之を命じた、其の親行が書き方を定めたと云ふことに傳はつて居ります。世間に流布してゐる定家假名遣と云ふものは親行の孫の行阿の「假名文字遣」に據るので、これには種々な版があります。假名遣と云ふ語は一體其の邊から起つたのでありませう。此の定家假名遣と云ふものを國語の變遷に伴つて發音的に作つたものだと云ふやうに見た人も前からあります。けれども、どうもさうでないやうに思ふ。兎に角素直に發音に從つて作つたものでない、いろいろな理屈がある。例へば四聲に由ると云ふやうなことを盛んに説いてあります。此四聲と云ふものに依つて定める定め方は頗るこじつけではあるまいかと思はれます。芳賀博士も獨斷だと仰しやいましたが、餘程獨斷でございませうと思ひます。醫者の本を見ますると、中頃に陰陽五行を以て有ゆる病氣のことが説明してあります。丁度あゝ云ふ氣持がします。一體此中頃の定家假名遣と云ふものを國語の變遷と見るべきでありませうかと云ふことが問題であります。一體國語の變遷と云ふものは無論口語即ち方言にのみある筈である。是れはさうではなくして文語だけの一時の現象である。變遷と云ふことをMullerは二つに別つてをりまして、言葉が本當に生長するのが本當の變遷である、それから言葉が衰替して來るのは別であると云つて居りますが、無論生長と云ふことは口語にしか無いのでありまして、假名遣にはないのでありますから、さうして見ると衰替現象であるのは明白であります。此の衰替の中でも殊に定家假名遣などは或時代の一の病氣のやうに見られるのであります。芳賀博士は少し之に付いて杞憂を抱いて御出でになる。それは若し斯う云ふ時代の中世の變遷を認めなかつたならば、鎌倉以後の文學が度外視せられはすまいかと云ふのであります。其の主もなる證據は所謂「いひかけ」が證據になつて居る。是れは私はさうは思ひません。「いひかけ」と云ふものは古代は少なかつたのであります。萬葉集あたりは極く少ない。「名が立つ」を「立田山」にかける等、成程皆同音である。同じ音でなければ「いひかけ」になつて居ない。然るに既に定家卿より前にも、是れが變化して來まして、變つた音の「いひかけ」がある。俊成卿は逢ひと云ふ波行の「あひ」を草木の和行の藍に、其の外戀を木居にかける。こんな「いひかけ」が出て來ます。是れが成程定家假名遣の出た後には愈々盛んになつて來て居りますけれども、是れは單に修辭上Rhetorik上の問題であります。昔は同音の「いひかけ」と云ふものがあつたのに、後世に至つて類音の「いひかけ」が出來たと斯う認定すれば、それで足つて居るのであります。之に付いて何か後世の人が極まりを付けようと思ふならば、上からかかつて居る假名に書くか、下で受ける方の假名に書くかと云ふことを極めて置きさへすれば、其位な規定を書方に設けたならば、之を認めて置いて一向差支ない。類音の「いひかけ」が新に修辭上に出來たと思へば何の差支もありませぬ。それから定家假名遣と云ふものは、之は少數者の用ゐたものであると云ふことになつて居ります。これには多少異義を挾み得るかも知れませぬ。北朝の文和、北朝の年號に文和と云ふのがあります、十四世紀の頃、彼の文和の頃に權小僧都成俊が萬葉集の奧書をしました。それに「天下大底守彼式、而異之族一人而無之」「彼式」と云ふのは定家假名遣であります。一人もこれに從はぬ者はないと云つて居りますけれども、併し此の天下と云ふのは詰り教育のある或社會を指したのでありませうから、成程定家假名遣を國民全體が用ゐたと云ふことにはなるまい。是れは多分少數でありましたでせう。それから古學者の假名遣が出て來ます。前に申しました成俊の萬葉集の奧書などを見ますると云ふと、既に假名遣の復古を企つて居ります。自分の古い假名遣を使ふのを「僻案」だと云つて謙遜してゐるけれども、兎に角古い假名遣に由つて假名を施した。それに次いで契冲の「和字正濫鈔」、これは元祿六年の序があります、十七世紀の頃であります。これが先づ復古の初りでありまして、其の後の歴史は私が此處で述べる必要はありませぬ。芳賀博士は之をRenaissanceだと云はれました。成程適當のことと思ひます。丁度西洋の復古運動と同じ性質を有つて居るやうに思ふ。此の復古の假名遣は勿論發音的に改正したのではありませぬ。若し定家の假名遣が國語の變遷であつたならばそれを元へ戻さうとする此の復古運動と云ふものは、非常な不道理なものに違ひない。併し前に申します通り定家假名遣と云ふものは一時の流行病であつたから、それを治療しようと思つて和學者が起つたのだらうと私は思ふ。尚ほ進んで考へますると云ふと、發音的の側から見ると、定家假名遣よりか、復古の假名遣の方が餘程發音的なやうに認められます。此の古學者の假名遣も、勿論諸君のお認めになつて居るやうに少數者の用にしかならないのであります。そんなら其の他の一般の人民はどうして居つたかと云ふと、或は定家の式に從つたと認める人もありませう。或は何にも據らずに亂雜に書いたと云ふことも認められませうと思ひます。斯う云ふ統計は殆ど不可能であります。無論定家の假名遣で書くと云ふ人は物語類でも讀むとか、北村季吟などが作つた「湖月抄」とか、あゝ云ふ物でも讀んで居る人の上であつて、其外は矢張亂雜でありませう。又漢學の方に主もに力を入れる人は假名遣などは構はぬと云つて亂雜に安んじて居つたのでありませう。併しこれらが多數のものに行はれないと云ふのは教育の方向、若は其の普及の程度に依つて定まるのではないかと思はれるのであります。そこで假名遣を排斥すると云ふことは極く最近に起こつて參りました。斯う云ふ運動にも例の陳勝呉廣のやうなものが早く前からあるのであります。既に南朝の藤原長親即ち明魏法師も假名は心の儘に書けと言ふことを云つて居ります。それから極く近くなりますと、澤山さう云ふ例があります。漢學者の帆足萬里先生、彼の人は嘉永五年に歿しました。彼の人の「假字考」と云ふものに斯う云ふことが書いてあります。「今の世の假名遣と云ふものは正理あるものにあらず、久しく用ゐるなれぬれば、強て破らんも好からぬ業なるべし、其の掟にたがひたりとてあながちに病むべからず」これは許容説の元祖とも言へませう。それから井上文雄と云ふ先生があります。明治四年に歿しましたが、此の人の「假字一新」と云ふ本があります。これも假名は心の儘に書けと云ふのであつて、復古の假名遣を排斥しまして、却つて定家の方に加擔して居ります。それから井上毅先生の字音假名遣のこと、これは當局が此席でも御引用になつて居る。斯う云ふやうな沿革を經て來て、さうして今日の假名遣改正の問題が出て參りまして、頗る堅牢な性質の運動になつて來たやうに思ひます。先づ斯う云ふ沿革だと自分は思つて居ります。 

 

これから少しく自分の意見を述べようと思ひます。最も私が感嘆して聽きましたのは大槻博士の御演説でありました。引證の廣いことは固より、總て御論の熱心なる所、丁度彼の伊太利のRenaissance時代のSavonarolaの説教でも聽いたやうな感がしました。私は尊敬して聽きました。併し其の御説には同意はしませぬ。少數者の用ゐるものは餘り論ずるに足らない、多數の人民に使はれるものでなければならぬと云ふのが御論の土臺になつて居ります。併し何事でもさう云ふ風に觀察すると云ふと、恐くは偏頗になりはすまいかと思ふのであります。政治で言つて見ても多數に依ればDemokratic少數ならばAristokratieと云ふ者が出て來ます。此の頃の思想界に於て多數の方から、多數の方に偏して考へますると云ふと、社會説などもそれであります。それから之に反動して極く少數のものを根據にして主張するNietzscheの議論などもある。之れに據ると多數人民と云ふものは芥溜の肥料のやうなものである、其中に少數の役に立つものが、丁度美麗な草木が出て來て花が咲くやうに、出て來ると云ふやうな想像を有つて居る。少なくも此の假名遣を少數者の用に供するものだと云ふ側から之を排斥しますれば、其の反對の側に立ちますると云ふと、斯う云ふ風に云へるかと思ひます。一體古來假名遣と云ふものは少數のものであつたかも知れぬ。又近世復古運動が起りましても、此波動は餘り廣くは世間に及んで居ないに違ひない。併し契冲以來の諸先生が出て來られて假名遣を確定しようとせられた運動に、之に應ずるものは國民中の少數ではあるけれども、國民中の精華であるとも云はれる。斯う云ふ意見を推廣めて人民の共有に之をしたいと斯う云ふやうな議論が隨分反對の側からは立ち得ると自分は信じます。兎に角多數者の用ゐる者に限つて承認すると云ふ論には同意しませぬ。次に當局始め諸君は假名遣の有無を論ずると共に、かなづかひに正とか邪とか云ふことはないと仰つしやつたやうに聽きました。渡部主事の御説明は私は初めの日に遲れて出まして半分しか聽きませぬけれども、大變精密な説明でありまして、其の中には自分が斯う言つたらば他の人が斯う言ふだらうが、それは斯うであると云ふやうに、先潛りまでせられまして有らゆる方面の防禦をして居られます。恰も其の老吏獄を斷ずと言ふ樣な工合、或はSophistの論とでも言ふ樣な工合に、大變巧みに出來て居りまして、御苦心の程を察するのであります。是れも十分の尊敬を拂つて聽きましたけれども、是れも同意は出來ないのであります。一體正邪と云ふことを説きまするは甚だ聽苦しいことでありまして、所謂芳賀博士の言はれた愛國説などにも關係を有つて來る。一體道義のことなどを口にすることは聽苦しい。口で忠義立をする程卑しいことはありませぬ。哲學者のTheodor Vischerが云ひましたことにdas Moralische versteht sich von slbstと云ふことがある。道義上のことは言を俟たない。之を口癖にVischerは言つて居ました。そんなことを言ふのは一體要らないことである。併し國運の消長が言語に關係を有ち又言語の精華たる文語に關係を有つて居る、從つて假名遣にも關係を有つて居ることは明白であります。獨逸の如きは新假名遣の運動が盛んに起りまして學校等で隨分廣く用ゐるやうになりましたけれども、Bismarckの生涯、公文書にだけはつひつひ新假名遣を排斥し通した。あゝ云ふ豪傑でありますから何か深い考があつたかも知れませぬ。當局の御説明に倫理には正とか邪とか云ふことがあるけれども、假名遣にそんなことがないと云ふやうなこともありました。けれども倫理だつても矢張變遷は始終あるもので、吾々が仇討とか腹切とか云ふことに對してどう云ふ倫理上の判斷を有つて居つたかと云ふことは、今日と前と較べれば大變な違ひであります。倫理に於てどんなAuthorityをも認めないとなりますると云ふと、終には善惡の標準がないと云ふやうな騷ぎになります。私にも假名遣に絶對的に正と邪があるとは云ひませぬ。併し前にも申します通り口語こそ變遷を致しますけれども、文語に變遷と云ふことはないのであります。衰替現象で變つて來るのでありますからして、口語の變遷を何時も見て居て、其中固つた所を拾ひ上げては假名遣を訂して行くと云ふ樣なことならば、漸を以てしても宜しからうと思ひますけれども、其の文語に定つて居るものは正として、之を法則として立つて置いて宜しいかと思ふのであります。芳賀博士もこの正邪に就いて御論がありまして、川の流の比喩を御引きになりました。河の流が今日流れて居る處は昔から流れて居る處ではない、必ず河流の方向は變つて居るだらう、さう云ふ變遷のごとく此の假名遣のことも考へねばならぬと云ふやうに言はれました。丁度Mullerの書いたものに矢張同じやうな譬があります。言語を河に譬へてあります。言語は流水の如きものであつて必ず變遷する、そこで之を文語として固めてしまふと云ふと、池水のやうになつて腐る、それが腐つてしまふと云ふと、初め排斥せられた方言が何處かに殘つて居つて、そのものが何時か頭を持上げて革命的に新しい文語が起つて來る。かう云ふ譬へを引いて居ります。故に此の池水のやうに文語が腐らないやうに假名遣を訂すのは必要でありますけれども、一旦文語となつたものは是れは法則である、正しいものであると云ふことを認めて宜しいかと思ひます。Muellerは同じ工合に又他の譬を使つて居ります。土耳古王は子供の時に遊友達があると云ふと、自分が位に即くと友達を絞殺してしまふ、自分が一人で權を握る。併し言語は或る方言が勢力を得て文語になつても、同時に其の附近に行はれて居つた方言が皆殺されてはしまはない、何處かに活きて居る、活きて居つて、それ等がいつか革命運動を起す。斯う云ふ風に言語のことを觀察するが宜しいと、斯う言つて居ります。兎に角土耳古の王が王になれば、それが一つの正統な王である。今のやうに腐敗して來て革命的なことが出て來ると云ふことを防ぐには、新しい貴族を作れば好い、新華族を作るやうにして、ぽつぽつ腐らないやうにして行けば宜しいかと思ふ。口語の廣く用ゐられて來るやうなものを見ては之をぽつぽつ引上げて假名遣に入れる。さう云ふやうに楫を取つて行くのが一番好い手段ではあるまいかと思ふのであります。私は正則と云ふこと、正しいと云ふことを認めて置きたいのであります。 

 

ところが古い假名遣は頗る輕ぜられて、一體にAuthoritiesたる契冲以下を輕視すると云ふやうな傾向がございますが、少數者がして居ることは詰らぬと云ひますと云ふとどうでせう。一體倫理などでも忠孝節義などを本當に行つて居るものは何時も少數者である。それが模範になつてそれを廣く推及ぼして國民の共有にするのであります。少數者のして居ることにもう少し重きを措くのが宜しいかと思ふ。古學者などのAuthorityはさう云ふ風に排斥せられると同時に、井上毅先生の字音假名遣説は殆ど金科玉條として立てられるやうでございますが、あれも餘りさう結構な御論ではないかと思ふのであります。一體漢字を假名に書くのは「易きに由る」のだと云ふのが井上毅先生の議論であります。併し假名に書くのは易きに由ると云ふのを本にすべきではあるまいかと思ひます。何處の國でも國語の中に外國の語が入つて來て國語のやうになる。そこで日本では漢語が國語になる。其の道中の宿場の樣になつて、假名で書いたものが行はれるのであります。中に全然國語になつたのもある。誰も知つて居る文の「ふみ」、錢の「ぜに」の類である。中には消息「せうそこ」などと云つて、是れも殆んど假名で通用する國語のやうになつて居る。さう云ふ字は假名遣を廢して「しょうそこ」と書いては分りにくいことになつてしまひます。其の外井上先生の今の支那音に引當てての御論と云ふものも餘り正確なものではないかと思ふ。要するに正だとか邪だとか云ふことが絶對的に假名遣にあるとは申しませぬけれども幾分か正しい側と云ふことがあるだらうと思ひます。西洋語のOrthographieのorthosは正と云ふことであります。正しく書く法をOrthographieと云ふ。詞などと云ふやうなものも人の思想を表出するものであるから、正しいと云ふ詞を用ゐるのであります。正しいと云事は云へると思ふ。それからこの正と邪との關係と云ふことに連係しまして街道の譬と云ふものが頻りに本會に於て行はれて居る昔の假名遣は舊街道である、そこへ持つて行つて發音的の新しい假名遣が作られる、是れは便利なる横道である、何も舊い街道を正道として便利な新しい假名遣を邪道とすることはないと云ふのであります。此の話は少しく自分の見る所では事實に違つて居る樣であります。決してさう云ふ便利な新しい道が出來て居らないのであります。例之ば「つくゑ」と云ふ詞を見ましても、此Wの子音に當る「う」と云ふ音、是が響かないのであります。其の響かないのを發音的に書くならば、誰が書いても「つくえ」と阿行の「え」を書いて居る筈であります。それならば新しい道が出來て居る譯で、それを認めてやつても宜しい譯であります。併し實際人の書いたのを見ましても、机の「ゑ」は阿行の「え」を書いたり、和行の「ゑ」を書いたり、波行の「へ」を書いたり、有らゆる假名を使つて居ります。さうして見ると人民一般は田とも云はず畠とも云はず、道のない所を縱横に歩いて居るのであります。實に亂雜極つて居る、むちやであります。そこで若し文部省に於て新しく發音的に訂して行きまして、阿行の「え」を書けと云ふ新道を開きますと云ふと、さうすると今度は道が二條出來ます。人民は又二條のどれにも由らずに縱横に田畠を荒して歩くかも知れないと思ふ。却つて問題は複雜になつて來る。さう云ふ關係は獨り此の假名遣のみではありませぬ。文法弖爾乎波にもございます。例之ば文部省で許容になつて居ります「得せしむ」と云ふ弖爾乎波がある。あれは「得しむ」と云ふ詞である。併し口語では決して「得しむ」も「得せしむ」もない。口語では「得させる」斯う云つて居る。「得さす」と云ふ詞になつて居る。だから口語の變遷即ち言語變遷には何の關係も無くして「得せしむ」と云ふ詞が生じて來た。何故生じて來たかと云ふと、是れは言語の變遷ではない、是れは文盲から生じ來たのである。「得しむ」といふ詞を知らない人が「得せしむ」と云ふ言葉を書いた。例の惡口の歌に「伊勢をかし江戸ものからに京きこえししとせしとは天下通用」と云ふ間違をひやかした歌があります。丁度あゝ云ふ譯で一時流行して來たのであります。斯う云ふことは又弖爾乎波ばかりではない、漢字にもあります。私は勿論何にも知らない、漢字も知りませぬ。併し模糊などと云ふ語はどの新聞を見ても「も」が米へんになつて居りますが、あれなどは木へんだと云ふことであります。斯う云ふのを一々變遷だと認めて來ると今度は新しい漢字までも拵へなければならぬことになつて來ようかと思ひます。兎に角私は今便利な新道が出來て居ると認めるのは觀察を誤つて居るのではないかと思ふ。それから街道の比喩に對して芳賀博士は又別な比喩を出されました。舊い街道は是れは街道ではない、廢道になつてしまつて居るのである。荊棘が一杯生えて居つて、それを古學者が刈除いて道にしようと思つたけれども、人民は從つて行かない。斯う云ふやうな比喩を出されました。私共の立場から見ると云ふと、此の假名遣は昔も或は國民の皆が行つた道ではない、初めも或少數者の行つた道であらう。それが段々に大きい道になつて來たのである。縱令中頃定家假名遣が出まして、一頓挫を來しましても少し荊棘が生えましても、荊棘を刈除いて、元との道を廣げて、國民が皆歩むやうな道にすると云ふことが、或は出來るものではないかと云ふやうな、妄想かもしれませぬけれども、想像を自分は有つて居ります。何處の國でも言語の問題に付いては國語を淨めようと云ふことを一の條件にして調査をするのであります。其の國語を淨めると云ふ側から行きますと云ふと、此の假名遣の道を興すのが一番宜しいかと思ふ。元の假名遣を興して、其の中へ新しい假名も採用する。それには先づ舊街道の荊棘を除いて人の善く歩けるやうにしてやります。そこへ持つて行つて文明式のMacadam式の築造をしようともAsphaltを布かうとも、何れでも宜しいと云ふ考へであります。 それから街道の比喩と共に許容と云ふことが先頃から問題になつて居ります。此の許容と云ふのはToleranceだと云ふ説明を聽きました。例之ば國で定つた宗教がありまして、人民が他の宗教を信じてもそれを許容する。それがToleranceである。Toleranceと云ふことを使はれる場合は多くは何か正則なものが先きへ認めてある。正則のものがなくてToleranceと云ふことはありませぬ。彼の弖爾乎波の許容になりましたときなどは、まだ元の語格を正則にしてある。それに背いて居る弖爾乎波を許容する。斯うなつて居ります。「得しむ」は正則である、「得せしむ」は許容すると云ふのでありますから、趣意は能く分つて居ります。此の比例が假名遣になつてから狂つて來ました。元の假名遣を正則にして發音的に新に作る假名遣を許容するなら宜しい。然るに發音的に新造する分の假名遣を正則にして、教科書に用ゐるのでありますと、それは許容ではない。之に就いては度々諸方から議論がありました。少し野卑なことを申しまするけれども、此度の假名遣に於けるところの許容と云ふことは稍々とんちんかんだと思ふのであります。此の許容に就きまして、どうも私共の見る所では、世間に便利な道が出來て居るから許容すると云ふ、其の便利な道が出來てゐると云ふ御認定が、稍々大早計である。早過ぎる場合が多いやうに思ふのであります。例之ば「得せしむ」と人が書いたところが、それを直に採上げて是れが言語の變遷であると云つて、是れが便利な新道であると云つて、御認めになつて御許容になる。そんな必要はないかと思ひます。文盲の人があつて「得しむ」と云ふ語を知らないで「得せしむ」と書く。決して「得しむ」が不便だから「得せしむ」にしようと云つて書くのではないのであります。さうすると新聞でも小説でもさう書く。それが媒介になつて次第に擴がる。是れも古びが着いて一つの歴史的のものになれば、誤謬から生じた詞でも認めんければならぬのでありますけれども、それを急いで認めることはどうも宜しくないかと思ひます。例之ば氣の狂つた人があつて道もない所を走り、衆人が附いて行く。直にそれが道だと云つて、大勢が附いて行くから道だと云つて直にそれを道にすると云ふのは、少し其の仕事が面白くないかと思ふ。間違を人のするのを跡を追駈けて歩いて居るやうに、吾々の立場から見ると見えるのであります。斯う云ふ工合で行きますと、例の漢字の間違なども、どうかすると流行つて來る。其の跡を追駈けると云ふと、新しく嘘の漢字の辭書を作らんければならぬ。嘘字盡を作ることになりはせぬかと思ひます。何處の國でも國語のことを調べるときには、國語を淨めると云ふことを運動の土臺にして居ります。それに反して斯う云ふ風な仕事をしまするのは國語を濁すのであります。勿論初め誤から生じましても、前に申しまする通り、時代を經て古びが着いて自然に新しい國語のやうになつたと云ふ場合には、無論それを取るべきであります。丁度華族のお仲間に新華族が出來て來るやうな譯であります。それは國語の歴史にも先例がある。例之ば「あらたし」と云ふ語がある。是れが「あたらし」となる。斯う云ふのは是れは口語の變遷に基いて新しい語を認めたのであります。それから同じ許容になつて居る弖爾乎波の中でも「せさす」を「さす」にするやうなことは、是れは口語の方で久しく一般に行はれて居る。斯う云ふのは是れは認めて宜しい。それから種々の漢語の字音に就きまして、間違の例が今までも引かれて居りますが、例之ば畜生と云ふのは本當は「きうしやう」だと申します。さう云ふのは「ちくしやう」と云ふ國語と認めて宜しい。新しい語で言ひましても輸出を「ゆしゆつ」と云ふ。此の位に固まつて來れば國語と認めるのに異義はないのであります。併し餘り早まつて認定をしないで、少しづゝ徐々に認定をするのが至當な方法であらうと思ふのであります。さう云ふやうに私は少數の人が用ゐて居つても、其の少數の人が國民の精華とも云ふべき人であるならば、其の用ゐて居るものを廣く國民に及ぼすと云ふことを圖りたいと云ふ考へであります。

 

此考へに付いて最も芳賀博士などのお説とは衝突を來すのであります。芳賀博士は必要不必要と云ふことを論ぜられます。多數の用ゐて居らぬものを多數に強付ける必要はないと云ふのであります。さう云ふことをする權能は文部大臣にあるかどうか疑はしいと、斯う云はれるのであります。芳賀博士の總ての御議論は實に達識な御議論であつて、感服して居ります。併し此の必要不必要の論、文部大臣にさう云ふ權能がありや否やと云ふ御論には、少し私は同意が出來ないのであります。言語の變遷は口語の上にあります。それは自然に行はれて行く。文語の方になりますと云ふと、是れは人工の加つたものである。假名遣も同樣である。併し文語になつてから初めて言語は完全になる。言語が思想を十分に表はすと云ふことが初めて文語になつてから完全になる。假名遣は其の文語の方の法則である。若し我邦の假名遣が廣く人民間に行はれて居なかつたならば、それは教育が遍く行はれて居らぬ爲であらうと思ふのであります。そこで丁度昔初めて假名が出來たときに、それを使ふことを當時の政府が人民一般に施し得た如く、今日の文部大臣が假名遣を一般に教へられると云ふことは正當なる權利と思ふ。權利ではない、義務である。教なければならぬのであると思ふ。之に反して文部大臣を始め教育の任に當つて居るものは、間違つたことを、正則に背いたことをしてはならぬかと思ふ。昔の話に羅馬のTiberius帝が或る時話をして語格を間違へた。さうすると傍に聽いて居たMarcellusと云ふ人が、今のは違つて居ると批難して云つた。さうするとCapitoと云ふ人が聽いて居て、帝王の口から出た詞は立派な拉甸語であると斯う云ひました。さうするとMarcellusの云ふには、成程帝王は人民に羅馬の公民權を與へることは出來よう、併し新しい言語を作ることは出來ない。斯う云つたと云ふ。正則に反いたことをすると云ふ權能は帝王と雖どもない。之が必要不必要の論であります。
併しながら必要不必要の論の外にもう一つ論があります。假名遣を國民一般に行はうと云ふことは不可能であると云ふ論があります。此の方の側は大槻博士の御論の中にありました。其の中の最も有力なる論據として仰しやるには、かうして委員が大勢居るけれども委員の中で一人でも假名遣を間違へないものはないと云ふのでありました。實に其の通りでありまして、自分なども始終間違へますけれども、間違つて居ても、間違つたことは人に聽いて訂して行かう、子供にも間違つて居ないことを教へてやつて、少しでも正則の方に向けようと云ふことを考へて居るのであります。當局に於ては不可能とまでは申されませぬけれども、困難だと云ふことは申されてあります。是れは一般にさう云つて居ります。困難となれば程度問題であつて、不可能ではないのであります。現に當局に於ては假名遣にも人の意識に入つて居る部分と意識に入つて居ない部分とがあると云ふことを言つて居られる。其の意識に入つて居る部分はいたはつて存して置いて、意識に入つて居ないものを直すと、斯う云ふ御論であります。併し或るものは意識に入つて居ると云ふことを認めると云ふと、未だ意識に入つて居らない部分も或は仕方に依つては意識に入り得るものではあるまいかと思ふ。扨古學者が假名遣のことをやかましく論じて居るのに、例之ば本居の遠鏡の如き、口語で書く段になると、決して假名遣を應用して居らぬと云ふことを、假名遣を一般に普通語に用ゐるのは不可能である、或は困難であると云ふ證據に引かれますけれども、是れは少し性質が違ふかと思ふ。古學者達は文語と云ふものは貴族的なもののやうに考へて居りますから。そこで貴族の階級を極く嚴重に考へまして、例之ば印度の四姓か何かのやうに考へまして、ずつと下に居る首陀羅とか言ふやうな下等な人民は、是れは論外だ、斯う云ふ風に見て居りますから、所謂俗言と云ふものを卑しんだ爲に、俗言のときは無茶なことをしたのであります。若し假名遣を俗言に應用する意があつたならば、所謂俗言を稍々重く視たならば、あんなことはしなかつたらうと思ふのであります。それでありますから芳賀博士が、若し本居先生などが今在つたならば決して假名遣を國民に布くなどと云ふことは云はれないだらうと云はれるのは、同意が出來兼ます。本居先生が今在つたならば、必ずや國民に假名遣を教へようとしただらうと思ひます。本居先生のみならず堀秀成先生の如きも、是れは死なれてから間もありませぬけれども、若し今日居られたら矢張假名遣を國民に行はうとしたであらうと思ふ。明治の初年に文部省では假名遣を小學校に使用しました。此の結果に就いても私は見方を異にして居る。たしか江原君でありましたか、存外此の假名遣は兒童に歡迎せられたと云ふことを言はれました。私もその時はまだ半分子供でありましたが、確に歡迎したのであります。若し彼の時の文部省の方針が確定して動かずに今日まで繼續せられて居つたならば、或は餘程人民に廣く假名遣が行はれて居りはすまいかと思ふ。稍々上の學校、中學以上になつて假名遣を誤る例を頻りに擧げられて、それを以て困難若しくは不可能の證明にしようとせられますけれども、是れは周圍に誤が多い、新聞紙を讀んでも小説を讀んでも、皆亂雜な假名遣である、目に觸れるものが皆間違つて居るのでありますから、縱令學校だけでどう教へても誤まるのであります。併し明治初年から今日まで若し假名遣を正しく教へることを努力せられたのであるならば、餘程新聞記者や小説家にも假名遣を知つて居る者が今日は殖えて居まして、新聞や小説が正しい假名を多く書くやうになつて居はすまいかと思ひます。さうしたならば中學以上の人などはそんなに間違へずに書きはすまいかと思ふのであります。  

 

それから、然らば假名遣を若し國民に教へようとするならば、どうしたらば好いかと云ふその方法手段であります。是れはたしか黒澤翁麿あたりの工夫でありませうがか、少數のむつかしい假名から教へて行くと云ふと、後との容易しいのは自然に分ると云ふ方法があります。今日でも假名遣を教へる人は大抵さう云ふ手段を執るやうであります。一種の記憶法のやうなものであります。斯う云ふ記憶法でありますが、是れなどを猶研究したならば、教へる方法は今日よりも一層完全に出來得るかと思ふのであります。假名遣の困難と云ふことに就いては主として字音假名遣のことが擧げられてあります。此の字音のことは洵に困難な問題でありまして、古い所の、古いと云つても是れは十八世紀ではありまするが、僧文雄の「磨光韻鏡」から以來、本居の「漢字三音考」と「字音假名遣」、文政中の太田全齋の「漢語音圖」、現存して居られる木村正辭先生の「漢語音圖正誤」、先づ斯う云ふやうな系統で、字音の研究がしてある。大槻先生の仰しやつた通りに實に是れは頭痛のするやうな本であります。詩を作つたことのない者などには所詮覺えられぬと云ふ御論は尤もに聽きました。併しながら是れも其の極く困難な部分は殆ど大槻博士の御演説の中に網羅してあつたやうに思ふ。兎に角一場の御演説で困難な部分は網羅し得られるのでありまして、其の外は割合に容易しいのであります。此の字音の假名遣に對する、是れに處する道を考へまするには、漢語がどの位日本化して居るかと云ふ程度を研究する必要があります。先刻申します通り全く字音が國語に化して居るのがある。それからそれに亞ぎまして、「文」「錢」の外に、あゝ云ふ類の之に準ずべきものがあります。例之ば「天地」と云ふことは「あめつち」よりか「てんち」の方が行はれて居る。是位に日本化すれば是れは國語と見なければならぬ。それに反して所謂漢字に隱れて居る字音と云ひまするものは、日本化した程度の極く低いものである。字音に隱れて居るから之れを改めることは容易だと云つてありまするけれども、字音に隱れて居る程ならば改めないでも宜しいかも知れないと云ふ一方には理由が立ちます。そこでさう云ふ日本化して居る程度の低いものは除いて、十分日本化して居るものを小學等に教へると云ふことになりますると云ふと、字數が自然に限られることになる。其の少數の字數ならば字音假名遣と雖ども教へられるかと思ふのです。そんなら久しく音の訛つて居るものはどうするか。例之ば今の「輸出」が「ゆしゆつ」になつて居ると云ふやうなことであります。斯う云ふのは「ゆしゆつ」と云ふ新國語と認めます。是れは音でない、訓だと思へば宜しいのであります。是れは字音としての取扱を停止すれば宜しいのであります。然らば未だ字音の考へられて居らぬものはどうするか。大槻先生は烏帽子の「烏」は「え」であるか「ゑ」であるかと云ふ疑を御引きになりました。かういふことこそ國語調査會と云ふやうな所で定案を作つて、兎に角一つの案を作つてそれを公認せられることが必要であるかと思ふのであります。
併し困難は獨り字音ばかりではない。國語の假名遣にもあります。此の場合では殊に少數のむつかしい假名から教へると云ふ手段を研究して、その方法をもう少し完全に作れば、假名遣を廣く教へることが出來ようかと思ひます。諮詢案では「動詞の活用から出て居る假名」と云ふものだけを保存することになつて居りまするが、其の御趣意は至極結構な御趣意と思ひます。併し實際の案に表はれて居るところはどうも容易周到でないやうに思ふのであります。例之ば和行の假名を以て言つて見ますると「居る」と云ふ語は假名遣を存して置く。是れが名詞になつて、例之ば坐に居る「位」、「圓居」、「芝居」と云ふ假名になると阿行の「い」になるやうに思はれる。又「据う」と云詞でも「すう」と云ふ假名遣が存してある。「つきすゑ」の「つくゑ」又「いしずゑ」の「ゑ」になると、是れは阿行になつてしまふ。斯う云ふことがあつて見ると云ふと、どうも境界がはつきりしないやうに思ひます。どうもこの案はまだ十分熟して居るまいかと思ひます。教育團とか云ふものの意見と云ふのが、此の頃新聞に出て居りますが、大いに參考すべきことがあるやうに見受けます。大體の論は私は取りませぬけれども、此の諮詢案に對する教育團の意見と云ふものには宜しいところがあるかと思ひます。又國語の假名遣で未だ考へてないもの、例之ば「くぢら」か「くじら」か、「たはら」か「たわら」かと云ふやうなこと、是れも先刻の字音と同じく、斯う云ふことこそ國語調査會などで研究せられて其の結果を公認せられたら宜しいかと思ひます。兎に角字音にも國語にも假名遣に困難はありますけれども、凌ぐべからざる程の困難はないやうに思ひます。  

 

そこで自分の意見を尚ほ約めて申しますれば次の通りであります。第一に假名遣は成程性質上から保守的なものである。併しながら發音的の側から見ても大なる不都合があるものとは認めない。夫故に教科書等では矢張假名遣の正則として之を用ゐられたいと云ふ、此點は陸軍省も一般に其の意見であります。第二は假名遣は發音的に改めると云ふことを爲し得るものである。政府は極く愼重に調査して漸を以て改められるが宜しい。其の時には國語を淨めると云ふことを顧慮して、徐々に直されたい。斯う云ふのであります。それから次に第三に此の假名遣を直すに先立つて、國語にも字音にも假名遣の未定問題があるから、さう云ふことは學者の團體にでも命じて兎に角定めさせてそれを公認せられたい。斯う云ふのであります。そこで此の諮詢案と云ふものはどうも未だ熟して居らぬやうに思ふ。尚ほ附け加へて申したい意見があります。どうか政府に於ては純粹に發音による國語の書き方と云ふことを一層深く研究せられて、丁度西洋で發音學者、Phonetikの學者がいろいろ研究して居るやうに國語を成るたけ完全に發音的に書くと云ふ方法を研究せられたいと斯う思ふのであります。どうも唯今改正案になつて居る發音的の假名と云ふものは發音的でない所があるやうに思ふ。矢野君でありましたか、斯う言はれました、「かう」だの「こう」だの「かふ」だの「こふ」だのを「こう」と書く、それは矢張發音的に「こお」と「お」の字を書いた方が宜しいと云ふことを言はれましたが、御尤もと思ひます。古い催馬樂などに阿行の母音を後へ添へて書いたやうな例があるかと思ふ。是れなどは寧ろ發音的で書くと云ふ側からは「こう」と書かずに、阿行の「お」を使つて「こお」と書いた方が宜しいやうに思ひます。其の外發音の必要なる研究の他の例を言ひますと、外國の語を書くときに英語で云ふ「あある」と「える」などは別々に表はされない。是れなども何か符號を以て表はすことが必要である。さうなればrとlの音を別々に表はすことが出來ると思ふ。さう云ふ發音的に國語を完全に書く法を十分研究して置かれると云ふと、其中からどれだけのものを採つて假名遣に入れると云ふときの基礎にならうと思ふ。さう云ふ元帳を作つて置いてそれから靜に改正をしたいのであります。それからもう一つ申して置きたいのは、小學などの教育に新しい發音假名を教へると云ふことは是れは混雜の原因となる。それは教なくても宜しいと云ふことであります。是非小學校の初めから假名遣は正しい假名遣を教へるが好い。教科書は正則の假名遣で書いてやりたい。そこで子供に自身で何か書かせる。書かせる段になると云ふと或は發音的に書くかも知れぬ。其の時に發音的に書いたのを誤としない、それを認めてやる。こんな時の教員の參考には、今云つたやうな發音的の書き方の調査が出來て居つたならば、それを使用することが出來るだらう。發音的に書いたのを、それを誤には勘定しない、斯うして行きます。さうすると云ふと一向差支ない。是れが本當の許容である。是れなれば許容と云ふ詞は正當に用ゐられて居るのであります。そこで目に觸れるものは悉く本當の假名遣になつて來る。斯の如くにしたならば、段々小學校から中學校に行くに從つて假名遣を覺えるだらうと思ひます。大略斯う云ふ意見であります。
(明治四十一年六月)  
 
空車 / 森鴎外

 

むなぐるまは古言である。これを聞けば昔の繪卷にあるやうな物見車が思ひ浮べられる。
總て古言はその行はれた時と所との色を帶びてゐる。これを其儘に取つて用ゐるときは、誰も其間に異議を挾むことは出來ない。しかしさうばかりしてゐると、其詞の用ゐられる範圍が狹められる。此範圍はアルシヤイスムの領分を限る線に由つて定められる。そして其詞は擬古文の中にしか用ゐられぬことになる。
これは窮屈である。更に一歩を進めて考へて見ると、此窮屈は一層甚だしくなつて來る。何故であるか。今むなぐるまと云ふ詞を擬古文に用ゐるには異議が無いものとする。ところで擬古文でさへあるなら、文の内容が何であらうと、古言を用ゐて好いかと云ふに、必ずしもさうで無い。文體にふさはしくない内容もある。都の手振だとか北里十二時だとか云ふものは、讀む人が文と事との間に調和を闕いでゐるのを感ぜずにはゐない。
此調和は讀む人の受用を傷ける。それは時と所との色を帶びてゐる古言が濫用せられたからである。
しかし此に言ふ所は文と事との不調和である。文自體に於ては猶調和を保つことが努められてゐる。これに反して假に古言を引き離して今體文に用ゐたらどうであらう。極端な例を言へば、これを口語體の文に用ゐたらどうであらう。
文章を愛好する人は之を見て、必ずや憤慨するであらう。口語體の文は文にあらずと云ふ人は姑く置く。これを文として視ることを容す人でも、古言を其中に用ゐたのを見たら、希世の寶が粗暴な手に由つて毀たれたのを惜んで、作者を陋とせずにはゐぬであらう。
以上は保守の見解である。わたくしはこれを首肯する。そして不用意に古言を用ゐることを嫌ふ。
しかしわたくしは保守の見解にのみ安住してゐる窮屈に堪へない。そこで今體文を作つてゐるうちに、ふと古言を用ゐる。口語體の文に於ても亦恬としてこれを用ゐる。著意して敢て用ゐるのである。
そして自分で自分に分疏する。それはかうである。古言は寶である。しかし什襲してこれを藏して置くのは、寶の持ちぐされである。縱ひ尊重して用ゐずに置くにしても、用ゐざれば死物である。わたくしは寶を掘り出して活かしてこれを用ゐる。わたくしは古言に新なる性命を與へる。古言の帶びてゐる固有の色は、これがために滅びよう。しかしこれは新なる性命に犠牲を供するのである。わたくしはこんな分疏をして、人の誚を顧みない。
わたくしの意中に言はむと欲する一事があつた。わたくしは紙を展べて漫然空車と題した。題し畢つて何と讀まうかと思つた。音讀すれば耳に聽いて何事とも辨へ難い。然らばからぐるまと訓まうか。これはいかにも懷かしくない詞である。その上輕さうに感ぜられる。痩せた男が躁急に挽いて行きさうに感ぜられる。此感じはわたくしの意中の車と合致し難い。そこでわたくしはむなぐるまと訓むことにした。わたくしは著意して此古言の帶びてゐる時と所との色を奪つて、新なる語としてこれを用ゐるのである。そして彼の懷かしくない、輕さうに感ぜさせるからぐるまの語を忌避するのである。
空車はわたくしの往々街上に於て見る所のものである。此車には定めて名があらう。しかしわたくしは不憫にしてこれを知らない。わたくしの説明に由つて、指す所の何の車たるかを解した人が、若し其名を知つてゐたなら、幸に誨へて貰ひたい。
わたくしの意中の車は大いなる荷車である。其構造は極めて原始的で、大八車と云ふものに似てゐる。只大きさがこれに數倍してゐる。大八車は人が挽くのに此車は馬が挽く。
此車だつていつも空虚でないことは、言を須たない。わたくしは白山の通で、此車が洋紙をきん(禾扁に旁が國構への中に禾)載して王子から來るのに逢ふことがある。しかしさう云ふ時には此車はわたくしの目にとまらない。
わたくしは此車が空車として行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覺えしむる。この大きい車が大道狹しと行く。これに繋いである馬は骨格が逞しく、榮養が好い。それが車に繋がれたのを忘れたやうに、緩やかに行く。馬の口を取つてゐる男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の靈ででもあるやうに、大股に行く。此男は右顧左眄することをなさない。物に逢つて一歩を緩くすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。傍若無人と云ふ語は此男のために作られたかと疑はれる。
此車に逢へば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。此車の軌道を横るに會へば、電車の車掌と雖も、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そして此車は一の空車に過ぎぬのである。
わたくしは此空車の行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしは此空車が何物をか載せて行けば好いなどとは、かけても思はない。わたくしがこの空車と或物を載せた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思はぬ事もまた言を須たない。縱ひその或物がいかに貴き物であるにもせよ。
(大正五年七月) 
 
津下四郎左衛門 / 森鴎外

 

津下四郎左衛門は私の父である。(私とは誰かと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名は只聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸本と同じく朽ちたと云はれても、私はさうでないと辯ずることが出来ない。
かうは云ふものの、若し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。其一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎の首を取つた男である。」
丁度世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠先生を知つてゐる。
私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥ある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎ある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。
此禍福とそれに伴ふ晦顕とがどうして生じたか。私はそれを推し窮めて父の冤を雪ぎたいのである。
徳川幕府の末造に当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。苟も気節を重んずるものは皆尊王に趨つた。其時尊壬には攘夷が附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらもニつ宛のものを一つ一つに引き離しては考へられなかつたのである。
私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。是は群集心理の上から云ふのである。歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧のある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃を食はせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするに若くはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹してゐなかつたのである。
開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時外夷とせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我に優つた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれを暁らなかつた一人である。
弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某と云ふ蘭法医に治療を託した。当時元田永孚などと交つて、塾を開いて程朱の学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。
嘉永五年に池辺啓太が熊本で和蘭の砲術を教へた時、横井は門人を遣つて伝習させた。池辺は長崎の高鳥秋帆の弟子で、高島が嫌疑を被つて江戸に召し寄せられた峙、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。
翌年横井が四十五歳になつた時、Perryが横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの便節に逢はうとして長崎へ往つた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者と智者との気息が漸く通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎に遣つてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝義邦と識合になつて、勝と横井とが交通し始めた。これも智者の交である。慶応二年五十八歳の時横井は左平太、太平の二人の姪を米国に遣つた。海軍の事を学ばせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎と曰ひ、弟を沼川三郎と曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平大の伊勢太郎に譲つた。 

 

智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光を晦ますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹しなかつたのは、智慧の秘密が善く保たれたのである。此間の消息を一のdrameの如くに、観照的に錬稠して見せたのは、梧陰存稿の中に、井上毅の書き残した岩倉具視と玉松操との物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村幽居の「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数が愚だからである。
私は残念ながら父が愚であつたことを承認しなくてはならない。父は愚であつた。しかし私は父を辯護するために、二筒条の事実を提出したい。一つは父が青年であつたと云ふこと、今一つは父の身分が低かつたと云ふことである。
父が生れた時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰は今の洋行帰と同じである。父が横井を刺した時、横井は六十一歳で、参与と云ふ顕要の地位にをつた。父は二十二歳の浮浪の青年であつた。
智者横井は知行二百石足らずの家とは云ひながら、兎に角細川家の奉行職の子に生れたのに、父は岡山在の里正の子に生れた。伊木若狭が備中越前鎮撫総督になつた時、父は其勇戦隊の卒伍に加はらうとするにも、幾多の抵抗に出逢つたのである。
人の智慧は年齢と共に発展する。父は生れながらの智者ではなかつたにしても、其の僅に持つてゐた智慧だに未だ発展するに遑あらずして已んだのかも知れない。又人の智意は遣遇によつて補足せられる。父は縦しや愚であつたにしても、若し智者に親近することが出来たなら、自ら発明する所があつたのかも知れない。父は縦しや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、遂にconsacresの群に加はることが出来ずに時勢の秘密を覗ひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議に渉ることを禁じ得ない。
私の家は代々備前国上道郡浮田村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼村と云つた所で、宇喜多直家の城址がある。其城壕のまだ残つてゐる士地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ぱかりで、何一つ人の目を惹くものもない田舎である。
私の祖父を里正津下市郎左衛門と云つた。旧家に善くある習で、祖父は分家で同姓の家の娘を娶つた。祖母の名は千代であつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠で岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母ではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。
父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太であつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏の丈と云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂の間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を間けば、其詞の中に何某は「正義」の人、何某は「因循」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧ろ大胆な、進取的な策であるべき害なのに、それが因循と云はれたのは、外夷の脅迫を懾れて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄に対して和親を議するのは奸臣だと云ふことが書いてあるのが、心理上にreminiscenceとして作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜のやうな歴史上の人物を憎む情が潜んでゐたのである。鹿太は早く大きくなりたいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。 

 

文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髮を剃り落した。骨組の逞ましい、大柄な子が、大綰総に結つたので天晴大人のやうに見えた。通称四郎左衛門、名告は正義となつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池国家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、公には矢張市郎で通つてゐた。
鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにして親んでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛の内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て間西に鳴つてゐたのである。
文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名を襲いで鹿太と呼ぱれた。
慶応三年の冬、此年頃●(酉に旁の冠がが囚で脚が皿:うん)醸せられてゐた世変が漸く成熟の期に達して、徳川慶喜は大政を奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主池田越前守茂政の家老に、伊木若狭と云ふ尊王家があつて、兼て水戸の香川敬三、因幡の河田左久馬、長門の桂小五郎等を泊らせて置いた位であるので、翌年明治元年正月に、此伊木が備中越前鎮撫総督にせられた。伊木の手には卒三百人しか無かつた。それでは不足なので、松本箕之介が建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募つたのである。四郎左衛門はすぐにこれに応ぜようとしたが、里正の子で身分が低いので斥けられた。
そのうち勇戦隊はもう編成せられて、能呂勝之進がそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程もない時、能呂がふと前方を見ると、隊の先頭を少し離れて、一人の男が道の真中を潤歩してゐる。隊の先導をするとでも云ふやうに見える。骨組の遑しい大男で、頭に鳥帽子を戴き、身に直垂を著、奴袴を穿いて、太刀を弔つてゐる。能呂は隊の行進を停めて、其男を呼ぴ寄せさせた。男は阿部守衛の門人津下四郎左衛門と名告つて、さて能呂にかう云つた。自分は兼てより尊王の志を懷いてゐるものである。此度勇戦隊が編成せられるに就いては、是非共其一員に加はりたいので、早速志願したが、一里正の子だと云ふ廉で御採用にならなかつた。しかし隊の勇ましい門出を余所に見て、独り岡山に留まるに忍ぴないから、若し戦闘が始まつたら、徴力ながら応援いたさうと思つて、同じ街道を進んでゐるのだと云つた。能呂は其風采をも口吻をも面白く思つて、すぐに伊木に請うて、四郎左衛門を隊伍に入れた。四郎左衛門が二十一歳の時である。
松山の板倉伊質守勝静は老中を勤めてゐた身分ではあるが、時勢に背き王師に抗すると云ふ意志は無かつたので、伊木の隊は血を流さずに鎮撫の目的を遂げた。それから隊が六月まで約半年間松山に駐屯して、そこで伊木は第二隊を募集した。備中の藤島政之進が指揮した義戦隊と云ふのがそれである。
或る日城外の調練場で武藝を試みようと云ふことになつて、備前組と備中組とが分かれて技を競べた。然るに撃剣の上手は備中組に多かつたので、備前組が頻に敗を取つた。其時四郎左衛門が出て、備中組の手剛い相手数人に勝つた。伊木は喜んで、自分の乘つて来た馬を四郎九衛門に与へた。競技が済んで帰る時、四郎左衛門が其馬に騎つて行くと、沿道のものが伊木だと思つて敬礼をした。
六月に伊木は勇戦義戦の両隊を纏めて岡山に引き上げた。両隊は国富村操山の少林寺に舎営することになつた。四郎左衛門は隊の勤務の旁、伊木の分家伊木木工の側雇と云ふものになつて、撃剣の指南などをしてゐた。
四郎左衛門は勇戦隊にゐるうちに、義戦隊長藤鳥政之進の下に参謀のやうな職務を取つてゐた上田立夫と心安くなつた。二人が会合すれぱ、いつも尊王攘夷の事を談じて慷慨し、所謂万機一新の朝廷の措置に、動もすれば因循の形迹が見れ、外国人が分外の尊敬を受けるのを慊ぬことに思つた。それは議定参与の人々の間には、初から開国の下心があつて、それが漸く施政の上に発露して来たからである。
或る日二人は相談して、藩籍を脱して京都に上ることにした。偕に輦轂の下に住んで、親しく政府の施設を見と云ふのである。二人の心底には、秕政の根本を窮めて、君側の奸を発見したら、直ちにこれを除かうと云ふ企図が、早くも此時から萌してゐた。 

 

二人は京都に出た。さて議定参与の中で、誰が洋夷に心を傾けてゐるかと探つて見た。其時二人の目に奸人の巨魁として映じたのは、三月に徴士となつて熊本から入京し、制度局の判事を縋て、参与に進んだ横井平四郎であつた。
横井は久しく越前侯松平慶永の親任を受けてゐて、公武合体論を唱へ、慶永に開国の策を献じた男である。其外大阪の城代土屋釆女正寅直の用人大久保要に由つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸斉昭に上書したこともある。世間では其論策の内容を錯り伝へて、廃帝を議したなどゝ云つたり、又洋夷と密約して、基督教を公許しようとしてゐるなどゝ云つたりした。
公武合体論者の横井が、純枠な尊王家の目から視て灰色に見えたのは当然の事であるが、それが真黒に見えたのは、別に由つて来たる所がある。横井は当時の智者ではあつたが、其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかつた。横井は攻治の歴史の上から、共和政の価値を認めて、アテエネに先だつこと数百年、尭舜の時に早く共和政が有つたと断じた。「人君何天職。代天治百姓。自非天徳人。何以●極天命。所以尭巽舜。是真為大聖。」これは共和政を日本に行はうと云ふ意ではない。横井は又ヨオロツパやアメリカで基督教が、人心を統一する上に於いて、頗る有力であるのを見て、神儒仏三教の不振を歎いた。「西洋有正教。其教本上帝。戒律以導人。勧善懲悪戻。上下信奉之。因教立法制。治教不相離。是以人奮励。」これは基督教を日本に弘めようと云ふ意ではない。同じ詩の未解にも、「嗟乎唐虞道、明白如朝霽、捨之不知用、甘為西洋隷」と云つてある。横井は政治上には尊王家で、思想上には儒者であつた。甘んじて西洋の隷となることを慣つた心は、攘夷家の心と全く同じである。しかし当時の尊王攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であつたので、遂に横井を誤解することになつた。
横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客が踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、創のために命を隕したが、横井は刺客の袖の下を潜つて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子巳熊は仇討に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での拳動が、いかにも卑怯であつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫はれた。
上田立夫と四郎左衛門とは、時機を覗つて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠に乘つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損じてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復之丞、跡の二人は皆十津川の人で、前岡力難、中井刀彌雄と云つた。
四郎左衛門は土屋信雄と変名して、京都粟田白川橋南に入る堤町の三宅典膳と云ふものゝ家に潜伏してゐた。そして時々七人の同志と会合して、所謂斬奸の手筈を相談した。然るに生惜横井は腸を傷めて、久しく出勤しなかつた。邸宅の辺を徘徊して窺ふに、大きい文箱を持つた太政官の使が頻に往反するぱかりである。
同志の人々はいつそ邸内に踏み込んで撃たうかとも思つた。しかし此秘密結社の牛耳を執つてゐた上田が聴かなかつた。なぜと云ふに、横井は処士に忌まれてゐることを好く知つてゐて、邸宅には十分に警戒をしてゐた。そこへ踏み込んでは、六人のカを以てしても必ず成功するとは云はれなかつたからである。
歳碁に迫つて、横井は全快して日々出勤するやうになつた。同志の人々は会合して、来年早々事を挙げようと議決した。さて約束が極まつた時、四郎左衛門は訣別のために故郷へ立つた。 

 

四郎左衛門が京都に上つてからも、浮田村の家からは市郎左衛門が終始密使を遣つて金を送つてゐた。同志の会合は人の耳目を欺くためにわざと祇園新地の揚屋で催されたが、其費用を払ふのは大抵四郎左衛門であつた。色が白く、柔和に落ち著いてゐて、酒を飲んでも行儀を崩さぬ四郎左衛門は、藝者や仲居にもてはやされたさうである。或る時同志の中の誰やらがかう云つた。かうして津下にばかり全を遣はせては気の毒だ。軍資を募るには手段がある。我々も人真似に守銭奴を脅して見ようではないかと云つた。其時四郎左衛門がきつと居直つて、一座を見廻してかう云つた。我々の交は正義の交である。君国に捧ぐぺき身を以て、盗賊にまぎらはしい振舞は出来ない。仮に死んでしまふ自分は瑕瑾を顧みぬとしても、父祖の名を汚し、恥を子孫に遺してはならない。自分だけは同意が出來ないと云つた。
大晦日の雪の夜であつた。津下氏の親類で、同じ浮田村に住んでゐた杉本某の所から、津下の留守宅へ使が来た。急用があるから、在宅の人達は皆揃つて、こつそり来て貰ひたいと云ふことであつた。市郎左衛門夫婦は何事かと不審に思つたが、よめの丈には、兎に角急いで支度をせいと言ひ附けた。若しや夫の身の上に掛かつた事ではあるまいかと心配しつゝも、祖父母の跡に附いて、当時二十二歳の母は、六歳になつた私を連れて往つた。杉本方に待つてゐたのは父四郎左衛門であつた。私は幼かつたので、父がどんな容貌をしてゐたか、はつきりと思ひ浮べることだに出来ない。只「坊主好く来た」と云つて、徴笑みつゝ頭を撫でゝくれたことだけを、微かに記憶してゐる。両親と母とには、余り逗留が長くなるので、一寸逢ひに帰つたと云つたさうである。父は夜の明けぬうちに浮田村を立つて、急いで京都へ引き返した。
明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠が、寺町を御霊社の南まで来掛かつた。鴛籠の両脇には門人横山助之丞と下津鹿之介とが引き添つてゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取が附いて供をしてゐる。忽ち一発の銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間から、五六人の士が刀を抜き連れて出た。上田等の同志のものである。短銃は駕籠舁や家来を威嚇するために、中井がわざと空に向つて放つたのである。
駕籠舁は駕籠を棄てゝ逃げた。横井の門人横山、下津は、兼て途中の異変を慮つて、武藝の心得のあるものを選んで附けたのであるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従著等を支へて寄せ附けぬやうにする。
上田と四郎差衛門とは一歩後に控へて見てゐると、駕籠の戸を開いて横井が出た。列藩徴士中の高齢者で、少し疎になつた白髪を髷に束ねてゐる。当年六十一歳である。少しも驚き慌てた様子はなく、抜き放つた短刀を右手に握つて、冷かに同志の人々を見遣つた。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたのである。今日は逃げられぬと見定めて、飽くまで闘はうと思つてゐる。
上田が「それ」と、四郎左衛門に目くはせして云つた。四郎左衛門は只一打にと切つて掛かつた。しかし横井は容易く手元に附け入らせずに、剣術自慢の四郎差衛門を相手にして、十四五合打ち合つた。此短刀は今も横井家に伝はつてゐるが、刃がこぼれて簓のやうになつてゐる。横井が四郎左衛門の刀を防いでゐるうちに、横山は鹿鳥の額を一刀切つた。鹿鳥は血が目に流れ込むので二三歩飛ぴしざつた。横山が附け入つて討ち果さうとするのを、上田が見て、横合から切つて掛かつた。其勢が余り烈しかつたので、横山は上田の腕に徴傷を負はせたにも拘らず、刃を引いて逃げ出した。上田は追ひ縋つて、横山の後頭を一刀切つて引き返した。
四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒を発し、勢鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髷を掴んで首を斬つた。四郎左衛門は「引上げ」と一声叫んで、左手に横井の首を提げて駆け出した。寺町通の町人や往来の人は、打ち合ふ一群を恐る恐る取り巻いて見てゐたが、四郎左衛門が血刀と生首とを持つて来るのを見て、ざつと遣を開いた。此時横井の門人下津は、初め柳田に前額を一刀切られたのに屈せず、奮闘した末、柳田の一肩尖を一刀深く切り下げた。柳田は痛痍にたまらず、ばたりと地に倒れた。下津は四郎左衛門が師匠の首を取つて逃げるのを見て、柳田を棄てゝ、四郎左衛門の跡を追ひ掛けた。 

 

下津が四郎左衛門を追ひ掛けると同時に、前岡、中井に支へられてゐた従者の中から、上野が一人引きはづして、下津と共に駆け出した。
上野は足が下津より早いので、殆ど四郎左衛門に追ひ附きさうになつた。四郎左衛門は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強く中つた。上野がたじろく隙に、四郎左衛門は逃げ伸びた。
上野が四郎左衛門を追ひ掛けて行つた跡で、従者等は前岡、中井に切りまくられて、跡へ跡へと引いた。前岡、中井は四郎左衛門が横井を討つたのを見たので方角を換へて逃げた。横山に額を切られた鹿島も、上田も、隙を覗つて逃げた。同志のうちで其場に残つたのは深痍を負つた柳田一人であつた。四郎左衛門の投げ附けた首を拾つた上野と一しよに下津が師匠の骸の傍へ引き返す所へ、横山も戻つて来た。取り巻いてゐた群集の中から、其外の従者が出て来て、下津等に手伝つて、身首所を異にしてゐる骸を駕籠の内に収めた。市中の警戒をしてゐた警吏が大勢来て、柳田を捕へて往つたのは、此時の事であつた。四郎左衛門は市中を一走りに駈け抜けて、田團道に出ると、刀の血を道傍の小河で洗つて鞘に納め、それがら道を転じて嵯峨の三宅左近の家をさして行つた。左近は四郎左衛門が三宅典膳の家で相識になつた剣客である。左近方の裏には小さい酒屋があつた。四郎左衛門はそこで酒を一升買つて、其徳利を手に提げて、竹藪の中にある裏門から這入つた。左近方には四郎左衛門が捕はれて死んだ後に、此徳利が紫縮緬の袱紗に包んで、大切に蔵つてあつたさうである。
捕へられた柳田は一言も物を言はず、又取調を命ぜられた裁判官等も、強ひて問ひ窮めようともせぬので、同志の名は暫く知られずにゐた。しかし柳田と往来したことのある人達が次第に召喚せられて中には牢屋に繋がれたものがある。
四郎左衛門は毎日市中に出て、捕へられた柳田の生死を知らうと思ひ、又どんな人が逮捕せられたか知らうと思つて、諸方で問ひ合深せた。柳田は深痍に悩んでゐて、まだ死なぬと云ふこと、同志の名を明さぬと云ふことなどは、市中の評判になつてゐた。召喚せられて役所に留め置かれたり、又捕縛せられて牢屋に入れられたりしたのは、多くは尊王攘夷を唱へて世に名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉の中瑞雲斎で、これは長男克已、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢した。四郎左衛門の同郷人では、海間十郎左衛門が召喚せられたが、これは一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助すると云ふ評判のあつたものである。
市中の評判は大抵同志に同情して、却つて殺された横井の罪を責めると云ふ傾向を示した。柳田の沈黙が称へられる。同志の善く秘密を守つて、形跡を晦ましたのが驚歎せられる。それには横井の殺された二三日後に、辻々に貼り出された文書などが、影響を与へてゐるのであつた。此文書は何者の手に出でたか、同志の干り知らぬものであつたが、其文章を推するに、例の落首などの如き悪戯ではなく、全く同志を庇護しようとしたものと見えた。貼札は間もなく警吏が剥いで廻つたが、市中には写し伝へたものが少く無かつた。其文はかうである。
「去んぬる五日、徴士横井平四郎を、寺町に於いて、白日斬殺に及ぴし者あり。一人は縛に就、余党は厳しく追捕せられると云。右斬奸之徒、吾未だ其人を雖不知、全く憂国之至誠より出でたる事と察せらる。夫れ平四郎が奸邪、天下所皆知也。初め旧幕に阿諛し、恐多くも廃帝之説を唱へ、万古一統の天日嗣を危うせんとす。且憂国之正士を構陥讒戮し、此頃外夷に内通し、耶蘇教を皇国に蔓布することを約す。又朝廷の急務とする所の兵機を屏棄せんとす。其余之罪悪、不遑枚挙。今王政一新、四海属目之時に当りて、如此大奸要路に横り、朝典を敗壊し、朝権を毀損し、朝土を惑乱し、堂々たる我神州をして犬羊に斉しき醜夷の属国たらしめんとす。彼徒は之を寛仮すること能はず、不得已斬殺に及ぴしものなり。其壮烈果敢、桜田の挙にも可比較。是故に苟有義気著、愉快と称せざるはなし。抑如此事変は、下情の壅塞せるより起る。前には言路洞開を令せらると雖も、空名のみにして其実なし。忠誠●(魚扁に旁が更)直之者は固陋なりとして擯斥せられ、平四郎の如き朝廷を誣問する大奸賊登庸せられ、類を以て集り、政体を頽壞し、外夷愈跋扈せり。有志之士、不堪杞憂、屡正論●(言扁に旁が黨)議すと雖、雲霧濛々、毫も採用せられず。乃ち断然奸魁を斃して、朝廷の反省を促す。下情壅塞せるより起ると云ふは即是也。切に願ふ、朝廷此情実を諒とし給ひ、詔を下して朝野の直言を求め、奸佞を駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体を明にし給はむことを。若夫斬奸之徒は、其情を嘉し、其罪を不論、其実を推し、其名を不問、速に放赦せられょ。果して然らぱ、啻に国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過の速なるに悦服し、斬奸の挙も亦迹を絶たむ。然らずんば奸臣朝に満ち、乾綱紐を解き、丙憂外患交至り、彼衰亡の幕府と択ぶなきに至らむ。於是乎、憂国之士、奮然蹶起して、奸邪を芟夷し、孑遺なきを期すべし。是れ朝廷の威信を繋ぐ所以の道に非ず。皇祖天神照鑑在上。吾説の是非、豈論ずるを須ゐんや。吾に左袒する者は、檄の至るを待ち、叡山に来会せよ。共に回天の大策を可議者也。明治二年春王正月、大日本憂世子。」  

 

此貼礼に吏に紙片を貼り附けて、「右三日之間令掲示候間、猥に取除候者あらぱ斬捨可中候事」と書いてあつた。これは後に弾正台に勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。
横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓で捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間が喚ばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問したが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創のある上田が捕へられて見れぱ、海間の心づくしも徒事になつた。
四郎左衛門が捕へられてから中一日置いて、十六日に柳田は創のために死んだ。牢屋にはまだ旧幕の遺風が行はれてゐたので、其屍は塩漬にせられた。上田と四郎左衛門とが捕へられた後に、備前で勇戦隊を編成した松本箕之介は入牢し、これに与つた家老戸倉左膳の臣斎藤直彦も取調を受けた。
当時の法廷の模様は、信憑すべき記載もなく、又其事に与つた人も亡くなつたので、私は精しく知らぬが、裁判官の中にも同志の人たちに同情するものがあつたので、苛酷な処置には出でなかつたさうである。私は又薫子と云ふ女があつて、四郎左衛門を放免して貰はうとして周旋したと云ふことを聞いた。幼年の私は、天子様のために働いて入牢した父を、救はうとした女だと云ふので、下髮に緋の袴を穿いた官女のやうに思つてゐた。しかし実はどう云ふ身分の女であつたかわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌を書いて遣つたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。
父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花を手向くぺき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記えてゐぬが、父の訃音が聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵があらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛ぴ降りて、木刀で山梔の枝を敲き折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。
父が亡くなつてから、祖父はカを落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗つて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦孤児として残つた。啻に寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余の人の妻子である。日蔭ものである。
母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつたが、種々の障礙のために半途で退学した。私は今其障礙を数へて、めめしい分疏をしたくは無い。しかし只一つ言ひたいのは、私が幼い時から、刑死した父の冤を雪がうと思ふ熱烈な情に駆られて、専念に学問を研究することが出来なかつたといふ事実である。
人は或は云ふかも知れない。学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以ではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜めることが出来なかつた。燃えるやうな私の情を押し鎮めるには冷かな理性のカが余りに徴弱であつた。
父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準は時と所とに従つて変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかつたか。其父の妻子がなぜ日蔭ものにならなくてはならぬか。かう云ふ取留のない、tautologieに類し、又circulus vitiosusに類した思想の連鎖が、蜘蛛の糸のやうに私の精神に絡み附いて、私の読みさした巻を閉ぢさせ、書き掛けた筆を抛たせたのである。 

 

私は学間を廃してから、下級の官公吏の間に伍して母子の口を糊するだけの俸給を得た。それからは私の執る職務が、器械的の糖神上労作に限られたので、私は父の冤を雪ぐと云ふことに、全力を用ゐようとした。しかしそれは譬へやうのない困難な事であつた。
私は先づ父の行状を出来るだけ精しく知らうとした。それは父が善良な人であつたと云ふことを、私は固く信じてゐるので、父の行状が精しく知れれぱ知れる程、父の名誉を大きくすることになると思つたからである。私は休暇を得る毎に旅行して、父の足跡を印した土地を悉く踏破した。私は父を知つてゐた人、又は父の事を聞いたことのある人があると、遠近を問はず訪問して話を聞いた。しかし父が亡くなつてから、もう五十年立つてゐる。山河は依然として在つても、旧道が絶え、新道が開け、田畑が変じて邸宅市街になつてゐる。人も亦さうである。父を知つてゐた人は勿論、父の事を聞いたことのある人は絶無僅有で、其の僅に存してゐる人も、記憶のおぼろけになり、耳の遠くなつたのをかこつばかりである。
私の前に話したのは、此の如くにして集めた片々たる事実を、任意に湊合したものである。伝へ誤りもあらう、聞き誤りもあらう。又識らず知らずの間に、私の想像力が威を逞うして、無中に有を生じた処も無いには限らない。しかし大体の上から、私はかう云ふことが出来ると信ずる。私の予想は私を欺かなかつた。私の予想は成心ではなかつた。私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。生命財産より貴きものを有してゐた人である。理想家である。
私はかう信ずると共に、聊自ら慰めた。然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出來ぬ昧者であつた、愚であつたと云ふことをも認めずにはゐられない。父の天分の不足を惜み、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。これが私の断案である。父の伝記に添へる論讃である。
私は父の上を私に語つてくれた人々に、ここに感謝する。主な一人は未亡人海間の刀自である。婦人の持前として、繊小な神経が徴細な刺戟に感応して、人の記憶してゐぬことを記憶してゐてくれたので、私は未亡人に、父の経歴中の幾多のdetailsを提供して貰つた。今一人は父を流離瑣尾の間に認識して、久しく家に蔵匿せしめて置いた三宅氏の後たる武彦君である。私は次に父を辯護してくれた二人の名を挙げる。丹羽寛夫君と鈴木無隱君とである。丹羽君は備前の重臣で三千石取つてゐた人である。それがかう云つた。四郎左衛門を昧者だと云つて責めるのは酷である。当時の日本は鎖国で、備前は又鎖国中の鎖国であつた。岡山の人は足を藩の領域の外に踏み出すことが出来なかつた。青年共は女が恋しくなると、岡山の西一里ばかりの宮内へ往つた。しかし人に無礼をせられても咎めることが出来なかつた。咎めると、自分が備中界に入つたことが露顕するからである。其青年共に世界の大勢に通じてゐなかつたのを責めるのは無埋である。己も京都にゐた時、或る人を刺さうとしたことがある。しかし事に阻げられて果さずに岡山に帰つた。そのうち比較的に身分が好いので、少属に採用せられた。それから当路者と交際して、やうやう外国の事情を聞いた。已は智者を以て自ら居るわけではないが、己と四郎左衛問との間には軒輊する所は無い筈だと云つた。鈴木君は内外典に通じた学著で、荒尾精君等と国事を謀つてゐた人である。それが私にかう云ふ伝言をした。己は四郎左衛門を知つて居た。四郎左衛門は昧者ではなかつた。横井を刺したには相応の理由があると云ふのであつた。しかし私の面会せぬうちに、鈴木君は亡くなつた。どんな説を持つてゐたか知らぬが、残惜しいやうな気がする。
私は父の事蹟を探つただけで満足したのではない。顔に塗られた泥を洗ふやうに、積極的に父の冤を雪ぎたいと云ふのが、私の幼い時からの欲望である。幼い時にはかう思つた。父は天子様のために働いた。それを人が殺した。私は其の殺した人を殺さなくてはならぬと思つた。稍成長してから、私は父を殺したのは人ではない、法律だと云ふことを知つた。其時私はねらつてゐた的を失つたやうに思つた。自分の生活が無意味になつたやうに思つた。私は此発見が長い月日の間私を苦めたことを記憶してゐる。
私は此内面の争闘を閲した後に、暫くは惘然としてゐたが、思量の均衡がやうやう恢復せられると共に、従来回抱してゐた雪冤の積極手段が、全く面目を改めて意識に上つて来た。私はどうにかして亡き父を朝廷の恩典に浴させたいと思ひ立つた。父は王政復古の時に当つて、人に先んじて起つて王事に勤めたのである。其の人を殺したのは、政治上の意見が相容れなかつたためである。殺されたものは政争の犠牲である。さうして見れば、時代が既に推移した今、恩讐両つながら滅した今になつて、枯骨が朝恩に沾つたとて、何の不可なることがあらうぞ。私はかう思つて同郷の先輩に謀り、当路の大官に愬へた。それは私が学問を廃することになつた後の事である。
明治十九年から二十年に掛けて、津下四郎左衛門に贈位する可否と云ふことは、一時其筋の問題になつてゐたさうである。しかし結局、特赦を蒙らずして刑死したものに、贈位を奏請することは出来ぬと云ふことになつた。私は落胆して、再び自分の生活が無意味になつたやうに思つた。尤も此時の苦悶は、昔復讐の対象物を失つた時に比べて、余程軽く又短かつた。私が老成人になつてゐたためかも知れぬが或は私の神経が鈍くなつたためだとも思へば思はれる。
私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなつた私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰つて、後世に残したいと云ふ位のものである。 

 


聞書はここに終る。文中に「私」と云つてあるのは、津下四郎左衛門正義の子で、名を鹿太と云つた人である。それだけの事は既に文中に見えてゐる。それのみでは無い。読者は、鹿太がどんな性質の人で、どんな境遇にゐて、どんな閲歴を有してゐると云ふことも、おほよそは窺ふことが出来たであらう。私は此聞書のediteurとして、多くの事を書き添ヘる必要を感ぜない。只これが私の手で公にせられることになつた来歴を言つて置きたい。私は既に大学を出て、父の許にゐて、弟篤次郎がまだ大学にゐた時の事である。私は篤次郎に、「どうだ、学生仲間にえらい人があるか」と云つた。弟はすぐに二人の同級生の名を挙げた。一人はKと云つて、豪放な人物、今一人は津下正高といつて、狷介な人物だといふことであつた。弟は後に才子を理想とするやうになつたが、当時はまだ豪傑を理想としてゐたのである。Kも津下君も弟が私に紹介した。Kは力士のやうに肥満した男で、柔術が好であつた。気の毒な事には、酒興に任せて強盗にまぎらはしい事をして、学生の籍を削られた。津下君は即鹿太で、此聞書のauteurである。
津下君は色の蒼白い細面の青年で、いつも眉根に皺を寄せてゐた。私は君の一家の否運がKainのしるしのやうに、君の相貌の上に見はれてゐたかと思ふ。君は寡言の人で、私も当時余り饒舌らなかつたので、此会見は殆ど睨合を以て終つたらしい。しかしそれから後三十年の今に至るまで、津下君は私に通信することを怠らない。私が不精で返事をせぬのを、君は意に介せない。津下君は私に面会してから、間もなく大学を去つて、所々に流寓した。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君を視野の外に失はずにゐた。
大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆其儘である。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑から流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡黙、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫の諸君に質して、二三の補正を加へただけである。津下君は久しく見ぬ間に、体格の巌畳な、顔色の晴々した人になつてゐて、昔の憂愁の影はもう痕だになかつた。私は「書後」の筆を投ずるに臨んで敬んで君の健康を祝する。
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上の中央会論に載せた初稿は媒となつて、わたくしに数多の人を識らしめた。中には当時四郎左衛門と親善であつた人さへある。此等の人々の談話、書牘、その所蔵の文書等に由つて、わたくしは上の一篇の中なる人名等に多少の改刪を加へた。比較的正確だと認めたものを取つたのである。わたくしは猶下の数事を知ることを得た。
津下四郎左衛門の容貌が彼の正高さんに似てゐたことは本文でも察せられる。しかし四郎左衛門は躯幹が稍長大で、顔が稍円かつたさうである。
京都で四郎左術門の潜伏してゐた三宅典膳の家の士蔵は、其後母屋は改築せられたのに、猶旧形を存してゐて、道路より望見することが出来るさうである。当時食を土蔵に運ぴなどした女が現存して、白山御殿町に住んでゐるが、氏名を公にすることを欲せぬと云ふことである。
本文にわたくしは上田立夫と四郎左衛門とが故郷を出でゝ京都に入る時、早く斬奸の謀を定めてゐたと書いた。しかし是は必ずしもさうではなかつたであらう。二人は京都に入つてから、一時所謂御親兵問題にたづさはつて奔走してゐた。堂上家の某が家を脱して、浪人等を募集し、皇室を守護せむことを謀つた。その浪人を以て員に充てむと欲したのは、諸藩の士には各其主のために謀る虞があると慮つたが故である。わたくしは此に堂上家の名を書せずに置く。しかし他日維新史料が公にせられたなら、此問題は復秘することを須ゐぬものとなるかも知れない。
浪人には十津川産の士が多かつた。其他は諸国より出てゐた。知名の士にして親兵の籍に入つたものには、先づ中瑞雲斎がある。
中氏は昔瓜上と称し、河内の名族であつた。承応二年和泉国熊取村五門に徒つて、世郷士を以て聞えてゐた。此中氏の分家に江戸本所住の三千六百石の旗本根来氏があつた。瑞雲斎は根来氏の三男に生れて宗家を襲ぎ、三子を生んだ。伯は克己、仲は鼎、季は建である。別に養子薫がある。瑞雲斎は早く家を克己に譲つて、京都に入り、志士に交つた。四郎左衛門等の獄起るに及んで、三子と共に拘引せられ、瑞雲斎は青森県に護送せられる途中で死し、克己、建は京都の獄合に死し、鼎は幽囚十年の後赦された。此間故郷熊取村には三女があつた。支配人某が世話をして、小谷村原文平の二男辰之助を迎へて、長女すみの婿にした。鼎は出獄後、辰之助等に善遇せられぬので、名を謙一郎と改め、堺市に遷つて商業を営み、資本を耗尽し、後に大阪府下南河内郡古市村の誉田神社の社司となつた。謙一郎の子は香苗、武夫、幸男で、香苗は税務属、武夫は台湾総督府技手、幸男は学生で史学に従事してゐる。一女は三宅典膳の孫徹男に嫁した。わたくしは幸男さんに由つて此世系を聞くことを得た。
瑠雲斎と事を写にした人に十津川産の官大柱がある。当時大木主水と称してゐた。太柱は和漢洋の三学に通ずるを以て聞えてゐた。四郎左衛門等の獄に連坐せられて、三宅島に流され、赦に遭うて帰ることを得た。太柱の子大茂さんは四谷区北伊賀町十九番地に住んでゐる。
同じく連坐せられた十津川の士上平(一に錯つて下平に作る)主税は新島に流され、これも還ることを得た。
一瀬主殿も亦十津川の士で連坐せられ、八丈島に流され、後赦されて帰つた。
中等の親兵団は成らむと欲して成らなかつた。是は神田孝平、中井浩、横井平四郎等に阻まれたのである。
此時に当つて天道革命論と云ふ一篇の文章が志士の間に伝へられた。当時の風説に従へぱ、文は横井平四郎の作る所で、阿蘇神社の社司の手より出で、古賀十郎を経て流伝したと云ふことである。其文に曰く。「夫れ宇宙の間、山川草木人類鳥獣の属ある、猶人の身体の四支百骸あるがごとし。故に宇宙の理を知らざる者は、身に手足の具あるを知らざるに異なることなし。然れば宇宙有る所の諸国皆是れ一身体にして、人なく我なし。宣しく親疎の理を明にし、内外同一なるニとを審にすべし。古より英明の主、威徳宇宙に薄く、万国の帰嚮するに至る者は、其胸襟闊達、物として相容れざることなく、事として取らざることなく、其仁慈化育の心、天下と異なることなきなり。此の如くにして世界の主、蒼生の君と云ふべきなり。若し夫れ其見小にして、一体一物の理を知らざるは、猶全身痿して疾痛●(病垂れに可)痒を覚えざるごとし。百世身を終るまで開悟すること能はず。亦憐むべからずや。(中略)今日の如き、実に天地開闢以来興治の機運なるが故に、海外の諸国、天埋の自然に基き、開悟発明、文化の域に至らむとする者少からず。唯日本、●(艸冠に脚が最)爾たる孤島に拠て、(中略)行ふこと能はず。其の亡滅を取ること必せり。速に固陋積弊の大害を攘除し、天地無窮の大意に基き、偏見を看破し、宇宙第一の国とならむことを欲せずんばあるべからず。此の如き理を推窮せば、遂に大活眼の域に至らしむる者乎。丁卯三月南窓下偶書、小楠。」 

 

わたくしは忌憚なき文字二三百言を刪つて此に写し出した。しかし其体裁措辞は大概窺知せられるであらう。丁卯は魔応三年である。大意は「人君何天職」の五古を敷衍したものである。そしてこれを横井の手に成れりとせむには、余りに拙である。
四郎左衛門等はこれを読んで、その横井の文なることを疑はなかつた。そして事体容易ならずと思惟し、親兵団の事を抛つて、横井を刺すことを謀つたのださうである。
四郎左衛門等の横井を刺した地は丸太町と寺町との交叉点を南に下り、既に御霊社の前を過ぎて、未だ光堂の前に至らざる間であつたと云ふ。此考証は南純一の風聞録に拠る。純一は後に久時と称した。
事変は明治二年正月五日であつた。翌六日行政官布告が出た。「徴士横井平四郎を殺害に及候儀、朝憲を不憚、以之外之事に候。元来暗殺等之所業、全以府藩県正籍に列候者には不可有事に候。万一壅閉之筋を以て右等之犠に及候哉。御一新後言語洞開、府藩県不可達の地は無之筈に候。若脱藩之徒、暗に天下の是非を制し、朝廷の典刑を乱候様にては、何を以て綱紀を張り、皇国を維持し得むやと、深く宸怒被為在候。京地は勿論、府藩県に於て厳重探索を遂げ、且平常無油断取締方屹度可相立旨被仰出候事。」此文は尾佐竹猛さんの録存する所である。尾佐竹氏は今四谷区霞丘町に住んでゐる。
四郎左衛門が事変の前に潜んでゐた家の主人三宅典膳も、事変の後に訪うた家の主人三宅左近も、皆備中国連島の人である。典膳、号は瓦全の嗣子武彦さんの左近の事を言ふ書は下の如くである。「御先考様の記事中、酒屋云々、徳利云々は、勘考するに、其頃矢張連島人にて、嵯峨御所の御家来に、三宅左近と申す老人有之、此人は無妻無子の壮士風の老人にて、京都左の嵯峨に住せり。成程其家の裏に藪あり、酒屋ありき。此三宅左近が拙宅(典膳宅)にて御先考様と出会し、剣術自慢なる故、遂に仕合ひいたし、立派に打負け、夫より敬服して弟子の如くなり居り候。御先考様は其左近の宅に酒を持ち行かれし者と想像致候。左近は本名佐平と申候。」中氏が武彦さんの姻戚なることは上に云つた。武彦さんは麹町区土手三番町四番地に住んでゐる。
本文に四郎左衛門を回護したと云ふ女子薫子は伏見宮諸大夫若江修理大夫の女ださうである。薫子の尾州藩徴士荒川甚作に与へた書は下の如くである。「当月五日横井平四郎を殺書致し候者御処置之儀、如何之御儀に被為在候哉。是は御役辺之儀故、決而可伺儀に而者無之候へ共、右殺害に及候者より差出し候書附にも、天主教を天下に蔓延せしめんとする奸謀之由申立有之、尤此書附而已に候へば、公議を借て私怨を価(一本作憤、恐並非)候哉共被疑候へ共、横井奸謀之事は天下衆人皆存知候所に御座候間、公議を借候とは難申、朝廷之参与を殺害仕候は不容易、勿論厳刑に可被処候へ共、右様天下衆人之能存候罪状有之者を誅戮仕候事、実に報国赤心之者に御座候間、非常之御処置を以手を下し候者も死一等を被減候様仕度、如斯申上候へば、先般天誅之儀に付彼此申上候と齟齬仕、御不審可被為在候へ共、方今之時勢彼之者共厳科に被行候へ者、忽人心離叛仕、他の変を激生仕事鏡に掛て見る如くと奉存候。且又手を下候者に無之同志之由を申自訴仕候者多分御座候由伝聞仕候。右自訴之人共何れも純粋正義之名ある者之由承候。是等の者は別而寛典を以御赦免被為在可然御儀と奉存候。実に正義之人者国之元気に御座候間、一人に而も戮せられ候へぱ、自ら元気を●(爿扁に旁が戈)候。自ら元気を●(爿扁に旁が戈)候へ者、性命も隨而滅絶仕候。此理を能々御考被為在候而、何卒非常回天之御処置を以、魁たる者も死一等を免され、同志と申自訴者は一概に御赦免に相成候様と奉存候。尤大罪に候へ共、朝敵に比例仕候へ者、軽浅之罪と奉存候。如此申上候へ者、私も其事に関係仕候者に而右様申上候哉と御疑も可被為在奉存候。若私にも御嫌疑被為左候へば、何等の辯解も不住候間、速に私御召捕に相成、私一人誅戮被為遊、他之者は不残御赦免之御処置相願度奉存候。若魁たる者も同志之者も御差別なく厳刑に相成候へ者、天下正義之者忽朝廷を憤怨し、人心瓦解し、収拾すべからざる御場合と奉存候。旧臘幕府暴政之節被戮侯者祭祀迄被仰出候由、既に死候者は被為察、生きたる者は被戮候而者、御政体不相立御儀と奉存候。此辺之処閣下御洞察に而、御病中ながら何卒御処置被遊候御儀、単に奉願候也。正月二十一日薫子。」此書を得た荒川甚作は、明治元年三月病を以て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎良知と云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。
薫子の書は田中不二磨若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相八代氏の実兄尾藩磅●(石扁に旁が薄)隊士松山義根を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡新荘村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日発兌」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本とし、遠近新聞の謄本を以て対校した。二本には多少の出入がある。倉知本の自筆なることは稍疑はしい。
御牧基賢さんの云ふを聞くに、薫子は容貌が醜くかつたが、女丈夫であつた。昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講した事がある。又自分も薫子の講書を聴いた事がある。国事を言つたために謹慎を命ぜられ、伏見宮家職田中氏にあづけられた。後に失行があつたために士林の歯せざる所となり、須磨明石辺に屏居して沒したらしいと云ふことである。 

 

薫子の詩歌は往々世間に伝はつてゐる。三宅武彦さんは短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古量の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。「幽居日日易凄涼。兀坐愁吟送夕陽。午枕清風知暑退。暁窓残雨覚更長。人間褒貶事千古。身世浮沈夢一場。設使幾回遭挫折。依然不変旧疎狂。早秋囚居。薫子。」印一顆があつて、文に「菅氏」と曰つてあつた。若江氏は管原姓であつたと見える。是は倉知氏の写して寄せたものである。又薫子が「神州男子幾千万、歎慨有誰与我同」の句を書したのを看たと云ふ人がある。
若江修理大夫の女薫子の事は、既に一たぴ上に補説したが、わたくしは其後本多辰次郎さんに由つて、修理大夫の名を量長と云ひ、曾て諸陵頭たりしことを聞いた。それゆゑ芝葛盛さんに乞うて此等の事を記してもらつた。下の文が即此である。
女子薫子の父若江量長は伏見宮家職の筆頭で、殿上人の家格のあつた人である。この著江氏はもと管原氏で、その先は式部権大輔菅原公輔の男在公から出てゐる。初め壬生坊城と号し、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後権介に任じ、同日院昇殿を聴され、その後弾正少弼を経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝によつて知ることが出来る。更に又野宮定功の曰記によるに、元治元年二月二十四曰に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介谷森種松と筑前守鈴鹿勝藝との両人に打ち委したやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢に亘り、とりわけ漢学を能くした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御入輿の儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等特の外心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修埋大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及ぴ候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上篤と御様子見上げ参るべき様にとの御内沙汰を蒙り、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当滞り無く御婚儀相済せられたり云々。此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内には、薫子の口入が与つてカがあつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定の事が発表せられ、次で御召抱上臈、中臈等の人選があつたが、その際この薫子にも改めて御稽古の為参殿の事を申付けられた。橋本実麗卿記是年八月九日の条に、「又若江修理大夫妹年来学問有志、於今天晴宏才之聞有之候聞、女御為御稽古参上可然哉否、於左大将殿可宜御沙汰に付被談由、於予可然存候間其旨申答了」と見えて居るが、一条家の書類御入用御用記を見ると、九月三日の条に、「伏見宮御使則賢出会之処、過日御相談被進候若江修理大夫女お文女御様御素読御頼に被召候而も御差支無之旨御返答也」とあつて、その十曰には、「女御御方、此御方御同居中御本御講釈之儀、お文殿に御依頼被成度候事」と見えて、十五日には御稽古の為局口御玄関より参殿、孝経を御教授申上げたことが見えて居る。是は蓋し女御御治定に付き改めてこの御沙汰があつたもので、この時初めて御稽古申上げたものではあるまい。但し実麗卿記に修理大夫の妹とせるは如何なる訳であらうか。又その名のお文といへるは薫子の前名であつたのであらうか。昭憲皇太后御入内後薫子の宮中に出入した事に就ては、その徴証を見出さない。恐くは国事に奔走した事などの為め、御召出しの運に行かなかつたものであらう。後失行があつて終をよくしなかつたのも惜しむべきである。上田景二君の昭憲皇太后史には、「皇太后御入内後も薫子は特別の御優遇を賜つたが、明治十四年に讃岐の丸亀において安らかに沒し、その遺蹟は今も尚残つてゐる」と書かれて居るが、その拠る処を明にしがたい。
私(芝氏)は量長が一時諸陵頭であつた関係から、其の寮官であつた故谷森種松(後に善臣)翁の次男建男さんに就いて何か見聞して居ることはないかを聞かうと試みた。(善臣翁は私の外祖父、建男さんは叔父に当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏は住んで居た。十歳位の時でもあつたか、或日父につれられて若江氏の宅を訪うた事があつた。その時量長の娘であるといふ二人の女子にも会つた。妹の方は普通の婦女で、髪もすべらかしにして公卿の娘らしい風をしてゐたが、姉の方は変つた女で、色も黒く、御化粧もせず、髮も無造作に一束につかねて居つた。男まさりの女で、頻に父に向つて論議を挑んで居つたことを記憶する。父もかういふ女には辟易すると云つてゐた。これが即ち薫子であつただらう。後に不行跡のあつた事も聞いてゐるが、何分家の生計も豊かでなかつたから、誘惑を受けたについては、むしろ同情に値するものがあつたであらう。讃岐辺で死んだ事も事実であらうが、普通の死ではなかつたかと思ふ。自分はこの婦人が量長の妹であつたとは思はない。娘として引きあはされたやうに記憶するといふことであつた。 
 
普請中 / 森鴎外

 

渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
雨あがりの道の、ところどころに残つてゐる水溜まりを避けて、木挽町の河岸を、逓信省の方へ行きながら、たしか此辺の曲がり角に看板のあるのを見た筈だがと思ひながら行く。
人通りは余り無い。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのに逢つた。それがら半衿の掛かつた著物を著た、お茶屋の姉えさんらしいのが、何か近所へ用達しにでも出たのが、小走りに摩れ違つた。まだ幌を掛けた儘の人力車が一台跡から駈け抜けて行つた。
果して精養軒ホテルと横に書いた、割に小さい看板が見附かつた。
河岸通りに向いた方は板囲ひになつてゐて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るやうに出来てゐる階段がある。階段は尖を切つた三角形になつてゐて、その尖を切つた処に戸口が二つある。渡辺はどれから這入るのかと迷ひながら、階段を登つて見ると、左の方の戸口に入口と書いてある。
靴が大分泥になつてゐるので、丁寧に掃除をして、硝子戸を開けて這入つた。中は広い廊下のやうな板敷で、ここには外にあるのと同じやうな、棕櫚の靴拭ひの傍に雑巾が広げて置いてある。渡辺は、己のやうなきたない靴を穿いて来る人が外にもあると見えると思ひながら、又靴を掃除した。
あたりはひつそりとして人気がない。唯少し隔たつた処から騒がしい物音がするばかりである。大工が這入つてゐるらしい物音である。外に板囲ひのしてあるのを思ひ合せて、普請最中だなと思ふ。
誰も出迎へる者がないので、真直に歩いて、衝き当つて、右へ行かうか左へ行かうかと老へてゐると、やつとの事で、給仕らしい男のうろついてゐるのに、出合つた。
「きのふ電話で頼んで置いたのだがね。」
「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ。」
右の方へ登る梯子を教へてくれた。すぐに二人前の注文をした客と分かつたのは普請中殆ど休業同様にしてゐるからであらう。此辺まで入り込んで見れば、ますます釘を打つ音や手斧を掛ける音が聞えて来るのである。
梯子を登る跡から給仕が附いて来た。どの室かと迷つて、背後を振り返りながら、渡辺はかう云つた。
「大分賑やかな昔がするね。」
「いえ。五時には職人が帰つてしまひますから、お食事中騒々しいやうなことはございません。暫くこちらで。」
先へ駈け抜けて、東向きの室の戸を開けた。這入つて見ると二人の客を通すには、ちと大き過ぎるサロンである。三所に小さい卓が置いてあつて、どれをも四つ五つ宛の椅子が取り巻いてゐる。東の右の窓の下にソフアもある。その傍には、高さ三尺許の葡萄に、暖室で大きい実をならせた盆栽が据ゑてある。
渡辺があちこち見廻してゐると、戸日に立ち留まつてゐた給仕が、「お食事はこちらで」と云つて、左側の戸を開けた。これは丁度好い室である。もうちやんと食卓が拵へて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた盛花の籠を真中にして、クウヱエルが二つ向き合せて置いてある。今二人位は這入られよう、六人になつたら少し窮屈だらうと思はれる、丁度好い室である。
渡辺は稍々満足してサロンヘ帰つた。給仕が食事の室から直ぐに勝手の方へ行つたので、渡辺は始てひとりになつたのである。
金槌や手斧の音がばつたり止んだ。時計を出して見れば、成程五時になつてゐる。約束の時刻までには、まだ三十分あるなと思ひながら、小さい卓の上に封を切つて出してある箱の葉巻を一本取つて、尖を切つて火を附けた。
不思議な事には、渡辺は人を待つてゐるといふ心持が少しもしない。その待つてゐる人が誰であらうと、殆ど構はない位である。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、殆ど構はない位である。渡辺はなぜこんな冷澹な心持になつてゐられるかと、自ら疑ふのである。
渡辺は葉巻の烟を緩く吹きながら、ソフアの角の処の窓を開けて、外を眺めた。窓の直ぐ下には材木が沢山立て列べてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水を湛へたカナルを隔てて、向側の人家が見える。多分待合か何かであらう。往来は殆ど絶えてゐて、その家の門に子を負うた女か一人ぼんやり佇んでゐる。右のはづれの方には幅広く視野を遮つて、海軍参考館の赤煉瓦がいかめしく立ちはたかつてゐる。 渡辺はソフアに腰を掛けて、サロンの中を見廻した。壁の所々には、偶然ここで落ち合つたといふやうな掛物が幾つも掛けてある。梅に鷺やら、浦島が子やら、鷹やら、どれもどれも小さい丈の短い幅なので、天井の高い壁に掛けられたのが、尻を端折つたやうに見える。食卓の拵へてある室の入口を挾んで、聯のやうな物の掛けてあるのを見れば、某大教正の書いた神代文字といふものである。日本は藝術の国ではない。
渡辺は暫く何を思ふともなく、何を見聞くともなく、唯姻草を呑んで、体の快感を覚えてゐた。
廊下に足音と話声とがする。戸が開く。渡辺の待つてゐた人が来たのである。麦藁の大きいアンヌマリイ帽に、珠数飾りをしたのを被つてゐる。鼠色の長い著物式の上衣の胸から、刺繍をした白いバチストが見えてゐる。ジユポンも同じ鼠色である。手にはヲランの附いた、おもちやのやうな蝙幅傘を持つてゐる。渡辺は無意識に微笑を粧つてソフアから起き上がつて、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ち留まつてゐる給仕を一寸見返つて、その目を渡辺に移した。ブリユネツトの女の、褐色の、大きい目である。此目は昔度々見たことのある目である。併しその縁にある、指の幅程な紫掛かつた濃い暈は、昔無かつたのである。
「長く待たせて。」
独逸語である。ぞんざいな詞と不吊合に、傘を左の手に持ち替へて、おほやうに手袋に包んだ右の手の指尖を差し伸べた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思ひながら、丁寧にその指尖を撮まんだ。そして給仕にかう云つた。
「食事の好い時はさう云つてくれ。」
給仕は引つ込んだ。
女は傘を無造作にソフアの上に投げて、さも疲れたやうにソフアへ腰を落して、卓に両肘を衝いて、黙まつて渡辺の顔を見てゐる。渡辺は卓の傍へ椅子を引き寄せて据わつた。暫くして女が云つた。
「大さう寂しい内ね。」
「普請中なのだ。さつき迄恐ろしい音をさせてゐたのだ。」
「さう。なんだが気が落ち著かないやうな処ね。どうせいつだつて気の落ち著くやうな身の上ではないのだけど。」
「一体いつどうして来たのだ。」
「おとつひ来て、きのふあなたにお目に掛かつたのだわ。」
「どうして来たのだ。」
「去年の暮からウラヂオストツクにゐたの。」
「それぢやあ、あのホテルの中にある舞台で遣つてゐたのか。」
「さうなの。」
「まさか一人ぢやああるまい。組合か。」
「組合ぢやないが、一人でもないの。あなたも御承知の人が一しよなの。」少しためらつて。「コジンスキイが一しよなの。」
「あのポラツクかい。それぢやあお前はコジンスカアなのだな。」
「嫌だわ。わたしが歌つて、コジンスキイが伴奏をする丈だわ。」
「それ丈ではあるまい。」
「そりやあ二人きりで旅をするのですもの。丸つきり無しといふわけには行きませんわ。」
「知れた事さ。そこで東京へも連れて来てゐるのかい。」
「えゝ。一しよに愛宕山に泊まつてゐるの。」
「好く放して出すなあ。」
「伴奏させるのは歌丈なの。」Begleiten(ベグライテン)といふ詞を使つたのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目に掛かつたと云つたら、是非お目に掛かりたいと云ふの。」
「真平だ。」
「大丈夫よ。まだお金は沢山あるのだから。」
「沢山あつたつて、使へば無くなるだらう。これからどうするのだ。」
「アメリカへ行くの。日本は駄目だつて、ウラヂオで聞いて来たのだから、当にはしなくつてよ。」
「それが好い。ロシアの次はアメリカが好からう。日本はまだそんなに進んでゐないからなあ。日本はまだ普請中だ。」
「あら。そんな事を仰やると、日本の紳士がかう云つたと、アメリカで話してよ。日本の官吏がと云ひませうか。あなた官吏でせう。」
「うむ。官吏だ。」
「お行儀が好くつて。」
「恐ろしく好い。本当のフイリステルになり済ましてゐる。けふの晩飯丈が破格なのだ。」
「難有いわ。」さつきから幾つかの控鈕をはづしてゐた手袋を脱いで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目に其手をしつかり握つた。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにゐて、暈の出来た為めに一倍大きくなつたやうな目が、ぢつと渡辺の顔に注がれた。
「キスをして上げても好くつて。」
渡辺はわざとらしく顔を蹙めた。「ここは日本だ。」
叩かずに戸を開けて、給仕が出て来た。
「お食事が宜しうございます。」
「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺は起つて、女を食卓のある室へ案内した。丁度電燈がぱつと附いた。
女はあたりを見廻して、食卓の向側に据わりながら、「シヤンブル・セパレエ」と笑談のやうな調子で云つて、渡辺がどんな顔をするかと思ふらしく、背伸びをして覗いて見た。盛花の籠が邪魔になるのである。
「偶然似てゐるのだ。」渡辺は平気で答へた。
シエリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附き切りである。渡辺は「給仕の賑やかなのを御覧」と附け加へた。
「余り気が利かないやうね。愛宕山も矢つ張さうだわ。」肘を張るやうにして、メロンの肉を剥がして食べながら云ふ。
「愛宕山では邪魔だらう。」
「丸で見当違ひだわ。それはさうと、メロンはおいしいことね。」
「今にアメリカヘ行くと、毎朝極まつて食べさせられるのだ。」
二人は何の意味もない話をして食事をしてゐる。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシヤンパニ工が注がれた。
女が突然「あなた少しも妬んでは下さらないのね」と云つた。チエントラアルテアアテルがはねて、ブリユウル石階の上の料理屋の卓に、丁度こんな風に向き合つて据わつてゐて、おこつたり、中直りをしたりした昔の事を、意味のない話をしてゐながらも、女は想ひ浮べずにはゐられなかつたのである。女は笑談のやうに言はうと心に思つたのが、図らずも真面目に声に出たので、悔やしいやうな心持がした。
渡辺は据わつた儘に、シヤンパニエの杯を盛花より高く上げて、はつきりした声で云つた。
”Kosinski soll leben !(コジンスキイ ゾル レエベン)”
凝り固まつたやうな微笑を顔に見せて、黙つてシヤンパニエの杯を上げた女の手は、人には知れぬ程顫つてゐた。
まだ八時半頃であつた。燈火の海のやうな銀座通を横切つて、ヱエルに深く面を包んだ女を載せた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行つた。 
 
夏の旅 / 與謝野晶子

 

高き梢に蝉じじと啼き初めて、砂まじりの青白き草いきれ南風に吹き煽られ、素足の裏を燒き焦す許り熱き日影縁より座敷にさし入れば、行き屆きたる夏の威壓の抗ひ難さよ。空仰ぎて一雨欲しと歎つも癡がましく、煽風器にてもあらばと云へど、他人の寶を數ふるにひとし、氷も喉元すぐれば熱さを増しぬ。團扇は見る目涼しけれど、勞力に伴ふ風の現金さ、屡〃しなば手もだるかるべし。遠からぬ電車の、軌道にきしみてキイと鳴るに街行く群集の齒軋を集めたる如く、門通る廣目屋の樂隊の騷音は熱を撒き行く如し。膝に寢たる子を寢臺に移せば、その下なる暗き陰より蚊の唸り立つも憎し。蠅も多けれど藪蚊の晝出づる家なれば枕蚊帳被せ置きて、われは湯殿に入り、水道を捻りて思ふさま水を浴びぬ。叩きを流るる水を、鹽原の鹽の湯の溪とも思ひ做すなり。
この季節に人は皆旅せん事を思ふ。狹き家に床低くして濕地の上に古畳敷きて起臥すと異らぬ我等の階級にてこそ然思はめ、高く廣き家と森の如き庭園との中に住める人達の、わざわざ不便なる田舎へ暑を避けずともと思へど、戀と名利と旅とは貴賤の別なき欲なるべし。夏は遊ぶべきものと西の國の人は定むと云へど、常に半ば遊び居る樣なる此國の人には、其言葉いよいよ惰氣を助長やせん。さりとて「滅却心頭火亦涼」など云ふ境地は我等の知らぬ事、とても變化を好む性持つ人が折々異る刺激に觸れて、疲れたる身を洗ひ、倦みし心を新しくせんとならば、彌が上に働きて彌が上に遊べと言はま欲し。
豫てより此夏は何處に遊ばん、かの山の温泉、その海邊と指折り居し人の必ず旅に出でしは尠し。人ばかり羨ませて罪なる事と思へど、其人自身は準備の樂しみに醉ひて、さて實行せんとする頃には心疲れて慵くなるにや。又北海道にせんなど言ひし人の近き箱根などへ、一二泊掛に行きて繪葉書寄越したるは、想ひの外にて興なし、すべて人などに前觸れせで行くぞよき。九月の中頃などに訪れ來る人の暫く無沙汰しつと詫びて、二月ほど駿州の靜浦に在りしと語るは心にくきまで奧ゆかし。後より其席に加はりし高等學校の生徒の、僕は日本アルプスの一部を探りしなど云ひて、袂より赤石山の石の赤きを土産に取出すも雄々しく、「人從蜀中歸。衣帶棧道雨」とも言ふべし。
名高き避暑地は人多ければうるさし、其れも初めて行く地ならば珍らかに覺ゆる節もあれど、曾遊の山水は全て再せぬこそ思出深けれ、大方は見劣りするが口惜し。われは雨女なり。夏の旅にも他の季節の旅にも濡れそぼたぬは稀にて、嵐山にて逢ひし夕立には中流に出でし我屋形船と舞姫を載せし彼方の船と二隻、千鳥が淵の精に魅入られしか、少時進むも退くも叶はでいざよひき。赤木山の裾野三里が間小止もなく、投槍の如く横に降りし白き強雨の凄じさ。男づれ五人、女は子守とわれと三人、幾筋の路の黒き大蛇の群と覺ゆる俄の濁流に膝を沒し、幾度か底の石塊を踏み逸してよろめき乍ら吹き折られし傘を杖に進めば、子守等は倒れて流さるるもあり。良人は三歳になる長男を、われは二男を細紐にて確と負ひぬ。流さるる子守をあれあれと叫べど、三間先に隔たりし男づれは雨に曇りて姿も見えず、聲も屆かぬに、良人の追ひ下りて子守を救ひ、「手を取り合へ、離れて歩むな、あと一里ぞ、もう大丈夫なり」など勵せば、脊なる長男の、濡れ通りたる合羽の下より、「もう大丈夫、もう大丈夫」と元氣好き聲に言ひ續けたる、今思ひ出づるにも目の濕みぬ。弱き子供等を惡しき山路に伴ひぬ、一人は山に著くも待たで死ぬべしと思ふに地獄道を辿る心地に悲しく、何の報に下さるる禍ひぞなど思ふ。麓の箕輪に行著く少し前より二人の子は冷たくなりて物も言はず、山にさし掛かりて小降となり、地獄谷にては月も出でぬ。頂なる大沼の宿に著きしは午後九時半、皆濡れし衣を脱ぎて湯に入る中に、夫とわれとは二人の子の衣を替へ毛布に卷きて、大きなる火鉢の山と盛りたる炭火の前に居さす。我等も衣を替へんとするに柳行李の中は大方濡れたり、命冥加の好かりし子等は次の朝より常の如くなりて親の心を喜ばせぬ。さて此山の涼しかりしこと其大雨の大難と共に永く忘れ難し。内にあれば大きなる火鉢幾つも取圍み、鈍銀の如き幹したる白樺を洩るゝ日影秋の樣にて汗を知らず、總て骨も淨まる心地とは斯かる人氣少き山の事なるべし、讀物と副食物とに事缺かずば夏を通しても留まらんをと思ひき。
其山の小沼の方に「大さん」と呼ぶ老いし獵夫住みて、一二年續きて此處に久しく在りし高村光太郎氏を我子の樣に戀しがりき。今は如何しけん。穴居の如き小屋の前に血に染める猿の皮を干しありし事、飴色に煤光したる大土瓶より番茶を注ぎて茶受に赤砂糖を侑めし事、狼の近頃現れて牧場の子馬を狙ひ居れば、そを退治に行くとて山刀を腰にさし、銃を肩にのつそりと木陰に入り去りし事、長男の朧氣に記憶し居て今も夢の世界の譚の如く語るなり。 
 
優能婦人を標準とせよ / 與謝野晶子

 

現在の婦人は、その最も聰明であると云はれる少數の婦人を除けば、悉くたわいもない凡庸の婦人である。私はこの事實を決して見逃しては居ない。寧ろ何人よりもこの事實を自分自身の事として確實に反省して居る積りである。けれども、この事實があるに由つて、大多數の婦人を在來の儘の屈從的位地に置かうとする議論には同意することが出來ない。
例へば學校に於て、同級生の中に、少數の優能者と多數の平能者とがあるのは免れない事實である。さればと云つて、優能者は特例であるに由つて之を無視し、多數の状態である平能者を標準として教育しようとすることは教育の威力を卑下して、人間の向上を悲觀的に解釋することである。私は反對に、少數の優能者を標準として大多數の平能者を出來るだけ其標準に近づけるやうに教育すべきものであると考へて居る。惡貨が榮えて居るからと云つて金貨本位を廢める理由にはならないと同じである。
男子が彼ら自身の地位にまで婦人を引上げようとすることを拒むばかりでなく、婦人の中の優秀な婦人の地位にまでも婦人の向上する機會と自由とを拒むのは決して寛洪な處置と云はれない。 
 
假名遣について / 橋本進吉

 

假名遣といふことは、決して珍しい事ではなく、大抵の方はご存じの事と思ひますが、さて、それではそれは全體どんな事かと聞かれた場合に、十分明らかな解答を與へる事が出來る方は存外少ないのではないかとおもひます。それで假名遣とはどんな事か、又どうして假名遣といふものが起つたかといふやうな、假名遣全般について、一通りの説明を試みたいとおもひます。
假名遣は、元來假名の遣ひ方といふ意味であります。今日に於ては、さう考へておいてまづ間違ひがないのであります。すなはち、假名遣が正しいとか違つてゐるとかいふのは、假名の遣ひ方が正しいとか間違つてゐるとかいふ事であります。
ご承知の如く、我國では、漢字と假名とを用ゐて言語を書く事となつて居りますが、假名遣は勿論假名で書く場合に關する事でありまして、同じことばでも漢字で書く場合は、全く之と關係がありません。しかし、假名はもと漢字から出來たもので、假名がまだ出來なかつた時代には、漢字を假名と同じやうに用ゐて日本語を書いたのでありまして、かやうに假名のやうに用ゐた漢字を、萬葉假名と申して、假名の一種として取扱つて居ります。この萬葉假名を以て日本語を書いたものについてもやはり假名遣といふ事を申すのであります。
かやうに、假名遣は、假名を以て日本語を書く場合の假名の用ゐ方をさしていふのでありますが、元來、假名は、言葉の音を寫す文字でありますから、言葉の音と之を寫す假名とが正しく一致して居つて、その書き方が一定し、それ以外の書き方が無い場合には、どんな假名を用ゐるかなどいふ疑問の起る餘地はないのでありまして、假名の使ひ方、すなはち、假名遣は問題とならないのであります。たとへば「國」を「くに」と書き「人」を「ひと」と書くやうなのは、その外に書き方がありませんから、その假名遣は問題となる事はありません。
然るに、違つた假名が同じ音に發音せられて、同じ音に對して二つ以上の書き方がある場合、たとへば、イに對して「い」「ゐ」「ひ」、コーに對して「こう」「かう」「こふ」「かふ」といふ書き方があり、キヨーに對して「きやう」「きよう」「けう」「けふ」といふ書き方があるやうな場合に、どの場合にどの書き方即ち假名を用ゐるかが問題となり、假名遣の問題が起るのであります。又「馬」「梅」の最初の音のやうに、之を「ウ」と書いても、又「ム」と書いても、實際の發音に正しくあたらないやうな場合、即ち適當な書き方のない場合にも、亦いかなる假名を用ゐてあらはすべきかといふ疑問が生じて、假名の用法が問題となるのであります。
かやうに、同じ音に對して二つ以上の書き方があつたり、又は、十分適當な書き方が無い場合に限つて、いかなる假名を用ゐるかが問題になるのでありまして、その他の場合は假名の用法は問題とせられないのでありますから、假名遣といふのは、その語義から云へば假名の用法といふ事ではありますが、實際に於ては、あらゆる場合の假名の用法ではなく、その用法が問題となる場合のみに限つて用ゐられるのであります。
さて、假名遣が正しいとか間違つてゐるとか云ひますが、それは、何かの標準を立てて、或る書き方を正しいと定め、之に違ふものを間違ひとするのであります。それは何を標準とするのでせうか。
右に述べたやうな、假名の用ゐ方について疑問が起つた場合に、之を解決する方法としては、いろいろのものが考へられます。
一つは、同じ音に對するいくつかの書き方をすべて正しいものとし、どの方法を用ゐてもよいとするのであります。たとへば「親孝行」の「孝行」は「こうこう」でも「かうかう」「こふこふ」「かふかふ」でも「こうかう」「こうかふ」「こうこふ」「こふこう」「かうこう」「かうこふ」「かうかふ」「かふこう」「かふこふ」「かふかう」でも、どれでもよいとするのであります。つまり「コーコー」と讀めさへすれば、どう書いてもよいといふのであります。かやうなやり方では、同じことばが、いろいろの假名で書かれる事となつて、統一がつかない事になります。
第二の方法は、同じ音を示すいろいろの書き方の中、一つだけを正しいものときめて、その音はいつもその假名で書き、その他の書き方はすべて誤であるとするものであります。コーの音に對して「こう」「こふ」「かう」「かふ」などの書き方があるうち、例へば「こう」を正しいものとし、その他を誤とするのであります。かやうにすれば、いつも同じ語は同じ假名で書かれ、假名で書いた形はいつも定まつて統一されます。さうしてどんな語であつても、同じ音はいつも同じ假名で書かれる事となります。即ち言語の音に基づいて假名を統一するのであります。語の如何に係はらず、同一の音は同一の假名で書き表はすといふ意味で、これを表音的假名遣といひます。
第三の方法は、第二の方法と同じく、同じ音を表はすいろいろの書き方の中、一つを正しいものと認めるのでありますが、それは、同じ音であれば、いつも同じ假名で書くのではなく、これまで世間に用ゐられてきた傳統的な、根據のある書き方を正しいと認めるものであります。かうなると、同じ音であつても、ことばによつて書き方が違つて來るのでありまして、同じコーの音でも「孝行」は「かうかう」、甲乙丙丁の「甲」は「かふ」、「奉公」の「公」は「こう」、「劫」は「こふ」と書くのが正しい事となります。これは傳統的の書き方を基準とするところから、歴史的假名遣といはれます。
どんな假名を用ゐるのが正しいかを定めるには、大體以上三つの違つた方法があるのでありまして、第一の方法は、さう發音する事が出來る假名であれば、どんな假名を用ゐてもよいとするのでありますから、特別に假名遣を覺える必要はないのであります。いはゞ假名遣解消論とでもいふべきものでありませう。之に對して第二第三の方法は、或一つのきまつた書き方を正しいとし、その他のものは誤であるとするのでありますから、特別にその正しい書き方を學ぶ必要があります。その中で、第二のは、言語の發音に基ゐて、その音を一定の假名で書くのでありますから、その言語の正しい發音さへわかれば、正しく書ける譯であります。第三のは、同じ音であつても、言葉によつてその正しい書き方が違つてゐるのであり、同じ音に讀むいくつかの書き方にはそれぞれきまつた用ゐ場所があるのであつて、どの語にはどの假名を用ゐるかがきまつてをり、又同じ假名でも、場合によつて違つた讀み方があるのでありまして、その使ひわけがかなり複雜であります。同じオと發音する假名でも、「大きい」の最初のオには「お」(「おくやま」の「お」)を用ゐ二番目のオには「ほ」を用ゐ、「青い」の二番目の音のオには「を」(「ちりぬるを」の「を」)を用ゐ、「葵」の二番目の音のオには「ふ」を用ゐます。又同じ「ふ」の假名を「買ふ」の時には「ウ」とよみ、「たふれる」(倒)の時にはオと讀みます。「けふ」(今日)の時は上の字と合して「キョー」とよみ、甲乙丙の時には「かふ」と書いて「コー」と讀みます。「急行列車」の急は「きふ」と書いて「キュー」とよみます。「う」の假名も「牛馬」の時には「ウ」とよみ「馬」の時にはウマと書いてmmaとよみます。
今日社會一般に正しい假名と認められてゐるのは、以上三つの方法の中、第三のもの即ち歴史的假名遣であります。これは今申しましたやうに、かなり複雜なものでありまして、實際に於ては、誰でも皆之を正しく用ゐてゐるのでなく、隨分誤つた假名を書く事もありますが、小學校や中學校の教科書の類も、この假名遣を用ゐてをりますし、政府の法令の類もこの假名遣に從ひ、新聞なども、大體この假名遣により、たまたま間違ひがあつても、それは少數で例外と見るべきであり、また、多くの人々は、十分この假名遣を知らない爲、間違つた書き方をする場合があつても、その自分の書き方が正しいので、之と違つた正しい假名遣の方が間違つてゐるとは考へてゐません。又、一部の人々は、發音に隨つて書くといふ主義(即ち前に擧げた第二の方法)を正しいと主張して實行して居りますけれども、これは、現今では、只一部の人々にとゞまつて、一般には認められて居ませんから、只今のところで、正しい假名遣と見るべきものは、第三の方法によるもの即ち歴史的假名遣であるといふべきでありませう。唯、その假名遣の知識が徹底してゐない爲に、正しい假名遣がわからず、讀めさへすればよいといふので、間違つた假名遣を用ゐる場合があるといふのが現在に於ける實状であると思はれます。
この假名遣は、かなり面倒なものでありますから、之をすべて發音の通り書く方法に改めようとする考や運動が、既に明治時代からありまして、時々世間の問題となり、現に一昨年も、この論の可否について新聞や雜誌の上で論爭がありました。しかし、將來はとにかく、今日に於ては右に述べたやうに歴史的假名遣が一般に正しいものと認められてゐると見るべきでありますから、この現に行はれてゐる假名遣について、もうすこし説明したいとおもひます。
現行の假名遣は、江戸時代の元祿年間に契沖阿闍梨が定めたものに基づいて居るのでありますが、契冲は決して勝手にきめたものではなく、平安朝半以前の假名の用法に基づいてきめたものであります。この時代には片假名平假名が出來て盛に行はれたのでありまして、「いろは」で區別するだけの四十七字の假名は、すべてそれぞれ違つた發音をもつてをり、現今では同音に發音するいとゐ、えとゑ、おとををも皆別々の音を示してをりました。即ち四十七字の假名が大體に於てその當時の言語の發音を代表してゐたのであります。平安朝半以後になると、これ等の音が變化して同じ音となり、それ等の音の區別は失はれました。もつと古く奈良朝の頃まで遡ると、これ等の區別はありますが、その外に、なほ假名では區別しないやうな音の區別がありました。たとへば、「け」でも「武(タケ)」や「叫(サケブ)」の「けは」「竹(タケ)」や「酒(サケ)」の「け」とは別の音であつたと認められます。この區別は平假名片假名にはないので、假名遣の問題とはなりません。これ等の音は、平安朝に入つては同音となり、假名の出來た時代には同じ假名で書かれたのであります。又奈良朝から平安朝の極初めまでは、ア行のエとヤ行のエの區別、即ちエ(e)とイェ(ye)の區別があつたのでありますが、この區別も、假名では書きあらはされないのであります。(例へば「獲物」のエはe「笛」「枝」のエはyeでありました。)
それ故、契沖のきめた假名遣は、平安朝の半以前の言語の發音の状態を代表するものであります。この時代には、現今同じ發音であつても、違つた假名で書くものは、違つた音であり、今は違つた音でよむものでも、同じ假名で書くものは、同じ發音でありました。それが、それ以後の音變化の結果、假名と音との間に相違が出來たのであります。犬のイは「い」(「いろは」の「い」)であり、田舎のイは「ゐ」(「ならむうゐ」)の「ゐ」)でありますが、「い」は古くはイ(i)の音、「ゐ」はウィ(wi)の音であつたのであります。それが後になつてウィ(wi)がイ(i)と變化して、どちらも同じiの音になりました。これによつて觀ますと、この假名遣は平安朝半以前の言語の發音を代表してゐるものであります。ところが、右のやうな發音變化の結果、もと違つた音が同じ音になり、又同じ音が違つた音になつたにもかゝはらず、その假名は昔のまゝの假名を用ゐるのを正しいとして之を守つて來た爲に、發音と假名との間に相違を生じ、違つた假名を同音に發音し、又同じ文字を違つた音でよむといふ事になつたのであります。
かやうに、日本語の發音の變化は、假名と音との間に不一致を生ぜしめる原因となつたのでありまして、これがまた假名遣なるものを生ぜしめる原因となつたのでありますが、日本語の音の變化が假名遣とどういふ風に關係してゐるかを猶少し考へて見たいと思ひます。
平安朝以前に於ても、前述べた如く音の變化はありましたが、その時代には假名遣の問題は起らなかつたのであります。これは萬葉假名のみを用ゐた奈良時代には、假名は同じ音ならばどんな字を用ゐてもよいといふ主義で用ゐられたのでありまして、平安朝に入つても、同じ主義が行はれた爲、古くは發音に區別があつても、既に同音となつた以上は同じ假名と認めて用ゐたからでありまして、かやうな時代に於ては、假名遣の問題などは全く起らなかつたのであります。
平安朝に入つて、片假名平假名が出來て、次第に廣く用ゐられるやうになりましたが、平安朝以後、言語が次第に變化して、イヰヒ、オヲホ、エヱヘ、ワハ、ウフなどが同じ發音になり、ウマやウメなどのウもm音となりましたが、假名に書く場合には、これまで通りの假名を用ゐる事が多く、假名と發音との間に違ひが生ずるやうになつたと共に、時には實際の發音の影響を受けて發音通りの假名を用ゐる事もあつて、假名の混亂が生じ、同じ語が人により場合によつていろいろに書かれるやうになり、鎌倉時代に入るとますます混亂不統一が甚しくなりました。この時、和歌の名匠として名高い藤原定家が、この假名の用法を整理統一する事を企て、所謂定家假名遣の基礎を作りました。こゝにおいてはじめて假名遣といふ事が起つたのであります。定家卿が定めたのは、「をお、いゐひ、えゑへ」の八つの假名づかひであつて、まだ不完全でありましたが、その後吉野朝時代に、行阿といふ人が、ほ、わ、は、む、う、ふ、の六條を補ひました。
言語の音の變化がこゝまでに及んで、はじめて假名遣といふ事が注意されるやうになつたのでありますが、音の變遷はその後もたえません。即ち室町時代までは、ジとヂ、ズとヅの區別があり、又、アウ、カウ、サウの類の「オー」と、オウ、コウ、ソウの類の「オー」と、の間にも發音上區別がありましたが、江戸時代には、この區別がなくなつて、それぞれ同音になつた爲に、これ等の假名遣が問題となるやうになりました。江戸初期以來の假名遣の書には、これ等の假名遣が説いてあります。
その後江戸時代に於て、菓(クワ)子、因果(イングワ)などのクワ、グワ音がカ音に變じましたので、又その假名遣が問題となりました。
かやうに音が變化して行くに從つて、假名遣の範圍がひろまつて行つたのであります。さうして今日の假名遣に於て見るやうな、いろいろな條項が生じたのであります。
要するに、假名遣といふものは、音の變化によつて起つたもので、現行の假名遣は、或程度まで、過去の日本語の音聲の状態をあらはし、その變遷の跡を示してゐるものでありまして、ことばの起源や歴史などを知る爲には有益なものであり、古い書物その他を讀むにも必要なものであります。
西洋の國々では主として、ローマ字をもつてその國語を書きますが、その場合に、綴字法(スペリング)といふ事があります。これが日本語に於ける假名遣に似たものであります。ローマ字は日本の假名と同じく音を表す文字であり、同じ音をあらはすにいろいろの書き方があり、どんな文字で書くかは、語によつてきまつてゐる事など今の假名遣と同じことであります。さうして、西洋語の綴りは、やはり、過去の發音を代表してゐるのであつて、その發音の變遷の結果、文字と發音との間に不一致が出來た事までも、日本の假名遣と同じことであります。たゞ違つた點は、西洋のスペリングは、どんな語に於てもある事でありますが、日本の假名遣は、假名が違つても同音である場合や、同じ文字に二つ以上の讀み方があつて、用ゐ場所が疑問になる場合にかぎられ、さうでない場合、たとへば、アサ(朝)やヒガシ(東)などの場合には全然關係がない事であります。 
 
表音的假名遣は假名遣にあらず / 橋本進吉

 

一 
假名遣といふ語は、本來は假名のつかひ方といふ意味をもつてゐるのであるが、現今普通には、そんな廣い意味でなく、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」、「お」と「を」と「ほ」、「わ」と「は」のやうな同音の假名の用法に關してのみ用ゐられてゐる。さうして世間では、これらの假名による國語の音の書き方が即ち假名遣であるやうに考へてゐるが、實はさうではない。これらの假名は何れも同じ音を表はすのであるから、その音自身をどんなに考へて見ても、どの假名で書くべきかをきめる事が出來る筈はない。それでは假名遣はどうしてきまるかといふに、實に語によつてきまるのである。「愛」も「藍」も「相」も、 その音はどれもアイであつて、そのイの音は全く同じであるが、「愛」は「あい」と書き「藍」は「あゐ」と書き「相」は「あひ」と書く。同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のアイであるかによるのである。單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである。
この事は古來の假名遣書を見ても明白である。たとへば定家假名遣といはれてゐる行阿の假名文字遣は「を」「お」以下の諸項を設けて、各項の中にその假名を用ゐるべき多くの語を列擧してをり、所謂歴史的假名遣の根元たる契沖の和字正濫抄も亦「い」「ゐ」「ひ」以下の諸項を擧げて、それぞれの假名を用ゐるべき諸語を列擧してゐる。楫取魚彦の古言梯にゐたつては、多くの語を五十音順に擧げて、一々それに用ゐるべき假名を示して、假名遣辭書の體をなしてゐるが、辭書はいふまでもなく語を集めたもので、音をあつめたものではない。これによつても假名遣といふものが語を離れて考へ得べからざるものである事は明瞭である。
表音的假名遣といふものは、國語の音を一定の假名で書く事を原則とするものである。その標準は音にあつて意味にはない。それ故、如何なる意味をもつてゐるものであつても同じ音はいつも同じ假名で書くのを主義とするのである。「愛」でも「藍」でも「相」でもアイといふ音ならば、何れも「あい」と書くのを正しいとする。それ故どの假名を用ゐるべきかを定めるには、どんな音であるかを考へればよいのであつて、どんな語であるかには關しない。勿論表音的假名遣ひについて書いたものにも往々語があげてある事があるが、それは只書き方の例として擧げたのみで、さう書くべき語の全部を網羅したのではない。それ以外のものは、原則から推して考へればよいのである。然るに古來の假名遣ひ書に擧げた諸語は、それらの語一つ一つに於ける假名の用法を示したもので、そこに擧げられた以外の語の假名遣は、必ずしも之から推定する事は出來ない。時には推定によつて假名をきめる事があつても、その場合には、音を考へていかなる假名を用ゐるべきかをきめるのではなく、その語が既に假名遣の明らかな語と同源の語であるとか、或はそれから轉化した語であるとかを考へてきめるのであつて、やはり個々の語に於けるきまりとして取扱ふのである。
以上述べた所によつて、古來の假名遣は(定家假名遣も所謂歴史的假名遣も)假名による語の書き方に關するきまりであつて、語を基準にしてきめたものであり、表音的假名遣は假名による音の書き方のきまりであつて、音を基準としたものである事が明白になつたと思ふ。 

 

それでは假名遣といふものは何時から起つたであらうか。
普通の假名、即ち平假名片假名は、平安初期に發生したと思はれるが、それ以前にも漢字を國語の音を表はす爲に用ゐた事は周知の事實であつて、之を假名の一種と見て萬葉假名又は眞假名と呼ぶのが常である。この萬葉假名の時代に於ては、國語の音を表はす爲に之と同音の漢字を用ゐたのであるから、當時は表音的假名遣が行なはれたといふやうに考へられるかも知れないが、しかしこの時代には假名として用ゐられた漢字は同音のものであれば何でもよかつたのであつて、それ故、同じ音を表はすのに色々の違つた文字を勝手に用ゐたのである(それは、諸書に載せてある萬葉假名の表に、同じ假名として多くの文字が擧げられてゐるのを見ても明らかである)。その結果として、同じ語はいつも同じ文字で書かれるのでなく、さまざま違つた文字で書かれて、文字上の統一は無かつたのである(たとへば「君」といふ語は「岐美」「枳瀰」「企弭」「耆瀰」「吉民」「伎彌」「伎美」のやうな、色々の文字で書かれて文字に書かれた形は一定しない)。處が、現代の表音的假名遣に於ては、同じ音はいつも同じ文字で書き、違つた音はいつも違つた文字で書くのが原則であり、從つて文字の異同によつて直に音の異同を知る事が出來るのであるが、上述の如き萬葉假名の用法によつては、異なる音は異なる文字で書かれてゐるが、同じ音も亦異なる文字で書かれる故、文字の異同によつて直に音の異同を判別する事は出來ない。又、萬葉假名の時代には同じ音の文字なら、どんな字を用ゐてもよいのであるから、もし之と同じ原則によるならば、現代に於て、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」、「お」「を」はそれぞれ同じ音を表はしてゐる故、「犬」を「いぬ」と書いても「ゐぬ」と書いても、「家」を「いえ」と書いても「いゑ」と書いても(又「いへ」と書いても)、「奧」を「おく」と書いても「をく」と書いても宜しい筈であるが、今の表音的假名遣では、かやうな事を許さない。さすれば、この時代の萬葉假名の用ゐ方は、現代の表音的假名遣とは趣を異にするものであるといはなければならない。
勿論萬葉假名の時代に於ても、或種の語に於ては、それに用ゐる文字がきまつたものがある。地名の如きは、奈良朝に於て國郡郷の名は佳字を擇んで二字で書く事に定められたのであつて、その中には「紀伊」、「土佐」、「相模」、「伊勢」等の如く、萬葉假名を用ゐたものがあり、又、姓や人名にもさういふ傾向がかなり顯著であるが、これは特殊の語に限られ、一般普通の語に於ては、同音ならばどんな漢字を用ゐてもよいといふ原則が行なはれたものと思はれる。かやうに、同音の文字が萬葉假名として自由に用ゐられ何等の制限もなかつた時代に於いては、どの假名を用ゐるべきかといふ疑問の起こる事もなく、假名遣といふやうな事は全然問題とならなかつたと見えて、さういふ事の考へられた痕跡もないのである。
平安朝に入つて萬葉假名から平假名片假名が發生して、次第に廣く流行するに至つたが、これらの假名に於ても同音の假名として違つた形の文字(異體の假名)が多く、殊に平假名に於ては多數の同音の文字があつて、それから引續いて今日までも行なはれ、變體假名と呼ばれてゐる。片假名もまた初の中は、同音で形を異にした文字がかなりあつて、鎌倉時代までもその跡を斷たなかつたが、これは比較的早く統一して室町江戸の交にいたれば、ほぼ一音一字となつた。
この片假名平假名に於ても、亦萬葉假名に於けると同樣、同音の假名はどれを用ゐてもよく、同語は必ずしもいつも同一の假名では書かれなかつたのであつて、從つて、假名の異同によつて直にそれの表はす音又は語の異同を知る事は出來ないのである。しかし、平安朝の初期には「天地<アメツチ>の詞」が出來、其の後、更に「伊呂波歌」が出來て、之を手習の初に習つたのであつて、これ等のものは、アルファベットのやうに、當時の國語に用ゐられたあらゆる異る音を表はす假名を集めて詞又は歌にしたものであるから、これによつて、當時多く用ゐられた種々の假名の中、どれとどれとが同音であり、どれとどれとが異音であるかが明瞭に意識せられ、同音の假名は、たとひちがつた文字であつても同じ假名と考へられるやうになつて今日の變體假名といふやうな考が生じたであらうと思はれる。とはいへ、かやうなものが行なはれても、假名の使用に關して或制限や或特別の規定が出來たのでなく、同音の假名ならどれを用ゐてもよかつたのであるから、やはり假名遣の問題は起らなかつたものと思はれる。現に平安朝初期に起つた音變化によつて、ア行のエとヤ行のエとが同音となり、その爲「天地の詞」の四十八音が一音を減じて「伊呂波歌」では四十七音になつたけれども、もと區別のあつた音でも、それが同音となつた以上は、もと各異る音をうつした假名も、同音の假名として區別なく取扱はれたものらしく、その假名の遣ひ方については何等の問題も起らなかつたやうである。 

 

然るに鎌倉時代に入ると、はじめて假名遣といふことが問題になつたのである。假名文字遣の最初にある行阿(源知行。吉野時代の人)の序によれば、假名遣の濫觴は行阿の祖父源親行が書いて藤原定家の合意を得たものであるといつてをり、藤原定家の作らしく思はれる下官集の中にも假名遣に關する個條があつて、先逹の間にも沙汰するものが無かつたのを、私見によつて定めた由が見えてゐるのであつて、鎌倉初期に定家などがはじめて之を問題として取り上げて、假名遣を定めたものと考へられる。
この假名遣は、「を」と「お」、「ゐ」と「い」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」の如き同音の假名の用ゐ方に關するものであつて、それらの假名をいかなる語に於て用ゐるかを示してをり、今日いふ所の假名遣と全然同じ性質のものである。
この時代になつてどうして假名遣の問題が起つたかといふに、それは平安中期以後の國語の音の變化によつて、もと互に異る音を表はしてゐたこれらの假名が同音に歸した爲である事は言ふまでもない。しかし、以前の如く、同音の假名は區別なく用ゐるといふ主義が守られてゐたならば、これらの假名が同音に歸した以上は、「を」でも「お」でも、又「い」でも「ゐ」でも「ひ」でも同じやうに用ゐた筈であつて、之を違つた假名として、區別して用ゐるといふ考が起るべき理由はないのである。もつとも、「を」と「お」、「い」と「ゐ」と「ひ」はそれぞれ違つた文字であるけれども、當時、一般にどんな假名にも同音の假名としていろいろの違つた文字(異體の假名)があつて、區別なく用ゐられてゐたのである故、これらの假名も同音になつた以上は同音の假名として用ゐて差支なかつた筈である。然るにこれらの假名に限つて、同音になつた後も假名としては互に違つたものと考へられたのは、特別の理由がなければならない。私は、この理由を當時一般に行なはれてゐた「伊呂波歌」に求むべきだと考へる。即ち、これらは、伊呂波歌に於て別の假名として教へられてゐた爲に、最初から別の假名だと考へられ、それが同音になつた後もさうした考はかはらなかつたので、同音に對して二つ以上の違つた假名がある事となり、それらの假名を如何なる場合に用ゐるかが問題となつて、ここに假名遣といふ事が生じたものと思はれる。 

 

前にも述べた通り、萬葉假名專用時代に於ても、片假名平假名發生後に於ても、假名は音を寫す文字として用ゐられた。當時の假名の遣ひ方は、同音の文字であればどんな文字を用ゐてもよいといふ點で現代の表音的假名遣とは違つてゐるが、音を寫すといふ主義に於ては之と同一である。しかるに、もと違つた音を表はしてゐたいくつかの假名が同音となつてしまつた鎌倉時代に於て、それらの假名がやはり假名としては別々のものであり、隨つて區別して用ゐるべきものであるといふ考の下に、その用法を定めようとしたのが假名遣であるが、この場合に、その假名を定める基準たるべきものは音そのものに求める事は絶對に不可能であつて(音としてはこれらの假名は全く同一であつて、區別がないからである)、これを他に求めなければならない。そこで、新に基準として取り上げられたのが語であつて、音は言語に於ては、それぞれ違つた意味を有する語の外形として、或は外形の一部分として、常にあらはれるものである故に、その一々の語について、同音の假名の何れを用ゐるかをきめれば、一定の語には常に一定の假名が用ゐられて、假名の用法が一定するのである。かやうに假名遣に於て假名の用法を決定する基準が語であつた事は、下官集に於ても假名文字遣に於ても、各の假名の下に、之を用ゐるべき語を擧げてゐるによつても知られるが、また、源親行が父光行と共に作つた源氏の註釈書「水原抄」の中の左の文によつても諒解せられる。
眞字は文字定者也。假字は文字づかひたがひぬれは義かはる事あるなり水原(河海抄十二梅枝「まむなのすゝみたるほどにかなはしとけなきもじこそまじるめれとて」の條に引用したものによる)
これは、「漢字は語毎に用ゐる文字がきまつてゐる。假名は音に從つて書けばよいやうに思はれるけれども、その文字遣、即ち假名遣を誤るとちがつた意味になる事がある」と解すべきであらう(源氏の原文の意味はさうではあるまいが、光行はさう解釋したとみられる)。假名遣を誤つた爲に他の意味になるといふのは、同音の假名でも違つた假名を用ゐれば、別の語となつて、誤解を來す事がある事を指していふのであつて、かやうに、假名遣を意味との關聯に於て説いてゐる事は、假名は語によつて定まるもの、即ち假名の用法は語を基準とすると考へてゐた事を示すものである。
それでは、假名遣に於けるかやうな主義は定家などが全く新しく考へ出したものかといふに、必ずしもさうではあるまいと思はれる。全體、當時の假名遣が、何を據り所として定められたかについては、假名文字遣は何事をも語つてゐないが、下官集には「見舊草子了見之」とあつて、假名文學の古寫本に基づいてゐる事を示してゐる。古寫本といつても何時代のものか明かに知る由もないが、平安中期以後、國語の音變化の結果として、もと區別のあつた二つ以上の音が同音となり、之をあらはした別の假名が同音に讀まれるやうになつたが、音と文字とは別のものである故、かやうに音が變はつた後も、假名(ことに假名ばかりで書く平假名)はもとのものを用ゐる傾向が顯著であつて、時としては同音の他の假名を用ゐる事があつても、大體に於て古い時代の書き方が保存せられてゐた時代がかなり永くつゞゐたものと考へられる。しかるに時代が下つて鎌倉時代に入ると、その實際の發音が同じである爲、同音の假名を混じ用ゐる事が多くなり、同じ語が人によつて違つた假名で書かれて統一のない場合が少なくなかつたので、古寫本に親しんだ定家は、前代にくらべて當時の假名の用法の混亂甚だしきを見て、これが統一を期して假名遣を定めようとしたものと思はれる。
さて、右の如く、もと異音の假名が同音になつた後も、なほ書いた形としてはもとの假名が保存せられて、他の同音の假名を用ゐる事が稀であつたのは、何に基づくのであらうか。これは、もと違つてゐた音が、同音になつた後にもなほ記憶せられてゐた爲とはどうしても考へられない。既に音韻變化が生じてしまつた後にはもとの音は全然忘れられてしまふのが一般の例であるからである。これは、古寫本の殘存又はその轉寫本の存在などによつて假名で寫した語の古い時代の形が之を讀む人の記憶にとゞまつてゐた爲であるとしか考へられない。即ち、古く假名で書いた或語の形は、後に同音になつた假名でも、その中の或一つのものに定まつてゐた爲、その語とその假名との間に離れがたき聯關を生じて、自分が新に書く場合にも、その語にはその假名を用ゐるといふ慣習がかなり強かつたのであると解すべきであらう。さすれば、明瞭な自覺はなかつたにせよ、既にその時分から、語によつて假名がきまるといふ傾向があつたとしなければならないのである。
一般に文字を以て言語を寫す場合に、いかなる語であるかに從つて(たとひ同音の語でも意味の異るに從つて)之に用ゐる文字がきまるのは決して珍しい事ではなく、表意文字たる漢字に於てはむしろその方が正しい用法である。漢語を表はす場合は勿論のこと(同じコーの音でも、「工」「幸」「甲」「功」「江」「行」「孝」「效」「候」など)漢字を以て純粹の國語を表はす場合にもさうである。(「皮」と、「河」、「橋」と「箸」、「琴」と「事」と「言」など)唯、漢字を假りて國語の音を表はす場合(萬葉假名)はさうでなく、同じ語を種々の違つた文字で表はす事上述の如くであるが、この場合には漢字が語を表はさず音を表はすからであつて、しかも、さういふ場合にも、或特殊の語(地名、姓、人名など)に於ては語によつて之を表はす文字が一定する傾向があつた事、これも上に述べた通りである。假名の場合は漢字とは多少趣を異にし、同音の假名は、文字としては違つたものであつても同じ假名と見做す故、同じ語をあらはす文字の形は必ずしも常に一定したものではないけれども、或語のオ音には常に「を」(又は之と同じ假名)を用ゐて、「お」又は「ほ」の假名(又はそれらと同じ假名)を用ゐないといふ事になれば、その語と「を」(及び之と同じ假名)との間には密接な關係を生じて、その假名でなければ直にその語と認めるに困難を感じ、又は他の語と誤解するやうになるのは自然である。
かやうに一方に於て漢字が語によつて定まるといふ事實があり、又一方に於て、假名で書く場合にも、同音でありながら違つたものと認められた假名は、語によつてその何れか一つを用ゐる傾向があつたとすれば、新に假名遣の問題が起り、かやうな同音の假名の用法の制定が企てられた場合に、語を基準とするのは最自然なことといはなければならない。(音を基準にしようとしても不可能な事は前述の通りである)。
以上述べ來つた如き事情と理由とによつて、假名遣といふものは、それが問題となつた當初から、問題の假名を、語を表はすものとして取扱つて來たのであり、その場合に假名を定める基準となつたものは、單にどんな音を表はすかでなく、更にそれより一歩を進めた、どんな語を表はすかに在つたのである。
かやうにして萬葉假名の時代から平假名片假名發生後に至るまで、純粹に音をあらはす文字としてのみ用ゐられて來た假名は、少くとも假名遣という{底本のママ}事が起つてからは、單なる音を表はす文字としてでなく、語を表はす文字として用ゐられ、明かにその性格を變じたのである。(但し、この時からはじめて語を表はす文字となつたか、又はもつと前からさうなつてゐたかは問題であつて、前に述べた所によれば、少くとも假名遣に關係ある問題の假名については以前よりそんな傾向はあつたとするのが妥當なやうであり、その他の假名については明瞭な證據が無いからわからないが、やはりそんな性質のものと考へられるやうになつてゐたかも知れない。同じ音の假名ならどんな假名を用ゐてもよいからといつて、それ故、音を表はすだけのものであると速斷するのは危險である。何となれば、萬葉假名の時代と違つて「天地」の詞や「伊呂波」のやうなものが行なはれてゐた時代には、それの中に現はれた假名だけが代表的のものと認められ、これと違つた假名は今の變體假名と同じく、代表的の假名と全く同樣なものと考へられ、從つて、假名で書いた語は、たとひ假名としての形は違つてゐても、或一定の假名で書かれてゐると考へた事もあり得べきであるからである)。 

 

かやうに、假名遣に於ては、その發生の當初から、假名を單に音を寫すものとせずして、語を寫すものとして取扱つてゐるのである。さうして假名遣のかやうな性質は現今に至るまでかはらない事は最初に述べた所によつて明かである。然るに今の表音的假名遣は、專ら國語の音を寫すのを原則とするもので、假名を出來るだけ發音に一致させ、同じ音はいつでも同じ假名で表はし、異る音は異る假名で表はすのを根本方針とする。即ち假名を定めるものは語ではなく音にあるのである。これは、假名の見方取扱方に於て假名遣とは根本的に違つたものである。かやうに全く性質の異るものを、同じ假名遣の名を以て呼ぶのは誠に不當であるといはなければならない。これは發生の當初から現今に至るまで一貫して變ずる事なき假名遣の本質に對する正當な認識を缺く所から起つたものと斷ぜざるを得ない。
表音的假名遣は、音を基準とし、音を寫すを原則とするものであるとすれば、一種の表音記號と見てよいものである。表音記號は、言語の音を目に見える符號によつて代表させたもので、同じ音はいつも同じ記號で、違つた音はいつも違つた記號で示すのを趣旨とする。さうして、表音記號を制定するについては、實際耳に聞える現實の音(音聲)を忠實に寫すものや、正しい音の觀念(音韻)を代表するものなど、種々の主義があり、又、ローマ字假名など既成の文字を基礎とするものや、全然新しい符號を工夫するものなど種々の方法があるが、その中、假名に基ゐて國語の音韻を寫す表音記號は、その主義に於ても方法に於ても、表音的假名遣と全然合致するものである。それ故表音的假名遣はその實質に於ては一種の表音記號による國語の寫し方と見得るものであり、又それ以外にその特質は無いものである。勿論表音的假名遣は、實用を旨とするものである故、必ずしも精細に國語の音を寫さず、又その寫し方に於ても多少曖昧な所もあつて、表音記號としては不完全であるが、表音記號でも、實用を主とした簡易なものもあるのであるから、かやうな故を以て表音記號とは全然別のものであるといふ事は出來ない。しかし表音的假名遣を實際に行ひ世間通用のものとする爲には、從來の假名遣と妥協しなければ不便多く、その目的を逹し難い憂がある爲に、これまで提出された表音的假名遣には、從來の假名遣に於ける用法を加味したものがある。例へば大正十三年十二月臨時國語調査會決定の假名遣改定案に於ては、助詞のハ・ヘ・ヲに限り從來の假名遣を保存した如きはその例であつて、この場合には、その音によらず、如何なる語であるかによつて假名を定めたのである。それ故、この部分だけは假名遣といふ事が出來やうが、これは二三の語のみに限つた例外的のものである。これだけが假名遣であるからといつて、全部を假名遣といふのは勿論不當である。
右のやうな論に對して或はかういふ説を立てるものがあるかも知れない。
表音的假名遣は、例へば同音の假名「い」「ゐ」「ひ」に對してその中の「い」を用ゐ、「え」「ゑ」「へ」に對してその中の「え」を用ゐるなど、同音の假名がいくつかある中でその一つに一定したものであつて、假名遣に於て、同音の假名の中、この假名はどの語に用ゐるといふやうに、その假名の用法を一定したのと同樣である。それ故、これも假名遣と呼んで、差支へないではないかと。
この説は當らない。表音的假名遣に於ては、いくつかの同音の假名の中、一つだけを用ゐて他は用ゐないのを原則とする(これは同じ音はいつも同じ假名で書くといふ主義からいへば當然である)。然るに假名遣では、同音の假名はすべて之を用ゐて、それぞれいかなる場合に用ゐるかをきめたのである。この事は實に兩者の間の重大な相違であつて、假名遣といふ問題の起ると起らないとの岐れるのは懸つて此處にあるのである。前にも述べた通り假名は最初から、同音の文字ならばどんな文字でもその音を表はす爲に區別なく用ゐられた。もしこの主義がいつまでも引續いて行なはれたならば、「い」も「ゐ」も「ひ」も同じイ音になつてしまつた時代では、「い」「ゐ」「ひ」は同音異體の同じ假名として區別なく用ゐられ、それ等の假名の用法については何等の疑問も起らず、假名遣といふ事が問題になる事はなかつたであらう。右のやうな假名の用法は、表音的假名遣に於ける假名の用法に近いものではあるが、まだ之と全く同じではない。何となれば「い」「ゐ」「ひ」をイ音を表はす同じ假名とみとめてその中の何れを用ゐてもよいといふのは、表音的假名遣に於てイ音を表はすに「い」を用ゐて「ゐ」「ひ」を用ゐないといふのと同じくないからである。しかし、かやうな假名の用法を整理して、一つの音にはいつも同じ一つの假名を用ゐる事にすれば、イ音を表はす「い」「ゐ」「ひ」は「い」で書く事になつて、表音的假名遣と全然同一になる。かやうな整理は、普通の假名に於て、同音の變體假名を整理して唯一つのものに定めると全く同性質のもので(カ音には「か」を、キ音には「き」を用ゐて、他の變體假名を用ゐないのと同樣である)假名遣に於ける假名の取扱方とは全然別種のものである。もし、實際に於て假名の用法がこんな方向に進んだのであつたならば、今普通いふやうな意味に於ける假名遣といふ事は起らなかつたであらう。然るに事實に於ては、前述の如く「い」「ゐ」「ひ」等の假名が同音になつた後も、猶これ等の假名は文字としては別の假名と考へられてゐたのであつて、そこで、それらの假名をどう用ゐるべきかといふ疑問がおこり、こゝにはじめてこれらの假名の用法即ち假名遣が問題になつたのである。もしこの場合に、これ等の假名はすべて同音であつて、その中の一つさへあれば音を表はすには十分である故、一つだけを殘して其他のものを廢棄したとしたならば、假名はどこまでも音を表はすものとして存續したであらう。然るに、當時に於ては、國語の音をいかなる假名によつて表はすかといふ事が問題となつたのでなく、もとから別々の假名として傳はつて來た多くの假名の中に同音のものが出來た爲、それを如何に區別して用ゐるかといふ事が問題となつたのである。それ故、同音のものを廢棄するといふやうな事は思ひも及ばなかつたであらう。即ち假名遣は最初から同音の假名のつかひわけといふ問題がその本質をなしてゐるのであり、從つて之を定める基準としては語によらざるを得なかつたのである。さすれば、同音の他の假名を廢して、音と假名とを一致させようとする表音的假名遣は、假名遣とはその根本理念に於て非常な差異があるもので、決して之を同視する事は出來ないのである。
かやうに考へて來ると假名遣と表音的假名遣とは互に相容れぬ別個の理念の上に立つものである。假名遣に於ては、違つた假名は、それぞれ違つた用途があるべきものとし、たとひ同音であつても別の假名は區別して用ゐるべきものとするに對して、表音的假名遣に於ては假名は正しく言語の音に一致すべきものとし、同音に對して一つ以上の假名の存在を許さないのである。もし同音の假名の存在を許さないとすれば、假名遣はその存立の基礎を失ひ雲散霧消する外ない。即ち、表音的假名遣は畢竟假名遣の解消を意圖するものといふべきである。然るに之を假名遣と稱するのは、徒に人を迷はせ、假名遣に對する正當なる理解を妨げるものである。 

 

以上述べたやうに、假名遣と表音的假名遣とはその根本の性格を異にしたものであつて、假名遣に於ては假名を語を寫すものとし、表音的假名遣に於ては之を專ら音を寫すものとして取扱ふのである。語は意味があるが、個々の音には意味無く、しかも實際の言語に於ては個々の音は獨立して存するものでなく、或る意味を表はす一續きの音の構成要素としてのみ用ゐられるものであり、その上、我々が言語を用ゐるのは、その意味を他人に知らせる爲であつて、主とする所は意味に在つて音には無いのであるから、實用上、語が個々の音に對して遙に優位を占めるのは當然である。さすれば、假名のやうな、個々の音を表はす表音文字であつても、之を語を表はすものとして取扱ふのは決して不當でないばかりでなく、むしろ實用上利便を與へるものであつて、文字に書かれた語の形は一度慣用されると、全體が一體となつてその語を表はし、その音が變化しても、文字の形は容易にかへ難いものである事は、表音文字なるラテン文字を用ゐる歐州諸國語の例を見ても明白である。かやうな意味に於て語を基準とする假名遣は十分存在の理由をもつものである。
しかしながら、假名遣では十分明瞭に實際の發音を示し得ない場合がある故、私は、別に假名に基づく表音記號を制定して、音聲言語や文字言語の音を示す場合に使用する必要ある事を主張した事がある(昭和十五年十二月「國語と國文學」所載拙稿「國語の表音符號と假名遣」)。然るに右のやうな表音記號としては、一二の試案は作られたけれども、まだ廣く世に知られるに至らないが、表音的假名遣は、前述の如く、その實質に於て假名を以てする國語の表音記號と同樣なものであり、表音記號としてはまだ不十分な點があつても、それは必要な場合には多少の工夫を加へればもつと精密なものともなし得るものであり、その上、臨時國語調査會の案の如き、多くの發音引國語辭書に於て發音を表はす爲に用ゐられて比較的よく世間に知られてゐるものもある故、これを簡易な表音記號に代用するのも一便法であらう。但しその爲には、表音主義を徹底させて、假名遣による規定を混入した部分は全部削除する事が必須であり、又名稱も假名遣の名は不當である故、明かに表音記號と稱するか、少くとも簡易假名表記法とでも改むべきである。
表音的假名遣に於て見る如き、假名遣を否定する考へは、古く我國にも全くないではなかつたが、今世間に行はれてゐる、歴史的假名遣及び表音的假名遣の名は、英語に於ける歴史的綴字法(ヒストリカルスペリング)及び表音的綴字法(フォネティクスペリング)から出たもので、假名遣を綴字法と同樣なものと見て、かく名づけたのである。然るに綴字法は歴史的のものも表音的のものも、共に語の書き方としてのきまりであつて、かやうな點に於て、語を基準とする假名遣とは通ずる所があつても、音を基準とする表音的假名遣とは性質を異にするものといはなければならない。私は從來世間普通の稱呼に從つて表音的假名遣をも假名遣の一種として取扱つて來たのであるが、今囘新に表音的假名遣に對する考察を試みて、その本質を明かにした次第である。
(昭和十七年八月稿) 
 
日本の文字について 文字の表意性と表音性 / 橋本進吉

 

國語の現状及び歴史
國語國字の本來の性質の認識
國語國字と國民との關係の認識
今日の國民生活に密接なる關係を有し、一日と雖もはなれる事の出來ない漢字と假名とについて、その根本の性質は何にあるか、中にも言語との關係がどうなつてゐるかを中心にして説明してみたいとおもふ。
これは珍しい事、新しい事ではなく、わかつた事で、或は無用の事と思はれるかも知れないが、實際、我々にあまり近しいものは、存外その眞實がわからないものである。國語國字の問題を論ずる人々にもこの危險がある。
文字は言語をあらはすものである。代表するものである。社會的拘束、習慣にすぎず、兩者の間に必然的の關係は無いのである。そしてもし言語を表さぬものとするならば文字でなく、唯符號にすぎない。
言語は、一定の音と一定の意味があり、一方から一方をおもひ出させるものである。音は意味を代表する。(兩者は同價値にあらず。目的は意味を他人につたへるにあり、音はその手段として用だつものである。)
文字が言語を代表するとすれば、それは意味を表はすとともに音をもあらはすのである。即ち表意性と表音性との二つの方面があるのである。
これが文字の最も根本の性質であつて、文字を考へるに當つては寸時も忘れてはならない事である。
漢字と假名とは文字としての性質を異にする。漢字は表意文字又は意字とよばれて意味を表はすもの、假名は(ローマ字などと共に)表音文字又は音字とよばれて音を表はすものと考へられてゐる。さすれば一寸見ると漢字には表音性なく、假名には表意性が無いかのやうに見えるが、はたしてさうであらうか。
まづ漢字について見るに、漢字には、從來、形音義の三つのものがあると考へられてゐる。形は、その字の形であり、音はその字のよみ方であり、義は、その字のあらはす意味である。そのうち音と義とは、言語に屬する事である。(漢字がなくとも、言語として音と意味とは存在する。)漢字には、それぞれきまつた形があつて、それが、きまつた意味を表はし、又きまつた音(よみ方)をもつてゐる。そのきまつた意味と音とをその形があらはすのであるから、漢字の形は、つまり言語を表すものである。即ち、表音性と表意性とをもつてゐるといふ事になるのである。即ち、漢字に形音義があると考へられてゐるのは、漢字には表意性のみならず、表音性もある事を認めてゐるのである。
次に假名はどうか。假名は表音文字といはれてゐるやうに、一々の假名はきまつたよみ方(音)をもつてをり、言語の音を表はすが、意味をあらはさないのが常である。さすれば假名には表意性はないかといふに、さうではない。なるほど一々の假名はきまつた意味を表はさないが、之を實際用ゐる場合には、之を以て言語を書くのである。その場合には一つの假名で或意味をあらはす事もあり、又一つで足りない場合には、いくつかの假名を連ねてそれで或意味をあらはす。即ち、個々の文字としてはいつもきまつた音を表はすだけで、きまつた意味をあらはすのではないが、實際に於ては、やはり意味を表はすのである。
全體、言語としては、いつでも音は或一定の意味を表はす爲に用ゐられてゐるのであつて、或一定の意味を有する言語の形として或きまつた一つづきの音が用ゐられるのである。假名はさういふ言語の音を表はすのであつて、その音を表はすに必要なだけ、即ち、或場合には一つ、或場合には二つ以上連ねてあらはすのである。それ故、假名が音をあらはすといつても、それは言語の音をあらはすかぎり、結局は意味を表はす事になるのである。(もし言語の音を表はさないならば、それは文字ではない。)
假名が音を表はす事は勿論であるが、前述の如く、漢字も亦音を表はすのである。それは即ち漢字のよみとしてあらはれてゐる。それでは音を表はすといふはたらきからみて假名と漢字との間に何等かちがひがあるかどうか。
假名が音をあらはすのは、言語の音を音として分解して、その分解したものを一つ一つの文字であらはすのである。即ち言語の音は意味を表はすものであつて、それは一つづきの音である。それは言語としては、即ち、意味をもつてをるものとしてはそれ以上分解出來ないものであつても、音としては更に之を分解出來る。假名は、音として分解して得た單位を代表するもので、それが言語を表はす場合には、分解したものを更に結合させて、言語としての一定の音を形にあらはすのである。然るに、漢字は、或意味を表はす一定の音の形全體を分解し分析せず、そのまゝ全體として之をあらはすのである。ここにその間の相違がある。
かやうに假名は音の形を分析して示し、漢字は分析せず全體をそのまゝ示すとすれば、假名の方は言葉の音の形を明かに精密に示し、漢字は之を明かには示さないやうに考へられる。また、それも事實である。しかしよく考へて見ると、これは唯反面の事實であつて、全局から見れば必ずしもさう言ひ切れないものがある。
假名は言語の形を分析して示す。分析すれば、精密に音が示せるやうに考へられるが、分析した爲に失はれるものはないかと考へてみるに、それはたしかにあるのである。その明かなのはアクセントである。
言語に於ては意味をあらはす音の一つづきには、必ず一定のアクセントがある。どこを高く、どこを低く、發音するかのきまりがある。同じ音から出來た語であつても、そのアクセントの違ひによつて、別の語になる(即ち、意味が違ふ)。それ故、アクセントは言語としては大切なものであるが、假名で書けば、このアクセントの違ひは書きわける事は出來ない。
然るに、漢字に於ては、その「よみ」は一定の意味をもつてゐる語の音の形そのまゝである故に、その語に使ふアクセントも亦一定してゐるのであつて、漢字は唯、音を示すばかりでなく、アクセントをも示すといふ事が出來る。かやうな點に於て、漢字の表音性は假名よりも一層精密であるともいへるのである。
もつとも假名は音をあらはす文字である故、假名で書いてあれば、普通の場合は、發音はわかる。勿論アクセントはわからぬまでも、大體の音はわかる。漢字の場合は、文字の音は、よみ方を知らなければ全くわからない。さういふ點に於て假名の方が便利だといへる。
しかしながら、元來、文字は知らない言語を新しく覺える爲のものではなく、わかつてゐる言語を書き、書いた文字から知つてゐる語をおもひ出す爲のものである。知らない語であれば、どんなにその發音だけが正しくわかつても之を理解する事が出來ず、又自分の知らない語ならば之を書くといふ事は出來る筈のものではない。それ故、もし讀み方のわからない場合には之を人に聞いてどんな語であるかを知るべきであつて、勝手に之をよむべきものではない。
世人はこの點に於て誤解してゐるものが多いやうであるが、まだ讀方を知らない文字に出會ひ又はまだ知らない語を書いた文字に出會つた場合に、それがわからないからといつて、之をその文字の責任に歸するのは根本的にあやまつた考であると信ずる。
次に、表意性について考へてみる。
漢字は、意味を表はすものである。たとへ同じ音の語であつても、意味のちがつたものは、違つた文字であらはすのが原則である。それ故、漢字で書いたものは意味を理解するのに容易である。
假名は、言語を書くのに、語の音を分解して、音に從つて書く。それ故、或る意味をもつてゐる一つづきの音は、一字のもあれば、二字、三字、四字などいろいろある。その上實際の言語としては、音のつながりが、意味にしたがつて區切られてゐるのであるが、普通の書き方としては、その區切が書きあらはされず、ずつとつゞけて書いてある。それ故、どこからどこまでが、一つの意味をあらはすかが、すぐはわからず、讀んでみなければならない。(普通の場合は言葉としてはわかつてゐるのであるから、讀んでみればわかるが、區切りが明瞭でない故、時として誤讀するおそれがある。)それ故、漢字の場合の如く、意味を理解する場合に一目瞭然とは行かない。かやうな點に於て、漢字は假名よりも數等すぐれてゐる。もつとも同じ表音文字であつても、今日の羅馬字の如きは、一語ごとに區切りがあつて、意味を表はす一かたまりの音は一かたまりの文字によつてあらはされてをり、それが意味を理解する場合に便利になつてゐる。かやうになれば、表音文字であつても、そのかたまりが一つのものとなつて、一つの漢字と同じやうな性質のものとなつたのである。我國の假名には、まだ、かやうな習慣が成立つてゐないのである。
以上は、漢字と假名との表音性と表意性とについての大體論である。勿論、我國では漢字を假名のやうにその意味にかゝはらず專ら表音的に用ゐる用法があつたのであつて、これを萬葉假名といふ。この場合には、その性質は漢字でも假名と同樣である。しかし、漢字はやはり漢字であつて、全く假名の如く表音文字になつたのではなく、同時に表意文字としても用ゐるのであつて、假名的用法は、漢字の特別の用法に過ぎない。
又一方假名は、表音文字で、言語の音を表はすのがその本來の性質であるが、しかし、又その意味によつて之を用ゐる事もある。假名遣の場合がそれであつて、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」、「お」「を」は音としてはそれぞれ全く同じ音であるが、之を同じ處には用ゐず、區別して用ゐるのであるが、どう區別するかといふと、意味によつて區別するのである。即ち「イル」といふ音の語であるとすると、音としては、「イ」は全く同じ音であるが、「入る」「射る」「要る」などの意味の語である場合には「い」を用ゐ、「居る」の意味の語である場合には「ゐ」を用ゐる。「得る」と「彫る」のエも音としては同じであるが、前の意味の語では「える」と書き、後の意味の場合では「ゑる」と書く。これらは假名の違ひによつて意味の違ひを示してゐるのである。
かやうに、漢字でも必ずしもいつも表意的にのみ用ゐるのでなく、又假名でも、時には音を表はすのみならず意味のちがひを表はす事もあるけれども、普通の場合に於て漢字は表意文字で、假名は表音文字である。さうして前に述べたやうに、漢字は意味を示すことをその特徴とするのであるが、しかし音をあらはさないのではなく、しかも、その音をあらはすはたらきは、或る點では表音文字たる假名よりももつと具體的であつて一層精密であるといつてよい點があるのであり、表意のはたらきに於ては、假名とは比較にならないほど、明瞭で適切である。假名は表音のはたらきに於ては、漢字のもたないやうな長所をもつてゐるとはいふものの、又一方からみれば、まだ不完全で不精密な點もあり、又表意の點に於ては漢字にくらべては、まだ不完全で不便な點が多い。
さうして、言語はつまり、思想交換がその目的である故、その最も大切なのは、意味であつて、その音の側にはないのである。音が言語に於て大切なのは意味を傳へる手段としてであるが、文字に書いた場合には、必ずしも音によらなくとも文字として目に見える形だけによつても意味を傳へる事が出來るのであるから、文字の場合に大切なのは、その表音性よりも表意性にあるのである。假名と漢字とをくらべて見ると、前に述べたやうに、漢字の方がその表意性が著しく意味を傳へるのに便益が多いとすれば、漢字の文字としての價値は假名にくらべて勝れた點がある事を認めないわけには行かないのである。
勿論私が、文字の意味を大切であるとするのは、その表音性を無視しようとするのではない。ことに、山田孝雄氏が國語史文字篇に文字の本質としてあげられた
文字は思想觀念の視覺的形象的の記號である。
文字は思想觀念の記號として一面言語を代表する。
といふ説に對しては、むしろ反對の意見をもつものである。文字は單に一面言語を代表するのではなく、全面的に言語を代表するものと考へるのであつて、言語には必ず一定の音があるもので、文字もこの音をあらはせばこそ文字であるのである。即ち、文字ならば必ず一定のよみ方を伴ふのである。もし、それがなく、只觀念思想を表するだけなら文字ではなく符合(記號)にすぎない。實際文字があつても、よみ方を知らない場合があるが、それでも文字である以上は何かきまつたよみ方があると考へるのである。無いとは考へない。又一方文字のあらはす思想觀念といふものも只抽象的の思想觀念ではなく、言語として一定の音であらはされる思想觀念、即ち言語の意味ときまつた思想觀念である。さすれば言語をはなれては、文字はないのである。しかし、それにもかゝはらず、言語の用といふ側から見て意味の方が實際上重きをなし、音の方が閑卻せられる事は事實である。甚しきは、文字は同じであつて、よみ方が全然違つても、やはり思想を通ずる役目をする事は漢文の筆録を見ても明らかである。
さうして、かやうな事情にあればこそ、更に一層文字のよみ方教育を重視する必要があるのである。
漢字と假名とが文字としての性質を異にし、それぞれ獨特の長所を有すること上述の如くである。さうして、我國では現今この二種の文字を共に用ゐ、同じ文の中に之を混用してゐる。これはどんな意義を有するものであるか。
現代の文に於て、主として漢字で書く語と、假名で書く語とは概していへば、その文法上の性質をことにしてゐる。即ち品詞の違ひによるといつてよい。助動詞、助詞及び用言の活用語尾は常に假名で書くのが原則であり、其他の品詞は主として漢字で書くのがならはしになつてゐる。助詞や助動詞及び活用語尾は、古く「てにをは」といはれたものであつて、いつも他の語に伴つて付屬的に用ゐられるものであり、其他の品詞は、比較的獨立性のつよいものであつて、「てにをは」の類を付屬せしめるものである。助詞や助動詞や活用語尾は、語と語との關係や、或は斷定、願望、要求、咏歎のやうな意味を言ひあらはして文の構成上極めて大切なものであるが、それは、其他の品詞のあらはす主要なる意味に付帶してあらはされるものであり、その上、いつも他の語の後に付くものである。その主要なる意味をあらはす語を、その意味をあらはすに適當な極めて印象的な漢字で書き、之に伴ふ意味をあらはす「てにをは」の類をその下に假名で書くのは、これらの各種の語の性質に適つたものであるといふべきである。かやうに漢字と假名とが適當に交錯し、さうして意味から見ても又音から考へても、漢字とそれに伴ふ假名とが一團となつて、その前後に區切りがあるのであつて、假名から漢字に移る所が、自然、音と意味との切れ目となつて、特にわかち書きをしなくとも、わかち書きをしたと同樣の效果をあげることが出來るのであつて、讀むにも甚便利に容易になるのである。これは極めて巧妙な方法であるといふべきである。かやうに考へて來ると、現今普通に行はれる漢字假名まじりの文は、一見複雜にして統一がないやうであるが、國語の文の構造の特質を捉へて漢字と假名との長所を巧に發揮させたもので、我が國民の優れたる直覺と適用の才とのあらはれを見る事が出來るといつて過言ではないであらう。
かやうな點から見ると、漢字をむやみに制限して、之を假名にかへる事は容易に贊成しがたいのであつて、かやうな事については、もつと廣い處から考へて十分の思慮を必要とするのである。 
 
ふりがな論覺書 / 橋本進吉

 

一、ふりがなの效用
一、漢字に種々のよみ方のあるのを、いかに讀むべきかを明示して、著者の欲する通りに讀者に讀ませる。即ち、著者の言葉を正確に傳へる方法である。
一、通讀を容易ならしめる。(ふりがなのある方が早く讀める事は、心理學の實驗で證明せられたと記憶する。)
一、同一の漢字を人によつて色々によんで言語が不統一になるのを防ぐ。
一、知らないものに漢字のよみ方を知らせ、又、言葉をどんな漢字で書くべきかを教へる。
以上の點から見れば、ふりがなは著者の言葉を正しく且容易に傳へるばかりでなく、漢字の正しい讀み方と使用法を教へて國語の統一に資するものである。それ故、國語を現状のままにして、振假名を全部除くとすれば、著者の欲するとは違つた讀み方をして、著者の本意に背く憂があり、又國語の統一を害する虞がある。
一、ふりがなの弊
一、一つの語を漢字と假名とで表はすので二重の手數を要する。
二、文字が細かい爲に視力を害する。
一は事實である。しかし讀むものからいへば、大して邪魔にはならない。必要のない場合にはふりがなを讀まなくても漢字だけ見ればよい。
二は、ふりがなよりも、むしろ漢字の方が問題である。近頃のやうに漢字を小さくすれば、やゝ複雜な漢字はその各部分を構成する點畫がはつきりせず、たしかに目によろしくないとおもはれる。ふりがなは小さくとも、字の形が比較的簡單で、その上違つた字の種類が少ないから、比較的よみやすい。あまり小さな漢字を用ゐない事になれば、勿論ふりがなも大きくなる。
一、以上のやうに見れば、ふりがなは、弊よりも功の方が多い。少くとも言語文章を現状のままにしてふりがなを全廢すれば、弊を生ずるおそれがある。しかし、之を節約する事は可能であらう。
一、節約するとすれば、ふりがなを除いてよい漢字は、
一、誤讀のうれひの無いもの。
二、ふりがなが無くてもたやすく讀む事の出來るもの。
たやすく讀む事が出來ると出來ないとは、その人の教育の程度によつて差があらう。普通の讀みものは、普通の教育をうけた人々の漢字の智識を標準とすべきであらうが、それでも、嚴密にきめる事は困難であらう。しかし、普通の文なら右の標準によつてふりがなを省いてよいものが、かなり多いであらうと思はれる。
一、右のやうな事情であるから、ふりがなを全く用ゐないで文を書く事とすれば、
一、誤讀のおそれある場合には漢字を用ゐない。
二、讀みにくい漢字は用ゐない。
といふことになつて、ふりがなの問題は漢字の使用制限の問題となる。さうして漢字を制限するとすれば、制限せられた漢字の代りに何を用ゐるかが問題となる。單に漢字を假名に代へたばかりでよい場合もあらうが、假名に代へては意味がとりにくくなる場合もあり、又誤解を生ずる場合もあらう。又假名ばかり多く續いては、通讀しにくくなる場合もあらう。(數年前に實行せられた新聞に於ける漢字制限の試は、今日では失敗に終つたといはなければならない)
一、以上は言語そのものには手を着けず、ただ言語を文字で書きあらはす方法についてのみ考へたのであるが、言語をそのままにせず、之に手を加へて、やさしい言葉しか用ゐないといふ事にすれば、ふりがな又は漢字の問題は、言語制限或は言語統制の問題となる。さうして右のやうな方法によつて、ふりがなの問題が全部解決するかといふに、必ずしもさうでない。
一、やさしい言葉といふのは、平生あまり用ゐないやうな耳遠い言葉でなく、國民一般に容易に理解されるやうな言葉をいふのであらうが、これは必ずしも、漢字に書いて讀みにくい言葉と同一ではない。やさしい言葉でも、漢字に書けば讀みにくい言葉もある。之を漢字で書くとすればふりがなが必要になる。もつとも、かやうな語は漢字をもちゐずすべて假名で書く事とすれば、ふりがなは不用になるが、さすれば、假名が多くなつて、讀みにくくなるやうな場合もあらう。
一、やさしい言葉で書けば、多くの國民に讀まれまた理解される。これは著者としては望ましい事である。しかし、やさしい言葉で書くといふ事は、著者としては、用語を制限せられるのである。この限られた用語で著者が讀者に傳へようと欲する通りの事實や感じを表現しようとするには、かなりの困難があり、これを克服するには多くの工夫努力を要することであらう。
一、かやうに考へれば、ふりがなの論は、單にふりがなだけに止まらず、漢字制限の問題や用語制限の問題となる。ここにこの問題の重大性があるのである。
一、私は、ふりがなの國民一般に對する國語教育上の效用を認める故に、いかなる場合にもふりがなを廢すべしといふ論には贊成しかねる。しかし普通の讀物に於てふりがなをずつと少なくしてもあまり弊を生じないであらうと考へる。
一、普通の讀物をやさしい言葉で書くといふ事は結構な事であると思ふ。これは著者にとつては面倒で骨の折れる事であらうが、その爲に、むづかしい言葉を用ゐないで、品位あり力ある數々の立派な表現法が工夫され見出されたならば、我が國語の向上發展の爲に慶賀すべき事である。
一、元來、新聞雜誌其他通俗の筆者は、自ら好むと好まざるとに係らず、言語文字の教師である。假名遣にせよ漢字の用法にせよ文法にせよ、これらの讀物に用ゐられたものは、日常國民の目に觸れて、知らず知らずの間に之に影響を及ぼす事、學校の國語教師よりも一層大なるものがあらうと思はれる。國語の向上發逹も、いかに學者が之を論じても其の效果は少く、文學者や新聞雜誌の記者が之を實行しなければ社會を動かすことが出來ないのは、言文一致の運動、即ち口語文流布の歴史が明かに之を語つてゐる。しかるに、我國の文學者や記者は多くはかやうな重大なる社會的影響を自覺せず、自己の用ゐる言語文字に對して充分の注意をしないやうに見えるのは誠に遺憾なことである。しかるに、山本氏のやうな有力なる文學者が、ふりがなの問題をとらへて、口語文の用語の平易化を提唱し且實踐を試みられたのは、我々の多とする所であつて、我々は山本氏がこの試を今後も續けられん事を希望するものである。
國語や國字の實踐上の問題については、私はまだ深く研究した事がありません。以上は唯思ひついたままを述べただけですから、素人論として御聞き下さい。 
 
漢字御廢止之儀 / 前島密

 

國家の大本は國民の教育にして、其教育は士民を論せす國民に普からしめ、之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひざる可らず。其深邃高尚なる百科の學に於けるも、文字を知り得て後に其事を知る如き艱澁迂遠なる教授法を取らず、渾て學とは其事理を解知するに在りとせざる可らずと奉存候。果して然らば御國に於ても西洋諸國の如く音符字(假名字)を用ひて教育を布かれ、漢字は用ひられず、終には日常公私の文に漢字の用を御廢止相成候樣にと奉存候。漢字御廢止と申候儀は古來の習用を一變するのみならず、學問とは漢字を記し漢文を裁するを以て主と心得居候一般の情態なるに、之を全く不用に歸せしむると申すは容易の事には無之候得ども、能く國家之大本如何を審明し、御廟議を熟せられ、而て廣く諸藩にも御諮詢被遊候はヾ其大利益たると判明せられ、存外難事仁非ずして御施行相成り得べきやと奉存候。目下御國事御多端にして人々競て救急策を講ずるの際、此の如き議を言上仕候は甚迂遠に似て、御傾聽被下置候程も如何有御坐歟と憚入奉存候得共、御國をして他の列強と併立せしめられ候は、是より重且大なるは無之やに奉存候に付不顧恐懼敢て奉言上條
學事を簡にし普通教育を施すは國人の知識を開導し、精神を發達し、道理藝術百般に於ける初歩の門にして國家富強を爲すの礎地に御坐候得ば、成るべく簡易に成るべく廣く且成るべく速に行屆候樣御世話有御坐度事に奉存候。然るに此教育に漢字を用ひるときは英字形と音訓を學習候爲め長日月を費し、成業の期を遲緩ならしめ、又其學び難く習ひ易からざるを以て、就學する者甚だ稀少の割合に相成候。稀に就學勉勤仕候者も惜むべき少年活溌の長時間を費して、只僅に文字の形象呼音を習知するのみにて、事物の道理は多く暗昧に附し去る次第に御坐候。實に少年の時間こそ事物の道理を講明するの最好時節なるに、此形象文字の無益の古事の爲めに之を費し、其精神知識を鈍挫せしむる事返す/\も悲痛の至に奉存候。抑御國に於ては毫も西洋諸國に讓らざる固有の言辭ありて、之を書するに五十音の符字あり(假名字)有之、(假名字の出所に種々の論説有之、又御國古文字等の論説も有之候得共、本議には不用に御坐候得ば爰には附記不仕候)一の漢字を用ること無くして世界無量の事物を解釋書寫するに何の故障も之れ無く、誠に簡易を極むべきに、中古人の無見識なる彼國の文物を輸入すると同じく、此不便無益なる形象文字をも輸入して、竟に國字と倣て常用するに至りたるは實に痛歎の至に御坐候。恐多くも御國人の知識此の如くに下劣にして、御國力の此の如くに不振に至りたるは、遠く其原由を推せば其素の毒を茲に發したるなりと痛憤に不堪奉存候
因みに米人ウ井リアム某が一話を御參考の爲めに記して御賢覽に奉供候。同人は亞米利加合衆國の基督教の宣教師にて、亞細亞地方に同教宣布の爲め先づ支那に渡航し、咸豊の末迄同國に於て支那語を學び、夫れより長崎に來りて近頃迄同所に本邦語を學び居たる者に御坐候。同人は始て支那に航りたる頃、 一日或る一家の門を過たるに其家中に多數の少年輩が大聲に號叫する頗る喧囂なるを以て、何やらんと門に入りて之を見れば、其家は學校にして其聲は讀書の音なり。何故に斯く苦しげなる大聲を發して囂號するかと疑ひだるに、後日其實況を知れば怪むに足らざる事なり。彼等は其讀習する所の書籍には何等の事を書たるやを知らずして、只其字面を素讀して其形畫呼音を暗記せんと欲するのみなり。其讀む所の書は經書等の古文にして、老成宿儒の解に苦む所のものなり支那は人民多く土地廣き一帝國なるに、此萎靡不振の在樣に沈淪し、其人民は野蠻未開の俗に落ち、西洋諸國の侮蔑する所となりたるは其形象文字に毒せらるヽと、普通教育の法を知らざるに坐するなり。今日本に來りて見るに句法語格の整然たる國語の有るにも之を措き、簡易便捷なる假名字のあるにも之を專用せず、彼の繁雜不便宇内無二なる漢字を用ひ、句法語格の不自由なる難解多謬の漢字に據り、普通の教育を爲すが如し。此の活溌なる知力を有する日本人民にして此の貧弱の在樣に屈し居るは、全く支那字の頑毒に深く感染して其精神を麻痺せるなり云々と。是等の話頭は漢字漢學を以て薫陶せられたる多敷の邦人及之を以て最上等の學文なりと妄信する學者輩の聞くときは徒に驚怪するのみならず、魔語賊言として排斥可仕候得共、深識遠慮の具眼者をして聞かしめ候はヾ沸泣賛歎可仕候。恐多き事ながら何卒賢明なる慧眼を以て深く此意を御洞見被遊度誠に悃願の至に不勝存奉候 
漢字を御廢止相成候とて、漢語即ち彼國より輸入し來れる言辭をも併せて御廢止可相成儀には無御坐、只彼の文字を用ひず假名字を以て其言辭を其儘に書記するは、猶英國等の羅甸語等を其借入れて其國語となし、其國の文字綴を以て書記すると同般にするの謂に御坐候。即ち「今日」を「コンニチ」「忠考」を「チウカウ」と記るす類に御坐候。此の如くせば橋箸端の混雜あるべく、又「霞ぞ野邊の香哉」を「カス。ミソ。ノ。 へノ。 ニホヒ。カナ」と誤讀する如き句切りを愆る恐ありなど非難仕候者も可有之候得共、是等は文典を制し、辭書を編し、句法語格接文の則を西洋諸國に既成のものと御國固有の者とを參酌折中して御制定相成候ときは毫末恐るヽに足らざる儀にして、而かも漢字の如く騒亂の亂字と亂臣の亂字の如き混雜も無く、又大將軍は大將の軍なるか、大なる將軍なるか、大ひに將さに軍せんとするなるか、大ひに軍を將ふると讀むなるかを排列し難き病は無御坐候。漢文の如き句法語格の無きものすら前後の語勢と人知の理會を以て大將軍は即ち大將軍たる官職と理念し、征夷大將軍を讀て「夷を征して大ひに將さに軍せんとす」とは執れも理會する者は無御坐候
國文を定め文典を制するに於ても、必ず古文に復し「ハベル」「ケルカナ」を司る儀には無御坐、今日普通の「ツカマツル」「ゴザル」の言語を用ひ、之れに一定の法則を置くとの謂ひに御坐候。言語は時代に就て變轉するは中外皆然るかと奉存候。但口舌にすれば談話となり、筆書にすれば文章となり、口談筆記の兩般の趣を異にせざる樣には仕度事に奉存候。是等の如きは學術上に渉つたる事柄にて、元より本議御採納の上其事業に御着手のとき學者輩の議に任すべきものに御坐候得共、御賢按の御資料に迄取摘み言上仕置候
漢字を普通一般の教育上に廢すること、素讀習字即ち文字の形畫呼音を暗記し、之を書寫するの術を得る爲めに費す時間を節減仕候に付、一般學年の童子には少くも三ケ年、專門高上の學を脩むる者には五六乃至七八年の時間を節省せしむべく、此節省し得べき時間を以て或は學問に、或は興業殖産に各某所望に任して用ひしめば、勝て算すべからざるの利益なるは毫末疑を容れざる事と奉存候。乍恐此時間利用の一件に就ては殊に賛意を被爲注度奉存候。御國人の時を徒費して惜まざるは實に歎しき至に御坐候。大禹が惜寸陰の格言を萬般の實業に實施せしむるこそ、實に治國の大要件と奉存候
次に普通一般の教育法を御改良不被遊候ては一般の知識を開達せしめず其愛國心を厚からしむるとは無覺束事と奉存候。前にも申上條通り、國人皆自國を以て無上至善の國と自信し、自ら自尊の志を懐ひて寸毫も他に讓らざるの氣象を保たざれば、眞誠の愛國心を被揚仕り兼ね候。御國人の所謂大和魂は一種特有の魂氣の如く御坐候得共、決して然るものには有御坐間敷、取りも直ほさず愛國の一心に外ならずと奉存候。(自盡決死に果敢なるが如きは大和魂の一部分なるに過ぎずと奉存候)
御國普通一般の教育は上下の二等に分れ、其下等なるものは只僅に姓名の記し方、消息の書き方及其職業に就て要用なる字面を諳ずるのみにして卒り、宇宙事物の道理の如きは分毫も之を教示するもの無之、國外國ある事をすら知る者少き状態に候得ば、愛國心の如きは是等の種族中には絶て影だに映出致せし事は有之間敷奉存候。其上等なるものに於ては先づ四書五經の素讀より支那の歴史に相渉り、文物制度より治亂興敗の順を講じ候にて、御國の古典歴史の如き課外の業に附し去りて、之を知るも知らざるも教育上には関係無きは一般に御坐候。故に彼を尊み己を卑むの病は早く已に彼等の腦裏に感染し、愛國心を傷け候。素より知識を開達せんには廣く宇内の事績を講明するを肝要と仕候得ば、支那は差措き西洋の書をも閲讀せしむるは勿論之儀に候得共、普通一般の教育に就ては尤も本邦の事物を先にし、他邦の事物も容れて自圖の事物の如く自國の言語を以て教授し、(即ち學問の獨立)少年輩の心腦をして愛我尊自の礎を固めしむること甚だ肝要の事と奉存候。他を學で而て后我を知るが如きは主客を轉倒し順叙を愆るの本にして、風習の大躰に就て大妨碍と相成候。學者の常に道ふ我民をして尭舜の民たらしむ、英雄を論じて楠正成は諸葛孔明に似たりと云ふ如きは、主客順序を轉倒するものにして、邦俗風習を卑屈ならしむるの一例に御坐候。西人某の談話に、日本人は大和魂と云々すれども、從來漢學を以て學間教育の基本とするゆへ、 一種の支那魂ありて大和魂(愛國心)に乏し、輓近に至りて漸く西洋學を爲す者増加せるゆへ、早く學問の順叙を改正して之を制せざれば、他日は自ら一種の西洋魂を輸入して支那魂と衝突し、不可謂の葛藤を起し、其極大和魂を皆無にすべしと。這は外人の妄評には御座候得共、亦全く御遠慮の外に可被爲措の一語とも不奉存候。故に願くは速に學問獨立の大本を被爲立、御國語を以て編纂したる徳育の書(孝悌忠臣徳誼品行上に係るもの)、智育(歴史地理物理算數等に係るもの)の書、下等上等の兩區に分ち、彼我主客等皆兵叙次を定て一般普通の教育に御適用被遊候樣、御廟議有御座度奉存候 
學問の順叙を立てざる教育は愛國心云何の一點に止らず御國人一般の智徳を發達せしめざる大病源に御座候。喩へば仁義とか、明徳とか、治國平天下とか云へるは、老成學者の猶明解に苦しみ、老練爲政家の難しとする所のものに御坐候處、童年初歩の教授本と致候に付可惜智力發揚の時間を之に費し、數年の苦學は僅に素讀の一事に止り、随て止れば從て其字面をさへ忘失し、全く無價の徒勞と相成候。又學問は只道徳上のものとのみ見做候に付、物理の學の如きは古來全く教育上の物とせず、技術上の教育に於ては之を職工の賤業とし學校の門に入れざるより、工事陋劣、風教浮薄、此貧弱未振の今日を致し、志士をして痛歎血泣せしむるの悲況に立至り候は畢竟自尊獨立の氣象を盛にし、愛國至誠の心を固からしむるは富強の二力に職由仕候は今更申上候迄も無之、其大原たる實に學問の順叙方法其宜を得ざるに歸着仕候段は、深く御賢慮被遊度。蓋し此儀は方今學者の多く力を極め言を盡て排斥する所と奉存候得共、是等俗儒庸士の能く知る所の者に無御坐候得ば、彼等の紛議は御峻拒被避何卒御廟議英明の果斷に被爲出度勘至奉悃願候。實に此儀は空前絶後千載の一事歩一乍恐奉存侯
前記第三と事項を分て申上候。御命令其他に漢宇を用ひざる云々は廢漢字の手續きまでにして、別に可申上程の緊要は無御坐侯。斯く御手段を不被遊候ては、一般をして速に漢字を用ひず國文を用ふるの時を得難く、又斯くあらぱ相互の私書には御立入無御坐旨を明にするの御便宜も可有と奉存候。但地名人名に漢字を用ひざるときは、喩へば松平を「マツタイラ」「マツヒラ」「マツヘイ」「シヤウヘイ」其外「シヤウヒラ」「シヤウタイラ」何と讀て然るべきや、其人に聞かざれば其正を得ざる如き、實に世界上に其例を得ざる奇怪不都合なる弊を除き、萬人一目一定音を發する利を睹ては此御美擧なるを普く賛賞仕候儀は尤速なる御事と奉存候
右は御用御多端の際御通覽の勞を憚り卑懐の幾分を言上仕候迄に御坐候間、幸に御一覽の榮を賜り候上にて尚御不問の御儀も被爲有候はヾ、難有謹て詳に言上可仕候。但微賤の分限をも不顧奉犯尊儼候段、其僭越の罪は元よリ湯钁をも不奉辭、謹て待罪罷在候恐々謹言
慶應二年十二月  前島來輔 
 
知的怠惰の時代 / 松原正

 

第一章 新聞はなぜ“道義”に弱いか 
馬鹿に保革の別はない
かつて新聞の「偏向」を批判して心ある識者は一樣に嘆いた。新聞が反駁できないのを看て取つて、次第に心無き識者までが嘆くようになつた。新聞は「公正中立」だの「不偏不黨」だのと口先だけの綺麗事を言うが、その實頗る「反體制的」であり、保守に嚴しく革新に甘く、それは「亡國の病」だという譯である。しかるに昨今、世の中は少しく右傾して、ために新聞の「偏向」も少しく改まつたという。信じ難い。なるほど、長年日米安保条約に反對してゐた新聞までが中國の安保支持に勇氣づけられてか、「安保条約の有効性の確保が求められなければならない」などと、臆面も無く書くようになりはした。が、それは新聞の病弊が改まつた事を意味しない。
新聞は舊態依然、少しも變つてはいない。漠然とした右があつて、漠然とした左があり、その中程に常に新聞はゐる。これまでは世の中が左へずれてゐたから、中程の位置も當然左へずれてゐた。ところが近頃、何となく世の中が右へずれたから、中程にゐる新聞も自動的に右へずれた。そういう事でしかない。「偏向」というからには何を基準にして片寄つてゐるかが明確でなければならないが、漠然たる左右の中程に新聞がいて時流のまにまに漂つてゐるのだから、それを「偏向」と斷ずる譯にはゆかぬ。
それゆえ、新聞の「偏向」を難ずるのはもはや意味が無いとさえ私は思ふ。保守派は新聞の「偏向」をけしからんと言い、新聞は世の右傾こそ憂うべきだと言う。右は左の「偏向」を難じ、左は右の「偏向」を憂える。だが、そういう事で問題は決して片付かない。所詮は不毛の水掛け論である。そうして保守と革新が水を掛け合つてゐるうちに、いつしか國際情勢は樣變りして、中國が日米安保条約を肯定したり、ヴェトナムへ攻め込んだりした。それかあらぬか、このところ革新は頓に自信を喪失し、保守の鬪爭心は稀薄になり、論爭は滅多に行われず、許し合ひと馴合ひの太平樂を今や保守派は享受してゐる。
とかく目高は群れたがる。右の目高は今なお左の目高を非難する。が、右の目高は右の目高を決して咎めない。私は一應右の目高に屬する。けれども、右の目高を難じたり、難じようとしたりして、私はしばしば嫌な顔をされた事がある。その度に私は「馬鹿に保革の區別は無い」と放言したくなり、放言せずに辛抱した。が、今囘は紙幅の關係上、新聞を難じて特定の個人を叩かないから、辛抱するには及ばないと思ふ。
昨今、新聞は新聞批判のコラムをもうけるようになつた。自社を批判する文章さえ載せるようになつた。けれども、『マスコミ文化』昭和五十四年八月號で辻村明氏が指摘してゐる通り、大方の新聞批判は手緩く、型に填つた、陳腐な文章である。それもその筈、かつて左の目高が意氣軒昂だつた頃、新聞批判は勇氣の要る仕事だつたのであり、それは林三郎氏の『知識人黨』(創拓社〕を讀めばよく解るが、左の目高が意氣阻喪してゐる今日、新聞の 「偏向」を難ずるのはた易い事なので、相も變らぬ紋切型の新聞批判ならもはや意味が無い。弱くなつた左の目高を叩くよりも、今や保守派の中の贋物を成敗すべき時である。それゆえ、ここで保守派と目される物書きの新聞批判の文章を引き、徹底的に批判したいところだが、その紙數が無いのは殘念である。それはまた別の機會にやるしかないが、要するに、保守にも革新にもぐうたらな手合はゐる。同樣に、保革を問わぬ新聞の短所というものがあるのであつて、それは新聞は平和だの、民主主義だの、人權だのに弱い、つまり美しいものすべてに弱い、取分け道義に弱いという事なのである。これこそサンケイから朝日までの、吾國のすべての大新聞が抱えてゐる厄介な持病であつて、新聞批判はそこを衝かねばどうにもならぬと思ふ。 
新聞には暴論が吐けない
例えば、日米安保条約や自衞隊の存在を肯定するかどうかという點で、サンケイと毎日とでは今なおかなりの隔りがある。けれども、先般の所謂航空機疑惑の報道に際しては、讀賣、朝日、毎日と同樣、サンケイもまた「灰色高官」の政治的・道義的責任を追及して大いにはしゃいだのであり、これを要するに、日本共産黨に對しては強いサンケイも、道義には頗る弱いという事實を例證するものである。しかも、寡聞にして私は、この保革を問わぬ新聞の短所を衝く新聞批判を讀んだ事が無い。けれども、この新聞の通弊は、言論の自由などという事よりも遙かに重要な問題だと私は考へる。道義に弱い者は決して道義的ではないからである。この點については追い追い述べるが、ここでまず、道義に弱い新聞の社説の一部を引用する事にしよう。
國民はこんどの疑惑に、政治腐敗のにおいを敏感にかぎとり、特に、長期にわたり政 權を獨占し、その中で汚職土壤を育てた自民黨政治に、深い不信を抱いてゐる。
この文章に人間はいない。これは筆者の意見ではない。社説の全文を引用できないが、文中何らかの意見を述べる時、主語は常に「國民」であつて「私」ではない。人間がいない以上道義的でないのは當然だが、社説とはそういうものであり、それゆえ臆面も無く綺麗事を並べ立てられるのである。右に引いたのは革新に甘い毎日の社説の一節だが、毎日だから綺麗事を言うのではない。僞善にも保革の別は無い。サンケイもまた今囘、「政治腐敗」を嘆いて毎日と大差無い綺麗事を書いたのである。いや、今囘に限らない。新聞は汚職に對して常にアレルギーを起す。つまり新聞は道義に弱い。そしてそれが保革を問わぬ新聞の持病なのである。
それゆえ、新聞の政治的「偏向」を難ずるだけでは決して問題は片付かない。いや、新聞は或る意味では「偏向」などしていない。むしろ偏向の度合が足りないのである。その證拠に新聞は次に引用するような「暴論」を決して載せる事が無い。載せないくらいだから、決して自ら吐く事が無い。
公然たる賄賂の横行を、私は難じない。むしろ、これを大聲で難じる人を見るといや な氣がする。私は役人ではなし、いわゆる會社重役ではないから、これまでついぞ袖の 下を貰わなかつたし、これからも貰うまいが、たまたまその機會に惠まれなかつたこと が、自慢の種になるとは思はない。人に説教する資格があるとは思はない。
これは山本夏彦氏の文章である(『編集兼發行人』、ダイヤモンド社)。誰でも認めるだらうが、この「暴論」は右にも左にも「偏向」していない。山本氏の「偏向」は、いわば道義的「偏向」であつて政治的「偏向」ではない。だからこそ、保革を問わず、新聞の忌諱に觸れるのである。
言論は自由だと言われるが、どうして新聞はこの種の「暴論」を吐けないのか。そしてそれをなぜ世人は怪しまないのか。山本氏も社説の筆者も同じく人間ではないか。山本氏は「非國民」ならぬ「非人間」なのか。だが、山本氏の文章を讀む者は必ず笑う。そして、この地球上で笑うのは多分人間だけである。それなら、人間を笑わせる人間が「非人間」である筈は無い。そして私は、新聞がこの種の「暴論」を吐けぬ事こそ新聞の何より恐ろしい非人間的な宿痾だと思ふ。
新聞は保革を問わず道義には弱い。道義論を振り囘されると忽ち弱腰になる。それを薄々知つてゐるのか、振り囘される前に自分が振り囘す。では、なぜ新聞は道義に弱いのか。思考が不徹底だからである。愚論なら馬鹿にも吐けよう。が、「暴論」は決して馬鹿には吐けない。そして、道義に關して「暴論」を吐けるほど道義について深く考へる、そういう事をやつていいない馬鹿だけが、山本氏の「暴論」に總毛立つのである。
ところで、何かに對して弱腰なのは、その何かに關して深く考ないからであつて、それは怠惰という事である。怠惰が徳目になる筈は無い。思考の不徹底とは知的怠惰という事だが、知的に怠惰な人間は實は道徳的にも怠惰な人間なのである。例えば、新聞は公然内密の別無く贈収賄を難ずる。それも必ず他人の増収賄を難ずる。なぜか。樂だからである。怠惰な連中が樂をしたがる事に何の不思議があるか。他人の惡行なら誰でも氣樂に指彈する。どんな惡黨も他人の惡行なら氣樂に斷罪する。そして新聞は、そういう誰にもできるた易い事しかやらないし、勸めもしない。自ら怠惰に堕して他人にも怠惰を勸める。それは道義的頽廢に他ならない。
けれども、道徳とは本來そういう生易しいものではない。道徳は「平均人」には實行困難なものであり、その點で「平均人」に實行可能な法とは決定的に異なる。新聞は法と道徳についても「深考」を欠いており、その事に今囘は觸れられないが、總じて新聞は封建制や封建道徳には批判的でありながら、汚職を難じる時は決つて道學者を氣取るのである。それはもとより矛盾だが、矛盾を矛盾と知らないから手輕に矛盾した態度が採れる。再び知的怠惰は道徳的怠惰なのだ。 
極論を吐けぬ事こそ不道徳
新聞は道學者を氣取る。善き人たらんと心掛けるよりも、善き人に見せ掛けるほうが樂だからである。だが考へてもみるがよい、善き人たらんと努めるのは決して善き人ではない。おのれの心中を覗いて、おのれもなお及ばざる事を認めればこそ、吾々は善き人でありたいと思ふのである。それは解り切つた事ではないか。道徳は道樂ではない。樂なものは道徳ではない。實を言へば、善き人に見せ掛ける事も決して樂ではないのだが、新聞の社説は無署名であり、常におのれを棚上げできるから、善き人に見せ掛けるのは至極造作も無い事なのである。
ところで、知的に怠惰な人間は道徳的にも怠惰だと私は書いた。これを要するに、汚職を辯護するかの如き極論を吐けぬ者は決して道徳的な人間ではないという事である。極論を吐く事も「平均人」には實行困難な事なのであり、してみれば、その困難を敢えてする人間が却つて道義的に立派であつたとしても怪しむに足りない。それゆえ私は、山本夏彦氏は「これまでついぞ袖の下を貰わなかつた」に違い無いと信じてゐる。では、袖の下を貰わなかつた山本氏が、なぜ袖の下を難じないのか。
一方、道學者を氣取る新聞も、叩けば結構埃が出る。それは『新聞のすべて』(高木書房)を讀めば解る。新聞はわが耳を掩いて鐘を窃んでゐる。その癖、口を拭つて綺麗事しか言わない。が、袖の下を貰つたにも拘らず吐く「暴論」も綺麗事も、或いは貰わなかつたから吐ける綺麗事も、貰わなかつたにも拘らず吐く「暴論」には遠く及ばない。山本氏の道義的「暴論」を評價するゆゑんである。それゆえ、山本氏の「暴論」は曲論にあらずして極論に他ならない。
それに、どの道、極論を吐くには勇氣が要る。皆が汚職をヒステリックに難じる時、汚職を肯定するかの如き極論はためらわれる。皆と一緒になつて汚職を難じるほうがた易いに決つてゐる。が、山本氏がた易い道を選ばないのは、詮ずるところ、頭が惡くないからである。頭が惡くないからこそ、誰も極論を吐かない世の中は充分に道義的でないという事が解るのである。人間は矛盾の塊りであつて不完全である。不完全な人間が綺麗事ばかり言うなら、それは嘘に決つてゐる。
ところで、頭が惡くないと、人間の臍と旋毛は必ず曲る。それゆえ山本氏は、極論を吐いて、にやにや笑つて、世間がどんな顔をするかと邊りを窺う、と書けばこれは少しく山本夏彦ふうの文章になる。 
新聞は密かに大衆を見下してゐる
一方、昭和二十九年『中央公論』に「平和論に對する疑問」を書いて以來、一度も「論敵に敗けた事が無い」福田恆存氏の臍曲りも相當なもので、はや昭和三十年に「戰爭はなければいいが、あつたらあつたでうまく」やればよいなどと言い、以來アメリカ空軍によるハノイ無差別爆撃を支持するなど、數々の極論を吐いてゐる。近著『私の幸福論』(高木書房)においても、福田氏は「醜く生れついた女性は損をする」という「書く側も、讀む側も觸れたがらない」極論から説き出してゐる。福田氏は邊りを窺わない。名指しで馬鹿を馬鹿と極め付ける。それゆえ讀者も友人も時に當惑するが、佐藤直方が言つたように「人の非を云はぬ佞姦人あり。人をそしる君子の徒あり」であつて、「英氣事を害す」と世人は言うが、政治の世界はともかく少なくとも論壇に。事を害する學者がほしい」事に、今も昔も變りは無いのである。とまれ世間が「絶對平和」の夢に酔い痴れ、「新聞多く默して政客また言はず」、平和主義者にあらざれば人にあらずの觀を呈してゐた頃、福田氏は孤軍奮鬪、淺薄なる平和主義者を完膚無きまでに懲らしめ、彼等の「平和か無か」という思ひ詰めた思考と僞善を嗤つたが、論壇史上有名なかの「平和論論爭」は、今にして思えば、福田氏の極論が平和論者の中途半端な思考を制壓したという事に過ぎない。つまり、福田氏には「最惡の事態にも應じられる人生觀」があつたのに、平和の美名に酔い痴れてゐた敵方はそれを全く欠いてゐたのである。
では、その「最惡の事態にも應じられる人生觀」とは何か。人間の中に獸がいて、その獸は何をしでかすやら解らぬと、それを承知してゐる者の抱懷する人間觀である。パスカルが言つたように、人間は天使でもなく禽獸でもない。人間は同時にその兩者であり、常にその兩極の間を揺れ動いてゐる。そしてそれは、おのれの心中を覗いてみれば、實は誰でも認めざるをえない事實なのだ。しかるに新聞は、おのれの中の獸には目を瞑り、他人の中の獸を發き立てて恥じる事が無い。それはもとより僞善である。そして馬鹿に保革の別が無いのと同樣、僞善にも保革の別は無い。だからこそ、日米安保条約や自衞隊や腰抜け憲法を認めると認めないとに關り無く、新聞は今囘、「灰色高官」の「汚職」を咎めて大いにはしゃいだ譯である。
事ほど左樣に新聞が道義に弱腰なのは、先に述べたように、知的、道徳的に「偏向」せずして怠惰だからだが、同時に新聞が何かと言うとすぐに頼りたがる大衆の善良を信じ、大衆を神聖視し、大衆に迎合したがるからである。が、その癖新聞は腹の中では大衆を見下してゐる。大衆の理解力には限界がある、大衆は單純明快な正義を好み、決して複雜怪奇を好まない、兩極の間を揺れ動く人間の偉大と悲慘などという厄介な問題を、大衆は決して理解しないし歡迎もしないと、自らを顧みて、或いは自らを棚上げして新聞は密かに思つてゐる。
周知の如く、新聞は善玉惡玉の二分法を好むが、それも大衆の理解力を氣遣つての事であろうか。だが、それも幾分は無理からぬ事なので、E・M・シオランの言うように、パスカルの著作の一節を大衆向けのスローガンに仕立てる事はできない。パスカルの文章は、シュプレヒコールに用いて、感傷的な連帶感を強められるような廉物ではないからである。
だが、實はそれが問題なのだ。大衆を動かすには込み入つた議論はおよそ役立たぬという事を、宣傳の名手だつたヒットラーは知り抜いてゐた。宣傳は眞理とは關係が無い、首尾一貫する必要も無い、大衆の貧弱な理解力と度し難い健忘症を、宣傳家は片時も忘れてはならぬ、宣傳の要諦は飽くまで單純明快な觀念を執拗に反復する事にある、ヒットラーはそう信じて「信じられぬほどの成功」をおさめた。ヒットラーの奇蹟が再び起らぬという保證は無い。ヒットラーを惡し樣に言う事を必ずしも私は好まないが、第二のヒットラーに乘ぜられるような事態は避けねばならぬ。が、それには、常日頃安手の正義感を嗤つて極論を吐く人々の數を殖やすか、これまた甚だ迂遠の策かも知れないが、極端な理想の追求は諸刃の劍だという事を、それにも拘らず、と言うよりはそれゆゑに、一方の極に思ひ切り「偏向」しなければ他方の極を理解できないという事を、要するに道義の問題に單純にして明快な解決などは無いという事を、倦まず弛まず説くしかないのである。 
新聞はもつと「偏向」すべし
例えばトルストイは、「人間は善行をなさねばならぬ、隣人を愛して自己を犠牲にせねばならぬ」と堅く信じた男である。かういふ立派な美しい信念に、道義に脆い新聞は喜んで同意するに違い無い。だが、その激しい信念は當然トルストイを激しい苦惱に追い込んだ。彼は一九一〇年の日記に、妻についてこう記してゐる。
實に苦しい。あの愛情の表現、あの饒舌、不斷の干渉。大丈夫、まだそれでも愛する 事が出來ることを私は知つてゐる。しかし、それが出來ないのだ。惡いのは私だ(中村 融譯)
忘れてはいけない、一九一〇年はトルストイが死んだ年であり、この文章は八十二歳のトルストイが書いたものなのだ。まさに感動的だが、ここまでは新聞もどうにか付き合へると思ふ。
けれども、ダニエル・ジレスによれば、トルストイは娘たちの結婚に常に反對した。長女タチヤーナが結婚した時も、「嫉妬深い父親はなかなか氣持を和らげようとしなかつた」。そしてこう書いた、「ターニャはスホーチンと行つてしまつた。いつたいなぜだ。情けなく屈辱的だ」。だが、トルストイが娘の結婚に反對したのは、所謂「花嫁の父」の感傷なんぞではない。結婚生活は「破廉恥極まる地獄」だと信じてゐたためである。『クロイツェル・ソナタ』の後書にトルストイは書いてゐる。
すべての男女の教育法を改めて、結婚前であれ、またその後であれ、戀愛および、そ れに伴う肉體關係を現在の如く詩的な崇高な心境と考へることをやめ、人間にとつて恥 ずべき動物的状態とみなす樣にしなければならぬ。
そして、この異樣な考への論理的歸結としてトルストイは、性行爲は自己愛であり、惡徳であり、吾々は斷乎として性行爲をやめるべきであり、その結果人類が滅亡しても仕方が無いと言切るのである。
これもまた極論に他ならぬ。そして新聞はもとより、吾々も誰一人としてこの極論には付き合へまい。けれども、トルストイを担いで彼の美しき人道主義を云々する所謂「平和主義者」は、どうしてかういふ極論にたじろがないのか。言うまでもない、思考が不徹底だからである。平和主義なり愛他主義なりを奉じてその極に觸れる、そういう所まで考へないからである。だが、激しい理想追求の念はトルストイを一方の極にまで追いやつた。そして一方の極を知る者は他方の極を知る。八十二歳にして家出をしたトルストイは寒村の駅長官舎で息を引き取るが、その枕許にはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が置かれてあつた。
言うまでもなく、トルストイとドストエフスキーは對蹠的な作家である。ドストエフスキーはマルクス主義の世界觀を完全に否定したが、レーニンはトルストイを世界最大の小説家とみなしてゐる。だが、兩極に二人が靜止してゐると考へるのは、國家、階級、組織などの集團を優先的に考へ、個人を無視する政治至上主義者の淺はかな誤解に過ぎない。死の前年、トルストイはドストエフスキーと知り合へなかつた事を殘念がり、「彼とは國家と教會にたいする見解が正反對であるにもかかわらず、年をとればとるほど彼が精神的にわたしに近しく思はれてならない」と語つてゐたのである。
トルストイもドストエフスキーも、政治的黨派に屬して、すなわち右の目高と左の目高に分れて對立したのではない。政治的な右と左とは漠然たる右と左である。保守派は新聞の左傾を憂えるが、左とは一體何か。社會黨左派なのか、共産黨なのか、それとも新左翼なのか。新左翼同士にも對立があつて、今なお殺し合ひをやつてゐるではないか。けれども、政治的にでなく道義的に問題を考へる時、兩極はもつと明確になる。一方の極に「汝の敵を愛せ」というイエスの言葉がある。他方の極に、例えば『カラマーゾフの兄弟』に登場する大審問官の言葉がある。が、再び言う、一方の極を知る者は他方の極を知る。イエスを散々に罵倒して大審問官が立ち去ろうとする時、それまで終始無言だつたイエスは何をしたか。イエスはやはり無言で相手に接吻したのである。
とまれ、新聞は道義的には少しも「偏向」していない、いや「偏向」の度合が足りぬ。そしてそれは新聞に限らない、新聞に寄稿する物書きの大半も保革を問わず「偏向」していない。新聞は汚職を咎めて安手の道義論に酔い痴れてたが、大方の保守派の論客もまた新聞の痴れ言を默認したではないか。ここで新聞は思ひ起すがよい、かつて日本が國際連盟を脱退せんとしてゐた頃、時事新報の社説の筆者は次のように書いたのである。
いま連盟脱退か留盟かの大問題を決するに當り、日本には未だ議論が戰はれない。言 ひたい人も何者かを憂ひて沈默してゐる實情である。新聞多く默して政客また言はず。 かくて此大國策が、論もなく理も尽されずに移り行かんには、悔いを後日に胎さんこと 必定であらう。
保守派の論客の中には相も變らぬ新聞の痴れ言に呆れ、何を言つても無駄だと諦めた人もいよう。かつて激しく新聞を難じた人ほど今囘ひどく失望したのかも知れぬ。が、「言ひたい人」が新聞と世論を恐れて沈默したのなら、それはゆゆしき事であり、「悔いを後日に胎さんこと必定」だと私は思ふ。ここで私も極論を吐く。北方領土なんぞどうでもよい。日本國の一部が占領されても構わぬ。いや、日本が滅びても構いはしない。大事なのは士氣である。日本が「毅然として」戰つて滅びる事である。だが、たかが汚職報道にはしゃぐ新聞を叩けぬほど日本人が腰抜けになつてゐるとすれば、ソ連軍と一戰交える勇氣なんぞが湧く筈は無い。 
考へる事、それは「往來通行」である
さて、話を本筋へ戻す。伊藤仁齋は、道徳とは「人の道」であり「對時」するものの間の「往來通行」だと考へた。人の道を行う事と同樣、「人の道」を考へる事も「往來通行」に他ならない。兩極の間を往來する事に他ならない。だが、そういう事が時流に棹さす新聞には全然解つていない。例えば、進歩的な三大紙は社會主義國に甘いという(それゆえ、朴政權にはやたらに嚴しい)。三大紙は資本主義を惡とし、社會主義を善とし、後者の善に幻惑されてゐるという。すでに述べたように、知的怠惰は道義的怠惰で、道義に弱い三大紙は道義に關する思考にも弱い譯だから、社會主義の善に弱いのはなんら怪しむに足りぬ。そして、道義に弱いのは三大紙に限らないから、保守系の新聞もまた、資本主義の將來に強い自信を持てずにゐるのである。
だが資本主義に少しでも引け目を感じるなら、いつそ思ひ切り社會主義のほうへと「偏向」してみるがよいのである。中國が日米安保条約を認めようと、なおその廢棄を唱え、ヴェトナムに攻め込もうと、なおその正義を稱え、斷々乎として社會主義を信じ、徹底的に社會主義について考へたらよい。徹底して物事を考へれば、どの道必ず行き詰まる。アポリアに辿り着く。例えば、ドストエフスキーが描いた『惡靈』の世界を覗いて、「無限の自由から出發して無限の壓制にいたる」という、かの「シガリョフの公式」を知れば、それが社會主義のどん詰まりだと知つて困惑するようになる。要は徹底的に「偏向」する事なのだ。偏向した擧句行き詰まる事なのだ。
それゆえ、資本主義を激しく憎み、一切の權力を嫌い、激越なアナーキズムを夢見るもよい。周知の如く、アナーキストが國家權力を憎んだのは、彼等の途方も無く善良な意志を行使するに當つて國家が障害になると信じたからである。けれども、有り樣は「人間の意志が惡であるからこそ國家が生じた」のである。しかもなお、E・Mシオランの言う通り、「一切の權威を絶滅しようとするアナーキストの理念こそは、人間がかつて抱懷したもつとも美しい理念」(出口裕弘譯)であつて、それも否定し難い事實なのである。シオランという思想家も、兩極の間を激しく「往來通行」して數々の極論を吐いてゐるが、シオランほど深く考へてゆけば、何々主義などという政治主義の概念は消え、保革を問わぬ赤裸々な生身の人間が見えて來るようになる。シェイクスピアの描いたリア王のように、徹底的に「人間の悲慘」を知れば、やがて「人間は唯これだけのものなのか」と呟けるようになる。そしてそうなれば、すなわち「人間存在の本質的な悲慘を深く究める」ならば、再びシオランの言う通り、「人は、社會の不平等に起因する悲慘に心を留めはしないし、それを改革しようなどとしなくなる」(及川馥譯)筈である。だが、誤解してはいけない、シオランはそうなればいいと言つてゐるのではない。シオランは同時に、アナーキストの「途方も無く善良な意志」を眞實美しいと思ひ、アナーキストを激しく妬んでゐるのである。
だが、すでに述べたように、かういふ兩極の間を揺れ動く思想家を、矛盾や複雜を好まぬ大衆が理解する筈は無い。彼等は「では、どうずればよいのか」と言うに決つてゐる。或いは「こうすればよい、こうしろ」と言つて貰いたがる。そしてそれはヒットラーがよく知つてゐた事である。「大衆は女の如し、常に支配者の出現を待望し、与えられた自由を持て餘してゐる」ヒットラーはそう言つてゐる。
けれども、俗受けしようがしまいが、考へるという事は「往來通行」なのである。ソクラテスのディアレクティックもそうであつた。ソクラテスは常に他者と問答し、問答しながら考へてゐるが、他者と問答するにはまず自分との問答が行われねばならぬ。自分の心の中で問いと答えが「往來通行」せねばならぬ。ソクラテスはそれを熱心にやつた。が、自問自答してゐるだけなら無事だつたろうが、他人と問答して「産婆術」などという差し出がましい事をやつたから、熱心にやればやるだけ人々に怨まれた。
バーナード・ショーは、「ソクラテスは折ある毎に吾々の愚昧を發くが、それには我慢できない、というのがソクラテスを告發した連中の唯一の主張だつた」にも拘らず、ソクラテスのほうでは「おのれの知的優越が他人を恐れさせ、ひいては他人の憎しみを招くに至る、その限界を知らず、問答の相手に對して善意と献身しか期待していなかつた」と書いてゐる。
そうかも知れぬ。が、それだけではない。ソクラテスが怨まれたのは、むしろソクラテスとの對話が不毛だつたからではないか。いや、不毛だと人々が考へたからではないか。ソクラテスは知者を自認する手合と問答して相手の無知を悟らせる、相手をアポリアに追い込む。けれども、メノンが言つてゐるように、その際ソクラテス自身も必ずアポリアに陥るのである。つまり、ソクラテスとの問答は何の解決にも到達しない。それなら、「無知の知」なんぞを自覺したところで何の役に立つか、振出しに戻るだけではないか。古代アテナイの市民はそう思つたに違い無い。ソクラテスが怨まれたのは、他人に無知を自覺させながら、單純にして明快な解決を示さなかつたからである。私にはそうとしか思えぬ。實際、ソクラテスに向つて「では、どうすればいいのか」と開き直つた奴もゐるかも知れぬ。古代アテナイの市民も、現代人と同樣、「こうすればよい」或いは「こうしろ」と言つて貰いたかつたに相違無い。自由を有難がらずして專ら支配されたがつたに相違無い。
ところでソクラテスはソフィストたちのレトリックを、似而非政治家の手練手管だと極め付けた。それは大衆に諂う技術であり、何が正しいかではなく「大衆が何を正しいと考へるか」を重視するというのである。だが、ヒットラーが見抜いてゐたように、大衆を動かすのはレトリックであつてディアレクティックではない。それに、プラトンの對話篇を讀めば解る通り、ディアレクティックは不毛に見えるばかりか辿るのに苦しい道で、易きにつく人々が、そういう割に合わぬ苦勞を好む筈が無い。それに引換え、當時、レトリックは立身出世に役立つ、頗る實用的な技術だつたのである。それかあらぬか、『プロタゴラス』に登場する青年は、全財産を砕いても高名なソフィストの弟子になりたいと言つてゐる。
しかるに、ソクラテスがやつてみせた通り、兩極の間を往來する思考は不毛であり、そこから「こうすればよい」との明快な解答は得られない。所詮、アポリアに陥るだけの事なのである。ニイチェはそれに苛立ち、ソクラテスをデカダンと評したが、ニイチェ自身認めてゐるように、ニイチェの中にもソクラテスがいたのだから、ニイチェの提案した大胆な解決が決定的なものになる筈が無い。トルストイとて同じ事だ。先に引いた日記の一節にトルストイは何と書いてゐるか。自分は妻を「愛する事が出來る」と彼は書き、すぐに續けて「しかし、それが出來ないのだ」と書いてゐるではないか。これも兩極に觸れる自問自答だが、かういふ苦しい自問自答から單純明快な結論なんぞが出て來る筈は斷じて無いのである。 
新聞はなぜ道義に弱いか
さて、徹底的に深く考へたところで、大衆が喜ぶような單純明快な解答は得られないという事については、これで充分かと思ふ。パスカルはスローガンにならないのである。皮相と性急は二十世紀の病であつて、新聞がそれを最も重く煩つてゐるとソルジェニーツィンは言つた。新聞は報道の自由を享受しながら、讀者のためを考へず、專ら世論に阿り、世論と矛盾しない程度の意見を述べるに過ぎない、というのである。その通りだが、それでは困る。パスカルはなるほど集團向きではないが、集團向きの皮相淺薄な道義論をぶつてゐるうちに、新聞記者の道義心も、讀者の道義心も、却つて麻痺の度を加えてゆくばかりだからである。集團に顔は無い。人格も無い。集團心理というものはあるかも知れないが、集團道徳というものは無い。道徳とは飽くまでも個人に對して強さを要求するものなのだ。これに反して集團は、個人を威壓する力としては強いかも知れないが、道徳的には決して強くはないのである。佐藤直方は「決斷してする事は茶一貼でも孝ぢゃ」と言つた。直方の言う「決斷」の意味はともあれ、新聞も吾々も、衆を恃まず、獨り胸に手を當て考へてみたらよい。孝行という徳目を嗤つて、吾々は「茶一貼」を親に贈るという至つてた易い事さえやらずにゐるではないか。それなら他人の惡徳を言う前に、他人の榮耀榮華を妬む前に、吾々はまずおのれの不徳を氣に掛けねばならぬ。他人の惡行を難じて悲憤慷慨しても、それだけ自分が有徳になる筈は斷じて無いからである。道義的であるためには人は強くあらねばならぬ。「茶一貼」にも強さが必要だが、その強さを時に或いは常に自分が欠くという事を認めなければならぬ。自分が弱いという事、或いは自分が惡いという事を時に認めなければならぬ。
ここで讀者はトルストイの日記を思ひ出して欲しい。自分は妻を愛せない、「惡いのはわたしだ」、そうトルストイは書いてゐるではないか。新聞に限らない、昨今吾々は「惡いのはわたしだ」とは決して言わなくなつた。惡いのは常に政府であり、政治家であり、大企業であり、文部省であり、或いはこう書けば保守派は嫌がるが、總評であり、日教組なのである。つまり、惡いのは常に他人なのである。
私は新聞に極論を吐けとは言わないし、吐けるとも思はない。だが、新聞記者は獨り密かに極論を呟いて貰いたい。そしてこの際、とくと考へて貰いたい。この數ヶ月、他人の惡徳を糾彈してはしゃぎ廻り、新聞は社會の木鐸として一體全體いかなる成果をあげたのか。自他の道義的頽廢に拍車をかけただけの事ではなかつたか。數ヶ月間の馬鹿騷ぎは途方も無い紙とインクの無駄遣いではなかつたか。新聞はおのれを棚上げして聲高に正義を叫べば、大衆を教導できると思つてゐる。とんでもない事である。大衆についての兩面價値的(アンビヴァレント)な私の考へについてここでは詳述できぬが、新聞の社説を讀んで道義心を養うような馬鹿は、「知的生活の方法」なんぞに關心を持つ似而非インテリに限られる。道義的であるという事は、美しい事を言う事ではない。常住坐臥、美しい事を行う事でもない。それはまず何よりも、美しい事をやれぬおのれを思ひ、内心忸怩たるものを常に感じてゐる事である。
トルストイのように、常におのれを省みて他人の事を言い、或いはおのれを省みて他人の事を言う事のできぬおのれを省み、極論を呟き、綺麗事の空しさを痛感し、兩極の間を往來してやまぬ人間の矛盾と戰う事なのである。その點新聞も讀者も、道義的という事について大變な勘違いをしていないか。
新聞はなぜ道義に弱いか。思考が不徹底だからである。頭が惡いからである。そしてそれは新聞に限らない。新聞記者の卵を教へる大學教授もそうである。私は或る大學で法學を講ずる教授に、「周知の如く、時効と職務權限の壁にはばまれて、檢察は松野頼三氏の刑事責任を問えなかつたが、刑事責任を問えない松野氏に對して、どうして道義的責任を追及できるのか」と尋ねた事がある。すると彼はこう答えた、「刑事責任を問えないからこそ道義的責任を追及してゐるのではないか」。法學者にしてこの程度である。そこで私はサンケイ新聞に「刑事責任を問えぬ者の道義的責任を追及するのは魔女狩りに他ならぬ」と書いた。また『經濟往來』七月號には、「私は法律の素人だが」とわざと何囘も斷つて同じ趣旨の事を書いた。が、これまでのところ、誰一人私に反論した者が無い。「躬自ら厚くして、薄く人を責むる」事のできぬ小人の私は次第に圖太くなり、圖に乘つて、誰も反論できる筈は無いと考へるようになつた。いずれ折をみて法と道徳に關する新聞や學者の無知を徹底的に發いてやろうと思ふようになつた。よろずの事に本氣になるのは馬鹿者だが、道徳だの戰爭だのについて本氣で考へぬ事だけは許せないと思ふからである。新聞記者に個人的に接すると、彼等は必ず「他紙が騷ぐからやむをえず騷ぐのだ」と弁解するという。やはり惡いのは他人なのである。つまり彼等は本氣でない。大學教授もそうである。極端な例かも知れないが、昨今は皆が内心輕蔑してゐる男を學部長に選出する事もある。それを聞いて、私はわが耳を疑つた。けれどもそれは本當の事であろう。選出された學部長がやたらに會議を開いて何事も多數決で決めたがる事を、私自身屡々見聞してゐる。それはおのれ一人で決斷して責任を一身に引受ける事を恐れるからである。皆の責任は皆の無責任だからである。「俺一人が惡い」と言い切るだけの覺悟が無いからである。「最惡の事態にも應じられる人生觀」を欠いてゐるからである。最後に讀者に問う、これを道義的頽廢と呼ばずして何と呼ぶのか。 
第二章 愚鈍の時代

 

エレホン國のお話
まず、エレホンという奇妙きてれつな國の話から始めよう。エレホン國にも法律はあつて、ただその法律が何とも奇妙きてれつなのである。エレホン國では風邪を引く事は重大なる犯罪と見做されるが、道義に反する行爲は一種の病氣と見做されて司直の追及を受ける事が無い。それゆえ、例えば肺病患者は終身幽閉されるが、年間二萬ポンド以上の高額所得者は天才として崇拝され、一切の税の支拂いが免除され、また、公金を使い込んだ者は大いに同情され、重病人として懸命な看護を受ける事になる。
さて、そういう國を讀者はどう思ふか。その餘りの不条理に、エレホンとは架空の國だらうと言うに違い無い。その通りである。エレホン國とは十九世紀イギリスの文人サミュエル・バトラーが創造した夢想郷であり、エレホンErehwonとはnowhereの綴りを逆にした所謂逆さ言葉であつて、バトラーは當時のイギリス社會を痛烈に風刺したのである。エレホンはどこにも存在しないどころか、今、ここに、諸君の目の前に、歴然として存在してゐるではないか、バトラーはそう主張してゐる譯である。
なぜ私はエレホン國の話から始めたのか。他でもない、日本國とエレホン國との径庭は見掛けほど大きくないという事が言いたかつたからである。吾々がエレホン國を笑止がるのは、目糞が鼻糞を笑うの類だと私は考へる。なるほど、病人が罰せられ、惡黨が病人と見做されるエレホン國は、途方も無い不条理の國である。これに反し、わが日本國は立派な法治國家であつて、病人は手厚い看護を受け、殺人犯には極刑が科せられる。つまり、殺人は日本國の法がかたく禁じてゐる行爲なのである。では、日本國において、法が禁じてゐる行爲を合法的なものとして認めよと、そういう事を聲高に主張して非合法の手段に訴えたらどうなるか。例えば殺人の權利を吾等に与えよと主張して殺人を犯したらどうなるか。エレホン國は知らず、日本國ではそういう狂人は委細構わず牢屋へぶち込まれるに相違無い。では、エレホン國は無茶苦茶だが、日本國は立派な法治國家なのか。その通りと答える讀者に私は尋ねたい、公勞協傘下組合の年中行事たる「スト權スト」はどうなのかと。
周知の如く、公勞協のストライキ權は法的に認められていないのである。それなら、「スト權スト」とは、法が禁じてゐる行爲を合法的なものとして認めよと主張し、その要求を貫徹すべぐ非合法の手段に訴える事ではないか。スト權ストとは、殺人權殺人と同樣、途方も無い不条理ではないか。しかるに、昭和五十四年六月、森山運輸大臣は、スト權スト參加者の處分について、何とその「凍結」を國鐵に要望したのである。それを傳え聞いた春日一幸氏は、「法治國家として斷じて許すべからざる」事である、かくなるうえは「運輸大臣のクビをとれ」と叫んだそうだが、熱り立つたのは春日氏だけで、政府も野黨も新聞も世論も一向に憤激せず、それゆえ運輸大臣の首はとばなかつた。吾々にエレホン國を嗤う資格は無いのである。 
「愚鈍以外に罪惡はなし」
この東洋のエレホン國では、政治家が「貧乏人は麦を食え」とか「國連は田舎の信用組合の如し」とかいう、どちらかと言へば、道義に係る失言をやらかすと、新聞も世論も頗る憤激するが、法に關する極論や暴論には至つて鈍感であつて、それはつまり、新聞や世論が法についてのみならず道徳についても「深考」を欠いてゐるからに他ならない。先般、所謂航空機疑惑の報道に際しては、愚鈍にして半可通の新聞が「灰色高官」の非を鳴らし、政界淨化を叫び、數カ月に亙つて浮かれ騒いだのであり、その輕佻浮薄を一歩離れて眺めてゐると、それはまさしく天下の奇觀だと思えて來る。法と道徳に關して新聞は無茶苦茶を書き、それに識者も讀者も一向に驚かない。不条理は不条理として扱われない。
例えば、五十四年七月二十六日付の朝日新聞は次のように書いたのである。
國民の大多數が自民黨の金權、金脈體質や政治の汚職構造を批判してゐる。松野氏は 次の選擧で「有權者の審判を受ける」というが、地縁、血縁、利害關係で結びついた一 選擧區の有權者だけの「民意」によつて、すべて疑惑が洗い流されるものだらうか。民 主主義政治を健全に發展させてゆくために必要なのは、まず個々の政治家のモラルであ ることを知らねばならない。
讀者はこの朝日の文章をどう思ふか。私にはこれは愚論としか思えない。そういう愚論が堂々と活字になるとは、正しく天下の奇觀としか評し樣が無い。公金を使い込んだ奴が同情の對象となり、病院で手厚い看護を受けるエレホン國におけると同樣の、これは不条理極まる言論である。そうではないか、朝日はいつから議會制民主主義を否定したがる「保守反動」に變身したのか。松野氏に「審判」を下すのは、飽くまでも「地縁、血縁、利害關係で結びついた一選擧區の有權者だけ」である。假に私が松野氏に一票を投じたいと思つても、或いは逆に松野氏を落したいと思つても、東京七區の選擧民である以上はどうする事もできはせぬ。私も朝日新聞の論説委員も、熊本一區の有權者の「審判」については、いかに不承不承であろうと、これを尊重せざるをえない。それこそ「民主主義政治を健全に發展させてゆくために必要な」事ではないか。
それに何より、有權者の「民意」は、いついかなる場合にも、政治家に對する「疑惑」を「洗い流」すものではない。多數の意見が正しいという保證なんぞどこにも無いからである。百人中の九十九人が松野氏の潔白を信じたとしても、それはそのまま松野氏が潔白である事を意味しない。ただ、百人中の五十一人が松野氏を支持する場合、四十九人は不承不承、それを認めざるをえないというだけの事である。そういう中學生にも理解できる筈の單純な理窟も解らずに、よくも大新聞の論説委員が勤まるものだと思ふ。民意と眞實とは全く無關係である。松野氏が潔白かどうかは松野氏自身と神樣にしか解りはしない。朝日の論説委員はプラトンの『ソクラテスの辯明』を讀んだ事が無いのだらうが、高給を食んで駄文を草する暇があつたら、月に一冊の文庫ぐらいは讀むように心掛けたらよい。そして、ソクラテスの死刑を多數決で決めたアテナイの法廷は正しかつたと、自
信を持つて言い切れるものかどうか、その事を一度とくと考へてみたらよい。そうすれば、「民主主義政治を健全に發展させてゆくために必要なのは、まず個々の政治家のモラルである」などという馬鹿げた事を、ぬけぬけと言い放つたおのれの馬鹿さ加減に愛想が尽き、本氣で筆を捨てる氣になる筈である。馬鹿げた事をぬけぬけと言う、それは畢竟頭が惡いからである。「愚鈍以外に罪惡は無い」とオスカー・ワイルドは言つた。その通りだとさえ言いたい。 
「本當に怒ろう」とは何事か・・・
だが、グラマン騒動に浮かれたのは朝日だけではない。サンケイもまたそうである。目下サンケイのコラムに執筆中の私が、かういふ事を書けば、讀者はそれをサンケイに媚びる私の保身の術と受取るかも知れないが、私がサンケイを叩くのは、叩いてもなおサンケイにしか期待できぬと考へてゐるからである。一夜枕を交しただけの女郎の變節なら、無念殘念に思ひはしない。が、サンケイは私にとつて徒し情けの一夜妻ではない。かつてサンケイは自民黨の意見廣告掲載問題をめぐつて日共と對決し、損を覺悟の孤獨な戰いを敢えてしたではないか、あの勇氣と矜持はどこへ行つたのかと、私はそれを無念殘念に思ふのである。
とまれ、朝日を叩いた以上サンケイも叩かねばならぬ。五十四年五月二十五日付のサンケイの「主張」は、次のように書いたのである。
「政治倫理の確立」という点にも、(國會が)《本氣》で取り組むつもりかどうか疑 わしい。倫理とはいうまでもなく善惡の意識である。起こつた事實を惡と認め、《たと え政權が倒れるようなことがあつても、》黨が大きな打撃をこうむるようなことがあつ ても不正をただそうとする正義の感覺である。
「人間は最も隱してしかるべきものをさらけ出して歩いてゐる、それは顔だ」と言つたのは、確かポール・ヴァレリーだつたと思ふ。これはつまり、人品骨柄はそのまま人相に顕われてゐるという意味である。「文は人なり」という。文章もまた書き手のすべてを裏切り示す。どんなに美しい言葉を並べ立てても、書き手が本氣かどうかは、文章の姿が寸分の狂いも無しに明かすのである。右に引いたサンケイの文章もそうである。筆者は國會が本氣かどうかを疑つてゐるが、その疑い自體が決して本氣ではない。同樣に「たとえ政權が倒れるようなことがあつても」のくだりも、自民黨政權が倒れるような事態にはなる筈が無いと高を括つてゐる人間の書いた文章なのである。それは丁度、髪結いの亭主が女房に捨てられる事はよもやあるまいと安心して、「たとえ女房が家出するようなことがあつても」と胸を張つてみせるようなものである。
それゆえ、右の「主張」を書いたサンケイの論説委員に私は尋ねたい。既往は知らず、將來サンケイ新聞社が何らかの不祥事をしでかし、世間の非難を一身に浴びる事になつたとして、その場合サンケイの社員たるあなたは、「たとえサンケイが潰れるようなことがあつても、病巣を徹底的に究明して、それを根治するという不退轉の決意を固める」か。もしこの私の問いにあなたが「イエス」と答えるなら、私はあなたの愛社心を疑う。自社の病巣の剔抉など、職場を愛する人間にやれる筈が無いし、また輕々にやるべきではない。少なくとも私はサンケイを潰したくはない。それゆえ、臭い物に極力蓋をすべく、應分の協力を惜しまぬであろう。
サンケイの社説はまことに美しい事を言つてゐる。いかなる犠牲を拂つても不正を糺すとは、目映いばかりに美しい言い種である。が、餘りにも美しいから、それは眞つ赤な嘘なのである。右に批判した通り、筆者は決して本氣でない。そして、本氣で口にしない言葉が人の胸を打つ譯が無い。けれども、この東洋のエレホン國では新聞も物書きも決して本氣にならず、また本氣で口にしない言葉のほうが持て榮やされる。今は「愚鈍の時代」なのである。愚鈍が咎められないから、愚鈍はしたり顔でのさばり、人々は決して本氣で物を考へようとしない。
もとより、よろずの事に本氣になるのは大馬鹿である。だが、不正義に怒る時さえ本氣でないという事だけは許せない。『中央公論』五十四年四月號に田原總一朗氏が書いてゐた事だが、「連日、健筆をふるつてゐる」田原氏の「友人の社會部記者」は、「他紙に抜かれると困るので走りまわつてはゐるけれど、正直いつて熱が入らないな」と言つたという。許し難い輕佻浮薄である。そして、そういう輕佻浮薄は、次に引く五十四年五月二十五日付の、「怒りと空しさの松野氏喚問」と題する朝日の社説にも實に鮮明に表現されてゐる。
それにしても、いまわれわれの政治が抱えた最大の危機は、これだけ世論の批判を浴 びながら、なおも温存され續けようとしてゐる汚れた政治構造の全容を、捜査も、國會 も、十分に明らかにできないことである。《そのもどかしさ、空しさをどうしたらよい のか。》だが、《あきらめるのはよそう。》空しさを吹つ切つて、《本氣に怒ろう。怒 りをねばり 強く持ち續けよう。》
讀者の理解を助けるため私は先に田原氏の證言を引いたのだが、實を言へばその必要は無かつたかも知れぬ。傍点を付した部分で、讀者は吹き出したに相違無い。
それゆえ、「本當に怒ろう」と書いてゐる當人が本當に怒つていない、その異常心理についてくだくだしく分析する必要は無い。が、これだけの事は言つておこう。朝日は「本當に怒ろう。怒りをねばり強く持ち續けよう」と書いてゐる。つまり朝日は徒黨を組んで怒ろうとしてゐる。それこそ朝日が本氣で怒つていない何よりの證拠である。本物の怒りなら、他人の同調を當てにする筈がない。 
本氣でないから新聞を許せない
次に引用するのは五十四年五月八日付のサンケイ及び五月二十九日朝日夕刊の「素粒子」の文章だが、いずれも他人を當てにして怒ろうとしてゐるぐうたらな筆者の面構えを彷佛とさせるような文章である。
近年、自民黨と汚職は“サシミとワサビ”のような不離不即の關係にあるとの“諦觀 ”が國民の間に定着してゐるからよけい盛り上がりに欠ける。しかし、である。《われ われはやはり怒るべきである。》それもカッという怒りでなく、長持ちするじつくりし た怒りを汚職裝置を内包したこの天下黨にぶつけ、自淨を迫るべきである。        (サンケイ)
いかにして《結集》せん、《われら市民》のゴマメの齒ぎしり。怪魚ライゾー、ゆう ゆうのとん走。
新聞の怒りは決して本氣ではない。女郎の千枚起請も同然の嘘八百である。では、新聞はどういう時に本氣で怒るのか。この問いに答える事は難しい。アリストテレスは「當然怒つてしかるべき時に怒らないのは痴呆だ」と言つてゐるが、怒つてしかるべき時に新聞が怒らなかつた例なら、私はいくらでも擧げる事ができる。例えば、昭和四十七年八月二十日、田中角榮首相は、輕井澤の料亭「ゆうぎり」において、九人の田中番記者に對し、「ハコ(政界エピソード)を書くときはひねつたり、おちゃらかしはいかん。つまらんことはやめろよ、わかつたな」と言い、かつて自分が郵政大臣及び大藏大臣として、放送免許や國有地拂下げに關して各社の面倒をみた事實を強調、「オレは各社ぜんぶの内容を知つてゐる。その氣になればこれ(クビをはねる手つき)だつてできるし、彈壓だつてできる。(中略)オレがこわいのは角番のキミたちだ。社長も部長もどうにでもなる」と放言した(『文藝春秋』昭和四十七年十一月號)。新聞はけれども怒らなかつた。そういう事實があつた事さえ報じなかつた。では、當然怒つてしかるべき時に怒らなかつた新聞は「痴呆」なのか。とんでもない。痴呆なら快く許せるが、新聞は小惡黨なのである。『文藝春秋』がすつぱ抜くまで新聞が沈默を守つたのは、田中發言が事實だつたからに他ならない。それを報道しない疚しさを日中友好ムードを盛り上げるためとの大義名分の蔭に隱し、周知の如く新聞は田中角榮氏を「今太閤」だの「庶民宰相」だのと持ち上げたが、やがて田中氏が落ち目になると、新聞は手の裏を返すように田中氏の非を打ち、憤つてみせたのであり、いずれの場合も新聞は決して本氣ではなかつたのである。
『現代』五十四年十月號は「我慢できない、新聞記者の驕り、非常識、ゆ着」と題する痛烈な新聞批判の文章を載せてゐる。辻村明氏に教へられて私はそれを讀み、新聞の愚鈍と傲慢と無節操を再確認する事ができた。辻村氏の場合と同樣、私の新聞批判も「記事内容の論理的矛盾とか、論理的不徹底を衝くものであつて、新聞社の裏面を暴露する」といつた類のものではない。けれども、『Voice』五十四年十一月號で縷々説いた通り、「論理的不徹底」とは思考の不徹底、すなわち知的怠惰という事であり、知的に怠惰で愚鈍な新聞は道義的にも怠惰なのである。『現代』の新聞批判は私の主張の正しさを證明してゐる。それゆえ「自民黨の次期總理を狙うA派の派閥記者には、ことしのお中元には五萬圓から十萬圓相當の商品券が送られた」とか、「田中六助官房長官の公邸では(中略)寿司も酒類も、官房長官事務費という名目の税金から出てゐる」とか、「自民黨の政經文化パーティが熊本で開かれたとき、お土産は肥後ずいきだつた」が、「同行の各記者連中は、ニヤリと笑つてポケットに入れてゐた」とかいう『現代』の記事のすべてを私は信ずる。『現代』は實名を擧げ新聞記者のでたらめを批判してゐるが、この眞劍勝負を物書きもジャーナリストも見習うべきだと思ふ。 
知的怠惰ゆえの痴れ言
とまれ、辻村氏も言つてゐるように、吾々大學教授は新聞社の内情には暗いのだが、實を言へば内幕を知るまでもなく、新聞の道義的頽廢は新聞の文章が掌を指すごとく明白に示してゐるのであつて、それはすでに分析してみせた通りである。
それゆえ、その一等資料とも言うべき新聞の文章を扱き下ろし、新聞の法及び道徳に關する恐るべき無知を發くとしよう。周知の如く、「時効と職務權限の壁」に阻まれて、檢察庁は松野氏の刑事訴追を斷念した。それはつまり、松野氏の刑事責任は追及できなかつたという事である。そこで新聞は松野氏の道義的責任を激しく執勘に追及した譯だが、刑事責任を追及できぬ者の道義的責任を追及するとは、斷じて許せぬ暴擧である。しかるに、サンケイから朝日までのすべての新聞が、松野氏の政治的、道義的責任を追及すべしと連日ヒステリックに喚き立てた時、大方の識者はその途方も無い無知と理不尽を咎めようとはしなかつた。それは正に天下の奇觀で、日本國はエレホン國だと私は今更のように納得したのであつた。例えば、五十四年五月二十五日付の朝日は次のように書いたのである。
ロッキード事件に續いて發覺したこんどの航空機輸入をめぐる疑惑は,自衞隊機購入 にからむ商社と政府高官の金錢の授受であり、國民の税金をめぐる不正であつた。刑事 訴追は時効などでまぬかれたとはいえ、政治家の政治的道義的責任の追及や、構造汚職 の解明は、民主主義や國會を守るために与野黨一致で最大限の努力を拂うべき問題であ つた。
また、同五月八日付の讀賣の社説もこう書いてゐる。
裁判で刑事責任を裁かれる被告は、刑でそれなりに罪のつぐないをする。しかし、容 疑が時効にかかつた人物は、罪のとがをなんら受けることがない。どくに政治家が、そ れで濟まされてよいのだらうか。刑事責任を解かれた分を含めて、むしろ、一層重い政 治的、道義的責任をとるべきはずだ。
もう一つ、五月十九日付のサンケイはこう書いた。
しかしいま問題にされねばならないのは、そのような刑事責任の有無による責任追及 ではない。古井法相もいうように、この構造汚職にかかわつた政治家の政治的、道義的 責任の追及なのである。國民の立場からいえば法律だ、時効だなんていうのは關係がな い。ただ一点、航空機賣り込みをめぐつて惡い金が動いたのではないかという点に關心 がある。
かういふ調子で各紙は、松野頼三民や岸信介氏の「政治的、道義的責任」を追及した。そして、私の知る限り、佐橋滋氏(五月十日「正論」)及び竹内靖雄氏(六月十四日「直言」)が、いずれもサンケイ新聞紙上で窘めただけで、保守と革新の別無く識者は新聞の愚鈍とでたらめを批判しなかつた。やはり日本國はエレホン國なのである。
そうではないか。「國民の立場からいえば、法律だ、時効だなんていうのは關係がない」とサンケイは言うが、これはまた何たる暴論か。これほどの暴論を吐く大手町のサンケイ新聞社を爆破すべし、と私がもしも本氣で主張したならば、私は世論の袋叩きに遇うであろう。いや、それどころか私の手は確實に後ろにまわるであろう。が、「サンケイ新聞社を爆破すべし」と「法律だ、時効だなんていうのは關係がない」との間に、一體どれほどの懸隔があるか。「法律だ、時効だなんていうのは關係がない」のなら、サンケイ新聞に對する一切のテロ行爲をサンケイ新聞は甘受せねばならなくなる。それだけの覺悟あつてサンケイの論説委員は書いてゐるのか。勿論、そうではない。法と道徳について「深考」を欠くがゆゑに、すなわち知的怠惰ゆゑに、我にもあらず痴れ言を口走つたまでの事である。
朝日と讀賣にしてもそうである。サンケイと同樣、兩紙は松野氏の刑事責任を問えぬ以上、その政治的、道義的責任を追及すべきだと主張してゐる。これまた、「サンケイ新聞社を爆破せよ」と同樣の暴論である。或いは、ロンドン大學の森嶋教授の「軍備計畫論」と同樣の愚論である。森嶋氏及び森嶋氏を支持する人々には、淺薄な事を言いたいだけ言わせておき、いずれ私は愚かなる國防論議の「道義的責任」を徹底的に追及しようと思つてゐるが、森嶋氏の愚論も、「灰色高官」の道義的責任を追及する新聞の暴論も、とどのつまり思考の不徹底に起因する道義的頽廢を物語る一等資料に他ならない。やはり「愚鈍以外に罪惡は無い」のであり、今は「愚鈍の時代」なのである。 
輕蔑と人權擁護は兩立する
ところで、その、新聞の愚鈍についてだが、例えば讀者はかういふ事を考へてみるがよい。甲が今、友人乙を殺したとする。そしてそれを丙が目撃したとする。言うまでもなく、丙にとつては乙殺しの犯人が甲である事は確實である。だが、丙が「犯人は甲だ」と主張した時、丙以外の人間は、その主張の正しさを確かめる事ができない。丙が本當の事を言つてゐるかどうかは、神樣と丙自身にしか解らないからである。證拠が物を言うではないかと反間する向きもあろう。が、指紋だのルミノール反應だのが殘らぬ場合もある。その他確實と思はれる證拠を蒐集して甲を起訴しても、最終審で甲が無罪になる可能性はある。いや、先般の財田川事件の場合のように、甲の死刑が決定して後に、最高裁が審理のやり直しを命ずる事さえある。
以上の事を否定する讀者は一人もいないと思ふ。これを要するに、甲が殺人犯かどうかは、究極のところ、甲自身及び目撃者丙以外誰にも解らぬという事である。大昔は、探湯という方法によつて事の正邪を判斷した。熱湯に手を突込ませ、爛れぬ者を正、爛れる者を邪としたのだが、嘘發見機などの近代的裝備を誇る現代の警察も、探湯の原始性を嗤う譯にはゆかないのである。たとえ、甲が一審で有罪、二審でも有罪となつたとしても、甲が最高裁に上告すれば、この段階でも世人は甲を罪人扱いする事ができない。やがて最高裁が上告棄却の決定を下す。さて、そうなつて初めて世人は甲の有罪を信じてよい。新聞もまた甲を呼捨てにして、その「道義的責任」を追及し、勤先に辭表を出せと居丈だかに要求するもよい。財田川事件の如く、三審制という慎重な手續を經ても、人間の判斷に誤謬は付き物だから、なお誤判の可能性はありうるが、それは止むをえない。最終審の決定があれば、吾々は被告の有罪を信じるしかないのである。ケルゼンも言つてゐるように「盗んだ者、殺した者は處罰される」というのは正確ではない、「その者がその行爲をしたことの絶對的眞理性はいかにしても認定」できず、從つて「ある者が盗んだこと、殺したことを特定の人間が特定の手續で確定した場合その者は處罰されるべきである」と言わねばならぬ。
再び、以上の事を否定する讀者は一人もいないと思ふ。では、私は讀者に尋ねたい。檢察は松野頼三氏の刑事訴追に踏み切らなかつたのである。松野氏が國會で何を喋ろうと、それはこの際問題ではない。松野氏は起訴されなかつたのである。起訴されない以上、裁判所の判定は下されようが無い。つまり、松野氏が有罪か無罪かは新聞にも吾々にも決して解らぬ事なのである。
それなら、有罪か無罪か解らぬ人間をどうして新聞は道義的に非難できたのか。
ここで讀者は、先に引用した朝日、讀賣、及びサンケイの文章を讀み返して貰いたい。三紙とも松野氏の道義的責任を追及する事の不条理に全然氣づいていない。エレホン國では七十歳以前に不健康になると、陪審員の前で裁判を受け、有罪と決まると、その症状に應じて、公衆の輕蔑を受け刑罰を執行されるのである。が、日本國とエレホン國とその不条理に甲乙は無い。日本は東洋のエレホン國だという私の言い分ももつともだと、そろそろ讀者は思ひ始めたのではないか。
松野氏に限らない、田中角榮氏の場合も海部八郎氏の場合も、まだ一審の判決さえ下つていないのである。にも拘らず、新聞は兩氏を呼捨てにして憚らない。例えば五十四年五月十日の朝日は「田中に痛撃、大久保淡々と“首相の犯罪史”檢察側の筋書きぴたり」などと、田中氏の有罪が確定したかのような事を書いた。そういう事が許されていて、日本は果して法治國なのか。
ここで無用の誤解を避けるために斷つておくが、私は松野、田中兩氏とは面識が無い。從つて兩氏には何の恩義も無い。田中氏の政策を私は肯定しないし、松野氏に對しては反感さえ抱いてゐる。ロッキード騒動の折、松野氏は政界淨化を叫んではしゃぎ廻り、「いまこそ自民黨から金權體質を除去しなければならない。それには政治家の良心が問われてゐる」などと、心にも無い綺麗事を言い、福田派をとび出して三木派に媚びたのであつて、以來私は松野氏を政治家として輕蔑するようになつた。だが、松野氏への輕蔑と松野氏の人權擁護とは兩立しうるし、また兩立させなければならない。田中氏も松野氏も新聞による「魔女狩り」の犠牲者である事は確實だからである。 
知的怠惰は道義的怠惰
十七世紀末、ヨーロッパ及びアメリカでは、多數の魔女が處刑されてゐるが、魔女なりや否やを見分ける當時の識別法は今日の吾々にとつて頗るつきの理不尽としか思えない。けれども、この東洋のエレホン國における「魔女狩り」のほうが、私は遙かに惡質だと思ふ。なぜなら、すでに述べたように、安手の道義論をぶち、道學者づらをする新聞は少しも本氣でないからである。
とまれ、新聞は數カ月間「魔女狩り」に熱中し、政治家も學者も世人もそれを本氣で咎めようとはしなかつた。いや、檢事さえも新聞と「世論」に怯え、あられもない事を口走つたのであつて、布施元檢事總長、伊藤榮樹元法務省刑事局長、及び東京地檢特捜部檢事の聞き捨てならぬ暴論についてここで論ずる紙數が無いのは殘念だが、新聞や學者のみならず、檢事さえも法と道徳に關する「深考」を欠き、途方も無い愚論暴論を吐き、無理が通つて道理が引込み、一犬虚に吠え萬犬實を傳えるこのエレホン國の無茶苦茶と愚鈍を眺めてゐると、私は鳥肌の立つ思ひがする。ニューヨークはセントラル・パークの北側、無法地帯といわれる所謂ハーレムを夜中に一人で歩いてゐるような氣がする。
言うまでもない事だが、法律は人間が拵えるものである。そしてもとより人間は完全でない。それゆえ、不完全な人間が拵える物は、法に限らずすべて不完全である。法に盲点ないし不備があるのは、してみれば至極當然の事で、法の抜け穴を利用して、巧妙に或いは狡獪に振舞い大儲けをする者があつても、或いは時効が成立して法の裁きを免れる者があつても、法治國家の國民である以上、吾々は斷じてそれを咎めてはならぬのである。そういう事を理解できぬ愚鈍な新聞が、道學者を氣取り大衆を煽動しようと企んだのが、例の「江川騒動」であつた。野球協約によれば、江川投手に對する西武球團の交渉權は十一月二十一日でその効力を失い、次のドラフト會議が開かれるのは二十三日であつた。つまり、そこに一日だけ江川が野球協約に拘束されない空白が生じたのであり、その空白の二十二日に江川が巨人軍と契約したのは完全に合法的な行爲だつたのである。けれども、法と道徳について「深考」を欠く愚鈍な手合ばかりがのさばるこのエレホン國では、合法的という事と道義的という事との峻別がなされず、新聞はもとより久野収氏の如き愚鈍な「哲學者」も、合法的な巨人軍や江川の行爲を道義的に非難して浮かれ騒ぎ、それにもそろそろ倦きて來た時分、時効と職務權限条項により合法的に刑事訴追を免れた松野頼三氏を、「法が裁けぬのなら道義で裁け」と、これまた數ヵ月に亙つて指彈して樂しんだ譯である。
けれども、合法的な行爲を道義的に批判するのは、法と道徳の双方を否定する事であり、法と道徳とを峻別できない頭腦の弱さ、すなわち知的怠惰は道義的怠惰であつて、それは法のみならず道義を輕視する風潮に拍車をかける事になる。その事を少々具體的に説明するとしよう。まるで小學生に教へてゐるような氣がして少々情け無いが、ここはエレホン國ゆえやむをえない。
誰でも知つてゐるように、前方の信號が青であれば、直進する車はそのまま進行してよい。が、左折しようとする車は、歩行者が横斷歩道を渡り終るまで待つていなければならない。それは左折車の「義務」である。そして信號が青である限り、歩行者には横斷歩道を悠然と渡る權利がある。權利がある以上、悠々と渡るのは合法的な行爲である。では、その悠々振りに業を煮やした左折車の運轉者が、歩行者を道義的に非難したら一體どういう事になるか。勿論、歩行者は、聖人君子ならばともかく、おのれの行爲の合法性を楯に取り、運轉者に楯突くであろう。そして、そういう事が度重なれば、やがて歩行者は「合法的でありさえずればよい」と考へるようになり、わざと悠々と渡つて嫌がらせをするようになるに違い無い。
勿論、「合法的でありさえすればよい」という開き直りは決して褒められた態度ではない。そして、合法的ではあつても道徳的でない人間は、いずれは法を輕視するようになる。が、その行爲が合法的である限り、吾々は彼を咎めてはならない。やがて彼が圖に乘つて、法の盲点に附け入るのみならず、法を無視して亂暴な振舞に及んだ時、例えば立場が變つて運轉者となつた彼が、クラクションを鳴らして歩行者を威嚇し、強引に左折しようとしたならば、その時初めて吾々はその無法を咎めてよいのである。
すでに明らかであろうが、法と道徳の間には微妙な關連があり、それゆゑに兩者は混同されやすいのだが、兩者の微妙な關連を考へる前に、吾々はまず兩者を峻別しなければならない。周知のごとく、現行の道路交通法は歩行者優先であつて、左折車が待つてゐるからとて、歩行者が足早に横斷せねばならぬ義務は無い。けれども、義務は無いが足早に渡つてやろうとする思ひ遣りは法とは無關係であつて、それは飽くまでも歩行者の道義心の問題なのである。そして法は、信號無視の運轉者を罰する事はできるが、これ見よがしに悠々と渡つたからとて、その歩行者を罰する譯にはゆかないのである。 
法と道徳とを峻別せよ
頗る卑近な例を擧げたから、以上の事を否定する讀者は一人もいないであろう。だが、新聞が數カ月間、「巨惡をとり逃がしてはいけない」と喚きつつ大騒ぎをやらかしたのは、悠々と渡る歩行者を道義的に非難する事と、本質的には少しも變らない。左折車を待たせつつわざと悠々と渡る歩行者を罰せられないのが法である。起訴されなかつた政治家を罰せられないのが法である。それが法の限界なのであつて、「法的義務の履行に關しては外的強制が可能だが、道徳的義務に關してはその履行を外的に強制できない」。カントは『道徳形而上學』において法と道徳の差異と關連を眞摯に考へたが、この東洋のエレホン國では、法と道徳のすさまじい混淆が行われており、カントなんぞは豚にとつての眞珠に他ならず、『道徳形而上學』の飜譯も出版されてはゐるものの、宝の持腐れに他ならない。
それゆえ、吾々エレホン國の住人は、まず法と道徳とを峻別しなければならぬ。「起訴されなかつた政治家を道義的に追及できないとしたら、惡い奴ほどよく眠り、世の中は暗闇で、正直者の庶民が馬鹿をみるではないか」などと、當分の間決して言つてはならない。氣安くそういう事を言う者は、すべて法と道徳について「深考」を欠く愚者である。日本人は、今後しばらく、倫理だの道義だの道徳だのという言葉を口にすべきではない。法と道徳を切り離し、法とは何かについて眞劍に考へ、少しく頭腦の鍛練をやるに如くはない。「解る」とは「分る」とも書く。他動詞ならば「分つ」もしくは「別つ」となる。法と道徳の差異を考へるために、吾々はまず兩者を分たねばならないのである。
そういう事ができて初めて、すなわち法の限界を知つて初めて、道徳について考へる事が許される。だが、それは頗るつきの難事である。なぜなら、法と道徳を分つには政治と道徳をも切り離さなければならないが、このエレホン國の新聞も住民も、政治と道徳の混同を頗る好むからである。その證拠に、私がもし「盗聽や汚職や暗殺も時によき政治にとつて必要である」と本氣で主張すれば、エレホン國の國民の殆ど全部が私の暴論を激しく非難し、『諸君!』の讀者さえ總毛立つであろう。だが、政治と道徳を分つには、その種の暴論に眞劍に立ち向かわなければならないのである。
とまれ、數カ月に亙る「グラマン騒動」は、政治と道徳及び法と道徳を分つ事のできぬ、この愚鈍な國の愚鈍な新聞が演じた何とも空しい茶番狂言であつた。愚鈍な新聞に道義を論う資格などありはせぬ。新聞に限らない、愚鈍な手合は、今後他人を道義的に非難してはならない。他人の惡行を難ぜずして專らおのれを省み、默々として仕事に精を出せばよい。差し詰めそれが、愚者にとつての唯一の道義的な生き方かも知れぬ。「愚鈍以外に罪惡は無い」からである。
そして、愚鈍な手合を斬るのに正宗の名刀は必要としない。牛刀をもつて鶏を割くには及ばない。愚鈍な手合を批判するに際して、道義論などを持ち出す必要は無い。專らその知的怠惰を衝けば足りる。 例えば、五十四年十月九日の讀賣新聞夕刊に、寿岳文章氏は「反骨の系譜」と題して次のように書いてゐる。
最近、元號問題は政治化さえしかねまじい樣相を呈してきてゐるが、東西文化の交流 に多少の寄与をしてきたと信じてゐる私にとつて、自分の墓石に西暦を採用することに 、何のためらいもなかつた。西暦は、言わば世界の共通語であり、人類の歴史が殘るか ぎり、この共通語は、どこの國のどんな人にもたやすく讀みとつてもらえるだらう。( 中略)生歿の月日を捨てて四季の表記だけにとどめたのは、やがていつかは苔むし、朽 ちはて、訪う人もなくなるに違いない墓石の半座をわかつ主人公である私には(中略) どんな季節に生まれ死んだかをしるしてさえおけば事足りるので、それ以上の望みは全 く無いからである。
寿岳氏は羞恥心を欠いていて、それを徹底的に批判する事はもとより可能である。が、愚者を道義的に難ずる必要は無い。寿岳氏は恥知らずであるばかりか愚鈍であり、愚鈍な物書きの文章なら當然矛盾があつて、それを衝くだけでよい。寿岳氏は自分の墓は「やがていつかは苔むし、朽ちはて、訪う人もなくなる」と言う。つまり、寿岳文章という英文學者をやがて世間は忘れるだらうという譯である。その癖、自分が「墓石に西暦を採用」したのは「人類の歴史が殘るかぎり」自分の生年と歿年を「たやすく讀みとつて」貰うためだと、寿岳氏は言つてゐる。何とも滑稽な矛盾である。それを私にこうして指摘されて、恐らく寿岳氏は反論できないであろう。 
愚鈍の効用
愚者を相手に道義を論うと、とかく水掛け論になりがちだが、論理の破綻を指摘してやれば、よほどの愚者でもない限り、勝敗を決める事ができる。その證拠に、都留重人氏や關嘉彦氏を相手にして存分に戰えた森嶋通夫も、福田恆存氏の一撃に敢え無い最期を遂げたではないか。福田氏は森嶋氏を「葱まで背負つて來てくれた鴨」と呼んでゐる。森嶋氏にせよ寿岳氏にせよ、愚鈍な物書きは默々と仕事に精を出し、「葱を背負つた鴨」の役割を果せばよいのかも知れぬ。嘲弄されるために存在し、飜弄されるために書けばよいのかも知れぬ。それが、愚鈍な手合にも言論の自由を認めてゐるこのエレホン國における、愚鈍の唯一の効用であろうか。
ところで、五十四年度の衆議院總選擧に際しても、新聞はその愚鈍を大いに發揮した。新聞は例えばこう書いたのである。
有權者ひとりひとりが一票にこめた願いはさまざまだらう。しかし、その總意は、大平首相と自民黨に對して、政治姿勢と政策方針の反省をきびしく促すものであつた。
國民が鼻をつまみながら、自民黨に背を見せたことは十分に考へられるだらう。
敗因がどうのこうのいう前に、大平政權は國民に熱いオキュウをすえられたことを思い知るべきである。
「手法が惡かつた」と首相は反省してゐるが、技術の問題では決してない。(中略) 腐敗した官庁ではなく國民のほうを向いた政治をというのが、投票に示された民意なのだから。
新聞だけではない、新聞の寄稿家もまた、保守革新の別無く、愚鈍ゆえの安つぽい道義論を振りまわし、何とも粗雜な議論を上下したのであり、世人もまたそれを一向に怪しまなかつた。朝日は「有權者の總意」が自民黨に「反省をきびしく促」したと言い、サンケイは「大平政權は國民に熱いオキュウをすえられた」と言い、讀賣は「國民が鼻をつまみながら、自民黨に背を見せた」と言う。どうしてこれほど馬鹿な事を新聞や學者が口を揃えて合唱するのか。五十一年に四一・八パーセントだつた自民黨の得票率は、今囘は四四・六パーセントに増加してゐるのである。それはむしろ、増税だのグラマンだの鐵建公團だの臺風だのと、自民黨に「不利な状況」があつたにも拘らず、自民黨を支持する國民が増加したという事であり、自民黨の「敗北」は專ら「選擧技術の問題」に過ぎぬという事ではないか。もとより政治家は結果に對してのみ責任を負うのだから、私は大平首相の技術的な失敗を辯護する譯ではないが、自民黨支持率が上昇したにも拘らず、新聞や政治學者が「自民黨のおごりに對する國民のきびしい審判」を云々するのは、そしてそれを國民の大多數が一向に怪しまないのは、これまたエレホン國ならではの天下の奇觀としか言い樣が無い。
そうではないか。そういう幼稚極まる事實認識の誤りは高校生にも指摘できよう。しかるに、よい年をして、新聞や學者がそれに氣付かないとは奇怪千萬である。考へてもみるがよい、國民一般だの「國民の總意」だのが審判を下すのではない。選擧に際しては、國民の一人一人が投票する。それだけの事である。その結果、自民黨を支持する者が増えたとしても、自民黨の「選擧技術」が拙劣ならば、得票率の上昇はそのまま議席の増加に繋がらない。早い話が、得票率が驚異的に伸びたとしても、自民黨が假に二倍の候補を立てれば議席數は激減する。その場合、「國民が自民黨の驕りを裁いた」などと、どうしてそのような事が言へようか。
そういう事を新聞は知つていながら、自民黨の「おごり」に「一撃を与えた國民の總意」(朝日、十月九日)だの、「國民はおごれる自民黨にはつきりと拒否反應を示した」(讀賣、十月九日)だのと書いたのであろうか。つまり、新聞は知能犯なのであろうか。そうではない。新聞は愚鈍なのである。ひたすら愚鈍なのである。愚鈍な國の愚鈍な新聞に、愚鈍な大學教授が馬鹿げた事を書き、愚鈍な國民もそれを怪しまない。やはり日本國はエレホン國で、今はまさしく「愚鈍の時代」なのである。
けれども、「いや、いや、待てよ・・・・・・」と私は密かに考へる時がある。こうして新聞と學者の愚鈍を嗤つて、おのれは利口だと思ひ込んでゐる、この私こそ途方も無い大馬鹿者なのではないか。これまで私が、他人の愚鈍を嗤つて一度も反論された事が無いのは、いずくんぞ知らん、他ならぬこの私が反論する甲斐も無い程の大たわけだからなのかも知れぬ。そういうふうに時々私は考へてみる。愚者はおのれを愚者とは思つていないという。私はそういう度し難い愚者なのか。「まさか、そんな筈は無い。桑原、桑原・・・・・・」と、けれどもやつぱり私は呟くのである。おのが愚鈍を承認したら、とても生きてはゆけないからである。そしてそれは私に限つた事ではない。 
第三章 「親韓派」知識人に問う

 

日本を愛する日本人として
「勿論、日本が將來、韓國を侵略しないとは斷言しませんよ。國家は戰爭をするものなのです、戰爭がやれないと人間は駄目になる」、私は韓國で『東亞日報』論説主幹の金聲翰氏にそう言つた事がある。金氏がその時何と答えたか、それは大方の讀者の想像を絶すると思ふ。につこり笑つて、彼はこう答えたのである、「そうですとも、仰有るとおりです。但し、日本が侵略するより先に韓國が日本を叩くかも知れませんがね」。
私は感動すると同時に慄然とした。日本では殆ど通じない話が韓國で通じる事を知つて感動し、一方、日韓戰爭が勃發したら、精鋭揃いの韓國軍に專守防衞が建前のわが自衞隊は齒が立つまいと、それを思つて慄然としたのである。
國家は戰爭をするものなのであり、日韓戰爭さえ起りうるのである。五十五年一月四日付『サンケイ新聞』の「正論」欄に猪木正道氏は、「八○年代には第三次世界大戰が破裂する公算はほとんど」無く、米ソの指導者が發狂でもせぬ限り熱核戰爭は囘避できるだらうと書いてゐたが、私は猪木氏の樂天的な占いを信じる氣には到底なれない。猪木氏は前年八月一日、同じ「正論」欄に、ソ連はアメリカとパリティ(均等性)を望んでゐると書き、それに對してアメリカ戰略國際研究センターのデニス・D・ドーリン氏が、「ソ連はパリティなど望んだ事は一度も無い。ソ連は優越性を求めてゐるのだ」と反論したが、私はドーリン氏を支持する。ソ連の指導者に限らず、人間はいつ何時「發狂」するか知れたものではないのだし、個人の他者に對すると同樣、國家もまた他國を凌ごうとして鎬を削るものだからである。日本は西歐先進國に追い付こうとしたのではない、追い付き追い越そうとしたのである。
ジョージ・オーウェルが言つてゐるように、ナショナリズムはなるほど強烈な感情だが、それがいかに壓倒的かを知り尽してゐる者だけが、それを理性的に制御しうるのであつて、それは丁度、おのがエゴイズムに手を燒く者が、時に激しく愛他的でありたいと願うのと一般である。そういう事が理解できぬナショナリストもインター・ナショナリストも、ともに私は信用する氣になれない。が、これは猪木氏の事ではないが、「親中派」にせよ「親ソ派」にせよ、「親米派」にせよ、「親韓派」にせよ、とかくわが國の知識人は、西義之氏の言葉を借りれば、おのれが親しみを感じてゐる他國の「欠陥を指摘されると、わがことを誹謗されたごとくに激昂し、一方、自國はこれ以上なく惡しざまに語る」のである。そういう手合は、間違い無く人間の姿をしていながら、人間というものが解つていない。そうではないか、他人の欠陥を指摘されてわが事のように激昂し、自分の事は惡しざまに言う、そこまで卑屈になれる人間がこの世に存在する譯が無いのである。それゆえ、金聲翰氏に對しても、私は日本を愛する日本人として振舞つた。が、金氏はそれを少しも不快に思はず、却つて胸襟を開いてくれたのであり、もとより「日韓、戰わば・・・・・・」などという物騷な話ばかりした譯ではないから、まことに樂しく有益な午後の一時を私は過したのであつた。
身近な友人を大切にしない者が遠い他人を愛せぬ如く、自國を大切にしない者に他國を愛せる道理は無い。日本人が韓國以上に日本を愛するのは當然過ぎるくらい當然の事である。それゆえ、韓國人に向つて日本の事を惡しざまに言う日本人を、心有る韓國人は決して信用しないであろう。民社黨の春日一幸氏に聞いた話だが、かつて春日氏は、外遊の途中日本に立寄つた韓國新民黨の李哲承氏に會い、その識見に惚れ込んだが、その折、春日氏が金大中氏を批判して「國外で自國の批判はすべきでない」と言つたところ、李氏は大きく頷き、實際、外遊中ただの一度も朴政權批判をやらなかつたという。また、春日氏自身、民社黨議員を率いて訪中した折、佐藤内閣を激しく批判する中國側と渡り合ひ、翌日の萬里長城見物に春日氏だけは出掛けようとしなかつた。それでよいのである。春日氏の事を、中國側は手強い相手だと思つたに相違無い。 
「親韓」とは何か
私は五十四年十月下旬、韓國政府の招待により韓國を訪れ、連日、韓國の知識人と意見の交換をしたが、韓國人に對して卑屈に振舞う事だけは一切しなかつた。また、そういう暇は無かつた。本氣になつて國家を語り人間を語れば、必ず相手が本氣で應じ、毎日それが樂しくて、私は屡々國籍を忘れたのである。例えば維新政友會の申相楚議員とは大いに語り、大いに意氣投合したが、私は今、申氏を敬愛する先輩のように思つていて、韓國人であるような氣がしない。
一見矛盾した事を言うようだが、國籍を忘れて語つたのだから、私は韓國人を前にして日本を批判した事もある。が、その代り私は韓國をも批判した。勿論、私の韓國批判は勢い控え目にならざるをえなかつたが、日本を批判する時は本氣で怒つた。怒つてゐる振りをして韓國人に媚びる氣なんぞさらに無かつた。それゆえ、日本に關する相手の意見に承服できない場合はそれをはつきり言い、徹底的に議論したのである。「お前は運がよかつたのだ、韓國人の反日感情は複雜で、そんな生易しいものではない」と言われればそれまでだが、私は十二日間のソウル滯在中、偏狭なナショナリズムを制御できる見事な知識人にばかり出會つた。そして眞劍勝負の國でそういう見事な知識人の存在を知り、一方、馴合ひ天國日本の親韓派知識人が、かつて韓國を訪れ、韓國の役人に、韓國の女を世話しろと言つたなどという話を聞かされると、私は日本人として、そういうでたらめな親韓派を憎んだのである。日本國内で馴合うのは致し方が無いし、女道樂も各人の勝手たるべく、何人妾を持とうとそれは當人の甲斐性次第だが、國外へまでぐうたらを輸出する事だけは許せない。日本人として許せない。けれども、私はここで親韓派の私行を發こうと思つてゐるのではない。それをやるなら、筒井康隆氏の『大いなる助走』の流儀でやるしかないであろう。私はただ、いかさま親韓派の文章のでたらめを批判しようと思つてゐるのである。そしてそれは何よりも日本のためを思つての事だが、それが日本のためになるのなら、韓國のためにならぬ筈は無い。
だが、親韓派、親韓派というが、「親韓」とは一體どういう事なのか。「親」とは兩親、肉親、親戚の事であり、轉じて身内であるかの如き親しみを感ずる事である。それゆえ、「親韓」とは一應韓國に對して親しみを感ずる事だと言へよう。が、韓國の何に親しみを感ずるのか。それは人により樣々であろう。
韓紙人形に親しみを感ずる者もあり、木工藝や民俗衣裳チマ・チョゴリに親しみを感ずる者もある。私も先日、韓國文化院でチマ・チョゴリの着付けを見學し、晴着の美女の歳拝の品位に感じ入つた。だが、周知の如く、韓國には今後の韓國はいかにあるべきかについて相容れぬ二つの考へ方がある。例えば金大中氏のように韓國の「民主囘復」こそ急務と信じてゐる者がおり、「金大中氏などには斷じて政權を渡せない」と言い切る者がゐる。「親韓」とは韓國に親しみを感ずる事だとして、では、かういふ對立する双方に等しく親しみを感ずる事は可能であろうか。そんな藝當がやれる筈は無い。なるほど高麗人參やチマ・チョゴリの話なら、車智2(撤の水偏)氏にも金載圭氏にも通じよう。が、眞劍勝負をしてゐる韓國人をして胸襟を開かしむるには、その種の「韓國文化」の話だけではどうにもならぬ。
例えば朴正煕大統領の場合、「外國の賓客との對話中、おおよそ三十パーセントが國防に關するものだつた」という。大統領にしてみれば、車智2(撒の水偏)派とも金載圭派ともつかぬチマ・チョゴリ派に對して肝胆を開く氣にはなれなかつたに相違無い。
だが、私が成敗しようと思つてゐるのはチマ・チョゴリ派ではない。また、金大中氏を支持する韓國人が確かに存在するのだから、例えば宇都宮徳馬氏も親韓派だらうが、私は宇都宮氏には全く興味が無い。『朝日ジャーナル』五十四年十一月九日號に宇都宮氏は、「今度の事件を契機として韓國の民主化が進むならば、現在の北の指導者の思考方法からいつて、緊張緩和は可能であり、相互軍縮によつて南北とも、經濟力をより多く國民生活の向上にまわすことさえ可能であると思ふ」と書いてゐたが、そういう樂天的な占いを私は信ずる氣にはなれないのである。
それに、今の私には、進歩派のでたらめ以上に保守派のぐうたらが腹立たしい。西義之氏は『變節の知識人』(PHP研究所)において戰後の進歩派知識人のでたらめぶりを丹念かつ辛辣に批判しており、私は色々と教へられたけれども、實は知識人のでたらめに保守革新の別は無いのである。 
朴大統領の弔合戰
ところで、保守派で親韓派の私が、宇都宮氏なんぞを叩く氣になれず、なぜ保守派の親韓派を成敗しなければならぬと考へるのか。それは敵を斬るよりも身方を斬るほうが困難だからであり、敵を斬るよりも身方を斬るほうが今や日本國のためになると信ずるからである。
とまれ、早速、成敗に取掛ろう。私が今囘斬つて捨てようと思ふのは、朝日新聞編集委員鈴木卓郎氏、及び京都産業大學教授小谷秀二郎氏である。
まず鈴木卓郎氏である。鈴木氏は月刊誌『ステーツマソ』に「新聞記者の社會診斷」と題する文章を連載中だが、五十四年十一月號に載つた「ソウル旅行から東京を見れば」と題する文章や、『諸君!』十二月號に寄せた「義士安重根は生きてゐる」という文章から察するに、朴大統領健在なりし頃の鈴木氏は朴體制支持の親韓派だつたのではないかと思はれる。『諸君!』に鈴木氏はこう書いてゐるからである。
今の日本人には韓國内のできごとを日本の國内問題のように錯覺してゐる人が全くい ないといえるだらうか。(中略)萬事が自由な東京の物差しで準戰時體制である韓國を 論評すると、マトはずれにとどまらず、お節介になつてしまう。
鈴木氏はさらに「日本が過去に韓國を侵略したからといつて韓國に《卑屈になることはないが、》大藏省と日銀が(安重根に暗殺された伊藤博文の)千圓紙幣の肖像畫に心の痛みを感じてモデル・チェンジに氣がつくことが、眞の日韓親善への出發ではないだらうか」と書いてゐる。何と愚にもつかぬ事を書く男かと思ふ。いつぞや志水速雄氏が、吾國では「尾籠な話だがと、一言斷ればかなり尾籠な話もできる」と斷つて少々尾籠な話を書いていて、私はなるほどと思ひ笑つたが、そういう人情の機微が鈴木氏にはさつぱり解らぬらしい。「卑屈になる事はないが」と斷つて卑屈な文章を書く事は許されるか。許されはしない。そして鈴木氏の文章は紛れもなく卑屈な文章なのである。韓國には「龜甲船」という煙草がある。確か二十本で三百ウォンである。龜甲船とは、昔、日本軍撃退に活躍した新鋭船の事である。が、煙草龜甲船の發賣中止を韓國政府が考へる筈は無く、またその必要も全く無い。なるほどソウルの町なかで「昔の朝鮮總督府はどこだ」などと口走るのは言語道斷の愚鈍だが、徒に過去の日韓併合の非を打ち贖罪を云々するのは無意味であり、日韓兩國にとつて何の得にもなりはしないのである。
それはさて措き、鈴木氏は『ステーツマン』十一月號にかういふ朴體制支持の文章を綴つたのである。
韓國は目下、北朝鮮とは休戰中の準戰時體制である(中略)。このような國で日本の ように野放しの自由を國民に許したならば、どうなることであろうか。(中略)いまの 韓國は北朝鮮の脅威に備えた準戰時體制をとつてゐるので、東京で通用するような完全 な自由が許されるはずがない。したがつて東京の物差しをもつて今日のソウルや朴體制 を論評することはマトはずれになつてしまう。
しかるに二カ月後、同じ『ステーツマン』の一月號に、鈴木氏は次のように書いたのである。
人間は神でも惡魔でもないし、その中間ぐらいのものであろうが、いつたん權力を握 つた人間は必ず、長い間には果てない權勢欲におぼれて腐敗することは政治學の古い法 則である。朴大統領の場合も、初心は崇高な民族の英雄にあこがれたのであろうが、權 力の座が長びくにつれて權勢を保持したい私心が露骨になつてきた。ついには他人に權 勢を譲渡することを考へず永久政權を策して、大統領の三選を禁止した憲法を改正(六 九年)、自己の選出を有利にせしめる維新憲法を制定(七二年)、大統領緊急措置一號 發令(改憲運動の禁止)など強權政治を確立した。(中略)朴大統領は自分の權力を防 衞するために秘密警察網をつくり、KCIA、大統領警護室、大統領秘書室の三者を相 互にけん制、競合させた。軍部は國家保安司令部と首都警備司令室に分割して、これら 五者の間には常に紛爭への火ダネを与えて一體化を防いだ。これらの秘密警察の策動に よつて多くの自由を國民から奪つたが、なんといつても最大の「罪」といわねば、なる まい。
《その「罪」の告發》は言論や協議では到底達せられない《深みにおちいり、》全く 皮肉なことに《朴體制の改良は》(中略)貴賓室で部下の發砲した拳銃しかなかつた。
この種の惡文に付合ひ丹念に批判するのは氣が腐るから、作文技術の劣惡については傍點(《》)を付した部分に限ろうと思ふが、それよりも、大方の讀者にとつては、この僅か二カ月の間隔をおいて書かれた二つの文章が、文體の下等こそ同樣ながら、同一人物の手になるものだという事が信じられぬくらいであろう。すなわち「東京の物差しをもつて朴體制を論評することはマトはずれ」だと書いた男が、二カ月後、朴大統領が「秘密警察の策動によつて多くの自由を國民から奪つた」のは最大の「罪」であると書き、朴體制を批判してゐるのである。人間にこれほど鮮かな轉向が可能だとは、讀者にとつて信じ難い事かも知れぬ。明らかに鈴木氏の轉向は朴大統領の死が契機だつたと思はれるが、「何たる變り身の早さか、許せぬ」などという事が私は言いたいのではない。愚者を相手に道義論は禁物であつて、論理の破綻を指摘してやればよいのである。但し、私が今この文章を綴つてゐるのは、尊敬する朴大統領の弔合戰の意味もあるから、鈴木、小谷兩氏を私は少々口汚く罵ろうと思つてゐる。朴正煕氏の無念を思ひ遣れば、愚者の論理の破綻を淡々と指摘するという譯にもゆかない。 
杜撰な論理と文章
まず、鈴木氏は朴大統領について、「次第に權力を保持したい私心が露骨になつてきた」と書いてゐるが、いかなる根拠あつてそう斷定しうるのか。いかにも大統領の三選を禁じた憲法の改正は六九年であり、維新憲法の制定は七二年である。だが、當時、韓國の内外でいかなる事態が起りつつあつたか、鈴木氏はそれを失念してゐるらしい。六八年一月二十一日には北朝鮮ゲリラによる青瓦臺襲撃事件があり、六九年にはニクソン大統領のいわゆるグアム・ドクトリン宣言があり、七〇年八月にはアグニュー副大統領が、駐韓米軍撤退を通告すべく訪韓、翌七一年にはアメリカ第七師團が韓國側との充分な協議無くして撤収、さらに七五年四月三十日にはサイゴンが陥落してゐるのである。またその頃、金日成主席は中國を訪問してゐるが、その折周恩來は、南進の決意を披瀝した金日成氏に對し「韓國へ攻め込むのは勝手だが、敗走して中國領土へ逃げ込む事は斷る」と言つたという。一方、韓國内では、第七師團撤収後も、金大中氏という「政敵」が、「國民の自由を最大限に保障し、貧富兩極化の特權經濟を棄てて、大衆經濟を具現して(中略)われわれの良心を保障する民主的内政改革を果敢に實行」すべきだとか、「韓國のように經濟的に惠まれない不幸な國の例が世界のどこにあるだらうか。(中略)私たちが一番大切にしてゐるのは、人間の生命だが、その生命を守る上でもつとも肝要なことは、國民が、どれほど平和を愛し、平和に徹するかということであろう」(『獨裁と私の鬪爭』光和堂)などと、空疎で無責任な戯言を書き綴つてゐた。そういう情勢にあつておのが「權勢を保持」しようとする事が、どうして「私心」ゆえの「權勢欲」なのか。そういう情勢にあつて鈴木氏の言う「多くの自由」を、金大中氏の言う「最大の自由」を、どうして韓國が享受できようか。朴大統領は「有備無患」を座右の銘にしてゐた。そしてアグニュー氏とは夕食も忘れて激論を交し、五十四年には民主囘復を要求するカーター氏を相手にして一歩も退かず、「國家の安泰こそ最大の人權擁護ではないか」と切り返し、カーター氏を壓倒したという。一方、米軍の完全撤退は不可避と見て取つた朴大統領は、自分の國は所詮自力で守るしかないと考へ、まずは内憂を絶つべく大統領緊急措置令第九號を公布したのである。當時、KCIAがアメリカの議會人を買収しようとしたのも、在韓米軍の撤退を少しでも遅らせ、自主防衞態勢を確立しようとする、いわば時間稼ぎのためでもあつた。買収と聞いただけで怖氣立つほど鈴木氏は純情なのか。さまで初々しい人物でなければ、大新聞の編集委員は勤まらないのか。奇怪千萬である。
人間は神と惡魔の「中間ぐらいのもの」ではない。そんな中途半端な存在ではない。人間は神たらんとして惡魔に堕するのである。「肉欲と慈愛とは兩立しない。オルガスムは聖者を狼に變える」とシオラソは言つてゐるが、鈴木氏に限らず、愚鈍な物書きにはそういう事がどうしても理解できぬと見える。これも鈴木氏に限つたことではないが、朴大統領の治世について必ずその功罪を論うのはそのせいであろう。が、神ならぬ人間に「罪」抜きの「功」なるものが可能かどうか、わが身を省みとくと考へてみるがよい。いたずらに罪を恐れるなら、人間、沈香も焚かず屁もひらずにゐるしかないが、そういう事勿れ主義者に、日本國の首相は知らず、大韓民國の大統領が勤まる筈は斷じて無いのである。
要するに、鈴木氏のような愚鈍な男が頭腦明晰な朴正煕氏の眉を讀み、「次第に權勢を保持したい私心が露骨になつてきた」などと書くのは、笑止千萬である。燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや、小人の器で天才を量るなと言いたい。そうではないか、滿足に胡麻も擂れぬ男に天才の心事を察しうる譯が無い。鈴木氏にはこんな具合にしか胡麻が擂れないのである。
本誌前囘の「新聞記者の社會診斷」では、「學歴社會を斬る」といつた視角から「學 歴なし、閨閥なし・・・・・・」といつた歿落者の家の少年秦野章が努力一筋で警視總 監、參院議員に大成したことを説いたが、朴大統領の場合も生い立ちを觀察すると學ぶ べきものが多い。
「本誌」とは『ステーツマン』の事である。
そして『ステーツマン』には毎號必ず秦野章氏が登場する。『ステーツマン』は秦野氏の息が掛つた雜誌ではないかと思はれる。それを鈴木氏が知らぬ筈は無い。これ以上は何も言わぬ、それだけ言へば讀者には充分理解できると思ふ。
次に愚鈍な人間はいかに劣惡な文章を綴るかについてである。六三頁に引用した文章の傍点を付した部分だが、まず「罪の告發」が「深みにおちい」るとはどういう事なのか。「告發」とは「犯罪事實を申告する事」、もしくは「罪人の非を鳴らす事」である。朴大統領の「罪」が「言論や協議では到達せられない深みにおちいつた」という事なら意味だけは何とか通じるような氣もするが、文の主語は「罪」ではなく「罪の告發」であり、とすれば「罪人の非を鳴らす事」が「深みにおちいつた」とはどういう事なのか、私には理解できない。いや、實を言へば理解できぬ事もない。が、それはおんぼろエンジンさながらの粗雜な頭腦というものは多分かういふぐあいに作動するのであろうと、勉めて好意的に解釋してやる場合に限られる。
また「朴體制の改良は・・・・・・拳銃しかなかつた」だが、これもまた杜撰な文章である。例えば「愚鈍な物書きの成敗は拳銃しかない」などと書く事は許されない。全體主義國であれ民主主義國であれ、そういう事は許されない。道義的に許されないのではなく、文章作法としてその種の迂闊は許されないのであつて、體制の如何を問わず「愚鈍な物書きの成敗には拳銃しかない」と書かなければならないのである。 
急遽バスを乘換えて
以上、道義論を持出さずして私は鈴木卓郎氏を斬つた。同じ流儀で次に小谷秀二郎氏を斬ろう。小谷氏は京都産業大學教授であり、『サンケイ新聞』の「正論」欄の執筆者であり、月刊誌『北朝鮮研究』の前編集長であり、『國防の論理』『日本・韓國・臺灣』『防衞力構想の批判』『朝鮮戰爭』『朝鮮半島の軍事學』などの著書があり、「朴大統領とは何囘か青瓦臺の大統領官邸でお目にかかつた」事があるという。その親韓派の小谷氏は、五十四年三月九日付の『サンケイ新聞』「正論」欄にこう書いた。
世界を賑わした中越戰爭は、韓國でもトップ・ニュースである。ところが北朝鮮では 、この戰爭が發生して以來今日に到る迄、そのニュースは一度も國内で流されていない 。完全な報道管制が實施されてゐる。一方が、いろいろな現象から判斷して、異常な國 家であることを問題にせず、韓國だけが反政府分子を抱えてゐる實情のもとで、更に民 主化を強化して統一のための對話にのぞんだとした場合、結果的には獨裁國家に民主主 義體制そのものすらも呑み込まれてしまう恐れがないわけではない。
しかるに小谷氏は、約八カ月後の十一月十四日、今度は小谷豪治郎と署名して、韓國の「國民感情」について次のように書いたのである(『正論』一月號)。
しかし、十八年はあまりにも長過ぎたというのも、同じ國民の感情である。強力な指 導者を今も必要としてゐることには變わりはない。しかし、獨裁制はもう必要はない、 というのが正直なところであろう。
さらにもう一つ引く。
午後十一時。ホテルの窓から見るソウルの街路には、一人の人影も見當たらない。( 中略)ソウルの眞夜中は外出禁止令によつて人影は完全に絶えるのだが、現在の状態は 、朴大統領時代とは何か違つてゐる。
それは本格的な政黨政治の幕開きが、國民の前に訪れてゐるという大きな期待であり 、そしてそれは國民生活の民主化につながるという希望である。
十一月十四日といえば、朴大統領が暗殺されてから十九日目である。大統領が健在であつた頃、『北朝鮮研究』の編集長として、「政治學者」として、北朝鮮の脅威を説いてゐた親韓派の小谷氏は、大統領の四十九日も濟まぬうちに、韓國における「民主囘復」は必至と考へ、急遽バスを乘換えた譯である。だが、その變り身の早さ、無節操を、道義的に難詰するには及ばない。鈴木卓郎氏の場合と同樣、愚鈍ゆえの矛盾を衝けば足りる。小谷氏は三月九日、「反政府分子を抱えてゐる」韓國だけが「更に民主化を強化」すれば、韓國の「民主主義體制」は北朝鮮という「獨裁國家に呑み込まれてしまう恐れがないわけではない」と書いたのだが、十一月十四日には、朴體制の「十八年はあまりにも長過ぎた」と韓國人は感じており、「獨裁制はもう必要ない、というのが正直なところであろう」と書いた。
小谷氏に尋ねたい。北朝鮮という「獨裁國家に呑み込まれてしまう恐れ」のある「民主主義體制」の韓國に獨裁者がゐる筈は無い。してみれば、韓國は三月九日には民主主義國だつたのだが、十一月十四日には「獨裁制はもう必要ない」と國民が感ずるような國家になつてゐた、という事になる。朴正煕大統領は三月九日から十月二十六日までの間に突如獨裁者に變貌したらしい。それは一體いつ頃の事なのか。また、もしも大統領が變貌したのでないとすると、三月九日には「更に民主化を強化」すれば韓國の「民主主義體制」は危殆に瀕する「恐れがないわけではな」かつたのに、十一月十四日には同じ朴體制を「もう必要ない」と國民が判斷するようになつたと小谷氏が判斷する根拠は何か。さらにまた、朴大統領が死んで「獨裁者はもう必要ない」という事になり、「本格的な政黨政治の幕開き」となり、それが「國民生活の民主化につながるという希望」を抱かせると、そのように判斷するに至つた根拠は何か。
小谷氏は私の問いに到底答えられまい。その場限りの愚者の判斷に根拠なんぞある譯が無い。今や韓國の民主化は不可避と見て取つて、バスに乘遅れまいと焦つた擧句、粗雜な思考の樂屋をさらけ出したまでの事である。愚者は往々にして鐵面皮だから、事によると小谷氏は、「自分は韓國人の感情をありのまま語つたのだ」などと弁解するかも知れぬ。それゆえ予め小谷氏の退路を斷つておくが、將來、日本國民が「北方領土奪還のため日本は再軍備をし、ソ連に宣戰を布告すべきである。弱腰外交の三十數年(或いは四十數年か)はあまりにも長過ぎた」と感じるようになつたとして、その場合、そういう偏狭なナショナリズムにもとづく「國民感情」をありのままに語るに過ぎない政治學者は政治學者のの名に値しないのである。 
無神經な文章
小谷氏はまた次のように書いてゐる。
京都で今囘の(朴大統領暗殺)事件を聞いたとき、驚きの餘り、思考が中斷して、そ れがなんとなく息苦しくて、一瞬もがいたように思つたのだが、こうしてお墓の前に頭 を垂れた瞬間、その時のことが信じられないような、平穏さに包まれてゐた。(中略) 花輪を捧げてお詣りできたことは、なんとなしに重荷をおろしたような感慨であつた。 (中略)このホッとした氣持ちを味わう人びとも決して少なくはないに違いない。何故 ならば、戒嚴令下であつてみれば、遠慮勝ちにしかものが言へないかもしれないが、彼 の人を絶對視しか許されなかつた雰囲氣は、もはや韓國には存在しないからである。
驚きのあまり「思考が中斷して、それがなんとなく息苦しくて、一瞬もがいたように思つた」などという拙劣な描寫は、文藝愛好クラブの高校生にも到底やれないのではないかと思はれる。そして、その程度の描寫力で、韓國國民の感情がありのまま語れる筈は無い。が、それはさて措き、朴大統領の墓前に花輪を捧げただけで「重荷をおろし」、「ホッとした氣持ちを味わ」つた小谷氏は、途端に「彼の人を絶對視しか許されなかつた雰囲氣」がもはや韓國に存在せず、それが「國民生活の民主化につながるという希望」を肯定できるようになつた譯であり、それなら朴大統領の訃音に接して小谷氏が韓國に駈けつけたのは一體全體何のためだつたのか。墓前に花輪を捧げるためではなくて、何かもつと樂しい旅行目的があり、墓參りは事のついでで上の空だつたのかも知れぬと、そうでも勘繰らぬ事には辻褄が合ぬほど小谷氏の文章は支離滅裂なのである。
そして、大統領の墓參りを濟ませ、大統領を「絶對視しか許されなかつた雰囲氣」がもはや存在せぬ事に「ホッとした氣持を味わ」つた小谷氏は、多分ホテルに戻つて、まず最初に民主囘復のバスに乘遅れてはならぬと考へ、ついで次の大統領は誰かと考へたのである。丁一權氏か、李厚洛氏か、朴鐘圭氏か。いや、この三人ではない、決つてゐる、金鍾泌氏である、そう小谷氏は考へた。そこで小谷氏は、金鍾泌共和黨總裁に胡麻を擂るべく『正論』に寄せた文章の三分の一を割いたのであつた。その一部を引用する。
新總裁・金鍾泌氏に對する人氣は、目下鰻のぼりにのぼつてゐる。それは大統領暗殺 事件のいわば布石となつた釜山の暴動ではJ・P(金鍾泌氏)を次の大統領に、という スローガンが學生たちの手で掲げられたことに明らかに示されてゐる。
朴大統領とは「何囘かお目にかかつてゐたし、特に北朝鮮に對する戰略構想については、個人的にいろいろと説明してもらうという光榮に浴し」た小谷氏が、早々、金鍾泌氏に胡麻を擂るとは少々不謹慎だが、くどいようだが愚者を道義的に批判するには及ばない。小谷氏はここでもまた愚鈍であるに過ぎないからだ。そうではないか、右に引用した件りを金鍾泌氏が讀んだならば、金氏は小谷氏の愚鈍に呆れ、顔を顰めるに相違無い。周知の如く、釜山の暴動は朴體制を覆そうとした連中、ないしは朴體制に不滿な連中が起したものである。そして、金鍾泌氏に限らず、老練な政治家ともなれば、多少は小手を翳して世間の動向も窺わねばならぬ。五十四年十一月、『東亞日報』がソウル大學社會科學研究所に依頼して行つた世論調査によれば、「經濟成長よりも民主化を支持する」との解答は七二・八パーセントに達したそうだが、その後、十二月十二日には、全斗煥國軍保安司令官の指揮によつて、鄭昇和戒嚴司令官が逮捕され、民主囘復を叫び結婚式を裝つて集會を開いた連中は一網打尽、尹3(水+普)善元大統領は軍法會議にかけられる事になつた。朴大統領が死んだ以上急速な民主囘復は必至であり、今や「彼の人を絶對視」する事なく朴大統領の功罪を論じなければならぬ、そう考へた手合は少々淺はかだつたという事になるが、金鍾泌氏ともあろう政治家がさまで淺はかである筈は無い。とすれば、釜山の學生たちが「J・Pを次の大統領に」と叫んだという話を持出されて金氏が喜ぶ筈が無い。まこと「愚鈍以外に罪惡は無い」のであり、愚者とはかくも無神經かつ不器用なのである。小谷氏は金氏を褒めちぎり、却つて金氏に迷惑を掛けたに過ぎない。鈴木卓郎氏の場合も同樣であつて、ここで讀者はすでに引いた秦野章禮讃の文章を思ひ出して貰いたい。「千慮の一得」というが、やはり愚者の千慮には一得すら無いのかも知れぬ。 
頼りにならない知識人
さて、これで朴正煕氏の弔合戰としての、無節操すなわち愚鈍な親韓派の成敗は濟んだ。鈴木、小谷兩氏は韓國における民主囘復は必至と早合點し、慌ててバスを乘換えた粗忽者なのである。『サンケイ新聞』によれば、韓國國防省のスポークスマンは、「全斗煥將軍は朴大統領暗殺事件捜査の最大の功勞者なのであり、將軍の予備役編入などという噂は事實無根だ」と言つたという。全斗煥將軍は親朴派だと言われてゐるが、鈴木、小谷兩氏は「全斗煥將軍が全軍を掌握したと思はれる」という『サンケイ』の記事を、どんな顔をして讀んだのであろうか。もしも將來韓國に鷹派の大統領が誕生し、弛んだ箍の締直しをやり始めたら、鈴木氏や小谷氏は韓國についてどんな事を書くのであろう。またぞろバスを乘換える積りであろうか。
けれども、バスを乘換えた粗忽者をそうして嗤つてゐるお前にしても、もしも全斗煥將軍が失脚したらどうなるか、お前もまた粗忽者だつたという事になるではないか、そう反駁する向きもあろう。實際、私は友人にそれを言われた事がある。十二月十二日の三日後、すなわち十二月十五日付の『サンケイ新聞』に私は、「全斗煥將軍が鷹派なら私は將軍を支持する」と書いたからである。私は勿論、全斗煥將軍とは面識が無い。韓國滯在中、テレビで記者會見中の將軍を見、歸國後、新聞で鄭昇和司令官逮捕の經緯を讀み、何と肚の坐つた軍人かと感心してゐるに過ぎない。それゆえ、將軍が朴路線を繼承する鷹派ならば、將軍の失脚を私が望む筈は無いが、萬一そういう事になつても、朴路線そのものの正しさを信ずる私の考へはいささかも揺らぎはしない。朴大統領の私生活についても、私は有る事無い事、色々と聞いてゐるが、何を聞かされようと、そういう類の事で私は衝撃を受けはしない。『世界』五十五年二月號のT・K生なる人物の「反動の嵐吹けども」という記事には「朴正煕氏の月四、五囘に及んだ歌手やタレントの女優とのスキャンダルは、この憂うつな季節の大きな話題である」と書かれており、それを讀んで私は笑つた。笑わざるを得ないではないか、朴大統領にも生殖器があつたと主張して喜ぶかういふ手合にも、間違い無く、生殖器はあるのである。英雄豪傑にも生殖器があつたという事實を發見して喜ぶのは愚劣な事で、進歩派の日本史學者が戰後にやつたのは、そういう無駄事、要らざるお節介であつた。自分と同樣に生殖器がありながら、朴大統領にはあれほどの事がやれたのだと、なぜ人々はそういうふうに考へないのであろう。
だが、すでに述べた如く、私は日本人であり、韓國が直面してゐる試練以上に日本の知識人の生態のほうが氣掛りなのである。太平洋戰爭末期、日本の敗色が濃厚となつても、依然として徹底抗戰を叫びつづけた高村光太郎は、「日本が敗けたら引込みがつかなくなるぞ、程々にしておけ」と忠告されたという。これは「早々、全斗煥將軍を支持すると危いぞ」という私の友人の忠告と同質だが、私にとつてはそういう忠告をする知識人の生態のほうが遙かに興味深い。朴大統領の死後、『サンケイ新聞』紙上で衞藤藩吉氏、鹿内信隆氏、『文藝春秋』で福田恆存氏、及び『言論人』で大石義雄氏が、それぞれ朴體制批判に興ずる風潮に冷水をぶつかけてゐたが、私の知る限り、朴體制支持の親韓派の發言はそれくらいのものであつて、朴大統領健在なりし頃あちこちでお見受けした親朴派知識人は、十月二十七日以後、忽然として行方不明になつたのではないか、私にはどうしてもそうとしか思えないからである。そして、愚鈍な粗忽者よりも、この行方不明の親韓派の生態を分析する事のほうが大事かも知れない。戰前、特高に逮捕され、ぬらりくらりと訊問を躱し、「貴樣は得體の知れぬ奴だ、右か左かはつきりしろ」と刑事に言われ、釋放されて後は「いかなる主義主張にも同調しなかつた」という大宅壮一は、日本人特有の處世術についてこう書いてゐる。
私にいわせると、日本人というのは、天孫民族でなくて、天候觀測民族である。とい うのは、大昔から日本人の生活は、主に農業と漁業に依存してゐた。どつちも天候に左 右されやすい。
おまけに日本は、地震國であり、臺風圈内でもある。臺風は毎年ほとんど定期便のよ うにやつてくるが、地震はいつくるかわからない。(中略)恐らくわれわれの先祖は、 毎朝目をさますと、まず空を仰いで、その日の天候をよく見きわめてから、仕事にとり かかつたことであろう。(中略)むかしは主に大陸から朝鮮半島を通つてきた文化的な 臺風が、明治以後はたいていヨーロッパからきた。最近はアメリカやソ連や新しい中國 の方からやつてくる。その臺風の性格、進路、強度を人より早く、正確に知るというこ とが、大多數の日本人にとつて、最大の關心事となつてゐるのだ。そこで、毎朝毎夕、 空を仰ぎ、小手をかざして天候をうかがうかわりに新聞に目を通し、ラジオに耳を傾け てゐるのだともいえる。
これこそ日本人特有の處世術である、それは「無思想人」の視點である、そう大宅は言つてゐる。なるほど「無思想人」の「天候觀測法」とは言い得て妙であり、日本人は常に「小手をかざして天候をうかがう」のである。その癖、かつて曽野綾子女史が言つたように、日本人は笊の上の小豆で、笊を「一寸左へ傾ければ一斉に左へ、右へ傾ければ一斉に右へ寄る」。天下の形勢が定かでないうちは小手を翳してゐるが、大勢が決定的になれば、どちらの方角へも吾勝ちに突走る。大勢に抗して不撓の信念を貫くなどという事は、大方の日本人の最も不得意とするところなのである。そしてそれは今に始めぬ事で、敗戰と同時に人々は先を爭い反省競爭に專念したし、極東軍事裁判においてA級戰犯に判決が下つた時も、インドのパール判事やオランダのローリングス判事の少數意見を知りながら、大方の日本人は「敗けたのだから仕方が無い」と考へ諦めたのであつた。
そして今、韓國の情勢が流動的であるかに見える今、例えば「早々、全斗煥將軍支持を打出すのはまずい」と親韓派は考へ、小手を翳して遙かソウルの雲行きを窺つてゐるのであり、それは彼等が「天候觀測法」の達人だからに他なるまい。なるほど「“現實”の進展」に對應して身を處するこの「天候觀測法」にもそれなりの利點はあろう。が、北朝鮮が朝鮮半島を武力統一し、釜山に赤旗が立つという現實に直面したら、そういう「現實の進展」に親韓派の知識人は一體どう對處する積りなのであろうか。
常に、「天候を觀測」し、常に「既成事實」に屈服して涼しい顔をしていられるのは、保守革新を問わぬ日本の知識人の特色ではないかと私は思つてゐる。つまり、日本の知識人は「無思想」なのではないか。これまで朴路線を支持してゐた親韓派が、韓國を取卷く國際情勢の嚴しさは少しも變つていないにも拘らず、朴大統領が死んだ以上韓國における民主囘復は必至と考へたり、小手を翳してソウルの雲行きを窺い、早々全斗煥氏を支持するのはまずいと考へたりするのは、彼等が大宅壮一の言う「無思想人」だからではあるまいか。だが、朴體制強固なりし頃はその現實に屈服して朴體制を支持したものの、目下韓國の情勢は流動的だからとてソウルの雲行きを窺つてゐるかつての親朴派は、萬一、釜山に赤旗が立つという「既成事實」に直面したら、反共の看板を下すばかりでなく朝鮮民主主義人民共和國との平和共存を聲高に叫ぶのであろうか。それは大いにありうる事だと私は思ふ。
五十四年三月、中國がヴェトナムに攻め込んだ際、社會主義國は戰爭をしないと信じ切つてゐた進歩派の知識人は激しい衝撃を受け、大いに狼狽した。けれども、それを笑止千萬だと嘲笑つた保守派の知識人にしても、福岡ならぬ釜山に赤旗が立つただけで、あつさり簡單に「反共の信念」とやらを擲ち、またぞろ反省競爭に現を抜かすのではあるまいか。愚鈍に保守革新の別は無い。例えば菊池昌典氏の純情を保守派が嗤つたのは、實際は「猿の尻嗤い」だつたのではないか。友邦韓國の前途を案じつつも、私はその事が何より氣掛りなのである。
最後に韓國に對しても私は苦言を呈しておきたい。それは、今日までいい加減な親韓派が罷り通つてゐたについては、韓國側にも責任があるという事である。かつて私は、歴代の自民黨政府のやり方を批判して「利をもつて釣上げた支持者は理に服してはいない」と書いた事がある。利とは必ずしも金錢を意味しないが、同じ事が、日本の親韓派に對する韓國側のやり方についても言へると思ふ。私は、『Voice』五十五年四月號でも、親朴派と言われる全斗煥將軍のために弁じたが、そういう事をやつた以上、反朴派が大統領になつたら、私は韓國政府にとつて好ましからざる人物となろう。私にとつて親韓は商賣ではないから、それは一向に平氣である。そして釜山に赤旗が立つたら、私はもはや親韓派ではありえない。が、朴正煕氏が死んだとたんに朴體制を批判したりする親韓派の中には、韓國と利で結び付いてゐる手合もおり、そういう手合にこれまで韓國側が頗る甘かつた事は事實である。私自身、不愉快な話を色々と聞いてゐる。
眞の親韓派は利をもつて釣上げる譯にはゆかない。眞の親韓派が韓國を大事に思ふのは、私利私欲とは無關係の筈である。とまれ、韓國側は今囘の不幸な事件を契機として、日本の保守派のすべてが眞の親韓派ではないという事を知り、眞の親韓派と利によつてではなく、理によつて繋がる事を眞劍に考へて貰いたいと思ふ。 
第四章 朴大統領はなぜ殺されたか

 

ニューズウィークは本氣なのか
米韓安保協議會に出席すべくソウルを訪れたブラウン國防長官は、五十四年十月十八日、朴正煕大統領と會見、韓國における人權抑壓の緩和を求めるカーター大統領の親書を手渡したが、憤慨した朴大統領は「内政干渉はやめて貰いたい」と言い、兩者は激しく口論、「互いに大聲を張り上げる程であつた」という。一國の大統領に對してかういふ事は言いたくないが、道義外交の元締カーター氏の「正義病」は病膏肓、朴氏はさぞ苛立つた事であろう。しかも正義病患者はカーター氏だけではなかつたのである。それより先、十月四日、アメリカ國務省のスポークスマンは、「アメリカは韓國國會が金泳三氏を追放した事を深く遺憾とする。それは民主政治の原則に反する」との非難聲明を出し、グライスティーン駐韓大使に一時歸國を命じたのであり、一方、意を強くした金泳三氏は、十月十五日、共同通信の記者にこう語つたのであつた。
「朴大統領は、野黨のすべての國會議員が現體制を批判して辭表を出した以上、憲法 を改正し、國民の直接投票による大統領選擧を實施すべきである。朴大統領がそれを拒 むなら、韓國は國際世論から孤立し、アメリカに見放され、國家の安全が危うくなる。 何より朴大統領が不幸な事態に遭遇するであろう」
周知の如く、朴大統領が兇彈に斃れたのは十月二十六日であつて、つまり、金泳三氏の十一日前の予告は的中した事になる。勿論「アメリカのCIAが事件の黒幕であつた」などという事を私は言いたいのではない。そういう事は私には解らぬ。だが、確實に言へるのは、アメリカの正義病患者たちが韓國における反朴勢力を勇氣づけたという事であつて、朴正煕氏はアメリカの正義病に手を燒き、アメリカの愚鈍に止めを刺されたのである。私は朴正煕氏を尊敬してゐる。それゆえ、朴氏の弔合戰をやらねばならぬと思ひ、最初は日本の新聞を斬る予定であつた。朴大統領暗殺を報じて、例えば朝日新聞は「獨裁十八年、流血の政變」と書き、サンケイは「銃彈に倒れた強權十九年、獨裁に人心うむ」と書き、毎日は「力で政權とり、隱された力で崩壞の、歴史の皮肉」と書いた。さらにまた朝日は、十二月二十三日、「獨裁者、ああ受難の年」と題し、何と「暗黒の大陸」に君臨した「三人の暴れん坊」、すなわちウガンダのアミン氏、中央アフリカのボカサ氏、赤道ギニアのマシアス氏と、朴大統領とを同列に扱つたのであつて、韓國の政變を論じて日本の新聞が口走つたこの種の暴論愚論の數々を、私は徹底的に批判しようと思つてゐたのである。だが、とどのつまり、日本の新聞の愚鈍はアメリカの愚鈍の反映に過ぎない。それなら日本の新聞を叩くのは迂遠の策であつて、アメリカの愚鈍をこそ叩かねばならぬ、私はそう考へるに至つたのである。
そういう譯だから日本の新聞を斬つても仕樣が無い、むしろアメリカの愚鈍を批判せね、はならぬ、取分けニューズウィークを成敗せねばならぬ、私は福田恆存氏にそう言つた。すると福田氏は殘念そうに答えた、「ああ、そいつは僕にやらせて欲しかつたなあ」。それは當然の事で、福田氏は『文藝春秋』一月號でニューズウィークの記事に觸れ、ニューズウィークの朴正煕氏に對する「惡意の誹謗」を批判し、「この十八年間、サン・グラスを懸けた小柄の峻嚴な男が、この國を恰も自分の私領の如く支配して來た」とニューズウィークが書いてゐるのは事實に反する、「朴正煕氏がサングラスを懸けてゐたのはクーデタ前のことで、大統領になつて以來、この十八年間は全く用ゐない」と書いたのだが、それを讀んだニューズウィーク東京支局から福田氏に電話が掛つて來て、「そんな事をわがニューズウィークは書いていない」と抗議して來たのである。だが、それは實は東京支局の失態であり、支局長のクリシャー氏は本國版しか讀んでおらず、十一月五日付の國際版に「サングラスを懸けた小柄の峻嚴な男」云々のくだりがある事を知らず、それを福田氏に指摘され、東京支局は謝つたという。
してみれば福田氏がニューズウィークのでたらめを成敗しようと思ひ立つたのは無理からぬ事である。だが、私としても朴正煕氏の弔合戰はどうしてもやりたかつた。福田氏にだつてそれは譲りたくなかつたのである。
以上少しく私事に亙つたが、それもニューズウィークが本氣で韓國について考へてゐるかどうかが甚だ疑わしいと、何よりその事が言いたかつたからである。私は正義病患者を一概に否定しない。けれども、本氣で物を考へようとせぬ知的怠惰ゆえの正義感ほど始末の惡いものは無い。そしてニューズウィークの韓國報道はまことに淺薄、かつ無責任であり、それは東京支局長クリシャー氏が自分の雜誌の國際版にも目を通していないという事實が雄弁に物語つてゐる。一事が萬事である。私はニューズウィークのこの種のでたらめを許す譯にはゆかない。 
アメリカが朴大統領を殺した
だが、こユーズウィークを斬る前に、指摘しておきたい事がある。それは、正義病患者アメリカの要らざるお節介によつて勇氣づけられたのは韓國の反體制派だけではない、という事實である。實際に朴正煕氏を暗殺したのは金載圭KCIA部長だが、金部長が軍の支持無しに朴氏を殺す事はありえず、軍の内部にも反朴勢力が存在してゐた事は確實であり、これら體制内の反朴勢力は度重なるアメリカの内政干渉によつて徐々に形成されたものに相違無い。
『世界』五十五年二月號にT・K生なる人物が、金載圭部長の軍事法廷における「發言の一部を再生」してゐる。それによれば金氏はこう發言したという。
(朴政權は)對内的には緊急措置で全くでたらめではなかつた。口を開けば捕えられ るといえるほどであつた。對米關係も傷だらけであつた。アメリカとの關係は、國防、 政治、經濟あらゆる面において不可分のものではないか。そのアメリカが民主化の道を すすめ、人權問題について忠告すると、内政干渉だという。アメリカはわが國の解放と 獨立を助け、六・二五(朝鮮戰爭)にはいつしょに血を流してくれた血盟の友邦である 。そのような忠告は、友情ある助言である。(中略)私は、朴大統領をそのままにして は、打開すべき道がないと思つた。
T・K氏は「國際世論が金載圭氏の命を救わねばならない」との友人の言葉を引いてゐるくらいであり、右に引いた金載圭氏の證言も事實かどうかは頗る疑わしい。が、右のとおり金氏が語つたとしても、それは少しも怪しむに足りぬ。暗殺直後の閣議の席上「俺にはアメリカが付いてゐる」と口走つたといわれる金載圭氏は「アメリカとの關係はあらゆる面において不可分のもの」であり、アメリカとうまくやれぬ「朴大統領をそのままにしては、打開すべき道がない」と思つたに相違無い。      勿論、金載圭氏に言われるまでもなく、目下のところ韓國は、日本と同樣、自力だけで國を守れる状態ではない。それゆえ、アメリカ軍の完全撤退は不可避と見た朴大統領は、その對策を眞劍に講じつつあつたのだが、それがまずアメリカには氣に入らない。例えばグライスティーン駐韓大使は九月十二日、「韓國の防衞力の水準はアメリカの核の傘による保障と第七艦隊の役割を必要とすべきだ」と語つたのである。グライスティーン大使はまた、朴政權は「アメリカの意圖について根拠の無い疑念を抱きがちである」と發言、それを傳え聞いた朴大統領は激怒したという。私は大統領に同情する。實際、大國アメリカの身勝手に大統領はさぞ手を燒いた事であろう。
一九六九年ニクソン大統領はグアム・ドクトリンを宣言、翌七〇年アグニュー副大統領が訪韓して駐韓米軍の一部撤収を一方的に通告、七五年四月三十日にはサイゴンが陥落、アメリカは南ヴェトナムを見捨てたのであり、大統領緊急措置九號が發令されたのは同年五月の事であつた。朴大統領ならずとも、そういう状況下にあつては、内憂を絶つべく反政府運動を規制する一方、アメリカ軍の完全撤収に備えて自主防衞態勢を確立しようとするのは當然の事だが、それをやれば軍事費の支出は増大し、經濟成長は鈍り、オイル・ショックなどの外的要因も加わつてインフレを招き、民衆の不滿は募り、それは緊急措置九號などにより抑え込まなければならない。
しかるに、身勝手なアメリカは「韓國の自主防衞能力は、その目覺ましい經濟成長ゆゑに増大したのであり、もはや在韓米軍の駐留は不要となつた」として自主防衞を肯定するかの如き言辭を弄しながら、一方では朴政權の抑壓政策を激しく非難しつづけたのである。そういう大國のむら氣と無理解に朴大統領はさぞ腹立たしい思ひをした事であろう。しかも隣國日本は平和憲法を護符として稼ぎ捲るばかり、韓國の苦惱なんぞ、まるで察しようとはしなかつた。五十四年九月、青瓦臺を訪れた福田恆存氏に朴大統領はこう言つたという。
「五年か七年したら、日本と韓國は安全保障条約が結べる時が來る、どうしてもさう しなければいけない、兩國が手を結んでアメリカを牽き付けておかなければなりません、一つ一つがばらばらでアメリカと繋つてゐるだけでは危い」。
その時、福田氏が何と答え、朴大統領がどういう反應を示したか。直接、福田氏の文章を引く事にしよう。
私が大統領の言葉に同感しながらも、「しかし、今の日本には韓國の脚を引つ張りこ そすれ、閣下の御期待に應へるやうに努力しようとする政治家が果してゐるでせうか」と答へた時、沈默のまま、じつと私の目を見詰めてゐた大統領の表情は沈鬱そのものだつた。
そうして孤立無援の自國を思ひ、朴正煕氏は屡々沈鬱な表情となつたに相違無い。他國の元首の事ながら、その胸中を思ひ遣る時、私は深い同情を禁じえないのである。アメリカ政府とアメリカのマス・メディアの、韓國に對する無理解と幼稚な正義感が、朴大統領を殺したのだと、私にはそうとしか思えない。 
おめでたき正義漢
そういう譯だから、朴正煕氏の弔合戰として、私はニューズウィークを斬る事にする。まず、ニューズウィーク昭和五十四年十一月五日號はこう書いた。
朴の人權抑壓に加え、最近數週間は經濟成長の鈍化が市民の不滿を募らせており、そ れは六十六名の野黨全議員の辭職、及び朴を釜山と馬山に戒嚴令を布かざるをえぬ羽目 に追い遣つた學生の暴動となつて一層明確な形をとるに至つた。(中略)「吾々が望む のは、吾々がすでに達成した經濟發展に見合う政治的自由だけなのだ」と欲求不滿に陥 つてゐる韓國知識人の一人は語つた。
この傳でニューズウィークは、常に韓國の反體制に嚴しく、朴政權にも言い分はあるかも知れぬという事を全く考へてみようともしない。右の文章の筆者にしても、「朴の人權抑壓」と「經濟成長の鈍化」が野黨議員總辭職と連動してゐたかの如く書いてゐるが、これは事實に反する。野黨議員の辭職は新民黨黨首金泳三氏の除名に抗議しての事である。 だが、金泳三氏はなぜ除名されたのか。實は除名されるまでに金氏は數々の愚行を演じたのである。まず、前囘の新民黨總裁選擧において、金氏は對立候補の李哲承氏を破つて總裁に就任したのだが、その際不正を行つたとして李哲承派に訴えられ、裁判の結果有罪となり、總裁の職を解かれるという事があつた。また、話が少しく前後するが、總裁就任後の金泳三氏は、新民黨役員の何と九割以上を自分の派閥で固めたのであつて、「日本の大平正芳氏が、總裁になつたからとて、自民黨役員の九割を自派で固めたら一體どういう事になるか。金泳三氏は口を開けば民主主義を云々するが、彼は黨内民主主義さえ守つていないのだ」と、これは李哲承氏から私が直に聞いた事である。
そればかりではない、金泳三氏はカーター大統領に單獨會見を求めて拒否され、白斗鎮國會議長に斡旋を依頼して、國會主催のリセプションの席上カーター氏に會えたに過ぎないのに、それをさも政治的な意味を持つ單獨會見であつたかの如く宣傳し、アメリカ大使館に抗議されるなどという失態をやらかしてゐるが、何よりも金氏が評判を落し、除名される直接の原因となつたのは、ニューヨーク・タイムズ東京特派員へンリー・スコット・ストーク記者のインタヴィユーを受けた際に吐いた暴論だつたのである。
すなわち金氏は、ストーク記者にこう語つたのであつた。
朴大統領に公的かつ直接的な壓力をかける事によつてのみ、アメリカは朴氏をコント ロールできるのだと、私はよくアメリカの高官に言うのだが、そういう場合彼等は常に 「韓國の内政には干渉できない」と答える。だが、それはおかしな理窟だ。アメリカは 吾國を守るべく三萬の地上軍を駐留させてゐるではないか。それは内政干渉ではないの か。
私はニューズウィークを批判しようと思つてゐるのであり、金泳三氏の「おかしな理窟」を嗤つてゐる暇は無いが、この「アメリカに對して内政干渉を要請するという事大主義的妄動」は、多數の韓國民の神經を逆撫でしたのであつて、反體制に同情的であるといわれる東亞日報までが金氏を批判する論説を載せたほどであつた。それに金氏の「妄動」は韓國の刑法に抵觸する行爲だつたのである。韓國の刑法第百四条その二にはこう記されてある。
第一項 内國人が國外において大韓民國または憲法によつて設置された國家機關を侮 辱または誹謗するか、それに關する事實を歪曲または虚僞事實を流布するか、その他の 方法にて大韓民國の安全、利益または威信を害するか、害する恐れがあるような行爲を なしたる時は、七年以下の懲役もしくは禁固に處す。
第二項 内國人が外國人もしくは外國團體等を利用して國内で前項の行爲をなしたる 時も、前項の刑を科す。
第三項 前二項の場合においては十年以下の資格停止を併科する事ができる。
つまり、アメリカに對して朴正煕大統領をコントロールせよと要望する事は、「外國人もしくは外國團體等を利用して、國内で、憲法によつて設置された國家機關」たる大統領を「侮辱または誹謗する」行爲に他ならず、してみれば金泳三氏は「七年以下の懲役もしくは禁固」、及び「十年以下の資格停止」の刑を受けても仕方が無いのであり、韓國國會が金氏の議員としての「資格停止」を決議したのも當然の事であつた。
韓國の刑法にそういう規定がある事をソウルに支局を置いていないニューズウィークが知つてゐたとは思はれぬ。知つてゐたなら、すでに引用したような、野黨議員の總辭職を「朴の人權抑壓」と「經濟成長の鈍化」に結びつけるといつた思考の短絡は到底不可能だつた筈である。言うまでもない事だが、充分な調査をせずに斷定する事はジャーナリストたる者の何より慎まねばならぬ行爲である。六年前、ハーバード大學のコーエン教授は「朴政權下の韓國は地獄であつて、毎日何百人もの人間が殺され、何百人もがリンチ同然の軍事法廷に送られてゐる」と發言したが、アメリカの知識人がこれほどの暴論を吐いて憚らぬのは、アメリカのマス・メディアが流すでたらめな韓國情報に惑わされての事ではないかと思ふ。
いや、事によるとニューズウィークは、「朴政權の人權抑壓は許し難く、またそれは自明の事で、今更調査の必要も無い」と考へてゐるのかも知れぬ。冬の鯔は眼にも脂肪がのつて物がよく見えなくなるという。ニューズウィークも冬の鯔で、脂肪ならぬ正義感ゆゑに盲い、眞實が見えないという慘めな状態にあるのかも知れぬ。例えば、十一月十二日號のニューズウィークはこう書いたのである。
公表された寫眞は、通常の刑事犯のように手錠を掛けられ、先週の訊問中に受けた打 撲のために顔面の腫れ上つた金載圭が寫つてゐた。
しかるに、同じ記事の中にはかういふ一節もあるのである。
(逮捕されて)車の中へ押込まれた時、金載圭は隱してあつた拳銃を取ろうとして空 手チョップを見舞われたという。(中略)これは金の顔面の打撲傷を説明するために流 布されたお話だと、解釋してゐる者が多い。
この二つの文章は明らかに矛盾してゐる。つまり前の文章で「金載圭の打撲傷は訊問の際に受けたものだ」と斷定しておきながら、後の文章では「反抗しようとして空手チョップを受けたというが信じない者が多い」と言つてゐるのである。勿論、ニューズウィークにも空手チョップ云々のお話を信じない自由はある。けれども、その代り、打撲傷は訊問中に受けたものだと斷定する自由も無い筈である。
だが、このニューズウィークの矛盾を、捜査本部の歿義道を印象づけようがための意識的犯罪だと考へるのは買被りであつて、金載圭氏の顔面に打撲傷があつた事自體が、ニューズウィークにとつては許せないのである。「それ見たか、金載圭は拷問を受けたではないか、許せぬ」ニューズウィークはそう考へ熱り立つたのである。何ともおめでたい正義漢だが、この手の正義漢が寄つて集つて朴大統領を斃したのである。
だが、當然の事ながら、ニューズウィークには朴暗殺に一役買つたなどという意識は無い。正義感ゆゑに盲いて愚鈍だからである。愚鈍とはつまり知的怠惰という事で、矛盾を矛盾と感じない無神經に他ならない。例えばニューズウィーク十二月十日號は、サッカー試合のキックオフで球を蹴つてゐる崔圭夏大統領の寫眞に、「彼の重い靴は反體制派を蹴るためのものでもあつたのか」というキャプションを付け、本文にはこう書いてゐる。
「一つの小さな孔も時に堤防全部の決壞に繋がるのである」と民主共和黨總裁金鍾必 は言つた。だが反體制派は、河は時に氾濫するものだと言う。「もはや誰も政府を信用 していない」と尹3(水+普)善大統領は言つてゐる、「國中にデモが擴がるだらう」 。
學生たちが長い冬休みに入つてゐるため激しい反抗は春まで起らないかも知れない。 が、春になつても、韓國の新しい指導部が時勢に從おうとせぬ場合、朴後の政府の存立 はますます困難になるかも知れない。
崔圭夏大統領について、「反體制派を蹴る重い靴も履いてゐたのか」と書いてゐるくらいだから、ニューズウィークは反體制派の反抗には同情的なので、「河は時に氾濫するものだ」と反體制派の言い草を肯定し、休暇明けの學生たちの活躍に期待してゐるのだと、そう勘繰られても仕方のない、これは書き振りである。しかるに、これより先、十一月五日號のニューズウィークはこんなふうに書いたのである。
イランにおけるシャーの歿落の際と同樣、アメリカは今囘、當然の事ながら、重要な 同盟國の元首の死に驚いた。が、韓國の場合、アメリカは、有力な後繼者と目される人 物や野黨の有力者と比較的よい接觸を保つてゐる。かてて加えて、好戰的な北朝鮮の繼 續的脅威ゆゑに、韓國のいかなる新政府も概ね朴路線を繼承するであろうと思はれてい た。が、政治的不安定は殆どいかなる事態をも招來するのであり、それゆゑにこそアメ リカは朴正熙に取つて代る人物を捜し求めた韓國を不安げに見守つたのであつた。
いかにも、時に河は氾濫する。が、この場合氾濫とは極度の政治的不安定を意味しよう。そういう甚だもつて穏やかならざる反體制の言い草を引き、少なくともそれを批判しないニューズウィークが韓國においても「政治的不安定は殆どいかなる事態をも招來する」のだから、アメリカは「不安げに見守つた」と言つてゐるのである。これは勿論、抑壓政策の繼續を危惧しての事であろうが、抑壓だけが政治的不安定をもたらすのではない。弱い政府の譲歩、すなわち急激な民主囘復もまた極度の不安定を招來しよう。そしてまた、「河は時に氾濫する」と言い放つ樣な手合に、どうして政治的安定をもたらす器量が期待できようか。このくだりに限らず、ニューズウィークの文章には矛盾葛藤に苦しむ韓國への同情が欠けてゐる。同情を欠きながら「不安げに見守」つてゐるかの如く言う。その自家撞着のいい加減は許し難い。 
民主主義は絶對善にあらず
無論、自家撞着は人の常である。相剋する肉體と精神を持つ以上、誰しもそれを免れはしない。が、それは飽くまでも意識されたものでなければならぬ。意識された自家撞着だけがディアレクティックたりうるのである。が、ニューズウィークの文章に、ディアレクティックなどありはせぬ。ニューズウィーク十一月五日號は「社會の健全は高層アパートの數によつて計らるべきではなく、同情と博愛によつて計られねばならぬ」との朴大統領の言葉を引き、「朴もまた同じ基準によつて計られねばならぬと、朴を批判する人々は考へてゐる」などと、したり顔に書いてゐるが、よき政治のためには時には好ましからざる手段も許されるし、また已むを得ず人道的ならざる手段を時折用いながらも、なお自身は高潔たらんと努めねばならぬ政治家の宿命を、ニューズウィークは全く理解していない。愚鈍なる正義病患者たるゆゑんである。
そして、もとより意識せぬ自家撞着とは怠惰という事に他ならない。そういう知的怠惰は法に關するニューズウィークの淺薄な意見が例證するところであり、例えばニューズウィークは、戒嚴令すなわちmartial lawもlawであり、維新憲法もまた法であるという事を忘れてゐるのではないかと思はれる。ニューズウィークはこう書いてゐるのである。
暗殺された大統領の一カ月に亙る服喪期間が過ぎると、政府は(反體制派の)取締り をやり始めた。今なお戒嚴令が布かれており、崔圭夏大統領代行は、反體制鎮壓のため 、そしてまたおのが政權の延命のため、非常大權を行使してゐるのだと、批判者たちは 言つてゐる。崔は今週、統一主體國民會議の投票によつて正式の大統領に就任するであ ろうが、この統一主體國民會議は、通常、朴の大統領としての地位を強固にするだけの 、忠順な選擧機關だつたのである。(中略)韓國の高官たちは(反體制派の)不滿は不 當だと主張してゐる。「民主囘復と戒嚴令の違犯とは別である」と、民主共和黨の總裁 であり、大統領たらんとの野心の持主である金鍾泌は言つた。
要するにニューズウィークは、アメリカ政府と同樣、戒嚴令や維新憲法が氣に食わない。それは市民の自由を抑壓し、獨裁を正當化する惡法であり、反體制派の憤激も當然だと考へてゐるらしい。そして「惡法」も法無きにまさるという事が、ニューズウィークには理解できないのであり、それは大方のアメリカ人と同樣、民主主義を絶對善と信じて疑わぬからである。君主制や貴族制を體驗した事が無く、舊體制との葛藤も知らず、國内に今なおイデオロギー的對立の存しないアメリカは、人間が大昔から、民主制と獨裁制の是非について激しい論爭を行い、今なおそれは決着がついていないという事實について考へてみようとはしないものらしい。ハインツ・ユーローはそのソロー論『路傍の挑戰者』にこう書いてゐる。
現代アメリカのリベラリストは、自分の考へる正義こそ絶對善だとする道徳的絶對主 義の立場をとりがちであり、それゆえ往々にして、自分と意見を異にする他人を認めよ うとせず、獨善的な批判を浴びせがちである。
そして、そういう獨善的なリベラリストは、道徳と道徳的現實主義とを峻別する事ができないとユーローは言い、續けて大要、次のように書いてゐる。
ここにいう道徳的現實主義とは、善惡の認識を意味するのではなく、道徳的生活を送 るに際して生ずる樣々な暖昧と異常性の認識を意味する。道徳とは對照的に、道徳的現 實主義の認知するところでは、善き結果と惡しき結果は對立的な可能性として存するの ではない。むしろ、兩面價値的な統一體として「善くもあり惡くもある」結果が生ずる のである。
ユーローの言う通りであつて、獨裁制にせよ民主制にせよ「善くもあれば惡くもある」結果を招來する。それゆえ、人事萬端、何が正義かという問いに對する決定的な解答なんぞは存在しないのである。パスカルが言つたように「力を持たぬ正義は無力であり、正義を伴わぬ力は暴力」なのだから、「正しき者を強くするか、強き者を正しくするか」、そのいずれかの解決しかありえない事になるが、殘念ながら、人間はいまだかつて「正しき者を強くする事ができず、それゆえ強き者を正しき者とするしがなかつた」譯である。そして、三百年も昔にパスカルが知つてゐたこの事實を、今日なお正義病に盲いたるアメリカは承知しておらず、強大な核兵器を笠に着る「強き者」として世界に君臨し、「強き者」をそのまま「正しき者」と認めたがらぬ國、例えば韓國に對して「獨善的な非難を浴びせ」、おのれの信ずる正義こそ絶對善と思ひ込み、執勘に「民主囘復」を迫つてゐるのであり、この道徳と道徳的現實主義とを峻別できぬ幼稚な正義病患者が、到頭、朴正煕大統領を倒したのである。
それゆえ、一種のショック療法として、ここで心行くまで民主制を罵倒し、獨裁制を辯護したいところだが、それはまた別の機會にやるとして、これだけはニューズウィークに言つておこう。ニューズウィークがいかに顔を顰めようと、例えば、大統領緊急措置令の發動は維新憲法第五十三条にもとづく合法的な行爲なのであり、統一主體國民會議の設置にしても、これまた憲法の定めるところ、もとより合法なのである。それゆえ、自國において正義とされてゐるもののみを絶對と考へる「道徳的絶對主義の立場」に固執して、韓國を十二歳の學童なみに扱い、韓國における人權抑壓を批判する前に、ニューズウィークはアメリカが國内の人種差別問題さえ滿足に解決できずにゐるという事實に思ひを到したらよいのである。
ところが、ニューズウィークはアメリカ國内の未熟を忘れ、韓國のやる事なす事に「獨善的な批判を浴びせ」るのであり、例えば、十二月十二日、全斗煥國軍保安司令官は、朴暗殺事件に關与したとの容疑にもとづき、鄭昇和戒嚴司令官を逮捕したが、ニューズウィーク十二月二十四日號は「將軍たちの夜」と題する記事にこう書いたのである。
なるほど朴暗殺當夜の鄭の行動は充分に釋明されていなかつた。けれども、國軍保安 司令官全斗煥の率ゐる反鄭の將軍たちが、速やかにかつ意表に出て權力鬪爭に勝つたと いうのが眞相であろうと、大方の評論家は信じてゐる。鄭逮捕の直後、駐韓アメリカ大 使ウィリアム・グライスティーンはワシントンに電話をかけ、民主囘復に反對してゐる 朴支持派がクーデターを起したと報告した。(中略)ワシントンは速やかに對應した。 數時間後、國務省は強い調子のステートメントを出し、韓國における混亂に付け入るな と北朝鮮に警告し、同時にソウルの將軍たちに對して、民主主義的統治に向いつつある 進展を阻害せんとするいかなる行爲も、米韓關係に「重大なる惡影響」を及ぼすであろ うと警告した。アメリカの高官たちは、今囘、國家の安全を考へずして、多數の韓國軍 を三十八度線近くから移動せしめた事に激怒した。かういふ遣り方はワシントンをして 、韓國における中南米共和國式用兵の惡夢を思ひ出させたのである。「もしも或る將校 のグループがそれをやれるなら」と一人の外交官が指摘した、「他のグループも同じ事 をやれるのである」。
「民主囘復に反對してゐる朴支持派がクーデターを起した」とワシントンに報告したグライスティーン大使も、韓國の將軍たちに「民主主義的統治に向いつつある進展を阻害せんとするいかなる行爲も、米韓關係に重大なる惡影響を及ぼす」と警告したアメリカ國務省も、全斗煥將軍の寫眞に「勝利をおさめた全、民主主義に關する疑惑」というキャプションを付けたニューズウィークも、いずれも何とも愚鈍な解らず屋である。ニューズウィークに尋ねたい。全斗煥將軍は戒嚴司令部合同捜査本部長なのであり、差し當つての任務は朴暗殺事件の徹底的究明である筈である。それはニューズウィークも否定しまい。それなら、「親朴派のクーデター」と極め付けたグライスティーン大使の言い分を、いかなる根拠あつて、ニューズウィークは肯定できたのか。つまり、「鄭司令官の暗殺關与」という合同捜査本部の主張は口實に過ぎず、實際は親朴派の全斗煥將軍がやらかした「クーデター」だつたのだと、いかなる根拠あつて判斷できたのか。ニューズウィークが好むと好まざるとに拘らず、國家の元首が暗殺された以上、その捜査は徹底的に行われねばならぬ。そしてその場合暗殺に關与したと思はれる容疑者は、それがいかなる權力者であろうと逮捕せざるをえまい。例えば、アメリカの大統領A氏が暗殺され。副大統領B氏がそれに加担したのではないかと疑われてゐる時、FBI長官C氏が副大統領を逮捕したとして、その場合、アメリカ駐在の韓國大使が本國に電話をかけ、「黒人の民主囘復に反對してゐる親A派が、CIAもしくはマフィアと組んでクーデターを起した」と報告し、それを韓國の週刊誌がそのまま報じたら、ニューズウィークは一體どんな氣がするか。ケネディ暗殺の眞相について樣々な揣摩臆測が流れたではないか。少しは我が身を抓つて他人の痛さを知つたらよいのである。
そういう次第で、親朴派の全斗煥本部長が、權力を握るための障害になる戒嚴司令官を、正當な理由無く、專ら權力欲ゆゑに逮捕したなどとは決して斷定できぬ筈である。そしてそれなら、捜査本部長全斗煥將軍のやれる事は「他の將軍のグループもやれる」などとは決して言へまい。全斗煥將軍の寫眞に「民主主義に關する疑惑」というキャプションを付してゐるニューズウィークは、合同捜査本部長としての全斗煥將軍の職權の合法性を疑つてゐるのか、それとも失念してゐるのか。職權の合法性を疑つていないのなら、なぜ將軍の行動を「民主主義に關する疑惑」と極め付けたのか。疑つてゐるなら愚鈍であり、失念してゐたのなら輕率である。 
全斗煥將軍を辯護する
一月二十一日號によれば、全斗煥將軍はニューズウィーク東京支局長バーナード・クリシャー氏のインタヴィユーを斷つたそうだが、クリシャー氏が單獨會見に成功した周永福國防相は、「どうか信じて貰いたい、今囘の事件は、朴大統領暗殺に關与したとの容疑のある將軍を、動かし難い根拠にもとづいて逮捕しようとしたという事に過ぎない」と語つてゐる。周國防相には惡いが、いくらそれを言つてもクリシャー氏には通じまい。ユーローの言葉を借りれば、クリシャー氏も「自分の考へる正義こそ絶對善だと思ひ込む道徳的絶對主義者」だからであり、それを承知してゐたからこそ、全斗煥將軍はインタヴィユーを拒否したのであろう。
ニューズウィークは全斗煥將軍を屡々「強者」と形容してゐるが、ニューズウィークは強者はすなわち惡黨だと考へてゐるのであろう。朴正煕氏を嫌い、維新憲法に「忌み嫌われてゐる」という形容詞を付し、全斗煥將軍の動機を疑つてゐるニューズウィークは、「力ある者は正しからず」という事は自明の理だと信じ切つており、それゆえ、民主主義と文民統制の萬能をいささかも疑つていないのであろう。「多數決は最良の道である。それは一目瞭然であるし、服從させるだけの力を有するからである。が、それは衆愚の意見に他ならぬ」とパスカルは書いたが、ニューズウィークはそういう事を一度も本氣で考へた事が無いらしい。何とも羨ましいほどの樂天家だが、朴大統領の弔合戰として、ここに全斗煥將軍を辯護すべく、そういうニューズウィークの樂天的正義感、すなわち道徳的絶對主義を徹底的に批判しておこうと思ふ。
ニューズウィークに限らず、アメリカ人には道徳的絶對主義の信奉者が多いのであり、かつてジョージ・ケナンが指摘したように、「國際問題に對する法律家的=道徳家的アプローチ」はアメリカ外交の特色であると言つてよい。とかくアメリカ人は、自國の法と道徳律が世界中すべての國々にそのまま適用できると信じていて、正義の相對性という事を考へてみようとしないのである。モンテーニュは「法律が信奉せられるのは、それらが正しいからではなくて、それらが法律であるからである」と書いた。わが芥川龍之介も「道徳とは左側通行の如きものである」と書いてゐる。これを要するに、正義とは約束事でしかなく場所により時代により變化する相對的な虚構に過ぎぬという事である。地上の正義たる法も同樣で世界各國の國内法が國により區々である事はここに改めて言うまでもない事であろう。
パスカルの言葉を借りれば「緯度が三度違うと」法體系は覆るのであり、「子午線が眞實を決定する」のである。何を正義とし何を不正義とするかは事ほど左樣に暖味なのだが、人間は正義の相對性を肯定する現實主義に徹しうるほどに強くはないから、いかなる支配者もおのが信じる正義に則つて國を始めるに際しては何らかの大義名分を必要としたのであり、一方、被支配者としては二つの道を選ばねばならず、それは正しい者に服するか、強い者に服するかの二者択一なのである。パスカルは書いてゐる。
正しいものに服從するのは正しいことであり、最も強いものに服從するのは必要なこ とである。力をもたぬ正義は無能力であり、正義をもたぬ力は暴力である。力をもたぬ 正義は反抗せられる、なぜなら惡人がつねにゐるから。正義をもたぬ力は非難せられる 。されば正義と力とを共に備えなければならぬ、そうしてそのためには、正しいものを 強くあらしめるか、力強きものを正しくあらしめるかしなければならない。
だが、すでに述べた通り、人間は正しき者を強くする事には成功しなかつたのであり、「正しきものをして力あらしめることができず、力あるものをして正しきもの」としたのである。そして被支配者が力ある者を正しき者とする場合、その國の政治は獨裁政治だという事になり、そういういわば「力は正義なり」の獨裁制に對して、被支配者の多數意見を重んずる、いわば「數は正義なり」の民主制があつて、今日の吾國においては、アメリカにおけると同樣、前者すなわち獨裁制は惡であり、後者すなわち民主制は善だと信じられてゐるのだが、それは決して自明の理ではない。
なぜなら、多數意見が正しいなどとは言い切れず、往々にして少數意見のほうが正しいという事があるからで、それに何より、何をもつて正しいとするかという事自體、決して自明の事ではないからである。そしてそれなら、力ある者が常に正しいと斷定できぬ代り、力ある者は常に正しくないとも言い切れぬ、という事になろう。
ところが、以上縷々説明した正義の相對性という事が、おのが正義こそ唯一の正義と信じ切つてゐるアメリカには理解できず、かつて禁酒法の如き世界史上殆ど類例の無い愚擧を敢えてして失敗した前科がありながら、アメリカは性懲りも無く「自分と意見を異する他人を認めようとせず」、韓國に對して「獨善的な批判を浴びせ」續けたのであり、何度でも繰返して言いたいが、そういうピュリタンの末裔の幼稚な正義感が朴正煕氏を斃したのである。
アメリカ國務省にしても、全斗煥將軍の行爲を「民主主義的統治に向いつつある進展を破壞せしめんとする行爲」と呼び、「米韓關係に重大なる惡影響を及ぼす」と警告した。つまりアメリカは自國の民主主義が韓國においてもそのまま行われねばならないと、頑に思ひ込んでゐる譯で、國務省の高官にもまた、不正不純を蛇蝎の如く忌み嫌い「見ゆる聖徒」同士の交わりを求め、果てしない分裂を繰返したかつての分離派ピュリタンの血が流れてゐる。それゆえ、アメリカが同盟國の不法行爲に對して甚だ非寛容なのは怪しむに足りぬ。例えばニューズウィーク十二月二十四日號はこう書いたのである。
先週、鄭昇和を倒すために使用された前線部隊は、理論的には米韓の合同指揮下にあ る。先週の部隊の移動は米韓二國間の防衞協定に違反するものであり、萬一、韓國の他 の將軍たちがそれぞれのクーデターを企てたなら、(韓國の)安全は崩壞してしまうの であろうとの恐怖を抱かしめた。
要するに、アメリカ國務省もグライスティーン大使もニューズウィークも、全斗煥少將が鄭昇和大將を逮捕したのは單なる下剋上であり、他の將軍たちがそれを眞似たら韓國は累卵の危機に瀕すると考へて「恐怖」に驅られたのであろう。ニューズウィークによれば、グライスティーン大使は大使館の門を閉じさせ、アメリカ人に外出せぬよう勸告したそうだが、朴大統領暗殺の當日ソウルにいた私は、グライスティーン大使の處置を嘲笑いはしない。
けれども、ニューズウィークはともかく、アメリカ大使までが全斗煥將軍の職權の合法性に思ひ至らず、「全斗煥氏のやれる事なら、他の將軍たちにもやれる」と思ひ込んだとすると、その餘りの認識不足に私は暗澹たる氣分にならざるをえないのである。
いかにも十二月十二日、全斗煥將軍は米韓防衞協定を無視して、「多數の韓國軍部隊を三十八度線近くから移動させた」のであつて、それは「アメリカの高官たち」を「激怒」させたとニューズウィークは言う。グライスティーン大使も激怒したのであろうか。「全斗煥將軍にかういふ無茶苦茶が許されるなら、他の將軍たちにもそれは許され、かくて韓國の政治的不安定に付け込んで、北鮮軍が攻め入るであろう」とグライスティーン大使も、ウィッカム司令官も考へたのであろうか。十二月十五日付のニューヨーク・タイムズによれば、全斗煥將軍麾下の兵士たちは、盧載鉉國防相の執務室のドアを蹴破り、國防相は秘密のトンネルを通つてアメリカ陸軍第八軍司令部へ避難したという。
また、十二月十六日付のサンケイ新聞によれば、盧國防相はグライスティーン大使やウィッカム司令官と共に、米韓合同司令部の塹壕の中で緊張の數時間を過したという。眞僞のほどは解らぬが、そういう體驗をしたグライスティーン大使に私は同情する。そして、全斗煥將軍が米軍司令官の承認無くして兵を動かした事は、確かに米韓相互防衞協定の違反であつて、私もそれは否定しない。けれども假に私が全斗煥將軍だつたなら、私もやはり米韓相互防衞協定を無視して、精強無比の第九師團をソウルに投入したであろう。なぜなら、非常の際にはおのずから非常の奇策ないし詭策を採るべきであり、もしも全斗煥將軍がのこのこウィッカム司令官に會いに行き、第九師團移動の承認を取り付けようとして、それが鄭昇和戒嚴司令官の察知するところとなれば、九仭の功を一簣に虧き、逆に全斗煥將軍が戒嚴司令部に逮捕されたかも知れず、或いは逮捕されぬまでも指揮系統の混亂から、韓國軍同士が激しく衝突、それこそ収拾のつかぬ混亂を免じたかも知れない。
實際、一説によれば鄭昇和戒嚴司令官は、公邸の非常ボタンを押し、全軍に非常出動を命じたが、全斗煥派に先手を打たれ萬事休したという。窮鼠猫を咬むという事も大いにありうる。とすれば、非常時には非常手段をためらうべきではない。テヘランのカナダ大使館に逃げ込んでいたアメリカ大使館員を、先日カナダ政府は詐術を用いて無事脱出させたが、バンス國務長官は一月十八日、カナダ外相マクドナルド女史に感謝の電話を掛けてゐる。これはつまり、カナダ政府が非常事態に際して非常の手段を用い、バンス長官はそれを認め感謝したという事ではないか。 
文民統制を絶對視する愚鈍
さて、ニューズウィークの韓國報道についてその非を打ちたい事はまだまだあるが、最後に、文民統制に關するニューズウィークの甘い考へだけはどうしても批判しておきたい。民主主義についてと同樣、文民統制についても、ニューズウィークはその萬能を信じ、解決無き事を解決あるかの如く主張して、これまで韓國を散々苦しめ、ニューズウィークの權威を信じ、その言い分を金科玉条の如く尊重する韓國の反體制知識人を勇氣づけて來たからである。
例えば、ニューズウィークはこう書いてゐるのである。
下級將校のグループが、先月、韓國の戒嚴司令官を強制的に逮捕した時、アメリカの アジア戰略上重要な同盟國は軍部の獨裁という危險な時期に入つたのではないかと危惧 する向きが多かつた。
もう一つ引こう。
最近、駐韓米軍司令官ジョン・ウィッカムは、「その任務を正しく遂行するために、 軍は常に軍務を念頭におかねばならぬ・・・・・・政治上及び憲法上の進展については 文民の指導に任せねばならぬ」と言つた。ウィッカムは全斗煥と直接取引きする事を拒 み、韓國の四つ星の將軍との交渉を好んでゐる。「吾々は(實權を握つてゐる將軍たち に)會つて、彼らの十二月十二日の行動を追認したかの如く思はれたくないのだ」と、 ソウルの或るアメリカの高官は語つた。
以上はいずれも一月二十一日號からの引用だが、同じ號のニューズウィークは、軍の政治的中立を求める記事を載せた韓國の新聞が發賣禁止になつた事を報じており、文民統制についてのニューズウィークの執心は頗る強いと言へよう。そして、ニューズウィークの權威に弱い日本の新聞や知識人もまた、文民統制の萬能を信じて疑わぬように思はれるから、彼らの迷妄を醒ますためにも、私はここで、文民統制について思ひ切り身も蓋も無い事を言つておこうと思ふ。
文民統制とは、要するに、軍人は常に文民の統制に服さねばならぬとする説である。從つてそれは、文民は常に軍人よりも賢いとの前提に立つてゐる。だが、これほど根拠薄弱な前提は無い。愚かな軍人は確かにいよう。が、愚かな文民も同樣に確かにゐるからである。正直、例えば全斗煥將軍が金大中氏よりも愚かだとは、私にはどうしても思えない。そして偉大な政治家朴正煕氏もかつては軍人だつたのであり、今や誰もが蛇蝎視するヒットラーは文民だつたのである。文民が常に軍人よりも賢いなどと、どうしてそのような事が言へようか。文民以上に賢い軍人がゐる。だが、どんな賢い軍人も、武器を持つてゐるという理由だけで、常に文民の後塵を拝さねばならぬのか。それは餘りの理不尽ではないか。
それに、もしも軍人が政治的に中立でなければならぬとすると、軍人とは專ら殺し合ひに精を出すロボットに過ぎぬという事にならないか。韓國の軍人にも、日本の自衞隊員にも、確かに選擧權が与えられてゐるが、軍人とは所詮殺し專門のロボットでしかないのなら、そんなものに選擧權を与えるのはこれまた頗るつきの理不尽である。一朝有事の際、その政治的信念にもとづいて行動する事を許されず、常に文民政府の意向に從つて行動し、左翼の文民の統制を受ければ右翼を殺し、右翼の文民の統制を受ければ左翼を殺す、そういう恐るべきロボットに、選擧權なんぞを与えるのは馬鹿げた事である。途方も無い無駄である。
文民統制については以上で充分かと思ふ。以上述べたような事を、ニューズウィークも、ニューズウィークの權威を盲信してゐる日韓兩國の知識人も、およそ考へた事が無いのであろう。そういう知的に怠惰な手合に對して、かういふ事を言い添えるのは無駄事かも知れないが、文民統制について以上の如き身も蓋も無い事を言つたからとて、私は「軍人統制」を善しと考へてゐる譯ではないのである。ニューズウィークに限らず、文民統制を金科玉条の如くに考へる手合の知的怠惰を私は嗤つたに過ぎない。民主主義と同樣、文民統制も絶對善ではなく、人事のすべてと同樣、それに決定的な解決なんぞありはしないのである。が、ニューズウィークに限らず知的に怠惰な人間は、解決無き事を解決あるかの如く思ひ込む。アメリカもそうであり、壓倒的な軍事力を笠に着て、自分の信ずる正義こそ解決濟みの絶對正義だと思ひ込み、「道徳的絶對主義者」として、「國際問題に對する道徳家的アプローチ」に固執し、ジョージ・ケナンの言葉を借りれば、「アングロ・サクソン流の個人主義的法律觀念を國際社會に置き換え、それが國内において個人に適用される通りに、政府間にも適用させようと」躍起になるのである。そして、政治的判斷を善惡の判斷と混同し、自國の規準で他國を裁こうとするこのアメリカの正義病こそ、これまで久しく朴大統領を苦しめ、韓國内の浮薄な反體制派を増長させたのであり、例えば金大中氏は「軍の役割はいかにあるべきか」とのニューズウィークの問いに、「それは明らかです。軍は中立でなければなりません。軍は人民の意志に從うべきです」と答え、また朴大統領の暗殺については、「あれは事故ではない。朴大統領は身近な側近に殺された。が、眞の原因は民主囘復を求める人民の願いです」などと言つており、その淺薄は論評の限りでない。が、金大中氏ほどの愚鈍な政治家が日本やアメリカで持てるのは、とどのつまり、金大中氏がアメリカ正義學校の優等生だからに他ならぬ。
けれども、果してアメリカは韓國よりも賢いのか。ここで私は、韓國の國會議長だつた白斗鎮氏から送られて來た、韓國の或る大學教授の論文の一部を引用しようと思ふ。讀者はそれを私がこれまで引いたニューズウィークの文章と比較して貰いたい。
しかしながら、自由の亂用は社會的混亂を招來し、放埓で無法な國家を作り出すだけ の事である。同樣に正しい政治權力の行使は、國家の建設を社會の進歩に資するところ 大であるが、その亂用は壓政と腐敗と獨裁を生むための有害な武器となろう。富の力は 人民を幸福にし、國家を繁榮せしむる大いなる手段となりうる。けれどもその亂用は、 腐敗、堕落、奢侈を招來し、社會の癌となるのである。正しく運用されるなら、民主主 義は人民に自由と平和と幸福とを保證する最上の策だが、その誤用は派閥抗爭と非能率 と不經濟を伴う衆愚政治をもたらすのである。健全な新聞とマス・メディアは、社會の 批判と啓蒙という本來の機能を果して大いに社會に貢献するが、マス・メディアの堕落 は、マス・メディアをして富と權力に追随する從僕、有害無益な詭弁と無駄口の方便た らしめるのである。
言うまでもなく、この文章の筆者は民主主義の萬能を信じてはいない。と言つて、例えば私がやつたように、民主主義や文民統制を罵つてショック療法を試みるという事もやつていない。ショック療法を施す餘裕が無いからであり、それはそのまま、韓國のおかれた立場の苦しさを物語つてゐる。私はその苦しさを理解する。が、そういう辛い立場にあつても、韓國の體制派の知識人は、少なくとも十二日間のソウル滞在中に私が知りえた限りでは、いずれも眞劍勝負を強いられてゐる者特有の見事な生き方をみせてくれたのである。十一月三日、長女朋子が急死したため、私は韓國滞在を切り上げ急遽歸國しなければならなかつたが、いずれ再び訪韓し、あの眞劍勝負の國の見事な知識人と存分に語り合ひたいと思つてゐる。彼らのひたむきな生き方は刹那的快樂に現を抜かす、その日暮らしの日本ではもはや滅多に見られぬもので、彼らの眞劍から吾々は實に多くの事を學べると、私は信ずるからである。 
むしろ日本を苛めるべし
かつてマッカーサーはアメリカ議會の聽聞會で、「アングロサクソンが四十五歳なら、日本人は十二歳である」と言つた。そして日本人は「なるほど敗けたのだから十二歳だ」と思ひ込み、正義病の教師アメリカの教へる民主主義を懸命に學び、卑屈なまでに善い子になろうと努め、押付けられた腰抜け憲法を後生大事に守り通し、かくて今日の道義小國、經濟大國を築き上げたのである。が、朝鮮戰爭を體驗し、今なお好戰的な北朝鮮と對峙してゐる韓國にそういう餘裕は無かつた。日本は勇み肌の坊ちゃんアメリカとうまく付合ひ、脇抜けになりはしたものの大儲けをしたが、韓國は勇み肌の坊ちゃんのむら氣に手古摺つて、大いに苦しまなければならなかつた。が、「艱難汝を玉にす」であつて、苦しめられた韓國はアメリカの身勝手と幼稚な正義病を知り尽した筈である。
四年ほど前、英誌エコノミストが、アメリカは「非民主主義的な」同盟國へのコミットメントの是非を絶えず檢討すべく、「日本という民主主義國を友邦とする爲に韓國という非民主主義國をも支持せざるをえぬ事は危ない」と書いていて、半可通のジョン・ブルが何を言うかと私は腹を立てた事がある。が、エコノミストは同時に「殆どのアメリカ人にとつて韓國民が朴正煕の右翼獨裁體制のもとに生きるか、それとも金日成の個人崇拝的共産主義體制のもとに生きるかは、さして重要な事ではないのかも知れぬ」と書いており、このエコノミストの推測は當つてゐるのではないかと私は思つた。ニューズウィーク十二月二十四日號は、韓國軍内部における下剋上によつて脅威にさらされるのは、韓國の民主主義ではなくて韓國の生存であると書いてゐるが、ニューズウィークがそれほど韓國の存亡を案じてゐるとは私にはどうしても思えない。エコノミストの言葉を捩つて言へば、ニューズウィークにとつては、韓國がアメリカ民主主義の優等生にならぬのなら、「韓國民が親朴派大統領の右翼獨裁體制のもとに生きるか、それとも金日成の個人崇拝的共産主義體制のもとに也きるかは、さして重要な事ではない」のであろう。そして、「韓國の安全は日本の安全にとつて不可欠だから」韓國を守るのだと、ニューズウィークも考へてゐるに過ぎまい。「朝鮮半島の平和は日本の安全にとつて頗る重要だ」と言つたのは日本の外務大臣だつたと思ふが、これくらい韓國にとつて屈辱的な言い草は無い。が、アメリカも日本も、その韓國の無念を思ひ遣つた事があるであろうか。
實際私は、韓國くらい割に合わぬ立場の國は無いと思ふ。アメリカが正義病の興奮から醒め、孤立主義に戻り、國益中心の現實主義に徹しようとすれば、眞先に見捨てられるのは韓國であり、またアメリカが正義病を煩つてゐる最中は、その抑壓政策を道學者アメリカに批判されつづけねばならない。そして、アメリカの核の傘の下で雨宿りしつつ、自由を謳歌してゐる日本は、捨てられるにしても韓國よりずつと先であり、それまではGNPの一パーセント以下を軍備に割くだけで、せつせと稼ぎ捲れるという譯である。なぜ、アメリカはかくも日本に甘く韓國に嚴しいのか。それは、いかに自堕落でも、ふんだんに自由のある民主的な國がアメリカは大好きだからである。チャイルド・ポルノのモデルに使つてくれと自分の娘を賣り込みに來る父親がアメリカにはゐるそうだが、そういう破廉恥な親がいても、自由があるのは何よりもよい事だと考へてゐるからである。
だが、この自由を絶對視するアメリカは、獨善的であるばかりか頗るむら氣であつて、孤立主義とメシアニズムとの間を揺れ動く。周知の如く、十九世紀のアメリカは孤立主義を守つてゐたが、二十世紀のアメリカは世界の憲兵として正義のための戰爭を一手に引受ける事となつた。けれどもその際も、助けようとする國におけるアメリカ的ならざるものを忌み嫌い、それを改革すべく躍起になつたのである。助けて貰う國が、例えば日本のように、アメリカの教へをそのまま受け入れればよいのだが、自國の文化を重んじ自尊心を捨てたがらぬ強情な國もあるから、アメリカの對外政策は勢い極度のお節介と極度の冷淡を交互に繰り返す事になる。正義漢のアメリカの事ゆえ、戰爭は常に正義のための戰爭でなければならないが、助けようとする國に不正義を見出せば、正義漢の戰意はとかく萎えてしまうのである。
時にアメリカは損得を無視して友邦のために戰う。けれども助けてやる友邦は常にアメリカ的な聖徒でなければならないのである。今のアメリカは、やはり、不純を徹底的に嫌つて、純粋な「見ゆる聖徒」との交わりだけを求め、ゆゑに分裂に分裂を重ねて孤立した先祖、分離派ピュリタンの氣性を失つてはいない。植民地時代の分離派ピュリタンの一人、ロジャー・ウィリアムズは「見ゆる聖徒」との交際に徹し、遂に妻以外の誰とも聖餐を共にしないようになつたという。ロジャー・ウィリアムズと同樣、今のアメリカも韓國が「見ゆる聖徒」でない事に失望し、いずれは韓國を見捨てるようになるであろう。
そして、かういふアメリカの道徳的絶對主義は容易な事では改まらぬ。それゆえ日本の如く、ぐうたらで愚鈍でも、アメリカの正義たる自由と民主主義に逆らわぬ國には滅法甘いアメリカの「道義外交」が、日本はもとより韓國の淺薄な反朴派を増長させ、それが朴正煕氏を殺したのだなどと、いくら言つてみても所詮は甲斐無い事かも知れぬ。けれども、三百五十萬の讀者を持つニューズウィークの絶大なる影響力を認めるがゆゑに、これまた甲斐無き業かも知れぬが、私はニューズウィークに一つ注文しておきたい事がある。それは、韓國ばかり苛めずに、日本をもつと苛めて貰いたいという事である。
アメリカは昨今、日本の蟲のよい安保只乘りに苛立ち始めたという。それは田久保忠衞氏が『カーター外交の本音』(日本工業新聞社)で入念に分析してゐる通りである。田久保氏は書いてゐる。
問題は米國がこれだけ繰り返して日本に(軍備強化を求めるという)眞意を知らせて ゐるのに對して、日本の反應がまるきり鈍いという事實である。それを米側はよく知つ てゐる。だから政策的に米政府がやろうとしてゐるのは、日本に自發的に軍備強化をさ せることであろう。日本列島周邊のソ連の海空軍力の脅威を絶えず日本にPRし、石油 の輸送路確保の必要性を強調することによつて、日本の自發的な軍備強化を促そうとい うのが米國のハラであろう。
田久保氏の推理を私も肯定する。そして田久保氏の著書は、アメリカの日本に對する苛立ちを詳細に分析してゐるから、私は『カーター外交の本音』をひろく江湖に薦めたいが、ただ一つ、田久保氏が次のように書いてゐるくだりだけは頂けない。
實は、この邊で肝心なことにふれたいのである。韓國駐留米軍撤退論の本當の狙いは なにかである。(中略)ニクソン政權下の外交教書からブラウン國防長官に至るまで一 つ一つの點をつないで一本の線にすれば、米國がいかに強く日本に防衞分担を要求して ゐるかは自づと明らかであろう。しかし日本はいくら防衞責任を米國から要求しても一 向に動こうとはしない。これを米國の戰略家たちはよく知つてゐる。だから國際環境を 變えることによつて、日本が自發的に國防を自前でやらねばという意識になるのを狙つ てゐるのではないかと考へられるのである。
このくだりを讀んだ時、信頼してゐる田久保氏の言だけに私は唖然とした。何の事はない、田久保氏の説は相も變らぬ他力本願の對米依存である。「日本が自發的に國防を自前でやらねばという意識になる」には、アメリカに助けて貰わねばならず、しかも韓國を犠牲にしなければならない、田久保氏はそう主張してゐる事になる。日本が他國に助けられ他國を犠牲にして初めて「國防を自前で」やる氣になつたとして、それを果して日本が「自發的に國防を自前で」やる氣になつたと言へようか。
だが、私はここで田久保氏を批判しようと思つてゐるのではない。人權さえ抑壓されていなければ、どんなに自堕落でぐうたらな國でも咎めないアメリカ、或いはニューズウィークの、淺薄かつむら氣の「道義外交」が、田久保氏ほどの頭腦をも鈍らせてゐるという事が言いたいに過ぎぬ。が、「こんな國家に誰がした」などという事は言いたくないから、ニューズウィークに對する注文を繰返しておこう。淺薄な認識にもとづいて韓國を苛めるのは程々にしておいて、ニューズウイークは今後、精々日本を苛めて貰いたい。エコノミストの言うように、アメリカの對韓政策は「人參と鞭」の使い分けであつた。そういうアメリカに手を燒いて、樣々な苦勞をし、韓國はもはや充分に賢くなつてゐる。それゆえ、韓國は當分そつとしておいてその代り、ニューズウィークは日本の安保只乘りを激しく批判し、憲法の改正を要求し、軍備の強化を迫る内政干渉的キャンペインを華華しくやつて、日本を存分に苛めてくれまいか。先に訪日したブラウン長官は、日本の軍事費をせめてGNPの一パーセントにせよと要求したが、○・一パーセント予算を殖やしたところで、自衞隊の土性骨を叩き直せる譯が無い。ニューズウィークを散々に扱き下した私が、こんな事を頼めた義理ではないが、田久保氏と同樣私も他力本願の佛教徒ゆえ、ここは一つ、絶大な影響力を持つニューズウィークに頼むしかない、と思ふ譯である。
日本の軍事力の増強は朴大統領が期待してゐた事でもあつた。が、朴正煕氏の場合、それは弛まぬ自主防衞の努力を傾注した上での友邦日本への期待であつた。十二日間のソウル滯在中、私が最も樂しみにしてゐた朴正煕氏との會見は、朴氏の急逝により果せなかつたが、語り合つた韓國の知識人の殆どすべてから私はそういう日本への期待を感じ取つた。しかもそれは、所詮空しい期待と知つての期待であつて、維新政友會の申相楚議員などは、別れの握手を交しながらこう言つたのである。「どうか日本は、隣國の迷惑になる事だけはしないで戴きたい」。
大平首相は朴大統領の葬儀に參列しなかつた。日本の新聞は十月二十七日以後、韓國について暴論愚論の數々を並べ立てた。日本は韓國の事なんぞついぞ本氣で考へた事が無い。そして、釜山に赤旗が立とうと、大方の日本人はもとより、自民黨も自衞隊も少しも狼狽しないかも知れぬ。昨今日本人がソ連の脅威をひしひしと感じ始めたなどと言う人もゐるが、私はそんな事は信じない。先に栗栖統幕議長が解任された際、自衞隊の幹部は誰一人追腹を切らなかつたし、久保田圓次氏の如き人物にも、短時日とはいえ、防衞庁長官が勤まつたのである。それに何より、ソ連の脅威を説く論文を讀んでいて、私が常に疑わしく思ふのは、筆者が果して日本國憲法前文を承知して書いてゐるかという點である。日本國憲法には吾國は「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼」して「陸海空軍その他の戰力はこれを保持しない」と書いてある。それなら、ソ連も「平和を愛する諸國民」であつて、北方領土を返そうとしないのも、アフガンに攻め込んだのも「公正と信義」ゆえの行爲であり、ソ連を憎んだり嫌つたりするのは平和憲法の精神に反する行爲ではないか。
底抜けに明るく、甘く、かつ卑屈な憲法を吾々は持つてゐる。そういう腰抜け憲法を改正せぬ限り、日本は軍隊を持てず、海外派兵も徴兵もやれはしない。日本がいずれ憲法改正に踏切るとして、それは一體何十年先の事なのか。私は時々朴正熙氏の寫眞を取り出して眺め「五年か七年たつたら、日本と韓國は安全保障条約が結べる時が來る」と福田恆存氏に言つた時の朴氏の眞劍な顔つきを想像し、「日本は閣下の御期待には應えられまい」と福田氏に言われ、沈鬱な表情で默り込んだ時の朴正熙氏の心中を思ひ遣り、日本もアメリカも韓國より賢くはない、賢い筈があるものかと、そう呟きながらこのニューズウィークを叩く文章を綴つて來た。「蜀犬、日に吠ゆ」。筆を擱くに當り、朴正煕氏の冥福を祈る。 
第五章 教育論の僞善を嗤う

 

善意は即ち商魂なり
日本は「經濟大國であるだけでなく教育大國」でもあるが、「怪物化した受驗戰爭、無氣力な教師、そして自信を喪失した親たち」によつて、今や日本の教育は「慘憺たる末期症状を呈してゐる」と知日派のユダヤ人トケイヤー氏は書いてゐる。外國人の批判を取分け氣にするのが日本人の習性である。それゆえトケイヤー氏の『日本には教育がない』はかなり廣く讀まれたという。つまり、日本の教育の現状を憂えるトケイヤー氏の善意を讀者は疑わなかつた譯である。だが、ユダヤ人がなぜそれほど深く日本の教育を憂えねばならぬのか。「日本のように偉大な歴史と文化を持つた國がどうしてこれほど病んでしまつたかを書きたい」と言うトケイヤー氏は、六年間日本に滯在し、次々に日本を憂えるベストセラーを書き上げた。トケイヤー氏は「日本のあり方に對して批判を投げかけるその一方で、自ら六年間を過ごした日本に深い好意を寄せ續けてゐると言へるだらう」と加瀬英明氏は言つてゐる。だが、私にはそうとは思えない、トケイヤー氏の動機はもう少しはしたないものではなかつたかと、どうしてもそう勘繰りたくなる。現在の日本病を憂え過去の日本を持ち上げ、ついでに必ずユダヤ人の聖典タルムードを引いてユダヤ人の知惠を稱えるトケイヤー氏の善意とは、實は拝外病と反省病という二つの持病を抱えてゐる日本人の弱みに附込もうとの商魂ではなかつたろうか。
「トケイヤー氏の本がひろく讀まれたということは、日本人が自分に對する外國人の指摘を受け容れるだけの國際性を身につけることができるようになつたことを示してゐる」と加瀬氏は言う。「外國人の指摘を受け容れるだけの國際性」なる代物も日本病の症状の一つだと考へるから、私は加瀬氏の意見に同じないが、それはともかく、日本の讀者はトケイヤー氏の善意を信じ、少なくとも讀んでゐる時だけは、善意の塊と化したのである。その證拠に、トケィヤー氏の日本病に對する處方箋が殆ど役立たないものであつたにも拘らず、誰もそれを咎めようとはしなかつた。トケイヤー氏は書いてゐる。
かつての日本には、筋の通つた社會道徳があつた。このような道徳というのはいつの 時代にも社會にとつて必要なものである。昔、嚴格な寺子屋の師匠を「雷師匠」と呼ん だが、彼の「雷鳴は近所にとどろいた」という。このように「雷師匠」が雷のような聲 を出して、生徒にあたる寺子たちを教へることができたのも、自信があつたからである 。(中略)寺子屋では教科書として『童子教』が廣く用いられた。「善き友に随順するも のは、麻の中の蓬の直きがごとし」とか「口はこれ禍の門、舌はこれ禍の根」、「それ 積善の家にはかならず餘慶あり」、「人は死して名をとどめ、虎は死して皮をとどむ」 といつた言葉は明治生まれの日本人であつたら、まず知つてゐることだらう。道徳は幼 いときにしつかりと教へなければならない。(加瀬英明譯)
山鹿素行は『語類』卷七第三章に「子弟皆手習物まなぶといへども、教ゆるもの學の道を知らざるゆへに、唯往來の文をいとなみ、日記帳のたよりとのみなりて、世教治道の助となり、風俗を正す基となることなし」と書いてゐる。してみれば、「雷師匠」の道徳教育が絶大なる効果をあげたかどうかはいささか疑わしいが、少なくとも今日『童子教』や『女大學』がそのままでは役立たぬ事くらい誰でも知つていよう。それにも拘らずこの種のおよそ役立たぬ處方箋を、讀者は一向に怪しまない。トケイヤー氏の著書に限らぬ、善意の教育論は善人の如くに退屈で、去勢された種馬の如くに役立たない。そして役立たぬ事を一心に論じて一向に咎められる事の無いのが教育論なのである。善意の教育論は、日本の教育は今や「慘憺たる末期症状を呈してゐる」との診斷にもとづき、「雷師匠」を懷かしみ、「無氣力な教師、そして自信を喪失した親たち」を叱咤する。なるほど親にも教師にも越度はある。けれども、叱られた親や教師が、緊褌一番「雷師匠」や雷親父に生れ變つたという話をついぞ私は聞いた事が無い。 
胡散臭い教育論
下手糞な醫者を俗に藪醫者と言う。藪醫者に掛つて症状が惡化したら、誰でも醫者を怨む。そしてその際、醫者の治療衝動が善意だつたかどうかはおよそ問題外であろう。しかるに、教育論の筆者は役立たぬ事を一心に論じて少しも怪しまれる事が無い。教育衝動の善意だけは決して疑われる事が無い。醫者に對しては專ら技倆の如何を問い、善意惡意は問わない癖に、世間は教育の專門家の善意は疑わず、その技倆の如何を問う事が無いのである。かくて綺麗事の教育論が野放圖にのさばる事となる。例えば、三木内閣の文部大臣だつた永井道雄氏は、『近代化と教育』の中で次のように書いてゐる。
しかし、教育には、經濟や政治につきないそれ自體の目標がある。人間とはそもそも 何であるのか。人類とは、歴史とは、そしてその中にある近代國民國家とは何であり、 それはどこに向つて進みつつあるのか、これらの基本的な問いが、いままでにない深い 意味をおびて、今日の教育になげかけられてゐる。《ただ經濟的な動物として生きるの ではなく、すべての人間が人間としてよりよく生きる》とはどのようなことか。人間が 地球をはなれて月に到達した同じ世紀に、教育もまた、有史以來、もつとも困難な挑戰 をうけてゐる。
トケイヤー氏の著書と同樣、永井氏の著書も廣く讀まれてゐるという。だが、「有史以來」の「もつとも困難な挑戰」の事なんぞ凡人は考へてゐる暇が無いから、こんな文章を讀まされても何の役にも立ちはしない。何の役にも立たぬ事を營々として論じるとは何とも奇特な御仁だが、そこがまた胡散臭いゆゑんであつて、人間は何の役にも立たぬと解つてゐる事に熱中する筈は無いのである。例えば本年二月、中國軍がヴェトナムへ侵攻するや、ヴェトナム駐在の日本大使はヴェトナム外務省を訪れ、速かな停戰を要望した。もとより、軍事的に非力な日本が何を言おうと、中國もヴェトナムも戰爭を止める譯が無い。日本の要望など何の役にも立ちはしない。日本國の大使とてそれはよく承知してゐる。大使は本國政府の訓令に從い、何の役にも立たぬ事を澁々やつたまでである。そういう甚だ空しい仕事を、弱小國の外交官は屡々やらなければならない。彼等とて一生に一度は、かつての松岡洋右よろしく國際政治の檜舞臺で啖呵を切つてみたいであろう。が、それは所詮叶わぬ夢であり、弱小國の悲哀を噛み締めつつ、彼等は心にも無い綺麗事の要望を傳えるしかないのである。政治家もそうであつて、もはや「貧乏人は麦を食え」などとは口が裂けても言へはしまい。そういう政治家や外交官の遣る瀬無さを思ひ、私は時々深く同情する事がある。
してみれば、政治家が憂さ晴しのために汚職をやつて私服を肥やすのも止むをえない。人生の絡繰りはどこかで必ず帳尻が合うようになつてゐるのであり、何の役にも立たぬ仕事をやらされ、常に綺麗事を口にしなければならない分だけ、政治家はどこかで密かに物欲や名譽欲を滿足させるのではないか。とすれば、永井道雄氏とても同樣であり、清潔が看板だつた三木内閣の文相に汚職をやれた筈は無いけれども、「すべての人間が人間としてよりよく生きる」などという事を臆面もなく口にする以上、永井氏の場合も、どこかできつと帳尻は合つてゐるに違い無い。が、それにしても、トケイヤー氏は日本列島に住む一億人の將來を案じたに過ぎないが、永井氏は何と、世界人類四十億人の將來を案じてゐる。この桁違いの善意に商魂逞しいトケイヤー氏も顔色を失うであろう。
そういう次第で、トケイヤー、永井兩氏の著書に限らず、大方の教育論は程度の差こそあれ胡散臭いのであつて、その種のいかさま教育論が親や教師の自信喪失を癒す事は決して無い。例えば子供の自殺が續發すると、教育學者やジャーナリストは胸に堪える振りをして、せつせと空しい處方箋を書いて稼ぎ捲り、親や教師は子供の「自殺のサイン」を見落すまいと懸命になる。けれども、そういう事で子供の自殺が減る譯が無いから、親や教師はますます自信を失い、ますます教育論の食い物になる。何とも滑稽な惡循環である。そろそろそういういかさま教育論の非力とぺてんに氣付いてもよい頃ではないか。子供の自殺に効果的な對策は一つしか無い。つまり、肚を据え「死にたい奴は勝手に死ね」と突放せばよいのである。 
いかさま教育論の正體
「死にたい奴は勝手に死ね」と突放して差支え無い理由については追い追い述べるが、自信喪失病を癒したいと思ふなら、まずはいかさま教育論の正體を看破る事から始めなければならない。そしてそれは簡單な事で、釋迦やクリストではあるまいし、吾々は決して「すべての人間が人間としてよりよく生きる」などという事は考へない。考へないほうが正常だと考へたらよいのである。手廣く救濟事業に勤しむ善人は、まず間違い無くぺてん師だと心得て、もつと氣樂になつたらよいのである。しかるに、親も教師も教育論のぺてんにはたわいも無く引掛る。「人類とは、歴史とは、そしてその中にある近代國民國家とは何であり、それはどこに向つて進みつつあるのか」などと言われると、一家眷屬の事しか考へない親や教師は、忽ちおのれの不徳を恥じ入るのである。「懺悔は一種ののろけなり。快樂を二重にするものなり。懺悔あり、故に悛むる者なし」と齋藤緑雨は言つた。親も教師も反省ごつこを樂しんでゐるのだらうか。子供の自殺を防げぬ非力を反省して樂しんでゐるだけの事だらうか。そう思える節も多々あるが、それならいつそ百尺竿頭に一歩を進め、「死にたい奴は勝手に死ね」と突放すだけの勇氣を持てそうなものである。が、實際には決して持てない。人々は反省を樂しんでゐるにも拘らず、樂しんでゐるという事實には決して氣付かない、或いは氣付きたがらない。そしてそれも無理からぬ事であつて、永井氏は「ロケットは月に着いたが、地上には人種間、國家間の爭いがある。東海道新幹線は走つても、教育界の混亂はつづいてゐる」と書き地上の戰爭を嘆いてゐるが、戰後の日本人はこの傳で巨大な産を成したのである。平和憲法を護符として遮二無二稼ぎ捲りながら、「ただ經濟的な動物として生きるのではなく」などと心にも無い綺麗事を言い、世界の平和を念じ、異郷の戰火を憂え、その僞善と感傷を他國に咎められぬよう、常に皇國日本の罪過を言い、そうして反省してみせる事がいかに儲かるかを知つたのであつて、これだけ味を占めたら、容易な事ではやめられまい。乞食も三日やればやめられないのである。
周知の如く、昭和二十年の敗戰は「在來の價値觀の崩壞」を齎し、親と教師は茫然自失、子供に何をどう教へたらよいか解らぬ、といつた體たらくであつた。そして今日なおその後遺症は癒えておらず、かくかくしかじかの事は絶對にしてはならないと子供に言い切るだけの自信が今や親にも教師にも無いという。けれども、日本國民の大半が戰前の價値觀を否定し、軍國主義の罪過を悔い、我勝ちの反省競爭に專念してゐた頃、「俺は馬鹿だから反省しない」と放言した男もいた。小林秀雄氏である。昭和二十一年一月、「近代文學同人との對談」で、小林秀雄氏はこう語つてゐる。
僕は政治的には無智な國民として事變に處した。默つて處した。それについては今は 何の後悔もしてゐない。大事變が終つた時には、必ず若しかくかくだつたら事變は起ら なかつたらう、事變はこんな風にはならなかつたらうといふ議論が起る。必然といふも のに對する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戰爭は一部の人達の無智と野心とか ら起つたか、それさへなければ、起らなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史 觀は持てないよ。僕は歴史の必然性といふものをもつと恐ろしいものと考へてゐる。僕 は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか。
この敗戰の五カ月後に開かれた座談會のメンバーは、小林氏のほか、荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五の諸氏だが、小林氏の發言以外は悉く凡傭であり、退屈であり、殆ど讀むに耐えない。例えば本多氏は、「知識の中には文明人がゐるが、信念の中には野蛮人がゐる」という小林氏の文章を引き、「しかし、やはり竹槍で戰爭するわけには行かないのです。アメリカ軍はジープを自轉車のやうに乘りまはしてゐます」と言つてゐる。本多氏はジープを乘り廻すアメリカ軍に驚き、竹槍で戰おうとした日本を反省した譯である。が、今や日本は經濟大國であり、吾々はもはやジープなんぞを羨みはしない。つまり本多氏の發言は六日の菖蒲となり果てたのである。しかるに、「知識の中には文明人がゐるが、信念の中にはいつも野蛮人がゐる」という小林氏の意見は今日なおいささかも古びていない。それは人間が人間である限り古びはしない。先に引いた永井道雄氏の言葉を捩つて言へば、ロケットが冥王星に達しても、人間の信念から野蛮人を追い出す事はできない。信念にもとづく蛮行や戰爭を根絶する事はできない。
ところで「一億總懺悔」の眞最中に、浮足立つ馬鹿を尻目に、「俺は馬鹿だから反省しない」と小林氏が放言できたのは、時代がどう變ろうと人間の愚昧は少しも變らないという事を知つてゐたからである。「政治の形式がどう變らうが、政治家といふ人間のタイプは變りはしない。だから、さういふ人間のタイプが變らぬ以上、どんな政治形式が現はれようと、そんな形式なぞに驚かぬ。面白くもない」と同じ座談會で小林氏は言つてゐる。敗戰から今日まで綺麗事に終始した教育論議が一向に「面白くもない」のだから、そしてそれが何り役にも立たない事だけははつきりしてゐるのだから、軍國主義が民主主義に變り、その民主主義がまた軍國主義に變ろうと、「そんな形式なぞに驚かぬ、面白くもない」と、三十餘年前に言い切つた小林氏の自信と、信念の中の野蛮人に驚かない度胸を、この際親も教師も見習つたらよいと思ふ。 
樂天家の苦しげな文章
要するに、自信喪失病を癒すには自己反省病を癒せばよいのである。「死にたい奴は勝手に死ね」と突放すためには、他人の死は所詮餘所事だと觀念して、餘計な反省をしなければよい。そしてそれが今も昔も少しも變らぬ人間の本性だと知ればよい。人間にはそういう度し難い本性がある事を認めればよい。人間は蛮行が好きで、「美徳の不幸」を喜び、善の無力を嘲笑う。何より度し難いのが權力欲で、權力欲はどんなに善良な人間にも潜んでゐる。ジョージ・オーウェルは作中人物の一人にこう言わせてゐる、「吾々が他人を支配して、特に生き生きとして來るのはどういう時か。他人に苦痛と屈辱を与えてゐる時だ。他人の顔は何のためにあるか、踏みつけるためにある」。ところが、かういふ始末に負えない人間の本性を樂天的な教育家は一心に矯めようとする。何とかして人間を變えようとする。變えられると信じてゐる。だが變えられた例しは無いし、變えられる筈も無い。『痴愚神禮讃』の著者エラスムスは、人間社會の悲慘と不幸はすべて人間の痴愚に由來するのだから、人間がおのれの痴愚を骨身に徹して知る事こそ焦眉の急であると考へた。が、やがて彼は絶望して『幼児教育論』を書く事になる。エラスムスに限らない、大人の度し難い本性を矯められないと知ると、教育家は幼児に期待するようになる。「子供を放置すれば獸になる。慎重に育てれば神のごとき存在になる」とエラスムスは書いた。口ックやルソーと同樣、エラスムスもまた幼児は大人の意のままに育てられると考へてゐる。大人の考へ方次第で「どのようにも形作られる蜜4」だと思つてゐる。形作つてやる事が善意だと信じてゐる。だが、自分がこんなに駄目な人間だから、他人を駄目な人間にしたくないなどと誰が本氣で考へるだらうか。自分が駄目な奴ならば、他人も駄目な奴になつて欲しいと考へるのが人情であろう。「姑に順ざる女は去るべし」とて姑にいびられたら、自分が姑になつてやはり嫁をいびるであろう。が、教育家はそういう情けない人間の本性を綺麗さつぱり忘れてしまうのである。
それに、ロックが考へたように、生れたばかりの赤子を「一枚の白紙」と假定したところで、教育家の努力を嘲笑うかのように、いずれ必ず幼児は度し難い人間の本性を現わす。そしてそれが誰のせいで出現したかを斷定する事はできない。とかくの議論も所詮は水掛け論に終る。けれども、子供が言葉を憶えなければならない以上、そして言葉が大人の邪惡な本性を反映してゐる以上、子供が大人同樣の本性を示すにいたるのは理の當然である。それゆえ、大人に絶望して子供に期待するのは無益な事だと思ふ。事によると子供は大人以上に利己的で殘忍なのかも知れないのであつて、例えば昨今、子供の自殺の頻發を憂えて大人は狼狽してゐるらしいが、子供は決して子供の自殺を憂えてはいないであろう。
東京國分寺市で、中學三年生の少年が自殺した。それを知つた同じく中學三年生の女生徒はかういふ詩らしきものを作つてゐる。「そのとき、少年は羽ばたいた。バベルの塔のような、高いビルディングから、重い鎖をひきずつて。そして少年は地に叩きつけられた。彼の友は悲しみ、泣き叫んだ。けれど友は、その心の隅で、ニヤリと笑つた」。
これは昭和五十四年の『文藝春秋』三月號に載つた近藤信行氏の論文「少年の自殺」に引用されたものである。この「詩」は「競爭相手がひとりすくなくなつたことにたいする安堵を正直にあらわして」おり、「教育の過熱の弊害、受驗地獄の深刻」によつて「ほんとうの人間味は失われてゆくのだ」と近藤氏は言い、何とも空しい反省の文章を綴つてゐる。
私自身にしても、子供の世界にはついてゆけないほど、彼らは流動的であり、良きに つけ惡しきにつけあたらしいものを身につけてゐる。たとえばいまはやりのディスコに 出かけて、いつしょに踊り狂うことのできる教師や父親は存在するだらうか。舊世代の 感覺で教育し、育てようとしても彼らがついてこないことは必定である。
これが僞善的教育論の典型的な遣り口なのであつて、親や教師はこの種のぺてんに引掛らないようにしたほうがいい。そこで、近藤氏には少々申譯無いが、讀者の理解を助けるため、少々口汚く罵らせて貰う事にする。まず、受驗に限らずこの世は生存競爭である。競爭相手の脱落を喜ぶのが人情である。近藤氏の文章は惡文であちこちに疵があり、暇と機會と根氣があればいくらでも指摘して差上げたいが、かういふ私の酷評を讀めば、いかに善良な近藤氏も、必ずや腹を立てるであろう。腹も立たないくらい遺り込められれば、世を儚んで自殺したくなるであろう。けれども、遣り込めた奴が頓死したら、近藤氏は「心の隅でニヤリと」笑うに違い無い。それなら、冗談と綺麗事は休み休み言うがよいのである。教育を論ずると人は思はず知らず善意の塊と化し、自他の邪惡な本性に氣づかない重症の樂天家になる。樂天家になつて苦しげな文章を綴る。樂天家が苦しむのならぺてんに決つてゐる。そういうぺてんに引掛つて深刻に考へ込む親や教師は、これはさて何と形容したものか。有り樣はどつちもどつちで、割れ鍋に綴じ蓋なのかも知れないが、丸損をするのは親や教師のほうである。俗に「坊主丸儲け」と言うが、子ゆえの闇に迷つていかさま教育論の丸儲けを許すのは、あまりにも間尺に合わない話ではないか。 
死にたい奴は勝手に死ね
近藤氏は「子供の世界」が「流動的」で「ついてゆけない」と言う。假に「子供の世界」が「流動的」だとしても、なぜ一方的に大人がついてゆこうと努力しなければならないのか。人々は昨今、口を開けば權利と平等を言う。が、近藤氏にとつては、大人と子供は平等でさえないらしい。それに何より、子供の自殺を憂え、子供の氣色を窺い、「ディスコに出かけて、いつしょに踊り狂う」大人を子供は決して歡迎しない。腹の突き出た中年男がディスコで踊るのは、老婆の厚化粧同樣に醜惡である。それに、子供も大人と同樣に天邪鬼だから、時に他人の好意を喜ぶが、時に好意的な他人を輕蔑したくなる。それに何より、「子供の世界」は決して「流動的」ではない。當節の「翔んでる女」も大正時代のモガも變りはしない。そして若き世代が「流動的」で、とても「ついてゆけない」と感じ、ついてゆこうと空しい努力をする古き世代の苛立ちと劣等感、それもまた明治この方少しも變つてはいない。「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という俗謡には、丁髷が散切り頭に對して抱いたに相違無い劣等感が表現されてゐる。明治の初期にも丁髷を結う古き世代は、散切り頭の新しき世代についてゆこうと痛ましい努力をしたに違い無いのである。
けれども、子供も大人と同樣に天邪鬼だとすると、大人の反省癖や善意が、ひょつとすると子供の謀反心を誘い出すのかも知れない。子供が自殺する、大人が無理解を反省する、別の子供が自殺して大人を反省させたいと思ひ自殺する、大人がまた無理解を反省する、そういう惡循環があるに違い無い。それなら「死にたい奴は勝手に死ね」と子供の甘つたれを冷たく突撥ねれば、子供の自殺は却つて激減するのではないか。自殺者も死ぬまでは生者だつたのであつて、生者同樣にあの世の事は確と解らない。そこで自殺しようとする人間は住み馴れたこの世の事を考へる。おのれの自殺が生者に及ぼす効果を計量する。その際、この世の生者たちがおのれの自殺を默殺すると考へただけで、彼は必ずや張合ひが抜けるであろう。實際、自殺者の死體を辱しめて頗る効果的だつた事もある。アルヴァレズは『自殺の研究』にこう書いてゐる。
プルタルコスによれば、あるときミトレスに、にわかに縊死する娘がふえて、ついに 町の古老のひとりが、死體を市場まで運んではずかしめることにしたらどうかといつた 。すると虚榮心が自殺の狂氣を克服したという。一七七二年に、パリの陸軍病院で、十 五人の傷病兵があいついで同じ掛けかぎで首をくくつたが、その掛けかぎを抜いたとこ ろ流行がやんだ。(中略)通稱「自殺橋」から入水自殺するボストン市民がたえなかつた ので、當局がやけをおこして橋をこわしたところ、やつとやんだ。それぞれが、氣違い じみた連鎖反應をたちきつた劇的な例である。
二十世紀の今日、まさか自殺者の死體を辱しめるわけにはゆくまいし、かつてのカトリック教會の如く自殺者の埋葬を許さないなどという嚴しい對策を講ずる譯にもゆくまい。だが私が解せないのは、自殺者を遇する生者の心理である。近藤信行氏もそうだが、なぜ生者が自殺者に引け目を感じなければならないのか。生者もいずれ例外無しに死ぬ。自殺者は一足先に、自分の都合で、あの世へ行つたに過ぎない。誰でも行ける所へ行くのに格別の才能は要らないし、誰でも行ける所へ行つた者に引け目を感じる必要は無い。それとも、この世に生き續けるのは疾しい事であると、或いは、あの世はこの世よりもすばらしいと人々は信じてゐるのだらうか。
「この世に生を享けぬに如くはない。が、生れた以上一刻も早く死ぬ事だ」とテオグニスは言つたという。人々はテオグニスに賛同してゐるのであろうか。まさかそんな筈は無い。とすれば生者が自殺者に引け目を感ずるのは之繞を掛けた不条理である。
自殺者は人生の敗者であるばかりか、あの世でも敗者なのだと私は思ふ。無論、近親が自殺者を憐れむのは當然の事である。子供に死なれて悲しまない親はいない。けれども、子供の自殺を報ずるジャーナリストや、自殺を憂える一文を草する物書きは、親の悲しみを食い物にしてゐるという自覺を欠いてゐる、そういう自覺を欠いてゐる死の商人を成敗するために、私は敢えて冷酷な事を言うが、自殺者も死の直前までは生者であつて、生者と同樣、エゴイズムを免れない。遺書に何と書いてあろうと、自殺者はおのれを敗者とは思ひたがらない。それどころか生者を輕蔑して死ぬ。自殺者は生者にこう言う、「俺はこの愚にもつかぬ人生を見限る事にした、お前たちはまだ見限れないのか」と。しかし、あの世のほうが遙かにすばらしいと假定して、自殺者が死後それを知つたとしても、それを生者に傳える術は無い。また友人知己がいずれ次々にあの世を訪れた時、先見の明を誇る譯にもゆくまい。なぜなら、先行者たる彼に何らかの特典が与えられる筈は無いからで、早く死んだ奴が偉いのなら、二十世紀の死者はあの世でピテカントロプスや北京原人の奴隷にされてしまう。それはあまりの理不尽ではないか。それゆえ、自殺者はあの世でもやはり敗者だという事になるのだが、あの世の事はともかく、この世を去ろうとする時の自殺者は、弱者にふさわしい怨念を籠め、敗者にふさわしい虚勢を張り、生者を輕蔑して死んで行くのだと、生者としてはそういうふうに考へたらどんなものか。そう考へれば自殺者の怨念や虚勢に生者がたじろぐ必要は無くなるであろう。他殺はたかだか數人の生命を奪うに過ぎないが、自殺は世界中の生命を否定する許し難き行爲だと、これは私が言うのではない、チェスタトンが言つた事である。その通りであつて、「お前たちはまだ見限れないのか」と呟く自殺者と、この世を肯定し、この世に執着しつつ死ぬ通常の死者とを、吾々ははつきり區別しなければならない。はつきり區別して、自殺は敗北だという事を子供に教へ、自らも死の商人のぺてんに引掛らないようにならなければならない。 
惡魔のいない教育論
ところで、アンドレ・ジードは「惡魔と協力せずにはいかなる藝術作品も創造できない」と言つた。それはトルストイが、信じたくない、信じたくないと思ひながら、その實密かに信じてゐた事である。『アンナ・カレーニナ』の冒頭にトルストイは、幸福な家庭は似たり寄つたりだが、不幸な家庭は千差萬別だと書いてゐる。トルストイについて語つて人は彼の人道主義や平和主義を言うが、實はトルストイくらいすさまじいエゴイストは滅多矢鱈にはいないのである。おのれのエゴイズムにトルストイは一生苦しんだ。不幸な家庭はなるほど千差萬別だが、千差萬別の他人の悲しみをおのれの悲しみとする事ができない、それがトルストイには何より腹立たしかつた。つまりトルストイの心中には惡魔がいたのである。他人の子供の自殺を食い物にする連中の心中にも惡魔はゐる。が、始末に負えないのは、そういう手合には、他人の不幸に乘じて稼いでゐるという意識が欠けてゐる事なのだ。もつともそれも無理からぬ事で、そういう意識があつたら稼げない。そういう意識があつたら稼げないという意識も無い。それがあつたら稼げないからである。
實際私は不思議でならない。文學も哲學も神學も教育も、すべて人間の營みである。それなのに、なぜ教育論議にだけ惡魔がいないのか。プラトンは人間が一切の謙抑を捨てたらどうなるかを案じたが、マルティン・ルターはその謙抑を擲ち、教會を否定し、人間の中にいかなる善性をも見ないようになる。「私は惡魔を首にぶらさげて歩いてゐた。奴は私のベッドで頻繁に寢た、妻よりも頻繁に」とルターは書いてゐる。また、一八四八年十二月十九日、英國ヨークシャーの牧師館で、エミリーという娘が三十年の短い生涯を閉じた。無口で内氣な男嫌いの娘であつた。娘は數篇の詩と長篇小説『嵐が丘』を遺した。その小説の作中人物はこんなふうに呟くのである。
法律がもう少し嚴しくなく、趣味がもつと優美で洗練されてゐる國に生まれてゐたな ら、俺は夕方、あの二人をゆつくりと生きたまま解剖して樂しめるのだが・・・・・・ 。
ジョルジュ・バタイユの言う通り、これは殆どサドの描いた極惡人にふさわしい臺詞であつて、これほどの惡魔を「道徳的なひとりの若い娘が創造した」のは「それだけでひとつの逆説ともいうべきこと」であろう。けれども、藝術作品の創造に惡魔の協力が不可欠なら、一見道徳的なエミリーの心中に惡魔がいた事に何の不思議も無い。不思議なのは文部大臣まで勤めた世間師が惡魔と無縁の文章を書く事である。いや、それとも「文部大臣まで勤めた世間師だから書ける」と言うべきか。それはともかく、文學や哲學に惡魔が顔を出す事は當然の事と考へる癖に、人々は教育論における惡魔の不在を一向に怪しまない。幕末から明治にかけて、小説家は「下劣賎業」の輩と見做されてゐた。假名垣魯文は「戯作者は愚を賣つて口を糊するものだ」と言つてゐる。勸善懲惡の戯作が惡魔と深く契つてゐた筈は無いが、今日もなお世人は、教育は聖職だが、文學は「下劣賎業」だと考へてゐるのだらうか。
だが、文學の効用は色々あるが、その一つに人間の悲慘を教へてくれるという事がある。偉大な文學は同時に人間の偉大を教へてくれるが、悲慘だけなら二流の文學も教へてくれる。『嵐が丘』は二流の作品ではないが、一見道徳的な娘の心中にも惡魔がいたと解れば、元文部大臣の心中に惡魔がいない筈は無いという事が解り、世界人類の事を考へるのは拙劣なぺてんだという事が解り、勿論、おのれの心中にも確かに惡魔がゐるという事が解り、かくて、いかさま教育論のぺてんに引掛らなくなるのである。
それに、教育が惡魔と縁の無い聖職なら、教師は非行少女の心中に潜む惡魔を操れないであろう。例えば、暴力團に加わり、賣春をやり、猥褻映畫の主役を演じた女子中學生が警察に補導される。家庭は荒んでいて、生活指導の教師もいかんともし難い。教師が訪問すると娘を殴る事によつて親の責任を果そうとする酒亂の父親、娘の暴力を恐れ腫物に觸るようにしてゐる病弱の母親・・・・・・。困惑した教師は非行問題の專門家の意見を仰ぐ。では、非行に關する書物にはどういう處方箋が書いてあるか。こうである。
少年非行をなくし、あるいはこれを防止するための原動力が愛情であることは述べる までもないことである。この深い愛情にささえられた科學的認識と理解、それにもとづ く慎重さと忍耐が、個別的にしろ一般的にしろ、少年非行問題を解決する要諦である。 (樋口幸吉『非行少年の心理』)
非行の原因を探り、「科學的診斷」を下し「深い愛情にささえられた」指導技術を説くこの種の書物の効用を私は信じない。「深い愛情にささえられた」家庭の子供も非行に走る。いや、子供に限らない、「孔子の倒れ」という事もある。いつぞや新聞で讀んだ事だが、中學だか高校だかの校長を停年退職して、何の不自由も無い暮しをしてゐた老人が、卑猥な春畫を描いては、それを他家の郵便受けに投げ入れ密かに樂しんでいたという。人間はそうしたものなのだ。そして、人間はそうしたものだという事を文學は教へるのである。シェイクスピアはリア王にこう喋らせてゐる、
やい、田舎役人め、酷い奴だ、手を控へろ!なぜその淫賣に鞭を當てるのだ?それよ り己の背を鞭打て、貴樣の欲情はその女の肉を求めてゐる、その疚きが女を鞭打たせるのだ。
淫賣婦の罪を咎めて鞭を振う男が、淫賣婦の肉を求め欲情に疚いてゐる。それがありのままの吾吾の姿なら、「少年非行問題を解決する要諦」などある筈がない。賣春を體驗し、猥褻映畫に出演し、その體驗を得々として物語る非行少女を前にして、教師や警官が心中密かにその少女の肉體に魅せられる。そういう事がある。そういう事が確かにあるという事を文學は教へるが、教育書は決して教へない。非行問題の或る專門家によれば、子供を非行に走らせるような「不適當な親子關係」として「親の過剰な保護、甘やかし、きびしすぎ、完全癖による子どもに對する干渉のしすぎ、權力的な支配、偏愛、拒否、放任、無理解など」が擧げられるという。かういふ事を言われて、さて親はどうするか。「適當な親子關係」を保つべく、適度に保護し、適度に甘やかし、適度に嚴しくし、適度に干渉し、適度に支配し、適度に偏愛し、適度に拒否し、適度に放任し、適度に理解する、そういう事をやるしかない。けれどもこれほど多岐に亙つて適度を保つのは人間業ではとても不可能だから、やがて「適度」は「好い加減」に變るしかない。人間の本性を無視して「好い加減」になるまいと力み返れば、いずれ必ず挫折して「やけのやんぱち」になる。それを稱して「育児ノイローゼ」と言うのである。 
非行少女はゴミタメに捨てろ
要するに樋口幸吉氏の著書は實用書である。それは「高踏的」な永井道雄氏の教育論よりも數等ましである。だが、教育や「知的生活」に關する限り、私は今流行りの所謂ハウ・ツーものを信用しない。『サボテン栽培法』を讀めば見事なサボテンが出來るだらうが、子供はサボテンではない。それに『金の儲け方』なるハウ・ツーものを書いた男が倒産する事もある。オスカー・ワイルドが面白おかしく書いてゐるように、稀代の占師がおのれの運命は占えずして殺されるという事もある。事實かどうか解らないが、ソクラテスの妻クサンチッペは惡妻だつたという。妻はよろしく仕込むべしとソクラテスが主張した時、アンチステネスが言つたという、「それだけの理窟が解つてゐるのなら、ソクラテス、なぜ自分でクサンチッペの教育をしないのか」。クセノポンの傳えるところでは、母親の度し難さを父親ソクラテスに訴えた息子ランプロクレスに對して、ソクラテスはこう答えてゐる。「しかし野獸の殘酷と母親の殘酷とどちらが堪え難いと思ふかね」。
偉大なるソクラテスでさえ惡妻を仕込めなかつた。それを知つたらずいぶん氣が樂にならないか。天才の弱點を知つて氣樂になる事を無条件ですすめる譯では決してないが、ソクラテスの言う通り、野獸の殘酷よりは母親のそれのほうが遙かにましである。いや、野獸よりもましだと言へないほど酷い母親を持つたとしても、それがわが身の不運と諦めて、子供はそれに耐えるしかない。親にしてみれば、駄目な子供ほどかわいいに違い無い。子供の親に對するも同じ事で、欠點の多い親だからとて親を取替える譯にはゆかないのである。少なくともそう考へて親はもう少し氣樂になつたらよい。それに、父親の後ろ姿を見て子供が育つという事は本當であつて、父親は專ら仕事に励めばよいのである。倒産しそうな中小企業を何とか支えようと、連日脂汗を垂らしてゐる父親を見てゐたら、子供は決して自殺はしない、非行にも走らない。ディスコで踊る暇のある父親を持つ子供こそ、得たりやおうと惡に走るのである。
それに身も蓋も無い事を言へば、浜の眞砂は尽くるとも、この世に非行の尽くる時は無い。大昔から賣春もあれば人殺しもあつた。人間誰しも姦通したくなる時があり、人を殺したくなる時がある。けれども皆が一斉に勝手氣儘はやれないから、姦通したくとも姦通せず、殺したくても殺さない連中が、自分たちの事を良民と呼び、非行、すなわち新潮國語辭典によれば「道理にはずれた行爲」を敢えてする手合を、牢に入れ隔離したのである。幸田露伴は『一國の首都』の理想を論じて次のように書いた。
娼妓の廢すべきは論なき也。考うべきは時機也。風呂屋、踊り子、岡場所の妓、藝者 等、すべて色を賣り淫を賣るものは、良民の間に雜居せしむべからざる也。(中略)藝 娼妓の市中に横行するを禁ずることは、猥せつ繪を市中にバクロするを禁ずるが如くす べき也。良民に不必要なる種類の待合・茶屋は遊廓内に逐ふべき也。大にして堅固なる ゴミタメを造るは、すなはち清潔を保つゆゑんなり。
この種のゴミタメの効用を誰も否定できないと思ふ。それに、ゴミタメを廢止してもゴミそのものは無くならない。遊廓は無くなつても賣春は無くならない。賣春防止法が施行されて、却つて我國は清潔を保つ事が難しくなつたのかも知れないのである。
とは言へ、私は遊廓復活を主張してゐるのではない。日本人の道徳心は所詮美意識だとよく言われるが、その美意識も頗る怪しくなつた今日、遊廓なんぞが復活する筈は無い。私はただ、娼妓をゴミタメに捨てろと主張した露伴の自信を見習うべきだと、そういう事が言いたいに過ぎない。つまり「死にたい奴は勝手に死ね」と同じ事であつて、「非行少女はゴミタメに捨てろ」と放言できるだけの、厚かましいまでの自信を、親や教師は持つべきなのである。「厚かましい」と形容したのは、すでに述べたように、男の教師なら非行少女の肉體に魅せられる事があるからで、魅せられながら突放すのはほんの少々「厚かましい」からである。が、その程度の厚かましさに耐えられないようで、教師がどうして勤まるか。魅せられるのはよい、手を着けなければよいのである。 
子供の未熟をうらやむな
さて、昨今流行してゐるらしい非行少年による所謂「校内暴力」を論ずる紙數が無いから、話を非行少女に限つたが、男の教師が非行少女の肉體に魅せられたとしても、五體滿足な教師ならそれは當然の事で、反省する必要など全く無いのである。しかるに、性に關する限り大人の自信喪失はかなりの重症であつて、所謂「不純異性交遊」や性教育には手を燒いてゐるという。それは性に關して大人が反射的に疚しさを感じてしまうためである。奇妙な事だと思ふ。假に性が不潔で忌わしいものだとしても、大人の性だけが不潔で忌わしい譯ではない。それにも拘らず、世間が大人の性の不潔のみを重視しがちなのは、子供を社會の汚染から守つて、飽くまでも善良に育てようとする主婦連的な善意のせいなのか。それとも主婦連的な善意が胡散臭い事を知りながら、その僞善を叩く氣にもなれず、かといつて開き直る事もできぬ臆病ないし怠惰のせいなのか。前者の僞善はかつて大學紛爭の際、あちこちにはびこつたものと同質で、進歩派の教師は大人は汚れてゐるが若者は純眞であると信じ、若者の正義に眩惑され、おのが不純を恥じ、反省競爭に專念した。或いは專念する振りをした。かういふ僞善は叩くのが面倒臭いから、問答無用、馬鹿は死ななければ癒らないとて切捨ててしまえばよいが、ポルノがこれほど市場に出廻つてゐるにも拘らず、後者の臆病と怠惰が一向に癒されないのは遺憾である。少々荒療治を試みよう。
「老いて智の若き時にまされること、若くしてかたちの老いたるにまされるが如し」と兼好は書いてゐる。老いたる教師が「若くしてかたちのまされる」非行少女に魅せられる事に何の不思議も無い。不思議なのは「老いて智の若き時にまされる」筈の教師が子供や若者の知的未熟に眩惑される事である。老ゐるとは汚れる事だ。けれども、汚れる代りに大人は何かを得る。その汚れる代りに得たものに、なぜ大人は自信を持てないのであろうか。若者もいずれは老いて汚れるのである。「聖を立てじはや、袈裟を掛けじはや、珠數を持たじはや、歳の若きをり戯れせん」と今樣にあるが、どんな馬鹿にも青春はあつて、大人も皆かつては「歳の若きをり戯れせん」とて青春を謳歌したのだが、やがて戯れて後の空しさが骨身に應えるようになり、「歡樂極まりて哀情多し」という事を知つたのである。「物を知る事は強い人間しか強くしない」とジードは作中人物に言わせてゐるが、それを言つては身も蓋も無い。大人が強くなれば、子供の知らぬ事を知つてゐる事に自信が持てるようになる。子供の無知ゆえの無邪氣なんぞに眩惑されなくなる。そして、そういう強い大人が子供を逞しく育てるのである。子供は大人にならなくてはならぬ。つまり、汚れなければならぬ。汚れてなおへこたれぬ根性無しに、この世は渡つてゆけないからである。それゆえ、大人が子供の純情に眩惑されるのは百害あつて一利無し、大人はおのが世間擦れに厚かましいまでの自信を持つたらよいのである。 。
大人は「歡樂極まりて哀情多し」という事を知つてゐる。子供は勿論それを知らない。知つてゐる事が幸福に繋がるかどうかは大問題だが、眞實子供のためを思ふなら、大人は知つてゐる事に自信を持つべきである。例えば、頓智の小坊主一休の事は子供なら誰でも知つていよう。が、大人はそれ以上の事を知つてゐる。すなわち、一休は淫房酒肆に遊んだ破戒僧であり、歳七十を越えて三十歳の盲女との性愛に惑溺した男であり、盲女の淫水を吸い陰に水仙花の香を嗅いだ男なのである。そういう事を大人は知つてゐる。
一休は心中に地獄を見、「野火燒けども尽きず、春風草又生ず」る事に苦しんだ。「一切の物をよしともあしともおもはざるところを、よしとも又思はず」との境地には達しなかつた。水上勉氏は「全盲女への哀れと、慈しみと、それに消えやらぬ性欲がまじりあい複雜な歡迎となつて手をさしのべる一休」と、「召し使いの眼あき女性如勝を庵に宿らせ、罪ふかい人間として惡人正機を説き、救いの名において閨をかさねてゆく蓮如とは多少事情がちがう」と言つてゐる。けれども、蓮如の場合は惡人正機が女犯の口實として用いられ、一休の場合は「一方は出家の、一方は盲者の垣根をこえて、肉體的に結ばれて、何の悔いものこらぬ悦樂境を」味わつたとしたとごろで、兩者に本質的な相違などありはしない。戒律が絶對善に支えられていない以上、戒律を破る破戒の行動たる逆行も惡とはなりえない。そしてそれなら、「坐禅するにもあらず、眠るにもあらず、 口のうちに念ぶつ唱ふるにもあらず」、大愚と稱し、托鉢して暮らし、米が餘れば雀にくれてやつた良寛を順行の僧とは言へず、かと言つて、盲女の楚臺に接吻する一休を逆行の僧とも言へぬという事になつてしまう。かくて、良寛ほど有徳でないという事は恥辱にならず、一休ほど不徳でないという事は辯解の種になるのである。
けれども、そうして良寛と一休を知り、恥辱を免かれ弁解の種を手に入れたら、ソクラテスもじゃじゃ馬に手古摺つたと知つた時同樣、吾々は氣が樂になる。「昨非今是、我が凡情」と言つた融通無礙の一休を知つたら、少々の事には驚かないようになる。子供は繪本を讀んで頓智の小坊主一休を知つてゐるに過ぎない。が、「老いて智の若き時にまされる」大人はそれ以上の事を知つてゐる。水仙花の香を嗅いだ一休を知つてゐる。だが、大人はそれを子供に語らない。語つても仕方が無いからである。 
性教育は茶番なり
それゆえ、「老いて智の若き時にまされる」事に自信を持てないという奇病を癒したら、次に大人は、子供の知らぬ事を知つていながら敢えてそれを語らず、しかもそれを語らぬ事に疚しさを感じないようにならなければならない。誰も小學生に微分積分を教へはしない。無常を説きはしない。相手構わずすべてを語るのは馬鹿か氣違いである。大人は隱すべきものを隱さなければならない。一休の頓智に感嘆するわが子に、一休の女犯について詳細に語る親は一人もいないであろう。それは有害無益だと親は誰しも考へる。ところが、性教育に關しては親も教師も自信を持てない。そしてそれは性をあからさまにする事を躊躇い、それに疚しさを感ずるためなのである。解せない事だ、躊躇うのは當然だとして開き直るだけの自信をなぜ持てないのか。性は隱すべきものであつて、あからさまに語るべきものではない。私的交際における性の活力を保つためには、性を隱蔽する事が必要なのである。ポルノ解禁論者は解禁した國々で性犯罪が減少しつつある事を言う。馬鹿な事を言う。性犯罪の減少は必ずしも歡迎すべき現象ではない。それは性に對する感性の鈍磨を意味するに過ぎない。
けれども、今や性は頗る公けのものになつてしまつてゐる、マス・メディアは性を賣物にし、街角にはポルノ自動販賣機が置かれてゐる、そういう時代に親や教師がどうして性を隱しおおせようか、どこから自分は生れて來たのかと子供に問われて、「あんたは、神樣にお願いして授けてもろたんや。滿願の日に、お宮さんの石段のところに神樣が置いとかれたのを、貰うて來たんや」などと答えるのは、「性がいやらしく、みだらなこと、人前では口にすべきものではないと教へこまれてゐた時代」には効果的だつたろうが、今はとてもそれでは駄目であつて、もつと科學的な解答を母親は用意していなければならない、そう反論する向きもあろう。が、それなら例えば、次のような解答が果して模範的解答と言へるであろうか。
お父ちゃんは働いて、お母ちゃんや、あんたを世話する責任がありますから、毎日外 へ出てゆきます。しかし、家にゐると、いつもお母ちゃんといつしょにいたいと思ふし 、夜は同じベッドに寢ます。二人は愛しあつてゐるので、できるだけ近づき、いつしょ になりたいと思ひます。夫婦はみんな、そうです。それで、いちばん密接にからだを近 づけ、ふれあつたとき、非常に特別な二人だけの方法で夫と妻は愛し合ひます。キッス したり抱きあつたりする以上の仕方です。これ以上には近づけない状態にまでからだが 接したとき、夫は彼のペニスを、妻のからだにあるバジャイナ(膣)とよばれる特別の 場所へ入れます。
これはアメリカの性教育書の一節であり、朝山新一氏の『性教育』から孫引きしたものである。何とも酷い日本語の羅列だが、それはともかく、ここまで客觀的に語れるようになるには、日本人の「考へ方がもつと合理的、科學的にならなければ」ならないし、「住居の条件などが完備」されなければならないと朝山氏は言い、氏自身が「當をえてゐる」と考へる「客觀的知識に導く」説明の實例を示してゐる。要するに雄蕊雌蕊を用ゐる「科學的方法」である。朝山氏の方法を私は紹介しないが、アメリカの方法も朝山氏の方法も、三つの點で「神樣がおいとかれた」式の古典的方法に及ばない。
まず第一に、二つの近代的方法は夫婦の事しか考へておらず、古典的方法に裏打ちされてゐる子供への愛情を欠いてゐる。「神樣にお願いして授けてもろたんや」という一見稚拙な説明には、母親の子供への愛情が見事に表現されてゐる。「お前のようなやんちゃな子は、私の子じゃない。紅葉橋の下を、箱にはいつて流れて來たのを拾つて來たんだよ」と母親に言われた今東光和尚は「俺の臍と、お袋の臍は繋がつちゃいなかつたんだと、ずいぶん長い間惱んだもんだ」と述懷したそうである。和尚の母親は和尚を突放してゐるのであつて、子供を憎んでゐるのではない。愛してゐるから突放してゐるのである。和尚は長い間惱んだかも知れないが、母親の愛情を疑つた譯ではないであろう。そういう事を母親に言われ續けて和尚は和尚になつたのである。今東光和尚ほどの人物でも惱んだのだから、「氣の弱い子なら、不當な答えが、正常な精神發達に影響するコンプレックスになる可能性は」充分にあると朝山氏は書いてゐるが、「氣の弱い子」なら母親の「不當な答え」に自殺しないまでも、いずれ必ず他人の「不當な答え」に衝撃を受けて死ぬ羽目になる。
第二に近代的方法は事實のすべてを語つていない。夫が妻の「陰に水仙花の香」を嗅ぐ事までは教へていない。つまり、古典的な方法は何かを隱そうとはしていないが、近代的方法は何かを隱そうとしてゐるのであり、隱すのは當然だと開き直つてゐる譯でもない。それはいずれ隱す事の後ろめたさを免れず、また、ここまで正直に話したのだから、子供はそれ以上の追及はすまいと密かに期待してゐる譯である。もとより他人の良識を期待するのは決して惡い事ではない。しかし、それは同等もしくはそれ以上の他人に對する場合に限るべきであり、少なくとも親が子供に良識を期待するのは滑稽であり、非常識である。とまれ、どんなに合理的な親でも、性のすべてをあけすけに子供に語る譯にはゆかぬ。ポルノ解禁論者といえども、まさかわが子に性の實地教育を施す度胸は無いであろう。雄蕊雌蕊の性教育など所詮茶番に過ぎない。そういう茶番を眞顔でやつてのけられる人間はどこか狂つてゐる。性のすばらしさは、そういう綺麗事の科學的方法では掬い取れない淫靡なものにあるのであり、それはあくまで隱すべきものなのだ。「性に關する器官には陰の字がつけられてゐるが感心できない。陰を除きたいが、解剖學上の術語でいたしかたない」と朝山氏は書いていて、私はこのくだりで笑い轉げたが、隱し所は英語でもprivate parts,フランス語ではles parties honteusesなのである。
第三に、近代的方法は子供の密かな願いを見落してゐる。子供はいずれ必ず秘密を知るが、兩親の性交を目撃したいなどとは斷じて思はない。性交の事實を惡友から教へられても、暫くはわが父母に限つてそのような事はないと考へたがる。つまり、子供は親や教師から性教育を受けたがらないのである。いかに非科學的であろうと、にやにや笑つて得意げに惡友が授ける性教育のほうを子供は好む。或いは密かに入手した性教育書やポルノによつて自ら研究する事を好む。それゆえ、親や教師がポルノ自動販賣機を憎むのは逆恨みというものであろう。雄蕊雌蕊の性教育も所詮は子供の良識に頼らなければならない。それならいつそ子供の性教育は性教育書やポルノの「良識」に頼つたらどうか。私はふざけてゐるのではない。子供は親や教師から性教育を受けたがらない。それは正常な子供の密かな願いなのであり、近代的性教育はそういう子供の願いを天から無視してゐるのである。
以上、私は自殺と非行と性教育を論ずる教育論のぺてんを發いたが、教育論はそれ以外にも樣々な問題を扱つてゐる。が、何を扱おうと僞善的教育論のすべては愚劣淺薄で、まともな事は何も言つていない。要するに惡魔不在の教育論、人間不在の教育論ばかりなのである。教育家もかつては子供だつた。そして惡友の性教育を喜んだのである。しかるに、彼等はそういう事を實に見事に忘れてゐる。そういう一番大切な事を忘れて教育の現状を憂え、彼等はとかく深刻な顔をしたがるのだが、それは子供の自殺や非行が飯の種だからである。重ねて言つておくが、そういう死の商人に煽られて騷いだり惱んだりするのは愚の骨頂である。子供が自殺したり警察に補導されたりすると、親は決つて「うちの子に限つて・・・・・・」と絶句し、その見通しの甘さを批判されるけれども、親は皆「うちの子に限つて」と思ひ込んでゐるのであつて、その事自體少しも咎めらるべき事ではない。自動車のハンドルを握る者は、皆「俺に限つて」と思つてゐる。けれども、皆が事故を免れる譯ではない。そして交通事故の死者は自殺者よりも遙かに多いのである。運不運という事がある。交通事故を絶滅できるとは誰も思ふまい。それなら、自殺や非行を根絶しうるなどと考へぬがよいのである。 
週刊誌時評

 

ポルノのみにて生くるものにあらず
「偉そうなことを言つてゐるが、ポルノはどうした」と言われて俯くのが週刊誌で、それゆえ週刊誌は信じてもいい、という意味のことをかつて山本夏彦氏が書いた事がある。かういふ考へには恐るべき眞實があつて、人間どこかで手を汚さずには生きてゆけない道理だから、脛の傷を隱さぬ週刊誌が大新聞や代議士の僞善をうさん臭く思ふのは當然である。が、それも程度問題であつて、「ポルノはどうした」、「ポルノ記事の低俗を少しは反省しろ」などと言われても一向に動じない週刊誌がやたらに多くなつた今日、週刊誌は低俗でその報ずるところはしばしば眉唾だと、例えばトルコ風呂探訪記の如き記事を讀まされて人は思ふのである。そしてそれも當然のことで、當然のことだからこそ政治家は何よりも清潔に見えるよう苦慮するわけなのだ。だから、そういう僞善の化けの皮をひん剥くには、週刊誌自身も信用をおとさぬようなにがしかの努力をしなければならない。
「新自ク機關誌にポルノ記事」が載つたという珍「事件」を報じた週刊讀賣六月四日號の文章は、そういう点で期待したのだが、新自由クラブの代議士諸公が大いに周章狼狽したというわけでもなく、清潔が賣物の政黨とポルノという興味深い組合せから、「責任者たるものは機關誌の原稿に目を通すべし」との至つて平凡な結論しか引き出せぬ記者の凡庸には落胆させられた。この事件が「新自クのつまずきになるか。それとも、消え去る瑕瑾ですむだらうか」と記者は結んでゐるが、文章というものは書き手のすべてを正確にあらわすものであり、この結びの文章は、筆者がこの事件を「新自クのつまずきになる」とは見ていないということをはつきり示してゐる。それにも拘らず「瑕瑾ですむだらうか」などという空々しい問いを發し、讀者の關心を引こうとしてゐるのであり、どんな低俗な讀者をも欺きえまいと思はれるこの種のぺてんは、低俗なよた記事と同樣、週刊誌の信用を失墜させることになるだけである。
ところで、編集長が交代して以來の週刊文春からは「ポルノ的なもの」が影を潜めた。六月二日號の「讀者からのメッセージ」には「全面的にピュリタニックになさらぬよう」との要望が掲載されてゐるが、人はポルノのみにて生くるものにあらず、最も讀み應えのある週刊文春と週刊新潮とがかなりの賣行きを示してゐるという事實は、兩誌を讀むことが人々の「知的生活」の一部となつてゐることの證拠であると言へよう。タイムやニューズウィークのような週刊誌がわが國にもあつていいのである。
ただし、週刊文春は讀み應えがあるばかりでなく、文章も明晰で調査も行屆いており、その点は高く評價するが、日本共産黨の上田耕一郎夫人が「皿洗い器を使つてゐるのも近所の主婦にはよく思はれていない」といつた類の事實の記述は單なる暴露戰術としか思はれまい。そういう瑣末な事實は、蒐集してもこれを思ひ切つて捨てるべきである。
(昭和五十二年六月七日) 
馬鹿を叱る馬鹿
慶應大學教授による入試問題漏洩事件を扱つてサンデー毎日はこう書いてゐる。「この事件に關係してゐるとニラんだ人物を洗うたびに、南青山や赤坂の豪邸に驚いた。(中略)白亞の豪邸を持ち、一戸で三つもバスをもつ高級マンションに住む。朝夕、滿員電車に揺られ、額に汗して働く大衆が狭いコンクリート長屋にあえいでゐるというのに」
かういふ下等な文章を、いかに鉤括弧で括つてであれ、自分の文章の中に取込まざるをえない事を、私はいささか腹立たしく思ふ。下劣な人物を作品に取込めば作品そのものが下劣になつてしまうと、フランス自然主義小説を論じてある批評家が言つてゐるが、それは確かな事である。それに、むきになつて馬鹿を叱るのは、これまた馬鹿にほかならないという事にもなるのだが、やむをえない、當分私は馬鹿を叱る馬鹿の役を演じなければならない。
サンデー毎日の記者は、白亞の豪邸に住む「幻の會社」の社長たちに義憤を感じた積りかもしれないが、このふやけた文章がはつきり示してゐるのは、記者の感情が義憤でなくて低級な嫉妬だという事である。「義憤的なひとは、その價値なくしてうまくやつてゐるひとびとについて苦痛を感ずる。嫉視的なひとはそれ以上に、あらゆるうまくやつてゐるひとびとについて苦痛を感ずる」(高田三郎譯)とアリストテレスは言つてゐるが、「幻の會社」の社長たちが「その價値なくして」うまくやつてゐると斷定しうるだけの充分な證拠を示さずに「コンクリート長屋」の「大衆」の苦痛について語るのは、低級な嫉妬のなせる業にほかならない。言うまでもなく嫉妬は卑しい感情である。それゆえ良識ある人間はそれを隱す。が、大衆の嫉妬心を煽る事を正義と心得てゐる記者にその種の良識は期待できないのかもしれぬ。それゆえこれは無理な注文かもしれないが、そういう記者は專ら足で稼いでもらいたい。頭を使うという作業は斷念して、拾い集めた事實だけを淡々と語つてもらいたい。
とまれ、前囘私は週刊讀賣の記者を批判したが、今にして思えばあれは少しく高度の批判であつて、讀賣にはこれほど浮薄な文章は無いのである。毎日は少し讀賣を見習つてもらいたい。例えば、先日、寢屋川市の主婦が體面を重んじ、生活保護を受けようとせずに餓死したが、その事件を扱つた讀賣の記事を見習つてもらいたい。「體驗レポート・ジーンズはどこまで許されるか」の如き愚劣な記事を追放してもらいたい。「ナァニがヒヒヒだ、ジーパン、いまや、ファッションですらない」・・・・・・何と下品な文章か。
ところで今囘は週刊新潮についても觸れる積りだつたが、馬鹿を叱る馬鹿になりすぎて紙數が尽きた。新潮は文春と同樣、多くの美點と多少の欠點を持つ週刊誌だが、その事については次囘に述べようと思ふ。
(昭和五十二年六月二十一日) 
左右を叩く無責任
週刊文春の「日本共産黨の金脈シリーズ」が完結した。『赤旗』は「もはや狂亂としか思えない」ほどの文春攻撃をやつてゐるそうだが、文春六月三十日號に掲載された「若き共産黨員に告ぐ」の中で共産黨元中央委員廣谷俊二氏が言つてゐるように、「このような猛烈な非難キャンペーンの集中砲火」によつて「批判者や、その同調者を萎縮させ沈默させようとする」のが共産黨の常套手段なのであり、それはつまり共産黨というナメクジにとつて自由とは鹽の如きものであるからに他ならない。文春の記事に多少の勘違いはあつたかも知れぬが、この際それは些事である。黨員に言論の自由を許さぬこの陰湿な政黨に對しては、今後とも勇氣と品位を失う事なく「批判のメスを入れて」もらいたい。
ただ、文春の田中編集長は「われわれは右でも左でも、イデオロギーと關係なく」批判してゐると言つており、それは編集者として當然の心構えだが、實は、右も左も蹴とばすという事は至難の業でもあるのである。例えば文春は野坂昭如氏の「右も左も蹴つとばせ」を連載してゐるが、これが何とも無責任かつ輕薄な文章なのだ。自民黨、新自由クラブから共産黨、革自連まで、當るを幸い蹴とばしてゐるつもりの野坂氏だが、革自連は知らず、自民黨も共産黨も、確實に野坂氏を輕蔑してゐるであろう。八つ當りをしながらも野坂氏は自分を愚かに見せる事を忘れない。そういう配慮をしておけば、野坂氏の文章に目くじらを立てるのは野暮な事だと、相手方が思つてくれるだらうとの狡猾な計算をしてゐるわけである。實際それは野暮なのである。週刊朝日も野坂氏の文章を連載してゐるが、六月二十四日號で開陳してゐる「君が代」をトルコ風呂やピンクキャバレーのBGMにせよといつた類の意見に腹を立てるのは、まこと大人氣無い事なのかも知れぬ。
要するに、人間、右も左も蹴とばすためには、信念やら羞恥心やらは捨てなければならないという事にもなるのだが、週刊誌には大新聞の「偏向」を是正するという役割もあつていいはずで、例えば週刊新潮が連載してゐるヤン・デンマン氏の「東京情報」は、そういう役割を充分に果たしてゐる。「東京情報」は世間が自明の理としてゐる事柄を徹底的に疑う人物の手になるもので、最近高木書房から單行本として上梓され、私は通讀したけれども、明らかにデンマン氏は專ら左を蹴とばしてゐるのである。が、野坂氏の文章は毒にも藥にもならぬ。純然たる娯樂記事ならばともかく、そういう戯作者ふうの無責任な八方破れの文士に、週刊文春は今後食指を動かさないでほしい。
最後に週刊サンケイについて一言。サンケイ六月三十日號にはトルコ風呂探訪記の如き下品な記事があつたが、七月七日號はかなり充實した内容であつた。今後は例えば「福田外交の六カ月を採點する」のような記事をふやし、「拳鬼奔る」の如き幼稚で汚らしい劇畫は追放してもらいたい。
(昭和五十二年七月五日) 
良藥は口に苦し
參議院選擧は終つたが、今囘の立候補者は大方嘘つきか僞善者であるに違いない、と週刊新潮七月十四日號でヤン・デンマン氏が書いてゐる。デンマン氏によれば「戰後の日本を惡くした元凶」は「怠け者を甘やかした」事であり「怠け者のクビも切れなくなつた」事なのだが、「不肖、私が當選したあかつきには、この日本から怠け者を退治します」と言い切つた候補者は一人もいなかつたのであつて、それはどうしてだらうとデンマン氏は訝しむのである。が、その理由は至極簡單であり、それは多分デンマン氏も承知していよう。
要するに、今や政治家は媚び諂う口巧者となつたので、怠け者退治の公約などを掲げようものなら、その候補者は必ず落選するのである。政治家たるもの本當の事は言つてはいけないのであつて、例えば國連は田舎の信用組合の如きものだと私は思つてゐるが、それを口走つた大臣の首は飛んだのだ。政治家は常に綺麗事を言つていなければならない。「巧言令色スクナシ仁」などという格言は、今や完全に死に絶えたのであり、してみれば綺麗事を言い澁つた川上源太郎氏が落選したのも當然の事かもしれぬ。もはや政治家は國民を教導しない、專ら國民を甘やかす。いやそれは政治家に限らない、ジャーナリストは讀者を甘やかし、教師は學生を甘やかし、親は子供を甘やかす。
けれども、國家も家庭と同樣、常に順境にあるとは限らない。そして孟子の言う通り、「敵國外患無きものは國つねに亡ぶ」である。とすれば社會の木鐸としてジャーナリストは、時に讀者に苦言を呈する勇氣を持たねばなるまい。讀者の機嫌を損ずるような事も言わねばなるまい。その點週刊新潮はあつぱれであつて、七月七日號の醫者は出身校を看板に明記せよとの提言にせよ、十四日號の寺尾判決批判の記事にせよ、明らかに一部の讀者の神經を逆撫でするような事を敢えて言つてゐるのである。七月七日號には「人間個々の能力はいかんともしがたい不平等主義に支配され、それがまた人類永遠の問題である」という文章があるが、良藥は口に苦し、かういふ苦い眞實を知らされて喜ばぬ讀者も多いはずである。が、これは否定しようのない眞實なのだ。人間には能力差がある、同樣に大學には格差がある。東大出にも馬鹿はいようが、それでも東大は一流であり、入試問題を漏らすような教員がいたとしても、慶應は「私學の雄」なのだ。
政治家は本當の事が言へない。それならせめて新聞や週刊誌が本當の事を言わなければならない。が、實態はどうか。讀賣、朝日、毎日の三大紙は、例えば寺尾判決にはしゃぎ、「集團ヒステリーに迎合した」のである。サンケイ新聞の讀者ならサンケイの報道の冷靜を知つてゐるだらうが、サンケイ一紙では所詮三大紙には太刀打ちならぬのである。それゆえ週刊新潮や週刊文春は貴重な存在であつて、兩誌は今後も、讀者を樂しませつつも、讀者の耳に逆らう直言をつづけてもらいたい。
(昭和五十二年七月九日) 
岡田奈々と川端康成
人間は度し難いほどスキャンダルが好きである。洋の東西を問わない。今も昔も變らない。人々は他人の不幸が好きなのであり、それはルナールが言つてゐるように「自分が幸福であるだけでは充分でなく、他人が不幸である事が必要」だからで、そういうけしからぬ根性が人間には確かにある。それゆえイギリス十八世紀の劇作家リチャード・シェリダンは、他人の惡口に興じて生き生きとして來る人間の姿を、喜劇『惡口學校』で見事に描いたのである。けれども、今日、他人のスキャンダルに興じたいという人々の根強い欲望をみたすには大新聞でも不充分であつて、それはもとより週刊誌の役割となつてゐる。例えば岡田奈々なる女優が暴漢に襲われた事件にしても、大新聞の記事は、岡田嬢の部屋に男が侵入し「岡田さんの兩手足を縛り、サルグツワをかませたあと(中略)血のついたパジャマを新しいのと着替えさせた」といつた程度の事實しか傳えない。當然讀者は欲求不滿におちゐる譯である。
そこで、例えばアサヒ藝能という週刊誌は、「岡田奈々と闖入男が過したナニもなかつた五時間への勘ぐり」という記事をのせ、こう書くのである。「岡田奈々ちゃんはナニもなかつた五時間をしきりに強調する。しかし(中略)ほんとうだらうか(中略)と疑いたくなるのが人情だらう。とは言へ、これを“下種の勘ぐり”ととられては非常に困る。ただ、奈々ちゃんの“貞操”が心配で心配でたまらないだけのハナシなのだから」
「奈々ちゃんの“貞操”が心配」というのはまつ赤な嘘であつて、これほどまつ赤な嘘も珍しいと、そう書けば、アサヒ藝能は低級な週刊誌なので、低級な週刊誌の低級な記事に目くじら立てる事はないと、そのように思ふ讀者もあるかも知れぬ。「奈々ちゃんの貞操」が守られたかはどうかは當事者しか解らぬ事であり、熱狂的なファンでもない自分にはそんな事は興味が無い、そう考へる讀者もいよう。
が、女優のスキャンダルは自分にとつて無意味と考へる讀者も、ノーベル賞作家のスキャンダルを騒ぎ立てる事を無意味だとは考へない。そこで、一流週刊誌はもとより一流總合雜誌までも、川端康成氏の「事故のてんまつ」にはとびつく譯である。岡田奈々の貞操など、亭主でも戀人でもない自分にとつては無意味だと考へる讀者はいよう。が、川端氏が少女を愛して自殺しようと、そんな事は自分にとつては無意味だと考へる讀者は少ない。臼井吉見氏の「小説」が賣れる道理である。けれども、少女への異樣な執着が川端文學にとつていかなる意味があるのか、それが明らかにされぬ限り、川端氏の私生活をあばくのは文藝批評家のなすべき事ではない。また、川端文學は世間がそう思ひ込んでゐるほど偉大な文學なのかどうか、それを疑う事なく「事故のてんまつ」に騒ぐのは、輕佻浮薄という點では女優のスキャンダルに興ずるのと大同小異なのである。
(昭和五十二年八月二日) 
   

 

怒らざる者は痴呆
川端康成夫人は、川端氏を好かぬお手傳いの少女に、「よい小説を書くためだから我慢して下さいね」と言つたそうである。夫人が事實その通りの事を言つたかどうか、それは知らない。が、これはいかにも小説家の妻が言いそうなせりふだと思ふ。いや、小説家に限らない、わが國の文化人はその女房に、この種の非人間的な寛容と物解りのよさとを期待しうるのである。例えば「反體制の進歩的文化人の雄といわれる羽仁五郎氏」は、目下、「家元制度粉砕を叫ぶ反逆の舞踊家・花柳幻舟と大戀愛中」だそうだが、週刊文春八月四日號によれば、羽仁氏夫人説子さんは夫君の戀愛に腹を立てていないのであつて、羽仁氏自身の言葉を借りれば、説子さんが怒らないのは「ボクの妻自身も(中略)幻舟がやつてることに理解があるんでしょうね」という事になる。
體制が寛大であれば反體制は堕落する。平和と自由を享受してゐるうちに人間の精神は弛緩する。亭主に對する女房の寛容も、度が過ぎれば亭主を堕落させるのである。羽仁氏の仕事は飯事だが、それは自由と寛容をモットーとする、ぬるま湯的な生活環境のしからしむるところなのかも知れぬ。羽仁氏が四十五も年下の舞踊家に戀をしたのも「幻舟は本當の藝術家だ」と思つたからなので、そういう幼稚な戀愛はよい年をした大人のやる事ではない。大人の戀愛はもつと醜惡なものである。が、發育不全の羽仁氏は、「普通なら隱す戀愛を大つぴらに週刊誌に賣つて、ギャラまで取つてゐる」事の醜さを醜さと感じない。當然である、飯事は醜惡ではない、お醫者さんごつこだつて醜惡ではない。
そう言へば、羽仁五郎氏に限らず、子息の映畫監督羽仁進氏も、その子未央ちゃんも、善惡や愛憎や美醜の葛藤には無縁の「人間失格」的人物である。週刊女性によれば、未央ちゃんは「母親の左幸子を、ときに“鬼婆あ”などと呼ぶ」そうだが、そういう羽仁家の人々の人間的欠陥が、なぜ週刊誌の記者には見えないのか。なぜそれに苛立たないのか。週刊ポスト八月十二日號は、羽仁進・左幸子夫妻の離婚を扱つた記事を、未央ちゃんの婿としてどのような男性が羽仁家に迎えられるのか、そこまで後をひく離婚のドラマだ」などというおよそ無意味な文章で結んでゐるし、週刊文春のイーデス・ハンソン女史による對談後記も頗る陳腐なものである。羽仁氏は「そろそろ八十になろうかという人が、若い女を好きになるなんて、およそ大胆ですよ。世間が、キスするのか、セックスはするのかつて氣にするのも無理はないよ」などと言つてゐる。そういうおよそ甘つたれたせりふを吐く五郎氏の人間的欠陥を衝けぬハンソン女史を、私は對談の名手だなどとは思はたい。いや、それとも對談の名手とは、「然るべき事柄についても怒らない」資質の持ち主なのか。が、そういう類の人間をアリストテレスは痴呆と呼んだのである。
(昭和五十二年八月十六日) 
性に關する殘酷な嘘
週刊文春八月二十五日號に「知的女性が眞劍に語り合つた」女性のセックスに關する座談會の記事が載つてゐたが、桐島洋子女史を除く他の二人は知的女性どころか、ただの女でさえない、人間でさえない。「膣にシコシコ入れて」もらうだの、「クリトリスかバギナどちらを使おうと、併用でもいい」だのと、人前でそういう正直なせりふを吐ける女は女ではない、氣違いである。氣違いは生眞面目な正直者だからである。その證拠にこの座談會は猥談にもなつておらぬ。猥談は氣のおけぬ友人たちと笑いながらやるものだが、なぜ「知的女性」は笑いながら性を語れないのか。週刊ポスト九月二日號の花柳幻舟もそうであつて、幻舟は羽仁五郎氏に對し、「もつと性を大らかに語らなアカン」と説いたそうである。が、大らかに性を語るには、人間、場所柄を弁えねばならない。性行爲に限らず、性に關するすべては適度に隱蔽すべきものなのだ。隱す事もまた美徳の一つなのである。
『微笑』という隔週刊誌があり、その八月十三日號に「女の性欲99の謎を解明」という記事が載つてゐる。醫者と心理學者の協力をえて作製した記事らしいが、『微笑』に限らず女性週刊誌の記事はすべて女をなめきつてゐるとしか考へられない。例えば、或る男性のセックス評論家は、「彼に一晩のうち何囘も抱いてもらいたい私つて異常なのでしょうか」という問いに對し、「いいえ。歡びを知つた女性は、オルガスムスにうねりがあるため、そうなりがちなのです」と答えてゐるが、これは馬鹿らしいばかりでなく、無責任きわまる囘答である。なぜなら、女の「オルガスムスにうねりがあるため、そうなりがち」だなどという事は、男性には絶對に解らぬはずの事柄だからだ。男が女を愛するのは、男が女でないからである。女というものが理解できないからである。いや、それは男女關係に限らない。相手に理解できぬ部分があつてこそ、人は他人を尊重し愛するのである。が、女性週刊誌はとかくこの種の女に對する敬虔な感情を欠いてゐる。女をなめきつてゐる。
いや、女をなめきつてゐるのは低級な女性週刊誌だけではない。まともな週刊誌の掲載するポルノ小説、キヤバレー探訪記、卑猥な劇畫の類も、女をなめきつてゐるのである。そしてまたそれらは、ジョージ・スタイナーの言うように、「すべての人々がエロスの世界に生き、大いなる忘我の境に到達しなければならぬ」という「殘酷な嘘」をついてゐるのだ。すべての男女が「愛の技巧にたけてゐる譯ではない」し、それがよき夫よき妻の条件なのでもない。これが眞實である。ポルノ小説の類を讀む未成年や愚かな夫婦は、「なぜ自分には(或いは相手には)もつと性的魅力がないのだらう」などと考へるようになる。これこそ性の解放がもたらす最大の害惡である。
(昭和五十二年八月三十日) 
何事もなせばなるか
王貞治選手が七五六號本塁打を記録して、日本中が「集團ヒステリー状態」を呈し、當然週刊誌もはしゃいだが、冷靜であろうとした週刊誌もあり、例えば週刊新潮がそうである。が、週刊新潮九月八日號によれば、今囘のヒステリーには「相當シンラツな皮肉屋さんたちも手こずつて」おり、山藤章二氏も「われわれ皮肉屋からみて、王をからかうのはむずかしい」と告白してゐるそうである。週刊新潮の本領は天邪鬼精神であつて、私も天邪鬼だからそういう氣質は尊重してゐるが、今囘の大騷ぎに水を差そうとして「皮肉屋さん」たる週刊新潮も少々「手こずつた」ようであり、しかもなぜ手こずるのかを充分に分析していない。説得力を欠くゆゑんである。では、なぜ王選手をからかうのが難しいのか。理由は簡單である。スポーツの世界だけは僞物と本物との區別がはつきりしていて、王貞治の實力は本物だからである。
週刊新潮はノーベル賞にもけちをつけており、それは私も同感だが、藝術や學問の世界では僞物が本物として通用するとしても、スポーツの世界ではそれはまず無い。時に八百長はあろうが、七五六本の本塁打を打つたのは王選手だけなので、まさか七五六囘もの八百長が行われた譯ではあるまい。週刊朝日九月九日號は、アーロンの記録を破つたと本當に言へるかどうかを問題にしてゐるが、確かに七五六號が世界新記録であるかの如くに騷ぎ立てたマスコミもおかしいのである。が、世界新記録であろうとなかろうと、王選手の實力にはけちのつけようがない。それで「シンラツな皮肉屋さんも手こずつてゐる」のであろう。
讀賣巨人軍の王選手は本物であつて、當然の事ながら週刊讀賣は大特集を組みはしゃいでゐるが、同誌に掲載されてゐる予備校の廣告には「なせばなる何事も」とあつた。何事もなせばなるか。もとより、否である。いかに努力しようと、能力の無い選手に七五六本の本塁打は打てはせぬ。つまり、人間には能力差があつて平等ではないという今日の日本では甚だ人氣のよくない眞理を、王選手ははつきり示してみせたのである。そして大騷ぎをしたマスコミも大衆も、それをはつきりと認めた事になる。つまり、彼等は英雄を求めてゐる、偉大な人間を稱えたがつてゐるのである。無論、そういう傾向を憂える人々もゐる。が、それとて、例えばサンデー毎日八月二十一日號の松岡英夫氏の如く、毎年八月になると戰爭體驗の風化を嘆いてみせるインテリと同樣、おざなりの憂え顔でしかない。「偉大な人間になろうではないか。さもなくば偉大な人間の奴隷になろうではないか」とニーチェは書いた。ニーチェは戰爭を禮讃したが、それを狂氣の沙汰とみなす樂天的な人間に大衆の集團ヒステリーを憂える資格は無い。本當に戰爭を恐れるには、そういう狂氣こそ大衆の求めるものだという苦い眞實を知る必要がある。たかが野球と言うなかれ、毛澤東も王貞治もともに英雄なのである。
(昭和五十二年九月十三日) 
甚だしい看板倒れ
「人間、四十を越えたら自分の顔に責任を持たねばならぬ」と言つたのはリンカーンではなかつたかと思ふ。週刊誌の顔は表紙である。週刊誌は表紙に責任を持たなければならない。週刊ポスト九月九日號の表紙には五十嵐夕紀という娘の寫眞が載つてゐるが、これは勿論週刊ポストの顔そのものではない。問題は表紙に並べられた見出しである。「欲望リサーチ、雄琴の接待トルコ、船橋の人海戰術ストリップほか、ピンク地帶の“秋一番”」、さらに「話題人間決戰の秋、本郷元教授から慶大へ、向坂逸郎から“四人組”への“果たし状”」。かういふ見出しが頗るつきの粗雜な頭腦から絞り出された記事にふさわしい「顔」である事については贅言を要すまい。「欲望リサーチ」だの「話題人間」だのという言葉は、週刊ポストが好んで用ゐる「直撃取材」の類と同樣、正しい日本語ではないのである。そして、言葉を正しく用いようと意を用ゐる人間は當然看板倒れのぺてんを嫌うけれども、言葉に無神經な人間は必ず羊頭を懸げて狗肉を賣る事になる。
例えば入試問題を漏らして慶應大學をやめたという「話題人間」本郷元教授からの「慶大への果たし状」という見出しをつけた記事は、看板倒れも甚だしい代物なのであり、「果たし状」にも何もなつてはおらぬ。それに、慶應大學の如き一流大學にも無能な教師はいようが、週刊ポストの傳えるところが事實なら、本郷廣太郎氏は下劣な人間であり、その品性の下劣に怒らず、あろう事か、本郷氏を辯護するかの如き記事を書いた記者は大馬鹿者である。馴染のバーのマダムに對して本郷氏は「ボクはもう大學教授じゃないんでね、これからはボクとも大つぴらにデートしようぜ」と言い、記者に對しては「慶應義塾は實に偉大」だが「その偉大な大學を支えてゐる個人、個人については(中略)誰一人、尊敬に値するような人はいません」と告白したという。下劣な教師が「實に偉大」な大學に「尊敬に値するような人」を見出せぬのは當然だし、「偉大な大學を支えてゐる」教師たちの大半が立派でなくてどうして大學そのものが偉大でありえようか。だが、そういう至極當然の疑問すら、この愚かな記者の頭には浮かばないのである。
とまれ、週刊誌の顔は表紙なのであり、週刊誌はもつと表紙に神經を使つてもらいたい。これは週刊ポストに限らないが、若い女の顔を使うのは全く無意味ではないのか。表紙のモデルの顔が氣に入つてその週刊誌を買うほど讀者は馬鹿ではない。その點、週刊新潮と週刊文春の表紙はすつきりしてゐる。他誌も見習つてほしい、と言いたいところだが、そんな事を言つても無駄なのである。内容の俗惡と表紙の洗練とは所詮水と油だからであり、また「鍍金を金に通用させようとするせつない工面より、眞鍮を眞鍮でとおして、眞鍮相當の侮蔑を我慢するほうが樂」(夏目漱石)だからである。
(昭和五十二年九月二十七日) 
輕信は子供の美徳
コーヒーや日本茶に含まれてゐるカフェインに發癌作用があるという事を、癌研の高山昭三氏が明らかにしたそうである。そのニュースを週刊ポスト十月七日號が取上げてゐるが、例によつて「カフェイン發ガン説がもたらした衝撃」という「衝撃」的な見出しをつけてはゐるものの、實は「カフェインが人間にとつてどれほどの發ガン性があるか」はまだ解つていないというだけの話なのである。週刊新潮十月六日號も同じニュースを取上げてゐるが、新潮のほうは客觀的であり、また解りやすい記事になつてゐる。同じニュースを扱つて、こうも違つた文章が出來上がるものか、その點頗る興味深かつた。ポストは「カフェインに發ガン性がある以上、命を永らえるにはコーヒーやお茶をひかえめに摂るよう、心がけるにこしたことはあるまい」などと書いてゐるが、何とも馬鹿らしい文章である。多分理解して貰えまいが、ポストの記者にこれだけ言つておこう、生きてゐる事が一番健康によくないのである。
週刊ポストはまた「岸元首相の渡米は“日韓・黒い霧”もみ消し工作だつた」という記事を載せてゐるが、これがまた岸・カーター會談に同席したかのような調子ながら、その實「ワシントンで取材してゐる本誌駐米特派記者」の「觀測」でしかない代物なのだ。カーター氏が岸氏に對しあまりにも少ない「日本の防衞費を批判」したのかどうか、眞相は結局「藪の中」である。九月十八日の朝日新聞とサンケイ新聞は、この點について對照的な記事を載せてゐたが、眞相が「藪の中」ならば「ナゾめく岸氏の(發言の)撤囘」をどう解釋するかは、日本の防衞費をGNPの一%以下でよいと考へるかどうかにかかつていよう。私は勿論サンケイを支持するが、それはともかく、週刊ポストの岸・カーター會談を「見て來たような話」は頗る低級であつて、「ワシントンで取材してゐる本誌在米特派記者」なるものが實在するのかどうか、私は疑問に思つてゐる。
週刊ポストはこのところ「日本原發帝國主義の研究」を連載してゐる。今囘はポストのセンセイショナリズムのあれこれを一括して批判しようと欲張つたので、この連載記事を具體的に批判する紙數は無いが、エネルギー危機を「幻想の危機」とする前提に立つ論議は著しく説得力を欠いてゐる。とまれ、週刊ポストは殆ど毎囘、「衝撃」的な記事を載せるのだが、金炯旭氏の「衝撃發言」(八・十九)にせよ、花柳幻舟・「衝撃」の履歴書(九・二)にせよ、一向に「衝撃」的ではない。そして煽情的な記事を書く記者自身は、通常、自分が書いてゐる事を「衝撃」的だなどと思つてはいないのである。つまり、讀者をなめきつてゐる譯なのだ。「輕信は子供の美徳」だとチャールズ・ラムは言つた。週刊ポストの愛讀者を想像するのは難事だが、それは子供並みの知能の持主なのであろうか。それとも「衝撃」に馴れ過ぎた不感症患者なのであろうか。
(昭和五十二年十月十一日) 
   

 

許せない人間侮蔑
以前、「あんたかて阿呆やろ、うちかて阿呆や」というせりふで人氣を博したテレビ役者がいた。他人にこう呼びかける人間も、「そうや、うちかて阿呆や」と答える人間も、ともに私は信じない。それは生きてゐる値打ちの無い人間だと思ふ。なぜなら、自分が阿呆だからとて他人もすべて阿呆だと決め込むのは、可能性としての人間のすばらしさを認めない事だからである。テレビ役者の道化に目くじら立てるのは大人氣無いが、赤軍ハイジャック事件を扱つたサンデー毎日十月二十三日號の、内容文體ともに下等な記事にも、「あんたかて阿呆やろ、うちかて阿呆や」と同質の人間侮蔑が潜んでゐるのであり、これを私は斷じて容認できない。
今囘のハイジャックについてマスコミは樣々な意見を述べてゐるが、私はサンデー毎日のそれに對して最も激しい怒りを覺える。毎日は「自分は決して人質にはなるまいという予感からか(中略)人質もろともの犯人抹殺論を(中略)平然とブツ無責任人士(中略)には今度ハイジャックが起きたら、まつ先に人質身代わり要員に名乘り出てもら(中略)いたいところだが、ふだん勇ましいことを言つてゐる人がいざとなると、逃げてしまうのは、これまでにも、まま、あつた皮肉である」と書いてゐるのである。
福岡市の結核療養所で、ハイジャックにおける人命尊重を主張するハト派が強硬策をよしとするタカ派を刺し殺したけれども、恐らく全國津々浦々でその種の激しい論爭が行われた事であろう。が、「お前が人質になつても強硬策をよしと考へるか」と反問されれば、タカ派は返答に窮したのではないか。私はもとよりタカ派である。が、私は返答に窮しない。私がもし人質となつたとする。そして赤軍に武器を突きつけられ、素裸になつて鰌掬いを踊れば助けてやると言われたとする。そして私が、誇りを捨て素裸になつて鰌掬いを踊り、無事に歸國したとする。それでも私は、サンデー毎日の記者のような意見は決して決して口にしない。自分が臆病者である事を認める事と、「勇ましいことを言つてゐる」他人もやはり臆病であろうと勘繰る事とは雲泥の差だからである。
例えば週刊新潮十月十三日號で勝田吉太郎氏は、「命あつてのモノダネ主義、命のためなら、人間的品位も國の威信も名譽も法體系遵守の氣風も、みんな消し飛んでしまう風土」を痛烈に批判してゐるが、そういう勝田氏が人質になつたら、私と同樣素裸で鰌掬いを踊るだらうなどとは、私は絶對に思ふまい。それは人間の美しさを否定する事だからであり、そうなれば生きてゆく事も無意味になるからである。そして私が、自分は所詮僞物であつたと自覺してその屈辱を忘れずに生きるとすれば、それは私がこの世のどこかに本物の人間がゐる事を信じてゐるためである。T・S・エリオットの言うとおり、そういう人生もまた生きるに値する人生なのだ。
(昭和五十二年十月二十五日) 
公正か人格の統一か
例えば辻村明氏は、我國の大新聞の無節操を批判し、正しい新聞のあり方を説いて倦む事を知らない。その情熱を私は大層立派だと思つてゐるが、氏の批判に新聞が耳を傾け多少なりとも反省したかということになると、それは大いに疑わしい。例えば朝日はかつて宮澤四原則を高く評價し、「何が何でも日ソ平和条約締結を急げ」という「やり方は自制すべきであろう」と書いたのだが、昨今は「条約の早期締結をためらうべきでない」と主張してゐるのであり、雄川健一氏の言うとおり、これはまことに「臆面もない話」である。
が、そういう鐵面皮の無節操は朝日に限らない。そこで週刊現代十一月三日號は、讀賣、朝日、毎日の「ソ連禮賛キャンペーン」を取上げ、その無節操ぶりを批判してゐるのである。現代が書いてゐるように「この數カ月の間にソ連がガラリと變わつたわけではあるまい」に、一轉して三大紙がソ連の鼻息を窺い始めたのはまさしく不可解である。
朝日と言へば週刊朝日は奇妙な週刊誌である。上品で落着いてはゐるが壓倒的な魅力が無い。サンデー毎日を讀むと私は腹が立つ。が、週刊朝日を讀むときの私はあまり腹を立てない。けれども、そのかわり、膝を打つて感動するという事も無い。朝日新聞の場合は、週刊現代が批判してゐるように、連載記事「ダッカ・ハイジャック・上」で強硬論の臺頭に不安を表明しながら、同じ紙面に「強硬論の最たるもの」というべき青木特派員の文章を載せてゐるのであり、これを要するに、朝日新聞社の中に、青木特派員の意見を支持する者がかなりゐるという事なのかも知れぬ。そして週刊朝日にも強硬論を唱える者がゐるのだらうが、どうやらこのほうは頁數の一部を占拠するほどの勢力ではないらしい。そのためか、出來上がる記事は白でも黒でもない灰色の、害も無いかわりに益も無い代物になつてしまうのではないか。
だが、週刊現代もいささか奇妙である。十一月三日號は赤軍ハイジャック事件を扱い、清水幾太郎氏と久野収氏の見解を紹介してゐるが、清水氏を支持する讀者にとつて久野氏の見解は、それこそ青木特派員の言う「エセ平和主義」者の世迷言としか思えまい。現代は「朝、毎、讀の赤軍報道」を「一貫して人命尊重は一紙もなし」と批判してゐるのだが、では夫子自身はどうなのか。三大紙のソ連賛美の無節操を叩く現代は、十月二十七日號では石原慎太郎氏の「爆彈發言」を載せ、四人の識者の意見を載せてゐるが、現代自身の見解という事になるとさつぱり解らないのである。
私は無論石原氏の「放言」を支持するが、石原氏を支持する事と(或いは、石原氏の 「爆彈發言」を掲載する事と)、所謂「日韓ゆ着」に騷ぎ立てる事(九月一日號)とが、いとも氣輕に兩立しうるらしい週刊現代の體質を、私は頗る奇異に感じる。福田恆存氏の言う通り、「公正よりは人格の統一のほうが、はるかに美徳」だと信じてゐるからである。
(昭和五十二年十一月十二日) 
私事を語れる天國
實はこのところ一週間ばかり、入院していました。なにもこれというほどの病氣じゃないんですが、痔を少しばかりこじれさせましてね。ちょうど大學は期末試驗とそれに續いての秋休みで、しばらくは授業のない時期にあたります。この際、二週間ほど休息の時間がとれそうなので、思ひ切つて手術を受けようと思つて、近所にある醫科大學の付屬病院に入院したんです。痔の手術というと、痛いことになつていますが、私は十二年前に一度やつていますから、どの程度の痛さかという點については、見當がついてゐる。なにもそれほど大層な痛さじゃないんです。せいぜい一晝夜がヤマで、それだつて耐えがたいというほどじゃない。なにしろ鎮痛劑その他が發達していますからね。ウツラウツラしてゐるうちに、いちばん痛い時期はいつの間にか過ぎてしまうのがわかつてゐるので、少しも心配はいらない。
以上でほぼ四百字である。かういふ調子でもしも私が、このコラムに痔の手術について長々と語り始めたら、サンケイ新聞は私の發狂を確信し、躊躇無く私の原稿を歿にするに違い無い。言うまでも無く、このコラムは週刊誌を批評する目的でもうけられたものだからだ。從つて引用したのは私の文章ではなく、週刊現代十月二十日號の江藤淳氏の文章であり、それを斷らずに敢えて長々と引用したのは、「この原稿料泥棒め」と讀者に思つて貰いたかつたからである。
江藤氏は三囘にわたつて痔の手術について書き、十一月十七日號では「醫大の眼科に出掛け」た話を書いてゐる。江藤氏の場合は特定の目的をもつた文章を書かねばならぬ譯ではないのだらうが、随筆にもせよ、その種の私事を書き綴つて原稿料を貰う無神經は、私にはどうにも納得出來ない。手術後、江藤氏のガスや大便が「めでたく貫通」しょうが、讀者にとつては何の關りも無い筈だからだ。
昔は綴方と稱し、今日作文と稱するものは、小學生が書くものである。「僕は六時に起きて顔を洗いました。そして僕は齒を磨きました。そして僕は朝御飯を食べました。そして僕は・・・・・・」。かういふ類の文章は小學生だけが書く事を許される。大人にとつて私事は語るに値しないからである。
江藤氏の大便が「めでたく貫通」しようと讀者には何の關りも無い筈だと私は書いた。が、遺憾ながらわが國では、私事を語る名士に對して讀者はすこぶる寛大なのである。
それゆえ私小説は今日まで生き延び、週刊誌は名士の私事をあばき、その手記を漁る。そういう例はそれこそ枚擧に暇無しだが、例えば週刊文春十一月十日號に寄稿してゐる羽仁進氏がそうである。別れた妻の妹と結婚しようとしてゐる「男の心情」なんぞ、決してありのままに語られる筈は無い。所詮は綺麗事である。が。大方の愚かな讀者はそうは思はない。アンブローズ・ビアスは天國を定義して、私事を長々と語つても皆が傾聽してくれる場所だと言つた。それは日本の事である。
(昭和五十二年十一月二十六日) 
非人間的な自己批判
これまで私は週刊新潮及び週刊サンケイの惡口を言つた事が無い。なぜ兩誌を批判しないのか、このコラムをもうけるに當つてサンケイ新聞は、「齒に衣着せぬ」自社に對する批判をも掲載すると宣言したではないか。にも拘らず、私が週刊サンケイを批判しないのは納得出來ないと、そういう文面の手紙を讀者から頂戴した。私が週刊サンケイを批判しないのは理由あつての事である。サンケイとしては、時に週刊サンケイをも批判して貰いたいと考へてゐるだらうが、私に無理矢理それをやらせる譯にもゆかず、少々困つてゐるかもしれぬ。それは人情として當然の事である。が、自分で自分を批判するという公正は、聖人君子ならばともかく、いや聖人君子といえども遂に身に付ける事の叶わぬ非人間的な美徳なのである。それがいかに非人間的かを知るためには、かつて中國で屡々行われた自己批判なる愚行を思ひ出せば足りよう。
要するに、サンケイの惡口を私がサンケイに書き、サンケイがそれを好んで掲載する、そういう事は望ましい事ではないのである。それは公正という美名に酔う愚かしい茶番でしかない。シェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』で、「友は友の瑕瑾を許すべきだ」とキャシアスに言わせてゐる。「恥部」は誰にもある、週刊サンケイにもある。例えばポルノの廣告は無いほうがよいに決つてゐる。が、サンケイは私の友である。友は友の瑕瑾を許してよいと私は考へる。ブルータスの公正は身方を破滅に追いやつたではないか。 週刊新潮の場合も同樣である。新潮もわが友であり、これは陰性の友である。もとより天邪鬼の新潮には天邪鬼特有の危險があつて、私も天邪鬼だからそれはよく知つてゐる。新潮もよく知つていよう。新潮は滅多な事では驚かない、度を越えて怒るという事が無い。それは美點であり欠點である。例えば新潮は時折猥褻なグラビアを載せるけれども、あれは擦れ枯らしの陰性の猥褻であつて、それゆえかえつて煽情的でないのである。一方、週刊文春にその種のグラビアが載る事は無い。そして文春はよく驚き、よく怒るのであつて、例えば十二月一日號、「朝日新聞の恥部」を扱つた記事は、「恐るべきといおうか、すさまじいといおうか」云々の文章で始まり、「こんなムチャクチャな話があるだらうか」云々で終るのだ。文春の記者は朝日新聞の暴力團的體質に驚き、怒つてゐるのである。そしてもとより文春もわが友であつて、こちらは陽性の友である。この陽性の友には陽性の友特有の欠點がある。それは美點と一體になつてゐる。文春はそれを承知してゐると思ふ。承知してゐると思ふから、私は敢えてそれを言わないのである。なるほどそれは公正ではない。が、人は公正たらんとして遂に公正たりえぬものなのだ。中國では親の犯した罪を共産黨本部に密告する子供の公正を稱えるそうだが、それこそは許し難い非人間的行爲なのである。
(昭和五十二年十二月十日) 
長持ちする同情
例えば企業が惡者だという事が明らかなら、所謂公害病患者はその企業を憎めばよい。「怨念」の筵旗を立て企業の責任を糾彈して、怒りに身を震わせる事も出來よう。が、この世には誰のせいでもない不幸というものもある。「拒食症のわが子を死に至らしめたとして殺人罪に問われ、その直後自殺した」銀行支店長針カ谷博氏の不幸も、そういう類の不幸だつたと思ふ。
針カ谷家には餘人の想像を絶する苦しみがあつたに相違無い、本當にお氣の毒だと思ふ。だが、週刊文春十二月十五日號が紹介してゐる針カ谷氏夫人の「痛哭の手記」を讀んで、私にはどうにも納得出來ない部分があつた。針カ谷氏を取調べた刑事の輕佻浮薄、警察の發表を鵜呑みにした新聞記者の怠慢、そういう事は多分夫人の言う通りであろう。
從つて針カ谷家に對するマスコミの非情を咎めた『支店長はなぜ死んだか』の著者上前淳一郎氏は無駄な事をした譯ではあるまい。が、上前氏の著書を「感謝と共に」讀み終えた夫人は「違う」と獨り呟いたという。そして夫人は「わたしが直子を殺した」のだと言い、自らを告發してゐるのである。果してそうか。針カ谷博氏は「佛の父親」であり、夫人は「鬼の母親」なのか。私はすこぶる疑問に思ふ。
「眠つてばかりゐる」子供をそのままにしておけば死ぬ。針カ谷氏は「明日の朝、先生に電話してみる」と言つた。夫人は哀願した、「止めて下さい」。「この一言を夫は默つて聞いて」いたと夫人は言う。非情な事を敢えて私は言う。針カ谷氏が夫人の「氣持を汲み」それに從つたのなら、罪は針カ谷氏にもある。夫婦は同罪である。私は所謂安樂死は絶對に認めない。「植物人間」とは植物の如き人間なのであり、人間の樣な植物では斷じてないのだ。
それに私は告白なるものを信じない。それはいかに赤裸々のものであつても必ず自己正當化の虚僞を含む。針カ谷夫人の告白もそうである。例えば、警察やマスコミに越度があつたという事實と、夫妻が直子ちゃんを死に至らしめたという事實とは無關係なのだが、夫人はその二つを分けて考へていない。但し、私は夫人を非難してゐるのではない。わが子を殺したのは夫でなく自分だと告白し、夫を庇おうとしてゐる夫人の動機の美しさを私は疑わぬ。だが、安易な同情は苦しみのた打つ人間に對する侮蔑なのである。相手には苦しみを耐え抜くだけの力が無いと判斷する事だからだ。それゆえ針カ谷夫人に言いたい、あなたは二人の子供を立派に育てなければならない。週刊文春によれば、あなたは手記を書くにあたつて「原稿のマス目の埋め方から」習つたという。が、今後のあなたは何も書かぬほうがよい。ひたすら耐えて生き抜いて貰いたい。
最後に週刊文春に一言。扇情的な週刊誌ならばともかく、文春は今後、他者の不幸に對してもう少し嚴しい同情をして貰いたい。嚴しい同情は長持ちするのである。
(昭和五十二年十二月二十四日) 

 

ニセモノ横行時代
いつの世にもニセモノはいたに違い無い。だが、所謂大衆社會化現象とともにニセモノ横行の風潮は顕著になつたのである。例えば先の參議院選擧における田英夫氏の得票は最高位であつた。が、その田氏は週刊現代十二月八日號で、サダト大統領がイスラエルを訪れた事は「福田首相が北朝鮮を訪れ、金日成主席と會談したことと同じ」だと言い、日本としては「何よりも中近東の平和を望み、イスラエルの占領地からの撤退と、パレスチナ國家の建設を支持する」との聲明を出すべきだと言つてゐるのである。何ともはや粗雜な意見であつて論評の限りではない。田氏はニュースキャスターとしてはプロだつたのかも知れないが、政治家としてはアマチュアである。
が、昨今人々はプロよりもアマチュアを喜ぶ。流行歌手も政治家も素人臭いほうが俗受けする。週刊新潮十二月十五日號は「戰前は李香蘭、戰後は山口淑子として一時代を畫した」大鷹淑子環境庁政務次官の實力を疑う記事を載せてゐるが、大鷹次官は初登庁の際、「少々うわずつた聲で」あらぬ事を喋り出し、聞いてゐた職員たちは「いつたいどうおさまるのかハラハラし」たそうである。けれども大鷹女史も、映畫女優としてはプロの實力を備えてゐたのであろう。
一方、週刊ポスト一月六・十三日號には高見山と三ッ矢歌子との對談が載つてゐる。何とも愚劣な對談であつて、紙代・印刷代の無駄遣いとしか言い樣が無い。高見山の場合も力士としてはプロだらうが、インタビュアーとしては素人なのだ。「夜のGOサインはドッチが出す?」とか「三ッ矢さんのところは一週間に何囘なんスか」とか、訊くほうも訊くほうなら、答えるほうも答えるほうである。そういうどんな馬鹿でも思ひつく樣な質問を連發して、それでギャラが稼げるとなると、横綱大關を狙つて稽古に精を出す氣には、とてもなれないに相違無い。
けれども、田氏にせよ、大鷹女史にせよ、高見山にせよ、プロとして通用する世界では一應の努力はした筈である。いわば三人とも、本物としての名聲を利用して目下ニセモノとして稼いでゐるという譯だ。そして、高見山の對談がいかに愚劣でも、力士高見山のファンにとつてはけつこう樂しく讀めるという事なのかも知れぬ。が、サンデー毎日新春特大號の元外相木村俊夫氏令嬢の特別手記「もちこの結婚」は、一體誰を樂しませる積りなのか。令嬢にはプロとしての名聲など何もありはせぬ。元外相の娘として生れた事は努力の賜物ではない。從つて手記を讀んで樂しむのは、もちこさんと木村家の人々だけという事になる。何たる無駄遣いか。もちこさんとサンデー毎日に、ラ・ロシュフコオの次の箴言を贈りたい。「われわれは、自分の話をするとき、はてしない樂しさを感ずるものだが、それにつけても、それを聽かされる人が、てんで嬉しくないことは、われわれのほうで心配してもいいはずだ」。
(昭和五十三年一月七日) 
見事なり、宮本顕治
週刊新潮は「反共週刊誌」だそうである。もしもそうなら、敵の失態は快いものだから、日共を除名された袴田里見氏の手記を入手して、週刊新潮がにんまりしたとしても不思議ではない。だから、新潮の記者が「袴田氏の眞實への情熱は(中略)生き生きと燃え續く」などと大仰な文を綴つても、私は快く不問に付す。
が、ふだん進歩的なポーズをとつてゐる週刊誌までが、日共の「一枚岩的組織のもろさ」を笑い、日共と袴田氏の論爭の低次元を批判してゐるのは納得出來ない。例えば週刊現代は今囘の除名騷動は「陰湿、醜惡な話」であり、「事態は泥沼化、低次元化するばかりで、前衞、革新のイメージなど、まつたくない」と書き、週刊ポストは日共の「權力抗爭」は「自民、社會黨以上の醜惡さを極めてゐる。天下の公黨のなりふりかまわぬメンツの捨て方に國民大衆は、ただただ、あきれかえるばかり」だと書いてゐるのである。
「國民大衆」の反應を直接確かめようが無い私としては、ポストのような斷定は控えるが、「國民大衆」は多分呆れてなどいまい。煽情的週刊誌に馴れ親しんでゐる「國民大衆」がさまで道徳的だとは思えない。
一方週刊現代は日共・袴田論爭を陰湿、醜惡、低次元と形容するが、週刊現代には陰湿、醜惡、低次元の派閥爭いは存在しないのか。週刊現代は君子の集まりなのか。そんな筈は無い。君子の集まりがあのように人間的な週刊誌を作る筈が無い。それなら、「前衞、革新のイメージ」なるものを政治に期待しないで貰いたい。「君子は交わり絶ゆるも惡聲を出さず」と言う。が、交わり絶えて口汚く罵り合うのが人間の常であり、その事に保守革新の別は無いのである。
ところで私は判官びいきは好まない。それゆえ敢えて宮本委員長を辯護したい。今囘の除名騷動について週刊誌は樣々な意見を述べてゐるが、宮本氏に對し同情的なものは皆無であつた。日共が「天下の公黨」なら、これは少々片手落ちだと思ふ。
私は以前、サンケイ新聞の直言欄に「日共は日本という特殊な風土の中で風化してしまうのではないか」と書いた事がある。私は日共の風化を望まない。それゆえ、この微温湯のような風土の中で、刎頸の友を斬つてまで「天上天下唯我獨尊の宮本獨裁」體制を維持せんとする宮本氏の決意をあつぱれだと思つてゐる。赤旗擴張か大衆運動かという所謂路線問題にしても、私は宮本氏を支持する。袴田氏は「赤旗擴販による黨員の精神的・肉體的疲勞」を言うが、たかが新聞を賣る苦勞に耐えられぬ黨員に、どうして「幾百萬の大衆が參加する大衆運動」などが組織出來ようか。
宮本氏としては、この微温湯的な日本國が亂世を迎える日まで、微笑戰術を續けつつ、非情な獨裁體制はこれを維持するしか無い。久しぶりの「宮顕のすごさ」を私は見事だと思ふ。
(昭和五十三年一月二十一日) 
新奇を追うなかれ
除名覺悟の手記を發表するにあたつて、袴田里見氏が週刊新潮を選んだ經緯を私は知らない。とまれ、週刊新潮二月二日號で袴田氏は「スパイ小畑を殺したのは宮本顕治である」と書き、再び世間は驚いたのである。
週刊文春編集長の言葉を借りれば、袴田氏が「宮本委員長と戰端を開くようになろうとは、かなり黨に近い人の情報でも予想できなかつた」そうであり、「それだけにこの手記は週刊誌界のイベント」だという事になる。
けれども私は、袴田手記の内容以上に、手記を入手したのが新潮だつたという事のほうを興味深く思ふ。なぜなら、手記を新潮が入手したのは、或いは袴田氏が新潮を選んだのは、新潮がすべての週刊誌の中で最も信頼しうる「反共」だつたからであり、日本に共産黨單獨内閣が成立する日まで、新潮の編集方針は變らないと考へるからである。
かつてこのコラムで私は、左右を無差別に叩く公正よりも人格の統一のほうが美徳だと書いたけれども、新潮はそういう美徳を持つ週刊誌なのだ。自らが正しいと信じた事を、新潮は貫き通して右顧左眄する事が無い。
例えば表紙がそうである。創刊號で谷内六郎氏の繪を表紙に用い、以來それを變える事が無い。谷内氏が繪筆を握りうる限り、新潮は表紙を變えぬだらう。新奇を追いマンネリを恐れるのも弱い精神なのである。
ヤン・デンマン氏の「東京情報」もそうであつて、氏の連載は九百囘に及ぼうとしてゐる。そして、デンマン氏はこう書くに違い無い、と讀者が期待するような事を、デンマン氏は書く。そういう樂しみがあつて新潮を買う讀者はかなりゐるに違い無い。新潮にはかなりの固定讀者がいてこれまた共産黨内閣成立までは新潮を買いつづけるという譯だ。
一方、週刊文春も日共から「反共週刊誌」と目されてゐる。實際、文春一月二十六日號の「讀者からのメッセージ」にもあつた通り、かつて文春に掲載された日共についての記事が、今囘袴田手記によつて「事實であつた事が證明された」とも言いうるのである。新潮が手記を入手して文春としては殘念だつたろうが、「週刊誌界のイベント」だと評し、ライバルの功績を稱えた文春の編集長は立派だと思ふ。けれども、文春を愛するがゆゑに私は編集長に一つ注文しておきたい。
文春は新潮以上に編集に工夫を凝らしてゐると思ふ。新潮のような傳統が無い以上、それは當然の事であり、試行錯誤もまたやむをえない。けれども、文春は少しくルポ・ライターに頼りすぎる。例外は勿論あろうが、ルポ・ライターにはとかく哲學が無い。つまり人格の統一が無い。右の「恥部」であれ左の「恥部」であれ、ハイエナの如く禿鷲の如く貧婪に食いつくのである。そういうルポ・ライターに頼りすぎると、雜誌の性格までが徐々にルポ・ライター的になる。それを文春は何よりも警戒して貰いたい。
(昭和五十三年二月四日) 
「ちょつとキザ」な文章
自衞隊の栗栖統幕議長が、防衞問題專門紙『ウイング』一月號に「專守防衞と抑止力は並存しない」と書き、社會黨の石橋氏が、衆院予算案で栗栖氏の意見を激しく批判した。すると、一月二十八日のサンケイ新聞紙上で牛場昭彦記者が「國會というところは極めて當たり前の事が時に問題になるまか不思議なところだ」と書き、「消極防衞」こそは虚構であつて、栗栖氏の「正論」を見直すべきだと主張したのである。牛場記者の意見に私は全面的に賛成だが、ここで防衞問題を論ずる譯にはゆかないから、なぜ賛成かについては書かない。とまれ牛場記者の文章は男性的なよい文章である。が、そういう文章は女性的な今日の日本では俗受けしない。俗受けを狙うなら、例えば磯村尚徳氏が書くような文章でなければならぬ。とまれ、牛場記者には防衞問題に關する豐かな知識があり、また自己の信念を貫くだけの覺悟がある。それは氏の文章が明確に示してゐる。「文は人」だからだ。
一方、週刊讀賣が連載してゐる「磯村尚徳のサロン」の文章には、この種の覺悟が全く欠けてゐる。磯村氏は「NC・9を放送してゐた當時“ミスター・ゴメンナサイ”というニックネームをちょうだいした」そうだが、最近再び自分の書いた文章について「ごめんなさい」という文章を書き、それが「讀者のご好評をいただいてゐるとのことでした。うれしいことです」と書いてゐる。何よりも磯村氏は俗受けを狙う「です」體のいやらしさを意識していない。氏の文章は甘くて、「ちょつとキザ」で、卑屈な文章である。そして甘い文章は甘い思考にふさわしい。福田恆存氏は劇團すばるの機關誌最新號で、「です・ます」體の文章をよしとする外山滋比古氏の輕薄を痛烈に批判してゐる。讀者及び磯村氏に一讀をすすめる。
ところで、進歩的だとされてゐる朝日新聞にも牛場記者の如き人物はゐるはずだと私は考へてゐる。なるほど、サンケイがすつぱ抜いた家永三郎氏の變節問題では、朝日新聞は奇怪な態度を採つたし、週刊新潮二月十六日號が批判してゐるように、「動勞千葉の甘つたれぶりも鼻もちならぬ」と書いた朝日が過激派の抗議に屈服したのはまことに嘆かわしいが、週刊朝日二月二十四日號の頗る啓發的な座談會「米海軍長官證言で問われる非核三原則の虚構性」、及びアメリカ總局の村上吉男記者による「日本だけが米核戰略の例外ではない」という文章を讀めば、朝日にも國際情勢について現實的な認識をする人々がゐるという事實を疑う事は出來なくなる。朝日には所謂タカ派もゐるに違い無い。そして、村上記者の文章もよい文章である。嚴しい認識を欠く者が甘い文章を書く。磯村氏の文章のような、讀者に媚びる女性的な文章で、どうして天下國家を論じられようか。氏はキッシンジャーに會う事は出來たが、キッシンジャーと國際問題を論じた譯ではないのである。
(昭和五十三年二月十八日) 
暴力も支持すべし
滋賀縣野洲郡で發生した中學生による殺傷事件について、週刊朝日三月三日號はこう書いてゐる。「事件は確かに異樣であつた。(中略)マスコミは少年たちの異常性を並べたて、世間のおとなたちはヒステリックに嘆いてみせた。だが、この事件は、本當に異常な例だつたのか。事件の騷ぎに惑わされて、大切な“何か”を見過ごしてはいないか。そんな思ひで現地へ向かつた」
のつけからかういふ文章を讀まされると、世人が見過ごしてゐる大切な「何か」とは何かという事を、記者は現地へ向う前から知つてゐたのではないかと、そんなふうに勘繰りたくなる。自分が見たいと思つてゐるものしか見ないのが、惡しきジャーナリストの常だからだ。週刊朝日の記者は、凶惡犯罪を犯した中學生が「みんなおとなしい良い子」だつたに違い無いと、新幹線に乘る前から考へてゐた。そして、現地で予想どおりの證言を集めて來た。わざわざ滋賀まで出掛けて得て來た結論の凡庸を思えば、そう解釋してやるのが好意というものであろう。とまれ結論はこうである。「ごく普通、といえる中學生が、仲間同士のスジを通すために、あるいは根性を見せるために、何のためらいもなく殺人に突つ走る、というのは確かに大人の理解を超えてゐる。恐るべき短絡、である」
では、大切な「何か」とは何か。どうやらそれは、「おとなしい良い子」といえども「何のためらいもなく殺人に突つ走る」ものだ、という事らしい。何とも馬鹿らしい結論である。朝日ジャーナル二月二十四日號によれば、滋賀縣警は、問題の中學生たちが「タバコは吸う。授業は抜け出す。酒は飲む。暴力は振るうし、恐喝まがいのタカリはやる」といつた状態だつたと語つたそうである。それが「おとなしい良い子」なのか。冗談ではない。それは紛れも無い与太者である。そして、非行少年の肩を持ちたがり、「大人の理解を超えてゐる」などと「嘆いてみせ」る大人の存在こそ、そういう度し難い子供を育て上げるのだ。
朝日ジャーナルにしても、「私たちはいまだに、彼らを殺人にかりたてた眞の要因をつかみがねてゐる」と書いてゐるが、笑止千萬である。成田空港反對派に對して同情的な朝日ジャーナルが、それを「つかみかねてゐる」とは何事か。滋賀の中學生は成田の大學生と同じ衝動に從つて動いたまでの事だ。朝日ジャーナルに限らぬ、前者の暴力には當惑し、後者の暴力には喝采をおくるジャーナリストには、暴力に關する嚴しい認識が無い。この際、そういう進歩的ジャーナリストに言つておく。過激派の正義を支持する以上は、その暴力をも公然と支持して貰いたい。安手のヒューマニズムなどをちらつかせず、正義のためには血を流すべしと堂々と主張して貰いたい。暴力に上等下等の別は無い。滋賀の中學生もまた、ささやかながらけちな正義のために血を流したのである。
(昭和五十三年三月四日) 

 

知識はタダならず
二月二十日、朝日新聞は値上げの社告を出した。が、讀賣新聞は定價の据え置きを決め、讀賣の販賣店は「かなりエゲツない内容」のチラシをばらまいた。憤激した朝日の販賣店は讀賣の販賣店を告訴し、かくて「朝日VS讀賣の“全面戰爭”が勃發した」という。すでに本欄で生田正輝氏も指摘してゐるとおり、これはまことに情け無い戰爭である。そこで週刊誌もこの大新聞の「恥部」を取上げ批判する事となる。例えば週刊文春は、朝日の二重價格について「讀者を愚弄してゐる」と書き、週刊ポストは「讀者不在のケンカざんまい−これほど國民を愚弄した話はあるまい」と書いてゐる。だが、愚弄する側を一方的に批判するのはよろしくない。愚弄される側にも越度はあるのである。
朝日は三百圓の値上げを決めた。つまりセブンスター二箱分である。一月三百圓の餘分の出費を嫌つて他紙に鞍替えするような讀者を、私は輕蔑する。それはいわゆる「擴材」に目が眩んで購讀紙を決める手合であつて、それなら愚弄されても仕方が無い。と同時に、そういう情け無い讀者をも取り逃がすまいとして「全面戰爭」を戰わねばならぬ大新聞を、私は「お氣の毒」に思ふ。そういう血腥い戰爭をやつてまで大新聞が獲得しようとしてゐる讀者とは、實は甚だ淺薄な讀者なのである。私はそういう讀者を一人知つてゐる。彼はサンケイから毎日に鞍替えしたのだが、その理由は經濟的苦境に立つ毎日が「お氣の毒」だから、というのである。
新聞は安すぎる。週刊誌も安すぎる。これまで週刊誌の惡口をずいぶん言つたから、ここらで少少週刊誌を喜ばせたいが、週刊現代にせよ週刊ポストにせよ、大新聞の批判勢力としての努力だけを考へても、百五十圓は安すぎると思ふ。新聞も週刊誌も値上げすべきである。一カ月に三百圓なら、一日十圓ではないか。知識というものの價値を見縊つてはいけない。「文盲は惡ならず」とE・M・シオランは言つてゐる。それは半面の眞理である。が、どんなに低俗な知識でも、無いよりは有つたほうがいい。そして知識を手に入れるには、それなりの金を支拂わねばならぬ。週刊誌一冊が提供する知識に對して百五十圓は、不當なまでに低額だと私は思ふ。けれども、そんな事を言つても無駄なのである。一方でテレビという怪物が、無料で大量の知識と娯樂を提供してゐるからだ。いや、吾々はNHKに受信料を、電力會社に電氣代を支拂つてゐる、と人は言うかも知れぬ。が、テレビを見てゐる時、吾々はそれを意識してはいまい。かくて、知識も娯樂も無料で受取るという嘆かわしい風潮が生じたのである。NHK受信料の不拂い運動なるものが行われてゐるそうだが、とんでもない事だ。この際、民間テレビも受信料を取立てたらよい、私は本氣でそう思つてゐる。
(昭和五十三年三月十八日) 
なぜ早稲田なのか
毎年の事ながら、このところ週刊誌は受驗戰爭に乘じて大いに稼いでゐる。例えば週刊朝日三月二十四日號は「受驗長期予報第二彈・來年の國公立大二次試驗」、「速報・大學合格者高校別一覽」、及び「東大二次試驗問題速報」の三本立てといつたあんばいだ。もつともそれは朝日に限らない。殆どの週刊誌が死の商人よろしく稼いでゐる。受驗戰爭も戰爭だから、死の商人が暗躍したところで不思議は無いが、「大學合格者高校別一覽」だの「東大入試問題速報」だのは、記者の頭を使う必要の全く無いしろものであつて、それを毎年繰返すとはまことに藝の無い話である。半人前のにきび面の高校生を相手にするのは、受驗雜誌かプレイボーイもしくは平凡パンチに任せておくがよろしい。
ところで、これまた「毎年の事」なのかどうか、それは解らないが、このところ週刊誌は屡々早稲田大學に關する記事を載せてゐる。例えば週刊讀賣は「“早大合格記念”のノボリを打ち立て、合格者をリヤカーに乘せて校内を一周する」という學生のアルバイトについての記事とグラビア、週刊現代は「直前指令!早稲田大學學部別入試突破のノウハウ公開」、及びこの三月早大文學部を定年退職する「名物教授暉峻康隆の全ワセダマンに告ぐ」、週刊ポストは「早大慶大三十倍競爭率の狂騒部分をえぐる」、そして平凡パンチは、早稲田大學受驗生十五萬人に接近遭遇」、といつた具合である。なぜこうもワセダばかりが持てるのか。察するに週刊誌界には早大出身の記者が多數いて、母校の事を話題にするのが樂しくて仕方が無いのかも知れぬ。が、そうだとするとそれはいささか公私混淆の母校愛である。この肌を擦り寄せる樣な盲目的母校愛は早大出身者の欠點の一つであつて、私は日頃唾棄すべきものと考へてゐる。また、他大學出身の記者が書いた記事だとすると、その心理は不可解である。他大學出身者の記者が早大の「學部別入試突破のノウハウ公開」などという記事をどうして書く氣になれるのだらうか。何十萬人の受驗生が押寄せようと、早稲田だけが大學ではないのである。
そして、これらの週刊誌の記者は早稲田が「ワセダらしくなくなつた」事を嘆く。ワセダマンは大隈精神を持つべし、野暮であるべし、反體制的であるべし、しかるに現今の早稲田大學は・・・・・・という譯だ。週刊讀賣四月二日號は「ますます“狭き門”早稲田、慶應」と題する記事の中で、「四年後の早稲田創立百周年事業として、早大カラーの強化を圖りたい」とする村井總長の言葉を引用してゐるが、「早大カラー」などというものの強化によつて、例えば大橋巨泉氏の如き人物をより多く輩出させる事が狙いなら、それは是非願い下げにしたい。早大に今必要なのは「名物教授」や「早大カラー」などではない。教員同士、學生同士の馴合ひを排しての嚴しい教育を行う事なのだ。
(昭和五十三年四月一日) 
健忘症もまた惡徳
週刊文春四月六日號によれば、成田空港反對同盟は「億の金を持つてゐるし、新左翼系の中の最も優秀な辯護士も用意してゐる」との事である。そこで文春は「かりに、めでたく開港になつたとしても、機動隊が常駐し、ゲリラがスキあらばと狙いすましてゐる空港が、どうして日本の“玄關”でありうるか」と書いてゐるのである。文春に限らない、殆どの新聞・週刊誌が、過激派による開港後の成田襲撃を懸念ないし期待してゐるようだが、私はそういう事態はまず起らないと思ふ。週刊新潮四月六日號によれば、反對同盟の戸村委員長は「パレスチナにくらべると我々の鬪爭はまだまだ甘い」と言つてゐるそうだが、その通りである。過激派を唆す譯では斷じてないが、成田を襲撃して政府に打撃を与えるには、開港後のほうが遙かに効果的だつた筈である。それを、開港前に管制室の機器を破壞して溜飲を下げるなどと、要するに彼等は戰爭ごつこをやつてゐるに過ぎない。戰爭ごつこだから、いずれ本氣ではない。どうでも廢港に追込もうなどとは思つていない。それゆえ私は、開港後の襲撃はまずないと考へる。が、新聞や週刊誌はこの戰爭ごつこに興奮し、「地元農民に十分な理解を求めず、權力を行使して、むりやりに空港を開こうとする政治の責任」を追及した。週刊新潮の言うとおり、すべてこれ猿芝居に他ならない。
しかしながら、過激派が開港後もゲリラ活動を續けるという事になつたとしても、それはそれで結構である。過激派が本氣なら政府も本氣になる。新聞も週刊誌も本氣で暴力と法について考へるようになる。それこそ私の何よりも望むところだ。政府は新聞を恐れてゐる、それゆえまず新聞がしつかりしてくれなければならぬ、と週刊新潮は言うのだが、それは百年河清を俟つようなものである。新聞に期待するくらいなら、私はむしろ過激派に期待する。過激派が本氣にならなければ、政府も野黨も新聞も週刊誌も、決して本氣になる事はない。
けれども、それも所詮は徒な望みであろう。日本の過激派は執念深くないのである。いや、過激派に限らぬ、日本人はすべて淡泊で執念深くない。新聞や週刊誌の讀者も執念深くない。執念深くジャーナリズムの既往を咎めるという事がない。例えば週刊ポストが、昨年十月、エネルギー危機は「幻想の危機」であると書き、二ヵ月後「世界的エネルギー供給危機が(日本の)經濟成長を減速させる」と書いても、讀者はそれを咎めない。週刊朝日四月十四日號で野坂昭如氏と井上ひさし氏は、開港後も自分たちは決して成田を利用しないと言つてゐる。が、いずれ成田から出國する兩氏の寫眞が週刊朝日に載るかも知れぬ。そしてその場合も、讀者は兩氏の食言を咎めないであろう。「新聞は讀者の健忘症の上に成り立つ」と林三郎氏は言つてゐる。それなら健忘症は惡徳に他なるまい。
(昭和五十三年四月十五日) 
相互理解の迷夢
尖閣諸島周邊における中國漁船群の領海侵犯事件が發生して以來、新聞や週刊誌は中國の動機をあれこれ詮索してゐるが、週刊ポストの表現を借りれば、目下のところ「中國内の内紛説から臺灣ロビーの陰謀説まで諸説紛々」であつて、その紛々ぶりを日本國民は大いに樂しんでゐると思ふ。
サンデー毎日で松岡英夫氏は、この問題が「突然の海底地震のように日本中をゆさぶつた」として、例の如く淺薄な文章を書いてゐるが、そんな事はない。領海を侵犯されたくらいでこの鈍感な日本國が地震のように揺れるはずはない。週刊新潮の言う通り「實に日本はのんびりした平和な」よい國なのだ。これは皮肉ではないと新潮は言つてゐるが、それは嘘なので、わざわざ皮肉でないと斷る事によつて、その實皮肉つてゐる譯である。
そういう譯で、出版社系の週刊誌は大いに讀者を樂しませたが、一向に樂しませないのがサンケイを除く大新聞の週刊誌である。週刊現代が批判してゐるように、大新聞は「社會面では“女郎屋の火事”式に騷ぎたて」ながら、社説では「意味のない解説と説教ばかり」を並べ立てた。が、例えば週刊讀賣は、騷ぎもせず説教もせずという全くの默りん坊なのである。
讀賣の編集長は「圓高も、成田も、尖閣諸島の侵犯事件も、すべてが別世界の繪空事のような氣が」すると言つてゐるが、これが本音なら、すなわち親中國の讀賣の社員として尖閣問題に騷げぬ辛さの表現でないのなら、ジャーナリストとして言語道斷の態度である。野次馬精神すら持ち合わせずにどうして編集長が務まるのか、私にはとても理解できない。
ところで、諸説紛々は自由社會においてのみ樂しみうる現象である。が、これまでのところ誰一人主張していない説があつて、それは尖閣諸島を放棄すべしという説である。新潮はそれを言いたげだが、さすがの天邪鬼も明言していない。朝日ジャーナルは、「海上自衞隊を出動させよ」といつた強硬論は「現實の論議としてこれほど虚ろなものはない」と言いながら、一方「日本にとつて主權を守る道は結局“武力”ではなく」近隣諸國との相互理解だと主張しており、これは全く馬鹿げた見解である。
強硬論の虚ろを言うなら、なぜ尖閣の放棄を主張しないのか。この期に及んで非武裝中立も等距離外交も「現實ばなれしてゐる」と週刊ポストは言う。その通りであつて、「相互理解」も同樣である。相互理解が不可能な相手というものはある。早い話が朝日ジャーナルと私との間にいかなる相互理解が可能なのか。
冗談と綺麗事は休み休み言つて貰いたい。強硬論を批判するのなら「日本の主權を捨てて屈從する」しかないと主張して貰いたい。それなら私も賛成する。日本は弱小國なのだ。最後はアメリカに助けて貰えると信じ切つてゐる甘つたれの弱小國なのだ。そして弱小國に屈辱感は不要である。この際日本は尖閣諸島も竹島も北方領土も放棄して、「のんびりした平和な」國でありつづけるに如くはない。
(昭和五十二年四月二十九日) 
思考の徹底を望む
ソ連領空に迷い込んだ大韓航空機が強制着陸させられた事件については、ソ連の對應を非人道的だとして非難する向きもあるようである。が、それは私には納得出來ない。例えば週刊新潮五月四日號は「ソ連機の發砲に、いかなる正當性の主張があろうとも、相手は無抵抗、丸腰の民間航空機である」と書いてゐる。勿論、新潮は「人命尊重のお題目」が今囘の「事件であつさり紛砕された」と言つてゐるのであり、サンデー毎日五月十四日號の如く、「國家の威信より乘客の命」を大切にしようなどという戯言を言つてゐるのではない。が、ソ連に對して抗議することはできないとする外務省の見解は正當であり、それが正當である事を認めながらも、なお外務省の「冷靜」のまやかしを發きたいと思ふなら、新潮はもつと物事を徹底して考へなければならない。今囘の新潮の記事はその點、中途半端であつて、それゆえ大韓航空機がコンピューターを積んでいないという事實と、大株主小佐野賢治氏のけちとを結びつけるが如き、けちくさい根性が丸出しになるのである。ジャーナリストたる者は、物事を考へぬいて貰いたい。國際法上正當な行爲とは何か。それはなにゆえ正當なのか。國際法に限らず、すべて法とは相對的なものではないのか。それなら、正義とは力なのか。
もとよりそういう問題を、かういふコラムで論ずる譯にはゆかない。それは例えばパスカルを苦しめた問題であつて、苦しんだ結果人は幸せになる譯でもない。それゆえパスカルも時々「これは大衆に言うべき事ではない」と書いたのである。が、ジャーナリストは世人が自明の理としてゐるものを徹底的に疑わねばならぬ。徹底的に疑えば「これは大衆に言うべき事ではない」と考へるようになる。それを言う事が政治的に賢明かどうかの判斷が必要となる。が、我國では、ジャーナリズムのみならず學者の世界でも、中途半端な思考を政治的賢明と誤認しがちなのである。
私はそういう不徹底な物の考へ方を好まない。前囘私は、尖閣も竹島も北方領土も放棄すべしと書いた。憲法前文に則して論理的に考へれば當然そういう事になるからだ。
ソ連も中國も韓國も、平和を愛し「公正と信義」を重んずる國家なので、ソ連が北方領土を返さないのも平和を愛する國の「公正」な行爲であつて、日本としてはソ連の「信義に信頼して」ゐる以上、北方領土は放棄するしかないという事になる。かういふ言い分は詭弁か、書生論か。週刊文春五月十一日號で野坂昭如氏は「自衞隊は人間の集團であり、これだけの歴史を持つてしまえば、違憲だとわめき立てても、無理なのだ」と言つてゐる。が、この卑屈な戯作者の文章は、合憲論としては頗る非論理的である。私は改憲論者だから、この種の野坂氏の輕佻浮薄を喜ぶ。が、一方、既成事實に揺がず、論理的に承服出來ぬものに對して「否」を言いつづける精神を欠く昨今の風潮を、大變危ないとも思ふ。
(昭和五十三年五月十三日) 

 

「討論ごつこ」の愚
『月曜評論』五月二十二日號のコラムニストは、『諸君!』六月號の「“ごつこ”の時代は終つたか」と題する江藤淳・中島誠兩氏の對談を痛烈に揶揄してゐる。兩氏の對談は「出來そこないの漫才」であり、江藤氏は「もう二度と左翼相手のニコポン」をやるべきでないと言うのである。全く同感だが、咎めらるべきは專ら江藤氏だと私は思ふ。中島氏は「無知無能」であり、それなら中島氏を咎めても仕方が無い。無知のほうは努力次第で何とかなるかも知れないが、無能につける藥は無いからである。が、江藤氏は無知でも無能でもない。江藤氏の對應ぶりを私は本氣だとは思はない。中途半端な新左翼相手に「まつたく同感だなあ」などと相槌を打ちながら、心中ひそかに中島氏を輕蔑してゐる。輕蔑しながら相槌を打つ事を政治的賢明ないし保身の術だと考へてゐる。そういうぬえ的狡猾を、私は無知無能よりも嫌う。何の事はない、江藤氏は「討論ごつこ」をやつてゐるに過ぎぬ。「出來そこないの漫才」たるゆゑんである。
週刊文春五月二十五日號に、鹽野七生女史がイタリアの元首相モロ氏の殺害事件について頗る興味深い文章を書いてゐる。モロ氏はキリスト教民主黨のアンドレオッティと共産黨のベルリングェルとが「虚々實々の驅け引きの末にあみあげた白と赤のレースあみの、中心に使つた一本の糸」であり、その糸は「白好きの人が見たら白に見えるが、赤好きの人が見たら、赤ではないがピンク色には見えるという、便利な糸」だつたと、鹽野女史は言う。要するにアンドレオッティもベルリングェルも、知能犯的狡猾をもつて「ごつこ」をやつてゐたのであり、モロ氏は「ごつこ」に不可欠のぬえ的存在だつたという事になる。そして、ごつこを飽くまで拒否したイタリアの過激派「赤い旅團」は、そのぬえ的人物を血祭りにあげたのである。鹽野女史の文章の一讀を江藤氏に勸める。
ところで、ごつこの時代の處世術のモットーは「どつちもどつち」、つまり「右も左も蹴つとばせ」である。週刊文春五月十八日號の「成田ミニ戰爭に躍る國辱人間たち」と題する記事は、この「どつちもどつち」というぬえ的根性によつて書かれてゐる。過激派と政治家・空港公團の双方を批判して自分一人だけが良い子になる事を、文春は不安に思はないのか。專ら過激派を叩いてゐるライバル週刊新潮(五月十八日號)は、今や「ごつこの時代であるにもかかわらず、まともにやろうと」してゐる青臭い跳ね上りだと、文春は思つてゐるのか。文春の態度は、「一部過激派の暴力行爲が非難さるべきだとしても、このような状況を招いたそもそもの出發點が政府・行政側にあつた」とする朝日ジャーナル五月二十六日號の小林直樹氏の考へ方と、本質的には變らない。文春はいずれ朝日ジャーナルと「討論ごつこ」をやる氣なのか。「出來そこないの漫才」をやる氣なのか。そうではあるまい。それなら、文春の猛省を望む。
(昭和五十三年五月二十七日) 
笑いを催促するな
落語協會の眞打亂造は許せないと、三遊亭圓生たちが協會を脱退した。すると、席亭會議なる組織が調停に乘り出し、週刊朝日六月九日號の表現を借りれば「結局のところは犬も食わない結果に落ち着」いた。圓生の動機が眞打亂造反對だけだつたかどうか、それは私にも解らないが、今日、眞打の多くが眞打としての實力を有しないという事だけは確實だと思ふ。
下手糞な藝で客がさつぱり笑わぬものだから「あたしが、それ、こうして、握り拳を耳の所へ持つて來たら、皆さん笑つて下さい」と、笑いを催促する言語道斷の咄家がいた。今でもそれをやつてゐるのかどうか。けれどもその場合、咄家だけを咎める譯にはゆかないので、催促されて笑う客も惡いと私は思ふ。騙される客が馬鹿だからこそ、咄家は下手な藝でも食つてゆけるのだ。「長袖善く舞い、多錢善く買う」と韓非子は言つてゐるが、にせもの横行は古今東西を通じて存在する現象なのであろう。
もとより、それは落語に限らない。例えば私は、はらたいら氏の漫畫を面白いと思つた事が無い。週刊現代に連載中のはら氏の漫畫は下手糞であり、淺薄であり、私はただの一度も笑つた事が無い。一度でも笑つた事の有る讀者というものを想像できた例しが無い。 週刊現代のはら氏の漫畫は「ツッパリ白書」と題するもので、六月八日號で連載五十一囘目である。五十一囘目は福田首相と大平幹事長とをからかう漫畫であつて、「獨斷と偏見日記」というこれまたつまらぬ作者自身の解説がついてゐる。そればかりではない、漫畫の最後の齣には、福田大平兩氏が肩を組んでゐるところが描かれ、作者の傀儡らしい人物がそれを見守り、拍手しながらこう言つてゐるのである。「ネッ、へたなドラマ見るより、よつぽどおもしろいでしょう」
言うまでもなく、これもまた笑いの催促である。勿論、笑わせるだけが漫畫の効用ではないであろう。が、はら氏の漫畫は政治的諷刺としてもすこぶる凡庸である。それは三流の床屋政談である。
漫畫家にせよ、咄家にせよ、喜劇役者にせよ、笑いの催促だけは斷じてやつてはならない。私も劇作家の端くれだから、笑いを催促する役者がいかに惡しき技術の持主かは身に染みて知つてゐる。が、嘆かわしいのは、今日、そのような惡しき技術がさほど輕蔑されていないという事であつて、現代がにせもの横行時代たるゆゑんである。
はら氏の漫畫を週刊現代はいつまで連載するのであろうか。五十一囘も續いてゐるのは、週刊現代の忍耐ゆえなのか。それなら、その忍耐ははら氏本人のためにもならないであろう。それとも、はら氏の漫畫は好評なのか。クイズ番組で大學教授をも凌ぐ才能を示すがゆゑに、漫畫も好評という事なら、また何をか言わんや、以後、私は漫畫について一切口出しはすまい。
(昭和五十三年六月十日) 
時に愚直たるべし
週刊文春六月十五日號は「朝日と武見太郎の“危險な關係”」なる記事を載せ、立腹した朝日新聞は文春の廣告掲載を拒否した。文春は「公器と自稱しても、商業新聞である以上、儲けなくてはならない」筈だから、「廣告スポンサーに對する“配慮”もある程度止むを得まい」が、「朝日新聞が醫師會の廣告をもらうため迎合的記事を掲載した」とすれば、それはいささか問題ではないか、と書いたのである。文春の言う通りであつて、朝日は「廣告と編集が連動するなんてことはありえない」と言つてゐるのだが、私にはそれは信じられない。「天下の公器も臺所の話となるとなりふりかまつていられない」筈だと思ふからである。但し、それは大新聞に限らない、週刊誌もそうである。例えば週刊新潮六月十五日號は、有吉佐和子女史と大鷹淑子女史の中國訪問についての記事の中で、この二人が中國で何を見て來るか、「世界の良心」が期待してゐると、「少々うわずつた」調子で書いてゐる。新潮は昨年十二月、大鷹女史の實力を揶揄する記事を載せたのであり、それが今、突如好意的になつたのは、新潮の臺所にとつて大切な有吉女史にだけ期待するのは、いかにもまずいと考へたからであろう。賢明な判斷だが、新潮はもう少し馬鹿になるべきである。
ところで、前囘、私ははらたいら氏の漫畫を批判したが、はら氏の漫畫はサンケイ新聞も連載しており、それゆえサンケイは少々困つたろうと思ふ。少々困つたがともかく私の文章を載せたのは、このコラムをもうけるに際して「齒に衣着せぬ自社に對する批判をも掲載する」と讀者に約束したからであろう。それが實は建前に過ぎず、サンケイは最初からやる氣が無かつたのだ、とは私は思はない。週刊文春によれば、健康保險法改正問題については醫師會も厚生省も本氣ではなかつたようであり、もしもそうなら、本氣で事態を憂えた者が馬鹿という事になる。問題の「迎合的記事」を書いた朝日の記者は新前で、「クラブの物笑い」になつてゐるという。要するに朝日の上層部が本氣でないのに、新前の記者だけが本氣になつたという事であろう。
その朝日の記者も、いずれ成長して本氣になる事の愚を悟るかも知れぬ。が、この世にはよろず本氣になれぬ馬鹿というものもあつて、このほうが遙かに厄介である。が、サンケイは本氣になる馬鹿だと私は信じたい。他の新聞が無視しても、例えば東大精神科病棟不法占拠問題や自民黨意見廣告掲載問題で、サンケイはいつまでも本氣になつてゐる馬鹿である。週刊文春も時々その種の馬鹿になる。文春の馬鹿を危ういと思ひ、私は文春を咎める事がある。が、それは本氣になる馬鹿が好きだからである。ソルジェニーツィンは六月八日、ハーバード大學で講演し、自由社會の堕落を痛烈に批判した。それはアメリカ人の神經を逆撫でし、評判は必ずしもよくないという。要するに、彼は偉大なる馬鹿なのである。
(昭和五十三年六月二十四日) 
時に惡魔たるべし
週刊現代六月二十九日號によれば、テレビドラマ『夫婦』の視聽率はついに三〇%を超えたそうである。私も一度だけ『夫婦』を見た事がある。案の定くだらないと思ひ、テレビドラマは結局テレビドラマでしかないと思つた事がある。だが、何しろ大變な評判である。それを言へば嫌われる。だから私は默つてゐた。が、先日、『夫婦』を見て笑い轉げたという惡魔的な友人の告白を聞き、少々安心した。
實は私も少々笑つたからである。淺薄なテレビドラマが受けるのは、人々の思考の不徹底のせいだと私は思ふ。しからば思考の徹底とは何か。それを知りたい讀者に、今、紀伊國屋ホールで上演されてゐる『ヘッダ・ガーブラー』をすすめたい。ヘッダに扮する鳳八千代の名演技は、作者イプセンの思考の徹底がいかに惡魔的なものだつたかを教へてくれるであろう。
『夫婦』と『ヘッダ・ガーブラー』との間には殆ど無限大の隔たりがある。それは日本の進歩的文化人と非暴力主義者ガンジーとの隔たりのようなものだ。ユダヤ人を救う爲にヒットラーと戰うべきか。平和主義者ガンジーは答える。いや、戰うべきではない、むしろドイツのユダヤ人が集團自殺すべきである。これも惡魔的な徹底であつて、私はガンジーを好かないが、敵ながらあつぱれだと思ふ。が、日本の平和主義者はその點、頗る中途半端であつて、例えば週刊現代六月二十九日號が叩いてゐる大島渚、富塚三夫、高澤寅男の諸氏もそうである。成田開港絶對反對を唱えてゐたこれらの進歩派が、いずれ必ず口を拭つて成田を利用するに違い無いと、週刊現代は網を張つて待ち受けてゐたのであろう。そして果せるかな、成田空港に現れ、網に掛つた雜魚の「ヘンないい分」を現代は手際よく料理してみせたのである。週刊現代の記者の勞を多とする。
一方、週刊新潮七月六日號によれば、園田外相はかつて中尾榮一氏に「私が日中条約を推進しようと思ふのは、日本が戰爭で中國に行き、彼らに可哀そうなことをしたから」であり、「私は福田政權を大平政權にバトンタッチする際の潤滑油の役に立てればいいと思つてゐる。その點からも日中を」やるのだと語つたそうである。政治家は惡魔と契約する、とマックス・ウエーバーは言つてゐる。惡魔との契約という事について全く無知な、途方も無い素人に、我々は外交を任せてゐる譯であろうか。
或いは園田氏は、永田町を舞臺にして政治的に賢明に振舞つてゐる積りかも知れぬ。が、「福田政權を大平政權にバトンタッチする」事の意味は何なのか。政治哲學を欠く政治的賢明など何の自慢にもなりはせぬ。それは惡魔とは無縁である。それは世渡りの術に過ぎず、大人なら誰でもそれを持合せてゐる。そして誰でもが持合せてゐるようなものに、一體何ほどの力があろうか。いやいや、それとも新潮の記事がでたらめなのか。それなら、たかが週刊誌などと言うなかれ、園田外相は斷固新潮に反論すべきである。
(昭和五十三年七月八日) 
權威を叩く無原則
『復讐するは我にあり』で直木賞を受賞した佐木隆三氏が、去る一日、器物損壞の現行犯として逮捕された。佐木氏は週刊サンケイ七月二十七日號に「我が酔虎傳始末記」なる一文を寄せ、自分は品行方正を理由に直木賞を貰つた譯ではないし、「たかが戯作者風情(中略)今後も似たような失敗は、どこかで演じるにちがいない」と書いてゐる。私は『復讐するは我にあり』を讀んでいない。が、讀むに値する作品ではないという事は察しがつく。佐木氏は週刊讀賣六月十一日號に「嚴戒の成田空港」と題する文章を書いており、それを讀んで呆れ果てたからである。これまでに私は、何囘か野坂昭如氏を批判した事があるが、野坂氏の文章は文士の文章である。が、佐木氏のそれは素人の文章である。文士というものは、いかにやつつけ仕事であつても、ああまで劣惡な文章は書けない。亂心して萬一書いてしまつたら、正氣に戻つて忽ち死ぬと思ふ。
週刊サンケイの佐木氏の文章もまこと劣惡であり、どういう積りで書かれたものやら、さつぱり解らぬしろものである。とまれ、佐木氏は少しも反省しておらず、世間をなめきつてゐる。いずれまた自分はこの種の罪を犯すに違い無いが、「品行方正を理由に、直木賞をいただいた」のではないのだから、それは仕方が無いではないか、と佐木氏は言う。何とも盗人猛々しい言い種ではないか。だが、佐木氏に限らず、作家は昨今とみに盗人猛々しくなつたりである。新聞や週刊誌は藝能人のスキャンダルは容赦しないが、作家の出鱈目は大目に見るからだ。文壇における情實と馴合ひは目に餘ると聞いてゐるが、ジャーナリズムはそれを決して暴かない。暴いたら原稿を書いて貰えない。それかあらぬか、週刊文春七月二十日號で田中編集長は佐木氏を庇う文章を書いてゐる。田中編集長も「臺所の話となるとなりふりかまつていられな」かつたのであろうか。何とも情け無い文章である。
一方、サンデー毎日七月十六日號は、醫師會報道をめぐる朝日新聞と週刊文春との大喧嘩の奇妙な落着を批判する記事を載せており、私は頗る興味深く讀んだ。毎日によれば、田中編集長は「無原則」であり、「權威を相對化する」事を樂しんでゐるという。田中角榮氏や共産黨を、「右も左も蹴つとばせ」とばかり叩いて來た田中編集長は、要するに「權威を相對化」して樂しんでいただけなのか。それなら、週刊文春の編集部員も、編集長の權威を相對化して樂しんでよい、という事になる。權威を叩く權威を叩いてもよい、という事になる。そうなれば、權威が權威を叩く事は天に向つて唾する事になる。文春七月十三日號は、「編集長が變わ」つて以來初めてのピンクサロン探訪記を載せてゐる。無原則が原則なら、それも怪しむには足りぬ。いずれ文春はすさまじいポルノを讀ませてくれるのではないか。
(昭和五十三年七月二十二日) 

 

栗栖支持は改憲支持
栗栖統幕議長の解任について週刊ポスト八月十一日號は、自衞隊は有事の際超法規的に行動せざるをえないとの栗栖發言に對する「防衞官僚・新聞の集中砲火は魔女狩り的發想」であり、「防衞論議にタブーを設ける」のは「愚擧」であると書いてゐる。まつたく同感である。
それゆえここで「防衞問題に關するポストの成熟を喜ぶ」と書きたいのだが、そう書く事を私はやはりためらわざるをえない。ポストは七月二十八日・八月四日合併號に、「憲法を變えなくても(中略)自衞隊の行動を十分に保障する法的根拠を得られる」とする意見と、それは「憲法の規定を事實上無視」する事であり、「實に危險なこと」だとする意見を紹介してゐるが、ポスト自身はいずれを支持するのか、それがよく解らない。防衞問題は冗談事ではないから、私は眞顔でポストに尋ねたいが、栗栖發言を支持する事は憲法改正を支持する事だという認識を、或いは少なくとも危倶の念を、ポストは持つてゐるのか、いないのか。
栗栖氏は今囘、「有事の際、自衞隊は超法規的に行動する」と發言して詰め腹を切らされたけれども、氏は本年一月、「專守防衞と抑止力は並存しない」と書いた事があるのであり、このほうが遙かに重大な問題提起だつたのである。それは憲法第九条の所謂芦田解釋のまやかしを粉砕するに足る發言だつたからである。ポストに注文しておきたい。「庶民本位の未來民主主義」などという怪しげな護符にすがりつかず、一度じつくり栗栖氏の發言について考へて貰いたい。
一方、週刊現代八月十日號は、今囘の栗栖解任は「文民統制の大原則上當然の歸結」だらうが、それで問題が解決した譯ではなく、栗栖氏の「發言の眞意はさらに冷靜に檢討されなければなるまい」と書いてゐる。これまた、まつたく同感である。何か事件が起らぬ限り動こうとせぬのがジャーナリズムの惡弊だが、週刊現代はその惡弊を打破し、栗栖發言の眞意を執勘に追究して貰いたい。制服を脱いだ栗栖氏を活用しないという法は無いと思ふ。
ところで、週刊現代が連載してゐる石原慎太郎氏の文章を、私は毎囘愛讀してゐるが、それは石原氏が、栗栖氏と同樣、常に勇氣ある發言をしてゐるからである。その石原氏は防衞庁内の文官を「無能で卑劣」と形容してゐる。が、私は制服組もだらしがないと思ふ。これまで、かくも久しく「無能で卑劣」な文官の統制に從い、それに甘んじて來たとは、私は制服組の情熱を疑わざるをえない。制服に戰意無く、土木工事に精を出し、日陰者として認知される事だけを望んでゐるとすればそれこそゆゆしき問題である。それをジャーナリズムはなぜ問題にしないのか。もはや紙數が無い。森鴎外の言葉を引用しておく。「要スルニ世間ハマダノンキナルが如ク被存候。多少血ヲ流ス位ノ事ガアツテ始テマジメニナルカト被存候」
(昭和五十三年八月五日) 
文民統制も虚構
八月第三週發賣の週刊誌のすべてが栗栖解任を話題にしてゐるが、私は週刊現代の記事が最も愚劣だと思ふ。いつぞや書いた事があるが、週刊現代という週刊誌は人格の統一を全く欠いてゐる。現代は例えば栗栖發言を是認する石原慎太郎氏や江藤淳氏の文章を載せながら、今囘、八月十七日號では栗栖氏が「ことあるごとにシビリアン・コントロールをののしり、外敵の脅威を言い續けてきた」と書き、また「栗栖發言は、その眞意はどうであれ、形の上ではクーデターの“ハシリ”といえる」と書いてゐるのである。栗栖氏の顰みに倣い、私は敢えて暴論めく事を言う。クーデターは惡逆無道であり、一方、革命は正義に發する美擧であると、多分、週刊現代は考へてゐるのだらうが、私はそういう中途半端な思考が大嫌いである。中途半端で淺薄な考へにもとづいて、したり顔に國を憂えてみせる手合ひが大嫌いである。クーデターも革命も「超法規的」手段による權力奪取なのであつて、してみればその絶對的善惡を論うのは詮無き事だと、少なくともそれだけの認識をもつて物を言つて貰いたい。
一方、週刊ポスト八月十八日號で栗栖氏は「法というものは何から何までカバ一できるものではない」と言つてゐる。その通りであつて、昨年赤軍による日航機乘取り事件が發生し、福田内閣は「超法規的」處置をもつて赤軍に屈服した。日本國においても法は決して萬能ではない。そしてその際、週刊現代は、人命尊重よりも法を守るべしと強硬に主張した譯ではない。また現代は栗栖氏が「シビリアン・コントロールをののしり」云々と書いており、どうやら現代は「罵」るという日本語の意味するところを皆目、理解していないらしいが、それはさておき、週刊現代に限らず、世間は文民統制を絶對善であるかの如くに考へてゐるようであつて、この點も私は甚だ氣に食わない。民主主義と同樣、文民統制も萬能ではない。愚かな武官もゐるだらうが、愚かな文民もゐるからである。そして賢い制服組が愚かな内局の統制に常に從わねばならないと、どうしてそのような事が言へようか。文民統制も民主主義同樣に虚構に過ぎない。そして「虚構に過ぎない」と書いたからとて、私は文民統制を罵つてゐる譯ではないのである。
ところで、週刊ポスト八月十八日號によれば、大新聞は栗栖解任を報ずるに際し、週刊ポストの「栗栖インタビューの内容を大幅に引用しておきながら、ニュースソースが週刊ポストであることを明記」しなかつたという。事實ならけち臭い話である。また週刊文春八月十日號によれば、大新聞の記者たちは栗栖氏が「新聞にしゃべらないで、テレビや週刊誌で話」した事を快く思つていないという。事實なら情け無い話である。佐藤前首相は新聞よりもテレビを信用したが、栗栖氏は新聞よりも週刊誌を信用してゐるのかも知れぬ。
(昭和五十三年八月十九日) 
平和憲法もまた虚構
週刊ポストが俗受けするゆゑんは、その煽情主義と頭の惡さだと私は思つてゐる。頭が惡いから「國防問題を“賢明な大衆”の立場から凝視すべき時だらう」などと書く。そう書けば「賢明な大衆」に支持されると思つてゐるのか、それとも自身が「賢明な大衆」に屬すると思つてゐるのか、とまれ度し難き愚かしさである。ポスト八月二十五日號は「自民黨の“全方位外交”も非現實的なものといわざるをえない」と書いており、「外交というのは、世界のどこの國とも仲よくできない現實があるから必要なのであつて、もしどの國とも仲よくやれるなら外交は必要ない」との加瀬俊一氏の言葉を引いてゐるが、加瀬氏の言葉の意味するところを、ポストはさつぱり理解していない。
倉前盛道氏や加瀬氏の尻馬に乘る事が何を意味するかについては考へない。全方位外交を批判する以上、「どの國とは仲よくやれないか」についてポスト自身の意見が無ければならぬはずだが、無論そんなものは無い。「事實を提示」するから皆で論議してくれ、「論議がタブーであつてはならない」とポストは「言つてゐるにすぎない」。「賢明な大衆」に考へてもらおうと「言つてゐるにすぎない」。
ポストはまた、日中平和友好条約は「領土棚上げ条約」であり、「日中条約でこんな先例ができてしまえば、ソ連にせよ韓國にせよ。こうした日本のウヤムヤ外交の弱味につけ込んでくる」と書いてゐる。私はかつて尖閣も北方領土も放棄すべしと書いた事がある。そして、憂國の士らしき讀者から「お前は純眞な青年に軟弱な精神を吹き込む教師である」云々の激しい非難の手紙を貰い、うれしく思つて笑つた事がある。愚かなポストにも多分理解して貰えまいが、北方領土なんぞ決して戻る事は無いと私は思ふ。それは、春秋の筆法をもつてすれば、平和憲法のせいなのである。ポストはまた、ミグ25事件の際、自衞隊が超法規的行動を起した事を問題にしてゐるが、超法規的存在たる自衞隊が超法規的に行動して何が惡いのか。が、これも愚かなポストには到底理解できぬ議論であろう。
ところで、福田首相が全方位外交を説くのは、これまた平和憲法のせいである。平和憲法を是認しながら全方位外交を批判するのは矛盾だからである。私自身は福田恆存氏と同樣「新憲法を女郎の誓紙同然にしか見ていない」。それゆえ私は、全方位外交に批判的なのだ。けれども、イザヤ・ベンダサンによれば、日本人とは『勸進帳』であつて、「虚構の舞臺で虚構の主人公が、虚構の從者のため虚構の文書を讀むと、相手が虚構に信ずる」のである。平和憲法も、もとより虚構であつて、馬鹿はそれを眞に受け、利口はそれを信じないか、さもなくば信ずる振りをしてゐる。週刊ポストは前者であり、福田首相は後者だと私は思ふ。が、昨今は馬鹿が利口を批判して、したり顔なのである。奇妙な事だと思ふ。
(昭和五十三年九月二日) 
中國に何を學ぶか
週刊文春九月七日號は飯田經夫名大教授の中國視察記を紹介してゐる。飯田氏によれば中國の民衆の動作は緩慢で、顔は無表情、敢えて言へばそれは「阿呆づら」だそうである。週刊新潮九月七日號の表現を借りれば「大熱狂のうちに日中条約が締結されて(中略)兩國の交流は、いまや、拍車にジェットエンジンがくつついたような勢い」だというのに、ずいぶん大胆な事を言う御仁だと思ふ。けれどもそれは本當の事に相違無いので、「阿呆づら」ぐらいで驚く事はない。週刊新潮に連載中の「有吉佐和子の中國レポート」は面白く讀ませるが、有吉女史は人民公社の便所の「床にまつ白な石灰を撒いてある事」に驚き、風呂場があつて「電氣もある」事に驚き、中國に「民法も刑法もなかつた」事、及び「辯護士がいなかつた」事を知らされて愕然とするのである。女史は腰を抜かさんばかりに驚いたのかも知れぬ。
ところが、週刊讀賣九月十日號によれば「中國では小さなものでも安價なものでも」落し物は「必ず本人の手もとに戻つてくる」という。刑法や民法が不要なのは泥棒がいない國だからであろう。これぞまさしく天國だと、讀賣の記者は思つてゐるらしい。が、泥棒のいない國とは地獄に他なるまい。わが日本國では窃盗ぐらいで重刑を課せられる事は無い。それゆえ泥棒諸君は安んじて稼業に精を出す。が、泥棒のいない國とは泥棒に重刑を課す國である。惡を犯す自由の無い國である。そういう清く正しく美しい國に住みたいと、讀賣の記者は本氣で思つてゐるのだらうか。
一方、週刊文春九月十四日號は、中國人民解放軍の張副參謀長の來日について、「人的交流も結構だが、中國側に鼻づらを引きまわされるような愚は冒して欲しくない」と書いてゐる。けれども、日本は今後大いに「中國側に鼻づらを引きまわされ」て欲しい、と私は思ふ。中國の民衆は阿呆づらだらうが、民衆を阿呆づらにさせておく權力者とは、これはもう何とも見事な知者である。「知者に從う事は知惠のある事と同じであつて、我々は健康を欲するが、自ら醫學を學ぶ必要は無い」とアリストテレスは言つてゐる。阿呆づらの中國の民衆は知惠ある權力者に從つて清く正しく美しいのであり、それなら日本も中國の支配に從つたほうがよい。中國の叡知に學んだぼうがよい。
昨今、日本の右傾化を案ずる向きがあるが、元を糺せばそれも、周恩來が日米安保条約を認めてくれたからではないか。日本は外壓によつて變る國なのだ。マッカーサーに日本は十四歳だと言われて(それとも十二歳だつたか)嬉々として十四歳になりきつた國なのだ。いずれ中國の指導者が「日本の憲法は非現實的である」などと言つてくれるかも知れぬ。サンケイ新聞によれば、河本通産相歡迎宴の席上、中國の對外貿易相は「天皇陛下のご健康」を祈つて乾杯したという。望み無きにあらず、である。
(昭和五十三年九月十六日) 
野暮を貫けぬ風潮
週刊朝日九月二十二日號で田中美知太郎氏は、文章は「内容を離れてもそれ自體で味わうことのできる一面をもつ」と書いてゐる。その通りだと思ふ。週刊文春に連載中の山崎正和氏の『プログラムの餘白から』は「内容を離れてもそれ自體で味わうことのできる」文章であり、例えば、芥川比呂志氏の著書を評する氏の文章はちと褒め過ぎであり、感心できないが、文章そのものは立派であり、粗雜な週刊誌の文章の中にあつて、それは「早天の慈雨」のように思えるのである。
一方、週刊文春九月二十八日號の書評欄の筆者は、外山滋比古氏の著書を激しく叩き、「ジャーナリズムでもてはやされてゐる學者の多くはニセモノ」であり「疑う人は外山滋比古『中年閑居して・・・』を讀むがいい」と書いてゐる。全く同感だが、そんな事を言つても、もはや駄目ではないかと思ふ。それは野暮な事だと思ふ。外山氏は「コトバについて論じて世間から尊敬されてゐる」そうだが、してみれば世間は、文章を論じて文章が粗雜な事を一向に怪しまない譯である。
ところで、私は山本夏彦氏の文章が好きである。雜誌『諸君!』に連載中の氏の文章は何とも見事なもので、一度だけ馬の交接を内容とする文章を讀まされて困惑したが、それ以外は常に一讀三嘆、友人知己にすすめて倦む事が無い。その山本氏が、週刊文春九月七日號でイーデス・ハンソン女史と對談してゐる。これも世間は一向に怪しんでいないらしいから、それを言うのは野暮かも知れないが、ハンソン女史は日本で日本語を喋つて飯を食つてゐる筈であり、外人であつてもその粗雜な日本語は批判されてしかるべきである。女史の敬語の使い方はでたらめであつて、對談の相手が私淑する山本氏だからという事もあり私は進歩的文化人なみの反米感情に驅られたのである。冗談はさておき、のつけから對談の相手に「あつちこつち浮氣はしない?」とは何事か。けれども昨今、横柄な板前を卑屈な客が咎めないように、ハンソン女史の非禮を咎める讀者はいないのであろう。咎めるのは野暮、と讀者は思ふのだ。
一方、週刊現代九月二十八日號で黛敏郎氏は、話題になつてゐる「皇太子殿下訪中」問題について「道義的戰爭責任をいうんであれば(皇族は)まず臺灣へ行くべきだと思ひます」と言つてゐる。全く同感だが、今時何と野暮な事を言う御仁か。今や世間は日中友好ムードとやらに浮かれ、かつて日本が問答無用とばかり臺灣を切捨てた事を心苦しく思ひ出す者は殆どいないのである。私はそれを苦々しく思ふ。よろず野暮を貫けぬ風潮を苦々しく思ふ。黛氏に倣い私も思ひ切り野暮な事を言う。私は臺灣に行つた事が無い、が、私は臺灣が好きである。臺灣は日本に對して何一つ惡い事をした事が無い。それにも拘らず日本は臺灣を捨てたのである。それを世人はなぜ思ひ起さないのか。
(昭和五十三年九月三十日) 

 

馴合ひかガス銃か
『新聞よ驕るなかれ』(高木書房)の著者辻村明氏は、新聞批判ばかりやつてゐると「人間が惡くなる、そのうち目付が惡くなる」と夫人に言われたそうである。辻村夫人は辻村氏を愛してゐるに相違無いから、目下のところ夫君の目付はうるわしいと思ひ、「そのうち惡くなる」事を心配したのだらうが、批判される新聞から見れば、辻村氏の目付はとつくの昔から惡かつたに違い無い。だが、氏の目付がもつと惡くなる事を私は望む。このコラムで毎囘のように週刊誌を叩いてゐる私の目付もずいぶん惡くなつてゐるはずだからだ。つまり同病相憐れみたい氣持は私にもあつて、それゆえ例えば、前囘も取上げた「風」というペンネームの週刊文春の書評欄の筆者を、これまた相當に目付の惡い御仁であろうと思ひ、貴重な存在だと思ふ譯である。「風」氏の書評はまことに辛辣だが、常に正鵠を射ており、馴合つて褒め合う書評が多い當節、書評中の白眉だと思ふ。
ところで週刊新潮十月五日號は、東大文學部長室出火事件を取り上げ、向坊總長と文部省を激しく批判してゐる。新潮は「精神神經科の赤レンガ(病棟)も、文學部長室も、われわれは占拠と見ていない」との向坊總長の言葉を引き、吉田茂が生きてゐたら「これこそ曲學阿世」と言つたに違い無いと書き、返す刀で文部省に斬りつけ、その弱腰を叩き、東大から「事情聽取」して「速やかな正常化」をお願いするだけしか能の無い文部省は「この際解散」したらどうかと言う。いかにももつともであつて、要するに東大も文部省も馴合ひの微温湯にどつぷりつかつており、馴合ひこそは日本國の美風なのである。それゆえ私はここで予言しておくが、週刊新潮が何を言おうと、またサンケイ新聞がいかに執拗に追及しようと、東大が「正常化」される事は無い。サンケイの執拗はあつぱれだが、それはいかんせん、「和をもつて貴しとなす」日本の風土になじまないのである。
それに東大の「正常化」問題に關しては、週刊新潮もサンケイ新聞も氣づいていないらしい事がある。大方の大學教授が知つていてジャーナリズムが知つていないらしい事がある。それは、大學の「正常化」のためには警察の協力が必要だという事である。今道東大文學部長は「學生の理性的對應に期待しすぎてゐた」と言う。それなら今後どうするのか。理性無き「學生の理性的對應に」今後も期待するのは、今後も馴合ひを續けるという事である。では、どうするのか。警察の協力無しに「正常化」する氣なのか。それなら教師がチョークを捨てガス銃を持つしかない。私はいつぞや「あの狂犬に等しいゲバ學生と、ガス銃を持つて戰つてみたい」と發言して、同僚に窘められた事がある。さて東大はどちらを選ぶのか。馴合ひでなくガス銃を選ぶなら、私は東大の傭兵になりたいと思ふ。呵々。
(昭和五十三年十月十四日)  
損を覺悟する精神
週刊現代十月二十六日號で曽野綾子女史は「人間と動物が違うのは、損ができる」かどうかという點であり、「私だつて、損ばかりしてゐるのは好きじゃないけど、損してゐる人には尊敬を覺え」ると言つてゐる。政治とは殆ど欲得ずくの行爲である。日中友好条約の締結も双方の欲得ずくの行爲であつて、對中國輸出に活路を見出した積りの日本と「四つの近代化」に活路を見出した積りの中國との、双方の利害得失が一致したという事である。週刊文春十月十九日號は、「不況にあえぐ日本企業も渡りに舟とばかりに中國詣」をしてゐるが「すべて萬々歳」と言へるかどうか、「その前途には容易ならぬ問題が待ちかまえてゐる」と書いてゐる。文春と同樣、私も日中友好を手放しで禮賛する氣にはなれない。週刊文春で長谷川慶太郎氏が言つてゐるように、中國が近代化を進めてゆけば、當然「どんどん貧富の格差がつく。そこでどういう反動が起こつてくるか」。勿論、それは「中國の政治にハネ返る」事となる。貧富の差をこのまま放置はできぬ、と中國の貧乏人は考へるに相違無い。「俺たちだつて損ばかりしてゐるのは好きじゃない」。
それは中國が早晩直面する困難であつて、近代化の過程で再び「造反有理」のスローガンが叫ばれる事もありうると私は思ふ。だが、日本の近代化と同樣中國の近代化も、所詮は損をする事を嫌う人間しか育てないのではないか。
週刊文春十月二十六日號によれば、日本美術界腐敗の構造」はすさまじく、畫家たちは「紙面に取り上げてもらうために記者を料亭に呼んで現ナマを五萬圓ぐらい包むのは日常茶飯事」であり、「藝術院會員になるには(中略)運動費に最低三〇〇〇萬圓は使わないと無理」だそうである。それは本當の事だらう。それくらいの事なら文壇でも行われてゐる、と私は聞いてゐる。そしてそれなら、文士にも畫家にも政治の腐敗を云々する資格は無い。曽野綾子女史は「宇能鴻一郎先生や川上宗薫先生の小説なら、非常に愛讀してゐる」と言う。宇能、川上兩氏の小説は論ずるに値しない。が、人間と動物との違いを本氣で氣にしてゐる小説家が、今の日本にどれだけゐるのだらうか。『エーゲ海に捧ぐ』は『濡れて開く』よりもどれだけ高級なのだらうか。
一方、サンデー毎日十月二十二日號で松岡英夫氏は「中國留學生に傳えたいもの」は「點取り主義や出世主義でなく、學術をささえる本當の精神」だと書いてゐる。途方も無い愚論である。今の日本に「學術をささえる本當の精神」など殆ど殘つてはいない。それは損を覺悟の精神であり、中國にはあつても日本には殆ど見出せぬ精神である。大正七年、森鴎外は『禮儀小言』を書いた。日本人はいまや「單に形を棄てて罷むか、形式と共に意義をも棄つるかの岐路」に立つてゐると書いた。今日なお松岡氏の愚論あるを、私は頗る奇怪な事だと思ふ。
(昭和五十三年十月二十八日)  
惡魔を見ない純情
このほど來日した「1(登+邑)小平氏は、中國人というより、どこか日本のいなかの小學校で見かける用務員のおじさんのように親しげで、終始、好感が持てました」と週刊讀賣十一月十二日號は書き、「初めて見たおじさんは、小柄な體ながら、きりつと締まつた物腰で貫録よろしく(中略)終始、親善ムードの盛り上げをリードする餘裕ぶり」とサンデー毎日十一月十二日號は書いてゐる。この種の腑抜けの戯言を讀まされると私は反吐が出そうになる。よい年をして何たる純情か、何たるお人好しか。讀賣も毎日も日中友好ムードを煽ろうと思つてゐるのではない。そういう意圖的なものは皆目ありはしない。そんな底意があるならそれは小惡黨で、それならまだ付き合へる。が、讀賣も毎日もただもう無邪氣に1(登+邑)小平氏に惚れ込んでしまつたのである。ウイリアム・ブレイクは「體驗を通過した無垢」は「體驗を知らぬ無垢」よりも貴重だと言つてゐる。讀賣も毎日もよい年をしておぼこ娘の如く純眞なのである。
一方、週刊朝日十月二十七日號で野坂昭如氏は、アメリカでランバート氏なる友人に「やさしく扱われ」て感動し、「かなりアメリカに洗腦され」、「おそまきながら向米一邊倒」となり、「小生は、これまでどちらかというと、革新側ということになつてゐた。ミッドウエストの、保守地帶で洗腦されたからには、自分なりに、これまでの革新というレッテルとおとしまえをつけなければならない」と書いてゐる。
これまた何たる純情か。私は保守派で親米だが、外交とはすべての外國を假想敵國とみなすものだと心得てゐる。アメリカも日本の假想敵國だと考へてゐる。
が、週刊誌にせよ野坂氏にせよ、どうしてこうもたわいなく外國に惚れてしまうのか。野坂氏は文士ではないか。「子供を虐待するのは樂しい、子供の無防備状態が加害者を誘惑する」とイワン・カラマーゾフは言う。が、イワンはまた、自分は子供が好きだ、「殘酷な人間、情欲的で、肉欲のさかんな、カラマーゾフ的人間というやつは、どうかするとひどく子供が好きなものなんだ」(小沼文彦譯)と言う。イワンの中に天使がいて惡魔がゐる。おのが心中に惡魔を見ない人間は惡魔と戰う事がない。そういう人間の善良には私は付き合へない。その浮薄に吐き氣を催す。
ところで今囘どうしても書いておきたい事がある。週刊文春の田中健五編集長が辭任した。今だから言うが、私は田中氏とは面識がある。田中氏の人柄を愛する事にかけて私は人後に落ちない。が、これまで私は田中氏をかなり叩いた。田中氏が編集長になつて週刊文春は確かによくなつたのであつて、その編集の洗練と工夫をいつか褒めようと思ひながら、その機を逸し、私情を殺して惡口ばかり言つたように思ふ。それが少々殘念である。辭任の事情についても釋然としないが、それは書かない。
(昭和五十三年十一月十日)  
おのれの器を知れ
國立武藏療養所の醫師、豐田純三氏は、ある日、いきなり患者に短刀を突付けて、こう言つた。「この前は、よくもナメた電話をかけてくれたな。(中略)オレを刺すだと。ふざけるな。命が惜しくて精神科醫がつとまるか」。そして豐田氏は患者の「左アゴに五ミリほどの傷をつけた」という。確かに異樣な事件だが、週刊新潮十一月二十三日號によれば、その患者は「前科五犯、逮捕歴は何と九囘」のアル中患者であり、豐田氏の一見異樣な行動も「治療の一環」であつて、患者は快方に向つており、「悠々と生活保護の恩惠に浴して」ゐるそうである。ところが醫師のほうは銃刀法違反及び暴力行爲の廉により書類送檢されたという。この種の事件について患者の人權擁護を言い、醫師の非を打つのはたやすい事である。實際、十月八日付の毎日新聞は「事實は弱い立場の患者を力でおさえただけだ」と書いたという。何とおめでたい記者かと思ふ。新潮は「危險な半可通」と評してゐるが同感である。
物事はそう簡單に割切れはせぬ。患者の「左アゴに五ミリ」の傷をつけた事も「治療の一環」として許さるべき事なのかも知れぬ。が、毎日の記者は「許さるべき事」ではないと言う。それは豐田氏の良心と邪心とを、いともたやすく弁別できるからであろう。醫者はすなわち強者であり、強者はすなわち惡玉である、と決め込んでゐるからであろう。「おめでたい」と形容するゆゑんである。
もとより私も新潮も豐田氏の行爲を是認してゐるのではない。醫者の良心がどこで終つて邪心がどこから始まるか、そういう事は確とは解らぬ。そして確と解らぬ事柄に對しては謙虚であらねばならぬ。が、昨今のジャーナリストは、おのれの器で人を計つて怪しむ事が無い。おのれがキャバレー探訪を樂しむ以上、すべての讀者も同樣だと考へる。例えば、「据え膳食はぬは男の恥」という諺がある。けれども据え膳食はぬ男もあるのであつて、ボードレールがそうだつた。彼はある美しき人妻を愛してゐたが、女が身も心も投出した時、それを受取ろうとはしなかつた。なぜか。その理由を書く紙數は無いが、週刊誌の記者も、男と女の安直な野合にばかり興味を持たず、偶にはそういう奇異なる人の心を考へたらよい。
サンデー毎日十一月二十六日號は、田中健五週刊文春編集長の辭任を取り上げ、「同業の“内紛”にあえて觸れてみる」と書いてゐる。が、讀者が一番知りたい事を毎日は何も書いていない。藝術院會員になるには三千萬圓の運動費が必要だという文春の記事は事實なのかどうか。田中編集長の迂闊を私は辯護しないが、大物の作家や畫家の機嫌直しのためとあらば、編集長の首はそんなに簡單にとぶものなのか。どの週刊誌でもよい、後學のためそれを是非教へて貰いたいと思ふ。
(昭和五十三年十一月二十五日)  
プロ野球の何が神聖か
私はプロ野球なるものを一度も見物した事が無い。また、讀賣新聞社には何の恩義も無い。けれども、このところ猫も杓子も巨人と讀賣を叩いて怪しまない事を私は怪しむ。「人が不正を非難するのは、不正を嫌うからではなく、不正によつて被るおのが不利益のためである」とラ・ロシュフコオは言つたが、新聞や週刊誌が讀賣巨人軍を叩くのは、巨人の不正を許せないからではなく、巨人と讀賣を叩かないとおのれが不利になるからかも知れぬ。けれども、新聞や週刊誌が讀賣巨人軍を叩いてどういう得があるのか、そういう事に私は興味が無い。人間、おのれの利には聰いものなので、それを私は咎めようとは思はない。例えばサンデー毎日十二月十日號は「新聞という公器性に思ひをいたせば、球界民主主義を敵とした巨人の江川盗り、讀賣新聞紙上でどう報じられるか關心を持たざるをえない」と書き、少々感情剥き出しで「巨人の江川盗り」を批判してゐる。讀賣新聞の失點は毎日新聞の得點に繋がるのだらう。だから、それはいい。同業の不幸はうれしいものなのだ。それが人間の淺ましい性なのだ。
けれどもサンデー毎日は「この度の一件は明朗だつたろうか。スポーツの社會らしいさわやかさを伴つてゐただらうか」と書いてゐるのである。毎日に限らぬ、巨人を批判する者は必ず「正々堂堂」だの「ルールの先行」だの「フェアなスポーツマンシップ」だのと、プロ野球を神聖視する美辭に酔う。憚るところ無く美辭に酔うとは何たる無邪氣か。週刊ポスト十二月一日號によれば、江川選手の巨人入團には「七つの大罪」があるという。あまりに馬鹿げてゐるからそれを列擧する必要はないが、その中に「スポーツに政治を介入させたる罪」と「少年ファンの心を傷つけたる罪」というのがあつて、この二つは論ずるに足る。まず「政治を介入させたる罪」だが、政治家もまたジャーナリストと同樣、おのれの利には聰いのである。政治家はおのれの利に繋がるものは何でも利用せねばならぬ。それなら、スポーツだけが政治の介入を免れる筈は無い。
また、「少年ファンの心を傷つけたる罪」についてだが、今囘の事件で「心を傷つけ」られた少年というものを私は想像できない。プロ野球では金もまた物を言うという事くらい、今時の少年は知つてゐるだらう。週刊讀賣はドラフト制度は「職業選択に對する束縛」だと言う。つまり人權無視だと言いたいらしい。が、プロ野球は金が目當てではなかつたのか。選手の人權は二の次ではなかつたのか。選手もまた金が目當てで、義理や人情は二の次三の次ではなかつたのか。金錢を輕蔑するのは僞善者か馬鹿だとモームは言つた。少年にはいつそこのモームの言葉を理解させたほうがよい。少年なみの無邪氣な正義漢にも。
(昭和五十三年十二月九日)  

 

泰平の世の茶番狂言
サンデー毎日十二月十七日號によれば、「ひき際あざやかに辭任した」阪急前監督上田利治氏は「いまあちこちからの講演依頼で悲鳴をあげてゐる」という。毎日はまた十二月二十四日號にも、福田赳夫氏は「引け際だけは徹底してさわやかな政治家」だつたと書いてゐる。毎日に限らない、福田前首相の「引け際のさわやかさ」に感心した人は多いのではないか。だが、「紫の朱を奪うを惡む」という事もある。大平氏を紫に擬する譯ではないが、日本國の前途を思えば大平氏には政權を譲れぬと、もしも福田氏が頑に信じてゐたならば、福田氏の往生際はかなり見苦しいものとなつてゐたに違い無い。かつてロッキード事件が世間を騷がせてゐた頃、私は田中角榮氏の人權を擁護すべし、と書いた事がある。けれども私は田中角榮氏を好かない。田中軍團によつて福田政權が潰されたとあつて、今はますます好かない。が、田中氏の形振り構わぬ執念は見事だと思ふ。それに引換え、蕎麦が好物だという福田氏の淡泊は齒痒くてならぬ。本選出馬を斷念した時、福田氏はおのれを美しく見せたいとの誘惑に屈したのであろうか。私はそれを殘念に思ふ。そして政治家の淡泊に感心し、どす黒い執念に反發するジャーナリストの幼稚を苦々しく思ふ。
ところで、週刊讀賣十二月二十四日號は、總選擧のやり方は不滿だとして、ただ一人「内閣總辭職への署名を拒否」した中川前農相の動機を詮索し、中川氏は田中派の竹下氏には腹を立てたものの田中角榮氏には「怒りらしい怒りを、何一つぶつけていない」のであり、それが中川氏の「政治家たるゆゑん」だと書いてゐる。中川氏は政治家である。おぼこ娘のように純情ではありえない。それなら、この際、中川氏の動機の詮索は無用の事で、中川氏の大平批判が正論か否かが問題なのである。が、新聞や週刊誌はそういう事を問題にしない。專ら舞臺裏の噂話に興ずるばかりである。そしてその際に動員される政治評論家は、地獄耳の鐵棒曳きに過ぎない。
一方、週刊文春十二月二十一日號によれば、河本内閣を樹立すべく畫策した春日一幸氏は「子供のように面白がつて」方々に電話をかけ、塚本民社黨書記長も「河本ならまとまる(中略)面白いということで他の友黨にも」働きかけ、新自由クラブの河野氏は矢野公明黨書記長に「面白いからやろう」と誘いの電話をかけたという。中道野黨の諸氏はさぞ面白かつたろう。何ともお粗末な企みだが、大學でもそういう事はあつて、學部長の選出に際して方々に電話をかけて樂しむ教師がゐる。が、學内が平和な時なら、そういう教師は、まず例外無しに二流の教師である。週刊文春は大平内閣成立までの紆餘曲折を「ドタバタ劇」と形容してゐるが、要するにそれは泰平の世なればこその茶番狂言であり、さればこそ週刊誌も讀者も、政界雀の噂話を面白がつたのである。
(昭和五十三年十二月二十三日) 
醒めたワイセツ屋
週刊新潮一月四日號によれば、 「三大エロ劇畫誌」の一つ、『劇畫アリス』の龜和田編集長は二十九歳、「七〇年安保のレッキとした“新左翼”」なのだが、警察に對しては挑發的でなく、「性表現の擴大ウンヌンを考へたことなんて全然ない」そうである。そしてその「なかなか醒めた“ワイセツ屋”さん」はこう語つてゐる。
「今囘の摘發で、いわゆるワイセツ裁判をやれつていう進歩的文化人の動きがあるんです。そういうお祭り騷ぎを期待してゐる連中のために、僕らがピエロ役をはたしてやる必要はない。自分は何も生み出すことができないのに、コトが起きると知つたかぶりで騷ぎ出す進歩的文化人てやつはタチが惡いですよ」
なるほど、新潮の言う通り、なかなかに「醒めたワイセツ屋」である。「四畳半襖の下張」裁判の被告野坂昭如氏は、週刊朝日一月五日號に「性の秘匿に普遍性はあるか」と題してくだくだしい文章を寄せてゐるが、「猥褻是か非か、でもなければ、猥褻何故惡いでもない。俺たちは、それを賣り物にしてゐる猥褻屋なのだ」と宣言してゐる龜和田氏にしてみれば、野坂氏など「お祭り騷ぎ」に踊る饒舌なピエロに過ぎまい。だが、冷靜なワイセツ屋と浮薄な野坂氏のいずれを採るかと問われたら、私は躊躇無く野坂氏を採る。一見虚無的に見えるワイセツ屋は死の商人に過ぎない。野坂氏の浮薄のほうがまだしも人間的である。新潮が「醒めたワイセツ屋」の非人間性を見抜けなかつた事は殘念だが、それが僞惡的な新潮の限界なのがも知れぬ。
だが、新潮によると「自動販賣機などで賣つてゐた“商品”が警察に摘發され」た時、週刊朝日は「エロ劇畫と朝日が共同戰線を張る」事を考へ、「連帶のアイサツ」を送つたという。ワイセツ屋は即ち權力の敵であり、權力の敵となら相手を選ばず連帶せねばならぬと考へる、この種の進歩的ジャーナリストの思考の短絡に對しては、馬鹿は死ななければ癒らないとしか言い樣が無い。
ところで、「性はわれわれを平等にする、それはわれわれから神秘を取り除く」とシオランは言つてゐる。が、人は必ずしも平等を喜ばない。そして、平等を望む事が人間的なら、神秘を望む事も人間的なのである。それゆえ、いずれ反動としての揺り返しが來るだらう。神秘的で清潔な獨裁者が現れて、人々はその裸體を見たがらないようになるだらう。いや、それとも、「良民に不必要なる種類の待合・茶屋は遊廓内に逐ふべき也。大にして堅固なるゴミタメを造るは、すなはち清潔を保つゆゑんなり」と幸田露伴は言つたが、毎號ポルノ的なものを欠かさぬ週刊誌は、日本國のゴミタメとして、安全弁の役割を果してゐるのであろうか。
(昭和五十四年一月六日) 
變節を咎むべきか
サンデー毎日一月十四日號によれば、作家の半村良氏は「汚いゴミとゴミが食いついたプロ野球なんか見たくない。私のプロ野球よ、さようなら」と言つたそうである。私は半村氏の作品を讀んだ事が無い。けれども、これほど子供染みた、やけのやんぱち的心情の持主に、果してよい小説が書けるものだらうか。毎日の記事もまた頗る感情的な惡文であつて「江川の出る試合になんか子供は連れていかないほうがいい」などと何とも幼稚な事を書いてゐる。だが、半村氏にせよ毎日の記者にせよ、いずれ必ず「變節」して「ゴミが食いついた」プロ野球とやらを見物するのではないか。もしも江川が巨人軍の投手として大活躍をしたとして、それでも毎日や半村氏は江川と巨人を憎みつづけるだらうか。それは甚だ疑わしい。目下、巨人を罵つて、大いに樂しんでゐる大方のファンにしても、執念無くて總崩れ、いずれ江川を英雄に祭り上げる事であろう。感情的で衝動的な人間は憎しみを持續させる事ができない。それはまた我々日本人の短所でもある。巨人を叩く毎日の「憤激大特集」は七囘にも及んでおり、日本人らしからぬ執念と言うべきかも知れぬが、毎日はいつその事、それを七七、四十九囘くらい續けては貰えまいか。それなら私は毎日を見直してもよい。
ところで、ここで或る週刊誌の文章を引用しよう。「かつて日本軍の“暴に報ゐるのに徳をもつてした”蒋介石總統、その後繼者が率ゐる臺灣の運命にも、日本人として無關心ではいられない」。さて、讀者は多分、この週刊誌の名を當てられないと思ふ。それは新潮でも文春でもサンケイでもない。何と朝日ジャーナルなのである(五十三年十二月二十九日號)。朝日ジャーナルは變貌しつつある、軌道を修正しつつある。その種の變節は朝日の特技であり、それゆえ却つて始末に負えないと、朝日を批判して識者は言う。けれどもそれは變節なのか。ジャーナルを一つの人格と考へれば確かに變節である。が、實際は編集スタッフが變つたまでの事ではないか。馬鹿を徐々に始末して利口を重用すれば、ジャーナルは一級の週刊誌になる可能性もある。しからばその變節は咎めらるべきか。「被害者」から一轉「惡役」に變じたヴェトナムに困惑する進歩的文化人を週刊文春一月十八日號は嘲弄してゐるが、小田實氏にせよ本多勝一氏にせよ多分一つの人格だから、あまりにも破廉恥な變節はやれないだらう。が、週刊誌にはそれがやれる。そしてそれは咎むべき事なのか。
朝日ジャーナルはまた、今は「視野狭窄症的ではない、複眼の視點が求められる」時代だと言う。ジャーナルは「視野狭窄症」を脱しつつあるのだらう。では、相も變らず反體制に固執して甘い文章を綴つてゐる毎日の執念は敵ながら天晴れと評すべきか。それとも、交代要員を欠く毎日の弱體をあわれむべきか。
(昭和五十四年一月二十日) 
教育は惡魔と無縁か
教育について語る時、人々は思はず知らず善意の塊になる。大方の教育論が退屈なのはそのせいだと思ふ。教育も文學も哲學も神學も、すべて人間の營みである。それなのに、なぜ教育論にだけ惡魔がいないのか。ルターは惡魔にインク壺を投げつけたけれども、ルターが苦しんだ問題は教育とは無縁だと人々は考へてゐるらしい。だが、文部省や日教組や教育の專門家が取上げる問題はすべて枝葉末節であつて、眞の教育論なら必ず惡魔に出會う筈である。
「淫賣を鞭打つ者もまた淫賣の肉體を求めて情欲に疼く」とリア王は言うが、教育論はかういふせりふを耳に留めて立止らなくてはならない。非行少女を叱る教師が、少女の肉體に眩惑されるという事もあるからだ。
高校一年生が祖母を殺して自殺した事件を知つて、私が最初に考へたのは、これは週刊誌の手に餘るだらうという事であつた。手に餘るから默殺するかも知れぬ、あるいは教育學者や心理學者の意見を徴してお座なりの説を並べ立てるかも知れぬ。私はそう思ひ、手ぐすね引いて待つ事にした。結果は案の定、例えば週刊讀賣二月四日號は、少年が遺した手記の「未公開部分」を公開しただけでお茶を濁してゐる。讀賣は少年の毒氣にあてられ息をのんだのであろうか。手記を紹介するだけでは藝が無いとも言へようが、「したたかな文章で」書かれた少年の大衆憎惡のすさまじさを、讀賣が持て餘したのはよい事なのかも知れぬ。少なへども週刊朝日のように、學者の意見にもとづいて空々しい意見を開陳するよりも、ずつとましである。少年の文體が「なにやら野坂昭如ふうになつて」くれば、少年は危機を脱しえたかの如く朝日は書いてゐるが、そういう聞いたふうの馬鹿よりも、「ある意味で“三島(由紀夫事件)”に劣らずショッキング」と書いた讀賣の正直を私は採る。なお、サンデー毎日は、例によつて朝日以上の大馬鹿ぶりを發揮してゐる。それゆえ論評の限りではない。
今囘の事件は、どう料理したところで週刊誌の手に餘る。週刊誌一冊分の頁數を費してなお足りぬであろう。それに今は、週刊新潮二月一日號がやつてゐるように、グラマンをめぐる空騷ぎに水を差す必要もある。が、そういう制約を認めても、新潮を除く週刊誌が少年の心中の惡魔を持て餘したのは興味深い。あの少年の毒を制するには、例えばドストエフスキーやニーチェの如き、文學的・哲學的な猛毒をもつてするしかないのだが、曲りなりにもそれをやつたのは新潮だけである。それに、少年の「知と情のアンバランス」は餘所事でないという意識が新潮にはある。朝日にはそれが無い。大方の學者と同樣、教育と文學とは無關係だと、すなわち教育は惡魔とは縁が無いと、多分、朝日は思つてゐるのであろう。そしてそれは、おのが心中に惡魔を見ないからである。
(昭和五十四年二月三日) 
金錢を輕蔑するな
週刊誌は新聞の「落穂拾い」だとする説がある。適切な比喩だとは思はないが、新聞は毎日稲刈りに追われてじつくり考へる暇が無い。そこで新聞が淺薄に考へた事を週刊誌が拾い集めてとくと考へる、それは確かに週刊誌の役割だと思ふ。そしてそのためには冷靜になる事が必要である。稲刈りは馬鹿力でやつてのけられるが、落穂拾いは冷靜な眼を必要とする。ところが興奮して落穂を拾うのが、例えばサンデー毎日なのである。阪神にトレードされた小林投手について毎日二月十八日號は、小林の「思ひ切り」のよさは「恥を知る男、小林の、男の美學であつた(中略)、端正な顔に似合わず、負けず嫌いで親分肌でもある小林、今シーズンの江川との投げ合ひが見ものである。厚顔無恥の江川に、意地でも負けるはずはないと思ふ」と書いてゐる。このところ毎囘、毎日の惡口を書いていて、私自身いささか食傷氣味なのだが、これはまた何とも酷い文章である。小學生にも理解できる事が、よい年をして毎日の記者には解つていない。それは人柄と能力とは別だという事であつて、いじめつ子に泣かされた事のある小學生なら、それくらいの事は知つてゐるだらう。「厚顔無恥」の投手が「恥を知る男」に投げ勝つ事もあるのである。これほど淺薄な記事を、何かの手違いで例えば週刊新潮が載せたなら、新潮の編集長は間違い無く切腹するだらう。毎日の編集部は一體どうなつてゐるのか。
一方、週刊文春二月十五日號によれば、小林投手は「金だけじゃなくて、將來の保證も求めてきた。先々、阪神でダメになつたら、讀賣の系列會社で何とか面倒をみてくれ」と要求したそうである。金が目當てのプロ野球だから、それは當然の事だらう。文春の「イーデス・ハンソン對談」で、プロ野球選手會會長の松原誠選手は、プロ野球の目的は金錢だと言つてゐる。このほうがよほど「さわやかな」態度ではないか。ハンソン女史の言う通り、金が目當てでないのなら「週末に草野球をやつてたらいい」のである。
週刊誌は新聞の落穂拾いかも知れないが、拾い方に筋が通つていて最も冷靜なのは週刊新潮である。二月十五日號の日商岩井島田常務の自殺を扱つた記事にせよ、「欠陥家庭」に大金を支拂う恩情を怪しむ記事にせよ、新潮はおのれの納得できぬ事柄について、冷靜にかつ少々意地惡に書く。冷靜になれば人間は意地惡になる。それは當然の事である。江川問題に關しても「スポーツ新聞がプロ野球を徹底的にたたくのは、自分の手足を切斷する」ようなものだと新潮は言う。その通りだらう。やがて江川が大活躍を始めたら、江川を叩きに叩いた新聞も週刊誌も忽ち變節するだらう。新聞も週刊誌も、プロ野球同樣、金が目當てだからである。新聞は天下の公器で金が目當てでないと言うのなら、損を覺悟でおのれが何をやれるかを、やつてゐるかを、新聞は時々考へたらよい。
(昭和五十四年二月十七日) 

 

世界有數の長寿國
國後、択捉にソ連軍の基地が建設されて「明日にも赤熊が押し寄せてくるみたいな、ヒステリックな論議が多い」けれども、「食いものの方が、外敵よりもはるかに心配だし、地震列島に住む以上、その被害を、より深く憂う」と、週刊朝日三月二日號に野坂昭如氏は書いてゐる。野坂氏の文章は八方破れ、矛盾だらけであつて、しかも野坂氏はそれを全然氣にしない。柳の枝に雪折れなし、野坂氏はきつと長生きするだらう。週刊朝日二月九日號で野坂氏は、三菱銀行人質殺害事件を論じ、犯人の言いなりになつた人質の臆病を怪しんだが、三月二日號では「自衞隊などいらない、日米安保はなるべく早く解消するべし、中小加工列島として、みなさんにかわいがられるよう」生きてゆけばよいと書いてゐる。野坂氏は時に勇ましい事を言い、舌の根も乾かぬうちに道化を言う。それですべては帳消しになり、「憎みきれないろくでなし」として「みなさんにかわいがられ」ると思つてゐる。情ない乞食根性である。
この種の戯作者の道化は週刊ポストの煽情主義よりも質が惡い。ポスト二月二十三日號は「ひところは騷々しかつた」國防論議が尻切れとんぼに終つたと言い、新聞や防衞庁を批判してゐる。それは正論である。けれども、かつてこのコラムで指摘したように、ポストの思考は不徹底なのだ。無視するよりは注文をつけるほうが相手を重んずる事になる。それゆえ再びポストに注文しておきたい。ポストは諸外國の「みなさんにかわいがられよう」などとは考へていまい。それなら「栗栖見解への賛否はともかく」などと逃げを張らず、栗栖氏の言う自衞隊の「超法規的行動」なるものについて一度とくと考へて貰いたい。野坂氏の如く「柳の枝に雪折れなし」で長生きしようと思つても、そうそういつも柳の下に泥鰌はいない。人間は安樂や安全を欲するが、同時に鬪爭や自己犠牲をも欲するのであつて、ヒットラーはそれをよく承知してゐた。ヒットラーは國民にこう言つた、「私は諸君に鬪爭と危險と死を提供する」。かくてドイツの「みなさん」はヒットラーの足下に身を投げ出す事になつたのである。
そういう事態にはもう決してならないと、多分野坂氏は思つてゐる。自國の領土に無斷で外國が基地を建設しても「今ならどうつてことはない」と思つてゐる。が、個人も國家も時に非理性的に振舞う。他人や他國に苦痛と屈辱を与えて樂しむ。オーウエルは作中人物に「他人の顔は何のためにあるか、踏みつけるためにある」と言わせてゐる。三菱銀行を襲つた犯人と同樣、ヴェトナムも中國もソ連も、そういう事を考へてゐるのである。朝日ジャーナル三月二日號の頗る啓發的な座談會で、笹川正博氏はアメリカの無能とソ連の脅威を憂えてゐる。が、平和惚けの大方の日本人は「どうつてことはない」と考へてゐるだらう。なにせ日本は世界でも有數の「長寿國」なのである。
(昭和五十四年三月三日) 
馬鹿は保護すべし
デュアメルの小説だつたと思ふが、社長の説教を聞いてゐるうちに相手の耳を引張りたくなり、堪えに堪えたあげく、結局引張つてしまう男の話を讀んだ事がある。私もそういう不条理な氣分を味わう時がある。例えば週刊朝日三月九日號で、小田實氏は「大きな國と小さな國とがけんかしたときは、だいたい小さな國に言い分がある」と言つてゐるが、かういふ小さな頭腦の持主に接すると、私はその耳を引張つてみたくなる。けれどもそれは不可能だから氣が晴れない。やむなく罵倒して腹癒せするか、嘲弄して樂しむ事になる。
どちらにするかは氣分次第だが、昨今は罵倒するほうが難しくなつた。言論の自由を謳歌してゐる我國でも、罵倒の自由は甚だしく制限されてゐる。林秀彦氏はマスコミの「私的檢閲」と「自己檢閲」を嘆いてゐるが、罵倒用語はマスコミの忌諱に觸れるのである。私はかつて愚劣な雜誌記事に腹を立て「編集長を獄門に掛けろ」と放言した事がある。勿論、活字にはならなかつた。
その種のあらぬ事を口走るのは不徳の致すところで、口汚いのは自慢にならぬ。口汚く罵る輕薄という事もある。けれども、この世に存在する物はすべて、どんなに小さな頭腦でも、存在價値がある。だから小田實氏を獄門に掛けるには及ばないが、その代り罵倒用語も文化財と同樣に保護されなければならない。      
宇能鴻一郎氏の小説に用いられる卑猥な言葉は、恥を捨てると人間がどこまで堕ちるかを知るために必要で、私的な場における使用は許されてしかるべく、公的な場における使用には覺悟が要る。罵倒用語の使用にマスコミは臆病だが、宇能氏の小説を連載してゐる週刊ポストの勇氣を、新聞や綜合雜誌は少しく見習つたらよいと思ふ。
ところで、先に週刊新潮は動勞のストを批判し、その「社會的信用を傷つけた」として訴えられてゐたが、このほど判決が下り、結果は新潮の敗訴に終つた。罵倒や嘲弄にも技術は必要で、新潮の技術が絶妙だつたとは思はないが、電車の横腹に幼稚な落書をして恥をさらす動勞には、宇能氏なみの覺悟があつてしかるべきところ、新潮のあれしきの嘲弄に「社會的信用」を云々するのは馬鹿げてゐる。
だが、新潮の「逆説的表現」は動勞の馬鹿に通じなかつた。逆説の通じない馬鹿とて馬鹿にはできぬ。今囘の新潮の如く馬鹿に敗れて馬鹿をみる事もある。當節は馬鹿が馬鹿に多いからである。が、幸い罵倒用語のうち「馬鹿」はまだ許されてゐる。馬鹿と戰つて馬鹿をみたからとて、戰う事を馬鹿らしく思ふような新潮ではあるまいが、萬萬一という事もあるから馬鹿念を押しておこう。「馬鹿」という言葉を私は日頃、愛用してゐる。新潮もせいぜい愛用し「馬鹿」を保護して貰いたい。お互い小さな頭腦の馬鹿がゐるからこそ成立つ商賣ではないか。
(昭和五十四年三月十七日) 
正義漢を嗤うべし
明治政府が學制の施行に際して國民に學問をすすめた時、國民はなかなかそれを信じなかつた。「我々には百姓すれば可なり、飯を炊いて食べれば可なり、板をけずれば可なり、算盤玉をはじけば可なり、豈何ぞ難かしい漢字などを見る必要あらんや」などと言う者もいた。しかるに今日、高校進學率は九三%に達したという。だが、新聞がこのところ連日のように載せてゐるグラマン「航空機疑惑」の記事を、日本國民の大多數が讀んでゐるとはとても思えない。新聞はまたぞろ正義の身方を氣取り、惡者を懲らそうと奮い立つてゐる。江川を叩きに叩いた新聞が、今は海部八郎氏を叩いてゐる。つまり「相手變れど主變らず」であつて、そうと解れば付合へるものではない。だから私は近頃全然讀まなくなつた。自分が讀まなくなつただけでなく、國民の大多數も家業に忙しく「豈何ぞややこしき疑惑記事などを見る必要あらんや」と思つてゐるに違い無い、そう信じるようになつた。
けれども、私の推測が正しいとすると、新聞は途方も無い無駄づかいをしてゐる事になる。九三%が高校へ進む事も無駄づかいかも知れないが、それはあれこれ美しい目的を考へ納得する事もできる。けれども、週刊朝日三月三十日號によれば、「日曜日にもかかわらず出勤した海部八郎副社長」を追い囘した報道陣は、逆に海部氏に追い掛けられたという。それは一體何のためだつたのか。日曜日の海部氏の寫眞をとつたところで事件解明に役立つ筈は無い。記者もカメラマンも弱い者いじめを樂しんだだけである。週刊朝日のグラビアにはカメラマンと揉み合う海部氏の姿が寫つてゐる。弱い者いじめはさぞ樂しかろう。まして今囘は辣腕の副社長が落ち目になつたとあつて、身震いするほど樂しかろう。そういう殘忍は私も知つてゐる。例えば、社會主義に幻滅した社會主義者菊池昌典氏の困惑を眺めてゐると、私は無性にいじめたくなる。が、そういう時、私は用心する。皆が菊池氏をいじめる時は、懸命に菊池氏の長所を探し出そうと努め、どうしても見付からない場合は菊池氏の短所を無理やりおのれの中に探し出す事にしてゐる。それだけの手順を踏んでおかないと、いつの間にか魔女狩を樂しんで阿呆面をしてゐるおのれを見出す、という事になりかねない。魔女狩も時によりけり、無駄でない場合もあるだらうが、これほど平和な國の魔女狩なら、いずれ無駄なものに決つてゐる。
三月二十九日號の週刊文春及び週刊新潮は新聞の「グラマン狂い」に冷水をぶつ掛けてゐる。新潮なんぞは新聞を嗤つて樂しくて仕樣が無いような書き振りである。興奮してゐる正義漢の足をすくうその種の樂しさを、なぜ他の週刊誌は味わおうとしないのだらうか。女の裸で稼ぐ事もある週刊誌が、新聞と一緒になつて「恥部」を忘れ正義の身方を氣取るのは、どう考へても馬鹿げてゐるのである。
(昭和五十四年三月三十一日) 
眞劍勝負を恐れるな
吾々日本人は「和を以て尊しとなす」民族である。馴合ひを喜び、眞劍勝負を忘れる事甚だしい。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ來て、妻としたしむ」と啄木は歌つた。何とも陰慘な歌である。友人すべてに憎まれて、孤立して、それでやむなく「妻としたしむ」のならまだしもの事だが、日本人は徹底的に他人を叩く事が無い。それゆえかういふ情け無い歌が詠まれる事になる。私はかつて週刊文春書評欄に「風」という。ペンネームで書いてゐる人物を褒めた事がある。齒に衣着せぬその率直と勇氣と頭腦明晰を頗る貴重と思つたからである。その「風」氏が文春四月五日號で廣中平祐氏を叩いてゐる。私も善意を裝い荒稼ぎをやつてゐる教育論のいかさまに腹を立て、いずれ善玉征伐をやらねばならぬと思つてゐる。
廣中氏を叩いて「風」氏は「世の人を善導しようという熱意にあふれた人が、稀にはゐる」が、「そういう人の意見は平板」であり、「こんな平板な考へかたしかできない頭腦でないと、人間は偉くなれないのではないかとさえ思ひたくなる」と書いてゐるが、全く同感である。
ただ、多分「風」氏は凡百の教育論を讀む暇が無いから、世人を善導しようとする善人が「稀にはゐる」と言つてゐるが、釋迦やクリストの事を言つてゐるならそれは正しいものの、教育界にはそういう始末に負えぬ「善人」が、實は掃いて捨てるほどゐるのである。極論すれば、教育論の大半は善人振る小惡黨によつて書かれてゐる。そして善男善女はたわいもなく似而非「善人」に騙される。
それゆえ私は讀者に言いたい。讀者はそれぞれ正業に勤しみ忙しい毎日を過ごしてゐるだらう。そんなに本を讀めないだらう。それなら毎週週刊文春を買い、「風」氏の書評を讀み、「風」氏の叩く本を買つて讀むがよろしい。人相が千差萬別であるごとく、讀者が「風」氏の意見に同じない事もあるだらうし、「風」氏が嘘をついたり間違つたりする事もあるだらう。要するに程度の問題だが、「風」氏ぐらい本當の事を言う書評家はめつたにあるものではない。それゆえ「風」氏が叩く本を讀めば、かつて彼が言つたように「ジャーナリズムでもてはやされてゐる學者の多くはニセモノ」だという事が解る。ニセモノに騙されてゐたおのれが口惜しくなる。それだけは請け合つておく。
さて、以上週刊文春の宣傳をやつたようなものだから、最後に一言、文春に苦言を呈したい。と言うより、文春に警告しておきたい。文春は去年「大變好評を博した」三浦哲郎氏と令嬢晶子さんの往復書簡『林檎とパイプ』の連載をいずれ再開するらしい。再開を手ぐすね引いて待つ事にして、今は一言「風」氏に倣い激しい事を言つておくが、あれは愚劣な文章であつた。廣中氏と同樣三浦氏も、善意ゆゑに恥を捨ててゐる。商策という事もあつてもはや止められまいが、聰明な文春編集長にはそれだけ言へば通じると思ふ。
(昭和五十四年四月十四日) 
賢なりや愚なりや
週刊文春四月二十六日號の「安井けん都知事候補の選擧日誌」を讀んで私はまず笑い、ついでこれは笑い事ではないと思つた。安井氏は黄中黨黨首、年中無休二十四時會長、先の都知事選で「6473票もとれた」ものの落選した人物である。しかも文春によると、安井氏は「顔面に投石をうけ」た太田薫氏よりも「さらにお氣の毒」だつたらしい。すなわち安井氏は都庁記者クラブに「出馬表明の記者會見を申し入れ」て拒否され、警視庁捜査第二課に記者クラブの不當を訴えて 「バカ」と言われ、「NHKに監禁され」、東京地檢では「手首をひねられ」捻挫したという。私が笑つたのは文春の文章が巧妙だつたからだが、笑い事ではないと思つたのは、なぜ記者クラブ、警視庁、NHK、及び東京地檢が安井氏をかくも邪險に扱つたのか、その理由を考へようとして解らなくなつたからである。同じく文春で野坂昭如氏は、美濃部前知事に「無責任、裏切り、大根役者」との烙印を押し、「美濃部さんのため三文の得にもならぬ勞を、これまで重ねて來た人たち、中野好夫氏中山千夏氏その他大勢の汗をどう考へるのか」と書いてゐる。が、例えば中山千夏氏と黄中黨の安井けん氏との間には、一體どれくらいの隔たりがあるのだらうか。
週刊現代五月三日號で江藤淳氏は「社會主義は善玉で、資本主義は惡玉だと、かねてから唱えつづけて來られたお偉い先生方は、どこでどうしておられるのだらうか」と書いてゐるが、「お偉い先生方」の一人は、何と後樂園でイースタン・リーグの試合を觀戰してゐたのである。週刊ポスト五月四日によれば、哲學者久野収氏は、「靜岡縣伊東市の自宅からわざわざ上京」して巨人・ロッテ戰を見物し、「國民が(中略)江川に罪の意識を持たせなくては(中略)戰後の民主主義が臺なしに」なるなどと愚にもつかぬ感想を述べてゐる。さて、安井けん氏と久野収氏と、いずれが賢なりや愚なりや、私はそれを考へ、笑うのをやめたのである。
けれども記者クラブやNHKや警視庁や東京地檢は、自信滿々、安井氏を冷遇した。やはり安井氏はまともな候補ではなかつたのか。だが、文春四月十九日號で三岸節子女史は、晩年のピカソの繪は「春畫よりひどい」と言つてゐる。三岸女史の説に反發する讀者もゐるだらう。が、三岸女史のように思ひ切つた事が言へずに、ピカソだから一流だと思ひ込んでゐる人々もずいぶんゐるに違い無い。例えば週刊現代と週刊ポストは渡部昇一氏の近著を紹介し、渡部氏を大いに持上げてゐる。私は『續・知的生活の方法』を讀んでいないが、『歴史の讀み方』は讀んだ。粗雜な論理のぞんざいな文章を讀んで呆れ返つた。渡部昇一氏をピカソもしくは安井けん氏並みに扱う事はできまいが、商策とはいえ、現代とポストの持上げようは少々度が過ぎるのである。
(昭和五十四年四月二十八日) 

 

惡文は害毒を流す
最近ビタミンB17による癌の治療法に關する書物が出版され、週刊誌にもその廣告が載つてゐる。それによれば、ビタミン療法は「死を宣告された患者4千人をすでに治癒してゐる」との事である。私はまだ癌を煩つていないからB17の効能を確かめた事がない。けれども「ニコチン・タールを段階的に減らして」ゆくため「小さな意志さえあれば、いつでも禁煙することができ」ると廣告してゐるパイプなら試した事がある。そして今、この原稿を煙草を吸いながら書いてゐる。が、「小さな意志さえ」發動させられぬおのが腑甲斐無さを反省する事はあつても、廣告に欺かれたなどとは少しも思つていない。あのパイプの廣告は正確で、けちのつけようがないからである。だが、ビタミン療法のほうは信用できない。治癒とは病氣がなおる事であつて、病氣をなおす事ではない。「4千人をすでに治癒してゐる」というような言い方はない。廣告は文章で勝負する。ずさんな文章なら損をする。ずさんな版元がすすめる藥ならいかさまに決つてゐる、そう讀者は思ふのではないか。
週刊ポストは日商岩井の島田常務の自殺は他殺ではないかと疑つて、華々しく「“血抜きの謀殺”キャンペーン」をやり、それが「大反響をよんでゐる」という。事實ならまことに嘆かわしい風潮だと思ふ。ポスト五月十八日號で加藤晶警察庁捜査第一課長は、他殺説を否定し、ポストの言葉づかいが「不正確」であり、そういう事では「共通の基盤にたつて物を考へることは」できないと語つてゐる。その通りであつて、ポストの文章はずさんであり、他殺説は眉唾に決つてゐる。
サンデー毎日が連載してゐる松岡英夫氏の文章もずさんである。靖國神社がA級戰犯を合祀した事について松岡氏は、戰爭責任はどうなるのか、「みんな水に流してしまえ、ということでは、餘り民族の犠牲が大き過ぎる」と書いてゐる。さて讀者諸君、この文章の欠陥がおわかりだらうか。かういふ限られた紙數のコラムで文章の巧拙を論ずるのは不可能だが、惡文を書く人間は危險なのであつて、松岡氏は國會議員には「プライバシーはないに近い」などと、何とも物騷な事を書いてゐる。
例えば山本夏彦氏が「三菱銀行猟銃強盗事件」の犯人について「可哀相な梅川」と書いても、私は少しも危ないと思はない。山本氏の文章に破綻がないからである。が、前囘叩いた渡部昇一氏の文章は、ずさんゆゑに俗耳に入りやすい。それゆえ世に害毒を流す文章なのである。「もう十年、二十年ぐらいすると、われわれが今ひじょうにぜいたくだというものが、絶對に普通になる。(中略)セントラル・ヒーティングのないような家屋はもう通用しない。これも十年ぐらいでくる」などという渡部氏の惡文が、惡文にも拘らず讀者を喜ばすとすれば、日本國にとつてそれほど危うい事はないと思ふ。
(昭和五十四年五月十二日) 
疑わしきは罰せず
週刊文春五月十七日號によれば、「捜査當局者」の一人は新聞記者に「H(威勢のいいことで知られる某政治家)を出せば(逮捕すれば)世論は納得するかね」と尋ねたそうである。事實なら言語道斷である。文春が書いてゐるように「檢察としては逮捕する政治家でさえ事前に名前を漏らすことは絶對にしないのがタテマエ。まして、逮捕もできない政治家の名前を漏らして傷をつけるなどあり得ないハズ」だからである。だが、文春はその言語道斷の言語道斷たるゆゑんを知つてゐるだらうか。その點少々心許無いのである。
五月十六日付の朝日新聞によれば、伊藤刑事局長は「秘密會にもかかわらず、松野氏の名前を明言しなかつた」のである。では、新聞や週刊誌はいかなる根拠あつて日商岩井から五億圓を受取つたのは松野頼三氏だと決め込んでゐるのだらうか。檢察がリークしたのならそれは言語道斷、檢察官こそ彈劾されねばならないし、また、かりに檢察がリークしたところで、松野氏が有罪か無罪かはあくまで法廷において明らかにさるべき事である。しかるに、新聞も週刊誌もこのところ松野氏喚問を主張していきり立つてゐる。奇怪な事である。松野氏自身が予算委員會に喚問されて五億圓の受取りを認めたとしても、それが事實かどうかはなお斷じ難い。本人の自白が正しいとは限らないからだ。
同じ號の文春で、立花隆氏は「岸も地檢に呼ばれると思ひます。ひょつとしたら、もう呼ばれてゐるかもしれない。檢察はこれもいずれリークするでしょう。(中略)ただし、それもこれも世論の盛り上がり次第でしょう」と言つてゐる。かういふ物騷な發言を世人が怪しむ事なく聞き流してゐるのは、まことに奇怪千萬である。「世論の盛り上がり」方次第で檢察がどのようにも動くのなら、そんな檢察は税金泥棒である。立花氏は淺薄で自分の喋つてゐる事の意味に氣づいていないのか、それとも立花氏の言う事が當つていて、日本の檢察はそれほどでたらめなのか。
週刊讀賣五月二十七日號によれば、自民黨の田中伊三次氏は岸、松野兩氏の喚問に反對する自民黨員に「四の五のいわずに應じろ」と言つたという。これもまた何とも物騷なせりふであつて、四の五の言わせまいとする「正義漢」の危うさになぜ世人は思ひ至らないのか。「はぐれ鴉」一羽では物足りぬ、「木戸錢返せ」と喚かれれば、政治家は四の五の言わずにいかようの事にも應ずるのか。それなら政治家もまた税金泥棒に他ならない。
私は松野頼三氏を好かない。かつて松野氏が「ロッキード事件のウミを出しきれ」とはしゃぎ廻つて以來好かない。いつそ世間に迎合して「ざまを見ろ」と口走りたいくらい好かない。が、それを口走つたらおしまいである。松野氏を好かぬとしても松野氏のために辯ずべき時がある。政治の腐敗を憂えながらも、疑わしきは罰しない、そういう理性的な態度をなぜマスコミは採れないのか。
(昭和五十四年五月二十六日) 
刑事責任と道義責任
週刊文春五月三十一日號によれば、捜査當局は松野頼三氏が五億圓の受取りさえ認めるなら「僞證罪には問わない」と言つたそうである。奇怪な事である。文春は松野氏喚問までの紆餘曲折を「黨利黨略・派利派略がミエミエの、なんともお粗末な田舎芝居だつた」と言う。多分、文春の言う通りだつたのだらうが、この數カ月、熱心に「田舎芝居」を報じた新聞や週刊誌は、物事を徹底して考へるという事をしなかつた。
例えばサンデー毎日六月十七日號に、松岡英夫氏は「五億圓の金が成功報酬という名のワイロであることは」明らかであり「テレビ放送を通じて國民は明確にこのことを感じとつた」と書いており、朝日ジャーナル六月八日號には立花隆氏が「檢察とともに、野黨のやる氣もまた國民から疑いの眼で見られてゐる」と書き、さらに週刊新潮五月三十一日號は、松野氏喚問は「“主役”の出番を待ちくたびれてゐた國民を滿足させることができるかどうか」と書いてゐる。右に引いた三つの文章は、いずれもその筆者の思考の淺薄を例證するものである。讀者はそれがお解りだらうか。
三つの文章に用いられてゐる「國民」は「私」でなければならない。新潮の文章について言うなら、いかなる根拠あつて新潮は「國民」が「“主役”の出番を待ちくたびれてゐた」と斷定しうるのか。私も「國民」の一人だが、私は「“主役”の出番」などついぞ待ちくたびれた事はない。「田舎芝居」の主役の登場なんぞを誰が心待ちにするものか、とさえ思つてゐる。
かういふ事を言へば、世人はそれを屁理窟に過ぎないと思ふだらう。が、少なくとも新潮は私に反論できないと思ふ。なぜなら、安直に「國民」だの「世論」だの「國民感情」だのという言葉を用ゐる事の危險を、新潮なら理解できるはずだからである。新潮は横山泰三氏の漫畫「プーサン」を連載してゐるが、あの安手の政治批判の愚劣淺薄を見習つてはならない。
新潮はまた六月七日號で、松野頼三氏に欠けてゐる「男のプライド」について論じてゐる。「新潮よ、お前もか」と言いたい。周知の如く「時効と職務權限の壁にはばまれ」て檢察は松野氏の刑事責任を問う事ができなかつたのである。航空機疑惑をめぐつて新聞週刊誌は樣々の臆測を書きまくつたが、この事だけは確實である。では、新潮にたずねたい。刑事責任を問えない人間に對して、どうして道義的責任を追及できるのか。
サンデー毎日六月十日號で古井法相は、政治的な、あるいは道義的な問題は檢察ではなくて國會が責任を負うべきだ」と語つてゐる。法務大臣も新聞週刊誌も少しも疑つていないらしい事を、すなわち「國民」がどうやら當然の事と考へてゐるらしい事を、私だけが怪しんでゐるとすると、私も少々心細い。が、刑事責任を問えぬ者の道義的責任を追及するのは魔女狩に他ならぬ。新潮はなぜそれを問題にしないのか。           
(昭和五十四年六月九日) 
あとがき

 

本書の第一部には昨年から本年にかけて『中央公論』、『Voice』及び『諸君!』に書いた五篇の評論を、第二部には三年前からサンケイ新聞に書いてゐる週刊誌批評の文章を、昨年六月九日に掲載されたものまで収録した。週刊誌批評は隔週四百字三枚の割で書いてゐるが、低俗な週刊誌が相手だからとて、或いは小さなコラムだからとて、手抜きをした事は一度も無い。伊藤仁齋の言うように「卑きときは則自實なり。高きときは則必虚なり。故に學問は卑近を厭ふこと無し。卑近を忽にする者は、道を識る者に非ず」だからである。そしてまた、『新聞はなぜ道義に弱いか』において縷々説明したとおり、知的怠惰は道義的怠惰に他ならないが、私は怠惰を當節最大の惡徳と考へてゐる。本書の題名を『知的怠惰の時代』としたゆゑんである。昨今「知的」なる形容詞を冠する題名の書物がかなり出廻つてゐるが、その種の書物の著者も讀者も、知的に怠惰な手合が多いのではないかと思ふ。本書はそういう知的に怠惰なマス・メディア及び物書きを批判した文章を一本に纒めたものである。
日本國は今や馴合ひと許し合ひの天國である。日本人は「和を以て貴しと爲す」民族だとよく言われるが、それは昔の事で、今は「馴合ひを以て貴しと爲す」民族だと私は思つてゐる。吾々は互いに許し合ひ、徹底的に他人を批判するという事をしない。許すとは緩くする事だが、他人に緩くして、おのれも緩くして貰いたがる。そういう許し合ひのお遊びの最中に、本氣になつて他人の知的怠惰を批判すれば、ドン・キホーテとして輕蔑されるか、野暮天として嫌われるか、いずれ得にはなりはしない。
それかあらぬか、私はこれまで、本氣になる事の損を何囘も思ひ知らされた事がある。だが、本氣で他人を斬るの眞劍勝負に他ならない。私は文弱の徒に他ならず、武人の勇氣は持合せていないけれども、文弱の徒にとつては文章を書く事が眞劍勝負なのであり、新聞や週刊誌や物書きを本氣で叩く以上、いつ何時、叩き返されても、それに應じられるだけの覺悟が無ければならぬ。そういう覺悟があつて私は文章を綴つてゐる。その事だけを私は讀者に解つて貰いたいと思ふ。
本書は私の最初の評論集である。その上梓に當つて私は福田恆存氏の三十年に及ぶ高誼を何より忝く思つてゐる。物を書く事が眞劍勝負であるゆゑんを、私はとりわけ福田氏から學んだからである。福田氏との邂逅無しに今日の私は無かつたと思ふ。
また、『中央公論』編集長青柳正美氏及び編集部の平林孝氏は、私が『教育論の僞善を嗤う』の原稿を持ち込んだ際、無名の新人たる私の文章を、一擧五十枚、『中央公論』に載せてくれたのであつて、『諸君!』編集長村田耕二氏、『Voice』編集長江口克彦氏及び編集部の安部文司氏、ともども、私は御禮を申述べねばならない。村田・江口兩氏が私の評論を掲載してくれたのは、同じく無名の新人を抜擢する度胸あつての事だつたからである。
だが、そもそも私が評論らしきものを書き出したのは、サンケイ新聞の『直言』欄以來のことであつて、それゆえサンケイ新聞の四方繁子氏、及び野田衞氏に、そしてもとより、本書の上梓は、PHP研究所出版部の宮下研一氏の尽力あつての事、それゆえ宮下氏に、心から御禮を申述べる。
昭和五十五年七月一日   松原正 
 
道義不在の時代 / 松原正

 

廉恥節義は一身にあり 序に代へて 
石川達三といふ三文文士は破廉恥であり、愚鈍であり、あのやうな穀潰しの益體無しは暗殺するに如くは無いと、もしも私が本氣で書いたら、一體どういふ事になるであらうか。言ふも愚か、私の手は後ろに廻るに決つてゐる。けれども石川氏は今年、『連峰』八月號に、法治國の國民にあるまじき愚論を述べたのである。それは「石川達三氏を暗殺すべし」との暴論とさしたる徑庭無きものだが、愚論を述べて石川氏が世の笑はれ者になつた譯ではなく、ましてや石川氏の手が後ろに廻つた譯でもない。まこと思案に落ちぬと言ひたいところだが、實はそれも一向に怪しむに足りぬ。何せ今や日本國は道義不在の商人國家だからであり、「唄を忘れたカナリア」ならぬ廉恥節義を忘れた大方の日本人は、他人の愚鈍と沒義道とを滅多に咎める事が無い。もとよりジヤーナリズムも同樣であつて、先般新聞週刊誌はかの榎本敏夫氏の品性下劣なる先妻を「女王蜂」なんぞと持て囃し、大いにはしやいで樂しんだが、これまた廉恥心が地を掃つた事の證據に他ならぬ。かの「女王蜂」は愚かであり、愚かであるがゆゑにおのが品性の下劣を滿天下に晒したのであつた。「知的怠惰は道義的怠惰」だと私は屡々書いた事がある。淺はかなりし「女王蜂」については後述するが、『連峰』八月號に、法について淺薄極まる駄文を綴つた石川達三氏の場合も、その知的怠惰すなはち愚鈍と道義的怠惰すなはち破廉恥とは、表裏一體のものなのである。
だが、石川氏の暴論を批判する前に、少しく石川氏の「前科」を洗つておくとしよう。石川氏は昭和十三年『中央公論』三月號に、『生きてゐる兵隊』といふ小説を書いた。底の淺い愚にもつかぬ小説だが、ここでは作品評はやらぬ。要するに、日本軍の殘虐行爲を描寫したといふ事で『生きてゐる兵隊』を載せた『中央公論』三月號は發賣禁止となり、石川氏は軍部に睨まれる事になつたのである。睨まれて石川氏はどうしたか。「前の失敗をとりかへし過ちを償」ひ「名譽を恢復」すべく、やがて再び從軍作家として武漢に赴き、歸國後『武漢作戰』を發表、やがて文藝興亞會の會則編纂委員となり、昭和二十年には日本文學報國會の實踐部長になつた。當時の石川氏が軍部に迎合して恥を捨て、いかなる愚論を述べたか、かうである。
極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はないと思ふ。さういふ小説は藝術ではないと言はれるかも知れない。しかし藝術は第二次的問題だ。先づ何を如何に書くかといふ問題であつて、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣傳小説家になることに悲しみを感ずる必要はないと思ふ。宣傳に徹すればいいのだ。(『文藝』昭和十八年十二月號)
しかるに、「國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつ」ぎ、「宣傳に徹」した甲斐も無く、昭和二十年八月十五日、日本は敗戰の憂き目を見る事となつた。石川氏は「われ誤てり」とて茫然自失、或いは祖國の命運を思ひ暗澹たる心地だつたらうか。否。石川氏は破廉恥なまでに鮮かに轉向した。そして敗戰後二ヶ月も經たぬうちに、今度はマツカーサー元帥に胡麻を擂るべく、十月一日附の毎日新聞にかう書いたのである。
私はマツカーサー司令官が日本改造のために最も手嚴しい手段を採られんことを願ふ。明年行はれるところの総選擧が、もしも舊態依然たる代議士を選出するに止るやうな場合には、直ちに選擧のやり直しを嚴命して貰ひたい。(中略)進駐軍総司令官の絶對命令こそ日本再建のための唯一の希望であるのだ。何たる恥辱であらう!自ら改革さへもなし得ぬこの醜態こそ日本を六等國に轉落せしめた。(中略)私の所論は日本人に對する痛切な憎惡と不信とから出發してゐる。不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑる親の心と解して貰ひたい。涙を振つてこの子を感化院へ入れるやうに、今は日本をマツカーサー司令官の手に託して、叩き直して貰はなければならぬのだ。
これもまた愚かしい、それゆゑ破廉恥な文章である。さうではないか。「不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑる親の心」の中に、眞實、親が子を愛してゐるのなら、「痛切な憎惡と不信」なんぞが潛む筈は無い。それに何より、「六等國に轉落」した日本を「不良化した自分の子」に擬へ、「涙を振つて感化院へ入れる」しかないと主張する石川氏とて、「自ら改革さへもなし得ぬ」日本人の一人だつた筈である。「自ら改革さへもなし得ぬ」日本人の一人だつだからこそ、「マツカーサー司令官に叩き直して貰」ひたいと書いたのではないか。
しかるに、愚鈍なる石川氏にはこのあからさまな矛盾が見えてゐない。そして無論、知的怠惰は道義的怠惰なのであり、「親の心」だの「涙を振つて」だのとは何とも白々しい限りだが、それはともかく「何たる恥辱であらう!」と書いた時の石川氏は、おのれが以前「六等國」の「政府のお先棒をかつ」いだ事の「恥辱」のはうはきれいさつばり失念してゐるのである。おのれ一身を棚上げして日本人全體の恥辱を云々できるのは道義心を缺くからに他ならぬ。恥辱とは何よりもおのが恥辱であり、おのれ一身が「痛切」に感ずべきものである。昔、福澤諭吉は「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。まさに至言であつて、大義名分に醉ひ癡れての憂國の情は、石川氏のそれのごとき頗る安手の紛ひ物さへ、とかく恥知らずにとつての恰好の隱れ蓑になる。 
だが、過去の大義名分の一切が崩潰したかに見えた敗戰直後の日本國にも、「私に在り一身に在」る廉恥節義を捨てなかつた男はゐた。例へば太宰治がさうである。太宰は石川氏と異り、戰時中も軍部に迎合する事の無かつた作家だが、敗戰直後、彼はかう書いた。
日本は無條件降服した。私はただ、恥づかしかつた。もの言へないくらゐに恥づかしかつた。天皇の惡口を言ふものが激増して來た。しかし、さうなつて見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して來たのかを知つた。(『苦惱の年鑑』)
もう一つ引かう。昭和二十一年一月二十五日付の堤重久宛の書簡である。
このごろの日本、あほらしい感じ、馬の背中に狐の重つてる姿で、ただウロウロ、たまに血相かへたり、赤旗ふりまはしたり、ばかばかしい。(中略)ジヤーナリズム、大醜態なり、新型便乘といふものなり。文化立國もへつたくれもない。戰時の新聞雜誌と同じぢやないか。(中略)戰時の苦勞を全部否定するな。(中略)天皇を倫理の儀表としてこれを支持せよ。戀ひしたふ對象もなければ倫理は宙に迷ふおそれあり。
いかにも「倫理の儀表」無くば「倫理は宙に迷ふ」のであつて、それは私が『僞りても賢を學べ』において縷々説いた事だが、それはさて置き、變り身の早い石川達三氏の生き方と太宰治のそれと、讀者はいづれをよしとするであらうか。いかにも太宰は女を抱いて玉川上水に飛込んだのであつて、その死樣は女々しい限りだつたかも知れぬ。が、太宰の文章と石川氏のそれとを比較考量するならば、吾々は皆、太宰の頭腦が石川氏のそれを凌いでゐた事實を承認するであらう。やはり知的怠惰は道義的怠惰なのである。戰中及び戰後における石川氏の時局便乘は破廉恥の限りだが、それも畢竟頭が惡いからであり、頭が惡いからこそ破廉恥に振舞ひ、道學先生を氣取り、綺麗事を書き擲つて今の世をも後の世をも欺き果せると思ひ込んでゐる。そして實際十中八九は欺き果せたのであつた。例へば『連峰』八月號所載の駄文だが、『週刊新潮』八月二十七日號は「有罪と無罪の間」と題するその駄文を紹介して、齒が浮く樣な世辭を言つたのである。石川氏の小説は新潮文庫に二十數點も收められてをり、週刊誌の雄たる新潮とて臺所の事情は無視できなかつたと見える。俗に「目明き千人、盲千人」と言ふが、今も昔も目明きの數は決して多くはないのだから、目明きばかりを相手にして算盤が合ふ譯が無い。それゆゑ私は新潮の商賣氣質を咎めようとは思はぬ。論ふべきは石川氏の知的、道義的怠惰である。石川氏はかう書いた。
田中角榮氏は遠からず無罪になるだろう。理由は證據不充分であつて、「疑わしきは罰せず」という原則がある。たとい有罪になつても被告は直ちに控訴、更に上告して、最終判決までにはなお七八年もかかり、その間も田中氏は當選が續く限り國會議員であり、國は歳費を拂いつづける。(中略)一體、有罪の判決が有るまでは無罪というのはどこに書いてある規定なのか。この言葉そのものが甚だ怪しげである。まるで中學生の理論のように短絡的であつて、筋が通らない。有罪の判決が有るまでは有罪では無いが、無罪でもないはずである。無罪だという根據はどこにも無い。したがつて選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり、疑問が解決しない限りは無罪も確定してはいない。無罪が確定していなければ議員としての資格をも確認することはできないはずである。當然、「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」されなくてはならない。勿論歳費の支給も保留されるべきであり、いわんや國會議事堂に入つて國政を論ずるなどは言語道斷であるべきだと思う。それを從來は「有罪がきまるまでは無罪」という變な考え方で、有罪かも知れない人物が國政を論じていた。つまり、犯罪人かも知れない人間が政治家づらをして、吾々庶民を支配し號令していた。(中略)私は法秩序恢復の一つの手はじめとして、「有罪の判決が有るまでは無罪だ」と言う一般的な論理を、是非とも訂正してもらいたいと思う。「無罪という判決が有るまでは無罪ではない」のだ。當然、無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇もまた保留されるべきである。この馬鹿々々しいほど當り前な事がなぜ今日まで歪められて來たのか。 
これは許し難き愚論であり、暴論である。法治國の國民の斷じて口走つてはならぬ戲言である。しかるに日本國は目下途轍も無い理不盡の國だから、人々はこの類の暴論を「馬鹿々々しいほど當り前な事」と受け取つて怪しむ事が無い。それゆゑ、「中學生の理論のように短絡的」な石川氏の愚論を『週刊新潮』が引用して提燈を持つたにも拘らず、新潮も石川氏も世論の袋叩きに遭ひはしなかつた。「目明き千人」と言切れぬゆゑんである。
「有罪の判決が有るまでは無罪というのはどこに書いてある規定なのか」と石川氏は言ふ。「どこに書いてある」かはおよそ問題外である。「有罪の判決が有るまでは無罪」なのではない。最終審による有罪判決が下されるまで無罪の扱ひをするのが法治國なのである。それくらゐの事は本來、中學生でも承知してゐなければならぬ。いかにも「有罪の判決が有るまでは有罪では無い」し「無罪でもない」。從つて「無罪だという根據はどこにも無い」。けれども「有罪だという根據」とてどこにも無いのである。ここまでは「短絡的」ならざる中學生なら理解できる筈だと思ふ。では、「有罪だという根據」が「どこにも無い」のに、一體全體、いかなる「根據」にもとづいて、吾々は田中角榮氏に對し「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を「保留」しうるのか。自分の文章を引くのは氣が引けるが、馬鹿念を押すに足る大事だと信ずるから、長い引用を敢へてする事にする。私はかつてかう書いた。
例へば讀者はかういふ事を考へてみるがよい。甲が今、友人乙を殺したとする。そしてそれを丙が目撃したとする。言ふまでもなく、丙にとつては乙殺しの犯人が甲である事は確實である。だが、丙が「犯人は甲だ」と主張した時、丙以外の人間は、その主張の正しさを確かめる事ができない。丙が本當の事を言つてゐるかどうかは、神樣と丙自身にしか解らないからである。證據が物を言ふではないかと反問する向きもあらう。が、指紋だのルミノール反應だのが殘らぬ場合もある。その他確實と思はれる證據を蒐集して甲を起訴しても、最終審で甲が無罪になる可能性はある。いや、先般の財田川事件の場合のやうに、甲の死刑が決定して後に、最高裁が審理のやり直しを命ずる事さへある。
以上の事を否定する讀者は一人もゐないと思ふ。これを要するに、甲が殺人犯かどうかは、究極のところ、甲自身及び目撃者丙以外誰にも解らぬといふ事である。(中略)たとへ、甲が一審で有罪、二審でも有罪となつたとしても、甲が最高裁に上告すれば、この段階でも世人は甲を罪人扱ひする事ができない。やがて最高裁が上告棄却の決定を下す。さて、さうなつて初めて世人は甲の有罪を信じてよい。新聞もまた甲を呼捨てにして、その「道義的責任」を追及し、勤先に辭表を出せと居丈だかに要求するもよい。財田川事件の如く、三審制といふ愼重な手續を經ても、人間の判斷に誤謬は附き物だから、なほ誤判の可能性はあるが、それは止むをえない。最終審の決定があれば、吾々は被告の有罪を信じるしかないのである。(『知的怠惰の時代』、PHP研究所)
再び、「以上の事を否定する讀者は一人もゐないと思ふ」。では、私は讀者に尋ねたい。田中角榮氏の場合は一審の判決さへ下つてゐない。即ち田中氏は有罪かも知れぬが、逆に無罪かも知れぬ。それなら、無罪かも知れぬ人間に對して、「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を、いかなる根據あつて「保留」しうるのか。警察が逮捕し檢察が起訴すれば、被告は即ち犯罪者と斷じうるのか。それなら判事なんぞは無用の長物である。そして判事や辯護士が無用の長物であるやうな國家では、善男善女は枕を高くして眠る事ができない。さういふ事態を「檢察フアツシヨ」と呼ぶのである。「無罪の人に與へられるべき各種の權利、待遇」を「保留」すべしと主張する石川氏は、「檢察フアツシヨ」を待望してゐるのであらうか。もしもさうなら、石川達三の如き「穀潰しの益體無しは暗殺するに如くは無い」と言切りたくもなる。
さらにまた石川氏は、田中角榮氏が「無罪だという根據はどこにも無」く、「したがつて選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり、疑問が解決しない限りは無罪も確定してはいない」と言ふ。度し難き愚鈍である。「選擧の票數は當選圏に入つていても、その票數には疑問があり」といふ事になれば、選擧制度そのものが崩潰してしまふ。石川氏はそれを望んでゐるのか。即ち民主主義を否定したがつてゐるのか。それとも新潟三區の選擧民は愚昧にして破廉恥だから、その意志は無視すべきだと考へてゐるのか。そのいづれにせよ、石川氏は公職選擧法そのものを否定してゐる事になる。實際、「多數決主義と言うのは民主主義的な運營の方法として、理論的には大變に理想的な方式であるけれども、その方式は永年のあいだに有りとあらゆる不潔な垢が附いてしまつ」たと石川氏は書いてゐるのである。要するに「不潔な垢が附いてしまつ」たから「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」すべきだといふ譯だが、さういふ事態となつたら、起訴された政治家の當選はまづ難しからう。「無罪の判決が有るまで議員としての」活動を禁止されるやうな政治家を、選擧民が選出する道理は無いからである。これほど見易い道理は無いが、粗雜な腦漿を絞つて雜駁な雜念を書き留める石川氏には、至つて見易い道理も見えない譯であり、その石川氏が「中學生の理論」を「短絡的」と稱するのは笑止千萬である。 
さて、石川氏の暴論の暴論たるゆゑんについて讀者はほぼ了解した事と思ふ。有罪の判決が下るまでは無罪の扱ひをし、「疑わしきは罰しない」、それが法治國なのである。田中角榮氏の場合も、最高裁は愚か地裁の判決も下つてゐない。すなはち、田中氏が「無罪だという根據はどこにも無い」かも知れないが、有罪だとする根據も今のところ「どこにも無い」。有罪か無罪か解らぬ被告人に對して「各種の權利、待遇」を「保留」したり、道義的に非難したりする事がどうして輕々にやれようか。
假りに田中角榮氏は無實だとしよう。しかるに最高裁が有罪の判決を下したとしよう。すでに述べたやうに、その場合吾々は初めて田中氏の有罪を信じてよい。だが、その代り、假りに田中氏が罪を犯したのに最高裁が無罪の判決を下した場合も、輕々に最高裁と政治權力との「癒着」を云々したり、田中氏は「無罪となつたが道義的責任は免れない」などと、吾々は斷じて言つてはならないのである。
人間は神ではない。それゆゑ、政治家や小説家と同樣、檢事や判事が間違ひをやらかす事もある。また、神ならぬ人間の拵へる法律も不完全だから、法の不備に附け込んで惡事を重ねる奴も跡を絶たぬ。だがその場合も、「法網を潛るとは何としても許せぬ、法が裁けぬなら道義で裁け」とて、惡黨を道義的に非難して吊上げるなどといふ事は斷じてやつてはならぬ。それは私刑であり、私刑は法治國において固く禁じられてゐる行爲だからである。しかるに先年、松野頼三氏が時效ゆゑに刑事責任を免れた時、新聞は松野氏を呼捨てにし、松野氏の道義的責任を躍起になつて追及した。あれは新聞による私刑であつた。そして今、石川達三氏は「無罪の判決が有るまでは議員としての資格は保留」せよと書き、田中角榮氏に對する法によらざる制裁を勸めてゐる。しかも石川氏には暴論を吐いたとの自覺は微塵も無く、世人も石川氏を決して咎めない。なぜか。世人は田中氏が賄賂を貰つたのは事實だと決め込んでをり、小説家が「國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつ」いだり、マツカーサーに胡麻を擂るべく「選擧のやり直しを嚴命して貰ひたい」などと書いたりするのは破廉恥ではないが、代議士が巨額の袖の下を貰ふのは破廉恥なのだから、貰つたらしいといふ事だけで充分、斷乎「疑わしきは罰」すべきだと、さう考へてゐるからである。それゆゑ、田中角榮氏を批判する者はすべて善玉と見做され、逆に田中氏のために辯ずる者は、例外無しに破廉恥漢と見做される。そして、さういふ輕佻浮薄な風潮を破廉恥な手合が利用しない筈が無い。かくて十月二十八日、かの「女王蜂」が檢察側の證人として出廷し、「蜂は一度刺して死ぬ」と大見得を切つた時、新聞は國家の一大事であるかのごとく一面トツプにでかでかと報じ、彼女の手記を掲載した『週刊文春』は發賣と同時に賣切れたのであつた。
「あえて證言臺に立つた理由の一つ」は「眞實を貫くということの尊さ」を子供たちに「知つて欲しかつた」といふ事だと、「女王蜂」は手記に書いてゐる。だが、夫君榎本敏夫氏と別れようと決心して田中角榮氏に相談した時、「子供はどうする」との田中氏の問ひに對して彼女は、「女一人で三人の子供を育ててゆく不安、子供達の環境が激變することへの心配」、及び「再婚して子供を」拵へられる「年齢ではない榎本から、子供を取り上げたら何が殘るのか等々」の理由を擧げ「子供は預けます」と答へたといふ。愚かな「女王蜂」の言分はもとより矛盾してゐる。「眞實を貫くということの尊さ」を子供に知つて欲しいといふ氣持が眞實だつたなら、すなはち彼女が子供達を、眞實、愛してゐたのなら、「女一人で三人の子供を育ててゆく不安」なんぞ物の數とも思へなかつた筈である。惡黨も「眞實」だの「良心」だの「愛情」だのといふ美しい言葉を口にする。彼女の母性愛とは所詮眉唾物でしかない。
「私はあの(證言臺に立つた)時、裁判官や檢事、辯護人に對してというよりも、ただひたすら子供達に向つて證言していた」と彼女は書いてゐる。昭和二十年、「親の心」だの「涙を振つて」だのと白々しい事を書いた石川達三氏と同樣、彼女もまた愚鈍ゆゑに品性の下劣を滿天下に晒したのである。「女親に離れぬるは、いとあはれなる事にこそ侍るめれ」と紫式部は言つた。昔も今も、眞實子を思ふ母親がそれを考へぬ筈が無い。
だが、矛盾だらけの「女王蜂」の手記を私は丹念に叩かうとは思はない。愚かな「女王蜂」は道義的にもいかがはしく、世間を舐め過ぎてすでにかなりの襤褸を出してゐる。今後もますます出すであらう。豆を植ゑて稗を得るといふ事になるであらう。それゆゑ放つておけばよい。世間もいづれ必ず相手にしなくなる。けれども、あれほど品性下劣な女に、ごく短期間の事とはいへ、新聞や週刊誌は飜弄されたのであつて、それこそ日本人の道義心の麻痺を雄辯に物語る事實であり、これは放つてはおけない。浮かれ過ぎた「女王蜂」は愚鈍ゆゑに日ならずして尻尾を出し、文春以外の週刊誌がその尻尾を掴んで振り廻し、いかがはしい素性をしきりに洗ひ立てたけれども、彼女の品性下劣は、檢察側の證人として出廷した事を報じた各紙の記事を讀んだだけで、充分に察せられた筈なのである。しかるに、新聞も週刊誌も「女王蜂」の道義心の麻痺を即座に看破る事が無かつた。これこそはジヤーナリズムの墮落を雄辯に物語つてゐる。
「證言拒否できる立場にありながら拒否しなかつた」のは、「私怨」のためもあるが「社會正義」を思つてでもあると「女王蜂」は言つたのである。けれども私怨ゆゑに「先夫を窮地に陷れ」た「女王蜂」の言動に、「公の義理」と「私の義理」の雙方を考へての葛藤は一向に感じられぬ。『週刊讀賣』十一月十五日號によれば、「衝撃的な證言をした翌日」彼女は玄關のドアに、「今囘の件は永い永い心の葛藤があつての事ですし、昨日終つてみて改めて悲しみがおそつて參りました。しばらく靜かにさせて頂けませんか」との張り紙をしたといふ。だが、その日彼女は湯河原にゐて、矛盾だらけの手記を書いてゐた。「永い永い葛藤」云々も眞つ赤な嘘だつたのである。
無論、吾々は誰一人聖人君子ではない。他人の不幸は眺めてゐて樂しいし、憎たらしい奴ならいつそ殺したいと思ふし、震ひ附く樣な別嬪なら友人の女房でも寢取りたいと思ふ。が、惡いと知りながらつい寢取つてしまふのと、惡いとの自覺無くして寢取るのとは雲泥の差なのである。すなはち、前者は不道徳といふ事に過ぎぬが、後者は沒道徳だからだ。私怨ゆゑに「先夫を窮地に陷れる」のは善い事ではない。決して善い事ではないが「社會正義」のために敢へてやらねばならぬと、さういふ「永い永い心の葛藤があつて」、すなはち「私の義理」と「公の義理」とに引裂かれた擧句、「女王蜂」は證言に踏切つたのか。さうとはとても思はれぬ。それなら彼女の行爲は沒道徳なのである。しかるに世人はその沒道徳に慄然とせず、却つて檢察を咎めた奧野法相を咎めたのであつた。例へば『選択』十二月號に「天鼓」なる匿名批評家はかう書いた。 
榎本被告前夫人の十月二十八日の爆彈證言は、榎本アリバイにとどめを刺す威力を發揮した。さすが「ハチは一度刺したら死ぬ」と覺悟しただけのことはある。(中略)ハチ證言は、田中復權を期待する自民黨内の幻想を吹き飛ばしたのである。
それに對するはかない抵抗が“隱れ田中派”の異名を頂戴した奧野法相の發言だつた。「檢察は人の道を外れてはならない」という奧野發言は、檢察への不當な牽制であるのはもとより、その倫理感の古めかしさを正直に告白したものだつた。法相は「亭主がどんな惡いことをしても、女房たる者は盲從し背くべからず」というのだろうか。
道徳とは百年千年經つてなほ變らぬものなのである。それは『道義不在の防衞論を糺す』で縷々述べた事だからここに繰返さないが、とまれ「古めかし」い「倫理感」などといふものは斷じて無い。天鼓氏のやうに駄文を綴る愚鈍な手合には所詮通じまいが、無駄を承知で思ひ切り「古めかしい」插話を紹介しておかう。或時、葉公が孔子に言つた、「吾が黨に直躬なる者あり。其の父羊を攘みて、子之を證せり」。孔子は答へた、「吾が黨の直き者は、是れに異なり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。直きこと其の中に在り」。『論語』子路篇の一節である。子が父親の罪を發くが如き行爲は「直きこと」ではない。これがどうして古めかしい倫理であるか。「亭主がどんなに惡いことをしても、女房たる者は」それを輕々に發いてはならない。「社會正義」のために發くとしても「私の義理」と「公の義理」との食違ひに苦しんだ擧句の果でなければならぬ。
「總ジテ私ノ義理ト公ノ義理・忠節トハ食違者也。國ノ治ニハ私ノ義理ヲ立ル筋モ有ドモ、公ノ筋ニ大ニ連テ有害事ニ至テハ、私ノ義理ヲ不立事也」と荻生徂徠は書いた。さう書いて徂徠は丸橋忠彌の陰謀を密告した手合を辯護したのである。だが、徂徠が今、「女王蜂」の手記を讀んだとしても、「私ノ義理ヲ不立事也」とは決して言はぬであらう。なぜか。『猪木正道氏に問ふ』にも書いたとほり、今日世人は「平和憲法護持を唱へればすなはち道徳的であるかのごとく思ひ込んでゐる」が、徂徠は政治と道徳とを混同するやうな愚物ではなかつたからである。徂徠は政治と道徳とを、「公ノ義理」と「私ノ義理」とを峻別した。峻別したうへで「公ノ義理」を重んじたに過ぎない。「天下ヲ安ソズルハ脩身ヲ以テ本ト爲ス」事は無論だが、ただしその場合の修身は飽くまで治國平天下のためである。「たとひ何程心を治め身を修め、無瑕の玉のごとくニ修行成就」したところで「下をわが苦世話に致し候心」無く、「國家を治むる道を知」らぬなら「何之益も無」き事ではないか。「己が身心さへ治まり候へば、天下國家もをのづからニ治まり候」と考へるのは誤りである。が、もとより修身が不要といふ事では斷じてない。「尤聖人の道にも身を修候事も有之候へ共、それは人の上に立候人は、身の行儀惡敷候へば、下たる人侮り候而信服不申候事、人情の常にて御座候」。
いかにもそれは「人情の常」である。それゆゑ「人の上に立候人」は、例へば教師は、「下たる人」たる生徒に侮られぬやう「身の行儀」を守らうと努めねばならぬ。「下たる人に信服さすべき爲ニ、身を修候事ニて」云々と徂徠は書いてをり、それは餘りに功利的だと思ふ讀者もあらう。だが、『僞りても賢を學べ』にも書いたやうに、教師が「身の行儀」を守らうとする事は、生徒のためであり教師自身のためなのである。
石川達三氏だの「女王蜂」だの「天鼓」氏だのといふ愚物を批判してゐるうちに、計らずも荻生徂徠といふ天才に言ひ及び、つい横道に逸れたが、品性下劣なる「女王蜂」に、たとへ一時にもせよ、新聞週刊誌が手玉に取られたのは、「公ノ義理」と「私ノ義理」とを峻別できぬ知的怠惰のせゐであつた。そして知的怠惰はもとより道義的怠惰に他ならない。今は「道義的怠惰の時代」なのであり、世人はおのが「心を治め身を修め」る事は考へず、專ら田中角榮氏を指彈して正義漢を氣取るのである。
明治の昔、福澤諭吉は、「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。昭和の今、石川達三氏は「法秩序恢復」を説き、「女王蜂」は「社會正義のため」とて胸を張る。だが、二人はともに品性下劣な人間であつた。しかるに世人はそれを一向に怪しまない。これを要するに「公」にして「表向」の「大義名分」を振り翳せば、「私に在り一身に在」るべき筈の「廉恥節義」は疑はれずに濟むといふ事である。すなはち、田中角榮氏を指彈したり、田中氏に楯突いたりすれば、造作も無く善玉として通用するといふ事である。だが、他人の惡徳を指彈して、その分おのれが有徳になる道理は無いではないか。斷じて無いではないか。 
I 教育論における道義的怠惰

 

1 僞りても賢を學べ 
かつて教育は聖職なりや否やとの論爭が流行した事がある。大方の教育論議と同樣、議論してゐる手合が本氣でなかつたから、忽ち下火になり、やがて消えてしまつた。教師のみが聖職者たりうる理由なんぞさう簡單に見附かる筈は無い。教師も人の子であつて、女の色香に迷ふ事もあらうし、慾に目が眩む事もあらう。例へばの話、中學校の教師が仲間と一緒にいかがはしい映畫を觀に行く事もある。そこで映畫に堪能した翌日、教室で生徒が休み時間に、いかがはしい雜誌に見惚れてゐる現場を掴む事もある。その時、教師はどういふ態度を採つたらよいか。
さういふ事態に日頃教師は屡々直面するであらう。いや、たまたまいかがはしい映畫を觀た翌日、いかがはしい雜誌に見惚れる生徒の姿を目撃するといふ事が屡々ある、といふ事ではない。教師が二日醉ひで氣分が惡い時、部室で密かに酒を飮んでゐる野球部の生徒を見附けるとか、禁煙しようと思ひ立つて挫折し、おのが意志薄弱にいささか愛想盡かしをしてゐる折も折、萬引癖のある生徒がまたぞろやらかした事を知るとか、さういふ類の體驗は屡々してゐるだらうといふ事である。いや、教師だけではない、親の場合も同じであつて、退社後、赤提燈で、上役の惡口を言つて樂しむのは、なるほど情けない根性ではあるが、勤人なら誰しも必ず身に覺えがある筈だ。では、さういふ情けない根性を大いに發揮して歸宅した翌日、わが子が擔任の教師の惡口を言ひ出したとする、さて、父親はどうしたらよいか。
これを要するに、おのれを省みて、生徒や子供を叱る資格なんぞありはせぬとしか思へぬ場合、教師や親は一體どう振舞ふべきか、といふ事である。坂口安吾はかう書いてゐる。「教訓には二つあつて、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、といふ意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまつてゐるが、さればといつて、だからするなとはいへない性質のものと、二つである」。けだし至言だが、例へば教室でいかがはしい雜誌に見惚れてゐる生徒に向かひ、教師は一體、いかなる理由を擧げ「だからするな」と言ふべきか。
かういふ事は日常茶飯事であつて、教師も親も屡々體驗する。しかるに、奇怪千萬だが、大方の教育書はその種の日常茶飯事を素通りするのであつて、巷間に流布する教育書は、やれ學校五日制がどうの、學區制がどうの、主任制がどうのと、制度をいぢりさへすれば萬事が解決するかの樣に思ひ込んでゐる學者先生の手になる淺見僻見の類か、さもなくば教育の場における明暗二通りの現象、即ち「のびのび教育」とやらの實例、もしくは目下流行の校内暴力や家庭内暴力の實例を、「客觀的」に記録するだけのルポルタージユなのである。無味乾燥なる制度論は無論だが、詰込み教育を止め、かくもすばらしき成果を收めたなどといふ話を讀んだ所で、愚かしき兩親は子供の塾通ひを止めさせはしないであらう。また、凄じい家庭内暴力の實態を知つた所で、俺の子は大丈夫だとて、胸を撫で下すだけの事であらう。要するに、何の役にも立ちはしないといふ事だ。では、何の役にも立たぬ教育書ばかりが、なにゆゑかくも氾濫してゐるか。その種の無駄を意に介さぬ程、日本が經濟大國となつたからに他ならない。
しかるに、「俺の倅は健全だ」とて高を括つてゐた父親が、或る日、倅の勉強机の引出しに、卑猥な雜誌や避妊器具を發見して驚くといふ事がある。母親が娘の日記を盜み讀みして、同級の男の子に寄せる切々たる戀心の表現を見出すといふ事がある。さういふ時、親はどうしたらよいか。放置すべきか、それとも斷然説教すべきか。多分、大抵の親は放置するであらう。だが、放置できぬほどの重症だつた場合はどうするか。無論、説教するしかあるまい。だが、一體全體どういふ具合に説教すべきか。穩やかに、醇々と言つて聞かすべきか、手嚴しく咎むべきか。大方の兩親は穩健な方法を選ぶであらう。が、窮鼠猫を噛む、子供が居直つた場合はどうするか。日頃温厚にして御し易しとばかり思つてゐた息子や娘が、「大人も昔は同じだつた筈ではないか」などと開き直つたらどうするか。いかにもその昔、父親も惡友と共に春畫春本の類を樂しんだ事があるし、母親も映畫俳優に熱を上げ、いつそ家出をしてとまで思ひ詰めた事があるであらう。要するに、子供が今やつてゐる事は、程度の差こそあれ、兩親にとつては身に覺えのある事なのであり、「先人」たる兩親は「そのために失敗」こそしなかつたらうが、「さればといつて、だからするな」とも、「だからせよ」とも言へまい。イギリスの劇作家プリーストリーに『危險な曲り角』といふ作品があり、人生には「もしもあの時あの曲り角を曲つてゐたら、今の私は無かつたらう」としか思はれぬ樣な偶然があるものだと、さういふ事を考へさせられる芝居だが、兩親が失敗しなかつたのも偶然であり、運が良かつただけの事だとすれば、兩親は子供にどう言ひ聞かせたらよいか。「後人」たる子供はいづれ「危險な曲り角」を曲るかも知れぬ。「先人」の親も神樣ではないから一寸先は闇であるし、それに何より「危險な曲り角」を曲らなかつた者に、曲つた結果どうなるかは所詮解らぬのである。
私は讀者を威してゐる譯ではない。劣惡なる教育書は親や教師を威す。「お前の子供も危いぞ」といふ類の事を必ず言ふ。つまり、親や教師の弱みに附込んで稼ぐのである。この、いはば「死の商人」とも評すべき教育書の惡辣な手口については、拙著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)に詳しく書いたから、ここでは繰返さないが、私は讀者を威してゐるのではない。息子や娘が色情を解する年頃になるといふ事態は、どの家庭にも起る、いたつて平凡な事態の筈だが、平凡な事柄を論じても儲からないから、教育學者は素通りして考へない。それはをかしいではないかと、私は言つてゐるのである。
とまれ、理想郷とも評すべき場所で行はれる氣まぐれな實驗なんぞに私は全く興味が無いし、一方、非行少年の實態なんぞ知りたいとも思はぬ。「理想郷」での實驗は、子供の中にも間違ひ無く惡魔が潛んでゐるといふ事實を知りたがらぬ樂天家の自慰に過ぎないし、一方、どう仕樣も無い非行少年は、拙著に縷々説明した通り、「ゴミタメに捨て」るしかないからである。これは許せぬ暴論か。さにあらず、吾々は本氣で不特定の非行少年に同情する筈が無い。かつてヴエトナム戰爭酣なりし頃、「ヴエトナムで毎日流されてゐる血を思ふと、三度の飯も喉を通らない」と言つた男がゐる。眞つ赤な嘘である。人間はさういふものではない。『ピーター・パン』の作者J・M・バリーがうまい事を言つてゐる、「花嫁に對しては常に嫉妬、死體に對しては常に善意」。
かういふ意味である。結婚披露宴で美しい花嫁を見、樂しさうな花婿を見る。さういふ時、聖人君子ならぬ吾々は密かに呟く、「畜生、うまくやりやがつたな」。けれども、ともに天を戴かぬとて恨んでゐた敵が頓死して、その棺桶を前にして燒香する時、吾々はかう呟く、「この世では敵同士だつた。が、惡く思ふな。俺も反省してゐるのだ。どうか成佛してくれ」。
何とも身勝手なものだが、人間とはさういふ甚だ身勝手な生き物なのだ。人間とは矛盾の塊だと言つてよい。美男美女の花婿花嫁を眞實うれしさうに眺めてゐるのは、親兄弟ぐらゐのものだと、さう言ひたい所だが、どうしてどうして、花婿の弟や花嫁の妹が心中穩やかでないかも知れぬ。しかるに、花婿花嫁を乘せた飛行機が墜落すれば、弟も妹も本氣で泣くのである。
兄弟姉妹といふ至極身近な關係においても、悲しむべし、人間はこれほど身勝手なのだから、どこの馬の骨とも知らぬ不特定の非行少年に心から同情し、「ゴミタメに捨てろ」との「暴論」に立腹する筈は無い。再び、人間はさうしたものではないのである。勿論、かく言ふ私も身勝手だから、わが子が非行に走つたら平氣ではゐられない。何とかして立直らせようと懸命になる。「ゴミタメに捨てろ」などと言つてはをられぬし、そんな事を言ふ奴を憎む。けれども、同じ境遇にある父親の手記を讀んで慰められる事はあるかも知れないが、まづまづ順調に子供を育てた物書きが、「非行少年を持つ親の苦惱を思へば、三度の飯も喉に通らない」などと斷つてから、非行の實態とやらを發くルポルタージユを書いてくれた所で、そんな物、決して信用しないであらう。
それに何より、昔、大盜賊石川五右衞門は「石川や浜の眞砂は盡くるとも世に盜人のたねはつくまじ」との辭世の句を殘し、京都は三條河原で釜茄での刑に處せられたが、「世に非行少年のたねはつくまじ」であつて、賣春婦も非行少年も昔から存在して、無くなつた例が無い。だから放置しておけと、言ふのではない。「すべて色を賣り淫を賣るものは、良民の間に雜居せしむべからざる」ものである、それゆゑ賣春婦だの藝者だのは「大にして堅固なるゴミタメ」に捨てるがよい、それで町は「清潔を保つ」事ができるのだと、幸田露伴は書いてゐる。これは決して暴論ではない。刑務所の無い國は存在しないのである。色町、遊里、花柳街、當世風に言へば「トルコ街」、さういふ特別地帶は世界中の都市に存在する。つまり、どうにも救ひ樣のない人間といふものは確かに存在する。とすれば、大事なのはゴミタメの中の少數を救はうとする事よりも、むしろ露伴の言ふ「良民」の子女を何とかしてゴミタメにぶち込まないやうにする工夫ではないか。かつてゴミタメは特定の區域に限られてゐた。色街の事を郭とも言ふが、郭とは元來、城や砦の周圍に巡らせた圍ひの事である。昔はゴミタメと「良民」の居住地域とをはつきり區別してゐた。しかるに今はさうではない。今、さうでなくなつて、萬事好都合であらうか。昔は普通の書店にポルノが竝べてある事は無かつたし、遊女とて分限を辯へてゐた。しかるに今は職業に貴賤無し、人間はすべて平等といふ事になり、トルコ孃だのノー・パン喫茶の女給だのが、胸を張つて週刊誌の座談會に出席し、「學校の先生つてのが一番いやらしいんだよねえ」などとぬかす始末である。さういふ次第となつて結構な御時勢だと、讀者は思つてゐるであらうか。中學生ともなれば書店のポルノを盜み讀みはするし、卑猥な週刊誌は藥屋でも買へるのである。よしんば父親が電車の網棚に捨てて來たとしても。
さて、少々廻り道をしたが、この邊で冒頭の問題に戻る事にしよう。あちこちに散在するゴミタメで、或る日「良民」たる中學校の教師が遊んだとする。「そんな教師がなぜ良民か」などと、もはや讀者は言はぬであらう。そこでその「良民」の教師が、翌日、教室でポルノ雜誌に見惚れてゐる生徒を目撃したとする。教師はどうしたらよいか。結論から先に言ふ。教師は本氣で叱らなければならぬ。昨日俺はゴミタメで遊んだ、叱れた義理ではない、などと考へ、「おい、お前たち、さういふ物は隱れて眺めろ」などと、にやにや笑ひながら窘める、さういふ教師は惡しき教師なのである。なぜ惡しき教師なのか。かういふ事を考へてみるがよい。吾々は神樣でも聖人君子でもない。それゆゑゴミタメで遊ぶ事もある。嘘をつく事もある。では、時たま嘘をつく教師には、生徒に對して「嘘をつく事は惡い」と言切る資格が有るのか無いのか。もしも無いといふ事になれば、教育といふものは成り立たなくなつてしまふ。すなはち、神樣の如く完全な存在でなければ教師は勤まらぬといふ事になる。では、よしんばおのれが不完全であつても、教師は生徒に對し「いかなる場合にも嘘をつくのは卑怯だ」と、ためらふ事無く言切つてよい、といふ事になるのであらうか。
假りにさう言切つた場合、つまりおのれを棚上げして、嘘をついた生徒を叱つた場合、教師は自分もまた嘘をつく卑怯者だといふ意識に苦しむ事になる。教師はさういふ僞善には耐へられないし、また耐へる必要も無い、いつその事、自分もまた時に嘘をつく不完全な人間だといふ事を、潔く生徒に打明けたらよいではないか、教師も人間、生徒も人間、平等は善き事である、「仲よき事は美しきかな」、さう思ふ讀者もゐるであらう。けれども、潔く打明けて問題はすつかり片附くか。教師はなるほど樂になる。だが、それが果して生徒のためになるであらうか。
昔讀んだ本の中に書かれてあつた事だが、或る日、少年が母親と二人で居間にゐた。父親は庭に出て盆栽の世話か何かをしてゐた。すると、飼猫が父親の大事にしてゐた壺に飛びかかり、壺が毀れてしまふ。そこへ父親が戻つて來る。父親はいきなり息子を大聲で怒鳴り附ける。少年は激しい衝撃を受け、顏面蒼白となり、物も言へない。さういふ話である。
無論、ただそれだけの話なら取立てて紹介するまでもない。少年が激しい衝撃を受け顏面蒼白になつたのはなぜか、そこが大事なのである。自分が壺を毀した譯ではないのに、父親は自分の仕業だと決め込んでゐる、それを無念がつて口もきけなかつたのだと、大方の讀者は思ふであらう。が、少年は濡衣を着せられて衝撃を受けたのではない。尊敬し、信頼し、萬能だと思つてゐた父親もまた誤るのだといふ事を知つて、すなはち完全無缺だと思ひ込んでゐた父親も不完全だつたと知つて、少年は激しい衝撃を受けたのである。
當節の父親は、家庭で同僚や上役の惡口を言ひ、テレビの野球中繼を觀ながら屁をひり、ありのままの不甲斐無い姿を子供の前に曝して平氣だらうから、子供のはうも父親を尊敬してはゐないだらうが、右に紹介した話は教育について頗る興味深い事實を暗示してゐる。すなはち、子供は或る年齢まで保護者としての兩親に頼らざるをえず、從つて兩親を偶像視してゐるものだが、子供はいづれ自立せねばならないのだから、やがて兩親を偶像視してゐる状態を脱する事になる。が、問題はいつ頃から、いか樣にして、脱するかなのだ。小學校一年生が「うちのお父さんは、怠け者で駄目の人なんだ」などと言つたとして、それが望ましい事だとは誰も思ふまい。兩親の權威失墜は遲ければ遲いほどよいのであつて、子供に早々弱點を曝すのは考へもの、それは決して子供のためにならないのである。
ここで讀者は、子供だつた頃の事を思ひ出してみるとよい。男と女の祕め事について、勿論幼兒は何も知つてゐない。小學生になつても、その種の事柄に關心は無く、昆蟲採集だの魚釣りだのに熱中してゐる。が、中學生になれば、性の祕密を知るやうになる。そこで、最初に祕密を知つた時の事を思ひ出してみるがいい。男女間の性行爲は嚴然たる事實だと知つても、なほ暫くの間は、わが父母に限つてそのやうな事が、と思つたに相違無い。少くとも、父母の祕め事を想像して樂しむなどといふ事は斷じて無かつた筈である。これはつまり、兩親の權威失墜を子供は望まないといふ事ではないか。
いや、それは子供に限つた事ではない、大人もまた同じなのであつて、吾々は他人の濡れ場を覗きたがるが、親友や尊敬する人物の濡れ場は覗きたがらない。これはどういふ事か。人間は矛盾の塊で、甚だ身勝手で、おのが權威はどうでも保ちたがる癖に、一方では強い人間や偉い人間を求めてをり、その權威に服從したいと願つてゐるものなのである。かの頗る民主的なワイマール憲法を持ちながら、或いは持つてゐたがゆゑにと言ふべきかも知れないが、なぜドイツは呆氣無くヒツトラーに席捲されてしまつたのか。ワイマール共和國のドイツ人も權威への服從を密かに望んでゐたのであり、ヒツトラーはそれに附込み壓倒的な成功ををさめたのである。ジヨージ・オーウエルが書いてゐるやうに、人間は安穩や私益を愛するが、時には鬪爭や自己犧牲をも愛するのであつて、ヒツトラーはさういふ人間の矛盾を知り拔いてゐた、ヒツトラーはドイツ國民にかう言つた、「私は諸君に鬪爭と危險と死を提供する」、それゆゑに彼は成功したのである。 
私はヒツトラーを稱揚してゐるのではない。ユダヤ人虐殺のごときは「人類史上最大の汚點の一つ」だと思ふ。けれども、第二のヒツトラーに丸め込まれないためには、自由と平和を謳歌してゐるだけでよいか、戰爭や獨裁は惡事だと空念佛よろしく唱へてゐるだけでよいか。所詮駄目である。そんな氣休めに何の效驗もありはせぬ。教育の場合とてまつたく同樣であり、吾々は人間の強さや美しさのみならず、弱さや醜さをも見すゑなければならぬ。それゆゑ私は、きれい事づくめの教育論を一切信用しない。マツクス・ウエーバーが言つてゐるやうに、「心情倫理家」はおよそ斑氣で頼りにならないからである。「心情倫理家」は「この世の倫理的非合理性を辛抱」できないからだ。
すなはち、平和は「倫理」的によき事だと「心情」的に思つてゐるに過ぎないやうな手合は、いつ何時、「大日本帝國萬歳!」と叫び出さないとも限らない。さういふ手合は到底信用できない。戰時中、大方の日本人は「心情倫理家」であつた。ロベール・ギランによれば、大東亞戰爭は「國民全體の輕率さによつて惹き起され、繼續」したのだが、日本人はまた、いかにも「無造作に敗戰に適應し」たのである。ギランは書いてゐる。
七千五百萬の日本人は、最後の一人まで死ぬはずだつた。一介の職人に到るまで、日本人たちは自分たちは降伏するくらいなら切腹をすると言い、疑いもなくその言葉を自ら信じていた。ところが、涙を流すためにその顏を隱した日本が再びわれわれにその面を示したとき、日本は落着いて敗戰を迎えたのである。(中略)外國人に對する庶民たちの微笑。私が列車で東京に向うため輕井澤を去つた際、ごつた返す日本人の中でひとりの白人だつたにもかかわらず、私は意外にも身のまわりにいささかの敵意も感じなかつた。(中略)報道機關の微笑。すべての新聞が一擧に態度を豹變した。かつてフアシスト的で軍國主義的な新聞として知られたニツポン・タイムスは、一週間足らずのうちに民主主義、議會主義および國民の自由の代辯者に早變りした。(中略)最後に市井の人びとの微笑。(中略)日本中で進駐軍に對する發砲事件は一度も起らなかつたのである。(『日木人と戰爭』、根本長兵衞・天野恆雄譯)
いかにもさういふ事はあつたが、もはや三十數年も昔の事ではないか、と讀者は言ふかも知れぬ。しかし、三十年やそこらで國民性が變る筈は無い。例へば、福澤諭吉の『學問のすゝめ』以來、日本人は「實なき學問は先づ次にし、專ら勤むべきは人間普通日常に近き實學」とて、實用に役立つ事柄ばかり重んじて來たけれども、この國民性は今なほ少しも變つてゐない。その證據に、「防衞論ではあるまいし、ヒツトラーだのマツクス・ウエーバーだの、ロベール・ギランだのとは辛氣臭い。いい加減に切上げて、息子の勉強部屋にポルノを見出した時、娘の日記を讀んで衝撃を受けた時、吾々はいかに對處すべきか、そこへ話を戻したらどうか」と、さう思つてゐる讀者もあらう。これを要するに、依然として日本人は「實用に役立つ事柄」ばかり重視してゐるといふ事に他なるまい。
再び、その證據に、書店の書架に竝んでゐる教育書の題名だけでも眺めてゐるとよい、『家庭内暴力がわかる本』だの、『親は子に何を教へるべきか』だの、『親の不安をなくす教育論』だのと、讀めば「すぐに役立つ」かのやうに見せ掛けようと懸命になつてゐる類の書物が多い事に氣づくであらう。さういふ教育書を一册購入して讀んでみるとよい。「親の不安」なんぞ一向に無くならない事に氣附くであらう。なぜ不安が無くならないのか。さういふ實用書は、例外無しに、道徳の問題を素通りしてゐるからである。それゆゑ、ここで讀者に眞劒に考へて貰ひたい。吾々にとつて何より大事なのは道徳の問題ではないか。道徳が何より大事などと言はれると、人々はとかく往年の徳目教育を思ひ浮かべて拒絶反應をおこしがちだが、そしてそれが誤解であるゆゑんについて詳述する暇は無いが、道徳とは「忠君愛國」だの「親孝行」だのを一方的に押し附ける事ではない。道徳とは人倫すなはち「人と人との間柄」について、人と人との附合ひ方について考へ拔く事なのである。そして、いかな苦勞人とて、他人との附合ひ方に關して「すぐに役立つ」やうな忠告なんぞできる譯が無い。すなはち、人生の難問に單純明快な解決なんぞある譯が無い。例へば、一つ屋根の下で暮らす嫁と姑との反目に惱んでゐる男にとつて、「別居するのが一番」などといふ忠告が「明快な解決」になりうるか。別居すれば若夫婦は幸福になるかも知れぬ。けれども、老いた夫と二人きりか、或いは一人ぼつちになつた姑の淋しさのはうは一向に解決しない。そしてもとより、若夫婦もまた、いづれは必ず老夫婦になるのである。
要するに、教育論議の不毛は、當座の事ばかり重んずる國民性のせゐではないかと私は思ふ。吾々はとかく當座役立つ事ばかり考へる。ひところ子供の自殺が流行した事がある。果せるかな、『あなたの子供も危い』とか『子供の自殺を防ぐ法』とかいつた類の本が氾濫した。けれども、自殺の流行がすたれてしまへば、誰も本氣で考へない。そして、目下「當座の用」として人々が求めてゐるのは、校内暴力防止法なのである。さうして當座の問題にばかり一喜一憂する輕薄と、ギランが指摘してゐる敗戰後の「豹變」及び「適應」とはもとより同根であつて、吾々日本人は出た所勝負で何事も運任せ、それでゐて結構器用に「適應」するのだから、百年千年經つて一向に變らぬ道徳上の問題は、なほざりにして顧みないといふ事になる。自殺は無論道徳上の問題である。嫁と姑の反目と同樣、流行とは一切無關係の筈である。しかるに今、子供の自殺について書いても決して編輯者は喜ぶまい。賣れないからである。だが、自殺は永遠の問題ではないか。今も昔も、資本主義國においても社會主義國においても、人間にとつて「生存の理由が消滅するのを見ることは我慢ができない」筈ではないか。實用書を書き捲る物書きにしても、「すぐに役立つ」原稿を貰つたとて喜ぶ編輯者にしても、いづれ自殺したくなるほど思ひ詰めるといふ事にならぬでもないし、親や子供や親友が自殺したら、へらへら笑つてもをられまい。
しかも、道徳上の問題は決して深遠高邁なのではない。「すぐに役立つ」實用書ばかりを喜ぶ手合は、當然「解りやすさ」を重んじて、例へば小林秀雄氏の文章は難解だと言ふ。だが、小林氏は「單純明快な解決」など有りえないやうな問題と取組むのである。それゆゑ讀者に迎合しない。迎合しないから、百萬二百萬と賣れるベストセラーなんぞ書ける筈が無いし、また書く積りも無い。それゆゑ漢字を多用するし、正字舊假名を墨守する。「墨守」などといふ言葉は避けて、當用漢字の中から選ばうなどとは考へない。必然的に字面は黒くなる。劇畫やスポーツ新聞しか讀まぬ手合が、どうして黒い字面の書物を喜ぶであらうか。
「上知と下愚とは移らず」といふ。そのとほりだが、運動をしなければ身體が鈍るやうに、粥ばかり食べてゐれば胃も腸も弱るやうに、解りやすい書物ばかり讀んでゐれば、頭だつて鈍くなる道理だし、讀者に媚びる書物ばかり讀んでゐれば、廷臣共のおべんちやらを喜ぶ王樣のやうに、惰弱な骨無しになつてしまふ。さういふ薄志弱行の徒に、どうして人生の難關を切拔ける事ができようか。
けれども、今し方言ひ止した事だが、道徳上の問題は、例へば嫁と姑との反目のやうに、た易く解決できないものではあつても、必ずしも深遠高邁ではないのであつて、吾々が常日頃直面する頗る卑近な問題なのである。「エコノミツク・アニマル」と稱せられる日本人は、目下のところ經濟ばかりを重視してゐるが、經濟學者も、大會社の社長も、小説家や八百屋と同樣、女の色香に迷ふ事がある。妾を圍ふ事もある。妾を圍つてゐる社長が、息子の勉強部屋にポルノ雜誌を見出す事もある。その時はどうするか。札束で解決するのか。聖人君子ではなし、私は金銭を汚がる譯では決してないが、きれい事の説教で解決できないのと同樣、これは金銭で片附く問題ではない。先頃パリでオランダ娘を殺し、その肉を食べた、かの日本人留學生も、懷が寒かつた譯ではない。彼は一流企業の社長の息子で、貧乏神も寄り付かなかつたのである。
要するに、教育について考へるといふ事は、卑近な問題について深く考へるといふ事なのである。「深遠」つまり深くて遠い事柄ではなく、「卑近」つまり身近な事柄について、ただし深く考へる、さういふ事でなければならない。そして深く考へる物書きが、讀者に迎合して稼ぎ捲る事を潔しとする筈が無い。宇能鴻一郎氏や富島健夫氏の小説は頗る解り易い。兩氏の好色小説に較べたら、幸田露伴は言はずもがな、夏目漱石の小説だつてずゐぶんと難解であらう。が、まさか、宇能氏や富島氏が漱石よりも深く考へてゐる、などと正氣で言切る者はゐまい。漱石は道徳上の問題を一所懸命に考へたのだが、その一所懸命を今や若者も大人も見習はうとはしない。難局に直面すれば誰しも一所懸命になる筈だが、何せ日本は今經濟大國であつて、大概の問題は金で片附く、或いは少くとも片附くと思はれてゐる。字面の白つぽいポルノ小説だの、一所懸命書いてゐないから誤字だらけで、しかも惡文のルポルタージユや實用書がはびこるゆゑんである。かくて一所懸命とは當節、「骨折り損のくたびれ儲け」といふ事でしかない。
「閑話休題」といふ言葉がある。「無駄話はさておいて」といふ意味で、話を元へ戻す際に用ゐられる決り文句である。私もこの邊で「話を元へ戻」さなければならないが、以上縷々述べた事は決して閑話ではない。「道徳上の問題を一所懸命に考へ」る事を無駄事と心得てゐるから、すぐには役立たぬ迂遠な事、すなはち遠囘りのやうに考へてゐるから、大方の教育論議は現象論に終始して、却つて何の役にも立たぬがらくたが山と積まれる事になるのである。
さて、おのれも結構好色であつても、教室でポルノ雜誌を眺めてゐる生徒を教師は本氣で叱らなければならない、と私は書いた。つまり、教師は時におのれを棚上げせねばならぬ、おのが好色を棚に上げて生徒を咎めなければならないといふ事である。「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」と孔子は言つたが、教師たる者は「己の欲する所」を生徒に「施すべからず」といふ事になる。それは身勝手ではないか、僞善ではないか。そのとほり、僞善である。が、當節教師が何より必要としてゐるものは僞善に他ならない。そして、もとより僞善とは道徳に關はる概念だが、凡百の教育書は、書物自體が僞善的ではあつても、決して積極的に僞善をすすめてはゐない。教育論議が道徳の問題を素通りしてゐると斷ずるゆゑんである。
では、なぜ教師は僞善を必要とするのか。ここで讀者は、飼猫が壺を毀したのに濡衣を着せられた少年の話を思ひ出せばよい。少年が衝撃を受けたのは「完全無缺だと思ひ込んでゐた父親も不完全だつた」と知つたためである。そして、その種の衝撃を受ける時期が早ければ早いほどよいとは言へぬ。數年前、父親が凶惡犯で母親は賣春婦といふ六歳の子供が、警察に保護された事がある。その子は警官に「おいらヤクが切れちやつた」とか言つたといふ。
無論、子供は衝撃を受けた事を切掛けにして自立心を養ふやうになるのだから、偶像崇拝から脱する時期をむやみに先へ延ばせばよいといふ事ではない。けれども、子供が偶像を欲してゐるのなら、仰ぎ見る尊敬の對象を求めてゐるのなら、教師はその願ひを叶へてやるべきではないか。子供の「欲する所」を子供に「施す」べきではないか。「のびのび教育」だの「思ひやりの教育」だのと當節は甘い言葉ばかりはびこつてゐるが、教師がおのれを棚上げする僞善に耐へ、子供に尊敬されるやうにならうと努力する事こそ、「思ひやりの教育」ではないか。そして、木石ならぬ教師が生徒の色好みをきつく窘めるのは確かに僞善だが、その僞善は生徒のためであるのみならず、結局は教師自身のためになるのである。僞善的に振舞つて一目置かれるやうでなければ、教師は教場の秩序さへ保てない、などといふ事が私は言ひたいのではない。そんな處世術は教師なら誰でも知つてゐる、取り立てて言ふに價しない。近頃校内暴力が流行して、「教師は何をしてゐる、もつと權威をもつて臨め」などと氣安く主張する向きもあるが、「權威をもつて臨」んだはうがよいぐらゐの事は、教師も先刻承知してゐる。問題は、封建時代と異り、年長者が權威をもつて臨みにくいといふ事實である。
けれども誤解しないで貰ひたい、教師が權威を保つための「すぐに役立つ」處世術の祕訣を、私は傳授しようと思つてゐるのではない。人間の容貌が千差萬別であるごとく、人間の性格も樣々であつて、ゴミタメに捨てるしかないやうな教師もゐるし、度し難い生徒もゐる。「人を見て法を説け」といふし、「豚に眞珠」ともいふ。教育に關しても「萬病に利く特效藥」なんぞ存在する譯が無い。
ところで、教師の僞善が教師自身のためとはどういふ事か。教室でポルノ雜誌を讀んでゐる生徒を、教師がきつく叱つたとする。ところが、その教師が遲刻缺勤の常習犯で、平生、情熱の無い授業をしてゐたらどうなるか。「君、君たらずといへども、臣、臣たらざるべからず」、すなはち、君主がぐうたらであつても、家來は忠節を盡くさねばならぬと、さういふ事が信じられてゐた時代もある。が、今はそのやうな良き時代ではない。平生ぐうたらな教師が叱つても、生徒は決して從ふまい。一度や二度なら澁々從ふかも知れないが、度重なれば徒黨を組んで教師を難ずるやうにならう。それゆゑ、尊敬の對象を求めてゐる生徒の欲求を滿たすためには、教師は自分自身に對して嚴しくあらねばならない。常日頃、生徒に尊敬されるやう努力しなければならない。それは生徒に「愛されるやう」努力する事ではない。生徒に迎合して愛されようと思つてゐる教師が、昨今はやたらに多いのだから、「愛される教師たれ」などと私は斷じて言ひたくない。
とまれ、さういふ次第で、僞善に耐へようとする事は生徒を利するばかりでなく、教師自身をも利するのである。おのれを體裁よく見せかけようとするだけの消極的な弱き僞善は、實はおのれを利する事にもならないが、生徒のためを思つての積極的な強き僞善は、教師自身にも努力を強ひるのであり、それは教師を利するのである。
教師は僞善に耐へねばならず、そのためには教へる事に情熱を持たなければならぬ。教師が情熱を持つてゐるかどうかは、所謂「落ちこぼれ」の子供にも解るのである。そして、情熱的な教師が本氣で叱つた場合、生徒は決して教師の僞善を咎めはしない。本氣で叱る情熱の見事に壓倒されて、教師の不完全には決して思ひ至らない。子供は尊敬の對象を求めてゐる。尊敬してゐる教師の缺點を知りたくないといふ氣持もある。それゆゑ、傾倒する教師が時に過つ事があつたとしても、クラス全體が教師を侮るなどといふ事は斷じて無い。山川均は『ある凡人の記録』に、同志社の教師だつた頃の柏木義圓についてかう書いてゐる。
私が一生涯に聞いた人間の言葉のなかで、柏木先生のほどトツ辯なのもないが、またそれほど熱誠のあふれたのもなかつた。聖書の講義のときの柏木先生のお祈りは、心から天の父に求める赤子の聲だつた。先生は、ハナ水が、開いた聖書の上に流れてゐるのにも氣づかずに祈りつづけてゐることが、しばしばだつた。私たちのクラスには、柏木先生よりも代數のよくできるのが一人ゐた。しかし、そのために先生にたいするクラスの尊敬は少しも變らなかつた。私は同志社を退學するとほんの少しのあひだ、山本と二人で、柏木先生の家庭でお世話になつてゐたが、先生夫妻の日常生活を見て、なるほどこれが聖徒の生活だなと思つた。私はそれまでも、またそれからも、貧しい人や貧しい家庭をいくらも見た。そして心から氣の毒に思つた。しかし柏木先生夫妻の貧しい生活には、氣の毒なと思はせられたり、同情やあはれみに似た感じをおこさせるやうなものは、少しもなかつた。この生活の苦しみからぬけ出さうとする焦躁のやうなものの、影さへもなかつた。私はほんたうの「清貧」といふものを、まのあたりに見たやうな感じがした。毎朝のミソ汁の中には、近くの小川の堤に生えてゐる小指くらゐのシノ竹のタケノコや、裏庭に自然に生えたタウの立つた三ツ葉が浮いてゐた。しかし私はそれをまづいとは思はず、イニスが割いてくれたパンを食べる敬けんな氣持で食べた。
長い引用を敢へてしたのは、この山川均の文章が、教育について樣々な事柄を教へてくれるからである。まづ、「柏木先生よりも代數のよくできる」生徒がゐたにも拘らず、「先生にたいするクラスの尊敬は少しも變らなかつた」。それはつまり、義圓の情熱に生徒たちが壓倒されてゐたからに他ならない。代數の問題がうまく解けず、黒板を睨んで義圓先生は脂汗を流したかも知れないが、そんな時でも、生徒ははらはらして見守つてゐたに違ひ無い。代數の苦手な「落ちこぼれ」にも、義圓の情熱はひしひしと胸に應へたであらう。訥辯は教師にとつては不利な條件だが、義圓の場合、「熱誠のあふれた」授業だつたから生徒は悉く心服したのである。
次に考へるべきは、義圓の情熱が「心から天の父に求める赤子」としてのそれだつたといふ事である。義圓には仰ぎ見る「天の父」に對する篤い信仰があつた。これが肝腎なところだ。つまり、教師自身にも仰ぎ見るものが、尊敬の對象が必要なのである。尊敬の對象とは努力目標に他ならない。日本國は目下のところ「モラトリアム國家」だから、國家としての目標も定かではない。けれども、努力目標無くして人間はどうして努力するであらうか。
教師としての義圓について、もう一つ考へさせられる事がある。それは彼の「清貧」である。勿論、教師は清貧に甘んずべしなどといふ事が、私は言ひたいのではない。今時、そんな事がやれる筈は無いし、敢へてやつたなら、狂人か馬鹿か吝嗇坊と見做されるのが落ちであらう。けれども、現在の「生活の苦しみからぬけ出さうとする焦躁のやうなもの」を少しも感じさせない悠揚迫らざる生活ぶりを、讀者は見事だとは思はないか。「部長は俺の才能を認めてくれない」とか、「社長のやり方は非民主的だ」とか、さういふ類の愚癡を、サラリーマンは酒場でこぼす。教師も同じ事、不見識な奴は生徒の目の前で同僚の惡口を言ふ。讀者とて多少は身に覺えがあると思ふ。けれども、自分には到底義圓の眞似はできないと思つた讀者も、義圓のやうな見事な男がかつて存在したといふ事實を知つて、まさか不愉快にはなるまい。いや、義圓の眞似はできないが、眞似できたらすばらしからう、と思ふに相違無い。それでよいのである。それが大事なのである。 
イギリスの詩人T・S・エリオツトは『カクテル・パーテイー』といふ見事な芝居を書いてゐるが、その劇でエリオツトの言はうとした事は、「僞者としての自覺を持つて生きよ。それもまた良き人生なのだ」といふ事であつた。僞者として生きる事がなぜ良き人生なのか。自分は所詮僞者でしかないとの自覺は、この世には本物がゐるといふ事實、或いはゐたといふ事實を知つてゐる者だけが持ちうる筈であり、それなら僞者たる事を自覺する事は、本物の存在を證す事になる、それは良き事ではないか。たとへ義圓のやうに生きる事はできなくても、義圓の眞似ができたら素晴らしからうと思ふ、それは良き事ではないか。義圓に肖りたいと思ふ時、吾々は背伸びをする。背伸びしてもなほ及ばぬと知れば、おのが怠惰と不徳を恥ぢるに相違無い。日本の文化は「罪の文化」ではなく「恥の文化」だとよく言はれるが、昨今はそれも頗る怪しくなつた。何しろ人品骨柄卑しからざる紳士が、電車の中で卑猥な劇畫週刊誌を眺め、一向に恥ぢない時代である。卑猥な春畫春本、笑ひ繪笑ひ本の類を眺める事自體に何の不都合も無いが、眺めて發情するおのが姿をなぜ人前に晒すのか。日本人から「恥の文化」を取り去つたら何が殘るであらう。知れた事、恥の何たるかを知らぬ畜生が殘る。畜生に堕ちても氣樂なはうがよいとは、讀者はまさか言はないであらう。
「狂人の眞似とて大路を走らば、則ち狂人なり。惡人の眞似とて人を殺さば、惡人なり。驥を學ぶは驥の類ひ、舜を學ぶは舜の徒なり。僞りても賢を學ばんを、賢といふべし」と『徒然草』第八十五段にある。至言である。吾々は「僞りても賢を學ばん」と努めねばならぬ。すなはち、吾々には肖りたいと思ふ「賢」が無くてはならず、肖らんとして及ばず、おのが不徳を恥ぢる事が必要なのである。そして恥を知る者は必ずおのが弱點を隱す。「どうせ俺はろくでなしさ」などと嘯く奴はろくでなしに決つてゐる。おのが劣情を隱さぬ奴は恥知らずに決つてゐる。さういふ手合は背伸びする事を斷念して氣樂になつた度し難き怠け者なのである。けれども、今は道義的怠惰の時代であつて、人々は他人の怠惰を許しておのが怠惰の目溢しを願ふ。背伸びをするのは辛い事だ、お互ひに無理はやめ、氣安く弱點を晒け出し、のんびり生きたらよいではないか、さういふ事になつてゐる。教師の場合も、尊敬される教師たるべく僞善に耐へようとするのは辛い事だから、上下を脱ぎ、おのが弱點を隱さず、生徒の喜ぶ事をやつてやればよい、さう考へて考へたとほりの事を實踐する奴もゐる。
以前、『週刊朝日』で讀んだ事だが、東京に立教女學院短期大學といふ學校があり、そこに村上泰治といふ教授がゐるさうである。村上教授は毎週金曜日、「愛と性のゼミ」と稱する授業をやつてゐる。すなはち、教授は女子學生に對して「ペツテイングは必要か」とか「皆さんはどういふ時に性欲を感じますか」とか質問する。そして、「私つてをかしいんです。この前、犯された夢を見て」云々と女子學生が告白すると、「男の場合はね、人爲的でありまして、夢精なんてのもあります」などと得意げに解説してやるのださうである。小中學校の教師と異り、大學の教師は免許状を必要としないし、採用試驗も無い。それゆゑ、時に途方もない山師が潛り込む。村上教授の場合がそれではないかと思ふ。言語道斷の愚にもつかぬ授業を樂しんでゐる村上教授は、およそ教師の風上におけぬ月給泥棒だが、さういふ山師の授業に、「十六人の定員のところ、百人以上が殺到する」立教女學院短期大學とは、これはさて何と評すべきか。往事、娼婦の置き屋でも、さまで淫靡な猥談は聞けなかつたであらう。
村上教授は『週刊朝日』の記者に教育觀を問はれ、教室では「緊張や隱しだてなく話ができることが大切」だと語つてゐる。「盜人にも三分の理あり」とはこの事だ。とんでもない事である。村上教授は女子學生に迎合し、共々恥を捨て、互ひに許し合ふ事によつて氣樂な商賣をやつてゐるに過ぎない。「緊張」や「隱し立て」はともに教師にとつての美徳なのである。暴力を揮ふ事と性行爲を樂しむ事は馬鹿にもできる。馬鹿にもできる事を「緊張」も「隱し立て」もせずに喋る教授の馬鹿話を樂しみ、それで單位が取れ、學士になれるのだから、「十六人の定員のところ、百人以上が殺到」する事に不思議は無い。けれども、村上教授の授業を一年間聴講しても、馬鹿はやつぱり元通りの馬鹿であらう。「上智と下愚は移らず」、死ななければ治らない馬鹿も確かにゐるだらうが、「緊張」せずして氣樂にしてゐたら、馬鹿はいつまで經つても馬鹿ではないか。
無論、人間は常に緊張してゐる譯にはゆかぬ。時に氣樂になり、羽目を外す事も必要である。けれども、それも時と場合によりけりであつて、教師は生徒の面前では「緊張」してゐなければならない。緊張してこちこちになれと言ふのではない。時に冗談を言ひ生徒を笑はせる事も必要である。が、生徒の劣情を刺戟したり、おのが弱點を晒したりしてはならぬ。教場で私事を語り、生徒に親しみを感じさせようなどと考へてはならぬ。薄給を嘆いたり、若かりし頃の過ちについて語つたりするがごときは言語道斷である。教師はおのが缺點を隱し、僞善に耐へ、本氣で生徒を叱り、私事を語らずして、おのれが肖りたいと思つてゐる偉大な人物について、熱心に語るべきである。例へば、先に引いた山川均の文章を生徒に讀んで聞かせるがよい。以後、教師はぐうたらな授業をやれなくなる。斷じてやれなくなる。そしてそれは、生徒にとつてと同樣、教師にとつても良き事ではないか。
さて、ここでなほ、色氣づいた息子や娘に親はいかに對處すべきかと、讀者は問ふであらうか。教師と親とは勿論違ふ。子供にとつて教師は所詮他人だが、親は血を分けた間柄である。これを要するに、親は教師と異り、子供との距離を保ち難いといふ事だ。それに、教師は高々數年間、特定の年齢の子供を扱ふだけでよいが、親は赤子の時から成年に達するまで、いや、どちらか一方が死ぬ時まで附合はねばならぬ。それゆゑ、子供の成長に應じて、附合ひ方は當然變へてゆかねばならぬ。
家庭教育についてここでは詳しく論じない。が、學校教育も家庭教育も本質的には同じ事なのである。教師について縷々述べた事は、そのまま親にも當て嵌る。親もまた隱さねばならず、情熱を持たねばならず、僞善に耐へねばならず、肖りたいと思ふ人物を持たねばならぬ。たとへおのれに至らぬ所は多々あつても、さうして「僞りても賢を學ばん」と努め、一所懸命に生きてゐるならば、息子や娘が色氣づいたくらゐの事で、慌てるには及ばない。放つておけばよい。親が一所懸命生きてゐるなら、子供は必ずそれを見習ふ筈である。例へば、倒産を食ひ止めようと日夜惡戰苦鬪してゐる父親を見てゐたら、父親が子供にかまけず、眼中に置かぬとしても、決して非行になんぞ走りはしない。
以上、頗る卑近な事柄について私は考へて來た積りである。道徳とは頗る卑近な事柄なのであつて、「道は近きにあり」と孟子も言つてゐる。けれども卑近な事柄ではあつても、氣樂にしてゐて片のつく事柄ではない。「事は易きにあり」とは言へない。しかるに屡々述べたごとく、易きにつくのが人の常とは言ひながら、吾々は今やあまりにも怠惰に堕してゐる。教育についても、人々は安くて甘い特效藥ばかりを求めるのである。だが、「安からう惡からう」といふ事があり、「樂あれば苦あり」といふ事があり、「良藥口に苦し」といふ事もある。教育とは詮ずるところ道徳の問題に他ならないが、道徳的に振舞ふのは難き事なのだから、道徳について考へる事もまた難事であつて不思議は無い。
教育に限らず、この世の人間の營みについて、卑近な事柄について、吾々は深く考へねばならぬ。一見迂遠のやうに見えてそれこそは、難局に臨んだ際、何よりも物を言ふのである。國家も個人もいづれは必ず難局に差し掛かる。そして「難に臨んで兵を鑄る」のは愚かしい事だ。金儲けの才に惠まれ、順風に帆をあげ得意滿面、道化て世を渡つたとしても、吾々はいづれ必ず死ぬのである。それも例へば老衰のやうに、安樂に死ねるとは限らない。往生際に吾々は、「苦しい、死にたくない」と叫び、家族や友人を困惑させ、見苦しい惡足掻きの果てに死ぬのであらうか。それとも最後まで他人への思ひやりを捨てず、從容として死ぬのであらうか。
永井荷風の傳へるところによれば、荷風が病床の森鴎外を見舞つた時、鴎外は死の床に横たはり、袴を穿き、兩腰にぴつたり兩手を宛ひ、雷のごとき鼾をかいてゐて、枕頭には天皇皇后兩陛下からの賜り物が置いてあつたといふ。「一センチほどの綿ボコリ」の積つた六畳間の萬年床で、鍋、茶碗、庖丁、七輪などに取り圍まれ、ただ一人血を吐いて死んでゐた荷風とはまさに對照的だが、鴎外は幼少の頃から、「侍の家に生れたのだから、切腹といふことができなくてはならない」と常々言ひ聞かされて育つたのである。鴎外が大正二年に書いた『阿部一族』にかういふくだりがある。主君の跡を追つて殉死する決心をした内藤長十郎は、家族と最後の杯を取り交してから、少し晝寢をするのだが、そこのところを鴎外はかう書いてゐる。
かう云つて長十郎は起つて居間に這入つたが、すぐに部屋の眞ん中に轉がつて、鼾をかき出した。女房が跡からそつと這入つて枕を出して當てさせた時、長十郎は「ううん」とうなつて寢返りをした丈で、又鼾をかき續けてゐる。女房はぢつと夫の顏を見てゐたが、忽ち慌てたやうに起つて部屋へ往つた。泣いてはならぬと思つたのである。
家はひつそりとしてゐる。(中略)母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、ぢつと物を思つてゐる。主人は居間で鼾をかいて寢てゐゐ。開け放つてある居間の窓には、下に風鈴を附けた吊葱が吊つてある。その風鈴が折々思ひ出したやうに微かに鳴る。その下には丈の高い石の頂を掘り窪めた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まつて、羽を山形に垂れて動かずにゐる。
見事な文章である。かういふ假定は馬鹿らしき限りであり、鴎外を冒涜する樣なものだとさへ思ふが、右の文章を例へば宇能鴻一郎氏の文體で書いたら一體どういふ事になるか。もうこの邊で終りにしたいから、詳しい説明はしないが、鴎外は殉死を闇雲に禮讃してゐるのではない。けれども一方、『阿部一族』における鴎外は殉死の不合理を批判してゐるなど主張するのもつまらぬ解釋だと思ふ。鴎外は背伸びをしてゐるのだ、内藤長十郎に肖らうとしてゐるのだ。それゆゑ鴎外は決して文章を等閑にしなかつた。そしてそれは、人生を等閑にしなかつたといふ事に他ならない。 
2 まづ徳育の可能を疑ふべし

 

日本人は「和を以て貴しと爲す」民族だとよく言はれる。が、それは昔の事で、今は「馴合ひを以て貴しと爲す」民族だと私は思つてゐる。吾々は互ひに許し合ひ、徹底的に他人を批判するといふ事をしない。許すとは緩くする事だが、他人に緩くして、おのれも緩くして貰ひたがるのである。
今や吾國は許しつ許されつの弱者の天國である。「すみません」の一言で、既往は咎めず、一切は水に流される。それゆゑ、ぐうたらを憎む者は必ず嫌はれる。必ずしも憎まれはしないが必ず嫌はれる。そして憎まれないのに憎むのは、憎まれて憎む以上の難事である。かくて「顏あかめ怒りしことが、あくる日は、さほどにもなきをさびしがるかな」といふ事になる。これは石川啄木の歌である。啄木はまたかう歌つてゐる、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ來て、妻としたしむ」。何ともやり切れないほど慘めな歌である。友がみな偉く見えるのなら、友を蹴落してでも偉くなつてやらうと考へたらよい。けれども、かういふ事を書けば皆に嫌はれる。嫌はれたくないのなら、啄木の如くわが身をあはれがり、妻を愛撫して寂寥を慰める歌を詠むに如くはない。徹底的に憎む事も憎まれる事もなく、何事も許し合ふ微温湯さながらの社會では、自分で自分をあはれむこの種の腑甲斐無い歌ばかりがやたらに流行るのである。
日本は許しつ許されつの愚者の樂園である。それゆゑ私は「世代の斷絶」といふ事をそのままには信じない。今や日本人は道義心を失ひ、何を善とし何を惡とするかの基準はもはや定かでなく、そのため「あれをしてはいけない、これはしてはいけない」といふやうな事を、親や教師は子供に言へなくなつたといふ。親にとつて自明の常識も今の子供にはまるで通用せず、ために親も教師も大いに困惑してゐるといふ。だが、實際は親も教師も口で言ふほどは困つてゐない、私にはさうとしか思へぬ。今、大人と子供の間に斷絶があるのなら、昔もそれはあつたのだし、昔それが無かつたのなら、今も無いのである。「和を以て貴しと爲す」のは日本人の度し難い本性で、敗戰くらゐの事でそれが變る筈は無い。それゆゑ何事も「ドライに割切る」といふ當節の子供もまた、許し合ひの快を知つてをり、親や教師から「あれはしてはいけない、これはしてはいけない」と言はれても、なぜそれをしてはいけないのかと執拗に食ひ下り、大人を理責めにするといふやうな不粹な事をやる筈が無い。この許し合ひの天國では、物事の善惡を突きつめて考へる必要など少しも無いからである。
日本人には罪惡の問題を識別する能力が「缺けているか、でなければ幼稚」であり、また「この難問題を解くことにある程度の氣のりなさを示している」とかつてジヨージ・サムソンは言つた(『日本文化史』福井利吉郎譯)。イギリス人からすれば日本人は「氣のり」しないやうに見えるのだらうが、日本人からすれば、善惡を突きつめて考へ、倫理的難問と惡戰苦鬪して、間缺的に殺し合ひまでやらかす西洋人は馬鹿か狂人に見える。資源さへ充分にあれば一刻も早く再び鎖國して、和よりも正義を尊ぶ愚かな狂人との附合ひをやめたはうがよい、私もさう思はぬではない。が、もとよりそれは出來ない相談である。とすれば、西洋人の愚昧と狂氣を嗤つてもゐられない。
しかるに、日本の大方の教育論は、倫理的難問と惡戰苦鬪する事が無い。かつて『中央公論』に書いた通り、苦しげな事を言ふ時も教育評論家は決して本氣ではない。それは教育論の文章が裏切り示してゐる。つまり大方の教育家は人間が矛盾の塊りである事を本氣で氣に懸けない。彼等が安つぽい僞善者なのは、してみれば當然の事である。彼等は「絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行する」。これはギユスタヴ・テイボンの言葉だが、T・S・エリオツトは教育論の第二章を閉ぢるにあたつて、シモーヌ・ウエーユを論じたテイボンの文章を引いてゐる。それを以下に孫引きする事にする。
絶對的な善を追求する精神は、この現世では、解決の無い矛盾に直面する。「吾々の人生は不可解であり、不條理なのだ。吾々が意志するすべての事柄は、状況やそれに附隨する結果と矛盾する。それは吾々自身が矛盾せる存在、すなはち被造物に過ぎないからである」。例へば子供を多く産めば人口過剩と戰爭を招來する(その典型的な例が日本である)。人々の物質的條件を改善すれば、精神的退廢を覺悟しなければならない。誰かに心底打ち込めば、その誰かに對して生存するのをやめる事になる。矛盾が無いのは想像上の善だけである。子供をたくさん産みたいと考へる娘、民衆の幸福を夢みる社會改良家、さういふ人たちは實際に行動を起さぬ限り何の障害にも出交さない。彼等は絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行するのである。現實にぶつかる事、それが覺醒の第一歩なのだ。
誰か他人に心底打ち込んで、おのれのエゴイズムを根絶した積りでも、必ずしもそれは他人のために生きる事にはならないのである。例へば男が女を激しく愛するやうになつたとして、男はいかやうの自己犧牲をも厭はぬやうになるか。何事も女の言ひなりになるか。そして、何事も女の言ひなりになつたとして、さういふ男に女はいつまでも魅せられるか。さらにまた、かういふ事もある。女が或る男に夢中になれば、女は當然男の時間と心と肉體を專有したいと考へる。その場合、男が自我持たぬ腰拔けならば問題は無い。けれども通常、女が男のすべてを獨り占めしようとすれば、そして獨り占めできぬ事に苛立つならば、その時女は男のために生きてはゐない譯であつて、男も當然その事に苛立つやうになるに違ひ無い。
昨年、東京世田谷區の高校生が祖母を殺して自殺した。が、彼は犯行の動機や計畫を克明に記したノートを殘してゐる。それにはかう書いてあつた。「祖母の醜さは私への異常に強い愛情から來ている。私の精神的獨立を妨害し、自分の支配下に置こうとする。祖母は私のカゼ藥の飮み具合を錠劑を數えてチエツクする。夜食、いちいち運んで來るのが耐えられない。眠つてからフトンがずれていないかのぞきにくる。私が怒つたとき、祖母はうす笑いを浮かべ“あなたのためを思つて”という言葉を武器にする。このままでは進學、就職、結婚すべてが祖母に引きずられてしまうのではないか」。
くだくだしい解説は要るまい。祖母は孫を一心不亂に愛してゐたのだらうが、それは孫の「ためを思つて」生きた事にはならなかつたのである。孫に對する「異常に強い愛情」は孫を「自分の支配下に置こうとする」エゴイズムであり、一方、孫はおのれのエゴイズムを棚上げしてその醜さを憎んだ譯である。それはまさしく地獄の體驗だつたに違ひ無い。そして私にはそれは餘所事とは思へない。同じ状況に置かれれば、十六歳の私は同じやうに行動したかも知れないと思ふ。
ところで、この十六歳で愛憎の地獄を體驗した高校生は大衆の愚昧に苛立ち、自分の犯行は「大衆のエリート批判に對するエリートからの報復攻撃」だと書いてゐる。十六歳にふさはしい粗雜な論理ではあるが、要するに彼は「人を殺してなぜ惡いか」と開き直つてゐるのである。そして「人を殺してなぜ惡いか」といふ問ひは、最大の倫理的難問であつて、古來偉大な思想家は必ず一度はこの難問と苦鬪した。拙文の讀者の中には教師もゐようが、祖母を殺す前日、生徒がこの問ひを突き附けて來たら教師はどうしたらよいか。もとより頭の惡い子供も人を殺す。さういふ子供は見捨てたらよい。が、頭のよい子供に「人を殺してなぜ惡い」と反問されて「殺人は惡だ、解り切つた事ではないか」としか答へられぬとすれば、さういふ教師は立派な教師ではない。殺人が惡だといふ事は、決して解り切つた事ではない。自明の理ではない。そして立派な教師とは、まづ何よりも世間が自明の理と考へてゐるものを徹底的に疑つた事のある教師だと、私は思つてゐるのである。
例へば、教育を論じて人々は教育の有用を自明の理と考へてゐるであらう。自明の理と考へて、それを疑つてみた事が無いであらう。無論、てにをはや掛け算は教へられ、それは確實に有用である。けれども、徳は教へられるのか。徳目を教へれば、教へられた生徒は人を殺すのをやめるのか。さういふ事を教育論の筆者も教師も少しも考へてゐないではないか。英語の教師なら分詞や動名詞の用法を教へられるであらう。が、「人を殺してなぜ惡い」と少年に開き直られたら、英語の教師は一體何と答へたらよいのか。殺人を惡とする常識を否定する小惡魔に、「殺人は惡だ、そんな事は解り切つてゐる」としか答へられぬやうな常識的な教師がどうして太刀打ちできようか。綺麗事を竝べ立て、小惡魔に嘲弄されるが落ちである。けれども、眞の教師なら、殺人を惡と言ひ切れぬゆゑんを説いて、小惡魔を壓倒する事ができる。「人を殺してなぜ惡い」と非行少年に開き直られたら、安手の道義論では到底齒が立たない。その場合はまづ「殺人必ずしも惡ならず」と答へねばならぬ。が、さう答へられる教師は殆どゐないであらう。なぜなら、さう答へるためには、殺人を惡とする常識を徹底的に疑つた體驗が無ければならないが、僞善と感傷の教育論ばかりが氾濫し、善惡といふ事を徹底して考へぬこの許し合ひの樂園では、教師や物書きがさういふ體驗をする事はまづ無いからである。けれども、ほんの一寸疑つてみればよい、殺人を惡とする常識は實に呆氣無く覆る。人を殺す事は惡いか。惡い。では、惡い人を殺す事も惡いか。それも同じく惡いと言ふのなら、死刑は廢止しなければならぬ。そればかりではない、例へば毛澤東は、モスクワ發表によれば二千五百萬人を肅清したといふ。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人であつて、一九四九年の共産黨政權樹立後、一九五四年初頭までに八十萬人を肅清したといふ事になつてゐる。八十萬人で結構である。八十萬人を殺す事は惡い事なのか。毛澤東が肅清したのはすべて惡い人々だつたのである。正確に言へば、毛澤東によつて惡いと判定された人々だつたのである。そして、その八十萬のすべてが本當に惡い人だつたかどうかを、神ならぬ身の誰が知らうか。
けれども、今はこの問題に深入りしない。深入りしてほしいと思ふ讀者がゐる事を私は信じてゐるが、これはここで深入りできぬ程重大な問題なのである。いづれ私は「戰爭論」を書くつもりなので、そこで徹底的に論じようと思つてゐる。とまれ、それは例へばドストエフスキーが徹底的に考へた問題だが、日頃からさういふ事を考へて考へあぐねてゐる教師なら、「人を殺してなぜ惡い」と生徒に開き直られたくらゐで驚きはしない。教師は生徒の知能に應じ見捨ててもよいし、見捨てずして共に人を殺す事についてとくと考へるもよい。祖母を殺した少年はドストエフスキーを讀んだ事が無かつたらしいが、彼がもし『罪と罰』を讀んだならば、十九世紀のロシアに大天才がゐて、自分と同じやうな(實は兩者の懸隔は甚だしいが)苦しみに耐へる作中人物を創造した事を知つた筈である。そして、自分を救はうと惡戰苦鬪した人間だけが他人を救へるのかも知れず、ドストエフスキーは或いは少年を救へたかも知れない、と私は思ふ。
勿論、人を殺してなぜ惡いといふ問題にドストエフスキーが決定的な解答を與へてゐる譯ではない。けれども、大天才も苦しんだと知れば、少年は少々氣が樂になつたかも知れぬ。さうして少々氣が樂になつたところで、教師は例へば次のやうな文章を少年に讀ませる事ができよう。
幸福は、われわれが何かをしないことにかかつてゐる。ところがそれは、われわれがいつ何時でもやりかねない事であつて、しかも、なぜそれをしてはならぬのか、その理由はよく解らない事が多いのだ。(中略)例へば、粉屋の三番目の息子が妖精に向つてかう聞くとする──「何だつて妖精の宮殿で逆立ちしてはいけないのですか。その理由を説明して下さい」。すると妖精はこの要請に答へて、まことに正當にかう言ふだらう。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜ妖精の宮殿がここにあるのか、その理由を説明して貰はう」。或いはシンデレラが聞いたとする──「どうして私は舞踏會を十二時に出なければならないのですか」。魔法使ひは答へる筈だ──「どうしてお前は十二時までそこにゐるのだい」。
これはG・K・チエスタトンの文章なのだが、「なぜ人を殺してはいけないのか」と少年に問はれたら、チエスタトンの妖精なら何と答へるだらうか。教師はそれを少年に考へさせたらよい。勿論、妖精はかう答へる筈だ。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜお前がこの世にゐるのか、その理由を説明して貰はうか」。つまり、教師は少年にかう語つたらよいのである。人間の幸福は何かをしない事にかかつてゐる。が、お前は祖母を殺したいと言ふ。それなら「なぜ殺していけないのか」などと言はず、今夜にも殺したらよい。けれども、殺すための理由をどうしても必要とするのなら、殺すのは少し先に延ばして、なぜ人を殺してはいけないのかといふ事について徹底的に考へてみたらどうか。さうすれば、チエスタトンの言ふ通り、この世には殺していけない理由に限らず、よく解らない事がたくさんあるといふ事が解るだらう。例へば、なにゆゑに或いは何の爲に自分はこの世にゐるのかと、お前はさういふ事も解つてゐないではないか。
けれども、さういふ問答によつて教師が生徒を救へるなどと私は言つてゐるのではない。死ななければ癒らないやうな馬鹿はゐるし、それに何より、人間に果して人間が救へるものか、それが甚だ疑はしいからである。サマセツト・モームに『雨』といふ短篇がある。あばずれ娼婦を改悛させようとして、改悛させた途端に娼婦に反對給付を求め、つまり娼婦の肉體に手を着け、娼婦に罵倒されて自殺する牧師の話である。けれども、娼婦トムソンを救へなかつたのはデイヴイドソン牧師だけではない。反對給付を求めなかつた温厚なマクフエイル醫師も救へはしなかつたのである。「彼らを捨ておけ、盲人を手引する盲人なり、盲人もし盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん」とイエスは言つた。人間が人間を救はうとする事は、盲人が盲人を手引きするやうなものである。ルターは人間の本性は惡だと信じ、人間は自らの意志で善を選ぶ事が決して無いと考へてゐた。自らの意志で善を選ぶ事が無い人間を、自らの意志で善を選ぶ事の無い人間がどうして救へようか。さういふ度し難い人間を全能なる神は救へるかも知れないが、ルターの言ふとほり、その際の神の知惠と正義は人間の理解を絶するものであらう。ルターは『奴隸意志論』の中にかう書いてゐる。
このようにして人間の意志は、いわば神と惡魔との中間にいる獸のようなものである。もし神がその上に宿れば、神の意志のままに意志し、動くであろう。あたかも詩篇が「われ聖前にありて獸にひとしかりき。されどわれ常に汝と共にあり」とのべているように。もし惡魔がのり移れば、惡魔の意志のままになる。どちらの乘り手のほうへ走るか、またどちらを求めるかはかれ自身の意志の力にはなく、乘り手自身がそれをとらえようと爭うのである。
つまり、かういふ事になる。「人を殺してなぜ惡い」と反問する少年の「上に神が宿れば」、少年は祖母を殺さないが、「惡魔がのり移れば」彼は殺すしかない。そして、ルターの考へでは、少年を神が捕へるか惡魔が捕へるかは少年自身の意志の及ばぬ領域で決定されるのである。ルターの考へが正しいとすれば、誰も少年を救ふ事ができない。が、それなら、教育とは所詮骨折り損のくたびれ儲けではないか、といふ事になる。
ルターは激しい男で、病的なほど良心にこだはつた。『奴隸意志論』はエラスムスに反駁すべく書かれたものである。人間に自由意志ありや否やをめぐるこの有名な論爭について、私はここで深入りしないが、要するに、エラスムスに與すれば神の助力を必要とせぬ人間の偉大を強調してやがて神を殺す事となり、ルターに與すれば神に縋らざるをえぬ人間の悲慘を強調してやがて人間を神のロボツトと見做す事になる。テイボンならばこの矛盾は「辛いものながらそのままに受け入れなければならない」と言ふであらう。けれども私は、ここではルターに與する。吾々人間を神が捕へるか惡魔が捕へるか、それは吾々の意志と無關係だとするルターの主張は、教育の有用を信じ切つて「架空の善の海を樂しげに航行」する手合に痛棒をくらはすために效果的だし、それに何より人間に人間は救へないと私は考へるからである。それゆゑ、人間にやれるのは知育だけだと私は思つてゐる。徳育なるものを私は一切信じない。教育勅語もそのままには信じないが、日教組の「教師の倫理綱領」にいたつては傍痛い。人間は事のついでに、うつかりして、つい善行をやるに過ぎず、意識的な徳育などやれる筈が無いのである。それゆゑ、徳育は無用の事である。有用かも知れぬのは知育だけである。日本の教育は知育偏重で徳育不在だと言はれるが、とんでもない事であり、不在なのは知育なのである。吾國で行はれてゐるのは無味乾燥で生氣の無い詰込み教育であり、眞の知育の持つ思考の徹底を缺いてゐる。知育に徹すれば、いづれ必ず惡魔に出會ふ。惡魔に出會つて、人間が人間を救へるかとの難問にたぢろぐやうになる。けれども、吾國ではその種の知育は行はれてゐない。本年三月六日付のサンケイ新聞に市村眞一氏は書いてゐる。
ここ三十數年間、わが國のジヤーナリズムの上で人氣のあつた思想や評論の流れには、顕著な一つの特色がある。それは「直線的思考」とでもいうべきものである。しかしそのような單細胞型の割り切り方では、現實の世界に對處できぬことは、つぎつぎに明らかになつてきた。(中略)そもそも多少でも思想哲學の歴史を學び、政治經濟史の記憶を喪失しなければ、ここに述べたような單細胞型の直線的思考におちいることはない筈である。それにもかかわらず、どうして同じような型のあやまちを繰り返すのかがむしろ不思議である。わが國のジヤーナリストのなかには、漱石の『坊つちやん』のように「世の中に正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか、考えてみろ」と割り切りたい單純・類型化・率直への希望的觀測が支配しているのであろうか。
市村氏のやうな學者だけが大學で教鞭を取つてゐるのではない。「直線的思考」を挫折せしむるほどまでに徹底した知育は大學では殆ど行はれてゐないのである。それゆゑ大學生は考へる習慣を失つてゐる。勿論、高校生も考へない。受驗勉強とは專ら記憶力に頼る勉強である。それゆゑ高校生は考へない。考へても仕樣が無い。 
私は最近高校で用ゐられてゐる倫理・社會の教科書を覗いて仰天した。そこには何とソクラテスからサルトルまでの西歐の哲學者についての「豆知識」が詰込んである。高校ではそれを一年で教へるのである。私は仰天し、ついで倫理・社會を教へる教師の情熱を疑つた。ソクラテスからサルトルまでを一年で教へる、それは曲藝以外の何物でもない。そのやうな曲藝を強ひられながらそれに耐へてゐる教師の誠實を私は疑はずにはゐられない。
けれども、責任の大半は實は大學が負はねばならないのである。これは倫理・社會の教師ではないが、大阪明星學園で日本史を教へてゐる福田紀一氏は、「大學側は、こちらが力を入れて解説したようなことは、めつたに出してくれない」と言ひ、次のやうに書いてゐる。
入試の合否を決めるのは、無學祖元はだれの保護を受けたかとか、解脱房貞慶は何宗か、といつた、本來枝葉ともいうべき小さな知識であり、すなおに授業を受けていればいるほど面くらうような問題が、合否を左右することになる。授業をしていても受驗問題を考えると、空しい氣持ちになつてくる。(『おやじの國史とむすこの日本史』)
福田氏の言ふ事は間違つてゐない。けれども、受驗本位の詰込み教育にはもつと大きな弊害がある。例へば、今年の國立大學共通一次試驗において、受驗生はセネカ、ポンペイウス、プロタゴラス、アリストテレス、アイスキユロス、アリストフアネス、カエサル、エラトステネス、トウキデイデス、及びアウグステイヌスの中から「ヘロドトスと同樣に戰史ないし戰記を書き殘した」人物を二人選ぶ事を求められてゐる。正解は無論カエサルとトウキデイデスである。けれどもこの種の問ひに正しく答へるためには、高校生はトウキデイデスの『戰史』を讀む必要は無い。いや讀んではいけない。讀んだら確實に入試に失敗する。それゆゑ高校生は讀まないし、高校の教師も多分讀まない。高校生も教師も、「ペルシア戰爭後アテナイが繁榮するが、ペロポネソス戰爭を契機に個人主義的な風潮が強くなつて、ギリシア世界は分裂し、ヘレニズム時代を迎へ」たが、トウキデイデスといふ男は、そのペロポネソス戰爭の歴史を書いたのだと、それぐらゐの事を記憶しておけば充分なのである。が、實際にトウキデイデスの『戰史』を讀むならば、高校生は確實に惡魔に出會ふ。例へば『戰史』卷五、所謂「メロス島對談」において、強者アテナイは弱者メロスに弱肉強食の理を説いて憚る事が無い。少しく引用しよう。
アテナイ側「われらの望みは勞せずして諸君をわれらの支配下に置き、そして兩國たがひに利益をわかちあふ形で、諸君を救ふことなのだ」
メロス側「これは不審な。諸君がわれらの支配者となることの利はわかる、しかし諸君の奴隸となれば、われらもそれに比すべき利が得られるとでも言はれるのか」
アテナイ側「しかり、その理由は、諸君は最惡の事態に陷ることなくして從屬の地位を得られるし、われわれは諸君を殺戮から救へば搾取できるからだ」
メロスはラケダイモンの植民地である。それゆゑメロスは、必ずやラケダイモンが「救援にやつて來る」と信じてゐる。「植民地たるメロスを裏切れば、心をよせるギリシア諸邦の信望を失ひ、敵勢に利を與へることになる。ラケダイモン人がこれを望まうわけがない」とメロスは言ふ。が、アテナイは冷やかに答へる、「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまいな。求める側が實力においてはるか優勢であるときのみ、要請は實を稔らせる」。
會談は決裂し、戰端が開かれ、メロスは降服し、アテナイは逮捕したメロス人の成年男子全員を死刑に處し、女子供を奴隸にした。今から二千四百年も昔の話である。けれどもロケツトが冥王星に達する時代になつても、地上におけるこの種の弱肉強食の爭ひは跡を絶たないであらう。カンボジアはヴエトナム正規軍の侵掠を受け、首都プノンペンは本年一月七日に陷落した。ポルポト政權は一月三日、國聯安全保障理事會に提訴したが、理事會の審議が始まつたのは十一日であつた。そしてカンボジアからの「外國軍隊の即時撤退」を求める決議案は、ソ聯の拒否權によつて潰されたのである。要するに、國際輿論を代表する筈の國聯も、インドシナ半島における弱肉強食の現實を前にしては全く無力であつた。そして二千四百年前のメロスと同樣、カンボジアは中國の支援を當てにしたのだらうが、中國は直ちに軍事介入に踏み切る事はしなかつたのである。「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまい」とアテナイは言つた。アメリカの核の傘の下にゐる日本が「いくら忠誠を示しても」、アメリカを「盟約履行の絆でしばることには」ならない。マツクス・ウエーバーは「政治家は惡魔の力と契約する」と言つたが、それなら「條約は破られるためにある」。そしてそれが國際政治の現實なのである。
すでに明らかであらうが、トウキデイデスを讀むといふ事は、さういふ惡魔の力と契約せざるをえない人間の現實の姿についてとくと考へる事なのであり、高校時代にそれをとくと考へたら、大學生になつて單純幼稚な正義感などに醉拂へる筈が無い。角材やヘルメツトで武裝して與太を飛ばせる筈が無い。いや、劇畫雜誌を愛讀し、女の尻を追ひ、麻雀に凝つて、虚ろな毎日を過ごす筈も無いのである。けれども、高校生はトウキデイデスを讀まない。そして高校時代に讀まないものを、遊園地と化してゐる大學に入つて讀む筈が無い。かくて高校、大學を通じて日本の若者は惡魔と無縁の教育を受け、やがて自分が教師になつて惡魔と無縁の教育を施す。どう仕樣も無い惡循環なのである。
明治時代、小崎弘道は『政教新論』の中に次のやうに書いた。
世の學者は徳行は教訓し得べしと爲し教育さへ盛にすれば人の品行は正しくなり、風俗は敦厚になると思惟する者多けれども是れ全く人生の根底に達せず、杜會の實情を詳に知ざるより起るの誤謬にして實際に適用し難き一場の空談たるに過ぎざるなり。抑人の善を爲さずして惡を爲すは善の爲すべくして惡の爲す可らざるを知らざる故歟。(中略)若し人の善を爲さずして惡を爲すの原因果して知識の不足に在りとせば、身を修め人を善に導くの容易なるは勿論、善を爲さず惡を爲す人今日の如く多からざるべし。
要するに小崎は「徳は教へられるか」と問うてゐるのである。「徳は教へられるか」とソクラテスも屡々問うた。徳は教へられるか。徳が知識なら教へられる。が、教へるには教師が必要である。では、徳の教師はゐるか。ゐない。ゐる筈が無い。それゆゑ徳は教へられない。ソクラテスはさう考へる。かういふソクラテスの考へについては、プラトンの『メノン』や『プロタゴラス』に詳しいが、詮ずるところ徳は教へられず、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではないとすると、徳育は無用の事で、教育がなしうるのは知識の傳達だけといふ事になる。それでよいのだし、昔からさうだつたのである。周知の如くトウキデイデス以來二千四百年、科學は長足の進歩を遂げた。それはつまり知識の傳達を事とする「知育」の勝利に他ならない。けれども、徳育において、ソクラテスの言ふ「魂の世話をする事」において、人間は少しも進歩してゐないのである。例へばヒポクラテスは神聖病すなはち癲癇について「腦の破壞は粘液によるほか、膽汁によつてもおこる」と書いてゐるが、今日この説を承認する精神科醫は一人もゐないであらう。けれども醫者の心得を説くヒポクラテスの次の文章は、今日そのまま通用するのである。
あまり不親切なやり方はしないように勸めたい。患者には餘分の財産があるのか、また生計の資力があるのかを考慮に入れるがよい。そして、ばあいによつてはかつて受けた恩惠や現在の自分の滿足な状態を念頭において、無料で施療するがよい。(中略)人間に對する愛があれば技術に對する愛もあるからである。(小川政恭譯)
ヒポクラテスは醫は仁術だと言つてゐるのではない。醫者が少々不親切になるのはやむをえないが、不親切の度が過ぎぬやうにせよ、「無料で施療」するのは時と場合による、と言つてゐるのである。
けれどもここで、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」が「知識の不足」のせゐでないのなら、徳育のみならず知育も空しいではないかと反論する向きもあらう。だが、人間は「善を爲さずして惡を爲」したいと常に思つてゐるといふ事實をまづ認めるべきだと私は言つてゐるのである。そして、それを認めさせるのは、度し難き馬鹿が相手ならばともかく、常に可能な事であつて、そのためには知育一本槍でよい。さういふ知育が眞の知育なのだ。つまり、善の無力、徳育の無力について徹底的に考へる、それが眞の知育なのである。そしてそれは吾國では行はれてゐない。善の力を稱へる僞善的教育論が横行するのは當然の事だと思ふ。
ところで、右に引いたヒポクラテスの考へを、メルヴイルに倣つて私は「道徳的便宜主義」と名附けようと思ふが、二十世紀の醫者もヒポクラテスの忠告に從つて行動してゐる筈であり、とすれば古代ギリシア以來人間の「どうにもならぬ本性」は少しも變つてゐないといふ事になる。小崎弘道の言ふ通り、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではない。今日、醫學的知識は豊かになつたものの、醫者と患者との人間關係は古代ギリシアのそれと變らず、大方の醫師は出來る事なら「善を爲さずして惡を爲」したいと考へてをり、時に善をなすとしても「技術に對する愛」に盲ひて、事のついでになすか、さもなくば有徳なる醫師と見做される事を處世術上の「便宜」と考へての事か、そのいづれかであらう。醫者に限らない、吾々は皆道徳的便宜主義者なのである。メルヴイルは『ピエール』の作中人物プリンリモンにかう語らせてゐる。
地上的な物事において、人間は天上的觀念の支配を受けてはならない。人間は生來、世間なみの幸福な生活を送りたいと願ふ。人間がこの世で或る種のささやかな自己抛棄をしようと思ふのも、さういふ本性のしからしむるところであらう。が、だからといつて、完全かつ絶對的な自己犧牲などは、他人のためであれ、何らかの主義のためであれ、奇想のためであれ、決してしてはならない。(中略)尋常の人間にとつてこの世で最も望ましく、また可能な生き方は道徳的便宜主義である。これこそ造物主が、一般の人間にとつての唯一の地上的卓越として考へてゐたものなのだ。
ささやかな自己抛棄ならばよろしい、とプリンリモンは言ふのである。幸福な世間なみの生活を送るためにそれは有用だからである。勿論、それは徳行などといふものではない、打算であり處世術であるに過ぎない。だが、時折のささやかな自己抛棄は確かに己れを利するのであつて、それは吾々のすべてが知つてゐる事である。しかるに、教育について考へる時、人々は或る種の條件反射を起す。パブロフの犬よろしく、教育といふ言葉を耳にしただけで、道徳的便宜主義の有用を忘れ、人間のどうにもならぬ本性を矯めうるとの錯覺を起す。それはすでに述べたやうに、徳育の可能を自明の理と考へ、己れの心中に惡魔を見ず、人間の度し難い本性を忘れてゐるからである。道徳に關する自明の理を疑ふ所まで徹底して考へようとしないからである。それは知的怠惰である。怠惰な人間に、眞の知育が行へる筈は無い。例へば日教組は「教師は人類愛の鼓吹者、生活改造の指導者、人權尊重の先達として生き、いつさいの戰爭挑發者に對して、もつとも勇敢な平和の擁護者として立つ」と「教師の倫理綱領」に言つてゐるが、かうして途方も無い綺麗事を言ひ、人類愛を説けるからには、個人のエゴイズムくらゐはた易く克服できると日教組は思ひ込んでゐる譯であり、してみれば日教組は、競爭原理による「人間性破壞」を憂へる進歩的教育學者と同樣、或いは外山滋比古氏のやうな保守派のいかさま師と同樣、徳育の可能を信ずる樂天家なのである。外山氏の教育論の許し難いでたらめについてはいづれ詳しく書くが、少なくとも日教組には、忠君愛國の徳目主義を嗤ふ資格は無いのである。
トウキデイデス以來人間の本性は少しも變つてゐない。しかるに、徳育に固執する教育家は、今日なほ人間の本性を矯めうると信じてゐる。左翼文化人が社會主義國は戰爭をしないといふ幻想に久しい間醉へたのも、良き社會體制は人間の本性を矯めうると信じたからに他ならない。しかるに先頃中越戰爭が勃發し大方の左翼文化人は衝撃を受けたといふ。笑止千萬である。東大助教授の菊地昌典氏などはやうやく夢から醒めたやうな事を言つてゐるが、私には信じられぬ。美しい夢を必要とするのは愚者と弱者の常だから、菊地氏の場合もまたぞろ夢から醒めた夢を見てゐるに過ぎまい。日教組の如きは軍國主義の惡夢から醒めた夢を三十餘年間も見つづけて今なほ飽きる事が無い。彼等は教師を「人類愛の鼓吹者」だと思つてゐる。平和を愛する「よい子」を育てる事が教育だと思つてゐる。それはつまり、徳育の可能を疑つた事が無いからである。いやいや、日教組だけを嗤ふ譯にはゆかぬ。教育基本法には「われらは、さきに、日本國憲法を確定し、民主的で文化的な國家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の實現は、根本において教育の力にまつべきものである」とある。それゆゑ文部省も同罪である。吉田茂は生前「新憲法、棚の達磨も赤面し」と詠んだけれども、腰拔け憲法と同樣、綺麗事の教育基本法に赤面してゐない以上、子供を善い子に育てるのが教育だといふ事を、保守革新を問はず、殆どの日本人が信じて疑はぬのも無理は無い。が、それはまことに嗤ふべき迷信である。考へてもみるがよい。自分の子供を「よい子」に育てたいなどと思つてゐる親など實は一人もゐはしないのである。親は決して子供の善良を望みはしない。むしろ子供が適度に惡に染まる事を望む。幼兒が無邪氣なのは幼兒が智慧を缺いてゐるからではないか。幼兒の如く無邪氣なままに子供が成人したらどうなるか。本氣でそんな事を望む親がどこにゐるか。子供が智慧づく事を親は望むのである。そして智慧がつくとは惡智慧がつく事に他ならない。
けれども、さういふ至極當り前の事を、人々は決して認めたがらない。それこそ知的怠惰に他ならぬ。社會主義國同士の戰爭に幻滅の悲哀を感じた文化人は、いづれ必ず性懲りも無く別樣の未來に期待をかけるであらう。それかあらぬか、最近小田實氏は「普遍的自由主義」などといふ怪しげな主義の前途に期待し始めたやうである。教育家も同樣であつて、大人の醜惡に幻滅した教育家は必ず子供に期待する事となる。尖閣諸島の歸屬問題は子孫に任せよう、吾々が今解決できぬ事も、後の世代は解決できようと鄧(登+大里)小平は言つたが、あれは飽くまでも政治的發言であつて、鄧(登+大里)小平自身はそんな事を信じてはゐまい。子供には洋々たる前途があつて、國際協調のため、今の大人のできないやうな事をやつてのけるだらうなどと、紅衞兵に吊し上げられたあの筋金入りの現實主義者が本氣で思つてゐる筈は無い。また、思つてゐるとすれば彼は大した政治家ではない。子供は大人と同じ道を歩むのである。子供は大人と同樣に愚かしく、殘酷で、長ずるに從ひ惡智慧がつき、この世における善の無力を知るやうになる。それゆゑ、子供の善良を望まないのなら、大人は善の無力といふ事を年齢に應じて子供に教へなければならない。そして、それを教へるのが知育の役割なのである。キエルケゴールの父親は子供が好む畫集の中に、十字架に掛けられたイエス・クリストの繪を插し入れておいたといふ。善の無力を雄辯に物語るクリスト受難を常に意識させる事こそ最善の教育だと信じたからである。この世における善の力を説くのが徳育だと世人は思つてゐよう。だが、善が無力なら、もとより徳育も無力で無用の事とならざるをえない。
では、善の無力とはどういふ事か。それを子供にどう教へるべきか。善の無力を教へるのは、子供を非行に走らせるためでは決してない、善の無力を知り、善を切に望み、惡に墮しがちなおのれを鞭打つためなのである。さういふ事も大方の教育論は考へてるないから、いづれ別の機會にとくと考へてみようと思ふ。 
II 防衞論における道義的怠惰

 

1 道義不在の防衞論を糺す 
言論を動かすのは外壓のみ
「君の意見に私は同じない。けれども、君が意見を述べる自由だけは、命を懸けても保證する」とヴォルテールは論敵に言つた。まことに立派な心構へであつて、いかなる場合も暴力は斷じて許されず、冷靜な談合が何より大事だと、昨今は猫も杓子も言ふのである。けれども、何事にも程がある。例へばかういふ文章を綴る政治學者を相手に、どうやつて冷靜な談合がやれようか。それこそ杓子で腹を切らうとするの類ではあるまいか。
われわれには軍備は要らないのですから、アメリカに對して經濟援助をする分だけ、防衞費を削つていけばいい。頭の中の空想だけで軍備が要ると思つているのだから、現實認識を深める議論を繰り返すことによつて、軍備必要という空想論をだんだんに減らしていけばいい。そういう空想論が減つた分だけ防衞費を削つていけばいい。
私は「非武裝平和」論こそ「空想論」の典型だと思つてゐる。それゆゑ、「空想的平和主義者」の口から、「頭の中の空想だけで軍備が要ると思つている」手合の「空想論」に對處すべく「現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」、などといふ臺詞を聞かされると、しばし茫然自失して、わが耳を疑ふのである。「大人は頭の中の空想だけで、國籍の違ひや年齢差が愛の障害になると思つてゐるのだから、現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」などと、十歳以上も年上の、首狩族の女を伴つて歸國した面皰面の倅に言はれたら、父親はどうしたらよいか。言語道斷、一家眷族の名折れとて、馬鹿息子をぶん毆るか。さうはゆくまい。今は民主主義の世の中で、暴力は斷じて許されない事になつてゐるからである。
ではどうするか。冷靜な談合が望ましいなどと言はれても、なにせ相手は草津の湯でも癒せぬ病に取り憑かれてゐる。首狩族と愛の巣を營み、共白髪までやつてゆけるなどとは所詮「空想論」でしかないと懇ろに説諭したところで、相手はさういふ現實主義こそ「空想論」だと信じ切つてゐるのだから、何の驗もありはしない。幸田露伴なら「婦女が何だ! 戀が何だ! たとひ美女だらうが賢女だらうが、我を迷はせりや我の仇敵だ。男兒の正氣になつて働かうといふ事業の、障(原文「しよう:石+章」)礙になる奴あ悉皆仇敵だ。戀たあ料簡の弛みへ出る黴だ、閑暇な馬鹿野郎の掌の中の玩弄物だ」と怒鳴るかも知れぬ。が、今時、そんな勇ましい啖呵を切れる雷親父がゐる筈は無い。かてて加へて、父親とて若かりし頃、戀愛至上主義に感れた事があらう。首狩族と昵懇の仲になる機會こそ無かつたものの、愚かしき青春の思ひ出には事缺くまい。それを思へば大きな顏をする譯にはゆかない。さう思つて父親は諦め、運を天に任せる事になる。つまり、しばし捨て置くのである。だが、捨て置きながらも父親はひたすら待つ。何を待つか。無論、破鏡を待つ。そして待つた甲斐あつて現實が倅の「空想論」を打ち碎いた時、父親は心中密かに凱歌を奏するのである、「それ見たか、言はぬ事ではない」。
私は防衞論と丸切り無關係な事を語つてゐるのではない。先に引いた文章は立教大學で政治學を講じてゐる神島二郎氏のものだが、かういふ空想的平和主義者が勝手な熱を吹く樣を、常識を辯へた人人は、首狩族の女に惚れ込んだ男を目の前に見る時さながら、呆氣にとられて眺めるのではあるまいか。俗に「鰯の頭も信心から」といふけれども、鰯の頭は所詮鰯の頭でしかないと、いくら言ひ聞かせた所で、何せ信心なのだからどう仕樣も無い。どう仕樣も無いから放つて置く。が、一旦、空想家が現實の壁に打ち當つて挫折した時は、「それ見たか」とて寄つて集つて痛め附けるのである。ヴエトナム軍がカンボジアに攻め込み、その「懲罰」として中國軍がヴエトナム北部に侵攻した時がさうであつた。戰爭は帝國主義國が仕掛けるもので、社會主義國同士が戰爭をする事は無いと信じ、常々さう主張してゐた進歩的知識人は衝撃を受け、周章狼狽、世の笑はれ者になつた。例へば菊地昌典氏は「人權彈壓は、民主主義の抑壓と同義語なのであり、現代社會主義國に共通した重大な缺陷である」とまで書いて、保守派の失笑を買つたばかりか、進歩派にまで袖にされる始末であつた。けれども私は釋然としなかつた。「それ見たか」との保守派の得意顏をいかがはしく思はざるをえなかつた。そこで私はかう書いた。日商岩井の海部八郎氏を新聞や週刊誌が袋叩きにして樂しんでゐた頃の事である。
弱い者いぢめはさぞ樂しからう。まして今囘は辣腕の副社長が落ち目になつたとあつて、身震ひするほど樂しからう。さういふ殘忍は私も知つてゐる。例へば、社會主義に幻滅した社會主義者菊地昌典氏の困惑を眺めてゐると、私は無性にいぢめたくなる。が、さういふ時、私は用心する。皆が菊地氏をいぢめる時は、懸命に菊地氏の長所を探し出さうと努め、どうしても見附からない場合は菊地氏の短所を無理やりおのれの中に探し出す。それだけの手順を踏んでおかないと、いつの間にか魔女狩を樂しんで阿呆面をしてゐるおのれを見出す、といふ事になりかねない。
これを書いた時、私はかういふ事を考へてゐた。なるほど菊地昌典氏は社會主義の夢から覺めたのではなく、實は夢から覺めた夢を見てゐるだけの事かも知れぬ。が、人間はいくつになつても性懲りも無く夢を見る。すれつからしの現實主義者も誰かを信じて騙される。男に騙されない男も女にはころりと騙される。それなら、菊地氏の困惑を小氣味よげに眺めてばかりゐず、彼の短所をおのれの中に探さねばなるまい。さういふ手數を省いてここを先途と菊地氏を叩くのはつまらぬ。さういふ言論はまことに空しい。菊地氏をして「轉向」せしめたのは保守派の言論の力ではなく、ヴエトナム軍と中國軍の行動であつた。これを要するに、吾國の言論は外壓によつてしか動かぬといふ事ではないか。
その後菊地昌典氏がどういふ事を書いたのか、私は知らない。けれども、ソ聯軍がアフガンに侵攻して以來、「右傾」の度合はますます強まつた。保守派は意氣揚々と胸を張り、一方、神島二郎氏のやうな樂天家は別だが、進歩派は今や意氣阻喪して、そろそろと逆艪を使ふ者まで出て來る始末である。だが、外壓次第ではこの状況とていつ何時ひつくり返らぬとも限らない。レーガン大統領の對ソ強硬路線が挫折して、またぞろ米ソ兩國は「平和共存」でゆかうといふ事にでもなれば、目下囂しいソ聯脅威論なんぞ跡形も無く消し飛んでしまひ、逆艪を使つてゐる進歩派までが「それ見たか」とて胸を張るに相違無い。サイゴン陷落後、朝日新聞の「素粒子」の筆者は「南ベトナムの“安定性”をいい續けてきた日本外務省、一部評論家のご意見を聞きたい」と、鼻蠢かせて書いたのである。 
百年千年經つて變らぬもの
殿岡昭郎氏の『言論人の生態』(高木書房)は、二年間にわたつてヴエトナム戰爭に關する言論人の發言を丹念に調べあげたあげくの成果であり、私は精讀して色々と教へられたが、殿岡氏もまた、風向き次第で脹らんだり萎んだりする言論の空しさを慨嘆してをり、それが私には頗る興味深かつた。殿岡氏はかう書いてゐる。
日本の論壇がきわめて“實證主義的”であり、言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつているということは、日本の言論のいつそうの脆弱さを證明していることにもなるだろう。言論は他の言論を傷つけることも、他の言論によつて傷つけられることもない。從つて言論による説得も勝敗もありえない。雙方は勝手放題にいい散らして、最後の審判は事態の變化である。
殿岡氏の言ふとほりである。だが、なぜなのか。なぜ「言論による説得も勝敗もありえない」のか。なるほど、首狩族に頸つ丈になつてゐる若者に何を言はうと徒勞だから、といふ事はあらう。だが、それだけではない。日本人は和を重んずるから、何が正しいかは二の次三の次であつて、仲間うちの批判はタブーなのである。實際、神島二郎氏の粗雜な論理に顏を顰める進歩派もゐる筈だが、そんな事、噯(おくび:口+愛)にも出せはせぬ。出したら村八分になる。そしてそれは保守派も同じであつて、それゆゑ「言論による説得も勝敗もありえない」といふ事になる。もつとも昨今は、「内ゲバはやめろ、進歩派を利するばかりだ」とて、留め男が割つて入つたりする程、改憲の是非を巡つて保守派同士の對立が目立つ樣になりはした。例へば『VOICE』八月號で、片岡鐵哉氏は猪木正道氏と高坂正堯氏の「現實主義」を批判してゐる。けれども、猪木氏も高坂氏も決して反論しないであらう。「雙方は勝手放題にいい散らして」といふ事にならぬ代り、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になるであらう。つまり、「軍備はいまの憲法でも充分可能」であり、「十年間は憲法論議を棚上げ」すべしと主張する高坂氏が正しいか、それとも「侵掠というシヨツクが來るまで改憲も國防も不可能ではないか」と危倶する片岡氏が正しいか、それは「最後の審判」待ちといふ事になる。それゆゑ、猪木、高坂兩氏としては、反論せずにおく方が賢明である。
だが、果して「言論上の勝敗」は「道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつている」と言切れようか。なるほど情況すなはち現實は變化する。が、この世には何百年何千年經つて一向に變化しないものもある。ヴォルテールは近代文明を稱へて、「おお、この鐵の世紀のすばらしさ、爽やかなワインも、ビールも、ジユースも、イヴのあはれな喉を潤す事が無かつた」と書いたが、何、百年千年經つて變らぬアダムとイヴの原罪はヴォルテールも背負込んでゐた。「科學と理性の勝利」を信じて、「パスカルの絶望なんぞ少しも感じない」と書いたヴォルテールのフランスにおいても、新幹線を凌駕する高速列車を有するミツテランのフランスにおいても、惚れた腫れたの刃傷沙汰の愚かしさに何の變化もありはしない。
さういふ譯で、十年經つたら變る物があり、百年千年經つてなほ變らぬ物がある。高坂正堯氏は憲法論議を十年間棚上げすべしと主張する。それはつまり、今は賢明でない事が十年經つたら賢明になるかも知れぬといふ事である。つまり、今は政治的にまづいといふ事であつて、道徳的によくないといふ事ではない。「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないからだ。しかし、今後十年間憲法論議をやる事が賢明でないと假定して、十年間賢明でない事がいつ賢明になるのであらうか。なるほど、けふ賢明でない事があす賢明になるといふ事はある。昔、會澤正志斎が言つたやうに「今日のいふところは、明日未だ必ずしも行ふべからず」といふ事もある。それゆゑ政治家がけふ賢明でない事をけふ口にせぬやう心掛けるのは是非も無い。けれども、いかに優れた政治家も所詮は不完全な人間であり、「けふ賢明でない」との判斷において過つ事がある。憲法についての「眞情を吐露」した奧野法相を批判して高坂氏は、法相の「誠實は婦人の誠實」ないし「書生の誠實」だと書いた。私は高坂氏に同じないが、百歩譲つて「政治は結果倫理の支配する世界」であり、「自分の心を忠實に語るというのは二の次」だとする高坂氏の意見を認めるとしても、政治家が「自分の心を忠實に語る」事を二の次にせず、「書生の誠實」に徹するはうが却つて結果的に賢明である場合もあらう。それに、現行憲法は「自主憲法」ではない、「作り直すしかない」といふ法相の發言は今は賢明でないとする高坂氏の判斷が、かりに今、賢明だとしたところで、それが今後十年間賢明であり續けるといふ保證はどこにもありはしない。なるべくけふ賢明と思はれる事をけふ語らふとするのは處世術であり、それは誰でも持合せてゐようが、けふ賢明と思はれぬ事をけふ語る政治家がゐたとして、誰もそれを「書生の誠實」として嘲笑ふ譯にはゆくまい。その誠實が「具體的に何の益もない」どころか「マイナスの效果」を齎したと斷じうる時期になつて初めて、吾々はその政治的責任を云々する事ができる。高坂氏の言ふとほり「政治は結果倫理の支配する世界」だからである。
高坂正堯氏はもとより神島二郎氏ではない。頭腦明晰なる高坂氏は右の私の批判に文句は附けぬであらう。私の言分を認めるであらう。私は高坂氏の人格を攻撃したのではなく、その論理の破綻を指摘したに過ぎないからである。これを要するに、高坂氏と私の「雙方は勝手放題にいい散らし」た事にならず、しかも「事態の變化」といふ「最後の審判」の手を煩はせる必要も無かつたといふ事に他ならないが、既に述べた樣に「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないのだから、「憲法論議を十年間棚上げすべし」とは政治的判斷なのである。全面講和や日米安保條約や非核三原則の是非についての甲論乙駁は、それが政治的判斷にもとづく限り、とかく雙方が「勝手放題にいい散らして」決着がつかず、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になる。けれども、論理には決着がつく。論理の矛盾は十年經つても矛盾だからである。いや、十年は愚か百年千年經つても、論理學のルールは變り樣が無い。「平凡な事は非凡な事よりも遙かに非凡である」とか、「狂人は論理的である、頗る論理的である」とかいつた類の逆説を賞味するためにも、吾々は論理學のルールを無視する譯にはゆかない。 
「事の實際を奈何せん」と言ひたがる愚かしさ
要するに、この世には、文化大革命だの非核三原則だの人力車だの皇國史觀だのといふ、十年經つて變る物があり、癡話喧嘩や思考のルールのやうに百年千年經つて一向に變らぬ物がある譯だが、中江兆民の『三醉人經綸問答』この方、吾國の防衞論議はとかく十年經つて變りうる事柄にのみ氣を取られてゐたのであつて、「言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつて」ゐたのは當然の事なのである。『三醉人經綸問答』の三醉人とは、空想的平和主義者洋學紳士と、空想的軍國主義者豪傑君と、現實主義者南海先生だが、まづ洋學紳士はかう主張してゐる。日本は「民主平等の制を建立し、人々の身を人々に還へし、城堡を夷げ、兵備を撤して、他國に對して殺人犯の意有ること無きことを示し、亦他國の此意を挾むこと無きを信ずるの意を示し、一國を擧げて道徳の園と爲し、學術の圃と爲」すべきであり、「兇暴の國有りて、我れの兵備を撤するに乘じ、兵を遣はし來りて襲ふ」などといふ事はよもやあるまいが、「若し萬分の一、此の如き兇暴國有るに於ては、(中略)我衆大聲して曰はんのみ、汝何ぞ無禮無義なるや、と。因て彈を受けて死せんのみ」。
この洋學紳士の非武裝無抵抗主義は、日本社會黨の非武裝中立主義よりも遙かに正直である。けれども、傲慢や自尊心やエゴイズムといつた百年千年經つて變らぬものを勘定に入れぬ空論だから、自由民權運動が退潮し「軍國主義への傾斜」の度合が強まるにつれて古證文も同然となつた。すなはち「事態の變化」といふ「最後の審判」に伏するしがなかつた。
空想的軍國主義者たる豪傑君の意見もさうである。洋學紳士に反論して豪傑君は言ふ。そのやうな非武裝平和主義は現實無視の空論に他ならぬ。「六尺男兒、百千萬人相聚りて四國を爲しながら、一刀刃を報ぜず、一彈丸を酬いずして、坐ながら敵冠の爲に奪はれて、敢て抗拒せざるとは、狂人の所爲」ではないか、「抑も戰爭の事たる、學士家の理論よりして言ふ時は如何に厭忌す可きも、事の實際に於て畢竟避く可らざるの勢なり。(中略)爭は人の怒なり。戰は國の怒なり。(中略)人の現に惡徳有ることを奈何せん、國の現に末節に徇ふことを奈何せん、事の實際を奈何せん」、されば日本は隣接する弱小國を侵掠し、植民地となし、先進國を凌駕せねばならぬ。
言ふまでもあるまいが、この豪傑君の主張は大日本愛國黨のそれよりも正直である。けれども、「自分の子供が戰爭に驅り立てられ、殺されるのが厭だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定」する「母親の感情」といふ、これまた百年千年經つて變らぬものを無視する空論だから、昭和二十年八月十六日からは古證文も同然となつた。もつとも昨今、その古證文の埃を拂つて懷かしげに眺め、あたりを窺ふ者もゐるが、さすがに「隣接する弱小國を侵掠し、植民地とせよ」とまでは言ひ出せずにゐる。
ところで、洋學紳士と豪傑君の主張は、恰も小田實氏と三島由紀夫の主張ほど眞向から對立し、妥協の餘地はまつたく無いかのやうに思へるであらう。しかるにさにあらず、三醉人はブランデーを飮み、ビールを飮み、南海先生が笑ひ、「二客も亦嘘然として大笑し、遂に辭して去れり」といふ事になる。どうしてさういふ事になるか。それを知るには南海先生の意見にも耳を傾けねばならぬ。洋學紳士と豪傑君の論述を締め括つて南海先生は言ふ。洋學紳士の説は「未だ世に顕はれざる爛燦たる思想的の慶雲」であり、一方、豪傑君の説も「今日に於て復た擧行す可らざる」ものである。そしてまた、兩君の説は一見「冰炭相容れざるが如」くであるが、實は同一の「病源」に發してゐる、すなはち「過慮」である。さうではないか、目下プロシアとフランスが「盛に兵備を張るは、其勢甚迫れるが如きも、實は然らずして、彼れ少く兵を張るときは或は破裂す可きも、大に兵を張るが故に、破裂すること有ること無し」、兩君ともに取越し苦勞をしてゐる、大事なのは「世界孰れの國を論ぜず與に和好を敦くし、萬已むことを得ざるに及ては防禦の戰略を守り、懸軍出征の勞費を避けて、務て民の爲に肩を紓(の:糸+予)ぶること」である。
要するに南海先生は「現實主義者」なのであり、それゆゑ、洋學紳士の説を「未だ世に顕はれざる」空論とし、一方豪傑君の説をも「今日に於て擧行す可らざる」空論と極め附けるのだが、「冰炭相容れざるが如」くに見えた洋學紳士と豪傑君は、あつけなく南海先生の説に伏するのである。つまり、明治二十年に出版された防衞論も、今日のそれと同樣、「其時と其地とに於て必ず行ふことを得可」き事柄にのみ心を奪はれてゐるのであつて、「事の實際を奈何せん」、そんな事をやれる筈が無い、と豪傑君に言はれると洋學紳士はお手上げになり、豪傑君もまた、「今日に於て復た擧行す可らざる政事的の幻戲」と南海先生に言はれると大人しく引下つてしまふ。かくて一見「冰炭相容れざるが如」くであつた平和主義者と軍國主義者は、「今日に於て」實行可能な事柄だけを考へる事の賢明を悟り、和氣藹々と現實主義者の茅屋を辭するのであつて、洋學紳士も豪傑君も、南海先生同樣、單純な現實主義者に過ぎない。「或は云ふ、洋學紳士は去りて北米に游び、豪傑の客は上海に游べり、と。而て南海先生は、依然として唯、酒を飮むのみ」と、兆民は『三醉人經綸問答』を結んでゐるが、北米や上海に遊んだところで、別人の樣になつて戻つて來るとは限るまい。
『三醉人經綸問答』の上梓は明治二十年、すなはち九十四年前の事である。だが、今日の防衞論議も、三醉人のそれと同樣、百年千年經つて變らぬものを無視する單純な理想主義か、さもなくば「事の實際を奈何せん」とて胸を張り、「情況の變化いかんに」よつては「それ見たか」と居丈高になる單純な現實主義であつて、それゆゑ吾々は、百年千年經つて變らぬものを無視ないし輕視するのが、百年千年經つて變らぬ日本人の特性ではないかと、さう疑つてみるはうがよいのではあるまいか。 
絶對者なき理想主義の虚妄
國木田獨歩は人間を「驚く人」と「平氣の人」の二種に分け、日本人の大半は「平氣の平三の種類に屬」すると書いた。一方、プラトンは「驚異の念こそ哲學者のパトスであり、それ以外に哲學のアルケーは無い」と言ふ。無論、吾々日本人も、百年前千年前に「驚異の念」をパトスとした先哲を有する筈で、それは獨歩も承知してゐたであらう。獨歩は「世界十幾億萬人の中、平氣な人でないものが幾人ありませうか」と書いてゐるくらゐだから、「驚く人」が少ない事に腹を立ててゐた譯ではない。ただ、世人が「平氣の人」である事に平氣でゐるのを怪しんだまでの事である。
獨歩は『牛肉と馬鈴薯』の作中人物岡本にかう語らせてゐる。「諸君は今日のやうなグラグラ政府には飽きられたゞらうと思ふ、そこで(中略)思切つた政治をやつて見たいといふ希望もあるに相違ない、僕もさういふ願を以て居ます、併し僕の不思議なる願はこれでもない」。その願ひは妻子を犧牲にしても、殺人強盜放火の罪を犯しても、どうしても叶へたい。「此願が叶はん位なら今から百年生きて居ても何の益にも立ない、一向うれしくない。寧ろ苦しう」思ふくらゐだが、それは「宇宙の不思議を知りたいといふ願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいといふ願」、「死の祕密を知りたいといふ願ではない、死てふ事實に驚きたいといふ願」である。「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほどに此宇宙人生の祕義に惱まされんことが僕の願であります」。
けれども、「信仰そのもの」を得ずして、「信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほど」の惱みを手に入れる事はできまい。岡本は「ヲルムスの大會で王侯の威武に屈しなかつたルーテルの膽は喰ひたく思はない、彼が十九歳の時學友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものゝ祕義に驚いた其心こそ僕の欲する處であります」と言ふ。だが、獨歩は遂にルターの「其心」をおのがものとはなしえなかつた。なぜか。皇帝カール五世の召喚状を受取つたルターは、火刑に處せられる危險を物ともせずにウォルムスへ乘込んだが、その搖ぎ無き信仰は、若かりし頃「學友アレキシスの雷死を眼前に視」、「聖アンナ樣、お助け下さい、私は修道僧になります」と誓つて以來十六年、孜々として育んだものであつた。「ルーテルの膽」を食ふ覺悟無しに「祕義に驚いた其心」をおのがものとなしうる筈は無い。
國木田獨歩と異り、絶對者への搖がぬ信仰を持つてるたルターは、「神のもの」と「カイゼルのもの」とを峻別し、百年千年經つて變らぬ「神のもの」を重んじて、「情況の變化いかん」によつて、右から左、左から右へと變りうる「カイゼルのもの」を徹底的に無視した。それは要するに、信仰のためとあらば「妻子を犧牲にする」事も、「殺人強盜放火の罪を犯す」事も恐れなかつたといふ事に他ならない。それゆゑ「戰爭は神の最大の刑罰」であり、「人は平和のために譲らなければならない」と書いた筈のルターが、農民一揆を難じてかう書いたのである。「今こそ劒を取るべき時であり、怒るべき時であり、恩惠を施すべからざる時である。領主よ、吾々を助けよ。彼奴等を皆殺しにせよ」。
絶對者への信仰があれば、相對的な現實を徹底的に無視するすさまじき理想主義と、逆に現實を徹底的に重視するしたたかな現實主義との、兩極端を激しく往來する事になる。しかるに吾々日本人は、絶對者を持たぬゆゑに、皇國史觀だの平和だの自由だのといふ相對的なるものを絶對視するしかない。そしてその弱みを忘れるや忽ち神憑り的な絶對主義者となり、現實の變化を無視する事になるが、そこまで徹底する者は稀であり、多くは現實の顏色を窺ふから、當然「情況の變化」に腰碎けとなる譯である。要するに、理想主義は強き現實主義に反撥する爲の強さを缺き、一方、現實主義は強き理想に反撥する強さを缺いて、理想主義といふ現實主義もしくは「平氣の平三」主義に堕するのである。例へば三島由紀夫は絶對者のために腹を切つた譯ではない。天皇も國體も相對的なものだといふ事を三島は知つてゐた。相對的なものに「殉じた」以上、一方に「狂氣の沙汰」と決めつける者がをり、他方にその「憂國」の至情を思ひ襟を正す者がゐて當然である。今後も同樣で、國體つまり「事態の變化」いかんによつては、十年經つて三島は神と祭られる樣になるかも知れず、或いは狂人扱ひされて誰も顧みない樣になるかも知れぬ。
三島は大方の日本人が「平氣の人」である事に腹を立て、頗る派手に振舞つた擧句、腹を切つたが、獨歩はせめてもの事おのれは「驚く人」でありたいと願つて果せず、「十年間人に認められ」ず、「認められて僅かに三年」、靜かに三十八年の生涯を終へた。なぜ獨歩は「驚く人」たりえなかつたのか。獨歩は『岡本の手帳』の中にかう書いてゐる。
何故にわれは斯くも切にこの願を懷きつゝ、而も容易に此願を達する能はざるか。(中略)英語Worldlyてふ語あり、譯して世間的とでもいふ可きか。人の一生は殆んど全く世間的なり。世間とは一人稱なる吾、二人稱なる爾、三人稱なる彼、此三者を以て成立せる場所をいふ。人、生れて此場所に生育し、其感情全く此場處の支配を受くるに至る。何時しか爾なく彼なきの此天地に獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつゝあることを感ずる能はざるに至るなり。(中略)何故にわれは斯くも切に「この願」を懷きつゝ、なほ容易に達する能はざるか、曰く、吾は世間の児なれば也。吾が感情は凡て世間的なればなり。心は熱くこの願を懷くと雖も、感情は絶え間なく世間的に動き、世間的願望を追求し、「この願」を冷遇すればなり。
獨歩は自分ばかりでなく大方の日本人が和と馴合ひを重んじ、「獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつつあることを感ずる能」はず、ひたすら「世間的願望を追求」する事實には無論氣づいてゐた。三島はそれに腹を立て、「生命尊重以上の價値の所在を(中略)見せてやる」と叫んだが、では、果して三島の死は「世間的」なものを超えてゐたかといふ事になると、それはここで論じ盡くすには少々複雜な問題になる。 
なぜ「自明の理」を疑はぬ
獨歩は「宇宙の不思議」と「人生の祕密」に「驚魂悸魄」したいと切に願つたのだが、世人は「知れざるものは如何にしても知れず」とし、簡單に諦めてしまふ、「閑人の閑事業と見做し」てしまふ、だが、それでよいのだらうかと問うたのである。古代ギリシアの哲學者タレースは「宇宙の不思議」を考へ、夜空の星を眺めてゐて溝に落ち、下女に笑はれたといふ。なるほど「宇宙の不思議」も「人生の祕密」も、百年千年經つて一向に變らないが、そんなものに驚き、その祕密を知らうとするのは「閑人の閑事業」であつて、十年經つて變るものばかり氣にする「世間的」な手合が「閑事業」なんぞに精を出す譯が無い。哲學者のパトスたる驚異の念なんぞに拘泥する譯が無い。
取分け明治この方、吾々日本人は「實なき學問は先づ次にし、專ら勤むべきは人間普通日常に近き實學」とて、「閑人の閑事業」を等閑にして怪しまず、世間有用の學を重んじて、當座の用に役立ちさうもないテオリアを輕んじたのである。テオリアといふギリシア語は實用を離れ、專ら見るためにのみ見る事を意味する。「宇宙の不思議」や「人生の祕密」を見据ゑたら、それについてとことん考へる樣になつて當然である。勿論、シヨーペンハウエルも言つてゐる通り、そんな事に沒頭してパン一つ燒ける樣になる譯ではない。溝に落ちて下女に笑はれるが關の山であらう。けれども、宇宙の不思議と人生の祕密に「驚魂悸魄」したからには、その「不思議を闡明せん」とする者がゐて當然である。例へばデカルトはバヴアリアの寒村で、「一切の憂ひから解放され、たつたひとり、平穩なる閑暇を得」、「ただの一度でも自分を欺いた物は決して信用すまい」と決意してそれをやつた。太陽は吾吾の目には小さく見えるが、實際は巨大であつて、それなら感覺は吾々を時に欺くのである。感覺の一切を疑はねばならぬとなれば、おのが肉體の存在すら覺束無いものになる。また、二足す二は四とは果して自明の理であるか。吾々が二に二を足す時、常に誤つて四としてしまふやう、もしも神が吾吾を創つたとしたら、一體どういふ事になるか。さういふ事をデカルトは本氣で考へた。
無論、これは多少なりとも西洋哲學を齧つた者なら誰でも知つてゐる事だが、デカルトの徹底的な懷疑について知る事は、そのまま自ら物事を合理的に究めようとする事を意味しない。
西周がフイロソフイアを「希哲學」と譯してから百年以上の歳月を閲し、知を愛して自明の理を疑ひ拔いたソクラテスやデカルトが譯されてこれまた久しいが、依然として吾國の論壇は、「事の實際を奈何せん」と言はれてぐらつく程度の、現實的であるがゆゑに空疎な防衞論を、囂しく上下してゐる。吾々の洋學は「恰も漢を體にして洋を衣にするが如し」と福澤諭吉なら言ふであらう。おのが肉體さへ疑つて掛つたデカルトは、西洋哲學史上有數の天才との定評ゆゑに尊敬されてゐるに過ぎない。「二二が四は死の端緒だ」と『地下室の手記』の主人公も言つてゐるが、これまた大天才ドストエフスキーが創造した人物だから、人々は一目を置いてゐるに過ぎない。日本人のドストエフスキー好きはよく知られてゐるが、『作家の日記』の中の次の樣な文章を、ドストエフスキーの愛讀者は一體どんな顏をして讀むのであらうか。
「しかし血だからな、なんといつても血だからな」と、賢者たちはばかの一つ覺えのようにいう。が、まつたくのところ、この血云々という天下ご免のきまり文句は、時とすると、ある目的のために乘ぜんとする思いきつた空疎な、こけおどかしの言葉の寄せ集めにすぎない。(中略)ずるずるべつたりに苦しむよりは、むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい。そもそも今の文明國間の平和のいかなる點が、戰爭よりもいいというのだろうか?それどころか、かえつて平和のほうが、長い平和時代のほうが、人間を獸化し、殘忍化する。(中略)長きにわたる平和は常に殘忍、怯儒、粗野な飽滿したエゴイズム、そして何よりも、知的停滯を生み出すものである。(米川正夫譯)
戰後三十數年、日本の「賢者たち」もまた、保守革新の別無く、「しかし血だからな、なんといつても血だからな」との「天下ご免のきまり文句」を空念佛よろしく唱へ續けた。戰爭を惡とし平和を善とする自明の理を人々は疑はず、戰爭の何が惡いかと開き直つた者は殆どゐなかつた。それゆゑ「日本は軍事大國になつてはいけない」と、保守も革新も口を揃へて言ふのであつて、猪木正道氏は「少くとも二十世紀中は、わが國は軍事大國になつてはいけない」と書き、三好徹氏は「日本が清水(幾太郎)氏の望むような軍事大國になつてから後悔したところで間に合わない」と書き、五味川純平氏は「自民黨としては(中略)軍事大國の道へ日本を推進しようとするであろう。そのツケは全部國民にまわつて來る」と書き、上山春平氏は「私たちは、いま、軍擴にたいする齒どめを失つた情勢のもとで、重大な決斷をせまられている」と書き、日本國の代表たる鈴木善幸氏も、ワシントンまで出向いて、「日本は軍事大國にならず、平和憲法を守り、專守防衞に徹する」とアメリカの大統領に言つたのである。「軍事大國になつてはいけない」とは天下御免の決り文句、自明の理なのであつて、自明の理だから誰も本氣で疑はうとしない。が、日本が軍事大國になれるか否かの詮議はさておくとして、軍事大國になる事がなぜ「いけない」事なのか。 
道徳と私情を素通りする怪
「日本は軍事大國になつてはいけない」と主張する人々は、日本がまたぞろ侵掠戰爭をやらかす事を恐れてゐるのであらう。だが、軍事大國になる事と侵掠戰爭をやる事とは別だが、それはともかく、侵掠戰爭であれ專守防衞であれ、戰鬪状態となつたら敵兵を殺さなければならぬ。それは專守防衞論者といへども否定しないであらう。「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまえ、前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げる」のが「一億一千萬の生きる道」だと野坂昭如氏は書いた。揉み手して愛嬌を振り撒いても、毆られる時はやはり毆られる。それは小學生でも知つてゐる常識だが、卑屈な「商人の氣がまえ」を説いた野坂氏にしても、侵掠されたらゲリラとして戰ふと言つてゐる。だが、戰へば當然敵兵を殺す事になる。では、敵兵を殺す事は善い事なのか。
昨今囂しい防衞論議が、かういふ道徳上の問題を素通りして怪しまぬ事を、私は怪しむのである。「軍事大國になつてはいけない」とか「侵掠戰爭はいけない」とか言ふ場合、その「いけない」とは道徳的に「いけない」事なのか。それとも政治的にまづいといふ事なのか。「侵掠戰爭はいけないが、專守防衞つまり正當防衞としての殺人は許される」と專守防衞論者は主張するであらうが、時と場合によつて許されたり許されなかつたりするのなら、戰爭は絶對的な惡事ではないといふ事になる。そしてそれを認めるなら、殺人は絶對惡ではないといふ事をも認めねばならぬ事とならう。だが、戰場において敵を殺す事が惡事でないとしても、敵兵のすべてが惡しき人なのではない。それゆゑパスカルはかう書いた。
或男が河の向うに住んで居り、彼の殿樣が私の殿樣と喧嘩をして居るというので、私は少しも其男と喧嘩などしては居ないのに、彼に私を殺す權利があるなんて、こんなおかしなことがあるものだろうか。
なるほどをかしな事である。山田氏がイワーノフ氏と親交を結んでゐても、ブレジネフ氏が鈴木善幸氏と「喧嘩」をすれば、戰場でイワーノフ氏が山田氏を殺す事は許されるやうになる。餘りにも當り前の話ではないかとて常人は決して怪しまないが、パスカルは常人が自明の理とするものを怪しんだのであつて、さういふ驚異の念が哲學のパトスなのである。しかるに常人は、「防衞力の整備」や「ソ聯の脅威」や「專守防衞」の要を説いて、それらがいづれも「殺人のすすめ」である事を意識しない。無論、當人も決して死にたくはないから、「平和はよい事に決つてゐるが」云々と一言斷らずには防衞を論ずる氣になれないが、なぜさう斷らずにゐられないかを決して考へないから、殺人が時と場合によつて許されたり許されなかつたりする不思議について熟と考へてみる事が無い。非武裝中立論とて同じ事であつて、何せ日本は戰後三十數年、戰爭に捲き込まれず、「それ見たか」と嘲弄される羽目には一度も陷らなかつたから、政治的に「よい事に決つてゐる」に過ぎぬ平和を説いて、道徳的善行をなしつつあると錯覺し、それゆゑ他の徳目の一切を輕んじて今日に至つたのである。愛情や友情は私事であり、私事であつて當然だが、公ばかりを考へる政治學者は私を無視して非人間的に振舞ひ、遂にその非人間性を悟らない。例へば坂本義和氏は、「民族解放」を旗印に戰つた筈の「ヴエトナムが侵掠的行動をとつたことを根據に、過去のヴエトナムの旗記に殘る反戰自體が誤りあるいは無意味であつたかのような言説が現れ、それがヴエトナム反戰の立場をとつた人々の間にも困惑を生んだ」事を遺憾とし、進歩派の結束を計るべくかう書いた。
われわれがヴエトナム民族の解放鬪爭を支援するというのは、ヴエトナム人のその特定の行動を支持することであつてをことであつて、ヴエトナム人のすべての行動を支持したり、ヴエトナム人であること自體を格別に好感することを意味しないのは當然のことである。
いかにも政治學者らしい、頗る非人間的な文章である。かつて高坂正堯氏が説いた樣に、「國際政治に直面する人びと」は、屡々「最小限の道徳的要請と自國の利益の要請との二者擇一を迫られる」。つまり、平時にあつては自國の利益ばかりを追求する事はできないが、一方、他國の「すべての行動を支持」するなどとは論外だといふ事である。だが、私生活において吾々は、友人の「特定の行動」だけを「支持する」事によつて親交を結ぶ譯にはゆかぬ。專らおのが利益を考へて友人の「特定の行動」だけを支持すれば、友人の信頼を得る事は難しからう。それゆゑ吾々は、時におのが利益や「最小限の道徳的要請」を無視しても、友人の「すべての行動を支持」する、或いは支持したいと願ふ。かくて世間がいくら指彈しようと、殺人鬼の妻は夫を庇はうとし、いくら拷問されても、天野屋利兵衞は赤穗浪士に義理を立て、「利兵衞は男でござる」とて頑として口を割らない。だが、それも百年千年經つて一向に變らぬ人情の不思議なのだが、坂本氏にはそれが全く見えてゐない。福澤諭吉は「立國は私なり、公に非ざるなり」と書き、「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。が、專ら公を重んじて平和を説き、私を忘れて非情になる政治學者に、福澤の説は理解し難いであらう。
そればかりではない。目下「滅公奉私」の氣樂を享受してゐるこの日本國において、私にこだはる人情の機微なんぞを云々すれば、漸う受け始めた「父親の論理」を振り廻して、おのれもまた死にたくないとの私情に氣附かぬ保守派には嫌がられ、一方、ただもう死にたくないの一念で、正直に、といふよりは俗受けを狙つて、女々しい「母親の論理」に縋り附く進歩派には喜ばれる、さういふ事にもなり兼ねない。けれども、「死にたくはないが死なねばならぬ」のが人間なのである。誰しもいづれは必ず三途の川を渡らねばならないし、自由などといふ抽象的なもののためでなく一家眷族親友のためにおのれを殺さねばならぬ事もある。死にたくないが死なねばならぬとは別段奇怪な事ではあるまい。いや、どうでも奇怪でならぬなら、その不思議を熟と考へたらよいのだ。さうすれば、公と私との、すなはち政治と道徳との對立緊張を合點する樣になるであらう。誰でも私としては死にたくない、けれども公の爲には死なねばならぬ。けれども、せめて一家眷族の爲ならばともかく、自由だの國體だのの爲に死ぬ氣にはなれぬ。けれども、神風特攻隊の若者は「天皇陛下萬歳」を叫んで死んだではないか。けれども、あれは若氣の至り、神憑りゆゑの輕はずみに過ぎぬ。けれども乃木希典が腹を切つた時……、この「けれども」の堂々巡りに決着はつくまい。そこで、專ら能率と實用を重んずる手合は「死にたくない」と「死なねばならぬ」との對立の平衡をとる事をやめ、おのれの屬する集團の正義に飛び附く事になる。死にたくないと公言するのは、さすがに憚られるからである。そしてさうなれば、おのが集團とそれに對立する集團との勢力均衡を案じ、世間の右傾や左傾を嘆く事を生甲斐とし、それを道徳的善事と錯覺する樣になる。おのが黨派の正義に合致せぬものをすべて惡とするのだから、いたつて解り易く頗る氣樂だが、死にたくないが死なねばならぬかと煩悶するのは氣骨が折れるし、それに何より、常住坐臥おのが死を考へる樣に人間は出來てゐないから、「公の爲に死なねばならぬ」と主張する保守派は自分が死ぬ事は考へず、「死にたくない」と口走る進歩派も、まさか死ぬ事はあるまいと高を括つてゐる。そこで政治と道徳とのごつた煮とも評すべき平和憲法を戴き、空念佛さながらに平和の善を唱へつつ、吾々は遮二無二稼ぎ捲つたのであつた。憲法前文には「政治道徳の法則は、普遍的なものであり」、「いずれの國家も、自國のことのみに專念して他國を無視してはならないのであつて」云々とあり、これは道學先生よろしく世界各國に説教してゐるのか、各國に憐みを乞うてゐるのか、いづれにせよ卑屈極まる文章だが、さういふ恥づべき憲法を改正せずして三十數年、毒はじわじわと利いて來たのである。「死なねばならぬ」、「いや死にたくない」と言ひ合つてゐるうちに、生きてゐる間に「死んでもやりたくない」と昔なら思つた事を、人々は平氣でするやうになつた。昔、白木屋百貨店が燒けた時、衣服が亂れるのを恥ぢて飛び降りずに燒死した女が數多くゐたといふ。が、今の女はパンツをはいて六本木を歩くのである。かくて福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃ひ、吾々は「人事國事に瘠我慢は無益なりとて、古來日本國の上流社會にもつとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着」して怪しまない。例へば猪木正道氏は、自衞隊に「非核裝備としては第一級の武器を配備すれば、精神面の問題もおのずから解決する」と書いてゐるが、私は猪木氏に同じない。よろづこれほどぐうたらに處して事無き日本國の軍隊である。「第一級の武器」を手にした位の事で奮ひ立つ譯が無い。
自國の軍隊を腐して樂しむのは言語道斷である。それゆゑ私は自衞隊を腐してゐるのではない。それどころか、私は自衞隊のフアンであり、自衞隊が國軍として認知される日を待ち侘びてゐる。だが何よりも私は「自衞隊」といふ名稱が氣に食はない。それは「軍備増強」と言はずして「防衞力整備」と言ふが如きもので、戰爭を惡事とする淺薄な思做しゆゑのまやかしに他ならぬ。そこで、わが愛する自衞隊の爲に、その思做しの淺薄を嗤つておくとしよう。 
「一匹」か「九十九匹」か
周知の如く、カンボジアのポル・ポト政權はプノンペン制壓後、百萬人のカンボジア人を虐殺したといふ。「百萬人の處刑とは途方もない」とポル・ポト氏は言ひ、ついで聲を潛めて「革命にとつて敵對的で、箸にも棒にもかからない人口の約五パーセントは處分した」と、NHK取材班に告白したといふ。ポル・ポト氏の信奉する正義がいかなるものか私は知らぬ。が、毛澤東は何と千五百萬の中國人を殺したと聞いてゐる。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人だが、八十萬で結構である。八十萬人殺したと聞けば人々は慄然とするであらう。だが、肅清されたのは「惡しき人々」だつたのである。共産革命以前、中國の農民は凄じい搾取に喘いでゐた。毛澤東は貧農の倅ではなかつたが、若き毛澤東が國民黨や地主や軍閥による社會的不正に憤り、革命運動に身を投じたとして、それを誰も非難する事はできまい。人民の塗炭の苦しみを餘所事として、ひたすら立身出世を願ふ青年を誰も好ましくは思ふまい。が、苛歛誅求を恣にする惡黨なら何十萬殺さうと構はぬと、果して言切れるか。言切れまい。なぜなら、毛澤東が殺した八十萬人のすべてが、虐げられた人々を搾取する惡黨だつたかどうかは疑はしいからだ。つまり正確に言ふなら八十萬人は「人間毛澤東によつて惡人と判定された人々」だつたのであり、絶對者ならぬ人間の判斷に誤謬は附き物だから、毛澤東が善人をも肅清した事は確實なのである。
これを要するに、暴政を憤り、社會正義の爲に戰ふのは立派な事だが、その爲には惡人を排除せねばならず、その際、惡人との判定を獨裁者がやらうと、多數決に從はうと、誤謬は避けられず、獨裁者の恣意や無責任な群衆心理ゆゑに、惡人を除かうとして善人が除かれる事は不可避だといふ事になる。それに、中國革命に限らず、元來は純粹な正義感に發する筈の革命が、たとひ政治的に良き事態を招來したとしても、その過程において、暗殺、裏切、密告、拷問などの道徳的惡事が行はれるのはこれまた不可避なのである。
以上の事を否定する者は一人もゐないと私は信ずる。が、それならここで私が、「暗殺、裏切、密告、拷問は、社會的不正を糺す良き政治にとつて不可缺だ」と言切つたら、讀者は私に同じるか。同じまい。では、なぜ同じないのか。無論、それは目的の爲に手段を選ばぬ事を認めたくないからであらう。だが、手段を選んでゐては、革命などといふ荒療治をやれる筈が無い。強者が恣に振舞ひ、弱者が極度の貧苦に喘いでゐる時、吾々はルソーと共に、同胞の悲慘を見るに忍びない「生來の感情」を信じ、「義を見てせざるは勇無きなり」とて荒療治を躊躇せぬであらう。他人の苦惱をおのが苦惱以上に苦しむといふのは嘘である。が、厄介な事に、人々はそれは決して嘘ではないと思ひたがるのである。ソクラテスは「不正をなすよりも不正を忍ぶはうがよい」と言つたが、そんな「理性的な徳」で人間は動きはしない、とルソーは言ふ。苦惱する同胞を見て「反省せずに助けようとする」のは憐憫の爲であり、それは「自然な感情」であり、ゆゑに「精密な議論」なんぞを必要としない、と言ふ。
なるほど、不正を忍び懊惱する同胞を尻目に、「死にたければ死ぬがよい、俺さへ安全なら何百何千死なうと構はぬ」などと嘯く冷血漢を、吾々は許せないのである。それなら、さういふ冷血漢は成敗せねばならないか。荒療治をやらねばならないか。それに何より、人を殺すのは道徳的に惡しき事だといふが、人を殺した惡い奴を殺す事は果して惡い事なのか。惡人を殺す事が惡いなら、なぜ死刑制度を撤廢しないのか。私は詭辯を弄してゐるのではない。これは難問中の難問であつて、古來多くの哲人が考へ拔いたが、今なほ決着はついてゐないのである。「汝の敵を愛せ」と言つたイエス・クリストは決着をつけた積りだらうが、吾々凡人は「カイゼルのもの」にこだはつて、「神のもの」だけを重んずる譯には到底ゆかない。
イエスはかう言つてゐる。「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」。けれども、九十九匹を重んじて、いや五十一匹を重んじて、「失せたる一匹」どころか「失せたる四十九匹」を切り捨てるのが政治といふものだ。道徳は切り捨てられる四十九匹は愚か「失せたる一匹」にもこだはるであらう。殺人鬼の妻は夫を何とか庇はうとするであらう。が、カイゼルの世界、即ち政治の世界では、殺人鬼はやはり切り捨てねばならない。すなはち處刑されねばならない。 
政治・道徳そして瘠我慢
既に充分であらうが、この政治と道徳との對立も百年千年經つて一向に決着がつかないのである。そして、防衞とはもとより一朝有時の際敵兵を殺す事だから、防衞を論じて道徳の問題を避けては通れぬ筈だが、吾國の防衞論議は核武裝がどうの、文民統制がどうの、ソ聯の脅威がどうのと、十年經てば變りうる政治の問題にのみかかづらつてゐる。だが、善人ぶるのも人間の性だから、當人は政治の次元で考へてゐる積りでも、ついうつかりして道徳の次元に迷ひ込む事はある。その時はどうなるか。政治と道徳とをいとも安直に混同する事になる。さういふ例は枚擧に遑無しだが、ここでは猪木正道氏の文章を引くとしよう。猪木氏は三十年前かう書いた。
ほんとうの革命は、──イギリスの革命もアメリカの革命も、フランスの革命も、ロシアの革命も、又中國の革命も、──破壞的であると同時に創造的である。否、破壞的であるよりは、創造的なのである。新秩序を創造する革命は、したがつて新道徳を創造するから、道義の頽廢等起りようがない。(『革命と道徳』)
若き日の猪木氏は革命と道徳に言及して屡々兩者を混同してゐる。現在の猪木氏は防衞や憲法を論じて「道義の頽廢」に言及する事が無いけれども、例へば次のやうな文章を讀めば、猪木氏が今もなほ政治と道徳とを峻別してゐない事は明らかである。
全世界を敵として戰うという暴擧をあえて行つた軍國日本は、敗戰と全土占領の結果、非軍事化されてしまつた。これはいわば天罰である。
無論、「全世界を敵として戰う」のは下策だが、大東亞戰爭は果して「暴擧」だつたか。個人と同樣に國家も、全世界を敵に廻してもおのが信念を貫かねばならぬ時がある。そして、全世界が相手だらうが、一國が相手だらうが、戰爭は所詮殺し合ひである。敵も身方も道徳的惡事たる人殺しに專念するのである。天罰とは「天が加へる罰」ないし「惡事の報いとして自然に來る災ひ」の謂だが、殺し合ひの結果、軍門に降つたはうにだけなぜ天罰が降るのか。猪木氏の論理の粗雜についてここではこれ以上論じないが、要するに、猪木氏は政治と道徳とを峻別してゐないのである。それゆゑ、大東亞戰爭は侵掠戰爭で、侵掠戰爭の惡事たるは自明の理だと思つてゐる。そして、世間が自明の理としてゐるものを疑はぬこの種の知的怠惰は、もとより猪木氏に限つた事ではないのであり、自衞の爲の戰爭はよいが、侵掠戰爭は惡いと信じてゐる手合は頗る多いのである。だが、自衞の爲の戰爭を肯定する以上、他國の侵掠を想定してゐる譯であつて、それなら專守防衞論者は、侵掠が絶對に許されないのは自國の場合だけだと主張してゐる事になる。けれども、自國には絶對に許さないが他國の場合は仕方が無いといふ事なら、それは絶對に「絶對的な惡事」ではない。專守防衞とは先に手出しをしないといふ事でしかないが、子供の喧嘩と同樣、先に手出しをしたのがどちらか常に解るとは限らないし、先に手出しをした方が惡いとも言切れまい。
さういふ次第で、戰爭を絶對惡とするのは知的怠惰ゆゑの虚説なのである。平和とは國際政治の場で巧妙に振舞つて保持するのが賢明、といつた程度のものでしかない。先に引いたドストエフスキーの文章にもある樣に、「むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい」といふ事があり、「長い平和」が「人間を獸」とし、「知的停滯」を齎すといふ事がある。平和がすなはち道徳的に善き事だなどと、どうして言切れよう。が、吾々日本人は今、平和と繁榮を享受し、「モラトリアム國家」を決め込み、政治と道徳を峻別せぬ「知的停滯」に落ち込んでゐる。俗に「味噌も糞も一緒」といふ。味噌と糞とを區別できない者には、味噌の何たるかも、糞の何たるかも遂に解るまい。政治と道徳を峻別出來ぬ者は、政治の何たるかも道徳の何たるかも知らず、その雙方を眞劒に考へる事が無い。それゆゑ、福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃つたのである。福澤は「強弱相對していやしくも弱者の地位を保つものは、單にこの瘠我慢によらざるはなし。ただに戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際においても瘠我慢の一義はけつしてこれを忘るべからず」と書き、自分は勝海舟と榎本武揚の「功名をばあくまでも認むる」が、兩氏が幕臣の身ながら「新政府の朝に立つの一段に至りては」感服できぬとて、二人の「瘠我慢」の無さを批判した。これに對して勝海舟は「古より當路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に當る者あらず。計らずも拙老先年の行爲において御議論數百言、御指摘、實に慙愧に堪へず、御深志かたじけなく存じ候」と、皮肉たつぷりの返事を出してゐるが、「行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與らず我に關せずと存じ候」と書いただけで、眞つ向からの反論はしなかつた。勝は「徳川幕府あるを知つて日本あるを知らざるの徒」が何を言ふかと、思つたのではない。瘠我慢の大事はこれを認めざるをえなかつたのである。榎本武揚も「そのうち愚見申し述ぶべく候」との短い返書を認めたが、榎本にしても、戰歿した「隨行部下の諸士」を思ふ時、「殘燈明滅ひとり思ふの時」、「死靈生靈、無數の暗鬼を出現して眼中に分明なること」があつた。明治三年、榎本は幕府軍の戰沒者について、「諸君を追想し、苟も涙あるものは慰弔の嘆あらざるなし。況や諸士と肩を竝べて幕府に仕へし我輩の如きをや、嗚呼哀しい哉」と書いたのである。
無論、勝にとつても榎本にとつても、福澤の批判は忌々しかつたらうが、福澤の批判は道徳に關るものであり、しかも二人には「殘燈明滅ひとり思ふの時」おのが心中を覗くだけの良心があつたから、反論はしなかつた。一方、福澤は勝と榎本に宛てた書簡に、「小生の本心はみだりに他を攻撃して樂しむものにあらず、ただ多年來、心に釋然たらざるものを記して輿論に質し、天下後世のためにせんとするまでの事」だと辯明してゐる。後世の吾々はそれを信じるであらう。勝の「奇にして大」なる功績や榎本の「あつぱれの振舞」を認めるとともに、福澤の本心をも信じるであらう。「立國の要は瘠我慢の一義にあり、いはんや今後、敵國外患の變なきを期すべからざるにおいてをや」と福澤は書いたのである。隔世の感に堪へない。 
2 猪木正道氏に問ふ / 現實的保守主義者か、空想的共産主義者か

 

日本は軍事大國になれない
吾國は「大國たりうる素質」を有しながら、怠惰のせゐか卑屈な根性のせゐか、身體障害者よろしく振舞つてゐるが、「日本こそ眞先に核兵器を製造し所有する特權を有しているのではないか」と清水幾太郎氏は書いた。そんな「突拍子もない」事を放言して無事に濟む日本國ではないから、案の定、清水氏は保守革新の雙方から叩かれた。「袋叩きに遭つても殆ど痛痒を感じない」と清水氏自身言つてゐるのだから、もとより清水氏に同情する必要は無い。私はただ清水氏を叩いて保守と革新が、判子で押したやうに同じ事を言ひ立てたのを、頗る奇異に感じたのである。例へば猪木正道氏は清水氏の防衞論を「空想的軍國主義」の所産と斷じ、「舊大日本帝國的な軍事大國に逆戻りするのは、ごめんこうむりたい」と書いたが、猪木氏に限らず、防衞を論じて大方の論者は「わが國は軍事大國になつてはいけない」とする奇説を自明の理と看做して一向に疑ふ事が無いのである。無論、政治家もさうであり、二月三日附のサンケイ新聞によれば、「二日から始まつた通常國會の豫算審議は、專守防衞を批判した竹田統幕議長の發言をめぐつて冒頭から紛糾し、同日午後、早くも審議中斷となつた」が、「制服組の發言が強化されれば日本は危うくなるのではないか」との社會黨議員の質問に對して、鈴木首相は「日本は平和憲法下にあり、從つて專守防衞に徹しなければならない。(中略)わが國が軍事大國になることはない」と答へたといふ。つまり「わが國は軍事大國になつてはいけない」と、自民黨も社會黨も、男も女も、猫も杓子も言ふ譯だが、吾國が軍事大國になつてなぜいけないのか私にはさつぱり解らぬと、私は前章に書いた。
何たる無知蒙昧か、思ひ起すがよい、軍事大國たらんと分限も辨へず背伸びした擧句、大日本帝國は敗戰の憂目に遭つたではないか、さればこそ「軍事大國に逆戻りするのは、ごめんこうむりたい」のだと、猪木正道氏に倣つて大方の讀者は言ふかも知れぬ。が、軍事小國でありさへすれば再び決して敗戰の憂目には遭はないと、いかなる根據あつてさう斷じうるか。猪木氏は書いてゐる。
一九四一年十一、二月の大日本帝國と一九八〇年の日本國とを比べて見れば、清水幾太郎氏の讚美する軍事大國と彼が輕侮する軍事小國との國際的な立場は餘りにもはつきりしている。“舊い戰後”の日本國は孤立せず、北方を除いては友好國にとりかこまれているのに反して、軍國日本はABCD包圍陣に自爆しなければならなかつた。
猪木氏に尋ねたい、日本が軍事大國にならない限り、以後決して「ABCD包圍陣」ごときものに「自爆」する事が無いと言切れるか。言切れるとすればその根據は何か。アメリカとソ聯は軍事大國である。が、兩國はそれぞれ友好國ないし衞星國に取り圍まれてゐる。軍事小國でなければ「友好國にとりかこまれ」ないなどと斷じうる根據などありはせぬ。軍事大國が四面楚歌となり「自爆」する事もあらう。だが、軍事小國が「自爆」もできずして滅ぼされる事もある。それに何より、日本はアメリカやソ聯のやうな軍事大國になれる筈が無い。なれる筈が無いのになつては大變と騷ぎ立てるのは滑稽の極みではないか。 
政治と道徳の混同
しかるにその滑稽を大方の日本人は意識してゐない。昭和二十年八月十五日、戰爭と道徳的犯罪とを混同するといふ途方も無い考へ違ひをして、すなはち本來失敗に過ぎぬ敗戰を道徳的惡事ゆゑの應報と勘違ひして、以來羹に懲りて膾を吹き續け、平和憲法を金科玉條として知的怠惰の三十數年を過して來たからだ。それゆゑ、ここでまづ、その勘違ひの發端に溯り、當時書かれた文章を吟味するとしよう。まづは小田實氏の文章である。
砲兵工廠の壞滅後、ビラの豫告通り、敗戰が來た。敗戰は「公状況」そのものを無意味にし、「大東亞共榮圏の理想」も「天皇陛下のために」も、一日にしてわらうべきものとなつた。私は、中學一年生という精神形成期のはじめにあたつて、ほとんどすべての價値の百八十度轉囘を經驗したのである。「鬼畜米英!」と聲高に叫んだ教師がわずかの時日ののちには「民主主義の使徒アメリカ」、イギリスの紳士のすばらしさについて語つた。その經驗は、私に「疑う」ことを教えた。すべてのものごとについて、たとえどのような權威をもつた存在であろうと、そこに根本的懷疑をもつこと、その經驗は私にそれをいまも強いる。(『「難死」の思想』)
小田氏が一切を疑ふやうになつたと言ふのは嘘である。嘘でないなら自己欺瞞である。小田氏は昭和二十年八月十四日まで「權威をもつた存在」として通用してゐたものの一切を、十五日から疑ふやうになつたに過ぎない。その證據に小田氏は、猪木正道氏と同樣、民主主義や文民統制の萬能をつひぞ「根本的」に疑つた事が無いであらう。そしてそれも、猪木正道氏と同樣、「第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」した結果、「おのずから嚴肅な精神」とやらを「體得」したからであつて、平和憲法の「前文や、第二章、第三章、及び第十章のあたりを熟讀玩味」(猪木氏)した結果、「わが國は軍事大國になつてはいけない」と頑に信ずるやうになつたために他なるまい。
ところで、かつての「べ平連」の「鬪將」が右に引いた文章を綴つたのは昭和二十六年だが、その前年、先の防衞大學校長猪木正道氏も、「空想的平和主義者」小田實氏の言分と大差無い事を書いたのであつた。かうである。
道義の頽廢の原因を究明してゆくと、結局ポツダム革命がほんとうの革命ではないというところに歸着するようだ。舊秩序はもう燒がまわつており、内部的に崩壞しているから、舊道徳の復活によつて、道徳の頽廢を防ごうという考え方は失敗するにきまつている。そこで正しい解決法は、ほんとうの革命をやるよりほかにないということになる。ところがこれが一番難題であつて、中國やロシアのような流儀で、共産主義革命をやろうとしても、日本では成功の公算はない。(中略)それではこの難問が解けるまでの間は、どうするか? 今まで道徳と革命との關係の面ばかりを強調して來たが、道徳には、實は連續的な面がある。道徳の現象形態は革命を通じて變化するが、道徳の本質は、人間が人間である限り變るものではない。(中略)この不變の道徳を何と名づけるか、これは名づける人の勝手だ。(中略)何かはつきり書いたものが欲しいというならば、憲法に限る。占領軍が作つたからいけないという人もあるようだが、これはとんでもない話で、誰が原稿を書いたにしても、よいものはよい。日本にほんとうの革命が行われるまで、あの憲法を精讀することだ。あの憲法の前文や、第二章、第三章、及び第十章のあたりを熟讀玩味すれば、第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪はまざまざと想起され、おのずから嚴肅な精神さえある程度體得できる。
猪木氏はここで政治と道徳とを混同してをり、その事については追ひ追ひ述べるが、とまれ、猪木氏は、平和憲法には「不變の道徳」が「はつきり」表現されてゐると信じ、日本に「ほんとうの革命」が「行われるまで」は平和憲法を護らねばならず、改憲など斷じて許されないと主張した譯である。猪木氏の言ふ「ほんとうの革命」とは、傍點部分の「あたりを熟讀玩味すれば」、共産主義革命の事だといふ事が解る。昭和二十七年上梓の『戰爭と革命』、百五十六頁にも、猪木氏は「イギリスでは、議會主義を堅持しながら、プロレタリアの獨裁が實現されるのかも知れません」などと書いてゐるのだが、プロレタリア獨裁と議會制民主主義とは水と油で、そんなものが兩立する筈は無い。さういふ突拍子もない事を言ふから、「貧弱かつ劣惡な知識しかなく、わが國の防衞政策を論じるに全く適さない人物」だなどと評されるのである。 
空想的平和主義者だつた猪木氏
ところで、昭和五十六年の今、猪木氏は依然として日本に「ほんとうの革命」が興ればよいと考へてゐるのであらうか。右に引いた三十年前の文章は「空想的平和主義」の所産に他ならず、猪木氏はさらに「新憲法の平和主義も、今日ではもう眞面目に問題とされていない」、遺憾であるとか、「第二次大戰の放火者であり、かつ完敗者であるわれわれ日本人が、そう簡單に動搖してはならないはずだ。第二次世界大戰を通じて、われわれは勝利者達に教えてもらつたが、今や敗北者が教えるべき時ではなかろうか」とか書いてゐるのだが、今日の猪木氏はどうなのか、空想的ならざる平和主義者なのか。
猪木氏は今なほ「日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」し、「新憲法の平和主義」が「今日ではもう眞面目に問題とされていない」事を遺憾に思ひ、「敗北者」たる日本が「勝利者」たる英米ソ中の四ヶ國に「新憲法の平和主義」の精神を教へてやるべきだと考へてゐるのであらうか。昨年、清水幾太郎氏を批判して猪木氏はかう書いた。
かねがねから私は、戰後日本の空想的平和主義が、空想的軍國主義を生むのではないかと懸念していた。戰後の空想的平和主義が戰前・戰中の空想的軍國主義の裏返しであるからには、敗戰後三十五年をへた今日、またその裏返しとしての空想的軍國主義が噴出したとしても決して不思議ではない。
その通り、決して不思議ではない。不思議なのは、さうして昭和五十五年に空想的平和主義を批判してゐる「現實主義者」の猪木氏が、昭和二十五、六年には空想的平和主義者だつたといふ事實である。「革命自體が、實は不變の道徳によつて可能となつた」のであり、それは吾國の平和憲法に表現されてゐるなどと主張する者を「空想的」と呼ばずして何と呼べようか。若き日の猪木氏には人間の度し難い權力欲が見えてゐない。正義感に燃える革命家の内面にも權力欲は潛んでゐる。そしてそれが仲間に向けられる時は肅清となり、民衆に向けられる時は獨裁となる。無論、猪木氏も人間なのだから、三十年前も今も、權力欲があつて當然である。が、三十年前も今も、猪木氏はおのが權力欲を一向に氣にしない。實生活においては、吾々と同樣、結構權力欲に駈られて行動する事もある筈だが、文章を綴る段になると、おのが權力欲には目を瞑り、とたんに空想的な道學先生になる。この手の空想家ほど始末の惡い存在は無い。それは計り知れない害毒を流す。おのがエゴイズムを抑へうる者はおのがエゴイズムに手を燒く者だけだといふ事を、すなはち有徳たらんと欲する者は、おのが不徳に思ひをいたす者だけだといふ事を、昨今人々は眞面目に考へようとせず、平和憲法護持を唱へればすなはち道徳的であるかのごとく思ひ込んでゐるが、さういふ僞善と感傷の流行に空想的平和主義者たちは大いに貢献したのである。
だが、猪木氏は清水氏を空想的軍國主義者と極めつけてゐる。「かねがねから私は、戰後日本の空想的平和主義が、空想的軍國主義を生むのではないかと懸念していた」と猪木氏は言ふ。「かねがねから」とは一體いつ頃からの事なのか。いつ頃から、いかなる囘心を經て、猪木氏は「現實主義者」に變貌したのか。昭和五十五年現在、空想的軍國主義と空想的平和主義の雙方を批判してゐるのだから、往時は知らず、今の猪木氏は現實主義者なのである。或いはその積りでゐるのである。それゆゑ猪木氏は人間の行動の「動機」よりも「結果」を重視する。猪木氏は書いてゐる。
清水幾太郎氏の思想の軌跡には、私は關心がない。(中略)ただ困るのは、清水幾太郎氏の今度の論文が、日本の防衞力整備にとつてむしろマイナスの效果をもたらすと思われる點である。單に國内的にそういう逆效果があるだけでなく、國際的にも、日本の“軍國主義化”といういわれのない非難を生む心配は大きい。歴史をふりかえれば、人間の行動がその動機とは正反對の結果をもたらした例は少くない。
いかにも「人間の行動がその動機と正反對の結果をもたらした例は少くない」。が、猪木氏の清水批判にしてからがさうではないか。現に東京新聞の「論壇時評」で奧平康弘氏は、猪木氏は「清水の憲法敵視論にも有效な批判を加えている」と評し、讀売新聞の「今月の論點」では正村公宏氏が、猪木氏の論文は「清水論文にたいするゆきとどいた批判である」と評した。猪木氏の清水批判が非武裝中立を主張する護憲派を勢附ける「結果をもたらした」といふ事も充分に考へられるのである。
もつとも、猪木氏は昭和二十七年、「民主主義と平和主義の憲法をかたく守つて行くことが、日本を世界に結びつけ、日本人を人類に媒介する唯一つの正しい道だ」と書いたのであり、この考へが今なほ變つてゐないとすれば、頑な護憲論者たる猪木氏の「改憲論批判」といふ「行動がその動機と正反對の結果をもたらした」とは言へなくなる。そしてそれなら、猪木氏の清水批判によつて非武裝中立論者が勢附くのは、猪木氏の望むところだといふ事にならう。 
改憲論者なのか護憲論者なのか
しかるに猪木氏は昨年、「憲法改正はほとんど不可能」だとする清水幾太郎氏を批判して、改憲は「不可能どころか、充分に可能」であり、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよい」と書いたのである。猪木氏に問ふ、「平和憲法をかたく守つて行く」との三十年前の信念を、猪木氏はいつ放擲してしまつたのか。堅く護るといふ事なら、部分的な改正にも應ずべきではない。猪木氏は清水氏を評して「狐が落ちたように變身」とか「百八十度の轉針」とか言つてゐるが、猪木氏もまた變身し轉身したのなら、それこそ目糞鼻糞を嗤ふの類ではないか。
しかも厄介な事に、三十年前の猪木氏の意見と今日のそれとが矛盾してゐるだけでなく、今日の猪木氏の主張も頗る不得要領なのだ。猪木氏は書いてゐる。
憲法第九條第二項を小、中學生が讀めば、自衞隊を違憲だと思うだろうというのならば、第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」とでも改正すればよい。(中略)國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよいと私は考えている。問題は改憲の國際的反響にある。そもそも日本國憲法が日本を國際社會へ復歸させるための條件をととのえるという國際條約的な意味をもつていたからには、改憲、特に第九條第二項の改正は當然國際的な反響を伴う。(中略)憲法、特に第九條の改正は日本が軍事大國化を決意したと見られる公算は大きいのである。
「平和主義の憲法をかたく守る」どころか、第九條第二項の改正私案まで披露し、しかも、いづれ述べるが、「憲法の前文削除」を主張し、輿論の風向き次第では「いつでも改憲に踏み切つてよい」と言ひ、舌の根も乾かぬうちに「第九條の改正は日本が軍事大國化を決意したと見られる公算は大きい」と言ふ。一體全體猪木氏は何が言ひたいのか。
かういふふうに考へる事ができる。「防衞大學の校長まで勤めた猪木氏が、まさか……」と大方の讀者は思ふに相違無いが、猪木氏は三十年前と少しも變つてをらず、依然として「日本にほんとうの革命が行われる」日を待ち侘び、「共産主義の誤謬ばかり見て、眞理を見落すのは片手落ちだ」と信じてゐるのであり、それゆゑ、空想的なものではあつても軍國主義的言動を許す事ができないのではないか。とすれば、猪木氏は三十年前の「空想」を今も捨ててゐないといふ事になる。今なほ「空想的平和主義者」なのだといふ事になる。勿論、この解釋には無理があつて、それはいづれ説明するが、無理があるといふ事はすなはち、別樣の解釋が成り立つといふ事である。つまり、三十年前「空想的平和主義者」であつた猪木氏は、その後「狐が落ちたように變身」して現實主義者になつたのであり、それゆゑ平和主義であれ軍國主義であれ、およそ「空想的」なものには我慢ができぬのだと、さう解釋する譯である。
説明の都合上、しばらくさう解釋しておくとしよう。すなはち猪木氏を現實主義者と看做すのである。昨年猪木氏は「少くとも二十世紀中は、わが國は軍事大國になつてはいけないのである」と書いた。なぜ二十世紀中はいけないのか理解できないが、好意的に解釋すれば、これも猪木氏の頭腦の粗雜の證しではなく、なんら理由を示さずに斷定するはうが政治的に賢明だといふ、現實主義者特有の判斷にもとづくのであらう。しかしながら、「日本國憲法第九條が、軍事大國になることを阻止していることはたしか」だが、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば、いつでも改憲に踏み切つてよい」、けれども「二十世紀中は軍事大國になつてはいけない」などと言はれると、「いつでも金を貸してやるが、二十世紀中は他人に借金するやうな男であつてはいけない」と言はれた時と同樣に面喰ひ、猪木氏が正氣なのか狂氣なのか、改憲論者なのか護憲論者なのか、私にはさつぱり解らなくなる。いや、それとも猪木氏は、護憲改憲いづれか一方の立場に立つ事が「マイナスの效果をもたらす」のであり、時に應じていづれの立場にも立つ事が「プラスの效果をもたらす」と考へてゐるのかも知れぬ。さういふ考へ方の是非については前章に縷々述べたから、ここでは繰返さないが、これを要するに、猪木氏もまた淺はかな實利主義者にすぎないといふ事になる。
ところで日本が軍事大國になつてなぜいけないのか、と私は書いた。吾國は今後遮二無二軍事大國を目差すべく、核の保有もためらふべきでないなどと、私はさういふ景氣のよい事が言ひたいのではない。軍事大國になる事を政治的に賢明ならざる事、もしくは道徳的に惡しき事であるかの如く言ふ知的怠惰を怪しむまでの事である。さういふ知的怠惰ゆゑに人々は政治と道徳を混同し、政治を論じて道徳を論じてゐるかのやうに錯覺する。それゆゑ昨今は道徳の問題が眞劒に論じられる事が無い。猪木氏は「改憲とか、ソ聯の脅威とか、核武裝とかの、防衞にとつて當面虚なる問題を防衞論議から切り離」せと言つてゐるが、猪木氏に限らず大方の日本人は道徳の問題を「當面虚なる」ものと看做してゐる譯であり、それゆゑ猪木氏のやうに「防衞豫算中の裝備費を倍増し、施設整備費を二倍半にし、研究・開發費を十倍に増加」すべしなどと、專ら「當面實なる問題」を論じて「精神面の問題」を一向に論じないのである。猪木氏は自衞隊についてもかう書いてゐる。
裝備をいくら近代化しても、士氣、紀律を向上させなければ役に立たないというのは空論である。時代遲れの武器を使わせて、士氣を高めよといつても無理だ。非核裝備としては第一級の武器を配備すれば、精神面の問題もおのずから解決する。募集の問題もこれにともなつてますます改善されることは疑いない。
なるほど「時代遲れの武器を使わせて、士氣を高めよといつても無理」である。が、「第一級の武器を配備」しても、戰ふ氣力の無い軍隊なら「專守防衞」すら覺束無い。今の自衞隊に缺けてゐるのは、「當面虚である」かに見える國軍としての誇りではないか。國民が自衞隊に「奴隸的苦役に從事」する土建屋としての存在理由しか認めてゐないのなら、「第一級の武器」を與へられたとしても心有る青年が進んで入隊する筈が無い。防衞問題の「權威」として自他ともに許す猪木氏の書庫には、汗牛充棟、定めし「第一級の文獻・資料が配備」されてゐるに違ひ無い。だが、それで猪木氏の「精神面の問題」は「おのずから解決」してゐるか。いかほど士氣旺盛であらうと知力を缺けば猪武者に過ぎぬ。同樣に、第一級の文獻が「配備」されてゐようと、緻密に頭を使ふ事ができなければ立派な學者とは言へまい。そして次のやうな文章が緻密な頭腦の所産とは私にはどうしても思へない。
法學に無縁の人々が、奇妙な法理論を展開している情景は、こつけいだと思う。“一億總法匪”時代になつては大變だ。すぐれた憲法學者が少いことを考えると、他の分野の知識人が憲法を論じたくなる氣持はわかるが、文學者や哲學者の憲法論議は、やはり一國民としての意見以上の意味はあるまい。 
一億總懺悔の後遺症
「すぐれた憲法學者が少い」との判斷を「すぐれた憲法學者」が下すとは限るまいが、猪木氏は屡屡憲法を論じてゐるのである。では猪木氏は、自分も「すぐれた憲法學者」の一人だと言ひたいのか。それとも自分は「他の分野の知識人」で、自分の意見にも「一國民としての意見以上の意味は」無いと承知してをり、自分はこれほど謙虚なのに「文學者や哲學者」が身の程を辯へずして憲法を論ふ厚かましさに苦り切つてゐるのか。けれども「第九條だけを非難彈劾するのは、まるで子供の論理」だとして高飛車に清水幾太郎氏を批判してゐる猪木氏が、さまで謙虚だとは思へない。とすれば猪木氏は「すぐれた憲法學者」をもつて自ら任じてゐる事になる。つまり猪木氏は「文學者や、哲學者の憲法論議」は取るに足らぬが、「すぐれた憲法學者」たる自分の憲法論には「一國民としての意見以上の意味」があると主張してゐる事となる。だが、それほどの自信があるのなら、「國民の壓倒的多數が納得する改正案ができれば」などと心にも無い事をなぜ書くか。
それに何より、日本國憲法は音符で書かれてゐるのではない。憲法は文章であり、憲法學者も文章を綴つて憲法を論ずるのである。猪木氏の文章は杜撰だが、杜撰な文章を綴る「すぐれた憲法學者」などといふ化物は斷じて存在しない。
ところで、軍事大國になる事を道徳的惡事と思ひ做す知的怠惰についてだが、この怠惰は戰後三十數年、日本國に蔓延つて今なほ猖獗を極めてゐる。そしてそれは敗戰に際して大方の日本人が、自明ならざる事を自明と思ひ込んだ迂闊に端を發する。先に述べたやうに、猪木氏も「第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪」を「まざまざと想起」した譯だが、猪木氏のいふ罪とは道徳的な罪なのだ。猪木氏は當時、「道義の頽廢を嘆く聲は次第に高まつて」をり、「しかもこの聲が、右旋囘の波に乘つていることも、大體豫期の通り」だが、「汚職も、エロも、暴力も、皆戰爭中から始まつている」のであつて、「國内には暴力やエロが一見少いように見えた時でも、國外で日本人が何をしていたかを想起すれば、敗戰ではなくて、戰爭が責任を負わなければならないことは、明らかだ」と書いたのであつて、それは淺薄にも戰爭を道徳的な惡事だと思ひ込んだために他ならない。
戰時中「國外で日本人が何をしていたか」。勿論この場合は「侵掠」を意味しよう。つまり猪木氏は「敗戰」ではなく「侵掠戰爭」が道義的頽廢を齎したと主張してゐる譯だが、道義的頽廢を齎したものが道義的に善きものである筈は無いから、猪木氏は侵掠戰爭を道義的に惡しきものと思ひ做した譯である。そしてさうなれば、敗戰を善き事と思ひ做すのも自然であり、さればこそ猪木氏は大日本「帝國が崩壞した時、私は正直にいつて、一種の解放感を味わつた」と書く事ができたのであつた。
そして、猪木氏に限らず、敗戰によつて「解放感を味わつた」日本人は、「利口な奴はたんと反省しろ、俺は馬鹿だから反省しない」と放言した小林秀雄氏や、「眞の勇氣ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下萬歳!」と書いた太宰治のやうな旋毛曲りを除き、一億一心、「一億總懺悔」の迂闊を演じて、侵掠戰爭のみならず一切の戰爭を道徳的犯罪と思ひ込んだのであり、「一億總懺悔」とは政治と道徳とを峻別できぬ知的怠惰が齎した世にも稀なる怪現象であつた。しかも日本國民は、今なほその後遺症を患つてゐるのである。 

 

改正すべき憲法
その度し難き後遺症を嗤ふべく、私は前章にかう書いた。
要するに猪木氏は政治と道徳とを峻別してゐないのである。それゆゑ、大東亞戰爭は侵掠戰爭で、侵掠戰爭の惡事たるは自明の理だと思つてゐる。(中略)だが、自衞の爲の戰爭を肯定する以上、他國の侵掠を想定してゐる譯であつて、それなら專守防衞論者は、侵掠が絶對に許されないのは自國の場合だけだと主張してゐる事になる。けれども、自國には絶對に許さないが他國の場合は仕方が無いといふ事なら、それは絶對に「絶對的な惡事」ではない。
敢へて誇り顏に言ふが、これは誰にも否定できぬ論理ではあるまいか。そして知識人が知的誠實を重んじなければならぬとすれば、論理的に正しい事は、それがいかに不快な事實であれ、そのまま率直に認めなければならない筈ではないか。「日本は飽くまでも專守防衞に徹する所存であり」云々と、國會で政治家は紋切型の答辯をする。政治家の紋切型は構はぬ。總じて政治家はその時々政治的に賢明と思はれる事だけを語るのである。が、政治家をも含め、人間には知的誠實といふ事も大切なのであつて、それはつまり、專ら黨派の利害のみを顧慮して物を言つてはならぬといふ事である。そして、知的誠實を旨とする以上、政治的賢明は二の次とせざるをえず、保守のでたらめは見逃して革新のそれは論ふ、さういふ不誠實な態度を採つてはならない。例へば、かうして私は猪木正道氏を批判してゐるが、それを保守陣營の和を亂す淺はかとして保守派は苦り切るかも知れず、「保守同士の内ゲバ」と看做して革新は喜ぶかも知れぬ。が、さういふ精神の陋劣を私は蔑む。さうして黨派の利害ばかりを重んじて生きてゐるから、敵身方思考を超えるものにはさつぱり思ひ至らない。が、政治と道徳に關する難問は黨派を超えてゐる。「沂に浴し、舞雩(う:雨+*)に風し詠じて歸らん」と曾皙が言つた時、孔子は「喟然として歎じて」答へたといふ、「吾は點に與せん」(『論語』先進篇第十一)、これまた黨派心なんぞとは何の關りも無い話ではないか。
もとより政治家は黨派の利害を無視する譯にはゆかぬ。が、政治家も人間であり、「舞う(雨+*)に風し詠じて歸」る樂しさは知つてゐよう。また、治國平天下のためには「惡魔の力と契約する」政治家も、黨派を超える道徳、すなはち修身を無視できまい。今は昔、國防を論じて日本の政治家も知識人も頗る眞劒であつた。そして例へば佐久間象山にせよ會澤正志斎にせよ、治國平天下を論じて必ず修身斉家に言及してゐる。なるほど「公の私」といふ事もあつたが、私の爲すべき修身なくして治國平天下はありえぬと、彼等は信じて疑はなかつた。しかるに今、識者は專ら治國平天下を論じて修身に言ひ及ぶ事が無い。國防を論じて道徳に言及する事が無い。修身といふ言葉によつて人々が連想するのはかつての徳目教育なのである。が、修身とは吾身を修めるの謂である。そして吾身を修めるためには、時に自己犧牲をも辭さぬ心構へが無くてはならぬ。道徳とはいつの世にも自己犧牲を強ひるものだが、さう考へれば、ここでも吾々は政治と道徳とを峻別せざるをえない事となる。國家が他國に對して自己犧牲に徹するなどといふ事は、金輪際ありえないからである。
それはつまり、國家と國家との間には利害の一致による友好關係はありえても、道徳的な附合ひは成り立たないといふ事だ。が、さういふ事が大方の日本人には理解できない。もとより政治と道徳との混同を好むからであつて、憲法前文こそその混同の好箇の實例に他ならぬ。「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などといふ、專ら他國の善意を當てにして生きようとする卑屈極まる文章を含む憲法は、世界に類例の無いものではないか。
それゆゑにこそ私は憲法を改正すべきだと考へる。猪木氏は第九條第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」とでも改正すればよいと言ふ。さういふ姑息な彌縫策ではもはやどうにもならぬ。政治と道徳、法と道徳を峻別できぬ、日本人の脆弱な精神を矯めねばどうにもならぬ。憲法は聖書ではない。聖書の改正は無論不可能である。それは道徳に關する聖典だからだ。が、憲法は「カイゼルのもの」である。何度改正しようと一向に構ひはしない。猪木氏は書いてゐる。
歴史を尊重し、價値を守る立場に立つ人々の中に、現行憲法を無效呼ばわりするものが見受けられるのは、遺憾この上ないことと言わなければなるまい。現行憲法無效論によつて、最大の利益をうるものは破壞勢力にほかならない。
猪木氏はなぜ「破壞勢力」の利益などを慮るのか。なぜ他人の思はくばかり氣にするのか。
猪木氏は清水幾太郎氏について「清水氏の今度の論文が、日本の防衞力整備にとつてむしろマイナスの效果をもたらす」と書き、ソ聯の脅威を力説する識者について「ソ聯軍がいとも簡單にわが國を制壓する状況を怪しげな“專門知識”で描寫すれば、善良な日本國民のなかには震え上がる人も少なくあるまい」と書き、栗栖前統幕議長について「國民が誤解しても不思議でなく、誤解が生ずる惧れは當然豫期されたはず」と書く。だが、好んで誤解を招くやうに振舞ふ馬鹿はゐまいが、人間は時に他者の思はくを無視し、誤解は覺悟の前で「眞情を吐露」せねばならぬ事もあるではないか。 
猪木氏の御都合主義
さて、私はこれまで猪木氏を現實主義者と看做して來た。が、それにも少々無理がある。現在の猪木氏の文章のあちこちに、三十年前の「空想的理想主義」がはつきり讀み取れるからであつて、猪木氏は實は、三十年前と少しも變つてゐないのではないかと私は思ふ。今もなほ猪木氏は、「日本にほんとうの革命が行われる」日を、一日千秋の思ひで待ち侘びてゐるのではないか。かつて防衞大學の校長を勤めたのも、今、總理大臣の諮問機關たる綜合安全保障研究グループの議長を勤めてゐるのも、「ほんとうの革命が行われる」までの身過ぎ世過ぎ、いはば世を忍ぶ假の姿なのだが、自民黨も世人も猪木氏の「遠謀深慮」を看破れずして、「保守イデオローグの第一人者」と看做してゐるのではあるまいか。
清水幾太郎氏は一所懸命に辻褄合せをやつたのである。それはなるほど悉く破綻したかも知れぬ。が、私は清水氏の辻褄合せを猪木氏の御都合主義もしくは「遠謀深慮」よりも好ましく思ふ。辻褄を合せようとして足掻くのは、知的誠實を全く持合せぬ人間の決してやらぬ事だからだ。が、猪木氏は三十年前の自説と今日のそれとの辻褄合せをやつてゐない。三十年前の猪木氏は「民主主義と平和主義との憲法をかたく守つて行くことが(中略)唯一つの正しい道だ」と書いたのである。猪木氏は今、「あの時はあのやうに書く事が政治的に賢明だつたのだ」と言ふのであらうか。
だが、昨年九月三十日附の『やまと新聞』によれば、猪木氏は「自民黨・國防議員連盟の勉強會に出席、憲法の前文削除や第九條の改正など改憲の注目される具體的提言」をし、「現行憲法の前文は大戰爭が終つた後の非常に特殊なふん圍氣のもとで書かれているから現状に合わない」と發言したといふ。
しかるに、同じく昨年、猪木氏は『中央公論』九月號に、憲法第九條を改正すれば「日本が軍事大國を決意したと見られる公算が大きい」と書いた。『やまと新聞』の記事が正確なら、猪木氏は『中央公論』九月號の讀者を愚弄した事になる。許し難き事である。それとも、九月號の原稿を書いてゐた時から、國防議員連盟の勉強會の當日までの間に、第九條の手直しをやつても「日本が軍事大國を決意したと見られる公算」は突如として小さくなつたのか。
猪木氏は三十年前、熱烈な護憲論者としてかう書いた。
わたくしは、民主主義と平和主義との憲法をかたく守つて行くことが、日本を世界に結びつけ、日本人を人類に媒介する唯一つの正しい道だと考えます。(中略)この憲法を守つてゆくことによつて、われわれ日本人は、イギリス、アメリカ、フランスの革命と結びつき、ロシア、中國の革命ともつながるのです。(中略)この憲法を捨てたり、改惡したりすれば、そのとたんに、日本の國土に住むありとあらゆる闇の力が、一斉に活動しはじめ、われわれ日本人は奈落の底へ落されてしまいます。これに反して、憲法さえ守り拔くことができれば、現在はいかに苦しくとも日本の前途には光明があります。
現行憲法を「かたく守つて行くこと」が「唯一つの正しい道」ならば、憲法前文の削除はもとより、第九條第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」と改める事さへ許し難い暴擧であり、それを默過すれば「日本人は奈落の底へ落されてしま」ふ事とならう。
とまれ、三十年前の猪木氏は紛れも無い「空想的平和主義者」であつた。では、私は猪木氏に問ふ。あなたの空想的平和主義は麻疹のやうなものだつたのか。そして麻疹を濟ませた時、ついでに知識人として「かたく守つて」ゆかねばならぬ筈の知的誠實をも思ひ切りよく放擲し、以來その都度賢明と思はれる事だけをその都度語つて、御都合主義で世を渡り、年貢の納め時をつひに迎へなかつたといふ事なのか。それとも、イギリスにおける「プロレタリアートの獨裁が實現」しなかつたにも拘らず、猪木氏は今なほ、日本國における「ほんとうの革命」成就を一日千秋の思ひで待ち侘びてゐるのであらうか。 
III 日韓關係論における道義的怠惰

 

1 全斗煥將軍の事など 
軍人獨裁者か
五月十八日午前零時、韓國には全國非常戒嚴令が布かれ、戒嚴司令部は金大中氏を「學生や勞働者の騷動を背後から操つた容疑者」として、また金鍾泌民主共和黨總裁を「不正蓄財容疑者」として連行し、一切の政治活動を禁止したが、それを第一面に報じて朝日新聞は「事實上の軍政移行、全司令官が前面に」との見出しをつけた。「全司令官」とはもとより、國軍保安司令官兼中央情報部長代理・全斗煥中將の事である。五月十九日附のサンケイ新聞に、星野伊佑特派員が「全國非常戒嚴令の主役、全斗煥中將のプロフイル」を紹介してゐる。その一部を引かう。
昨年十二月十二日の“肅軍クーデター”いらい、軍の實權を握つた陸軍中將、全斗煥國軍保安司令官はさる四月、中央情報部の部長代理に任命され、それまでの戒嚴行政の裏方から一躍表舞臺におどり出、脚光を浴びたが、こんどの非常戒嚴令全國擴大という強硬策でも主役を演じたことは間違いない。
昨年十二月十二日、全斗煥將軍は、つとに朴大統領暗殺事件關與を疑はれてゐた當時の戒嚴司令官鄭昇和大將を逮捕したが、これは性急な「民主囘復」に強力な齒止めをかけ、朴正煕大統領が十八年を要してなほ成就し得なかつた難事業を、大統領殺害といふ不法行爲によつて成就し得ると思ひ込んだ一部の淺薄な韓國の政治家や知識人を震へ上らせたのである。
例へば、これは維新政友會の申相楚議員から聞い話だが、昨年十二月十一日附の韓國の或る新聞に、「民主囘復」こそ焦眉の急であるといつたやうな綺麗事を七十歳の知識人が書いたといふ。ところが翌旦、彼は全斗煥司令官による鄭昇和逮捕の報に接して仰天、申相楚氏に電話をかけて來て「あんな事書いてしまつて大丈夫だらうか」と震へ聲で言つたといふ。申相楚氏はかう答へた、「あなたはもう七十歳、棺桶に片足を突込んでゐる。今さら當世風に振舞ふ事はない。今後はもう何も言はずにゐる事だ」。
けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが人情で、一時は意氣銷沈した「民主囘復」派も、去る五月一日、日米首腦會談の席上でのカーター大統領による全斗煥批判に勇氣づけられてか、幼稚な正義病を煩ふ手合を煽動し、學生たちは全斗煥將軍に見立てた藁人形を「火刑に處し」、金大中氏は公然と申鉉碻(石+高)首相及び全斗煥將軍の辭任を要求、かくて今日の事態を招くに至つたのである。五月十九日付の朝日新聞はかう書いてゐる。
十八日に出された非常戒嚴令の全土への擴大を機に、全斗煥中央情報部(KCIA)部長代理兼國軍保安司令官が韓國政治の實權をにぎることになつた。与黨の民主共和黨總裁で、元首相の金鍾泌氏らを連行、國會の機能は停止という、豫想をはるかに超える強い姿勢で權力の座についた全氏だが、ソウルから傳わる情報では、その周圍は韓國陸軍士官學校十一期生の若手將軍たちが固め、先輩の國軍幹部らは手出しもできぬ状況にあると傳えられる。
かういふ新聞報道にばかり接する大方の日本人は、「強い姿勢で權力の座に」つき、「先輩の國軍幹部」も手が出せぬ全斗煥將軍の事を、冷酷無殘、泣く子も默る「軍人獨裁者」の如くに思つてゐよう。そして、さういふ先入主が日本人の韓國に對する反感や無關心を助長する事になる。けれども、私は全斗煥將軍に會ひ、その人柄に惚れ込んだのだが、將軍は頭腦明晰にして誠實、何とも魅力的な男だつたのである。實は私は金鍾泌氏にも會つた。會つて失望した。いや、正確に言へば、會ふ前から失望してゐた。金鍾泌氏が連行された今、安心してこれを言ふのではない。私は韓國でも金氏を批判したのであり、その事については證人もゐる。全斗煥將軍もその一人である。金氏についてはいづれ觸れるが、とまれ、私は將軍にぞつこん惚れ込んだのであつて、何はさて措き、それを讀者に傳へたいと思ふ。
私が先般、韓國を訪れようと思立つたのは、取分け全斗煥將軍に會ひたかつたからであつた。『VOICE』四月號に私は、鄭昇和戒嚴司令官を逮捕した全斗煥將軍を辯護する一文を寄せたのだが、書き終つてからの私は、將軍に會つてみたいと頻りに思ふやうになつた。辯護した當の相手の人柄を直接確かめてみたくなつた。そこで私は、先方の迷惑をも考へず、維新政友會の申相楚議員に『VOICE』を送り、全斗煥將軍に會へるやう計らつて貰ひたいと頼み込んだのである。將軍に直接手紙を書かうとさへ思つたが、將軍が日本語を讀めるかどうか、それが解らない。それに、立場上全斗煥司令官が外國人になど會ふ筈は無いと、友人は口を揃へてさう言つた。たまたま訪日した維新政友會の趙一濟議員も、「將軍は外國人はもとより、韓國のジヤーナリストにも會つてゐない。無用の誤解を避けるためだ。まづ會ふのは難しいだらう」と言つたのである。
だが、たとへ全斗煥將軍には會へずとも、敬愛する申相楚氏には確實に會へる。申相楚といふ名前を知つてゐる日本人は少いだらうが、昨年十月訪韓した際、私が最も魅せられた政治家が申相楚氏であり、彼と再會できる以上、全斗煥將軍に會へなくても構はぬ、私はさう思ひ、大韓航空七〇三便で成田を發つたのである。
けれども、ソウルに着いて、昨年十二月十二日全斗煥將軍が發揮した勇猛心の意義を改めて考へると、身命を賭して信念を貫いた勇將に一目會つてみたいといふ思ひは募る一方であつた。しかも私は、將軍が『VOICE』四月號の拙文を讀んだといふ事實を知つたのである。となれば、なほの事、斷念する譯にはゆかぬ、私は執拗に申相楚氏を口説き、たうとう念願を果したのであつた。 
素顏の全斗煥將軍
ソウル市光化門の國軍保安司令部に全斗煥將軍を訪ねたのは四月二日の午後であつた。「富國強兵」と認めた朴正煕大統領の書を壁面に懸けた司令官室に請じ入れられた時、私がまづ見たのは、にこやかな表情の全斗煥將軍で、それはまさしく新聞やテレビで見知つてゐる將軍に違ひ無いのだが、滿面に笑みを湛へた將軍は、まるで別人であるかのやうに思はれた。
將軍は日本語を話さなかつた。背廣の青年が通譯を勤めたのだが、私はまづその通譯の顏を見て驚いた。色白の、利發さうな美青年だつたが、美青年だから驚いたのではない。「私が通譯を勤めさせて頂きます」と彼が言つた時、緊張のあまりその聲がうはずつてゐたからである。私は大學の教師だが、これほど緊張し切つた青年をつひぞ見た事が無い。私は思つた、この青年の緊張ぶりはまことに美しい、が、今の日本に、青年をこれほどまでに緊張させる大人がゐるだらうかと。私はかつて新聞で、大平首相と小學生の遣り取りを讀み、頗る不愉快になつた事がある。一人の小學生が大平首相に「大平さんは自分の顏をどう思ひますか」と聞いたといふ。言語道斷である。それに首相が何と答へたかは覺えてゐない。が、首相が小學生を叱らなかつた事だけは確かである。
通譯は緊張してはゐたものの一所懸命であつた。私は生來の早口であり、しかも、世間話は得手ではない。かてて加へて、同席してゐる申相楚氏は日本語を自國語のやうに話せる。後で知つたが、全斗煥氏も私の話の七割くらゐは理解できたといふ。さぞ通譯はやり難かつたであらう。私が長々と一氣に喋る事、彼はメモに書き留めねばならぬ。そのペンを持つ手がかすかに震へてゐる。少々可哀相だつたが、私はゆつくり喋らうとはしなかつた。「艱難汝を玉にす」るのであつて、大人の思ひ遣りは却つて若者を弛緩させるに過ぎない。
型通りの挨拶を濟ませると私は、十二月十二日の戒嚴司令官逮捕の經緯を新聞で讀み、將軍の機略と膽力に感心したと言つた。すると將軍は答へた、「いやいや、あれは言つてみれば巡査が泥棒を捕へたやうなもの、私はただ職務に忠實に振舞つたに過ぎない」。
私は「さうは思はない」と言ひ、さう思はない理由を憑かれたやうに喋つた。立場上、將軍としては到底答へられまいと思はれるやうな事まで喋つた。私もいささか緊張してゐたし、また行き掛かり上、それしか喋りやうがなかつたのである。だが、その頃から、保安司令部の若き通譯は次第に能力の限界を露呈し始めたらしい。私の隣に腰掛けてゐた申相楚氏が、「將軍の仰有つた事はですな……」と、通譯の手助けをやり始めたのである。私は申氏の協力を得、言ひたい事を言ひたいだけ喋つた。まるで將軍に喋らせる事を恐れてでもゐるかのやうに、最初のうちは一方的に喋り捲つた。
申相楚氏は韓國の政治家である。だが、私は申氏を政治家らしからぬ政治家として尊敬してゐる。それゆゑ私は、韓國の政治家についても忌憚の無い感想を述べた。立派な政治家にも私は出會つたが、韓國の新聞や週刊誌が報じてゐる三人の大統領候補者金鍾泌、金泳三、金大中氏の言動を知り、またぐうたらな政治家や知識人にも會つて、この危急存亡の時、學生や民衆に迎合し、票集めに汲々たるていたらくは何事かと、私は驚き、呆れ、かつ寒心に耐へなかつたのである。このていたらくで、もしも軍までが腰碎けとなれば、韓國は亡國の憂き目を見るであらう、だが、それを韓國軍が坐視する譯が無い、私はさう言つた。すると、全斗煥將軍は深く頷き、かう言つたのである、「なるほど、仰有るとほり、政治家や知識人はぐらついてゐる、が、韓國軍はしつかりしてゐます、その點だけはなにとぞ御安心願ひたい」。
それだけ聞けば充分であつた。私は將軍の率直に驚いた。それゆゑ歸國後金鍾泌氏連行のニユースに接しても、私は少しも驚かなかつたのである。やがてやや寛いで私は、司令官の寫眞を撮らせて貰へないか、また自分は軍事にかけてはずぶの素人であり、軍事機密を見せられたところで、機密の機密たるゆゑんも理解できまいが、是非とも眞劒勝負の韓國軍を見學したいのだが、と言つた。
將軍はインターフォンで寫眞撮影の手配を命じてからかう答へた、「韓國軍見學の件については考慮します」。通譯の言葉を聞いて私が咄嗟に思つたのは、「考慮します」とは誤譯ではないか、といふ事であつた。日本の政治家の常套語「前向きに檢討します」などといふ類のせりふを、全斗煥ともあらう男が口にする筈は無い。果して、ややあつてその點は明確になつた。將軍がかう言つたからである、「ここは保安司令部で、背廣を着た男もゐます。が、ここでなく最前線を御覽になれば、きつと松原さんもびつくりなさると思ふ」。
つまり、將軍が「考慮する」と言つたのは、どこの部隊を見せようかと、それを「考慮する」といふ意味だつたのである。
やがて寫眞技師がやつて來て、歡談中の吾々を撮影した。が、それで御仕舞になりさうな氣配だつたので私は思ひ切つて言つた、「私と司令官と、二人で一緒に撮りたいと思ひますが……」。
全斗煥將軍は頷き、私の手を取つて立上つた。「國軍保安司令官陸軍中將全斗煥」と記した大きな机を背にして二人が立つた時、申相楚氏が言つた、「これが日本の新聞に出たら大變、大變……」。私は言つた、「祕密、祕密……」。すると將軍も笑つて言つた。「祕密、祕密……」。それは將軍が最初に口にした日本語であつた。
私は「祕密、祕密」と言つただけだが、この時くらゐ日本と韓國とのずれを痛切に感じた事は無い。日本の新聞記者は全斗煥といふ名前も碌に知りはすまい、私はさう思つた。實際、これは歸國後家内に聞いた事だが、去る四月十四日、全斗煥氏が中央情報部の部長代理に任命された事を傳へた或る日本のニユーズキヤスターは、終始「金斗煥將軍」と呼んでゐたといふ。が、それを嗤つた愚妻にしても、亭主の口から全斗煥といふ名前を再三聞かされてゐて、いはば耳に胼胝ができてゐた、それだけの事に過ぎない。
寫眞撮影が濟んで再び腰を下した時、將軍は私を晩餐に招待したいと言ひ、私はまことに忝いと答へ、やがて吾々は辭去したのだが、將軍と會つて私が最も感銘を受け、かつ大いに安心したのは、彼の頭腦の明晰といふ點であつた。例へば、これを書く事を私は少々ためらはざるをえないのだが、實は將軍に會ふ前日、私は或る政治家から將軍宛の手紙を託されたのである。彼は私だけを書斎に通してかう言つた、「あす全斗煥將軍にお會ひになるさうだが、將軍は立派な男です、私が紹介状を書きませう」。
咄嗟に私は、これは私を利用して將軍に胡麻を擂らうとの魂膽ではないか、と思つた。私がいかに將軍に會ひたがつてゐたかは既に書いたとほりだが、申相楚氏に強引に頼み込んで會へる事になつた以上、紹介状などまつたく不必要なので、それをこの男が知らぬ筈は無い。が、私は「それは忝い」とだけ答へた。さう答へるしかなかつた。彼はハングルで紹介状を書き、封筒に「全斗煥仁兄」と書いた。その紹介状を私は、將軍と語り始めてからややあつて内隱しから取出し、「實はかういふ紹介状を頂戴したのですが……」と言ひつつ差出したのである。何と頭のよい男かと私が感心したのはその時であつた。將軍は一瞬頗る嚴しい表情になり、受取つた封筒を裏返し、差出人の名前を見、封筒の中身を取出さうともせず、それをそのまま脇手のテーブルの上に置き、再び何事も無かつたかの如く語り始めたのである。
「知的怠惰は道義的怠惰」だと、私はこれまで何囘か書いた事がある。全斗煥將軍に會ひ、申相楚氏と深附合をして、私はそれを確認した。申氏は金大中、金泳三兩氏について「頭の惡い人間の發想は、賢い人間の想像を絶する」と評したが、さういふ愚鈍な手合に、十二月十二日、全斗煥將軍が示したやうな膽力と搖がぬ節操は到底期待できないであらう。 
眞の自由とは
だが、頭腦明晰と搖がぬ節操はもとより軍人だけの特色ではない。それゆゑ私はここで、韓國のあつぱれな文民についても語らねばならぬ。十九日間の韓國滯在中、私は申相楚氏とは殆ど毎日のやうに會ひ、朝鮮日報前主筆の鮮于煇(火扁+軍)氏と三人で、扶餘、群山まで弥次喜多道中をやつた。ここでその樂しい思ひ出をつぶさに語る紙數は無いが、とまれ、申氏も鮮于氏も頗る頭のよい男であつた。そして當然の事ながら、志操堅固の人であつた。そればかりではない、日本について、韓國について、齒に衣着せず物申す兩氏の自由闊達はまことに見事であつた。あの二人を眺めてゐると、日本よりもむしろ韓國のはうにこそ言論の自由があるのではないか、とさへ思はれたのである。アメリカや日本や韓國の政治家を私は糞味噌に言ふ事があつたが、さういふ時も、申氏と鮮于氏の喋りやうはまつたく自由であつた。およそ右顧左眄する事が無く、それゆゑ二人は自由なのである。
鮮于氏は朝鮮日報のコラムに「金載圭は犬畜生よりも劣る。犬だつてあのやうな事はしない」と書いたといふ。右にも左にもよい顏をしたがる韓國の大統領候補も、平和憲法は改正さるべきだと内心思ひつつも、國内國外の情勢を氣にしてそれを言ひ出せぬ日本の政治家も、右顧左眄するがゆゑに自由ではない。友人から聞いた話だが、日本社會黨の或る代議士は、「非武裝中立」なんぞ荒唐無稽と承知してはゐるが、なにせそれが社會黨の表看板、どう仕樣も無いのだと告白したといふ。この代議士も、要するに、黨の建前に縛られて本音が吐けぬ、つまり自由でない譯である。
もとより韓國にもさういふ手合は多い。鮮于氏から聞いた話だが、或る著名な大學教授が「維新憲法は四月頃までに改正しなければならない。さもないと學生がをさまらぬ」と言つたといふ。そこで鮮于氏が「あなた自身はどう思つてゐるのか」と尋ねると、教授は「自分としては改正の要無しと考へるが、それでは學生が承知しない」と答へたさうである。日本の大學にも、學生に迎合して學生に束縛されるこの種の腑拔けが多い事は、私自身がよく知つてゐる。
とまれ、申氏も鮮于氏も頗る自由闊達であつた。二人が日本を腐すと私が笑ひ、私が韓國を腐すと二人が笑つた。が、眞劒に論ずべき時は、三人とも頗る眞面目になつたのである。例へば、扶餘へ向ふ車中で申氏が言つた、「松原さんはずゐぶん自衞隊の惡口を仰有るが、自衞隊にも頭のよい侍がをりますぞ」。申氏がかつて日本を訪れ、自衞隊を見學した際、ブリーフイング役の將校が申氏にかう言つたのださうだ、「ええ、日本の自衞隊は男なのか、女なのか、それが解りません。日本の軍隊か、アメリカの軍隊か、それも判然としない。要するに妾のやうなものでありますから、いかが致しませう、ブリーフイングなんぞは止めにして、早速一杯やるに如くは無いと存じますが……」。なるほど見事な將校である。相手が韓國有數の飮兵衞だと看破つての應對ならなほの事見事である。が、その申氏の話を聞き終ると、鮮于氏が大層眞劒な表情で言つた、「しかし、申さん、そんな妾の軍隊にゐて、誇りだの生甲斐だのは一體どうなるんだ、え?」
鮮于氏と申氏はともに一九二二年生れ、同郷の、竹馬の友である。鮮子氏は著名な小説家で、小説家だけあつて大層話上手で、彼の冗談に私は車中で何囘となく腹の皮を縒つた。が、すでに述べたやうに、申氏にせよ鮮于氏にせよ、時に頗る眞劒になる。私は鮮于氏が「子供に土産を買つて歸る時なんぞ、ふと思ひますよ、この國はこの先どうなるか、今のうちにうまい物を食はせておいてやらう、つてね」と言つた時のしんみりした口調を忘れる事ができない。これまた飮兵衞の鮮于氏の事だから、「子供に土産を買つて歸る」のは、大方、飮み過ぎを反省しての事だらうが、それだけでは決してない。太平樂を享受してゐる日本の飮兵衞が、「この國はこの先どうなるか」などと、さういふ事を考へる筈は斷じて無いであらう。
申相楚氏にしても、普段はにこやかだが、時に頗る眞劒な表情になる。申氏は若い頃まづ日本軍から、ついで八路軍から、三度目は北朝鮮軍から脱走した體驗の持主なのだが、三月三十日、申氏の案内で「自由の橋」まで行つた時、これまで三度脱走した申氏が、四度目の脱走を敢行ぜねばならぬやうな事態だけはどうしても避けねばならぬ、と私が言つたところ、彼は急に嚴しい表情になり、かう答へたのである、「いや、もう逃げようとは思ひません。年が年だから兵隊にはなれないが、今度北が攻めて來たら、手榴彈で一人でも敵を殺して死ねれば、それで本望だと思つてをります」。
この二人の飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものなのである。そして、頭がよくて、つまり知的に怠惰でなくて、それで眞劒勝負を強ひられると、人間は道義的にも見事に振舞ふのだといふ事を、私は今囘韓國で確かめた。道義的に振舞ふと言つても、それは道學先生振るといふ事ではない。自由奔放に振舞つてゐるかに見えながら、どこかで節を折らうとはしないといふ事である。申氏は髪はぼさぼさで、風采を構はず、濃紺の背廣の胸のポケツトに、黄色い大きな女物の櫛を突込んで平氣でゐるやうな男だが、朴大統領の思ひ出を語る時の語調には、節を折らぬ人間特有の眞情が溢れてゐた。或る時、申氏に朴正煕氏は「君のやうに權力を授けようとすると斷る人間がゐるものかね」と言つたといふ。また、禁煙中の朴正煕氏に會つた時、煙草を吸ひたくて申氏がもぢもぢしてゐると、朴大統領が言つたといふ、「申議員、もぢもぢしてゐるのは、要するに煙草が吸ひたいのではないか」。「お察しのとほり」と申氏が答へると、朴氏は言つた、「よし、では一緒に煙草を吸ふ事にしよう」。
かういふ思ひ出を語る時、申氏は眼を細め、懷かしくてたまらぬといふ風情だつたが、朴正煕氏の孤獨について語る時、申氏は何とも悲しげになるのであつた。或る時、朴氏が尋ねた、「申議員、君は今でも李承晩の惡口を言つてゐるのかね」。「言つてをります」。すると朴氏は言つた、「さうか、私はもう言はない。大統領といふ地位が惡黨に利用されがちなものなのだ。私はもう李承晩の惡口は言はない」。
だが、殺される十日程前、朴大統領は與黨議員のパーテイーに出席し、退席する際、竝んで見送る議員達と握手をしたが、申氏の前まで來ると、申氏の耳元に口を近づけ、「近頃、なぜ酒を飮みに來ないのかね」と尋ねたさうである。晩年の大統領は、茶坊主どもが巧妙に張り囘らした「人のカーテン」によつて外部から遮斷されてゐた。「知りて言はざるは不忠」といふ事を重々承知してゐた申氏も、まさか「人のカーテンゆゑに」とも言へず、「昨今、酒を愼んでをります」と答へたが、朴大統領は「をかしいな」とでも言ひたげに、申氏をじつと見詰めたといふ。「それが私が見た最後の大統領でした」と悲しげに申氏は言つた。
これを要するに、「大統領といふ地位が惡黨に利用されがちなもの」だといふ事をよく承知してゐた頭腦明晰なる朴正煕氏も、いつの間にかおのれの周圍に張られたカーテンには氣づかなかつた、といふ事なのかも知れぬ。が、それを神ならぬ身の吾々がどうして輕々に批判できようか。昔、韓國の或る代議士は、代議士のでたらめに腹を立て、「代議士なんぞ、皆、白手乾達だ!」と、自分が代議士である事も忘れ、國會で叫んださうである。「白手乾達」とは、ゆすりたかりで生計を立ててゐるならず者、といふほどの意味らしい。實際、今囘私は韓國の右顧左眄する政治家には失望したが、一方、事大主義やローカリズムを脱しえないさういふ「白手乾達」をも持駒にせざるをえなかつた朴正煕氏はさぞ大變だつたらうと、私は朴氏に同情を禁じえなかつた。 
見事な軍人たち
ところで、ここで私は、朴正煕氏の死後、右顧左眄する事の無かつた韓國の軍人について語らうと思ふ。申相楚氏を通じて國軍保安司令部から、四月八日は丸一日韓國軍のために割いて貰ひたいとの連絡があつたのである。朝から夕方まで韓國軍を見學し、夜は全斗煥將軍と晩餐を共にするのだといふ。そして私は、八日午前九時半、申氏の車でホテルを出發、途中から韓國軍のジープに先導され、十時きつかりに特戰隊司令部に到著、鄭鎬溶司令官の出迎へを受け、申氏の通譯で、私は鄭少將としばし歡談した。ごく短い時間だつたが、少將の率直な人柄と軍人とは思へぬ柔和な表情を私はよく覺えてゐる。鄭少將は福田恆存氏の「孤獨の人・朴正煕」を讀んで大變感動した、と言つた。また、自分は銃を何時間持つてゐても疲れないが、ペンのはうは十分間持つてゐても疲れる、と笑ひながら言つた。が、それを言ふ少將に、申氏や私に對する阿諛は微塵も感じられなかつた。何ともすがすがしい武人であつた。
やがて私は外へ出て、閲兵臺に司令官と竝んで立ち、パラシユートの降下訓練を見學した。副官の説明によれば、私に見せてくれたのは心理的に最も恐怖を感ずる高度からの降下だといふ。長方形のまだ開かないパラシユートが空を舞つてゐる。降下地點からずゐぶん外れてゐて、あれで目標に無事降りられるのかと、ずぶの素人は心配する。が、それは取越し苦勞で、ややあつて見事に降下した兵隊が整列、私はその一人一人と握手し、私が知つてゐる殆ど唯一の韓國語「カムサハムニダ(有難う)」を連發した。
だが、この後「ブラツク・ベレー」と呼ばれてゐる勇猛果敢の特戰隊で何を見學したかについては、殘念ながら端折らねばならない。次に訪れた第一師團についても語らなければならないからである。ただ、これだけは書いておかう。實彈射撃をふくむ特戰隊の訓練のすさまじさに私は舌を捲いた。さすがは一騎當千のブラツク・ベレーだと、私は大いに感服したのである。
さて、次に訪れた第一師團だが、これは韓國の最前線を守つてゐる。師團長は崔連植少將で、これまた鄭鎬溶少將と同樣、知的で、柔和な表情の、けれども大層肚の坐つた軍人であつた。師團長と共に、北朝鮮の掘つたトンネルを、そのどん底まで降りて行き、師團長の熱心な説明を受け、記念撮影をやり、歸りは私が先頭で、師團長がその後につづいた。歸りはもとより昇り坂である。途中に二、三ケ所休憩所があつて軍醫が待機してをり、酸素マスクが用意されてあつた。かつて心臟麻痺で倒れた見學者があつたのださうで、無理をせず、ゆつくりと歩いたはうがよいと師團長が頻りに忠告した。が、途中でへたばつては日本男子の名折れだと、私は一度も休まずに、けれども殆どよろけんばかりになつてトンネルを出た。
私は體重四十五キロ、しかも平生運動なるものはやつた事が無い。けれども、その非力の私が頑張つたのは、眞劒勝負の軍人の眞摯に魅了されたからに他ならない。昨年十月二十六日、朴大統領が暗殺され、ついで北朝鮮の兵力動員が傳へられた時、崔連植師團長は將兵の家族をソウルへ疎開させ、將校を集めてかう訓示したといふ、「北が攻めて來たら、わが師團はこれを粉碎する。軍人は戰場で死なねばならぬ、それが軍人の最高の名譽である」。
それを崔少將はいささかの力みも無く淡々と語つた。それはトンネルの中で、守備をしてゐる兵隊の肩を叩いて無言で激励する動作と同樣、まつたく自然であつた。私はいたく感動した。まさに全斗煥將軍の言つたとほりであつた。特戰隊で、第一師團で、淡々と身命を賭して戰ふ覺悟を口にする武人を、私は目の當りに見たのである。
歸國後、私は崔連植少將から寫眞同封の手紙を受取つた。少將はまこと流暢に英語を喋つたのだから、これを私は敢へて書くが、それは流麗な日本語では決してなかつた。が、それは友情と誠意の籠つた手紙で、引用できぬ事が殘念でならない。その手紙を何度も繰返し讀んで、私は呟いた、「さうなのだ、この男のためなら死んでもいいと、本氣でさう思はせるやうな人間が、やはりこの世にはゐるのだ」と。朴正煕氏がさうだつた。そして、全斗煥將軍も二人の少將もさうである。そしてそれは軍人に限らない、申相楚氏にしてもさうなのである。鮮于氏の話では、申氏は犬の肉が好物だといふ。私は、申氏のためなら死んでもよいとまでは思はぬが、申氏と共に犬の肉ぐらゐは食つてもよいと思つた事はある。もつとも、思つただけで、それを言ひ出す勇氣は無かつたが。 
全將軍との夕食の席で
ソウルへ戻る吾々を、非武裝地帶のはづれまで、崔少將はジープで送つてくれた。そこで吾々は申相楚氏の車に乘換へ、その晩七時、とある韓式料亭に着くと、三つ揃を着こなした全斗煥將軍が待つてゐた。妓生が侍つて酒盛りが始まると、特戰隊と第一師團はどうだつたかと將軍が尋ね、私は「何とも見事だつた」と答へた。ついで、どういふ經緯でそんな話になつたのかよく覺えてゐないのだが、全斗煥氏が私に、自分にはいささか觀相學の心得があるのだが、どうも松原教授は自分より先に死ぬやうに思ふ、と言つたのである。私が全氏の照り輝く禿頭を見ながら、「さうとは限りますまい、失禮ながらその禿げ具合、鐵兜の被り過ぎのせゐだけではありますまい」と言ふと、全氏は笑つて「この禿頭ゆゑに自分は女性に持てないのだ」と言ふ。なるほど、歸國後、出來上つて來た寫眞を調べてみると、全氏の脇に侍つた妓生はまつたく全氏と接觸してゐない。どの寫眞にも寛いだ全斗煥氏と鯱張つた妓生が寫つてゐた。
だが、やがてアコーデイオンと打樂器の奏者の伴奏でダンスが始まると、全氏は妓生と手を組み、何とも嫋やかに踊り始めた。ウヰスキーをストレートでぐい飮みしていささかも亂れぬ將軍と異り、私はかなり醉つてゐたが、立上つて全氏に近寄り、妓生を引剥し、全氏と二人で踊り始めた。とはいへ私にはダンスが全然できない。時々相手の足を踏附けながら太く逞しい全氏の首つ玉にぶら下つてゐただけである。が、さうして抱き合つてゐる時、私は全氏に囁いた、「司令官、朴大統領は可哀相ですね」。すると全氏は日本語で「可哀相ですね」と答へ、私を激しく抱き締めたのである。
また、ダンスの後だつたか、それとも先だつたか、これもよく覺えてゐないのだが、韓國きつての女性歌手だといふ美女が歌ひ、ついで皆が一曲づつ歌ふ事になつた。全斗煥氏も背廣の副官も申相楚氏も私も歌つた。申氏はまづ韓國の歌を、ついで「荒城の月」を、滝廉太郎が聴いたら腰を拔かすやうなすさまじい節囘しで、それでも歌詞だけは正確に歌つた。次に、背廣を脱いでチヨツキだけになつた全氏が歌つたが、全氏の歌を聞きながら私は思つた。全氏は國軍保安司令部で「軍はしつかりしてゐるから御安心願ひたい」と言つた。だが、右顧左眄する「白手乾達」や、保身しか念頭に無い官僚、大學教授や、若者に迎合し煽動する無責任な政治家が、良識ある人々を壓倒し、時の花をかざしてのさばつてゐるかに見える今日、軍人だけがしつかりしてゐるだけで、韓國はこの未曾有の危機を乘越えられるであらうか。
全斗煥氏に醜い政治的野心は無い。「其の位に素して行ひ、其の外を願はず」、それが彼の本心であらう。軍事クーデターをやりさへすれば萬事うまくゆくなどと考へるほど、彼は愚かな男ではない。だが、愚かな政治家や知識人や學生が、「民主囘復」だの「政治發展」だのと、何の事やら自身もよく解らぬ美辭麗句のお題目を唱へるばかりで、今後も馬鹿踊りを踊りつづける積りなら、一體全體韓國といふ國では、どこまで續く泥濘なのか。韓國軍をして「政治的中立」を守らせるためには、すなはち「其の位に素して行」はしむるためには、せめて軍人と對等の頭腦と必死の覺悟が文民にも必要ではないか。
『ざつくばらん』五月一日號に、奈須田敬氏は、アーサー・ブライアントの『參謀總長の日記』の讀後感として、「眞の軍人こそ眞の政治家を理解しうるし、また眞の政治家こそ眞の軍人を理解しうる」と書いてゐる。さういふものだと思ふ。が、日本におけると同樣、今の韓國にも、さういふ「眞の政治家」が多いとは、私にはどうしても思へなかつたのである。
例へば日本で不當なまでに英雄視されてゐる金大中氏の愚鈍について、日本の新聞は眞實ありのままを報じてゐないが、私は今囘、金大中氏の頭腦の粗雜には呆れ返つた。公民權囘復後、金大中氏は何とかう放言したのである、「皆さん、私はクリストの弟なのであります」。
作り話ではない。それを日本の新聞が報じなかつたのは、「知らせる義務」を怠つたのは、さすがにこれは酷すぎると思つたからに他ならぬ。金大中氏に對する日本人の信頼が一擧に失はれると、それを恐れたからに他ならぬ。 

 

韓國への苦言
政治家の愚鈍と淺薄は金鍾泌、金泳三及び金大中氏に限らない。保安司令部で全斗煥將軍に會つて後、私は韓國の政治家から「全將軍は政治についてどう考へてゐるか」と何囘か尋ねられた。私はそれを訊かれる度にむかむかした。「そんなに知りたければ、直接將軍に聞いたらいいでせう」と突撥ねた事もある。昨年十二月十二日、剃刀の刃を渡つた全斗煥氏や、死ぬる覺悟を淡々と語つた軍人に較べて、私は今囘、與野黨を問はぬ韓國の文民の腑甲斐無さに苛立つ事が屡々であつた。その癖、彼等は軍を恐れてゐる。北朝鮮軍をではない、韓國軍を恐れてゐる。が、文民に身命を賭す覺悟があるのなら、なぜ軍を恐れねばならないか。さらにまた、彼等はアメリカを恐れてゐる。だが、韓國は立派な獨立國である。ユーゴにはユーゴの社會主義がある、と言切つたチトー大統領の傳に倣ひ、「韓國には韓國の民主主義がある」とて、韓國人が一致團結アメリカの内政干渉を突撥ねれば、アメリカといへども容易に手出しはできない筈である。
私は韓國が好きである。好きだからこそ苦言も呈したくなる。そして私が韓國を愛するのは、例へば申相楚氏のやうな、韓國にしかゐない友人の運命に無關心たりえないからである。それゆゑこれを私は所謂「維新殘黨」に言ひたい。ルソーが言つてゐるやうに、眞の自由は野蠻人だけの特權なのである。韓國は野蠻人の吹き溜りではあるまい。それなら、文明國としての抑壓は必要惡であり、必要以上に必要惡に怯えるのは知的怠惰に他ならぬ。「維新殘黨」は朴體制による抑壓を疚しく思ひ、若造の唱へる「民主主義」だの「言論の自由」だのに幻惑され、言ひたい事も言へずにゐるのか。奇怪千萬である。これを言ふのは大層心苦しいが、敢へて言はう、朴體制の抑壓政策を、今、多少なりとも疚しく思つてゐる人々は、この際、とくと考へて貰ひたい、あなた方は非凡なる朴正煕氏の抑壓あつてこそ、これまで國家の安泰を維持しえたのではなかつたか。
もとより韓國には浮薄な民主化熱を内心苦々しく思つてゐる人々もゐる。だが、自ら惡役は引受けたがらず、軍が惡役を引受けてくれるだらうと思つてゐる手合も多いのである。そしてさういふ手合は、軍がうまく混亂ををさめたら、安心して「民主囘復派」を叩かうと思つてゐるのではないか。要するに他力本願である。私は軍を持ち上げ、軍事政權の誕生を唆してゐるのでは斷じてない。日本國のぐうたらを棚上げしてこれを言ふのはまことに心苦しいが、身命を賭す覺悟は文民も持たねばならず、それこそは今の韓國が最も必要としてゐるものではないのかと、その事が言ひたいのである。
正直、韓國へ行く前の私は、いつその事、淺薄な野黨の政治家や學生たちには當分喋りたい事を喋りたいだけ喋らせ、やりたい事をやりたいだけやらせたらよい、所謂民主囘復派に言ひたい事を言はせておけば、そのうち必ず襤褸も出さう、弱音も吐かうと、そんなふうに思はぬでもなかつた。が、ソウルに着いて私は、民主囘復派の底の淺さはすでに充分に露呈されてゐるにも拘らず、政治家も新聞も、民主囘復派に愛想盡かしをするどころか、金鍾泌民主共和黨總裁までが、新民黨本部を訪れたりして、民主囘復派に色目を使はざるをえぬ現状を知り驚いたのである。金大中、金泳三氏の空疎なまやかしの論理など、何ともひどいものである。金鍾泌氏もまたそれに附合ひ、「自意半、他意半」などといふ譯の解らぬ事を口走つてゐる。
こんな状態がつづけば、韓國の民主政治はいづれすさまじい衆愚政治と化し、世界中の物笑ひの種になるであらう。それを、私は何よりも恐れたのである。今囘の韓國滯在中私は、深く物を考へてゐる見事な知識人にも出會つたものの、韓國の學者知識人の多くは「民主主義」について深考を缺いてゐるやうに思へてならなかつた。鮮于氏から聞いた落語のやうな實話だが、韓國の石部金吉を友人が説得して、やつと女と寢る決心をさせたところ、女が約束の場所に姿を現はさなかつた、すると石部氏はかんかんになつて言つたといふ、「怪しからん、これは民主的ではない、約束を守るのが民主主義ではないか」。
韓國の事だけは言へぬ。今の日本にもありさうな話だが、とまれ韓國の政治家も知識人も、口々に「民主囘復」を唱へ、或いは民主囘復派に色目を使ひ、それでゐて何を喋つてゐるのか、喋つてゐる當人もよく解つてゐないのではないか、私はさう思つた。「政治發展」にしても同樣である。政治家も新聞も頻りに「政治發展」を言ふ。「政治發展とは何か。發展的解消といふ事だつてあるではないか」と、前國會議長の白斗鎮氏は皮肉つてゐたが、實際、愚者が愚者を煽動し、愚者が賢者を壓倒するのが衆愚政治なのだ。その理不盡の恐しさを韓國の知識人はまづ骨身に徹して知り、その理不盡と戰はねばならぬ筈である。 
ある娘との出會ひ
だが、韓國に苦言を呈するのはこれくらゐにしておかう。私自身それをやつてゐて決して樂しくない。私は最後に名も無く地位も無い崔星煕孃の事を書かうと思ふ。私が崔孃に初めて會つたのは昨年十一月二日の夜である。韓國政府の招待でソウルに來て以來、私は毎日人と會ひ、土産物を買ふ暇が無かつた。韓國は紫水晶が安い。せめて自分のカフス・ボタンでもと思ひ、その夜、ふと思ひ立つて泊つてゐたホテルの地階にあるシヨツピング・アーケードまで降りて行つたのである。朴大統領の死後、外出禁止時間は午後十時からになつてゐて、私が降りて行つた時は殆どの店が閉つてゐた。が、一つだけ貴金屬店があいてゐて、そこで店番をしてゐたのが崔星煕孃だつたのである。私がシヨウケイスの中のカフス・ボタンを指差し、崔孃がそれを取出した。値段を訊くと三十八萬ウォンだといふ。「そんな高い物は買へない」と私が言ふと、彼女はそれより安い品物を五つ六つ取出し、それを吟味してゐる私にかう尋ねたのである。
「お客樣は日本人なのに、なぜまだソウルにいらつしゃるのですか」
「それ、どういふ意味?」
「だつて、大統領が亡くなられてから、北が攻めて來るかも知れないといふ事で、日本人は殆ど皆歸つてしまひました。成田行の便は滿員で、金浦に着く便はがらがらだと聞いてゐます。それなのにお客樣はまだここにゐる……」
私は、自分の滯在豫定は四日までだし、また自分は朴大統領を尊敬してゐるから、いづれにせよ國葬が濟むまでは歸らない、まだ死にたくはないが、北が攻めて來たら、かうして喪章を着けてゐる以上、仕樣がない、朴正煕氏の國民と一緒に逃げ囘るだけの事だ、と言つた。すると崔孃は、自分も大統領を尊敬してゐるが、お客樣は大統領のどういふ所が好きなのか、と訊いた。そこで私は、何よりも不正を嫌ひ、身邊が清潔だつた事だと答へ、朴正煕氏がいかに質素だつたかについて知つてゐる限りの事を話したのである。
すると思ひがけない事が起つた。崔孃がシヨウケイスの上のカフス・ボタンを一つ一つ仕舞ひ始めたのである。日本の一流ホテルの宝石店に勤める娘に向つて、外國人の客が日本の首相の質素な生活を稱へる事はまづ無いであらう。が、萬一それをやつたとしても、首相の質素を力説する客に高價なカフス・ボタンは賣り難いと、そんな事を考へる娘は決してゐないであらう。
崔孃はカフス・ボタンを仕舞ひ終ると、どの國にも缺點がある、あなたは韓國の缺點をも見た筈である、それを話してくれといふ。私がそれに何と答へたかは省略する。が、私が店を出ようとすると彼女が言つた、「あすは國葬で、お店も休みです。でも、四日の九時半には私はここにゐます。もう一度降りて來て下さい」。
私は答へた、「四日の午前中は人と會ふ約束があるし、それに歸國する日だから忙しい。忘れてしまふかも知れない。でも、私は韓國が好きになつたからまた必ずやつて來る。その時は、飯でも食ひながらゆつくり話さう」。
その夜おそく、私は國際電話で長女の危篤を知らされ、翌朝慌しくホテルを發ち歸國したのだから、崔孃と四日に會ふ事はもとよりできなかつた。そこで今囘、私は文化公報部行政事務官金俊榮氏に崔孃の事を話し、毎日お偉方に會ふばかりが「文化交流」ではない、私は崔孃のために一日を割く、つまり「デイト」をする、先方と聯絡をとつて貰ひたいと頼んだ。金俊榮氏は日本語を流暢に喋らないが誠實で率直な人物で、やがてその金氏が調べてくれ、私は、昨年十一月の約束を果し、夕食を共にして語り合ふ事ができた。彼女は老母と弟、妹との四人暮し、弟は高麗大學四年生、大學院へ進みたがつてをり、妹も大學に通つてゐて、それゆゑ二十八歳の彼女がもう少しの間家計を支へなければならないといふ。私は少々殘忍な質問をした、「しかし、大學院を出るには、日本の場合と同じなら、最低五年かかる、弟さんが一人前になつた時、君は三十三歳、完全に婚期を逸するではないか」。よい人に出會へば結婚すると彼女は答へたが、それは當てがあつて言つてゐるやうには思へなかつた。
私は崔孃相手に野暮な話ばかりした。野暮天なのだから、それは致し方が無い。だが、昨年十一月と同樣、朴大統領に對する彼女の氣持は少しも變つてゐなかつたのである。それを確かめて私はほつとした。そして實際、右顧左眄するお偉方よりも、この名も無く貧しい娘のはうがよほど立派だつたのである。
別れしな崔孃は、自分は月に二日休めるのだが、そちらの都合のよい日に休みをとつて、今度は韓國の大衆料理を御馳走したいと言つた。私は喜んで承諾し、十一日にもう一度會ふ約束をした。そして立上り、彼女の家まで送つて行かうと言つた。彼女は固辭した。委細構はず私はホテルの外へ出た。そこに丁度タクシーが駐つてゐる。先に乘込まうとする私の背に崔孃が聲を掛けた、「あたしを送つて行くと、歸れなくなりますよ」。
私はぎくりとした。時計を見ると十一時、なるほど、彼女を送つて行き、歸りに運惡く英語も日本語も通じない運轉手にぶつかつたらどうなるか、あちこち引き廻され、外出禁止時間になつたら大變だ、一度だけだが韓國語しか喋れぬ運轉手の車に乘つて閉口した事のある私は、咄嗟にそれを思つたのである。よし、それなら運轉手にタクシー代をと、私が財布を取出すと、彼女は別のタクシーを拾はうとして走り出した。運轉手も、ホテルのボーイも、怪訝な顏で私を見てゐる。これには參つた。「いいよ、解つた……」と私が言ふと、彼女は戻つて來てタクシーに乘り込み、手を振りつつ去つたのである。
男に奢らせ、男に送つて貰ふ事を、當節の日本の女性は當然と思つてゐるであらう。崔孃は豐かな暮しをしてゐない。私は女性の服や裝身具について全く無知だが、その私にも彼女のイアリングが上等でない事くらゐは見て取れた。彼女の月給も大した事はあるまい。十一日はどうしても私が奢らねばならぬ。
だが、次に會つて、晝間、國立博物館の陳列品を見て廻り、夕方、武橋洞で燒肉料理を食べた時、私は見事にしてやられた。委細は省くが、「それはいけない、男が拂ふのが日本の……」と言ひつつ私が立上つた時、すでに彼女から金を受取つてゐた店員は韓國語で何か言ふばかりで、どう仕樣も無かつたのである。
崔孃は女だから、崔連植少將のやうに身命を賭す覺悟なんぞは語らなかつた。無論、全斗煥中將のやうに命懸けの大事業もやれはしない。が、申相楚、鮮于煇(火扁+軍)兩氏について私は、「この二人の飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものだ」と書いたけれども、それは雀孃にも確かにあつたのである。「カー附き、家附き、婆拔き」を理想とし、新婚旅行にはハワイくんだりまで出掛ける底拔けに明るい日本の若い女性と異り、崔孃には何かしら暗い影があり、平生、何かしら眞劒に考へざるをえぬものがある。そして「よりよく生きる」といふ事を彼女は念じてゐる。それは尊敬の對象があるからで、それが朴正煕大統領だつたのである。無論、よりよい生活を心掛けて果せぬのが人間の常である。が、尊敬の對象がある限り、人はひたむきに向上を圖るのではないだらうか。賢を見ては齊しからん事を思ふ、とはさういふ事ではないだらうか。 
本氣の附合ひ
全斗煥將軍も、申相楚氏も、鮮手煇(火扁+軍)氏も、そして崔星煕孃も、ひたむきに生きてゐる人間であつた。彼らに共通するものは眞劒といふ事であつた。それゆゑ、私が本氣で接した時、彼らも本氣で應じたのであり、私は韓國で、昨今日本では滅多に味はへなくなつた本氣の附合ひを樂しみ、堪能したのである。
全斗煥將軍に見立てた藁人形を、ソウルの大學生は燒いたといふ。「全斗煥を八つ裂きにせよ」との横斷幕を光州の暴徒は掲げたといふ。そんな兒戲に類する愚行を、將軍は何とも思つてゐまい。が、萬一、光州に赤旗が立つやうな事態となつたなら、觀相學の「達人」全斗煥氏はもとより、申相楚氏も鮮于煇(火扁+軍)氏も、その時までに確實に死んでゐよう。それは私には耐へられない。本氣で接したら本氣で應じてくれた、さういふ友を失ふ事は、國籍の如何を問はず、耐へられない。
全斗煥將軍は、昨年十二月十二日の鄭昇和司令官逮捕を「巡査が泥棒を捕へたやうなもの」だと評した。「國家元首を殺した犯人も處罰できずして何が民主化か」と彼は思つてゐるに相違無い。そして彼は今囘再び剃刀の刃を渡つた譯だらうが、さういふ將軍を私は見事だと思つたから、本氣で辯護し、本氣で會ひたいと願つた。そして將軍も本氣で私に附合つてくれたのである。特戰隊を見學して後、第一師團に向ふ車中で申相楚氏は、「特戰隊は韓國人にも滅多に見せない、あそこを見學した外國人は松原さんが最初でせうな」と言つた。が、全斗煥將軍はそんな事は一言も言はなかつた。それだからこそ、私はそれを知つて一層感激したのである。もつとも、素人の悲しさで、貴重なものを見せて貰ひながら、その貴重たるゆゑんを私は充分理解できなかつたけれども。
崔孃にしても、自分の事をかうして外國の雜誌に書いて貰つたからとて、それで彼女が得をする譯が無い。が、私が本氣で韓國を、朴正煕氏を論じたから、彼女も本氣で私に附合つたのである。申相楚氏にしてもさうである。すでに述べたやうに、申氏は頗るつきの音癡なのだが、その申氏が、かつては抗日運動をやつた事もある申氏が、自尊心の強い申氏が、醉拂つて日本の軍歌を歌ひ、上體を屈め、兩手を打ち鳴らし、舊制高校の寮歌を、殆ど聞くに耐へぬ惡聲で歌ひ、ぎごちない蠻カラ踊りをやつてみせた時、私は胸に應へ、胸が一杯になり、涙を抑へる事ができなかつた。
周知の如く、かつて日本は申相楚氏たちに日本語の使用を強制したのである。韓國を植民地にして數々の理不盡を強ひたのである。日本の韓國に對する過去の罪惡を徒に論ふのは無意味だと、私は書いた事がある。お題目よろしく贖罪を云々する手合が本氣でない事を知つてゐたからである。が、今囘の韓國滯在中、私は屡々思つた、本氣で附合ふと本氣で應ずる韓國人の直向きに、これまでの日本人はとかく本氣で應ぜず、それどころか、相手の直向きに附け込んだのではなかつたか、と。韓國に對する「過去の罪」を知識として知つてゐるだけでは殆ど無意味である。今後の日本が、本氣で韓國と附合ふ、それが何よりの「贖罪」に他なるまい。
ところで、申相楚氏や鮮于煇(火扁+軍)氏のやうな愉快な飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものだと私は書いた。それは戰爭の危機であり、亡國の危機なのである。それが一瞬腦裡を掠めると、彼らは忽ち本氣になる。冗談もそこでぴたりと止み、彼らは眞劒そのものになる。さういふ事が、今のところ、日本にはまるで無い。眞面目になるべき時眞面目にならうとすると、附合ひ難い野暮天として、二階へはふり上げられ、梯子を外されてしまふ。それゆゑ私は、昨今流行の防衞論議の眞劒を疑つてゐる。韓國から歸つて來て、ますますそれを疑ふやうになつた。
全斗煥氏にせよ、申相楚、鮮于煇(火扁+軍)兩氏にせよ、この世のすべてを茶化してはをられない。彼らには本氣になつて考へねばならぬ事があるからである。それゆゑにこそ彼らは、本氣で附合ふと必ず本氣で應ずるのである。だが、彼らが今、本氣で考へてゐる事は、早晩吾々日本人が頭を絞らねばならぬ當の物ではないか。それなのに、日本人にとつての韓國はなぜかうも「近くて遠い國」なのであらう。
四月十五日、金浦空港まで私を見送つてくれた申相楚氏は、いつもの蓬髪に、その日ばかりはポマードを塗り附けてゐた。私は感動した。どうしてこの愛すべき先輩を裏切れようか。この次韓國を訪れる時は、よし、この敬愛措く能はざる先輩に附合つて、必ず必ず犬の肉を食はう、さう決心して私は、申相楚氏の右手をかたく握り締めたのである。 
2 反韓派知識人に問ふ

 

遊びで石を投げる日本人
金俊榮氏は三十四歳、文化公報部の行政事務官であり、先般、ソウル滯在中、私が最も親密に附合つた韓國人である。誠實で温厚な金氏の人柄に私は惚れ込み、吾々は國籍、年齢の違ひを殆ど意識する事無く附合つた。
或る日、その温厚な金俊榮氏が、嚴しく日本のマスコミの韓國報道を批判した事がある。それを私は密かに録音した。文字だけでは所詮微妙な語氣や抑揚を傳へられず、まことに隔靴掻痒だが、金氏の許可を得てゐるから、以下戲曲ふうに金氏との對話を再現する事にする。
<金> ね、日本の記者はね、なぜ北に對してね、北朝鮮に對して、ね、南よりも全然きくない(意味不明)……。
<松原> 同情的……。
<金> ね、なぜ……、この理由をわたし解りませんよ。
<松原> 詰り、それはかういふ事──
<金> (激して)なぜ韓國に、韓國ばつかり、あの、噂をきんちよう(意味不明)でね、書きますか。これが私が理解しない──
<松原> できない……。
<金> できない事ですよ。
<松原> 北を襃める事はあつても、惡口は書かないな。何で韓國の惡口ばかり──
<金> さうですよ。それ、わたし、理解できませんですよ、日本に對して。(間)ね、韓國の俗談ね、俗談で、あの、池がありますよね、池の、あの、あのう、池の中で、あの、あのう、何ですか、かわり、かわ……、ね、これ……(漢字を書いてみせる)。
<松原> 蛙……。
<金> 蛙。蛙がありますよ。蛙、泳ぎしてゐるね。あの、或る田舍の、あのう、子供がね、あの、遊びでね、石を、少し石を投げて、ね……。
<松原> 蛙に投げた……。
<金> いや、蛙ぢやない、池に投げたね。蛙は、ね、unfortunatelyこの石に當つて死ぬ。ね、この子供はね、遊ぶですよ。この蛙はね、死ぬですよ。この俗談がありますよ。日本はね、今、自分はね、遊びでね、あの、石をね。韓國はね、今、あの、何ですか、この、この……(漢字を書きつつ)これに、問題ですよ。
<松原> 生命……。
<金> 生命ね。生命の問題ですよ、韓國人はね。それが、日本、もう惡いですよ。子供は遊びで池に石投げる、蛙はね、unfortunatelyね、死ぬ……。ねえ、日本が、さうですよ、私が考へて……。
朴正煕大統領の死後、日本は韓國に「遊びで石を投げ」續けた。それは大方の日本人にとつて、韓國民の直面してゐる試練が對岸の火災だつたからに他ならない。例へば次に引用するのは『ステーツマン』昭和五十五年十一月號所載の島良一氏の文章だが、島氏は韓國を惡し樣に言つてはゐないものの、やはり「遊びで石を投げ」てゐる。金俊榮氏の稚拙だが懸命な日本語を思ひ出しつつ、島氏の文章を讀んで貰ひたい。
しかし、全大統領の權力の基盤をなす軍部内には、まだ豫斷を許さぬ状況が現存していることも事實であろう。(中略)軍部内に反全斗煥派、あるいは全大統領に好感をもたないグループがかなりの割合で存在する可能性は、けつして低くないのである。(中略)たとえば、現在ソウルの消息筋のあいだでことあるごとに語られる有力な觀測──今囘成立した「全斗煥體制」が全斗煥大統領の“獨裁政權”であると見なすことはあまりにも時期尚早であり、陸士十一期生四名の實力者による一種の“集團指導體制”と考える方が妥當である、という觀測を十分に吟味してみるとき、そのことはきわめて眞實味を帶びてわれわれの眼前に迫つてくる。陸士十一期生四名とは、全斗煥大統領のほかに、金復東中將、盧泰愚中將、鄭鎬溶中將の三氏をさす。(中略)現在のところ、以上の三氏と全大統領のあいだに意見の對立はまつたくなく、陸士十一期生四名は「一枚岩」の團結を誇つているとの觀測が支配的であるが、今後彼らの關係がどのような推移をたどるかは、もとより何人にも斷言しうることではない。(中略)全斗煥氏にたいして、いずれ他の三氏が異をとなえる可能性も大いに考えられよう。(中略)きわめて確度の高いある情報によれば、すでにそうした事態はいくつか散見されたといわれる。
さて、讀者はかういふ文章の非人間性に氣附いたらうか。島氏はジヤーナリストださうだが、なるほどこれはいかにもジヤーナリストらしい文章である。まず、「きわめて確度の高いある情報」と島氏は言ふが、それがどの程度の「確度」かは島氏にも解つてゐないのだから、「韓國軍内部の動向」についてくだくだしく語りながら、要するに「何人にも斷言しうることではない」事柄を斷言しようと足掻いてゐるに過ぎない。傍點を付した部分は島氏の言分がすべて不確かな臆測にもとづく事を示してをり、臆測を何百何千と集めても所詮眞實を語つた事にはならない道理だが、韓國の諺にもあるとほり「十囘斧を當てられて倒れぬ木は無い」のだから、かういふ根も葉も無い噂ばかり聞かされてゐるうちに、人々はやがて「盧將軍と、金將軍ががつちりとスクラムを組み、全斗煥大統領にたいして對抗するやうになる」に違ひ無いと考へるやうになる。それゆゑ島氏は、韓國に石を投げてゐる事になる。しかも島氏は本氣でない。本氣で全斗煥氏の失脚を願つてゐるのではない。つまり「遊び」である。そして「遊び」で石を投げてゐる以上、全斗煥氏が失脚したら韓國がどうなるかといふ事は一切考へぬ。一衣帶水の隣國に對して、これはまた何たる非情か。
考へてもみるがよい。金復東、盧泰愚、鄭鎬溶の三氏が「全斗煥氏にたいして、いずれ異をとなえ」たり、「盧將軍と金將軍が全斗煥大統領にたいして對抗するやうな事態」となつたりすれば、韓國軍は分裂するかも知れぬ。そして國軍が分裂したら韓國はまたぞろ存亡の機に臨む事になる。それを島氏は本氣で望んでゐるのか
だが、手に負へないのは、島氏自身に韓國に對して冷酷な事を書いたとの意識が無いといふ事なのである。實際、島氏は韓國軍の分裂を望むとは書いてゐない。島氏は「對立の可能性を一笑に付すことはできない」といふふうに書く。が、全斗煥氏と將軍たちの對立の可能性を云々しながら、本氣でそれを期待してゐるやうにも、勿論本氣で案じてゐるやうにも見えず、それゆゑ冷酷に振舞ひながらその自覺を缺くこの手のジヤーナリストを、私は韓國軍を罵倒する手合よりも惡質だと思ふ。例へば鄭敬謨氏のやうに「全斗煥のあのバカが……」(『新日本文學』五十五年八月號)などと口走つてくれれば、それで忽ち御里は知れる譯だが、一見客觀的であるかに思へる島氏の文章に、とかく讀者は騙されるからである。 
「客觀的報道」の非人間性
それゆゑ、これは韓國とは直接關はりの無い事だが、昨今日本のマスコミを横行闊歩するジヤーナリストやルポ・ライターの非人間性について、日頃考へてゐる事の一端を書いておかう。大方のジヤーナリストやルポ・ライターは、島氏もさうだが、耳に觸れた限りの有る事無い事を記述して、その有る事無い事についての價値判斷は下さない。それを彼等は「客觀的報道」と稱し、世間もまたそれを望ましい事のやうに考へてゐる。かくて例へば、アメリカで目下流行してゐるといふフイスト・フアツキング(げんこつ性交)について詳細に記述しながら、フイスト・フアツキングを筆者が奬勵してゐるのか、それとも憂慮してゐるのか、それがさつばり解らぬといふ奇怪な文章が書かれ、讀者もまたそれを一向に奇異に感ずる事が無い、といふ事になる。例へば次の立花隆氏の文章を讀者はどう讀むか。
山口組の幹部が、アメリカのマフイアに招かれて渡米したことがある。彼がマフイアの有力者の主催する正裝したパーテイーにまねかれていつたところ、宴たけなわとなつたところで、會場にしつらえられたステージでアトラクシヨンがはじまつた。(中略)シロクロの實演シヨーで、さすがにプロらしく見事なセツクスを披露したが、彼としては日本でも見慣れているものなので、さして感心もしなかつた。ところが、最後に女がクライマツクスに達したところで、その女の首を刀でスツパリ斬り落し、それがころがり落ち、血がドツと吹きだした。それに對して會場からは大きな拍手が湧いたが、山口組の幹部は脚がガクガクしてふるえがとまらなかつたという。(『諸君!』、昭和五十三年五月號)
「アメリカSEX革命報告」と題するこの立花氏の連載記事は、その後一本に纏められたさうだが、私はまだ讀んでゐない。が、『諸君!』五月號の文章から判斷する限り、かういふおぞましい話を紹介する立花氏が、何かを本氣で憂へてゐるやうにはとても思へない。といふより、憂へてゐるのか樂しんでゐるのか、それがよく解らない。立花氏はフイスト・フアツキングやチヤイルド・ポルノについて蘊蓄を傾けるが、さういふおぞましい記述を、「性的快樂と殺戮快樂」には「つながりがあるといえるのではないだろうか」との陳腐な文章で結んで平然としてゐられる立花氏を、私はフイスト・フアツキングや鮮血滴る生首同樣薄氣味惡く思ふ。
勿論、韓國軍の分裂と「シロクロ實演シヨー」における頽廢的な殺人とは同日の論ではない。が、島氏の文章は、そのおぞましさにおいて、立花氏のそれと甲乙無いのである。フイスト・フアツキングや生首について語つて立花氏が、憂へてゐるのか樂しんでゐるのか解らぬと同樣、島氏も韓國軍分裂の可能性を語つて、それを案じてゐるのか期待してゐるのかは判然としない。だが、奇妙な事だ、それなら立花氏や島氏は何のために書くのか。それは愚問だ、決つてゐる、身過ぎ世過ぎのために書くのだと、さういふ事になるのなら、立花氏も島氏もゲシユタポ地下室の速記者と寸分變らぬ、といふ事になる。ジヨージ・スタイナーは書いてゐる。
ナチ時代特有の恐怖のひとつが、じつは、起つたものはいつさい記録され(中略)たということであり、それはいかなる人間の口をとおしても語られたことのないもの(中略)が、言葉によつて果たされたということであつた。(中略)ゲシユタポの地下室には、速記者たちがいて(通常は女性であつた)、身體を捩じまげられ、燒きごてをあてられ、毆り倒された人間の聲からもれてでる、恐怖や苦悶の喧噪を、丹念に書き留めていたのである。(深田甫譯)
ゲシユタポの速記者に「何のために書くのか」と問ふのはおよそ無意味である。ヒツトラーなら、尤もらしい理由を滔々と述べるであらう。が、速記者は身過ぎ世過ぎのために書いたのであつて、それ以外に理由は無い。とすれば、ゲシユタポの速記者と島良一氏との間にさしたる懸隔は無いといふ事になる。島氏を「自覺無き冷血漢」と呼ぶゆゑんである。 
傳聞で「眞相」が語れるか
ところで、もとより島氏の場合とは逆に、頗る主觀的な、惡意を剥出しにした韓國報道もある譯で、例へば毎月『世界』に寄稿し、『韓國からの通信』と稱して飽く事無く韓國に石を投げてゐるT・K生の文章がさうである。そして、韓國を惡し樣に言ふ反韓派は屡々T・K生の文章を引用するのだから、『韓國からの通信』が反韓派の情報源として大いに役立つてゐる事は明らかである。さらにまた、『韓國からの通信』は岩波書店から新書版としてすでに第四卷が出版されてゐるが、第一卷の出版は昭和四十九年であつて、韓國に對してこれほど執念深く石を投げ續けた人物はゐないのではないかと思ふ。とまれ、T・K生は、こんなふうに書くのである。
ソウルの友人の記者たちや市民の間に流れている情報を綜合すれば、光州の事態は次のような模樣である。(中略)兵士たちは、ほとんど無差別に銃劒で刺した。彼らは「全羅道の連中は滅種してもかまわないんだ」と叫びながら、子供たちもつき刺した。タクシーのドアをあけて運轉手をつき刺した。
光州事件については稿を改めて書かうと思つてゐるから、ここでは觸れない。私がまづ言ひたいのは、かういふでたらめな文章を讀まされ、韓國軍が同胞に對してそんな無意味な蠻行を敢へてする筈が無いと反論したところで、それは所詮水掛け論に終るしかないといふ事である。なるほど戒嚴司令部の公式發表があつて、それにはかう書かれてゐる。
止むを得ず戒嚴當局は、午後四時四十分頃、兵力を投入した。その際の示威行爲に加はつてゐたのは大部分學生であり、阻止せんとする若い軍人に對し投石と暴行をもつて對抗した。やがて一部市民も合流、軍人に投石し、雙方に負傷者が出、若き軍人と若き學生はともに興奮、罵聲と怒號をもつて對抗するに至つた。一方、この騷亂のさなかに、不純分子の所業と思はれる流言蠻語、すなはち、「慶尚道軍人が全羅道人の種を絶やすためにやつて來た」とか、「慶尚道軍人のみを選んでやつて來た」とか、理性的にはとても考へられないやうな、地域感情を刺激し煽動する噂が、短時間のうちに光州市内に廣まり、それが市民を興奮させ、かくて示威の樣相は激化する事となつたのである。
私はもとより戒嚴司令部の發表を信じる。光州の暴動を鎭壓した特戰隊の司令官鄭鎬溶中將の人柄を知つてゐるからである。鄭中將の威ありて猛からざる人柄についてはいづれ書くが、そしてそれを讀めば讀者はT・K生よりも私の言分のはうを信ずるやうになるに違ひ無いと思ふが、それはともかく、T・K生も私も當時光州にはゐなかつたのであつて、どちらも現場にゐなかつたのに、一方が戒嚴司令部の發表が正しいと言ひ、他方が正しくないと言ふだけでは、それは不毛の水掛け論、堂々廻りの押し問答である。が、光州事件について特戰隊の暴虐を強調する手合は、「確たる事實には立たず、あやしげな情報」に頼つてゐる危ふさを一向に意識する事が無い。
例へば反韓派は、光州から屆けられたメツセージなるものを證據としてゐるが、それが確かに光州から發送されたものかどうか、及び光州市民の過半數が事實と認めるものかどうかについては、反韓派も、もとより親韓派も、斷定的な事は一切言へない筈である。T・K生も私も、當時光州にはゐなかつた。しかるに、反韓派が例へば私を戒嚴軍に荷擔する許し難き奴と極め附けるなら、私のはうも反韓派を、北朝鮮のスパイつまり「不純分子」に荷擔する許し難き奴と極め附けてよい譯で、かくて戒嚴軍と「民主主義囘復を求める民衆」のどちらを支持するかによつて、雙方ともに光州にはゐなかつたにも拘らず、互ひに相手の「情報」を「あやしげ」と形容し、徒勞の口爭ひが果てしなく續けられる事になる。さういふ口爭ひの空しさに、親韓派も反韓派も、そろそろ氣附いてよい頃である。
反韓派は「光州での民衆の抵抗と戒嚴軍によるその血まみれの彈壓」について語るのだが、當時光州にゐなかつた反韓派は、いかなる「具體的な根據に立つ」て戒嚴軍の行動を「血まみれの彈壓」と評するのか。實は私は『光州事態の眞相はなにか』と題する小册子を持つてゐる。在日本大韓民國居留民團中央本部が刊行したものである。いづれ光州事件について論ずる際、私は參考資料として用ゐる積りだが、その際も私は戒嚴司令部や居留民團の發表を鵜呑みにはしない。小册子の「はしがき」には「初期の集團意志示威行動から遂には武裝暴徒化し、一部不純分子たちの暴威は、無分別な殺人・掠奪・公共建造物の破壞・放火といつた具合に、あたかも無法の修羅場さながらに光州全域を吹き荒れた」といふ一節があるけれども、それこそまさしく「光州事態の眞相」だと私が主張したところで、それはさしたる説得力を持ちえない。光州事件の死亡者數にしても、戒嚴司令部の發表では「民間人一四四名、軍人二二名、警察官四名」といふ事になるが、それが正確な數字だと私がいくら主張しても、反韓派にしてみれば戒嚴當局に荷擔する惡玉の言分としか思へず、それゆゑ耳に掛ける氣にはなれぬであらう。
だが、ここで誤解されぬやう斷つておくが、私は戒嚴司令部や居留民團の努力が空しいなどと言つてゐるのではない。無責任極まる反韓報道が罷り通る以上、目には目を、齒には齒を、正當防衞の公報活動は是非とも必要である。だが、その種の對症療法は短期的には奏效するかも知れないが、それだけでは不充分なのであり、私はそれが言ひたいに過ぎない。
話を本筋に戻さう。執拗に韓國に石を投げてゐるT・K生の文章は反韓派の情報源として大いに役立つてゐる、と私は書いた。だが、T・K生の記述の大半が傳聞證據なのである。「ソウルの友人の記者たちや市民の間に流れている情報を綜合すれば」とか、「民主化運動をしている友人の一人は語つた」とか、「全斗煥の上官であつた尹泌鏞(金扁+庸)少將が再び軍部に復歸して、近く中央情報部長に就任するという噂がとんでいる」とか、さういふふうにT・K生は書く。要するに「友人の一人がT・K生に語つた」といふ事や「ソウルではかくかくの噂がとんでいる」といふ事だけが事實であるに過ぎない。
しかるにT・K生の權威を反韓派はいとも無邪氣に信じ込む。T・K生の文章は「韓國からの通信」と題してゐる。眞僞のほどは無論解らぬが、T・K生は韓國に住んでゐるとの事であり、それなら日本人よりも韓國の事を正確に知つてゐる筈だと、反韓派はもとより、一般の讀者もつい思ひ込む。それはつまり、事實の量に目が眩み、事實の質を怪しまないからである。『諸君!』五十五年四月號に『朝鮮日報』の鮮于煇(火扁+軍)氏は、『韓國からの通信』の「九〇パーセントが事實であり、その情報のくわしさには時に驚く」と書いた。が、假に「九〇パーセントが事實」だとしても、その九〇パーセントの大半が低級で瑣末な事實なのであつて、低級で瑣末な事實なんぞに驚く必要は無い。頭を使はずとも足さへ使へば、そんな物はいくらでも蒐集できるからである。
シエイクスピアが受取つた洗濯屋の請求書を發見したところで餘り意味は無いが、いづれ天才的な學者がそれを用ゐてすぐれたシエイクスピア論を物するかも知れず、それゆゑ或る藝術作品についての低級な事實を蒐集する學者のはうが、獨斷的な批評家よりもましであると、T・S・エリオツトが書いてゐる。その通りである。だが、洗濯屋の請求書が發見されてシエイクスピアが傷つく事は無いし、イギリスの小説に麒麟が登場する囘數を調べる學者も無害だが、T・K生の蒐集する「低級な事實」は、金俊榮氏が言つたやうに「遊びで韓國に石を投げる」ために用ゐられる。かてて加へてT・K生は傳聞による「低級な事實」を蒐集するだけではなく、鮮于氏の言葉を借りれば「何でもないような個所に眞實とは違うチヨツトした話」を挾むのだが、「實にそれが韓國に對する認識を根本的に變える扇の要のような重大な役割を果す」のである。鮮于氏は『世界』編輯長に對する「情誼」を考へてかやや控へ目に批判してゐるが、要するにT・K生は九〇パーセントの「低級な事實」を集め、殘る一〇パーセントに小細工を施すのであつて、その小細工の小細工たるゆゑんを知りさへすれば、T・K生の「權威」なんぞに惑はされる事は無い。戒嚴司令部が正しいと一方が言ひ張り、「民主化を願う光州の民衆」が正しいと他方が言ひ張るばかりなら、それは不毛の水掛け論で、所詮決着はつきはしないが、T・K生を打ちのめすには、彼の文章の小細工とでたらめを、T・K生が反駁できぬほど徹底的に批判すればよいのであり、そのためには戒嚴司令部の發表を參照する必要は無いし、全羅南道を訪れる必要も無いのである。 
《T・K生の愚昧》
では、T・K生の成敗に取り掛らう。まづ指摘したい事はT・K生の頭腦の粗雜である。『世界』五十五年十一月號に彼はかう書いてゐる。
全斗煥の人となりを示すといおうか、國民の全斗煥に對する見方を示すといおうか、こういう話もある。彼が陸軍保安司令官でまだ少將の時分であつた。すでに實權を握つている時であつたので、彼も國務會議に出席したが、いつしか彼の肩には大將の四つ星が光つていた。その後はその間違いに氣づいたのか、三つの星の中將になつていた。
例によつてこれも傳聞であつて、「こういう話もある」といふ事實を傳へてゐるに過ぎない。それはともかくT・K生は、全斗煥氏が「少將の時分、すでに實權を握つてい」たと書く。
だが、右に引用した文章の直前に彼はかう書いてゐるのである。
全斗煥は大統領就任を待ちきれず、統一主體國民會議というのが大統領選出の茶番劇を演ずる二日も前に、大統領官邸青瓦臺に入つた。それは彼が大統領になることにしたことに對して、どのようなことが、とりわけ軍部の中に起こるかしれないと恐怖にかられたからであつた。青瓦臺には保身の防備が徹底しているし、いつでも逃亡できるような飛行機の準備もできているからである。
實はこのくだりも傳聞なのだが、頭の惡いT・K生には矛盾する二つの傳聞證據を竝べるのは賢明でないといふ事が解つてゐないのだ。さうではないか、「少將の時分」すでに實權を握つてゐたのなら、大統領就任の二日前、「どのようなことが、とりわけ軍部の中に起こるかしれないと恐怖にかられ」る筈が無い。それに何より、大統領就任を二日後に控へて軍部の反亂を恐れねばならぬほどどぢな少將に、どうして鄭昇和大將を逮捕できたらうか。シエイクスピアがジユリアス・シーザーに言はせてゐるやうに「臆病者は現實の死を迎へるまでに何度も死ぬ」。が、全斗煥氏は斷じてそのやうな臆病者ではない。T・K生も認めてゐるやうに、全氏は大統領就任直後、地方巡視に出掛けてゐる。それなら、就任二日前の八月二十五日に軍部の反亂を恐れてゐた男が、どうして十日後の九月四日に光州なんぞへ出向くであらうかと、常識を働かせ、さう考へるだけで、T・K生の小細工のお粗末はいともた易く看破できる筈なのである。
もつともT・K生は「新聞には(全斗煥大統領が)光州の道廳で訓示をしたとして或る官廳のみすぼらしい一角の寫眞が出ているが、實は光州には恐れをなして、足を踏み入れることができなかつたという噂が流れている」と附け加へてゐる。が、これもT・K生の愚鈍の證しに他ならない。假に全大統領が「光州には恐れをなして、足を踏み入れ」なかつたとしよう。その場合、大統領の臆病と小細工は、側近のみならず「或る官廳のみすぼらしい一角」を撮影したカメラマンにも、「大統領が光州の道廳を訪れた」との虚僞の新聞報道を讀む道廳の役人たちにも知れてしまふ道理であつて、それくらゐならいつその事光州なんぞに近附かぬはうが遙かにましであつて、その程度の才覺なら中學生でも持ち合せてゐよう。要するにここでもT・K生は、おのれの器で人を量り、おのが才覺の乏しさを露呈してゐるに過ぎない。そればかりではない、T・K生が韓國人なのか日本人なのか私は知らないが、彼はまた「金大中氏は中學生竝みの才覺の持主にしてやられた」と主張してゐる事になる。それこそ、體制反體制を問はず、韓國民に對する最大の侮辱ではないか。
T・K生はまた、全斗煥少將が「國務會議に出席した」際、「大將の四つ星が光つてい」る軍服を着用してゐたといふ「流言」を紹介する。が、途轍も無いほど野蠻な國ならばいざ知らず、少將が大將の階級章を所有してゐるといふ、そんなでたらめな軍隊がこの地球上に存在する譯がない。實際韓國では、大將の階級章は大統領が手づから授與する事になつてゐる。
しかもT・K生は「間違いに氣づいた」全斗煥少將が「その後は」中將の階級章を着けてゐたさうだと書いてゐる。さうなると、大將の階級章と中將の階級章を少將が所有してゐた事になる。いやはや何とも驚き入つたる次第であり、開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。韓國軍はさまで無規律な軍隊なのか。だが、一旦大將になつたからには、「すでに實權を握つてい」たのだから、「その間違いに氣づいた」としても、そのまま大將で押通したはうがよささうなものである。慌てて中將に戻つたら却つて權威を失墜しよう。再び、全斗煥氏は中學生竝みの才覺も持合せぬ愚者なのか。そして大韓民國はそれほどの愚者にも大統領が勤まる國なのか。それなら、それほどの愚者に「國務會議」のメンバーや韓國軍が牛耳られ、金大中氏たち反體制派が手玉に取られてゐるのなら、T・K生が願つてゐるらしい韓國の「民主囘復」なんぞ夢のまた夢ではないか。 
騙されたがつてゐる反韓派
諄いやうだがここで馬鹿念を押しておかねばならない。T・K生の記述の大半は傳聞證據なのである。そして、傳聞だと斷れば何を書いても大丈夫だと彼は思つてゐる。底の淺い噂話に興ずるのはおのが淺薄を滿天下に曝す事だといふ事が、彼には理解できないらしい。だが、T・K生のこの途方も無い愚昧に日本の反韓派は氣附かず、『韓國からの通信』を金科玉條の如くに有難がるのである。實際、大江健三郎氏などは「韓國の民主主義囘復のための運動の、われわれが眼にしうるかぎりの最良の自己表現」とまで評してゐる。
反韓派がさまでたわいも無く欺かれるのは一體全體どうした事なのか。
それはかうである。島良一氏を批判してすでに述べたやうに「臆測を何百何千と集めても一つの眞實をも語つた事にならない」が、T・K生の場合は、「友人のジヤーナリスト」や「民主勢力の或る長老」が語つたと稱する噂話に、ちよつとした細工が施されてゐるのである。例へばT・K生はこんな具合に書く。
今度の金大中氏事件關連者に對する陸軍保安司令部での拷問は、言語に絶するものであつた。金大中氏も入れられた地下室牢は悲鳴がみなぎつていた。その中には金大中氏の悲鳴もあつたと思われるが、區別ができないほどであつた。ただ高齢者の一人である文益煥牧師の悲鳴が、もつとも耐えられないものであつた。
「地下室牢の悲鳴」を聞けるのは國軍保安司令部の軍人だけである。してみれば、T・K生には保安司令部に勤務してゐる友人がゐるらしい。T・K生に情報を流すスパイも捕へられないほどお粗末な國軍保安司令部なら、全斗煥前司令官が鄭昇和前戒嚴司令官を逮捕できた筈は無いが、それはともかく、假に保安司令部に勤めるT・K生の友人が「地下室牢は悲鳴がみなぎつていた」云々と語つたといふ事だけは事實と認めるとしよう。そこでT・K生の、いやT・K生の友人の、言葉遣ひに注目して貰ひたい。
國軍保安司令部の「地下室牢は悲鳴がみなぎつて」ゐて、「その中には金大中氏の悲鳴もあつたと思われるが、區別ができないほどであつた」と彼は言ふ。これがT・K生の、或いはT・K生の友人の、見え透いた小細工なのである。「思われる」といふのはもとより推量である。つまり彼は傳聞證據の中にもこつそり推量を忍ばせるのだ。推量は所詮推量であり、事實を語つた事にはならないが、それで充分用に立つ、寄せ餌に群がる小鯖よろしく、迂闊な讀者が擬似鉤に飛び附いてくれるといふ譯だ。悲鳴の「區別ができないほど」だつたのなら、「文益煥牧師の悲鳴」だけが區別できた筈は無い。しかるに、さう考へるだけの分別は、保安司令部を惡玉、金大中氏や文益煥氏を善玉と割り切つてゐる正義病患者には到底期待できないのである。
要するに、反韓派がT・K生の文章の粗雜や小細工に氣づかないのは、氣づきたがらないからであり、彼等は、それがいかに安手のものであれ、信じたくない事實よりは「正義感」を滿足させてくれる嘘のはうを好むのであつて、要するにT・K生に騙されたがつてゐるのである。そして反韓派は、その幼稚な正義感ゆゑにこそ、弱者を善玉、強者を惡玉と割り切るのであり、かくて逮捕された金大中氏は善玉だが、逮捕した全斗煥氏は惡玉であり、鎭壓された民衆は善玉だが、鎭壓した特戰隊は惡玉だ、といふ事になる。金載圭もかつて強者だつた頃は惡玉だつたが、「惡玉」朴正煕氏を暗殺した途端に「善玉」になつた。敵の敵は身方といふ譯だ。T・K生は五十五年二月、次のやうな「友人のジヤーナリスト」の言葉を記録してゐる。
軍人どもが自分らの力を過信し、ただ敵意に燃えて過ちをおかすことのないようにと祈つている。いま金載圭氏らを無期ぐらいにしたら國民はホツとして喜ぶだろう。彼らを處刑すれば、殘黨は最惡だという印象がますます強くなる。將來の韓國の歴史が金載圭氏を愛國者として記録するのは間違いない。
もとよりかういふ安直な善玉惡玉二分法はT・K生に限らない。例へば鄭敬謨氏もさうである。鄭氏はかう語つてゐる。
光州の事態はあくまでも全斗煥軍のまさに殺人鬼的な殘虐行為から自然發生的に發したものです。光州で録畫されたビデオ・テープを見ましたが、何人かの市民が出てきて、「われわれは人間としての當然の努めとして政府軍と撃ち合いをやつたのだ。誰が好きこのんで武器をとるようなことをするだろうか」と言つてます。(中略)光州のあの悲慘な事態についての責任は、全面的に全斗煥側にあると言わざるを得ません。(『新日本文學』五十五年八月號)
プラトンが書いてゐるやうに「語り掛けるべき人々に語り、語り掛けるに價せぬ人々には沈默する」のが賢明なのかも知れぬ。それゆゑ私も鄭敬謨氏の淺薄について長々と語らうとは思はない。T・K生と鄭敬謨氏との類似點を指摘しておくにとどめよう。
鄭敬謨氏も、數人の友人の話だけが眞實を語つてゐると考へるT・K生と同樣、ビデオ・テープに録畫された「何人かの市民」の言分だけが光州事件の眞相を傳へてゐると思ひ込んでゐる。そして、それはもとより安直な二分法のせゐであり、鎭壓した側の「全斗煥軍」は「殺人鬼的な」惡玉で、「人間としての當然の努め」を果した「何人かの市民」は善玉なのだから、責任は「全面的に全斗煥側にある」といふ事になる譯だ。さらにまた、T・K生と同樣、鄭敬譲氏も、安手の正義感と思考の混濁ゆゑに、傳聞證據が傳聞證據に過ぎぬ事をうかと失念する。鄭氏はかう語つてゐる。
ソウル驛前の廣場に七萬人の學生が動員されたとき、バスが徴發され、乘客を下ろして警官隊の中につつ込んでいつたという事件があり、警官が一人死にました。學生たちはそこまでいつたのかと最初私は思つたのですが、あとから話を聞けばそれをやつたのは學生ではなかつたと言うんです。むしろそれをやつた人間を學生の方が捕まえて警察につき出したそうです。明らかに政府側の挑發だつたわけです。
鄭敬謨氏に限らぬ。反韓派は常にこの傳で傳聞と眞實とを混同する。「警察につき出したそうです」と言ひ、その舌の根も乾かぬうちに「明らかに」云々と斷定する。しかも、鄭氏はその詐術を詐術と意識してゐる譯ではない。
さういふ愚鈍な手合に對していかな反證を擧げようと、反證が傳聞なら所詮は徒勞であつて、こちらも傳聞と眞實とを混同できるほど愚鈍かつ鐵面皮になり、「明らかに暴徒側の挑發だつた」と負けずにがなり立てるしかない。が、それには體力と根氣が必要で、それは叶はぬとなれば、T.K生や鄭敬謨氏の愚鈍ゆゑの粗雜な思考を嗤ふしかないのである。例へば私が指摘したT.K生の思考の粗雜について、T・K生もしくは鄭敬謨氏は、到底反論できぬであらう。「文は人」なのであつて、粗雜な文章は粗雜な思考の決定的な證據になるのである。 

 

賢愚をわかつもの
諄いやうだが、私と同樣、T・K生も鄭敬謨氏も光州にはゐなかつたのである。それゆゑ私は、「光州事態の眞相はなにか」について斷定する積りは無い。私がここで問題にしたいのは、韓國に石を投げる反韓派が、測り難き眞相についての敬虔な感情を缺いてゐるといふ事である。つまり、安手の正義感に盲ひたる反韓派にとつて、「光州事態の眞相」は自明の事なので、眞相は結局「藪の中」かも知れぬといふ事を反韓派は考へてみようともしない。そして、さういふ眞實に對する敬虔な感情を持合せぬ手合が、戒嚴司令部といふ權威を信ずる韓國の民衆よりも賢いとは斷じて言切れないのである。
ここで讀者は金俊榮氏の言葉を思ひ出して貰ひたい。「なぜ韓國に、韓國ばつかり、あの、噂をきんちようでね、書きますか」、さう金氏は言つた。勿論、金氏も「光州事態の眞相」を知つてゐる譯ではない。が、私はT・K生や鄭敬謨氏よりも、文公部の若い役人のはうが賢いと思ふ。なぜなら、金氏はおのが「知力では判斷を下す資格がない」と知れば「權威を受け入れる」からである。ホイジンガは書いてゐる。
かつての時代の農夫、漁夫あるいは職人といつた人びとは、完全におのれじしんの知識の枠内で圖式を作り、それでもつて人生を、世界を測つていたのである。自分たちの知力では、この限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない、そうかれらは心得ていた。いつの時代にも存在するほら吹きもふくめて、そうだつたのである。判斷不能と知つたとき、かれらは權威をうけいれた。だから、まさしく限定において、かれらは賢くありえたのである。(『朝の影のなかに』、堀越孝一譯)
「限定において賢くありえた」とはどういふ事かを知りたければ、きだみのる氏の『につぽん部落』(岩波新書)を讀めばよい。「終戰前後から十五、六年くらい」の頃、「東京都の西の端を限る恩方村」邊名部落に「限定において賢い」としか評しやうの無い人々が住んでゐた事が解る筈である。その一人がかういふ名言を吐いてゐる、「本なんておめえら讀むでねえ。本を書くにや筆が要らあ。本書きの使う上等な筆になればなるだけ狸の毛ばが餘計入るもんなあ。化かされて暇と金をすつちや藝もねえからよ」。
「狸の毛ばが餘計」入つてゐる毛筆の代りに萬年筆を握り、韓國についてのまことしやかな噂を書き散らすT・K生は、「藪の中」の事柄、或いは「限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない」などと、ただの一度も考へた事が無いであらう。そして、なにせ國軍保安司令部の「地下室牢」の内部までお見通しらしいから、戒嚴司令部の如き權威は一切受け入れる必要が無いのであらう。だが、「友人のジヤーナリスト」や「民主勢力の或る長老」といつた淺薄な手合に從つてゐるT・K生が、戒嚴司令部の權威を受け入れてゐる金俊榮氏よりも賢い筈は斷じて無い。「賢い人に從ふのは賢い事と同じだ」とアリストテレスは言つた。その通りであつて、吾々は皆、病氣になれば醫師の判斷に從ふのである。 
知らされすぎの弊害
「こんにち西洋に生きているごくあたりまえの人々のばあい、かれらはあまりにも多くのことを知らされすぎている」とホイジンガは言ふ。洋の東西を問はず、それは憂ふべき現代病である。光州で何が起つたかは吾々にとつて「藪の中」である。が、テレビのスイツチを捻るだけで、或いは新聞の社説やT・K生の駄文を讀んだだけで、人々は「自分で思考」した積りになり、「自分で表現」してゐる氣になつて、「金大中氏を殺すな」のデモに參加し、ハンストをやり、「民主勢力との連帶の挨拶」に醉ふ。それは嗤ふべき淺薄だが、同時に憂ふべき現代病でもある。マスコミやルポ・ライターによつて吾々は、イラン・イラク戰爭だの、ポーランドのストライキだの、原子力發電だの、藝能界の「噂の眞相」だのと、「あまりにも多くのことを知らされ」ながら、といふよりは知らされるがゆゑに、「限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない」との謙虚な心構へを今や喪失してゐる。そして「あまりにも多くのこと」のすべてについて「自分で思考」する譯には到底ゆかないから、人々は、出來合ひの思想を探し求める事になるが、出來合ひといふものは、服であれ思想であれ、多くの人々に利用されるやうに拵へてあるから、當然の事ながら非個性的であり、非個性的だから同志との糾合を圖るのに便利で、かくて身方を善玉、敵を惡玉とする安直な二分法が持て囃され、人々は敵を罵る事によつて肌を合せ、身方との「連帶」を無上の快とし、身方が自分と同じ考へである事を確認して安心したがるのである。例へば次に引く文章を見るがよい、最後の一行が特に興味深い。
五月二十三日、平壤放送は韓國への“不介入”を宣言する朝鮮中央通信の聲明を放送した。(中略)「多くの市民と全斗煥軍が全面衝突して多數の死傷者が出た」「高校生たちも授業を拒否して市街をデモした」。(中略)平壤放送の、煽動調ではなく、重々しい調子の語り口には迫力があつた。とくに三十日朝のニユースは「四・一九の教訓を忘れず、たたかう人民の側、父母兄弟の側に立ち、反維新・反フアツシヨ鬪爭隊列に勇敢に立ち上るべきである」と韓國人民や兵士にたいして訴えたのは印象にのこつた。この放送を日本でききながら二つのことを考えた。第一は事件の客觀的事實と政治的本質を明快に指摘したことに對する共感であつた。しかし、第二には、海をへだてた日本でこの放送をききながら、何んともいいようもないもどかしさや無力感をもつた。
小中陽太郎も、筆者とおなじような無力感をもつたらしい。
最後の一行については説明を要しないと思ふ。何ともはや砂を噛むやうな駄文だが、文章作法上の缺陷も指摘しない。だが、この松浦氏の駄文には、反韓派を批判してこれまで縷々述べて來た事柄が集約されてゐる。まづ、「藪の中」の眞實に對する畏敬の念を持合せぬ松浦氏は、平壤放送を鵜呑みにして「光州事態の眞相」すなはち「事件の客觀的事實」を把握できたと思ひ込んでゐる。次に、松浦氏は「たたかう人民の側、父母兄弟」の側が善玉で「全斗煥軍」は惡玉だと「明快」に區分けする平壤放送の「煽動調」の非人間性に氣附かず、その「明快」な「政治的本質」に「共感」してゐる。出來合ひの思想が「明快」で「政治的」なのは怪しむに足りないが、それはまた頗る非人間的なのであつて、これは少しく説明を要する。
松浦氏は『統一評論』に寄せた同じ論文の中で、『諸君!』を「タカ派文化人の機關誌」と呼び、「まもなく『正論』(サンケイ出版)も創刊され、右傾の『中央公論』とならんで“右翼雜誌トリオ”を形成した。これらのメデイアは親韓文化人の飼育の温床だつた」と書いてゐる。つまり松浦氏は「左傾」の『統一評論』や『世界』は善玉で、私のやうな「右翼」を「飼育」した『中央公論』は惡玉だと割切つてゐる譯である。だが、私は『中央公論』五十五年四月號で「親韓文化人」を徹底的に成敗した。彼等のでたらめな「變節」を人間として許せないと思つたからである。『中央公論』が「右翼雜誌」なら、どうしてさういふ事が可能だつたのか。
要するに、「藪の中」の眞實を把握する事の難しさを痛感しない者は、人間を理解する事の難しさをも痛感する事が無く、人間を善玉と惡玉に二分して能事足れりとなす。『御意に任す』を書いたピランデルロは、さういふ淺薄な手合に我慢がならなかつた。『御意に任す』の幕切れで、ポンザ一家の奇行の謎を解かうとして、すなはち「藪の中」の眞實を知らうとして躍起になつた金棒曳きは、見事背負投げを食ふのだが、ピランデルロはただ軍に「眞實の相對性」を主題にして觀客を飜弄しようとしたのではない。ピランデルロは「眞實は時に隱蔽されねばならぬ。同情にもとづく嘘に較べれば、眞實などはさして重要でない」といふ事が言ひたかつたのである。ポンザ夫人は金棒曳きたちに言ふ、「あたくしどもの生活には、隱しておかねばならぬ事がございます。さもないと、お互ひの愛情によつて見附け出した救ひが、臺無しになつてしまひます」
これはしかし、善玉惡玉二分法に執着する手合にはちと高級すぎる問題かも知れぬ。が、「同情にもとづく嘘」を尊重しないなら、すべての家庭は破壞されよう。いや、家庭に限らず、すべての社會生活は成り立たない。そして實際、吾々は妻子や親友を善玉と惡玉に二分してはゐない。身近な友人と附合ふ時、吾々は友人の謎は謎のままにしておく思ひ遣り、或いは、眞實を隱蔽する思ひ遣りを忘れてはゐない。そしてまた、百パーセントの善玉も百パーセントの惡玉もこの世には存在しない事をも吾々は皆承知してゐよう。それなら吾々は、韓國人に對しても、なぜ同じ態度で接しられないか。
『中央公論』七月號にも書いたとほり、私には「韓國にしかゐない友人」がある。それゆゑ私は、韓國について知り得た眞實のすべてを、ルポ・ライターよろしく語る事はしない。友人について知つた事のすべてを明け透けに語るのは背信行爲である。私は例へば申相楚氏の人柄を賞讃した。あれはいくら何でも襃め過ぎだと笑つた淺はかな韓國人もゐたらしいが、私は申氏の缺點を知らぬではない。申氏も人間であつて、もとより完全無缺ではない。が、それはお互ひ樣であり、私にも多くの缺點がある。申氏は確實にそれを知つてゐよう。この世に百パーセントの善玉がゐる筈は無い。無論、百パーセントの惡玉もゐる筈は無い。
けれども、反韓派にはこの至極簡單な道理がどうしても理解できぬらしい。それゆゑ彼等は、かつては朴正煕氏を、今は全斗煥氏を極惡非道の惡玉に仕立て、一方、金大中氏を完全無缺の善玉として渇仰する。だが、それも、本氣で金大中氏の人柄に惚れ、友情ゆゑに金氏の缺點を語りたがらぬ、といふ事ではない。彼等はただ、闇雲に善玉を稱へて空疎な文章を綴り、惡玉を難じて惡罵の限りを盡くすだけなのである。
例へば、「變節」した清水幾太郎氏を進歩派は罵倒する。身方を裏切つた者はすなはち敵だからである。だが、出來合ひの思想を弄び、敵を罵り身方を稱へ、連帶をもつて無上の快となす、さういふ自分たちの政治主義の安直な生き方ゆゑに、今、清水氏の「裏切り」を有效に批判できず、ただ罵るばかりなのだといふ苦い認識は、彼等には無い。
いや、それは保守派も同じである。保守派の中には「蕩兒歸る」とて清水氏を歡迎する向きもある。敵の敵となつた者は身方だからである。私は改憲論者であり、自衞隊が國軍として認知される事を切に望んでゐる。けれども一方、昨今の所謂「右傾化」の輕佻浮薄をも苦々しく思つてをり、その輕佻浮薄をいづれ批判せねばならぬと考へてゐる。が、それをやれば、私は「折角高まつた防衞意識に水を差す裏切者」として保守派に嫌はれるに決つてゐる。だが、身方のすべてが善玉で、敵のすべてが惡玉だと割切り、身方との連帶に醉ひ癡れるべく敵を罵る、さういふ安直な生き方に慣れ、知的誠實を抛棄して久しい進歩派に、「右傾化」の淺薄を批判できる筈は斷じて無いのである。 
「おやりなさい」
だが、もうこれくらゐにしておかう。何を言はうと愚かな反韓派には所詮通じまい。通じるくらゐなら、あれほどぞんざいな文章を書きなぐる譯が無い。それは百も承知ゆゑ、專ら讀者を當てにして、彼等に通じないゆゑんを縷々述べて來た譯だが、最後に反韓派が百パーセントの惡玉と見做し、呪咀してやまぬ全斗煥大統領に關する三つの文章を引用し、反韓派の善玉惡玉二分法の安直を讀者にとくと味はつて貰はうと思ふ。
獨裁者朴をしのぐ全斗煥によつて、光州の民衆の貴い血潮がおびただしく流され、しかもその血を贖うべき者の首の代りに、惡虐なすりかえによつて、こともあろうに金大中氏らの生命を彼らは求めています。(『季刊クライシス』第五號)
金載圭氏を英雄視する民心はいつそう高まつている。しかし全斗煥グループの敵意はついに無謀にも彼を死に追いやるのではないかという悲觀論がつよくなつている。一二・一二事態を經驗した國民は、全斗煥のような人物は何をしでかすかわからないと思う。(T・K生、『軍政と受難』、岩波書店)
次に引くのはその「何をしでかすかわからない」全斗煥大統領の長男で、延世大學二年生の全宰國君が、一九八〇年十月一日附の『朝鮮日報』に寄せた文章の一部である。
本當に長い「冬休み」であつた。(中略)その間私たち韓國民は、多大の犧牲を拂はねばならなかつた。が、その鬱陶しい梅雨も明けた。四月の或る日、大學へ行くと、友達が父の事を話してゐた、父全斗煥(チョンドファン)を「*(原文:前+衣)頭漢(チョントハン)(人殺し)」と呼んでゐた。
私は大學での徹夜籠城はしなかつた。早く歸宅して母や弟や妹を安心させねばならず、また「維新殘黨の首魁」と謗られてゐる父を慰めてやりたかつたからである。けれども、この不肖の倅は、夜おそく歸つて來る父を慰めるよりは、むしろ父の惡口を言ふ友達につい同感し同情してしまふのであつた。一度父にかう言つた事がある、「お父さん、お父さんひとりですべてをうまくやれますか。お父さんが自分の惡口を聞く事ができるといふ事實、それこそ民主主義の存在を實證するものではありませんか」(中略)
或る日、夜おそく、歸宅した父が言つた、「お前の學友が、私を維新殘黨のボスと呼び、私の藁人形を拵へて、火刑式をやつたさうだな」。怒りや疲勞ではなく、悲哀と孤獨の籠つた聲で父がさう言つた時、父の目には涙がうかんでゐた。その涙の意味を私は理解した。それを一生忘れずに生きてゆかうと思ふ。神に誓ふ、私は今後一瞬たりともそれを忘れない。忘れたら、いかやうの罰を受けてもよい。私の知る限り、父は誰にもまして鋼のやうな意志を持つ軍人であつた。その父が涙を見せるなどといふ事は、とても想像のつかない事だつた。(中略)
冷たい風が吹いてゐる冬の夜、十二月十二日、十年間住んだ延禧洞の思ひ出深いあの家で、長い歳月、信じ合ひ助け合つて暮して來た幸福な夫婦と四人の子供たちが、向き合つて坐つてゐた。父の表情は堅く、母は窓外の闇を默つて見詰めるばかり、子供たちは何事かが起るとの不吉な豫感に息詰るやうな思ひだつた。すると父が言つた、「お前たちは、正しくないと知りながら、大きな流れにそのまま身を任せるはうがよいと考へるか。それとも、男と生れた以上、命を懸けてでも、自らが正義と信ずるもののために、歴史の流れを變へるべく全力を盡さねばならぬと考へるか」。ぼんやりして默り込んでゐた子供たちにとつて、それは思ひもよらぬ質問であつた。が、四人の子供たちは口を揃へて言つた、「おやりなさい」。
權威ある家長にとつて、子供たちのこの信頼がどのくらゐ役立つたかは解らないが、少しばかり堅い表情を弛めて父は言つた。「私は田舍の貧農の子として生れ、かうして將軍にまでなれた。これで滿足だ、これ以上の野心は無い。だが、もしもこの私の身に不幸な事が起つて、お前たちが世間から侮辱され蔑視されるやうな事になつたとしても、お前たちは挫折する事無く、勇氣を失はず、雄々しく生きてゆくのだぞ」。
さう言ひ殘し、振向かず、父は冷たい戸外へ悠々と出て行つた。 
IV <對談> 日本にとつての韓國、なぜ「近くて遠い國」か
 申相楚(大韓民國國會議員) / 松原正

 

朴大統領が暗殺された時
<松原> 申さん、覺えていらつしやいますか、朴正煕大統領が暗殺された時、私はたまたまソウルにゐて、その翌日だつたか、私は申さんに電話を掛けた。そしてかう言つた「私は新聞記者ぢやないから、大統領暗殺の眞相なんぞを知りたいとは思はない、ただ今後の日韓關係について申さんとは是非もう一度語り合ひたい、折も折、たいそうお忙しいだらうが、お目にかかれないだらうか」。
實は、申さんの他にもう一人、野黨新民黨の代議士にも會ひたいと思つたのです。新民黨について率直な疑問をぶつけてみたいと思ひましてね。そこでまづその野黨の代議士に電話を掛けた。が、斷られたんですね。「松原さんもご承知のやうに、今は國家未曾有の危機である、お會ひできない」。まあ、それはそのとほりで、あの時は野黨の代議士だつて猫の手も借りたいくらゐだつたらう。まして申さんは維新政友會の代議士、いはば與黨だつた。これはもう斷られるに決つてゐると思つて、おづおづと電話した。すると申さんはおつしやつた。「いやあ、私は忙しくありませんよ」。たとへ忙しくなくても忙しいと言ふのが政治家だらうにと、私は驚き、感動し、訝しんだ。
<申> つまり、政治家としての力量を訝しんだわけでせう。(笑)
<松原> ええ、それはもう。(笑)議員會館で最初にお目にかかつた時に訝しんだ。あの時、吾々は三時間語り合つたけれど、申さんは日本の政治家や知識人を、名指しで、ぼろくそにけなしたでせう。
<申> いや、それは松原さんが先にやつたんだな。それで私もつい心を許して……。(笑)それに松原さんは韓國や韓國の政治家についても、ずゐぶん激しい事を喋つたんですよ。覺えていらつしやらないかも知れんが。
<松原> いや、覺えてますよ。申さんに對してだけではなく、私は韓國で日韓雙方の批判をやりましたから。私怨ゆゑの惡口はいけないけれど、私には個人的に怨んでゐる韓國人なんて當時一人もゐませんでしたから。孫世一といふ人がゐるでせう。東亞日報の論説委員の。
<申> ええ、いまは代議士ですが。
<松原> 孫さんに初めて會つたのは、朴大統領が殺される數時間前、東亞日報の彼の部屋でだつた。私は孫さんに言つたのです。「朴大統領は偉大だが、ああいふ偉大な政治家の取卷きはとかく墮落しがちなんだ。あなた方は朴さんがいつまでも生きてゐると思ひ込んでゐる。けれども朴さんも人間、いつ死ぬか解らない、いつ殺されるか解らない」。孫さんは頗る眞劒に私の話を聞いてくれましてね、もう一度會はうぢやないかといふ事になつた。二度目に會つたのは無論、朴大統領が殺された後の事ですが、ホテルの私の部屋で、夜空に行き交ふ探照燈を時々緊張した氣持で眺めながら、吾々はまこと眞劒に話合つたのです。正直、孫さんの意見には承服できないところがあつた。だから私はそれを率直に言つた。そしてその結果、私にとつて孫世一さんは、忘れられぬ人の一人になつたといふわけです。
<申> それが何より大事なんですよ。韓國人と日本人が率直に話合ふといふ事が。孫君とはその後お會ひになりましたか。
<松原> ええ、韓國へ行けば必ず會ひます。三度目の訪韓、あれは昨年の七月だつたけれど、その時の孫さんは失意のどん底で……。何しろ彼は金泳三氏に賭けて、その金氏が失脚してしまつたのだから。確か、金泳三氏の主席補佐官になつたのでしたね。
<申> ええ、まあそんな役でした。
<松原> でも、失意の時であらうと得意の時であらうと、友情に變りは無いはずですからね。私は文公部に孫さんと再會できるやう計らつてくれと頼んだ。ところが文公部は消極的でしてね。ああいふ態度、よくないな。
<申> それは無理からぬ話ですよ。何しろあの頃は混亂期だつたし、それに何より、どこの國でも役人根性と人情は水と油だ。
金鍾泌氏との對談
<松原> それはさうです。でも、覺えていらつしやいますか、昨年七月訪韓した時、金浦空港からソウルへ向かふ車の中で私、「金鍾泌さんに會ひたいのだけれど、會へるだらうか」つてたづねたでせう。
<申> さうでした。覺えてゐます。
<松原> 昨年四月、二度目の訪韓の折、私は金鍾泌さんに會つた、大統領候補としての金鍾泌さんに、民主共和黨本部の總裁室で。金さんは私との會見に一時間半も割いてくれたのですよ。もつとも私のはうから會ひたいと言つたわけではなかつたけれども。とまれ私は金鍾泌さんにかなり率直に話した、「韓國は日本と違ふ。ソウルの四十數キロ先には敵がゐるではないか。しかるに韓國の政治家は日本やアメリカにおけるやうな民主主義が韓國でも今可能であるかのやうに思つてゐる。それは途方もない間違ひだ」。そんなふうに話したのです。すると金鍾泌さんは頗る眞劒になつて、三十分の會見豫定が九十分になつてしまつた。私はあの頃、軍人が大統領にならなければ韓國は持たないと思つてゐたし、申さんもその點は同意見でしたけれど、「袖振り合ふも他生の縁」といふ事があるでせう。九十分語り合つたら「多少の縁」ですよ。逮捕され失脚したからとて知らぬ顏はできないでせう。
<申> その通りです。
<松原> 勿論、友情や信頼關係だけでは政治はやれない。マツクス・ウエーバーの言ふ通り「政治家は惡魔の力と契約する」。だから、金鍾泌さんだつて私の意見を書生論だと思つたに違ひない。私のはうもさうで、私は當時國軍保安司令官だつた全斗煥さんに會つて、あの人の人柄にぞつこん惚れたばかりでなく、全斗煥さんがいづれ金鍾泌さんを逮捕するのではないかとさへ思つてゐましたけれど、そんな事はおくびにも出さなかつた。金鍾泌さんには惡いけれど、人格識見、勇氣、そのいづれにおいても全斗煥さんのはうが上だと私は思ひましたからね。でも、金鍾泌さんとの「多少の縁」、これは否定しやうがない。なるほど政治家は「惡魔の力と契約」するけれど、そして金鍾泌さんがどんなふうに契約したのか、私は知らないけれど、政治家も人間ですからね、權力を失つて後も「多少の縁」を忘れぬ友人知己の存在は、これは必ず必要とする筈だと思ふ。
<申> おつしやる通りです。人間は絶對的な孤獨に耐へられるものではありません。それに人間には、自分の信念に對する誠實のほかに他人に對する誠實も必要ですから。
<松原> その「他人に對する誠實」といふ事ですけれど、申さんと私とは七つ違ひ、勿論申さんのはうが先輩です。そして吾々が知り合つてまだ二年にしかならないけれども、何囘會つても私に對する申さんの態度は少しも變らない。これこそ「他人に對する誠實」といふもので──
<申> いや、それは松原さんもさうだ。知り合つて二年にしかならないけれども、私としてはまるで數十年附合つたかのやうです。何しろ先月日本へ來た時は、千葉縣勝浦の旅館でいつしよに風呂に入つて、背中を流して貰ひましたから。
<松原> だつて、私も流して貰つたのだから……。もつとも申さんの背中の面積は私の背中のそれよりも大きくて、大きなイボがあつて、(笑)七つ年上だけあつて皮膚の老化が進んでゐて(笑)……いやいや妙な脱線をしてしまつた。(笑)強引に本論に入る事にします。
六十億ドル、米の壓力で澁々貸す
<松原> 周知のごとく、當面の日韓の厄介な問題として、例の六十億ドル公共借款があります。これは今後どうなるか。いや、どう處理すべきか。その點についてのお考へを話して頂きたいのですが。
<申> まあ、兩國の外相會談も閣僚會談も物別れに終つてしまつた譯ですね。その後も兩國の政治家が頻繁に往來して、兩國の友好親善を強調してゐるんですが、どうもそれも口先だけの美辭麗句でしてね、問題の解決を先に延ばすための方便ではないかと私は思つてゐます。けれども、これは大事な問題で、うまく解決しないと韓日關係に大きな禍根を殘します。韓日の當局者が眞劒に忍耐強く話合つてうまく解決しなければならない。交渉のやり方にも色々ありますが、役人同士、政治家同士の交渉だけでなく、日米賢人會議のやうなもの、それが韓國と日本の間にも必要なのではないかと思つてゐます。役人や政治家はとかく保身の術にたけてゐて、輿論に迎合するでせう。つまり本音を吐かんのです。本音と建前とを使ひわけるのは日本人の特技だと、日本人は思つてゐるでせう。ところがさうぢやない、韓國人のはうがそれは徹底してゐる、とさへ私は思ふ。とまれ、韓國人も日本人も競つて使ひ分けをやつとるんですな。これでは何事も解決しません。
<松原> ですが、私はかう思つてゐるんです。日本はいづれ必ず韓國に六十億ドルを貸すやうになると。六十億が四十億になるといふ事はあるだらうが、貸す事は必ず貸す。だが、それは日本が韓國の言分を理解して、といふ事ではない。
<申> さう、アメリカに壓力をかけられて澁々貸すといふ事である。
<松原> さうなんです。實際、二、三日前の新聞に、アメリカ共和黨のヘルムズ議員が、日米對等の防衞分擔を求め、日米安保條約改定決議案を提出しようとした。結局は引つ込めましたけれども、あれは最初から引つ込めるつもりだつたのだらうと思ふ。つまり、アメリカは日本に對して今後、日本に防衞分擔をさせるべく、手を替へ品を替へ壓力をかけてくるだらうと思ひます。韓國に對する經濟協力だつて、アメリカに壓力をかけられて澁々やる、さういふ事にもなり兼ねない。けれども、さういふ事になつたら甚だ困る。この點、いかがですか。
<申> 全く同感ですな。この前、オタワで先進國首腦會議がありましたね。あの時、鈴木首相とレーガン大統領とは、日米兩國にとつて最も重要なる地域に對する經濟協力といふ點について合意したわけですね。日米兩國にとつて重要な地域とはどこか、間違ひなしに韓國がさうです。けれども、日米共同聲明についても「そんなものに日本は束縛されない」とか日本側が言ひ出して……。
<松原> 韓國人も唖然としたでせう。
<申> 唖然としましたな。(笑)
<松原> 園田外相の輕佻浮薄には困つてしまふな。でも、御安心下さい、そのうち内閣改造があつて、まさか外相の留任はありえないでせうから……。
<申> ついでに、鈴木首相の留任もありえないでせうか。(笑)
<松原> あ、さうか。事態は深刻なんだなあ。(笑)「御安心下さい」なんて輕々に言つちやいけないんだ、外國人に。これ、人から聞いた話ですけれど、園田外相は昔、落下傘部隊の隊長だつたさうですよ。で、その話をある時、記者會見でヘイグ長官が披露した。するとアメリカ人記者が笑つた。落下傘部隊の隊長つてのは頭が惡いんださうです。だから──
<申> ちよつと待つて下さい。うちの大統領も落下傘部隊の隊長だつたんですが……。
<松原> あ、さうだ、すつかり忘れてゐた。(笑)でも、例外の無い法則は無いでせう。(笑)しかし、同じ落下傘部隊出身で、あの二人、どうしてああも違ふのか。
<申> まあ、園田さんは三十數年、落下傘つけての降下をやつてゐないから……。 
經濟協力はすべて安保絡み
<松原> とにかく話題を變へませう。(笑)さういふ事で、ええと何の話でしたか。
<申> アメリカの壓力で澁々貸すのはまづいのではないかといふ話です。その通りです、アメリカに言はれて澁々貸したとなると、日本側は不快だらうし、韓國側にも色々とまづい事が起る。これはやはりうまく解決しなければならない、韓日雙方が努力しなければならない。日本人の殆どは、「今頃、唐突に大金を貸せと言ひ出して、韓國といふ國は尊大で生意氣だ」ぐらゐに思つてゐるのではないですか。
<松原> さうなんです。一方、韓國にも頗る非理性的な反日感情がある。ですから、アメリカの壓力を受けてから貸すといふ事になると、日韓雙方の馬鹿が騷ぎ出しますね。韓國の馬鹿はかう言ふ、「ザマを見ろ、アメリカに叱られて結局金を出したぢやないか」。そして、さういふ韓國の馬鹿の態度が日本でも報道される。すると日本の馬鹿がいきり立つ。
<申> かくて韓日關係は最惡の状態になる。
<松原> それは何としても避けなければならない。
<申> 日本はいはゆる安保絡みの經濟協力はできないといふ考へでせう。私にはそれが理解できないのですよ。現代世界において、經濟協力とはすべて安保絡みなんですから。ソ聯の衞星國に對する經濟協力だつて、無論安保絡みだ。例へばの話、ソウルの下水道改善のために日本から金を借りる。その金で下水道を直す。生活環境がよくなりソウル市民がいつそう健康になる。健康な市民の中から兵隊をとる。富國強兵といふ事になる。ですから、安全保障と無關係の經濟協力なんぞありえない。
それと、日本の方々に是非とも理解して頂きたいのは、韓半島における南と北の勢力比といふ事です。北が強いと戰爭になる可能性があるが、南が強ければその心配は無い。それはアメリカとソ聯の關係についても言へる事ですが、その事が日本人にはどうも解つて貰へないらしい。今、南と北には軍事力の格差があつて、北のはうが少し強いのです。その格差を埋めるべくアメリカ軍が駐留してゐる譯ですが、韓國としてはいつまでもアメリカに依存ぜず、獨力で格差をなくさなければなりません。そのために韓國は、軍事的にも經濟的にももつと強くならなくてはならない。そのために日本に金を借りたいと、さういふ事なのです。日本の新聞は、六十億ドルとは法外な、と考へてゐるやうですが、私は法外だとは思ひません。一時に六十億借りたいといふのではなく、五年に割つて六十億、つまり一年間に十二億貸してくれないかといふ事ですからね。日本のGNPは今、一兆二千億ドルでせう。十二億ドルとはその千分の一だ。要するに、千圓持つてゐる日本に對して、韓國は一圓だけ貸してくれと言つてゐるのです。日本の海外經濟協力資金は、アジア向けが年間二十五億ドルでせう。二十五億のうち韓國に半分も貸す譯にはゆかんと、さういふ考へもある。けれども、日本の安全と平和にとつて、一番重要な國は韓國ではないだらうか。重要な國に優先的に貸したはうが、日本の國益に合致するのではないだらうか。もしも韓半島に戰爭が起つたら、日本はそれを對岸の火事として眺めてゐられるだらうか。もはやさういふ事はできないと私は思ふ。一九五〇年から五三年にかけての戰爭の際、日本は對岸の火事のやうに眺めてゐたでせう。
<松原> ええ。それどころか、火事場泥棒よろしく、と言つては語弊があるけれども、とにかく特需でしこたま儲けました。
<申> ところが、あの頃とは違つて、今の國際政治の權力構造を考へたら、韓半島における戰火は、少なくとも極東全域にひろがる可能性がある。日本としては、とてもそれに乘じて稼ぐといふ譯にはゆかない。
<松原> さうです。第一、そんな事をアメリカが許すはずもない。
<申> さうなりますとね、戰火が日本にも及ぶといふ事にもなりかねない。さうなつたら六十億ドルどころの出費ではすまなくなる。それを考へれば、さういふ事態を未然に防ぐための六十億、これは決して法外な額ではない。 
韓國は「戰爭屋」ではない
<松原> 私個人としては、全く同感です。けれども、日本人の殆どは、このまま「モラトリアム國家」としての繁榮を永遠に享受できると思ひ込んでゐますからね。韓半島の安定が日本にとつて大切だと、韓國がいくら強調しても信じないわけですよ。それどころか、さういふ韓國の主張を、比喩はまづいが、惡女の深情けのやうに思ふ。(笑)つまり、「あたしを大事にするとあなた仕合せになれるわよ」つて、美女に言はれたら、男はその氣になるけれども、殘念な事に、日本人は韓國を美女だとは思つてゐない。ですから、「韓半島の安定は日本にとつても重要」だなどと言はれても、惡女の深情けで迷惑だと、さう感じてしまふのです。
どうしてさういふ事になるか、つまりなぜ日韓關係はかくも厄介なのか、それは日頃、私と申さんが倦む事なく語り合つてゐる事で、けふもいづれその點について、ざつくばらんに語らなければならないでせう。けれども、まづ考へなければならないのは、日本と韓國との、國防意識の懸隔ですね。韓國は國防について頗る眞劒だけれど日本はさうぢやない。日本では今、ソ聯は脅威かどうかなんて悠長な議論をやつてゐるんですが、大事なのはそんな事ぢやない、ソ聯の脅威を日本人が本當に感じてゐるかどうか、でせう。韓國では、北朝鮮は脅威かどうかについての議論、やつてゐますか。
<申> やつてをらんですな。皆、北の脅威を痛感してゐるから、さういふ馬鹿げた議論はやりません。
<松原> さつき申さんは、「韓國としてはいつまでもアメリカに依存せず、獨力で北との格差をなくさなければならない」とおつしやつた。それは要するに、北朝鮮だけでなく、アメリカもまた韓國にとつての脅威だといふ事ですね。
<申> さうです。アメリカが韓國を見捨てるといふ事が、絶對に無いとは言切れない。
<松原> そこなんですよ。さういふ事を日本人はまるで考へてゐないのです。ですから、ソ聯の脅威といふ事はさかんに論ずるけれども、アメリカの脅威は全然論じない。
<申> 奇妙ですな。むしろアメリカのはうが日本にとつては脅威のはずですがね。
<松原> それに、國際經濟といふマラソンで、アメリカもECも韓國も、いはば鎧をつけて走つてゐる。軍事費といふ鎧を。しかるに日本だけはパンツ一枚で走つてゐるでせう。(笑)昨今、日本に對するアメリカやECの壓力が強まつたけれども、要するにあれは、「パンツ一枚とはけしからん、日本にも鎧をつけさせろ」といふ事なんですね。
<申> さうです。日本側の言分に理があるかどうか、さういふ事は問題ぢやない。日本とソ聯、この二つの國さへ無かつたら吾々も安心して眠れるんだがと、ヨーロツパの連中は言ふ。が、今やヨーロツパだけではない。アジア諸國もさう思つてゐますよ。
<松原> つまり、軍事的なソ聯の脅威と、經濟的な日本の脅威といふ事ですね。韓國の對日貿易赤字も相當のものになつてゐるでせう。
<申> 一九六五年から今日までの累積赤字が二百十五億ドルになつてゐます。最近は毎年三十億ドルの赤字ですから、今後五年で百五十億ドルになる。
<松原> つまり、百五十億ドルも儲けるのだから、六十億ドルぐらゐ貸したつてよいではないか、さういふ事になる。
<申> さうです。さういふふうに考へて頂きたい。ところが、それが中々に難しいわけです。何しろ日本のマスコミは、韓半島における情勢は安定してゐるのに、韓國はさかんに戰爭の危險があると言ひ立ててゐる、韓國は「戰爭屋」としてめしを食つとるぢやないかと、さう考へてゐるんですから。でも、韓國が過重なる軍事費を支出して頑張つてゐるために、日本が得をしてゐる事は事實ではないか。その點だけは日本の方々に理解して頂けないか。いやいや、かういふ事を言ふから「惡女の深情け」になるわけですな。(笑)
<松原> 要するに、日韓がなぜお互ひに「近くて遠い國」なのか、その原因はたくさんありますね。けれども、雙方の國防意識の違ひ、これがまづ厄介だと思ひますね。日本の政治家や知識人は板門店や第三トンネルを見るべきですよ。 

 

北はいつでも戰爭をやる氣
<申> 昨年四月、松原さんは第三トンネルを視察なさつた。あの時、トンネルから出て來て、師團長の求めに應じて「見事なり、第一師團」とお書きになつたでせう。
<松原> だつて本當に見事でしたもの。崔連植少將にしても、鄭鎬溶司令官にしても、見事としか言ひやうのない軍人だつた。無論、全斗煥大統領もさうです。當時は國軍保安司令官だつたけれど。私はね、申さん、敗戰の時、中學三年だつたのです。ですから死ぬる覺悟で大事業をやつてのけた男といふものを、目の邊りに見た事がない、全斗煥さんに會ふまでは。それですつかり感激して、日本へ歸つて手放しで襃めたわけですよ、韓國を。『中央公論』で。
<申> さう、そしてひどい目にあつた。當然の事だ、何しろ本氣で「惡女」を襃めたのだから……。で、ひどい目にあつて後悔なさいましたか、襃めた事を。
<松原> いや、全然。だつて事實ありのまま、感激した事をそのまま書いたんですから。ですから後悔はしなかりたけれども、色々と考へさせられましたね。日韓關係の難しさを痛感しました。もう韓國の事は書くまいと思つた。まあ、それはともかく、先日もアメリカの偵察機が北朝鮮軍のミサイルで攻撃されるといふ事件が起こりましたね。あの程度の事はあつても、北朝鮮が韓國に攻撃をしかけるといふやうな事はないと、大方の日本人は考へてゐるのです。この點、いかがですか。
<申> いや、それは間違つた考へです。今、韓半島において、戰爭が起らないのは、空軍の力のせゐなのです。勿論、陸海空三軍の綜合戰力が北の攻撃に對する抑止力になつてゐるわけですが、空軍に限つて言へば、アメリカ空軍の力を合せるなら、南のはうが北よりも強い。ところが、もしもソ聯が北朝鮮にミグ23とかミグ25とかを與へるといふ事になると、さうなつたら北は侵掠をやりかねない。北朝鮮はリビアに操縱士を送つて、訓練を受けさせてゐるんです。
<松原> どうしてリビアなんですか。
<申> リビアにはオイルがたつぷりありますからね。金をかけずにミグの操縱訓練がやれます。リビアにゐる北朝鮮空軍の兵士は數百名といふ事ですが、訓練が終ると歸國して新しいのがまたやつて來る。さうやつて、ミグを操縱できる兵隊が一定の數に達した場合、ソ聯がミグを北に渡す。さうなれば戰爭を仕掛けてくる可能性は大きい。とにかく金日成といふ男は、人民の血を大量に流しても、ソ聯の支援さへ得られれば、いつでも戰爭をやる氣でゐますからね。かの南侵用のトンネルだつて、北が掘つたといふ事實は、今や全世界が認めてゐるでせう。いや、日本の新聞だけは認めてゐないのでしたか。
<松原> 日本の新聞の韓國報道のでたらめ、これは本當に困つたものです。私は昨年ソウルで、ソウル新聞の文胎甲社長に會つたのですが、文さんが嘆いてゐましたね。日本の新聞は北朝鮮についてどうしてあんなに斷定的に物を言ふのか。自分は七十二年の南北會談の折、記者として北へ行つたが、吾々が十分間話合へば、何しろ言葉が同じなのだから、相手が何を考へてゐるか、日本の記者以上によく解る。勿論、吾々に偏見が全く無いとは言はないが、北の連中の考へは、日本人以上に微妙なところまで解る。ところが日本の新聞は、日本の知識人や政治家が北に招待されて、北の公式的な説明をうのみにして歸つて來ると、それをそのまま信じて北を襃め、韓國を惡しざまに言ふ、あれは實にけしからん。文社長はさう言つてゐましたね。
<申> とにかく私の國の軍事費の支出はGNPの六%です。ところが北朝鮮はGNPの四十%ですからね。世界中にGNPの四割を軍事費に割いてゐる國は、北朝鮮以外一つも無いんですな。
<松原> 勿論、韓國のGNPと北朝鮮のそれとは比較にならないけれど、要するに、GNPの四割を軍事費に割いても、國民から一切文句が出ない國といふわけで、それは恐るべき獨裁國家だからでせう。
<申> そのとほりです。その邊のところを日本の方々に解つて頂きたい。 
でたらめな日本の報道
<松原> つまり、國民に苛酷な耐乏生活を強ひる事のできる閉鎖社會たる北朝鮮と、さういふ事のやれない自由主義陣營に屬する韓國と、この二つの國を同列に論ずる譯にはとてもゆかない。けれども、その點についての日本人の理解が缺けてゐるんですね。何せ今の日本には自由がふんだんにある。世界中に日本ほど自由を享受してゐる國はない。だからどうしても韓國を自由の無い閉鎖社會のやうに考へてしまふ。軍人ばかりがのさばつてゐる野蠻な國だと思つてしまふ。けれどもそんな事ないですよ。例へばこれ、韓國天主教中央協議會の李鍾興神父に聞いた話だけれど、陸軍參謀總長の李熹性大將が戒嚴司令官を兼ねてゐた頃、神父さんたちと會食した事があつた。その時、李神父は戒嚴司令官に、「あなた方軍人はとかく信仰心が無い。そのくせ信仰心のある兵隊は勇敢に戰ふなどと言ふ。そんな事を言ふのなら、將軍達も信仰心を持つべきではないか」と、さう言つたさうです。すると李熹性大將、頭をかいて苦笑したらしい。(笑)
<申> あれは大層立派な軍人なんですよ、李熹性將軍は……。
<松原> さうらしいですね。とにかく、李神父が強調してゐたのは、「戒嚴司令官にだつて吾々は自由に物を言へるのだ、軍人に文民が抑へつけられてゐると日本人は思つてゐるのだらうが、とんでもない誤解だ」といふ事でした。
<申> 韓國の軍人は大日本帝國陸軍の軍人とはまるで違ふ。まあ、それは松原さんがよく御承知のはずだけれど。
<松原> ええ、それはもう……。例へば、あの光州暴動を鎭壓したのは特戰隊でせう。あの頃、日本の週刊誌は、特戰隊の兵隊が妊産婦の腹を割いて胎兒を取り出したとか、およそありえないやうな蠻行をやつたと書きました。でも、私は當時特戰隊の司令官だつた鄭鎬溶中將から直接聞いたのですがね、そんな馬鹿げた事、特戰隊は全然やつてゐない。そして鄭中將は私にかう言つたんです、「自分はこれまでただの一度も部下を毆つた事が無い。この大韓民國に自分に毆られた軍人は一人もゐない。それは自分の名譽にかけて斷言する」つて。無論、光州暴動の時、現地にゐたわけぢやないけれど、私は鄭鎬溶さんの人柄を知つてゐる。ですから特戰隊の蠻行云々なんていふ話、信じないわけです。
<申> 要するに「百聞一見にしかず」でしてね、韓國のありのままを見さへすれば、日本のジヤーナリズムがいかにでたらめか解るはずなんですな。ところが、知識人はとかく臆病だから、ありのままを言はないんでせう。新聞記者だつてさうです。ソウル駐在の日本の新聞記者は、ありのままに記事を書いて送つても本社のデスクがボツにするものだから、しまひにはデスクの喜びさうな事ばかり書くやうになる。しからば、「日本に言論の自由ありや」と言ひたいですな。それに何より、自由とはあくまで相對的なものでせう。日本にはふんだんに自由がある。何しろ國を守らない自由もあるんだから。ほら、あの何ていひましたつけ、「ソ聯が攻めて來たら、赤旗と白旗を掲げて降服しろ」つて書いた人……。
<松原> ロンドン大學の森嶋通夫さん。
<申> あれにはたまげたなあ。(笑)あんなすつとんきやうな事書いても通用するんだから。(笑)
<松原> いや、笑ひ事ぢやない、まつたくお恥しい話です。實際今の日本が韓國に見習ふべき點は多々あるんですよ。李鍾興神父にしても孫世一さんにしても、とにかく一所懸命に考へてゐる。何しろ李神父とはベルジヤエフを論じ、アウグステイヌスを論じ、轉じて金大中、金泳三を論じといつたぐあひでしたが、宗教についても俗事についても、あの人頗る眞劒でしてね。ああいふ神父さん、日本にはゐないと思ひます。私は無信仰だけれど、あの神父さんには惚れました。
<申> いや、惚れて當然です。あれは立派な神父だから。
<松原> どうも私は惚れやすい質なのかもしれませんが。とまれ、韓國人の見事なところ、それを日本人が本氣で認識すべきだと私は思ふ。ところが、それが難しい。「眞劒勝負つていい言葉だなあ」つて、孫世一さんが呟いた事がある。けれども、あの晩、朴大統領が殺された翌々日、孫さんは眞劒そのものだつた。が、さういふ事が日本人には解らないんです。いや、解らせられないんです。
<申> 要するに、韓國のよい面や明るい面は見ずに、暗い面ばかり強調する。あら捜しばかりやる。いや、あら捜しだつていい、事實なら文句は言ひません。が、無責任なデマばかりでせう。金大中事件の時もさうだつたし、光州事件の時もさうです。光州事件の時はうちの大統領が、いや、あの時はまだ大統領になつてゐなかつたけれど、とにかく軍の最高責任者だつたんですが、松原さんもご承知のやうに、全大統領や鄭鎬溶將軍みたいに極めて誠實な人間に、妊婦の腹を割かせるなんて事、できるはずないでせう。あれは初めから嘘なんですよ。特戰隊はね、人命の犧牲を最小限のものにするために、最大限の努力を拂つたぢやないですか。日本のジヤーナリズムが言ふやうに手段を選ばずにやつてよいものなら、あんな暴動、一時間で鎭壓できますよ。それなのに一週間もかかつた。それは人命を尊重したからなんです。
<松原> さういふ事なんだけど、それをいくら喋つても信じて貰へない。何しろ、森嶋通夫さんのやうな學者の防衞論が通用する國ですからね。軍人とは人非人だぐらゐに思つてゐる。一昨年、崔連植將軍が動亂當時の北朝鮮軍の殘虐行爲について説明してくれたのですけれど、その時、崔連植さんがかう言つたのですよ。「北朝鮮はこんないたいけな子供にまで銃を持たせて訓練をやつてゐる。子供だつてこれほど愛國心が旺盛なんだと言ひたいのだらうが、私たちはさうは考へない。そんな事、非人間性のあらはれではないか」。私はそんなにたくさん韓國の軍人を知つてゐるわけぢやない。けれども、私の知りえた限りでは、彼らほど野蠻や尊大と縁遠い人間は無いと思ひます。けれども、日本ぢやそれを言つても信じて貰へない。いや、信じて貰へないのは仕方がないとして、韓國軍に限らず韓國を襃めますと、色々と厄介な事になるんですね。つまり韓國を襃める動機を勘繰られるんですよ。
<申> 日本においてでせう。
<松原> いえ、日韓雙方においてです。日韓には理でなく利によつてつながるおぞましい關係といふやつがある。ですから韓國を襃めますとね、「あいつは韓國人に利用されてゐる」と、さういふ事になる。
<申> ですから、それは日本においてでせう。
<松原> いえ、韓國においてもですよ。例へば、「あいつは申相楚さんを襃めるが、申さんはそんな立派な男ぢやない。松原は申さんに利用されてゐるんだ」。
<申> なるほど私は「そんなに立派な男」ぢやないが、「松原さんを利用」とはひどいね。馬鹿みたいな奴らだな。要するに、日本の諺にあるぢやないですか。「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」。それですよ。氣にする事はない。けれども、戰後三十六年、さういふ「おぞましい關係」がつづいた事は事實ですね。戰前の事は私、あまり言ひたくないし、言ふ必要も無い。問題は戰後の三十六年だ。嘘と馴れ合ひの三十六年だつたぢやないですか。日本人が韓國へ來ると、調子のよい事ばかり言つて韓國人を喜ばせ、玄海灘を渡ると同時に、ぺろりと舌を出す。韓國人の場合も全く同じですよ、東京へ來て、おべんちやら言つて、玄海灘を渡ると惡口を言ふんだな。日本の惡口言ひたければ、日本人の前で言つたらいい。そして韓國へ歸つたら、日本を擁護すべきですね。
<松原> さうです。日本人の場合も同樣です、韓國を批判したければ韓國人の前でやつて、日本へ戻つたら韓國を擁護しなくてはね。ところがそれをやらない。どんな國にも缺點はある。韓國にだつて反省すべき點は多々あるんです。一昨年十月、最初に訪韓した時、私はそれを見て取りましたもの。申さんには何もかもざつくばらんに喋つたけれども。 
淺はかな反日ナシヨナリズム
<申> では、ずゐぶん日本を批判したから、この邊で韓國批判をやりますか。
<松原> と、韓國人が切り出す事はめつたにないのだけれど、さう言はれると日本人としては「お立場上まづい事になるでせうから……」と言はざるをえない、一應は。(笑)
<申> 私はね、一九七三年にアメリカ國務省の招待を受けたんですよ。そして歸國後、アメリカの印象を書けと言はれて、かう書いた、「アメリカは人種差別と階級差の甚だしい國であつて、アングロ・サクソンはいはば將官、それ以外の白人は佐官、ユダヤ人は尉官、韓國人や日本人は下士官、そして黒人は兵卒である」。それを讀んでアメリカ大使館の或るユダヤ人が怒つてね、「せつかく金を遣つて招待したのに何たる事を書くか」……。(笑)
<松原> でも、ユダヤ人が怒るのは無理ないけれど、それだけの事だつたでせう。後腐れはなかつたでせう。私も二十年ほど前、國務省の招待でアメリカへ行きましてね、歸國後アメリカの劇團や劇作家の惡口書いた事もあるけれど、別にどうといふ事はなかつたですね。やつぱりアメリカを襃めなくてはならないか、などとは全然思はなかつた。もつとも當時、アメリカに反日感情はほとんど無かつたから。
<申> 韓國における反日感情についてですけれども、總じてナシヨナリズムは感情的なものになりがちなんですね。しかも韓國の場合、日本帝國主義から解放されてまだ日が淺いといふ事がある。だから、日本が少しでも氣に障る事を言ふと、ナシヨナリズムに火がついて、わいわい騷ぎだす。腹を立てるのは解るが、わいわい騷いで何が解決できるか。
<松原> 先般、オリンピツクの開催地がソウルに決定した時、私は心から喜んだ日本人の一人なんです。けれども、ソウルが名古屋に勝つた事は「對日外交の勝利だ」と、韓國の新聞が書いたと知つて、私は正直、情けないなと思ひましたね。
<申> 要するにあれは、先進國でばかりオリンピツクをやらずに開發途上國でもやらうぢやないか、といふ事でソウルに票が集つたんでせう。對日外交とは何の關係もない話なんだ。さういふ妙な考へ方をする連中がをるから困る。
<松原> さういふ淺はかなナシヨナリズムは、無論日本にもあるのだけれど、何とか抑制しなければなりませんね。さもないと、ずる賢い日本人に乘せられてしまふ。それあ誰だつて襃められて腹は立たない。けれども、シエイクスピアの描いたリア王のやうに、甘い言葉に醉ひ癡れてゐると、いつか必ず足を掬はれる事になる。襃められてたわいなく喜び、苦い事を言はれたとたんに怒る、さういふ現金な態度をとつてゐると、本當の身方が寄り附かなくなるでせう。昨年、ソウルのホテルのバーで、かういふ事がありました。或る韓國の代議士と私と私の友人の三人で酒を飮んでゐたら、或る日本の代議士が大聲で「全斗煥は偉い、俺は全斗煥のためなら死んでもいい」つて喚いたんです。すると驚いた事に、その韓國の代議士が「あの人は韓國の身方だ、眞の親韓派だ」と言つたんですよ。
<申> をかしな事ですな。で、松原さん、その韓國の代議士をたしなめましたか。
<松原> いや、たしなめるといふのではなくて……、その韓國の代議士は立派な人でしてね、私、好きですから、色々と話しましたけれど。でも、申さんには解つて頂けると思ふけれども、さうやつて「でたらめな親韓派に騙されるな」と忠告するでせう、韓國人に。さうすると、妙に不快な氣分になつてくるのです。何と言つたらよいかな、つまり忠告する事は「この私は信用していいんだよ、この私だけは本當の親韓派なんだ」と主張してゐる事になるではないか。或いは少なくとも、相手がさう疑つてゐるのではないかと、こつちが疑ふやうになる。(笑)
<申> なるほど、厄介ですな。
<松原> 厄介ですよ。しまひには面倒臭くなつて、ええい、放つておけといふ事になります。 
現金な處世術を反省せよ
<申> でも、放つておけないでせう。日本の親韓派の中には立派な方もたくさんゐるのですけど、でたらめなのも多い。そしてそれは、うちの政府にも責任があると思ひますね。過去に色々とまづい事をやつてゐるんです。口先だけのおべんちやらを言ふ奴を招待して、氣骨のある人を招待しない。いつそ韓國の惡口を言つてゐる人たちを招待して、ありのままの韓國を見せたらいいんです。
<松原> さうですね。襃めてくれると喜んでまた招待する、さういふの、一番いけないと思ひますね。かういふ事言ふのは大變に心苦しいけれども、そして誤解されるかもしれないけれども、この際だから言つておきます。大方の日本人にとつて、韓國は「追ひつき追ひ越す」べき先進國ぢやなかつたわけでせう。近代化のために學ばねばならなかつたのは、歐米諸國であつて韓國ぢやなかつたでせう。ですから、學者だつて歐米諸國の政府に招待されると喜ぶが、韓國にはあまり行きたがらないわけですよ。で、その行きたがらない人たちを招待すればいいのだけれど、實際問題としてそれは難しい。ですから、不愉快な事だけど、金や女が目當てのでたらめな奴でも、韓國の事を襃めて書いてくれるからとて招待する。かくして理ではなくて利でつながる事になる。さうなりますとね、氣骨のある連中はますます韓國から遠ざかるのですよ。
<申> そこなんです、問題は。私は今囘も日本の或る學者に言はれたんですよ、實は自分は韓國に關心を持つてゐるのだけれど、どうもああいふ墮落した連中といつしよにされてはかなはん、それでこれまで招待されても斷つて來たんだと。これは要するに、これまで韓國がでたらめな日本人とばかり附合つてをつたから、まともな日本人が親韓派になりたがらない、さういふ状況になつてをるんでせう。私はその學者の書いたもの讀んで感心したから會ひに行つたのですが、のつけから嚴しい韓國批判を聞かされて、驚きました。とにかくこれまでのやうな招待のやり方は考へ直さなくてはならない、さう痛感してゐます。
<松原> さつき私は金鍾泌さんの事、喋つたでせう。金鍾泌さんと私とは九十分語り合つただけの仲なんです。ところが韓國には金鍾泌さんと深い附合ひをした人がゐるわけでせう。さういふ韓國人が、金鍾泌さんが失脚したとたんに、新しい權力者に追從して保身を圖るのを見せつけられますとね、心ある日本人は眉を顰めると思ふ。朴大統領の死後もさうだつたでせう。朴さんの死後、屍に鞭うつやうな事を言つた日本の親韓派知識人を私は斬つたけれども、さういふ人でなしは韓國にもゐたわけですね。「類は友を呼ぶ」んです。どつちもどつちなんです。李朝の兩班以來の惡しき習性かもしれないが、保身のためのあまりにも現金な處世術を反省しないと、いつまでたつても無節操な日本人としか附合へない。
<申> そのとほりです。吾々は大いに反省しなくちやなりません。さもないと、無節操な日本人としか附合へないばかりでなく、眞の身方に愛想づかしをされてしまふ。例へば福田さんね、福田恆存さん。あの人は朴大統領が死んで、日本中が屍に鞭うつてゐた頃、「孤獨の人・朴正煕」を書いた。死んだ人を襃めて何の得があるんですか。それなのに福田さんは挽歌を捧げてくださつた。あれを讀んで感激した韓國人がたんとをるんですよ。ところが、その福田さんも今や韓國に愛想づかしをしてをられるんだから……。
<松原> 福田さんは朴大統領と親しくしてゐたでせう。そこで、私が全斗煥さんを襃めちぎりますとね、福田さんは次第に面白くなくなるんですね。「あんた、そんな事言ふけど、朴さんは日本の陸軍士官學校を一番で卒業してゐるんだ。三番で卒業といふ事になつてゐるけれど、韓國人を首席にしたくないとの日本人のけちな根性ゆゑに三番といふ事になつてしまつた。全斗煥さんも偉いが、朴さんはもつと偉い」、一度さうおつしやつた事がある。さういふ福田さんの氣持、私にはとてもよく解りますね。死んだ朴さんにそんなに肩入れしたつて、何の得にもなりはしないんだから。
<申> 要するに、眞實、韓國に對して同情と理解を持つてをられるお方が、韓國に愛想づかしをしてしまふ、さういふ風土は誰がつくつたか。やつぱり、うちのはうの責任が大きいんですね。これはどうしても是正しなければならんと思つてゐます。
<松原> 國家と國家との附合ひは誠實といふ事だけではやつてゆけないけれども、何せ日本と韓國は隣り同士でせう、未來永劫に引越すわけにはゆかないでせう。それなら、ざつくばらんに語り合ふ個人と個人との附合ひが、もつとあつてしかるべきですね。さもないと、日韓は互ひにいつまでたつても「近くて遠い國」、といふ事になる。 
眞の身方こそ苦言を呈する
<申> これから徐々によくなるのぢやないですか。やがて日本も淺薄な安保只乘り状態を脱して、國防を眞劒に考へなければならないやうになる。さうなれば必ず韓國に對する理解も深まると思ひます。けれども勿論、ざつくばらんな話合ひ、それが何より大事です。吾々二人が今やつてゐるやうな、友情と信頼にもとづく附合ひが、百組、千組、といふふうに増えてゆけばいい。
<松原> さうです。そしてそれは別に難しい事ぢやない。申さんと附合ふの、私にとつてはそんなに難しい事ぢやないもの。(笑)誰だつて、ざつくばらんに喋れる友人は持つてゐるはずでせう。私たちの場合はたまたま國籍が違ふといふだけの事です。もつとも殘念ながら私は韓國語が喋れなくて、申さんが日本語を話してくださるからこそ──
<申> いや、そんな事ぢやありませんよ。何語を喋るかなんていふ事は問題ぢやない。信頼できる相手かどうか、それが大事なんです。スパイは相手國の言葉を流暢に喋るぢやないですか。(笑)
<松原> なるほど。けれども、その言葉の問題ですけれども、私も申さんと附合ふやうになつてから、韓國語が喋れたらなあとつくづく思ひます。思ひながら勉強しないけれど、それは齢五十を越え、日本語を使つてやりとげたいことがたくさんあるからなんです。これ、必ずしも辯解ぢやないんですよ。例へば五十の手習ひやるよりも、日本語を用ゐて日韓を「近くて近い國同士」にするために努力したはうがいいではないか。それも必ずしも韓國のために辯ずるといふ事ではない。さつき、おつしやつたやうに、日本人の國防意識を確固としたものにしようとして書く事も、日韓關係を好轉させるための一助になるわけですからね。そしてさうやつて、吾々韓國語を喋れない世代が眞劒に努力すれば、若き世代が韓國の事を本氣で考へるやうになる。韓國語をやらうといふ連中も出てくる。早い話が、この申さんと私の對談ですが、若い連中が讀んだら、韓國にはこんなにざつくばらんな代議士がゐたかと驚いて、韓國を見直すのぢやないかと思ふ。
<申> ざつくばらんな代議士とは形容矛盾だな。(笑)むしろ八方破れなんですよ。
<松原> 八方美人よりはましでせう。(笑)とにかく私は若い世代に期待しますね。私が昨年『中央公論』で韓國のために辯じた時も、若い連中からずゐぶん手紙を貰ひましたもの。それあ、不愉快な目にも遭ひましたよ、たつぷりと。「全斗煥を襃めるとは何事か、あんな奴には書かせるな」といふ事にもなりましたし、脅迫電話もかかつて來たし……。
<申> 馬鹿みたいな奴らだな。どうせ北朝鮮のシンパでせう。
<松原> さうでせうね。でも、北朝鮮のシンパの脅迫なんぞ大した事ぢやないですよ。閉口するのは韓國の現金な政治主義です。現金といふ事がなによりも困りますね。襃められればたわいなく喜び、ちよつとでも不都合な事を言はれるといきり立つ、さういふ淺はかな反應は身方を遠ざけるだけですよ。眞の身方が苦言を呈する事もあるし、韓國のため良かれと思つて、不都合な事を書いてしまふ事だつてあるでせう。でも、日韓關係に關する限り、私は若い連中に期待しますね。でも、そのためには、吾々の世代がやつておかなければならないことがありますから……。
<申> さうです。吾々が若い連中に範を垂れなくてはならない。欲得づくの嘘の附合ひをやつてをつたんでは、示しがつきません。
<松原> 「示しがつかない」なんて日本語、ずゐぶん久し振りに聞いたなあ。あのね、申さん、先月日本においでになつた時も、今囘も、申さんは日本の若者に強烈な印象を與へたのですよ。『VOICE』編輯部の安部文司君なんぞ、ぞつこん惚れ込みましたね。何しろ京都のホテルで同じ部屋に泊つて、午前二時頃まで附合つて頂いて、翌朝、新幹線の始發に間に合ふやう起して貰つて、「あんな代議士は斷じて日本にはゐない」と、安部君はいたく感激してゐました。つまり「示しがつく」やうに振舞つたといふ事なんです、さういふ事が。
<申> いやあ、あの晩は愉快でしたな。
<松原> ただし、安部君も申さんの鼾にはまゐつたやうですがね。
<申> 私の鼾、そんなにひどいですか。
<松原> ひどいなんてものぢやない。何しろ叫ぶんですから、突如として。(笑)
<申> いや、それだけは解らんな、松原さんを果して信用すべきかどうか……。(笑)
<松原> いや、信用すべきですね。私は以後決して申さんとは寢ませんから。(笑)酒を飮みすぎるんぢやありませんか、要するに。
<申> いやいや、酒と鼾とは關係ありません。それに、酒が飮めるといふ事はすばらしい事なんです。それは健康である證據、金のある證據、そして友達のある證據ですからな。まさに「酒は百藥の長」なんです。
<松原> 「百藥の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」と吉田兼好は言ひましたがね。さうだ、面白い話があります。韓國では、夜十二時以降は外出禁止になるでせう。韓國の或る有名な飮兵衞が、十二時過ぎに或るバーへ入つて行つたんです。そしたらそこに、たくさんの夜の蝶がゐた。バーに夜の蝶がゐて不思議はない。けれどもそこに一人、制服制帽の巡査がゐたんですつて。そこでどうなつたか、飮兵衞は巡査をどなりつけた、「こら、お巡りがバーへ來る時は、私服で來い、馬鹿野郎!」すると巡査が憤然として答へた、「馬鹿野郎とはきさまの事だ。ここをどこだと思つとるか!」。そこはバーではなくて警察署だつたんです。(笑)夜の蝶は外出禁止令違反で調べられてゐたといふわけ。さういふ話なんですが、そのどう仕樣もない飮兵衞の名を申相楚といふ……。
<申> さういふ事があつたらしいですな。しかし、今はめつぱふ弱くなつて、武勇傳なんぞも一切ありません。頗るおだやかな飮兵衞です、今は。
<松原> そのやうですね。扶餘で飮んだ時も、鮮于煇(火扁+軍)さんは少々荒れたけれど、申さんはおだやかだつた。鮮于さん、お元氣ですか。
<申> ええ、健筆を揮るつてゐます、相變らず。
<松原> 鮮于さんも私より七つ年上だけれど、ああいふ人も今の日本國にはゐないのぢやないかと思ひますね。昨年七月、ソウルのホテルで話してゐた時、鮮于さんの意見に承服できなかつたものだから、私は言つたのですよ、「鮮于さんのやうな人ばかりぢや大韓民國は持たない。鮮于さんはチエホフが好きらしいけど、十九世紀のロシアにはトルストイもゐた、ドストエフスキーもゐたぢやありませんか」。するとね、鮮于さんは頭をかきながら答へたんですよ、「解つた、解りました。どうも僕は重要な問題をちやかしてしまふ惡い癖があつてね」。私は感動しましたね。まじめになるべき時にもまじめにならない、それが今の日本の何よりも困る風潮なんです。が、韓國ではさういふ事はない。それこそまさに、日本が韓國に見習ふべきところだと思ひます。
<申> 鮮于さんのやうな人間がゐるといふ事こそ、韓國が健全な國家である證據なんですな。とまれ、韓國人の意見に承服できない時、承服できないとはつきり言ふ、それが何より大事な事なんですね。けふは幸か不幸か、松原さんと意見の對立はなかつたけれども……。
<松原> いや、意見の對立があつても、互ひに信頼し合つてゐたら、感情的なしこりを殘す事なく話合へるんですよ。
<申> さうです。ですから、韓國人と日本人がざつくばらんな附合ひをやつて、韓日兩國が一刻も早く「近くて近い國」同士になつてもらひたいですね。

初出一覽
I / まづ徳育の可能を疑ふべし(『教育創造』昭和五十四年十月號)
II / 道義不在の防衞論を糺す(『VOICE』昭和五十六年十一月號)/猪木正道氏に問ふ(『人と日本』昭和五十六年十二月號)
III / 全斗煥將軍の事など(『中央公論』昭和五十五年七月號)/反韓派知識人に間ふ(『VOICE』昭和五十六年三月號)
IV / 日本にとつての韓國、なぜ「近くて遠い國」か(『月曜評論』昭和五十六年十二月七日號、十二月十四日號) 
あとがき

 

本書に收めた論文の主題は樣々だが、防衞を論じ、教育を論じ、韓國を論じて、私の關心事は一つであつた。すなはち「道義的とは何か」といふ事であつた。だが、前著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)にも書いたやうに、「道義的であるといふ事は、美しい事を言ふ事ではない。常住坐臥、美しい事を行ふ事でもない。それはまづ何よりも、美しい事をやれぬおのれを思ひ、内心忸怩たるものを常に感じてゐる事」なのであつて、片時もさういふ事を忘れずして、私は反韓派知識人や猪木正道氏や石川達三氏や「女王蜂」を斬り、全斗煥氏や申相楚氏を稱へた積りである。おのれの中に間違ひ無く愚物も破廉恥漢もゐるからこそ、私は知的・道義的に怠惰な手合が許せなかつたし、全斗煥氏の膽力や申相楚氏の磊落がおのれに缺けてゐるからこそ、私は兩氏を稱揚した。肖りたいと思つたからである。稱揚した二人がともに韓國人なのは、韓國が今、眞劒勝負を強ひられてゐるからに他ならない。だが、大方の日本人は韓國を、かつて植民地にした三等國としか思つてゐまいから、全斗煥氏を手放しで譽めた私は「純情な坊ちやん」と看做され、大方の失笑を買ふ事となつた。全斗煥氏はその時まだ大統領になつてゐなかつたのである。私は先見の明を誇るのではない。本氣で譽めるに價する人物でなければ、大韓民國の大統領は勤まらないのだが、それを思ひ、日本國の來し方行く末を思ひ、黯然とせざるをえないのである。『反韓派知識人に問ふ』の文末に引いた全斗煥大統領の長男全宰國君の文章を、讀者はどう讀むであらうか。命懸けで信念を貫いた男は、幕末から明治にかけて、この日本國にも確かにゐたのである。たくさんゐたのである。
だが、『まづ徳育の可能を疑ふべし』に書いたとほり、今や日本では「馴合ひを以て貴しと爲す」のであり、「吾々は互ひに許し合ひ、徹底的に他人を批判するといふ事をしない」。そして、さういふ許し合ひのお遊びの最中に、齒に衣着せずして誰かを批判すれば、いづれは俺もやられるかと、保守革新の別無く、いい加減な物書きは不安に思ふ。いや、不安に思ふだけならよい、「あいつには書かせるな」とて編緝者に壓力をかける手合もゐる。私もその被害者の一人だが、壓力をかけられた編緝者は、言論抑壓の加害者と被害者たる私とを天秤に掛ける。無論私のはうが輕い。輕いばかりではなく、とかく和を亂し物議を醸す面倒な男である。かくて私のはうが捨てられる事になる。
けれども愚癡は零すまい。ペリー來航に先立つこと六十餘年、林子平は『海國兵談』を書き終へた。そして翌年、時の老中首座、松平定信に會ひ、いたく失望する。定信が海防の大事をさつぱり理解しなかつたからである。そこで子平はどうしたか。仙臺へ戻り、自炊生活をし、毎日せつせと版木を彫つた。言ふまでもなく、當時は活版印刷機などといふ利器は無い。櫻や黄楊や梓の板にいちいち文字を彫つたのである。爲に印刷し出版する事を「上梓」といふ。無論、專門の版木師はゐたが、子平は貧乏だつたから自分で彫るしかない。貧と病に苦しみつつ、彼は約三年彫りつづけた。が、彫るには彫つたが紙を買ふ金が無い。見兼ねた友人達が紙代を出してやり、子平は漸う三十八册の自著を完成する。そしてその一册を幕府の役人が讀む。讀んだ役人が一讀三嘆、といふ事になればめでたいのだが、無論さういふ事にはならなかつた。版木は沒收され、子平は禁錮の刑に處せられたのである。そこで子平はかういふ狂歌を詠んだ、「親もなし妻なし子なし版木なし金もなければ死にたくもなし」。
子平の事を思へば愚癡るのは贅澤である。私には母親があり、妻子があり、多少の金もある。しかも、書いたものを活字にしてくれる雜誌社があり出版社がある。PHP研究所、中央公論社、月曜評論社、『人と日本』編緝部、及び日教連教育文化研究所に、私は感謝しなければならない。また、敬愛する京都大學教授勝田吉太郎氏の好意、及びダイヤモンド社の加登屋陽一氏の盡力無しに本書の上梓はありえなかつた。兩氏に深く御禮を申し述べる。本書が歴史的假名づかひのまま世に出る事を私は大層喜んでゐるが、それは加登屋氏の識見に負ふところ大なのである。また、私は龍野忠久氏の校正の見事に感服した。加登屋、龍野兩氏の助力が報いられるやう、すなはち本書の出版によつてダイヤモンド社が大損せぬやう、私は祈らずにゐられない。
昭和五十六年十二月十二日 松原正 
 
人間通になる讀書術 / 松原正
 賢者の毒を飲め、愚者の蜜を吐け

 

プロローグ  
人間通になるための「無用の讀書」
あいなめといふ魚がいる。新潮國語辭典には「硬骨魚目アイナメ科の淺海魚。海草や岩礁の間に住み(中略)、體長約三十センチ。體色の變化著しいが、多くは褐色。食用。日本近海の産」との説明が載つてゐる。東京灣では毎年十月頃になると、乘合船もしくは岩礁や防波堤の上から釣る魚である。
あいなめは刺身にすればすこぶる美味であり、釣りあげる手應えもよい。そこで讀者が、「では、俺もあいなめを釣つてみよう」と思ひたち、釣り道具屋で仕掛けを作つてもらい、三浦半島の防波堤までやつて來たとしよう。防波堤の右側にはたくさんの釣り人が糸を垂れてゐる。が、どうしたわけか、左側では誰も釣つていない。あんなに大勢が並んで釣つては樂しくない、「お祭り」をやらかすに決まつてゐる、そう思つて左側で一人靜かに釣ることにした。はたして結果はどうか。「一人靜かに釣る」のは結構なことだが、恐らくあいなめは一尾も釣れないであろう。そこで意氣消沈して歸宅して、當然、なぜ釣れなかつたかを考えることになる。だが一人でいくら考えたつて釣れなかつた理由がわかるはずはない。
そこで翌日、書店へ行き、『あいなめの釣り方』といふ本を買い求め、熱心に讀む。無論、そこには釣れなかつた理由が書いてある。つまり、釣り人たちが皆防波堤の右側で釣つていたのは、右側が「潮表」、すなわち潮がぶつかるほうだつたからなのだ。要するに、潮がぶつかる側にはふんだんに水中に酸素があり、そちらにしか魚はいないといふわけである。
ところで、かういふすぐに役立つ知識ばかりを『あいなめの釣り方』といふ本は与えてくれるのである。それゆゑ、それはすこぶる有益な書物だと言つてよい。そして釣りの本に限らず、書店の書架には「すぐに役立つ知識を与えてくれる」この種の實用書がたくさん並んでいるが、いずれも値段相應の價値はある。今、日本人は經濟動物で、何よりも實利を重んずる。それゆゑ、文藝作品や哲學書はもとより、肩の凝らない推理小説の類も、今や實用書ほどは賣れないといふことになつた。要するに人々は實利を求めて本を讀むのだから、暇つぶしのための娯樂ならテレビのほうが安上がりで氣樂だといふことなのであろう。
さういふわけで、われわれ日本人はもつぱら實利を求めて本を讀む。最近、山本七平氏の『論語の讀み方』がベストセラーになつたといふ。あの本が賣れたのは、やはり讀者が實用の書だと思つたからであろう。同書は祥傳社の「知的サラリーマン・シリーズ」として上梓されてゐるが、『論語の讀み方』には「いま活かすべきこの人間知の宝庫」といふ宣傳文がつけられており、無論、宜傳文は著者の書いたものではないが、出版社は明らかにこの本を「すぐに役立つ」實用價値のある書物として賣り出したのである。 
『日本永代藏』は人間通の教科書
では、『論語』のような古典を讀んで實利をうるとはどういふことであろうか。短い古典を例にとつて説明しよう。西鶴の書いた『日本永代藏』の中に「二代目に破る扇の風」と題する短篇がある。話の筋はこうだ。
昔、京都に、徹底して無駄をしない男が住んでいた。「家にありたき木は松桜」と『徒然草』にあるが、植木よりも「金銀米錢」のほうがよい。庭山よりも庭藏をながめていたほうがよい。そう考える彼は芝居茶屋にも行かず、少々風邪をひいても醫者にはかからず、晝間は家業に精を出し、夜は若い頃寺小屋で習つた小謡をうたうだけ。しかも『小謡のうたい方』なんぞを買い求めるといふこともない。
一生のうち草履の鼻緒を切つたことがなく、釘に袖を引つかけて破つたこともない。
そうやつて爪に火を灯し、莫大な資産をのこして、八十八歳で彼は死んだのだが、その一人息子がまた「親にまさりて始末を第一にして」、大勢の親類縁者に箸一本の形見分けもせず、初七日の法事をすませると、八日目から店を開き、父親同樣けちに徹して馬車馬よろしく働いた。
そしてある年、父親の命日に菩提寺に墓參りに行き、その歸り道、封じ文を一通拾つたのである。封じ文とは封をした手紙のことだが、それには「花川さままゐる」「二三より」と書いてあつた。どうやら花川といふ名の島原の女郎にあてて、二三といふ名の男が書いた手紙らしい。家へ歸つて封を切つてみると、中には手紙と一歩金が一つ入つており、手紙には大要こう書いてあつた。
金を貸してくれとのことだが、いま自分は金に困つてゐる。しかし、いとおしいそなたのことだから、春の給料を前借りして一歩だけ届けることにした。年々積もつた借金の支拂いにあてるがよい。人間には分相應といふことがある。大阪屋の太夫野分のような一流の遊女に大金持が大金をくれてやるのも、お前のような安女郎に私ごとき者が一歩だけくれてやるのも、その氣持は同じである、ゆとりがあれば私だつて決して出し惜しみはしない。    
さういふ何ともあわれな文面であつた。けちに徹して生きて來た商人もさすがに氣の毒に思つた。かういふ金を猫ばばするわけにはゆかぬ。二三といふ名の男の執念も恐ろしい。だが、男に返そうにも住所が解らぬ。それなら島原へ行き、花川といふ名の女郎を探し出し、この金を手渡してやつたらよい。そう思ひ、けちな商人は島原へと出掛けたのである。
島原であちこち尋ねまわつて、ようやく探しあてたが、花川はやはり安女郎で、この二三日病氣で休んでいるといふ。店の者があまりに忙しなそうに返事をするので、つい手紙と金を渡しそびれ、商人は店を出た。ところが、歸り道、このけちんぼうの商人の心に思ひがけない浮氣心が芽生えたのである。商人は考えた、「もともとこの金は俺の物ではない。この金を拾わなかつたと思ひ、この金だけといふことにして、一生の思ひ出に女郎を買い、老後の話の種にすればよいではないか」。
そこで彼は安女郎を買い、飲みつけぬ酒を飲んで浮かれ騒いだ。が、すこぶるつきのけちんぼうではあつても、もとより彼も木石ではない。以來彼は女郎買いの面白さを忘れられず、金に糸目を付けずして太夫を片端から買い、當時の有名な太鼓持におだてられ、放蕩の限りを尽くし、四五年のうちに莫大な財産をすつてしまい、古い扇一本を元手にして、謡をうたつて心付けをもらうといふ、あわれなその日暮らしの身分になつてしまつた。
さて、西鶴の『二代目に破る扇の風』とは以上のような話なのだが、かういふ話を讀んで「絶對に損」をしないとはどういふことなのか。西鶴の描いた扇屋のように、節約に徹して仕事に精を出し、小金を溜め込み、いずれ停年後は湘南に瀟洒な家を建て、そこで菊作りでもしながら安樂に暮らしたいと思つてゐる「知的サラリーマン」がいたとする。それがたまたまこの『二代目に破る扇の風』を讀んだとしよう。讀んで大いに感じ入り、いかにも西鶴の言ふとおりだ、「金がすべての世の中では、才覺・知惠・勤勉といつた諸要素のあるかないかが致富と倒産の別れ道」だと骨身に應えて知つたとする。だが、その「知的サラリーマン」がある日、ひょんなことから、若くて氣立てのよい、しかも妖艶な女子社員と懇ろな仲になり、以來熱を上げ前後を忘れ、家庭も地位も一切顧みなくなるといふことが、まつたくないとはたして言ひ切れるであろうか。言ひ切れるのなら、古典を讀んで「絶對に損」はなかつたといふことになる。 
「論語讀みの論語知らず」と「孔子の倒れ」
けれども、古典に限らず、いわゆる名著と稱せられる書物を讀めば、何かしら有形無形の御利益があるといふことを私は信じない。「論語讀みの論語知らず」といふことがある。『論語の讀み方』を讀んだところで、それだけで「人望を得るための条件」が整つたことにはならない。「社會のリーダーとして信用される人物」になれるわけでもない。『論語の讀み方』を讀んで「人望を得るための条件」を知つたとしても、人望を得てリーダーなんぞになるよりも、「何の百萬石君と寢よう」とて、不倫の戀の闇に惑ふといふこともあるではないか。「論語讀みの論語知らず」とはさういふことではないか。そして、さういふ愚かなところがあるからこそ人間は面白いのである。
それにまた「孔子の倒れ」といふこともある。新潮國語辭典によれば、「孔子の倒れ」とは「どんな賢い人でも失敗をすることがある」といふ意味である。それはほんとうのことではないか。西鶴描くところの徹底したしまり屋も、ひよんなことから倒産への道に踏み入つた。同樣に、「人間關係についての人類四千年の知惠の集積」たる古典をいくら讀んだところで、それだけで「賢い人」になれるとは限らない。
例えば『徒然草』の「女の髪すぢをよれる綱には、大象もよくつながれ、女のはけるあしだにて作れる笛には、秋の鹿必ず寄る」といふくだりを讀んで、なるほど、「老いたるも若きも、智あるも愚なるも」女の色香にはいとも簡單にまいつてしまうものだ、それゆゑ「みづから戒めて、恐るべくつつしむべきはこのまどひなり」と承知したところで、以後女ゆえのあやまちを決して犯さぬようになれるわけではない。
なぜなら『徒然草』の作者兼好自身、色欲といふ煩惱を脱していたわけではないからだ。彼は「恐るべくつつしむべきは」色欲のまどいであると書く一方、「久米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て通を失ひけむは」無理ならぬことである、女の肌が「きよらかに肥えあぶらづきたらむ」は何しろ魅惑的准のだから、云々と書いてゐるのである。
要するに、この世には、例えば防波堤の左側でなぜあいなめが釣れなかつたのかといつた、實用書を讀めば明快にすぐに解決のつく問題と、どんな賢い人間も悟り切つてはおらず、それゆゑいかなる名著古典を讀んでも明快な解決なんぞ教へてもらえないような問題とがあるのである。「煩惱の犬、追えども去らず」と昔の人は言つた。名著を讀んで「讀書百遍義自ら見る」といふことになつたとしても、それで確實に煩惱の犬を去らせられるようになるわけではない。それなのに、古典や名著を讀めば讀んだだけの實利があるかのように、とかく人姦思ひこむ。それは實に淺はかなことである。
どんなに賢い人間も決して悟り切つてはいない、そして古典だの名著だのの作者ともなれば、悟り切つていないことに苦しんでいるのである。「煩惱の犬、追えども去らず」といふことを氣にしてゐるのである。それゆゑ孔子も言つた、「君子固より窮す」と。すぐれた人物とは、一生涯何とかして自分を救おうと努力した人間なのであり、さういふ天才や偉人や賢者は、自分の頭の上の蠅も追われぬのに、他人の頭の上の蠅を追おうとするがごとき愚かなことは全然していない。自分を救おうと一所懸命になつてゐる男から、どうして「すぐに役立つ知識」なんぞが教へてもらえるであろうか。
孔子は言つてゐる「古の學者は己れの爲にし、今の學者は人の爲にす」。昔の學者は自分を救うために學問をやつた、しかるに今の學者は「人の爲に」學問をやる。朱子によれば「人の爲に」とは「人に名を知られるために」といふ意味だといふ。「人に名を知られるために」學問をするのだから、當然讀者に喜ばれるような本を書く。讀者が實利を引き出したがつてゐるのだから、「すぐに役立つ」かのように見せかける本を書けばよい。すなわち著者の頭の上の蠅なんぞどうでもよい、讀者の頭の上の蠅ばかり氣にして、あるいは氣にしてゐるふりをして、文章を綴ればよい、さういふことになる。 
激しかつた男・孔子
山本七平氏も、その種の誘惑には勝てなかつた。例えば『論語の讀み方』の第七章は、「人望を得るための条件−社會のリーダーとして信用される人物像とは」と題されてゐる。淺はかな讀者は立身出世のためには「人望を得る」ことが必要だと考え、第七章を一所懸命に讀む。するとそこにはこう書いてある、「温を欠く上役たど、企業内公害のようなもの」。つまり「温」を欠いては人望は得られないといふわけである。山本氏は書いてゐる。
「温」は言ふまでもなく「温和」だが、孔子がまことに春風駘蕩といつた風格の人であるといふことはすでに述べた。すなわち「孔子が家でくつろいでいるときは、まことにのんびりして、いかにもにこやかであつた」。「子の燕居するや、申申如たり。夭夭如たり」であつて、少しもとげとげしさがない。といつて單なるお人好しではなく、「温和だが激しい氣性で、威嚴があるが恐ろしいといふ感じがなく、丁寧だが窮屈でなくゆつたりしていた」「子は温にして1(厂+萬)。威ありて猛からず。恭にして安し」トゲトゲしくいつもイライラしていて、威張りくさつてゐるだけの上役など企業内公害のようなものだ。
かういふ山本氏の文章から讀者は一體何を得るのであろうか。「温にして1(厂+萬)。威ありて猛からず。恭にして安し」、さういふ状態になれば「社會のリーダーとして信用される人物」になれるのだと了解したとして、それではたして讀者は「温にして1(厂+萬)」なる人物になれるのか。決してなれはしない。「孔子は、確かにトゲトゲしさがなく温である」と山本氏は言ふ。が孔子は時に激しく怒つた男なのだ。「樂しんで以て憂を忘れ」るのみならず、時に「憤を發しては食を忘れ」た男たのだ。 
賢者の毒・愚者の蜜
「愚者が蜜をくれようとしたら唾を吐きかけろ。賢者が毒をくれたら、一氣に飲め」とゴーリキーは書いた。これもまた嚴しい言葉である。人々は今日、金儲けのためとあらば、口述筆記にもとづくいい加減な文章の書物を公にしたり、ほとんど同一内容の著書を、同時に別の出版社から出版したりするでたららめな物書きの、「愚者の蜜」を舐めては喜んでいる。奇怪なことだ。町角にわれわれは「氣を付けよう、甘い言葉と暗い道」と記された立て看板を見るではないか。「甘い言葉と暗い道」に「氣を付け」て、痴漢の毒牙にかからぬようにせよと、さういふ忠告をする人間の心の中にも痴漢は必ずいるはずで、それを考えると痴漢退治に躍起になる男の善意とは、いささか奇妙だが、それはともかく、「甘い言葉」に騙されぬようにするといふことは、誰でもが心得てゐる處世術ではないか。それなのに、なぜ人々は物書きのでたらめにはころりと騙されてしまうのか。
私は人生の諸問題に關する即効性のある忠告といふものを信じない。それらはいずれも「愚者の蜜」だからである。けれども、われわれは駄本だけではなく名著をも讀む。では名著を讀むことにはいかなる効用があるのだろうか。大風呂敷は廣げまい。私が請け合えるのはただ、「愚者の蜜」に騙されなくなるといふことである。「古典」とか「名著」とか稱せられる作品は、天才や賢人の眞劍な思索の結晶であり、それとじつくり付き合えば、われわれはこの世に充滿してゐる嘘八百を見抜けるようになる。それはすばらしいことではないか。そこで私は、この世の嘘八百の中からいくつかを選び、それらの嘘を嘘と知るためにこれだけは讀むべし、そしてこう讀むべしと、日頃信ずるところを書き記したのである。選んだ作品の大半は短篇小説で、私はまず荒筋を語り、ついで古今東西の作家たちが看破つた嘘が、今日依然として嘘と看破られずに大手を振つてまかり通つてゐる次第を語ることにした。
例えば、先般、かの「女王蜂」、すなわち榎本敏夫氏の先妻は、ロッキード事件の檢察側證人として出廷し、「蜂は一度刺して死ぬ」と大見得を切つたが、その時即座に、彼女の嘘と品性下劣を看破つた日本人は實に少なかつた。少なくとも新聞や週刊誌はことごとく彼女の嘘にひつかかり、彼女の手記を連載した『週刊文春』の編集長は「久しぶりに心からの感動をおぼえました。母は強い」とまで書いたのである。週刊誌の編集長ともなれば、海千山千の苦労人、つまり、人間通のはずである。それなのに彼は、手もなく「女王蜂」に乘せられてしまつたのである。
あれほど淺薄な、見え透いたいかさま師の正體を即座に見抜いたところで、自慢には決してならぬと思ふから安心して言ふが、私は彼女には騙されなかつた。そこで私は『サンケイ新聞』に「女王蜂の品性の下劣は掌をさすがごとし」と書いた。激しい抗議の手紙を私は十數通も受け取つたが、その後「女王蜂」の「品性下劣」は滿天下の知るところとなつたではないか。「母は強い」どころか、彼女は養鰻業者と結婚し、國外でハネムーンを樂しみ、愚劣なる手記を出版した。そして今、人々は彼女のことをきれいさつばり忘れてゐる。
ところで私が「女王蜂」に騙されなかつたのはなぜか。大方のジャーナリストと異なり、私は例えばドストエフスキーや荻生祖徠や森鴎外といふ「賢者の毒」を飲んだことがあるからである。飲んで大いに考えさせられたからである。本書の讀者が「賢者の毒」を飲み「愚者の蜜」をさげすみ、嘘八百を嘘八百と知ることの樂しさを味わうよう私は希望する。言ふまでもなく、荻生祖徠の時代にも、森鴎外の時代にも、核兵器はなかつたし日米安保条約もなかつた。だが、あの世のドストエフスキーや鴎外に、核戰爭に反對かどうか、ロッキード裁判や校内暴力をどう思ふか、日米安保条約を廢棄すべきかどうか、さういふことを一度問ひただしてみたいと讀者は思はないか。謹嚴實直の乃木希典大將に向かつて「將軍、につかつロマンポルノをどう思ひますか」と質問してみたいとは思はないか。
本書はいわば、さういふあの世の賢者たちとの架空インタビューなのである。もとより「嘘八百を嘘八百と知ることがなんで樂しみなものか」と、せせら笑ふようなすね者の賢者もいる。公正を期すべくさういふ天邪鬼との「インタビュー」をも私は採録した。いかなるすね者であろうと、賢者と付き合つて損はないと信ずるからである。 
第一章 この世が舞臺

 

1.すれつからしも騙される「惡い女」 
森鴎外『ぢいさんばあさん』
明和四年春、美濃部伊織は妻をめとつた。伊織は文武兩道に秀でた若い侍であつた。すなわち伊織は劍術の達人で、和歌のたしなみもあつた。一方、新妻のるんは美人といふほどの女ではないが、「目から鼻へ抜けるやうに賢く、いつでもぼんやりして手を明けて居ると云ふことが」なく、夫に對しても姑に對しても「血を分けたものも及ばぬ程やさしくするので、伊織は好い女房を持つたと思つて滿足し」た。穏やかな人柄になつたかのように思はれた。伊織は色の白い美男だつたが、氣短たのが玉に瑕だつたのである。
結婚してから四年たち、明和八年、松平石見守が二条在番となつたため、伊織は「丁度妊娠して臨月になつてゐるるんを江戸に殘して」京都へ赴いた。今日言ふところの「單身赴任」である。任地京都で、ある日伊織は寺町通の刀劍商の店で、質流れだといふすばらしい古刀を見出した。以前からよい刀が欲しいと考えていたので、それを買いたいと思つたが、代金百五十兩といふのは彼にとつて大金であつた。商人を口説いて百三十兩に負けてもらうことにしたが、有金は百兩、三十兩は誰かに借りなければならない。そこで彼は同僚の下島甚右衞門に三十兩を借りて刀を買い、拵えを直しにやり、やがて刀が届けられた晩、友人二三人を招いて刀の披露かたがた持てなした。友人が皆刀を褒めたのは言ふまでもない。
ところが酒宴たけなわになつた頃、金を貸した下島がやつて來た。「自分の用立てた金で買つた刀の披露をするのに自分を招かぬのを不平に思つて」下島はやつて來たのである。しばらく話をしてゐるうちに、下島は言つた、借金してもよい刀を買うのは構わぬが、それに裝飾を施したり、見せびらかしたり、月見の宴を張つたりするのはどうかと思ふ。「刀は御奉公のために大切な品だから、随分借財して買つて好からう。しかしそれに結構な拵をするのは贅澤だ。其上借財のある身分で刀の披露をしたり、月見をしたりするのは不心得だ」。伊織は答えた、解つた、いずれ借金を返してから言ひたいことは言ふ。今夜はこれで歸つてくれ。「只今のお詞は確かに承つた。その御返事はいづれ恩借の金子を持參した上で、改て申上げる。(中略)どうぞ此席はこれでお立下されい」
「さうか。返れと云ふたら返る」と言ひ放つて下島は立ち、一言「たはけ」と叫んだ。「伊織の手に白刃が閃いて下島は額を一刀切られ」、身を飜して逃げ去つた。追おうとする伊織を友人が背後からしつかり抱き締めた。下島が死なずにすんだなら、伊織の罪はそれだけ輕くなるだろうと思つたからである。
が、下島の傷は意外に重く、二三日たつて死ぬ。伊織は知行を召し上げられ、「永の御預仰付ら」れる。今でいうなら無期刑のようなものである。伊織の母親、父伊織の顔を見ることのできなかつた息子、及び妻るんも他家に身を寄せねばならぬことになる。やがて母親が、ついで五歳の息子が病死し、祖母と息子を一所懸命看病してその臨終を見届けたるんは、武家奉公に出、三十一年間「筑前國福岡の領主黒田家」に勤め、四代の奥方につかえ、その間「給料の中から松泉寺へ金を納めて、美濃部家の墓に香華を絶やさたかつた」。松泉寺には伊織の母と息子が葬られていたのである。三十一年の奉公ののち、彼女は隠居を許されて故郷の安房江見村へ歸つた。
そして文化六年、伊織は罪を許されて江戸へ歸ることになる。それを聞いたるんは、喜んで安房から江戸へ出て來て、實に三十七年ぶりに再會した。無論、伊織はぢいさん、るんはばあさんになつてしまつていた。二人とも髪は眞つ白である。るんは「眞白な髪を小さい丸髷に結つてゐて、爺いさんに負けぬやうに品格が好い」。二人の日常生活を鴎外はこう描写してゐる。ばあさんは「爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするやうな工合に拵へる。(中略)二人の中の好いことは無類である。近所のものは、若しあれが若い男女であつたら、どうも平氣で見てゐることが出來まいなどと云つた」。二人の生活は裕福では決してない。だが、作者鴎外はこう書いてゐる。
二人の生活はいかにも隠居らしい、氣樂な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を讀む。細字で日記を付ける。毎日同じ時刻に刀劍に打粉を打つて拭く。體を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の眞似をして、其隙には爺いさんの傍に來て團扇であふぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあふぐうちに、爺いさんは讀みさした本を置いて話をし出す。二人はさも樂しさうに話すのである。 
耐え忍ぶ女・美濃部るんの美しさ
言ふまでもなく、それまでのるんの一生は忍從の一生であつた。江戸時代の女はおのれを殺し、おのれを捨て、嫁するまでは親に從い、嫁しては夫に從い、やがて老いては子に從わなければならなかつた。貝原益軒が『和俗童子訓』に書いてゐるところによれば、女には、「三從の道」といふことがあり、女は柔和でなければならず、男に從わなければならず、自分勝手な行動は許されない。それゆゑ「父の家にありては父にしたがひ、夫の家にゆきては夫にしたがひ、夫死しては子にしたがふ」ようでなければならない。
さらにまた「七去」といふこともあつた。七去とは無条件で妻を離縁しうる七つの理由のことであり、益軒が『女大學』で説いてゐるのだが、姑の言ふことをきかない嫁、子供を産まない嫁、淫亂な嫁、嫉妬深い嫁、癩病などの重い病氣にかかつた嫁、お喋りで口數の多い嫁、盗癖のある嫁、これらのうち一つの条件をみたせばたちどころに離縁してよいといふのである。
ずいぶん無茶な話ではないかと男女を問わず讀者は思ふであろう。戰後強くなつたのは女と靴下だといふ。それゆゑナイロンの靴下さながらの女に向かつて「三從の道」を説く男もいないし、ましてや「七去」を言ひ、それを實行に移すような横暴な亭主もいまい。だが、美濃部伊織の妻るんは、嫁いで後四年間、夫と姑に從つて「血を分けたものも及ばぬ程やさしく」し、伊織が無期刑を食つて後も、姑と一人息子の死後も、婚家のために心を尽くしたのである。息子に死なれてからるんが夫と再會するまでに、三十四年間の年月が流れてゐる。るんは「七去」のいずれかに該當する女ではなかつたから、「一度嫁して其家を出され」たわけではない。だが、三十四年間も婚家に尽くすことが弱い女にどうしてやれるであろうか。
女の忍從は美徳だと信じられていた封建時代の絹製の女のほうが、今のナイロン製の女よりも遙かに強かつたのである。『プロローグ』でも觸れたが、昨年十月、田中角榮氏の秘書榎本敏夫氏の先妻は、檢察側證人として出廷し、「蜂は一度刺して死ぬ」とて大見得を切つたが、あるジャーナリストは、「久しぶりに心からの感動をおぼえました。母は強い」と週刊誌に書いた。だが、『週刊ポスト』によれば、彼女は、「十二歳で父を亡くし、母親の手ひとつで育てられ」、富山女子高校を一年で退學、上京して銀座のクラブで働いたといふ。それゆゑ彼女の場合、「母の家にありては母にしたがひ」といふわけではなかつたであろう。また榎本敏夫氏と結婚して三人の子をもうけながら離婚し、「かみしま」、「エルマーナ」、「セビアン」、「エミール」などのクラブでホステスとして働き、今囘法廷で長年連れそつた夫の信頼を裏切り、その「旧惡」をあばいたのだから、「夫の家にゆきては夫にしたがひ」といふことでもなかつた。そして今、彼女はどこにいるか。何をしてゐるか。三人の男の子を榎本氏に託して、養鰻業者と再婚、海外旅行を樂しんでいる。あれほど簡單にめつきがはげた女も珍しいが、人間通の讀者ならば即座に彼女の正體は看破れたはずなのである。
かの「女王蜂」が「七去」のどれとどれに該當するか、それはあえて論じない。貝原益軒にならつて、「女は一度嫁して其家を出されては、ふたたび富裕なる養鰻業者に嫁すとも女の道にたがひて大なる辱なり」とだけ言つておこう。だが、少なくとも一時、新聞、テレビ、週刊誌は彼女に見事に騙されたのである。これはどうしたことか。新聞、週刊誌の記者は海千山千のすれつからしのはずではないか。
逆説を弄するようだが、海千山千のすれつからしだからこそ、いかがわしい女に騙されたのである。いや、騙されたと知つて後も、騎されていないふりをしたのである。「女王蜂」の矛盾だらけの手記を讀み「久しぶりに心からの感動をおぼえ」たジャーナリストは多かろうが、彼らは常日頃、すれつからしとばかり付き合い、「賢を賢として色に易へ」るといふことがない。「賢を賢として色に易へ」るとは『論語』にある言葉で、「賢い人に出會つたら顔色を易えて尊敬しろ」といつたくらいの意味である。「女王蜂」の言動に拍手喝采した連中は例えば『ぢいさんばあさん』を讀んだことがあるのだろうか。讀んだとしても、るんの見事な一生に「顔色を易へる」といふことがなかつたにちがいない。それならそれで、いつそのこと思ひ切り惡ずれして商賣に徹すればよいのだが、「社會の木鐸」といふ中途半端なエリート意識が捨てられないから、「女王蜂」のような手合にころりと騙されてしまう。
だが、男女の別なく耐え忍ぶことは美徳たのである。そしてそれが美徳たるゆえんは、森鴎外のみならず多くの人間通の作家が教へてゐる。だが、昨今の男も女も修行だの鍛練だのを嫌い、格好をつけることばかり考えて、先人の教へに學ぼうとはしない。それゆゑ『論語の讀み方』はベストセラーになつても、『論語』そのものが熱心に讀まれるといふことはない。 
不自由であることの幸福
大學の教師として私が日頃痛感することだが、今の大學生は苦しみの中で自分を鍛えるといふことを知らない。例えば、私が大學生だつた頃は、洋書をアメリカに注文すれば三ヵ月は待たなければならなかつた。今は丸善へ行けば殆ど何でもすぐに買える。だが、さういふふうに便利になつて、學生はかえつて洋書を讀まなくなつた。卒業論文のテーマも、飜譯のある作家に限られる。そればかりではない、今はゼロックスなどといふ文明の利器があつて、學生諸君はそれに頼る。私たちの時代には、三ヵ月かかつて到着した洋書を大切にして、隅から隅まで讀んだし、友人から借りた洋書を、丸ごと写したものである。それは今の學生諸君の知らない「修行・鍛練」であつた。それは苦しいことだつたが、同時に大いに役立つたはずなのである。
それゆゑ、圖書館で本をコピーするために行列してゐる學生を見るたびに、「あれでは本當はだめなんだ」と思はざるをえない。簡單にコピーしたものだから、彼らはそれを丹念に讀まない。私たちの場合、ペンだこをこしらえてせつせと写した。それゆゑ貴重なものとして味讀したのである。
ところで忍從といふ古めかしい言葉がある。忍耐して何かに從うことである。封建時代の女は「三從の道」に從い、「七去」の不合理に耐えた。今は女にも參政權が与えられ、賃金格差も是正され、姦通して女だけが罰せられるといふこともなくなつた。だが、そうして封建時代の道徳から自由になつた女が、晩年、るんのように、靜かだが美しく充實した幸福を手に入れることができるであろうか。自由である時、人は自由の有難さを實感しない。自由であることの幸せは、束縛を脱した時にのみ訪れる。同樣に、美しく充實した幸福とは、辛い忍從の後にのみ訪れるものかもしれないのである。
私は女にだけ忍從の美徳を説いてゐるのではない。男もまたこの人生を生き抜くためには、樣々の不合理に耐えなければならない。周知のごとく、封建時代の男は、女と同樣、多くの理不尽に耐えた。例えば、町人百姓にとつては「斬り捨て御免」といふことがあり、武士には殉死せねばならぬ場合があり、「いざ戰爭と云ふ時の陣中へのお供」といふこともあつた。しかるに今日、日本國憲法には「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」との条項はない。そして「兵役ノ義務ヲ有」していた頃の日本の男たちが、今の男たちよりも不幸であつたなどとは決して言へないのである。戰地ビアク島にあつて芋を主食とし、「蛇とかげを食し、カタツムリを喰」い、「今日吾々の最も欲しあるは一握の鹽ナリ」と書いたある大日本帝國陸軍の將校は、「慾望」と題するかういふ文章を遺してゐる。
洗い立ての糊の良くきいた浴衣を着て、夏の夕方を散歩したい。(中略)火鉢の前にどつかりあぐらをかいてみたい。いずれにしても清潔な洗いたてのものをきたい。白いシーツの糊氣のあるフトンでふつかりとねてみたい。明るい、スタンドの下で机にもたれ熱い紅茶を喫し乍ら、「光」をフカして本を讀みたい。(中略)鳥の刺身、茄子の紫色の酢みがかつたのか、きうりの種のあるのに醤油をかけてお茶づけにしてみたい。朝ゆらゆらり湯氣の上る味噌汁に熱い御飯をああたべたいよ。(中略)冷いビール、ああいいなあ。夏の夕方打水をした時、清潔な浴衣で散歩する。あの氣分、冬の夜熱い部屋が一家の團らん、秋の山、春の朝、梅匂う朝、桜咲く春の日中、いいではないか。
妻と共の事は書くの控えよう。自分が戰死した後で、第三者に見られるような事があつたら、自分達の一番貴重なものを他人に取られたような氣がするから、唯今思ひ出すままに第三者のわからないように書きたい。和歌山、白浜、名古屋、「名古屋ではウイスキーを妻がおごつてくれた事があつたつけ」。正月の休暇中の大阪の映畫、汽車旅行、新宿、二月に妻が上京した事があつた。此の時、區隊長殿の特別の取計いに依り、外泊を許可された國分寺の一日。(後略)(『ドキュメント・昭和世相史・戰中篇』、平凡社)
この將校の「欲望」のすべてを、今日のわれわれはいともたやすくみたすことができる。だが、「明るい、スタンドの下で机にもたれ熱いトワイニング紅茶を喫し乍ら、ピースやラークをフカして本を讀」んだところで、われわれはそれを格別の幸福だなどとは思はないであろう。右に引用した日記の別の箇所に、若き將校はこう書いてゐる。
紙も少なくなり後補充ハナシ、ノートに記載スルモ字ヲ小サクシ、永續ヲ圖ル必要を生ジアリ昨夜寢る時月ヲ見タク久シク見ザルモノニシテ美シク懐シキモノナリ、月ヲ見テ感情ヲ燃ス事、昔カラ記シアルモ《自分ラテ體驗且深刻ナル喜ビヲ感ズルハ悲境二在ルガ故》ナラン、太陽ヲ月ヲ風ヲ求メル昨今ノ心境ナリ、昨夜妻の夢を見るなつかしきものかり。
「悲境ニ在ル」時、人間は月を見ても「深刻ナル喜ビヲ感ズル」のである。につかつロマンポルノを見、猥本を讀んでも「深刻ナル喜ビヲ感ズル」ことのない今日のわれわれが、「妻と共の事は書くの控えよう」と書き、「昨夜妻の夢を見るなつかしきものなり」と書いた青年將校よりも幸福だなどと、どうして言ひ切れるであろうか。「幸福は、われわれが何かを《しない》ことにかかつてゐる」とブラウン神父シリーズで有名なイギリスの作家G・K・チェスタトンは言つた。ビアク島で戰死した青年將校がやりたいと思つたことのすべてを、今日のわれわれは簡單にやることができる。だが、それでわれわれが、ビアク島の青年將校よりも幸福であるといふことにはならない。同樣に、「三從の道」の不合理を受け入れ、我慢の四十年を過ごしたるんが、かの「女王蜂」よりも不幸だなどと、どうして言へるだろうか。そしてそれなら、忍從と不幸とは無關係なのであつて、忍從の中にも、いや、ひょつとすると忍從の中にこそ幸福があるのかもしれないのである。 中野重治はこの伊織とるんとの「夫婦關係は、徳川封建制の下での全くばからしい面をも持つてゐる」と書き、鴎外研究家の吉野俊彦氏はこの作品における「鴎外の強い主張」は「權威への反抗である」と書いてゐる。ともに「全くばからしい」意見である。愚にもつかぬ先入主にとらわれずにこの小品を讀む者は、作者鴎外が「ぢいさんばあさん」の幸福を美しいと思ひ、るんの献身を稱えるべく筆を執つたのだといふ事實を疑わないであろう。つまり、鴎外はるんに肖ろうとしてゐるのである。肖ろうとしてゐるのだから、鴎外はもちろん、るんほどの忍耐の一生を送つたわけではない。けれとも、見事なものだなあ、と鴎外は思ひ、作品に描くことで、いわばるんの一生をなぞつたのである。だから、るんとは異なり、鴎外は「權威への反抗」心をも持ち合わせていた。が、それを持ち合わせていたからこそ、るんの献身の美しさに鴎外は強く惹かれたのだ。さういふことが今の作家にはない。「封建制」の「ばからしい面」が消えた結果、忍從の美徳をも失うにいたつたからである。 
今の女ならラブ・ホテルに入る
ここでもう一つ、耐え忍んだ女の美しさを示す例をあげておこう。それは『片だより』と題されて『婦人公論』昭和二十五年二月號に掲載された主婦の文章であり、戰死した夫の「写眞を前にして」、書かれたものである。彼女と夫とは二年間の結婚生活を送つたにすぎない。
河田さんのことを今日は思ひ切つてお知らせ致します。お怒りにならないできいてちょうだい。その方は同じ學校内に奉職してゐる中學の理科の先生で、家が同じ方なので時々一緒の電車になり色々お話をいたします。(中略)先日長年御病氣だつた奥樣が亡くなられ、お氣の毒な方です。その河田さんが、この間雨に濡れて居た私を駅から家まで送つて下さいました。私はこの夜、今まで久しく味わつたことのない不思議な愉しい氣分になつて、家がもつと遠いといいのになんて思ひました。家の前から引返された後、私は別れたくないような、なんだか苦しいようないらいらした氣持でした。(中略)本當にはしたない女だとお怒りになるでしょうが、時に誰かに甘えてみたいといふ氣持になるのをどうすることも出來ません(中略)私は「貞婦二夫にまみえず」なんていふことを、金科玉条のように死守しようといふほど意志が強くもなさそうだし、あなたが靖國神社で神樣になつてみていらつしゃるとも思つていません。私の人生は、たつたあの二年間で終わつてしまつたなんて餘りに殘酷です。(中略)第二、第三の河田さんにめぐり合つた時、「老いらくの戀」に花を咲かせないと斷言する自信もありません。こんな厚かましいことをぬけぬけと書くところがもうどうかしてゐるのかしら。でも・・・・・・本當に女獨りでいるとこんな氣持になる時もありますのよ。(『ドキュメント・昭和世相史・戰後篇』、平凡社)
この未亡人の心の迷いはまことに美しい。それは讀者のすべてが認めるであろう。だが、彼女の迷いが美しいのは、「貞婦二夫にまみえず」との封建道徳がいまだ完全に息の根を止められずにいた時代に、彼女が生きていたからである。しかるに今日、夫が三年以上生死不明なら、生死不明の原因のいかんを問わず、妻は離婚することができる。それゆゑ、右に引いた『片だより』の筆者も、今ならば「長年御病氣だつた奥樣が亡くなられ」た「理科の先生」に「甘えて」もよいし、ラブ・ホテルヘしけこんでもよいはずである。彼女が夫に甘えることができたのは「たつたの二年間」であつた、それは「餘りに殘酷」ではないか。ところが彼女は「厚かましいことをぬけぬけと」書いたことを反省し、靖國神社に祀られてゐる夫にあてて別の日にはこう書くのである。
先日はジメジメしたお便りでごめんなさい。あなたといふ錘りがなくなつてからは、文字通り風の中の羽根のようにフワフワしてゐる女心です。その代り今日はもう颱風一過、晴々しい日曜の朝です。春になつたので私もブラウスを一枚新調して、パーマもかけました。とても若返つたようで何となく浮々し、メリーウイドーを口吟みながら今掃除をしたところ。たんだかあなたが寢坊をして二階から降りていらつしゃるようた錯覺さえ致します。道夫が學年末に賞状を貰つたのを大變喜んで、自分で佛壇に供えています。まだ道夫のことを餘りお知らせ致しませんでしたわね。あなたが征かれた時は二歳でしたが、早いもので八歳になりました。あなたに似てゐるところは少し弱々しい體格と、優しいが氣の弱いところと目尻に皺をよせて笑ふところ。頭腦の方は斷然私に似て惡い方じゃないわ(なんて失禮、ごめん遊ばせ)。(中略)それにつけても、この子が大きくなるまでは元氣で働こうと思ひます。
この戰爭未亡人の生き方は、るんのそれと同樣に美しい。けれども、例えば、かの「女王蜂」のごとき手合に向かつて、かういふ女の「忍從の道」を説くなどとは、およそ馬鹿げてゐる。それは私も知つてゐる。そんなことを私はやろうと思つたのではない。けれども讀者は、るんの一生を「女王蜂」の生き方とくらべて、時代が違うといつて片付けてしまえない眞理、つまり苦しみこそが人間を鍛え、美しく立派な人聞をつくるのだといふことだけは、認めるのではないだろうか。 
2.「知的生活」のいかがわしい部分

 

フローべール『まごころ』
フランスの片田舎ポン・レヴェックの町に住むオバン夫人が雇つてゐる女中フェリシテはたいそう働き者であつた。彼女は「年百フランの給金で、臺所働きと家事の一切をひきうけて、針仕事をし、洗濯をし、アイロンをかけ、馬の用意や家禽の世話、バターの製法さえ心得ていた」のである。未亡人のオバン夫人にはポオルとヴィルジニ一といふ二人の子供があり、その二人の子供はフェリシテにとつては「貴重品のように思はれ」、彼女は時々二人を「馬のように背中にのせて」やるのであつた。「オバン夫人はフェリシテがなにかといつては子供たちに接吻するのをやかましくとめた。それが彼女には情なかつた」。
秋のある夕方、オバン夫人の一家は牧場へ遊びに行き、そこで一頭の牡牛に襲われるが、フェリシテは我が身の危險をかえりみず、兩手に土くれを掴んで牛の眼玉に投げつけ、オバン夫人と二人の子供を柵の外へ逃がしてやつた。その勇敢な行爲は町中の評判になつたが、フェリシテは「自慢な顔一つするでもなかつた」のである。
二人の子供は成長し、やがてポオルは遠くの中學校に入學し、寮に入ることとなつた。フェリシテはそれを悲しみ、「ポオルの亂暴を懐かしがつた」が、やがて彼女にはまた一つ新たな仕事が加わり、それが氣を紛らせてくれた。すなわち、ヴィルジニーをつれて毎日教會へ行くことになつたのである。教會で司祭は「聖史のあらましを話してきかせた」。
作者フローベールはこう書いてゐる。「フェリシテは、樂園や洪水やバベルの塔や火に燃えあがる邑々や死に亡びゆく諸國の民や擲棄てられた偶像が眼に見えるように思はれて、目も眩むようなその幻のなかに、至上者の尊さとそのお怒りの恐ろしさを感じた。やがて、主の御受難の話を聽いてゐるうちに、彼女は泣いた。(中略)イエズスさまをなぜあの人たちは十字架になぞつけたのであろう。(中略)フェリシテは、神の羔を愛すればこそ野の仔羊も、聖靈のことをおもえばこそ屋根の鳩も、なおひとしおに可愛く思はれた」。
そして彼女は「若いころに宗教の教育なぞは受けなかつた」にもかかわらず、司祭の話を「なんどか聞いてゐるうちに、公教要理も覺えてしまつた」のだつた。
やがてヴィルジニーも、勉強のため遠く離れた修道院の寄宿舎に入れられることになり、フェリシテはヴィルジニーを修道院に入れた「奥さまの心を無慈悲と思ひ、溜息をついた」が、「こうしたことは自分ふぜいのかれこれいうべきことではない」と考えて諦めた。ヴィルジニーがいなくなると、甥のヴィクトールをかわいがることが彼女の生き甲斐になつた。ヴィクトールの兩親はフェリシテの善良につけこんで、「ヴィクトールにいいつけて(中略)なにかとフェリシテから捲きあげさせた」のだが、さういふことがあつても、フェリシテの甥への愛情は少しも變わらなかつた。そしてやがて甥が遠洋航海に雇われて旅立つと、彼女は「甥のことばかり考えた。日の照りつける日は喉の渇きを思ひ遣り、暴風雨の日には甥のために雷のことを氣づかつた」。
が、その甥が航海中に黄熱病で死ぬ。無論、彼女はひどく悲しむ。ついでヴィルジニーが修道院で肺炎のために死ぬ。すると、「二晩のあいだ、フェリシシテは遺骸の側を離れなかつた」。そして、その後は毎日、町はずれの山にあるヴィルジニーの墓參りに出かけ、嘆き悲しむオバン夫人を慰め、相變らず甲斐甲斐しく働いた。ある年、「郵便馬車の馭者が七月革命の報をもたらし」、やがて新しい郡長が任命された。が、さういふ政治上の變革はフェリシテの生活に何の影響も及ぼさない。
ある日、オバン夫人と彼女はヴィルジニーの形見の絹ビロードの帽子を見つけ、二人は互いに見合つて涙ぐみ、接吻し、二人は身分の「上下を忘れたこの接吻の中に互の苦惱を泣きつくすまでひしと抱き合」い、フェリシテはオバン夫人が自分を抱きしめ接吻してくれたことに感動し、「あたかも恩惠をでもうけたようにこれを心に感謝して、それから後はオバン夫人を動物的な眞心と宗教的な尊敬を一つにこめて労つた」。
フェリシテの情愛の對象は更にひろまつた。まずは亡命中のポーランド人、コレラ患者、ついで「九十三年の大革命當時ずいぶんと怖ろしいことをやつた人だと噂のある老人」を彼女は愛した。その老人がやがて死に、その「靈魂の安息のため」の「ミサの祈りをあげてもらつた」日に、オバン夫人は新しい郡長の夫人が飼つていた一羽の鸚鵡をもらい、それがフェリシテのものとなり、そのルルといふ名の鸚鵡を彼女は溺愛するようになる。けれども、そのルルが死に、オバン夫人も死んだ。すると「主人のために泣く者などのないいまの世に、フェリシテはオバン夫人のために泣」き、フェリシテ自身も老い、病の床に臥し、剥製の鸚鵡の額に接吻し、天空を「翔けめぐつてゐる大きな一羽の鸚鵡が見えるように思」い、とうとう彼女は息を引き取つたのである。
アルベール・ティボーデは、フェリシテの死は「存在するに價した生の完遂」だと言つてゐる。私もそう思ふ。フェリシテに該博な知識なんぞありはしない。が、知識が豊かであるといふことは、人間的に立派といふことであろうか。さういふことをわれわれは本氣で考えてみなければならない。
フェリシテは「若いころに宗教の教育なぞは受けなかつた」。いや、「宗教の教育」だけではない。彼女はおよそ「教養」のない女なのである。「父親は左官で、足場から落ちて死んだやがて母親が死に、姉妹たちは離散して、さる百姓の手に拾われ、小さいうちから野良に出て牛の番をさせられた。襤褸着のしたで寒さにふるえ、腹ばいになつては沼の水を飲み、些細なことでぶたれたり」といつた状態、さういふ辛い貧困の境遇に育つたのだから、「知的生活」などといふ贅澤とは全く無縁であつた。  
それゆゑ、航海中の甥のヴィクトールが今キューバのハヴァナにいると知つた時も、ハヴァナがどこにあるのかわからず、禿頭の元代言人ブウレエに「ポン・レヴェックからの道程はどのくらい」か、教へてもらいたいと言つた。ブウレエは「地圖をとりだし、まず經度から説明をはじめ、(中略)あるかなきかの黒い点を指し」て、「ここじゃ」と言つた。が、フェリシテには何のことやらさつばりわからない。作者フローベールはこう書いてゐる。
ブウレエさんから、どのようなことがわからぬのか言つてごらんといわれるままに、フェリシテは、ヴィクトールの住んでいる家を教へてくれと頼んだ。ブウレエさんは兩腕をさしあげ、嚔をして、大聲たてて笑いこけた。いかにも無邪氣なこの質問がブウレエさんを悦ばせたのである。フェリシテにはその理由がわからなかつた。−おそらく甥の姿までも見られることと思つていたのである。それほど彼女の頭は狭かつた。
いかにもフェリシテの「頭は狭かつた」。けれども彼女のひたむきな献身の一生には、いかむ天邪鬼の讀者とて胸を打たれるにちがいない。それなら「知的生活」とは必ずしも「有徳なる生活」すなわち道徳的に立派た生活なのではない。 
人生に對する眞劍な問ひかけがないベストセラー
上智大學教授渡部昇一氏の『知的生活の方法』は八十萬部以上賣れたベストセラーだそうだが、二百十四頁の『知的生活の方法』のどの頁にも、人生いかに生くべきかについての眞劍な考察はない。渡部氏の著書には「讀書の技術、カードの使い方、書齋の整え方、散歩の効用、通勤時間の利用法、ワインの飲み方、そして結婚生活」など、「知的オルガスムス」のための方法についてはくだくだしく書かれてあるが、人間として立派に生きるためめ「生活の方法」には全く觸れられていないのである。そして渡部氏は書く、「男も女も、十全なる知的活動を維持するには、結婚しても輕々に子供をつくるべきではないであろう」。
避妊もしくは堕胎をあえてして「十全なる知的活動を維持」したとして、その「知的活動」とは一體何のためなのか。結婚するといふことは妻や子供を愛するといふことであり、妻子を愛するといふことは、妻子のためにおのれの「知的生活」をも犠牲にするといふことである。いや、犠牲にするのは「知的生活」に限らない、われわれが誰かを愛するのは、その誰かのために多少なりともおのれを殺すことではないか。もちろん、われわれにはフェリシテほど「十全なる自己犠牲」はやれない。けれども、どんなに愚かな夫婦でも、子供のためには何かを「ガマン」してゐる。次に引用するのは、TBSラジオのある主婦向け番組で讀みあげられた投書の一部である。
前略、この二、三年、春になると花粉アレルギーでクシャミと鼻水に惱まされています。
さて、中學生の息子が期末テストのため夜遅くまで勉強しており、私たち、その氣になれず、ガマンガマンの毎晩でした。(『週刊現代』、昭和五十七年四月十七日號所載)
要するに、中學生の息子が、將來「知的生活」を送れるように勉強をしてゐるのだから、夫婦は「性的生活」を我慢してゐるといふことであろう。それなら高名なる上智大學教授よりもこの無名の夫婦のほうがはるかに立派ではないか、とそう言ひたいところだが、そして今の主婦は昔の主婦よりも學歴だけは立派だろうが、右に引用した主婦の「お便り」とやらは次のように續くのである。
ところが休日の朝、主人の息子サンがいきなり私のウシロからいらつしゃつたんです。私もワクワク、息子サンもガンバリはじめたんです。トタン、私、「ハクションッ」。と、どうでしょう、私の中にいた息子サン、吹つ飛ばされちゃつた。
夫の「息子サン」と妻の「ウシロ」さんとが「休日の朝」出會つたところで一向に差し支えはない。けれども、さういふどんな馬鹿にもやれることをやつたからとて、それを得意げに書き綴り、しかもそれをラジオで放送してもらおうなどと考えるのは、およそ馬鹿げてゐる。
私が言ひたいのは、渡部氏のようにたくさんの本を讀んで知識ばかり頭の中に詰め込んでも、人間として立派になれるとは限らないといふことだ。 
名作短篇小説が教へる眞理
フローベールの『まごころ』は三十頁ほどの短篇で、一字一句ゆるがせにせず推敲に推敲を重ねるのが常だつたフローベールは、書き上げるのに六ヵ月を要した。讀み上げるには一時間も要さないであろうが、ベストセラー『知的生活の方法』と異なり、われわれは天才フローベールの短篇から、樣々の有益な事柄、考えさせられる事柄、考えるに價する事柄について學ぶのである。すなわち、例えば次のようなくだりを讀む時、われわれは人々が思ひこんでいるほど平等とはよいものだろうかと、さういふことを疑うようになる。       
オバン夫人はヴィルジニーを嗜みのある娘にしたいつもりであつた。が、それには、いまのギュイヨーでは英語も音樂も教へられぬので、オンフルールのユルシュール修道院の寄宿舎に入れようと決めた。
ヴィルジニーにも異存はなかつた。フェリシテは、奥さまの心を無慈悲と思ひ、溜息をついた。が、あとでは、御主人さまのお考えが、さだめし、よいのであろうと考えた。こうしたことは《自分ふぜいのかれこれいうべきことではない。》
もう一つ引用しよう。すつかり老い込んだフェリシテは、ある日血を吐いて倒れる。肺炎にかかつたのである。そして肺炎は彼女の主人オバン夫人の命を取つた病氣であつた。
そこでシモン婆さんは醫者を頼んだ。フェリシテは自分の容態を聞きたがつた。しかし、聾の彼女には、ただ「肺炎」といふ一言が耳にはいつた。それはフェリシテも知つてゐる言葉だつた。「ああ!奥さまと同じだ」と、《主人にならうのを當然と心得て、》しずかに彼女はうなずいてみせた。
「平等必ずしもよきことにあらず」などと言へば、讀者は憤慨するかもしれないが、フェリシテについてフローベールは「できたてのパンのように心柔らかな」女と形容した。しかし、フローベールは同時に大衆の無責任や輕薄を激しく憎んだのである。
かういふエピンードがある。友人とさんざん大衆を罵倒したあとで、二人は別室で下着をとりかえた。つまり、下劣な大衆の話をしただけで、心身ともにけがれたと感じたのである。それゆゑ、彼は「大衆には自由を与えよ、されど權力を与えるな」と書きもしたのだが、そのフローベールがフェリシテは手放しで稱えてゐる。
つまり、森鴎外はるんではなく、フローベールはフェリシテではなかつた。が、それゆゑこそるんやフェリシテに肖ろうとしたのである。立派な人物に肖ろうとして生きること、それは確かに立派なことなのだ。 
3.時には「長い物」に卷かれろ

 

樋ロ一葉『十三夜』
旧暦の十三夜、お關は一人で實家の格子戸の外にしょんぼりと立つ。原田家に嫁いで七年、夫との間に一子をなしたお關だが、「嫁入つて丁度半年ばかりの間は關や關やと下へも置かぬやうにして」くれたものの、やがて夫はまるで人が變わつたようになり、話しかけるのは用事のある時だけ、しかも意地惡そうにそつけなく言ひ、朝飯の時から小言ばかり、二言目には教養がない、教養がないと輕蔑される毎日、それゆゑ離婚して實家へ戻ろうと決心して、その相談のため、手土産も持たずにやつて來たのである。お關は父母に、二年も三年も泣いて暮らしたけれど、今日といふ今日はどうしても離婚したいと決心した、どうか認めてほしいと、泣きながら頼む。すると母親は言ふ。もともとこつちからもらつてくれと頼んだわけではなし、身分が惡いとか教育がないとかよくも勝手なことが言へたものだ。お關が十七の年、お正月、羽根突きをしていた時、白い羽根が通りかかつた原田さんの車の中へ落ち、それを取りに行つたお關を原田さんが見初め、人を介して嫁にもらいたがつたのではないか、「御身分がらにも釣合ひませぬし、此方はまだ根つからの子供で何も稽古事も仕込んでは置ませず、支度とても唯今の有樣」といつて何度斷つたことか、それを今何といふ身勝手か。母親はそう言つて「前後もかへり見ず」に腹を立てるのである。
けれども腕ぐみして目を閉じていた父親は言ふ。お前の夫も「物の道理を心得た、利發の人ではあり随分學者でもある、無茶苦茶にいぢめ立てる譯ではあるまい」、それにお前の弟が就職できたのも原田さんの紹介があつたからこそ、それゆゑ親のため弟のため、辛いだろうが我慢してくれないか、それにお前には太郎といふ子もあるではないか、離婚したら、太郎は原田のものになつてしまう。二度と顔を見ることもできなくなる。
そう父親が涙ながらに諭すと、お關は泣き崩れ、太郎に別れて顔も見られないようになつたら、生きていたとしても何の張合いもない、要するに「私さへ死んだ氣にならば三方四方波風たゝず」、わかりました、「お父樣も牝母樣も御機嫌よう、此次には笑ふて參りまする」と、涙をかくして人力車に乘り、婚家へと戻つて行く。
ところが、何とその人力車の車夫は、かつてお關に惚れていた煙草屋の息子高坂録之助であつた。お關のほうでもいずれは録之助の妻となり、あの煙草屋の店先に座つて新聞でも見ながら商賣するものと思ひ込んでいた。が、お關はよそへ嫁ぎ、燒けくそになつた録之助はさんざん放蕩をつくし、今は住む家もなく、村田といふ安宿の二階に轉がつて氣が向いた時は今夜のように遅くまで人力車を挽くこともあるが、「厭やと思へば日がな一日ごろごろ」として暮らしてゐるといふ。お關は録之助の挽く人力車にそのまま乘りつづける氣にはとてもたれず、「道づれに成つて下され、話しながら行きませう」と言つて、上野廣小路まで連れ立つて歩き、そこで二人は東と南へ別れるのである。一葉はこう結んでいる。「其人は東へ、此人は南へ、大路の柳、月のかげに靡いて、力なささうの塗り下駄のおと、村田の二階も原田の奥も憂きはお互ひの世におもふ事多し」。
ある文藝批評家は、われわれは一葉の作品に「社會に抑圧された女たちの忍從的なあきらめの姿」を見る、と言つてゐる。今日、お關のように「私さへ死んだ氣にならば三方四方波風たたず」と考えて、自分を犠牲にする女は少ないであろう。が、さういふ「自我にめざめた女」とやらは、「おもふ事」少なく、お力やお關ほど美しくはない。日本の女は、例えば横暴な亭主とか、「七去」の不合理とか、それを無条件によいといふわけでは決してないが、ともあれ長い物に卷かれてゐる時だけ美しく振舞うのではないだろうか。 
千年たつても變化しない人間の眞の姿
もちろん自立を誇る今の女性には、お關の生き方は愚かとしか思へないであろう。けれども、手輕に結婚して手輕に離婚し、手輕に再婚する、さういふ生き方がお關のような我慢の一生よりも幸福だとはたして言ひ切れるであろうか。かるほど、本當のことを言へば、誰もお關のようには生きたくない。小説の作中人物として接してゐる限り、確かに美しく立派な女である。それはるんの場合も同じである。けれども、皆が貧乏くじを引きたがらなくなつたら、どんな社會も成り立たない。昨今のいわゆる公害間題における住民の地域エゴの醜さも同じことで、誰一人損をしない社會などといふものは斷じて存在しないのである。
それはさておき、私が森鴎外や樋口一葉のような「古めかしい」作家の作品をあえて選んだのは、すぐれた作家の描く人物は、百年たつても千年たつても變化しない人間の眞の姿を示してゐる、といふことをわかつてもらいたかつたからだ。すぐれた作家は例外なく人間通なのであり、それゆゑに彼らの作品は感動的で、われわれに多くのことを教へてくれるのである。
例えば一葉の作品を讀む時、私たちは作中人物の行爲を道義的に裁くといふことをしない。一葉の名作『にごりえ』の登場人物源七は、逃げる女の背中に切りつけ無理心中をやらかすが、讀者は源七をひどい男だなどとは決して思はない。『十三夜』の録之助も、お關と結婚できないからとてやけくそになり、妻子を捨てて顧みない。が、讀者は録之助の身勝手を咎めない。なぜか。源七も録之助も私利私欲とは無關係であり、ただもうあわれなので、二人の「動機は純粋」だからである。そして、それは今も昔も少しも變わらない日本人の特性なのだ。「欲ハタダネガヒモトムル心ノミニテ、感慨ナシ。情ハモノニ感ジテ慨歎スルモノ也。戀ト云モノモ、モトハ欲ヨリイッレドモ、フカク情ニワタルモノ也」と本居宣長は書いた。「欲言ヨリイッル」ものでないからあわれなのである。つまり、日本人はかわいそうだと思へば、人殺しさえも許すのであつて、その場合、ことの善惡、つまり理非曲直を言ふのは野暮といふことなのである。「私の眼には善も惡もない。私は世のあらゆる動くもの、匂ふもの、色あるもの、響くものに對して、無限の感動を覺え、無限の快樂を以て其れ等を歌つて居たい」と永井荷風は書いた。今日のわれわれも、宣長や荷風とさほど違つた世界に住んでいるわけではない。 
なぜ、日本に無理心中が多いのか
要するにわれわれ日本人にとつて、私利私欲にもとづかぬものはすべて「フカク情ニワタルモノ」あであり、それは美しくあわれであつて、美しくあわれならば、われわれは殺人をも嚴しく咎めない、といふことなのだ。お關は自分さえ「死んだ氣にならば三方四方波風たゝず」と考える。その忍從は美しくあわれである。だが、そうして自分を殺せる女は、いずれ息子と無理心中をもやりかねない。「成程太郎に別れて顔も見られぬ樣にならば此世に居たとて甲斐もない」とお關は言ふ。それほどまで太郎がかわいいお關のことだ、自分さえ「死んだ氣になれば」とて頑張つたあげく挫折したら、すなわち夫に離縁され路頭に迷つたら、死にたがらぬ太郎をしつかり抱きしめ、入水しかねないであろう。
「それは明治時代の愚かしい母親がやつたことだ、今時の女は産んだ子をコイン・ロッカーに捨てるではないか」、と讀者は言ふであろうか。だが、ごく最近、『朝日新聞』には次のような記事が載つたのである(昭和五十七年五月十六日付)。
イルカを助け、死刑囚を救う運動があるのに、親子心中で殺される子供を見過ごしていいものか−毎日のように繰り返される親子心中に心を痛めてきた群馬縣勢多郡大胡町、養護施設「鐘の鳴る丘・少年の家」の園長、品川博さんが呼びかけ、「日本親子心中絶滅予防協會」を設立する。
そして品川博氏はこう語つたといふ、「子供を私物化する親の身勝手か、子の行く末を案ずる獨りよがりのせいか、文化國家で日本ほど、わが子を殺す親の多い國はない。原水爆廢止運動と同じくらい、殺される子供を救う運動があつてもいいと思ふ」。
私も日本人だから、品川園長の「私利私欲にもとづかぬ」動機の「純粋」を疑わない。けれども「日本親子心中絶滅予防協會」がいかに努力しても、この國から親子心中を一掃することはできないと思ふ。親子心中が一掃されたら、その時日本人は日本人でなくなる、もとよりそんなことになるわけがない。
それに「子供を私物化する」のははたして「親の身勝手」であろうか。子供を道連れにする親にはそんな意識はないであろう。無理心中は「欲ヨリイッル」行爲ではないのである。さらにまた「子の行く末を案ずる」のは「獨りよがり」であろうか。そうではない。それは「フカク情ニワタル」行爲なのである。そして利己的な行爲を醜いと思はず、情にほだされる行爲を愚かしく思ふ、さういふことをわれわれ日本人は今後も永久にやれるはずがない。
スチュワート・ピッケン氏は『日本人の自殺』(サイマル出版)に書いてゐる。
無理心中が含む道徳的諸問題に焦点をあてた事件は、東京・立教大學英文學科の大場助教授のそれである。彼は、女子學生のひとりと不倫の關係を結び、その結果、彼女は妊娠した。これが露見するのを恐れた彼は、絶對見つからないようなところで彼女を殺した。おそらくふたりは心中を計畫したのだろうが、彼が度胸をなくしたのだ。だがそんなことは誰にもわからない。少くとも彼は妻にその件を話していたに違いない。明らかに彼の求めに應じ、ふたりの子供とともに一家四人は崖から海に身を投じた。(中略)この事件について討議を要する道徳的問題は、なぜ家族全員が死ななければならなかつたか、である。大場自身は彼の犯した罪によつて死刑となつたかもしれないが、なぜ妻子が死ななければならないのか。
イギリス人であるピッケン氏には理解しがたいことであろうが、われわれ日本人は大場助教授を、四人の生命を奪つた極惡人とは考えない。大場が四人を殺して自分だけ生きのこつたら、それは身勝手で醜い行爲だから、人々は非難するであろうが、なにしろ大場自身も死んだのである。自殺して詫びたのである。それゆゑわれわれ日本人は、源七や録之助と同樣、大場をもあわれだと思つてしまう。女子學生と「不倫の關係を結」んだことも、殺して埋めたことも、大場が死んだと知れば、ただもうあわれに思ふ。「戀ト云モノモ、モトハ欲ヨリイッレドモ、フカク情ニワタルモノ也」、われわれはそうつぶやくのである。 
愚かな教育ママの正體
それゆゑ樋口一葉の作品を讀んで「昔の女は愚かであつた」と考える、それは實に愚かなことである。例えばお關は「太郎に別れて顔も見られぬ樣にならば此世に居たとて甲斐もない」と言ふ。一方、今日のいわゆる「教育ママ」も、「子どもが三歳ぐらいに」なれば「もう字をおしえ、數をかぞえさせ(中略)、三歳半になると、知能テストの本を買いこんで、知能指數とかをたしかめようとし(中略)、武者修業に出た劍豪が道場やぶりでもするように、あちこちの児童相談所や心理學研究所をまわつて子供にテストをうけさせ(中略)、名門幼稚園のテストにパスすると、こんどは、もうひとつうえの名門小學校に入れるための受驗勉強、英會話のおけいこ、母親みずからも、水道流とやらの數學の練習」(松田道雄、『おやじ對こども』、岩波新書)といつたぐあいに、おのれを空しうして育児に專念する。お關が愚かなら「教育ママ」も愚かである。だが、お關は美しいが「教育ママ」は醜い。おのれを空しうする点では同じでも、「教育ママ」の場合は「忍從」の美が缺けてゐるからだ。昔と異なり、今の「教育ママ」には金もあれば暇もある。子供の教育に熱心になるのは、何かを犠牲にしてといふことではない。
とにかくわれわれ日本人は、長い物に卷かれてゐる時だけ美しく振舞う。われわれにとつては世間が「長い物」なのだが、今の教育ママは、世間體を少しも考えずエゴをむき出しにしてはばからない。
日本人は今、忍從の美を忘れ、「エコノミック・アニマル」として、自由だの平等だの民主主義だのと、自分でも何のことかよくわからないたぐいの美辭麗句をロにしてゐるが、いずれ必ず、浮き草のような日本の繁榮も終わり、そこで初めて愕然として目が醒めるといふことになるであろう。 
4.愛すべきは「專門馬鹿」の稚氣

 

幸田露伴『五重塔』
江戸谷中の感應寺は境内に五重塔を建立することになつた。腕のよい棟梁、川越の源太は一生に一度建てられるかどうかもわからない五重塔を見事に建て、立派な仕事をして職人の本望を見事に遂げたいと思ふ。
ところが、思ひもよらぬ競爭相手が現れた。源太が立派な腕前と賞めた弟子の十兵衞である。十兵衞はおつとりした性格だつたが、やり甲斐のある仕事をとかく他人に奪われ、たいそう貧乏であつた。しかも「のつそりといふ忌々しい渾名」をつけられ、大工仲間にも輕蔑されていた。が、一向にそれを氣にかけなかつた。その十兵衞が、感應寺に五重塔の建つといふ話を聞くや否や、「急にむらむらと其仕事を是非する氣になつて、恩のある親方樣が望まるるをもかまはず」、感應寺の朗圓上人に會い、「恩を受けて居ります源太樣の仕事を奪りたくはおもひませぬが(中略)この十兵衞は鑿手斧もつては源太樣にだとて誰にだとて(中略)萬が一にもおくれを取るやうな事」は決してないといふ自信がある、けれども、仕事といえばいつも長屋の羽目板の修繕程度、これも運だとあきらめてはいるが、下手な大工がよい仕事を請け負うのを見るごとに「自分の不運を泣きます」、どうか「御上人樣御慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下され」と泣いて頼んだのである。
十兵衞が見せた五重塔の雛形の見事な出來映えに感心した上人は、源太と十兵衞を寺へ招き、昔、兄弟が譲り合つた結果二人とも幸福になつたといふ佛説を話して聞かせる。
感應寺よりの歸り道、十兵衞は考える、上人樣はどちらか一方が譲れとおつしゃりたいのだろうが、「鳴呼譲りたく無いものぢや」。とはいえ「相手は恩のある源太親方(中略)、分際忘れた我が惡かつた、鳴呼我が惡い、我が惡い」。
一方、家へ歸つた源太は、女房に言ふ、「たあお吉、弟を可愛がれば好い兄ではないか、腹の饑つたものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ」、もちろん自分としては獨力で五重塔を建てたい、けれどもここで我慢するのが男といふもの、「おれはのつそりに半口やつて二人で塔を建てやうとおもふ」。
そこで、言葉づかいは荒々しいが、氣立てのやさしい源太は十兵衞の長屋を訪れて言ふ。お前が欲のためにおれの仕事を奪うような男なら、「腦天ぶつかかずにはおかぬ」が、お前の不幸を考えれば、おれはいつそ譲つてもいいとさえ思ふ。けれども、この仕事はおれもどうしてもやりとげたい。どうだ、お前を主にし俺が助手になり、二人で建てようではないか。
だが、この源太の並の男にはできないほどの恩情ある申し出を十兵衞はきつばり斷るのである。「情無い親方樣、二人で爲うとは情無い、(中略)御慈悲のやうで情無い、厭でござります」もはや自分はすつぱり諦めてゐる、自分は「溝板でもたたいて一生を終りませう、親方樣堪忍して下され私が惡い、塔を建てうとはもう申しませぬ」。
源太は立腹する。當然である。だが、一つの仕事を二人でするのは、自分が中心になつてやるとしても、嫌だといふ、十兵衞の職人としての誇りも、これまた當然である。かういふ「職人氣質」がすつかりなくなつた今日、讀者には、十兵衞の心意氣が理解できないかもしれない。それゆゑ、紆餘曲折あつて十兵衞が、無法者に左耳をそがれるといふ苦難にもめげず、見事な五重塔を建立した次第は語らず、夫の強情と「政治的不賢明」をたしなめる女房お浪に、十兵衞が何と答えるか、そのせりふを引用しよう。
「十兵衞が仕事に手下は使はうが助言は頼むまい、人の仕事の手下になつて使はれはせうが助言はすまい。(中略)善いも惡いも一人で背負つて立つ、(中略)自分が主でもない癖に(中略)誇顔の寄生木は十兵衞の蟲が好かぬ」。
何とも見事な根性である。もはやかういふ見事な職人はいないであろう。今の男は貧乏を嘆く女房を無視して誇りを捨てないどころか、尻輕女房の尻にも敷かれかねない。いやいや、十兵衞の誇りとて、明治時代の理想主義小説中のお話にすぎないと讀者は言ふであろうか。だが、作者幸田露伴はこう書いてゐるのである、「借間す世間の鄙夫、男女纏綿の痴談の外、此等快心の譚實際界に無しとするや否や」。つまり、この世の中には男女の色事以外に、かういふ心を洗われるような話がないと、あなた方は言ひ切るのか、と露伴は開き直つてゐるのである。 
泡をふいて倒れた貧乏作家
そこで、われわれとしては幸田露伴の「借問」にどう答えたらよいか。今日おびただしく生産される小説は、その大半が「男女纏綿の痴談」であつて、「快心の譚」なんぞ「實際界」にも文學作品にもめつたに見出されはしない。もちろん私は現代日本の小説のすべてを讀んでいるわけではない。讀んでいるわけでないのに自信をもつて斷定するのは、卒業論文として書いた女子學生の小説が、一流出版社から出版され、映畫化され、ベストセラーになるなどといふ、戰前の文學界においてはおよそ考えられないような現象がしばしば起こるからである。もはや嘉村礒多といふ作家を知つてゐる讀者はいないだろうが、彼は昭和八年、中央公論編輯部から作品を掲載することに決まつたとの通知を受けた時、「日本一になつた!」と叫び、泡をふいて倒れたのであつた。文士の名譽欲をえぐり出した嘉村の最後の作品『神前結婚』に出てゐる話である。嘉村が喜びのあまり泡をふいて倒れたのは、それまでの文學修行が眞劍だつたからだが、卒業論文として書かれた見延典子の『もう頬づえはつかない』は、かういふたいそうふやけた文章で書かれてゐる。
つきつめていえば、男本來が持つてゐる生理的な單純さがうらやましいと言ふべきかもしれない。《その單純さは》自分の性欲さえもストレートに《口にする》ことができる。それは男であるから許されるのだろう。
この文章の粗雜についてくわしい説明は不要であろう。「口にする」といふ動詞の主語は何と「單純さ」なのである。「單純」が性欲を「ストレートに口にする」のである。
昨今、小説家は反核聲明なんぞを出し、人類の將來を憂え、高級な職業に從事してゐるかのように錯覺してゐるが、小説家も職人なのだから、大工や植木屋や咄家と同樣、自分の作品に誇りを持たなければならない。そしてそのためには「年季奉公の辛さ」が必要なのである。齋藤隆介氏は『職人衆昔ばなし』(文春文庫)の「あとがき」に、こう書いてゐる。
名人たちの生い立ちの話を聞くと、必ずと言つて良いほど年季奉公の辛さの話が出ます。冬は霜燒けで、手の指が野球のグローブほども腫れ上つてしまつた話。暁に廊下を雜布がけして後を振りかえるといま濡れたかた端からパリパリ薄ら氷が張つて「アァ早く一人前の職人になりてえなァ」と思つた話、等々。又もやと思つて伺うのですが、建才、建具の田中才次郎さんの時は違いました。
「私たちが削り物をしてゐると、親方が後から來て『才次郎、アアンしろアアンしろ』つてえから、アーンとやると口の中ヘポイと何かが入る、食うと氷砂糖です。ああ有難えなァと思つた」
と言ふからひとごとながらホッとしてゐると、
「ニコニコしてトントンと二階へ上つた親方が『何だァッこの仕事わァッ』つて梯子段をダーッと驅けおりて來たかと思ふと目から火が出て私は撲り倒されてた。まだ溶けないさつきの氷砂糖を啣えたまンま−」
とあとの話が續く。ヤレヤレです。弟子はかわいい。けれど仕事はもつとかわいいんです。
親方が寛大なら弟子はぐうたらになる。
それにまた、「今時の若い者」は、氷砂糖はおろかハーシーのチョコレートをもらつても、「ああ有難えなァ」とは思はないであろう。なにしろ今の日本は世界に冠たる經濟大國なのだ。そこに生きるには、長い物に卷かれる辛さも、卷かれながらもへこたれず、「一人前の職人」になろうとする強さも、ともに必要としない。
そして日本人は、日本が經濟大國にのしあがつたのは、日本人が勤勉だつたからだと思ひ、外國人にもそう思はせてゐる。はたしてそうであろうか。十五、六歳のアイドル歌手ともなれば一日四時間しか眠らないそうだが、それは勤勉といふことではない、藝をみがく暇のないほどの荒稼ぎといふことにすぎない。 
みごとな古今亭志ん生の修業
咄家も同樣である。五代目古今亭志ん生は語つてゐる。
むかし五明楼玉輔てえはなし家がいた。何しろ圓朝の向こうを張つたほどの名人で、『義士傳』なんぞきいた日にゃァ、ゾクゾクしちまうくらいうまかつた。この人の『義士傳』だけで、毎晩一束からの客が七十七日間も落ちなかつたてえくらいであります。
その時分の人情ばなしの先生てえのは、えらそうなことをしゃべるばかりじゃァない。自分でも劍術の一つぐらいはやつたものです。この玉輔てえ人もいくらか腕に覺えがあつたんでしょう。伊豆の下田へ興行で行つたとき、席のあく前にふらつと表ェ出たつきり、いつまで待つたつてもどつて來やしません。看板がいないんだからみんな弱り果ててるところへ、夜の九時ごろになつて、先生が俥に乘つて顔じゅう傷だらけにしてもどつて來た。ウンウンうなつてゐる。
「先生どうしました」
「うーん、近所に道場があつたから、他流試合をやつて、うーん、負けたよッ」
この玉輔さんの息子さんてえかたが、陸軍の少將かなんかだつたから、いつも、
「お父さん、はなし家なんぞ、早くやめてくださいよ」といふんです。
「バカ野郎、お前は陸軍で少將かも知らんが、おれは人情ばなしのほうじゃァ大將だ。大將に向かつて少將がなにをいうかッ」
つてんで、あべこべに叱りとばしたなんてえ話があります。
あたしんとこでも、息子たちがあんまりかけはなれた商賣ェなんぞになるつてえと、話ィするんだつて堅ッ苦しくていけません。
こつちのほうで、
「ニクソンとコスイギンの比較は・・・・・・」
なんてえ話をしてゐる。こつちのほうで、
「原子炉の原理てえものは、そもそも・・・・・・」 
なんてえ話になつたんじゃァ、面白くもなんともありゃァしません。やつぱり、一家そろつて藝のはなしだとか、酒のはなしなんぞしてるほうが、ズーッと氣が樂ですよ。(『びんぼう自慢』、立風書房)
五明楼玉輔が他流試合をやつて「顔じゅう傷だらけ」になつたのも、もとより藝をみがくためであり、さういふ精進あつてこそ玉輔は「人情ばなしの大將」に昇進したのである。
志ん生自身にしても、ニクソンやコスイギンや原子炉の原理について無知だつたし、「人間はズボラ」だつたが、「落語てえものが好きだから(中略)、随分、稽古には精出し」た。志ん生は若い頃の修行についてこう語つてゐる。
寄席へ行くときや歸るときなんぞ、うつかり電車にのろうもんなら、往復で七錢もとられる。もつたいないから、どんな遠いところへも歩いて行くんです。青山だろうが新宿だろうが、尻ィはしょつて、羽織を首ッ玉へゆわえてドンドン歩く。下駄なんぞ減ると大變だてんで、腰ィゆわえて行く。
歩くつたつて、ただボンヤリ歩くんじゃァなしに、落語をひとりで稽古しながら歩くんです。
志ん生の貧乏は「電車のレールみたいに、はじめつからしまいまで、ズーッと續い」たのである。けれども彼は「いくら道樂三昧したり、底ぬけの貧乏したつて、落語てえものを一ときも忘れたこたァない」男であつた。若い志ん生は「青山だろうが新宿だろうが」裸足で歩いた。今は前座でもタクシーを拾う。タクシーを拾つてあちこちで稼ぐ。それは勤勉といふことではない。勤勉とは「つとめ励むこと」である。貧乏だから「つとめ励む」のではない、貧乏でも「つとめ励む」、それが勤勉といふことなのだ。貧乏だから努力する人間は、貧乏でなくなれば努力しなくなる。けれども、貧乏でも努力する人間、「底ぬけの貧乏したつて」おのが天職を「一ときも忘れ」ることのない人間は、貧乏でなくなつたとしても、精進することをやめないであろう。それが本當の勤勉なのである。そして勤勉でありさえすれば、專門馬鹿であつて一向に構わない。
長島茂雄はかつて、「共産黨の天下になつたらプロ野球は存在しなくなる」と言ひ、世間の物笑いの種になつた。その政治音痴ぶりを笑ふのは誰にでもできる。けれども、彼は球場で數數の名技を披露して、多數の觀客を魅了したのである。專門馬鹿には愛すべき稚氣がある。それがわかるといふこともまた、人間がわかるといふことなのだ。 
第二章賢者の毒を飲め

 

5.自己主張の「精神」・自己滅却の「美學」 
ヘミングウェイ『老人と海』
老いたる漁師サンチャゴは、小舟を操り魚をとつて暮しを立てていたが、ある年、一尾も釣れない日が八十四日も續いた。けれども老人は絶望しなかつた。四肢は痩せこけ、項には深い皺がきざみこまれていたが、その眼は「不屈の生氣をみなぎらせていた」。そして八十五日目の早朝も、老人は遠く沖合に出る。晝近く、海中に垂らして置いた引綱がぐいと動いた。魚が食い付いたのだ。しかも、信じられぬほどの引きだ。老人は懸命に綱を引く。が、一インチも引き寄せられず、逆に舟が魚に引つ張られてしまう。大魚は一度も水面上に姿を現すことなく、サンチャゴの舟を悠々と引つ張つて行く。夜になつても、獲物は一向にへたばらない。老人は思ふ、何とすばらしい奴だろう。男らしく餌に食らい付き、男らしく食い下がり、ちつとも騒がない。「きょうといふきょうまで、こんな強い魚にぶつかつたことはない」、奴は暗い海の底で頑張ることにすべてを賭け、一方この俺は海の底までも奴を追い掛けて行く。そうだ、俺達はそれぞれひとりぽつち、誰ひとり助けてくれる者もない。ああ、漁師になんぞならなければよかつた。が、老人はすぐに思ひ直す、いや、そうではない、俺は漁師に生まれ付いてゐる。俺には俺しか付いていない、それでよいではないか。老人は大聲で獲物に呼び掛ける、「おれはおまえが大好きだ、どうしてなかなか見あげたもんだ。だが、おれはかならずおまえを殺してやるぞ、きょうといふ日が終わるまでにな」。
明け方、魚が突然海中深く潜り込み、老人は舟の上で倒れ、左手を負傷する。そこで元氣をつけようと、老人は鮪の肉を食うが、獲物にも何か食わしてやりたいと思ふ、きつと腹ぺこに違いない、なにせ奴は俺の兄弟分なのだ。すると、その時、獲物が浮上する。何と老人の舟より二フィートも長い、巨大なかじきまぐろだ。何とでかい奴だろう、「まるで自分の大きさを見せるために跳ねあがつたみたい」だ。それにまた、何と立派た奴だろう。だが、「あいつを思ひあがらせてなどやるものか」、俺の強さを見せてやる。「人間つてものがどんなことをやつてのけられるか」、「人間が耐えていかねばならないもの」が何か、それを奴にわからせてやろう、そう老人は思ふ。
けれども、その日のたそがれ時になつても獲物は弱つたような兆しを見せない。またしても老人は何も食わずに頑張つてゐる魚に對し同情的になる。あんな立派な奴を「食う値打ちのある人間なんて、ひとりだつてゐるものか」。
三度目の太陽が昇る頃、獲物はようやく衰えを見せ始めた。老人が綱を引くと相手はぐらりと傾いた。輪を描きつつ近付いて來る相手の横腹に、老人は思ひ切り銛を突き立てた。四日間頑張つて、遂に老人が勝つたのである。
だが、その巨大な獲物を舟に括り付けて歸る途中、老人は何囘も鮫の襲撃を受け、それと戰ううちに銛を失い、鈎を失い、オールを失う。が、戰意だけは決して失わない。無駄と知りつつ飽くまでも老人は鮫と戰う。やがて港に歸りついた時、折角の獲物は鮫に食われて骨だけになつていた。つまり四日にわたる老人の格鬪は無駄骨となつたわけだが、老人は決してそれを嘆きはしない。老人にとつては、戰うことが、「人間つてものが、どんなことをやつてのけられるか」それを證明することが、何よりも大事だつたのである。
老人はこう獲物に呼び掛けてゐる、「おまえはおれを殺す氣だな」、なるほどお前ほど氣高い奴なら「その權利はある」、「さあ殺せ、どつちがどつちを殺そうとかまうこたない」。だが、彼は思ひ直す、「いけない、頭がぼうつとしてきた。頭をはつきりさせておかなければだめだ。しゃんとして、人間らしく苦痛を受けいれろ」。 
無償の行爲が人を感動させる
『老人と海』の讀者が感動するのは、無論老人のこのストイシズムのせいである。私は先に『片だより』と題する戰爭未亡人の手記を引用した。戰死した夫に手紙を書いたところで何の實利もありはせぬ。が、實利なき無償の行爲ゆえにこそ、それは美しい。ヘミングウェイの『老人と海』も孤獨な男の強さを描いてゐる。そして老人が仕留めた大魚は骨だけになつてしまう。つまり、老人は何の實利も得たかつたのである。だが、老いたる漁師のストイシズムはそれゆゑにこそ一層美しい。
老いたる漁師サンチャゴは言ふ、俺の強さを見せてやる、「人間つてものが、どんなことをやつてのけられるか」、それをやつにわからせてやる。「人間が耐えていかねばならないものを教へてやる」。そしてまたこうも言ふ、「しゃんとして、人間らしく苦痛を受けいれろ」。人間はいずれは死ななければならない、死の苦痛を、男らしく受けいれなければならない。ヘミングウェイは常に暴力と死を考えた作家だといふことになつてゐるが、彼は極限状況においても人間は人間の尊嚴を失つてはならないと信じていた。それゆゑ彼は卑怯な死、女々しい死を嫌つたのである。人間には「耐えていかなければならないもの」がある。「人間は負けるように造られてはいないんだ。そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」、そうサンチャゴは呟くのである。
當然のことだが、ヘミングウェイは自殺を卑怯な死に方だと考えた。殺されて死ぬのは仕方がない。けれども、「人間は負けるように造られてはいない」のだから、人生に敗北して死んではならない。長篇『誰がために鐘は鳴る』の主人公ロバート・ジョーダンも、戰場で重傷を負い、ひとり死を待つ時、「この世界は美しい、そのために戰うに値するほど美しい」としみじみ思ひ、激しい苦痛に耐えながら、白い大きな雲や松林や小川を眺め、地面に落ちてゐる松葉と松の幹にさわり、「おれはこの世を去るのがいやなのだ。それだけだ」と呟くのである。
ロバート・ジョーダンの孤獨な死も、サンチャゴの孤獨な苦鬪も、ともに男性的であつて、讀者は深く感動させられるであろう。そしてその感動は、例えば樋口一葉の作品から受ける感動とはまつたく異質のものである。一葉のばあい、われわれは主人公の死が立派であるから、人間とはこうあるべきだと思ふから、感動するのではない。われわれはただ、あわれに思ふだけなのである。それゆゑ、ここで私は樋口一葉の名作『にごりえ』について語ろうと思ふ。 
樋ロー葉・『にごリえ』の世界
酌婦お力は菊の井の一枚看板であつた。今風に言へば人氣抜群のホステスであつた。「年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まま至極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい處があつて女ながらも離れともない心地がする」ほどであり、「菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近來まれの拾ひもの」と言はれるほどの賣れつ子だつたのである。
そのお力のところへ近頃、結城朝之助といふ「遊ぶに屈強なる年頃で男振はよし氣前はよし」今にきつと出世をするに相違ない男が一週に二三度は通つて來る。お力のほうでも「三日見えねば文をやるほど」好きである。にも拘らず、お力は朝之助に請け出されることを望まない。すなわち、朝之助に金を出してもらつて酌婦をやめ、朝之助の妻になろうとはしない。なぜか。かつて「町内で少しは幅もあつた蒲團やの源七」、お力に入れ揚げたあげく、今はおちぶれて土方の手傳いをやつてゐる源七、「十年つれそふて子供まで儲けし」妻に「心かぎりの辛苦」をさせて、「子には襤褸をげさせ家とては二畳一間の此樣な犬小屋、世間一體から馬鹿にされて」いる源七を、どうしても思ひ切ることができないからである。
そして、源七のほうでもお力を忘れられない。「思ひ出したとて今更に何うなる物ぞ、忘れて仕舞へ諦めて仕舞へと思案は極めながら、去年の盆には揃ひの浴衣をこしらへて二人一處に藏前へ參詣したる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事に出る張もなく、お前さん夫れではならぬぞへと諫め立てる女房の詞も耳うるさく、エゝ何も言ふな默つて居ろとて横になる」」といつた有樣である。しかもそうして働く氣力もなくごろりと横になつて源七は酒を買つて來いと言ふ。女房のお初は答える、「私が内職とて朝から夜にかけて(働いたところで)十五錢が關の山、親子三人口おも湯も滿足に呑まれぬ中で酒を買へとは能く能くお前無茶助になりなさんした、お盆だといふに昨日らも小僧には白玉一つこしらへても喰べさせず」にいるではないか、「少しは彼の子の行末をも思ふて眞人間になつて下され」。
その日の夕方、源七の伜太吉郎がお力に買つてもらつた菓子をうれしそうに持ち歸る。それを見てお初は逆上する、「あゝ年がゆかぬとて何たら譯の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰者にした鬼ではないか」そう叫びつつ彼女は子供の手から菓子を奪い、裏の空地へ投げ棄てる。すると源七はむくりと起き上がり、知人なら菓子ぐらい子供にくれて何が惡い、子供がそれをもらつて何が惡い、「お力が鬼なら手前は魔王、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の權がある、氣に入らぬ奴を家へは置かぬ、何處へなりとも出てゆけ」と叱りつける。何とも身勝手な言ひ分だが、「出てゆけ」と言はれた途端にお初は弱腰になる、彼女には親も兄弟もなく「離縁されての行き處」がないからだ。彼女は「離縁だけは堪忍して下され。此子に免じて置いて下され、謝ります」といつて手を突いて泣く。だが、源七はどうしても許さず、お初はやむなく太吉郎の手を引き家を出る。ところが、その後、盆が過ぎ幾日かたつて、町を棺が二つ出て行く。源七とお力の棺である。得心ずくかそれとも無理心中か、とまれ女は後ろから袈裟懸けに斬られ、男は「美事な切腹」をして果てたのである。 
引き際の美しさを尊ぶ日本人
お力の悲劇は「女性を取りかこむ封建的抑圧」に、「十分に目ざめきれない自我が、そのままのかたちで圧し殺されてしまふ」ところにある、とある文藝批評家は言つてゐる。つまらない解釋である。今日、「封建的抑圧」をほとんど免れてゐるはずのわれわれも、樋口一葉の作品を讀んで「社會に抑圧された女たちの忍從的なあきらめの姿」と「その可憐な心情」に感動するのであつて、作中人物の「目ざめきれない自我」なんぞを殘念に思ひはしない。私は女を輕蔑してこれを言ふのではない。男もまた同じであつて、われわれは今なお、「目ざめた自我」とやらの「自己主張」とやらを醜いと思ひ、男の自己滅却を、すなわち「忍從的なあきらめの姿」を美しいと思ふのである。それゆゑ人々は福田赳夫元首相の引き際を美しいと思つたのだし、今、田中角榮元首相の往生際の惡さを醜いと思ふ。昭和五十四年福田前首相について「引き際だけは徹底してさわやかな政治家」だと書いた『サンデー毎日』は、巨人軍に江川が入團して小林投手が阪神にトレードされた時はこう書いたのである。
《しめつぽい》同情は拒み、プロはプロらしく、移籍料の折り合いがついたら、巨人のユニホームにも《執着しない》、ウデ一本、どこででも投げてやる−そんな《男のダンディズム》で、せいいつぱい自身を納得させたのだろうか。(中略)江川の《見苦しさ》を知る小林は、おそらく同じようなゴネ方を斷固避けたいと考えた。《ジメジメした》しがみつきよりも、《スカッとした思ひ切り》を−それが恥を知る男、小林の、《男の美學》であつたように思へてならない。
明治時代に女を後ろから袈裟懸けに斬り、切腹して果てた男について「引かへて男は美事な切腹、蒲團やの時代から左のみの男と思はなんだがあれこそは死花、ゑらさうに見えたといふ」と書いた樋口一葉も、昭和五十四年に小林投手の「男の美學」を稱えた週刊誌の記者も、もつぱら美意識によつて物事を判斷してゐるといふ点では少しも變わらない。 かつてジョージ・サンソムは『日本文化史』の中に、日本人は「不潔と道徳上の罪過とのあいだに、ぜんぜん區別を認めていなかつた」と書いた。なるほど『サンデー毎日』の記者は「恥を知る」ことと「男の美學」とのあいだに「ぜんぜん區別を認めていない」。つまり「しめつぽい」ことや、「ジメジメした」ことや、「見苦しい」ことが惡なのであり、「スカッとした」こと、「執着しない」ことが善なのである。
『にごりえ』のお初も同じであつて、彼女は働く氣力を失つた夫にこう語つてゐる。「氣を取直して稼業に精を出して少しの元手も拵へるやうに心がけて下され、お前に弱られては私も此子も何うする事もならで、夫こそ路頭に迷はねばなりませぬ、《男らしく思ひ切る時あきらめて》お金さへ出來ようなら、お力はおろか小紫でも揚卷でも別荘こしらへて囲ふたら宜うござりませう、最うそんな考へ事は止めにして機嫌よく御膳あがつて下され」。
要するにお初は、亭主が働いて金さえもうけてくれるなら、何人妾を囲おうと構わぬと言つてゐるわけである。彼女にとつて貧乏は「遣る瀬のなきほど切なく悲し」いものであり、「世間一體から馬鹿にされて別物にされ」ることは耐えられないのだが、甲斐性のある男が妾を囲うことは「道徳上の罪過」ではないのである。いや、それは封建時代の女に「十分な批判精神の確立がたかつたから」だと、讀者は言ふであろうか。だが、今日も人々は、目白臺の田中角榮邸に數百萬圓の錦鯉が飼われてゐることや、田中氏の収賄容疑についてはやかましく論ずるものの、田中氏と「越山會の女王」との關係を、一夫一婦に反するといつて道徳的に非難することはしない。妾を囲うことも、「スカッとした」やり方なら、世間は許すのである。
樋口一葉に「十分な批判精神の確立がなかつたからこそ、これほどの問題を含んだ世界を、いち早く諦念的な抒情にひたす」ことになつたのだと、ある批評家も言つてゐる。が、「十分な批判精神の確立」してゐるはずの今日、われわれは『にごりえ』を讀み、お初を離縁する源七の身勝手には氣づいても、幕切れの源七の自害について作者が、「男は美事な切腹、蒲團やの時代から左のみの男と思はなんだがあれこそは死花、ゑらさうに見えた」と書いてゐることを怪しまない。しかし、考えてもみるがよい、ここで源七は殺人の罪を犯してゐるのである。後ろ袈裟に女を斬り殺した男について、「美事」とは何ごとか、「死花」とは何ごとか。げれどもさういふ野暮な批判は日本人なら誰もやらない。正しいとか正しくないとかいふことはどうでもよい、源七もお力も、そしてお初も太吉郎も、皆あわれなのであつて、われわれ日本人はもつぱら情けに迷うのである。 
人生觀・その彼我の差
すでに述べたとおり、ロバート・ジョーダンやサンチャゴに對して、われわれはあわれみを感じはしない。むしろ二人を立派だと思ふのである。ジョーダンもサンチャゴも、「男らしく思ひ切る時あきらめ」るような男ではない。ジョーダンはこの世の美しさを肯定しながら死ぬ。が、源七の死は敗北で、人生からの逃避である。サンチャゴも「人間が耐えていかねばならないもの」を信じてゐる。殺されることがあつても負けてはならぬと信じてゐる。源七の切腹はみごとで「あれこそは死花、ゑらさうに見えた」かもしれないが、江川・小林兩投手についての『サンデー毎日』の評にあるとおり、源七は思ひどおりにならないこの人生に對する「ジメジメしたしがみつきよりも、スカッとした思ひ切り」を選んだのであり、サンチャゴのように「人間つてものが、どんなことをやつてのけられるか」、それを見せてやるといふ意志の強さは源七にはない。女を忘れられず、仕事をする氣にもなれず、女と死ぬことしか思ひつけぬ、さういふ源七とサンチャゴと、兩者の間には何たるへだたりがあることだろう。
けれどもわれわれ日本人は、源七が人間として立派かどうかは問わない。源七もお力もあわれなのである。そして、あわれに思つて同情し、「メロメロッとなつてしまう」と、われわれは「人生いかに生くべきか」などといふことを少しも考えないようになる。上智大學教授渡部昇一氏はこう書いてゐる。
少しうつとりして大和言葉を聞くと、ほんとうに理窟を超越した世界に入る氣分になれる。たとえば、バーなんかで歌つてゐる流行歌も、しんみりしてゐるなあ、といふ感じのとき、その歌詞に耳を傾けると、これが大和言葉なのである。
「あなたが噛んだ 小指が痛い きのうの夜の 小指が痛い そつとくちびる 押しあてて あなたのことを しのんでみるの 私をどうぞ ひとりにしてね きのうの夜の 小指が痛い」
この「小指の思ひ出」といふ歌は、どこまでいつても大和言葉で、そのため、のめりこむような氣分にさせられる。(中略)たとえば軍事教練なんかのときにみんなで歌う場合は、「見よ東海のォ・・・・・・」なんて、大威張りで歌えるのだが、個人に戻つて、「オレは戰爭なんかに行きたくない。大東亜共榮圈の建設かなんかしらんが、家にいたほうがずつといいや」といふ氣分になると、同じ時期に「山の淋しい 湖に・・・・・・」といつた「湖畔の宿』を歌うことになる。
これも全部、大和言葉で、(中略)そうすると、ここでもまたメロメロッとなつてしまう。(『歴史の讀み方』)          
私が渡部氏の文章を引いたのは、われわれ日本人が「情けに迷う」と、すなわち「メロメロッとなつてしまう」と、いかに不樣に(これもまた美意識だが)なつてしまうか、その證拠を示したかつたからである。無論、美意識にも上等下等の別はあつて、樋口一葉の美意識は渡部昇一氏のそれを凌いでいるが、一葉もカトリックであるはずの渡部氏も、もつぱら美意識によつて物を書いてゐる点で何の違いもない。いや、一葉や渡部氏に限らない、われわれは皆、一旦「メロメロッとなつてしま」えば、正義不正義なんぞはおよそ問題にしない。福田内閣が赤軍の要求をのんだのも、日本國民の大半が人質となつてゐる乘客を「おかわいそうに」と思ひ、「メロメロッとなつてしま」つたからにほかならない。 「おかわいそうに」と思ひ、「メロメロッとなつてしま」うと、日本人は凶惡犯でも許したくなる。それゆゑ本年六月十一日付けの『朝日新聞』夕刊に、高木正辛氏は「獄中の岡本公三はいま・・・・・・テルアビブ空港事件から十年」と題してこう書いた。
岡本公三。十年前の五月三十日、日本赤軍の他の二人とイスラエルのテルアビブ空港を襲い、ただ一人生き殘つて終身刑の判決を受け、ラムラ刑務所め獨房に収容されてゐる彼は、いまどうしてゐるか。精神的異常状態も傳えられたその後について、収容所で面會したアメリカ人法學者などのレポートを入手したが、かつてと全く異なる、複雜で、屈折した精神状態の變化が、そこにあつた。パレスチナ・ゲリラも、日本赤軍も、かつてのように岡本の奪還についてはつきりした行動や婆勢をみせていない。いま三十四歳。革命を夢みた末に暴走して、忘れられ、見捨てられ、異國で閉ざされたままの生涯を終わらねばならぬ若者の運命は痛ましい。
十年前のことだから忘れてゐる讀者もあろうが、岡本公三はテルアビブ空港で、自動小銃を亂射し、手投げ彈を投げ、何の罪もない市民二十六人を殺し、七十六人に重輕傷を負わせた凶惡なるテロリストなのである。高木氏の文章を讀んで、讀者は「メロメロッとなつて」しまい、「若者の運命は痛ましい」と思つたであろうか。まさかそんたことはないと私は信じたい。 
6.「善人」が政治的「惡人」になる皮肉

 

オーウェル『動物農場』
ジョーンズ氏の農場に飼われてゐる動物たちがある夜ひそかに集まつた。長老格の牡豚メージャーの演説を聽くためである。メージャーは語つた、「われわれは、なにゆえ、この悲惨な生活に呻吟し續けなければならないのか。それは、ひとえに、われわれの労働より生ずる収穫のほとんどすべてが、人間によつて盗み去られるから」である、「人間は生産せずに消費する唯一の動物」だが、「それにもかかわらず、彼らは動物たちに君臨してゐる」、それゆゑ「人間どもを追放せよ、しからば、われわれの労働の所産は、われわれの手に歸するであろう。ほとんど一夜にして、われわれは富裕にして自由の身とたる」であろう。
メージャーは三日後老衰のために死ぬ。それゆゑ演説はメージャーの遺言となつたわけであり、動物たちは反亂の準備に取り掛かるが、「同志を教育したり、組織を作つたりする仕事は、自然に豚が引き受けるかたちとなつた。それといふのも、動物の中でいちばん賢いのは豚」だつたからである。なにせ動物たちの中には、動物は飼主であるジョーンズ氏に忠實でなければならない、「あの人がいなくなつたら、われわれは飢え死にするじゃないか」などといふ封建的な、すなわち幼稚な發言をする奴さえいたのである。
反亂は六月のある日「首尾よく成就」した。ジョーンズ氏は追放され、農場は動物たちのものとなり、搾取と虐待から解放された彼らは「今まで想像もつかなかつたほど幸福」になつた。食物の割當ても増え、皆が能力に應じて働き、盗みも喧嘩も嫉妬もたくなつた。そこで豚の中でも「斷然群を抜いていた」スノーボールとナポレオンは、七つの戒律を大納屋の壁に書きつけた。それは「動物農場」の動物たちが「これから永久に守らなければならない不動の法律」であり、「およそ動物たるものは、衣服を身につけないこと」、「ベットで眠らないこと」、「酒を飲まないこと」、「他の動物を殺害しないこと」などの箇條があつて、第七条には「すべての動物は平等である」と謳つてあつた。
いかにもすべての動物は平等であるべきである。けれども一方、動物たちの能力差は歴然としていた。豚は賢くて簡單に讀み書きができるようになつたが、例えば牝馬クローバーはアルファベットは覺えたものの單語を綴れず、牡馬ポクサーはABCDしか覺えられず、器量よしの牝の白馬モリ一は自分の名前しか綴れなかつた。さういふ能力差を無視することはできない。動物たちは毎週總會を開き、次週の作業計畫についての決議案を採択したが、議案の提出者は常に豚であつた。「ほかの動物たちは、票決のやり方は知つていたが、自分たちで決議案を考え出すことはできなかつた」のだ。とすれば、人間の搾取に抗して革命を起こした動物たちが、やがて少數の支配階級と多數の被支配階級とに二分されるようになつたとしても、それは怪しむに足りない。そもそも革命そのものが、豚の指導なしにはありえなかつたのである。
「折から早生種のリンゴが色づき始め、果樹園の草の上には、風で落ちたリンゴが、いつぱいちらばつていた。動物たちは、あれはもちろん平等に分けてもらえるものと思ひこんでいた。ところが、ある日、風で落ちたリンゴは、豚が食べるから、殘らず集めて馬具置き場まで運ぶように、といふ指令が出された」。
支配階級となつた豚たちの言ひ分はかうである。「同志諸君よ!(中略)實をいえば、われわれのほとんどが、ミルクもワンゴも大嫌いなのだ。そんな大嫌いなものを、なぜ食べるのか、といえば、その目的はただひとつ、健康を保持するためなのだ。(中略)われわれ豚は、頭腦労働に從事してゐる。(中略)われわれが、あのリンゴを食べるのも、ひとえに同志諸君のためなのだ。もしわれわれ豚が、その義務を果すことができなくなつたとしたら、いつたいどういう事態が起こるか。(中略)ジョーンズがもどつてくるのだぞ!それでいいのか、同志諸君」。
人間ジョーンズの搾取と虐待から解放された動物たちは、かくして、新手の支配階級たる豚どもに搾取されることとなる。そして、豚の中でも「斷然群を抜いていた」スノーボールとナポレオンがことごとに對立するようになり、やがてトロッキーを追放したスターリンよろしく、ナポレオンは卑劣な手段を用いてスノーボールを追放、七つの戒律をことごとく無視し、冷酷無慙な獨裁者として君臨するようになる。
作者ジョージ・オーウェルはスターリンの獨裁を批判すべくこの寓話を書いた。それは確かだが、讀者はここで、動物農場の動物たちと同樣、人間に能力差がある以上、指導する者とされる者との分裂は不可避で、指導層の増長ないし專横は、不完全な人間のことゆえ、これまた不可避だといふ、苦い眞實を確認しなければならない。
ところで、ナポレオンがスノーボールを追放するまでの經緯はかうである。トロッキーを思はせるスノーボールは「雄弁によつて大多數の支持を得ることが多かつた」が、スターリンを思はせるナポレオンは「會議の合間に、自分の支持票をかき集めるのが上手」であつた。スノーボールは農場に風車を建設し、「風車で發電機を動かし、農場に電氣を供給」しようと提案した。が、ナポレオンは「現在もつとも緊急なことは食糧の増産で、もし風車の建設などにかかずらつて時間をむだにしていたら、みんな餓死してしまう」と主張した。動物たちは分裂し、「スノーボールに投票すりゃ、週三日制」、「ナポレオンに投票すりゃ、飼葉桶がいつぱい」と、それぞれスローガンを掲げて三つの黨派を結成した。農場を奪還せんとしてゐる人間どもの襲撃にどう對處すべきかについても、スノーボールとナポレオンの意見は對立した。ナポレオンは「もし自らを防衞できなければ、必ず征服されるであろう」と言ひ、スノーボールは、この動物農場ばかりでなく、あちこちの農場で動物による革命が成功すれば「自らを防衞する必要など、全くなくなるただろう」と言つた。對立する二人の主張を聞いて動物たちはどうしたか。彼らは「まずナポレオンの言ふことに耳をかたむけ、次にスノーボールの言ふことに耳をかたむけたが、どちらが正しいのか決めることができなかつた」のである。
それなら、さういふ愚かな大衆が相手なら、説得しようと努力することはもちろん、大衆の意向に從うこと、すなわち多數決に從うこともおよそ無意味ではないか、そうナポレオンは考えたに相違ない。そして讀者は反撥するであろうが、さういふ考えにも半面の眞實はある。今日、獨裁政治は國際的に不評だが、獨裁者の登場を促すのは常に衆愚ではないか。風車建設の是非を票決するための總會で、スノーボールは熱弁を揮う。が、それは徒労である。言論を理解できぬ手合を言論で動かせるはずはない。それをよく知つてゐるナポレオンは「風車建設なんてナンセンスだから、だれも賛成しないように」とだけ言ふ。やがて、ナポレオンが密かに飼育していた狼のように獰猛な九頭の犬が會場へなだれ込み、農場からスノーボールを追放してしまつたのである。動物たちは無論ショックを受ける。が、すでに述べたように、豚以外の動物は豚ほど賢くなかつたのであり、それなら、ナポレオンの言ひなりになるしかない。すこぶる善良だがまことに頭の惡い牡馬ボクサーは、懸命に考えてみる。が、「同志ナポレオンがさういふのなら、きつとその通りなのだ」との結論しか引き出せない。スノーボールが追放されてから「三囘めの日曜日に、結局、風車は建設することになつたといふナポレオンの宣言をきいて、動物たちは少なからず」驚いたが、結局彼らは、ボクサー同樣「ナポレオンはいつも正しい」と自分で自分に言ひ聞かせるしかなかつた。
そうなれば、もはやナポレオンの獨裁は留まるところを知らない。「規律だ、鐵の規律だ!」といふことになり、動物たちは酷使され、豚は七つの戒律を次々に無視、ベットで眠り、衣服を身につけ、酒を飲み、動物を殺害し、あげくの果てに二本足で立つようになつて、あろうことか、怨敵たる人間どもを農場に招待し、ビールを飲みつつ談笑するようになるのである。 
この世は常に不平等である
繰り返すが、ナポレオンの獨裁を招いたのは動物たちの愚昧なのである。もちろん私は、トロッキーならぬスノーボールのほうが、スターリンならぬナポレオンよりもましだつたのに、愚かな動物たちにはそれが見抜けなかつた、などといふことが言ひたいのではない。革命を決行したことが、そもそも間違いのもとだつたのかもしれないのである。けれども、人間の搾取のほうが豚の圧制よりも遙かにましだつたのに、などと言つてみてもこれまた始まらない。問題は、革命を興そうが興そうまいが、この世は常に不平等であり、してみれば衆愚に正義感なんぞは不要で、力ある者はなしたいことをなし、愚かで力のない者は默つて「なさざるをえぬことをなせ」ばよいのだと、そう言ひ切つてよいものかどうか、である。「空腹と、辛苦と、失望、これが、いつも變らぬこの世の定めなのだ」と、「農場きつての長老」でつむじ曲がりのベンジャミンは言ふ。けれども、そのベンジャミンも圧制の被害は受ける。それに何より、自分が苦しむのはよいとしても、他者が虐待され搾取されるのを坐視できぬといふことがあろう。スターリンも毛澤東も夥しい人間を粛清してゐるが、二人ともまずはその種の正義感に驅られて革命運動に加わつたはずであつて、それゆゑ「動物革命」自體が過ちであつた、などと言つてみても始まらない。人間は正義感に驅られて戰爭をやり、革命をやる。フォークランドやレバノンで流された血が無意味なら、ロシア革命やフランス革命や文化大革命で流された血も無意味なのである。
けれども動物農場には、愚昧ではあるがすこぶるつきの「善き人」が、いや「善き動物」がいた。牡馬ボクサーである。ナチス時代のドイツにも「善き人」はいた。では、政治的に惡しき體制にあつて、道徳的に「善き人」であるといふことは、一體何を意味するのだろうか。
ボクサーは愚かな牡馬である。アルファベットもABCDまでしか覺えられない。けれども、ボクサーはすこぶる善良であつた。ナポレオンの暴政に對しても一切苦情を言わず、スノーボールの手先だつたといふ理由で動物たちが處刑され、「およそ動物たるものは、他の動物を殺害しないこと」との戒律が破られた時も、「わしにはどうもわかちない。この農場にこんなことが起るなんて、どうしても信じられんなあ。きつと、われわれ自身の中に、何かいけないところがあるからなんだ。それを直すには、わしの考えだが、もつといつしょうけんめい働くしかない。これから、わしは、朝、もう一時間早起きするぞ」と呟くだけなのである。
そしてボクサーは默々として文字通り馬車馬のごとく働く。人間どもが農場を奪い返そうと攻撃して來た時、ボクサーは勇敢に戰い、「膝からは血が流れ、蹄鐵が片方なくなり、蹄が片方裂け、後脚には散彈が十二發もうちこまれ」るほどの負傷をしたのだが、それでもボクサーは働くことを止めなかつた。オーウェルの文章を引こう。
ボクサーの裂けたた蹄は、長い間なおらなかつた。戰勝祝賀のすんだそのあくる日から、もう風車の再建が始まつていた。ボクサーは、ただの一日も休もうとはしなかつた。そして、自分の苦しんでいるのを他人に見せないことこそ立派な態度なのだ、ときめていた。しかし、夜になると、こつそりクローバーに向かつて、實は蹄が痛くて痛くてたまらないのだ、と打ち明けた。クローバーは、藥草をかんで作つた湿布をその蹄にあててやり、(中略)もう少し加減して働きなさい、とボクサーに忠告してやつた。「馬の肺はね、めちゃくちゃに長もちするもんじゃないんだから」と、彼女はいつてきかせた。が、ボクサーは頑として聞き入れなかつた。わしには、もう望みは、ただひとつしか殘つていない−それは、引退する前に、風車の建設がすつかり軌道にのるのを、この目で見届けたい、といふことだけだ、といふのだつた。
讀者のことごとくがかういふボクサーの善良に感動するはずである。すなわちボクサーは「善き人」なのである。が、「善き人」は「良き市民」なのか。 
善人は良き市民にあらず            
T・S・エリオットは『教育の三つの目的』と題する教育論の中で、この「善き人は良き市民か」といふ問題を取り上げてゐる。周知のごとく古代ローマ帝國時代、夥しいクリスト教徒が信仰を守り抜いて殺された。彼らは「善き人」であると言わざるをえまい。「命あつての物種」と考える人たちの無節操や轉向を誰も立派だとは思ふまい。が、殺されたクリスト教徒は、道徳的には「善き人」だつたかもしれれないが、ローマ帝國にとつては體制に反抗する「惡しき市民」ではないか。とすれば、道徳的に「善き人」が政治的に「惡しき市民」であるといふことになるではないか。エリオットはそう言ふのである。 ボクサーの場合も、彼が道徳的に「善き人」であつたことに異論はあるまいが、彼の善良がナポレオンの獨裁體制を利する結果になつたことも確かなのである。それなら、ボクサーの場合は、ローマ帝國時代のクリスト教徒と異なり、「善き人」たるボクサーは獨裁者を利した「惡しき市民」だつた、といふことになる。だが一方、獨裁者ナポレオンにとつて、ボクサーのような愚鈍な正直者の「善人」は、まことに好都合な「良き市民」だつたと、さういふふうに考えることもできよう。では、ボクサーは「良き市民」なのか、「惡しき市民」なのか。
結論から先に言へば、ボクサーはその双方なのである。といふことは、政治的な「良し惡し」は相對的だといふことにほかならぬ。つまり、われわれはここで政治と道徳とを區別せざるをえないことになる。獨裁はまことに怪しからぬ。すべての人間は平等ではないか。さういふことは誰でも言ふ。特に昨今は猫も杓子もそれを言ふ。なるほど、ナポレオンは道徳的に許すべからざる獨裁者である。が、ボクサーは結果的にナポレオンの獨裁を助けたことになる。そして、道徳的に許すべからざる者を助けることは、もとより道徳的に惡いことである。それならボクサーは、道徳的に惡いことを爲した、道徳的な「善き人」なのだろうか。
私は詭弁を弄してゐるのではない。「善き人は良き市民か」といふ問題はことほどさように厄介で、明快な解答なんぞ引き出せはしないのである。
ボクサーは身を粉にして働いて、ある日、遂に倒れる。ナポレオンは農場きつての働き手をウイリンドンの病院へ入院させると言ひ、その實「廢馬屠殺・にかわ製造業」者に賣り渡してしまう。が、誰がいつたいボクサーの愚鈍を輕蔑できるであろうか。 
政治音痴を輕蔑するな
ところで、本書に取り上げた作品のうち、私は特にこの『動物農場』の一讀を讀者にすすめたい。私の梗概で間に合わせることなく、オーウェルの原作を讀んでもらいたい。そして、道徳的に善き人が政治的に惡しき人たりうる不思議について、すなわち政治と道徳との對立緊張についてとくと考えてもらいたい。アルファベットもABCDまでしか覺えられないボクサーは、いわば度し難い「落ちこぼれ」だが、ボクサーは深夜信號を無視し、けたたましい轟音をふりまいてオートバイを走らせるわけではない。けれども、善良なボクサーは、ナポレオンの暴政を糾彈することもなく、默々として与えられた仕事に精を出す。獨裁者にとつて、ボクサーのような善人ほど好都合な存在はない。いやいや、今時、そんなボクサーのような善人がいるはずはないと讀者は言ふであろうか。
それなら讀者はこういふことを考えてみるとよい。私の母は七十五歳である。そして私よりも善良である。一方、父は十三年前に死に、私よりも善良であつた。そして父の父、すなわち祖父は奈良縣桜井市の小學校の校長だつたが、連帯保證債務を履行して破産、妻子を養うため校長をやめ、ぼんぼん時計を背負い、それを賣つて歩いたが、村々でかつての父兄や生徒に出會い「校長先生、お早うございます」などと挨拶されるのが何よりも辛かつたといふ。
もとより、挨拶した村人は祖父を困らせようとしたわけではない。ぼんぼん時計を賣り歩く校長先生に出會うのは、村人にとつても辛かつたにちがいない。それはともかく、私は祖父の晩年を知つてゐるにすぎないが、私の知る限り、祖父は父よりも立派で善良だつたように思ふ。そして祖父も父も、この日本國をたいそう愛していたが、イデオロギーなんぞとは一切無縁であつた。いわゆる「政治音痴」だつたのである。
要するにこういふことだ。父は私よりも善良で、祖父は父よりも善良だつたといふことになると、あるいは曽祖父は祖父よりも善良だつたのかもしれない、さういふことになる。そして、そうやつて家系を遡つてゆくと、わが松原家に限らないことだが、われわれは『ぢいさんばあさん』の美濃部伊織やるん、『五重塔』の十兵衞のような人々を見出すことになる。では、「今時、ボクサーのような善人がいるはずはない」として、五十年、百年、百五十年前に確かに存在した美濃部るんのような善人が今日存在しないことを、われわれは手放しで喜んでよいであろうか。伊織もるんも十兵衞もボクサーほど愚鈍ではないが、「政治音痴」であつたことは確かなのである。そして政治に無關心だつたからとて、われわれは彼らを決して輕蔑するわけにはゆかない。すなわちわれわれは、政治の良し惡しと道徳上の善意とを峻別しなければならないといふことになるのである。 
7.人間に背負わされた因果な病「なぜ?」

 

中島敦『悟淨出世』
流沙河の河底には一萬三千の魚の妖怪が栖んでいたが、悟淨ほど氣の弱い妖怪はなかつた。彼は常に呟くのだつた、「どうして自分は他人と違つて、こんなに氣が弱いのだろう」。そこで、彼は何日も何日も洞穴に籠つて食事もせず、ギョロリと眼ばかり光らせて物思ひに沈んだ。
醫者でもあり占星師でもあり祈祷者でもある老いたる魚怪が、悟淨を診察してこう言つた。「因果な病にかかつたものぢや。此の病にかかつたが最後、百人の中九十九人迄は惨めな一生を送らねばなりませぬぞ。元來、我々の中には無かつた病氣ぢやが、我々が人間を咋ふやうになつてから、我々の間にも極く稀に、之に侵される者が出て來たのぢや。この病に侵された者はな、凡ての物事を素直に受取ることが出來ぬ。何を見ても、何に出會ふても『何故?』と直ぐに考へる。究極の・正眞正銘の・神樣だけが御存じの『何故?』を考へようとするのぢや。そんなことを思ふては生物は生きて行けぬのぢや。そんなことは考へぬといふのが、此の世の生物の間の約束ではないか。(中略)お氣の毒ぢやが、此の病には、藥もなければ、醫者もない。自分で治すよりほかは無いのぢや」
流沙河の河底の妖怪の世界では、文字を輕蔑する習慣があり、文字を解することは「生命力衰退の徴候」と考えられていた。つまり、文學だの哲學だのをやる奴らは、たくましい生活力を失つてしまう、と考えられていた。それゆゑ妖怪共は、悟淨が「日頃憂欝なのも、文字を解するために違ひない」と思つていた。だが、奇妙なことに、「文字は尚ばれなかつたが、しかし、思想が輕んじられてをつた譯ではない。一萬三千の怪物の中には哲學者も少くはなかつた。ただ、彼等の語彙は甚だ貧弱だつたので、最もむづかしい大問題が、最も無邪氣な言葉で以て考へられてをつた」。
『悟淨出世』は、中島敦が昭和十四年に書いた短篇である。
主人公は悟淨だが、彼は「この河の底に栖むあらゆる賢人、あらゆる醫者、あらゆる占星師に親しく會つて、自分に納得の行く迄、教を乞はう」と決心した。最初に訪ねたのは黒卵道人といふ幻術の大家であつた。
けれども、悟淨は失望した。黒卵道人もその數千の弟子たちも、神變不可思議の法術を使つて「敵を欺かうの、何處其處の宝を手に入れやうのといふ《實用的な話》ばかり。悟淨の求めるやうな《無用の思索》の相手をして呉れるものは誰一人として」いなかつたからである。
次に悟淨が訪ねたのは沙虹隠士といふ「既に腰が弓のやうに曲り、半ば河底の砂に埋もれて生きて」いる蝦の精であつた。悟淨は言つた、「自分の聞き度いと望むのは、個人の幸福とか、不動心の確立とかいふ事ではなくて、自己、及び世界の究極の意味に就いてである」。隠士は答えた、「自己だと?世界だと?自己を外にして客觀世界など在ると思ふのか。世界とはな、自己が時間と空聞との間に投射した幻ぢや。自己が死ねば世界は消滅しますわい」
ところで、「個人の幸福とか、不動心の確立とかいふ事ではなく、自己、及び世界の究極の意味」を知りたいと、當節の日本人は決して思ひはしない。そんな「因果な病」にかかつていたら、この日本が世界屈指の經濟大國に伸し上がれたはずはない。
悟淨は沙虹隠士に失望し、次に坐忘先生を訪ねた。坐忘先生は「坐禅を組んだまま眠り續け、五十日に一度目を覺ます」。だが、幸運にも四日待つただけで先生は眼を開いた。が、悟淨の問ひに對して「長く食を得ぬ時は空腹を覺えるものがおまへぢや。冬になつて寒さを感ずるものがおまへぢや」と答えただけで再び眼を閉じ、五十日間それを開かないといつた有樣であつた。
坐忘先生のもとを立ち去つた悟淨は、「流沙河の最も繁華な四辻に立つて、一人の若者が叫んで」いるのを見た。色白のその青年は頬を紅潮させ、聲をからして叫んでいた。
「恐れよ。をののけ。而して、神を信ぜよ。(中略)我々の爲しうるのは、只神を愛し己を憎むことだけだ」。けれども悟淨は思つた、これは確かに「聖く優れた魂の聲」かもしれないが、自分が今必死に求めてゐるのは「神の聲」ではない、頭が痛いのに腹痛の藥をもらつても何の役にも立ちはしない。 
快樂主義者になれない悟淨の惱み
ついで悟淨は鯰の妖怪を訪ねて弱肉強食の「苛酷な現實精神」を學び、隣人愛の説教者として有名な無腸公子の演説を聞いた。だが、ともに「納得の行く迄」の教へを授けられはしなかつた。無腸公子は蟹の妖怪だつたが、説教してゐるうちに突然空腹をおぼえ、自分の實の子を二三人、むしゃむしゃ食べてしまい、食い終わつてから、その事實をも忘れたかのように、けろりとした表情で再び慈悲の説を述べ始めたのである。
次に悟淨は蒲衣子といふ妖怪を、蒲衣子の次に斑衣2(けつ)婆といふ女怪を訪ねた。2(けつ)婆は五百餘歳、「肌のしなやかさは少しも處女と異る所がなく(中略)肉の樂しみを極めることを以て唯一の生活信条」としていた。彼女は悟淨にこう言つた、「この道ですよ。斯の道ですよ。(中略)一體、斯の道の外に何を考へることが出來るでせう。ああ、あの痺れるやうな歓喜!常に新しいあの陶酔!(中略)貴方はお氣の毒ながら大變醜い御方故、私の所に留つて戴かうとは思ひませぬから、本當のことを申しますが、實は、私の後房では毎年百人づつの若い男が困憊のために死んで行きます。しかしね、斷つて置きますが、その人達はみんな喜んで、自分の一生に滿足して死んで行くのですよ」。 今のわが國に、坐忘先生のように坐禅を組んで明け暮らす禅僧はいない。けれども、まさか實の子を捕えて食いはしないだろうが、ヒューマニズムを説きながら、すなわち「内なるオキナワ」とて「内なる金大中」とて隣人愛を説きながら、私生活はすこぶるでたらめで、しかもその言行不一致を一向に氣にしない高名な小説家はいる。無論、色欲の滿足こそ唯一の生き甲斐と信じ、千人斬りを標榜して得意になる連中もいる。悟淨は無腸公子の言行不一致の見事に驚き、言行不一致を氣にしない「本能的な・歿我的な瞬間」を持つことのできる無腸公子をほとんど崇拝せんばかりになつたのだが、彼は辛うじて思ひとどまるのである。
2(けつ)婆の「性の哲學」に悟淨が反發したのかどうか、その点について作者中島敦は何も書いていない。「醜いが故に、毎年死んで行く百人の仲間に加はらないで濟んだことを感謝しつつ、悟淨はなほも旅を續けた」と書いてゐるにすぎない。
だが、こうして約五年、「同じ容態に違つた處方をする多くの醫者の間を往復するやうな愚かさを繰返した」悟淨は少しも賢くなりはしなかつた。最後に悟淨は玄奘法師と知り合い、法師の力で、水から出て人間の姿になることができた。そして孫悟空や猪悟能と共に新しい遍歴の旅に出ることとなつた。けれども、悟淨はついに「飜然大悟とか、大活現前とか云つた鮮やかな藝當を見せることは出來なかつた」。すなわち悟ることはできず、「自分の病は自分で治さねばならぬ」と、呟くしかなかつたのである。 
實用にこだわりすぎる今の日本人
私はなぜ『悟淨出世』といふあまり知られていない作品を取り上げたのか。悟淨の「因果な病」は今日の日本人にはまつたく無縁のものとなつたと、そのことが言ひたかつたからである。「神樣だけが御存じの『何故?』を考へようとする」こと、「實用的な話」でなく「無用の思索」にふけること、「自己、及び世界の究極の意味」について考えること、すなわち、時代によつて變わらぬ「人生いかに生くべきか」について考えること、それを今の日本人は何よりもなおざりにしてゐる。
西洋の古典を讀み、名著を讀み、われわれは「無用の思索」の價値を知るかもしれぬ。だが、「無用の思索」にふけることはないのではないか。つまり、西洋の名著から得た教養は「付け燒き刃」なのである。中島敦はそれが氣になつてならなかつた數少ない日本人の一人であつた。彼は『かめれおん日記』に、自分は「いそつぷの話に出て來る洒落鴉」だと書いた。
「いそつぷの話に出て來るお洒落鴉。レオパルディの羽を少し。ショオペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。荘子や列子の羽を少し。モンテエニュの羽を少し。何といふ醜怪な鳥だ」。
だが、「醜怪な鳥」は中島敦だけではない。われわれもまた同じであつて、シェイクスピアの羽、ゲーテの羽、トルストイの羽、孔子の羽、孟子の羽、鴎外の羽、漱石の羽・・・・・・。だが、中島敦と異なり、人々はおのれの醜怪に氣付かない。なぜか。悟淨のように眞劍に「自己、及び世界の究極の意味」を知りたいなんぞと、決して思はないからだ。それゆゑ賢人に「自分に納得の行く迄、教を乞はう」などとも思はない。『プロローグ』にも書いたように、ただ、手當り次第に、暇つぶしの本を、あるいは當座の役に立つ實用書を、そのつど讀むばかりなのである。
明治以來われわれ日本人は西洋の文物を熱心に學んだ。けれどもそれはただ、「醜怪な鳥」になつたといふだけのことではないだろうか。鴉が自分の身體に他の鳥の羽を挿して洒落てみたところで、いつたんはばたけば挿した羽はたちまち抜け落ちてしまうのである。
明治の昔、詩人・彫刻家であつた高村光太郎はロダンを尊敬していた。ロダンの作品『ニンフ像』を抱いて寢たいと思つたくらいであつた。けれども、パリ留學中の高村はフランス女をモデルにして粘土をこねていて、モデルの心をどうしても理解できぬことに苛立つた。こうしてフランス女の裸體をうわべだけ模することに一體どれほどの意味があるか、高村はそう考えて苦しんだのである。なるほど、フランス女の心を理解できないのなら、彼の彫刻は「お洒落鴉が挿した羽」にすぎず、ロダンから學んだものは所詮「付け燒き刃」にすぎまい。高村はこう書いてゐる。
獨りだ。獨りだ。
僕は何の爲めに巴里に居るのだらう。巴里の物凄いcrimsonの笑顔は僕に無限の寂寥を与へる。(中略)僕には又白色人種が解き尽されない謎である。僕には彼等の手の指の微動をすら了解する事は出來ない。相抱き相擁しながらも僕は石を抱き死骸を擁してゐると思はずにゐられない。その眞白な3(蟲+巛+鼠)の樣な胸にぐさと小刀をつつ込んだらばと、思ふ事が屡々ある。(中略)駄目だ。早く歸つて心と心とをしやりしやりと擦り合せたい。寂しいよ。
いかに英語やフランス語を流暢にしゃべれても、日本人が西洋女を抱くのは「石を抱き死骸を擁」するようなものであつて、西洋女の「眞白な3(蟲+巛+鼠)の樣な胸」の中は決して覗けはしない、高村はそう言つてゐるのである。
要するに、中島敦も高村光太郎も、鴎外や漱石や荷風と同樣、西洋を理解するむずかしさを充分に意識していたのであつて、日本人がそれを意識してゐることはすこぶる大切なことなのである。中島敦や高村光太郎の時代と異なり、今、西洋の名著は飜譯で手輕に讀める。手輕に讀めるから人々は西洋と日本の相違を氣にかけなくなつた。そしてまた、「自己、及び世界の究極の意味」は何かなどといふ、糞眞面目な問ひを發しなくなつた。「神樣だけが御存じの『何故?』を考へよう」とはしなくなつた。さういふことを考えて働こうとしない西洋人を輕蔑し、明治大正の先輩たちのように、西洋に對して劣等感を抱くといふことがない。それどころか、石油も食料もその九十パーセント以上を海外から輸入してゐるくせに、日本の文化は世界に冠たる一流品だなどと、大眞面目で言ひ張る者もでてくる始末なのである。 
8.「騙されて幸福」といふこともある

 

イプセン『野鴨』
偉大なる劇作家イプセンの『野鴨』について語る前に、飜譯はないが、アメリカの劇作家の作品を紹介することにする。それはソーントン・ワイルダーの戯曲『フランスの女王』である。
一八六九年のこと、ニューオルリンズのとある法律事務所にひとりの女が訪ねて來る。そして辯語士から驚くべき秘密を打ち明けられる。辯語士はこう言ふ。實は自分はパリに本部を置くある歴史學會のアメリカ代表でもあるのだが、知つてのとおり、フランス革命のさなか、フランス王位の繼承者が突如行方不明になつてしまつた。だが、當學會が調査したところ、この王位繼承者は當時アメリカに亡命し、ここニューオルリンズにしばらく滞在、その子孫がこの地にいるといふ事實が確認され、驚くべし、フランス王家の血統はあなたのお父上が繼いでいるといふ事實が判明した、それゆゑ、あなたがお父上の唯一の跡繼ぎだといふことさえ證明されるならば、あなたこそはフランスの眞の王位繼承者といふことになる。
驚いた女は、最初のうちこそ半信半疑だつたが、うやうやしく「女王陛下」と呼ばれたり、王位繼承のあかつきには巨萬の富と榮光を獲得することになるとかいううまい話を聞かされたりして、次第に辯語士の話を信じるようになる。そして、自分こそ正眞正銘のフランス女王だと信じ込んでしまつた女に辯語士は言ふ、學會では目下この事實を裏付けるべく決定的な證拠の確認を急いでいるのだが、それには多額の費用がかかる、けれども學會は貧乏であつて、それで實は困つてゐるのだ、と。女は辯語士に要求されるままに、學會が保管していたといふ王家に傳わる玉笏だの宝珠だのを買い取り、また、どんな無理をしてでも、證拠固めのための費用を捻出しようと決意する。
こうして女は財産を卷き上げられてしまうわけだが、ある日、辯語士は女を呼び出し、あなたといふフランスの王位繼承者が發見されたといふ事實を世界中に公表するためには、あとひとつだけ重要な證拠書類がどうしても必要なのだが、それがどこを探しても見付からないといふ。
この絶望的な知らせに女は逆上し、辯語士に食つてかかろうとするが、やがて、夢から醒めたような顔をして女はこう言ふのである、「そういえば何もかも變だつた・・・・・・どこかで聞違つたのだとしか思へない。でも、これまでの毎日はとても素晴らしかつた・・・・・・お願い、歴史學會があたし宛に手紙をくださればいい、そして、あたしが多分・・・・・・女王だと、・・・・・・學會が探してゐる王位繼承者だと、學會がそう信じてゐると、さういふ文面の手紙をくださればいい。あたし、その手紙をトランクに仕舞つて置きたい、宝珠や・・・・・・玉笏といつしょに」。
つまり、自分こそはフランスの女王たるべき女だと、それを信じていた時、女はたいそう仕合せだつたのであり、すべては辯語士の惡だくみらしいと感付いても、女は相手に食つてかかろうとはせず、嘘を信じていた頃の幸福を思つたのである。つまり、眞實を知るよりはむしろ、騙されつづけて、それを知らないほうが幸福といふことがあるわけだ。 
「イエスの方舟」事件と幸福な娘たち
二年前、新聞や週刊誌が、「若い娘を催眠術や洗腦によつて誘拐する怪しげな新興宗教」とて、しきりに騒ぎ立てた、あの「イエスの方舟」事件を讀者はおぼえてゐるであろう。もとより私は「イエスの方舟」の教祖である千石イエスなる男を辯語しようと思つてゐるのではない。千石氏の信仰はいかさまであると私は思つてゐる。けれども、世間から「邪淫教團」のように言はれ、白眼視され、二年間教祖と共にあちこちと逃げまわつた若い女性信者たちは騙されつづけることに生き甲斐を感じていたのである。『サンデー毎日』の記書よれば、娘たちは生活費をかせぐためキャバレーに勤めたが、いずれも「客と一緒に出勤する“同伴システム”をきつぱり斷」り、自堕落な振舞は一切なかつたといふ。「イエスの方舟」に加わる前、暴力をふるう父親と淫蕩な母親にいや氣がさし、中學三年からぐれ出し、「ハイスパンキーの親衞隊みたいなことやつて、親に默つて外泊したり」していた娘は、毎日の記者にこう語つたといふ。
家庭に愛はなかつた。それに飢えていた私が、ここで初めてみつけたのは男と女のドロドロした愛ではなくて、仲間意識でした。今、父と母に言ひたいことは、自分は今幸せだし、落ち着いて品性といふこともわかつて來たといふことです。
つまり、娘たちがかりに千石イエスに騙されていたとしても、娘たちは騙されていて幸福だつたといふわけである。それに、若い娘だから騙されながら幸福だつたのではない。大の男だつて同じである。例えば、ヒットラーは大衆の心理を掴むことにかけての天才だつたが、ヒットラーに騙されていたと知つた戰後のドイツ人の中には、『フランスの女王』の女主人公と同樣、「でも、これまでの毎日はとても素晴らしかつた」と呟いた者もあつたにちがいない。「知る權利」だの「知らせる義務」だのと紋切型を言ふばかりでなく、騙されることの仕合せといふことをわれわれは少しく眞劍に考えてみたらよいのである。
そこで、さういふことを頭において、イプセンの『野鴨』を讀むことにしよう。かういふ話である。ヤルマール・エクダルは町の写眞屋で、すこぶる貧乏だが、献身的な妻ギーナと、利口で愛らしい娘ヘドヴィと共に、幸福な毎日を過ごしてゐる。ヤルマールは言ふ、「たとえこの屋根の下がいかほど狭く貧しくともだ、ギーナ、これが家庭といふものさ。そしておれは言ふよ、ここにこそ幸福があるんだとね」。
けれども貧乏は苦にしないヤルマールにも「惱みの種」があつた。十四になる娘ヘドヴィの病氣である。友人にヤルマールは打ち明ける。「あの子がわれわれにとつていちばんの樂しみであると同時に、いちばんの惱みの種なんだ、(中略)恐ろしいことに、あれはだんだん視力を失つて行く危險があるんだ。(中略)まだいまのところは、最初の徴候が見えてきたぐらいの程度だからまだしばらくは無事だろう。しかし醫者からは予告されてゐるんだ。どうすることもできないんだつて。(中略)あれはそんな危險があろうとは夢にも知らないよ。嬉しそうに、何の心配もなく、小鳥のように囀りながら、人生の永遠の闇の中に舞いこんで行くのさ。ああ、きみ、ぼくはとてもたまらんよ」
娘ヘドヴィの病氣のほかにもう一つ、ヤルマールにとつて、時々「胸のつぶれる思ひ」のすることがあつた。それは年老いた父親エクダルのあわれな境遇であつた。父親は昔陸軍中尉であり、事業家で狩猟の名手だつたが、「國有地の森林の不法伐採をやつた」として「有罪の宣告を受け」、刑期を終えて刑務所を出て來てからは、卑屈に生きながらも昔日の榮光を忘れられないのである。ヤルマールは言ふ、「例えば家の中にちょつとした祝い事があると、−ギーナとぼくの結婚記念日とか何とかいうような時にはだね−じいさんはきまつて得意の日の尉官服を着こんでくる。ところが、廊下の扉をたたく音でもすると、−よその人に見られるのが恐ろしさに、−あわてふためいて自分の部屋に駈けこむんだ。(中略)きみ、さういふところを見ると、息子としてはまつたく胸のつぶれる思ひがするぜ」
献身的な妻ギーナ、あわれな娘ヘドヴィ及び父親、その三人のためにヤルマールは一所懸命に働き、しかも写眞術を「藝術であると共に科學であるといふところまで高め」うるような發明をして、父親の「名にふたたび榮譽と尊敬を囘復して、親父の心から消え失せた自尊心をもう一度蘇ら」そうと念じてゐる。だが、その「すばらしい大發明が成功するまで」は、ヤルマールは父親の欺瞞的な生き甲斐にも付き合う。欺瞞的な生き甲斐とは何か。ヤルマールの家には「奥行の廣い、不規則な形をした大きな屋根裏部屋」があつて、そこにエクダル老人は鶏や鳩や兎を飼つてゐるのだが、エクダルとヤルマールは、時々「鐵砲を撃つても誰にも聞こえないように、都合よくできてゐる」その屋根裏部屋で、狩猟の眞似事をやる。猟銃ならぬピストルを使つて狩猟ごつこを樂しむのである。
屋根裏部屋には野鴨も一羽飼われていた。その野鴨は「翼の下を撃たれて、飛べなく」なり、「水底にもぐつ」て「藻や水草にしがみつ」いてゐるのを、猟犬が捕えたのであつた。それは屋根裏部屋では「一番立派な鳥」で、十四歳の娘ヘドヴィのものといふことになつてゐる。へドヴィは言ふ、「あれはあたしの野鴨(中烙)。でもおじいさんにもお父さんにも、ほしい時にはいつでも貸してあげる」。そしてもちろん、エクダル老人にとつてもヤルマールにとつても、野鴨の世話は生き甲斐の一つだつたのである。
だが、ヤルマールの學校友達グレーゲルスにとつて、さういふエクダル父子の生き方は欺瞞としか思へない。グレーゲルスはヤルマールに言ふ、「ヤルマールくん、きみにもどこか野鴨に似たところがある。(中略)きみは水の中にもぐつて、底の草にしつかりとしがみついてゐる。(中略)きみは毒の沼の中に迷いこんでいるんだ。(中略)底に沈んで、暗闇の中に死んで行くんだ」。
なぜグレーゲルスにとつて親友ヤルマールの生活は欺瞞としか思へないのか。なぜ「暗闇の中にいる」としか思へないのか。グレーゲルスは恐るべき秘密を知つてゐるからである。
それはこうだ。グレーゲルスの父親ヴァルレ、卸賣商人で工場主の富豪ヴァルレは、昔、エクダル老人と共同で事業をやつていたのだが、エクダルが國有地の不法伐採で有罪になつた時、好計を用いて自分は無罪放免となつた。いや、そればかりか、かつてヴァルレ家に奉公していたヤルマールの妻ギーナを追いまわし、とうとう思ひを遂げ、妊娠したギーナを何も知らぬヤルマールに押しつけ、ヤルマールが「写眞術を習つたり、撮影室を建てたり、開業したりする金」をすべて出してやつたのである。
それをヤルマールは全然知らぬ。すなわち親友ヤルマールは「暗闇の中にいる」。眞實を知らずして、虚偽の上に築いたその幸福は欺瞞である。實の父ながらヴァルレの卑劣は許せぬ。ヤルマールを「虚偽と秘密の中から救いだして」やらねばならぬ。正義漢のグレーゲルスはそう決心したのであつた。
そこでグレーゲルスは、ヤルマールを散歩に誘い、ギーナの過去の秘密を打ち明けてしまう。グレーゲルスがどんなふうに打ち明けたか、それをイプセンは書いていない。『野鴨』は戯曲だから書く必要がない。いや、書かないほうが遙かに効果的である。
散歩から戻つて來たヤルマールが妻に對して示す態度の變化、それによつて觀客は事情を察する。妻と二人きりになると、ヤルマールは言ふ、「おい、お前の聲はふるえてゐるな。それに手もふるえてゐるぞ」。イプセンはこう書いてゐる。
ギーナ:あなた、はつきり言つて下さい。あの人はあたしのことを何て言つたんです?
ヤルマール:お前があの家に奉公していた頃、お前とヴァルレの間に關係があつたといふのは本當か?−まさか本當じゃあるまいな?
ギーナ:それは嘘です、あの頃といふのは嘘です。ヴァルレさんはあたしの後を追いまわしました。それは本當です。(中略)それであたしは暇をとつたんです。
ヤルマール:じゃ、その後か!
ギーナ:ええ、それから家に歸りました。するとお母さんが(中略)なんのかんのとうるさいほど説きつけるんです。ちょうどその頃、ヴァルレさんはやもめになつていたものですからね。
ヤルマール:すると、その時か!
ギーナ:ええ(中略)。
ヤルマール:これがおれの子供の母親か!よくそんなことを隠していられたな!(中略)これがおれのヘドヴィの母親か!こうしてみると、おれの眼に映る一切のものが−(椅子を蹴とばす)−この家庭全部が、御親切な先客樣のお陰じゃないか!ああ、あのヴァルレの色魔め!
ギーナは「あの時は言へなかつたんです。だつてあの頃あたしはあなたに夢中だつたんですもの。あたしだつて自分をまるつきり不仕合せな人間にしたくはありませんでした」と言ひ、「あなたは、あたしたちが一緒に暮らしてきた十四年−十五年といふ年月を悔んでいるんですか」と言ひ、「あなた、そんな事を言わないで下さい、ああ神さま」と言ひ、涙を流す。だが、それくらいのことでヤルマールの心は和らぎはしない。
するとそこへ「滿足に輝くような顔つき」のグレーゲルスが入つて來る。この幼稚な正義病患者は、何と、友人夫婦のために自分はいいことをやつてのけたのだと思つてゐるのである。ヤルマールが言ふ、「ぼくは一生のうちで最も悲痛な瞬間を經驗した」。グレーゲルスは答える、「しかし同時に最も崇高な瞬間だろう。(中略)おそらくこの世の中で、罪ある女を許して、愛の力によつて自分と同等にまで高めてやるといふことぐらい幸福なことはなかろうからな」。この正義病患者の鈍感は惡魔的であり、作者イプセンはその鈍感を怒りを籠めて描いてゐる。イプセンは作中人物の一人、醫師レリングにこう言わせてゐる、「あの男は急性の正義熱にかかつてゐる、(中略)これは國民病だよ。もつとも散在的に發生するだけだがね」。
ギーナの過去を知つたヤルマールは、ついで最愛の娘ヘドヴィが實の娘でないといふ事實を知る。ヤルマールは泣きながら言ふ、「ぼくにはもう子供はないのだ!」。グレーゲルスは言ふ、「きみが許すといふ大きな犠牲的精神に徹しさえすれば、きみたち三人は必ず一緒に暮らして行けるはずだ」。しかも彼はヘドヴィに對しては、苦しんでいる父親のために彼女にとつて「一番大事なもの」すなわち野鴨を犠牲にし、そうすることによつて父親に對する大きな愛を示したらいいとすすめるのである。ヘドヴィは承知し、ニクダル老人に頼んで野鴨を撃つてもらうと答える。
やがて幕切れ近く屋根裏部屋で銃聲が聞こえ、グレーゲルスは自分の忠告に從つたヘドヴィの行爲に滿足する。が、死んだのは欺瞞の象徴たる野鴨ではなかつた。ヘドヴィ自身が自殺したのであつた。それを知つてギーナは泣き、ヤルマールも泣く。グレーゲルスは驚く。だが、ヤルマールとギーナが死んだヘドヴィを部屋から運び出すと、彼は醫師レリングに言ふ、「ヘドヴィは無駄に死にはしない。きみも見たろう。この悲しみのために、あの男の心の中に崇高なものが頭をもたげてきたじゃないか」。 
眞理のみならず、虚偽をも愛する人間
すでに充分であろう。眞實を知ることはあるいは知らせることは、必ずしも人を仕合せにしないのである。人生、騙されて幸福といふこともある。人間通のイプセンにはさういふことがよくわかつていた。そして『野鴨』の讀者は皆それを半面の眞理だと認めるに相違ない。そしてさういふことを理解しない正義病患者グレーゲルスの鈍感を憎むであろう。
だが、そうしてグレーゲルスの正義感の愚かしさを理解した讀者も、例えば私が「女房に浮氣の尻尾をつかまれるのは、女房を不幸にする、それゆゑ女房は徹底的に騙さなければならない」と主張したら、はたして私に同意するであろうか。グレーゲルスの正義感には思ひやりが欠けてゐるが、浮氣の尻尾をつかまれまいとするのは女房に對する思ひやりであり、それゆゑ推賞すべきことだと讀者は言ふであろうか。
酒を飲みながら歓談する際なんぞに、男たちはさういふ女房騙しの秘訣を公開して樂しむ。けれども、女房を騙してなんらの良心の呵責をも感じない男を、私は信用する氣にはとてもなれない。樋口一葉の『にごりえ』について私は、日本では「甲斐性のある男が妾を囲うのは道徳上の罪ではない」と書いたけれども、それでよいと私は考えてゐるのではない。妻であれ友人であれ、他人を騙すのはよいことではない。他人を騙して得意になつてゐる者も、他人に騙されれば地團駄踏んでくやしがるのである。
私の言ひ分は矛盾してゐると讀者は言ふだろうか。けれども、人間は矛盾のかたまりであり、矛盾を矛盾として承認することこそ人間としてのまともな生き方なのだ。洋の東西を問わず、人間通の賢者はそれをよく知つていた。イプセンだつて、『野鴨』では正義漢を激しく批判したが、『民衆の敵』では孤高の正義漢を熱心に稱えたのである。わが夏目漱石だつて同じであり、單純で痛快た『坊つちゃん』のような正義漢ばかりを漱石は描いたのではない。そして晩年の漱石は『道草』の主人公健三にこう呟かせた、「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない」。 
9.純眞な子供の「無知」を破壞しろ

 

モーム『雨』
醫師マクフェイル夫妻と牧師ディヴィドソン夫妻の乘つた船が、南洋の港パゴパゴに入港した。目的地のエイビアでは惡疫が流行していて、船はパゴパゴに二週間留まらなければならないこととなる。ディヴィドソンたちがやむなく滞在することになつた宿に、サディ・トムソンといふ名の娼婦がいて、連日船員を連れ込み、蓄音機をかけ、どんちゃん騒ぎをする。牧師ディヴィドソンはそれをやめさせようとして、娼婦にビールを浴びせかけられる。が、それしきのことに驚くような牧師ではない。「あの女にだつてやはり亡びない魂はある」と彼は頑に信じ、懸命に娼婦を更生させようとする。娼婦の魂を救おうとする牧師の執念はすさまじく、そこにはもはや善意の片鱗もうかがえない。
「さあ、いよいよ鞭だ。主イエスがあの神殿から金貸しや、兩替屋を逐い拂つたあの鞭だ」。そう呟く時のディヴィドソンはまるで惡魔のように殘忍になつてゐる。
やがて、その殘忍なまでの情熱が効を奏し、ある日、娼婦は牧師の足元に身を投げ、涙ながらに更生を誓うのである。やはり「亡びない魂」はあつたのであり、一見度し難いほどのあばずれを立ち直らせた「歓喜に圧倒され」て、牧師は醫師マクフェイルに言ふ、「一つすぐに行つてサディを御覧になりませんか?身體の方は別に變りもないでしょうが、彼女の魂ですねえ−魂がすつかり別人になつてますから」。
その後三日間、牧師は更生した娼婦の部屋で、終日聖書を讀み、彼女と共に神に祈る。娼婦はもはや口紅もつけていない。が、四日目の朝、海岸で牧師は死體となつて横たわつていた。殺されたのではない。彼は咽喉を剃刀で斬つて自殺したのである。死體檢分をすませた醫師マクフェイルが宿に戻つて來ると、蓄音機がやかましく鳴つていて、娼婦サディが戸口に立つていた。娼婦はマクフェイルを見るや、ぺつと唾を吐き、こう叫んだのである、「男、男がなんだ。豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の貉だよ、お前さん達は、豚!豚!」
つまり、牧師ディヴィドソンは娼婦の魂をいつたん救いはしたものの、その肉體に手をつけて自滅したのである。牧師の失敗を執拗に降り續く雨のせいにする何とも馬鹿げた解釋をする批評家もいるらしい。人間を知らぬ學者馬鹿の解釋である。
むしろ、娼婦の肉體に魅せられたからこそ、彼はあれほど熱心に娼婦を救おうとしたのではないかと、さういふことを考えてみるほうが面白い。なるほど、作者サマセット・モームは牧師に對し批判的で、醫師マクフェイルに對しては同情的だが、マクフェイルのような常識家の中庸が何事においても抜本的な解決になるものでもない。
情熱は常に幾分かの狂氣を合む。そして、更生した娼婦のしおらしさが牧師の肉欲を促したとしても、それはなんら不思議ではない。それに、娼婦サディは元の木阿彌になつたわけではない。牧師の情熱に圧倒され、男のすべてが豚とは限らないと、一時にせよ彼女は思ひ込んだわけであつて、それで彼女がまるきり損をしたことになるはずはない。裏切られたとはいえ、すなわち「騙されて幸福」だつたのは一時だつたとはいえ、彼女が一時牧師を信じたといふ事實を消すことはできない。牧師の思ひ出は一生サディに付き纏うであろう。そしてそれが將來サディを救うか救わないか、それは誰にもわからない。が、牧師はサディのために何かをなしたのである。それだけは確實である。 
子供の無邪氣を壞す教師の樂しみ
最近中學生の校内暴力が話題になつてゐる。教育學者はそれを嘆いて、いや、嘆くふりをしてせつせと處方箋を書いて金儲けをしてゐる。だが、子供を教育しようとする衝動を純然たる善意だと思ひ込んでいる手合ばかりだから、彼らの處方箋が役に立つはずはない。シオランによれば、今なおこの地球上には、足手纏いになる老人を食つてしまうすこぶる合理的な蛮族がいるといふ。さういふ野蛮な風習をやめさせたいと願う文明人の衝動ははたして善意かと、シオランは疑うのである。教育衝動も同じことで、子供の無知ゆえの無邪氣や純情を粉砕するのが、教師のつとめなのである。子供はいずれ必ず大人になる。大人になつても無邪氣といふことでは困る。子供の無邪氣を粉砕する殘忍な樂しみに衝き動かされて、ディヴィドソン牧師のように、つい教師は熱心になるのかもしれない。 それはあまりに偽惡的た解釋だと、大方の教師は言ふであろう。しかし、私はかつて教育論の偽善について書いたことがある。非行少女に説教する男の教師が、少女の肉體に眩惑されるといふことはある、必ずある、それを認めたがらない教育論はすべて役には立たないと、さういふ意味のことを書いたことがある。女生徒の肉體に眩惑されて手をつける教師がいる。手をつけない教師も、女生徒の精神に手をつけ、純情ないし無知を破壞する樂しみを味わうであろう。教育とは子供の「無知を破壞する」ことなのだ。
それゆゑ私は、子供の無邪氣を美しいと思ひ、自分の醜惡をうしろめたく思ふような教師を一切信用しない。かつて大學紛爭はなやかなりし頃、親のすねをかじつてゐるからこそ氣樂に正義感に驅られる學生の純眞を、うしろめたく眺めた愚かな教師がたくさんいたのである。いやいや、今だつてたくさんいる。例えば小此木啓吾氏はこう書いてゐる。
現代は(中略)自分の主觀的善意の信じられない時代になつてしまつてゐる。(中略)全く思ひがけない他人への加害で、責められたり、嫌われたりすることへの不安が、いつの間にか私たちをとらえてゐる。(中略)この自覺していない自らの棘に氣づかぬ大人たちの自己欺瞞を告發し、現代的な被害者、加害者の論理を人々の心に浸透させたのが、一九六〇年代から七〇年代にかけて、わが國の大學紛爭の中で爆發的に顕在化した心情主義的運動であつたと思ふ。(中略)そして、學生たちが展開したこのサルトル流の自己欺瞞からの解放運動は、加害者として告發されて衝撃を受けた教師たちの心に、今もなお深い心の痛手を殘してゐる。(『モラトリアム人間の時代』)
「自分の主觀的善意の信じられない時代」は今に限らない。いつの時代にも、「全く思ひがけない他人への加害で、責められたり、嫌われたりすることへの不安」はあつたのである。娼婦サディを更生させようとしたのは、最初のうちは牧師の善意だつたはずである。それなのに、娼婦の肉體に手をつけるといふ、「全く思ひがけない他人への加害」によつて、牧師は娼婦に「責められ」、剃刀で咽喉を斬つて自殺した。
小此木氏のように、深刻な處方箋を書く極樂とんぼには理解できないだろうが、教育とは盲人が盲人を手引きするようなものなのである。「彼らを捨ておけ、盲人を手引きする盲人なり、盲人もし盲人を手引きせば、二人とも穴に落ちん」とイエスは言つた。ディヴィドソン牧師も盲人であつた。目明きではなかつた。それゆゑ、ディヴィドソンも娼婦サディも共に「穴に落ち」たのである。
だが、いかに人格高邁な教育者も、所詮は人間であつて完全ではない。すなわち、非行少女に説教する教師が、少女の肉體に眩惑されるといふことは必ずある。教育とは盲人が盲入を手引きすることであり、教師だけが百八煩惱を脱した聖識者であるはずがない。
ところが、まことに奇妙なことに、自民黨も共産黨も、教師は聖職者であるべきだと思ひ込んでいるらしい。笑止千萬の迷信である。 
教師の「ブルービデオ上映事件」のてんまつ
例えば昨年、奈良市の小學校で、校長と男の教師六名が、「白晝、ブルービデオを教室で“上映”」するといふ事件がおこつたが、奈良市の教育委員會は「ひそかに關係者を處分」したといふ。『週刊新潮』によれば、その「ブルービデオテープは、學校に出入りしてゐる大和郡山市内の電器業者が校長に贈つたもので、終業式前日の三月二十三日、校長の誘いで理科準備室に集まり、教室のテレビで約五十分にわたつて上映した」のだが、「たまたま、教材を戻しに來た若い女子教諭が知らずにドアを開け」、發覺してしまい、校長は諭旨免職處分、六人の教諭は文書戒告處分になつたそうである。けれども、校長は教育委員會、教師仲間、及び父兄には評判のよい男であつた。
ところが『週刊新潮』は「いかに評價が高かろうと、白晝、教室でブルービデオを見るなどもつてのほか」だと書いたのである。天邪鬼の『週刊新潮』でさえ、さういふ紋切型を言ふ。それゆゑ、こういふことを言へば怒る讀者もあるだろうが、「たまたま、教材を戻しに來た若い女子教諭」が騒ぎ立てたのは、まつたくもつて愚かしい行爲だつたと、私は思ふ。婦人警官はすこぶる杓子定規で、容赦なく交通違反を咎め、決して情状を酌量することがないといふ。思ふに、「知らずにドアを開け」た女教師も、聖職者たる教師が何たることと、柳眉を逆立て情状を酌量しなかつたのであろう。愚かしいことである。
校長と六人の教諭がなぜ學校を去つたか、その眞相を小學生はいずれ必ず知ることになる。そして、眞實を知ることが子供たちを益するといふ保證はどこにもない。「騙されて幸福」といふことがある。眞實を知らされないほうが、子供たちにとつて仕合せではないかと、さういふことを淺はかな女教師は考えなかつたのである。            けれども、私は奈良市の校長を辯語してゐるわけではない。白晝、校長が教室でブルービデオを見るとは言語道斷のこととして憤激する、さういふことは「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない」といふことを理解できない馬鹿でもやることではないかと、それが言ひたいにすぎない。 
宦官による宦官のための教育論
教師は聖職者ではない。日教組は「教師は人類愛の鼓吹者、生活改造の指導者、人權尊重の先達として生き、いつさいの戰爭挑發者に對して、もつとも勇敢な平和の擁護者として立つ」と『教師の倫理綱領』に言つてゐる。一方、『教育基本法』には「われらは、さきに、日本國憲法を確定し、民主的で文化的な國家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の實現は、根本において教育の力にまつべきものである」とある。ともに綺麗事であつて、政治家の國會答弁と同樣、美辭麗句にすぎない。『教師の倫理綱領』も『教育基本法』もいずれ人間について無知な教育學者が書いたものだろうが、さういふ學者馬鹿の心にもない綺麗事と、例えばモームの『雨』に描かれた聖職者ディヴィドソンの執念及び挫折と、兩者の間には何と大きな懸隔があることか。
うろおぼえだから正確な引用はできないが、かつて女子學生を強姦したとして、青山學院大學の春木教授が訴えられ逮捕された頃、三浦朱門氏が、「眞實、學問が好きで、教授を尊敬してゐるのなら、女子學生が教授と懇ろな仲になつて何が惡いか」と書いたことがある。まつたく同感だが、人間に通じていない學者馬鹿はこういふことを口が裂けても言わないのである。それゆゑ私は學者の書く教育論を一切信用しない。おのれの中にも間違いなく春木教授がいて、自分もいつ何時ディヴィドソンの二の舞にならないとも限らないと、さういふことを考えない手合の教育論は宦官による宦官のための教育論である。三度の飯より學問が好きな女子學生が、はたしてこの日本といふ國に存在するかどうかは、この際問わないとして、女子學生が教授と懇ろな仲になることをひたすら警戒するならば、教授のほうでもまともに付き合う氣にはなれないであろう。先に引用した齋藤隆介氏の『職人衆昔ばなし』に出てゐる話だが、鋸目立職の土田一郎氏は、「十三歳の頃から大工道具集めに凝り」、十四歳の時、鉋鍛冶の名人だつた千代鶴是秀氏に會い、當時六十九歳だつた千代鶴翁にすつかり傾倒したといふ。土田氏はこう語つてゐる。
あれから、八十四歳で亡くなつたお爺さんと病床でビールの別れの杯を交すまで、十六年間に私、三千囘は會つてるでしょう。お爺さんはもつと若い頃は象牙の義齒をしていたんだそうですが、私が足繁くお目にかかつていた頃は貧乏してそんなものもありませんでした。
上二枚、下二枚しか齒のない口で喋る話なので一度では分らず、二度聞いてようやく分つても今度はその意味の深さが理解出來ない。何度か聞いてゐるうちにやつと分つて胸に落ちる。それを大事に頭の藏にしまつておく。ひと頃はほとんど毎日通いました。
この爺さんから秘傳を授けてもらうしかないと思つたから、土田氏は十六年間に三千囘も千代鶴是秀に會つた。三千囘も會つて懇ろな仲になつた。そしてまた、秘傳を授けてくれるのはこの爺さんしかないと信じていたから、「上二枚、下二枚しか齒のない口で喋る話」を、全身これ耳、眞劍に聽いたのである。もとより私は今や遊園地となつた大學の女子學生の眞劍なんぞを信じてはいないが、教授と「十六年間に三千囘も」會つたら、懇ろな仲とならないほうが不思議ではあるまいか。 
10.簡單明瞭な道理が理解できぬ「複雜人間」

 

モーパッサン『脂肪の塊』
普佛戰爭はフランスの敗色濃厚、プロシア軍に占領されたルーアンから脱出しようとする人人を乘せた一臺の馬車が、ある日、フランス軍の駐留してゐるル・アーヴルヘと向かつた。馬車には葡萄酒卸商、縣會議員、そして伯爵が、いずれも夫婦づれで乘つていたが、その他に二人の修道女と、ひとしきり「みんなの視線を集め」た男と女がいた。男は「身分の高い人たちの恐怖の的」である民主主義者のコルニュデ、女はブール・ド・シュイフ(脂肪の塊)といふ綽名の太つた愛くるしい娼婦であつた。
雪のため馬車は晝食をとる予定のトートにはなかなか着かず、一行は空腹に苦しむが、唯一人食物を用意していた氣立てのよい娼婦のお蔭で急場をしのぐことができた。それまで皆は彼女を大いに輕蔑していたのだが、それをきつかけに娼婦と親しくなり、彼女のプロシア兵相手の勇ましい振舞を知つて、その愛國心の強さに感心する。
その夜はトートに泊まつたが、翌朝、一行はプロシア軍の隊長に出發を阻止される。ブール・ド・シュイフが飜意しない限り出發は許さないといふのである。だが、「飜意」とは一體どういふことか。作者モーパッサンの文章を引こう。
みんなはブール・ド・シュイフを取り囲んで質問し、例の士官訪問の秘密をぶちまけてくれと頼んだ。初めは首を振つていたが、やがて激昂のあまり叫んだ。−「あいつの考えてゐること?・・・・・・あいつの考えてゐること?・・・・・・あたしと一しょに寢たいんですとさ」。ぶしつけな言葉だつたが、氣を惡くするものは一人もなかつた。それほどみんなの憤慨は激しかつた。コルニュデはコップを亂暴にテーブルヘもどした拍子に、コップをこわしてしまつた。それは卑しい軍人に對する彈劾の叫びであり、憤怒の吐息であつた。(中略)ああいう連中は大昔の野蛮人式に振舞うのだと、伯爵は噛んで吐き出すようにいつた。婦人連は別してブール・ド・シュイフに力強い愛撫的な同情の意を表した。
が、翌日になると娼婦に對して「どことはなしに冷淡な空氣がかもし出され」、さらにその翌日は、「あのみじめな女の手足を縛り上げて敵の手に渡そう」と言ふ者も出て來る。いつまでも汚い旅籠屋に滞在するわけにはゆかないし、それに何より、早く出發しないとここトートが戰場になる危險もある。そこで一同は策略をめぐらし、娼婦の飜意を促し、遂に隊長のもとへと追いやるのである。
ブール・ド・シュイフと寢たプロシアの隊長は、翌朝、一行の出發を許す。馬車はトートの町を出る。が、皆はブール・ド・シュイフを「まるでスカートに病毒を仕込んできたとでもいわんばかりに」取り扱い、食事どきになつても、何の用意もできずに乘り込んだ娼婦に食物を分けてやるどころか、聲を掛けてやろうともしない。娼婦は泣き出す。するとロワゾー夫人は言ふのである、「恥かしいことをしたといつて泣いてゐるわ」。
だが、乘客はなぜ恩人とも言ふべき娼婦の善意を踏みにじつたのか。賣春婦に救われたといふ事實が不快なのであろうか。そうではない。トートに着く前、食物を分けてもらつた時、彼らは皆娼婦に感謝し、彼女の愛國心に感心したのである。プロシア士官の要求を知つた時も、「婦人連は別してブール・ド・シュイフに力強い愛撫的な同情の意を表した」のである。
つまり、皆が娼婦を「尊敬」したのは彼女の愛國心に打たれたからであり、それは無論、彼らの愛國心のなせる業にほかならない。だが、娼婦を飜意さすべく懸命になつてゐる時の彼らにもはや愛國心はない。彼らはおのが生命のことしか考えていない。愛國心などといふものは、通常、その程度のものでしかないのである。自分の命を救うかそれとも國を救うかとの選択を迫られれば、大抵の人間はおのが命のほうを選ぶ。  
土壇場ては誰しもエゴイストになる
アイヒマン裁判を論じたハンナ・アレントの著書の一節を引いてノーマン・ポドーレツが書いてゐることだが、「ナチスはユダヤ人絶滅計畫を遂行するためにユダヤ人の協力を必要とし、そして實に異常なほどの協力を受け」た、そしてユダヤ人でありながら、ナチスに協力してユダヤ人を裏切つた手合は「新しい權力を享受した」といふ。
要するに、平時において愛國心を云々するのはたやすいことなのだが、人間は皆エゴイストなのだから、切羽詰れば自分の身の安全しか考えはしないのだと、少なくとも、そう考えておくことが必要である。人間は皆エゴイストであつてよいと私は言ふのではない。ディエップに向けて走る乘合馬車の乘客が、ブール・ド・シュイフの純情を眩しいと思はず、自分のエゴイズムの醜惡をうしろめたく思はないのは許し難いのである。ブール・ド・シュイフは馬車の中で泣き續ける。が、讀者は例外なしに娼婦の純情と愛國心を稱えるであろう。けれども、悲しいことだが、平時、書齋で『脂肪の塊』を讀み、ブール・ド・シュイフに同情する讀者の全部が、切羽詰つた時、ブール・ド・シュイフのように振舞うとは限らない。そして、身分職業の貴賎や教養の有無は愛國心とはほとんど無關係なのである。
それゆゑに私は、平時に「ひたすら國を愛す」と廣言する手合を、いわゆる「憂國の士」を全面的に信用しないようにしてゐる。のちに觸れるが、D・H・ロレンスは一見すこぶる「清純」なエドガー・ポウの「愛の小説」を「すこぶる猥褻」と評した。
私は三島由紀夫の『憂國』は「すこぶる猥褻」だと思ふ。あれはポルノだと思ふ。その理由を今は詳述しないが、例えば、森鴎外が『津下四郎左衞門』を書いていた時、鴎外は津下四郎左衞門にも、津下が殺した横井小楠にもあやかりたいと思つていたのである。けれども三島は、『憂國』の主人公である青年將校とその妻に溺れきつてゐる。作中人物に「あやかりたい」と思つてゐる鴎外は、自分が津下でも横井でもなく、津下にも横井にもなりきれないことを重々承知して書いてゐる。が、三島は自分が青年將校になつたつもりで陶酔して書いてゐる。それゆゑ、もしもロレンスが『憂國』を讀んだなら、「これは自慰である、すこぶる猥褻である」と評するにちがいない。
要するに、平時に愛國心に溺れるのは多少いかがわしいのであつて、「人間は皆エゴイストなのだから、切羽詰れば自分の身の安全しか考えない」。さういふ苦い眞實を忘れてゐる憂國の言論には、「内なるオキナワ、内なる金大中」とか、「世界は一家、人類は兄弟」とかいう偽善の言論に對する場合と同樣、眉に唾をつけて接したほうがよい。
さういふことを考えながら、次に引用する小林秀雄氏の文章を讀んでみるとよい。これは戰時に書かれた文章なのである。
戰が始まつた以上、何時銃を取らねばならぬかわからぬ、その時が來たら自分は喜んで祖國の爲に銃を取るだろう、而も、文學は飽く迄も平和の仕事ならば、文學者として銃を取るとは無意味な事である。戰うのは兵隊の身分として戰うのだ。銃を取る時が來たらさつさと文學など廢業してしまえばよいではないか。簡單明瞭な物の道理である。現代の知識人には、簡單明瞭な物の道理を侮る風があるが、簡單明瞭な物の道理といふものが、實は本當に恐いものなので、複雜精緻な理論の嚴めしさなぞ見掛け倒しなのが普通であります。人間だつてそうだ。單純率直な人間が恐いのだ。尤も、それには、所謂複雜な心の持主といふ樣な近代文學者の愛好する人間タイプの退屈さ無力さが、身に沁みて解つて來なければ駄目なのでありますが。
さて、一文學者としては、飽くまでも文學は平和の仕事である事を信じてゐる。一方、時到れば喜んで一兵卒として戰う。これが、僕等の置かれてゐる現實の状態であります。何を思ひ患う事があるか。戰に處する文學者としての覺悟などといふ質問自體が意味を成さぬ。さういふ質問が出るといふ事が、そもそも物を突き詰めて普段考えておらぬ證拠だと思ひます。僕の言ふ樣な考え方は、矛眉してゐるではないかと言ふかも知れないが、世の中を矛宿なく渡ろうといふ考えの方が餘程お目出度い考えではありませんか。そしてお目出度い事だと、本當に腹に這入れば、矛盾も決して矛盾ではないのであります。 
第三章 愚者の蜜を吐け

 

11.戰爭はなくせるといふ「平和屋」の馬鹿  
フローべール『聖ジュリヤン傳』
ジュリヤンの父親は領主で、「丘の中腹の、森にかこまれた城」に住んでいた。母親は「色白く、やや氣位の高い眞面目な」女であつた。ジュリヤンがうまれた時、母は夢を見た、「粗末な僧衣をまとい、脇には數珠をさげ、肩には乞食袋をかついだ」隠者が、「御子息は聖者になられますぞ」と枕もとで囁く、さういふ夢だつた。いや、それは夢かうつつかわからぬ出來事だつたのである。
一方、ジュリヤンの父親も幻影を見た。霧の中に一人の乞食が立つてゐるのを見た。乞食がとぎれとぎれに言つた。「ああ、御子息は・・・・・・多くの血・・・・・・多くの譽れ・・・・・・絶えず幸福に・・・・・・帝王の御身内・・・・・・」と言つた。
夫婦はたがいに奇怪な出來事を隠して語らなかつた。けれども「ジュリヤンには限りない心を注いだ」。
ジュリヤンが七歳になると母は歌を、父は馬術を教へ、そして「學問の深い老僧が聖書やアラビア數字やラテン學を教へ」た。父はジュリヤンが將來立派な武人になるだろうと思ひ、母は大司教になるだろうと思つた。だが、ある日、ミサの最中、ジュリヤンは、壁の穴から、一匹の白い小鼠が出てくるのを見つけた。次の日曜日、「またあの鼠が出てくるだろうと考えると」、ジュリヤンは落ち着かなかつた。そしてやがて鼠が「憎らしくなつて、退治てやろうと決心し」、次に鼠が姿をあらわした時、ジュリヤンは鞭で叩き殺した。
鼠の次は小鳥であつた。蘆の筒を吹矢にして小鳥を射落とすのである。思ひどおりに命中するのが樂しかつた。うれしくて笑わずにいられなかつた。鳩に石を投げ打ち落としたこともある。死にきれずに「體をぴくぴくさせて」いる鳩の首を絞めると、「鳩の體が痙攣するのがジュリヤンの胸をときめかせ、體のうちに血の湧くような、生々しい快感をそそつた」。
父親から狩猟の技を教へられ、やがてジュリヤンは鷺や鷲や鴉やはげ鷹を獲るようになる。猟犬を使つて鹿も獲つた。「湯氣の立つ皮から引きちぎつて鹿の肉を食べる韃靼犬の狂暴なさまを眺め」るのは「いい氣持」であつた。 
こうしてジュリヤンは次第に「野獸のよう」になり、雨の日も風の日も狩に出かけ、熊を刺し、野牛を殺し、猪を屠つた。狼の群とも渡り合つた。
けれどもある日、仔鹿をつれた牡牝の鹿が眼にとまり、仔鹿を射殺したところ、母鹿は「天を仰ぎ、深い、悲痛な、人間のような叫びをあげた」。ジュリヤンは母鹿を射殺した。以下、作者フローベールの文章を引く。
牡鹿はこれを見て、跳びあがつた。ジュリヤンはそれへ最後に殘る矢を放つた。矢はその額にあたつて、ぐつと突きささつたままである。牡鹿はそれを物ともせぬとみえた。死骸の上を踏み越えて、ぐんぐん近づき、ジュリヤンに向つて飛びかかり、突きたてようとした。ジュリヤンは言ひしれぬ恐怖に後ずさりした。(中略)鹿は立ちどまり、焔のように眼を輝かし(中略)三度繰返した。「呪いあれ!呪いあれ/呪いあれ!猛々しい奴め、いまに自分の父を殺し、母を殺すぞ!」
以來、ジュリヤンは「武器を恐れ」るようになり、いまに自分はきつと父母を殺す羽目になると考え、家を出てしまう。家出して野武士の群に身を投じ、一軍の將となり、オクシタニアの皇帝を救い、その娘と結婚し、もう戰爭も狩猟もやらず平和に暮らすこととなつた。が、ある日、ジュリヤンの留守中に、父母がたずねて來る。愛する息子に會いたさに、「漠然とした手がかりをたどつて」、無一文の乞食同然となりながら數年間歩きつづけ、やつと息子の居場所を突き止めたのである。ジュリヤンの妻は「自分の寢床に二人を寢かせて、窓を閉めた」。
翌朝、ジュリヤンが戻つて來て、妻の寢室へ入る。ベッドに二つの頭が並んでいる。その一人は男だ。「男だ!妻といつしょに男が寢てゐる!」。ジュリヤンは短刀で二人を刺し殺す。つまり、彼は父と母を殺してしまつたわけである。
ジュリヤンは館を飛び出し、乞食になる。「人氣のないところを求め」さまようが、「夜ごと、夢のなかでは、親殺しがくりかえされ」るのであつた。鐵釘を縫い込んだ苦行衣をまとい、「さまざまな危難のなかに身をさらし、火事の中から中風の老人を助けだし、淵の底から子供を救つた」りもした。だが、苦しみは一向に癒えず、死ぬ決心をしたくらいであつた。
ところが、ある夜、ジュリヤンは癩病の男に會う。身體中かさぶただらけ、「骸骨のように、鼻のところが穴になつて」いる。癩病患者に「腹がすいた」と言はれるとジュリヤンは食物を与え、「寒氣がする」と言はれると自分の寢床に寢かせ、「温めてくれ」と言はれると、裸になつて抱いてやり、「ああ、死ぬ!温めてくれ、體ごと!」と言はれると、「ジュリヤンは、口に口、胸に胸を押しあてて、その上にぴつたりとかぶさつた」。 すると、「癩病の男はジュリヤンを抱きしめた。その眼はたちまち星の光を放ち、髪は日輪の光芒のごとく伸びた。(中略)溢れるばかりの歓喜、人の世ならぬ法悦が、氣を失つたジュリヤンの心のなかに、洪水のように押し寄せた。そして兩腕にジュリヤンを抱きしめてゐる人は、しだいしだいに大きくなつて、(中略)ジュリヤンは、自分を天に連れて行く我が主イエス・キリストと相向つて、青々とした空間に昇つた」のである。 
人を殺すのも人間の性である
アルベール・ティボーデの言ふように、われわれはジュリヤンの運命に「ただ超自然的恩寵によつてしか洗い清められるすべのない人類全體の姿をみとめる」のである。つまり、われわれにとつて殺すことは快樂なのであり、それは、「われわれ人間一般の性」なのだ。そして「悔悛の強さと流された夥しい血」が均衡を保つ限り、ジュリヤンの生は、いやわれわれの生は、「存在するに價する生」となる。以下ティボーデの文章を引用するが、『まごころ』のフェリシテを思ひ出しながら、ゆつくり讀んでもらいたい。
『聖ジュリヤン傳』と『まごころ』は、ともに同じ宗教的・キリスト教的リズムのなかでとらえられ、誠實にまた率直に内面の欲求に應じた作品である。(中略)この二つの作品はいずれも勝利と安らぎにむかう。フェリシテの死もジュリヤンの死も、ともに《存在するに價した生の完遂》である。彼らの死の床にあらわれる力は光の力であり、フローベールが盲人の姿に託してエンマ・ボヴァリーのかたわらに、彼女の劫罰と敗北の生の象徴としておいた、あの闇の力とはまつたく反對のものである。なぜならフェリシテの生もジュリヤンの生も、エンマの生とは反對に勝利の生なのだからだ。しかもそれは《人間性の兩端、これを等しく包含することがキリスト教の勝利であるような兩端》において、勝利をしめてゐるのだ。フェリシテの生が《もつとも單純な生》の典型であるのに、ジュリヤンの生は《もつとも悲劇的な生》の典型である。フェリシテの生は、《歴史をもたぬ生》と言へばうまく言ひあらわされるだろう。ドリュモンはそのことをこう書いてゐる。「その間王位が二度三度と崩れていつたこの六十年を、ちょうど深い安息にある腔腸動物が恐しい嵐にも亂されないように、このこころやさしい女は、動揺することもなく過していつた」。これに反して、父と母を殺す運命にあるジュリヤンの生は悲劇的な生であり、(中略)彼を悲劇の斜面に轉々させるあの弑逆の運命に、われわれは、この運命を體内に有し、ただ超自然的恩寵によつてしかこれから洗い清められるすべのない人類全體の姿をみとめるのだ。二十日ねずみの血を流すことからはじまつて、ついには二親を殺害するに至るまで、ジュリヤンは宿命の渦に卷きこまれていくのだが、この渦は彼の性そのものであり、またわれわれ人間一般の性であるがゆえに、彼を離すことはないだろう。一方には下降してゆく斜面があり、また一方には上昇してゆく斜面がある。殺戮をおかした人間のあとには自分をあたえる人間があらわれ、《悔悛の強さと流された夥しい血は均衡を保ち、恩寵にみちた秤が殺戮にみちた秤を次第に償つてゆき、そしてその上にイエス・キリストに身を變じた癩者が、聖者と化した罪人を伴つて昇天してゆく。
フローベールもティボーデもクリスト教國の文學者である。それゆゑ彼らにとつてフェリシテの一生のような「もつとも單純な生」も、ジュリヤンのそれのような「もつとも悲劇的な生」も、ともに「勝利の生」とみなされる。フェリシテの一生は「歴史をもたぬ生」であり、「王位が二度三度と崩れ」ようと、「こころやさしい」フェリシテの生き方には何の影響も及ぼさない。彼女の一生は「カイゼルのもの」すなわち政治とは何の關りもない。彼女の献身の對象は、オバン夫人であり、ポオルであり、ヴィルジニーであり、甥のヴィクトールであり、最後は剥製の鸚鵡であつて、イデオロギーではない。彼女のような人間にとつて、國家の組織形態なんぞはおよそ問題にならない。君主政治が行われていようと、民主政治が行われていようと、フェリシテの「まごころ」に何の變化もありはしない。それは誰しも認めざるをえないことだろうと思ふ。そしてクリスト教はフェリシテの一生のような「もつとも單純な生」を、「勝利の生」とみなすのである。
では、森鴎外の描いた美濃部るんはどうであろうか。るんも献身の一生を過ごした。それなら、るんの一生もまた、フェリシテのそれと同樣、「存在するに價した生」であつたと言わねばならない。「封建時代の愚かしい女の、愚かしい忍從の一生」だなどと斷じて言ふわけにはゆかないのである。
だが、ここに一つ難問がある。フェリシテや美濃部るんのように生きることが立派だとして、それなら獨裁者が君臨する國家において、彼女たちのように政治には全く無關心に生きることははたして善いことであろうか。けれども、この難問については、ジョージ・オーウェルの『動物農場』について語つた際にとくと考えた。それゆゑ、ここでは繰り返さない。  
ライオンはライオンを、虎は虎を殺さない
次にティボーデの文章がわれわれに教へるのは、「人間性の兩端」を「等しく包含することがキリスト教の勝利」だといふ点である。ジュリヤンは、死にきれずに「體をぴくぴくさせて」いる鳩の首を絞め、「血の湧くような、生々しい快感」を體驗する。すでに述べたように、人間は殺すことの快樂を知つてゐる。四年前、滋賀縣の中學生が「寢てゐる仲間のノドをかき切つて殺し、あるいは腹を刺し、木刀でめつた打ちにする」といふ事件があつた。その事件について『週刊朝日』の記者はこう書いた。
ごく普通といえる中學生が、仲間同士のスジを通すために、あるいは根性を見せるために、何のためらいもなく殺人に突つ走る、といふのは確かに大人の理解を超えてゐる。恐るべき短絡である。なぜか。學校も、警察も、本人たちも父兄も、この問ひに答えられる者はいない。(『週刊朝日』昭和五十三年三月三日號)
フローベールの『聖ジュリヤン傳』の讀者は、「この問ひに答えられる」と思ふ。子供であろうと大人であろうと、人間には殺戮を快とする本能がある。ライオンも虎も飢えた時には鹿や兎を殺す。けれどもライオンはライオンを殺さない。虎は虎を殺さない。ライオンも虎も、飢えをいやすべく殺すのであり、殺すことを快として殺すわけではないからだ。しかも、「スジを通すために、あるいは根性を見せるために」同類を殺すのは人間だけなのである。
しかし、人間がそうして殺すことの快に溺れ殺戮を繰り返しても、「流された夥しい血」と「悔悛の強さ」とが「均衡を保」つならば、その「悲劇的な生」は「勝利の生」となる。フローベールもティボーデも、そう主張してゐるわけである。
いや、それはフローベールやティボーデに限らない。クリスト教國の文學者は、いや文學者のみならず政治家も軍人も、聖職者も俗人も、「流された夥しい血」と「悔悛の強さ」が「均衡を保」つならば、いかに「悲劇的」ではあつてもそれを「勝利の生」として是認する。シェイクスピアの『マクベス』に感動したエリザベス朝のイギリス人も、フォークランド戰爭を支持する現代のイギリス人も、正義ゆえに「流された夥しい血」、あるいは「悔悛の強さ」と「均衡を保」つ「夥しい血」を是認するのである。
けれども、さういふことがわれわれ日本人には最も理解し難い。『週刊朝日』の記者は「スジを通すために、あるいは根性を見せるために」同級生を殺した中學生について「大人の理解を超えてゐる」と書いた。フォークランド戰爭も、イラン・イラク戰爭も、「スジを通すため」あるいは「根性を見せるため」の戰爭だが、いずれも大方の日本人の「理解を超えてゐる」。それゆゑ、例えば『東京新聞』の社説は、「國際世論の圧力でアルゼンチンに撤退を促し、交渉解決に導くことが、大國たる英國のとるべき道ではなかつたか」などと書いたのである。だが、ベトナム軍がカンボジアヘ攻め込んだ時も、ソ連軍がアフガニスタンヘ攻め込んだ時も、「國際世論の圧力」なんぞ何の役にも立たなかつたではないか。
要するに平和憲法を遵守するわれわれ日本人は、正義ゆえに流される「夥しい血」を是認できないのである。それゆゑ、いかなる屈辱をも甘受して「スジを通す」などといふことはせず、「根性を見せる」こともせず、ひたすら諸外國の「公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと」考えてゐる。つまり、われわれにとつて大事なのは「安全と生存」であつて「公正と信義」ではない。「公正と信義」のほうは人任せでやつてゆくと、わが憲法は明言してゐるのである。それゆゑ、著名な國際政治學者が次のように書き、誰もそれを怪しまないといふことになる。
いずれにせよ、安全保障の根本問題は、有事のさい、その國民の大半が《守るべき中核價値》と信じてゐる上位の價値を守るため、それよりも下位とされてゐるものを一部、犠牲に供する、といふ手段の選択をともなうことである。たとえば、あの軍國主義日本ですら、戰爭末期、國家主權の獨立や國體の誇りすら放棄するといふ民族的《屈辱を甘受》して、本土決戰をあきらめ、國民の《生存と將來を優先》させた。
言ふまでもなく「スジを通す」ためには「守るべき中核價値」を所有していなければならない。が、永井氏によれば、日本人にとつての「中核價値」は「國家主權の獨立や國體の誇り」ではなく、國民の「生存と將來」なのだ。無論、日本國の首相は知らず、自國民の「生存と將來」を考えぬ指導者はいない。が、「國家主權の獨立や國體の誇り」を放棄してまでも、「生存と將來を優先させ」ることをよしとする指導者もまたいない。ソクラテスが言つたように、長く生きることよりもよく生きることのほうが大切だからだが、さういふことを今日の日本人はまるきり理解しない。日本人の「中核價値」は長生きして贅澤をすることだからである。けれども、フローベールもティボーデも、フェリシテのように生きることと同樣に、ジュリヤンのように生きることをも立派だと考えてゐるのであり、長生きしようと努力することが「中核價値」を守ることだなどとは考えていない。「屈辱を甘受して生存と將來を優先させ」るよりも、彼らは「夥しい血」を流すことを選ぶ。ポートスタンリー決戰の迫つた去る六月十二日、イギリスのパーキンソン保守黨全國委員長は「きわめて近いうちに、われわれは、もつと多くの死傷者を出す激しい戰鬪を覺悟しなくてはならない」と語つた。(『朝日新聞』六月十三日付朝刊)また、レバノン侵攻を前にしてイスラエルのベギン首相も、「時として息子たちを戰場に送り出すことを決斷しなければならない。それがイスラエルの親といふものだ」と語つた。(『サンケイ新聞』六月十三日付朝刊)フローベールやティボーデと同樣、パーキンソンもベギンも、流血囘避を最優先に考えはしないのである。フローベールはフェリシテの献身を、悔悛したのちのジュリヤンのそれと同樣に、見事だと思つてゐる。けれども、癩病の男を抱くジュリヤンの見事は殺戮の快をくぐりぬけた男の見事であり、フローべールはそれをも、すなわち殺戮の快をも見事だと思つてゐる。ティボーデの言ふように、その双方が「人間性の兩端」であり、その兩端を「等しく包含することがキリスト教の勝利」だと信じてゐるからである。さういふ手合を、すなわちフローべールやティボーデやパーキンソンやペギンのような人間を、この地上から一掃しない限り戰爭を根絶することは決してできないであろう。 
12.「性善・性惡説」では割り切れない人間の性

 

ドストエフスキー『貧しき人々』『地下生活者の手記』
五十歳ばかりになる貧しい下級官吏、マカール・ジェーヴシキンは、遠縁にあたるみなし子の娘ヴァルヴァーラの不幸な境遇に同情、あれこれ助力の手を差し伸べる。ペテルブルグの下宿に住まわせ、自分もその近所に部屋を借り、頻繁に手紙をやり取りし、何くれとなくヴァルヴァーラの面倒を見るのである。ヴァルヴァーラはマカールの親切に心から感謝しつつも、貧しいマカールが自分のために拂つてくれる犠牲の大きさに心を痛め、自分のために金などつかわないようにしてほしいとしきりに頼むのだが、ヴァルヴァーラを滿足させることに生き甲斐を覺えるようになつていたマカールは、自分の衣服を賣り拂つたり、給料を前借りしたりしてまで、一途にヴァルヴァーラに尽くすのである。そんなマカールにある日ヴァルヴァーラはこう書き送る。
わたしはあなたのお手紙を一つ一つ注意して拝見しておりますが、どのお手紙でも、わたしのことで氣を揉んだり苦しんだりして、ご自分のことはちつともおかまいにならないのが目につきます。(中略)わたしの生活を生活とし、わたしのよろこびをよろこびとし、わたしの悲しみを悲しみとし、わたしの心を心としていらつしゃるのを見て、わたしの氣持ちがどんなか、お察し願います!もし人のことをそんなにまで氣にして、なにもかも眞劍に同情していたら、まつたくのところ、このうえなしの不幸な人間になつてしまうじゃありませんか。
事實やがてマカールは甚だ「不幸」な状態に陥るのであつて、着た切り雀の衣服はぼろ同然となり、自分の部屋代さえまともに拂えなくなり、ついにはその日の暮しにも事欠く始末になる。ある時、餘りにも不樣な自分の身なりを恥じたマカールは、酒に酔つて羞恥心を追い拂おうとした擧句、酔い潰れ、家に担ぎ込まれるといふ醜態さえ演じる。けれども、さういふ惨めな状態にあつても、マカールは不仕合せな他人に對する同情の念を失わない。それゆゑ、ある晩、寒い街頭で土氣色になりながら物乞いをしてゐる男の子に何も惠んでやれなかつた時、マカールはこう叫んだのである。「自分一人だけのことを考え、自分一人だけのことに生きるのはたくさんだ」。金持どもにさういふ慈悲の心をわからせるような「しかるべき人間」が、どうしてこの世にはゐないのか。
けれども、やがて、ヴァルヴァーラは金持の地主と結婚し、ペテルブルグを離れる決心を固め、どうしてもそうするしかないのだとマカールに言ふ。マカールは突然のこの知らせに狼狽し、ひとり取り殘される寂しさを思つて苦しむが、それでも婚禮仕度をどうしようかと戸惑ふヴァルヴァーラを助け、街中を驅け囘り、一所懸命用を足してやろうとする。ところが、やがて式も濟み、ヴァルヴァーラからの最後の便りを受け取つた時、マカールは絶叫するのである、ヴァルヴァーラよ、自分はあなたといふ人間を心から愛していた、この先一體、自分は誰に宛てて手紙を書いたらよいのか、と。
ドストエフスキーはこの作品を、涙を流しながら書いたそうである。シェストフは、「我が國のあらゆるロマンチストたちのうちで、ドストエフスキーが、最も夢にあふれ、最も天上的であり、最も眞劍であつたのだ」(植野修司譯)と書いてゐる。ドストエフスキーは、他人の「よろこびをよろこびとし」、他人の「悲しみを悲しみとし」、他人の「心を心とし」ようとするマカールに、心の底から感動しつつこの作品を書いたのだ。  
惡黨やすれつからしも感動する名作
なるほど、マカールの自己滅却的な善意は美しい。けれども實はマカールは、ヴァルヴァーラを手放したくなかつたのである。だが、さういふ自分の心の奥底を覗かずに、愛する他人の仕合せのためにはどんなことでもしてやりたい、その結果相手が仕合せになれれば自分も嬉しい、そう思ひ込もうとするマカールは感動的である。そして、マカール的なこの種の善意の美しさには、いかなすれつからしも感動する。なぜなら、どんな惡黨でもどこかにマカールのような一面を持つてゐるからである。それはつまり、人間は性惡説で押し通せるほど強くはないといふことなのだ。讀者は確實にマカールの善意に感動する。そして、「貧しき人々」に對して抱くマカールの「胸からほとばしり出」るような理想主義的な熱情にも、等しく打たれる。人間は「自分一人だけのことを考え、自分一人だけのことに生」きていてはならないとマカールは叫ぶが、さういふことをドストエフスキーが本氣で信じていたからこそ、この作品は人の胸を打つわけである。
けれども、ドストエフスキーは人間の善意を思ひ、涙を流しながら、この手の甘美な作品ばかりを書き續けた作家ではない。フローベールと同樣にドストエフスキーも、「人間性の兩端」を往來した作家だつた。それを理解するために、われわれは『地下生活者の手記』をも讀まなければならない。その荒筋はかうである。             
四十歳の下級官吏である主人公は、遺産が轉げ込んだのを幸い職を辭し、ペテルブルグの汚い自宅に閉じ籠り、手記を書くのだが、その第一部では合理主義的人間觀を激しく否定し、こう論ずるのである。人間にとつて「もつとも有利な利益」とは何か。それは「自分自身の自由勝手な意欲」であつて、つまり人間は「自分のしたいように振舞うのが好き」なのだ。
諸君は人間にとつての利益は「幸福とか、富とか、自由とか、安寧とか」だと思つていようが、人間はよしんば自分にとつて不利益とわかつていても、「自分のしたいように振舞う」のが何より好きなのだ。そしてそのためなら、人間は時に理性だの名譽だの平和だの幸福だのをよろこんで放棄してしまう。それなのに、この世には何とも無邪氣な手合がいて、人間を啓蒙すれば、人間は善良で高潔な存在となり、必ず「善行の中におのれの利益を見いだす」ようになる、などと説く。何といふ「子供らしい考え方」であろうか。それは、人間が「文明によつて温和」になり、「殘虐性を減じ」、「戰爭などが出來なくなる」と説くのと同樣荒唐無稽である。諸君の周囲を見廻してみるがよい、「血潮は川をなして流れてゐる」ではないか。
そして主人公の八等官は、第二部において、十六年前の出來事を囘想し、氣まぐれな「意欲」に驅られ奇妙な行爲に及んだ體驗を語るのである。ある日、友人の送別會で手酷い辱しめを受けた彼は、その夜、淫賣宿でうぶな娼婦リーザに會い、娼婦の末路がいかに悲惨かを語つて相手を苦しめる。ところがやがて打ちのめされ慟哭する娼婦に同情してしまい、名刺を手渡し、訪ねて來るよう勸めるのである。
三日後、娼婦はやつて來る。八等官は叫ぶ、「きみは何のためにやつて來たんだ?あのとき僕が哀れつぽい言葉をしゃべつたから」か。だが、あれは嘘だ、自分は君をからかつてやつただけだ、「きみをからかつて、胸をせいせいさせた」だけだ。なぜか。友人たちに辱しめられたから、今度は他人を踏みつけてやりたいと、そう思つたからだ。要するに自分は卑劣漢で利己主義者なのだ、たとえ世界なんか破滅しようが、自分さえいつもお茶を飲めれば、それでいい、そう考える男たのだ。
けれども娼婦リーザは、直感的に八等官の不幸を感じとり、彼に縋りつき、泣き崩れる。男は一瞬おのれの殘忍を恥じるが、その時、不意に「支配欲、所有欲」に衝き動かされ、リーザを凌辱してしまうのである。
やがてリーザが立ち去つて後、八等官は、無理矢理娼婦に握らせたはずの金がテーブルの上に置いてあることに氣付き、娼婦の跡を追おうとする。が、途中で追うのをやめ、彼はこう考える「もし彼女が永久に侮辱をいだきながら去つて行つたら、いつそその方がよくはないだろうか?侮辱といふやつ、−これは實際、一種の淨化作用なんだからな。(中略)まつたく眞面目な話、(中略)安價な幸福と高められた苦悶と、一體どちらがいいだろう?」 
人間はひたすら自己を愛す
ミドルトン・マリによれば、「この地下室の無頼漢は、愛し愛されることを望みながら、もつと強いひとつの欲求を心に抱いていた」のであり、それは「愛によつて自他を欺いてはならぬといふ欲求」(山室靜譯)であつた。要するに「愛し愛されること」の幸福なんぞは幻想でしかなく、人間はひたすら自己しか愛さないのであり、自己愛の赴くところ、他人に對してすこぶる殘酷に振舞うものなのだ、人間は所詮そうしたものだと、八等官は信じてゐるのである。リーザは慰められたいと思つてやつて來たのだろうが、凌辱された擧句、追い出されてしまう。つまり、「世界なんか破滅」しようと、自分さえ「いつもお茶を飲めれば、それでいい」、そう思ふのが人間なので、さういふ度し難い人間の本性を、どうして啓蒙家の言ふように、たやすく矯正できようか、そう主人公は言つてゐるわけである。
E・M・シオランは、「三十歳までにあらゆる形の過激主義に魅惑されなかつたような人間のことを、讃嘆すべきなのか輕蔑すべきなのか、聖者と考えるべきか、死骸と考えるべきか」(山口裕弘譯)と書いてゐる。「地下室の住人」の徹底した利己主義は正眞正銘の「過激主義」である。が、わが國の論壇・文壇には、三十歳を過ぎてなお過激主義に無縁な手合がやたらに多い。そしてそれは保守革新を問わない。昨今流行の國防論にしても、擬似聖者もしくは死骸の手になるものが大半である。
ところで私はかつてトルストイについて、「激しい理想追求の念はトルストイを一方の極にまで追いやつた。そして一方の極を知る者は他方の極を知る」と書いた。(『知的怠惰の時代』PHP研究所)それはドストエフスキーの場合も同樣であつて、激しい利己主義者である「地下室の住人」の中にも、他方の極、すなわち激しい愛他主義者がいるのである。 
「世界が破滅してもお茶を飲みたい」
すでに述べたように、主人公の八等官は「世界が破滅しても、ぼくはいつでもお茶を飲まなくちゃいけないんだ」と言ひ放ち、「二二が四」、つまり合理的な壁の前で立ち止まつてしまう手合を激しく批判するのである。だが、なにゆえ彼はあれほど激しく批判するのか。もとよりそれは、あくまで自説を通したいと思ふからである。が、それだけではない。それはまた彼の善良の證でもあつて、その点すこぶる興味深いのである。主人公はこう書いてゐる、一體全體自分は「なんのために、どういう目的で書こうとしてゐる」のか、「もし公衆のためでないとしたら、何もわざわざ紙に移したりしないでも、心の中ですつかり思ひ起こすだけでさし支えないではないか」。要するに、破壞的な言辭を弄してはいるものの、その實彼は「公衆のため」との善意だけは捨て切れずにいる。そして實際、彼はすこぶる善良なのである。友人の送別會で、友人を侮辱し、彼は誰にも相手にされなくなる。だが一人きりになると、眞情を理解してもらいたい、友人たちから「友情を哀願」してもらいたいと願い、涙さえ流すのであり、娼婦リーザに對しても同樣である。リーザが訪ねて來る前、彼は、いつの日かリーザが自分の足元に身を投げ、「世界中の何よりも、あなたを愛していますと告白する」であろうなどと、何とも感傷的な空想に耽るのだ。
つまり、「愛し愛されること」の幸福なんぞ幻想にすぎないと言ひながらも、彼はそれが欲しくてならない。「友情」だの「愛」だのを罵倒しながらも、彼はそれを求めずにはいられない。「地下室の住人」の中にもマカールがいると言つたゆえんである。
では、ドストエフスキーはなぜ、惡魔的な言辭を弄する主人公を、滑稽なまでに善良な男として描いたのか。無論、偽惡の限界を知り抜いていたからである。性惡説で押し通せるほど人間は強くないのだ。主人公は言ふ。
なんにもしないのが一番いいのだ!瞑想的惰性が一番いいのだ!だから地下の世界萬歳といふわけである。わたしは癇癪が立つてじりじりするほど、ノーマルな人間を羨むとはいつたけれど、しかし、わたしが現に見てゐるような彼らの状態そのままでは、そのお仲間入りをしたくない。(ただし、それでも相變らず羨みはするけれど。いや、いや、地下の世界のほうがいずれにしても有利だ!)そこでは少なくとも・・・・・・ちょつ!ここでもまたわたしは出たら目をいつてゐる!たしかに出たら目だ。なぜなら、けつして地下生活が一番いいのではなくて、わたしの渇望してゐるのは何かしら別なもの、まるつきり別なものだといふことを、二二が四といふほどはつきり知つてゐるからだ。(中略)地下などくそ喰らえだ!
「地下の世界萬歳」と言ひ「ノーマルな人間を羨む」と言ひ、「地下などくそ喰らえ」と言ふ。いずれも本心である。
要するにこういふことなのだ。人間を性善説で割り切ることはもちろん、性惡説で割り切ることもまた一種の合理主義にほかならない。が、さういふ合理主義では説明しきれないのが人間なのである。例えば、友人の送別會に出掛ける前の主人公は、出席することの愚劣を知り抜いてゐる。それゆゑ、理性的に考えれば「あたまから行かないことにすれば一等いい」のである。まず金がない。出席すれば下男に給料が拂えなくなる。そればかりではない。友人たちの淺薄な態度は、さぞ不愉快であるに相違ない。ところが主人公にとつて、出席を斷念することは「何よりも不可能なこと」なのである。
そして結局、彼は出席し、予期した通り惨めな氣分を味わうこととなる。主人公は第一部に書いてゐる。「どんな人間だつてみすみす自分の利益に反するような行爲をするはずがない」のだから、人間は、「いわば必然的に善を行うようになる」などと説く手合があるが、何と「子供らしい考え方」か。人間といふものは「自分の本當の利益を承知しながら、それを二の次にしてしまつて、だれにも何ものにも強制されてゐるわけでもないのに、別な冒險の道へ突進してゆく」のであり、「これを證明する無數の事實を、いつたいどうしたらいいといふのか」と。
その通りである。人間といふものは時に利害得失を無視し、すこぶる非合理的な「冒險の道へ突進してゆく」のである。そしてそれなら、人間がさういふ非合理的な動物なら、人間が屡屡戰爭といふ「冒險の道へ突進してゆく」ことに何の不思議があるだろうか。戰後三十七年、日本だけは戰火を免れた。だが、今もイスラエルとPLOが戰つてゐる。諸君の周囲を見廻してみるがよい、つねに「血潮は川をなして流れてゐる」ではないか。 
戰爭を愚かと見る「愚か者」
しかるに今、われわれ日本人は、人間はもつぱら利害得失のみを重視して行動すると信じてゐる。それゆゑ、「防衞問題評論家」の前田寿夫氏は、アルゼンチン空軍機に撃沈されたイギリスの驅逐艦シェフィールドは五百五十億圓で、「これは日本の教科書無償配布の年間予算に相當する」と言ひ(『週刊ポスト』六月十一日號)、西川潤早大教授も、フォークランド戰爭は「名譽のために莫大な戰費をかけてゐるといふ点では、戰爭がいかにおろかかを示す見本」だと言ひ(『週刊朝日』六月四日號)、『日本經濟新聞』も二十二日付の社説に、「紛爭發生一ヵ月で(イギリスは)十億ポンドの支出」をしたことになると書いて、他國のふところ具合を案じたのである。
かつて宝永六年十一月、新井白石はイタリア人宣教師シドチを尋問した。そしてこう書いた。
其教法を説くに至ては、一言の道にちかき所もあらず。智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり。こゝに知りぬ、彼方の學のごときは、たゞ其形と器に精しき事を。所課形而下なるもののみを知りて、形而上なるものはいまだあづかり聞かず。(『西洋紀聞』)
シドチの天文・地理などに關する形而下的な知識に感服した白石が、クリスト教の「教法を説く」シドチのほうは愚者としか思へず、西洋の學問は形而下的なものにしかかかわらぬと言ひ切つた、この『西洋紀聞』の一節は有名だが、この一節を引いて白石の西洋學の限界を云々するのはすこぶる滑稽だと私は思ふ。なぜなら、西洋學に關する知識の量において、今日のわれわれは白石をしのいでいるかもしれないが、シドチをシドチたらしめてゐる「愚なる部分」の理解において、われわれは今なお決して白石を抜いてはいないからである。少しく強引に言へば、それゆゑに大方の日本人は、西川潤氏と同樣、フォークランド戰爭を「愚なるもの」とみなすわけである。それはつまり、正義ゆえに流される血を是認できないからである。會田雄次氏は書いてゐる。
十字軍の異教徒惨殺や宗教戰爭時代のスペインの宗教裁判や新大陸の原住民虐殺など、その身の毛のよだつような殘虐行爲だつて、その實行者は神の名によつて、何の良心の苛責もないどころか、おそらく、正義を行うといふ軒昂たる意氣を以てやつたであろうことは想像に難くない。(『ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界』、新潮社)
會田氏は「終戰後ラングーンでイギリス軍の苦役に二年餘を服し」たのだが、服役中「日本人を絶對に人格として評價しないアングロ・サクソン人といふものの、たとえようもない冷たさだけ」を痛感した。イギリス人のヒューマニズムなんぞ一向に感じなかつた。詳しくは會田氏の『アーロン収容所』(中公新書)を讀めばわかるが、會田氏は「これまでの私たちのヨーロッパ理解の方法はまちがつていたのではなかろうか」と考えるようになつたのである。私は會田氏の言ふ通りだと思ふ。クリスト教徒は「神の名によつて正義を行うといふ軒昂たる意氣」をもつて血を流す。今やその信仰もずいぶんゆらいでいるといわれるが、なに、信仰が培つた文化までがゆらぐはずはない。フォークランドのイギリス兵も、レバノンのイスラエル兵も、「世界ほろぶとも、わが正義行わるべし」との「軒昂たる意氣」をもつて戰つたのである。
私はクリスト教文化を稱え、日本文化を貶めてゐるのではない。再び鎖國をやるわけにゆかない以上、彼と我との相違は承知していなければならないと主張してゐるにすぎない。彼(ヨーロッパ)は今なお「カイゼルのもの」以上に「神のもの」を重んじ、我(日本)はもつぱら「カイゼルのもの」を重んずる。新井白石以來、それは少しも變わつていないのである。
白石はシドチの説く天地創造やアダムとイヴの物語の不合理を批判したが、恐るべきはシドチをシドチたらしめてゐる「愚なる部分」であると承知してはいた、と入江隆則氏は書いてゐる。(『新井白石、鬪いの肖像』、新潮社)けれども、白石が西洋の「愚なる部分」を恐れたのは、日本の政治體制を覆す危險を孕んでいると考えたからである。すなわち白石は、もつぱら「カイゼルのもの」を案じてシドチを拒否したにすぎない。それなのにシドチのほうは、こうして日本にいる以上「此土の法例によられて、いかなる極刑に處せられんにも(中略)身をかへり見る所なし」、すなわち日本にいる以上は日本の國法にしたがう、「骨肉・形骸のごときは、とにもかくにも國法にまかせむ事、いふにおよばず」、すなわちこの肉體は日本國の法にまかせ、どうなされても結構である、ただし本國へ送還されることだけはごめんこうむりたいと言つてゐるのである。これは要するに、シドチは「神のもの」と「カイゼルのもの」とを峻別し、「カイゼルのもの」に關する限りは譲歩しても、「神のもの」に關しては決して妥協しなかつたといふことにほかならない。
ずいぶん厄介な話になつて讀者は閉口してゐるかもしれないが、西歐の文學や哲學に接する時、われわれは常にかういふ彼我の相違を意識していなければならないのである。ドストエフスキーにしても同じであつて、彼の小説の作中人物のことごとくは「神に憑かれた人々」なのだ。例えば『貧しき人々』のマカールは、ヴァルヴァーラのために徹底的におのれを犠牲にする。それを神が嘉するからである。一方、『地下生活者の手記』の主人公は「世界なんか破滅しようが、自分さえお茶を飲めればいい」と言ひ切る。神が信じられないからである。けれども、すでに述べたように、「愛し愛されること」の幸福なんぞ幻想にすぎぬと考えながらも、彼はそれを手に入れようとしてあがくのであつて、この神を氣にするがゆえに、「人間性の兩端」を往來せざるをえぬ激しさは、われわれ日本人にとつてはとうてい馴染めないものなのであり、それゆゑ馴染んだふりをするよりはむしろ、馴染めないことを常に忘れずにいることのほうが大事なのである。内田魯庵によれば、ドストエフスキーの『虐げられし人々』について尾崎紅葉は「餘り拗過ぎて我慢にも讀通す氣になれない、矢張外道の喜ぶもので江戸ッ子の讀むもんぢァ無い」と言つたそうである。
今日の日本の文士は紅葉の正直な感想を嗤うことができるであろうか。嗤えまい。ドストエフスキーを愛讀してゐるはずの文士が、先般の「反核アピール」に多數署名して人類の滅亡を憂えてゐるかのようなふりをした。だが、ドストエフスキーはすこぶるつきの善人ムイシュキンやアリョーシャ・カラマーゾフを創造したが、同時に彼はピョートルやスタヴロ一ギンをも創造したのである。そして、すでに述べたように、「地下室の住人」の「世界なんか破滅しようと構いはしない」といふ叫びは、「ノーマルな人間を羨む、地下などくそ喰らえ」といふ叫びと同樣に、本心から出たものなのだ。そしてドストエフスキーは『作家の日記』の中にこう書いた。
「しかし血だからな、なんといつても血だからな」と、賢者たちはばかの一つ覺えのようにいう。が、(中略)ずるずるべつたりに苦しむよりは、むしろひと思ひに劍を抜いたほうがよい。そもそも今の文明國間の平和のいかなる点が、戰爭よりもいいといふのだろうか?それどころか、かえつて平和のほうが、長い平和時代のほうが、人間を獸化し、殘忍化する。(中略)長きにわたる平和は常に殘忍、怯懦、粗野な飽滿したエゴイズム、そして何よりも、知的停滞を生み出すものである。  
13.「金儲け主義」の“盲人”が陥る穴

 

バルザック『絶對の探求』
十九世紀初頭、フランドル地方の裕福な名家の當主バルタザール・クラースは、何不自由ない毎日を過ごしていた。妻のジョゼフィーヌは不具の身だつたが、夫は妻をいたわしく思ひ、妻も夫に盲目的なまでの愛情を注いでいた。ところが、ある晩、バルタザールの「精神と物腰態度」に突如變化が生じる。妻が五人目の子を宿してゐることにも氣づかず、「かつて愛していたすべてのもの」に無關心となり、「家族の一員として生活すること」も忘れ、以後三年間、妻には一切説明することなく、高價な實驗用具や機械をやたらに買い集め、屋根裏を改造した化學實驗室に閉じ籠り、擧句の果てに、莫大な借財を拵えるに至るのである。
ジョゼフィーヌは、もとより、愛する夫のためならどんな犠牲も忍ぶ覺悟であつた。が、彼女は公證人から、クラース家が破産寸前であることを知らされる。このままでは子供たちの前途もまつ暗である、何とかせねばならぬ。そこで彼女は夫に尋ねる、一體全體何のために、湯水のように金を遣うのか、子供たちの將來を考えないのか、と。すると夫はこう答えたのである。三年前、ポーランドの貴族と化學について話し合つたことがある、その際、かういふ話を聞いた、この世には「あらゆる創造物に共通のある物質」すなわち「絶對」なる物質が存在する、それさえ發見できれば、「創造の秘密」が解明され、「自然がする仕事」を人間が繰り返すことも可能になる、それを聞いてから三年、自分は實驗によつて假説を説明しようと努力した、まだ成功してはいない。が、「絶對」さえ發見できれば、ダイヤモンドだろうが何だろうが、思ひのままに作り出せる、財産のことなど案ずるには及ばない。
だが、その「絶對」とやらがもし、いつまでたつても發見できなかつたら、子供たちはどうなるかと、涙ながらにジョゼフィーヌは實驗中止を訴える。パルタザールは、母性愛の眞劍に打たれ、研究を中斷することになる。
けれども、「化學の壮麗を夢み」、「人類のためには財宝を、自分のためには榮譽を夢み」ていた彼の激しい情熱は、いつまでも抑えうるものではたかつた。やがてジョゼフィーヌは死ぬ。パルタザールは研究を再開し、借金に借金を重ね、子供の財産まで賣り拂おうとする。やむなく長女マルグリットは父親から當主の權利を剥奪する。バルタザールは家を出、ブルターニュの國庫収税官となる。マルグリットは財政再建に全力を傾けるが、バルタザールのほうは、収税官としての収入の大半を研究に注ぎ込み、「絶對」の探求を續けるのである。が、相次ぐ失敗に少々氣が狂い、やがて彼は痴呆さながらのていたらくとなつてしまう。
やがて五年が過ぎ、財政を立て直したマルグリットに迎えられ、やや正氣となつたバルタザールは再び當主となるが、娘の旅行中、またしても家財を賣つて實驗に熱中、ある日、「中風性の發作」に襲われ、アルキメデスの有名な言葉EUR EKA(われ、發見せり)を叫んだ途端に事切れるのである。その時の「彼の引きつつた目」には、「ある謎解きの言葉を學問のために殘すことができなかつた怨み」があらわれていた。 
空想に惱まない日本人の特徴
「人間からどんなものでも抹消することができようが、絶對への欲求だけは消すことはできまい」とシオランは言つてゐる。さういふ根深い「絶對への欲求」に取り憑かれて、バルタザールは家庭をめちゃくちゃにし、財産をすつてしまう。それはいかにも愚かしい所業である。けれども、彼の愚行を嗤おうとしてバルザックはこの作品を書いたわけではない。
「絶對」を求めて時に愚行を敢えてする、それが人間である。西洋人は特にそうだと永井荷風は考えていた。それゆゑ荷風は書いた、日本人はこれまで「目に見える敵に對して復讐の觀念から戰爭したばかりで、目に見えない空想や迷信から騒出した事は一度もない」、しかるに「西洋人は善惡にかゝわらず、自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情がある」、それゆゑ時に「馬鹿馬鹿しい事」も企てるのだが、「僕はこの熱情をうれしく思ふ」と。
私は荷風のように西洋人の「熱情をうれしく思」いはしない。が、荷風のこの言葉を、大層すぐれた日本人論だと思つてゐる。「日本人は一度だつて空想に惱まされた事はない」と荷風は言ふ。荷風の言ふ「空想」とはつまり「絶對への欲求」なのである。ペテルブルグの八等官を思ひ出すがよい。地下室の住人は何と書いていたか。人間にとつて「もつとも有利な利益」とは「自分自身の氣まぐれ、ときには狂氣と選ぶところないまでにかきたてられる自分自身の空想」だと彼は書いていたではないか。昨今戰爭も堕落したが、石油欲しさの戰爭以上に恐るべきは、この「空想」ゆえの戰爭たのである。 
絶對への欲求だけは消せない西洋人
だが、そのことについてはもう言ふまい。私がここで言ひたいのは、唯一絶對の神の教へこそ唯一絶對の眞理だと久しく西洋人は信じて來たが、その「絶對の眞理」に對する信仰こそが近代科學の發達を促したといふことである。
コペルニクスの地動説を知つた時、ルッターは激怒した。地動説が聖書の記載と矛盾するものだつたからである。ルッターは言つた、「天空や太陽や月でなく地球が囘轉するなどと、何たるたわごとか!聖書には何とあるか、ジョシュアは太陽に向かつて止まれと命じたのだ、地球に向かつてではない」。周知のごとくガリレイは、一六三三年、宗教裁判所の審問を受け、地動説の謬りを認めざるをえなかつた。署名して立ち上がつたガリレイが「それでも地球は動いてゐる」と呟いたといふ話はよく知られてゐる。それは傳説にすぎないかもしれないが、ともあれ西洋の科學者たちの「絶對の探求」は、宗教的權威による抑圧を物ともせずに續けられたのであつた。哲學者もまた教會の權威から離れて自由に考えようとし、デカルトのように「できることなら神樣なしにすませたい」と思つた。やがて「ヴォルテールの世紀」となり、人々は科學と理性の勝利に酔い、ついでニイチェが宣言する、「神は死んだ。今やわれわれは欲す、超人生きよ」。ニイチェのあとは實存哲學だが、サルトルによれば實存主義とは「徹底した無神論から出てくるすべての歸結を引き出そうといふ試み」だつたのである。
要するに、デカルトからニイチェ、實存哲學まで、西洋人は絶對の眞理を求めて止むことがなかつた。シオランの言ふ通り、西洋人から「どんなものでも抹消することができようが、絶對への欲求だけは消すことはできない」。そして絶對を探求するに際して彼らは大變不寛容なのである。それなら、商人國家日本が「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまえ」が何より大事とて、「前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げ」稼ぎまくることを、いつまでも西洋人が供手傍觀してゐるはずはない。ツオランは書いてゐる。
時として私は、國といふ國はすべてあのスイスに似てしまうがよい、スイスのようにおのれに滿ちたりて、衞生學の、無味乾燥の、法律崇拝の、人間讃美の中に崩れ落ちてしまうがいい、と考えることがある。だが一方では、思想においても行動においても一切の狐疑を免れ、熱狂的で飽くことを知らず、つねに他國民を−それどころか自國民をすら食らいつくす用意があり、自分の上昇と成功のさまたげになるような價値はたちまち蹂躙し、自他のすべてに飽きはてたすえ好んでかびの匂いを立てる老衰民族の特有の弱点、つまりあの思慮分別などは一向に持ちあわせがない、そうした國民しか私の心を惹きはしないのである。(『歴史とユートピア』、出口裕弘譯、紀伊國屋書店)
このシオランの激しい文章を、スイス以上に「おのれに滿ちたり」た、「衞生學の、無味乾燥の、法律崇拝の、人間讃美の」國日本の經濟學者の、まことにのんきな文章と較べてみるがよい。ある大學教授はこう書いてゐるのである。
幸いにも日本は平和憲法をもつており、これを十分に活用して各國に賣りこむことは、かなり効果的なPRになると思ふ。ベネツィアがローマ教會の管轄下にありながら、ビザンチン帝國の宗主權を認めたやり方は、ローマからもコンスタンチノポリスからも、かなりの疑いの目をもつて見られただろう。しかしそれを押し通すことによつて、國際社會に一定の評價が定まつた時、それは商業國家のイメージアップに大いに寄与するのである。「あれはああいう國だ」といふ評價を確立してしまえば人々もさういふものだと思ひこんでくれる。日本が平和憲法をもつてゐることは、今の國際社會の常識に反することであり、だからこそ宣傳効果も大きい。「平和と言へば必ず夢中になる變つた國だ」と見られるようになつたら、しめたものである。さういふ評價の上に立つて、徐々にコスモポリタニズムを普及させていけばよい。 
14.正義病患者よりも「無知な女」が可愛い理由

 

チエホフ『可愛い女』
クーキンといふ遊園地經營者が、空を眺めながら捨てばちな調子で言つた。「また雨と來らあ!毎日毎日雨にならないじゃ濟まないんだ−まるでわざとみたいにさ!これじゃ首をくくれといふも同然だ!身代限りをしろといふも同然だ!毎日えらい欠損つづきさ!」。翌日と翌々日、つづけてクーキンの泣き言を聞かされたオーレンカといふ名前の娘は「クーキンの不仕合せに心を動かされて、彼を戀してしまつた」。
「彼女はしょつちゅう誰かしら好きでたまらない人があつて、それがないではいられない女」だつたのである。男のほうから結婚の申込みをして、やがて二人は結婚し、クーキンは「彼女の首筋や、ぽつてりと健康にはちきれんばかりの肩先につくづく氣がついたとき、思はず兩手を打ち合わせてから口走つた」。
「可愛い女だなあ!」
クーキンが經營してゐる遊園地は芝居を上演して客を集めるのである。そこで結婚後、オーレンカは芝居や役者についての夫の意見をそのまま受賣りし、「良人と同樣彼女も見物が藝術に對して冷淡だ、無學だといつて輕蔑し」、「舞臺げいこにくちばしを出す、役者のせりふまわしを直してやる、樂師れんの行状を取締るといつた調子」であつた。二人は幸福だつたが、クーキンは夜中になるときまつて咳が出た。さういふ時、オーレンカは「木苺の汁や菩提樹の花の絞り汁を飲ませたり、オーデコロンをすり込んでやつたり」して、「あなたはまつたくなんて立派な人でしょう」と、「髪をなでつけてやりながら嘘いつわりない本心から」言ふのであつた。が、ある夜、所用あつてモスクワに上京していたクーキンが急死した。オーレンカはおいおい泣き出した。「いとしいあなた!あなたはこの哀れなオーレンカを、この哀れな不仕合せな女を捨てて、いつたい誰に頼れとおつしゃるの?」
けれども、それから三ヵ月ほどして、ミサからの歸り、オーレンカはプストヴァーロフといふ男と知り合つた。彼はオーレンカを慰め、何事も神樣の思し召しなのだから、人間はすなおに耐え忍ばなければならないと言つた。それ以來、「日がな日ねもす彼女の耳には彼の悟り澄ましたような聲がきこえ、ちょいと眼をつぶつてもたちまち彼の眞黒な髯がちらつくように」なり、やがて二人は結婚したのだが、プストヴァーロフは材木商だつたから、彼女は「自分がもうずつとずつと前から材木屋をしてゐるような氣がし、この世の中で一ばん大切で必要なものは材木のように思へ」たし、「良人の思ふこと考えることは、同時にまた彼女の思ふこと考えること」となつた。
さういふわけで、プストヴァーロフとオーレンカは仲睦まじく六年の歳月を送つたが、ある冬の日、プストヴァーロフは風邪をひき、四ヵ月わずらつたあげく死んでしまい、オーレンカはまたしても後家になつた。そして、「わたしを見捨てていつたい誰に頼れとおつしゃるの、ねえあなた」と彼女は再び泣きながら言つたのである。
けれども、オーレンカは「誰かに打込まずには一年と暮らせない女」であり、やがて連隊づきの獸醫と仲良くなつて「獸醫の考えそのままの受け賣り」をやり始めた。こんな具合である、「わたくしどもの町では獸醫の家畜檢査といふものがちゃんと行われておりませんので、そのためいろんな病氣がはやるんでございますわ。(中略)まつたく家畜の健康と申すことには、人間の健康といふことに劣らず、心を配らなくてはなりませんわ」。が、そのオーレンカの幸福もわずかの間のことで、獸醫が連隊と共に去り、オーレンカはまたしても一人ぼつちになつてしまう。もはや被女は若くはなく、痩せて器量も落ち、無氣力になり、何より始末の惡いことに、彼女にはもう「意見といふものが一つもない」のであつた。
こうして生き甲斐のない暮しをして數年、ある日突然、白髪頭になつた平服姿の獸醫が訪ねて來て、こう言つた。「軍隊の方をやめてこうしてこの町へやつて來たのは、(中略)根のすわつた生活をしてみようといふ考えからなんです。それに息子ももう中學へ上げる年頃ですしね」。
オーレンカは狂喜し、獸醫とその息子を自分の家に住まわせ、まるで實の母親のように、少年の世話を燒く。彼女の顔には再び「昔のあの微笑」が浮かび、彼女は「まるで長い眠りからめざめた人のよう」であつた。そしてもちろん、彼女は意見を述べるようになつた。「當節では中學の勉強もなかなかむずかしくなりましてねえ」といつた鹽梅。それに「先生がたの噂、授業の話、教科書の話」などである。 
淺薄な主體性を有難がる味氣ない女性
作者チエホフはオーレンカを好ましい女、「可愛い女」として描いてゐるのであつて、彼女の移り氣を裁いてゐるわけではない。「女の一生は隷屬すべき男を探し求める事、すなわち隷屬に對する渇望の一生である」とドストエフスキーは書いてゐるが、それは實は女に限つたことではない。男もまた隷屬ないし献身の對象を持つてこそ、充實した人生を送ることができるのである。そして、たるほどオーレンカにはおのれの意見はないが、淺薄な主體性とやらを有難がる當節の味氣ない女性よりも、オーレンカは遙かに魅力的な人間だと私は思ふ。
オーレンカもフェリシテもプール・ド・シュイフも、美濃部るんや樋口一葉が描いた女たちも、いずれも「可愛い女」である。私は男性として彼女たちを見下してゐるのではない。本書に取り上げた男の作中人物の大半を、私は「可愛い男」だと思つてゐる。許し難いと私が思ふのは『野鴨』のグレーゲルスで、それはすでに述べたように、彼が鈍感なる正義病患者だからである。
チエホフといふ作家は、作中人物の感傷や自己欺瞞をあたたかく許した。そして「この世の偉人たちの哲學」を嫌つた。チエホフはこう書いてゐる。
この世の偉人たちの哲學なんか惡魔にさらわれてしまうがいい。偉大な賢人といふものは、どれもこれも將軍のように專制的で無作法で粗野です。自分だけはなにをしても罰せられることはないといふ確信があるからです。
この世の「偉大な賢人」たちは、どうしてあのように自分の正義を押しつけるのか。他人にそれを押しつけるのに急で、自分の欺瞞や迷妄は氣にかけないのか。そのおのが欺瞞と迷妄に氣づいたらよい、そうすればほとんどの賢人が『退屈な話』の老教授よろしく「人生いかに生くべきか」について確信なんぞ持てないようになるであろう、そうチエホフは書いたのである。
ここでチエホフについて長々と論ずるわけにはゆかない。が、これだけは言つておこう。自由主義、保守主義、漸進主義、無關心主義、パリサイ主義、專制主義・・・・・・、その他主義と名のつくもの一切を、チエホフは嫌つた。それぞれの主義と主義とをぶつけ合い、眦を決していがみ合う政治主義の愚かしさをよく承知していたからである。今日のわが國においても、「社會主義國同士は戰爭しない」だの、「核戰爭は人類を亡ぼす」だの、「日本は核武裝すべし」だの、「日本はモラトリアム國家に徹すべし」だのと、右も左もわいわいがやがや騒音を立てており、それが彼らの生き甲斐なのだろうが、それはオーレンカの生き甲斐よりも遙かにましであろうか。
先日、イギリスのチャールズ皇太子主催の慈善演奏會でホロビッツがピアノを彈き、それをテレビ朝日が放映した。演奏が終わつて『朝日新聞』の筑紫哲也氏が、イギリス人はこうしてすばらしい音樂に興奮してゐるが、一方、フォークランドにおける殺し合いにも興奮してゐる、どちらが立派だろうか、といふ意味のことを言つた。すると女性ピアニスト中村紘子氏は「それは歴史が證明していますものね」と答えた。中村女史が默つてピアノを彈いておれば、女史の才能に應じてわれわれはモーツアルトやショパンの音樂を樂しむことができる。が、「歴史が證明してゐる」などといふ淺薄極まる女史の政治主義に、われわれはへどを吐きたくなる。そうではないか、歴史が證明してゐるのは、人間が大昔から美しい音樂とむごたらしい流血の双方を、同時に愛して來たといふことなのだ。
政治的無關心はいけないといふ。選擧の際投票率が低いと新聞は必ずそれを言ふ。だが、中村紘子女史程度の見識を持つて投票するくらいなら、いつそ投票しないほうがましではないか。中村女史はオーレンカではない。オーレンカが「可愛い女」なのは、彼女が政治に無關心だからである。では、彼女がもし自民黨の代議士に惚れこんだらどうなるか。共産黨員にとつて彼女は「可愛い女」ではなくなるであろう。だが、自民黨員の情夫が死んで、次に彼女が共産黨員を愛したらどうなるか。自民黨員にとつて彼女は我慢のならない女になるであろう。それなら、政治的關心なんぞ、とりわけ中村女史程度の中途半端な政治的關心なんぞ、いつそ全然ないほうがよいのである。そしてそれは女に限つたことではない。 
15.善意の人が眼をつぶる人間の「殘忍性」

 

メルヴィル『幽靈船』
他人の心の奥底はいともたやすく覗けると、他人の振舞のすべては簡單に説明がつくと、そう思ひたがる樂天家が、わがアメリカにはちと多過ぎるのではあるまいか。メルヴィルがこの作品で言ひたかつたのはさういふことである。
アメリカの貿易船の船長アメイザ・デラーノは「奇特なくらい不信を知ら」ぬ善人であつた。それゆゑ、とある港で難破船らしい怪しげな船に出會つた時も、すぐさま救援に駈け付けたわけだが、その難破船はサン・ドミニク號といふスペインの奴隷運搬船であつた。ところが、乘り移つてみると、何やらようすがおかしい。奴隷運搬船とはいえ、白人船員に較べてあまりにも黒人奴隷が多過ぎる。船員に亂暴を働く奴隷さえいる。それに何より船長ドン・ベニトの態度が不可解で、救援に駈け付けたデラーノに對して、まことに冷淡かつ無愛想に振舞うのである。いや、ベニトの態度だけではない、船内で見聞きするすべてが不可解なのだ。けれども「善意の人」であるデラーノは、次々に心に浮かぶ疑惑をそのつど拂い除け、すべてを善意に解釋する。すなわち、かうである。無理もない、水や食糧が欠乏すれば船内の秩序が亂れるのも當然、ベニトの態度にしても、あれは絶望と衰弱ゆえの惑亂に相違ない。
さういふふうにして、奇怪な事實のすべては、デラーノの善意によつて解釋され、謎は次々に解けたかのように思へるのである。善意の人デラーノは思ふ、ベニトに仕えるあの黒人バボーの何たる甲斐甲斐しさよ。頼りなげな主人を氣遣い、片時も側を離れないではないか。あの主從の織りなす麗しき人間關係は感動的である。それに、あの女奴隷と赤ん坊の嬉々として戯れる樣はどうだ。あれこそは「裸の自然」、「清い悲しみと愛のシンボル」でなくて何であろうか。
けれども、かういふデラーノの善意の解釋は、すべて的外れだつたのである。まず、サン・ドミニク號で奴隷がのさばつていたのは、水と食糧の欠乏のせいではなかつた。バボーを首魁とする奴隷たちが反亂を起こし、船長以下多數の白入船員を惨殺、船の支配權を掌握していたためだつた。しかも反亂の際の女奴隷たちの殘忍は男顔負けのすさまじさであつた。そして、さういふ次第で自由の身となつたバボーたちは、故郷セネガルを目ざして航行中、たまたまデラーノの船と出會つたわけだが、反亂の事實の發覺を恐れたバボーは、ベニトを脅迫してにわか船長に仕立て、自らは忠實な從者を裝い、ついでにデラーノの船を乘つ取ろうと企んでいたのである。
だが、さすがの「善意の人」デラーノも、土壇場になつて、ようやくバボーの惡巧みに氣付き、バボーを取り押さえ、抵抗する奴隷たちを制圧する。すると、制圧された奴隷に對する白人船員の報復もまた凄惨を極めるのである。
最後にベニトはデラーノに言ふ、あなたは常に私と共にゐた、「わたしとともに立ち、ともに坐り、ともに語り、わたしを見、わたしとともに食べ、飲んでゐた」、けれどもあなたは眞相になかなか氣付かなかつたではないか。要するに「人間の振舞ひには測り難い奥の院」があるのであり、この「世のどんな賢者でも、この奥の院がどんな因果でできるのか」、それさえも知らずして「人間を判斷しようとすれば」迷妄を免れないのだ、と。 善人デラーノが土壇場まで眞相を見抜けずにゐたのは、他でもない、人間は本來「清く正しく美しい」ものだといふ固定觀念に囚われていたからである。作者メルヴィルは、さういふ固定觀念を徹底的に疑えと言つてゐるのである。といつて、疑いさえすれば、「測り難い奥の院」が見えて來るといふわけでもない。例えば、赤ん坊と嬉々として戯れていた當の女奴隷が、男たちの畜生さながらの蛮行を喜び、聲援を送るのである。バボーたちにしても故郷へ歸りたくて反亂を起こした。なるほど望郷の念は美しい。けれども、彼らの行爲は殘忍この上なしであり、サン・ドミニク號の船長は、手足を切斷されたあげく、白骨になつた首は舳先に晒された。だが、さういふ善良の「奥の院」に潜む殘忍を、善人ならぬ疑い深い人間なら確實に看破れるといふ保證もない。
「力は正義なり」、それがこの作品のテーマだとある批評家は言つてゐる。なるほどさういふ解釋も可能である。が、メルヴィルは、樂天的な人間觀によつて人間の行動を判斷し、それで能事足れりとする淺薄な風潮を批判すべく、この作品を書いたのだと私は思ふ。「力は正義なり」といふことだけで、この世のすべては説明できぬ。メルヴィルとてそれは百も承知であつた。が、善良そうな人間が時に獸の如く振舞うことは確かなので、さういふ人間の醜惡な一面を忘れて「人間を判斷しようとする」からこそ、非武裝中立だの人權外交だのといふ綺麗事がのさばるわけである。 
底の淺い日本の學者・ジャーナリスト
例えば、昭和五十三年、中國の4(登+邑)小平が來日した時、『サンデー毎日』はこう書いたのである。
新しくお付き合いを始めることになり、隣のおじさんがあいさつにやつた來た。一時あちらとは不幸な出來事もあつたため、迎える方はもう大變な氣のつかいよう。
初めて見たおじさんは、小柄ながら、きりつと締まつた物腰で貫録よろしく、今囘の大事な公式行事でも、終始、親善ムードの盛り上げをリードする餘裕ぶり。
氣持もいたつて廣い人らしく、今ちょつと困つた立場にある人の家へも、筋を立てて氣さくに訪問。やあやあと打ち解けあつて、そのおうようなこと。
それに今後、取引の都合もあつてか、自動車など方々の工場を見ても囘つたり、分秒刻みの日程を、あわただしい氣配もみせずに過ごす、大らかなおじさんだつた。(十一月十二日號)
文中「今ちょつと困つた立場にある人」とは、刑事被告人である田中角榮氏のことである。本年六月十九日、三木元首相は先進國首腦會議に出發して歸國した鈴木首相と會い、自民黨は「田中角榮君に支配されてゐる」、遺憾である、首相はリーダーシップを發揮せよと言つたといふ。それは少々無理な注文であつて、鈴木善幸氏がリーダーシップなんぞ發揮できるはずはないが、それはさておき、三木氏の言ふことは本當だと思ふ。自民黨は田中氏が「支配」してゐると私も思ふ。けれどもそのことにどんな不都合があるのか、それが私にはわからない。橋本登美三郎氏、佐藤孝行氏と同樣、田中角榮氏も、最終審による有罪判決はまだくだつていないのだから、田中氏が「自民黨を支配」することに何の不都合もないのではないか。
けれども、さういふ理窟の通じないのが日本のジャーナリストなのだ。一方、4(登+邑)小平は海千山千で、それゆゑ彼は來日して目白臺の田中角榮邸を訪問した。要するに中國の國益を考えての打算である。しかるに、『幽靈船』のデラーノ船長と同樣、『サンデー毎日』の記者も「奇特なくらい不信を知らぬ」善人なのであろうか、「筋を立てて氣さくに訪問」などと、4(登+邑)小平に對してたいそう好意的な文章を綴つたのであつた。だが、いずれ、さういふ底の淺い日本のジャーナリストの「善意」が迷妄であつたと、判明する日が來るであろう。
かういふ善意の馬鹿は、日本にはやたらに多い。さういふ馬鹿の書いた文章を二つ引用することにしよう。まず、文化大革命當時、中國を訪れた伊藤武雄氏は、『朝日ジャーナル』にこう書いた。
驚いたのは幼稚園へはいつたときである。遊戯をやつていた幼児たちが、“おじさんたちいらつしゃい!”のあいさつ。音樂教室からは“おててつないで”の日本のメロディーが流れてきた。(中略)この幼童時代から毛主席を身近に感じた児童が成長してゆくかぎり、毛澤東は七億の接班入(後つぎ)を得ることは不可能ではないだろう。毛澤東教育が、幼稚園からスタートしてゐることを知つたとき、日本のメロディーに接した驚きに數倍して、名状しがたい感動にうたれ、“毛主席のよい息子孫子になつて下さい”とあいさつするよりほかなかつた」。(『朝日ジャーナル』昭和四十一年十二月二十五日號)
伊藤武雄氏が今どこで何をしてゐるか、私は知らない。今もなお存命かどうかも知らぬ。が、もしも存命なら、「七億の接班人」の中からしきりに毛澤東批判の聲があがつてゐる今日、かういふ輕薄な、うわずつた文章を綴つた自分を、穴があつたら入りたいようた思ひで讀み返すのではないか。
もう一つ、「善人」の文章を引こう。今度は東京工業大學教授永井陽之助氏が、『中央公論』六月號に書いた文章である。
世界の軍事支出はOECD加盟國の發展途上國向けの政府開發援助二六〇億ドルの十九倍に達してゐる。正氣の人間ならば、米ソの核軍擴競爭による資源の濫費をやめ、その節約された資源を發展途上國の經濟發展にまわすべきだと考えるのがとうぜんであろら。ところが、兩超大國は、大企業の威信維持廣告競爭に似て、現實の戰爭や脅威とは何の關係もない一種の“神學”論爭による“顕示的消費”に堕してゐる。
軍事支出とは一朝有事の際、國を守り敵兵を殺すための金である。要するに永井氏は、さういふ惡しき目的のための金を、發展途上國の經濟發展のために、つまり人助けのために使うべし、それが「正氣の人間」のやることだと主張してゐるわけである。永井教授は、おのれの「威信維持」にはさつぱり關心がなく、各種の人助けに日夜奔走してゐる佛さまのような御人なのか。「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアル」く底なしの善人なのかもしれない。
ついでにもう一人「善入」を紹介しておこう。それは野坂昭如氏である。野坂氏はアメリカ國務省の招待で渡來し、ジョージ・ランバート氏の「下にもおかぬもてなし受けて、ころつといかれてしまつた」のである。ランバート氏に四十七歳の野坂氏が「どんな風にやさしく扱われたかなど、詳しく書けば氣色わるいばかり、省略するけれど」、と野坂氏自身も書いてゐるから、私も省略する。が、「ころつといかれてしまつた」ことについての野坂氏め文章は、稚氣愛すべく、省略する必要はない。野坂氏はこう書いた。
「かなりアメリカに洗腦されましたな」(同行の写眞家)原田氏が、考えこんでいる小生にいう、「あゝ、おそまきながら向米一邊倒です」「もし、ランバートさんがCIAがらみだとすると、見事な成果を上げたことになる」「CIAでもKGBでもよろしい、ぼくは感心した。そして保守的になつた。誰が病めるアメリカなどといつておるのだ」(中略)。
小生は、これまでどちらかといふと、革新側といふことになつていた、ミッドウエストの、保守地帯で洗腦されたからには、自分なりに、これまでの革新といふレッテルにおとしまえをつけなければならない。反米鬪爭に積極的なかかわりを持つたことはないが、反米的ムードの中にいたことはたしかなのだ。 
日本の政治家の醜い自己辯語
昭和十四年、獨ソ兩國は不可侵条約を締結した。共産主義に激しく對決していた當時のドイツが、日本との間に防共協定を結んでいたドイツが、何と共産主義國と相互不可侵の約束をしたのである。その國際政治の「複雜怪奇」に困惑し狼狽して、當時の平沼内閣は總辭職せねばならなかつた。だが、われわれは今、平沼騏一郎首相の單純を笑ふことができるだろうか。永井陽之助氏や野坂昭如氏のごとき「善人」は、政界にはいないとはたして言ひ切れるであろうか。マーク・ゲインは『ニッポン日記』にこう書いてゐるのである。
INS特派員のオーストラリア人フランク・ロバートソン(中略)は、鳩山(一郎)の著書の一節を持ち出し、これに對して鳩山がどんな解釋をもつてゐるのかききたい、ときりだした。一九三八年にかかれたその一節は、次のようなものだつた。
「ヒットラーは心の底から日本を愛してゐる。日本國民はますます精神的訓練に努め、ヒットラーの信頼を裏切らぬようにせねばならぬ」
これを皮切りに査問は熱をおびてきた。(中略)われわれは彼の著書から、ヒットラーとムッソリーニに對するしつこいまでの讃辭を引用して彼に浴びせかけた。
「あらゆる英國側の宣傳にもかかわらず、ムッソリーニが斷固として進路を曲げなかつたことが、彼をして現代の英雄たらしめたのである。イタリアのために、イタリアの國民のために、ムッソリーニ萬歳!」
(中略)訊問がいよいよ肉薄するにつれ、鳩山はいよいよ混亂してきた。最初彼は何も覺えていないと言ひ張つた。そこで、彼の著書からの引用をつきつけると、その本の中では嘘を書いたのだと言つた。(井本威夫譯)
ヒットラーに限らず、外國の指導者が「心から日本を愛」するはずがない。それにまた、われわれ日本國民が、レーガンやブレジネフや4(登+邑)小平の「信頼を裏切らぬように」努力するなどとは、まつたくのナンセンスではないか。 
16.外科手術に似てゐる「愛のメカニズム」

 

ロレンス『てんとう蟲』
若く美しき人妻ダフニは不幸であつた。夫は第一次大戰に從軍して行方不明、子供は死産、二人の兄は戰死、おまけに自分は病氣であつた。ところが、ダフニの母親はまことに立派で、己れの不幸よりも他人の不幸を思ふ「人間愛」にみちた女性であり、さういふ母親に仕付けられたダフニは「人生はやさしく、善意と恩惠とに滿ちていなければならぬといふ固定觀念」に取り付かれ、母親を見習おうとしていた。そしてそのためには、「人間愛」にいささかの關りももたぬ性格、むしろ「人間愛に反發する」ような父親譲りの「激情」を抑えつけねばならない。けれどもそれをやろうとすればするほど、「血は自分自身にむかつて逆流」する始末であつた。
そんなある日、ダフニはディオニス伯爵に會う。ドイツ軍の大佐であるディオニスは重傷を負い、ロンドン近郊の病院に収容されていたのである。ダフニはしばしばディオニスを見舞う。ある日ディオニスは言つた、われわれは「世界を裏がえしにしてしまつた」、愛についても同じこと、われわれの知つてゐる「この世の白い愛」は「やはり裏がえしにされた世界で、眞の愛の白く塗りたる墓にほかなら」ない、すなわち偽善にほかならない。「眞の愛は暗いもの」であり、「闇のなかに闇とともに脈うつてゐる」ものだが、「あなたの美しさは、結局あなたの白く塗りたる墓にすぎ」ないと。けれどもダフニは考える、このあたしの手入れの行き届いた「眞珠のような美しさ」こそこの上なく貴重なものだ、「白い愛は月光のようなもので、有害」だとディオニスは言ふ、だが、夫のバジルはいつもあたしを「月のようだ」と言つてくれたではないか、そう言つてあたしを愛してくれたではないか。
やがて、行方不明だつた夫バジルが無事歸國する。が、夫の振舞にはどこかおかしなところがあつた。バジルは妻を女神として崇拝しようとするのである。妻の奴隷になろうとしてゐるのである。それも弱さゆえに。すなわち彼は口から耳にかけて負傷の傷あとがあり、それは戰場で負つた傷だつたのだが、その負い目ゆえに彼は妻を崇め、そうすることで妻に愛されようとしたのだ。さういふ肉體を無視する愛こそディオニスのいう「白き愛」ではないか。
夫婦揃つてディオニスを見舞つた時、バジルは言つた、愛こそ「人間を團結させる偉大な力」であつて、人間は愛の精神にのみ服從すべきである、それゆゑ「一人の人間が他の人間のうえに權力をもつ」などといふことは肯定できない、權力者の危險については、今囘の戰爭が立證したではないか。するとディオニスは言ふ、平和こそそれ以上に危險なものとなりうる、むしろわれわれは「權力の神聖といふ事」を知らねばならない、なぜなら「眞に生きてゐる人間なら、自分の生命を仲間のうちの偉大な人間の手に預けたくなる」時が、「力の神聖な責任を一身に引受けてくれる偉大な人物を求める」時が、きつとやつて來るはずだからだ、と。
やがて囘復したディオニスは故國へ送還されることとなり、送還の日が來るまでしばらくバジル家に泊まる。ある夜、ダフニはふとディオニスが口ずさむ歌を耳にして、心の底に「せつせつたる欲望があばれ狂」うのを感ずる。ディオニスがあたしを呼んでいるのだ、あの呼び聲にこたえたい、自分自身から離れ去り、父母や兄弟や夫からも飛び去つてしまいたい。さういふ強烈な欲望に驅られ、三日後、ダフニはディオニスの部屋に行く。だが、暗闇の中で、足元にまつわりつき涙を流す女に、男は言ふ、暗闇の中では、死後の世界では、あなたは私のものだ、が、明るい所では、この世では、私は力を持たない、あなたは永遠に、私の「闇の中の妻」なのだと。
もとよりディオニスはダフニと肉體關係を持たない。當節、欲情小説ばかり讀まされてゐる讀者はこの小説では肩すかしを食うだろう。だが、ディオニスの考えてゐることは、すなわち作者・ロレンスの考えてゐることは、デノオニスとダフニを結びつけられぬほど深刻な問題なのだ。すなわち、夫に失望した妻の浮氣などといふ事柄に、ロレンスは興味を持たなかつたのであり、男が女の「うえに權力をもつ」ことのむずかしさ、權力を持ちながらも男と女とが愛し合うことのむずかしさ、それこそロレンスが懸命に追求したものだつたからだ。それゆゑ、ロレンスは「白き愛」を憎む。そしてそれは男女間だけの問題ではない。男女間の性行爲、それはそのまま愛の行爲ではない。ロレンスにとつて重要だつたのは、男女に限らぬ愛し合うことのむずかしさなのである。 
血は自分自身にむかつて逆流する
人間誰しも、おのれを善なるもの、美なるものと思ひたがる。だが、人間には善ならざる一面も確かにある。それゆゑ、おのれを善なるものと思ひたがるばかりでは、必ず人間は、善ならざ三面の仕返しを受けるであろう。すなわち、「血は自分自身にむかつて逆流する」であろう。つまり、愛の精神にのみ服從する、さういふ綺麗事しか口にしない手合は、例えば永井陽之助教授のように、他人と融合するのはいともたやすいことだと考える。淺薄な博愛主義が横行するゆえんである。だが、人間はさういふ「白き愛」にあきたらず、白い愛の欺瞞に耐えられなくなり、いつそのことおのれを他人に、「偉大な人間の手に預けたくなる時」もある。
だが、ディオニスはダフニの肉體をわがものとはしない。「自分のうえに法を設けずにいるのはむずかしいこと」だからだ。それにもかかわらずディオニスもダフニも、そのむずかしさを圧倒せんばかりの「闇のなかに闇とともに脈うつてゐる」ものを感じてゐる。「愚かしい事だ、なぜ二人は交合しないのか」と、日本の讀者は思ふであろう。
ロレンスはポウの書いた「愛の小説」を「すこぶる猥褻」と評した。個々の有機體はそれ自體獨立していて、二つの有機體の合一といふことはありえない。有機體が有機體である限り「おのれ自身の孤獨にどうしても戻らずには承知しない」のである。
例えばの話、男と女を一體にするためには、二人を殺してその肉體をミンチにして混ぜ合わせるしかない。だが、もちろんそれで二人が一體になつたとは言へぬ。二つの死體、すなわち物體が一つになつたにすぎない。有機體の宿命は孤立といふことなのである。が、ポウが描いたような精神的な男女の愛は、互いの有機體としての孤立を思ひ知ることがない。けれども、肉體的に女と一體になろうと欲すれば、ついに一體となれぬ有機體の限界を知らされることになる。が、精神的な愛ならば野放圖に相手を呑み込めよう。ひたすら男が呑み込み、女が呑み込まれたいと願う、それはすこぶる猥褻ではないか、そうロレンスは言ふのである。
『てんとう蟲』におけるバジルのダフニに對する「白き愛」がそうである。バジルが妻を女神として崇拝するのは、肉體上の負い目ゆえに妻に疎まれることを恐れてのことだが、もしもバジルが一方的に崇拝し、ダフニが崇拝されることを喜ぶばかりなら、二人は抵抗なしに「精神の滿足」を得られよう。だが、それはすこぶる猥褻かつ非人間的であり、そこに「われわれに宿るすべての惡の根源」がある。つまり、さういふ精神的な愛は、有機體の孤立といふ抵抗を受けることがないから、愛することの困難を知らない。だが、困難にめげずに愛するのが人間の愛ではないだろうか。それかあらぬか、やがてバジルは人間らしい意欲を失う。彼は言ふ、もはや自分には「行動を起す要求」も「愛する要求」もない、今後自分は「いかなる種類の行動からも身をしりぞけていたい」。つまり、「一人まえの生きた」人間を愛そうとしないバジルは白き愛の法悦に浸るしかないのである。 
二つの肉體はついに一つになリえない
人間は、男女に限らず、他者と一體になりたがる。それはもとより美しい欲望である。だが、二つの肉體はついに一つになれぬといふ事實を、われわれは片時も忘れてはならない。その事實を認識しない限り、他人を愛することのむずかしさを痛感することがなく、偽善的な白き愛の法悦に浸るばかりだからだ。例えば、金大中氏に會つたこともない日本人が、金大中氏の運命を思ひ涙を流す、それが白き愛の法悦にほかならない。      けれども、一方、そうして有機體としての孤立を忘れず、身近な隣人を愛することのむずかしさを思ひ知つても、人は時に、おのれを捨てて偉大な人間に服從したいと、心底から願うことがある。ダフニの父親ビバリッジ卿が言つてゐるように、とりわけ今は白き愛が世界を支配しており、「ほんとにいいたいこと」つまり「闇のなかに闇とともに脈うつてゐる」ものが發したがる言葉は、決して口にされることがない。人々はもつぱら「機械的な常套語」をしゃべつてゐる。當節、權力者は忌み嫌われてゐるが、人間誰しも、偉大な人間の前に平伏し、おのれのすべてをその手に委ねたいと思ふこともあるではないか。だが、平等が重んじられる偽善的な時代に、さういふ「人間愛に反發する」よからぬ激情は捌口を見出せず、かくて白き愛の偽善ばかりがはびこることになる。
紙幅の關係でこれ以上詳しく説明するわけにゆかないが、『てんとう蟲』に限らず、ロレンスの小説からわれわれは、愛の問題に安直な解決はないことを知らされる。ロレンスは肉體の結合がすなわち愛だなどとは思つていない。ロレンスは兩性の自己放棄による愛の危險を説いた。人間はそうたやすく自己を棄てられるはずはない。しかしながら人間は、すでに述べたように、偉大なる他者の前に自己を放棄して平伏したいと思ふことがある。それに、男女の愛にしても、男女のいずれか一方が自己を放棄しない限り成立しないのかもしれない。つまり、程度の差こそあれ、愛は「外科手術」たらざるをえないのかもしれぬ。ポードレールは書いてゐる。「たとい戀人同士が互いに深く思ひあい、相互に求めあう氣持で一杯だとしても、二人のうちの一方が相手よりも比較的平靜で、夢中になり方が少ないのが常である。この平靜な方が執刀者であり、拷問者であり、他方が患者であり犠牲者である」。
つまり、ボードレールの言ふ患者・犠牲者とは、自我を放棄した方、正確には相手より先に自我を放棄した方、といふことである。例えば男が女にぞつこん惚れ込めば、男は患者にならざるをえない。自我を放棄して自分に惚れ込んでいる男の顔を見て、「比較的平靜」な女は、當然優越感を抱くであろう。それが高ずれば、女は男のあぐらをかいた鼻を醜いと思ふようになり、やがて「自分はもつとすばらしい男にふさわしいはずだ」と考えるようになるであろう。では偉大な人間に惚れ込めば萬事は解決するか。否。偉大な人間に惚れ込んでも、惚れたほうは患者になるのである。ところがロレンスは「一方が他方を征服するのでもなく、互いに自我を消滅させるのでもない」愛に強くこだわつた。彼の小説が好色小説でないゆえんである。 
なぜ、「性の秘匿」にこだわるのか
さういふ次第で、このロレンスの愛の小説と當節流行の「性愛小説」との隔たりの大きさを讀者は痛感したことと思ふ。男女が交合を好むことに東洋西洋の別はない。猥褻な小説や圖畫の類はどの國にもいつの時代にもあつた。そしてそれを樂しむことに何の不都合もない。けれども、犬猫の交尾と異なり、人間の交合には、ロレンスが指摘してゐるような厄介な問題もあるはずではないか。それなのにわれわれは今日、さういふ問題をさつぱり氣にしない。人々にとつての關心事は、「性の秘匿に普遍性はあるか」といふことでしかない。
例えば、ランバート氏に「ころつといかれてしま」つた野坂昭如氏は、『週刊朝日』昭和五十四年一月五日號に「性の秘匿に普遍性はあるか」と題する文章を寄せ、その中にこう書いたのである。
明治中頃まで、東京の近くに、新婚夫婦を村人として迎える儀式の一つとして、その性の營みを公開させる村があつたといふ。小生とて、まだ電氣がなかつた頃の、田舎のおゝらかな性の姿を、今に、どうしてもよみがえらせろといふのではない。性を汚ない恥かしいものだとみなすお上の考えかた、だから隠して當然ときめつけ、多くの文化的傳統、遺産を闇に葬ろうとする企み、これは實にいわゆる過激派の行爲より、もつと惡どい破壞行爲、日本民族に對するテロではないだろうか。
野坂昭如氏が戰つてゐるのは、いや戰つてゐるつもりなのは、地裁、高裁、最高裁なのである。すなわち「お上の考えかた」なのである。だが、裁判官も檢察官も日本人で、ポルノは好きなのだし、一方、ロレンスが一生取り組んだような難問には無關心、無理解なのだから、野坂氏と同樣、なぜ性を秘匿せねばならぬのかよく解つておらず、それゆゑ刑法第百七十五条を盾に取つて受身の戰いを強いられてゐるにすぎない。「日本民族に對するテロ」などといふ壮烈な戰いをやつてゐるわけではないのである。
では、なぜ性行爲は秘匿しなければならないのか。理由は馬鹿馬鹿しいくらい簡單である。子供は兩親の性行爲を見たがらぬ。そして他人の見たがらぬものは隠して當然ではないか。いや、大人だつて同じことで、われわれは尊敬する知人や親しい友人の性行爲は覗きたがらない。それはつまりわれわれが、人間と人間との付合いにおいて、性行爲がすべてではないことを認めてゐるからではないか。野坂氏だつて、まさか令息令嬢の面前で奥方と交合はしない。自分は決してしないが他人はやるべし、それはちと身勝手な言ひ分ではないか。
羞恥心を捨てさえすれば、「性の營みを公開」することは馬鹿にもできる。馬鹿にもやれることをやるのが人生ではないから、萬葉時代の男も人目をさけて女と會つたのである。「人目守り乏しき妹に」會おうとしたのである。
要するに、「性の秘匿に普遍性はあるか」などといふ問題に興じるのは愚かなことなのだ。野坂氏がねらつてゐるのは、「四畳半襖の下張」裁判で無罪になることにすぎないであろうが、野坂氏が無罪になつて、ついでポルノが解禁されるようになつたとしても、ロレンスが格鬪した難問が片付くわけではない。それゆゑ、野坂氏よりもはるかに聰明だつた太宰治は書いた。
人間が人間を「愛する」といふのは、なみなみならぬ事である。容易なわざではないのである。神の子は弟子たちに「七度の七十倍ゆるせ」と教へた。しかし、私たちには、七度でさえ、どうであろうか。「愛する」といふ言葉を、氣輕に使うものは、イヤミでしかない。キザである。
「きれいなお月さまだわねえ。」なんて言つて手を握り合い、夜の公園などを散歩してゐる若い男女は、何もあれは「愛し」合つてゐるのではない。胸中にあるものは、ただ「一體になろうとする特殊な性的煩悶」だけである。
いかにも太宰の言ふとおりである。「一體になろうといふ特殊な性的煩悶」が解決しても、男女が「愛し」合うといふことが「容易なわざではない」といふ問題は殘る。ロレンスならば、男女の肉體は遂に一體にはなれぬ、と言ふであろう。重ねて言ふが、さういふ重要な問題と、「性の秘匿に普遍性はあるか」などといふ低級な問題との隔たりの大きさを、われわれは時々考えたほうがよい。
しかも、われわれ日本人の性についての考え方は、樋口一葉について論じた際にも觸れたように、歐米のそれとは違うのである。上智大學教授グレゴリー・クラーク氏はこう書いてゐる。
性的關係の實際についても日本人は歐米人の抱く妙な意識はない。性は罪であるとか惡とかいう考え方は日本にはない。どの日本の町でも裏通りに入れば、「御休憩」と看板の出てゐる小さな旅館がある(「御休憩」は一泊するより安くて濟む)。政治家で婚外性交渉をもつたために失墜するものはいない。田中元首相はその妾の一人を大きな豪邸に住まわせていた。のちに彼が攻撃の矢面に立つと、問題となつたのは女性關係ではなく、その豪邸であつた。(『日本人・ユ二ークさの源泉』、村松増美譯)
クラーク氏の指摘は正しいが、いかにもクラーク氏の言ふとおりだと合点したところで、われわれが歐米人のように、「性は罪であるとか惡とかいう」ふうに考えられるようになるわけではない。日本は再び鎖國するわけにはゆかないから、どうしても歐米人の物の考え方を理解しなければならないが、同時にわれわれは、日本獨自の美意識を失わぬように努めなければならない。西鶴は『好色一代男』の冒頭に、「桜もちるに歎き、月はかぎりありて入佐山。爰に但馬の國かねほる里の邊に、浮世の事を外になして、色道ふたつに寐ても覺ても夢介とかえ名呼ばれて」云々と書いた。西鶴の昔も、日本人にとつての最大の關心事は、桜や月をめでることよりもむしろ色事だつたのである。けれども、かつての遊廊には義理と人情の双方があり、その二つの間の葛藤もあり、なによりも美意識いわゆる「廓の美學」があつた。今、トルコ風呂やストリップ小屋に、それがはたしてあるであろうか。 
17.馬の前に馬車をつなぐ「樂天家」の幻想

 

ゴールディング『蠅の王』
イギリスの少年たちが、飛行機事故のため、南太平洋の孤島に流れついた。島の「海岸はあたり一面椰子でおおわれていた。(中略)ふり返ると、これらの椰子の林とは違ういわば森そのものの黒々とした姿があり、廣く開けた岩場があつた。(中略)沖合では白い大波が珊瑚礁にぶつかつて輝き、そのまた向うには大海原が紺碧の色をたたえていた」。暑かつた。十二歳のラーフはすつ裸になり、「今、自分が孤島にいるのだといふ實感にまざまざと襲われ」樂しげに笑つた。樂しさのあまり逆立ちをやつた。
ラーフの傍にピギーといふ少年がいた。けれども少年二人で孤島に暮らすわけにはゆかない。偶々、二人はほら貝を拾つた。ピギーの提案に從いラーフはそのほら貝を吹いた。何度も吹いた。すると、椰子の木立の間から、森の中から、多くの少年たちが姿を現した。黒い外套を着て、「銀のバッジのついた四角な黒い帽子をかぶつ」た少年合唱隊もやつて來た。「二列縦隊になつて行進してきた」。合唱隊の隊長はジャックといふ少年で、帽子のバッジは金色であつた。
少年たちは話し合つた。集團生活のためには、「いろんなことを決める隊長」がいなければならない。「ぼくが隊長になる」とジャックが言つた。「だつて、ぼくは會堂付き合唱隊員だし、そのヘッド・ボーイなんだぜ」。
だが、ジャックの要求はいれられず、多數の支持を得たラーフが隊長になつた。「ジャックの顔は、屈辱のために紅潮し、そのおかげでそばかすも見えなくなるほどだつた」
ついで少年たちは、「ここが島かどうか確かめる」べく探檢隊を組織した。山の頂上まで登つてみると、やはり島であることがわかつた。しかも「人家の煙もないし、ボートもない」。となれば食糧を確保せねばならない。椰子の實ばかり食つてゐるわけにはゆかない。
歸り道に少年たちは、「網の目のようになつた蔓草に絡まれた仔豚が」悲鳴をあげてもがいてゐるのを見た。ジャックが「ナイフを握つた手を高く掲げた」。が、殺せなかつた。ジャックの手はそのまま、「釘づけになつたように靜止してしまつた」。仔豚は「蔓草から身をとき放ち」逃げ去つた。
少年たちは樣々な事柄を民主的に決定した。皆が一度にしゃべり出せば、冷靜な話合いができない。それゆゑ、しゃべりたい者は手を擧げ、隊長のラーフからほら貝を渡される。ほら貝を持つてしゃべつてゐる限り、隊長ラーフ以外の誰もそれを制止できない、さういふ規則を作つた。また、いつ何時、救助の船が沖を通らないとも限らない。それゆゑ二十四時間山頂でのろしをあげなければならない。のろしをあげ、それを絶やさぬよう張り番をせねばならない。ピギーの眼鏡を「レンズ代りに使」い、少年たちは火を燃やした。が、枯木を集めて燃やしたから、二十フィートも炎はあがつたが、煙は立たない。どうしたらよいか。
その議論をやつてゐるうちに、少年たちは激してきた。ほら貝を持つてゐるピギーは再三腹立たしげに言つた、「ぼくは、ほら貝をもつてゐるんだ」するとジャックが「ものすごい見幕で」どなつた、「默つてろ!」。
けれどもジャックはやがて反省してこう言つた。「ぼくらは、規則を作つてそれに從わなければならない。つまり、ばくらは野蛮人じゃないんだ。イギリス人なんだ。そして、イギリス人は何をやつても立派にやれるんだ」。
ともに「何をやつても立派にやれる」イギリス人のはずのジャックとラーフとは、しかしながら、次第に激しく對立するようになる。例えばある日、突然、「見つけたぞ!」とジャックが叫んだ。ラーフはジャックが救助の船を「見つけた」のだと思ふ。が、ジャックが見つけたのは豚であつた。ジャックは今度こそきつと豚を殺せる、いや殺してみせると、そのことばかりを考えていたのである。「きみは救助されたくはないのか。きみが話せるのは豚以外にはないのか!」とラーフ。「でも、ぼくらには肉がいる!」とジャック。「でも、きみはそれを樂しんでいる!きみは狩猟がしたくてたまらないんだ!」とラーフ。
一見無邪氣で愛すべき少年たちの心中にも獸性がひそんでいた。例えばモリスといふ少年は、六歳くらいの子供が砂浜にこしらえた砂の城を、めちゃめちゃに毀して樂しんだ。ロジャーといふ少年は砂浜で遊んでいるヘンリといふ少年に面白半分に石を投げた。作者ゴールディングはこう書いてゐる。「しかし、ヘンリの周邊にはおよそ直径六ヤードの、ロジャーが石をどうしても投げこめない圓い地点があつた。ここには、古い世界の見えないけれども依然として強力に働いてゐるタブーが、存在していた。(ヘンリの)周囲には、兩親と學校と警官と法律の保護があつたのだ。石を投げてゐるロジャーの腕は(中略)文明世界によつて制約されていたのだ」。
ジャックはどうしても豚を仕留めたかつた。そこで自分の顔に粘土を塗りたくつた。迷彩のつもりであつた。が、「赤と白と黒の色彩で隈どられた顔」の背後に、彼は獸性に逆らうものすべてを隠すことができた。少年たちにはイギリスで受けた教育がタブーとしていたものがあつた。すなわち、ロジャーがヘンリに面白半分に石を投げた際も、ヘンリの周邊およそ六ヤードの、どうしても石を投げ込めない區域があつた。だが、それは次第に狭くなつていつたのである。そしてそれはジャックやロジャーに限つたことではなかつた。
ある日、沖を船が通つた。けれども肝腎ののろしは消えていた。のろしの番人はジャックと共に豚狩りに行つていたのである。その豚狩りの一隊が戻つて來た。二人の少年が肩に大きな棒を担ぎ、その棒には「臓腑を抜かれた豚の死骸がぶらさが」つていて、少年たちはこう歌つていた、「豚を殺せ。喉を切れ。血を絞れ」。
「船が沖を通つたんだぞ」とラーフが言つた。「火を消したりして、だめじゃないか」とピギーも言つた。すると、ジャックはピギーの鳩尾を拳固で殴りつけ、ピギーの眼鏡の片方のレンズが壞れた。
殺した豚を料理して食うことになつた。ラーフもピギーも食つた。「肉への誘惑には抵抗しがたかつた」のである。するとジャックが言つた、「ぼくがみんなに肉を食べさせてやつたんだ!」。少年たちは「畏敬の眼差し」でジャックを見た。食い終わると少年たちは踊りながら歌つた、「豚を殺せ。喉を切れ。殴り倒せ」。
少年たちの心は急速に荒んでいつた。ある日、ラーフがほら貝を振りながら言つた、「ぼくらは、水泳プールの向うの浜邊沿いの岩の所を、便所に決めたはずだ。(中略)今じゃみんな、いたる所で用をたしてゐる」。けれども少年たちは笑いころげるばかりであつた。そればかりではない、次第に少年たちはほら貝の威力を無視するようになつたのである。ほら貝を持たない者が發言するのは規則違反だが、「だれもそれを意に介さ」ないようになつた。ラーフが必死の思ひで抗議した、「ぼくらが今もつてゐるのは、規則だけなんだ!」。するとジャックが言ひ返した、「規則なんか糞食えだ!ぼくたちは強いんだ−ぼくたちは狩りができる!獸がいたらやつけてやる!」。
要するに、「片方には、狩猟と驅け引きと恐るべき歓喜と技術のすばらしい世界」があり、他方に救出されたいとの「願望と挫折した常識の世界」があつたのである。そしてこの無人島では、いや實を言へば、ロンドンでも東京でもとどのつまりは同じことなのだが、非常識は常識よりも遙かに魅力的なのである。殺さずに我慢することは自由奔放に太刀打ちならない。そこで遂にジャックが言ふ、「ラーフは狩りなんか下手糞なんだ。ラーフに隊長の資格がないと思ふ者は、だれとだれだ?」。
多數の少年たちがジャックのあとを追つて立ち去つた。殘つたピギーはラーフに言つた、「なあに、ぼくたちだけでうまくやつてゆけるさ。常識のないあの連中なんだ、この島でごたごたを起すのは」。
一方、ジャックはあとを追つて來た少年たちに言つた、「ぼくたちで狩りをしようじゃないか。ぼくがこれからは隊長だ」そして彼らは雌豚を見つけ、槍を打ち込み、ジャックがナイフをぐさつと突き込み、少年たちは血まみれの殺戮に酔つた。
だが、殺した豚の肉を料理することになつて彼らは氣づいた、火がない、火をどうやつておこすのか。ラーフとピギーを襲撃して火を奪う、それしか手はない。そこで火を盗むことにして、實際それを敢行するのだが、そのことよりも、この段階でもジャックが、獨裁的に振舞つてゐるジャックが、あるものに對する畏怖の念を持ち合わせていたといふことのほうが重要である。そのあるものとは巨大な蛇に似た獸で、夜中それを目撃したと一人の少年が言ひ、ジャックもその存在を否定できずにいた。そこでジャックは豚の頭を切り落とし、それを木の棒の先端に刺し、地面にその棒を突つ立てた。そして言つた、「この頭はあの獸にやるんだ。ぼくたちからの贈り物だ」。
その豚の頭は「眼をどんより開き、かすかに笑いをもらし、血を齒と齒に眞つ黒にこびりつかせ」、あたりには蠅がぶんぶん飛び廻つていた。そこヘサイモンといふ「いつも卒倒」する癖のある蒼白い顔の少年がひとりでやつて來た。すると豚の頭が、いや「蠅の王」が、サイモンにこう言つた、この「私が例の獸なんだ。獸を殺せるなんておまえたちが考えたなんて、ばかげた話さ。わたしはおまえたちの一部なんだよ。齢まえたちのずつと奥のほうにいるんだよ」。それゆゑお前たちはもつとひどい状態になる、「それはみんなわたしのせいなんだ」。サイモンはぶつ倒れ、意識を失うのである。
やがて意識が戻ると、サイモンはあちこちさまよい歩き、山頂まで登つて行き、そこで少年たちの恐怖の的だつた「獸」の正體を見た。それは不時着した飛行士の死體で、腐敗しており、パラシュートをつけていて、それが風でふくらむと死體は身を起こし、凋むと「前方へお辭儀をするかのごとく頭を垂れるのだつた」。「獸」の正體について皆に報告しなければならない、そう思つてサイモンは山道を駈けおりた。
一方、ジャックたちは豚肉を食つていた。食つてゐるうちに雷鳴がとどろき、稲妻が光り、大粒の雨が降つて來た。ジャックが叫んだ、「さ、おれたちのダンスをやろう!」。少年たちは輪になつて踊り狂い、雷鳴に負けまいと甲高い調子で叫んだ、「獸を殺せ!喉を切れ!血を流せ!」
その血に飢えたイギリス生まれの蛮人の輪の中に、森の中から這うようにして出て來たサイモンが卷き込まれた。サイモンは聲高に、山頂の死體のことを知らせようとする。が、あたりは暗くなつていたし、少年たちは狂つたようになつていて、何を言おうと聞いてはくれない。サイモンは輪の中から必死になつて這い出したものの、岩の端の急な崖から波打ち際の砂の上へ轉落した。すると、少年の一團が「そのあとを追つて殺到し、崖を降り(中略)體當りでつつかかり、絶叫し、殴り、噛みつき、引き裂いた」。
サイモンが殺されると、「急に雲が切れ、雨が滝のように降り出し」、強い風が山頂のパラシュートをふくらませ、パラシュートは飛行士の死體を、はるか沖合へと運び去つた。そしてサイモンの死體もまた、大波にさらわれ、「ゆつくり外海へ流れ去つた」のである。
ジャックはサイモン殺しの事實を認めようとはしなかつた。「腰まですつ裸になり、顔を白と赤で隈どつ」た隊長は、少年たちにこう言つた。われわれはこの洞窟、このわれわれの陣地をラーフたちに奪われないようにしなければならない。「それから、あの獸がやつて來るかもしれない。きみたちも覺えてゐるはずだ、あいつが這い出してきたのを−獸は變裝してきた。きつとまた來る」。
すると、スタンリーといふ少年が言つた、「でも、ぼくらはやつちまつたんじゃないのか」。そう言つてスタンリーは身もだえし、目を伏せた。「違うつたら!」とジャックが言つた。「續いて沈默があつたが、どの少年も自分たちの記憶から逃げようとしていた」。つまり、この時はまだ、小さな蛮人たちの心の中に、かすかなものながら、良心の殘り火があつたのである。
だが、それは急速に燃えつきる。ジャックたちは、夜、ピギーを襲つて眼鏡を奪うのだが、火種を絶やしてしまう心配がなくなつて後、少年たちの良心の火種はほとんど絶えたかと思はれるほどになる。
一方、そうとは知らず、ピギーはラーフとともに、眼鏡を返してもらうため敵陣へ乘り込む。そしてほら貝を高く掲げて叫ぶ、「いいか、みんな、ぼくはほら貝をもつてるんだぞ!どつちがいい−規則を守つて仲良くやつてゆくのと、狩りをしたり殺したりするのと?」
突然、少年の一人が、高い所から岩を落とす。それがピギーにあたり、彼は跳ねとばされ、崖の下へ轉落し、「頭が割れ、中身がとびだし」、ほら貝も「白い破片となつて砕け」てしまう。すると、ジャックがラーフに向かつてわめいた、「どうだ、きみだつてあんな目にあわせてやるぞ!」。そしてジャックは「はつきりとした殺意をこめて、凄まじい勢いで槍を投げてきた」。ラーフは逃げた。ジャックに率いられた蛮人どもは喚聲をあげ、てんでに槍を投げた。
ラーフは恐怖に驅られて逃げた。一人きりになつて逃げた。逃げおおせて、森の中の空地へ出て、ラーフは蠅の王を見た。すつかり白骨になつた豚の頭蓋骨は、ラーフに向かつて「にたにたと笑いかけ」るのであつた。 
政治といふパンツの中に殘虐性が隠されてゐる
この暗い小説はわれわれに何を語ろうとしてゐるのか。人間は生殖器など所有していないかのように振舞つてゐる、「政治といふパンツの中に、貪欲だの生來の殘虐だの利己心だのを隠してゐる」、そう作者ゴールディングは書いてゐる。「なぜ社會主義の理想がスターリンを、ドイツ觀念論がヒットラーを、それぞれ引き出したのか。人々が馬の前に馬車をつないでいたからだ。人間を見ずしてシステムばかり見ていたからだ」。
ゴールディングの言ふとおりである。國家や黨派の仕組ばかりを重視して、人間のありのままの姿をパンツの中に隠し、政治制度を變革すれば人間は幸福になると素朴に信じてゐる連中は、今の日本にもずいぶん多い。
それにまた、ほら貝の萬能を人々は決して疑おうとしない。そのくせ、東大教授佐藤誠三郎氏が、ほら貝の効能を否定するかのごとき暴論を吐いて半年、誰も佐藤氏を咎めなかつた。佐藤氏は「改憲せずともどんなことでもできる」と放言したのである。けれども、『蠅の王』の讀者は、自分の中にジャックを見出すと同時に、ほら貝の果たした意外に強い効果を認識するはずである。
ところで、ラーフは最後にイギリスの海軍士官に救出されるのだが、その時、士官が言ふ、「イギリスの少年たちだつたら、もつと立派にやれそうなもんじゃなかつたのかね」。ラーフは泣いた。身體をふるわせて泣いた。「ラーフは、無垢の失われたのを、人間の心の暗黒を、ピギーといふ名前をもつていた眞實で賢明だつた友人が斷崖から轉落していつた事實を、悲しみ、泣いた」。
いかにもピギーは賢く愛すべき少年であつた。自分はどうしても眼鏡を取り返しに行くと主張する時のピギーのせりふは、すこぶる感動的である。ゴールディングはこう書いてゐる。
「ほら貝をもつてゐるのはぼくだ。ぼくはジャック・メリデューの所へ行つて、ちゃんといつてやる、いつてやるとも」
「きみはやられて怪我をしちゃうぞ」
「あいつにやられることくらいたかが知れてる。(中略)あいつのもつていないたつた一つのものを、ぼくはあいつに見せてやりたいんだ。(中略)このほら貝を手にしつかりもつたまま、あいつの所へ行く。あいつにこれをつきつけてやる。さ、いいか、つてぼくはいつてやる、きみはぼくより強いかもしれない、きみは喘息もわずらつていないかもしれない。きみはちゃんとものが見えるかもしれない−でも、ぼくは眼鏡を返してほしいとお願いにきたんじゃない。男らしくしてくれといふのだつて、きみが強いから頼むのじゃなくつて、正しいことは正しいことだからいうのだ。さ、ぼくの眼鏡をわたしてもらおう、つてぼくはいうつもりなんだ」。
もちろん、このピギーの勇氣も蛮人たちには通じなかつた。あくまでも「正しいことは正しい」と主張する、それはまことに見事なことだが、實際にはピギーは殺され、ほら貝も「白い破片となつて砕け」てしまう。では、ほら貝は、すなわち法は、所詮暴力の前には無力なのであろうか。
斷じてそうではない。それゆゑ私は、佐藤誠三郎氏の「改憲せずともどんなことでもできる」との發言を暴論と決めつけるのである。ほら貝すなわち法は、とどのつまり暴力には勝てなかつたものの、最後の最後まで機能するのであつて、『蠅の王』の讀者はそれを見逃してはならない。ゴールディングはこう書いてゐる。
ピギーがほら貝を高く掲げると、(少年たちの)ぶーぶーいう音がさらに小さくなつた。が、急にまた大きくなつた。
「ぼくは、ほら貝をもつてるんだぞ!」             
彼は絶叫した。
「いいか、みんな、ぼくはほら貝をもつてるんだぞ!」
驚いたことに、こんどはみんなしーんと靜まりかえつた。
佐藤誠三郎氏の言ふように、「改憲せずともどんなことでもできる」のなら、憲法なんぞは無用の長物である。が、法律は元首相を刑務所へ送り込むほどの力を持つてゐる。といふことは、平時における法の力は暴力や權力よりも強いといふことにほかならない。血に飢えた少年たちさえ、「ぼくはほら貝をもつてゐる」とのピギーの絶叫に、よしんば一時的ではあつても威圧され、「しーんと靜まりかえつた」ではないか。 
法は暴力の前に無力なのか
けれども、日本人は法の力といふものをあまり信じていない。それゆゑ、佐藤氏が暴論を吐いて半年たつが、誰も佐藤氏を咎めようとはしなかつた。けれども、日本は再び鎖國できないのだから、歐米人と日本人の法意識のへだたりを、われわれは承知していなければならない。われわれは「法律一点張り」で判斷しなければならない際にも、とかく「情誼」に頼ろうとする。川島武宜氏は『日本人の法意識』に「第四五帝國議會衆議院委員會議録」から、興味深い一節を引用してゐる。借地借家調停法が審議された際、政府委員の一人はこう言つたといふ。
「是ハ唯タ法律一点張リデ、當事者ノ權利關係ヲ判斷スルノデハナイ、即チ御互ニ借地人トナリ地主トナリ、若クハ借家人トナリ家主トナルト云フ關係モ、唯タ通一遍路傍ノ人ト違フノデゴザイマスカラ、ソコニ自ラ情誼モアリ、自ラソコニ道徳ガアルノデアリマスカラ、ソレニ依ツテ決定シヨウト云フ意味デ調停スル譯デアリマス」。
ゴールディングの小説を讀んで、讀者が「おのれの中にジャックを見出すと同時に、ほら貝の果たした意外な効能を認識するよう希望する」と私は書いた。だが、もとより私自身もふくめて、われわれ日本人は、「おのれの中のジャック」をほとんど氣にかけることがない。われおれは今もなお、滅私の精神を美しいと考え、自己主張を醜いと思ふのである。それゆゑ、日本の少年たちが南海の孤島に流れついたとしても、「ほら貝をもつてしゃべつてゐる限り、隊長以外の誰もそれを制止できない」などといふ規則は決して作らないであろう。すなわち、「法律一点張り」ではなく、必ず「情誼」に頼るであろう。最近『日本國憲法』がベストセラーになつたが、それもつまり、日本人の大半がこれまで憲法を讀んでおらず、また憲法なんぞ知らずとも、何の不自由も感じていなかつたといふことにほかならない。
いや、憲法に限らない、われわれは國際法についても無關心なのである。昭和五十三年、大韓航空のボーイング七〇七機がソ連の戰鬪機に銃撃され、日本人乘客が死亡するといふ事件があつた。その時、『週刊新潮』は福田首相を批判してこう書いたのである。
わが福田サン、何を寢ぼけてゐるのか−。大韓航空機のソ連「領空侵犯」事件で、日本人が銃撃を受け、殺されたといふのに、この宰相は、自衞隊の幹部を前にこんな訓示をたれた。「核戰爭が起るとは思はないが、世界は釋迦、孔子のような聖人君子の國ばかりでなく、いつなんどき不心得な行動を起すかわからない」
すでに、「不心得な行動」が起つてゐる、といふのに、この發言。「何もやらない總理」の面目だけが躍如としてゐる。
『週刊新潮』は外務省の見解も紹介したのだが、それによると外務省は「ソ連に抗議すべきだ」といふのが國民感情かもしれないが、「感情で外交を決めるわけにはいかない。假に、事實關係からいつて、ソ連機の發砲には正當な理由があつた、と判斷されれば、ソ連に對して抗議することはできない」と答えてゐる。この外務省の見解は筋が通つてゐる。他國の領空を侵犯し、警告を無視すれば、撃墜されたつて文句は言へないのである。すなわち、國際法も法であり、しかも世界各國は「法律一点張り」で行動するのだから、「情誼」に頼るなどといふことはない。よしんば友好國であつても、「通一遍路傍ノ人ト違フノデゴザイマスカラ、ソコニ自ラ情誼モアリ、自ラソコニ道徳ガアル」などと、決して考えてはくれない。ところが『週刊新潮』は、友好國とは決して言へないソ連にそれを期待してゐる。期待して裏切られたと感じたからこそ、「不心得な行動」と書いたのだし、外務省の見解についても、こう批判したわけである。
しかし、こんなノンビリした態度で對處していいのだろうか。ソ連機の發砲に、いかなる「正當性」の主張があろうとも、相手は無抵抗、丸腰の民間航空機である。“コーリャン・エアライン”といふ英語の文字は、ソ連のパイロットも讀めたはずだ。ソ連戰鬪機は(中略)左主翼の三分の一を銃撃でもぎ取られ、「グレープフルーツ大の十個の穴」をつくつたボーイング機を、その後、誘導することもなく、いわば“撃ちつ放し”で飛び去つてゐる。乘客百三十人を“見殺し”にしたのと同じだ。
ソ連空軍のパイロットは、領空を侵犯した大韓航空機を撃墜することもできたはずである。それなら、「“撃ちつ放し”で飛び去つた」のは、「ソコニ自ラ情誼モアリ」といふことだつたと、そう考えるほうがまだしも筋が通つていよう。しかるに『週刊新潮』の記者は、なんと領空侵犯機を「誘導」して「乘客百三十人」を救助するといふ善意を、ソ連のパイロットに期待したわけである。 
夏目漱石が唱えた個人主義の中身
最後に讀者に考えてもらいたいことがある。われわれは『蠅の王』を讀み、眼鏡を取り返しに行くと主張するピギーに感動する。「ぼくは眼鏡を返してほしいとお願いにきたんじゃない。きみが強いから頼むのじゃなくつて、正しいことは正しいことだからいうのだ」と、自分はジャックに言つてやる、そうピギーがラーフに語る時、われわれは暴力に對しても敢然と正義を主張する人間の勇氣に打たれるのである。
けれども、われわれは日本人なのであり、すでに述べたように、長い物に卷かれてゐる時だけ美しく振舞うのである。それゆゑ、「正しいことは正しいことだからいうのだ」と常日頃主張する者は、必ず村八分にされてしまう。本書に私は夏目漱石の作品を取り上げなかつたが、漱石はさういふ日本の精神的風土に苛立ち、果敢にそれと戰つた天才であつた。漱石の作品を取り上げなかつたのだから、『私の個人主義』からすこし長いが引用することにする。
私のこゝに述べる個人主義といふものは、決して俗人の考へてゐるやうに國家に危險を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するといふのが私の解釋なのですから、立派な主義だらうと私は考へてゐるのです。
もつと解り易く云へば、黨派心がなくつて理非がある主義なのです。朋黨を結び團隊を作つて、權力や金力のために盲動しないといふ事なのです。夫だから其裏面には人に知られない淋しさも潜んでゐるのです。既に黨派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです。(中略)
私は意見の相違は如何に親しい間柄でも、何うする事も出來ないと思つてゐましたから、私の家に出入りをする若い人達に助言はしても、其人々の意見の發表に抑圧を加へるやうな事は、他に重大な理由のない限り、決して遣つた事がないのです。私は人の存在をそれ程に認めてゐる、即ち他に夫丈の自由を与へてゐるのです。だから向ふの氣が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるやうな事があつても、決して助力は頼めないのです。其所が個人主義の淋しさです。個人主義は人を目標として向背を決する前に、まづ理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたつた一人ぼつちになつて、淋しい心持がするのです。それは其筈です。槙雜木でも束になつてゐれば心丈夫ですから。
いかにも漱石の言ふとおりで、ピギーのように暴力に對してもひるむことなく、たつた一人になつても敢然と正義を主張するなどといふ野暮な振舞はせず、黨派に屬して黨派の正義を主張し、「槙雜木」として「束になつてゐれば心丈夫」である。そして、高村光太郎が言つたように、日本人同士「心と心とをしやりしやりと擦り合せたい」と、われわれは皆思ふのである。けれども重ねていうが、日本は再び鎖國はできない。それなら、われわれは、好むと好まざるとにかかわらず、東洋風の倫理と、西歐風の「自己本位」の倫理とを、滅私奉公の倫理と「個人主義」の倫理とを、いかにして調和させるかといふ大問題に關心を持たなければならない。すなわち、われわれは、森鴎外が言つたように、「二本足の學者」でなければならない。明治四十四年、鴎外はこう書いたのである。
新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合つて渦を卷いてゐる國である。そこで東洋の文化に立脚してゐる學者もある。西洋の文化に立脚してゐる學者もある。どちらも一本足で立つてゐる。一本足で立つてゐても、深く根を卸した大木のやうに、その足に十分力が入つてゐて、推されても倒れないやうな人もある。さういふ人は、國學者や漢學者のやうな東洋學者であらうが、西洋學者であらうが、有用の材であるには相違ない。併しさういふ一本足の學者の意見は偏頗である。偏頗であるから、これを實際に施すとなると差支を生ずる。東洋學者に從へば保守になり過ぎる。西洋學者に從へば急激になる。現にある許多の學問上の葛藤や衝突は此二要素が爭つてゐるのである。そこで時代は別に二本足の學者を要求する。眞に穏健な議論は、さういふ人を待つて始めて立てられる。さういふ人は現代に必要なる調和的要素である。然るにさういふ人は最も得難い。(『田口鼎軒七囘忌における講演』)
「さういふ人」は今日もなお「得難い」のである。そして、明治四十四年の「日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合つて渦を卷いてゐる國」だつたかもしれないが、すなわち「和魂洋才」の國だつたかもしれないが、今の日本は「無魂洋才」の國なのだ。われわれが身につけてゐるのは、すべて西洋傳來の物である。もはやこの國に褌をしてゐる男も、腰卷をしてゐる女もいない。そして自動車も時計もカメラも日本製が最も優秀なのである。けれども、われわれは自國の古典からは遠ざかり、幸田露伴や樋口一葉の「偏頗」を理解せず、一方、本書で批判した學者たちのように、洋魂を理解できぬことを氣に病むといふこともない。
もとより本書の讀者は、さういふことを氣に病むことが大事だといふことを認めてくれると思ふ。では、讀者は例えば、『地下生活者の手記』について、奥方に語つてみるとよい。奥方はたぶん、漱石の『道草』の細君のように、赤ん坊を抱きあげて、「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰しやる事は何だかちつとも分りやしないわね」と言ふであろう。そうなれば讀者は、「既に黨派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです」との漱石の言葉に、同感できるようになる。そしたら讀者は、漱石の全集を讀めばよい。この私のつたない讀書入門が、漱石、鴎外といふ偉大な「二本足の學者」と讀者との橋渡しの役を果たせたら、私にとつてそれは望外の喜びである。
それゆゑ、漱石の小説を取り上げなかつた代りに、私は最後に國木田獨歩の小品について語り、それでおしまいといふことにしたい。獨歩は若死したし、漱石・鴎外のような大作家ではない。けれども彼は、洋魂を理解できぬことをたいそう氣に病んだ男だつたからである。 
エピローグ「二本足の學者」こそ人間通の鏡

 

國木田獨歩 『牛肉と馬鈴薯』
明治倶樂部といふ西洋づくりの建物が「芝區桜田本郷町のお壕端に」あつて、その二階の食堂で、ある年の冬の夜、數人の男が酒を飲みながら議論をしてゐる。議題は「牛肉か馬鈴薯か」といふことなのだが、これは少しく説明を要する。まず、上村といふ男が若い頃の體驗を語るのである。上村は同志社にいる時分から「清教徒を以て任じて居た」ため、「北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れて」おり、「斷然この汚れたる内地を去つて、北海道自由の天地に投じよう」と思つていた。そこで卒業して一年後、友人と連れ立つて北海道へ渡つたのだが、上野駅を汽車が出る時には、東京の奴らに向かつて「名利に汲々として居る其醜態は何だ!馬鹿野郎!乃公を見ろ!」と言つてやりたいほどの氣分だつたのである。
「名利に汲々」とすることを、すなわち名譽欲だの物欲だのにふりまわされることを、なぜ上村は輕蔑したのか。同志社でクリスト教にかぶれたからである。上村は言ふ。
僕は斯う見えても同志社の旧い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、(中略)そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。傳道師の中に北海道へ往つて來たといふ者があると直ぐ話を聽きに出掛けましたよ。處が又先方は旨いことを話して聞かすんです。やれ自然が何うだの、石狩河は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪つたもんぢやアない!僕は全然まゐツちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを綜合して如此ふうな想像を描いて居たもんだ。・・・・・・先づ僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆を撤く、(中略)重に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さへ有りやア喰ふに困らん・・・・・・(中略)冬になると・・・・・・(中略)冬と聞いては全く堪りませんでしたよ。何だか其の冬即はち自由といふやうな氣がしましてねエ!それに僕は例の熱心なるアーメンでせう。クリスマスと來ると何うしても雪がイヤといふ程降つて、軒から棒のやうな氷柱が下つて居ないと嘘のやうでしてねエ。だから僕は北海道の冬といふよりか冬即ち北海道といふ感が有つたのです。北海道の話を聽いても、「冬になると・・・・・・」と斯ういはれると、身體が斯うぶるぶるツとなつたものです。
上村は「熱心なるアーメン」のつもりだつたが、何のことはない、西洋渡來のクリスマスを「ハイカラ」だと思ひ、「雪がイヤといふ程」降る北海道でなら「熱心なるアーメン」の生活ができると、すなわち、北海道で馬鈴薯を食えば、名譽欲や物欲を捨てられると、そう思ひ込んだにすぎない。もとより、さういふ淺薄な思ひ込みが長續きするはずはない。はたせるかな、北海道で馬鈴薯を作るべく開墾事業に取り掛かつて二ヵ月後、ともに北海道へ渡つた友人が上村にこう言つた、
「何も自から斯んな思をして隠者になる必要はない。自然と戰ふよりか寧ろ世間と格鬪しようぢやアないか。馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多い、(中略)要するに理想は空想だ。痴人の夢だ」。そう言つて友人は脱落した。友人が離脱してのち上村は「小作人の一人二人を相手に、其後三月ばかり辛棒した」が、冬がだんだん近づいて、「森とした林の上をパラパラと時雨て來る。日の光が何となく薄いやうな氣持がする。話相手はなしサ、食ふものは一粒幾價と言ひさうな米を少しばかりと例の馬の鈴。寢る處は木の皮を壁に代用した掘立小屋」といふわけで、ついに諦めて北海道から逃げ出したのである。上村はこう語つてゐる。「だから馬鈴裏には懲々しましたといふんです。何でも今は實際主義で、金が取れて旨いものが喰へて、斯うやつて諸君と媛炉にあたつて酒を飲んで、勝手な熱を吹き合ふ。腹が減いたら牛肉を食ふ・・・・・・」。
すでに明らかであろう、馬鈴薯とは理想主義、牛肉とは現實主義のことなのだが、上村の理想主義はすこぶる淺薄なもので、それを近藤といふ男がこう批判する。「僕は馬鈴薯黨でもない。牛肉黨でもない!上村君なんかは最初、馬鈴薯黨で後に牛肉黨に變節したのだ。即ち薄志弱行だ」。すると上村が言ふ、「他人を惡口する前に先自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」。近藤は答える、「堕落たア高い處から低い處へ落ちたことだらう。僕は幸にして最初から高い處に居ないから其樣外見ないことはしないんだ!君なんかは主義で馬鈴薯を喰つたのだ。嗜きで喰つたのぢやアない。だから牛肉に餓ゑたのだ。僕なんかは嗜きで牛肉を喰ふのだ。だから最初から、餓ゑぬ代り今だつてがつがつしない」。
上村の馬鈴薯主義は淺薄で、それは若氣の至りの無分別にすぎず、それを笑ふのはたやすいことである。けれども、「嗜きで牛肉を喰ふのだ」と言ひ切る近藤が、上村の理想主義を笑ふのは猿の尻笑いにほかならない。なぜなら、話相手のない掘立小屋の生活に辟易して逃げ出した上村が「高い處から落ちた」とは言へないのと同樣、すなわちそれを「牛肉黨に變節」などとは言へないのと同樣、「最初から高い處に居ない」と言ふ近藤も、「低い處」にいることを誇つてゐる、すなわち「低い處」を「高い處」だと思ひ込んでいるにすぎないからだ。つまり兩者はともに「高い處」にはいないのであり、眞の理想とは無縁な男なのである。「氷柱が下つて」いる北海道でなら、「名利に汲々として」暮らさずにすむ、などと思ひ込む男に理想なんぞあるはずはない。半年しか持たぬ理想は理想ではない。そして、その程度の「理想」に「最初から餓ゑぬ」ことなんぞ何の自慢にもなりはしない。 
現實追随主義者は變節漢とも呼べない
けれども、昭和のわれわれは明治の青二才を笑ふことができるだろうか。できはしない。例えば六十年反安保鬪爭のリーダーの一人であつた清水幾太郎氏は『日本よ國家たれ』を書いて、その「變節」を批判された。「變節」とは道徳にかかわる事柄であるべきである。だが、清水氏を道徳的に批判する人々もまた、ついぞ馬鈴薯に餓えたことがないとしたら一體どういふことになるか。確たる證拠なくして私はこれを言ふのではない。清水氏の論文を「空想的軍國主義」と決めつけた猪木正道氏は、若き頃『戰爭と革命』なる著書を公にしてゐる。そしてその中で猪木氏は、「わたくしは、民主主義と平和主義との憲法をかたく守つて行くことが、日本を世界に結びつけ、日本人を人類に媒介する唯一の正しい道」であり、「この憲法を捨てたり、改惡したりすれば、そのとたんに(中略)日本人は奈落の底へと落され」ると書いたのである。若き日の猪木氏は憲法すなわち「牛肉」を、バイブルすなわち「馬鈴薯」だと思つていたのである。猪木氏のさういふ粗雜な考え方を私は『道義不在の時代』(ダイヤモンド社)で、徹底的に批判したから、詳しくは拙著を讀んでもらいたいが、要するに憲法とは「牛肉」でしかないのだから、現實に合わなくなれば何囘改正しても構わない。げんに戰後三十五年間にソ連は五十一囘、西ドイツは三十四囘、憲法を修改正してゐるのである。猪木氏は若い頃、「憲法をかたく守」れと主張した。けれども猪木氏は昨年、憲法第九条第二項を「前項の目的を達するため自衞軍を置く」と改めればよい、と書いた。すなわち猪木氏は頑な護憲論を引つ込めて、及び腰の改憲論を主張するようになつたらしいが、それは斷じて「變節」ではない。かつて日米安保条約に反對した清水幾太郎氏が、今日安保条約の必要を言ふようになつたのと同樣であつて、さういふ政治的な見解の變化は「變節」ではない。つまり、三十年前、日本國憲法をかたく守れと主張した猪木氏も、二十年前日米安保条約に激しく反對していた清水氏も、「眞の馬鈴薯」に餓えていたわけでは決してないからである。猪木氏は現實主義者とみなされてゐる。私はそれは違うと思ふ。猪木氏は上村であり同時に近藤なのである。つまり、昔は「高い處」にいるつもりで「低い處」におり、今は「低い處」にいるつもりで、「高い處」にいるつもりの他人を笑つてゐるわけだ。が、『牛肉と馬鈴薯』の作中人物はさういふ淺薄な手合だけではない。作者は作者の分身たる岡本といふ男を登場させてゐる。
「君等は牛肉黨なんだ。牛肉主義なんだ。僕のは牛肉が最初から嗜きたんだ。主義でもヘチマでもない!」と近藤が得意げに言つた時、靜かに落ち着いた聲で、岡本といふ男はこう言ふ。「至極賛成ですなア、主義でないと言ふことは至極賛成ですなア、世の中の主義つて奴ほど愚なものはない。(中略)僕も矢張、牛肉黨に非ず、馬鈴薯黨にあらずですなア。然し近藤君のやうに牛肉が嗜きとも決つて居ないんです。勿論例の主義といふ手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいふ嗜好にも從ふことが出來ません」。
露骨に言つてはいないけれども、要するに岡本は、理想主義だの現實主義だの、自由主義だの全體主義だのと、およそ主義と名の付く物は「手製料理」同樣どつさりあるが、自分は一切そんな物は信用しないと主張してゐるのである。實際、「忠君愛國だつてなんだつて牛肉と兩立しないことはない」と綿貫といふ男は言つてゐるが、それはつまり、牛肉と兩立するように忠君愛國に手を加えた「手製料理」を食つてゐるといふことにほかなるまい。日本人にとつて、忠君愛國も八紘一宇も共産主義も、自由主義も民主主義も、馬鈴薯ではなく、馬鈴薯と牛肉のごつた煮、いや牛肉そのものではあるまいか、要するに日本人はすべて眞の理想とは無縁の現實追随主義者ではあるまいか、そう岡本は、獨歩は言ひたいのである。現實追随主義だから、忠君愛國や八紘一宇が時代の現實だつた時はそれに從い、民主主義や平和主義が時代の現實となれば、それに從う。そして、すでに述べたように、それは「變節」ではない。もしもそれが「變節」なら、昭和二十年八月十五日、日本人のすべてが「變節」したことになる。そして日本國憲法は「變節漢のための憲法」といふことになる。
だが、そもそも「變節」とはどういふことなのか。『新潮國語辭典』によれば、「變節」とは一に「季節が移り變ること」であり、二に「節義を改めること、みさおを變えること」であり、三に「從來の主張を變えること」である。猪木正道氏も清水氏も、敗戰直後の日本人も、「從來の主張を變え」たのである。が、それは「操を變え」たことだつたのか。では操とは何か。操とは「深青」で、一年中變わらない常緑樹の葉を意味し、轉じて「忠義・貞節の意思が道徳的に強いこと」を意味する。が、その「忠義・貞節」は誰に對する「忠義・貞節」なのか。獨歩は『岡本の手帳』にこう書いてゐる。
「神を信ずるもの、」彼等は自から斯く稱し居れり。然ば何故に彼等は世間的の煩に苦むこと多きや。何を着んと思ひわずろう勿れと主は教へ玉へども彼等は是等を思煩ふのみに非ず如何に人に思はれん、如何に世の認めるならんなどをも思ひなやみ居るなり。是れ何故ぞや。彼等の神は天地の造りぬしたらずして、世のものなればなり。(中略)餘は今、彼等と言へり、されど此彼等の内には勿論餘も加はり居るなり。
戰時中大方の日本人にとつて「神」とは天皇であつた。日本人は天皇に對する「忠義・貞節」を重んじた。が、敗戰後、天皇は人間になつた。忠義・貞節のほうは當然宙に迷い、新しい「神」として民主主義を選んだのである。それははたして「變節」だつたのか。岡本の言ふとおり、さういふ「神は天地の造りぬしならずして、世のもの」であつて、天皇も民主主義も絶對的ではない。すなわち神ではない。それなら、絶對的であり絶對に變わらぬものへの「忠義・貞節」などを、われわれ日本人に期待するほうが無理ではないか。
それゆゑ、「如何に人に思はれん、如何に世の認めるならんなどを思ひなや」むことなく、神への揺がぬ信仰ゆえに時勢の變化を一切無視するなどといふ振舞は、われわれにやれるはずがない。「世帯佛法腹念佛」といふが、われわれにとつて信仰とは身過ぎ世過ぎのための便法でしかないのであり、實際、神官は結婚式の時、僧侶は葬式などの法要の時、それぞれ役立つにすぎない。そして、歐米の文學作品には、例えばサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』にも、ソール・ベローの『宙ぶらりんの男』にも、聖書への言及があるけれども、わが國の現代文學に神道や佛教への言及はすこぶる稀である。いや、われわれは今や、儒教が養い育てた忠孝仁義などの徳目にさえ、およそ無關心なのである。 
われわれは「道義不在の時代」を生きてゐる
だが、われわれにとつての「神は天地の造りぬしならずして世のもの」なのだから、すなわち絶對者ではなくして相對的存在なのだから、徳目もまた相對的で、時勢の變化に伴い流行つたり廢れたりするのは是非もない。けれども、戰後新しい「徳目」であるかの如く見做されて久しい平和主義だの民主主義だのは、とどのつまり道徳とは無縁であることだけは、われわれも承知していなければならない。道徳とはいつの世にも自己犠牲を強いるものだが、民主主義も平和主義も、自己犠牲を馬鹿らしく思ふ風潮を育てるだけなのである。
私は猪木正道氏について、若い頃の猪木氏も「眞の馬鈴薯に餓えてゐたわけでは決してない」と書いた。けれどもそれはこの私が「眞の馬鈴薯に餓えて」ゐるといふことを意味しない。世間の人は安直に「信仰と言ひ、悟道といひ、安心と云ふ」。けれども彼らは「心理的遊戯」にふけつてゐるのだと獨歩は書き、さらに「されど此彼等の内には勿論餘も加はり居るなり」と書いた。私も猪木氏の「現實追随主義」を笑ふだけでよいなどと思つてゐるわけではない。私はただ、せめてものこと、自分が「眞の馬鈴薯に餓えて」いるわけではないといふ事實を承知してゐることが大切だと主張してゐるにすぎない。鴎外の言ふ「二本足の學者」であるためには、われわれはわれわれの馬鈴薯が眞の馬鈴薯でないといふことを、常に忘れないようにしなければならないのである。 
あとがき

 

本書は二年間『月曜評論』に連載した『この世が舞臺』に加筆したものである。『月曜評論』といつても大方の讀者は知るまいが、桶谷繁雄氏が發行してゐるたいそう立派なミニコミ紙である。國木田獨歩の言ふ「牛肉黨」ばかりのわが日本國では、稿料の安いミニコミ紙には書こうとしない物書きが多い。が、『月曜評論』の執筆者は立派で、稿料が安いからとて手抜きをするといふことがない。さういふ執筆者の眞劍に付き合つて、私も一所懸命に書いた。が、なにしろ私に与えられる紙數は隔週四百字五枚で、作品の荒筋を語り終わるとあとは紙數がいくらも殘らない。それゆゑ、時には飛躍した結論を、強引につけ加えることもあつた。今囘、徳間書店から上梓されるにあたり、私は存分に書き足すことができ、肩の荷が下りたような氣持である。『月曜評論』の中澤茂和氏及び徳間書店の森本豊二氏に深く感謝する。
『月曜評論』に連載するにあたり「この世が舞臺」などといふ題をつけたのは、人間、この世が舞臺のはずなのに、なぜ學者先生はこうも人間について無知なのだろうと、言外にさういふことが言ひたかつたからである。本書の題名もそれでよいかと思つたが、「そんなものパンチに欠ける」と批評されて諦め、結局『人間通になる讀書術』といふ題になつた。それよりも『賢者の毒、愚者の蜜』といふ題がよいとも思つたが、『人間通になる讀書術』でよいではないか、「この世が舞臺」なのだから、「賢者の毒、愚者の蜜」といふことを知つて「人間通になる」、それが大事といふことではないか、と編集者に言はれ、なるほどと思つたのである。  
 
暖簾に腕押し / 松原正

 

私はなぜ人を謗るか 序に代へて 
「第四權力」と稱せられる新聞は誰にも批判される事が無いから、或いは批判されても蛙の面に水で一向に怯まないから、實際は「第一權力」であり、その増上慢は止る所を知らない。新聞批判が「暖簾に腕押し」たらざるをえぬゆゑんである。だが、さういふ絶大たる權力を持つ新聞に決して批判されないのが寄稿家なのであり、例へば先般、四百名もの「文學者」が發作的に「反核聲明」とやらを發表した際も、新聞がそれを批判する事は無かつた。中上健次氏や柄谷行人氏が「文學者の反核アビール」を批判したけれども、それはいづれも文藝雜誌においてであつた。
さういふ譯で、新聞はもとより時に新聞を批判する週刊誌や月刊誌も、寄稿して貰ひ意見を徴する文士や學者評論家の類は決して咎めない。それゆゑ、新聞人編集者が増長すれば物書きもまた増長し、でたらめに書き散らし、私生活においても傍若無人に振舞つてそれを恥ぢない。例へば先年、直木賞受賞作家佐木隆三氏が泥酔して荒れ狂ひ、器物損壞の現行犯として逮捕された事がある。けれども佐木氏は自責の念に驅られるどころか、或る週刊誌に「我が酔虎傳始末記」なる駄文を寄せ、自分は品行方正ゆゑに直木賞を貰つた譯ではないから、「たかが戯作者風情、今後も似たやうな失敗は、どこかで演じるにちがひない」と書いたのである。ホテル・ニュージャパンの横井社長も、三越前社長の岡田茂氏も、これほど盗人猛々しき態度は採らなかつたではないか。
また、これは傳聞だから名前は伏せるが、或るカトリックの小説家は、或る日或る酒場で1(木+税 − 禾)の上らぬ劇作家を、「貴樣はなぜ愚劣な作品ばかり書くか」とて散々に苛め、苛めるだけでは足りずに強か殴りつけたといふ。もう一つ、これも傳聞だが、或る著名な進歩派の小説家は、銀座の著名なバアで、自分に文學賞をくれなかつた選考委員に食つて掛り、ウヰスキー・グラスを投げ付けたといふ。そして、1(木+税 − 禾)の上らぬ劇作家を殴つたカトリックの小説家も、グラスを投げ付けた進歩派の小説家も、ともに「反核アビール」に署名して、人類の絶滅をいたく案ずる振りをしたのであつた。
なるほど、酒氣違ひの失態を咎め立てせぬのが日本の「美風」かも知れないが、もしも政治家や企業家が酒に呑まれてかほどの醜態を演じたら、新聞や週刊誌は決して默つてはゐまい。しかるに文士のでたらめはなぜ知つて知らぬ振りをするか。言ふも愚か、人氣作家の氣を損じたら損にたるからである。いやいや、專ら損得を重視するジャーナリストがのさばらせるのは人氣作家だけではない、論壇にも大ボスがゐて、それに楯突けば物書きは干される。谷澤永一氏から聞いた話だが、「俺に楯突く奴は生殺しにしてやる」とその大ボスは言つてゐるといふ。なるほど、『問ひ質したき事ども』(新潮社)に福田恆存氏が書いてゐるやうに、福田氏さへその種の言論抑圧の被害を受けたのだから、大ボスに楯突いてこの私が「生殺し」の憂き目を見ずに濟ますのは難しい。しかも、物を書く事は眞劍勝負だと信じてゐる私は、でたらめな物書きを斬り捲つただけでたく、でたらめな編集者とも渡り合つた。一度だけ福田恆存氏の忠告に從ひ、喧嘩した編集者と縒りを戻したが、それは柄に無い事だつたから、長續きしなかつた。けれども、「捨てる神あれば助ける神あり」といふ。私の場合、「助ける神」はラジオ日本の遠山景久社長であつた。私は今、月曜から金曜までの毎日三十分、ラジオ日本に出演して、「侵略戰爭の何が惡いか」などといふ甚だ物騒なる問題を論じて無事であり、言論の自由を大いに享受してゐる。そしてそれは偏に遠山氏の侍氣質のせゐなのである。同じテーマで毎日語るのはラジオ番組ではいかがたものかとのモニターの意見を一切無視し、私は毎囘戰爭についてだけ語つてをり、いづれそれを一本に纒める積りでゐる。
ところで、日本人は和を重んずる民族だとよく言はれる。が、今や日本人は許し合ひを重んずるのである。「許す」とは「緩くす」であつて、緩褌となり果てた吾々は他人に緩くして、その代り他人からも緩くして貰ひたがる。他人のでたらめを許さずして生きるのは窮屈ではないか、他人のでたらめを許さぬとなれば、おのれもまたでたらめには生きられまい、それなら他人のぐうたらを許し、おのれも氣樂に生きるがよいと、當節、大方の日本人はさう考へるやうになつた。新聞や言論人が緩褌の快を貧り、互ひのでたらめを許し合ひ、恬然として恥ぢないゆゑんである。
元禄の昔、伊藤仁齋は「專ら敬を持する」儒者を批判してかう書いた。
專ら敬を持する者は矜持を事として、外面斉整す。故に之を見れば則ち嚴然たる儒者なり。然れども其の内を察すれば、則ち誠意あるいは給せず、己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深く、種々の病痛故より在り、其の弊あげて言ふべからざる者有り。(『童子問』)
詳しい説明はしないが、仁齋は誠意すたはち「まごころ」を重んじた儒者である。「敬」を重んずる學者は、とかく外づらにこだはつて心の中の事を疎かにする、それゆゑ一見嚴しい儒者に見えるが、「己を守ること堅く」、人を責める事深く、かくて他人への思遺りをさつぱり持合せぬといふ事になる、さう仁齋は言ふのである。
なるほど、敬を持する儒老に限らず、「己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深」いのは凡人の常であらう。けれども、佐藤直方が言つたやうに、「人の非を言はぬ佞姦人あり。人をそしる君子の徒あり」といふ事もある。つまり、おのれの非を言はれぬために人の非を言はぬ腹黒い手合がゐるし、人の非を論ふ奴のすべてが惡黨とは限るまい。人の非を言ひ、人を嚴しく謗る以上はおのれに對しても嚴しくあらねばならず、それゆゑ他人に嚴しい者が却つて「君子の徒」であるといふ事もあらう。林羅山は書いてゐる。
強ハ人ニ勝ヲイヘドモ、先ミヅカラ我ニカチ私ニカチ欲ニカッヲ聖賢ノ強トス。我ガ私ニカツ時ハ、其上ニ人ニ勝事必定ナルベシ。
もとより「我ガ私ニカツ」のは容易の業ではない。人間は專らおのれの力によつておのれを抑へうるほど強くはない。けれども、このぐうたら天國日本では、克己といふ事の重要はことさら強調されねばならぬ。それゆゑ私は前著『道義不在の時代』においても、「偽りても賢を學」ぶ事の大事を説いた。人間は常に自分で自分を抑へうるほど強くはない。けれども「偽りても賢を學」ばうとする事によつて、すたはち偉人賢人に肖らうと背伸びをする事によつて、吾々は立派になる事ができる。同樣に、「人をそしる君子の徒あり」、他人に嚴しくする事によつて吾々はおのれに對しても嚴しくなりうるのである。それゆゑ私は人を謗る。他人のぐうたらやでたらめを手嚴しく批判し、言ひたい放題の事を言へば、すなはち他人を許さなければ、私自身が他人から許される事は期待できない。「人を責むること甚だ深」ければ、勢ひ自分もぐうたらにしてはゐられたくなる。さう信じて私は過去數年間、新聞、週刊誌、及び物書きのでたらめを斬り捲つた。が、それは私をさして立派にもせず、また私の振り廻す劍は虚しく宙を斬るのみであつた。すたはち「暖簾に腕押し」であつた。
けれども、私は愚痴つてゐるのではない。斷じてさうではない。私は何よりも愚痴を好かない。理由は簡單で、愚痴ほど非生産的なものは無いからである。「生殺しの憂き目」を見ようと、「暖簾に腕押し」の虚しさを痛感しようと、私は今後も、他人に緩くしてその代りおのれも緩くして貰はうなどとは決して思はないであらう。
主君を諫めるなどといふ事はやつてはならぬ、言葉で人を諭さうとしても無駄である、他人の欠点をあからさまに指摘すれば先方は必ず腹を立てる、それに他人に忠告するのは、おのれを立派に見せようとの底意あつての事である場合が多い、『答問書』に荻生徂徠はさう書いてゐる。なるほどそのとほりだが、それを言ふ徂徠自身、伊藤仁齋や新井白石を激しく謗つてゐる。例へば白石について徂徠はかう書いた、「新井ナドモ文盲ナル故、是等ノコトニ了簡ツカヌ也」。
徂徠は學問のほかに何が好きかと問はれ、「餘には他の嗜玩なし、唯炒豆を噛んで宇宙間の人物を詆毀するのみ」と答へたといふ。「宇宙間の人物を詆毀する」事も世のため人のためだと、徂徠は信じてゐたであらう。そしてまた、でたらめな他人を謗る事も、立派た他人を稱へる事と同樣、自分のためになるのである。今、日本國の書店の書架には、2(果+多)しい書物が並んでゐる。けれども、嚴しく他人を「詆毀する」書物も、肖りたいとの眞撃な願ひをこめて天才偉人について語つた書物も、ともに頗る少い。それは今、日本人がモラトリアムと馴合ひの快を貪つてゐるからに他たらない。
親愛なる讀者諸君、本書に収めた「言論か暴力か」(二五七頁)をまづ讀んで貰ひたい。そして「生殺しの憂き目」に會ふほど他人を「詆毀」するとはどういふ事かを知つて貰ひたい。私は徂徠に倣つて「猪木ナドモ文盲ナル故、是等ノコトニ了簡ツカヌ也」と言つたのである。猪木氏の防衞論の淺薄を、私は前著において批判したけれども、猪木氏は私に反論しなかつた。私の仕事が「暖簾に腕押し」たらざるをえないゆゑんである。 
1 週刊誌を斬る

 

1 女ならではの愚作
「水着の色・柄・型で」女の「SEXを診斷」できると、週刊ポスト六月二十二日號は書いてゐる。例へば「白のセパレーツを好む女」は「一皮ひんむくと、セックスプレーにはすごく積極的な樂しい女になる」のださうである。勿論でたらめに決つてゐるが、これほどのでたらめを本氣にする讀者はゐまいから、殊更目くじらを立てるには及ばない。でたらめもここまで徹底すれば御愛嬌、却つて無害であつて、オレンジ色の水着の女は「知らない男に犯されたい」と思つてゐるとのポストのでたらめを眞に受けて警察につかまつたとしても、それはつかまつた奴が惡い。週刊誌を讀むといふ事は、この種のでたらめをでたらめと承知して、輕々に信じないやうになる事であつて、それはこの世を渡るために不可欠の知惠である。
だが、週刊誌の内容はまこと玉石混淆であつて、例へば週刊現代は「トルコロジスト」と稱する廣岡敬一氏のトルコ風呂探訪記や、「半藏の門」と題する小池一夫氏の淫猥な劇畫を連載してゐるが、その現代の六月十四日號七十ぺージには、次のやうな文章が記されてゐるのである。「宗教では、罪は犯すやうになつてゐるんですね。犯していいといふのではないけど、どうしても犯すやうになつてゐる」
これは週刊現代の記者に對して曽野綾子女史が語つた言葉である。これはでたらめではない。恐ろしいくらゐ本當の事である。そして、本當の事だから決して無害ではない。遠藤周作氏の戯曲『黄金の國』では、クリストが人間に罪を犯してよいと言つてをり、そのくだりを讀んだ時、私は愕然としたけれども、曽野女史のやうに表現してくれれば私は納得する。人間は罪を「犯していいといふのではないけど、どうしても犯すやうになつてゐる」のである。が、この種の「本當の事」が正しく理解される事はまづ無いであらう。人間はいい加減なものだからである。「いい加減」である事を氣にしないからである。
曽野女史が朝日新聞に連載している『神の汚れた手』はまだ完結してゐないから、小説としての出來榮えは云々できない。が、曽野女史の關心は人間にあつて「女である事」にはない。一方、サンデー毎日六月二十四日號が紹介してゐる四人の「女子大生作家」の作品は、いづれも「女でなければ書けない」類の愚劣な作品である。毎日によれば、吉行淳之介氏は「子宮感覺がいい」と絶賛し、菊村到氏は「文體、感覺を含めて作品そのものが新鮮」だと評したといふ。「生理になつたら・・・・・・血がドバーッ。ね、汚いよね」とはまた何と汚い文章か。それに何より、女の生理なんぞを大事と考へてゐるやうではまだまだ半人前である。そして、さういふ半人前の女を持ち上げる男は、水着によつて女の「SEXを診斷」する男と同樣、決して女を人間として扱つてはゐないのである。女はなぜその事に氣付かないのだらうか。 
2 學問よりも金と地位
週刊文春七月五日號によれば、受驗生の父兄からまきあげた千數百萬圓を返濟できず、「かはりに指をつめ」た男が日本大學にゐるさうである。文春の記事が正しいとすると、日本大學はもはや大學の名に價しない。日大の「裏口入學シンジケート」を週刊誌が非難するのも當然である。それゆゑ、私には日大を辯語する氣はさらに無い。けれども、新聞や週刊誌が「教育現場を告發する」事には熱心でも、その腐敗の因つて來たる所を考へようとしない事を飽き足らなく思ふ。『言論人』七月五日號に林三郎氏は「政界淨化には、まづ金のかからない選擧制度を考案することであるが、これについては諸黨はまことに不熱心である」と書いてゐる。その通りである。週刊ポスト七月十三日號は「私大でのコネ入學は必要惡だ」との日大の「灰色教授」の言葉を引き、「今囘の取材で感じるのは“學業より利權”といふ教授がほんとに多いことだ」と書いてゐる。ポストの記事を疑ふだけの根拠を私は持ち合せてゐない。が、林三郎氏の言葉を捩つて言へば「教育界淨化には、まず學問よりも金や地位を欲しがる教師を成敗することであるが、これについてはマスコミも大學もまことに不熱心」なのである。
例へば、テレビのコマーシャルやクイズ番組で顔を賣り、ついで著書を出す、さういふ大學教授が果して立派な教師なのだらうかと、マスコミや大學生は疑つてみた事があるだらうか。文春は或る日大講師について「講師なんて肩書がついてゐますが、學生にちやんと教へたことなんかありやしません」といふ日大關係者の言葉を引いてゐるが、ジャーナリストがちやほやする教授がよき教師であるとは限らない。勿論、大學教授も政治家や檢事と同樣人の子である。週刊朝日七月六日號が淡々と書いてゐるやうに、遠藤元檢事は友情に溺れ愛人に裏切られた。大學教授もまた友人や愛人を裏切つたり裏切られたりするだらう。が、マスコミに顔が賣れても「學生にちやんと教へ」ない教授こそ眞先に成敗されなければならないのである。
だが、それが實は頗る難しい。教師は時にでたらめを教へるが、それでも教師が眞劍になれば學生も必ず眞劍になる。けれども、眞劍な教師に眞劍に應じる學生も、いい加減な教師のいい加減を許すのである。週刊現代七月五日號は早稲田大學の「五代の總長の無策」を批判してゐる。總長や學部長が無策無能でも、教場における教師が眞劍なら早稲田大學は安泰なのである。が、早大に限らずどこの大學でも、昨今は學問に情熱を持たぬ教師が學内政治に興味を持つといふ事がある。皆が内心輕蔑してゐる男を學部長に選出する事もあると聞いてゐる。要するに教師も學生も本氣でないのである。どうしてさういふ事になつたか、それを週刊誌は一度徹底的に考へてみたらどうか。 
3 腑に落ちない記事
週刊誌を讀んでゐると、時々なぜこんな文章が載るのかと首を捻る事がある。週刊文春に連載中の三浦哲郎氏とその令嬢の往復書簡『林檎とパイプ』の場合もさうである。親子が書簡を公開する事自體、差恥心が欠けてゐる證拠であつて腹立たしいけれども、七月十二日號には階段から「正坐した恰好でとんとんと落ち」た話を令嬢が書き、それに對して三浦氏が「正坐の恰好で落ちるなんて、ちとお行儀がよすぎるよ。今度落ちるときは尻で落ちなさい。(中略)ほかのところより肉が厚いだけ無難だらう」と書いてゐるのである。それだけの、本當にそれだけの愚にもつかぬ無駄話であつて、こんなつまらぬ話がどうして活字になるのかと、首を捻らざるをえない。
名士の親子が書いたとなると、こんな愚劣な作文でも、讀者は喜んで讀むのだらうか。それなら、さういふ讀者は途方も無いお人好しに違ひ無い。同じ號の文春は、目下朝日新聞に連載中の『美濃部囘想録』の「華麗なるウソ」を痛烈に批判してゐる。文春の言ふ通り、美濃部氏の囘想録は「ボロは出すは、“ウソ”はつくは・・・」の何とも女々しい文章である。さういふ「手前勝手な辯明に終始」してゐる囘想録をなぜ美濃部氏が書くのか、なぜ朝日がそれを載せるのか、それは私には理解できる。が、三浦哲郎氏が令嬢を卷き添へにしてまでなぜ恥を捨てるのか、それがどうにも理解できない。
一方、週刊現代七月十九日號の「突入!日本はアラブ産油國と石油全面戰爭に」といふ記事も腑に落ちない。現代によれば、防衞庁は「石油有事」に備へるべく「昨年暮れ、海外二十五ヶ國に警備官二十五人を派遣した」が、現代が取材した「海幕のある二佐」は、「イラン政變について、アメリカはCIA情報の錯誤によつて判斷を誤り、ベトナムでもカンボジアでもミスを犯した。そこでわれわれは情報を収集することにした」と語つたといふ。奇妙な話である。二十五人の警備官が、いかに弱體となつたとはいへ、天下のCIAと張り合へる筈が無い。現代はまた、「今年の秋には千五百圓灯油が出現」し「クーラー、セントラル・ヒーティングは廢品同樣に」なり、「倒産ラッシュが起こ」り、「洗劑、紙が市場から消え」ると書いてゐる。さういふ事態には決してならない、とは私は言はぬ。が、さうなつたら、市場から消えるのは洗劑や紙だけではない。二流の雜誌や三流の週刊誌こそ眞先に消える筈である。その事を、どうやら現代は少しも考へてゐないやうであつて、これまたまことに腑に落ちぬ話である。
私は八卦見ではない。それゆゑすさまじい石油危機が到來するかどうかは確と解らぬ。が、文章から判斷するに、石油危機を扱つた各誌の記事のうち、週刊文春七月十九日號のそれが最も冷靜であつて、それゆゑ私は、今のところ「日本沈歿」はありえぬとする文春の意見を、今のところ信じておかうと思ふ。 
4 清き水に魚棲まず
「口は乃ち心の門なり。口を守ること密ならざれば、眞機を洩し尽くす」。サンデー毎日八月五日號の編集長の文章を讀んで、私は驚いて目を擦り、ついでこの『菜根譚』の一節を思ひ出した。毎日の編集長はかう書いてゐるのである。「前囘の總選擧のとき(中略)團地では新自クヘの熱い期待を感じとりました。新自クを押し上げた力は團地の主婦だつたといまでも思ひます。それゆゑに、情緒的であり、時代に耐へる永續性がたかつた」。「それゆゑに」の次に省略されてゐる主語が何であれ、結局は同じ事になる。サンデー毎日は「團地の主婦」には好意的だつた筈だが、それは私の思ひ違ひで、少なくとも四方編集長は「團地の主婦」は「情緒的」で「時代に耐へる永續性」が無いと、心中密かに苦々しく思つてゐたらしい。そして今囘、つい口がすべつて「眞機を洩し尽く」したのであらう。同情はするが、今時そんな本當の事を放言して大丈夫なのだらうか。全國の「團地の主婦」が怒り心頭に發し、サンデー毎日のみならず毎日新聞の不買運動なんぞを始めないだらうか。物議を釀さぬうちに、四方編集長は政治家を見習ひ、眞意はかくかくしかじかと辯明に努めたはうがよいのではないか。
一方、週刊現代八月二日號によれば、日本列島を席捲したインベーダー遊びは、「遊んだ人の數にして一日一臺當たり單純計算で四十人。(中略)一日實に八百萬の日本人がピコピコやつてゐた」事になるといふ。けれども「登場わづか半年餘り」でブームは下火になり、或る「ゲームセンターの經營者」は「先行きの見通しのお粗末さは、恥づかしいかぎりですわ」と語つたさうである。商賣やスポーツは勝敗がはつきりする。が、それにしても潔くおのが不明を認めるとは中々すがすがしい態度である。
新聞や週刊誌はさうはゆかぬ。例へば週刊現代は新自由クラブに對して「やんちや坊主の鬼ごつこ」は二度と繰り返すなと忠告してゐるが、現代に限らず、三年前、新自由クラブが結成された時、大いにその前途を嘱望したのは新聞や週刊誌ではなかつたか。週刊文春七月二十六日號の言葉を借りれば、新自由クラブは當時から「半人前の“お子さまランチ”」だつたのである。その幼稚を見抜けずして拍手喝采した新聞や週刊誌に、今さら新自由クラブを説教したり揶揄したりする資格は無い。三年前、私はサンケイ新聞の直言欄で新自由クラブ・ブームにはしやぐ新聞を窘め、河野洋平氏のやうな「勇み肌の坊ちやんの前途に何の期待も抱く事は出來ない」と書いた。「三日さき知れば長者」といふが、私はまだ長者ではない。それゆゑ先見の明を誇る譯ではない。新聞や週刊誌が今なほ清潔な政治に期待し、清き水に魚棲むかの如く言ふ、その度し難い習性に呆れてゐるだけの事である。 
5 太田薫氏の「蛮勇」
先日、私はラジオ關東の「土曜エクサイト論爭」で、太田薫氏と激しい口爭ひをやつた。革新の甘つたれを批判して、私が譯の解らぬ事を、機關銃のやうにまくし立てると、太田氏が當惑して默つた。司會の竹村健一氏も呆れて「太田ラッパが鳴りやんだ」と評したが、實は私は、心中密かに太田氏の人柄のよさに感動してゐたのである。その事は或る雄誌に書いたからここでは繰り返さない。ただ、さういふ事があつたから、週刊新潮が三囘にわたつて載せた太田氏の手記『ネクタイをつけた二十五日間』を、私は頗る興味深く讀んだのである。正直、太田氏の文章には納得でぎぬ箇所がいくらもある。だから、太田氏と論爭する事になれば、私は再び機關銃を持ち出すであらう。だが、私は今それをやる氣がしない。手記を讀んで、太田氏の人間的魅力を再確認したからである。
これまで私は、折ある毎に、革新的な物の考へ方を批判したから、讀者は私を頑迷固陋の保守反動と思つてゐるかも知れぬ。汚職を咎める新聞や週刊誌を咎める私が、かういふ事を言つても信用されまいが、私が何より好かないのは信念の無い人間、道義心を欠く人間なのである。太田氏は「革新を裏切つたかつての仲間」を怒りをこめて斬つてゐる。裏切りの卑劣に保革の別は無い。太田氏は「美濃部さんの民主主義」は「黒幕のゐた民主主義」だと言ふ。自民黨内閣の文部大臣だつた永井道雄氏を「まさか社會黨は推薦しないだらうね」と上田哲氏が言つた時、杜會黨「最左派」も默つて答へなかつたと言ふ。飛鳥田氏が「太田おろし」に熱心だつたのは、革新自治體の「利權の構造」を守るためだつたと言ふ。私は革新を叩く太田氏の言ふ事を殆どすべて信じる。太田氏の信念を、敵ながらあつぱれだと思ふからである。
もとより手記には我田引水に過ぎる部分もある。が、敵を叩くよりも身方を叩くはうが困難である。それには「蛮勇」を必要とする。革新がここまで徹底的に革新の道義的退廢をあばけば、太田氏の敵は、保革を問はず、政治的妥協を知らぬそのドン・キホーテぶりを嘲笑ふであらう。だが、信念の無い人間にどうして妥協ができるのか。猪武者だと太田氏を嘲笑ふ者は、獨り胸に手をあて考へてみるがよい。あなた方の「妥協」は果して妥協か。それはなりふり構はぬ無節操ではないのか。例へば、知事候補の一人だつた永井道雄氏は、太田氏の立候補宣言を知つて「慌てて當時の大平自民黨幹事長」のところへとんで行つたといふ。さういふ人物と、「おれは知事をやりたい、おれにやらせば東京はよくなる」と言ひ放つた太田氏と、人間としてどちらを敬すべきか。私は太田氏に投票しなかつたし、今後も決してしない。が、この際、美濃部氏を担いで担がれた新聞、週刊誌は、太田氏の手記を精讀して、保革を問はぬ無節操に深く思ひをいたすがよいと思ふ。 
6 時に損も覺悟せよ
週刊文春八月三十日號によれば、安岡正篤氏は、二十七歳の時、六十三歳の八代六郎海軍大將と陽明學について激論をかはし、「おたがひにゆづらず、五升の酒をのみきつた」が、最後に八代は「一週間後にまた會はう。それまで考へてみて、もしワシが間違つてゐたら貴公の弟子になる。ワシが正しいと思つたら、貴公はワシの弟子にたるんだぞ」と言つたといふ。そして一週間後、八代提督はわが子のやうな年齢の安岡氏を、「紋付袴で」訪問し、「今日から、ワシはあなたの弟子に」なると言ひ、「以後、死ぬまで師弟の禮をとつた」さうである。文春は公平を考へてか、赤尾敏氏や津久井龍雄氏の安岡評を紹介してゐるが、英雄豪傑にも生殖器があつたといふ事實を發見して喜ぶのはつまらぬ事で、進歩派の日本史學者が戰後にやつたのは、そういふ無駄事、要らざるお節介だつたのである。が、安岡氏の事はともかく、三十六も年下の男に「師弟の禮」をとるとは何とも見上げた根性ではないか。
先日、早稲田大學文學部教授である私は、早稲田大學理工學部教授加藤諦三氏との對談で、早稲田大學の名譽のために加藤氏を叩き、高校生が愛讀している加藤氏の著書を「若者への迎合に知的ソースをぶつかけたげてもの料理」と評した。そしてその際「マーク・メイといふ學者によれば(中略)人間を萬物の靈長と呼んでゐる」といふ加藤氏の文章を引用し、この「主語が欠けた文章」の欠陥を認めるかと質したが、加藤氏はかう答へたのである。「これで十分通じるぢやありませんか」
加藤氏についてはこれ以上は言はない。言ふ必要がない。サンケイ新聞の讀者が一度息子や娘の本箱を覗き、加藤氏の著書の有無を確かめる労をとるやうにと、その事だけを言つておく。とまれ、加藤氏を叩いて再確認したのは、知的怠惰は道義的怠惰だといふ事である。いい加減な文章を書いても世人が怒らないから、物書きは一向に反省しない。また、さういふ怠惰を本氣で咎めようとすれば、數々の妨害を覺悟しなければならぬ。その事を私は最近痛感する。例へば私は、保守派の賣れつ子の物書きT氏を叩いて、その原稿を歿にされた事がある。ここでT氏としか書けぬわが處世術を、私は無念殘念に思ふ。が、私は他人の商賣を妨害したがつてゐるのではない。同じ大學の同僚を叩いて何の得があるか。加藤氏がそれをやると言ふのでは決してないが、叩かれた同僚は私の弟子の就職を妨害するかも知れぬ。
もとより私も人並みに臆病である。が、臆病である事を私は恥ぢるのである。八代六郎大將がやつたやうな事は、私には到底やれないと、私は斷言する事ができる。同じ號の文春の匿名書評の筆者は、昔の歌人の眞劍勝負を論じて「いまの文壇、歌壇の諸君。よろしくこの態度を」見習ふべし、と書いてゐる。拙文の讀者が、週刊文春八月三十日號を入手すべく、古本屋めぐりの労をとるやう私は希望する。 
7 誰一人本氣でない
私は見損なつたが、先日お隠れになつたランラン樣の御殿醫は、刻一刻惡化する御容體について「沈痛な面持ち」で記者團に語つたさうであり、テレビは「脈拍は一分間に一四九、體温は三七度まで下がりましたが、心臓の衰弱がひどく・・・・・・近親者を呼ぶ状態・・・・・・」といつた調子の記者會見の模樣を、熱心かつ忠實に放映して樂しんだといふ。週刊ポスト九月二十一日號によれば、「今囘の報道に投入された記者は、その數約百人。新聞社は各社平均三人、テレビは中繼車までくりだしての熱の入れやう」だつたといふ。狂氣の沙汰としか言ひ樣がない。
毎度の事とは言へ、日本のジャーナリズムの輕佻浮薄にはほとほと感じ入る。ポストは「“たかが動物一匹”とはいはないが、いくらなんでもはしやぎすぎではないか」と書いてゐるが、たかが畜生一匹で、あの大騒動は正しく狂氣の沙汰である。週刊新潮九月十三日號のヤン・デンマン氏は、テレビ中繼を一寸見て、恐れ多くも天皇陛下の御崩御かと勘違ひをしたアメリカ人記者の話を紹介してゐる。陛下の御長命を私は切に祈るが、陛下の御身に萬一の事があつたら、新聞は今囘同樣心にも無い大騒動をやらかすのかと、それを思ふと、物事の輕重のけじめをつけぬ日本人の輕佻浮薄に、私は腹立ちを抑へる事ができない。
私はこれまで週刊ポストを屡々叩いた。それゆゑポストは、恨み骨髄に徹する思ひで私の文章を讀んでゐるに違ひ無い。かつてポストを評して私は、その扇情主義と「整合性」の欠如を指摘した。が、或る雜誌で新聞批判のコラムを担當するやうになつて、私は新聞を叩く事の空しさを痛感したのである。新聞を叩くより週刊誌を叩くはうが遙かに樂しい。週刊誌には人間がゐるが、新聞には人間がゐないからである。今後も私はポストを叩く。が、「整合性」を欠くがゆゑに、ポストが大新聞を叩けるといふ事も事實である。ポストが今後も大新聞における人間不在を糾彈し、大いに「蛮勇」を發揮するやう望みたい。
ところでパンダ騒動だが、ポストによれば「パンダ舎の前で、涙をこぼし」てゐた女子大生が、すぐに「ケロリとして」ソフトクリームを舐めてゐたといふ。ポストの文章には欠陥があつて、本當にポストの記者が見聞した事かと、それが少々氣掛かりだが、ポストの作り話としても、これは甚だ興味深い。
なぜなら、恐らくランランの飼育掛と數名の「近親者」を除けば、誰も本氣で悲しみはしなかつたからである。ポストによれば、某紙の社會部記者は「私たちも、これほどまでに(騒ぐのは・・・・・・)とは思ひますが・・・・・・」云々と弁解したといふ。この根性こそ私は何より許せないと思ふ。先般のグラマン騒動の折、私は同じやうなせりふを新聞記者が喋るのを聞いてゐる。要するに皆本氣でない。森嶋通夫氏の國防論の奴隷根性を識者は本氣で咎めなかつた。パンダの滅亡と日本國のそれとは同日の論ではない。新聞の猛省を促す。 
8 差恥心を欠けば獸
佐藤陽子女史のヴァイオリンを、私は一度も聽いた事が無い。が、私は西洋音樂が大好きで、聽くだけでは滿足できず、下手の横好きでフルートを吹く。それゆゑ、佐藤女史が少女の頃、確かレオニード・コーガンに師事して、その將來を大いに嘱望されたとい事實は記憶してゐる。その後女史がヴァイオリニストとしていかに成長したか、それを私は知らないから、演奏家としての女史について云々する資格は私には全く無い。けれども、週刊ポスト十月五日號のグラビアに、佐藤女史の裸體写眞を見出して、私は或る種の「衝撃」を受けたのである。なるほど、週刊現代には、池田滿寿夫氏と佐藤女史との對談『晝の眠りと夜の目醒め』の廣告が載つてをり、別の週刊誌にはワインの宣傳文を書いてゐて、本業のヴァイオリン以外にも女史が多藝ぶりを發揮してゐる事を知つたが、池田氏との對談を私は讀んでをらず、從つて女史の場合、「多藝は無藝」なのかどうか、これまた私には斷定するだけの根拠が無い。けれども、ポストによれば、池田氏と女史とは目下戀愛中だとの事であり、女史の裸體写眞は戀人の池田氏が撮影したものだといふ。そして、長椅子に横たわり、片方の乳首を露出してゐる写眞には、女史の作つた詩らしきものも印刷されてゐる。
けれどもそれは、「思想と愛と感情と言葉。全てはからみ合ひ戯れる」などといふ、およそ愚劣な代物で、中學生でももう少しましな「詩」を作るのではないかと思はれる。
それゆゑ、女史のヴァイオリンを聽いてそれを批評する事が許されるのと同樣、女史が詩集を出版したら、それを徹底的に扱きおろす事も許される。けれども、今囘、佐藤女史は裸體を公開したのである。では、これを批評する事は許されるのか。私は他人の肉體的欠陥を批判する事は許されないと思ふ。『言論春秋』九月二十四日號によれば、TBSの人氣番組『時事放談』では、先日、出演者が「大平ガマガヘルめ、自民黨に絶對多數を渡すな」と放言したさうだが、それはずゐぶんはしたない事だと思ふ。
けれども佐藤女史は裸體を公開したのである。人間が通常露出してゐる部分について、その欠陥を云々する事は許されない。が、裸體を公開し、裸體で稼ぐ決意をした以上、他人の美的判斷を甘受する覺悟が女史にはある筈だと思ふ。海に向かつて下半身をさらしてゐる女史は、昨今の日本の女には珍しい短足胴長で、醜怪としか形容できぬ肉體の持主である。
私は女史の肉體を酷評して樂しんでゐるのではない。女史と池田氏の差恥心の欠如に呆れてゐるのである。いかに胴長であらうと、池田氏が女史を愛する事自體はよい。が、戀人の裸體をなぜ公開しなければならないか。ポストに限らぬ、週刊誌は差恥心についても多少は考へて貰ひたい。差恥心を欠く者は人間ではない、それは獸に他ならない。 
9 文章を讀む樂しみ
「國法を犯す者に次ぐ大犯罪者は國語を侵す者である」と、ウォルター・ランドーは言つたさうである。このランドーの言葉を、私は中村保男氏の『言葉は生きてゐる』(聖文社)のなかに見出したが、中村氏は序文で、物書きたる者は、「讀者層が大學受驗をめざす高校生であらうと、讀者と對話しながら自分自身の考へを深め、同時に讀者の知的水準を引きあげることをめざさなくては意味がない」と書いてゐる。なるほどそれは昨今珍しくなつた物書きの態度で、それゆゑ中村氏の著書を私はひろく江湖にすすめたいが、週刊朝日十月五日號には、「國語を侵す」極惡人とも言ふべき男の文章が載つてをり、あまりの事に私は唖然とした。他人の文章を過度に引用するのは一種の原稿料泥棒だが、あへて左に引用する。ただし、原文の改行は無視する。
「初めのころは腕タッチン」「そろそろ進んで肩タッチン」圖々しくエスカレートす るアネゴに、男の子は逃げ腰。男損女狒々!!の時代。(中略)笑アップ教室の割り句 で、「ナカ尾さん、カホにも胸にも、あう凸がない」とやられたら、やにはに上着をぬ いで「中お見よ」。奔放自在、のやうで、樂屋のご同役にも細かく氣を使ふとか。當 代、數少ないおとなの女、か。お邪魔どころか、ねえ。(雅)(コマーシャル百科)
このコラムの週刊誌批評を担當して二年、私はこれほど奇怪な文章にでくはした事が無い。何の事やら、私にはさつぱり解らぬ。解らぬ私のはうが惡い、といふ事になるのなら、私はもはや物を書きつづける事ができない。
一方、週刊新潮十月十一日號は「新聞の一面廣告」に登場した渡部昇一氏の事を話題にしてゐる。電卓を手にして滿面に笑みをたたへた渡部氏は、電卓は計算するものとばかり思つてゐたが「これ“文字”がでるぢやありませんか。(中略)これ、新しい文化のはじまりといへるのぢやないでせうか」と語つて電卓の宣傳をやつてゐるのである。新型電卓が發賣されて、「文化」が始まつたり、終つたりするのなら、私は「文化」とは何の事やらさつぱり解らなくなる。
もとより大學教授がコマーシャルに出るのは合法的である。「英語の達人でいらつしやる渡部センセイがこの電子メモ電卓を持つと、電子飜譯機に思へてくるから不思議」と新潮は書いてゐるが、さういふ「不思議」な効果を廣告屋は狙つた譯であらう。が、「驚きましたね。電卓は計算するものとばかり」云々には、學者たる者の努めて避くべき虚偽が潜んでをり、それを渡部氏が氣にしなかつた事が、私には「不思議」に思へるのである。けれども、先に引いた文章はちんぷんかんぷんだが、新潮の文章からは新潮が渡部氏をどう思つてゐるか、それが窺へる。「眼光紙背に徹する」とはちと大袈裟だが、それこそ文章を讀む樂しみに他ならない。 
10 衆愚政治を憂ふ
週刊讀賣十月二十一日號によれば、大平首相は「行政改革が嫌ひ」ださうであり、かつて參議院予算委員會で、民社黨の議員に對し、「行政整理、改革にはみんな總論賛成。あなたのところもといふと、待つてくれとくる。國會議員の定數から削減しようといつた提言もあるが、あなたは賛成するか」と反問したといふ。自民黨が「公認候補で二百五十六の過半數すらとれ」なかつた技術的な失敗は、總裁としての大平氏の責任だらうが、「増税を打ち出した事は失敗だつた」とか、「増税を打ち出しても民衆は支持すると考へたのは大平首相の驕りだ」とかいふ意見は首肯しがたい。大平氏の言ふやうに「選擧があらうとなからうと、財政再建は避けて通れない課題」だからであり、また週刊新潮十月十八日號で山本夏彦氏が言つてゐるやうに「行政整理とは公務員のクビを切ること」だが、「増税しないですむほどのクビを切ること」なんぞ土臺不可能だからである。「あらゆる解雇は不當だと組合はいきりたつ。自分たちの解雇は一人でもいけなくて、役人のそれなら何十萬人でもいいのだらうか」と山本氏は書いてゐる。さういふ身勝手ばかりが昨今は横行してゐるが、「公共投資によつて景氣を維持するんだといふケインズ理論を捨て、行政改革と不公平税制に取り組むべきだ」などと主張する學者には、人間とは甚だ身勝手な動物で、「あなたのところもといふと待つてくれとくる」といふ事が全然解つてゐないのであらう。
それに何より、もしも増税を仄めかした結果、自民黨の議席が減つたのならば、それは日本の政治が衆愚政治に堕しつつある事の證拠であつて、その事を新聞や週刊紙が問題にしない事を、私は奇怪千萬に思ふ。週刊新潮の如きは、「日本共産黨は“大躍進”をとげた。(中略)これで、うれしい期待がわいてくる。ただでさへ過半數ギリギリで動きのとれない自民黨にとつて、一番コハーイお目付役の勢力が倍増したのだから、さうさう勝手な増税はやれまい、といふこと。期待してますよ、共産黨サン!」と書いてゐる。何とも情けない文章である。誰でも税金は拂ひたくない。他人の馘首には賛成でも、自分の首は切られたくない。さういふ人間の身勝手がジャーナリストには解つてゐない。それが解らないからこそ、皆が身勝手を言ふ社會に怖氣立つといふ事が無いのである。
一方、週刊文春十月十八日號は、新聞の選擧予想が三度つづけて外れた事について「世論調査無用論も各社の間に出始めた」と書き、各紙の予想担當セクシヨンの辯明を紹介してゐる。「選擧戰の途中の情勢を知りたいといふ讀者の要請」になんぞ、新聞はこたへる必要は無い。「闇夜の鐵砲」なんぞ止めるに如くはない。開票結果が判明するまで待てない衆愚の輕薄に付き合つて、「パンとサーカス」ゆゑに滅びたローマを思はぬ迂闊を新聞やテレビは反省すべきである。 
 

 

11 損をして得をとれ
私事で恐縮だが、このたび私は約二週間、韓國政府の招待を受け韓國を訪問する事になつた。滞在を延ばす事もありうる。このコラムに私は隔週一囘の割で書いてゐる。二週間日本を留守にすると、その間週刊誌を讀めないから、週刊誌批判の文章は書けない事になる。讀まずに一般的た事を書いてお茶を濁したくはない。休載といふ事も考へたが、事情あつてそれはやらない事にした。とすれば、これまでに讀んだ記事について書き洩らした事を書くしかない。御諒解願ひたい。
週刊ポスト九月二十一日號は、「成熟女性における完全た失神の方法!」と題する或る「女房族向けの雜誌」の記事を紹介してゐる。それは「亭主に滿たされない“成熟女性たち”に“完全な失神法”を教へます、といふ大記事」なのださうで、「われわれ亭主族にとつてまことに看過すべからざる大特集記事」だと、ポストは言ふのである。馬鹿々々しい記事だから、その中身を紹介はしないが、この種の記事を週刊誌は格別好むやうであり、週刊現代に漫畫を連載中の小島功氏の如きは、倦きもせず、倦きられもせず、馬鹿の一つ覺えよろしく、古女房の性欲にてこずる亭主を題材にして稼いでゐる。が、いかに金錢の魔力のせゐとは言へ、女房にてこずる亭主を好んで取り上げる事は、男性の記者や漫畫家にとつて自縄自縛的行爲ではないか。亭主に滿足せず懊惱する女房もくだらないが、さういふ女房にてこずる男もくだらない。てこずつてそれを他人に打ち明ける男はもつとくだらない。
「成熟女性」に「失神の方法」を、男の記者が教へる事も自縄自縛である。ポストの記者の妻もポストを讀むからである。だが、いづれ損を覺悟するならば、なぜもう少し高級な損を考へないか。
例へば週刊新潮九月六日號は、小中學校の教職員を十二萬人増やすといふ文部省の計畫にけちをつけ、日本大學などといふ「大學のテイもなさないに等しい」大學に「今年もまた百五億圓にものぼる助成金を出したりしてるのは納得できぬ」と批判してゐる。新潮の批判はもつともだが、日大關係者や日大出身者は腹を立て、週刊新潮を買はなくなるかも知れぬ。
新潮はまた、本州と四國を結ぶ橋を三本も造るのは「史上最大の愚擧」だが、四國出身の大平首相も故成田知巳氏も三木武夫氏も、「オラが縣にないのはメンツにかかはる」と息卷く選擧民の事を考へ、三本架ける事の無駄を決して言はないけれども、「瀬戸内海に三本も巨大な橋をかける金があつて、何が増税か」と書いてゐる。さういふ思ひ切つた事を書いて、四國地方の新潮の購讀者は減るだらうか。私はさうは思はない。増税をほのめかし、不利と知つて引つ込めたりしたから、自民黨は「敗けた」のだと思ふ。要するに、自民黨は本氣でなかつたのである。 
12 教育の普及を嘆ず
週刊讀賣に連載中だつた藤原弘達氏の「天下大亂に處す」が完結した。毎囘、何が言ひたいのやらよく解らぬあれほど粗雜な文章を、百四十囘も連載できたとは、さすがは大讀賣と言ふべきか。最終囘は「むなしさについて」と題する何ともむなしい文章である。少し引用しよう。
天皇が、、美智子妃が、そして大平正芳が、栗原小卷が、それぞれにひりだした自分の糞を、どのやうな思ひで眺めてゐるだらうかと考へながら、自分は自分なりの糞をひりだしながら、いま更のやうにおどろく思ひでもある。
藤原弘達氏が、かくも粗雜な思考力と劣惡な文章をもつて今日の名聲を築けたのは何ゆゑかと、私は「いま更のやうにおどろ」かざるをえない。しかもそれは藤原氏に限つた事ではない。例へば、サンデー毎日に「ことばの四季」と題して愚にもつかぬ文章を七十七囘も寄せ、編集者からも讀者からも愛想尽かしをされずにゐるらしい外山滋比古氏の場合も同樣である。外山氏には女性ファンが多いさうだが、察するに、昨今は教育の普及に伴ふ新手の無知がはびこつてゐるのであらう。「握手」と「シエイク・ハンド」とは違ふなどと言はれて、「なるほど」と理解できる程度の大學出の「知的」な母親が増え、「教育の普及は浮薄の普及なり」といふ事になつたのであらう。
藤原弘達氏のファンに女性が多いとは考へられない。けれども藤原氏が『世界の名著』から破廉恥なほど頻繁かつ大量に引用し、しかも、引用文を正確に理解せずして、淺薄な思ひ付きを書き流し、それで結構讀者に受けてゐるらしいのはやはりその新手の無知のせゐではないかと思ふ。
だが、それにしても藤原氏の理解力と思考力の粗つぽさは度を超えてゐる。「王樣がたも哲學者たちも糞をする。ご婦人たちも同樣である。・・・・・・これは、すべての自然の行爲のなかで、途中でやめる氣にもつともなりにくいものだ」とのモンテーニューの文章から、藤原氏は次のやうた結論を引き出すのである。
だしかかつた糞のやうに、途中ではなかなかやめられないのが、人それぞれの生きざまなのであらう。ここで朴正煕大統領射殺の報に接する。一度だが會つて、獨裁者の“苦惱”を‘きいてやつた’こともあるあの韓國空前の軍人獨裁者・・・(中略)彼もまた殺されるまでやめられなかつた男としてそれなりに生きたといふことなのかも知れない。
朴正煕大統領暗殺以後、日本の新聞や知識人が口走つた暴論、愚論の數々を、私はいづれ徹底的に扱き下ろす予定だから、朴正煕氏を「空前」の「獨裁者」とする藤原氏の論法の粗雜はここでは咎めない。が、一國の元首の「苦惱」を「きいてやつた」とは何事か。さういふ無神經な男に、モンテーニューなんぞが理解できる譯は斷じて無いのである。 
13 自分の頭で考へよ
何か事件が起こると、新聞や週刊誌は識者の意見を知りたがる。知りたがる癖にまづ自分の意見を言ふ。それはジャーナリストの奇癖である。そこで識者はつい相手が喜びさうな意見を喋る事になる。それが嫌だからと、思ひのままに喋ると、記者は甚だ浮かぬ顔で聞く。電話の場合、もとより相手の顔は見えないが、相手の喋りやうでそれは察せられる。さういふ事が度重なると、「ええい、面倒くさい」とばかり、識者は相手を喜ばせるやうな事を喋るやうになる。週刊ポストの記者に對して會田雄次氏は、自分はこれまで新自由クラブを「愛玩政黨だといふ意味で、“コアラ”と思つてゐた、ところが、“パンダ”ですな」云々と喋つてゐる。會田氏もまた「ええい面倒くさい」と思つたのかどうか、それは知らないが、かういふ事を言はれると週刊誌が喜ぶのは確かである。「あ、これで題名は決つた」と記者は思ふ。かくて「大平總理がウシなら河野洋平はパンダか」と題する淺薄な記事が出來上がる。
けれどもそれは、「これで題名は決つた」と思つたポストの記者が、會田氏の話の續きを上の空で聞いたためかも知れぬ。それかあらぬか、ポストの記事は「大平ウシ説」とも「河野パンダ説」ともおよそ無關係な代物なのだ。
事ある毎に識者に意見を徴して記事を書く、さういふ習慣の安直を新聞や週刊誌は氣にしてゐるであらうか。今囘の「河野洋平辭任劇」についても戸川猪佐武氏、三宅久之氏、麻生良方氏などの政治評論家、及び明大教授岡野加穂留氏や早大助教授岡澤憲芙氏などの政治學者は、愚にもつかぬ意見しか述べてゐない。政治評論家は裏話を得々と喋り、政治學者は陳腐な御托を並べ、それを記者ばかりが面白がつて、その擧句、「暗躍好きの民社が噛んでくれたら、自民の抗爭劇はもつと面白かつたらうに、殘念な氣もする」(週刊讀賣)などと無責任な野次馬根性を丸出しにするか、さもなくば「イタリアでは連合・連立といふ名のもとで政爭がくり返され、經濟危機を招き、社會的混迷を深めてゐるといふ」(ポスト)などと、日本の「經濟危機」と「杜會的混迷を深め」る事を望んでゐるのか、それともさういふ事態の到來を案じてゐるのか、さつばり解らぬやうな「結論」を下したりするのである。
週刊誌は凡庸な識者の凡庸な意見を重宝がらずに、自分の頭でじつくり考へるか、さもなくば見たまま聞いたままの事實を、いつそ淡々と語つて貰ひたい。
とは言ふものの、それも所詮は不可能であらう。このぐうたらな日本國では、愚鈍な週刊誌と愚鈍な學者とは割れ鍋に綴ぢ蓋だからである。週刊文春十一月二十九日號で外人記者たちが指摘してゐる通り、自民黨は「大敗」したのではない。が、愚鈍な新聞・週刊誌が「大敗」と書き、愚鈍な識者もそれを支持したから、朴大統領の葬儀に參列できぬほど、大平氏は多忙になつたのである。が、その多忙は一體全體何のためだつたのか。 
14 許し難い韓國蔑視
朴正煕大統領が凶彈に斃れて以來、日本の新聞は例によつて浮薄な記事を書き流したが、私はいづれ、それらを束ねて批判する積りでゐるから、このコラムでは韓國には一切觸れまいと思つてゐた。が、サンデー毎日十二月三十日號の「銃聲再び ソウルの闇夜に第四幕があく」を讀み、私は腹立ちを抑へられなかつたのである。それゆゑ、今、ここで、サンデー毎日を血祭りに上げておかうと思ふ。
まづ、前々囘たたいた藤原弘達氏もさうだが、韓國といふ獨立國を日本の新聞や識者は屬國なみに考へてゐるのではないか。韓國で知つたことだが、かつて韓國を訪問した「親韓派」として著名な日本の知識人は、「女を世話しろ」と韓國の役人に言つたといふ。言語道斷である。さういふ物書きが何を書かうと、その「親韓」は商賣に過ぎない。もちろんサンデー毎日は「親韓」ではあるまいが、韓國を對等の獨立國と考へぬ点では、「女を世話しろ」と言つた保守派の物書きと少しも變らない。先日の鄭昇和戒嚴司令官の逮捕について、毎日は「このごろソウルに出囘つてゐる」といふ「軍部をサーカスのライオンにたとへた話」を紹介し、「鋭いムチを振るつてゐた調教師がボス格の一頭にかみつかれ、姿を消したため」、「當然、ボスの座を獲得するため激烈な死鬪を演じ出したわけだ」と書いてゐるのである。つまり毎日は、眞劍勝負をしてゐる韓國軍をサーカスなみに考へ、韓國民の直面してゐる試練を對岸の火事として興がつてゐるのであつて、許し難い輕佻浮薄であり、韓國蔑視である。
毎日によれば、鄭陸軍參謀總長逮捕を指揮した全斗煥少將は陸士十一期卒で親朴派だが、李熹性新參謀總長は陸士八期卒であり、「そこから八期と十一期との對立といふ新局面の出てくることも考くられてゐる」といふ。馬鹿が文章表現上の工夫を凝らしても、まちまちにして馬脚をあらはす。毎日は韓國が不幸になることを望んでゐるのである。「馬鹿正直」といふことがある。なぜそれを正直に書かないのか。
かういふ小さいコラムでは、他國の不幸を樂しむ毎日の記者の心理を詳細に分析できないが、證拠として一つだけ引いておかう。毎日はかう書いてゐる。「もし金桂元室長と鄭總長が金部長に同調してゐたら、もし盧國防相が金部長の逮捕に失敗してゐたとしたら(中略)韓國は國民を卷き込んだ未曽有の混亂に陥つてゐただらう」
朴大統領をサーカスの調教師にたとへてゐるのだから、毎日の「歴史的イフ」は、韓國が「未曽有の混亂に陥」ることがあらうと、「全斗煥將軍が何とか失脚してくれないものか」との願望のあらはれに他ならない。それならさうと、小細工をせず、なぜ正直に書かないか。全斗煥將軍が鷹派なら私は將軍を支持する。毎日に尋ねたい、毎日は本氣で金載圭を支持するのか。 
15 割を食ふのは覺悟
このコラムに執筆すること六十六囘、やがて滿三年になる。この際、何か感想があれば書けとのサンケイ新聞の注文である。「松竹立てて門毎に祝ふ今日こそ樂しけれ」と、世間が新年をことほいでゐる最中にも、放つておけば野暮天の松原は、肩を怒らせ週刊誌を扱き下ろすだらうと、サンケイは思つたのかも知れぬ。その思ひ遣りは忝いが、私は何とも野暮な男で、屠蘇機嫌にふさはしい酒落た文章なんぞ書ける譯が無い。それゆゑ、この三年、折節考へた事を書く事にする。
小林秀雄氏は、若かりし頃、「毒は薄めねばならぬ。だが、私は、相手の眉間を割る覺悟はいつも失ふまい」と書いた。が、昭和四十年、小林氏は次のやうに語つたのである。
お前駄目だなんていくら論じたつて無駄たことなんだよ。ぜんぜん意味をたさないんだ。自然に默殺できるやうになるのが、一番いいんぢやないかね。
なるほど、駄目な週刊誌や愚鈍な物書きに向ひ、「お前駄目だなんていくら論じたつて無駄なこと」なのである。それは私にも解つてゐる。それゆゑ私は、週刊誌を出しに使つておのれを語つたのである。それがやれたから、つまり、おのれの言ひたい事を讀者に傳へる喜びがあつたから、私は批評對象を默殺しなかつたのであつて、それゆゑ「高が週刊誌ではないか」などと私は一度も考へた事は無い。
「高が週刊誌、本氣で目くじら立てるには及ばない」と、そんなふうに考へながら文章を綴るのは、週刊誌に對しても讀者に對しても失禮な態度だと思ふ。それにまた、本氣で目くじらを立てないと、批評對象の下劣に比例してとかく批評文も下劣になる道理だから、かういふ小さなコラムだが、私は三年間本氣で週刊誌を罵つた。週刊誌の記事がいかに愚劣でも、それがいかに愚劣で、この私がいかに立腹してゐるかを本氣で語れば、紙幅の制約はあるにせよ、通じる讀者には通じるであらうと、それを信じて書く事は樂しかつたのである。
それゆゑ、去る十二月十九日付本紙『私の意見』欄の前田馥氏の批評を、私はうれしく讀んだけれども、私の場合「無能な讀者は讀者とは認めてゐない」などといふ事は無い。無能な記者がゐるからには「無能な讀者」もゐるだらうが、私が本氣で書いてゐる事さへ解つてくれるなら、それが私の理想の讀者である。そして、「高が週刊誌批評ではないか」などと考へぬ以上、當然私は欲張つて言ひたい事を小さなコラムに詰め込む事になる。私が漢字を多用し、安易な改行を嫌ふのはそのためである。必然的に字面は黒くなる。それで私が得をする譯が無い。
が、損得を言ふなら、この馴合ひ天國日本では「相手の眉間を割る覺悟」も割に合はない。とすれば、いづれ「自然に默殺できるやう」になれるまで、割を食ふのは覺悟するしかないであらう。 
16 戰爭は無くならぬ
サンデー毎日に『サンデー時評』を連載してゐる松岡英夫氏の愚鈍はすさまじい。もはや病膏肓、いくら叩かうと直る事は無い。けれども、一月二十七日號で松岡氏は「國際紛爭に臆病な國でもいいぢやないか」と題して戯言を口走つてをり、それを戯言と受取らぬ讀者もあらうから、ここで取り上げ批判しておかうと思ふ。
松岡氏は、日本は「無資源國」だから、「世界のどの國とも」仲良くやつてゆかねばならず、日本は「戰爭をしない國」ではなく「戰爭のできない國」だと言ふ。そしてこれは「保守とか革新とかの思想の問題ではなく、客觀的事實」であり、「憲法の不戰・平和条項から出る觀念論ではない」と言ふ。こういふ安手の議論に感心する手合も結構ゐるのだから、日本國の將來を思へば默殺する譯にもゆくまい。
まづ、「觀念論ではない」と斷れば「觀念論ではない」と松岡氏は思つてゐて、そこが何とも無邪氣だが、それはともかく、「戰爭のできない國」でも「戰爭に卷き込まれる」事があるといふ事を、松岡氏は全く理解してゐないのである。よい年をして、さういふ中學生にも理解できる事が理解できない手合の言分は、「憲法の不戰・平和条項から出る觀念論」に他ならない。松岡氏はまた、「戰爭に絶對卷き込まれまいとするおく病なほどの用心深さ」が大切であると言ひ、日本の「國際紛爭の火種は國内に持ち込まないといふ“逃げ”の外交」を高く評價し、かう書いてゐる。「かういふ逃げの外交がアメリカを怒らせ、イランからも非難されるといふ結果を招き、アブハチ取らずになつてしまつた。しかし世界で一國くらゐ、國際紛爭に近寄らないといふおく病な國があつてもいいだらう」。この文章の後半に私は同意する。臆病ゆゑに輕蔑され、擧句の果てに滅びてしまふ、さういふ國が「世界で一國くらゐあつてもいい」。だが、それが日本國では困るのである。
いづれ私は腰をすゑて戰爭について考へ、この種の愚鈍な平和主義者を成敗する積りだが、松岡氏の愚鈍のあかしとして、今囘これだけの事を言つておく。この私の口汚い罵倒の文章を讀めば、松岡氏は平然としてはゐられまい。が、私に反論すれば、いづれ叩き返すだけの紙數を私に与へる事になる。紙數さへ与へられれば、私は完膚無きまでに松岡氏を粉砕してみせる。それこそ赤子の腕を捩るやうなものである。と、これほどまでの事を言はれても、松岡氏は「日本に一人くらゐ、論爭に近寄らないといふおく病な人間があつてもいいだらう」と呟くであらうか。もしも呟けるなら松岡氏はあつぱれなる腰抜けだが、立腹して反撃しようとするならば、愚鈍な松岡氏にも自尊心だけはあるといふ事になり、松岡氏は自らの主張を裏切る事になる。個人と同樣、國家にも自尊心がある。それゆゑ戰爭は無くならない。 
17 まさに「立憲亡國」
ソ連のアフガン侵略について、週刊現代一月三十一日號は、例によつて多數の識者の意見を徴してゐる。現代は何と各界の名士十八人に電話を掛けたのである。だが、現代自身の意見となると、わづかに數行、すなはち「兵器の本格的生産は日本の工業力ならいつからでも始められます」との宍戸寿雄氏の意見を紹介した後に、「そのいきつく先がさきほどの“憲法改正”にもつながるが、しかしここから先は論議の的。こんな時こそつぎの意見には耳を傾けたい」と書き加へてゐる程度である。そしてその「つぎの意見」とは「平和憲法を守り、何事も非軍事的にやるべし」との、東大教授關寛治氏の愚論であつて、してみれば、現代自身の意見は關寛治氏のそれに近いのであらう。が、關氏ほど弱腰の意見を述べてゐる識者は他に一人もゐないのである。四人の記者の取材による四頁にわたるこの記事に、記者の主張らしきものが「つぎの意見には耳を傾けたい」との一行だけとは、頗る奇怪な事だと思ふ。週刊現代の記者は、例へば編集會議の席上、專ら他人の意見を記録するばかりで、とどのつまり最も弱腰で不景氣な意見に「耳を傾けたい」と、さう思ふだけなのであらうか。かつて曽野綾子女史は、「日本人は笊の上の小豆だ、笊をちよつと右に傾ければ、皆一斉に右に寄る」と言つたが、現代の記者も笊の上の小豆で、おのれの信念などさつぱり持ち合はせぬ化物たのかも知れぬ。
だが、週刊誌の記者なんぞはこの際どうでもよい。有事の際、日本國を專ら守る事になつてゐる自衞隊はどうなのか。ジャーナリストの世界や論壇、そしてもとより政界も今やだらけ切つてゐるのだから、自衞隊の性根だけがすわつてゐる筈はあるまいと、かねがね私は不安に思つてゐた。そしてそれは杞憂ではなかつたと、週刊新潮一月三十一日號を讀んで私は思つたのである。新潮によれば、ソ連に情報を漏らしてゐた宮永幸久陸將補と現職の自衞隊員二名が逮捕された事件に、「自衞隊は上は將から下は兵まで」少しも驚いてゐないといふ。陸上自衞隊の元將校がかう語つたといふ。「いやあ、日本の自衞隊はみんな平和主義者ですよ。日本國民の誰よりも平和主義で、憲法を尊重してゐます。(中略)戰へば負けることをよく知つてをりますからね」。
そんな事だらうと思つてゐた。「日本に國家がない以上、宮永たちは賣國奴でも何でもない」と新潮は言ふ。その通りである。宮永氏を賣國奴と罵る前に、吾々はそれを考へねばならぬ。「日本の生きる道は對ソ戰略降伏だ」と宮永氏は信じてゐたといふ。それなら宮永氏は森嶋通夫氏と同じ事を考へてゐた事になる。いづれすべての日本人が、笊の上の小豆よろしく、森嶋氏の先見の明を稱へる日が來るかも知れぬ。新潮の言ふ通り「立憲亡國のわが國を象徴するやうな氣の重い」話ではないか。 
18 他人を嗤ふ前に
「私は最近の新劇を知らない。知らないで難じるのもどうかと思つて、參考までに俳優座を見物に行つた」と、週刊新潮二月十四日號に山本夏彦氏が書いてゐる。するとそこには、五十年前と同樣、ベレー帽をかぶつた客がをり、山本氏は「思はず顔をおほつた」といふ。役者たちの發聲の奇怪に新劇人はよくも我慢できるものだ、「芝居ごつこを始めると何も見えなくなるのだらうか」と山本氏は書いてゐるが、なに、他の分野でも「ごつこ」は今や全盛で、夢中になつて「何も見えなく」なつてゐるのは役者に限らない。
週刊朝日二月八日號は、宮永元陸將補とコズロフ大佐との情報賣買は「少年探偵團」の如き「幼稚なスパイごつこといふ感じを拭ひきれない」と書いてゐる。朝日は宮永、コズロフ兩氏を嗤つてゐるかの如くであるが、朝日は「宮永が、なぜ、こともあらうに自衞隊ひいては日本國が假想敵國とするソ連側になびいたのか」と書いてゐて、朝日もまた「幼稚なスパイごつこ」を嗤ふ事に夢中になり、おのれの姿は見えなくなつてゐる、自分の幼稚が見えなくなつてゐる。朝日はいつからソ連を日本國の「假想敵國」と認めるやうになつたのか。
二月十四日號の新潮は、栗栖元統幕議長が『現代』一月號において自衞隊のレーダーサイトの状況などを明かしたのは自衞隊法違反ではないかと、共産黨の正森代議士が追及したのは、實は選擧對策に他ならぬと書き、情報公開法を作るべしと主張してゐるくせに「自衞隊の機密漏洩を咎めるやうな發言」をする共産黨の矛盾をからかつてゐる。栗栖氏が『現代』編集部でなく、『赤旗』に原稿を持ち込めば、共産黨はにつこりした筈で、それなら、共産黨も今や「革命ごつこ」に夢中で、これまた自分の姿が見えなくなつてゐるのである。
けれども、共産黨の幼稚と自家撞着を嗤つてゐる新潮にしても、「選擧といふバカ騒ぎの前では、日本の國防問題も、ひとたまりもない‘やうです。生きのびられるかな’、‘80年代」と書いてゐるのである。新潮には文章について敏感な記者が揃つてゐると信じるから、敢へて苦言を呈するが、傍点を付した部分は、ジャーナリスト特有の、高みの見物的浮薄を裏切り示してゐる。「生きのびられるかな」では濟まぬ、日本はどうしても「生きのびねばならぬ」のである。
週刊文春二月七日號の防衞庁關係の特集も私は興味深く讀み、日蔭者の自衞隊の腑抜けぶりに呆れ果てた。週刊現代二月十四日號に江藤淳氏が書いてゐるやうに、憲法を改正せずして「ノホホンと日々をおくり續け」たから、今や日本中が「ごつこの天國」になつた。共産黨や社會黨を嗤ふ前に、人々はなぜその事をまじめに考へないのか。 
19 何とも退屈なる惡事
私は小説を讀むのが苦手である。詩や戯曲は概して短いが小説は長い。だから滅多に讀み切る事が無い。新人の小説なんぞは讀まうといふ氣もしない。週刊文春二月二十一日號の書評欄の筆者は、すばる文學賞の松原好之氏、文藝賞の宮内勝典氏の作品をそれぞれ「支離滅裂」、「無神經」と評してゐる。しかるに、さういふ「無神經な描寫」や「支離滅裂な作文」を「抜群」などと褒め上げた選考委員がゐるさうであつて、八百長、馴れ合い、ぐうたらは政界や論壇に限らぬ事らしい。となれば、ますます小説なんぞ讀む氣がしなくなる。
さういふ譯だから、週刊誌が連載する小説も、私は滅多に讀まない。週刊ポストに載つてゐる宇能鴻一郎氏の小説を時々拾ひ讀みするが、私が常に訝るのは、宇能氏の小説に限らず、例へば、週刊新潮の「黒い報告書」にしても、あの男女の色事の單調によくも讀者が愛想づかしをしないものだといふ事である。宇能氏の小説を週刊ポストの讀者の何割が讀んでゐるのだらうか。
だが、週刊朝日の連載漫畫の作者サトウ・サンペイ氏が好んで取り上げるやうに、色好みにかけて男はまこと性懲りも無いのであつて、私はただ、色事が惡だとしても、その惡を描く小説の單調、耐へ難いほどの退屈を指摘したいだけである。かつて私は英文で書かれ日本で出版された春本Pleasures and Follies of a Good−natured Lidertineを讀み切れなかつた事がある。それはすさまじい程の猥本で、すさまじい程退屈であつた。あれを讀み切れるのは狂人に他なるまい。 ところで、その小説嫌ひの私が今囘、週刊新潮に連載が始つたばかりの遠藤周作氏の小説『眞晝の惡魔』の第一囘と第二囘を讀んだ。猥本や「支離滅裂」な新人の作品と違ひ、遠藤氏の作品はさすがに讀み易かつたが、やはり私は惡の單調といふ事を感じて、遠藤氏の「新連載推理小説」を樂しまなかつた。
一流ホテルで行きずりの男に身を任せる若き女醫が、床入りの前に男の「五本の指を大きく擴げた掌の甲に縫針を突きたて」てみたり、病院で「煙草を口にくはへたまま」實驗用の二十日鼠を握り殺したりする。何と退屈な惡事か。私はフローベールの短篇『聖ジュアン』を思ひ出し、遠藤氏の小説の第三囘を讀む氣を無くしたのである。
「私を興奮させるのは狂氣ではなく理性だ」とジョージ・スタイナーは言つた。善への憧れの存在しないところ、惡は常に單調なので、差恥心を持たぬ宇能氏の小説の登場人物の好色が退屈なのは、してみれば當然の事なのである。 
20 何よりも批判精神を
週刊誌の記者は、月刊誌の編集者よりも氣忙しい毎日を過してゐる。それゆゑ、程度の差こそあれ、「鹿待つところの狸」といつた結果にをはつたり、問題の本質についての考察を疎かにする事もあらう。だが、そこはよくしたもので、讀者も例へば、渡部繪美嬢が美人で、銅メダルを獲得できなかつたとなると、週刊朝日三月十四日號の「渡部繪美 スケ一ト人生の軌跡と今後」のやうな記事を喜び、週刊文春「6位渡部繪美の商品價値は2千萬圓?」(三月六日號)のやうな天邪鬼的記事を喜ばない、といふ事になる。だが、日本中に百萬人ぐらゐの天邪鬼はゐよう。そして週刊誌はいくら賣れても六、七〇萬。すね者相手の文春や新潮の商賣が成り立つゆゑんである。『月曜評論』といふ、これも專らすね者相手のミニコミ紙で、矢野健一郎氏が、週刊新潮の編集ぶりを「ハラのすわつた批判精神」と評してゐたが、まつたく同感である。
一方、その種の批判精神を欠いてゐるのが週刊ポストであつて、例へば三月十四日號の「由美かおる 黛ジュンの涙ぐましき股われ商法」のやうな、新潮や文春の記者には書けないやうな記事ならよいが、同日號の「“金載圭供述テープ”が暗示する“4月韓國異變”を讀む」の如く、眞面目に論じてしかるべき問題を扱ふと、ポストの記者の愚昧は惨憺たる結果を招來する事となる。
まづ、金載圭の軍法會議における發言を収録したテープを、ポストは「極秘に入手した」として、「新聞では分らない重要部分を抉る」などと書いてゐるが、同じテープをNHKや新聞も入手した筈であり、いづれの場合も、「入手」が「極秘」だつたのは當り前である。また、ポストの記事を讀んでも「新聞では分らない」事は遂に解らない。いや、「新聞では分らない重要部分」とは何か、それも解らずじまひなのである。金載圭の供述は「韓國政界のある斷面をみごとなまでに物語つてゐることだけはたしかである」とポストは言ふ。「ある斷面」とは何かを書かずに「たしか」だと斷定する、この種のいかさまに、ポストの讀者は頗る寛容であるらしい。なぜか。なにせポストは二百ぺージもあつて百八十圓、女の裸のカラー写眞のおまけまでついてゐる。眺め終り、讀み終つたら屑箱に捨てて惜しくはない。どだい、批判精神を云々するのが野暮なのだ。
だが、讀者は『正論』四月號に載つてゐる柴田穂氏の「韓國・銃撃と危機の55日」を讀んでみるがよい。柴田氏が一流のジャーナリストたるゆゑんは、その鋭い批判精神にある事を、誰しも納得する筈である。柴田氏の文章は、出色の「現地取材ルポ」である。一讀をすすめる。 
 

 

21 早稲田は堕ちたか
早稲田大學總長室調査役の後藤朝一氏が、「(不正入試)事件に關与してゐないことだけは、死を前に斷言致します」との遺言をのこして自殺した。サンケイ新聞三月二十二日付夕刊によれば、清水司早大總長は「大粒の涙をポロポロ流し、何度もハンカチで顔をおほひながら」記者會見をしたといふ。私は早稲田大學の教員として、總長が「涙の會見」をした事を殘念に思ふ。男は公的な場所で泣くべきではないと考へるからである。總長はまた「後藤君は死をもつて身の潔白を證明したんです」と語つてゐる。冷酷な事を言ふやうだが、後藤氏の自殺と後藤氏の「身の潔白」とは別である。後藤氏をあはれに思ふ總長の私情を私は尊重するが、わが早稲田大學の最高責任者が、私情ゆゑに理非の判斷を曇らせた事は遣憾千萬である。
同日付のサンケイ夕刊「直言欄」に西尾幹二氏が、ソ連に對する過度の恐怖をいましめ、恐怖は「人間の平常心を奪ふうへで最大の効果があり(中略)確實に人間の言動を麻癖させてしまふ」と書いてゐたが、それは恐怖に限らない、憐憫も同樣である。以後、清水總長は決して涙を流す事なく、平常心を失はず、「ワセダの再建」のために努力して貰ひたい。總長の退陣を要求する聲もあるやうだが、不心得者はどの社會にもゐる。マスコミが浜田幸一代議士を激しく叩いても、大平總裁は辭任しないし、する必要は無い。清水總長の場合も同樣である。
一方私は、マスコミの報道ぶりの浮薄をも苦々しく思ふ。例へば、週刊文春三月二十日號は、「現職の教授を含めた早大職員が、試驗問題を盗み出し、受驗生の親に配つた、といふのだから、ワセダも堕ちたものだ」と書いてゐる。數名の(或いは數十名の)不心得者がゐたといふ事が解つたからとて、なぜ「ワセダも堕ちた」といふ事になるのか。文春は今後、自社から一名の不心得者も出さぬと言ひ切れるか。數名ないし數十名の不心得者はどこの會杜にもゐよう。少しはわが身をつねつて人の痛さを知つたらよいのである。
週刊ポスト三月二十一日號にしても、筑波大學の「不正入學工作の告發事件」を扱つた記事を「大學は、いまや明らかに病んでゐる」と結んでゐるが、「病んでゐる」のは大學だけではない。ポストは毎週「カネやんの秘球くひ込みインタビュー」と題し、金田元投手と女優との愚劣極まる馬鹿話を活字にしてゐる。金田氏も相手の女も大馬鹿なら、時々合の手を入れる記者も許し難いほど低級である。金田氏は三月二十一日號で、市毛良枝といふ女優に、「男の裸を見た」體驗について語らせ、「その時、野郎の××××は立つてた?」などと質問してゐる。ポストに限らず、さういふ低劣俗惡な週刊誌が、わが早稲田大學を指彈する。笑止千萬である。 
22 説教も道徳的退廢
今囘も「早大入試事件」について書く事にする。だが、それは早稲田大學が私の母校で勤め先だからではない。週刊新潮三月二十日號は、今囘の事件の新聞報道を「異常なまでの犯人捜し」と評し、「ワセダは“杜會の木鐸”の養成所、OB記者連が母校で起きた不正許し難しとしてハッスルしたせゐか」と書いてゐるが、私はその種の母校愛ゆゑにハッスルした事が無い。週刊現代三月二十日號は「早稲田は一生懸命に勉強しなければ入れない大學だからと、信頼を受けてきた。その國民的信頼を裏切るものです」との早大出身の代議士の言葉を引用してゐる。「國民的信頼」とはまた大袈裟な表現である。この代議士に限らず、とかく早大出身者は、母校の事となると盲目的になりがちであつて、それを私は苦々しく思つてゐる。
それゆゑ私は、その種の歪んだ母校愛ゆゑに早大を指彈する週刊誌を叩かうと思つてゐるのではない。新聞や週刊誌は「社會の木鐸」をもつて自ら任じ、政治家や財界人や教師の惡業を批判するが、新聞や週刊誌にだけ他者に説教する權利があるのはなぜか、及びさういふ權利をマスコミは、いつ誰に授けられたのかと、その事を私は怪しむのである。
例へば週刊朝日三月二十一日號は「皮肉なことに(中略)入試問題を手に入れてゐた渡邊伊一は、定年まで二十七年間『倫理・杜會』を担當、生徒たちに人の道を教へてきたはずの高校教諭だつた」と書いてをり、またサンデー毎日の記者は渡邊氏に對して「あなたは教師だつた人でせう。教育とは、師弟の信頼關係に基づくものではないか」と説教し、岸田茂雄主事補に對して「あなたは、いい年なのに、どうしてこんなばかなことをしたのですか」と尋ねてゐる(三月二十三日號)。「倫理・社會」の教師も、週刊誌の記者も、よい年をして時に馬鹿な事もしでかすのである。それなのに、なぜ新聞や週刊誌の記者だけが、かくも涼しい顔をして他人に説教できるのか。
私は早大の不正入試事件に關係した教職員を辯語してゐるのではない。週刊文春はこのところ毎週、朝日新聞小堀擴販團の「メチャメチャといつてもいい内情」を報じてゐるが、マスコミも程度の差こそあれ脛に傷持つ身なのであり、その意識を欠いて他者に説教するのは、不正行爲をなす事と同樣の道義的退廢だと、その事が言ひたいのである。
だが、早大に限らず、大學が退廢してゐる事も事實である。週刊文春の「讀者からのメッセージ」に早大生が投書してゐるとほり、入試問題の漏洩以上に、「教授・學生の熱意」が欠けてゐる事をこそ大學は反省しなければならぬ。人は時に過つ。が、怠惰こそ何よりも咎めらるべき惡徳だからだ。 
23 ぐうたら日本、わが祖國
申相楚先生、韓國滞在中は一方ならぬお世話になり、まことに忝く、ここに改めてあつく御禮申し上げます。けれども、まづ何よりも、かうしてサンケイ新聞の週刊誌評のコラムに、先生あての私信といふ形で書く事にした理由について申し述べねばなりますまい。 第一の理由は、この文章が歸國後に書く最初の文章で、私は机上に積んだ週刊誌を讀まうとしたのですが、今囘ばかりはどうしても本氣で讀む氣になれません。それでも週刊新潮と週刊文春四月二十四日號の、浜田幸一代議士追及の記事、モスクワ五輪ボイコット及びイラン制裁問題をめぐる「大平ハムレット」批判などを讀み、それぞれ感ずるところはあつたのですが、それをどうしても文章にする氣になれない。全斗煥將軍のすばらしい人柄、鄭鎬溶特戰司令官と崔連植師團長の眞劍な表情、及び先生と鮮干7(火+軍)氏との樂しい旅行の思ひ出などが邪魔をして、浜田幸一氏の事なんぞ論ずる氣になれない、それが第一の理由であります。全斗煥將軍や先生の如き、何とも見事な人間の思ひ出に圧倒されて、私の「韓國惚け」は容易に癒えず、家族や友人や學生に韓國について語つて倦む事を知らぬていたらくなのです。
第二の理由は、歸國した私を待つてゐたのが、私の書いた文章に對する一種の嫌がらせであつたため、目下のところ私は、その卑劣極まる人物もしくは組織と戰ふといふ、頗る非生産的な作業に忙殺されてゐるといふ事であります。今囘の韓國滞在中、私はお國の欠点もかなり知つた積りですが、それでも、こちらが本氣になると必ず先方も本氣で應ずる韓國人の見事を、今囘も私は、何よりも貴重に、かつ羨ましく思ひました。正々堂々と反論せずに、搦め手からの嫌がらせしかやれず、またさういう嫌がらせに頗る弱い日本の言論界の風潮を、私は日本人として甚だ情けなく思ひ、眞劍勝負の國から歸國したばかりだけに、腹立ちを抑へかねてをります。
けれどもいづれ私は、このぐうたら天國特有の處世術に對する勘を取り戻すでせう。週刊現代五月一日號は「日本人はいまや世界一セックス好きになつた!」と題する記事を卷頭に載せてゐる。セックスが嫌ひな民族などこの地上に存在する筈がない。そんな當り前な事を取上げて卷頭記事になる、さういふだれ切つた日本國を、しかしながら、私は世界中で一番愛さねばなりません。また、週刊讀賣四月二十日號は、何と、本年四月私の母校早稲田大學に入學した學生三千六百名の氏名、及び申先生の母校東京大學の教授、助教授百六十八名の氏名を載せてをります。これまた沙汰の限りです。が、それでも日本は私の國、私が最も愛する國なのです。いささかとりとめもない事を書いてしまひました。末筆ながら、鮮干7(火+軍)氏はじめ皆々樣にくれぐれもよろしくお傳へ下さい。 
24 迫力ない「徹底追求」
『月曜評論』五月五日號で、矢野健一郎氏は、浜田幸一批判に興ずる週刊誌を批判し、「浜幸」事件なるものは「檢察當局の資料によつていとぐちをつけられた。それは例によつてマスコミによつて掘り起こされたものではなかつた」と書いてゐる。その通りである。つまり日本のマスコミは怠惰なので、怠惰だから「自ら問題を掘り起こすことに不熱心」なのである。誰かが他人の惡事をあばけば、ハゲタカよろしく蝟集するが、このぐうたら天國のあちこちに轉がつてゐる理不尽を自ら告發しようと考へる事が無い。叩いても安全と解つてから、「これでもかこれでもか」と叩くのである。
例へば『サンデー毎日』五月十八日號によれば、浜田氏が「秘かにヨーロッパヘ旅立つ」と知つた時、毎日の編集長は「ハコノリ(同乘)だ」と叫んだといふ。そして、編集長の命により、鳥越俊太郎記者は、エールフランス273便のファースト・クラス、浜田氏と「誰にも邪魔されない」でインタビューのできる席を確保し、成田からパリまでの十六時間、「追撃密着取材」なるものをやつてのけた。「誰にも邪魔されない」やうに、毎日はファースト・クラスの切符を三枚買つてゐる。けれども鳥越記者の「密着取材」によつて毎日は十七ぺージに写眞と活字を並べる事ができた譯だから、これはずゐぶん割がいい商賣だつたであらう。そして割を食はぬ限り記事の凡庸は二の次三の次なのであらう。この記事は「徹底追及第4彈」のはずだが、そのやうな迫力なんぞどこにもありはせぬ。「座席に着いて何氣なく浜田氏の方を見た」鳥越記者は、サングラスの浜田氏の微笑に「思はず釣り込まれて微笑を返」す。そしてかう書くのである。「あの笑顔も政治家特有の演技なのか。必ずしもさうとばかりはいへない氣もする。(中略)田中角榮にしても、どえらい犯罪をやつてのける政治家は、並はづれた人間的魅力を備へてゐるものたのだ」 私は浜田幸一氏とは面識が無い。が、サンデー毎日の記事を讀んで、浜田氏の人柄に興味を持つややうになつた。少くとも付合つて退屈するやうな凡人ではない。「並はづれた人間的魅力を備へてゐる」やうに思ふ。けれども、さういふふうに一讀者に思はせてしまふ鳥越記者の文章は、「浜田幸一氏追及のスクープ報道」としてはいかがなものか。サンデー毎日は次週も「浜幸追及」をやる、「話題の連打」をやると予告してゐる。「人間的魅力」を認めても「クサイものにフタをする自民黨の金權體質」はあくまでも追及するといふ事なのか。いや、さういふ事ではない。「罪を憎んで人を憎まず」などといふ藝當がサンデー毎日にやれる筈は無い。來週もまた人間不在の「浜幸追及」の文章が載る、それだけの事であらう。 
25 すべてこれ商策
「釣竿とは一方の端に釣鈎を、他方の端に馬鹿をつけた棒」だと、サミュエル・ジョンソンは言つた。私は必ずしも同意しない。人生に無駄は必要だからである。だが、度外れの無駄は賢い大人のやる事ではない。週刊讀賣六月一日號は「農水省次官、局長、課長、農協、水産幹部一一五五人全氏名」を十五ぺージを費して掲載してゐる。これは一體、何のためなのか。
讀賣はこのところ、手を變へ品を變へ、この種の無駄を重ねてゐる。時たま釣糸を垂れるのは決して無駄ではない。が、他人の氏名を羅列しただけの原稿を書く事も、その活字を拾ふ事も、それを讀む事も、全くの無駄ではあるまいか。活字がこれほど無駄に使はれようとは、さすがのジョンソンも夢想だにしなかつたであらう。
讀賣は昨今、表紙を二重にして「表紙を開くともう一人の私!」といふ新趣向で、同じ女の異なる写眞を載せてゐるが、これも全くの無駄である。週刊ポストのヌード写眞は私も毎週樂しむが、ヌードならぬ同じ女の写眞を二倍見せられて、二倍喜ぶ馬鹿がゐるとは私には思へない。獨り善がりの馬鹿の無駄づかいほど無意味たものは無いのである。
だが、ポストにしても、五月九日號で、金田正一氏がグアム島まで行き、澤たまき女史の「子供に荒らされまくつた乳首」ないし「男が荒らし」た乳首を「激写」した事を報じ、五月十六日號にそのカラー写眞を載せてゐる。蓼食ふ蟲も好き好きだから、澤女史の肉體についての審美的判斷は差し控へる。が、「たまき姉御も年甲斐もなく自信滿々」だのと、八百長もいい加減にして貰ひたい。
いかに無能、無藝、無名の「じやりタレ」でも、讀者はやはり若い娘のヌードを喜ぶのではあるまいか。ポストはこのところ、執拗に「八百長仕掛人」の告白とやらにもとづき大相撲の八百長を追及してゐる。自分の八百長は棚上げして他人の八百長を指彈する、さういふ事が度重なつて、週刊誌の記事は眉唾だと、讀者は思ふやうになるのである。
だが、一見無駄のやうに見え、八百長のやうに思へるものは、實はすべて商策なのである。農林水産省の千百五十五人が、小さな活字になつた自分の名前を見出して、記念に一冊でも買つてくれれば、元は取れる、いやお釣りが來る。讀者にすすめたい、「何のための無駄なのか」と首をひぬる時は、「すべては商策」ではないかと疑つてみればよい。それで謎は解ける。
週刊新潮五月二十二日號は、「チョモランマ登頂成功」を大きく報じた讀賣新聞の無駄づかいを批判して「まるで“天下の公器”がお祭りの祝ひ酒に酔ひしれてしまつた、かの觀がある」と書いてゐる。要するに讀賣新聞も、中國に「敬意」を拂つたのではなく、商賣を考へただけの事である。國防も金次第の日本國、それもなんら怪しむに足りない。 
26 見事なり、全斗煥
私はこれまで、知人が週刊誌の餌食にされるのを見た事が無い。ところが、今囘、私は全斗煥將軍について四つの週刊誌から意見を求められ、將軍のために精一杯弁じたにも拘らず、それが充分に誌面に反映されてゐない事を知り、それどころか將軍が餌食にされてゐるのを見、改めて記者の頭腦の粗雜を思ひ知らされ、週刊誌のお粗末な樂屋を覗き見たのである。
「全斗煥つて、身長はどれくらゐでせう」などといふ質問に私がまともに答へたのは、今にして思へば馬鹿馬鹿しいが、それも結局、全斗煥といふ男の頭腦明晰と節操と胆力に、私が惚れ込んでゐたからに他ならぬ。實は私は『中央公論』七月號にも全斗煥將軍の事を書いたのだが、それを書いてゐる時、最も苦心したのは、どこまで書いてよいかを決定する事であつた。例へば金鍾泌氏が連行される前に、全斗煥氏は金鍾泌氏に對して批判的である、などといふ事を書く譯にはゆかなかつた。が、太つ腹の全斗煥氏は私に「これは書いてくれるな」とは一言も言はなかつたのである。金鍾泌氏が連行された事を知つて、私は少しく原稿を書き直したが、松原は必ず金鍾泌批判をやるだらうと、頭のよい全斗煥氏はそれも見通してゐたのではないかと思ふ。
だが、私は今、全斗煥氏の身の上を案じてゐる。日本の新聞や週刊誌の餌食にされたからではない。週刊現代六月十二日號で、韓民統の金鍾忠氏は、全斗煥氏を「殺さうといふ政敵、軍人は多い」と言つてゐる。どうしてさういふ事が解るのか、私にはそれが解らないが、全斗煥氏を殺したがつてゐる手合が日本にも韓國にもゐるであらう事は確かである。それゆゑ私は必配なのである。あんな見事な男が殺されてはたまらぬと思ふのである。
私は今囘、週刊サンケイを斬る。「女高生や女子大生が裸にされたうへ刺殺された−ロコミで傳はる光州暴動の惨状はすさまじい」云々の文章が示すやうに、週刊サンケイの記事は惡意の噂にみちてゐる。週刊サンケイはまた「鄭昇和の人脈、金載圭の人脈は軍部の中に脈々として生きてゐる」と書いてゐるが、「脈々」とはまなどういふ事か。金載圭は國家元首を殺した男である。週刊サンケイは殺人犯の人脈に期待し、前捜査本部長全斗煥氏の失脚を望んでゐるのであらう。まさに言語道斷の愚鈍である。
また週刊サンケイはさしたる根拠も示さず「全斗煥氏、天下人としてはまだ器が小さいのか、人氣はあまりない」と書いてゐる。日本には言論の自由があるといふ。それなら、日本にも一人くらいは、さしたる根拠も示さずに、全斗煥氏の器が大きいと主張し、彼の所業を賞揚して「見事なり、全斗煥」と書く男がゐてもよい譯だし、また週刊サンケイが「鄭昇和、金載圭の人脈」に期待してゐるとしても、サンケイ新聞一紙くらゐは「見事なり、全斗煥」と題する文章を載せてもよい筈だと思ふ。 
27 批判精神の欠如
「ヨーロッパ的精神の對照をなすものは何かと云へば、境界をぼかしてしまふ氣分の中でする生活」であると、かつて日本文化を論じてカール・レーヴィットは書いた。その通りである。境界をぼかしてしまふから、「區別し比較し決定する」批判精神が育たず、「容赦のない批判が自分に加へられるのにも他人に加へられるのにも、堪へることができない」(柴田治三郎譯)。それゆゑ、週刊新潮六月二十六日號が批判してゐるやうに「圖らずも(中略)死が大平首相の評價をガラリと變へ」るといふ事態がおこるのであり、新潮の言ふ通り、この評價の逆轉は「ないへん輕薄なもので(中略)、新聞はきはめて無定見であつた」。今囘、國會解散、大平首相の死、ダブル選擧と、何か重大な事件が重なつたかのやうに思ひ込み、新聞や週刊誌は騒ぎ立てたけれども、すべては何とも空しい茶番狂言に他ならない。が、新聞にも週刊誌にもその自覺が欠けてをり、それも結局、レーヴィットの言ふ「批判精神」の持合せがないからである。
同日號の週刊新潮は佐瀬昌盛氏の意見を紹介してゐる。佐瀬氏は言ふ、「新聞の論調がコロッと變つたのには驚きました。大平さんのアーウーは何をいつてゐるかわからんと、常々いつてゐたのに、“大平さんは實に慎重に言葉選びをした人だ”とコロッと變つた。(中略)死者にはつきりものをいはないのはわかるけど、解釋が變るのは困る」。
「論調がコロッと變つた」のは、大平首相の死を境目に「境界」がはつきりしたといふ事ではない。佐瀬氏の言ふ通り、新聞週刊誌の「解釋が變」つたのであつて、それはつまり、外的な變化に應じて左右上下、どちらの方向へも突つ走る無定見、「批判精神」の欠如、外的な情勢の變化とおのれの意見とを「區別して比較し決定する」事のできぬ知的怠惰のせゐに他ならない。
「この選擧の大騒ぎは、ホントに何か重大なことなんだらうか。連日の政見放送。新聞の大見出し。だが、その多くはタテマヘばかりで退屈だ」と新潮は書いてゐる。が、この大騒ぎは「奇術師の帽子から飛び出したやうな國會の解散」に端を發する。そして、そのいかさま「奇術師」飛鳥田氏のでたらめを新聞は徹底的に批判しなかつた。先日、VOICE編集長の江口克彦氏と會つた際、江口氏は「まさか通ることはあるまいと輕々に不信任案を出した」飛鳥田氏の愚鈍を激しく批判してゐたが、さういふ批判精神の欠如、すなはち愚鈍ゆゑの連日の大騒ぎは、何とも腹立たしくまた空しい限りである。
それゆゑ今囘私は、騒ぎ立て、はしやぎまはる週刊誌の愚鈍を、うんざりして眺めてゐた。誰が次の首相にならうと、この日本國のぐうたらはどう仕樣もあるまいし、また、どうかうするだけの器量は政治家に期待できないであらう。 
28 邪教をかばふ善意
週刊新潮七月十日號は、二年前、東京・國分寺市から若い女性ら二十數人と蒸發した「イエスの方舟」の代表「千石イエス」との「獨占會見」記を書いたサンデー毎日の鳥井編集長について、「ジャーナリストつてのは、對象をまづ疑つてかかることから始まるんだが、それをサンデーは最初から相手を理解しよう、理解しようとかかつてる」との、ジャーナリスト某氏の意見を引いてゐる。同感である。サンデー毎日七月十三日號及び七月二十日號の「千石イエス」に關する記事を讀み、鳥井編集長及び山本茂記者の、「理解しよう、理解しよう」との善意に、私も正直の話唖然とした。これはもはや商策ではあるまい。善意そのものである。が、何と愚かしい善意か、私はさう思つた。例へば毎日は、こんなふうに書いてゐる。「“イエスの方舟”の女性會員たちは夜ごと、(中略)濃いアイシャドーを塗つて出かけていく。それを見つめる千石剛賢氏。無力感にさいなまれたはずである」。よい年をして、これはまた何たる善意であらう。
紙數の關係上、充分な説明はできないが、サンデー毎日に語つた千石イエス及び「家出女性」七人の告白を讀んだだけで、私は千石氏及び女性會員の幼稚を知る事ができたのである。毎日が言ふやうに、千石氏の告白に「バイブルからの引用は」少ないが、そんな事よりも、千石氏及び毎日はバイブルを理解してゐるとは到底思へず、その事のはうが遙かに重要である。毎日は千石氏が「私たちを超えた、ある絶對者」の存在を認識しながら、「それが“神”であることも拒否する」と書いてゐる。それならなぜ千石氏はバイブルを讀むのか。
それに何より、千石氏は、土臺、バイブルだの神だのを云々する資格の無い人物である。七月二十日號で千石氏は、「(親ごさんたちが)娘さんたちの氣持ちをわかつてくれなかつた」と言ひ、「他人の娘さんにどうかういふといふよりも、自分が崩れていく。自分が汚れてしまふ」事を案じ、「自分の娘と養女の三人はもうかへらない」と嘆いてゐる。つまり千石氏は土壇場になつて自分と自分の娘の事しか考へてゐないのであつて、千石氏の人格は下劣であると斷ぜざるをえない。七人の女性信者にしても同樣であり、みな、自己の過去の「轉落」を家族や男のせゐにしてゐる。つまり、「己れの如く隣人を愛する」事の難しさを、千石氏も信者たちも少しも解つてゐないのである。
だが、さういふ事を善意のかたまりとなつたサンデー毎日は全く考へない。頭が惡いからである。頭が惡いから、頭の惡い千石氏に好意的で、一方、韓國の光州暴動についても「空腹に幻覺劑のまされて空挺部隊が同胞虐殺」などと書く。韓國の頭の惡い反體制に好意的な記者が毎日にゐるのは怪しむに足らぬ。「類は友を呼ぶ」のである。 
29 他人の痛さを知れ
これは週刊誌ではないが、『自由民主』八月號で小谷豪治郎氏が途方も無い發言をしてゐる。小谷氏は「僕は今まで韓國政府に非常に近」かつたのだが、今は「韓國軍のやり方に非常に面白くない氣持ちを抱いて」をり、今や「日本のバイタル・インタレストは韓國にあるんだといふ考へ方を再檢討すべき」で、アメリカも「韓國から撤退して日本に一時駐留することが必要だらう」と言つてゐるのである。この、いはば惚れた女に失望してやけのやんばちになつた親韓派のでたらめは許し難いが、小谷氏の變節は韓國にとつてまたとない教訓になると思ふ。これまで韓國は、かくも無節操な人間を身方と思ひ込んでゐたのである。この際韓國に忠告しておく。これまで金鍾泌氏と親しかつた親韓派が、今後、軌道修正をして全斗煥氏を褒めそやす、といつた事態になるかも知れないが、さういふ非人間的な變節に欺かれてはならぬ。私は金鍾泌氏と一時間半話した事があり、金氏を批判する文章を書きもしたが、失脚した金氏をあはれに思ひこそすれ、「いい氣味だ」などとは露ほども思つてゐない。
ところで、私はどうしてこんな事を書いたのか。實は、週刊ポスト七月二十五日號の宇都宮徳馬、文明子兩氏による對談「“金大中廢人説”を抉る」を讀み、そこに『世界』編集長安江良介氏のコメントを見出し、小谷氏の變節を思ひ、私は考へ込んでしまつたのである。安江氏および著名な韓國問題評論家について、韓國の新聞人S氏は私に、友情をこめて語つた事があるが、そのS氏の態度と安江氏や韓國問題評論家の、韓國人についての冷やかな意見との間には甚しい懸隔があつたのである。宇都宮、文兩氏の對談は例によつて何の裏付けも無い惡意の噂話に過ぎない。だが、週刊ポストで安江良介氏は「一説には(金大中氏は)すでに殺害されてゐる、といふ情報もあるんです」と語つてゐる。いづれ金大中氏が軍事法廷に姿をあらはしたら、安江氏はどうする積りか。いや、どうする必要もありはせぬ。「情報もある」といふ言ひ方をしておけば、責任は一切とらずにすむ。それゆゑ私も安江氏の傳に倣ふが、安江氏は韓國のS氏にあてた私信の中で、卑劣極まる本音と建前の使ひ分けをやつた、といふ情報もあるのである。
ところで、金大中氏の事となると日本のマスコミは、冷靜に考へる事ができなくなる。週刊新潮のヤン・デンマン氏は、日本の元總理大臣田中角榮氏を「裁きの庭にひつぱりだしてゐるのはけしからん」と、もしも韓國のマスコミが騒いだら、日本人は一體どんな氣がするか、と書いてゐる。その通りである。ちとわが身を抓つて他人の痛さを知つたらよいのである。 
30 他人の褌で相撲を取るな
週刊新潮八月七日號によれば、ニューズウィーク東京支局長バーナード・クリッシャー氏に、創價學會の秋山國際部長は、「なぜ、世界的に權威のある『ニューズウィーク』が(中略)信教の自由を侵害なさるのか?」と言ひ、「記事差止めを要望する樣子がアリアリ」だつたさうである。そしてクリッシャー氏は「私は學會に反對するために書くのではなく、これはニュースだと判斷したから書くのです。その邊を誤解せぬやうに」と「いつてあげた」といふ。私は創價學會とは何の繋がりも無い。「その邊を誤解せぬやうに」願ひたいけれども、新潮の記事を讀みクリッシャー氏の發言を知つて、私はいささか不快だつたのである。周知の如く、創價學會のスキャンダルをあばいて週刊文春は名譽毀損で告訴され「誌上での謝罪と二百萬ドル以上の賠償を要求」されてゐるのであり、その種の危險を昌しても學會の腐敗はあばかねばならぬとの覺悟は文春にはあつたと思ふ。が、新潮の記事はその半分以上がクリッシャー氏の言分の紹介であつて、そのやり方はいささか安直であり、しかも安直である事がジャーナリスト特有の病癖を物語つてゐるといふ点を、新潮は全然意識してゐない。
ジャーナリストは社會の木鐸で、社會の不正を5(易+利−禾)抉せねばならぬといふ。創價學會の腐敗ぶりを大新聞が承知してゐながら、いかなる事情あつてかそれをあばかうとしなかつたのだから、文春がそれを怪しみ、學會の惡を5(易+利−禾)抉しようと思つたのは當然である。だが、他人の惡を5(易+利−禾)抉する週刊誌も脛に傷持つ身なのであり、さういふ意識を欠いて他者を糾彈する事が、週刊誌に限らぬジャーナリズムの病弊なのだ。私は新潮の脛の傷を知つてゐてこれを言ふのではない。人間はみな脛に傷持つ身だと信じてゐるまでの事である。とまれ新潮は、創價學會の腐敗を5(易+利−禾)抉するクリッシャー氏の褌で相撲を取るといふ安直な手段を選んだ結果、創價學會を叩くクリッシャー氏の言分を無批判に受け入れ、そこにはつきり示されてゐるジャーナリスト特有の病癖を見落したのであつて、それは新潮がおのれの病癖を意識しなかつたからに他ならない。
「私は學會に反對するために書くのではなく、これはニュースだと判斷したから書く」のだとクリッシャー氏は言ふ。何とも粗雜な言分である。學會のスキャンダルを「ニュースだと判斷」して書く事が、學會に對する「反對」や支持と無關係でありうるか。ありうると考へてゐる事こそ、ジャーナリストの恐るべき病癖なのである。さうではないか、例へばの話、クリッシャー氏のスキャンダルを「ニュースだと判斷」して私が書く場合、私はクリッシャー氏に「反對するために」書いてゐる事になるのである。 
 

 

31 萬事本氣でない國
今囘は前囘取上げた問題を蒸し返す事にする。瑣末な語句にこだはるやうだが、週刊誌批評をやつてゐて私が最も氣になるのは、「ニュースだと判斷」すれば、どんな事でも書けるし、また書く權利があると思ひこみ、その結果おのが脛の傷をきれいさつぱり忘れてしまふジャーナリストの病癖だからである。
八月七日號の新潮によれば、バーナード・クリッシャー氏は、創價學會が「有形無形の圧力で内外の批判を封じ込めた結果が」今度のやうな事態をもたらしたと考へてゐるといふ。「日本通のクリッシャー氏が頭をひねつたのもムリはない」とか、「クリッシャー氏は簡潔に指摘してゐる」とか、新潮がなぜかうもクリッシャー氏を持上げるのか、どうも解せないが、それはともかく、クリッシャー氏も新潮の記者も人間であり、それならおのれに不利な事態となつた場合、「有形無形の圧力で批判を封じ込め」たいと考へる事もある筈である。
クリッシャー氏の場合も、氏が「有形無形の圧力で批判を封じ込め」たいと、これまでただの一度も考へた事が無いとは、私にはとても信じられない。クリッシャー氏には私にかう言はれても反論できない或る事情がある筈であり、そのクリッシャー氏が學會の「有形無形の圧力」を云々するのはちと身勝手が過ぎると思ふ。
他人を批判する場合、おのれを棚上げする病癖は人間誰しも持合せてゐる。が、それを意識してゐるか否かが問題なのである。しかるに、クリッシャー氏も新潮の記者もそれを意識してゐない。それゆゑ「ニュースだと判斷」すれば、ハゲタカよろしく腐肉に群がるのであり、それは頗る非人間的な所業である。新聞・週刊誌はそれを常に意識してゐなければならぬ。
他人の惡事を5(易+利−禾)抉してはならないなどと、さういふ事が私は言ひたいのではない。新聞や週刊誌は社會の不正を5(易+利−禾)抉してもよい。ただしその場合、おのれを棚上げせざるをえないほど本氣で不正を憤つてゐるかどうかが問題なのである。
週刊朝日八月八日號は、日商岩井航空機疑惑事件を担當した半谷恭一裁判長の判決文について「あの所感には“腐敗を生む土壌”に對する憤りといつたものが感じられないだらうか」と書いてゐる。そんなものは少しも感じられはせぬ。半谷氏は「國民全體が考へるべきだ」と言つてゐるが、さういふ事を言ふ者は決して本氣で憤つてはゐないのである。 半谷氏に限らない、我々日本人は今や本氣で憤るといふ事が無い。それゆゑ、見事な人間に本氣で惚れるといふ事も無い。昨今流行の防衞論議にしても、例へば佐久間象山の『省8(侃+言)録』のもつ眞劍な憂國の情を欠いてゐる。よろづこれほど本氣でなくなつた日本國では言論は頗る空しいと、三年間このコラムに執筆して私はつくづく思つてゐる。 
32 韓國相手の寄生蟲
週刊現代十月二日號は、金大中氏を辯語する記事に、「たとへ金大中氏が惡だとしても、惡に對して寛大なのが民主主義です」との金一勉氏の言葉を引いてゐる。かういふ恐るべき愚昧をどう成敗すべきか。金一勉氏だの、鄭敬謨氏だの、大江健三郎氏だの、宇都宮徳馬氏だの、さういふ度し難い愚者を料理しようと思ひ立つて、その都度私は絶望する。自分が用ゐる言葉が何を意味するか、それすら解らずにゐる手合を遣り込めるのは至難の業だからで、金一勉氏の場合も、「惡」だの「民主主義」だのといふ言葉を、一體どういふ意味で用ゐてゐるのか、それがさつぱり解らない。それにまた、たとへ金一勉氏が、韓國についてどんなにでたらめを書き捲つても、それに對して寛大なのが民主主義國日本なのだから、金氏に限らず、愚鈍之手合の成敗は、至難の業であるばかりか、労多くして功少なき行爲とならざるをえない。
だが、いづれ私は、金大中氏の知的怠惰について詳細に論じようと思つてゐる。その際、金大中支持派を徹底的に成敗しようと思つてゐる。かういふ小さなコラムでは所詮意を尽せないが、これだけは言つておかう。管見では、金大中氏の罪は「内亂罪」ではなくて「知的怠惰」である。そして、日本國と異り韓國においては、政治家の思考の不徹底は死に當るほどの重罪となるのである。
だが、私は今、金大中支持者たちに對してよりも、韓國の身方であるかのやうに裝ひ、その實、商賣の事しか考へぬ日本人に對して怒つてゐる。先日、ソウルで、さういふ韓食蟲に出會ひ、私は本氣で怒つた。そして、本氣で怒つたから確實に損をした。詳しい經緯はここでは語らないが、私が喧嘩をした相手は日本の雜誌の編集長だつたのである。編集長と喧嘩すれば、物書きは確實に損をする。その雜誌には以後書けなくなる。
もとより私も聖人君子ではない。損ばかりしてゐたくはない。が、韓食蟲退治は、金大中支持派の成敗よりも大事だと思ふ。編集者に限らない、韓國との新しいパイプを求めて暗躍する韓食蟲どもは、この際、徹底的に退治しておかねばならぬ。サンデー毎日十月五日號の長谷川峻氏の言葉を借りれば彼らの「ソロバンづくの商魂」を徹底的にあばかねばならぬ。
だが、韓食蟲だけが惡いのではない、韓國も惡いのである。實際、損を覺悟で行動する事の損得についての「大人の知惠」を云々する淺薄な手合に、私は今囘ソウルで、ずゐぶん出會つた。「損を覺悟のお坊ちやんの正義感くらゐ始末の惡いものはない」、さう彼らは心中ひそかに呟くのである。が、さういふ「大人の知惠」ゆゑにこそ、これまで韓國は韓食蟲の好餌となつたのである。それを韓國人は今、眞劍に考へるべきである。 
33 憂ふべき「現代病」
週刊ポスト十月十七日號は「氣象評論家」相樂正俊氏の學説にヒントを得て「大噴火から極寒波まで、冷夏騒ぎなど序の口といふ、この秋冬に予想される“異常現象”を科學的に總点檢」してゐる。そしてポストは水上武東大名譽教授の「先だつての東京の震度4の地震が直下型大地震につながらない、と誰もがいへないのと同じやうに地震と噴火の關連性についても誰にも斷定はできない」とする意見を引いてゐるのだが、「誰にも斷定はできない」と斷定する專門家に對して、私は多少のいかがはしさを感せざるをえない。早大法學部の篠塚昭次教授は同じくポストで「直下型地震で東京の三分の一が破壞されたとすると(中略)再建はほとんど絶望的で、東京はゴーストタウンになりかねない」と言つてゐる。そんな事を言ふ篠塚氏も東京都民なのだから、東京の三分の一が破壞されたら大いに困る筈である。篠塚氏に限らない、「冷夏騒ぎなど序の口」の「異常現象」が現實のものとなつたら、相樂氏も水上氏も、(そして勿論週刊ポストも)われわれ素人と同樣に狼狽するに違ひ無い。
私は專門家の見識を疑つてゐるのではない。どう仕樣も無い事柄について樂しさうに蘊蓄を傾ける心理が解せないだけである。そして「どう仕樣も無い」のは「異常氣象」に限らない。イラン・イラク戰爭も同樣である。週刊現代十月九日號は「第一次石油危機ではトイレット・ぺーパーがモノ・パニックの口火を切つた。だが、今度はトイレット・ぺーパーどころの騒ぎではあるまい」と書き、「石油がなくなればエネルギー産業はオールストップ。(中略)人力車とローンクの時代が再現される」といふ中東經濟研究所の石田進氏の意見を紹介してゐる。あまりにも當り前な話で、これが專門家の言ふ事かと私は驚いたが、これもまた「承りおく」しかない意見であり、「どう仕樣もない事柄」なのであらう。けれども、かういふどう仕樣も無い事柄について蘊蓄を傾ける時の專門家の顔を、私は見たいと思ふ。週刊ポスト十月十日號は「フセイン大統領の讀みがどこかで狂つたとき(中略)“第一次・核戰爭”に發展する危險性は十分にある」と書いてゐるが、かういふ物騒な事をポストの記者はどんな顔をして書くのであらうか。
核戰爭も直下型大地震も「どう仕樣も無い事柄」である。「精神と肉體」などといふ問題も「どう仕樣も無い事柄」の一つだが、昔から人間はそれと格鬪して、今なほ止める事が無い。誰しも、その氣になれば、痛切に感じうる身近な問題だからだ。が、昨今、核戰爭だのイラン・イラク戰爭だのといふ、遠くてどう仕樣も無い「大問題」を、人々は餘所事のやうに論じ、餘所事のやうに受取るのである。それは憂ふべき現代特有の病弊である。 
34 教養と人格は別である
本欄の執筆もそろそろお仕舞ひだから、前囘書かうと思つて書かなかつた事を、やはり書いておかうと思ふ。渡部昇一氏は週刊文春十月二日號に「劣惡遺傳子を受けたと氣付いた人が子どもを作るやうな試みを慎むことは、社會に對する神聖な義務である」と書いたのである。それを讀んで私は慄然とした。本欄に執筆して三年四ヶ月、私はこれほど非情な文章にでくはした事が無い。十月五日付の朝日新聞によれば、渡部氏は「九十萬部賣れたベストセラー『知的生活の方法』の著者で、今や雜誌などで賣れつ子の評論家。保守系といはれる日本文化會議のメンバーでもある」といふ。だが、渡部氏の非情に慄然とする事に、保守革新の別は無關係である。渡部氏がこの件について反省せず、今後も非人間的な詭弁を弄するなら、私は、保守派の名譽にかけて、渡部氏を斬る。
渡部氏は「自ら遺傳性とされる血友病の二人の息子をかかへてゐる」大西巨人氏について、入院中の大西氏の次男の「醫療扶助費が一千五百萬」であり、大西氏は「長男が血友病とわかつてゐながら次の子どもを持ち、やはり血友病だつた」と書き、大西氏の良識と克己心の欠如を怪しんだのである。
私の知人に、さういふ「良識と克己心を欠く」男がゐる。彼が最初に拵へた子供は筋ジストロフィーであつた。彼と彼の妻はどう考へたか。「親は先に死ぬ、それならこの子の面倒をみる弟が必要だ」、さう考へた。夫婦はもう一人子供を拵へた。が、次男も筋ジストロフィーだつたのである。さういふ親の良識を疑ふ資格は誰にも無い。親なら誰でも、「子を思ふ心の闇」に惑ふものだからだ。ここで渡部氏をちと皮肉つておくが、「九十萬部のベストセラーの著者」である事は「劣惡ならざる遺傳子を受けた」事の證しになる譯ではない。渡部氏のぞんざいな文章を、私は「劣惡遺傳子」のなせる業ではないかと考へてゐる。しかるに、渡部氏自身はそれに氣付いてをらず、しかもカトリック教徒ゆゑに、「子どもを作るやうた試みを慎」んでゐないのであらう。
最後に大西氏に言ひたい。大西氏は渡部氏を批判して「劣弱者切り捨て」だの「軍事國家への轉換」だのと言ふ。さういふ政治主義の用語に頼らずに、なぜあなたは「子ゆゑの闇」を語らないのか。たぜ人間として渡部氏に抗議しないのか。もう一つ、これは讀者に考へてもらひたい。人間としての最低の思ひやりをも持合せぬ物書きの書物もベストセラーになるのである。それなら、いはゆる「教養」と人格とは全く無關係なのか。「知的生活の方法」とは、そのまま「有徳たらんとする生活の方法」なのか。 
35 他力本願全盛の世
週刊文春十一月六日號によれば「アメリカヘ行つてタバコをやめよう」との交通公社が企畫した「禁煙ツアー」は、「五十人の募集に申込者はたつたの三人」といふ惨めな結果に終つたさうだが、「ポルノ・ツアー」や「買春ツアー」は頗る好評のやうであり、これを要するに、人間、欲望充足のための支出は惜しまないが、禁欲に金を掛ける氣にはならないといふ事で、あまりにも當り前の話である。だが、禁煙ツアーの參加者は「成田空灣出發時に禁煙宣誓書を提出し、その場で合同宣誓式」を行ひ、「宣誓後は罰金制がしかれ、旅行中、一本吸ふごとに十ドルとられるといふ仕組み。(中略)毎朝三十分のジョギングと、一日一囘の自然食品摂取も義務づけられる」事になつてゐたといふ。そこまで徹底的に他人に管理されても、なほ煙草をやめたいと願ふ手合がゐる筈だと、交通公社は考へたらしい。公社の目論見が外れたのは御同慶の至り、日本人はまだ、少なくとも公社が考へたほど他力本願のぐうたらに堕してはゐなかつた譯である。
だが、喜ぶのは早い。例へば朝日ジャーナル十一月七日號の投書欄に、二十八歳の或る學生は「警官の婦女暴行、醫師の犯罪、教師の人格喪失と、一般市民のそれらとは全然別」であり、「醫師と警官、教師が信用できない社會は、住むに値しない」と書いてゐる。他人が立派でなければ生きてゆく氣になれぬとは、何たる甘つたれか。そして、この青年の文章からは、この世を自力で「住むに値」するものにしようとの情熱は微塵も感じられないのである。
チェスタトンの言ふやうに、吾々は「この世を變へねばならぬと思ふくらゐこの世を憎み、この世は變へる値打があると思ふくらゐこの世を愛さなければならない」。しかるに昨今、この世を本氣で憎む者はとんと見當たらぬやうになつた。それは、この世が充分に理不尽でなくなつたせゐである。
勿論、週刊誌の記者にとつてもこの世は理不尽ではない。週刊讀賣十一月九日號はレコード大賞にまつはる「黒い噂」について書き、新潮も文化勲章をめぐる噂を紹介してゐる。けれども週刊誌にもタブーはあつて、例へば文學賞をめぐる「黒い噂」を週刊誌があばく事は決して無い。讀者が聞いたら唖然とするであらう「黒い噂」も闇から闇へ葬るのであり、しかも、葬らざるをえぬ理不尽を週刊誌は無念殘念に思つてはゐない。「この世との折合ひをつけて生きてゆくだけでは不充分だ」とチェスタトンは言ふのだが、今や日本人は「それで充分だ」と言ふ。この世は誰か他人が變へてくれると考へてゐるからである。
かつて男たちは赤紙一枚で戰場へ驅り出された。それはなるほど「理不尽」であつたが、皆がそれに耐へた時代、それは果して今よりも、何かにつけ惡い時代だつたらうか。戰場で他力本願は通用したかつたのである。 
36 批判力減退を歎くべし
週刊新潮十一月三日號は松本清張氏について「今でも週刊誌、月刊誌の連載を各一本、そのほかに單發の短篇小説を文藝誌にほぼ毎月寄せるなど、創作意欲は今なほ旺盛」であり、「今や國民的作家」なのだが、「灰色高官が勲一等で、清張さんがノー勲章」といふのはをかしいと書いた。週刊朝日十一月二十一日號に百目鬼恭三郎氏は新潮を批判して「エライ清張氏がもらはないのはけしからんと怒るのは、エライ勲章と思つてゐればこそだらう」と書いてゐるが、私は新潮が文化勲章は「エライ勲章」だと信じてゐるとは思はない。むしろ、私は新潮があの記事を載せた動機を怪しむ。新潮は本氣で灰色高官の受章を憤つてゐる譯ではない。いや、松本清張氏を本氣で「國民的作家」と考へてゐる譯でもない。
では、あの記事は一體何のためだつたのか。「政治家への叙勲」は「仲間うちでのお手盛りであることは(中略)明らかだが、文壇も似たやうなもの」だとの「氣鋭の文藝評論家」の言葉を新潮は引いてゐるが、新潮が松本清張氏を持ち上げるのも「お手盛り」ではあるまいかと、さう勘繰られかねない記事に私は頗る失望した。
昨今、この種の「意圖不明」の記事が、新潮にちと目立つやうに思ふ。十一月二十日號の「“ハマコー”と“レーガン”の人氣」もさうである。テレビ朝日の「モーニング・ショー」で、石垣綾子女史ほか二名の女性は、浜田幸一氏に「あなたはヤクザぢやないの」とか「まだ小指殘つてゐる」とか言つたといふ。さういふ「猛女」の「反知性主義」のおぞましさに新潮は目を瞑り、浜田氏とレーガン氏は「“反知性主義”といつた面で共通してゐる」との加瀬英明氏の解説にヒントを得て記事をまとめてゐるのであり、その安直に私は失望した。「レーガンと浜幸サン。いかにも共通点がありさうなのだが、山本七平氏が解説してくれた」と新潮は書いてゐるが、共通点を見出せずにゐる新潮の困惑を察し、新潮の期待に沿はうと考へたためか、山本氏の解説もいささかお座なりである。
新潮の眞面目は批判精神にある。それを失へば、新潮の存在理由は無くなる。プーサンやドッキリチャンネルや酔中テレビのつまらなさは執筆者の責任だが、灰色高官の受章や「浜幸の人氣」を憂へてゐる譯でもなく、「だからどうだと言ふのか」と言ひたくなるやうな、なまくら記事が増えてゆけば、新潮はいづれ煽情的ジャーナリズムの中で逼塞するであらう。人間はおのが記憶力の減退を歎いて、批判力の減退は歎かない。新潮の發奮を望む。 
37 本氣の内政干渉か
十一月二十六日付の朝日新聞によれば、鈴木首相は崔慶禄駐日韓國大使に對し、「金大中氏が處刑されれば(日本の)國會の情勢や言論の論調も嚴しくなり、(政府としては)韓國に協力したくてもできなくなる。社會黨などが現にさうだが、北朝鮮との交流を進めるべきだ、といふ世論も出てくるかもしれない」と語つたさうである。それを知つて私は唖然とした。鈴木氏の指導力の欠如については聞き知つてゐたが、まさかこれほどとは思はなかつた。外國の大使に向つて首相は何といふ事を口走つたのか。私は日本國民として首相が恥を曝した事を遺憾千萬に思ふ。要するに首相は、個人的には「韓國に協力」すべきだと信じてゐるが、「國會の情勢や言論の論調」が嚴しくなり、「韓國に協力せず北朝鮮との交流を進めろ」と主張する連中が出て來たら、首相としても与黨の總裁としてもお手上げになる、さう言つた譯である。それが一國の指導者の言ふ事か。
吾々は、おのが指導力の欠如を外國人にまでさらけ出し、恬然として恥ぢない首相を載いてゐるのか。韓國の新聞は鈴木發言に内政干渉とて反發したが、本氣で内政干渉をやるだけの氣力は鈴木首相にはあるまい。事實、首相は「内政干渉をする積りは無い」と再三言明してゐる。そのくせ金大中氏が「極刑にならぬやう最善の努力をする」と、杜會黨の飛鳥田氏には答へてゐる。まさに支離滅裂としか評し樣が無い。「極刑にたらぬやう最善の努力」をすれば、それは必然的に内政干渉にならざるをえないのである。
一方、サンデー毎日十二月十四日號は「金大中氏が處刑されれば、日本政府の道義的責任のなさ、外交的拙劣さを世界にさらけ出すことになる」と書いてゐる。首相が韓國の大使に恥を曝した事さへ遺憾千萬なのに、日本政府の恥が世界中に知れ渡るとしたらそれは一大事である。毎日は「日本政府は主權侵犯された當事國として、言ふべきことは言ひ、毅然とした態度」で臨めとの青地晨氏の意見を紹介してゐる。毎日の言ふやうに、金大中氏が處刑されると、日本政府が世界中に恥を曝す事になるのなら、それは何としても避けねばならぬ。この際日本は徹底的に韓國の内政に千渉すべきで、主權侵害もためらふべきではない。だが、毎日に尋ねたい、徹底的に内政干渉をやつたらどういふ事になるか、それを毎日は本氣で考へた事があるのか。
私は鈴木首相やサンデー毎日の揚げ足を取つて樂しんでゐるのではない。首相から週刊誌まで、日本人はどうして韓國に關してかうもいい加減な事を言ふのかと、それを怪しむのである。正直、私にも韓國に對する不滿はある。韓國人と激しく論爭した事もある。だが、論爭した時、私も相手も本氣であつた。本氣で付き合つてみるがよい、韓國から學ぶ事は多々ある事が解るであらう。 
38 恥なかるべからず
文藝賞受賞作『ストレイ・シープ』は、二十六歳の女が、テレビ朝日在職中の體驗、特にニュース・キャスターや妻子ある報道部員との三角關係を描いたものださうである。そんなもの讀むに價しないに決つてゐるから私は讀んでゐないが、週刊ポスト十二月十九日號が紹介してゐるところでは、「彼は目立つこと、ハデなものを着ることがお酒落だと思つてゐるらしく、しばしば信じられないやうな色の組合せをした」とか、「本間は一見豪放磊落な感じを与へながら實は繊細で細やかな神經の男で、その對照がまたエム子の心をすくひとつた」とかいふくだりがあるらしい。「組合せをする」とか「對照が・・・すくひとる」とか、さういふ言ひ方は日本語には無い。
「書き終つて、自分がストリップしちやつたやうな氣持」だと作者は言つてゐる。その程度のお粗末な頭腦の持主でも文學賞が貰へるとは、まこと結構な御時世である。ヌード・モデルは消耗品だと、いつぞや週刊誌で讀んだ事があるが、文壇も今やストリップ小屋で、往時の私小説作家のやうに、姪に手をつけた恥の上塗りを避けようとして苦鬪する中年男のいやらしさなんぞは野暮の骨頂、若い女の「ストリップしちやつたやうな氣持」を樂しんで、ぽいと捨てるだけの事なのかも知れぬ。
一方、週刊文春十二月四日號は女優關根惠子の愛人河村季里氏の小説『青春の巡禮』について、「いづれにせよ、この小説、“文學的價値”はさておき“商品的價値”だけは高かつたやうです」と書いてゐる。河村氏と關根の逃避行の眞相が描かれてゐるのだらうといふ「はなはだ次元の低い興味」を持つて『青春の巡禮』を買つた讀者が多いに違ひ無い、といふ譯だ。
なるほど、文春が引用してゐるくだりを讀めば、およそ「文學的價値」なんぞみぢんも無い駄作だといふ事が解る。そして、河村氏も文藝賞を貰つた女も、「自分がストリップしちやつたやうな」行爲を悔いてもゐないし、恥じてもゐない。
二人の文章には眞摯なる自問自答の痕跡が無い。そして自問自答せぬ手合が恥を知る筈は無い。週刊ポストは「若い女のコに手を出すときは文才の有無のチェックを」と書いてゐる。「組合せをする」などと書く女に文才も羞恥心もある譯が無いが、一方「若い女のコに手を出す」云々と書くやうな男に、他人の「文才の有無のチェック」など所詮不可能なのである。
これはポストに限らぬが、「女のコ」といつた具合に、片假名を用ゐて輕蔑の念をあらはす惡癖は改めて貰へまいか。例へば週刊新潮十二月十八日號も「上田哲センセイ」と書いてゐる。私が上田哲氏を尊敬する筈は無いが、「上田哲センセイ」などと書いて上田氏をからかつた積りでゐるのは、目糞が鼻糞を嗤ふの類であつて、「センセイ」と書き出せば、それにふさはしい文章しか綴れないのである。 
39 職業に貴賤ありや
新年早々、ハードコア・ポルノの話で恐縮だが、週刊ポスト十一月二十一日號によれば、武智鐵二監督は近々『白日夢』なるハードコア映畫のメガホンをとるといふ。「性解放をやらなければ、日本の人民は心臓病になつたり、性犯罪を犯して監獄へやられるとか、無駄な不幸を背負ふことになる。私はそんなことのないやう映畫で攻撃する」と武智氏は語つてをり、この愚鈍と桁違ひの憂國に私は仰天した。一方、主演女優の愛染恭子も「ホンバンの意味もわかつて」ゐるが「立派にやりとげ」ると語つてゐる。伊藤仁齋は房事中もひたむきだつたさうだが、監督やカメラマンの目の前で「ホンバンを立派にやりとげ」たところで、何の自慢にもなりはせぬ。金が目當で恥を捨てるに過ぎないのに、「立派にやりとげる」などと大形な事は言ふものではない。武智氏にしても、日本の人民を救ふなどとだいそれた事を考へず、「監獄へやられる」覺悟で非合法のポルノを拵へ、それを公開したらどうか。それだけの度胸が無いのなら、大きな顔をせず、しがない稼業を疚しく思ひ、ちと世間を憚るがよい。
職業に貴賤は無いといふ。が、週刊誌を讀んでみれば、賤業はふんだんに在る事が解る。例へば週刊現代一月一日號を讀めば、下着をつけぬ喫茶店の女給や、「バーッと股を開いちやつて、いつもカメラマンに協力」するヌードモデルの存在を知る事になる。いづれも紛ふ方無き賤業で、その存在理由を疑ふのでは決してないが、當節、賤業をなりはひとなす手合に世間を憚るしほらしさが無いのは殘念である。
そしてそれは女に限らない。週刊ポスト一月一日號で吉行和子と對談してゐる金田正一氏にせよ、安倍律子のヌード撮影に同行し、パンツを脱がされ、「ふくよかで白い尻をむき出しに」された事を得意げに語つてゐる男の記者にせよ、本來世間を憚つてしかるべき賤業に從事してゐるのである。ともに恥知らずであり馬鹿者だが、では、恥知らずと馬鹿とはどう違ふのか。
世人は例へば大學教授を賤業とはみなしてゐまい。だが、ポスト一月一日號には東京外語大教授の「軍備の問題でも(中略)守るに値するやうな彈力性のある日常生活を我々が持つてゐるかどうかですね」との發言が載つてゐる。これと「ホンバンを立派にやりとげる」との發言との間にどれだけの隔たりがあるのか。愛染恭子も大學教授も馬鹿げた事を言ひ、それを恥ぢてはゐないのである。ついでながら、これを言へば熱狂的なファンは怒るだらうが、夫婦で「ベッドに寢たまま“平和”を訴へ」たり、「二人の初夜の溜め息と心臓の鼓動ばかりを収録した」レコードを拵へたりしたジョン・レノンの職業も、私には賤業としか思へないのである。 
40 その言を恥づべし
サンデー毎日一月十八日號に石川達三氏はかう書いてゐる。「先ごろどこかで現職の警察が強盗をやつたといふ事件があつた。警官も人間だから強盗をやる必要を生じないとは限らない。そこで、彼はまづ警官をやめて、それから強盗をやれば良かつたのだ。それならば何も私たちまで苦い思ひをさせられることはなかつた」。紙幅の制約さへなければ、この「痛憤エッセイ」と稱するなまくらエッセイを存分に扱き下したい。文士がこれほどの駄文をつづるのは警官が強盗を兼ねるのと同樣許し難い事だからだ。サンケイ新聞の讀者諸君よ、警官が強盗をやつたと知つて、諸君は「苦い思ひをさせられ」たか。石川氏は慷慨家を氣取り、見え透いたうそをついてゐる。石川氏はかの安川判事についても「彼はなぜ情事の前に判事を辭職しなかつたのか。それがこの人のモラル喪失の證拠である」と言つてゐるが、安川氏にしてみれば、判事の職權を利して姦通するところに旨味があつたに相違ないので、さういふ人情の機微も解らずによくも小説家が務まるものだと私は驚いたが、それはともかく、判事をやめてから姦通すれば、安川氏は「モラル喪失」を免れたはずだと石川氏は思つてゐるらしい。だが姦通が惡事ならば、公職にあらうとなからうと、それは非難さるべきではないか。
石川氏は裁判官や政治家や警官や進歩的文化人の腐敗を嘆いてゐる。だが、おのれの「腐敗」には目を瞑つてゐる。それこそ石川氏が道徳なんぞを云々する資格の無い人物である事の決定的な證拠に他ならぬ。「我等も地の鹽」と題して蜿蜒六頁も駄文を草しながら、石川氏は專ら他人に「地の鹽」たれと説くばかり、おのれがまづ「地の鹽」たらんとの心懸けは皆無なのだ。それゆゑ「裁判官が社會の腐敗を承認してしまつたら、腐敗はどこまでも進んで行く」などと書く。要するに石川氏にとつて、道徳とはおのれを棚上げして他人に強さを要求する事なのである。
いはゆる文化人は、保革を問はず、この傳でおのれの欲せざる所を人に施し活然として恥ぢない。おのれに出來ぬことを他人に要求して涼しい顔をする。坂本義和氏もさうである。週刊ポスト一月二十三日號で坂本氏は、「假に日本に對する攻撃を行ふときには、それを排除することなしには日本に侵入できないといふ役割をになふ領海警備隊を置くこと」を提唱してゐる。これまた淺薄な思ひつきだが、敵に排除されるためにのみ存在する、さういふ「純粋に防衞的な機能」を持つ警備隊にも、だれか他人が喜んで入隊すると、坂本氏は思ひ込んでゐるのである。「其の言をこれ9(心+乍)(怎)ぢざれば、則ちこれを爲すこと難し」。石川氏も坂本氏も身勝手な「其の言を9(心+乍)(怎)ぢ」、以後おのれの「爲すこと難き」事を、思ひつくままに喋らぬやう心懸けてもらひたい。 
 

 

41 馴れ合ひも程々にせよ
週刊讀賣に「シャレ・アップ」といふ讀者の投稿欄がある。たまに秀逸な酒落があつて吹き出す事もあるが、概して凡作揃ひで、「もし、女性支配の世の中になつたら、何はともあれ立ち小便は重罪になるだらう」などといふ駄作もあつて、こんなもの歿にするのが見識だが、そんた野暮な事を言つても始らない。週刊讀賣の編集部は愛讀者との馴れ合ひを樂しんでゐるのだ。「編集長殿、私はやはり、“シャレ・アップ!”にしか生きられない男なのです。ああ、一週間が待ち遠しい」と讀者が書き、「待たないでください」と編集者が書く。面白がるのは書いた當人だけである。「私は見た!この有名人」と題する投書欄も同樣で、「雪村いづみさまと十二月二十日午後九時ごろ、前橋の群馬ロイヤルホテル4階の廊下で、すれ違ひました。(中略)感激でした」などといふ愚にもつかぬ報告は、有名人と投稿した當人を喜ばせるに過ぎまい。いや、有名人が良識の持主か脛に傷持つ身ならば、自分が目撃された事或いは目撃者が週刊誌に投稿するその愚劣を、不快に思ふであらう。馴れ合ふとは「互ひに親しみ合ふ」事である。が、互ひに親しみ合ふうちに、人はとかく「ぐるになる」。讀賣の編集者と讀者はぐるになり、愚にもつかぬコラムで睦言を交してゐる。投稿する愚に採用する愚、割れ鍋に綴ぢ蓋である。
だが讀者との馴れ合ひを樂しむのは編集者だけではない。作家もさうである。週刊讀賣に『マンボウ交友録』を連載してゐる北杜夫氏は、一月二十五日號に「手術を前にした遠藤さんを見舞ふため、慶應病院の特別病棟を訪れた」話を書いてゐる。遠藤さんとは遠藤周作氏の事だが、夜ふけに酔拂つて病棟を訪れた北氏は、面會を許されず、「遠藤さん。近代醫學は進歩してます。大丈夫です。あなたは死にません」云々の走書きを看護婦に手渡し、歸らうとして「よろけて段をふみはづし、ドタドタと轉落した」といふのである。これまた、北氏、遠藤氏、及び「北杜夫さまと廊下ですれ違ひました。感激でした」などと書いて投稿しかねない「愛讀者」、それだけが面白がる類の何とも良い氣な文章である。
さらにまた北氏は、自分は「ドタドタと轉落」しただけなのに、遠藤氏は随筆に「助けてくれえ!」と叫んだなどと書いてゐるが、それは嘘である、「神かけて斷言する」と反論してゐる。一方、遠藤氏も週刊文春一月二十二日號に「實生活も愉快で、書くものも滑稽なのは躁病の北杜夫氏である」と書き、「連帯の挨拶」を樂しんでゐる。この種の同業者同士の褒め合ひは身褒め同樣に見苦しい。ちと公私の別を弁へて貰ひたい。 
42 女の論理、愛敬か
かつて私は週刊新潮を褒め、いたづらに「新奇を追ふのは弱い精神」だと書いた。が、森茉莉女史の「ドッキリチャンネル」を新潮は連載して七十四囘、「どこまでつづく泥濘ぞ」と、私は昨今とみに苛立つやうになつた。二月十二日號で森女史は、レーガン大統領と小朝なる藝名の噺家を「バラリンズンと」斬つてゐるが、それは女特有の何とも感情的な批判であつて、新潮編集部が「嫌ひだから嫌ひ」とする女の論理を御愛敬として喜んでゐるのなら、新潮の批判精神は減退しつつあると斷ぜざるをえない。森女史は「“ドッキリチャンネル”の目の黒いうちは、面白くも可笑しくもない噺家が(中略)バカな顔を晒してゐるのを放つておかない(中略)必ず、バラリンズンと斬り下ろすのだ」と勢ひ込んでゐる。かういふ文章の滑稽に新潮は氣づいてゐるのだらうか。藝人の目鼻立ちをあげつらひ、「藝人にあるやうな美男ぢやなくて(中略)たんとなく毛ぎらひしてゐた奴だ」などと書き、女史は「バラリンズン」と斬つたつもりでゐる。小朝の藝がどの程度のものか私は知らないが、女史はお前の面は何となく氣にくはぬとしか言つてゐないのだから、小朝が「さういふ貴樣の皺だらけの面はどうだ、よい年をして、誰それとの結婚はノン・メルシイだなどと、ちと身の程を弁へろ」と言ひ返したとしても、文句は言へない道理である。
さらに、一月二十九日號の「ドッキリチャンネル」によれば、森女史は横尾忠則氏の個展で池田滿寿夫氏と岡本太郎氏に出會つたが、池田氏がやさしくしてくれたのに、岡本氏はそつけなかつた。そこで森女史は、やさしくしてくれた池田氏と佐藤陽子女史を褒めちぎり、一方そつけなかつた岡本氏については「あまり自分の有名を意識し過ぎる」のではないかと、恨みがましく書いてゐる。これを無邪氣と言ふべきか、鐵面皮と言ふべきか。とまれ、前囘私は北杜夫、遠藤周作兩氏を批判して「公私の別を弁へよ」と書いたが、同じ苦言を森女史にも呈上する。
いかなる義理合ひあつてかは知らないが、新潮は「プーサン」ごとき愚劣な漫畫を蜿蜒と連載して一向に止める氣配が無い。が、「ドッキリチャンネル」は一日も早くお仕舞ひにして貰ひたい。ただし、本來斷るまでもない事だが、森女史に書かせるななどと、私は新潮編集部に圧力をかけた事は無い。「誰それに書かせろ」だの、「誰それに書かせるな」だのと、昨今は陰で圧力をかけるのが流行つてゐる。卑劣きはまる。文句があるなら堂々と叩けばよいのである。奥野法相の口を封じようと躍起になつてゐる手合もゐて、法相もあの手この手の圧力を受けてゐるに相違無い。奥野發言についてはいづれ書くが、今は「奥野さん、頑張れ」とだけ言つておかう。 
43 善なりや戰爭放棄
「奥野法相の“自主憲法制定”論は、將來の改憲に備へて、自民黨のホンネを述べたものとされてゐるが、鈴木首相は今國會で、憲法改正せずと語つて」をり、「前者が政府自民黨のホンネとすれば後者はタテマヘといふことになる」が、「新たな國内、國際情勢の中で、ゴマカシの論爭は許されるべくもなく」、「軍事力問題」は「國民的課題として抉られるべき時」だと、週刊ポスト二月二十日號は書いてゐる。つまり、「自主憲法制定」論は「自民黨のホンネ」なのだから、鈴木首相が「ゴマカシ」てゐるのであり、許されないのは法相ではなく首相であつて、「奥野法相を見習ひ本音を吐け」とポストは主張してゐる事になる。
なるほど、ポストの記者に答へる法相の發言はすこぶる率直かつまつたうであり、法相の「誠實は書生の誠實」だと評する向きもあるが、とんでもない事である。「政治的賢明」に終始すれば、政治的に賢明たりうるとは言ひ切れない。私は法相の氣骨にぞつこん惚れ込み、頼もしい政治家が日本國に殘つてゐた事を喜んでゐる。
大方の日本人は忘れてゐようが、改憲は自民黨の綱領なのであり、綱領とは根本方針の謂だから、鈴木善幸氏に限らず、護憲論者の自民黨員は根本方針にそぐはぬ主張をしてゐるのである。法相の罷免を杜會黨は要求し、首相も「改憲を主張して譲らぬ閣僚は去つてもらふしかない」などと言つてゐるが、たんとも面妖な言分で、護憲を主張する閣僚こそ離黨すべきではないか。保革を問はず、法相の氣骨を苦々しく思つてゐる手合に言ひたい。根本方針を無視するのが政治的賢明なら、御都合主義にのつとり、自民・共産の連立政權さへ認めてもよいといふ事になるのである。
ポストが意見を徴した護憲論者は、いづれも「戰爭放棄を唱へてゐる憲法を守らねばならぬ」と考へてゐる。が、吉村正氏は「憲法なんてたいしたことはない」と言ふ。これは果して暴論か。とまれ、私も「暴論」を吐いておく。大方の日本人が戰爭は惡いと言ふ。が、戰爭の何が惡いのか。戰爭放棄の何が善いのか。わが國の非戰論者は「死にたくない」と言つてゐるに過ぎぬ。私はこの「暴論」の責任を斷じて囘避しない。奥野法相の頑固を見習ひ斷じて自説を撒囘しない。保革を問はず、だれでもよい、私をたたくがよい。私はたたき返す。戰爭は惡事ではないのである。
ポスト二月二十七日號は、「あのやうないい加減な改憲論議ではファッショになつてしまふ」との會田雄次氏の意見を引いてゐる。が、ポストの記事もまた「いい加減な改憲論議」の域を出ない。つまり、ポストは專ら、八百長の喧嘩は許されぬ、もつとやれ、と言つてゐるだけなのだ。ファッショを恐れての事ではない。そのはうが儲るからである。 
44 むしろ淵に溺れよ
週刊文春は元創價學會顧問辯語士山崎正友氏の手記を長期にわたつて連載した。連載中に山崎氏は恐喝の容疑で逮捕されたが文春は怯まなかつた。三月十二日號は「獄中の山崎正友辯語士から編集部の担當記者宛」の私信を載せ、「司法當局においては、山崎辯語士が被告人であると同時に貴重な生き證人であることに留意し、その健康に萬全の注意を拂つてもらひたい」との「編集部後記」を付してゐる。文春のこの世話燒きを私は奇特な事だと思ふ。
執筆者と編集者は一蓮託生で、利用價値のある時だけ書き手を利用して、落目になつたら知らぬ顔の半兵衞といふわけのものではない。それに何より、文春の執念によつて吾々は、新聞を讀んでゐるだけでは解らぬ類の事柄を知つたのであつて、それゆゑ執筆者が逮捕されても「創價學會の謀略の實態」(一月二十二日號の編集長の言葉)を明さねばならぬとする文春の意氣込みは壮とすべく、一蓮託生の覺悟のある文春に對して山崎氏が、「連載を最後までつづけて下さつたことに對し、感動を覺え」るとの私信を寄せたのも當然の事だと思ふ。
けれども、私は山崎辯語士を信用してゐない。彼の文章を讀めば信用できないといふ事が解るからである。勿論、私は池田大作氏も信用しない。週刊朝日三月十一日號のインタビューを讀み、池田氏は宗教家として贋物ではないかと思つた。池田氏の言ふ事は悉く綺麗事である。この日本國において、あれほど綺麗事ばかり言ひつづけ、三億圓もの大金を動かせるやうになる筈が無い。
一方、山崎氏の言分を信用しないのは、彼の文章から義憤といふものを少しも感じないからである。創價學會は「もつぱら私に對する個人攻撃で終始し」(一月二十二日號)云々と山崎氏は書くが、「文は人なり」であつて、山崎氏が本氣で怒つてゐるやうには私には思へない。例へば私は、本欄でも韓國のために弁じた事がある。が、韓國のために弁じておよそ得をした事が無い。「得を取らうより名を取れ」といふ。が、私はそのどちらも取つた事が無い。そして今、「私に對する個人攻撃」があちこちで行はれてゐる。勿論、いづれ私が一切合財ぶちまければ勝負はつくのだが、その際私は本氣で文章を綴る。そしてそれは、憚りながら、嘘をついて辻褄を合せ自己正當化をはかる類の文章とは全く異質のものになるであらう。
けれども山崎氏は正義感に駈られて一切合財ぶちまけるやうな男ではない。また、一切合財ぶちまけて心を痛めるやうな男でもない。山崎氏はかつて池田氏と一蓮託生の仲だつた。一切合財ぶちまけようと決意したら、多少心を痛めて當然である。「人に溺れんよりは、むしろ淵に溺れよ」といふ。文春は少しその事も考へてはどうか。 
45 「民免れて恥なし」
「春うらら、三月第二週の日曜日。突如現れた、うら若き女性ストリーカーひとり。三萬人の雜踏のただ中を、ヘアなびかせて、あちらに走り、こちらに駈け抜け・・・」といふ珍事が勃發したのださうで、週刊新潮三月二十六日號がその「現場写眞」を載せてゐる。芳紀まさに二十二歳との事だが、畫家や彫刻家が食指を動かすやうな肉體ではない。「汚い裸してんなあ」と本人も言つたさうだが、なるほどそれは、週刊ポスト三月二十七日號が載せてゐる田淵前夫人の裸體ほど醜怪でない、といつた程度のものである。が、それはいい。問題は彼女の陰毛で、新潮のグラビアには陰毛が消去されずに黒々と写つてゐる。これぞ我國の出版史上畫期的なる大事件といふべく、「修整」なしの陰毛を出版物に見るのは、新潮三月二十六日號をもつて嚆矢とするのではあるまいか。けれども刑法第一七五条には「猥褻の文書、圖畫、其他の物を頒布若くは販賣し又は公然之を陳列」する行爲は處罰するとある。一方、週刊ポストによれば、警視庁は「ビニール本業者を次々と摘發。オーバーにいへば壞滅的打撃をビニール本業界はくらつた」といふ。さて警視庁はどうするのか。ビニール本業者は容赦なく摘發して週刊新潮だけを見逃すなら、それはゆゆしき事である。法治國にあるまじき事である。
新潮は陰毛を消去しなかつた理由についてかう書いてゐる。「ヘアの写つてゐる写眞もあるが、これをワイセツ写眞などといふなかれ。あくまで“公然ワイセツ罪で捕つた女性の現場報道写眞”にすぎない。もしも、ヘアが写つてゐなければ、“正しい報道写眞”とはいひ難い」。笑止千萬なる屁理窟である。警視庁がこの屁理窟の屁理窟たるゆゑんに思ひ至らず、新潮の詭弁に幻惑されるやうならば、警視庁の知能はジャーナリストのそれに及ばぬといふ事になる。これまたゆゆしき事である。それゆゑ、新潮の屁理窟についてはこれ以上書かずにおき、警視庁のお手並をとくと拝見する事にしよう。
古來、男は若い女の裸體を賞味して飽きる事が無い。が、女の裸写眞は陰毛さへ写つてゐれば御面相はどうでもよいといふわけのものではない。それに何より「民免れて恥なし」といふ事がある。法による規制など無意味だと孔子は言つた譯ではない。かねてから猥褻出版物の取締りに批判的な新潮は、さういふ事も承知のうへなのか。それも承知、かつ摘發は覺悟の前で、陰毛の何が猥褻かと開き直るつもりなのか。それなら、「正しい“報道写眞”とはいひ難い」などといふ弁解は不要の筈である。田中通産相の「利權體質」についての記事にしても、男性大臣の「狡猜」な「ご面相」なんぞを云々せず、大臣の「不徳」を新潮は本氣で批判すべきではなかつたか。 
46 何が最高學府か
このところ新聞やテレビは、早稲田大學の不祥事を盛んに報じて一向に倦む事が無い。社會の木鐸としてそれは當然の事、あるいは是非も無い事だが、大學當局までがそれに付き合ひ平常心を失つてゐるのは殘念である。例へば清水總長は、かかる不祥事が「早稲田大學に對する社會の信頼と期待を裏切り、諸君の入學の喜びに暗い影を与へたことに對し、心からおわびしない」と新入生に語つたさうだが、何ともつまらぬ事を喋つたものである。新聞がいかに派手に書き立てようと、それぐらゐの事で「入學の喜びに暗い影を与へ」られた新入生はゐまいし、またゐたとすれば、その愚かしい根性をこそ叩き直してやらねばならぬ。だが、總長の式辭に場内は水を打つたやうだつたといふ。國會答弁さながらの紋切り型の式辭に野次もとばせぬほど昨今の大學生は腰抜けで、さういふ腰抜けが相手だから、教師も發奮するといふ事が無いのである。職員による成績原簿の改竄が發覺して、今囘、大騒ぎになつてゐる譯だが、では早稲田大學の教師は日頃「嚴正なる採点」をやつてゐるか。いや恣意的な採点でも構はないが、學生に一切文句を付けさせぬほど情熱的な授業をやつてゐるか。不祥事の解明は警察や裁判官に委ねたらよい。が、早稲田に限らず、今日の大學には、司直の手を借りて解決する譯にゆかぬ類の難問が山積してゐるのである。
週刊現代四月十六日號は、「根本的た問題は、日本の私立大學では“教育研究”と“業務管理”が混然一體となり、分離してゐないこと」だと言ひ、「教育・研究ひとすじの教授をよそに、入試事務、成績管理・校内運營を一手に握る大學職員はやりたい放題」だと書いてゐる。とんでもないでたらめである。總じて早大の職員は、これほどの与太を飛ばして平氣でゐる週刊誌の記者と異り、よつぽど良心的である。それに、當節の大學教授は決して「教育・研究ひとすじ」ではない。それどころか教育や研究にあきて學部長だの理事だのをやりたがる手合もゐる。そして職員はさういふ學部長の監督をも受けねばならぬ事になつてゐる。「教育・研究ひとすじの教授をよそに」職員は「やりない放題」だなどと、許し難いでたらめ、何たる想像力の貧困か。
とまれ、新聞も週刊誌も早稲田大學を難じては紋切り型を言ふ。大學の總長も校友も紋切り型を言ふ。學生がそれを見習はぬはずがない。かくて今や大學においても「教育の普及は浮薄の普及なり」といふ事になった。ブレイクは「實行できぬ願望を育むくらゐなら、いつそ揺藍の赤子を殺せ」と言つたが、教授會はもとより文學部の教室においても、昨今この種の危險な思想が論ぜられる事は無いであらう。それは學問が道徳の問題を囘避してゐるからである。が、安全第一の紋切り型ばかりが語られてゐて、何が最高學府であらうか。 
47 他人を責めぬ風潮
週刊文春四月二十三日號に野坂昭如氏は、僧侶の堕落を批判して「町を歩いて眼につくのは鐵筋コンクリート製の本堂と、その經營する駐車場、佛の道を説く者など絶えて久しい。大都會で托鉢、説法に觸れた者はまづゐないと思ふ、よくまあここまで堕落したものである」と書いてゐる。けれども、野坂氏は昨年、『防衞大合唱を嗤ふ』と題する嗤ふべき文章を綴り、「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまへ、前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げる」のが「一億一千萬人の生きる道」だと主張したのである。それなら、僧侶が「前垂れかけて、膝に手を當て」、鐵筋コンクリートの本堂を建て、駐車場を經營してゐる事を、なぜ野坂氏は怪しまねばならないか。場當りを狙つて思ひ付きを書き散らし、「右も左も蹴つとば」した積りでゐる戯作者風情に、僧侶や神官の堕落を批判する資格なんぞありはせぬ。宗教の「導きによつて救はれたい人たちが、世に滿ち滿ちてゐるのに」と野坂氏は言ふが、今の日本國に、宗教の「導きによつて救はれたい」人々が「滿ち滿ちてゐる」筈は斷じて無い。斷じて無いと斷づる根拠を私はいくらでも擧げられる。「武士の心はやめた方がいい」と書いて、野坂氏は世の笑はれ者になつた譯ではない。それこそ日本人が眞劍に生きてゐない事の證しに他ならぬ。眞劍に生きてゐない者がどうして宗教の救ひなんぞを必要としようか。
當節、吾國の知識人は、宗教や道徳に言ひ及ぶ事頗る稀である。言及しても必ずお座なりを言ふ。サンデー毎日四月二十六日號に、鳥井編集長は書いてゐる、「裁判官、大學教授、知事、市長・・・・・・モラル喪失をつきつける事件がどこまでつづくのでせう」。かういふ文章を讀んで、なぜ人々は腹を抱くて笑はないのか。「どこまでつづくのでせう」などと涼しい顔で書いてゐる男が、本氣で「モラル喪失」を憂へてゐる筈は無い。昨今、おのれを省みる事無く專ら他人に努力を要望する風潮が顕著だが、それこそ「モラル喪失」の何よりの證左である。政治家は、宗教家は、教師は、新聞人はかくあるべしと、識者はしきりに言ふ。が、おのれはかくあるべしといふ事を決して考へない。
野坂氏は週刊讀賣五月三日號にも、「戰爭に行きたくなけりや米を食へ」と題する駄文を寄せ、「子供を戰爭に行かせたくなかつたら、今のうちに子供に米を食べる習慣をつけたはうがいい」と主張してゐる。これほど粗雜な思ひ付きを公表しても、右からも左からも、野坂氏は決して叩かれないであらう。「人を責むるの心を以て、己れを責めよ」といふ。が、他人を責めず、他人に責められる事も無いとすれば、どうして己れだけを責める氣になれようか。かくて人々は馴合ひの快を貪るのである。 
48 これぞ早稲田の恥
週刊新潮四月三十日號は「いまやサラリーマン養成機關に過ぎない私立の早稲田。裏口入學など人畜無害。いつたい死者を出すほど、大騒ぎする理由はどこにあるのか。まさに空騒ぎ」だと書いてゐる。全く同感である。が、前々囘にも書いたとほり、新聞週刊誌はともかく大學當局や校友までが平常心を失つてゐるのは、まことに情け無い事で、『言論人』五月五日號に稲田秋彦氏は「私學の雄と謳はれているワセダの内部は(中略)伏魔殿」だが、今後ワセダがどうなるかは「天下の公憂」だと書いてゐる。が、「公憂」だなどと思つてゐるのは愛校心に盲ひた校友だけである。
稲田氏はまた「今度の事件につき學内で調査し、斷固たる處置をとることなく、すべてを警察の手に委ねたこと」は、「大學自治の放棄」だと言ふ。稲田氏は校友なのだらうが、これまた見當違ひの意見であつて、いかなる場合にも刑法上の犯罪を「學内で調査」すべきではないし、また、早稲田に限らず、吾國の大學は「大學自治」などといふものを放棄して久しい。そんなものを必要としないからである。
ところで、週刊現代五月十四日號で、早大前總長村井資長氏は、清水司總長を批判し、その辭任を要求してゐる。村井氏は早稲田の將來を憂へてゐるかの如くであるが、その語り口は野卑であつて、これが八年間總長をやつた男の言ふ事かと、私は驚きかつ呆れた。村井氏が推薦したからこそ清水氏は總長になれたのださうだが、總長就任後「ソッポを向いた」清水氏について村井氏は「理事を選ぶ時から豹變した。ぼくには一言の相談もなかつた」などと言つてゐる。週刊現代の誘導訊問に引掛つたのだらうが、今さらそんな事を言つて何になるか。「清水氏をダミーにして“院政”を圖つた」とする噂を自ら認めるやうなものではないか。
そればかりではない。清水總長について「出世主義者と批評する人も」ゐるとか、「一部の人に、スキャンダルを握られてゐて、總長の自主性を發揮できないのではないか」とか、さういふ次元の低い惡口を言ひ、それを公憤であるかの如く思ひ込んでゐる、それが紛れもないわが大學の前總長なのである。これぞ早稲田の恥である。「訂いて以て直と爲す者を惡む」といふではないか。
私は清水總長を辯語してゐるのではない。當節、總長だの理事だのは、稲田氏の言ふとほり必ずしも「學者として優れてゐるとか、徳望が高いとか」いふ理由で選ばれるのではない。學問より政治のはうが面白くなつた手合が、新設學部は幕張にせよ、いや所澤にせよと、まなじりを決して爭つてゐるのであらう。馬鹿々々しい限りである。百周年だからとてなぜ新しい學部を設立せねばならぬのか。新しい學部を拵へて、それだけ早稲田が立派になる筈のものでもあるまいに。 
49 道徳的不感症を憂ふ
奈良縣の小學校で、校長と男性教諭六人が、ブルービデオを教室で觀賞し、それが發覺して校長は首になつたといふ。その事件について週刊新潮五月二十一日號は「白晝、教室でブルービデオを見るなどもつてのほか」だと書いてゐる。天邪鬼の新潮さへさういふ紋切り型を言ふのだから、ここで私が「白晝、教室で、ブルービデオを見て何が惡いのか。校長は運が惡かつたに過ぎぬ」と書いたら、私は世論の袋叩きにあふかも知れぬ。だが、私は釋然としない。小學校の教室だつたからいけないのか、白晝だつたからいけないのか、ブルービデオだつたからいけないのか。教室はなぜ神聖な場所なのか。ブルービデオに眉を顰めるほど、週刊誌の記者は潔癖なのか。校長たちの所業は發覺しなければ無害だが、週刊誌に載るポルノ小説や卑猥な劇畫は、小學生の目にも止るのである。
一方、このところ警官や裁判官の非行もしきりに發かれ、週刊現代五月二十一日號は「正義の味方がきいて呆れる。われわれは誰を信じたらよいのか」と書いてゐる。だが、現代は本氣で嘆いてゐる譯ではない。例へばピンクサロンにおける警官の非行について、有る事無い事、面白をかしく書き立てた揚げ句「法治國の國民は何を頼りに生きてゆくのか」などとお座なりを言つてごまかしてゐるにすぎない。週刊現代は毎週、トルコ風呂の實態とやらを樂しげに報じてゐるが、そのいかがはしい記事を若い警官も讀み、眞に受けるかも知れぬ。散々挑發しておいて、警官や判事には自制を要求する、それはちと不公平ではあるまいか。
日本人には罪惡の問題を識別する能力が欠けてゐると、かつてジョージ・サンソムは言つた。いかにも吾々は善惡の問題を突きつめて考へない。「考へ過ぎるのも善し惡しだ」などと言ふ。昨今防衞論議が盛んだが、平和がなぜ善で、戰爭がなぜ惡か、さういふ事を誰も論じない。かつてこのコラムで私は、「戰爭の何が惡いのか。戰爭放棄の何が善いのか。わが國の非戰論者は、死にたくないと言つてゐるに過ぎぬ」と放言して無事であつた。「なぜお前は戰爭は惡事ならずと主張するか」と、誰も私にたづねなかつた。要するに、人々は戰爭に對してもセックスに對しても、不感症になつてゐるのであつて、それは斷じて喜ぶべき事ではない。戰爭を肯定する文章を綴つて無事だつた以上、「教師が教室で、白晝、ブルービデオを見て何が惡いか」と、さう放言しても私はやはり無事ではあるまいか。だが、もしも無事なら、それはゆゆしき事である。道徳的不感症が蔓延すれば、偽惡も偽善も児戯に類するものになる。それこそ亡國の病に他ならない。 
50 筋道よりも和を重視
週刊新潮五月二十八日號によれば、石原慎太郎氏はかつて佐藤榮作氏に、「核を作らず、持たず」まではよいが「持込ませず」はナンセンスであり、「そんなアホダラ經みたいなゴロ合せはやめたはうがいい」と忠告したといふ。だが「作らず、持たず、持込ませず」と三拍子揃ふと、それはあたかも七五調のごとく、吾々日本人に生理的快感を与へるのである。俗に「飲む打つ買ふ」といふが、「飲む打つ」だけでは調子が惡からう。それで、「持込ませず」を加へた、その程度の事でしかない。私は冗談を言つてゐるのではない。週刊現代六月十一日號に江藤淳氏は、非核三原則を堅持せよと主張するのなら、「核の傘」も要らぬ、「同盟も願ひ下げ」、「ソ連が攻めて來たら白旗を立てて」降伏すると、さう公言すべきである、「筋道を立てて考へるなら」、どうしてもさういふ事にならざるをえぬ、と書いてゐる。が、「筋道を立てて考へる」のは日本人が何より苦手とするところなのであつて、週刊新潮五月七日號にヤン・デンマン氏が書いてゐるやうに、吾々は「戰爭は惡だ、惡だ、と叫び續け」るだけで戰爭はなくたると、さう思ひ込んで久しいのである。
江藤氏はまた週刊現代六月四日號に、「この度の首相の發言は、外交音痴を遺憾なく暴露したもので、お粗末」この上無しだと書いてゐる。同感である。鈴木首相は憲政史上最低の總理大臣だと私は思ふ。首相は「外交音痴」であるばかりか、元杜會黨員だけあつて、戰爭アレルギーをいまだに脱し切れずにゐる。首相はレーガン大統領に、日本は軍事大國にならず、平和憲法と非核三原則を守り、專守防衞に徹すると言つた。本氣でさう言つたのである。
だが、社會黨員だつた頃の鈴木善幸氏と、自民黨總裁である今の鈴木善幸氏と、その「外交音痴」も思考の不徹底もさして變らず、しかも自民黨の派閥力學ゆゑに當分鈴木體制が揺がないとすれば、何を言はうと所詮は徒労であらう。
吾々日本人は「筋道を立てて考へる」事をしない。何よりも和を重んずる。それかあらぬか、例へば改憲問題をめぐつての保守派同士の「近親憎惡」を何よりも恐れる向きもある。私は最近保守派イデオローグの「第一人者」と目される學者の防衞論のでたらめを批判する文章を綴つて、或る雜誌の編集長にその淺はかを窘められた。言論の自由が保證されてゐるはずの吾國において、猥褻な事を書く自由はあつても、首相やジャーナリズムを批判する自由はあつても、保守派が保守派を批判する自由は無い。明治時代、「物質的の革命」は「外部の刺激に動かされて來りしものなり。革命にあらず、移動なり」と北村透谷は書いた。が、吾國の論壇が知的誠實を重んずるやうになるためには、すさまじいまでの「外圧」が必要なのかも知れぬ。 
 

 

51 一所懸命こそ大事
近頃の物書きには月に千枚も書く奴がゐるさうだが「何用あつて毎月千枚書くか。何の用もありはしない。あんなに書くのは病氣である」と山本夏彦氏が言つた事がある。山本氏は目下週刊新潮に短文を連載してをり、私は毎週矯めつ眇めつ、撫でるやうにして讀み、その鋭い省察に毎囘感心する。例へば六月十八日號に山本氏は「いまトルコ嬢が足を洗つて店を持つて成功したら、堅氣の男女の立つ瀬はない。一億みなトルコ嬢になつたはうが割がいいやうな考へが、日本中に瀰漫することを私は欲しない」と書いてゐる。全く同感で、わが意をえたりとて私は喜ぶのである。だが、私が山本氏の文章を愛讀するのは、ただ單に、そこに書かれてゐる事柄に同意するからではない。私は山本氏の文章の姿形をも愛でるのである。新潮六月十一日號に山本氏は、バキューム・カーの雄大なホースについて「打てばひびくといふが、張りきつてかんかん音がしさうである。何といふ充實ぶりだらう」と書いてゐる。バキューム・カーのホースを撫でる馬鹿はゐまいが、かういふ見事な文章は撫でるやうにして讀むべきだと思ふ。
けれども昨今、人々は文章を讀んでさういふ樂しみを味はふ事が無い。何が書かれてゐるかを知るのに急で、いかに書かれてゐるかは二の次三の次だからである。だが、バキューム・カーのホースの雄大についてイデオロギーの對立などありえまい。巧妙に書かれてゐるかどうかだけが問題なのである。それゆゑ私は、例へば改憲の是非について私と同意見ではあつても、粗雜に書く筆者なら信用しない。
週刊文春六月十八日號は「一囘五十萬圓也の“講演屋”」竹村健一氏の人格を疑ふ記事を載せ、「一日で著書を一冊仕上げる」その恐るべき荒つぽさと、講演の際の横柄な態度を批判してゐる。文春は竹村氏の辯明も載せてはゐるが、竹村氏の言分を全く信用してゐない。もとより私も信用しない。竹村氏は粗雜極まる文章を書くからである。文章が粗雜なら人柄も粗雜に決つてゐる。先週、サンケイ新聞「直言」欄に、竹村氏は「イスラエルがイラクの原爆用原子炉を爆撃した。(中略)火中の栗を拾ふやうなことをやつてのけた」と書いた。「火中の栗を拾ふ」とはどういふ意味か、それを確かめもせず書き流した譯である。
けれども文春によれば、竹村氏は相變らず引張り凧、「スケジュールを調整する秘書が三人もゐる」ほどだといふ。それなら何を言つても始まらぬ。何囘講演をやつても一向に手抜きの要領を覺えられぬ私は、いつそ竹村氏にあやかりたいと思ふ時さへ無い譯ではない。が、私は人生何より大事なのは一所懸命といふことだと思ふ。時に過つ事があつても、一所懸命ならそれでよいのだと思ふ。 
52 繁榮ゆゑの無駄事
かつて私は週刊讀賣の二重表紙の無駄を批判した事がある。理由はよく解らないが、讀賣はやがて元の表紙に戻つた。が、讀賣はその後新手の無駄をやり始めた。板坂元氏の文章を連載し始めた。七月五日號に板坂氏はアメリカで流行してゐる「握手のやり方」を説明し、「日本も、禮儀の國、ひとつ誰か面白い挨拶法を工夫してはどうだらう」と書いてゐる。日本が「禮儀の國」かどうか知らぬが、禮儀と「面白い挨拶法」と一體何の關係があるか。板坂氏は毎囘、この程度の内容の、砂を噛むがごとき文章を綴つてゐるが、惡文たるゆゑんを噛んで含めるやうに言ひ聞かせても所詮徒労だから、噛んで吐き出すやうに「無駄話」と評するしかない。同じく讀賣の『私は見た!この有名人』といふ投稿欄を、私は愚劣と評した事がある。このコラムは今も健在だが、それは名士に弱い讀者に受けるからであらう。それゆゑ讀賣にとつては無駄ではあるまいが、板坂氏は桃井かおりや三遊亭圓窓や山本浩二ほどの名士なのか。しかも、板坂氏の原稿は「アメリカから國際電送」されて來るのだといふ。何たる無駄づかひか。讀賣は「國際電送」だと毎囘斷つてをり、その勿體顔は甚だ滑稽である。
だが、なにせ經濟大國の週刊誌、無駄づかひは讀賣に限らない。日本人留學生がパリでオランダ娘を殺し、その肉を食ふといふ珍事が出來し、當然週刊誌は色めいたが、週刊文春は急遽パリヘ記者を派遣したのである。これもまた無駄づかひで、パリに支局を持つ新聞を讀めば解る程度の事しか文春は書いてゐない。文春七月二日號は、「一億二千萬もの費用をかけて何しにいつた」のか解らぬ鈴木首相の外遊の無駄を批判してをり、私は樂しく讀んだ。日本人すべてに文春の記事を讀ませ、あんな首相を戴く事の無駄について、眞劍に考へさせたいと思つた。だが、「バラバラ人肉事件」の記事に關する限り、文春の記者もまた、パリまで「何しにいつた」のか解らぬのである。
ところで毎日新聞には無論パリ支局がある。そこでサンデー毎日七月五日號は「本誌の直接取材」の成果を誇る事となり、その勿體顔も滑稽だが、それよりも、パリ警視庁の警部に毎日の記者は、犯人が人肉を「どうやつて食べたのか」と尋ね、「燒いて食つた」と警部が答へると、「ソースつけてか?」と畳掛けるやうに問うてゐるのである。何たる些事、何たる神經、何たる愚問か。
些事にこだはるのは無駄な事である。が、無駄と承知でついでに言つておかう。毎日は犯人が「通學してゐた高校の正門とクラス名簿」の写眞を載せてゐる。勿論、この類の無駄づかひは毎日に限らぬ。今囘、最も色めかず、無駄金を使はなかつた週刊新潮も時々やる事である。が、それにしても「クラス名簿」とは! 
53 萬事金の世の中
本欄で私は朝日ジャーナルを取上げた事が滅多に無い。理由は簡單で面白くないからである。週刊ポストなら天然色の女の裸写眞がある。週刊現代ならトルコ風呂やノーパン喫茶の探訪記がある。これらはいづれも眺めて樂しく、讀むにたやすい。樂をして、しかも樂しめる讀み物に事欠かぬ當節、「問題意識」の塊のやうな朝日ジャーナルを人々が面白がる道理が無い。『月曜評論』七月六日號に矢野健一郎氏は、週刊文春を批判して、「問題意識や批判精神を欠き、そのために取材も記事の構成もいい加減で、結果として、噂話(中略)に堕してゐる」と書いてゐる。が、それは文春に限つた事ではない。例へば週刊現代七月二十三日號は、讀賣新聞と朝日新聞との「新部數戰爭」に關する記事を載せてゐるが、「問題意識や批判精神」なんぞ藥にするほどもありはせぬ。「過熱する販賣競爭は、まともな讀者にとつては迷惑しごくた話である。販賣コストが、料金にはね返つてはたまらない」と筆者小板橋氏は言ふ。要するに「金錢の支出は免れたい」といふ事で、これはとても問題意識などといふものではない。一方、小板橋氏によれば、朝日新聞は七月二十日から新活字を用ゐ、その結果、紙面にをさまる活字數は「從來より七%減少」するといふ。が、それが何を意味するか、小板橋氏は全然氣づいてゐないのである。
あたらしい大きな活字で、讀みやすくなつて、けれども内容がすくなくなつて、それですべてめでたしめでたしだらうか。いまはなにごともカネの世のなかだから、一箱二十本入りのタバコに十九本しか入つてゐなかつたら、だれだつて專賣コウシャにたいしておこるだらう。それなのに、活字が七%すくなくなることに、朝日の讀者はハラをたてないのである。ほんたうにふしぎなことだとおもふ。サンケイ新聞は活字をあたらしくしないだらうから、これからわたしは、せいぜい努力して、假名をたくさん使はなければならない。内容がすくなくなつても、だれもおこらないし、書くわたしも樂で、原稿科はおなじ、讀者は讀むのに樂で、活字をひろふ人だつて樂、やつぱりすべてめでたしめでたしではなからうか。かか。
まあ、これほど極端に走るのは賢明ではない。「かか」とは「呵々」で「大聲で笑ふさま」の事である。だが眞面目な話、樂をして同じ報酬が得られるとなると、その誘惑に抗するのは難しい。まして報酬が二倍三倍となつたら、さて、どういふ事になるか。今後「右傾化」がすすみ、朝日の主張もサンケイのそれと大差無いといふ事になつた時、讀者は競つて朝日に鞍替へするのだらうか。「世に有程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天が下に」無しといふ事になるのだらうか。「人間はさうしたものではない」と、私は鴎外とともに言ひ切りたいと思ふ。 
54 偶像は不要なりや
古今の偉人、有名人ばかり百五十二人の性生活を暴露した『ザ・ワルチン・スペシャル』といふ奇妙な表題の本が出版されたさうである。週刊新潮七月三十日號によれば、著者ワルチンスキーは、「あまりにきれいごとに過ぎる偉人、有名人の傳記に不滿」で、その本を書いたといふ。例へば、ショパンは愛人に「あなたのDフラット・メイジャー(黒鍵二つの間に白鍵が挟まれる和音)の小さな穴へ」云々と、あらぬ事を書き送つたし、ルイス・キャロルは童貞のまま死んだが、少女の裸写眞を撮るのが大好きだつたといふ。馬鹿らしい本を書いたもので、新潮の記事を讀めば、そんな本、讀むに及ばぬと知れるから、まともな人間は買はないであらう。新潮はかう書いてゐる。「だが、讀者諸氏が、かうした人々に過度なる親近感を抱くとしたら哀れである。だつて彼ら、どう轉んでも天才であり偉大なのだから」。その通りである。この世に「小さな穴」ぐらゐの事を書く奴は何百萬何千萬とゐるだらうが、何百萬何千萬に「小犬のワルツ」や「黒鍵のエチュード」が書ける譯ではない。天才や偉人にも生殖器があつたといふ事實を發見して喜ぶのは愚劣な事であつて、自分と同樣ショパンにも生殖器があつたけれども、自分は逆立ちしたつて出來損ひのエチュード一つ作れはしないと、さう考へるのが眞當なのである。ワルチンスキーの仕事は要らざるお節介と言ふべく、天才の閨房を覗いて「親近感を抱く」者は、あはれな碌でなしに他ならない。
けれども今は、人々の偶像を破壞して喜ぶ事、頗る甚だしい時代で、被害を受ける事、最も甚だしいのが政治家と藝人である。同日號の新潮は、船田中、田中角榮、池田勇人、鳩山威一郎、春日一幸、山本幸一、川島正次郎、松野鶴平、大野伴睦、三木武吉、宇都宮徳馬、糸山英太郎の各氏の、「御落胤」後始末に關する實説や風説を紹介してゐるが、ただそれだけの「特集記事」であつて、ワルチンスキーの著書を「死人に口なし、書き放題?」と評した「タウン」欄の批評精神が、この「特集」記事には欠けてゐる。勿論、新潮よ、批判精神や「問題意識の塊」であれなどと、私は言つてゐるのではない。週刊誌が商賣の事を考へるのは當然で、時に讀者の喜ぶ政界の艶聞醜聞を提供して、床屋政談を盛んにするのも是非が無い。けれども、死んだ政治家の場合も「死人に口なし」ではないか。
偶像破壞も大いに結構。だが、「弟子、七尺去つて師の影を踏まず」の美風が地を掃つてめでたい限りだと、まさか新潮は考へてはゐまい。日教組だけが惡いとは思つてゐまい。私は政治家の惡徳を辯語してゐるのでは斷じてない。偶像無しに果して人はよく生きられるかと、それを怪しんでゐるまでの事である。 
55 瘠我慢こそ大事
なぜ週刊誌はかうも個人の噂話にばかり執着するのか、「まるで個人のみがあつて、社會も國家もないみないではないか」と、再び週刊文春を批判して矢野健一郎氏が書いてゐる(『月曜評論』八月十日號)。矢野氏の指摘どほり、最近の文春はちと「物の見方が微視的になり過ぎ」てゐると私も思ふ。野球選手と離婚したといふだけの「業績」の持主に「仰天小説」を書かせるなどといふ事は、以前の文春なら思ひ付かなかつたであらう。思ひ付いても實行に移さなかつたであらう。八月六日號の「ハンソン對談・番外編」は、「アハハ、オソソなしの添ひ寢をしてみたい」と題するもので、「ここまで文春は堕ちたか」と私は驚いたが、「編集長からのメッセージ」によると、「印刷會杜の手ちがひのために」、週刊ポストの記事が「まぎれ込んでしまつた」のだといふ。前代未聞の不思議だが、とまれ私は胸を撫でおろしたのである。
同日號の文春は創價學會の「エリート連の亂脈ぶり」について、「まつたく時代が時代ゆゑ目くじら立ててもはじまらないとはいへ」云々と書いてゐる。私が文春に望みたいのは、「時代が時代ゆゑ」と諦める事無く、敢然として目くじらを立てて貰ひたいといふ事である。商賣も大事だが、瘠我慢はもつと大事だからだ。昔、福澤諭吉は勝海舟と榎本武揚を批判して、瘠我慢といふ事を無視するならば「經濟に於て一時の利益を成」す事はあつても、「數百千年養ひ得たる我日本武士の氣風を傷ふたるの不利は決して少々ならず」と書いた。詳しい説明はしないが、勝と榎本は反論しなかつた。道徳は「兒戯に等し」などと思つてゐなかつたからである。
だが、俗に「人を見て法を説け」といふ。私が文春に苦言を呈するのは、文春の「人を見て」ゐるからで、例へば朝日ジャーナルに對して、私は同じ説法をやりはせぬ。總じてジャーナルは、「物の見方が巨視的になり過ぎ」、人間不在の味氣無い記事を載せる。八月七日號の小田實氏の駄文がさうであつて、「日本はどうやら“元も子もなくなる”運命をまぬがれ得ない」とか、「ひどい目にあふのは第三世界」だとか、アメリカも中國も「自分は生きのび得る」と考へてゐるとか、ソ連はアメリカや中國ほどの「確信はもつてゐない」だらうとか、繁榮をつづけたいのなら、「右傾化」を「必然のこととして私たちは受けとらなければならない」とか、要するに小田氏は、おのれの信念は何一つ語つてをらず、米中ソの「えらいさんたち」の心理を「想像」し、「私たち」はかうすべきであらうか、などと言つてゐるに過ぎず、許し難きほど無責任かつ非人間的な文章なのである。小田氏のでたらめは一度徹底的に批判せねばならぬと思ふ。 
56 淺薄極まる法意識
筑波大學の中川八洋氏が『月曜評論』誌上に、猪木正道氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いた。すると猪木氏は「極めて惡質な誹謗であり、到底看過できない」とて、中川氏及び『月曜評論』に對し謝罪を要求、「刑事および民事上の法的手段を採る」と通告した。週刊文春八月二十日號はこの「前代未聞の珍事」を報じ、中川支持派と猪木支持派の「兩陣營は全面戰爭に突入」したと書いてゐる。私自身、文春に意見を求められ、猪木氏の「理解不可能なレトリック」を散々批判したのだから、文春が私を中川氏の「應援團」の一員だと思つたのは是非も無い。だが、私は中川氏の論文にも批判的なのであり、七月三十一日の朝、ラジオ關東の「今日の論壇」でも、私は中川氏の論理の杜撰を指摘した。それに何より、ソ連が脅威かどうかについて論じて、それがそのまま防衞論として通用するのは馬鹿馬鹿しい限りだと思ふ。すべての他國が潜在敵國ではないか。ソ連は脅威かどうかなどといふつまらぬ事柄は、アメリカや中國の論壇では決して論じられてゐまい。「脅威脅威とやみくもに騒ぎ立てるのは逆効果でマイナス」だと猪木氏は言ひ、「ソ連が脅威ではない、などといふのは“太陽が西から昇る”と同じくらゐをかしな議論」だと中川氏は言ふ。だが日本人の大半は、ソ連の脅威なんぞ一向に感じてゐまい。それゆゑ、このやうな蝸牛角上の爭ひが話題になるのであらう。
だが、言論人が安直に裁判官の判斷を仰がうとするのは感心できぬ。先般、東京高裁は「百里基地裁判」の判決において、自衞隊が合憲か否かについての「判斷を囘避」したが、七月八日付の朝日新聞社説は「なぜ憲法判斷を避けるのか」とて判決を批判した。朝日は猪木氏と同樣、法の裁きを過信してゐるのではないか。それは日本人の法意識の未熟を例證するもので、三權分立とは司法權の優位を意味しないのである。
一方、週刊新潮八月二十七日號の「田中角榮被告“有罪までは無罪“に噛みついた石川達三氏」と題する愚劣な記事も、日本人の法意識の淺薄を如實に物語るものであつて、石川氏は「有罪の判決が有るまでは無罪」とは「まるで中學生の理論のやうに短絡的であつて、筋が通らない」などと、法治國の國民にあるまじき「短絡的」な戯言を口走り、それを新潮は頗る好意的に紹介してゐる。本欄に執筆して五年、私は今囘ほど新潮を輕蔑した事が無い。「有罪の判決が有るまでは無罪」なのではない。元首相であれ殺人鬼であれ、有罪と決るまでは無罪の扱ひをするのが法治國なのである。新潮には何か石川氏を持上げねばならぬ事情があつたに相違無い。さう考へねば理解できぬほどの、これは淺薄なる法意識である。 
57 文春の自戒を望む
或る男が佐久間象山に、大金持になるにはどうしたらよいかと問うた。すると象山は、片足を持上げて小便をしろと答へた。「え、それではまるで犬ではありませんか」。「さやう、犬になるのです。さもなければ大金持なんぞに決してなれませぬ」。江戸時代も今も、富豪になるには犬の眞似をせねばならぬ。當節、街頭に犬を見掛ける事すこぶる稀だが、なに、週刊文春の眞似をすればよいのである。前々囘、私は週刊文春を批判して「瘠我慢」の大事を説いたが、それは言ひ甲斐無き事だつたと思ふ。文春は金儲けのためには手段を選ばぬ事に決めたやうであり、それゆゑ文春の部數は今後急速に伸びるであらう。大金持になるために週刊文春を見習はねばならぬゆゑんである。
さて、假に私が雜誌甲の週刊誌評のコラムを担當してゐて、以上のやうに文春を批判しておいて、その次囘に「前囘の文春批判は私が書いたものではなく、印刷會杜の手違ひで他の雜誌乙に週刊誌評を連載してゐる丙氏の文章がまぎれ込んでしまひました。丙さん、ごめんなさい」と書いたら一體どういふ事になるか。無論、甲誌も印刷會杜も、丙氏も烈火の如く怒るであらう。そして、さらに性懲りも無く二週間後、印刷會社の手違ひ云々は冗談だつたが「本氣で信じた人がゐました。印刷會社サマごめんなさい」と書いたら、丙氏も印刷會社も甲誌も乙誌も、確實に私を狂人と見做すに違ひ無い。が、週刊文春の村田耕二編集長は、さういふ途方も無い惡ふざけをやらかした。すなはち八月六日號の「オソソなしの添ひ寢をしてみたい」と題する「ハンソン對談」について、印刷會社の手違ひのために週刊ポストの記事が「まぎれ込んでしまひました。關根進編集長、ごめんなさい」と書き、さらに八月十三日號の編集後記に、印刷會杜の手違ひのため云々と「冗談を書いたら、本氣で信じた人がゐました。凸版印刷サマごめんなさい」と書いたのである。週刊ポストも凸版印刷も、村田氏の非常識に呆れ返つたに相違無い。他人に迷惑を及ぼす惡ふざけは「いい加減にしてもらひたい」と思ふ。
もはや紙數が無いが、個人も國家も、まじめになるべき時にはまじめにならねばならぬ。金儲けの才に惠まれ、道化て世を渡るのは樂しからう。が、日本國は今後もこれまでの傳でやつてゆけようか。いや、世渡り上手の手から水が漏る時がきつと來るであらう。私は漱石の「坊ちやん」よろしく「正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか」などと言ひはせぬ。が、個人も國家も正義感ゆゑに損得を無視して行動する事がある。そして「正直」が常に負ける譯ではない。村田編集長にしても、それを思ひ知つた事がある筈である。私は村田氏の才能を認めるが、「才子才に倒る」といふ事がある。文春の自戒を望む。 
58 恐るべきは歿道徳
或る男が新妻に自分の日記を讀ませる事にした。結婚前に犯したわが罪を愛する妻に告白しておかねばならぬと、さう考へての事であつたと書けば、讀者はそれを立派な振舞だと思ふかも知れぬ。が、夫の日記を讀んで妻は悲しみ、夫のはうは良心の呵責を免れていとも安らかな氣分となる。トルストイの『アンナ・カレーニナ』に出てゐる話だが、この夫にとつて「何より肝心なのは自分に罪が無いと感じる」事であつた。つまり、新妻に日記を讀ませたのも利己的な行爲だつたのである。トルストイは「或る型のエゴイズムを他の型のエゴイズムに替へたに過ぎない」とオーウェルは言つてゐるが、それはトルストイ自身も氣づいてゐた事で、善行を施すといふ美しい行爲も所詮は自己愛でしかありえぬ事に、彼は一生苦しんだのである。
ところで、週刊新潮九月二十四日號によれば、松山善三監督はサリドマイド児を描いた映畫を拵へたが、それを見た無着成恭氏は「足であんなに上手に字を書けるなんて、人間といふのはどこまで素晴らしいものか」と思つたといふ。けれども古山高麗雄氏は、「正義の理窟をつけて、見せないでいいものを見せて商賣にしてゐる」のだらうが、「自分は幸せな状態にゐて不幸せな人を論じてゐるのは、どんなものか」と言ひ、私立大助教授某氏は「彼女が足で口紅を塗るシーンがあつた。(中略)このときほど、殘酷さを感じたことはなかつた」と言ひ、國立大助教授某氏は「あの映畫監督は(中略)ヒューマニストのやうな顔をした最低の男ぢやないのか」と言つたといふ。
私は映畫を見てゐないが、新潮の記事から判斷する限り、無着氏は頗るおめでたいと思ふ。モデルになつた少女は「はつきりいつて見せ物です。もはや、興味本位でもいいから見てほしい」と言つてをり、身障者にかう言はれたら五體滿足の吾々は默するしかない。だが、「人間とはどこまで素晴らしいものか」などと、よい年をして何とおめでたい事を言ふ男か。無着氏はトルストイの爪の垢を煎じて飲むべきである。
けれども、松山監督のいかがはしさを嗅ぎつけた新潮も、松山氏の恐るべき道徳的不感症を見逃してゐる。松山氏は言ふ、「僕は昔から偽善者だと人からいはれてますし、自分でもさう思つてます」。この不道徳ならぬ恐るべき歿道徳を、偽惡的な新潮が見逃したのは興味深いが、それはともかく「偽善者だと人からいはれて」平然としてゐられるのは、まさに道徳的宦官である。
偽善者と言はれまいとし、また言はれて立腹する限り、人間は善との繋がりを失はずにゐられるのだ。松山氏にはトルストイの爪の垢も無用であり、それに較べれば無着氏のおつちよこちよいのはうが、遙かに人間的だとさへ私は思ふ。 
59 平凡は今や非凡か
奇縁あつて中學生の私の娘が本間長世氏の令嬢と知り合ひ、娘あての令嬢の手紙を偶々私が讀むといふ結果になつた。きれいな字で、いかにも利發な中學生らしい事が書いてあつた。同じ日に、私は週刊讀賣が連載してゐる畑正憲氏の「娘よ」と題する文章を讀んだ。「通信の秘密は、これを侵してはならない」のだから、本間氏の令嬢の文章を引く事はできないが、畑氏の駄文は利發な中學生の文章に及ばない。畑氏は書いてゐる、「結婚式までお互にキレイでゐようね、などと言つて、不思議な盛大さで浪費のパーティーを開くよりも、男の家に強引に住んでしまふ生き方の方が、どれだけ美しいか分りはしない」。紙幅の制約ゆゑに、畑氏の駄文のあら捜しはやらないが、私はこの種の物解りのよさを賣り物にする大人を蛇蝎のやうに嫌ふのである。
私は自分の娘が「結婚式までキレイで」ゐて欲しいと願つてゐる。本間氏も同じだらうと思ふ。本間氏と面識は無いが、令嬢の文章からそれは察せられる。
「平凡な事は非凡な事よりも遙かに非凡だ」とG・K・チェスタトンは言つてゐるが、本間家は平凡な家庭なのであらう。結婚式をあげる前に、娘が「男の家に強引に住んでしまふ」やうな事を決して望まない家庭なのであらう。畑氏の令嬢とも無論面識は無いが、これほど物解りのよい父親に育てられながら、令嬢がなほ「男の家に強引に住」まずにゐるのは、瓜の蔓に茄子がなつたといふ事なのか。
一方、朝日ジャーナル十月九日號の投稿欄に、大阪府の高校教員の「私が鈍歩した六〇年代」と題する文章が載つてゐる。一九六〇年、京都の大學で「安保はいかんのだといふ理論的認識で行動」した彼も、今や四十歳、仲間と「教育論をたたかはせる」事も無い。が、「先日、ソクラテスの授業で、紀元前五世紀とは日本で何時代か」と問ふと、「江戸時代」と答へた生徒がゐたといふ。だが、「六五年に、デモシカ教師になつた」といふこの「しらけ」切つた高校教員に、生徒の無知を嗤ふ資格は無い。ソクラテスは「知は果して徳なりや」といふ事を一心不亂に考へた。しかるに、「デモシカ教師」を自認するやうな手合もソクラテスを論ずるのである。笑止千萬である。
「死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」。齋藤茂吉の歌である。これは平凡な歌であらうか。が、週刊新潮十月八日號によれば、或る女子大生の裸モデルは、親に「叱られて、勘當されたら、親と縁を切つてしまふ」と言つたといふ。そんな事を娘が言ふのは、親がまじめに生きてゐない證拠だと、わが娘の將來に自信があつての事ではないが、私は思ふ。結婚式まで娘が「キレイ」であつて欲しいとの父親の平凡な願ひは、今や非凡な事なのであらうか。 
60 理に義理を立てよ
「設使我れは道理を以て云ふに、人はひがみて僻事を云ふを、理を攻めて云ひ勝つはあしきなり」。『正法眼藏随聞記』の一節である。本欄に執筆して五年有半、私は「理を攻めて云ひ勝」たうと、躍起になり過ぎたかと思ふ。十月二十一日付サンケイ新聞に辻村明氏は、大方の新聞が載せてゐる「新聞批判」は「新聞社が許容しうる範囲のものでしかない」と書いてゐたが、道元の忠告を尻に聞かせ、見境無しに「理を攻めて云ひ勝」たうとする私は、サンケイ新聞杜の「許容しうる範囲」を殆ど氣に懸けた事が無い。それゆゑ、サンケイにはずゐぶん迷惑をかけたに相違無い。讀者は興がつてをればよいが、サンケイはさうはゆかぬ。しかるに、誰それの批判は「サンケイ新聞社が許容しうる範囲」外だと、私はつひぞ一度も言はれた事が無い。担當の野田衞氏とは口爭ひをやつた事がある。けれども逆に野田氏が私を嗾けた事もある。とまれ「知る權利、守る新聞、支へる讀者」といふのが今年の新聞週間の標語だが、讀者の「知る權利」を守るのがいかに大變か、それは「支へる讀者」には解らぬ事ではないか。それゆゑ、久し振りにサンケイを褒める事にするが、辻村氏の言ふ「新聞社による言論統制」をやらうとしないのは、サンケイの痩我慢なのである。無論、「痩我慢」とは褒め言葉であつて、吾々は聖人君子ではないのだから、「言論統制」をやつて氣に食はぬ奴の口をふさぎ、整然たる「一億一心」の國家を拵へたいとの野蛮な欲求は、誰の心中にも潜んでゐる。
ところで、園田外相に「アラファト招待を持ちかけ」た木村俊夫氏を激しく批判して村松剛氏は、「はつきりした理論を持つてやつてゐることなら、黨籍を移してほしい」と言つてゐる(週刊新潮十月二十二日號)。全く同感だが、「理論を持つてやつてゐる」政治家が今の日本にどれくらゐゐるだらうか。例へば改憲は自民黨の綱領だが、自民黨の總裁が「黨籍を移」さずして「平和憲法護持」を言ひ、世人もそれを怪しまない。「理論」だの「道理」だのに義理立てする痩我慢は、もはや當世風ではないのである。
週刊新潮は屡々さういふ當世風に反逆する。それゆゑ私は新潮を高く買ふ。十月二十二日號は「素つ裸」の池田大作氏と渡部通子議員が二人だけでゐる現場を目撃したといふ女性の證言を紹介し、「が、なぜか大新聞は一行も書かない」と書いてゐる。新聞が書かぬ事を書くのは勇氣があるからで、新潮はかつてノーベル賞の權威を疑つた事がある。が、今囘、井上靖氏のために新潮は四頁を割いた。新潮にはせいぜい痩我慢をして貰ひたい。そして理が非になりがちの當世、「我は現に道理と思へども、吾が非にこそと云ひてはやくまけてのく」、さういふ事だけは決してせぬやうに願ひたい。 
 

 

61 今や年貢の納め時
週刊新潮十月二十九日號によれば、都内のホテルで開かれた外交予算説明懇談會で、自民黨の秦野章氏は、園田外相の服裝について「あれはいかんよ、成金趣味ぢやないか」と言つたといふ。なるほどポローニアスのせりふではないが「華美は禁物、たいてい着るもので人柄がわかる」のである。そして「一國の外相がその國の顔」ならば、成金國家の外相が「赤いルビーの指輪をしたり、ダイヤのネクタイピンを光らせたり、金のブレスレットをちやらちやらさせ」たりするのは一向に怪しむに足りない。ただし、奥野法相が「金のブレスレットをちやらちやらさせ」て改憲を訴へたり「人の道」を説いたりする、さういふ圖はちと想像し難いから、日本國の「關節がはづれてしまつた」譯ではあるまい。奥野發言については次囘に書くが、園田夫人の話では外相の指輪は「ルビーではなくてサンゴだ」といふ。指輪もブレスレットもネクタイピンも「みんないただき物」なのだといふ。さういふつまらぬ些事の報告に新潮は四ぺージの大半を割いてゐるのだが、「フルコースの晝食をとりながら、外務省側から來年度の予算説明などが行はれ」たといふその會合で、中尾榮一氏は「今の外交はなつてゐない。だいない、あの(外相の)マニラ發言は何だ」と言つたさうである。全く同感だが、秦野氏にせよ中尾氏にせよ、園田外交には腹を据ゑかねてゐるのであらう。外相の服裝よりもむしろその人格と識見を新潮は論ふべきではなかつたか。
一方、このところアメリカの日本に對する不滿は、「對日貿易赤字増の問題ともからんで一氣に噴出しさうな形勢」である。十一月三日の朝日新聞社説は「これからは日米交流の場に、ハト派ももつと登場」すべきであり、「米國が日本の意見の多樣性をよく認識した上で對日對策を立てる」べきだなどと、頗る悠長な事を書いてゐるが、その種の甘えはもはや許されまい。日本が今後もなほ「モラトリアム國家」として繁榮を享受できると考へるのは「あまりにも蟲がよすぎる」と、十一月一日付サンケイ新聞に北詰洋一氏が書いてゐる。その通りであつて、日本はたうとう年貢の納め時を迎へたのである。
しかるに週刊ポスト一月六日號では、野坂昭如、筑紫哲也兩氏が「世界核競爭下における日本人のあり方」とやらを論じてをり、筑紫氏は「武器を持つのは世界の常識だといふが、世界の常識が間違つてゐるのだから、それに付き合ふ必要はない」と言つてゐる。つまり軍備増強をやめようとせぬ國々は非常識だと、筑紫氏は言ひたいのであらう。が、四方八方、馬鹿に取り囲まれてゐる時は、馬鹿になるのが知惠ではないか。さもないと、いづれ四方の馬鹿の袋叩きに遭ひ、大損したのは利口馬鹿の日本だつたと、さういふ事になりかねないと思ふ。 
62 馬鹿騒ぎはやめよ
榎本三惠子さんは去る四日記者會見をやつた。「女王蜂」が到着する前、「文藝春秋が(中略)湯河原でクワンヅメにして手記を書かせてゐる」との情報が流れた。
サンデー毎日十一月二十二日號によれば、それを知つて他社の記者二人はかう語つたといふ。「エーッ、『週刊文春』はあした發賣だよ」「さう、獨占手記掲載の發賣前夜祭なわけよ」「やつてらんないね、全く」。
その日の記者會見は「長島引退、百惠婚約以來のバカ騒ぎ」(週刊ポスト)だつたさうだが、それが結局文春を利するだけで、馬鹿らしくて「やつてらんない」と思つたのなら、さつさと席を蹴つたらよい。が、そんな事、今時の記者連にやれる筈は無い。
かくて彼等は女王蜂に手玉にとられ、勤め人も主婦も「大騒ぎで」、週刊文春を「買ひに走つ」たのである。
女王蜂の手記を讀んで「久しぶりに心からの感動をおぼえました。母は、強い」と、文春の村田耕二編集長は書いてゐる。これは商策ゆゑの眞つ赤な嘘であらうか。花々しき「花火」を打上げ「大變な反響を呼」んだため、「心からの感動」云々と心にもない事を書いたのか。それとも、編集長もまた女王蜂に飜弄されたのか。
いづれにせよ、今囘の「バカ騒ぎ」くらゐ、日本人の道義心の麻痺を如實に示す例は少ないと思ふ。
文春に「抜かれた」悔しさゆゑか、他の週刊誌は女王蜂のいかがはしい過去をしきりに洗ひ立ててゐる。例へば週刊朝日十一月十三日號によれば、榎本敏夫氏は三惠子さんと別れて後も、子供の「授業參觀、運動會などに必ず姿をみせ」たが、女王蜂のはうは日頃「おばあちやんに子どもを預けて外に出囘つてゐた」といふ。だが、さういふ瑣末な證言を集めるまでもない。矛盾だらけの「手記」を通讀すれば、女王蜂の品性の下劣は掌をさすがごとし、とてもとても「母は、強い」などと評せるやうな代物ではないと知れるのである。
けれども、ここで女王蜂の手記の矛盾を論ふ事はすまい。私はむしろ「奥野なんていふ法務大臣は最低だよ。ルール・オブ・ローを無視してゐる。こんな法務大臣は、實にけしからん」などといふ放言の愚かしさ(藤原弘達氏、週刊現代十一月十九日號)に呆れてゐる。しかるに、藤原氏の愚味や女王蜂の品性のいかがはしさについて、讀者を納得させるだけの紙數は無い。
それゆゑ、今囘は理由をあげずして批判するしかないが、吾々は日本人なのである。日本人としての「人の道」を重んじなければならぬのである。奥野法相は「人の道」を説いて顰蹙を買つたが、まこと奇怪千萬であり、檢事も人間なのだから「人の道」にはづれる事はある。
それを法務大臣が批判して何が惡いか。言ふだけ無駄と承知してゐるが、奥野法相は留任すべきである。 
63 投書作戰に屈するな
前囘、榎本三惠子さんの「品性の下劣は掌をさすがごとし」と書いたところ、數名の讀者から抗議の手紙を貰つた。その類の手紙を私は通常默殺する事にしてゐるが、尼崎市の某氏からのそれには、松原は「田中角榮や小佐野から(中略)金を貰つてゐるのぢやないか」とか、「角榮や小佐野の肩をもつ」のは「下劣です。早大教授などと大きな顔をするた」とあつた。これは少々窘めておかうと思ふ。私は田中、小佐野兩氏と面識が無い。そして、一面識も無い男に金をくれてやるといふ、そんな無駄をする人物が資産家になんぞなれる譯が無い。從つて、私は田中、小佐野兩氏から金を貰つた事は無い。私はただ、田中角榮氏の有罪が決定した譯でもないのに、世人が田中氏を指彈して興ずるのを苦々しく思つてゐる。法治國にあるまじき事と考へるからである。紙幅の制約あつて詳しい説明はできないから、尼崎の某氏には拙著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)を讀んで貰ひたい。私が「灰色高官」に金を貰つて理を曲げるやうな男かどうか、拙著を讀んで判斷して貰ひたい。そして「早大教授などと大きな顔をするな」などと書く非禮を恥ぢ、それこそまさにおのが「品性下劣」の證であると知つて貰ひたい。
ところで、週刊新潮十一月二十六日號は、創價「學會の“無言の力”の前に新聞は屈してゐる」が、それは「學會五百萬世帯の見えざる不買運動の恐怖におびえ」てゐるからではないかと書いてゐる。山崎正友元顧問辯語士の話では、學會を「批判するヤツ」に對しては、「その人個人の私行上のことなど徹底的に調べ(中略)學會にタテ突くやうなマスコミには(中略)猛烈な投書作戰を展開する」といふ。それも「ミカン箱に二、三箱分は送る」さうであり、本當の事なら卑劣極まる。いかに非禮ではあつても、個人の抗議なら默殺する事ができる。が、集團による「投書作戰」には誰しも音をあげよう。それにまた、唯々諾々と組織に從ふ白痴的忠節は不氣味である。週刊文春十二月三日號の卷頭には大石寺正本堂に「鎮座する“裸の池田大作”像」のカラー写眞が載つてゐる。「何ともはや氣色が惡い」と書けば、サンケイ新聞社に「ミカン箱に二、三箱分」の抗議の投書が配達される事になるのか。
けれども、創價學會に對する新聞の弱腰も頗る奇怪である。かつて週刊朝日は「わざわざ中南米まで出張」して池田氏とのインタビューをやつたが、「お粗末きはまる」内容であつたし、サンデー毎日が五囘にわたつて載せた秋谷榮之助會長とのインタビューも「フンパンもの」で、さういふ迎合的な記事を書くから、學會との「癒着」を疑はれるのである。「“ハチの三惠子”には熱狂する新聞」が、なぜ「池田スキャンダル」裁判には沈默するのか。新潮の言ふやうに、沈默は「癒着」の證なのであらうか。 
64 賄賂の横行について
藝大教授の海野義雄氏が収賄容疑で逮捕された。週刊現代一月二日號によれば、十二月九日午後五時すぎ、藝大の對策委員會が終了した際、「明りが消され(中略)數人の教官が走り出た」が、忽ち「ライトをつけろッ、すみずみまで調べろッ」との「テレビ局員の怒號が亂れ飛」んだといふ。わが敬愛する申相楚氏の口癖を眞似て言へば、「馬鹿みたいな奴らだな」といふ事になる。現代は藝大の教官の振舞について「隠れ家に踏み込まれたコソ泥みたいで、藝術家の誇りも、權威もあつたものではない(中略)情けない風景」だつたと書いてゐるのだが、付和雷同するのが凡人の常だから、その場に居合せた週刊誌お抱へのトップ屋も、きつと怒號を發したであらう。では、現代に借問する、「教官が走り出た」のは「情けない風景」で、「怒號が亂れ飛ぶ」のは頬笑ましい風景なのか。現代によれば「音樂人のすぐれてゐるのは金錢感覺と男女のことだけ、あとは何も知らない音バカ」、いはば「ハンパ者の集團」だと、「ある音樂關係者」は「解説してくれた」さうだが、それは俗惡週刊誌の事ではないか。「色の道だけに長けてゐて、そのくせ(中略)初歩的モラル感覺はしびれつ放し」とは週刊現代の事ではないのか。同日號の現代は「助平でなけりや男ぢやないよ」と題する記事を載せ、「藝は身を助く−それ以前に、噺家にとつては、女は藝を助く、といふべきだらう」と書いてゐる。「一九八二年女性たちのSEX行動」とやらを「フロンティア精神」などと呼ぶおのが「品性下劣」は棚上げして、音樂家の「モラル感覺」を居丈高に問ふ、何ともはや片腹痛い。
だが、さういふ笑止千萬は、無論、週刊現代に限つた事ではない。女の裸で稼ぐ週刊ポストも、「SEXがらみの子弟關係も噂されたり−學問、藝術の權力化は“自殺行爲”だ」と書いてゐる。ポストに借問する。週刊誌や新聞の「權力化」はどうなのか。おのれを棚上げして政治家や音樂家の収賄や「黒い商法」を批判するのは「權力」あればこそだが、さういふ權力を週刊ポストは、いつ、誰から授けられたのか。ポストはたいそう賣れてゐるといふ。だが、賣れてゐるのは衆愚に受けるからで、そんな事、自慢になぞなりはしない。
その證拠に山本夏彦氏の著書は斷じて數十萬部も賣れはしない。他人の惡徳を指彈しておのれがそれだけ有徳になれる筈は無いのだが、嫉妬を義憤と思ひ做す淺薄な手合には、さういふ事が決して解らぬ。しかるに山本氏は「公然たる賄賂の横行を、私は難じない。むしろ、これを大聲で難じる人を見るといやな氣がする」と書いた(『編集兼發行人』、ダイヤモンド社)。誰それは田中角榮氏から賄賂を貰つたに違ひ無いといきり立つ淺はかな手合に、喜ばれる筈が無いではないか。 
65 今なぜ田中角榮か
週刊朝日一月十五日號によれば、東京・目白臺の田中邸には年賀状が七千枚も配達され、「初詣で」客は四百人にも達し、「元首相はオールドパーの水割を片手に、あちこち行つたりきたりで席の温まるひまもなし」「まはりをハラハラさせ」るほどの「ハシヤギぶりだつた」といふ。刑事被告人がさまで持て榮やされるとは遺憾千萬だと、朝日は書いてゐる譯ではない。「この日、目白御殿への詣で人約四百人。報道野次馬二十數人。おつかれさまでした」といつたふうに書いてゐるに過ぎない。だが、この自嘲氣味の「客觀的報道」の動機を私は怪しむのである。かつて田中角榮氏が首相になつた時、新聞や週刊誌は田中氏を「今太閤」だの「コンピューター付ブルドーザー」だのと持上げたが、やがて田中氏が逮捕されるや、その道義的責任とやらを論ひ、心行くばかり筆誅を加へたのである。そして今、週刊朝日は「水割片手にはしやぐ“闇將軍”」を難詰せず、當て付けがましい事さへ言はうとしない。これは一體どうした事か。
朝日だけではない。週刊讀賣新年特大號は「ヒカゲの身だけど田中なら(北方領土問題の解決を)案外やつてのけられるかもしれない」との木村汎教授の意見を引き、「萬一、田中元總理の個人的手腕で北方四島返還でもならうものなら、“國民的英雄”になつてしまふ。その時いつたい誰が田中元總理を裁けるだらうか」と書いてゐるし、週刊ポスト迎春特大號も田中氏と「氣鋭の政治學者・小室直樹氏」との對談を載せ、「行政改革、日米問題、貿易摩擦問題と、“日本丸”の前途は多難である。(中略)自民黨最大の百八人を率ゐる派閥の領袖は、正念場に立たされたいま何を考へてゐるのか」と書いてゐる。讀賣の言分の浮薄、及び小室直樹氏の思考の粗雜について云々する紙數は無いが、朝日も讀賣もポストも、「ヒカゲの身だけど」年賀状が七千枚も配達され、「初詣で」の客は四百人にも達する「自民黨最大の派閥の領袖」を、なにせ「“日本丸”の前途は多難」なのだから、この際「國民的英雄」として祭上げたはうがよいと、さう考へてゐるのであらうか。 さらにまた、週刊現代一月十六日號も、小佐野賢治氏について「腹心、實弟の相つぐ死。そして本人にはまさかと思はれた實刑判決。(中略)トリプル・パンチをくらつた巨人が、しかし、再び立ち上がる」と書いてゐるのである。大方の週刊誌と異り、私はこれまで田中、小佐野兩氏を批判した事が無い。それどころか田中氏を辯語して顰蹙を買つた事さへある。その私が今、週刊誌の田中氏に對する好意的た扱ひに呆氣にとられてゐる。これはたわいもない一時の氣紛れなのか。それとも何ぞ下心あつての事なのか。 
66 人、木石ならず
昨年十月、週刊文春は「二十歳前後かと見えるウラ若き女性が、あられもないポーズで艶然とホホ笑む全裸ヌード写眞」を載せた事がある。撮影したのは入江相政侍從長の長男爲年氏、撮影されたのは「かつて爲年氏の愛人であり、一児までまうけた間柄」の岸優子(假名)であり、それを知つて優子さんの夫は「私は優子と結婚し、入江さんが認知した子供も今度自分の籍に入れて、後始末のサウヂ屋を自任しとるんですが、かうなると・・・」と言つて絶句したといふ。文春は入江爲年氏の行爲について「非紳士的の一語に尽きる。男の風上にも置けぬとの噂も・・・」と書いたのだが、文春の記事を讀んで私が考へたのは、入江氏を批判する資格が果して文春にあるかといふ事であつた。問題の写眞は或る男が文春編集部に持込んだものだが、「入江侍從長の長男のスキャンダル、これは面白い」とて飛びついた文春は、それを記事にする事の非人間性に氣づかなかつた。優子さんには夫があり子供があり、子供は「現在高校生」だといふ。高校生の子供が文春に載つた母親の全裸写眞を見たら、どう思ふか。「後始末のサウヂ屋を自任」する夫は絶句したが、子供の場合、絶句するぐらゐの事では濟むまい。母親の裸體写眞を見たがる子供なんぞ斷じてゐないのである。
私は入江爲年氏を辯語してゐるのではない。有名人の長男のスキャンダルをあばく際、匿名にもせよ罪科も無い者を卷き添へにする、その非情を氣にするだけの人間らしさが文春に欠けてゐる事を問題にしてゐるのである。文春に限らず、そもそも有名人を道義的に批判する資格を、マスコミはいつ誰から授けられたのか。「眞に道徳的なのは自己批判である」とトマス・マンは言つた。だが、他人の惡行を難じて「社會の木鐸」を氣取るマスコミは、決して眞摯な自己批判をやらぬ。そしておのが心中を覗く事が無いから、非人間的に振舞つて遂にそれを自覺しない。「人、木石ならず」といふ事を理解しない。
けれども、さうして非人間的に振舞ふジャーナリストが、或る種の人間に易々と乘せられてしまふのは興味深い。先に文春は榎本三惠子さんを大いに持上げたが、彼女は急速に馬脚を露したし、今週號は「越山會の女王」佐藤昭子女史の令嬢とのインタビューを載せてゐるが、令嬢がインタビューに應じた動機のうさん臭さに文春は勘づいてゐない。「敦子さんは、ときに怒り、素直に笑ひ、あるいは眼に涙をたたへ、つとめて正直に」などといふ文章を讀まされると、さう斷ぜざるをえたくなる。が、週刊宝石一月三十日號によれば、「實は彼女自身が(文春に)タレコンだ。」との證言もあるといふ。なるほど敦子さんとのインタビューを讀めば、支離滅裂な言分の裏に打算が透けて見える。それが見えぬほど文春は無邪氣なのか。 
67 後の世をこそ恐るべし
野坂昭如氏は愛矯のある文士である。羞恥心が有るやうにも無いやうにも見え、頭が良いやうにも惡いやうにも見える。八方破れではあるが、邪氣はまるで無い。それゆゑ、だだつ子のやうに憎めない。週刊ポストニ月五日號によれば、このたび野坂氏は「“軍擴元年”に宣戰布告」したさうで、「幻の“大東亞共榮圈構想”を斬」り、「日本の場合には、何も守るべきものがないから困つちやふ」と、ポストの記者に言つたといふ。だが、野坂氏はまた、守るべきは「ぼくたちの生命、財産、四季の移り變はり、あるいは、好きな人間とか友だち」など「個人レベルのもの」であり、さういふものを守るためなら「GNP一%にこだはらず、三・五%だらうが十%だらうが、支出して當然だ」だとも言つてゐるのである。週刊ポストの頭の惡さと野坂氏のそれとが二重写しになつてゐて、野坂氏の言分は不得要領だが、いづれ「個人レベルのもの」が危ふくなれば、野坂氏は「われ愛する人のために戰はん」とて、「二十%だらうが三十%だらうが、支出して當然だ」と主張するやうになるに違ひ無い。
それゆゑ、かういふ陽性の文士ははふつておけばよい。厄介なのは陰性の偽善的文士である。週刊文春二月四日號によれば、中央公論社の安原顕氏が大江健三郎氏の「作品をケナした」ところ、大江氏は「怒つて嶋中社長に電話をかけ」、「もう中公の仕事はしない」と言つたといふ。柳田邦夫氏は大江氏について「心のトゲだとか“内たるオキナハ”だとか、よく言ふよと私は心の中で舌打ちする」と『現代の眼』一月號に書いた。同感である。「内なるオキナハ」だの「内たる金大中」だのと、反吐の出さうになる美辭麗句を、これまで大江氏はしこたま連ねて來たが、大江氏の言行不一致については私も色々と聞いてゐる。大江氏に警告する、昔と異り今は記録の殘りやすい時代なのである。テープ・レコーダーがあり、電話盗聽器もある。深夜、一人きりになつて胸に聞け、などと古めかしい忠告はせぬが、編集者の誰かが大江氏の言行不一致を苦々しく思ひ、それを日記に書き殘してゐるかも知れぬ。後世に殘るのは大江氏の作品だけではないのである。
だが、當節の文士は刹那的で、後の世の事なんぞ考へぬ。先日の文學者による「反核アピール」を讀んで私は呆れた。あの偽善は許せぬとか、反米運動に利用されるとかいふ大形な批判には及ばない。あの文章は惡文である。では、惡文と知りつつ三百三人は署名したのか。さうではない。「モラトリアム國家」の文士もまた「後世、恐るべし」といふ事を考へないのである。だが、惡文のアピールに同意したといふ事實は殘る。一月二十八日付の『世界日報』は三百三人の氏名を公表した。それを國會圖書館は保存するのである。 
68 誰一人反省しない
ホテル・ニュージャパンが燃え、日航機が墜落し、新聞も週刊誌も色めいた。ちと騒ぎ過ぎであり、もつと重大な問題があるではないかと評する向きもあるやうだが、F4ファントムの爆撃裝置改修問題をめぐる代議士諸公のやりとりなんぞ所詮猿芝居だから、世人はやはりホテルの社長横井英樹氏や片桐機長の異樣な言動のはうに關心を寄せたに相違無い。それゆゑ週刊誌が熱心に二つの事件について報じたのは無理ならぬ事である。だが、グラビアも記事も似たり寄つたりで、まともに論評する氣にはとてもなれない。週刊現代二月二十八日號は、ホテルに泊る際の心得として、懐中電灯を持ち歩けとの池田彌三郎氏及び三浦布美子さんの忠告を紹介してゐるが、現代の記事を讀んで、懐中電灯持參でホテルに泊るやうになる者はまづゐまい。「俺に限つて大丈夫だ」と人は皆思ふものなのだ。 とまれ、何か大事件が起ると週刊誌は識者の意見を徴するが、あまりにも愚劣な意見は思ひ切りよく捨ててはどうか。例へば東外大教授の安倍北夫氏は、エレベーターを利用せず「日ごろ、自分の足で登つてゐれば、少なくとも高いところから飛び降りる自殺行爲はやれなくなる」と週刊現代の記者に語つてゐる。ふざけるな、と言ひたい。煙と炎に追ひ詰められ、どう仕樣も無いから飛び降りるのである。安倍氏は杜會心理學が專門らしいが、自他の心理が理解できずとも心理學の專門家として通用するとは奇怪千萬である。それに、避けやうのない不運といふものは確かにある。それを誰しも承知してゐるから、たとへ「懐中電灯を持ち歩」かうと決心したところで、その決心は三日と持たない。この種の事故が起ると、マスコミは必ず「人災」として責任を追及するが、それもやはり三週間とは持たない。それゆゑ、マスコミに吊上げられたら、「當分の間、恭順の意を示す」に如くはない。
週刊文春二月十八日號に、東京藝大の野田暉氏は手記を寄せ、「藝大は新聞に魂を賣つた」とて、おのが屬する學部教授會についての不滿をぶちまけてゐる。野田氏によれば、藝大教授の大半は「新聞がこれだけ騒ぎ、藝大に火の粉がふりかかつてゐる以上、ともかく自分の頭を叩いてみせて謝る以外にない」と考へ、「當分の間、學外の個人レッスンを中止する」事にしたのださうである。賢明なる判斷である。人の噂も七十五日、「當分の間」とは要するに七十五日間といふ事であらう。つまり、藝大の教官たちも「學外の個人レッスンを中止する」事は問題だと知りながら、マスコミが叩くから「當分の間」謹慎しようと考へてゐるに過ぎず、「社會の木鐸」が本氣でない事は承知の上なのである。とすれば、マスコミがいかほど指彈しようと、誰も本氣で反省しない、さういふ事にならないか。 
69 何のための記事か
週刊誌を讀んでゐて、これは一體何のための記事かと首を捻る事がある。例へば週刊文春二月十八日號は、黒川紀章氏と若尾文子とは、不倫などといふ「ジメジメした言葉がカホを赤らめるくらゐ大つぴらにやつてくれてゐる」けれども、黒川氏が設計したショッピング・センターは頗る不評だと書いた。
「なにせ世界的才能と天下の美女だから目立つて仕方ないのだが、本人たちは臆する風もない。ま、結構なことではあるが」云々と書いてゐるのだから、文春は二人の不倫を咎めてゐるのではない。また、黒川氏の設計のずさんに立腹してゐる譯でもない。これを要するに、愚にもつかない噂話であつて、何のための記事やら、さつぱり解らぬのである。 一方、音樂評論家の吉田秀和氏は「熱心な相撲ファン」だが、「北の湖が二十三囘目の優勝をとげた初場所から(中略)テレビによる觀戰もやめてしまつた」といふ。そして吉田氏は週刊朝日二月五日號に「愛すればこそ、私は相撲と訣別した」と題する文章を寄せ、自分が相撲と訣別したのは、角界に横行する八百長について週刊ポストが「延々何十週間にわたり、告發を續け警鐘を鳴らしてきたのに、相撲界はただ沈默」を守るばかりだからだと書いた。
だが、吉田氏の文章を讀んで、私はどうにも腑に落ちなかつた。「私個人は、もう、かつての狂熱には戻れまい。私は傷つきすぎた。さよなら、相撲よ。私は君が大好きだつた。さよなら、わが痴愚の日々よ」と吉田氏は書いてゐるのだが、大相撲の八百長はいまだ立證されてはゐないのであり、それなら、疑はしいといふ程度で「傷つきすぎ」、易々と「さよなら」できるのなら、吉田氏の「相撲への愛着」の強さを私は疑はざるをえない。
土臺、「愛すればこそ訣別する」などとは嘘である。そして誰かを眞實愛して、やがて「バカにされ、コケにされてゐる自分に氣がつくやうに」なつたとしても、「さらば、わが痴愚の日々よ」とて愛想尽かしの文章を綴るのは愚かしい事だと思ふ。
要するに、吉田氏が週刊朝日に文章を寄せた動機を私は怪しむのだが、三月五日號の週刊朝日はホキ・徳田に宛てたヘンリー・ミラーのラブレターを紹介してゐる。愚にもつかぬ文面の戀文ばかりで、したたかな色事師も「老いては駑馬に劣る」といふ事であらう。だが、朝日はそれを連載するといふ。これまた一體何のためなのか。
「いまロスに在住」のホキ・徳田は「三百通もの戀文を公開」するのだといふ。男から貰つた戀文を公開するやうな女はろくでなしに決つてゐる。「賣りに出してもいいといふ許可を」ミラーが与へたとすれば、アメリカの出版社が食指を動かすやうな書簡でない事を、ミラー自身、承知してゐたからではあるまいか。 
70 高木は風に折らる
「日米關係は日を追つて惡化し、日歐關係も險惡にたつて」ゐるが、日本には「自分にとつて都合の惡い情報は、存在しないことにするといふ奇妙奇天烈な心理」がある、嘆かはしい事であると、週刊現代三月二十七日號に江藤淳氏が書いてゐる。同感である。
週刊ポスト三月二十六日號が報じてゐるやうに、アメリカは今や「日本による經濟植民地主義の支配下にある」などといふ物騒な發言がアメリカの上院の公聽會でなされたといふ事實を、「日本に對する嫉妬ゆゑの理不尽な嫌がらせ」に過ぎぬとて輕視する譯にはとてもゆかない。
しかるに、週刊朝日三月十九日號は、「米國側の姿勢で一貫してゐるのは、今秋に控へた中間選擧に向けての政治家の人氣取りだ」と、頗る悠長に斷じ、「今囘の日米貿易摩擦といふものは實體がない。兩國政府とも、幽靈を相手に格鬪してゐるやうなもの」だ、との長谷川慶太郎氏の意見を引いてゐる。長谷川氏はまた、日米貿易摩擦を解消するには日本が「アメリカからアラスカ原油を買へば」よいので、それで「萬事うまくいく」と主張してゐるさうである。この長谷川氏の「アイデアには、一石二鳥どころか三鳥、四鳥ものメリットが期待できる」と週刊朝日は言ふ。それは奇怪千萬な話だと、常識のある讀者なら思ふであらう。そんな結構な解決策があるのなら、なぜ「日米兩國政府」が「幽靈を相手に格鬪」してゐるのか。
私も常識家のつもりだから、眉に唾を塗りながら朝日の記事を讀み進んだ。すると果せるかな、アメリカがアラスカ原油の對日輸出を解禁できぬ理由が書いてあつた。それどころか、「日本の石油業界にとつてアラスカ原油」が「魅力に乏しい」理由まではつきり書いてあつた。私は唖然とした。日米双方にもつともな理由があるのなら、「アラスカ原油を買へば萬事うまくいく」との長谷川氏の御託宣はまさしく机上の空論といふ事になる。 週刊現代三月二十七日號によれば、過日「東京にサケを呼ぶ會」は三十萬匹の鮭の稚魚を多摩川に放流したが、「多摩川は、汚れはもちろん、水量不足も深刻。假に魚道を整備しても(中略)サケは堰を越えられず全滅する」といふ。成長して「母なる多摩川に歸つてくる」鮭の事は考へず、專ら「多摩川をきれいにするためのキャンペーン」として放流したとすれば、「この自然復活運動、どこかにエラク不健全な精神がうかがへる」と現代は書いてゐる。同感である。だが「東京にサケを呼ぶ會」の無責任は、たかだか鮭にとつての「殘酷物語」を招來するに過ぎぬ。
しかるに、貿易摩擦についての無責任な發言は、日本國民にとつての「殘酷物語」を招來しかねない。「黄禍論」の理不尽を言ふ前に、週刊誌はさういふ事をちと考へてはどうか。「高木は風に折らる」といふ。その理不尽を云々しても始まるまい。 
 

 

71 新潮よ、天邪鬼たれ
週刊新潮の表紙が變つて、毎囘田中正秋氏の繪が表紙を飾る事になつた。繪心の無い私には田中氏の腕前を論評する資格は無いが、田中氏を選んだ新潮は賢明だつたと思ふ。周知のごとく、新潮の表紙は久しく故谷内六郎氏の童畫であつたから、週刊新潮と聞けば誰しも谷内氏の繪を思ひ浮かべるやうになつてゐた筈である。それゆゑ新潮としても、谷内氏に死なれたからとて若い女の顔写眞でお茶を濁すわけにはゆかない。何としても新潮らしい繪でなければならない。それはつまり、久しく表紙を飾つた谷内氏の繪と調和するやうな繪でなければならぬ、といふ事である。無論、二人の畫家の畫法は異るが、曰く言ひ難き類似を感じ取る事ができる。傳統や慣習を重んじるのはよい事である。それゆゑ新潮の見識を私は高く評價する。
けれども、傳統を重んじるのはよい事だが、因習に囚はれるのは好ましい事ではない。長所は短所といふ事がある。例へば新潮の場合、表紙は谷内六郎氏にしか頼らなかつた。が、漫畫も横山泰三氏にだけ頼つて、あの下手糞で愚劣淺薄この上無しの漫畫の連載を一向に止める氣配が無い。その義理づくは新潮の短所である。いかなる義理合ひあつてかおほよそ見當はつくが、讀者を舐めるのもいい加減にして貰ひたい。
ところで、新潮四月一日號は、協榮ジムの金平正紀前會長が「限りなく黒に近い灰色」だとて「永久追放處分」にされた事件について「西部劇の民衆裁判ぢやあ、かたひませんよ。(中略)日航(機墜落)事故だつてものすごい調査をしてゐる」との安倍辯語士の言葉を引き、「なるほど、日航機墜落事故と比べるあたり、安倍辯語士の面目躍如といふか“三百代言”といふか」と書一いてゐる。新潮によれば、安倍辯語士は「恐喝罪に問はれ、一審では有罪判決」を受けたといふ。また、日本ボクシング・コミッションの川本信正氏は「純粋なスポーツの世界では疑はしきは罰する」と言ひ、罰せられた金平氏は「なんら異議を唱へることもなく全面降伏してゐる」といふ。
さういふ場合、「疑はしきは罰」したコミッションの處置を是認するのは、どんな馬鹿にもやれる事である。「全面降伏」した金平氏の顔写眞を眺めてゐるうちに、阿呆でも金平氏の非を鳴らしたくたる。が、「恐喝罪に問はれ」てゐる安倍氏の、これは「西部劇の民衆裁判」だといふ抗議を肯定する事は、馬鹿には決してやれぬ事である。馬鹿にはやれぬ事をやる、それが天邪鬼たる新潮の眞骨頂ではなかつたか。
文學者の「反核聲明」の愚劣を新潮が嗤はないのは臺所の事情ゆゑであらう。が、愚劣を嗤へぬ事を無念に思はぬのなら、新潮は正眞正銘の腑抜けになつてしまつたのである。週刊新潮が新潮社の中の「治外法權」である事を、私は切に望む。 
72 許し合ひ天國、日本
「教壇に立つ教師めがけてハサミが飛ぶ。たばこを吸ふのは日常茶飯事。金の貸し借りには二十倍から七倍もの利子がつく」、それが京都府長岡京市の「小學校の生徒の實態」だと、共産黨員の教師が日教組の教研集會で報告した。けれども「今や父兄の間では(中略)反發が高まる一方」だと、週刊新潮四月八日號は書いてゐる。「報告の内容が捏造されたものだつた」からだが、その点を追及されて森眞人教諭は「ニタニタした笑ひを浮かべながら」謝つたといふ。新潮の言ふとほり、さういふ性惡な教師の首も切れぬとはまことに解せぬ話だが、許し合ひ天國日本では、それも致し方の無い事なのである。
なにせ内閣總理大臣にしてからが、ワシントンでは、「自分の國は自分で守つてゆくといふ氣概が重要」とて胸を張つたものの、先般、國會で答弁した際は、すつかり腰砕けのていであつた。アメリカ側は憮然としたらうが、この日本國ではさういふぬらりくらりが功を奏するのである。けれども、イギリスのサッチャー首相は鈴木首相との會見に十五分しか割かなかつたといふ。通譯が喋つた時間を差し引き、また二人の首相が等分に喋つたと假定すると一人三分四十五秒である。サッチャー女史に鈴木氏は一體全體何を語つたのであらうか。
とまれ、この許し合ひ天國では、どんなでたらめを口走つても滅多に咎められる事が無い。例へば週刊現代四月十七日號は、「六月八日のロッキード裁判全日空ルート判決がクロと出れば、その關連で二階堂幹事長の“灰色”も“黒”となる」と書いてゐる。現代に借問する。二階堂氏の「灰色」が「黒」になるためには、二階堂氏を被告とする裁判が開かれてをらねばならぬ。それは今、どこで開かれてゐるのか。現代は私の問ひに到底答へられまい。それなら、二階堂氏に謝罪しろとは言はぬ、現代はおのが愚鈍を大いに恥ぢるがよい。「腐敗と不祥事の巣窟と化して久しい」國労、動労さへ、「惡慣行返上の具體的方針」とやらを發表したではないか。
だが、國鐵のストは「惡慣行」ではない。それはれつきとした「犯罪」なのだと、週刊新潮四月十五日號にヤン・デンマン氏は書いてゐる。その通り、國鐵のストは「違法スト」なのだ。が、十五、十六の兩日、人を殺すと予告した手合を、驚くべし、世人は許すのである。殺さなかつたのはよかつたと胸を撫でおろすのである。けれども、國労、動労だけを咎められぬ。上智大學教授内村剛介氏は「文學者の反核聲明」に署名しておきながら、『週刊讀書人』二月十五日號に「いいかげんな文章にサインする文學者つてのは、そりやもう“口舌だけの徒”」だと書いた。そしてこの恐るべきでたらめを、誰も咎めなかつた。やはり日本國は許し合ひの天國なのである。 
73 保守は保守を斬れ
『月曜評論』四月十九日號に「ぱるちざん」なる匿名の文筆業者が、「文筆業者と政治」と題し、繼ぎ接ぎだらけの奇怪な文章を綴つてゐる。「ぱるちざん」氏の文章の大半は福田恆存氏や井上靖氏やジョージ・オーウェルの意見の引用で、人の褌で相撲を取るのは程々にせよと言ひたくなる程であり、しかも、他人の意見におのが意見を繼ぎ合せる際の「ぱるちざん」氏の技術がまた、頗る拙いのである。それはともかく、「ぱるちざん」氏は「反核アピール」のみならず「安保改定百人委」の聲明をも批判し、「安保改定の呼びかけとて同じ事だ。改憲すべきだと内心思ひつつも、内外の情勢を氣にして、それを言ひ出せぬ文筆業者は、右顧左眄するが故に自由ではない」と書いてゐる。「安保改定百人委」の諸氏の中に「改憲すべきだと内心思ひつつも」それを言ひ出せずして「右顧左眄」してゐるやうな腰抜けは一人もゐない筈である。「ぱるちざん」氏は保守派なのだらうが、保守が保守を斬るのは、保守が革新を斬る以上の難事なのである。「ぱるちざん」氏及び『月曜評論』に猛省を促す。
だが、「ぱるちざん」氏や『月曜評論』の事だけは言へぬ。私は昨年六月、「鈴木首相は憲政史上最低の總理大臣だ」と本欄に書いたが、週刊現代五月一日號は「善幸首相はウンつき村の村長だ」と書いてをり、私は今囘ほど週刊現代に共感した事は無い。現代によれば自民黨の大塚雄司氏は「總理を替へなけりやいけない」と言ひ、龜井靜香氏は「もつとも質の惡い總理」だと言ひ、共産黨の東中光雄氏は「二枚舌」の常習犯だと評したといふ。全く同感である。昨年五月、鈴木首相はワシントンのナショナル・プレス・クラブで「日本の周邊海域を日本が守るのは當然であり」云々と胸を張つて言ひ切つた。私はさう言ひ切つた首相の表情をテレビで觀て、それを今もつて忘られずにゐる。NHKでも民放テレビでもよい、自分が何を喋つてゐるか、それすらも解らずにゐたあの時の鈴木氏の愚かしい表情を、もう一度放映しては貰へまいか。
しかるに週刊現代によれば、鈴木首相は「隔週週休二日制」を守り「毎週水曜か木曜の朝、自宅で主治醫の定期檢診を受けて」をり、「夜はぐつすり眠れるし、すこぶるつきの元氣さだ」といふ。一方、週刊新潮四月二十九日號によれば「あるテレビ番組で渡部昇一といふ大學教授」はフランスの大統領補佐官に、「日本のインテリの輕薄さを見せつけられる」やうな愚かな意見を述べ、補佐官を怒らせたといふ。自民黨の代議士諸公に訴へる。一刻も早く鈴木善幸氏を成敗して貰ひたい。渡部昇一氏のはうはいづれ私が成敗する。もはや「保守同士の内ゲバ」は敵を利するなどと言つてをられる時ではないからである。 
74 三笠宮寛仁殿下へ
自ら「陣笠皇族」と稱し、「ラジオのディスクジョッキーで縦横無尽に語られたり、とにかくユニークな三笠宮寛仁親王殿下」が、このたび宮内庁に對し「皇籍を離脱したい」との申出をなされ、「トレードマークのヒゲまで落された殿下の前例のないお申し出に、宮内庁側はご眞意を測りかねながらも、飜意の説得に懸命」ださうである。けれども、好奇心旺盛なる週刊誌が「ご眞意を測りかね」て困惑する筈が無い。そこで例へば週刊現代も、「話題のこの人たちのそこが知りたい」とて、「寛仁殿下“皇籍離脱”發言の不可解部分」を究明せんと思ひ立つた。
現代五月十五日號によれば、四月中旬、寛仁殿下は宮内庁長官に「國民と皇室を結ぶ一助として身障者などの行事に參畫し活動して來たが、忙しすぎて宮中行事にも欠席」する有樣、「この際皇籍を離れて活動に專念したい」と仰有つたといふ。殿下の言分は矛盾してゐる。「皇籍を離れて活動に專念」する事は、「國民と皇室を結ぶ一助」にはならぬのである。また、週刊ポスト五月十四日號によれば、殿下はかつて「俺は好んで皇族になつたのではない」と放言なさつたさうだが、さういふ餘りにも當り前の事は仰有るべきではない。吾々は皆、「好んで日本人になつたのではない」のである。
殿下は「皇位繼承順位で七番目」にあたらせられる。それゆゑ先刻御承知であらうが、天皇は國事行爲について責任を問はれず、また天皇には選擧權も被選擧權も無い。天皇に選擧權被選擧權が無いのは、天皇が政治的に中立でなければならぬからであり、もとより「象徴としての地位に反しない限り、天皇にも學問の自由、信教の自由、財産の保障等が認められるものと解する」事はできようが、政治的信念を表明する自由だけは無いのである。
學習院大學の飯坂良明教授は「三笠さんは(中略)もつと人間らしい生活をさせてほしいと訴へられたんぢやないか(中略)思ひどほりにしてあげたつてよい」と語つてゐる(週刊ポスト)。殿下はかういふ愚かな大學教授の甘い言葉に惑はされぬやうに願ひたい。
なにせ殿下は第七番目の皇位繼承者である。それゆゑ私は今囘極力抑制して書いてゐる。殿下が萬一平民におなりになつたら、私は勿論抑制せずして手嚴しく批判する。が、抑制せずに批判する事は果してよい事か。殿下は週刊文春をお讀みになつたであらう。浮薄な週刊誌に「“普通の女の子に戻りたい”といつたキャンディーズもびつくり」だの、「殿下の藝者の扱ひときたら抜群で、モテることモテること」だのと書かれる事が、殿下御自身の、いや吾が日本國のためになるかどうか、それをこの際とくとお考へ頂きたい。 
75 英國に學ぶは難し
NHKは「フォークランド事件」については「手を抜いてゐる」が、「あんなくだらない戰爭のニュースは(中略)日本のマスコミ界において默殺していいとさへ思ふ」と、サンデー毎日五月三十日號に松岡英夫氏が書いてゐる。それかあらぬか、煽情的週刊誌がフォークランド紛爭について書き立てぬ事を私は怪しむ。察するにイギリスは「鐵血の女宰相」(週刊朝日)にひきゐられてをり、一方、アルゼンチンの大統領も軍人だから、どちらか一方を惡玉に仕立てる譯にもゆかず、週刊誌は當惑してゐるのであらう。
松岡氏は「私どもに何の關係もないフォークランド事件を(中略)目や耳に押しつけられる義理は全くない」と書いてゐるのだが、これまでのところ週刊誌はフォークランド紛爭を讀者の「目に押しつけ」ようとはしてゐない。「目に押しつけ」るなどといふ粗雜な言ひ方をする松岡氏の頭腦が粗雜である事は無論だが、まさか日本の週刊誌の記者のすべてが、今囘の紛爭は「私どもに何の關係もない」などと、極樂とんぼよろしく信じてゐる譯でもあるまい。私はさう思ひたい。
週刊朝日六月四日號は西川潤早大教授に意見を徴してゐる。西川氏は「名譽のために莫大な戰費をかけてゐるといふ点では、戰爭がいかにおろかかを示す見本」であり、「平和憲法を持ち、ナガサキ、ヒロシマの體驗のある日本は最適の調停國だ」といふ。
かういふ極樂とんぼが酸いも甘いも知らぬげに、いや、酸い事ばかりは知らずして、すいすいと飛びまはつてゐる樣を見るたびに、一刻も早く日本國憲法を改正せねばならぬと、私は聲高に叫びたくなる。
週刊朝日によればアルゼンチンの巡洋艦を撃沈した魚雷は一發一億二千萬圓、撃沈されたイギリスの驅逐艦は四、五百億圓、「英艦隊が一日行動するだけで十二億圓以上かかる」といふ。さういふ「莫大な戰費をかけてゐる」から愚かだと西川氏は言ひ、「英國はすでに一兆圓使つたといふが、金はどんどん消えてなくなり」云々と松岡氏も言ふ。要するに朝日にとつても、極樂とんぼたる兩氏にとつても、戰爭は金がかかるから愚かなのである。
だが、『言論人』五月二十五日號に林三郎氏は、イギリスが「算盤勘定には合はない」遠征を敢へてしたのはナショナリズムゆゑだが、「領土問題にもナショナリズムの熱情を燃え立たせることのない世界に稀な民族」、それが日本人だと書いてゐる。五月二十六日付の本紙にも氣賀健三氏が、日本の新聞の論説の「どの一つとしてイギリスの立場に賛成したものは」ないが、イギリスの「斷固たる行動」は「わが國にとつて重要な教訓となる」と書いた。
けれども、林、氣賀兩先輩よ、日本國のぐうたらは手の施し樣も無く、もはや、外圧を待つしか手は無いのではありますまいか。 
76 日本だけが正氣か
反核集會とやらに集つた何十萬人もの馬鹿が、「合圖一つで、ごろりと地べたにころがつて、いつせいに死んだふり」をする、あの遊戯は「ダイ・イン」と呼ぶらしい。週刊新潮六月十日號のヤン・デンマン氏によれば、或るアメリカ人記者は「狂氣の指導者の命令一下、實に九百十四人の老若男女がいつせいに毒を仰いだ」、かの四年前のガイアナの悲劇を思ひ出すと言つて、顔をしかめたといふ。けれども、所詮はお遊びなのだから、さまで深刻に考へる事はない。
やはりヤン・デンマン氏によれば、「日本の安全保障論議はビールの泡で、ついだときだけ盛り上がる」と、スイスの記者が言つたさうだが、その通りであつて、目下流行の反核運動もいづれは必ず凋むのである。けれども、これまた、ヤン・デンマン氏によれば、六月の國連軍縮特別總會に千五百人もの馬鹿を派遣して、國連本部前の路上で「ダイ・イン」をやらうと考へた手合もゐるらしい。「馬鹿と鋏は使いやう」といふが、この種の「馬鹿に付ける藥は無い」のである。
なるほど、いかなる馬鹿にも基本的人權はある。つまりお遊びをやる權利がある。けれども何事にも程がある。フォークランドでも、レバノンでも、ホラムシャハルでも、お遊びならぬ本氣の戰鬪が行はれてゐるではないか。
もつとも「ダイ・イン」をやつて樂しんでゐる手合は、馬鹿は自分たちではなくて、本氣で殺し合ひをやつてゐる奴等だと思つてゐよう。昨年十一月六日號の週刊ポストで、朝日新聞の筑紫哲也氏は、「武器をもつのは、世界の常識だ」といふが、その世界の常識が間違つてゐるのだから「それに付き合ふことはない」と語つた。つまり、世界各國はいづれも馬鹿で日本だけが利口なのだと、愚かな筑紫氏は考へてゐる譯だ。しかも、この種の馬鹿は筑紫氏に限らぬ。「世界の軍事支出」が「OECD加盟國の發展途上國向けの政府開發援助二六〇億ドルの十九倍に達してゐる」現状は正氣の沙汰とは思はれぬと、『中央公論』六月號に永井陽之助氏も書いてゐる。正氣なのは商人國家日本だけといふこの種の愚かしい思上りは一度徹底的に批判されねばならぬ。
今囘はピース缶爆彈事件の牧田吉明氏についても語りたかつたのだが、もはや紙數が無い。ただ牧田氏の行動もまたお遊びとしか思へぬとだけ言つておかう。言論人もテロリストも、この國では遊ぶのである。
六月四日付の讀賣新聞に菅直人氏が書いてゐた事だが、「人間だけでなく犬猫だつて核戰爭で死ぬのはいやなはずと、犬猫反核手形署名を始めたグループ」があるといふ。菅氏は「うまい方法だと感心してゐる」のだが、犬猫が核戰爭で死にたくないのなら、牛も馬もげじげじも松食蟲も死にたくないであらう。げじげじや松食蟲はよいとして、牛、馬、そしてどぶ鼠の「手形署名」がなぜ不必要なのか。 
77 筆は一本、箸二本
「田中もムダな抵抗を早くやめたがよい。(中略)結論はもうわかつたやうなものであるから、早く一審の裁きに服して、二審に向かつて準備を進めるがよい」。これはサンデー毎日六月二十七日號の、松岡英夫氏の文章なのだが、田中角榮氏の有罪確定を待ち兼ねてゐる讀者は、どんな馬鹿にも持てる類の正義感に盲ひ、この文章の欠陥には決して氣づかないであらう。
だが、「一審の裁き」の結果がまだ解らぬうちに、それは「もうわかつたやうなもの」だと被告人が觀念し、果して「二審に向かつて準備を進める」氣になれようか。いづれ必ず松岡氏は死ぬ。その「結論はもうわかつたやうなもの」である。では松岡氏は、その冷嚴なる事實を認め、臨終に「向かつて準備を進める」であらうか。
今は素人全盛の時代である。週刊朝日六月二十五日號によれば、いまやアイドル歌手を「歌唱力で判斷するのは、政治家を清廉潔白度で判斷するやうなもの」だといふ。松岡氏は嫉妬と義憤とを取り違へ、あとは少し文章の工夫を凝らすだけで物書きが勤まると思つてゐる。が、「政治家を清廉潔白度で判斷する」愚かな手合は、松岡氏の「歌唱力」を決して怪しまない。
糸川英夫氏も週刊讀賣に駄文を寄せること二十五囘、誰もそのすさまじい惡文を咎めないが、糸川氏の場合は松岡氏ほども文章に工夫を凝らさず、しかも、週刊新潮の川上宗薫氏と異り、讀者を樂しませようとする事も無い。川上氏は恥も誇りもかなぐり捨てて、毎囘「赤貝の紐」だの「ナメクヂのやうな感觸」だのについて懸命に書いてゐる。そして六月二十四日號によれば、川上氏は修行時代、逆さクラゲヘ女を連れ込むため藥局で千圓借りた事があるといふ。「ポルノ小説を書く脂ぎつた男」でも、玄人ならそれくらゐの苦労は積んでゐるのである。
一方、週刊文春六月二十四日號の匿名書評家は、宮本輝氏の『道頓堀川』について「高尚なテーマの小説ではある。が、やはり五合マスには一升の米は入らぬ」と書いてゐる。宮本氏の「文章力では、せつかくのテーマをこなしきれない」といふのである。だが、「文章力」が「テーマをこな」す譯ではない。「せつかくのテーマ」とは所詮「五合の米」なのだ。言ひたくてならぬ事があつて人は文章に工夫を凝らすので、要も無いのにわざわざ工夫するのではない。
サンデー毎日六月二十七日號は宮崎美子の作文を載せてをり、それは糸川氏の文章よりも遙かにましである。だが、内容のお粗末は糸川氏のそれと變らない。こなれた文章を書かうといくら工夫しても、それだけで内容が立派になる譯ではない。さういふ事の解らぬ素人に何とか物を書かせようとするのは要らざるお節介である。「按ずるに筆は一本也。箸は二本也」と齋藤緑雨は言つた。その覺悟無くして文を綴るのは、すべて素人にほかならない。 
78 早大だけの醜態か
早稲田大學總長選擧について週刊現代七月三日號は「“進取の精神”が聞いてあきれるお粗末な泥仕合」と書き、週刊ポスト七月二日號は「“派閥總長選”のドロ仕合(中略)私學の雄・ワセダにしては情けない話だ」と書き、週刊サンケイ七月八日號は「それにしてもこの泥仕合・・・ワセダ、地に落ちたり!」と書いた。なるほど、サンケイによれば、西原教授を支持する一人は對立候補本明教授の「票集めに動いてゐる」某教授について、「とにかく“長”の字が好きな人でね。文學部の教授ですが“勉強した姿を見たことがない”といふ風評の人」だと、サンケイの記者に語つたといふ。
國會議員の選擧でも村會議員の選擧でも「票集めに動」く者は必ずゐる。だが、西原氏を支持して本明氏を惡しざまに言ふのならともかく、なぜ票集めをやつてゐる教授まで批判せねばならぬのか。週刊誌の記者に意見を求められ有頂点になり、野放圖に舌が囘つたのだらうが、さういふ淺薄な手合もまた「“長”の字が好き」であり、「勉強した姿を見たことがない」學者に相違無いのである。
だが、淺薄な手合は西原陣營にだけゐるのではない。同じくサンケイによれば、本明支持派の一人は「西原は顔が惡い」と言つたといふ。予備選擧の投票用紙に「松田聖子」と書いた若手職員がゐたさうで、「その心情もわからうといふもの」とサンケイは書いてゐる。いかにもそのとほりで、私も今囘は週刊誌の記事に難癖を付ける氣にはとてもなれない。本明派は清水總長が「直系の西原さんを後繼者として立候補させるのは筋が通」らぬと言ふ。西原派は「創立百周年といふ大事な事業には非協力。なのに次の總長だけは狙ふといふのはどういふ神經なのか」と言ふ。ともに愚劣な言分である。
直系だらうが傍系だらうが「泡沫候補」だらうが、被選擧權を有する者の立候補なら「筋が通」つてゐるし、「創立百周年といふ大事業」の意義を疑ふ者が總長の座を狙つて何の不都合があるか。西原教授は「現在一番急がなければならないのは百周年記念事業について一定の學内的合意を形成すること」だと言ふ。西原氏が抱負を語つた文章は駄文である。駄文しか綴れぬから、つまらぬ事しか思ひつかぬのである。
けれども、早稲田大學は日本國の縮圖なのである。それゆゑ、これは早稲田に限らないが、當節の總長だの學部長だのは「一定の學内(或いは學部内)的合意を形成すること」に汲々として、おのが信念を貫くといふ事が無い。いやいや、信念なんぞの持合せが無い。それゆゑ、駄文しか綴れぬはうがきつと當選するであらう。だが、早稲田における「泥仕合」は、そのまま日本國の政界のそれである。「モラトリアム國家」の舵取りは船の針路さへ定めてゐないではないか。 
79 隠し難きものは顔
やくざや藝能人がサングラスをかけるのは、顔形を人目に曝したくないからであらう。だが、堅氣の小説家が何の要あつて日除け眼鏡をかけるかと、野坂昭如氏の顔写眞を見るたびに私は訝しんだ。俗に「目も口ほどに物を言ふ」といふが、野坂氏の文章を讀んで野坂氏の顔写眞を眺めると「文は人なり」との格言が信じられなくなるのであつた。
しかるに、昨今、野坂氏は突如として色無し眼鏡の顔写眞を、週刊讀賣に載せたのである。すなはち、七月十八日號の「一写入魂破れレンズ」に添へられた顔写眞は、普通の眼鏡をかけた野坂氏のそれであり、その精彩の無い表情を見て、私は積年の疑念を晴らした。色の濃いサングラスをかけてゐるとよく解らないが、野坂氏の顔立ちと「いつそのことボクの娘だつてソ連兵のメカケになつてもいいから、生きてゐてくれたはうがよほどいい」(週刊ポスト、昭和五十六年十一月六日號)などといふ放言とは見事に調和がとれてゐたのである。
野坂氏は週刊文春七月二十二日號に「齋藤勇氏の御不幸について」の意見を寄せ、分裂病患者や覺醒劑中毒患者による凶惡犯罪については「眼には眼をといつた、まこと旧弊な復讐心を、ぼくは抱いてゐる」が、さういふ「我が内たる“本音”を排し、あへて“建前”に固執」せねばならぬ、さもなくば「お上の用意した御用醫師團が、いかやうにもレッテルを用意し、具合の惡い人物を、あつさり病院なり施設に収容隔離」する事になる、と書いてゐる。野坂氏に「まこと旧弊な復讐心」なんぞありはしない。「お上の用意した御用醫師團」の專横を本氣で危倶してもゐない。すなはち、野坂氏の場合、本音が建前に氣兼ねし、建前が本音を恐れるといふ事が決して無い。
リンカーンが言つたやうに、四十歳を過ぎたら人はおのれの顔に責任をもたねばならぬ。野坂氏は輕佻浮薄であつて、やはり「文は人」だつたのである。
一方、週刊ポスト七月三十日號によれば、武智鐵二監督演出のハード・コア映畫に十七歳の女子高校生が應募したが、彼女には「ぜひとも採用を、もちろん娘は處女です」との母親の「推薦書」が付いてゐたといふ。また、週刊宝石七月三十一日號によれば、ハード・コア映畫に出演する堀川まゆみのファンは「彼女にまでさういふことをやらせる大人たちが憎い」と言つたといふ。それを讀んで私は腹を抱へて笑つた。恥知らずの母親の場合は知らないが、武智鐵二氏も堀川も色眼鏡はかけてゐない。週刊宝石の記者は「まゆみちやんの場合“なぜ?”といふ聲が多い」と書いてゐる。動機は金錢に決つてゐる。堀川のファンも宝石の記者も、武智氏と堀川の顔写眞をじつと見詰めたらよいのである。 
80 教育の善意を疑へ
山形縣山元村の「山びこ學校」から、「よれよれズボンに腰手拭ひ、ズーズー弁丸出しの」無着成恭先生が東京へ出て來て二十五年になる。今は東京・三鷹の明星學園で教鞭をとつてゐるのだが、教へ子の「第一期生」はもはや三十代半ばださうで、週刊新潮八月五日號は「無着流教育の結果」を調べ、その「弱点は人間關係にあるともいへさうだ」と書いてゐる。「制服なし、教科書も通信簿もない教育」とやらが無着氏の獨特な教育法だから、ある教へ子は「學校では教師とすら友達みたいだつたし、社會に出て初めて上下關係を味はつた」といふ。そんなことで極樂淨土ならぬ世間を渡つてゆけるはずは無く、既製服メーカーに六年勤めて退社、ついで建材會社に勤めたが、二年間しか持たず、今はタクシーの運轉手をしてゐるといふ。だが、タクシーの運轉手もれつきとした職業で、人間關係を無視して長續きする道理が無い。
無着氏は新潮の記者に、「社會に出て不適應なものを感じることがあるなら、そんなもの、やめてしまへばいい」と語つてゐる。新潮は無着氏をからかつて、「ハテ、やめるべきは仕事?それとも教育?」と書いてゐるのだが、無論、無着氏の言ふ「そんなもの」とは「仕事」の事である。そしてこの無着氏の無責任は許し難い。
人間、おのが運命はおのれ一人が背負はねばならず、他人や環境のせゐにして不幸を愚痴るのは、まことに愚かしい事である。無着先生の教へ子の「弱点は人間關係にある」に決つてゐるが、教へ子が無着氏を怨めしく思はぬのは殊勝た心掛けと言ふべきか。だが、教師もタクシーの運轉手と同樣、れつきとした職業で、「社會に出て不適應な」生徒を育ててよいはずは無い。洗濯機にだつて保證書がついてゐる。故障した洗濯機が惡いのではない、いつそ洗濯なんぞ「やめてしまへばよい」と、果して家電メーカーが言ふであらうか。新潮が無着流教育について、その「弱点は人間關係にあるともいへさうだ」などと、及び腰の批判をしてゐるのは殘念である。
「人の患は、好んで人の師となるにあり」と『孟子』にあるが、およそ人の師になりたがる病ほど傍迷惑なものは無い。とりわけ閑人愚人は、例へば性教育を實践して物解りのよい親になつたつもりでゐる手合のごとく、お節介と善意とを區別できない。「なんせ性教育の徹底してゐるわが家では、凸凹の圖入りで、生理妊娠について説明ずみ」だと、週刊朝日七月二十三日號に、四十二歳の「カアチャン先生」が誇らしげに書いてゐる。また同じ朝日に、男性の生殖器は「チンコ」でなく「チコちやん」と呼ぶべしとの提言が載つてゐるが、投稿者は何と六十四歳の爺さんなのだ。これをさて、閑人と言ふべきか、愚人と言ふべきか。 
 

 

81 韓國民に訴へる
週刊新潮八月十二日號にヤン・デンマン氏は、「日教組は(中略)世界に冠たる國際的自虐性の持主だ。その点では新聞もひけをとらない。對日批判があれば、すべて増幅して」しまふ、と書いてゐる。まつたく同感である。一方、八月十七日付のサンケイ新聞『サンケイ抄』の筆者は、日本人には「人道的思考や人生觀、世界觀を期待できない」との韓國の文教相の發言を紹介し、「それでもなほ、日本の政治家も新聞もエヘラエヘラとお愛想笑ひをし」てゐるが、「日本の對韓經濟協力は“克日”のために進められるのだらうか」と書き、さらに八月十六日付の同紙にも、牛場昭彦記者が、同じ文教相の發言について、「かうした感情にまかせた穏當を欠く言葉が、兩國關係にどれほど破壞的効果をもたらすことになるか注意を喚起」したらよいと書いた。これまたまつたく同感である。
この際、韓國に考へて貰ひたい。サンケイは日本のすべての大新聞のうち、最もよく韓國を理解し、常に好意的な態度を示して來た。しかるに今、「教科書問題」に關する限り、韓國に對して最も批判的なのはサンケイである。そして、金大中事件の際も光州暴動の折も反韓報道に血道を上げた新聞が、いま、奇怪なる「自虐性」を發揮して、韓國と中國の「内政干渉もどきの強要」に大いにはしやいでゐる。だが、朝日や毎日が願つてゐるやうに、日本が今後も腰抜け腑抜けの平和國家でありつづけるならば、日本人は韓國を、戰爭の危機を賣物にする「戰爭屋」とみなし、韓國の苦境を決して理解しないに相違無い。
私はこれまで、ただの一度も韓國を批判する文章を綴つた事が無い。それどころか常に韓國の國防意識の眞劍を稱へ、日韓の友好を心から念じて來た。けれども、「益者三友、損者三友」といふ事がある。それゆゑ、相手が將軍であらうと、青瓦臺の高官であらうと、韓國人に對して卑屈に振舞つた事は一度も無い。
敬愛する申相楚氏を成田空灣に出迎へるべく車を走らせてゐる時、私は年甲斐も無く少年のやうに胸を躍らせる。その申氏を前にして、私は屡々「日帝支配の三十六年」を思ひ出す。けれども、申氏のはうは決してそれを言はない。そして日本にも韓國にも、私が申氏の惡口を言ふのを耳にした者は一人もゐない筈である。韓國人とさういふ付合ひをしてゐる日本人のあまりに少きを、私は日頃殘念に思つてゐる。が、私は日本人である。萬一、日韓が戰ふやうな事になれば、私は申氏に對しても發砲しなければならない。
かつて侵略戰爭をやり、植民地を持つたのは日本だけではない。しかるに、敗戰を道徳的惡事ゆゑの天罰と思ひ做し、「被害者諸國」の抗議に見苦しくうろたへるのはわが日本國だけである。さういふ「便辟」が果して韓國にとつて眞の友邦たりうるであらうか。 
82 被虐症こそ日本病
週刊朝日九月三日號に飯澤匡氏は、「英國人たちはインドの獨立運動の英雄たちをみせしめに大砲の口にくくりつけて、發射し處刑した。殘酷なのは決して日本人だけではない」と書いた。しかるに週刊朝日の記者は「殘酷なのは日本人だけではない」と「言つてすましたくない」と書いてゐる。飯澤氏に意見を徴し、それをそのまま掲載したものの、朝日の記者は飯澤氏の意見に不滿だつた譯である。そしてまた朝日は、十一箇の中國人の生首が並んでゐる写眞だの、「敵の死體の前で記念撮影する日本兵」の写眞だの、中國人の「若い男女を一組連れ出し、性交させてながめたこともある」との讀者の手記だのを載せ、「日本は中國、朝鮮で何をやつたか・信じたくない」と書いてゐる。信じたくないのなら載せなければよささうなものだが、そこはそれ朝日ならではの「正義感」、日本人の旧惡だけは默過できないのである。
サンデー毎日九月五日號も、中國人の首を斬らうと軍力を振りあげてゐる日本兵の写眞を載せてゐるが、朝日や毎日に限らず「日本人の殘酷」だけを指彈して樂しむ被虐症患者は、被虐症こそわが日本の「特殊性」だと信じてゐるのである。すなはち、侵略戰爭をやつたのは日本だけではないのだが、日本だけはいつまでもその「前非」を悔い、折ある毎に低頭平身せねばならず、それが日本の「特殊性」だと、さういふ事になるらしい。
それかあらぬか、朝日ジャーナル九月三日號でも内山秀夫慶大教授が日本の「特殊性」を強調してゐる。「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して」云々の憲法前文について内山氏は、「“諸國民の信義”なんて實體はなんにもないのかもしれない。しかしそれでも信頼する、さういふ特殊性ですね。戰後われわれが世界に貢献してゐるのはその一点だけだ」と言ふ。これはもう被虐症などといふものではない、卑屈なる奴隷根性である。 一方、八月二十八日付の世界日報によれば、世界教職員團體總連合の大會で「惡しざまに自國民を罵つた」日教組の槙枝委員長を、日教連の田名後委員長は「強い口調で批判した」といふ。もとより日教組も被虐症患者ぞろひで、まつたうな日教連としてはさぞ腹立たしからうが、當節まつたうなのは少數派で、それゆゑ世人は日教連の存在も知らぬであらう。
だが、被虐が快樂なのは生命の安全が保障されてゐる場合だけである。なにせ日本國は三十七年間も安穏無事だつたのだから、被虐症の流行は當然の事、一向に怪しむに足りない。そして人間、三十七年間も反省しつづける筈は斷じて無いから、朝日も毎日も槙枝氏も餘所事のやうに「自國民を罵り」、罵られた日本人も、同じく餘所事のやうに「教科書問題」に關する記事を讀んだ。すなはち日本國民の誰一人として、本氣で反省なんぞしなかつたのである。 
83 許し難き開き直り
檢定によつて「侵略」が「進出」に書き改められた教科書なんぞ實は一冊もありはしない、しかるにマスコミは連日何を騒ぎ立てるかと、世界日報がつとに批判してゐたのである。そして先日、週刊文春九月九日號が「つひには外交問題までも招來した“誤報”のメカニズムを克明に追ひ、新聞の責任を問ふ」記事を載せ、ついで九月七日、サンケイ新聞は誤報を認め、謝罪記事を掲載したのであつた。サンケイだけが率直に謝罪した事は「評價するにやぶさかではない。しかしながら、問題は、一片のおわびだけで終るものではない」と先週の本欄に生田正輝氏が書いてゐたが、同感である。潔く謝罪してそれで濟むといつたものではない。
九月十日付の世界日報によれば、サンケイ以外の新聞は「責任逃れに苦慮してゐる」らしいが、他紙が擧つて「奇弁を弄し」、責任をうやむやにしようと企んでゐるからとて、それに引き替ヘサンケイだけは立派だなどと評するわけにもゆかぬ。
だが、週刊朝日九月十日號は、何と、かう書いたのである。許し難い卑怯きはまる文章だから、少し長いがそのまま引用する。
本誌は八月十八日號の記事で、檢定前の白表紙本に中國での日本軍について「侵略」とあつたのが、檢定後は「進出」「侵攻」になつたケースをあげ一覧表にして示した。しかし、その後の再調査で、表のうち上記二点については檢定前の白表紙本から「進出」「侵攻」となつてゐたことが分かつた。當初の調査が不十分だつたためで、ここに訂正しておきたい。
「ごめんなさい」と謝れば大抵の事は許される。それがわが日本國の弊風だと思ふから、私はサンケイについて嚴しい事を言つたのだが、この週刊朝日の「盗人猛々し」としか評しやうの無い言種には呆れ返るしかなかつた。けれども、「ウラをとらずに記事を書く」のは新聞記者の何よりも慎まねばならぬ事ではないか。しかるに「ここに訂正しておきたい」とは何たる言種か。「當初の調査が不十分」だつたのは大した事ではない、それよりも教科書の「右傾化」に齒止めをかける事こそ肝要と、朝日は言ひたいのであらう。だが、右傾がよいか左傾がよいかは價値判斷であり、一方、誤報だつたかどうかは價値判斷とは全く無關係である。
週刊朝日に借問する。例へばの話、この私が、朝日新聞の社長は實は共産黨員であつて、朝日新聞も週刊朝日もソ連の秘密警察から巨額の賄賂を受けてゐると、「ウラをとらずに」書いた場合、そしてそれが事實無根であると判明した場合、私が潔く謝罪せず、「當初の調査が不十分」だつたから「訂正しておきたい」、けれども大事なのは朝日の左傾に齒止めをかける事だと開き直つたら、朝日は果して私を許すであらうか。  
84 沈默にも仔細あり
三越百貨店の社長岡田茂氏が退陣し、週刊誌は擧つて岡田氏の旧惡をあばいてゐる。サンデー毎日十月三日號によれば、深夜「ベンツから降りた岡田杜長」を撮影しようとして毎日新聞のカメラマンが殴られたといふ。サンデー毎日は殴られる直前に撮影した写眞を掲載し、「ピントがぼけて目だけが輝いてゐるところに、かへつて岡田杜長のすごみが出てゐる」と書いてゐる。これは毎日に限つた事ではないが、深夜歸宅する名士を待伏せして、意見を叩いたりフラッシュをたいたりする事を、ジャーナリストは「天下の公器」として當然なすべき重要な仕事だと信じて疑はない。だが、人氣女優の住むマンション前に張り込んで、艶聞を裏づける写眞をとつて得意がる事と同樣、それは實に無意味でやくざな仕事なのである。深夜路上で意見を求められ、まつたうな返答をする者なんぞゐる筈が無いからだ。無論、それはジャーナリストも先刻承知で、彼等はただ「有名税」を支拂はせ、名士の凋落に溜飲を下げるだけの事なのである。
だが、三越が「年商五千八百億圓を越す」商ひをしてゐるにもせよ、所詮日本國の命運とは何の係りも無い一百貨店に過ぎない。週刊ポスト十月一日號は「いよいよ刑事事件に發展か−元三越幹部(中略)が語る“三越資産の食ひつぶしは見逃せぬ”」と、胸を躍らせて書いてゐるが、岡田氏が「三越資産の食ひつぶし」をやつたとしても、それが週刊ポストやわれわれ讀者と一體どういふ係りがあるのか。
一方、去る九月十七日「創價學會の池田大作名譽會長の女性問題で、渡部通子參院議員が、“月刊ペン”裁判の證言臺に立つた」。それを報じて週刊讀賣十月三日號は、「裁判長の質問に返答に窮する一幕もあつたが、“全くばかげた話で笑止千萬。事實無根です”と守りの固さを見せた」だの、「池田氏出廷に向けての露拂ひとしては、まづまづの役のこなしぶりだつた」だのと書いてをり、この讀賣のあまりの無用心に私は驚きかつ呆れ果てた。「いよいよ刑事事件に發展か」などと書けば、他人の不幸を喜び胸を躍らせてゐるのではないかと勘繰られて致し方が無い。同樣に、「守りの固さを見せた」などと書けば、何ぞ仔細あつて讀賣は池田氏の不幸を氣に病み、胸を痛めてゐるのだと、さう勘繰られても文句は言へぬ。
だが、岡田氏の醜聞なんぞは、いや池田氏の醜聞でさへ騒ぎ立てる程の大事ではない。九月二十七日付のサンケイ新聞によれば、中國政府は鈴木首相の訪中に同行取材を予定してゐた同紙の記者に査證を發給しなかつたといふ。これは下半身の問題ではない。すなはち小事ではない。が、何ぞ仔細あつて週刊誌はこの問題を決して取り上げないであらう。新聞週刊誌が何をどう書くかだけではなく、何を書かないかをも、われわれは知つておかねばならないのである。  
85 道化はやはり道化
「子供の頃、自分はかなりおつちよこちよいで、すぐ人のそゝのかしにのると反省したが、この性癖は變つてゐない」と、週刊朝日十月十五日號に野坂昭如氏は書いてゐる。なるほど野坂氏は三年前、アメリカ國務省の招待を受け渡米し、「下にもおかぬもてなし受けて、ころつといかれてしま」ひ、アメリカの「保守地帯で洗腦されたからには、これまでの革新といふレッテルにおとしまへをつけなければならない」と書いたのだが、その後も野坂氏は「右も左も蹴つとば」す「おつちよこちよい」として振舞ひ、「革薪といふレッテルにおとしまへをつけ」はしなかつた。無理ならぬ事であり、「すぐ人のそゝのかしにのる」やうな男にそんな事がやれるはずは無い。十月十五日號に野坂氏は「弱くなつたアメリカときくと、すぐ信じこんでしまふ、火事場泥棒に巧みなソ連といはれりや、これにも疑ひをいだかぬ(中略)。かういふのを植民地根性といふ」と書いてゐる。が、それは野坂氏自身の事なのだ。そして野坂氏は、三澤基地にF16が配備されるのは「大問題」であり、「アメリカのいふなりになるなら、以後(中略)はつきり植民地を自認」すべしと主張してゐるのだが、所詮おつちよこちよいの書いた戯文であり、目くじらを立てるには及ぶまい。
だが、『リア王』を書いたシェイクスピアが承知してゐたやうに、この世のすべての事象をお茶らかす事はできぬ。すなはち、道化が無用になる領域が人生にはある。けれども、このぐうたら天國日本では、さういふ事がなかなか理解されない。例へば、このたびラジオ日本はソルジェニーツィン氏を招いたが、週刊文春十月十四日號はラジオ日本の遠山景久社長について「かつて共産黨員だつたと噂されながらいつのまにか保守政治家と密着し」云々と書き、また、ソルジェニーツィン氏は「日本のだらしなさを批判してくれるんぢやないか」との清水幾太郎氏の言葉を引いて「“批判されたがり病”はなにも革新陣營だけではないらしい」と書いてゐる。だが、ソルジェニーツィン氏は去る九日講演し、日本の「比類無き經濟力も自國を救ふ事はできぬ。他國が日本を守つてくれるとの期待は幻想だ」と語つた。サンケイ新聞編集委員の澤英武氏が書いたやうに、ソルジェニーツィン氏の「主張には獨斷的に過ぎる」ところもあつたし、私自身彼の文學をさう高く評價してはゐない。けれども、その日本への警告は「聽衆に深い感銘を与へた」のである。「愚者は己れを賢と思ひ、賢者は己れの愚者なるを知る」。ソルジェニーツィン氏の「西側社會の病根」批判について、その「元氣のよいこと」などと書いた文春の輕佻浮薄たお茶らかしは、まじめと不眞面目とのけぢめをつけぬ愚者が利口ぶる際に用ゐる常套手段なのだ。いづれ詳しく語る機會があらうが、ラジオ日本は「敵の敵は身方」といふやうな輕薄な動機から、ソルジェニーツィン氏を招いた譯ではないのである。
2 新聞を斬る

 

1 新聞の社説と催眠術
私は「國民」だの「民衆」だの「大衆」だのといふ言葉が大嫌ひである。新聞が好んで用ゐるからである。「國民」だの「民衆」だのと言ふ時、新聞は必ず「國民」や「民衆」の意見を代弁してゐるかのやうに振舞ふ。例へば政治家の汚職を國民は嘆いてゐる、といふふうに新聞は書くが、國民が汚職の横行を嘆いてゐるかどうか、そんな事が神樣でもあるまいし、新聞記者に解る筈は無い。入念この上無しの世論調査をやつたところで、國民の一部がかくかくしかじかの問題に反對してゐるらしい、といふ事がおぼろげに解るに過ぎない。しかるに新聞は、特に新聞の社説は、常に國民の名を騙つて物を言ふ。それは第四權力たる新聞も、泣く子と地頭ならぬ世論には勝てないからである。その癖、新聞は自分たちは社會の木鐸で「オピニオン・リーダー」だと思つてゐる。笑止千萬である。
それゆゑ、新聞が「國民は嘆いてゐる」と言ふ時は、「國民」を「新聞」と讀み替へる必要がある。「國民」を「新聞」と讀み替へて社説を讀むのは、退屈極まる新聞の社説を斜めに讀む際の氣晴しにもなる。實は私は、サンケイ新聞に週刊誌批判の文章を寄せてほぼ二年、『マスコミ文化』誌に新聞批判の文章を寄せて九ヶ月になるが、今後定期的な新聞批判だけは二度とやるまいと思つてゐる。毎日六種類もの新聞を律義に讀んでゐたら馬鹿になるし、新聞を叩くのはあまり面白くない。例外は勿論あるが、週刊誌の場合、どんな下らぬ記事にも人間がゐる。だから、週刊ポストや週刊現代は、さぞ私を憎んでゐるだらうと、さう思ひながら兩誌を叩く樂しさがある。が、新聞の社説の惡ロを言つても、怒つてゐる筆者の顔は想像できない。それは人聞不在の「非人間的」な文章だからである。社説の筆者の顔はのつぺらばうで、ラフカディオ・ハーンの『怪談』に出て來る例の顔である。或いはそれは蛙の面で、水や小便を掛けたぐらゐではびくともしない。
とまれ、ここで一つ社説の文章を引く事にしよう。七月二十九日付毎日新聞の社説の一部である。
自民黨内には、企業献金の規制緩和をねらふ見直し論があるといはれる。航空機疑惑への反省を忘れた、輕率な議論といはなければならない。個人献金への移行、政治家の資産公開など、‘政治を國民のものにし、國民の信頼を取りもどすための法の見直しこそ、いま必要とされてゐる。’
さて、傍点を付した部分に二度用ゐられてゐる「國民」を「毎日新聞」と讀み替へるとどうなるか。「政治を毎日新聞のものにし、毎日新聞の信頼を取りもどすための法の見直しこそ、必要とされてゐる」、さういふ文章になる。これを要するに、行政機關も立法機關も毎日新聞のために存在し、毎日新聞の信頼を取戻すべく努力せよ、といふ事になる。かつて「二人のために、世界はあるの」とかいふ文句の歌が流行つたが、「毎日新聞のために、世界はあるの」と、毎日の社説の筆者は考へてゐるのかも知れぬ。
周知の如く、薪聞の社説の筆者は決して「私はかう思ふ」と書かない。必ず「國民はかう思ふ」と書く。イギリスの新聞のEditorial“We”を眞似損つたのか、それともRoyal“We”に肖らうとしての事か、その邊の事情はよく知らないが、日本の新聞の社説に第一人稱の人稱代名詞が決して用ゐられないといふ事實は、新聞の宿痾を暗に示して頗る興味深いのである。
その新聞の宿痾とは何か、それについて語る前に、ここで決して第一人稱の人稱代名詞を用ゐない物書きの文章を引用しよう。それは外山滋比古氏が書いた『親は子に何を教へるべきか』といふ駄本の一節である。
『滋賀縣のある町で中學生グループの殺傷事件がおこつた。(中略)この事件についての新聞報道で氣になつたことがある。現場を調べた警察の係官が「學校がもうすこししつかりした生徒指導をしてゐれば、かういふ事件も防げたのではないか」とのべたやうに書かれてゐる。(中略)警官にそんなことを言はせた新聞記者がゐるとすればずゐぶんトンマな記者である。かりにトンマが取材しても間抜けた記者をチェックするデスクや整理部もゐるはず。紙面にあらはれたところを見ると、さういふ人たちもトンマと同類といふことになる。警察の係官が本當にそんなことを言つたかどうか‘讀者’は疑つてゐる。』
外山氏には澤山の著書があるらしい。しかもそれが結構賣れてゐるといふ。私は『中央公論』七月號で、いかさま教育論の偽善を嗤ひ、永井道雄氏と近藤信行氏を叩いたが、今にして思へば、外山氏の教育論を讀まずに書いた事が悔まれてならない。特に近藤氏に對しては、腹立ち紛れに殘酷な事を書いて惡い事をしたと思つてゐる。外山氏のでたらめに較べれば近藤氏の偽善など輕犯罪に過ぎない。近藤氏に對する罪滅ぼしとして、私はいづれ外山氏の教育論を徹底的に扱き下す積りだが、それはさておき、右に引用した外山氏の文章は、新聞の社説のそれに酷似してゐるのである。傍点を付した「讀者」は社説なら「國民」とたる、それだけの違ひに過ぎない。
それにしても新聞記者諸君、かういふ外山氏の安手の新聞批判をあなた方は滑稽だとは思はないか。外山氏は新聞記者とデスクと整理部を束にしてトンマと呼んでゐる。トンマが他人をトンマ呼ばはりして、したり顔である。これほど滑稽な事は無い。寢取られ亭主が寢取られ亭主を嗤つてゐる樣なものである。私は日本の新聞記者諸君が、例へば漆山成美氏の新聞批判の文章と外山氏のそれとを讀み較べ、外山氏ほどジャーナリズムに重宝がられぬ漆山氏が、眞面目に天下國家を憂へて新聞の惡口を言つてゐるといふ事實を確認して欲しいと思ふ。新聞に眞劍勝負を挑む敵と新聞をおちやらかす敵とをはつきり區別して欲しいと思ふ。人間、眞面目な敵とは繋がる事もできるのである。
一方、外山氏の臆病についてだが、私がかうして名指しで外山氏を批判しても、臆病な外山氏は決して私に反論しまい。先に引いた文章にしても、「警官にそんなことを言はせた新聞記者があるとすれば」といふ假定の話だからこそ、外山氏は安心して新聞の惡口が言へるのである。そして臆病な人間の世渡りは卑屈である。昨年週刊文春の匿名批評の筆者が、外山氏は贋物であり、「疑ふ人は外山滋比古『中年閑居して・・・・・・』を讀むがいい」と書き、雜誌の編集者に媚びる外山氏の文章を扱き下した事がある。全く同感である。
さて、以上外山氏の文章について書いた事は、そのまま「私」を用ゐない社説についても當て嵌まる。新聞の社説の筆者は決して「私はかう思ふ」と書かない。それは慣習に從つてゐるためといふよりは、むしろ勇氣が無いからである。おのれの意見に自信が持てず、從つて責任を負ひたがらぬからである。外山氏の著書にも、「らしい」とか「どういふものか」とか「どうしてだかわからない」とかいふ言葉が用ゐられてゐる。「どうしてだかわからない」事はどうしてだか解るまで言ふべきではないと、さう言ひたいくらゐ頻繁に用ゐられてゐる。
一方、外山氏と同樣、新聞も他人を意のままに動かさうなどとだいそれた事を考へる癖に、他人の意見を、すなわち世論を、大いに氣にするのである。それゆゑ口癖のやうに「國民は、國民は・・・・・・」と言ふ譯だが、「國民」とは第三人稱であつて第二人稱ではない。周知の如く催眠術師は常に第二人稱を用ゐる。それゆゑに成功するが、新聞は第三人稱を用ゐるから成功する事が無い。漆山成美氏が言つてゐるやうに、新聞はこれまで常に、國民が「安保条約に反對してをり、また米國の“下うけ的國家”である韓國などと手を結ぶことに懸念をもつて」ゐるかの如く主張した。けれども「そのやうな對外路線を遂行してきた保守黨はほとんど常に選擧ごとに國會の多數派を形成してきた」のである。それは新聞の催眠術が常に失敗に終つたといふ事に他ならない。
だが、私は「國民」だの「大衆」だのを信頼してゐる譯ではない。「國民」だの「大衆」だのには顔が無い。信頼のしやうが無い。D・H・ロレンスなら、「胃袋も男根も無い、そんなものは抽象的概念だ」と言ふであらう。萬人の平等と同質を前提とするデモクラシーをロレンスは憎んだが、それはロレンスが「俺は飽くまでも俺だ」といふ激しい信念と強い自信の持主だつたからである。さういふ自信を、外山氏も新聞も全く持合はせてゐない。「俺は飽くまで俺だ」といふ自信が無いから第一人稱で書かないのである。しかも、外山氏は知らず新聞は、「千萬人といへども吾れ往かん」との氣概無くして、千萬人ならぬ一億一千萬を動かさうと考へる。それゆゑ、トマス・マンの『マリオと魔術師』の魔術師と同樣、新聞が「國民」の劣情に付け入らうとするのは當然である。新聞はこの數ヶ月、汚職を難じて大衆の嫉妬といふ劣情に訴へようとした。だが、それが今後も常に失敗するとは、私は決して思はないのである。 
2 大新聞に言論の自由無し
言論の自由に限らず、すべて自由なるものは、平和と同樣、必ずしも望ましいものではない、私はさう思つてゐる。例へば、これは誰でも認める事だらうが、自制無き自由とは放縦である。ソルジェニーツィンも「眞に自由を理解してゐるのは、自己の法律上の諸權利を欲深く急いで利用する者ではなく、法律上の權利があつても自分自身を制限する良心をもつてゐる者」(染谷茂譯)だと言つてゐる。が、自由の喪失がいかに耐へ難きものかを身に染みて知つてゐない吾々にとつて、さういふ良心による自制が果して可能であらうか。いや、そもそも自制などといふ事が常に人間にとつて可能なのであらうか。
ローマの哲學者エピクテトスは奴隷であつた。生殺与奪の權を握つてゐる主人が或る日、エピクテトスの足を捩ぢ曲げようとした。その時、エピクテトスの言つた事はかうである。「そんな事をなさると私の足が折れてしまひます。それ、それ、折れてしまつたではありませんか」。かくて彼は奴隷であるばかりか「身體障害者」にもなつた譯だが、終生それを愚痴らず、跛になつた原因についても語らうとはしなかつた。それゆゑ、主人が彼の足を折つたのだといふ話に確證は無い。リューマチが原因だとする説もあるのである。が、エピクテトスの『語録』を讀むならば、彼の哲學とこの挿話とが調和するといふ事實を吾々は認めざるをえない。さういふ見事な人間がゐたのである。たとへ吾々がエピクテトスの樣な人間になれぬとしても、さういふ見事な人間がかつてこの世に存在した事を吾々は忘れてはならない。實際、車椅子の持込みを主張してバスの運轉手と口論する現代日本の「身體障害者」とエピクテトスと、同じ人間でありながら何たる相違であらうか。
エピクテトスを見事だと思ふ以上、傍目を構はぬ「身障者」の行爲を、吾々は醜惡に思ふであらう。いや、身障者に限らない、自由を希求し、一切の束縛を嫌ひ、己が權利を遮二無二主張する手合は、「石ころと思はれる程辛抱強く」生きたエピクテトスを思ひ深く恥ぢ入るであらう。今日の吾々がエピクテトスのストイシズムに學ぶべき事は多い。忍耐と諦念を説くエピクテトスは、「自分のものだけを自分のものと思ひ、他人のものは他人のものと思ふ」樣な人間だけが自由なのであり、他人のものを自分のものと思ふならば、人は絶えず不滿を抱き、擧句の果てに「神々や他人を呪ふ樣になる」と言つてゐるのである。
だが、かういふ見事なるストイシズムにも限界があつて、『サシとの對話』においてパスカルは、エピクテトスの説く「内なる自由」を「惡魔的尊大」と評してゐる。パスカルによれば、エピクテトスは人間の無力を知つてゐなかつた、といふ事になる。パスカルの批判は正しい。人間は偉大だが、同時に頗る惨めな存在なのである。早い話が、吾々のすべてがエピクテトスの樣に振舞へる譯ではない。吾々が皆、禁欲的で自制しうる人間ならば、この世に神や惡魔や戰爭や悲劇は存在しない事になる。とすれば、人間の無力を認めるといふ事が、ストイシズムの限界を認めるといふ事なのである。そして、ストイシズムの限界を認める以上、吾々は人間が「何か自己以外のもの」によつて束縛されるのはよい事だといふ事をも承認しなければならなくたる。吾々はなぜ人を殺さないのか、盗まないのか、姦淫しないのか。それは自制のせゐだけではない、法に縛られての事である。自制は不要だなどと私は言つてゐるのではない。自制は絶對に必要である。が、自制だけでは足りないのだ。吾々は自己以外の何かに縛られねばならぬ。そして、吾々を縛るものが神でないのなら、それは必然的に權力、もしくは吾々を縛る資格を有する「他の人間」だといふ事になる。詰り、權力無しに自由無しといふ事にもなる。
「大新聞に言論の自由無し」といふ題を与へられて、のつけから大上段に振りかぶつたが、それも今日、言論の自由について論ずる人々が自由といふものの厄介た面について觸れようとしない事を日頃殘念に思つてゐるからであり、また、以上の前口上は以下言論の自由について、いささか身も蓋も無い話をする爲に必要な布石だと考へたからである。
今日、言論の自由について、或いは自由一般について語る場合、人々は專ら外的束縛からの自由を考へる。がすでに述べた樣に、ストイシズムの限界を認める以上、外的束縛は必要不可欠といふ事になる。例へば、大新聞の擴張販賣競爭は一向に止む氣配が無い。それはなるほど嘆かはしい現象だが、同時に頗る當然の事でもあるのであつて、權力の規制によらずして新聞の自制に俟つとすれば、即ち新聞のストイシズムに期待するしか無いとすれば、擴販競爭の根絶はまさに百年河清を待つ樣なものだからだ。大新聞にポルノは掲載されないが、それは自制によるのではなく、讀者が大新聞にそれを期待してゐないからである。低俗週刊誌のポルノを樂しむ讀者も、大新聞にポルノが載る事は望まない。詰り、大新聞もまた讀者に束縛されてゐるのであり、大新聞にポルノ嫌ひの木石が揃つてゐる譯では斷じてないのである。
すでに明らかであらうが、大新聞も外的束縛から自由ではないのだから、大新聞に言論の自由が無いのは當然である。もう少し例を擧げよう。どんなに進歩的な大新聞も皇室を露骨に批判する事は無い。來日する外國の大統領の言動を敬語抜きで報ずる事はあつても、皇室に關する記事にその種の粗相は無いのであり、それは詰り、大新聞に皇室を批判する自由が無いといふ事なのである。いや、皇室に限らない、金融界の批判もタブーである。そしてそれも當然で、莫大な赤字を抱へてゐる大新聞が、金を借りてゐる銀行の内幕をあけすけに暴露出來る筈は無い。
大新聞にはタブーがあり、言論の自由は無い。と、さう書けば、大新聞は天下の公器として權力を批判してゐるのではないか、と思ふ讀者もあるかも知れぬ。が、大新聞が批判するのは強者ではない、例外無しに弱者である。例へば、讀賣、朝日、毎日の所謂三大紙は超大國アメリカに對して批判的である。が、日本の大新聞にとつてアメリカは強者か。否、弱者である。ウォーターゲイト事件以來、とみに弱者になつたのである。また、三大紙は自民黨に對して批判的だが、自民黨とは日本の政黨のうち、批判に對して最も寛大な、或いは最も弱腰の政黨ではないか。一方、三大紙が批判したがらぬ國家や政黨はすべて強者である。『言論人』の讀者に對して、それが何かは改めて言ふまでもないであらう。
強きを助け弱きを挫く、それが三大紙の體質である。もとより三大紙は、弱きを助け強きを挫いてゐる積りでゐよう。要するに自己欺瞞である。どうしてさういふ事にたるのか。「天下の私器」でしかないとの自覺が無いからだ。新聞もまた私利私欲からは自由たりえず、從つて新聞を抑へうる樣な外的束縛からも自由たりえないとの自覺を欠いてゐるからだ。要するに新聞は、束縛無しに自由無しといふ事を全然理解してゐないのである。 十七世紀のイングランドにおいて人々は自由を切望したが、それはスチュアート家による專制支配があつての事である。同樣に、十八世紀のフランスにおいて、自由とはブルボン家からの自由を意味した。クランストンが言つてゐる樣に、自由といふ言葉の意味するものが明確になる爲には、自由を敵視する權力の存在が不可欠なのであり、言論の自由を希求する情熱の眞摯は、冷酷なる權力によつて保證されるのである。言論の自由とは戰ち取らねばならぬものなのだ。それゆゑ、言論の自由を抑圧する強者と戰ふ者にしか言論の自由を云々する資格は無い。弱者を強者と誤認し、そのくせ眞の強者とは戰ひたがらぬ大新聞に、言論の自由を求める眞摯な姿勢が欠けてゐるのは、してみれば怪しむに足りぬ事である。三大紙は日本共産黨の圧力に屈したではないか。孤軍奮鬪のサンケイを拱手傍觀してゐるではないか。
強者と戰はぬ大新聞に言論の自由は無い。そして今日、強者中の強者は大衆である。數百萬部もの部數を誇る大新聞はその數百萬の大衆を強者とみなして、それと戰つてゐるだろうか。否である。大新聞は大衆を輕蔑してゐる。本氣で戰ふ積りは無い。そのくせ、大衆を恐れてゐるのである。何とも奇妙た話ではないか。大新聞は輕蔑してゐる當の相手を何よりも恐れてゐるのだ。大衆に教へを垂れ、意のままに操れると思ひ込んでゐるくせに、大衆の機嫌を損ずる樣な事だけは決して書けないのであつて、詰り大新聞には大衆を切り捨てる自由が無いといふ事になる。それがあるのはミニコミであり、ミニコミだけが強者と戰つてゐる。自由のあり過ぎる吾國においては大衆が強者なのだが、大衆を切り捨てられぬ大新聞は常に強者の幇間なのである。敵を持たぬ強者に自由を求める戰ひは無縁である。ましてその幇間がどうして言論の自由などを必要とするであらうか。 
3 「人間不在」の元旦社説
新聞の社説を丹念に讀む讀者は殆どゐないと思ふ。私自身、社説は滅多に讀まない。女性週刊誌や平凡パンチの廣告には必ず目を通す。けつこう樂しいし、また有意義だからである。例へば、『微笑』といふ週刊誌の廣告などは、それを讀むだけで淫亂症の實態が解る。また、所謂三面記事は貪るやうに讀む。特に兇惡犯罪の記事はさうである。が、社説だけは讀まない、見出しさへ讀まない。私だけではない、皆さうだらうと思ふ。では、なぜ人は社説を讀まないか。面白くないからである。今囘、マスコミ文化編集部から、元旦の新聞の社説を讀んで感想を書くやう依頼され、各紙の社説を讀まざるをえぬ事となり、改めて社説なるものがいかにくだらぬかを痛感した。くだらぬし、およそ面白くない。あれでは誰も讀むはずがない。
では、新聞の社説はなぜ面白くないのか。社説の文章は「人間不在」の文章だからである。六法全書や日本國憲法の文章と同樣、個性の欠如した文章だからである。從つて社説には署名が無い。「人間不在」の文章、人非人の文章である以上、無署名が當然といふ事なのであらう。元旦の讀賣の社説は、日本には自分といふ言葉があるのに、「他分」といふ言葉が無いのはなぜか、といふ事を問題にして、「歐米を除く他民族への配慮の欠如も目に餘る。自分だけでなく他分のことも考へないと、どんな美辭麗句を並べようとも、しよせんは仁の心に欠ける巧言令色に終はるのが落ちだらう」と書いてゐるが、この讀賣の社説の筆者自身が、文章を綴るに當つて「他分」の事を考へてゐないのである。そして、「他分」の事を考へぬ文章は必然的に「人間不在」の文章になる。讀賣の社説から、その證拠を一つだけ擧げておかう。かうである。
「さいきんの日本について、アメリカの軍事、經濟的な保護、いはばアメリカといふ名のサングラスに甘やかされてきた日本人が、とつぜん眼鏡をはづされたため、強い太陽光線のやうな國際情勢を直視して目がくらんでゐるといふ風刺は卓抜だと思ふ」。
これは他人、すたはち讀者の事を考へない文章である。惡文である事は勿論だが、それはともかく、アメリカに甘やかされて來た日本人が突然「眼鏡をはづされ目がくらんでゐるといふ風刺」とは、一體誰が思ひ付いた風刺なのか。卓抜だと筆者は言つてゐるのだから、まさか筆者自身が捻り出した風刺ではあるまい。それなら誰か。社説はそれを明らかにしてゐないのである。讀者が當然知りたがる事柄を言ひ落すやうな筆者は、讀者の事を、すたはち「他分」の事を考へてゐない。「日本の哲學者の文章にはダイアレクティックが欠けてゐる」とは至言である、とだけ書けば、讀者は當然、その至言は誰の言か、それを知りないと思ふはずだ。それは田中美知太郎氏の言である。ダイアレクティックを欠いてゐるのは哲學者の文章だけではない。社説もさうなのだ。一人前の大人なら誰しも心の中で對話を行ふ。が、この讀賣の社説の筆者はそれをやつてゐない。半人前の文章、人非人の文章と評するゆゑんである。
そしてまた、一人前の大人なら、誰しも理想と現實との乖離を承知してゐよう。心の中で絶えず理想主義者と現實主義者とが對話してゐよう。が、社説の筆者は實生活においては現實主義者なのだらうが、ペンを握れば立所に甘い理想主義者になる。例へば毎日の社説の筆者は「國民大衆の生活を政治の根幹に据ゑ直す姿勢を、強く訴へておきたい」と言ひ、ついでかう書いてゐるのだ。「安定した収入に支へられ、職を失ふ恐れをもたない。病を得ても安んじて十分な醫療が受けられ、ときには一家で餘暇を樂しむ。夫婦は老後を憂へることなく、子どもは受驗地獄の責め苦なしに教育を受け、就職の道が廣く開かれる。(中略)‘おそらく’圧倒的多數の人々は、かうした条件のどれかを欠いてゐるのが實情ではないだらうか」
「おそらく」などといふ副詞は不必要である。毎日が描いてみせる幸福の条件のすべてをみたしてゐるやうな家庭はどこにも存在しない。存在するとすれば、それは痴呆の集りである。だが、それにしても、何と輕薄なユートピア論議であらうか。毎日はまた「同じ地球上で、飢ゑにさらされ、貧困に苦しむ開發途上國の民衆レベルにまで到達し、底深く浸透するやうな協力援助の實績が着實に積み上げられてこそ、日本に向けられた惡評と侮べつを、信頼と尊敬に轉化させる力にもなる」と言つてゐるが、これまた途方も無い綺麗事である。新聞の社説は綺麗事しか書かない。そして綺麗事しか言はぬ人間は人間ではない、人非人である。
ベルジャエフは「この世における道徳は善惡二元論よりなつてゐる。換言すれば、善惡二元論が道徳を成立させる前提となつてゐる。これに反して、一元論は道徳の説明に都合が惡いばかりでなく、道徳にたいする人間の熱意を弱めてしまふ」と言つてゐるが、その通りであつて、綺麗事を並べたてる新聞の社説には、道徳に對する熱意など微塵も無いのである。それに、「飢ゑにさらされ、貧困に苦しむ開發途上國の民衆レベルにまで到達し、底深く浸透するやうな協力援助」など、いかなる國家にもやれはせぬ。もしも日本がそれをやつたならば、毎日の社説が主張してゐるやうな幸福を自國民に与へる事は、現在以上に難しくなつてしまふ。綺麗事を並べ立てる時、人はとかくこの種のたわいもない矛盾を犯すのである。さうではないか。自國民をもつと幸福にし、なほかつ他國の「民衆レベルにまで到達」するやうな援助をする、そんな事は所詮不可能ではないか。人間にはエゴイズムがある。國家にもエゴイズムがある。當然毎日の主筆にもエゴイズムがある。が、すでに述べたやうに、一旦筆を執れば新聞人はそれを忘れるのである。なるほど個人も國家も、他人や他國に對して殘酷であつてはならない。が、再びベルジャエフを引くが、「殘酷であつてはならないと命じる掟は、われわれが一つの價値をえらんで他の價値を捨てるには、どうしても殘酷にならざるをえないといふことに氣づいてはゐない」のである。殘酷であつてはならぬ、寛大であれ、とは理想であつて、殘酷にならざるをえないといふのが現實である。一人前の大人なら誰しもこの理想と現實との相剋を體驗してゐよう。が、毎日の社説の筆者はそれを體驗してゐない。半人前の文章、人非人の文章と呼ぶゆゑんである。
ところで、朝日の社説には「どこの國にもエゴイズムがある」といふ一節があつた。また、東京の社説には「總論や建前のキレイゴトでは何も解決できないことを自覺し、本音と各論で勝負すべし」との一節があつた。それゆゑ私は、朝日と東京の社説を、讀賣、毎日のそれよりも高く評價する。特に東京は、「假に黨内に反對があらうが、支持票が一時的に減らうが、圧力團體の反對が強からうが、斷固として實行せねばならない」とか、「建前だけのキレイごとを言ひ、いざ一部で反發があればすぐ手を引いたり、政治の責任で犠牲の分担をしないから、絶對反對のエゴ風潮が横行し、結果として、より大きなツケを拂ふことになる」とか、拙い文章ながら、かなり明確に筆者の信念を表明してゐて好感を持てたのである。ただし、その東京にしてからが、喧嘩兩成敗式の高みの見物をきめこむ新聞人の病弊は免れてゐない。例へばかういふ文章である。「公正をめざす政治と同時に強者にはもつと倫理と慎みが強く求められる。むろん弱者も現状への不滿をすべて政治惡、社會惡のせゐにし、自己主張のみ振りまはす風潮は反省を要しよう」。強者も反省せよ、弱者も反省せよ、要するに「喧嘩兩成敗」である。が、東京新聞よ、夫子自身は一體どちらなのか。新聞は強者なのか、弱者なのか。東京も朝日も、今年こそは「政治の指導力と實行力」あるいは「民主主義の統治能力」が必要とされようと書いてゐるが、指導力とか統治能力とかは強者が發揮するものである。そして強者をしてその能力を發揮せしめないやう能力を發揮してゐるのが、他ならぬ新聞ではないのか。
サンケイは社説と稱する事なく「年頭の主張」とし、「社長鹿内信隆」の銘を打つて、萬事を金で解決しようとする風潮を批判してゐる。朝、毎、讀、東京、日經、いづれの社説も、程度の差こそあれ、文章がよくない。サンケイの文章だけが合格である。そしてサンケイの「社説」だけが明確な主張を持つ、個性的な文章となつてゐる。今後各紙の主筆はサンケイを見習ひ、明確な自己主張をやつて貰ひたい。社内の思惑などを氣にする事なく、自己の信念を披瀝して貰ひたい。さうすれば、喧嘩兩成敗・高みの見物式の人非人の文章など到底書けなくなるであらう。 
4 破れ鍋に綴ぢ蓋
山本夏彦氏は「以前ずゐぶん惡口をいはれた」さうである。暴論めいた事を書いては、男尊女卑だと言われ、古いと言はれ、封建的だと言はれた。が「この四、五年、どの雜誌に書いても怒つてくるものがなくなつた」と、山本氏は『諸君!』一月號に書いてゐる。そして山本氏は、これは「喜んでいいことか悲しんでいいことか知らない」が、讀者が怒らなくなつたのはポルノ小説のせゐではないかと言ふ。
山本氏の奇抜な説を紹介するだけの紙數が無いのは殘念だが、昨今の讀者が寛容になつたのは事實だと思ふ。私はサンケイ新聞に週刊誌批評の文章を書いてゐて、かなりの極論を吐く事があるが、抗議の手紙を受け取る事が無い。それは喜んでいい事なのか、悲しんでいい事なのか。いづれにせよ、今後一年間、新聞を斬る事になつた。時に極論を吐く。よろしく。
さて、本居宣長は『紫文要領』に、「よろづのこと、わが思ふかたのみを以て、世の人のいふところをひたすらにいひおとすは、是すなはち物の哀しらぬ、我執のつよき人也」と書いてゐる。宣長によれば、「見識」を立てずして「世の風儀人情」に從ひ、世間を憚つて生きる人間こそ「物の哀」を知る人なので、世人の信ずるところを信ぜず、世論を疑ひ、世論を「いひおとす」者は「我執のつよき人」なのである。要するに、智に働いて角が立つ事を宣長は嫌つたのであつて、それはそのまま今日の日本人の心情であらう。私も日本人だから、さういふ心情を尊重するが、日本の新聞を斬る役廻りとあらばやむをえない、時に智に働いて角が立つ事も言はざるをえない。それに日本の新聞は「見識」を立てず、「世の風儀人情」に從つてゐるくせに、「世間を憚つて生きる」といふ殊勝な心掛けはまるで欠いてゐるのである。
新聞は杜會の木鐸をもつて任じてゐる。オピニオン・リーダーだと思つてゐる。が、實際は「世の風儀人情」に從つてゐるに過ぎない。世論に迎合してゐるに過ぎない。例へば、尖閣諸島の歸屬問題に關する園田外相の説明と、4(登+邑)小平副首相の日本における發言とは明らかに食ひ違つてゐる。が、日本の新聞はその食違ひを徹底的に衝いた事が無い。澎湃として起つた日中友好ムードに酔ひ、世論を憚つて、尖閣諸島などどうでもよい事にしてしまつたのである。そして新聞がいい加減なら讀者もいい加減、いはば破れ鍋に綴ぢ蓋なのである。いい加減な讀者が新聞のいい加減を咎める筈は無い。
新聞は「知らせる義務」を言ひ、讀者は「知る權利」を言ふ。が、双方ともに決して本氣ではない。讀者が知りたいと思ふ時、新聞は知らせない。新聞が知らせたいと思ふ時、讀者は知りたがらない。人の噂も七十五日といふ。新聞は噂話の種をまき、讀者は七十五日間それを樂しむ。いや、七十五日もつづきはしない。一月もたてば噂は消える。
自民黨總裁選擧に關する新聞報道も噂話に滿ちてゐる。十一月二十三日付の東京新聞は「全國各地で相手かまはず大量の色紙や名刺がバラまかれてゐると‘いはれる’」と書き、「總裁候補を持つてゐる派閥の議員に對してすら、大平・田中陣營から“實彈”が飛んでゐるとの‘ウハサ’が‘絶えない’」と書き、「田中元首相と“田中軍團”のやり方(中略)はまさに“常識”をはるかに上廻る猛烈さで展開されてゐる‘との見方が黨内には強い’」と書いた。「常識をはるかに上廻る猛烈さで展開されてゐる」のなら、眞相糺明は難しくないだらう。その難しくない事をやらうとしないのは、新聞に「知らせる義務」を果さうといふ氣が無いからだらう。讀者もまた「ウハサが絶えない」といつた程度の報道で滿足してゐるからだらう。新聞には知らせる氣が無いし、讀者も知りたがつてはゐない。つまり破れ鍋に綴ぢ蓋なのである。
自民黨總裁選擧の報道に關して、もう一つ私が奇怪に思つた事がある。周知の如く予備選擧の結果は新聞の予想を裏切り、大平氏が新總裁に就任した。各紙はありきたりの釋明をしてすませ、いさぎよく不明を詫びる事をしなかつたが、それをけしからぬ事と考へ、「新聞は頭を丸めるべし」とて、反省を求める向きもある。が、私にはそれが納得できない。新聞に對する注文は多々あるが、新聞に八卦見の役を演じてほしいとは私は思はない。予想がはづれたからとて、なぜ新聞は謝らなければならないのか。それよりも、なぜ新聞は選擧のたびに、あれほど空しい予想にはしやぐのか。新聞に反省してもらひたいのはその事である。天氣予報がはづれて迷惑する人はゐるだらう。が、總裁選擧の予想がはづれて誰が迷惑するか。選擧の結果は開票して判明する。開票前の予想は所詮噂話の種でしかない。噂話の種でしかない事柄に、なぜ新聞ははしやぐのか。噂話を好む大衆の事を考へれば、開票まで待てない輕薄を考へれば、選擧の予想をまつたく無意味だとは言はないが、少くとも無意味ではないかとの疑ひを新聞は持つて貰ひない。
さういふ譯で、福田有利の予想がはづれたからとて新聞は反省する必要は無い。が、もしも福田優勢の予想が爲にする予想だつたのなら話は別である。すなはち、福田優勢を報じて福田再選を阻止しようとしたのなら、新聞は大いに批判されねばならないが、今囘さういふ下心は持合せてゐなかつた筈であり、それなら「頭を丸める」必要などまつたくありはしない。
ところで、知る權利を主張しながらその實知りたがらぬ讀者を相手の商賣だから、新聞は「知らせる義務」を言ひながら知らせようとしない。或いは新聞自身、知らうとしない。「田中金脈」の發掘も『文藝春秋』にしてやられた。今囘の予備選でも、田中派の物量作戰が効を奏したといふ。それなら、またぞろ總合雜誌や週刊誌にしてやられぬやう、新聞は噂が事實かどうか今のうちに徹底的に糺明してはどうか。いや、さういふ事を新聞に期待するのは無理なのかも知れぬ。知りたがらぬ國民は知らせたがらぬ新聞しか持つ事ができないのかも知れない。日米安保や自衞隊を4(登+邑)小平が肯定すれば一向に騒がず、アメリカや日本政府が肯定すれば熱り立つ。その新聞のでたらめを新聞も讀者も怪しまない。破れ鍋に綴ぢ蓋と評するゆゑんである。 
5 公正とは喧嘩兩成敗に非ず
表向きは公正を唱へながら、その實、新聞は公正ならざる事をする。全逓の所謂、「反マル生鬪爭」をめぐる報道がさうである。十二月二十日付の朝日は、全逓が提出した「二十九項目の労使改善要求」について、全逓の要求を「要約すると、(1)役職者の登用は古い順(單純先任權)、(2)故郷へのUターン人事は労使協議で、(3)處分を人事考課の對象としない、(4)訓練の公開、(5)一切の不當労働行爲の禁止など」となり、「全部ひつくるめて受け入れよと迫る全逓に對して當局は、マル生は皆無に等しいと信じる、全部といつて藻單純先任權なんてのめるわけがないとして組合の要求を受け付けず、まだ實質的な交渉になつてゐない」、「紛爭の根底にあるのは双方の根強い不信感だ」と書いてゐる。つまり労使双方ともに不信感を捨てるべしといふ御託宣である。けれどもこの世には、いかに努力しても捨て切れぬ類の不信感といふものもある。それに、不當極る要求を突き付けられてゐる以上、不信感を捨てろと言はれて捨てられるものではない。朝日の記事は、『出口見えぬ全逓鬪爭』と題してゐるが、なぜ全逓鬪爭の「出口が見えぬ」のか。言ふまでもない、當局をして到底「のめる譯がない」と言はしむる程の無茶な要求を全逓が突き付けてゐるからである。郵政省が全逓の要求を呑めない理由を朝日は知つてゐる。例へば「單純先任權」なるものの正體を知つてゐると思ふ。それがいかに不當極まる要求であるかを知つてゐる癖に、朝日はそれを詳しく知らせようとせず、「單純先任權」とは「役職者の登用は古い順」にするといふ事だ、などといふ「要約」によつてお茶を濁してゐる。なぜか。「單純先任權」なるものが實に不當極る要求で、それを詳しく説明すると、全逓に不利になるからだ。惚れた女の惡口は言ひたくない。朝日は全逓に惚れてゐるのである。それなら全逓のはうが惡いにきまつてゐる。
では「單純先任權」とはどういふものか。十二月二十日付サンケイの正論欄に奥原唯弘氏が書いてゐるやうに、それは「勤務成績、能力、適性などを考慮せず、局に入つた古い順に昇任させること」なのである。「單純先任權」とだけ言はれても讀者は何の事か解らず、解らなければ無理ならぬ要求かと思つてしまふ。が、サンケイの奥原氏の文章を讀んだ讀者なら、そのやうな非常識な要求を當局が呑めない理由について納得するに違ひ無い。朝日は「勤務成績、能力、適性などを考慮せず」といふくだりを伏せてゐる譯である。公正ならざる要約によつて全逓に肩入れしたかつたからである。
また、朝日の言ふ「處分を人事考課の對象としない」とは、奥原氏によれば「違法ストに參加したことによる處分を人事考課上のマイナス評價としない事」であり、「懲戒處分(戒告、減給、停職)をうけても、處分を受けてゐない者と同じに役付登用、給与上の格付け引き上げの候補者とすること」を意味する。何と蟲のよい要求か。
さらに驚くべきは「職場で暴力事件等が發生しても、告發などせず、労使協議で處理すること」といふ要求であつて、全逓はどうやらゲバ學生と同樣、職場を治外法權にしようと考へてゐるらしい。さすがにこの要求だけは、惚れた朝日も「要約」しやうが無かつたやうである。
「マル生鬪爭」の報道に關して氣になる事がもう一つある。大方の新聞論調は、郵政業務の混亂を、全逓と郵政省の双方が責任を負ふべき事としてゐる。つまり、どつちもどつちといふ譯であり、新聞はどつちもどつちといふ態度を採る事を公正と心得てゐるらしいが、どつちもどつちとは、とかく馬鹿がおのれを利口に見せようとする時に採る態度なのである。
喧嘩兩成敗を公正と勘違ひするのは、自信のない馬鹿か、薄のろの宦官だからである。 十二月二十日付の讀賣の社説も「どつちもどつち」的精神の典型である。讀賣は「郵政労使がドロ沼から脱するには、まづ建前論の呪縛から解放されねばなるまい」と言ふ。郵政省當局にも、全逓にも、更にはまた「反『反マル生鬪爭』に取り組む全郵政労組にもそれぞれ自重を望みたい」と言ふ。そして讀賣は「當局、全逓、全郵政三者が、最も極端な例を擧げては、自らの職場を傷つけ合ふ愚は避けられないものか」と慨嘆する。この種の利口振る馬鹿程始末に負へぬものはない。空しい綺麗事を書き連ね、「踊る阿呆」を批判し、安全地帯の高みに立つては、手を汚しつつある他人の爭ひを嘆く。宦官が痴話喧嘩を嘆くやうなものである。
もう少し例を擧げよう。十二月七日付毎日新聞社説は「自民黨は醜い政爭をやめよ」と題して、幹事長人事をめぐる自民黨の黨内抗爭を批判してゐる。「いかに予備選擧の“後遺症”とはいへ、黨幹事長人事をめぐつて憎惡の感情むき出しのドロドロした爭ひをみせつけられると、自民黨がいかに近代的政黨の體をなしてゐないかがよくわかる」けれども、「しかし、視点を變へて今日の異常事態をながめると、野黨も何のために存在してゐるのかと思はざるを得ない」と毎日は言ふのである。これまた「どつちもどつち」的な批判である。けれども、毎日よ、夫子自身はどうなのか。毎日の社内には「ドロドロした爭ひ」は一切無かつたのか。「憎惡の感情」を「むき出し」にした杜員は一人もゐなかつたのか。毎日に限らぬ。賢人面をして喧嘩兩成敗式の「公正」を言ひ、無意味な綺麗事ばかりを言ひつづけて來た新聞こそ、「何のために存在してゐるのかと思はざるを得ない」存在ではなかつたのか。
新聞記者に限らず、日本人は正義といふものに強い關心をもたぬ。和をもつて尊しとなし、自己の信念を貫く野暮天を嫌ふ。永井荷風は明治四十二年「西洋人は善惡にかかはらず、自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情がある。僕はこの熱情をうれしく思ふ」と書いた。石川啄木はそれを讀み、それ程まで西洋人が好きならば、荷風氏は西洋に歸ればいい、と言つたといふ。成程、洋行歸りの鼻持ちならぬ淺薄に、今も昔も變りは無いかも知れぬ。けれども荷風は、けちで好色この上無しではあつたが、喧嘩兩成敗の氣輕を樂しむ輕薄な男では決してなかつた。日本は今後も「自分の信ずる處を飽くまで押通さうとする熱情」を持つ西洋と付合つて行かなければならぬ。『四畳半襖の下張』はやがて解禁されようが、地下の荷風はそれだけを果して喜ぶであらうか。 
6 日本といふ愚者の船
「斷固として信じるのは狂人だけだ」とモンテーニューは言つた。なるほど、正氣の人間なら疑ふ事を知つてゐる。一切合財を疑つて自分は何も確かな事を知らないと、さういふところまで考へ抜いたのはソクラテスである。ソクラテスの「無知の知」が人間を幸福にするかどうか、それは難しい問題だが、それにしても新聞があまりにも物事を安直に信じる事を、私は日頃苦々しく思つてゐる。例へば一月十九日付の毎日によれば、「グラマン疑惑の渦中の人」ハリー・カーン氏の自宅には、「初刷なら時價一千萬圓は下らないといふ歌麿の作品數点をはじめ、浮世繪やびやうぶなどがところ狭しと並んで」ゐるといふ。そして毎日は、この「新たに浮かび上がつたカーン氏の一面は、同氏と日本のかかはりの深さを物語つて」をり、これらの浮世繪が「贈り物であれば、カーン氏に近い日本人からのプレゼントといふ圖式が浮かぶのだが・・・・・・」と書いてゐる。
カーン氏が何人妾を持つてゐようと、いかに高價な骨董を持つてゐようと、「グラマン疑惑」なるものとは目下のところ何の關係も無い。が、關係があるかも知れぬ、あつて欲しいと、毎日は思つてゐるのである。それは何ともさもしい嫉妬に過ぎない。金持を猜疑する淺ましい根性に他ならない。そして嫉妬にかられると、人間は「斷固として信じる」やうになる。オセローがさうである。オセローさへさうならば、高潔ならざる凡愚の輩はなほの事である。毎日はチータム發言を「斷固として信じ」たから、些細な事柄も決定的な證拠に見えてくる。つまり、カーン氏の浮世繪はデズデモーナのハンカチなのである。 朝日にしても同樣である。朝日は一月九日付の夕刊で、「E2C賣り込み介在高官、岸、福田、松野、中曽根氏」といふ見出しの下にチータム氏の發言を紹介した。それによると、チータム氏はかつて中曽根氏と「一度だけ會談」した事があり、その結果「やはり日商岩井を通じて賣り込むのがいいとの印象」を受けたといふ。そして朝日は「E2Cの對日賣り込みにかかはつたとみられるわが國の政治家の名前」がチータム氏によつて「具體的に明らかにされた」と書いたのである。
當然朝日の讀者は中曽根氏が「グラマン汚職」に一役買つたと思ふであらう。そこで中曽根氏はチータム氏に抗議した。するとチータム氏は、「朝日の報道は事實の歪曲であり誠に遺憾である」と言つたのである。朝日はさぞ慌てた事であらう。讀賣一月二十二日付夕刊は、中曽根氏宛のチータム氏の謝罪文を掲載したが、それによれば、朝日の記者に「日本の實力者と會つたか、あるいは知る機會があつたか」と尋ねられたチータム氏は、「イエスと答へ、財界、産業界、學界、政界を含む、おそらく二十−二十五人の名前を思ひつくまま擧げ」たに過ぎないと言ふ。
しかるに朝日の記者は「住友商事から、日商岩井への代理店變更に關与したとの憶測の下に四人の名前を見出しに掲げ」たのである。要するに朝日は、單なる「憶測の下に」、「不正確で事實を曲げた報道」をした事になる。チータム氏は朝日に謝罪を要求したが、何とも滑稽な話であつて、朝日はチータム氏に踊らされた擧句、踊り過ぎて謝れと言はれたのである。自業自得と言ふ他は無い。
一方、一月二十三日付のサンケイは「“おしやべり”チータムの素顔」と題して、徹底的にチータム氏を疑ふ記事を載せてゐる。そもそも「國際コンサルタント」としてのチータム氏を、不正を發く「正義の告發者」と看做す事は、その前歴からして無理であり、察するにチータム氏は、「ワイロがとびかふ國際商戰のなかで苦境に立」ち、それを打開すべく「正義の御旗をかかげ、有利な國際戰略に活用する一石二鳥をねらつてゐるともいへさうだ」といふのである。
サンケイの推測が正しいかどうか、それは今のところ誰にも解らぬ。が、チータム氏の發言は「宣誓なき證言」なのである。聖書に片手を載せ宣誓した上での證言がすべて正しいと信ずるのは愚かだらうが、「宣誓たき證言」が氣輕に行はれる事は確かであらう。新聞はまづそれを考へねばたらぬ。
輕々に信じない事、それは日本の新聞に欠けてゐる美徳である。吾々は身近な友人にも時に裏切られる。裏切られる事は必ずしも惡い事ではないが、簡單に欺かれるのは馬鹿か子供である。が、新聞は何と騙されたがるのであつて、それゆゑ馬鹿は死ななければ癒らぬとしか言ひ樣が無い。
二月三日付の東京新聞は、米中首腦會談において米中「双方の期待通りの成果があがつたとみてよからう」と言ひ、「テレビで初めて米國の實情にふれ、中國民衆の米國觀は一變したのではないか。米側も人氣のある4(登+邑)氏を迎へ、その口から臺灣平和解決などの言葉を聞いた。朝鮮戰爭以來の長いわだかまりは、急速にとけてゐる」と書いてゐる。中國におけるテレビの普及率を、東京の記者は考へに入れてゐない。また、テレビを見た位の事で中國人の「米國觀が一變」するはずと思ひ、4(登+邑)氏の發言を文字通りに受け取り、米中接近を心から喜び、國家間に眞の友情が成り立つと思つてゐる。何たる無邪氣か。アメリカが中國と手を結び、長年の同盟國臺灣を切り捨てるならば、いづれ日本を見捨てる事も、當然ありうるのである。が、東京の記者はそんな事は夢にも考へない。
要するに、日本の新聞記者の大半は熊公八公なのである。が、それをたしなめる隠居はどこにゐるのか。大衆の浮薄に苛立つたキルケゴールは新聞を批判する諷刺物語を書いてゐる。外洋を航行してゐる船に傳聲器が一つしか無い。しかもそれを食堂の給仕が持つてゐる。そして船員のすべてがそれを正當と看做してゐる。それゆゑ、すべての情報は給仕の頭腦によつて理解され、船内に傳達される事になる。それを皆が當然の事と考へてゐる。が、或る時、船長が船全體にとつて重要な命令を傳へたいと思ふ。當然給仕の助力が必要である。けれども給仕は、おのが理解力に應じて船長の命令を修正してしまふ。その結果、船長の命令は正確に傳はらぬ。船長は聲を張り上げる。が、傳聲器には太刀打ちならぬ。そこでどうなるか。給仕がやがて船長になる。さういふお話である。
新聞が傳聲器を持つ給仕なら、その國は「愚者の船」になる。そして早晩沈歿するしかない。新聞の責任は重いのである。 
7 人間は變らない
三月三日付のサンケイによれば、ベ平連のメンバーは今頗る困惑してゐるといふ。「被侵略者ベトナム」が「カンボジアに對する侵略者」となつたかと思ふと、今度はその侵略者ベトナムを中國が侵略した。ために、べ平連の鬪士たちは、「カンカンガクガクの論爭をくり返す」より他になす術が無いといふのである。けれども、彼らは本氣で杜會主義國は戰爭をしないと信じてゐたのだらうか。信じてゐる振りをすると儲かるし、平和を愛する善良な人間を演じるのは何としてもよい氣持なので、こんなぼろい商賣いつまでつづくかしらんと時々不安に思ひながらも、ついつい今日まで惡事を重ねて來ただけの事ではないか。儲かつてその上尊敬されるとあつては、それほどうまい話は無い。それが今、突然難しくなつて大いに慌ててゐるのだらうが、これが藥になつて彼らの商賣は今後もう小し上手になるのではないか、實は私はさう思つてゐたのである。が、それは私の買被りだつた。やはりこの世には死ななければ癒らないほどの馬鹿がゐる。
例へば、かつて新左翼の「理論的支柱」だつた東大助教授の菊池昌典氏は、二月十九日付の朝日で、社會主義に對する幻滅を率直に告白してゐる。「がつくりしました。社會主義に幻滅を感じさせるこれほど決定的なものはないでせう。社會主義は、國際連帯といふチャーム・ポイントを完全に失つてしまつた氣がします」と菊池氏は言ふのである。かういふ菊池氏の率直を褒め、一方、三月三日の朝日夕刊に「人間の基本から」と題する愚劣な文章を寄せた小田實氏の厚顔無恥を批判する向きもある。が、私はそれはどうかと思ふ。私は差別を惡事だとは思はないが、純眞な馬鹿と厚かましい馬鹿とを「差別」する事には反對である。菊池氏は「弱さにもとづく率直さ」を「チャーム・ポイント」にして再び稼ぎまくるかも知れないではないか。それゆゑ今やらねばならぬのは、純情であれ厚顔無恥であれ、すべての馬鹿に冷飯を食はせる事なのだが、これが實はとても出來ない相談なのである。吾國のマス・コミもまた馬鹿に牛耳られてゐるからだ。例へば朝日である。朝日は菊池氏に對して「知識人としての責任はどうか」などと言つてゐるが、この厚顔無恥には私も呆れた。ベトナム戰爭酣なりし頃、馬鹿の尻馬に乘つて散々アメリカを叩いた馬鹿が、今や臆面も無く馬鹿の責任を云々してゐる。目糞が鼻糞を笑つてゐる。これではもうどう仕樣も無い。何ともはや絶望的である。
社會主義國同士も戰爭をする。それは少しも驚くにはあたらない。社會主義國といへども人間の集團である。そして人間は人間たる事の限界を越えられぬ。解り切つた事である。古來、いかなる人間も人間の欠陥を免れなかつた。けれども、ただそれだけの事が進歩派やマスコミにはどうしても理解できない。ロッキード事件やグラマン事件にあれほど熱り立つゆゑんである。他人の惡徳を批判してゐると、人間はとかくおのれを善玉に仕立ててしまふものだが、馬鹿はその事に氣づかない。そして、氣づかないからこそぼろ儲けが出來る。
さういふ馬鹿を日本の吾々が制裁出來ない以上、諸外國をあてにするしかない譯で、中ソ戰爭でも勃發したのではないかと、ひそかに期待して、私は毎朝、新聞の第一面を見る。中ソ戰爭が勃發すれば、左翼文化人やマスコミの反省競爭も勃發するだらう。反省競爭は日本人のお家藝である。日本人は三十餘年前「一億總懺悔」をやつた前科がある。今日、同じやうな事態になつたら、さぞ面白からう。新聞を讀む事はさぞ樂しからう。
けれども、敗戰直後、反省競爭に現を抜かす馬鹿を尻目に、俺は「無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」と放言した男がゐた。小林秀雄氏である。そして小林氏は時勢の變化などに左右されぬ人間の本性を見抜いてゐた。他人の不幸を喜び、他國での戰爭を樂しみ、おのれの惡徳を棚上げして他人の惡徳に腹を立てる、さういふ度し難い人間の本性を見抜いてゐた。そしてそれが、菊地氏や小田氏には見えてゐない。利口と馬鹿との違ひは、結局それだけの事なのである。
けれども、三月十二日付の讀賣は馬鹿が利口になつた例を紹介してゐる。「フランス左翼の良心とも目されて來た」ジャン・ダニエルが、「人間は戰爭が好き」なのであり、「共産主義者もかうしたあまりにも人間的た欠陥を免れてはゐない」と言つてゐる。あまりにも當り前な意見で、人間は戰爭が好きなのだが、どうして日本の左翼にはダニエルのやうな考へ方が出來ないのか。やはり中ソ戰爭の勃發ぐらゐでは、日本の馬鹿はたうてい癒らないかも知れぬ。
サンケイが連載した「米ソ戰力バランスと日本の防衞」は好企畫であつた。とりわけアメリカの對ソ戰略專門家、ジョン・M・コリンズの意見は興味深いものであつた。コリンズはアメリカを信じ切つてゐる日本の甘さを痛烈に皮肉つて、「友人を守るために自分が死ぬ事など、一體だれが考へるだらうか」と言つたのだが、日本の新聞人にはかういふ發想が出來ない。國家も個人も人間の本性を免れないといふ事に氣づかない。が、「世界の軍事史上、大國が小國のために自分を犠牲にした例はない」のであり、個人も國家も、己れが生き殘るためとあらば非情にならざるをえないのである。
さういふ國際政治の非情をツキディデスが描いてゐる。大國アテナイは小國メロスに戰はずして降伏せよと迫る。メロスは同盟國スパルタの助勢を信じてゐる。アテナイは言ふ、スパルタは助けに來ない、助勢するだけの價値がある場合だけ、他國はその國を助けようとする、負けると解つてゐる國を誰が助けようとするものか。やがてアテナイはメロスを攻撃する。案の定、スパルタは助けようとしない。メロスは敗れ、メロスの成年男子は悉く處刑され、女子供は奴隷になつた。今から二千四百年も昔の話である。
そして二十世紀の今日、中越戰爭はあつけなく終つた。中國は自分を犠牲にしてまでカンボジアを助けようとはしなかつたが、それはポルポト政權が援助するに足りなかつたためであるよりも、ヴェトナム軍に腑甲斐なく敗れたポルポト軍の非力のせゐであらう。そしてまた、中越戰爭が起つても、ソ連は同盟國ヴェトナムにリップ・サービスをしただけである。してみれば、人間の本性は二千年以上たつて少しも變つてゐないといふ事になる。日本人が知るべき事はそれにつきる。大方の日本人がそれを知れば、馬鹿はおのづと稼げなくなる。けれどもそれは絶望的で、日本が戰場にならない限り、日本は愚者の樂園でありつづけるであらう。 
8 叩く馬鹿と褒める馬鹿
人間は天使ではない、けれども獸でもない。この世に完き善人もゐない代りに完き惡人もゐない。それを知る事が日本の新聞記者にとつて何よりも大切な事である。が、このところ海部八郎氏を叩いて樂しんでゐる新聞は、海部氏を完き惡人に仕立てなければ氣が濟まぬと見える。海部氏の中の獸を發き立てて新聞は興がつてゐる。例へば四月四日付の毎日によれば、海部氏は「獨自の調査網を使つて」競爭相手のスキャンダルを握り、「ピンチを切り抜ける」ための武器にしてゐたといふ。毎日は「地獄耳、手段を選ばず」といふ見出しを掲げ、「マキャヴェリスト」たる海部氏は、「市民社會や法の正義は關心の外だつた」と言ふのである。かういふ記事を書く新聞記者が必ず忘れる事がある。それはスキャンダルを握られる手合も惡いといふ事である。他人のスキャンダルを威しの材料に使ふ者だけが惡いのではない。脛に傷持つ手合も惡い。そして人間誰しも法を犯す。立小便やスピード違反なら私は何囘となくやつた。外爲法違反なんぞ、商社員なら誰でもやつてゐるといふ。その通りだらう。毎日新聞だつて叩けば埃が出るだらう。つまり、程度の差こそあれ、吾々は皆海部八郎なのである。
新聞の報ずるところを信じれば、海部氏には何ひとつ美点が無い。けれどもそんな筈は無い。海部氏も人間であつて惡魔ではない。四月十二日付の毎日によれば、東京地檢特捜部は「時價數億圓にのぼる全國各地の海部所有の不動産」のうち「六ヶ所を外爲法違反容疑で家宅捜索したが」、澁谷駅近くのマンションの一室には、童謡を吹き込んだテープが「うづ高く積まれ」、數臺の模型機關車、貨車、ぬひぐるみの人形、「その他のオモチャ類でいつばい」といふ状態だつたといふ。そして海部氏は、その部屋を「息抜きのための書斉」と呼んで家人も寄せつけず、「運轉手も中へ入れたことがなかつた」が、そのマンションの一室から出て來る時は「必ずといつてよいほど、上きげん」だつたさうである。毎日は「開けてびつくり海部メルヘン」などといふ見出しを付け、海部氏を嘲笑してゐる。が、私は最近これほど感動的な事實を新聞紙上に讀んだ事が無い。海部氏が新聞の傳へるやうな完き惡人ではないといふ事を、これほど雄弁に物語る事實は無い。
海部氏は「息抜きのための書斉」に家人を寄せつけなかつた。その理由を毎日の愚昧なる記者は理解出來ないに違ひ無い。要するに、海部氏はおのが善良を家人に對してすら恥ぢたのであつて、善良を看板にして世を渡る政治家やジャーナリストは海部氏の爪の垢を煎じて飲むがよいと思ふ。
毎日は言つてみれば他人を叩いておのれの性惡を忘れる馬鹿である。が、この世には他人を無闇やたらに褒める馬鹿もゐる。例へば四月四日付の東京新聞は、法務省の伊藤榮樹刑事局長を「予算委員會の“名優”」と呼び、こんなふうに褒めちぎつた。すなはち、伊藤局長は「兩院予算委の長丁場にことごとく付きあひ」、「見事に“水先案内役”を果たし」たが、その「名答弁ぶり」たるや、「次から次へとふくらむ疑惑に、ある時はぼかし、ある時はドキッとするやうな表現で、決して手の内は明かさず、それでゐて質問者を滿足させ」たのであつて、その「テクニックは心にくいほどだつた」。つまり「おおつと榮さん名調子」だつたといふのである。東京は伊藤刑事局長に百点滿点をつけてゐる。他人をだらしなく褒めて救ひ樣の無い馬鹿になつてゐる。が、他人を褒めるにも技術は必要であつて、褒められたはうが照れ臭くなり、穴があつたら入りたくたるやうな褒め方は下の下なのである。勿論、褒められて腹を立てる奴はゐないから、伊藤局長もついうつかり相好を崩し、二度三度、東京の記事を讀み返したかも知れぬ。が、そのうちに、手放しで褒める新聞記者の淺はかに氣づいたに違ひ無い。氣づかなかつたなら、伊藤局長も大馬鹿だが、刑事局長は新聞記者並の馬鹿には勤まらないだらうと思ふ。
要するに毎日は叩く馬鹿、東京は褒める馬鹿なのである。まともな大人ならどちらの馬鹿にもなり切れない。しかるに、日本國は弱輩の天下で、子供並の大人がしこたまゐる。新聞記者に限らず、政治家にも發育不良の大人がゐる。例へば古井法務大臣である。古井氏は四月六日付の讀賣に、その「獨自の政治哲學」とやらを披露してゐる。その發言から察するに、古井氏は政治のいろはも弁へぬ全くの素人であるやうに思はれる。讀賣によれば、古井氏は「硬骨漢」ださうだが、どうやら「硬骨漢」とはしやにむに無知を押し通す人間の謂であるらしい。古井氏は政治が嫌ひだと言ひ、政治に金が掛る事に我慢がならないと言ふ。政治が嫌ひならさつさと政治家を廢業したらよささうなものだが、一向に止めさうもないところ見ると、政治が決して嫌ひではないのだらう。それはさておき、古井氏はかつてトインビーと「議論」をした事があり、その際トインビーは「大きな惡と鬪ふには、小さな惡と妥協することもやむを得ない」と言つた。それに對し古井氏が「大きな惡と小さな惡の限界は何か」と聞いたところ、トインビーは「一瞬答へにつまり」、ややあつて「あなたのやうな人は、政治の道を歩くのはつらいでせう」と言つた。古井氏は「この一事からも私が政治に不向きなのが分かるのではないか」と言ふのである。
何といふ馬鹿を大平首相は法務大臣に任命したのだらう。考へてもみるがよい。自分は醫者に向かないと醫者が言つたら、誰が一體そんな藪に命を預けようとするだらうか。政治家に向かない古井氏の首を、大平首相は即刻切るべきである。
古井氏が「政治に不向き」なのは、「大きな惡と鬪ふには、小さな惡と妥協することもやむを得ない」といふ事が理解出來ないからである。「政治に關係する人間」は「惡魔と契約を結ぶものであること、そして、善からは善だけが生じ、惡からは惡だけが生じる、といふのは彼の行爲にとつて眞實ではなく、往々、その逆が眞實であること」、「これを知らない人間は、實は、政治的には子供」なのであると、マックス・ウエーバーは言つた。古井氏の言語道斷の甘つたれを新聞や國民が咎めようとしないのは、わが日本國が目下のところ眞の政治家を必要としないほど平和だからであらう。平和な時代、それは何もしない、或いは何もできない善人がのさばる時代の事なのである。 
9 滅私奉公の精神
五月十日付のサンケイ新聞に、佐橋滋氏は「國會の七不思議の筆頭は予算委員會で予算がまつたうに審議されたことがない」といふ事だと書いてゐる。かねてから私は、予算委員會とは査問委員會の別稱だと思つてゐたが、さうではなかつたらしい。やはり予算を「まつたうに審議する」事が予算委員會の本來の役割だつたらしい。しかるに、佐橋氏の言ふ通り、予算委員會はグラマン事件の「眞相糾明」に躍起となり、肝心要の予算のはうはほとんど「無審議で成立」させてしまつた。何とも奇怪な事だが、新聞はそれを一向に怪しまない。それどころか、檢察のやれぬ事を予算委員會がやるべしと、物騒な事を書き立ててゐる。最も冷靜であるべき筈のサンケイ新聞さへ、五月十九日付の「主張」欄では「國民の立場からいへば法律だ、時効だなんていふのは關係がない」などと言語道斷のせりふを吐いている。また、五月八日付の讀賣新聞は「容疑が時効にかかつた人物は、罪のとがをなんら受けることがないが、とくに政治家がそれでまされてよいものではない」と書き、政治家は「刑事責任を解かれた分を含めて、むしろ一層重い政治的・道義的責任」をとるべきであつて、讀賣としては「その責任を明らかにすること」を國會に對し「強く要望する」と書いてゐる。常日頃護憲を錦の御旗にしてゐる新聞が何とも奇怪な言辭を弄するものである。新聞は「國民感情が許さない」と口癖のやうに言ひ、國會を裁きの場にしようと考へてゐるらしい。彼等にとつては、憲法に限らず、およそ法と名のつくものは無用の長物、大切なのはあくまで「國民感情」なのである。かくてサンケイの言ふやうに「法律だ、時効だなんていふのは關係がない」といふ事になり、議院證言法の不備なんぞは論外の事となる。兇惡犯にも法は默秘する權利を認めてゐる。が、議會に喚問される證人にはその權利は無い。むろん「出廷」を拒否しても告訴される。要するに議員證言法は惡法なのである。もとより惡法も法である。が、「法律なんぞ關係が無い」と言切るやうな癇癖の石頭には、惡法にも從ふが、惡法ならば改めようとの冷靜な態度は到底期待できまい。
要するに、新聞は法の相對性といふ事を知らないのである。憲法はもちろんすべての法は可變である。が、新聞は法を絶對視してゐる。それゆゑ政治家に對しても絶對的有徳を要求する。けれども、新聞よ、夫子自身はどうなのかと、私はしばしば書いた事がある。が、昨今私は少し考へを改めた。新聞の偽善は意識せぬ偽善で、それは滅私奉公の精神ではないかと、さう考へるやうになつた。新聞は政治家の品行方正を衷心より期待してゐるので、おのれ自身の不徳は問題ではない。おのれはいかに汚れてゐようと、政治家だけは限り無く清潔であつて欲しい。それゆゑ清潔無比の政治のためなら「法律だ、時効だなんていふのは關係がない」といふ事になる。要するに新聞は政治家の修身がそのまま治國平天下に繋がると信じてゐる。それはつまり、清潔な獨裁者を密かに待望してゐるといふ事ではないか。それは滅私奉公の精神ではないのか。
中央公論五月號に「暗影としてのナショナリズム」と題する一文を寄せてゐる竹内實氏は、さういふ滅私奉公的精神の典型である。竹内氏は「二月十八日、日曜日のあさ、新聞をひろげ」るや、「たちまちみぞおちのあたりに鈍痛をおぼえた」といふ。中國軍のベナトナム侵攻といふ「一面の最上部を横にぶちぬく」各紙の見出しに「手ひど」く「打たれた」といふ。そして竹内氏は「かつての日本軍國主義の中國侵略と、この中國の武力行使の相違点」を「必死」で「さがし求め」るのである。他國を侵略する事に、土臺いかなる「相違点」もありはしまいが、善良なる竹内氏にとつては、必ずや何らかの「相違点」が無ければならぬ。あぐまでも中國を理想の國と信じてゐたいからである。清く正しく美しい中國、さういふおのれの「理想」のためとあらば、眞實も要らぬ、生命も要らぬ、竹内氏はさう思ひ詰めてゐるのかも知れぬ。滅私奉公的精神の面目躍如たるものがあるではないか。
竹内氏の論理はおよそ滅茶だが、理想に殉ずる事が生甲斐なのだから、論理の破綻なんぞは問題ではない。例へば竹内氏は、戰後間もなく或る中國人が作つた「人の皮」と題する一篇の詩を頼りに、「日本軍の中國侵略の情景」を想像する。その詩はまことに愚劣なもので、眞實を語つてゐない事は明らかだが、そのやうな「些事」に竹内氏はとんと關心が無い。とまれ、その詩によれば、中國人の女の「皮をはぎとつた」日本兵がゐた事になる。竹内氏は憤慨し、その日本兵を「鬼」だと言ふ。けれどもその「鬼」だつて、「平和な環境」にあつてはごく平凡な市民だつたに違ひ無い。では、「なぜ人間が鬼になつたのか」と竹内氏は自問する。そして竹内氏の結論は、何と「天皇制のせゐだ」といふ事になる。即ち、「人の皮」に描かれてゐるやうな「殘虐な情景は、この下手人が日本の平和な體制、天皇制のもとでどれほど苛酷なめにあはされてきたかを物語る」と竹内氏は言ふのである。要するに、惡いのは天皇制であつて、中國人の皮を剥いだ日本兵は惡くないといふ事になる。この傳でゆけば、竹内氏が在日ウガンダ人に殺されたとしても、罰せらるべきはウガンダ人ではなく、彼を「苛酷なめにあわせた」アミンの暴政だといふ事になる。そして、殺された竹内氏は草葉の蔭から專らアミンを呪へばよいといふ事になる。
竹内氏は論理の破綻を少しも氣にしない。「理想」に對して「滅私奉公」してゐるからである。そして、滅私奉公とはおのれを捨てて他者にすべてを任せ切る事だから、他者の裏切りは端から問題外の事になる。それゆゑ、竹内氏の如く、裏切られても裏切られても、裏切られたとは思ひたがらない親中知識人が日本國にはしこたまゐる譯である。
もとよりさういふ純情は國際政治の世界では通用しない。しかるに、その途方も無い純情を揚言してゐるのが日本國憲法であり、その提灯持ちをしてゐるのが日本の新聞である。言ふまでもなく、日本國憲法の精神も滅私奉公の精神で、それはいづれ日本國を滅ぼすであらう。食ふか食はれるかの國際社會では裏切りが常態で、しかも常態だと知つたところで救ひがある譯ではない。メルヴィルは書いてゐる。
鮫が人間の片足を銜へて言つた。「どうだ、俺はお前を食ふと思ふか、食はないと思ふか、正直に答へたら助けてやる」。人間は「食うと思ふ」と答へた。鮫は言つた。「そうか。しかし、やつぱり食つてやる。食はない事は俺の良心が許さないからな」 
10 法の嚴しさを知れ
宝永六年の事である。イタリア人の宣教師シドッチは江戸の奉行所で新井白石の訊問を受けた。白石は後にその經緯を『西洋紀聞』に記してゐる。それによるとシドッチは、自分には夜間の見張を付けるには及ばないと言つた。「天また寒く、雪もほどなく來らむとす」る折、晝夜の別なく自分を見張つてゐる牢番の辛苦はこれを「見るに忍び」ない、このシドッチに足枷をはめ、獄中に繋いで貰ひたい、さうすれば牢番も「夜を心やすく」寢られるであらう。シドッチはさう言つたのである。奉行所の面々はいたく感服した。しかるに白石だけは納得せず、理窟に合はぬ「いつはり」を言ふとてシドッチを咎めた。白石の言分はかうである。牢番は奉行所の命令を重んじるからこそ、寒空の下夜を徹して見張つてゐる。その牢番を汝は氣の毒だと言ふ。しかるに、先に奉行所が汝の「肌寒からむことをうれ」へて、度々「衣給はらむ」としたるに、汝は頑なに受け取らうとしなかつた。奇妙な事ではないか、奉行所の役人も、牢番と同樣、汝の身を守れとの公儀の命令を重んじたまでの事、牢番を思ひ遣る心があるならば、當然衣を受け取り、奉行所の役人の心を安んじてやるべきではないか。さう白石は言つたのである。シドッチは大いに恥ぢ入つておのが「いつはり」を認めたといふ。
要するに白石は、シドッチの申し出に手も無く感激した奉行所の役人と異り、「情に棹さし」流されずして、おのれの考へを述べたのであつて、かういふ日本人は頗る珍しい。世論に迎合せずして異を唱へるのは、日本人の頗る苦手とするところだからである。例へば今日、スト權ストなる奇怪千萬の言葉を、世人は何ら怪しむ事無く使つてゐる。けれども、これほど奇妙きてれつな言葉は無い。スト權ストとは「スト權を認めさせるためのスト」だといふ。それなら當然、公労協のストはまだ法的に認められてゐない譯である。しかるに、國労も動労も平氣でストをやる。それはつまり、法が禁じてゐる事を法的に認めさせようとして、法が禁じてゐる事をやる、といふ事である。言ふまでもなく法は殺人を禁じてゐる。が、人を殺す權利を認めさせようとして人を殺したら、どういふ事になるか。殺人權殺人といふものを世人は果して許すだらうか。
しかるに、六月三日付の朝日によれば、森山運輸大臣は、スト權スト參加者の處分について、何とその「凍結を」國鐵に要望したのである。それを聞いて「怒り心頭に發」した民社黨前委員長春日一幸氏は、民社黨幹部に對して「運輸大臣のクビをとれ」と叫んだといふ。運輸大臣の「凍結」要望は「法治國家として斷じて許すべからざる」事だといふのである。春日氏の立腹は當然だが、朝日は「春日氏の怒りがどこまで政府に通じるか」などと、餘所事のやうに書いてゐる。奇怪千萬である。法治國の大臣が違法行爲の處分をためらひ、常日頃、最高法規たる憲法を崇め奉つてゐる新聞が、法治國にあるまじき運輸大臣の措置を少しも怪しまない。新井白石なら、理窟に合はぬ「偽り」を言ふものかなと、森山氏と新聞を激しく咎めるに違ひ無い。
一方、「灰色高官」松野頼三氏の道義的責任を問へとのマスコミの主張も、甚だもつて理窟に合はない。が、それを怪しむ文章を私は新聞紙上に讀んだ事が無い。刑事責任が問へぬのだから道義的責任を問ふべしと、新聞はしきりに書き立ててゐる。つまり新聞はリンチをやりたがつてゐる。法廷で裁けぬ人間を何としても裁きたがつてゐる。
松野氏の問題に限らない。一事が萬事であつて、吾國の新聞は法といふものを嚴密に考へないのである。例へば、六月七日付の日經夕刊は、財田川事件の再審決定を報じたが、その見出しにおいては谷口繁義と呼び捨てにして、それを鉤括孤で括つてゐる。本文では「谷口被告」としてゐるところを見れば、日經は呼び捨てを躊躇したのであらう。谷口は「谷口繁義」とすべきが、谷口被告か、それとも谷口元被告か。日經に限らず、さぞや新聞は困つたであらう。
けれども、さういふ中途半端な對策を講じなければならないのも、元を糺せば、新聞が日頃物事を嚴密に考へないからである。被告人の有罪が確定するのは最終審においてである。それまでの被告人は容疑者ではあつても罪人ではない。しかるに日本の新聞は、罪人と決らぬうちから被告や容疑者を呼び捨てにして憚らない。田中元首相は田中であり、海部八郎前副社長は海部である。が、田中氏の場合も海部氏の場合も、一審の判決さへ下つてゐない。もし兩氏が最終審で無罪になつたら、新聞は手の裏を返すごとく呼び捨てをやめるだらうが、それは頗る非人間的な行爲である。この際新聞は、最終審の判決が下るまでは、明らかな現行犯の場合を除き、容疑者や被告の呼び捨てをやめたらどうか。アメリカ娘を殺したとの容疑で逮捕された日本人留學生を、アメリカの新聞は「ミスター・モリ」と呼んだのである。
ところで、財田川事件の場合、再審開始の決定がなされたといふ事は、審理をやり直せとの決定がなされたと、それだけの事を意味するに過ぎない。けれども新聞は、谷口の無罪が確定したかのやうに考へてゐるらしい。例へば六月七日付の毎日夕刊は、「死刑囚から被告の座へ、そして無罪への道を確實に歩まうとしてゐる」と書いてゐるのである。が、なぜそのやうに斷定できるのか。同日付の讀賣夕刊で、谷口自身が言つてゐるやうに、谷口は「まだ無罪になつたわけではない」。私は谷口の死刑を望んでゐるのではない。が、今囘の再審決定に關して、これまでの審理の一切を否定するかのごとき情緒的發言が目立つ事を奇怪に思つてゐる。六月八日付の讀賣が書いてゐるやうな、冤罪による死刑は「考へただけでもゾッとする」から、再審決定は死刑制度の「見直しを迫」る「手掛り」を与へたと考へるべし、などといふ議論は首肯できない。
勿論、冤罪による死刑はあつてはならない。が、裁判も人間のやる事だから、誤ちは免れない。誤審の根絶は不可能である。さりとて、死刑制度を廢止せよとか、法の嚴しさを緩和せよとかいふ議論は、あまりにも單純に過ぎる。ホッブズの言ふ通り、法の無い状態において人間は頗る悲惨である。法不在の状態とは、「萬人の萬人に對する鬪爭」の状態であつて、そのやうな悲惨を避けるために、法は飽くまでも秋霜烈日の嚴しさを保持しなければならない。
安手のヒューマニズムは何事をも解決できない。法にはもとより限界がある。けれども惡法も法であつて嚴しく守らねばならぬ、しからば法と道徳との關係は如何、さういふ事を新聞は一度眞劍に考へて貰ひたい。 

 

11 善玉惡玉と二分するな
七月十日付サンケイ新聞直言欄に、村松暎氏は「東京サミットはめでたく終了したが、ことにあはれをとどめたのは警察であつた」と書いてゐる。警察の熱心な警備に對して「誰も御苦労と言」はなかつたばかりか、新聞は「警備の過剰を酷評」したからである。が、村松氏の言ふ通り、「萬萬一のことがあつたら(中略)國際的な大問題」になつたであらうし、さうなれば「いま警察を惡く言つてゐる人たち」が「非難攻撃を警察に浴せるのは目に見えてゐる」。
今囘警察は何とも間尺には合はぬ仕事をやらされた譯であつて、村松氏と同樣、私も深く警察に同情してゐる。新聞は常に強者に楯突くから、いや楯突く振りをするから、警察の努力を正當に評價しない。そして警察に落度があらうものなら、ここを先途と責め立てる。以前、警官が女子學生を手込めにして危めた時、新聞は居丈高に警察を批判した。けれども、警官も人の子、新聞記者や教師と同樣、殺人や強姦をやらかす者がゐて何の不思議も無い。
新聞記者が「過剰警備」に不滿だつたのは、サミットの期間中、彼等が不自由を強ひられたからであらう。そして不自由を強ひる者を惡玉に仕立てるのは、戰後の惡しき風潮である。さういふ風潮を蔓延らせた元凶は日本國憲法だと、私は思つてゐる。周知の如く、日本國憲法に義務規定は頗る乏しい。そのため、戰後は國民の權利のみが強調され、國民は僅かばかりの不自由にも過敏に反撥するやうになつた。「サミット警備」に對する新聞の反撥も、さうしたわがままの典型に他なるまい。
一方、六月二十七日付の讀賣によれば、羽仁五郎氏たち「文化人グループ」は、「サミット警備」が「市民生活に支障を及ぼしてゐる」として、「東京サミット過剰警備に抗議する會」たるものを結成したといふ。昨年だつたか、羽仁氏は前衞舞踊の踊子に惚れ、得體の知れない「何とかを何とかする會」を結成した筈である。そつちの會のはうはその後どうなつたのか。事ある度に刹那主義の徒黨を組んではしやぐのはいい加減にして貰ひたい。
だが、羽仁五郎氏の會なんぞは實はどうでもよい。淺薄な思付きにもとづく同好會なら、やがて泡沫の如くに消えるであらう。けれども、ひたすら權利のみを主張して自己犠牲を嫌ふ人間ばかりが殖えてゆくばかりでは、日本國の前途が案じられる。國民に不自由を忍ばせる事を、爲政者たるものは時に敢へてせねばならない。今囘の「過剰警備」など、當然すぎるくらゐ當然の事ではないか。
六月三十日付の東京新聞によれば、總評は「サミット過剰警備」に抗議して、「警察は全國から機動隊員を總動員して善良な市民の車をいちいち檢問するなど、戒嚴令下を思はせる警備を行ひ、國民生活に計り知れない不安と損失を与へ」たのであり、「人權を無視したこの權力の規制に聲を大にして抗議する」と言つてゐるといふ。盗人猛々しとはまさにこの事である。言ふまでもない事だが、警備のための規制は合法的である。しかるに、總評傘下の公労協がこれまで再三再四行なつた「スト權スト」は紛れも無い違法行爲ではないか。その違法行爲によつて公労協は「善良な市民」の足を奪ひ、「國民生活に計り知れない不安と損失を与へ」たではないか。前科者が警察を非難するとは度し難き厚顔無恥であるが、新聞はそれを咎めず、却つて合法的な警備を難ずるのである。
さらにまた、六月三十日付の東京新聞で、作家の畑山博氏は「過剰警備」を批判し、「會期中、都心部では市民の姿より警官の數の方が目立つた」が、それは「民主主義の國にとつて、あまり美しい光景ではない」と述べてゐる。民主主義國だらうが全體主義國だらうが、萬一の事態に備へる場合、「警官の數の方が目立つ」のは當り前であつて、それは美感や美觀の問題ではない。「美しい光景」などはたつた一人の凶惡なテロリストによつて臺無しにされてしまふのである。「美しい光景」が好きな畑山氏は、美しく超俗的な甘つたるい人間愛の物語かなんぞを書いてをればよろしい。俗事に口出しはせぬがよろしい。
ところで、畑山氏に限らず、人間の邪惡な本性を無視する手合は、一旦他人に惚れ込むとこの上無く情緒的になる。先に4(登+邑)小平氏が來日した時の新聞人がさうであつた。そして今囘、カーター大統領一家に新聞はぞつこん惚れ込んだのである。六月二十九日付の讀賣は「日本を魅了した“母娘外交”」といふ見出しをつけ、ロザリン夫人とエミー嬢に最大級の賛辭を捧げ、「優しく、庶民的で、仲むつまじい母娘の“素顔”にひきつけられた人は多かつたに違ひない」と書いてゐる。私は「仲むつまじい母娘」に「ひきつけられ」はしなかつたが、それはともかく、カーター氏はなぜ國外に娘を連れ出すのだらうか。子連れの「庶民外交」が國際政治の世界で通用すると、まさか本氣で信じてゐる譯でもあるまいが、たとへ本氣で信じてゐるとしても、子連れ外交の理解者は日本の新聞だけといふ事にならう。六月二十八日付の東京新聞は、「カーターさん、一家をあげての庶民外交はお見事でした」などと、引用するのも氣恥づかしいほど、手放しで譽めちぎり、かくも「誠實」なカーター大統領が、米國内で「どうしてこれほど不評なのか、實は不思議である」とまで書いてゐる。いつそ日本國はアメリカの一州になり力ーター氏を指導者に仰いだらよい。さうなれば、東京新聞は随喜の涙を流すであらう。
だが、七月二日付のサンケイ新聞は、韓國の神經を逆撫でするやうなカーター氏の言動について報じてゐる。「國賓としてのはじめての招待にたいしカーター大統領は當初、治外法權下の米軍基地に着陸、第一夜を基地で送る案を出した」が、それは「さすがに韓國側の激しい反撥にあつて、金浦到着に修正された」ものの、カーター氏は「外交儀禮的プロトコールを無視し、歓迎行事を飛び越えて朴大統領の出迎へる空灣から基地に直行、まづ米軍將兵に會ふ始末だつた」といふ。そればかりではない。カーター氏は「韓國側が最もふれられたくたかつた人權問題を、聲高にかつ鋭く首腦會談や晩さん會の演説で取り上げ、共同聲明にまで盛りこんだ」のである。一見「善良」で「誠實」さうなカーター氏にも、當然さういふ邪惡にして淺薄な一面はあらう。
この世に全き善玉も全き惡玉もゐない。が、日本の新聞にはそれがどうしても解らぬと見える。しかも始末に負へないのは新聞が自主的な判斷にもとづいて善惡の區別をする譯でないといふ事である。つまり、新聞は大勢に迎合するに過ぎない。漆山成美氏は「新聞が國を誤らせる九章」(高木書房『悲劇は始まつてゐる』所収)において、さういふ新聞の無責任を痛烈に批判してゐる。一讀をすすめたい。 
12 身勝手ばかりを言ふな
西岡幹事長の離黨に端を發した今囘の新自由クラブのお家騒動を批判して、七月十七日付の讀賣は、政黨といふものは「愚直な行動」とか「腐敗からの決別」とかいふ「ムード的言動だけではやつて行けない」と書いた。一方、毎日は「酷ないひ方かも知れないが、新自クとは何であつたか−といふ疑問を表明しないわけにはいくまい」と書き、東京にいたつては、今囘の騒動には「スカッとさはやか」な「清涼感は、みぢんもみられない」と書いてゐる。笑止千萬である。三年前、コカ・コーラ的「清涼感」を稱へ、コカ・コーラ的政黨の誕生に拍手喝采したのは新聞だつたではないか。例へば朝日の社説は當時「新黨設立の報道に國民が激励と共感でこたへたことは、自民黨に對する痛烈な不滿の表明と聞くべきである」などと、手放しで「激励と共感」を表現したのである。しかるに今、新聞は手の裏を返すごとく新自由クラブを批判してゐる。何たる恥知らずか。一體いつになつたら、他人にだけ「清涼感」を期待する事の身勝手に新聞は氣づくのだらうか。
七月二十六日付毎日夕刊の「憂樂張」なるコラムの筆者は、松野頼三氏の議員辭職を論じてマックス・ウェーバーの文章を引いてゐる。ウェーバーは「政治家の誇りは自分の行爲に對する責任を一身に引き受けることであり、政治家はかかる責任を拒否したり、轉嫁したりすることもできないし、また、してはならない」と強調してゐるが、松野氏のごとく「ケヂメをつけるために、ちよつとの間だけ辭め、またカムバックをはからうといふのでは、眞に責任をとつたことにはなるまい」といふのである。これまた何とも身勝手な引用である。筆者はウェーバーを讀んだ事が無く、誰かの本から孫引きしたのだらうか。それともこれは意識的な犯罪なのか。かういふ場合、意識的な犯罪と考へるはうが筆者を重んずる事になる。けれども、それならなほの事許し難い。ウェーバーの文章から筆者が意識して引用しなかつた部分はかうである。「政治に關係する人間」は「惡魔と契約を結ぶものであること、そして、善からは善だけが生じ、惡からは惡だけが生じるといふのは彼の行爲にとつて眞實ではなく、往往、その逆が眞實であること、(中略)これを知らない人間は、實は、政治的には子供」なのである。(清水幾太郎譯)。「憂樂帳」の筆者は、なぜこの部分を無視したのか。言ふまでもない、コカ・コーラ的正義漢には理解できなかつたからである。小児病的正義感に酔ひ痴れ、專ら他人の道義的責任ばかりを問ふ石頭の偽善者に、「政治家は惡魔と契約を結ぶ」などといふ「暴論」が理解できる筈は無い。
一方、七月二十一日付毎日の「記者の目」は「日本人ドライバーのマナーの惡さ」を嘆き、「免許試驗をこれまでのやうな技術一邊倒からモラル向上に方向轉換すること」が必要だと主張して、「警察庁など關係機關は(中略)高速道路を安全に走れるマナーを備へたドライバーの養成策を檢討すべき」だと書いてゐる。馬鹿々々しい提案である。免許試驗を「モラル向上に方向轉換する」事も、「高速道路を安全に走れるマナーを備へたドライバー」を養成する事も、「警察庁など關係機關」のよくなしうるところではないし、またなすべき事でもない。警察は法に違反する行爲を取締る事はできても、ドライバーのマナーや「モラルの向上」などについては、これをどうする事もできぬ。それに何より、ここにも新聞の、いや日本人の、道義的頽廢が如實にあらはれてゐる。昨今人々は何事につけ他人の責任を追及する。その癖、自らは道義的たらんと努める事が無く、「モラルの向上」については他人に下駄を預けようとする。が、カントも言つてゐるごとく、道徳とは飽くまで自律的なものである。「モラルの向上」はドライバー一人一人の自覺に俟つしかない。
新聞が他人を咎め立てしておのれを棚上げし綺麗事しか言はないのは、綺麗事が大衆に受けると思ひ込んでゐるからである。けれども、政治家や新聞が俗受けを狙ふのは嘆かはしい事だが、その危ふさに氣づいてゐる新聞記者が皆無といふ譯ではない。七月二十六日付毎日に載つたワシントン駐在寺村特派員の文章を私は興味深く讀んだ。寺村特派員によれば、ブルメンソール前財務長官は「臆病な政治家たちや世論調査の結果ばかりに氣を取られてゐる愚かな人たち」を批判して「幻想にとらはれることなしに、あるがままに現實を直視しなければならない」と言つたといふ。ブルメンソール氏は「專門家の意見よりも、大衆がどう考へるかですべてを判斷しようとするホワイトハウスにウンザリしてゐた」といふ。政治家が俗受けを氣にし過ぎる事の危險は、夙にトックヴィルが指摘したところである。アメリカの大統領選擧が行はれる時期は「國民的危機」である、なぜなら大統領は「自己防衞で心が一杯になつて」をり、「國益のために政治」を行はうとせず「再選のために政治を行ふ」やうになるからで、大統領は「多數者の前に平身低頭(中略)、多數者の氣まぐれに媚びる」(井伊玄太郎譯)やうになると、トックヴィルは書いてゐる。
もとより「大衆がどう考へるかですべてを判斷しようとする」のはアメリカの大統領に限らない。七月二十五日付の日經は、先に公表された防衞白書について論じ、「有事の際、米第七艦隊が、日米ルートをはじめとする海上交通路を維持する能力があるか否かは日本にとつて重大な關心事」であり、しかも、現在の「状況のもとでは、米軍の日本への大規模な來援は困難が伴ふはず」であるにも拘らず、「白書はその對應策には觸れてゐない」と書いてゐる。なぜ白書はそれに觸れないのか。言はずもがな、防衞庁もまた世論に氣兼ねしてゐるのである。だが、七月二十四日付のサンケイが書いてゐるやうに、國際軍事情勢に即した對應策を考へぬ防衞白書などは、所詮「防衞お伽噺」に過ぎない。
しかるに、七月二十五日付の朝日は「防衞庁が國民世論が變化したとみて、軍事的な視点に偏つた“押せ押せ”ムードにひたるとするなら、折角できかけた國民合意に逆行することになるかもしれない」と書いてゐる。朝日もまた「國民合意」なるものを神聖視してゐる譯である。朝日は世論にさへ「逆行」しなければよいので、論理の破綻などは意に介さない。それゆゑ、朝鮮半島の「平和と安定」が日本の「平和と安定に關係」する事は認めながら、南北の對立に卷き込まれるな、などと主張する。奇怪千萬なる論法である。さういふ身勝手が個人にとつてと同樣國家にとつても可能かどうか、それは論を俟たない。 
13 何とも空しい茶番狂言
以下に引用するのは小學六年生の作文の一部である。
「ポチが死んだ」といふことが、なぜか、まだぼくにはピンと來ません。犬小屋へ行けば、いまでもすり寄つて來て、あのなまあつたかい息を、フーツとふきかけてくるやうな氣がしてなりません。「ポチ!」と聲をかけると、いまにもむつくり起き上がつて「何を騒いでるの?」とでもいふやうにゆつくり歩き出すのではないか、といふ氣がします。
次に引用するのは九月四日付朝日の記事の一部である。
「ランランが死んだ」といふ事實が、なぜか、まだ中川さんにはピンと來ない。パンダ舎へ行けば、いまでもすり寄つてきて、あのなまあつたかい息を、フーツとふきかけてくるやうな氣がしてならない。「ランラン!」と聲をかけると、いまにもむつくり起き上がつて「何を騒いでるの?」とでもいふやうにゆつくり歩き出すのではないか、と。
解説するには及ぶまい。朝日の記者の純情に讀者は笑ひころげたであらう。よい年をして、たかが畜生一頭の死について、思入れたつぷりに、朝日の記者は幼稚極まる文章を綴つた譯である。朝日に限らない、同日付のサンケイは、第一面でランランの死を詳細に報じながら、落語家圓生の死については何と十七面で報じたのであり、これまた正氣の沙汰とは思はれぬ。圓生はよくよく不運な男である。一日早く、或いは一日おそく死ねばよかつたのである。
同日付の東京新聞もまた、ランランの危篤を知らされた大平首相が「あまりにもそつけない應答」をしたと、不服げに愚劣な文章を綴つてゐる。首相が涙でも流せば、東京はさぞかし喜んだ事であらう。齋藤緑雨は昔、「涙ばかり貴きは無しとかや。されどあくびしたる時にも出づるものなり」と書いた。この種の冷靜な諧謔の精神こそ、とかく情緒的になりがちの日本人にとつて何よりも必要なものである。九月四日付の朝日によれば、黒柳徹子女史は「こんなに突然、不幸な事になるなんて、涙が止まりません。(中略)ひとり殘されたカンカンがどんなにさびしがるか、それが氣の毒でなりません」と言つたといふ。何ともはや純眞な女性で、何ともはや幸福な女性である。黒柳女史の「止ま」らぬ涙とは、衣食足りて禮節を知らぬ國の住人の、何とも贅澤なセンチメンタリズムに過ぎない。治にゐて亂を忘れるのが人間の常である。が、それにしても新聞や黒柳女史の感傷は度が過ぎる。食料の九割近くを海外に依存する吾々は、食ふ物が無くなると人間がどこまで堕ちるものか、時々それを懸命に想像すべきである。コリン・ターンブルは『食ふ物をくれ』(筑摩書房)において、餓鬼道に堕ちた人間の姿を赤裸々に描いてゐる。それはアフリカのイク族の話で、食ふ物が極度に乏しい環境にあつてイク族は、親子兄弟でも助け合はうとはしない。父親が食ふ物を見つけると、それは父親だけが食ふ。子供は三歳になると獨力で食ふ物を捜さねばならず、空腹のあまり石や土を食ふ事もある。毎親にとつても三歳未滿の子供の面倒をみるのは苦痛であり、豹に赤ん坊を攫はれて安堵する母親もゐる。治にゐて亂を忘れ、ポルノ小説や探偵小説を樂しむ吾々は、たまにはかういふ鬼氣迫る話を讀む必要があると思ふ。
一方、九日四日付の日經によれば、或る「外交關係者」は「相手國の國民を引き付けるうへで、一頭のパンダは、どんな外交官にもまさる役割を果たしてゐる」と語つたといふ。その「外交關係者」は「パンダ大使の活躍ぶりに舌を卷い」てゐるといふのである。パンダが「外交官にもまさる役割を果た」すのなら、中國に外務省は要らぬ。せつせとパンダを交合、妊娠、出産させ、世界各國に派遣したらよい。ヴェトナムに「パンダ大使」を派遣しておけば、「ヴェトナム侵攻」なんぞをやらかさずに濟んだに相違無い。
とまれ、今囘のランラン騒動は狂氣の沙汰であり、日本の新聞は自國の恥を世界中に晒したのである。九月八日付の讀賣によれば、韓國日報は「どこの首相が死去したとしても、これほど騒がれないだろう」と書いたといふ。また、朝鮮日報は、今囘の騒動の因つて來る所として、日本のマスコミが「問題の本質や核心を正確につかめず空論を樂しむ形式美」に囚はれてゐる事實を指摘し、韓國に關する報道や論評も同樣であつて、「問題の本質には目をそらし」、「韓半島の安定と平和は緊要である」といつた類の「形式美だけを追求するのが、日本人特有の習性でもあるやうだ」と書いたさうである。その通りであつて、經濟的には日本に及ばぬ韓國に、吾々の精神面での脆さを見抜かれ、私は大層恥づかしく思ふ。日本の新聞は、「空論を樂し」み「形式美だけを追求」し、情緒的な綺麗事を書き捲る。「問題の本質や核心」に迫らうなどとはおよそ考へない。
例へば昨今、朝日と毎日は、サンケイの「マスコミ論壇」に倣つてか、新聞批判のコラムを設けたが、その本氣を私は大いに疑つてゐる。九月十二日付の朝日の「私の紙面批評」柳田邦男氏の執筆になるものだが、それは批評になつてゐない。『現代』十月號は痛裂な新聞批判をやつてゐるが、そこで辻村明氏は「新聞紙面での新聞批判にはおのづから限界があり、毒にも藥にもならないやうな批評が多い」と書いてゐる。
土臺、朝日の紙上で朝日を徹底的に叩けないのは餘りにも當然の事である。サンケイは「マスコミ論壇」を設けるに當り、「自社に對する齒に衣着せぬ批判をも掲載する」と讀者に公約した。私はその「マスコミ論壇」の執筆者の一人だが、サンケイの公約についてはそれを信じ切れずにゐる。もしも私が、週刊サンケイの惡口を本氣で書けば、サンケイは困惑するに違ひ無い。それゆゑ私は、サンケイ紙上では週刊サンケイ以外の週刊誌を叩く事にしてゐる。柳田氏にしても、もしも本氣で「紙面批評」をやる氣なら、朝日以外の新聞を叩き、朝日を叩くのは朝日以外の新聞のコラムに任せたらよいのである。朝日紙上で朝日を批評しようとすると、奥齒に物の挟まつたやうな言ひ廻しで、苦しげなおべんちやらを並べる羽目に陥る。例へば、七月二十三日付毎日新聞の寿岳章子氏の「新聞を讀んで」がさうであつた。毎日新聞がサッチャー首相の英語を「女言葉」に譯してゐるのが氣に入らぬなどと、寿岳氏は咎めるに價せぬ事を咎めてゐるが、これも決して本氣でない。その證拠に、すぐに寿岳氏は「しかしいつまでも怒つてゐるまい」と書き、自分は毎日の記事に「あたたかな目の毎日らしいのびやかさ」を感じ、毎日の「すばらしい写眞、すばらしい記事」に「多くををそは」つたと書いてゐる。何とも空しい茶番狂言である。見え透いたおべんちやらである。そしてこの種の阿諛追從の駄文を掲載して恥ぢない毎日も、本氣でおのれを省みようなどと決して思つてはゐないのである。 
14 明治は遠くなりにけり
これまで私は新聞に惡態ばかりついて來たから、今囘は少しく新聞を褒めようと思ふ。九月二十四日付のサンケイは、その「主張」欄において、「上野動物園のパンダに涙を流」し感傷に浸つてをられるやうな今日の「太平ムード」を齊したものは、日本人の「“なんとかなるさ”精神」であつて、「それですむ間はよい」が、「それですまぬ事態が發生したらどうなるのか」と書き、日本人にとつて「いま必要なこと」は「正しいことは正しいといひ、をかしいことはをかしいといふ勇氣をもつこと」だと結んでゐる。全く同感である。が、他ならぬサンケイも「パンダ騒動」には浮かれたのであつて、「主張」の筆者もそれは憶えてゐる筈である。しかるに、筆者は敢へて同僚を窘める一文を草した譯であり、その勇氣を私は見上げたものだと思ふ。昔、齋藤縁雨は「奈何にせん私情と公義と遂に代へ難きを、予は既に身の犠牲たるを覺悟し居れば文學界の惡風習を除去するに於て怨まるるも怒らるるも忌まるるも嫌はるるも毫も拘らざるなり」と書いた。「私情と公義と遂に代へ難く」、サンケイの論説委員は同僚に「嫌はるる」もやむなしと考へたのだらうと思ふ。
同樣の理由から見事だと思つたのは、九月三日付の東京新聞「筆洗」欄の秀逸なる戯文である。前囘、紙幅の關係で引用できなかつたので、今囘ほぼ全文を引用しておく。
ランラン妃には、突然、御轉倒遊ばされ、(中略)侍醫拝診にみれば、急性ジン不全に渡らせられ、御血液は減少、御呼吸は不規則にて憂慮の極みと承る。愁色濃き上野山には、御平癒を祈らんとの三々五々來りては拝し、拝しては去る人々ひきも切らず。(中略)土下座してはるかに、御園を伏し拝みつつある老若をみて、某國特派員は写眞機にてこの姿を撮り収め、日本人のパンダヘの忠誠かくぞとばかり打電せし、とか。なかには某國大使館員にして、「あの動物は中國よりもらひ受けしものにあらずや、かくも嘆き悲しむ理由いかに」と問ふもあり。まこと、國を擧げての憂色、偉觀というべきや、奇觀といふべきや、その言葉を知らず。
猫も杓子も浮かれてゐる時に、かくも冷靜に戯文をものにした新聞人がゐたのかと、私は大いに感心した。畜生は所詮畜生、「國を擧げての憂色」はまさに「奇觀」である。
畜生といへば、十月七日付のサンケイは、第二十面に「“一圓玉募金”一千萬圓突破−全國の小學生から續々」といふ大きな見出しを掲げ、「クル病と鬪」つてゐた象の花子が「全國の花子フアンからの“一圓玉募金”」のお蔭で元氣になり、歩けるやうになつたといふ記事を、パンダ報道ほどではないものの、かなり派手な扱ひで載せ、第二十一面には、石川水穂記者の取材による或る不幸な家庭の物語を、象の花子の物語よりもずつと小さい扱ひで載せてゐる。。石川記者によれば、大浦マツさんといふ葛飾區の女性は「四年半前、夫と娘を交通事故でなくし、またこんどは手が不自由ながら明るく生きて心の支へでもあつた息子を輪禍に奪はれた」といふ。「藥害のため、生まれつき、兩手の指がくつついてゐた」息子は、練習を重ね「なんとか鉛筆やハシが持てるやうに」なり、「ふつうの子の二倍も三倍も勉強」して「國語でも算數でも常にトップクラス」であつた。その最愛の息子を失つたマツさんは「なんでうちばかりこんなに不幸が續くの」かと、涙聲で語つたさうである。
この種の不幸を記事にする場合、新聞記者は必ず惡玉を探し出す。政治家だの大企業だのを惡玉にして安心する。が、この世には誰のせゐでもない不幸、運が惡いとしか言ひ樣の無い不幸もあるのであり、サンケイの記事から知りうる限りでは、マツさんの不幸は正しくさういふ類の不幸だと思ふ。石川記者はそれを理解してゐるやうであつて、私は好感をもつた。「生きるハリのすべてを失つてしまつたこのお母さんに、どんな慰めの言葉もむなしいやうに思へてならない」と石川記者は書き、「生きてください」と言ふのが精一杯だつたと結んでゐる。安易なる同情の無力を言外に語つて立派である。
けれども、この石川記者の記事は小さな扱いで、象の花子の記事が大きく掲載されてゐたため、その「對照の妙」に私はいささか釋然としないものを感じた。象の花子の話は子供たちの善意を扱つて讀者を喜ばせる明るい話題だが、新聞がさういふ明るい話題を、解決の無い暗い話題よりも好む事に、私は少しくこだはるのである。人間誰しも、いかな「慰めの言葉もむなしい」やうな現實に直面する事がある。さういふ、解決の無い現實を直視する習慣を、泰平の世なればこそ、新聞はおのれにも讀者にも植ゑつけるやうに努めねばならぬ。
泰平の世には贋物が横行する。さういふ贋物の一人、外山滋比古氏を私は手酷く叩いた事がある。
サンケイの「世代百景」といふコラムには、その外山氏が書いてゐるが、あのやうな駄文をサンケイはいつまで掲載する積りなのか。十月九日付夕刊の「世代百景」には、自著のサイン會に出掛けたところ、「あひにくの雨」にも拘らず頗る盛況で「息つくひまもない」程の忙しさ、「一時間で二百三十冊」もサインしたと、外山氏は書いてゐる。
先日私は、敬愛する友人から「外山氏なんぞ屁のやうなものだから」、腹を立てるのも程々にしておけと忠告された。けれども昔、三昧道人といふ小説家が『吾亡妻』といふ作品を書き、匿名で自作を褒めるといふ、ふざけた眞似をした時、齋藤縁雨は大いに立腹し、三昧道人の作品は「世を欺きて涙を絞り掠めんとしたる」ものだと激しく難詰した。しかるに緑雨は鴎外にも窘められた。いや、鴎外のみならず、梅花道人は「三昧ごときを責むるは可愛想たり」と言ひ、不知庵主人は「三昧の文は酒落なり咎むる勿れ」と言ひ、抱一庵主人は「三昧にして世の指目にかかるあらば其は不文の罪なり深く問ふを要せず」と言つた。けれども縁雨は臆せず、これらの辯語論は「皆三昧一人のために辯語するものにして總體より云へるにあらず」とし、「假に三昧を辯語し得たりとするも此れより生ずる文界總體の弊害に頓着せざるが如きは予の飽まで肯ずる能はざる所なり」と書いたのである。
縁雨といふ男は大變な天邪鬼で私は好きである。鴎外は「匿名して自ら我著作を評せしためしは、古今の大家に少からず」と言ひドイツ文學界の例を引いたのだが、これに對して縁雨は、「ためしありためしあり」と言つて許すならば、昔の英雄豪傑は父殺しもやつてゐる、それも許すのか、と鴎外に反論したのであつた。
「善の大なるは惡に近く、惡の大なるは善に近し。(中略)善の小なるは之を新聞紙に見るべく、惡の大なるは之を修身書に見るべし」と縁雨は書いた。さういふ天邪鬼が本氣になつて三昧道人を叩いた事は、私には頗る興味がある。「悲むべし文學者の徳義これ程にも落ちぬ」と縁雨は書いたのだが、昭和の今、物書きまでがサイン會を開けるとは「明治は遠くなりにけり」といふ事であらう。 
15 新聞は本音を吐かぬ
今囘、自民黨の内紛に際し、新聞は自民黨批判の文章を書き捲つたが、「識者」もまた新聞に迎合し、大いに「憂國」の情を吐露して樂しんだやうである。十一月四日付の東京新聞は、「醜態自民」に「我慢も限界」との見出しを付け「このお粗末な派閥爭ひはもはやマンガ並みだ」との「識者の聲」を紹介してゐる。また、十月三十一日付サンケイ新聞の「直言」欄には、東工大教授の芳賀綏氏が「拙攻拙守−野球ならぬ自民黨内のもたつき攻防は見るにたへず、論評の意欲も失つた」けれども、「そこへいくと、日本シリーズも早慶戰も、溌溂として秋空の爽やかさそのままだ」と書いてゐる。早慶戰の事はよく知らないが、プロ野球は大人の「攻防」で、裏ではかなり醜惡な驅引きも行はれてゐよう。「爽やか」だけでプロ野球の世界を渡つてゆける筈は無い。日本シリーズや早慶戰に「溌溂」だの「秋空の爽やかさ」だのと、齒が浮くやうな形容をして憚らぬとは何とも無邪氣な御仁だが、新聞は、さういふ無邪氣な識者を格別好むやうであり、それゆゑ新聞紙上では、幼稚な議論ばかりがのさばるのである。かつて齋藤縁雨は、この手の正義感の淺薄を片腹痛く思ひ、「車宿の親方の常に出入場を爭ふの故を以て、内閣大臣の偶々出入場を爭ふを不可とするの理をわれは發見する能はず」と書いた。「然り、發見する能はず、車宿の親方の果敢なるが故にあさましく、内閣大臣の然らざるが故にあさましからずといふの理をも發見する能はず」、さう縁雨は書いた。「出入場を爭」つてゐる自民黨の政治家も、部數擴張競爭に血道を上げてゐる新聞も、そのあさましさにおいて甲乙はない。それなら、おのれを棚に上げて正義漢を氣取るのはいい加減にして貰へまいか。
とまれ、今囘、自民黨の内紛を論じて、新聞も識者も數々の愚論を吐いた。例へば十一月一日付サンケイの「政局巷談」なるコラムに、千田恆編集委員は、「政治はわかりやすくなければならない」と書き、十月三十日付の讀賣は、「非主流も國民に分かりやすい行動をすべきである」と書き、さらに十一月三日付の讀賣には、明大教授の岡野加穂留氏が「与野黨とも、議院内閣制の原点に戻つて、政治行爲の一つひとつに對し、國民に分かりやすい、明確な責任處理をすべきだと思ふ」と述べてゐる。これらの意見に從へば、政治家はもつぱら「國民に分かりやすい行動」をしなければならないのに反し、國民の側は政治を解らうなどと少しも努めなくてもよい、といふ事になる。が、政治がそんなに理解し易いものになつたら、岡野氏のやうに「分かりやすい」解説しか書けぬ無能な政治學者の商賣は、上つたりにならないか。岡野氏の如き「分かりやすい」事しか言はぬ、いや言へぬ學者を、新聞が重宝がるのは、當然の事とは言へ嘆かはしい傾向である。「分かりやすい」議論には、必ずどこかにごまかしがある。そして、『月曜評論』十一月十九日號に漆山成美氏が書いてゐる通り、昨今ジャーナリストや政治家が瀕りに口にする「分かりやすい政治」といふ流行語は「ステレオタイプ化したスローガン」に過ぎず、その種の「單純明快」のみを重んじて「すべての事を割り切らうとすれば、複雜深刻な現實を把握」する事なんぞは不可能になる。が、新聞記者や凡庸な政治家にはさういふ事が解らない。愚昧なる正義漢はいつの世にも「單純明快」を好む。三角關係に苦しむ時も、彼等は「複雜深刻な現實を把握」しないものらしい。
とまれ、今囘、新聞は口を揃へて大平首相に退陣を迫つた。例へば十月三十一日付の朝日は、「一刻も早く」大平首相は「退陣聲明」を出さなければならない。そして「それを受けて」自民黨は「出直し」にふさわしい「新指導者を國民に示」さなければならず、「それができないのでは、政權政黨の資格はなく、前途に待ち受けるのは自民黨衰退・分裂への道である」と書いてゐる。が、安定多數こそ確保できなかつたけれども、依然として自民黨は第一黨なのであり、實質的に衆議院の過半數を制してゐる。なぜ大平氏が退陣聲明を出さなければならないのか。なぜ自民黨が「敗北」した事になるのか。「敗北」したのは自民黨ではない、新聞である。土臺、選擧の予想などといふものは要らざるお節介だが、それはともかく、當らなかつた八卦見が、おのが不明を恥ぢず、八卦見を信じてしくじつた客を詰るとは言語道斷である。十一月七日付の日經は「たとへ安定多數はとれなくても、選擧の結果、自民黨が衆院で實質過半數の勢力を維持しえた以上、大平首相が退陣すべき必然性はない」と書いた。この日經の冷靜な認識を、私は頗る貴重だと思ふ。
新聞は今囘、「自民黨にうんざりした」などと、いかにも自民黨に愛想づかしをしたかのやうた事を書いた。けれども、それは決して本音ではない。新聞は決して本音を吐かない。例へば、十月三十一日付讀賣の「編集手帳」は、「首相の座をめぐる抗爭をのんびりゆつくり繰り廣げることができるのは、日本がそれなりにめぐまれてゐるから」であつて、「これが剛構造の獨裁國なら、政權抗爭はこんな形では國民の目にさらされず、密室の中で進められ、ある日突然クーデター、テロや一大粛清といつた物騒な局面となる」と書き、「抗爭が長引く」背景には、「日本の社會が平等、民主的で政治エリートや獨裁者の存在を許さないといつた事情もあるに違ひない」と書いてゐる。「編集手帳」の筆者は、朴大統領が暗殺された韓國と比較して、天下泰平の日本國をよしとしてゐる譯である。では、それは彼の本音か。勿論さうではない。筆者はつづけて「ヘンに強力な首相にがむしやらに狂亂物價や増税政策を推進されても困る」が、さりとて「國政への責任を放棄してこの程度の空白は民主主義のやむを得ぬ代價だとうそぶかれても困る」と書いてゐるからである。この種の「公正」にして「不偏不黨」の論議はもう澤山だと思ふ。「公正」で「不偏不黨」の論議は必ず愚論であり、俗受けを狙つて愚論を吐く者には決して本音を吐くだけの勇氣がない。「ヘンに誠實な女房にがむしやらに尽くされても困るが」、さりとて「家政への責任を放棄してこの程度の混亂は男女同權のやむを得ぬ代價だとうそぶかれても困る」といふのは、大方の男性の身勝手な願ひかも知れないが、現實にはさういふ身勝手がそのまま通用する事は決して無いのである。さういふ事を、新聞記者は一度とくと考へてみたらよい。女と附合ふ事も政治をやる事も、政治について駄文を草する事も、いづれも人間のやる事なので、さしたる懸隔は無い。新聞記者も政治家も大學教授も、三角關係に苦しむ時があるだらう。そしてその時は、必ず、馬鹿は馬鹿なりに「複雜深刻な現實を把握」する筈である。それなのに新聞記者は、ひとたびペンを握ると、催眠術を施されたかの如く、俗受けを狙つて「單純明快」を志すやうになる。それは二流三流の政治學者や新聞記者の度し難い惡習なのである。 
16 惡を認め、惡を忍べ
人間を善玉と惡玉に二分するのはメロドラマの發想である。それは當然女子供しか動かせない。一人前の大人ならこの世に完全な善玉も惡玉も存在しないといふ事くらゐは承知してゐるからである。しかるに、甚だ奇怪な事ながら、吾國のジャーナリストの大半は半人前であつて、それゆゑ例へば、彼等にとつて北朝鮮は善玉で韓國は惡玉といふ事になる。その点については本誌十一月號で、辻村明氏が痛烈に批判してゐた通りである。日本のマスコミには半人前の大人子供がのさばつてゐる。彼等は自分の心の中を覗かないし、覗いてもそれを氣にしない。日本のマスコミを青臭いいんちき正義漢
が横行閥歩するのはそのためであり、私はその事を何よりも苦々しく思つてゐる。
自分の心の中を覗くとはどういふ事か。自分の心の中に樣々な醜い情念が渦卷いてゐる事を知る事である。吾々が人間である限り、吾々の心中にはヒットラー氏やアミン氏が、田中角榮氏や大久保清氏が潜んでゐる。日本赤軍のコマンドも潜んでゐよう。人間が人間である事がよい事ならば、吾々は心中の醜い情念と戰はなくてはならないが、そのためにはまづ、さういふ情念の存在を認めなければならない。が、大方の新聞記者は、他人の不正を指彈する時に限つて自らを省みる事を忘れるのである。例へば彼等は、自民黨の派閥爭ひを批判し、社會黨の内紛に遺憾の念を表するが、派閥無き社會などといふものは、古今東西、いまだかつて存在した例が無い。いづれ福田内閣も改造を行ふであらうが、その際、新聞は必ず派閥均衡人事を批判するであらう。が、私は新聞記者に問ひたい、派閥の存在しない新聞社といふものが一社でもあるのか。あるたら是非ともその社名を教へて貰ひたい。それはきつと箸にも棒にもかからぬ脇抜け腰抜けの集團であるに違ひ無い。
私は派閥爭ひをよき事だと言つてゐるのではない。派閥に弊害が伴ふ事くらゐどんな馬鹿でも承知してゐよう。が、物事の弊害を恐れるだけでは政治家は何もやれぬ、清潔を心懸けるだけでは國家は保てぬ。綺麗事を並べ立てた都知事も前首相も、その統治能力を疑はれてゐるではないか。
「人間は何もしないよりは惡を犯したはうがいい」とT・S・エリオットは書いた。勿論これは逆説だが、この逆説くらゐ日本の新聞記者にとつて理解しにくいものは無いであらう。エリオットは小惡黨の泥棒や政治家は「地獄へも行けぬ情無い手合」だと言つてゐるのだが、惡事を犯して平然としてゐられる手合はもとより、善を稱へて平然としてゐられる手合も、人間としては出來損ひなのである。ジャーナリストたる者は自分の心中を覗き、惡を認め、惡を忍んで貰ひたい。マスコミに對する私の注文はそれに尽きる。 
3 世相を斬る

 

1 「灰色高官」の人權
去る二十六日、三木首相は内閣記者團と會見し、「國民の眞實を知りないといふ權利については、最大限こたへたいとの決意にいささかも變りが無い」むね強調し、ロッキード事件の眞相究明がすべてに先行しなければならないと述べたさうである。眞實を知る事が幸福に繋がるかどうかはいささか疑はしいと書けば、多分讀者は私が贈収賄を肯定したがつてゐると受取るかも知れないが、三木首相の本意はともかく、ロッキード事件の眞相究明をすべてに先行させ、その結果いかやうの政情不安を招來しようと一向に構はぬといふ考へ方に私はついてゆけない。かつて造船疑獄の折、犬養法相は指揮權を發動して顰蹙を買つたけれども、時に國民の「知る權利」を無視する事が國民の幸福に繋がるといふ判斷が間違つてゐるとは言切れないと思ふ。なぜなら、眞實を知る事が、或いは知らせる事が、人を不幸にするといふ事もあるからであつて、それが納得出來ぬ讀者には、イプセンの戯曲『野鴨』の一讀を勸めたい。
といつて、私は贈収賄を肯定してゐる譯ではない。斷然さうではない。それはけちくさく淺ましい惡である。そんた事は解り切つてゐる。が、この世の權力機構はいづれも不完全なものなのである。要は程度問題なのだ。いささかの惡をも許容せぬ極度の潔癖は、清潔を表看板とする(無能ならぬ)苛酷な圧制を招來するかも知れないのである。
とまれ、昨今ロッキード事件の眞相究明を叫ぶ人々の議論はいささかヒステリックであり、殊にあくまでも「灰色高官名」を公表すべしと主張するが如きはまつたく非常識だと思ふ。「灰色高官名」は公表されないだらうと私は思ふし、また公表さるべきではない。なぜなら「灰色高官」にも基本的人權なるものは確かにあるのだし、「疑はしきは罰せず」が法の精神ならば、「黒色高官」ならばともかく、灰色の段階にとどまつてゐる限り、その政治生命を絶つに等しい輕はづみは許されない筈だからである。 
2 無能と清潔
自民黨の椎名副總裁が畫策してゐるいはゆる「三木追落し」については、新聞も世論も批判的なやうであつて、サンケイ新聞が五月二十八日に行つた調査によると、三木内閣の支持率は四十一パーセントで、先月より十六パーセントも上昇したさうである。私は世論なるものをあまり信用しない質であり、また信用しなくても一向に困らない立場にあるのだが、自民黨副總裁ともなればやはり多少は世論の動向を氣にせざるをえないのであらうか、最近椎名氏は「力による三木追落し戰術」を轉換する意向を表明したとの事である。もとより、話合ひによる圓滿な政局轉換が可能ならそれに越したことはないけれで(ど)も、椎名氏が、「三木追落し」に大義名分無しとする世論に氣圧され、追落し工作そのものを斷念するやうな事にだけはなつて欲しくない。
つまり、かく申す私は、三木退陣を望んでをり、三木追落し工作には立派な「大義名分」があると考へてゐるわけである。三木氏は首相として總裁として無能である、そして清潔かも知れぬが無能な人物にこれ以上國政を任せるわけにはゆかぬ、三木追落しの「大義名分」としてはこれだけで充分だと私は思ふ。では、何を根拠に私は三木氏を無能と決め込むのか。先の國會で重要法案を議了出來なかつたとか、黨の近代化に熱意を示さなかつたとか、さういふ事ではない。椎名裁定により三木總裁が誕生した時には、自民黨員の大半が三木氏を支持した筈である。それが今、反三木が自民黨の大勢となつてしまつてゐる。だから三木氏は無能だと私は言ひたいのだ。
或る組織の成員の過半數の支持をえられなくなつたとすれば、それは統率者として無能だつたといふ事なのである。そしてその場合、統率者の言分が正しいか否かは問題にならない。いかに正しからうと、いかに清潔であらうと、過半數の支持を得られなくなつた統率者は無力であり無能なのである。數は正義なり、それが民主主義といふものなのだ。 
3 知らせる義務
先週の拙文を讀んだ二人の讀者から電話がかかつて來た。一人はいささか感情的で、電話を受けた愚妻の話では「灰色高官なんぞは人間ぢやない、大學教授ともあらう者がくだらぬ事を書く」とか言つたさうである。昨今は大學教授もずゐぶんくだらぬ事を書いてゐるのだから、今、やつとそれがお解りになつたとすれば、それはそれで結構な事だと思ふ。
もう一人は、これもまた抗議の電話ではあつたが、節度ある言葉づかいで、私も鄭重に答へたが、殘念ながら納得しては貰へなかつた。限られた紙數では、今囘もまた新たな誤解を招くだけに終るかも知れないが、前囘言落した事を書いておきたい。
國民の知る權利を無視する事が國民の幸福に繋がるといふ判斷が間違つてゐるとは言切れない、と先先週私は書いた。さうなると、新聞や雜誌の使命は一體どういふ事になるのか。新聞雜誌には國民に眞實を知らせる義務がある筈である。例へば一昨年、文藝春秋は「田中角榮研究」なる一文を掲載する事によつて田中内閣を崩壞せしめた。あれを要らざるお節介などと私は毛頭考へてゐない。また、サンケイ新聞は、いはゆる宮本復權問題に關しても、時に日共を利すると思はれるやうな事柄であらうと、事實は事實として報道するといふ姿勢を崩してはゐない。それを私は見上げた根性だと思つてゐるのである。
つまりかういふ事なのだ。吾々は所詮不完全で、絶えず惡事や過ちを犯すものなのである。從つて、もはや神を畏れぬとしても、吾々はせめて他者の告發を恐れねばならない。とすれば、ロッキード事件の眞相を、檢察庁は情け容赦なく究明したらよいのだし、新聞雜誌も「黒色古同官名」を知つた場合は、その「知らせる義務」を斷然果したらいい。ただし、政府高官のはうも、眞實を知られる事が國民の不幸に繋がると信じた場合は、眞相を隠蔽すべく人知の限りをつくせばよいのである。高坂正堯氏の言ふ通り、この世に巧みに仕組まれた裁判や偽證はいくらもあらうが、それが‘大體’法の枠内で行はれる限り、本物の暴政には決して至らないものなのだ。 
4 誘導と煽動
先日、大新聞ならぬ小新聞を買ひ求め、一讀してその文章の杜撰に呆れ返つた。
例へばかういふ文章である。「政治休戰中はいつさい表面に出ないはずの椎名自民黨副總裁が、鬼のゐぬ間のなんとやらで、三木首相の留守中、新聞・テレビのインタビューに出まくつて、いひたい放題をいつてのけた」
この文章の粗雜については贅言を要すまい。鬼のゐぬ間の洗濯と言ふ場合の鬼とは、洗濯をする者にとつて畏敬ないし恐怖の對象なのであり、椎名氏が三木氏を鬼の樣に恐れてゐる筈は無いから、この譬へはおよそ無意味である。文章といふものは書き手の知能を的確に示すものだから、この種の惡文は嘲笑つて見過せばいいかと言ふと決してさうではない。なぜなら杜撰な文章を書く新聞記者が身のほどを弁へず、卑劣な手段を弄して民衆を煽動するといふ事があるからで、その好箇の例を、私は見出したのである。
それは、一枚の写眞につけられたキャプションで、写眞には左端に三木首相、右端に稲葉法相、そして兩者の中央に大平藏相の、あの細い目であらぬ方を眺め、「泣き出しさうな」とも「迷惑さうな」とも「退屈さうな」とも形容し得る表情が写つてをり、そして、その写眞は「これだけ擧がつてゐる自民黨の‘疑惑者’たち」といふお粗末な記事の中に挿入されてゐるのであつて、當然記者は、大平氏をロッキード事件の被疑者と見なし、そこへ讀者を誘導しようとしてゐる譯である。これは惡しき新聞記者の常套手段なのだ。
かういふ卑劣な誘導をジャーナリストたるものは、斷じて行つてはならない。そして、大新聞も往々にしてこの種の誘導を行ふから、私はここで、馬鹿念を押しておきたいのだが、例へばロッキード事件に關し、政府高官が檢察庁に呼ばれたとして、その高官がダークスーツに中折れ帽、黒メガネといふ裝ひで、やくざの親分としか見えぬ有樣であつたとする。それでも新聞記者は、斷じてその印象を書いてはならないのである。やくざとしか見えぬと讀者が思ふのはこれは讀者の勝手だが、新聞が「どうだやくざのやうに見えるだろう」と書くのは越權行爲であり、さういふ誘導は何時でも煽動に轉じるものだからである。 
5 葬式と結婚式
どんな馬鹿でも一生のうち二囘だけ主役を演じる事が出來て、それは結婚式と葬式のときであると、何かの本で讀んだ事がある。確かにその通りだと思ふけれども、義理で付き合ふ立場からすれば、葬式のはうが結婚式よりも、いや結婚披露宴よりも、本氣になれるのではないか。「花嫁に對しては常に嫉妬、死體に對しては常に善意、それが人情といふものだ」といふ名せりふが、J・M・バリーの芝居にあつたけれども、恨み骨髄に徹するほど憎んでゐた敵であつても、その死體ををさめた棺桶を前にして燒香する段ともなれば、人間、思はず知らず善意の塊と化するのである。
さういふ譯で、私は結婚披露宴が好きになれないのだが、それは他人の幸福に付き合ふよりも不幸に付き合ふはうが本氣になれるといふ、けしからぬ根性のせゐだけではなくて、結婚披露宴のありやうを頗る疑問に思つてゐるからでもある。三々九度とウエディング・ケーキとメンデルスゾーンといふ和洋折衷の馬鹿らしさもさることながら、仲人の挨拶の紋切型は仕方無いとしても、招かれた客が次々に立ち、お祝ひの言葉と稱して新郎新婦の、私的な愚にもつかぬエピソードを披露するあの藝の無さに、私は毎度不快な思ひをさせられる。
どうやら吾々日本人は、私的なものと公的なものとのけぢめをつけるのが不得手のやうであり、その證拠に吾國の近代文學は、私小説といふ奇怪な大人の作文を久しくのさばらせて來た。そして、さういふ作家の身邊雜記を好意的に讀む讀者も、授業中の教師の(學生に媚びんがための)私事にわたる脱線を喜ぶ學生も、他者の甘つたれに對して極度に寛大なのであり、それは要するに、彼等の自我が頗る脆弱だからなので、脆弱だからこそ、他人の甘えを許すとともに、おのれもまた私事を披露して憚らぬ譯である。が、私事のために他人を煩はすのは、おのれが死んだ時だけで充分である、と、まあ、少くともさういふ心構へで吾々は生きてゆくべきなのだ。 
6 「河野新黨」の前途
自民黨を離黨し、新自由クラブを結成した河野洋平氏たちの行動について、世間はおほむねこれを歓迎し、その前途を祝福してゐるやうである。青嵐會の渡邊美知雄氏によれば、河野氏たち六人は「家の中がおもしろくないと言ふので荷物を纒めて出て行く家出娘」だといふ事になるのだが、さういふ冷靜な評價はむしろ珍らしく、この問題をめぐる新聞のはしやぎやうを窘めた或るミニコミ紙の論文の筆者さへ、河野氏たちが現在の自民黨の腐敗に我慢がならず、「保守黨の再生のために身を殺して仁をなす事に踏切つた勇氣そのものは、高く評價されて」しかるべきだと書いてゐるほどである。
私は八卦見ではないから、「河野新黨」の前途が先太りか先細りかについての予斷は控へる。勿論、先細りとなるやう祈つてゐるし、また多分さうなるだらうと思つてゐるが、ひよつとすると先太りになるかもしれぬといふ一抹の不安もあるのであり、それは河野氏たちの義に勇み立つ偽善的な行動を、世間が一向に疑はうとしないからである。
と言つて私は、河野氏たちも金權政治と無縁ではあるまいなどといふ事が言ひたいのではない。河野氏は去る二十六日、「國民のための政治といふより國民が中心になつた政治を取り返す事が重要」だと演説して、聽衆のやんやの喝釆を浴びたらしいが、かういふおよそ大雜把な甘い言葉に、日本國民はいつになつたら堪能するのであらうか。これが河野氏の本音なら、それは意識せぬ偽善で幼稚であり、さういふ勇み肌の坊ちやんの前途に私は何の期待も抱く事は出來ないし、また本音でないとすると、それは意識的な僞善にほかならず、それなら河野氏も大方の代議士諸公と同樣同じ穴の貉であるから離黨の必然性は無いといふ事になる。
從つて私は、河野氏が義に勇み立つてゐるのだと解釋するけれども、遺憾ながら世間はこの種の意識せぬ偽善の危ふさを充分に認識してゐず、それゆゑ「河野新黨」先太りの危險ありと、私は考へて、憂鬱になる譯である。 
7 偏向教育
まづ笑話を一つ。友人の小學二年生になる娘が、或る日ゴレンジャーだかグレンダイザーだか、とにかく勸善懲惡的テレビ番組を見終つてから、かう言つたのださうである、「お父さん、先生が言つたけど、西城秀樹つて惡い人なんだつてね」。
小學二年生を相手に流行歌手のスキャンダルについて教場で語るとはいささか腑に落ちぬと思つた友人が問ひ質してみると、西城秀樹は澤山の日本人を殺したから惡い奴だと、担任の教師が言つたらしい、といふ事が解つた。要するに友人の娘は、東條英機を西城秀樹と勘違ひしてゐた譯である。
これが笑話ですむのは偏向教育を受ける生徒が低學年だからであり、折角の教師の努力が水泡に歸した事が滑稽なのだが、中學生や高校生相手の偏向教育となると、これは決して笑つてはをられぬ、と言つて、子供の前で教師を批判するのも望ましい事ではないし、とにかく偏向教育對策を文部省は眞劍に考へて貰ひたい、と友人は頗る熱つぽく語つたのであつた。
もとより私も偏向教育を嘆かはしい現象だと思つてゐるが、文部省にその是正が出來るとは思つてゐない。ここで文部省を批判する餘地は無いが、左寄りの偏向教育を是正するための最も効果的かつ抜本的な對策は右寄りの偏向教育なのであり、つまり毒を制するには毒をもつてすべきなのだが、中立といふ事をよき事と考へたがる文部省には、いや政府には、それを實行に移す勇氣はまづ無いであろう。
けれどもここで私ボ指摘しておきたいのは、小學校は知らず大學においては、保守的な教師がとかくおのが政治的見解を會議の席や教場で語りたがらず、政治的中立ないし非體制の立場をとりたがるといふ事實、および政治的中立を宗とする教師よりも進歩派の教師のはうが、概して授業に熱心だといふ事實である。中立は無能の隠れ蓑になりうるものなのだ。 
8 無能と人權
ここに一人、どう仕樣も無いほど無能な女の小學校の教師がゐる。教へ方が下手で、度々間違つた事を教へ、思想的に少しく偏向してゐるらしいのだが、いはゆる偏向教育をやる餘裕も無いくらゐ五里霧中で、それに何より教師としての權威がまるで無く、生徒が反對すればたわいも無く自説を撒囘してしまふ。生徒は教師をなめきつて、教室は無政府状態となり、とても落着いて勉強出來るやうな雰囲氣ではない。かくて生徒の學力は急激に低下する事となる。そこで父兄は、と言つても主として母親だが、寄り集つて互ひに憤懣をぶちまけ、かつ對策を練るといふ事になる。
ところで、運惡くかういふ無能な教師にわが子を託する事となつた場合、父兄は一體どうすればよいか。まづは觀念する事である。教室で生徒がすごす時間を全くの無駄と觀念し、教師を激励してその向上を促す事も、教育長や校長に抗議する事も所詮徒労と知るべきなのだ。
なぜなら、必死の努力を傾けても有能とはなしえぬ、或いはなりえぬ無能といふものはこの世に確かに存在するからであり、また、例外は無論あらうが、大方の教育長や校長は中立をもつて保身の術と心得てゐるからである。つまり吾國においては中立とは少しく左寄りの事であるから、教育長や校長が、イデオロギーを同じうする教師の人權はとかく闇雲に擁護したがる組合に對し、強い姿勢を示す事などまづ期待出來ないのである。人權擁護とは無能の擁護なのだ。
ところで、ついでに付け加へておくが、運が惡いと諦めて子供を放置しておけと私は言つてゐるのではない。家庭教師をつけるなり、塾へ通はせるなり、學力を向上させる爲の手立てはある筈である。但し、子供はいづれ教師を輕蔑するやうになるに相違無いから、その輕蔑が大人に對する不信といふ甘つたれに變ずる事のないやう、家庭における躾をかなり嚴格なものとしなければならない。が、當節の軟弱で物解りのよい親にとつて、それは頗るつきの難事なのではあるまいか。 
9 自民黨への注文
田中前首相が逮捕されて以來、いはゆる自民黨の金權體質が指彈され、自民黨は結黨以來最大の危機に直面してゐるさうであり、自民黨がこれを契機に徹底的な出直し的改革を行ひ粛黨の實をあげない限り、衆參兩院における保革逆轉は必至だと人々は考へてゐるやうである。
どうやら自民黨員の大半が粛然と襟を正してゐるらしい現在、水を差すやうな事を言ひたくはないけれども、そしてまた、自民黨に改革すべき点が多々あるといふ事は認めるけれども、改革だの粛黨だのといふ作業がさう簡單に捗るとは私は思はない。まして徹底的な出直し的改革など、到底不可能だと思う。
なぜなら、すべて物事を徹底させるには強大な權力の集中が必要だけれども、それは全體主義國のみ可能な事であつて、前首相が逮捕されるやうな國においてはそれほどの權力の集中はありえないからである。
といふ譯で、汚職の根絶は所詮不可能だと私は考へてゐるのだが、昨今政治家は、与野黨の別無く、國民に向かつて綺麗事を並べ立てる癖がついてをり、國民もまた政治に清潔のみを期待してゐるやうに思はれるから、この際自民黨が、「一致團結して積年の弊を取除く」云々の誓言を立てるのはやむをえないであらう。だが、今なほ自民黨を支持する者の一人として、私は自民黨に一つ苦言を呈したい。人は時に金で動くのである。それは間違ひ無い。が、人間には金で動かぬ何かも必要なのである。早い話が、金錢上の惱みが自殺の原因のすべてではないのであり、それはつまり「人はパンのみにて生くるものにあらず」といふ事なのである。
が、池田内閣以來の自民黨は、パンを与へさへすれば國民の支持が得られると思ひ込んでゐる。それこそ途方も無い勘違ひであつて、自民黨にはこの際、その点を大いに反省して貰ひたいと思ふ。利をもつて釣り上げた支持者は理に服してはゐないのである。 
10 それ見たか
先日、毎週金曜日のこの「直言」欄を讀んで憤激してゐるといふ高校の教師から電話があつて、お前は「歴史の流れに逆行してゐるドン・キホーテ」である、それゆゑお前の予言は悉く外れるであらう、お前が提灯を持つた椎名副總裁の三木追落し工作は挫折した、それ見たか、灰色高官名も公表されるに決つてゐるし、「河野新黨」も必ず先太りになる、お前はまだ若いらしいから、「コーチャンを信ずるな」などと先走つて輕薄な事を書いた會田雄次氏のやうな頓馬を見倣はぬやうにせよと、せせら笑ふやうな調子で忠告してくれた。性來短氣な私は散々言ひ返し、會田氏に對する不滿は電話代を惜しまず京都の會田氏にぶつけてくれ、と言つて電話を切つたけれども、暫くは頗る不快であつた。先方も私にやりこめられて頗る不快だつたであらう。全く不毛な、馬鹿らしい話である。
「歴史の流れ」といふものがあつて物事はすべて予め定められた結末へと向つて行くのだといふ考へ方からすれば、時流に抗する者もいづれは必ず節を折り、流れに棹さすやうになる、といふ事になる譯であらう。實際その通りなのかも知れないのであつて、政治家やマスコミが世論に迎合し、時流に身を委ねる氣樂を享受しつつある今日、時流に逆ふ發言がすべて封じられ、「頓馬」が鳴りを靜める日はさう遠くないのかも知れない。
ここまで書いて來た時、檢察庁が外爲法違反の容疑で田中角榮氏を逮捕した事を知つた。「それ見たか」氏が再び電話をかけて來ないやうここで斷つておきたいが、田中前首相が逮捕されたからとて、ロッキード事件に關する私の考へはいささかも變らない。その理由を書くのは實に不本意だが、灰色高官の人權をも尊重すべしと書いた時、私は汚職を擁護した譯ではないからだ。もとより會田氏も同樣である。
だが、そんな事を言つても所詮は無駄であらう。ロッキード事件の解明をすべてに先行させよと主張して來た手合は「それ見たか」と快哉を叫び、徹底的な政界淨化を政治家に要求しつづけるに違ひ無い。それも結構、大いにやつたらよい。日本は今、幸か不幸か頗る平和だからである。 

 

11 敵の所在
今年の二月、ニューズウィーク誌に載つてゐた西ドイツの外相ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー會見記を讀み、色々と考へさせられた。と言つても、ゲンシャーが格別深遠な外交哲學を開陳してゐた譯ではない。ゲンシャーはデタントの幻想に酔ふな、ソ連を信用するな、共産黨との連立は考へるなと言つてゐるのだが、さういふ事は別に耳新しい警告ではない。ただ私は、日本の外相なら決して言はぬ類の事を、或いは言へぬ類の事をゲンシャーが事も無げに言つてゐるのを、頗る興味深く思つたのである。
例へばゲンシャーは、このままソ連の海軍力が増強されてゆけば、一朝有事の際、ヨーロッパとアメリカとの間の水路は危殆に瀕するであらう、西側の指導者は自主防衞の意志を固めるとともに國内の自由の敵と戰はねばならぬと言つてゐるのだが、内政においても外交においても戰ふべき敵を明示したこの發言を、このほど日本政府が發表した防衞白書と較べてみるとよい。白書には「米ソは強い相互不信感を持つてをり」、「デタントには限界」があるけれども、「わが國の場合、憲法九条の規定からその防衞力は專守防衞のものでなければなら」ず、「防衞力を保持する意義は、有事で戰ふことにあるといふよりも平和の維持のために機能することにある」と書いてあるのだ。
私は宮澤外相や坂田防衞庁長官を無能な政治家だとは思つてゐない。ただ、政府自民黨が外交においても内政においても戰ふべき敵を明示せずにゐる現状を不滿に思ふのである。人の褌で相撲を取る事も、漁夫の利を占める事も、確かに知慧の一種ではあらうが、アメリカがいつまでも安保の只乘りを許すとは思へないし、敵の所在が不明ないし曖昧では、自衞隊のみならず一般民衆も、國を守る氣概を持ちはせぬ。そして、愛國心の無い國民が政府を積極的に支持する筈は無いのである。
政府自民黨は、自由社會と全體主義社會のいづれを選ぶか、その選択を國民に迫るべきである。さもないと、自民黨の凋落傾向に齒止めをかける事など到底出來ぬであらう。 
12 ぐうたらに神風
先日、佐伯彰一氏及び吉田夏彦氏と話合ふ機會があり、日本共産黨の前途といふ事が話題になつた。その折にも喋つた事だけれども、日共は日本といふ特殊な風土の中で風化してしまふのではないか、と私は考へてゐるのである。少くともイタリア、フランスにおける友黨ほどの勢力は到底獲得出來ないだらうと思ふ。來年の參院選における保革逆轉は必至であり、一九八○年代には革新政權が誕生すると考へる向きもあるけれども、萬一さういふ事態になつたとしても、それは決して共産黨主導型の革新政權ではないであらう。つまり私は、共産黨單獨政權誕生の可能性は皆無だと考へる。日本といふ國は大層有難い國であつて、國難の際には必ず神風が吹くやうになつてゐるからである。
思へば大東亞戰爭に敗れてアメリカに占領された事が戰後の神風第一號だつたのであり、もしもソ連に占領されてゐたら日本の今日の繁榮は無かつた筈である。また、朝鮮戰爭とヴェトナム戰爭でアメリカは自國の青年の血を流したが、日本は平和憲法のお蔭で戰爭に卷き込まれず、それどころか特需によつてしこたま儲け、世界屈指の經濟大國に伸上つたのであつて、してみれば二つの戰爭はいづれも日本にとつての神風だつたと言へるのである。二度ある事は三度ある。そして三度ある事は四度も五度もある筈だ。さうなのだ、日本人はぐうたらにしてゐて大丈夫、必ず必ず神風が吹くのである。
それを思ふと私は時々無性に虚しい氣持になる。先週「敵の所在」と題する文章を書いてゐた時もさうであつたし、日共の微笑戰術に騙されるなと學生たちに説く時もさうである。つまり、さう物事を深刻に考へる必要は無い、必ず神風が吹き、神國日本は千代に八千代に安泰なのだ、といふ心中の聲を私は聞く譯なのだ。
ジョージ・スタイナーは、一昨年日本を訪れた際、戰爭無くして文化はありうるかとの深刻な問題を提起した。世界で一番平和な國、それは日本であり、世界で一番ぐうたらな國、それも日本である。平和が人間をぐうたらにするのは確かな事であるやうに思はれる。 
13 統治能力
福田副總理と大平藏相は三木首相には統治能力が無いと言ふ。これに對して三木首相は、福田、大平兩氏には「私、三木の原則を尊重して黨内ををさめるやう考へてくれる責任がある」のであり、「民主政治のもとにおける指導力とは、皆が協力して助けることだ」と言ふ。他人に助けて貰ふ事が指導力だといふのは随分奇妙な論理だが、これはまたいかにも三木氏らしい論理であつて、皆が自分を憐れんでくれる事こそ自分の統治能力だと、三木氏は考へてゐるのかも知れない。三月前、取上げ爺にいびられた時は、マスコミと世論が憐れんで助けてくれた。今囘も多勢に無勢の九郎判官に世間の同情は集るに決つてゐる。三木は清潔であり、ロッキード事件の究明は三木でなければ果せないと世間が考へてくれてゐる限り、自民黨代議士の三分の二が楯突かうとも三木政權は安泰である。さう三木氏は考へてゐるに違ひ無い。
實際、獨禁法改正問題にせよスト權問題にせよ、三木氏は野黨やマスコミを喜ばすやうな事を言ひ出し、財界や黨内反主流派の反撥を買ふと直ちにそれを引込め、正しい事をやりたいのに邪魔されてやれずにゐる「憐れないい子」を演じてみせたのである。が、やりたくてもやれなかつたといふ事は、所詮無能だつたといふ事に他ならない。三木氏はまた指揮權を發動しなかつた事を誇つてゐるが、指揮權を發動するには努力が要るだらうが、發動しない事には格別の努力は要らぬ筈である。「しなかつた事」を誇つたり、「出來なかつた事」を嘆いたりするのは女々しい事である。いい加減にして貰ひたいと思ふ。
福田、大平兩氏は三木氏の統治能力の缺如を言ふが尤もである。「三木降し」の大義名分としてはそれだけで充分だと、私は六月四日のこの欄に書いた。あの頃椎名氏が三木追落しを策したのは決してロッキード隠しのためではなく、野黨やマスコミの人氣取りのため、三木氏が保守政治の根底を揺がすやうな事をしでかさうとしたためではなかつたか。椎名氏一人を責める譯では決してないが、野黨と結んでも政權を獲得しようとした前歴を持つ人物を總裁に選んだ物解りのよさが、そもそもの間違ひだつたのである。 
14 ソルジェニーツィンと金3(火+囘)旭
十五年前、ニューヨークで日本人の大工に會つた事がある。當時私はダグラス・オーバトン氏の家に寄寓してゐたのだが、オーバトン氏は客間の一部を日本風に改造せんと思ひ立ち、日本人の大工を呼付けたのである。大工がやつて來た時、オーバトン氏は留守だつたので、一緒に寄宿してゐた劇團四季の水島弘氏と私とが大工に會ひ、茶菓の持成しをした。その大工は實は彫刻家であつて、彼は日本の美術界の封建的頽廢に愛想が尽き、祖國を捨てアメリカヘ渡つて來たとの事であつた。口角泡を飛ばして日本及び日本の美術界を罵る男を眺めてゐると、あはれでもあり滑稽でもあり、同時に頗る不愉快でもあつた。日本の美術界がどのくらゐ穢いか、私は知らない。文學界や新劇界については多少知つてゐるが、いづれも學者の世界と同程度に穢いやうであつて、昨今、文學賞の類は專ら年功序列を考慮して順番に授けられ、作家は批評家に付け屆けを怠らないさうである。だが、あのニューヨークの大工には彫刻家としての才能は無かつたのであつて、日本の美術界がいかに穢からうと、彼の才能については適切な評價を下してゐたのだらうと思ふ。さもなければ、ニューヨークで大工なんぞをしてゐる筈が無い。當時アメリカでは、日本人の藝術家は厚遇されてゐたのであり、それは日本の大學が外人講師を甘やかしてゐるのと一般である。日本の大學が雇つてゐる英米人の非常勤講師には教師の名に値しない手合も多く、取り得は英語が喋れるといふ事だけなのだ。
吾々は自分の才能を他國で認めてもらはうとは思はない。かつて吾國が學者を厚遇しないため、優秀な人材が海外に移住し、「頭腦流出」が問題になつた事がある。が、今日では頭腦流出を憂へる聲は聞かれない。まつたうな學者ならよほどの事が無い限り祖國を捨てはしないのである。例外は無論あらうが、祖國で認められず他國で通用するやうな學者は結局は二流なのであつて、吾國に滞在する有象無象の外人講師も、所詮本國では一流の學者として通用しない手合なのである。
チェコスロバキアの反體制の劇作家パヴエル・コハウトは、チェコ政府による國外退去の勸告を拒絶した理由を問はれて、自國語を喋る觀客を失ふのは劇作家としての自殺行爲だからだと答へた。そのコハウトも結局祖國を離れざるをえなかつたのだから、私は例へばソルジェニーツィンやアマルリクを非難する積りは無い。が、祖國を捨てた作家達は例外無く創作活動の停滞を體驗してゐるといふ。人間は家庭や祖國を捨ててはならない。それがどれほど理不尽であつても、である。そして、餘儀無く祖國を捨てる事があつても、祖國への愛を捨ててはならぬ。誤解されるのは覺悟で付け加へるが、祖國の體制を批判するソルジェニーツィンに對して、金3(火+囘)旭に對すると同質の不快の念を私は時々抱くのである。 
15 甘い言葉と甘い顔
これは千田恆氏が指摘してゐた事だが、社會黨はその内輪揉めに際し、人事で妥協せずイデオロギーで妥協して當面の危機を囘避したのであつて、私もそれを頗る奇怪な事だと思つてゐる。人事の妥協といふ事は理解できるが、イデオロギーの妥協といふ事は理解できないからである。それはともかく、田英夫氏たちの脱黨の眞の動機は何か、さういふ事に私はあまり興味が無いけれども、協會派と反協會派のいづれを重視するかと問はれたら、私は躊躇無く協會派を重視すると答へる。なぜなら、協會派はイデオロギーの妥協を究極的には拒否するであらうし、また協會派のはうが敵として見所があるからだ。社會黨の内紛を扱つてマスコミは、とかく協會派を惡玉に仕立てるけれど、協會派が黨内黨としていづれ母屋を乘つ取らうと企んでゐた事を、私は反協會派が非難するほどの惡事だとは思はない.政治に策略は附き物だからである。むしろ長年その策略に氣づかなかつた反協會派の甘さのはうを私は輕蔑する。それにまた、反協會派は「人間の顔をした杜會主義」などといふ甘い夢を見てゐるが、社會主義といふものは土臺人間の顔などしてゐない。それは久しい以前にドストエフスキーの天才が見抜いてゐた事である。
杜會主義が血も涙も無い圧制に至るといふ事に、どうして日本人は氣づかないのか。日本赤軍のハイジャックに憤慨するのなら、赤軍派は決して杜會主義の鬼子ではないといふ事を知るべきである。『惡靈』において、ピヨールといふ冷血漢を育てたのは、父親スチュパンの「理想家肌の自由主義」であつた。同樣に、香山健一氏が先日サンケイ新聞に書いてゐたやうに、あの非人間的な赤軍を育てたのは、他でもない、若者を甘やかす事に專念してゐる日本の戰後教育なのである。教師は若者を甘やかし、政治家は國民に媚び詔ふ、さういふ温情主義のぬるま湯に、いつまで日本人は漬かつてゐるのであらうか。擧句の果てに杜會主義協會も日共も骨抜きになつてしまふのであらうか。私はそれを心配してゐる。衣の下に鎧が透けて見えぬやうなマルクス・レーニン主義といふものを、私は信じないからである。私は本氣でそれを心配してゐる。敵が手強いのはよい事だからだ。
それゆゑ私は、田英夫氏よりも向坂逸郎氏を高く買ふ。
向坂氏は田氏を評して「社會主義などまるで解つてゐない」と言つたさうだが、全く同感である。向坂氏は非武裝中立なんぞ甘い幻想でしかないと信じてゐるに違ひ無い。そしてその信念は向坂氏の顔にはつきりあらはれてゐる。私は甘い顔を信じない。
しかるに、殘念ながら日本人は、甘い言葉と甘い顔が大好きなのである。『月曜評論』の寄稿家でさへさうなのであり、かくて例へば福田恆存氏の「笑つても笑顔にならぬ」嚴しい表情は、およそテレビ向きでない、などと評される事になる。やんぬるかな。 
16 放言と事なかれ主義
石原環境庁長官の新聞記者批判に腹を立て、環境庁記者クラブは十月七日、長官に對する「會見拒否」を宣告した。親睦團體である記者クラブが一致團結してそのやうな行動をおこすのは奇怪だが、それはともかく、大臣が時々「放言」するのはよい事だと私は考へてゐる。それは教師が時々生徒を殴るのと同樣よい事なのである。なぜなら放言する事も殴る事も頗る人間的な行爲だからであり、メナンドロスの言ふとほり、人間が人間である事はよい事だからだ。
實際、昨今の大臣は決して怒らない。國會でのやりとりを聽いてゐると、よほどの腑抜けでなければ大臣は勤まらぬといふ事がよく解るのである。例へば毎年、米價が決定される頃になると、農林大臣が野天で農民と會見するけれども、農民の敬語抜きの野次に對しても、大臣は敬語丁寧語を用ゐて答へるのである。それが政治家の度量といふものなのだと政治家は考へてゐるのかも知れないが、それは彼等が睾抜きである事の證拠なのだ。一人前の男なら、地位を失ひたくないからとてあれほど卑屈になる事を嫌ふはずだからである。新聞記者の思上りに反發した石原長官の發言を、醫師會の思上りに反發した渡邊厚相の發言を、それゆゑ私は支持する。二人とも地位を賭けて本當の事を言ふ人物だと考へるからである。
だが、私はここまで書いて來て少々不安になつた。福田首相は石原・渡邊兩氏の「直情径行」を苦々しく思つてをり、内閣改造の際には兩氏を更迭する氣でゐるのではないか。首相は十月三十日、陸上自衞隊の觀閲式で恆例の訓示をしたが、草稿の「ソ連の軍事力増強」に言及した部分を省略して朗讀したさうである。もとより首相の眞の意圖が何であつたかは解らない。ソ連の軍事力が年々増強されてゐるといふ事實さへ指摘する事を憚り、「ソ連にそれだけ氣を遣ふといふことは、本氣で日中に取り組むつもり」なのかも知れず、それは詰り福田氏の「政治的配慮」といふ事なのだらうが、そしてさういふ政治的配慮は政治家にとつて必要不可欠なものだが、それにしても日本の政治家は事なかれ主義をもつて策の上なるものと看做し過ぎると思ふ。醫師の税金に關しても、食管法の赤字に關しても、理を説いて醫師會や農民を窘めるといふ事をしない。防衞問題に關してもさうである。GNPの一パーセント以下でよいと福田首相は本當に考へてゐるのだらうか。恐らく否である。また、憲法改正は自民黨の黨是のはずである。が、歴代の首相は任期中の憲法改正は無いと繰返し言明した。それは確かに利口なやり方だつたが、「憲法改正は黨是であり、自分も自民黨員である以上改正したい。が、現在の議席數では不可能である」と答弁する首相が一人くらいゐてもよかつたのではないか。とまれ、私は政治家諸公に注文しておきたい。事なかれ主義も時に有効である、が、諄々と理を説いて國民やマスコミの嫌がる事も言ひ、それを實行に移す、それだけの強さを政治家は持つて貰ひたい。 
17 平和惚けの日本人
今囘は後れ馳せながらハイジャックについて書く事にする。日航機およびルフトハンザ機の乘取り事件を解決するに際して日獨兩政府の採つた態度は對照的であり、世論は概ね日本政府の弱腰を批判してゐた樣に思ふ。けれども西獨政府の嚴しい態度に「ナチズム復活の危險」を感じ、それに怯えた向きも少なからずあつたのである。當時私は「西獨は嚴しい顔で日本を見てゐる、あれは戰爭をやる顔である」と書いたが、ソ連もアメリカも西獨を支持したのだから、「戰爭をやる顔」をしてゐるのは西獨に限らない、全世界が平和惚けの日本を嚴しい顔で見てゐるのである。
平和惚けの日本人は、けれども、西獨の嚴しい顔を「戰爭をやる顔」だとは思つてゐない。イスラエルのエンテベ空灣奇襲作戰にせよ今囘の西獨の強硬策にせよ、西歐の遣り方は殘忍であり、「和をもつて尊しとなす」わが國民性とは相容れないものだ、さう考へて安心してゐる。けれども、日本方式と西獨方式とは著しい對照をなしてゐるが、日本には日本獨特の遣り方があつてよいとする考へは大變危いと思ふ。近き將來か遠き將來か、それは神ならぬ身の知るよしも無いが、日本もいづれは必ず戰爭に卷き込まれる筈であり、さうなれば、和を尊ぶ日本の國民性なんぞ通用しなくなる。日本はハイジャッカーに十六億圓を支拂つた。西獨は一文も支拂はなかつた。十六億圓と一圓とは程度の差だが、十六億とゼロとは質の差なのである。要するに西獨は人命を金に換算する事を拒否したのだ。それゆゑ私は、西獨は「戰爭をやる顔」をしてゐると言つてゐるのである。戰爭とは個人の生命以上の何かのために血を流す覺悟でやるものだからだ。しかるに、戰後三十餘年經つて、吾々はその種の覺悟をすつかり失つてしまひ、日本のふやけた顔と西獨の嚴しい顔とを、國民性の相違によるものと考へて安心してゐる。
ところで、先日私は森常治氏の『日本人=<殻なし卵>の自我像』を讀み、驚き、かつ呆れた。昨今流行の日本論の大半は胡散臭いと聞いてはゐたが、この森氏の著作ほど樂天的な日本人論は私も讀んだ事が無い。森氏は「右翼の人々が日本人の國際化を激しく拒否し、他方では、これまでの進歩的知識人がとかくするとわれわれの文化的傳統を輕視する(中略)のは、その兩者ともども、われわれ日本人の心情はあるがままの姿では國際的ではありえない、といふないへんな誤認のうへにたつて」ゐる、だが、「あと二百年もすれば西歐の人々もかなり日本的になるから、焦るな、焦るな、といふくらゐの氣持で、のんびり構へるべきでせう」と書いてゐるのである。二百年も先の事なら私は斷言して憚らない。日本はそれまでに必ず戰爭をする。そして日本が勝ち抜く爲には、日本が西歐精神にとことん附合はねばならぬ。森氏の日本人論は、要するに平和惚けの日本人論なのである。 
18 日本株式會杜の倒産
「萬國の労働者よ、團結せよ」などといふスローガンは、昨今あまり用ゐられなくなつた樣だが、萬國の労働者には二種類あると私は考へてゐる。すなはち、雇主の倒産を考へる労働者と考へない労働者である。不況の今日、中小企業に働く人々にとつて一番心配な事は會社の倒産であるに違ひ無い。が、その種の心配と全く縁の無い經營者や労働者もあつて、例へば親方日の丸の官吏がさうであり、大新聞の經營者や労働者がさうである。國鐵の職員も大新聞の記者も、雇主の倒産といふ事態はまるで考へてゐまい。國民が國鐵を潰す筈は無い、大新聞を潰す筈は無い、さう考へて安心してゐるであらう。
私は經濟の專門家ではないから、現在の不況に對する處方箋を書く譯にはゆかない。が、日本株式會社は中小企業だと私は思ふ。しかも、中小企業でありながら、親方日の丸の官吏と同樣、會社の倒産といふ事態を全然考へてゐない。中小企業の場合、大企業の下請けの仕事をやつてゐる場合、大企業の善意にだけ縋つてやつてゆく譯には到底ゆくまい。大企業が仕事を廻してくれるやう、他の下請け會社との競爭に負けぬだけの技術を持たねばならないし、時には樣々の策略を巡らし手を汚す事もやらねばならぬ。ところで、日本株式會杜はこれまで、諸外國の善意にだけ縋つてやつて來たのである。現在の圓高ドル安は日本にだけ責任があるのではなく、急増しつつあるアメリカの石油輸入のせゐでもあり、それゆゑアメリカもドル防衞の爲に努力すべきだといふ説があつて、それはその通りだと私も思ふけれども、さういふ事をアメリカに言つてみても問題は一向に解決しないと私は思ふ。この際大切なのは、アメリカやEC諸國の善意に縋つて肥え太つて來た日本に對して、それらの國々が苛立つてゐるのだといふ事實を認める事ではないだらうか。例へばアメリカは日本の經常収支の黒字を一擧に減らせなどといふ無理な注文をしてゐるが、さういふ無理難題をふつかけるアメリカには、これまで散々甘やかして來た日本に對する感情的な苛立ちがあるのではないか。言ふまでもなく、日本の今日の繁榮は平和憲法と日米安保条約のお蔭である。日本の防衞費は、昭和三十年を例外として、今日までGNPの〇.九パーセントを越えた事は無い。さういふ事への苛立ちがアメリカに果して無いと言切れるか。勿論、平和憲法を押付けたのはアメリカであり、片務的な安保条約で滿足したのもアメリカである。それゆゑ、アメリカは苛立ちを公言出來ない。が、公言出來ぬからこそ、苛立ちはますます募るのである。平和憲法を楯にして日本は、「諸國民の公正と信義に信頼して」稼ぎまくつた。が、今や吾々は諸外國の善意にだけ縋る事の危ふさを思ひ知らねばならぬ。日本株式會社の倒産といふ事も、決してありえぬ事ではないのである。 
19 自由世界に迎合すべし
近頃、大新聞は「日中友好への熱意」に燃えてゐるやうである。熱意に燃えて政府の尻を叩き、「世論」なるものを喚起しようとしてゐる。そして、その大新聞の熱意を誰か「高く評價」してゐるか。中共の機關紙『人民日報』である。大新聞にしてみれば、それがまた嬉しくてたまらぬのであらう。奇怪な事である。日本の大新聞がアメリカ政府や韓國政府から、日米友好或いは日韓友好の熱意を「高く評價」された事は無い。それどころか、大新聞はアメリカや韓國に對して頗る敵對的である。日米友好或いは日韓友好と、日中友好と一體どちらが日本國にとつて重要か。『月曜評論』の讀者に向つてそれをくだくだしく説く必要は無いであらう。日本株式會社は自由主義陣營に屬してゐる。自由主義陣營の善意に縋つて生きてゐる。周知の如く、石油と食料の九十パーセント以上を海外から輸入してゐる。私は不思議でならない、なぜ日本の大新聞はアメリカに迎合しないのか。なぜ自由主義陣營との連帯を大切に思はないのか。「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」とマタイ傳にある。「神の口より出づる凡ての言」とは絶對的眞理の謂である。さういふ絶對的眞理を希求する態度は日本人にとつて殆ど無縁のものだから、すなはち、日本人にとつて大切なのは自由よりもパンだから、日本の自由世界に對するコミットメントが、イデオロギー的なものでない事は怪しむに足りぬ。が、自由世界にコミットしつづけねば日本はパンさへ食へぬやうになる筈ではないか。早い話が、中國の産出する石油だけで日本はやつてゆけまい。中國が日本に食料を輸出してくれはしまい。それなら、パンの事だけ考へても、日本は自由世界に迎合せざるをえない筈である。しかるに日本の大新聞は共産主義國に迎合する。とどのつまりアメリカが日本を捨てる筈は無いと考へて、安心し切つてゐる。寛大で辛抱強い女房を安心して謗つてゐる髪結の亭主の心理である。この腑甲斐無き亭主は、女房に食はせて貰つてゐる事を忘れ、隣家の女房を戀してゐる。隣家の女房もまんざら惡い氣持はしないから、垣根越しに秋波を送る。が、心の底では輕蔑しきつてゐる。獨立自尊の念を缺いた男だと、とうの昔から見抜いてゐるからである。
もはや紙數が無いが、一言つけ加へておきたい。去る十一日、東京新聞は「覇權条項で中國が柔軟姿勢」を示すかのやうな記事を載せてゐた。今日只今のところ中國は日本の主張を認めてはゐない。或いは中國は妥協するかも知れぬ。かつて日米安保条約や自衞隊の存在を肯定したやうに。が、それはあくまで戰術である。策略である。いや、中國に限らない、すべての國家が策略を用ゐるのである。性善説は國際政治には通用しないものなのだ。 
20 内村剛介氏と片桐機長
先月二十日、日本の文學者二百八十七人が「核戰爭の危機を訴へる聲明」とやらを發表した。二十七日付の朝日新聞は「文學者の苦澁を反映、廣がる署名、三百人を超す」との見出しをつけ、署名した「文學者」十一人の意見を紹介してゐる。「苦澁を反映」だなどとは白々しい限りである。この飽食暖衣の國の文士が「苦澁」なんぞする譯が無い。孤狸庵先生こと遠藤周作氏も署名して、「聲明文が聲明だけではなく何かもつと影響と効果のある方法を考へられないでせうか。不發彈に終れば殘念です」と言つてゐるが、週刊誌に「ぐうたら」な文章を書き擲り、テレビでも稼ぐ似非カトリックが、「核戰爭の危機」なんぞを本氣で案じてゐる筈は斷じて無いのである。だが、轉びバテレンの「苦澁」とやらを題材にして「ああ、日本になぜクリスト教は根付かぬか」などと、心にも無い「苦澁」を訴へて稼ぎ捲るぐうたらカトリックの事は今はこれ以上論ふまい。私は内村剛介氏のでたらめに腹立ちを抑へられぬからである。朝日新聞によれば内村氏はかう言つてゐる、「署名します。(しかし)全般にこの聲明文は空疎で心を打たない。練り直しが必要と思ふ」
中野孝次氏だの、大江健三郎氏だの、柴田翔氏だのが署名したのは解る。井伏鱒二氏だの、尾崎一雄氏だのが署名したのも解る。井伏氏も尾崎氏も要するに「政治音痴」なのである。だが、聲明文が「空疎で心を打たない」のなら、なぜ内村氏は署名したのか。内村氏の文章は頗る粗雜であり、聲明文を「空疎」だなどと極め付ける資格は内村氏には斷じて無い。そして「文は人なり」であつて、粗雜な文章しか綴れぬ粗雜な男だからこそ、「空疎で心を打たない」聲明文に署名するといふ、破廉恥とも評すべき粗雜な行爲をやつてのけたのである。文學者は讀者の「心を打つ」事だけを考へる。「心を打たない」文章に同意するのは、「文學者」でない證拠である。例へば次に引く内村氏の惡文を見よ。
反核も平和も反戰もそれ自體としてはいいことで、文句はつけられない。この事は今ではもうコモン・プレースに屬する。ならばそのコモン・プレースにコミットしたからといつてコミットメント自體に何ほどの意味があらうとも思はれない。(中略)しかも、またしてもヨーロッパの反核ぶりを見てわがふりなほせのくちなのだから笑はせるつてことになる。(『月曜評論』二月十五日號)
この内村氏の恐るべき惡文の惡文たるゆゑんについて解説する紙數は無い。だが、私は『言論春秋』の讀者に言ひたい。『月曜評論』は、『言論春秋』と同樣、頗る信頼しうる、ミニコミ紙なのである。その『月曜評論』にも、これほど破廉恥な惡文が載るのである。とまれ、愚かしい「反核アッピール」は「心を打たない」と言ひながら、内村氏はそれに署名し、しかも、あらうことか、『月曜評論』において「反核アッピール」を批判した。正氣の沙汰とはとても思はれぬ。内村剛介などといふ物書きを、『言論春秋』の讀者が、今後一切信用しないやう、私は切に望む。
先般、日航機が墜落して、ジャーナリズムはしきりに片桐機長の異常を論つてゐる。だが、内村剛介氏の異常と片桐機長のそれとは甲乙無い。しかるに世人は内村氏の異常を論はぬ。奇怪千萬である。 

 

21 外山滋比古氏の駄文
サンケイ新聞の「世代百景」といふコラムに文章を書いてゐるのは、お茶の水女子大の外山滋比古教授である。毎囘つまらぬ事を書いてゐて、その都度呆れてゐるが、例へば七月三日付の夕刊に外山氏は次のやうに書いた。「乘りものに乘ると、かならず不愉快な人がゐる。さういふ乘客と隣り合はせになつてイライラするのはつまらない。原稿に頭をしぼつてゐればすべて忘れる。こんないい時間つぶしはない。(と言つてこの原稿はさうして書いたのではありません。念のため)」
かういふ馬鹿々々しい文章を感心して讀むやうな馬鹿な讀者が果してゐるのだらうか。「世代百景」の外山氏の文章は、頭の惡い人間が「頭をしぼつて」「時間つぶし」のために書いた文章なのである。それゆゑ今囘は外山氏の文章を徹底的に批判する。少々長い引用を敢へてするが、我慢して讀んで貰ひたい。
訪ねてきた學生が裏口から入つたのを見とがめて、玄關へ廻れ、とひどくしかつた老先生がゐる。‘もちろん、裏口入學を連想したのではない。’大志をいだく男一匹、勝手口からこそこそ入つてくるとは何事か、といふ明治生れの人間の感覺である。
勝手口などといふしやれたものがあるからいけない。‘われわれの“ウサギ小屋”には’アパートやマンションと同じで、‘出入口はひとつしかないから、’問違へなくていい。(中略)
かつて市内電車が走つてゐたころ、‘乘客には前口派と後口派とがあつた。’前の方から乘る人と後から乘る人とではどことなく人間のタイプが違ふ。‘前口派は行動的で、’乘るとずんずん奥へ進むが、‘後口派は入口にへばりついたままでゐる。’(中略)‘雜誌の讀者にはどういふものか後口派が多い。’まづ、編集後記を讀む。雜録があれば、ついでにそれもつき合ふが、そこまでで、さやうならしてしまふ。
これはサンデー毎日六月二十四日號に載つた外山氏の駄文である。まづ「裏口入學を連想したのではない」のくだりだが、かういふのを「下手糞な冗談」と言ふのである。ついで「われわれの“ウサギ小屋”には出入口はひとつしかない」と外山氏は言ふ。かういふ文章を讀まされると、文京區の外山邸に勝手口が無いといふのは眞つ赤な嘘ではないかと思ひたくなる。調査した譯ではないから斷定はしないが、もしも外山邸に出入口が二つあるとすると、外山氏は「ウサギ小屋」の大衆に媚びてゐる事になる。
外山氏が書く文章には淺薄な思付きが多い。「前口派」と「後口派」に性格の違ひなんぞありはせぬ。さういふつれづれなるままに思ひ付いた由無し言を綴つて商賣ができるとは、何とも結構な御身分である。外山教授は教場でもこの種の淺薄な思付きを喋り、お茶の水女子大の學生はそれを感心して聞いてゐるのだらうか。それなら、川上源太郎氏の言ふ通り「賢い娘は大學に行かない」はうがよいのである。
また、「雜誌の讀者には後口派が多い」などと、いかなる根拠あつて外山氏は斷定するのか。察するに、自分は「古い本の『奥付』の讀者だ」といふ山本夏彦氏の言葉を引用してゐるところをみると、山本氏の文章を讀んで思ひ付いたのだらうが、山本氏の文章と外山氏のそれとは月とすつぽんである。『月曜評論』の讀者は一度、山本、外山兩氏の文章を讀みくらべ、以後外山氏の著書を一切讀まないやうにしたはうがよい。
最後に、日本の雜誌の編集者に言ひたい。「雜誌の讀者に後口派が多く」、編集後記と雜録だけを讀んで「さやうならしてしまふ」のなら、編集者は一體何のために仕事に精を出してゐるのか。さういふでたらめを言ふ外山氏を雜誌の編集者は今後一切相手にしないで貰ひたい。 
22 再び外山滋比古氏を叩く
佐藤直方といふ儒者は激しい氣性の持主であつた。朱子學の徒は吟味が過ぎる、他人を批判するのはいい加減にせよとの批判に答へて、時に激しさを伴はぬのは眞の學問ではないと直方は言つてゐる。「人の非を正すをあしきと云ふはあさましき論也」と彼は書き、「人の非を云はぬ佞姦人あり」と書き、「人がらのよきは其の人獨の幸なれども、道理を知らずに妄言するは天下後世の大害になる也」と書いた。「人がらのよき」事も大切だが、いい加減な文章を綴つて原稿料を稼ぐのは「人がらのよき」と惡しきに係らず許し難い、といふほどの意味である。馴合ひに終始して論爭をためらふ吾國の論壇にとつて、直方の意見は頂門の一針だと思ふ。
さういふ譯だから、私は直方の驥尾に付いて、前囘に引き續き外山滋比古氏を批判する。かうも執拗に外山氏を叩くのは、私怨あつての事に違ひ無いと讀者は思ふかも知れぬ。が、私は外山氏に叩かれた事は無く、また外山氏とは一面識も無い。外山氏は「人がらのよき」人物なのかも知れない。が、外山氏が「道理を知らずに妄言するは天下後世の大害になる」かも知れぬ、私はさう考へるのである。
外山氏のどの著書を批判してもよいが、今囘は『親は子に何を教へるべきか』を取上げる。とは言へ、私は二百頁のうち約九十頁を讀んだだけである。何ともはや愚劣で無責任な教育論であつて、私の知る限りこれほどでたらめな教育論は無い。九十頁を私は憤慨しつつ讀んだ。例へば外山氏はかう書いてゐる。
お母さんたちに本當の教育者になつていただきたい。これからこの世に生れてくるすべてのこどもに代つて、さう願はずにはゐられない。こどもが生れてからでは泥なはとしても遅すぎる。
外山氏が「これからこの世に生れてくるすべてのこどもに代つて、さう願はずにはゐられない」と言ふのは、眞つ赤な嘘である。これほど眞つ赤な嘘も珍しい、と言ひたいくらゐの眞つ赤な嘘である。考へてもみるがよい、「この世に生れてくるすべてのこどもに代つて」何事かを願ふなどといふ事は釋尊かクリストにのみ可能な事であつて、百八煩惱に苦しむ凡夫のなす能はざるところである。さういふ白々しい赤い嘘と淺薄な思付きを絢交ぜにして、外山氏は物を書くのである。例へば「學校は晝食の時間を繰下げなくてはならない」と外山氏は書いてゐるが、それは食事をすると「頭の血のめぐり」が惡くなるからだといふ。何と淺薄な思付きか。外山氏は二十年來、「朝飯前の仕事」をしてゐるさうだが、朝飯前の「頭の血のめぐり」のよい時に、かくも鈍重な思考しかできなかつたとすると、外山氏はよほど「頭の血のめぐり」の惡い御仁であるに違ひ無い。外山氏はまた中學校の給食に反對してゐるが、そのくだりを西義之氏が『學校は何ができるか』で開陳してゐる給食反對論と比較してみるがよい。西氏が本氣で文章を綴つてをり、外山氏がいかに無責任か、それが誰にもよく解る筈である。
外山氏の教育論のでたらめについては、いづれ私は折を見はからひ徹底的に批判する積りだが、私が何より情け無いと思ふのは、外山氏の淺薄な著書が多くの讀者を喜ばせてゐるらしい事でも、マスコミに外山氏が重宝がられる事でもなく、外山氏のでならめと不眞面目を、それと知りつつ批判せずにゐる論壇の寛容である。
昨今、世の中は右寄りになつたといふ。そのままには信じ難いが、もしもさうなら、弱くなつた革新を叩くよりも保守派の中の贋物を成敗すべきではないか。そしてそれこそ、情に流されがちのマスコミと違ひ、『月曜評論』のやうなミニコミが勇氣をもつてなすべき事だと私は思ふ。 
23 ポルノよりも有害な本
外山滋比古氏は、『日本語の感覺』といふ著書の中で、昨今は若者に迎合して「水でわつたやうた文章」を書く手合が多いと書いてゐる。「水でわつたやうな文章」を書く外山氏が「水でわつたやうな文章」を嘆くのは、「臭い物、身知らず」だが、その途方も無い滑稽について、『月曜評論』の讀者にくだくだしい説明をする必要はもはや無いと思ふ。けれども「水で割つたやうな文章」は實はポルノ以上に有害なのである。今囘はその事について書く。
そこでまづ、高校生の息子や娘を持つ讀者のために、柄にも無い親身の忠告をしておきたい。昨今、高校生の自殺や非行が殖え、親や教師は狼狽してゐるらしい。一方新聞や教育評論家はさういふ親の足元を見て、心にも無い憂へ顔の文章を綴つて荒稼ぎをしてゐる。そのいんちきを私はいづれ徹底的に發いてやらうと思つてゐるが、教育論のいんちきよりも國防論のそれのはうが重大であり、教育評論家の成敗は當分先の事になる。そこでこのコラムで、今囘、青少年の非行や自殺を防止するための、實行可能な提案をしておかうと思ふ。
まづ、高校生の息子や娘を持つ親は、子供の勉強部屋を覗いた事があるだらうか。覗いた事が無い親は、拙文を讀み終つたら、善は急ぐべし、すぐ覗いて貰ひたい。と言つて、鍵のかかつた机の抽出しをこじあけろ、などと私は言つてゐるのではない。どんな親にも子供に言へぬ秘密があるだらう。それなら、子供が親に見られたくない春畫やポルノを篋底に秘してゐたところで、そんた事は驚くに及ばない、嘆くには及ばない。年頃の息子や娘がポルノに無關心で、勉強部屋に一冊のポルノも發見できなかつたら、その時こそ親は本氣で心配すべきである。
それゆゑ、息子や娘の勉強部屋を、檢察の特捜部よろしく捜索してはならない。ただ、子供の本箱を調べるだけでよいのである。そこにどういふ本が並んでゐるか。「プレイボーイ」や「平凡パンチ」が、或いは卑猥な劇畫本が二、三冊混じつてゐたところで、驚くには當らない。が、もしも子供が加藤諦三氏の著書を一冊でも所有してゐたら、その時こそ親は本氣で驚き、嘆き、その對策を眞劍に考へなければならぬ。
なぜなら、加藤諦三氏は現在、早稲田大學理工學部教授であり、理工學部の學生担當教務主任だが、大學教授の書いたものだから、卑猥な劇畫やポルノと違つて青少年のためになると考へるのは、これはもう途方も無い勘違ひだからである。書店で聞いてみるがよい、加藤氏の著書はたくさん出版されてをり、文庫本も出てゐて、しかも高校生には頗る人氣がある。それゆゑ、わが親愛なる『月曜評論』の讀者の令息令嬢が、加藤諦三氏の著書を所有してゐる確率はかなり高いと考へなければならない。加藤氏の著書は、外山氏の言葉を借りれば、若者に迎合し、若者に怠惰をすすめる「水でわつたやうな文章」で書かれてゐる。そしてさういふ文章は、川上宗薫、宇能鴻一郎、富島健夫の諸氏が書き捲る三流小説よりも遙かに有害なのである。
讀者は多分氣づいてゐるだらうが、私が誰かを批判する場合、私はその文章を批判して「人がらのよき」惡しきは問はない。では、すさまじい惡文の加藤氏の著書が、なぜポルノ小説よりも有害か。その事については次囘に書かうと思ふ。令息令嬢が加藤氏の著書を所有してゐたとしても小言は一切言はずに一ヶ月だけ待つて頂きたい。 
24 字引と首つぴきで讀め
前囘約恥した通り、加藤諦三氏について書く。加藤氏は例へばかう書くのである。
ロック・カーニバルの會場の若者に聞いてみた。
−リンカーンとか、シュバイッアーとか尊敬する? 
“うん”
−チップスは?
“いいな”
“チップスとリンカーンは結びつくの?”と、‘われながら「わかつちやゐない」’質問をしてみた。
“いいものは、いいんぢやない”(中略)
これからは價値の序列をつけた教育は失敗するにちがひない。(中略)
言葉よりも、音や色を信じはじめた世代、
いや、正確にいへば以前よりは音や色を信じてゐる世代があらはれてきた。(中略)
‘言葉による内容傳達といふよりも、まさにフィーリングであるらしい。
まつたく不潔な文章だから、今囘は前後に一行づつあけて引用したが、まづ讀者の注意を喚起したいのは、加藤氏の文章は改行が多く、假名が多く、從つて字面が白つぽいといふ事實である。「ポルノよりも青年にとつて有害だ」と私は前囘書いたが、加藤氏の著書に限らず、字面の白つぽい本はすべて青年にとつて有害である。
例へば「扱ふ」と書けば二字である。これを平假名にすると「あつかふ」となつて四字になる。つまり、漢字を多用する物書きは、同じ原稿料を稼ぐために、平假名を多用する物書きよりも、多くの事を言はねばならぬといふ事になる。改行の多少についても同樣の事が言へる。
そればかりではない。誰しも度忘れといふ事がある。その時、漢字を使ひたいと思へば、字引を引いて調べなければならぬ。平假名でよいのなら、その労を省く事ができる。つまり、漢字を多用するのは、物書きにとつて損な事なのである。おまけに昨今は字面の白つぽい本のはうが喜ばれる。どう考へても、漢字の多用は損なのである。
だが、例へば小林秀雄氏の文章と加藤諦三氏のそれとを較べてみるとよい。勿論、それは月とすつぽんで、比較を絶してゐる。青年が小林氏の文章を讀む場合、「字引と首つびき」で眞劍に、一字一句も忽せにせずに、讀まねばならぬ。それは當然の事で、筆者が一字一句も忽せにせず、眞劍に書いてゐるからである。小林秀雄全集は新潮社から出てゐるが、全集のどの部分にも、加藤諦三氏や外山滋比古氏の文章の如き駄文は見出す事ができない。それゆゑ、『月曜評論』の讀者が、息子や娘の本箱に小林氏の著書を見出したなら、それはまさに赤飯を炊いて喜ぶべき事なのである。小林氏に限らず、漢字を多用する物書きは、損得といふ事を考へずに文章を綴つてゐる譯であつて、さういふ文章を「字引と首つぴき」で讀まうとする若者が、人生航路の諸段階で安易な道を選ぶ筈が無い。安易な自殺や性犯罪なんぞをやらかす筈が無い。             、
加藤諦三氏の著者がポルノよりも有害なのは、加藤氏の文章が安易な生き方の見本であり、難局に直面して雄々しく生き抜くための精神力を青年から奪ふ事に役立つからである。ポルノは所詮ポルノであつて、若者がポルノを隱れて讀む限り、それは大した害をなさない。が、加藤氏の著書を若者は疚しい氣持で讀みはしない。それゆゑに却つて始末が惡いのだ。そして若者に向つて「われながらわかつちやゐない」などと卑屈な事を言ふ物書きは、大人の權威を低めて若者に媚び、若者を骨抜きにする。傍点を付したもう一つの部分も重大な意味を持つてゐるが、それは次囘に詳しく述べる事にする。 
25 言語輕視は狂氣に通ず
前囘引用したやうに、加藤諦三氏は「言葉よりも、音や色を信じはじめた世代、いや正確にいへば以前よりは音や色を信じてゐる世代があらはれてきた。(中略)言葉による内容傳達といふよりも、まさにフィーリングであるらしい」と書いたのである。加藤氏に限らぬ、言語による傳達の輕視を主張する物書きが、言語による傳達を圖つて稼いでゐるのは、甚だしき自家撞着と言はざるをえない。加藤氏は知るまいが、サミュエル・ベケットといふ劇作家は、言語に對する極度の不信を懐き、つひに上演時間十五秒だか二十秒だかの作品を書くに至つた。加藤氏がもしベケットを直劍に讀むならば、言語による傳達を輕視する青年達を輕々に持上げたおのれの馬鹿さ加減に愛想が尽きる筈である。
先年、慶應大學の招きで來日したジョージ・スタイナーは、高橋康也氏との對談で、文學における「狂氣」を重視する高橋氏を窘め、かう言つた。これは頗る興味深い意見で、スタイナーに較べれば、加藤諦三氏なんぞ吹けば飛ぶ鼻紙みたいなものだから、以下、スタイナーの意見を引く事にする。「私は深く古典的な人間ですから、あなたとは對立します。狂氣、偏執、精神的崩壞は、私には退屈であり、私が興奮するのは正氣についてです。(中略)誤解を招くかもしれませんが、人間は五十萬年に一インチといつた氣の遠くなるやうな遅さをもつて動物から進化してきたのです。その結果としての、またその推進力としての人間の大腦、いかなる機械よりも優れたこの大腦を、芝居がかつた身振りでわざと破壞するのは間違つてゐます。人間の条件を定義づけるのは、正氣であつて、あなたが言つたやうな極限の状況ではない、さう考へる点で私はもちろんプラトン主義者、古典主義者です」
かういふスタイナーの深い思考について語らうとすると、加藤諦三氏の如き木偶の坊を相手にしてゐる事の虚しさを痛感せざるを得ないが、言語を信じないで「フィーリング」とやらを信じようとする手合は、大人であれ若者であれ、確實に「狂氣、偏執、精神的崩壞」への道を辿る事になるのである。言語による傳達に限界がある事なんぞ、大昔から知られてゐた。が、人間はやはり言語によつて意思の疎通を圖らなければならぬ。親と子も、教師と生徒も、まづ言葉によつて結び付かうとせねばならぬ。それゆゑ私は、加藤氏の著書はポルノよりも有害だと言つたのである。「人間や人生に意味づけをしてゐた神を失つた現代を生きる若者に、音を無視して何を説教したところで通じない」と加藤氏は書いてゐるが、かういふ事を大人に言はれて、わが意を得たりと思ふやうな若者は、いづれ必ず、親や教師の説教や忠告を無視し、何事につけ、勝手氣儘に振舞ふやうになるであらう。言葉を正確に用ゐようと努力する者は、他人の言葉を正確に理解しようと努力する。が、若者に限らず、現在の日本人はあらゆる面で怠惰になつてゐる。そして言語の使用において怠惰な者は、道徳的にも怠惰なので、それを私は『知的怠惰の時代』において縷々説明した。それゆゑ、以下に引用する加藤氏の著書の一節に、讀者が總毛立つ事を私は切に望む。
ふつと(中略)僕にあてた“深夜放送族”の手紙を思ひ出した。
“先生”私は(中略)高三の女の子です。(中略)昨年までは戀人がゐました。その彼と月二囘ぐらゐの割合でホテルに行つたの。でも(中略)彼と別れたの。でもいまものすごく欲求不滿。でもね、オナニーなんて・・・・・・。彼がほしい(中略)。
いまの若者は政治もセックスも同次元でものをいふ。政治の話が高級で、セックスの話が低級なんていふのは遠い昔の物語。 
26 綺麗事ばかり言ふな
本紙十一月十二日號で政田潤氏が、「無責任な教育論を排す」と題し、木村尚三郎氏を叩いてゐた。木村氏には「眞劍な問ひかけも己の生をかけた情熱も感じられ」ず、その意見は「無責任な思ひ付きの發言に過ぎぬ」といふのである。まつたく同感である。このコラムで私もいづれ木村氏を叩かうと思つてゐた。教育論に限らない、木村氏は樣々な問題に關してちと淺薄な思付きを書き過ぎるが、それも木村氏の思考に眞劍な問ひかけ、すなはちダイアレクティックが欠けてゐるためである。例へば『和魂和才のすすめ』なる著書の一節に、木村氏はかう書いてゐる。
いま私たちは、旅でいへば自動車の旅から汽車の旅への轉換を強ひられてゐる。(中略)つぎの汽車がいつ發車するのか、それすらはつきりしないのが現代である。じつくり腰を落ち着けて自分を見つめ、与へられた今日を樂しむ工夫をこらすと同時に他人や他國をも樂しませ、これを自らの生きがひと存在理由にする大人の知惠が、いま切に私たちに求められてゐる。
何ともふやけた文章である。木村氏の文章には受動態の動詞が矢鱈に多く、一人稱の代名詞は滅多に用ゐられる事が無い。時に一人稱が用ゐられる場合も、それは殆ど例外無しに複數形である。右に引いた文章の結び「いま切に私たちに求められてゐる」がその典型的な例であつて、「私は切に求める」といつたぐあひに木村氏は書く事が無い。なぜか。物書きとして本氣で何かを求めるといふ事が無いからである。他人に何と思はれようと、これだけは書かねばならぬと、さういふ覺悟で木村氏が筆を執る事は無い。それゆゑ、つれづれなるままに思ひ付く陳腐た事どもを書き流す事になる。しかるにその木村氏が、「若者には、何よりもまづ愛すること、生きることへの眞劍さが欲しい」と書く。笑止千萬である。そればかりではない、「いまの世の人は一般に心のしまりがない」と慨嘆し、「死に身となつていまのいまを一心不亂に念じて生き、活氣のある顔で現在を最高に生きることがもつとも大切だとする葉隠の精神」を懐かしむ。再び、笑止千萬である。土臺、「死に身となつていまのいまを一心不亂に念じて生き」る事を願つてゐる人間に、次のやうな綺麗事づくめのふやけた文章が書ける筈は無い。
人命尊重を考へぬ國、考へぬ民族はない。じかしながら自國と他國を常に峻別すると同時に、その場しのぎの解決に終始して、人命尊重を世界の中に普遍的な形で實現しようと決意しない限り、その民族、その國家にとつて、明日の世界を生きることは難しい。
木村尚三郎氏も歴史家の筈である。下らぬ思付きを書き流す暇があつたら、歴史について眞劍に考へた歴史家の文章を熟讀玩味したらよいと思ふ。レオポルド・フォン・ランゲは「眞の歴史家」の「興味と悦び」について次のやうに書いてゐる。
このつねに旧態にとどまりながらしかもつねに變貌してやまず、善良にして且つ邪惡であり、高貴な精神を有しながらしかも野獸のごとく、洗練されてゐてしかも粗野であり、眼を永遠なるものに注ぐかと思へば、また瞬間の奴隷であり、幸福でしかも不幸であり、ささやかな滿足に甘んずると同時に一切のものを貪りつくさんとするこの人間存在といふものに對し、ただありのままの人間の生きた現象に對し、もしひとが愛着を抱くなら、彼は(中略)ただ人間がつねに如何に生きんとしたかといふことをみるだけで、悦びを見出すであらう。(鈴木成高・相原信作譯)
ランケは綺麗事を言つてゐない。それこそランケが眞摯だつた事の何よりの證拠である。 
27 素人こそ思ひあがるな
私は、經濟に關してはずぶの素人だが、今囘『經濟論壇』に半年間寄稿する事になり、送られて來た數冊を讀み、立派な筆者が立派な文章を書いてゐる事を知つた。寄稿者だけではない。例へば五十四年四月號の編集後記は「國會の最大のテーマが、相も變らぬ“黒い霧”探し。(中略)なさけないやら、やるせないやら・・・・・・何と泰平なことだと、つくづく感じ入る」と書いてをり、私は大いに同感し、大いに意を強くした。だが、「經濟學者の思ひあがり」と題する木村治美女史の文章だけは頂けない。今囘はその事を書く。
まづ、木村女史も私同樣、經濟に關しては素人であるやうに思ふ。「經濟界は、私とは最も無縁のものだと思つてゐた」と書いてゐるからである。しかるに、木村女史は昨今、「この方面からよくお聲がかかり」、「經濟企畫庁長官と、ある經濟學の教授と三人で(中略)座談會をしたり」、「ガルブレイス教授を囲む經濟學者の會にも、どういふわけか、お招きを受けた」りしたといふ。そして女史は經濟の專門家の意見は國民の「實際の生活體驗」と遊離してをり、「經濟學者、大企業の經營者の發言をきいてゐて、寒氣がした」と書いてゐるのである。
政治や教育の世界でも、文壇や論壇でも、昨今はいい加減な論説が横行してゐるのだから、經濟學者の中にも贋物はきつと多いであらう。だが、「文は人なり」であつて、木村女史の文章から私は、分限を弁へぬ素人の無責任を嗅ぎ付けた。例へば女史は「減税して、國民にもつとものを買つてもらはう」と主張する學者を批判して、「私たちは、もはや笛を吹かれても踊りたくない(中略)、もつとべつな豊かさがほしくなつてゐる(中略)、お金では買へないものが」と書いてゐる。「お金では買へないもの」について經濟學者といへども眞劍に考へなければならぬといふ事について、もとより私にも異存は無い。だが、經濟の專門家や大企業の經營者の考へ方を咎める木村女史は「人はパンのみにて生くるものにあらず」といふクリストの言葉の重みを知つてはゐない。ドストエフスキーが創造した大審問官の痛烈なクリスト批判の重みも知つてはゐない。それは女史の文章がはつきり示してゐる。ドストエフスキーを知つてゐる者なら「お金では買へない豊かさ」が欲しいなどといふ甘つたれは口が裂けても言へはしない。また「一般大衆の一人として、(中略)あつけにとられ」、「リードするのは、あなたたちではない、私たちです」などと口走る事もできぬ。
木村女史の場合に限らないが、昨今は素人が優遇され過ぎるやうに私は思ふ。素人なのに何らかの「方面からよくお聲がかかる」時、素人は用心すべきである。專門家の中に素人を混ぜておけば俗受けがすると、聲をかけた側は思つてゐるかも知れぬ。喜ぶ前に素人はさういふ事を考へたはうがよい。
木村女史はその点頗る無用心である。女史は「經濟學者が國民大衆をリードできると思ふのは(中略)思ひあがり」だと言ふ。が、いつの世にも「專門家」は「國民大衆」をリードしてよいのであつて、素人の思ひあがりほど滑稽で危いものは無い。 
28 昨今、合点がゆかぬ事ども
國後、択捉のみならず、「北海道の一部」であり「わが國の領土の一部」である色丹島にもソ連軍が駐留し、軍事基地を建設してゐるといふ事實が最近判明したといふ。さういふ事實が確認されたとしても、必要以上に騒ぐのは日本國の利益にならないと、園田外相は語つたといふ。が、所謂北方領土返還運動について私には合点のゆかぬ事がある。私は實は、北方領土なんぞ決して戻る筈が無いと思つてゐる。ソ連のやうな強かな國が、おいそれと國後・択捉まで返してくれる筈が無い。先日、遠山景久氏と語り合つた際、それを私が言つたところ、遠山氏も同感で、政治とは實行可能な事を考へそれを實行する技術であると言ひ、ついでかんらからと笑つて、いつそ日本としては金を出して北方領土を買ひ取つたらよいと言つた。その通りだと思ふ。とまれ私にとつて合点がゆかないのは、北方領土の返還を叫ぶ人々は本氣でそれが實現するなどと思つてゐないのではないか、どうしてもさうとしか思へないといふ事である。金で買ひ取る事を潔しとしないなら、武力に訴へても北方領土は奪取すると、さういふ覺悟があるか。ありはしない。それは丁度、女房を他人に寢取られて、その「寢取られ料」で生計を立ててゐる髪結ひの亭主が、いづれは女房を奪ひ返してみせると、酒に酔つた時だけ強がつてみせるやうなものである。それは途方も無い茶番に他なるまい。
もう一つ、合点のゆかぬ事がある『經濟論壇』には毎號木内信胤氏の文章が載つてゐる。私は必ずしも木内氏の主張のすべてを肯定はしないが、木内氏の文章は歴史的假名づかひで書かれてをり、その点木内氏の信念を私は見事だと思ふ。私は今、この原稿を旧假名づかひで書いてゐる。旧假名が正しいと信じるからである。『經濟論壇』編集部が今囘、私の假名づかひを尊重するかどうか、私には解らないが、もしも私のこの文章を新假名に改めたとすると、私にとつて編集部の仕打ちは「昨今、合点がゆかぬ事ども」の部類に入る。なぜなら、戰後の日本人は平等といふ事を重んじてゐる筈だが、木内氏には旧假名づかひを許し、私にはそれを許さないといふ事になると、それは人間の平等だの自由だのを無視する「保守反動」的な所業だと言はざるをえないからである。
以上二つの問題に限らず、昨今合点のゆかぬ事ばかり多く、私は常に不服顔である。『文藝春秋』誌上の森嶋・關兩氏の論爭で文民統制といふ事が問題になつたが、兩氏とも文民統制が善である事は疑つてゐないやうで、これもまた私には合点がゆかぬ。『中央公論』十月號に福田恆存氏は「日本が主權在民の民主主義國家であるにしても少くとも文民統制に關する限り、人民の選んだ國會議員にのみ文民を代表させるのは危險である」と書いてゐる。私も同感だが、もう少し身も蓋も無い事を言へば、文民が常に軍人より利口だとは限らないのである。それなら、いついかなる場合にも、愚かな文民が賢い軍人を統制しなければならぬとは、これは頗るつきの不条理に他なるまい。賢い文民が統制してこそ文民統制の實をあげる事ができる。つまり、民主主義と同樣、文民統制も絶對善ではない。が、國防について論ずる場合に限らず、昨今は綺麗事を絶對善に祭り上げ、タブー扱ひにして、思考を停止する傾向がちと強すぎるのではないかと思ふ。 
29 死者を尊重しない民主主義
人間を差別する事はいけないといふ。所謂「差別語」の使用についてマスコミは頗る慎重である。いや、臆病である。なぜ臆病なのか。それに何より「差別」と「區別」はどう違ふのか。中村保男氏は『言葉は生きてゐる』(聖文社)のなかで、碁石には黒白の區別があるに過ぎないが、「將棋の駒は初めから差別されてゐる」と書いてゐる。つまり、「差別といふのは、區別されてゐるものに上下の差をつけること」であり、「差別といふ概念は平等といふ概念と表裏の關係にあり、區別されてある幾つかの個體が平等でなくてはならないといふ觀念がまづ初めに」あるといふのである。簡にして要を得た説明だと思ふ。
個體が平等でたければならないといふ觀念については、ここでは論じない。けれども、新假名の不合理と同樣、使つてはならぬとされてゐる「差別語」について、私には合点のゆかぬ事がある。「盲」(めくら)、「唖」、「聾」、「跛」(ちんば)、「びつこ」、「氣違ひ」はいけないといふ。それなのに「馬鹿」はよいのである。それが私には頗る不可解である。考へてもみるがよい、緑内障によつて「盲」になる場合がある。戰場で爆風によつて「聾」になる事がある。暴走車に撥ねられて「跛」になる事がある。いづれの場合も當人の責任ではない。當人の責任でない以上、他人が何と言はうと、自らを省みて恥づるには及ばない。恥づるに及ばぬと思へば、差別されて動じない事もできる。
けれども「馬鹿」はどうなのか。もとより先天的疾患による「馬鹿」は同情すべきである。當人の責任ではないからである。が、例へば、毎週クイズ番組に出て、「低率の正解」を氣に掛けず、それどころかおのが頭の惡さを滿天下に曝して稼いでゐる、かの學習院大學の篠澤教授の馬鹿は、これは斷然當人の責任ではないか。そして、篠澤教授が假に「跛」だとして、「跛」と呼ばれる事と、「馬鹿」と呼ばれる事と、教授にとつてどちらが身に堪へるか。改めて言ふまでもないであらう。私の體重は四十三ないし四十五キロだが、腕の細さを嗤はれても私は一向に動じない。けれども、「痩せ腕」と評されたら、それが「ひ弱な腕前」を意味するのなら、私はおのれを省みる暇も無しに立腹するであらう。
周知の如く、新假名の不合理は、長い長い年月をかけて吾々の先祖が定着させた表記法を、馬鹿な國語改良論者たちが、短日月のうちに改良しようと企んで改惡した結果生じたものに他ならない。よく言はれる事だが、新假名づかひでは「手綱」は「たづな」と書き、「絆」は「きずな」と書く。けれども「絆」とは新潮國語辭典によれば「鳥・犬・鷹などの動物をつなぎ止める綱」であり、轉じて「夫婦肉親などの離れがたい情愛」の事である。絆を「きずな」と書けと、戰後、少數の馬鹿が、どさくさ紛れに決めたのだが、それ以前、夥しい御先祖樣が「きづな」と書いてゐたのである。つまり、多數決を重んずる吾國の民主主義は、先祖を計算に入れない民主主義なのだ。
私は民主主義を好かない。先祖を尊重しない民主主義はなほさらである。差別用語禁止も、新假名づかいの強制も、さういふ淺はかな民主主義ゆゑの愚擧であり、不合理で矛盾だらけなのは當然の事だと思ふ。 
30 教育に關する或る勘違ひ
子供に童話を讀ませるのは子供を善良にするためではない、強くするためである。それゆゑ、一流の童話に含まれてゐる毒を薄めようなどと決して企んではならない。が、小堀桂一郎氏が言つてゐるやうに、例へばイソップの『ありときりぎりす』といつた一流作品の「原作に對する温情主義的改變とでも呼ぶべき加筆が、現代日本の幼児向きの繪本類ではかなり高い比率で生じてゐる」のである。原作では、夏の間遊んでゐた蝉(日本ではきりぎりす)に對し、蟻は食物の施しを拒否するが、日本では「しんせつなありたちは、きりぎりすにたべものをわけてあげました」といつた具合の結末にたる。小堀氏が言ふやうに、きりぎりすが怠惰の報いをうけずして救濟されるのは、「無能なものほど優遇される福祉國家の思想の具象化としてぴつたり」だが、さういふ温情主義は、ひ弱な、出來損ひの大人の、子供に對する認識不足に由來するのであつて、彼等はきりぎりすを冷たく突き放す蟻の事を、子供がもし「恰好よい」と思ふとすれば、それは教育上甚だ有害だと考へる。が、それこそ全くの6(木+巳)憂であつて、子供は大人よりも殘酷で、殘酷を好み、それで一向に差支へ無いのである。
それゆゑ、例へばグリム童話の登場人物も時に頗る殘酷に振舞ふ。『蛙の王樣』のお姫樣は、同じベッドに寢たがる蛙を壁に叩きつけるし、『白雪姫』の王妃は猟師に、姫を殺して肺臓と肝臓を取つて來いと命じ、それを鹽漬けにして食はうとする。勿論、童話である以上、善はとどのつまり勝利ををさめる事になる。けれども、その場合も、惡の懲しめ方は頗る殘酷であつて、『白雪姫』における惡玉たる王妃の死に樣もすさまじい。彼女はまつ赤に燒いた鐵の靴を履かされ、踊り狂ひつつ死ぬのである。
さういふグリムの童話から殘酷といふ毒を抜かうなどと考へてはならない。いや、グリムに限らず、一流文學作品の毒抜きをしてはならない。そこに毒があるのは人生に毒があるからである。そして、子供はいづれ必ず大人にならなければならないのだから、この毒のある人生に耐へられるやう強く逞しく育てられねばならない。
『白雪姫』の結末にしても、勝ち誇る善がいかに殘忍かと、まともた大人ならさういふ事を考へたはうがよい。惡人だけが殘忍なのではない。惡人を懲らしめる善人もまた甚だ殘忍に振舞ふのである。例へば、太宰治の『お伽草紙』の「カチカチ山」を讀むがよい。惡しき狸を懲らしめる善玉の兎がいかに殘忍か、太宰の名文はそれを見事にかつ愉快に描いてゐる。
さういふ一流の童話を讀み、善人もまた殘酷であると知つてこそ、子供は強く逞しく生きられるやうになる。どうしてそれが子供に惡い影響を与へようか。この世に百パーセントの善玉も惡玉もゐない。それを子供に教へる事こそ教育なのである。しかるに、よい年をしてさういふ事がまるで解つてゐないのが日本のジャーナリストであり、教育學者である。彼等は皆、子供を「よい子」に育てるのが教育だと信じ切つてゐる。とんでもない勘違ひである。自分の子供を「よい子」に育てたいなどと親は決して思つてはゐない。むしろ子供が適度に惡に染まる事を、惡に染まりながらも惡にへこたれぬ事を、親は皆願つてゐる筈なのである。 

 

31 おのが身勝手を知るべし
十一月二十五日付の「世界日報」に、高田動物生態研究所の高田榮一氏が面白い事を書いてゐた。高田氏によれば「動物の研究で世界中を歩くのだが、多くの國ではゴキブリのゐるのがあたりまへになつてゐて、誰もとりたてて關心を示さない」さうである。「しかるにわが日本國では」と高田氏は言ふ。少しく高田氏の文章を引用しよう。
ところが、日本のゴキブリ騒ぎをみてゐると、現代の日本のインチキ性が象徴的に表現されてゐて、狂氣の沙汰としかいひやうがない。インチキ性のいい例が、テレビのCMである。連日連夜、チャンネルを問はず、のべつまくなしに喚いてゐるゴキブリ殺蟲劑・ゴキブリ捕獲器のCMがさうである。まづ、殘虐シーンは不可といふ放映コードがあるのに、その畫面は、ゴキブリがクスリを噴霧されて苦悶・斷末魔の樣相をみせてゐるかたわらで、モデルの美女が手柄顔にニタッと笑ふ。惡趣味である。
私はあまりテレビを觀る事が無いが、さういふコマーシャルを觀た記憶はある。けれども、高田氏の言ふやうに「このひどい殺しの場面が茶の間に罷り通つてゐても、市川房枝女史などウルサイ婦人連中」は文句をつけない。それはなるほど面妖な話である。けれどもよくよく考へれば、人間とはさういふ身勝手な動物なのであつて、折ある毎に汚職を糾彈してはしやぎ廻る市川女史には、その事が解つてゐない。それだけの事である。
市川女史が汚職を咎めるのは、自身手を汚した事が無いからで、ゴキブリの一匹もゐない臺所に女史がゐるからである。けれども、この世にはゴキブリがゐる。高田氏の言ふ通りゴキブリを根絶しようとするのは「思ひ上がり」であり、「日本を無菌化しようとする」のは馬鹿げた妄想でしかない。が、市川女史本人はそれをやつてゐる積りで、愚かしい新聞も大衆も、女史にはそれがやれると思ひ込んでゐる。嗤ふべし、ゴキブリは四億年も前からこの地上にゐる。四億年も存在してゐるものを、人生たかが五十年、蜉蝣の如き人間に根絶できる譯が無い。汚職もさうである。賣春と同樣、汚職も多分、人類の誕生と同時に發生したものであらう。それはゴキブリの如く頑健なものなのである。
けれども、ここで私が言ひたいのは、人間の身勝手といふ事である。市川女史に限らず、折ある毎に政界の淨化を叫ぶ新聞記者も、人間の身勝手といふ事が解つてゐない。ゴキブリが苦悶して、美女が「手柄顔にニタッと笑ふ」。よくよく考へてみればそれは面妖な事だと、彼等はよくよく考へてみる事が無い。飛行機が落ちて人間が死ねば新聞は大いに騒ぐけれども、ゴキブリは大いに虐殺して怪しむ事が無い。
私はゴキブリなんぞに同情してゐるのではない。平和な時代に他人の胸から心臓を抉り出す樣な凶暴な手合が、戰場では見事な自己犠牲の行爲をなす、それが人間といふものなのである。が、人間とはずゐぶん身勝手なものだと知れば、親族や親友の死でもない限り、己れにとつて他人の不幸はゴキブリの苦悶と大差無いといふ事を知るにいたるであらう。それはよい事なのである。 
32 眞劍勝負の美しさ
教へ子にオーディオ氣違ひが一人ゐて、今は明石で高校の英語の教師をやつてゐるが、それが先日、寒い日に、イギリス製と日本製のスピーカーを組合せ、特製のネットワークを組立て、勿論、採算なんぞは無視して、立派な再生裝置を作つてくれた。そこで私は、最新録音のモーツァルトだのブラームスだのを買つて來て、音樂を聽いてゐるのだか、音を聽いてゐるのだか、よく解らぬままに大いに樂しんでゐる。
その奇特な教へ子は、すぐれた音の再生のためには特別のコードを用ゐねばならぬといふ考への持主だが、同時に彼は、すぐれた再生裝置は録音の古いレコードをも美しく再生するものでなければならぬと信じてゐて、最新録音ばかりを喜ぶ旧師の浮薄を心中ひそかに苦々しく思つてゐる樣子であつた。何せ私は「げてもの」に他ならぬベルリオーズの幻想交響曲さへ、樂しげに聽いてゐたのである。
だが、或る日、ミスター・コードが激賞するディヌ・リパッティのレコードを聽いてゐるうちに私は坐り直した。リパッティは一九五〇年、三十三歳の若さで死んだ天才ピアニストである。私が聽いたのは、死の三ヶ月前、ブザンソンにおけるリサイタルの實況録音で、ショパンのワルツとモーツァルトのソナタ第八番イ短調であつた。ショパンも見事だが、あれほど悲しげで美しいイ短調ソナタの演奏を、私は聽いた事が無い。私は感動した。なるほどかうなれば録音の古さなんぞは問題にならぬ。
リサイタルに出掛けようとするリパッティを、友人の醫者は懸命にやめさせようとしたといふ。が、「約束したのだ、演奏しなければならない!」とリパッティは答へたといふ。妻のマドレーヌが書いてゐるのだが、リパッティが演奏會場に到着した時、これがこの若き天才の最後の演奏とならうと聽衆は思つた。そして苦痛に堪へ、渾身の力を振り絞つて、リパッティは演奏をつづけたが、ショパンのワルツの最後の一曲を彼は遂に彈く事ができたかつたのである。さういふ命懸けの演奏だけが持つ、凄絶な美しさは、レコードからもはつきり感じ取れたので、私はいたく感動したのであつた。
要するに、リパッティにとつて演奏は眞劍勝負に他ならなかつた。そして、眞劍勝負を強ひられた者だけが表現しうる異樣な美しさに接して私は感動したのである。戰死した夫にあてて妻が書いた一通の手紙を讀んで私は同じやうに感動した事がある。その未亡人は、同じ職場の河田といふ男性に優しくされた事について草葉の陰の夫に報告し、かう書いたのである。
本當にはしたない女だとお怒りになるでせうが、時に誰かに甘えてみたいといふ氣持になるのをどうすることも出來ません。(中略)第二、第三の河田さんにめぐり合つた時、「老いらくの戀」に花を咲かせないと斷言する自信もありません。こんな厚かましいことをぬけぬけと書くところがもうどうかしてゐるのかしら。でも・・・・・・本當に女獨りでゐるとこんな氣持になる時もありますのよ。(『昭和世相史』、平凡杜)
この人間的な弱さはまことに美しいが、彼女が美しいのは、眞劍勝負を強ひられた時代に生きてゐたからである。 
33 言論か暴力か
中川八洋氏が『月曜評論』に、猪木正道氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いたところ、猪木氏は「重大な侮辱」であり、もはや「言論ではない、これは暴力だ。暴力に對しては刑法に頼るほかない」(九月一日付『世界日報』)とて、中川氏及び月曜評論社代表桶谷繁雄氏を告訴した。その程度の「刺激的な文句」がどうして名譽毀損になるのか、「猪木さんといふ人は、文章から類推するかぎり大變な權威主義者のやう」だと、九月二十一日付の『月曜評論』に大久保典夫氏が書いてゐたが、全く同感である。權威主義者でも頭腦明晰なら取柄はあるが、猪木氏の場合、その著書には論理の破綻や飛躍がふんだんにあり、いづれ私はそれを拾ひ集め丹念に批判しようと思つてゐる。國防は一國の大事であり、大事に關する限り容赦無く批判しあふのが言論人たる者の責務だと、中川氏もさう信じて猪木氏を批判したのであらうし、「若い評論家の世に出る早道は、權威ある先輩に喧嘩を賣ることで、これは山路愛山に論爭を挑んだ北村透谷以來の傳統」だと大久保氏も書いてゐるが、もはやその傳統は死に絶えたのではないかと私は思ふ。今や「若い評論家の世に出る早道は、權威ある先輩に媚を賣ること」であり、さういふ處世術を忘れて先輩を批判すれば、今囘の中川氏の如く、逆に先輩から喧嘩を賣られる羽目になる。
だが、今囘は大いに喧嘩の花が咲いたはうがよい。週刊文春八月二十日號は、「猪木・中川論爭」に關する諸氏の意見を徴してゐるが、猪木氏が中川氏を告訴する事に關する限り誰一人賛成してゐない。「ソ連政府の代理人」云々の表現が名譽毀損になんぞなる筈は無いと、皆、承知してゐるからである。それゆゑ、喧嘩の花は咲かずして、猪木氏の鼻が折れてしまふ恐れは多分にあるが、さういふ事にならずして、この喧嘩にならぬ喧嘩が何とか長續きするやうであつて欲しい。なぜなら「猪木・中川論爭」は、改憲の是非についてこれまで曖昧な態度を採り續けて來た保守派知識人に、一種の踏繪を突き付ける事になるかも知れないからである。改憲の是非といふ大事に較べれば、保守派同士の和合なんぞは小事であつて、「文人、相輕んず」る事となるのも止むをえない。
けれども、私はここで改憲の是非を論じようと思つてゐるのではない。猪木正道氏の思考の淺薄について語らうと思つてゐるのである。猪木氏が法と道徳を混同していかなる戯言を口走つてゐるかについては『ボイス』十一月號にも書いたけれども、中川、桶谷兩氏を告訴するといふ相も變らぬ「短絡思考」にもとづく今囘の淺はかた行爲も、猪木氏の思考の淺薄を如實に示してゐるのである。
「なぜ中川氏に反論せずに告訴したのか」との『世界日報』記者の質問に對し、猪木氏はかう答へてゐる。「僕は言論の自由のためには、これまで一貫して鬪つてきたつもりだ。だから言論であれば、僕は反論しますよ。だけどね、“ソ連政府の代理人”とか、“ソ連への忠誠心”とかいふのは言論ぢやないと思ふな。これは暴力だ。(中略)暴力に對しては刑法に頼るほかない」。かういふ杜撰な思考力をもつてして、よくも防大の校長や京都大學教授が勤まつたものだと思ふと、もしも私が書いたならば、それは「言論」なのか、それとも「暴力」なのか。ここで「暴力」といふ言葉の意味を詮索する暇は無いが、暴力に對しては暴力もしくは權力の制裁があつて當然である。だが、中川氏は「ソ連政府の代理人になつたかの如くである」と書いたのであつて、「ソ連政府が猪木氏に鼻藥を嗅がせた」と書いた譯ではない。それに何より、暴力に對する場合と異り、言論に對しては言論による制裁が可能である。「猪木といふ人は馬鹿だ、頓馬だ、間抜けだ、薄鈍だ」とだけ喚き立てるのも言論だらうが、さういふ「暴力的言論」をジャーナリズムが本氣で取上げるのなら話は別だが、「ソ連政府の代理人」云々の言論に對しては、言論による反撃や制裁が可能ではないか。猪木氏はなぜそれをやらないのか。いや、なぜやれないのか。 現に私は今、かうして猪木氏の思考の淺薄を嗤つてゐる。實際、かくも劣弱な思考力の持主に、よくも防大の校長や京都大學教授が勤まつたものだと、私は思つてゐる。さて、猪木氏は私と『月曜評論』をまたぞろ名譽毀損の廉で訴へるのか。もしも訴へないのなら私は猪木氏に問ふ、「ソ連政府の代理人」云々と言はれるのと、頭が惡いと言はれるのと、言論人にとつて一體どちらが一層不名譽か。「ソ連政府の代理人」云々と言はれたら、「ソ連政府の代理人」でないゆゑんを言論によつて述べ立てるか、さもなくば默殺すればよい。だが、かうして猪木氏を愚鈍と極め付けてゐる私は、暴力を行使してゐる事になるのか。暴力か否かの判定は司直の手を煩はさねばならぬのか。
俗に「畑に蛤」といふ。畑を掘つて蛤を探すのは愚かしい事だといふ意味である。中川、桶谷兩氏を告訴した猪木氏の行爲がそれだと思ふ。猪木氏は言論人である。そして言論人とは、大久保典夫氏の表現を借りれば「言葉の專門家」である。勿論、檢事も判事も言語によつて思考するのだから、言葉を蔑ろにしてよい筈は無い。だが、言論人は「言葉の專門家」なのであり、專門家はおのが專門とする事柄について、他の領域の專門家の判斷を輕々に仰ぐべきではない。例へば自衞隊の存在は憲法違反なりや否やと、さういふ事まで裁判官に決めて貰はうとするのは、私には非常識としか思はれぬ。假りに最高裁が、日本國憲法は戰力の保持を禁じてをり、それゆゑ自衞隊は違憲であるとの判決を下したら、日本國は自衞隊を解散し、完全なる非武裝國に徹しなければならぬのか。最高裁の判事といへども神ではない。三權分立とは司法權が立法權や行政權よりも常に上位にあるといふ事を意味しない。
私は判事を侮つてこれを言ふのではない。言論人が司法官に過大な期待を寄せる事を戒めてゐるに過ぎぬ。そしてその過大な期待は、司法權の尊重であるかに見えて、その實、輕視に他ならない。例へば村松喬氏は、田中角榮氏が「有罪にたればともかく、逆の結果が出たら、はなはだ困つたことになる。政治に對する不信感は、永久にぬぐへなくなる」と言つてゐる(週刊新潮八月二十七日號)。これほど淺薄た意見を口走つて袋叩きに遭はぬのは奇怪千萬だが、「政治に對する不信」は司法官だけが拭ふべき筋合のものではない。村松氏は司法權に過大な期待を寄せてゐる譯だが、もしも最高裁が田中角榮氏を有罪とせず、「逆の結果が出たら」、村松氏の「司法に對する不信感は、永久にぬぐへなくなる」のであらう。そして村松氏は、おのが意見に合致せぬ最高裁の判決を惡しざまに言ふのであらう。
猪木氏は「言論であれば反論」するが、中川氏の言分は言論にあらずして「暴力」だと言ひ、猪木氏を支持する學者たちも、中川氏の「直情径行」を批判してゐる。だが、中川氏が「直情径行」なら、それを窘めたらよいので、反論せずして裁判官の判斷を仰いだ以上、猪木氏は言論人としての責任を放擲した事になる。日本國の檢事も判事も猪木氏ほど愚昧ではあるまいから、猪木氏はこの喧嘩に負けるであらうが、その場合、言論人としての責任を放擲した猪木氏は潔く判決に服し、猪木氏は「ソ連政府の代理人であるかの如くである」との中川氏の主張の正しさを全面的に認めるのであらうか。それともおのが言分を認めぬ司法官を惡しざまに言ふのであらうか。
中川氏は、「今囘の事件によつて猪木さんの諸論文および諸發言がより多くの人に讀まれ、猪木さんがいかに貧弱かつ劣惡な知識しかなく、わが國の防衞政策を論じるに全く適さない人物であるかが廣く知れわたると思ふ」と言つてゐる(『世界日報』)。私もさういふ事になると思ふし、さうなつて欲しいと思ど中川氏はまた、「猪木さんは御自分を批判する人に對していやがらせ、その他の陰湿な裏工作をもつて封じてきた、といふ噂」があると言つてゐるが、私もさういふ噂を聞いてゐる。私自身もその被害者だとの噂も聞いてゐる。事實なら怪しからぬ事だが、私はしかし、眞偽のほどを確かめずして猪木氏に腹を立ててゐる譯ではない。「猪木・中川防衞論爭」は、その根底に、改憲の是非をめぐる保守派知識人の意見の對立がある。そして、その對立は私怨や私恩によつて曖昧にする事のできぬものであり、それゆゑ私は今囘の喧嘩に花の咲く事を望むのである。日本國はいつまでも「モラトリアム國家」を極め込む譯にはゆかず、いづれ必ず眞劍勝負を強ひられるであらう。竹刀で面を取られても生命に別状は無いが、眞劍なら負けたはうは死ぬ。言論の場合も同樣で、論爭に負けたはうは、いかに惡しざまに腐されようと文句は一切言ヘぬ筈である。だが、目下のところ日本國は馴合ひ天國であり、それゆゑ眞劍を振り翳す「直情径行」の野暮天は必ず村八分になる。それを存分に思ひ知されたから、このところ私は口汚い罵倒を慎んでゐた。今囘、私は久し振りに「愚鈍」といふ言葉を用ゐたが、それは中川氏の猪木批判と私のそれと、一體どちらが猪木氏にとつて不名譽かと、その事が言ひたかつたからに他ならない。
最後に猪木氏に問ふ、私の批判は言論なのか、それとも暴力なのか。言論と認めるなら猪木氏は反論すべきであり、暴力だと思ふなら告訴すべきである。ただし、告訴は歓迎するが、「陰湿な裏工作」だけはやらないで貰ひたい。夏目漱石は『私の個人主義』と題する講演で、三宅雪嶺の「子分」による言論抑圧を批判し、「槇雜木でも束になつてゐれば心丈夫」だらうと皮肉つたが、さういふ卑劣な振舞は一時功を奏しても、必ずや後世の知るところとなる。猪木正道氏は「貧弱かつ劣惡な知識」の持主だつたかも知れないが、決して卑劣漢ではなかつた、道徳的に立派な人間だつたと、後世が評するやうであつて欲しいと私は思ふ。 
あとがき 

 

「道同じからざれば、相爲に謀らず」と孔子は言つたが、友人はただ數多く持てばよいといつたものではない。「相爲に謀」るには「道を憂ひて貧しきを憂へ」ざる事の大事を承知してゐる友人を持たねばならないが、いつの世にもさういふ友は得難いのである。が、私はさういふ得難い友に惠まれてゐる。『月曜評論』編集部の中澤茂和氏がその一人である。『月曜評論』は所謂ミニコミ紙で、稿料は當然安いけれども、中澤氏の人柄に惚れた私は『月曜評論』に短文を連載し、さしたる用事無くして屡々中澤氏に會ひ歓談する。時にサンケイ新聞の柴田裕三氏が加はるが、『月曜評論』と同樣、サンケイ新聞も、朝日新聞ほどの影響力は持たない。私は朝日とサンケイを購讀してゐるが、朝日の廣告面の充實に較ベサンケイのそれの貧相に屡々切齒扼腕する。朝日に大企業の廣告がひしめいてゐる時、サンケイには「浮世繪大觀」の廣告なんぞが載つてゐるからである。大企業は目先の利益ばかり考へ、反體制の朝日を優遇し、サンケイを支援しようなどとは決して思はない。だが、柴田氏や中澤氏との歓談を私は大いに樂しむのである。このぐうたら天國日本では、ジャーナリストの眞摯はその影響力に反比例するのではあるまいか。
さういふいはば利によりて繋がらず理によりて繋がる友の一人中澤茂和氏が、或る日、地球杜から本を出さないかと勸めてくれたのである。「地球社」といふ出版杜を私は知らなかつた。が、聞けば地球社の創業は大正元年、農業に關する專門書を數多く出版して來た老舗であるといふ。私は中澤氏の言を信じて地球社の戸田豊氏に會ひ、喜んで第三評論集を出して貰ふ事にした。そして、地球杜はなるほど小さな出版社だが、その眞撃もまたその規模に反比例する事を私は確かめたのである。本書は『道義不在の時代』と同樣、歴史的假名づかひのまま上梓される。かてて加へて本書の卷末には戯曲『花田博士の療法』が収録されてゐるが、さういふ事が大出版社から上梓される場合、果して可能であつたらうか。評論集に戯曲がをさめられるのは、拙著をもつて嚆矢とするのではあるまいか。戸田豊氏の誠實なる尽力に謝意を表するとともに、地球社の今後の活躍を大いに期待する。けれども、私は地球社の誠實に附け入つて阿漕に振舞つた譯ではない。評論らしきものを書き始める前、ほぼ十年間、傑作戯曲を書くべく私は呻吟したが、『花田博士の療法』はその間に私が書いた戯曲のうち、最も上等のものであり、恩師福田恆存氏のお墨付を頂戴した作品なのである。しかもその主題はジャーナリストの無節操といふ事で、ジャーナリズムのでたらめを斬つた本書に収録したいと私は思ひ、戸田氏も快く承知してくれたのであつた。
初出一覧
第一章 / サンケイ新聞(昭和五十四年六月二十三日〜昭和五十七年十月十六日)
第二章 / 言論人(昭和五十二年十二月五日)/マスコミ文化(昭和五十四年一月〜昭和五十四年十二月)
第三章 / 月曜評論(昭和五十二年十月十七日)/月曜評論(昭和五十年一月二日)/言論春秋(昭和五十七年三月二十二日)/月曜評論(昭和五十四年七月三十日〜昭和五十四年十二月二十四日) 
 
保守とは何か / 松原正

 

第一囘 保守とは何か 

「女性關係、徴兵逃れ、マリファナ」など數々の不品行が暴かれたにも拘らず、クリントンの人氣は一向に衰へない、「正義、公正の米國」はどこへ消え失せたのか、我が日本國においては「スキャンダル、失政があるたびに選擧で與黨が議席を失ふ」が、してみれば日本のはうが「まだしも民主的」なのではあるまいかと、最近、産經新聞の或る特派員が書いた。洵に杜撰な言分であつて、政治家の不品行と民主主義との間に、土臺、何の關聯もありはしない。ヒトラーの率ゐるナチスは「民主的」な選擧の洗禮を受けて第一黨になつたのだし、ヒトラー自身も「不品行」とは無縁で、愛人ブラウンとの仲も「不適切」ではなかつた。が、誰もヒトラーの政治を「民主的」とは評すまい。それに、我國の場合、選擧の度に議席を減らしたのは自民黨であるよりも寧ろ社會黨だが、社會黨議員のスキャンダルはさして問題とされず、何せ無責任野黨だつたから「失政」とも無縁であつた。手を汚す機會も必要も少なかつたがゆゑに、その分、自民黨よりは清潔で、土井たか子なんぞは近附き難い程の清潔な處女、それが今は黨首だから、次の選擧で社民黨はさらに議席を減らすに相違無い。
さういふ次第で、政治家の不品行が議席減を招く事が「民主的」だなどと考へるのは頗る附きの知的怠惰なのである。「分る」とは「分つ」事だが、知的怠惰とは分けねばならぬ物を分けて考へない頭腦混濁の事で、不品行は道徳上の問題だが、民主的であるか否かは政治上の問題に過ぎず、政治と道徳とは分けて考へねばならぬといふ事を、産經の特派員は理解してゐなかつた。クリントンが彈劾され辭任する事になるのかどうか、先の事は解らないし、解りたいとも思はないが、要するにクリントンはへまをやつたに過ぎない。英雄は色を好むが、爲政者は有徳であると思はれてゐる事が大事なので、必ずしも有徳である必要は無い。それは、昔、マキャベリや荻生徂徠の云つた事で、元祿の儒者が知つてゐた事を平成の新聞記者が知らずにゐるのは、齋藤緑雨の云つたやうに「教育の普及は浮薄の普及」だからに他ならぬ。「民主的」な時代には、教育の「機會均等」が重視され、愚者にも生なかの教育が施され、かくて知的怠惰が蔓延るのである。 

だが、私はここで政治と道徳の相剋について語らうとしてゐるのではない。教育を論ふ譯でもない。政治と道徳とを腑分けしない知的怠惰が怪しまれず、非論理的な惡文駄文が跋扈して、詰りは言葉が輕んぜられてゐるといふ嘆かはしい事實、その大事と呼ぶに値する唯一の大事を論はうと思つてゐる。人間は言葉を遣つて物を考へるのだから、政治、道徳、教育、國防、その他何を論じようと、言葉を精密に遣へない者には碌でもない事しか思ひ附けない。嘗てT・S・エリオットは、「文化」といふ言葉が曖昧に用ゐられてゐる事態を憂慮して「文化の定義に關する覺書」なる一本を物したが、言葉を正確に遣はうとする努力、或いは遣はせようとする努力が、我が日本國には著しく不足してをり、大事な言葉の正確な意味を知らうとしても字引が役立たないといふ事が屡々ある。役立たない事に苛立つて、エリオットの顰に倣ふ文人も學者もゐない。かくて「文化」とか「民主的」とかいふ大事な言葉が、何を意味するかを知らずに、或いは知つてゐる積りで、頗る安直かつ曖昧に遣はれる。
「廣辭苑」は民主主義を「人民が權力を所有し、權力を自ら行使する立場」と定義してゐる。が、この定義では民主主義の何たるかはたうてい理解出來ない。多數の「人民が權力を所有」するなどといふ事はあり得ないし、不特定多數が「自ら」事をなす事も無い。知的に怠惰ならざる日本人なら必ずさう考へる。私が所持する最も大部の國語辭典は「日本國語大辭典」だが、それには「政治の原理や形態についてだけでなく、社會集團の諸活動のあり方や人間の生活態度についてもいふ」と記されてゐる。産經の特派員は「民主的」といふ言葉を「社會集團の諸活動のあり方」もしくはクリントンの「生活態度について」用ゐた譯だが、それは誤用であつて、「オックスフォード英語辭典」にもさういふ定義は載つてゐない。「廣辭苑」よりも小型の「ロングマン現代英語辭典」も引いたが、そこには「選出された人民の代表による統治」と簡潔かつ適切に定義されてあつて、やはり「人間の生活態度について」も用ゐるなどとは記されてゐなかつた。辭書は須く「保守的」であるべきで、輕々に流行語や誤用を輯録すべきではない。嘘を吐いたり、親友を裏切つたり、若い女と「不適切な關係」に陷つたりするのは道徳的な問題であつて、それと民主主義なる政治的な問題との間には何の關係も無い。北朝鮮は民主主義國ではないが、孝子もゐれば女誑しもゐるに決つてゐる。 

言葉が正確に用ゐられず、不正確な言葉遣ひが罷り通るといふ事、それだけが日本人たる者の眞に憂慮すべき大事だと私は思ふ。我々は毎日あちこちで惡文を讀まされる。賣文を生業にする手合も惡文を綴つて平氣でゐる。知的怠惰に左右の別は無いから、朝日新聞にも「赤旗」にも、時に「月曜評論」にも惡文が載る。先日、私は小森陽一なる學者の漱石論を通讀してその粗雜に呆れたが、次に引く小森の駄文の非論理的缺陷を、本紙の讀者の大半が指摘し得ないのではあるまいか。
この日午後六時半、在位六四年のヴィクトリア女王は死去し、産業革命後の大英帝國の榮光を象徴したヴィクトリア朝が終焉したのです。金之助にとつての「二十世紀」は、翌日黒手袋を買つた店の店員が言つたやうに、「ひどく不吉な始り方をした」(“The new century has opened rather inauspiciously.” 一月二三日「日記」)のです。
女王が死んだ翌日、金之助即ち夏目漱石は黒手袋を買ひに行つた。すると店員が二十世紀は「不吉な始り方をした」と云つた。後年、折ある毎に英國を罵つた漱石だが、この頃はまだ素直で、弔意を表すべく黒いネクタイなんぞを締めたりしたのだが、それは兎も角、二十世紀の始り方が「不吉」だつたのは英國人たる店員にとつてであつて日本人たる漱石にとつてではない。小森が「金之助にとつて」と書いたのは辯解の餘地の無い知的怠惰の證しだが、さういふ杜撰な言葉遣ひを隨所に見出せる駄本が三流出版社ならぬ筑摩書房から出る。それが、その事だけが、今の日本國にとつて憂慮すべき大事であり、それに較べれば、北朝鮮のミサイルが三陸沖に着彈したなどといふ事件も些事である。航空自衞隊が所持するペトリオットは飛來するテポドンを落せない。科學技術は進歩するから先の事は解らないが、元來ミサイルは飛行機を落す物でミサイルを落す物ではない。それゆゑ北朝鮮の奇襲攻撃を防ぐには、古びた「專守防衞」の看板を降して、ピョンヤンに報復爆撃を加へるだけの能力を航空自衞隊に與へるしかない。だが、知的怠惰と平和惚けの日本國に於いては、それを幾ら云はうと徒勞である。他國はすべて「力の均衡」による國防を當然の事と考へる。インドが核實驗をやればパキスタンもやる。知的怠惰の我國だけが希有の例外だが、半世紀以上も續いた例外は最早例外とは看做されない。 

だが、ここで私が北朝鮮を罵つたり「平和惚け」を批判したりすれば、「月曜評論」の讀者は「我が意を得たり」とて喜ぶであらう。それは必ずしも喜ばしい事ではない。讀者を喜ばせる事が賣文の要諦だから、「産經」には「産經」の讀者を、「朝日」には「朝日」の讀者を、「月曜評論」には「月曜評論」の讀者を、それぞれ喜ばせる記事が載る。戰前は「大政翼贊」一色だつたが、その非「民主的」な過ちを繰返してはならないと、戰後、「民主的」な知識人は頻りに云つた。が、「世界」とか「朝日ジャーナル」とかいふ「民主的」な新聞雜誌には、「左翼」の讀者の意を迎へる記事許りが載つて、それは「右」もしくは「保守」の場合も全く同樣であつた。詰り、戰後も二種類の「大政翼贊」が存在した。「安保騷動」の頃、左右は血相變へて對立したが、いづれ皮相淺薄な對立だつたから、ソヴィエト聯邦の崩潰と同時に消滅し、社會黨は自民黨と野合して、今や「左翼」とか「革新」とか「進歩派」とか「保守反動」とかいふ言葉は死語になつた。「學生紛爭」當時、我が早稻田大學は革マルの根城で、今なほキャンパスに革マルの「立看」は存在するが、「一般學生」は見向きもしない。「革マル」も「一般學生」も今は死語である。年輩の讀者は覺えてゐよう、嘗て「黒猫のタンゴ」なる愚劣で奇妙な歌が流行した事がある。「革マル」や「一般學生」と同樣、「保守」といふ言葉もまた「黒猫のタンゴ」だつたのである。それは詰り、流行とは全く無縁の大事を大事と心得ぬ知的怠惰が半世紀續いた事の證しに他ならない。 
第二囘 西部邁氏を叱る 

 


あれは何年前だつたか、「本居宣長」脱稿後の小林秀雄がホテル・オークラで講演して、宣長について語り出す前に、「日本の哲學者の文章は惡いですねえ」と呟くやうに云つた。聽衆は「保守派」の知識人で、その大半が餘所事のやうに笑つたが、最前列に坐つてゐた田中美知太郎は笑はなかつた。私も笑はなかつた。若い小林秀雄は幼い文章を綴つたのだし、晩年の「本居宣長」は天皇といふ厄介な問題を囘避してゐるから私は高く評價しない。が、「本居宣長」の文章が一流である事に間違ひは無い。所謂天皇制を肯定する文章が全て勝れてゐて、否定ないし囘避する文章の全てが惡い譯ではない。中野重治は共産主義者で、昭和天皇を屡々罵倒したが、勤皇家ではないが共産主義者でもない「保守派」知識人西部邁や西尾幹二の文章よりも遙かに遙かに上質の文章を綴つてゐる。講談社の文庫に入つてゐて簡單に買へる筈だから、讀者はこの際「五勺の酒」といふ短篇だけでも讀むがよい。昭和天皇について語つた「保守派」の如何なる文章よりもあれは美しく、昭和天皇への屈折した中野の愛情が鮮烈に表現されてゐて、「天皇拔きのナショナリズム」の是非なんぞを論ふ紋切型の知識人には逆立ちしても書けない文章である。愛國心は無くてはならないがナショナリズムなら願ひ下げだし、日本から天皇は決して拔けはしない。 

だが、「拔けはしない」からとて高を括る譯にもゆかぬ。小林秀雄は天皇について論じなかつたが、その「日本文化論の奧底には確かに天皇が存在」してをり、「恐らくさういふ形でしか天皇といふものは語り得ない」し、「語り得ないからこそ貴い」と、先頃、林勝といふ人が本紙に書いてゐたが、「語り難いもの」を何とか語らうとする身悶えを知らぬ物書きを私は信用しない。無論、小林はさういふ身悶えを知つてゐる。天皇について語らうとして足掻かなかつただけである。モーツアルトが大好きだつたから、その美しさについて語りたがつて、第三十九番シンフォニーの最終樂章の樂譜は夕空に浮ぶ雲のやうな形をしてゐるなどと他愛のない事を書きもした。ハイドンに捧げた弦樂四重奏曲第十九番の第二樂章アンダンテ・カンタービレについて「これは殆ど祈りである」と小林は書いて、それは全くその通りなのだが、泰西の名曲の緩徐樂章は全て祈りなのであり、祈りの對象としての絶對者を有しない我々としては「チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレまで墮落する必要」がどこにあつたかなどと云はれても興醒めする許りである。音樂は言葉が終る處で作られるから、音樂の美しさについて語らうとするのは、所詮、無駄骨なのだが、美しいもの貴いものについて我々は無駄と知りつつも語りたがる。小林が天皇を論はなかつたといふ事は、事によると、モーツアルト程「貴い」存在だと思へなかつたからかも知れないが、共産主義者中野重治が昭和天皇への好感を「五勺の酒」に覺えず吐露するその誠實は、三島由紀夫の尊皇節の不誠實よりも遙かに貴重なのだから、天皇を貴いと思はなかつたとて小林を難ずるのは凡そ馬鹿げてゐる。嘗て福田恆存はかう書いた。
語義の示すとほりの君主といふ觀念は私には全くない。理性的にも感情的にも、また氣質的にも、それはない。私の家庭にもそれはなかつた。なるほど小學校や中學校においては、ある程度まで神權的天皇の教育がおこなはれた。ことに私の中學の校長は心からの皇室中心主義者であつたから、私も二年生ころまではその感化を受け、言はれたとほり毎朝神棚に向つて皇室の繁榮と兩陛下の長命を祈つてゐたものである。私は今でもその校長を稀な教育者として尊敬してゐるが、皇室中心主義の感化は長くはつづかなかつた。といつて、その反動も來なかつた。敗戰の十何年も前に、私のなかには天皇は現人神から人間になつてゐたのであり、その變化はあたかも子供のなかで父母が父母としての權威を失つてゆくやうな全く自然な課程だつたと言へよう。(「象徴を論ず」) 

「天皇拔きのナショナリズム」などといふ愚かしい事を福田は夢想だにしなかつたし、昭和天皇の人柄を慕つてゐたものの「皇室中心主義者」ではなかつた。三島は昭和天皇の「人間宣言」に批判的で、昭和天皇が嫌ひで、「自分だけの美しい天皇」なる化物の存在を信じてゐた。兩者の天皇觀は對蹠的である。然るに、福田も三島も正字正假名で文章を綴つてゐる。中野の文章はその殆どが略字新假名である。天皇を貴いと思はなかつたとて小林を難ずる譯にゆかぬやうに、略字新假名で書く奴は人非人だといふ事にはならない。先頃、西部邁は或る對談で「正字正假名を用ゐて亂暴な事を書く者もゐる」と語つたさうだが、愚な事を云ふもので、例へば明治の出齒龜こと池田龜太郎も、女湯を覗いた愉快や人を殺して後の虚脱感について日記に記すとなれば「正字正假名を用ゐ」惡文を綴つた筈で、假名遣と人格もしくは文章の上等下等との間に凡そ何の關聯もありはしない。天皇制や改憲を支持する者が全て善良で、その綴る文章も勝れてゐて、天皇制や改憲を否定する者が全て性惡で、その綴る文章の全てが拙劣である譯ではない。同樣に、所謂「謝罪外交」を難じて略字新假名を用ゐる者もゐる。西部もその一人である。西尾もその一人である。略字新假名を用ゐる「保守派」とは甚だしい形容矛楯だから、その事についてはいづれ詳述するが、略字新假名で書くからではなくて頭腦の働きが鈍重だから、西尾も西部も粗雜な惡文を綴るのである。例へば西部はこんなふうに書く。斷るまでもあるまいが、原文は略字新假名である。
當誌の若手編輯者が、ある評論家の書き散らかしてゐる最近の言説は常軌を逸してゐる、それをきちんと咎められるのはあなただけだ、との口上で原稿依頼をしてきた。私も、その評論家の(漫畫家・小林よしのり氏の)『戰爭論』にたいする批判を讀んでゐて、ひどい代物だと思つた。しかしそれについてはすでに他所で少し書きもし喋りもしてゐたので、その依頼はすぐ斷つた。といふより、他人の不出來の作品にたいして、その人の固有名詞を擧げつつ惡し樣に論ふのは、私の好みでも得手でもないのである。それを眞劍に論じるに値する作品だとあへて見立て、上品めかした論爭を仕立てたとしても、その評論家の場合に限らず、この國の現状にあつて、まともな議論など期待すべくもないと私はとうに諦めてゐる。
文章が駄目なら全て駄目だと私は學生に口癖のやうに云ふが、我がゼミには西部の駄文より上等の文章を綴る者もゐる。駄目な學生は毎囘扱いてゐるが、その駄目學生を扱く流儀で、ここで西部を「惡し樣に」腐す事にする。西尾幹二の文章は西部のそれよりも酷いから、これは後に罵倒する事にならうが、駄目な文章を駄目と云ひ切るのが私の流儀であり、「好み」であり、「得手」なのである。まづ、雜誌「正論」の若い編輯者が「きちんと咎められるのはあなただけだ」と西部に云つたといふのは恐らく事實であらう。が、それをそのまま書くのは甚だ淺はかで頗る端ない行爲である。早い話が、假に「月曜評論」の編輯長が私に「保守とは何か」の續稿を何時になつたら書く積りなのか、「年甲斐も無くコンピューター弄りに淫するのもいい加減にして貰ひたい」と云つたとして、それをそのまま書く事は決して端ない事ではない。「コンピューターおたく」である事は、私にとつて決して誇るべき事ではないからである。が、「この國の現状にあつて、まともな議論など期待すべくもないととうに諦めて」ゐるのかも知れないが、「シンガポール在住の渡邊紘さんもスイス在住の木村貴さんもあなたの原稿を頻りに讀みたがつてゐる」と云はれ、「さうまで云はれては仕方が無い、書く事にした」と假に書いたら、本紙の讀者の全てが私の愚昧に眉を顰めるに相違無い。文章を書くといふ事は倫理的な行爲なのであり、他人に煽てられた事を、いやいや自慢するに値すると密に思つてゐる事すら、それをそのまま露骨に書く奴は大馬鹿野郎の破廉恥漢なのである。 
第三囘 西部邁氏を叱る(續)  

 


知的怠惰は即ち道徳的怠惰だと私はこれまでに屡々書いたが、道徳的に怠惰な西部は、當然、知的にも怠惰であり、それは傳統としての言葉遣ひに對する鈍感にはつきり露れてゐる。例へば、我々は「書き散らす」とは云ふが「書き散らかす」とは云はない。愚にもつかぬ事をあちこちに書くのは書いた物を「散らかす」事ではない。部屋を散らかす事は出來るが「作品」を散らかす事は出來ない。また、批評文は通常「作品」とは呼ばないが、私は西部の「作品」を「眞劍に論じるに値する作品だとあへて見立て」てゐる譯ではない。いや、私に限らない。「ひどい代物」だと思ふ物事について「眞劍に」論ずるやうな醉狂な馬鹿はゐないし、その醉狂を「あへて」やつたとしても、「ひどい代物」を書き撲るやうな馬鹿を相手に「上品な論爭」も「上品めかした論爭」も共にやれる道理が無い。西部は「上品めかした論爭に仕立てたとして」と書いてゐるが、論爭は一人でやるものではないから、それが「上品」になるかどうかは西部の仕立てられる事ではない。西部に「上品めか」さうとする意志があつても、論爭の相手が例へば私のやうに「下品」かつ「亂暴」に應じたら、二人の「論爭」は決して「上品」にならぬ道理である。それに何より、「めかす」とは「それらしく見せる」事だが、物書きは決してめかしてはならない。幾らめかしてもめかした事の淺はかは透けて見えるからである。實際、「上品めかす」とは上品でないのに上品らしく見せる事だが、西部は己が下品な根性を「上品めか」さうとして物の見事に失敗してゐる。「文は人なり」とはさういふ事なのだが、何せ目明き千人盲千人の御時世だから、惡貨は良貨を驅逐して、惡文を綴る司馬遼太郎や小林よしのりが人氣者になる。小林よしのりのために辯じて西部はかう書いてゐる。 

ところが(中略)小林批判のコピーが、山ほどといひたくなるくらゐの分量で、我が家に送られてきた。小林氏はこんなにも批判されてゐたかと呆れつつそのコピーの群れを眺め渡してみて、年相應に物事に動じなくなつてゐる私ではあるが、少々驚いた。一、二の例外を除いて、度外れに淺薄な文章が目白押しに竝んでゐるのだ。量は質に轉化する。この言論はあまりにも劣惡である。それを目の當たりにして素知らぬげにしてゐるには、私の性は、悲しい哉、純朴すぎる。と諦めてしまへば、もう是非もない、あちこちの紙誌にオン・パレードとなつてゐる小林誹謗の文章を、目白を撃つやうにして總ざらひにからかつてみるのも一興と思ふことにしよう。
これまた知的・道徳的に破廉恥な頗る附きの惡文である。まづは知的怠惰だが、量は決して質に「轉化」しないし、コピーは物質だから「コピーの群れ」とは云はない。とかく徒黨を組みたがる知識人を皮肉つて漱石は「槇雜木も束になつてゐれば心丈夫」だらうと云つたが、「槇雜木」は束ねる物で「群れる」物ではない。生物たる目白や馬鹿は群れるがコピーや「槇雜木」は決して群れない。また、「コピーの群れ」を「眺め渡す」には「山ほど」のコピーを床の上に竝べなければならないが、何のためにそんな無意味な事をするか。西部とて床の上に竝べた譯では決してない。「目白押しに竝んでゐる」淺薄な文章を「目白を撃つやうにして總ざらひにからかつてみるのも一興」云々と續けるために、目白を眺め渡すやうに「眺め渡し」た事にしたに過ぎない。見え透いた拙い修辭だが、床の上に竝べた「コピーの群れ」を眺め渡す事は出來るが、「目白押しに竝んでゐる」文章を「總ざらひに」からかふ事は出來ない。「總浚ひ」とは習つた事全てを復習する事だからである。更にまた、目白は慥に枝に竝んで留るが、それを「撃つ」たら一羽は落せても他の目白が皆逃げて仕舞ふ。が、コピーは決して逃げはしない。更にもう一つ箇所だけ、からかふ事は「撃つ」事ではない。目白を狙ひ撃ちにすれば、當つた目白は死ぬが、からかはれただけの事なら目白も「淺薄な文章」の筆者も死にはしない。而も、「淺薄な文章」を綴る愚者はともかく、枝に留る目白なんぞをからかつても仕樣が無い。 

かういふ具合にして西部の「淺薄な文章」には幾らも粗を搜し出せるが、知的怠惰はそのまま道徳的怠惰なのであり、「私の性は、悲しい哉、純朴すぎる」の一句は、うかと書いて活字になつたら慙死するに値する程の破廉恥な文章である。「きちんと咎められるのはあなただけだ」と編輯者に煽てられ、その事實をそのまま書くのは淺はかゆゑの破廉恥だが、よい年をして「純朴すぎる」などと、これはもう、全うな大人の口が裂けても云つてはならぬ破廉恥な臺詞である。「廣辭苑」によれば、純朴とは素直で飾り氣の無い事であり、全共鬪時代の西部はかなり「純朴」だつたかも知れないが、「まともな議論など期待すべくもない」などといふ「上品めかした」臺詞を口にする男が素直で飾り氣の無い男である筈が無い。人間誰しも「年相應に物事に動じなく」なる許りでなく「年相應に」擦れるのだから、擦れる事自體は咎めるに及ばない。「年相應に」擦れながら「純朴」めかす事が知的・道徳的怠惰ゆゑの淺はかなのである。今、かうして私は西部を「惡し樣に論」つてゐる。が、罵られた西部は決して私に反論しない。反論したらもつとこつ酷くやられるといふ事を知つてゐる。西部もまた「年相應に物事に動じなく」なつてゐるのではなく「年相應に擦れて」ゐるのである。
而も、反論しない事によつて西部のはうが勝つ。目明き千人盲千人だからである。西部が「悲しい哉、私は純朴すぎる」と書くと「成程上品な方だ」と千人の盲が思ふ。「きちんと咎められるのはあなただけだ」と云はれたと書けば「それは慥にさうだらう」と盲が思ふ。一方、かうして手心を加へずに西部を批判する私の文章を讀むと、この男は西部に「何ぞ私怨を抱いてゐるに相違無い」と思ふ。或は少なくも「下品な文章だ」と思ふ。「平和を愛する諸國民」に信頼して半世紀、それに先立つて「八紘一宇」だの「大東亞共榮圈」だのといふ性善説的スローガンを掲げて戰つた程のお人好しのお國柄だから、武者小路實篤ではないが、「仲良き事は美しき哉」と、目明きも盲も思つてゐる。それゆゑ「まともな議論など期待すべくもない」。 

だが、「文人相輕んず」と云ふが、物書きが他の物書きの「固有名詞を擧げつつ惡し樣に論ふ」事は、この和合と馴合ひの國にあつて頗る大事な事だと私は思ふ。實は「上品」な筈の西部も左翼を相手にするとそれをやる。例へば荒川章二を罵倒してこんなふうに書く。
なぜあなたは、自分らが半世紀にわたつて厖大な贋の資料で日本軍の殘虐とやらを國内外に喧傳してきたことに一片の羞恥も覺えないのか。そんな不徳、不知の振る舞ひを續けることに喜びを見出すのは惡黨でないとしたら(近代において夥しく發生してゐる)革命家氣取りの神經を病んだインテリにすぎない。(「正論」四月號)
政治主義の盲千人には解つて貰へまいが、私は物の道理を述べて、惡文を添削しつつ左と右を罵るが、西部は左の荒川を感情的に罵つてゐるに過ぎない。「日本軍の殘虐とやら」に關する資料を西部は贋だと思つてゐる。無論、私もさう思つてゐる。が、大江健三郎も荒川も贋だとは思つてゐない。ここに贋物の骨董があるとして、本物だと信じ切つてゐる荒川が頻りにその價値を「喧傳」する場合、私が荒川を罵つて、眞赤な贋物を本物だと「喧傳してきたことに一片の羞恥も覺えないのか」、お前は「不徳、不知」の惡黨、もしくは似非インテリである、などと罵つても仕樣が無い。マルキシズムを信奉してゐる觀客にマルキシズム萬歳の芝居を觀せるのは無意味だと、嘗てイギリスの劇作家プリーストリーは云つたが、「左翼進歩派」を罵倒して政治主義の淺はかな保守派を喜ばせる事も同じく意味が無い。而も、愚かな荒川が眞實本物だと信じてゐるとすると、「喧傳」する事は「不知」のなせる業ではあつても「不徳」のなせる業ではない、といふ事になる。若くて純朴で「革命家氣取りの神經を病んだ」西部が「左翼進歩思想」に行かれた事も、戰時中に皇國史觀に行かれた軍國青年の場合と同樣、決して「不徳」ではない。右翼であらうと左翼であらうと、皇國史觀「自虐史觀」のいづれを信奉しようと、正字正假名を用ゐようと略字新假名で書かうと、それだけの事で知的・道徳的怠惰を免れる譯ではない。 
第四囘 西部邁氏を叱る(續々) 

 


「左翼」とは、元來、十八世紀のフランス國民議會に於て、議長席から見て左手に陣取つてゐた議員を意味する言葉で、左翼のジャコバン黨は急進的、右翼のジロンド黨は穩健だつたが、それは政治的信條乃至遣り口の違ひであつて道徳的な生き方の相違ではない。恐怖政治の代名詞のやうに云はれるロベスピエールはジャコバンだつたが、その私生活は頗る禁慾的で、同じくジャコバンのダントンのそれは頗る放埒であつた。そして放埒なダントンは「寛容」に過ぎるとて清潔なロベスピエールに處刑されてをり、道徳的に潔癖な奴が獨裁的獨善的に、放埒な奴が寛大に振舞ふといふ事が人生には屡々ある。そして「獨裁的獨善的」とか「寛容」とかいふ道徳的概念は政治信條の如何に關はらない。ジロンドにもジャコバンにも、自民黨にも社民黨にも、韓國にも北朝鮮にも、「獨裁的獨善的」な奴がゐて「寛容」な奴がゐる。愛妻家がゐて女誑しがゐる。正直者がゐて嘘吐きもゐる。それゆゑサミュエル・ジョンソンは「愛國心は惡黨の隱れ蓑」だと云ひ、漱石は「山師、人殺しも大和魂を有つて居る」と書いた。「吾輩は猫である」の一節を引かう。
大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸が云ふ。大和魂が一躍して海を渡つた。英國で大和魂の演説をする。獨逸で大和魂の芝居をする。(中略)東郷大將が大和魂を有つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐僞師、山師、人殺しも大和魂を有つて居る。(中略)大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。(中略)三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る。(中略)誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か。 

漱石がこれを書いたのは八十餘年も昔の事だが、今も「天皇拔きのナショナリズム」を論ふ手合は、ナショナリズムと愛國心とを腑分けせず、それが「三角なもの」か「四角なもの」を知らぬままに論じてゐるし、愛國心のいかがはしさは「軍靴の音が聞える」らしい「左翼進歩派」が好んで論ずるものの、愛國心を持合せぬ「詐僞師、山師、人殺し」もゐるといふ儼然たる事實を左翼は認めようとしない。愛國心とナショナリズムについてはいづれ後述するが、先に述べたやうに、愛國心は持つてゐるのが當り前で、「詐僞師、山師、人殺しも有つて居る」程だから、持つてゐる事を殊更自慢するには及ばない。性的不能者を除き、性慾は誰でも持合せてゐるが、持合せてゐる事を自慢する程の馬鹿はゐない。然るに、「軍靴の音が聞える」らしい左の馬鹿が、永年、愛國心の危さを「喧傳」して善玉を氣取つたから、右の馬鹿は左の馬鹿を向きになつて批判して、自慢するに當らぬ事を自慢して、これまた善行をなしつつあるかのやうに錯覺した。「のらくろ上等兵」や「サザエさん」とは異なり、いづれ氣の滅入るやうな漫畫であつて、大江も西部も西尾も、所詮は漫畫家なのである。ベストセラー漫畫「戰爭論」の著者小林よしのりを辯護して西部はかう書いてゐる。
『戰爭論』について云へば、その趣旨に私はほぼ全面的に贊成する。といふより私は、若いときから、その趣旨であの戰爭をとらへつづけてきたので、その漫畫本は私には(小林氏には失禮な言ひ方だが)思想的にはさして刺戟的ではなかつた。(中略)しかしそんなことを他人樣に向つていふ前に、私はまづ、一人の誠實な漫畫家に群れなして襲ひかかり惡態のかぎりを盡した知識人たちを、一玉づつ撃つておかなければならない。
文章の添削は切りがないからもうやらないが、「若いときから、その趣旨で」云々は見え透いた嘘であり、幼稚園小學校時代は知らず、全共鬪時代の若き西部が大東亞戰爭を肯定的に「とらへ」てゐた筈は斷じて無い。清水幾太郎の「轉向」のまやかしと諄々しい辯解の嘘は嘗て福田恆存が剔抉したが、清水にせよ西部にせよ、なぜ轉向者は過去を疚しく思ふのか。疚しく思つてなぜ見え透いた嘘を吐くのか。政治と道徳とを腑分けしない知的怠惰のせゐである。先述したやうに、マルキシズムに行かれた事は若氣の至りの淺はかではあつても決して道徳的に恥づべき事ではない。批判する譯ではないから實名を擧げるが、嘗て私は林健太郎と同席した折、左傾した過去を疚しく思ふ事があるかと質した事がある。返事は簡單明瞭、「いいえ、一向に」であつた。天晴れだと私は思つた。ちと亂暴な云ひ方だが、マルキシズムは神拔きのキリスト教なのであつて、キリスト教が無ければ決して發生しなかつたイデオロギーである。カトリック教徒だつたグレアム・グリーンも嘗ては「左翼」であつた。だが、晩年の佳作「キホーテ神父」を讀めば、徒に共産主義即ち「赤」を恐れる事の知的怠惰を讀者は痛感するに相違無い。主人公のキホーテ神父は仲良しの市長と一緒に旅に出るが、市長は共産黨員であり、旅先で神父に是非これを讀めとて「共産黨宣言」を手渡す。讀んだ神父は感想を求められマルクスについて云ふ、「あの人は善い人だ」。
成程、マルクスは「善い人」であり、スターリンは善き人マルクスの云はば鬼子に過ぎない。「惡靈」の作者ドストエフスキーならば、神拔きのキリスト教から當然出てくる鬼子だと云ふに相違無いが、生憎、我々は大昔から絶對者とは無縁で、絶對者と無縁だから神拔きのイデオロギーとも無縁であつた。開國後、將軍家と同樣一人の人間に過ぎない天皇を恰も絶對者であるかのやうに戴く事になつたが、さうせずには曲がりなりの近代化をも果たし得なかつた筈だから、取分け大逆事件以後、社會主義共産主義を惡魔の思想として危險視した事に何の不思議も無い。だが、再度の鎖國はたうてい不可能だつたから、西洋學問は次第に「神國思想」及び「敬神崇祖忠孝一致」なる虚構を浸蝕して、取分け敗戰後は社會主義共産主義が解禁せられたから、例へば「大日本者神國(おほやまとはかみのくに)也、天祖(あまつみおや)ハジメテ基(もとい)ヲヒラキ、日神(ひのかみ)ナガク統(とう)ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ」との「神皇正統記」冒頭の一節なんぞは誰も本氣で信じないやうになつた。それは不可避だが好ましい事ではない。好ましい事ではないが不可避である。森鴎外はさう考へて、明治四十五年、「かのやうに」と題する短編にかう書いた。すこしく長く引くから是非味讀して貰ひたい。味讀精讀して鴎外の深い思考をなぞるならば、西部邁や西尾幹二や大江健三郎の粗雜安直な思考に愛想が盡きる筈である。 

今の教育を受けて、神話と歴史とを一つにして考へてゐることは出來まい。(中略)學問に手を出せば、どんな淺い學問の爲方をしても、何かの端々で考へさせられる。そしてその考へる事は、神話を事實として見させては置かない。神話と歴史とをはつきり考へ分けると同時に、先祖その外の神靈の存在は疑問になつて來るのである。さうなつた前途には恐ろしい危險が横たはつてゐはすまいか。
一體世間の人はこんな問題をどう考へてゐるだらう。昔の人が眞實だと思つてゐた、神靈の存在を、今の人が嘘だと思つてゐるのを、世間の人は當り前だとして、平氣でゐるのではあるまいか。隨つてあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になつてしまつてゐるのも、同じく當り前だとしてゐるのではあるかいか。又子供に神話を歴史として教へるのも、同じく當り前だとしてゐるのではあるまいか。(中略)自分は神靈の存在なんぞは少しも信仰せずに、唯俗に從つて、聊か復璽(いささかまたしか)り位の考で糊塗して遣つてゐるのではあるまいか。(中略)今神靈の存在を信ぜない世に殘つてゐる風俗が、いつまで現状を維持してゐようが、いつになつたら滅亡してしまはうが、そんな事には頓着しないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じてゐるらしく行つて、虚僞だと思つて疚しがりもせず、それを子供に教へて、子供の心理状態がどうならうと云ふことさへ考へても見ないのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多數は、こんな物ではないかと推察せられる。無論此多數の外に立つて、現今の頽勢を挽囘しようとしてゐる人はある。さう云ふ人は、倅の謂ふ、單に神を信仰しろ,福音を信仰しろと云ふ類である。又それに雷同してゐる人はある。それは倅の謂ふ、眞似をしてゐる人である。これが頼みにならうか。更に反對の方面を見ると、信仰もなくしてしまひ、宗教の必要をも認めなくなつてしまつて、それを正直に告白してゐる人のあることも、或る種類の人の言論に徴して知ることが出來る。倅はさう云ふ人は危險思想家だと云つてゐるが、危險思想家を嗅ぎ出すことに骨を折つてゐる人も、こつちでは存外そこまでは氣が附いてゐないらしい。實際こつちでは、治安妨害とか、風俗壞亂とか云ふ名目の下に、そんな人を羅致した實例を見たことがない。併しかう云ふことを洗立をして見た所が、確とした結果を得ることはむづかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若しさうだと、その洗立をするのが、世間の無頓着よりは危險ではあるまいか。 
第五囘 西尾幹二氏を叱る〈其ノ一〉 

 


駄目な物書きに「お前さん駄目だ」なんて幾ら云つても駄目なんだ、駄目な奴を自然に無視出來るやうになるのが一番いいのぢやないかと、昔、小林秀雄は云ひ、以後、駄目な物書きに「お前さん駄目だ」とは云はないやうになつた。その代り、駄目な物書きの文章を小林は讀まないやうになつたのではないかと思ふ。讀まないから途轍も無く駄目な大江健三郎にも好意的だつたのだと思ふ。私も、去年、西部邁の駄文を添削して以後、駄目な物書きの文章をさつぱり讀まなくなつた。豫言しておいた通り、西部は私に反論出來なかつたが、反論しない事によつて西部のはうが勝つた。論壇の「人斬り以藏」たる私に執筆を依頼するのは今や「月曜評論」くらゐのものだが、依頼されて書く氣になれないのは書かなくても食へるからであり、負け戰の虚しさを毎度痛感するからである。成程、駄目な物書きに「お前さん駄目だ」と幾ら云つても駄目だが、せめて讀者が成程これは駄目だと思つてくれるのなら、思つてくれるといふ確信が持てるのなら、負け戰もさまで虚しくはない。だが、「月曜評論」の讀者は「諸君」や「正論」の讀者よりも遙かに上等であらうか。この三月に私は早稻田大學を退職するが、早稲田の學生は餘程上等で、學生の私語に私はついぞ惱まされた事が無い。私が机上にノートを開いて、顔を擧げ、講義を始めようとすると、一拍おいて教場は靜まり返る。毎囘同じである。それゆゑ私は滅多に休講しなかつた。教へる事の虚しさなんぞただの一度も感じなかつた。「なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや」とイエスは云つたが、我ら凡夫は「己を愛する者」しか愛せないのであつて、學生が眞劍に聽かないのなら教師の情熱は滾りやうがない。
だが、今、私はかうして「月曜評論」に書いてゐる。最後の授業でウイリアム・ブレイクとグレアム・グリーンについて講じた序でに西尾幹二を斬つて、それが切掛けで西尾が駄目であるゆゑんを「月曜評論」の讀者にも傳へようといふ氣になつた。西尾は最近「國民の歴史」といふ本を書いて、それが六拾萬部も賣れたといふ。粗雜な頭腦の持主が書いた物なら六百萬部賣れようと駄本だから、私はまだ讀んでゐないが、一月十一日、朝餉の紅茶を啜りながら産經新聞「正論」欄に載つた西尾の惡文を讀み、これは捨て置けないと思つた。昨年末、ニューヨーク・タイムズの支局長が西尾に、「年々西暦の使用が廣まり、つひにミレニアムのカウントダウンまでがお祭り騒ぎで行はれる」現状をどう思ふかと尋ねたのださうである。西尾はかう書いてゐる。
なぜ私にことさらにこの質問を? と反問したら、つねづね傳統價値を主張している日本人に、日本社會で使われてきた暦が消えていくことによってその暦で培われてきた文化が失われていく危險性を感じていないかを知りたいためだ、といふ應答である。こう言はれると私は、さりげなく、たいして氣にもかけてゐませんよ、と本能的に防戰する構えになる。(原文のまま)
何ともはやふやけた文章である。まづ、日常會話において我々は「消えていく」とか「消えてく」とか云ふ。が、文章を綴る時は「消えて行く」と書かねばならぬ。國語を美しい状態に保つ責任が文學者にはあるとT・S・エリオットは云つてゐるが、「行つちやつて」といふ言葉は汚くて「行つて仕舞つて」が美しい。小學生だつた頃の私は「春の小川はさらさら流る」と歌つたが、今の小學生は「さらさら行くよ」と歌つてゐる。確かめる暇が無いから確かめてゐないが、事によると「さらさらいくよ」と歌つてゐるかも知れない。安直な言葉遣ひは安直な思考の證しであり、川は流れる物で行く物ではない。同樣に、「消えていく」と書いて平氣でゐられる男は、常々「傳統價値を主張」しながら實はそれが「消えていく」事を「たいして氣にもかけて」ゐない。嘗て元號の使用を禁じられ本誌の編輯發行人中澤茂和は辭職したが、さういふ「稚氣」は西尾幹二の想像を絶する事であるに違ひ無い。
「傳統價値」の衰退を「たいして氣にもかけ」てゐないから、西尾は略字新假名を用ゐて御先祖樣の流儀を無視し、「傳統價値」とか「消えていく」とか書いて平氣でゐる。それも「さりげなく」平氣でゐる。
「行く」を「いく」と書くなどとは些細な疵ではないかと讀者は云ふか。斷じてさうではない。交響曲も文章も同じ事だが、部分が駄目なら全體が駄目なのである。ニューヨーク・タイムズの支局長は西尾が「危險性を感じてゐないかどうか」を知りたがつたのであつて「感じてゐないか」を知りたがつたのではない。「感じてゐないか」と尋ねる事は出來るが「感じてゐないか」を知りたがる事は出來ない。早い話が、友人に「西尾の文章は駄文だと思はないか」と私が云ふ時、私は「無論、思つてゐるさ」との返事を期待してゐるのであつて、駄文だと思つてゐるかどうかを知りたがつてゐるのではない。そしてその友人が「駄文しか綴れぬ愚者の書く本が六十萬部も賣れる事の危險性を感じないか」と尋ねたら、私は斷じて「本能的に防戰する構へ」なんぞになりはしない。防戰とは他者の攻撃に對して戰ふ事だが、友人は西尾を「攻撃」しようと思つてゐて私を攻撃しようとは寸毫思つてゐない。支局長も同じである。彼は西尾の感想を聞きたがつたのであつて、西尾を「攻撃」しようと思つたのではない。攻撃の意圖が無い他者に對して「防戰の構へ」を採る必要は全く無い。しかく杜撰な文章は杜撰な思考の證しなのである。 

「年々西暦の使用が廣まり、つひにミレニアムのカウントダウンまでがお祭り騒ぎで行はれる日本の現状」を「たいして氣にもかけて」ゐない男が「傳統」的な言葉遣ひを重んずる筈は無い。「傳統價値」とは要するに御先祖樣の流儀だが、御先祖樣は「防戰」といふ言葉を「攻撃に對して戰ふ」といふ意味合に用ゐたし、好んで元號を用ゐて西暦は已むなく用ゐた。「失はれる」と書いて「失われる」とは書かなかつた。傳統とは「先祖にも選擧權を與へる事」だとG・K・チェスタトンは書いてゐる。至言である。先祖の流儀が無視される事を「たいして氣にもかけ」ない者は決して「傳統價値」の信奉者ではない。略字新假名で書く者は保守主義者ではない。保守主義者西尾幹二とは甚だしい形容矛盾である。西尾はまたかう書いてゐる。
日本人は外國からの壓力の度が過ぎるとこれを武斷的に排除したがる性格を持つ反面、周知の通り、深い考へもなしになんでも無差別に外國のまねをしたがる矛盾した性格を持つてゐる。(中略)日本人のこの無原則ないし無性格は、ほとほといや氣のさすこともあるが、日本の前進の原動力でもある。一見して外國崇拜のいやらしい形態をとりながら、じつは確實に普遍文化をとりこむといふ結果をひき起こすのは、文化に國境を見ないこの無差別主義のせゐでもある。
かういふ杜撰な文章を讀んで「無原則ないし無性格」な六十萬もの愚者が、さうか、「ミレニアムの馬鹿騒ぎ」も「前進の原動力」なのか、とて安堵する圖を想像すると氣が滅入る。成程、「昨非今是」の無原則は我々の宿痾だが、それが宿痾である事だけは承知してゐなければならぬ。無原則とは「原則が無く、成行き次第で變る」事だが、成行き次第でころころ變る無節操は斷じて美徳ではない。敗戰なる「成行き」に應じて豹變したジャーナリストを苦々しく思つて、太宰治はかう書いた。
日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたつて、それはもう自由思想ではない。それこそ眞空管の中の鳩である。眞の勇氣ある自由思想家なら、いまこそ何を於いても叫ばねばならぬ事がある。天皇陛下萬歳!この叫びだ。昨日のまでは古かつた。古いどころか詐欺だつた。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。
昨日まで「古いどころか詐欺」だつた「天皇陛下萬歳」が今日「最も新しい自由思想になる」、それもまた日本人の無原則の證しではないか、とて太宰を皮肉る事も出來る。だが、太宰は云へるやうになつて云ふ言論の安直を憎んだのであり、さういふ言論の安直を忌む美徳が失はれて久しい事を私は悲しむ。「眞空管の中の鳩」とは杜撰な云ひ方だが、鳩が空を飛べるのは空氣の抵抗があるからで、眞空なら鳩は飛べないといふ意味である。抵抗がある中は決して云はないが抵抗が無くなれば安心して云ふ、さういふ無原則の「眞空管の中の鳩」ばかりが、今、のさばつてゐる。言論人やジャーナリストばかりではない。嘗て統幕議長栗栖弘臣と東部方面總監増岡鼎とは、本當の事が「云へない」時に本當の事を云つて防衞廳長官に首を刎ねられたが、今は腰拔けの空幕長でも「空中給油機を導入する」と發言する。憲法改正を優男の野黨黨首が主張して無事である。だが、さういふ「眞空管の中の鳩」にはかういふ文章ばかりは斷じて綴れない。敗戰後、神風特別攻撃隊員が闇屋になつて、雪崩を打つたやうな「轉向」が始まつて、老いも若きも「無差別に外國のまね」をやつてゐた頃、火野葦平は戰犯の指定を解除して貰ふための申請書にかう記してゐる。
私は愚昧でありまして、戰爭の眞の意義といふやうなものに全く無知でありました。ただ、いかなる意味の戰爭にしろ、戰爭が始まつた以上、そして祖國が興廢の關頭に立つた以上、日本人として國に殉じなければならぬと思ひました。(中略)この私の愛國の情熱が誤謬であるといはれれば、もはや何も申すことはないのであります。
かういふ文章を讀んで、無論、私は感動する。「月曜評論」の讀者も感動すると思ふ。太宰は弱い男で要領のよい處もあつたが、「成行賣買」が不得手な火野に二つながらそれは無い。だが、火野の文章に感動して後、その虚しさを我々は痛感しなければならない。火野の愚直はもはや我々のものではない。我々のものでないといふ大事の大事たるゆゑんを認識せず、その大事を「たいして氣にもかけ」ないでゐると、「無原則ないし無性格」こそが「前進の原動力」だなどと愚者に云はれて喜ぶ事になる。人間は無原則無節操であつてはならない。が、情けないかな、今の我々は無原則無節操であり、それを後めたく思はずに先人を讃へるのは、先人の所行を惡しざまに云ふ事と同樣の不毛である。例へば石川達三は軍部に迎合して、「小説といふものがすべて國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はない」と書いたが、敗戰後は「マッカーサー司令官が日本改造のために最も手嚴しい手段を採られんことを願ふ」と書いた。「私の所論は日本人に對する痛切な憎惡と不信とから出發してゐる」とも書いた。程度の差こそあれ、この種の無原則破廉恥が我々にもあるといふ事、「保守」にも「革新」にもあるといふ事、それがあるからこそ「あつてはならぬ」と思ふのだといふ事、日本國においてこれくらゐ理解され難い道理は無い。ハムレットはかう語つてゐる。
生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じつと身を伏せ、不法な運命の矢彈を堪へ忍ぶのと、それとも劔をとつて、押しよせる苦難に立ち向ひ、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一體どちらが。(第三幕第三場、福田恆存譯)
有名な獨白の冒頭の部分だが、「運命の矢彈を堪へ忍ぶ」のと運命と戰ひ「とどめを刺すまであとには引かぬ」のと、どちらが立派かとハムレットは問うてゐる。「ハムレット」が譯され上演されて一世紀以上になるが、我々は「デンマークの王子」から大事な事を何も擧んでゐない。それはまづ「あれかこれか」なる二者擇一の大事である。人間は常に美的に生きるか道徳的に生きるかの二者択一を迫られる。「あれかこれか」はデンマークの哲學者キルケゴールの代表作で、無論、後者すなはち道徳の大事を説くべくキルケゴールは前者を書いたのだが、例へばドンファンの愉悦を知らぬキルケゴールに後者が書ける筈は無く、また書く筈も無い。シェイクスピアの中にはハムレットがゐるがイアゴーもゐる。キルケゴールの中にはドンファンがゐる。我々の中に、情けない事だが、石川達三がゐる。西尾幹二もゐる。それを情けないと我々は思はねばならぬ。 

さて、この邊で西尾の駄文に戻るが、極東軍事裁判のパール判事は日本を辯護して「ハル・ノート如き代物を突き附けられたら、モナコのやうな小國でも武器を取つて立上がるであらう」と云つた。その通りであつて、「外國からの壓力の度が過ぎ」たならば、相應の軍隊を保持する以上、いかなる小國も「武斷的に排除」しようとするに決つてゐる。一寸の蟲にも五分の魂はあるからである。それゆゑ「外國からの壓力の度が過ぎるとこれを武斷的に排除したがる性格」と「無差別に外國のまねをしたがる」性格との間に何の矛盾もありはしない。然し、假にさういふ「矛盾した性格」が日本人にあるとして、さういふ「無原則ないし無性格」が「いや氣をさす」なぞといふ事は無い。何かを嫌だと思ふのは人間であつて人間の「無原則ないし無性格」ではない。「無原則ないし無性格」とは人間の屬性であつて人間そのものではない。人間でないものが「いや氣」なんぞをさす道理が無い。
「外國崇拜のいやらしい形態をとりながら、じつは確實に普遍文化をとりこむ」と西尾は云ふ。何たる粗雜な言分か。開國直後、所謂「大正デモクラシー」の時代、そして敗戰直後、「外國崇拜のいやらしい形態」が存在した事は事實だが、いくら「無節操」な御先祖樣も「普遍文化」ばかりは取込めなかつた。世界各國の文化はそれぞれが獨自なのであつて「普遍文化」なる化け物は絶對に存在しない。存在しない物を取込める道理が無い。日本の相撲取は取組前に鹽を撒く。葬式から戻れば我々も鹽を振り掛ける。我々にとつて怪我や死は「けがれ」だからである。だが、その迷信は日本獨自のものであつて斷じて「普遍的」ではない。アメリカの國技は野球とフットボールだが、野球やフットボールの選手は試合前に鹽なんぞ撒きはしない。昨年、航空自衞隊のT三十三練習機が入間川の河川敷に墜落して二人のパイロットが殉職した。すると瓦といふ防衞廳長官が「洵に申譯無い」とて謝つた。愚かな男である。空自のパイロットが遊覽飛行をやつてゐて河川敷に墜落したのなら平身低頭謝つてもよい。が、二人のパイロットは戰時に備へ操縦技倆を保持するための訓練をやつてゐた。それを航空自衞隊は「年次飛行」と呼んでゐる。無論、ルーティーンだから、年次飛行の折、後席のパイロットが終始居眠りをしてゐる事もある。だが、入間川の河川敷に突込んだパイロットは民家を直撃する事を恐れ、操縱桿を握つて離さず、脱出する機を逸したのであり、河川敷に落ちたと知つて、それを思はぬやうな長官に長官の資格なんぞありはしない。
それはともかく、文化は「普遍」的でないから、墜落といふ非常事態にも彼我の差異が露呈される。米空軍のパイロットは氣輕に「非常脱出」をするし、實戰の折も「生きて虜囚」となる事を恥だとは思はない。さらにまた、航空機が墜落した場合、自衞隊は生存の可能性がゼロだと知りつつも執拗に搜索するが、米軍は頗る合理的で、非情で、生存の見込みが無くなれば搜索を打切つて仕舞ふ。日米兩軍の流儀のどちらがよいかを輕々に斷ずる譯には行かないし、斷ずるのは無意味だが、彼我の文化はそれほど異質なのであり、それゆゑ「普遍文化」なんぞは斷じて存在しない。西尾はまたかう書いてゐる。
日本文化は貯水池のやうな深さがある。何を外から入れても、アイデンティティが壞れない安心感がある。何を入れても結局何も入らないからかもしれない。
惡文を綴るのは頭が惡いからであり、頭の惡い「オピニオン・リーダー」がリードする國は三等國である。自國が三等であつてよい道理は無いから、私はこれまで多數の物書きの知的怠惰を批判したが、道徳的怠惰は批判しなかつた。他人の道徳的怠惰を批判する資格が自分にあるとは思へないからである。だが、知的怠惰なら幾らでも批判してよい。西尾の文章は出來のよい高校生なら到底綴れぬ程の惡文である。さうではないか。「何を入れても結局何も入らない」などといふ馬鹿げた事がこの世に存在する道理は無い。何かを入れようとして入らないといふ事はある。針の穴に駱駝は通せない。愚者西尾幹二の小さな頭に智惠を「入れよう」としても駄目である。だが、西尾の頭に智惠を「入れても入らな」かつたといふ事は無い。「入れても」とは「入つた」事を前提にして用ゐられる言葉であり、「入つた」物は入つたから入つたのである。
我々はハムレットから何も學ばなかつたが、西尾もニーチェの頭腦明晰に學ばなかつた。だが、歐米文化が「普遍文化」なら、それを「入れよう」としたり學ばうとしたりする必要なんぞ全く無い。「廣辭苑」によれば普遍とは「すべてのものに共通に存する」事であり、例へば好色は普遍的だが、毛唐の好色に學ばうとする馬鹿はゐない。他人が持つてゐる物を我々は欲しがらない。「學ぶ」は「まねぶ」とも讀む。學ぶ事は眞似る事であり、我々が何かの眞似をするのはその何かを持合せてゐないからである。「唯に明言するも間違ひなきは、我國の等位の甚だ高からざること、國力の甚だ強實ならざること、國交上經驗不足なることなり」と森有禮は云つたが、高い等位と強實な國力とを持合せてゐなかつたから、明治の日本は歐米列強に學ばざるを得なかつた。「日本人は外國崇拜を胸を張つて行つて、自國文化の獨立にかへつて役立ててきた珍しい國」だと西尾は書いてゐる。支離滅裂の論である。「自國文化の獨立に役立てる」云々と書く以上、自己文化の「獨立」が大事だと思つてゐる譯だが、「獨立」してゐる文化は斷じて「普遍文化」ではないし、劣つてゐるから學ぶ事は決して恥ではないものの、崇拜とは「胸を張つて」やる事ではない。「西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくとも宜いと云へば夫迄であるが、情けないかな交際しなければ居られないのが日本の現状でありませう。而して強いものと交際すれば、どうしても己を棄てゝ先方の習慣に從はなければならなくなる」と漱石は語つたが、自國の「等位」の「高からざる」事を認めた先人や、列強の「習慣に從はなければならない」事を「情けない」と思つた先人がゐたのだから、西尾の言分は十把一からげの、俗耳に入り易い俗論に他ならない。そしてその手の俗論が卑屈な拝外主義の反動としての夜郎自大の排外主義を育てるのである。(續く) 
第六囘 西尾幹二氏を叱る(二) 

 

明治四十四年に漱石が云つた事は平成の今もそのまま通用する。歐米諸國は依然として「強いもの」であり、「強いものと交際すれば、どうしても己を棄てゝ先方の習慣に從はなければ」ならない。それゆゑ我々はもはや筆や算盤を使はない、下駄や草履を履かず、歳末には第九交響曲を演奏し、クリスマスがなぜ神聖なのかも知らずに「ホウリー・ナイト」を歌ひ、莫大な米國の國債を所持しながら「バブル」が彈けて後もそれを賣却出來ず、英語を解さずしてウィンドウズもマックもリナックスも使へない。下駄を履いてアクセルやブレーキは踏めないし、御先祖樣に一人のモーツアルトもべートーヴェンもゐないし、節分はクリスマスほど「モダン」でないし、筆や算盤はコンピューターに敵はないし、米國の國債を賣却したくても日米安保條約を廢棄される事が怖い。詰り、歐米の文物が父祖傳來のそれより遙かに便利だから、そしてまた、軍事的に非力で「國力の甚だ強實ならざる」状態だから、今なほ我々は「己を棄てゝ先方の習慣に從はなければ」ならない。漱石はそれを「情けない」事だと思ふ。けれども同時に、徒に威勢のよいショーヴィニズムを苦々しく思ふ。西尾に缺けてゐるのはさういふアンビヴァレンスである。それゆゑ西尾の愚論は單純で、單純だから單純な愚者が讀んで安堵する。 

一例を擧げよう。秀吉の時代、「ポルトガル人の服裝や料理がにはかに流行」して、「キリシタンでもないのに主の祈りを捧げ、アヴェ・マリアを暗誦する者さへあつた」けれども、さういふ「無原則ないし無節操」こそは日本の「前進の原動力」だと西尾は云ふ。「前進の原動力」だなどと云はれて馬鹿はさぞ喜ぶのだらうが、馬鹿と冗談は休み休み云へ、原則無くしては凡そいかなる前進もあり得ない。「廣辭苑」は原則を「人間の活動の根本的な規則」と定義してゐる。うまい定義ではない。「無原則」とは規則が無い事よりも寧ろ信念が無い事を意味する。「原則」とは英語ならプリンシプルだが、「オックスフォード英語辭典」はプリンシプルを、An original or native tendency or faculty; a natural or innate disposition; a fundamental quality which constiutes the source of action.と定義して、「人間を支配する二つのプリンシプルがある。驅立てる自己愛と制止する理性」といふポープの文章を引いてゐる。成程、我々はみな、とかく利己的に振舞ひたがるが、それを屡々理性が制止する。だが、自己愛も理性も、共に人間を「前進」もしくは「後退」させる「原則」である事に變りはない。
「廣辭苑」の定義よりも「オックスフォード英語辭典」のそれのはうが精密なのは、大部の辭典だからではない。「情けないかな」、英國人のはうが日本人より物事を理詰めで精密に考へるからである。「無原則が前進の原動力」などといふ非論理的な文章は、赤新聞は知らず、英米の新聞には決して載る事が無い。然るにこの國は、杜撰な文章を綴る馬鹿の商賣が繁盛する「情けない」國であり、それゆゑ我國は近代科學を産めなかつた。科學は合理以外の何物でもない。西尾の文章が駄目なのは西尾が合理的に考へる能力を持合せてゐないからである。無論、文章は時に合理を超える。例へば「閑かさや岩にしみ入る蝉の聲」にしても、聲なんぞが岩にしみ込む道理は無いが、さういふ愚な事を我々は決して考へない。シェイクスピア劇には亡靈が登場するが、亡靈が顯れなくなつて演劇は駄目になつたと、ジョージ・スタイナーは云つてゐる。エドガー・ポウが狂つたのは合理的にしか考へられなかつたからだとG・K・チェスタトンは云つてゐる。いづれも至言であつて、信仰と同樣、文學は科學ではない。それゆゑ、良き文章は時に合理を超える。だが、それは飽くまで「時に」であつて「常に」ではない。西尾の文章は常に合理を超える。筆者の頭が惡いからである。頭が惡いのに書き流すから「無原則」といふ言葉の意味を把握出來ない。西尾は書いてゐる。
古代日本人が佛教や律令をとり入れたときに、中國文字を介するといふ屈辱などはおそらく感じたはずがない。漢字漢文は當時の國際公用語であつた。中國崇拜に光だけを見た。それで危瞼はなかつた。日本は大陸の軍勢に蹂躙された經驗はないからだ。
餘りにも酷い文章だから、先を引く前に添削するが、「公用語であつた」の主語は「漢字漢文」であり、それに續く「光だけを見た」の主語は「古代日本人」である。こんな事、本來なら小中學校の作文の時間に教へらるべき事だが、二つの節が等位接續詞によつて連結される場合は主語を省略する。省略しても讀者の理解を妨げないからである。但し、それは主語が同じ場合であり、異なる場合は省いてはいけない。讀者に虚しい負擔を強ひるからである。書かれてゐる事が高級で、筆者が、彫心鏤骨、苦勞して書いてゐるのなら、讀者もまた苦しんで讀まねばならぬ。だが、西尾の書いてゐる事は「古代日本人」に對する侮辱だが、書かれてゐる事自體は頗る平凡で、平凡な事を平易に語れないのは頭が惡いからである。「お前の文章は人樣に讀んで頂く文章ではない」と、私は屡々學生に云つたが、西尾が大學院の學生なら、私は決して優を與へない。せいぜいの處、可である。
惡文を綴つて平氣でゐる極樂蜻蛉だから、西尾は複雜な事柄についても大雜把にしか考へない。それゆゑ向こう見ずに斷定するのだが、「情けないかな」、その淺慮ゆゑの斷定を淺はかな讀者が喜ぶ。だが、佛教を受容した「古代日本人」が「屈辱」を感ぜず、「中國崇拜に光だけを見た」とはまた何たる大雜把か。西尾は物部守屋なる御先祖樣を知らないのか。守屋は佛教受容に反對して、受容に積極的だつた蘇我馬子と對立して、馬子が建立した寺を燒き拂ひ、寺の佛像を難波の疏水に投棄したりしたが、やがて馬子の軍勢に攻められ澀河の館で死んだ。彼の死後、佛教は廣く受容され、守屋は佛教の敵乃至聖徳太子の敵と見なされるやうになるのだが、守屋もまた「古代日本人」の一人であつて「中國崇拜に光」なんぞを見はしなかつた。無論、守屋も馬子も佛教受容の是非よりも寧ろ權勢慾ゆゑに張合つたのだし、用明天皇や馬子が佛法を信じたのは病を癒すためだつたが、蘇我物部の對立ゆゑに穴穂部皇子以外にも多くの人間が殺されてゐる。「日本書紀」を讀んでさういふ事を知つてゐたら、「中國崇拜に光だけ」云々の大雜把な文章は綴れる筈が無い。「中國文字を介するといふ屈辱」云々の件りも同じであり、或種の「屈辱」が「原動力」にならずして、支那の字を借り自前の文字を作り出さうとする努力がなされる筈が無い。自分が持つてゐない物を他人が持つてゐる場合、羨望嫉妬もしくは「屈辱」を感ずるのは、或はさういふ不毛な感情を抑へようとする事も共に人情の自然である。當方が文字を持つてゐないのに先方が持ち、當方が駕籠しか有しないのに先方が陸蒸氣を有してゐたのに、飛鳥時代及び幕末の御先祖樣が、先進國崇拜に「光だけを見」てゐたとすると、我々は世界に類例の無い卑屈惰弱腰拔けの先祖を持つてゐる事になる。 

粗雜な文章を綴るのはいかに恐ろしい事か、讀者はこれで納得したであらうか。嘗て私は西武池袋線の吊革廣告に「千に一つの誤差の無い眼鏡作りが當店のモットーでございます」との文言を見出し、産經新聞紙上で眼鏡屋の無智を嗤つた事がある。説明の要はあるまいが、これは「千に一つの誤差も無い」でなければならない。「も」ではなく「の」では、「誤差の無い眼鏡作り」が千囘に一囘といふ事になつて仕舞ふ。迂闊な眼鏡屋と同樣、西尾は己れの駄文が御先祖樣に對する侮辱になつてゐる事に氣附かないのだが、無意識にもせよ先祖を侮辱する「保守派」などといふ化物は存在しない道理だから、西尾は斷じて「保守派」ではない。ニューヨーク・タイムズの支局長は西尾を「つねづね傳統價値を主張してゐる日本人」と形容したさうだが、先祖を侮辱しながらそれに氣附かぬ男が主張する「傳統價値」とは、一體全體、何なのか。我々は言葉遣ひをも含む先祖の流儀を保守せねばならないが、愚かしい流儀も流儀だから「傳統價値」のすべてが價値なのではない。「云へるやうになつてから云ふ」のも先祖傳來の愚かしい流儀だが、先人の愚はそのまま今人の愚であるものの、先人の賢が今人の賢であるとは限らないから、先人の愚を嗤ふのは猿の尻嗤ひ、先祖を裁く事は己れを裁く事になる。だが、それ以上に許せないのは先人の勞苦に思ひを致さぬ鈍感である。文字を有しなかつた飛鳥時代の先祖が、支那に對する劣等意識を持つたとしても、夜郎自大の極樂蜻蛉よりも人間として遙かに全うだが、それはともかく、飛鳥時代から明治まで、我々の賢き先祖は歐米の優越を素直に認め、劣位に立つ屈辱を「原動力」として、先進國に「追ひつき追ひ越す」べく、「和魂漢才」とか「和魂洋才」とかを合言葉に、營々と努力したのであつて、その勞苦を思へば「光だけを見た」などといふ臺詞は口が裂けても吐けない。幕末明治の政治家や知識人にとつては、國力を歐米竝みに強化する事が喫緊の課題であり、歐米に學び、「追附き追ひ越し」て、不平等條約を撤廢させねばならなかつた。條約を結ぶ決斷を下したのは大老井伊掃部頭直弼だが、周知の如く井伊は櫻田門外で暗殺されてゐるし、それに先立ち、所謂「安政の大獄」では多くの志士が處刑されてゐる。さういふ史實を思ひ起せば、「光だけを見た」云々は白癡的樂天的な極め附きの戯言と知れよう。西尾は書いてゐる。
同じことは明治にも繰り返された。英語やドイツ語やフランス語を學んで、文化的植民地に陥る恐れが十分にあつたし、現にあるのだが、そのときにはさうは考へないし、現に考へてゐない。他のアジア諸國に起こつたことが日本には起こらない。日本人は外國崇拜を胸を張つて行つて、自國文化の獨立にかへつて役立ててきた珍しい國である。
「外國崇拜を胸を張つて行つて」井伊は條約締結に踏み切つた譯ではない。「ことさらに異國振りを頼まめや、ここに傳はるもののふの道」と若き直弼は詠つてゐる。だが、彼我の國力の差は歴然としてゐたから、開國を迫るアメリカに譲歩して屈辱的な條約を結び、敕許を得ずに鎖國といふ國策を變改せねばならなかつた。「文化的植民地になる恐れ」は井伊も承知してゐたし、その「恐れ」を云ひ立てぬ「攘夷黨」はゐなかつた。井伊に宛てた水戸齋昭の建白書にも、夷狄との交際によつて國風の失はれる「恐れ」が記されてゐる。齋昭も日本人だから、どこまで本氣だつたか些か疑はしいが、少なくも日米安保條約に反對した手合よりは眞劔であつた。國風を信じてゐたからである。國を開けばキリスト教が入つて來て、それが我國の醇風美俗を破壞するであらうとの恐れは、傳統への信頼と不可分である筈だが、平成の今、我々はキリスト教を信じてゐないし、國風の失はれた事を憂へてもゐない。「ミレニアムのカウントダウンまでがお祭り騒ぎで行はれる」のは、この國が紛れも無い「文化的植民地」だからに他ならない。西尾はドイツ語を學んで「文化的植民地」の模範的な住民になつた。彼のドイツ語がどの程度のものか知らないが、粗雜極まる日本語の文章しか綴れないといふ事、それこそが文化的根無し草たる何よりの證しである。 

我々は自國語で物を考へる。それゆゑ、言葉遣ひこそは最も重んぜらるべき先祖の流儀であつて、新假名を用ゐる保守派を私が信じないゆゑんだが、先人の流儀は後人に施される恩惠でもあつて、支那から漢字漢文が導入された時、上代の先祖は支那語を國語とせず、支那の字を借りて大和言葉を保持したから、そのお陰を蒙つて我々は今、例へば「學」といふ字を「がく」と讀み「まな」と讀む。韓國語では「學」は「はく」としか讀めない、日本人は素晴らしい御先祖を持つたと、かつて韓國の學者に私は云はれた事がある。成程、「學」を「まな」とも讀めるから、學ぶ事は「まねぶ」事であり、「まねぶ」とは眞似る事だと、我々は生徒學生に説く事が出來る。だが、大和言葉を保持するために先祖が拂つた勞苦の凄まじさに、我々は時に思ひを致さねばならない。幕末明治の先祖についても同じである。國を開いて後、西南戰爭まで、血で血を洗ふ鬪爭が繰返へされたが、同時に御先祖は一心不亂に西洋學問をやつて、その際、我々の想像を絶する困難に直面してゐる。「西語にリベルテイといへる語あり。我邦にも、支那にも、しかとこれに當れる語あらず」と中村正直は書いてゐるが、リバティーに限らず、自國にしかと「當れる語」が無い場合は新たに漢語を拵へねばならなかつた。所謂「ネオ漢語」である。「哲學」といふ言葉もネオ漢語であり、拵へたのは西周で、最初のうちは「希哲學」と云った。哲即ち知を希求する學問といふ意味である。フィロソフィーの譯語として頗る上等だが、どうにもならない言葉もあつた。例へばフリーダムとリバティーである。今人が兩者を區別しないのは共に「自由」と譯されてゐるからに他ならない。箕作麟祥は「明六雜誌」第九號にかう書いた。
リボルチー、譯して自由と云ふ。その義は、人民をして他の束縛を受けず、自由に己れの權利を行はしむるにあり。しかして方今歐、亞の各國、その政治の善美を盡くし、その國力の強盛なるは、畢竟みな人民の自由あるに原(もとづ)き、もしその詳(ことごとく)を知らんと欲せば、中村先生所譯・刊行のミル氏自由の理に就きもつてこれを看るべく、ゆゑに餘が贅言を待たざるごとしといへども、リボルチーにまた古今の沿革あるにより、その概略を左に掲載す。
リボルチすなはち自由は、羅甸語のリベルタスより轉じ、そのリベルタスはセルビタスすなはち奴隸人の身分と相對したる自由人の身分を云ひ、しかして羅馬の律法には、人の身分を大別してリベリすなはち自由人と、セルビすなはち奴隸の二種とす。(後略)
「月曜評論」の讀者はこの箕作の文章をどう讀むだらうか。臺灣では電腦と書くが我々はコンピューターと書く。臺灣には片假名が無いから是非も無いが、コンピューターに腦味噌なんぞ無いのだから「電腦」は決して上手い譯語ではない。が、それはともかく、我々が片假名を有するのは先祖のお陰であり、上代の御先祖樣が大和言葉を捨てて支那語を國語にしてゐたら、當然、平假名は作られず、平假名が無ければ片假名も無い道理であつて、箕作はラテン語を羅甸語と書いてゐるが、全ての外國語に漢字を當てねばならぬとなつたらいかに厄介かつ不便か、思ひ半ばに過ぎるであらう。さらにまた、我々が箕作のやうに「國力の強盛なるは」と書かず「強盛なのは」と書き、「知らんと欲せば」と書かずに「知りたいのなら」と書くのは、二葉亭四迷や山田美妙など、所謂「言文一致」の工夫を凝らした先人のお陰である。言文一致とはとどの詰り文語體を廢して口語體で書く事を意味したから、平易ではあつても格調の無い文章が大量生産される切掛けになり、その點功罪は半ばするし、明治の知識人の中には「洋字を以て國語を書す」べしなどと主張するおつちよこちよいもゐたのだが、さういふ「蘭癖」のおつちよこちよいをも含め、彼らがみな、民衆を啓蒙して國力を「強盛」にせねばならぬと眞劍に考へてゐた事は事實であり、實際、言文一致も民衆の啓蒙に大いに役立つたのである。
箕作が云ふやうに「國力の強盛なるは、畢竟みな人民の自由あるに原」くと彼らは固く信じてゐたから、民衆の啓蒙こそが彼らにとつての急務だつたが、いくら啓蒙しようとしても、人民は愚かで無氣力で、笛吹けど踊らず、西周も津田眞道も福澤諭吉も、西の言葉を借りれば、歐洲諸國の「文明を羨み、我が不開花を嘆じ、はてはては、人民の愚いかんともするなし」とて時に「欷歔長大息に堪ざる」を得なかつた。「文化的植民地に陥る恐れ」なんぞを考へてゐるゆとりは無かつた。國を開いた以上近代化は至上命題である、然るに人民がかうも愚昧で無氣力で卑屈では國家の獨立はおぼつかない、このままではいづれ本物の植民地になつて仕舞ふ。それを彼らは憂へた。福澤諭吉は「學問のすゝめ」にかう書いてゐる。
方今我國の形勢を察し、その外國に及ばざるものを擧(あぐ)れば、いはく學術、いはく商賣、いはく法律、是なり。世の文明はもつぱらこの三者に關し、三者擧(こぞ)らざれば國の獨立を得ざること、識者を俟(ま)たずして明なり。しかるに今、我國において、一(いつ)もその體を成したるものなし。 

商賣の事はよく知らないが、平成の今、我國の學術も法律も「外國に及ばざるもの」であり、アメリカと片務的軍事同盟を結んでゐるのだから、依然として「國の獨立を得ざる」ていたらくである。金正日閣下がテポドンを三陸沖にぶち込んで下さつたから、昨今、與論は餘程「右傾化」して、「云へるやうになつて云ふ」手合が、「國力の強盛ならざる」事實を知らぬまま、威勢のよい事を云ふやうになつたが、明治の先人にあつて今の知識人に缺けてゐるのは儒教道徳の殘滓たる和魂であり、その殘滓ゆゑに「歐化」の是非を論ふ先人は道徳的眞摯を失はずにゐて、その眞摯は文章に現れてゐる。次に引くのは地理學者志賀重昂の文章である。
吁嗟日本當代の事業は何ぞ其れ多々錯綜なる哉。外面を虚飾塗抹するの「塗抹旨義」あり、日本の舊分子を悉皆打破せんとするの「日本分子打破旨義」あり、「折衷比較旨義」あり、「國粋保存旨義」あり、「日本舊分子維持旨義」あり。然れば這般各殊の分子は個々相互に牴觸齟齬しつゝあるを以て、日本國家の爲めに一定の運動を作爲せず、爲めに彼の哀々たる三千八百萬の蒼生は空しく這般各殊の旨義が勝敗を觀望して、從ふ處を知らず。彼此奔走して徒らに國力を疲らし、殆んど中流に擢を失ひ暗夜に燈を滅したるものの如く、何を以て進まん乎、何を以て守らん乎。眞個に各自が安堵する箇處を發見する能はざるなり。(中略)予輩は「國粋保存旨義」を以て日本前途の國是を確定せんとする者也。然れ共如何せん彼の.「塗抹旨義」と「日本分子打破主義」の空氣は業既に八十餘州到る處に擴充傳播して、絶大の勢力を逞ふし、上下貴賤は擧りて這般兩主義の感化に眩惑心醉しつゝあるを以て、予輩が眼前今日に到り如何に孤憤するも、如何に大聲疾呼するも、業既に時機に晩るゝ者の如く。轉た人をして王陽明が「不知日已過亭午、起向高樓撞暁鐘」の句を吟誦するの感あらしむ。
明治の地理學者が歐化を本氣で憂へ本氣で絶望してゐる事を、その文章が西尾のそれより上等である事を、二つながら讀者は認めるであらう。志賀の云ふやうに明治の國論は「多々錯綜」してゐたのであり、明治以降の御先祖とて「外國崇拜を胸を張つて行つて、文化的植民地に陥る恐れ」は考へない、などといふ極樂蜻蛉で過ごせた譯ではない。「佛教といふものが、文化のほんの一つの分野となつた現代にゐて、佛教即ち文化であつた時代を見る遠近法は大變難かしい。佛教といふ同じ言葉を使つてゐる事さへ奇妙なくらゐのものだ」と小林秀雄は「蘇我馬子の墓」に書いたが、先祖の所行を思ひ出さうとする時、「遠近法は難しい」との自覺は不可缺であり、それが無いから後人が恣意的に歴史を歪曲し、過去を裁き過去を美化して得意になるといふ漫畫が返される。但し、西尾は史實を歪曲する譯ではない。そんな知能犯ではない。己れにとつて都合のよい史實しか知らうとせず、それゆゑ大雜把な事を書いて平氣でゐるに過ぎない。だが、ヒトラーがよく承知してゐたやうに、さういふ大雜把こそが力であつて、衆愚を動かすのは常に大雜把の單純である。それかあらぬか、西尾の講演を聽いた産經新聞の或る讀者は、現在使用されてゐる歴史教科書の内容について「聞けば聞くほど、はらわたの煮えるくり返る思ひ」がするとの投書を寄せてゐる。腸の煮え返るやうな思ひは決して永續しない。人間はさうしたものではない。聽衆にさういふ不毛な思ひをさせる者はデマゴーグであり、それに乘せられるのは愚者である。戰後久しく左の馬鹿が單純大雜把によつて幅を利かせたが、今は右の馬鹿が時の花を翳しつつある。が、左も右も單純大雜把といふ點で何の變はりも無い。以下に引くのは左の馬鹿の頗る平易な駄文だが、その單純大雜把と西尾のそれとの間に人間についての無知といふ點では何の径庭もありはしない。馬鹿に保革の別は無いのである。
わたしたちは、みんな日本の國をよい國にしたいとおもつてゐます。よい國といふのは、ひとりひとりの人間の尊さがよくまもられてゐる國、といふことだといつてよいでせう。(中略)日本をよい國にしよう。みんなが幸福である國に。(宗像誠也「私の教育宣言」、岩波新書)(續く) 
第七囘 西尾幹二氏を叱る(三) 

 


地球上に人類が棲息するやうになつてから今日まで「みんなが幸福である國」なんぞただの一度も存在した例しが無い。イギリスから新大陸に渡つた理想に燃える御先祖樣も刑務所と墓場を拵へる事だけは忘れなかつたと、ナサニエル・ホーソンは「緋文字」に書いてゐる。人間は必ず惡事をなすから刑務所が、必ず死ぬるから墓場が、共にどうしても必要なのであり、「みんなが幸福」どころか、一個人でも常に幸福といふ譯に行かないのは、人間が惡事をなし死ぬるからに他ならない。成程、この世には「惡徳の榮え」といふ事があつて、實際、惡事は快なのだが、それは結構な事なので、善が快で惡が苦であるやうな社會に道徳は存在しない。道徳とは葛藤だからである。だが、道徳が葛藤であるのなら、惡は快だが快であつてはならず、善は苦だが苦であつてはならぬ、といふ事になる。さう考へなければ、例へば「マクベス」のやうな作品が傑作として通用してゐる事實を説明する事が出來ない。マクベスは國王になりたくて國王を殺した極惡人だからである。だが、國王ダンカンを暗殺するまでのマクベスは激しい良心の呵責に苛まれ、さういふマクベスにシェイクスピアは實に美しい臺詞を與へてゐる。それは詰り、惡は快だが快であつてはならぬと作者が信じてゐたからに他ならない。
けれども、「惡は快だが快であつてはならぬ」などといふややこしい議論は、「みんなが幸福」云々や「無原則」が日本の「前進の原動力」云々のやうに單純明快でないから決して俗受けしない。俗受けするのは成程と思つたらそれを實行に移せる類の、いや正確に云へば實行に移せると馬鹿が思つて虚しく喜ぶ類の論議である。西尾は書いてゐる。
世の中にはよく一般的抽象的論議を好み、現實を動かすのに役に立たないばかりか、現實とほとんど接點をさへもたない論議を積み重ねても平氣でゐるといふ人がゐる。哲學ならそれでもいいが、教育學とか經濟學とか法律學とかで、これでは困るだらう。
私は現實に關するテーマであれば、一般的抽象的論議よりも前に、たつた一つの具體的で、個別の現實を解決することがなによりも大切だと考へる。一つでもいい、現實を動かすことが緊急である。指をくはへて惡口だけを言つてゐても仕方がない。(「歴史を裁く愚かさ」、PHP研究所)
小兒でもなし、我々が指を銜へるのは傍觀する時で、傍觀する時には人の惡口は云はない。第一、指なんぞ銜へたら惡口を云ひたくても云ひ難くて仕樣が無い。早い話が、私がかうして西尾を罵る時、私は指なんぞ銜へてゐないし、西尾の粗雜を傍觀してもゐない。西尾の文章は數行に二つ三つは粗を捜し出せる類の惡文であり、事ほど左樣に西尾の頭腦は粗雜なのだが、それはさて措き、右の西尾の主張に私は同意しない。「現實を動かすのに役に立たない」論議が人生には絶對に必要であり、知識人の役割は「個別の現實を解決する」事にはないからである。ソクラテスはフィロソフォスであつた。フィロソフォスとは知る事を愛する者といふ意味である。ソクラテスの時代にはソフィストが跋扈してゐて、その仕事は若者に雄辯術を傳授する事であつた。當時、雄辯が出世の條件だつたから、ソフィスト達の仕事は有用で、有用だつたからその商賣は大いに繁盛したし、實際、「現實を動かす」のに確實に役立つた。一方、街角に立つて青年達と問答して、謝禮を一切受取らなかつたソクラテスは「青年に害毒を流す」罪とやらで死刑に處せられたが、死刑にせよと要求したのはソフィスト達であり、それは詰り、ソフィストは當時のアテナイの「現實」を動かしたが、ソクラテスは動かさず、ソフィストの議論は「個別の現實を解決」したが、ソクラテスのそれは「現實とほとんど接點」を持たなかつたといふ事に他ならない。
ソクラテスは知る事を愛したが、「現實と接點」のある詰らぬ事どもを知りたがつたのではない。彼が知りたがつたのはイデアであり、イデアとは云はば究極の姿である。例へば、人間の人相や皮膚髪の色は千差萬別だが、鼻があつて目が二つあつて口が一つ、それは共通してゐる。だが、それが人間のイデアだとは云はれない。鼻や目や口なら他の動物も持合はせてゐる。けれども、惡事を快としながら惡事が快であつてはならぬと思ふ事、それは人間だけの特色であり、してみれば善惡の葛藤に苦しむ事が人間のイデアなのか。さうとも云はれない。シェイクスピアが描いたリチャード三世は、マクベスと異なり、良心の呵責に苦しまないし、かの宮崎勤や酒鬼薔薇とて外見的には五體滿足の人間なのである。
それに何より、我々は安直に善だの惡だのと云ふが、善とは一體何なのか。何が善のイデアなのか。イデアである以上、それは全き善でなければならないが、全き善も善人も「現實」には存在しない。全き惡とて同じであり、盗人にも三分の理がある。殺人は惡だと人は氣易く云ふが、戰場で敵兵を殺す事も惡人を裁き處刑する事も共に惡とは云はれない。それゆゑパスカルは「パンセ」にかう書いたのである。
なぜ殺すかだと、だつて君は川向うに住んでゐるぢやないか。こちら側に住んでゐる君を殺せば人殺しだが、向う側の君を殺せば私は勇士になるのさ。 

さて讀者諸君よ、かういふ論議は「現實を動かすのに」役立つだらうか。無論、何の役にも立ちはしない。では、役立たないから下らないか。斷じてさうではない。北朝鮮と中共とは豆滿江を插んで鄰接してゐる。河のこちら側の北朝鮮で市民が市民を殺せば人殺しだが、戰時、河の向う側で中共の兵隊や市民を殺しても犯罪にはならない。考へてみると隨分奇怪な事だと、さう思ふ事は斷じて無駄ではない。我々の周邊には「考へてみると隨分奇怪な事」どもが澤山轉がつてゐる。哲學のパトスは驚異の念だとプラトンは云つたが、奇怪を奇怪だと思つて驚いて、なぜそんな奇怪な事がと考へ始める、それが本當の思索の端緒なのである。殺す事が或時は惡で或時は惡でないのなら、善も惡も相對的であり、軍國主義も侵掠も敗戰も絶對惡ではなく、極東國際軍事裁判なんぞは茶番に過ぎないと知れる。そしてさうと知つたら、聯合國の不當を論ふ暇に、サンフランシスコ講和條約締結以後、久しく「押し附け憲法」を改正せずゐた我々自身の知的・道徳的怠惰のはうを恥づべきだと、さういふふうに考へる事が出來る。「押し附け」たアメリカが惡いとは私は思はないが、假に惡いとしても、それは媾(講)和條約締結までの事である。日本人は十二歳だとマッカーサーは云つたが、十二歳の子供が「押し附け」られた不條理を不條理と思はず忍從するのは致し方が無い。けれども、長じて五十歳にもなつてなほ忍從して、間歇的に「押し附け」た奴を恨むなら、そいつは大莫迦の腰拔けのんこんちきである。
先般、五月三日、西部邁は産經新聞に、憲法第九條を「侵掠戰爭はしないといふ目的に反するやうな戰力や交戰は認められない」とでも改めたらよいと書いた。「廣辭苑」の定義によれば、目的とは「成し遂げようと目指す事柄」だから、何々「しないといふ目的」なんぞこの世に存在する道理は無いが、假に離婚「しないといふ目的」を成就すべく努力してゐる夫婦がゐるとして、その場合、離婚は望ましからざる事だと夫婦は思つてゐる譯であり、「侵掠戰爭はしないといふ目的」とやらを重視する西部も、侵掠戰爭を「望ましからざる事」だと今なほ思ひ込んでゐる。西部の知的怠惰は反戰平和の「左翼進歩派」のそれと本質的には變らない。離婚とは何かについて深刻な意見の對立はあり得ないが、十六年前、「戰爭は無くならない」に縷々述べたやうに、侵掠といふ言葉は明確に定義されてをらず、當然、侵掠と自衞の境界も定かではない。詰り、「侵掠」の正體はしかと解らない。而るに、正體の知れぬ物について正體が知れぬままに論ふから、知的怠惰の粗雜な文章しか綴れないのである。「戰力」といふ言葉にしても至極不明瞭であり、一箇大隊と一箇中隊の戰力の差は必ずしも明確ではない。戰力とは武器の數と志氣との足し算ではなくて掛算だからである。
而も、パスカルの云ふやうに、「子午線が眞理を決定する」のだから、今も昔も戰爭當事國の雙方が自國の戰爭は聖戰だと主張する。朝鮮戰爭の折は三十八度線が「眞理を決定」して、韓國と北朝鮮は互ひに相手の侵掠を難じ、以來、韓國は北の南進に、北朝鮮は南の北進にそれぞれ備へてゐる。漱石の云ふやうに國家と國家との間に道義は存在しない。或る國が他國に對して道義的に振舞ふのはそれが國益に叶ふからであり、國益に叶ふのなら時に「掠奪侵掠」をも敢へてする。それゆゑ「侵掠戰爭はしない」などといふ文言は凡そ無意味であり、世界中のどの國の憲法にもさまで腰碎けの文言は記されてゐない。「國益」乃至「自衞」の爲に「掠奪侵掠」をも敢へてするといふ事、それは憲法なんぞに記す必要が無いほど自明の事だからである。日清戰爭から大東亞戰爭まで、日本がやつた戰爭も全て「自衞の爲の侵掠」に他ならない。福澤諭吉は書いてゐる。
今西洋の諸國が威勢を以て東洋に迫る其有樣は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸國殊に我近鄰なる支那朝鮮等の遲鈍にして其勢力に當ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に應援するは、單に他の爲に非ずして自らの爲にするものと知る可し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に倣て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざるの場合に於ては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。
これは知的に誠實な文章である。明治以降の日本は支那朝鮮を「力を以て」脅迫した。脅迫して效果が無かつたから「侵掠」を敢へてした。脅迫して效果が無いからとて諦めるくらゐなら最初から脅迫しないはうがよい。それゆゑ、日清戰爭から大東亞戰爭までの戰爭を「侵掠戰爭」と呼ぶのは怪しからぬ事ではない。「侵掠戰爭」で結構、だが、それは日本だけでなく列強が皆やつた事である。アメリカはハワイやフィリッピンを、イギリスはインドやビルマを、フランスはインドシナを、それぞれ侵掠した。然るに、獨り日本だけが今なほ自國の「侵掠戰爭」を悔いてゐる。侵掠と自衞との境界が明確でないのに、前者は惡で後者は善だと思ひ込んでゐる。怪しからぬのはその日本人の知的怠惰であり、無論、それは左翼進歩派に限つた事ではない。小林よしのりは「戰爭論」にかう書いてゐる。
私鬪は承認されない暴力だ。それに對し戰爭は承認された暴力と言はれる。本來的には、略奪も強姦も虐殺も、あらゆる暴力が承認された状態。平和時の秩序を無秩序に變へるキレまくりの状態が「自然な戰爭」なのかもしれない。 

福澤の文章と異なりこれは知的怠惰の文章である。戰爭は國家によつて「承認され」る軍事力の行使だが、決して「暴力」の行使ではない。武力革命の事を「暴力革命」とも云ふから兩者が混同して用ゐられる事は事實だが、「侵掠戰爭で結構」どの國もやつたではないか、とは云へるが、「暴力」で結構どの國もやつた、とは云へない。云へないから各國の軍隊に憲兵組織がある。ヴェトナム戰爭はアメリカの「暴力」ではないが、ソンミ村の住民虐殺は暴力沙汰であり、それゆゑ責任者のカリー中尉は裁かれた。が、ジョンソン大統領もマクナマラ國防長官も裁かれてゐない。マックス・ウェーバーの云ふやうに「強制力の正當な行使」が國家の專權事項であり、個人的になされる「略奪強姦虐殺」は正當とは見做されない。それゆゑ、戰爭は斷じて「略奪も強姦も虐殺も、あらゆる暴力が承認された状態」なのではない。兵隊の強姦が何で戰鬪行爲なのか。
言葉を正確に使ふ事、或は少なくも正確に使はうとする事、それは物を書く者の義務である。言葉は思考の道具であつて、切れない道具を使ふから頭も切れずに「キレまくり」になる。大東亞戰爭中、一人のアメリカ兵が日本兵の頭蓋骨を本國の女友達に「記念品」として送り、禮状を認めてゐる女の冩眞が「ライフ」に載るといふ事があつた。小林の「戰爭論」からの孫引きだが、それについて西尾はかういふふやけた文章を綴つてゐるといふ。
ナチスの強制収容所で犠牲者の皮膚からランプのシェードが造られ(中略)たといふ話はいつ聞いても背筋が寒くなるが、日本兵頭蓋骨の記念品は、それに勝るとも劣らぬ異常心理である。ここまでしたのはナチスとアメリカ軍以外にない。ただ、戰勝國の特權でアメリカの蠻行は忘れられてゐる。敗戰國の殘虐だけが誇大に傳へられすぎてゐる。日本に軍國主義があつたやうに、アメリカにも軍國主義があつたのだ。ある意味では日本以上の。
軍國主義はお互ひさまだといふことを認めないアメリカを日本人は決して許してゐない。廣島は市民殺傷效果を見るに最適規模だから選ばれたのであつて、重要軍事基地だから選ばれたのではない。
(中略)日本人をモルモットにしたアメリカの實驗はまさにナチスの犯罪と同じ「人道に對する罪」であつて、普通の「戰爭犯罪」とすらいへないのである。
まづ第一に、「ナチスの強制収容所」から「異常心理である」までの文の主語は「日本兵頭蓋骨の記念品」であり、「異常心理である」が英文法に云ふ述部である。だが、記念品が「異常心理」とは、一體全體、どういふ事なのか。記念品は物體であつて心理ではない。西尾の駄本の愛讀者は「それで通じるぢやないか」と云ふだらうが、切れない鉋で削つた板が凸凹になるやうに、駄文で通じる類の事なら下らないに決つてゐる。「ここまでしたのはナチスとアメリカ軍以外にない」と西尾は云ふが、夫が寵愛した妾の手足を切斷して糞壷に捨てた妃が昔の支那にはゐたし、我が日本國にも、殺した小學生の頭部を小學校の校門に遺棄した少年がゐた。かの宮崎勤も幼女の髑髏を磨いて樂しんだではないか。
第二に、「アメリカの蠻行」が忘れられてゐる事と戰勝國の特權とは何の關はりも無い。忘れられてゐるのは忘れる者がゐるからで、忘れたのは日本人だが、それはアメリカが權柄づくで忘れさせた譯ではない。何かを誰かの特權によつて忘れさせる事など出來はしない。「アメリカの蠻行」が忘れられるべきでないのに忘れられたのなら、それは忘れた奴が惡いのである。
第三に、敵兵の髑髏を記念品として贈る米兵がゐて、禮状を書く女の冩眞が雜誌に載つた事や原爆投下が、なぜ「日本以上の」軍國主義なのか。再び「オックスフォード英語辭典」によれば、「軍國主義」とは民衆の「軍事愛好」、「軍人階級の優位」、或は「軍事的效率を國家の最大關心事と見做す傾向」の謂ひである。戰時に「軍事的效率」を優先させ、民衆が好戰的になるのは餘りにも當り前の話で、それは成程「お互ひさま」だが、戰時中のアメリカは軍人を大統領にはしなかつた。ルーズベルトもチャーチルも軍人だつたが軍服を著たまま大統領首相になつた譯ではない。敵兵の髑髏を贈るのは好戰的敵愾心ゆゑの愚行だが、全ての米兵がさういふ「異常心理」の持主だつた譯ではない。 

第四に、アメリカの原爆投下が「人道に對する罪」であり、普通の「戰爭犯罪」よりも酷いとはどういふ事なのか。「人道に對する罪」とはナチスによるユダヤ人虐殺を裁くべくニュルンベルク國際軍事裁判が規定した非戰鬪員に對する非人道的「戰爭犯罪」の事で、東京裁判においてもそれが適用されたが、法の不遡及なる原則に惇るとて敗者が勝者の裁判を難ずる事も、普通の「戰爭犯罪」よりも酷いとて原爆投下を難ずる事も共に全く無意味である。戰爭は犯罪ではないのだから、「戰爭犯罪」も「人道に對する罪」も存在しない。存在しない物に「普通」と異常の別は無い。それに何より、負者が勝者の非道を五十年も言ひ立てるのは漫畫であり、その漫畫的無意味を西尾が悟らないのは二流のデマゴーグだからであり、二流のデマゴーグの駄文を引いて漫畫家が煽情的な駄文を綴り、それを何十萬もの莫迦が喜んで溜飲を下げるのは、これはもう絶望的な氣の滅入る漫畫である。小林は書いてゐる。
わしは昔、高崎山のサルを見に行つた。クソザルどもがわしのやるヱサをキツキと爭つて取つて食ひよる。眞つ赤なケツ出して下等なサルどもである。こいつらの前でチンチン出してもなんも恥づかしくない。すつぱだかになつてオナニーしても恥づかしくないやろね。ケモノだもんなこいつら。(「戰爭論」)
人間誰しも心中密かに卑猥な事を考へる。「チンチン出して」とか、或いはそれ以上の事を夢想する。だが、眞つ當な人間は決して口に出してそれを云はない。なぜ云はないか。云はれた者が當惑するからである。然るに愚かな小林は、「チンチン出して」などと書いたら、その途端に夫子自身が「ケモノ」以下の存在に墮するといふ一事を悟れずにゐる。而も、「ケモノ」以下になつて道化て見せるのは「白人の黄色人種に對する差別」を強調する爲であり、それがいかに凄まじい蔑視であるかは會田雄次の「アーロン収容所」を、「讀めばわかるつ。讀めばわかるんだーつ」と小林は書いてゐる。「讀めばわかるつ」らしい會田の本は中公新書に納められてゐて簡單に入手出來るから、ここでは別の著書の一部を引いておく。或る古年次兵についての記述である。
かれの初年兵いぢめには狂氣じみたところがああつて、何かぞつとさせられた。私など、もちろん一番に目の敵にされた。よく足の指先に、どこからかくすねてきた刺身の一片をはさみ、「大學講師よ、食ふか、食へ」とやられたのには、まつたく閉口した。食べないと「それは、私なんぞの料理は食べられませんやろな」といはれ、氣絶するぐらゐなぐられるし、食べるとみんなの輕蔑を買ふ。他の古年次兵からは、「貴樣それでも帝國軍人か」となぐられる。どちらにしても助からない。(「ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界」新潮社)
アーロン収容所におけるイギリス人の「黄色人種」蔑視を冷靜に描いた會田が、ここでは日本人の初年兵いびりを淡々と描いてゐる。會田はデマゴーグではない。デマゴーグは條理ではなく情緒によつて衆愚を動かさうとするから、矛楯するかのやうに見える事は書かない。イギリス兵の惡口を書いて受けたら日本兵の惡口は決して云はない。だが、これはゴシック體で印刷して貰ひたい位だが、自國を愛する爲に、なぜ我々は他國を罵らねばならないのか。 (續く) 
第八囘 小林よしのり氏を叱る(一) 

 


我々が日本といふ國を愛するのは我々だけの掛替への無い母國だからであり、母親を愛するのは掛替への無い母親だからである。だが、母親を愛する爲に他人の母親を罵る必要は全く無い。母親への愛は穏やかに持續する愛だが、眞の愛國もまた排他的でもなければ熱狂的でもない。西尾も小林も不惑還暦を過ぎてゐようが、熱狂的な愛が四十年六十年も持續する道理は無い。「アメリカの蠻行」だの「高崎山の猿」だの「鬼畜米英」だのとて他國を罵るのは斷じて愛國心の發露ではない。それは不毛なナショナリズムである。ナショナリズムを定義してジョージ・オーウェルは、「何百萬何千萬もの人間の集團に善惡のレッテルを貼れる」と思ひ込み、「自己を國家と同一視して、その利益を追求する事以外の義務を認めない習慣」だと云つた。洵に明快な定義である。英米に惡玉のレッテルを貼りたがる西尾も小林も、愛國者ではなく知的怠惰のナショナリストに過ぎない。イギリス人アメリカ人の全てが「鬼畜」なのではない。日本人の全てが善良な譯ではない。成程、アーロン収容所における英兵の差別は、前世紀イギリスの印度人や支那人に對する差別と同樣に凄まじい。だが、イギリス人の中にはオーウェルのやうな男もゐて、自國のナショナリズムの愚を冷靜かつ的確に批判してゐる。オーウェルによれば、イギリスの或る新聞はドイツ人によつて縛り首にされたロシア人の冩眞を掲載してその野蠻を難じたが、一、二年後、今度はロシア人によつて縛り首にされたドイツ人の冩眞を掲載して熱烈な贊意を示したといふ。同じ野蠻でも自國や自國の敵がやれば「惡」だが、自國や身方がやれば「善」になる。さういふナショナリズムに盲ひた新聞人知識人の知的怠惰をオーウェルは痛烈に批判した。オーウェルは云ふ、六年もの間、ヒトラー贔屓のインテリはダッハウの存在を知らうとせず、ドイツ嫌ひのインテリはソヴィェトに強制収容所があるといふ事實を認めたがらなかつたではないか。 

オーウェルのやうな知的に誠實な物書きの文章を讀んでゐると、西尾小林如き手合を批判する虚しさを痛感するが、「何百萬何千萬もの人間の集團」たる他國に惡のレッテルを貼る愚かしさだけは、これを執拗に批判しなければならない。日本人の宿痾だからである。自國を誇らしげに思つて他國を貶めるのは聖徳太子以來の習性かも知れぬ。周知の如く、太子は隋に渡る小野妹子に國書を託し、「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや」と書いた。自國が他國より東方に位置してゐるのは、自國に「富士山がある」事と同樣、自慢の種にはならないが、それまでの日本は支那に對し頗る卑屈に振舞つてゐたのであり、「生まれましながら、能くもの言ひ、聖智有し、壯に及びて、一たびに十たりの訴を聞きてあやまちたがはず」と評されたほど聰明な太子は、この際、積年の弊を取り除かねばならぬと思つたのかも知れない。いづれにせよ、我々は排外と拝外とを藝も無く繰返し、拝外の時には卑屈になり排外の時は夜郎自大になる。無論、敗戰直後は「拝米」であつた。「拝GHQ」であつた。小林よしのりは書いてゐる。
アメリカGHQは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」といふ日本人に戰爭の罪惡感を植ゑつける洗腦計劃を實行した。あらゆるマスコミを檢閲し、日本は戰爭中こんな殘虐なことをした。惡の軍隊だつた。原爆落とされても仕方ないくらゐの愚かな國だつた。日本人は軍部にだまされてゐたのだ……といふ情報を(中略)徹底的に流し續けたのである。
日本國民はコローツとこれに洗腦され(中略)當時、GHQには「マッカーサー樣ありがたう」と感謝する手紙が次々と舞ひ込んだといふ。(中略)かうしてオウムの信者竝みにGHQにマインドコントロールされた日本人は、五十年たつた今も、(中略)當時東京裁判でもまつたく問題にならなかつた戰場慰安婦のことまでも(中略)自ら、ここにも犯罪があつたぢやないか…と世界に叫び始めたのである。 

ここで小林の書いてゐる事は事實である。だが、ジャーナリストなら事實を正確に記述するだけでよいが、物書きは單なる事實の記述に甘んじてはならない。事實が意味するものについて深く考へねばならない。例を一つ擧げようか。我々はびつこを見ても決して不快にならないが、びつこの精神に接すると必ず苛立つ。それは誰しも認める事實である。では、それはなぜなのか。びつこは我々がびつこでない事を認めるが、びつこの精神は己れのはうが正常だと言ひ張るからだと、パスカルは「パンセ」に書いてゐる。「成程」と讀者は思ふに相違無い。そのやうにして賢者の言に眼から鱗の落つる思ひをする事、それが讀書の樂しみなのである。
然るに、小林は「びつこ」の精神の持主でない限り誰でも知つてゐる事實を記述して、その意味するところを考へない。意味するところとは何か。情けないかな、我國は「原爆落とされても仕方ないくらゐの愚かな國」だといふ事である。自國の軍隊に「だまされ」、占領軍に「コローツと」洗腦され、占領軍司令官に「感謝する手紙」をせつせと出すやうな國民が、土臺、一等國の國民である道理が無い。埃を拂つてGHQなんぞを誹る暇に、なぜさういふ道理に思ひ至らないのか。「自分は日本人を信じない、彼等は何の信念も無くこれまでに二度豹變してゐる、一度目は幕末、二度目は敗戰直後だ」と嘗てキッシンジャーは云つたが、情けないかな、それは本當の事であり、信念無き豹變、すなはち「コローツと洗腦」される事もまた我々の宿痾である。小林は書いてゐる。
戰中は「日本が負けるはずない」「鬼畜米英」の一色に空氣をぬりつぶすのが正義だつた。反對論者には「非國民」のレッテル貼りをして、新聞も情報を一方からしか流さない。戰後は「日本が侵掠者だつた」「反戰平和」の一色に空氣をぬりつぶすのが正義で…反對論者には「右翼・惡」のレッテル貼りをして、新聞も情報を一方からしか流さない。「鬼畜米英」が「反戰平和」になつただけの何も變はらない日本。この「反戰平和」が次の日本の破滅を招く可能性など考へもせず… 

「月曜評論」の讀者にこの際是非是非考へて貰ひたい事がある。「反戰平和」の空氣に「ぬりつぶ」されてゐた半世紀、我が師福田恆存は、終始一貫、「左翼進歩派」の知的怠惰を論理的に批判し續け、成程「右翼・惡」のレッテルは貼られたかも知れないが、「左翼」の誰一人として福田に對する論理的に有效な反論はやれなかつた。師匠と弟子との間で交はされた會話を披露するのは、思ひ出を綴る隨筆でもない限り、私の好む處ではないが、今同はそれを敢へてする。晩年、師は私にかう云つた、「さうなんだ、僕の讀者は僕を通り越して皆右へ行つて仕舞ふんだ」。
右傾化を憂ふる「右翼」とは何か。是非是非考へて貰ひたいのはその事である。西尾も小林も左傾化を憂ふる「右翼」であり、左と右は反對概念だから、右が左に反對するのは解る。だが、福田は左傾化と右傾化の雙方を憂へた知識人だつた。福田は戰後最高の知識人だが、「月曜評論」の讀者で福田の愛讀者に強調したいのは、福田の偉大が自國の病弊を知悉して左右の浮薄に抗した偉大だといふ事である。小林は「鬼畜米英」が「反戰平和」になつた事を批判するだけだが、福田はその「反戰平和」が再び「鬼畜米英」に變り「次の日本の破滅を招く」であらう事を、天下に先立つて憂へてゐる。福田は二十年前「言論の空しさ」と題してかう書いた。西尾や小林を叱りながら私が云はうとしてゐる事を代辯してくれてゐるし、右と左の雙方から嫌はれる事を書く「保守派」は他に一人も見當らないから、少し長く引く事にする。
「世の中は隨分變つて來ましたね、二十五六年前、あなたが平和論の迷妄を批判した時と較べて…、」近頃よくさう言はれる、勿論、相手は平和論批判以來の私の仕事がその變化に多少の役割を演じた「功」を犒つてくれてゐるのである。さう言つてくれる好意はありがたいが、その「功」を私自身は一度も認めた事が無い。なるほど平和論批判の時、私の爲に援護射撃してくれる人は殆ど無く、私は村八分にされた。その頃に較べれば確かに世の中は變り、私の樣な考へ方は「常識」になつたとさへ言へる。寧ろ左翼的な「進歩的文化人」の言論の方が村八分にされかねない世の中になつた。そして私は二十數年前と同樣、厭な世の中だなと憮然としてゐる。(中略)防衞論の流行はソ聯のお蔭であつて、その論理の力によるものではないと言つたが、同じ事が戰後二十年間の進歩主義的平和論についても言へる。いや、戰爭中の軍國主義についても同樣である。(中略)「勝つてくるぞと勇ましく」と高唱しながら街を往く應召兵の行列、愛國婦人會といふ名の有閑婦人會、實際には何の役にも立たぬ防空演習、すべてがお座なりの形式主義であり、本氣で戰爭してゐる人間の姿も心も感じられなかつた。人々が本氣になつたのは食ふ物が食へなくなつた戰爭末期だけである。
それに引續き戰後の闇市時代だけ、人々は本氣であつた。それからどうやら食へる樣になり、それこそ雨後の筍の樣に仙花紙の雜誌が氾濫し始め、人々は言論の自由に酔ひ、平和だの民主主義だのといふ空疎な言葉を弄び出すに隨ひ、敗戰は掠り傷に過ぎぬものとなり、誰も彼も輕佻浮薄に戰爭を否定し、日本の歴史を、即ち日本人の心を抹殺して顧みなかつた。(中略)その間、何でも西洋が優れてゐるといふ、これまた輕佻浮薄な拝外思想に振り廻され、それも本氣でなかつた證據に、國民總生産が世界第二位といふ「經濟大國」になると、再び輕佻浮薄な日本人論が歡迎され始めた。やはり千篇一律、本氣で書いたものは殆ど無いと言つていい。
この福田の文章と「鬼畜米英」が「反戰平和になつただけ」で「何も變はらない日本」云々の小林の文章とはまさしく月と鼈、釣鐘に提燈である。釣鐘は戰時中の自國の輕佻浮薄をも的確に指摘するが、提燈のはうは虚しく過去を美化し、「八紘一宇」とは「天皇の下ですべての民族は平等」といふ事であり、「この政治的主張は單なるフィクション」ではなく「かなり本氣の主張」であつた、その證據に、「日本もユダヤ人を排斥しろ」との同盟國ドイツの壓力を、「八紘一宇の國是にそぐはない」とて撥ねつけたではないかと云ふ。小林は書いてゐる。 

「八紘一宇」の政治的主張のもとに日本は敵國の人種差別とも同盟國の人種差別とも戰つてゐた!そして戰爭が終はつてみると、アジアは次々と獨立し、白人は黄色人種からの収奪ができなくなつてしまつた。
「八紘一宇」とは「大東亞共榮圈」を建設してアジア諸國が天皇を戴く一家のやうにならうといふ樂天的で安手で甚だ日本的なスローガンである。「天皇の下ですべての民族は平等」と主張して、「天皇の下」といふ不平等を認めないアジア民族はどうするのか。だが、戰中の爲政者も小林よしのりも、さういふ事はまるきり考へない。武者小路實篤ではないが「仲よき事は美しきかな」、アジア民族同士だもの仲良くやるべし、それあ大いに結構、といふ事で濟ませて仕舞ふ。けれども、「同盟國ドイツの壓力」を撥ねつける理由が「八紘一宇の國是にそぐはない」といふ事だつたとすると、「八紘」とはアジアだけでなく世界中の國々を意味する事になる。黄色人種にあらざるユダヤ人とも「一宇」の間柄になれるものなら、なぜ「鬼畜米英」と仲良くやれなかつたのか。賣られた喧嘩だから買つたまでだと小林は云ふかもしれないが、「天皇の下」云々の條件を認めないアジア民族に喧嘩を賣られる可能性は皆無ではない。その喧嘩を買つたら「八紘一宇」といふ事にならぬ道理である。
それに、我々は聯合國と戰つたが「敵國の人種差別」と戰ひはしなかつたし、戰後、アジア諸國が「次々と獨立」したのも、いはば怪我の功名に過ぎず、日本が勝ち取つた成果ではない。大東亞戰爭を正當化して「アジア諸國の獨立」を云ふのはもう止めにして貰ひたい。聖徳太子以來、論理よりも和合を尊ぶ我々が、「八紘一宇」などといふ性善説的空念佛の大好きな我々が、土臺、「人種差別」なんぞと、まして他國の人種差別なんぞと本氣で戰ふ譯が無い。今も昔も、我國に深刻な人種問題は存在しない。ヒトラーが虐殺したユダヤ人は六百萬だが、それより先、アフリカから新大陸へ拉致された黒人は一千萬、奴隷船で運ばれる途中死んだ者が何十萬にも上つたといふ。歐米諸國の遣口を難ずる譯では斷じてないが、舊約の昔から、西洋史は差別と殺戮の記録に滿ちてゐる。かの十字軍も異教徒は人間と見なさなかつた。アーロン収容所における英兵の差別は陰濕だが、會田を虐める古參兵は子供染みてゐる。それゆゑ私は「南京大虐殺」を信じない。何十萬もの非戰鬪員をお人よしで氣の弱い日本人が殺せる筈は無い。「戰爭論」に小林は、屡々、「ごーまんかましてよかですか」と書いてゐる。「ごーまん」とは傲慢の事だらうが、西尾と同樣に小林も、愚かしい事は澤山云つてゐるものの、傲慢な事なんぞ何一つ云つてゐない。眞實傲慢な男は「ごーまんかましてよかですか」といふ臺詞だけは決して口にしない。眞に「傲慢」な男はかういふ文章を綴る。
一切の政治的實驗は、たとへどんなに「進歩的」なものであらうとも、民衆の犠牲において行はれ、民衆に刃を向ける。(中略)民衆とは、そこにあるがままにあるだけで、すでにして獨裁政治への誘惑そのものなのだ。(「歴史とユートピア」出口裕弘譯、紀伊國屋書店)
これは傲慢を大罪の一つに數へてゐる文化圈でしか書かれない文章であり、かういふ文章を綴る男は我國にはゐない。筆者はE・M・シオランで決して狂人ではない。彼はヨハン。セバスチャン・バッハが大好きださうだが、バッハの音樂は狂人の好む音樂ではない。(續く) 
第九囘 小林よしのり氏を叱る(二) 

 


「管絃樂組曲」とか「ブランデンブルク協奏曲」とか「無伴奏チェロ組曲」とかいふバッハの世俗音樂は有名で、我國でも屡々演奏されるが、バッハは膨大な宗教音樂を作曲してをり、生涯、教會のために作曲し演奏し續けた男である。非情な眞理を語るシオランのやうな男がバッハを好むのは不思議でも何でもない。バッハの場合に限らず、西洋音樂と宗教とは切離す事が出來ない。教會音樂であれ世俗音樂であれ、作曲家を作曲に驅り立てるものは「絶對的なるもの」への憧憬であり、シオランもまた絶對に憧れてゐる。「人間からいかなるものをも奪ふ事が出來ようが、絶對への希求だけは斷じて奪ふ事が出來ない」とシオランは書いてゐる。「廣辭苑」は「絶對」を「他に並ぶもののない事。他との比較・對立を絶してゐる事。一切他から制限・拘束されない事」と定義してゐる。が、さういふ日本的な定義に基づいてシオランの言葉を理解する事は出來ない。「オックスフォード英語辭典」によれば、絶對とは「制約や不完全を免れてゐるもの」の謂ひであり、無論、それは絶對者以外には無い。いかな偉人も英雄も所詮は不完全で、老いるし死ぬし過ちを免れないが、神ばかりは老いないし死なないし過ちも犯さない。そして人間は、相對的存在たるがゆゑに、絶對に憧れ、絶對を希求し、絶對的眞實を捉へようとする。その熾烈なエロスは決して人間から奪ふ譯に行かない。シオランはさう信じてゐる。近代科學を生んだ西歐にあつてアジアに缺けてゐるもの、それは絶對を求めて止まぬエロスである。絶對者を戴かぬ文化に熾烈な合理主義は生じやうが無い。
相對的であるがゆゑに、人間は絶對を夢み、絶對に憧れ、絶對者に祈る。泰西の音樂が祈りの音樂たるゆゑんだが、それはイエスを讃ヘイエスの受難を偲ぶ教會音樂に限つた事ではない。我々とて例へば「亡き子を偲」び胸を締め附けられるやうになる時があり、さういふ時には思はず歌ひたくなる。「花に鳴く鴬、水にすむ蛙の聲を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と古今集の「假名序」にあるが、我々は歌を詠むものの祈りはしない。モーツアルトの四十一番シンフォニー「ジュピター」の第二樂章はアンダンテ・カンタービレだが、「カンタービレ」とは歌ふに適したといふ意味であり、弱音器を著けた弦樂器の祈るやうな歌ふやうな旋律で始まる瞑想的な大層美しい樂章である。同じくモーツアルトの三十六番シンフォニー「リンツ」の緩徐樂章はポコ・アダージオだが、それを名指揮者ブルーノ・ワルターが指揮するコロンビア交響樂團演奏のリハーサルを録音したLPがあつて、今はCDになつてゐるが、ワルターはドイツ訛りの英語で樂員たちに頻りに「歌へ」との註文をつけてゐる。バッハとは異なり、教會音樂を餘り作曲しなかつたモーツアルトだが、歌ふ事祈る事が彼の音樂の本質をなしてゐるのである。モーツアルトの「戴冠式」と名附けられたミサ曲の中の一曲「アニュス・デイ」は、歌劇「フィガロの結婚」の「伯爵夫人のアリア」と殆ど同じ旋律を有してゐる。フルート協奏曲の作曲を依頼され、以前書いたオーボー協奏曲を編曲して胡麻かさうとした事もあるモーツアルトだが、「戴冠式」と「フィガロ」に同じ旋律を用ゐたのは迂闊や多忙のせゐではない。夫の愛が失はれた事を嘆く伯爵夫人の詠歎は、「アニュス・デイ」の「世の罪を除く神の小羊よ、憐れみ給へ」との祈りと同質であつて一向に差支へが無い。 

これを要するに、西洋音樂の本質は祈りであつて、祈りの對象は神もしくは「絶對」なるものだといふ事だが、さういふ音樂を我々は有しない。是非もない。我々の神は絶對者ではないし、我々が神に祈るのは殆ど例外無く現世利益を求める場合である。戀歌なら萬葉の昔からあるが戀愛が宗教の代替物だつた事は一度も無い。さういふ國に「冬の旅」のやうな歌曲集が無いのは當然である。「三四郎」の廣田は三四郎にかう云ふ。
どうも西洋人は美くしいですね。御互ひは憐れだなあ。こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戰爭に勝つて、一等國になつても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いづれも顔相應の所だが、−あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない。
「顔相應の所」なのは音樂だけではない。文學も哲學も同じである。我々は「胸を張って」世界に誇れるやうな「我々が拵へたもの」を何も有しない、まさしく漱石の云ふ通りである、とさう書けば、數少ない私の讀者も顔を顰めるかも知れないが、西尾幹二や小林よしのりの愚論に誑かされぬためには、さういふ苦い眞實を認める事が何より大事なのである。我々は近代科學を産めなかつた。西洋が蒸氣機關車を有してゐた頃、我々の御先祖は駕篭に乘つて旅をしてゐた。本居宣長が「石上私淑言」を書いてゐた頃、バッハは既にかの壯大なロ短調ミサ曲を完成させて世を去つてをり、カントは「純粋理性批判」を書いてゐた。ハイネの言葉を借りればカントは神樣の首をちよん切らうとしてゐたのだが、宣長のはうは神樣や天皇に從ふ事の大事を説いてかう書いた。
さればわが御門(みかど)にはさらにさやうの理(ことわ)りがましき心をまじへず、賢(さか)しだちたる教へを設けず、ただ何ごとも神の御心にうちまかせて、萬をまつりごち給ひ、また天の下の青人草もただその大御心を心として、なびきしたがひまつる、これを神の道とはいふなり。
無論、カントにとつての神と宣長にとつての神は全くの別物である。どこが違ふか。前者は「拵へたもの」即ち虚構によつて大昔から人間をがんじ絡めにして來たが、後者は道徳的虚構とは一切無縁であり、「賢しだちたる教へを設け」て人間を縛る事が無い。早い話がキリスト教文化圈最古の性に關する神話はアダムとイヴの物語だが、我々のそれは伊邪那岐伊邪那美二柱の神によるまことに大らかなみとのまぐはひの物語であつて、そこに性を罪惡視する要素は皆無である。虚構とは人間が「拵へたもの」だが、性の問題に限らず、我々は道徳的に嚴しい虚構を何一つ有しない。以前本誌に紹介した事があるが、ユダヤ人のジョージ・スタイナーは、ヒトラーを主人公とする小説を書いてゐるが、スタイナーのヒトラーは己れを裁かうとするユダヤ人にかう反論してゐる。
お前たちの全能の神、全てを見通す神、目に見えず、手に觸れられず、想像すら出來ぬ神、人類史上、それほど殘忍な創造が、人間を苦しめるために作り出された絡繰りが、他に存在したらうか。それを考へろ。篤と考へろ。世界中の異教徒が樣々な神を戴いてゐる、惡意を持つ神、善意の神、翼のある神、太鼓腹の神、木の葉も木の枝も、岩も河も神になる。人間の仲間たる神、その尻を摘んだり撫で擦つたり、だが、いづれ人間と同じ寸法、ハニー・ケーキや燒肉を捧げられて喜ぶ神々だ。(中略)しかるにユダヤ人は、人間の感寛を超える神を創造して、この世を空虚にしてしまつた。姿形が無い。想像も出來ぬ。沙漠よりも空虚な空白。しかるに、その恐るべき身近さ。我々の惡行の一切を吟味し、心中隈なく動機を探り出す神。人間と契約書を交はし、賄賂を取り、三十の世代に及んで復讐する神。契約の神。けち臭い取引きをする神。「しかしてヱホバ、つひにヨブの所有物(もちもの)を二倍に増(まし)たまへり」。一千頭の牝驢馬。腫物を患ふあの老人は、最初、五百頭しか持つてゐなかつたのだ。
法廷の諸君、この不潔、この道徳的策略の策略たるゆゑんが諸君には解るか。ヨブはなぜ、神を名乘るあの家畜商に唾を吐きかけなかつたのだ。だが、お前たちのいと聖なる場所は空虚だつた、沈默が支配してゐるばかりだつた。ユダヤ人は偶像を崇拜する手合を嘲笑ふ。ユダヤの神は他のいかなる神々よりも純粋なのだ。そして人間はその被造物なるがゆゑに、より一層善良にならねばならず、隣人を愛し、禁慾的になり、持てる物を乞食に施さねばならぬ。律法の一切に從ひ、忿怒や慾望を抑へ、肉を淨め、雨中を身を屈めて歩まねばならぬ。
お前たちはこの俺を暴君だつたと云ふ。專制君主だつたと云ふ。だが、このユダヤの病的な幻想以上の暴力や專制がかつてあつたらうか。お前たちは神殺しの犯人ではない。お前たちは神の創造者だ。神殺しより遙かに惡辣な所行だ。ユダヤは良心を考へ出したのだ。 

この臺詞を「月曜評論」の讀者はどう讀んだのだらうか。六百萬人ものユダヤ人を虐殺したヒトラーに、ユダヤ人の作家がかういふ臺詞を喋らせてゐる。例へばの話、足利尊氏が登場し、北朝正統論を主張し、後醍醐天皇と明治天皇と桂太郎を面罵する、さういふ「拵へもの」の小説や芝居がこの國の作家に書けるであらうか。かつて深澤七郎が「風流夢譚」と題する小説を「中央公論」に載せた時、右翼の少年が中央公論社社長宅を襲ひ、家政婦を殺し、嶋中社長夫人に重傷を負はせた事がある。深澤の小説は日本に革命が起つて天皇皇后兩陛下の首が落されるといふ、何の爲に書かれたのかさつぱり解らぬ愚作であつて、それをスタイナーの作品に較べると、我々の思想的貧困を痛感させられる。尊氏にしてもヒトラー程の惡(わる)ではない。光明天皇擁立後の尊氏は「この世は夢の如し」とて遁世を思ひ立つてをり、後醍醐天皇との反目も征夷大將軍に任命して貰へなかつたからに過ぎない。我々はお人好しで現實的で、柳田國男が云つたやうに「米が澤山獲れる事」が生甲斐で、それゆゑ道徳的「虚構」を全く必要としない。度し難いほどの惡ならば、人間の「惡行の一切を吟味し、心中隈なく動機を探り出す神」や、性惡説を前提とする虚構がどうしても必要になるが、「大東亞共榮圈」も「八紘一宇」も子供だましの「物語」に過ぎず、道徳とは何の關はりも無い。明治四十二年、永井荷風は「新歸朝者日記」にかう書いてゐる。
此間日本歴史を讀み返して見たですが、實に厭な淋しい氣がしました。日本人は一度だつて空想に惱まされた事はないんですね。眼に見える敵に對して復讎の觀念から戰爭したばかりで、眼に見えない空想や迷信から騒出した事は一度もない。つまり日本人は飢饉で苦しんだ事はあるが精神の不安から動揺した事はない。(中略)其れだから要するに日本人は幸福なユウトピアの民なんですよ。自覺させると云ふ事も惡くはないですがね、私は一方から考へて、平和な幸福な堯舜のやうな人民に文明々々と怒鳴つて、自由だの權利だのを教へて煩悶の種を造らせるのはどうかと思ひます。戰慄すべき罪惡のやうな氣もします。
荷風の云ふ「空想」とは詰り「虚構」の事である。それを小林よしのりは「物語」と呼ぶ。「物語」で結構だが、小林の云ふ「物語」とは國のために死ぬる覺悟を若者に固めさせる爲の方便に過ぎない。小林は書いてゐる。
この國を想つて死を賭ける者にかつて人々は……國は……物語を用意した。アジア解放、大東亞共榮圈の物語を信じて戰つた兵士たちも確實にゐたのである。彼らは英雄であり……神になれた。
ごーまんかましてよかですか?
戰後あらゆる物語を相對化させて、少女は賣春、少年は殺人が流行の國になつた。
本當にこの國には物語は要らぬのか? 

「自由」も「權利」も虚構であり「物語」だが、それは國家ではなく飽くまでも個人が必要とするものである。フランス革命の折、國民議會において採択されたかの「人權宣言」も絶對王政や身分制に抗する市民の自由と權利の擁護を謳つてゐる。だが、自由だの平等だのといふ政治的虚構の他に、人間は道徳的虚構をも必要とする。人間はとかく利己的に振舞ひがちだから、自己犠牲は美しいといふ虚構が不可缺である。が、それはしかし、眞の信仰と同樣、外部から強制さるべきものではない。國家が「用意」しても、それを「信じて戰」ふかどうかは個人の意志次第である。教育基本法が改正されると教師が一所懸命に教へるやうになる譯ではない。馬を水際まで引張つて行く事は出來るが、水を呑ませる事は出來ない。呑むかどうかは馬が決める。小林は戰死した高村といふ小隊長の日記から「大君の御爲には鴻毛の輕きに覺悟してゐます」との件りを引用してゐるが、「大君の御爲」とか「アジア解放」とか「大東亞共榮圈」とかいふ「物語」はさまで安直に信じられた譯ではない。昭和十九年ニューギニアで戰死した篠崎二郎は若き妻にかう書き送つてゐる。
廣いこの世界にきみといふ好伴侶を持ち、克子といふいとし子を持ち得たことは自分の最も幸福な事である。(中略)きみの顔が浮かぶ。情熱的な黒目がちの目、きりつとした中にも愛くるしいまで引きしまつた口、ふくよかな胸の邊り、きみのまぼろしが浮んで消えない。
ああ!女々しい氣持を去らねばならぬ。
後顧の憂ひ、更になし。身體の調子も至極順調。一意待機任務の任を終へ、命に依り椰子茂る方面に出ることになつたこと、全く男子の本懐、御召しとあらば、皇軍の一人として誓つて恥ぢざる覺悟にゐる。苦しい覺悟に。
總べて時の流れた運命に委せ征く。/任運無作!父のよく言つた言葉だつた。(「きけわだつみのこゑ」、岩波文庫)
「國を想つて死を賭ける者に、かつて國は物語を用意した」とか「アジア解放、大東亞共榮圈の物語を信じて戰つた兵士たちも確實にゐた」とかいふ小林の文章は、國家を重んじ個人を輕んずる安直かつ非人間的な文章だが、篠崎の文章は頗る人間的である。去るべき「女々しい氣持」が篠崎にはたつぷりあつて、けれども「皇軍の一人として」との覺悟を固めるが、それはやはり「苦しい覺悟」なのである。さういふ苦しさを露知らずに散つた皇軍の將兵が一人でもゐたとは私は斷じて思はない。「必要な殺人」と題するオーデンの詩を批判してオーウェルは「殺人を言葉として知つてゐるに過ぎぬ者だけが、かういふ非道徳的な思想を抱ける」と云つたが、小林の場合も、「國を想つて死を賭ける」といふ事を專ら「言葉として知つてゐる」に過ぎない。唾棄すべき輕佻浮薄である。(續く) 
第十囘 「公」は「私」より遙かに遙かに大事か 

 


西尾や小林に限らず、我國の知識人の度し難い通弊は國家を常に個人の上位に置く事だが、我々にとつて何より大事なのは國家の繁榮ではない。「文學と政治主義」を執筆してゐた頃、私は福田恆存に「今度、國家なんぞ亡びてもいいぢやないかつて書かうと思ふんです」と云つた事がある。「ああ、それあいいね」と福田は云つてくれたが、そんなふうに答へられる知識人は、今、保革を問はず一人もゐないだらうと思ふ。「親友と國家のいづれかを裏切らねばならぬ羽目になつたら、私は躊躇無く國家を裏切る」とイギリスの小説家E・M・フォスターは云つたが、さういふ事がなぜ我國の知識人には云へないのか。國家や社會や公は個人や私より遙かに遙かに大事だと思ひ込んでゐるからである。だが、漱石の云ふやうに、國家は道徳とは無縁であり、我々は道徳的に生きねばならないが、それは飽くまで個人としてであつて國民や市民としてではない。
西部邁は最近「國民の道徳」なる新著を出したらしいが、國民の道徳などといふ物は斷じて存在しない。成程、「國民道徳」といふ言葉があつて、「或る國民に特有な道徳。國民として守るべき道徳」と「廣辭苑」は定義してゐるが、二つながら到底存在し得ない化け物である。「或る國民に特有」なのは國民性であつて道徳ではないし、日本國民は守つて米國民が守らないのは日本國特有の法や慣習であつて道徳ではない。ジョン・ロックによれば人間には守るべき三つの法がある。「神の法」と「市民の法」及び「慣習の法」である。神の法を守らねばあの世で罰せられ、市民の法を守らねばこの世で裁かれ、慣習を守らねば世間から指彈される。だが、我々日本人には、生憎、守るべき「神の法」の持ち合せが無い。それゆゑルース・ベネディクトは神を憚る歐米の文化を「罪の文化」、世間を憚る日本の文化を「恥の文化」と呼んだ。二つの文化は全く異質だから、西洋學問をいくらやつてもその溝ばかりは埋められない。國家を常に個人の上位に置く政治主義も、絶對者に支へられず專ら世間に支へられる弱さに發してゐる。世間がいかに指彈しようと、いかに村八分にされようと、俺の言分は正義だから撤囘しないとて胸を張る強さが我々には無い。かくて我々は「槇雜木」であり、ばらばらでは貧相で不安だが、「束になつてゐれば心丈夫」なのである。 

だが、道徳は國家と切り放して考へねばならない。世間だの輿論だの國家だのは道徳とは無縁で、マキャベリの云ふやうに、國家は國益の爲とあらば徳義的にいかがはしい事をも敢へてして難じられる事が無いが、個人が私利私慾ゆゑに妻子や親友を裏切れば人非人と看做される。個人は徳義に縛られるが國家は縛られない。國家の目的は國家自體の存續ないし繁榮だが、國家が存續し繁榮してゐる事は國家の成員たる國民一人一人が徳義を重んじて立派に生きてゐる事を意味しない。我々にとつての大事は我々自身が立派に生きる事であり、いやいや、立派に生きようとして叶はずそれを苦にして生きる事であり、決して國家が繁榮する事ではない。勿論、妻子の爲國家の爲に一身を犠牲にするのは立派だが、それが立派なのはそれが難事だからである。早い話が、借金で首が廻らなくなつて首を括つた處で誰も褒めてくれはしない。特攻隊員の死が見事なのは若い身空で死にたくないのに死んだからであつて、國家が「用意」した「物語」なんぞを信じて死んだからではない。「國を想つて死を賭ける」などといふ徒に景氣のよい常套句は「女々しい心を去る」難しさを切り捨てた處に成立つてゐる。
「勝つて來るぞと勇ましく」に始る「露營の歌」も同じである。「露營の歌」には「夢に出て來た父親に死んで還れと勵まされ」といふ一節があり、小林の駄文を讀んでゐて私はそれを思ひ出し、小林の徒に景氣のよい言論はとどの詰り非論理的にして非人間的な軍歌なのだと思つた。およそこの世に出征する息子に「死んで還れ」と命ずる父親はゐないし、第一、「死んで還れ」とは勵ましの言葉ではない。「進軍ラッパ聽く度に瞼に浮ぶ旗の波」とか「東洋平和のためならば、なんで命が惜しからう」とかいふ件りもあつて、要するに嘘で塗り固めた軍歌なのだが、そこに勢のよい公だけがあつて「女々しい」私が無いのは「國民精神」を鼓舞する爲であり、煽動と同樣、鼓舞もまた頗る容易かつ安直な業なのである。若き妻のふくよかな「胸のあたり」を思ひ、けれどもその女々しい想念を絶つ難しさなんぞまるきり知らぬ癖に、といふより知らぬがゆゑに、作詞家は鉛筆舐め舐め「公の爲に私を捨て」る雄々しさを讃へて「死んで還れと勵まされ」とか「手柄立てずに死なれようか」とか書く。兵隊が國の爲に死ぬのは、「公の爲に私を捨て」るのは、當然だと彼は思つてゐる。自身「公の爲に私を捨て」ねばならぬ境遇に無いからである。小林は書いてゐる。
特攻隊は決して個をなくしてゐたのではない。おぼれる子供を救ふために、泳げぬ身で水に飛び込む者を個をなくしたと言ふか?(中略)
戰局の惡化から米軍を本土に上陸させたら日本は滅亡してしまふ。郷土は燒き盡され、愛する者たちは殺され、犯され、奴隷と化してしまふ。考へに考へた末、祖國を救ふために一發逆轉にはもはやこれしか殘されてないと志願した者たちは?
ご一まんかましてよかですか?
彼らは個をなくしたのではない。公のためにあへて個を捨てたのだ!國の未來のため、つまり我々のために死んだのだ! 

溺れる子供を救はうとして飛込む者は「考へに考へた末」に飛込む譯ではないのだから、特攻隊員と等し並に扱ふのは無茶だが、それは兎も角、「泳げぬ身で」飛込む時と同樣、特攻隊員が敵艦に體當たりする時も「個を捨て」る譯でもなく「個をなく」す譯でもない。無論、「公のため」とか「國の未來のため」とかいふ事は寸分考へてゐない。國の爲大君の爲死なねばならぬといふ覺悟は、篠崎の云ふやうに「苦しい覺悟」だが、それは特攻隊員としての日頃の訓練によつて既に固めてある。それだけの事である。先頃、「月刊日本」に私はかう書いた。
嘗て航空自衞隊百里基地でかういふ事があつた。ソ連機の領空侵犯に對處すべく二佐のパイロットがF十五のエンジンをかけたら、格納庫が白煙で一杯になつた。エンジンが爆發したとパイロットは思つた。實際は翼の下の空對空ミサイルが不時發射されたのだが、そんな事はその時には解らない。バイロットはエンジンが爆發したと思つた。そして叫んだ、「左エンジン爆發。十五分待機のコックピット、スタンバイ」
愛機のエンジンが爆發した。即刻、整備員は隣の格納庫のF十五を發進させる準備に取り掛れ、といふ程の意味である。エンジンが爆發したらパイロットは確實に死ぬ。が、この二佐のパイロットは「命を惜し」まなかつた。惜しんでゐる暇も無かつた。實に見事である。職業の如何を問はず我々は皆かういふふうに振舞ふ「べき」である。が、さうは振舞へないのが凡夫である。凡夫たる我々は實際にはさうは振舞はない。が、人はさう振舞ふ「べき」である。この、振舞ふ「べき」だといふ理想と振舞へないといふ現實と、それを二つながらなぜ認める事が出來ないのか。(中略)「命を惜し」む手合が「命を惜しまず名を惜しめ」とて威勢のよい事を云ふと、それを讀んで「命を惜しむ」手合が感激する。悲慘滑稽なる漫畫である。我が論壇はその手の漫畫に滿ちてゐる。
このF十五のパイロットと面識は無いが、普段は極く普通の自衞官ではないかと思ふ。ミサイルが不時發射された時、彼は「公のため」だの「國家のため」だの「個を捨てる」だのといふやくざな事は何も考へなかつた。担し、我國の領空を侵犯するかも知れぬソ聯空軍のパイロットに舐められてはならないと日頃から考へてゐて、その日頃の信念と日頃の訓練とが「十五分待機のコックピット、スタンバイ」と叫ばせたに過ぎない。離陸が遅れれば遅れる程、ソ聯機との遭遇は日本國の領空寄りになる道理であつて、さうなれば、當然、ソ聯のパイロットは航空自衞隊を輕んずるやうになる。さういふ事になつてはならないと思ふから、パイロットも整備員も懸命に離陸の準備をする。何せ懸命で一心不亂なのだから命なんぞ惜しんでゐる暇も無い。
これを要するに、一朝有事の際に物を云ふのは普段の訓練と日頃の心掛けだといふ事である。森敏といふ自衞官を私は尊敬してゐたが、入間基地近くの飲み屋の座敷で、當時航空總隊司令部飛行隊司令だつた森が私にかう語つた事がある。「自衞隊にをれば感動する事は多々ありますが、身體が顫へる程の感動は二度だけです」。 

森が語つた一度目の感動的な出來事が何だつたか、私は全く憶えてゐない。が、二度目のそれは領空を侵犯したソ聯の偵察機に航空自衞隊機が發砲した時の事である。もう時效だと思ふから書くのだが、ヴェトナムのカムランを飛び立ち沿海州に向ふソ聯の偵察機が、我が領空を侵犯して嘉手納と那覇の上空を飛んだのである。航空自衞隊のファントムと米空軍のF十五が發進した。無論、領空侵犯對處は主權國のやる事だから、米軍のF十五は航空自衞隊機の上空にゐて我が方の對處ぶりを見守るだけであつた。米軍に見られてゐるといふ事もあつて航空自衞隊の若いパイロットは苛立つてゐた。これはもう領空を掠めたといつた程度の侵犯ではない。嘉手納の上空を飛んで太平洋に出、それから引返して那覇の上空を飛んだのであつて、露骨極まる侵犯である。ファントムのパイロットは那覇基地の作戰室に屡々警告射撃の許可を求めた。
作戰室には三人の幹部自衞官がゐた。南西混成團司令の空將、防衞部長の森一佐、それと防衞課長の二佐である。警告射撃は方面隊司令官の專權事項であり、南西混成團司令は、普通の戰鬪航空團司令とは異り、「團司令」と呼ばれてはゐるものの方面隊司令官なのだから、空幕長や航空總隊司令官の指示なんぞを仰ぐ必要は全く無い。ファントムのパイロットからは「まだですか」と何度も云つて來る。然るに團司令は決斷出來なかつた。森は腸が煮え返る思ひであつた。すると、二佐が突然、森一佐に向つて云つた、「これより直ちに信號射撃を實施致します」。身體が顫へる程感動して森は「よし」と云つた。かくて信號射撃即ち警告射撃が實施され、日本が抗議してソ聯が謝つた事は當時新聞各紙の報じた通りだが、ソ聯に謝らせたのは「高級幹部」ならざる二佐の決斷だつたのである。 その立派な二佐に一度會ひたいと思ひながらその機會を逸し、苗字すら憶えてゐないのだが、「十五分待機のコクピット・スタンバイ」と叫んだ百里基地の三佐と同樣、彼もまた極く普通の自衞官だつたらうと思ふ。階級社會の自衞隊にあつて二佐が空將を無視するのは尋常一樣の事ではないが、有事とはいへその尋常一樣でない事をやつて退けられるのは日頃の心構へがしつかりしてゐたからに他なるまい。森の場合も同じである。若い頃、森は自衞隊車の助手席に乘つてゐて交通事故に捲き込まれた事がある。自衞隊の官用車と民間の乘用車が衝突し、森も眉間を切つたのだが、顔中血だらけの森は乘用車に驅け寄り、助手席にゐて怪我をした女の子を抱き上げ、顔中血だらけのまま最寄の病院へと走つた。病院の醫者も乘用車の持主もいたく感激して、損害賠償交渉は頗る順調に捗つたといふ。 

だが、無論、森は損害賠償の事を考へてゐた譯ではない。自衞隊の爲といふ事も全く考へてゐない。森の眉間には大きな傷跡が遺つてゐて餘程の負傷だつた筈だが、恐らく彼は痛みも感じなかつた。そんな暇は無かつた。顔中血だらけで少女を抱へて走る、咄嗟にさういふ事が出來たのは、人間としての日頃の心構へがしつかりしてゐたからであり、瞬時に「個をなくし」たり「個を捨てた」りしたせゐではない。空將と一佐を前にして「これより直ちに信號射撃を實施致します」と云つて退けるのは強靱な個であつて、さういふ強靱な個は普段の心構へが拵へるのである。「中公新書」版「ある明治人の記録」にかういふ件りがある。會津が薩長に攻められた頃の話である。
この間、若松よりの銃砲聲いぜんとして絶えず。一同その勝敗を案ず。この音やめば主君をはじめ城中の一同全滅なりと、きさ女、忠女は語る。敵兵きたると聞けば血氣の兵藏銃と刀とりて驅け出で、しばしば兄より輕擧を戒めらる。この兵藏の郷里は越後濁川と聞く。相撲好きにて田舎力士の關取なり。賭博を好み喧嘩を日常の事とするも情誼まことに厚く、自ら侠客をもつて任ず。(中略)八月二十三日朝、東松嶺にいたりて鶴ケ城を望めば一面火と黒煙の海なり。太一郎これを指して、
「會津すでに落ちたり。吾等これより城に馳せ參じて死するのみ。汝は元より會津藩には何の由縁もなし。吾とともに死する義理まつたくなし。すみやかに歸郷せよ」
と金若干を與へて訣別せんとすれば、兵藏にはかに怒りて色をなし、
「これは驚き入りたることかな、主人の言とも覺えぬ無情無慈悲のお言葉なり。吾等下賤の博徒なりといへども一宿一飯の義理をたつとぶ、その家に難あれば身命を棄つるものなり。しかるに何ぞや、主君ただいま國難に赴くにさいし暇をたまはらんとは、まこと義理もなく人情もなし。御命令なれど、だんじてお斷はり申す」
と坐り込み、挺子にても動かぬ面構へなり。太一郎兄つひに眞情に打たれ、これをともなひて各地に轉戰(中略)戰後太一郎兄病院に収容せらるるにおよび、主君の前途すでに安泰なりとて暇を乞ひ、もとの博徒にもどりて天下を放浪すと述べ、一刀を携へて飄然と立ち去る。時に明治元年十月のことなり。(續く) 
第十一囘 「身命を賭す」といふこと 

 

兵藏は「喧嘩を日常の事とする」下賤の博徒だが、一宿一飯の義理を尊び、主家の難儀に際して「身命を棄つる」は當然の事と信じ、普段からさういふ心構へで生きてゐる。兵藏にとつての主君とは身命を賭して盡くさねばならぬ權威である。一方、森敏は日本國正規軍の軍人だから、一朝有事の折は、無論、國の爲に身命を擲たねばならないが、怪我をした少女を抱へて走つた時の森は國を守るべく走つた譯ではない。いや、百里基地のパイロットや那覇基地の二佐にとつても、國家はもはや身命を賭して盡くさねばならぬ權威ではないし、常住坐臥、「公のためにあへて個を捨て」る覺悟でゐた譯でもない。では、彼らをして頗る見事に振舞はせたもの、詰り、彼らにとつての「身命を賭して盡くさねばならぬ」ものとは、一體全體、何だつたのか。
人は誰しも己が「身命」を惜しむのであり、本居宣長の云つたやうに全て「男ラシク正シクキツトシタル」事は凡そ人情の中に無い。宣長は「うまき物食はまほしく、よき衣きまほしく、よき家にすままほしく、寶えまほしく、人に尊まれまほしく、いのちながからまほしくするは、みな人の眞心」だと云つたのだが、さういふ正直な事を、今、天下國家を論ずる知識人は決して云はず、己が「眞心」を棚に上げ、「命を惜しまず名を惜しめ」とか「東洋平和のためならば、なんで命が惜しからう」とかいふ類の徒に威勢の良い、それゆゑ不毛な綺麗事を竝べ立てるのだが、さりとて宣長の云ふ「眞心」だけで充分だとは、我々は決して思はない。洋の東西を問はず、男らしく「正シクキツトシタル」立派な先人を多數知つてゐるからであり、彼らは例外無く身命を賭するに足る何物かを信じてゐた。だが、それは國家などといふ抽象的な代物ではなくもつと身近な尊崇の對象、もしくは傳統的な掟や慣習なのである。例へば乃木希典は恩義ある明治天皇に殉じ、森鴎外の「阿部一族」に出る内藤藤十郎は領主に殉じ、安井佐代や美濃部るんは夫や姑に盡くし、「護持院原の敵討」の九郎右衞門は敵討といふ往時の慣習を固く信じて、それに「身命を賭す」る覺悟でゐる。九郎右衞門の姪りよも同じである。敵討に出る前、九郎右衞門とりよとはかういふ遣取りをする。 
或る日九郎右衞門は烟草を飲みながら、りよの裁縫するのを見てゐたが、不審らしい顔をして、烟草を下に置いた。「なんだい。そんあちつぽけな物を拵へたつて、しやうがないぢやないか。若殿はのつぽでお出になるからなあ。」
りよは顔を赤くした。「あの、これはわたくしので。」縫つてゐるのは女の脚絆甲掛(きやはんかふがけ)である。
「なんだと。」叔父は目を大きく2(目+爭)(みは)つた。「お前も武者修行に出るのかい。」
「はい」と云つたが、りよは縫物の手を停めない。
「ふん」と云つて、叔父は良(やや)久しく女姪の顔を見てゐた。そしてかう云つた。「そいつは駄目だ。お前のやうな可哀(かはい)らしい女の子を連れて、どこまで往くか分からん旅が出來るものか。敵にはどこで出逢ふか、何年立つて出逢ふか、まるで當がないのだ。己と宇平とは只それを捜しに行くのだ。見附かつてからお前に知らせれば好いぢやないか。」
「仰やる通、どこでお逢になるか知れませんのに、きつと江戸へお知らせになることが出來ませうか。それに江戸から參るのを、きつとお待ちになることが出來ませうか。」罪のないやうな、狡猾らしいやうな、くりくりした目で、微笑を帯びて、叔父の顔をぢつと見た。
叔父は少からず狼狽した。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきつととは云ひ兼ねる。出來る事なら、どうにでもしてお前を其場へ呼んで遣るのだ。萬一間に合はぬ事があつたら、それはお前が女に生れた不肖だと、諦めてくれるより外ない。」
「それ御覧遊ばせ。わたくしはどうしてもその萬一の事のないやうにいたしたうございます。女は連れて行かれぬと仰やるなら、わたくしは尼になつて參ります。」
「まあ、さう云ふな。尼も女ぢやからのう。」
りよは涙を縫物の上に落して、默つてゐる。叔父は一面詞(ことば)を盡して慰めたが、一面女は連れて行かぬと、きつぱり言ひ渡した。りよは涙を拭いて、縫ひさした脚絆をそつと側にあつた風爐敷包の中にしまつた。 
この件りを讀んで感動しない讀者はゐまい。私はかつて防府北基地で、いづれ航空自衞隊のパイロットになる航空學生に新潮文庫版「護持院原の敵討」を讀ませ感想文を書かせたが、數名の學生がりよの見事に讃歎して、「りよのやうな女と結婚したい」と書いた者もゐて、「草葉の蔭の鴎外は喜んでゐるだらうよ」と私は學生に云つたが、鴎外も軍人だつたのだから、後輩のパイロットの卵がりよに惚れる事を喜ばない筈は無い。けれども「月曜評論」の讀者の場合、感動するだけでは困るのである。先賢の書を讀んで感動したら、我々はついで深く考へなければならない。何を考へるか。我々がりよの見事に感動するのは、りよのやうに振舞へないからだが、なぜ振舞へないか、さういふ事を考へる。九郎右衞門やりよの見事は敵討とか男女不平等とかいふ往時の理不盡な慣習に支へられてゐるが、我々はもはやさういふ前近代的な慣習に縛られてゐない。敵討は私刑として禁じられてゐるし、「女に生れた不肖」などといふ事も、鴎外の時代はもとより戰前にもあつたが平成の今は皆無である。皆無で果たしてよいかと、さういふ事を考へる。人間の偉大を知つて悲慘を知らなかつたとてパスカルはエピクテトスを難じたが、成程、克己の努力だけによつて人間は「偉大」になれはしない。克己はもとより難事だし、難事だから大事だが、同樣に、いやいや同程度以上に、人間は外的權威に從ふ事によつて、或いは傳統だの慣習だのに「盲目的」に從ふ事によつて立派に振舞ひ得る。九郎右衞門にしても敵討といふ慣習の正當をつゆ疑つてゐない。りよもさうである。然るに、「女に生れた不肖」を不肖だとは思つてゐないものの、「人の上の人」たる叔父の權威は絶對だから、敵討に出る事を斷念し、涙を拭ひ、そつと脚絆を仕舞ふのである。
鴎外の歴史小説に描かれた江戸時代の先人は、男女の別無く、しかく慣習や權威を絶對視してゐる。乃木希典の葬儀に列席した夜、大正元年九月十八日、鴎外は殉死肯定の短編「興津彌五右衞門の遺書」を倉卒に書き、彌五右衞門にかう云はせてゐる。 
某(それがし)は只主命と申(まをす)物が大切なるにて、主君あの城を落せと被仰(おほせられ)候はば、鐵壁なりとも乘り取り可申(まをすべく)、あの首を取れと被仰候はば、鬼神なりとも討ち果たし可申と同じく、珍らしき品を求め參れと被仰候へば、此上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖り候事は格別、其事柄に立入り候批判がましき儀は無用なり。
周知の如く、志賀直哉や武者小路實篤は乃木の殉死を嗤つて、武者小路なんぞは、ゴッホの自殺と違ひ乃木の「自殺には國際的のところがない」などとまこと愚な事を書いた。だが、鴎外は肅然襟を正して「興津彌五右衞門の遺書」を書いた。「國際的のところ」なら鴎外は志賀や武者小路よりも遙かに深く理解してゐた。ドイツ語に堪能で、留學中にドイツの學者と論爭をやつてゐるし、歸國して後、ドイツの女が鴎外を追ひ掛けて來た話はよく知られてゐる。だが、白樺派の文人とは異なり、鴎外は「日本的のところ」に強く縛られてゐた。縛られながらも國粋主義に墮する事が無かつた。乃木殉死以前の事だが、鴎外は「普請中」といふ短編を書いてゐる。普請中の靜養軒ホテルで渡邊といふ參事官が昔馴染のドイツ女と會食する話である。以下、少し引用するが、かういふ嫌味な西洋かぶれの文章を書いた男が、同じ年に「興津彌五右衞門の遺書」を書いたのであり、その隔たりの大きさを痛感しつつ讀んで貰ひたい。
「去年の暮からウラヂオストツクにゐたの。」
「それぢやあ、あのホテルの中にある舞臺で遣つてゐたのか。」
「さうなの。」
「まさか一人ぢやあるまい。組合か。」
「組合ぢやないが、一人でもないの。あなたも御承知の人が一しよなの。」少しためらつて。「コジンスキイが一しよなの。」
「あのポラツクかい。それぢやあお前はコジンスカアなのだな。」
「嫌だわ。わたしが歌つて、コジンスキイが伴奏をする丈だわ。」
「それ丈ではあるまい。」
「そりやあ、二人きりで旅をするのですもの。丸つきり無しといふわけには行きませんわ。」(中略)
「これからどうするのだ。」
「アメリカヘ行くの。日本は駄目だつて、ウラヂオで聞いて來たのだから、當にはしなくつてよ。」
「それが好い。ロシアの次はアメリカが好からう。日本はまだそんなに進んでゐないからなあ。日本はまだ普請中だ。」
「あら。そんな事を仰やると、日本の紳士がかう云つたと、アメリカで話してよ。日本の官吏がと云ひませうか。あなた官吏でせう。」
「うむ。官吏だ。」
「お行儀が好くつて。」
「恐ろしく好い。本當のフイリステルになり濟ましてゐる。けふの晩飯丈が破格なのだ。」
「難有いわ。」さつきから幾つかの控鈕(ボタン)をはづしてゐた手袋を脱いで、卓越しに右の平手を出すのである。渡邊は眞面目に其手をしつかり握つた。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにゐて、暈(くま)の出來た爲めに一倍大きくなつたやうな目が、ぢつと渡邊の顔に注がれた。
「キスをして上げても好くつて。」
渡邊はわざとらしく顔を蹙めた。「ここは日本だ。」 
日本は近代化の普請中で歐米諸國ほど「進んでゐない」。「進んでゐない」以上、「國際的のところ」を目指さねばならないが、さうなれば「人の上の人」に過ぎない天皇を「人の上の絶對者」である「かのやうに」尊崇する譯には行かなくなるし、「神話と歴史とを一つにして考へて居ること」も、「祖先の神靈が存在してゐる」かのやうに祀る事も共に出來なくなる。だが、「さうなつた前途には恐ろしい危險が横たつてゐはすまいか」、國を擧げての「普請」がいかに日本人の根性を奪ふかを、ドイツ女の手を握り「日本はまだ普請中」などといふ氣障な臺詞を吐いた鴎外が、愚直で武骨な乃木の殉死に衝撃を受けて後に痛感する事になる。だが、早合點してはならない。鴎外は昨今雨後の筍の如く現れた似非保守主義者の如く、状況次第で膨らんだり萎んだりする國粋主義者になつた譯ではない。敵討や殉死や男尊女卑の風習ゆゑに、そしてまた「人の上の人」を尊崇したがゆゑに、御先祖は立派に振舞へた。けれども、昔を今になすよしは無い。御先祖と西洋學問をやつた鴎外との間には埋めやうの無い溝がある。「護持院原の敵討」にかういふ件りがある。 
宇平は矢張默つて、叔父の顔をぢつと見てゐたが、暫くして云つた。「をぢさん。わたし共は隨分歩くには歩きました。併し歩いたつてこれは見附からないのが當前かも知れません。ぢつとして網を張つてゐたつて、來て掛かりつこはありませんが、歩いてゐたつて、打つ附からないかも知れません。それを先へ先へと考へて見ますと、どうも妙です。わたしは變な心持がしてなりません。」宇平は又膝を進めた。「をぢさん。あなたはどうしてそんな平氣な樣子をしてゐられるのです。」
宇平の此詞を、叔父は非常の集中を以て聞いてゐた。「さうか。さう思ふのか。よく聽けよ。それは武運が拙くて、神にも佛にも見放されたら。お前の云ふ通だらう。人間はさうしたものではない。腰が起てば歩いて捜す。病氣になれば寢てゐて待つ。神佛の加護があれば敵にはいつか逢はれる。歩いて行き合ふかも知れぬが、寢てゐる所へ來るかも知れぬ。」
宇平の口角には微かな、嘲るやうな微笑が閃いた。「をぢさん。あなたは神や佛が本當に助けてくれるものだと思つてゐますか。」
九郎右衞門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の氣味惡さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神佛だ。
宇平の態度は不思議に恬然としてゐて、いつもの興奮の状態とは違つてゐる。「さうでせう。神佛は分からぬものです。實はわたしはもう今までしたやうな事を罷(や)めて、わたしの勝手にしようかと思つてゐます。」
九郎右衞門の目は大きく開いて、眉が高く擧がつたが、見る見る蒼ざめた顔に血が升(のぼ)つて、拳が固く握られた。
「ふん。そんなら敵討は罷にするのか。」 
これはどこかに嘗て書いた事なのだが、普段「物に動ぜぬ男」なのに、九郎右衞門がここで「一種の氣味惡さを感じた」のは、一瞬、神佛の加護を信じられなくなつたからだが、恐らく本物の九郎右衞門の場合、そんな事は決して無かつた。それゆゑ右に引いた部分は「神佛の加護」を信じてゐない鴎外の創作である。本物の九郎右衞門は神佛の加護を固く信じてゐる。敵には必ず必ず巡り會へると思つてゐるし、よしんば巡り會へなくても腰が立つ限りは捜し同る、「人間はさうしたもの」だと信じ切つてゐる。敵討と云へば讀者は「忠臣藏」を思ひ出すかも知れないが、赤穂浪士の場合、敵たる吉良上野介は吉良邸にゐて逃げも隠れもしない。然るに、九郎右衞門の場合、敵が日本のどこにゐるか皆目見當が附かない。九郎右衞門たちが京都奈良を目指して東海道を下つてゐる時、敵は越後江戸を目指して北陸道を上つてゐるかも知れぬ。「武運」と神佛の加護と敵討の義務の神聖を信ぜずに「平氣な樣子をしてゐられる」道理が無いのである。
詰りかういふ事だ。「先祖その外の神靈の存在」も信じられずにゐる鴎外は九郎右衞門が信じてゐたものの悉くを信じてをらず、九郎右衞門の見事に讃歎しつつ筆を進めたものの、ほんの少しばかり己が弱さを投影せずにはゐられなくなつた。同じ事は「阿部一族」の内藤長十郎についても云へる。長十郎の心中を付度して鴎外はかう書いた。
併し細かに此男の心中に入つて見ると、自分の發意で殉死しなくてはならぬと云ふ心持の旁(かたはら)、人が自分を殉死する筈のものだと思つてゐるに違ひないから、自分は殉死を餘儀なくせられてゐると、人にすがつて死の方向へ進んで行くやうな心持が殆ど同じ強さに存在してゐた。反面から云ふと、若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屈辱を受けるに違ひないと心配してゐたのである。かう云ふ弱みのある長十郎ではあるが、死を怖れる念は微塵もない。
世間體を憚るやうな弱い男が切腹前に晝寢なんぞをする筈が無いのだから、この心理解剖には説得力がまるで無い。鴎外はここでも己れの弱さを投影して、九郎右衞門や長十郎を己れに引き寄せようとして失敗してゐる。そしてそれが、江戸時代の武士と明治の文士との埋めやうの無い隔たりを證してゐる。それは何を意味するか。前近代的なるものへの信仰無しに我々は道徳的に立派に振舞へないといふ事を意味する。とすれば、災ひの基は近代化なのではあるまいか。南蠻渡來の文明の利器を總て捨て、儒教の合理主義に甘んじ、「女に生れた不肖」を忍び、「祖先の神靈」を信じ、「人の上の人」には土下座して、義理人情浪花節を重んじ、長い物には潔く卷かれる、さういふ事がやれもしないのに、政治はともかく道徳を論ふのは全く無意味なのではあるまいか。(續く) 
第十二囘 先祖の流儀(傅統)に自信を持てない保守といふ異常 

 

「人の上に人を戴く」文化
將軍家、藩主、守護地頭、明治以後は天皇、貴族、軍人、警官、お役人、さういふ「人の上の人」を恐れ憚つて御先祖樣は立派に振舞つた。無論、福澤諭吉が慨歎したやうに「目上の人に逢へば一言半句の理窟を述ること能はず、立てと云へば立ち、舞へと云へば舞ひ、其從順なること家に飼たる痩犬」の如き卑屈な御先祖も多かつたが、と云ふよりそれが大半だつたらうが、今人が感服せざるを得ない御先祖樣は、貴賤の別無く、「人の上の人」を憚りつつ生きた。高村光雲が、御前制作の折、明治天皇の膝から上を見なかつたのは、見たら目が潰れると本氣で信じてゐたからだが、今、秋津島根のどんなに鄙びた寒村にも神であるかの如く「人の上の人」を敬ふ男はゐまい。私の父は彫刻家で、帝展無鑑査まで行き、その後挫折した男だが、父の師匠であつた佐藤玄々は、紀元二千六百年奉祝のため和氣清麻呂像を拵へる事になつた時、アトリエに注連縄を張り、毎朝、齋戒沐浴してから制作に取掛つたといふ。光雲が死んで七十年、玄々が死んで三十年、「人の上の人」を恐れ憚つたり、神靈を「まつるに在すが如くす」る、さういふ愚直がなぜ地を拂つたのか、それを眞面目に考へずに道徳を論ふのは全くの無意味である。泰西の文化は人の上に絶對者を戴く文化で、我々のそれは「人の上に人を戴く」文化だから、「人の上の人」を敬し憚る事無くして我々は道徳的に立派に振舞ふ事が出來ない。眞摯になる事も出來ない。明治天皇の御前で制作してゐた光雲は、裸のフランス女を前にして3(黍+占)土を捏ねてゐた倅光太郎の想像を絶する程緊張してゐたに相違無い。注連縄を張り齋戒沐浴する玄々も同じである。アトリエに注連縄を張り巡らせたら畫家も彫刻家も眞劍になる。注連縄は何のために張るか。無論、神靈を迎へるために張る。注連縄が張り巡らされてゐる限り、神靈はアトリエに留まつて、鑿を揮ふ玄々を見てゐる。明治天皇が光雲を見てゐる。神靈が玄々を見てゐる。明治天皇の場合と異なり、神靈の存在は實證によつては確かめられない。信ずるか、それとも信じないか、そのいづれかである。 
日本人でなくなつて仕舞ふ
だが、我々はもう神靈の實在を信じてゐない。成程、時折墓參りはするし、先祖の遺骨をただのカルシュームだとは思つてゐないが、先祖の靈が日常の行動を監視してゐると感じる事は決して無い。洋の東西を問はず、人間の言動は個人の外部の何かに規制されてゐなければならない。神靈が見てゐると本氣で信じてゐるから玄々は眞劍になる。同樣に、世間の目が光つてゐると思へば、我々の行動は野放圖にはならない。神靈も世間も我々の外部にあつて我々の言動を規制する。例へば、電車の中で化粧する若い女は見苦しいが、神靈ならぬ他の乘客が見てゐるといふ意識のまるで無い形振り構はぬはしたなさ、それが醜いのである。ああいふ手合は芥川龍之介の短篇「手巾」を讀んだ事が無いに相違ない。恐らく生涯讀まないであらう。が、我々の文化は「恥の文化」であつて、神靈だの「お天道樣」だの「人の上の人」だの「世間體」だのを一切憚らぬやうになれば、日本人は日本人でなくなつて仕舞ふ。もう隨分さうなつてゐる。柳田國男は「先祖の話」に書いてゐる。
私の聽いてゐるある武家の老主婦は、明治も中頃に近くなるまで。盆の魂祭りの日は黒の紋服を着て玄關の式臺に坐り。まるで生人に對するやうな改まつた挨拶をした。まことに行き屆かぬおもてなしでございましたのに、よう御逗留下さいました。また來年もお待ち申しますといふやうな言葉を、もつと長く丁寧に述べられたといふことである。それにこたへられるともうなづかれるとも、思つてゐたわけではあるまいが、おそらくはこれが代々のこの家の作法で、今日の教育とはちがつて、かう言へかう思へと教へる代りに、自分で直接に實行して見せられたのであらう。
いかにも柳田らしい中途半端の論である。その「武家の老主婦」が黒の紋服を着て叮嚀な挨拶を述べる時は、それに對して先祖の靈が耳を傾け「うなづかれる」と信じてゐたのであつて、代々の作法だから式臺に坐り挨拶を述べた譯ではない。彼女の振舞ひは大層美しいが、それは彼女が、祖靈といふ實證によつて確かめられぬものの實在を信じ切つてゐるからであり、恐らく彼女の日常生活も自墮落なものでは決してなかつた。「コクピット・スタンバイ」と叫んだパイロットや、信號射撃を決斷した二佐や、怪我をした少女を抱へて走つた森敏の場合と全く同樣、彼女の日頃の心掛けと式臺に坐しての挨拶とは見事に調和してゐた筈なのである。
無論、人間に完全といふ事は無いから「老主婦」にも何かしら缺點はあつたに相違無い。けれども、聖人君子が立派に振舞つても我々は感動しない。缺點だらけの迷ひ多き常人が時に見事に振舞ふからこそ感動する。「自衞隊にをれば感動する事は多々ありますが」と森敏は云つたが、自衞隊の外部には感動と無縁の人生がある。早い話が、「月曜評論」を含む週刊月刊雜誌に感動的な文章を見掛ける事は滅多に無い。けれども、文章の役割は知識の傳達だけではない、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むつは歌なり」と紀貫之は云つたが、良き文章とは天神地祇ならぬ讀者を動かす「歌」なのである。西部邁邁の「國民の道徳」は、その惡文もさることながら、道徳を論つてそこに全く「歌」が無い。それは詰り、西部の關心が道徳以外のものにあるといふ事の證しである。西部の砂を噛むやうな醜い駄本についてはいづれ觸れるとして、ここで或る戰爭未亡人の美しい文章を紹介しておかう。彼女の夫はたつた二年間の新婚生活を送つて後、出征して戰死するのだが、若き未亡人は夫の遺影を前にして夫への「片だより」を綴るのを日課にしてゐる。次に引くのは「婦人公論」昭和二十五年二月號に掲載された文章の一部である。
河田さんのことを今日は思ひ切つてお知らせ致します。お怒りにならないできいてちやうだい。その方は(中略)理科の先生で、家が同じ方なので時々一緒の電車になり色々お話をいたします。(中略)先日長年御病氣だつた奥樣が亡くなられ、お氣の毒な方です。その河田さんが、この間雨に濡れて居た私を驛から家まで送つて下さいました。私はこの夜、今まで久しく味はつたことのない不思議な愉しい氣分になつた、家がもつと遠いといいのになんて思ひました。家の前から引き返された後、私は別れたくないやうな、なんだか苦しいやうないらいらした氣持でした。(中略)本當にはしたない女だとお怒りになるでせうが、時に誰かに甘えてみたいといふ氣持になるのをどうすることも出來ません。(中略)私は「貞婦二夫にまみえず」、なんていふことを、金科玉條のやうに死守しようといふほど意志が強くもなささうだし、あなたが靖國神社で‘神樣になつてみていらつしやる’とも思つてゐません。私の人生は、たつたあの二年間で終はつてしまつたなんて餘りに殘酷です、(中略)こんな厚かましいことをぬけぬけと書くところがもうどうかしてゐるのかしら。でも………本當に女獨りでゐるとこんな氣持になるときもありますのよ。
雲を衝くやうな大鳥居の「こんな立派なお社に神と祀らる勿體なさ」、そんなものを彼女は全く信じてゐない。靖國神社に夫の神靈が祀られ、それが彼女を「見ていらつしやる」などとは、露、思つてゐない。彼女が信じてゐるのは我が家の机の上に載せた夫の遺影である。それに向つて決して返事を期待出來ない手紙を毎日書く。夫の魂が遺影や位牌に宿つてゐる事は信じてゐる譯である。「貞婦二夫にまみえず」といふ事も彼女は信じてゐる。信じてはゐるが「河田さん」に言ひ寄られたらそれを斷然はねつけるだけの自信が無い。自信は無いが、多分、彼女ははねつける。夫の靈と封建道徳とが彼女の外側にあつて彼女を縛つてゐる。然し、時たま、その束縛を脱したくなる。「時に誰かに甘えてみたいといふ氣持になるのをどうすることも出來」ない。が、その「どうする事も出來ない」氣持を抑へ、彼女は「片だより」を綴る。道徳的に何ともはや見事である。時に迷ふから見事なのである。迷つて道を踏み外さないから見事なのである。 
父母の靈が、祖靈が見てゐる
さういふ次第で我々は自己以外の何かに從はねばならず、人に從ふよりも神に從ふはうが遙かによい。「人の上の人」の權威は搖らぐ場合がある。菊が榮えて葵が枯れたら、將軍家の威令は行はれぬやうになる。而も「人の上の人」も人だから、時に弱みを見せ醜態を晒す事もあるが、神は決して弱みを見せず醜態も晒さない。無論、我々の神は絶對者ではないが、先祖の靈は何せ死んでゐるのだからその權威が失墜する恐れは無い。但し、泰西の神と異なり、我々の祖靈は道徳的な命令を下さないから、我々は神に從ふのではなくて神を敬ひ神の目を憚る。祖先や亡父亡母の靈が我々を見守つてゐる。誰も見てゐなくても祖靈が見てゐる。さう信じたら、信じないよりも道徳的に立派に振舞へる。では、死者はどこで生者を見守つてゐるか。柳田は「魂のゆくへ」と題する短文にかう書いてゐる。
日本を圍繞したさまざまの民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い處へ、旅立つてしまふといふ思想が、精粗幾通りもの形をもつて、おほよそは行きわたつてゐる。ひとりかういふ中においてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ國土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁榮と勤勉とを顧念してゐるものと考へ出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである、それが誤つたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人がきめてよい。
これもまた中途半端で弱々しい文章である。傳統とは「あらゆる階級のうち最も日の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票權を與へる」事だとG・K・チェスタトンは云つたが、先祖傳來の「思想」が誤つてゐるかどうかを「これからの人」が決めるといふ事は先祖に投票權を與へぬ事である。土臺、祖靈が山頂から子孫の生業を見守るといふ「思想」の正誤を論ふなどとは全くのナンセンスだが、そのナンセンスもさる事ながら、柳田のやうにへつぴり腰で「先祖の話」をし、「限りもなくなつかしい」とて懐舊の念に浸るだけでは「これからの人」は洟も引掛けまい。柳田に限つた事ではないが、我が國の「古き人」は常に「これからの人」の鼻息を窺ふ。それは詰り「保守」が「革新」に對して弱腰の態度しか採れないといふ事で、それならこの國に保守が存在し得る道理が無い。先祖の流儀に自信の持てない保守などといふ化物が存在する筈は無い。戰後この國に存在したのも保守ではなくて「親米」であり、「革新」とは「親ソ親中」であつた。そして米ソの冷戰終結後は反米の保守が幅を利かせるやうになつた、さういふ事に過ぎない。 
古道具屋に四百圓で御眞影
先祖の流儀すなはち傳統に自信を持てない保守とは甚だしい形容矛楯なのだが、さういふ異常な事態は戰後に始まつた譯ではない。明治初期、西洋の猿眞似を始めた頃も、「古き人」は常に「新しき人」に引け目を感じたのである。「西歐世界と日本」にG・B・サンソムは書いてゐる。
民衆美術が外國の影響によつて、このやうに變貌しつつあつた一方で、古典的日本畫の諸流派は(中略)昔の傳統的なものに對する反動まで生じてくるにつれて、世間一般からないがしろにされ、さらに輕蔑さへ受けるといふ苦しい立場になつた。古典的日本畫の二人の名匠、狩野芳崖と橋本雅邦にしても、維新後十年の頃はほとんど飢ゑ死にせんばかりの有樣だつた。彼らの作品は街角で責りひさがれ、ほんの二、三錢の値で買ふことができたのである。佛教寺院の實物の品々も捨て去られたり、二束三文で賣り拂はれたりした。貴重な木彫作品が薪代りに使はれた。(中略)當時の政治傾向が反佛教運動を助長したといふ理由もあつたが、しかし大部分は當時の氣運が偶像破壞的だつたといふ理由から、古いものはすなはち惡いものと考へられたからだつた。
所謂廢佛毀釋の輕佻浮薄についてここでは詳述しないが、いづれにせよ佛教は「古いから惡い」と見倣された譯であつて、「貴重な木彫作品が薪代りに使はれた」といふ事は、先祖代々の流儀が弊履の如く捨てられたといふ事に他ならない。數年前、私は鷺宮の古道具屋の店頭に四百圓の正札をぶら下げた御眞影を見出して仰天した事がある。戰時中、失火の際、御眞影を持出さなかつた校長が自殺するといふ事件があつたが、さういふ「古い人」の行爲は今となつては愚かしくて「惡い」のである。だが、ここで讀者によくよく考へて貰ひたい。諸君もまた思ひ出したくない「惡い」行爲や愚かしい行爲を、これまでに何度もやつてゐる。では、諸君はその記憶を抹消し得るのか。二度と繰返したくないと思ひ、繰返さないのは結構な事だが、愚行の記憶を抹殺する譯にはゆかないし、さういふ「古き己れ」に含まれる瑕疵ゆゑに己れの存在價値を否定する者は一人もゐはしない。而も「新しい己れ」などといふものは瞬間的にしか存在しない。瞬間的に存在して、直ちに「古き己れ」に組み込まれて仕舞ふ。己れとは詰り「古き己れ」なのであり、古き己れが古いから駄目だといふ事は己れの總てが駄目だといふ事なのである。(續く) 
第十三囘 「國民の道徳」といふ駄本(一) 

 

四百圓國の五十圓の駄文
だが、我々の過去が即ち我々自身なのに、我々は過去を迷妄と野卑と無知の蓄積と看做し、御眞影が四百圓なら我々の過去も四百圓で、過去が四百圓なら現在も四百圓だとはさつぱり考へる事が無い。それゆゑここで一つ、四百圓の、いやいや五十圓の文章を引く事にする。西部の駄本の一節である。
「自由とは何だ、言葉だ、言葉とは何だ、空氣の振動だ」、これはシェークスピアの「ヘンリー四世」に出てくる人物、フォルスタッフの科白である。つまり、自由にも、言葉にも、それ自體としては意味がないとフォルスタッフはいひたかつたわけだ。まつたくその通りで、自由も言葉も、道徳による規制がなければ、(聲帯を含めての)身體の律動であり空氣の振動であるにすぎない。
「繪畫の本質は額縁にあり」とチェスタトンはいつたが、それは道徳なき自由の無意味さを指摘するための比喩であつた。これはシェークスピアの文句よりも優れてゐて、規制がなければ自由なんぞは、そもそも無意味どころか、不可能だといつてゐるのである。(「國民の道徳」)
この五十圓の駄文には中學生の作文にも滅多に見出せぬ類の嗤ふべき過ちが含まれてゐる。「繪畫の本質は額縁にあり」とはチェスタトンの言葉だが、「自由とは何だ、言葉だ」云々のはうはフォルスタッフの科白であつて作者シェイクスピアの「文句」ではない。作中人物がそのまま作者なのではない。早い話が、私が芝居を書いて作中人物に「それあ、自由の無意味さを指摘するための比喩なんだ」なる科白を喋らせる事はあり得る。だが、その場合、私はその人物を「五十圓學者」に仕立ててゐる。全うな學者なら「無意味」といふ漢語に「さ」なんぞは附けないからである。だが、その「五十圓學者」の科白を捉へて、「かなしさ」とか「うれしさ」とか「樂しさ」とか、「さ」を附けるのは和語に限られる、「そんな事も松原は知らないのか馬鹿野郎」と誰かが云つたとしたら、そいつこそ大馬鹿野郎である。西部の頭腦の粗雜についてはこれだけで充分かと思ふ。チェスタトンもフォルスタッフも太鼓腹のでぶではあるが、兩者の科白の優劣を論ふのは全く「無意味」であり、「筋違ひ」であり、中學生にも理解し得る無意味に氣づかぬ五十圓學者が道徳を論つて怪しまれぬ國が「四百圓國」でない道理は無い。
情けない事だが我々の國は四百圓國で、このほどロシアの大統領に我が首相が飜弄されたのも、四百圓國なのだからどうにも致し方が無い。それより先、アメリカの潜水艦が「えひめ丸」を沈めた際も、首相がゴルフを止め官邸に戻らなかつたとて、私の限り「産經抄」を除く全ての新聞テレビ評論家が指彈したが、これも四百圓國特有の愚かしい現象であつて、あれは單なる事故に過ぎない。海上自衞隊の潜水艦が外國の船を沈めたとなつたら、海幕長は直ちにゴルフを止めなければならないが。總理大臣までがそれに附合ふ必要は無い。土臺、官邸に駈け戻つて、軍事の素人たる森に何が出來るのか。ブッシュが遺憾の意を表明したではないかと讀者は云ふかも知れないが、あれは遺憾の意を表明する事が國益に叶ふからさうしたに過ぎない。私は森喜朗を庇つてゐるのではない。森が咎めらるべきは、この國は何せ四百圓國だから、ここでゴルフを止めておかないと四百圓國の床屋八百屋政治屋新聞屋に袋叩きにされるといふ事、それが豫測出來なかつたといふ事だけである。頭腦の仕組が西部のそれと同樣粗雜だつた譯だが、それを森個人の缺陥として指彈する譯には行かない。森を首相に選んだのはとどの詰り我々國民だからである。 
「利口の過剰」安ずる愚者
とまれ我々の國はさつぱり道理の通らぬ四百圓國で、それを認める事以外に我々にとつての喫緊の大事は無い。前囘私は御先祖樣の流儀を尊重する事の大事を説いたが、實を云へば、御先祖樣とて一萬圓國五千圓國に生きてゐた譯ではない。物の道理の輕視といふ事は古事記日本書紀の時代に既に存在する弊風であり、それは頗る厄介な問題だからいづれ詳述する事にして今は措くが、道理輕視の愚鈍にも程度の差は無論あつて、江戸明治の昔はもとより敗戰直後だつて四百圓といふ事はなかつた。太宰治や坂口安吾の文章と西部や大江健三郎のそれとを讀み較べれば思ひ半ばに過ぎるであらう。大江は左で西部は右だが、馬鹿に保革の別は無いし、左右の馬鹿が好んで讀むから杜撰な頭腦の持主でも食つて行けるのである。いやいや食つて行けるどころか、ノーベル賞や正論大賞を受賞する。それは詰り、我々の國が、漱石の科白を借りれば、富士山以外に「自慢するものは何もない」國だといふ事で、情けないが、それを我々は認めなければならない。「國民の道徳」に西部はかう書いてゐる。
たとへば、利口といふのは一つの徳と考へられる。しかし、その利口といふ單一の徳だけを追求すると、かならず利口の過剰になつて、狡猾といふ不徳に轉落していく。それは實際にもみられる現象であつて、利口さだけを追求する人間はおほむね狡猾な詐欺師めいた人間にならざるをえない。利口に對抗する價値として、誠實がある。しかし、誠實だけを過剰に追求すると、まづ間違ひなく愚鈍になり、面白くも可笑しくもない人間が出來上がる。つまり、利口さと誠實さといふ互ひに葛藤する二つの徳のあひだでいかに平衡をとるか、それが人間の生き方における價値となるわけである。
人は須く利口であるべきで西部のやうに馬鹿であつてはならないが、皰面の若者ならばともかく、利口が馬鹿になる事は無く馬鹿が利口になる事も無いから、西部が利口になる日は決してやつて來ない。これを要するに、右の文章では愚者が「利口の過剰」を案じてゐる譯で、これはもう臍が茶を沸す程の滑稽である。利口の過剰は斷じて狡猾ではない。愚者は愚者なりに狡猾だし、ニーチェ流に云へば、瞞された馬鹿が利口を恨んで「狡猾」と呼ぶに過ぎない。さらにまた、誠實の過剰が「愚鈍」だとすれば、西部は論壇切つての誠實な男だといふ事になる。笑止千萬である。 
道徳的な安吾の文章
さういふ小利口な馬鹿の滑稽で雜駁で醜い文章を前囘引いた戰爭未亡人の美しい文章、或いは次に引く坂口安吾の文章と讀み較べてみるがよい。後者にあつて前者に無いものが、利口と誠實といふ「葛藤する二つの徳のあひだ」に保たれる「平衡」なんぞではなく、徳と不徳との葛藤ゆゑに歌はれる「歌」である事が解るであらう。敗戰直後、安吾はかう書いた。少々雜駁で解り難い件りもあるが、「誠實」ならざる西部には逆立しても書けない文章、詰りは道徳的な文章である。
要するに天皇制といふものも武士道と同種のもので、女心は變り易いから、「節婦は二夫に見えず」といふ、禁止自體は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の眞理に於て人間的であることと同樣に、天皇制自體は眞理ではなく、又自然ではないが、そこに至る歴史的な發見や洞察に於て輕々しく否定しがたい深刻な意味を含んでをり、ただ表面的な眞理や自然法則だけでは割り切れない。(中略)私は血を見ることが非常に嫌ひで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしてゐた。けれども、私は偉大な破壞が好きであつた。私は爆彈や燒夷彈に戰きながら、狂暴な破壞に劇しく亢奮してゐたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでゐた時はないやうな思ひがする。(中略)私は偉大な破壞を愛してゐた。運命に從順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町のあらゆる大邸宅が嘘のやうに消え失せて餘燼をたててをり、上品な父と娘がたつた一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に坐つてゐる。片隅に餘燼をあげる茫々たる廢墟がなければ、平和なピクニックと全く變るところがない。ここも消え失せて茫々たる餘燼をたててゐる道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思はれる死體が倒れてをり、一枚のトタンがかぶせてある。かたはらに銃劍の兵隊が立つてゐた。(中略)米人達は終戰直後の日本人は虚脱し放心してゐると言つたが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違つた驚くべき充滿と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であつた。笑つてゐるのは常に十五六、十六七の娘達であつた。彼女達の笑顔は爽やかだつた。(中略)あの偉大な破壞の下では、運命はあつたが、墮落はなかつた。(中略)私は考へる必要がなかつた。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかつたからだ。實際、泥棒すらもゐなかつた。(中略)戰爭中の日本は嘘のやうな理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれてゐた。それは人間の眞實の美しさではない。そしてもし我々が考へることを忘れるなら、これほど氣樂なそして壮觀な見世物はないだらう。たとへ爆彈の絶えざる恐怖があるにしても、考へることがない限り、人は常に氣樂であり、ただ惚れ惚れと見とれてをれば良かつたのだ。私は一人の馬鹿であつた。(中略)戰爭がどんなすさまじい破壞と運命をもつて向ふにしても人間自體をどう爲しうるものでもない。戰爭は終つた。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によつて胸をふくらませてゐるではないか。人間は變りはしない。
安吾は爆彈燒夷彈の「狂暴な破壞力」に亢奮し、「運命に柔順」な罹災者達を美しいと思ふ。美しいと思ふだけで何も考へずに、毎日、惚けたやうになつて「壮觀な見世物」を眺め暮してゐる。が、それは斷じて道徳的な美しさではない。そこに悖徳が缺けてゐるからである。燒跡には「實際、泥棒すらもゐなかつた」。さういふ清潔な場所では人間は墮落の仕樣が無い。やがて戰爭が終る。特攻隊員は復員して闇屋になる。天皇は人間になる。「人間は墮落する。義士も聖女も墮落する」。それで結構、人間は墮落すべきである。處女の純潔を保ちたいのなら處女を「刺殺」するしかない。
人間は墮落する。義士も聖女も墮落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによつて人を救ふことはできない。人間は生き、人間は墮ちる。そのこと以外の中に人間を救ふ便利な近道はない。(中略)人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、墮ちぬくためには弱すぎる。人間は結局處女を刺殺せずにはゐられず、天皇を擔ぎださずにゐられなくなるであらう。だが、他人の處女でなしに、自分自身の處女を刺殺し、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく墮ちる道を墮ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦墮ちきることが必要であらう。墮ちる道を墮ちきることによつて、自分自身を發見し、救はなければならない。政治による救ひなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(「墮落論」)
墮ちろ墮ちろと安吾は頻りに主張するが、處女の純潔が善ではなし、特攻が闇屋になる事も惡ではなし、安吾の言分は宣長の云ふ「善惡綯ひ交ぜ」の日本國に於ける虚しい論議なのだが、よしんば勘違ひにもせよ、ここで安吾は己れが本當に信じてゐる事だけを包まず語つてをり、己れを上品に或いは立派に見せようなどといふ魂膽は全く持合せてゐない。成程、「義士も聖女も墮落する」に決つてゐるが、處女の純潔や義士の高潔を安吾は輕蔑してゐる譯ではない。「善惡綯ひ交ぜ」國の文士坂口安吾は、眞の道徳的葛藤が存在し樣の無い風土で惡戰し苦鬪してゐる。安吾の文章が雜駁ではあつても道徳的たるゆゑんである。 
讀者への宿題
さて、今同は讀者に宿題を出して終る事にする。次に引く西部邁の駄文は道徳的に頗る不潔で、論理的な矛楯に充ちてゐる。これほど不潔かつ杜撰な文章は、いかに四百圓國家でも、滅多やたらに見出せるものではない。次囘に散々扱き下ろすが事にするが、讀者は一箇月間、矯めつ眇めつ西部の駄文を眺め、駄文の不潔たるゆゑんを考へて貰ひたい。
いはゆる世論において流通してゐる生活上の價値觀が道徳といふものであるなら、私は物心ついてからこの方、不道徳漢として生きてきたし、これからもそのやうに生き、そして不道徳漢のままに死ぬのであらう。
のつけから自分のことで恐縮であるが、小學生の頃、私はおほむね孤獨を好むやうにして生きてゐた。いや、他者との接觸が否應もなく喧嘩沙汰に至るので、孤獨に傾かざるをえなかつたのである。中學生の頃は、遠方からの汽車通學のためにさらに獨りになることが多く、一時とはいへ萬引に耽るといふやうな形で、少々不良化してゐた。高校生の段階では、妹を交通事故に遭はせるといふ失策をやつたこともあつて自閉的でありつづけてゐた。
その自閉症の氣味を打ち破りたいといふ衝動に驅られてのことであらう。大學生になると、政治運動に參加し、二度逮捕され、三つの裁判で被告人をやつてゐた。被告人になると同時に政治運動はやめ、また獨りになつた。家族や友人との附き合ひなしに、物質的に最低の暮らしをしながら刑務所に入るのをただ待つてゐるといふのも、「小人、閑居して不善を爲す」の一種であつたとしかいひやうがない。
妙な具合で刑務所にいかずに濟むことになり、そして學者の職業に就くことになつた。だが、自分のやつてゐた學問分野がとてもつまらないものだと思はれはじめ、そこからの脱出口がみつからぬといふ苛立ちのせゐもあつて、麻藥や賭け事を少々體驗しながら、憂鬱な時間を過ごしてゐた。(中略)脱出口の見當が何とかついたあと、留學と稱する精神の休眠状態に入り、國に戻つてきて、日本における「戰後的なるもの」が高度大衆社會の徒花となつて咲き誇つてゐることに精神的な嘔吐を催しはじめたときに、私はもう四十歳代になつてゐた。その代が終はりに近づく頃、譯あつて所屬大學と喧嘩しなければならなくなり、それから十二年間、主として評論家といふ世間からは蛇蝎のやうに嫌はれる、また嫌はれて當然の、職種のあたりをうろうろして今に至つてゐる。(續く) 
第十四囘 「國民の道徳」といふ駄本(二) 

 

「瘠我慢」の欠如
知的怠惰は即ち道義的怠惰だと私はこれまで屡々書いた事がある。西部の駄文を讀むとそれを改めて痛感する。例へば西部は、高校生の頃「妹を交通事故に遭はせるといふ失策をやつた」といふふうに書く。具體的な事を何も書いてゐないから、どの程度の交通事故だつたのかは解らないが、假に輕度の鞭打症で何の後遺症も遺らなかつたとすれば、西部は己れの「孤獨」を正當化すべく妹を利用した事になる。そんな辛い「失策」をやらかしたのなら「自閉的であり續け」たのは是非も無いと、お人好しの愚かな讀者が思つてくれる。一方、重い後遺症に今もなほ妹が苦しんでゐるとすれば、西部の言ひ種は道義的に許し難い。それ程の「失策」はもはや失策ではない。後遺症に苦しむ妹を見る度に、兄の胸は痛む筈で、その場合「失策」などといふ輕い言葉は斷じて使へないし、平氣で使ふ奴は人非人である。無論、過失致傷罪は故意犯ではなくて親告罪だが、妹が訴へなくても兄の心には深い傷跡が遺つて、「失策」を文章に綴らうなどといふ氣には金輪際なれない。獨りきりで己が心の傷跡を見詰めるといふ事、それは頗る道徳的な行爲なのである。凡そこの世に心の傷跡を持たぬ大人なんぞ一人もゐない。が、情けない事に我々は、イエスの科白を借りれば「兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認め」ようとしない。政治主義に淫すれば淫する程「おのが目にある梁木」を認めなくなる。心の傷跡を見詰めなくなる。それゆゑ詐欺師も大和魂を云ふ。政治主義こそは道徳の敵なのである。嘗て福澤諭吉は痩我慢の大事を説き、榎本武楊を批判してかう書いた。
氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、又遂に大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しと雖も、顧みて往時を囘想するときは情に堪へざるものなきを得ず。當時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戰を戰ひ、北風競はずして遂に降參したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領として之を恃み、氏の爲めに苦戰し氏の爲めに戰死したるに、首領にして降參とあれば、假令ひ同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、其落膽失望は云ふまでもなく、況して既に戰死したる者に於てをや。死者若し靈あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。(中略)氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりと雖も、時に顧みて箱館の舊を思ひ、當時隨行部下の諸士が戰歿し負傷したる慘状より、爾來家に殘りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて道傍に彷徨するの事實を想像し聞見するときは、男子の鐵腸も之が爲めに寸斷せざるを得ず。夜兩秋寒うして眠就(なら)ず殘燈明滅獨り思ふの時には、或は死靈生靈無數の暗鬼を出現して眼中に分明なることもある可し。(「瘠我慢の説」)
嘗て榎本が五稜郭に立て籠つて明治新政府軍と戰つた折、多くの部下が戰死したが、首領の榎本が生き延びたのはよいとして、その後「轉向」して新政府に仕へ大臣にまでなつたのでは、地下の靈は到底浮ばれまい。だが、武楊よ、夜雨夜寒の晩秋、行燈の燈りの明滅する時刻、眠れずにただ一人思ひに耽る時、入れ替り立替り死んだ部下の顔が暗中に現れる、さういふ事もある筈ではないか。福澤にさう云はれて榎本は「昨今別而多忙に附いづれ其中愚見可申述候」との返書を出し、その後も「愚見」は申し述べずに畢つたが、同じく「瘠我慢」の缺如を批判された勝海舟は「行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與らず我に關せずと存候」との返書を出した。榎本の返書のはうが眞摯であつて、それは多分、部下を殺さなかつた勝とは異り、榎本の胸は屡々痛む事があつたからだと思ふ。
自分を信じて戰つて死んだ部下を思ひ出して斷腸の思ひがするのは至極當然の事であり、同樣に、過失ゆゑに妹を不幸にしたとなれば、時に激しくそれを悔んで胸が締附けられるやうになる筈で、その場合、「交通事故に遭はせるといふ失策をやつた」などとは口が裂けたつて云ひはしまい。それゆゑ、西部の妹は重い後遺症を患つてゐる譯ではない。やくざな兄貴は「物心ついて」以來の己が自閉症的不道徳に迂闊な讀者の同情を集めるべく妹を利用したに過ぎない。 
「歿道徳漢」
だが、何の爲に己が自閉症やら不道徳やらを論はねばならないのか。どうやら西部は、己が不道徳を「告白」しなければ道徳は論へないと思ひ込んでゐるらしいが、程度の差こそあれ人はみな不道徳なのである。不道徳だからこそ不道徳を悔い、不道徳を恥ぢ、時に「男子の鐵腸も之が爲めに寸斷」する辛さ切なさを味はふ。だが、さういふ體驗が西部には全く無いらしい。「國民の道徳」なる駄本にも筆者の道徳的葛藤を窺はせるやうな件りは皆無だが、それは詰り、西部が「不道徳漢」ではなくて「歿道徳漢」だといふ事であり、歿道徳的だからこそ己が「不道徳」を平然と「告白」し、而も「不道徳漢として生きてきたし、これからもそのやうに生き、そして不道徳漢のままに死ぬのであらう」などとて居直れるのであり、詰りは己が「不道徳」を少しも疚しく思つてゐないのである。
その癖、讀者の顰蹙を買つて駄本が賣れないのは困るから、「世論において流通してゐる生活上の價値觀」とやらにも色目を遣つて、己れの「不道徳」には必ず「少々」とか「一時とはいへ」とかいふ限定の副詞を附け、けれども何せ頭が惡いものだから、「萬引に耽るといふやうな形で少々不良化」したなどと書いてその迂闊に氣づかない。「萬引に耽る」のがなぜ「少々」の「不良化」か。耽るとは歿頭する事だから、「一時」はよいが「少々」なる修飾語は附けられない。「少々女色に耽る」となどといふ藝當はどんな男にもやれはしない。「よろづにいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(さかづき)の當(そこ)なきここちぞすべき」と兼好法師も云つてゐるから、法師に同意して色好みの事はさて措くが、萬引に「耽る」のは斷じて「少々」の「不良化」ではない。「一時とはいへ」萬引に耽る奴は「善惡綯ひ交ぜ國」においても歴とした不良である。「自分のことで恐縮であるが」、小學生の頃、私は柿泥棒を「一時とはいへ」隨分やつた。地主の庭に柿の大木があつて、それに私が攀ぢ登り、柿をもぎ、笊を持ち下で待受ける弟に向つて落すのである。だが、花泥棒が泥棒でないやうに柿泥棒も泥棒ではない。詰り萬引ではない。假に私が柿でなく文房具とか書物とかの萬引に耽つたとすれば、さういふ紛れもない「不良化」を私は斷じて「告白」しないであらう。
然るに西部は「告白」する。萬引といふ行爲がいかに卑劣か、それを痛感してゐないからで、それが何とも破廉恥なのである。恥づべき行爲を告白するのは誠實な事だと西部は思つてゐる。だが、萬引に限らず、人は告白しても大丈夫な事しか告白しないし、或いは「一時とはいへ」といつた具合に、告白しても大丈夫なやうに細工を施した事しか告白しない。それは詰り、なべての告白がおよそ誠實ではないといふ事である。T・S・エリオットが云つたやうに、「己れの事をよく思ひたいといふ慾望ほど根絶し難いものは無い」のであり、誠實な告白は、アウグスティヌスのそれの如く、罪を許す神への感謝と讃美とに支へられてゐなければならない。
固より、さういふ重寶な神を我々は有しない。それゆゑ我々は輕々に告白をしてはならないし、告白する時の己れが痛切に悔いてはゐないといふ儼然たる事實を忘れてはならない。「小人の過ちは必ず文(かざ)る」が、告白する時も、人は必ず己れを誠實に見せ掛けようとする。それは紛れもない「不道徳」である。誠實に見せ掛けようとするのは、他者を欺かうとする事、或いは欺けると思ふ事だからである。だが、已れを文る必要も、他者を欺く必要も無い時、即ち「夜雨秋寒うして眠就ず殘燈明滅獨り思ふの時」、我々は己が卑劣を痛切に悔いる。この「痛切」といふ事無くして道徳は成立たない。 
己れの過去を捩ぢ曲げる
陸上自衞隊第九師團長だつた増岡鼎は自衞隊を軍隊にせねばならぬと「痛切」に思つてゐた。青森のホテルの一室で私にそれを熱心に説いた時、私は彼の眞摯に打たれたが、その後、東部方面總監になつてもその眞摯は變らず、「月曜評論」で私と對談をやつて、それを咎められ、時の防衞廳長官加藤紘一に首を切られた。首切りが確定した晩、私は増岡と會食したが、制服のボタンを外したまま憂國の情を吐露する彼は、まるで叛亂「將校」さながらであつた。もはや時效だから書くが、それより先、第九師團の演習を見に行く事になつた時、「どうせ來るなら檢閲中に來い」と彼は云つた。聯隊の演習を師團長が檢閲する期間中に來いといふ意味だが、檢閲中の演習は部外者に見せてはならない事になつてゐる。その本來見せて貰へないものを見せて貰つて、見た事の殆ど全てを私は「自衞隊よ胸を張れ」に書き、ゲラの段階で陸幕長と空幕長に讀んで貰つた。時の陸幕長は中村守雄だつたが、中村は「かういふ事を書いて貰つては困る」とは云はなかつた。三十分の面會時間が一時間にもなつたから、懇談を終へて幕僚長室を出たら、廊下に書類の決裁を求める制服が澤山待つてゐた。
さらにかういふ事もあつた。朝日新聞の田岡俊次が「對談相手の教授にも問題がある。松原はあちこちの自衞隊でクーデターを唆してゐるらしい」と書いた時、時の腰拔け事務次官は陸海空の幕僚副長を呼び附け、松原の講演があるなら取り消せと命じた。陸の副長がその旨報告すると中村が云つた、「じたばたするな。それしきの事で軍人が約束を破る事は出來ない」。副長が云つた、「然し空はキャンセルするやうでありますが」。中村は答へた、「空は空、陸はやれ」。
自衞隊に優秀な武器をふんだんに與へ、防衞廳を防衞省に昇格させ、憲法第九條を改正しようと、一朝有事の折、軍人が一丁やつたるかと思はないのならすべては無駄で、一丁やるかとは、無論、道徳的決意だが、さういふ決意はクーデターと聞いただけで腰を拔かし、高が事務次官の理不盡にも逆へぬやうな脇拔け軍人には到底期待出來ない。暖衣飽食の日本國だから、自衞隊にも脇拔けがゐて、存外それが出世する事に格別の不思議は無いが、自衞隊には豪の者も澤山ゐて、彼等は例外無しに正直である。「果敢にして窒(ふさ)がる者を惡む」と孔子は云つたが、私の知る限り、自衞隊にゐる豪の者は「窒がる者」ではない。中村も増岡も知將であつて、敵を欺くだけの知惠ならたつぷり持合せてゐた。だが、國防といふ喫緊の大事については少年のやうに率直で正直であつた。
西部にはさういふ正直ゆゑの「痛切」がまるきり缺けてゐる。増岡と異り「痛切」に憂へる物が何も無いからである。己れの外部に無いだけではなく己れの内部にも無い。誰しも己が過去を振返れば、未熟やら卑怯やら怠惰やらをふんだんに見出して人知れず赤面する事がある筈だが、さういふ事が西部には全く無いらしい。西部に有るのは自己正當化のための見え透いた策略であり、己が過去を他所事のやうに語るのも策略の一つである。讀者の便宜のため不潔な駄文の一部を再度引く。
いはゆる世論において流通してゐる生活上の價値觀が道徳といふものであるなら、私は物心ついてからこの方、不道徳漢として生きてきたし、これからもそのやうに生き、そして不道徳漢のままに死ぬのであらう。
その自閉症の氣味を打ち破りたいといふ衝動に驅られてのことであらう。大學生になると、政治運動に參加し、二度逮捕され、三つの裁判で被告人をやつてゐた。
知的怠惰は道義的怠惰だから、西部邁は「不道徳漢」であり、やがて「不道徳漢のままに死ぬのであらう」と、さう私が書く事は一向に構はない。西部の事は私にとつて他所事だからである。「人の惡を稱する者を惡(にく)む」と孔子は云つたが、小人の私は死ぬるまで他者の愚と不道徳とを誹り續けるであらうと私が書く事、それも一向に構はない。だが、「人斬り以藏のままに死ぬのであらう」とは私は斷じて書かない。「死ぬであらう」とは單なる推量だが、「死ぬのであらう」と書いたら、それは途端に他所事になる。私の死は私にとつて他所事ではない。「の」があるのは誤植のせゐではない。「自閉症の氣味を打ち破りたいといふ衝動に驅られてのことであらう」といふ一節にも同質の淺はかを見出せるからである。だが、凡そこの世に自閉症を癒すべく「政治運動に參加」する者はゐない。西部は己れの過去を捩ぢ曲げてゐるのである。(續く) 
第十五囘 「國民の道徳」といふ駄本(三) 

 

なぜ「轉向」について語らぬ
若き西部が全學連の鬪士だつた事はよく知られてゐるが、自閉症を治療すべく活動家になつたとなると、全學連が「北風競はずして遂に降參したるは是非なき次第なれども」、西部を「首領として之を恃み」、西部を信じて戰つた昔の「部下」は、必ずや「大不平を鳴らすことならん」と、さう皮肉りたくなる讀者もゐようが、何、嘗ての西部の同志も日本人なのだから、腹を立てたり「不平を鳴ら」したりする奴はゐない。だが、道徳を論ふ段になつて、西部は己れの過去をねぢ曲げ、その結果、幸運だが退屈な「癡呆の半生」とでも評せざるを得ない過去をでつちあげる事となつた。「三つの裁判で被告人をやつて」ゐたのに刑務所に行かずに、いやいや「いかずに」濟み、「學問分野がとてもつまらない」からとて麻藥や賭け事を「少々」體驗し、その後留學し、揚げ句の果に、評論家といふ世間から不當に敬せられる「職業のあたりをうろうろ」する、これは許し難い程の好運な半生だが、同時に、萬引とか麻藥とかいふ穏やかならざる語句が鏤められてゐるものの、何ともはや平板な人生で、さまでの好運と凡庸の結合は人間の想像を絶してゐる。想像を絶する程の好運と凡庸の告白、それは詰り出來の惡い法螺話に他ならない。
己れの半生を語るとなつたら決して囘避出來ない事ども、それを西部は囘避してゐる。萬引や麻藥の事なんぞ凡そ語るに値しないが、西部が學者ならどうしても避けて通れぬ問題が一つだけある。萬引や麻藥の事まで包まず語る程の「勇氣」があるのなら、なぜ西部は己が「轉向」について正直に語らないのか。若き西部は全學連の鬪士であつた。詰り「左翼」であつた。然るに今、西部は「右」であり「保守派」である。己が半生を語るとなつたら、左から右への「轉向」の理由と經緯を正直に語らねばならない。語れないのなら語らなくてもよいが、その場合は語れない事を、語る勇氣が無い事を秘かに恥ぢねばならぬ。轉向して出所した共産黨員中野重治は轉向を恥ぢた。激しく恥ぢた。渡邊順三はかう證言してゐる。
たしか昭和十年だつたと思ふが、中野が出獄したといふことをきいて、徳永と私が見舞ひにいつた。なんでも新宿御苑前の、劇場の横丁あたりの粗末なアパートだつたやうに記憶してゐる。徳永と私がその部屋にはいつてゆくと、中野は壁にくつつくやうに向うを向いて寢ころんでゐて、頭をかかへるやうにしてゐる。私たちが何かいつてもこちらを向かない。壁の方を向いたきりである。
中野にとつて轉向は友人知人に顔向けならぬ洵に洵に恥づべき所行であつた。出所後の中野は轉向を主題にして小説を書く事になる。屈辱感と少量の自己正當化とが綯ひ交ぜになつてゐて、決して一級の作品ではないが、「被告人をやつてゐた」などといふふざけた科白は、小説の中でも實生活でも中野は決して吐かなかつた。故郷の福井へ歸ると、そこには剛直な昔氣質の父親がゐて、こんなふうに手嚴しく中野を批判して、中野はそれを小説の中に描くのである。
轉向と聞いた時ににや、おつ母さんでも尻餅ついて仰天したんぢや。すべて遊びぢやがいして。遊戯ぢや。屁をひつたも同然ぢやないかいして。(中略)あるべきこつちやない。お前、考へてみてもさうぢやろがいして。人の先に立つてああのかうのいうて。機屋の五郎さんでも、我が子を殺いたんぢやけど勤め上げたがいして。お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ惡いんぢや。ブルジョアぢや何ぢやいうても、もつと修養のできた人間は仰山ある。床山ア見いま。政友會へ行つた。あれでも大臣にやなれるぢやろ。しかし少しもののわかつた人間なら、たとひ政治屋でもぢや、あれきり鼻汁もひつかけんがいして。(中略)大臣になつたとこで人間を捨てたんぢや。利口ではあるが、人間を捨ててどうなるいや。本だけ讀んだり書いたりしたつて、修養ができにや泡ぢやが。お前が捕まつたと聞いた時にや、お父つあんらは、死んでくるものとしていつさい處理してきた。小塚原で骨になつて歸るものと思て萬事やつてきたんぢや…
(中略)いつたいどうしるつもりか?(中略)つまりぢや、これから何をしるんか?(中略)お父つあんは、さういふ文筆なんぞは捨てべきぢやと思ふんぢや。お父つあんらア何も讀んでやゐんが、輪島なんかのこの頃書くもな、どれもこれも轉向の言ひわけぢやつてぢやないかいや。そんなもの書いて何しるんか。(中略)今まで書いたものを生かしたけれや筆を捨ててしまへ。それや何を書いたつて駄目なんぢや。(中略)それや病氣ア直さんならん。しかし百姓せえ。三十すぎて百姓習うた人アいくらもないこたない。(中略)さきもいうた通りぢや。借金は五千園ぢや。そつでも食ふだけや何とかして食へる。食へんところが何ぢやいして。食へねや乞食しれやいいがいして。(「村の家」)
中野は共産黨であり西部は「保守反動」だが、先に引いた「國民の道徳」の一節とこの中野の文章とはまさに月と鼈である。中野の云ふ通り「藝術に政治的價値なんてものはない」。文章の機能は知識の傳達だけではない。或る種の文章は人の心を動かすのであり、さういふ「藝術」としての文章にイデオロギーは一切係はらない。大江健三郎は日本語を讀めない手合からノーベル賞を貰つたが、大江が作家として不具なのは文章がなつてゐないからである。大江の作品を讀んで感激する手合は「反戰平和」なる安手のイデオロギーを共有してゐるからに過ぎない。大江は「左翼進歩派」で西部は「保守反動」である。だが、二人の文章は共になつてゐない。それぞれに「政治的價値」はあるのだらうが「藝術としての文章」ではない。大江や西部や西尾の駄文を讀んで、或は小林よしのりの下手糞な漫畫を眺めて、「我が意を得たり」と思ふ馬鹿はたんとゐようが感動する奴は一人もゐない。が、「食へんところが何ぢやいして。食へねや乞食しれやいいがいして」と云ひ放つ父親の剛直、及び、作中人物の口を籍りて「屁をひつたも同然」の己が信念と轉向の生ぬるさを裁く中野の誠實には、「赤旗」の讀者も「月曜評論」の讀者も共に打たれるに相違無い。「輪島なんかのこの頃書くもな、どれもこれも轉向の言ひわけ」だが、「そんなもの書いて何しるんか」、父親にさう云はせるのは、轉向の言譯だけはすまいと中野が決意してゐるからである。どう考へても轉向は卑怯であり、卑劣であり、その卑怯と卑劣とを、友人知人のはうを決して向かずに、只管、壁に向つて噛み締めなければならない。「本だけ讀んだり書いたりしたつて、修養ができにや泡」であり、壁に向つて己れの卑怯を噛み締める事、今はそれこそが修養だと中野は信じてゐる。 
己の過去を茶化す
成程、轉向する事より轉向の言譯をする事のはうが遙かに見苦しい。無論、西部も言譯はしない。その代り、「三つの裁判で被告人をやつてゐた」といつた具合に己れの過去を茶化す。言譯をする事よりそれは何層倍も卑しく淺はかである。轉向するのも轉向の言譯をするのも弱いからで、元來、人間はさう強いものではない。だが、己が過去を茶化すのは己れ自身を茶化す事であり、全學連の鬪士として被告人を「やつた」己れを茶化せるのなら、いづれ時勢が變れば「保守反動」であつた事をも茶化すに決つてゐる。さういふ浮薄な男が天下國家を論ひ「人の先に立つてああのかうの」云ふのは、小林よしのりにも描けぬ下手糞な漫畫である。安保騒動も全學連も大學紛爭も「屁をひつたも同然」の遊戯だつたが、若き西部が眉を吊上げ反體制運動に入れ揚げた事は事實であり、而も、若げの至りのその情熱が百パーセント愚であつた譯ではない。然るになぜ西部は、獨り秘かに己れの過去を慈しむ氣になれないか。ありの侭の己れを見詰めるといふ事が無いからである。ありの侭の己れは美點と缺點との雜然たる結合體だが、二つながらそれを慈しめるのは廣い世界に己れだけではないか。
先述したやうに己れとは己れの過去なのだから、ありの侭の己れを見詰めない西部が己れの過去をねぢ曲げるのは至極當然である。例へば西部は「人類普遍の原則とやらの精神奴隷になつてはならぬ、といふ命令が休みなく聞こえてゐるといふ意味では、アメリカの戰車に石礫を投げつけてゐた六歳の頃から、私はずつと神風特攻の子である」などと愚にも附かぬ事を書いてゐるが、さうして「六歳の頃」の兒戯は語つても、全學連時代の「兒戯」については口を拭つて知らぬ顔の半兵衞を決め込む。「神風特攻の子」とは反米といふ事だらうが、詐欺師も大和魂を持つてゐるのだから、反米か親米かといふ事は道徳とは何の係はりも無い。親米の詐欺師もゐるが、西部のやうな反米のぺてん師もゐる。「分る」とは「分つ」事である。さういふ簡單明瞭な事がなぜ分らないのか。政治と道徳とを「分つ」事の出來ない愚者が書いたから「國民の道徳」は駄本なのである。西部は書いてゐる。
この世が、少なくとも戰後の世の中が、「世論の支配」を受けざるをえないものだといふことについては、私も重々承知してはゐる。しかしかつて、私は、さういふ世論に唱和してゐる自分の姿を想像して、身震ひした。戰後の世論とそれを煽動してきた戰後知識人は一貫して私の敵であつた。私が反米主義者のレッテルを貼られるのを厭はないのも、アメリカニズムになびいていく「戰後」が厭はしいからにすぎない。(中略)私は、恥かしくも述懐してしまふと、子供つぽいほどに知識について素直なところがある。(中略)つまり、知識方面での表現活動において權力や地位や名譽を得たいといふ欲望が私にあつては極度に弱いのである。それで、他人の話したり書いたりしてゐることの本意をできるだけ好意的に受け止めようとする。それはどうやら御人好しの振る舞ひにあたるやうなのだが、それについて反省する氣がまつたく起こらない。
馬鹿と冗談と綺麗事は休み休み云つて貰ひたい。西部は既に還暦を過ぎてゐるのだから、「戰後の世論とそれを煽動してきた戰後知識人」が一貫して西部の敵だつた筈は無いが、それは兎も角、アメリカの戰車に石を投げた「六歳の頃」から親米の輿論と知識人を敵視してゐたとすれば、さういふ怪物染みた神童が「世論に唱和してゐる自分の姿」なんぞを「想像」する道理は無い。「想像して、身震ひ」云々は眞つ赤な嘘である。而も、「權力や地位や名譽を得たいといふ欲望」の極度に弱い男ならば「私の敵」なんぞを拵へる道理が無い。早い話が、これ程手嚴しく私に遣り込められても、西部は私の「本意をできるだけ好意的に受け止めようとする」か。もしもさうなら西部は白癡か、ドストエフスキーの描いたムイシュキンさながらの善人だが、白癡やムイシュキンが戰車なんぞに石を投げる道理が無い。「できるだけ好意的」云々もまた眞つ赤な嘘であり綺麗事なのである。 
政治と道徳の混同
嘘と自慢と綺麗事と支離滅裂、それが「國民の道徳」なる駄本の特色だが、さういふ愚劣で不潔な駄本が、自費出版ならば兎も角、一應名の通つた出版社から出るのは、日本國民が知的・道徳的に怠惰で、取分け知識人の嘘と綺麗事に弱くて、政治と道徳とを「分つ」事が出來ないからである。綺麗事に弱いのは大衆の常だから仕方が無いとしても、エリートたるべき知識人までが、大衆のポピュリズムを苦々しげに批判する知識人までが、政治と道徳とを混同して、かういふ慘怛たる駄文を綴つて、それで別段愛想盡かしもされずにゐる。西部は書いてゐる。
「戰後」とは、アメリカ經由でのいはば純粋近代主義の價値觀をふりまいてきた半世紀間のことである。しかも「戰後」は、その價値觀を、道徳とよばずに、「人類普遍の原則」と名づけたのである。進歩主義、ヒューマニズム、平和主義そして民主主義、それらの原則こそが戰後の半世紀間を徐々に不道徳の泥沼へと引き込んだのであつた。私のやうな、生來、環境に順應しにくい人間が道徳を語るに至つたのは、戰後の環境があまりに不道徳であつたからとしかいひやうがない。
「環境に順應しにくい人間」であるといふ事と道徳に關心を持つ事との間に何の係はりも無いが、それは兎も角、「進歩主義、ヒューマニズム、平和主義そして民主主義」、これらの政治的な主義主張は、西歐にあつては、誕生するだけの必然性があつて誕生したのであつて、それらの主義主張と「不道徳」との間には、これまた何の係はりも無い。或る政治的な主義に同意する事が不道徳で、同意しない事が道徳的といふ事は斷じて無い。故意か偶然か、西部は社會主義共産主義の名を擧げてゐないが、「進歩主義、ヒューマニズム、平和主義そして民主主義」と同樣、社會主義もまた、それ自體、決して不道徳ではない。いやいや、不道徳でないどころか、それは本來頗る道徳的な動機から生れたのである。西部の駄文を腐すのは、何せ切りが無いからこの邊で御仕舞にして、以下少しく社會主義のために辯じなければならない。(續く) 
第十六囘 社會主義について 

 


社會主義が究極の目標とすべきものは正義と自由の實現だが、社會主義者の大半はこれまで精神の問題を無視して專ら經濟的な事實に關心を持ち、物質的な理想郷を夢見てゐたのであり、ファシズムが快樂主義とか進歩思想とかを毛嫌ひする精神主義者、愛國主義者及び軍國主義者を魅了するのは、社會主義者のさういふ知的怠惰のせゐでもあると、ジョージ・オーウェルは「ウィガン・ピアヘの道」に書いてゐる。成程、さういふ絡繰は確かに存在するが、戰後の「進歩主義、ヒューマニズム、平和主義そして民主主義」を毛嫌ひする西部及び西部の信奉者も、いづれは「精神主義、愛國主義及び軍國主義」に魅せられるやうになるのかも知れぬ。けれども、その場合も「精神主義、愛國主義及び軍國主義」の對極にあるものは無視乃至輕視するであらう。西部の信奉者に限らず、全ての主義者は己れの主義を絶對視して、氷炭相容れぬ二者の相剋に苦しむといふ事が無い。かくて精神主義者は「人はパンによつても生きる」といふ事實を、愛國主義者はどの國にも愛國心があるといふ事實を、軍國主義者は軍事の優先は戰時にだけ許されるといふ事實を、それぞれ認めようとしない。だが、精神主義者であれ、愛國主義者であれ、軍國主義者であれ、社會主義者であれ、人は皆肉體的快樂や物質的進歩や平和を好むのである。久米の仙人は吉野川で洗濯する女の脹ら脛に幻惑され神通力を失ふが、女の髪の毛には大象も繋がるのだし、一度電氣洗濯機や電氣掃除機を使つたら洗濯板や箒や塵取の昔には戻れないし、戰爭が終れば皆が一樣にほつとする。それは誰一人否定し得ない事實である。物質的な理想郷を夢見る奴は片輪である。精神的な理想郷を待望する奴も片輪である。「人はパンのみにて生くるものにあらず」とイエスは云つたが、それは人が「パンによつて生きない」といふ事ではない。
無論、人生の目的は肉體的な快樂や物質的な進歩だとは云はれない。「人はパンのみにて生くる」譯ではない。旨い物をたらふく食つて、ベンツに乘つて、ペンティアム四を使つても、人は幸福であるとは限らない。「人は死ぬ、それゆゑ人は幸福でない」とカミュのカリギュラは云つたが、たらふく食つても食はなくても、全ての人間はいづれ必ず死ぬのだし、大概の女は大金を積めば落せるかも知れないが、幾ら積まうと決して落せない女もゐて、是が非でも落したいのなら女を殺すしかない。が、殺す事は落す事ではない。 「地獄の沙汰も金次第」といふ事は眞理ではない。同樣に、正義や自由も金を積んで購ふものではなく購へるものでもない。ハムレットはデンマークの王子で、王子だから手許不如意といふ事はない。彼が爲す復讎は專ら正義のためであつて金錢のためでもなく權力慾のせゐでもない。我國で「ハムレット」が飜譯され上演されて一世紀以上になるが、ハムレットを復讐に驅立てるものが正義感だといふ事の意味は充分に理解されてゐない。今後も決して理解されぬであらう。「地獄の沙汰も金次第」などといふ諺のある國には、口を開けば綺麗事を云ふ西部のやうな精神主義者はゐても、ハムレットのやうな「正義病患者」はゐないのである。
けれども、それが私の大事な大事な國のお國柄なのだから、私は西部西尾は譏つても自國の流儀を譏る譯ではない。斷じてさうではない。小泉首相の靖國神社參拝に中共や韓國が難癖をつける事を私は甚だ不快に思つてゐる。A級戰犯が合祀されてゐるではないかと民主黨の菅直人は云ふが、十數年前、「戰爭は無くならない」に縷述したやうに、極東軍事裁判もニュルンベルク裁判も共に知的・道義的怠惰ゆゑの茶番であつて、チャーチルやスターリンにも解つてゐなかつたのだから、菅づれに解らないのは是非も無いが、戰爭犯罪なるものは抑も存在しないのである。戰時に敵兵を殺す事が罪でない以上、戰爭犯罪なる化け物もまた存在しない。而も、よしんば極惡人であらうと、死んだ以上はその靈を祀るのが我々の流儀であつて、その事の當否を外國が論ふのは筋が通らない。參拝を「止めなさいと言明しました」と、隣の國の外相は妙ちきりんな日本語で云つたが、假に私が彼に、自國の總人口すら正確に把握出來ずにゐる情けない状態を一刻も早く「止めなさいと言明」したら、彼はどういふ氣がするか。それくらゐの事がなぜ田中眞紀子には云へなかつたのか。無論、知的に怠惰だからである。
さういふ次第で私もまた人竝の愛國心を持合せてゐる積りだが、我々の國にハムレットのやうな「正義病患者」が棲息せず、それゆゑ近代合理主義は生れやうが無かつたといふ事實ばかりは、これを潔く認めざるを得ない。「正義病」と合理主義とは奇妙な取合せだと讀者は思ふだらうが、正義への執着の無い所には合理への執着も無いのである。周知の如く、ガリレオやブルーノは地動説なる眞理のために「神によりて語れるもの」たる聖書の記述を否定する涜神を敢へてしたが、さういふ強靱な合理主義こそが近代科學を産んだのであり、その合理への執着を支へたのは強靱な正義感である。科學とは徹頭徹尾理詰めの學問なのだから、物の道理を重んじない國では育ちやうがない。そして物の道理を輕視する國は重視する國の後塵を拝するしかないのである。
早い話が、私はOSにウインドウズ二千を用ゐてゐるが、少し厄介な問題が起ると、英文のヘルプ・ファイルを讀まねばならなくなる。けれども、コンピューターを發明したのが日本人だつたなら、ウインドウズニ千は「窓二千」で、ヘルプ・ファイルも全て日本語で讀める筈である。それがさうなつてゐないのは、春秋の筆法をもつてすれば、我々が合理的思考を苦手とする民族だからに他ならない。
ついでにここで脱線して書いておきたい事がある。原稿を書く時、私は本誌にも廣告の出てゐる「契冲」、及び或る篤志家の改良した正字・正假名用の「エイトック十二」を併用してゐる。嘗て私は「契冲」を賞めちぎり、讀者に推奨した事があるから、それをここで少々修正しておきたい。「契冲」の語彙は洵に貧弱で「エイトック」に遠く及ばない。例へば「契冲」には「後塵」といふ語も「鵜呑み」といふ語も無い。而も、「unomi」とキーを叩くと、「羽のみ」、「迂のみ」、「鵜のみ」、「得のみ」、「有のみ」、「禹のみ」、「ウノミ」、「うのみ」と出る。これには呆れるよりも腹が立つ。「エイトック」の場合は、「鵜呑み」、「うのみ」、「禹のみ」、及び「鵜のみ」の僅か四語が得られるに過ぎない。「契冲」が惡いのではなく「松茸」が惡いのだらうが、現状ではとても他人樣に薦められない。

話を元に戻すが、オーウェルの云ふやうに、社會主義の目標は金錢をもつてしては購へぬ「正義と自由の實現」であつて、實現しようとの意欲を支へるのは、この世の不正や不平等を憤る強い正義感で、それゆゑ裕福な時代に社會主義は無用なのだが、それは兎も角、例へばウィリアム・ブレイクが詩に詠つたやうに、或いはディッケンズが小説に描いたやうに、十八世紀末のイギリスには甚だしい貧富の差が存在した。議會に差出したハンウェイといふ男の陳情書が遺つてゐて、それによれば、貧乏人の子は七歳にもなると徒弟として賣られ、雇主は買取つた子供を酷使し虐待し、碌な着物も食事も與へなかつた。子供にもやれる勞働の一つが煙突掃除だつたが、煙突掃除といふ仕事には常に窒息や火傷の危險が伴つてゐたし、身體を洗ふといふ事が決して無かつたから、多數の子供が皮膚に附着する煤が原因で皮膚癌になつた。而も、無一文だつたから、竊盗や物乞ひをやるしかなくて、雇主はそれを奨勵する始末であつた。
その頃、アメリカの或る新聞にかういふ廣告が載つた。「織物工、指物師、靴屋、鍛冶屋、煉瓦屋、木挽、仕立屋、コルセット製造工、肉屋、家具製造工、その他數種の職業に從事し得る丁稚を詰めた荷物、本日ロンドンより到着。現金、小麥、パンまたは小麥粉と引換へに安價にて賣却したし。フィラデルフィア在住、エドワード・ホーン」。
さて、「月曜評論」の讀者諸君よ、諸君が十八世紀のイギリスにゐたとして、かういふ悲慘な少年達の境遇を聞き知つたら、諸君は義憤に驅られないであらうか。驅られないのなら、そいつはもう人間ではない。「月曜評論」なんぞ讀む必要も無い。無論、當時のイギリスにも義憤に驅られた男が澤山ゐた。ブレイクがさうであり、ディケンズがさうであり、ロバート・オーウェンがさうであつた。オーウェンは考へた、金持の考へる事は唯一つ儲けを増やす事であり、そのためには從順な勞働者が必要で、從順たらしむるには無知のままに放置しておかねばならない。金持は勞働者の無知に乘じて、自身は働かず、他人の勞働によつてますます肥え太る。かくて奪ふ者と奪はれる者の利害が一致する事は斷じて無い。
オーウェンは考へるだけではなく行動を起し、理想的な勞使關係の實現を圖つた。グラスゴウ近郊の紡積工場を買ひ取つて、搾取や處罰を廢止し、勞働條件を改善し、工員の生活向上を計り、勞働時間を減らし、工員と家族の健康保持のために醫者を雇ひ、養老年金制度を導入し、工員住宅の修理や衞生のための定期的な點檢を實施した。
このグラスゴウの工場は、その後、アメリカから綿絲を輸入出來なくなつたために閉鎖されるが、オーウェンはアメリカに渡り、面識のあつたウィリアム・マクルアと共に、「共産理想社會」を建設する事になる。その理想社會は「ニュー・ハーモニー」と命名されたが、二年後に彼の夢は破れる。資金の不足といふ事もあつたが、それは重要な理由ではない。オーウェンの理想主義が幼稚だつたのである。「性善説」を信奉する樂天家だつたオーウェンは、殆ど無差別に入植希望者を受入れたから、失戀の痛手を癒すためにやつて來た娘とか、オーウェンが土地の所有者である事に反對して「眞の共和國を建設せよ」など演説する事しか能の無い空論家とか、その他、オーウェンが「碌でなしの怠けもの」と罵らざるを得ないやうな手合に散々挺子摺つたし、土地の所有權や教育方針を巡つてマクルアとの間に對立が生ずる事になつたのである。
けれども、二年前、初めてオーウェンと會つた時、マクルアはかう語つたのであつた。「人間を幸福にする社會とは搾取の無い社會です。だが、誰がさういふ社會を作り出すのでせうか。搾取する手合がやる筈は無い。搾取される者がやるしかない。そのためには勞働者が搾取の絡繰りを知らねばなりませんが、彼等には眞實が教へられてゐない。新聞、雜誌、それに宗教までが眞實を隠すために利用されてゐる。それゆゑ、搾取に苦しめられてゐる連中は宗教に頼り、あの世に救ひを見出すといふ事になる。搾取する手合にとつてそれは甚だ好都合なのです」。

「宗教は民衆の阿片である」とはマルクスの名言だが、若きマルクスも、エンゲルスも、オーウェンの所謂「空想的社會主義」の脆弱を補強し、この世に搾取の無い理想社會を建設せねばならぬと考へたのである。が、結論から先に云へば、彼等の試みはすべて失敗に畢つた。この世の不平等を無くさうとする頗る道徳的な願ひが、やがてスターリンの凄じい獨裁を生み出す事になつた。オーウェンや若きマルクスの善意を否定する事は出來ない。が、なにゆゑ彼等の夢は挫折せざるを得なかつたのか。マルクスもオーウェンも神ではなくて人であり、その神ならぬ人が人を救はうとしたからだと、ドストエフスキーなら答へるに相違無い。社會主義共産主義の齎すものが、平等ではなく隷屬の悲慘であるといふ事を逸早く看拔いたのはドストエフスキーである。それゆゑ、私はここでドストエフスキーについて語らなければならないが、それを語らうとして、私はまづ、語る事の虚しさを痛感せざるを得ない。西部西尾如き知識人はドストエフスキーの前には枯葉にも均しい存在だが、枯葉について語つてゐる限りは、本誌の讀者の理解を或る程度までは當てにする事が出來る。が、ドストエフスキーについて語つて讀者の理解を期待する事は出來ない。ドストエフスキーについて語るといふ事は、「パンか自由か」といふ大問題について語るといふ事だが、パンも自由もふんだんに與へられ、乞食も新聞を讀み、自民黨から共産黨までが「景氣對策」とか「庶民の痛み」とか「國民のくらしを應援」とかいふ綺麗事の嘘八百を竝べ立てる風土にあつて、仁徳天皇以來「民の竃」の賑ひを氣にする事が善政であるやうな風土にあつて、「パンか自由化か」の二律背叛なんぞ、所詮、對岸の火事でしかない。
無論、對岸について語る學者は澤山ゐる。ドストエフスキーに關する書物も澤山出てゐる。けれども對岸の火事について、いやいや對岸の火事を眺める虚しさについて語る學者がゐない。西洋學問が我々日本人にとつて借着でしかないといふ事實、漱石や鴎外や荷風が知つてゐた情けない事實、それを身に沁みて知つてゐる學者がゐない。「學問をやるならコスモポリタンのものに限り候英文學なんかは椽の下の力持日本へ歸つても英吉利に居つてもあたまの上がる瀬は無之候」と留學中の漱石は寺田寅彦に宛てて書いたが、「コスモポリタン」ならざる西洋の虚學を幾ら學んでも「あたまの上がる瀬」は無いといふ事、實學を學んでも所詮は歐米の二番煎じ、虚學となつたら未だ嘗て我が國人を何一つ益した事が無いといふ事、それを痛感してゐる學者がゐないのである。早い話が、社會主義の目的は「正義と自由の實現」だとオーウェルは云ふが、この日本國に社會主義なんぞが存在したためしは無い。それなら、冷戰崩潰後、日本社會黨が泡沫の如く消え、今、土井たか子率ゐる社民黨が消えかかつてゐるのも何ら怪しむに足りない。自民黨が「保守主義」の政黨でないやうに、日本共産黨が共産主義の政黨でないやうに、日本社會黨も社民黨も、社會主義の政黨ではなかつたのである。(續く)
第十七囘 無理が通れば道理が引つ込む 

 


我々の國には社會主義も共産主義も存在せず、淺沼稻次郎も土井たか子も社會主義者ではないし、宮本顯治も不破哲三も中野重治も眞正の共産主義者ではない。社會主義も共産主義もこの世に「正義と自由を實現」せねばならぬとの鞏固な信念に支へられねばならないが、我々にとつては正義の實現も自由の實現も共に強い願望ではあり得ず、それゆゑ社會主義共産主義の出る幕が無かつた。是非も無い。和と馴合ひをもつて貴しとなす國に甚だしき壓制や不正義は存在しないから、壓制を自由の扼殺として憤るといふ事も無い。ネロやカリギュラやスターリンの如き暴君は、我々の國にはただの一人も棲息した事が無い。殘忍な天皇が一人ゐた事になつてゐるが、その殘忍とて琴の弦で縛つた全裸の女を池に吊下げるといつた程度である。今度は誰を肅清するかと思案して、犠牲者を選び出し、肅清の計畫を練り、「それからベッドに潜り込む、凡そこの世にそれ程の快樂は無い」と、スターリンはジェルジンスキーに語つたといふ。キーロフ暗殺事件以後、4(果+多)しい同胞を肅清したスターリンが、「人道に對する罪」によつて裁かれる事も無くベッドの上で死に、何一つ殘虐な事をしてゐない「A級戰犯」が絞首刑に處せらたのは甚だしい不條理だが、フルシチョフによるスターリン批判以後も、我々は「シベリア抑留」の不當は論つても、「人道に對する罪」とやらのでたらめを怪しみはしなかつた。ついでに書いておくが、我々はアメリカに負けたのであつてソ聯や支那や朝鮮に負けたのではない。それなのに、なぜ「支那朝鮮」に謝罪しなければならないのか。アジア諸國に多大の迷惑を掛けたと云ふが、迷惑を掛けられるのは弱いからである。弱かつた我々はアメリカに負け、敗戰後も大いに迷惑を掛けられたが、支那朝鮮も弱かつたから迷惑を掛けられた。それだけの話である。「植民地」にされるのも戰爭に負けるのも共に不名譽な事だが、日本も韓國中國もいつまで過去の不名譽を論ふ積りなのか。
とまれ、我々は殘忍な民族ではない。殘忍でないから暴政壓制が無く、暴政壓制が無いから「正義と自由」とを熱烈に希求する事が無い。我國最古の不服從は素戔鳴尊のそれだが、それとて田の畦を毀したり、「大嘗聞しめす殿」に糞尿を撒き散らしたり、女が機を織つてゐる部屋の屋根を毀して「逆剥ぎ」にした馬を投込むといつた程度の惡戯であつて、その動機にしても天照大御神に勝つて増長したといふ事に過ぎない。一方、キリスト教國最古の不服從はアダムとイヴのそれだが、このはうは惡戯ではなく歴とした神への叛逆である。アダムは狼籍を働いた鐸ではない。蛇に唆されて神の命に背き林檎を食つたに過ぎない。だが、その林檎は、生憎、只の林檎ではなかつた。食べたら忽ち善惡の別を知るやうになるのであつた。かくてアダムとイヴは善惡の別を知り、その結果、互の裸體を恥づるやうになり、不老不死でなくなつて、それゆゑ性交によつて子孫を作らざるを得なくなり、イヴは男の子を二人産み、長男のカインが弟のアベルを殺す事になる。人類最初の殺人であつて、善惡の別を知るといふ事と殺人とは繼起した譯だが、カインがアベルを殺すのは腹が減つたからではない。腹が減ると殺すのは動物であつて、空腹でないのに同類を殺すのは、それも惡事と知りつつ殺すのは、善惡の別を知る人間だけである。虎が兎を捉へて殺す時、虎は殺す事を善とも惡とも思つてゐない。善惡の別を知つてゐるといふ事、それが人間の業である。 

「古事記」と「舊約聖書」とはこれ程違ふ。いや、違ふといふよりも、全く異質であつて比較を絶してゐる。鼻や尻から取出した物を食はせるとは怪しからんとて素戔鳴尊は大氣都比賣を殺すが、殺された大氣都比賣の頭からは蠶が、目からは稻種が、耳からは粟が、鼻からは小豆が、股間からは麥が、尻からは大豆が、それぞれ生ずるのであり、殺す事と善惡とは全く無關係、寧ろ絹絲や食糧を齎す良き事なのである。素戔鳴尊自身も殺す事を惡事とは毛頭思つてゐないし、實際、彼は惡黨ではない。その後、八俣の大蛇を退治して櫛名田比賣を救つた話はよく知られてゐる。善惡の別を知る事が人間の業だと書いたが、それは正確ではない。我々日本人の場合、その業を綺麗に免れてゐる。それゆゑ、本居宣長の診斷は正しいのである。宣長はかう書いた。
何事も皆、神のしわざにて、世中に惡き事どものあるも、皆神のしわざに候へば、儒佛老などとまをす道の出來たるも、神のしわざ、天下の人心それにまよひ候も、又神のしわざに候。然れば善惡邪正の異こそ候へ、儒も佛も老も、みなひろくいへば、其時々の神也。神には善なるあり、惡なるある故に、其道も時々に善惡ありて行はれ候也。然れば、後世、國天下を治むるにも、まづは其時の世に害なきことには、古へのやうを用ひて、隨分に善神の御心にかなふやうに有るべく、又儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、儒を以て治むべく、佛にあらではかなはぬことあらば、佛を以て治むべし。是皆、其時の神道なれば也。
この文章はキリスト教徒には絶對に理解出來ない。無信仰の私にも理解出來ない。儒教佛教道教に「善惡邪正の別」があつて、而もその三つがいづれも「其時々の神」たり得るといふ事は、神が善でもなく惡でもなく、善でもあつて惡でもあるといふ事であり、さういふ奇妙きてれつな論理は正氣の人間の理解を絶してゐる。宣長流に考へれば、キリスト教「などとまをす道の出來たるも」惡しき神のしわざだが、それもまた「其時の神道」だから、キリスト教を「以て治めざれば治まりがたきことあらば」、キリスト教を「以て治」めたらよいといふ事になる。だが、キリスト教は一神教であり、一神教が多神教の國を、大量の血を流した揚句一神教にする事は出來るかも知れないが、多神教のぐうたらを認めたままで治められる道理が無い。キリスト教の神は絶對善であつて、絶對的な善にだけ從はうとすれば、當然、正邪善惡の別に敏感になる。が、善き神にも惡しき神にも從ふのなら「善惡邪正の異」を輕視するやうになつて當然であり、「善惡邪正の異」を輕視する民族が「儒佛老」なる外來思想の「善惡邪正の異」だけを重視する筈が無い。然るに宣長は、外來思想に「善惡邪正の異」がある事を認めながら、即ち外來思想を「其時の神道」として許容しながら「古のやうを用ひて、隨分に善神の御心にかなふやうに有る」べしと主張する。宣長の言分はしかく非論理的なのだが、正邪善惡と道理を共に輕視する日本國にあつては非論理が論理だから、宣長の診斷は「正確」であり處方箋は有效なのである。正邪善惡と道理とは表裏一體だが、我々はその雙方を輕んずる。輕んじて何の支障も無い。宣長の嫌ふ「からごころ」が輸入されなかつたら、我々は「もののあはれ」だけを重視するおほらかな腑拔け腰拔けであり續けたに相違無い。私は「夏目漱石上卷」に、慈圓の「愚管抄」を批判してかう書いた。
「愚管抄」は「道理物語」とも呼ばれるほど道理の考察に紙數が割かれてゐる(中略)が、慈圓の云ふ道理とはまこと奇妙きてれつな代物であつて、假に漱石が「愚管抄」を讀んだとして、彼は慈圓の云ふ道理を斷じて道理とは認めないに相違無い。慈圓によれば、物の道理は世の移り變りに從つて變化するのであり、例へば、成務天皇までの十三代は「御子の皇子」が次代の天皇になつたが、成務天皇に御子が無かつたため、第十二代景行天皇の御孫が即位して第十四代の仲哀天皇となつた。その史實について慈圓は、「仲哀ノ御時、國王御子ナクバ孫子ヲモチイルベシト云道理イデキヌ」と書いてゐる。詰り、現實の變化に追隨して道理は變化すると慈圓は考へてゐる譯であり、さういふ移れば變る代物を我々は「物の道理」として認める譯には行かない。「國王御子ナクバ孫子ヲモチイルベシ」といふ事になるならば、いづれ「孫子ナクバ」直系の女子にても可といふ事になるに決つてゐて、さうなれば皇男長子の皇位繼承といふそれまでの原則は破られ、原則を支へて來た筈の道理もまた悖理と看做されるやうになる筈だからである。現行憲法にも皇位は「世襲のものであつて」云々とあるが、皇位が必ず必ず「世襲のもの」であらねばならぬといふこの原則ないし道理もまた、先行き現實が變化すれば、例へば「主權の存する日本國民の總意」とやらが變化すれば、呆氣無く無視されて、「昨是」が忽ち「今非」になつてしまふのか。なつてしまつて構はないのか。
「昨是」が「今非」になるとは昨日是とされてゐた事が今日非とされる、といふ意味である。天皇に御子が無いといふ現實に合せて「御子ナクバ孫子ヲモチイルベシト云道理」が出て來ると慈圓は云ふ。「昨非今是」の國ならではの論法であつて、これまた一神教の信者には決して理解されない。成程、人間は不完全だから、きのふ正しいと思はれた事をけふ間違ひと知るといふ事は屡々ある。學問はさういふ事の繰返しだが、正義とか眞理とかは現實の變化に合致するやうに調整し得る筈の物では斷じてない。然るにこの國においてはさうでない。鎌倉時代も平成の今も「昨非今是」のでたらめが横行して人々はそれをさつぱり怪しまない。例へば昭和五十三年、統幕議長栗栖弘臣は「有事立法」の要を説き、愚鈍なる防衞廳長官に首を斬られたが、今はへなちよこの自民黨幹事長も有事法制の要を云ひ、首相が靖國神社に參拝してもそれで人氣が落ちる事は無い。朝日新聞によれば、一九八四年、海上自衞隊の護衞艦や對潜哨戒機がアメリカ第七艦隊の空母を護衞する共同訓練が祕かに行はれたといふ。公然と行はれて當然の演習が祕かに行はれたのは、無論、日本國憲法が「集團的自衞權の行使」を禁じてゐると、さしたる根據も無くして信じられてゐるからだが、それは兎も角、朝日新聞や民主黨や社民黨が海上自衞隊のこの「前科」を執拗に追及するといふ事態には決してならぬであらう。それどころか、いづれ防衞廳は國防省になり、海上自衞隊は日本國海軍になつて、さうなれば公然と米空母を護衞して咎められぬやうになる。「昨非」が「今是」になるのは風の吹き囘し次第なのである。 

けれども、さういふなし崩しの變化は歐米諸國には理解されない。無論、外國に理解されなくても、風吹けど山は動かず、毅然として守り拔かねばならぬ物はある。その最たる物は國語國字だが、それを我々は守り拔いたか。新カナは正假名よりも遙かに合理的でない。それは福田恆存が「私の國語教室」を書いて縷々説いて、誰一人有效な反論をなし得なかつた。が、何せ合理を貴ばないお國柄だから、保守派を自任する知識人すら略字新カナを用ゐ、それをまた大方の讀者が怪しまない。西部邁は書いてゐる。
滅びゆくものに哀切の情を寄せるとなると、内心では、負けを覺悟の喧嘩であるから肩肘いからせても仕樣がないと知りつつも、せめて外見で、新奇なものにとびつく自稱進取の態度を撃つについては、守旧と罵られるのを誇りに思うくらいでなければならないのだ。(中略)人間は、狂氣に彷徨うのでないかぎり、保守的でしかありえないということである。というのも、人間を人間たらしめているこの言葉というものは、そのほとんどすべてがトラディションというほかないものだからである。(「國民の道徳」、原文のまま)
「内心で知りつつ」はよいとして「外見で撃つ」とは何とも粗雜な云ひ廻しである。が、それもよいとして、言葉は「トラディション」だと主張する物書きの文章が、傳統的な假名遣と言葉遣とを無視してゐる。漫畫である。西部の駄本も國會圖書館には保存されるから、五十年百年後、假に正字正假名が復活してゐたならば、借り出した讀者は西部の歿論理に唖然として、一體全體この男は何を保守しようとした保守派だつたのかと、眉根を寄せて訝しむに相違無い。國語を保持しない保守派とは「狂氣に彷徨う」氣違ひにしか理解されない形容矛楯だが、さういふ愚者の商賣が結構繁盛するのは、この國が知的に怠惰な非合理の國で、無理が通つて道理が引つ込んでも、それを咎め立てしないからに他ならない。それゆゑ何が正しいかなどといふ詮議は無用、正邪善惡なんぞどうでもよい事、大事なのは我を張らず、皆と和合して、序でに適當に稼いで愉快にこの世を渡る事だけである。宣長にとつての大事も國が治まる事であつて正義が行はれる事ではなかつた。「理くつめくこと、議論めくこと、あらそひほこること、人をあなどること」を宣長は嫌つてゐた。道理よりも和を重んずる、それが我々の文化である。本誌には毎號「けつねうろん」の幇間的な駄文が載る。己れを笑ひ物にして、道化けて見せ、左翼を譏るだけの男藝者のふやけた文章を、私は時折斜めに讀んで、その都度輕蔑してゐたのだが、先月號の文章は頗る日本的で、今囘私が述べた事柄を例證する貴重な資料だから、以下少しく引く事にする。
前にもここで書きましたんやが、谷澤センセも細かいことごじゃごじゃ言わんと、藤岡信勝センセと仲直りしなはれと、わて言いました。/せやのに、やっぱりケンカですわなあ。松原正センセもこの「月曜評論」で西部邁センセにケンカ賣ってますわなあ。/わてらアホですよって、そのときそのとき氣が變ります。(中略)松原センセがこうじゃと言いはると、フーンと思い、西部センセがこうぞと言いはると、ウーンと思いますんや。どっちへでもフワフワ動きますわ。/えらいセンセらは言いまくって御本人はそれでよろしいわいな。せやけど、わてら無學なもんは困りますねん。あちゃこちゃ分れましたら、どっち行ってよろしいんやろ。
谷澤永一と藤岡信勝とがどういふ「喧嘩」をしてゐるのか私は知らないし、知らうとも思はない。が、「細かい事」をごちやごちや云はずに仲良くしろと「けつねうろん」が忠告するのは、無論、道理を無視して和を重視するからで、太鼓持が和を重んずる事に何の不思議も無いが、谷澤と藤岡との和合が幇間に、一體全體、何の益があるのか。「けつね」は保守の團結を説くが、今、弱體の左翼を前にして「保守」が團結せねばならぬ必然性は無い。いやいや、左翼が強からうと弱からうと、物書きは小異を捨てて大同につくべきではない。大同につくといふ事は己れの意見を衆愚のそれに一致させる事だからである。衆愚は何せ無學で「アホ」だから「そのときそのときで氣が變」つて、「どっちへでもフワフワ動」く。詰り「昨非今是」である。だが、「昨非今是」で氣樂な筈なのに、「えらいセンセ」の意見が一致しないのは困ると、「うろん」は何とも胡亂な事を云ふ。「どっちでもフワフワ動」くやうな手合が「どっち行ってよろしいんやろ」とて困惑する道理が無い。(續く) 
第十八囘 テロより憲法、教科書より教師 

 


テロリストの乘取つた二機の航空機がニューヨークの高層ビルに突込んで、今、「ブッシュも細かいことごちやごちや」云はずにビンラディンと「仲直り」せよとは、世界中、誰一人として云ふ者が無い。「進歩派」の土井たか子も久米宏も、アメリカの報復や自衞隊の派遣には反對しても、アメリカは「ごちやごちや」云はずにタリバンやサダム・フセインと仲直りせよとは云はない。「保守派」であるらしい「けつねうろん」とて、アメリカの「報復」に異議は唱へないに相違無い。だが、「けつねうろん」も谷澤永一も藤岡信勝もブッシュもビンラディンも、人品骨柄人種國籍こそ違ふものの、皆、人間であつて犬畜生ではない。それゆゑ、ブッシュがビンラディンを許せないやうに、谷澤が藤岡を、藤岡が谷澤を、それぞれ許せないのは是非が無い。ビンラディンがブッシュに對してやつた事に較べれば、谷澤が藤岡、藤岡が谷澤に對してやつた事も、松原が西部西尾に對してやつた事も、所詮は「細かいこと」だと「けつねうろん」は云ふかも知れないが、何人殺せば許されず、何人までなら許されるといふ事は無いし、武器兇器を用ゐて殺す事が筆で殺す事より殘酷である譯でもない。筆で殺すのは相手の面目を奪ふ事だからである。「寢て食ふだけ、生涯それしか仕事がないとなつたら、人間とは一體何だ、畜生とどこが違ふ。一身の面目にかかはるとなれば、たとへ藁しべ一本のためにも、あへて武器をとつて立つてこそ、眞に立派と云へよう」とハムレットは云つてゐる。犬畜生ならぬ人間は「一身の面目」を重んずるが、その際、「藁しべ一本」か高層ビルと數千の人命か、そんな事は凡そ問題ではない。オーストリア皇太子とその妃が殺されて、それが切掛けで第一次世界大戰は始つたではないか。面積一萬二千平方キロ、人口二千、羊くらゐしか飼へないフォークランド諸島を奪還すべく、サッチャー率ゐるイギリスは大艦隊を差し向けたではないか。正義のためには「たとへ藁しべ一本のためにもあへて武器をとつて立つ」、それが人間の榮光であり悲慘なのである。早稻田大學の臼井善隆が譯書の後書に書いてゐる事だが、嘗て灣岸戰爭の折、イギリス國教會のカンタベリー大司教は信徒にかう説教して、それが「參戰を可とする精神的道徳的お墨附き」になつたといふ。
我々は皆平和を望む。けれども平和と正義とを切り離して考へては斷じてならない。人間は自らの缺點ゆゑに、或いは邪惡ゆゑに戰爭をやつたけれども、同時に徳ゆゑに、我々の正義感、善と惡との存在を信じ、善と惡とを辨別する能力、他の人々のために進んで自らを犠牲にしようとする氣持ゆゑに、戰爭をやつたのである。それが歴史の嚴しい現實である。(「エリオット評論選集」、早稻田大學出版部)
然るに、間違ひ無く人間であつて犬畜生でない筈なのに、さういふ平和と正義とのディアレクティケーをさつぱり理解しないのが「經濟動物」たる日本人である。例へば、したり顔の馬鹿久米宏は、「今囘も日本は金だけ出せばよい、一時輕蔑されても五十年後には評價される」と吐かし、加賀乙彦といふこれまた途轍も無く愚かな作家は「同時テロと報復」と題して朝日新聞にかう書いた。
第二次世界大戰はファシズムに對する民主主義の正義の戰いであり、ベトナム戰爭は共産主義に對する自由主義の正義の戰いであった。が、正義を武力によって實現しようとすると、かならず行き過ぎがおこり、多くの人命が失われ、一般市民やとくに若い兵士が殺されてきたというのが、過去の歴史の教訓である。(中略)日本は、憲法によって、「武力による威嚇または武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とはっきりと國の方針を定めている國である。(中略)私はこれこそ世界に誇るべきメッセージだと思っている。そこで、現在、日本が強く發言すべきことは、テロ撲滅のためには、あらゆる方法や努力をすべきではあるけれども、戰爭という暴力的手段だけは用いてはならないと、アメリカに忠告することであろう。(九月二十八日附夕刊) 

この加賀の文章は西尾や西部のそれと同樣に惡文である。「強く發言すべきこと」は「忠告すること」だとか、「あらゆる方法をすべきである」とかいふ迂闊な文章は、小學生竝の頭腦の持主にしか書けはしない。努力はするものだが「方法」はするものではない。さういふ惡文を平氣で綴る粗雜な頭腦に、「暴力的手段」を用ゐずにテロといふ暴力を「撲滅」し得るといふ甘ちよろい幻想が宿る事に何の不思議も無い。西尾や西部は「保守派」であり加賀は所謂「進歩派」だが、惡文を綴る頭の惡さに保革の別は無い。然るに、加賀には大佛次郎賞と日本藝術院賞が與へられ、西尾西部には「正論大賞」が與へられてゐる。いづれ政治主義ゆゑの受賞であり、加賀は「戰爭の非人間性」を描いたから受賞し、西尾西部は「保守」だから「保守派」の新聞から「大賞」を貰つたに過ぎず、良い文章を書くから賞められた譯ではない。ここで加賀の反戰小説の一節を引いて惡文を扱き下ろせばよいのだが、生憎、我が家には加賀の小説が一つも無い。そこで政治とは何の關はりも無い名文を引く事にする。二葉亭四迷の「平凡」の一節である。
ジヤンジヤンと放課の鐘が鳴る。今まで靜かだつた校舎内が俄に騒がしくなつて、後方此方の教室の戸が前後して慌だしくパツパツと開く。と、その狭い口から、物の眞黒な塊りがドツと廊下へ吐出され、崩れてばらばらの子供になり、我勝に玄關脇の昇降口を目がけて驅出しながら、口々に何だか喚く。(中略)仲善二人肩へ手を掛合つて行く前に、辨當箱をポンと抛り上げてはチヨイと受けて行く頑童(いたづら)がある。その隣りは往來の石塊(いしころ)を蹴飛ばし蹴飛ばし行く。誰だか、後刻で遊びに行くよ、と喚く。蝗を取りに行かないか、といふ聲もする。君々と呼ぶ背後で、馬鹿野郎と誰かゞ誰かを罵る。あ、痛たツ、何でい、わーい、といふ聲が譟然譟然と入違つて、友達は皆道草を喰つてゐる中を、私一人は驅脱けるやうにして側視もせずにせつせと歸つて來る。
家の横町の角まで來て櫟たいやうな心持になつて、そつとその方角を觀る。果してポチが門前へ迎へに出てゐる。私を看附るや、逸散に飛んで來て、飛付く、舐める。何だか「兄さん!」と言つたやうな氣がする。若し本包に、辨當箱に、草履袋で兩手が塞がつてゐなかつたら、私はこの時ポチを捉まへて何をやつたか分らないが、それが有るばかりで、どうする事も出來ない。據どころなくほたほたしながら頭を撫でゝ遣るだけで不承(ふしよう)して、又歩き出す。と、ポチも忽ち身をくねらせて、横飛にヒヨイと飛んで駈出すかと思ふと、立止つて、私の面を看ておどけた眼色(めつき)をする。追付くと、又逃げて又その眼色をする。かうして巫山戲(ふざけ)ながら一緒に歸る。
玄關から大きな聲で、「只今!」といひながら、内へ駈込んで、いきなり本包を其處へ抛り出し、慌てて辨當箱を開けて、今日のお菜の殘り−と稱して、實は喫べたかつたのを我慢して、半分殘して來たそれをポチに遣る。それでも足らないで、お八ツにお煎を三枚貰つたのを、せびつて五枚にして貰つて、二枚は喫べて、三枚は又ポチに遣る。
夫から庭で一しきりポチと遊ぶと、母がきつとお温習(さらひ)をおしといふ。このお温習程私の嫌ひな事はなかつたが、これをしないと、ぢきポチを棄ると言はれるのが辛いので、澁々内へ入つて、形の如く本を取出し、少しばかりおんによごよごとやる。それでお終だ。餘り早いねと母がいふのを、空耳つぶして、つと外へ出て、ポチ來い、ポチ來いと呼びながら、近くの原へ一緒に遊びに行く。
これが私の日課で、ポチでなければ夜も日も明けなかつた。
放課後、歸宅する小學生や飼主にふざけ掛かる仔犬の生態が見事に活寫されてゐるこの名文を、「月曜評論」の讀者はもとより、土井たか子も西尾西部も、谷澤永一も藤岡信勝も、微笑みながら樂しく讀むに相違無い。この文章は政治とは全く無關係で、T・S・エリオットの科白を捩つて云へば「政治に先行する領域」に屬してゐる。小學生に政治は無縁である。犬好きに政治は無縁である。いやいや、小學生や犬好きに限らぬ、女好きもゴルフ好きも釣氣違ひも政治信條の如何を問はない。鮎釣は左翼が好んで岩魚釣は保守派が好む、などといふ事は無い。そして我々の人生の一喜一憂はその大半が政治以外の領域にかかはつてゐる。それを誰が否定し得るか。
私は所謂「ノンポリ」を好かない。花鳥風月を愛でるだけの和歌や俳諧の隠居藝も好まない。二葉亭もさうであつた。我が近代文學史上、二葉亭ほど激しく政治の有效を嫉視した作家は無い。だが、大江健三郎や加賀乙彦や西部西尾の物する如き駄文惡文は、二葉亭四迷全集のどこにも一つも見出せない。「政治以外の領域」たる形而上學の重さを二葉亭は知つてゐた。而も嘘が嫌ひだつたから、形而上學が己れには無縁の代物で、哲學的思考が自國の文化に馴染まない事をも知り拔いてゐて、それゆゑ政治主義の紋切型に安住する事が無かつた。「平凡」にかういふ件りがある。
ポチの殺された當座は、私は食が細つて痩せた程だつた。が、それ程の悲しみも子供の育つ勢には敵はない。間もなく私は又毎日學校へ通つて、友達を相手にキャツキャツとふざけて元氣よく遊ぶやうになつた……

今日はどうしたのか頭が重くてさつぱり書けん。徒書(むだがき)でもしよう。
愛は總ての存在を一にす。
愛は味ふべくして知るべからず。
愛に住すれば人生に意義あり、愛を離るれば、人生は無意義なり。
人生の外に出で、人生を望み見て、人生を思議する時、人生は遂に不可得なり。
人生に目的ありと見、なしと見る、共に理智の作用のみ。理智の眼を抉出して目的を見ざる處に、至味存す。
理想は幻影のみ。
凡人は存在の中に住す、その一生は觀念なり。詩人哲學者は存在の外に遊離す、觀念はその一生なり。
凡人は聖人の縮圖なり。
人生の眞味は思想に上らず、思想を超脱せる者は幸なり。
二十世紀の文明は思想を超脱せんとする人間の努力たるべし。
こんな事ならまだ幾らでも列べられるだらうが、列べたつてつまらない。皆啌(うそ)だ。啌でない事を一つ書いて置かう、
私はポチが殺された當座は、人間の顔が皆犬殺しに見えた。
これだけは本當の事だ。 

ところで私が「平凡」のポチの件りを引いたのは、私が小學生だつた頃の國語の教科書に載つてゐた事を思ひ出したからである。現在、小學校の教科書にどういふ作品が載つてゐるか私は全く知らないが、老人になつても思ひ出すやうな優れた作品、政治主義とは無縁の名文が、澤山載つてゐるとはとても思へない。小中高校の教科書を一冊も覗いた事が無いから斷定はしないが、教育を論ふ大人がだらしのない文章を綴つて平氣でゐる以上、教科書だけが立派である道理が無い。實は昨日、土砂降りの雨の中を長靴穿いて近所の割合大きな書店に行き、市販本「新しい歴史教科書」を買はうとしたのだが、一冊も置いてなかつたから、替りに谷澤永一の「絶版を勸告する」を買つて來て、斜めに讀んで呆れ果てた。谷澤が引いてゐる件りから判斷する限り、「新しい歴史教科書」は何とも杜撰であり惡文である。だが、杜撰であり惡文である「新しい歴史教科書」を惡し樣に腐す谷澤の文章も亦杜撰であり惡文だつたから呆れたのである。昨今囂しい教科書論議に私は全く關心が無かつたが、それでよかつた、我ながら賢明だつたと思つた。老い先短い私だが、樂しい無駄なら幾らでもする。が、下らぬ論議に加はる無駄だけは願ひ下げにしたい。教科書論議が下らないのは政治主義を免れないからである。愛國心と同樣、教育も亦、惡黨や愚者の隠れ蓑になる。それゆゑ私は、この期に及んでの「解釋改憲」の横行と「愛國心」や「反戰平和」を振り翳す教科書論議の盛況とを怪しむ。ニューヨークの高層ビルに航空機が突込むと、忽ち有事法制論議が盛になつて、海上自衞隊はアメリカの空母を護衞し、陸上自衞隊は迫撃砲やミサイルを持つてパキスタンに行けるやうになる。無論、粗雜で惡文の憲法はそのままで改正されない。加賀は氣附いてゐないが、「武力による威嚇または武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」といふ件りも惡文であつて、惡文だから空理空論である。「國際紛爭を解決する手段としては」といふ條件が附いてゐる以上、國際紛爭を解決する手段以外の手段としてならば「武力による威嚇または武力の行使」は許される事になる。例へば、治安出動の際、自衞隊が國民に銃を向け威嚇したり發砲したりする事も認められてゐる事になる。然るに自衞隊は、治安出動の訓練を全くやつてゐない。馬鹿に本氣で質問するのも馬鹿だから、加賀に借問はせずからかふのだが、「戰爭という暴力的手段だけは用いてはならない」と信じてゐるらしい加賀は、自國民に對する自衞隊の「暴力的手段」なら快く認める積りなのか。
教科書論議の場合も同じであつて、政治主義ゆゑに物の道理が等閑に附せられてゐる。なぜ識者はかうも教科書ばかりを論ふのか。教育の主役は教師であつて教科書ではない。教科書が立派でも教師が駄目なら教育の實は上らないが、教科書が駄目でも教師が立派なら生徒は感化される。さういふ至極簡單な道理を世人はなぜ悟らないのか。確か海老名彈正の傳記に書かれてゐた事だが、昔、同志社の初等部に一人の熱心な老教師がゐた。同志社だから聖書講讀の時間があつて、生徒に聖書を讀んで聽かせる時は眞劍そのものだつた。眞冬、暖房の無い教室で聖書を讀んでゐると教師の鼻から鼻水が垂れて來て、それがいつ切れて開いた聖書の上に落ちるか、生徒はそれが氣になつて聖書もイエスも風馬牛であつた。が、イエスを崇拜する教師の眞摯だけは全ての生徒に通じた。小學校の教師は全科を教へねばならないが、その教師は數學が苦手であつた。數學の問題が解けなくなると、生徒に背を向け黒板と睨めつこをする。解けないからいつまでも仁王立ちである。けれども、教室は靜まり返つてゐる。一人拔群に數學の出來る生徒がゐて、それが終始俯いて教師のはうを見ようとしない。その秀才は無論教師を尊敬してゐる。尊敬してゐる教師の窮状を見るに忍びないから俯いてゐる。俯く秀才に倣つて惡童どもも俯く。それが教師の感化である。 
番外 暫く休載仕る 

 

えらいことですわ。「けつねうろん」センセがわての言論を「風呂の中で屁こいてるみたい」と言うてはります。ほんなら、まず「眼剥いて」屁こかなああきまへん。うーん、ヨイショ、えらいこっちゃなあ。う一ん、ヨイショ、ぶう、ぼこぼこ、ぶう、ぼこぼこ。あ、出た出た。おお臭。なんでこう屁は臭いんやろ。
わてが「七割五分の保守」ならば、うろん「臭い」センセは零割零分の保守と違いますか。やっぱりエライ人のすることは、わてらと違うて、零割零分が七割五分を嗤うのですなあ。胡亂センセはエライ。あ、エライやっちゃ、エライやっちゃ、ヨイヨイヨイ。 
ここで三行開けるのは不潔な文體から遠退くためで、三行どころか十行開けたいくらゐ、いやいや、今囘は右の駄文だけを「番外」として掲載して「保守とは何か」と題する文章を休載したいくらゐだが、不潔な駄文を敢へて冒頭に掲げたのは、「頭の惡う」ない讀者には、狐饂飩批判として充分に通じるかも知れぬと思つたからである。馬鹿に借問するのは馬鹿だと前囘書いたが、狐饂飩ほどの馬鹿を眞顔で批判するのは大馬鹿である。實は、昨夜、幇間の下劣な文體を眞似、狐を「おちよくる」文章を、隨分苦勞して、四百字數枚分も綴つたのだが、けふ大阪辯に詳しい友人に添削を乞うた處、所々間違ひがある、例へば大阪では「馬鹿念」とは云はない、それに何より、嘲弄が目的とは云へ、饂飩と同次元にまでなぜ成り下がるのか、斷乎反對であると云はれ、前夜の苦勞を思へば聊か未練はあつたが、潔く忠告に從ふ事にした。頭の良い讀者には右に活かした冒頭部分だけで充分な筈だから、以下は云はば蛇足である。だが、何せ蛇足だからさつばり氣が進まない。何の因果で狐饂飩如き大馬鹿の駄文の駄文たるゆゑんを論はねばならないのか。なぜ「月曜評論」の編輯人は歿にしなかつたのだらうか。
だが、この期に及んで愚癡を零しても仕樣が無い。始めるとしよう。まづ狐饂飩はよい年をして洟たれ小僧さながらの智能しか持合せてゐない。他者の言分や振舞が氣に喰はない時、大人なら通常氣に喰はない理由を述べるが、洟たれはそんな手間は掛けない。いきなり撲るか、撲る程でない場合は無意味な惡態をつく。例へば、私が小學生の頃は、「お前の父さん出臍」と囃して嫌ひな奴を揶つた。「お前の父さん」が出臍かどうか、錢湯で確かめた譯ではないし、父親が出臍である事が倅にとつての屈辱である道理も無い。だが、揶ふ餓鬼も揶はれる餓鬼も、道理なんぞには全くの風馬牛、取組合ひをやらかして、瘤を作つたり血を流したりする。前囘狐饂飩が書いた駄文は「お前の父さん出臍」と同質である。私が「太鼓持ちで幇間」と評したからとて、なぜ狐が「ヨイショ」の掛け聲を掛けねばならないか。「風呂の中で屁こいてる」と云はれ、「う一ん、ヨイショ、ぶう、ぼこぼこ、ぶう、ぼこぼこ」と私は眞顔で書いたのではない。眞顔で書いたら私は洟たれや饂飩の次元に墮ちる。生憎、私は洟たれ小僧ではない。「風呂の中で屁」と云はれて放庇するには「力」を入れねばなるまい。それゆゑ「うーん、ヨイショ」と私は書いたに過ぎぬ。だが、さういふ凡そ下品で無内容の剽輕を本誌の讀者は喜ぶのだらうか。それなら私は本誌にもう書かない。洟たれの惡態を「番外」として掲載する程、「月曜評論」が墮落したのなら、何を書かうと無意味である。
狐饂飩は私の文章を毎囘讀んでゐると云ふ。けれども「頭が惡うて、中身がなんのことやらよう」解らないと云ふ。だが、「中身が解らない」のなら、私の西部批判に「力が入って」ゐるとかゐないとか評せる道理が無い。が、何せ洟たれ竝みの智能の持主だから、己が言分の歿論理に氣附かない。「中身がなんのことやらよう分」らないが、「力が入ってまへんのや。ま、言うたら風呂の中で屁こいてるみたい」と饂飩は書いた。相手の父親が出臍かどうか「よう分りまへん」のに、惡たれて喜ぶ餓鬼と寸分變りはしない。饂飩は老人だらうが、智能は惡童竝みである。「ズバッといわんと、うじゃらぐじゃら西部センセの惡口を言うて」とひねこびた洟たれは云ふが、今、論壇の提供する西尾西部批判の中に、私以上に「ズバッと」云つてゐる批評文が存在するか。私が久しく論壇の村八分になつてゐて「月曜評論」以外に書けないのは、名指して人を斬り「ズバッと云ふ」からである。
それにまた、正字正假名を用ゐないから西部は「保守と違ふ」などと、私はどこにも書いてゐない。「守旧と罵られるのを誇りに思うくらいでなければならない」と西部が「眼剥いて」書いてゐるから、それ程の覺悟でゐる者が略字新假名を用ゐるのは「漫畫」だと書いたに過ぎない。私は「進歩派」でも「革新」でもないが「保守」でもない。知識人やジャーナリストは、西部に限らず保守保守と氣易く云ふが、一體全體、何を保守するのが「保守」なのか。御先祖の流儀と云つても、「眼剥いて」保守し得るのは正字正假名くらゐである。狐饂飩とて褌は締めてゐまい。奥方も腰卷はしてゐまい。毛筆を用ゐ和紙に駄文を綴つてはゐまい。いやいや、褌腰卷毛筆に限らぬ、今日我々の用ゐる「ハード・ウェア」は、その大半が南蠻渡來だが、それでゐて「ソフト・ウェア」たる「和魂」だけは無傷、などといふ旨い話はあるものではない。前囘紹介した同志社の教師は冷暖房完備の教室には似合はない。森鴎外が手放しで讃へてゐる安井夫人にブラジャーやパンティーはそぐはない。さういふどう仕樣も無い事實の重みを、なぜ「保守派」は悟らないのか。「ハード・ウェア」の大半は南蠻渡來である。然るに西歐精神の精華たる合理主義は一向に根附かない。恐らく永遠に根附かぬであらう。
とまれ私が正字正假名を用ゐるのはそれくらゐしか保守する自信が無いし、何事も徒黨を組んでやらうとする當節、それが己れ一人でもやれる事だからである。それゆゑ、學生に正字正假名で書くやう強制した事は一度も無いし、「略字新かな」で書いてゐるから西尾西部が「保守」でないなどといふ愚な事を書く筈も無い。嘗て私は本誌にかう書いた。覺えてゐる讀者もあらう。
出齒龜こと池田龜太郎も、女湯を覗いた愉快や人を殺して後の虚脱感について日記に記すとなれば「正字正假名を用ゐ」て惡文を綴つた筈で、假名遣と人格もしくは文章の上等下等との間に凡そ何の關聯もありはしない。天皇制や改憲を支持する者が全て善良で、その綴る文章も勝れてゐて、天皇制や改憲を否定する者が全て性惡で、その綴る文章の全てが拙劣である譯ではない。同樣に、所謂「謝罪外交」を難じて略字新假名を用ゐる者もゐる。西部もその一人である。西尾もその一人である。略字新假名を用ゐる「保守派」とは甚だしい形容矛楯だから、その事についてはいづれ詳述するが、略字新假名で書くからではなくて頭腦の働きが鈍重だから、西尾も西部も粗雜な惡文を綴るのである。
然しながら、西尾や西部は狐饂飩ほど愚鈍ではない。いやいや、狐の駄文に匹敵する駄文を、私はミニコミ綜合雜誌新聞に見出した事が無い。愚鈍である事よりも遙かに罪は輕いものの、饂飩は今囘二つ無知を曝け出してゐる。いづれも字體の事である。第一に、江戸時代の版本にも、例へば「國」といふ略字や衣偏の神が用ゐられてゐるといふ事、第二に、ワープロやコンじユーターを使ふ限り、示偏の神樣は出したくても出せないといふ事。本誌の印刷は廣濟堂がやつてゐるが、示偏の神樣は廣濟堂にも無い。饂飩の駄文には、その廣濟堂に無い活字が多數使はれてゐるが、その爲に虚しい手數が掛り、本誌の中澤編輯人は「割増料金」を支拂つた筈で、さういふ事情を饂飩は知らない譯だが、「わてら無學なもん」のその手の無知は難ずるにあたらない。難ずるに價するのは編輯人の無知である。狐饂飩の文體を眞似て云へば、編輯者が字體の問題について無知だなどと、そんな事「あるんでっしゃろか。ま、言うたら四分の一はパーやんか」といふ事になる。編輯人が無知でなかつたら、狐饂飩の駄文は歿になつた筈である。門の間には太陽ではなくて月が出ないと駄目で、松原は「二割五分引きの保守」であるなどといふ無知ゆゑの見當はづれの難癖、それ以外に饂飩の駄文に何の取り柄があるか。實を云へば、私も今囘だけは「十割の保守」になつて、コンピューターを使はずに鉛筆で書き、狐饂飩なる愚者に物の道理なんぞ幾ら説いても駄目、「十割の保守」たり得る事を證據で示すしかないのだから、原文通りに印刷してくれとごねて、編輯人をきりきり舞させてやらうかと思つた。その意地惡はしない事にしたが、今囘の原稿は通常の分量に達してゐない。而も、私が原稿を送るのは常に締切間際である。あれほど愚劣な駄文を「番外」として載せたのだから、不足分は狐饂飩に頼んで穴埋めして貰つたらどうか。但し、私はもう饂飩の愚鈍は論はない。西部や西尾は今後も批判するだらうが、饂飩の次元にまで成り下がるのは願ひ下げにしたい。 
聊か愛想が盡きた
ところで、牛の涎のやうに續いた「保守とは何か」は今囘から暫く休載する。浮薄淺薄な「番外」の載る「月曜評論」に聊か愛想が盡きて、それが切掛けで「夏目漱石」の「下卷」も出さず、ミニコミなんぞに連載して、西尾西部ならまだしも狐饂飩如きを相手にする事の虚しさを痛感したし、昭和五十九年に出した「戰爭は無くならない」を書き直す事になつたからである。本誌に連載してゐる佐藤守と作陽大學の松元直歳とが、今こそ「戰爭は無くならない」を書き直して世に問へと、出版の宛ても無いのに頻りに云ひ、生返事をしてゐたのだが、大阪辯の指導を乞うた友人が心臓を病む病弱の身なのに、ワープロを使ひ「戰爭は無くならない」を入力し、そのフロッピーを屆けてくれたのである。物書き冥利に盡きる事で、それで忽ちやる氣になつた。折しも二十九日附の産經新聞正論欄に、大阪大學名譽教授の加地伸行が「教條主義やめ現實主義的妥協へ」と題する駄文を寄せてをり、「戰爭は無くならない」の冒頭で揶ふのに頗る好都合だから、加地批判から書き出さうと思つた。加地は本誌の執筆者だが、狐饂飩と異なりどこの馬の骨か知れぬ相手でないからいい。「細かいことごじゃごじゃ言わんと」仲直りせよとの饂飩の愚論と「現實主義的妥協」を勸める加地の愚論とは無論同質だが、加地はまさか「わてら無學なもん」とは云はぬであらう。
暫く休載する事になつて、私は陸上自衞隊えびの駐屯地の幹部自衞官十三名と福島高教祖の支部長に濟まないと思つてゐる。いづれも私が勸誘した譯でないのに、私と知合つたばかりに本誌を講讀してくれたからである。それで「ヨイショ」する譯では決してないが、えびのの自衞隊は實に見事な自衞隊で、餘りに見事だつたから續けて二度も押掛けたが、多分、「戰爭は無くならない」の中にその折體驗して感じた事どもを書く事になると思ふ。先述したやうに出版の宛ては無いが、上梓されたら、「夏目漱石」はよいが「戰爭は無くならない」のはうは是非是非買つて讀んで貰ひたい。 
 
羨ましき保守主義 / 松原 正

 

山村暮鳥といふ詩人がゐた。學生時代に、その暮鳥の、確か『土の精神』とかいふ詩集の初版本の序文を讀んで、頗る不愉快になつた事がある。貧乏しながら自分は詩作をつづけた、色々と惡事を犯した、萬引さへやつた、といふやうな事を暮鳥は書いてゐるのだが、當時の私にはなぜ不愉快な氣持になつたのかがよく解らなかつたし、また解らうと努力する事もしなかつた。が、今の私にははつきり解つてゐる。要するに暮鳥は謙虚であらうとして高慢に墮してゐたのである。萬引といふ破廉恥罪を告白できるほど自分は立派だといふ事が言ひたかつたのである。人間、謙虚になるのは至難の業である、おのれが謙虚になりえた事をたちまち誇りに思ひ始めるからだ。が、アウグスティヌスはこの至難の業を、至難の業であるとの意識も無しにやつてのけたのである。もちろん、神を信じてゐたからである。
謙虚は美徳であり傲慢は惡徳である、などといふ事が私は言ひたいのではない。何が美徳で何が惡徳か、さういふ事が判然としない時代に我々は生きてゐる。謙虚が人を不快にするのなら、謙虚は惡徳で傲慢が美徳なのかもしれないではないか。そこで我々は、やむをえず、處世術として中庸を選ばうとする。が、これは眞の解決にはならない。例へば私は共産主義者を相手に雜談を樂しむ事ができる。しかし、謙虚になる事など到底できはしない。チェスタトンは書いてゐる。
「異教の哲學は、美徳は平衡にあると主張した。キリスト教は、美徳は對立葛藤にあると主張した。(中略)たとへば、謙虚といふ問題を考へてみるがよい。單なる高慢と、單なる慴伏との平衡をどう取るか。普通の異教徒なら、かう答へたであらう。自分は自分自身に滿足してゐる。けれども傲慢な自己滿足に陷つてはゐない。(中略)かうして異教の解決は、誇り高くあることの詩も、ヘり下つてあることの詩も共に失ふことになる。だがキリスト教は、まづこの二つの觀念を分斷し、しかる後にその兩方を極端にまで押し進めた。ある意味では、人間はかつてためしのないほど誇りを高く持つぺきだつた。だが、またある意味では、人間はかつてためしのないほど身を低く持すべきだつた」
チェスタトンの言ふとほりである。當節の文學は「誇り高くあることの詩も、ヘり下つてあることの詩も」失つてゐる。「幼兒だけが喜ぶ」やうなリアリズム小説も、「自分自身さへ例外として除外すれば、この世の一切は惡だと考へる」ペシミスティックな文學も、ともに人間である事の眞の苦しみを描いてはゐない、ましてや人間である事の喜びは描いてゐないのである。「トルストイの意志を凍結させてゐるのは、何らかの行動を起こすことはすぺて惡だといふ佛教的本能である。ニイチェの意志を同樣にまつたく凍結させてゐるのは、何らかの行動を起こすことはすぺて善だといふ彼の思想である。二人は(中略)要するに十字路で途方に暮れたのだ」
チェスタトンの『正統とは何か』は彼の思想遍歴の記録である。が、チェスタトンはもちろんキリスト教徒である。したがつて彼の言ふ正統が何を意味するかは改めて言ふまでもないであらう。この世はともあれ魔法の世界であり、その魔法には何らかの意圖があり、その意圖は誰かの意圖に他ならず、その誰かは必ず存在する、といつたぐあひにチェスタトンは話を進めてゆく譯だが、彼の強烈な説得力によつて讀者はあるいはキリスト教に入信しかねまい。いかな天邪鬼も少なくとも一時キリスト教のシンパにはなるであらう。それはよい事であり、そしてそれがよい事であるならば、本書ほど見事なキリスト教入門書は滅多に無いと言つてもよい。
だが、矛楯した事を言ふやうだが、本書を讀んで私は、正統思想に支へられた保守主義の逞しさを羨ましく思ふと同時に、正統とは何かについての一般的了解の無い我國における保守主義のありやう、あるいはその難しさについての日頃の信念は搖がなかつたのである。チェスタトンは書いてゐる。「あらゆる保守主義の基礎となつてゐる觀念は、物事は放つておけばそのままになつてゐるといふ考へかたである。ところがこれが誤りなのだ。物事を放つておけば、まるで奔流のやうな變化に巻きこまれるに決つてゐる。たとへば白い杭を放つておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいといふのなら、いつでも何度でも塗り變へてゐなければならない――いふことはつまり、いつでも革命をしてゐなければならぬといふことなのである」
そのとほりである。だが、杭の色は白に限ると誰がきめるのか。また、いかなる根據にもとづいてきめるのか。チェスタトンにとつてはそれは自明の理である。が、我々にとつてはさうではない。日本の保守主義者は進歩主義者と民衆に諂ひ、白い杭を次第に赤に近づけようとしてゐる、もうずゐぶん桃色になつて來てゐる。そして白い杭を白いままに残さうとしてゐる者は頑迷固陋の右翼として憫笑されるだけの存在となつてゐるのである。
但し誤解無きやうに願ひたい、私は右翼の思想を讚美したがつてゐるのではない。皇國史觀の正しさを無條件に認めてゐるのではない(かういふ事を改めて斷らなければならぬ事自體が頗る日本的であるが)。ただ、所謂進歩的文化人の如く安手のヒューマニズムに醉拂ひ、醉眼朦朧とした目付でチェスタトンを讀んでもらつては困る、といふ事が言ひたいのである。例へば、チェスタトンのニイチェ批判は痛烈であつて、私はもちろん同感である。が、同時に私はニイチェを支持する。つまり、ニイチェの毒氣にあてられた事のないキリスト教徒や進歩派を私は信用してゐないのだ。人はまづニイチェの、例へば『善惡の彼岸』を讀むべきである。が、それだけでは足りない、ニイチェの毒氣に充分あてられてから、チェスタトンを讀まねばならない。
とまれ、本書を虚心に讀むならば、讀者は實に多くの事を教へられるにさうゐない。それまで自明の理と思込んでゐた事柄をさへ疑ふやうになるにさうゐない。それだけは確と請け合つておく。もちろん、譯文も頗る明快であり名文である。 
 
「たけくらべ」論争

 

「たけくらべ」の最終場面における美登利の変貌の原因について少し思うところを書いてみたい。この変貌原因をめぐっては論争がある。
それまで、お転婆で愛らしく活発な少女だった美登利が、突然その元気を失う理由について、従来、学界で定説とされていたのは、美登利が初潮をむかえたから、という説明だった。それに対して、初潮程度であの美登利が変貌するわけはないだろう、変貌の理由は、美登利が初めて客をとって処女でなくなったからだ、という説が出された。変貌した美登利の描写の一部に、「たけくらべ」においてしばしばあらわれる源氏物語の見立てがやはり組み込まれていて、それは若紫が光源氏によって処女を奪われた直後の描写に照応しているという指摘も、美登利の処女喪失=初店説の有力な根拠となっている。
しかし、「たけくらべ」を読む限りにおいて、初店説に対して私は違和感を感じる。その一番の理由は、漠然としているのだが、美登利が初めて客をとったのだとすれば、そういう事実を読者が感じられるような叙述がもっとなされてもよいと思える。むろん、これだと、単なる個人的印象の域を出ない。でも、それが一番の理由である。
それ以外にも理由がある。変貌の日以降の毎日を、美登利は吉原の郭内ではなく、廓外の親元(母親の住み込みの職場でもある)で生活している。初店説を採るとすると、美登利は初めての客をとったその日から遊女としての生活を開始したはずである(一日限り遊女の真似事をさせられて、そのあと放っておかれている、というのは不自然な話だと思う)。遊女生活を始めた美登利は廓内へ移らなくてはいけない。それとも、当時、廓外からの通いの遊女って形態がありえたのだろうか?(たぶん無いのでは?) 「たけくらべ」を読むと、その頃、美登利が遊女屋である大黒屋に行くのは、そこで遊女をしている姉に「用ある折」だけだ。つまり美登利が遊女として働きはじめた痕跡がまったくみあたらない。というか、遊女としての生活がまだスタートしていないのはほぼ明らかではないだろうか。
しかし、初潮を迎えた美登利は、自分が遊女となる日のくるのを現実のものとして感じ始めたのだろう。あるいは、すでに指摘があるようだが、初潮があったことをきっかけに、この日、美登利の遊女デビューについて大黒屋との間で契約が成立し、その日程も具体的にかたまったのかもしれない。さらに想像をたくましくすれば、大黒屋の得意客のなかの裕福で遊び慣れたオジサンたち(「銀行の川様、兜町の米様もあり、議員の短小さま」たち?)の誰が美登利を“水揚げ”するのか決まっているのかもしれない。
初店説の論拠のひとつとして紹介した源氏の見立ての問題も、すでに客をとった後の美登利にではなく、遊女となって客と寝る自分の姿が、目の前にせまった現実として思い描けるようになってしまった美登利に対して用いられた、と解釈することは可能だろう。
にわかに迫った遊女デビューの日(そして、その日からは程遠くないであろう金銭づくの処女喪失の日)までの残された日数を数えながら、美登利は「何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事ばかりしてゐたらばさぞかし嬉しき事ならんを、ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このように年をば取る、もう七月十月、一年も以前へ帰りたいに」と嘆いているのだろう。
美登利がもしすでに客をとっているのなら、ここはこうした“駄々”ではなくて、もう少し開き直った、諦念めいた思いを吐くのではないだろうか。
それはそうと、歴史研究者としての自分にもどると、吉原の遊女に関する歴史研究はほとんど手つかずのように思える。主に遊客の視点に立った風俗研究は多い。また最近になって遊女屋を主な分析対象とした研究がいくつか出されるようになった。しかし、吉原の遊女を対象とした研究、遊女の視点に立った研究はあまりなされていないように感じられる。史料的な困難があるのは当然のことだろうが、遊女の存在形態などについての研究成果が蓄積されれば、歴史学の分野から「たけくらべ」論争に対しても何らかの有益な見解を示すことができるように思える。
たけくらべ論争とは、物語の終盤になってそれまでの元気をすっかり失ってしまった主人公・美登利の変貌の理由をめぐる論争だ。初潮説・初店説が主で、他に検査場説なんていうのもある。
初店説(と検査場説)は不成立
まず、単純な初店説が成立しないことだけは確かである。初店説というのは、吉原で娼妓デビューしたことが原因で美登利は変貌した、という説である(ただし、ここで私が否定しているのは、正式な娼妓デビューを想定した初店説である。佐多稲子が主張する秘密裡の違法な初店の可能性は否定できない)。
初店説否定の理由は、美登利が14歳であることと、廓外に住み廓の内外を自由に行き来していること、の二つである。
当時の法律では、16歳未満での娼妓就業は禁止されていた。また、娼妓は廓内の遊女屋に住むことが法律で義務づけられていて、美登利のように廓外に住むことは認められていなかった(なお、この廓内居住の義務は、法律ができる以前から、吉原の営業独占を守るための最重要の掟としてあった)。
そんな法律なんか、私たち読者は知らないぞ、って思うかもしれないが、『たけくらべ』が書かれた当時の読者の多くはそれを知っていた可能性が高い。
さらに、娼妓就業の年齢制限については、作者の一葉自身が、わざわざ正太に「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、今では・・・」という流行節を歌わせることで、読者にその存在を明示している。
また、当時の吉原の娼妓が廓内の遊女屋に囲われて暮らす境遇にあったことは、昔も今も常識であろう。ところが、美登利は変貌後もなお家族と共に廓外に住み続け、廓内の遊女屋へ引っ越したりはしていない。そして、そんな美登利が廓内の大黒屋へときどき出向くのは、そこで娼妓として働いている姉に「用ある折」だけだ、とこれまた一葉がはっきり書いている。
したがって、正式な娼妓就業はもちろんのこと、16歳未満での見習い奉公開始というケースも併せて、いずれにせよ、売られた美登利が吉原で働き始めた、とするこれらの読み方は無理なのである。
つまるところ、初店説の可能性は作者の一葉によって完全に否定されているといってもよい。
初店説を主張する人のなかには、美登利は年齢を詐称して働き始めた、という苦し紛れ(?)の仮説を立てる人もいるらしいが、それは無意味である。たとえ、それで年齢制限の問題をクリアできたとしても、美登利の廓外居住という事実がある以上、初店説はやはり不成立だからである。
したがって以下は蛇足になるが、年齢詐称の想定自体も困難であることを指摘しておこう。
どこか遠い地方から吉原に来たばかりの身寄りのない娘ならいざ知らず、いまだに地元の小学校に在学中で、界隈ではいっぱしの有名人である美登利が、年齢を詐称し通して所轄の警察署から就業許可を得るのは無理である。そんなリアリティのひとかけらも無い設定を一葉がしたとは考えられない。
これで、一般的な初店説については明確に否定できたと考える。ついでにいえば、美登利の変貌の原因は、初店直前に受けた身体検査だという主張=検査場説(初検査説)も、直近の初店が不可能である以上、これまた不成立である。
一葉の“企み”?
一方、佐多稲子が提唱する、秘密の初店説は成立可能である。ただし、こうした秘密の初店などというアクロバティックな読み方を、一般の読者が自力でおこなうのは難しいという気がする。したがって、もし一葉の真意が、佐多の指摘どおり、秘密の初店にあるのならば、当然一葉は、多くの読者の“誤読”を予想しながら作品を書き上げたことになるだろう。そんな一葉の“企み”を想定して『たけくらべ』を読んでみるのも、また面白いとは思う(こうした“誤読”を誘う一葉の“企み”については、この記事につけたコメントのうち、二番目の2005年1月12日付のコメントと、六番目の2005年3月21日付のコメントもご覧ください)。まあ、正直、初潮説で読むのが一番素直かな、という気がするのだが・・・。
続・たけくらべ論争
以前、いわゆる「たけくらべ論争」についての記事を書きました。いまだにアクセス数の多い記事です。先日、そちらの記事にコメントがありました。
「たけくらべ論争」とは、樋口一葉の小説『たけくらべ』のヒロインである少女、美登利が、物語の終局、酉の市の日を境に、それまでの活発さを失って、まるで別人のようにおとなしくなってしまったことの原因をめぐる論争です。美登利は吉原で娼妓となる宿命の少女ですが、論争は、主に、美登利変貌の原因を初潮とする説と、初店(=初めての売春)とする説との間で繰り広げられてきました。そもそもは、通説である初潮説をとる著名な文学者の前田愛に対して、これまた有名な作家である佐多稲子が初店説をぶつけたことで論争が始まりました。
私がこの論争に興味をもったきっかけやら、初潮説・初店説についての私見はこちらの記事をご覧ください。
で、今回、いただいたコメントとは、実は初潮説・初店説の双方を否定する説=初検査説というものがある、というご教示でした。そのコメントで紹介された文献を今日やっと読むことができましたので、お礼かたがた、感想を書いてみます。
とはいえ、私の結論としては、初検査説はちょっと難点が大きすぎるということになってしまいましたが・・・。
以下が、その感想です。
初検査説(検査場説)とは
上杉省和「美登利の変貌」(『文学』56、1988.7.)と、近藤典彦「「たけくらべ」検査場説の検証」(『国文学解釈と鑑賞』70-9、2005.9.)を読みました。まず上杉論文が美登利の変貌原因=初検査説を提唱し、近藤論文が再主張するという内容でした。近藤論文は題目で「検証」をうたっていますが、実際のところ、客観的検証作業をしたものではなく、初検査説の再主張といった体裁でした。
初検査説のおおまかな内容は次のとおり。当時、吉原遊郭の娼妓、あるいは新規に娼妓となる者には、遊郭に隣接した検査場での性病その他の検査が義務づけられていた。娼妓デビュー直前の美登利は検査場で初検査を受けたが、そのショックで、それまでの活発さを喪失した。以上が初検査説です。
この初検査説の主張の根拠は、おおよそ次のとおり。1初潮説・初店説ともに問題がある。したがって、初潮・初店以外の変貌原因が存在する。2変貌した美登利が目撃された場所は検査場の近くである(検査場の方向からやってきた美登利に友達が会ったところ、その様子が変だった)。3美登利に思いを寄せているその友達正太が、美登利に会う少し前、彼女を探しに出るときに口ずさんだ流行ぶしは、ある一部分がとばされている。その部分とは、ちょうど、検査を受ける娼妓のつらさを歌った部分である。これは、一葉が美登利の身上に起きていることを暗示するために仕掛けたものである。以上が、初検査説の主な論拠です。
初検査説の難点
この初検査説はなかなか面白い説だとは思いますが、やはり難点があると思います。まず、初潮説・初店説を否定する際の論拠がやや薄弱です。たとえば、近藤氏を含む初潮説否定論者がしばしば「なによりの証拠」として注目するのは、当日夕方の美登利の母親の「風呂場に加減見る」行為です。当時、初潮だったら風呂には入らないはずだと。
しかし、この「風呂」の準備が美登利ひとりのためだと断定する根拠は見当たりません。美登利一家が留守居をしている大黒屋(遊女屋)の寮(別宅)の「風呂」に入る、美登利以外の人物の候補として、美登利の母親・父親・大黒屋の主人・療養中の大黒屋の娼妓などなどが、可能性の大小は別にして、比較的容易に想定できると思います。したがって、風呂の件は、初潮説否定の決定的証拠とはなりえません。他の証拠も、これと同じように、解釈の仕方次第で無効となりうるように思います。
一方、初店説を否定する論拠として、初店(美登利の初売春)がおこなわれる時間が無いという点を上杉氏は指摘しています。変貌した美登利は「昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひ」で恥ずかしがっているわけだから、初店は変貌の当日におこなわれたことになる。だが、美登利の朝からの行動を追うとそのような時間的余裕は無いと。
しかし、佐多稲子氏が主張するとおり、初店が昨夜遅くのことであれば、問題はなくなるのではないでしょうか。「昨日の美登利」とは、昨日の日中までの美登利だと解釈しても、そんなに問題はないと思います。
それはさておき、そもそも、初検査説が抱える最大の難点は、上杉氏・近藤氏の主張に反して、美登利が物語の最後まで正式な娼妓デビューをしないことです。
明治22年の貸座敷引手茶屋娼妓取締規則では、16歳未満の者が娼妓になることは禁止されています。また、娼妓は「貸座敷内」つまり遊廓の遊女屋内以外の場所に住むことを禁止されています。遊郭内居住の義務は、こうした規則ができる以前、江戸時代から、遊廓の営業独占を維持する手段として重要視された、吉原内部の決まりごとでもありました。
美登利の年齢は、作品中に明記されているとおり、14歳です。小学校の最終学年としてまだ学校に通っている美登利(2007/6/10付記:「最終学年」は間違いで、美登利は最上級生信如のひとつ下の学年でした)を正式に娼妓デビューさせることは、ふつう無理です。
また、変貌の日以降、少なくとも物語のラストまで、一貫して美登利は遊廓吉原の外で暮らしています。これも、美登利がまだ娼妓となっていないことを示しています。検査期間に注目すると、娼妓は1週間に1回の検査が義務です。つまり、美登利が初検査を受けたのなら、それから1週間以内に廓内に移り娼妓デビューしないと、検査を受けた意味がなくなるのではないでしょうか。ふつうに考えると、検査後、1週間をまたず、早々にデビューするのが自然なように思えます。ここで変貌の日から物語のラストの水仙の朝まで、どのくらいの日数がたっているのかを確定するのは難しそうですが、さびしがっている友達からの遊びの誘いに対して、美登利が「今に今に」という「空約束」を「はてしなく」繰り返しつつ、その変貌ぶりが町の人々の噂にまでのぼり、例の水仙の朝のラストにいたる、といった展開からは、この間、決して少なくない日数が経過しているかのような印象を個人的には受けます。もし、変貌の日に、娼妓デビューのための検査を受けたとすると、その後、物語のラストにいたってもなお続く美登利の廓外居住は不可解です。
まだ14歳であるにもかかわらず、美登利が娼妓デビューのための直前検査を受けたと主張する上杉氏や近藤氏は、その論拠として、『吉原大全』(上杉氏)、『北里見聞録』・『広辞苑』(近藤氏)の記述を引用しています。これらの文献では、娼妓デビューを「新造出し」「突出し」などと表現しています。そして、そうしたデビューが、13、14歳、あるいは14、15歳でおこなわれたとこれらの文献には書かれている。したがって、14歳の美登利が娼妓デビューすることになったと考えてもよいだろうというのです。
しかし、わざわざ指摘するまでもなく、『吉原大全』は明和年間、『北里見聞録』は文化年間の文献です。残る『広辞苑』の記述がはたして論拠になりうるのかどうか疑問ですが、おそらくは、『吉原大全』や『北里見聞録』などの江戸時代の文献にもとづく記述でしょう。つまり、上杉氏や近藤氏が依拠するこれらの記述は、明治中期の吉原遊郭と娼妓についてはあまり有効ではありません。
結局、上杉氏や近藤氏が主張する、14歳の美登利の娼妓デビューは、もしそれが実現したとするなら、佐多稲子氏が言うような、秘密の(違法な)初店であると考える必要があるでしょう(しかし、上杉・近藤両氏とも、自分の主張する美登利の娼妓デビューが、そうした特殊なケースだという自覚はないようです)。
まあ、確かに、美登利のデビューがそんな秘密のデビューになってしまう可能性は否定できません。その点、佐多氏の初店説はなお有効でしょう。
しかし、初検査説にとってそれは致命的な難点となります。秘密裡のデビューであるならば、美登利がわざわざ検査場へ行って正規の検査を受けてつらい思いをする必要はないからです。
ここまで、初検査説に対する反証を挙げてみました。まとめると、1美登利は法的に娼妓デビューが可能な年齢に達していない。2美登利は廓外にずっと居住しているから正式な娼妓デビューにはいたっていないことが明らかである。3仮に正式なデビューではなく秘密裡の違法なデビューだとしたら、そもそも検査を受ける必要はない。  以上、1から3により、美登利が検査を受けたとは考えられません。
初検査説の可能性
それでは、初検査説が成り立つ可能性についても検討してみましょう。上記の反証で依拠しているのは、明治22年の娼妓取締規則です。仮に物語の年代設定が明治27年ぐらいだとしたら、それまでに規則が変更され、14歳の娼妓デビューが公認されている可能性もあります(ちょっとだけ私も規則変更に関わるような史料を探しましたが、見つかりませんでした)。逆に、物語の年代設定が明治22年以前であれば、なんとかなるかもしれません。ただし、今度は検査場の建設が明治22年であることがネックですね。
あるいは、『たけくらべ』はしょせん樋口一葉の創作の世界だから、14歳の正式デビューだって、初検査だって、何でもありえる、という読み方をしてみる。もしくは、一葉の吉原に対する知識が正確さを欠いていると考える。
うーむ、それはちょっと難しいかも。娼妓の就業可能年齢や廓内居住義務について一葉が知らなかったとは思えません。創作だから・・・というのなら、まあ、何でもありといえばありですが。 
 

 

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