勝海舟の時代

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[追加] 海舟談話山岡鉄舟・・・

雑学の世界・補考   

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勝海舟

勝安芳(かつやすよし、文政6年-明治32年 1823-1899) 江戸時代末期から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。
幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たる。家紋は丸に剣花菱。
10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。
李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。  
生涯

 

生い立ち
文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した。
曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。銀一は長男の忠之丞に御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えた。男谷平蔵の三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に婿養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。
幼少時、男谷の親類・阿茶の局の紹介で11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。
生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。
修行時代
剣術は、実父・小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟・島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の勧めにより禅も学んだ。
蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移る。 この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者・佐久間象山の知遇を得た。 象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。
長崎海軍伝習所
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むことができた。
その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も務めた。このときの伝習生には矢田堀景蔵、永持亨次郎らがいる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。
この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、後の勝の行動に大きな影響を与えることとなる。
渡米
万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節を米国へ派遣する。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米した。このとき、護衛と言う名目で咸臨丸もアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。 咸臨丸では軍艦奉行・木村摂津守が最上位であり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。
咸臨丸には米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長のジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳のジョン万次郎、木村の従者・福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。
福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長または大佐)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。
神戸海軍操練所
帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍・徳川家茂にしている。
勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。さらに、神戸海軍操練所も設立している。
後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。
勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという。勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。
長州征伐と宮島談判
慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰し、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功した。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。
駿府城会談と江戸城無血開城
明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると、対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻した。勝は、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると、幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
まず3月9日、山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては、江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士・益満休之助を説得して案内役にしている。 予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。
勝は交渉に当たり、幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスを利用した。英国公使のパークスを使って新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。
この作戦はナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている。この作戦を実施するに当たって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬とともに市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小にかかわらず調達、避難民のための食料を確保するなど準備を行っている。また慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。
この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあったことなどがその理由である。
明治時代
維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙された。
座談を好み、西郷隆盛や大久保利通を、その後の新政府要人たちと比較して語っている。
徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生のすべてを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。
勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官の伊東祐亨は、勝の弟子とでもいうべき人物だった。清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。。
晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している。その独特な大風呂敷な記述を理解できなかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。
晩年は、ジャーナリストを相手に自説を開陳するものの、子供たちの不幸に悩み続け、その上、孫の非行にも見舞われ、孤独な生活だったという。
明治32年(1899年)1月19日に風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。
墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。
人物

 

逸話
トラウマ
9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという。
福澤諭吉との関係
木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福澤諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。福澤はそれをただの船酔いだと考えていたようで、勝を非難する格好の材料としている。
海舟批判書状の『痩我慢の説』への返事
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています。)
咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の勝海舟はブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。
受爵の時
受爵の時の話を勝が亡くなった際に宮島誠一郎がこう話している。
「授爵の時は、伊藤サンから手紙が来た。勝が、御受けせぬであろうが、ドウゾ、君の尽力で、ススメてくれという事で。固より好まない事は知れているが、また固より受けても相当の事と思うから、行った。スルト、運動に出たという事でおばあさんが出てきて、断ったが、是非会って申さなければならぬことだからと言って、待っていたが、ドウしても還って来ぬ。ヤット十二時頃になって、今帰りましたということであった。それから、話すとイツモの調子ではなく、厳然として、その受けられぬ訳を答えた。真に、功もなく、恐れ多いというのだ。なかなかむつかしい。それで、これではイカヌと思って、コッチモ勝流をキメテ、ソウ言った。「勝サン、それはソウダガ、私は伊藤サンの使いだ。これが西郷ナラ、私も使いにはならんし、また自分で来るだろう。何しろ相手が伊藤サンだから、ソウイジメないでもイイではないか、モウこれで二時だが、ドウか受けて受けてくれ」と言ったら、ソレデようやくマトマッタ。」
なお、この明くる日の受爵に本人は行かず代理で済ませたようである。
亡くなった時の様子について
勝が亡くなる直前の様子について、長年女中を務めていた増田糸子がこう話している。
「あの日は、お湯からお上りなすって、大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか、今日だっけと、仰しゃっただけで、それからハバカリからお出になって、モウ褥の方へいらっしゃらず、ココの所へ倒れていらっしゃいますから、ドウなすったかとビックリしました。死ぬかも知れないよと仰しゃって、ショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが、間に合いませんから、ブランデーをもって参りました。油あせが出るからと仰しゃいますので、お湯はその時モウ落としてしまいましたから、あちらで取って参りましたから、それで一度おふきなすったのです。それで、奥さまに申し上げまして、コチラにお出でになりました時には、モウ何とも仰しゃらず、極く静かにお眠りでした。」
死に様
明治32年1月19日 「これでおしまい」と言い残し、眠るように死んでいった、とても静かな死に方であった。ちなみに勝海舟の奥さんは、自分が死ぬ時「私を勝海舟と同じ墓に入れないでください」と遺言した。死んでまで勝海舟と一緒にいたくなかったらしい。
語録
勝を望めば逆上し措置を誤り進退度を失う。防御に尽くせば退縮の気が生じ乗ぜられる。だから俺はいつも、先ず勝敗の念を度外に置き虚心坦懐事変に処した。
自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった
やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)
文明、文明、というが、お前ら自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。
敵は多ければ多いほど面白い。(勝自身も、生きている間は無論、亡くなってからも批判者が多いことは、十分に理解していた)
我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(訪米使節から帰還し、将軍家茂に拝謁した際、幕閣の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われての答弁)
ドウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾銅山の公害が明白になってもなお採掘を止めない政府に対して)
今までは人並みなりと思ひしに五尺に足りぬ四尺(子爵)なりとは(当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している)
コレデオシマイ (亡くなるときの最後の言葉。作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、勝のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している)
評価
日本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、理科系の教養に暗く、大言壮語する成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。
坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。
福澤諭吉の『痩我慢の説』は福沢の持論の立国論が根本にあるが、名指しで勝と榎本武揚を新政府に仕えた「やせ我慢」をせぬものと批判している。何度となく要請されても在野にあった福沢だが、同時に屁理屈や大言壮語、道理に合わない点は老齢となってからも受け付けなかった点もある(10分は水に潜っていられると友人に語った学生の言尻を捉えて洗面器をもってきて顔をつけさせ誤りを認めさせた等)。『福翁自伝』でも勝に批判的なことからウマの合う合わないの点も推察される。
死の3日後、氷川邸に勅使がきて勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。
幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム
著作
回想録として、吉本襄による『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。『氷川清話』は吉本襄が新聞や雑誌をまとめ漢語調や文章体であったものを口語体に統一した上で分類編集し書籍化したものであるが、底本とした原談話から吉本が歪曲・改竄している疑いのある個所も多い。江藤淳・松浦玲が編集しているものについては吉本が底本とした原談話と比較し歪曲・改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。特に『氷川清話』の『第一章 履歴と体験』この中には長崎海軍伝習時代や咸臨丸での太平洋横断、第二次長州征伐の講和談判、江戸城開城など幕末を語る勝の談話が多く載っているがこれに関しては底本となった原談話が少なく松浦玲も「校正の腕を振るいにくかった」と書いている。
一方、『海舟座談』は巌本善治による勝海舟筆記録で元は『海舟餘波』として勝死没直後の明治32年(1899年)3月に巌本が発行したものを昭和5年(1930年)に巌本自身が日付別に整理し『海舟座談』として文庫化したものである。勝本人からの巌本による聞き書きで勝の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることができる。ただし、時局に差しさわりのある発言は『海舟餘波』に載っていたものが『海舟座談』では削られてしまい一部は正反対の意味に書き換えられてしまっている。
こちらも江藤淳・松浦玲が編纂しているものについては『海舟餘波』などと比較した上で歪曲・改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。また氷川清話についての勝自身の言葉が巌本善治の『海舟座談』にある。
明治30年(1897年)10月6日の座談
「吉本襄が来て、新聞に出た此方のはなしを集めて、(『氷川清話』を)出版したいと言うた。たいそう困るから、そうさせてもらいたいと言った。勝手にしなさいと言うて置いた。」
この言葉に対し巌本善治が(「序文はお書きにならぬが宜しいです。新聞に出たのはたいてい間違っておりますから」)と言うと、
「ナーニ、目くら千人目あき千人だから、構いやしない。吉本はイイやツだよ。少し頑固だけれどネ。」と返している。
この巌本の言葉から吉本が元にした『氷川清話』の新聞記事そのものからして間違っており、さらにそこに吉本による歪曲・改竄が加わっているのだと考えられる。そのためそれを元にした『氷川清話』に勝の意志や談話が正しく反映されているのだとは言い切れない。同じく『海舟座談』の明治31年(1898年)10月23日の談話では続々氷川清話のことが載っている。
(「吉本襄がまた『続々氷川清話』を作るといってよこしました。私は、断りましたが、皆んなから、書いたものを集めるそうです」という巌本に対し)「そうかエ。もうよせばいいのに。前ので、もうかったということだ。尾崎が来てそう言ったから、確かだろう。少しも此方は関係しないのだが。この間も、二度ほど来たから、断わって返した。」
この言葉から『氷川清話」は著作というよりも勝のこれまでの談話が載った新聞や雑誌の記事を吉本が勝の許可を得た上で書籍化したのだろう。吉本の『たいそう困るから、そうさせてもらいたい』は吉本が金に困っていたということであり、その一年後の『続々氷川清話』についての勝の言葉「前ので、もうかったということだ」「少しも此方は関係しないのだが」からは『氷川清話』で吉本に多額の印税が入り続編が出ることになったこととその印税は勝の元には入らなかったであろうことがわかる。
膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。勝は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。また父・勝小吉も自伝『夢酔独言』(平凡社東洋文庫ほか)を書いている。
 
属国日本論 / 幕末・明治期編

 

日本は、イギリスの開国戦略に従って、倒幕から開国に到ったのである。
日本に開国を迫ったのは、幕末の1853年と1854年に来航したペリー提督率いるアメリカ合衆国インド洋艦隊である。
浦賀まで来たどころか、実際には江戸湾深く入り込んで、たびたび威嚇砲撃(ペリーとしては礼砲のつもり)を行なっている。「開国と通商交渉に応じないならば、実際に江戸城を砲撃し、陸戦隊を上陸させる。上海からあと10隻軍艦が来るぞ」と幕府の交渉役人を脅したのである。ペリー艦隊の軍事力で、江戸城は本当に崩れると誰にも分かった。当時は江戸城の裏まで海だった。
ペリーが、日本側を交渉の場に引きずり出して、上手に「友好条約」と「通商条約」を結ぶ過程は、『ペリー提督日本遠征日記』(木原悦子訳/1996年/小学館)の中にあますところなく描かれている。
変わることのない“日本に対する基本認識”
ペリーの航海日誌のきわめつけは、やはり次の記述であろう。これが全てを如実に語っている。
しかしそれでも、日本国内の法律や規則について、信頼できる十分な資料を集めるには長い時間がかかるだろうし、領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならないことは確かである。それに、なんらかの成果をあげるには、まず諜報員に日本語を学ばせなければならない。(『ペリー提督日本遠征日記』)
この「日本に諜報員(スパイ)を常駐させねばならぬ」という一文が、米日関係の現在をも、明確に規定している。現在の日本研究学者たちの存在理由もここにある。ペリーは何度も「日本人は(他のアジア人に比して)ずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術にたけている」と書いている。これはおそらく現在にも通じる我々の特徴であろう。
そして、この狡猾であるという日本観は、当時の外国人たちの共通認識であり、現在のアメリカの政治家や官僚たちの基本認識である。
日本はアメリカからこの30年間、貿易摩擦でヤイのヤイのと言われ続けである。日本はアメリカの要求に従って、世界基準にまでさっさと規制緩和と輸入自由化を達成しなければ済まないのである。
あれこれ非関税障壁を作ったままで外国製品の輸入を増やさず、その一方で自動車や先端工業製品の輸出ばかりやっていると、いつかひどい目にあうのである。つい6年前のバブル経済破裂こそは、「日本がどうしても世界のゆうことをきかないのなら」ということで、ニューヨークの金融界が仕掛けて日本の余剰資金(おそらく総額1千兆円)を奪ってしまった事態だったのである。  
アメリカ主導からイギリス主導への移行
日本に遠征艦隊を派遣して日本をねじ伏せて開国を約束されたのはアメリカだが、この直後、アメリカは南北戦争という大きな内乱内戦を抱えてしまって、1870年まで外交問題に手が回らなくなる。そこで、アメリカ主導からイギリス主導に移った。
イギリス全権公使のラザフォード・オールコック卿及びその後任のハリー・パークス卿と、その側近の外交官アーネスト・サトウの3人が、日本をどのような方向に持って行くかの青写真を1862年に作ったのである。
その30年前に、ヨーロッパは日本を学問的に真っ裸にするために、ドイツ人のシーボルトをオランダ商館勤務医として派遣した。シーボルトは医学を教えるのと引き換えに、弟子になった者たちを使って日本の事情の一切を調べ上げた。
1829年に帰国する際に、当時の最高の国家機密であった日本地図(伊能忠敬が実測して完成させたもの)を持ち出そうとして国外追放処分になっている。結局シーボルトが持ち出した日本地図の写しを、なんとアメリカ海軍のペリー提督がちゃんと持っていたのである。  
グラバーの役割とジャーディン・マセソン商会
全ての謎は1862年(文久2年)に集中して起こっている。この年に幕末維新史すべてにとって最大の秘密がある。
この年、品川御殿山に建造中であったイギリス公使館を、長州藩の過激派武士たちが襲撃して燃やしている。当時、日本から金銀が流出して激しいインフレが起こっていた。正当な商取引に見せかけて、結局は文明人の方が数段悪賢いわけだから、外国商人たちが日本商人をだまして巨利を得ていたのだろう。さらには日本を政治的にも乗っ取ろうとした。
この外国人どもを殺害(天誅を下す)しようとしていたのが長州藩の武士たちである。襲撃に加わっていたのは、その後「維新の元勲」と呼ばれた者たちである。高杉晋作、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)、久坂玄瑞、品川弥二郎らである。
ところが、それから半年後には、この伊藤博文(俊輔)と井上馨(聞多)の2人は、なんとイギリスに密航して、ロンドンに留学しているのである。実は彼らはすでに開国派だったのだ、という説になるのだろうか。
伊藤博文らは、18年後の1881年に再びイギリスに渡り、今度は「日本帝国憲法」をつくるための作業を行なっている。そして伊藤博文は、他の維新の元勲たちが次々と暗殺され、あるいは病死していった後の年功序列で、初代の総理大臣になった人物だ。この日本国家を代表した人物の経歴に分からないところがあるというのはおかしな話だ。
おそらく、伊藤博文や井上馨は、イギリス公使館襲撃の直後に、急激に思想大転向して、開国論に転じ、イギリス人(おそらくアーネスト・サトウ)に説得されて、イギリスの軍艦に乗せられてロンドンまで渡ったのだろう。藩を脱藩することでさえ死刑であった時代に、どうしてイギリスにまで渡ったのか。その旅費1万両は、長崎の商人グラバーが立て替えたらしい。
高杉晋作はその前年に、すでに上海まで行っているという記録が残っている。大村益次郎も上海に行っている。最もよく上海に行っているのは、五代友厚(薩摩藩士)である。
上海にあったのは、ジャーディン・マセソンという大商社である。この会社は現在でもイギリスで4番目ぐらいの大企業であり、中国の権益を握りしめてきた商社である。このジャーディン・マセソンの日本支店とでも言うべき商社がグラバー商会である。おそらく、彼らはすべてフリーメーソンの会員たちであろう。私は陰謀理論を煽りたてる人間ではないが、この事実は日本史学者たちでも認めている。この上海のジャーディン・マセソンが日本を開国に向かわせ、自分たちの意思に従って動かした組織だと、私は判定したい。 
長崎代理店・グラバー商会
グラバー商会が、上海のジャーディン・マセソン商会の日本の窓口であったことは明白である。グラバーは輸出用の再製茶業から長崎での事業を出発させたが、やがて武器と軍艦の取引が大部分を占めるようになる。(中略)
1970年8月、明治維新政府の誕生と同時に、グラバー商会はわずか10万ドルの負債を理由に倒産している。おそらく、ジャーディン・マセソン側が、統幕運動で果たした武器商人としてのグラバーの暗躍を重く見て、他のヨーロッパ諸国からの疑いの目をそらすために、グラバー商会を倒産させてイギリスの日本管理戦略をさとられないように、あとかたもなく消してしまったということだったのだろう。
その後、蒸気船のための石炭を採掘していた高島炭鉱をはじめ。グラバー商会の資産と経営は、最終的に岩崎弥太郎の三菱財閥に引き継がれている。明治維新と呼ばれた大変革期も、その実質的な原動力はこのあたりにあった。即ち、イギリス政府とジャーディン・マセソン商会の連携による日本改造計画の遂行であった。  
五代友厚・ジョン万次郎・坂本龍馬の動き
グラバーは1859年9月に上海から長崎にやって来た。65年には、五代友厚と森有礼をもロンドンに送り出している。
1862年8月には、薩摩藩が生麦事件を起こしており、翌年イギリス艦隊が薩摩まで懲罰攻撃に出かけている。このときに五代友厚は自ら進んでイギリス艦隊に藩船3隻とともに投降している。すでに話は、裏でついていたのである。だから薩摩藩は、このときからイギリス戦略に乗せられる。同年に四国艦隊下関砲撃が行なわれ、占領された。このとき実質的に下関は自由港と化して、幕府の統制と支配を脱して、商人や藩自身が外国商人とものすごい額の取引を行なっている。商船を相手に藩自らが金貸し業を行なって巨利を得て、これが統幕運動の資金となった。
あとひとつ注目すべき動きは、ジョン万次郎と勝海舟、坂本龍馬、後藤象二郎をつなぐ線である。ジョン万次郎は漂流漁民であるところをアメリカの捕鯨船に救けられ、アメリカ東部で英語の教育を受けたのち、10年後の1851年に帰国している。土佐藩に出仕したあと幕府の翻訳方として召しだされ、ペリーのあとのハリス公使との交渉の通訳として使われている。ジョン万次郎はおそらくハリスに、日本側の幕府の老中たちの密談の内容を知らせただろう。
60年に幕府使節が、条約の批准書を交換するために咸臨丸でサンフランシスコに渡ったときに、万次郎も幕府海岸操練所教授として加えられている。ここで勝海舟や福沢諭吉と同船している。
土佐で坂本龍馬はジョン万次郎に教えを乞うている。その紹介で、62年に江戸に上り、勝海舟の門を叩いたのである。63年には神戸に海軍操練所が開かれ、勝海舟が軍艦奉行となり人材を育成している。翌年、その行動が幕府に睨まれて操練所が閉鎖されたあと、坂本龍馬は子分らを伴って長崎で亀山社中(海援隊)を作っている。
脱藩浪人に過ぎない坂本龍馬らがなぜ長崎で海運業を行なえたか。ここもグラバーとジョン万次郎の線で支えられていたからだろう。坂本龍馬は、65年から資金的に困って薩摩藩に頼っていたので、対長州藩説得のためのエージェント(代理人)になっていたと解釈すべきだろう。
坂本龍馬は、薩長同盟(66年1月21日、京都の薩摩藩邸で、西郷隆盛と木戸孝允が合意した攻守同盟6カ条)を仲介した幕末史上の重要人物とされる。しかし、一介の脱藩浪士が何の後ろ楯もなしに、このような政治力を持てるだろうか。背後にはやはり、ジャーディン・マセソンとその日本対策班であったグラバー、それにイギリス外交官たちが控えていたと考えるべきである。  
アーネスト・サトウという日本研究戦略学者
66年6月には第二次長州征伐の最中に、フランス公使レオン・ロッシュと、イギリス公使のハリー・パークスが薩摩で会談して、日本をどっちが取るかで最後の火花を散らしている。薩長同盟が成立するためには、武器と戦艦を、薩摩藩名義で長崎で買って長州の下関に届けなければならない。前年の65年7月末に「胡蝶丸」で7千挺のライフル銃が長州に届けられた。65年12月には、坂本龍馬配下の上杉宗二郎が、武器を満載した薩摩藩名義の桜島丸(ユニオン号)を長州に運んでいる。
井上馨がこの件で木戸孝允(桂小五郎)に「ごほうびに上杉がイギリス行きする資金を藩から出してほしい」と働きかけている。66年1月に上杉は、長崎からグラバーの船に乗せてもらって出航しようとして海援隊の仲間たちに発見されて切腹している。どこか不思議な事件である。ちょうどこのとき、坂本龍馬は京都で西郷・桂と薩長密約を成立させている。
このようにグラバーの影がちらつく中で、軍需物資の長州への支援計画が着々と進んでいる。坂本龍馬が船艦を何隻も動かして、薩長両藩に対して軍事援助を何度も確約しているのは、背後にそれだけの戦略を練った人々がいたからだ。
サトウは、土佐藩の重役の後藤象二郎および藩主の山内容堂と協議したあと、船で長崎の方へ回っている。おそらく倒幕のための諸藩連合の、同盟関係の共同軍事行動の最後の確認に行ったのだろう。 
ジョン万次郎という男
実は、坂本龍馬や後藤象二郎が、土佐でジョン万次郎に会って話を聞き、「世界がどのようになっているか」を知ったその前年に、薩摩の名君で42歳になったばかりだった島津斉彬もジョン万次郎から話を聞いている。帰国の際、沖縄に上陸した万次郎は、鹿児島に46日間もとどめ置かれ、そのあと長崎奉行所で取り調べを受けている。
これは、ペリーが来航する2年前である。ジョン万次郎の帰国は、まるで、あらかじめ申し合わせたようなタイミングの良さである。このように、幕末期の重要人物たちは、ジョン万次郎という人物を中心につながってゆく。そして、彼が幕府に召しだされて通訳として江戸に行くにつれて、この人脈のつながりも移動してゆく、このとき、万次郎は「アメリカ・イギリスによる日本の開国戦略」を、これぞと思う人間には次々に打ち明けていっただろう。ここで、ジョン万次郎の系統の人間たちが、インナー・サークル(内部の秘密を知る人々)として形成された。
ジョン万次郎の動きが一番活発なのは、1865年(慶応元年)である。前年から薩摩に招かれて航海術を指導していたのだが、65年の2月には長崎にいて、土佐藩、薩摩藩、長州藩のための軍艦の購入の仲介をしている。その後、上海に2回、高杉晋作らを連れて行っている。
坂本龍馬は、1862年に勝海舟邸を訪ねている。おそらくジョン万次郎からの紹介状をもらって会いに行ったのだと、私は推測する。「自分は開国派のインナー・サークル(内部の秘密を知る人間たち)の一員である」と勝海舟に信じさせることができたことによって、この時から勝海舟に弟子入りできたのだ。そうでなければ、すでにこの時幕府の高官になっていた勝海舟が、坂本龍馬のような脱藩浪人というお尋ね者の危険な人物に気楽に会うはずがない。殺し屋である攘夷論者の過激派たちがウロウロしている時代に、わざわざ自分から簡単に姿を現すはずがない。よっぽどの人物からの紹介がなければ、自分の家に招き入れるはずがないのだ。
勝海舟は、その2年前に幕府使節の随員として咸臨丸でサンフランシスコに行ったが、その船にジョン万次郎と同乗している。勝海舟はこのとき、万次郎から世界の真実をたくさん教えられたことだろう。  
坂本龍馬の動きの背景
明治新政府の合議政体の青写真となったのは、坂本龍馬が書いた「船中八策」とされるが、このアイデアはアーネスト・サトウのものを下敷きにしたものである。
1864年7月の禁門の変で、クーデターを仕掛けた長州藩が京都から敗退した。その煽りで神戸の海軍操練所が閉鎖され、所長の勝海舟は疑いを持たれて江戸に戻された。そこで坂本龍馬は塾生を引き連れて船で薩摩藩へ行っている。これもグラバーやサトウの意向を薩摩側に伝え、最新兵器や船艦をイギリスがどんどん供給(軍事援助)するという内容の確認のためであったろう。そして、長州に対しても同様の援助をすることが話し合われただろう。
このあと太宰府にいた三条実美卿に会い、尊王攘夷派の公家の勢力を結集するよう説得している。このとき桂小五郎が既に藩内クーデターを起こして長州藩の実権を握っている。桂小五郎は西郷隆盛が薩摩から下関に出てきて、グラバーからの武器援助と秘密同盟の話に入ることを首を長くして待っていた。
坂本龍馬は桂小五郎とは江戸の斉藤弥九郎同情で14年前から知り合っている。このとき2人とも20歳ぐらいであった。桂小五郎は藩の責任者としてとにかく武器弾薬がほしかった。4カ月後には第二次長州征伐が始まるのだから、その準備で大わらわである。伊藤博文と井上馨が7千挺のライフル銃をグラバーからもらって薩摩藩名義の船で帰ってきたのはこの7月である。高杉晋作もこのあと帰ってきた。だから、この65年の5月の時点で、イギリス主導の薩長合作は実質的にできていたと考えるべきだ。
西郷隆盛はなかなか来なかった。いらついた木戸孝允(桂小五郎)は坂本龍馬と中岡慎太郎を怒鳴りつけた。このとき坂本龍馬は木戸孝允に「武器弾薬を積んだ蒸気船(武装商船)を一隻、長州藩に与える」という保証を与えている。いったい、坂本龍馬がなぜこのような発言ができたのか。  
育てられた親イギリス派の日本人
イギリスは坂本龍馬だけを工作者として使ったのではなく、五代友厚や伊藤博文をも別個に動かしている。前年8月の四国艦隊下関砲撃事件にしても、17隻の連合艦隊が一撃で長州藩の砲台を破壊して、陸戦隊を上陸させて占領したのである。フランス、オランダ、アメリカの軍艦と日を置いて交戦し、次々に砲台を占拠されている。それぞれたった半日の戦闘である。それぐらい日本の軍事力は弱かった。
この事件の講和交渉を進めるために、あわてて伊藤博文と井上馨がロンドンからイギリス軍艦で帰国している。この2人は交渉用の人材として育てられたのだから、そのために帰国させられたと言うべきだ。
薩摩藩の場合も、その前年の「薩英戦争」の処理のために五代友厚が育てられていたのだろう。イギリスはこの頃から日本人の若者たちを自国に招き寄せては、親イギリス派の人材として育成することを行なっていたのだ。
イギリスはアヘン戦争で中国を屈服させて開国通商させるときにも、親イギリス派の中国人の人材を育てておいてから武力を行使した。そしてその後の中国にイギリスが植民地(租界)を開いてゆく様子を、日本人の高杉晋作のような人物を上海に連れて行って見せたのだろう。 
兵器こそが薩長連合を成立させた
この下関砲撃の翌年の7月に幕府による第一次長州征伐があったのだが、この戦争も実態は小競り合いに過ぎない。長州藩の方が近代火力や軍艦の点で幕府側よりも強かったから負けなかっただけのことである。
このようにして、1865年には長州は坂本龍馬や伊藤博文を介してグラバーから船鑑弾薬を大量に受け取っている。この事実があってはじめて、翌年の薩長連合が成立したのだ。
このあとの第二次長州征伐の際に、高杉晋作が組織した奇兵隊が強かったのは、やはりイギリスの日本戦略に従ってグラバーが大量に上海から輸入した鉄砲大砲の類があったからだ。進んだ軍事技術の前には、旧式の鉄砲大砲は太刀打ちできないのである。
日本人は自分たちの力で国内改革をやってきたと思いたいだろうが、真実は、この幕末維新期でさえ、当時の世界帝国イギリスの描いたシナリオの通りに歩かされたのだとする方が正しいだろう。
この時期から日本はイギリス及びアメリカの支配下に入ったのである。そのことを明瞭に自覚していたのは、五代友厚(後に大阪堂島の商工会議所を開き、株式市場などの資本主義国としての経済制度を作っていった人物)と大村益次郎と坂本龍馬と伊藤博文と井上馨である。だから、彼らはインナー・サークル(本当の秘密を知る人間たち)であった。その周辺に公家の岩倉具視やら木戸孝允やら西郷隆盛やら、それに大久保利通と後藤象二郎がいた。  
最終段階で切り捨てられた坂本龍馬
坂本龍馬が襲撃され暗殺されたのは、翌67年旧暦11月15日である。寄宿していた京都河原町の近江屋という醤油屋で、中岡慎太郎と一緒に殺されている。
この前月の10月13日には、将軍徳川慶喜は「もう幕府はもたない」と自覚して先手を打って大政奉還を宣言し、翌14日に朝廷に奉請している。京都にいた40藩の代表を二条城に集めて、「自分がこのまま諸大名の頂点に立ち、諸侯会議という合議体制に移行させよう」としたのである。これに対して薩長の倒幕派は、公家たちを動かして同じ14日に、朝廷から「倒幕の密勅(秘密の勅許状)」をもらっている。これで薩長は一気に軍事クーデターを起こすことを決め、薩長出兵協定を結んで戦艦隊も関西に到着している。
この動きの中で坂本龍馬は殺されたわけだ。どうも坂本龍馬は、この武力倒幕路線に最終局面で反対しており、「幕府が諸侯会議を開くというのだから、それでいいではないか」という考えだったようだ。それでこの緊迫した時期にインナー・サークルからはずされたのではないか、とも考えられる。
既に坂本龍馬はイギリスにとっては切り捨てるべき段階に来ていた。67年4月には、高杉晋作も結核で死んでいる。  
大村益次郎と後藤象二郎
インナー・サークルのもうひとりの重要人物は大村益次郎(村田蔵六)である。大村益次郎は長州藩士だが、宇和島藩主・伊達宗城に招かれ、蘭学や兵学の教授となり、軍艦を建造したりしている。61年には上海に行き、長州藩のために武器弾薬を購入している。66年には長崎でグラバーから兵器を購入している。
大村益次郎は、かつて長崎留学生のときシーボルトの娘オイネとつき合っており、早い時期から「秘密の仲間」に入っている。軍監という司令官の役職について、68年1月、倒幕軍を率いて江戸攻めに向かう直前に、大村は長崎のグラバー商会に陸揚げされていたアームストロング砲21門を入手している。これは、この当時、世界最新鋭の強力な兵器で、これが鳥羽伏見の戦いの勝敗を決めたのだ。幕府軍は士気が上がらなかったので負けた、とふつうの歴史書には書いてあるが、そんなことはない。戦闘はより強力な武器を持つ方が勝つのだ。倒幕軍の総大将は西郷隆盛だが、軍事力を直接動かしたのは大村益次郎であって、江戸に入ったあとも、上野の彰義隊の抵抗をこのアームストロング砲で一気に片づけている。西郷隆盛も大村益次郎の戦闘指揮の前に頭が上がらなかったという。
政治の流れを大きく背後で動かしているのは、軍事力とそのための資金である。
一体グラバーの背後に、日本を属国にして管理していくためのどれだけの策略がめぐらしてあったのか。まるで日本人だけで、それも情熱に燃えた下級武士たちの力で明治維新ができたと考えるのは、底の浅い歴史認識である。
後藤象二郎は、五代友厚の仲介でグラバーから船を買ったり、オランダのハットマン商会からライフル銃を買ったりした。結局、これらの努力は翌年の68年の戊辰戦争に間に合って、薩長土肥の連合軍の中で重きをなした。この土佐商会の中にいたのが、後に三菱財閥を築いた岩崎弥太郎で、晩年のグラバーの面倒を見たのもこの岩崎である。現在の三菱グループが、世界企業戦略を持って大きくなったのも、このとき以来の人脈からだろう。 
伊藤らのイギリス再訪
以上のように、1962年という年を境に、討幕運動の内部に大きな連携のネットワークができたようである。
明治維新で本当の戦乱があったのは、68年の戊申戦争の半年間ぐらのもので、あとは散発的な殺し合いがあっただけだ。伊藤博文らは、1881年に憲法を作るために再びイギリスに渡り、ロスチャイルド家の世話を受けている。ロスチャイルド家は当時の世界中の最新情報を握っていただろう。大きな意味ではそこが世界の最高司令部だったのである。ロスチャイルドにしてみれば、極東の新興国の日本の場合は、誰を押さえておけば上手に管理できると“上からの目”で全て見透かしていたはずである。
ロスチャイルドは、「日本にはイギリスのような最先進国の政治制度は似合わない」として、プロイセン(プロシア)ぐらいがちょうど良いだろうと勧めて、プロイセンの憲法学者グナイストやシュタインを紹介する。このグナイストに家庭教師をしてもらって作ったのが明治憲法である。  
解説
こうして、鎖国を続けていたわが国に、イギリスの手によってついに「くさびが打ち込まれた」のです。もっと単刀直入に言えば「スパイが植えつけられた」ということです。私たちが幕末から明治維新にかけて文明開化の橋渡しをしてくれたと信じてきた人物たちの多くが、実はイギリスの奥の院に住む世界支配層(ロスチャイルド)の手先(グラバーなど)によって手なづけられ、操られたエージェント(代理人)だったということです。
徳川幕府に大政奉還を迫り、鎖国政策を解かせた力は、坂本龍馬や伊藤博文らを巧妙に操ったグラバーなどのイギリス商人たちだったことがよくわかります。そして、その手口は今日でもまったく変わりません。
「内部で争わせて、支配せよ」というのが彼らのやり方です。幕府側にはフランスが、薩長の側にはイギリスが武器や戦術の提供を行ない、あわよくば両者が激突して、ともにボロボロになることを期待していたのです。それは「大江戸炎上」という形で実現する一歩手前まで行きましたが、薩長側(官軍)の総大将・西郷隆盛と幕府側代表の勝海舟の会談によってどうにか避けられたのです。
しかしながら、その後に生まれた明治政府の中心となったのは、この2人ではありませんでした。それは密航してイギリスに行き、洗脳されて帰ってきた伊藤博文や井上馨らだったのです。坂本龍馬に至っては、倒幕の戦争を回避する策を口にしたために、何者かによって殺害されてしまいます。詳しい内容は、ぜひ『属国・日本論』を購入して深みにはまっていただきたいと思います。
このあと、日本は西洋の先進諸国を見習って急速に近代化を進める過程で、やがて日清戦争、日露戦争という2つの戦争を経験し、ついに第二次世界大戦へと導かれていきます。そこにも、政府や軍部に埋め込まれたエージェント(代理人)つまり、“世界支配層”の手先たちの、実に巧妙な活躍があるのです。首相を務め、中国への泥沼戦争のきっかけをつくった米内光政や、海軍の総大将として日本海軍を意図的に壊滅へと導いた山本五十六らの見事なスパイぶりには目を見張ります。
そして敗戦後の日本が、“世界支配層”によって完全に属国として扱われているのは言うまでもありません。現在の日本の政財界やマスコミなどに巧妙にばらまかれているエージェント(代理人)が誰なのかについてはある程度推測できますが、今日の日本の政治がそれらのスパイたちによって操られているのは間違いないと見てよいでしょう。  
 
明治維新と脱亜入欧

 

1.幕府の崩壊と新政府の成立
開国に踏み切った日本で、次の課題は、新しい政治体制の模索であった。
ペリー来航のとき、外国との応接の中心が徳川幕府であるべきことを疑うものはなかった。幕府の石高は800 万石といわれ(天領400 万石余と御家人ら300 万石余)、第二位の加賀前田家(102 万石)、薩摩島津家(77 万石)以下を圧していた。
それに多くの藩は経済的に疲弊して、余力はなかった。また彼らは、のちに述べる薩摩や長州などを除いて、長年の徳川氏支配の中で、その家臣としての意識を持つようになり、みずからの領土を自分で支配するという観念が希薄になっていた。
しかし幕府にも弱点はあった。石高は農業収入を基礎としたもので、江戸期を通じて発展してきた商業に対する安定した課税システムを持っていなかった。農業は江戸時代後半伸び悩み、幕府財政も、各藩同様、逼迫していた。
幕府の軍事力も、長年の平和の中で陳腐なものとなっており、新しい軍事技術が導入されればたちまちゼロからの競争になる運命にあった。しかも幕府の家臣には、平和になれて特権に安住する旗本・御家人が多く、新しい技術を獲得するための厳しい訓練を受ける意欲や柔軟性に乏しかった。
また幕府の正統性は脆弱であった。幕府が全国支配者であるのは、征夷大将軍に任じられるからであって、究極は朝廷による任命に依存していた。朝廷の家臣であることにおいて、将軍も他の大名も同輩であった。すでに述べた開国をめぐる混乱も、幕府が朝廷の勅許を得ようとして失敗したことから発していた。しかも征夷大将軍である幕府が、征夷ができないとき、その正統性は大きく揺らぐこととなった。
これに対し、薩摩と長州は、17世紀初頭の徳川氏の全国制覇において敗者となり、封土を削減され、多くの家臣団を抱え、困窮を耐え抜いて、尚武の気風を維持していた。
ところで、幕府首脳は譜代大名であり、小藩の藩主であった。外様の雄藩や親藩を排除して、幕府政治はなりたっていた。しかし、こうした有力な藩をも加えた挙国一致で対外危機に臨むべきだという有力な意見が存在していた。一橋派と南紀派の対立は、この点を焦点としていた。
伝統的な幕府中心の体制を維持しようとする井伊直弼が桜田門外の変で倒れたあと、さまざまな形で挙国一致体制が模索された。それは、幕府と朝廷の協力のもとに雄藩が参加する公武合体論として展開された。1862 年には、天皇の妹の将軍との結婚(和宮降嫁)、島津久光の建議による一橋慶喜の将軍後見職就任と松平慶永(越前)の政事総裁職就任が実現され、1864 年2 月には京都に一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城(宇和島)、松平容保(会津、京都守護職)、山内豊信(土佐)、島津久光(薩摩)8による参預会議が置かれるに至った。雄藩の中でここから排除されたのは、当時攘夷を鮮明にしていた長州だけだった。
しかし参預会議は内部対立から十分機能しなかった。権力の独占を維持したい幕府と、これに割り込みたい雄藩の政治的対立があり、貿易の利益を独占した幕府と、これに参入したい雄藩とくに薩摩との対立があった。
そのころ、新任のフランス公使ロッシュ(64 年4 月着任)は、ナポレオン三世の積極的な対外進出の一環として、幕府に接近し、これに対し、幕府の中には親仏派官僚が形成されていった。その結果、幕府は再び独自権力強化の路線に戻っていった。なおそのころ、イギリスは薩摩と接近していた。それは薩摩がより貿易の開放に積極的であり、また意思決定システムにおいて柔軟で果断だという判断からであった。9
幕府の親仏路線に対し、これを脅威と感じた薩摩は、幕府の二度目の長州征伐を前に、長州と接近して薩長同盟を結んだ(66 年3 月)。そして7 月から始まった戦争において、薩摩に支援された長州は幕府を撃退した。薩摩は上海から武器弾薬を密輸し、これを長州に提供した。中国がすでに開国していて、中国経由で西洋との貿易が可能であったという事実は、日本の明治維新のあり方に決定的な影響を及ぼしたのである。10
幕府の絶対主義強化路線と薩長の倒幕路線の中間に、もう一度浮上したのが、公武政体論や幕府雄藩連合体制論の流れを引く大政奉還論であった。その主唱者は土佐であって、幕府を廃止し、徳川氏は一大名となり、諸侯会議において国事を議するものとし、土佐も一定の発言権を持つことになるわけであった。
これが実現すれば、徳川家が中心となる体制が出来たであろう。徳川氏は、徳川慶喜という有能なリーダーを持ち、外国との交際の経験を持ち、実務能力を持つ官僚を持ち、フランスの援助を得ていた。67 年10 月9 日、徳川慶喜が大政奉還して、一大名となろうとしたのは、そうなっても国政をリードできる自信があったからである。また、土佐はその中で有利な地位を確保できるはずであった。
それは、薩長にとっては認められないことであった。徳川氏の存続を許すにしても、一度は軍事的に打撃を与えてからでなくてはならなかった。薩長は徳川に対する処罰を主張して、ついに王政復古に持ち込んだ。天皇の指導のもとに国政を行うという決定であった。
1868 年1 月3 日のことだった。
これを不満とする徳川と薩長の間で1 月27 日、戦争が起こった。緒戦は朝廷側が有利であったが、まだ戦争の行方は知れない段階で、徳川慶喜は兵を引き、江戸に戻り、以後、抗戦を放棄した。戊辰戦争と呼ばれる戦争は、この鳥羽伏見の戦いで始まり、1869 年6 月、函館の五稜郭の陥落で終わるが、徳川を中心として組織的な戦争は起こらなかった。つまり、事実上、一日で大勢が決してしまったのである。
徳川方に軍事的勝利の展望がなかったわけではない。しかし、長年の平和になれた日本人は、戦争の継続を好まなかった。徹底抗戦すれば、日本を二分する戦いとなり、日本が植民地化される恐れがあるという危惧が、徳川方にあり、徹底抗戦をためらわせた。また、すでに降伏しているものに対し、寛大な措置をとるのが日本の文化的伝統であり、それは薩長の側にも理解されていた。
イギリスが仲介したのも大きい。イギリスの目指すのは貿易上の利益であって、安定した秩序こそ望ましいものであった。江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の決断で決まったが、圧力をかけたのはパークス英国公使であった。
それにしても、それにしても、260 年の統治の実績を持つ徳川幕府の崩壊は驚くべきことであった。もっとも大きな違いは、薩長では伝統にとらわれない下級士族が藩政の中枢を掌握したが、幕府ではそうならなかったということであろう。その意味は、新政府のもとですぐに明らかになる。 
2.新政府の開国
薩長が指導する新しい政府は、当然、攘夷路線をとると思われた。福沢諭吉などは絶望的な気分でこれを迎えた。しかし意外なことに、新政府は攘夷路線をとらず、明確な開国路線をとった。
1868 年2 月10 日、新政府は外国との和親を布告した。戊辰戦争のさなか、各地で外国人との衝突が起こっていた。薩長の首脳は攘夷を不可能と知っており、これを戒めた。しかし、多くの人は、薩長は攘夷路線をとるものと信じており、この布告を意外とした11。
さらに天皇は4 月6 日、五箇条の誓文を発したが、その第四には、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」とある。その意味は広いが、中核的な意味は鎖国の否定、陋習の否定、そして開国であった。
新政府は、さらに各藩が地方に割拠する制度を改め、中央集権化をめざした。函館の五稜郭が陥落して戊辰戦争が終わってから一ヶ月もたたないうちに、1869 年6 月、版籍奉還を行って、藩主に行政権を返還させた。ただ、原則として藩主をあらためて知藩事に任命したので、大きな違いはないように見えた。しかし1871 年8 月には廃藩置県を断行し、藩を廃止して県を置き、その行政官としては中央から知事を任命し、これまでの藩主は東京に住むことを命じた。多くの西洋人は、これを革命だと感じた。奇跡だと考えた。
それが可能となったのは、多くの藩がすでに経済的に疲弊していたからであった。また、長年の幕府の支配のもとで、多くの藩において、自らの領地とのつながりが薄くなっていた。そして中央集権でなければ外国と対抗できないことが広く理解されていた。それにしても、これは意外な展開であった。福沢諭吉は、洋学を志した仲間とともに、「この盛事を見たるうえは、死すとも悔いず」と、叫んだと回顧している12。もちろん、これに反感を持ったものも多かった。薩摩の事実上の藩主であった島津久光は、廃藩置県を憤り、西郷や大久保を許さなかった。
1871 年11 月には、さらに、岩倉使節団が派遣された。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら、政府首脳の半ばを含む大集団が、一年半にわたって欧米旅行を断行した。革命直後の新政権が、長期に国を空けるなど、およそ常識では考えられない行動であった。それだけ彼らは欧米を見たいと考えたのであった。
そこから、彼らは西洋文明との巨大な格差を実感し、これに追いつくために全力を挙げなければならないと決意した。そして強兵よりも富国が重要であることに気づいたのである。
国内体制の整備において、注目すべきは徴兵令の制定である。政府は1872 年12 月、徴兵の告諭を発し、また73 年1 月、徴兵令を定めて、一般国民を基礎とする軍事力の整備を決定した。
新政府の指導者は武士であったにもかかわらず、またそれほど多くの兵力が必要だったわけではなかったにもかかわらず、この決定を行った。この方針を定めたのは、長州の大村益次郎であった。大村が1869 年末に暗殺されたが、その路線は長州の山県有朋によって引き継がれた。大村はがんらい村医者であり、また山県は下級の武士であって、奇兵隊に加わって戦った経験を持っていた。そして長州では、戦争のさなか、意外に武士が役に立たず、むしろ意識の高い一般庶民がよく戦うことを知っていた。
その後、政府は武士身分の廃止にまで進んだ。武士のための俸禄は、新政府の重い負担となっていた。まず、1873 年、秩禄(家禄と賞典禄)の奉還を奨励し、奉還する武士には一部を現金、一部を公債で支給した。さらに1876 年8 月、ついに金禄公債を発行して、家禄制度を廃止した。この間、廃刀令を発して帯刀を禁止した(1876 年3 月)。
これは重大な決定であった。武士層の身分的特権と経済的特権をともに廃止したのである。明治の前半、多くの反乱が起こったが、こうした急進的措置を考えれば、無理もないことであった。よく新政府の基礎が揺るがなかったと感じるほどである。
このように、江戸時代において、封建領主が割拠し、その頂点に幕府があった制度は根本的に変革された。まず薩長が幕府を打倒し、薩長の下級士族からなる官僚が、薩長を含む藩を廃止し、さらに自ら武士を廃止してしまったのである。この変革は、いずれも天皇の名において行われた。薩長官僚は、藩の威光ではなく、天皇シンボルをフルに利用して、この変革を行ったのである。13
このように、当初、尊王攘夷を掲げて出発した運動は、新政府において大きな変化を遂げた。政府は天皇の意思を尊重したりしなかったし、攘夷は開国となった。しかし、尊王というシンボルは、天皇を尊敬とするということではなく、中央集権ということであり、攘夷というのは外国人を排撃するのではなく、外国と並び立ちうる国家を作るということ
だったと読み替えることができる14。そしてその二つは、近代国家の内的特徴と外的特徴である。その意味で、明治維新は何よりもナショナリズムの革命であったのである15。
ところで、清国でも1860 年に北京条約を締結したのち、変革が始まった。1861 年3 月には、総理各国事務衙門を設置され、これまでの「夷務」も「洋務」とされた。ようやく外交を統括する機構が作られたわけである。
そして1861 年11 月、同治帝が即位し、西太后や恭親王が実権を握った。その中で、改革運動が始まる。同治中興であり、洋務運動である16。
同治中興は、「中体西用」といわれるように、西洋からの近代的な技術、とくに軍事技術を導入するとともに、経世儒学的な思想を強調した。太平天国の乱が鎮圧に向かったころから、曽国藩・李鴻章ら、この乱の鎮圧に成果を上げた官僚たちによって、ヨーロッパの技術の受容が開始された。とくに機械化された軍備を自前でまかなうために、上海の江南製造局に代表される武器製造廠や造船廠を各地に設置し、その他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが、新設された。
そのスローガンは、「中体西用」であった。伝統中国の文化や制度を本体として、西洋の機械文明を枝葉として利用するのだということが表明されている。中国の国力は日本をはるかにしのいでいたので、これらの改革は規模も大きく、時期も明治維新より早かった。
たとえば日清戦争以前、中国の北洋艦隊(北洋水師)は規模や質において日本海軍を上回りアジア最大の艦隊であった。
にもかかわらず、洋務運動は十分な成果を挙げなかった。
一つは担い手の問題であろう。洋務運動の中心は北京の政府ではなく、太平天国鎮圧の中心だった地方長官、李鴻章、左宗棠らであった。全国が一体として運動ではなかった。
当初、これらの企業は半官半民の官督商辨で、官が最小限度の監督をし、資金を出した商人が実権を握るというものだったが、これを支えるべき安定した銀行などがなく、恐慌が起こると官の力が強まり、徐々にこれを私物化するようになった。その結果、民間資金は集まらなくなった。
もう一つは「中体」というところにあった。中国最初の外交官としてイギリスに派遣された劉錫鴻は、西洋文明の充実に驚嘆した。しかし、帰国後、鉄道の建設に反対している。
墓地の風水を破壊する、などが理由であった17。要するに中国の場合、儒教が大きな障害になったというべきだろう。
これは福沢諭吉と大きな対象をなしている。福沢は、少なくとも明治の初めまでは、儒教倫理を徹底して排撃した。それが西洋文明受容の大きな障害であることを知っていて、その排撃に努めたのである18。 
 
武士道 1

 

武士道は、日本の武士階級に由来する思想です。日本史において、武士階級が政治上の実権を掌握した期間はおよそ600年の長きに渡ります。武士の思想は時代とともに変遷していますが、大きく分けると、鎌倉時代に始まる戦場における主従関係を基にしたものと、江戸時代の天下太平における儒教の聖人の道に基づいたものに分類できます。前者は、献身奉公としての武者の習いであり、後者は武士を為政者とする士道(儒教的武士道)です。武士道は、武士たる者の身の処し方としての「武士の道」であり、武士道関連の書物には、武士の「道」についての伝統が展開されています。その影響は、武士が政治の実権を握った時代のみならず、その前後の期間にも見ることができます。本章では、日本の武士道における武士の「道」を見ていきます。 
第一節 和歌

 

『万葉集』の[巻第三・四四三]には、武士と書いて「ますらを」と読む用法が見られます。〈天雲の向伏す国の武士(ますらを)〉とあり、天雲が遠く地平につらなる国の勇敢な男が武士なのだと語られています。また、[巻第六・九七四]には〈丈夫の行くといふ道そおほろかに思ひて行くな大丈の伴〉とあります。つまり、雄々しい男子の行く道は、いいかげんに考えて行くな、雄々しい男子どもよ、と謡われているわけです。『万葉集』において既に、〈武士〉という単語があり、武士道の前身となる道が「丈夫の行くといふ道」として謡われているのがわかります。
室町前期の勅撰和歌集である『風雅和歌集(1349~1349頃成立)』にも、「武士の道」を見つけることができます。[雑下・一八二三]に、〈命をばかろきになして武士の道より重き道あらめやは〉とあります。武士の道は、命よりも重いものだと考えられています。 
第二節 説話物語

 

日本の説話物語においても、武士道に連なる道を見ることができます。
『今昔物語集』には、「弓箭の道」が語られています。〈我弓箭の道に足れり。今の世には討ち勝つを以て君とす〉とあり、勝つことの重要性が説かれています。他には、〈心太く手利き強力にして、思量のあることもいみじければ、公も此の人を兵の道に使はるゝに、聊か心もとなきことなかりき〉とあり、「兵の道」という表現を見ることができます。〈兵の道に極めて緩みなかりけり〉ともあります。「兵の道」という言葉は、『宇治拾遺物語』にも見ることができます。
『十訓抄』には、〈最後に一矢射て、死なばやと思ふ。弓矢の道はさこそあれ〉とあります。また、〈弓箭の道は、敵に向ひて、勝負をあらはすのみにあらず、うちまかせたることにも、その徳多く聞ゆ〉ともあり、弓箭の道は敵に向って勝負を決するばかりではなく、多くのことに武芸は見られると語られています。
無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈武勇の道は、命を捨つべき事と知りながら〉という表現を見ることができます。 
第三節 軍記物語

 

軍記物語とは、平安時代末期から室町時代に至る武士集団の戦闘合戦を主題にした叙事文学のことです。その先駆的作品は『将門記』や『陸奥話記』です。編纂された時代の主従の道徳、情緒や献身、不惜身命の精神、家名と名を惜しむ武士のあるべき姿が、仏教、儒教、尊皇思想を背景に語られています。
『保元物語』では、「弓矢取る者」について語られています。〈弓矢取る者のかかる事に遭ふは、願ふ所の幸ひなり〉とあり、武士たる者が名誉の戦死に逢うことは、願うところであり幸いであると語られています。また、「兵の道」や「武略の道」という表現も物語の中に見ることができます。
『平治物語』では、「弓箭取り」や「弓矢取る身」などの表現が見られます。弓箭取りに関しては、〈弓箭取りと申し候ふは、殊に情けも深く、哀れをも知りて、助くべき者をば助け、罰すべき者をも許したまへばこそ、弓箭の冥加もありて、家門繁昌する慣らひにて候ふに〉とあります。つまり、武士は特に情け深く哀れを知り、助けるべき者を助け、罰すべき者も許し助けてこそ武芸に加護もあり、一家が繁昌することになると語られているのです。
『平家物語』では、仏教的な因果論が語られています。その中で「坂東武者の習」や「弓矢とる身」などの表現が見られます。坂東武者の習に関しては、〈坂東武者の習として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬きらふ様やある〉とあります。坂東武者(関東武士)の習わしとして、敵を目前にして、川を隔てた戦いに、淵だ瀬だと選り好みしていられるか、というわけです。
『太平記』では、儒教的な名文論が語られています。その中で「弓矢取る身の習ひ」、「弓馬の道」、「弓矢の道」、「弓箭の道」、「侍の習ひ」などの表現が出てきます。弓矢取る身の習ひに関しては、〈大勢を以て押し懸けられ進らせ候ふ間、弓矢取る身の習ひにて候へば、恐れながら一矢仕つたるにて候ふ〉とあります。大軍勢で押し寄せられたとき、弓矢取る身の習いとして一矢報いたというのです。弓矢の道に関しては、〈述懐は私事、弓矢の道は、公界の儀、遁れぬところなり〉とあります。恨みは私事で弓矢の道は公の道理で、これは避けられないことだというのです。また、〈今更弱きを見て捨つるは、弓矢の道に非ず。力なきところなり。打死するより外の事あるまじ〉ともあります。今更に弱いものを見捨てるのは、弓矢の道ではないと言います。そのときに力がなければ、討死する他の選択肢はないというのです。
歴史的な事実がどうあれ、軍記物語からは現実の武士が、武士としての規範を持っていたことが伺えます。そうでなければ、軍記物語において武士の理想が語られることはありえないからです。 
第四節 家訓

 

武士道に連なる道は、武家の家訓においても見ることができます。
第一項 北条早雲
北条早雲(1432~1519)は室町後期の武将です。
『早雲寺殿廿一箇条』は、早雲が定めたと伝えられています。この家訓に、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず〉とあります。「弓馬の道」は当たり前のことであり、記すまでもないと語られています。
第二項 黒田長政
黒田長政(1568~1623)は、安土桃山から江戸初期の武将です。
『黒田長政遺言』には、〈殊ヲ文武ノ道ヲワキマヘ、身ヲ立テ名ヲ上ント思フ程ノ士ハ、主君ヲ撰ビ仕ル者ナレバ、招カズシテ馳集ルベキ事勿論ナリ〉とあります。身を立て名を上げたいと思う武士は、主君を選ぶために招かれなくても馳せ参じるのだと語られています。戦国時代の主従関係を念頭においたもので、後代になると家訓にこれに類する文章は見られなくなります。
第三項 本多忠勝
本多忠勝(1548~1610)は、江戸初期の大名です。通称は平八郎です。
『本多平八郎書』では、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし。又、道に志し賢人の位にても、武芸を知らねば軍役立ず〉とあります。武士の道では道義が第一であるとともに、武芸も大事だと述べられています。 
第五節 甲陽軍鑑

 

『甲陽軍鑑』は、全20巻59品から成ります。内容は、甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されています。戦国乱世に形成された武士の思想が集大成されています。武田家は1582年(天正10年)に滅亡しています。
『甲陽軍鑑』の「甲」は、甲斐を意味します。「陽」は、万物が豊かに成長し、稔る意のことばで、「甲」を修飾しています。「軍鑑」は、戦いの歴史物語の意です。「鑑」には、歴史物語が世俗世界を映し出す鏡であり、後代のひとびとにとっての戒めであることが含意されています。
『甲陽軍鑑』の〔品第六〕では、〈若しこの反古落ち散り、他国のひとの見給ひて、我家の仏尊しと存ずるやうに書くならば、武士の道にてさらにあるまじ。弓矢の儀は、たゞ敵・味方ともにかざりなく、ありやうに申し置くこそ武道なれ〉とあります。もしこの『甲陽軍鑑』が散らばって他国の人が読むとき、自分の領国の武将を贔屓目に書いていたのでは、それは「武士の道」ではないというのです。合戦では、敵味方を問わずに、ありのままに述べ伝えるのが「武道」だとされているのです。
〔品第十三〕では、〈またよきひとは、各々ひとつ道理に参るにつき一段仲よきものにて候ぞ〉とあり、優れた武士はそれぞれ同一の道理に従うから、一段と仲がよいものだと語られています。
〔品第十六〕では、〈其故は法をおもんじ奉り何事も無事にとばかりならば、諸侍男道のきつかけをはづし、みな不足を堪忍仕る臆病者になり候はん〉とあります。たとえ掟であっても、不足なことでも堪忍するのは「男道」のきっかけを外すものとされています。〈男道を、失ひ給はんこと、勿体なき義也〉ということから、〈某子どもに男道のきつかけをはづしても、堪忍いたせとあることは、聊も申し付けまじ〉と語られています。
〔品第四七〕では、〈是は只の事にあらず侍道の事なれば、目安をもって信玄公の御さばきに仕られ〉とあり、ただ事ならざるものとしての「侍道」が語られています。 
第六節 兵法家伝書

 

柳生宗矩(1571~1646)は、江戸初期の剣術家です。徳川家康に仕え、徳川秀忠に新陰流を伝授しました。
『兵法家伝書』では、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり濁たる名を取也〉とあります。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人で、無道の人とは、道理をわきまえず、道理に反する人のことだと語られています。 
第七節 五輪書

 

宮本武蔵(1584~1645)の書に『五輪書』があります。宮本武蔵は江戸初期の剣法家で、二天一流兵法の祖です。『五輪書』は1643年(寛永20年)から死の直前にかけて書かれたと言われています。地水火風空の五大五輪にそって5巻構成です。
[地之巻]では、〈武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也〉とあり、武士における文武両道が語られています。武士と云えば死の思想ですが、武蔵は〈大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也〉と述べています。
宮本武蔵といえば兵法が有名ですが、〈武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ〉と述べられています。兵法を行う道では優れているということを基本とし、切り合いや戦に勝ち、主君や自身のために名を上げ身を立てるのです。そこでは〈何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也〉と言われ、役に立つという有用性の観点から論じられています。そのため武士の道では、〈兵具しなじなの徳をわきまへたらんこそ、武士の道なるべけれ〉とあり、道具類の大切さが説かれています。その中でも刀は特別で、〈我朝において、しるもしらぬも腰におぶ事、武士の道也〉とあり、日本では刀を帯びることが武士の道だと述べられています。
道全般については、〈其道にあらざるといふとも、道を広くしれば、物毎に出であふ事也。いづれも人間において、我道我道をよくみがく事肝要也〉とあり、自分自身の歩むべき道を磨くことが説かれています。
[水之巻]では、〈太刀の道を知るといふは、常に我さす刀をゆび二つにてふる時も、道すぢ能くしりては自由にふるもの也。太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひてふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也〉とあります。太刀の道について、太刀の扱い方が語られています。
[火之巻]では、〈我兵法の直道、世界において誰か得ん〉とあります。わが二天一流の兵法の正しい道をこの世において誰が得られようか、と述べられています。
[風之巻]では、〈おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也〉とあります。自(おの)ずから武士の道に入り、疑いなき心に至ることが兵法の教えの道だとされています。
[空之巻]では、「空」という概念が語られています。〈ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也〉と語られるところのものが、空です。その空が、〈武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也〉と語られています。武士は兵法の道をしっかりと覚え、武芸をつとめて行う道に後ろ暗いところなく、心の迷いなく、その時その時で怠ることなく、心と意を磨き、見ること観ることを研ぎ澄ました曇りなく迷いない境地こそが空だというのです。そこでは、〈直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、たゞしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也〉とあり、「空」と「道」が関連付けられて語られています。真っ直ぐを基本とし、実の心を道として兵法を行い、正しく明らかに偉大なものを思い取るのが「空」であり「道」だというのです。
また、宮本武蔵の『独行道』の中にも、道についての言及を見ることができます。〈世々の道をそむく事なし〉、〈いづれの道にも、わかれをかなしまず〉、〈道においては、死をいとはず思ふ〉、〈常に兵法の道をはなれず〉とあります。 
第八節 驢鞍橋

 

鈴木正三(1579~1655)は、江戸初期の禅僧です。徳川家康の家臣鈴木重次の長男として三河国に生まれています。
『驢鞍橋』には、〈古來先達の行脚と云は、師を尋ね、道を求め、身命を顧みず、千萬里の行脚を作も有〉とあります。古くから先達の行脚というものは、師匠を訪ねて道を求め,身体や生命を顧みずに長い道のりを行くことだとされています。 
第九節 士道

 

士道とは、為政者としての武士が守り行うべき規範のことです。武士道と比較すると、儒教からの影響が色濃く反映されています。
第一項 中江藤樹
中江藤樹(1608~1648)は『翁問答』で、〈主君をかへたるを必ただしき士道と定めたるも、また主君をあまたかゆるを正しき士道とさだむるも、皆跡に泥みたる僻事也。心いさぎよく義理にかなひぬれば、二君につかへざるも、また主君をかえてつかふるも皆正しき士道也。そのをこなふ事はともあれかくもあれ、只その心いさぎよく義理にかなふを、ただしき士道也と得心あるべし〉と述べています。主君を変えることを正しい士道と定めることも、主君を変えないことを正しい士道と定めることも間違っていると藤樹は言います。心が潔く義理に適えば、二君に仕えても主君を変えても正しい士道なのだとされています。心が大事なのであり、行うところが義理に適っていれば良いのだと考えられています。
第二項 池田光政
池田光政(1609~1682)は、備前岡山藩主です。儒教を重んじ、新田開発・殖産興業に努めました。
『池田光政日記』では、〈義を見て利を見ざる者は士の道なり〉とあります。士道では、利よりも義が大切だと語られています。
第三項 山鹿素行
山鹿素行(1622~1685)の説を門人たちが収録した書に『山鹿語類』があります。『山鹿語類』は1665年(寛文6年)に完成しています。泰平の世の武士のあるべき姿を、儒教道徳の面から「士道」として提唱しています。
士道は、『山鹿語類』の[巻二十一・士道]で語られています。
例えば、〈凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を盡し、朋輩に交て信を厚くし、身の濁りを愼で義を専とするにあり〉とあります。士の職分とは、自らを顧みて奉公に励み、友と厚く交わり、身を慎んで義につとめることだとされています。そこで、〈文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其教にしたがひ其本末をしるにたれり〉とあり、文が内心に充実し武が外形に備われば、三民(農工商)は士を師として貴び、その教えにしたがい物事の順序を知ることができるのだと語られています。〈人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出來るべき事也〉とあり、人が自分の職分を明らかにした段階において、その職分をつとめるためには道がなければならないので、ここで、道というものに対する志が出てくるのだと語られています。
道の志が出た場合は、〈外を尋ね学ぶと云ども、外に聖人の師なくんば、自立皈て内に省みべし、内に省ると云は、聖人の道聊しいて致す処なく、唯天徳の自然にまかせて至る教のみなれば、我に志の立処あらんには、事は習知て至るべく、其本意は推して自得するに在べき也〉とあります。道は外に師を求めて学ぶべきなのですが、聖人の道へと導いてくれるよき師がいないというなら、自らに立ち返って内面を顧みるべきだと述べられています。聖人の道というものは、強制してするというところは少しもなく、ただ天の徳にまかせて自(おの)ずから至る教えなのですから、自分が志を立てた以上は礼などの外形的なことは習うことによって身につけられるし、その本意はそこから推しすすめることで自得することができるとされています。そこで、〈〈我説く所の理更に遠からず離れるべからず、人々皆日用之間によって、而其心に快きを号して道と云、其内にやましきを人欲と云、唯此両般のみ也、日用の事豈に忽せにすべき乎〉と語られています。素行のいうところの理とは、特別に深遠なものではなく、身近なものであり、また、その人によるというものでもないのです。人はみなその日常において自分の心にこころよく感ずるものを道といい、心にやましく感ずるものを人欲とよんでいるというのです。要はただこの二つだけなのであり、日常の事をおろそかにしてはいけないのだと語られているのです。
第四項 荻生徂徠
荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』で、〈世上に武士道と申習し申候一筋、古之書に之有り候君子の道にもかなひ、人を治むる道にも成ると申すべき哉之由御尋候〉と述べています。武士道は、儒教における君子の道に適うというのです。
第五項 林鳳岡
林鳳岡(1644~1732)は江戸中期の儒学者です。
『復讐論』には、〈生を偸(ぬす)み恥を忍ぶは、士の道に非ざるなり〉とあります。士道は、死を覚悟し恥を雪(すす)ぐものだと語られています。
第六項 五井蘭洲
五井蘭洲(1697~1762)は江戸中期の儒者です。
『駁太宰純赤穂四十六士論』には、〈義なる者は、天下の同じうする所にして、その為す所や義に当らば、何ぞおのづから一道ありと為さん。苟くも義に当らずんば、則ちまた以て道と為すに足らず。これみな武人俗吏の談にして、士君子の辞に非ず〉とあります。武人の道には、義がなければならないと語られています。
第七項 村田清風
村田清風(1783~1855)は、日本の武士で長州藩士です。藩主・毛利敬親の下、天保の改革に取り組みました。
『海防糸口』には、〈夫生する者は死するは常なり、唯死を善道に守るべし〉とあります。生きとし生けるものは、すべて死を迎えます。その覚悟の上で、死において善なる道を守るというのです。また、〈道は太極の如し。二つに割れば文武と成、或は忠孝となる。陰陽両儀の如し〉ともあります。道は、文武・忠孝・陰陽というように両義的なものとして考えられています。  
第十節 葉隠

 

武士道といえば、山本常朝(1659~1719)の『葉隠』が有名です。『葉隠』は武士の奉公の心得を説いた書です。
[聞書一]には、〈その道々にては、其家の本尊をこそ尊び申候〉とあります。道々には、仏道・儒道・兵法などが挙げられています。道においては、自分の家の大切なものを尊ぶべきだと語られています。その道の中でも、武士道については、〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり〉という有名な言葉が語られています。〈二つふたつの場にて、早く死方に片付ばかり也〉というわけです。生きるか死ぬかの場面では、死を選び取るのが武士道なのだとされています。
常朝の語る道は、〈道といふは何も入れず、我非を知事也。念々に非を知て、一生打置かずを道と云也〉というものです。自分の非を知ることが道だとされています。ですから道は一生に関わり、〈只「是も非也非也」と思ひて「何としたらば道に可叶うべき哉」と一生探捉し、心を守て打置ことなく、執行仕えるべき也。此内に即道有也〉と語られています。一生の間、自らの足りないところを思い、どうしたら道に適うかと探し求めることが道として示されています。その道には、盛衰と善悪が分けて論じられています。〈盛衰を以て人の善悪は沙汰されぬこと也。盛衰は天然のこと也。善悪は人の道也。教訓のためには盛衰を以ていふ也〉とあります。栄枯盛衰は天然のことであり、善悪は人の道だとされています。栄枯盛衰によって善悪を言うことはできないとされています。ですから武士道においては善悪のために「死」の覚悟が求められ、〈武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也〉と語られ、士道についても、〈士道におゐては死狂ひ也。此内に忠・孝は自こもるべし〉と語られているのです。そこでは、〈何しに劣るべきと思ひて一度打向ば、最早其道に入たるなり〉という覚悟が必要とされています。
道は一生に関わりますから、〈修行に於ては、是迄、成就といふ事はなし。成就といふ所、其まま道に背なり〉と述べられています。修行においては成就するということはありえないと考えられています。成就するということは、道ではないというのです。そのため、〈我非を知て一生道を探捉するものは、御国の宝と成候也〉とあり、自らの非を知り、道を求める者は国の宝だとされています。ちなみに、ここでの国は佐賀藩を指しています。
[聞書二]では、〈武道は毎朝まいあさ死習ひ、彼に付、是に付、死ては見みして切れ切て置一也。尤大義にてはあれ共、すれば成事也。すまじきことにてはなし〉とあります。「切れ切て置」とは、死に心をはっきりきめておくということです。「すまじきことにてはなし」とは、できないことはないということです。つまり、武道では毎朝何事においても、死に心をはっきりと決めておくことで、大義を成すことができるというのです。できないことはないと考えているのです。
また、〈非を知て探捉するが、則取も直さず道なり〉とあります。自分の非を知り、探し求めることが道として示されています。人間は、その途上において死ぬというのです。  
第十一節 武道初心集

 

大道寺友山(1639~1730)は江戸中期の武士です。ほぼ同時期の『葉隠』と並び称される『武道初心集』の著者として知られています。『武道初心集』は主君や藩に対する奉公人の心構えを述べています。
『武道初心集』には、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候。死をさへ常に心にあて候へば忠孝の二つの道にも相叶ひ萬の悪事災難をも遁れ其身無病息災にして壽命長久に剰へ其人がら迄も宜く罷成其徳多き事に候〉とあります。武士は死を常に心掛けることが第一とされています。死を常に心掛ければ、忠孝の二つの道にも適合し、人格の徳も備わると考えられています。
そのためにも、〈武士たらんものは義不義の二つをとくと其心に得徳仕り専ら義をつとめて不義の行跡をつゝしむべきとさへ覚悟仕り候へば武士道は立申にて候〉と語られています。武士が義を行い、不義を行わなければ、武士道は立つというのです。義を行うことについては、上等な順に次の三種類が上げられています。〈誠によく義を行ふい人〉、〈心に恥て義を行ふ人〉、〈人を恥て義を行ふ人〉です。
また、〈武士道の学文と申は内心に道を修し外かたちに法をたもつといふより外の義は無之候。心に道を修すると申は武士道正義正法の理にしたがひて事を取斗らひ毛頭も不義邪道の方へ赴かざるごとくと相心得る義也〉とあります。武士道では、心の内に道を修め、外形において法を保つのだと考えられています。心に道を修めるとは、正しいことをし、不義へ進まないことだとされています。さらには、〈大身小身共に武士たらんものは勝と云文字の道理を能心得べきもの也〉と語られ、武士には「勝つ」という道理を心得ることが説かれています。
そして、〈武士たらんものは大小上下をかぎらず第一の心懸たしなみと申は其身の果ぎわ一命の終る時の善悪にとゞまり申候〉とあり、命の散り際におけるまで善悪の観念に留まるべきことが語られています。そのために、武士道にとって肝心なこととして、〈武士道の噂さにおいて肝要と沙汰仕つは忠義勇の三つにとゞまり申候〉と示されています。 
第十二節 水戸学

 

水戸学とは、『大日本史』の編纂事業を遂行する過程で水戸藩に起こった学問です。幕末には内憂外患のもとで、国家的危機を克服するための思想が形成されました。
第一項 徳川斉昭
徳川斉昭(1800~1860)は、江戸時代後期の水戸藩主です。会沢安や藤田東湖らを登用し、藩政を行いました。
『弘道館記』は、弘道館の教育方針を宣言した書です。藤田東湖が起草し、1838 年に徳川斉昭の名で公表されました。そこには〈弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざるものなり〉とあります。人よく道を弘むとは、人に備っている道は人の力によって世に行われるという意味です。それが、道を世に弘め行う力なのです。『論語』の[衛霊公]篇からの影響が見られます。
第二項 会沢安
会沢安(1782~1863)は、幕末の水戸藩士で儒者です。号は正志斎です。藤田東湖らと藩政を行いました。
『新論』には、〈詭術と正道とは、相反すること氷炭のごとし〉とあります。正道については、他にも、〈政令刑禁は、典礼教化と、並び陳(つら)ね兼ね施して、民を軌物に納れ、正気に乗じて正道を行ひ、皇極すでに立つて、民心主あり。民の欲するところは、すなはち天の従ふところなり〉とあります。政治上の命令や刑罰は、儀礼や教えに適うように施し、民を法度に納得させ、正気によって正道を行うべきだというのです。そうすれば、治世の大方針はすでに立っており、民の心は天の従うところだというのです。
『退食間話』には、〈中庸の語は道の立たる本を論ぜし詞なり〉とあります。また、〈父子あれば親あり、君臣あれば義あり、是皆天下の大道・正路にして、一人の私言に非ず。聖賢、上にあれば、政教を施して、道を天下に行ひ、下に在れば、言を立て材を育して、道を後世に伝ふ。道は大路のごとし〉とあります。親子は親しみ、君臣には義があるということは、天下の大道であり、一人が勝手に言っていることではないというのです。賢い人が高い地位にあれば政策や教育を施して天下に道を行い、低い地位なら言葉によって人材を育成して道を後世に伝えるのだと語られています。
第三項 藤田東湖
藤田東湖(1805~1855)は、江戸時代後期から幕末期の水戸藩士です。対外的危機に対し、国民的伝統たる正気を発揮して国家の独立と統一を確保すべきことを説きました。正気とは、忠君愛国の道義的精神のことです。
著作である『壬辰封事』には、〈中庸ノ道ト云ハ、万物ノ理ヲ尽シ、事ニヨリ品ニヨリ、夫々其理ノ当然ニ叶フテコソ中庸トハイフベケレ〉とあります。中庸の道は、万物の理によってそれぞれの理に適うことだと考えられています。 
第十三節 幕末の志士

 

幕末という激動の時代においても、幕末の志士たちは武士道を論じています。
第一項 横井小楠
横井小楠(1809~1869)は江戸末期の熊本藩士です。
『国是三論』には、〈元来武は士道の本体なれば、已に克く其武士たるを知れば、武士道をしらずしてはあるまじきを知り、其武士道を知らんと欲すれば、綱常に本付き、上は君父に事ふるより下は朋友に交るに至り、家を斉へ国を治るの道を講究せざる事を得ず〉とあります。武士ならば武士道を知るべきであり、武士道においては人との交わりを通じて、家を整え国を治める道を求めるべきことが語られています。
第二項 佐久間象山
佐久間象山(1811~1864)は江戸末期の学者です。初め朱子学を、後に蘭学を修め、西欧の科学技術の摂取による国力の充実を主張しました。
『省?録(せいけんろく)』には、〈行ふところの道は、もつて自から安んずべし。得るところの事は、もつて自から楽しむべし。罪の有無は我にあるのみ。外より至るものは、あに憂戚するに足らんや〉とあります。憂戚とは、うれえいたむことです。行くところの道は、自分が安らかになるべきであり、得られるところで自分が楽しむべきだとされています。罪は自身の内にあるのであって、外から来るものは気にするに及ばないのだと考えられています。また、〈ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自からその道のあるあり〉とあります。人情に通じて人を感服させられるなら、自(おの)ずから道があるというのです。
第三項 勝海舟
勝海舟(1823~1899)は、幕末・明治の政治家です。蘭学・兵学を学び、幕府使節とともに咸臨丸にて渡米しています。幕府海軍育成に尽力しました。また幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を実現しました。
『氷川清話』には、〈おれは常に世の中には道といふものがあると思つて、楽しんで居た〉とあります。また、〈主義といひ、道といひて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ〉とあります。それは、〈もしわが守るところが大道であるなら、他の小道は小道として放つておけばよいではないか。智慧の研究は、棺の蓋をするときに終るのだ。かういふ考へを始終持つてゐると実に面白いヨ〉という考え方によります。〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉というわけです。
第四項 西郷隆盛
西郷隆盛(1828~1877)は、薩摩出身の武士です。通称は吉之助で、号は南洲です。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新三傑の一人と称されました。征韓論に関する政変で下野し、西南戦争に敗れ、城山で自死し生涯を終えます。
『南洲翁遺訓』には、〈廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を撰挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり〉とあります。祖先を祭るという場所に立って政治を行うことは、天道に適うことであるので私心を挟んではならないと語られています。公平に正道を歩み、賢人を採用し職に合う人を選んで政治を行うことは、天意なのだと考えられています。そこで、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあり、事態の大小に関わらず、正道を歩み、誠を尽くすことが大事であり、はかりごとを用いてはならないのだと語られています。
西郷隆盛は、道は国家を超えた共通性を持つと同時に、国家の威信に関わるものと考えています。例えば、〈忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋と雖も決して別なし〉とあります。道は天地自然であり、すべてに関わるとされています。その神髄は〈文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳・衣服の美麗・外観の浮華を言うにはあらず〉と語られています。文明とは道が行われていることの尊称であり、豪華な外見などではないということです。そこで〈節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり〉と言い、道の国家を超えた共通性が述べられているのです。国家の威信については、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉と語られています。国が倒れようとも正道を行くという覚悟が必要なことが説かれています。〈国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉とも語られています。政府は、国が侮辱されたならば、国が倒れようとも正道を行き義を尽くすのが本務なのだというのです。
また、西郷隆盛と言えば敬天愛人が有名です。〈道は天地自然の道なるがゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ〉と語られています。〈道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり〉というわけです。
道とは、〈道を行うには尊卑貴賤の差別なし〉とあるように、誰もが道を行いえるとされています。〈道を行うものは、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人・出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管、道を行い道を楽しみ、若し艱難に逢うてこれを凌がんとならば、弥々道を行い道を楽しむべし〉とあります。道を行うということに、生きるか死ぬかは関係ないと考えられています。道を行うには才能も関係なく、道を行うことを楽しみ、困難に打ち勝とうとすればよいというのです。そこにおいて、ますます道を行うことを楽しむべきことが語られています。
これらを踏まえ、〈命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉と語られています。
第五項 吉田松陰
吉田松陰(1830~1859)は、幕末の思想家で尊王論者です。名は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎です。萩に松下村塾を開き、多くの維新功績者を育成しましたが、安政の大獄で刑死しました。
『講孟余話』には、〈経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生國を離れて、他國に事へ給ふこと済まぬことなり〉とあります。聖人の本を読むときも、それにおもねってはいけないと語られています。おもねれば、他国に仕えることになってしまうからと説明されています。
人臣の道については、〈道を明にして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり。幽囚するも可なり、饑餓するも可也。是等の事に遇へば其身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず、永く後世の模範となり、必ず其風を観感して興起する者あり。遂には其國風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚する如くなるなり〉とあります。道においては義を正しくするのであって、利益を計るようなことはしないのだと説かれています。人臣の道は、諌めることで死ぬことも、捕らえられることも、飢えることも覚悟すべきだというのです。我が身の名誉は失われるとしても、永く後世の模範となるからです。その模範があれば、国民は節義を尊ぶようになるのだと語られています。
道一般については、〈人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず。士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥るの心あらば、書を讀道を學ぶの外術あることなし。已に其數箇の道を知るに至らば、我心に於て豈悦ばしからざらんや〉とあります。人には人それぞれの道があり、その道を知らないでいることは恥ずべきことだというのです。恥じる心があるなら、本を読み道を学ぶべきだとされています。道を知ることは、喜ばしいことだと考えられています。士道については、〈然れども汝は汝たり、我は我たり。人こそ如何とも謂へ。吾願くは諸君と志を勵まし、士道を講究し、恆心を?磨し、其武道武義をして武門武士の名に負くことなからしめば、滅死すと雖ども萬々遺憾あることなし。豈愉快の甚しきに非ずや〉とあります。我は我であり、汝は汝だというのです。その差は決定的ですが、願うならば皆で志を励まし合い、士道を解き明かしたいと語られています。そこにおいて進むなら、死ぬことになっても遺憾はなく、それどころか愉快だとさえいうのです。
以上のように、松陰においては日本という国が意識されています。〈國體の最も重きこと知るべし。然ども道は惣名也。故に大小精粗皆是を道と云。然れば國體も亦道也〉とあります。日本の国体は道なのだとされています。
また、安政二年に記された『士規七則』には、〈士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず〉とあります。
安政三年の『書簡』では、〈有志の士、時を同じうして生れ、同じく斯の道を求むるは至歓なり。而れども一事合はざるものあるときは、己れを枉(ま)げて人に殉ふべからず、又、人を要して己れに帰せしむべからず。ここを以て反覆論弁、余力を遺さず〉とあります。道を共に求めることができるということは、素晴らしいことだと語られています。ですが、自分を枉げて人に迎合するならば、自分のためにもなりません。そのときは徹底抗戦すべきだというのです。
安政六年の『書簡』には、〈皇神の誓おきたる国なれば正しき道のいかで絶べき〉とあり、日本は天皇や神々の誓いがある国なのです正道は絶えることがないと述べられています。〈道守る人も時には埋もれどもみちしたゑねばあらわれもせめ〉ともあり、時には道を守る人が埋もれてしまうのだとしても、道を慕わねば道を守る人が現れることはないのだと語られています。ですから、道を慕うべきことが示されているのです。
第六項 橋本佐内
橋本左内(1834~1859)は、福井藩士で幕末の志士です。藩政改革に尽力し、安政の大獄で斬罪に処されました。
『啓発録』には、〈稚心とは、をさな心と云ふ事にて、俗にいふわらびしきことなり〉とあり、〈余稚心を去るをもつて、士の道に入る始めと存じ候なり〉とあります。子供じみた心を去ることで、武士の道に入るのだと考えられています。
友人関係については、〈吾が身を厳重に致し付合ひ候て、必ず狎昵致し吾が道を褻さぬやうにして、何とか工夫を凝して、その者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込み候事、友道なれ〉とあります。吾が身を引き締め、吾が道をけがすことのないように工夫して、友人を正しい道へと導き、武道や学問に関心を持つように仕向けることが友道だというのです。
左内は、〈後世必ず吾が心を知り、吾が志を憐み、吾が道を信ずる者あらんか〉と述べています。後の世に、吾が心や志に同情し、吾が道が正しいと認めてくれる者が現れることを願っているのです。
また、左内の『書簡』には、〈実に尚武の風を忠実の心にて守り候はば、風俗もますます敦重に相成り、士道もますます興起仕り、国勢国体万邦に卓出仕るべく候事、目前に御座候〉とあります。尚武の気風を忠義と実直の精神で守り伝えて行けば、風俗は情味篤く質朴になり、武士道も盛んに興り、我が国の勢いが優れたものになることも遠くないというのです。
第七項 福沢諭吉
福沢諭吉(1835~1901)は、啓蒙思想家で教育家です。
『福翁百話』には、〈唯真実の武士は自から武士として独り自から武士道を守るのみ。故に今の独立の士人もその独立の法を昔年の武士の如くにして大なる過なかるべし〉とあります。武士ならば独り自(おの)ずから武士道を守るのみとされ、それは今も昔も変わりないと語られています。
第八項 坂本竜馬
坂本竜馬(1836~1867)は、土佐藩出身の幕末の志士です。幕府の海軍創設に奔走し、薩長同盟を成立させました。
『船中八策』では、統一国家構想を示しています。そこで八つの策を提示した後の文で、〈伏テ願クハ、公明正大ノ道理ニ基キ一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン〉と、公明正大ノ道理を示しています。
第九項 山岡鉄舟
山岡鉄舟(1836~1888)は江戸末期から明治の政治家であり、無刀流剣術の流祖です。通称、鉄太郎です。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させ、江戸城の無血開城へと導きました。明治維新後、明治天皇の侍従などを歴任しました。
『剣禅話』の[修養論]には、〈我が邦人に一種微妙の道念あり。神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ〉とあります。武門における道を武士道とし、神道・儒道・仏道の融和した思想として捉えています。その武士道は、〈善なると知りたる上は直に実行に顕はし来るを以て武士道とは申すなり〉とあり、善による実践が説かれています。さらに武士道に関して、〈而して武士道は、本来心を元として形に発動するものなれば、形は時に従ひ事に応じて変化遷転極りなきものなり〉と示されています。
第十項 高杉晋作
高杉晋作(1839~1867)は、日本の武士で長州藩士です。幕末に尊王倒幕志士として活躍しました。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けました。
『遊清五録』には、〈士を取るに多くは武を以てす。故に我邦は武文の人を以て有道者と為す。考試も亦た多くは武を以てし、或は文を以てする者あり。人を教ふるに忠孝の道を以てす。天照太神と孔夫子と異あるに非ざるなり。故に我邦の人、天神の道に素づきて孔聖の道を学ぶ〉とあります。神道と儒教の両方を取り入れていることが分かります。道には、文武や忠孝という考えが重要だと考えられています。 
第十四節 新渡戸稲造の武士道

 

新渡戸稲造(1862~1933)は、岩手生まれの教育者で農政学者です。国際連盟事務次長や太平洋問題調査会理事長として国際関係に取り組みました。
新渡戸稲造の『武士道』には、〈武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である〉とあります。この武士道は、〈道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない〉と語られています。武士道は、〈数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である〉というのです。
ただし、新渡戸稲造の『武士道』は、キリスト教道徳を武士の中に見出したものとの指摘もあり、本来の武士道とは別物かもしれません。例えば、〈武士道の窮極の理想は結局平和であった〉という言説などは、元来の武士および武士道の在り方とは異なっています。
稲造は、〈私は武士道に対内的および対外的教訓のありしことを認める。後者は社会の安寧幸福を求むる権利主義的であり、前者は徳のために徳を行なうことを強調する純粋道徳であった〉と述べています。その武士道に対し、最後の章では〈武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう〉と語られています。 
 
武士道の死 2

 

武士道は、神道・仏道・儒道の三道から影響を受けて成立しました。神道からは潔さを、仏道からは諦めを、儒道からは覚悟を、それぞれ継承しています。それらは、死への潔さ、死への諦め、死への覚悟として結実しています。そのため、武士道には、死の思想があります。
武士道における死の思想を、武士道関連書からまとめると、以下のような関係を示すことができます。
死心
まずは「死心」です。「死心」とは、常に死を心掛けることを言います。
大道寺友山の『武道初心集』には、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候〉とあります。
『山鹿語録』には、〈能く勤めて命を安んずるは大丈夫の心也。されば疋夫は死を常に心にあてて物をつとめ、つとめて命を安んずるにあり〉とあります。
このように、死を常に心掛けるのが、武士の道における死心なのです。
死習
次に「死習」です。「死習」とは、死を習うことで、つまり死を想像することで死に慣れ、死への恐れを克服することを言います。
鈴木正三の『驢鞍橋』では、〈萬事を打置て、唯死に習わるべし。常に死習つて、死の隙を明、誠に死する時、驚ぬやうにすべし〉とあります。その方法は、〈只土に成て、念佛を以て死習わるべし〉とあります。土に帰ることを想い、念仏をもって死に慣れるのです。
山本常朝の『葉隠』では、〈武道は毎朝まいあさ死習ひ、彼に付、是に付、死ては見みして切れ切て置一也。尤大義にてはあれ共、すれば成事也。すまじきことにてはなし〉とあります。毎朝死を想い、死に慣れるのです。それが、死を習うということだというのです。
このように、死を想い、死に慣れ親しむのです。それが、武士の道における死習ということなのです。
死狂
次は「死狂」です。「死狂」とは、生か死かを問う選択の場面において、死への突入を奨める思想のことです。
「死狂」は、山本常朝の『葉隠』において示される思想です。〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり。二つふたつの場にて、早く死方に片付ばかり也〉とあり、生と死の二つに分かれる場面で、死の方を選び取れという思想です。ですから、〈無二無三に死狂ひするばかり也〉とあり、わき目もふらずに死を選べと言われます。そこでは、〈武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也〉と語られています。そこにおいて、〈士道におゐては死狂ひ也。此内に忠・孝は自こもるべし〉とされています。そこでは、〈死狂に劣るべき謂(いわれ)なし〉と語られています。〈武士たる者は武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要也〉というわけです。この覚悟は、〈何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚悟仕(つかまつり)たる迄にて候〉と語られています。
このように、生か死かを問う場面に備え、死ぬ覚悟を決めておくというのです。それが武士の道における死狂なのです。
死身
最後は「死身」です。「死身」とは、生きるという未練を捨て、死んだ身となって生きるということです。
鈴木正三の『驢鞍橋』では、〈我は死がいやなに因て、生通にして死ぬ身と成たさに修行はする也〉と語られています。死は嫌なものであるからこそ、生を通じて死ぬ身となっておくのです。そのために修行するのです。ですから、〈常住死で居也〉と語られているのです。
山本常朝の『葉隠』では、〈毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕(し)課(おお)すべき也〉とあります。常に死と一つになり切っている時は、武道に自在な境地を得ることができ、定められた職務を全うできると言うのです。また、〈常住死打の仕組に打部り、得と死身に成切て、奉公も勤、武篇も仕候はゞ、恥辱あるまじく候〉ともあります。心構えを決めて少しも動ずることなく、死と一つになれたなら、奉公も武道も恥じることなく行うことが出来るというのです。
このように、生という未練を諦め、死んだ身となって動ずることなく何事にも望むというのです。それが武士の道における死身ということなのです。
至誠
武士道における死の思想を見てみると、誠という言葉が関わっているのが分かります。
「誠」とは、接尾語の「真(ま)」に、言葉や事柄を示す「言・事(こと)」を合わせた言葉です。嘘や偽りでないこと、本当であること、本物であることを意味しています。
『正法眼蔵随聞記』には、〈只、誠の道理を存ずべき也〉とあります。
山鹿素行(1622~1685)の『聖教要録』には、〈已むことを得ざる、これを誠と謂ふ。純一にして雑はらず、古今上下易ふべからざるなり〉とあります。
伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』には、〈誠は、実なり〉とあります。
山本常朝(1659~1719)の『葉隠』には、〈常住死人に成たるを、誠の道に叶ひたると云也〉という文章が見られます。死の思想は、誠の道へと導かれるのです。
荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈誠なる者は、中心より発して、思慮勉強を待たざる者を謂ふなり〉とあります。
農民から武士となった二宮尊徳(1787?1856)は、『二宮翁夜話』において〈我が道は至誠と実行のみ〉と語っています。
勝海舟(1823~1899)の『氷川清話』には、〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉とあります。
西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』には、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあります。
そして、死の思想を考える上で、吉田松陰の誠の思想を外すことはできません。安政六年の『書簡』から、吉田松陰の死に対する考え方と誠の関わりを見ていきます。
まずは死に対して、〈死を求めもせず、死を辞しもせず、獄に在ては獄で出来る事をする、獄を出ては出て出来る事をする。時は云はず勢は云はず、出来る事をして行当つれば、又獄になりと首の座になりと行く所に行く〉という立場を取っています。
この立場に立つ松陰は、〈然共よく思て見よ、自ら死ぬ事の出来ぬ男が決て人を死なす事は出来ぬぞ〉と考えています。その上で、死すべし順位を、〈是れ今日宜しく幕府の為めに死すべし。一なり〉、〈是れ今日宜しく吾が公の為めに死すべし。二なり〉、〈是れ今日宜しく天子の為めに死すべし。三なり〉と並べています。〈三つの宜しく死すべきありて死す。死すとも朽ちず。亦何ぞ惜しまん〉と松陰は述べています。
死の間際における書簡では、〈吾れの将に去らんとするや、子遠吾れに贈るに死の字を以てす。吾れ之れに復するに誠の字を以てす〉とあります。入江杉蔵(子遠)が師である松陰に死の字を贈ったときに、松陰はそれに誠の字をもって応えたのです。死の思想は、誠の思想と繋がっていることが分かります。 
 
武士道 3 

 

日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、武士道の中で合体を果たした。
武士道とは何か。
「日本に武士道あり」と世界に広く示した新渡戸稲造によれば、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華、それが武士道である。日本史の本棚の中に収められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない。それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手にふれる姿や形は持たないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちを引きつけてやまない存在なのだ。
新渡戸稲造は、言うまでもなく名著『武士道』の著者である。明治三二年(一八九九年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本のめざましい歴史的活躍を通して、いかに見事にその卓見を実証していったか、今では想像もできないほどのものだった。ことに、義和団の乱、日清戦争、日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して。そして、自らの潔い死があった。
こうしたふるまいは、すべて、極東の未知の小国における、他のどこにもない「ブシドー」という生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂したのである。
武士道とは封建制度の所産であるが、その母である封建制度よりも永く生き延びて、「人の道」をありようを照らし続けた。『資本論』を書いたカール・マルクスは、生きた封建制の社会的、政治的諸制度は当時の日本においてのみ見ることができるとして、読者にその研究の利点を呼びかけた。これにならって、新渡戸は、西洋の歴史および倫理の研究者が日本における武士道の研究にもっと意を払うことをすすめている。
日本に武士道があるように、ヨーロッパには騎士道がある。新渡戸が大まかに「武士道(シバルリー)」と表現した日本語は、その語源において「騎士道(ホースマンシップ)」よりももっと多くの意味合いを持っている。ブ・シ・ドウとは、その文字を見れば、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味しているのである。新渡戸は、武士道とは一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)」であると、海外の人々に説明している。
新渡戸の『武士道』は、今日に至るまで多くの日本人に影響を与え、かつ世界中の人々に「武士道」のイメージを植え付けた。日露戦争後にポーツマス条約の仲介をしたアメリカ第二六代大統領セオドア・ルーズベルトは、この本に大きな感銘を受け、三〇冊も取り寄せたことで知られる。彼は、五人のわが子に一冊ずつ渡したという。さらに残りの二五冊は大臣や上下両院の議員などに分配し、「これを読め。日本武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである」と言ったという。
しかし、一方で新渡戸『武士道』こそが、武士道概念を混乱させてきたという見方もある。新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないというのである。そういった批判は、『武士道』の日本版が刊行された直後に、すでに歴史学者の津田左右吉によってなされている。専門に研究する人々の間では、新渡戸の論が文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていないというのが定説になっているという。
倫理学者の菅野覚明氏は、著書『武士道の逆襲』でこう述べている。
「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである」
そもそも、「武士道」という言葉が一般に広く知られるようになったのは、明治も半ばを過ぎた頃からであるという。特に、日清・日露という対外戦争と相前後して、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してくる。武士はすでになく、自らも武士でないにもかかわらず、自分たちの思想は武士道であると主張する者たちが、ひきも切らずに現れてくるのだ。いわゆる「明治武士道」である。
徳川幕府を倒して権力を握った明治政府の指導者たちは、自分たちの倒幕を正当化するため、意図的に江戸時代を「暗黒時代」と見る歴史教育を行った。そこでは、幕府の支配のもと、刀を指した武士だけが威張って暮らし、農民や町民は武力で脅され、抑圧されて暮らしてきたとされた。また、武士たちは「武士道」という時代錯誤の意地によって、些細なことで怒って刀を抜き、斬り合いをしたり、庶民を無礼射ちにした。さらに、切腹や仇討ちといった血なまぐさいことを、武士たちは日常的にやっていた。ところが明治維新によって、事態は一変した。士農工商の身分制度は廃止され、みな平等になった。また、武士から刀を取り上げ、切腹や仇討ちも禁止することによって、日本は大きく進歩したのである。
以上のようなイデオローグを明治政府は国民に与えたのである。しかし、真実は違う。徳川幕府は庶民を第一に考えた政治を行い、勝手に刀を抜いて刃傷沙汰を起こした武士は重い罰を受けたのだ。武士道が最も重んじる「義」にために吉良上野介を討ち、その名も「義士」と庶民から讃えられた四七人の赤穂浪士が切腹を命じられたのが好例である。
しかしその後、明治政府は一転して、武士道の復興を必要としたのである。明治六年(一八七三年)、徴兵令が布告され、国民が兵士となって日本の武力を担うことになった。
明治七年に佐賀の乱、明治一〇年に西南戦争が起こり、旧武士による反乱軍は「百姓兵」と嘲(あざけ)られた国家の軍隊に完敗した。戦闘のプロフェッナルとしての武士は名実ともに滅び去り、「軍人精神」と呼ばれるものが「武士道」に代わって登場し、新たに近代における戦闘者の思想を形づくることになるのである。その思想の基本を確立したのが、明治一五年に発布された「軍人勅諭」である。
だが明治の「軍人精神」には不安があった。
新政府の軍隊とは、つまるところ諸藩の連合軍である。連合であるからには一時的な雑軍にすぎず、情勢によって離合集散もありうるという不安があったのだ。事実、戊辰戦争の官軍は、西南戦争では二つに分裂して敵対したわけである。菅野氏は述べる。
「国家の軍隊を一つのものとみなす発想がないということは、それがいつ分裂しても不思議ではないという観念が行きわたっていることでもある。実際、肝心の新政府軍の軍人たち自身が、軍隊の分裂はありうることと考え、神経を尖らせていたのである。そうした不安が衝撃的な形で現実となったのが、明治十一年に起こった近衛砲兵隊の反乱事件(竹橋事件)である」
そして、国家の軍隊は、「天朝さまに御味方する」諸藩の連合軍すなわち「官軍」であってはならないという発想が生まれた。それは、天皇自身が「大元帥」として統率する帝国軍隊すなわち「皇軍」でなければならないのだ。国家の軍隊としての統制原理を一個の人格たる天皇に置いた瞬間、わが国初の近代的軍隊、「皇軍」が成立したのである。
新しい国家の軍隊の統制を支えるために、西周や山県有朋らはその精神原理として、かつての武士が持っていた「忠」に目をつけ、それを欲しがった。武士にとっての「忠」は、命に代えても貫くほどの強烈さを持っている。
城山に立てこもった西郷軍には、死をともにする「士心合一」があったが、それも武士ならではの「忠」の精神に支えられていた。しかし、武士の「忠」は私的主従関係としての御家意識と切り離せず、国家の軍隊のような一種の「メカニズム」の中では発動できない。
天皇に対する忠誠心を真実のものとするために、西周は「日本人」「民族」そして「大和心」というコンセプトを打ち出した。徳川や島津といった武士団、さらには武士という「階級」は、「日本人」という「民族」の中に含まれた一部であるとされる。武士の精神とみなされていた「武士道」もまた、民族全体の精神である「大和心」の一部とみなされるわけである。
もともと西は、「哲学」や「宗教」をはじめ数多くの海外概念を翻訳したコンセプトの天才であった。その彼が、武士道の「忠」に代わる、大和心の「忠」を示したとき、軍人精神の原理である『軍人勅諭』の基本的な枠組みはほぼ完成したと菅野氏は述べている。それはまた、武士の武士道に代わる、民族の武士道、すなわち「明治武士道」の誕生した瞬間でもあったのである。
それは、菅野氏によれば、戦闘することによって「私」が実現され、主君や共同体との結びつき、道徳も戦闘の中から生まれるという、武士という存在の根幹にかかわる部分を排除したものだ。いわば武士道の断片であり、残滓(ざんし)であるにすぎないが、明治以来今日に至るまで、人々が武士道の名で親しんできたのは、他でもないこの「明治武士道」だったのである。
典型的な明治武士道には、新渡戸稲造、内村鑑三、植村正久などのキリスト教徒によるものと、井上哲次郎のような国家主義者によるものがあるとされる。数の上では国家主義的なものが圧倒的に多い。この流れは昭和に至るまでの武士道思想を形づくってきたが、敗戦とともに忘れ去られた。逆に、少数派であった新渡戸『武士道』のみが今日まで生き残っているのである。
多くの研究者たちが指摘するように、欧米列強に伍する近代国家を創る目的を持った明治武士道の産物である新渡戸『武士道』が、武士の本当の実態を記していないとしても、やはり思想としての「武士道」を考察した名著であることに変わりはない。特に、武士道の起源に関する新渡戸の視点は鋭い。
平安時代中頃から鎌倉時代初頭に武士という新興階級が起こり、封建制が形成されていった。このような時代に、武士道もつくられていった。もともと「兵(つわもの)の道」「弓矢の道」「弓馬の道」などと呼ばれており、「武士道」という言葉が使われ始めるのは江戸時代の初頭である。それは、初めは戦闘の場における心がけを中心とする掟であったが、次第に神道、仏教、儒教と深く関わる形でつくられていったという。
ヨーロッパの騎士道がキリスト教から生まれたことと同じように、武士道も宗教によって育まれたのである。しかし、それは単一の宗教ではなく、神道、仏教、儒教の三宗教によるものであると新渡戸は言うのだ。この、武士道の中に神仏儒の三宗教が入り込んでいることを指敵したことこそ、新渡戸『武士道』の最大の功績ではないだろうか。かつて森鴎外はヨーロッパの地で「日本人の信仰する宗教は何か」と尋ねられたとき、「それは武士道である」と返答したという。鴎外もまた、武士道の正体が神仏儒の混淆宗教であることを見抜いていたのだ。
『武士道』の第二章では、日本の宗教と武士道との関わり合いが述べられている。まず仏教からである。新渡戸は述べる。
「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした(奈良本辰也訳)」
仏教の中でも、武士は特に禅を学んだ。禅は、鎌倉時代の末期に栄西が宋から日本に伝えたものである。以来、室町、戦国、江戸、明治維新と、禅は武家社会に大きな影響を与えてきた。そして特定の禅僧と武士の間に師弟関係なるものができて、武士の軍略や治世、生き方を決定づけることになったのである。
代表的な例としては、源実朝と栄西、北条泰時と明恵、北条時頼と普寧・道元・聖一、北条時宗と無学祖元、楠正成と明極楚俊、足利尊氏と夢窓疎石、武田信玄と快川紹喜、上杉謙信と益翁宗謙、伊達政宗と東嶽、前田利家と大透などが挙げられる。江戸時代になると宮本武蔵や柳生但馬守と沢庵の関係が有名だが、武家社会は盤珪、鈴木正三、白隠、東嶺などにも多大な尊敬の念を示し、武士がこれらの禅僧を慕って教えを乞うた。さらに幕末から明治維新にかけては、西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟など回天の役割を果たした武士も禅を究めたとされる。
武士は禅僧から何を学んだのか。人には、「いったい何のために生きているのか」と、ふと感じるときがある。禅は、言葉でそれに答えることないが、内なる「智恵」を導き出してくれる。
現代の禅僧を代表する玄侑宗久氏は著書『禅的生活』で、たった今、私たちが息をしている瞬間こそ、すべての可能性を含んだ偉大なる瞬間であると述べている。日常の中でこそ「お悟り」で得られた「絶対的一者」が活かされなくてはならない。過去の自分はすべて今という瞬間に展かれている。そして未来に何の貸しもない。そのことを心底胎にすえて生きれば、いつどこで死んでもいいという覚悟になる。「人間、到る処青山あり」の青山とは「死んでもいいと思える場所」のことなのである。鎌倉以降、武士たちの心をとらえた禅の魅力は、おそらくこの辺りにあると玄侑氏は推測する。
仏教の次は、神道である。新渡戸は述べる。
「仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖の崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。そのため、サムライの傲岸な性格に忍耐心がつけ加えられたのである(奈良本辰也訳)」
しかし、本書を読んできた読者ならば、神道に教義にないことはよく知っているだろう。主君への忠誠、先祖への崇敬、そして孝心などは、むしろ儒教である。中世以来、神道は教義らしきものの多くを儒教から借りたことを、図らずも新渡戸は明らかにしているのだ。
新渡戸はさらに神道について述べる。ギリシャ人は礼拝のとき、目を天に向ける。そのとき彼らの祈りは凝視することによって成り立つ。ローマ人はその祈りが内省的であるために頭をヴェールで覆う。そして日本人の内省は、ローマ人の宗教に対する考え方のように、本質的に個人の道徳意識よりも、むしろ民族的な意識を表すこととなった。
神道の自然崇拝は、国土というものを私たちにとって心の奥底から愛おしく思われるような存在にした。また神道の祖先崇拝は、次から次へと系譜をたどることによって、ついには天皇家を民族全体の源としたのである。
新渡戸は述べる。
「私たちにとって国土とは金を採掘したり、穀物を収穫したりする土壌以上のものである。そこは神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖なすみかである。私たちにとって天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在である。天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人なのである(奈良本辰也訳)」
ここに明治武士道の精神を見事に見ることができるだろう。天上の神の代理人としての天皇をいただいた日本は、急速に近代国家を
つくり、日清・日露の対外戦争を勝ち抜いていったのである。
そして新渡戸は、神道が日本人の感情生活を支配している二つの特徴をあわせ持っていると述べる。すなわち、愛国心と忠誠心である。ヘブライ文学においては作者の述べていることが、神のことか、国家のことか、天国のことか、エルサレムのことか、はたまたメシアか、その民族そのものか、それらのいずれを語っているのか、しばしば判断に困ることがある。これとよく似た混乱がわが国民の信仰を「神道」と名づけたことに起きていると新渡戸は言う。神道はその用語のあいまいさゆえに、論理的な思考を持った人から見れば、混乱していると考えられるに違いないというのだ。その上に、民族的本能や種族の感情の枠組としては、神道が必ずしも体系的な哲学や合理的な教学を必要としていないことを指摘する。
神道は武士道に対して、主君への忠誠心と愛国心を徹底的に吹きこんだ。これらのものは教義というより、その推進力として作用した。というのは、中世のキリスト教の教会とは異なり、神道はその信者にほとんど何も信仰上の約束事を規定しなかったからである。その代わりに行為の基準となる形式を、儒教によって与えたのだ。新渡戸は述べる。
「厳密にいうと、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。孔子が述べた五つの倫理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認にすぎない。冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特にふさわしいものであった。孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した(奈良本辰也訳)」  
孔子に次いで孟子が武士道に大きな影響を与えた。孟子の力のこもった、ときにははなはだしく人民主権的な理論は、思いやりのある人々にはことのほか好まれたのである。そのため、彼の理論は既存の社会秩序にとっては破壊的で危険とされ、『孟子』は永く禁書とされていたのである。それにもかかわらず、孟子の言葉は武士の心の中に永遠のすみかを見出していった。
正確には、儒教と武士道は微妙に違う。最も明らかな相違点は、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対して、武士道はその中心に「義」を置いたことだ。したがって、武士の行動基準は、すべてこの義をもととし、「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに改変し、さらには「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」などを付け加えて、武士道は行動哲学となったのである。
そして、これらの道徳律の集大成として、「誠」の徳が最高の位置にすえられた。現在では「誠実」という意味にとられる「誠」は、その字が「言」と「成」からできているように「言ったことを成す」の意味とされ、そこから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。武州・三多摩の農民あがりの新撰組(しんせんぐみ)は、「誠をつらぬく者」としての真の武士とならんがために「誠」をその旗印に掲げたのである。
このように武士道とは儒教のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となった。しかし、これらの古典を単に知っているというだけでは評価されることはなかった。よく知られた「論語読みの論語知らず」ということわざは、孔子の言葉だけをふりまわしている人間を嘲笑しているのである。武士の典型である西郷隆盛は文学のわけ知りを「書物の虫」と呼んだ。
三浦梅園は、実際に役立つまでは何度も煮る必要のある臭いの強い野菜に学問を例えている。また梅園は、知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表れるときにのみ真の知識となると述べた。
知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられたのである武士道は知識のための知識を軽視した知識は本来、目的ではなく、智恵を得る手段であるとした。したがってこの目的に到達することをやめた者は、求めに応じて詩歌や格言を生み出す便利な機械以上のものではないとされた。知的専門家は機械同然だったのである。
このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテスの哲学にも通じる思想は「知行合一」をたゆまず繰り返しといた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである。新渡戸稲造によれば、神道の単純な教説に言い表されているように、日本人の心は王陽明の教えを受け入れるために、特に開かれていたという。
陽明が、人間性の根本に「良知」というものを考えたことは、単なる学説としてみれば
一つの理論にすぎない。しかし、この理論は「知行合一でなければならない」という信念に支えられている。そして、その信念が時代の要求に応じて武士の生き方を規定していったのである。
新渡戸『武士道』を英文から翻訳した歴史学者の奈良本辰也によれば、近世封建社会は、それが朱子学を採用したことによって、著しく無宗教的になっていたという。わが国の思想や宗教のあり方を永く規定してきたのは、言うまでもなく仏教であった。人々は仏の教えに導かれて生き、そしてその安心を得て死んだのである。その生活が厳しければ厳しいほど、彼らは仏の教えに従った。
しかし、朱子学はこの仏教に対して激しい敵意を抱き、人倫を乱すものとして攻撃した。つまり仏教が、現世を仮の世と説くことによって、現実の社会関係や道徳観念を相対化するというのである。林羅山によれば、仏教は「山河大地を以て仮となし、人倫を幻妄(げんもう)となす」ゆえに不可であり、拒否さるべきなのである。
仏教をより深いところから考えた中江藤樹でさえ、「仏教は無欲無為清浄の位を悟りの位にしているが、これは本体と現象の関係を理解しないで、現象面からのみ、人間の行動を規制していっているから十分でない」と述べている。ここでも、仏教というものは大きな意味を与えられておらず、代って儒教が精神的権威とならなければならないのである。奈良本辰也は、著書『武士道の系譜』に次のように書いている。
「だが、儒教という現実的な道徳学は、人間の心をその内面的な絶対の位置においてとらえることができるであろうか。ということは、そのために死に、そのために生きる絶対的なものを、人間の心のなかに定着することができたであろうか。朱子学的な合理主義では、それは困難であったと言うよりほかはない。なぜならば、その合理主義は生の側面においては一貫したものを持つことができようが、死という問題については人々を安心させる説明を持ち得なかったのである。簡単に言うならば、死は非常理なのだ。合理的説明ではとらえることのできない非合理性をもっている」
陽明学が、きわめて精神的なものを持つ理由もそこにあった。もともと武士道なるものは、その人間の生死の関わるところに生まれてきたのである。『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」はあまりにも有名だが、大道寺友山(だいどうじゆうざん)の『武道初心集』の冒頭にも、「武士たらむものは正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて箸を取初るより其年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候」とある。
いま、その死が後背に退いたといっても、自分を律する規範がそこで霞むようなことがあってはならない。宗教的な信念によるものでなければ、自分の心による絶対的な判断力なのだ。陽明学はそれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのである。生死をかけて武士の道を教える方法が、時代とともに古くなるにつれて、それに代るものとしての陽明学は精神至上主義を強めていったのである。
明治維新のキーマンとなった吉田松陰は陽明学を学び、高杉晋作や久坂玄端といった弟子に授けた。維新のスイッチャーとなった西郷隆盛も陽明学の徒であった。近年、「ラスト・サムライ」なるハリウッド映画が大ヒットし、武士道ブームが起こったことは記憶に新しいが、最後のサムライ・勝元のモデルは西郷隆盛であるという。最後まで、武士道は陽明学とともにあったのだ。 
 
江戸幕府に関する財政史料  

 

江戸幕府は、その滅亡に際して、各部門ごとの資料を、原則として、新政府の該当する機能を有する官署に引き渡しています。たとえば、江戸町奉行所というのは、基本的に江戸の民政を担当する機関ですから、その資料は東京都に引き渡されました。その伝でいくと、江戸幕府の財政を担当していた役所である勘定所(かんじょうしょ)の資料は、江戸幕府が滅亡したときに、大蔵省に一括して引き継がれたはずです。
しかし、財政だけはその例外で、ほとんど引き渡していなかったようです。やはりお金に絡む問題には、非常に生臭い部分がありますから、徳川氏が滅びるに際し、おそらく、かなりの証拠書類は、湮滅してしまったようなのです。
その証拠に、明治初期の大蔵省は、幕府の財政史料がないために悪戦苦闘するのです。日本という非常に大きな単位の行財政を、それ以前の経験なしにするのが大変なのは当然のことといえます。そこで、大蔵省では、その発足の直後から幕府の資料を求めて苦労しています。
『徳川理財會要』という本があります。その本の解題によると、この本が作られるきっかけになったのは、明治11年の段階で、時の大蔵卿大隈重信が、大蔵省記録局の中に理財會要調掛をおいて、徳川時代の財政に関する事跡の沿革を編纂させたことに由来するといいます。その調査方法というのは、同掛員を「各県に派遣して、編纂の資料を収集せしめ又徳川幕府時代財政の局に当たりたる人々につき旧聞を徴承し、或いは民間蔵書家の所蔵する古書類等を借り上げてこれを抄写し、同13年故佐野常民氏が大蔵卿になるに及び、当時華族部長たりし公爵岩倉具視氏に依頼し、旧藩各華族に令達して、古書旧記の参考となるものを借り上げて抄写する」というような方法です。もし、他の幕府機関の場合のように、そっくり資料が大蔵省に引き渡されているなら、このような苦労は当然必要なかったはずです。
その後、明治20年に、大蔵大臣松方正義は、旧幕臣の取り纏め役とでもいうべき勝海舟に、再度、江戸財政資料の収集を依頼します。海舟は、勘定所に関係した幕臣を集めて編集した本に、『吹塵録』と名付けました。その序に、次のような文章があります。
「本省先に幕府財務の実況を記するの書なきに苦しみ、これを勝伯に謀る。伯、為に此の書を編し、名づけて吹塵録という。記述詳明能く本末を悉くす。固より尋常の著を以て見る可からず。因て之を印刷に付し、他日の参考に便にす。別に附する所の図若干ありと雖も暫く之を略せり。
明治23年1月大蔵大臣官房」
大蔵省が、幕府財政史料の不足に悩んでいたことが、ここにもよく表れています。
この書と前述の徳川理財會要との違いは、會要が幕府財政史の要点を、大蔵省の責任でまとめたという体裁の本であるのに対して、吹塵録は、生の資料を、体系的に纏めただけのデータブックだ、という点にあります。この中には、上は皇居造営の設計図から、下は一文銭の図柄に至るまで、手に入った資料であれば、何でも記録してあります。土木工事の際に、丸太を人力で運搬する場合の労働者数を積算するための丸太の長さと直径別の人数データなどという、本誌の読者の皆さんに関係の深いものもしっかり入っています。どんな資料でも、いつかは何かの役に立つと考えたのでしょう。吹塵録とは良くも名付けたものです。
會要の場合には、元がどのような史料によったのかが必ずしも判らないものですから、吹塵録の方が、歴史資料としての価値が高いものになっています。勝海舟という人は、江戸城明け渡しに見せた腹芸だけが取り柄ではなく、実務能力も非常にある人だったことが判ります。
徳川の財政史に対する研究方法は、このように、肝心の幕府勘定所の一次資料が明治初期の段階ですでに失われてしまっている結果、今日でも、すべて上記徳川理財會要や吹塵録の編集手段と変わりません。幕府の高級官僚の個人的に作った控えといった二次史料や、各地の公的機関の間接資料から構成したものになります。
高級官僚の残した記録として有名なものをあげると、新井白石の『折りたく柴の記』や、松平定信の『宇下人言(うげのひとごと)』があります。後者は、奇妙なタイトルですが、定信という漢字を分解したものです。子孫のうち老中になった者だけに当ててかかれた自伝ですが、堅く封がしてあって秘函とされていたため、実際には読まれることがなく、ようやく昭和3年になって一般に公開された、といういわく付きのものです。
このような資料は、書き手の自己弁護、ないし政敵への非難という要素が混入しますから、読むときに注意を要します。たとえば徳川綱吉の下で勘定奉行をつとめた荻原重秀は非凡な財政家と考えられますが、折りたく柴の記で白石が口を極めて貶しているために、歴史家も一般に奸悪な人物として彼をとらえています。同じように、非凡な政治家であった田沼意次の評判が歴史家の間で良くないのも、松平定信や彼の子分達が大量の文献をのこして彼を非難しているのに対して、田沼意次側の資料というものがほとんどない(おそらく松平定信が職権を濫用して湮滅したのでしょう)のが最大の理由です。
異色の著者による資料としては、蜀山人、大田南畝の書いた『竹橋余筆』もあげるべきでしょう。南畝は田沼意次の全盛期に狂歌作家として活躍しますが、寛政の改革が始まって、表現の自由に対する弾圧が始まると、あっさりと著作活動に見切りをつけ、勘定所の下僚として精勤するようになります。その業務の一環として、勘定所書類の抜き書きをしたのが、今日に重要な資料となって残っているのです。
本稿を、これから読んでいっていただくと、本章を含めて、これからの各章で、比較的些末な部分でぎょっとするほど詳しい数字を紹介できる一方、非常に基本的な部分でさえも資料がないために想像論を展開していることが、おわかりになると思います。それは、上記の理由から発生する史料のばらつきのためです。
こうした江戸財政史全体に対するハンディに加えて、本章が対象とする江戸初期には、さらにいくつかのハンディが加わります。
第1は、幕府の制度そのものが非常に流動的であり、そのため、機構が確立していなかったという点です。したがって、整備された資料が、そもそもはじめからとんど作られなかったようです。それでは、資料の残りようがありません。
第2のハンディは、そのわずかの資料もおそらく、明暦の大火その他、度重なる江戸の火災の中で、失われてしまっているものが多かった、ということです。実際、江戸後期の記録の中に、そのことを明記した上で、関係者の記憶から再現したのだという断り書き付きの初期の記録というものが、いくつも見つかっています。その手の資料は、往々にして、他の資料と矛盾することも多く、実態の解明をさらに困難なものにしています。
こうしたことから、特に1657年の明暦の大火よりも前の幕府財政については、はっきりしたことは何も判らない、というのが、現在の段階での一番正確な表現でしょう。その曖昧な中から、できるだけ確からしい部分を抜き出して以下に述べておきます。それが、次章以下で本格的に紹介することになる幕府財政改革の出発点となる基本的な財政制度を構成するものだからです。
なお、普通の日本史ですと、その時代の年号を示すことで、文の対象となっている時点を示すのが普通です。しかし、江戸時代の改暦は非常に頻繁なので、それを示していると、西暦を併記してもなお、時間の流れが見えにくくなると思っています。そこで、以下の文中においては、上述の明暦の大火とか享保の改革とかいうように、固有の名称として確立しているものを引用する場合は別として、時点を示すだけの場合には、すべて西暦で統一することとします。 
幕末の経済状況

 

サブプライムローン問題が表面化する前年の2006年1月までFRB議長を18年務めたグリーンスパン氏は、サブプライムローンに端を発する世界金融危機を「100年に1度の信用の津波」と表現した。その言葉を借りるなら、400年も続いた江戸時代の幕末とは、まさに「400年に1度」の大転換期であったといえる。では、幕末の財政はどのような状態にあったのか?幕府の手に負えない財政危機や金融危機が起こったのだろうか?
鎖国をしていた時代の日本は、規制により貿易額こそ大きくなかったものの、輸入超過状態にあった。しかし国内から金が流失し、江戸幕府の財政を圧迫し続けていた。そもそも幕府が鎖国政策を始めた一因に、国内の金銀銅の流出阻止という目的があったわけだが、幕府の意図に反して、国内の金は国外に流出し、海外への所得移転が起こっていた。これに米価の下落が重なり、幕府は貨幣の改鋳を繰り返した。その貨幣が銀の使用量が少ない悪幣だったため、幕府の信用が低下したとされている。
勝海舟は回想録で「幕末期には幕府の金庫は底をついており、新たな財政政策もないまま、破綻寸前にあった」と記している。財政危機は、実質的な開国にあたる横浜港の開港から得られる収益によっても持ちこたえることはできなかったのである。
開国すると同時に、日本の輸出は爆発的に増加した。特に生糸は、その品質の高さから外国商人が買いあさった。さらに米国で南北戦争が勃発して、綿花の国際価格が急上昇し、日本の綿花も買い占められた。当時、中国が輸出規制をしていたため、中国産の代用品として陶磁器や漆器が盛んに輸出されていった。
当時の日本は国内で完全需給体制下にあり、手工業の生産力では対外的な需要を急にまかなうことはできなかった。製品が輸出用のものばかりになると、国内の流通物資は減少する。そのため諸物価は高騰した。反対に、欧米で大量生産された廉価な綿製品が国内に入ってくるようになると、国内の木綿加工産業は壊滅的打撃を受けた。これは国内生産の野菜より中国生産の野菜のほうが安価であるのと同じ現象だ。
国内の生産農家は、価格競争では中国産に勝てない。それと同じ構造で、開国前に綿製品は絹製品に次ぐ高級品であったが、開国後にはその価値は一気に暴落した。そうすると、当時の農業、製造業、流通業、小売業はすべてが打撃を受けたということになる。反対に金融業は、大名の貸し倒れというリスクはあるものの、業界としては活性化していったと予想できる。
そういう状況にあって、金銀の国際レートとの差が、国内の混乱とインフレに拍車をかけたと読むべきだろう。開国前の日本国内の金銀レートは、約1対5だったのに対して、国際相場は1対13だった。つまり「銀高金安」である。その結果、外国商人は、大量の洋銀(メキシコドル)で日本の金貨を買いあさり、海外で売り払って利ザヤを稼いだ。また、日本の銅価格も国際標準よりはるかに安かったために、日本の製品はいとも簡単に外国商人に買い占められてしまった。開港地付近は開港特需にあやかることができても、それ以外のほとんどの地域はインフレに苦しめられたのである。
物価の高騰、地場産業の低迷、これに米の不作が重なれば、諸藩の大名がやり場のない不満を抱くのは当然のこと。だから下級武士や豪農あるいは商人までもが、倒幕の主体となっていくシナリオがこの頃にすでにできていたということだろう。特に自立できる経済基盤を構築してきた薩摩と長州にとって、幕府の政策は地方経済を圧迫するものに過ぎなかった。薩摩は、密貿易や琉球の植民地化によって、貿易のうま味と経済のグローバル化の流れをすでに察知していた。一方の長州は、瀬戸内海の流通網や港の整備によって藩の財政をまかなってきたが、それも横浜開港によって大きな損害をこうむっていた。 
 
太平天国と奇兵隊

 

小島晋治「近代日中関係史断章」を読んでいたら、「太平天国と日本―明治百年によせて」の中で、高杉晋作の奇兵隊が、アヘン戦争のときの林則徐の発想や、太平天国軍の英仏軍に対する抵抗からヒントを得ているという指摘があって、あ!と思う 処があった。
* 1863年外国艦隊が攘夷に対する返礼として行なった下関砲撃事件の過程で、武士階級の無力が暴露される中で、彼(高杉晋作)は奇兵隊結成にのりだす。そこには広東の水夫、漁師、または地主勢力の指導下に農民を武装させ、これをその指揮下においてイギリス軍とたたかおうとした林則徐の発想と多分に共通するものを見ることができる。また民衆を主体とする太平天国軍の英仏軍に対する頑強な抵抗を知ったことも、この着想の一因になっていたのではないかと思われる。
以前、加藤周一氏の「吉田松陰と現代」を読んだとき、「明治維新は、事実上の身分制崩壊を、制度化したものにすぎない」(「日本文学史序説」より)と指摘されているのにちょっと驚いたことがある。たとえば「高杉晋作がその「奇兵隊」において実行したこと」は「すなわち封建的身分制の打破」であり、それは高杉の師である「松陰の「分」を超えた言論と活動」から来ているというのが加藤氏の理解である。ちなみに、加藤氏は吉田松陰を「詩人兼テロリスト兼思想家」と見ている。
小島氏は、「松陰の太平天国観」にも言及していて、「1854-55年当時、中国の事態に最も鋭敏な反応を示した」のは、獄中にあった吉田松陰だったのではないかという。だが、松陰は基本的に太平天国を「賊」視していて、「中国の轍を踏まぬために」「内政改革による新たな人民掌握、そして権力の集中こそが急務だ」という教訓をそこから読み取った。
高杉晋作は「上海近郊で太平軍が英仏・清の連合軍と交戦していた1862年初夏」に幕府の船で上海を訪れるが、高杉の反応も松陰の見方に近いように思われる。
小島晋治・丸山松幸「中国近現代史」を見ると、こういう風に書かれている。
* 1862年、鎖国以後、江戸幕府がはじめて上海に派遣した千歳(せんざい)丸に搭乗した高杉晋作らは、上海の植民地的状況と欧米の近代軍備に衝撃を受け、アヘン戦争における林則徐の対応に大きな関心を示した。帰国後まもなく、高杉は品川のイギリス公使館焼き打ちに参加し、一年後、農民・商人を含めた奇兵隊を結成して、その装備の近代化を進めようとした。また高杉の同志久坂玄瑞(くさかげんずい)は藩主への上書のなかで「天草の乱」の再来として太平天国に反発を示し、キリスト教禁止の徹底を求める一方、彼らのイギリス・フランス軍との戦いが、英仏の日本に対する軍事的圧力を弱めていると指摘した。
ところで、私が気になったのはむしろ林則徐のほうである。高杉は上海で林則徐に「なみなみならぬ関心と敬意を示し」たそうだが、「中国近現代史」は林則徐について次のように記している。
* 林則徐は、マカオで発行されていた外国新聞、書籍の翻訳、研究などを行なって、西欧事情の把握に努め、これをつうじて西欧文明の軍事技術面の優越性を認識した。彼はまた、のちの洋務運動にさきがけて、ポルトガル、アメリカから洋式大砲を購入し、自力でこれを製造することをも意図した。また正規軍だけではなく、沿岸の漁民、水夫を徴募、訓練して海上のゲリラ作戦を準備し、広州周辺で、郷紳を中心に団練を組織させて、民族的な抵抗を展開する構えを見せた。
林則徐はアヘン貿易の厳禁派で、1839年に欽差大臣(特命全権大臣)に任命されて広州に派遣されると、「断固たる態度と手段をもって」外国商人にアヘンの提出を命じ、没収した約二万箱のアヘンを廃棄した。これがアヘン戦争につながるわけだが、四〇年にイギリス軍が中国沿海に到着すると、清朝はその遠征艦隊の威容に驚愕して林則徐を罷免し、妥協派の人間に交渉を担当させる。林則徐のそれまでの準備と努力が水泡に帰してしまったわけである。
だが、林則徐の「方法」は、実は1853年にペリー艦隊が浦賀にやってきたときの日本側の対応に影響を与えていた。
* この中島の主張は、アヘン戦争のときに、林則徐がイギリス代表に、「イギリスでは、〔他国へ行くと〕その国の法律に従うしきたりになっているはずだ」と言ったのと同じ趣旨の発言だという。そして、「林則徐の反論は、近代国際法を林則徐が漢訳させた「各国禁律」によっていた」というのが面白い。(井上勝生「幕末・維新」)
小島氏によると、駐日公使オールコックは、「ペルシア・インド・ベトナムの抵抗、そしてなによりも現にその抵抗をつづけている太平天国」を念頭において、対日政策を考えた。つまり、「イギリスの対日政策をその対華政策とことならしめる一つの要因になった」のは、アジア諸民族の民衆的抵抗とその「連関性」に対する認識だったのだと。[イギリス自身これをなによりも鋭く認識しており、アジア諸民族、さし当たり日本の対外抵抗派(攘夷派)がこの連関性を利用し抵抗を強めることを極度に警戒していた。]
ここから考えると、勝海舟が神戸の海軍操練所を日本、朝鮮、清国三国同盟の足掛りにしようという遠大な構想を持っていたというのは、「この連関性を利用し抵抗を強める」という狙いがあったからだろうと思える。高杉晋作も、上海からの帰国後、「外敵を敵地にふせぐ必要を痛感して海軍建設を志し、独断でオランダに蒸気船一隻を注文」したりしたが(これはオランダが手を引いて、破談に終わったという)、それは「中国の轍を踏まぬために」であって、そこにアジア諸民族の民衆的抵抗の「連関」というインターナショナルな認識があったかどうかは疑わしい。
* 要するに明治維新はたんに日本民族の力のみによってなしとげられたのではなく、アジア諸民族の当時におけるたたかいの一つの集約点として達成された。それはたんに外圧を緩和したということのみならず、アジア諸民族とりわけ中国の経験を吸収することが、維新の思想形成の大きな契機となったという意味でもそうであった。だがそれは太平天国=アジア農民のたたかいを「賊」視せざるを得ない勢力を指導勢力として実現させた。その後継者たちは1854-55年に松陰が構想した対外路線を歩むことになる。その中で高杉や久坂が漠然とにせよ理解していたもの―日本の独立が中国の民族的たたかいに助けられているという認識―は消失していかざるを得なかった。 
 
大日本帝国海軍

 

大日本帝國海軍は、1945以前に大日本帝国が保有していた海軍で、通常は「日本海軍」「帝國海軍」と呼ばれた。軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、天皇が最高統帥権をもっていた。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。軍令部に相当する日本陸軍の組織は参謀本部である。全軍の最高司令官は大元帥の天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。戦時には大日本帝国陸軍と合同で大本営を設置した。
戦略
日本は四方を海洋に囲まれ、日本海軍は西太平洋の制海権を確保することにより敵戦力を本土に近づけないことを基本的な戦略として、不脅威・不侵略を原則としてきた。また一方で英国海軍に大きな影響を受け、戦闘においては「見敵必戦」と「制海権の確保」を重視して攻勢を良しと考えてきた。このため、本土防衛よりも海上戦力の増強を優先的に行った。
日本海軍の戦略戦術研究の功労者として佐藤鉄太郎中将が挙げられる。明治末期から昭和にわたり海軍の兵術思想の研究に携わり基盤を築いた。明治40年に「帝国国防史論」を著し「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として国体を永遠に護持しなければならない」と延べ、日本の軍事戦略や軍事力建設計画に影響を与えた。
歴史
日本神話における神武天皇の御船出の地、宮崎県日向市美々津が日本海軍発祥の地とされており、美々津港には海軍大臣米内光政による「日本海軍発祥の地」碑が現存。江戸時代の幕藩体制においては鎖国が行われ、諸藩の大船建造は禁止されていたが、各地に外国船が来航して通商を求める事件が頻発するようになると、幕府や諸藩は海防強化を行うようになる。軍艦奉行、長崎海軍伝習所が設置され、開国が行われたのちの1860には咸臨丸が派遣される。1864には初の観艦式が行われた。王政復古により成立した明治政府は、江戸幕府の海軍操練所や海軍伝習所などの機関を継承し、幕府や諸藩の軍艦を整理・編成したのが基礎になる。
1870陸海軍が分離され、1872海軍省が東京築地に設置される。初期には川村純義と勝海舟が指導する。1876に海軍兵学校、1893には海軍軍令部をそれぞれ設置する。明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。参謀本部が設立され、海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻、日露戦争時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。
日露戦争後は、1920に海軍増強政策である八八艦隊案を成立させ、アメリカを仮想敵国に建艦競争をはじめる。1922のワシントン海軍軍縮条約及び1930のロンドン海軍軍縮条約により主力艦の建艦は一時中断されるが、ロンドン海軍軍縮会議が決裂した後に再開され、太平洋戦争開戦時には艦艇385隻、零戦などの航空機3260機余りを保有する規模であった。
陸軍とは関係が良くなく、しばしば官僚的な縄張り争いによって無用の対立を見た。陸海軍の予算は均等であるのに人員は海軍のほうがはるかに少なかったために、海軍では伝統的に官給の衣食が富裕であり、この特権を維持することを目的として、日中戦争時に仮想敵国にアメリカを加えていたと陸軍側から見られていた(陸軍は伝統的にロシア・ソ連を仮想敵国としていた)。しかし、艦船や航空機等の高額な兵器が必須である海軍の実情を考えれば陸軍に対して贅沢であったとは言えない。むしろ機械化に対して無理解であった陸軍により問題があった。太平洋戦争前から海軍においては山本五十六を始めとして航空主兵論があったが、結局海軍内の官僚的硬直性から艦隊決戦主義を見直すことができなかった。この問題は戦局の進展とともに変化せざるを得ず、大戦末期において海軍は実質的には空軍化した。 
 
勝海舟・雑話

 

勝海舟正妻 深川芸者勝民子 
勝海舟は、どうやって知り合ったか、どの文献もその点は書いてないが、旗本小普請組(41石)が人気高い美女の深川芸者を射止めて妻にしたのである。深川芸者は勝民子となった。勝と共に貧乏暮らしをしていた。その貧乏は、すざましかった。長屋の天井板を全部はがして、冬の暖房のために燃してしまって、天井がなかったらしい。
貧乏から抜け出し、役職に付くころから、勝は堂々と妾と妻を同居させる生活をした。二つ三つ年上の妻民子なら芸者であり、文句をいわず認めてくれると高をくくっていた。甘えがあっただろう。芸者は男をあしらうプロ、嫉妬などないと、思い込んでいたのかもしれない。
賢妻といわれてきた民子も、死に際しては、勝海舟の墓に入るのを拒否して、早逝した長男小鹿ころくの横に葬ってほしいと頼んだ。昔は、耐える妻を美徳のようにいうが、昔も今も、やっぱり妻をないがしろにする夫には腹を据えかねる。
勝海舟の子どもは、正室民子に、男二人、女二人(長男小鹿早逝)があり、個室(妾)に男二人、女三人があった。
維新後に住んだ氷川邸(港区赤坂氷川小学校内)には、二人の側室(女中増田糸、小西かね)が同居。梅屋敷別邸と長崎西坂の個室(森田栄子、梶玖磨女)が住んでいた。
多分コレだけではすまないだろう。明治の男たちは、みな「男の甲斐性」だと思っていたし、それを世間が認めていた。法律上でも、女の浮気は認めないで処罰の対象であったから、男にとっては都合がよかった。その常識に勝海舟はそれに乗っかっていただけだが、開明的は思想を持っていても、女を人間扱いをしない点では、民主的なアメリカを見て、「大統領の子が今なにしているかわからない」と日本の社会を批判しながら、自分の女、妾制度をなんとも感じないのは、勝海舟に限界かもしれない。
妻勝民子の生き方も、その当時の賢夫人を貫き通しているが、殻を破る人ではなかったというところか。それより、勝海舟の妹佐久間順の生き方は、波乱に富み、女の枠を超えている。 
勝民子 2
勝民子は勝海舟(勝隣太郎)の妻で生年不詳、元は元町の炭屋・砥目茂兵衛の娘で深川の人気芸者だったが二十五歳のときに二歳年下で二十三歳の勝海舟(麟太郎)と結婚したといわれている。当時、勝海舟が住んでいた本所入江の地主で旗本・岡野孫一郎の養女となって輿入れした。(海舟の父・小吉とは深い付き合いで実家の男谷家を出て転居を繰り返したうちの最も永く住んだのが岡野家の敷地だった。)勝家は当時、小普請組の四十一石取り無役小身の旗本で三畳一間の極貧生活を余儀なくされたが民子は不満1つ言わずに蘭学の本を読みふける夫を支えた(冬の寒い日には天井板を剥がして燃やし暖をとり家の中でも空が見えたという暮らしだった。)夫婦は中睦ましく結婚翌年の弘化三年には長女・夢子が生まれ、その後次女の逸子、嘉永五年には長男の小鹿が生まれ麟太郎・民子夫婦は二男二女をもうけ幸せな生活を送ったと晩年に語った。この頃には海舟は蘭学の私塾を開いていたがペリーの黒船が来航して幕府はその対応に苦心していた。海舟(麟太郎)は幕府に海防の意見書を提出し老中・阿部正弘に認められ安政二年に長崎海軍伝習所を創設して海事研究を始め二年後には伝習所教授に就任した。海舟(麟太郎)はこの地で「おひさ」(おくま)という十四歳の未亡人を妾にし男の子を生ませたという。その後、貧乏生活から脱した麟太郎は糸の切れた凧のように各地で妾を作り維新後には自宅にも二人の妾(女中の増田糸と小西かね)と同居して本妻の民子に苦労を掛けたという。また、梅屋敷別邸に森田栄子、長崎の西坂に前述の「おひさ」(梶玖磨)を囲った。正妻の民子は自分の子、二男二女と妾たちの子、二男三女の九人の子供たちを分け隔てなく育て上げ愛妾達から「おたみさま」と慕われたという。だが嫡男の小鹿が四十歳で急逝し小鹿の長女・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし){当時十一歳}を迎えて勝家を相続させが伊代子が早逝すると実父・徳川慶喜同様に女と趣味に情熱を燃やし写真やビリヤード、当時発売されたばかりのオートバイ(ハーレーダビットソン)に熱をいれ屋敷内にオートバイ専用鉄工所を設けて国産大型オートバイ「ジャイアント号」を完成させた(後にこのメンバーが目黒製作所を作り川崎重工の吸収によってカワサキのオートバイへと発展していった)妻の伊代子亡き後は女中の水野まさという人を妾にしていたがその愛人と服毒心中した。話を元に戻すが海舟は嫡男・小鹿の死や嫡孫に当たる精(くわし)の非行などの心労によって明治三十二年に脳溢血で倒れ「これでおしまい」と言葉を残して帰らぬ人となり富士の見える所の土になりたいとの遺言により別邸千束軒のあった洗足池公園に葬られた。その六年後の明治三十八年に民子は亡くなるのだが最後に「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は(息子の)小鹿の側がいい」という遺言を残し青山墓地に葬られたが後に嫡孫・精の独断で洗足池の勝海舟の墓のとなりに改葬され現代にいたる。余談だが前述の長崎の愛妾・おくまが生み民子が引取って育てた三男・梅太郎(後に実母の実家・梶家を継いだ)は明治政府の依頼で日本の商業教育に招いたアメリカ人のウィリアム・ホイットニー家族を勝海舟は邸内に住まわせて世話をしたがその娘・クララ・ホイットニーと国際結婚し一男五女を儲けたが後に離婚してアメリカに帰国した。  
浅草御蔵

 

ここに、140年あまり前まで、幕府の米蔵、浅草御蔵があった、それが蔵前という地名の由来である。総面積99ha(36650坪)、北から一番掘から八番掘まで8本の入掘が並び、54棟270戸前(とまえ)もの蔵が建ち並んでいた。○○棟○○戸前が土蔵の数え方である。一棟に戸の数がいくつもあり、それが戸前である。
江戸初期は各所に分散して米蔵はあったが、次第に集約され享保の頃、本所御蔵ができ、以後、浅草を主、本所を従として運用された。浅草御蔵には常時40〜50万石の米が保管され、これは幕府の旗本、御家人のうち、“蔵米取り”に与えられるためのものであった。
旗本5,200名、御家人17,000名 / 俗に旗本八万騎というが、旗本の家来も入れれば、八万程度になったいう。
地方取 / 領地を持った旗本。石高で表示される。旗本の44%は地方取。長谷川平蔵400石、東山金四郎500石、勝海舟(父、勝小吉41石)は、いずれも旗本で地方取であった。
蔵米取 / 俸禄を米で支給される者、俵数で表示される。蔵米取・太田南畝(蜀山人)70俵5人扶持(=95俵)御家人御徒組。ちなみに、100石の地方取は100俵の蔵米取と同等の実収になる。また20人扶で100俵になる。この地方取の“石”表示と蔵米取の“俵”“扶持”の表記はわかりずらいが、こういう計算であった。
上の例で、勝海舟の生家は旗本でありながら、俵数ではわずか41俵で、貧乏御家人の大田南畝先生よりもそうとうな低収入であったということがわかる。落語、芝居、時代劇で出てくるサンピンは、三ピンで、三両1人扶のこと。米ではなく現金で渡される者もおり、サンピンは、年に金三両と1人扶が支給された最下級の御家人であった。
また、蔵の米は、同時に、幕府が江戸市中の米相場を調節しようとするときに放出された。蔵米取は米問屋に売却し、現金に換えた(ここから、札差が生まれている)。江戸期幕藩体制は武士が米を給料として支給される、米経済であった。江戸期を通して江戸幕府の家来である、旗本・御家人は身分の上下を問はず財政が苦しく、貧乏であった。日本史ではこの、幕藩体制の基本となる米経済が原因であったと説明される。
世の安定とともに商品経済が発展し、江戸の町には高価な物があふれていく。江戸の町で暮らす旗本・御家人達はこうした商品を購入せねば生活はできない。従って金銭が必要である。旗本・御家人の収入は米の量で決まっており、米の価格が上がれば手にする金銭も増える。しかし、他の物価が上がれば米は相対的に安くなる方向に向かう。すると、実際に彼らの手にする金銭の価値は、減っていくことになる。このため、旗本・御家人は構造的に貧窮していく方向にあったのである。 
生き残ったもん勝ち

 

生き残ったもん勝ち、勝海舟を見ているとそう思う。よく「歴史は勝者によって作られる」と言われる。明治政府においては海軍大輔(かいぐんたゆう)、参議兼海軍卿、元老院議官を歴任し、「ご意見番」として一目置かれる存在だったが、幕臣だった海舟は「負け組」だ。にもかかわらず、幕末でいちばん著名な幕臣としてその名を留めているのは、西郷隆盛との江戸無血開城談判で江戸を戦火から守ったことによるものだけではない。「氷川清話」(ひかわせいわ)をはじめ、多くの証言を残してくれているからだ。多くの交遊をもっていた海舟の話は、その「べらんめえ」な江戸っ子口調も手伝って心地よい。老人の自慢話にも似て少し割り引いて見なければならない部分もあるが、貴重な証言である。
天璋院(篤姫)との交遊話は「海舟語録」などに散見される。
はじめて海舟が天璋院に会ったのは、鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜が敗れ、江戸に逃げ帰ってきた直後のことだった。天璋院を薩摩に帰すという話が持ち上がった。だが天璋院は大奥から出ていく気は毛頭ない。「もし無理やり出すようなことがあったら自害する」と言って、昼も夜も懐剣を離さない。お付きの女中たちもいっしょに自害すると騒いでいる。そこで海舟が出向くことになった、大奥に顔を出すと、目の前に女中だちが、ずらりと並んでいる。
天璋院がいない。海舟が「どうかなさいましたか」と問うが、みな押し黙っている。しばらくすると、女中の中から、ひとりが出てきた。
「それが天璋院サ。かくれて、様子を見たものだネ」
海舟は、天璋院相手に腹を割って話しはじめた。それでも女中のひとりが「死のうと思へば死ねます」と言う。
「天璋院が御自害を為されば、私だって済みませんから、その傍で腹を切ります。するとお気の毒ですが、心中とか何とか言はれますよ」
これを聞いて、さすがの天璋院も心中は恥だと思ったのだろう。「明日もいらして下さい、まだ伺ひたいから」と態度をやわらげた。それから海舟は大奥に3日間通って、天璋院の怒りを冷ませることに成功する。
失敗をしでかして怒っている取引先のもとに出向いて、腹を割って話をすることで鉾を収めてもらうようなものだ。
以後、海舟と天璋院の交遊は続き、明治に入り、天璋院と静寛院宮(和宮)が海舟の家に遊びに来たときのこと。海舟は、ふたりに膳を出した。だが女中が困り顔でかけこんできた。海舟が問うと女中が言った。「両方で給仕をしようとしていてにらみ合っているのです」。海舟が座敷に顔を出して「どうしたというんです」と訊くと、おたがいに同じことを言う。「わたしがお給仕をしますのに、あなたが、なさろうとするから」海舟は笑って、お櫃をふたつ用意させて提案した。「天璋院さまのは和宮さまが為さいまし、和宮さまのは天璋院さまが為さいまし、これで喧嘩はありますまい」
これを聞いてふたりは「安房(あわ・勝安房守)は利口ものです」と大笑いし、1台の馬車で帰った。以後、天璋院と静寛院宮はたいへん仲良くなったと海舟は自慢する。
また海舟は、料亭「八百善」などに天璋院を案内して「下情(かじょう)を見せた」と自慢を重ねる。 
大奥の逸話 (「海舟余波」)

 

「天璋院と、和宮とは、初めは仲が悪くてネ。ナニ、お附のせいだよ。初め、和宮が入(い)らした時に、御土産の包み紙に、[天璋院へ]とあったそうナ。いくら上様でも、徳川氏に入らしては、姑だ。書(かき)ずての法は無いといって、お附が不平を言ったそうな。それで、アッチですれば、コッチでもするというように、競って、それはひどかったよ」
そんな二人だったが、最後の将軍慶喜の時代となり、鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶喜が上野寛永寺大慈院に謹慎。慶喜の正室美賀は一橋邸に留まったことから、江戸城の主は天皇家の娘和宮と官軍島津家の娘天璋院の二人となる。この二人がいては江戸城は攻撃できない。
二人は徳川家の存続を心から訴える手紙を、天璋院は「薩州隊長人々」宛てに、和宮は京都朝廷へ送るのである。
徳川家が存続し、江戸城が無血開城されたのも、蔭に彼女たちの力があったからともいえよう。
明治になると、「私の家に御一処にいらした時、配膳が出てから、両方でお上りならん。大変だと言って、女が来て困るから、[どうした]と言うと、両方でお給仕をしようとして睨みあいだというのサ。(中略)お櫃(ひつ)を二つ出させて、一つ宛、側に置いて、[サ、天璋院さまのは、和宮さまがなさいまし、和宮さまのは、天璋院さまがなさいまし、これで喧嘩はありますまい]と言って笑ったらネ、[安芳(あわ、海舟のこと)は利口ものです]と言って、大笑いになったよ。それから、帰りには、一つ馬車で帰られたが、その後は、大変な仲よしサ」 
新門辰五郎

 

寛政12年-明治8年(1800?-1875) 江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となる。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来する。
武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、弘化2年(1845)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。
幕府の高級官僚だった勝海舟とも交流があったと言われ、その著書『氷川清話』の中でも触れられている。その一方で、博徒・小金井小次郎を子分のように可愛がった。
上野大慈院別当・覚王院義観の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺の警護に当たっている。上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに静岡に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875)に没、享年75。辞世の句は、「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。 
相模屋政五郎

 

文化4年-明治19年(1807-1886) 幕末から明治にかけての侠客、口入屋。通称は相政、明治になってからは、山中政次郎と名乗った。『日本鉄道請負業史』に新橋横浜間の請負人として記録された山中政次郎とは維新後の相政のことである。
文化4年(1807)、口入屋、大和屋定右衛門の次男として、江戸に生まれる。その後、同業者相模屋幸右衛門の養子となり、文政年間には日本橋箔屋町で一家を構えた。
弘化3年(1846)、山内豊熈に見出され、土佐藩江戸屋敷の火消頭になり、火消一切を任された。安政2年(1855)の土佐藩邸火災で、火薬庫に引火するのを阻止し、大火を防いだ。この頃から慶応年間までが、政五郎の全盛期で江戸の口入屋の中でも図抜けた存在であり、子分1300人と称された。
文久2年(1862)に行われた文久の改革の余波により大名屋敷の規模縮小が行われ、雇われていた中間、小者が大量に解雇された。政五郎はこの手合の者を、ほぼ同時期に発足した常備軍である幕府陸軍に歩兵として送り込んでいる。
慶応3年(1867) 組合銃隊は廃止され、各旗本は、銃卒を差し出すことを免れる代りに公租の半分を幕府に供出することになり、その結果元組合銃隊の歩兵は直接幕府に雇用された一部除く約5000人が解雇されることとなった。それにより解雇された歩兵が徒党を組ん屯するようになり、吉原で暴れて、遊郭の若い者を殺したり、逆に返り討ちに遭うなど大きな社会問題になった。
その際、政五郎はこれを見かねて、子分を使い、「元公儀歩兵の方で江戸から旅に出られる方には草鞋銭を差上げる。」と伝えさせ事態の沈静化に努めた(一人2分ずつ遣り、600両ほど掛っている)。又、返り討ちにあって死んだ歩兵を寺に葬っている。翌1868年(慶応4)、鳥羽・伏見の戦い後の歩兵の脱走騒動時も、陸軍総裁・勝海舟の依頼を受けて、事態の沈静化に協力している。
明治3年(1870) 山内容堂から長年の労を労われ、名字帯刀御免、10人扶持となり、山中(やまうち)の姓を賜った。明治5年 容堂が死ぬと自らもこれに殉じて殉死しようとしたが、板垣退助に説得されて思い止まった。明治19年(1886) 新富町で、80歳で死去。 
鞍馬天狗 

 

大佛次郎の時代小説シリーズである。幕末を舞台に「鞍馬天狗」を名乗る勤王の志士が縦横に活躍をするさまを描いた、大衆小説の代表作である。頭巾をかぶった覆面のヒーローが善を勧めて悪を懲らしめるという構図は、後代の『月光仮面』や『仮面ライダー』などの「仮面ヒーロー物」の先駆けとなった。大正13年(1924年)、娯楽雑誌『ポケット』に第1作「鬼面の老女」を発表して以来、昭和40年(1965年)の「地獄太平記」まで、大佛は長編・短編計47作を発表した。また幾度も映画化・テレビ化がされ、特に40本以上にのぼる嵐寛寿郎主演の映画は、鞍馬天狗像を決定づけるものとなった。
時代背景は幕末。生麦事件や蛤御門の変といった歴史上の事件を背景とした作品もある。戦後発表された作品には物語が明治に入ってから展開するものもある。個々の作品の間には明確な関連性が見ない。例外的に、初期の『ポケット』誌に連載された短編は大枠で繋がりをもったあらすじ展開となっており、また第二次世界大戦中に発表された3編の長編のうち、昭和20年(1945年)の「鞍馬天狗破れず」は昭和18年(1943年)の『天狗倒し』の続編となっている。舞台は主に京都・大坂が中心となっているが、作品によっては江戸や横浜、果ては松前といった土地が舞台となっているものもある。
人物像
主人公は、普段は倉田典膳(くらた でんぜん)を名乗っているが、本名ではない。また作品によっては館岡弥吉郎(たておか やきちろう)、海野雄吉(うんの ゆうきち)と名乗っているものもある。その素性は謎が多く、天狗党の生き残りではないかと言われたこともあるが、確証はない。容姿は、「身長五尺五寸ぐらい。中肉にして白皙(はくせき=色白)、鼻筋とおり、目もと清(すず)し。」と描写されている(「角兵衛獅子」)。宗十郎頭巾に紋付の着流し姿というお馴染みのイメージは、嵐寛寿郎主演の一連の映画において創られた鞍馬天狗の姿で、原作者の大佛はこれを快く思っていなかった。日本の将来に思いをめぐらす勤王志士だが、討幕派でいて幕府方を代表する勝海舟と繋がりがあったり、新撰組の近藤勇とも奇妙な交友関係をもつ(原作で天狗が近藤と一対一の対決をするのは「角兵衛獅子」1作のみ)。また維新後は新政府に対して否定的な側面を見せており、権力の批判者であることを貫いている。 
牧之原開墾の功績者 / 中條景昭 (ちゅうじょうかげあき)

 

幕末、開国によって日本の体制は大きく変革し、政治経済はもちろん思想、教育、庶民の風俗まで一大変革をもとめられた時代。武士の地位が崩壊していく混乱の世で、中條景昭たち旧徳川幕府に仕えた幕臣たちは、牧之原開墾に自分達の第二の人生を賭けました。数百人の開墾士族をまとめあげた時代のリーダー中條景昭は、今も彼等が開墾した地牧之原で遠くひろがる茶園を見守っています。
武士たちの失業
中條景昭は、文政十年、江戸六番町に旗本の庶子として生まれました。嘉永七年(1854)より13代将軍家定に仕え、家中の武士たちに武術を指南する剣術・柔術世話心得などを歴任する剣客であったといいます。
慶応三年(1867)、将軍徳川慶喜が大政を奉還して江戸城から水戸に退く時、慶喜の護衛に当たった精鋭隊(のちに新番組)の一員として慶喜とともに駿府(静岡)へ下りますが、当時の情勢はめまぐるしく変化し、家達が藩知事となると新番組は使命を終えて解散。大量の武士たちが失業することになります。明治新政府の朝臣となる者、剣を捨てて農民や商人となる者、あくまで幕臣の道を歩もうとする者...旧幕臣たちは、生き抜く術を自ら決断しなければならない転換期に立たされていました。
剣を捨てて鍬をとる
中條景昭隊長以下数百名の隊員たちは、半年ほどのあいだ久能村(現清水市)に住んでいましたが、協議の末、牧之原開拓に入ることを当時の静岡藩大参事の平岡丹波、藩政補翼の勝海舟らに申し入れました。後に伝えられた勝海舟座談によれば、このとき中條は、「聞くところによると遠江国の金谷原はギョウカク不毛の土地で、水路に乏しく、民は捨てて顧みざること数百年に及んでいる。若し、我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」 と誓い、その志が通じて勝らの協力が約束され牧之原入植の方針が決まったといいます。その後、江戸留守居関口隆吉、松岡万など、現地の事情に通じた人々に検討され、士族の開墾方としての身分を得ました。中條の言葉にあるように、牧之原は広大な面積があるばかりでなく、幕府直領として放置されていた土地であったことが開墾の許可を容易にしました。
明治2年7月、家達の許可を得て、中條らは「金谷原開墾方」と称して牧之原荒野の開墾を開始します。約250戸の元幕臣たちが牧之原へ転住し、1,425町歩の開墾を始めました。当時、組頭(隊長)中條は42歳、頭並(副隊長)大草太起次郎は34歳で、開墾方には先輩格が38名、30歳未満の者が160名と若年の者が多く、身分の高い武士もいれば能楽師もいました。これらさまざまな人々2百名余を昨日までの地位身分に関係なく、農耕開拓団として統率していかなければなりません。中條ら開墾方の首脳たちは、この開墾組織を運営していくにあたって多くの仲間をまとめ、さまざまな取り決めや仕組みをつくりあげていった優秀なリーダーであったことがわかります。入植に不安を抱いて脱落する者も多い中で、中條ら幹部は着々と開拓を進め、明治4年には造成した茶園は500ヘクタールに達しました。(これには、明治4年に入植した川越人足や農民の開墾も含まれると思われます。)
製茶会社設立構想
牧之原はやせた土地のため種を蒔いた後の生育が遅く、初めて少量の茶芽を摘採できたのは、明治6年のことでした。その明治6年になると、それまで官有地であった土地は、浜松県から各人に下付され私有地が確立したので、農民等に対する売買もできるようになり、徐々に中條らの統制から離れてゆくことになりました。明治7-8年頃に、中条は神奈川県令(知事)にとの誘いを受けましたが、「一たん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」と一笑にふしたといいます。初心を曲げず、開墾方の頭として人々をまとめ、その後も開墾に励みました。
また、中條は明治11年2月には、牧之原氏族全員の連署で、時の県令大迫貞清に牧之原製茶会社(株式)を設立し、個々に製茶していたものを数百町歩の茶を集めて共同製茶し、輸出を図りたい、さらに情勢によっては紅茶製造も考えたいという大きな構想をうち出しています。結局この事業資金の請願は却下されましたが、当時、茶は生糸とともに日本の代表的な輸出品目であり、その再生や輸出利益は外国資本に握られていたため、政府が茶の直輸出に力をそそぎはじめたことが影響していると思われます。加えて丸尾文六が、明治11年にやはり株式会社組織で対米輸出を始めています。会社設立は果たせなかったものの、時代の流れを見据えて組織の反映に尽力した中條ら首脳陣の前向きな努力が窺われます。
中條は生涯頭の丁髷を切らず、前の「最後はお茶のこやしになる」のことばどおり明治29年1月19日に77歳をもって、生涯を捧げた牧之原の一番屋敷で死去しました。葬儀には、勝海舟を葬儀委員長として初倉村(現島田市初倉)種月院に葬られ、士族たちは中條の死を悲しんで三七21日の間、墓参を続けたといいます。昭和63年、島田市は市制施行40周年と全国茶行品評会を地元で開催をする期に関係者によって中條景昭の偉業をしのび、谷口原に立像と記念碑を建立しました。 
佐羽喜六と日本織物梶@[抜粋]

 

・・・・・吉右衛門は洋行した伊藤博文や大久保利通と親交を結んで、帰ってから貿易条約改正に熱心な彼らにヨーロッパと対等にということで、明治15-16年ころに鹿鳴館を作るわけです。子供の頃の話では、麹町の本宅から二頭立ての馬車で鹿鳴館に通ったと言うことです。
最近、日本の婦人を出したが見劣りする、伊藤博文は女性擁護運動を起こします。東京女子学館を作りますが、一口250円で90名程度で学館ができますが、11番目に佐羽吉右衛門の名前があります。10口以上出資しています。侯爵などは250円を分割で払った言います。当時200円で一軒の家が建つ時代ですから、大体一千万以上だと思います。公益に熱心な吉右衛門でした、そんなわけで外人が来ると吉原に行きました。
向島の別宅から吉原に行きましたが、白髭橋を渡り日本堤を通り吉原の大門に行きます。日本堤の脇の古着屋があったのだそうですが、古着屋がじゃまなので日本堤を買い取って煉瓦塀を作ってしまったという話もあります。関東大震災でつぶれたそうですが、当時の名物だったそうです。
昔、吉原の大戸を閉める(吉原を借り切る)といいますが、紀伊国屋文左衛門は大戸を3度締めて、店を潰しますが、吉右衛門は7度閉めて豪語したそうです。親戚に言わせますと彼が佐羽の金を使ったと悪口をいいますが、今考えると伊藤博文などと交流し、貿易条約改正には外国人接待などに活躍したのだと思います。
吉右衛門の名前を自分の妹(足利の須永)の筋から男の子(喜六)を取りますが、自分の最初の娘(うた)の所へ喜六を養子に迎え店を任せるわけです。恥になる話ですが、ウタは私の祖母ですが、家付きの娘で芝居遊びをし尽くしておりました。江戸三座を持っていたので、入り浸りでした。桐生でお花見をやるのに、丘公園では幕をはって女中に矢絣を着せてお姫様になってお花見をしたそうです。最後は、お芝居で身を崩すのですが。
当時、喜六は10歳の頃足利から佐羽に来るわけですが、頭が良いので日本橋本石町の店に行きますが、店では優秀な連中を高林塾(高林ジコウ塾長)にやり、書・漢詩・などを学ばせます。その中でも優秀な喜六を明治9年に婿にする訳です。
喜六の実家は足利の菱の青木という庄屋だったようですが、娘として家の格がが違うと不満を持っていたようです。婿に入った喜六は、羽二重を改良します。当時ハンケチとして輸出していましたが、製品にムラがあったようです。佐羽家が明治4年あたりに輸出をはじめ、横浜の店では羽二重が売れたそうです。ニタヤマの高草木、中里さん、2丁目の徳永さんが羽二重を作ったのですが、機屋に出すと製品ムラがあるので、デメといって製品を落として作り納品したので、規格統一をはじめます。10匁羽二重、8匁羽二重という規格化をつくって品質を上げて、輸出がどんどん伸びるわけですね。
ただ、桐生でできない、ウスノエ羽二重(ハルネ?)がどうしてもできない、当時、喜六は玉村(群馬)の庄屋に良く出かけたが、そこで勝海舟と出会っています。勝さんは皇居で侍従をしていたので、天皇にも蚕を飼育して桑畑まで作らせました。ショウゲンコウタイゴウはみずから蚕糸を奨励したそうです。そのときに玉村から女工さんを皇居に連れてゆきます。桐生からも菱から二人いっているはずです。
菱出身の森山修平さんは、ヤマモトジホウ(福井の松平家の家来)の家来の山岡次郎(奥さんが山岡鉄舟の妹)を招聘し染織や羽二重の改良をはじめます。技術は完成しますが、羽二重には湿気がいり、乾燥して桐生では向いていないので、山岡の紹介で森山修平さんが、福井に教えに行きます。横山カヘイ(新宿)さんが金沢に羽二重の指導します。今、横山家は金沢にお住まいです。8匁の羽二重が多かったようで、品質が良かったようです。
羽二重は年間3千万円ほど輸出していたようです。福井で織って桐生で染めていたそうです。福井セイレンの鈴木社長も桐生で勉強してます。子供の頃当時教えに言っていたおばあさんに話しを聞いています。奥州の川俣羽二重もそうですね。福井の羽二重は桐生の羽二重を福井で織っていたわけです。
日清戦争の戦費が2千万円ということですから、羽二重の3千万円は膨大な金額だと分かります。そんな訳で喜六は認められるわけですが、明治29年にアメリカの織物を視察する訳です。産地を廻って機械化しないと外国資本に潰されると脅され、日本織物株式会社を作る事になります。
会社の規模が大きすぎたのは、当時、三井(三越)白木屋、松坂屋と手を組んで織物工場を作る予定でしたが、資本金50万円の日本一の会社となりますが、三井・佐羽で半々の出資予定でしたが、三井が手を引きます。原因は三井が作った三越呉服が営業不振になるのと、富岡製糸を払い下げるが5万円でしたので、その方がよい、それに三井は石炭に移行したので、三井と手を切り、佐羽家だけで立ち上げ、桐生に工場を持ってきます。輸送機関として両毛鉄道(株)を作るわけです。資本金15万円だそうです。
日本織物の社長は佐羽吉右衛門、専務取締役が佐羽喜六となります。両毛鉄道の社長は田口ユウキチですが、福沢諭吉と並ぶ著名な経済学者です。田口さんも貿易条約改正論者でした。支配人は白石仙三、キムラハンベイ、菊池チョウシロウ、設立時ですが、22年には白石、木村などは三井の撤退を見て会社を辞めます。
その後、下村セイザエモン、タグチユウキチ、下村セイザエモン(大丸の創始者)、工場長に山岡次郎が入ります。・・・・・ 
清水寺 / 江戸三十三観音巡り (第2番札所)

 

このお寺の読みは「きよみずでら」でなく、「せいすいじ」と読みます。
清水寺は近代的な建物となっています。平成9年にできた地上2階、地下1階の建物です。ご本尊は2階に安置されています。建物の手前右にある階段を登ると寺務所受付があります。そこで、巡礼の旨伝えると、左手の本堂を案内していただき、参拝・読経を許していただきました。
清水寺の御由緒は、お寺の縁起では、次のように書かれています。
「江北山宝聚院清水寺は、今を去る1170数年余り昔、淳和天皇の天長6年(829)、天下に疫病が大流行すると、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であられた慈覚大師に疫病退散の祈願をご下命されました。慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観音一体を刻まれ、武蔵国江戸平河、今の千代田区平河の地に当寺を開いておまつりしたので、さしもの疫病の猛威もたちどころにおさまったといいます。 (中略)およそ380数年ばかり前の慶長年中、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感 僧正の協力を得て中興され、徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事の後、現在地に再興されたのでした」
『江戸名所図会』にも清水寺観世音菩薩として次のように書かれています。
「清水寺観世音菩薩 新堀端にあり。昔は浅草橋の内にありしが、明暦大火(1657)後いまの地にうつさる。寺を江北山(こうほくさん)清水寺(せいすいじ)と号す。天長年中(824)慈覚大師(円仁)ひとつの勝地を求め、天台法流の一院を建立ありて、みづから一刀三礼にして千手大悲の像を作り、本尊とす。(以下略)」
ご本尊は、千手観世音菩薩で、本堂中央に鎮座されていました。 千手観音菩薩は、別名では、千手千眼観世音菩薩といいます。「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ています。この観音様は、千本の手と千の眼で、世のすべてを見透し、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする観音様で、観世音菩薩の慈悲と力の広大さを表しているそうです。
清水寺の目の前に、「かっぱ橋道具街」の数多くの河童でつくられたモニュメントがありました。 
「かっぱ橋道具街」は、今や調理器具や菓子器具を販売する街として、全国的に有名になっていますが、明治末期から大正初期に古道具を取り扱う店の集まりから発生したようです。そして、戦後に主に料理飲食店器具や菓子道具を販売する商店街へと発展しました。現在は、約 800メートルの長さにわたって約170店舗のお店があるそうです。
「かっぱ橋道具街」の前の通りは、江戸時代は、新堀川という堀で、その堀にかかる橋が合羽橋でした。
この新堀川沿いに、幕末の剣豪島田虎之助の道場があったといいます。島田虎之助は、幕末に剣聖と言われた直心影流男谷誠一郎の弟子で、幕末の三剣士の一人といわれました。男谷道場では、一年余で師範免許を受け、師範代を勤めました。その後、東北修行をした後、天保4年(1843)に新堀川端に道場を開きました。その島田虎之助の道場で、若かりし勝海舟が道場に住み込み剣術修行をしていました。島田虎之助は、現在、かっぱ橋道具街にある「合羽橋南」交差点を少し西に入った正定寺(台東区松が谷2−1−2)に眠っています。 
弘福寺 / 向島のお寺神社

 

黄檗宗(本山は教徒万福寺)の名刹。松雲作といわれる釈迦如来像を本尊とし、山門、本堂の屋根などに唐風の建築様式をみることができます。勝海舟も青年時代にこの寺で修行したと伝えられ、関東大震災まで森鴎外の墓もここにありました。鯉魚の大魚板、根付、咳や口中の病によくきく「咳の爺婆尊」などがよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいます。 
愛宕神社 (東京都港区)

 

東京都港区愛宕一丁目にある神社である。山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高26m)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社である。防火・防災に霊験のある神社として知られる。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命により創建。また、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、別当寺である円福寺に祀ったことからはじまる。明治の廃仏毀釈により円福寺が廃寺となった後は、将軍地蔵は近くの真福寺に移されたが関東大震災で焼失した。  
愛宕神社(京都府京都市右京区) / 総本社
旧称は阿多古神社。旧社格は府社で、現在は別表神社。全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は愛宕さんとも呼ばれる。山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。
火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。上方落語では、「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在する。
大宝年間(701-704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって神廟が建立されたのが創建とされる。なお『延喜式神名帳』に「丹波国桑田郡 阿多古神社」の記載があるが、これは亀岡市の愛宕神社(称 元愛宕)を指すと考えられている。
天応元年(781年)慶俊僧都、和気清麻呂によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立される。その後は神仏習合において修験道の道場として信仰を集め、9世紀には霊山として七高山の1つに数えられた(愛宕信仰も参照)。この時代、本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵が、奥の院(現 若宮)に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。江戸時代には勝地院・教学院・大善院・威徳院・福寿院等の社僧の住坊があり、栄えていたとされる。
明治の神仏分離により、白雲寺は廃絶されて愛宕神社になると同時に、勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移された。
明治14年(1881年)に府社に列格。第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。 
勝海舟、西郷隆盛の会談
世界史上の多くの革命が血と犠牲の上で行われたのに対し、勝海舟と西郷隆盛による江戸城の無血開城は、日本の近代史上、世界に誇れる快挙です。そして、実は愛宕山は、この無血開城に大きな役割を果たしていたのです。ときは江戸から幕府に移るころ。江戸城明け渡しについて勝海舟と西郷隆盛は、ともにそのバックからのプレッシャーもあって、行き詰まり状態にありました。明治元年、3月13日。両人は家康公ゆかりの当山に登り、江戸の町を見渡しました。そして、どちらから言い出すともなく、「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」と談し、ともに山を下りたのです。そして、そののち三田の薩摩屋敷で歴史的な会見をして、無血開城の調印を行いました。 
 
海舟談話

 

俺など本来、人(出自)が悪いから、ちゃんと世間の相場を踏んでいる。上がった相場はいつか下がるときがあるし、下がった相場もいつか上がるときがあるものさ。その間、十年焦らずじっとかがんでいれば、道は必ず開ける。
 [逆境では焦らずじっとかがんでいれば、道は必ず開ける] 
世人は、首を回すことは知っている。回して周囲に何があるか、時勢はどうかを見分けることはできる。だが、もう少し首を上にのばし、前途を見ることを覚えないといけない。
 [時代の先を見ることの重要性] 
人の一生には、炎の時と灰の時があり、灰の時は何をやっても上手くいかない。そんなときには何もやらぬのが一番いい。ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。
 [何をやっても上手くいかないときは、あえて何もやらないのが一番] 
事を遂げる者は愚直でなければならぬ。才走っては上手くいかない。
 [ものごとを成し遂げる人は愚直] 
機先を制するというが、機先に遅れる後の先というものがある。相撲取りを見てもただちにわかる。
 [競争相手に先手を打たれても悲観しない] 
学者になる学問は容易なるも、無学になる学問は困難なり。
 [学問を学ぶのは簡単だが、学問を頭から追い出して考えるのは難しい] 
生死を度外視する決心が固まれば、目前の勢いをとらえることができる。難局に必要なことはこの決心だけだ。
 [死ぬ覚悟ができれば道が開ける] 
行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。
 [世間の評判を気にする必要はない] 
世の中は時々刻々変転極まりない。機来たり、機去り、その間実に髪を入れない。こういう世界に処して、万事、小理屈をもって、これに応じようとしてもそれはとても及ばない。
 [刻々変転する世の中で、小理屈だけでは渡っていけない] 
俺はそこで、もうだめだと思って大声で「自分が愚かで、教師の命令を用いなかったために諸君にまでこんな難儀をさせる。実に面目ない次第だ。自分の死ぬるのはまさにこのときだ」と叫んだところ、水兵どもはこの語に励まされ、一同全力を尽くして海岸の方へ(船を)寄せ付けた。(長崎海軍伝習所時代の航海実習時に教官からあまり沖に出すぎるなと言われていたが、遠出してしまい、かつ嵐に会って沈没しそうになった時を振り返っての発言)
 [リーダーは潔く謝る] 
教師の名前はカッテンデーケ(ヴィレム・カッテンディーケ、オランダ海軍軍人)といったが、笑いながら「それは良い修行をした。いくら理屈は知っていても、実地に危ない目に遭ってみなければ船のことはわからない。危ない目と言っても10回が10回ながら格別なので、それに遭遇するほど航海の術はわかってくる」と教えてくれた。このとき、理屈と実際とは別だということを悟ったよ。(長崎海軍伝習所時代の航海実習時に教官からあまり沖に出すぎるなと言われていたが、遠出してしまい、かつ嵐に会って沈没しそうになった時を振り返っての発言)
 [理論と実際とは別物] 
俺が海舟という号を付けたのは、(佐久間)象山の書いた「海舟書屋」という額が良くできていたから、それで思いついたのだ。しかし海舟とは、もと、誰の号だか知らないのだ。安芳というのは、安房守(あわのかみ)の安房と同音だから改めたのよ。実名は義邦だ。
 [海舟という名の出典] 
外国というものを、ドシドシ若手の連中に目撃させねばいかぬとと思ったから、大いに遊学生を奨励したが、その結果として榎本(武揚)などが、いよいよオランダに渡航することになった。これから講武所師範役となり、また海軍奉行などとなった。(講武所砲術師範役時代を振り返っての発言)
 [若手を最先端の場所にどんどん派遣しろ] 
俺もこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはそれに報いるだけのことはしようと思っていたのに、惜しいことに俺が長崎にいる間に死んでしまった。こんな残念なことは生まれてからまだなかったよ。(貧乏時代、本屋で本を買わずに立ち読みしていた海舟に本代を寄付してくれた渋田利右衛門についての発言)
 [支援者の影響は大きい] 
私はすでに門閥階級というものが、大いに国家進運を妨害するということを悟り得たから、その弊害を打破してやろうと思ったが、いかんせん、幾百年来の習慣はまったく親譲りの格式に甘んじて、上をかさに被るというありさまだから、なかなか一朝一夕に断行されるものではなかった。
 [門閥階級を壊すことが国家を先に進める第一歩] 
彰義隊の戦争の日だったが、官軍200人ばかり出て、俺の家を取り囲んで、武器などはいっさい奪い去ってしまった。しかし、このとき俺が幸いに他行(外出)していたために、殺されることだけは免れた。こんなふうに九死の中から一生を得たことは、これまでずいぶん度々あったよ。思えば俺も幸せ者さ。
 [生き延びられただけでも幸せ者] 
俺もやっとのことで虎の口を逃れたが、岡田の早業には感心したよ。後日俺は岡田に向かって「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろう」と忠告したら、「先生、それでもあのとき、私がいなかったら先生の首はすでに飛んでしまっていましょう」と言った。これには俺も一言もなかったよ。(岡田とは「人斬り以蔵」の異名をとる幕末の剣豪、岡田以蔵のこと。海舟が京都で刺客に襲われ、以蔵がとっさに刺客を斬り殺し海舟を救った時の話)
 [人斬り以蔵との思い出] 
大きな人物というものは、そんなに早く現れるものではないよ。通例は百年の後だ。いま一層大きい人物になると、200年か300年の後だ。それも現れると言ったところで、いまのように自叙伝の力や、なにかによって現れるのではない。二・三百年も経つと、ちょうどそのくらい大きな人物が再び出るのだ。
 [大人物は100年に一度しかあらわれない] 
そやつが後先のことを考えてみているうちに、二・三百年も前に、ちょうど自分の意見と同じ意見を持っていた人を見出すのだ。そこでそやつが驚いて、なるほど偉い人間がいたな。二・三百年も前に、いま自分が抱いている意見と同じ意見を抱いていたな、これは感心な人物だと騒ぎ出すようになって、それで世に知れてくるのだよ。知己を千載の下に待つというのはこのことさ。(本当の大人物は2・300年後の未来にならないと本当の評価は得られないという趣旨の発言)
 [真の大人物は生きているうちは評価されない] 
藤田東湖は、俺は大嫌いだ。あれは多少学問もあり、議論も強く、また剣術も達者で、ひとかど役に立ちそうな男だったが、本当に国を思うという赤心(嘘偽りのない真心)がない。もしも東湖に赤心があったら、あのころ水戸は天下の御三家だ。直接に幕府へ申しいづればよいはずではないか。それに何ぞや、書生を大勢集めて騒ぎまわるとは実にけしからぬ男だ。俺はあんな流儀は大嫌いだ。(藤田東湖は水戸藩の藩士。水戸学学者。幕末の尊王攘夷論に大きな影響を与えた人物)
 [藤田東湖への人物評] 
坂本龍馬が、かつて俺に「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ってくるにより添書(紹介状)をくれ」と言ったからさっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきて言うには「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と言ったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。
 [坂本龍馬の西郷隆盛人物評] 
西郷は実に漠然たる男だった。この難局を俺の肩に投げかけておいて行ってしまった。「どうかよろしくお頼み申します。後の処理は勝さんが何とかなさるだろう」と言って、江戸を去ってしまった。この漠然たる「だろう」には俺も閉口した。実に閉口したよ。西郷の天分が極めて高い所以は、実にここにあるのだよ。(大政奉還直後、幕府から新政府へ政治が引き継がれる途中、一時的に無政府状態になったときの話。西郷隆盛は旧幕派の海舟に事後処理を任せ薩摩へ帰った。信頼した人物に仕事を一任するという、西郷の仕事のやり方を良くあらわしたエピソード)
 [西郷隆盛に見る仕事の任せ方] 
あのときの談判(江戸城開城時の交渉)は、実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。その自分の形勢と言えば、品川から西郷などが来る。板橋からは伊地知(薩摩藩士伊地知正治)などが来る。また江戸の市中では、いまにも官軍が乗り込むと言って大騒ぎさ。しかし俺は他の官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼に置いた。
 [交渉するときは、相手の偉い人の中でも「話のわかる人」だけに焦点を合わせろ] 
いまの世の中は、実にこの誠というものが欠けている。政治とか経済と言って騒いでいる連中も、真に国家を憂うるの誠から出たものは少ない。多くは私の利益や、名誉を求めるためだ。世間の者は「勝の老いぼれめが」と言って嘲るかしらないが、実際俺は国家の前途を憂うるよ。
 [いまの世の中には、私利私欲がない誠というものが欠けている] 
佐久間象山は物知りだったよ。学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたら、どうだろうか。なんとも保証はできない。(佐久間象山は海舟の妹の夫の松代藩士、兵学家、海舟の師でもある。のちの日本を担う人材を数多く輩出する。自信過剰で傲慢だったという人物評がある)
 [大切な交渉は、知恵ある者より誠実な者にあたらせろ] 
およそ世の中に、歴史というものほどむずかしいことはない。元来、人間の知恵は未来のことまで見通すことができないから、過去のことを書いた歴史というものに鑑みて将来をも推測しようというのだが、しかるところ、この肝心の歴史が容易に信用せられないとは、実に困った次第ではないか。見なさい。幕府が倒れてからわずか30年しかたたないのに、この幕末の歴史をすら完全に伝える者が一人もいないではないか。
 [たった30年しかたたないのに、幕末の歴史すら完全に伝える者がいない] 
一時の感情に制せられず、冷ややかな頭をもって国家の利害を考え、群議を排して自分の信ずるところを行うというには、必ず胸中に余裕がなくてはできないものだ。(彦根藩家老の岡本黄石への言葉。彦根藩は井伊直弼が藩主だった。井伊が暗殺された時、黄石は冷静かつ粛々と藩政を執った)
 [判断を誤らないためには心に余裕がなければいけない] 
書生だの浪人だのという連中は、昔から絶えず俺のところへやってくるが、ときにはうるさいと思うこともあるけれど、しかし、よく考えてみると、彼らが無用意に話す言葉の内には、社会の景況や時勢の変遷が自然にわかって、なかなか味わうべきことがあるよ。匹夫匹婦の言も、虚心平気でこれを聞けば、みな天籟(てんらい=絶妙の詩文)だ。
 [人々のどうでもいい会話に耳を傾けると、貴重な情報が入ってくる] 
内閣からもつまはじきにされ、国民からも恨まれるかもしれない。朝鮮人やロシア人から憎まれるかもしれないが、良い子になろうなどと思うと、間違いが起こる。天下皆、お前さんの敵になっても、氷川のじいさんは、お前さんの味方だと思っていなさいよ。(韓国で起きた閔姫暗殺事件の後処理に向かう小村寿太郎に贈った言葉。氷川のじいさんとは海舟自身のこと)
 [外交では良い子になろうと思うな] 
 
山岡鉄舟

 

山岡鉄舟は、自ら道場を開くほどの剣の達人である。その剣法を無刀流と呼んだ。刀によらない剣法であり、心を澄まして胆力を練り、戦わずして勝つことを一義とする。これは座禅から学んだ剣法の極意であった。座禅により、死を恐れない無私無欲の精神を身につけ、彼は江戸を救った。
武士道の権化
武士道を忠義、豪胆、至誠、無私などと定義するならば、山岡鉄舟はまさに武士道の権化のような人物だった。辛口の人物評で知られる勝海舟が、山岡を「誠実忠愛にして英邁豪果(才能豊かで豪快)の人物」と称し、「山岡以上の人物は見当たらない」と手放しで褒め称えている。幕臣の勝海舟が、官軍(明治新政府の軍隊)の西郷隆盛と会談して、江戸城総攻撃を回避させたことは、あまりにも有名である。しかし、その前に西郷と直談判をして勝・西郷会談をお膳立てした人物こそが、山岡鉄舟なのである。
1836年6月10日、山岡鉄舟は小野高福と磯の間に生まれ、鉄太郎と名付けられた。小野家は代々の旗本(徳川将軍直属の家臣)で、父は蔵奉行(幕府の米の管理を行う役人)であった。鉄太郎10歳の時、父は飛騨(岐阜県北部)郡代(年貢収納の役人)に栄転。飛騨の地に移り住むことになり、17歳までの多感な少年期をここで過ごした。
教育熱心な父は、鉄太郎に武道と書道を叩き込んだ。母は慈愛に満ちた女性であったが、若い鉄太郎が郡代の子としてチヤホヤされることを懸念していた。そして常に鉄太郎を諫めて言った。「父親の仕事が尊敬されているだけで、お前が偉いのではない」と。
父母の死
鉄太郎が15歳の時、母が突然脳卒中で倒れ、41歳の若さで世を去った。鉄太郎の受けた打撃は大きかった。毎日、真夜中に母の菩提寺に出かけ、墓前に座し、お経を読んだり、母に話しかけたという。これが50日間も続いたので、聞く者の涙を誘った。まだ母を失った痛みが癒えない5ヶ月後のこと、今度は父の高福が没した。死因は脳溢血と言われているが、幕府に何か疑いをもたれたことによる自刃という噂もあり、真相は不明である。いずれにせよ、5人いた弟の養育は、15歳の鉄太郎に託されることになった。
相次いで両親を亡くした鉄太郎は、5人の弟を連れて江戸に向かった。腹違いの兄鶴次郎を頼ったのである。2歳になる末の弟のために、鉄太郎は彼を抱いて近所にもらい乳をして歩いた。夜は重湯に蜜を溶いて飲ませ、添い寝をして育てたという。鉄太郎はこの苦労をよく耐え忍んだ。父が遺した遺産を持参金にして、弟たちを旗本の家に養子に出し、兄としての責任を立派に果たしたのである。
江戸に戻った鉄太郎は、真っ先に千葉周作の道場に入門した。武士の子として、まずは剣の道を究めようとしたのである。その翌年(1853年)、江戸中が大騒ぎとなった。ペリー率いるアメリカの艦隊が、浦賀沖に来航した黒船騒動である。時代は、幕末に向けて風雲急を告げていた。鉄太郎が、この国難に敏感に反応したのは言うまでもない。外国勢力から国を護るため剣の腕を磨こうと、剣術修業に拍車がかかった。道を歩いていて、竹刀の音が聞こえれば、すぐにその道場に飛び込んで、試合を申し出る熱心さである。何事も捨て身で当たる鉄太郎を恐れ、周囲は「鬼鉄」とあだ名した。
剣術修業に明け暮れる日々、鉄太郎は一人の若い槍術家と出会った。日本で一、二と言われた槍の名人、山岡静山である。人となりは、剛直にして純朴、また人倫に篤く、困った人を放っておけない人柄だった。その上、大変な親孝行だったと言われている。20歳の鉄太郎は、27歳の静山にすっかり心服してしまった。ところが、この静山が川で不慮の死を遂げてしまう。出会ってわずか数ヶ月後のことである。
母の時と同じように、鉄太郎は静山の墓に毎日欠かさずお参りをした。雷が鳴り響く暴風雨の日、闇の中から一人の男が墓地に向かって走っていくのを寺の住職は見ていた。鉄太郎だった。彼は静山の墓の前で、着ていた羽織を脱いで、墓石にそれをかぶせ、語りかけた。「先生、ご安心下さい。鉄太郎が側におります」。雷が大の苦手だった静山のため、その晩は雷雨が過ぎ去るまで、墓を守護していたという。
その山岡静山には英子という名の妹がいた。鉄太郎はこの英子と結婚し、婿養子となって山岡姓を名乗ることになる。実はこの婿入りは前代未聞であった。家格が違いすぎたのである。鉄太郎の小野家は郡代の家柄、山岡家は平武士に過ぎない。しかし家柄などという俗世間的価値観が全く欠落している鉄太郎にとっては、何の問題にもならなかった。
山岡家は微禄(薄給)であったため、二人の結婚生活は困窮を極めた。家財道具のほとんどは売り払われ、妻の英子は栄養失調で乳が出ず、最初の子は死んでしまった。どん底を味わったのである。二人はこの苦境を支え合いながら耐え忍んだ。その頃、鉄太郎は一途に座禅に取り組んでいた。苦境につぶされない精神を培うためであり、何事にも動ずることのない胆力を身につけたいと思ってのことであった。
将軍の使者
1867年、徳川最後の将軍慶喜は政権を朝廷に返上し、ついに江戸幕府は自壊した。しかしあくまで武力討幕を目論む官軍(新政府軍)は旧幕府軍を挑発し、内戦に持ち込んだ。そして、江戸城を最後の決戦場と考えていたのである。江戸が戦火に見舞われれば、国の統治機構が麻痺するばかりではなく、外国勢につけいる隙を与えてしまう。江戸城攻撃は時間の問題だった。何としてもこれを止めなければならない。それには慶喜が恭順の意を固めていることを官軍に伝えなければならない。しかしその術がなかった。この危機的状況の時に、白羽の矢が立ったのが山岡鉄太郎である。
官軍への使者という一生一代の大仕事を引き受けた。勝海舟(旧幕府軍の軍事総裁)から、「手段はあるか」との質問に対し、鉄太郎はきっぱり言った。「官軍陣営に入ったならば、斬られるか、捕縛されるしかないでしょう。その時、刀を相手に渡し、斬られる前に大総督に申し上げる。ただそれだけのことです」。鉄太郎は命を捨てる覚悟でいた。
同行したのは勝の家に寄宿していた薩摩藩士。現在の川崎あたりには、すでに官軍の先鋒がいた。二人は大胆にも、左右に隊列を組む銃隊の中央を歩いていった。あまりにも堂々としていたためか、誰も止めない。隊長らしき人物の前に出て、鉄太郎は大声で言った。「朝敵、徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」。隊長はあっけにとられて、思考停止に陥ってしまった。百人ばかりいた兵士も、声もなくただ見ていただけだった。鉄太郎の胆力が相手を圧倒したのである。こうして最初の難関を無事通過した。
西郷との面会
目指すは官軍参謀、西郷隆盛。静岡の伝馬町に宿泊していた西郷に面会を請い、対面するやいなや、口を開いた。「主君慶喜はすでに恭順謹慎しております。なのに是非も論ぜずに進撃されるのですか。先生は、どこまでも戦いを望まれ、人を殺すことを目的とするのですか。それは王道ではありません」と迫った。西郷も「むやみに進撃を好むのではない。恭順の実効さえ立てば寛大な処置があるでしょう」と言わざるを得なかった。
西郷は敵中を堂々と歩いてきた鉄太郎の胆力に驚嘆し、またその誠実な人柄に心打たれていた。西郷は緊急の参謀会議を開き、徳川家に対する処置7項目を鉄太郎に提出した。そこには、江戸城の明け渡し、軍艦の引き渡しなどが書かれていた。それを見て、鉄太郎は言った。「一つだけ受け入れられません。それは、慶喜を備前(岡山県)に預けることです。これでは家臣が黙っておりません。また戦端が開かれ、数万の命が絶たれます」。
西郷は「朝命(天皇の命令)です」とにべもない。「たとえ朝命でも承伏できません」。西郷の主君島津公が、同じような立場に置かれた時のことを考えてほしいと言った。島津公がこのような朝命を受けたならば、西郷殿は家臣として主君を差し出して、安閑としていられますかと言って、一歩も引かなかった。西郷は、しばらく黙りこくっていたが、さすが大物である。「先生(鉄太郎)の説、もっともです。慶喜公のことは、この西郷に任せて下さい」と言った。決死の談判がこうして終わった。鉄太郎、31歳の快挙である。
「命も要らず、名も要らず」
西郷隆盛の遺訓とも言うべき『南洲翁遺訓』に有名な一節がある。「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものである。この始末に困る人でなければ、艱難を共にして国家の大業は成し遂げられない」。これは、西郷・勝の会談の際、西郷が鉄太郎を思い浮かべながら語った言葉と言われている。そして勝に向かってつぶやくように言ったという。「慶喜公はさすがに偉い家来をお持ちですな」。
後に鉄太郎は、明治天皇の侍従として宮内省に出仕することになる。西郷の強い推薦であった。明治天皇はまだ若い。その豪放な振る舞いで、周囲が手を焼いていた。その天皇を時には諫め、立派な君主に導く最適な人物と見なされたのである。
山岡鉄舟は剣の達人であった。晩年、自ら道場を開き無刀流と称した。刀に頼らない剣法だと言うのである。彼は言う。「敵とあい対する時、刀によらず心を持って心を打つ。勝負を争わず、心を澄まし胆力を練り、自然の勝利を得る」。禅の教えを剣術に生かそうとしたものである。まさに剣禅一如である。
1888年7月19日、胃ガンが悪化し、いよいよ最期の時を迎えようとしていた。彼は静かに床を離れ、宮城(皇居)に向かって座禅を組み始めた。そして、その座禅の姿勢のまま、息を引き取ったという。享年52歳。彼は剣の達人でありながら、生前ただの一人も殺していない。剣の達人である前に、人生の達人であったのである。 
 

 

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