近代日本雑話

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雑学の世界・補考   

なぜ日本は中国と戦争をしたか

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前回の末尾で、橋川文三(1922.1.1生、政治思想史研究者)の日本国民としての日中戦争及び日米戦争についての率直な印象を紹介しました。ここで氏は「極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。」といっています。私はこれは、日中戦争及び日米戦争における日本の「調子狂い」の根本原因を最も鋭く見抜いた言葉ではないかと思います。
次に、この問題を考えるために、1945年12月20日から11回連載された「近衛文麿手記」に紹介された、日支間の問題解決についての駐日支那公使蒋作賓の提案を見てみます。
「丁度その頃駐日支那公使の蒋作賓も血圧が高い為長谷の大仏の境内に住んでいた。そんな関係から、ある日―たしか昭和七年の五・一五事件のあとだったと思うが、秘書役の参事官丁紹扨と連れ立って、蒋は私を訪ねて来た。丁紹扨とは私の一高時代に西寮で一緒だったという因縁があったので特に丁を伴って来たものと思う。それ以来蒋と丁は屡々やって来た。鎌倉山の家にもひと月に一回位は必ず顔を見せた。
蒋作賓は前にドイツ大使をやって居り、蒋介石直系の人物である。彼は丁の通訳で日支問題を論じ、このままで行けば日支の衝突は世界戦争にまで発展する可能性があると私に警告した。
彼は何よりもまず蒋介石の実力を説いた。蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はないというのである。成程一方には呉佩孚等いう人も居るが、しかし彼等は一部勢力の代表にしか過ぎない。そういう手あいを相手にしていたのでは何時になっても日支の問題は解決しないであろう。
一体日本の軍部は支那の軍閥を利用して、お互いにお互いを牽制し、反発させて支那の統一をさまたげ分割統治をやろうという政策をとって居るようだが、これがそもそも根本の誤である。日本人は第一にこの点からして認識を改めねばならぬ。日本が如何なる政策をとろうとも今日の支那はまさに国内統一の気運に向っている。そしてこの気運に乗っているものこそ実に蒋介石その人だ。だから支那のことを考えるからには是非とも蒋介石国民党を中心に置いて考慮をめぐらしてほしい、とこういうのである。
従来日本の軍部は国民党を叩こうとばかりしている。この政策ぐらい間違っているものはない。こういうやり方を続けていると、支那の隠忍にも程度がある。やがては我慢ができなくなり、終には捨てばちになって反抗するようになる。一体武力で支那を征服しようなどという事は、全く支那をしらない者の考えであって、いくら支那が衰えているからといってそんな事ですぐ倒れるものではない。戦が長びけばその内には英・米が蒋に味方をするということが起こり、日支問のもつれは必ずや世界戦争に発展する可能性がある。もし世界戦争にでもなれば、結果は英・米を利し、日本も支那も共倒れになってしまう。
だから日本は今の内に政策を改めて大局に目をくばり蒋介石と手を携えて、大アジアの問題を処理すべきではないか。これが孫文以来の理想なのだ。そうなればイギリスにしても、アメリカにしても手が出せなくなる。これこそ東亜安定の唯一の策であり東亜興隆の唯一の道だ。今日の日本のやり方というものはこれと全く逆になっている。」(注:驚くべきことにその後の歴史は、この蔣作賓の「読み」どおりに進行しています。)
こうした蒋作賓の説に対して、近衛文麿は「心から同感の意を表し」たといっています。その後、「蒋作賓は十年の夏だったか、一先ず帰国し」当時四川省で赤軍討伐のため重慶にいた蒋介石と協議して日支和平案を練り、これを「丁紹扨に持たせて日本に寄こした。丁は日本に着くと、早速軽井沢に私を訪ねて来た。」その時彼の携えて来た日支和平案というのは、
一、満州問題ハ当分ノ間不問二付スル(現在の空気では支那に於ては取りあげられないから)
二、日支ノ関係ヲ平等ノ基礎ノ上二置ク、ソノ結果トシテ凡ユル不平等条約ヲ撤廃スル、但シ満州二関係ノアル不平等条約ハ、除外シナイ、マタ排日教育ハ防止スル。
三、平等互恵ノ関係ノモトニ、日支経済提携ヲナスコト。
四、経済提携ノ成績ヲ見タウエデ軍事協定ヲ結ブ(軍事協定締結の場合には、蒋介石自身は日本を訪問してもよいというのである)。
大体右のような内容のものであった。」といいます。
この提案内容は、昭和10年9月、蔣大使が広田外相に示した和平提案の内容―「日中両国相互の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しないこと。日支の経済提携の相談に応ずること。更に「共同目的」(防共=筆者)のため軍事上の相談を為すこと」等―と同様のものだったのではないかと思います。
近衛もこの案に大賛成であり、「充分努力しようと丁に誓」いました。そして、この支那の提案を、「議会で広田外相に会い事情を話し、政府に於いても日支問題の解決につき努力するよう頼んだ。」しかし「広田も外務省も同感であったのだが、軍部から反対の声があがった。それは提案第一条の満州を「不問」に付するという点がいかん、「承認」と改めよというのである。これには広田も困った。」その後、昭和10年10月の「広田三原則」(外陸海三省了解)が出来上がり、これと中国側三原則の調整のための協議が広田と蔣の間で進められましたが、そこで問題になったのがやはり満州国の承認問題でした。
広田三原則では、「二、支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策をやめしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。」となっていました。日本側は「満州国の独立を事実上黙認」することを求めましたが、中国側は、日本に満州国承認の取り消しを求めることはしないなど「かなりの譲歩の意向がみとめられる」ものの、その主権の放棄を明言することはありませんでした。
ただ、この「広田三原則」の付属文書には、「我が方が殊更に支那の統一または分立を助成しもしくは阻止する」施策は慎むとの方針が入っていました。これは、同時期関東軍が進めていた華北分離工作を押さえ込もうという政府の思惑があったのですが、関東軍はこれを阻止しようとして、華北分離工作をおし進めました。この時出されたのが「多田声明」で、北支より反満抗日分子の徹底一掃、民衆救済のための北支経済圏の独立、赤化防止、北支五省連合自治体の結成をうたい、「これを阻害する国民党及び蔣政権の北支よりの除外には威力の行使」も辞さないと露骨に威嚇しました。
しかし、こうした関東軍の強硬策も、中国の「幣制改革」の成功に伴う中国経済の統一の進展もあって縮小せざるを得ず、結局、翌昭和11年25日の「冀東防共自治委員会(一ヶ月後「冀東防共自治政府」と改称)」という親日自治政権の樹立、同12月18日の「冀察政務委員会」(=国民政府、宋哲元、日本政府の妥協の産物である日中間の緩衝政権)の設置となりました。(冀東とは河北省東部のことで、冀東政権はその地域を、冀察政権はそれ以外の河北省とチャハル省をその管轄地域としていた)その後川越駐華大使と張群外交部長の間で交渉が継続されましたが、中国は「主権の完整」という大前提のもとでタンク−停戦協定の廃止など具体的要求を持ち出すようになりました。(交渉は関東軍の内蒙工作である綏遠事件により破綻)
こうした日中交渉の手詰まり状態の中で、華北分離工作に対する中国の抵抗が強いことや、西安事件を契機として中国に「国共内戦停止」や「抗日国内統一」の気運が高まっていることを背景に、従来の「軍閥闘争時代」の中国間観の修正を求めるいわゆる「中国再認識論」が生まれてきました。石原莞爾が、従来の主張(=中国の政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐する)を転換し、「支那の統一運動に対し帝国は飽迄公正なる態度を以て臨む北支分地工作は行わざること」と主張し始めるのはこの頃です。
こうした「中国再認識論」の動きは、昭和12年4月16日付けで四相会議が決定した「対支実行策」と「北支指導方策」にも反映されました。そしてこうした動きを促進するため、吉田茂駐英大使は往年の日英同盟の協調関係を復活させようとしました。イギリスのイーデン外相は「日本は中国を扱う正しい方法をが何であるかについての見方を明らかに変えつつある」と評価しました。しかし、6月4日に発足した第一次近衛内閣に外相として再登場した広田は、こうした対支親善策に消極的でした。吉田大使は「日支関係の局面打開は日英協力主義を善用すべし」としましたが、広田は冷淡でした。
日本政府内にこうした「中国再認識論」が出てくる一方で、関東軍参謀部は「北支防共を完成し対ソ必勝の戦備を充実するため内蒙及び北支工作を強行」し「冀東、冀察、山東各政権を一体とし呉佩孚を起用し、茲に北支政権の基礎を確立・・・要すれば商用の兵力を行使し」と唱えていました。また、関東軍板垣参謀長の後任の東條英機中将も昭和12年6月「対蘇作戦準備の見地より・・・まず南京政権に対し一撃を加え我が背後の脅威を除去」せよと中央部に具申していました。こうして陸軍内が対中国避戦派と一撃派に分かれたまま廬溝橋事件を迎えることになったのです。
この間、蒋介石は「安内攘外」を標語として、対日和平の途を模索したのですが、1935年半ば頃から日本の華北分離工作が進み始めると、高まる抗日世論にさらされるようになりました。しかし、この間の中国の国内統一の進展はめざましく、反蔣軍閥との抗争も一段落し、管理通貨制度による幣制改革も成功し、経済建設面でのインフラ整備も顕著で、こうした国内的成功によって蒋介石はカリスマ的指導者として世論の支持を受けるようになりました。1936年からは軍備の近代化と重工業の振興をめざす三カ年計画に着手しました。この間中国は「二、三年の時間をかせぎ出すことだけを考え」てかろうじて日中交渉の決裂を避けようとしていました。
こうして蒋介石は、その「安内攘外」策の「安内」が整って行くにつれ、次第に「国民の要望に応えて、”攘外”を何とかやらざるを得ないという羽目」に追い込まれていったのです。「すでに『即時抗日』を呼号する声は、中共党や救国運動に結集した進歩は文化人ばかりでなく、綏遠事件の『勝利』で『敗戦コンプレックス』を解消した中央軍の中下級将校まで広がり、『準備抗日』を説く軍幹部の統制もゆらぎはじめ」ていました。こうして、昭和12年7月7日の廬溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争へと突入することになるのです。
まさに、ため息が出るような話ですが、ではどうして日本がこのようなまるで集団自殺を思わせるような局面に落ちこむはめになったのか。この間の事情を最もわかりやすく語っているのが、昭和14年初め、北京の燕京大学大学校長レイトン・スチュアート氏が近衛文麿溝に宛てて書いた和平提案の手紙の邦訳写しです。これは昭和13年12月22日の「第三次近衛声明」が「日本が何等支那の主権と独立を侵害する意志なし」(スチュアート氏の解釈)と表明したことを受けて、スチュアート氏が日中和平を願う同志を代表し、近衛公に両国間の誤解を解くべくアドバイスしたものと思われます。
「近衛公閣下、未だ拝眉の機を得ざるも貴国に於ける貴下の卓越せる地位と、自由にして聡明なる閣下の政治的風格に対する敬仰の念よりして、吾等に関聯せる現下の問題に対して敢えて一書を拝呈する。私は支那生まれの米国人です。長き間宗教と教育を通じて支那の福祉の為に働き支那人を愛敬するが同時に心から日支両国の親善を希って居るものです。これは独り両国の共通の利益たるのみならず又関係第三国もこれを歓迎することと信じます。たとへそのため少し位自分達の利益を犠牲にされても。
現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る。日本は支那の排日感情乃至排日煽動を撲滅せんとして戦って居ると思って居る。然るに一方支那は支那の独立とその存在すら脅かされると思って、如何なる愛国者にも当然なる防衛の為の戦争をしてゐると思って居る。
昨年末貴下の有名な近衛声明に於いて日本は何等支那の主権と独立を侵害する意志無しと公表された。然るに支那人は大抵日本は占領地に於ける軍事上の占領のみに止まらず、あらゆる生活の形式を支配するものと思い込んで居る。日本は共産党を排撃し、防共上の協力を提議して居るが、支那人はこれは支那内部の問題であって、支那の政府に一任すべきだと思って居る。防共の為に如何なる他国の軍隊と雖も駐在することは、却って平和生活の破壊となり漸く納まりかけた治安を激発するものと思って居る。
日本は所謂親日政府を建設しこれと協同して居るが、これは支那側からみれば深刻許すべからざる日本の支配の軽蔑すべき一形式であり、凡そ支那人の目からみると彼等の承認せる政府を裏切った漢奸としか映じない。(王兆銘擁立工作のこと=筆者)これ等は前述せる相互の無理解の一班である。その憂慮すべきことは、この無理解の傾向は日支両国がお互いにその動機と手段とに対する猪疑心を益解けがたきものにすることである。真の悲劇はこれが必要なくして、しかも益(ますます)深刻になってゆく点にある。
私の貧弱な、しかし確たる確信によれば、支那は日本の帝国主義的脅威に対する危惧の念を脱却したらその瞬間排日の行動を終熄し、且つ喜んで日本に必要な原料品と市場を提供するであろう。乃至は又互恵的な経済的合作の道をも講じ、且又共同の外敵に対し共同防衛の方法をも講ずるであろう。
米国がこの問題に対して関心せざるを得ないのは、支那の自由且独立は太平洋の永久的平和の基礎条件であると信じ、且日本の現在の駐兵は日本の支那支配の表現ではないかといふ危惧に由来する。その懸念が晴たら、日米の間の偕老的なる友誼は直に恢復されるであろう。
支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今まで日本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる様にされんことを勧告する。そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退することだ。これは貴国政府に対する凡ゆる疑問を一掃する。一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう。私は微力乍ら喜んで両国並に米国間の理解の促進に力める。私の役割は少さい。然私はこの崇高なる目的の実現に協力せんとする多くの同志を代表するといふ確信の下にこの手紙をかいた。」
要点は次の通りです。
「現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る」もので、日本が防共のために軍隊を中国に駐在させたり、親日政府を立てたりすることは日支両国の猜疑心をますます解けがたいものにしている。従って、この問題を解決するためには、「支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今までの本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる」ことが必要である。そして「そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退すること」であり、「一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう」
しかし、近衛がこの手紙を受け取ったのは、氏がその職を辞した直後であり、これを「近衛第三次声明」後の外交交渉に生かすことはできませんでした。だが、おそらくこれは、昭和16年8月の日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「(ハル四原則」(一切の国家の領土保全と主権の尊重、他国の内政への不干渉外)につき「主義上異存なし」と述べたことや、その後の近衛・ルーズベルト会談(実現を見なかったが)において近衛が陸軍に求めた「名を捨てて実を取る日本軍の中国からの撤兵」提案などに反映していたのではないかと推測されます。
一体、この「中国の主権と独立の尊重」という”あたりまえ”の観念を否定して華北分離工作を強行し、数百万に上る兵を駐兵させて中国に居座ったまま撤兵を拒んで、日本を対米英戦争に引きずり込んだ、この「妖怪」の正体とは何だったのでしょうか。いうまでもなくそれは、満州事変という実行行為を通して日本軍に胚胎したものであり、「中国の主権否認」という形で現実化したものでした。イザヤ・ベンダサンは『日本人と中国人』の中で、先の駐日支那公使蒋作賓の言葉を「中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい」という意味だといっています。おそらく、スチュアート氏の「勧告」も同様の点を指摘しているのではないでしょうか。
つまり、中国を「他国としてみる目」が欠如していたことが原因であり、日本人の伝統思想である尊皇思想から見た中国のイメージが、現実の中国と余りにも異なり「匪賊国家」に見えたため、自分たちこそ「東亜の盟主」であるとし、中国人はその「内面指導」を受けべきであり、日本のアジア解放・欧米駆逐という大業に協力すべきである、という傲慢を生んだというのです。そしてこのことは、何も軍部だけにいえることではなく、世論となるとこれが決定的で、これが本稿の冒頭に紹介したような「日本人の日中戦争観の狂い」を生じさせたというのです。
満州事変の発生と、それに対する国民の熱狂的な支持の背景には、中国文化に対する憧憬とそれに対する反発を繰り返しながら、自らの文化を育んできた日本の「中国の辺境文化」として宿命があった。ではそれから脱却するためにはどうしたらいいか。いうまでもなく、それは、こうした自らの行動の規範がどういう伝統思想に由来するかを知ることであり、それを対象化し思想史として客体化できれば、それを脱却して新しい文化を創造することもできるというのです。
ともあれ、我々が日中戦争から学ぶべきことは、こうした自らの「内なる中国」と、実際の「外なる中国」とを区別すること。つまり、中国(=他国)の主権を尊重する」という”あたりまえ”の観念を、自らの思想として身につける、ことなのかもしれません。たったそれだけのことができなかったために、あれだけの傲慢と惨劇を生むことになったとしたら・・・。  
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前回、昭和7年の5.15事件の後、駐日支那公使の蔣作賓が近衛文麿を訪ねてきて、「蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はない」と力説した、という話を紹介しました。おそらく中国の側でも、近衛文麿が近い将来日本の政治的リーダーとなることを予測して、彼に対する政治的レクチャーを試みたのではないかと思われます。
ここで蔣作賓が言っている「蒋を中心勢力と認めさえすれば」というのは、要するに蒋介石が行っている中国統一を認めよ、ということで、言葉を代えて言えば、「中国の主権を認めよ」ということに他ならないと思います。従って、日本がその蒋介石を否定するということは、「支那の統一をさまたげ分割統治をやろう」とすることと同じになる。「これがそもそも根本の誤である」と蔣作賓はいうのです。同様の指摘は、これも前回紹介した北京燕京大学校長レイトン・スチュアート氏の近衛文麿に対するアドバイスにも見ることができます。
だが、当時の関東軍の蒋介石に対する不信と嫌悪は「いささか常軌を逸し」ており、「(国府は)絶対に帝国と親善不能」だから「支那大陸を・・・分治せしめ其分立せる個々の地域と帝国と直接相結び帝国の国力により・・・平和の維持と民衆の経済的繁栄を図る」(1936年5月板垣が有田次期外相に語った言葉)というほどのものでした。それは「予期に反し全国統一事業を着実に進めていく南京政府と蒋介石への不安と焦慮に発したのかもしれない」と秦郁彦氏は言っています。
こうした板垣の考え方は満州事変の以前からあり、というより、こうした日本軍の日清戦争以来の中国蔑視の考え方が、満州事変を引き起こしたとも言えるわけです。その満州問題の処理にあたって中国をどのように認識するかということは、当の満州事変の首謀者石原莞爾によって、次のように語られていました。
「支那全体ヲ観察センカ永ク武力ヲ蔑視セル結果、漢民族ヨリ到底真ノ武カヲ編成シ難キ状況ニ於テ、主権ノ確立ハ全然之ヲ望ム能ハス。彼等ノ止ムルヲ知ラサル連年ノ戦争ハ吾等ノ云フ戦争即チ武カノ徹底セル運用ニ非スシテ、消耗戦争ノ最モ極端ナル寧ロ一種ノ政争ニ過キサルノミ。我等ニ於テ政党ノ争ノ終熄ヲ予期シ得サル限り、支那ノ戦争亦決シテ止ムコトナキモノト云ハサルヘカラス。斯ノ如キ軍閥学匪政商等一部人種ノ利益ノ為メニ、支那民衆ハ連続セル戦乱ノ為メ塗炭ニ苦シミ、良民亦遂ニ土匪ニ悪化スルニ至ラントス。四面ノ民ヲ此苦境ヨリ救ハソト欲セハ他ノ列強力進テ支那ノ治安ヲ維持スル外絶対ニ策ナシ。即チ国際管理力某一国ノ支那領有ハ遂ニ来ラサルヘカラサル運命ナリ。単ナル利害問題ヲ超越シテ吾等ノ遂ニ蹶起セサルヘカラサル日必スシモ遠トイウヘカラス。」
つまり、支那は永く武力を蔑視してきたために真の武力が編成できない。そのため自らの主権を確立することは望めず、その結果、一部の人の利益を争う政争のような戦乱が続き良民を苦しめている。こうした支那の苦境を救うためには、他の列強力(=日本)がその利害を超越して治安の維持に当たる必要があるというのです。しかし、残念ながらその動機はそれだけではなく、其の前段には次のような日本自身の利害が赤裸々に語られています。
「我国情ハ殆ント行詰り人口糧食ノ重要諸問題皆解決ノ途ナキカ如シ。唯一ノ途ハ満蒙開発ノ断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ。然ルニ満蒙問題ノ解決ニ対シテハ支那軍閥ハ極力其妨害ヲ試ムルノミナラス、列強ノ嫉視ヲ招クヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス、国内ニモ亦之ヲ侵略的帝団主義トシテ反対スル一派アリ。満蒙ハ漢民族ノ領土ニ非スシテ寧ロ其関係我国ト密接ナルモノアリ。民族自決ヲ口ニセントスルモノハ満蒙ハ満洲及蒙古人ノモノニシテ、満洲蒙古人ハ漢民族ヨリモ寧ロ大和民族ニ近キコトヲ認メサルヘカラス。現在ノ住民ハ漢人種ヲ最大トスルモ、其経済的関係亦支那本部ニ比シ我国ハ遥ニ密接ナリ。之等歴史的及経済的関係ヲ度外スルモ、日本ノ力ニ依リテ開発セラレタル満蒙ハ、日本ノ勢力ニヨル治安維持ニ依リテノミ其急激ナル発達ヲ続クルヲ得ルナリ。若シ万一我勢力ニシテ減退スルコトアランカ、目下ニ於ケル支那人唯一ノ安住地タル満洲亦支那本部ト撰フナキニ至ルヘシ。而モ米英ノ前ニハ我外交ノ力ナキヲ観破セル支那人ハ、今ヤ事毎こ我国ノ施設ヲ妨害セントシツツアリ。我国正当ナル既得権擁護ノ為、且ツハ支那民衆ノ為遂ニ断乎タル処置ヲ強制セラルルノ日アルコトヲ覚悟スヘク、此決心ハ単ニ支那ノミナラス欧米諸国ヲ共ニ敵トスルモノト思ハサルヘカラス。」
この最後の段は、満蒙における日本の治安維持の義務を語りつつ、同時にそれは、我が国の正当な既得権擁護のためでもあり、かつ支那民衆のためであるといい、しかし、そうした日本の行動は、支那のみならず欧米諸国をも敵とするものであり、日本人はその日が来ることを覚悟すべきであるというのです。そして次のように続きます。
「即チ我国ノ国防計画ハ米露及英ニ対抗スルモノトセサルヘカラス。人往々此ノ如キ戦争ヲ不可能ナリトシ、米マタハ露ヲ単独ニ撃破スベシ等ト称スルモ、之自己ニ有利ナル如キ仮想ノ下ニ立論スルモノニシテ、危険ハナハダシキモトイウヘク絶対ニ排斥セサルヘカラザル議論ナリ。」いささか空想的に過ぎるように思われますが、これは決して冗談やざれごとでありません。というのは、石原莞爾はこうした言葉を、彼自身のオリジナル思想(?)である周知の次のような「最終戦争論」のもとに語っているのです。
「欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ成形セントシツツアル世界ハ、更ニ進テ結局一ノ体系ニ帰スヘク、其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト、東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依り決定セラルヘシ。即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルヘキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナササルヘカラズ。」「而シテ此ノ如キ戦争ハ一見我国ノ為極メテ困難ナルカ如キモ、東亜ノ兵要地理的関係ヲ考察スルニ必スシモ然ラス。即チ
1 北満ヨリ撤退シアル露国ハ、我ニシテ同地方ヲ領有スルニ於テハ有力ナル攻勢ヲトルコト頗ル困難ナリ。
2 海軍ヲ以テ我国ヲ屈服セシムルコトハ難事中ノ至難事ナリ。
3 経済上ヨリ戦争ヲ悲観スルモノ多キモ、此戦争ハ戦費ヲ要スルコト少ク、概シテ之ヲ戦場ニ求メ得ルヲ以テ、財政的ニハ何等恐ルルニ足ラサルノミナラス、国民経済ニ於テモ止ムナキ場合ニ於テハ、本国及占領地ヲ範囲トスル計画経済ヲ断行スヘク、経済界ノ一時的大動揺ハ固ヨリ免ルル能ハストスルモ、此苦境ヲ打開シテ日本ハ初メテ先進工業国ノ水準ニ躍進スルヲ得ヘシ。」
つまり、世界は最終的には西洋文明のチャンピオンたる米国と、東洋文明のチャンピオンたる日本の間で最終決戦が争われる。日本はその東洋チャンピオンたる資格を獲得することを国策の根本とすべきである。一見、これは日本には無理と思われかもしれないが、決してそうではない。即ち、ソ連は、北満を日本が領有すれば有効な攻勢に出ることは極めて困難となる。また、アメリカが海軍力をもって日本を屈服させることも至難である。また、戦費は戦地において現地調達すれば、いわゆる「戦争をもって戦争を養う」ことができる。さらに、国民経済において計画経済(=「国家総動員体制」)をすれば、一次的に経済界が動揺しても、それを乗り越えることで先進国の水準に飛躍できる、というのです。
ここに、日中戦争及び日米戦争のアウトラインがはっきりと描かれています。それは、紛れもなく満州事変以前に石原莞爾によって描かれたもので、これによって初めて、日本の満蒙領有についての文明史的意義付けがなされ、その実行主体としての日本の歴史的使命が説かれたのです。だが、こうした途方もない戦争のビジョンが、はたしてどれだけ当時の軍人にリアリティーをもって理解されたか、これは甚だ疑問といわざるを得ません。だが、これによって、二重政権の創出にも等しい満州の武力占領が実行に移され、その、目的のためには手段を選ばぬ下剋上的無法行為が正当化されるに至ったことは間違いありません。
しかし、こうした石原莞爾の責めに帰すべき満州事変の歴史的評価については、その後の彼の対支認識の意見修正(『対支政策の検討(案)』s11.9.1)」を根拠に、満州事変限りにおいて評価する意見が多いようです。このことについては、日本陸軍の、その尊大、驕慢、加えその浅慮を指摘し、わが国力、軍の実力を無視し、さらには敵の力を下算する大きな過誤を冒し、なお聖慮に背いて皇軍皇国を崩壊に引きずり込んだ昭和陸軍を嘆き、悔み、憤った、元陸軍省参謀加登川幸夫氏も、満州事変は中国側の対日圧迫、日本の合法的権益の侵害に対する自衛措置だったとして容認しています。
もちろん、私自身は先に「『偽メシア』石原莞爾の戦争責任」で指摘したように、氏の戦争責任を強く指摘し、この事件こそが日本を崩壊に引きずり込んだ元凶と理解しています。しかし、それを繰り返しても言っても仕方ありませんので、ここでは、こうした私たち日本人の立場を離れて、いわゆる親日派といわれる中国人がこの事件をどう見たか、これについての大変興味深い対談記事「段祺瑞の満州事変観」を見つけましたので、それを次に紹介したいと思います。
これは林耕三氏という、戦前の東北地区(満州)で日本の協和会運動に協力した方(中国人)の紹介になるもので、『宣統皇帝遺事』中第三十七章「天津における土肥原大佐」を日本文に翻訳したものです。段祺瑞といえば、いわゆる「西原借款」で有名ですが、その彼と、当時奉天特務機関長をしていた土肥原賢二との対談です。言葉における正直と不正直ということもさることながら、両者の政治的洞察力及び見識の差にはいささか驚かされました。
また、段氏の、何故日本人は日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のかという言葉、功名のために大戦を起こせばどうなるか、日本人の「幻想」についての指摘、そして「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」という言葉は、当時の日本人が陥った傲慢と、その後の日本の運命、そして土肥原自身の運命(A級戦犯で処刑)をも的確に見通したものであると、私には思われました。
段祺瑞略歴(1864〜1936)
中国の軍人、政治家、安徽省出身、初め袁世凱の腹心として地位を築き、円の失脚後も黎元洪のもとで国務総理兼陸軍総長として実権を握り、安福派を形成し、馮国璋の直隷派と対立した。   
第一次世界大戦に際してはドイツに対して宣戦を行ない、日本からは西原借款などの援助をうけて目本の対華進出を許した。一九二〇年の安直戦争で失脚。一九二四年、奉直戦を機に臨時執政に復活したが、一九二六年、張作霖、馮玉祥の交戦によりその地位を保てず、以来政界から退いた。*この会談は、土肥原大佐が陸軍の命をうけて訪問したもの
土肥原 閣下は、生ぐさ物や酒はおやりにならない大徳のお人柄ゆえきっと「即身成仏」なさるでしょう。
段 「成仏」は敢えて望まないが、ただ、人生の大半を軍人で過したので、殺戮すること少なからず、罪業、が深い、希くは、仏法のざん悔をして、将来、天寿を全うしたいものだと願っています。
土肥原 執政閣下のご教訓には全く痛み入ります。私共後輩の軍人として閣下のお話を座右の銘としたいものです。
段 土肥原さん、軍人の一生には「不殺生戒」―殺生をしてはならないという戒め――を犯さないものはないでしょう。しかし、軍人としての職掌柄そうなるのは止むを得ないとしても、己の功名をあげたり、利益のために大戦を引起すということであれば、その罪業は非常に深いと言わなければなりません。
中国にはこういう諺がある。「兵猶太也 不戦自焚」――戦争は火のようなもので、戈を止めなければ自らを焼いで自滅する――武力を乱用した国が永続きしなかったことは歴史の証明する所です。まして殺戮を専門とする上級軍人に至っては、如何に功名があろうと天寿を全うした例が非常に少ない。
土肥原 閣下のご教訓、心に銘じました。このたびの奉天事件(九一八事変)は、本庄司令官以下幕僚一同反省しています。
段 今になってそういうことを言われても、この事件の善後処置については今のところこれという方法もなく仲々困難でしょう。今、貴官が「反省している」などと言われたが、真実のところ、それは十年位先のことでしょうし、その頃になってやっと私の話を思い出すのじゃありませんか。
土肥原 閣下のお話は、全て禅の修業を積まれた結果によるもので、後輩の私などにはとても真意を了解することができません。
段 私の話には少しも神秘な節はない。もし貴官が、私の今おかれている立場にあるとすれば、私の話が、実際に即した話である。ということを理解できるでしょう。
土肥原 閣下は、高い視野に立って、永い将来のことを見透すことのできる人です。どうか私のために遵守すべき道をご教示願います。
段 私の今日の話は、世間話に過ぎませんからあまり気にしないで下さい。唯一つ貴官にお尋ねしたいことがある。
日本の人口は中国の六分の一にも満たなしし、土地も中国の某一省にも及ばない。然るに何故、日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のです。(大佐、黙して語らず)私は、貴官が直ちに答えられないことはよく分る。そこで、私か代って答えよう。
中国は一皿の砂のようなもので、団結心乏しく、容易に団結しない。日清戦争で、日本は勝ったと言うが、それは李鴻章一人を打倒しただけのもので、真の中国の力にぶっつかった訳ではない。我が国では、民国以来、群雄が割拠して紛争を続けていたので「君達」に入り込む隙を与えた。君達に、何でも思い通りになり、何をしても利益になる、と思いこませた。然し、今回の「九一八」事変――九月十八日勃発の満洲事変――は、君達が中国人の夢を醒まさせた。四億の人民は一塊りとなって日本に対している。今后、君達が武力で征服しようとしてもそれは難しいでしょう。
私の話は貴官には、誇張しているように聞こえるかも知れないが、それは貴官の自由である。私はもう一つの実例を挙げて話したい。
本庄さん――関東車司令官――は、どうして貴下を私の所へ来させたのだろう。おそらく、私を日本人の友達と思ってるに違いない。
土肥原 そうです。その通りです。閣下。
段 日本人は、私を友達、味方にしようとしているので、中国人は私を親日派と罵っている。しかし 「九一八事変」以後からは私自身、もう日本人の友達ではなく、むしろ日本人を恨んでいる。今日の貴下は、責任ある人だけに、その一言一句、一挙手一投足は、中日両国人民の前途に対し多大の影響があるものと考える。本日、貴官は、貴国の陸軍の命令で来られたからお会いした訳で、他の日本人が私を訪問したとせば、私は正門から入ることを思い止まってもらった筈です。
土肥原 閣下、癇癪を起さないで下さい。何か要求がおありとすれば、私はその実現に尽力したい。
段 只今のは、言い過ぎだったかな? 全く汗顔の至りです。私は、一九二六年、政界を引退してから六、七年になるが、殆ど癇癪を起したことはなかったが、どういう訳か突然それを起してしまった。まだまだ修養が足りない、恐縮の至りです。
土肥原 閣下は、生仏様ですよ、奉天事件(九一八市変)の刺激が強過ぎたので、怒って睨みつける金剛様に変ったのですね。(一同笑声、緊張やや緩か)
段 貴官が帰って本庄さんに報告する時には段の意見として次のように伝えて貰いたい。「段との会談は全て程々にし、適当な所で止めた。事変の解決は無理をせず自然に従うべきだ。目下、中国側としては、この問題を国際連盟に提訴しているので連盟が処理するものと思う。然し、東洋人の問題には西洋人の手を煩わすべきでなく、東洋人の手で解決すべきだ」と。
土肥原 分りました。然し、当方としても、九一八後、三日目、私は東京から奉天に帰り、東北(満洲のこと、以下東北)当局との交渉の糸口を探しましたが、張学良司令(東北辺防軍司令)は、これに応せず、どうしようも無かったのです。
段 東北問題は張作霖(奉天督弁)時代からのことで、貴官らは専ら東北に一つの独立国を造ろうとしていた。これに対し張督弁が反対したので、遂に爆死さぜたではないですか。張司令も身に危険の及ぶのを感じて北京に逃避したのです。この機に乗じ、君達は、武力をもって進攻し奉天、長春の地を次々に不法占領し掌中に収めた。君達は、張学良と交渉したいというが、こうした情況下で、果して交渉に応ずるでしょうか。又、独立させる、とか、最高の地位を与えるから・・・、という条件を持ち出したりして之に応ずるでしょうか。それは言わなくても明々白々の事でしょう。
君達日本には、沢山の「中国通」がいると言われている。しかし果して、真の中国を識る「中国通」が居るだろうか。皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである。
(土肥原無言、談話は続く)
段 君達は、中国が長く分裂することを望んでいるかも知れないが、中国は統一している。君達は、現実を正しく見つめようとしない。問題に遭遇しても、南京政府と交渉しようとせず、ただ地方(東北)で攪乱し、大したこともない人物を推し立てて既成事実とし、益々問題をこじらせ、その解決を困難にしている。
土肥原 この度、私か当地に参りましたのは、先刻ご承知のように上司の命を奉じ、閣下にご謁見の上、お知恵を拝借し、大乗的見地から中日両民族の永久平和の道を発見したい為でありまして、特に現在の東北における行詰り打開は焦眉の急に追っており一刻の猶予も許されないのです。
段 私は一介の閑人である。私か今迄話したことは、私個人の意見であって、決して中国政府が私に代弁させているのではない。これは本庄さんに伝えてもらいたい。
土肥原 勿論そのように報告します。私の国では、閣下が、もと執政としてのお立場から、たとえ野に在っても超然たる高い視野に立って物事を考えていられるものと考え、それだからこそこうして私などがお教えを賜わるため参上しているのです。
段 私か君達に代って考えてみると、現在の占領地域はこれ以上拡大しなしが宜しい。君達は今の占領を「保証占領」と言い、中国の領土を取得しよう、とは考えていない旨を声明しているが、どうして従来の中国の行政組織をこわそうとするのか、その真意が分らない。東北の臧式毅君は遼寧省の主席で、得難い人物である。決してこういう人物を監禁するようなことがあってはならない。
また元老としては、張輔臣(作相)、張叙五(景恵)の二人がいるが、張輔臣は既に大関(満洲から長城を越えて華北に入った、の意)し再び帰ることはあるまい。残るは張叙五一人だが、彼は東北全般を総攬する能力をもっている。君達はどうして彼を探し出さないのだろう。彼を東北の最高指導者に推挙して中国の主権を回復させるようにすれば、君達の誠意が認められ、事件は解決に向うものと信じる。これは口で言う程容易でなく、問題解決は困難ではあるが可能性が認められる。
(段は更に続けた)
東北、黒竜江省の馬占山将軍は、猛将であり、英雄である、決して彼と衝突してはならない。それにひきかえ、古林省の熈洽将軍は困ったものだ、張輔臣が永吉(吉林省永吉県)を留守にしたのを好機とし、日本側と勝手に結んで、今日の混乱を招いた。表面的には、君達には有利に見えるかも知れないが、最後には必ず、君達を断崖から突き落すようなことをするだろう。(土肥原大佐としても熈洽に対しては好感を持ってはいなかった。それは熈洽が日本側と手を結ぶとき、特務機関を無視し、直接、多門師団に交渉した経過があった)
土肥原 この人物については私も同感で、帰還の上は本庄司令官に閣下のお考えをよく伝えます。
段 聞く所によれば、もと清朝の溥儀皇帝が、東北に行ったそうですが、結局どういうことになるのです。
土肥原 この件は、奉天事件とは関係ありません。溥儀氏がこの地(天津)に居られると一部の閑人が何やかやとうるさいので、租界当局も職責上毎日所要の警察官を派遣して、保護申しあげねばならず、お互いに不都合が多いので、溥儀氏としては、こうした雑音を避け、環境の好い東北南端の旅順(現在の旅火市)に移りたいというご希望があったのでお力添えをしたまでのことです。生憎く奉天事件九一八事変に際会したので、貴国朝野の人士から疑われるのも無理はありますまい。
段 土肥原さん、今日の会談はうまくいきましたね。お互いは確かに因縁がありますよ、貴官は、貴国の軍人中、人格識見とも最上級の方だけに高所に立って広い視野で物事を観察される。私はそう信じたい。
昔の人の言葉に「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」ということかありますが、これは確かに道理に叶っている言葉です。
中日両国の関係から言えば、私は今、思い出せませんが、中国はどういうところで日本に済まないことをしたのか、ということです。日本としては、どうした訳か中国につきまとって拘束から開放してくれない。中国人としては、何とかして日本の意のあるところを理解し歩みよりたいと念願するのですが、忍耐にも限界があり、現在の状況はもうギリギリの状態に立ち至っている訳で誠に重大と言わなければなりません。
もし、君達が、東北撹乱の特殊組織を作り、中国人の忍耐の限界を超えるとすれば、それこそ大きい禍根を作ることとなり、貴下もこの災難から込れることは出来なくなるでしょう。
土肥原 執政閣下、お安心下さい。土肥原は決して閣下のご厚意に背くようなことは致しません。
(会食と談話はこれで終った。但、土肥原大佐が段邸を訪問する以前、密かに溥儀氏を天津から東北に連れ出す工作は完了していたのだ。段元執政もこれは知っていたが。)
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満州事変にこだわって記事を書いていますが、それは、私が、「昭和の悲劇」は日本がこの事件を外交的に処理できなかったためにもたらされた、と考えているからです。この問題を考える際のポイントは、この満州事変と「満州問題」とを区別するということです。確かに「満州問題」は存在しました。しかし、その解決策としての満州事変は決して必然ではなかった。それは多分に、日本の国内事情、一つは「軍縮問題に起因する軍人の国内政治に対する不満」や、第一次世界大戦以降世界の五大国の一つに列することになって以降の「日本人の慢心」と「中国蔑視の感情」にその主たる原因があった、と考えるからです。
私は先に、「なぜ日本は大国アメリカと戦争をしたか2」で、幣原と陳友仁との間に「満州問題」処理についての確認書が交わされたことを紹介しました。さらに陳友仁は、満州事変が起こった後も、上海の須磨總領事を通じて幣原に書簡を送り、「満洲事変は實に残念だが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が現実出来ることだ。張学良を追ひ出せば満洲は奇麗になるから、これを實現するにいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたい」と幣原に意見を求めてきたことも紹介しました。
ここで、陳友仁の言うハイ・コミッショナー制度というのは、「満洲に対して支那が単に宗主権を持ち、そのノミナルな支那の承認の下に、日本が任命するハイ・コミッショナーによって満洲の施政を行う仕組み」のことです。この時は具体的な話には至っていませんが、そのポイントは、満州の対する中国の宗主権の承認を前提に、日本が任命するハイ・コミッショナー(=高等弁務官)による満州の施政を認める、ということです。満州事変で張学良が満州からいなくなれば、その実現が容易となり、これによって「満州問題」を解決できる、というのです。
では幣原は、「満州問題」をどのようなものと考えていたかというと、これは前述の記事の中でも紹介しましたが、その時の確認書ではその第四項に次のように述べられていました。(これをみれば、幣原は「満州問題」に対して決して弱腰ではなかったことが判ります。)
「四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意図なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により附与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鉄道は其の一例にして、同鉄道の経営及び運行は同鉄道の破滅を企図する如き支那側鉄道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。
一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来れる支那側鉄道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び連絡に関する取極にして成立するに於いては、之を既成事実として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。」
では、なぜそのような要求がなしうるかというと、
「即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に当たり満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し当時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事実を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるる處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。」
幣原外相はこうした「満州問題」の処理についての基本認識をもとに、重光葵を代理公使としてこの問題の解決にあたらせました。重光は、田中外交の混乱を一掃して、北京関税会議以来の幣原外交を継続し、「まず関税問題を解決し、西原借款の債務問題に目鼻をつけ」「支那本土についてまず不平等条約の改訂を進め、これを機として日支関係の全般的改善を計り、その結果改善された空気の下に、困難なる満州問題を解決」しようとしました。実際、これによって日支関係は急速に改善し、国民政府とも良好な関係を樹立して、日支関係が軌道に乗るかに見えました。
しかしながら、「日本は、折角立派な方針を立てながら、政府機関に統一がなく、軍部は干渉を恣にし、政党は外交の理解がなく、世論に健全な支持がないため、幣原外交はある限度以上に少しも前進しない。」「その間、英米と支那側の交渉は急速に進捗し、不平等条約改訂にも目鼻がついて来た。こうなれば支那が『夷を以て夷を制する』事は容易である。支那は・・・英米との交渉がここまで来て成立の域に達すれば、大勢はすでに支那の制するところで、躊躇する日本との交渉はもはや支那側において重要視する必要はなくなった。」
こうした情況の中で、国民党の王正廷外交部長は、「すでに大勢は支那に有利であると観てか、支那の革命外交に関する彼自身の腹案を公表した。これによると、関税自主権及び海関の回収が第一期で、法権の回収が第二期で、租界や租借地の回収を第三期とし、内河及び沿岸航行権の回収、鉄道及びその他の利権の回収を第四期及び第五期としたものである。このいわゆる革命外交のプログラムなるものは、極めて短期に不平等条約を廃棄して、一切の利権回収を実現せんとするもので、列国との交渉が予定期間内に片がつかぬときは、支那は一方的に条約を廃棄して、これら利権の回収を断行するという趣旨であった。」
さらに「王外交部長は、日本公使たる記者(=重光葵)の質問に答えて、新聞紙の発表は真相を伝えたものであることを肯定し、外国の利権回収はもちろん、満洲をも包含するものであって、旅大の租借権も満鉄の運営も、何れも皆公表の順序によって、支那側に回収する積りであると説明した。記者は、これでは、記者等の今日までの苦心は、或いは水泡に帰するかも知れぬと非常に憂慮した。この王外交部長の革命外交強行の腹案発表は、内外の世論を賑わし、甚だしく刺戟し、幣原外交の遂行に致命的の打撃を与うることとなった。」
以上のように、日本と支那中央政府との交渉が緊迫した展開を見せる一方、満洲における張学良との関係は悪化の一途をたどっていました。「張作霖を嗣いだ学良は、感情上から云っても、到底日本に対して作霖のような妥協的態度を執ることが出来ず・・・その考え方は極端に排日的であった。彼は日本党と見られた楊宇霆を自ら射殺してその態度を明らかにし、国民党に加盟し、満洲の半独立の障壁を撤し、五色旗を降して国民党の青天白日旗を掲げ、公然排日方針を立て、日本の勢力を満洲より駆逐するため露骨な方策に出て来た。」
そのため「日本は満洲において商租権を取得し、鉄道附属地以外においても、土地商租の権利があるが、日本人や多年定住している朝鮮人の土地商租は、支那官憲の圧迫によって、新たに取得することは愚か、既に得た権利すら維持困難な有様であった。満洲鉄道の回収運動も始まった。支那側は満鉄に対する平行線を自ら建設し、胡盧島の大規模の築港を外国(オランダ)の会社に委託して、日本の経営している鉄道及び大連の商港を無価値たらしめんと企図するに至った。これらの現象を目前に見ている関東軍は、その任務とする日本の権益及び日本人・朝鮮人の保護は、外交の力によっては到底不可能で、武力を使用する以外に途はないと感ずるようになった。」
一方、「当時、日本人は、国家及び民族の将来に対して、非常に神経質になっていた。日本は一小島国として農耕地の狭小なるはもちろん、その他の鉱物資源も云うに足るものはない。日清戦争時代に三千万余を数えた人口は、その後三十年にして六千万に倍加し、年に百万近い人口増加がある。この莫大なる人口を如何にして養うかが、日本国策の基底を揺り動かす問題である。海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、更に満洲における経済活動によりこの問題を解決せんとし、また解決しつつあった。もとより、海外貿易はこの点で欠くべからざるものであったが、これは相手あってのことで、そう思うようには行かぬ。」
というのは、当時「国際連盟は戦争を否認し、世界の現状を維持することを方針とし、これを裏付けするために各国の軍備の縮小を実現せんとした。しかし、人類生活の根本たる食糧問題を解決すべき経済問題については、単に自由主義を空論するのみで、世界は、欧州各国を中心として、事実上閉鎖経済に逆転してしまった。」特に、1929年の世界恐慌以降そうした傾向が顕著になりました。
つまり、「自由主義の本場英国内においても、帝国主義的傾向に進む形勢であって(一九三二年にはオッタワ協定が結ばれた)、仏も蘭もその植民地帝国は、本国の利益のために外国に対してはますます閉鎖的となるのみであった。かくの如くして、第一次大戦後の極端なる国家主義時代における列国の政策は、全然貿易自由の原則とは相去ること遠きものとなった。国際連盟の趣旨とする経済自由の原則なぞは、全く忘れられていた。」
このために日本は、増加する人口を養うための海外貿易の発展に依頼することができなくなり、特に、日本が密接な関係を有する支那との関係においては、「対支貿易は、支那の排日運動のために重大なる打撃を受け、且つ支那における紡績業を宗とする日本人の企業は、これがため非常なる妨害を受くるに至った。・・・支那本土においてのみならず、前記の通り、満洲においても、張学良の手によって甚だしく迫害せられる運命に置かれた。支那の革命外交は、王外交部長主唱の下に、全国的に機能を発揮するに至った。」
このように、事態が急迫する中で、駐支公使であった重光葵は、「この形勢を深く憂慮し、日支関係の急速なる悪化を防止せんとし、支那本土に対する譲歩によって、満洲問題の解決を図り、もって日支の衝突を未然に防ぐことに全力を尽した。また他方、紛糾せる事態を国際連盟に説明して、日本の立場を明らかにすべきことを主張し、更に日本は速かに徹底したる包括的の対支政策の樹立を必要とする旨を、政府に強く進言した。」
しかし、「浜口首相暗殺の後を継いだ若槻氏の内閣(一九三一年四月)は、当時すでに末期的様相を示し」ており、「記者が具体案の一部として進言した、蘇州・杭州の如き価値の少なき租界の如きは、速かにこれを支那に返還して、不平等条約に対する我が態度を明らかにすべしという主張すら、枢密院の賛同を得る自信なき故をもって却けられた。内閣の閣員中、記者の態度があまりに支那側に同情的なるがために、幣原外相を苦境に陥れることとなると、記者に指摘して注意を喚起したものもあった。
日本における国粋主義は、すでに軍のみでなく、反対党及び枢密院まで行き渡っておった。ロンドン海軍条約の問題を繞って、軍の主張せる統帥権の確立は成功し、政府は辛うじて条約の批准には成功したが、すでに右傾勢力のために圧迫せられて、政治力は喪ってしまっておった。日本の政界は、未だに暗殺手段を弄する程度のものであった。しかのみならず、幣原外交は、外交上の正道を歩む誤りなきものであったことは疑う余地はなかったが、その弱点は、満洲問題のごとき日本の死活問題について、国民の納得する解決案を有たぬことであった。
政府が国家の危局を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの勇気と能力とに欠けておったことは、悲劇の序幕であり、日本自由主義破綻の一大原因であった。かくして形勢は進展し、満洲問題は内外より急迫し、政治性のない政府はただ手を拱いて、形勢の推移を憂慮しながら傍観するのであった。」(同上)(*当時外務省アジア局第一課長であった守島伍郎は「幣原さんが余りハイカラ外交をやるものだから、こんなとんでもないことになってしまった」と慨嘆している。同様に、幣原外交のリアルポリティクスの欠如を指摘する意見は多い。私は必ずしもそうは思わないが。)
だが、この時、幣原や重光が考えていた方策は「支那問題を中心として、我が国際危機はもはや迫っておる。若し人力の如何ともすべからざるものであったならば、せめてこの行き詰りを堅実なものとせねばならぬ。即ち、如何なる不測の変が現地において突発しても、日本政府は、国内的に国際的にも、確乎たる立場に立って処理し得るだけの準備をする必要がある。政府は、軍部は勿論、国内を統制して不軌を戒め、極力日支関係の悪化を避けつつ、警鐘を打ち鳴らして、世界をして我が公正なる態度を諒解せしむるため全力を挙げねばならぬ。
支那の革命外交の全貌が明らかになった今日、而して日本政府のこれに対する対応策の欠如せる今日、日支関係は行き詰ることは明らかであり、すでに行き詰るとすれば、外交上の考慮としては、『堅実に行き詰る』ということを方針とするよりほかに途はない。堅実にということは、如何なる場合においても、外交上目本の地位が世界に納得せらるるようにして置くということである。」というものでした。
この外務省の「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」は、同時期、南陸相のもとに満州問題解決のために、省、部中堅層会議において作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)に似ていると、守島伍郎は指摘しています。その要旨は「(A)満州における排日行動激化の結果軍事行動の必要性を予見し、(B)そのためには閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、軍事発動の場合、これを是認せしむるよう努力する」というものでした。
しかし「満洲においては、万宝山の朝鮮人圧迫事件や、中村大尉暗殺事件のごとき危険を包蔵する事件が、次ぎ次ぎに起ってきた。張学良の日本に対する態度は、強硬で侮辱的であった。記者は、満洲における両国関係の悪化を根本的に救うために、当時南京政府の中枢人物であった宋子文財政部長と協議して、満洲における緊張の緩和方法を計った。
宋子文と記者とは、当時親密なる連絡をもって、日支関係の改善に協力していたので、ともに満洲に到り、現地の調査を親しく行って、解決方法を見出そうと云うことに談じ合った。宋部長は途中北京に立ち寄り、同地に滞在中の張学良を説得して、日本に対する態度を改めしめ、更に大連において、満鉄総裁で前外務大臣であった内田康哉伯と吾等二人は、鼎座して満洲問題に関する基礎的解決案を作製することに意見がまとまった。
記者はこの案に対し、政府の許可を得て、宋子文と同行、九月二十日上海より海路北行することに決定し、船室をも保留した、この考案は遂に間に合わなかった。満洲事変は、九月十八日奉天で突如として勃発した。記者は、これに屈せずなお折衝を続け、事変を局地化するために宋子文とともに満洲にいたって、事を処理してその目的を達せんとしたが、日本政府の訓令を待つ間に、事態は燎原の火の如く急速に拡大し、策の施しようもなく、支那は、事件を国際連盟に提訴して、かかる外交的措置を講ずるの余地なきに至らしめた。」
この時、重光葵が政府に宛てた満洲事変発生当時の電報の一節には、次のようなことが記されています。
一、今次軍部の行動は、所謂統帥権独立の観念に基づき、政府を無視してなせるもののごとく、折角築き上げ来れる対外的努力も、一朝にして破壊せらるるの感あり。国家将来を案じて悲痛の念を禁じ難し。この上は、一日も速かに軍部の独断を禁止し、国家の意志をして政府の一途に出でしむることとし、軍部方面の無責任にして不利益なる宣伝を差し止め、旗幟を鮮明にして、政府の指導を確立せられんことを切望に堪えず……。
この突然の満州事変の勃発に直面した外務省の林総領事及び森島代理は、「事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東車の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。」
しかしながら、「張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上が風をなし、関東車は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党に反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。
若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍も従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫した。若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。
関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」
以上、満州事変当時外務省にあって「満州問題」の外交的処理に当たった重光葵の回想を中心に、満州事変前後の日支間の政治・経済状況を見てきました。注目すべきは、こうした情況の中で外務省の取った「満州問題を堅実に行き詰まらせる」という方針は、「あくまで日本は支那に対して、治外法権問題交渉で公正妥当な態度を維持する。これに対して革命中国が勝手なことを主張し、既存条約違反の行動に出るようなことになれば、世界世論は日本に対し有利になってくる。そうなれば日本は何らかの新規の方策に訴えることができる」というものだった、ということです。
こうした政府外務省が押し進める、外交による「満州問題」解決策を根底から破壊し、軍中央のみならず政府の指示をも無視して、独断で満洲占領を強行したのは、関東軍の石原莞爾を中心とする一部将校達でした。彼らは、「若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫」しましたが、その真の目的は、「政党金権の害毒を一掃し、内外に対する諸政を刷新するためには、軍部によるクーデターを断行し、議会を解散し、軍部政権を打ち樹てる」ことにあり、満州事変はそのための革命前哨基地づくりでもあったのです。*山本七平はこうした事態を「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。
つまり、彼らが満州事変を引き起こした真の理由は、実は国内政治に対する軍部の不満に端を発したもので、そうした軍部独裁をめざす彼らの政治的的野心を正当化するためにこそ「満州問題」は利用されたのです。そして、あたかも「満州問題」を解決するためには満州事変は不可避であったかのような宣伝がなされ、それは、日本の条約で認められた在満権益に対する不当な侵害に対抗する自衛措置である、と国民に説明されたのです。
だが、その在満権益が日本にとってそれほど「巨大な比重」を持っていたかというと、それは甚だ疑問であると秦郁彦氏は次のように指摘しています。
「張政権の平行線敷設による満鉄の経営悪化説には、多分に誇張があり、木村鋭一満鉄理事は「満鉄包囲線が原因ではない。不景気のためなり。世人は黄金時代の収入を基準に論ず。包囲線の方の減収はより大」と説明していた。つまり満鉄が不況の波をかぶって従来ほどの巨利を得られなくなったのは事実だが、競争相手の包囲線(平行線)の方が先に倒れそうだというプラス面が指摘されているのである。」
また、「一般邦人の生業圧迫についても、本質は張政権の排日政策というより、張作霖爆殺を決行した河本大作大佐が指摘したように、日本人コロニストが生活水準の低い勤勉な中国本土からの移民に、経済競争で対抗できないところにあった。こうして見てくると、満州事変は多分に「満蒙の危機」という虚像の産物であり、武力発動を推進した一部の関東軍とコロニストたちは、政府・軍の中枢や世論を納得させる理由づけに苦心した。」
「そもそもポーツマス条約で獲得した日本の在満権益は、伊藤博文の表現に従えば「遼東半島租借地と鉄道のほかには何物もない」のであった。ところが大陸進出論者のなかには日露戦争で流した血の犠牲を理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想があった。」
「石原莞爾は『満蒙は漢民族の領土ではない。満蒙は元来、満州・蒙古人のもの」「我国情は殆ど行詰り、人口、糧食、その他の重要問題皆解決の途なく、唯一の途は満蒙開発の断行にあるは世論の認むる所」と書いたが、論理の飛躍が目につく。漢民族の領土でないことがなぜ日本の領土権主張につながるのか」
この秦氏の疑問は、満州事変の「隠された真相」の一端を突いていると思います。つまり「一般に満州事変は中国ナショナリズムの権益回収運動と張政権の反目・侮日政策に直面した幣原外交が対応力を失い、行きづまりに乗じた軍部が多年の野望である満州占領を強行したものと説明されている。」だが、それが、「軍事行動による反撃が正当化できるほど」日本にとって死活の問題だったかというと、実はそれは多分に軍の宣伝によるもので、先に紹介したように、冷静に対応すれば国際世論の支持を失わない範囲での対応が可能だったのです。
では、なぜ彼らにとって「満洲領有」が必要だったかというと、当時の青年将校の間には「農村の窮乏と政党の腐敗を重視し、軍部の手による独裁政治によって国内の革命を断行する以外に、邦国救済の途はない」という思想が蔓延しており、こうした日本の政治革命を断行するためには、「満洲に事を起こし、満洲の全土を占領した上、この新天地に軍部の革新政治を断行し、これを日本内地に移植するのが彼らの狙い」だったのです。
この意味で、満州事変とは、日露戦争以降日本陸軍の一般意志になったかに見える大陸進出論(日露戦争における血の代償とを理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想)と、国内政治の軍部独裁をめざす思想(金融恐慌や世界恐慌に端を発する経済的混乱や思想的混乱から自由主義思想が排撃され、それが国家社会主義という独裁思想を生み出した)とを結合させたものと見ることができます。
こう見てくれば、「昭和の動乱」の根底をなした二つの思想、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」がいずれも、国内問題であった、ということに気づきます。では、前者の主張がなぜ昭和に至って満洲の軍事占領という事態に発展したのかというと、実はその根底には、第一次大戦後の大正デモクラシー下の軍縮がもたらした「軍人に対する国民の軽侮」への、怨念ともいうべき「軍人の憤懣」があったのです。(こうした軍人に対する軽侮は、明治以降、富国強兵策がおし進められる中で、自らを特権階級とみなし国民の委託を無視して藩閥的利益の擁護に没頭した軍に対する国民の反感を示すものでもありました。)
「軍人は至るところ道行く人びとの軽侮の的となり、軍服姿では電車に乗るのも肩身が狭いという状態であった。たとえば、拍車は電車の中で何か用があるかというような談話が軍人の乗客に聞こえよがしに行われる。長剣は一般の客に邪魔にされた。かような軍人軽視の風潮に対する軍部方面の反動はまた醜いものであった。軍隊には階級如何を問わず農村の子弟が多かった。農村は軍隊の背景をなしていた。その農村が、年の繁栄と腐敗のために疲弊枯渇して行き、軍閥の基礎を危うくすることは、軍の黙視する能わざる処である、という主張が台頭した。」
* 山本七平は、実は「軍人はカスミを食って世の中を悲憤慷慨していたわけではなく、窮乏は彼ら自身にあった、と『私の中の日本軍』で指摘しています。
つまり、こうした軍の当時の社会風潮に対する憤懣が背景にあって、すでに陸軍の一般意志ともなっていた満洲領有にその活路を求め、更にそこを前哨基地として国内政治革命を断行しようとしたのです。満洲は漢民族のものではなく満洲民族のものである。満洲民族は漢民族よりも日本民族に近い。その土地は人口希薄であり、匪賊の横行して政情定まらざる未開の地である。満洲の良民は塗炭の苦しみに呻吟している。彼らをこうした苦境より救うためには、日本民族がその利害を超えて満洲を領有し五族協和の善政を行い人びとを善導する外ない、という論理です。
そして、こうした論理を思想的に補完したのが、いわゆる「大アジア主義」と呼ばれる、日中を「道義文明」として一体的に捉える思想だったのです。この思想がそもどういう思想的系譜より生まれたのかを解明したのが、山本七平の『現人神の創作者たち』でした。
それは、徳川幕府の官学としての朱子学の採用(皇帝による中国型徳治政治の理想化)に始まり、山鹿素行の「中朝事実」(中国の理想化に対する反動としての「日本こそ中国だ」という意識)、水戸光圀の「大日本史」(日本史の中に、理想化された中国型皇帝である万世一系の天皇を発見、それが、天皇の正統性を絶対化した)、浅見絧斉の「靖献遺言」(天皇に対する忠誠を絶対とする個人倫理の確立)、さらに、それが幕府の存在の非正統とする観念を生みだし、尊皇倒幕から天皇を中心とする中央集権絶対主義をめざす明治維新に突入していった、というものです。
これが「皇国史観」が生まれた思想的系譜で、その一君万民的・徳治主義的・天皇親政的形態を理想とする政治イメージが、昭和になって、明治政府が採用し明治憲法に規定された西欧型立憲君主としての天皇の政治イメージと鋭く対立し後者を圧倒した。つまり、前者の政治イメージが「大アジア主義」の思想的母体となり、このイメージをもとに現実の中国を見たとき、その軍閥・匪賊が横行して政情定まらざる中国の現状が、日本人の中国文化に対する軽侮を生み、同時に自国文化に対する慢心を生むことになったのです。
重ねて言いますが、この昭和動乱の根底をなした二つの思潮、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」はそのいずれも、実は「満州問題」より惹起されたというより、むしろ以上述べたような「国内問題」に端を発していたのです。
さて、こう見てくれば、戦後、「自衛隊」及び「自衛隊員」に対する侮蔑と人権無視に終始してきた、日本人の一般的思潮がどれほど危険なものであるかが判るでしょう。それと同時に、金権腐敗、党利党略、官僚専制等、国民の負託に答え得ない日本の民主政治の堕落が、日本人をして一君万民的全体主義に陥らしめる危険性を強く持っていることにも気づくと思います。
昭和の動乱の根底には、あくまで国内問題としての日本人自身の以上のような思潮があった。そして、国民がそれを支持したことによって「昭和の悲劇」は生み出された、私はそう思っています。  
4

 

前回、昭和の悲劇は「満州問題」を外交的に処理できなかったことによりもたらされた、と申しました。結局それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させた満州事変によって処理されることになりました。その結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。(これがその後の「満州問題」の処理をどれだけ困難にしたか)もう一つは、関東軍の独走に対して政府の歯止めが掛からなくなったということです。(これが日本に「二重外交」をもたらし、その国際的信用を地に落とした)
重ねて申しますが、「満州問題」は確かに存在しました。これは、前回紹介したような国民党の王正廷外交部長がおし進めたいわゆる「革命外交」、その余りに性急な、既成条約を無視した国権回復の主張や、さらに満州における張学良の露骨な排日方針に起因するものであったことは間違いありません。これが幣原外交に対する国民の信頼に決定的な打撃を与える一方、軍部の「満州問題」の武力解決、その伝統的な大陸進出論に弾みを与えました。といっても、当時(満州事変前)の国民は必ずしもこうした軍の強硬策を支持していたわけではありませんでした。
この事実は、以前、私が「日本近現代史における躓き」で「満州問題」を論じたとき(今もその続きをやっているわけですが・・・)に紹介したような、松岡洋右(昭和5年まで満鉄副総裁をしていた)の次のような言葉でも確認することができます。
「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義=筆者)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向に気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びはむしろ頑迷固陋の徒の如くに蔑まれてさえ居た。これは事実である。国民も亦至極呑気であった、二回迄も明治大帝の下に戦い、血を流し、十万の同胞を之が為に犠牲にした程の深い関係のある満蒙に就てすら、全く無関心と謂って宜しいような有様であった。情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」
更に興味深いことには、当時、在満邦人の自治拡大と利益擁護をめざした「満州青年連盟」――その第二回議会で「満蒙自治案」が提起された――の有力メンバーであった小沢開作(小澤征爾氏のお父さん)が、その「満蒙独立論」について石原莞爾との会話で次のように自説を展開していることです。(満州事変が起こった少し後の頃の会話)
石原「ほほう、そうして満蒙を日本の権益下に置こうというのですか、小沢さん」
小沢「冗談じゃない、私は日本の官僚財閥ではありません。満蒙を取っても三、〇〇〇万民衆の恨みを買ってどうします。いや三、〇〇〇万民衆ばかりではない、中国四億の漢民族は日本を敵とするでしょう。欧米人の圧迫に目醒めたアジアの諸民族は、日本を欧米諸国以上に憎むでしょう。そんなバカらしい権益主義は改革すべきです。」
石原「すると小沢さんは、大アジア主義者で満蒙を独立国にしようというのですか」
小沢「満蒙独立国の建設は満州青年連盟の結成綱領です。その実現のために出来たんです。(中略)新国家の建設は、私たち日本人がやるんではなくて、三、〇〇〇万民衆にやらせるんです。そこが帝国主義と民族共和の違いです。」
石原「廃帝溥儀を、満洲の皇帝に持ってくるという方策をどう思いますか」
小沢「バカらしい、溥儀のために死ねますか。私ばかりではない、三、〇〇〇万民衆の八〇%は”滅満興漢”の中国革命を信奉している漢民族です。溥儀なんかを皇帝に持ってきたら新国家はできませんよ」
つまり、満州における居留日本人の立場から「満蒙独立論」を唱えた彼らの思想は決して、満蒙権益擁護論でもなければ、ましてや満洲占領論ではなかったのです。それはあくまで、「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動に対して、個々の我等が善隣の誠意を鵄(いた)してこれを援助せしむるものである。換言せば、国家的援助に非ずして、国民的援助である。従って外交的問題の起こるはずがない」とするものでした。(この小沢の慈善的ロマンティシズムは、まもなく関東軍によって裏切られ、小沢はこの運動から手を引くことになります)
では、当時、このように一向に国民の「気乗りのしなかった」満蒙問題が、一転して国民の関心を引くようになったのはなぜでしょうか。山本七平は、「中村大尉事件」(満州事変の直前のs6.6.27に、満洲で中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長らが殺された事件)が当時の世論に及ぼした決定的影響について次のように述べています。
「当時の人の思い出によると、満州問題についてそれまで比較的穏健な論説を張っていた朝日新聞が、これを契機に一挙に強硬論に変わったそうである。そうなると世論はますます激昂し、ついに『中村大尉の歌』まで出来た。
一方政府にしてみれば、何しろ犯人が明らかでないから、動けない。すると・・・『内閣のヘッピリ腰』を難詰する『世論』はますますエスカレートした。・・・昂奮の連鎖反応で国中がわきかえっているとき、やはり(張学良軍によって殺害されたのではという=筆者)『第六感』があたっていた。もう始末におえない。そして柳条溝(湖)鉄道爆破から、満州事変へと突入していく。
これを後で見ると、非常に巧みな世論操作が行われていたように見える。というのは、この状態でもなお、関東軍の首謀者は『世論』の支持を四分六分で不利と見ていたそうだから、当然中村大尉事件がなければ『世論』の支持は得られず、満州事変は張作霖事件のような形で、責任者の処罰で終わっていたであろう。」
にわかに信じられないような話ですが、この中村大尉事件が「満州事変」を支持する方向で国内世論を一気に急転回させたその不思議について、戦後、山本七平のいた収容所内では、「中村大尉事件も軍の陰謀で日本軍の密命で中国軍が殺したのだろうと極論する人までいた」といいます。(事実はそうではありませんでしたが・・・)
では、これは日本人にとって単なる「不幸なアクシデント(偶然の事件)」だったのでしょうか。山本七平は、そのようには見ないと、当時の「金大中事件」(s48.8.8)に対する日本の世論の激昂ぶりや、南京攻略時のパネー号撃沈事件における日本人の反応を例に挙げて、次のように自説を展開しています。
「こういう事件は、もちろん全く予期せずに起り、予期せずに起るがゆえに「突発事件」なのである。そして、これが他国に起因する場合は、日本人自身がいかに心しても、日本人の意思で、その突発を防ぐことはできないわけである。そこで、昔も今も起ったように今後も当然起るであろう。従って問題は、そういう事件が起るということ自体にあるのでなく、むしろ、起った場合に、その「事件は事件として処理する能力」が、われわれにあるか否かが、今われわれが問われている問題だ」と思う。
そしてもう一つは、たとえ相手がこういった事件を「事件は事件として」処理したにしても、それが常識なのであって、それを、相手が屈伏したと誤解したり、相手を「弱腰だ」と見くびったりしてはならないこと、そしてこの点においても昔同様の誤りをおかすかおかさないか、ということが最も大きな問題だと私は思う。
太平洋戦争中、「アメリカなにするものぞ」といった激越な議論の根拠として絶えず引合いに出されたのが「パネー号事件」であり、「自国の軍艦を撃沈されても宣戦布告すら出来ない腰抜けのアメリカに何かできるか」と「バカの一つおぼえ」のように言われ、今でも耳にタコが出来ているからである。
これは南京攻略のとき、揚子江上にいたアメリカの砲艦パネー号を日本軍が撃沈し、レディバード号を砲撃した事件である。奇妙なことに最近の「南京事件」の記事からは、このパネー号事件は完全に消え去っているが、当時はこれが最大事件で「スワー 日米開戦か?」といった緊張感まであった。」
「主権の侵害」というのなら、交戦状態にない他国の軍艦を一方的に撃沈してしまうことは、撃沈された方には実にショッキングな「主権の侵害」であり、艦船をその国の主権内にある領土同様と見るなら一種の侵略であって、これの重大性は到底金大中事件の比ではない。今もし韓国によって日本の自衛艦が砲撃され撃沈されたら、一体どういうことになるか。金大中事件ですらこれだけエスカレートするのだから、おそらく「日韓断交型」の「世論」の前に、他の意見はすべて沈黙を強いられるであろう。それと等しい事件のはずである。
だが当時アメリカはそういう態度に出ず「事件は事件として処理した」。これを日本の「世論」は「笑いころげずにいられないアメリカ政府のヘッピリ腰」と断定した。これは日本政府がそういう態度に出れば、これを弱腰と批判するその基準で相手を計ったことを意味している。それが対米強硬論の大きな論拠となるのであり、確かに日本の世論が方向を誤る一因となっている。従って今回の事件も、韓国がこの事件を「事件は事件として」処理した場合、日本の「世論」がこれをどう受けとめるかは、私には非常に興味がある。
個人であれ国家であれ、問題の解決が非常にむずかしいのは、むしろ「相手に非」があった場合であろう。この場合のわれわれの行動は、常に、激高して自動小銃にぶつかるか(反撃するという意味=筆者)、はじめから諦めるか、激高に激高を重ねて興奮に興奮したあげく、自らの興奮に疲れ果てた子供のようにケロッと忘れてしまうかの、いずれかであろう。といっても私は別に他人を批判しているわけではない。いざというとき、自分の行動も似たようなものであったというだけである。」
実は、こうした日本人の「事件を事件として冷静に処理」することの出来ない弱点が、1927年の北伐途上の国民革命軍が引き起こした第二次南京事件、1928年の済南事件、そして、中村大尉事件、万宝山事件の処理にも典型的に表れているのです。そして、これらの事件を重ねる毎に日本人の対中国感情が悪化し、また、その時の行き過ぎた日本人の反応が新たな悲劇を生み、さらにそれが中国人の対日感情を悪化させるという、悪循環を生むことになったのです。こうして、日本人も中国人も望まなかった日中戦争へと突入して行くことになるのです。
ところで、こうした悪循環の起点となった第二次南京事件に対する日本の対応が、幣原外交を「軟弱外交」「弱腰外交」と批判する一般的風潮を生むことになりました。こうした批判は、今日ではほとんど通説化していて、名著『太平洋戦争への道(一)』「ワシントン大勢と幣原外交」でも、「彼はあまりに人間性を偏重し、満蒙にたいする日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と満蒙問題にからむ内政面への顧慮とを欠いていた。しかも彼自身はその合理主義へと世論を誘導する政治力を持たなかったのである。」と批判されています。
だが、本稿で紹介したように、満蒙に対する当時の日本人一般の感情が一体どのようなものであったか、それが何故に満州事変を指示する方向で急展開したか、また、軍部の満蒙問題をめぐる非合理的感情というものが、一体どのようなものであったかを見れば、こうした批判は私は当たらないと思います。というのは、ではこの局面において、「満州問題」の解決のために有効な他のどのような方策があり得たか、ということです。その代案の一つが、田中義一内閣の武力を背景とする「積極外交」だったはずですが、それがいかなる惨憺たる結果を招いたか。
第一次山東出兵、それに続く第二次山東出兵は済南事件(日本軍の謀略・煽動の疑い濃厚)を引き起こし、それが中国人に、あたかも日本が中国の国家統一を妨害しているかのような印象を与え中国の排日運動を激化させました。さらに、張作霖爆殺事件――この無法極まるむき出しの暴力主義を生んだのも田中「積極外交」でした。そして、その真相(すでに周知の事実となっていた)を陸軍は組織をあげて隠蔽した。この人を馬鹿にした不誠実極まる事件処理が、父を爆殺された張学良に、日本に対するどれだけの不信と恨みを植え付けたか・・・。
その田中「積極外交」が遺した支那本国や満州におけるの排日運動激化の責任を、なぜ幣原が負わなければならないのか。第二次若槻内閣における幣原の無策を責めることは簡単ですが、では、当時の、支那の革命外交や張学良の排日政策が進行する中で、幣原や重光が唯一取り得るとした「堅実に行き詰まらせる」方策以外に、はたしてどのような方策があり得たか。この「堅実」策が最終的に何を想定していたかについては、前便で守島伍郎の解釈を紹介しましたが、幣原は既に昭和3年9月17日の段階で次のようにその所信を述べています。
「私は満洲の権益は、東三省の政治組織如何によって左右されるやうな薄弱なものではないと思う。だから、政治と経済を混同してはならないといふのだ。第一国民政府が満州に進出して、特に我国の権益を脅かすような不謹慎的行動に出るとすれば、その時初めて我政府は否と返答すればよい。真に帝国の存在を無視するが如き態度に出るにしても執るべき手段は幾らでもある。」大切なのはそれに至る手続きだ。「徒に小細工を弄し、列国をして侵略的なる疑問を抱かせるような方策に出ることは、他を傷つけると共に自分を傷つける不明の策であって、外交の妙諦を解せざるものである」
なお、先に述べた幣原外交批判の嚆矢となった第二次南京事件における現地軍の無抵抗主義は、実は、幣原が指示したものではなく、当地の本邦居留民が「尼港事件」の二の舞を恐れて海軍部隊長に隠忍を陳情したことによって執られた措置でした。幣原がこうした局面における軍の統帥事項に容喙するはずもなく、もし本当に政府がこの時無抵抗主義を現地領事館に指示していたとしたら、いち早く居留民の引き揚げを断行していたはずだ、と幣原はいっています。
しかし、こうした「穏忍自重」の対応策は、その被害についての誇大報道もあり、国内において激しい批判の対象となりました。そして、それがあたかも幣原の「対華不干渉主義」「対華親善政策」の結果である如く喧伝されました。しかし、日本が排外暴動の対象となったのは実はこの時が初めてで、それまではイギリスがその対象とされたのです。また、この時の暴動は、国民革命軍内部のソビエトに指導された共産主義分子が、共産党排斥の旗幟を鮮明にした蒋介石を打倒するため、意図的に引き起こした領事館襲撃だったといいます。
こう見てくると、一体、幣原の外交方針のどこに間違いがあったのか。「日英同盟を廃棄してこれを四カ国条約に代えた」ことや、「九カ国条約に謳う門戸開放・機会均等主義が日本の満蒙における特殊権益と政治的に両立しない」ことなどが批判されますが、「日本が九ヵ国条約に敵意を抱いたのは満州事変以降のことであり」、それまでは、それが「中国の排日感情を和らげ、列国の疑惑を解くため必要な実利政策である」として、当時の政府が一致して支持してきたものなのです。四カ国条約についても、集団安全保障体制であり無力だということは戦後判ったことだし、仕方ないのではと思います。
また、こうした幣原の外交方針が、その後の世界恐慌による自由市場の閉鎖化や、ソ連共産主義の台頭、国民党の革命外交や張学良の排日政策に有効に対処するものでなかった、などとも批判されますが、では、これらに対応できるどのような外交方針がありえたか。それは結局、ワシントン体制下の世界秩序――軍縮から外交交渉による国際紛争の解決の方向、デモクラシーと自由民主主義の方向に国民を導いていく、ということではなかったか。だとすれば、「満州問題」を巧みに利用することで、満洲領有と軍部独裁を同時に実現しようとした軍部に、どのように対抗し得たか。
あるいは、そうした幣原とは違う軍部とのつきあい方を試みたのが広田弘毅であり近衛文麿ではなかったか。彼らこそ「日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と、満蒙問題にからむ内政面への顧慮」に注意を払いつつ、内交的外交を展開した人たちではなかったか。そしてそれは見事に失敗した。そう見ることができるのではないか、私はそう思っています。 
5

 

前便で、満州事変の基本的性格について、それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させたものだということを申しました。また、その担い手となった軍人たちの心理的背景として、ワシントン会議以降の軍縮がもたらした軍人軽視の社会風潮、それに対する憤懣があったことを指摘しました。折しも、金融恐慌(s2.3.15)、世界恐慌(s4.10.25)、金解禁(s5.1.11)などが重なり日本経済は深刻な経済不況に陥り、軍部はその原因を自由主義経済の破綻や政党政治の腐敗に求めました。また、これらの問題と合わせて日本の人口問題や資源問題さらにはソ連の脅威に対処するためには「満洲領有」が必要であり、そのためには国内政治の抜本的改革が必要であると訴えたのです。
こうした「満蒙問題」に関する国民啓発運動は昭和6年6月頃から活発化しました。まず、満州青年連盟が「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民とを鞭撻し国論を喚起するため内地に遊説隊を派遣しました。関東軍も板垣を帰京させ「機会を自ら作り満州問題の武力解決」を図る石原構想をもって軍中央の一部将校(永田、岡村、建川など)の説得に当たりました。また、陸軍も国防思想普及運動を全国的に展開し「時局講演会」を各地で開催し、満蒙の領有が土地問題の抜本的解決になること、極東ソ連軍の脅威、日本の満洲権益がワシントン条約で放棄(?)させられたこと、張学良政権の排日政策によって日本の正当な満洲での権益が損なわれていること等を国民に訴えました。
そこに、前回紹介したような中村大尉事件(1931.6.17)や万宝山事件(1931.7)が発生し、国民世論は一気に対支強硬論へと急展開していったのです。特に、中村大尉事件の公表以降は、政友会はいうまでもなく、貴族院各派さらに民政党内にも「中村事件を幣原外交の失敗と見なし」「あえて軍部の強硬意見を非難しない」というような情況が作り出されました。しかしながら、外務省はあくまで「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」を堅持しており、また、南陸相のもとに省、部中堅層を集めて作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)でも、満洲で軍事行動を起こす場合も、閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、これを是認せしむるよう努力する」としていました。
にもかかわらず、9.18満州事変の勃発となったわけですが、そのことについて私は前回次のような問題点を指摘しました。「この結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。もう一つは、関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなったということです。」つまり、この時ビルトインされたこの二つの難問を解くことが出来なかったことが、日本を泥沼の日中戦争そして太平洋戦争へと引きずり込んでいく足かせとなったのです。しかし、当時、この問題点に気づいた日本人はごくわずかしかいませんでした。いや、現在においてもこの点が十分認識されているとはいえません。
というのは、事変直後の9月19日の陸軍中央部(金谷参謀総長、二宮参謀次長、南陸相、杉山次官、荒木貞夫教育総幹部本部長)の方針は全満州の軍事占領ではなく、条約上における既得権益を完全に確保する、というものでした。また10月8日の段階でも「独立案」には進んでおらず「中国中央政府と連携を認める地方政権」ということで陸軍三長官の意見は統一され、政府の方針もその方向で統一されつつありました。
ところが、関東軍の方では、早くも九月二十二日に軍参謀長三宅少将(13期)以下土肥原賢二大佐(16期)、板垣征四郎大佐(16期)、石原中佐、片倉衷大尉(31期)らが集まり、「軍年来の占領案より譲歩し、中国本土とは切り離した親日政権、宣統帝を頭首とする独立政権を作ること、内政などは新政権が行うが、国防、外交は新政権の委嘱という形で日本が握ること」などの要点で話が決まっていました。
結局、「この満蒙処理の構想に関する限り、現地関東軍が押し切り、東京の軍中央部も政府当局も、これに引きずられていったわけである。勿論、世論の強硬論が関東軍の案を支持した。満洲で一発撃たれると同時に世論はがらっと変わって、軍を支援する形に動いていった。この時風は完全に変わり、今までの陸軍に対する逆風は追い風になった」のです。
加登川氏はこれに続けて、自らの元陸軍省軍務局軍事課参謀としての体験を踏まえて、彼自身の反省の弁を次のように述べています。
「私は満州事変は当然のことを当然のこととしてやったんだといったが、さて、ここの段にいたって、私は日本は「攻勢移転」したとたんに『攻勢の限界点を越えた』と思っている。日本は全く後戻りの出来ない袋小路に首をつきこんでしまったからである。
これからあとは私の愚痴である。例として引くにはおかしいが、すでに述べたように、一九一一年(明治四十四年の辛亥革命のとき)、外蒙古は清朝衰亡の機に、帝政ロシアの使喉を受けて清国からの独立を宣言し、大蒙古国と称した。
翌明治四十五年には帝政ロシアは、露蒙条約を結んで蒙古独立を支持し、土地借款などの特権を得た。当時の中国にとっては大問題であった。だがその後、既成事実として「自治」を認め「名」をとる妥協の余地があった。それは一九一三年(民国二年)に至って袁世凱政権のもとで外蒙古に関する露中宣言となって、中国は蒙古の自治を承認し、ロシアは中国の対蒙宗主権を承認するという解決法であった。
中国は、なくなった『実』は何ともならなかったが、『宗主権』という『名』をとって『面子』を保った。外蒙古はロシア革命後に、永久に中国の手を離れてしまったが、それはまた違った事態である。帝政ロシアの侵略の手を学べというのではないが、巧妙な解決策が残っていた。日本も、武力侵略を決意したにしても中国側に『宗主権』という妥協の余地を残すだけの含み、余裕がとれなかったものであろうかと私は今でも思っている。
それにしても、溥儀を担ぎ出したことが、まずかった。かつぎ出した以上『執政』としてもひっこめる余地が少ないだろうし、ましてこれを『皇帝』としたのではもうひっこめる手はない。中国政府との間に『面子』に関する解決不能の難題を作ったことになったのである。(この満州国という難題が、ついに日本の敗戦まで続いて日本はニッチモサッチもいかなかったのである)」
もちろん、満州国が、東京裁判の宣誓供述で石原莞爾が述べたように「東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもの」なら問題はありませんでした。しかし実際は、石原莞爾自身当初は満洲を武力占領するつもりであり、しかし、軍中央の反対に会ってやむなく「満蒙の支那本部よりの独立」に妥協したのでした。しかし、この間の事実を認めれば、国際連盟規約・九カ国条約・不戦条約違反を問われる恐れがあったので、満洲国の独立は、あくまで、張学良が悪政故に満洲の民衆の支持を失った結果であり、「民族自決」の原理によって国民政府から独立したものである、と説明したのです。
だが、これが詭弁であることはいうまでもありません。そして日本政府もこの主張の無理を承知していました。また当然のことながら、この事変を企図した者たちもそれを自覚していたので、それが柳条湖の鉄道爆破という謀略で始まったという事実を戦後に至るも隠し続けたのです。その結果、陸軍そしてそれに引きずられて日本政府もそして国民も「満州において日本が軍事行動をとったのは、張学良=支那が条約により日本に認められた権利を尊重しなかった結果であり、日本は自らの権利を守るためやむなく自衛行動に立ち上がったのである」と主張し続けることになったのです。
では、こうした、いわば「ゴルディアスの結び目」から日本が逃れる方法はあったのでしょうか。実はそれは甚だ簡単なことで、加登川氏も指摘するように、満洲に対する中国の宗主権を暗黙にでも認めればそれで済むことでした。そうすれば、上に述べたような日本の言い分にもスジが通ってきますし、日本国の名誉も守ることができたのです。しかし残念ながら当時の陸軍にはそれができませんでした。そして、この問題をあくまで武力を背景に中国側の犠牲において処理しようとしたのです。つまり、中国が「満州国を承認する」という形で問題解決を図ろうとしたのです。
ではなぜ、そんな道義にもとることをしたのでしょうか、また、なぜその過ちに最後まで気づかなかったのでしょうか。もし、関東軍がこれを初めから中国を侵略する目的でやったのなら、むしろ堂々と公言した方が少なくとも論理的にはスッキリしたのに、一方で戦争を継続しながら日支親善を言い中国に対して抗日を改めろと言い反省を求め続ける、この不思議さ。このことについて岸田国士は、昭和14年に出版した彼自身の著書『従軍五十日』で、この間の両者の心理を次のように説明しその解決策を提示しています。
「平和のための戦争といふ言葉はなるほど耳新しくはないが、それは一方の譲歩に依って解決されることを前提としている。ところが今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。云ひかへれば、支那は、本来望むところのことを、武力的に強ひられ、日本も亦、本来、武力をもって強ふべからざることを、他に手段がないために、止むなくこれによったといふ結果になっている。
かういふ表現は多少誤解を招き易いが、平たく砕いて云へばさうなるのである。支那側に云はせると、日本のいう親善とは、自分の方にばかり都合のいいことを指し、支那にとっては、不利乃至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かかる美名のもとに行われる日本の侵略を民族の血をもって防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらいの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。そこで、事変勃発以来、日本の朝野をあげて、われわれの真意なるものを、相手にも、第三国にも、亦、自国国民にも、無理なく徹底させ、納得させるやうに努めて来、また現に努めつつあるのであるが、問題がやや抽象的すぎるために、国民以外の大多数には、まだ善意的な諒解が十分に得られでゐないやうである。
これは考へてみると、わからせるといふことが無理なのである。なぜなら、日支の間に如何なる難問題があったにせよ、それが戦争にまで発展するといふことは常識では考へられない。すなはち、民族心理の最も不健康な状態を暴露しているわけで、そのうへ、両国の為政者自らが、それに十分の認識があったかどうかは疑わしいからである。戦争になつたことを今更かれこれ云ふのではない。戦争がさういふ危機を出発点とすることはあり得るし、戦争によって、何等か打開の這が講ぜられる期待はもち得るのであるけれども、この事変の目的とか、性質とかを吟味するに当つて、これを意義ある方向へ導くための国家的理想と、その現実的な要素を分析した科学的結論とを混同することによつて事変そのものの面貌があやふやな認識として自他の頭上に往来することは極めて危険である。
欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、ここで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があったにせよ、支那に對するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?
一見、支那の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでいて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせているのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によって得られるかとうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、いはゆる疑心暗鬼の種にもなるわけだ。ここにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出しているのに気づく。
戦争をあまりに道義化しようとして、これを合理化する一面にいくぶん手がはぶかれている傾がありはせぬか。主観的な意戦論は十分に唱へられているが、客観的な日支対立論とその解消策は、わが神聖な武力行使の真の行きつくところでなければならず、寧ろ、これによってはじめて東亜の黎明が告げ知らされるのだと私は信ずるものである。
そこで、いはゆる客観的な対立論とその解消策の第一項目として、私は、日支民族の感情的対立の原因の研究ということを挙げたいと思ふ。事変そのものを挟んで、両国の運命は等しく重大な転機に臨んでいるけれども、かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」
実は、岸田国士がこの文章を書いた昭和14年の時点では、満州事変の真相は国民の前に明らかにされていませんでした(それが明らかにされたのは昭和34年)。もちろん、この事件を企画し満州を武力占領した当事者たちにはその真相は分かっていました。石原莞爾はそれを「最終戦争論」という偽メシア的預言によって(注1)正当化したのです。その意味で石原莞爾こそ、以上説明したような誠に不思議な自己欺瞞的戦争を日本に余儀なくさせた元凶であるといわなければなりません。
では、日本人全員が石原莞爾に騙されていたのかというと、必ずしもそうとはいえず、むしろ石原莞爾は、そうした当時の日本人の中国人に対する優越した気分(注2)を代弁していただけということも可能なのです。それが、満州事変を機に、それまであからさまに行われてきた軍部批判が、一気に熱狂的な軍部礼賛へと転化したというもう一つの不思議を説明する、最も説得的な解釈ではないかと思います。
もちろん、日本人の支那人に対する優越感が、支那人の自尊心を傷つける行動につながっていたのと同様、支那人の側にも同じような問題があり、それが日本人の自尊心を煽った側面もあったと思います。しかし、この問題点に先に気づいたのは中国側指導者たちでした。1934年12月20日付『外交評論』紙上に「敵か友か?中日関係の検討」と題する注目すべき論文が掲載され、そこには「一般に理解力ある中国人は、すべて、次のことを知っている。すなわち、日本人は究極的にはわれわれの敵ではない。そして、われわれ中国にとって、究極的には日本と手をつなぐ必要がある」と記されていました。
(注:それは蒋介石の口述したものをその最も信頼する第一侍従室長の陳布雷に筆記させたものだったといいます。)
ここから、満州事変勃発以来初めての、日中親善に立脚した日中国交回復が、蒋介石と広田外相の間で真摯に模索されることになったのです。しかし、こうした慶賀すべき動きに対して、関東軍は執拗に妨害工作を繰り広げました。こうして、軍部も含めた日本側も、そしておそらく中国側も(注3)望まなかった日中戦争へと、ほとんど運命的に突入していくことになるのです。岸田国士は「かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」と言いました。しかし、日中全面戦争に突入する以前においてその余裕を見せたのは中国人であり、これに応える余裕を持たなかったのは日本人だったのです。 
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前回紹介した岸田国士の言葉「今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。」は、日中戦争の本質を端的に表したものといえます。
また、私は前回の末尾で「軍部を含めた日本側も、そしておそらく中国側も望まなかった日中戦争」と書きました。これについては廬溝橋事件発生時における「拡大派」の存在や「中共謀略説」などを根拠に、異論を唱える方も多いと思います。北村稔・林思雲氏の『日中戦争』の副題は「戦争を望んだ中国望まなかった日本」となっています。しかし、日中関係をより長いスパンで見た場合、日中親善が望まれていたともいえるわけで(注1)、蒋介石も、また満州事変の張本人である石原莞爾も、先の「拡大派」にしても、決して中国との全面戦争を望んだわけではありませんでした。
終戦後の1946年にアメリカ戦略爆撃調査団が日本陸軍の華北進出の動機に関する調査を行っていますが、その一説には次のような調査結果が記されています。
「一九三七年(昭和一二年)の華北進出は、大戦争になるという予測なしに行われたものであって、これは本調査団が行った多数の日本将校の尋問によって確証されるところである。当時、国策の遂行に責任のあった者たちが固く信じていたところは、中国政府は直ちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自ら調整してゆくであろうということであった。中国全土を占領することは必要とも、望ましいとも考えたことはなかった。・・・交渉で――あるいは威嚇で後は万事、片がつくと考えていた。」
この事実は、満州事変以降の日本の中国に対する究極の要求が何であったかを見てもわかります。もちろんそれは、寛大ないわゆる「大乗的」といわれるものから侵略的という外ないものまで、その振幅はさまざまですが、中国との戦争状態を惹起しないあるいはそれを終熄させようとした時の最低限の日本の要求は何だったかというと、結局それは、満州事変以降日中戦争期そして大東亜戦争期を通じて、満州国の独立を中国に承認させる、という一点に絞られてくるのです。
この間における満州国承認に関する日中間交渉は、昭和10年9月7日、蒋介石が蔣作賓を通じて日本政府に示した日中提携のための関係改善案の提示に始まります。この時の中国側の提案は「満州国については、蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日これを不問にする。(右は日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずという意なり)」というものでした。これに対して広田外相は、昭和10年10月7日、張作賓に「広田三原則」を示し、その第二項で「満州国の独立を事実上黙認」することを求めました。
これに対する中国側の答えは、「満洲にたいし政府間交渉はできないが、同地方の現状に対しては、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことをしない」というものでした。広田外相は、「中国は満洲に対して政府間の交渉はできないというが、それでは現状と変わりがない」として重ねて「事実上の満州国承認」を求めましたが、中国側は応諾しませんでした。おそらくその理由は「中国としては満州国の宗主権を放棄することはできない」ということだったと思います。
また、中国側はこの交渉に先立って中国側三原則を示し、その趣旨に日本側が賛同することを求めました。それは(1)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること。(2)両国は真正の友誼を維持すること。(3)今後、両国間における一切の事件は、平和的外交手段により解決すること、でした。その狙いは、「梅津・何応欽協定」以降の日本軍の武力を背景とした脅迫的な交渉態度や「華北自治工作」という主権侵害行為の停止を、日本側に約束させることにありました。
広田外相としても、1935年1月12日の議会演説で中国に対する不脅威・不侵略を宣言して以来、なんとか日中関係改善の糸口を見つけようと努力しました。また、国民政府も日本軍による華北自治工作開始後も、対日親善方針を変えなかったため、広田外相は陸海外三省協議の上、「広田三原則」をまとめたのです。しかし、そこでは軍部の圧力のため「相互尊重・提携共助の原則による和親協力関係の設定増進」という項目が削除されたり、「日満支三国の提携共助により」が「日本を盟主とする日満支三国」となるなど中国側三原則の趣旨は失われていました。
そのため、この時の日中関係改善交渉は挫折しました。そしてその後も、日本の出先陸軍は華北自治工作を強力に推進し、1935年11月23日には殷汝耕を政務長官とする冀東(冀=河北省)防共自治委員会を設置し、さらに河北の宋哲元らに対する自治工作を強化しました。国民政府はこれに対して1935年12月18日、一定の自治権を有する冀察(チャハル省)政務委員会を設置(1935.12.18)しました。しかし、こうした日本軍のあからさまな華北分治工作に対する中国国民の反発は、燎原の火の如く中国全土を蔽い、各地で対日テロ事件が頻発するようになりました。
一方日本では、1936年2月26日に一部青年将校による二・二六事件が勃発し、岡田内閣が崩壊、続いて3月9日広田内閣が発足しました。対華政策については8月11日「第二次北支処理要項」が決定され、日本の「華北分治政策」が満州国の延長の如く解せられないよう留意しつつ、「日本と華北の経済合作」を進めるべきとしました。また、険悪の度を増す日中関係の根本解決をめざして、南京で川越駐華大使と張群外交部長の間で華北経済合作を中心とする交渉が行われました。その中で中国側は、塘沽・上海停戦協定(満州事変の停戦協定)の取り消しや、冀東政府の解消を要望するようになりました。
さらに日本の綏遠工作(内モンゴル軍を使った中国からの綏遠分離工作)が発覚すると、蒋介石は、「綏遠工作が続く限り南京交渉は困難である」「中国国民の日本に対する不安と猜疑の念は、ますます高められる一方だから、日本も大局的見地からこれを一掃する処置を講じてほしい」と要望しました。さらに1936 年11月24日の百霊廟陥落(綏遠事件の最後の戦闘で中国軍が勝利したもの)以降の中国側の姿勢はさらに高姿勢に転じ、交渉の進展は絶望となりました。さらに12月12日には「西安事件」が発生し、これ以降蒋介石は、第二次国共合作、抗日民族統一戦線の結成へと進むことになりました。
広田内閣は1937年1月23日に総辞職し、組閣の大命は宇垣一成予備陸軍大将に下りましたが、陸軍の反対に遭い組閣を断念し、2月2日林(銑十郎)内閣が成立しました。外相は佐藤尚武となり、対華政策については従来の陸軍の拙速主義に対する反省から、華北分治政策の放棄と冀東政府の解消がはかられました。また、「日満を範囲とする自給自足経済を確立し」て対支政策を一変し「互助互栄を目的とする経済的・文化的工作に主力をそそぎ、その統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み、北支(華北)分治は行わず」となりました。これは石原構想に基づくものでした。
しかし、こうした政策変更が実効を見る間もなく、林内閣は5月31日に倒れ、6月1日に近衛文麿内閣が誕生し、外相は再び広田弘毅となりました。この間、華北をめぐる日中関係は悪化の一途をたどり、一触即発の状態となりました。そしてついに、7月7日北平郊外の廬溝橋で演習中の華北駐屯日本軍と冀察政権の第二九軍の間で武力衝突が発生したのです。直接の原因は第二十九軍の兵士の偶発的発砲(秦郁彦)とされますが、この段階では、すでに中国国民や兵士の抗日気運は十分に盛り上がっており、いつ衝突が起こってもおかしくない状況になっていました。
事件直後の7月8日、中共中央は全国に通電を発し、即時全民族抗戦を発動することを主張し、蒋介石に国共合作による共同抵抗の実現を要求しました。しかし、抗日戦準備態勢の不完全を憂慮した蒋介石は、なお抗日戦発動をためらっていましたが、7月17日廬山国防会議において「最後の関頭」演説を行い、万一やむをえず「最後の関頭」にいたるならば」中国としても全民族をあげて抗戦し、最後の勝利を求めるほかないとしました。そしてついに8月8日「全将兵に告ぐ」という次のような演説を行いました。
「九・一八以来、われわれが忍耐・退譲すれば彼らはますます横暴となり、寸を得れば尺を望み、止まるところを知らない。われわれは忍れども忍をえず、退けども退くをえない。いまやわれわは全国一致して立ち上がり、侵略日本と生死を賭けて戦わなければならない。」
一方日本側では、事件発生後「不拡大・現地解決」を指示しましたが、陸軍の一部には「この機会を利用して、内地からの兵力を派遣し中国に一撃を加えて、前年からの華北工作の行き詰まりを打開しようという強硬意見」が台頭し、不拡大を主張する石原参謀本部作戦部長らとの間で激論が交わされました。しかし現地では11日相互撤退の原則で停戦協定が成立しました。しかし、東京ではこの調印に先立つ数時間前の閣議で内地三個師団の派兵が決定していました。ただし、動員後派兵の必要がなくなれば取りやめるとの条件付きでした。
この派兵が決定した11日の五省会談及び閣議では、米内海相から反対意見が述べられ、近衛首相、広田外相、賀屋蔵相も乗り気ではなかったといいますが、近衛首相はその日の夕方、華北派兵の理由及び政府の方針に関する政府説明を内外に公表し、同時にこの事件を「北支事変」と呼ぶことにし、同日夜首相官邸に政・財・言論界の代表をまねき、協力を求めました。こうした政府の鼓吹によって「暴支膺懲熱」が国民の間にも高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催があいつぎました。(この時の近衛首相の判断には首をかしげざるを得ませんが、それは、中国との外交交渉の主導権を握るためのブラフだったと説明されています。
この7月11日の派兵声明以降、陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が生じ、これを反映してその後二週間の間に三回も動員の決定と中止が繰り返されました。一方、現地では支那駐屯軍と冀察政権の交渉は順調に進み、19日には細目協定が橋本参謀長と張自忠の間に停戦協定が調印されました。そして23日、石射外務省東亜局長は、陸・海・外三局長会議で、事変の完全終結を見こして、(1)不拡大、不派兵の堅持、(2)中国軍第三十七師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で、自主的に増派部隊を撤収、(3)次いで国交調整に関する南京交渉を開始する、の各項を提案し了解を得ました。
だが、23日を境に現地情勢は急速な変転を示し始め、第三十七師は北平撤退を中止したばかりでなく、かえって第二十九軍の他の部隊が協定に反して北平侵入するありさまでした。さらに25日には郎防駅(北平・天津の中間)付近で電線修理に派遣された日本軍の一中隊と中国軍が衝突した「郎防事件」。次いで26日には北平入城中の広部大隊に対し、中国側が城壁上から機銃掃射を加えた「公安門事件」が発生しました。かくて、現地香月軍司令官は従来の不拡大方針を放擲し、27日、政府も午後の閣議で内地五個師団二十万人の動員案を決定しました。(南苑にある中国軍主力対する攻撃は28日1日で終わり華北での戦闘は停止しましたが日本軍は南下を続けた。)
一方、石射東亜局長の提案になる解決試案――日中戦争の全期間を通じ、最も真剣で寛大な条件による政治的収拾策――が7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられ、石射がかねてから用意していた全面国交調整案と平行して、これを試みることになりました。その原動力は石原作戦部長だったと推定されていますが、これに天皇も同感の意を表され、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定されました。
「この停戦協定案は、(1)塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消、(2)廬溝橋付近の非武装地帯の設定、(3)冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政、(4)増派日本軍の引揚げ、また国交調整案としては、(1)満州国の事実上の承認、(2)日中防共協定の締結、(3)排日の停止、(4)特殊貿易・自由飛行の停止などを、それぞれ骨子とし、別に中国に対する経済援助土地顔法権の撤廃も考慮されていました。この両案は日中戦争中の提案としては、思い切った譲歩で、満州国の承認を除き、一九三三年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄しようとする寛大な条件でした。
この案(船津案)を、南京政府の高宋武・亜洲司長に伝える交渉者として、在華紡績同業者会理事長・船津辰一郎(もと上海総領事)が選ばれ、八日または九日から高宋武と会談を始める予定でした。ところが、おりしも華北から帰来した川越・駐華大使が訓令を無視して高との会談を行うよう変更し、九日夜川越・高会談が行われました。しかし、この日上海で大山事件が突発したため、交渉はなんら進展のないまま途絶しました。そして十三日夜、上海で対峙していた日中両軍間で戦闘が開始され、翌十四日、中国空軍は上海在泊中の第三艦隊に先制攻撃を加えました。そして翌十五日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し、ここに日中全面戦争が開始されました。
以上、「広田三原則」以降「日中全面戦争に突入するまでの日中交渉の経過を『太平洋戦争への道』の記述を引用しつつ説明してきました。そこで疑問となるのは、8月4日に日本側にこれだけの譲歩ができたのなら、なぜ、出先陸軍は広田外相の日中親善外交をあれほど露骨に妨害し「華北分離工作」をおし進めたのか、ということです。その時問題となった「満州国の事実上の承認」についても、中国側は日本に対し「満州国承認の取り消しを要求せず」としていましたし、また、第三国の承認もなされていたのですから、この線での妥協も可能だったと思います。
この和平条件は、11月2日に広田外相から依頼を受けたディルクゼン駐日ドイツ大使が、駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石に示した仲介案(「満州国の事実上の承認=黙認」が「満州国の承認」となっているほか船津案とほぼ同じ)にも引き継がれていました。しかし蒋介石は、ブラッセル会議(蒋介石はこの会議で対日制裁が決議されることを期待していた)を理由にこの申し出を断りました(11月5日)。その後同会議が見るべき成果なく閉会したので、蒋介石はあらためてドイツの仲介案を取り上げることにしました。12月2日、蒋介石は会議に出席していた各将領の意見を聞きましたが、白崇禧は「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」と疑問を呈しました。
他の将領もこれだけの条件なら受諾すべしと答えました、しかし蒋介石は「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつも、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」としました。しかし「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」とトラウトマンに要望しました。
トラウトマンより連絡を受けたディルクセン駐日独大使は12月7日広田を呼び、「中国側では日本側提示の条件として交渉に応ずる用意がある。ついては先にお示しになった条件のままで話を進めてよいか」と訊ねました。広田は早速近衛総理及び陸海両相と会談しこの件をはかるといずれも意義なく賛成だといいました。ところが翌朝杉山陸相が広田を訪れ「ドイツの仲介を断りたい.近衛総理も同意である」と申し出てきました。そこで和平条件案が12月14日の連絡会議にかけられましたが、原案を支持したのは米内海相と古賀軍令部次長のみで、近衛首相は沈黙を守り、そのため多田、末次、杉山、賀屋らの異論により条件が加重され、戦費賠償まで加えられました。
最終的にこれが閣議決定されたのは12月23日ですが、このように日本側の態度が強腰になったのは、上海の激戦や南京陥落により国民が刺激され、対華強硬世論が盛り上がってきたことが原因と考えられます。というのは、11月13日から始まった上海戦は、14日の中国空軍による第三艦隊に対する先制攻撃で開始され、また、中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導による陣地構築、訓練、作戦指導を受けており、ドイツ製の優秀な武器を持って日本軍と戦い、日本軍に膨大な犠牲をもたらしたからです。この模様は同盟通信の松本重治によると「上海の戦いは日独戦争である」というほどのものだったといいます。
そのため、上海での戦闘に三ヶ月もかかり、この間の日本軍の戦死傷者は四万一千名に及び、日露戦争の旅順攻略に匹敵するほどでした。こうした予想だにしなかった事態を、日本軍はどれだけ事前に把握していたか。廬溝橋事件後のいわゆる一撃派は「一撃で中国軍が簡単に降参する」と見ていました。また、当時の支那通も上海付近の要塞化にさしたる注意を払いませんでした。それは日本軍の伝統的な支那人蔑視観が判断をあやまらせたともいえますが、最大の理由は、まさか支那との全面戦争になるとは思っていなかったからではないかと思います。
こうした上海戦の犠牲の大きさを考慮すると、それ以前に構想された和平条件を、そのまま南京陥落後の和平条件とすることは無理だったのではないかと思います。蒋介石の12月2日の言葉を見れば、こうした事態を当然の如く予測し、調停が成功しないことを見越していたように思われます。それより問題なのは、白崇禧の「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」という言葉です。つまり日本側の条件で懸案となるのは「満州国の承認」だけで、そして、これだけなら戦争の必要はなく、満州事変以降の外交交渉で十分解決可能だったということになるからです。
よく、トラウトマン和平工作の打ち切りに際して、参謀本部が強硬に交渉の継続を主張し、これに対して米内海相が「参謀本部は政府を信用しないというのか。それなら参謀本部がやめるか、内閣がやめるかしなければならぬが・・・」という会話が引用され、日中戦争を長期化させた責任は参謀本部ではなく米内や文民たる政府である、との主張がなされます。しかし、かりにこの交渉を継続しても、蒋介石がこの加重された調停案を呑むことはなかったでしょう。参謀本部はこの時あえて昭和天皇に帷幄上奏を試みましたが、天皇はこれを受け入れませんでした。私はこれは当然だと思います。
この時天皇は、閑院宮参謀総長に対して「どういうわけで参謀本部はそう一時も早く日支の間の戦争を中止して、ソビエトの準備に充てたいのか。要するにソビエトが出る危険があるというのか。」と問い、「それなら、まづ最初に支那なんかと事を構えることをしなければなほよかったぢゃないか」といっています。蒋介石は「日本が軍事的優勢をカサに着て、条件の加重をはかろうとしたため、交渉を重ねた末、中途で打ち切られた。」と言っていますが、この条件加重を強硬に主張したのは多田参謀次長らであり、そもそも日中関係をさらに悪化させた華北五省分離宣言(「多田声明」)をしたのも彼でした。
いずれにしても、上海事変以降の蒋介石の持久戦を想定した抗戦意志は明確であり、南京陥落後に和平交渉が成立する可能性は全くなかったと思います。仮に、日本が、上海事変が起こる前に中国側に提示したものとほぼ同じ条件で南京陥落後のトラウトマン調停に応じた場合、上海戦が中国軍のイニシアティブによるものであることや、それまでに日本軍の払った人的犠牲の大きさを考慮すると、これに憤激する国内世論は誰にも押さえられなかったでしょう。ではどこで間違ったか。いうまでもなく、それは、1935年当時の蒋・広田間の日中和平交渉の段階であり、せっかく蒋介石より日中関係改善の処理方法が提案されたのに、軍部がこれを妨害し華北五省分離工作を強引に推し進めたからというほかありません。
そこで、「なぜ日本は中国と戦争をしたか」という本稿のテーマに沿って、その根本原因を探るならば、それは、満州事変以降華北分離工作において観察された、関東軍将校をはじめとする軍人らの特異な行動パターンを常習化させたものは何か、を問うことになります。一体、彼らはなぜ、蒋介石による中国の国家統一をあれほど恐れたのか、なぜ、彼らは満州国承認問題で中国の宗主権を認めようとしなかったのか。また、なぜ彼らは、武力を背景とする示威行動において、あれほど自制心を失ったのか。
おそらくその原因は、まず、中国を他者(国)として認識する力が欠如していたということ。次に、満州国成立の正当性に自信を持てなかったということ。最後に、当時の青年将校たちが、大正デモクラシー下の軍縮に由来する軍人蔑視の社会的風潮に深刻な被害者意識を持ち、そこに当時の革新思想である国家社会主義が強烈なアピール力を持って作用したということ。さらに、それが日本の伝統的な一君万民・天皇親政を理想とする尊皇思想(これが明治維新のイデオロギーとなった)によってオーバーラップされた結果、殉教者自己同定さらに自己絶対化へと進んでいった・・・そういうことではなかったかと、私は思っています。 
7 蒋介石の敵か友か / 中日関係

 

前々回に紹介いたしましたが、蒋介石は、1934年12月、満州事変以前そして以後の中国側の犯したあやまりに対する反省を踏まえて、日中関係の抜本的改善を呼びかける「敵か友か?中日関係の検討」という論文を、南京で発行された雑誌「外交評論」に発表しました。「外交評論」は国民党外交部の機関誌といえるもので、党・政府中央の意を広く民衆に伝える雑誌でした。そこに「日中朝野の人びとに先入観抜きで読ませる」ため、あえて第三者に語らせる形をとり、かつ、その内容が国民政府の本意にかなうものであることを明らかにしました。
これを見ると、当時蒋介石が、満州事変以降危殆に瀕した日中関係を、どのような観点に立って、互助互恵の日中親善関係へと転換させようとしたかがよく分かります。北村稔・林思雲著『日中戦争』によると、満州事変後における中国市民や学生間の主戦論はすさまじく、それに比べれば和平派(その多くは軍事や政治の重要ポストにいる人たちや、社会的影響力の大きな学者たち)の数は少なく、彼らの努力が無かったならば、日中間の全面戦争は、一九三一年頃に早くも勃発していたであろう、というほどだったといいます。
そうした雰囲気のなかで、蒋介石は何とか満州事変の戦後処理を済ませ、日中親善・互助互恵の経済関係を築きたかった。それが両国のためであるし、ひいてはアジアの平和の確立のためでもあり、さらに世界戦争の危機を免れるためでもあると確信していたのです。そして、そのための唯一の方策として、蒋介石が広田外相に期待したのは、満州国問題をその宗主権を中国に残す形で、「中国の面子」を立てるやり方で解決して欲しい、それ以外に、主戦論に沸き立つ中国国民の怒りを鎮める方法はない、ということだったのです。
残念ながら、当時の日本はその願いに応えることができなかった。なぜか、日本人は当時の世界をそして中国人の感情を、蒋介石が世界をそして日本人の感情を読んだほどには読めなかった、そういうことだったのではないかと私は推測しています。おそらく、近衛も広田も内心ではそうしたい気持ちはやまやまだったろう、という推測ともあわせて・・・。
「世上、中日問題を論述した論文は非常に多い。両国の政治家、学者が発表した意見も、専門的なもの、一般的なものを問わず、少なくない。ただ、私はここで、あえて断言する。一時の感情や意地、一時のあやまりにとらわれず、国家の終局的な利害を考えた見解は、きわめて少なく、問題の正面からの認識が、あまりにも不足しているのだ。国際間の多くの悲劇は、すべて一時のわずかな行き違いから生まれながら、永遠にとり返しのつかない禍いとなっているのである。中日両国はさまよい、滅亡への足どりをますます早めている。これを打開し、ひいてはアジア平和の基礎を確立し、世界戦争の危機を免れるためには、なによりもまず、中日問題をまじめに検討しなくてはならない。率直で赤裸々な批判と反省が必要なのである」
「まず私かいいたいのは、理を知る中国人はすべて、究極的には日本人を敵としてはならないということを知っているし、中国は日本と手を携える必要があることを知っていることである。これは世界の大勢と中日両国の過去、現在、そして将来(もし共倒れにならなければであるが・・・)を徹底的に検討したうえでの結論である。私は日本入のなかにも同様の見解を抱く者は少なくないと思う。だが、今日までのところ、難局を打開し、両国の関係を改善する兆候はないばかりか、前途をみても一点の光明もない。ずるずると、行き当たりばったりに、自然のなりゆきにまかせられているのである」
蒋介石はこのような日中関係についての基本認識のもとに、当時の日本の置かれた情況について次のような透徹した認識を示しています。
「日本の中国にたいする関係を論じるには、必ず対ソ、対米(そして対英)という錯綜した関係と関連して論じなければならない。一方において、日本はその大陸政策および太平洋を独覇しようという理想を遂行し、強敵を打倒し、東亜を統一しようと望んでいるため、ソ連と米国の嫉視を引き起こしている。その一方では、日本当局は、満蒙を取らなければ日本の国防安全上の脅威は除去できないなどと言って、国民をあざむいている。換言すれば、対ソ戦、対米戦に備えるため、満蒙を政略経営しなければならない、というのである。
「われわれはいま純粋に客観的な態度で、日本にかわってこのことを考えてみよう。現在、日本が東に向かって米国とことを構えようとすれば、中国は日本の背面にあたる。もし日本が北へ向かってソ連と開戦しようとすれば、中国は日本の側面となる。このため、日本が対米、対ソの戦争を準備しようというのならば、背側面の心配を取り除かなければ、勝利をつかめないどころか、開戦さえ不可能である。
この背側面の心配を除去する方法は本来二通りある。一つは力によって、この隣国(中国)を完全に制圧し、憂いをなくすことであり、もう一つの方法は側背面の隣国と協調関係を結ぶことである。しかし、いま日本人は中国と協調の関係によって提携しようとはしていない。日本は明らかに武力によって中国を制圧しようとしている。だが、日本は中国を制圧する目的を本当に達成できるのだろうか?」
「日本がもし、何らかの理由によって中国と正式に戦争をするとしよう。中国の武力は日本に及ばず、必ず大きな犠牲を受けることは中国人の認めるところである。だが、日本の困難もまたここにある。中国に力量がないというこの点こそ、実は軽視できない力量のありかなのである。
戦争が始まった場合、勢力の同等な国家ならば決戦によって戦事が終結する。しかし、兵力が絶対的に違う国家、たとえば日本対中国の戦争では、いわゆる決定的な決戦というものはない。日本は中国の土地をすみからすみまで占領し、徹底的に中国を消滅しつくさない限り、戦事を終結させることはできない。
また、二つの国の戦争では、ふつう政治的中心の占領が重要となるが、中国との戦争では、武力で首都を占領しても、中国の死命を制することはできない。日本はせいぜい、中国の若干の交通便利な都市と重要な港湾を占領できるにすぎず、四千五百万平方里の中国全土を占領しつくすことはできない。中国の重要都市と港湾がすべて占領されたとき、たしかに中国は苦境におちいり、犠牲を余儀なくされよう。しかし、日本は、それでもなお中国の存在を完全に消滅することはできない」
このように日本の軍部の中国武力制圧方針の誤りを指摘した後、蒋介石は、それまでの中国側のおかした対日外交のあやまりについて次のように率直な反省をしています。
一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。
二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。
三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。
四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。
五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。
六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。
七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。
もちろん、中国のあやまりにくらべれば、日本側のそれは、はるかに多い。日本の根本的なあやまりは、中国に対する認識にある。日本は、その根本的なあやまりに気づかず、あやまりの上に、あやまりを重ねることになってしまった。
日本側には、次の五つのあやまりがある。
一、革命期にある中国の国情に対する認識の誤り。中国は現在革命期にあり、主義が普及し最高指導者が健在で民衆が一致してこれを支持している。日本はこうした中国の国情に対する認識をあやまっている。
二、歴史と時代に対する認識のあやまり。明治時代、日本の台湾、朝鮮併合に痛痒を感じなかった中国国民も今日民族意識を備えており、東北四省が占領されたことを知っている。日本の武力がいかに強くても、この十分に民族意識に民族意識を備えた国民を、ことごとく取り除くことはできない。
三、国民党に対する認識の誤り。日本は中国国民党を排日の中心勢力とし、これを打倒しなければ駐日問題は解決しないと考えている。しかし日中両国間の唇歯相依の関係を説いているのは国民党である。
四、中国の人物に対する認識のあやまり。日本が武力によって中国に脅威を与え、(蒋介石を)屈服させようとしても、その目的は達せられない。
五、中国国民の心理に対する認識のあやまり。中国には百世不変の仇恨の観念はない。今日本は中国の領土を占領し中国の感情と尊厳を傷つけている。日本がこうした領土侵略の行動を放棄すれば、どうして同州同種の日本と友人になることを願わないだろうか。
日本はこの五つのあやまりのほか三つの外交上のあやまりがある。
1 国際連盟を脱退したこと。
2 アジア・モンロー主義を唱えて世界を敵に回したこと。
3 自ら作り出した危機意識にとらわれていること。
以上のような認識を踏まえて、日本がまず認識すべきことは、
第一に、独立の中国があって初めて東亜人の東亜があるということである。日本は徹底的に中国の真の独立を助けて、初めて国家百年の計が立つ。
第二に、知るべきは時代の変遷である。明治当時の政策は今の中国には適用できない。武力を放棄し文化協力に力を入れ、領土侵略を放棄して相互利益のための経済提携をはかり、政治的制覇の企図をすて、道議と感情によって中国と結ぶべきである。
第三に、中国問題の解決に必要なものは、ただ日本の考え方の転換だけであるということである。
以上、誠にお見事というほかありません。
ところで、この内支那側の反省を見ると、満州問題の処理をあやまったということが中心をなしていますが、それはいうまでもなく支那側の拙速な革命外交によって幣原外交の日本における存立基盤を破壊してしまったことに対する、蒋介石の痛切な反省がベースになってように私には思われます。実は、こうした中国外交のあやまりをつとに指摘していたのが幣原自身で、幣原平和財団が発行した『幣原喜重郎』には、政治評論家馬場恒吾による「幣原外交の本質」と題する次のような一文が掲載されています。
「昭和七年十一月支那に開係ある日本人が幣原を訪ねて云ふには、自分はこれから支那に行って支那の要人に會ふ積りだ。満洲事変の起った当時の外務大臣として、幣原は支那人に云ふべきことがあるかと云った。
幣原は答へて、大にある。支那の要人に會ったら、幣原は彼の阿房さ加減に呆れていると云って呉れ、其の理由は前年九月十八日に満洲事変が突発した。そのころ財政部長宋子文からの非公式の話しとして、支那は満洲事変に関して日本に直接交渉を開き度いと云ふ意向がある、と云ふ報道が来た。幣原は外務大臣としてそれに応じてもよいと返事した。 所が其後何の音沙汰もない。
越えて十月八日幣原は東京駐在の支那公使に向って、日本は直接交渉を開く用意があると云ふ公式通牒を発したのである。かうした通牒を出すに『幣原は命がけの決心をしていた。直接交渉に依って、日本は正常の権益を収める。しかし、同時にこれ以上満洲事変の拡大することを抑へるといふことは当時の情勢では幣原は一身を賭してなさなければならぬことであった。若しあのとき、支那の要人が幣原の誘ひに乗って満洲問題の満足な解決を与えたならば、支那は共後の汎べての戦禍を免れたであらう。それをしなかった支那要人の阿房さに呆れるといふのであった。
幣原を訪ねた人はそれは過去の事だが、今後の支那に對する忠告はないかと問ふた。幣原は答へて、今日支那は満州国の独立を認めぬとか云って、國際聯盟あたりで運動しているが、それが又愚の骨頂だ。満州国の独立は現実の存在になっている。その独立を取り消さうなどということは理論の遊戯として面白いかも知れぬが、国際政治の領域のものでない。実際政治家の要は、この現実此の事実に立脚して如何に善処するかを講究するにある。支那の出方一つで、満洲國の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから、本家と分家の関係位に見て居ればよい。
例へば加奈陀は英國から実際的には殆んど独立している。各回へ公使を出したり、國際聯盟へも代表者を出している。併し重大問題になると、其國の不利益になるやうな事はしない。満洲が独立国になった所で、支那の出様さへよければ、本家分家程度の人情があって支那の害にはならず、却って支那の利益になる。それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れないと。」
* なお、この記述は、幣原のなした会話の伝聞記録なので、幣原が言いたかったことをどの程度正確に反映しているのか判りません。ただ、氏のそれまでの主張との整合性を考えると、おそらく、これは必ずしも満州国の独立を承認せよといっているわけではなくて、そのポイントは「此の事実に立脚して如何に善処するかを講究」すべき、という点に置かれているような気がします。そう考えれば、この時の蒋介石の提案はその善処策の一つと見ることができます。
おそらくこの後段の幣原の提案に対する蒋介石の回答が、「敵か友か?中日関係の検討」以降の広田外相との日中親善をめざす外交交渉になったのではないかと私は思っています。(以下追記3/30)この時の駐華日本大使は有吉明で、国民政府の対日態度が一大転換をしたことについて、これは日本にとって千載一遇の好機であるが、これに対して外務省は何をもって応えようとしているのか、と問うています。南京政府が「邦交敦睦令」や「排日禁止令」で誠意を示しているのに、外務省のは華北問題につき軍部の若手強硬派を説得する勇気も矜持も持っていないのか、と怒りを露わにしています。
しかし、この頃の日本の政治体制は、あたかも一国二政府のごとき変態を呈していて、日本の支那駐屯軍は、政府の日中親善を目指す外交交渉を妨害するため、あえて、梅津・何応欽協定を嚆矢とする華北分治工作を推し進めました。しかも、それに対する政府の干渉を統帥権を盾に排除する姿勢を示しましたので、その説得は極めて困難でした。私は前稿で、満州事変のもたらした二つの難問の一つとして、「関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなった」ことを指摘しましたが、この時の支那駐屯軍による華北分治工作こそ、日本に中国との全面戦争を運命づけるポイント・オブ・ノーリターンとなったのです。 
 
日本近現代史における躓き(つまずき)

 

日本の近現代史、特に明治以降の歴史を一通り勉強していくと、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思わせるいくつかのポイントがあります。前回記したように、明治時代までは、西洋の近代化された科学技術だけでなく、政治制度やその他の法制度にも謙虚に学び、それを日本に取り入れ、かつ模範的に行動しようとする姿勢が濃厚でした。
日本軍についても、「北清事変」におけるその勇敢で規律正しい行動が、西欧諸国の賞賛の的になっています。また、日露戦争では、日本軍の陸戦(遼陽、旅順、奉天)における死闘を経ての勝利、日本海海戦における「信じられないほど」の大勝利が、同盟の相手国であるイギリスだけでなく、アメリカのマスコミにも熱狂的な賞賛の渦を巻き起こしています。
当時の『ワシントンタイムス』は、「日本の勝利は文明・自由・進歩の勝利であるとして、『スラブ人種とアングロサクソン人種は20世紀中に決死の死闘をする、との予言があるが、はたしていまやその一部が実現したと云える。なぜならば日本はアングロ・サクソンの正当な後継者だからである』と評したそうです。
それよりももっとすごいのが、その世界の非白人全体に及ぼした影響です。ネールは『父と子に語る世界歴史』のなかでその感激を次のように語っています。
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。わたしが少年時代、いかに感激したかを、おまえに何度も話したとおりだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国が敗れた。だとすればアジアは、昔しばしばそうしたように、いまでもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムはますますアジアに広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった。」
さらに、日清戦争で日本に敗れた中国の孫文も「日本の勃興以降、白人はアジア人を見下さなくなった。日本の力は日本人自身に一等国の特権を享受させただけでなく、他のアジア人達の国際的地位も向上させた」と述べています。
そして、この日露戦争の結果、清国留学生が日本に殺到するようになり、1905年には、興中会、華興会、光復会の革命三派による中国革命同盟会が東京においてを結成され、その後の中国の反清・反帝国主義、民族主義を掲げる革命的民衆運動をリードしていくことになるのです。
このあたりまでの日本の歴史、またこの間の戦争における日本軍兵士の純粋かつ勇猛果敢な戦いぶりについては、司馬遼太郎や児島襄などの時代小説を読んで感激された方も多いと思います。とはいえ、こうした見方が一般的になったのは、司馬遼太郎の時代小説が書かれて以降のことで、それまでは、第二次世界大戦の反動から、日本の近代史全体を否定的に見る見解が主流をなしていました。
その意味で、司馬遼太郎は、戦後のアメリカ軍による占領政策としての思想言論統制の結果できあがった日本の戦後社会の自閉的言論空間の壁の一角を打ち破り、日本近現代史における明治期までの歴史に、光をあてることにはじめて成功したといえます。
だが、問題はその後です。この日露戦争の勝利は、同時に、白人世界の日本に対する警戒心を呼び起こすことになりますが、それよりなにより、日本がこのように近代化に成功し西欧諸国に肩を並べられるようになったと自負して以降、いわゆる自前の思想で国を動かすことを余儀なくされて以降の日本国の舵取りが、次第に変調を来してくるのです。
その最初の変調、冒頭に述べた”もう少し何とかならなかったのだろうか”と呻かざるを得ない最初のポイントが、1910年の「日韓併合」です。その次が1915年の中国に対する「21箇条要求」、そして最後が、アメリカとの戦争を必然ならしめた日本の「満州支配」です。
最初の「日韓併合」は、戦後60年を経ても今なお消えない朝鮮民族の日本人に対する恨みを背負い込むことになりました。また、「21箇条要求」は、中国にその条約締結日(最終的には13条となり5月9日妥結)を「国恥記念日」とさせただけでなく、ついには泥沼の日中戦争へと発展しました。そして、最後の「満州支配」は、一方で中国との持久戦争を戦いつつ、さらに米英を中心とする連合国との絶望的な戦争に突入することになりました。
こうした結果を見れば、司馬遼太郎ならずとも、この日露戦争以降の日本の歴史に、呪詛の一つも投げつけたくなるのは当然です。
しかし、この間の歴史的経緯を注意深く検討してみると、実は「日韓併合」も「21箇条要求」も日本軍の「満州支配」も、日清・日露戦争における奇跡的勝利がもたらしたものであり、ここで生じた問題を、その後の国際関係の中で適切に処理できなかったことが、その後の日本を泥沼の日中戦争、ひいては地獄の太平洋戦争へと引きずり込む、その基因となっていることに気づくのです。
また、この間の歴史的経緯をさらに詳しく見て行くと、そこには、「東京裁判」が想定したような、満州事変以降の侵略戦争を一貫して計画・開始・遂行した首謀者がいたわけではなく、また、政治家を含む文民と軍部との関係も、必ずしも前者の責任が免除されるものでもなく、また、巷間言われる陸軍悪玉・海軍善玉論もかなりあやしく、さらに、当時のマスコミには、「一部の軍国主義者」よりも遙かに過激な侵略的論調が風靡していました。
これらのことを総合的に考え合わせてみると、むしろ、韓国や中国を同文同種であり価値規範を共有するものと見て一体的に行動すべきことを主張した、いわゆる「アジア主義」思想が、かえって中国や韓国の反発を招いたことや、既成事実の積み重ねで物事を処理しようとする態度が、法規範を重視する国際社会の信用を損なわせたこと、あるいは日本人独自の死生観が、苦闘する戦況の中で甚だしい人命軽視へとつながったことなど、要するに日本人の思想的弱点が、負け戦の中でもろくも露呈したと見た方がいいように思われるのです。 
日韓併合

 

「日本近現代史の躓き1」で、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思う最初のポイントとして「日韓併合」をあげました。最近は韓国ドラマなどを通して韓国人の生き方や考え方を知り、韓国文化に不思議な”なつかしさ”や”あこがれ”を感じる人も多くなっています。また、進んでハングルを勉強する人も増えてきていますので、両国国民の相互理解も、徐々に改善の方向に向かうのではないかと期待されます。
しかし、その場合も、こうした日朝間の過去の歴史をしっかり勉強し、それにまつわる事実関係をしっかり把握しておく必要があるのではないかと思います。なにしろ「日韓併合」というのは1910年から1945年までの36年間、韓国民族の独立を奪い日本民族に同化しようとした歴史であり、それだけに、そこに至った政治的理由やこの間に醸成された韓国人に対する差別意識の根源をしっかり見据えておく必要があるからです。
一般的な「日韓併合」を正当化する理由としては、当時の食うか食われるかの帝国主義的時代環境の下で、韓国はその置かれた地政学的位置の故に、清国、ロシア、日本という三強国間の勢力拡大競争に巻き込まれざるを得なかったこと。また、この間、李氏朝鮮が排外的な小中華思想を脱却できず近代化が立ち後れたために、自らの政治的独立を保持し得ず、結局、日清、日露戦争に勝利した日本に併合されることになった、というものです。
この場合、もし日本が日清、日露戦争に勝たなければ、韓国はもちろん日本もソ連邦の解体までかっての東欧諸国と同様、国家としての自由を奪われていたはずだ、といわれます。また、仮に、日清戦争において清(=中国)が日本に勝利したとすれば、いうまでもなく、沖縄やその周辺諸島は清(=中国)のものとなり、また、韓国も、それまでの清露の力関係から考えてソ連による支配を免れなかったと思います。
となると、日本の立場から言えば、日清、日露戦争を勝ち抜き、韓国を日本の勢力下に置くことに成功した後において、なお、「韓国の独立を保全し、日韓の長期的信頼関係を固めるという選択肢」があったかどうか、ということが問題となります。これに対して岡崎久彦氏は「結論から言えば、可能性はほとんどなかったというほかはない」と次のようにいっています。
まず第一に、「当時の日本としては、ロシアの韓国征服の意図を排除したなどととうてい言いうる状況になかった。ロシアの報復戦の恐れは、帝政ロシアが崩壊するまで、あるいはずっと後でスターリンが揚言したように、日露戦争の復讐が完了する第二次世界大戦の敗戦までつねに日本の頭の上に重く蔽い被さっていた。」
第二に、韓国は、日本との過去の歴史的・文化的関係からして「日本とどんな特殊関係―それが友好関係の名の下でも―を持つことも嫌がり、日本が特殊な地位を主張すればするほど、ロシアかシナに頼ってバランスをとろうとしたであろう。それはまた自主の国の外交として当然である。そうなると、いつまたロシアが甘言と脅迫を持って復帰してくるか分からない。・・・そこまで読み切っていた日本が、日露戦争の戦果をむざむざ捨てることは考えられないことであった。」
「つまり、(秀吉による文禄・慶長の役で植え付けられた恐怖心や、日清戦争後に起きた日本公使三浦梧楼等による「閔妃殺害事件」などの)過去の歴史のために、韓国側は猜疑心の下に隠微な抵抗を続け、日本はこれを押さえつけるためにますます脅迫と強引な行動に訴えてさらに韓国人の信頼を失うという悪循環が、そのまままっしぐらに併合の悲劇へと進む勢いとなっていたとしか言いようがない。」というのです。
しかし、そうした状況下にあっても「日本にとって取りえたせめてもの最善の措置は、同化政策などは厳しく自制して、・・・不良日本人の流入を禁止し、韓国内における韓国人の土地や権利を尊重することだった。それでも怨恨と抑圧の悪循環を完全に中断し得たかどうかは分からないが、・・・一般国民や知識層の一部から真の支持が得られる可能性は十分あった。もしそうなっていれば、伊藤(博文)が当初意図していたような保護国統治にとどまり、韓国はエジプトやモロッコなどのように、民族の自治を守りつつ、植民地解放の時代を待つことができたであろう。」といっています。
実際、伊藤博文は、1906年1月初代統監として赴任する前に新聞記者に対して、次のような抱負を語っています。
「従来、韓国におけるわが国民の挙動は大いに非難すべきものがあった。韓国人民に対するや実に陵辱を極め、韓国人民をして、ついに涙を呑んでこれに屈服するのやむなきに至らしめた。・・・かくのごとき非道の挙動はわが国民の態度としてもっとも慎まなければならないところである。・・・韓国人民をして外は屈従を粧い、内に我を怨恨する情に堪えざらしめ、その結果ついに日韓今日の関係に累を及ぼすがごときがあったならば誠に遺憾とするところである。・・・かくのごとき不良の輩は十分に取り締まる所存である。」
(伊藤は統監という危険な職を引き受けるとき、韓国駐屯の日本軍の指揮権を統監に与えることを条件とした。軍の統帥権を盾にとった横暴を押さえようとしたのである。)
「しかし、(その)伊藤の権威を持ってしても、下が小村(寿太郎)のような考え(なるべく多くの本邦人を韓国内に移植し、我が実力の根底を深くするというような考え方)ではこの大勢は止めようがなかった。」
また、伊藤は、併合に反対し、何とか保護国統治に留めようと努力しています。「併合ははなはだ厄介である。韓国は自治せねばならない。しかし日本の指導監督がなければ健全な自治を遂げることはできぬ」(1907年7月ソウルでの公演)「古は人の国を滅ぼしてその国土を奪うことをもって英雄豪傑の目的のごとく考えたものであるが、いまはそうではない。・・・弱国は強国の妨害物である。従って今の強国は弱国を富強に赴かしめ、ともに力を合わして、各々その方面を守らんと努めるのである」
しかし、その伊藤博文も、韓国民の保護国化そのものに対する抵抗運動を抑えることができず(明治40年は323件、翌年には1451件と反乱討伐が5倍に増え)、ついに韓国併合のやむなきことを認めるに至ります。そして、1909年10月、統監の職を降りた後、満州問題についてロシア蔵相ココフツォーフと話し合うためハルピンに立ち寄った時、安重根の凶弾に倒れるのです。
その安重根は、公判の席で次のように、伊藤公暗殺の動機を語っています。
「日露戦争の時(日清戦争の時の誤り=筆者)日本天皇陛下の宣戦詔勅には東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にならしむるということから、韓国人は大いに信頼して日本と共に東洋に立たんことを希望して居った。しかるに伊藤公の政策が当を得なかったために、(義兵が大いに起こり)・・・今日迄の間に虐殺された韓国民は十万以上(*)と思います。・・・伊藤は奸雄であります。天皇陛下に対して、韓国の保護は日に月に進みつつあるというように欺いているその罪悪に対して、韓国人民は尠なからず伊藤を憎んでこれを亡きものにしようという敵愾心を起こしたのであります。」
*1907年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降1910年末までの反日義兵運動による義兵側の死者は17,688名、負傷者3,800名に上る。(『朝鮮暴徒討伐誌』朝鮮駐箚軍司令部編)
伊藤は凶弾を受けたとき「やられた」と一言を発し、「相手は誰だ」と問い、犯人は韓国人であってすでに逮捕せられたことを知らされるや「馬鹿な奴だ」といってしばらく呻吟したのち、目を閉じたといいます。そもそも、伊藤は、維新以来4度も総理を勤めた元勲であり、統監という困難な職を引き受けることはなかったのですが、自らは、先に紹介したように、韓国の自治と近代化を推し進め得るのは自分しかいないとの自負も持っていたのではないでしょうか。(なお、伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くあります。)
ともあれ、安重根公判におけるこの言葉を聞くと、意外にも彼は、日本の力を借りて独立を達成しようとした金玉均や朴泳孝と同様の考え方を持っていたのではないかということが推測されます。彼らはその後、日本の政策によって裏切られることになるわけですが、「その挙措進退は、ある場合には血気にはやって暴走したことがあっても、その動機においては、一つ一つ全く非難する余地のない愛国者で、日本でいえば明治維新の一流の志士達と肩を並べられる立派な人たちなのですということもできます。」
従って、「もし日本が、韓国の独立と近代化を一貫して支持し、その政策の枠の中で金玉均や朴泳孝(あるいは金玉均)などという立派な人々をもりたてていっていれば、元々近代化の大きな流れが韓国の政治の基調になる条件は十分にあったことですから、韓国の民心が一変して、従来の清国に対する事大思想から、日本と協力しての近代化する方向に流れた可能性は十分あったと思う」と岡崎久彦氏はいっています。
一方、この問題に対して、韓国人である呉善花氏は「李朝―韓国の積極的な改革を推進しなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自の独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった」といい、「韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった」と指摘しています。
また、朝鮮と同じように日本による総督府統治を受けた台湾の金美齢氏は「台湾人と朝鮮人が親日と反日に別れたのは、日本の統治政策の差というよりも、それぞれの民族がたどった歴史の違いや、民族固有のメンタリティの違いに原因があるようだ。もし統治政策の差を云々するのであれば、客観的に見て、植民地としては朝鮮の方が台湾よりも一段と格の高い処遇を受けていた(例えば京城大学は併合後14年で創立、台北大学は領有後33年。台湾統治の方が15年も先だったのに、徴兵施行は後まわし、朝鮮人は陸士入学を認められていたが、台湾人はダメ、などなど)」と述べています。
おそらく、台湾と同様、韓国における総督府統治においても、近代化のための経済的・社会的インフラの整備という面では、相当の成果があったことは間違いありません。しかし、帝国主義の時代、日本の安全と独立を守るためには、韓国をその勢力下に置くことが韓国の実情からして避けられなかったとしても、この時代のアジアの植民地主義からの解放・独立、そのための近代化という旗印を、当時、日本は世界に先駆けて持っていたのですから、それを見失わない限り、帝国主義的領土拡張の落とし穴に陥らずに済んだのではないかと思います。
だが、残念ながら日本人は、日清、日露の戦勝に奢って、この旗印を見失ってしましました。韓国の場合はその厄災を韓国人が堪え忍びました。しかし、中国人はついに反抗に立ち上がりました。日中戦争は昭和12年7月7日の廬溝橋事件を発火点としますが、8月13日の上海事変も含めて、それは中国の抗日戦の決意によって進められ、泥沼の持久戦へと発展していくのです。そして、遂に日本は、ファシズム国家と同盟を結ぶことによって、自由と民主主義の敵という烙印を押されることになります。
この間の歴史的経緯を詳しく点検して行くと、確かに、日中戦争も太平洋戦争も中国やアメリカの挑発を受け引きずり込まれた、と言はざるを得ないような局面がしばしばでてきます。しかし、そのもともとの原因をただせば、こんな訳の分からない、勝つ見込みの全くない戦争に引き込まれたのも、日清、日露の奇跡的(あるいは幸運)な勝利に奢り、欲に目がくらみ、そのために、先ほどの旗印を見失い、さらに自分自身をも見失った結果であり、その責任を他に転嫁することは決してできないということが判ってきます。 
岡崎久彦と山本七平の符合

 

「日本近現代史の躓き」では、主として岡崎久彦の著作を参考にしています。特に日本近現代史「その時代シリーズ」5巻本―『陸奥宗光とその時代』、『小村寿太郎とその時代』、『幣原喜重郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』はこの期に活躍した外交官から見た近現代史ですが、大変面白く、ようやく納得のできる近現代史本に出会えたという感じがしました。
岡崎氏は、『明治の教訓、日本の気骨』という本の中で、明治期に活躍した人物評をめぐって渡部昇一氏と対談をしていますが、その末尾で、歴史の見方について渡部氏の見方を批判して、次のような興味深い見解を述べています。
まず、渡部氏は、歴史の見方はそれぞれの立場によって異なる。従って、まず、自分の立場を主張すべきである。その上で相手の立場に理解を示すというのならわかるが、戦後は、日本の言い分は教えないで、アメリカやシナやコリアの言い分だけを教えた。もちろん、自国の歴史にも反省すべき点はあるが、それは国内で議論すべきことであり、国際的に言う話ではない。」(氏はそういう観点から数多くの著作をものしています。)
これに対して岡崎氏は、「渡部さんの議論を引き継いで若干批判するとすれば、日本の立場とかアメリカの立場と言っただけで、もう歴史判断は偏ってしまいます。だから日本を論じる場合はまるでアメリカを論じるごとく論じて、アメリカを論じる場合は日本を論じるがごとく論じることが必要なんです。極端に言えば、火星人が見ているような形で論じないと歴史というのは読み間違えてしまう。」と反論しています。
つまり、「歴史というのは公正客観的であるという基準以外はあり得ない」。なぜそう考えるかというと―氏はもともと外交官でしたから―国政情勢をいかに誤りなく正確に判断するかが問われる。そして、そのためには事実をできるだけ客観的に見る必要がある。つまり、歴史というのは、そうした事実関係をできるだけ公正客観的な記録することであり、渡部氏が言うように「歴史観」を介在させるべきでないと言うのです。
そして、以上のように、歴史を、事実関係の(できるだけ)公正客観的な記録として把握した上で、「政策論として自国の利益を主張すべき」である。しかし、そうなると「日本の利益だけが得られれば戦争をしてもいいのか」というはなしになる。「それに対する唯一の反論は予定調和」という考え方で、「それぞれの国が自分の利益だけを全部主張すると一番いい世界ができる」という考え方をする。
また、「ただ、そこで日本の利益だけを考えていればいいのか」という疑問が出てくるが、それについては、エンライトゥンド・セルフインタレスト(世界が平和になれば、それが日本の国益にかなう、というより広い観点から国益を考えること)という考え方も必要になってくるが、世界政府ができて世界の平和が保たれるようになるまでは、それぞれの国がそれぞれの利益を守ることを第一にせざるを得ない。
つまり、「歴史」と「国益」とを区別し、前者はできるだけ公正客観的に、後者は「自国の国益を優先する立場」で論じるべきだ、と言っているのです。従って、それぞれの時代に生きた歴史的人物を評価しようとするときは、その時代の客観的な歴史的条件の中で、どれだけ日本の「国益」を守ったか、という基準で計るべきである。従って、人物の評価は、その次代の歴史的事実を離れて行うことはできないと言うのです。
では、こうした考え方に立って日本の近現代史を見たらどうなるか。冒頭申しましたように、私もそれを大変面白く読み、また心底納得したわけですが、同時に、岡崎氏の見方は、不思議なことにかって山本七平が、25年程前に『1990年の日本』等で提示した見方とほとんど符合していることに気づきました。、おそらく氏の視角が火星人ならぬ「異人的」であったために生じたのだと思いますが・・・。 
岡崎久彦氏の歴史を書く場合の基本的態度は、要するに「特定の価値観、とくに現在われわれの生きている時代だけに特有な、しかもそれが政治の道具になっているような価値観にとらわれることなく、客観的に真実のみを求めることである」ということです。
より具体的にいうと、「現在の概念では帝国主義が悪であることは誰も異論はないが、帝国主義の時代の人を帝国主義者といって非難するのは、中世の人を「中世的」「前近代的」と非難するのと同じで、別に間違いではないが、中世を理解しようという努力にとってマイナスにこそなれ、何のプラスにもならない。」
しかし、「歴史の真実を追究するにあたって一番難しいのは、真実と真実の間の軽重、大小のバランスである。一つ一つの事実は真実であっても、自分の考え方に都合の良い真実だけを集めたのではバランスを失する。一部の事実だけをことさらに強調して歴史の本当の流れを見ていない。あるいは故意に曲解する歴史書が少なくない。」
そこで、岡崎氏がこの「その時代シリーズ」を書くにあたってとった手法は、「草稿を三章ごとにまとめて数名の学識あり洞察力のある歴史の専門家の方々に読んでいただいて、セミナーを開き、『そこまでいえないのではないか』『それにはこういう反対の資料もある』というようなコメントをいただいて、『まあ、そのあたりが本当のところだろう』と言われるまで書き直す」ということでした。
従って、このシリーズの目的は、「すでに多くの優れた学者先生たちによって研究し尽くされている」「そうした正確な事実と事実との間の軽重なバランスを見極めて、最も真実に近い歴史の流れを見いだすことにある。」「その目的を妨げる落とし穴は数多いが、木を見て森を見ないのもそのもっとも戒心すべき落とし穴の一つ」といっています。
といっても、この本を書いた岡崎氏には、その動機となった一つの「思い入れ」がありました。それは「昭和前期に少年時代を過ごした世代として、われわれの父や祖父の世代であるこの時代の当事者たちが、逆らいようのない歴史の流れの中にあって、いかに国民と国家のために真摯に生きてきたかということをできるかぎり正確にありのままに後世に伝えるよう努力してみたい」というものでした。
そして次の言葉は、おそらくこのシリーズを通しての岡崎氏の感想であろうかと思いますが、私もこのシリーズを読み終わって、同じような共感と感慨を新たにすることができました。
「客観的に見て、われわれの父や祖父の世代の人びとはことごとく悲劇の人びとである。日本人としての教育を受けてその矜持と節操を守りつつ、大日本帝国の栄光の中に育ち、また大正デモクラシーの自由をも謳歌しながら、壮年以降戦争の辛酸を嘗め、戦後、それまでその中で生まれ育った社会環境や価値観が足元から崩れ落ちるのを見ながら、誇りを失ったなかで家族の生活を守るために戦わなければならなかった世代である。」
もちろん、こうした共感と感慨を共有し得たとして、ではそこからどういう反省を導き出し有効な対策を立てるかと言うことが問題になります。私は、本稿の表題を「岡崎久彦と山本七平の不思議な符合」としましたが、その意味は、岡崎氏のこの本に述べられた、従来人口に膾炙している見方と異なる部分、例えば「大正デモクラシー」が戦後民主主義のパイロットプラントであるという評価や、「塘沽(タンク−)協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた、とする部分など、山本七平がすでに30年前に指摘していたことを紹介するためでした。
なぜ、山本七平がこのような今日の歴史研究の成果を先取りするような「とらわれない」見方ができたかと言うことですが、それは氏が、日本人的思考法とは別の、もう一つのユダヤ・キリスト教的伝統に基づく「対立概念で物事の実相を把握する」思考法を身につけていたと言うことと、歴史を思想史と見、その「連続の背後にあるものをいかに把握するかがその主題」と考えていたからだと思います。
つまり、歴史を思想(=言葉)の連続、あるいは弁証法的展開(マルクスの歴史観と同じですね)と見る見方です。言うまでもなく岡崎氏も明治以降の歴史をそうした連続性の内にとらえ継承しようとしているのです。その連続性の糸を、氏は、「その時代シリーズ」で取り上げた外交官たちの情報分析と判断の連続の中に見ているのです。同時にそうすることによって、この連続性からはみ出した部分も見えてきます。
では、この連続性から「はみ出した部分」の正体は何か、実は、この部分も含めて、それを日本の歴史つまり思想史の連続性の内にとらえようとしたのが、山本七平でした。
「明治も過去を消そうとした。当時の学生は『われわれには歴史がない』といってベルツを驚かした。戦後も戦前を消そうとした。そしてベルツを驚かした学生が前記の言葉につづけたように『われわれに歴史があるとすれば、消すべき恥ずべき歴史しかない』と考えた。・・・だが、こういう状態、劣等史観やその裏返しの優越史観、万邦無比的な超国家史観やその裏返しの罪悪史観、いわば同根の表と裏のような状態を離れてみれば、われわれは貴重な遺産を継承しているが、同時に欠けた点があることもまた認めねばならない。どの民族の履歴書も完璧なものはあるまい。諸民族の中の一民族である日本人もまた同じであって、貴重な遺産もあれば、欠けた点もあって当然なのである。要はそれを明確に自覚して、遺産はできうる限り活用し、欠けた点を補ってそれを自らの伝統に加え、次代に手わたせばそれでよいのであろう。」 
「21箇条要求」

 

日露戦争後の「日韓併合」に次ぐ「躓き」は、中国の袁世凱政権に対する「21箇条要求」です。その内容が中国人にとってあまりに露骨な帝国主義的要求であったため、この条約妥結日(5月9日受諾)は中国の「国恥記念日」となり、その後の反日運動の基点とされるに至りました。
この「21箇条要求」とは次のような経緯で出されたものです。
1914年7月28日に、欧州において三国同盟国と三国協商国間の戦いとなる第一次世界大戦が勃発しました。この時、苦境に立った協商側のイギリスが日英同盟により日本に参戦を求めてきたことから、日本は6月23日ドイツに対して宣戦布告し、中国におけるドイツの租借地である膠州湾や青島等を占領しました。その後、日本は、これらのドイツ利権の引き渡しとともに、当時の中国の袁世凱政権に対して次のような五号よりなる「21箇条要求」をしました。(1915年1月18日)
第一号は、山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める四ヵ条。
第二号は、旅順・大連租借期限と南満洲・安奉(安東・奉天間)両鉄道の期限の九十九ヵ年延長、南満洲・東部内蒙古での日本人の土地所有権や居住往来営業権、また鉄道建設や顧問招聘に於ける日本の優先権を要求する七ヵ条。
第三号は、漢冶萍公司を適当な機会に日支合弁とすることなどを求める二ヵ条。
第四号は、支那沿岸の港湾や島嶼を他国に割譲せぬことを求める二ヵ条。
第五号は、支那の主権を侵害するとされた七ヵ条の希望(要求ではない)事項で、
  第一条 日本人を政治・軍事顧問として傭聘すること。
  第二条 日本の病院・寺院・学校に土地所有権を認めること。
  第三条 必要の地方で警察を日支合同とす ること。
  第四条 日本に一定数量の兵器の供給を求めるか支那に日支合弁の兵器廠を設立すること。
  第五条 南支での鉄道敷設権を日本に与へること。
  第六条 福建首の鉄道鉱山港湾に関する優先権を日本に与えること。
  第七条 支那での日本人の布教権を認めること。
問題は、特にこの第五号にありました。日本は、これは要求ではなく希望条項としていましたが、同盟国である英国にはこの部分を除いて事前に通報していました。しかしこれが漏れ、また、それがあたかも中国の保護国化をめざすような内容になっていたため、中国全土は激昂して反日運動が広がりました。
問題は、なぜこのような、中国を半植民地化するような天下の非難を浴びるに決まっている要求を付け加えたのかということですが、結局、「陸軍の単純強引な強行突破、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大風呂敷、これに迎合した外務省(元老を排した中堅外務官僚が作成)」の責任というほかありません。
結果としては、英国、アメリカからの強い反対もあり、この第五号を除いて、5月7日に最後通牒を発し5月9日に中国側に受諾させました。が、この最後通牒というのも、あたかも呑まなければ戦争を仕掛けるぞと脅しているようなもので、内外からごうごうたる非難を浴びました。一説では、これは袁世凱から頼まれたものだともいいますが、そのことによる非難は日本が一身に浴びるわけで、これも「21箇条要求」に輪をかけた拙劣というほかありません。
原敬は当時の議会における大隈内閣弾劾演説で次のように批判しています。
「欧州の大乱で各国は東洋に手を出すことができない。この時に日本が野心を逞しくして何かするのではないかということはどの国でも考えることである。今回の拙劣な威嚇的なやり方はこうした猜疑の念を深くさせるものである。また中国内の官民の反感も買っている。もともと満蒙における日本の優越権は、中国も列強も認めている。山東も日独が戦争した以上当然の結果である。こんなことは、今回のような騒ぎを起こして世界を聳動させずとも、目支親善の道を尽せば談笑の間にもできたことである。世間はこの外交の失態をはなはだ遺憾に感じている。要するに今回の事件は親善なるべき支那の反感を買い、また親密なるべき列国の誤解を招いた。」 
この原敬の批判にあるように、この「21箇条要求」を基点として、中国の反日運動が激化することになります。また、この「21箇条要求」は当時中国や列強にどのように受けとられていたかという事について、かってイザヤ・ベンダサンは次のように指摘していました。
「日本はまず日露戦争でロシアの利権(遼東半島租借権、長春―旅順間東清鉄道の譲渡等)を継承したが、この際中国は全く無視され、継承の事後承諾を承認させられるにとどまった。そして第一次大戦でドイツの利権(膠州湾租借権と山東省内の鉄道敷設権)を継承したが、このときは、中国政府無視は不可能であった。というのは、ロシアの関東州租借権の期限はその設定から二十五年である。日本はこれの延長に、継承したドイツの利権を利用しようとした。すなわち将来一定の条件下に膠州湾を中国に返還することを条件に、関東州の租借期限をロシアによる設定後九十九年まで延長することが交渉の主眼であったと思われる。
日本は自己の提案の重要性を何ら意識していなかったように見える。それはこの提案は、日本が継承者としてでなく、新たな当事国として、中国に、差引き七十四年の利権の設定を新規に要求しているに等しいからである。しかも中国は第一次大戦においては、日本の同盟国(1917年8月14日にドイツに宣戦布告)であり、ドイツの利権は日本が干渉しなければ、そのまま中国に帰ったであろう。」
実は、「21箇条要求」の背後には、ベンダサンが指摘していたとおり、「日露戦争でロシアの租借権を引き継いだ遼東半島の租借期限が1923年に切れてしまう」のをなんとかして延長したいという思惑があったのです。日本はすでにイギリスが香港を根拠地としているように、日本の大陸政策の根拠地として遼東半島を整備しつつありました。そのためにこの租借期限を延長する必要があり、そのチャンスをうかがっていたのです。
つまり、この「21箇条要求」の背後には、当時の日本の「満州進出積極論」があったのです。もちろんこの時点では、このように中国に対する帝国主義的進出をしたのは日本だけではなく、英仏米独露も同じような立場にありましたが、満州については日露の特殊範囲という地固めが進んでいました。そして、このような現実に対して、中国人のナショナリズムの高まりがあり、失われた利権(国権)回復運動として高揚していくのです。
結局、これが「反日・侮日」運動へと発展していくのですが、こうした外交当局の失態をカバーし、反日運動の高まりをなんとか修復しようとする外交努力もなされています。実際、それが成功し、その後の日中関係が改善された時期もありました。その立役者が幣原喜重郎で、氏の回顧録「外交五十年」には次のようなワシントン会議(1921年11月〜22年2月)における山東問題についての交渉経過が記録されています。
「中国全権王寵恵氏は声明書を出して、日本攻撃の火蓋を切った。そして21箇条なるものは、その一服だけでも支那を毒殺することができる。それを日本は二一服も盛ったのである。その中国に与えたる苦痛の深刻なることは言語に絶するものがあるといって、アメリカの対日反感をあおった。・・・中国側委員は(中国官民の空気を反映して)山東問題を妥結する意志は初めからなく、いうだけのことをいって、結局は山東会議を決裂してしまおうという肚であったように察せられた。」(この山東問題とは、大正4年に日本政府が、日華両国間にわだかまる懸案を一掃するために中国との間で結んだ「山東に関する条約」並びに「南満州及び東部内蒙古に関する条約」を巡るものです。)
この時幣原喜重郎は腎臓結石で苦しんでいましたが、交渉が決裂寸前となったので、病気をおして交渉に出席し次のように述べました。
「日本は山東省の鉄道その他を、奪い取るようなことをいわれるが、それは違う。買収の額なるものは、パリ講和会議でちゃんと決まっている。日本は相当の額を払うのだから、盗人でも何でもない」。すると、「日本は代償を払うのですか」と質問するから、「パリの講和会議の記録を、よく調べてご覧なさい」「それならば、われわれも誤解していた」。こんな具合で・・・翌日になると、中国側の態度がガラリと変り、会議もぐんぐん進んだ。
「山東問題とは別に、対支21箇条条約問題が、極東委員会のテーブルに残されていた。これを取り上げると、また中国の委員との喧嘩の花が咲くかもしれないというので、長いこと伏せてあった。私は病気がいくらか良くなったので、一つこの厄介物と取り組んでみる決心を決め、委員会に出席してこう発言した。」
「どの国でも他日条約を破るつもりで、自己の意思に反するその条約を締結したことを主張するのは許されない。もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか。私は中国全権がかかる主張を敢てすることを残念に思う。いわゆる二十一箇条条約なるものも、最初提出した日本の要求事項は二十一箇条であっても、交渉中に日本が撤回したものがたくさんある。これが全部調印せられたのではない。また調印批准された条項中でも、満州に日本の顧間を入れるなどということは、日本はいま実行を求めてもおらず、またその意思もない。しかしそれは日本が任意に実行を求めないのである。条約の神聖ということを、中国は認めらるべきである。日本はその決意によって、自らの権利を放棄することは自由であるが、中国はあくまでも条約の神聖を守るべきである」と述べ、私はさらに進んで、今日日本が条約上の権利を実行するの意思なき条項を列挙した。」
そして、このワシントン会議において、わが国は中国の山東省を返還し、満蒙における鉄道と顧問招聘に関する優先権を放棄し、「他日の交渉に譲る」としていた第五号希望条項を全面的に撤回しました。
この後、大正14年に幣原外相は、中国の関税自主権回復を提議する国際会議を提唱し、列国をリードしてその合意案を作成しました。残念ながら、中国の内政不安定で中国代表団が自然消滅したため成立しませんでしたが、「これで中国の対日感情は一変し、中国一般民だけでなく、英国代表はその後対中折衝は中国から一番信頼されている日本に任せるという態度になった」といいます。
しかし、これで、軍の「満州進出積極論」が収まったわけではありません。もちろん、幣原喜重郎は、先に紹介したように国際条約に基づき、両国の信頼関係の確保に努めつつ合理的にこの問題を処理しようと努力したのですが、いわゆる「満州問題」をめぐる日中双方の政治状況は、そうした冷静な交渉による問題解決を不可能にしていきました。 
 
満州問題

 

日本を破滅に導いた満州問題
いままで、日露戦争以降の「躓き」として「日韓併合」と「21箇条要求」について述べてきました。そこで最後の問題が「満州支配」の問題です。結局、この問題の処理がうまくできなかったことから、満州事変が起こり(1931.9.18)、日中戦争となり(廬溝橋事件(1937.7.7)、さらに、対米英戦争(真珠湾攻撃1941.12.8)、ソ連の対日参戦(1945.8.9)、ポツダム宣言受諾(1945.8.10)となるのです。(8月15日は終戦の詔勅発表の日)
ここで、この間の人的被害がどれほどのものであったか、概略見ておきたいと思います。ただし、日本や米英の被害者数についてはかなり正確な統計が残されていますが、中国人の「死者数及び死傷者数については詳細な調査は不可能であり、中国側の提出する数字の信頼性も不明である。」(wikipedia「15年戦争」)とされています。そこで、ここでは『平凡社世界大百科事典』の「太平洋戦争」の項目の記述を引用しておきます。
「十五年戦争の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名(括弧内筆者注記削除10/28),外地で死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。このうち満州事変と日中戦争(s12〜16=筆者)における死者はそれぞれ約4000名と約18万9000名であったから,太平洋戦争の犠牲者がいかに多かったかがわかるであろう。しかも特徴的なことは,太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期と言われた1944年10月のレイテ決戦以後に出ているという事実である。
これに対し,中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名が死亡したと言われているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった。」(ちなみに、太平洋戦争における米軍の死傷者は約9万2千人)
また、敗戦後のソ連軍によってシベリアに抑留された日本人は約60万人とされますが、wikipedia「シベリア抑留」の項では、「従来死者は約6万人とされてきたが実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」と説明されています。
これらの数字がいかに桁はずれのものであるかは、日清戦争における日本軍の死傷者数約1万7千人(内死者約1万3千人)、日露戦争の約23万8千人(死者約11万8千人)と比較してみるとよく分かります。また、ここで注目すべきことは、日中戦争(s12〜16)による日本軍の死者数は約18万人ですが、大東亜戦争による死者数は約300万人に達するということ、かつ、その大半は、昭和19年10月のフィリビンのレイテ戦以降に生じているという事実です。また、その多くは戦闘によるものではなく飢餓やマラリア等の病気による死亡、あるいはバーシー海峡などでの米軍潜水艦による兵員輸送船の撃沈による溺死だということです。
*一橋大学名誉教授藤原彰氏によるとアジア太平洋戦における軍人軍属戦死者230万の内約6割140万人が餓死戦病と栄養失調による病死だということです。なお無差別爆撃等による一般市民の死亡は約80万人です。
さて、では、この最後のソ連によるシベリア抑留は論外としても、これだけの甚大な被害をもたらした日中戦争及び太平洋戦争(日本は1941.12.11以降大東亜戦争と呼称)の原因は一体何だったのでしょうか。近年、これをアメリカや中国の挑発とする説が多く聞かれますが、私は、その淵源は、日本の「満州支配」にあったのではないかと思います。前回紹介したように幣原喜重郎は、ここで生じた日中の対立構造を、中国の主権尊重と内政不干渉を基本に、国際規範に則った協調外交によって乗り切ろうとしました。
幣原は、満州事変の直前に次のような自説を開陳しています。「満州に求めるものは領土権ではなく『日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互有効強力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況』の確立であり、『これは少なくとも道義的に当然の要求と考える』」。そして、鉄道については、中国は協定によって満鉄の競争線は敷設しないと保証しているのだから、「かりそめにも日本の鉄道を無価値にするような路線を建設できないことは信義の観点からいっても自明の理である」
つまり、満州問題を、経済・貿易上の問題として処理できると考えていたのです。そうした考えは幣原にはワシントン条約締結時から一貫したものでした。「・・・日本は、また支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図に動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。・・・日本の貿易業者及び実業家は地理上の位置に恵まれ、またシナ人の実際要求については相当知識を有っている」。だから、自由平等な競争ならば日本は勝てるのだから、特権は必要としないのだ」と。
だが、こうした幣原の「自由貿易」を基礎とする満州問題の解決方法は、次第に、その後の国際的な政治・経済環境の変化や、それに対して過激に反応する国内世論の変化に対応できなくなります。このことについて岡崎久彦氏は、幣原が、ワシントン会議でアメリカのウイルソン主義にもとづく理想主義に流され、バランス・オブ・パワーによる平和維持という現実を軽視したことが、日英同盟を失効させることとなり、それが、その後の日本の国際的孤立を招くことになった批判しています。
この間の事情をもう少し説明すると次のようになります。つまり、幣原が信じたワシントン体制下の国際協調主義というのは、アメリカのウイルソン主義に基づくもので、国際秩序の基礎を、民主主義、集団安全保障、民族自決に置くものでした。しかし、当時、各国の置かれた政治・経済・社会状況は、帝国主義の現実や共産革命の成功もあって混沌としており、とても、各々の国益の相違を乗り越えて、こうした原理のもとに国際秩序を維持することはできなかったのです。
そのことは、「民主主義」という考え方一つをとっても、その困難性は容易に想像できます。つまり、これは世論を無視しえなくなるということで、事実、こうした幣原の国際協調外交は、その後の国際状況の変化の中で、「軟弱外交」あるいは「国辱外交」という世論の悪罵にさらされ退陣を余儀なくされます。また、「民族自決」という考え方についても、中国はこうした考え方に立って、いわゆる「革命外交」を推し進め、それまで国際条約で承認された外国の権益一切を否認するようになります。
こうして、満州における特殊権益をめぐる日本と中国の対立は、全く調整不可能なものとなり、ここに新たに「満州の軍事的占領」による問題解決をめざす軍人グループの台頭を見ることになるのです。いわく、満州における日本の権益は、日露戦争における10万を超える日本軍人の生命の犠牲を払ってロシアより得たものであり、それを放棄することは断じてできない、とする考え方です。そして、こうした軍の対支強攻策を世論が熱狂的に支持し、政治の押さえが全く効かないなります。 
幣原外交はなぜ国民の支持を失ったか

 

これまで見てきたように、私も、”ワシントン会議以降、『幣原外交』による「満州問題」の処理ができていたら・・・”と思うわけですが、結果から見ると、いささかこれは楽観的過ぎたのではないかと思います。そもそも、この「満州問題」のポイントは、中国が条約上で認められた日本の満州ににおける既得権益を組織的に侵害しているというものでした。こうした考え方の背後には、先に述べたように、日本が日露戦争において膨大な人的犠牲を払ったという思いがあったことは疑いありません。
そして、こうした考え方は、当時の日本の中正穏健な識者たちにも共有されていました。
「たとえシナの民族統一の願望に同情があったとしても、ちゃんと礼儀を守り、懇願してくるのならよいが、とにかく南満州の権利は当然シナに帰属すべきだと言って既存の権利を取りに来るのでは、こちら側に超人的な善意がないかぎり、ああそうですか、といって承認し得ないのは当然である。まして南満州の日本の権利はロシアから譲り受けたものであって、英国、フランスのように直接中学から奪取したものではない」
そして、幣原喜重郎は、この問題を、ワシントン会議で確認されたウィルソン的理想主義に基づく国際的法規範の枠組みの中で処理しようとしたのです。それは中国の領土保全を約束した九カ国条約においても、その第1条第4項で、「友好国の臣民または人民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため、中国における情勢を利用すること、およびこれら友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えること」と規定し、これを列強の中国における既得権を侵されない保証としていたのです。
また、幣原は、1922年2月2日極東総委員会において次のように中国の態度を非難しています。
「支那が自由なる主権国として締結したる国際的約定を廃棄せしむが為、厳にとらむとする手段については、同意を表するを得ざるものなり〔中略〕(しかし)何国と雖も、領土権其他重大なる権利の譲渡を容易に承諾するものに非ざることは言を俟たず。若し条約に依り厳然許与せられたる権利が、許与者の自由意志に出でざりしとの理由を以て、何時にてもこれをこれを廃棄し得べきものとするの原則を一旦承認せられむか、これ亜細亜、欧羅巴其他至る処に於ける現存国際関係の安定に、重大なる影響を及ぼすべき極めて危険なる先例を開くものなり。」
おそらく、このあたりまでは、こうした日本の言い分は十分説得力を持っていたのではないかと思います。幣原は、ワシントン会議が終わる直前の会議で「日本は条理と公正と名誉とに抵触せざる限り、できうるだけの譲歩をシナに与えた。日本はそれを残念だと思わない。日本はその提供した犠牲が、国際的友情及び好意の大義に照らして無益になるまいという考えの下に欣んでいるのである」とその中国に対する「思いやり」の心境を吐露しています。
そして、幣原は、こうした考え方に立って、その後、約10年間(田中義一内閣の時を除いて)、いわゆる「新外交」と称する「幣原外交」を押し進めていくのです。しかし、こういった幣原の理想主義は、次に述べるような内外情勢の変化の中で、次第に国民に対する説得力を失っていきます。その一方で、その抜本的解決を軍に求める空気が次第に醸成されていきます。そこで登場したのが石原完爾という預言者(日蓮宗徒)的人物で、彼は、幣原とは全くその質を異にする国際関係のパラダイム(西洋の覇道文明と東洋の王道文明が最終戦争を争うというもの)を提供し、そのための抜本解決策を立案します。
こうした石原の考えは一見荒唐無稽なもののように見えますが、必ずしもそうではありません。「彼はまず日露戦争の勝利に疑問を持ち、もしロシアがもう少し戦争を続けていたならば日本の勝利は危うかった」点に着目し、またナポレオン戦史を研究して、勝敗の鍵は膨大な資源を要する持久戦に勝てるかどうかである、と考えました。そして、戦争は先に述べたように第一次世界大戦で終わるものではなく、最終戦争を控えている。そして、それに勝つためには、まず、満州を北満州まで押さえてロシアに対する防衛を固め、さらに満蒙、朝鮮、日本の資源を動員してアメリカの大戦(持久戦)に備えるべき、としました。
また、彼が満州事変を起こした昭和6年当時は、「ソ連は第一次五カ年計画が未達成であり、外に力を用いる余力はなく、石原はこれを絶好のチャンスと考えた。また、アメリカは大恐慌の最中で外の争いにかかわる余裕はなく、蒋介石は大規模な掃共作戦に従事中であり、張学良は主力を北京周辺に集めていた」こうして石原完爾は、昭和3年に関東軍参謀として赴任して以降、満州占領のための作戦、占領後の具体的計画案まで緻密に練り上げ、これを実施に移すタイミングを計っていたのです。
もちろん、こうした破天荒な計画が、軍はもちろん一般国民の支持を受けるようになるまでには、次に述べるような、いわゆるワシントン会議で確認された国際協調路線を根底から覆す国際情勢の変化があります。が、この間の最大の問題は、私は、やはり当時の日本人の思想・心情にあったのではないかと思います。確かに、このあたりは運命的としかいえない部分があるのですが、事実の問題として、その後の軍のテロリズムを支持し、国際社会の支持を失わせる道を選択したのはマスコミを含めた国民自身だったからです
この点、満州事変が柳条湖における満鉄線路爆破という謀略で始まった事は、そうした行動に出ざるを得ない中国側の「挑発」があったにせよ、「国際法上」言い訳のできない致命的な瑕疵となりました。また、こうした(「国際法」無視の)考え方が当時の軍を支配していたことは、この3年前に起こった張作霖爆殺事件における軍の対応を見ればよくわかります。軍は、この事件(当時、満州の支配者であり北京政府大元帥の地位にあった張作霖を奉天郊外で列車ごと爆殺した。)の実行犯河本大作(大佐)を徹底してかばい、周辺鉄道の警備不備という行政処分ですましたばかりか、その4年後の昭和7年には満鉄理事の要職に任命しているのです。
ここに、「尊皇愛国の純粋な動機でありさえすれば何をしてもかまわない」という、恐るべき法秩序無視、下剋上的思想傾向が、当時の軍を支配していたことに気づきます。そして、こうした思想傾向は何も軍だけに特有なものではなく、国民一般の心情にも根強く支えられており、これが軍部独裁を生み、昭和の激動期を迎えてその後の日本の選択を狂わせていくのです。一体、これはどうした事か。なぜ大正デモクラシーという政党政治が花開いた直後に、こうした過激思想の急展開が起こったのか。実はここに昭和史の謎が隠されているのです。 
幣原外交から自主外交への転換

 

前回、満州問題の処理をめぐる国民の意識の変化、つまり国際協調主義を基本とした幣原外交による問題解決方法から、石原完爾ら陸軍首脳による満州占領という問題解決方法に、なぜ急激にシフトしていったか。これが、日本近現代史の悲劇を考える上で最も重要なポイントだと申しました。この原因を、軍(この場合は陸軍ですが)の「帝国主義」に求めるだけで済むならことは簡単です。もし、そうなら、そうした軍の独走を許すことになったその原因を突き止めさえすればよいからです。
こうして、その原因とされてきたものが、軍の「統帥権」や「軍部大臣現役武官制」の問題です。また、明治憲法には内閣や首相の規定がなく、組閣の大命降下を受けた人が総理大臣となるが、国務大臣の任命権は持たなかったという明治憲法の欠陥も指摘されます。(『日本史から見た日本人 昭和編』渡部昇一)確かに、その後の軍部の専横には目に余るものがありますから、こうした指摘は当然ですが、より重要なことは、当時の大多数の国民が、こうした軍部の考え方や行動を支持したということです。この事実を閑却すべきではありません。
では、一体なぜ当時の日本人は、そんなに満州にこだわったのでしょうか。もし、この問題を、幣原が主張したように経済合理的に処理できていたら、日中戦争も対米英戦争もしなくて済んだはずです。それがどうして武力による満州占領、そして満州国の独立へと進んでいったのでしょうか。再びいいますが、こうした考え方が、当時の軍人だけの妄想で終わっていればことは簡単です。だが事実はそうではなかった。当時の日本人のほとんどがこれを熱烈に支持したのです。
次の文章は、1933年2月14日に発表された、国際連盟による満州事変に関する調査報告書、いわゆる「リットン報告書」からの引用ですが、以上提示した疑問についての、客観的かつ周到な考察がなされていますので紹介します。実は、日本は、この「報告書」に反発して、その後国連を脱退することになるのですが、これは決して日本批判に終始したものではない、ということにご注目下さい。
(第三章一節)
満洲における日本の利益、日露戦争より生じた感情
満洲における日本の権益は、諸外国のそれとは性質も程度もまったく違う。一九〇四から五年にかけて、奉天や遼陽といった満鉄沿線の地、あるいは鴨緑江や遼東半島など、満洲の礦野で戦われたロシアとの大戦争の記憶は、すべての日本人の脳裡に深く刻み込まれている。日本人にとって対露戦争とは、ロシアの侵略の脅威に対する自衛戦争、生死を賭けた戦いとして永久に記憶され、この一戦で十万人の将兵を失い、二十億円の国費を費したという事実は、口本人にこの犠牲をけっして無駄にしてはならないという決心をさせた。
しかも満洲における日本の権益の源泉は、日露戦争の十年前に発している。一八九四年から五年にかけて、主として朝鮮問題に端を発した日清戦争は大部分、旅順や満洲の礦野で戦われ、下関で調印された講和条約によって遼島半島は完全に日本に割譲されたのである。それに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の放棄を強制してきた〔三国干渉〕が、日本人にすれば、戦勝の結果、日本が満洲のこの部分〔遼東半島〕を獲得し、これによって日本が同地方に得た特殊権益はいまなお存続しているという確信に変りはない。
満洲における日本の戦略上の利益
満洲はしばしば「日本の生命線」といわれる。満洲は、現在日本の領上である朝鮮に境を接している。シナ四億の民衆がひとたび統一され強力になって、目本に敵意をもって満洲や東アジア一帯に勢力を仲ばす日を想像することは、多くの日本人の平安を乱すことになる。だが、日本人が国家存続の脅威や自衛の必要を語るとき、彼らがイメージしているのはロシアであって、シナではない。
したがって満洲における日本の利益のなかで根本的なのは同地方の戦略的重要性だ。日本人のなかには「ソ連からの攻撃に備えるために満洲に堅い防御線を築く必要がある」と考えるものがいる。彼らは、朝鮮人の不平分子が沿海州にいるロシアの共産主義者と連携して、将来、ロシア軍の侵入を誘導したり、それに協力したりすることをつねにおそれている。
彼らは満洲をソ連やシナとの緩衝地帯と認めている。とりわけ日本の陸軍軍人は、ロシアとのシナとの協定によって満鉄沿線に数千人の守備兵を駐屯させる権利を得たものの、これは日露戦争における莫大な犠牲の代償としては少なすぎるし、北方からの攻撃の可能性に対する安全保障としても貧弱にすぎると考えている。
満洲における日本の「特殊地位」
日本人の愛国心、国防の絶対的必要性、条約上の特殊な権利等、すべてが合体して満洲における「特殊地位」の要求を形成している。日本人の懐いている特殊地位の観念は、シナと他の諸国とのあいだの条約や協定中に規定されているものとはまったく違う。日露戦争の遺産としての国民感情、歴史的な連想、あるいは最近の二十五年間における満洲の日本企業の成果に対する誇りは(なかなか捕捉しにくいものであるが)「特殊地位」の要求の現実的な部分を形づくっている。したがって日本政府が外交用語として「特殊地位」という語を使用するとき、その意味は不明瞭で、ほかの諸国がその真意をつかむことは不可能ではないにしても困難である。
以上が、満州において日本が有する「特殊地位」についての説明です。そしてこれがシナの主権と抵触すると次のように述べています。
満洲における日本の特殊地位の要求はシナの主権および政策に抵触する
(しかし)こうした満洲に関する日本の要求はシナの主権に抵触し、国民政府の願望とも両立しない。というのも国民政府はシナ領土を通じていまなお諸外国がもっている特権を減らし、将来、これらの特権が拡張されることを阻止しようとしているからだ。日支両国がそれぞれ満洲において行おうとしている政策を考察すれば、衝突がますます拡大されることは明らかである。
そして、ここから生じる日支間の利害の対立をどう調整し、日本の国益を守っていくかとということを巡って、幣原喜重郎の「友好政策」と田中義一の「積極政策」が対立したわけですが、その違いは「大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度」の違いであり、その目的―「日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護する」―は共通していたと、次のように述べています。
満洲に対する日本の一般的政策
一九○五年から柳条湖事件にいたるまで、日本の諸内閣は満洲において同一の目的をもっていたように見えるけれども、その目的を達成する方法に関しては見解を異にし、治安維持に関しても日本の取るべき責任の範囲に意見の相違があった。満洲における日本人の一般的目的は、日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護することにあった。こうした目的を実現するために取られた諸政策すべてに共通する主な特徴は、満洲および東部内モンゴルをシナの他の地域とはっきりと区別する傾向で、それは満洲における日本の「特殊地位」に関する日本人の考え方から生じる当然の結果であった。
日本の諸内閣が主張してきたそれぞれ特別な政策――たとえば幣原〔喜重郎〕男爵のいわゆる「友好政策」と、故田中〔義一〕男爵のいわゆる「積極政策」とのあいだにいかに相違があったとしても、前記の特徴はつねに共通していた。「友好政策」はワシントン会議のころからはじまり、一九二七年四月ごろまで継続され、その後「積極政策」に変り、一九二九年七月にまた「友好政策」に戻り、これは一九三一年九月まで外務省の正式政策として継続されてきた。
両政策の原動力となる精神にはいちじるしい相違があった。「友好政策」は、幣原男爵の言を借りれば「好意と善隣の誼を基礎」とするが、「積極政策」は武力を基礎とするからだ。だが、満洲において取るべき具体的方策に関する違いは、大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度のいかんに拠るものであった。
田中内閣の「積極政策」は満洲をシナの他の地域から区別することを強調し、その積極的な性質は、「もしシナの動乱が満洲やモンゴルに波及し、その結果として治安が乱れ、満洲における日本の特殊地位や権益が脅威を受けるようになった場合、その脅威がどの方面からこようとも、日本は敢然と権益を擁護すべきだ」という率直な宣言によって明らかだろう。田中政策は、それ以前の諸政策が目的を満洲における日本の利益の擁護に限定していたのに反し、満洲における治安維持のつとめも日本国が担当すべきだということを明らかにした。(後略)
さらに、日本の満州におけるこうした「特殊地位」の主張が、ワシントン会議における九カ国条約の精神―シナの領土保全と門戸開放―に抵触するのではないか、という疑問については次のように説明しています。
ワシントン会議の満洲における日本の地位および政策に対する影響
ワシントン会議はシナの他の地方の事態に大きな影響を及ぼしたが、満洲においてはほとんど変化はなかった。一九二二年二月六日の「九か国条約」にはシナの領土保全と門戸開放に関する規定があり、条文上、その効力は満洲にも及ぶはずだったが、満洲については日本の既得権益の性質や範囲に考慮して、単にその制限的適用がなされただけだった。前述したように、日本は一九一五年の条約によって借款や顧問に関する特権を正式に放棄したが、「九カ国条約」は満州における既得権益(関東州の租借地や満鉄及び安奉鉄道の日本の所属期限を99年に延長すること、南満州の内部の土地を賃借する権利及び南満州の内部において旅行、居住、営業する権利、南満州において各種商工業上の建物を建設するため,または農業を経営するため、必要とする土地を商租する権利等=筆者)にもとづく日本の要求を実質上縮小することはなかった。」
以上が、「リットン報告書」に示された、満州における日支間の基本的対立構造ですが、これが、うち続く中国国内の内戦や、胎動する中国のナショナリズムに刺激されて、激しい反日運動・反帝国主義運動へと高まっていくのです。こうした極めて困難な状況の中で、いかに日本の実益(特に経済的)増進を計っていくかが、当時の日本外交の最重要課題でしたが、幣原は、この課題に取り組む外交の基本姿勢を、就任演説の中で次のように述べていました。
「由来支那と政治上経済上および文化上、最も密接な関係を有する日本としては、支那の政情が一日もすみやかに安定することを希望する。近年支那の諸地方に外国人の被害事件が頻発し、支那の不満足なる政情は外国人の注意をいっそうひくことになったが、日本としては、同情と忍耐と希望をもって、支那国民の努力を観望し、その(統一の)成功を祈る。日本は機会均等主義のもとに、日安両国民の経済的接近を図る。ワシソトソ会議での諸条約は日本の政策と全然一致するものであるから、日本は同条約の精神をもってこれにのぞむ。」
その後、支那に第二次奉直戦争が始まり、張作霖が劣勢となり満州に直隷派が侵入してくるような情勢になると、国内でも「日本は列強と異なり、支那には特殊利益を有する以上、内政不干渉に固執する必要はなく、満州の秩序を維持するためには実力行使も辞さない覚悟でなければならない」(『外交時評』)といった、中国内戦への干渉出兵を求める意見が強く出されるようになりました。関東軍がこの急先鋒に立ち、参謀本部がそれに続き、外務省がこれを牽制するというパターンでした。
議会でも、「われわれの満蒙の権益を守ったか」とか「満蒙の秩序維持をどうするか」といった質問が出されましたが、幣原は「満蒙の権益と申されましても、具体的には満鉄沿線以外において、われわれはなんの権利利益ををもっていないのであります。・・・私は満蒙地方における治安維持は当然支那の責任であると申しておる。これは当たり前のことであると思う。支那の主権に属することならば当然支那の責任である。」また、張作霖支援についても、「満州の一部の情勢のみを見て帝国の態度を決するがごときは、はなはだ不得策にして、かつ危険なる方法なりと思考す」と答えています。
実際、こうした幣原外相の外交方針の転換によって、日中関係が非常に好転したことも事実です。堀内干城は『中国の嵐の中で』という回顧録で次のように述べています。幣原外交の時代に「日本の侵略政策、高圧政策は180度の転換を遂げて、全中国、特に当時台頭しておったヤングチャイナの間に非常な好感をもって迎えられた。・・・上海をはじめ、各大都市の排日は暫時影をひそめて、親日の空気が台頭してくるという極めて愉快な状況であった。」おかげで、対中貿易額は1921年の二億八千七百万円から1925年には四億六千八百万円に伸張した、といいます。
しかし、南京事変などを経て、対支強攻策を唱える国内世論の『幣原外交』に対する批判と不満はますますつのっていきました。当時最も進歩的な新聞とみられていた『朝日新聞』でさえ「幣原外交」を「自由主義かぶれ」と社説で攻撃するありさまでした。幣原のとった一つ一つの事件に対する措置を検討してみれば・・・独自の外交理念に基づき、日本の実益(特に経済的)増進を計ろうとする、むしろ「自主外交」の感が強かったのですが、世論はそう受け止めませんでした。こうして幣原外交に対する「軟弱外交」「迎合外交」の非難が激しくなるにしたがい、彼らの間には「自主外交論」を求める声がますます高まっていったのです。
この「自主外交」を求める世論が、「満蒙問題の根本解決」を標榜する軍の「満州占領計画」を呼び込む事になるのです。そして軍内には、そのためには何をしてもよい(張作霖爆殺事件はその第一歩)という下剋上的考え方が生まれ、中央政府がそれを追認しない場合は「満州国を日本から独立させ、そこを革命の拠点として日本に政治革命を引き起こす」(3月事件や10月事件)」といったクーデターが企図されるに至りました。また、それが露見しても隠蔽し、関係者は処罰されないどころか栄達をほしいままにする、といったむちゃくちゃな事態に陥るのです。
山本七平は、こうした事態を、「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。(「山本七平学のすすめ」語録「日本軍人国は日本一般人国を占領した」) 
張作霖事件が切り開いた満州事変への道

 

ここまで、日本が日中戦争それから日米戦争へと引きずり込まれていく、そのターニングポイントとなった満州事変がどうして起こったのかを見てきました。一般的には、これを日本軍による植民地主義的な領土拡張(=帝国主義的な侵略戦争)と見る見方が多いと思います。しかし、こうした見方は、マルクス主義的な歴史観(植民地主義や軍事的膨張主義を伴う帝国主義を資本主義の帰結とする見方)によらない限り、”当時の軍人の頭は狂っていた”というような結論に達せざるを得ません。また、それは自分は彼らとは違うといった免罪意識につながり、さらには自分を被害者に見立てて当時の日本人を糾弾するといった態度になります。
しかし、実際には、この満州事変が起こる前段には、幣原喜重郎による国際協調主義に基づく日中「友好政策」があり、それを国民が支持した時期もあったのです。彼は中国の満州に対する主権を認めた上で、ワシントン会議における「九カ国条約」に抵触しない形で、両者の友好的な関係を維持することで日本の満州における「特殊権益」の確保ができると考えていました。しかし、こうした幣原の態度は、結局、中国の排外主義的な日本の「特殊権益」侵害を防ぐことはできず、日本国内においては、第一次南京事件を経て、幣原外交を「屈辱外交」と批判する論調が次第につのっていきました。
この第二次南京事件というのは、北伐途上の国民革命軍が南京を占領した際、列国領事館が襲撃に会い暴行・略奪をうけたという事件です。英米軍艦は蒋介石軍の本拠地を砲撃してこれに軍事的圧力を加えましたが、日本の軍艦は「尼港事件」の教訓から十数万の居留民に危害が拡大することを恐れて砲撃を控えました。また、日本領事館でも無抵抗主義をとったことから、現場にいた海軍大尉も居留民と共に暴行・掠奪を受けることになりました。そのため、彼は帰艦後、これを帝国軍人として屈辱に耐えないとして割腹しました。
この事件を機に、幣原外交を非難する世論が急速に高まっていきます。各新聞はセンセーショナルに支那兵の残虐を報道し、激越な言葉で幣原の無為を論難しました。また、金融恐慌問題を討議中の枢密院でも、南京事件を中心とする若槻内閣の対支外交批判が集中し、「なかでも枢密顧問官の伊東巳代治は、率先して幣原外交を罵倒した。論旨は、無抵抗主義は本帝国の威信を傷つけ、軍の士気を阻喪させ、中国における日本人の生命財産を危うくしている。国民党の革命運動は北支に及ぶ趨勢であるが、その背後には第三インターナショナルの共産勢力がある。これに対する政府の認識は甘い」というものでした。
こうして、ワシントン会議(1920)以降、第一次若槻礼次郎内閣まで、幣原喜重郎が主導した国際協調外交、日中友好外交、内政不干渉外交は、田中義一(外相兼任)内閣(1927.4)の「積極外交」に取って代わられることになります。この田中内閣の「積極外交」とは、中国における日本人居留民の生命財産や権益(条約によって認められたもの)を守るためには、必要があれば出兵してでもそれを守る(「現地保護政策」)というもので、特に、満洲における「特殊権益」を守るためには、その地区の治安維持のための積極的な役割を果たす、というものでした。
ところが、こうした田中義一内閣の「積極政策」は惨憺たる結果をもたらしました。おりしも、1928.2から蒋介石による中国統一をめざす第二次北伐が始まっており、4月には早くも山東省の境に達していました。田中内閣は居留民の「現地保護政策」をとっていたため再び山東出兵(4.20)しました。この時、蒋介石軍は済南に平和的に入城しますが、5月3日に発生した南軍暴兵による日本人に対する掠奪・暴行事件がエスカレートして日本軍との全面衝突となり、5月8日には日本軍が支那軍の立てこもる済南城を砲撃、11日これを占領するという「済南事件」が起こりました。(死亡者は日本軍二百三十名、中国軍二千名、日本人居留者十六名)
この「済南事件」は、その後の日中関係の大きな転機となります。中国は、日本権益に対する組織的なボイコット運動で対抗するようになり、日中間の話し合いよりも国際連盟や欧米マスコミに向かって日本を非難し、日本を孤立させる政策をとるようになりました。特に、日本軍の行動は張作霖政権を応援するために、意図的に南軍の北進(北伐=中国統一)を妨げるものであるという推測も行われ、中国の国民感情をますます刺激しました。それまでは中国の排外運動といえば英国が主たる目標でしたが、一転して日本が最大の敵となりました。
このことについて幣原は、「日本には、もともと北伐軍の進路を妨げて中国の内政に干渉する意図があったとも思われない。それならば、居留民(約2,000人)をしばらくの間青島など安全な場所に避難させておけばよかった。それなのに政府は、将来どうするかの深い考えもなく突如出兵して、現地保護策をとった。その結果、国庫の負担はすでに六、七千万円に達し、将卒の死傷も数百名を下らない。そしてわが居留民は財貨を略奪され虐殺陵辱にあったものは少なくない惨状を呈している。」と批判しています。
また、1929年の貴族院における質問に答えるかたちで「南京事件では特に出兵もせず、日本人には一人の死者もなかった。しかるに済南事件では出兵したがためにかえって多くの死傷者を出したのは皮肉である。田中内閣の山東出兵により対支外交は完全に失敗し、その結果、多年築かれた日支両国の親善関係を根底から破壊してしまった。じつに国家のために痛恨に堪えない」と嘆き、「これは畢竟、内政上の都合(世論におもねったということ=筆者)によって外交を左右し、党利党略のために外交を軽視した結果であると信ずる」と述べています。
だが、はたして、こうした幣原の「人間の善意と合理主義への確信」に基づいた対支外交で、日本の満州における「特殊権益」は本当に守れたのでしょうか。幣原は、「我々は支那における我が正当なる権利利益をあくまでもこれを主張するときに、支那特殊の国情に対しては十分に同情ある考慮を加え、精神的に文化的に経済的に両国民の提携協力を図らむとするのであります。」と述べています。しかし、こうした幣原の外交姿勢に対して、特に、自分たちの生活が直接脅かされていると感じていた中国在留邦人と日中ビジネス界から激しい批判がわき起こりました。
田中内閣は、こうした幣原の軟弱外交に対する批判を背景に、幣原外交の不干渉主義を離れ、在留邦人の「現地保護主義」を標榜するかたちで登場しましたが、これが中国側との衝突を招くことは不可避でした。では、一方、仮に幣原のいうように「現地保護主義」を抑えて不干渉主義を貫いたとした場合、はたして、幣原が言うような合理主義に基づく満州権益の主張は、中国の国権回復運動のうねりに抗し得たでしょうか。これは双方によほどの良識と指導力があってはじめてできることで、その意味では「悲劇は運命づけられていた」と岡崎久彦氏は述べています。
済南事件の後、蒋介石の軍隊は済南を迂回して北上を続けました。北京の張作霖軍は風前の灯となっていました。この時、日本軍が最も心配したのは、戦乱が満州に及んで日本の権益が害されるということでした。そこで、田中は1928年5月18日、張、蒋双方に対して「もし、戦乱が北京、天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持のために適当にして有効な措置をとらざるをえない」と公式の覚書きで警告しました。その一方で、北京の芳沢公使を通じて張作霖に対して、戦わずに満州に引き上げて満州防衛に専念するよう説得しました。
この時、田中首相は、「いざという場合の用意はしつつも張を平和裏に満州に撤退させて、すでに話し合いが軌道に乗っている満州五鉄道(吉会線の内敦化、図們間、延海線、吉五線、長大線、洮索線の五線で、正式の外交ルートを通さない秘密交渉により、山本条太郎が張作霖に無理矢理ねじ伏せる形でのませたもの=筆者)などの日本の権利を張に守らせ」ようとしていました。そしてその説得が成功して、張は北京から引き上げ京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下にしかけられた爆薬により列車ごと爆破されて死亡したのです。(満州某重大事件」1928.6.4)
これは、関東軍の河本大作高級参謀が引き起こした事件だったのですが、その目的は、張作霖抹殺により東北三省権力を中小の地方軍閥に四分五裂させて満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するということにありました。しかし、奉天軍が反撃を抑制したことや、ごく少数による計画・実行であったために武力発動には至りませんでした。張作霖の死後、田中は息子の張学良をたてて、今まで通りの計画を推進しようとしましたが、逆に、張学良は蒋介石に恭順の意を表し、七月末には中華民国の国旗、青天白日旗が全満州に翻ることになりました。ここに関東軍の夢も破れ、こうして満州事変への道が開かれることになったのです。  
張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆 1

 

前回、関東軍高級参謀河本大作が引き起こした張作霖爆殺事件(1928.6.4)によって「満州事変」への道が開かれた、ということを申しました。つまり、満州事変というのはこの事件がもたらした帰結だということです。その意味で、この張作霖爆殺という「恐るべき」事件の発生と、その処理をめぐる「奇怪さ」の中に、その後の対米英戦争に至る、日本人の数々の蹉跌の根本原因が胚胎していたといっても過言ではありません。次に、それがどれほど「恐るべき」事件であったか。また、その処理がいかに「奇怪」なものであったか、ということを見ておきたいと思います。
いま少し詳しく事件の概要を述べます。
前回述べた済南事件は未解決のまま、田中内閣は、京津に非常事態が継続していることを理由に、5月8日、三たび山東出兵しました(これで山東地帯の日本兵は一万五千に達した)。さらに田中は同月18日、満州に動乱が波及する場合は治安維持のため適当有効の措置をとるむね中国南北両政府に覚書で通告しました。これは、南北両軍の(錦州方面よりの)満州乱入を阻止するため両軍の武装解除を行うという事を意味していました。といっても、南軍(革命軍)の関外(長城以北)進入は絶対に阻止するが、奉天軍の場合は、早期に戦闘を離脱して整然と関外に引き上げれば、必ずしもこれを武装解除しないと了解されていました。
この通告に対して、北京政府(北軍)も国民政府(南軍)も共に内政干渉であると激しく抗議しました。しかし、国民政府は、この通告の意味するところは、関内の国民政府による統一を日本が認めたものと理解し、矢田七太郎総領事に対して、関外に奉天軍が撤退するならば国民革命軍はこれを追撃しないと約束しました。一方、張作霖の方は、日本の武力援助により関内にとどまることを期待していたためこの通告には大変不満でしたが、田中は芳沢公使に訓電して、張作霖に対して自発的に奉天に引き上げるよう勧告し、張作霖はやむなくこれを承諾しました。
一方、村岡長太郎関東軍司令官は、18日この覚書を受領するや、奉天軍の武装解除を目標として関東軍の錦州派遣と軍司令部の奉天移駐にとりかかりました。しかし、外務省は、この措置がポーツマス条約で規定された範囲をこえて、関東軍の付属地外への出動をもたらすことになるとして反対し、19日、芳沢公使あてに「奉天軍の引き上げを南軍が追撃」しない場合は武装解除するには及ばないと訓電しました。20日夕、奉天では林総領事が斉藤参謀長と秦特務機関長と会い、有田アジア局長からの同文の訓令を提示したため、関東軍は錦州出撃計画を別命あるまで延期することにしました。
この間、関東軍の田中首相と政府に対する不満は日ごとに激しくなっていきました。参謀本部の方も、荒木貞夫作戦部長の外務省への圧力が功を奏せず、29日の陸軍・外務両省の首脳会議でも現地軍出動時期について意見がまとまらなかったため強い不満を持つようになりました。5月31日、張の北京撤退が時間の問題となった段階で、関東軍は重ねて出兵の許可を求める電報を軍中央に打ちました。31日陸軍は関東軍の電報を受け取ると、阿部軍務局長を通じて有田アジア局長に出兵断行を強調させるという手をもちいました。両名は田中首相のところにおもむき田中首相の裁断を仰ぎましたが、田中首相は31日夜出兵延期を裁決しました。
村岡関東軍司令官は、これにいらだち、北支駐屯軍と連絡を取り、張作霖暗殺を計画しました。しかし川本大作高級参謀は、あくまで張の謀殺によって関東軍の満州武力制圧のきっかけを作るという目標をもっていたため、村岡の計画ではなく自分の作った爆破計画を採用させました。河本の張作霖爆殺→東三省権力の地方軍閥化→治安攪乱→関東軍出動という段取りは、5月中旬、大石橋の石炭屋・伊藤謙二郎が、張作霖に代えて呉俊陞(しょう)擁立計画を斉藤参謀長に進言したことに端を発しており、河本は出兵の奉勅命令が出ないため、かねてからの鉄道爆破計画を実施に移すことにしたのです。
また、河本は、張作霖抹殺により満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するためには、張作霖はその本拠地奉天で殺害されたほうが治安が乱れている証明になると考え、6月4日早朝、張が京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下に爆薬をしかけ張作霖を列車ごと爆破し死亡させました。河本は日本の主権下にある満鉄付属地内で張作霖が爆殺されたとなれば、その部下の軍隊が直ちに駆けつけるであろうから、主権侵害を口実に武力衝突を起こす計画であり、また、その日の内に第二段階行動として各地の爆弾騒ぎの挑発謀略を起こしました。しかし、この陰謀が河本を中心とするごく少数者で計画実行されたことや、案に相違して奉天省長は奉天軍の行動を抑制したため、武力発動には至りませんでした。
この事件の報を受けて、田中首相は愕然としました。なぜなら、田中は「満蒙に鉄道を増敷設し、この沿線に土地所有権なども獲得し、資源を開発して日本の勢力を伸ばしていくこと、そしてこの計画は張作霖を擁立して進め」ようとしており、そのために張を東三省に引き上げさせたからです。事実、田中の意を受けて、山本(条太郎)満鉄総裁と張との間には鉄道敷設の契約が成立しており、しかしこの計画はあくまで張と山本・田中の個人的「諒解」であったので、張が北京にとどまり南軍に破れでもすれば、もとのもくあみになると恐れていたのです。
だが、この事件は関東軍の河本大佐を中心とするごく少数者の陰謀であったため、当初は陸軍中央部も田中首相もその真相を知ることができませんでした。陸軍中央部は、6月26日から一週間、河本大佐を取り調べましたが、河本は事件への関与を否定し、また陸軍中央部も内心張作霖の抹殺を望んでいましたので、河本を深く追求することなくその釈明を信じ、関東軍は事件と無関係であるとの報告を田中首相にしました。しかし、河本が上京したとき、荒木作戦部長、小磯国昭航空本部総務部長、小畑敏四郎作戦課長が出迎えており、河本は彼らには一切の事情を告白していました。
一方、田中首相は9月7日林総領事に会い、「本件は国際的重大事件である。若し日本人の仕業ならば厳重に処罰し、信を天下につながなければならぬ。ついては本件を取り調べよ」と命じるとともに、陸軍省軍務局長、外務省アジア局長、関東庁警務局長に共同調査を命じ、さらに峯幸松憲兵司令官を奉天に派遣し調べさせました。その結果、関東軍からは何らの証拠も得られませんでしたが、朝鮮軍の工兵隊が爆薬敷設に関係しており、その工兵隊の某中尉を取り調べた結果、案外すらすらと自白したので帰郷し、10月8日に白川陸相を通じて田中首相に報告しました。また外務省などの共同調査の第二回調査特別委員会が10月23日に開かれ、河本らの犯行をほぼ裏付けましたが、杉山軍務局長は陸軍側の調査報告を待ってくれと依頼し、また参謀本部は、事件をやみのうちにほうむろうとしました。
田中首相は事実がある程度判明した段階で西園寺に報告しました。この時西園寺は首相のとるべき方針について次のように勧告しました。
「万一にもいよいよ日本の軍人であることが明らかになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなくてはならぬ。日本の陸軍の信用は勿論、国家の面目の上からいっても、立派に処罰してこそ、たとえ一時は支那に対する感情が悪くなろうとも、それが国際的に信用を維持する所以である。かくしてこそ日本の陸軍に対する過去の不信用をも遡って回復することができる。・・・また、内に対しては・・・政党としても、また田中自身としても、立派に国軍の綱紀を維持せしめたということが非常にいい影響を与えるのではないか。ぜひ思い切ってやれ。しかももし調べた結果事実日本の軍人であるということが判ったら、その瞬間に処罰しろ。」
田中首相はこの西園寺の勧告を容れ、事実関係者の厳正な処罰と、全容の解明・公表することで意見一致しました。しかし参謀本部は、政友会幹部と連絡を図り、原嘉道法相、久原逓相、小川鉄相、山本達雄農相は公表反対としました。一方、田中を支持して公表賛成したのはわずかに岡田啓介海相と山本満鉄総裁だけとなりました。また当初田中に共鳴した白川陸相もにわかにあわてだし、いまや全陸軍が組織の命運をかけて田中首相に挑戦したに等しい状態となりました。こうした陸軍の動きは、この陰謀が公表されることによる陸軍の面子・威信の失墜が防ぐということ以上に、当時の陸軍が進めようとしていた満州問題の(軍事的)根本解決方針を死守せんとする思惑に発していました。
こうして、小川ら満州に利害を持つ閣僚、政治家たちも、処罰と公表に頑強に反対するようになりました。それは、もし「この事件の全容が明らかになれば、満州はもとより、中国全体からの強い反発は避けられない。そうなれば、国民党政府が進めている、国権回復運動がいよいよ勢いづき、また反日、抗日運動がより盛んになるのは目に見えている。今は中国の条約を無視したやり方に対して反感を持ち、日本を支持してくれているイギリスをはじめとする国際世論も、陰謀が明らかになったら、どのような姿勢をとるか分からない。その帰趨によっては、日本は満州から追い出されることになるのではないか。」といった危惧によるものでした。
しかし西園寺に励まされた田中は、この事件についての「調査内容」を、1928年12月24日午後2時に天皇に奏上しました。「作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるをもって若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行うべく、詳細は調査終了次第陸軍大臣より奏上する」(『田中義一伝記』による)これに対して天皇は田中に「国軍の軍紀は厳格に維持するように」と戒めました。田中は上奏後、各閣僚に個別に了解を求め、白川陸相に対して強硬に責任者処罰を要求しました。しかし、この報告を白川から聞いた陸軍省中堅幹部は激烈に反対を表明しました。
ここで、陸軍省中堅幹部というのは、実は東条英機や永田鉄山といった学閥意識を強く持った陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校出身のエリートたちのことで、陸士卒業期でいえば15期以降の卒業生です。彼らは二葉会(15期から18期まで)や一夕会(20期から25期)といった藩閥と違った学閥を母体とする新しい幕僚閥を形成していました。そして、当時の軍内の主導権は、こうした、日露戦争の激戦を体験していない(試験で選抜された)エリート軍人たちの手に握られていたのです。張作霖事件の首謀者である河本大作は、陸士第15期でこれらの幕僚閥の最先輩であり、その行動は同士たちに”英雄視”され、彼らによる組織を上げての擁護が画策されていたのです。
田中は、1929年に入っても、このように陸軍の組織から孤立した状況におかれながら、なお懸案解決に向かって努力しました。しかし、政友会の森恪や、閣僚たちは、田中内閣を存続させるためには、田中首相が陸軍の要求に従うことを求めました。6月12日には、鈴木参謀総長、武藤教育総監が白川陸相と会談し田中首相に反対の態度をとるよう要求し、その後、陸軍省では阿部次官、杉山軍務局長、川島義之人事局長が田中の要求に反対をとなえ、白川陸相も辞意を表明すると見られたため、ついに田中首相は陸軍の圧力に屈し、責任者を単に行政処分にする案を天皇に上奏するとともに、真相不明として公表することについて許可を得ようとしました。
しかし、天皇は「首相の述ぶる所前後全く相違するではないか」とのむねを伝え、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理のいうことはちっとも分からぬ、再び聞くことは自分はいやだ」ともらしました。恐懼した田中首相は、その後ただちに西園寺を訪問し一時間にわたる会談の後、各大臣一人一人官邸に呼んで内閣総辞職に至るかもしれぬと告げました。この際再度参内して事情を天皇に奏上するよう求められ、田中は再び参内しようとしましたが鈴木侍従長はこれを取り次ぐことに難色を示しました。恐懼した田中は首相を辞任し、7月1日田中内閣は崩壊しました。同日、河本大佐停職、斉藤中将と水町少将とが重謹慎、村岡中将が持命となりましたが、処分の文案には関東軍の警備上の手落ちとのみ説明されていました。  
張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆 2

 

張作霖爆殺事件の真相については、東京裁判で田中隆吉少将が次のように証言したことで、はじめて一般の国民の知るところとなりました。
「張作霖の死は当時の関東軍高級参謀河本大佐の計画によって実行されたものである。この事件は軍司令官、当時の参謀長には何ら関係なし。当時の田中内閣の満州問題の積極的解決の方針に従って、関東軍はその方針に呼応すべく、北京、天津地方より退却する奉天軍―張軍の錦州西方での武装解除する計画をもっていた。その目的は張を下野せしめ、張学良を満州の主権者として、そこに当時の南京政府から分離した新しき王道楽土を作るという目的であった。・・・しかるにこの計画はのちに至って田中内閣より厳禁された。
しかしなおこの希望を捨てなかった河本大佐は、これがため、六月三日、北京を出発した列車を南満鉄道と、京奉線の交差点において爆破して、張作霖はその翌日死んだ。この爆破を行ったのは、当時朝鮮から奉天へきていた竜山工兵第二十連隊の一部将校並びに下士官兵十数名。このとき河本大佐は、参謀の尾崎大尉に命じて、関東軍の緊急集合を命じて、列車内から発砲する張の護衛部隊と交戦せんとした。しかし、この集合は、参謀長斉藤少将の厳重なる阻止命令により中止された。
私は河本大佐も尾崎大尉もよく知っている。河本大佐は、まったく自分一個の計画であると申し、そのとき使った爆薬は工兵隊の方形爆薬二百個で、あのとき緊急集合が出ておったなら、おそらく満州事変はあのとき起こったであろうと語った。」
ここで、事件が河本大佐だけの計画だったというのは真実ではなく、村岡関東軍司令官自身も関東軍の錦州出動が田中首相により阻止された段階で張作霖暗殺を計画し、それを知った河本大佐が自分の案を採用させたとされているように、関東軍上層部も知っていたことは間違いありません。ただ、関東軍が他国の国家元首の暗殺に組織的に関与したということになると大変なことになるので、あくまで河本一人の謀略(爆破犯人を国民党の工作員に見せかける偽装工作もしていた)として実行せしめ、あわよくばその混乱に乗じて関東軍の武力発動の好機を得ようとしたのではないかと思われます。
また、そのように武力発動をしてでも達成しようとしていた、その目的は何だったのかというと、それは、当時参謀本部員であった鈴木貞一の談話(戦後)に示された、次のようなものでした。
「昭和二年・・・僕は自分で参謀本部、陸軍省あたりの若い同じ年配の連中に会った。今の石原莞爾とか河本大作とかであるが、・・・日本の軍備の根底をなす政策を確定しなければならぬという考えで、いろいろ若い人に話をして、ほぼこうすれば軍部は固まり得る、少なくとも下のほうのわれわれ若いところは固まり得る、という案を考えていた。その案というのは、方針だけでいうと、満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる。そうして東洋平和の基礎にする。これがつまり日本のなすべき一切の内治、外交、軍備、その他庶政すべての政策の中心とならなければならない」
しかし、「こういう考えをむき出しに出したのでは、内閣ばかりでなしに、元老、重臣皆承知しそうもないから、これを一つオブラートに包まなければならぬ」ということで、鈴木貞一と森恪(外務政務次官)及び吉田茂(奉天総領事)が相談し、東方会議を開催することにしました。この会議は、昭和2年6月27日から7月7日まで、外務本省(首相兼外相田中義一、政務次官森恪他)、在外公館(中華公使芦沢謙吉、奉天総領事吉田茂、上海総領事矢田七太郎)、植民地(関東軍司令官武藤信義他)、陸軍(次官畑英太郎、参謀次長南次郎、軍務局長阿部信行、参謀本部第二部長松井石根)、海軍(次官大角岑生、軍令部次長野村吉三郎他)、大蔵省(理財局長富田勇太郎)の代表が出席し、森恪の主導で行われました。
この会議で決まった方針(「対支政策綱領」)は、次のようなものでした。
その「綱領」の前段では、田中も注意深く、「支那の内乱政争に際し一党一派に偏せず、支那国内に於ける政情の安定と秩序の回復とは、支那国民自ら之に当ること最善の方法なり」と述べています。にもかかわらず、同一綱領の後段では、
(一)「支那の治安を紊し不幸なる国際事件を惹起する不逞分子が支那に於ける帝国の権利利益並在留邦人の生命財産を不法に侵害する虞ある時は、断乎として自衛の措置に出でこれを擁護する。……排日排貨の不法運動を起すものに対しては、権利擁護の為、進んで機宜の措置を執る」
(二)「満蒙殊に東三省地方に国防上並国民的生存の関係上重大な利害関係を有する我邦としては特殊の考量を要す。同地方の平和維持経済発展により内外人安住の地とする事には接壌する隣邦として特に責務を感じる」
(三)「東三省有力者にして満蒙に於ける我特殊地位を尊重し、真面目に同地方に於ける政情安定の方途を講ずる場合は、帝国政府は適宜これを支持する」
(四)「万一満蒙に動乱が波及し我特殊の地位権益が侵害される虞がある時は、それがどの方面から来るを問はず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持される様、機を逸せず適当の措置をとる覚悟を有する」となっていました。
だが、こうした方針は、「田中と森の方針の相違(田中は、日本の満蒙への勢力進出をできるだけ同地の実力者(張作霖)を利用してその目的を達成しようとしていたのに対して、森は、そんな手ぬるいことはせず、日本が直接満蒙に手を下し、その開発に当たるべきとした。)や、関東軍の強硬論(治安の乱れを口実に満州を武力制圧する)と、なお幣原外交の影響が強く残る外務省首脳見解(「将来東三省の主人がだれになろうとも、日本の権益にははなはだしい影響はない。満州における日本の地位はすこぶる強固であるから、今後は公平かつ合理的な主張をもって日本の権益を擁護し、経済的発展を獲得すれば足りる」=吉田茂奉天総領事)の対立を反映した、いわば玉虫色の色彩を帯びていた」といいます。
そして田中は、満蒙政策を具体化するためには、まず満蒙の地に鉄道を増敷設をすることから開始し、その沿線に日本の勢力を伸ばしていくこと、この計画は東三省の「真面目な有力者」=張作霖と提携することだと考えました。そこで「張作霖をして東三省における過去、現在及び将来のわが国の地位とともに以上の趣旨を十分諒解せしめ」鉄道の増敷設を承認させるため、その交渉を山本条太郎(満鉄総裁に任命)にあたらせたのです。結局、張もそうした要求を承諾し北京を引き上げることに同意しました。山本はこれで「日本は満州をすっかり買い取ったも同然だ」と喜んだといいます。
一方、関東軍の方は、そもそも東方会議がもたれたのは、先に紹介した鈴木貞一のような考え方を政府の満蒙政策の指針とするためでしたから、その結論を「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という方向で理解していました。そして、そのためには、蒋介石の北伐によって張作霖が北京から追われる際の混乱を利用して、日本軍のいうことを聞かなくなっている張作霖を武装解除し下野させることで、一挙に満州を武力制圧し支那本土から切り離すとともに、その政治支配権を確立しようとしていたのです。
しかし、こうした関東軍の思惑は、田中首相の採った満蒙政策によって裏切られることになりました。そして、このことに対する怒りが、「張作霖爆殺」という「恐るべき」事件を引き起こすことになったのです。当然のことながら、田中首相は、自分の満州問題解決の努力を水泡に帰したこの愚挙を怒り、その実行犯及び責任者の厳罰を天皇に約束しました。しかし、軍は事件をうやむやにすることをはかり、それに多くの閣僚も同調し、また多くの政治家やマスコミも、真相が公表される事によって日本が面子が失われることを恐れて追求を手控えました。結局、軍は、真相は不明、事件の責任者は事件現場付近の警備上の手落ちがあったということで行政処分するに止めたのです。
さて、ここで問題となるのは何か、ということですが、
第一に、たとえ、首相の意志に全く反することであっても、自分たちが正しいと信じることであれば、何をやってもかまわない、という下剋上的考え方が、当時の軍特に若手の将校たちに蔓延しており、これを放置したということ。
第二に、この場合、何をやってもかまわないといっても、爆殺の相手は、北京政府の大元帥である。それを関東軍の一参謀が平気で爆殺し、それを軍が組織ぐるみでかばうということは、当時の軍人が中国人をどれだけ軽んじ侮っていたかということ。逆に言えばどれだけ増長していたかということ。
第三に、実は、この事件の真相は、事件発生後二ヶ月たった八月頃には、東京、上海、天津の英字新聞に出始めており、爆破ははっきり日本軍のしわざであると報道されていた。そして九月頃には、国内の新聞も与野党も詳しい内容をほとんど知っていた。にもかかわらず、国内の新聞は、翌年の4月になっても「満州某重大事件」としか言わなかった。ここに、日本の新聞の権力迎合的性格が如実に現れていたということ。
第四に、このように、外国人の目から見れば虚偽であることが明白であるような事件について、政治家もマスコミも、「外に向かって恥ずかしいようなことをわざわざ公表しなくてもいいではないか」というような甘い考え方をした。それが日本に対する国際的信用をどれだけ失墜させ、日本人に対する侮蔑を招いたかについて、考えが及ばなかったということ。
第五に、これだけの重大事件を引き起こした犯人たちが、形式的な行政処分で済まされたばかりか、仲間内で英雄視され、要職につけられ、軍で重用され続けたということ。また、彼らを組織ぐるみでかばい、事件をもみ消そうとした責任者たちが、その後の軍の出世街道を歩き軍の中枢を占めたということ。
そして最後に、この事件が、以上のような問題点を抱えながら処理されたことによって、結果的に「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という考え方(が容認されたということです。そして、ついに満州事変を経て、)政府自身(もこうした考え方を)認知せざるを得なくなりました。
こうして、日本は、この時ついた嘘(謀略の存在のもみ消し)をつき続ける一方、こうした手段(武力発動し満州を実効支配すること)に訴えた自らの立場を正当化し続けなければならないという窮地に追い込まれることになりました。しかし、この嘘はアメリカには見えていました。日本を対米戦争に追い込んだハル・ノートの第一条件は、「日本軍の中国からの撤兵」でしたが、それは、このときついた嘘を嘘と認めることを意味していました。しかし、その時点(昭和16年)で日本は、満州事変以降さらに多くの犠牲を払っており、これを無視して撤兵する勇気は、当然のことながら当時の軍人にはありませんでした。 
張作霖爆殺事件と昭和天皇

 

前回、張作霖爆殺事件(昭和3年6月4日)をめぐるいくつかの問題点を指摘しました。だが、そのほかに、もう一つの重大な問題が惹起していたことを指摘しなければなりません。それは、この事件の処理の過程で、天皇及びそれを輔弼する元老・重臣たちと、政府あるいは軍との権限関係のあり方をめぐって、双方に根本的な意見の対立が生じていたということです。(実は、この問題は、今日においても、特に天皇の戦争責任との関連で問われている問題であり、日本人の被統治意識の根幹に関わる問題です。)
この事件の処理について、田中首相は昭和天皇に、その実行犯及び責任者の厳罰を約束しました。(昭和3年11月24日)しかし、こうした田中の方針に対する陸軍の抵抗は強まる一方でした。天皇は、翌年1月に白川陸相に対して「まだか」と催促し、白川陸相は2月26日の拝謁で、調査が遷延している理由として、「関係者は尋問に対して興奮し、国家のためと信じて実行したる事柄につき取り調べを受ける理由なしとの見地により、容易に事実を語らず、陸相種々説諭を加え漸く自白に至り・・・」と苦し紛れのいいわけをしました。
一方、閣内では小川と森恪が中心となって各大臣を説きまわり、「閣僚全員首相に反対」(『小川秘録』)に持ち込みました。孤立した田中にとって最大の痛手は、古巣の陸軍がこぞって反対論にまとまり、特に、当初は田中支持に見えた白川陸相(処罰の法的権限を持つ)が、部下に突き上げられ、小川にけしかけられて変心したことでした。昭和4年3月末、陸軍が真相は不公表、河本らは行政処分という結論を出すと、田中は外務省で唯一の支持者だった有田アジア局長に閣議での反論を起案させましたが、そのとき「白川がなあ・・・」とため息を漏らしたといいます。
また白川陸相は、3月27日、天皇に対して次の様な中間的な結論を報告しました。それは、「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、その計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と犯人を特定しましたが、処罰については「処分を致度存ずるも、今後この事件の扱い上、其内容を外部に暴露することになれば、国家の不利に影響を及ぼすこと大なる虞あるを以て、この不利を惹起せぬ様深く考慮し十分綱紀を糺すことに取計度存ず(後略)」という回りくどい言い方で、真相不公表、行政処分で済ますことを説明しました。
こうして田中は、軍法会議での処分をあきらめ、「関東軍は爆殺には無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という陸相報告(5月20日)を呑みました。その後、田中は、それを天皇に対してどう申し開きをするか、悩んだあげく、6月27日午後参内して天皇に拝謁し上奏案を読み上げました。これに対し天皇は、「お前の最初に言ったことと違うじゃないか、言い訳は聞きたくない、辞表を出したらどうか」といい、その怒りは激しく、田中は慌てふためいて退出し、鈴木侍従長に「辞職する」と何度も口走ったといいます。
しかし、田中は、翌朝閣議に出て叱られた様子を報告したのち気を取り直し、再び、同じ処理方針を、今度は白川陸相に持たせ参内させました。すると意外にもすんなりご裁可があり、続いて鈴木侍従長より首相に参内せよと連絡が来たので、田中も閣僚も、天皇が反省して折れたらしいと喜び、田中はいそいそと参内しました。しかし、鈴木侍従長より、前日の上奏を責める天皇の意向がもう一度伝えられ、田中は拝謁を、と食い下がりましたが、鈴木から「ご説明に関し召されずとの思召なり」と聞き、「もはや御信任は去った」と諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職を告げました。
田中内閣は7月2日総辞職しました。そして、その四ヶ月後の9月29日、田中は狭心症のため亡くなりました。一説では、遺骸の首に包帯が巻かれていたことから軍刀で喉を突いて自殺したのではないかともいわれています。
以上が、田中首相の、張作霖爆殺事件の処理についての上奏の経過ですが、ここに、二つの問題が生じることになりました。一つは、こうした天皇による、時の宰相を罷免する様な言動がはたして妥当なのかどうか、ということ、もう一つは、6月28日午後の白川陸相による天皇に対する説明にはすんなりと裁可をしておきながら、なぜ、午前の田中首相による同じ内容の上奏に対しては、あれほど激しい怒りを表したのか、ということです。
前者の問題については、これが天皇を輔弼する宮中方面の元老重臣による政治介入であるとして軍部を強く刺激しました。もとより、軍部は田中を見放してはいましたが、張作霖事件に際して軍紀の粛正を迫った宮中に対して、激しい反感を持つようになりました。このことが、後年の五・一五事件や二・二六事件において、いわゆる「君側の奸」とされた元老・重臣(西園寺や牧野内大臣、鈴木侍従長など)が、繰り返し軍部によるテロの標的となった、その遠因とされています。
また、天皇に対しても、その処置が気に入らないと、「若さゆえの思慮不足」にこじつけて恨み言を言い立てる政治家や軍人も少なくありませんでした。それは「輔弼の責任者として、君主に過ちある時は其過ちを正すに非ずんば、宰相の責任をつくしたといふべからず。特に御壮年の陛下に対して君徳の完成を図るはお互いに兼ねて熱心努力せし所にあらずや。・・・昨日の陛下の聖旨中(首相の)説明を聞くに用なしとあるは・・・決して名君の言動にあらず。或は何者か君徳を蔽ふの行動に出でたるものあるやもはかられず・・・。」といったものでした。
また、昭和天皇自身も、戦後、このことについて、「私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった。・・・私の若気の至りであると今は考えているが・・・」(『昭和天皇独白録』)と反省の弁を述べています。これをもって昭和天皇は自分の思慮不足を認めたとする解釈が一般的になっていますが、秦郁彦氏は、そう解釈せず「昭和天皇は熟慮の末、田中内閣を更迭するという決断のもとに行動した」のではないかと次のように説明しています。
昭和8年6月、鈴木が時の本庄侍従武官長に語ったところでは、天皇は、田中が自己の責任で処置を公表したのち「政治上余儀なく発表しました。前後異なりたる上奏をなし申し訳なし。故に辞職を請ふ」と申し出たなら、「政治家として止むをえざることならん」と理解もするが、「まづ発表そのものの裁可を乞い、これを許可することとなれば、予は臣民に詐りをいわざるを得ざること」(『本庄日記』)になるではないか、と鈴木侍従長に述べた、というのです。
そして、そのように理解するなら、これは第二の問題に対する答えにもなります。秦氏は、「田中がこの通りの手順を踏んでいたら、天皇は今後を戒めて辞職を慰留するつもりだったのかも知れない」といっています。それが、自分の意にそわぬ結論であっても白川陸相の上奏には裁可を与え、「真相不公表」「行政処分」の線で事件の後始末に一応のケリをつけた理由であり、昭和天皇はそうすることによって陸軍との正面衝突を回避した、と推測しているのです。
しかしながら、天皇の意向によって内閣が倒れ、政変が起きたことには変わりがありません。このことについて元老である西園寺は、当初、軍紀粛正の正論を主張しましたが、直前になって、天皇の不信任という理由で内閣が総辞職するとなると天皇が政治責任をかぶることになるのでよくないと、天皇が「田中の責任を問う」発言をすることに反対しました。それは君臨すれども統治せずという、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動だからです。そして、天皇の、このことに対する反省が、その後、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めることになってしまったと多くの論者が語っています。
だが、前回指摘したように、こうした張作霖爆殺事件の誤った処置は、次のような「恐るべき」事件を次々と引き起こし、その後の日本の政党政治の基礎を掘り崩すことになりました。1930年に発生したロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題、1931年3月の3月事件(陸軍中堅将校によるクーデター未遂事件)、1931年9月18日の満州事変、1031年10月の十月事件(3月事件と同様)、1932年5月15日の五・一五事件(海軍青年将校によるクーデター事件)そして1936年2月26日の二・二六事件などです。
つまり、これらの軍若手将校による恐るべき謀略・クーデター事件を惹起することとなったその初発の事件が、この張作霖爆殺事件であったのですから、もしこの事件が国内法に照らして厳正に処置されていたなら、前回指摘したような問題点の自覚がなされ、その解決への努力がなされていたかもしれません。そうすれば、あるいは昭和の悲劇は回避することができたかもしれないのです。
この点に関して、『張作霖爆殺』の著者大江志乃夫氏は、関東軍を管轄するのは参謀総長であり、その参謀長に命令または指示ができるのは天皇だけであるから、天皇はまず参謀総長に事件の真相解明の調査を命じるべきであった。それなしに陸相は司法捜査権を発動できないし、ましてや首相は事件の処分について関与できない。従って、昭和天皇がそれをしないで田中首相を叱責したのは筋違いであり、統帥権者としての自覚に欠ける行為であった。また、張作霖爆殺事件の処理に当たってその統帥権の手綱をゆるめたことが、その後の軍部という暴れ馬の暴走を許すことになった、と昭和天皇を厳しく批判しています。
しかし、法理的にはそういうことがいえるのかも知れませんが、昭和天皇は、立憲君主制下における「君臨すれども統治せず」という英国憲政を手本としていたのであり、また元老重臣もそのような考えに立って天皇を補弼していたのです。従って、当然のことながら、統帥権の行使についても統帥部(参謀本部及び軍令部)による補翼に期待したと思います。その統帥部が、もし天皇が自らの意にそわない場合、補翼責任者として「その過ちを正す」ことを当然としており、事実、同様の論理に基づいて、天皇を補弼する元老・重臣が次々と軍人によるテロの標的にされたのです。
いうまでもなく、こうした軍人の行動は、はじめから当時の国内法や国際法を無視しているのであって、こうしたアウトローを信条とする武力集団を法律で規制することは、たとえ天皇であってもそれが可能であったとは思われません。「たとえ、この時期に有能な首相が出ても、満州侵略に逸る軍部は、その政治力を持ってしても抑えることはできなかったであろう。時代は個人の政治力を超えて、日本の破局の序幕を開けはじめていた。」というのが、この時代の実相だったのではないでしょうか。
では、その若手将校たちに、そうした合理性を超えた、破壊的行動エネルギーを供給していたものは、一体何だったのでしょうか。次回からは、このことについて考えてみたいと思います。 
満州事変を熱狂的に支持する世論の変化 1

 

張作霖爆殺事件の「もみ消し」によって、軍部が真に守ろうとしたもの、それは一体何だったのでしょうか。もちろん、日清戦争以来、日本が膨大な犠牲を払って獲得した満州における「特殊権益」の擁護が目的であったことは間違いないのですが、問題はそれを達成する方法・手段です。張作霖爆殺事件の場合は、関東軍の高級参謀が、謀略により政府が承認した満州国の元首を爆殺し、その混乱を利用して軍事行動を起こし満州を武力制圧しようとしたのでした。
従って、もし、この重大事件の真相が明らかにされ、その責任者が厳罰に処せられるということになると、当然のことながら、軍中央の命令なしに、独自の政治的主張をもって、勝手に兵を動かした関東軍の下剋上体質が問われることになります。それと同時に、相手国の元首をも平気で爆殺する、その恐るべき危険性も国民の目に明らかとなり、その結果、そうした関東軍の暴走を食い止めるための方策や、徹底した軍紀の引き締めが図られることになります。
実は、軍部―特に陸大出の若手将校たちが最も恐れたことは、このように事態が進行することによって、軍に対する国民の信頼が失われ、その結果、彼らが「満蒙問題の根本解決」のための唯一の方策と考える「満州の武力占領」という強硬手段がとれなくなってしまうことでした。そのために彼らは組織を上げて、軍首脳はもちろん、政治家、官僚、マスコミに対する説得工作を行い、多数派を形成して田中首相を孤立に追い込み、事件の真相を闇に葬ったのです。
だが、問題はここからです。確かにこのあたりまでは、軍の行動は必ずしも国民の支持を得ていたわけではありませんでした。というのは、田中内閣による第二次山東出兵が引き起こした済南事件は、中国人の反日民族意識を決定的にし、さらに張作霖爆殺事件は、その後継者である張学良(張作霖の息子)を反日に追いやり、東三省の国民政府への合流を決断させたのです。そして、これらはいずれも軍事力行使を伴う軍の対中強硬策がもたらしたものでした。
ところが、この張作霖爆殺事件の三年後に起こった「満州事変」では、それが軍中央の命令を無視した、関東軍ぐるみの謀略的軍事行動であったにもかかわらず(もちろんその真相は国民には隠されていましたが)、マスコミを含めた国民の熱狂的な支持を受けることになりました。政府は謀略の証拠を列挙し、南陸相に対して不拡大を命じましたが、関東軍は、軍中央の黙認?や朝鮮軍の支援を得て戦線を拡大し、ついには政府も既成事実の追認を余儀なくされました。
この間わずか三年あまり、国民の意識は、張作霖爆殺事件の真相「もみ消し」以降、ほとんどクーデターに等しい関東軍による「満州の武力占領」を熱狂的に支持するまでに劇的な変化を遂げました。一体、この間に何があったか。いうまでもなくこの満州事変こそ、日本が泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、そして絶望的な対米英戦争へと突入していく、その起因となる大事件だったのです。しかし、この時、そのことに気づいた国民はほとんどいませんでした。
ところで、こうした満州事変の位置づけ方に反対する意見もありますので、まず、これに対する私見を申し述べてから先に進みたいと思います。以下は、渡部昇一氏の見解ですが、氏は関連する文献の紹介やユニークな著作を数多くものしており、私自身も氏から多くのことを教わっていますが、いくつかの点で、私見とは異なる部分もありますので、それを確認しておきたいと思います。
満州某重大事件は日本の侵略のはじまりか(以下『昭和史』渡部昇一による)
「張作霖爆殺事件も・・・関東軍の陰謀のにおいがしても、(満州の匪賊による)連続する鉄道爆破事件の「ワン・オブ・ゼム」ととらえられるところもあった」だからそれほど大きな国際問題とはならなかった。しかし、その後この事件は日本の満州侵略の始まりであるかのようにいわれるようになった。つまり「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない。
「日本は満州を侵略した」といういうが、まず、「満州における日本の『特殊権益』とは何か」を理解する必要がある。日本が満州に特殊権益を持つようになったのは、日清戦争(1894年)に日本が勝利し、下関条約で遼東半島が日本に割譲されたことにはじまる。
ところがその条約締結後一週間もたたないうちにロシア、フランス、ドイツの三国がわが国に「遼東半島を放棄せよ」と迫り、日本はやむなく遼東半島を清国に還付した。
ところがロシアは日本に返還させた遼東半島の要衝の旅順と大連を、清国の弱みにつけ込んで租借した(1998年)。それは不凍港がほしいというロシアの悲願によるものだった。さらにロシアは1899年に義和団事件の時に日本を含む諸外国と華北に共同出兵し、それが満州に及ぶと、兵を増派して全満州を占領した。そのとき清国はロシアを満州から追おうとしなかった。この満州に居座ったロシアを追い払ったのは日露戦争に勝利した日本だった。こうして日露戦争に勝利した日本は、満州を清国に返還させた上で、ポーツマス条約により次のような満州における権益をロシアより譲渡された。
1 ロシアは遼東半島の租借権を日本に譲渡すること。
2 ロシアは東支鉄道の南満州鉄道(長春〜旅順間。のちの満鉄線)と、それに付属する炭坑を日本に譲渡すること。
3 ロシアは北緯五十度以南の樺太を日本に譲渡すること。
つまり、こうした経緯を見てもわかるとおり、日本は満州を侵略したわけではない。これらは国際条約にのっとって正当に得た権益である。さらに、日露戦争後、清国はロシアとの間に「露清密約」という日本を敵視する条約を結んでいたことが露見した。もし、この事実が日露戦争以前に日本にわかっていたら、日本は満州を清国に返還する必要はなかった。
次に、「満州はシナではない」ということを理解する必要がある。十六世紀後半の満州の族長はヌルハチで、当時シナ大陸を支配していたのは明で、その支配権は満州には及んでいなかった。明にとって万里の長城の外側にある満州は文明の及ばない「化外の地」だった。その後ヌルハチは東満州を統一して「後金」という国を建てた。そのヌルハチの跡を継いだホンタイジは後金を「大清国」と改めた(1636年)。この間明との攻防が続き、その後継者フリンのとき、ついに明を倒し北京入城を果たした(1644年)。ここにシナ人は満州人の被征服民族となった。
こうした歴史を見る限り、満州という土地は清朝の故郷であってシナではない。しかも秦の始皇帝以前も以降も、シナの歴代王朝が満州を実効的に支配した事実はない。つまり、「満州族の清朝がシナを支配しているあいだは、シナ本土も満州も清国の領土であるが、そうでなくなれば満州とシナ本土は別個のものだ」「したがって辛亥革命によって清国が倒されたとき、あのときに最後の皇帝・溥儀が父祖の地・満州に帰っていたら、満州はシナとは『別個の国』として存続していただろう」。
そして渡部氏は結論として、溥儀の家庭教師であったレジナルド・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文章を引用しつつ、次のように主張します。「遅かれ早かれ、日本が満州の地で二度も戦争をして獲得した権益をシナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信するものは大勢いた。(『紫禁城の黄昏』第16章)
つまり、先に述べたような日本が日清・日露の二度の戦争で得た満州における合法的権益を侵したのはシナの方であり、それ故に、張作霖爆殺事件や満州事変の起こる必然性はあった、というのです。
このほかに「なぜ張作霖は狙われたか」や、張作霖死後にその後継者となった張学良が易幟を行い東三省(満州)の国民党への合流を決断し猛烈な反日運動を展開したことが満州事変を引き起こす直接のきっかけとなったこととか、幣原外相が軍部と協力して満州独立の方向で外交的な働きをすればよかったとか、最後に昭和天皇が張作霖爆殺事件の時、田中内閣に総辞職を迫る発言をしたことについて、重臣がそうした天皇の発言を抑えすぎなければ、その後の昭和史の悲劇はいくつも避けられた、とかが論じられています。
さて、こうした意見に対する私の考えですが、まず、満州における日本の「特殊権益」についての歴史的理解はその通りだと思います。ただ問題は、それを守るためにどういう手段・方法を選ぶべきであったかということで、軍事占領がただちに正当化されるわけではないと思います。また、満州はシナの領土ではなかったということは歴史的にはいえると思いますが、満州固有の問題をシナの問題に拡大したのは二十一箇条要求や華北分離工作(11/13)に見るとおりむしろ日本だったと思います。また、張学良の易幟は自分の父親が日本軍に故なく爆殺されたからであって当然だと思います。
なお、冒頭の満州事変及び張作霖爆殺事件を昭和史にどう位置づけるかということですが、私はいわゆる「東京裁判史観」などにとらわれることなく、それを日本の歴史の流れの中に、自分の常識で理解できる姿で位置づけるべく、さらにそれを山本七平氏の独創的見解とも対比しつつ、一つ一つ考えていきたいと思っています。
以上、渡部昇一氏の見解に対する私見を申し述べさせていただいた上で、先に問題提起しておきました、済南事件や張作霖爆殺事件以降満州事変に至るまでの間の急激な世論の変化がどうして起こったか、ということについて考えてみたいと思います。 
満州事変を熱狂的に支持する世論の変化 2

 

もう少し、渡部昇一氏の説に関わって、私の考え方を述べておきます。渡部昇一氏は「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない、と述べています。
これは、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が、戦前期の日本の指導者28名をA級戦犯とし起訴し「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」に問おうとしたとき、起訴状では、その訴追対象期間を1928(s3)年から1945(s20)年までとしたことに関わっています。つまり、この間に、日本の「犯罪的軍閥」がアジア・世界支配の「共同謀議」をなし、侵略戦争を計画・開始したと立証することによって、その犯罪成立を容易にしようとしたのです。
ここから、昭和十五年戦争という言い方も生まれてくるわけですが、実は、本稿の「山本七平と岡崎久彦の不思議な符合2」で,「塘沽(タンク−)停戦協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた]という事実をあえて紹介したように、満州事変から太平洋戦争までの間に、「犯罪的軍閥」による一貫したアジア・世界支配の「共同謀議」があったとはとてもいえないのです。
それが、渡部氏のいわれる「日本には日本の歴史があったのであり」ということの意味だと思います。実際、よく調べてみると、そのような事実はなくて、まあ、はっきりいって”行き当たりばったり”です。特に中国との戦争では、国民には戦争をしているという意識すら曖昧で、暴支膺懲という言葉が使われたように、中国が満州における日本の当然の権益を無視して「反日・侮日」を繰り返すから、満州事変が起こり日華事変の泥沼に陥ったのだといった気持ちで、むしろ被害者意識の方が強かったのです。
竹内好は、「近代の超克」の中で、そうした当時の国民の心理状況を次のように説明しています。
「『支那事変』」と呼ばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、『文学界』同人を含めて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命観の一支柱である「生命線」論(満州を日本の安全面及び経済面における生命線と見る見方=筆者)の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。」
さらに、亀井勝一郎は次のように述懐しています。
「しかしいまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年たっているにも拘わらず、『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない。たとえばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大勝の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」
これに比べて、アメリカに対しては、はっきりとした戦争意識を持っていました。それは、日本が先に述べたような泥沼に陥ったところに、アメリカが介入して一方的に中国の味方をし軍需物資を中国に送り込んだ。日本がその援蔣ルートを遮断しようとすると、今度は、日本の資産凍結や石油をはじめとする天然資源の対日禁輸を始めた。日本は、なんとか対米戦争を避けようと努力したが、アメリカはさらに、それまでの交渉経過を一切無視して中国からの完全撤兵を日本に要求した。このため日本はやむなく対米戦争を決意した、といった意識です。
そうした意識は、次のような、開戦二日目の河上徹太郎の言葉に典型的に表れています。 「私は、徒に昂奮して、こんなことを言っているのではない。私は本当に心からカラッとした気分でいられるのがうれしくて仕様がないのだ。太平洋の暗雲という言葉自身、思えば長い立腐れのあった言葉である。今開戦になってそれが霽(は)れたといっては少し当たらないかも知れないが、本当の気持ちは、私にとって霽れたといっていい程のものである。混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」
これが、満州事変以降日中戦争そして対米英戦争に至るまでの日本国民のいつわらざる正直な気持ちでした。一言で言えば、中国と戦争をしているという意識はあまりなくて、一方、アメリカとは民族の存亡を賭けて戦ったという気持ちです。そして、敗戦後の東京裁判において、日中戦争において中国人が被った甚大な被害を知らされた時、日本人は、亀井勝一郎の述懐にあるような「中国無視」の態度やその裏返しとしての日本人の「優越感」の存在にはじめて気づいたのです。
つまり、この事実をしっかりと認識することが、戦後の出発点でなければならないと思います。確かに昭和の戦争については、特に、陸軍幼年学校、海軍士官学校、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍大学などを卒業したエリート軍人たちによる、謀略・侵略的かつ独断・独善的的な国際法無視の軍事行動や、統帥権や軍部大臣現役武官制を悪用した国内政治の壟断などがありました。しかし、これをマスコミを含めた国民の圧倒的多数が支持したこともまた事実です。
そして、このような軍の行動と、国民の意識が分厚く重なり始める時期が、張作霖爆殺事件以降満州事変までの時期に当たるのです。それ以前は、当時満鉄副総裁をつとめていた松岡洋右の回顧録にあるように「当時、朝野の多くの識者の間において」満蒙の重大性に関する叫びが「頑迷固陋の徒の如くにさげすまれてさえ」いたのです。また、一部の左翼や自由主義者の間には満蒙放棄論さえ台頭しつつありました。
一方、軍人の間では、「満蒙は『明治大帝のもとに戦い血を流し十万の同胞をこれがために犠牲にした』聖地であると考えられていました。「彼らは、・・・満蒙放棄論が台頭していることを痛切になげき、在満青少年に呼びかけて満州に世論機関の創設を図ろうと試みた。『為政者のなすに任せたる満蒙』から『全国民の血によって購いたる満蒙』に転化するために満州青年議会の創設がはかられ・・・『若人の純真なる熱意と愛国心を持って』満蒙を死守する必要を説いた。」
こうして、関東軍と満州居留民指導者が一体となり、本土における満州「生命線」論の宣伝活動を精力的に展開していくのです。
また、この満州「生命線」論は、当時の青年将校達にとっては、もう一つの重要な意味を持っていました。それは、大正時代の軍縮ムードの中において、軍人はまるで無用の長物、税金泥棒扱いされていた事実に起因します。当時、軍人に対する世間の目は冷たく、新聞の投書欄には「軍人がサーベルをガチャ、ガチャさせて電車やバスに乗るのはやめてほしい」という女学生の投書が載るしまつでした。さらに、軍縮による兵員の削減は大量の失業者を生み、その救済策の一つが、妹尾河童の『少年H』の中等学校に配属された将校なのです。
「この風潮が軍隊、軍人にはどう受け止められたか、それが”十年の臥薪嘗胆”である。世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんのときである。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。その結果でてきたものは、『一夕会と桜会』」であり、この青年将校グループの中の一人が、張作霖爆殺事件を引き起こした河本大作でした。
この張作霖爆殺事件の真相については、「張作霖事件に胚胎した敗戦の予兆」でくわしく述べましたが、当事者の証言として極めて興味深い証言がありましたので紹介しておきます。これは、張の軍事顧問であった町野武馬大佐の証言を1961年に国立国会図書館が採録したものです。この録音は「三十年間は非公開」の条件付きで実施したもので、平成三年六月一日に、やっと公表さました。
「張作霖が欧米に接近し、日本に冷たくなったので、殺したという関東軍首脳の説はウソだ。張作霖は欧米だけでなく、日本も嫌いだ。けれども、わが国を本当に攻め得るものは日本だけだ。だから日本と手を握らにゃならないのだとよくいっていた。関東軍の首脳は、張を殺さないと満州は天下太平になり、日本では軍縮が激しくなる。軍人が階級をのぼりぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。そして張作霖を殺した。それは斉藤恒(注:関東軍参謀長)の案なんだ。」
私はこの説は、この本ではじめて知りましたが、実のところ、「河本大作は、なぜ張作霖を殺す必要があったか」という疑問について、「日本の言うことを聞かなくなったから」という説明は十分ではないと、福田和也氏なども疑問を呈していました。それだけに、「張を殺さないと満州は天下太平になり・・・」というのは、まさに驚くべき重要な証言です。確かに、この時期の青年将校達が抱えていた、大正デモクラシーに対するルサンチマンの激しさを考えれば、私はさもありなんと思いますが、それにしても・・・。
また、このことについては、幣原喜重郎も「満州事変」の原因について、それは「今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う。」と次のように述べています。
「・・・陸軍は、二個師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大ていが大佐が止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは、情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢がいっぺんに落ちてしまった。
軍人たちがこれを慨嘆して、明治以来打ち建てられた軍の名誉―威勢を、もう一度取り返そうと苦慮したであろうとは首肯けるが、血気の青年将校のたちの間では、憤慨が過激となり、『桜会』という秘密結社を組織したり、政党も叩き潰して、新秩序を立てよう。議会に爆弾を投じて焼き討ちしようなどという、とんでもない計画を立てるようになった。・・・これがすなわち柳条溝事件のはじまりで、満州事変の発芽である。」*岡崎久彦氏はこの説には疑問を呈していますが・・・。
もっとも、こうした軍人の主観的心理的動機の他に、国内外における経済的・政治的な客観的要因が重なったことも事実です。しかし、私には、これが、日清・日露戦争で軍功を上げ個人感状や金鵄勲章を受け元勲となった将官たちと、そうした実戦参加の機会を得なかった第15期以降の幼年学校から士官学校そして陸軍大学を卒業したエリート軍人たちとの意識のズレを最もよく説明しているように思われます。(山本七平もこのことについて、青年将校の決起の動機とされる「農村の貧困」について、「貧困は彼ら自身にあった」といっています。)
なぜ、彼らはあれほどまで必死になって河本大作を守ろうとしたのか。彼らの自己及び自国の実力に対する異常なまでの過信、中国人に対するはなはだしい蔑視と優越感、既成エスタブリッシュメント(元老、政治家、財界人等)に対するはげしい敵対意識、マスコミや国民に対する不信とその隠蔽工作、これらの肥大化した自尊心と被害者意識の根底には何があったか。そして、こうした心的傾向は、張作霖爆殺事件において予兆的に露呈していたと私は考えるのです。
さて、それでは、一般国民=大正デモクラシーの軍縮時代に軍人に冷たい視線を浴びせていた人びとは、一体、いかなる事情で、以上のような怪しげな軍人たちの主張に耳を傾け、さらに、これに熱狂的に支持するようになるのでしょうか。これが次に解明さるべき問題です。いずれにしてもできるだけ正確に事実関係を把握することが、問題解決の第一歩だと思います。意外と、それを解く鍵は、身近なところにころがっているのかもしれません。くどいと感じられる方もおられると思いますが・・・。 
満州事変を熱狂的に支持する世論の変化 3

 

そもそも満州問題はいつどこから発生したのでしょうか。前回、そのことについての渡部昇一氏の主張を紹介しましたが、もう少し詳しくこの間の経緯を見ておきたいと思います。
いうまでもなく、それは、日本が日清戦争で遼東半島全域を手に入れたことにはじまります(1895.4.17)。しかし、三国干渉でロシアにそれを中国に返還するよう迫られたので、賠償金を積み上げる形で遼東半島を清に返還しました(1895.5.4)。その後ロシアは、露清密約(1896.6.3)で、日本が満州・朝鮮・ロシアを侵略した場合の共同防衛、交戦中清国全港湾のロシア軍への開放、黒竜江・吉林両省を横断しウラジオストックに達する鉄道(東清鉄道)の敷設権を得ました。
さらに1898年、中国から遼東半島南部を25年間租借し、旅順・大連の港湾都市建設、東清鉄道の延長となるハルピン―旅順間の鉄道建設権を得ました。その後1900年に義和団事件が起こり居留民保護のため列国(8カ国)が共同出兵すると、ロシアは満州に大軍を送り、事件鎮圧後もこの地に居座り、事実上占領支配下に置き、さらに韓国の鴨緑江河口の竜岩浦に進出しようとしました。日本はこの事態に朝鮮支配の危機感をつのらせ、「満韓交換論」でロシアとの衝突を回避しようとしました。
しかし、ロシアは交渉の最終段階の回答(1904.1.6)で、「日本の韓国に対する援助の権利は認めるが、軍略的使用は認めないこと、朝鮮の北緯三十九度以北の中立地帯については最初の案を維持すること、そしてこれを日本政府が同意するなら・・・日本が満州は日本の利益外であることを承認する前提のもとに、ロシアは日本及び他国が清国から獲得した権利(ただし居留地の設定は除く)を認める」としました。これは、日本の韓国支配に制限を加えると共に、事実上満州支配を宣言するものでした。
こうして日露戦争が始まりました。日本陸軍は1904年2月8日に仁川上陸、旅順港外及び仁川沖での日本艦隊とロシア艦隊の戦闘、第一軍は朝鮮北部からロシア軍を撃退して満州地域に攻め込み、5月には第2軍が遼東半島上陸、第4軍は両軍の中間地点に上陸し、8,9月遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦と苦戦しながらも奉天に軍を進めました。一方、第3軍は8月以降旅順のロシア軍近代要塞に膨大な犠牲を強いられながらも、1905年1月にこれを陥落させ、旅順艦隊を撃滅し、3月には陸軍の総力を挙げて奉天を占領、さらに1905年5月27,28日には、対馬海域の海戦で日本連合艦隊はバルチック艦隊を壊滅させました。
この段階で、日本は国力の限界を見極め、アメリカに講和の斡旋を依頼しました。ロシアもロシア革命が高揚して政治体制が揺らいでいたことから、ポーツマス条約(1905.9.5)が結ばれ戦争は終結しました。〔日本軍の戦死者8万、戦傷38万人、戦費総額20億(前年の一般会計歳入総額は2億6000万円)、外債7億円〕これにより、日本は満州の清国への返還、韓国に対する日本の指導・保護・監督権の承認、清国政府の承認を前提として、ロシアの遼東半島租借権と長春―旅順間の鉄道権益の日本への譲渡、樺太南部の割譲、沿海州における日本の漁業権の承認、1qに15名以内の日本の鉄道守備兵配置を承認させました。
その後、日本は、第二次日韓協約(1905.11.17)により韓国の外交権の日本への委譲や統監の設置を認めさせ保護国化しました。また、ロシアから日本に譲渡された東清鉄道南部支線(長春―旅順)の鉄道および付属する土地建物、港湾、炭坑、さらに「日清満州善後条約」により、清国に経営権を認めさせた安奉(安東―奉天)鉄道を基礎に、1906年、南満州鉄道を設立しました。これは鉄道だけでなく炭坑、製鉄所などの鉱工業、自動車、水運、港湾埠頭、電気、ガス、旅館など多角経営を行うもので、満鉄付属地(沿線用地及び停車場のある市街地)においては日本は行政権を有することとなりました。
実は、この段階で、すでに、日露戦争後の満州における日本の地位をめぐって、陸軍と政府の間で意見の対立が生じていました。伊藤博文は、政府側を代表する立場で、「満州における日本の権利は、ポーツマス条約によってロシアから譲渡されたものだけである、満州は決してわが国の属地ではない、純然たる清国領土なのである」と主張しました。これに対して、児玉源太郎は、「国際法上は伊藤のいう通りだが、南満州を事実上は日本領にしておかなければロシア軍と戦えないとして、占領地に軍政署を置くなど「新領地」扱いし、さらに満州経営を統括する部門の新設などを提案しました。
結局、この局面では、政府の方針に従って、関東総督の機関を平時組織に改め軍政署は順次廃止されることになりました。しかし、陸軍の行き過ぎに歯止めをかけることには成功したものの、軍の満州に対する野望をくじくことはできませんでした。そして、この児玉に代表される考え方が、後の関東軍幕僚たちに受け継がれ実行に移されることになるのです。ただ、この段階では、「陸軍第一の山県でさえも、最後には、ライバルであった伊藤の側に立ち、児玉や寺内をたしなめ」ました。「さすがに山県は日本の国力の限界を心得ており、児玉を野放しにして英米を敵に回すようなことになっては、日本が危ないことを見通していた」と三好徹氏はいっています。
その後、1907年7月30日、第一回日露協約の付属の秘密協約により、日本とロシアは、鉄道と電信に関し、南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲とすることを相互承認しました。その後、1910年7月4日には、第一回日露協約を拡張し、鉄道と電信以外も全般的な利益範囲としました。さらに、1912年7月8日には、第三回日露協約を調印し、付属秘密協定において内蒙古部分について、北京の経度から東部分を日本の利益範囲としました。もちろんこうした合意は、中国側の了解をとってなされたわけではありませんでした。
そして、1915年5月、いわゆる二十一箇条要求にもとづく「南満州及び東部内蒙古に関する条約」により、1旅順・大連の租借期限及び安奉鉄道に関する期限を99年に延長すこと、2南満州における工業上の建物の建設、又は農業経営に必要な土地を商祖すること、3南満州において自由に居住往来し各種の商工業その他業務に従事すること、4東部内蒙古において支那国民と合弁により農業及び付帯工業の経営をすることを中国に認めさせました。その後この東部内蒙古は、32年の時点では熱河省と察哈爾省すべてを合した地域と日本側に認識されていました。
1921年から22年に賭けて開催されたワシントン会議では、「中国に関する九カ国条約」により、以上説明したような日本に有利と見られる諸条件が消滅したかのように思われます。しかし、アメリカ全権・ルートの提出した四原則が「中国に関する大憲章」として採択され、そこには安寧条項と呼ばれた項目があり、「帝国の国防並びに経済的生存の安全」が満蒙特殊利益に大きく依存する、という日本のかねてからの主張に理解が示され、各国は中国の既得権益を原則的に維持することで合意していました。
こうして、日本の満蒙特殊権益の擁護は、まず、幣原喜重郎の「条約に基礎をおくものであり確固としたものである」とする主張にそって進められることになります。しかし、第二次南京事件を経て「軟弱外交」との批判を受けるようになり、ついに1927年4月退陣に追い込まれました。しかし、次の田中首相による「積極外交」は、早速、第二次山東出兵で済南事件を引き起こし、国民政府の対日観は決定的に悪化しました。さらに「張作霖爆殺事件」は張学良に易幟を決意させ、満州を国民党の支配下におきました。その結果、唯一の残された満蒙権益擁護策が、陸軍が日露戦争以来宿願としてきた武力による「満蒙領有」だったのです。
しかし、こうした軍事行動を伴う「満蒙領有」論は、1928年8月27日にパリで戦争放棄に関する「不戦条約」の調印によって、その「国防」のための軍事行動が「自衛権」に限られることになったため、日本の満蒙特殊権益擁護の措置がはたして「自衛権」で説明され得るかどうか問題となりました。検討の結果、その治安維持のための軍事行動は正当化されないと認識されました。にもかかわらずというべきか、それ故にというべきか、その後、こうした「満州領有」を正当化するための「満州生命線論」の一大キャンペーンが満州だけでなく内地においても繰り広げられることになるのです。
前回にも紹介しましたが、当時の、国民一般や知識人の間における満蒙問題の認識は次のようなものでした。
「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びは寧ろ頑迷の徒の言の如くに蔑まれてさえいた、之は事実である。国民も亦至極呑気であった、・・・情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」
そして、丁度この頃、張作霖爆殺事件が起きて4ヶ月後の1928年10月はじめ、石原莞爾が関東軍参謀(作戦主任)として旅順の軍司令部に着任しました。それは東三省側の排日体制の激化にともなって、「警備上応変の準備として対華作戦準備を必要とするようになった」と関東軍が考え始めた時期と一致していました。また、それは張作霖爆殺事件調査で峯憲兵隊長来満の直後でもあり、河本の取り調べが行われていましたが、河本はうそぶくように満蒙武力解決の必要を強調し、石原もこれを当然としていた、といわれます。
こうして石原は、河本とともに作戦計画の検討を関東軍幕僚会議に提議しました。そこで採択された案は、「万一事端発生するとき」は、「奉天付近の軍隊を電撃的に撃滅し、政権を打倒」しようとするものでした。「この案は、防衛計画としての衣装をまといながら全面的武力衝突の可能性を増大させ」るものであり、具体的計画もこの原則にもとづいて研究されることになりました。また、「29年2月28日に満州青年連盟第一回支部長会議が開かれ、小日山理事長は、日本が満蒙から『旗をまいて引揚げる運命』におちいることは断じて許せぬ」と述べて、奇しくも石原構想を背後から支持することになりました。
「このような関東軍の満蒙武力行使計画による実戦の準備と平行して、満州青年連盟は満州における在留邦人の世論を統一するため、また国内世論を喚起沸騰させるために独立した活動を行って」いました。彼らは幣原外相が、在満同胞の排外主義を批判し「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発しました。そして、「満蒙問題とその真相」と題するパンフレットを一万部印刷し、これを内地の政府当局、各代議士、各新聞、雑誌社、各県当局、青年団その他各種団体など、鮮満各方面にまで広く配布しました。
その主張は、「満蒙はわが国防の第一線として国軍の軍需産地として貴重性を有するのみならず、産業助成の資源地として食料補給地としてわが国家の存立上極めて重要な地域である」という大前提のもとに、日本の特殊権利を「支那はもちろんのこと列国に向かって堂々と主張し得る政治上ないし超政治上の根拠理由を有する」と説いていました。さらに、「全既得権益を一挙にして抛去らんとする険難」が迫ってきた今日「吾人は起って九千万同胞の猛省を促す」と主張しました。
こうして、旅順、鞍山、奉天と全満州各地には武力解決のムードを作るための遊説隊が送られました。石原・板垣らの企図した在留邦人の世論統一を創出するための方策は、青年連盟による「満蒙領有」運動として自然とおし進められました。満州青年連盟はさらに大連新聞社の協力で、1931年6月中「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民を鞭撻し国論を喚起する目的で、遊説隊を内地に送ることにしました。内地では政府・軍首脳、政治家らと会見し、財界や新聞社を訪問し「幣原氏の軟弱外交」を非難する一方、「満蒙解放論」は当然であると論じました。
こうした青年連盟の圧力運動は、「満蒙放棄論」をとなえていた関西財界の空気に大きく影響したばかりでなく、東京においては七十一団体を強硬論へと結束させたとさえいわれました。貴族院の研究会、公正会はもとより枢密院の福田雅太郎、伊藤巳代治などを含む黒幕の権力者もその強硬論のあおりを受け、8月5日には上野、日比谷の二カ所で国民大会が開催されて全国的運動への糸口が今やきり開かれました。このような満州現地からの本国への圧力とならんで、関東軍の板垣も帰京して軍中央と連絡を取っていました。
そこで示された「情勢判断に関する意見」は、米ソとの開戦を覚悟しても満蒙を領土化せよと主張するもので、その根拠は、今日の恐慌による未曾有の経済不況は、アメリカ製の資本主義や民主主義がもたらしたものであり、そこにソ連製の共産主義が進入しようとしているから、「日本が経済及び社会組織を改めて社会改造を行う必要がある」と主張するものでした。さらに謀略計画に関する意見では、日本の満蒙獲得が日米、日ソ戦争を誘発する公算があるから、「支那中央政府を転覆せしめて親日政府を樹立する」謀略が推奨されていました。
こうした動きの中で、民政党は6月30日、幣原外交擁護の声明書を発しました。それは「政友会の田中内閣の外交が『支那のみならず南洋方面の排日をも引きおこして、対支対南洋貿易を危機に陥れたことを立証し』、外交知識の欠乏せる田中大将が、『我が国の対支外交をほとんど救う能わざる窮地に陥れた』と非難したうえ、民政党内閣の成立とともに、『(一)日貨排斥が沈静に帰し、(二)日支関税協定が成立し、(三)政友会内閣のとき行きづまった満蒙鉄道協定の交渉が開始され、(四)間島の共匪事件が解決して同地における共産党の細胞組織が完全に破壊され、(五)治外法権問題を中心とする日支通商条約の改定商議が開始されんとしている』ことなどをあげて、国民に対して幣原外交に対する支持を呼びかけました。
だが、こうした幣原の努力も、1931年9月18日の「柳条溝事件」いわゆる満州事変の勃発によって、完全に息の根を止められてしまいました。そして国民の間には、数年前までは「満蒙放棄論」さえ唱えられていたものが、この関東軍による謀略戦争、彼ら自身には米ソとの開戦さえ必然と見なされたこの満州の武力占領策を、熱狂的に支持する空気が生まれるのです。もちろん、こうした世論の急展開の背後には石原莞爾という一種の偽メシア(予言者)がいました。その終末論は、ハルマゲドンを思わせる最終戦争論、最後の審判後の千年王国のような満蒙王道楽土論をともなっていました。
では、そうした彼らの一種の宗教的信念に基づく、満蒙を日本の国家改造の前線基地とする彼らの国家改造論を根底においてささえていたものは一体何だったのでしょうか。あるいは、それは前回紹介したような大正デモクラシー時代の政党政治に対するルサンチマンだったのかもしれません。そうしたエリート将校の「恨み」と「傲り高ぶり」、「国際法無視」の精神が、日清・日露戦争以来ほとんど無意識のレベルにまで達した日本国民の、中国人に対する蔑視感や日本人の優越感を励起させた、それが、この間の世論の急激な変化をもたらしたように思われます。
では、次に、こうしたルサンチマンに基づく国家改造運動を扇動した、偽メシア石原莞爾の戦争責任について論じたいと思います。彼の戦争責任を故意に看過し、天才的思想家とあがめる論調が余りに多いように思われますので・・・。 
 
石原莞爾の戦争責任

 

1 
ここまで、幣原外務大臣の「協調主義外交」がどのように行き詰まっていったかを見てきました。特に「張作霖爆殺事件」を適切に処置し得なかったことが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延さすなど決定的な悪影響を及ぼし、ついに満州事変を引き起こすに至ったことを指摘しました。また、この間、国民世論は大正デモクラシー時代は軍縮や国際協調外交を支持していましたが、済南事件や張作霖爆殺事件を契機に反日運動や国権回復運動が高まると、関東軍の主張する「満蒙領有論」を熱烈に支持するようになったことも指摘しました。
こうした国民世論の急激な変化の背景には、軍による世論操作があり、さらにその背景には、軍縮による軍人の失業や威信低下をもたらした大正デモクラシー下の政党政治に対するルサンチマンがあったことも指摘しました。しかし、もちろんそれだけではありません。客観的要因としては、1920年の第一次世界大戦後の「反動恐慌」、次いで東京大震災後の「震災恐慌」(1923)、そして震災手形の処理問題に端を発した「金融恐慌」(1927)があります。さらに浜口雄幸内閣の金解禁(1930)によるデフレーション政策と世界恐慌が重なって、日本経済が深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の倒産、、失業が急速に増大したことも指摘しなければなりません。
これは、どちらかといえば外的要因によるものですが、実は、先に述べた「国民世論の急激な変化」の背景に、もう一つ、国民の隠然たる反米主義や中国人に対する近親憎悪的な反感が含まれていたことに注意する必要があります。渡部昇一氏は、こうした日本人の排外主義的な心情を生んだ背景には、次のようなアメリカ人や中国人の反日政策があったと指摘しています。そして、これらが、幣原外相がそれまで進めてきた国際協調外交の基盤を掘り崩し、日本国民の幣原外交に対する信頼を失わせるに至った根本原因であるとも指摘しています。
第一は、アメリカの人種差別政策
第二は、ホーリー・ストーム法(米国で一九三〇年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向
第三は、支那大陸の排日・侮日問題
第一の問題は、日露戦争の翌年(1906)に発生したサンフランシスコ大地震後に、日本人や朝鮮人児童(中国人も含む)を公立学校からの閉め出したことにはじまります。ついで大正2年(1913)には、カリフォルニア州は土地法により日本人移民の土地所有を禁止、さらに1920年には、借地も禁止するという州法を成立させ、また他の州でも同様の州法が制定されました。さらに、1922年には、米国の最高裁判所は日本人の帰化権を剥奪する判決を下し、それまでに帰化していた日本人の市民権まで剥奪しました。そして、1924年には、日本人の移民を完全に禁止する「排日移民法」を成立させました。
こうしたアメリカの措置が、元来は親米・知米的であった日本の学者、思想家、実業家をも憤激させ、そして日露戦争以来親米的であった国内世論を一挙に反米に向かわせることになりました。渋沢栄一は、排日移民法が成立した年に行った講演で、「(私は渡米後、)アメリカ人は正義に拠り人道を重んずる国であることを知り、かってアメリカに対して攘夷論を抱いていたことについてはことに慚愧の念を深くした。そして自分の祖国を別としては第一に親しむべき国と思っておりました。」と前置きした上で、次のように慨嘆しています。
「さらにこのごろになると、絶対的な排日移民法が連邦議会で通ったのであります。長い間、アメリカとの親善のために骨を折ってきた甲斐もなく、あまりに馬鹿らしく思われ、社会が嫌になるくらいになって、神も仏もないのかという愚痴も出したくなる。私は下院はともかく、良識ある上院はこんなひどい法案を通さないだろうと信じていましたが、その上院までも大多数で通過したということを聞いた時は、七十年前にアメリカ排斥をした当時の考えを、思い続けて居たほうが良かったというような考えを起こさざるをえないのであります。・・・」
第二の問題は、第一次世界大戦後の過剰投資が原因となって、1929年10月24日(暗黒の木曜日)のニューヨーク株式市場が大暴落し、深刻な世界恐慌に発展したことに端を発しています。アメリカはこうした状況の中で、1930年6月に国内産業保護のためと称して1000品目以上の商品に高率の関税障壁を設けるホーリー・ストーム法を成立させました。これに対してどの国もこれに対抗して保護関税を設け、このためアメリカの輸出・入は半減し大不況に陥りました。さらに、こうした保護貿易の風潮の中でイギリスはオタワ会議を開き、イギリス連邦内に特恵関税同盟によるブロック経済を導入しました。
これらのブロック経済の導入は、資源に恵まれたアメリカやイギリス連邦などのアングロ・サクソン圏では、国内やブロック内で何とかやっていけますが、資源のない国はどうしたらいいか。特に日本の場合は、近代産業に必要な資源をほとんど持たず、「せいぜい生糸を売って外貨を稼ぎ、それで原料を買い、安い労働力を使って安い雑貨を売り、それによって近代工業を進め、近代軍備を進めてきたのである。それに日露戦争以来の借金も山のようにある(そうした日本の負債がゼロになったのは昭和63年=1988年12月31日である)。」という状態でしたから、これは死活問題でした。
こうした状況の中で、日本が近代国家として生き延びていくためには、自らの経済圏を持たなければならないと多くの日本人が考えるようになったのも当然でした。また、先に述べたように、日本ではすでに昭和2年(1927)から金融恐慌に伴う不況がはじまっており、それに拍車をかけるような形で金解禁が断行され、不況は一層深刻化していました。おりしも、昭和6年9月21日にイギリスが金本位制から離脱したため、井上財政は信憑性を失い若槻内閣は総辞職し、それに代わって犬養毅内閣の高橋是清が蔵相となりました。その高橋が金解禁を廃止するやいなや円安状況が生じ、輸出ブームとなり景気が回復していきました。そして丁度この時期が、満州事変(昭和31年6月18日)と重なっていたことも、関東軍の暴走が国民に支持された一因だと渡部昇一氏はいっています。
第三の問題は、中国人の日本に対する意識が、日清・日露戦争後の「恐日」あるいは「敬日」から、日本の「対華二十一箇条要求」(1915)を境に、「排日」そして「反日」・「侮日」さらにはボイコット運動へと変わっていったということです。この「二十一箇条要求」については以前説明しましたが、外交の拙劣としか言い様のないもので、最終的にはワシントン会議(1921〜22)において当時駐米大使であった幣原喜重郎の努力でなんとか誤解を取り除くことができました。しかし、中国では、「二十一もの不当要求を日本が大戦のどさくさに中国に押しつけた」とされ、この条約の締結日である1915年5月9日は、中国の「国恥記念日」とされました。
渡部昇一氏は、この他に、清朝が滅んだ後、袁世凱が共和国大統領となって「米国と組んで日本を抑える」方針をたてたこと。また、米国のウイルソン大統領が唱えた「十四箇条」が、その後の中国の反植民地主義を支えるバイブルになったこと。また、1919年のパリ講和会議あたりから、中国でしきりに日英同盟更新反対運動が起こったこと。さらにアメリカも、日露戦争後の日本に対する警戒感の高まりや、中国における日本との利害関係の対立から、イギリスに対して日英同盟の廃棄を迫り、その結果、日英同盟は廃棄され「四カ国条約」に代えられたこと。これらが、日本を孤立させ中国人の「侮日」を招くことになったと指摘しています。
この間、支那では、清朝が滅んでのち中国各地の軍閥間の争いが続き、1922年には張作霖が東三省=満州の独立を宣言しました。「この間にも孫文の北伐や、奉天軍と直隷軍の戦い、いわゆる奉直戦争が二度も行われ、大正13年(1924)には、安徽省出身でありながら直隷派と手を組んだ馮玉が北京を占領した・・・。その翌年には広東の国民政府が樹立され、昭和2年(1927)には王兆銘の武漢国民政府出来、同じ年には蒋介石の南京国民政府ができる」といった具合で、めぼしい政府だけでも四つ五つあるといった状態でした。そんな中で、国家統一をめざす国民の中に、排外思想や攘夷思想、特に「排日思想」が強くなるのは自然の成り行きでした。
そして、以上述べたような状況下にあって、いかにして日本の安全を確保し、民族としの生存をはかっていくか、そして、そのための生命線と考えられ急にクローズアップされたのが、「満州問題」でした。しかし、中国の「排日思想」の高まりの中で、幣原喜重郎の「対支宥和外交」は、蒋介石による北伐にともなって発生した第二次南京事件を経て「軟弱外交」「屈辱外交」との批判を浴びるようになりました。さらに、済南事件や張作霖爆殺事件の処理の失敗によって、対支関係は決定的に悪化しました。そこで、この「満州問題」解決のために残された唯一の手段が、武力による「満州領有」だったのです。
こうした「満州領有」という考え方は、日露戦争以来、陸軍に根強くあったことは前回指摘しました。しかし、こうした手段に訴えることは、ワシントン会議の「九カ国条約」における中国の領土保全・主権尊重と門戸開放・機会均等主義や、さらには1928年の不戦条約(国際紛争を解決するため、あるいは国家の政策の手段として、戦争に訴えることをは禁止され認められなくなった。ただし国際連盟の制裁として行われる戦争及び自衛戦争は対象から除外)が成立して以降は、決して許されることではありませんでした。この時、その難問を解くべく登場したのが、昭和3年10月関東軍参謀として赴任した石原莞爾だったのです。
しかし、結果をいえば、石原莞爾も、その満州占領直後から、自らの理論では到底国際社会を説得しきれないこと、また、中国人の納得も得られないことを悟らざるを得ませんでした。そのため、当初の「満州領有」計画は諦め、満州人の自治運動の結果としての「満州独立」という体裁を取らざるを得なくなりました。さらに、その「最終戦争論」に基づく米国との戦争に備えるためには「日・満・支」の連携が不可欠で、そのためには、満州を五族共和の「王道国家」としなければならないと考え、日本の指導性を排除することや、ついには、満州国の官吏たる日本人の日本国籍離脱を主張するようになったのです。
こうした石原の「ユートピア」的ロマンチシズムは、当初は、「満州占領」の大義名分を求めていた軍人たちに強くアピールしましたが、やがて、そのリアリズムの欠如から遠ざけられるようになり、満州事変(1931.9.18)のわずか1年後の1932年8月には満州を追われました。石原退去後の満州は、関東軍による満州国政府に対する「内面指導」という名目での日本人官僚支配が強化され、それまでの「独立援助」は「属国化」に、「民族協和」は「権益主義」(=帝国主義)に姿を変えていきました。「内地に帰還した石原は永田鉄山参謀本部第二部長と面談した際『満州は逐次領土となす方針なり』と聞かされ愕然」としたといいます。
その後石原莞爾は、1935年に参謀本部第一作戦課長として復帰し、2.26事件において戒厳司令部参謀を任じられ事件処理に当たっています。また、1927年には作戦部長となって、関東軍の華北分離工作や廬溝橋事変後の戦線の拡大に、「最終戦争論」に基づく総力戦準備、生産力拡充計画を専行させる観点から執拗に反対しましたが、関東軍参謀長である東条英機や部下の参謀本部作戦課長の武藤章の「一撃論」を抑えることはできませんでした。そして、1937年9月関東軍参謀副長に左遷され(参謀長は東条英機)、38年8月には辞表を提出、41年には退役しました。
このように見てくると、石原莞爾がなした歴史的仕事は、柳条湖事件という鉄道爆破謀略事件の後約1年間の「満州事変」の計画・実行それのみということになります。しかも、その結果生み出された「満州国」は、彼の「最終戦総論」にいう「王道国家」の理想とは似ても似つかぬもので、ただ、日本の戦争遂行に寄与・貢献するための官僚統制国家=日本軍による傀儡国家へと必然的に収斂していきました。さて、こうした歴史の推移を、石原莞爾の不明として責めるべきか、それとも彼の理想主義の挫折として惜しむべきか、私はその「偽メシア」としての厄災をこそ、しっかり認識する必要があると思います。 
2

 

「政治家はヴィジョンを持たなくてはといわれる。目先のことに捉われずにヴィジョンを持った政治をやれ、たしかに結構なことに違いないが、余りヴィジョンをもたれすぎても困ることがある。戦前の日本人で、石原莞爾ほど壮大なビジョンを展開し、それが全く崩壊し、結果が国を滅したという人もないだろう。なぜなら、彼がヴィジョン展開の第一着として演出した満州事変は、日本を世界に孤立させる始まりとなったばかりでなく、石原がおかした下剋上、政府無視、そして独善がこの後の陸軍を支配して、やがては国を破局に導いていくからである。」
これは、高田万亀子氏の石原評ですが、私も石原莞爾の関係資料をあたってみて、ほぼこの通りではないかと思いました。ただ、石原の「下剋上、政府無視、そして独善」的傾向は、私が「張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆」でも述べたとおり、当時の軍人特に「二葉会」「一夕会」「桜会」等に集った青年将校たちにも見られた傾向でした。石原莞爾は、こうした精神傾向を彼の壮大なヴィジョンによって粉飾し、一方、冷厳な作戦計画によって満州事変を奇跡的成功に導くことによって、それを正当化したのです。
ところで、これらの「二葉会」や「一夕会」と呼ばれた青年将校グループにはある特徴がありました。彼らは陸軍士官学校卒第15期から25期に属する人たちで、その多くは、1896年に東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に新設された陸軍地方幼年学校(13、15歳から3年の修学期間、定員各50名)、中央幼年学校(2年の修業期間)を卒業し、陸軍士官学校(1920年より予科2年、隊付き6ヶ月、本科1年10ヶ月)に入り、さらに陸軍大学校(隊付き2年以上の大尉、中尉から1期50名内外を選抜し3年間修業)を卒業した超エリート軍人(いわゆる「天保銭組」)だったのです。
また、彼らが陸軍大学を卒業して現役についたのは日露戦争後であり、つまり、彼らは実戦経験をもたない「戦後派」でした。これに比べて、彼らの先輩達(第15期以前=当時の軍首脳、軍事参議官、師団長、連隊長)は、全員日露戦争の功労者、戦場の殊勲者で「個人感状」や「金鵄勲章」をもらった人たちでした。これら賞を軍人たちが最高の栄誉としてどれだけ羨望したか・・・、しかし、これは戦場で砲火をくぐって戦うか、あるいは最高戦略に参画し”武功抜群”と認められる働きをしなくては手にすることのできないものでした。
それに加えて、彼らが佐官となり活躍を始めた頃は、第一次大戦の惨禍を経て軍縮が世界の潮流となった時代でした。大正11年6月11日成立の加藤友三郎内閣では、戦艦「安芸」「薩摩」以下14隻を廃棄し、戦艦「土佐」「紀伊」など6隻を建造中止にしました。それにともない海軍の現役士官と兵7,500人を整理し、海軍工廠の工員14,000人が解雇されました。また、山梨半蔵陸相も陸軍の兵員53,000人、馬13,000頭を減らし、大正13年までに退職させられた陸軍将校は約2,200人にのぼりました。続いて、第二次加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成は、陸軍4個師団を廃止し、整理された兵員は将校以下34,000人に達しました。昭和5年のロンドン軍縮会議による軍縮では、海軍工廠の工兵8,233人が解雇されました。
「こうした一連の軍縮によって、深刻な絶望感をいだいて動揺したのは当然職業軍人であった。彼らは財閥とむすんで(軍縮をおし進める:筆者)腐敗した政党政治に不信感を深める一方、新しい希望を満蒙の大陸にもとめる気運が強くなった。とりわけ満州に”事変”を誘発して、新国家を建設しようとうごきはじめたのは、陸軍省及び参謀本部の天保銭組のエリート軍人たちであった。彼らはまず、自分たちの栄進をさまたげる陸軍中央の「藩閥」(=長州閥:筆者)にたいして猛然と挑戦した。」
なお、ここにいう陸軍中央の「藩閥」とは、初代陸軍大臣の山県有朋以来の長州閥と薩摩閥のことで、山県の死(大正11年2月1日)後、長州は陸軍、薩摩は海軍を背景に、軍の要職や政権をねらって排他的な権力闘争を展開しました。ところが大正末期になると、薩長とも人材難で藩閥内に後継者がいなくなり、そこで長州閥の田中義一大将は、宇垣一成(岡山)、山梨半蔵(神奈川)を自派に引き入れました。これに対して、薩摩閥の上原勇作は武藤信義、真崎甚三郎(以上佐賀)、荒木貞夫(東京)などの有力将軍を自派(これが後に皇道派となる)に引き入れ、藩閥闘争を繰り広げました。*海軍の場合は兵学校の入学試験が難しいことから次第に薩摩閥は解消したが、陸軍の長州閥は宇垣陸相時代まで続いた。薩摩閥の上原はこれに挑戦した。
これに対して、第16期以降の陸軍中央の天保銭組のエリート将校達は、こうした藩閥(=長州閥)がらみ人事や「戦わずして四個師団を殲滅」させた軍縮に反感を抱き、藩閥打倒の運動を始めました。その嚆矢となったのが、天保銭組の中でも三羽烏といわれた永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三少佐で、彼らは大正10年に南ドイツの温泉郷バーデンバーデンで「長州閥打倒・陸軍の人事刷新」の密約を交わしました。「二葉会」(14期から18期までの佐官級約20名)や「一夕会」(「二葉会」のメンバーと第20期から25期までの佐官級将校が合流約40名、昭和3年結成)など従来の藩閥に代わる「学閥」はこうして形成されたのです。
この時、彼らがめざしたものは、1陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること。2満蒙問題の解決に重点を置く。3荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護りたてながら、正しい陸軍を立て直す(「一夕会」第一回会合決議S3.11.3)でした。といっても、重点は「人事の刷新」に置かれていて、必ずしも下剋上的な非合法手段が是認されたわけではないといいます(『昭和の軍閥』)。しかし、陸軍の伝統的な「日満一体」の考え方を背景に、軍事上の見地や満蒙の自給自足的経済的見地が重なり、これを「日本の生命線」として「満州領有」を主張する考え方が急激に高まっていきました。10/14)
ここに登場したのが石原莞爾で、彼は、満州に赴任(s3.10)するまでに、後の「世界最終戦総論」の発端をなす「戦争史大観」を構築していました。それは、「第一次世界大戦の次に「人類最後の大戦争」が起こる。それは飛行機をもってする殲滅戦争である。また、それは全国民の総力戦となる。それは「日蓮上人によってしめされた世界統一のための大戦争」であって、最終的には、東洋文明の中心たる日本と西洋文明の中心たる米国の間で争われる」というものでした。これは戦史研究の成果というより、むしろ宗教的終末論によって日米間の最終戦争を不可避としたものだと思います。
その上で、彼は昭和4年7月5日に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決策」を関東軍参謀として策定し、次のように「満蒙領有」の歴史的必然性とその問題解決方針を提起しました。
一、3 満蒙問題の積極的解決は単に日本の為に必要なるのみならず多数支那民衆の為にも最も喜ぶべきことなり即ち正義の為日本が進で断行すべきものなり。歴史的関係等により観察するも満蒙は漢民族よりも寧ろ日本民族に属すべきものなり。
二、1 満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することによりて始めて完全達成せらる。対外外交即ち対米外交なり 即ち前記目的を達成する為には対米戦争の覚悟を要す。若し真に米国に対する能はずんば速に日本は其全武装を解くを有利とす
  2 対米持久戦に於て日本に勝利の公算なきが如く信づるは対米戦争の本質を理解せざる結果なり 露国の現状は吾人に絶好の機会を与えつつあり
三、2 若し戦争の止むなきに至らば断固として東亜の被封鎖を覚悟し適時支那本部の要部をも我が領有下に置き・・・其経済生活に溌剌たる新生命を与へて東亜の自給自足の道を確立し長期戦争を有利に指導し我目的を達成す(以下略)
こうして、石原莞爾によって、済南事件以降ほとんど手詰まり状態になっていた満州問題の根本解決が、日本の「満州領有」という形で可能とされるに至ったのです。そして、この日本の「満州領有」には「日米戦の覚悟がいるが、それは満蒙だけでなく支那本部の要部も領有下に置き、自給自足の道を確立すれば有利に持久できる。決勝戦は日米間の徹底した殲滅戦になる。・・・国民は鉄石の意志を鍛錬しなければならない。」そして「これを勝ち抜けば王者天皇の下の永久平和がくる」とされたのです。
だが、はたしてこれが思想の名に値するでしょうか。単に、当時の軍の「満州領有」の願望に迎合しそれを粉飾しただけではないでしょうか。そのために、移民問題に端を発した日本人の反米感情を巧みに利用し、満州領有の結果予測される日米戦争の危険を永久平和に至るための試練と言い換え、済南事件の失敗や張作霖爆殺事件の暴虐に憤激する中国人の反日感情を一切無視して、満州領有は多数支那民衆のためにも喜ぶべきことなりという。こうした中国人に対する優越感と蔑視意識は、当時の日本人の潜在意識の中にあり、石原はこうした日本人の潜在意識をも巧みに利用したのです。
さらに、マルクスの歴史必然論を借用してインテリ受けを良くし、仏教的終末論を使って西欧文明の終末を予言し、さらには皇国史観に基づく天皇親政論を使って統帥権の独立を「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権」と神秘化した。私は、これだけの壮大な思想的粉飾があってはじめて、このクーデターまがいの満州事変は成功したのではないかと思います。この結果、関東軍は「中央が出先(=関東軍)の方針を遮る場合には、皆で軍籍と国籍を脱して新国家建設に向かうべし」とまで極言するようになりました。そして、ついに政府も満州国を黙認するほかなくなりました。
この後の、関東軍の華北分離工作に至る日本軍将校によるテロや謀略活動の連鎖を見ていくと正直言ってあきれ果てるというか、司馬遼太郎さんではありませんが、”精神衛生上良くない”。一方、蒋介石の忍耐力には同情を禁じ得ない。確かに戦争に正義・不正義はないとは思いますが、それにしても当時の日本軍将校の思い上がり、自己絶対化、他者蔑視の精神構造には参ります。一体、この精神構造はどこからきたか。おそらく、これを中国人やアメリカ人のせいにするのは間違っている。それは日本の伝統思想中にもとめる外ない、私はこのように指摘する山本七平さんの見解が当たっているように思います。 
3

 

「メシア」とは、ヘブライ語またはアラム語で油を注がれた者、すなわち聖別された者を意味する言葉です。出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれていますので、後にそれが「油注がれた者」すなわち理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになったと辞書には説明されています。私が石原莞爾について「偽メシア」という言葉を使ったのは、彼の言葉と行動は、はたして、昭和6年という日本の危機の時代において、民族の伝統文化を未来に向けて発展させる契機をもっていたか、ということについて疑問を感じているからで、私はむしろその逆だったのではないかと思っています。
もちろん、こうした見解は従来のものと特に変わってはいないのですが、最近の石原評の中には、彼の頭脳の並外れた優秀性と、満州事変の奇跡的な軍事的成功に幻惑されて、その「偽メシア」的メッセージの及ぼした害毒の深刻さを看過しているものが多いような気がします。とりわけ福田和也氏の『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』では、「世界最終戦総論も、満州国も、五族協和も、東亜連盟も、永久平和も、都市解体も彼の祈りであった。」「石原莞爾の魅力は、・・・その根源は、やはり高い倫理性、理念性にあると思う。」として、その生き方や精神性を高く評価しています。
だが、私は石原莞爾の場合は、そんな資質よりも、彼の「政的的行動」が日本に及ぼした結果責任をこそ、厳しく問うべきだと思います。よく、彼の東京裁判の「酒田臨時法廷」における発言が紹介されます。いわく「もし大東亜戦争の発端の責任が満州事変および満州国にあるというのなら、その第一の戦争責任は自分にある、なぜ自分を裁かないのか、と裁判官を問い詰めた」と。これは「潔く自らの責任を認め、勝者の矛盾を暴き、糾弾する」という石原の捨て身で痛快なイメージを伝えるものですが、これが真実かどうかとなると、かなり怪しい。
そもそも、彼が計画・実行した満州事変が、石原莞爾や板垣征四郎を中心とするごく少数の将校たちによる謀略(柳条湖事件)に始まることが明らかにされたのは、歴史家の秦郁彦氏が、事件の首謀者の一人花谷正(事件当時奉天特務機関補佐官)らをヒアリングしてまとめた、「別冊知性」(河出書房)の記事「満州事変はこうして計画された」(1956年秋)が最初です。それまでは、この事件は日本軍の犯行と推断されてはいたのですが、決定的な証拠はなく、東京裁判でも検察の追求は不徹底に終わり、石原は戦犯指定を免れました。事実、彼は、検察側証人として次のような虚偽の証言をすると共に自分の責任をも否定しています。
「石原は、一九四六年(昭和二一年)五月三日に、東京逓信病院で行われた国際検察局による第一回の尋問において、自分や板垣が満洲事変を計画したことを否定している。また、石原は、日本軍による南満州鉄道線路の爆破をも否定し、五月二四日に行われた第二回の尋問で、再度、南満州鉄道線路の爆破について問われた際は、「私は中国人が、一九三一年九月一八日に鉄道線路を爆破したと思っている。」と答え、日本軍が満洲事変を計画的に引き起こしたことを完全に否定し、満洲事変は偶発的に起こったことを主張している。更に、石原は、自分や板垣が、本庄司令官の命令無しに、攻撃命令を出したことも否定し、攻撃命令を下したのは、本庄司令官であり、自分はその命令に従った過ぎないことも主張している。
また、こうした態度はこの事件の他の実行犯にも一貫していました。なぜか、秦郁彦氏は次のようにいっています。
「柳条湖事件には、どことなく後味の悪さがつきまとう。味を占めた日本はその後も同じ手口を重ねて戦火を拡大し、十年もたたぬうちに東アジア・太平洋の全域を支配する軍事大国に急成長するが、太平洋戦争で元も子も失って倒れた。まさに『悪銭身につかず』である。東京裁判で『共同謀議による侵略戦争』遂行したとして訴追された戦時指導者たちは、『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったと抗弁した。しかし、どんな大義名分を持ち出しても、起点となった柳条湖事件を正当化できないのは明らかだった。だからこそ、彼らは一致して秘密を守り抜いたのである」
では、このことを確認するために、先に紹介した花谷証言以降明らかになった柳条湖事件の事実関係を説明します。
石原は昭和3年10月に関東軍参謀として赴任して以来、前回紹介したような壮大な「最終戦争」ヴィジョンのもとに、日米戦争を覚悟しても満州領有が必要であることを周囲の人びとに説きつつ、具体的な満州占領計画を作成していました。だが、はたして、こうした霊感、神意に発する石原プランが板垣以下同士同僚にどれだけ説得力を持ちえたかについては私も疑問に思いますが、いずれにしろ、「満州領有」という悪くすると世界大戦に発展しかねない軍事行動のバネになる最低限の根拠を与えられたということだけで満足したのではないかと思います。
一方、軍首脳は、満州問題が外交交渉で解決できず、ついに軍の出動を必要とするに至った場合でも、なぜそれがやむを得ないものであったかを、ソ連や米英だけでなく国民にも納得させる必要があるとして、そのためには約一カ年を要すると見ていました。そして、満州における「排日侮日一覧表」などを作成・配布して宣伝に努めるとともに、関東軍に対しても張学良との間に事件が起きても大事に至らしめないよう注意していました。これに対して石原は、この中央の方針を「腰抜け」と罵って不服従の姿勢を示し、旅順司令部で、花谷正参謀後に高級参謀板垣征四郎も加わり実地解決策を内密で研究しました。
板垣は初めは関東軍単独の解決案に反対しましたが、昭和5年には石原工作の主将たるを約束しました。この外張学良顧問府補佐の今田新太郎大尉も加えこの4人だけで満州事変の密造に着手し、鉄道の爆破、北大営の夜襲、奉天の占領、各枢要都市の占拠、各種擾乱工作、朝鮮軍との連絡、軍中央部(東京)の誘導、等々の事変方式を作り上げました。昭和6年1月頃にブループリントは出来上がりました。それから朝鮮軍参謀中佐神田正種に大要を明かしてその全面賛成を得、次いで参謀本部の橋本欣五郎及び根本博に打ち明けて原則的に協力の約束をとりつけました。
また、石原は軍の中央部に対し、万一事ある場合には関東軍を見殺しにしないだけの諒解をとりつける必要があるとして、土肥原、花谷を東京に派遣し、敵から挑戦された場合は関東軍は断然決起する決心であることを省部の首脳に説かしめ、なお在郷の同士には極秘裏に「我が方から起つ計画」を内示し、その場合の強力なる掩護行動を要望しました。これに対して橋本欣五郎は、満州問題解決には内政革命が先決である、若槻の政党内閣では何事もできない。故に先ずクーデターによって軍政府を樹立し、その上で思う存分に解決を計るべく、その時期は大体10月の見当だから関東軍の行動はその直後とすることを熱説して袂を分かちました。
だが、石原は、高梁の刈り入れが終わる直後を選んで9月28日の夜に決行することを決めていました。そして中央及び朝鮮の空気も、関東軍が手一杯の戦闘に突入してしまえば、決して知らぬ顔では済ませないと判断し、一直線に既定計画に邁進する考えでした。9月に入ると実行部隊の中隊長を集め、初めて計画を内示し、極秘裏に演習を行わせて時期を待ちました。一門28センチ要塞砲は極秘裏に旅順から分解搬送され、第29連隊の兵営内に据付けられ、照準を北大営に調整して盲目にも打てるよう準備しました。
9月15日驚倒すべき急電が東京から届きました。橋本欣五郎の電報で「計画露見、建川少将中止勧告に出発す、至急対策を練るべし」というものでした。板垣、石原、花谷、今田の4名と実行部隊の5人の将校は直ちに集まって会議を開きました。建川美次(参謀本部第2部長)の奉天着は18日の夕刻である。もしも天皇陛下の中止命令を携えてくるなら即刻服従の外はない。故に、彼の到着善に決行してしまえ、というのが、今田以下実行部隊5名の熱説するところでした。その理由は、部外の策謀工作員として予備大尉の甘粕正彦などが資金を与えられて浪人や青年を擾乱作為に雇い、各地に予備工作を進めているので、ここで延期すれば全面遺漏は避けられない、「延期は放棄」を意味するというものでした。
しかし、さすがに板垣や石原は自重し、とにかく建川の話を聞いた上で後図を策しようとする方針に一同を宥めて(一説では鉛筆を転がすクジで決めたいう)散会しました。ところが翌日、今田大尉は花谷参謀を訪ねて前論を熱説し、あるいは今田一人で鉄道爆破を決行する意志が読まれたので花谷もついに同意し、直ちに板垣と石原を説いて、28日の予定を18日に繰り上げることに同意させ、かくて柳条湖の鉄道爆破となりました。その夜建川は奉天につくとその足で料亭菊文に招じられ、酒で眠らせるという策略の布団の上で急ピッチで杯を重ね、9時頃には前後不覚で酔体を横たえた10時頃、建川は爆音と銃声に目を覚ました、といった次第。
以上のような経過で、満州事変は、関東軍参謀作戦課長の石原中佐が中心となり、板垣、花谷、今田と計って専断強行したものでした。なんと御大の本庄司令官にも三宅参謀長にも一言の相談もなく、二、三の参謀だけでやってしまったのは、まさにウソのような本当でした。況んや軍中央部が時期と方法について別項の計画をもっていたものを、腰抜けと罵って聴従せず、日本国を世界世論の前にさらすような大事件を、三人の参謀が独断専行したこと。この事実は、東京裁判で戦時指導者たちが、日中戦争は『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったといういくら抗弁しても、どんな大義名分を持ち出しても、決して正当化できない、つまり隠し通す外ない一大過失だったのです。
事変勃発後、政府は「不拡大方針」を決定し、陸軍省も参謀本部もこれに同調しました。ところが、事変は夜を日に継いで拡大し、ハルピン、チチハル、錦州、熱河、後には長城を超えて拡大しました。そして、わずか半年後には政府や軍部の声明とは似てもつかぬ形に発展し、ついに満州国という傀儡国家まで造り上げてしまいました。満州国はやがて日本政府の承認するところとなり、「日満提携」は国策のイロハとして謳われるようになりました。板垣、石原たちには金鵄勲章が授けられました。
だが、このように、本来ならば軍刑法に照らし天皇大権の侵犯のかどで本庄司令官以下死刑に処せらるべき者たちが栄達を重ねていったことは、結果さえよければ、軍中央の統制にも服さず、上官の命令をも蹂躙して差し支えないという、およそ近代国家の軍隊とは思えない無統制・無規範ぶりを軍内に蔓延させることになりました。
まして、彼らの行動は、中国の主権・独立の尊重、門戸開放・機会均等を謳った九カ国条約や、自衛戦争以外の戦争の放棄や紛争の平和的解決を謳った不戦条約などの国際条約に真正面から挑戦し破壊するような行為でした。アメリカの国務長官のスチムソンは、1936年の段階で、満州事変という「侵略行為」の成功がイタリアやドイツなどの国際協調政策に「不満なる独裁政府」に元気を与えた、と認識していました。つまり第二次世界大戦の突破口は満州事変によって切り開かれたと認識していたのです。
その後の日本軍はどうなったか、それは次回以降に論じるとして、石原莞爾の話題にもどりますが、彼はその後、以上述べたような満州事変における致命的過失に気づいて、それを心底深く悔いたのではないかと私は推測しています。それが、後に彼をして「満州国独立論」「五族協和「王道楽土」の満州国建設という理想論に憑かしめた理由ではないかと。その石原は、昭和11年、2.26事件に際してうまく立ち回ったことから、参謀本部作戦部長の要職に就きました。そのころ、華北では、関東軍が政略活動による華北五省の分離工作に走り、蒋介石との本格的軍事衝突が懸念される事態になっていました。
そこで、石原は断然彼らに「不拡大」を指示しました。しかし関東軍がどうしても聴かないので単身長春に乗り込み、参謀達を集めて一条の訓辞を試みました。訓辞が終わると、武藤章中佐が起って「それは閣下が本心で言われるのですか」と臆せず発言しました。石原はそれを叱して再び軍中央の方針と対局論とを述べると、武藤が平然として「自分達は石原閣下が満州事変の時に遣られたことを御手本として遣っているのです。褒められるのが当然で、お叱りを受けるとは驚きました」と討ち返した、といいます。
こうして、日中戦争そして太平洋戦争は、満州事変の、およそ法治国家とは思えない無軌道・無規範、むき出しの暴力肯定の行動哲学を基調として、おし進められることになるのです。秦郁彦氏は「日中戦争」には三分の理、太平洋戦争には四部の理があるとして、満州事変には一分の理も見いだせないといっています。重要なことは、この一分の理も見いだせない「満州事変」の延長に「日中戦争」も「太平洋戦争」もあるということです。東京裁判において日本側は、これを「自衛戦争」とか「アジアの開放」という言葉で正当化しましたが、もし「満州事変」の真相が明かされたらどうなったか。
「自衛戦争」とか「アジアの開放」とか、そのような抗弁どころか、近代法治国家としての日本の信用はその瞬間地に墜ちる、この恐怖こそ、関係者が一様に口を閉ざしたその本当の理由だったのではないでしょうか。 
 
満州事変は日本の「運命」だったか

 

このあたりで、「日本近現代史における躓き―「満州問題」のまとめをしておきたいと思います。
戦前の日本人にとって「満州問題」とは、朝鮮の独立問題をめぐって勃発した日清戦争に日本が勝利し、その結果、遼東半島が日本に割譲されたことに起因します。これに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の中国への返還を要求し(三国干渉)、日本はやむなくそれに応じましたが、その後、日本が日露戦争に勝利した結果、それまでロシアが支那から租借していた関東州と南満州、安奉両鉄道の租借権を日本が譲り受けることになりました。
これによって、日本は、関東州租借地を完全な主権を持って統治し、南満州、安奉両鉄道の経営は半官半民の南満州鉄道株式会社(略称満鉄)にあたらせることになりました。日本はこの満鉄を通じて鉄道付属地の行政にあたりました。この満鉄の付属地には、奉天や長春など人口の多い地域をはじめとして15都市が含まれ、これらの地域では、日本は、警察・徴税・教育・公共事業を管理しました。また、租借地に関東軍を置き、鉄道の沿線地帯(線路の両側合わせて62m)には鉄道守備隊を駐屯させ、各地方に領事館や警察官を配置するなど、満州諸地方に武装部隊を置きました。
その後1915年の「二十一箇条要求」で、これらの租借期限(ロシアが得ていた租借期限は25年)を99年に延長するとともに、日本国民が南満州において旅行、居住し、営業に従事し、商業、工業及び農業のための土地を商租する権利を得ました。
ところで、満鉄経営の基本政策は、満鉄線に連絡する支那の鉄道建設に対してのみ資本を供給し、そうすることによって満州内の貨物の大部分を租借地・大連から海運輸出するために直通輸送しようとすることにありました。しかし、支那にすれば、満鉄のような外国管理の施設が国内に存在し鉄道輸送を独占することはおもしろくなく、そのため満鉄の発達を妨害しようとする支那の試みは張作霖の時代からありました。張学良の時代になると南京政府の利権回復運動とも相まって、日本の独占的・膨張的な政策との衝突を繰り返すようになりました。
1931.9.18日の満州事変以降日本は、その武力行使を正当化する根拠として、日本の満州における以上のような「条約上の権益」が侵害されたと主張しました。
第一の非難は、1南満州鉄道付近にそれと平行する幹線および利益を害すべき支線を建設しないという、1905年の取極(「満州に関する日清条約付属取極」)があるにもかかわらず、張学良政権が満鉄包囲網というべき平行線を敷設したこと。2南満州において、各種商工業上の建物を建設するための土地あるいは、農業を経営するための土地を商租する権利が1915年の「南満州及び東部内蒙古に関する条約」によって認められているにもかかわらず、たとえば、間島における朝鮮の農民が土地を商租する権利が中国側官憲の不誠意によって実現されていないこと。
第二の非難は、満州の都市部・華中・華南で広く見られた排日貨、対日ボイコットが中国側の組織的な指導によってなされているという主張で、これが不戦条約第二条(「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段に依るの外、之が処理または解決を求めざることを約す」)の明文またはその精神に違反する、というものでした。つまり、これらの条約で規定された守られるべき日本の権利が蹂躙された以上、それを実力で守ってどこが悪いか、というものでした。
しかし、第一の1については、「付近の平行線」の定義が明確でなく、欧米の慣行では約12マイルから30マイル以内の鉄道を「付近」としていたそうですが、日本が平行線と非難した錦州―チチハル間の鉄道は最短の部分で100マイルも離れていました。また、2については、「外国人の内地雑居は領事裁判権と密接な関係があり、そのため中国側は、多くの日本人(朝鮮人含む)が開港地以外の内地に雑居し、かつ中国の法律に服さないというのは、中国の主権の破壊になると主張し、領事裁判権を日本側が持つ以上は、内地雑居を許可できないと反論」しました。事実、こうした特権は外交上前例がなく、日本側もその無理は承知していました。
また第二については、これまで済南事件や張作霖事件における日本側の行動を詳しく見てきましたので事情はお分かりだと思いますが、こうした日本側の度重なる侵略的行為に刺激された結果、中国側も日本の条約上の権利を力で蹂躙するようになったのだ、ということもできます。なにしろ張学良は自分の父親を日本軍の謀略によって爆殺されたのですから、その彼に日本に対する友好的な態度を期待する方がおかしい。さらに、日本側の主張の根拠とされた、それまでに積み上げられた条約や規定の解釈自体にもグレーゾーンがあり、双方の解釈が異なっていたことも指摘されています。
こうしてみてくると、日本側の言い分にはかなり無理がありますが、関東軍は満州事変を引き起こす過程で、その武力占領の正当性を国民に納得させるため、日本は条約を守る国であるが、中国は条約を守らない国であるという宣伝に努めていました。確かに、1920年代の国民党による中国統一の過程で、排外主義的なナショナリズムが鼓吹されたことは事実です。幣原喜重郎はこうした中国の事情に十分な同情を寄せつつも、中国側が「事情変更の原則」を掲げて、前述したような既存条約の一方的廃棄を求めることを、国際関係の安定を脅かすものだとして明確に拒否していました。
幣原としては、1922年のワシントン体制の中核的条約である九カ国条約の中国における門戸開放や機会均等主義を「わが商工業は外国の業者の競争を恐れることはない。日本は実に有利な地位を占めている」として支持していました。同時に、満州においては、「日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互友好協力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況の確立」を目指していました。この時幣原は「支那人は満州を支那のものと考えているが、私から見ればロシアのものだった。・・・ロシアを追い出したのは日本」であり、このような歴史的背景を踏まえれば、以上のような日本の要求を中国側が尊重するのは道義的に当然である、という考えをその基礎に置いていたのです。
だが、こうした幣原の期待は、両国国民の友好関係があってはじめてできることで、しかしこの時は、済南事件で日本が中国統一を妨害したように受け取られ、張作霖爆殺事件以降は、張学良政権による意図的な反日侮日政策がとられていたのですから、そのための現実的基盤は失われていました。その結果、在満邦人はこうした反日・侮日政策に結束して対抗するようになりました。また、幣原外相が、在満同胞が「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発し、もう外務省は恃むに足らずとして、軍の支持のもとに「実力行使による満州問題の解決」を要求するようになりました。
もちろんこの間陸軍は着々とこうした満州問題の行き詰まりを武力で解決するための政治工作、世論作りを進めていました。そこに起きたのが万宝山事件(1931年7月、長春北30キロにある万宝山で発生した朝鮮人移民と中国人農民との衝突事件)で、これが朝鮮人虐殺事件と誇大に報道され(実際には死者は出ていない)、朝鮮国内で激しい排華暴動となり華僑100人余が殺害され、中国でも排日ボイコットが展開されるるという事態に発展しました。さらに、中村大尉事件(興安嶺地区の兵用地誌調査中の参謀本部の中村震太郎大尉らがスパイ容疑で張学良軍の殺害された事件1931.6.27発生)が8月17日公表されると、世論はいっそう硬化し、従来幣原を支持してきた朝日新聞も「小廉曲謹的」と幣原外交を批判するようになりました。また、政友会や貴族院においても軍部の主張する満蒙問題の武力解決を容認する政治的情況が生まれていました。
こうして、1931年9月18日、関東軍参謀の謀略による柳条溝鉄道爆破に端を発する満州事変が勃発しました。政府(第二次若槻内閣)は不拡大方針をとりましたが、関東軍は軍中央の協力、朝鮮軍の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、1932年2月までに東北の主要都市、鉄道を占領しました。この間奉天、吉林、ハルピン等に次々と地方独立政権を樹立させ、これらは連省自治制を採用して1932年2月17日東北行政委員会を発足させ、その名において、満州事変勃発後わずか半年後の3月1日、奉天、吉林、黒竜江、熱河の四省を中心とする新国家満州国の建国を宣言しました。発足時の政体は共和制とし、溥儀には「執政」の称号を贈りました。
この間、12月11日には若槻内閣が総辞職し幣原外交はここに終焉することになりました。続いて犬養政友会内閣が成立し、外相は犬養兼任、陸相は十月事件でクーデター政権の首班に擬された満州事変積極的推進派の荒木貞夫が就任しました。そして、翌1月6日には陸、海、外三省の関係課長は次のような「支那問題処理方針要項」を決定しました。いうまでもなく、先の新国家満州国の建国は、こうした日本政府の方針・要綱に沿って進められたのです。
「方針一 満蒙については、帝国の威力の下に同地の政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において、帝国の永遠的存立の重要要素たる性能を顕現するものたらしむることを期す。二(略)。要綱一 満蒙はこれをさしあたり支那本部政権より分離独立セル一政権の統治支配地域とし、逐次一国家たる形態を具備するごとく誘導す。・・・成立する各省政権をして逐次、連省統合せしめ、かつ機を見て新統一政権の樹立を宣言せしむ(以下略) 」
以上、「日本近現代史に於ける躓き」における最大の難問である満州問題、その発端から満州国建国に至るまでの経過を見てきました。ではこうした歴史の展開をどう見るか。岡崎久彦氏は次のようにいっています。
中国の国家統一が進展しそれが「満州に及んだ場合を想像すると、日本は在留邦人の希望に添った現地保護主義をとらざるを得ず、その場合、中国側との衝突路線を歩むのは不可避である。現地保護主義を抑えて(幣原の)不干渉主義を貫く場合、中国側の有識者のなかには日本の政策の理解者もあり、日本の権益を保護しようとしてくれたかもしれないが、中国の国権回復のうねりはそういう妥協を許したかどうかもわからない。双方によほどの良識ある外交とそれを実施する指導力がないかぎり、悲劇は運命づけられていたといえる。」
さて、その「運命」ですが、確かに歴史はそのように進んだのですが、では、そのような「運命」を決定づけた歴史的条件のすべてが不可避であったかというと、私は必ずしもそうはいえないと思います。本稿では、その歴史的条件の一つとして、当時の軍部とりわけ青年将校グループが満州占領、政治革新へと突き進んだその異常な心理状況を説明しました。また、そうした青年将校達を熱狂的に支持した国民世論がどのように形成されたのかを見てきました。では、はたして、こうした事態は回避できたのでしょうか。 
 
独立自尊の歴史観

 

政治家森恪の大罪 
前回、私は、「日本の安易な『アジア共同体思想』が日中戦争を引き起こした」ということを申しました。また、対米英戦争についても、その原因をアメリカに求めるのは無理がある、とも申しました。以前、私は、多母神さんの主張について私見を述べた時、日中戦争については”慢鼠、窮猫に噛まれる”。日米戦争については、アメリカは”窮鼠猫を(南方で)かませる”つもりだったが、油断していて真珠湾をかまれた”というのが、妥当なところではないかと申しました。
多母神氏は、”日中戦争、日米戦争とも、日本は謀略により戦争に引き込まれた”といっています。いわゆる「謀略史観」というやつですね。また、”日本は大東亜戦争においてアジア諸国の植民地解放といういいこともした”ともいっています。しかし、前者については、日中戦争の原因(満洲の謀略による軍事占領や華北分離工作など)を作ったのは日本ですし、日米戦争については、日本が中国との戦争を終息できず、逆に、米英の敵であるヒトラーと同盟して南方進出をはかったことがその原因です。
そもそも、日本に、”アジア諸国の植民地からの解放”という大義が当初からあったのなら、なぜ日本は、中国と戦争するようなことをしたのか。確かに、中国が革命外交と銘打って、日本の満洲権益を閉め出そうとしたのは間違いでした。また、張学良のとった対日強硬策が満州事変の暴発を招いたことも事実です。しかし、国民党にそうした政策を採らせたのは、日本軍が三次にわたる山東出兵を行い、その間済南事件を引き起こして、蒋介石の中国統一を阻止しようとしたからです。また、張学良については、その父張作霖が日本の説得を受け入れて満洲に帰還したのに、関東軍の一部将校が奉天郊外で彼を列車ごとを爆殺したことが原因です。
では、どうして日本軍はそのような行為に出たのか。それは、対ソ防衛という安全保障の問題に加えて、日本の人口問題や資源問題を解決するためには、満洲における権益拡大は、「日本の生命線を守る」という意味で不可欠の条件と認識されたからです。そのために、これを阻害する要因を武力で排除しようとした。これが、日中戦争を誘発することになった一次的原因です。(二次的原因は、こうした日本軍の行動を、日本人の安易な「アジア共同体思想」で正当化したことです。)
こうした日本軍の独善的行動の水先案内をし、彼らを政治の世界に引き込んだ政治家が政友会の森恪でした。その象徴的な行動が第一次山東出兵直後に開催された東方会議です。この会議の後に満蒙に対する積極策を説いた「田中上奏文」が昭和天皇に上奏されたと中国が世界に宣伝しました。これが偽書であることは今日明白ですが、しかし、そこに「森の依頼により少壮軍人と少壮外務官僚が作り上げた」タネ本があったことは間違いないと思います。
そこには、「満洲は中国領にあらず」とする主張や、ワシントン会議における九ヵ国条約や軍縮条約、さらに不戦条約に対する根本的批判がありますが、これは当時森が主張していたことでした。森はこれらの条約を廃棄し「東洋における日本人の自由活動」を確保することを主張していたのです。こうした森の主張を、独自の文明論で理論化しそれを正当化したのが石原莞爾でした。
こうした森の活動は、朴烈事件に始まり、第二次南京事件における幣原喜重郎外務大臣に対する「軟弱外交」批判、三次にわたる山東出兵(それが済南事件を引き起こした)、その帰結としての張作霖爆殺事件、ロンドン軍縮条約締結時の統帥権干犯事件、幣原喜重郎(首相代理)に対する「天皇の政治利用」攻撃、満州事変、そして五・一五事件と続きました。その目的は、軍を政治に引き込んで軍・政一体の政治組織を作り、積極的な大陸政策を推進することでした。
石原莞爾については、前回、その「最終戦総論」の一端を紹介しましたが、おそらく、その思想形成は、こうした森恪の積極的な大陸政策論を引き継ぐ形でなされたのではないかと思います。あえてその違いを指摘するなら、後者は、田中智学の影響で、それを東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式の中に、日本とアメリカをそれぞれのチャンピオンとして位置づけ、両者間の最終戦争を文明論的な宿命として論じている点です。
実は、東京裁判が行われた時、満州事変から太平洋戦争に至る日本の軍事行動について、そこに、世界支配のための「共同謀議」があったのではないか、ということが問われました。結果的には、被告25名全員の共同謀議が認定され、東條英機外7名に死刑が宣告されました。しかし、不思議なことに、そのトータルプランナー兼初期実行者ともいうべき石原莞爾はその訴追から免れました。(森恪は昭和7年に死去しています)
それは、東京裁判の時点では、満州事変が石原莞爾ら数人の関東軍参謀による謀略であることが、明らかになっていなかったことと、石原莞爾が廬溝橋事件の勃発に際して、不拡大路線をとったことによるのではないかと思います。しかし、この時彼が不拡大を唱えたのは、あくまで最終戦争に至る準決勝戦としての対ソ戦に備えるためであり、ここで中国と戦争すれば、持久戦となり国力を消耗する。それではアメリカとの最終戦争に備えることが出来なくなる、ということだったのです。
こうした石原莞爾の見通しについては、確かに当たった部分もありますが、しかし、その最終目的がアメリカとの最終戦争に勝利することであった以上、中国における軍事資源の確保は日本軍にとって至上命令でした。そして、それを蒋介石が受け入れない以上、中国との戦争は避けられなかったのです。トラウトマン和平工作が失敗したのも、日本がその資源確保のため、華北からの撤兵を中国に対して約束できなかったことがその本当の原因です。
そこで問題は、この石原莞爾の、このアメリカとの最終戦争を不可避とした思想が本当に正しかったのかどうかということですが、まず、その東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式は必ずしも石原の独創ではなく、「日蓮主義者」の田中智学に学んだものでした。それは、それが尊皇思想と癒着していることからも分かるように、「満洲生命線論」を智学の「汎日本主義」によって粉飾しただけのものではないでしょうか。
つまり、実際は、満州事変は日本の植民地主義的な権益確保(というより石原の当初のねらいとしては領土確保というべき)が目的だったが、それを正当化するため、より大きな王道文明vs覇道文明という対立図式の中に、アジアと欧米諸国とを位置づけた。それによって、日本の満洲占領という植民地主義的行為を、東洋の王道文明という概念でオーバーラップし、それを正当化しようとしたのではないかということです。
確かに、彼の最終戦争論は、武器技術の発達がその極限に達することによって、戦争そのものが出来なくなるという、今日の核時代における戦争抑止を予見したように見えます。しかし、それは、彼の戦史研究から導き出されたものであって、王道文明vs覇道文明という対立図式から生み出されたものではありません。つまり、この図式から日米戦争の必然性を導き出されたわけではないのです。つまり、彼の日米必戦論は彼の宗教的ドグマ(田中智学の宗論に依拠したもの)なのです。
しかし、このドグマが、当時の軍人のアジア観やアメリカ観を規制し、それが、満洲に止まらず、中国の華北五省、さらには東南アジアへと、日本軍を進出させることになったのです。それだけでなく、この思想は、「満洲生命線論」を核として連鎖反応的に膨張していき、それが日本人の伝統的な尊皇思想と結びつくことによって、日本国民全体のアジア観やアメリカ観をも決定的に拘束することになったのです。
先に述べたように、この石原莞爾が登場する前段において、彼ら軍人が政界に進出するための政治的条件を整えた政治家が森恪でした。おそらく彼がいなかったら、石原莞爾の出番はなかったでしょう。その意味では、彼こそ、「昭和の悲劇」をもたらした真正A級戦犯とすべきです。不思議なことに、そうした評は余り見かけませんが、日本の政治に軍を引き込み、統帥権という魔法の杖を彼らに渡したのは、犬養毅や鳩山一郎ではなく、この森恪こそがその元凶だったのです。
さて、以上で、森恪及び石原莞爾の政治的・軍事責任が明らかになったと思いますが、では、なぜ、満州事変以降、それまで地下に眠っていたはずの尊皇思想が、青年将校だけでなく国民一般の間に呼び覚まされることになったのでしょうか。それは、その時代の客観状況と、その思想とが共鳴現象が起こらない限りあり得ない事でした。
いうまでもなくその客観状況とは、関東軍の軍事行動によって満州領有が既成事実化したということでした。それと尊皇思想とが共鳴したわけですが、では、なぜ尊皇思想がこの客観状況に共鳴し、この時代の国民の意識を支配するようになったのでしょうか。
それは、この尊皇思想が、当時の腐敗堕落した立憲君主制度下の政党政治に代わる、一君万民平等主義思想及び家族主義的国家観を持っていたことによります。同時にこの思想は、反近代主義的農本主義やアジア主義的・(西洋)攘夷主義的国家観をも合わせ持っていました。
実は、この尊皇思想は、明治維新の指導的イデオロギーだったのです。しかし、明治新政府は、政権獲得するや否や攘夷ではなく開国政策に転じ、西欧近代文明の摂取に努めました。こうした政府の欧化政策に反対し、尊皇思想に基づく農本主義的国家を作ろうとしたのが西郷隆盛でした。しかし、これが西南戦争の敗北により挫折したために、この思想は、それ以降の日本の近代化の陰に隠れることになったのです。
それを再び地上に「昭和維新」として蘇らせたのが満州事変でした。これ以降この思想は、隊付き青年将校を中心に広がりはじめ、5.15事件、天皇機関説排撃事件、国体明徴を経て、当時の国民思想を全体主義的に拘束するものとなりました。そしてついに、2.26事件において暴発し、その首謀者は処刑されましたが、軍はそうしたテロの恐怖を背景に、その政治支配力を強化していったのです。
その後、昭和12年7月7日の廬溝橋事件をきっかけとして、8月13日には中国軍による上海の日本海軍に対する攻撃が行われ、日中戦争が始まりました。その後、幾度となく日本から講和の働きかけがなされましたが、ついに実を結ぶことはありませんでした。また、昭和14年には大政翼賛会の発足と共に政党は解散となり、それによって議会は有名無実となり、また、国民の間の言論統制も次第に厳しくなっていきました。
結果的には、この尊皇思想による全体主義的思想統制が、立憲君主制下の政党政治や議会政治を窒息させ、国民から言論の自由を奪い、軍に対する盲目的献身を生むことになったのです。しかし、もし、明治以降、この思想のもつ先に述べたような諸相が自覚的に認識されていたならば、それを立憲君主制下の諸制度と矛盾しないよう思想的整理をつけることができたかもしれません。
例えば、その家族主義思想は家族に返し、天皇は立憲君主制下の制限君主制として内閣の輔弼責任を明確にし、農本主義と近代主義の調和を図り、中国の主権を尊重しつつその近代化を支援すること、それをアジア地域に拡大し、自由貿易体制を推進すると共に、欧米の植民地主義の是正を求めていく。まあ、夢のような話ですが、この問題に気づいてさえいれば、尊皇思想を思想として過去に申し送る手がかりがつかめたのではないかと思います。
このことは、現代の日本の政治についてもいえると思います。というのは、今日なお、「昭和の悲劇」をもたらした伝統思想と近代思想のミスマッチによる思想的混乱を精算できていないように見えるからです。日本人の伝統思想である一君万民平等思想・家族主義的国家論、反近代主義的農本主義、アジア主義的攘夷思想と、立憲君主制下の民主主義諸制度との相克関係、これを今一度整理し直すことが、今日求められているのではないでしょうか。
その時関門となるのが、冒頭に記した日本人の歴史観の問題です。私は、日本国民一人一人が、「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つことが、今日求められていると思います。私は、福沢諭吉の「独立自尊」を支えた精神、あの明治維新期の革命的な社会変革を支えた精神をもってすれば、「昭和の悲劇」がもたらした思想的混迷を克服することも可能だと思います。 
攘夷思想よりディアスポラへの挑戦

 

自己絶対化を克服すること
司馬遼太郎には昭和が書けませんでした。精神衛生上悪いといって・・・。山本七平はその昭和を、戦場の自分自身を語ることでその実相を伝えようとしたのです。それは自虐でも美談でもなく、戦争で露呈した日本人の弱点を言葉(=思想)で克服しようとする試みでした。
そのポイントは”自己を絶対視する思想をいかに克服するか”ということで、そこで、尊皇思想における現人神」思想の思想史的系譜を明らかにしようとしたのです。氏の聖書学はそのためのヒントを与えるものでした。
浅見定雄氏を山本批判の切り札に援用されますが、浅見氏はmugiさんが最も嫌う”非寛容な一神教”クリスチャンで、思想的には”先鋭な”反天皇制、反元号、反靖国、反軍備、親中・朝論者です。 氏の著書を見ると、氏の意見に賛成なら”できの悪い”生徒でも及第点をもらえるが、その逆なら大変な目にあう、そんな恐ろしさが感じられます。
この強度のイデオロギー性は教師としては問題ですね。確かに、氏の山本批判(ただし、ベンダサン=山本七平とは言えない)には肯首すべき点もあります。しかし、それを台無しにするものがある。上記の点もそうですが、その論述に憎悪が感じられる点学者としては不名誉だし、クリスチャンとしては致命的です。(同様の指摘は立花隆、小室直樹氏もしています。)
そのため、氏は、山本七平の「日本人論」の優れた部分が全く見えなくなっている。もちろん、その動機はキリスト教左派(?)の立場からする日本の伝統思想批判ですから仕方ありませんが、これでは自虐どころか自国否定になりかねません。
山本七平の日本人論の独創性は、こうした日本人の思想形成における自国否定とその反作用としての自国美化の非歴史的循環論からいかに脱却するかということ。これを日本思想史の課題として捉えることで、そのベースとなる伝統思想を思想史的に解明することにありました。
私が山本七平を紹介するのは、その日本人論が、私たちが無意識的に生きている伝統思想を自覚的に把握し、それを対象化できるようにしてくれたと考えるからで、それが、次の時代の日本の思想的発展を考える際の議論の土台になると考えたからです。
攘夷思想よりディアスポラへの挑戦
中間がないというより、自己の考えと他者の考えを相対的な関係において捉えることができないということですね。自己の考えはどうしてできているか。それは、その人の素質や育った環境、受けてきた教育(=歴史)などによります。同様に、他者のそれもその人に与えられたこれらの条件によります。このことは民族や国家についてもいえます。
では、自己と他者の考えが現実問題の処理において対立した場合はどうするか。他者が圧倒的に勝っている場合は、自虐や自己否定に陥る。しかし、そうした心理状態は長くは続かないから当然反発心が生まれる。さらに、それを根拠づけようとすると自己の歴史の優位性を主張するようになる。それが行き過ぎると他者の存在を否定するようになる。
では、こうした悪循環からいかに脱却するか。それは自己あるいは自民族や国家の存在を歴史的に把握するということですね。というのは、自分はもちろん民族や国家も一種の有機体で独自の根をもって成長しているから、その現在を理解するためには、それが受けた他の文化の影響も含めて、それを歴史的に把握する必要があるのです。
日本の場合は、中華文明の圧倒的影響下にありましたが、海に隔てられていたおかげで安全を確保でき、独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明の影響力が圧倒的であっただけに、思想的には、それへの迎合と反発というパターンを繰り返さざるを得ませんでした。
確かに、かなの発明による国風文化や、器量第一の武家文化や象徴天皇制など独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明のもたらした仏教や儒教の思想的影響力は圧倒的で、それを自己の文化に取り込もうとする時、これらに対する迎合と反発というパターンの繰り返しから、完全に脱却することができなかったのですね。
明治になると、その迎合の対象が中華文明から西欧文明に切り替わりましたが、従来の中華文明に対する劣等意識の反動で、中国に対する優越意識を持つようになりました。次いで、西洋文明への迎合が反発に変わり、ついに東洋文明のチャンピオンが日本が、西洋文明のチャンピオンであるアメリカと対決する、という風に民族意識が変化していったのです。
同様の心理変化は戦後にも見られますね。最初はアメリカ民主主義に対する迎合、それからソ連共産主義、中国毛沢東主義へと次々に・・・。そして、それへの幻滅と反発、再び自己の歴史の正当化からその美談化へと・・・。それが現在の状況ですね。これを放っておくと、再び自己絶対化に陥ることになります。
では、そうならないようにするためにはどうしたらいいか。それは、先に述べたように、自己及び自民族を歴史的に把握するということです。それができれば、他者の文化も同様に歴史的に把握することができる。その上で、今後自分たちが生きのびていくためには、どのように彼らとつき合ったらいいか冷静に考えることができるようになる。
優れた中心文化に接ぎ木して生き延びるか、それとも自己独自の文化の芽を育てそれを発展させていくか。それは和魂洋才ということになるが、難しいのは、洋魂洋才が一セットであるということで、洋才だけ切り離して採り入れようとしても、洋魂の影響を免れ難いということです。
この問題をクリアーするためには、自己の文化を和魂和才一セットで把握する視点を持つことが大切です。つまり、自己の思想形成を歴史的に把握するということです。その上で、洋魂洋才の文化から何を学ぶか。その文化的遺伝子の内どれを、日本文化の新たな創造的発展に取り込んでいくかを考えなければなりません。
では、具体的にはどうするか。かっての「陸軍パンフ」は「たたかひは創造の父、文化の母である」といい国防国家建設を謳いました。これに対して美濃部達吉は、それは「国家既定の方針」(立憲君主制下の議会制民主主義=洋才)を無視するものであり、「真の挙国一致の聖趣にも違背す」と批判しました。このため美濃部は陸軍の怨嗟を受け、その後天皇機関説問題として糾弾されることになりました。
この場合、確かに、「文化的創造」も一面「たたかひ」だと思いますが、それが単純に戦争の勝ち負けに還元されたことが問題でした。というのは、すでにこの頃、西洋文明は「戦争を外交の手段」としてそれを合理的に処理する思想を持っていたのです。これに対して軍部のこの思想は「一か八か」の”賭け”の域を出ませんでした。
結論的にいえば、やっぱり、その思想の”「現実」コントロール能力が貧弱だった”ということですね。西洋文化は、戦争を外交という「国際社会の生き残り競争」の手段としてコントロールするだけの思想的したたかさを持っていたのです。では、日本人はこうした昭和の失敗の教訓から、何を学ぶことができたか。その思想を咀嚼しえたか。
これについては、否というより、こうした思想を持つこと自体を拒否しているように見えますね。でも、徳川幕府による260年間の平和でさえも、各藩の軍事力を最小限にコントロールする思想によって維持されたのです。では、今日の国際社会はどうか。その平和を「公正と信義」に基づく言葉のみで維持できるか。
それは、日本の江戸時代もそうであったように、現在の国際社会の平和を維持するためには、国連軍が各国の軍事力をコントロールする力を持たない限り無理だと思います。まして、宗教を異にする各部族、それも自己絶対化に陥りやすい部族や個人が大量破壊兵器を手にする時代の安全保障は、一層複雑かつ困難なものになると思います。
こうした現実を”見ない”、というより、”逃避する”ような思想では、「たたかひは自虐の父、自滅の母」というようなことになってしまって、せっかく日本人が歴史的に創造してきた独自の文化の根を枯らしてしまうことにもなりかねません。その時は、接ぎ木もさせてもらえず、日本文化は立ち枯れる外なくなります。
それは、結局、明治維新期に韓国や中国が陥ったような状況を、今度は逆のパターンで再現する事になるかもしれません。小松左京の小説に「日本沈没」と言うのがありますが、これは、日本人には一度ディアスポラが必要だというメッセージだとも言います。日本の若者には、攘夷思想なんかに陥らないで、ぜひ、このディアスポラに挑戦してもらいたいものですね。 
浅見氏の山本批判について

 

さて、浅見定雄氏の山本批判についてですが、山本は1988年6月22日号の朝日ジャーナルのインタビューを受けています。そこで浅見氏の指摘について問われ、あれはエッセーです。エッセーは楽しんでもらえればそれでよい。学術論文として扱われると問題があるのは当然で、私だってそのことはよく知っている、と答えています。また、ベンダサン=山本説については、この本の編集上協力したことは否定しないが著作権は持っていないと繰り返し、さらに、浅見さんの批判を無視するのかという問いに対しては、自分について書かれたことで自己弁護はしないと答えています。
また、このことについて小室直樹氏は次のように浅見氏を批判しています。
山本先生は本人が署名する場合は山本書店主と書いており、学者でないことは自他共に認めている。しかし、山本先生は学問的にはまったくの素人であるが、天才的な素人なのである。あの人の直感やフィーリングは、専門家としては最高に尊重すべきものなのだ。確かに山本さんの理論には、学問的に厳密に言えばいろいろな点で欠点があるだろう。しかし、才能もあって一生懸命努力している人には、プロは助言して励ますべきものであって、細かいことで難癖つけてつぶしてやろうなどということは、一切しないのが常識である。
事実、著名な聖書学者等の多くはそのようにしていますね。では浅見氏はなぜあのように敵意むき出しの山本批判をしたのか。実は、浅見氏は「山本ベンダサンのにせ知識と論理のでたらめさの指摘はダシのようなもの」で、「もっと心のわだかまっていたのは、『踏まれる側』の人間に対する彼の鈍感冷酷さと、『踏む側』の人間に対する彼らのへつらいや協力ぶりのことであった。こういう人が、日本の文化教育から『防衛』政策にまで影響力を行使している。この現象をあまり見くびってはいけないと思った。」と別著で述べています。
問題は、ここで『踏まれる側』と『踏む側』とは、どういう基準で分けられるかということですが、ここには氏の信仰(私にはイデオロギーのように見えます)が関わっていて、その最大のポイントは、氏の「象徴天皇制」に対する批判にあります。氏は1天皇が象徴であるというのは、天皇は私たち一般の人間とは異質だということである。2「その天皇が日本国及び日本国民統合の象徴であるというのは、国民以外の『よそもの』(朝鮮人や白人)は入ってはいけないということである」といっています。
つまり、「このように天皇を別格視する考えと、日本国(民)が自分を特別な民族だと思い込む精神とは、根本でつながっている」というのです。そして、「天皇が日本の象徴だということは、裏がえせば、日本の『世界に比類ない』特徴はこの国があの天皇家によって支配されてきたきた点にある」といっています。つまり、日本民族の優越性と他民族に対する差別性は「天皇制」から生まれていると考えていて、究極的にはその廃絶を主張しているのです。
では、こうした天皇制の基本的問題点を克服するための氏の基本的立場はどういうものかというと、「それは、あのガラテヤ人の手紙第三章二十八節に言いあらわされているような福音の真理・・・キリスト・イエスにあっては『もはや、ユダヤ人もギリシャ人』もなく(つまり日本人とか外国人とかの優劣はなく)、奴隷も自由人もない(つまり下層民とか天皇とかいうこともない)という、あの原則・・」つまり、こうした「人類普遍の原理」を国のすみずみまで生かしていくことだ、といっています。
この本は1988年に出版されたものですが、一見して、浅見氏の天皇制の理解は当時の戦後左翼のそれと同じであることが分かります。これに対して『日本人とユダヤ人』は、鎌倉幕府以来の「朝廷・幕府併存」という政治体制が、統治における祭儀権と行政権を分立させたものであるとして、日本人を「政治天才」と高く評価しました。つまり、この段階で、天皇制は「象徴天皇制」に変化したと指摘していたのです。また、その背後には、「日本教」とでもいうべき「人間教乃至経済教」(政治は義の実現より経済的安定を指向する)があるともいっていました。
浅見氏は、こうした論理による「象徴天皇制」の評価が許せなかったのでしょうね。しかし、浅見氏は『にせユダヤ人の日本人』の中では、この章にはほとんど触れていません。その代わり、他の章で、氏の聖書学がいかにインチキか、その日本人論がいかにでたらめか、氏の語学力がいかに低いかを執拗に攻撃しています。しかし、私は、氏の本当の山本攻撃のポイントはその天皇制論にあったのではないかと思います。しかし、ここに触れると、以上紹介したような氏の「象徴天皇制」否定のイデオロギーが露呈するのでそれを憚ったのかも・・・。
しかし、この点では、私は、ベンダサンの「象徴天皇制」の評価の方が正しいと思います。このことは、その後の『ベンダサン氏の日本の歴史』や山本七平氏の『現人神の創作者たち』などによって、この「象徴天皇制」が、朱子学の名分論の影響で、中国皇帝をモデルとする一元的絶対主義的天皇制へと転化していったこと。これが尊皇討幕運動を生み明治維新へとつながっていったこと。しかし、新政府は攘夷は実行せず、立憲君主制に基づく開国策を取ったこと。一方、尊皇思想は教育勅語に結実するとともに、政治制度としては、西郷の「殉教」によって地下に潜り、そのマグマが、昭和の政治的・経済的混乱を契機に地上に噴出したこと等、これまで昭和史の”なぞ”とされてきたことが、思想史的に解明されたのです。
その他、私は、浅見氏の「人類普遍の原理」による、民族や言葉の壁を越えた国際市民社会が実現するという考え方にも疑問を持ちました。また、宗教的信念に基づき、日本の「象徴天皇制」を「天皇特殊論」と断じ、それを差別の根源と批判するその思想の妥当性にも疑問を持ちました。まして、自分と異なる思想の持ち主を、『踏む側』の人間と決めつけ、『踏まれる側』の人間に対する鈍感冷酷さもつ人間と断罪することなど、はたして宗教家のやることかと思いました。
ところで山本七平には、その縁戚筋に大石誠之助(大逆事件で処刑=冤罪)がいて、両親はそのことで故郷を追われ東京に住んだクリスチャンでした。山本自身は、先の大戦では21才で陸軍に入隊し23才から25才までフィリビンのジャングルで戦い、飢餓線上をさまよい、最後は捕虜となり戦犯容疑も受けています。
そんな生い立ちと経歴から、氏は、次のようなことを『現人神の創作者たち』の「あとがき」で述べています。
「なぜそのように現人神の捜索者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命が持たないよ』までそれを続けようとするのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく。従って、私は「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できればそれでよかったまでで、著作として世に問う気があったわけではない。」 
また、氏は、復員後も戦争による後遺症に苦しみ、35才でようやく「社長兼社員」の山本書店を立ち上げ、その後、聖書学の専門図書を出版してきました。43歳の時、岩隈直氏が33年かかってまとめた「新約聖書ギリシャ語辞典」の出版を赤字覚悟で引き受けました(どの出版者も断った)。その出版費用の一部にでもと思ったのか49才の時『日本人とユダヤ人』を出版し、これが大ベストセラーとなったのです。その後、氏は多くの山本七平名の著書を世に送りましたが、その収益の大半は聖書学関係の本の出版費用に充てたといいます。
そんな氏に対して、平和な時代に、自分の時間を自由に使え「聖書学」を学びそれで生計を立てている人が、どうして「鈍感冷酷さもつ人間」などと山本七平の人格攻撃ができるのか。もちろん学問的な間違いを指摘することは私も大切だと思います。しかし、私は、山本七平の本領はその「日本学」にあると思っています。その独創的で日本人にとって極めて示唆に富む研究成果が、こうした攻撃によってアクセスを妨げられている。私はこれは誠に残念なことだと思い、非力を承知でその紹介にあたっているのです。 
鳩山首相の「善意」が生んだ「悪意」

 

ひょっとしたら、衆参同時選挙もあるかも知れないという、通常の常識では考えられないような状況に立ち至っていますね。それほど鳩山内閣の「政治主導」政治は混乱を極めていて、にもかかわらず、当の鳩山首相が異様に”落ち着いている”ものだから、田原総一朗氏なども唖然として、4月22日の田原総一朗の政財界「ここだけの話」では、次のような繰り言のような感想を述べています。
「おおらかなのか、現実離れしているのか
しかし、鳩山さんの心中はこうだろう。
「沖縄にこれ以上、迷惑をかけたくない」と考えているのは国民の皆さんも同じ。今は徳之島の方々は大反対だ。しかし、私が誠意を持って説明すれば、きっと理解してくれるに違いない……。
以上のように推測しない限り、鳩山さんがこの土壇場にきてもなお平然としていることが私には理解できない。普通の人ならノイローゼになってしまうところだ。でも鳩山さんはならない。何しろ「宇宙人」なのだから。
鳩山さんは、銀の匙(さじ)をくわえて生まれてきた。そして、銀の匙をくわえっぱなしで「雲上人」となった。ある意味ではおおらかであるし、ある意味では現実離れしていると言えるだろう。
この土壇場に追いつめられ、誰もが狼狽しているにもかかわらず、あの異様な落ち着きぶり。それは、こうでも考えないと理解できないのである。」
”普通の人ならノイローゼになってしまう”のに、なぜあんなに”ケロッ”としておれるのか、という不可解な思いは誰しも抱くところだと思います(さすがにここ二、三日は動揺しているように見えますが・・・)。私は、その理由について鳩山首相には「善意の論理」が働いていたからだ、と考えています。
本来なら、鳩山首相が本気で自らの善意=「沖縄にこれ以上迷惑をかけたくない」という思いを普天間基地問題の解決に生かそうと思うなら、まず日米安保の重要性を国民に訴え、そこから生じる米軍基地負担について、国民全体で担おうではないか、沖縄だけに負担させるのはおかしいではないか、ということを正面から国民に訴えかけるべきでした。
しかし、鳩山首相はもともと「駐留なき安保」論者ですから(一時的にそれを封印?しているだけ)、本音ではグアムにでも持って行けるとでも思っていたのでしょう。もともと「善意」の人ですから、その東アジア共同体構想に見るように、米軍の日本からの撤退がかえって中国との軍事的緊張緩和に役立つ、とでも考えていたのかもしれません。
でも、こうした「善意の論理」は、到底、極東における平和維持や日本の国益に役立ちそうにありません。何しろ中国は経済的には資本主義化しているものの、政治的にはいまだ共産党一党独裁下の全体主義国家に止まっています。私たちは、中国は資本主義の導入から次第に民主主義社会へと移行すると期待していましたが、今はそうした希望は抱けなくなっている、といいます。
「たとえば新鋭のミサイルや潜水艦の登場が物語る中国の軍事力拡大の実態、東シナ海で国威を発揚する国家主権の拡大の思考、宇宙やサイバーという領域での攻撃準備、そしてハゲタカと称される巨大な中国の国家ファンドの内幕・・・などについては、日本での情報は極めて少ないようである。」
そんな状況の中で、沖縄にある米軍海兵隊の機能を司令部(現行案ではこの機能だけをグアムに移すとしている)だけでなく実戦部隊も含めて全てグアムに移すということはどんなことを意味するか。岡元行夫氏は「文藝春秋」5月号で次のように言っています。
「米軍は、日本に『常時駐留』しているからこそ強い抑止力になっている。横須賀を母港とする第7艦隊の原子力推進の空母ジョージ・ワシントンは、艦載機を含めれば一隻二兆円する。随伴艦を含めれば三兆円に近い。これだけの艦隊を日本の首都のすぐ近くに置いているアメリカの政策が、周辺諸国にアメリカの日本防衛への強い意思表示になっているのだ。第五空軍(横田基地、嘉手納基地、三沢基地)と第三回海兵遠征軍(沖縄に展開)も同じだ。」
問題は、これらの部隊がそれぞれどのような機能を持っているか、ということではなく、これらを合わせた、海、空、海兵の三本柱を日本に維持し続けるというアメリカの姿勢が、周辺諸国に対して、『日米安保体制は単なる条約上の約束ではなく、実際に機能する枠組みである』ことを知らせているのだ、といいます。
そこで普天間基地の移設の問題ですが、もともと1996年に日米両政府が合意したのは普天間飛行場の「返還」ではなく、普天間にある海兵隊のヘリ基地を住宅密集地域から離すという基地の「移設」という話だった。つまり、これによって普天間は返還されるが、その代替施設をどこに置くかが問題だったというのです。
最終的には、2006年11月、辺野古崎沿岸部の海上にV字形滑走路二本を埋め立てることで沖縄県、名護市が合意し、アセスメントに着手しました。しかし、2008年の沖縄県議選で反対派が多数を占めることとなり、さらに2009年8月の衆議院議員総選挙で民主党が県外移設を約束したことで、話は振り出しに戻ってしまいました。
この結果、民主党は、普天間基地の移設先を県外または国外に探すことになりました。しかし、「普天間のヘリコプター部隊は沖縄に駐留する海兵隊の足だから、本隊から切り離すことはできない。移すのなら一万人の海兵隊員、キャンプハンセン、キャンプシュワブ、北部訓練場、瑞慶覧(ずけらん)の施設軍の全てを一緒だ。そんな場所が簡単に見つからないことは、誰でもわかる話だ」というわけで、鳩山首相は、今日のような窮地に追い込まれることになりました。
一方、鳩山首相や社民党の「国外案」を支持する人たちの中には、アメリカは「海兵隊のヘリ部隊だけでなく、地上戦闘部隊や迫撃砲部隊、補給部隊まで全てグアムに行く計画を持っている」と主張する人たちもいます。アメリカや日本政府がそれを公表しないのは、その移転費用を日本に負担しようとしている事実を隠蔽するためだ、というのです。
こうした意見に対して、岡本氏は次のように言っています。
「出て行ってくれと日本が言えば、海兵隊は去るだろう。その場合には、沖縄だけでなく日本全土からの撤退だ。沖縄から主力を引いた後海兵隊の残余の部隊を岩国や東富士に置いていても仕方がないからだ。・・・第七艦隊、第五空軍とならんで在日米軍を構成する海兵第三遠征軍が仮にも日本から撤退する事態となれば、日米安保体制は一挙に弱体化する。中国にとって、これ以上の望めない喜ばしい事態が極東にやってくる。
中国は第一列島線(九州、沖縄列島、台湾、フィリピンを結ぶ線)の内側で力の空白ができれば、必ず押し込んできている。南ベトナムから米軍が引くときは西沙諸島を、ベトナムダナンからロシアが引いたときは南沙諸島のジョンソン環礁を、フィリピンから米軍が引いたときはミスチーフ環礁を占拠した。
このパターンどおりなら、沖縄から海兵隊が引けば、中国は尖閣諸島に手を出してくることになる。様子を見ながら最初は漁船、次に観測船、最後は軍艦だ。中国は一九九二年の領海法によって既に尖閣諸島を国内領土に編入している。人民解放軍の兵士たちにとっては、尖閣を奪取することは当然の行為だろう。先に上陸されたらおしまいだ。
そうなった際は、日本は単に無人の尖閣諸島を失うだけではない。中国は排他的経済水域の境界を尖閣と石垣島の中間に引く。漁業や海洋資源についての日本の権益が大幅に失われるばかりではない。尖閣の周囲に領海が設定され、中国の国境線が沖縄にぐっと近くなるのだ。」
この辺りの軍事専門的な判断は私にはできませんが、いずれにしろ、先の「第一列島線内」での力の空白を作らないことが重要なことは疑いないと思います。そのためには1沖縄に海兵隊の実戦部隊を置く必要があるか、2(民主党の小沢氏が言うように)第7艦隊だけでいいか、3その場合の兵力不足分は自衛隊が補うのか、はたまた、4こうしたパワーバランス的な考え方とは別に、中国との平和的な問題解決が可能か、これらの選択肢について検討を加える必要があります。
言うまでもなく、岡本氏は1の立場で、次のように2や4の意見を退けています。「『常時駐留なき安保』を主張する人たちは、同盟の基盤は人間感情であることを理解していない。都合のいいときだけ米軍に『戻ってくれ』と頼んでもムリだ。長年連れ添った妻に対して『もうお前の顔は見たくないから出て行け。しかしいいな、病気の時はちゃんと看病に来るんだぞ』と言うわがままが通用すると思っているのだろうか。」
もちろん、こうした日本の安全保障についてのアメリカ依存の考え方が、今日の日本人の防衛意識を劣化させていることは否めないわけで、3の考え方も今後重要になってくると思います。しかし、それはあくまでも日米同盟の重要性を損なわない範囲内で検討すべきことで、そのためには、「テロとの戦い」をはじめとするアメリカの安全保障政策に協力する姿勢も失ってはならないと思います。日本はいずれにしろ軍事大国にはなれないわけですから。
話を元に戻しますが、先に述べた鳩山首相の「善意の論理」についてですが、確かに、「沖縄にこれ以上、迷惑をかけたくない」という首相の思いは正しいと思います。問題は、その思いが、「駐留なき安保」という非現実的な安全保障政策に依存していたために、日米安保の重要性とともに「基地負担」を全国民で担うべきだ、という議論を正面から国民に訴えることができなかったことにあります。
その結果、日本国民の自らの国の安全保障についての自己責任の意識は、反基地運動の高まりによってますます希薄化することになると思います。また、沖縄の人びとの本土の人びとに対する不信感も一層増大することになるでしょう。さらに、アメリカの日米同盟の対する信頼感の低下を招くことになると思います。
鳩山首相の現実政治におけるリアリズムを欠いた「善意」が、「友愛」どころか「不信」と「悪意」をしか生み出さなかったことを、私たちはこの機会にしっかりと見ておく必要があると思います。
実は、同様の問題が、戦前の日中関係にも見られたのです。それが、今日に至るまで、大東亜戦争は日本のアジアにおける植民地解放という「善意」に基づくものであったか、それとも植民地獲得という「悪意」に基づく侵略戦争であったか、という日本人の歴史認識の亀裂にもつながっているのです。次回から、この問題について考えてみたいと思います。 
 
近代・昭和史諸説

 

石原完爾の個人的責任を免除した『未完のファシズム』 
『未完のファシズム』 片山杜秀著
引っかかった所、というのは次の箇所
「日本軍は日清・日露戦争までは「まぐれ当たり」で勝ったために自己の力を過信し、太平洋戦争まで暴走してしまった、という解説がよくあるが、その間には第1次大戦があった。これはそれまでの地域紛争とは質的に異なる総力戦であり、そこで勝敗を決するのは動員できる物資の量だから、日本のような「持たざる国」がアメリカのような「持てる国」に勝つことは不可能である。
これを誰よりもよく理解していたのは、当の軍人だった。したがって持たざる国である日本が戦争に勝つ道は、論理的には二つしかない
1. 日本より貧しい国だけを相手にして戦争する
2. 日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない
このうち1の路線をとったのが小畑敏四郎などの皇道派であり、2をとったのが永田鉄山などの統制派だった、というのが著者の理解である。」
えっ、そんな皇道派と統制派の分類ができるの?これでは皇道派の方が現実的な思想の持ち主だったということになるじゃないの!というのが私が最初に感じた疑問でした。そこで、本文を読んでみたわけですが、小畑の、「日本より貧しい国だけを相手にして戦争をする」というのは、満州事変のような「戦争」のこと。実際、小畑は、石原完爾の満州事変における作戦指導を「速戦即決の『持たざる国』の理想の戦争」として絶賛していました。
また、満州事変後、陸相となって宇垣派を逐い皇道派全盛時代をもたらした荒木貞夫は、満州事変の軍国気分を背景として、「盛んに国体精神の高揚を説き、満州事変の意義を強調し、内政の改革」を論じていました。なお、皇道派の対内外政策は「農村救済論と対ソ予防戦争論の二つ」に代表されますが、ここにおける「対ソ予防戦争論」とは、本書では次のように解説されています。
「持たざる国」が「持てる国」相手に長期戦争をしても勝ち目はない。ロシア革命のように国体を護持できぬ危険も高まる。第一次世界大戦後の日本の仮想敵はアメリカ、イギリス、ソ連等の「持てる国」ばかりであって、彼らと正面きっての本格戦争を遂行する力は日本にないと断ずるよりほかはない。避戦に徹するべきである。けれどソ連とは満洲の利権を巡って衝突する可能性を否定できない。最も起こりうる戦争である。そのための万全の準備は必要だ。
といっても日本のような「持たざる国」がソ連の国土に侵攻するなどという事態は破滅的だから不可である。防衛戦争のみにする。日本の縄張りに突入してきたソ連軍とだけ戦う。その場合、日本陸軍にとって参考になる最近の例はやはり第一次世界大戦の東部戦線だ。東部戦線でのドイツ軍以上の作戦指導と兵の戦意維持を可能とするように軍隊教育で徹底する。将校はタンネンベルクの包囲殲滅戦を学習し、兵隊には必勝の信念を植えつけなければならない。
ソ連軍は日露戦争や第一次世界大戦でのロシア軍並みと想定する。小畑が東部戦線において肌で知ったロシア人気質の横溢した統率の粗雑な軍隊である。ソ連軍はきっと日本軍よりも遥かに大人数だろう。それでも予想通り粗雑な軍隊であれば包囲殲滅も可能なはずである。こうした条件が全部揃った限定的短期戦争だけがポスト第一次世界大戦時代に日本陸軍が行える戦争だというのが、小畑のたどり着いたところだったのです。
小畑を実質的な産みの親とする新しい『統帥綱領』や『戦闘綱要』も局限された状況でしか活きない代物だったのです。
小畑には、そして荒木貞夫にも、次の戦争は必ずこの形だという絶対のヴィジョンが有されていて、『統帥綱領』や『戦闘綱要』はそのために当て書きされたと考えるとしっくり来るのです。」
ここに、『統帥綱領』が出てきますが、この本は、司馬遼太郎が『この国のかたち1』「6機密の中の”国家”」で次のように紹介したものです。
「・・・『統帥綱領』の方は昭和3年、『統帥参考』のほうは昭和7年、それぞれ参謀本部が本にしたもので、無論公刊の本ではない。公刊されれば、当然、問題となったはずである。内緒の本という以上に、軍はこの本を最高機密に属するものとし、特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
特定の将校とは、「統帥機関である参謀本部所属の将校のことである。具体的には陸軍大学校に入校をゆるされた者、また卒業して参謀本部で作戦や謀略その他統帥に関する事項をうけもつ将校をさしている。」
ここでは『統帥参考』の成立は昭和7年となっていますが、「統帥要綱と統帥参考は遅くとも1928年頃までに皇道派の鈴木率道により成立したと考えられる」そうです。また、皇道派の面々は、その「名前に反し・・・国家主義であるが、生きている天皇はないがしろにする傾向があり、要綱のなかに軍隊の忠誠の関係も含めて天皇に触れた箇所はない」。『統帥参考』にはありますが、軍隊の統帥は総て御親裁によるものとは限らず、ある範囲は統帥補翼機関に委任される、としています。
続いて司馬は次のように言います。
『統帥参考』の冒頭には、「統帥権」について、「・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ」と規定している。超法規とは、憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ、ということで、さらに、一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で補弼する)のに対して、統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定している。
「従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之が結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。」
もちろん「国家が戦争を遂行する場合、作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で、常識に属するが、しかし『統帥参考』のこの章にあっては、言いかえれば、平時・戦時をとわず、統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
・・・然レドモ、参謀総長・海軍軍令部長等ハ、幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ、憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・
つまり、「天皇といえども憲法の規定内にあるのに、この明文においては天皇に無限性をあたえ、われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」としている。
「さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や”国家事変”の場合においては、兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる、というのである。「大日本帝国憲法Lにおいては、その第一条に「大日本帝国八万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第二章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては、自分たちが統治する、という。
・・・兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ於テ、直接二国民ヲ統治スルコトヲ得・・・
・・・この文章でみるかぎり、天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する、とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。
要するに、戦時には、日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。
憲法に関するこのような確信に満ちた私的解釈が、国家機関の一部でおこなわれているということを、当時、関係者以外は知らなかったにちがいない。いまふりかえれば、昭和前期の歴史は、昭和七年に成立したこの機密”どおりに展開したのである。」
「統帥権の独立」は、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結時における「統帥権干犯問題」以降世間に知られるようになったものです。しかし、こうした考え方は、その二年前の昭和3年に、皇道派の理論家たち(鈴木や小畑ら)によって、参謀本部内の一部の将校だけが閲覧できる最高機密の”秘密文書”として成立していたのです。
このような「統帥権」の解釈が当時の幕僚軍人に共有されていたからこそ、天皇の意思を無視して満州事変を起こすことができたのです。その後、皇道派は、統制派を”3月事件や10月事件で「天皇大権を私議した」との批判を繰り返しました、しかし、上述したような明治憲法における統帥権の解釈自体が、「天皇大権の私議」であって、こうした考え方は「統制派」のみでなく「皇道派」にも共有されていたのです。
また、2の「日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない」という考え方を採ったのが永田鉄山などの統制派だった、という分類もおかしい。これは石原完爾の考え方で、著者も、「持たざる国」日本を何が何でも「持てる国」日本にすぐさま変身させようというラディカルな野心はおそらく永田にはない。」昭和3年1月、永田は木曜会の会合で石原の、全支那を利用して「持てる国」になるという話を聞いて、「石原の議論にはおよそ必然性がない」と呆れ気味だった、と書いています。
もちろん、永田と石原を「統制派」で括ることも無理で、永田を統制派の首領とするなら、永田は2の「戦争論」を否定していたのですから、統制派が「持てる国」との戦争を始めたとも言えません。もちろん、皇道派の戦争論は「対ソ予防戦争論」であって「持てる国」との戦争は否定していました。では誰が?というと、永田が皇道派の相沢三郎中佐に殺された後の武藤章や東条英機等ということになりますが、それは、「石原が引き起こした満州事変をきっかけとしてなし崩しに戦線が拡大した結果」という外ないものです。
では、なぜ、このような誰も意図しなかった「持てる国」との戦争=対米戦争を日本がやることになってしまったのか。著者は、「国家としての意思決定が機能していれば、どこかでブレーキがかかったはず」である。しかし、明治憲法には、内閣の最高意思決定機関としての権限がなく、軍の統帥権がそれから独立しているため、実質的な中枢だった元老の権力が(山県有朋を最後に)衰えた後は、軍部の「下克上」に歯止めをかける人がいなくなった、といいます。
では、誰が、こうした軍内部における「下剋上」を蔓延させたかというと、それはいうまでもなく、満州事変を引き起こした石原完爾ということになります。この本には、この事実が、酒井鎬次元陸軍中将の回想として次のように紹介されています。
「酒井が真っ先に批判するのは石原莞爾の起こした満洲事変です。それがもたらしたものは何であったか。「持たざる国」を「持てる国」に化けさせるバラ色の未来ではなく、単に仮想敵国のひとつ、ソ連との国境線を激増させ、「持てる国」との戦争リスクを高めただけであった。酒井はそう言うのです。
満州事変企図の一つに国防線の推進による国家安全保障の増進を欲したりとせば(中略)全く反対の結果を来す。これは幾何学的に見ても中心より遠ざかるに従ひ、円周の延長は増大するものにて、古来多くの政治家、武人の陥る錯覚にして考慮すべき教訓と信じ候。
領土ないし勢力圏が拡大する。国境線が長くなる。しかも国境線の向こうは仮想敵国のソ連である。「持たざる国」を「持てる国」にするつもりで満洲を獲得したつもりかもしれない。ソ連と日本本国の中間の満洲を獲得することで、スペースがとれ、日本がより安全になったというつもりだったかもしれない。
が、戦争を国家間の摩擦の極端化と解するならば、摩擦の起きる大なる場所は国境線に他ならない。国境線が長くなればなるほど、面と向かい合うところが増えれば増えるほど、仮想敵国と戦端の開かれるリスクが拡大する。「持てる国」になる前に戦争が起きる確率が格段に上がる。これが火中に飛び込むような乱暴な選択でなくて何なのか。酒井は怒るのです。
ついで酒井は、満洲事変が石原ら関東軍によって中央の意思を無視し独断専行で行われたことを重く見ます。世間にもありがちな視点ですけれども、酒井の視点は一味違うところがあります。彼は第一次世界大戦期のフランスの政治と軍事のありさまをつぶさに現地で見聞しました。
政治と軍事、さらに経済と社会までが一体となって強力な意思統率が行われなければ、総力戦遂行は不可能であると肌身で知りました。ところが日本の国家機構は政治と軍事をバラバラにし、また経済活動でも私権を積極的に擁護している。基本的には自由主義である。総力戦体制作りを考えるときには甚だしく不向きと言わざるをえません。
そんな多元的でまとまりのない日本をもっとまとまらなくしたのが石原だと、酒井は舌鋒を鋭くします。石原の独断専行が結果オーライで認められたがゆえに軍というひとつの組織の統率すらも失われ、多元化が促進されてついに歯止めが利かなくなった。特に「持たざる国」が総力戦時代に対応するには一元化が不可欠だというのに、石原は逆に日本の多元化を推し進めてしまった。酒井はそう考えるのです。
満州事変は出先当局が中央の意図に反し独断積極的に行動し、しかもこれが後日中央により是認、賞讃され論功行賞されるに及び、石原は英雄視され、これに倣はんとするもの続出(中略)
海軍上層部が僅かに一佐官たる中原に引きずられ北海事件、海南島占領迄にずるずると進み、蘭印に手を附けんとして始めて対米作戦の必然に気付き苦悶したるは上層部の無定見、愚鈍を示すものにして、かかることは当然、始めから判りきったことにて、若しこれを予見し得ざりとせば愚鈍であり、知りつつ引きづられたりとせば、その無責任を問はるべきと存じ候。この頃になると陸軍の下剋上の風が海軍に移行したることを示すものと存じ候。そして酒井はこの角田宛書簡を石原批判の駄目押しで締めます。
これを要するに、昭和に於ける日本の敗戦直接の近因は、実に対内、対外、政治、軍事何れの点より見るも満洲事変にあるやに感ぜられ申候。これを以て見るも石原将軍の研究は将来の課題と存じ候。」
本書は、このような歴史の教える教訓として、「背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。・・・転んだ時の痛さや悲しさを想像しよう。そうした想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう」ということをその末尾で述べています。
一方、その前段では、「酒井によれば、満洲事変という、将来の見通しにおいてもやり方においてもかなり乱暴な背伸びが強引になされて大きな歪みを生じ、ついにそれを補正出来なかったことが亡国の原因となるのでしょう。これは単に石原個人を責める話ではありません。酒井を支配しているのは、第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体に対する悔恨なのです。そういう感情が石原という個人を通じて語られているのです。」とも述べています。
石原個人より、「総力戦時代にうまく対処できなかった日本のあり方全体」を問題にしようと言うわけです。つまり、本書の書名「未完のファシズム」との整合性を図ろうとしているのです。しかし、では「完成したファシズム」だったら「持てる国」との戦争を回避し得たかというと、それは、さらに悲惨な結果をもたらした可能性が大。例えば、本土決戦の遂行など・・・。それを止めるたのが、権力の集中を防ぐ天皇中心の「しらす」政治、それを規定した明治憲法体制だった、とも言えるのです。
その「しらす」政治を理想とする明治憲法体制を逆用し、天皇の意思をも無視して軍が独断的に行動できるという統帥権の拡大解釈を梃子に満州事変を引き起こしたのが石原完爾でした。この結果、中国との持久戦争、次いで「持てる国」アメリカとの戦争をなし崩し的に始めることになったのです。そして、その絶望的な戦争の戦い方として生み出されたものが、玉砕という「死の哲学」でした。
つまり、この「死の哲学」が先にあったのではないということ。それを生み出したもの、それは、「持てる国」との戦争を必然とし、そのためには中国の資源を共有する必要があると考え、それを実行に移すため統帥権を拡大解釈して満州事変を引き起こし、軍内に下剋上を蔓延させただけでなく、日本の政治的統一を破壊した石原完爾の個人的責任が最も大きい、ということです。さらに言えば、こうした石原の行動を皇道派も絶賛していた、ということです。
しかし、それでは、「未完のファシズム」という書名と整合しない。そこで、酒井が指摘したような石原完爾の個人的責任を免除し、それを「第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体」の問題とした。もちろん、死を美化する思想的伝統が日本にあるのは事実---そのイデオローグとしては平泉澄で十分---ですが、玉砕という「死の哲学」は悲劇的な戦争の結果であって必ずしも原因では無い、本書の無理はそこにある。私はそのように感じました。 
「マッカーサー証言」について

 

――「自虐史観」からの脱却には役立つかも?
この証言は、司令官を解任されたマッカーサーが1951(昭和26)年5月3日に、米上院軍事外交合同委員会の公聴会で行ったものです。これを、小堀桂一郎氏らがニューヨーク・タイムズ紙の記事を基に証言録を入手、翻訳文と解説が雑誌「正論」などで紹介されました。
そのポイントとなる箇所は、日本が戦争に飛び込んでいったその主要な動機は、実は資源のない日本が、国家の生存権を確保するという意味におけるセキュリティーを確保する必要に迫られたためだった、と述べたところです。つまり、この時代(おそらく昭和初期)日本は戦争に訴えない限り、原料の供給は断ち切られ、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを日本は恐れた、というのです。
この証言が、都立学校の現代史の教材として英文で掲載されたことが話題になっているわけですが、産経新聞の解説では、これを「日本の戦争=自衛戦争」と認めたものと解釈しています。そして「東京裁判史観」の是正や「南京大虐殺」が中国の反日誇大宣伝であったことの認識とも合わせて、これを前向きに評価しているのです。
次は、以上のことを報じた産経新聞の解説です。
「この聴聞会が日本で広く知られるようになったのは、間違いなくこの一節によるだろう。「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れた。したがって、日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」いわゆる自衛戦争証言である。
重要性を考えるにあたり、二つの極東情勢をふり返る必要がある。「戦前の日本」と「戦後のマッカーサー元帥」である。
戦前の日本、とりわけ明治維新によって近代国家となった日本にとって、帝政ロシアと旧ソ連の一貫した南下政策は大きな脅威だった。
朝鮮半島が敵対国の支配下に入れば、日本攻撃の格好の基地となる。後背地がない島国日本は防衛が難しいと考えられていた。日露両国間に独立した近代国家があれば脅威は和らぐ。しかし李王朝は清朝に従属していた。その摩擦で日清戦争が勃発。清朝が退き空白が生じるとロシアが台頭、日露戦争となった。どちらも舞台は朝鮮と満州である。
西欧列強もまた、大きな脅威だった。当時の日本を小説にして世界へ伝えたフランス海軍士官、ピエール・ロティは、外国艦船が頻繁に出入りする長崎、横浜港の様子を書き残している。アフリカ、インドを経て太平洋まで到達した英仏などの艦船が近隣国を攻撃し、矛先がいつ日本に向くのか分からない、緊張の時代だった。
一方で、米国は、日本が韓国を併合したようにハワイ王国を併合し、こちらは現住民族を滅ぼした。日本列島の太平洋側に米国が封鎖陣形がはられた。
この経緯を作家の林房雄は「一世紀つづいた一つの長い戦争」と表現する。幕末の薩英戦争・馬関戦争で徳川二百年の平和が破られたとき「一つの長い戦争」が始まり、昭和二十年八月十五日にやっと終止符が打たれた。この百年の間、日本は欧米列強に抗するため、避けることのできない連続する一つの戦争「東亜百年戦争」を強いられたという。
しかし、こうした主張を戦後許さなかったのは、ほかならぬマッカーサー元帥だった。「日本は列強に伍して自国を守ろうとした」という主張は封じられた。GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官として占領統治を成功させるには、日本の過去を完全に否定しなければならなかったからである。
ときはくだり一九五〇(昭和二十五)年。マ元帥が常に口にした共産主義への懸念>は、朝鮮戦争で現実のものとなった。ワシントンは中国参戦後、日本を「防共の砦」とし、朝鮮半島を明け渡す可能性も示唆してきた。
マ元帥は、朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられた凶器となりかねない位置にあるため、朝鮮防衛を考えた。さらに、ソ連製のミグ戦闘機が飛来すると、兵站部だった満州爆撃の許可を本国に求めた。
朝鮮と満州の敵勢力を掃討して日本を防衛する。マ元帥のこの行動は、日本が戦前、独立を保つためにとった行動そのものだった。朝鮮の地に自ら降り立ち、大陸からの中ソの脅威に直接立ち向かってはじめて、極東における日本の地政学的位置を痛感し、戦前の日本がおかれた立場を理解したのである。
この証言に至る下りで、マ元帥は「日本人は・・・労働の尊厳のようなものを完全に知った」と証言した。士官学校卒業後、初の東洋だった長崎で「疲れを知らないような日本の婦人たちが、背中に赤ん坊をくくりつけ、手で石炭カゴを次から次へと驚くべき速さで渡す」のをみて驚嘆したという。こんな体験も日本観形成の要因だったかもしれない。」
なお、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)は「現在ではもっぱら国家安全保障national securityの意味で使われる」(平凡社世界大百科事典)の記述により、安全保障と訳した。」と訳者の註が施されています。
こうした意見に対して、ネット上ではいくつかの反論がなされています。肯首できる意見としては、「マッカーサー証言」全体の文脈の中で、この部分を、日本の大陸進出を「自衛」のための戦争と認めたものと解釈するのはおかしい、というのがあります。つまり、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)」を「自衛権の行使」という意味に解するのは間違っているというのです。
そこで、その証言部分を見てみます。
[ヒッケンルーパー上院議員] では五番目の質問です。赤化支那(中共:共産中国)に対し海と空とから封鎖してしまへといふ貴官(マッカーサーの事)の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。
[マッカーサー] はい。 太平洋では、私たちは彼らを迂回し包囲しました。日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが4つの島に犇いているのだということを理解して頂かなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は、量的にも質的にも、私がこれまでに接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間が怠けているときよりも、働き、生産しているときの方がより幸福なのだと言うこと、つまり労働の尊厳と呼んでも良いようなものを発見していたのです。
これまで巨大な労働力を持っていると言う事は、彼らには何か働く為の材料が必要だと言う事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき材料を得ることが出来ませんでした。
日本原産の動植物は、蚕をのぞいてはほとんどないも同然である。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫(すず)がない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在したのである。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。
したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分がその安全保障(「セキュリティ確保」)の必要に迫られてのことだったのです。
*この安全保障(「セキュリティ確保」)の部分の訳が、「失業者対策(保護)」であったり、「資源の確保」であったり、単に「安全保障」であったりいろいろです。
原料は、日本の製造業のために原料を供給した国々マレーシア、インドネシア、フィリピンのような国々の全拠点を、日本は、準備して急襲した利点を生かして抑えていた。そして彼等の戦略的概念とは、太平洋の島々、遠く離れたところにある要塞をも維持することだった。だから我々が、こうした島々を再び征服しようとすれば、我が軍の財産を搾り取られ、日本が攻略した地の基本的な産品を彼等が管理する事を許す条約に最終的には不本意ながら従うことになり、犠牲があまりにも大きいと思われた。
この事態に直面して、我々は全くの新戦略を考え出した。日本がある一定の要塞を確保したのを見て我が軍が行ったことは、こうした要塞を巧みに避けて回り込むことだった。彼等の背後に回り、日本が攻略した国々から日本へ到達する連絡路につねに接近しながら、そっと、そっと忍び寄った。米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった。
最終結果を見ると、日本が降伏したとき、少なくとも三百万人のかなり優秀な地上軍兵士が軍事物資がなく武器を横たえた。そして我が軍が攻撃しようとした要所に結集する力はなかった。我が軍は(迂回して)彼等がいない地点を攻撃し、結果として、あの優秀な陸軍は賢明にも降伏した。(以下略)」
これは、アメリカ上院の公聴会において、朝鮮戦争でアメリカが共産中国を屈服させるためにとるべきであった戦略について、議員がマッカーサーに意見を徴したのに対し、マッカーサーが答えたものです。その意味はその後の証言も合わせて考えると次のようになります。
マッカーサーは、それは、アメリカが日本に対して迂回包囲作戦をとったのと同じやり方で可能だったと言いました。日米戦争においてアメリカは、日本の東南アジアからの原料供給を封鎖する作戦をとった。それが功を奏して日本はギブアップした。
これと同様のことが中国に対しても言える。彼等は、かって日本帝国が持っていたような資源は持っていない。従って、彼等に対しては、かって日本に対してとったと同じような資源封鎖をすればよい。その封鎖は、国際連合に加盟している国々が協力すれば容易にできる。
中国が資源を得るための唯一の方法はソ連から供給を受けることだが、ソ連は極東の大部隊を維持するための輸送路を確保するのに精一杯だ。つまり、ソ連の中国に対する資源供給力には限度がある。だから、中国は海軍も空軍も持てないのだ。
私の専門的見地から言えば、中国の近代戦を行う能力はひどく誇張されたている。もし我々が、上述したような資源封鎖をやり、空軍による爆撃でその輸送路を破壊しさえすれば、然るべき期間内に、必ず彼等を屈服させることができたであろう。
従って、件の箇所の訳は、
「したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、その大部分が「資源を確保することで自国の生存権を擁護する」必要に迫られてのことだったのです。」と訳したほうがいいように思います。
従って、これを、マッカーサーが日本の満州事変から日中戦争そして大東亜戦争までの日本の戦争を「自衛戦争」と認めた、と解釈するのは、いささか我田引水のような気がします。マッカーサーが言っているのは、日本のような資源のない国に対しては、そうした資源封鎖が戦略上有効だということです。その主眼は、朝鮮戦争におけるアメリカの中国封鎖戦略の有効性を主張するためだったのです。
従って、日本の昭和の戦争をどう評価するか、という問題は、こうしたマッカーサーの言葉とは別に考えるべきです。この場合、日清戦争は、日本の安全保障上の観点から朝鮮における日本の清国に対する軍事的優位を確保するためのもの。日露戦争は、朝鮮における日本のソ連に対する軍事的優位を確保するためのもの、ということでよろしいのではないでしょうか。
では満州事変以降の戦争についてはどうか。満州事変の前後は、アメリカにおける排日移民法の制定、金融恐慌・世界恐慌とそれに伴う自由経済からブロック経済への転換、東北地方の冷害等も重なって、日本は未曾有の経済的困窮状態に陥っていました。そこで満州問題、つまり満州における日本の特殊権益の確保という問題が、俄然脚光を浴びることになったのです。
つまり、この時日本が直面していた問題は、直接的にはマッカーサーが指摘したような資源問題や移民問題であったわけです。また、満州における日本のプレゼンスを確保する、つまり、ソ連の共産主義革命に基づく膨張政策、中国における反日運動の高まりに対処するという観点から言えば、日本の安全保障の問題でもあったわけです。
では、そうした問題を解決するためにとるべき日本の外交政策としては、どのような政策を採るべきであったかというと、蒋介石と連携して中国の共産化を防ぐことが最大の戦略目標であったはずです。従って、こうした観点からその後の日本の行動を見る限り、満州事変のやり方や華北分離政策が有効だったとはとても言えません。
まして、中共の謀略にはまって泥沼の日中戦争に足を突っ込み、さらに南京事件を引き起こしてアメリカを敵に回しアメリカの経済制裁を受けることになった。これに対抗し資源を押さえるために仏印進駐をした。さらにドイツと軍事同盟を結んでアメリカを掣肘しようとして失敗し、結局、対米英戦争に引き込まれた。
こうした、その後の日本の行動が、満州事変当時の「資源確保や安全保障上の理由」だけで正当化できますかね。まあ、単純な「日中兄弟論」的な考え方しか持てなかったために、中共やソ連に騙され、あるいはアメリカに騙され、暴発させられて自滅したわけで、余り自慢になる話とも思われません。
まあ、それは、巷間言われるほど日本に悪意があったわけではないということの証明にはなると思います。よって、いわゆる「自虐史観」からの脱却には少し役立つかも知れません。しかし、そうした解釈から、日本人が昭和の戦争から学ぶべき真の教訓が得られるとは、私には到底思えませんね。 
福田恆存の『乃木将軍と旅順攻略戦』

 

半藤一利氏の『あの戦争と日本人』に次のような記述があります。
「乃木さんが十一月二十七日に二〇三高地砲撃を決断したとき、旅順艦隊はすでに廃物だった。いや旅順要塞攻撃自体が無効だったというわけなんですね。二十八センチ砲で目的を達していた。では二万にも及ぶ兵士は何のために死んだのか。」
この二十八センチ砲で目的を達していたというのは、「九月二十八日から十月十八日にかけて、密かに日本から二十八センチ砲というでっかい大砲が運ばれてきていて、山越しに旅順港を狙える場所からボッカンボッカンと砲弾を撃ち込んだ」ことで、旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んだ。弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた。その事実を、日本軍は二〇三高地を占領するまで知らなかった、というのです。
私はこの話を聞いて、二十八センチ砲による旅順艦隊砲撃の効果がはっきりしなかったというのもよく判らないが、それ以上に、ただその砲撃の観測点として必要とされた二○三高地を奪取するのに、二万人に及ぶ戦死者を出すような攻撃を繰り返したというのも、おかしな話ではないか。二〇三高地を含めた旅順要塞攻撃には、何か別の目的もあったのではないか、と疑問に思いました。
これについては、福田恆存が昭和45年12月に「乃木将軍と旅順攻略戦」という一文を書いていて、乃木が司令官を務めた第三軍の目的は次の三つであった、と言っています。(以下の引用はこの本による)
第一、初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった。それは、旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れる海軍の要請で、旅順艦隊を撃滅するため旅順要塞を落として貰いたい、ということから生じた。なぜなら、旅順要塞の砲塔は北面の陸に向かって作られていると同時に、南の海面に向かって味方艦艇の援護射撃もできるように造られていたから、それを潰して欲しいということだった。
第二、日本軍は、満州総軍作戦根拠地としての大連を確保せねばならず、そのためにはどうしても旅順の敵を安泰にしておくわけにはいかなかった。少なくとも北進する第二軍の後方を安全にする必要があった。
第三、この第一、第二の目的を達成することを任された第三軍は、旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に参加しなければならなかった。
つまり、第三軍は、海軍の要請に応じて旅順艦隊を撃滅するためにも、また、大連を確保し北進する大二軍の後方の安全を図るためにも、さらに、沙河、遼陽の会戦に一日も早く参加するためにも、旅順要塞全体を落とす必要があった。そのために、松樹山堡塁から東鶏冠山北堡塁にわたる東北正面と共に、二〇三高地を中心とする西方面の要塞群を攻め落とす必要があり、第三軍は、まず、東北正面を奪取することが旅順艦隊のみならず要塞の死命そのものを制することになると考えた、というのです。
つまり、旅順艦隊の撃滅だけが旅順要塞攻撃の目的ではなかったということですが、それにしても、もし、二十八センチ砲による砲撃で旅順艦隊が撃滅されたことが判っていれば、必ずしも旅順要塞を強襲して多くの犠牲者を出すような攻撃方法をとらなくてもよかったのではないか。第二、第三の目的を達成するためには、旅順港及び旅順要塞に籠もるロシア軍が出てくるのを迎え撃った方が、より少ない犠牲でその進出を阻止できたのではないか、ということです。
あるいはそれが、「初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった」ということなのかもしれません。しかし、海軍は旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れていて、陸軍に一日も早く旅順艦隊を撃滅するため、旅順要塞を落としてくれるよう要請していました。それによって、日本から朝鮮への軍需物資の輸送路も確保できるし、バルチック艦隊との決戦に備えて、黄海会戦等で傷ついた聯合艦隊を修理する時間を確保することもできる。
そこで、陸軍による旅順要塞攻撃が開始されました。第一次攻撃(8.19〜24)、第二次攻撃前哨戦(9.19〜22)、9月28日から10月18日までは9月20日に落とした南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃、第二次総攻撃(10月26〜30)がなされました。しかし、東北正面要塞は落ちない。11月9日には、大本営の山縣参謀総長が満州軍総司令官大山元帥に、「速やかに旅順艦隊を撃破し、我が海軍をして一日も早くその艦艇修理に着手せしめ、第二の海戦準備を整ふるの時日を得せしむること頗る必要なり。これが為めに第三軍はまづ敵艦撃破の目的を達すること急がざる可らず。(二○三高地攻撃勧奨=筆者)」(「機密戦争日誌」)と電報を打っています。
これに対して大山総参謀長は、次のように返電して大本営の要望をはねつけています。
一、旅順陥落を成るべく速かに、一方にはわが海軍をして新なる作戦をなすの自由を得せしめ、他の一方に於ては優勢なる兵力を北方の野戦に増加し、以て決戦の期を速かにせんと欲するは、貴電に接する迄も無くその必要を感ずる所なり。況んやバルチック艦隊の東航を事実上に目撃するに於てをや。
二、九月十九日を以て開始せられたる(第二回)攻撃に當り、予は(兒玉)総参謀長を特派し、親しくその攻撃の実況を目撃せしめたり。その当時、総参謀長より閣下に意見を呈したる如く、一気呵成の成功を望むためには新鋭の兵力を加へて元気よく、攻撃するの必要ありき。(註・第八師団を旅順に送れとの請求を云うなり)後略
三、さて更にこの攻撃を有効ならしむるためには、その間種々の思付もあるべくなれども、(東北正面)の松樹山、二龍山に對する攻撃作業既に窖室(こうしつ)に迄達し居る今日なれば、最早この攻撃計画を一変して他に攻撃点を選定する等の余地を存せず。唯計画せられたる攻撃を鋭意遂行するあらんのみ。而して、これ最終の目的を達するため、最近の進路たるべし。
四、二〇三局地を攻撃するを得策とする考案もあるが、二十八サンチ砲の如き大威力の砲を有せざる以前に於ては、此高地を占領して旅順の港内を瞰制する必要を感ぜしなり。然るに此高地自らは旅順の死命を制するものに非ず。且つ二十八サンチ砲を有する今日に於ては、港内を射撃するの観測鮎に利用せらるるに過ぎず。
港内軍艦に對する二十八サンチ砲の威力は、平時に於て予期したる如くならず。又、従って敵艦が如何の程度にまで損害を受くるやを識別することは、二〇三高地よりするも決して正確なる能はざるべし。故にこの高地を占領したる後も、猶今日の如くなるを疑はざるを得ず。寧ろ速かに旅順の死命を制するの手段を捷径となすに如かざるなり。然れどもこの高地に對する顧慮を拠棄せざるは勿論にして、第二項の攻撃を遂行するに當り、助攻撃をこの高地に向くるならん。
六、以上の理由に基き、第三軍をして現在の計画に従ひ、その攻撃を鋭意果敢に実行せしむるを最捷径とす。鋭意果敢の攻撃は、新鋭なる兵力の増加により初めて事実となるを得べく。新鋭なる兵力の増加は、第七師団の派遣に依らざるべからず。(後略)
つまり、二十八センチ砲が届く以前の砲による旅順港砲撃には二〇三高地を観測点とする必要があったが、二十八センチ砲を得たことで南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃が可能となった。そこで、二〇三高地を落としてそこを観測点にしたとしても、その砲撃の効果を正確に識別することはできず現状と余り変わらない。といっても、二〇三高地を落とすことを放棄するわけではないが、まずは、東北正面の要塞攻撃を継続することで旅順の死命を制する事が先である、と言っているのです。
なお、この意見に児玉も同調していることは、児玉がその後の第三軍による旅順港内の艦隊への砲撃を「二兎を追うべからず。二十八サンチは本攻に用ゆべし。無駄弾丸を送るべからず」と中止を命令している事でも明らかです。
しかし、第三次総攻撃(11月26日)における白襷隊は失敗しました。そこで白襷隊がダメとなれば二〇三高地を攻めるべきでは、という第三軍の要請によって、11月27日から二〇三高地への攻撃が開始されました。30日には一時高地を占領するもまもなく奪還されました。そこで12月1日には児玉が第三軍に来て指揮を執り、同士打ち覚悟の援護砲撃を繰り返すことで、12月5日に二〇三高地を陥落させることができました。
その時、この二〇三高地から旅順港を見たら、9月30日以来の二十八センチ砲による砲撃で、「旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んでいた」(おそらく目視できたのはここまででしょう。ただし、自沈だという説もあります)。また、「弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた」というのは占領後に確認されたことだと思います。
この二十八センチ砲による旅順港への砲撃は9月30日(半藤氏は28日)から10月18日までです。次いで10月26日にはじまる第二回総攻撃から、この二十八センチ砲を使った東北正面の要塞攻撃が開始されました。これにより二竜山堡塁は兵舎が破壊され東鶏冠山堡塁では火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙り、日本軍はp堡塁を占領することができました。
ここで留意しておくべきことは、日本軍は第一次攻撃の段階では要塞戦の戦い方を知らなかったということで、従って、その攻撃法が歩兵の突撃による強襲法となり多大の犠牲を生むことになったのです。しかし、第二次攻撃からは、第一次攻撃の反省を踏まえて急遽攻城戦法を学び、塹壕を掘って進む正攻法に切り替えました。それによって犠牲者の数もずっと少なくなりました。
問題は、先ほども申しましたが、この二十八センチ砲による旅順艦隊攻撃で、旅順艦隊が無力化されていることがもし判っていたとしたら、東北正面要塞への第二次総攻撃及び二〇三高地への第三次総攻撃は、じっくり時間をかけてより犠牲の少ない攻撃法がとれたのではないか、ということです。これが半藤氏の冒頭の問いにもなっているのではないかと思われます。しかし、第三軍には「旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に第三軍も参加しなければならない」という第三の目的もあったわけで、この方面のロシア軍の撃滅が求められていたことは間違いないと思います。それなしでは陸戦での勝利もなかったでしょうから。
以上、福田恆存の「乃木将軍と旅順後略戦」に引用されている資料を参考に、半藤氏の発した問いについて考えて見ました。この福田氏の論は、繰り返しになりますが、昭和45年12月に発表されたもので、本人も戦史には全くの素人と断った上でのものです。使用された資料も当時のものだけで、特別の資料が使われているわけではありません。にもかかわらず、その論述は、前回紹介したwikiの「旅順攻囲戦」の解説ポイントを押さえたものとなっています。改めて、氏の批評眼の確かさを再認識した次第です。
で、福田氏のこの論はその締めくくりとして、次のような、私たちが歴史を論じる際に心がけておかなければならないことを説いています。大変重要だと思いましたので、自戒を込めて紹介しておきたいと思います。
「近頃、小説の形を借りた歴史讃物が流行し、それが俗受けしている様だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善悪黒白を一方的に断定しているものが多い。が、これほど危険な事は無い。歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。
吾々は二つの道を同時に辿る事は出来ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見遙かし、ああすれば良かった、かうすれば良かったと論じる位、愚かな事は無い。殊に戦史ともなれば、人々はとかくさういう誘惑に駆られる。事実、何人かの人間には容易な勝利の道が見えていたかも知れぬ。
が、それも結果の目から見ての事である。日本海大海戦におけるT字戦法も失敗すれば東郷元帥、秋山参謀愚将論になるであらう。が、当事者はすべて博打をうっていたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であった。それを現在の「見える目」で裁いてはならぬ。歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を先ず持たねばならない。
そればかりではない、なるほど歴史には因果開係がある。が、人間がその因果の全貌を捉へる事は遂に出来ない。歴史に附合へば附合ふほど、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは点の連続であり、その間を結び付ける線を設定する事が不可能になる。しかも、点と点とは互いに孤立し矛盾して相容れぬものとなるであらう。が、歴史家はこの殆ど無意味な点の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重味が吾々に感じられるであらう。」 
『坂の上の雲』の旅順攻防戦の描写

 

改めて『坂の上の雲』の該当部分を読んで見ましたが、司馬遼太郎がこの歴史小説を書いた時点での資料の出所が偏っていたために、史実とはかなりかけ離れた描写になっているようですね。なお、半藤氏が紹介していた資料は、参謀本部編『手稿本 日露戦史』という全51巻の大著で、福島県立図書館にあるそうです。また、『極秘明治三十七八年開戦史』百巻以上のものが、宮中より防衛研究所戦史室にお下げ渡しになっているそうです。
そういう資料に基づいているのでしょうか、wikiの「旅順攻囲戦」では、『坂の上の雲』の乃木・伊地知無能論に立った旅順攻防戦の様子とは随分違った記述内容になっていますね。折角の機会ですから、以下それを分かりやすくまとめて見ました。NHKのドラマでは『坂の上の雲』の無残なまでの乃木等に対する批判は抑えられていますが、この本を読んだ人はその筋書きで見ますから、お二人の名誉挽回にはならないなあ、と少し気の毒に思いました。
以下、『坂の上の雲』で旅順攻防戦における乃木批判部分について、wiki「旅順攻囲戦」の記述内容を対比的に書き抜きました。
(旅順攻略戦の意義について)
旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。 開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた。
開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになった事は、旅順難戦の大きな要因として指摘される。しかし、近代戦における要塞攻防戦のなんたるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。
(旅順艦隊攻撃について)
第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。
二八センチ榴弾砲は、9月30日旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山披山を観測点として湾内の艦船にあらかた命中弾を与えた。しかし黄海海戦で能力を喪失した艦隊への砲撃はロシア将兵へそれ程の衝撃とはならなかった。それでも良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的に計18門が第3軍に送られた。
(旅順攻防戦おける28センチ砲の使用について)
*28センチ瑠弾砲を旅順要塞攻撃に用いる事は、第3軍編成以前の5月10日に陸軍省技術審査部が砲兵課長に具申し陸軍大臣以下もこれを認め参謀本部に申し入れていたが、参謀本部は中小口径砲の砲撃に次ぐ強襲をもってすれば旅順要塞を陥落することができると判断してこの提案を取り入れなかった。
その後8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に28センチ瑠弾砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25ー26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議して既に鎮海湾に移設のため移設工事を開始していた28センチ砲六門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。
しかし長岡談話によれば、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに28瑠弾砲の旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、陸軍大臣を説得したと、まったく逆のことになっている。
(203高地占領の時期と意義について)
第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。しかし仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる。
仮に高地の占領を維持できたとしてもこの時点で第三軍が所持する重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門、これに海軍陸戦重砲隊の12センチカノン砲6門だけであり装甲で覆われた戦艦を撃沈出来る威力は無い。最大の15センチ砲にしてもこれは海軍では戦艦や装甲巡洋艦の副砲程度の大きさでしかないし艦載砲より砲身が短いので初速、貫通力は劣る[48]。それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させられなければ第三軍は北方の戦線に向かうことができない。
艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。
次は、『坂の上の雲』に記された乃木無能論の主な根拠と、最近の研究成果を踏まえたそれに対する反論です。
1 単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。
*要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第3軍だけではなく大本営も満州軍も海軍も同様である。日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、ようやく7月に第3軍に対して第1回総攻撃を急遽しかも早期に実施するよう指示したほか、弾薬の備蓄量を日清戦争を基準に計算したため、第3軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた。
*第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。
*児玉(源太郎)次長の後を任された長岡はのちに「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦について・・・「第一回総攻撃と同様殆ど我になんらの収穫なし」と批判している。しかし、例えば9月の攻撃は、主防御線より外側の前進陣地を攻略対象としたものであり、龍眼北方保塁や水師営周辺保塁また203高地周辺の拠点の占領に成功している。
*また(長岡は)10月の旅順攻撃が失敗に終わったことについては「また全く前回のと同一の悲惨事を繰り返して死傷三千八百余名を得たのみであった。それもそのはずで、一、二、三回とも殆ど同一の方法で同一の堅塁を無理押しに攻め立てた」と述べており、主防御線への攻撃と前進陣地への攻撃の区別もなされず、また強襲法から正攻法へと戦法を変更したことについても触れていない。
2 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。
*日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である。
3 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。
*乃木や伊地知が毎月26日に総攻撃日に選んだことについて、「縁起がいい」とか「偶数で割り切れる、つまり要塞を割ることが出来る」などを理由としたなどを踏まえたものだろうが、真偽不明(筆者)
4 旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し、無駄な損害を出したこと。
*陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続といった、海軍の不手際も無視できない。
また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。
なお、海軍の要請を受けて、旅順攻撃を主目標としつつも、陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加えるという方針で煙台総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いたのは、御前会議を経て11月半ばになってからのことであった。
*司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。その為には港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当然203高地攻略も反対だった。
*満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。
しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると決心を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった。
5 初期の段階ではロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
*203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解は多くの著作に引用されているが、これは現在の研究によれば否定される。
6 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。
(児玉が第3軍司令部参謀を叱責した件)
*児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破したとも言われているが、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ましているので事実ではない。地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀だし、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではない(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)
(児玉が28インチ砲の陣地変更を命じた件)
また児玉が命じたとされる攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃も児玉は実質的には何もしていない。 既に28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更する事は当時の技術では不可能である。実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけである。
(児玉が味方撃ち覚悟の砲撃を命じた件)
味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたと機密日露戦史では記述されているが攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら敵味方か確認せずに発砲していた」と証言しており、児玉では無く第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた事が分る。
(児玉の指揮介入の件)
攻撃部隊の陣地変更なども為されておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものでは無かった事から見て、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落した事になる。
7 戦後、乃木自身がみずからの不手際を認めるがごとき態度を取ったこと。
*第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作という見方が出来る。
*白襷隊の惨戦のような明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。
以上、wikiの記述内容を整理してみましたが、歴史の解釈というのは使用する資料次第でこんなにも違ってくるものですね。まあ、『坂の上の雲』は歴史小説ではありますが・・・。 
阿比留瑠比氏「今こそ読み返したい『空気の研究』」

 

その書き出しですが、
「目には見えないながらも日本社会に強く広く根を張り、さまざまな場面でその存在をはっきりと意識させられてきた「空気」について、であります。私は「KY」(空気を読めない)という言葉が大嫌いで、従って「空気」という言葉もあまり記事その他では使用したくないのですが、とはいっても「空気」としか言い表しようのないその場を支配する何かがあるのは事実で、抵抗を覚えつつも何度か使ってきました。
そして、特に東日本大震災の発生とそれに伴う原発事故以来、この「空気」が顕在化してきたというか、非常に物理的圧迫感を持って体感できる気がするのです。私はこれまでの記者生活を通じ、慰安婦問題、沖縄集団自決問題、在日外国人問題…などを取材・執筆する過程で、常にこの「空気」の問題を実感してきましたし、政権交代時にも、抗い難い、逆らってもムダな「空気」の圧倒的な大波を体験もしました。」
では、このような日本社会における「空気支配」をどのように克服するか。かって山本七平は名著『空気の研究』で次のような警告を発した、ということで、いくつかの言葉を引用しています。その中心的部分は、《われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きている》《もし将来日本を破壊するものがあるとしたら、それは、三十年前の破滅同様に、おそらく「空気」なのである》ということではないかと思います。
この記事には、読者から様々なコメントが寄せられていますが、山本七平のいう「空気支配」の意味を、全体的に捉えることは決して容易なことではないような気がします。というのは、この空気支配というのは、必ずしも日本だけのことではなく、どこの国にも見られることですし、それを日本の集団主義や家族共同体思想と関連づけて考えれば、欠点と見えるものも裏から見れば長所に見える。では、その長所を生かし欠点を是正する方法はあるのか、ということになると、どうもよく判らない。
どうもそんなところに止まっていて、山本七平の提言を十分生かし切れない、というのが実情ではないかと思います。そこで、以下、私なりに、この問題、つまり、日本における空気支配の問題について考えてみたいと思います。 
山本七平のいう日本における「空気支配」とは、日本が「追いつき、追い越せ」の到達すべきモデル(既にその正しさが証明されたモデル)を持っている場合は、大変効果を発揮する。しかし、このモデルがなくなって、新たに進むべき道を選択せざるを得ない場合、ある「特定の観念」(未だその正しさが証明されていないもの)に感情移入し偶像化してしまうため、他の意見を一切受け付けなくなる。その結果、間違った選択をしてしまうことを言っています。
戦前について、その「特定の観念」を列挙すれば、1満州問題の解決について、満蒙を日本の生命線とし、武力に訴えてでもそれを守るべきとしたこと。2蒋介石の存在を、その生命線を守る上での障碍と決めつけ排除しようとしたこと。3西洋文明を覇道文明、東洋文明を王道文明とし、後者が前者を支配することが世界平和をもたらすとしたこと。4日中戦争が終わらないのは、英米が蒋介石を支援しアジアの植民地を維持しようとしているからで、従って、英米との戦争はアジアの植民地解放戦争であるとしたこと、などです。
これらは、そのいずれも、当時その正しさが証明されたわけではなく、1は、陸軍が自らの行動を正当化するために、全国遊説を行い、また既成事実化することで作り出した空気。2は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップを軽視ししたためにできた空気。3は当時の右翼イデオローグや石原莞爾等によって唱えられ、当時の知識人等の大量転向をもたらした最強の空気。4は、大東亜戦争の勃発に際して、日中戦争に植民地解放という新たな意義を与えることでできあがった空気です。
残念ながら、1は意図的な宣伝の結果できた「恣意的空気」。2は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップの評価を誤ったためできた「誤認的空気」。3は、日本の尊皇思想に基づく忠孝一致の伝統思想と、英米の自由主義思想に基づく政治思想(政党政治や議会政治)との葛藤が生み出した「攘夷的空気」(これは今でも未解決)。4は、日本人の日中戦争に対する負い目、それに起因する心理的負担を、資本主義超大国である英米に挑戦することで聖戦に転化した「幻想的空気」です。
これらは、そのいずれも、日本が明治の文明開化、富国強兵、殖産興業によって、一応、西欧をモデルとする近代化に成功したため、日本がモデル喪失状態に陥り、あるいは西欧の妨害を意識するようになったことで生まれた空気です。つまり、追求すべきモデルがなくなり、大正デモクラシー下の思想的混乱に耐えらなくなった結果、最も伝統的で抵抗の少ない尊皇攘夷思想を掘り起こしてしまった。そのため、明治維新以来、欧米に学び育ててきた政党政治や議会政治を否定する空気が生まれたのです。
この「空気支配」の問題を、今日の日本の政治状況において考えてみると、国内的には、少子高齢化の問題、社会保障費の増大などに起因する財政状況の悪化の問題、低成長経済の長期化等の国内問題等があります。また、地球温暖化問題やエネルギー問題等、特に原子力発電などは、世界的に見ても、未だその解決法が見つかっていない問題です。従って、日本がこうした問題の解決に取り組む場合、先に戦前の空気支配について述べたような、非合理的な空気支配に陥らないようにすることが極めて大切です。
その場合に心すべきこと。その第一は、議論の際に自分は「絶対正しい」とか「全き善人」だなどと思わないこと。つまり、自分の意見はあくまで「仮説」であって、他者と意見を戦わすことによって、はじめて、より真実に近い結論が得られると考えること。つまり、自分は「不完全なる善・悪人」にすぎないと見定めることです。その上で、科学的な議論の対象となるものについては、価値判断抜きに客観的論証により結論を得るよう努めること。価値的な議論で社会的な選択を必要とするものについては、論争を通じて選択可能な選択肢を提示し、その中から一つを選択することです。
当たり前のことで、そんなことなら分かっている、と言われそうですが、こうしたことができるようになるためには、まず、自分自身が、日常生活の中で無意識的に依拠している思想は何なのかということを、他の思想との比較などを通して、その客観的把握に努める必要があります。このことは易しいようで実際はなかなか難しい。
冒頭に紹介した阿比留瑠比さんの記事には、読者より多くのコメントが寄せられています。その中に、かって朝日新聞記者だった稲垣武さんの著書『朝日新聞血風録』からの引用文も紹介されています。
「とかくするうち、私はいままで朝日新聞社内で受けてきた言論弾圧に等しい仕打ちがなぜ起こったのか、その本質を反芻して考えるようになった。それは単に社内に親中国派、親ソ派がはびこり、また心情左翼が多いということだけでは解明できないだろう。
親中国派、親ソ派といえども、骨の髄からそういう心情に凝り固まっているのは少なく、社長や編集担当専務などお偉方がそうだから、保身と出世のために阿諛追従しているのが殆どではないか。また心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない。
考えてみれば、戦前に軍部に迎合し、戦争に積極的に協力したころの朝日新聞社内の状況もこれと同じだったのではないか。当時でもリベラルな思想を持っていた人たちは決して少なくはなかったはずなのに、一旦、社内の空気が軍国主義礼讃に傾き出すと、いちはやくその路線のバスに飛び乗ろうとする手合いが続出して、たちまち一種の雪崩現象が起こり、そういう風潮に乗るのを潔しとしない不器用なリベラル派は陰に陽に弾圧を受け、ついには左遷など不利益処分を覚悟しなければ声を出せないような状態に急速になってしまったのではないか。」
日本人が、なぜ空気支配に陥りやすいか。このことは、重ねて申しますが、日本人以外の民族が空気支配に陥らないということではありません。問題は、日本人には、それに対する抵抗力というか歯止めの知恵が弱いということ(「水をかける」もその一つだか)。では、その知恵を強化するためにはどうしたらいいか。その第一の関門は、まず、自分自身の依拠している思想的基盤を明確に把握すること。それを言葉で他者に説明できるようになること。それによってはじめて、自分と違う意見を持つ他者との論争が可能となり、より良い結論を得る事ができるようになるのです。
この点、日本人は、稲垣氏も指摘しているように、「心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない」という例が極めて多いのです。というのも、彼らの本当の思想は「空気を読みそれに従う」ことで、左翼思想は看板に過ぎないのです。だから、その時代に流行の看板思想に身を寄せたがる。その方が安全だから・・・その結果、事実から益々遠ざかっていく。
山本七平は、『存亡の条件』(この本は、昭和50年出版ですから、もう半世紀近く前のこと)の末尾でで次のように言っています。
「今の日本人ぐらい,自分が全然知らない思想を軽侮して無視している民族は珍しい。インド思想も、へブル思想も、儒教も、総てあるいは封建的あるいは迷信の形で、明治と戦後に徹底的に排除され、ただただ馬車馬のように、”進歩的啓蒙”の関門目がけて走り続けたという状態を呈してきた。その結果、『では、どうしろと言うのか』という言葉しか口にできない人間になってしまったわけである。その結果、諸外国を見回って(といって、見回ったぐらいで外国文化がわかったら大変なことなのだが)、あちらはああやっているから、ああしようといえば、すぐまねをし、また、こうしたらいいという暗示にかかれば、すぐその通りにするといった状態は、実に、つい最近まで――否、恐らく今も続いている状態なのである。
そのため、自分の行動の本当の規範となっている思想は何なのかということ、いわば最も「リアル」な事が逆にわからなくなり、自分が、世界の文化圏の中のどこの位置にいて、どのような状態にあり、どのような伝統の延線上にあるかさえわからなくなってきた。従って、まずこれを,他との対比の上に再確認再把握しないと、自分が生きているその基準さえつかめない状態になってしまったのである。そして、これがつかめない限り、人間には、前述のように進歩ということはあり得ない。」
「なるほど、では、どうしろというのか」。またこの質問が出るであろう。他人がどうしたらよいか、そんなことは私は知らないし、誰も知らない。」
民主党のばらまき政策の多くが、諸外国を見回って、あちらはああやっている、といってすぐまねをし、また、こうしたら良いという暗示ににかかれば、すぐその通りにする。その場合、彼らの思想的基盤がしっかり把握されていればまだいいのですが、その思想自体も借り物が多い。で、その本音の思想は、むき出しの金権、夢想的な人間性善説、なりふり構わぬ権力至上主義であったりするのです。この看板思想と実際の思想との恐るべき乖離、これが醜悪なまでに露呈しているのが、今日の民主党政治なのではないでしょうか。 
尾崎行雄の自由憲法擁護論

 

――憲法のためとしあらば此堂を枕となして討死も好し
前回、尾崎行雄の「天皇三代目説」を紹介しました。この中で尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法といい、これを盾に東条内閣下の翼賛選挙を憲法違反であると批判しました。ところで、この「明治憲法は自由主義憲法」と言う尾崎の言葉は、戦後生まれの私たちには意外な感じがします。そこで、尾崎がこの言葉をどういう考えのもとに使ったか。これを、1942年4月の翼賛選挙において、尾崎が選挙人に対して訴えた言葉に見てみたいと思います。
以下、引用文中→□□□□□←で囲った部分は、検閲により削除された部分です。なぜ、この部分が削除されたかを見れば、当局がなにを怖れたかもよく分かります。なんだか見え見えでおかしな感じもしますが・・・。 
最後のご奉公につき選挙人諸君にご相談(1942.4)尾崎行雄
憲法のためとしあらば此堂を枕となして討死も好し  (新議事堂にて)
私は少年の頃より、民選議院建設の為に尽力し、憲法実施後は、幸ひに諸君の御推薦に頼て五十余年間衆議院議員を勤めました。モハヤ余命幾何もない今日となって最後の御奉公の仕方を考へなければなりませんが、外に、君国の為にモツト有効な勤め道があれば、私は議員を止めても好いのです。然し一生を憲法の為に捧げて来た私としては、最後の御奉公も、矢張り衆議院議員として致す事が、最も有効だらうと考へてゐます。これが四囲の形勢太だ不利なるを知りつゝ、進んで第廿一回目の総選挙に出陣する所以であります。
然らば「御奉公の目的」はと問ふ人あらば、私は「帝室の尊栄と人民の幸福を保全増進すべき根本法、即ち帝国憲法を擁護育成するに在り」と答へます。此他の万づの国務は、此二大目的を完成する手段方法にすぎないのです。
源平以後、北条、足利、徳川時代は云ふに及ばず、其以前の藤原、蘇我時代と雖も、→皇室は常に御尊栄←なりしと申上ることは出来ません。まして人民の方は、斬捨御免の世に生活し、其生命財産の権利すら保証されて居なかったのです。此政治体制を革新し、上は皇室の御尊栄を保全し、下は人民の生命財産を安全ならしむる道は憲法政治の外にはありません。→然るに此大切な憲法政治が漸次紊乱して斬捨御免の独裁政治を称賛するものすら現出するやうになりました。←私としては明治大帝が畢生の御心労を以て、御制定遊ばされた憲法政治の為に、身命を擲つのが最善にして且つ最後の御奉公だと信じます。然し選挙人多数の賛成を得なければ、此御奉公を致すことはできないから、打開けて御相談に及ぶ次第です。
近来我選挙区にも、(一)自由主義者、(二)個人主義者、(三)民主々義者、(四)平和主義者、(五)親米英派、(六)軍縮論者、(七)翼賛運動反対者等の臭味ある者をば、選出す可からずと勧説する者があるさうです。是れは→尾崎には投票するなと云ふに均しい言行です。もしそれが直接と間接とを問はず租税や官僚の援助を受る者の所作であるならば明白な選挙干渉で、憲法及選挙法等に違背する行為です。←明治廿五年の→大干渉←にすら屈せずして、私を選挙した諸君ですから、→此位の干渉は物の数←でもありますまいが、余り辻褄(つじつま)の合はない申分ですから、一応弁明いたします。
第一こんな事を流布する人々は、自由主義を我儘勝手に私利私益のみを追及するものとでも誤解して居るのでせう。帝国憲法は、第一章に於て、天皇の大権を規定し、第二章に於て、臣民の権利義務を規定してゐますが、兵役納税の義務に関する第二十条と第二十一条を除けば、其他の十一条は悉く臣民の権利と自由を保証したものであります。→故に帝国憲法は自由主義←の憲法だと申しても差支ないのです。
帝国憲法第十九条は、日本臣民は(中略)均しく文武官に任命せられ及其他の公務に就くことを得と保証し、
 第二十二条は居住及移転の自由を保証し、
 第二十三条は身体の自由を保証し、
 第二十四条は正当なる裁判官の裁判を受るの権利を保証し、
 第二十五条は住所の侵入及捜索を拒む権利を保証し、
 第二十七条は所有権を保証し、
 第二十八条は信教の自由を保証し、
 第二十九条は言論集会及結社の自由を保証し、
 第三十条は請願権を保証してゐます。
→此の如き明文あるにも拘らず自由主義を排斥する人々は我が憲法を非認し、明治大帝の御偉業に反対する←のでせう乎。→自由の反対は非自由で奴隷生活監獄生活のやうなものだが真に之を好む者がありませうか、物は少し考へて云ふべきだ。曾て自由主義の英国と同盟条約を結んだ時、明治大帝は大いに之を嘉賞し時の内閣大臣をば一人残らず叙爵又は昇爵せしめ給はりました。大正天皇は秩父宮殿下を自由主義の英国に留学せしめ給はりました。←今日英米と開戦したからと申しても、此等の事実は、消滅しません。→口を極めて自由主義を悪罵することは明治大帝や大正天皇の御行為を誹節する事にもなりはしますまいか。←
第二、私は強ち個人主義者ではないが、我が国も古昔と違ひ今日は家に職と禄を与えず、個人の能否に応じて百官有司を任命する以上は、或る程度まで、個人主義を実行しているのです。一概にこれを排斥するわけには参りません。
第三、民主々義はデモクラシーの反訳(ほんやく)語で、民本主義民衆主義などと訳する人もあるが、要するに→輿論公議を尊重する←政治形体、即ち独裁専制の反対で、→明治天皇が御即位の初めに当り「万機公論に決す」と誓はせ給ひたる我が皇道政治と異語同質のものであります。←之を兎や角言ふものは、文字の末に拘泥して、其本義を解し得ない人でせう。
第四、平和主義者を排斥せよと言ふ人があるが、それは開戦以前に述ぶべき意見であって、既に宣戦の大詔が下った以上は、我が帝国臣民中には、一人も之に反対して、平和を主張するものはありません。現に衆議院が全会一致で、二百数十億円の戦時予算を可決した事が何よりの証拠です。
然るに米英と開戦後既に四ヶ月を経過し、平和主義者も一人残らず大詔を遵奉して、銃後に奉仕して居る今日に於て、之を排斥せよなどと言ふのは盛夏に於て炬燵を撤去せよと騒ぐが如き季節後れ意見です。ソンナに騒がずとも春暖になれば、炬燵は疾くに廃止されてゐます。
第五、親英米派、私は漢字と英語で学問をしたのですから、独伊よりも寧ろ支那や英米の事情を多く知ってゐます。然し帝国が既に独伊と同盟して英米と開戦した以上は、私は全力を尽して此国策に奉仕してゐる、又国家的見地より云へば、独伊派の奉仕よりも→英米派の銃後奉仕の方が一層有効な筈←ではありますまい乎。(味方の賛成は、当然だが、→敵方の賛成は国策遂行上一層有効な筈)然るに今回の選挙に限り此奉仕者を排斥せんとするは公私顚倒の言行のやうに思はれる。←
第六、→私の軍備縮少論、私は「国防を強化する方法を以てすれば軍備は成るだけ縮少した方が善い」と確信してゐます。←而して強弱は相対的のものだから、対手国が我よりも多く縮少すれば、国防は軍縮のために強化します。
現に往年の華府会議に於ては、我海軍は、→既成未成を通じて約四十万トン、米国は約八十万トン、英国は約六十万トン縮少したから五、五、三の比率となり我海軍は、縮少のため英米に対して強化したのである。←経費を減少し、国防を強化するのが、ナゼ悪い乎、真誠の愛国者は静慮熟考すべきである。
第七、翼賛運動反対者、明治大帝は立憲政体の詔書(明治八年四月十四日)に於て、翼賛の二字を御使用遊ばされ又憲法制定の御告文に於て「外は以て臣民翼賛の道を広め」と仰せられ、又憲法発布の際にも「其翼賛に依り」云々と宣はせられました。故に翼賛の二字は大帝の御用語であって、帝国議会は陛下の翼賛会であると、私共は確信してゐます。而して一朝事あるに於ては日清の役にも、日露の役にも、又支邦事変に際しても、私共は何人の勧誘をも待たず、平生の対立抗争を一擲して、挙国一致銃後奉仕の実を挙げました。歴代の政府は何れも叙勲其他の方法を以て、帝国議会の忠誠を表彰した。今回の支那事変に於ける帝国議会の翼賛行動を、前の二役に比べて、寧ろ優るとも劣る所はありません。→然るに近衛内閣以来の政府は明治大帝の御用語たる翼賛の二字を借用して自分等の公事結社に転用し、ついに租税と官僚の力を借りて以て新たな翼賛議会を製造せんと称している。明治大帝の建設し給ひ而も五十余年の歴史ある翼賛議会と異なる所の新翼賛議会を創造せんとするが如く見える←翼賛会が悪い乎、之に反対するものが悪い乎。挙国選挙人の公正な判断を待つ。
第八、→翼賛会関係者の候補者推薦は挙国一致体制を破壊す。←支那事変以後内閣は、幾たびも更迭したにも拘はらず、帝国議会は、各種の派別を一擲し全会一致して、日清戦争に百倍する予算其他の議案を可決した。政府は之に大満足を表すべき筈なるに、却て別に翼賛会を設け、→其関係者をして議員候補者に推薦せしむるの方針を執った。推薦に漏れた候補者は勢ひ之と対戦せざるを得ないだらう。従って候補者も選挙人も翼賛会派と其反対者とに分離して抗争することにならざるを得ない。全体主義とか一億一心とか言ひながら全国民を政治的に二分するわけになるが、それが戦時の国家に有利だと考へるのだらうか。←
第九、愛憎に由て事実を顛倒してはならぬ。独伊の独断専制主義は、今回の戦争には、奇功を奏してゐる。ソ聯の共産主義も、前回の帝政時代に比すれば、大に戦争に効果があるやうだ。然し之を見て、直ちに共産主義や独裁政治に心酔してはならぬ。特に我が国体は、全く独、露、伊に異ってゐるから、之を真似ることは出来ない。
又英米の自由国は、現在は戦争に負けてはゐるが、→此二国が非常な強大国になったのは自由主義時代の仕事であることを忘れない方が善い。目前の事態のみに眩惑して前後を忘れ、味方となれば痘痕をエクボと誤認し、敵になればエクボも之を痘痕と認定するが如きは、愛国者の最も警戒すべき所である。況や同盟や戦争は幾十年も継続するものではない。←国家と憲法は万世不易のものなるに於てをや。
第十、最後の御奉公、私は既に予想外の高齢に達してゐるから、政界を隠退し、余生を風月の間に送って好い筈ですが、私が身命を賭して、其育成に尽力した所の→立憲政治は漸次衰退して遂に官選議院を現出せんとするに至った。此儀に放任すれば明治大帝が畢生の御苦心を以て設定し給った政体も、遂に有名無実にならんとする恐れがある。←故に私としては成敗を問はず憲政擁護の大旗を掲げて最後の御奉公のために出陣せざるを得ないのです。
正成が陣に臨める心もて我は立つなり演壇の前
宇治山田市中島町一六一 配布責任者 阿竹斎次郎
これを見ると、日本の立憲政治確立のために半世紀をかけて戦ってきた政党政治家と、近衛文麿のような三代目の政治家との違いが分かりますね。前者には、日本の立憲政治は自分たちが作ってきたという自負があり、それ故に、彼らには、憲法や議会政治や政党政治などの民主的政治制度の価値や、それが国民自由の観念と密接に結びついていることを知っていました。しかし、三代目には、これらの制度が国民の自由の観念と結びついていることが分からなかったのです。
尾崎が生まれたのは、安政5年(1858年12月24日)、大日本帝国憲法が制定されたのは明治22年(1889年2月11日)です。翌、明治23年(1890年11月)には帝国議会開設に伴う第1回衆議院選挙が行われ、尾崎は三重県選挙区より出馬し初当選しています。それ以後、なんと63年間、連続25回の当選(これは世界記録)を果たしたわけですが、その彼の演説(=言論)を聞いていると、明治憲法下でこれだけの言論をなしえたことに驚かざるを得ません。
尾崎が、この演説を選挙人に向けて行ったのは、日本が対米英戦争に突入し、初戦の快進撃が続き、世論が沸き立っていた頃でした。こんな時期に、よくこれだけのことが言えたものだと感心しますが、その後ろには、彼を議会に送り続けた人々がいたわけで、これにもまた少なからず驚かされます。一体、どうしてこんなことができたのか・・・。先に私は、尾崎には、立憲政治を自分たちの力で作ってきたという自負があった、と申しましたが、やはり、あてがいぶちではダメだ、ということなのかもしれませんね。
なお、なぜ軍が尾崎行雄の言う「新翼賛議会」をもって旧議会に代えようとしたか、ということですが、それは、昭和5年の統帥権干犯攻撃によって、軍の編成権を内閣から奪い、それによってどれだけ兵力量が必要かということについて、内閣には一切口を出させないようにした。もちろん軍事行動については首相にも一切知らせず統帥部限りの判断で行った。しかし、予算の承認権は憲法上議会が持っていたので、この議会を翼賛会でもって占めることで、議会の予算承認権をも奪おうとした、ということです。 
尾崎行雄の「天皇三代目演説」について

 

――戦後の三代目は一体どんな日本を創るのか
鴎外の世代論をご紹介いただきましたが、世代論で有名なのは、尾崎行雄の、昭和=「売家と唐様で書く三代目」論です。これを戦後に当てはめると、今二代目で、次いで戦後三代目になるわけですが、あるいは、この時代、戦前の昭和と同じような三代目にならないとも限りません。この尾崎の論を、山本七平が『裕仁天皇の昭和史』の中で紹介していますので、この機会に、その解説も交えて紹介しておきたいと思います。
この言葉は、尾崎行雄が、昭和17年東条内閣当時の翼賛選挙における応援演説の中で使った言葉です。尾崎は、この時の翼賛選挙とそれに伴う政府の選挙干渉について、昭和時代が『売家と唐様で書く三代目』になっていないのは、明治天皇が明治憲法をお定めになり立憲政治の礎を築いてくれたからであって、翼賛政治は、この明治大帝が定めた立憲政治の大基を揺るがすものではないか、と政府を批判しました。
政府(東条英機)は、これが不敬罪に当たるとして、尾崎行雄を刑事起訴しました。これは、尾崎行雄が、「東条首相に与えた公開状」の中で、翼賛会選挙を非立憲的動作といい、これは明治大帝が歴代の首相等を戒飭(かいちょく)した立憲の本義に背戻するのではないかと批判したことに対し、東条首相は、尾崎を危険人物として抹殺すべく、この「三代目」発言に”言いがかり”をつける形で起訴に及んだものだといいます。
明治憲法を「自由主義の憲法」と言い切ったところに、「憲政の神様」と称される尾崎の面目躍如たるものがありますね。
「尾崎行雄の天皇三代目演説」
「明治天皇が即位の始めに立てられた五箇条の御誓文、御同様に日本人と生まれた以上は何人といえども御誓文は暗記していなければならぬはずであります。これが今日、明治以後の日本が大層よくなった原因であります。明治以前の日本は大層優れた天皇陛下がおっても、よい御政治はその一代だけで、その次に劣った天皇陛下が出れば、ばったり止められる。
ところが、明治天皇がよかったために、明治天皇がお崩れになって、大正天皇となり、今上天皇となっても、国はますますよくなるばかりである。
普通の言葉では、これも世界に通じた真理でありますが、『売家と唐様で書く三代目』と申しております。たいそう偉い人が出て、一代で身代を作りましても二代三代となると、もう、せっかく作った身代でも家も売らなければならぬ。しかしながら手習いだけはさすがに金持ちの息子でありますから、手習いだけはしたと見えて、立派な字で『売家と唐様で書く三代目』、実に天下の真理であります。
たとえばドイツの国があれだけに偉かったのは、ちょうどこの間、廃帝になってお崩(かく)れになった人(ウィルヘルム二世、亡命先のオランダで一九四一年没)のお爺さん(ウィルヘルム一世)の時に、ドイツ帝国というものが出来たのである。三代目にはあのとおり。
イタリアが今は大層よろしいけれども、今のイタリアの今上陛下(ビットリオ・エマヌエル三世)がやはりこの三代目ぐらいでありまするが、いまだ、皇帝の位にはお坐になって居られますけれども、イタリアに行ってみれば誰も皇帝を知らず、我がムッソリーニを拝んでおります。イタリアにはムッソリーニ一人あるばかりである。
皇帝の名すら知らない者が大分ある。これが三代目だ。人ばかりではない。国でも三代目というものは、よほど剣呑なもので、悪くなるのが原則であります。
しかるに日本は、三代目に至ってますますよくなった。何故であります。明治天皇陛下が『万機公論に決すべし』という五箇条の御誓文の第一に基づいた・・・掟をこしらえた。それを今の言葉で憲法と申しております。その憲法によって政治をするのが立憲政治である。立憲政治の大基を作るのが今日やがて行なわれる所の総選挙である……」
(ところが今日、日本にはヒトラーやムッソリーニを賛美する者がいる。しかし)「(そのやり方を)一番立派にやったのが秦の始皇帝であった。儒者等を皆殺ししてしまったり、書物を焼いてしまった。ヒットラーが大分その真似をしている。反対する者はみな殺した。そして強い兵隊を作って六合(天下)を統一して秦という天下を作りました。ちっとも珍しくない。秦の始皇帝は、よほど立派に今のヒットラーやムッソリーニのやり方をしております」
「その(始皇帝の)真似をヨーロッパの人がしているのである。本家本元は東洋にある事を知らないで、今の知識階級などといって知ったふりをしている者は、外国の真似をしようとして騒いでいる。驚き入った事である。
官報をお読みになると分かりまするが、私が前の前の議会に質問書を出して、官報に載っております。天皇陛下がある以上は全体主義という名儀の下に、独裁政治に似通った政治を行なう事が出来ぬものであるぞと質問した。これに対して近衛総理大臣が変な答弁をしておりますけれども、まるで答弁にも何にもなっておりませぬ。
秦の始皇、日本の天皇陛下が秦の始皇になれば、憲法を廃してああいう政治が出来る。しかしながら、もう日本の天皇陛下は、明治天皇の子孫、朕および朕が子孫はこれ(明治憲法)に永久に服従の義務を負うと明言している(憲法発布勅語のこと)以上は、どうしても、天皇陛下自ら秦の始皇を学ぶ事は出来ぬ。そうすると誰がしなければならぬか、誰が出ても、天皇陛下があり、憲法がある以上は、ヒットラーやムッソリーニの真似は出来ませぬ。このくらいの事は分かる。憲法を読めばすぐ分かります。
憲法を読まぬで勝手な事を言う人があるのは、実に明治天皇畢生の御事業は、ほとんど天下に御了解せられずにいるように思いまするから、私どもは最後の御奉公として、この大義を明らかにして、日本がこれまで進歩発達したこの道を、ずっと進行せられたい……」
この演説の中の「三代目発言」が不敬罪に当たるとして、先に述べた通り、尾崎は起訴されたわけですが、まあ、”言いがかり”もいいとこですね。幸い、大審院は健全であったようですが・・・。しかし、この裁判中、尾崎は発言をやめず、痛烈に政府を批判し、『憲政以外の大問題』を公表しました。
これはまず「(イ)輔弼大臣の責任心の稀薄(むしろ欠乏)なる事、(ロ)当局者が、戦争の収結に関し、成案を有せざるように思われる事、否、その研究だも為さざるか如く見える事」にはじまる批判」です。
「万一独伊が敗れて、英米に屈服した時は、我国は独力を以て支那および英米五、六億の人民を打倒撃滅し得るだろうか。真に君国を愛するものは、誠心誠意以てこの際に処する方策を講究しなければならぬ。無責任な放言壮語は、真誠な忠愛者の大禁物である。
独伊は敗北の場合をも予想し、これに善処する道を求めているようだが、我国人は独伊の優勢の報に酔い、一切そんな事は、考えないらしい。これ予が君国のため、憂慮措く能わざる所以である」
「我国人中には、独・伊・露などの独裁政治を新秩序と称して歓迎し、世論民意を尊重する所の多数政治を旧秩序と呼んで、これを廃棄せんとするが如き言行を為すものが多いようだが、彼らはこの両体制の実行方法と、その利害得失を考慮研究したのであろうか。いやしくも虚心坦懐に考慮すれば、両者の利害得失は、いかなる愚人といえども、分明にこれを判断し得べきはずだ」
「国家非常の事変に際会して、独・伊・露は、新奇の名義と方法を以て、古来の独裁専制主義を実行し、一時奇効(思いもよらない功績)を奏しているように見ゆるが、この体制は、昔時と違い、文化大いに進歩した今日以後においては、決して平時に永続し得べき性質のものではない。平和回復後は、露国人はともかくも独伊人は多分その非を悟って、自由と権利の復活を図るに相違ない。彼らは個人を否認すれど、国家も世界も、個人あってはじめて存立するものである。
自由も権利も保証せられざる個人の集団せる国家は、三、四百年前までは、全世界に存在した。それがいかなるものであったかは、歴史を繙けばすぐ分かるが、全世界を通して、事実的には『斬捨御免』『御手打御随意』の世の中であった。独・伊・露は、異なった名義の下に現在これを実行している。故に現代人のいわゆる新秩序新体制なるものは、数千年間、全世界各地に実行した所の旧秩序・旧体制に過ぎないのである」
次は、尾崎行雄が、裁判所に対する上申書の中で述べた「三代目論」についての敷衍的解説です。これがまた、極めておもしろい。
対中国土下座状態の一代目
「明治の末年においては、朝廷はまだ御一代であらせられたが、世間は多くはすでに二代目になった。三条(実美)、岩倉、西郷、大久保、木戸らの時代は、すでに去って、西園寺(公望)、桂(太郎)、山本(権兵衛)らの時代となっている。これはひとり政界ばかりでなく、軍界、学界、実業界等、すべて同様である。故に予がいう所の二代目は、明治末より、大正の末年までの、およそ三十年間であって、三代目は昭和以後の事である。
全国民が三代目になるころは、朝廷もまた、たまたま御三代目にならせ玉われた。しかし、予が該川柳(=「売家と唐様で書く三代目」)を引用したのを以て、不敬罪の要素となすのは、甚だしく無理である。それはさておき、時代の変遷によりて起これる国民的思想感情の変化を略記すれば、およそ左のとおりである。
(甲)第一代目ころの世態民情
この時代は、大体において、支那崇拝時代の末期であって、盛んに支那を模倣した。支那流に年号を設定し(一世二元のこと。日本はそれまでは甲子定期改元と不定期改元の併用であった。中国は、明朝以降一世一元になった)、かつ数々これを変更したるが如き、学問といえば、多くは四書五経を読習せしめたるが如き、各種の碑誌銘に難読の漢文を用いたるが如き、忠臣、義士、孝子、軍人、政治家の模範は、多くはこれを支那人中に求めたるが如き、その実例は枚挙に逞(いとま)ないほど多い。今日でも、年号令人名をば、支那古典中の文字より選択し、人の死去につきても、何らの必要もないのに、薨、卒、逝などに書き分けている。
この時代には、新聞論説なども、ことごとく漢文崩しであって、古来支那人が慣用し来れる成語のほかは、使用すべからざるものの如く心得ていた。現に予が在社した報知新聞社の如きは、予らが書く所の言句が、正当の言葉、すなわち成語であるや否やを検定させるために、支那人を雇聘していた。以て支那崇拝の心情がいかに濃厚であったかを知るべきだろう」
「予は、明治十八年に、はじめて上海に赴き、実際の支那と書中の支那とは、全く別物なることを知り得た。特に戦闘力の如きは、絶無と言ってもよいことを確信するに至った。故に予はこれと一戦して、彼が傲慢心を挫くと同時に、我が卑屈心を一掃するにあらずんば、彼我の関係を改善することの不可能なるを確信し、開戦論を主張した。
しかし全国大多数の人々、特に知識階級は、いずれも漢文教育を受けたものであるから、予を視て、狂人と見倣した。しかるに明治二十七年に至って開戦してみたら、予が十年間主張したとおり、たやすく勝ち得た。しかし勝ってもなお不思議に思って予に質問する人が多かった。
また一議に及ばず、三国干渉に屈従して、遼東半島を還付せるのみならず、露国が旅順に要塞を築き、満州に鉄道を布設しても、これを傍観していた。これらの事実を視ても、維新初代の国民が、いかに小心翼々であったかを察知することが出来よう」
(山本)明治初期の対中国土下座状態には、さまざまな記録がある。一例を挙げれば、清国の北洋艦隊が日本を”親善訪問”し、長崎に上陸した中国水兵がどのような暴行をしても、警察官は見て見ぬふりをしていたといわれる。土下座外交は何も戦後にはじまったことではないが、この卑屈が一転すると、その裏返しともいうべき、始末に負えない増長(上)慢になる。ここで尾崎行雄は第二世代に入る。
二代目―卑屈から一転して増長慢
(乙)第二代目ころの世態民情
明治二十七、八年の日清戦争後は、以前の卑屈心に引換え、驕慢心がにわかに増長し、前には師事したところの支那も、朝鮮も、眼中になく、その国民をヨボとかチアンコロなどと呼ぶようになった。また(東大の)七博士の如きは、露国を討伐して、これを満州より駆逐するはもちろんのこと、バイカル湖までの地域を割譲せしめ、かつ二十億円の償金を払わしむべしと主張し、世論はこれを喝采する状況となった。実に驚くべき大変化大増長である。
古来識者が常に警戒した驕慢的精神状態は、すでに大いに進展した。前には、支那戦争を主張した所の予も、この増長慢をば大いに憂慮し、征露論に反対して、大いに世上の非難を受けた。伊藤博文公の如きも、これに反対したらしかったが、興奮した世論は、ついに時の内閣を駆って、開戦せしめた。
しこうして個々の戦場においては、海陸ともに立派に勝利を得たが、やがて兵員と弾丸、その他戦具の不足を生じ、総参謀・児玉源太郎君の如きも、百計尽き、ただ毎朝早起きし太陽を拝んで、天佑を乞うの外なきに至った。
僥倖にも露国の内肛(内紛)と、米国の仲裁とのため、平和談判を開くことを得たが、御前会議においては、償金も樺太も要求しないことに決定して、小村(寿太郎)外相を派遣したが、偶然の事態発生して、樺太の半分を獲得した。政府にとりては望外の成功であった。
右などの事実は、これを絶対的秘密に付し来たったため、民間人士は、少しもこれを識らず、増長慢に耽って平和条約を感謝するの代わりに、かえってこれに不満を抱き、東都には、暴動が起こり、二、三の新聞社と、全市の警察署を焼打ちした。
近今に至り、政府自ら戦具欠乏の一端を公けにしたが、日露戦争にあの結末を得だのは、天佑と称してよいほどの僥倖であった。不知の致す所とは言いながら、あの平和条約に対してすら、暴動を起こすほどの精神状態であったのだから、第二代目国民の聯慢心の増長も、すでに危険の程度に達したと見るべきであろう。
右の精神状態は、ひとり軍事外交方面のみならず、各種の方面に生長し、ややもすれば国家を、成功後の危険に落とし入るべき傾向を生じた。
前回の(第一次)世界戦争に参加したのも、また支那に対して、いわゆる二十一ヵ条の要求を為したのも、みなこの時代の行為である」
浮誇驕慢で大国難を招く三代目
「(丙)第三代目ころの世態民情
全国民は、右の如き精神状態を以て、昭和四、五年ころより、第三代目の時期に入ったのだから、世態民情は、いよいよ浮誇驕慢におもむき、あるいは暗殺団体の結成となり、あるいは共産主義者の激増となり、あるいは軍隊の暴動となり、軽挙盲動腫を接して起こり、いずれの方面においてか、国家の運命にも関すべき大爆発、すなわち、まかりまちがえば、川柳氏の謂えるが如く『売家と唐様で書』かねばならぬ運命にも到着すべき大事件を巻き起こさなければ、止みそうもない形勢を現出した。
予はこの形勢を見て憂慮に耐えず、何とかしてこの大爆発を未然に防止したく思って、百方苦心したが、文化の進歩や交通機関の発達によりて世界が縮小し、その結果として、列国の利害関係が周密に連結せられたる今日においては、国家の大事は、列国とともに協定しなければ、真誠の安定を得ることは不可能と信じた。よりて列国の近状を視察すると同時に、その有力者とも会見し、世界人類の安寧慶福を保証するに足るべき方案を協議したく考えて、第四回目、欧米漫遊の旅程についた。
しかるに米国滞在中、満州事件突発の電報に接して、愕然自失した。この時、予は思えらく『こは明白なる国際連盟条約違反の行為にして、加盟者五十余力国の反対を招くべき筋道の振舞である。日本一ヵ国の力を以て、五十余力国を敵に廻すほど危険な事はない』と。果たせるかな、その後開ける国際会議において、我国に賛成したものは、一ヵ国もなく、ただタイ国が、賛否いずれにも参加せず、棄権しただけであった。
このころまでは、我国の国際的信用は、すこぶる篤く、われに対して、悪感を抱く国は、支那以外には絶無といってもよいほどの状況であって、名義さえ立てば、わが国を援けたく思っていた国は、多かったように見えたが、何分、国際連盟規約や不戦条約の明文上、日本に賛成するわけにいかなかったらしい。
連盟には加入していない所の米国すら、不戦条約その他の関係より、わが満州事件に反対し、英国に協議したが、英政府はリットン委員(会)設置などの方法によって、平穏にこの事件を解決しようと考えていたため、米国に賛成しなかった。また米国は、国際連盟の主要国たる英国すら、条約擁護のために起たないのに、不加入国たる米国だけが、これを主張する必要もないと考えなおしたらしい。
予は王政維新後の二代目三代目における世態民情の推移を見て、一方には、国運の隆昌を慶賀すると同時に、他方においては、浮誇驕慢に流れ、ついに大国難を招致するに至らんことを恐れた。故に昭和三年、すなわち維新後三代目の初期において、思想的、政治的、および経済的にわたる三大国難決議案を提出し、衆議院は、満場一致の勢いを以て、これを可決した。
上述の如く、かねてより国難の到来せんことを憂慮していた予なれば、満州事件の突発とその経過を見ては、須臾(一瞬)も安処するあたわず、煩悶懊悩の末、ついに、天皇陛下に上奏することに決し、一文を草し宮相(内大臣)に密送して、乙夜の覧(天皇の書見)に供せられんことを懇請した。満州事件を視て、大国難の種子蒔と思いなせるがためである。
ムッソリーニや、ヒトラーの如きも、武力行使を決意する前には、列国の憤起を怖れて、躊躇していたようだが、我が満州事件に対する列国の動静を視て安心し、ついに武力行使の決意を起こせるものの如く思われる。
しかるに、支那事件起こり、英米と開戦するに至りても、世人はなお国家の前途を憂慮せず、局部局部の勝利に酔舞して、結末の付け方をば考えずに、今日に至った。しこうして生活の困難は、日にますます増加するばかりで、前途の見透しは誰にも付かない。どこで、どうして、英米、支を降参させる見込みかと問わるれば、何人もこれに確答することは出来ないのみならず、かえって微音ながら、ところどころに『国難来』の声を聞くようになった。
全国民の大多数は、国難の種子は、満州に蒔かれ、その後幾多の軽挙盲動によりて、発育生長せしめられ、ついに今日に至れるものなることは、全く感知せざるものの如し。衆議院が満場一致で可決した三大国難決議案の如きも、今日は記憶する人すらないように見える。維新後三代目に当たるところの現代人は『売家と唐様で書く』ことの代わりに『国難とドイツ語で書いて』いるようだ……」
以上、尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法と言い、天皇がこの憲法を発布した故に日本は独裁にはならないと言い、翼賛政治はこの憲法の大基を犯している、つまり憲法違反だと批判したのです。近衛はこの憲法を「天皇親政を建前とする」と解釈しました。この差はどこから来たか。明治人は、「立憲政治を自ら創出した」という自信を持っていた。しかし、昭和の三代目は、明治人が苦労して、江戸時代の君主主権から明治の立憲制に国家体制を創り変えた、この明治人の残した「遺産」の”有り難み”が判らず、これを破壊・蕩尽してしまった。そういうことだと思います。
こうした過去の経験を顧みる時、自らの力で憲法を創出したという自信を持たない戦後世代の二代目あるいは三代目が、果たしてどういう日本を創って行くのか、いささか不安に思わざるを得ません。ということは、今一度、明治に帰る必要があると言うことではないでしょうか。立憲政治の価値を再認識するためにも・・・。 
田原総一朗氏「なぜ、日本は大東亜戦争を戦ったのか」

 

田原総一朗氏の標記の本について、ネットでは、”田原総一朗が転向した”というようなう意見が多く見られます。
田原氏は、こうした自説をyoutubeやラジオ番組で語っています。言わずもがなではありますが、この中で、2.26事件で重傷を負った鈴木貫太郎を鈴木貞一などと非常識な言い間違いをしていますし、天皇が決起将校達に対して激怒したのは、昭和天皇の子供の頃の乳母が鈴木夫人だったから、などど”いいかげん”なことをいっています。(そんなの一つのエピソードに過ぎません)
戦前のアジア主義者が支那の近代化にかけた思いに注目することは大切なことです。また、北一輝が、青年将校たちと違って「純粋素朴な天皇親政」を信じていたわけではないこと。あくまで天皇を”使いよい玉”としていたこと。つまり、北は機関説論者だった、という事を今あえて言いたいのなら、、指摘すべきは、北は、皇道派の青年将校達を”使いやすい玉(この場合は弾?)”として利用しようとしていたのかもしれない、という”残酷物語”についてでしょう。
『VOICE』の件の論文の末尾の文章は次のようになっています。
「その北一輝がなぜ青年将校達にそのこと(天皇を使いよい玉として利用すること――筆者)を教授しなかったのか。なぜ高天原的存在で満足していたか。あるいは、二・二六事件は、北一輝にとって死に場所探しだったのであろうか。」
北の本音を、彼らに教授できるわけがないでしょう。北一輝の機関説論はむしろ統制派のそれと一致していたわけで、皇道派はそれとは仇敵関係にあったのです。事実、それゆえの二・二六事件であったはずです。
それにしても斉藤実、鈴木貫太郎、渡辺錠太カ、高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望などか弱き老人を殺し、彼らにとっては仇敵であるはずの統制派の巣窟=参謀本部や陸軍大臣官邸は、占拠して「陸大臣に面接して事態収拾に付、善処方を要望する」という程度の隠微な処置に止めたのはなぜでしょうか。
まあ、「決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり」の「陸軍大臣告示」に見るように、彼らも畢竟身内だし、決起には賛同してくれるはずだと、甘い瀬踏みをしていたのでしょう。で、もし彼らの賛同が得られたら、過去のことは水に流して仲良くやるつもりだったのでしょうか。となると、彼らのその不満の根源は一体何処?という疑念に駆られます。
この点、石原完爾も、模様眺めで、うまくいくようであればこれを利用し、軍主導の国家社会主義体制に持って行こうとしていたという疑い濃厚ですからね。このことは、事件後の広田内閣の組閣における彼らのやり口を見れば明白です。反省どころの話じゃないのです。この辺りの駆け引き、皇道派の皆さん一体どこまで読んでいたか。
おそらく、北一輝もそうした可能性に期待をかけていたのかも知れません。それが挫折してしまった、故の”若殿に兜とられて負け戦”なのです。おそらく、そこまで昭和天皇が断固たる意思表示をするとは北も思っていなかったのでしょう。だって、機関説論者にしてみれば、天皇がそんな断固たる意思表示をするこことは一種のルール違反ですから・・・。
そんな意外感がこの句に表れていると私は思います。ユーモア(田原氏の言)なんかじゃありません。一種あっけにとられた図なのです。まして、”死に場所探し”なんて西郷じゃあるまいし、「日米戦争は愚の愚」としたリアリスト北一輝ですぞ。もちろん、青年将校達にしてみれば、自分らの信じていたものとは真逆の大御心が示されたのですから、恨む外なかったのですが。
なお、”転向”云々は、本を見てからにしますが、アジア主義者と、その後の国家社会主義者そして尊皇思想の青年将校達との絡み合いが、うまく捉えられているかどうか。まさか、昭和天皇に対して、”青年将校の声にもっと耳を傾けるべきだった”などと言いたいのではないとは思いますが・・・。もしそうなら近衛と同じで、何を今更!ということになりますね。 
戦前の日本人はなぜヒットラーを賛美したか

 

――戦前の日本人はなぜヒットラーを賛美したか。日本人をヒットラーはどう見たか
――大東亜戦争はアメリカもわが国もよくさず、ドイツがもくろんだという見方
ドイツというより、ヒトラーに”いいようにあしらわれた”ということでしょう。彼の思想の本性がどのようなものであったかと言うことは、小林秀雄が「ヒトラーと悪魔」で見事に描出しています。これを見ると、日本の軍部がなぜ暴走したか、その心理的メカニズムが解りますね。
まず、ヒットラーの心性の基礎にあったものは、
第一、「徹底した人間侮蔑による人間支配、これに向かって集中するエネルギーの、信じがたい不気味さ」であり、「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。」という確信だった。
第二、そして「人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。」では、「勝つための手段」をいかに講ずるか
第三、それは、勝つ見込みのない大衆をいかに「屈従」させ「味方」につけるかということ
「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。」
第四、そのためのもっとも効果的な方法は、プロパガンダを繰り返すこと。それを「敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神」と思わせること
「大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切り型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。
これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる。」
第五、また、勝つための外交はどうあるべきか。
「外交は文字通り芝居であった。党結成以来、ヒットラーの辞書には外交という言葉はなかった。彼には戦術があれば足りた。戦術から言えば、戦争はしたくないという敵国の最大弱点を掴んでいれば足りたのである。重点は、戦術を外交と思い込ませて置くところにある。開戦まで、政治に基づく外交の成功という印象を、国民に与えて置く事にある。」
第六、そして、死んでも嘘ばかりついてやると固く決心すること
「彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、およそ言葉というものを信用しなかった。・・・彼は死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味でプロパガンダを遂行した男だ。」
第七、その時の彼は、人性は自分も含めて獣物であり、それなら一番下劣なものの頭目になってみせる、と決意していた。
「彼が体得したのは、獣物とは何を措いてもまず自分自身だということだ。これは、根底的な事実だ。それより先に行きようはない。よし、それならば、一番下劣なものの頭目になって見せる。興奮性と内攻性とは、彼の持って生まれた性質であった。彼の所謂収容所という道場で鍛え上げられたものは、言わば絶望の力であった。」
第八、しかし、これらが成功するためには、経済的・政治的混乱などの外的事情がないといけない。もちろん、その前にヒトラーの自立的エネルギーがあったわけだが・・・。
「ザールの占領、インフレーション、六百万の失業者、そういう外的事情がなかったなら、ヒットラーはなすところを知らなかっただろう。だが、それにもかかわらず、彼の奇怪なエネルギーの誕生や発展は、その自立性を持っていた事を認めないのはばかげているだろう。」
第九、最後に、以上のような自分の本心を糊塗するため、汎ドイツ主義とか反ユダヤ主義を標榜すること
「おそらくヒットラーは、彼の動かす事の出来ぬ人性原理からの必然的な帰結、徹底した人間侮蔑による人間支配、これに向かって集中するエネルギーの、信じがたい不気味さを、一番よく感じていたであろう。だからこそ、汎ドイツ主義だとか反ユダヤ主義だとか言う狂信によって、これを糊塗する必要もあったのであろうか」
「もし、ドストエフスキィが、今日、ヒットラーをモデルとして「悪霊」を書いたとしたら、と私は想像してみる。彼はこういうであろう。正銘の悪魔を信じている私を侮ることは良くないことだ。悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が、怪しげな逆説の蒐集としか移らぬのも無理のないことである、と。
この最後のパラグラフは、小林秀雄のこのエッセイの結語ですが、「自分自身のことも含めて、正銘の悪魔を信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があるだろうか。諸君の怠惰な知性は・・・」といっているのです。自分を善人と思っている人ほど始末に困るものはないと言うことですね。
そこで、昭和期の軍人たちの心性をこのヒットラーの思想に照らして概観して見ると次のようになります。
第一、「人性に対する憎悪」ということでは、彼らには、大正デモクラシー下の軍縮の流れの中で、軍を軽視した「社会に対する憎悪」があった。
第二、「勝つための手段」として満洲占領を行い成功した。
第三、大衆を「味方」につけることにも成功した。
第四、プロパガンダを「敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神」と思わせることに成功した。
第五、「戦争はしたくないという最大弱点」を逆に敵国に掴まれた。
第六、「死んでも嘘ばかりついてやると固く決心する」どころか、戦争をやめたくて「大乗的」和平交渉ばかりしていた。
第七、「人性は自分も含めて獣物」という冷酷な自己認識を持たず、自分の善意を信じていた。
第八、当時の時代状況としては、資本主義の発達に伴う貧富の差の拡大、インフレによる物価上昇、昭和の恐慌に伴う大量失業、東北地方の冷害、政党政治家の金権腐敗、大正デモクラシー下の退廃文化等の経済的・政治的・社会的混乱があった。
第九、以上のような自分の本心を糊塗するため、大東亜共栄圏や八紘一宇を標榜した。
つまり、彼らは、ヒットラーのような徹底した「人性に対する憎悪」を持っていたわけではなく、軍縮などに端を発する当時の社会に対する不満(かなり強度)があり、一方、自分たちは政党政治家や財閥よりも正しく、潔癖さも時代を読む力も勇気も実力も持っていると考えていた。そこで、支那の排日・侮日、米英に抗して国力を海外に伸張できるのは自分達であり、その目的は、東洋の王道主義に基づく大東亜共栄圏さらに八紘一宇の新世界秩序を建設すること、と盲信した。
これを、ヒットラーの先の九原則に照らして整理し直して見ると、第一は、人性に対する憎悪というより自己絶対化だった。第二は、戦術的には大成功だったが思想的には不徹底だった。第三の世論操作には成功したが、第四のプロパガンダの結果としての対米英戦争に耐えるだけの力はなく、第五、「戦争をやめたい」本音を敵に掴まれており、第六、そのため絶えず和平交渉を繰り返したが失敗した。その原因は第七、つまり何よりも自己認識が甘かったからで、中国との戦争を、兄弟げんか程度にしか考えていなかった。第八は、昭和初期の経済的・政治的・社会的・思想的混乱があり、それを自由主義の結果と見てこれを攻撃した。第九、以上の行為を正当化する思想を、尊皇思想という伝統思想に求めた、といったところではないでしょうか。
これを総合採点すると、成功した項目が、第二、三、八、九の四項目、失敗した項目が、第一、四、五、六、七の五項目、総合判定四対五で失敗!ということになりますね。ただ、ここで成功したという項目は、あくまで戦術的なものです。一方、失敗した項目は、まず、自己認識の不徹底、それから、自己絶対化、自分は何のために戦っているのか目的意識の不明確。中国への一方的感情移入と反発の繰り返し。戦争終結できない事へのいらだちと自信喪失。それを埋め合わせるためのヒットラー賛美。ドイツとの同盟に恃んで南進。その結果対米英戦争。最後は一億玉砕ということで、どうやらこれらは思想的な問題に帰着するようです。
では、これらの問題点は、日本人の思想のどこに胚胎しているのか。その人間性信仰の不徹底に原因があるのか。というのは、これはもともと、本性→仏性と遡及する宗教的概念だったわけで、脱宗教化の過程で仏抜きの「人間性」となったものだからです。
この、「人間性」に対する日本人の無条件の信仰こそ、日本人は一度疑ってみる必要があるのではないだろうか。それが、日本人における昭和の戦争を反省する第一歩ではないか、私はそう考えています。
なお、ヒットラーとの比較で摘出された第一の自己認識の不徹底ということですが、これについては、その憎悪の哲学から何を学ぶかということが大切ですね。悪魔が信じられなければ天使も信じられないといいますから。 
日本の政府・統帥部首脳は「日米諒解案」を支持

 

――日本の政府・統帥部首脳は松岡を除き「日米諒解案」を支持した。しかし、ヒトラーを賛美する時代の空気がそれを拒否した
―― 一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか
――この日米了解案は野村大使が持ち込んだものでしょうがこれはアメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いたとありましたが、これについてはいかがでしょうか
この了解案ができた経緯ですが、昭和15年11月末、米人カトリック神父ドラウトから井川忠雄(産業組合中央金庫理事)に日米関係改善についての会見申込み(クーン・レープ商会のシュトラウスの紹介状持参)があり、井川は、r陸軍軍務局長武藤章等と協議の上会談に応じました。井川はその内容を近衛首相に逐一報告。ドラウトは日本側との話し合いで、日米交渉の可能性があると判断、帰国してルーズベルト大統領やハル国務長官と協議した結果、同意を得たので日本側にその旨報告しました。
これを受けて、昭和16年2月11日、野村大使ワシントン着、井川も野村と前後して渡米、3月6日には陸軍軍事課長の岩畦豪雄も渡米。近衛、東条らは井川らの渡米に非常に好意的でしたが、外務省は冷淡かつ妨害的だったといいます。これは、松岡外相が、陸軍が外務省を出し抜いて日米交渉をやろうとしていると邪推したためだと言います。
4月に入って、日米諒解案の起草がはじまり、日米双方当局の検討を経て(日本側は野村大使、若杉公使、磯田陸軍武官、横山海軍武官、井川、岩畦で検討)日米諒解案(第二案)がまとまりました。その結果、これを基礎として日米交渉が進められることになり、まず日本政府の訓令を得ることになりました。
この日米諒解案のポイントですが、次の七つの項目に整理されています。(一部要約、抜粋)
一 日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念について
米国が日本に民主主義への塗り替えを強要するようなことはせず、相互に両国固有の伝統に基く国家観念、及び社会的秩序、並びに国家生活の基礎たる道義的原則を保持することを認め、相互の利益は之を平和的方法により調節するとした。
二 欧洲戦争に対する両国政府の態度について
日本の三国同盟の目的は防衛的なものであって攻撃的なものではないこと。米国の欧洲戦争に対する態度は、一方の国(イギリス)を援助して他方(ドイツ)を攻撃するものではないこと。(それは「自衛権の発動」という考慮において決せられるとした)
三 支那事変に対する両国政府の関係について
米国大統領が左記条件を容認し、且つ日本政府がこれを保障したるときは、米国大統領は之に依り、蒋政権に対し平和の勧告を為すべし。
(イ)支那の独立
(ロ)日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
(ハ)支那領土の非併合
(ニ)非賠償
(ホ)門戸開放方針の復活。但し之が解釈及び適用に関しては、将来適当の時期に日米両国間に於て、協議せらるべきものとす
(ヘ)蒋政権と汪政権との合流
(ト)支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
(チ)満洲国の承認
蒋政府に於て米国大統領の勧告に応じたるときは、日本国政府は、新に統一樹立せらるべき支那政府、又は該政府を構成すべき分子を相手として、直ちに直接に和平交渉を開始するものとす。
日本国政府は、前記条件の範囲内に於て、且つ善隣友好、防共共同防衛、及び経済提携の原則に基き、具体的平和条件を直接支那側に提示すべし。
四 太平洋に於ける海軍兵力及び航空兵力並びに海運関係について
日米両国は、太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て、相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及び航空兵力の配備はしない等。
五 両国間の通商及び金融提携について
今次の諒解成立し、両国政府之を承諾したるときは、日米両国は各その必要とする物質を相手国が有する場合、相手国より之が確保を保証せらるるものとす。又両国政府は、嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き、正当の通商関係への復帰のため、適当なる方法を講ずるものとす。
両国間の経済提携促進のため、米国は日本に対し、東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及び日米経済提携を、実現するに足る金クレディットを供給するものとす。
六 南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動について
日本の南西太平洋方面における発展は、武力に訴うることなく、平和的手段によるものなることの保証せられたるに鑑み、日本の欲する同方面における資源、例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び獲得に関し、米国側の協力及び支持を得るものとす。
七 太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針について
(イ)日米両国政府は、欧洲諸国が将来東亜及び南西太平洋に於て、領土の割譲を受け又は現在国家の併合等を為すことを、容認せざるべし。
(ロ)日米両国政府は、比島の独立を共同に保障し、之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法につき、考慮するものとす。
(ハ)米国及び南西太平洋に対する日本移民は、友好的に考慮せられ、他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし
日米会談について
(イ)日米両国代表者間の会談は、ホノルルに於て開催せらるべく、合衆国を代表してルーズヴェルト大統領、日本を代衣して近衛首相により開会せらるべし。代表者数は各国五名以内とす。尤も専門家、書記等は之を含まず。
(ロ)本会談には、第三国オブザーヴァーを入れざるものとす。
(ハ)本会談は、両国間に今次諒解成立後、成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
(ニ)本会談に於いては、今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす。具体的議題は両国政府間に協定せらるるものとす。
この諒解案の要点は、日本は、三国同盟における参戦義務を実質的に骨抜きにする。米国は(イ)から(チ)の条件で中国に和平を勧告する。米国は日本が必要とする物資の確保を保障し、日米通商条約を回復する。米国は、南太平洋における日本の石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び確保に協力する。日米両国は将来東亜及び南西太平洋における領土の割譲・併合を容認しない。米国及び南西太平洋に対する日本移民は差別しない、というものです。
これは、従来、日本の軍部や近衛が、「持たざる国」の論理を日本の満州事変や東南アジア進出の正当化に使っていたことに対応したものだということができます。つまり、米国は満州国を承認する。その代わり、日本軍は無賠償・非併合で支那領土から撤退する。また、日本の人口問題や資源問題に対応するため、日本が平和的に東南アジアに進出する際の資源の確保にアメリカは協力する。また、移民についても他国民との差別扱いはしないなど。
では、この諒解案に対して日本側はどのような反応を示したでしょうか。 
「大橋(外務次官)は、前夜からその朝にかけて野村大使から電報が入って来たこと、尚暗号解読中だが、世界の迎命を左右する様なものだと、狼狽した喜び様であった。大橋は午後四時半に電報の解読を待って、寺崎アメリカ局長を伴って再び近衛を訪れた。
近衛首相は、問題の重要性に鑑み、即夜八時から政府統帥部連絡会議を招集した。政府から近衛首相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官、統帥部から杉山参謀総長、永野軍令部総長が出席し、武藤、岡の両軍務局長、富田書記官長も加わって、米国からの提案を協議した。近衛手記によると、次の様な意向が表明された。
一、この案を受諾することは、支那事変処理の最捷径である。即ち汪政権樹立の成果挙らず、重慶との直接交渉も非常に困難であり、今日の重慶は全然米国依存である故、米国を中に入れねば何ともならぬからである。
二、この提案に応じ日米の接近を図ることは、日米戦回避の絶好の機会であるのみならず。欧洲戦争が世界戦争にまで拡大することを防止し、世界平和を招来する前提になろう。
三、今日わが国力は相当消耗しているから、一日も速かに事変を解消して、国力の恢復培養を図らねばならぬ。一部に主張されている南進論の如き、今は統帥部でも準備も自信もないという位だから、矢張り国力培養の上からも一時米国と握手し、物資等の充実を将来のため図る必要がある。
というので、大体受諾すべしという論に傾いた。ただその条件として、ドイツに対する信義から、三国同盟と抵触しないことを明瞭にする要があるとか、若し日米諒解の結果、米国は太平洋から手が抜けるので、対英援助を一層強化することになると、日本としてはドイツに対する信義に反するし、全体の構想が低調になって面白くないから、日米協同して世界平和に貢献するという趣旨を、もっとハッキリさせ、英独間の調停まで持って行きたいとか、内容が少し煩雑に過ぎるとか、旧秩序に復帰する様な感じを与えるから、新秩序建設という積極面をもっとハッキリ出したいとか、迅速に事を運ぶため、外相の帰国を督促する要があるとか、種々の意見が出た。又この事をドイツに通報すべきや否やについても、信義の上から通報に賛成の説と、諒解成立を切望する見地から、内密にしようという説とがあった。
要するに種々意見はあったが、皆が交渉に賛成であった。東条陸相も武藤軍務局長も喜んではしゃいでいた。陸海軍とも「飛び付いた」というのが真情であった。そこで直ぐにも、「主義上賛成」の返電を出せという議があったが、大橋次官は、もう二、三日で帰国する松岡外相の意見を聞いてからにすべきだというので、近衛もそれに同意した。それなら一日も早く、松岡に帰国を促そうということになり、満洲里宛てで、首相が至急通話したい旨を松岡に伝えた。」
これを見ると、近衛を初めとする政府首脳(松岡は独ソ訪問から帰途中で不在)、それに陸海の省部並びに統帥部の首脳は一致して、この諒解案を歓迎したことが判ります。ということは、彼等には米英と戦争してでも東亜新秩序を作り上げてようとする決意はなかった、ということになります。とりわけ近衛首相にとっては、この諒解案は、自ら過誤を犯したと認める日中戦争の終結を可能にし、また、中国や蘭印等からの必要資源の調達や移民の自由も保障されるのですから、氏の持論である「持たざる国」論が認められたことにもなり、大歓迎であったわけです。
そもそも、近衛首相が三国同盟を結んだのは、ソ連も加えてそれを四国同盟とし、その圧力で対米英戦争を抑止あすることを目的としたものでした。その約束が、独ソ開戦によって反古にされたのですから、諒解案において、アメリカが欧州戦争に参戦した場合の日本の参戦義務が骨抜きにされてもかまわないわけです。また軍も、昭和15年3月30日の支那事変処理に関する参謀本部提案になる陸海省部最高首脳会議において、昭和15年中に支那事変が解決されなかった場合、昭和16年初頭から逐次撤兵を開始することを決定したほど、支那事変を持て余していました。
こうした判断に対して、これは米国が対独作戦を進める上での二正面作戦を避けるための時間稼ぎであり、これを受け入れることは米国への屈服を意味するという味方もありました(大島浩駐独大使)。確かに、この頃、日本が三国同盟を結んだことや仏印に進駐したことで日米間に緊張が高まっていました。しかし、実情は、米国人は極東のことには関心が薄く、欧州に重点を置いていて、「戦争を支持する者もしない者も、眼中に置いていたのはヒットラーであって日本ではなく」、対日強硬論の多くは経済制裁程度しか考えていなかったのです。
また、1941年8月に行われた「大西洋会談」でも、チャーチルが日本の南進に対応して米国の軍事介入を要請したのに対し、ルーズベルトは確約を与えませんでした。また、会談直後に発表された大西洋憲章は、次のように国際社会における政治経済的な原則を列挙して、枢軸国の追求する世界像に代わりうる、理想的な国際社会の構造を提示していたのです。つまり、米国は、世界恐慌から立ち直る過程で、もう一度、ワシントン体制に代わるような国際主義原則に戻って、アジアと太平洋における経済発達を図ろうとしていたのです。
そのため、この憲章では、「全ての国による経済的提携」がうたわれ、世界のすべての人びとは恐怖感や欠乏感から解放されることこそ、平和への道だ」と説き、すべての国は世界のあらゆる地域における市場や資源の恩恵に、「平等な条件の下で」浴すべきだと宣言していました。その上、そこには、あらゆる人びとは地球のいたるところに渡航する権利を有する、というような、日本がパリ講和会議当時に提案した「人種平等宣言」を思わせるような項目まで含まれていたのでした。
では、これが本当なら、どうして11月16日の「ハルノート」が出されるようなことになったのでしょうか。だって、この諒解案に執拗に反対し、独ソ開戦後も三国同盟を堅持しようとしたした松岡外相は近衛により解任されたわけですし、近衛はルーズベルトとのトップ会談によって日本に対する米国の誤解を解くことができると信じていたからです。近衛は陸軍が拒んでいる撤兵についても、それで日米妥協が図れるとなったら、電報で木戸にそのことを知らせ、陛下に撤兵の「聖断」を出してもらう。それをやれば「殺されるに決まっている」が「生命のことは考えない」と言い切っていたのです。
これだけ近衛が腹を決めていたにも拘わらず、なぜアメリカは日本を信じなかったか。結局、アメリカは、日本軍において枢軸を支持する勢力は強力であり、たとえ天皇の支持があったとしても近衛はこれを抑えることはできない。そのことは、諒解案以降の交渉過程で確認された、としていたのです。つまり、日本が三国同盟を堅持し独伊と共に世界新秩序建設に邁進する方向を選択することを断念させるためには、力による対決しかない。そうした強硬姿勢を姿勢を取ることによってしか、日本に方針転換させることはできないと考えたのです。
つまり、撤兵問題とは、日本があくまで枢軸側に立って世界新秩序建設に向かうか、それとも、大西洋憲章に述べられたような、米英中心の新たな国際協調主義に戻るかの二者択一を迫る「踏み絵」だったのです。従って、日本に支那からの撤兵を求めるということは、力で日本に後者の側に立つことを求めるものであり、日本がこれを拒否すれが、それは日本はあくまでヒトラーと共に世界新秩序建設に向かうことを意味したのでした。つまり、そのことを瀬踏みするためにこそ、日本に諒解案がぶつけられたのでした。
つまり、日本がこの諒解案を拒否した段階で、日本に後者の選択をさせるためには、力による強制しかないことが明らかになったのです。だって、日本の名誉ある撤兵は、アメリカが中国に日本との和平を勧告することによってしか実現できませんから。それを日本が拒否したということは、アメリカ仲介による名誉ある撤兵はしないということ。それは日本は中国が降伏するまで戦争を続けるということ。しかし、中国はアメリカが支援する限り降伏しない。結局、日本はアメリカとの戦争を決意せざるを得ない・・・。
こう考えれば、アメリカが、たとえ天皇が近衛を支援したとしても、軍のこうした行動を抑えることはできないと判断したのも当然、ということになります。つまり、日米諒解案こそ、日本が枢軸側に立つか米英側に立つかを判断する試金石だったのです。そして、日本の政府や軍の首脳は一致してそれを受け入れようとした。しかし、松岡の妨害に会って逡巡する間、独ソ開戦後のヒトラーの快進撃に便乗する下僚軍人・官僚、マスコミの強硬姿勢に引きずられ、ついにハルノートという「踏み絵」を突きつけられることになった・・・。
なお、日米諒解案は「アメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いた」と言うご意見について。この諒解案には、ルーズベルト大統領と近衛首相の会談が予定されていて、そこでは「今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす」と明記されていました。従って、これをアメリカの正式提案でなかったと言うことはできません。ただ、この諒解案が、日本に、米英中心の新たな国際協調主義に立つことを求めていたことは明らかで、これを枢軸側から見れば、これがアメリカの謀略に見えたのは当然です。
結局、日本は、本音では松岡を除く政府、統帥部の首脳部がほぼ一致してこの諒解案受諾に賛成しながら、その時代のヒトラー崇拝の空気に支配され、結局、枢軸側の武力による世界新秩序建設の道を選択することになったのですね。それが、今回の、「日米戦争を欲したのは誰か?」という疑問に対する私の答です。この決定をした日本における独裁者は、東条でもなく、もちろん近衛でもなく、その時代の「空気」だった、と言うことになりますね。山本七平の『空気の研究』が名著たる所以です。 
日米戦争は誰が欲したか

 

満州事変は日本が、支那事変は支那が欲(ほっ)した。そして対米戦争は?でしょう。
ハルノートは実質的な最後通牒ですから、日米戦争を欲したのはアメリカということになります。これに対して日本側は、日米了解案――中国側が満州国を承認し、蒋介石と王兆銘の政府を合体させ、日本軍は協定に基づいて撤兵し、非併合、非賠償の条件の和平を結ぶことを米大統領が蒋介石に勧告するというもの〈昭和16年4月16日〉――がまとまった時点ではっきりしたように、政府、陸海軍、統帥部の上層部はいずれも、この案に全員賛成で、まさに「飛びついた」というのが実情でした。ここまで見れば、戦争を欲したのはアメリカだった!ということになります。
ところが、その後の交渉経過を見ると、この了解案に松岡外相がつむじを曲げて賛成せず、これを「ぶち壊す」が如き強硬案に修正し5月11日アメリカにぶつけた。こうする間、この了解案の内容がドイツなどから漏れ、これに対して陸海軍の中堅以下の将校たちが猛烈に反対するようになりました。なぜか?実はこの頃は「支那事変を聖戦と呼び、暴支膺懲を東洋平和のために必要だといい、数々の軍国美談をつくり、何十万の犠牲を払ってきて、急に対米協調のためにシナから撤兵するといっても、軍だけでなく、国民全体が収まらない状態ができていた」からです。
このため、春には日米了解案を歓迎していた東条が、11月中旬対米交渉のため急派された来栖三郎大使に対し、「撤兵の問題だけはこれ以上譲歩できない。もし、あえて譲歩すれば、自分は靖国神社の方に向いて寝られない」などと言うようになり、海軍も、日米交渉の土壇場になっても、総理一任といい、本心では戦争回避なのに自ら戦争反対といえないような状況が生まれたのです。井上成美はこうした状況の変化について、「省部の下僚は・・・対米戦を突然の宿命の如き観念に支配され・・・省部首脳までがこれを制御する勇気も才覚もなく、一歩一歩危機を作成せり」といっています。
一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか。その解釈は、上述した通り、アメリカは松岡の「ぶち壊し」の交渉態度や、その後の軍の強硬路線への復帰を見て、また日本政府がそれを制御できないことを見て、戦争は不可避であると判断した。また、アメリカの世論を欧州戦争(イギリス側に立ってドイツと戦う戦争)に導くため、ドイツと同盟を結ぶ日本との戦争を挑発した。あるいは、ハルノートを起案したホワイト財務次官がソ連のスパイであり、国際共産主義運動の一環として日米間の戦争を謀略的に挑発した等々。
これらは、それぞれ一半の真理を含んでいると思いますが、重要なことは、こうした国際政治的環境の下で、日本がこれらの問題についてどのように主体的に判断し問題解決しようとしたか、ということだと思います。了解案以降のことについて言えば、松岡のようなお粗末な人間が外務大臣だったということ。この人事を周囲の忠告を無視して行った近衛の責任は重大です。もう一つは、省部及び統帥部における陸海軍の首脳が、下僚の強硬意見や国民世論に引きずられて責任ある決断をなし得なかったということ。
つまり、その頃は、日米の国力差をまるで無視した「聖戦」思想に基づく宿命論的日米戦争論が軍内及び世間に風靡し、そうした空気には誰も逆らえなくなっていた、ということなのです。これがナチ的国家社会主義への共鳴現象をもたらし、また、もともと日独伊三国同盟はソ連も加えて米国のアジア及びヨーロッパの戦争への参戦を抑止するはずのものだった?のに、独ソ開戦によってそれが画餅に帰した後も、なおドイツ勝利を妄信する態度を生んだのです。さらにこれが、南部仏印進駐という、タイ、シンガポール、蘭印など英米蘭権益地帯への侵攻を意味する政策を執らせることにもなりました。
以上を総合的に勘案して、日米戦争は誰が欲したか、ということですが、それは主体的な観点から言うなら、この時代の「漠然たる、強硬を是とし、軟弱を否とする傾向であり、その背後にあったのは空想的と言っても良い拡張主義、世界再分割思想」を是とした」軍人・政治家及びそれを支持した日本人、ということになると思います。それを陸海軍首脳も制御し得ず「一か八かの戦争」に訴えることになってしまった。ここでも山本七平の言う「空気支配」(その場の空気に支配されて本当に考えていることが言えなくなること)が決定的な役割を演じたのです。
こうした軍内の「下剋上」的風潮と、それに拘束され身動きのとれなくなった日本の政治的リーダーシップに対する不信が、次第にアメリカをして戦争不可避論へと導いた。さらに、日本がナチスの快進撃に幻惑され、「バスに乗り遅れるな」とばかり、南部仏印に進駐して東南アジアの資源地帯を制圧する姿勢を見せたことが、アメリカの対日不信を決定的なものにし戦争を決意させることになった。それに、国際共産主義運動に関わる勢力が謀略的にハルノートを発出させ日本を挑発した・・・そんなところではないかと思います。
それは日米は戦う運命であったという認識でしょう。ルーズベルトがといいますが、アメリカは選挙で変わりますから、この要素に対する外交的配慮がまったく無い事は不思議です。
この件で興味深いエピソードを紹介しておきます。
一九八四年の夏頃、岡崎久彦氏が牛場信彦氏を訪問したとき、「お前か?真珠湾を攻撃しなければ、硫黄島で戦争が終わっていただろう、といったのは?」と訊かれた。氏は、「最近になって遂に思い至ったこととして、ベトナムでテト攻勢があったり、レバノンで二、三百名のアメリカ兵が死んだりすると、さっさと引き揚げてしまうアメリカであるから、もし日米戦争が、真珠湾でない形で(奇襲でなく、開戦に至る文書を公開しての正々堂々たる宣戦布告の形などで)始まっていたならば、硫黄島でもう休戦交渉に入っていただろうと思う」といった。これを聞いて、牛場大使は、今までに見たこともないような沈痛な表情をされて「そうだったか!」と悔しそうに膝を打たれた、というのです。(『日米開戦の悲劇』ハミルトン・フィッシュ、「まえがき」)
まあ、後知恵だとは思いますが・・・。当時、それだけの政治的知恵があれば大したものでしたが・・・。この日本人のこのカッとなる性格、これはなかなか直らないでしょうね。岡崎氏にしても気がついたのは敗戦から30年後のことだったのですから。といっても、本来、海軍が想定し訓練を重ねていた対米戦闘方法は、西太平洋で米海軍を迎え撃つ邀撃作戦で、真珠湾奇襲作戦は山本五十六が強硬に主張して採用させたものです。この作戦は山本の「ばくち好き」を反映していたのでは、などど言われていますが・・・。
つまり、国力に圧倒的な差があることは判っていたわけですから、列強の植民地主義やブロック経済を非難しつつ、日本は資源確保、のためと称して、徹底的な防衛的戦争を行うべきだった。そうすれば自存自衛という戦争目的に合した戦い方ができたはずです。といっても、これもまた後知恵で、そもそも満州問題の解決について防衛的に対処できなかったことが、事の始まりですからね。口ではそういいつつ、日中戦争でも防衛戦に徹しきれず、中国の主要都市の大半を占領する結果になったわけですから。そうした思考法が敗戦を招いたということですね。
近衛氏の思想は思想といいうるものでは無いと思いますが、これは明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象で、其のひとつとして昭和の動乱を見るという見方ももっていますが、これは手に負えない問題です。西洋思想の影響を受けた日本人の精神の変容を知る必要があります。おそらく昭和前期の政府が二重政府であったように、各人の頭のなかが二重になっており、其の行動も二重になっているという事でしょう。しかもそれを自覚していない。其の上それは外国から見ると昭和の日本の外交がさっぱりわからないように、その人以外から見ると同じように見えるということでしょう。
近衛文麿の思想は次回詳しく検討したいと思います。彼の思想が最もよく当時の日本人の思想を代表していると思いますので。
また、「明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象」として昭和の政治に表面化した、というのはその通りですね。この問題に思想的な決着をつけられなかったこと。それが、昭和初期の政治的経済的混乱期の革新思想として、明治維新期の尊皇思想(一君万民・天皇親政という家族主義的国家観に基づく政治思想)を呼び覚ますことになったのです。明治はこの思想を西郷と共に地下に埋め、見ぬふりをして近代化を進めてきたわけですが、この思想が昭和になって不死鳥のように復活し、明治の近代化思想とそれに基づき組み立てられた政治機構を破壊することになったのです。自らはそれを「近代の超克」と自負していたわけですが・・・。 
統帥権を悪用して政権奪取を図った軍部が自縄自縛に陥った

 

日本軍はトラウトマン和平工作後も、大東亜戦争に突入するまで和平工作ばかりしていました。一部の人々は、日中戦争の原因に気づくようになるのですが、それが最終的な政治判断に結びつかない。総合的判断を断固として行う意志決定のポイントが、失われていたのです。内閣の規定もなく首相権限が弱い明治憲法の欠陥だという指摘もありますが、日本が二重政府状態に陥っていたことも大きな原因でした。
この二重政府という事はどのような意味ですか。将軍と執権という事ですか?
曲がりなりにも議会がありましたから、この議会の議員が行動を起こせば、それで何かができたのではと思います。
首相は大命降下の擬似天皇親政で議会は選挙という民主体制と理解は可能ですが、そもそも、そのようには理解すらしていないような気がします。
日本が二重政府状態に陥ったのは、政府が、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦保有量総括比率対米英6割9分7厘(要求7割)等の内容で妥結調印した事に対して、軍部が、これは憲法第11条及び第12条に定める天皇の統帥権を犯すものだと激しく攻撃したことに端を発します。
(軍の統帥権)                                   
第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
(政府の統治権)
第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ
第55条 1 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
2 凡て法律勅令其の他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す
(議会の協賛権)
第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
第64条 第1項 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし 2 予算の款項に超過し又は予算の外に生したる支出あるときは後日帝国議会の承諾を求むるを要す
要するに、この天皇の統帥大権を補翼するものは軍(海軍では軍令部、陸軍では参謀本部)であるから、政府がこの統帥権に属する軍の編成に関わる軍艦の保有量を、軍令部の反対をおして決めたのは、天皇の統帥大権を犯すものだというのです。しかし、政府には海軍大臣も陸軍大臣もいるわけで、彼等は軍政の観点から政府の統治権に参画しているわけですから、当然、軍も政府の決定に従うべきなのです。
ところが、折しも中国では、国民党による国権回復運動に基づく排日政策がとられ、満洲では張学良が易幟(国民政府に服すること)を行ったことによって、日本の大陸における立場が極めて不安定になっていました。そこで一部の政治家や軍人・右翼は、これらは、中国の領土保全、門戸開放、機会均等等を定めたワシントン体制に原因があるとして、この体制下での国際協調外交を推進した幣原外相を激しく攻撃していました。
つまり、こうした幣原外交に対する不満を、民政党浜口内閣の倒閣に結びつけようとして、政友会の森恪が中心となり、軍人を巻き込んで統帥権干犯問題を政治問題化させたのです。まさに党利党略というほかない愚行で、これによって政府の統治権は国務と統帥に分立させられ、さらには議会の立法権も予算協賛権(=審議権)も軍の行動には一切口を出せず、これに追随するほかなくなってしまうのですから、「二重政府」は政治家がもたらしたといっても過言ではありません。
この「軍の統帥権」について石原は「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権の下に、皇国の大理想に対する絶対的信仰を以て三軍を叱咤する将帥必ず埋まるきを確信す」といっています。司馬遼太郎は、軍がこの統帥権をどのように解釈していたか、それを記した『統帥綱領』(昭和3年)と『統帥参考』(昭和7年)という本を紹介しています。
この本は、参謀本部刊で特定の将校にしか閲覧を許されなかった最高機密の本で、もとは二冊しかなかったそうで、敗戦時一切焼却されたとされていましたが、偕行社が奇跡的に残った本を入手し復刻したものです。そこには次のような統帥権の超法規的な権限が規定されていました。
(統帥権独立の必要)
「二、・・・統帥権の本質は力にして、其作用は超法規的なり。・・・統帥権の補翼及び執行の機関は政治機関より分離し、軍令は政令より独立せざるべからず」
(統帥権と議会の関係)
「三、・・・統帥権は其の(国務の)補弼の範囲外に独立す。従て統帥権の行使及び其結果に関しては、議会に於て責任を負はず。議会は軍の統帥・指揮並にこれが結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有せず」
こうした軍による極秘の統帥権解釈を政治問題化し、浜口首相暗殺というテロ事件を惹起させ、それによって誰も手を触れることのできない公然の解釈とさせたのが、この昭和五年のロンドン海軍軍縮条約締結の際に提起された「統帥権干犯問題」であったわけです。そして、この「霊妙なる統帥権」をつかって石原が起こした事変が、柳条湖の鉄道爆破に端を発する満州事変であったわけです。
では、この事件がどういう構想の下に実施されたものであったかを、当時幣原外相の下で外務次官を務めていた重光葵の記述によって見てみましょう。
「満洲国と関東軍
国家改造計画と国防国家
もともと、満洲事変は、日本革新運動と同根であって、大川周明博士等満鉄調査部の理論が、多分に採用せられていた。五族協和とか、王道楽土とか、財閥反対とかの左傾右傾の革新精神が、関東軍の幕僚によって、唱導せられ実行されて行った。「ナチ」に倣って、一党一国を目指す協和会も組織せられた。また、日満経済提携の協定は成立し、後には、日産を中心とした満洲重工業会社が出来て、満鉄と相列んで、満洲の経済的経営に当ることとなった。
関東軍の頭脳は、当初より満鉄の調査部であって、後藤満鉄総裁時代に出来たこの調査部は、大連及び東京に大規模の機構を有っており、政治経済の各般にわたる調査立案に従事し、大川博士は、久しく同部を指導しておった。関東軍の幕僚が、この調査機関を利用して作成した、内外にわたる広汎詳細なる革新計画がある。これが革新の種本であって、軍部革新計画者の間に、所謂「虎の巻」と称せられるものであった。その製作者の性質に鑑み、その内容は、極度に拡大せられ、理想化せられたナチ的のものであって、内に向っては、純然たる全体主義的革新の実行を目的とし、外に対しては、極端なる膨脹政策を夢見たものであった。
この虎の巻の全貌は、数名の中心人物(中堅将校)のみの知るところであって、これを同志の潜行的連絡によって、政府その他の機関をして、その所管内において個々に実行せしめ、全体を綜合して国家改造を実現し、革新の目的を達成せんとしたもので、目的の実行には左翼的戦術を用いていた。関東軍は、満洲事変の直接の爆発点でもあったが、日本改造運動の震源地でもあったのである。」
つまり満州事変とは、単に「日本の生命線」である満洲を軍事的に制圧することを目的とするものではなかったのです。それは、満洲を、日本の政治体制を全体主義体制に強引するための前衛基地たらしめるものでもあったのです。そのため石原は、一時、満洲に居留する日本人の日本国籍離脱を提起したほどでした。さすがに、この提案は受け入れれませんでしたが、こうした経緯から、満洲国を内面指導する関東軍は必然的に、本土の日本政府に対して、もう一つの政府であるかのような性質も持つことになりました。
そうした現実を象徴するような情景が同じ重光葵によって記されています。
林総領事及び森島代理は、(満洲)事件の真相を逐一政府に電報した。総領事及び代理等は事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東軍の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。軍人はすでに思い上っていた。森島領事は、一旦軍が行動を起した以上何人の干渉をも許さぬと云う返事を得て、止むなく帰った。その時、関東軍は、事実上石原次席参謀の指導の下にあって、全機能を挙げて突進していたのである。
張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上か風をなし、関東軍は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党拡反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。
若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍を従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府か軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出るにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫し、若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。
関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」
こうして、日本は、統帥権干犯問題の提起と、それに続く満州事変を経て、あたかも双頭の分裂国家であるかのような「二重政府」状態に陥ったのです。日本外交は全く首尾一貫しないものとなり、日本国の国際的信用は地に墜ちました。重光葵は「満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」といっています。
日本がこのような「二重政府」状態に陥っていることについて、中国の顔恵慶は1932年7月29日の国際連盟理事会で次のような日本政府非難演説をしています。
(日本代表が「支那を以て崩壊と無政府の状態にある」と述べたことに対して)
「日本代表は能く組織されたる国家のことを云はれたが、政府の統制を破りつつある陸海軍を有する日本の様な国が組織力ある国家であるかどうかを疑ふのである。日本の外交官が理事会に出席し、現実に種々の約束をなすに拘らず、而も翌日にはその約束が守られないと云ふのではそれは能く組織された政府を代表してゐると云ふべきであらうか。日本は二三の大国に対し錦州を侵略せずと明かに約束したに拘らず、数日ならずして錦州に入ってゐる。これでも能く組織されてゐる政府と云ふことが出来るであらうか。」
そして、こうした日本の「二重政府」状態が、二・二六事件を契機とし、さらに日中戦争の勃発によって日本の政治が実質的に軍の統制下に置かれるまで続いたのです。もちろん、この間、このような「日本の政治機構の破壊」状況を憂える外務省をはじめとする良識派の人びとが、全く手をこまねいていたわけではありません。その代表的人物が実は広田弘毅であったわけで、彼は「ある程度までは軍と妥協しつつ、軍部の無謀な行動を、あるいは抑制し、あるいは善導していく」苦心惨憺たる「苦行」を引き受けていたわけです。「軍部に正面から反対すればただちにその職から退けられるか、最悪の場合は暗殺され」ましたから。
こうした広田の苦行は、まず、関東軍をして北支分離工作を断念させ、満州国の経営に専念させることによって、日中親善の外交関係を確立することを、その目標としていました。しかし、残念ながら「広田三原則」においてもそれは骨抜きにされてました。このことは、その「三原則」の付属文書(一)で、「わが方が殊更に支那の統一又は分立を助成し、もしくは阻止する目的を持って以てこれを行うは、その本旨にあらず」としていたにもかかわらず、その付属文書(三)で、北支分離工作を決めた昭和9年12月7日付けの「外務、陸海軍主管意見一致の覚書」も、「これに代わるべきものの決定を見るまで」広田三原則と平行してこれを有効とする規定が挿入されていたからです。 
こうして、「関東軍の推進する軍の北支工作は、政府の外交方針とは全然無関係に、且つこれを無視して、秘密の間に遂行せられ、外交当局も政府も、その実相を窺い知ることは出来」ませんでした。
「外務省の立てた前記の大局的外交方針には、軍中央部においては、表面これに賛成しながらも、その実行については、中央においても出先き軍機関においても、猛烈に反抗した。外務省が、政府において予て決定されていた所に従って、支那公使を大使に昇格して、その地位を強化して、新しい政策を強力に遂行せんとした試みに対して、軍部は、外務省がこの際更めて大使昇格を陸軍省に協議しなかったことを、脅迫をもって抗議し、外務当局に対し激しく反感を表示した。
軍部は、すでに満洲問題は勿論、支那問題そのものを、外務省の手より引き離して、軍部の手によって処理する底意を持っていたのである。これがため軍部は北支工作は勿論、支那に関する問題は、外務省その他より掣肘を受くべきものでないとして、軍部限りにて大胆に処置し、政府自身もこれを制することを敢えてしなかった。
在支陸軍武官磯谷少将は、しばしば日本の名において声明を発表して、列国の支那における態度を誹膀し、日本軍部の支那問題処理の決意を表明し、支那政府を罵倒し、鋭く夷国を攻撃して、政府の外交方針とは正反対の立場を取り、軍中央部またこれに呼応したため、支那及び列強の世論を沸騰せしめた。日本の実権者としての軍部の態度は、当時内外より重要視されていたので、事態は益々悪化し、政府の外交政策の統制は、愈々失われて行った。
この軍の態度は、北支工作の進行とともに、共産党の絶好の宣伝材料となり、せっかく好転し来たった空気を混濁せしめ、満洲問題を外交的に収拾せんとする試みは、事毎に破壊された。当時、中国共産党の勢力は、蒋介石の討伐に遭って、後退を余儀なくされていたが、日本軍部の支那本土における工作に関連し、国際共産勢力か反日風潮を利用した攪乱策動は、最も有効に且つ隠密に行われておった。
ソ連の参加後、共産分子の多くなった国際連盟は、衛生部長ライシマン(ポーランド・ユダヤ人、共産党員)を、当時日本攻撃の有力な材料であった阿片問題調査を名として、支那に派遣した。彼は、遂に支那政府の顧問となり、最も効果的に、支那政府の内部より共産党のために働いていた。ソルゲ諜報団もまた久しく支那、日本にわたって活動していた。
コミンテルンは、世界的組織をもって日支の紛争を国際的に拡大すべく、全力を挙げていたのであった。欧米諸国におけるソ連第五列の政治上の力が、十二分に利用されたことは云うを俟たぬ。かくして、米国の対日態度は、スティムソン主義の下に、益々硬化して、理想的門戸開放政策の実行を強硬に日本に迫って、些細なことにまで、抗議と反対とを繰り返し、日本軍部を刺戟し、ついに日本当局の実現せんとした、満洲事変解決の方策を結実し能わざらしめた。
若し、米英が日本の平和主義者の考案を是認し、日本が東亜における安定勢力たることを承認し、政治的活眼を以て支那を中心とする東亜の政局を、一応安定せしめる方針に出でていたならば、世界の情勢は、おそらく今日の如く危険なものとはならなかったであろう。」
こうして蒋介石は、日本の政治が「二重政府」状態に陥り、対支政策が軍部に主導される現実を見て、また、国内における抗日世論の激発に押される形で、安内攘外の「剿共」路線から、抗日全面戦争へと舵を切ることになったのです。こうした日本の「二重政府」状態は、二・二六事件以降も、確かに健介さんが言われるように、政府も議会も残ったのですが、日中戦争が始まってからは戦時体制に突入したこともあって、日本の政治はただ軍の決定を「翼賛」するだけのものになったのです。
こうした状態に陥ったそのはじまりが、統帥権をテコにした「二重政府」の創出であったわけで、そして、そうした状態を、当時の政治家が党利党略で招いたのですから、昭和の悲劇の原因を、全て軍人に負わせるわけには行きません。といっても、その元凶ともいうべき政治家は、実は犬養毅でも鳩山一郎でもなく、特に前者は、森恪の要請で統帥権問題で政府批判演説は行ったものの、実際は、極力、森恪の暴走を抑制しようとしていたのです。そのため犬養は五・一五事件で暗殺されてしまいました。
蒋介石は、中国が列強の圧力に耐えて生き残り、近代化を果たすためには、国家統一によって軍と予算を政府の下に一元化することがどれだけ重要であるか、このことを学ぶためには、日本の明治維新を御手本とするとよい、といい、次のように部下将兵たちを諭しています。
「開会にあたって私は、日本の維新史の中から、長州、薩摩、土佐、肥前の四雄藩が当時自ら処した道、彼らの軍制改革の経過と彼らの改革精神を詳しく述べて、われわれ軍事同志の参考としたい。
日本はわが中国にたいし侵略政策を実行している。われわれは日本のことを話すたびに憤慨にたえない。特に済南惨案(済南事変)発生後は国をあげて日本を仇敵としている。しかし、いたずらに憤慨するだけでは、何にもならない。
われわれは日本がなぜ中国を侵略することができるかを知らねばならない。・・・その理由は、日本が維新の初めに健全で穏固な統一政府を組織し、現代的な国家の完成に努力したからである。
現代的な国家を作るには、どのような条件が必要であろうか?それは一に『統一』であり、二に『集中』である。徳川幕府の末期、長州、薩摩、土佐、肥前の諸藩の中堅は連合軍を組織して、悪戦苦闘の末、ついに幕府を倒した。これはわれわれ各集団軍が一致協力して極悪な北洋派を打倒したことに、すこぶるよく似ている。
討幕成功の後、日本の歴史の先例では、薩長の二藩が徳川氏に代って興隆すべきところだったが、長州、薩摩らは決然として大政を朝廷に捧げた。
全国の統一が成っても、日本の朝廷には一人の兵もなかった。各藩の兵はみな藩主と君臣の関係で結ばれていた。このとき維新の諸傑は困難を恐れず、藩兵をすべて国軍に改編した。彼等は各藩の兵力を制限し、天皇の護衛に親兵(近衛兵)を置いた。さらに彼等は藩ごとの境界をとり除いて、混合、改編し、鎮台を分設、集中訓練を施した。こうして国軍の基礎は確立し、全国の統一は成った。
日本の軍人は六十年前に封建制度を打破したが、中国の軍人は逆に封建思想に固執して、私兵をふやし、地盤を拡張しようとしている。一省を獲得するとさらに数省に割拠しようとし、数省を手に入れると、武力で国内を統一し、中央を掌握しようとした。
これは北洋軍閥の老祖袁世凱を先例とし、段祺瑞、呉佩孚が衣鉢を受けてやって来たことである。彼等の大事な仕事は、政変のたびに地盤の分配に心を労することであった。中華民国を私有財産として分割したのである。
日本の薩摩、長州その他は、討幕の功に居据わることなく、祖先伝来の土地を朝廷に奉還した。われわれは日本を見習わねばならない」
あーあ!この明治維新が「私」を棄てて成し遂げた国家統一を、昭和の政治家と軍人たちは壊してしまった。このことの責任を、東條英機も、極東軍事裁判における統帥権乱用の訴因に反論して、それは自分たちの責任ではなく、大日本帝国憲法の統帥権の規定によって、政府の権限が国務と統帥に分立していたためだといい、次のようにその責任を転嫁しています。
「第三の点、即ち統帥部の独立について陳述いたします。旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通念として居りました。このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。
従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持だなかったのであります。唯、単に連絡会議、御前会議等の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵には触れることは許されなかったのであります。その結果一度、作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む柳なき状態を呈したことも少しと致しません。
然るに近代戦争に於ては此の制度の制定当時とは異なり国家は総力戦体制をもって運営せらるるを要するに至りたる関係上斯る統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に指向する軍を抑制する機関を欠き、殊に之に対し政治的抑制を加え之を自由に駆使する機関とてはなしという関係に置かれました。これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。
又私が一九四四年(昭和十九年)二月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも此の苦悩より脱するための一方法として考えたものであって、唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。
斯の如き関係より軍部殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であって戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりという如き皮相的観察とは大に異なって居ります。」
なんですか?日本を「二重政府」状態に陥れたのは、自分たちの責任ではなくて、明治憲法のせいだと言うのですか。ウソおっしゃい!確かに、当時の国際政治環境や経済状況が困難を究めていたこと、それは判ります。そうした中で権力奪取を図ったのが軍だった。そして、そのために統帥権を利用し、まんまとそれに成功し政治権力を握った。なら、その権力奪取以降は、統帥権の解釈をもとに戻せばいいじゃないですか。身内のことだし権力も武力もあなたたちが持っていたのですから・・・。
本当は、あなたたちはあなたたちなりの思想を持っていて、それで政権奪取を図った。そして、その思想に基づいて大陸政策を強権的に押し進めた。しかし、それは誤っていた、そういうことではないのですか。つまり、統帥権が禍したのではなくて、あなたたちの思想及び政策が誤っていたのではないですか。私は、あなたたちが抱懐したその思想こそ問題としたい。従って、あなたたちが統帥権の問題を言うなら、それは、それを悪用して政権奪取したその「屁理屈」によって自縄自縛に陥った、ということではないですか。
軍が統帥権という「魔法の杖」を手に入れ、満州事変を起こし、それが最高の栄誉をもって国に遇されるようになって以降の軍の行動は、山本七平の言葉を借りれば、あたかも「日本軍人国」が「日本一般人国」を占領したかのような「二重政府」状態となりました。そこにおける最大の問題は、彼らが、「世論に惑はす、政治に拘らす、只々一途に己か本分の忠節を守り・・・」という明治以来の日本軍の訓戒を踏みにじって、ある「思想」に基づき、日本の政治を引きまわしたことにあったのです。
言うまでもなく、石原莞爾の思想もその一つであったわけですが、彼のは所詮借り物ですからね。その基底にあったオリジナルの思想を、しっかり把握する必要があります。
石原莞爾及び日本人一般の「一人よがり」の王道思想が日中戦争を招いた

 

「蒋介石が、その高級官僚をすべて集め「全面抗戦」を決定したのは、(昭和十二年)八月七日のことである。ここで、蒋介石は、彼の生涯における、最大にして後に最も議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。それは、華北で起こった中日の戦いの主戦場を、華北から華中、つまり上海に移すことを決心したのである。」
ここに至るまでの蒋介石の、日本との国交調整の歩みについては、エントリー「日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか」に見た通りです。昭和10年初めには、蒋介石は、日本側に日中親善「三原則」を示し、同年9月には、満州国の独立について「これを不問とする」ところまで妥協しました。これに対して日本政府は「広田三原則」で答えようとしましたが、陸軍はこれを中国の「三原則」を無視するものに変えてしまいました。
それだけでなく、関東軍は、こうした日中親善を目指す政府の外交交渉を妨害するため、1935年半ば頃から、武力による威嚇を背景に、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を中国に押しつけ、華北分離工作を開始しました。こうした日本軍の行動に対して、中国では抗日世論が激高し、そのため蒋介石は、1935年の末頃には、国内優先の政策(掃共、地方軍閥整理、自身の指導力強化、経済建設)から、「対日戦争準備」に転換せざるを得なくなりました。
こうした蒋介石の政策転換に、日本側は何時気づいたか。大方は、第二次上海事件が勃発して以降だと思いますが、石原莞爾も、昭和11年8月の「戦争計画」では、「(中国の)政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐・・・用兵の範囲は北支、山東、要すれば中支、やむを得ざれば南支」などという楽観的な認識を示していました。ところが、綏遠事件の失敗や西安事件を機に、石原は急角度にそうした認識を改め、昭和12年1月には「侵略的独占的態度」を是正し「北支分治工作は行わざること」と従来の政策を急転回させました。
その直後に成立した林銑十郎内閣の外相に就任したのが、前回のエントリー「日中戦争、これに直面するもしないも「日本の考え方如何によって決まる」・・・」で紹介した佐藤尚武でした。彼は、対支再認識論を説いて、冀東政府の解消を初めとする北支工作の停止を骨子とする「北支指導方策」(37年4月)をまとめ、中国政策の転換を図りました。それを実質的に支えたのが石原莞爾だったわけですが、こうした政策転換に正面から抵抗したのが関東軍参謀長だった板垣征四郎でした。
結局、石原は、関東軍を初めとする軍内の対支強硬派を説得出来ないまま、日中全面戦争突入した後の1937年9月に、参謀本部第一部長の職を辞すことになりました。ではなぜ、石原は、自分の古巣である関東軍のかっての同僚や部下たちを説得出来なかったか。これについては、私は前前回のエントリーの末尾で、「石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかった」ためではないか、ということを申しました。
どういう事かというと、実は、関東軍の将校たちは、石原の唱えた日米「最終戦争」論の観念的継承者であったということです。つまり、彼等にとって日中親善とは、あくまでも、当面は対ソ、最終的には対米戦争に備える資源確保のためであって、もし中国がそれに応じないなら、華北分治もやむを得ないと考えていたのです。彼等は蒋介石がそうした日本の要求にすんなり応じるとは思えられなかった。従って、彼等には、対支再認識論を唱え華北分治工作の転換を迫る石原のやり方が”手ぬるい”ものに見えたのです。
実際、石原は、「満州事変前すでに最終戦の観点から、満蒙の資源だけでは十分でない」と考えていて、満州事変後は「山西の石炭、河北の鉄、華南、山東以南の綿」が必要と考えるようになりました(「満蒙問題に関する私見」)。また、昭和10年8月に参謀本部作戦課長となって策定した「重要産業五ヵ年計画」を達成するためには、華北の「神話的資源」は不可欠と考えていました。そのため、昭和10年半ば頃から関東軍が始めた華北分離工作を容認してきたのです。
その後、石原は、昭和11年半ば頃になって、ようやくその危険性に気づくようになり、一転して「華北資源不要論」を唱えるようになりました。そこで、満洲資源の再調査して必要な報告を提出させ、部内の思想統一をはかったのですが、上記のような理由で、彼等を説得することはできなかった。といっても、華北分治を進める彼等が中国との戦争を望んでいたわけではなく、まさか、中国が日本に対して全面戦争を挑んでくるとは思っておらず、反抗するなら膺懲=懲らしめる、程度にしか考えていなかったのです。
こうした「迂闊な」考え方をどうして日本軍がしていたのか。それは、次の松井石根の「日中戦争論」を聞けば、その特異な性格が分かると思います。言うまでもなく、松井石根は、第二次上海事変勃発に際して上海派遣軍司令官に任命された人物であり、任命当初から、南京を落とすことをその戦略目標としていました。
「そもそも日支両国の闘争は、いわゆる『亜細亜の一家』における兄弟喧嘩であり、日本が当時武力によって、支那における日本人の救援、危機に陥った権益を擁護するのは、真にやむを得ない防衛的方便であることは言うまでもなく、宛も一家の内で、兄が忍びに忍び抜いてもなおかつ乱暴を止めない弟を打擲するに等しく、決してこれを憎むためではなく、可愛さ余っての反省を促す手段であることは、自分の年来の信念であった。」
つまり、日本と中国の関係を、「亜細亜の一家」における兄と弟の関係と見なしていたのです。そして、その「亜細亜の一家」の中で、アジア復興という使命にいち早く目覚めた長男が日本で、そうした使命をなかなか自覚できず、兄である日本に対して反抗し乱暴し続ける弟が中国である。そこで、日本は、中国にアジア復興のために奮闘しているの日本の使命を正しく認識させるために、心ならずも弟である中国に「愛の鞭」を振るったのだ、というわけです。
こうした「一人よがり」な日本の態度を見て中国は、昭和10年1月に中国側「三原則」を日本側に示しました。その言わんとするところは、次のような事だったと思います。
「中国は独立国家であり、日本とどのような関係を結ぶかは、中国自らが主体的に考えるべきことである。日本が、そのような中国の独立国家としての主権を尊重し、日中間の問題をあくまで外交交渉によって解決すると約束してくれるなら、中国としても、日本が直面している資源問題や人口問題さらには経済問題などの解決に、できるだけの協力をするつもりである・・・」
要するに蒋介石は、日本に対して、まず「中国を独立国家として認めること」を要求していたのです。しかし、当時の日本人は、松井石根の「亜細亜の一家」論に見るように、東洋「王道文明」VS西洋「覇権文明」という対立図式を自明のものとし、そうした図式の中で中国を位置づけていたために、上記のような中国の要求が、兄である日本が立てた「アジア復興」プログラムに従わない、「自分勝手な」行動に見えたのです。
ところで、ここに言う「王道文明」VS「覇道文明」における「王道」とか「覇道」とはどういうことか。ブリタニカ国際百科事典によれば、王道とは、孔子や孟子の唱えた「徳を政治原理とする政治」のあり方で、仁政によって人民の経済的安定を図るとともに、人民を徳化することで社会秩序を維持しようとする考え方。一方、覇道とは、春秋時代の覇者の行った武力による権力政治のことで、利や武力を用いて社会秩序を維持しようとする考え方、だそうです。
こうした「王道」、「覇道」という考え方は、言うまでもなく中国の儒教思想に基づく考え方ですが、では、松井石根の「亜細亜一家」という考え方は、こうした儒教の考え方とどのように関わっているのでしょうか。実は、この、国家を家とを同定する考え方は、儒教思想の日本的変容と言うべきもので、つまり、家族倫理としての「孝」と政治倫理としての「忠」を一体化し、「忠孝一致」とすることによって、国家を家族の延長と見る考え方なのです。
言うまでもなく、こうした「忠孝一致」の国家観は、日本の幕末期に、後期水戸学が生み出したもので、尊皇思想に基づく「一君万民」思想が生み出したものなのです。それは、一君である天皇を一家の家長(=大和民族の宗族の長)に見立て、その臣民を赤子として、両者の関係を「忠孝一致」の親子関係と見なす「家族的国家観」なのです。当時の日本人は、こうした国家観を「王道文明」に基づくものと考え、それを中国にも当てはめ、中国に「亜細亜の一家」となることを求めたのです。
そうした日本人の「一人よがり」の思想に基づく「善意」が、どれだけ満洲人や中国人、あるいはフィリピン人を傷つけたか、『炎熱商人』の著者深田祐介氏は、佐高信氏との対談で、次のような指摘を行っています。
日本人は「アジアは一つ」と言った。しかしそれは日本人の独善的な思い込みに過ぎなかったのではないか。
「フィリピンはカトリックだし、ビルマ(ミャンマー)は仏教(それも日本の仏教とは相当に異なっている=筆者)、インドネシアはイスラム教ですからね。宗教一つをとってもアジアは一つではない。あのスローガンはどれだか誤解をもたらしたか・・・」
「内面指導は日本人を解く大きな鍵ですね。とにかく日本人は内面指導が好きなんですよね。満州国に行って、先ず日本人による行政機構を作る。この機構の次官クラスが満洲人を手取り足取りああせいこうせい『内面指導』する。」
「主観的な善意を平然として押しつける。その思い込みの善意が相手のプライドをいかに傷つけるか、と言うことが日本人には分からない。他民族のプライドを考えられなかった、というのが戦前、戦時中の日本人の致命的欠点だったんじゃないか。満州国建国のニュース映画を見ても、建国の式典でまず最初にやるのは『大日本帝国万歳』とか『天皇陛下万歳』で、最後に『満州国万歳』をやっている。仮にも独立国の式典でしょう。常識で言ったらあり得べからざる話ですね。・・・吉岡中将が溥儀を説得して、『満州国の建国神は天照大神』にしてしまうんですね。信仰の問題に就いても内面指導をしているのだから驚きますね。」
では、こうした日本人の内面指導の弊から石原莞爾は免れていたでしょうか。満州において五族協和を説き、進んで、東亜連盟という王道思想に基づく連合国家構想を説いた石原の理想主義は、はたして、満洲に住む各民族の精神的自由を保障するものだったか。また、石原のいう東亜連盟は、世界最終戦を経て八紘一宇という天皇を中心とする世界家族国家を想定していましたが、果たしてそれは、この連盟を構成する各国家の主権を保障するものであったか。
このように見てくると、石原の思想には二つの重大な欠陥があったと見ることができます。一つは、彼の「東洋王道文明」VS「西洋覇道文明」という対立図式は、実は日本独自の「家族国家」思想から生み出されたものであり、いわば日本の被害者意識が生み出した幻想に過ぎなかったということ。そして、そうした図式の中で中国や英米との関係を位置づけようとしたことが、結果的に、中国の独立国家としての主権を犯すことになり、さらに、英米の自由主義国家を敵に回すことになった、ということです。
もう一つは、石原の民族共和の思想は、決して普遍思想となり得るものではなく、実は、儒教思想の日本的変容である尊皇思想に基づく「忠孝一致」思想だった、と言うことです。石原は、その思想を田中智学を通して八紘一宇の世界家族思想として普遍化しました。しかし、それに基づく国家観が幻想であった如くに、「忠孝一致」という個人倫理も、それはあくまで、日本の思想の歴史的発展の中から生まれた日本の固有思想であって、アジアの国々の人びとに一般的に適用できるものではなかったのです。
こうした石原の唱道した思想が、戦前の(昭和における)日本人を金縛りにしたことが、当時の国際関係の中で、日本が、現実的・合理的・理性的な対応ができなくなった第一の原因ではないかと思います。では、そうした思想的伝統を持ちながら、どうして日本は明治維新以降の近代化に成功し、大正デモクラシーの時代まで到達し得たか。それは、「忠孝一致」の尊皇思想の、さらにその基層には、武家文化が育てた「器量第一」=実力主義的の伝統文化があったからではないかと思います。それが、近代化の求める諸課題への機能的な対応を可能にした・・・。
また、それが昭和の「一人よがり」の世界観や、はなはだしい人命軽視に陥らなかったのは、西欧文化に学ぼうとする姿勢が、自ずと人びとを謙虚にしたということ。また、人びとが、江戸時代の身分制から解放されて、「独立自尊」という自己責任の世界で生きるようになったとき、自ずと、理想と現実の緊張に耐えて生きることを学ばざるを得なかったということ。さらに言えば、その理想と現実の緊張に耐える武士的な個人規範が、まだその時代には生きていた、ということではないかと思います。
それらが昭和に入ると失われた。まず、西洋文化に学ぶ姿勢より、それに対する被害者意識の方が強くなり、むしろ、日本文化、東洋文化の方が優れていると自惚れるようになったこと。「独立自尊」の精神が、次第に社会組織が安定し固定化するにつれて、組織に依存する体質が優位を占めるようになり、個人倫理としての規範力が弱まったこと。さらに決定的な問題は、大正自由主義の時代に続く社会的・経済的混乱を経て、自由主義的観念が次第に忌避されるようになったと言うことです。
こうして、日本は、英米など自由主義国家に対する病的なまでの警戒心を抱くようになりました。そこで、日本が、こうした自由主義国家群が覇権を握る国際社会の中で生き残っていくためには、満洲は日本の「生命線」であり、「持たざる国」である日本はそれを領有する権利がある、と考えるようになった。こうして満州事変が起こり、さらに華北分離工作が行われ、ついに、蒋介石をして抗日全面戦争を決意させるに至ったのです。この間の日本人の思想的変遷の軌跡をたどる上で最も参考になるのが、石原莞爾の思想というわけです。
この石原莞爾の思想の中に、日本人がなぜ、思いもしなかった日中戦争を8年間も戦い、さらには、「鵯越」「桶狭間」「川中島」を合わせたような、一か八かの対米英戦争に突入することになったか、その不思議の原因が隠されているように思います。 
日中戦争 「日本の考え方如何によって決まる」と言った佐藤尚武外相

 

前回、せっかく蒋介石が、結果的に、満州事変を惹起せしめた満州における「国権回復政策」の行き過ぎを反省し、日中親善の友好関係を図ろうとして、中国側三原則を示したのに、陸軍が、中国の対日態度転換は欺瞞だとして、外務省の対華親善政策を批判し、華北自治運動を押し進めたことを紹介しました。その最も露骨な現れが、日本の傀儡政権である冀東防共自治委員会(後冀東防共自治政府と改称)の設立でした。
廬溝橋事件が発生した二十日後の昭和12年7月27日、通州事件(邦人朝鮮人260名が殺害された)が発生し、日本国内で中国人の暴虐事件として報道され、これが南京事件の一因になったとも言われます。実は、この通州は上記の冀東防共自治政府の所在地で、そこに自治政府の保安隊が置かれていました。この事件は、この保安隊を日本軍が誤爆したために発生したとされますが、問題は、この時期、この保安隊にも一触触発の反日感情が渦巻いていたと言うことです。
この冀東防共自治政府の存在こそが、日支間の国交調整を不可能にしている最大原因で、これを解消することが、両国の関係改善を進める上での第一歩と主張したのが、廬溝橋事件が発生する四ヶ月前まで林銑十郎内閣の外務大臣の任にあった佐藤尚武でした。彼は、今回のエントリ「日中戦争、これに直面するもしないも『日本の考え方如何によって決まる』」といい、日中戦争の本質を的確に見抜いた人物でしたので、次ぎに、彼の言葉を紹介したいと思います。
危機は日本しだい
昭和十二年の三月十二日、衆議院本会議での、外交方針にかんする緊急質問として、立憲民主党の鶴見祐輔、政友会の芦田均両君の、外務大臣たる私にたいしての質問に答えた演説・・・その最後の一節。
「最後に、外交の国策の根本方針について、政府の所見をご質問になりました。なるほど、わが国は現時の状態においては、八方ふさがりのように見えるかもしれませぬ。また、芦田君のいわれるところでは、現時においては平和か戦争かという岐路に立っておって、国民は迷っておるというご説明でございました。日本内地で当時よく唱えられたことばでありますが、三十五、六年の危機ということが常に人の口に上ったのであります。
*「三十五、六年の危機」とは、海軍が、ロンドン海軍軍縮条約の期限切れ後の1935、6年頃に「米国が皇国に対し絶対優勢の海軍を保持せんとするは、皇国海軍を撃滅し得べき可能性ある実力を備へ、之によつて米国の対支政策を支援し強行せんが為めである」として危機を訴えたもの
三十五、六年を経て、しかして現今からこれを顧みて見まするに、はたしてどうであったか。危機ということばは何を言い表わすか、もしその危機なることばが戦争を意味しておったということであれば、私は当時三十五、六年にいたっても戦争はない、したがってその意味の危機ならばありえないというふうに考えて、また当時日本に帰っておりまして、各方面でその話をいたしました。
もしその危機なることばが、国際関係の逼迫であるという意味に解すべきものならば、それは三十五、六年をも待たず、満州事件以来、常に日本は危機にひんしておるのである。しかしそれは日本ばかしの特殊の問題ではない。ヨーロッパにおいては毎日危機であります。国と国との境を接し、飛行機のごときはて二時間を争うという、そういう地理的状況において、国際間の関係に融和を欠き、互いに軍備を整えておるという今日においては、その危機は毎日毎時刻に存在しておるのでありまして、何も日本に限ってそれを気に病んで、焦燥な気分になるという必要は一つもないということを、私は申し上げました。(拍手)
その後三十五、六年を経て、いま現在三十七年になってこれを考えて見まするのに、私は国際間の危機というものをそういう意味に解するならば、しかしてまた、戦争というものが目の前にぶら下がっておるというような意味に解するならば、私の申しましたことが、理屈があったというふうに感じるのであります。私は日本国のような国がらは、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくすということが最も必要なことと思います。(拍手)
もちろんそのためには、国策というものを立てまして、これを明らかにし、国民の帰趨を示す、国民のおもむくところを示すということが必要であるのも、全くご名論と思いまする。私は国民に、こういうことを了解してもらいたいと思うのであります。ほんとうの意味の危機、つまり戦争の勃発という意味の危機、日本がこれに直面するのもしないのも、私は日本自体の考えいかんによって決まるのであるというふうに考えるのであります。(柏手)
もし自分が、その意味の危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで。その危機はいつでも避けられると確信いたします。(拍手)
諸君、私は弁舌にはなはだ拙でございまして、明らかに自分の意向を表明することができぬかもしれませぬけれども、私は今日の日本、それは七十年の歴史、努力をもって、ここまで築き上げたこの日本が、なんの必要あって、堂々たる態度をとって、堂々たる道を歩きえないのか、それを私は不審に感ずるのであります。(拍手)
今日まで進みました日本は、私の考えでは、きわめて公明なる方策を立てまして、権謀術数などということは、頭の中から全く去ってしまって、しかして国際間に処しまして、だんだんたる道を大手を振って歩けば、私はよろしいと思うのであります。
かくすれば、国民もその外交政策なるものにたいして、じゅうぶんなる了解を持ちえましょうし、また国際間に処しましても、だれしもわれわれの国策、外交政策というものにたいして、危惧の念をいだくべきはずがないのでありまして、この大なる国策を背に背負いまして、世論の力をもって、しかして自分たちの前に開拓しましたる明らかなる大道を、自分たちの目的に向かって澗歩していきたいと思うのであります。(拍手)
これはきわめて陳腐なことを申し上げますので、何も新奇をてらったわけでもなんでもないのであります。私は外交なるものに新奇をてらうことは、大きな間違いだと思います(拍手)。きわめて普通の考えから、きわめて単純なる道を、自分の持っている常識によって判断して、その道をただ進んで行けばよろしい、というように考えるのでありまして、かくしてこそ初めて、国民もいっしょになることができましょうし、いわゆるわれわれの欲する挙国一致の外交政策というものが、立ちうるのであると思います。
私は議会はもちろんのこと、政府、軍部、実業方面、新聞、その他、皆このきわめて了解しやすい国策に向かって、一致の態度をとって、しかしてこのまとまった国論に導かれて、しかしてわれわれに与えられるこのまっすぐな道を進んで行きたいのであります。これが私のとらんとする方策でございます。(拍手)」
その後の、佐藤尚武外相の外交方針についての説明は次のようなものでした。
「かくしている間にも、私は支那との平和づくの談判を行なわんとして着々準備を進めていった。これは以下詳述しておきたいと思うのであるが、この準備工作の間、議会の無責任な連中の相手となって、そして正面から衝突するということは、私としてはぜひ避けなければならぬことであると考えた。実を言えば、議場の演壇の上から私の心底を吐露して国内の健全な世論に訴え、そして公の場所でこの連中のロを封じてしまいたかったのは、やまやまである。しかし私は、自ら求めて争いを大きくするということは、いまの場合、私の大切な仕事を事前にこわすことになるので、虫を殺して衝突を避ける決心をした。私の始めた仕事は、大約次のとおりである。
当時、日支の間の紛争は日ソ間の関係以上に悪化し、かっ急迫していた。それは、その前年あたりから殷如耕を首班とする翼東政権なるものが建設され、そして南京政府とは独立に、翼東地区の行政に当たるという形をとってから、一層両国間の関係が激化したのである。南京政府はこれにたいして翼察政務委員会なるものを作り、宗哲元をして主宰せしめ、殷如耕の翼東政権の向こうを張り、わが北支駐留軍にたいする障壁としたのである。私はもちろん、支那国内に翼東政権のごときものを作ったことには、大なる反対を持っていた。しかしてこれがある間は、目支間国交の円滑化はとうてい不可能であると断じていた。
すなわち、国交の調節を図らんとするならば、かくのごときやり方は、根本から変えなければならぬことになる。しかし、すぐさま翼東政権解消というのでは国内的に非常な困難に遭遇するのは当然であって、これを無理押しに乗り切ることは、すこぶる危険である。よって私は、日支聞に国交調整の一般的会談を始めて、そして紛争の比較的容易な問題から片づけてゆくという方針をとった。一問題を解決すれば、次の問題に移る。かくして度を重ねてゆくうちに、自然と良好なふんいきができてきて、国民も平和的解決に望みを嘱することになり、漸次、むずかしい問題にも及びうるわけである。もちろんこれがためには、両国互譲の建て前でゆかねばならぬことは明らかであるが、かく平和的解決の筋道がつけば、両国とも譲歩がしやすくなるわけである。しかして最後は、どの道、翼東政権解消にまでこぎつけねばならぬと決心したのである。
しかしながら、これを実行するには、まず国内において、軍部と一心同体にならなければならぬ。すなわち軍部を説き、彼らをして全部われわれの考えを容れしめ、協心協力、事にあたるように仕組まなけばならぬ。これなくしては、とうてい平和交渉はできるわけのものでない。また幸い。国内的に話がまとまりえたとしても、出先の軍部をして中央の方針を体して、同一の態度をとらせなければならぬ。しからざれば出先は個々別々の態度をとり、これまた話をぶちこわす方に導くばかりである。そこで私は、軍部大臣と密接な連絡をとる一方、当時の『外務省アジア局長森島守人君(現社会党代議士)に嘱して陸軍省の軍務局と極秘のうちに交渉を行なわしめたのである。
当時の軍務局長は後宮少将(後に大将)軍務課長は柴山大佐(後に中将で陸軍次官になった人)などであった。この両責任当局は、われわれとほとんどその所見を一にしていた人たちであったため、陸軍、外務両省の意見は漸次接近することを得、大綱において、合意ができたのは幸いなことであった。参謀本部もこれに異議を唱えず、米内海軍大臣も、もちろん賛成であった。このうちわの交渉には、まる二ヵ月の短かからぬ時間を要したのであるが、私はそれでも満足せず、いぜん出先を説きつける必要を痛感しておったので、陸、海、外の三省から同時に、かつ別個に特使を出して、出先軍部にたいして中央の意向の徹底を図らしめたのである。
陸、海両省もこの案に賛意を表して、陸軍からは柴山軍務課長、外務省からは森島守人局長、海軍からも相当の人を出してくれて、この三人はまず上海に渡り、ついで天津に出、それぞれ出先軍部にたいして中央の方針に励力を求めたのであるが、上海、天津ともよくその意を諒として、中央がその方針なれば、われわれも当然、協力を惜しまないものであるとして賛同してくれた。三人の特使はそれから新京に到着した。ここでも同じ話をしたのである。しかし新京の空気は全く別個のものであって、中央の意見にたいして反抗の意識が明らかであった。
そしてそのような手ぬるい方針をとったところで、あたかも。”仏を作って魂を入れぬ”と選ぶところがないという意見であった。それもそのはずで、冀東政権を熱心に支持していたものの一人は関東軍であったのである。
かくして、三人の人たちが新京ですったもんだやって、三日間を過ごしたときに、林内閣はにわかに、総辞職をすることになってしまった。それは五月の三十一日のことであった。朝、閣議に臨時招集を受けた各閣僚は、一人一人首相の事務室によばれ、そして首相から総辞職の意図を聞いたのである。突然の決意に一同、非常に意外に思ったのであるが、だれも異議を唱える者はなかった。その前の晩までは、最後まで戦う、という申し合わせをしたくらいであった。・・・かくして林内閣の存在、わずか四ヵ月、私が外相に就任してから満三ヵ月にして、六月三日、桂冠したのである。その結果、私の企てたこともすべて、半途にして挫折してしまった。」
では、佐藤は冀東政権解消の後何をしようとしていたのか。
日支関係の打開
「人はよく、私の政策にたいして反対する言いぐさとして、そのような手ぬるいことをやったのでは、支那はどこまでもつけあがってくる、といって非難した。私からいわしても、この心配は一理ある。従来の日支関係のいきさつから見て、そういう懸念をいだくのは、当然といってもいい。しかし、問題の焦点は、そりいう点ではないはずであり、世界の世論に照らして、日本の言いぶんが正しいかどうかということである。
もちろん平和づくの交渉であれば、両国互譲の精神をもって談判するほかなく、支那も譲れば日本も譲る、互いに相手の要求をよく理解して、その間に妥協点を発見するのが交渉の道である。そして、日本はさきにも述べたとおり、ついには翼東政権解消というところまでゆかなければならなかったのである。そのさい、支那がはたして図にのってきて、失地回復すなわち満州の返還をさえ要求するようになったとしたならばいかん。
この佐藤がいかに軟弱外交の標本であったにしろ、日本としての譲歩にはもちろん一定の限度がある。この限度に達しない前に、話し合いが成ればそれでよし、日本は最小限の利益を確保して、支那との間に平和を築くことができるわけである。もしこの最後の一線をさえも、越えざるをえないはめになったとしたならば、そのときは談判破裂であらねばならぬ。何人にも最後の一線は越えられないはずである。
しかしてその一線は、私からいわせれば満州問題である。すなわち支那の失地回復問題である。満州国の独立は日本の名誉にかけて断行したところであって、これはもはや、日本の存続する限り撤回のできない問題である。これを譲るがごときはとうてい考えられない。
満州問題が突発してからすでに六年、日本はそのために、連盟から脱退さえも敢えてして、自己の主張を堅持してきたのであるが、はや欧米各国とも、日本の決意牢固たるを見て、漸次、反対の態度を断念する方向に進んできている。アメリカのごときも、公にこそいわぬが、内々もはや満州問題はやむをえないとして、われわれに打ち明け話をしていたむきもある。してみれば、国際的にも日本の地位は決して絶望的のものではなかったはずである。日本は国際世論の前に立って、このたびこそは堂々と、態度を鮮明にすることができる。
すなわち、緊張した日支間の関係を平和づくの談判によって解決せんとするのが日本の態度である。そのためには、これも譲り、あれも譲っている。ただ日本の譲りえない最後の一事、すなわち満州問題をさえ、支那は言い出してきている。これだけは日本の生死をとしても、譲歩のできないところであることは世界各国といえども、承認せざるをえないはずである。
しかも、支那がこれを強要するゆえんのものはすなわち、支那に日本との平和維持の誠意のない証拠でなければならぬ。かくなるうえは日本と支那のいずれに正があり、邪があるか、世界の世論自らこれを判断すべきである。日本は堂々と天下に向かって自己の主張を突っ張りうる。かくして支那の強要のため、交渉は破裂して不幸戦争勃発するにいたった場合といえども、国際世論は明確な日本の態度を是認せざるをえないであろう。また日本国民自身も、なにゆえに支那との戦争か避けられなかったかということについて、じゅうぶんの理解を持つたであろう。
もちろん、談判破裂と同時に外務大臣は当然、ことの成り行きを詳細、国の内外に発表しなければならぬ。この発表を見て、日本国民は憤然として決起したであろう。また、幸いにして、ことが窮迫せず、最後の問題に触るることなくして支那との間に交渉がまとまったとしたならば、それはすなわち戦争を避けるということであって、東亜の平和のために、大いに賀すべきことであらねばならぬ。
もちろん一部の世論は、これにたいして大なる不満をいだくであろう。支那にたいしては、絶対に譲歩すべからずとする連中が多多ある。これらは、和平成るを見て一騒動起こすことになるかもしれない。しかし、それは国内の一波乱で済むのであって、両国間の和平はできた方がよかったということになるのはもちろんである。
日ソ関係の打開
支那との問題は実際、私の目にも急迫して見えたのであるが、ソ連との関係は当時、まだそれほどではなかった。もちろん、昭和十一年の防共協定以来、両国関係が非常に悪化したのは事実であるが、まだ戦争の危険は私には感じられなかった。ただ両国の感情がいかにも疎隔してきたので、なんとかこれをまとめる必要があった。また、私自身もそれを願っていたのである。ここにも、世論の一部を排して断行する決意を要したのは当然である。
当時私は、貴族院の本会議で大河内輝耕子爵の質問に答えて、ソ連関係について述べた中に「ソビエトが共産主義の国であるということにたいしては、それはソビエトの国内問題であって。われわれはなんら口出しの権利もなければまた、その必要もない。しかし、ソビエト国内に世界革命を旗印とする国際共産主義(コミンテルン)の本拠がありとすれば、他の国々が不安を感じ、疑惑をいだくことになるのも、当然であり、国交に影響するところも大である。もしソ連が口でいうがごとく、ソ連が国際共産主義の組織とは直接関係がないというのであれば、この組織をソ連領内においておく必要はないはずである。ソ連自らこの組織を国外に追放するということにでもなれば、外国との関係は明朗化するであろうし、日本との関係においても大いに、やりよくなると思われる」という意味のことを述べた。
私の言ったことの裏を返せば、コミンテルンとソビエトはまさに唇歯輔車の関係にありというべく、前者の組織をソ連以外に移すなど、とうてい考えられないことであり、それが不可能とすれば、したがってソ連との国交調整も容易なことではないといわざるをえないということになるわけである。しかるにその後六年(一九四三年)戦時中に、コミソテルソは自発的に突然解消することになり、私の不可能視していたことが表面上は、実現することになった。このあたりの事情や経過については、後日一言の機会をうるであろう。
日英関係悪化の打開に努力
ここで、対英政策のことについても一言しておかなければならない。前にも述べたとおりオタワの帝国会議以来、日本とイギリスとは経済問題で犬猿ただならない間がらになってしまった。日本は綿布でも雑貨でも、安くこしらえてどしどし海外へ売り出そうというのであり、また品質も安い割り合いにはだんだん良くなってきたので、日本品の進出は非常な勢いで発展しつつあったのである。これにいちばん脅かされたものは、なんといっても海外貿易で立っていくイギリスであったのは当然なことで、国際市場獲得の争いから日本とイギリスとはどうしても、かたき同士にならざるをえなかった。イギリスは、自分のいままで持っていた市場を蚕食されるのを、極度に忌みきらったのである。
この経済上の争いは、当然両国の民心に好ましからぬ影響を与え、これが政治問題にも影響して、両国の間には摩擦がふえるばかりであった。もっとも、マクドナルド内閣のときに、彼は日本の大使にたいして、経済問題で日英両国が戦わなければならぬということはありえない。。自分は経済問題では、断じて日本と戦うことをしない、と言ったことがある。それはたしか、一九三〇年のロンドン海軍制限会議当時のことであった。しかしそれにもかかわらず、両国関係は悪くなる一方であり、そこにまた、満州事変から引き続いて北支、中支問題が起こるにいたり、支那各地に大なる権益を持っていたイギリスとは、ことごとに衝突せざるをえないはめになった。
振り返ってむかしのことを考えてみると。一九一〇年ごろ、まだ日英同盟花やかなりし時代に、たまたま私がロンドンで、ある学友に語ったことを思い出すのである。そのとき私は、いまでこそ日英の間は間然するところなき友好関係にあるが、それはまだ支那における日本の勢力が大したものでないからであって、日露戦争後に満州に根拠を占めた日本が、他日その経済勢力を北支に延ばし、さらに進んで長江にまで及んだ暁には。きょうの友は必ず、あすの敵になる”ことを忘れてはならない――と言った。
私は何も、予言者めいたことを言ったわけではないが、同盟関係で両国が固く結んでいた時代には、およそ、そういう考えは日本人の頭に去来しえなかったところである。それから時を経ること二十余年、私の杞憂は支那においてまさに現実の事態となって現われてきた。そのころまでに、日本の商品は世界的にはびこって、至る所でイギリスの権益と衝突するのであった。一九三四、五年にいたってこの両国関係はいちだんと緊張を見るにいたった。それは北支にたいする日本の実力の進出が、イギリス政府にたいして多大の脅威を与えることになったためであるが、現に北支には有名な開灤炭鉱のほか、古くからイギリス人の占めていた権益がある。
もっとも、私が外相の地位につくまでの間、日本政府としてもいくどかイギリスとの関係を改善すべく試みたのであったが、いつも不成功に終わった。それは外務省の考えが、次から次へとこわされていったために、イギリス政府では日本政府の真意がはたしてどこにあるかを捕えるに苦しんだのであって、つまり日本の政策が一途に出なかったためである。
こういう情勢のうちに私は、外相の印綬を帯びることになったのであるが、まず軍と話し合いを遂げ、支那問題の和平解決に乗り出し、かつソビエトとも戦争を避けて、平和的に国交を調整する方針を立て、そして国内的に重要方針につき、軍部その他と万端打ち合わせを遂げたあとで初めて、対英問題の調節に乗り出したのである。それが就任以来、ニカ月余を経た後のことであった。そして支那問題にたいする日本政府の方針を詳細に、ときの在英大使吉田茂君に電報してイギリス政府に安心を与え、しかしてこの方針に即してイギリス政府との間に、諸般の誤解解決に当たるよう訓令を発したのである。
吉田大使は、この新たなるやり方にたいし大なる満足を感じ、さっそくイギリス政府外相のイーデン氏を訪問し、佐藤外相より、いい訓令を受け取ったと前置きして、帝国政府の見解を詳細に説明してくれたのである。これにたいして、イーデン外相も大いに安心したもようであって、日本政府の方針がかくのごとくである以上、イギリス政府としてもこれに呼応して協調的態度をもって、日本政府と交渉することが可能となるわけであるとして、欣快の情を表わしたということである。
当時の日本は満州事変以来、もっぱらイギリスと利害の衝突をきたしていたのであって、アメリカとはまだそれほどのことがなかった時代である。であるからイギリスとの国交調整ができれば自然、日米関係にも好影響を及ぼすことになっていた。これすなわち私が、イギリスの問題をまず取り上げたゆえんであって、これに成功すれば当然、アメリカとの交渉にも手をつけるつもりであった。・・・」
これが、佐藤外相の見た日中戦争を避けるための外交方針であり、対ソ、対英・対米の国交調整策であったわけです。その第一歩が、冀東政権の解消であり、次ぎに華北分治策の抛棄だったのです。そして最後の一線として日本が守るべきは、満州国の独立だといったのです。そして日本がこのようにその外交方針を明確にすれば、イギリスとの国交調整は可能であり、自然、アメリカとの調整も可能になるとしたのです。
もちろん、石原莞爾らが主導した満州事変は、柳条湖事件という謀略を端緒とするものであり、決して公にすることのできないものでした。おそらくこの”負い目”が、関東軍をして、中国に「満州国の独立」の承認を執拗に迫る心理的動機になっていたのではないかと思われます。しかし、いずれにしても、政治的には「満州国」が現に存在しているという事実から支那との国交調整交渉を開始せざるを得なかった。
この点については、満州事変当時外務大臣であった幣原喜重郎も同様で、「支那の出方一つで満州国の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから本家と分家の関係位に見て居ればよい」「それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れない」と言っていました(昭和7年11月頃の幣原の談話)。おそらくこうした観点が、その後の支那の、日中親善の友好関係を求める三原則の提示につながったのではないかと思われますが・・・。
また、以上紹介した佐藤尚武外相の外交方針は、明らかに、この中国側三原則を踏まえて日中国交調整を図ろうとするものであり、それ故に、彼はそれは「日本の考え方如何によって決まる」と言ったのです。つまり、「危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで、その危機はいつでも避けられる」と言ったのです。
それ故に、危機だ危機だと騒ぎ立てることは、却って戦争を招き寄せるようなことになる。従って、「日本のような国柄では、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくす」ことが最も必要だ、と言ったのです。その上で、先に述べたような対支政策を取りさえすれば、オタワ協定以来のブロック経済が引き起こしているイギリスとの貿易摩擦も解消出来るし、自然にアメリカとの関係も調整出来ると言ったのです。
こう見てくれば、石原莞爾の説いた「最終戦総論」(=東洋王道文明のチャンピオンたる日本と西洋覇道文明のチャンピオンたるアメリカが、宿命的に文明史的最終戦争を戦うというもの)が、いかに、現実政治を処する上で途方もないものであったかということが判ります。石原は、日中戦争を食い止めるため華北分治を抛棄し「満洲の経営に専念すべき」ことを説きました。しかし、この「最終戦争論」については、その後、それを抛棄したという形跡は見あたりません。
この、一種終末論的な宗教的危機意識の創出とその蔓延とが、日本軍及び日本人を金縛りにし、幣原喜重郎や佐藤尚武らの言う外交交渉による、対支国交調整、さらには対英・対米国交調整を不可能にしたのではないか。そのため、中国はついに日本との「抗日全面戦争」を決意し、上海事変に始まる長期時給戦争を戦うことになった。この間、日本人は何のために中国と戦争しているのか分からず、しきりに和平工作を繰り返した。しかしうまくいかず、しまいには、その原因を米英の中国支援に求めることになった。
これが、日本が米英との戦争に突入した際、多くの日本人が、この戦争の意義を、「弱いものいじめ」の居心地悪さから、植民地主義的帝国主義への挑戦へと、大転換し驚喜した心理的メカニズムだったのです。不思議なことに、ここでは「『中国』がいかなる意味でも問題にされて」いなかった(亀井勝一郎)。それ程、当時の日本人は「東洋王道文明」のチャンピオンとして自らを自負し、中国の独立国家としての体面は無視していたのです。
石原の保持したこうした思想が、決して彼一人のものではなく、当時の日本人一般の気分を代表するものであった、ということがこれで判ります。 
日本はなぜ満洲に満足せず華北分離工作を始めたか

 

日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか
知識の整理のため、少々長くなりますが、日本軍の華北分離工作の「おさらい」をしておきます。
支那事変(父親は北支事変と呼びました)が起きる前に、「日本軍の華北分離工作にあった」(といいますが、日本は)これを画策しましたか?成り行きでそれがおきたに過ぎないのではないですか。
7月7日に廬溝橋事件が発生した当初の日支の武力衝突を日本は北支事変といいました。しかし、それが上海に飛び火して日中の全面戦争に発展したため、政府は9月2日これを日支事変と呼び変えました。
で、日本軍の華北分離工作についてですが、案外これが知られていないのですね。多母神氏の論文では、華北分離工作どころか満州事変にも触れていなくて、ただ、満洲における日本の条約上の権益が張学良に侵害されたことばかり言っています。こんなことでは、公正な議論ができるはずがありません。
確かに、国民政府の革命外交はやり過ぎでした。張学良は日本の意に反して易幟(エキシ)を行い、国民政府に合流し排日運動を繰り広げました。なにしろ彼は、父親を日本軍に爆殺されたことを心底恨んでいましたからね。だが、そうした行動が、満州事変を引き起こす口実を日本に与えたことは否めません。
蒋介石は、昭和10年至ってそのことを反省し、広田外相に対して(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、の三項目を提示し(2月26日)、日中親善の関係改善を図ろうとしました。これに対して広田外相も「蒋介石氏の真意にたいしては、少しも疑惑を持たない」と言明し、中国の対日態度転向は天佑である、などと述べました。
これに対して陸軍は、外務省の対華親善政策を批判し、中国の対日態度転換は欺瞞だといい、国民政府をして親日政策を取らざるを得ないようにするためには、「北支那政権を絶対服従に導き」、それと日本との「経済関係を密接不可分ならしめ、綿、鉄鉱石等に対し産業開発及び取引を急速に促進す」る必要があるとしました。
そして、政府の日中親善政策を妨害するため、昭和10年6月の天津の親日新聞社長らの暗殺事件を口実として、露骨な武力的威嚇により中国に、「梅津・何応欽協定」(国民党勢力の河北省からの撤退:昭和10年6月10日)、「土肥原・秦徳純協定」(国民党のチャハル省からの撤退、長城線以北からの宋哲元軍の撤退:昭和10年6月27日)を押しつけました。
こうした日本軍の妨害活動にもかかわらず、中国は対日親善方針は不動であるとして、先に広田に示した三原則の実現により、日支両国が真の朋友となり、経済提携の相談もでき、さらに「共通の目的」のため軍事上の相談をなすこともできるといいました。最大の難問は満州問題ですが、これについては「蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日はこれを不問に付す(日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずと言う意味)」と説明しました。
これに対して広田三原則が示される事になったわけですが、次に、その三原則についての外務省案(7月2日)と、それに対する陸軍省案(三項)及び海軍省案(六項)を比較して見てみたいと思います。
(前文) 
外:日満支三国の提携共助に依り東亜の安定を確保する・・・
陸:「日本を盟主とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す
海:「日本を中心とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す
外:(一)支那側に於て排日言動の徹底的取締を行ふと共に、日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め(経済的文化的方面より着手す)且更に進むで満支関係の進展を計ること。
陸:(一)「・・・の徹底的取締を行はしめ」の後に、「欧米依存より脱却し」を挿入するとともに、「日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め」という、中国側三原則に対応する文言を削除した。
海:(一)「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とするも、支那が帝国以外の強国の助力に拠りて其の統一又は分立を遂行せんとする場合あらばこれを阻止するに努めること」とした。ここで、海軍は「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とする」ことを強調しており、この点については、外務省も付属文書で、「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」としていました。
外:(二)右満支関係の進展は支那側に於て満洲国に対し正式承認を与ふると共に、之と雁行し相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とするも、差当り支那側は少く共接満地域たる北支及察哈爾(チャハル)地方に於て満洲国存在の事実を否認することなく、反満政策を罷むると共に進んで満洲国との間に事実上経済的及文化的の融通提携を行ふこと。
陸:(二)満州国については外務省案に「満州国存在の事実を認め」という文言を挿入している。また、(一)と同様、中国側三原則に対応する「相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とする」という文言を削除した。
海:(二)支那側の排日言動の取締り、欧米依存からの脱却、対日親善政策の採用を述べている。
外:(三)外蒙等より来る赤化脅威が日満支三国共通の脅威たるに顧み察哈爾其の他外蒙の接壌方面に於て少く共日支間に特に右脅威排除の見地に基く合作を行ふこと
陸:(三)外務省案にほぼ同じ
海:(三)日満支の経済的・文化的和親協力関係の進展並びに日本の軍事的勢力の扶植に努めることを述べている。
*海軍案は三項目を六項目としたため、次の四、五、六がある。
海:(四)満州国について、ほぼ外務省案と同じ
海:(五)外務省案の(三)にほぼ同じ
海:(六)「日満支間の相互独立尊重提携共助の原則による和親協力の設定」は、日本が支那の日満両国との和親提携の態度が確認し、且つ支那が満州国を承認した後、となっている。
なお、陸軍案も、この海軍と同様の内容の条件文を後文として付している。
最終的には、三省協議の結果「広田三原則」(昭和10年10月4日)は概略次のようになりました。
前文の冒頭には「帝国を中心とする」が付され、
(一)支那側をして平日限道の徹底的取締、欧米依存政策からの脱却、対日戦前政策の採用する
(二)支那側をして満州国に対し究極においては正式承認を与えしむる事必要なるも、差当たり満州国の独立を事実上黙認し反満政策を罷めしむる・・・
(三)支那側をして外蒙接壌方面において赤化勢力の脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむる・・
後文として、以上の日満支提携に関する支那側の誠意が確認されれば、日支間の親善協力関係の設定に関する包括的取り決め等を行う、という条件が付されました。
総括的に言えば、この「広田三原則」からは「中国側三原則」に対応した文言が消えてしまったこと。また、外務省と海軍が主張した「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」というような「華北分離工作」をしない旨の文言も消えました。
この三原則に対して中国側はつぎのように答えました。
(一)今後、両国の親善関係を実現するため、中国は各国との関係につき、日本を排除しあるいは妨害するようなことはしない。
(二)満洲の現状については、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことはしない。
(三)北辺一帯の赤化防止については、日本が「中国側三原則」を実行するならば、之に関する有効な方法を協議する。
この中で最大の問題が、満州国承認の問題で、日本側の「事実上の承認」と中国側の「不問に付す」(蒋介石)という見解にはなお距離のあることが明らかになりました。中国側の言い分としては、現状において「満州国承認」をすることは国内政治上持たないということで、この問題は将来の問題として棚上げするほかない、と考えていたのではないかと思います。事実、この交渉の中国側担当者であった王兆銘はこの交渉の後、対日融和を図ったと言うことで狙撃されています。
その後、中国はイギリスの支援で幣制改革を断行しました(昭和10年11月4日)。これに対して日本陸軍は、「国民政府の幣制の統一は、ひいては同政府による政治的統一をもたらすことになる」としてこれの妨害を試みました。しかし、この改革は、約一ヶ月後には成功と認めざるを得なくなりました。そこで陸軍は、これを「満州事変以来の日本軍の行動に対する英国側の反撃ととらえ」華北自治運動を急速に展開したのです。
外務省は、こうした陸軍の華北自治工作には批判的でしたが、陸軍側に押しきられて軽度の自治宣言を出すというその主張を承認してしまいました(11月18日)。有吉大使はこうした自治工作を軍事力を背景に強行することは、「支那全国の世論をあおり、両国の全面的関係を悪化せしめ、蒋介石はもとより、何人もこれを収拾し難き事情にたり至らしむる」として粘り強く反対しました。
結局、日本の出先陸軍による華北自治運動は挫折しましたが、陸軍は、この際何としても「華北自治」を実現しようとして、日本の傀儡であることに甘んじている殷汝耕に通州で自治宣言をさせ、同時に「冀東防共自治委員会」を設置させました(11月25日)。これに国民政府は激しく反発しましたが、国民政府としては、こうした華北の自治運動に先手を打つために、冀察政務委員会を発足させました(12月18日)。
このように華北の政治状況が混迷を深める中、日本国内では、昭和11年2月26日、二・二六事件が勃発、岡田啓介内閣が崩壊し広田弘毅が新内閣を組織することになりました。この時、関東軍参謀長であった板垣は、外相予定者であった有吉に対し「国民政府を否定し、日中親善工作を不可能視し、広田三原則を空文だと断定し、中国の分治工作を説」きました(昭和11年3月18日)。
こうした主張は、陸軍が年来持っていたものですが、この時板垣は、こうした中国の分治工作の必要性について、それは満州国の健全なる発達を図るだけでなく、早晩衝突する運命にある対ソ戦に備えるためのものである、と述べています。また、国民党はソ連と友邦関係に入る公算が大であり、帝国と親善関係に入る能わざる本質を持っているので、華北を分立し、それと日満支提携する必要があると説いています。
ところが、昭和10年8月1日に参謀本部作戦課長に石原莞爾が就任すると、陸軍中央部もようやく、従来の場当たり的国防計画から、長期的・組織的な計画(「重要産業五ヵ年計画」など)を持つようになりました。その結果、「第二次北支処理要綱」(昭和11年8月11日)では、「支那領土権を否認し、または南京政府より離脱せる独立国家を育成し、あるいは満州国の延長を具現するを以て帝国の目的たるが如く解せらるる行動は厳にこれを避」けるという文面が見られるようになりました。
そうした方針転換の背後には、「まず、対ソ戦争を防止するに足る戦備の充実を図ること。そのためには、日本と華北の経済合作が不可欠であり、中国との経済的合理的提携を図らなければならない。そうすることによって日・満・支の総合国力の充実を図り、三十年後に予想される日米の一大決戦に備えるべきである」という、石原莞爾の「最終戦総論」に基づく考え方があったのです。
上記の「第二次北支処理要綱」の付録二には、「華北の国防資源中、すみやかに開発を図るべきものの例として、(一)鉄鋼(竜烟鉄鉱河北省内の有望な諸鉄鉱の開発)、(二)コークス用炭鉱(河北省井陘炭鉱を日本合弁とし山東省、淄川・博山炭鉱など付近一帯の小炭鉱の統合経営を誘導し、開ラン炭鉱は究極において、日・英・華三国の合弁事業とするよう指導する)」等があげられていました。
こうした中、広田内閣は、川越茂(駐華大使)・張群(外交部長)会談を継続することによって中国との国交調整に努めましたが、昭和12年1月23日、軍部の攻勢に屈して総辞職しました。その後、組閣の大命は宇垣一成に下りましたが、陸軍側の強硬な反対を受けて組閣を断念、大命は一転して林銑十郎に降下、2月2日林内閣が成立しました。外相には佐藤尚武が迎えられました。
この内閣では、従来の対華政策に反省が加えられ、華北分治策の抛棄と冀東政府の解消が説かれ、ここに石原構想が対華国策をリードするようになりました。それは、ソ連の脅威に加えて、綏遠事変の失敗、西安事件の結果としての国共合作がなされたことによります。また、国防力の充実を図るため、前年の「重要産業五ヵ年計画」に引き続いて「軍需品製造工業五年計画要綱」が決定されました。 
日本の対華方針がこのように見直されつつある一方で、中国政府はそれまでの対日宥和政策から次第に高姿勢に転じるようになりました。石原はこうした一蝕即発の日中関係を改善すべく、上述したような考えに基づき部内の思想統一に努めました。しかし、中国全土に広がった抗日の風潮は止めがたく、一方、日本軍内には「暴支膺懲」の「一撃論」が擡頭するようになり、そんな中でついに7月7日、廬溝橋事件が発生したのです。
ところで、この時の石原の対支政策の転換が、関東軍はじめ陸軍省や参謀本部の幕僚軍人になぜ十分な説得力を持たなかったか、ということですが、私は、それは、石原が掲げたような「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という対立図式、その中で日本が東洋王道文明のチャンピオンであり、日本は中国を導いて西洋覇道文明に対決しなければならない、といったような考え方が彼らに共有されていたからではないかと思います。
そのため、中国を対等な独立国と見る視点を失ってしまった。同時に、イギリスやアメリカを、無意識的に西欧覇道文明と決めつけたために、それとの平等・互恵の国交関係を樹立することができなくなってしまった。さらに、そうした対立図式を持つ思潮が日本の伝統思想である尊皇思想と結びついて、当時の日本の社会を蔽ってしまったために、それから抜け出すことができなくなってしまった。
どうも、そのようなことではなかったか、と私は思っています。つまり、石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかったのではないか。それゆえに、石原の言は十分な説得力を持ち得なかったのではないか、と思うのです。もちろん、そこには満州事変以来の下剋上的体質や軍人特有の功名心もあったでしょう。しかし、日本が先に紹介したような袋小路の思想に陥らなければ、当時の日本が直面した数々の困難を乗り越える術はいくらでもあった。広田もそれを知る一人であったはずですが・・・。
日中戦争の原因と終戦の「聖断」

 

日中戦争は海軍の上海派兵が原因か、また、終戦の「聖断」はどのようになされたか
(米内が上海への陸軍派兵を要請したことについて)これはお答えいただきましたが、第二次上海事変が始まったときに、即座にそれを言うなら分かります。当時中国大陸における兵力配置すら知らなかったでしょうか。少し時間がたってから態度を変えています。
その間に何があったのかです。居留民保護を目的とするにしても、引き上げる判断も可能であったというのは後知恵ですが、私はもっと言うと国際社会の支持を得るには、ある程度、邦人の犠牲が出てから、行動をする判断が必要ではなかったかと思います。
別に彼等の陸軍嫌いが事変拡大の大きな原因ではなかったかという視点も必要ではないですか?
まず、北支事変が上海事変に発展していった歴史的経過をより詳しくたどってみたいと思います。 
石原は「上海出兵は海軍が陸軍を引きずっていった」ものと回顧しています。確かに、上海の第三艦隊などに全面戦争を想定した作戦計画があったことは事実です。しかし、それはあくまで、華北の紛争が全中国に波及した場合に備えるもので、それを望んだわけではありません。従って、北支事変を「最も真剣で寛大な条件による政治的収拾」を試みた東亜局が示した「船津案」(1933年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部を放棄するもの)に海軍は全面的に同意していたのです(この交渉は大山事件で挫折)。
一方陸軍はどうか、石原は三省(陸・海・外)協議を経て「船津案」にそった停戦交渉案および国交調整案をまとめました(8月4日外務省から現地の船津に打電)。しかし、陸軍部内の大勢、特に中堅層以下は徹底膺懲論が横行しており、戦争指導課の「北支処理要綱」(8月9日総長決裁)は冀察を改変した華北の現地政権樹立をいい、特に、関東軍は「対時局処理要綱」(8月14日上申)で、華北五省・自治政府の樹立、南京政府の解体を説き、外交交渉による戦争の終結に反対していました。
この間、上海周辺への中国軍の軍隊集中が顕著となり、8月にいると閘北(ザホク)方面で保安隊が連夜演習を行い不安が増大したので、上海総領事は8月6日上海居留民に租界への退避命令(婦女子は日本に引き揚げ)、さらに揚子江全流域の居留民に引き揚げ命令を発しました。8月9日大山巌事件が発生、8月10日閣議で上海居留民の現地保護方針を確認、12日米内海相が陸軍に派兵を提議、これまで不拡大を希望してきた天皇も「かくなりては外交にて収ることはむずかしい」と述べ、13日内地二個師団の上海派遣が決定しました。
13日夜、日中両軍(中国軍4〜5万、陸戦隊2,500)の間で戦闘開始、翌14日、中国空軍は上海停泊中の第三艦隊に先制攻撃、15日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し全面戦争に突入しました。8月19日増援の特別陸戦隊2,400名が上海到着、その後陸戦隊は、8月23日に内地二個師団が上陸を開始するまで、十倍ほどの中国軍の精鋭を相手に闘い抜きました。これによって内地師団の上陸がようやく可能になったのです。蒋介石はこの陸戦隊との初戦で日本軍を消滅できなかったことを悔やんでいます。
しかし、中国はすでに前年末より上海方面を決戦場と定め兵力を集中していたため、その後の上海やその周辺における戦闘は激烈を極めました。そのため、先に派遣された第三、第十一師団の戦力は半減しました。しかし、石原は、この時期に至ってもなお戦局の拡大に反対し、苦戦する上海への増兵を容易に許可しませんでした。ようやく9月9日になって第九、第十三、第百一師団ほかの動員を下令、22日から上海上陸が開始されました。石原はこの増員の決定と共に辞任、後任には下村定少将が就任しました。
その後も中国軍は次々と兵力を投入し(一日一個師約一万人といわれる)激しく抗戦したため、上海での戦いは旅順攻略戦に比するほどの膨大な犠牲を生むことになりました。これについては同盟通信の松本重治が「上海の戦いは日独戦争である」と書いたように、中国軍はドイツ軍の訓練を受けた精鋭がドイツの兵器で戦っていたのです。そこで、下村定少将は上海南方60キロの杭州湾に第十軍(第六、第十八、第百十四師団ほか)を上陸させました。これを機に中国軍は総退却に転じ、11月9日日本軍は上海を封鎖しました。
この約三ヶ月の戦闘で日本軍は戦死者10,076名、戦傷者31,866名、あわせて41,942名の戦死傷者を出しました。一方、中国軍の被害も大きく、この間の戦死傷者は約30万に達したと言われます。一方、華北戦線はその後どうなっていたか。ここでの戦闘は、8月11日から河北省とチャハル省の境界線の山岳地帯から始まりました。関東軍参謀長の東條英機はチャハル兵団を編成し、軍司令官に代わり指揮をとって西進し、27日張家口、9月13日大同、24日平地泉、10月14日綏遠を占領し、10月17日包頭(パオトウ)まで進出して内蒙古の占領を完了しました。
また、8月31日に編成された北支那方面軍の第一軍は平津戦沿いに、第二軍は津浦戦沿いに南下しました。その総兵力は八個師団約十万に達しました。また、チャハル省に入った第五師団は関東軍と呼応しつつ、山西省北部に突入しました。これに対し、参謀本部は対ソ危機に備える理由でこれら現地軍の積極論をおさえましたが、現地軍は9月20日頃から華北五省占領論に傾き、南京戦後の12月14日には早くも北平に中華民国臨時政府を立ち上げるほどの手回しの良さを見せています。
以上、廬溝橋事件後の日本軍の戦線拡大について見てきましたが、蒋介石は、昭和10年の広田弘毅外相との交渉の経過から見て、日本はすでに二重政府状態に陥っており、日本軍が華北分離工作を止めることはなく、従って、抗日戦争は不可避と見ていました。そこで、昭和11年頃からその主戦場を上海と見定め準備を進めていたのです。廬溝橋事件の発生はその準備完了までにはいささか早すぎたわけですが、中国国民の抗日意志の高まりには抗し難く、ついに全面戦争を上海戦より本格発動することになったのです。上海の陸戦隊はこの攻撃に対する応戦を求められたわけです。
この時海軍が、居留民及び陸戦隊の全員引き揚げと決意していれば、確かに上海戦も南京事件も起こらなかったでしょう。しかし、その結果、上海だけでなく揚子江沿岸の全日本権益は消滅したでしょう。これは日本にとっては完全敗北、中国にとっては戦わずして大勝利ですから、中国はその余勢を駆って華北に攻め込んでいる北支那方面軍や関東軍との決戦に臨んむことになったと思います。いずれにしても、中国との全面戦争は避けられなかった。というのは、日中戦争の根本原因は、日本軍の華北分離工作にあったからで、これを止めない限り、日中戦争を止めることはできなかったと思うからです。
誠に残念なことですが、陸軍が一億玉砕の徹底抗戦から敗戦(無条件降伏)を意識するようになったのは、原爆とソ連参戦の後だったということです。
現象はそれでしょうが、内実は異なると思います。陸軍は自分の面子を立ててくれれば、即座に賛成でしたでしょう。その証拠に終戦後において、軍人が抗戦をしましたか?天皇陛下の命令で、それまでの言動を停止しています。自らの目的で始めた戦争ならそれと対比して行動ができますが、異なるからではないですか。要するに対米戦争は後ずけということです。
いわゆる「聖断」で戦争を止めることが、どういう方法あるいはタイミングで可能だったか、ということですね。よく「聖断」で戦争を止められたのだから、対米英開戦の止められたのでは?ということが言われます。しかし、天皇の国政総覧の大権は、明治憲法によって内閣の補弼及び軍の補翼によることとなっており(前者は大臣の副署を要し、後者は陸軍の参謀総長、海軍は軍令部総長が実質的権限を持っていた)、天皇がそのルールを例外的に踏み外したのは、二・二六事件の時と終戦の時の二回だけだと天皇自身が言っています。前者は首相が殺された(実際は不明)という緊急非常事態への対応、後者は、御前会議で行われた最高戦争指導会議の評決が三対三となり、最後の「聖断」が天皇に求められたためです。
この点、軍が天皇機関説を排撃し国体明徴を訴えたのは、天皇の勅命の絶対性を主張していると見せながら、その真のねらいは、その勅命の大義名分を重臣、内閣、議会から奪い取るためだったのです。その一方で軍は、天皇が軍の意に沿う存在であることを当然とし、その「期待に背く『玉』はいつでも取り替える」としていたのです。「特攻戦法の創始者である大西軍令部次長は(天皇の「聖断」に対し)『天皇の手をねじりあげても、抗戦すべし』」と言っています。8月15日自刃した阿南陸相は14日午前7時の梅津との話し合いでも梅津にクーデターを呼びかけています。
それというのも、終戦時、陸軍は、いまだ国内外に550万の兵力を擁しており、もし、ソ連参戦や、原爆による一般国民の大量殺傷という事実に直面していなければ、徹底的な「敗北感」を持つことが出来ず、クーデターを起こして天皇をすげ替え「一億玉砕」の本土決戦に突入したかもしれないのです。軍人の多くが、天皇の「聖断」に対して個人的には「抗戦→絶望→虚脱の過程をたどって既成事実を受容する心境に至った」とされるのも、天皇の「聖断」の重みと、そうした「現実」の重みが重なったからではないでしょうか。
ところで、健介さんの言われる「陸軍の面子を立ててあげたら即座に(ポツダム宣言受諾に?)賛成した」というその「陸軍の面子」とは何でしょう?また、「自らの目的で始めた戦争ではない」と言うなら、これは日米戦争より日中戦争について言うべきで、確かに、日中戦争は何のために始めた戦争か分からなかったから、戦争の目的達成と言うこともなく、だらだらと8年間も中国と戦い続けることになったのです。その戦争目的の不明確さがひいては日米戦争を止められなくしたというなら、それはその通りというほかありません。
欧米各国は、日本の戦争目的を「満州国を中国に承認させること」と理解していたという。そして、広田外相が駐日独大使ディルクセンに日本の和平条件(ほぼ船図案に沿った内容)を提示したのが11月2日、これが駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石に伝えられたのが11月5日。蒋介石はその約一月後の12月2日にこの提案を基礎に日本と和平交渉に入ることを伝えた(12月7日)。ところが、日本はその交渉に入ることなく中支那派遣軍は12月10日南京城の総攻撃を開始した。
一方、南京城を守備していた中国軍は降伏しないまま12月12日まで抗戦を継続した。ところが12日夜、司令官唐生智は守備隊約3.5万に「各隊各個に包囲を突破」することを命令して、自らは揚子江北岸に約1.5万の兵と共に逃走した。このため、約3.5万の中国兵が武器を棄てて安全地帯に潜り込んだり、南京城周辺で日本軍に殲滅されたり、大量の捕虜になったりした。
日本軍はこうした混乱の中で、これらの中国兵の多くを敗残兵あるいは便衣兵として処理したが、これが、欧米各国の記者の目には、「南京城総攻撃の意味不明」とともに日本軍の残虐性を印象づけるものとなった。それが中国の国民党宣伝部の工作もあって、軍人ではなく一般婦女子の虐殺・強姦事件にすり替えられ、東京裁判で「南京大虐殺」として喧伝されることになった。  
岡田外相「バターン死の行進」公式謝罪で思い出されること

 

岡田外相は13日昼、第2次世界大戦中に日本軍がフィリピン・ルソン島で米軍などの捕虜約7万人を約100キロ歩かせ、多くの死者を出したとされる「バターン死の行進」で生き残った元米兵捕虜らと外務省で面会し、「非人道的な扱いを受け、ご苦労され、日本政府代表として、外相として、心からおわび申し上げます」と外相として始めて公式に謝罪しました。(2010年9月13日13時25分 読売新聞)
へえ、この問題を何で今ごろと?と怪訝に思いましたが、おそらくこれはアメリカのルース大使が広島の原爆忌に参加したことに対する見返りなのかなあ、とも思いました。ルース大使は、8月9日の長崎の平和祈念式典はスケジュール上の都合で欠席しましたが、9月26日の長崎日米協会の40周年記念式典に出席し、長崎原爆資料館を視察し、献花する方向で調整しているとのことです。
ただし、それはアメリカが原爆投下について日本に謝罪するということではなくて、核兵器のない世界というオバマ米大統領の構想を推進する目標を共有するためのものだということです。ルース大使の8月6日の「原爆忌」での声明も「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」とするに止まっています。
また、ルース大使の原爆忌への参加について、クローリー米次官補は自身のツイッターで「米政府代表の初出席を「日本との友好関係の表れ」と説明。「米国は第2次世界大戦後の日本の復興を助け、敵国を信頼できる同盟国に変えたことを誇りに思ってきた」と述べ、その上で「広島では、謝罪することは何もないが、戦争の影響を受けたすべての人々に配慮を示す」と強調しています。
そんな調子ですから、岡田外務大臣の「バターン死の行進」の生き残りである元米兵捕虜を外務省に招いてので公式謝罪が、いかにも唐突に見えたわけです。この謝罪に対して、日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長は「バターン死の行進については日本軍が米兵捕虜だけに非人道的扱いをしたかは評価がわかれている。米国が原爆投下などについて謝罪していない段階で、一方的に日本だけ謝罪する必要はない」と批判しています。
私自身も、「バターン死の行進」といわれる事件については、山本七平氏の著作を通して、この事件の概要や問題点を把握していましたので、冒頭に述べたように何らかの政治的取引があったのではないかと思いました。しかし、それにしてもいささかバランスを失しているのではと思われました。また、日本国民には、この謝罪に至る説明が何もなされていませんので、国内的にはかなりの反発を生むのではないか、とも思いました。
そこで、この機会に、この事件に関する山本七平氏の見解を紹介したいと思います。氏は、この事件を、当時の日本軍の「行軍」の問題と比較するとともに、味方の兵力に数倍する捕虜が現れた時の混乱、そして、日本軍の組織の命令系統を無視した一部参謀による「私物命令」の乱発、などの問題点を指摘しています。いずれも、戦後生まれの私たちには想像だにできない問題ですが、今回の唐突な外相公式謝罪を機会に、この事件の実相を伺うことも、あながち無駄ではないと思うからです。
(日本軍の行軍について)
「有名な「バターンの死の行進」がある。・・・この行進は、バターンからオードネルまでの約百キロ、ハイヤーなら一時間余の距離である。日本軍は、バターンの捕虜にこの間を徒歩行軍させたわけだが、この全行程を、一日二十キロ、五日間で歩かせた。武装解除後だから、彼らは何の重荷も負っていない。一体全体、徒手で一日二十キロ、五日間歩かせることが、その最高責任者を死刑にするほどの残虐事件であろうか。後述する「辻正信・私物命令事件」を別にすれば――・・・だがこの行進だけで、全員の約一割、二千といわれる米兵が倒れたことは、誇張もあろうが、ある程度は事実でもある。三ヵ月余のジャングル戦の後の、無地における五日間の徒歩行進は、たとえ彼らが飢えていなかったにせよ、それぐらいの被害が現出する一事件にはなりうる。
だが収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。
こういう背景から出てくる本間中将処刑の受取り方は、次のような言葉にもなった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」
当時のアメリカはすでに、いまの日本同様「クルマ社会」であった。自動車だけでなく、国鉄・私鉄等を含めた広い意味の「車輛の社会」、この社会で育った人は、車輛をまるで空気のように意識しない。そして車輛なき状態の人間のことは、もう空想もできないから、平気で「来魔(くるま)」などといえても、重荷を負った徒歩の人間の苦しみはわからない。「いや私は山歩きをしている」という人もいるが、「趣味の釣り人」と「漁民の苦しみ」は無関係の如く両者は関係ない。否むしろ、山歩きが趣味になりうること自体、クルマ時代の感覚である。
当時アメリカ人はすでにその状態にあった。従って彼らは、バターンの行進を想像外の残虐行為と感じたのであろう。しかし日本側は、もちろん私も含めて、相手がなぜ憤慨しているのかわからない。従って「不当な言いがかり、復讐裁判」という感情が先に立つ。だが同じ復讐裁判と規定しても、戦後の人の規定とは内容が逆で、前者は「これだけの距離を歩くことが残虐のはずはない」であり、後者は「確かにひどいが、われわれはもっとひどかったのだから差別ではなく、故意の虐待でもない」の意味である。
一番こまるのは、同一の言葉で、その意味内容が逆転している場合である。戦無派と同じ口調で戦争を批判していた者が、不意”経験のないヤツに何がわかるか!”と怒り出すのはほぽこのケース。そこには、クルマ時代到来による、その面のアメリカ化に象徴される戦後三十年の激変と、それに基づく「感覚の差」があるであろう。
(味方の兵力に数倍する予想外の捕虜の出現がもたらす混乱)
「捕虜の収容で一番困る問題は、それが終戦または停戦で不意に発生し、しかし何名になるか見当がつかないことである。「バターン死の行進」の最大の原因は、二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったということが主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない。戦場では、善悪いずれの方向へもそういう特別扱いをする余裕がないのが普通である。」
「日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、経戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれた。
米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。」
(次は、奈良兵団連隊長今井武夫による、大量の「捕虜出現」の状況説明と、辻正信の発した「私物命令」への対処について)
「わが連隊にもジャッグルから白布やハンカチを振りながら、両手をあげて降伏するものが、にわかに増加して集団的に現われ、たちまち一千人を越えるようになった。午前十一時頃、私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。とくに、連隊長を指名した電話である、何か重要問題であるに違いない。私は新しい作戦命令を予期し緊張して受話機を取った。附近に居合わせた副官や主計その他本部附将校は勿論、兵隊たちも、それとなく、私の応答に聞き耳を立てて注意している気配であった。
電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。それは、『パターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊をあげて降伏を申出たが、、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者ははまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊に手元にいる米日軍の投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ』というものである」と書いている。
今井は、投降捕虜を一斉に射殺せよと兵団参謀より命ぜられたのである。だが、彼はこの命令に人間として服従しかね一瞬苦慮したが、直ちに、「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話をきった。そして、直ちに、命令して部隊の手許にあった捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう指示し、一斉に釈放してしまった。これは、今井連隊長、とっさの知恵であった。そこに一兵の捕虜もいなければ、たとえ、のちに命令が来ても、これを実行すべきものはないからだ。だが、連隊長の要求した筆記命令はこなかった。
(中略)
事実、参謀が口にする、想像に絶する非常識・非現実的な言葉が、単なる放言なのか指示なのか口達命令なのか判断がつかないといったケースは、少しも珍しくなかった。ではその放言的「私物命令」の背後にあ、つたものは何であろう。・・・また何がゆえに、捕虜を全員射殺せよとの”ニセ大本営命令”が出たり、その参謀が”全部殺せ”と前線を督励して歩いたあとを副官がいちいち取り消して廻るといった騒ぎまで起るのか。陸軍刑法第三条にははっきり「檀権罪」が規定され、越権行為は処罰できることになっている。
第一、参謀には指揮権・命令権はないはず、そしてこの権限こそ軍人が神がかり的にその独立と神聖不可侵を主張した「統帥権」そのものでなかったのか。何かあれば統帥権干犯と外部に対していきり立つ軍人が、その内部においては、この権限を少しも明確に行使していなかった。このことは、「私物命令」という言葉の存在自体が証明している。」
現在では、この私物命令の発令者が、大本営派遣参謀辻正中佐であったことが明らかになっています。彼は、「敗戦後、僧侶に変奏して逃亡・・・この脱出は蒋介石の特務機関である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。1948年に上海経由で帰国して潜伏、戦犯時効後の1950年に逃走中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなった。
戦後、旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選、院内会派無所属クラブに属した。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。
1961年、参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって外務省は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオスの北部のジャール平原へ単身向かったことが判明したが、4月21日を最後に彼の其の後の足取りの詳細については現在でも判明していない。」(以上wiki「辻正信」)
読者の皆さんは、以上をお読みになって、どのような感想をお持ちになったでしょうか。「日本軍の行軍」のこと、「自軍兵力に数倍する捕虜が出現したときの混乱」(山本七平はこの問題を、南京虐殺事件の一つとされる、「幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後に発生したパニック状況」との関連で論じていました)、そして、日本軍の指揮系統を無視した「私物命令」で第一線部隊に捕虜殺害を督励して回った高級参謀「辻正信」の存在、それに抵抗した多くの部隊指揮官、そして最後に、戦中よりこうした数知れぬ虐殺行為の噂のあった辻正信を、戦後、国会議員に選び続けた日本人。
なんかしらん、現代もあまり変わっていないような気もします。  
「日本はなぜ敗れるのか 敗因 21ヵ条」山本七平

 

故小松真一氏が掲げた敗因二十一カ条は、次の通りである。
「日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが、それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求されることは、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
三、日本の不合理性、米穀の合理性
四、将兵の素質低下 (精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
五、精神的に弱かった (一枚看板の大和魂も戦い不利になるとさっぱり威力なし)
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
七、基礎科学の研究をしなかった事
八、電波兵器の劣等 (物理学貧弱)
九、克己心の欠如
一〇、反省力なき事
一一、個人としての修養をしていない事
一二、陸海軍の不協力
一三、一人よがりで同情心が無い事
一四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
一五、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失
一六、思想的に徹底したものがなかった事
十七、国民が戦いに厭きていた
一八、日本文化の確立なき為
一九、日本は人名を粗末にし、米国は大切にした
二〇、日本文化に普遍性なき為
二一、指導者に生物学的常識がなかった事
順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったことに結論する」
なぜ全く成果のあがらないことをするのか。言うまでもなくそれは、成果があがらないとなると、その方向へただ量だけを増やし、同じことを繰り返すことが、それを克服する方法としか考えられなくなるからである。
まさに機械的な拡大再生産の繰り返しであり、この際、ひるがえって自らの意図を再確認し、新しい方法論を探求し、それに基づく組織を新たに作り直そうとはしない。むしろ逆になり、そういう弱気は許されず、そういうこと言う者は、敗北主義者という形になる。
アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。同じように繰り返して自ら大量の「死へのベルトコンベア」を作るようなことはしなかった。
日本軍であれば、極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」というのであろう。これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論の総てを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために自己満足し、それで力を出してきたとして自己を正当化しているということであろう。
確かに「印象の強烈な原因が最も重要な基本的原因」だとは言えない。それはその通りであり、従って、後世の歴史家が、まず「遠因・近因・直接的原因・発火点 = 偶然の端緒」といった記述法をとっても、それはそれで別に不思議ではないのだが、現場にいた目撃者の記録 (ヒストリア) は、その人が本当に目撃者であるなら、「後代の史家」のような聞き方をするはずがないのである。
精兵が「いなかった」と断言したのは、おそらく「ある」「ない」あるいは「いる」「いない」をどう受けとるかという問題である。戦前の日本に絶対的平和主義者や合理的実証主義者はいなかった、と言えば、それへの反論は簡単であり、反証はすぐ挙げられるでは、そういう人がいて、なぜあのような無謀な戦争を始めたかと問えば、その人たちは、日本の方向を定める一勢力としては無きに等しい例外的存在であり、なにもなし得なかったという点では無きに等しかった、と応える以外にない。それは、「その人が当時でなく、現代に影響を与えている」という意味で現代に存在しているのであって、その時代には存在していないということなのである。歴史上にそういう人物は少なくない。その場合、その人は、「いま」存在していても、その人が生きた時代には、今のような形では「いなかった」のであり、従って、その時代の目撃者の言としては、「いなかった」が正しい。これを混同して「その人がその時代にいた」とするのは、実は錯覚にすぎないのである。
陸軍の宿痾ともいえる員数主義 (いんずうしゅぎ) を生む。「数があるぞ」といえば、質も内容も問わない。これが極端まで進めば、「数があるぞ」という言葉があれば、そしてその言葉を権威づけて反論を封じれば、それで良いということになる。これは実に奇妙に見えるが、形を変えて今もある (春闘の動員数の組合発表数と警察発表数の違いなど)。
ここは実に奇妙な「社会学的実験」の場であり、われわれは一種のモルモットだったわけである。一体、われわれが、最低とはいえ衣食住を保障され、労働から解放され、一切の組織から義務から解放され、だれからも命令されず、一つの集団を後世し、自ら秩序をつくって自治をやれ、といわれたら、どんな秩序をつくりあげるのかの「実験」の場になっていたわけである。一体それは、どんな秩序だったろう。結論を要約すれば、一握りの暴力団に完全に支配され、全員がリンチを恐怖して、黙々とその指示に従うことによって成り立っている秩序であった。そして、そういう状態になったのは、教育の程度の差ではなかったし、また重労働のためでも、飢えのためでもなかった。
文化とは、何であろうか。思想とは何を意味するものであろうか。一言で言えば、「それが表すものが『秩序』である何ものか」であろう。人がある一定区域に集団としておかれ、それを好むままに秩序付けよといわれれば、そこに自然に発生する秩序は、その集団がもつ伝統的文化に基づく秩序以外にありえない。そしてその秩序を維持すべく各人がうちにもつ自己規定は、の人たちのもつ思想以外にはない。従って、これを逆に見れば、そういう状態で打ち立てられた秩序は、否応なしに、その時点におけるその民族の文化と思想をさらけ出していまうのである。
各人は自らの主張に基づく行動を自らはとらなかった。そして自らの行動の基準は、小松氏の記す「人間の本章」そのままであった。そのくせ、それを認めて、自省じようとせず、指摘されれば、うつろなプライドをきずつけられてただ怒る。そして、そういう混乱は、兵士の嘲笑と相互の軽侮と反撥だけを招来し、結局、暴力と暴力への恐怖でしか秩序づけられあい状態を招来したわけである。
だが、戦後の日本は、常にこの模索を避け、自分たちを秩序付けている文化と、それを維持している思想、すなわち各人の自己規定を探り、言葉によってそれを再把握して、進展する社会へ継承させようとはしなかったのである。従って、第十六条と第十八条は、まだ達成されず、招来の課題としてそのまま残されている。
「普遍性」とは何であろうか。文化とは元来個別的なものであり、従ってもし日本文化が普遍性をもちうるなら、それは日本人の一人一人が意識的に自らの文化を再把握して、日本の文化とはこういうものだと、違った文化圏に住む人々に提示できる状態であらねばならない。それができてはじめて、日本文化は普遍性をもちうるであろう。そしてそれができてはじめて、相手の文化を、そしてその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解でき、そうなってはじめて、相互に理解できるはずである。そして、それができない限り、自分の理解できないものは存在しないことになってしまう。
自己を絶対化し、あるいは絶対化したものに自己を童貞して拝跪を要求し、それに従わない者を鬼畜と規定し、ただただ討伐の対象としても、話し合うべき相手とは規定しえない。結局これが、フィリピンにおける日本軍の運命を決定したと言える。
「心理的高揚」「心理的解決」に同調しない者を「敗北主義者」として糾弾する。「心理的解決」にはなるかもしれないが、現実の国際関係、軍事力の力関係に何らかの変動があるわけがない。従って現実的解決には全く無意味なのだが、この「無意味」なことが何らかの意味をもつかの如き錯覚で、常にこれが行われるわけである。
厭戦、士気低下、無統制、上下不信、相互不信、壊滅という流れが、「心理的解決」だけに依拠し、実在の現実を無視していた者が、最後に落ち込んでいく場所であった。そしてこれが、当事者自身が「厭戦」のくせに、あらゆる言葉で実体をごまかしつづけ、その場その場を「心理的解決」で一時的にごまかして行った者の末路だったわけである。そしてこれは、一種「滅亡の原則」を示す言葉とも言える。「厭」は子供でも、ごまかしでは解決できないのだから。
「いろいろ言われますけどね。何やかや言ったって日本軍は強かったですよ。あの物量に対して、あれだけ頑張ったんですからなあ。確かに全世界を敵にまわしたから敗れたんで、こりゃ、軍の責任でなく、政府・外光の責任でさあ。それまでこっちの責任にかぶせられて、日本軍の責任にされちゃたまりませんよ」こういった意味の発言をする人は少なくない。そしてそういう人のあげる具体的実例は、その実例があくまで事実であるだけに、非常に説得力があって反論できない。では、それは果たして事実なのだろうか。もし事実とするなら、その「日本軍の強さ」なるものの謎は一体なんなのだろうか。これは一言でいえば中小企業・零細企業的な強みなのである。(中略) しかし T さんが持っているのは、正確に言えば個人の持つ "芸" であって、客体化できる "技術" ではない。いわば T さんの技術は "武芸" と同じような "印刷芸" であって、正確には氏から離れて、それだけを系統的に多くの人が同時に学びうる、体系的技術ではない。またこの "芸" は、チャンドラでだけ生かされるもので、氏がチャンドラですばらしい印刷をするから、高性能総自動化最新式印刷機ならもっとすばらしい印刷ができるかといえば、そうではないのである。いわば他に伝えられず、他に利用・天養できない閉鎖的な術、すなわち、体得した秘術ともいうべきものであろう。
われわれば、非常に長い間この一定制約下に「術」乃至「芸」を争って優劣を決めるという世界に生きてきた。この伝統はいまの受験戦争にもそのまま現われており、ちょっとやそっとで消えそうもない。そしてこの「術・芸」絶対化の世界に生きていると、この「術・芸」が、それを成り立たせている外部的制約が変わっても、同様の絶対性を発揮しうるかの如き錯覚を、人びとに抱かすのである。(中略) これが極限まで進むと、「一芸に秀でたものは万能」という考え方をも生む。
今でも、日本軍は強かったと主張する人の基本的な考え方は、この伝統的発想に基づいており、しかもしれが伝統的な発想のパターンに属する一発想にすぎないのに絶対化している。そして、後述するように、日本の敗戦を批判する者も、実は、同じ発想に基づいて批判しているのである。
氏は、「物量さえあれば米兵等に絶対に負けなかった」という、普通の人が意味するような意味で、この言葉を口にしてるのではない。この物量のなさはだれでも知っていた。知っていてなお開戦に踏み切った背後にあるものは、精兵主義という "芸" への絶対的自身があったからである。この自身は最初に述べた T さんがもっているような自信であった。そして、ある前提のもとでは、この自信は確かに客観的評価としても成り立ち得たのである。従って、「物量の差がわかっているのに、なぜ戦争をはじめた」と、当時の人間を非難する人も、不思議と、他の問題に関しては、同じような自信を持っている場合が少なくない。すなわち「物量の中に…その国民の全精神が含まれている事を含まれている事を見落としている。こんな重大なことを見落としているのでは、物を作る事も勝つ事もとても出来ないだろう」であって、「物量」さえあれば勝ち得たと考える考え方そのものに、敗戦の最も大きな原因があった。
戦後三十年、日本の経済的発展を支えていたものは、面白いことに、軍の発想ときわめて似たものであった。(中略) 輸入された「青写真」という制約の中であらゆる方法で "芸" を磨いたからである。(中略) 戦後も同じではなかったか。外国の青写真で再編成された組織と技術のもとで、日本の経済力は無敵であると本気で人びとは信じていたではないか。今でもそう信じている人がるらしく、郊外で日本が滅びるという発想はあり得ても、郊外すら発生し得なくなる経済的破綻で日本が敗滅しうると考えている人はいないようである。(中略) この面の、精神面における根本的な解決は何一つなされていない、証左であろう。
反省なるものは、どれを見ても、戦後の「経済的無敵日本の発想」、それに基づく「日本列島改造的発想」が前回述べた「前提を絶対化してその中で "芸" を練ることによってその前提を克服して無敵になりうる」と考えた日本軍の発想と、根本的には差がないのではないのではないかといった「反省」とは思われないからである。
戦争への見方、それに伴う報道の仕方は、最初にのべた通り、まさに「反省力なきこと」の典型なのである。戦争中の「鬼畜米英」、戦後の「鬼畜日本軍」の祖形ともいうべき西郷軍残酷物語の創作記事は、実に読むのが気恥しいほど出ている。そして、これによる視点の喪失、ブーム化に基づく妄動こそ、西郷側にも官軍側にもあった、日本的欠陥の最たるものであった。そして、それへの反省は未だになされていないのである。では一体「反省」とは何なのか。反省しておりますとは、何やら儀式をすることではあるまい。それは過去の事実をそのままに現在の人間に見せることであり、それで十分なはずである。
いわゆる「残虐人間・日本軍」の記述は、「いまの状態」すなわちこの高度成長の余慶で暖衣飽食の状態にある自分というものを固定化し、その自分がジャングルや戦場でも全く同じ自分であるという虚構の妄想をもち、それが一種の妄想にすぎないと自覚する能力を喪失するほど、どっぷりそれにつかって、見下すような傲慢な態度で、最も悲惨な状態に陥った人間のことを記しているからである。それは、そういう人間が、自分がその状態に陥ったらどうなるか、そのときの自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていないことを自ら証明しているにすぎない。これは「反省力なき事」の証拠の一つであり、これがまた日本軍の持っていた致命的な欠陥であった。従って氏が生きておられたら、そういう記者に対しても、「生物学的常識の欠如」を指摘されるであろう。
人という「生物」がいる。それは絶対に強い生物ではない。あらゆる生物が環境の激変で死滅するように、人間という生物も、ちょっとした変化で死に、あるいは狂い出し、飢えれば「ともぐい」をはじめる。そして、「人間この弱き者」を常に自覚し、自らをその環境に落とさないため不断の努力をしつづける者だけが、人間として存在し得るのである。日本軍はそれを無視した、いまの多くの人と同じように、人間は、どんな環境においても同じように人間であって、「忠勇無双の兵士」でありうると考えていた。そのことが結局「生物本能を無視したやり方」になり、氏は、そういう方法が永続しないことを知っていた。
徹底的に考え抜くことをしない思想的不徹底さは、精神的な弱さとなり、同時に、思考の基礎を検討せず、あいまにしておくことになり、その結果、基盤なき妄想があらゆる面で思想の如く振る舞う結果にもなった。それは、さまざまな面で基礎なき空中楼閣を創り出し、その空中楼閣を事実と信ずることは、基礎科学への無関心を招来するという悪循環になった。そのため、その学問は日本という現実にそくして実用化することができず、一見、実用化されているように見えるものも、基礎から体系的に積みあげた成果でないため、ちょっとし生涯でスクラップと化した。
明確に自己を規定し、その自己規定に基づいて対者を評価し、その上で自己と対者との関係を考えるという発想がないことを示している。そしてこれは軍事だけでなくすべての面に表れ、技術ももちろんその例外ではない。
「小利口者は大局を見誤る」日本の戦後三十年は、残念ながら氏の言葉を立証してしまった。またこの比較は「といっても、日本の技術にも優秀なものがあったではないか。ゼロ戦などは世界一の折紙をつけられていたではないか」といった反論への答えにもなっている。確かにわれわれは、外国の基本的な技術を導入して、それを巧みに活用するという点では、大きなん能力を持っている。しかしこのことが逆作用して、常にそれですますことができるような錯覚をもちつづけてきた --- 戦前も、そして戦後も。そのため、全く新しい発想に基づく考え方を逆に軽視する傾向さえある。
"現実的" であるということが、今まで記した「思想的に徹底したものがなかった事」にはじまる四カ条の基本になっている "心的態度" であった。というのは、、全てがその場その場の情況で支配され、威張ってみたりしおれてみたり、一つの思想に基づく自信が皆無だからである。そしてそれは、戦後三十年の "現実的" な日本人の態度でもあった。
日本軍のすべてが、日本人の実生活に根づいておらず、がんじがらめで、無理矢理に一つの体系をつくっていたことである。そのため、すべての人間が、一言で言えば、「きゅうくつ」でたまらない状態に置かれていた。そしてこの「きゅうくつ」を規律と錯覚していたのである。(中略) アメリカ人においては、「不動の姿勢」が、市民の規律正しい姿勢であり、軍隊だけの姿勢ではない。(中略) しかし、今よりも畳の上の生活が自然であった日本人にとっては、これは、社会の基本の姿勢ではない。したがって、こういう姿勢をとらされるということ事態がきわめて不自然なことであり、苦痛を強いられることにすぎない。以上はいわば「基本的姿勢」だが、これは全ての面に現われている。彼らのスタッフとラインで構成される組織は、彼らの社会に共通の組織であり、軍隊組織も会社組織も大学も、基本的には変化はない。すべての組織で、その細部とその中での日常生活を規制しているものは、結局、その組織を生み出したその社会の常識だる。常識で判断を下していれば、たいていのことは大過ない。常識とは共通の感覚 (コモン・センス) であり、感覚であるから、非合理的な面を当然に含む。しかしそれはその社会がもつ非合理性を組織が共有しているがゆえに、合理的でありうる。しかし輸入された組織は、そうはいかない。その社会の伝統がつちかった共通の感覚は、そこでは逆に通用しなくなる。従って日本軍は、当時の普通の日本人のもっていた常識を一掃することが、入営以後の、最初の重要なカリキュラムになっていた。だがこの組織は、強打されて崩れ、各人が常識で動き出した瞬間に崩壊してしまうのである。英米軍は、組織が崩れても、その組織の基盤となっている伝統的な常識でこの崩壊をくいとめる。
アメリカ人は、自己の生存と生活を守るというはっきりとした意識の下に戦争に参加した。しかし日本人は、自己の生存と生活を守るためには、何とかして徴兵を逃れようと、心のどこかで考えていた。従って、戦争に参加せざるを得なかった者には一種の空虚感があり、徴兵を免れた者への羨望があった。そしてこの空虚感は虚無感となり、何も思考すまいとは考えても、自らの思想を、あらゆる意味の修養という形で形成して行こうなどとは、誰も考え得なかった。
三十年前の敗戦が、戦争という異常性に基づく崩壊でなく、明治以来の日本の通常性が生み出した一つの結末にすぎないことの暗示にもなるであろう。崩壊は一つの通常性として進行していた。これは「敗因二十一カ条」の前文で小松氏が記している通り、「日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきる」のであって、結局、問題の根本は、「なぜ初めから無理な戦いをする」結果になったか、という問題にもどって来る。
小松氏が記しているのは、戦地・戦場・ジャングル・収容所の通常性であり、ある意味では「旅行記」であり、ある「力」に作用されていない記述である。そしてそこで行われた通常性・日常性の中に読者は意外性を見、その意外性が通常性であったことに驚くある力で「日常性という現実を意識さえないこと」が逆に一つの通常性になっているため、自分が本当に生きている「場」を把握できなくなっている状態、これが日本を敗戦に導いた一番大きな原因であろう。簡単にいえば、自分の実体を意識的に再把握していないから、「初めから無理な戦い」ができるわけである。なぜこういう事態を生ずるのか。そして生ぜしめ、その実施者である軍を拘束していたその「力」とは何なのか。
こういった「小市民的価値観を絶対とする典型的な小市民的生活態度」を通常性・日常性とすることは、恥ずべきことなのであろうか。それとも、こういう日常性への不動の信念をもちつつ、「或る何かの力」に拘束されて、自分が軍人か闘士であるかの如き虚構の態度をとることが恥ずべきことなのであろうか? 私自身は、その人がどんな "思想" をもとうとその人の自由だと思うが、ただもし許されないことがあるなら、自己も信じない虚構を口にし、虚構の世界をつくりあげ、人びとにそれを強制することであると思う。(中略) ただ明治以来、「或る力」に拘束され、それを「明言」しないことが当然視されてきた。いわば自分のもつ本当の基準は口にしてはならず、みな、心にもない虚構しか口にしない。これは戦前・戦後を通じている原則である。
以上にのべた明治以降の奇妙な「通常性を把握しないことを通常性」とする性向、いわば、ある力に拘束されて自己の真の規範を口にできず、結局は、自分を含めてすべての人を苦しめる「虚構の自己」を主張することが通常性になっているためと仮定するなら、その拘束力を排除できなかったのは何のゆえで、何が欠如してそうなり、何を回復すればそれが克服できるのであろうか? 答えは非常に簡単である。その「鍵」は「自由」であろう。この本の魅力の一つは、小松氏が天性の自由人であり、記されていることが全くの「自由な談話 (フリー・トーキング)」だということである。見たまま、聞いたまま、感じたまま、それを全く自由と何の力にも拘束されず、何の力も顧慮せずに、氏は記している。(中略) もしすべての人に、この自由な談話 (フリー・トーキング) が常にできるなら、おそらく太平洋戦争のような、全く意味不明の事件は、二度と起こらないであろう。(中略) フリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず、そういうことをやる人間こそ、思考の自由に基づく言論の自由とは何かを、全く理解できない愚者なのだ、と。
戦後は「自由がありすぎる」などという。御冗談を! どこに自由と、それに基づく自由思考 (フリー・シンキング) と、それを多人数に行う自由な談論 (フリー・トーキング) があるのか、それがないことは、一言でいえば、「日本にはまだ自由はない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だにわれわれを拘束しているということである。 
 
日本人を動かす原理 「日本的革命の哲学」  山本七平 (1992年)

 

要旨   
御承知のように、保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。
さて、山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。
ところで、泰時は明恵の思想に大きな影響を受けたことはつとに知られている。明恵と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいることはいる。しかし、明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。
ところがこの明恵に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。
さて、西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合、それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。
明恵のユニークさというのは、国家の秩序の基本の把え方にある。明恵は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ているのである。明恵に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は『華厳経(けごんきょう)』に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に『華厳経』の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」
確かに、現代人は明恵の世界を共有することはむずかしい。しかし、明恵が真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。 
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。
さて、流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいかと思われるが、これはまさに明恵の発想方法・「あるべきようは」そのものではないかと思う。日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いていると考えているが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という明恵の発想方法に今こそ立ち戻らなければならない。
わが国は、古くは中国、近年は欧米から・・・やむなくいろんな法律をまねしてわが国の法律としてきた。諸外国の法律をまねしたものを「継受法」という。やむなく「継受法」を採用しなければならないのは、もちろん国としての力関係による。幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。大陸の文化を「継受しようという意志」は歴史的にほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布されるのである。そのことが間違っていたのではない。そうではなくて、それが「名存実亡」となったとき、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち、どう逆転(裏返し)できるかである。
天皇は「名」であり武士は「実」である。律令は「名」であり式目は「実」である。「名」を捨てて「実」に従わなければならない。「名」より「実」をとるべきである。それが二元論の常識であろう。「名」より「実」をとるという逆転、裏返しといってもいいが、それが西欧型革命であろう。しかし、明恵の「裏返し革命」は違う。単なる逆転、裏返しではなくて、もういっぺん「否定の否定」をやるのである。「名」ではなくて「実」である。しかし、なおかつ、「実」でなくて「名」である。「名」であると同時に「実」である。「名」でもないし「実」でもない。要は、流動的知性が重要なのである。
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。
新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが『天皇陛下の経済学』の中でも指摘している。  
第一章 日本に革命思想はなかったか

 

日本では、革新という言葉は良く使うが、革命という言葉はほとんど使わない。戦後、共産党によって日本の革命が意図されたが、結局は成功しなかった。なぜ成功しなかったかかは、もちろん学問的にきっちり分析されなければならないが、私は、わが国の「歴史と伝統・文化」にその原因を見い出すべきだと考えている。わが国は革命になじまない姿(かたち)をしているのではないか。
フランス革命思想に見られるように西欧では革命思想が優勢であったし、中国でも、孟子の思想に見られるように「人民主権的革命思想」があった。山本七平はそれを次のように紹介している。 
孟先生がいわれた。
「暴君の桀王・紂王が天下を失ったのは、人民を失ったからである。人民を失ったとは、人民の心を失ったことを意味する。天下を手に入れるには一っの方法がある。人民を手に入れることであり、そうすればすぐに天下を手に入れることができる。人民を手に入れるには一つの方法がある。人民の心を手に入れることであり、そうすれば人民を手に入れることができる。人民の心を手に入れるには一つの方法がある。人民の希望するものを彼らのために集めてやり、人民のいやがるものをおしつけない、ただそれだけでよろしい。人民の仁徳にひかれるのは、まるで水が低いほうに流れ、獣がひろい原野に走り去るようなものだ。淵に魚を追いたてるのが、獺(かわうそ)である。茂みに雀(すずめ)を追いたてるのが、鳶(とび)である。殷の湯王、周の武王のほうに人民を追いたてたのが、夏の桀王と殷の紂王とである。現在、天下の君主のなかで仁政を好むものがあれば、諸侯はみなその君主のほうに人民を追いたてるにちがいない。いくら天下の王となるまいとしても、不可能であろう。現在の王となろうと希望する者は、七年間の持病をなおすため、三年間かわかした艾(もぐさ)をさがしているようなものだ。もし平常からたくわえておかなかったら、死ぬまで古い艾(もぐさ)を手に入れることはできまい。もしも仁政を心掛けなければ、死ぬまで恥を受けることにびくびくして、ついに死亡してしまうだろう。<詩経>に、
そのふるまいのどこによいところかあろうか
ともどもに溺れ死ぬばかりだ
とよんでいるのは、このさまをいったのだ」・・・と。
しかし、山本七平もいうように、人民主権的とか民主主義的といっても、中国人には「選挙制度」という考えが全くなく、「王政をやめて共和制にしよう」という発想は全くなかったのである。したがって、中国の影響しか受けなかった日本に、西欧のような革命思想が出てくる筈がない。では、日本に西欧的な革命がなかったのか。そこが問題の核心である。
先に述べたように、保元(ほうげん)の乱は武家社会を語る上でも天皇制を語る上でも欠かすことのできない重要な歴史的事件であるが、私はとりわけ崇徳(すとく)天皇が言ったといわれる・・・天皇自身の言葉(天皇制否定の心情)に注目している。大岩岩雄の「天狗と天皇」(1997年、白水社)には次のように書かれている。
天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という
崇徳の逆転宣言は、痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。
すなわち、崇徳(すとく)天皇は革命的な思いを抱いたのではあるが、それはそのとき限りのもであって、天皇制打倒の動きなどまったく出てくる由(よ)しもなかった。
保元の乱は、平治の乱に繋がり、やがて承久(じょうきゅう)の乱へと繋がっていくのだが、北条泰時(ほうじょうやすとき)は、後鳥羽上皇を配流にするけれど、天皇制そのものは維持している。崇徳(すとく)天皇の天皇制打倒宣言を根拠に天皇制を廃止することもできたのにそれをしなかった。天皇自らが天皇制打倒宣言をしているのに北条泰時はなぜ天皇制を廃止しなかったのか、そこが問題の核心部分である。 
第二章 聖書型革命と孟子型革命

 

孟子の革命論
それは現体制の外に何らかの絶対者を置き、その絶対者の意志に基づいて現体制を打倒して新体制を樹立する、ということであろう。
孟子にとって絶対者は「天」であり、その「天」の意志は自動的に「民心」に表われるから、その「民心」の動向に基づいて新しい王朝を樹てることが「絶対者の意志」に従うことであった。
そして以上の「革命」を、西欧の「革命論」の基礎となった「旧約聖書」と対比してみると、両者の違いは明確に出てくる。聖書の場合も、体制の外に絶対者すなわち「神」を置いている。この点まではある意味では両者に変りはない。しかし、前章で記したように聖書には孟子のような「天意=民心論」すなわち、絶対者と民心とが自動的につながっているという思想はない。そういう自動的なものではなく、神と人をつなぐものが「契約(ベリート)」なのである。孟子の革命論と聖書の革命論との決定的な違いは「契約」という考え方の有無にあると言ってよい。
人類最初の西欧型革命
この違いがなぜ出てきたかの「発生論的探究」は今回は除き、それは創造神話の時代からの、基本的な違いであると指摘するにとどめよう。これらに関心のある方は拙書『聖書の常識』を参照していただきたい。この点、孟子における「天意」の表われ方はきわめて自動的だが、聖書における「神の意思」の表われ方はまことに「作為的」であって、「神」が契約を更改すれば社会は基本から変わってしまうわけである。 
ではここで欧米人を一人つかまえて次のような質問をしてみよう。「ここにAという国があったとしよう。その国のある階級を代表するBなる者が服従しないので、A国皇帝がその代表の討伐を命ずる勅命を出し、実際に戦端が開かれた。ところがこのBなる者は一挙に首都に進撃し、皇帝一族を追放し、皇帝を退位させて自分の望む者を帝位につけ、討伐を企画した者どもを処刑した上で、自分が擁立した皇帝をも無視し、その形式的な認証も署名もない基本法を勝手に発布し、この法は過去において皇帝が発布した法規とは全く無関係と宣言したら、これは革命と言えるか、言えないか」。今まで私が質問した限りでは、すべての欧米人は「もちろん革命ですよ」と言った。
承久の乱は日本史最大の事件
まず注目すべきは、承久の乱という事件が、武士団が朝廷と正面衝突をして勝利を得た最初の戦争だということである。朝廷への個々の小叛乱、否、相当に大きな叛乱もそれまでにあったが、すべては失敗に終わっている。また武士団が勝手に三上皇を配流に処し、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立したのも、このときがはじめてである。 
天皇に刃向うことは当時は強烈なタブーであり、武士団の中に、強い恐怖と非倫理的悪行という考え方と、伝統否定という心理的抵抗があって当然だった。当時の武士は、事を起すにあたって必ず「院宣」とか「令旨」とかを受け、名目的には天皇家の一員の「命令」によって行動している。この点では頼朝とても例外でなく、彼の行き方は常に何らかの「大義名分」を保持し、院政を利用して幕府を育てあげるという政策をとっている。ところが承久の乱はこれと全く違って、義時追討の「院宣」が下っているのに、これをはねかえして軍を起したのであり、彼には「大義名分」といえるものは全くない。
さらに「身分」が大きく心理的に作用するこの時代に、頼朝と義時とを比べれば、両者の違いは余りに大きい。頼朝は「源氏の嫡流」「武家の棟領」で、すでに何代にもわたって朝廷と関係をもつ名門である。一方北条氏といえば伊豆の豪族にすぎず、それも、三浦、千葉、小山のように強大な同族的武士団を擁して数郡から一国にわたって勢力を振った大豪族でない。下級かせいぜい中級の豪族、ごく平凡な在地武士、伊豆国の在所官人であった。その伊豆さえもちろん彼の支配下にあったわけでなく、狩野、仁田、宇佐美、伊東等の豪族がいた。
当時の東国の武士団は、京都に対して強い「文化的劣等感」をもっていた。これが朝廷側の「官打ち」を可能にしたし、「官位」「恩賞」でさそえば、義時を討とうという人間が鎌倉の中から出て来て少しも不思議でない。御家人にとっては彼はあくまでも「同輩」か「下輩」にすぎず、勅を受けてこれを討つことに罪悪感を感じる者がいるはずがない。
三浦一族の意識では義時は「伊豆の小豪族、自分以下の北条氏」にすぎず、これを、「一天ノ君ノ思召」で討つことに、何ら良心のとがめを感じなくて不思議ではない。後鳥羽上皇が、「成上り」として御家人からさえ反感をもたれている義時などは、諸国に院宣を下せば簡単に討滅できると考えて不思議ではなかった。
そしてこの予測は、必ずしもあたらなかったわけではない。その証拠に上皇挙兵のとき、多くの鎌倉御家人が京都側に立っている。
限定的西欧型革命
『吾妻鏡』には尼将軍政子の訓示として次の言葉がある。「皆、心を一にして奉(うけたまわ)るべし。是れ最後の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰(伐)し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝之志浅からんや。しかるに今、逆臣之讒により、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし」と。
これは有名な<名訓示>だから知っている人も多いであろう。政子が果してこの通りに言ったかどうかはわからないが、これはあくまでも心情に訴える「女性の論理」だから、大筋はこの通りであろう。彼女はまず「恩」をとき、「名を惜しむの族」はこの「恩」を忘れた「裏切り者の御家人」秀廉・胤義を討ち取るべきだと主張する。敵は決して天皇家でなく、幕府への「逆臣」であり、「非義の綸旨」が下ったのは、その「讒」によるのだから、この「逆臣」を討伐するのだという論理である。これは確かに、御家人の感情に訴える点では効力があったであろう。
しかし、たとえ「非義の綸旨」であろうと、勅命が下った以上、これに抵抗すれば抵抗した者が「逆臣」である。そうならないためには、まず降伏し、それが「逆臣の讒」であることを朝廷へ陳情して撤回してもらうことが「筋を通す道」であろう。この議論を展開するのが泰時である。ところがそれに対して義時は次のように言ったと『明恵上人伝記』にある。
「尤(もっと)も此の事さる事にてあれども、それは君主の政ただしく、国家治る時の事なり。今此の君の御代と成て、国々乱れ所々安からず、上下万民愁(うれい)を抱かずといふことなし。然るに関東進退の分国ばかり、聊か此の横難に及ばずして、万民安楽のおもひをなせり。若し御一統あらば、禍(わざわい)四海にみち、わずらひ一天に普(あまね)くして安きことなく、人民大に愁(うれう)べし。これ私を存じて随(したがい)申さざるにあらず。天下の人の歎(なげき)にかはりて、たとへば身の冥加(みょうが)つき、命を落とすといふとも、痛む可きにあらず。是れ先蹤なきにあらず、周武王・漢高祖、既に此の義に及ぶ歟(か)。それは猶自ら天下を取りて王位に居(おわ)せり。これは関東若し運を開くといふとも、此の御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君をあやまり奉るべきにあらず、申勧(すす)むる近臣どもの悪行を罰するにてこそあれ」
これは、義時がこのように言ったと泰時が明恵上人に言っているわけで、この考えが義時のものなのか泰時のものなのか明らかでない。というのは、明恵上人の「義時泰時批判」に対する泰時の弁護だからである。またこの伝記自体がどれだけ史料的価値があるかも問題であろう。泰時と明恵上人との関係は後に記すが、しかしいずれにせよ、ここに記されている論理は孟子の「湯武放伐論」であり、この著者が孟子によって義時・泰時を正当化していることは明らかである。
「桀紂の天下を失えるは、その民を失えばなり……」にはじまる孟子の言葉の「桀紂」を「上皇」にすれば、ここで義時が言っているのはまさに孟子の言葉であり、「是れ先蹤なきにあらず……」なのである。上皇はまさに、人民を幕府の方へ迫いやってしまう。「獺(だつ)なり」「せん(亶に鳥)なり」であり、それによって否応なく民心が集まってきた幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」になった。ただ義時・泰時の場合は、天皇家を滅ぼしてかわって北条天皇になり、前の体制を浄化するだけで、そのままその体制をつづけていったわけではない。この点では「限定的中国型革命」ともいうべきものだが、この限定は孟子にとっての「天」が彼にとっては「天照大神・正八幡宮」という自己の伝統にあった点にあるであろう。だが「式目」の発布という点から見れば、これは中国の革命思想を越えており、「限定的西欧型革命」とも言えるのである。 
第三章 北条泰時の論理 

 

衆の「棄つる所」と「推す所」 
水戸彰考館の前総裁・安積澹泊(あさかたんぱく)は、『大日本史論讃』に次のように記している。 
「兄弟牆(かき)にせめ(門のなかに児)ぎ、骨肉相賊(そこな)うは、蓋(けだ)し人倫の大変なり。保元の事、亦惨ならずや。崇徳上皇の戎(いくさ)を興せるは、固より名義無し。帝、已むを得ずして之に応ずるは、之を猶(ゆる)して可なり。拘(とら)えて之を流せるは己甚(はなは)だしからずや。……此(こ)れ、彝倫(いりん)(人倫)のやぶ(澤のつくりと敗のつくり)るる所なり。藤原信頼を嬖寵(男色の相手として寵愛)して、立ちどころに兵革を招き、平清盛に委任して、反って呑噬(どんぜい)に遭い、源義仲・源義経に逼られて、源頼朝を討つの誥を下すに至りては、則ち朝令夕改、天下、適従(主として従う)するを知るなし、大権、関東に潜移して、其の狙詐の術に堕つを知らず。……摂政兼実、清原頼業の語を記して曰く、『嘗(かつ)てこれを通憲法師に聞く。帝の闇主たる、古今にその比少し……』」と記し、政権が関東に移ったのは、「闇主」後白河帝の失徳が原因としている。
では、義時・泰時に配流された後鳥羽上皇その人、さらにこれを行なった当事者である泰時には、どのような評価が下されているのであろうか。確かに今までのような例があるとはいえ、これはあくまでも朝廷内のこと、たとえ幕府ができても、それが名目的には朝廷内の一機関ならともかく、「天皇制政府」以外に「幕府制政府」とも言うべきものを樹立し、陪臣でありながら三上皇を配流に付して天皇を退位させ、勝手に法律を発布するなどと言うことは、「皇国史観」の源流とされる水戸学では到底許すべからざることではないのか?
後白河帝への批判
安債澹泊(あさかたんぱく)は後鳥羽天皇の即位の異常さにまず言及する。「人君、位に即くには、必ずその始めを正しくす。その始めを正すは、その終りを正す所以なり。古より、未だ神器なくして極に登るの君あらず。元暦の践祚は、一時の権に出で、万世の法となすべからず。藤原兼実これを当時に議し、藤原冬良これを後に論ず。異邦の人すらなお白板天子(玉璽なき自称天子、白板は告命なき白い板)を議す。国朝、赫々たる神明の裔、豈(あに)、その礼を重んぜざるべけんや。これ祖宗の法を蔑(なみ)して、その始めを正さざるなり……」と。
この事件は、平宗盛が安徳天皇と神器をもって西に走ったので、後白河法皇が高倉天皇の第四子尊成親王を立てて天皇とし、神器なしで、ただ参議の藤原修範を伊勢に派遣して大神宮に新しく天皇を立てたと報告した事件を言う。これがいわば「白板天皇」の後鳥羽帝で、藤原兼実はこれを「殆為二嘲弄之基一」と記し、冬良は「先帝(安徳)筑紫へ率ておわしければ、こたみ初て三の神宝なくて、めずらしき例に成ぬべし」と記している。これは、当時の人にはショッキングな大事件であったらしく、『源平盛衰記』等でも盛んに論じられている。従って義時・泰時も、口にはしなくても当然にこのことを知っており、その心底のどこかに「後鳥羽上皇は白板天皇にすぎない」という意識はあったであろう。それを可能にしたのは、後白河法皇である。
さらに、仲恭天皇(九条廃帝)から後堀河天皇への譲位の強制・新帝擁立も、全く前例がなかったことではない、とも言い得たし、白板系を廃して正統にもどしたとも主張し得たであろう。というのは、後堀河天皇の父の後高倉院は後鳥羽天皇の兄だからである。同時に、この「白板天皇」にすぎず、「「殆為二嘲弄之基一」という状態は後鳥羽上皇にも作用して、少々異常な高姿勢を幕府に対してとらせたとも見られる。
御承知のように、保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。
さて、山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。 
ここで水戸学は、すべての原因が「その始めを正さざる」にあったとして、批判は専ら後白河法皇に向けている。
後高倉院について説明しておこう。 行助(こうじょ)親王が、後鳥羽天皇の兄である。後鳥羽上皇が何故兄の行助親王をさしおいて天皇になったかはよく判らない。多分、そうしたのは後白河法皇であろう。行助(こうじょ)親王が後高倉院となる。つまり行助親王は、天皇の位につかないでいきなり法皇の位についたのである。
なお、仲恭天皇は、順徳天皇の子であるが、天皇の位についたのかそうでないのかよく判らない人である。順徳天皇から位を譲られたにもかかわらず即位式が行なわれていない。だから、順徳天皇がそのまま天皇をつづけていたとも言い得るであろう。仲恭天皇は明治初年に天皇に認定されたが、後堀川天皇の即位とともに廃帝された・・・という扱いになっている。行助親王の子、茂仁王が後堀川天皇になって一件落着となった。
ちなみに、安徳天皇は、よく知られているように、源平の戦いで海に身を投ぜせしめられ、海の藻くずと消え去った。鳥取に落ちのびたとも言われている。
80高倉天皇――81安徳天皇
        後高倉院 →86後堀川天皇
       82後鳥羽天皇――83土御門天皇
               84順徳天皇―→九城廃帝(85仲恭天皇)
なぜ泰時だけがべタホメか
さらに泰時は、京都に進撃した総司令官であり、そのうえ朝廷から立法権を奪って勝手に『関東御成敗式目』という法律を発布した。 
こう見てくると、天皇のみ正統でこれが絶対なら、泰時は日本史上最大の叛逆者であり、どのような罵詈讒謗が加えられても不思議でないはずである。
ところがまことに不思議なことだが、泰時への非難はまさにゼロに等しい。「皇国史観」の源流とされる水戸学でも、当然、 泰時への批判は実に峻烈になりそうなものだが、奇妙なことに「ベタホメ」なのである。 
そうした考え方はまさに孟子の革命論――天意=人心論――であろう。「白板天子」後鳥羽上皇への「嘲弄」と、その失徳と失政は、結果として孟子のいう「獺(だつ)(かわうそ)なり、せん(亶に鳥)(とび)なり」となって人民を幕府の方へ追いやってしまったので、幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」という形になった。それなのに義時は終生「位、四品を踰えず」で自らが王になろうとする野心なく、専ら仁政を施したのは立派で、「天下に功無しと請うべからず」なのである。義時でさえこうであれば泰時が「ベタホメ」になって不思議ではない。
『貞永式目』は徳川時代にも「標準」であり、広く民間に浸透し、明治五年までは寺子屋の教科書で、明治二十二年の憲法、二十三年の民法公布まで日本人の「民の法」の基本となっていた。だが『貞永式目』という法の公布には、天皇は一切タッチしていない。日本人は長いあいだ幕府の執権が定めた法の下にいたわけで、この時以降を「幕府法の時代」と規定してよいであろう。
その意味では確かに「ベタホメ」は当然なのだが、これを「人神共に憤る」という後鳥羽上皇の項の批判と対照すると、日本人の政治意識とは全く不思議なものだと思わざるを得ない。というのは天皇からの奪権者への「ベタホメ」は、天皇制の否定のはずだからである。
だがさらに澹泊(たんぱく)は、承久の乱における泰時の態度には、ただ「弁護のみ」で、次のように記している。「承久の変に、義時を諫争し、言、切なりといえども聴かれず。その、兵を将(ひき)いて王師に抗するや、遂に乗輿を指斥する(仲恭天皇を退位させたこと)に至れるは、その本心に非ず、誠に已むことを得ざればなり。四条帝崩ずるに至りて、則ち籤(くじ)を探りて策を決し、土御門の皇胤を翊戴(よくたい)す。乃心(たいしん)王室(心、王室にあり)、亦従(よ)りて知るべきなり。源親房謂う『承久の事は、その曲、上に在り。泰時は義時の成績を承け、志を治安に励み、毫も私する所無し』と。これ、以て定論となすべし」と。
日本人の心底にある理想像
『神皇正統記』の著者の北畠親房・・・・この南朝正統論の「生みの親」こそ、最も徹底した泰時批判論者であって不思議ではない。それがやはり、「後鳥羽上皇がよろしくない」であり、「泰時は立派だ」としている。
まことに不思議なのだが、その立場からして当然に泰時に徹底的な批判を加えて然るべき人間が、すべて「泰時だけは別」としている。 
一体この不思議はどこから出たのであろう――それを探究するのが本稿の目的の一つである。というのは、その国の歴史において、彼のような位置にありながら「ベタホメ」にされるということは、日本人の心底にある、ある種の「理想像」を彼が具現していたと思われ、その理想像を形成した「思想」と彼の制定した「法律」こそ、以後の基準になっていると思われるからである。
「将軍なき幕府」の自壊を待つ
後鳥羽上皇が期待していたのは「幕府の自壊」であった。事実、後鳥羽上皇が泰時に等しい「徳」と「政治力」をもっていたらこれは可能だったかも知れない。というのは幕府の中心たるべき源実朝には子供がなく、その「象徴的中心」は失われようとしていた。義時は政子を京都に派遣し、実朝の後継者として皇族将軍を東下させることを院の当局者と密約していた。いわば義時自身、自分と朝廷との間に立ちうる「仲介的人間」を欲していたわけである。だが実朝が死ぬと院はこの件をうやむやにし、中心を失わせて御家人相互を争わせ、その間に、個々に朝廷側に寝返らせて、北条政権を崩壊させようとした。
そこで実朝弔問と同時に摂津の国長江・倉橋両荘の地頭改補を幕府に命じた。同荘の領家は、院の寵愛する伊賀局亀菊のものであったが、地頭が亀菊の命に従わなかったというのがその理由である。ところがこれは幕府にとって重要な問題であり、もしこれが前例になれば、地頭への任免権は実質的に朝廷に奪われる。従って、勲功の賞によって与えられた地頭職を罪科なく免ずることはできず、義時は、弟の時房に一千騎をさずけて上洛させ、院に拒否を回答させた。一種の力の誇示による圧力であろう。こうなると半ば決裂状態であり、院による皇族将軍の東下などは期待できない。そこで頼朝の外孫の左大臣九条道家の幼児三寅を将軍に迎えることにした。
無条件降伏論者の泰時
後鳥羽院は、北面の武士を中心に、寺社の僧兵や神人をも誘い、さらに承久三年四月に順徳天皇が仲恭天皇に譲位してこれを助けるという体勢をとった。その上で、在京中の御家人を味方に誘い、幕府と親しかった西園寺公経(きんつね)を幽閉し、同年五月十五日、諸国に義時追討の院宣・宣旨が下され、ここに承久の乱は勃発した。いわば仕掛けたのはあくまでも朝廷側である。 
こうなると、鎌倉側も早速に対応策を考えねばならない。しかし泰時はこのときまず「無条件降伏論」を展開したという。 
果して事実か否かはわからない。泰時と明恵上人が非常に親しく、共に尊敬し合う間柄であったことは、両者が交換した和歌が残っているから事実であろうが、『明恵上人伝記』の中に記されていることが、ことごとく事実ではないかも知れぬ。しかし、この泰時の態度は、他の資料と対比して矛盾がないことも事実なのである。彼はあらゆる点で「消極論」であり、もし上皇が討伐軍を東下させるなら、箱根・足柄を防御線としてこれを防ごうと提案している。
そしてこの点から見れば、泰時の「無条件降伏論」なるものも、後に足利尊氏がとった方策と変らないのではないか、とかんぐることも可能なのである。いわば、これほど恭順の意を表しているのに、なお朝廷が高圧的に出れば、御家人は「明日はわが身か……」と思って逆に団結する。その団結したところで、長途の遠征で疲れた敵を箱根の山岳地帯で迎撃すれば必ず勝つ。勝った上で院宣・宣旨の撤回を求めれば、天皇と戦場で直接的に対決することは避けられる。もしこれが真相なら、泰時は相当な策士ということになるであろう。
賽は投げられた 
いずれにせよ軍議では、無条件降伏論も迎撃論も斥けられ、出撃論が採択された。しかしこれは必ずしも多数意見でなく大江広元が強く主張し、尼将軍政子がこれに同調したためと思われる。 
政子の名演説の「名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし」 
評議の結果は泰時・時房を大将軍とし、武蔵の軍勢が集まりしだい出撃ときまり、ついで遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の諸国に飛脚をとばして御家人の参向を求めることになった。これがいわゆる東国だが、当時の幕府の直接的な支配圏はわずかこれだけである。
この場合は、朝廷の切り崩しが成功するか、幕府側がこれをはねのけて団結するかが勝敗の分れ目であり、その点から見れば、武士団を「戦争へと踏み切らせる」ことが第一のはずである。大江広元はこの点をよく理解していた。彼は義時に向って即時出撃を強く主張し、その結果、泰時は軍勢の到着を待たず、二十二日払暁京都に向って進撃することになった。藤沢を出たとき、従うものは子息時氏以下十八騎にすぎなかったという。まさに「賽(さい)は投げられた」であったろう。
このようにして泰時は出発した。しかし彼は途中で引返してきて、上皇が自ら出陣したときに取るべき態度を義時にたずねた。これは彼にとっても、武士団にとっても大きな問題であったろう。義時は次のように答えたという。
「かしこくも問えるおのこかな。その事なり、まさに君の御輿に向いて弓を弓くことはいかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ、弓のつるをきりて、ひとえにかしこまり申して、身を任せたてまつるべし。さはあらで、君は都におわしましながら、軍兵をたまわせば、命をすてて千人が一人になるまで戦うべし」と。 
おそらく、このことを武士団が知ったら士気の低下を招くであろう。というのは「こういう事態になったら無条件で降伏である」という前提で戦争ははじめられるものではない。それを知れば、戦う気力は失せてしまう。さらにこのことが裏切者を通じて敵にもれれば、敵ははじめからそれを作戦として用いるであろう。それを避けるためにこのような方法をとったとすれば、泰時は決して、単純なる「忠誠の人」とはいえず、この点では「尊氏の出家」以上の政治力をもった人間かも知れないのである。 
第四章 「承久の乱」の戦後処理

 

6月16日、泰時は、六波羅の屋敷に入って占領行政を開始した。泰時が18騎とともに鎌倉を進発してから21日目のことである。さっそく上皇は泰時に勅使を派遣し、この討幕の挙は謀臣の計画で自分の意思でなく、すべては幕府の申請のまま宣下すると申入れた。
終戦処理の最高方針を決定したのは義時であったが、義時は、実に巧妙なやり方で終戦処理を行なった。詳しくは省略するが、まず後鳥羽上皇に部下を処分させた。まず「上下」を分断してから「上」の処分にかかった。この辺は確かに辛辣きわまりない。彼の意図は、幕府の要求がそのまま通る朝廷へと改組することであった。
そして、7月9日、新天皇(後堀川)が決るやいなや、三上皇の配流が決った。7月13日のことである。土御門は早く世を去ったが、その後、二上皇の還京運動が起っている。だが泰時は頑としてこれを拒否している。
なお、幕府は、朝廷側に味方した公家・武士の所領を調査して没収した。3000余ケ所にのぼったとういう。
しかし、泰時は、厳しいばかりではなかったようだ。大体において処罰の嫌いな人間であったようで、のちに義時の後妻の伊賀氏が、義時の死後、泰時を廃して自分の子政村を執権にしようとした陰謀のときでも、処刑者なし、首謀者三人への幽閉と遠流のみで、他は一切処罰なしで事をおさめている。承久の変で処刑者が少なかったのもおそらく彼の建議で、また彼は、敵方の人間を助けようとさまざまに努力している。
明恵上人との出会い
そういう彼であっても、敗残兵の小部隊で所々に蟠踞して盗賊化すれば治安上放置するわけにはいかない。ところが栂尾の山中に多くの軍兵が隠れているという風説があり、そこで安達景盛が山狩りを行ない、どうも意識的に軍兵をかくまっているらしい僧侶を見つけて逮捕し、これを泰時の面前に引きすえた。これが高山寺の明恵(みょうえ)上人であった。泰時は驚いて明恵上人を上座にすえ、この非礼にどうしてよいかわからぬ体であった。上人は静かに口を切ると次のように言った(くわしくは後に全文を引用するが、まずここではその要旨を記しておこう)。
「高山寺が多くの落人を隠して置いたという風説があるそうだが、いかにもその通りであろう。大体私は、貴賤で人を差別しようという心を起すことさえ、沙門にあるまじきことと考え、そういう心をきざしても、それを打消すことにしている。また人から何かの縁で祈祷を頼まれても、もし祈って助けることができるなら、何よりも先に一切衆生が三途に沈んで苦しむのを助けるべきで、夢のような浮世のしばしの願などを祈ることは、大事の前の小事だから受けつけたことはない。このようにして歳月をすごして来たから、私に祈ってもらったなどという人はこの世にはいないであろう。しかしこの山は、三宝寄進の所で殺生禁断の地である。鷹に追われる鳥も、猟師に追われる獣も、みなここに隠れて助かる。では、敵に追われた軍兵が、かろうじて命を助かり、木や岩の間に隠れているのを、わが身への後の咎を恐れ、情容赦なく追い出し、敵に捕えられ命を奪われても平然としておられようか。私の本師釈迦如来の昔は、鳩に代って全身を鷹の餌とし、また飢えた虎に身を投げたという話もある。それほどの大慈悲には及ばないが、少しばかりのこともしないで、よいであろうか。隠し得るならば、袖の中にも袈裟の下にも隠してやりたいと思う。この後も助けよう。もしこれが政治のために困ると言うなら致し方ない。即座に私の首をはねられたらよかろう」
泰時は深く感動し、武士の狼籍を詫び、輿を用意して高山寺に送りとどけた。この話はどこまで事実かわからない。しかし明恵上人と泰時との運命的な出会いが、彼が六波羅に居たときのことであったのは事実、また泰時が心の底から尊敬したのは明恵上人であり、同時に、泰時に決定的な感動を与えたのも明恵上人であったであろう。これは二人が交わした歌にも表われている。天皇も上皇も泰時には絶対でなかった。そして絶対だったのは、おそらく明恵上人なのである。 
第五章 明恵上人の役割

 

明恵上人に感動して
明恵上人と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいる。しかし明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵上人は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵上人を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。
ところがこの明恵上人に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。
明恵上人の泰時への影響は実に大きく、明恵の弟子喜海が著わしたといわれる『栂尾明恵上人伝記』によると後の泰時の行動原理はすべて明恵上人から出たもので、彼の時代に天下がよく治まったのも、彼自身が生存中も死後も前述のように「ベタホメ」であるのも、すべて明恵の教えに従ったためだと言うことになる。こうなると『貞永式目』にも明恵上人の思想が深く反映していることになるが、これが果して事実であろうか。
事実とすれば、どのような思想に基づく「法」が、徳川時代にも安積澹泊(あたかたんぱく)の言うように民の標準であり、明治の民法典論争から民法の制定まで、現実に日本人を規制していたのであろうか。これはわれわれの社会に最も長く存続した法であり、また生活規範であったから、現実には今なおわれわれの「本音の規範」の基となっているがゆえに大きな問題と思われる
明恵上人が生れたのは承安三年(一一七三年)、親鸞も同じ年に生れているから二人は同年である。いわばこの対蹠的とも言える二人は同じ激動の時代を生きていた。それは宗教的にも政治的にも新しい日本が新しい規範と秩序のもとに生れ変わる「生みの苦しみ」の時代であり、この二人の思想家が共にその後の日本に決定的に影響を与えた。
栂尾(とがのお)の高山寺の経蔵に伝わるおびただしい数の古典籍は、800年の時間に耐えて来た中世の総合図書館の相貌を今に示している。その中心はいうまでもなく明恵とその弟子たちが形成したものであるが、それらは決して栂尾の地に自然に集積したものではない。一冊、一巻に明恵の遍歴の生涯のあとがしるされ、弟子たちの随従のあとがしのばれる。そうした典籍の森の中に立つと、鎌倉時代の初頭に成立して行った一つの信仰集団の緊張と豊饒がひしひしと伝わって来る。その核といった明恵は、いわば硬質の存在としての仏教者である」・・・・と。事実、その蔵書目録の中の明恵上人による書写と著作の量もまた驚くべきものであり、著書だけで七〇巻に及ぶという。
政治的変革の誘発者 
『古今著聞集』や『沙石集』にある説話は当時多くの人が知っていた明恵上人の面影であろうが、それらはまことに「この世離れ」のした話であって、世人にこのように映じた人から直接的な政治的影響を受けるなどとは、まず、考えられないからである。
では一体こういう人が、大きな政治的・社会的影響力を持ち得るのであろうか。それはありそうもないことに思われるが、最も非政治的な人間こそ、大きな政治的変革を誘発し得るのである。 
西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。 
第七章  明惠の「裏返し革命思想」

 

自然的秩序への絶対的信頼
政権を維持するにはどうしたらよいか 
「国会で多数を維持すればよい」 
「では、多数を維持するにはどうすればよいか」 
「国民の支持を得ればよい」 
では、以上のすべての支持を得るにはどうすればよいか。すべての人がこうあってほしいという期待に答えればよい、それだけになる。ではどうすればそれが可能なのか。
そこに出てくるのが『明恵上人伝記』の中の、覚智伝承ともいうべき部分である。
秋田城介入道大蓮房覚知(あきたじょうのすけにゅうどうだいれんぼうかくち)語(かた)りて云(い)はく、
「泰時(やすとき)朝臣(あそん)常(つね)に人(ひと)に逢(あ)ひて語(かた)り給(たま)ひしは、我(われ)不肖(ふしょう)蒙昧(もうまい)の身(み)たりながら辞(じ)する理(り)なく、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下(てんか)を治(をさ)めたる事(こと)は、一筋(ひとすぢ)に明恵上人(みょうえしょうにん)の御恩(ごおん)なり。其(そ)の故(ゆゑ)は承久大乱(じょうきゅうのたいらん)の已(い)後(ご)在京(さいきょう)の時(とき)、常(つね)に拝謁(はいえつ)す。或時(あるとき)、法談(ほうだん)の次(ついで)に、『如何(いか)なる方便(ほうべん)を以(もつ)てか天下(てんか)を治(をさ)むる術(じゅつ)候(さうら)ふべき』と尋(たづ)ね申(まう)したりしかば、上人(しょうにん)仰(おほ)せられて云(い)はく、『如何(いか)に苦痛(くつう)転倒(てんどう)して、一身(いっしん)穏(おだや)かならず病(や)める病者(びょうじゃ)をも、良医(りょうい)是(これ)を見(み)て、是(こ)れは寒(かん)より発(おこ)りたり、是(こ)れは熱(ねつ)に犯(をか)されたりと、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)って、薬(くすり)を与(あた)へ灸(きゅう)を加(くは)ふれば、則(すなは)ち冷熱(れいねつ)さり病(やまひ)癒(いゆ)るが如(ごと)く、国(くに)の乱(みだ)れて穏(おだや)かならず治(をさま)り難(がた)きは、何(なん)の侵(をか)す故(ゆゑ)ぞと、先(ま)づ根源(こんげん)を能(よ)く知(し)り給(たま)ふべし。さもなくて打(う)ち向(むか)ふままに賞罰(しょうばつ)を行(おこな)ひ給(たま)はば、弥ゝ(いよいよ)人(ひと)の心(こころ)かたましく(ねじけて)わわく(みだりがましく)にのみ成(な)りて、恥(はぢ)をも知(し)らず、前(まへ)を治(をさ)むれば後(うしろ)より乱(みだ)れ、内(うち)を宥(なだ)むれば外(そと)より恨(うら)む。されば世(よ)の治(をさ)まると云(い)ふ事(こと)なし。是(こ)れ妄医(もうい)の寒熱(かんねつ)を弁(わきま)へずして、一旦(いったん)苦痛(くつう)のある所を灸(きゅう)し、先(ま)づ彼(かれ)が願(ねが)ひに随(したが)ひて、妄(みだ)りに薬(くすり)を与(あた)ふるが如(ごと)し。忠(ちゅう)を尽(つ)くして療(りょう)を加(くは)ふれども、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)らざるが故(ゆゑ)に、ますます病悩(びょうのう)重(かさな)りていえざるが如(ごと)し。されば世(よ)の乱(みだ)るる根源(こんげん)は、何(なに)より起(おこ)るぞと云(い)へば、只欲(ただよく)を本(もと)とせり、此(こ)の欲心(よくしん)一切(いっさい)に遍(あまねく)して万般(ばんぱん)の禍(わざはひ)と成(な)るなり、是(こ)れ天下(てんか)の大病(たいびょう)に非(あら)ずや。是(こ)を療(りょう)せんと思(おも)ひ給はば、先(ま)づ此(こ)の欲心(よくしん)を失(うしな)ひ給(たま)はば、天下(てんか)自(おのづか)ら令(れい)せずして治(をさま)るべし』と云々(うんぬん)」
この言葉は、「明恵上人はこのように語った」と泰時が語っているわけで、明恵上人の言葉を聞いたままに記したものではない。その上、さらにそれを大蓮房覚智がだれかに語り、それが覚智伝承となって世に伝わってこの『伝記』に収録されたのだから、泰時の受取り方、さらに覚智の解釈その他が当然に入っているであろう。そのため大変に「通俗的訓話」のようになってはいるが、その基本までもどってみると明恵上人の考え方は、実にユニークだといわねばならない。だが両者の考え方が混淆していると見て、これを一応、明恵―泰時政治思想としておこう。
ユニークというのは、国家の秩序の基本の把え方で、明恵上人は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ている点である。明恵上人に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵上人その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は『華厳経(けごんきょう)』に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に『華厳経』の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」
確かに現代人は、明恵上人の世界を共有することはむずかしい。しかし明恵上人が、真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。
なぜこれが「裏返し革命思想」といえるのか 
固有法と継受法
革命は「西欧型革命」と「中国型革命」に大別できるが、義時、泰時の行動は現象的にはむしろ「限定的西欧型革命」というべきだ。 
天皇から権力を奪取してこれを虚位に置き、『貞永式目』などという法律を武蔵守にすぎない泰時が天皇の裁可も経ずに一方的に公布・施行してしまうなどという革命は、中国型革命にはない行き方だからである。では西欧型革命なのであろうか。現象的・限定的にはそう見えるが、決してそうは言えないのは「明恵―泰時政治思想」が、西欧型革命の基本とは全く違うからである。
西欧型革命の基本型ともいうべきヨシヤ王の申命記革命について言えば、それはいわば神殿から出てきた「神との契約書」の通りに社会を基本から変えていこうという革命である。この行き方は、その契約書に記されている「言葉(デバリーム)」が絶対なのであり、現に存在する「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」が絶対なのではない。『申命記』はへブライ語聖書の書名では「言葉(デバリーム)」であるが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」はこの「言葉(デバリーム)」で示されている通りに再構成すべき対象で、この「言葉」の方が絶対で、現存する秩序は絶対ではないのである。この基本的な考え方の違いは今も欧米と日本との間にある。
では「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を絶対化し、「言葉」によって構成された世界を逆に否定するという明恵の「裏返し革命」が、どうして「限定的西欧型革命」のような形になったのであろうか。
幕末の国学系の歴史家伊達千広は、その署『大勢三転考』において、日本の歴史を三期に区分し、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」とした。面白いことに彼もまた明恵上人と同じように紀州の出身であり、明治の政治家陸奥宗光の実父である。
この区分は、政権の交替でなく、政治形態という客観的な制度の変革による本格的な歴史区分であり、それをそのまま歴史的事実として承認しているからである。この見方は、天皇親政を日本のあり方と規定し、幕府制を歴史の誤りとする皇国史観的見方とは基本的に相容れない。
彼の三大区分のそれぞれを簡単に記せば「骨(かばね)の代」とは、古代の日本の固有法文化に基づくもので、その基本は、国造・県主・君・臣のように居地と職務が結合した血族集団を基礎とする体制で、これを身体にたとえれば氏(うじ)が血脈で骨(かばね)は骨に相当し、その職務は、血縁的系譜の相承で子孫に受けつがれる。この「骨(かばね)」は天武天皇13年(684年)に廃され「職(つかさ)の代」となる。いわば朝廷から「官職」を与えられてはじめて地位と権限とが生ずる時代である。この684年とは、年代記的に記せば、681年に律令(浄御原令)がつくりはじめられ、682年に礼儀・言語の制が定められ、683年に諸国の境界がきめられ、684年に諸氏の族姓を改めて八色の姓とされ、685年に親王・諸王十二階・諸臣四十八階が定められている。これらの制度の変革が彼のいう「職(つかさ)の代」のはじまりであろう。そして第三の「名の代」は文治元年(1185年)、源頼朝が六十余州総追捕使に任ぜられた以後の時代で、「名」とは封建制下の大名・小名の時代である。
無理があった律令制度
「継受法」、この言葉は今更説明の必要はないと思うが『広辞苑』では「他国の法律を自国の国民性・民族性に照らして継受した法律」とされ、「固有法」に対立する概念とされている。そして「社会のあるところに必ず法あり」ならば、中国の法を継受する以前にも何らかの法が日本にあったであろう。それが「骨(かばね)の代」の法だ。 
大陸の文化を「継受しようという意志」はほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布される。 
幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。
だが大化の改新は、その基本である「公地公民制」があってはじめて機能するわけであり、これが崩壊すれば中央の機能はたちまち麻痺してしまう。そしてこの制度ではまず、唐を下敷にしてペイパープランがつくられ、そのプランの方へ当時の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押しこんで行くという形にならざるを得ない。これは相当に無理なことであり、これを強行しようとすれば否応なく神権的な啓蒙的絶対君主が必要となり、同時にこの体制が、決して唐の模倣でなくわが国本来の体制であるとしなければならない。いわば、外国を絶対化し、その法と体制を継受しているのに、「王政復古」で日本本来の姿に戻ったのだとしなければならないのである。大化元年の詔に「当(まさ)に上古聖王の跡に遵(したが)いて天の下を治め、復当に信あって天の下を治む可し」とあり、この行き方もまた明治と変りはない。またそれを遂行した天皇が「天智・天武」等神権的名称で呼ばれることも、明治が生み出した「現人神天皇制」と共通している。
これは厳密の意味では、西欧型革命でも中国型革命でもない。ただ、ペイパープランの「言葉」の方へ「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押し込んでいくという現象は似ている。しかし西欧型革命は、いかに新しい理論を基にしていようと、その理論がその社会から生れたものなら、その社会の現実に根をもっているが、外国に出来ている伝統的体制をほぼそのままに輸入して強行することは、その社会の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」に基礎を置いているとはいいがたいから無理がくる。もちろん、法が輸入されるときは、体制も宗教も文化も共に輸入されてその社会に作用し、その社会の文化的転換を引き起す。だがそのような転換によって引き起された新しい文化は、その体制と法とが予期したものではない。律令は武家という「新しい階級(ニュー・クラス)」とそれを基にした「武家文化」などというものが出てくることを全然予想していなかった。
新しい階級が出て、新しい秩序が要請されるなら、律令を改定すればよさそうなものだが、継受法はそれができないのが普通である。理由はまずはじめから無理があるから、絶対的権威をもって強制的に施行し、そのため「現人神の法」とされるか、または「法自体」を「物神化」してこれを絶対としなければならないからである。そのため律令も急速に「名存実亡」化していく、いわば社会に「名法」と「実法」ができてしまって、人びとは通常は「実法」に従っている。そしてそれをだれもあやしまなくなる。これは「物神化」している新憲法にもある現象である。たとえば「平和憲法を絶対に守れ」といっている私大の学長に、では八十九条を字義通りに遵守し、それに定められた通り実施してよろしいかといえば、簡単に「よろしい」とは言えないであろう。
条文は次の通りである。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」。これによれば公金は、公の支配に属さない教育事業に支出してはならず、従って私立大学にも支出してはならないはずだが、そういえばおそらく、「それは別である」とさまざまな「理論」を述べうるであろう。それは結局この条項の一部がすでに「名存実亡」しているのであって、この「名法」とは違う「実法」が当然のこととして社会で行なわれているということである。人はそれを不思議としない。が、そのため憲法を改正しようとはいわない。ただこの場合、少々こまるのは、もし「私大をつぶしてやれ」という政治家が出てきて、この条項を盾に、「私大への国家補助は憲法違反だ」といって打ち切れば、「憲法を絶対に守れ」と主張している者はこれに対抗できないという問題を生ずる。そしてすべての法が「名存実亡」となれば、支配者はすべての点で、自己に都合のよいように名法・実法の使いわけができて、これは「無法よりこまる」という状態になってしまう。
名存実亡化する継受法
律令には同じことがあり、さらに公地公民制は、裏返せば、すべてに利権が附属する利権制国家になりうる。事実、律令制はそうなって行った。というのはこの制度が本当にその通りに実施されれば、口分田を如何に勤勉に耕したとて、それによって得た富で隣地を買って財産をふやすことはできない。しかし官職につけば必ず利権はついてまわり、またさまざまな不正を行ないうる。(名存実亡:表向き言っている事と実体とが合わないこと)
律令制は一面では利権制であり、同時にそれが公地公民制の崩壊へとつながった。 
公地公民制は原則的には土地の売買は認めておらず、またこれは寄進することもできないはずである。ところがこれが行なわれておりそこで天平18年(746年)これを改めて禁じ、5月に再び禁じた。しかし現実には、つまり「実法」としては行なわれており、甚だしい例には、私有の墾田を公地として官に売り渡している例もある。そして天平勝宝元年(749年)には諸大寺の墾田を制限し寺院に土地を寄進することを禁じているが、それも守られていない。
自己の伝統的な「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を無視した継受法には、いかに神権的権威でこれを施行しても「名存実亡」となり、同時にその間隙を縫って利権が発生し、いかんともしがたい様相を呈する。
その原因は日本的自然秩序を無視した律令という継受法の「名存実亡」にある。そこで、まず「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という発想になる。この明恵―泰時的政治思想の背後にはこのような歴史的体験があり、それがさらに生々しく、承久の乱の前夜に再現したわけである。
流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいかと思われるが、これはまさに明恵の発想方法・「あるべきようは」そのものではないかと思う。日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いていると考えているが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という明恵の発想方法に今こそ立ち戻らなければならない。
上述のように、やむなく「継受法」を採用しなければならないのは、国としての力関係による。幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。大陸の文化を「継受しようという意志」は歴史的にほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布されるのである。そのことが間違っていたのではない。そうではなくて、それが「名存実亡」となったとき、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち、どう逆転(裏返し)できるかである。
天皇は「名」であり武士は「実」である。律令は「名」であり式目は「実」である。「名」を捨てて「実」に従わなければならない。「名」より「実」をとるべきである。それが二元論の常識であろう。「名」より「実」をとるという逆転、裏返しといってもいいが、それが西欧型革命であろう。しかし、明恵の「裏返し革命」は違う。単なる逆転、裏返しではなくて、もういっぺん「否定の否定」をやるのである。「名」ではなくて「実」である。しかし、なおかつ、「実」でなくて「名」である。「名」であると同時に「実」である。「名」でもないし「実」でもない。要は、流動的知性が重要なのである。 
第八章『貞永式目』の根本思想

 

自然的秩序絶対の思想
私は時々、いま日本人が「泰時のような状態」に置かれたらどうするであろうかと空想する。 
いまもし新憲法も消え、それに基づく政治制度も消え、西欧型民主主義も消えてしまって、「全く新しい思想を自ら考え出し、それに基づく法哲学を創出し、それによって今までの人類にない新しい法律と制度を作り出して制定し、実施しよう」ということになったら、人びとは一体どうするであろうか。 
人間が、何か新しい発想で新しいことをはじめようと思っても、過去を全く無視することはできない。その発想を体系化しかつ具体化するための「思想的素材」は過去と同時代に求めざるを得ない。しかしこのことは、他国の法と体制をそのまま継受することとは全く別である。継受は決して新しい発想を自己の中に創出したのでなく、自己と無関係のあるものを見て、それに自己を適応させようとしただけである。この点、明恵―泰時政治思想は前者であり、まず「自然的秩序絶対(ナチュラル・オーダー)」という思想を自ら創出し、それを具体化するための素材を同時代と過去に求めたにすぎない。
まず「今ある秩序」を「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そしてやがて自らが作り出す『式目』の基になる体制も、あるがままにあって一向に差しつかえないわけである。朝幕併存は「おかしい」と日本人が思い出すのは徳川期になって朱子の正統論が浸透しはじめてからであり、それまでは、それが日本の自然的秩序ならそれでよいとしたわけである。これが大体、明恵―泰時政治思想の基本であろう。だがその基本を具体化し、現実をそれで秩序づけるとなれば、この基本を具体化する素材が必要である。そしてその基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違ってくる。これはもしも今、泰時のような状態に置かれたら、その基本的発想は自ら創出しても、それを具体化する素材は西欧の政治思想に求めるであろうというのと同じである。このことは今の段階では、政治家よりむしろ経営者の行き方にあるが――。
宗教法的体制は生まず
前章で記したように、明恵上人は泰時に、この自然的秩序に即応する体制を樹立するには「先づ此の欲心を失ひ給はば、天下自ら令せずして治るべし」であるといい、その背後には、「政治は利権である」が当然とされていた律令制の苦い歴史的体験があるであろうとのべた。この体験も一つの素材であるが、つづく明恵上人の言葉には明らかに、孔子・老子・荘子・孟子等の考え方が入っている。 
たとえば『孟子』は「心を養うには寡欲が最良の方法である。その人となりが寡欲であれば、たとえ仁義の心を失っても、失った所は少なくてすむ。その人となりが多欲であれば、仁義の心があるとしてもきわめてわずかである」と説き、また老子は「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」といい。荘子も「聖人の静なるや、静は善なりと曰うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり。……それ虚静恬淡、寂莫無為、天下の平(和)なるにして道徳の至(きわみ)なり」としている。この考え方の背後にあるものは、「自然法則は道徳法則である」という発想だから、それは先験的なものであり、「無欲」な自然状態になれば、この先験的道徳法則が発見できるという考え方であろう。後にこれを体系的な哲学にするのは朱子であろうが、明恵上人の考え方はもちろん朱子学的ではなく、むしろ、それへ至る思想の日本的・仏教的解釈と見るべきであろう。
また明恵上人は春日大明神をも信仰しており、この点では最も正統的な三教合一論者であったといえる。そして喜海の記すところでは、大乗・小乗はもとより外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵(じょうえ)から発したものだと固く信じていたらしい。
しかし、この考え方が政治的に機能するときは、何らかの宗教を絶対化した「宗教法的体制」にはならない、そのことが、まさに泰時の政治思想さらに幕府の政治思想の基本となっている。従って泰時が明恵上人の影響を強く受けたことは日本が「仏教体制」になったということではないし、華厳教学をもって日本の「統治神学」となし、他はことごとく排斥するということでもない。 
朝廷の清原家を別にすれば、儒教を研究し講義するのもまた僧侶であった。 
儒者が公的な位置になったのは徳川時代からであり、有名な林羅山も身分では僧侶で法印であり、その子春斎も法眼であった。 
明恵上人が儒教の教えをとき、『貞永式目』に儒教についての規定がなくても、当時の常識では別に不思議ではない。
人間は自然の一存在 
従って新しい秩序のための材料として儒教的発言が明恵上人の口から出て別に不思議ではない。 
「民を視ること傷めるが如し(傷病者を見るように)」は文王への孟子の評、また前述のように「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」は『老子』、また「聖人の静なるや、静は善なりと曰(のたま)うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり」は『荘子』の言葉である。また孟子も寡欲が仁と義の前提であるとしている。これは、人間を自然の中の一存在ととらえて、自然の秩序が同時に個人の道徳律の基本であり、それがまた社会の秩序の基本であるとする中国の基本的思想から出た考え方である。しかし人間は知覚作用があるから、これが経験的世界に反応する。それが「情」であり、心が外物に触れて動くと情が働いて「欲」が生ずる。この「欲望」に動かされると、人間は自然の秩序を基本とする道徳律からはずれる。そこで心が外物に動かされず、欲を起さなければその行為はおのずから道徳律にかない、それが自然的な秩序を形成するという考え方である。そしてこの状態になれば、人間の徳によって宇宙の秩序と一体化し、それによって社会は整々と何の乱れもなく調和して機能する。この状態が「子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共(めぐ)るが如し」という『論語』の言葉にもなる。
明恵の「あるべきようは」
では人は「無欲で無為」であればよいのか。さらに全員が無欲になって隠遁してしまえばよいのか。面白いことに明恵上人は決して無為を説かなかった。
「或時上人語りて曰はく、『我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にて有らんと申すなり。聖教(しょうぎょう)の中にも行すべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計(はか)り資(たす)かれと説かれたる聖教は無きなり。仏も戒を破って我を見て、何の益かあると説き給へり。仍(よっ)て阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)と云ふ七字を持(たも)つべし。是を持(たも)つを善とす。人のわろきは態(わざ)とわろきなり。過(あやま)ちはわろきに非ず。悪事をなす者も善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきてまげて是をなす。此の七字を心にかけて持(たも)たば、敢(あ)えて悪しき事有(あ)るべからず』と云々」・・・と。
また『遺訓抄出』には「又云、我は後世たすからむと云者にあらず。たゞ現世先づあるべきやうにてあらんと云者也。云々」とあり、この言葉は座右の銘のように絶えず口にしたらしい。この考え方は浄土教の信者とは方向が全く違う。
元来この言葉は、僧に対して、それぞれの素質に応じた行(ぎょう)をして解脱を求めるように、その行を「あるべきように」行なえといった意味ではなかったかと思われるが、後に、一般人すべてに共通する規範として受取られるようになった。高山寺所蔵の『伝記』の断簡に「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣下のあるへきやう、僧は僧のあるへきやう、俗は俗のあるへきやう、女は女のあるへきやうなり。このあるへきやうそむくゆへに一切あしき也」と記されているのは、このように受取られた証拠であろう。もっとも、これは室町時代のものといわれる。
「あるべきようは」を具体化すれば、細かいことまで「こうあるべきだ」と定めた一種の律法主義になる。事実、明恵上人にはそういった律義な一面があり「聖教の上に数珠・手袋等の物、之をおくべからず。文机の下に聖教、之をおくべからず。口を以て筆をねふるべからず。壇巾と仏具中と簡別せしむべし……」と言ったような、学問所と持仏堂における細かい規則が定められている。これは当然で、「あるべきようは」はまずそれを示さなければならない。それをしないで、いきなり叱るとか罰するとかいうことは、それこそ「師」の「あるべきようは」に背くであろう。だがそれはいわゆる律法主義であってはならず、心のじっぽう(実法)というものが常に意識されなければならない。 
すなわち「ただ心のじつぽう(実法)に実あるふるまひは、をのずから戒法に付合すべき也」で内的規範がそのまま外的規範であるようになるのが「あるべきようは」であって、「心の実法に実ある」振舞いが、ごく自然的な秩序となって、この戒法に一致するように心掛けよ、である。従ってこれは見方を変えれば「あるべきよう」にしていれば、自然にこうなるということ、それも決して固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである。そして面白いことに泰時にとっては「法」も、こういったものなのである。
律令格式を無視して
貞永元年(一二三二年)、『式目』の発布と同時に彼は次のような手紙を六波羅探題の弟の重時に送っている。
御式目事
雑務御成敗(訴訟)のあいだ、おなじ躰(てい)なる事(同趣旨の訴訟)をも、強きは申とをし、弱きはうづもるゝやうに候を、ずいぶんに精好(せいごう)(念入りに)せられ候へども、おのづから人にしたがうて(当事者の強弱上下で)軽重などの出来(いでき)候ざらんために、かねて式条をつくられ候。その状一通まいらせ候。かやうの事には、むねと(専ら)法令の文(律令格式に基づく公家法)につきて、その沙汰あるべきにて候に、ゐ中(いなか)にはその道をうかゞい知りたるもの、千人万人が中にひとりだにもありがたく候。まさしく犯しつれば、たちまちに罪に沈む(処罰される)べき盗人(ぬすみ)・夜討躰(てい)のことをだにも、たくみ企(くわだ)てゝ、身をそこなう輩(ともがら)おほくのみこそ候へ。まして子細を知らぬ(罪の意識のない)ものゝ沙汰(さた)しおきて候らんことを、時にのぞみて(裁判になって)法令にひきいれてかんがへ候はゞ、鹿穴(落し穴)ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか。この故にや候けん、大将殿(頼朝)の御時、法令をもとめて(律令格式の条文に基づいて)御成敗など候はず。代々将軍の御時も又その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり。詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝(けう)あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲(まが)れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵の計り事にてや候とてかやうに沙汰(制定)候を、京辺には定(さだ)めて物をも知らぬ夷戎(えびす)どもが書きあつめたることよなと、、わらはるゝ方(かた)も候はんずらんと、憚(はゞか)り覚え候へば、傍痛(かたはらいた)き(心ならずも)次第にて侯へども、かねて(予め)定められ候はねば、人にしたがふことの出来(いでき)ぬべく候故に、かく沙汰候也。関東御家人・守護所・地頭にはあまねく披露(ひろう)して、この意(こころ)を得させられ候べし。且(かつ)は書き写して、守護所・地頭には面々(めんめん)にくばりて、その国中の地頭・御家一人ともに、仰せ含められ候べく候。これにもれたる事候はゞ、追うて記し加へらるべき(追加法を公布する)にて候。
あなかしく。 
貞永元 八月八日 武蔵守(御判)  駿河守殿
これを読むとまことに面白い。まず律令制は形式主義なので、裁判に際しては必ず「法令にひきいれて」すなわち律令格式の条文を引用して、これに基づくべきことになっているが、その法令なるものは「ゐ中(いなか)(田舎)」で知っているものは皆無に等しい。さらにこの「法」が「名存実亡」ともなると、「名法」は知らずに当然のこととして「実法」通りにやっていたのに、ひとたび裁判ともなると、それが「罪」であるとされてしまう。これではまるで「鹿穴(落し穴)」を掘っている山の中にそれと知らずに入っていって落ち込むのと同じことになってしまう。
そして頼朝以来、律令格式を一切無視して裁判をしてきた。しかし頼朝のような「権威」がいなくなると、どんなに裁判に念を入れても「人にしたがうて」すなわち当事者の強弱高下によって不公平になりやすい。そこで、公平を期するために、予めこれを定めたという。というとこれは明恵上人の「戒法」にあたるであろう。
世界史上の奇妙な事件
だがこの「戒法」というものは「心の実法に実あるふるまい」をしていれば、自然にそれが、「戒法」になるような「法」であらねばならない。それは、結局、自然的秩序(ナチュラル・オーダー)をそのままに「戒法」としたということになる。いわば、内心の規範(道徳律)と社会の秩序と自然の秩序が一体化するような形であらねばならぬということ。それが「詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵」となる、いわば「あるべきようは」が達成されるということであろう。泰時にとっては「立法の趣旨」とはつまりそれだけであった。 
この手紙の署名は「武蔵守」であり、『式目』の末尾の「起請詞」における署名は「武蔵守平朝臣泰時」なのである。今でいえば大体「武蔵県知事」にあたるが、当時の「武蔵」の地位はもちろん東京都より低い。たとえこれが「東京都」と同格であったとしても、「知事」が勝手に法をつくって公布するというのは、正統論から見れば、あるまじき行為である。いまもし東京都知事が勝手に憲法を発布して、その末尾に「東京都知事」と署名していたら、だれでも「そんなバカなことが通用するか」と言うであろう。もちろん当時は、庶民はそんなことはいうまい。だが「法」を一手に握っていた公家がこれを黙って見すごすはずはない。するとその非難の矢面に立つのは六波羅探題の弟の重時である。そこで泰時は、前便の約一ヵ月後に、次のような手紙をおくっている。
御成敗候べき条々の事注され候状を、目録となづくべきにて候を、さすがに政(まつりごと)の躰をも注(ちゅうし)載(のせ)られ候ゆへに、執筆の人々さかしく(賢明にも)式条と申(もうす)字をつけあて候間、その名をことごとしき(大げさ)やうに覚(おぼえ)候によりて式目とかきかへて候也。其旨を御存知あるべく候歟(か)。
さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説(立法上の典拠)として被注載之由(ちゅうしのせらるるのよし)、人さだめて謗難(ぼうなん)(非難)を加事候歟(か)。ま事(こと)にさせる本文(=本説)にすがりたる事候はねども、たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也。かやうに兼日に定め候はずして、或はことの理非をつぎ(ないがしろ)にして其人のつよきよはきにより、或は、御裁許ふりたる事をわすらかしておこしたて候(判決ずみの件を知らぬ顔で再び裁判に持ち出すようなことをする)。かくのごとく候ゆへに、かねて御成敗の躰を定めて、人の高下を不論(ろんぜず)、偏頗(へんぱ)なく裁定せられ候はんために、子細記録しをかれ候者也。この状(式目)は法令のおしへ(律令格式)に違するところなど少々候へども、たとえば律令格式はまな(真名=漢字)をしりて候物のために、やがて(すなわち)漢字を見候がことし。かなばかりをしれる物のためには、まなにむかひ候時は人は目をしいたる(盲目になる)がごとくにて候へば、この式目は只(ただ)かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊(いささか)も改まるべきにあらず候也。凡(およそ)法令のおしへ(律令格式)めでたく(立派)候なれども、武家のならひ、民間の法、それをうかゞひしりたる物は百千が中に一両もありがたく候歟。仍(さて)諸人しらず候処に、俄(にはか)に法意をもて理非を勘(かんがえ)候時に、法令の宮人(朝廷の法曹官僚)心にまかせて(恣意的に)軽重の文(条文)どもを、ひきかむがへ候なる間、其勘録(判決)一同ならず候故に、人皆迷惑と云云(うんぬん)、これによりて文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置(ちゅうしおか)れ候者也。京都人々の中に謗難を加(くわうる)事候はゞ、此趣を御心得候て御問答あるべく候。恐々謹言。 
貞永元 九月十一日 武蔵守在―  駿河守殿
法の形をとらぬ実法
まことに面白い手紙である。彼は『式目』を「目録」と名づけようとした。では当時の「目録」という言葉に「法令集」という意味があったのであろうか。実は、ない。「所領目録」「文書目録」等、「目録」の意味と用法は現在とは変らない。従って泰時にとっては『式目』とは「法規目録」とでも言うべきものであった。ではこの「法規目録」はいかなる法理上の典拠に基づいて制定されたのか。そう問われ、またそれが明らかでないと非難されても、そのような法理上の典拠はないと彼はいう。このように明言した立法者はおそらく、人類史上、彼だけであろう。そして言う「たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也」と。一体この「道理」とは何であろうか。泰時はそれについて何も記していないが、簡単にいえば「あるべきようは」であろう。前の手紙と対比しつつ、今まで記した明恵―泰時的政治思想を探って行けば、それ以外には考えられまい。いわばこれが立法上の典拠なのである。
彼は律令格式がきわめて体系的で立派なことは認めている。しかしそれは「漢字」で書かれているようなもので「かな」しかわからない一般人にはわからないという。そこでこの『式目』は、「かな」しか知らない多くの人を「心えやすからせんため」に制定したものであるという。もちろんこれは比喩であって『式目』もまた実際には『漢文』で書かれている。しかし律令格式を知る者は、「千人万人が中にひとりだにもありがたく」また「百千が中に一両もありがたく」という状態は、この法律を知る者が皆無に等しかったことを示している。これは事実であろう。問題はこの語の前の「武家のならひ、民間の法」という言葉である。これは確かに、律令格式とは別の「武家法と民間の慣習法」があるという意味ではなく、「武家・庶民を問わずそれを知らないのが一般的である」という意味であろう。ではその武家・庶民が完全に「無法」かというと決してそうではなく、一種の「法の形式をとらぬ実法」があり、社会は律令格式によらずそれによって秩序を保って来たことは否定できない。その意味では「武家法と民間の慣習法」の存在を言外に主張していると見てよいであろう。
簡単にいえばそれが自然的秩序(ナチュラル・オーダー)であり、そのため逆に律令が浸透しなかったともいえる。そして人びとは、不十分ながらその秩序の中に生きており、それを当然としているのに何かあって法廷に出れば「俄に法意をもて理非を勘(かんがえ)」となり、「人皆迷惑と云云」という状態になる。そして泰時が、この状態に終止符をうとうということである。だが泰時は決して、「式目絶対、今日から『関東御成敗式目』が日本国における唯一絶対の法である」と宣言したわけではない。彼はあくまでもその時点において「あるものはある」とする態度を持している。いわば出来あがった自然的秩序をそのまま肯定しているわけで、朝幕がそのまま併存してよいように、「律令・式目」もまた併存していて一向にかまわなかった。彼は『式目』への謗難を礼儀正しく拒否したが、といって『律令』に謗難を加えようとはしなかった。だが律令は結局、「天皇家とその周辺」の「家法」のようになっていき、「武家国内の教会法のヴァチカン」のように、やがて、そこだけが特別法の一区画になって行くのである。
明恵と鈴木正三をつなぐもの 
『明恵上人伝記』は明治に消されてしまった本だが、それまではおそらく最も広く読まれた本の一つである。もっとも版に起されたのは徳川初期(寛文五年・一六六五年)だが、それまでも筆写によって三百五、六十年、読みつがれてきた。 
「あるべきようは」はむしろ僧侶への訓戒であろうが、これが「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣のあるへきやう……このあるへきやうにそむくゆへに一切あしき也」と理解されるとこれは世俗の一般倫理になる。さらにこれに「我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現に有るべき様にて有らんと申すなり」が加わると、一般人はこれを「後生を願ってひたすら念仏を唱えていても無意味で、そんなことをするよりもこの世の任務をあるべきように果せばそれでよい」という考え方になる。これは世俗の任務を一心不乱に行なえば宗教的救済に通ずるという意味になってくる。この考え方は前に『勤勉の哲学』で記した鈴木正三の「四民日用」の考え方の祖型ということができる。事実ある坊さんは私に「鈴木正三は禅宗というけれど、むしろ明恵上人の系統をひくと考えた方がよいのではないのか」といわれたが、確かに両者の思想には関連があると思われる。しかしそのことを正三の著作から実証することはむずかしい。
だがこのほかにも両者相対応している考え方は多い。たとえば大乗・小乗はいうまでもなく外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵より発したもの、という考え方は正三の「口ニテ云処ハ、老子ノ教モ、孔子ノ教モ、昔シ天竺ニ発興セシ外道ノ教エモ、仏道モ、一ツ也、少シモ替事ナシ……」という考え方に通ずるであろう。だがしかし最も決定的な影響は自然的秩序がすべての基本であり、内的規範(道徳律)も社会秩序もそれに基づかねばならぬとする明恵―泰時的な考え方である。この考え方は徐々に日本人に浸透し、キリシタン時代から徳川時代にかけてこれが日本人にとって当然の考え方となった。もうだれも、律令格式の存在は念頭にない。そしてこれが一種絶対的ともいえる思想になっていたことを、日本人自身が自覚しないまでになっていた。 
そして、それは外国の思想と衝突したときに、明確に自らのうちに再把握されるという結果になっている。これが最も明確に出ているのがキリシタンから反キリシタンに転じた不干斎ハビヤンであろう。転向する前には、この自然的秩序を基として「あるべきよう」な社会を形成するにはキリシタンが最もよい方法を提供していると彼は考え、次のように言う。
「(キリシタンは)現世安穏、後生善所ノ徳ヲ得セシメン為ニ弘メ玉へル法ナレバ、外ニハ善ニ勧ミ、悪ヲ懲スノ道ヲ教へテ、利欲ヲ離レ、アヤウキヲスクイ、キハマレル(困窮者)ヲ扶ケ、内ニハ又、天下ノ泰平、君臣ノ安穏ヲイノッテ、孝順ヲ先ニシ、高キヲ敬イ、賤シキを哀ミ、ヲノレ責テ戒律ヲ守リ、都(すべ)テ浮世ノ宝位(たからい)ヲバ破れ靴(ヤブレグツ)ヲ捨ルヨリモ尚カロンジ……」
等々。これは泰時的な「あるべきようは」であり、ハビヤンはキリシタンがそれを実現してくれると信じた。
そして転向後は、キリシタンこそこの自然的秩序の基本を破壊するものと考える。それが伝道文書の『妙貞問答』と排耶書の『破提宇子』に表われている。この二つを通読すると、「転んだ」ように見えて、実は、自然的秩序絶対という点では一貫している。これが明恵上人が残した最大の遺産であったろう。
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。 
第十章 象徴天皇制の創出とその政策

 

天皇も律令も棚あげ
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。
新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが『天皇陛下の経済学』の中でも指摘している。
もっともこれを指摘しているのは氏だけではない。戦国末期に日本を訪れたキリシタンの宣教師は分国大名を独立国と見なしていた。法制的な面からいえばこの見方は正しく、各分国をヴェネチアやミラノやフィレンツェのような独立小国と見て当然である。しかし分国大名は自分が独立国だという意識はなく、やはり天皇を日本の統合の象徴と見て尊崇していたことは、多くの人が指摘している。権力いわば立法権・行政権・司法権をもたなくても統合の象徴とは見ていたわけである。この状態を現出させたのが泰時であり、これが日本の伝統となった。
その泰時自身は大変な「天皇尊崇家」であったと思われる。三上皇を島流しにしようと、仲恭天皇を退位させようと、尊崇家なのである。それでいて、否それなるが故に、『貞永式目』はあらゆる点で完全に天皇を無視しており、天皇の裁可も経ず、天皇のサインさえない。この点では「御名御璽」がついている新憲法より徹底している。さらにその末尾の起請文を読むと、天皇に対してこの法の遵守を聖約するといった言葉も全くない。起請の対象は「梵天・帝釈・四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して伊豆・筥根(はこね)両所権現、三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神の部類眷属」である。いわば法の制定などという行為は、名目的にも実質的にも、天皇とは無関係であった。なぜこうなったのか。
天意が人心にそのまま表われるように、天皇の意志がそのまま人心に表われるなら、『式目』発布のときにその序文として「院宣」をもらってもおかしくないはずである。確かにこれは「武家法」だから武家が制定するのが当然ともいえようが、武家は非合法集団でなく、それまでも泰時はしばしば奏請して院宣を出してもらっている。さらに、後高倉院も後堀河天皇もそれを拒否するはずはない。だがそれができなかった。理由は、律令には慣習や先例の集積は法とはしないという原則があったからである。継受法はしばしばこうなる。
いまの日本で自衛隊が国民の八六パーセントの支持をうけても、またこれが存在し存続していても、憲法にはそれに関する条項が入れられないのと似た現象であろう。同じように当時の社会ではすでに現実の社会的慣習と先例が法となっている。しかしそれを法として認めることはできない。だがそれは結局、天皇ともども律令も棚あげされる結果となった。このことはもちろん、式目が律令を全然参考にしなかったということではなく、法に対する考え方の基本が全く違っていたということである。
地味な「政治家(ステイツマン)」の業績
泰時は確かに日本史における最も興味深い人物であり、また梅棹忠夫氏が評されたように「日本で最初の政治家(ステイツマン)」であり、あらゆる意味で重要な人物である。
泰時(執権)と叔父の時房(連署)、この二人の信頼関係はまさに絶対的であった。延応元年の夏に泰時が発病したとき、時房は酒宴中であったが、酒宴をやめなかった。周囲が不思議そうな顔をすると彼は、自分がこうやって酒を飲んでいられるのも泰時のおかげだ。泰時が死んだら到底こんなことはやっておれないだろう、これが今生最後の酒宴だと思うから、見舞に行かず酒を飲んでいるのだ、といったという。
執権・泰時は、連署・時房をよき相談相手として、評定衆との合議制で政治を行なった。もちろん、合議制だけでは能率的な政治は行い得ないので、それなりのしっかりした官僚組織が必要であるし、天皇を頂点とした安定した政治システムも必要である。
泰時は、まず幕府の移転を行ない人心の一新を行なった。同じ鎌倉の中ではあるが、大蔵から宇都宮辻に役所を移転したのである。政子の死後半年のことである。そして間髪を入れず、将軍予定者の三寅の元服と将軍就任である。1219 年 (承久 1) 将軍源実朝が暗殺されて後、左大臣九条道家の子の三寅が、源頼朝の遠縁にあたるという理由で、将軍として鎌倉に迎えられた。三寅は当時 2 歳であり、頼朝の尼将軍・北条政子が政務を行ったが、政子の死によって、一日も早く三寅を将軍にして政治の安定を図る必要があったのである。1225年の暮れも押し迫った頃、ようやく三寅は元服し、頼経と改名した。年令8歳である。すぐに朝廷に申請して翌年の2月に頼経は征夷大将軍に任じられた。
ここではじめて、天皇→将軍→執権・連署→評定衆という<形式>が確立し、後鳥羽上皇との反目以来つづいていた変則的状態は終り、体制の法的整備は完成した。
泰時は派手派手しさがないから、義時急死・鎌倉帰還・伊賀氏の陰謀の制圧と処理・政子の死・幕府の移転・三寅の元服と将軍任命・新体制の整備が驚くべき速さで進んで行ったことに人は案外気づかない。さまざまな意味でその見通し、計画、処置は的確であった。
これによって幕府は寛喜二年にはじまる大飢饉に備えることができたといえよう。そしてこの飢饉の体験は『貞永式目』に生々しく反映している。何しろ生産性が低い時代である。気候不順はすぐ農作物を直撃する。この年は陰暦の六月九日に雪が降った。今でいえば七月中旬から下旬、最も暑いときである。ところが八月にも九月にも大雨で農作物は枯死し、気温も急低下して冬のようになった。鎌倉でも暴風のため人家の破損が多かったが10月から11月になると今度は暖冬異変で、京都では11月から12月に桜が咲き、蝉が鳴くという状態になった。
戦乱より飢饉が恐い
昔から日本人を苦しめたのは戦乱よりむしろ飢饉であったと思われる。 
この自然的秩序(ナチュラル・オーダー)が狂ってくると、いわば「天変地異」が起ると、如何ともしがたいわけである。これは幕府といえども何とも致し方がない。 
こうなると「天変地異」すなわち自然的秩序の異常現象には、人間は、受動的にこれに対応する以外に方法がないことになる。いかなる「権」も「天」に勝てぬなら、天変地異が起ったら法律も変え、生活規範も変えてこれに対応しなければならない。後述するように『式目』では飢饉の時の人身売買を許している。
泰時の質素と明恵の無欲
同じ試練が泰時を襲った。 
まず彼は、飢饉だ、飢饉だといっても、米が、ある所にはあることは知っていた。まず彼は京都・鎌倉をはじめとする全国の富者から、泰時が保証人となって米を借り、それを郡・郷・村の餓死しかかっている人に貸し与えた。彼は、来年平年作にもどれば元金だけ返納せよ、利息は自分が負担しようといってその借用証を手許に置いた。 
しかし泰時は結局資力のない者には返済を免除し、それはすべて自分で負担したので、大変な貧乏をした。
何しろ利子負担分と返済の肩がわりが貞永元年までに九千石になり、そのうえ多くの領地の年貢を免除したから財政的には大変である。
「病にあらずといえども存命し難し」 
もっとも泰時の倹約の話はこれだけではない。彼は常に質素で飾らず、館の造作なども殆ど気にかけなかった。 
さらに無欲な者を愛するとともに、作為的に何かを得ようとする者、いわば「奸智の者」を嫌った。 
裁判になった場合でも、敗訴した者が率直に自分の非を認めれば、泰時は決してそれ以上追及しなかった。 
下総の地頭と領家が相論したとき領家の言い分を聞いた地頭が即座に「敗けました」といった。泰時はその率直さに感心して、相手の正直さをほめたという話が『沙石集』にある。一方この逆の場合、すなわち裁判に不服なものが実力で抵抗すると脅迫しても、彼は少しも屈しなかった。北条氏は絶対的権威でないし、相手は武力をもっているからそのような抵抗が起って不思議ではない。そういう場合の泰時は実に毅然としていた。いわば怨を恐れて「理」を曲げれば、それが逆に、権威なき政権の破滅になることを知っていたのである。いわば彼の一生は、「ただ道理の推すところ」を貫き通し、この「道理を推すこと」を貫き通すことだけを権威としていたわけである。これが「日本最初の政治家(ステイツマン)」といわれる理由であろう。
 
近衛文麿の思想

 

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前回、私は、昭和の悲劇をもたらしたものは、統帥権という制度のせいではなくて、その統帥権を悪用して政府の統治権を奪い、勝手に軍事行動を起こして日本を強引した、その当時の軍部の思想及び政策に原因があったのではないか、ということを申しました。
次の記述は、敗戦後10年経った昭和30年、「どうしてああいう不思議な戦争になったのだろう」という疑問について、竹山道雄氏が自らの考えを述べたものです。
「多く問題にされた統帥権の独立は、その歴史的由来にはあるいは封建性の温存かあっだのかもしれない。おそらく日本か英米仏のような近代民主国家として出発しなかったことを反映しているのだろうが、それはその出発当時の条件からきたことであって、軍が独立して政策を遂行するという規定をしたものではなかった。
これが意識の中に顕在化したのは、軍縮問題以来のことであって、それまではいはば眠っていた。あれこれの現象はあっても、それは歴史をうごかす力ではなかった。それ以後、政治化した軍人はこの「兵力量の決定と統帥権の独立」といふ難問題を活用した。そして、これを手がかりにして覇権を握った。
総力戦時代の現代では、戦闘力のための統帥権といふことを拡大解釈すれば、どこまでも拡張できた。統帥権の独立をもって、ただちに旧体制がファッショだったということはできない。もし軍があのやうに政治化しなかったら、たとえ統帥椎が孤立していようとも、またいかに軍部大臣の資格が制限されていようとも、問題はなかったろう。
しかし、軍があのようなや団体精神に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、、ああなるほかはなかったであらう。統帥権の問題が日本の命取りとなったのは、それか原因だったのではなく、むしろ結果だった。決定的だったものは、制度という前提條件ではなくて、そこにはたらいた意志だった。」
私も、この通りだと思いますね。つまり、「軍があのようなや団体精神(右とも左ともつかない日本独特の超国家主義イデオロギー=筆者)に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、ああなるほかはなかったであらう」ということです。
広田弘毅も、そして近衛文麿も、軍がこのような団体精神に憑かれて政府を強引した時期に、必死になって、その要求を容れつつ軍をなだめ、その暴走を食い止めようとした。そしてそれに失敗した。その結果、軍の暴走を止められなかったという結果責任を一身に負うことになった。彼等の悲劇は、このように理解することが出来ると思います。
広田については、いわゆる「広田三原則」以降、軍に対する抵抗力を次第になくしていったと評されます(秦郁彦)。また、近衛自身も、当初の威勢の良さは次第に影を潜め、軍のロボットとして利用されることに不満を述べ、頻りに辞任を口にするようになります。次の言葉は、広田が第一次近衛内閣で外務大臣を務めた時に漏らした述懐です。
「外務大臣というものは内閣の方針に従い、これを実行して行くのが常道である。ところか今日の情勢は決してそうではない。内閣の方針などというものはほとんど認められず、軍部の独断専行で行なわれている。したがって外務大臣としてはそんな無軌道なことに対してまで責任をとらねばならぬということはどうかと思う。もっと根本から正さねばならぬ。
自分にいわせれば、外交の統一性も一元主義もしっかりした正しい軌道があってこそ大臣の責任も論議され、大臣の責任もあるわけだが、今日のような無茶苦茶な事態に対しては力で対抗するか、ないしは成行きに委すより方法はないのではないか。自分はこういう考えであるから、閣議では力の限り正しく善戦するけれども、事実はどうすることもできない。」
同様の言葉は後述するように近衛も度々漏らしていますが、しかし、広田があくまで外交官としての筋を通そうとしたのに対して、近衛の場合は、満州事変以降の軍の行動を、思想的あるいは心情的に是認していました。それ故に、軍の支持を受けたわけですが、近衛としては、そうした自らの思想(=持たざる国の現状打破を正当化する思想)に沿って、むしろ積極的に「先手」を打ち、日本の「運命の道」を切り拓くことで、政治の主導権を軍から取り返そうとしたのです。
そのため、廬溝橋事件が発生し、事態収拾のため華北に三個師団を派兵することが閣議決定された7月11日には、周囲がビックリするような強硬な中国非難の声明を発しました。さらに、北支事変が上海へと飛び火した8月15日には、次のような政府声明を発しました。
「帝国は夙に東亜永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せる事久しきに及べり。然るに、南京政府は排日抗日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と苟合して反日侮日愈々甚だしく、以て帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり」
(中略)
「此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく、全支に亙る我居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは、帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を贋懲し、以て南京政府の反省を促す為め今や断乎たる措置をとるの巳むなきに至れり」
言うまでもなくこのような、日中戦争についての理解は、日本側の勝手な言い分に過ぎません。中国側にしてみれば、満洲ばかりでなく旧都北平(北京)がある北支も満洲化され、これを許せば首都南京もまた北平と同じ運命を辿る、という危機感から、犠牲を恐れず、抗日全面抗戦を決意しているのです。従って、このような近衛の言辞は、中国にとってみれば「何が東洋永遠の平和か、日支両国の親善提携か」まして「暴支膺懲とは何事か」ということになります。
実は、この声明文は、陸軍大臣杉山元が案文を持ち込んだもので、閣議ではさしたる議論もなくすんなりと通ったということですが、近衛としては、蒋介石との直接会談で紛争の解決を図ろうとして陸軍に阻止され、また、船津工作も「大山事件」で頓挫し、さらに、思いもかけず、蒋介石が上海を主戦場とする抗日全面戦争に打って出たために、事態を冷静に認識することが出来ないまま、陸軍の主張を受け入れたということなのではないでしょうか。
この時近衛は、軍の主張に乗ってしまった。その上次のような言わずもがなの演説をした。「(中国に)反省を求めるため我が国が断固一撃を加える決意をなしたことは、帝国自衛のためのみならず、正義人道の上からも極めて当然のことと確信する。今日我が国の取るべき手段は、できるだけ速やかに中国軍に「徹底的打撃」を加えて、その戦意を喪失させるほかにはない。そうしてもなお、中国が反省せず、あくまで抵抗を続ける場合には、我が国は長期戦争をも辞するものではない。」(昭和12年9月第72議会施政方針演説)
このような近衛の陸軍や世論に対する迎合的な言辞が、翌年昭和13年1月16日の近衛の「蒋介石を対手とせず」声明にも繋がっています。もちろん、この時点では、参謀本部が主張したような和平交渉を継続されたとしても、蒋介石がその時の条件で和平交渉に応ずることはなかったと思います。しかし、この声明では、事変勃発当初、陸・海・外三省間で決定した「北支は絶対に第二満洲にしない」という紛争解決のための基本方針が、完全に放擲されています。
ではなぜ近衛は、このような失敗を犯すことになったのでしょうか。実は、近衛の政治思想は軍のそれと共鳴するものがあり、そのため彼は、満州事変以降の軍の行動を肯定的に評価していたのです。といっても、彼は、それが日中全面戦争に発展するとは夢にも思っていませんでした。そのため、日本が「強硬な戦意」を誇示すれば中国は折れてくると思っていた。だが、この問題は、先に述べたように、中国にとっては「必死の問題」であり、「駈け引きの問題」ではなかったのです。
その頃、蒋介石は、抗日全面戦争を持久戦で戦う覚悟を決めており、その主戦場に上海を選んで必要な準備を着々と進めていました。そのため、上海戦における日本軍の被害は、日露戦争の旅順攻囲戦に次ぐ膨大な犠牲を生むことになり、さらに、戦線は南京へと拡大しました。一方、こうして戦線が拡大するにつれて日本の和平条件も加重されることになり、華北新政権の樹立の他、占領地における国策会社の設立も決定されるに至りました(12月6日)。
こうして、日本軍は、泥沼の長期持久戦にはまっていくことになりました。この頃近衛は、天皇に対して次のような愚痴を述べたとされます。「ただ空漠たる声望だけあって力のない自分のようなものが何時までも時局を担当するということは、甚だ困難なことでございます。」「どうもまるで自分のような者はまるでマネキンガールみたようなもので、(軍部から)何も知らされないで引っ張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、誠に申し訳ない次第でございます。」
近衛は、自分が知らないうちに、軍によって次々に既成事実が積み上げられ、後戻りできないような事態に陥っていくことにすっかり嫌気がさし、やる気を失っていました。その後、戦線はさらに拡大、昭和13年4月から徐州作戦(5月19日まで)、9月武漢作戦(10月末まで)、10月広東作戦と続きました。この間、近衛は内閣改造を行い、内相に末次信正を迎え右翼を制御しようとし、陸相には板垣征四郎、外相に宇垣一成を迎えて、陸軍を事変収拾に協力させようとしました。(末次と板垣の登用は大失敗)
宇垣は、近衛の「蒋介石を対手とせず」声明に囚われず、「宇垣・クレーギー会談」でイギリスの援蔣政策の放棄を求めたり、英国斡旋による和平交渉を模索したりしました。また、中国との間でも「宇垣・孔祥熙交渉」に取り組みました。宇垣は満州国の独立の他、領土的野心のないこと、中国の主権行政権の独立を望むこと、蒙彊、北支に防共施設置くこと、日満支経済・文化合作等の和平条件を提示しました。しかし、これに対して、日独伊枢軸強化論をとなえる陸軍や右翼が反対運動を展開し、交渉は頓挫、宇垣は就任4ヶ月で辞任してしまいました。
その後、昭和13年の秋頃から汪兆銘工作が取り組まれました。これは、日本の帝国主義的侵略を早く止めねばならぬと考える松本重治(上海同盟通信支局)らと、梅思平ら国府側の和平派が話し合い、参謀本部の影佐偵昭と連絡を取り合って正式の交渉ルートにのせたものです。その内容は、国民党の和平派である汪兆銘らを国民政府から離脱させて和平政府を樹立させ、日満中の政治・経済・文化にわたる提携協力関係を確立しようとしたものでした。この工作の進展をバックに、近衛は11月3日、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済提携の実現を図るという「東亜新秩序声明」を発しました。
といっても、汪が和平政府を樹立するとしたその真意は、「日本との間に和平提携の生きた模範を作り、重慶政府及び一般民衆に、抗戦の無意味なことを証明して、全面和平に導こう」というものでした。「従って汪の政権が、一次的に重慶と対立しても、結局は合体すべきもので、そうでなくては全面和平できない。また事実上新政府はいかに強化されても、真に中央政権たり得るものではなく、和平運動は決して単なる反蒋運動ではない」。故に「この運動が成功する根本条件は、日本がこの運動を、独立国たる中国の愛国運動として尊重する」ことだと力説しました。
この工作の結果、「日華協議記録」及び「同諒解事項」が調印され、また、「日華秘密協議記録」が作成されました。その要旨は次のようなものでした。
(日支協議記録)
一、両国は共産主義を排撃するとともに、侵略的諸勢力より東亜を解放し、東亜新秩序建設の共同理想を実現せんがため、相互に公正なる関係に於て軍事、政治、経済、文化、教育等の諸関係を律し、善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げ、強固に結合する。
そのため
(一)日華防共協定を締結する。これは日独伊防共協定に単ずるもので、又この目的で日本軍の防共駐屯を認め、内蒙を防共特殊地域とする。
(二)中国は満洲国を承認する。
(三)中国はその内地での日本人の居住、営業の自由を承認し、日本は治外法権を撤廃し、且つ租界の返還も考慮する。
(四)互恵平等の原則に立って、密に経済合作の実を挙げ、日本の優先権を認め、特に華北資源の開発利用に関しては、日本に特別の便利を供与する。
(五)中国は事変のため生じた日本居留民の損害を補償する必要があるが、日本は戦費の賠價は求めない。
(六)協約以外の日本軍は、平和克復復即時撤退を開始する。中国内地の治安恢復とともに、二年以内に完全に撤兵する。中国はこの期間に治安確立を保障し、駐兵地点は双方合議の上で決める。
(七)日本政府が右条件を発表したら、汪精衛(兆銘)ら中国同志は直ちに蒋介石との絶縁を闡明し、東亜新秩序建設のため日華の提携と、反共政策を声明し、機を見て新政府を樹立する。
なお、これに附属する「諒解事項」で、(一)の防共駐屯は平津地方とし、期間は日華防共協定の有効期間とすること、(四)の優先権というのは、列国と同一条件の場合のことなること、日本は事変による難民救済に協力することを決めました。
また、「秘密協議記録」は
一、両国は新秩序建設のため、相互に親日親華教育と政策を実施する。
二、両国はソ連に対し共同の宣伝機関を設け、軍事攻守同盟を結び、平時には情報を交換し、内蒙とその連絡線を確保のため、必要な地域に日本軍を、新疆には中国軍を駐屯させ、戦時には共同作戦を実行する。
三、両国は共同して東洋を半植民地的地位から漸次に解放し、日本は一切の不平等条約の撤廃のため中国を援助する。
四、東洋の経済復興のため合作する。これは南洋等にも及ぼす。
五、右条項実施のため必要な委員を置く
六、なるべく両国以外のアジア諸国を、この協定に加盟させることに努める。
となっていました。
影佐と今井武夫は、この協議事項を携えて帰京し、これを基に、11月25日に御前会議、28日の閣議を経て11月30日「日支新関係調整方針」が策定されました。
これら協議記録の内容は、この時期の和平条件としては立派なものです。しかし、これについて陛下は、こうした工作について、「謀略などというものは、当てになるものではない。大体出来ないのが原則で、出来るのが不思議な位だ」と言いました。また、西園寺は、汪の行動について、その「意のある所はよく判る。しかし軍部の強力は決して過信できない。軍部は傀儡政権をつくる常習犯だ。汪氏ほどの人を、そういう破目に陥れることにでもなったら、洵に気の毒だ」と言いました。
残念ながら、その後の経過は、このお二人が危惧した通りのものなってしまいました。 
2

 

「近衛、軍部独走許す
1 昭和戦争は、主に中国とアメリカという二つの大国を相手にした戦争だった。とくに日米戦争は、日中戦争のもとで進行した日本国家の変質なしには考えられなかった。それは、国際秩序への挑戦であり、立憲体制の崩壊だった。さらには、軍官僚主導による国策決定であり、国家総動員体制の確立だったのである。これらに深く関与した政治家が近衛文麿だった。
2 近衛の政治思想は、一九一八年(大正七年)に発表した論文「英米本位の平和主義を排す」にうかがうことができる。植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破することは正当だ」という論旨だった。
3 近衛は満州事変で積極的に軍部を支持した。欧米が、国際連盟規約や不戦条約を根拠に、日本を非難する資格はない、とする近衛の強硬論は、軍部を勢いづかせ、国民的人気も高まった。近衛は、これらに後押しされる形で三七年(昭和十二年)六月、首相になる。
4 第一次近衛内閣発足後間もなく、盧溝橋事件に直面した近衛は、揺れに揺れながら、陸軍の要求に屈して派兵を認めた。終戦のチャンスだったトラウトマン和平工作も打ち切って、「国民政府を対手とせず」とまで言い切る。近衛は当時、軍部官僚に引っ張られ続ける自分は「何も知らされていないマネキンガールだ」と、天皇に自嘲気味に話していた。
5 近衛は、軍官僚をコントロールできないだけではなかった。軍が目指してきた国家総力戦体制づくりに法的な根拠を与えてしまった。三八年四月に公布された国家総動員法であり、[戦時]または「戦争に準ずべき事変」など非常時の際、政府に国民統制面でフリーハンドを与える内容だった。
6 三九年(昭和十四年)一月、近衛は、外交、内政ともになす術なく内閣総辞職する。後見役の西園寺公望は、「近衛が総理になってから何を政治しておったんだか、自分にもちっとも判らない」と漏らした。
7 四〇年七月発足した第二次近衛内閣の課題は、引き続き日中戦争の解決にあった。松岡洋右を外相にし、日独伊三国同盟をステップに、ソ連も加えた「四国協商」を構築して、米国を交渉のテーブルにつかせる計算だった。しかし、この構想は独ソ戦の開始で破綻した。
8 南部仏印進駐でも、近衛は米国が石油の禁輸で応じるなどとは考えていなかった。近衛は、松岡を更迭して第三次内閣をつくり、ルーズベルト米大統領との直接交渉で妥結をめざした。だが、中国での駐兵継続を譲らぬ東条陸相との対立が解けず、四一年十月、万事休した。
9 木戸幸一内大臣は「(開戦決意の)九月六日の御前会議決定を成立させたのは貴下(近衛)ではないか。あの決定をそのままにして辞めるのは、無責任である」と忠告していたが、近衛はまたも政権を投げ出した。
10 近衛は、軍部や官僚組織を抑え、これに対抗できる政治力結集を思いついたこともあった。近衛を党首とする「一国一党」の新党組織で、モデルはナチスだった。これは、大政翼賛会として結実するが、天皇の立場を乗っ取る「幕府」の復活だとする批判や、近衛暗殺の噂が飛び交うと、たじろいだ。
11 こうして近衛の試みが挫折するたび、日本は対米戦へと着実に歩を進めていったのである。」
ここでは、1 が全体の結論部分で、以下、氏の事績を時系列的に説明しています。つまり、この結論部分で、”日米戦争は、近衛が首相の時に始まった日中戦争のもとで、日本が、国際秩序に挑戦する軍官僚主導の総動員体制を取る国家に変質したためであり、その変質に深く関与したのが政治家近衛文麿だった”と氏の戦争責任を追求しているのです。
私は、この結論部分には多くの間違いが含まれていると思います。第一に、日本が国際秩序に挑戦する国家に変質し始めたのは、日中戦争になってからではなくて、これはワシントン会議以来のこと。満州事変ですでに国際秩序に挑戦すべく「ルビコン川」を渡っています。また、日中戦争が始まったのも近衛の責任とは言えず、その後軍官僚主導の国家体制となったのも近衛の責任ではない。また、総動員体制を取ったのも総力戦下ではやむを得ないことで・・・ということになると、これではとても近衛の戦争責任は問えない、ということになります。
では次ぎに、2 以下の記述について、順次、その妥当性を点検して見ましょう。結論部分がおかしいですから、ここにも多くの間違いが含まれているに違いありません。
2 は、近衛の最初の論文「英米本位の平和主義を排す」(大正7年)についての記述です。この論文の主旨は、植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破しようとするのは正当だ」というものでした。
この近衛の論文は、ベルサイユ会議当時ミラード・レビューという英字紙に訳出され、「かかる反英米、反国際連盟の論をなす者が、この平和会議への全権の随員中にいるのは、甚だけしからぬ」という非難を受けました。しかし、その論旨は、植民地を持つ国にとっては確かに不都合だったでしょうが、日本やドイツにとっては必ずしも不当といえるものものではありませんでした。
実は、ここに表明された近衛の思想が、その後の彼の行動を基本的に支えたものだったのです。そして、こうした近衛の思想が、軍部にとって大変都合の良いものであったために、彼は、満州事変以降軍部の支持を受けることになり、日中戦争直前に首相に就任して以降日米戦争に至るその直前まで、三度、内閣を組織することになったのです。
では、その近衛の思想とは一体どのようなものだったのでしょうか。軍部がこれを支持したということを申しましたが、近衛を支持したのはなにも軍部だけではありませんでした。戦前において、国民一般、マスコミ、政治家、官僚、元老までを通して、一貫した支持を集めた政治家は、彼を置いて他にいなかったのです。
それだけに人気を博した彼が、戦後の評においては、泥沼の日中戦争から無謀極まる日米戦争までの道を用意した、無気力、無定見、無責任な政治家の典型とされているのです。
では、こうした悪評紛々の彼の政治家としての行動をもたらした彼の思想とはどのようなものだったか。それを彼が大正7年に書いた「英米本位の平和主義を排す」に見てみたいと思います。
「近衛はこの中で、戦後の世界に民主主義、人道主義の思想が旺盛となるのを予想し、これらの思想は要するに人間の平等感から出るもので、自由民権や、各国民平等の生存権や、政治上の特権と経済上の独占の排除や、機会均等などの主張の基礎をなし、このような平等感は人間道徳の永遠普遍な根本原理であって、古今に通じて謬らず中外に施して悖(もと)らぬものであるとし、
従ってこれをわが国体に反する如く考えるのは、固陋偏狭の徒に過ぎず、むしろこれらの思潮を善導して発達せしめることは、わが国のため最も希望すべきことだとしているが、「唯茲(ただここ)に吾人の遺憾に思うは、我国民がとかく英米人の言説に呑まるる傾ありて、彼等の言う民主主義、人道主義の如きをも、その儘割引もせず吟味もせずに信仰謳歌する事是なり」というのである。
彼はバーナードーショーがその『運命と人』の中で、ナポレオンの口を籍りて英国人を批評させている、「英国人は、自己の欲望を表すに当たり、道徳的宗教的感情を以てすることに妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は、何処までもその目的を貫徹するの決断力を有す。強盗略奪を敢えてしながら、いかなる場合にも道徳的口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら、殖民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断しつつあり」という一句を引き、
この言やや奇矯に過ぎるけれども、少くとも半面の真理を穿っているとし、近頃の日本の論壇が、英米政治家の華々しい言葉に魅了されて、「彼等の所謂民主主義、人道主義の背後に潜める、多くの自覚せざる、又は自覚せる、利己主義を洞察し得ず」に、自ら日本人たる立場を忘れて、無条件無批判に英米本位の国際連盟を謳歌し、それを正義人道に合すると考えるのを「甚だ陋態」だと慨嘆、「吾人は日本人本位に考えざるべからず」というのである。
しかし近衛によれば、日本人本位というのは、「日本人さえよければ他国はどうでもかまわぬという利己主義Lのことではない。このような利己主義は誠に人道の敵であって、新世界に通用しない旧思想である。日本人本位に考えるとは、「日本人の正当なる生存権を確認し、この権利に対し不当不正なる圧迫をなすもののある場合には、飽く迄もこれと争うの覚悟なかるべからず」ということである。即ち人道と平和とは必ずしも同じことではなく、人道のためには時に平和を捨てなければならぬこともあるというのである。
英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは、「自己に都合よき現状維持」の平和のことであって、それに人道の美名を冠したものに過ぎない。彼等は口を開けば、「世界の平和を撹乱したるものは、独逸の専制主義軍国主義なり、彼等は人道の敵なり、吾人は正義人道の為にこれを膺懲せざるべからず、即ち今次の戦争は、専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり、暴力と正義の争なり、善と悪との争なり」という調子で論ずる。
もとより第一次大戦の主動原因がドイツにあったことや、戦争中のドイツの行動に正義人道を無視した暴虐残忍の振舞いの多かったことは、近衛も認めて「深甚の憎悪」を表明しているが、しかし彼は、英米人が「平和の攪乱者を直ちに正義人道の敵なりとなす狡猾なる論法」には断じて承服しない。なぜなら平和の攪乱が直ぐ人道の敵だというには、「戦前の状態が、正義人道より見て最善の状態なりしことを前提として、初めて言い得る」ことだからだという。そして「知らず欧洲戦前の状態が最善の状態にして、この状態を破るものは人類の敵として膺懲すべしとは、何人の定めたることなりや」と論ずるのである。
近衛から見れば、第一次大戦は現状維持国と現状打破国との争いであった。正義人道に合するか否かは、平和主義か軍国主義かにあるよりも、むしろこの現状の正体にかかっている。この現状が正義人道に合する最善の状態であったのなら、これを打破しようとした者はなるほど正義人道の敵であろうが、現状がそうでなかったなら、これを打破しようとした者が必ずしも正義人道の敵ではないし、そのような現状を維持Lようとした平和主義の国とて、必ずしも正義人道の味方として誇る資格はない。
而して欧洲戦前の現状は、英米から見れば或は最善であったかも知れないが、公平な第三者として正義人道に照らして見れば、決して最善の状態とは認められない。英仏等が逸早く世界の劣等文明地方を占領して殖民地化し、その利益を独占して憚らなかったからこそ、「独り独逸とのみ言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく、膨脹発展すべき余地を見出す能わざる状態にありしなり。
かくの如き状態は、実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすものにして、正義人道に背反するの甚しきものなり」と言わねばならぬ。だからドイツが、このような状態を打破しようとしたのは、誠に正当の要求であって、そのやり方は非難すべきであったとしても、事ここに至らざるを得なかった環境に対しては、特に日本人として深厚の同情なきを得ないというのである。
彼は、要するに英米の平和主義は、「現状維持を便利とするものの唱う事勿れ主義」で、正義人道とは関係がないとする。然るに国際的地位からすればドイツと同じく現状打破を唱えるべき筈の日本人が、英米人の美辞に酔うて英米本位の平和主義にかぶれ、国際連盟を天来の福音の如く渇仰する態度は、「実に卑屈千万にして正義人道より見て蛇蝎視すべきもの」だという。
しかし彼も妄りに連盟に反対するのではなく、もしそれが真に正義人道の観念に基いて組織されるなら、「人類の幸福の為にも、国家の為にも、双手を挙げてその成立を祝するに」吝(やぶさ)かなるものではないが、しかし連盟は、「動もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後塵を拝せしむるの事態を呈するに恐れがないとは言えない。そうなれば日本の立場からも正義人道の立場からも、誠に忍ぶべからざることだというのである。
そこで彼は、「来るべき講和会議に於て、国際平和連盟に加入するに当りい少くとも日本として主張せざるべからざる先決問題は、経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇是なり。蓋し正義人道を害するものは、独り軍国主義のみに限らず、・・・国民平等の生存権を脅やかすもの、何ぞ一に武力のみならんや」と喝破する。彼によれば、黄金富力を以てする侵略と征服もあるのであって、そのような経済的帝国主義は武力的帝国主義と同じく、当然否認されねばならぬ。
然るに正にこの経済的帝国主義の鋒ぼうを露わして来る恐れのある英米を、立役者として開かれる講和会議で、どこまでこの経済的帝国主義を排除できるかに、彼は多大の疑懼を抱いている。しかしそれを排除できないなら、この戦争で最も多くを利した英米は、一躍して「経済的世界統一者」となり、国際連盟や軍備縮小などを現状維持のために利用し、以て世界に君臨することになり、他の国々は、「恰もかの柔順なる羊群の如く、喘々焉として英米の後に随う」のほかないことになろうと憂うるのである。
彼は英国などが早くも既に自給自足政策を唱え、殖民地の門戸閉鎖を盛んに論じていることを指摘し、もしそんなことになれば、領土狭く原料に乏しい日本などは、どうして国家の安全な生存を保ち得ようかと心配し、「かかる場合には、我国も亦自己生存の必要上、戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らむ」やも図り難いとし、これは日本のみならず、同じく貧しい国々の等しく陥れられる運命であるから、経済的帝国主義の排斥と各国殖民地の開放ということは、これこそむしろ正義人道に基く各国民の平等生存権の確立のため、絶対に必要だと論ずる。
彼は又特に日本人の立場から、黄白人の差別待遇の撤廃を主張すべきことを強調し、米国、濠洲、カナダその他が黄色人種を排斥し、あらゆる差別待遇を設けつつあることを指摘し、これは「人道上由由しき問題にして、仮令黄色人ならずとも、苟も正義の士の黙視すべからざる所」とし、一切の差別待遇の廃止を、正義人道の上から主張しなければならぬというのである。
かくて最後に、「想うに来るべき講和会議は、人類が正義人道に本づく世界改造の事実に堪うるや否やの一大試錬なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味における正義人道の本旨を体して、その主張の貫徹に力むる所あらんか、正義の勇士として、人類史上永久にその光栄を謳われむ」と結んでいる。
以上は、『近衛文麿』の著者矢部貞治の要約ですが、この近衛の論文について、次のような評を下しています。
「近衛はこの論文のことを、後にハウス大佐の「国際ニューディール」論に応答するときプリントにするに際し、『思想も極めて未熟且措辞も甚だ当を得ざるものあるも、当時を追憶して今昔の感に堪えず』と述べているが、とにかく第一次大戦でドイツが完敗し、その軍国主義、帝国主義が世界的に痛烈な非難を浴びていた当時の情勢の中で、これだけの論陣を張り得たということは、その論旨に対する賛否は別とし、彼が既に一介の凡庸な貴族でなかったことを示すものであろう。
少くとも大学卒業後一年で既に、学生時代の文学青年からは遙かに脱皮している。しかもこの中で、講和会議檜舞台で日本として堂々提唱すべき方策を論じているのは、彼が既に一家の信念と経綸を持つ政治家の資質を現わしているとも言えるであろう。後に国際連盟の果した役割については、彼の憂慮が決して根拠のないものでなかったことを、示していると言ってもよかろう。」
近衛と言えば、上記の3以下の記述に見たように、3満州事変で軍を積極的に支持し、国際連盟を批判し、そのため軍の支持を受けて首相となり、4日中戦争においては軍部官僚に引きずられて戦争を拡大し、5「国家総動員法」を可決、6昭和14年1月には行き詰まり辞任、7第二次近衛内閣では、日独伊三国同盟にソ連を加えて「四国協商」とし、米国と有利に交渉しようとしたが独ソ開戦で挫折、8第三次近衛内閣では、軍の南部仏印進駐を認めたためアメリカの石油全面禁輸を招き、対米交渉で中国からの撤兵を要求され、これを陸軍に拒否され、再び内閣を投げ出した、と言う具合で、無気力、無定見、無責任な首相の典型のように見られています。
しかし、ここに紹介したような近衛の思想を見る限り、とても、彼が、「無気力、無定見、無責任」な人物であったとは思われません。では、なぜ、その彼が、上記3から8に述べられたような批判を受けることになったか、それは、その思想に欠陥があったと言うことなのか。思想は正しかったが行動に適切を欠いたということなのか。軍部に利用されただけなのか・・・等々、次回はこのナゾについて考えて見たいと思います。 
3

 

大著『近衛文麿』の著者矢部貞治は、「この論文の重大さは、後に近衛の言行がいろいろ変転を示しているに拘わらず、彼の生涯を貫く基本思想がここに現れていると思われる点にある」と言い、彼が「第一次近衛内閣を組織する際、『国際正義と社会正義』をその指導原理として高唱したのも、あるいは彼が満州事変に同調したのも、日独伊三国同盟への悲劇的な道を行くことになったのも、更には日本の降伏後英米の裁判を拒否して悲劇的な死を選んだのさえも、この論文の思想を背景にして、初めてよく理解し得るものがあろう」といっています。
そこで、彼が「英米本位の平和主義を排す」でなした主張を、今一度、分かりやすく見てみたいと思います。
1 第一次大戦後、民主主義や人道主義が唱えられているのは、その根底に人間の平等主義が求められるようになったからだ。そこで、この平等主義を国際社会において実現し、後進国の生存権を保障するためには、まず、欧米先進国の政治上の特権や経済上の独占を排除することが必要である。また、後進国が政治的・経済的に発展していくための機会均等が保障されなくてはならない。
2 ところで、この平等主義は、教育勅語に「古今に通して謬らず中外に施して悖(もと)らぬ」と唱われているような我が「国体」の道徳規範の指し示す方向と一致している。むしろ、英米人の言う民主主義、人道主義こそ「自由と独立を宣伝しながら、殖民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断」するものであり、その背後に潜む「利己主義」こそ見落とすべきではない。
3 では、この人道主義と利己主義が対立する場合はどうすべきか。言うまでもなく、これからの世界に通用すべき思想は平等主義・人道主義である。従って、もし、日本が平等・人道的に扱われず、その正当なる生存権が不当に脅かされる場合には、「飽く迄もこれと争うの覚悟なかるべからず」である。即ち「正義人道」のためには時に平和を捨てなければならぬこともある、ということである。
4 英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは、「自己に都合よき現状維持」の平和であって、それに人道の美名を冠したものに過ぎない。彼等は、独逸を「専制主義軍国主義、人道の敵」と非難し、今次の戦争は、「専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり」などと言うが、「正義人道」に合するか否かを言うなら、まず、この現状の正体をこそ問うべきだ。
5 また、欧洲戦前の世界の現状は、英米から見ればあるいは最善であったかも知れないが、「正義人道」に照らして見れば、決して最善の状態とは認め難い。英仏等がいち早く世界の劣等文明地方を占領して殖民地化し、その利益を独占したからこそ、「独り独逸とのみと言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく、膨脹発展すべき余地を見出す能わざる状態」になっているのである。
6 つまり、こうした現状は「実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすもの」であり、「正義人道」に反するものである。確かに、ドイツのやり方には非難すべき点はあるが、それは、そうせざるを得ない環境にあったということであり、そのドイツと同じ環境にある日本人が、英米本位の平和主義にかぶれるのは卑屈であり「正義人道」に反するものである。
7 また、国際連盟が真に正義人道の観念に基いて組織されるなら、その成立を祝するに吝(やぶさ)かではないが、しかし連盟は、「動(やや)もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後塵を拝せしむるの事態を呈するに恐れ」なしとしない。そうなれば、日本の立場からも「正義人道」の立場からも、誠に忍ぶべからざることというほかはない。
8 従って、この国際連盟の結成に当たって日本がまず主張すべきは、「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」である。つまり、「正義人道」を害するものは、独り軍国主義のみならず、国民平等の生存権を脅やかすものであり、「黄金富力を以てする侵略と征服」もそうであって、そのような経済的帝国主義は武力的帝国主義と同じであり、当然否認されなければならない。
9 しかしながら「この戦争で最も多くを利した英米」は、「国際連盟や軍備縮小などを現状維持のために利用し、以て世界に君臨することになる」だろう。彼等はすでに「自給自足政策を唱え、殖民地の門戸閉鎖を盛んに論じている」。しかし、もしそういうことになれば、「領土狭く原料に乏しい日本などは、『自己生存の必要上、戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得なくなる。」
10 そこで、日本人が講和会議において特に主張すべきは、白人の黄色人に対する人種差別の撤廃である。彼等は、この差別感から「あらゆる差別待遇を設けつつ」あり、これは人道上許し難いことである。従って、日本人はこの人種差別の廃止を、「正義人道」の上から主張すべきである。講和会議は、人類が「正義人道」に基づく世界改造の事実に堪うるものであることを示すべきである。
以上の論理を、さらに箇条書きに簡潔にまとめると次のようになります。
1 は、国際社会における政治的・経済的「平等主義」と「機会均等」の主張。
2 は、その「平等主義」は、日本の「国体」の理想とする方向と一致するが、欧米先進国のそれは、その背後に「利己主義」が潜んでいるという指摘。
3 従って、もし、日本の「平等主義」と欧米先進国の「利己主義」が対立する場合は、「正義人道」のため平和を捨てる覚悟が必要だ。
4 実際、欧米先進国の言う平和人道は「自己に都合よき現状維持」をするための方便である。
5 また、それは「人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすもの」である。
6 従って、日本は、現状の不平等を打破しようとしたドイツの立場を理解すべきであって、英米本位の平和主義にかぶれるのは卑屈千万であり、それは「正義人道」にも反する。
7 また、国際連盟もこれら大国の利害を優先しがちであることを忘れるべきではない。
8 従って、来る(ベルサイユ)講和会議では、こうした現状を改めるよう、欧米先進国に対し「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」を求めるべきである。
9 というのも、彼等はすでに殖民地の門戸閉鎖を始めようとしており、こうなると日本などは自己生存のため現状打破の挙に出ざるを得ないからである。
10 そこで、講和会議では、こうした現状を打破するため、まず、白人による黄色人に対する人種差別の撤廃を求めるべきである。
では次に、この論理の妥当性を検証してみます。
1 は、理念としてはこの通りで、その具体化は、講和会議に引き続くワシントン会議で列国が参加して協議が行われました。
2 は、日本の平等主義は、その「国体」観念と一致するが、欧米先進国のそれは「利己主義」に基づくものであるといい、結果的に、日本の「平等主義」に道徳的優位性を認めています。
3 4 5 は、その西欧先進国の「利己主義」に対する後進国の現状打破を求める戦いを、「正義人道」の名のもとに正当化しています。
6 は、英米よりドイツとの連帯を主張するもの。
7 は、国際連盟に対する不信を表明するもの。
8 9 10 は、日本は、欧米先進国に対して「経済帝国主義の排斥と黄白人の無差別待遇」を求めるべき、というものです。
ここにおける第一の問題点は、1の理念、つまり、国際社会における政治的・経済的「平等主義」と「機会均等」の主張が、その後開催されたワシントン会議では、どのように具体的に処理されたかということ。さらに、それに対して、近衛はどのような評価を下し、とりわけ満州問題について、中国との利害関係を、その「平等主義」「人道主義」の観点からどのように調整しようとしたか、ということです。
第二の問題点は、2の日本におけるの平等主義は、日本の「国体」観念が理想とする方向と一致するが、欧米先進国のそれは「利己主義」に基づくものといい、日本の「平等主義」に道徳的優位性を認めている点について、果たして、これが妥当であったかどうかという問題です。もしこの認識が誤っていたとするなら、3以下の西欧先進国に対する批判は説得力を欠くことになります。
以上二つの問題点についての具体的な検討作業は次回に回しますが、そのポイントは、第一の問題点については――これはワシントン会議において問題になったことですが――中国を巡る日本と西欧先進国間の政治・経済分野における「平等主義」と「機会均等」をどのように実現するかということ。とりわけ、中国の「領土保全」及び主権の尊重を列国がどのように保障するかということになります。
第二の問題点については、実は、日本は、西欧先進諸国との関係においては、確かに西欧先進諸国を「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」の観点から批判する立場に立ち得たわけですが、こと中国との関係においては、逆に、「中国、とりわけ満州における日本の特殊権益の主張と、中国に対する日本の民族的優位性」を主張する立場に立たざるを得なかった、ということです。
こうした近衛の論理に見られる矛盾を解く方法はあったのでしょうか。実際に採られた方法は、日本と中国を東洋文明(=王道文明)という枠組みの中で一体的にとらえることによって、西欧文明(=覇道文明)に対し、日本と中国が共同して対抗しようとするものでした。だが、中国にしてみれば、そうした考え方に基づく日本の行動こそが、中国の主権を踏みにじる帝国主的侵略行為に見えたのです。
つまり、この東洋王道文明vs西洋覇道文明という対立図式は、日本が、西欧先進国の平等主義・人道主義を利己主義に基づくと批判する一方、中国に対しては、その主権を無視しても領土・資源を求めざるを得ないという日本の「宿命的」な矛盾を、自己欺瞞的に回避しようとするものだったのです。このことに近衛も、そして日本国民の大部分も気が付かなかったように思われます。
とすると、日中戦争のその根本的な原因は、日本人自身の意識構造にあった、ということになります。もちろん、ここに森恪などの煽動政治家や昭和の青年将校などの思惑が絡んでいたことも事実です。次回は、このあたりの事情を、ワシントン会議以降、幣原喜重郎、森恪、そして近衛文麿などが、どのような外交方針・政策を以て乗り切ろうとしたかを具体的に見てみたいと思います。 
4

 

前回は、近衛文麿の思想を、大正7年に彼が書いた「英米本位の平和主義を排す」によって見てみました。この論文は、第一次世界大戦が終結する直前、彼が27歳の時に書かれたもので、多分に、この時代に流行し始めた社会主義的理想主義の影響を受けていました。それだけに、帝国主義批判の口吻も強かったわけですが、ベルサイユ講和会議に参加した後に書かれた「欧米見聞録」の中では、より客観的かつ重要な指摘がなされています。
第一は、国際連盟について、それがともかくも実現を見るに至ったことを前向きに評価し、また、アメリカのウイルソン大統領が果たした役割を積極的に評価しています。特に、ウイルソン大統領が提案した「十四箇条の平和原則」に、植民地問題の公正解決のための「民族自決主義」が掲げられ、それが一部採択されたことについて、これを「多年圧制に苦しみたりし幾多の弱小民族に新たなる希望と光明とを資した」ものとして高く評価しています。
この十四箇条には、第1条:秘密外交の廃止(列強中心の「旧外交」の温床となっていた秘密外交の廃止と、外交における公開原則を提唱したもの)、第2条:海洋の自由、第3条:経済障壁の撤廃、第4条:軍備の縮小、第5条:植民地問題の公正解決(「民族自決」の一部承認)、・・・第14条:国際平和機構の設立などが掲げられていました。
この、第1条:秘密外交の廃止については、「今日秘密外交の時代全く去れりと即断するのは軽率のそしりを免れないが、・・・今日の如く万機公論に決するの世となりては、・・・外交もまた自然と公開的性質を帯び来たらざるを得ず。しかしてプロパガンダは実にこの時代の必要に応じて生まれ出でたる外交上の新武器に他ならざるあり」として、外交におけるプロパガンダの重要性を指摘しています。
また、これに応じて外交官制度を刷新する必要のあること、そのためには、外交官への人材登用の門戸を開放すべきことを提案しています。さらに、「今日の日本は国際連盟の中軸たる世界の主人公として利害相関せざる国の面倒まで見てやらねばならぬ地位に達した」のであるから、これからは「日本人の心胸を今いっそう世界的に開拓する」必要があることを力説しています。
なお、注目すべきは、近衛が「米国の排日」について言及している点です。近衛はこれに関して、日本が第一次世界大戦でドイツより中国の山東半島の利権を奪い取ったこと(対支二十一箇条要求による)が、米国において、「日本は第二のドイツにして支那を併呑する野心を有す」「山東は支那の咽喉にしてこの地を日本に与うるはこれ東洋の平和ひいては世界の秩序を乱す所以なり」との批判が盛んになされていることを指摘しています
そして、これが米国における排日的気分の源流になっていることを指摘しています。確かにここには種々の原因が考えられ、人種的偏見や日本の成功に対する嫉視、さらには日本人自身の問題としてその「非同化性」も考えられる。しかし、最近の最も有力なる動機は、日本をもって軍国主義の国なりとなす支那側のプロパガンダが米国の知識階級を動かしたことにある、といっています。
そして、これらの支那側のプロパガンダは、従来の我が国の対外政策を針小棒大に言いふたした結果ではあるけれども、「元々火の無き所には煙の昂る道理なし。この点に就きても、我が国民は一歩退きて深く自ら戒むるところなかるべからず」。といっても、これは決して軟弱外交を賛美するものではないが、「今日の世の中において戦国策そのままを実行せむとするが如き軍閥一味の人々に対しては、余は疾呼してその不謹慎を鳴らさざるを得ず」と警告を発しています。
問題は、ここで近衛が「不謹慎」をいっているのは軍閥一味のどのような行動を指すのか、ということですが、一方では「抑も面積狭くして人口の溢れつつある我が国が外に向ひて膨張するは誠に自然の勢いにして、我が国民たる者は宜しく正々堂々と自己の生存のためにその発展の地を要求すれば可なり。然して我が国のこの立場を米国人その他に篤と了解せしむるためにプロパガンダの必要起り来る」というようなことを言っています。
ここに、前回指摘した近衛の主張における矛盾が露呈しているのですね。ここでは、前回示した「平等主義」「人道主義」の理想に加えて、「民族自決主義」も出てきています。これらの理想と、日本が「自己の生存のためにその発展の地を中国に求める」こととはどのように整合するのか。これが後に近衛の「持てる国」「持たざる国」論に発展していくわけですが、ここでは中国は「持てる国」に組み入れられてしまっているかのようです。
さて、ここで、前回示した第一の問題点――近衛が主張しまたは称揚した国際政治における「平等主義」「人道主義」「民族自決主義」「機会均等主義」がワシントン会議においてどのように処理されたかということ――について見てみたいと思います。
次の記述は、幣原が、ワシントン会議において「二十一箇条要求」問題、九カ国条約及び山東問題の処理をどのように行ったかについて、大東亜戦争中に清澤洌に口述筆記させ、自ら校正して書き残したものです。
「華盛頓(ワシントン)会議の議題は大別して二つあった。一つは五ケ国の軍縮問題の討議であり、他は中国に開する九ヶ国条約である。この外に太平洋方面に於ける島嶼たる属地及領地に関する四ケ国条約があるが、これは会議の招請状には書いていない。また山東会議に就いても、これを会議の中に含めるのならば会議参加そのものを御免蒙るというのが、日本の建前であった。
太平洋及極東問題委員会で一番の問題は、大正四年の日支条約(二十一ヶ条要求と俗称せらるるもの)が出るであろうということであった。支那はこの会議を利用して、該条約を廃棄せんと準備怠りない。既に彼等は本問題を委員会に提出した。当時、私は病床に引籠り中で会議に出席することが出来ず、日本代表部は意見を留保したまま討議を延期していた。米国側ではこの討議は、過去の経過に顧みても日支間の反感を激発し、その影響するところ会議そのものが駄目になる危険があると心配していた。
私はこの問題はこの際明確にして置いた方がいいいと考えたから、進んで第三十回委員会(二月二日)に出席した。そして日本の立場に就いて三つの点を力説した。第一に支那委員は巌に存している条約をこの会議に出だし、これを無効に帰そうとしているようだが、これは無理不当である。支那は如何なる論拠を以てこれを破棄せんとするのであるか。所謂二十一ヶ条要求の中には既に消滅しているものもあるし、また現存しているものの多くは任意に承認したものである。
元来、条約は批准によって効力を生ずるのである。この批准に対し、日本は果して圧迫したことがあるか。第二に、若しこうした会議に於いて古い問題をとらへ、古疵を洗いたてて、これを無効に帰せしめる先例が開かれることがあれば、それほど危険なことはない。どこの国にも古疵はある。そうした弊を起す先例が開かれると、国際間の安定感はなくなるので、この会議の崇高なる目的とは一致しない。私は先づこう理論を述べて置いて、第三点として次のような大局論を説いた。
当時、日本が最後通牒を発したのは、遷延に遷延を重ねた交渉を速やかに結了するための方法であって、多くの条項はその前に既に支那委員が実質上同意したものなのだ。然しその後の事情の変化によっていま茲に三つの声明をする。
第一に日本は南満洲及東部内蒙古に於ける借款の優先権を、最近組織された国際借款団の共同事業に提供する。
第二に日本は南満州に於ける政治、財政、軍事、警察等に付日本人顧問を傭聘する旨の日支取極があるが、この優先権を放棄する。
第三は所謂二十一箇条要求の中で保留して居った第五項は改めてこれを撤回する。
こういう点を明らかにしたが、これ等は要するに日本が南満洲において独占権を振りまわす意思のないことを示したものに外ならなかった。それ等は実際問題として何れも高閣に束ねて実行していなかったものであり、この場合日本の誠意を示すに必要だと考えられたものであるからだ。
私の陳述が終ると、その日の委員会はそのまま閉会になったが、米国全権の一人であり、米国法曹界の先達であるエリヒユ・ルート氏が会議後、「一寸来てくれ。」といって私を隣室に連れて行って非常に喜んだ。「実は自分は日本の立場に身を置いて、どんな風に説明したらよいかといろいろ考えてみた。ところが今日の御説明を聞くと、自分がこういう風に説明したらと思ったことをその通りにいわれて、非常に満足をした次第だ。日本の立場がああしたものであれば、この問題に就いて米国代表部に関する限り貴方に迷惑はかけぬつもりだ」といった。
翌日の会議で支那の全権王寵恵氏が、予の意見に対し長々しい意見書を発表したが、誰も聞く風もなく如何にも退屈に見えた。後にヒューズ氏が起って米国の立場を述べたが、これを裏から見れば、私のいったところを承認したものであった。たとえば「満州に於ける居住、旅行、商租権、農業の合弁の権利等に就いては米国はこの権利に均霑する」というのである。
ヒューズ氏がそれ等の権利に米国人も均霑するということは、条約の有効を承諾しての結果であって、こういわれてみると、支那側は何とも云えなくなってしまったのである。ルート氏が云ったように、内部で纏めてくれたことがこれで明らかになった。右のような事情で所謂二十一ヶ条問題は、心配したが意外に早く終結したのである。支那問題として残る厄介なのは山東問題だが、これは華府会議の外で、日支の直接交渉として解決することとなった。」
このことについて、この書では次のような解説がなされています。
「幣原が陳述した前記論文の中には相当重大なる意味が含まれている。即ち対支二十一ヶ条の中に、「他日を期して交渉を進むべし。」として保留してあった希望条項(問題の第五項として内政干渉の非難をこうむったもの)を自発的に撤回し、同時に又満蒙に於ける投資優先権も放棄する旨を声明している。その結果、「満蒙に於ける特殊利益」を認めた一九一七年の石井ランシング協定は自然に廃棄されることとなったのである。(条文で廃棄がきまったのは一九二二年四月十七日)
それから租借地の還付問題は膠州湾の租借地を返したが、これは世界最初の例だといって、当時評判になったものである。而してこれに倣って英国は威海衛を、佛国は廣州湾(これは主義として)を、それぞれ返すことを承諾する旨、華盛頓会議で声明した。尤も同じ租借地でも、英国は香港の防衛上、九龍を手離すことを肯んぜず、日本もまた旅順、大連の両港を有する関東州は断じて返すことが出来ないと声明したのである。斯くて残る問題は九ヶ国条約のみとなった。これに関する幣原の陳述は次の通りである。」
「華盛頓会議の委員会で出来た九ヶ国条約の中には誰も知るように門戸開放、または機会均等に関する規定がある。これに就いて世には、この規定は日本の対支経済活動を掣肘するために、英米が発案したものであるように説くものがあるが、それは事実ではない。機会均等主義の製造元は寧ろ日本なのである。元来日本は日英同盟以来、支那に於ける門戸開放又は機会均等主義を以て支那の対外開係を律する重要原則として、一貫してこれを主張して来ている。支那に関して日本と列国との間に締結した条約でこれを謳っていないものは殆んどないのである。
華盛頓会議が開催される前に私はヒューズ氏に会ってこれに関する我が立場を明らかにして置いたことがある。私の考えによれば「我国は支那に於いて独占権を主張する必要はない。支那の自然の発達に委せて差支えない。否、それどころか、機会均等ならざることが却って日本の発展を阻碍するのだ。例えば日本品に対してボイコットをやって、英米に許すところの商業を日本に対し妨害する。これは機会均等ではない。或はまた日本の悪口を計画的、組織的にいって邪魔をする。これも機会均等主義の違反だ。
日本の支那に於ける経済的発達が、もし優先権や独占権のおかげならば、それは温室育ちの植木と同じで駄目である。私は日本の商業は、そんなに弱いものであるとは信じない。従って外部的の擁護は要らない。公明正大な立場で正々堂々と取組んで充分だ。」そんな意味のことを、私はヒューズ氏にいった。彼は、「そういうことなら米国としては少しも嫉妬する必要はありません。御希望通りにおやりになって少しも差支えない。」といった。
そういう訳で第六回総会(二月四日)の演説でこのことを主張したのである。だから九ヶ国条約はこちらから希望したものであって、押えつけられてやったものでも何でもないのである。
元来私は門戸開放と機会均等との関係を研究(略)した結果、機会均等主義で困るのは日本ではなくて、寧ろ欧米だと考えていたのであるが、この主義のことは九ヶ国条約第三条に規定された。同条第一項には支那の一定地域に於ける商工業又は経済的発展に付、福利の概括的優越の地位(General Superiority of Right)を設定する取極を禁ずると共に、第二項には特定の商工業又は金融事業を遂行する必要なる財産又は権利の取得は妨げなき旨の規定かある。
右条文を解釈するときは、例えば特定の鉱業、鉄道、農業、金融等の事業に開する財産又は利権の如きは門戸開放、機会均等の主義に反することなくして取得し得らるるのであるから、支那の資源開発を目的とする本邦人の活動が妨げらるるものではない。現に本主義の下に外国人も斯かる利権を取得し経営する実例が多いのである。そんな関係で九ケ国条約にこの規定を設けたのは、実は日本がイニシアチブをとったからである。
(三)門戸開放、機会均等主義は商業的であるに對し所謂二十一ケ条要求は政治的であるといっていいであろう。所謂二十一ケ条要求はそれまで溜まっていた数百件の日支間の案件を、欧洲戦争の勃発したのを機会に一挙に解決してしまおうとしたのが、その狙いであったであろう。その中には空論に動かされ挿入したものもあったかも知れぬ。たとえば佛教を布教する権利なぞは全くそれだ。
次に西比利亜(シベリア)出兵問題も、会議では余り問題にならなかった。その頃は会議も大分長く続いて、もう打切りたい気持ちになっていた。私はヒューズ氏のところへ行って、自分の方から進んで態度を明らかにしたいというと、ヒューズ氏もこの問題を厄介な問題とする意志はないといった。そこで私が声明書を読みあげ、その後にヒューズ氏がステートメントを読んで、それでお仕舞いになってしまったのである。(略)それは所謂二十一ケ条要求問題の直後のことであるが、その時加奈陀(カナダ)全権サー・ロバート・ボーデンは私にそっと呟いて、「うまくやっているね。」といったものである。」
なお、以上の九カ国条約に関する会議とは別に行われた山東問題の処理については次の通りです。
まず、会議に先立ち幣原は、カレント・ヒストリーというアメリカの月刊雑誌から「ワシントン会議にのぞむ日本の立場」を説明すべく寄稿を依頼されました。次は、その中における山東問題に関する幣原の記述。
「山東に就いて
日本は、山東を支那から剥ぎとったという非難をうけている。この真相はどうなのか。大戦中、日本は極東に於ける連合軍の利益を守る義務を負うたので、青島に於ける独逸軍基地の脅威を取り除く必要があった。日本は英国の分遣隊と共に、必要な軍事的努力をして、そこを占領したのである。つまり日本は青島と青島最難関の鉄道など、もと独逸が九十九ヶ年租借していたものを占領して、その焦点から敵の勢力が盛り返して来るのを防遏(ぼうあつ)しようとしたのである。この膠州の租借地は廣さが二百平方哩あり、山東省はそれより二百倍大きい。そして独逸人と貿易するため、そこに集っていた者は五、六萬人で、それらは留まっていまは日本と貿易している。
日本はもとの独逸の租借地を継承しようという積りは毛頭ない。戦争以来、それは支那に返すといい最初からの申出を繰り返し、もとの租借地は各国民が均等の条件で貿易の出来る自由港にするということも、又独逸鉄道部の仕事は日支合弁にするということも、言っているのである。支那は此の取計いを拒絶し、もとの独逸の権利は、参戦してその布告をした時に、自然に支那に返っているものだと論ずるのである。然しこの宣戦布告は、支那が日本との借款を取り極め、その約束の支払金を受け、もとの独逸鉄道の合弁計書の原則を承認してから満一年以上もたって、発せられたものである。
日本は、鉄道を警備するため、山東の沿線に軍隊を駐屯させている。青島にいるのは派建軍に臨時分遣隊を合はせて、将卒約二萬である。北京の領事館を守護するため、又海岸からその首都までの鉄道を警備するため駐屯している各国軍隊は、その二倍にも及び、この中には米国軍隊も加わっている。且又鉄道延長のため資本を提供する際の独逸の優先権は、もし日本が主唱して賛成さえ得るなら、現在米国、白耳希(ベルギー)、英国、仏国、日本の銀行団が、その政府の支持を受けている国際財政借款団に継承させることも出来る。
だから日本が山東を侵略するという非難を裏付けるべき事実は、実際には存しないことが明かである。今やこれら総ては海軍軍備縮少と共に片が付くに違いない。なぜなれば、もし会議參加国民の間に、何等重大なる利害衝突がなく、それ故に軍事侵略の脅威もなくなれば、解決はただ程度の問題となるのである。」
この山東問題についての会議は、先の幣原とヒューズ国務長官との話し合いで、日支両国全権のみで討議を行い、英国と米国はオブザーバーを出すということになりましたが、幣原(全権)が病気で会議を欠席するようになるとたちまち暗礁に乗り上げてしまいました。というのも、中国はこの問題で日本を列国環視の中で窮地に追い込む腹づもりであったが、その当てが外れたので、山東問題で妥結するつもりはなく、会議を決裂させてしまう底意だったのです。
そこで幣原は病気をおして会議に参加し中国との交渉に臨みました。それからの事情について幣原は次のように書き残しています。
「私が山東会議に出てみると果たして会議の空気は極端に悪化していた。私が一言二言何か言うと、支那全権はかみつくように、私に激論を挑むという有様だ。丁度、それは第九回会議で、それまで埴原全権が意見を留保し、いよいよ山東鉄道の処分問題に話が進む順序になっていた。私は彼等の言には頓着せず、私の論拠を展開した。私は支那全権は誤解してはいないかと反問した。
支那側では、何か、日本が山東鉄道を無条件に泥棒でもしてしまうようにいうが、日本はこの代価を巴里講和会議でちゃんときめて支払うことになっているのだ。それを無条件で中国に譲り渡してしまうことになると、日本はそれだけ損失する事になるのだというような点を指摘し、日本はただ正当な支払いを得んとするに過ぎない旨をもいった。こんな議論が英米側にはよく響いたらしい。
その日の会議が散会になると英国オブザアヴァのサー・ジョン・ジョルダンは私の手を握り会議の形勢は幾分見直したようだと悦んでくれた。前にもいったように当時私は病気であって、八時間もぶっ通して会議を続けることは隨分苦痛だった。先方は二人であるから四時間づつ喋ればいいのに、こちらは一人だから八時間も話し続けなくてはならぬ。それでも会議が、好転したといわれて、出席の甲斐があったと喜んだ次第であった。
こうして山東会議は会合を重ねること三十六回に及んだ。その外に私と支那全権王寵恵氏と数回に亘って条約起草委員会を開いた。その頃迄支那側ではずっと英米オブザアヴァの好意を得る為に努力したようであったが、オブザヴヴァは一向に支那側の肩を持たない。それどころか第二十四回の会合の頃から、英国のサー・ジョン・ジョルダンは却って支那全権顧維鈞の陳述に口を挿んで、自分は今まで支那にいたが、顧維鈞氏のいうことは事実と相違していると反駁をするという有様だった。
ジョルダン氏はその少し前まで支那の公使をしていたのである。それからその次の会合には米国のオブザアヴァたるマクマレー氏も発言して、自分は国務長官の命令によって声明するのであるが、仮に支那の要求を日本が容れても、米国のその方面に於ける権利は、それによって毫も動かないと陳述した。米国としては青島に於いて市政参政権などを有しているから、それ等は日本が譲歩しても依然として有効だという意味だ。これを聞いて私は最初ヒューズ氏が日支繋争に就いて公平不偏の態度をとるといったのを思い出し、彼の言偽らずと思った次第だった。
こうなると中国も英米を利用することが出来ない覚ったらしい。会議の空気は漸次緩和して最後の数回の会合には一潟千里に進行し、ここに日支山東交渉は纏ったのであった。私はこの時程、米国各方面から感謝の辞を浴びたことはなかった。山東条約なるものは、日本に取ってはそれ程の問題ではなかったが、米国の人たちが非常に関心をもち、このために戦争が起るのじゃないかという予感も、民衆の中にはあったから、この条約は世論から非常な歓迎を受けた。私の努力ぱ実価以上に報いられたのである。
この交渉の結果、支那側の幣原に対する信頼感が非常に濃厚となり、彼自身予期しなかったほど打ち解けた親善関係が、支那側全権代表団との間に結ばれたそうです。支那側全権団がワシントンを引き上げる時、見送りに来た幣原を王全権は見つけて、人波をかき分けるようにしてそばに寄ってきて「よく来て下すった。ほんとに有り難い」と握手して涙ぐみ、「実は私は日本をひどく誤解していました。今度の会議で日本を理解し得たのは私の大きな所得です。今後全力を挙げて両国国交の改善のために尽くす決心です。孰れ又日本をお尋ねしますから、どうか元気でいて下さい。」と誠実を顔一面にこめて言ったといいます。
大正期における日本外交の最大の失敗とされる「対支二十一箇条要求」問題は、実はワシントン会議において、このように双方納得いく形で円満に処理されていたのです。
では、こうした幣原の外交処理について、近衛や森格あるいは軍部、さらには日本のマスコミはどのように評価したのでしょうか。その後、こうした幣原の対支融和外交、国際協調外交は、日本において激しい批判を蒙るようになりますが、それはなぜなのか。次回はこの点について考えてみたいと思います。 
5

 

前回の本エントリーで、「大正期における日本外交の最大の失敗とされる『対華二十一箇条要求』問題は、実はワシントン会議において、このように双方納得いく形で円満に処理されていた」と述べました。といっても、これがワシントン会議の中心議題であったわけではなくて、一つは、第一次世界大戦後の軍縮問題、もう一つは、極東及び太平洋地域における国際関係の調整及び安全保障体制の再構築という問題でした。
もともとは、ワシントン会議が海軍軍縮会議と言われるように、海軍軍縮問題がその中心議題だったわけですが、それに付随して日英同盟の存続(1921年更新)が新たに問題となりました。なぜかというと、第一次世界大戦中、日本は日英同盟に基づき対独参戦し、膠州湾及び山東のドイツ軍を攻撃・占領し、次いで中国に二十一箇条要求を突きつけ、さらに赤道以北のドイツ領諸島を占領したことに対して、アメリカが警戒心を持つようになったからです。
アメリカは、将来これらの地域において日本との対立が生じるようになった場合に、日英同盟がアメリカに不利に働くことを警戒したのでした。ただ、正面から日英同盟破棄を主張することはできないので、軍縮会議のために招待する日・英・仏・伊の他に、支那と極東に関係のあるベルギー、オランダー、ポルトガルを加えて九カ国を招き、極東及び太平洋問題を議題とする会議を開くことにしたのでした。
これに対して日本は、軍縮問題はいいとしても、極東及び太平洋問題で何を議題とするか判らないので参加保留としました。日本としては、二十一箇条問題を中国との直接交渉で何とか解決しようとしていたのですが、中国はこの問題を国際社会に訴えることで廃棄に持ち込もうとしていたのです。そこで幣原(駐米大使)は、ヒューズ(アメリカ国務長官)にこの問題についてアメリカが公平不偏の態度を取ることを求め、ヒューズはこれに応じたので、幣原は日本政府に会議參加を進言しました。
この会議における日支交渉の経過については前回紹介しましたので、ここでは、極東問題(=支那問題)の具体的解決策となった九カ国条約と、日英同盟に代わる安全保障枠組みとなった四カ国条約について述べたいと思います。 
まず九カ国条約ですが、その基本的性格はその第一条にほぼ尽くされています。
第一条 支那国以外の締約国は左の通り約定す
(1) 支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2) 支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3) 支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4) 友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること
これをわかりやすく言うと、(1)は、支那の主権を尊重し、内政干渉しない。(2)は、支那に安定した統一政府が樹立されるよう協力する。(3)は、支那における商業・工業上の機会均等に努める。(4)は、支那の情勢を利用して自国の排他的・特権的利益を求めない、となります。
ワシントン会議において、このように、支那をめぐる列国間の外交的原則が確立されたことについて、後年日本ではこの会議を「失権会議」と呼び、これを推進した幣原外交を「軟弱外交」として非難する声が高まりました。
曰く、この会議の結果「日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定がアメリカのルート四原則によって破壊された。支那に対する九カ国条約、四カ国条約によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果となり、日英同盟は破棄された。また、海軍軍縮会議では日米英間に五・五・三の屈辱的条約が結ばれる等、日本の「失権会議」に終わった。せっかく伸びかけた日本の芽は摘まれた」と。
しかし、このワシントン会議が開催された当時の日本外交が直面していた課題は、第一次世界大戦以降、欧州各国の間に軍国主義打破の気運がみなぎる中で、日本を第二のドイツ、東洋における軍国主義国なりとする疑念を、いかに払拭するかということにあったのです。とりわけアメリカの対日警戒心をいかに和らげるかが、日本外交の中心課題となっていました。
そのため、日本政府の「華盛頓会議帝国全権委員に対する訓令」の一般方針の重要事項には、次のようなことが述べられていました。
(一) 世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進は帝国外交の要諦であるから、この目的達成のため努力すると共に、我が国に対する従来の誤解誤謬を釋(と)くよう努力すること。
(二) 今回の会議は先づ軍備制限問題を討議し次いで太平洋及び極東問題の討議に移るよう主張すべし、もし会議の情勢上右主張貫徹し難き場合は両問題を平行討議するよう措置すること。
(三) 太平洋極東における恒久平和の確立を主眼とする日英米三国協商案を提唱するに便なる形勢を誘致するに努力すること。
(四) 日米英三国協商と関連して日英同盟存続の問題考量せらるるにおいては日本はこれを猶存続せしむるも妨げなし(後略)
(五) 米国をして国際連盟に参加せしむるよう努力すること。
そして、太平洋及び極東方面における一般平和を確保するために、太平洋方面における列国領土の相互尊重、列国領土に商業及び産業上の機会均等主義を適用すること。支那問題については、一、中国の政情安定を図りかつ将来の福祉の増進のため文化及び経済両方面よりその平和的進歩の助成をはかること。二、中国の領土保全、門戸開放、機会均等主義を尊重すること等が必要であるとしていました。
こうした訓令を受けて、日本はワシントン会議に臨んだわけですが、この会議に先立ち、幣原は、アメリカのカレント・ヒストリーという月刊雑誌の求めに応じて、この会議に臨む日本側の立場と政策を次のように説明し、アメリカ人の対日警戒心の払拭に努めました。
「先きごろの世界大職は、米國の地位を金城鐵壁にした。どの國民も國家的自滅の危瞼をおかす勇気なしに、米國に向って戦争しかけることが、出来るものではない。欧羅巴は二千五百哩はなれた米國に何等の威嚇を與へてをらぬ。欧羅巴諸國は、この恐るべき疲痺の際に、緊急に必要とする救援を、米國に待望しているといふ事実を片時も忘れるものではない。國家的な力は拡大した軍備の力に存するのてはなくて、産業組織の完成と進歩の中に存する。米國こそはその事実の巌然たる生きた標本である。
然らば日本はどうか。その人口を養なふのには余りに國土が狭く、いまや工業國へ転換の過渡期に直面していて、その市場も、原料の供給も外國に依存している。だが米國大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか。
然し取り越し苦労性の人間はまたその先きを考へている。日本は比律賓の攻撃ができるのではないかといふのだ。が日本は少しも比律賓を望まない。香港、佛領印度支那、その他西洋諸國の領有してゐる東洋各地に對しても同様である。然り、日本はそれらを望まない。只もしそれか敵の手に落ちるならば日本に對する威嚇として考へるであらうが、然しそれらの國が、日本に對する攻撃計画を立てぬといふ保障を輿へてくれるなら、それで満足する。
然かるに反日的批許家はまた、日本が支那を廣大なる黄禍計書の中に織りこむ意図があるといって攻撃する。「黄禍」といふ悪意に充ちた造語は米國人士の記憶にも新たなる通り、独逸のウイルヘルム二世の発明にかかり、吾々の間を反目させ、米國の目を彼の戦争から外らせようと企てて失敗したものである。もしそんな考へが未だに米國に残っているなら、それは日本が、そんな野望は達成が不可能てあることを明白に認めているのに、米國ではそのことを認識していないことを証明する。
第一、それを達成しようと企てるなら、すでに極東に大きな権益を持つ全ての諸國民と、日本は正面衝突せねばならぬ。第二に、中國を組織し直し、訓練するばかりか、政治的にも統治するなどといふことは、到底手に合うものでない。それが不可能である事は、幾代の歴史が証明している。支那はたびたび侵略され、また征服せられた。然し乍ら何日でも、さうした冒険の終局は、征服者の方が中國の大衆の中に同化させられてしまっているのである。さうでないにしても、征服された國民が戦争の利得の一部をなす筈は決してない。日本が欲しているのは平和と友愛である。戦争と敵ではない。
支那が安定し、繁栄して生産がゆたかになり、購買力が旺盛になることは、日本にとって大きな恵福となるであらう。支那の門戸開放や機會均等は、日本にとってたとへ現実の救ひとならぬとしても、経済的意味がある。支那資源の開発に注がれる何百萬のドルもポソド、スターリングも、フランも、直接に同量の円の節約になる。それは支那にとっては購買力生産力が増加する繁栄を意味し、日本にとっては出費の減ることを意味する。つまり日本にとってもグッド・ビズネスである。
支那に於ける日本の目的 然し支那を助けるための機會均等、そしてそのやうにして吾々自身を助ける道には、日本も參加を拒否せらるべきではないのである。吾々は豊富な資源を持つ米國のやうに、自立は出来ない。又吾々は世界中に足場を持つ英國のやうに、自由に自分の要求を充たし得る帝國でもない。日本の廣さは米國のモソタナ州とほぼ同じで、そこに六千萬の人口を擁している。英國と同じく食糧を海外に求め、生産物は外國市場に売り捌かねばならぬ。支那の市場と資源は他の國々にとっては、ただ貿易を増やすといふ意味を持つだけだが、日本に取っては死活に関する必要である。
日本も、我々の生存を確保するためには工業化せねばならぬ発達段階に達した。亜細亜大陸は、我等の貿易のための材料に富んでいる。我等はそこに機會均等の権利を要求し、他國との競争に於いては地理的地位以上に何の特権をも必要とせぬことを保証する。我等は関係諸國みんなに「生活し、そして生活せしめる」といふ方針の採用を望むだけのことである。
非難者の言に従へば、日本は支那の資源と市場の開発に於いてその國有の諸権利を支那から剥奪するといふ事になる。が、実際はその正反對である、日本であらうと叉英國や米國であらうと、その企画と投資の結果、開発さへされるなら利得する者は支那なのである。正直にいふと、どこの海外貿易者にもあり勝ちなのだが、支那貿易の従事者の間には実に手のつけられぬ無法者がいる。不正直の競争者はどこの國にでも多いので、ひとり日本の独占ではない。無組織の後進國は自國の叉他國から渡来したこれらの人物の犠牲とされる。然し亜細亜大陸は、外國人によって可能ならしめられる農工業によって、多くの恵福を受けることが第一である。
たとへば南満鍼道線に就いていふと、そこは日本があの鍼道を支配する以前は、あの辺りの住民は匪賊の被害で困りぬいたものである。今やそれが支那から一掃され、秩序と法の制度が生命と財産を安定させる状態になったので、支那人はこの新らしい繁昌地に、きそって集りつつある。荒涼たる蒙古の大砂漠の一角をなして、人が住みつかうとしても死滅の脅威にさらされていた地方にも、今や農業が繁栄して、収獲の季節になると、農業労働者がなだれを打って集る状態である。そして数十萬の支那人が毎年山東と直隷を越えて、収穫期が過ぎると南方の家郷に冬を楽しく暮すため、その賃金を持って帰って行く。
開発の計画されるところ、その結果は必ず全世界を利する。現在米國は支那との多くの仕事を、屡々日本と共にしている。支那の國土と天然資源はそれらを容れて余る程厖大である。支那に於いては米國は英國向けの維貨品貿易のある部分を失ったかかも知れない。その代り紡織機械の仕事を獲得した。
これを見れば、ワシントン会議当時、日本に向けられた国際社会の猜疑の目がいかに厳しいものであったかがわかるでしょう。日本は山東問題で中国と対立し、シベリア問題も撤兵はしたもののソ連との関係は険悪であり、アメリカからはその軍事力増強(八八艦隊の建造計画など)を警戒され、日英同盟は効力を失いつつあって、華盛頓会議では日本のみが被告席に立たされるのではないかと危惧されていたのです。
こうした国際社会の猜疑を招いた従来の日本の外交方針を「世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進」という方向に転換しようとしたのは、実は、日本初めての政党内閣首相となった原敬でした。彼は、日本の外交政策に対しては、従来往々「誤解誤謬」があるので、この機会に帝国の真意を闡明にし、国際間の信望を増進することに努めること。特に米国との親善円満なる関係を保持することは帝国の特に重きを置くところであり、ワシントン会議においてもその関係をますます強固にするよう力を尽くすことを日本全権団に求めていたのです。
こうして日本は、軍縮条約に調印すると同時に、九カ国条約によって、中国の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等を約束し、山東問題については中国に大いに譲歩し、二十一箇条問題に関しては第五号案の留保を放棄したのみならず、多年東洋平和の主柱とされた日英同盟条約の廃棄に同意しました。ただし、これに代わって成立した四カ国条約には、軍事的な相互援助の規定は何も設けられていませんでした。
従って、これを批判的に見ると、いかにも米国に都合の良い極東新秩序の押しつけに屈したかに見えます。しかし、これによって日本は、従来の世界的な孤立状態から脱却し、世界の平和秩序の維持に責任を有する世界三大国の一つに列せられることになったのです。また、一見日本が譲歩したかに見える事柄についても、山東や満州における日本の条約上の権益はしっかり確保されており、その上で中国における日本の資本的発展と商品市場の獲得が保証されれば、地理的・経済的・技術的条件からいって日本が不利になるはずはない、と考えられていたのです。
従って、こうしたワシントン会議の結果については、確かに、国内的には部分的に種々なる批判はありましたが、国家としてはもちろん、多数の有識者も何ら不満を感じなかったのみならず、また外国専門家の批評においても、寧ろ日本は多大の成果を収めたという意見に一致していたのでした。こうしてワシントン体制は、その後暫くの間、世界の平和維持機構の中核となったのです。
幣原は、1922年2月4日の第6回国際連盟総会で次のようにこの会議に臨んだ日本の態度を闡明しています。
「日本は條理と公正と名誉とに抵触せざる限り、出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思はない。日本はその提供した犠牲が國際的友情及好意の大義に照して、無益になるまいといふ考への下に欣んでいるのである。日本は支那に急速なる和平統一が行はれ、且その廣大なる天然資源の経済的開発に對し、緊切なる利盆を持つものである。
日本が主として原料を求め叉製造品に對する市場を求めねばならないのは実に亜細亜である。其の原料も市場も支那に善良安定の政府が樹立され、秩序と幸福と繁栄とが光被するに非らざれば得られない。日本は支那に数十萬の在留民を有ち巨額の資本を投下し、然も日本の國民的生存は支那の國民的生存に依存すること大なる開係上、他の遠隔の地に在る諸國よりも遥かに大なる利害関係を支那に有つことは当然である。
日本が支那に特殊利盆を有つといふことは単に明なる現実の事実を陳ぶるに過ぎない。それは支那若くはその他の如何なる國に對しても有害な要求または主張を仄めかすものではない。日本は支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図にも動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。どうして日本は公正且正直に行はるる限り、支那市場に於いて外國の競争を恐れるのか。日本の貿易業者及実業家は地理上の位置に恵まれ、叉支那人の実際要求に付ては相当の知識を有って居る。従って彼等は別に優先的若くは排他的福利を有たずとも、支那に於ける商工業及金融的活動に於いて十分やって行けるのである。
日本は支那に領土を求めない。併し日本は門戸開放と機會均等主義の下に日本のみならず、支那にも利害ある経済的活動の分野は之を求める。日本は國際関係の将来に對し、全幅の信頼を抱いて華盛頓に来た。然して今やその信念を再確保して華盛頓を去らんとしている。日本はこの会議が善い結果を齎らすと思ふた。然して賓際よい結果を齎らした。
今や國民的福祉を破滅し、国際平和に有害なる海軍軍備の競争は過去のこととなった。海軍軍備の制限、野蛮な戦争方法の禁止、支那問題に関する政策の確定を規定する諸協定の成立のよって緊張は解けた。本會議は亦太平洋の委任統治に関する困難なる問題並に更に困難なる山東問題を解決する機會を与へた。」
これを、先の幣原のカレント・ヒストリーに載せた主張とも合わせてみると、この時代の日本の要路における外交的知見がいかに格調高いものであったか判ります。これを、当時の国際政治あるいは支那の現実を無視した理想論だったと批判することは簡単です。しかし、当時の世界が、帝国主義的な国際関係から外交交渉に基づく平和的な国際関係へと転換を図ろうとし、日本もそれに全面的に協力しようとしたことを軽視すべきではありません。
この点は、本論の主題である近衛文麿についても同様です。彼は当時、憲法研究会なるものを少壮議員と共に組織し、政党政派を超えて時事問題を研究しており、太平洋問題については次のような見解を表明していました。
「太平洋問題について会合したところ、色々な議論が出たが、我我は今度の太平洋会議は、列国の我に対する誤解を解き、信用を恢復して、国際的の関係に一新生命を開く絶好の機会であると思っている。そこで我政府に希望するのだが、この機会に日本の公明な立場を宣明して貰いたい。シベリア出兵とか、山東省に於ける軍事的施設とか、幾分なりとも列国から疑いの目で見られている障碍があるなら、会議に先だって之を除いて貰いたい。列國の我を中傷する原因あらば、之を悉く除いて会議に臨んで貰いたい。
かくて我が自由と公正とを列国に明瞭にせねばならぬ。このほかこの機を利用して、対内的にも国民の国際関係に対する進歩せる自覚を起させることが肝要である。桃太郎主義に就ても、他国を侵略し自分独りお山の大将になるというような国民性が我にありはしないか、若しありとせばかかる国民性では、今後の国際政局に立って行く事が出来ぬという教訓を与える絶好の機会である。又縷々聞く軍人政治とか、軍閥政治とかの批評に対しても、深く自ら反省する要がありはしまいか。若しかかる疑いの目を以て見らるる制度ありとせば、速に改革すべきである。
我々の希望としては、米国、濠洲、印度、支那その他各方面に対して、門戸を開放せんことを望むものであるが、これは一朝にして達する事は困難であろう。されど支那に対しては絶対的の機会均等、門戸開放を望むものである。或論者は、米国が今日の如き態度を取っている以上、無条件で支那の門戸開放に応ずることは出来ぬというが、我々は飽迄も機会均等で、特殊の利権に膠着するのは宜しくないと思う。近時の形勢を見るに支那に対しては漸次共同管理の傾向が見えるが、我国としてはあくまで支那の主権を尊重し、列国と力を合せて支那の開発に努むべきものである。」
また、驚くべきことに、後年、幣原外交を「軟弱外交」と批判して若槻内閣を退陣に追い込み、山東出兵を強行して蒋介石の中国統一を妨害し、さらに、張作霖事件を引き起こして日中間の外交的基盤を崩壊させ、他方で東方会議を主催して日本の大陸政策を軍事的強行路線に引き戻した政友会代議士森格も、大正12年頃には、ワシントン会議の結果について次のような評価を下していたのです。
「(上略)又我々は國力の実際と國際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ國策を議するは頗る危瞼であります。世には國力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるか如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓會議を以て我現下の國力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政會の諸君は大なる失敗なり、米國の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。
諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三國干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ國力足らざる結果であります。仮に憲政會の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。
我々は米國を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本國民の堪ゆへからざる處であります・我國の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米國に買われるのであります。米國と國際的に對抗する時はこの生糸か買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬梱の生糸は売る場所かなくなります。
この結果は我か農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我國の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米國より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績か大部分休業するに至ったらば如何なる結果が國民生活に来るでありませうか。國家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。
幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友會の力を率いて能く國論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく。内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(闘東大震災)に遭遇し、國家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らす、幸に外憂の心配なく國威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。
是れをしても外政上の大成功といはすして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、國力の賓際に無理解なりし國民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まっで国民が当時の國力の実際と國際開係を理解するに及び、この講和條約が能く國家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」
ああ、森格がその後党利党略に走ることなく、この常識を維持し、近衛が、彼の影響を受けることなくその人道主義的見識を維持していたならば、幣原がかって一笑に付したような愚かな選択――日本と米国大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか――が現実のものとなることはなかったろうに・・・。
ではなぜ、このような「常識の恐るべき転換」が日本国民に起こったのか、次回はこの点について考えてみたいと思います。 
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今月号(5月号)の文芸春秋の記事に「東大立花隆ゼミが半藤さんに聞いた昭和の歴史――戦争を知らない平成世代は過去から何を学ぶのか」が載っています。興味を持って読んだのですが、その中に近衛文麿に関する次のようなやりとりがなされていました。
学生 日中戦争が拡大し、泥沼の戦争になるきっかけとなった近衛文麿首相の「爾後国民政府を対手とせず」という声明を、近衛が「後から直せばいいと思っていた」ということにも驚きました。
半藤 あれは、昭和史の大失言中の大失言ですね。これも統帥権が魔法の杖ではない、という一つの論拠として本の中で紹介しましたが、あのとき陸軍の参謀本部は日中戦争の拡大にむしろ反対だったんです。多田駿参謀次長は拡大派の広田弘毅外相や杉山元陸相と大ゲンカになり、最後は大元帥への「帷幄上奏」権まで使って、拡大を阻止しようとしますが、結局間に合わず近衛さんが「国民政府を対手とせず」とやっちゃうんだね。だから陸軍だけを悪役にすることは出来ないと思いますよ。
半藤氏はここで、南京陥落後、トラウトマン和平工作の打ち切りを主張したのは近衛首相をはじめとする政府であり、これに対して参謀本部は交渉継続を主張した。しかし、この時参謀本部は統帥権を「魔法の杖」のように使えず、その主張を押し通すことができなかった。もしそれができていれば和平交渉は継続され日中戦争の拡大は防げたかもしれない・・・。このことを考えると、司馬遼太郎が言うように「統帥権を魔法の杖のように振り回した軍部」によって日本が滅ぼされたとは言えない。日中戦争拡大の責任はむしろ政府にあったのではないか、と言っているのです。
こうなると、この時の首相であった近衛の戦争責任は、統帥権を振り回した軍部より重いと言うことになります。確かに「国民政府を対手とせず」声明が余計だったことは近衛自身も認めています。しかし、これは近衛自身の発想というより、南京占領直後の12月14日に北平に発足した中華民国臨時政府の王克敏の要請に基づくものだったのです。ということは、それは、華北に親日的な政権を打ち立てることで蒋介石の国民党政府を否認しようとした軍の大方の意思を反映するものだった、ということです。
こうした軍の北支新政権樹立の構想を時系列的に示すと次のようになります。
「まず北支那方面軍特務部は10月28日付『北支政権樹立に関する研究』で、『北方に樹立すべき新政権は北支地方政権とすることなく、南京政府に代わるべき中央政府とし、日本軍の勢力範囲に属する全地域にその政令を普及せしむること』を提唱した。」
「陸軍省の軍務課も特務部の華北政権の中央政府化案と同様の意見を持っていた。『北支政権を拡大強化し、更正新支那政府たらしむるごとく指導し、あわせてこの地域における産業の開発、貿易の促進、治安の回復・安定をはかり、以て支那の更正を北支より全市に及ぼすごとく施策す』(10月13日)」
「参謀本部・支那課の見解もまた軍務課とほぼ同様であった。同課の11月18日付の『北支新政権樹立研究案』の結論も、『この際、自然発生の気運にある防共親日政権を方針とする北支新中央政権の結成を速やかに援助するを適当とする』とあり、新政権は『支那の真正中央政権』とし、政体は大統領制を適当とすると判断していた。」
「関東軍はもとより新政権樹立には賛成であり、11月29日付の関東軍東条参謀の上申にも『すみやかに蒋政権と交渉を絶ち、各地樹立の政権を培養し、所在にまずこれと提携し新中央政権の成立の気運を促進し、その成熟するや、機をみて日満を以てまずこれを承認し』とあった。」
つまり、このような「華北政権樹立・新中央政府・国民政府との絶縁というコース」は、北支那方面軍、陸軍省軍務課、参謀本部支那課、関東軍の間で一致していた見解だったのです。では、トラウトマン和平工作において蒋介石との交渉継続を主張した参謀本部の多田次長や戦争指導班の堀場参謀は、こうした陸軍の華北親日政権樹立の構想についてどう考えていたのでしょうか。
確かに、多田参謀次長は、上海事変が拡大し日中戦争が長期持久戦となることを恐れて戦線を上海地区だけに止めようとしました。しかし、現地軍の要望に押される形で、南京へと潰走する中国軍に対する追撃を許可しました。ただし、11月7日には蘇州―嘉興線、11月24日には無錫―湖州線と二度に渡って進出限界線を設定しました。しかしながら、このいずれも現地軍の要望を受け入れる形で撤回し、11月28日には南京攻略を許可しました。
また、参謀本部戦争指導班の堀場少佐は、石原イズムの観念的信奉者で、上海制圧後は松井石上海派遣軍司令官と同様南京攻略を唱道しました。ただし、「攻略はせず兵を城下に止め、蒋介石との直接会談によって蒋を和戦究極の決定に導く」という「按兵不動策」を提唱しました。しかし、これは部内の反対でつぶれ、結果的には、堀場の意図したところとは全く違って、いわゆる「南京事件」につながる悲劇的な南京占領をもたらすことになったのです。
その後、多田と堀場は、南京占領後のトラウトマン和平工作の展開における第二次和平条件の策定において、陸軍内の強硬派の主張――典型的には、北支における「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」の設置――を、講和が成立するまでの保障条項として押し込めることに成功しました。これによって、堀場は「蒋介石に日本の真意(日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に相提携すること)を通達し、肝胆相照らせば必ず大乗的解決はできる」と判断していたのです。
だが、蒋介石はこれを信じませんでした。というのは、満州を武力で奪われた上に、北支にはすでに「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」であるところの、王克敏を行政委員長とする日本の傀儡政権=中華民国臨時政府が北支派遣軍により樹立されている。そして、これが解消されるためには、まず日本が提示した11条からなる「半植民地的」講和条件を呑まなければならない。また、それを呑んだとしても保障事項は講和後もそのまま残り、中国が日本の理想実現に真に協力的だと日本が認めた時に初めて解除される、という代物だったからです。
そもそも、蒋介石が抗日戦争を決意したのは、済南事件以降の日本との交渉を通して、(とりわけ満州事変以降)日本が政府と軍部との間で二重権力状態に陥り、かつ日本政府が軍を制御できなくなっていると見たからでした。軍は、武力を背景に既成事実の積み上げることで日中間の領土・経済問題を解決できると考えている。また、そうした軍の行動を支えているのは、自分勝手な東洋王道文明思想であり、それに基づいて日満支一体の政治・経済・文化圏構想を抱いている。それが、満州事変以降の日本軍の行動となって現れ、今日、それは、華北分離からさらに進んで、華北新政権を樹立しそれを中央政権化しようとしている。
蒋介石はそう考えていたのですから、仮に多田や堀場の主張が通って蒋介石との和平交渉が継続されていたとしても、蒋介石がそれに応ずることはなかったと思います。その結果、北支に成立した中華民国臨時政府を日本政府が承認し、蒋介石政権を否認するという同じ結果になったに違いありません。ということは、多田や堀場がこの局面において、日中戦争を泥沼化しないために取るべき措置は何だったかというと、それは、まず軍の統制を回復し、北支に日本の傀儡政権を樹立するようなことは絶対に阻止する、ということだったのです。
半藤氏は、以上述べたようなトラウトマン和平交渉の経過について、参謀本部が統帥権を行使できず、政府の交渉打ち切り方針に従った点を捉えて、軍の統帥権が絶対なものでなかったことの根拠としています。しかし、それは軍の意見が、多田や堀場等一部参謀本部員と、その他の軍人(=参謀本部支那課、陸軍省、出先軍、関東軍)との間で分裂し、かつ、多数派は交渉打ち切りを支持しており、多田や堀場の主張は、軍内では少数派に過ぎなかったことの結果にほかなりません。
一方、近衛や広田はなぜ、日中戦争を泥沼の持久戦争に陥れかねない、中華民国臨時政府の承認と、その必然的結果である蒋介石政権の否認という、軍の華北分離工作を追認するかのような施策をとったのでしょうか。彼らは、蒋介石が和平交渉に応ずる絶対条件が「(国民党による)華北の行政権が徹底的に維持されること」だったことを知っていたはずです。だから、盧溝橋事件が起こった時、戦争拡大を防止するため、この事変を「第二の満州事変たらしめないこと」「北支にロボット政権を作らないこと」を軍に約束させていたのです。
それがどうして、このようなことになったか。いうまでもなく、広田も近衛も戦争拡大には反対だった。しかし、軍は自らを統制できないまま南京を占領し、その既成事実の上に講和条件を加重して蒋介石を屈服させようとした。しかし、蒋介石にそれを受け入れる意思がないことが明らかになった後も、多田は自ら講和条件の加重に荷担しておきながら交渉を継続すべきと主張した。広田や近衛はこの参謀本部の主張の”おかしさ”について、あるいは独逸のヒトラーとの間に密約でもあるのではないかと疑った。そのため、1月11日の御前会議ですでに決定されていた通り、蒋介石との交渉打ち切りを選択した。その結果として、政府も軍が華北に樹立した新政権を容認することになり、さらに、その延長で蒋介石政権を否認する声明を出すことになってしまった・・・そんなところではないかと思います。
このあたり、広田も近衛も先に紹介したような蒋介石の決然たる抗日意思――抗日戦争を不可避と見て、これに勝利するためには持久戦争に持ち込むほかないと考えていたこと――を読み違えていたと思います。というより広田の場合は、その頃既に日本外交を壟断する軍部に対する消極的な抵抗しかできなくなっていましたし(軍のやったことは軍が自ら責任を負うべきだ、といった考え)、近衛の場合は、軍の先手を取ることで軍を思想的に掌握しそれを善導できると考えていたが、実際には、軍に担がれ利用されるだけで、その焦慮感から、世論に対して迎合的な態度を取ることになったのだと思います。
こうした近衛の失敗は、評論家的な批評はできても、それだけでは現実政治を動かす力とはなりえないことを示していると思います。もちろん、この時、近衛は首相の職に在ったのですから、その政治責任は免れないと思います。しかし、政治の実権を実質的に軍が掌握している現実の中で、軍の意思が二つに分裂し、多田等少数派の主張が容れられなかったことについて、その責任を近衛や広田に帰すのは無理があると思います。先述した通り、多田や堀場の主張が蒋介石に受け入れられるはずはなかったわけで、それは、彼らが軍の統制に失敗した結果であり、所詮身から出たさびというほかないからです。
なお、先に「近衛の失敗は、評論家的な批評はできても・・・」と言うことを申しましたが、ここで、近衛の「軍のあり方」に関する考え方を、彼の講演記録の中に見てみたいと思います。
近衛に対する一般的なイメージとしては、北支事変の際の「派兵の決定や、当初の不拡大方針を事実上転換した「暴支膺懲声明」、トラウトマン和平工作(で)、国民政府との交渉を閉ざしたこと、第一次近衛声明(「国民政府を対手とせず」)などの重大局面で判断を誤ったことが指摘されます。要するに、軍のお先棒担ぎで、軍に利用され担がれただけの意志薄弱かつ無責任な人物、という人物評が通り相場になっているのです。
確かに、こうした評価は、政治家としてはやむを得ないと思いますが、しかし、彼の本来の軍に対する考え方は、決して半端ななものではなく、その主意は、いかにして軍を政治のコントロール下に置くか、そのためにはどのような政治勢力の結集が必要か、ということだったのです。ただ、お公家さんであって、それだけの政治力の結集や胆力の発揮ができなかった、ということなのですが・・・。
次に、近衛が、第一次世界大戦後の日本及び参謀本部の有り様を論じた「参謀本部排撃論」と題する大正10年の講演内容を紹介しておきます。
近衛の「参謀本部排撃論」
近衛は大正十年十月国際連盟協会の理事として、亀井陸朗、加藤恒忠らとともに愛媛県に遊説。十一日夜松山市の公会堂で風邪を押して演壇に立ち、「国際連盟の精神について」一場の講演をした。
彼は歴史的な連盟規約の調印式を親しく見て来たことから説き起し、パリに集まった列国は依然として国家的利己心を脱却せず、「痩犬が餌を漁るような醜態を暴露して、肝腎の国際連盟は誠に骨抜同様のものと化し」たとして、現実の連盟が不完全であり、「或は無効となる日があるかも知れない」というが、しかしこの連盟の生れた精神は、国際関係を律するに「暴力を以てせずして正義を以てせんとする」ことで、これは永久にわれらが深く了得すべきことだと論じている。これらの論旨は既に前に出したことと大差ないからここでは省くが、そこから近衛はわが国の軍国主義を非難するのである。
彼によれば、日本人は十九世紀から二十世紀にかけて、列国のアジアにおける帝国主義侵略主義を経験して、「人を見れば泥棒と思え」という警戒心を植えつけられたが、日露戦争に勝ってからは、「今度は人が泥棒したのだから、己が泥棒をして宜い」という方針になったとし、そのため「日本の軍国主義、侵略主義は、日露戦争後二十年間極東の舞台を事実上支配して、その結果は今日の如き八方塞がり、世界的孤立の状態を誘致するに至った」というのである。
彼はこの孤立がパリの平和会議の時如実に現われたのだとし、「当時彼地に居った我々は実に四面敵の重囲に陥って、楚歌を聞くの感があった」と言い、これを「光栄ある孤立」などと言った者もあるが、当時のごうごうたる悪声怒罵の中で、「日本は決して侵略主義の国に非ず、支那人のプロパガンダの如きは、全然事実を謡うる甚しきものである」と、キッパリ断言し得る者は一人もなかったとし、誤解や誇張もあったけれども、「我々の如き従来わが軍閥の支那西比利亜に対する所謂ブンナグリ、ヒッタクリの方針に対し眉をひそめつつあった者は、かかる批難攻撃に対して、実は心中甚だ忸怩たらざるを得なかった」と告白している。
そこで日本が今後国際舞台で局面を展開するには、列国をしてわが国を批難攻撃せしめるような原因を除くことが根本だが、その一つとして近衛は参謀本部制度を指摘している。
要するに我国の参謀本部というものは、独乙を学んだものであって、独乙軍閥亡びて後の今日は、世界に於て唯一無二の制度であります。故に我国を目して軍国主義侵略主義の国であるとし、第二の独乙であるとする人々に取って、此の参謀本部の制度というものは、有力なる例証を提供しつつあるのであります。
一体我が参謀本部は、国防及用兵の事を掌り、其の職能は軍令事項の範囲に限られて居るべき筈であるにも拘らず、参謀総長は往々軍政事項にも干渉する。そこで参謀総長と陸軍大臣とが衝突するという様な例も、最近に起ったのでありますが、参謀本部は更に外交上にも干渉して、外務省と衝突する。所謂軍人外交、軍国主義の批難は、主として参謀本部が外務省に掌肘を加える処から生ずるのであります。陸軍大臣の方は、一方に於て帷幄上奏という如き甚だ非立憲的な行動を許されて居るけれども、他面に於ては閣議によって拘束せられるし、又議会からも糾弾せられるのであります。然るに参謀総長に至っては、議会に対しても閣議に対しても何等責任を負う所がなく、又之を負わせる道が絶対にないのであります。
そこで日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これでは到底議会政治、責任内閣の発達を遂げる事は出来ぬのであります。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の批難を免れる為には、是非とも此の参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何よりの急務であると信ずるのであります。と頗る激烈である。
近衛は、根本問題は、日本国民全体が国際関係に対し、もっと進歩的な自覚を持つことだし、日本の教育が一旦緩急の場合、一身を国に捧げるというようなことを重んじて、「平和的なインターナショナル・シティズン」の養成を忘れていると非難し、支那や加州での排日を憤る前に、先ず自ら深く反省の要があるとし、「私は国民の国際関係に対する思想が今日の如き状態であるに乗じ、狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する様な場合を想像して見ますと、誠に慄然たらざるを得ぬ」といい、それだから国際連盟の精神を、広く一般人に理解体得せしめることが、極めて大切なのだと説いているのである。
近衛のこの講演は、聴衆に多大の感銘を与えたようである。同地の新聞が皆感激の調子で報じているが、一新聞(海南新聞)は、「真率にして偽らず、直言して諱まず・・・公が軍閥の弊を決剔し、軍政の陋習を指摘すること峻烈にして、毫も仮借する所なかりしは近来の快事」と評している。又一般に近衛が華族特権階級の子弟でありながら、旧慣を打破し因襲より脱却して、社会的に有為の活躍をしていることを取上げて、讃辞を呈している。
この点は地方新聞のみならず中央でも同じで、大正十年三月二十六日の東京朝日新聞など、「公卿華族の社会的特権を奉還して、一平民となりたい希望を漏らした華冑界の新人近衛文麿公」と書いているし、どこでも近衛は、「華冑界の新人」とか、「新人公爵」とか、「華冑界の新思想家」などともてはやされ、一躍時代の寵児となった感があった。
これは、その後の軍の統帥権問題の発生と、その結果日本が陥ることになった二重政府状態の危険性を、その10年前に予言したものと言うことができます。そして、こうした日本の参謀本部の有り様が、国際社会をして日本を「軍国主義・侵略主義」と見なす根拠になっていると指摘しています。あわせて、そうした国際社会の批判に乗ずる形で、日本において「狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する」状況が生まれていることに対し、鋭い警鐘を鳴らしています。
当時、これだけの言論を展開し得た人物は政治家にはいなかったわけで、その彼がどうして、彼が危惧した通りの現実に際会する中で、その透徹した見識と決然たる意思を示すことができなかったのか、次回はこの謎を森格との関わり合いの中で探ってみたいと思います。 
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前回は、南京占領後のトラウトマン和平工作の取り扱いを巡って、政府と参謀本部が意見対立し、政府がその打ち切りを主張したのに対して、参謀本部が継続を主張したことについての私見を申し上げました。
これについては、一般的に、政府が交渉打ち切りを主張したことを慨嘆する意見が多く、これをもって、日中戦争が泥沼化したことについて、軍部より政府(=近衛首相)の責任を追求する意見が大半を占めるようになっています。しかし、私は、それは軍内部の意見が割れたためであって、かつ、多田等は少数派に過ぎず、軍内の多数派は交渉打ち切りを主張していたこと。従って、もしこの時、多田等が本当に和平交渉を継続することによって日中戦争の拡大を阻止したかったのなら、まずやるべきことは、北支那方面軍等が推し進めている華北の新政権樹立をなんとしてでも阻止することだったのです。
従って、この件をもって、統帥権のオールマイティーを否定する論拠とすることはできない。司馬遼太郎は「軍部がうまく統帥権を使い、国家の中にも一つの暴力的国家を作った。それによって日本は滅びた」と言ったのですが、この認識は間違ってはいない。問題は、統帥権自体にそんな力があったわけではなくて、大正時代でも、前回紹介した近衛の参謀本部論に見るように、それは政治のコントロール下に置かれるべきものとされていた。それがなぜ、昭和になって統帥権が拡大解釈され、手のつけられないものになったか、その真因を探ることが大切なのです。
そこで、その真因についてですが、半藤氏は前回紹介した立花隆ゼミの学生との対談の中で次のように言っています。
「ところが昭和になって、北一輝という右翼思想家が統帥権の魔力に気がつき、軍隊は政治の外側に独立するもので政治が文句を言う筋合いはないんじゃないか、と言い始めた。」さらに「北は、統帥権についてまず軍をたきつけ、陸軍は野党の政友会を利用した。ロンドン軍縮会議の時に鳩山由紀夫さんのおじいさんの鳩山一郎や犬養毅らが、議会で『統帥権干犯』と騒ぎ出した。政治が海軍の兵力を削減するのは、天皇の統帥権を侵すものというんだね。つまり、今でいう『政局』に利用したんです。この時から、『統帥権』が、ものすごい力を持つ政治的な道具になってしまった。軍部の政治進出のキッカケとなった。」
これも一般的に言われていることであって間違いではありませんが、では、鳩山一郎や犬養毅という政治家が「統帥権を手がつけられないもの」にした元凶かというとそうとは言えないと思います。実は、この統帥権干犯問題には伏線がありました。その伏線を敷いたのは政友会田中義一内閣で外務次官(田中首相が外務大臣を兼任したので実質的には外務大臣)を務めた森格で、彼は、この田中内閣にあって、それまでの対中不干渉主義を基軸とした幣原外交に対するアンチテーゼとしての大陸積極政策を、田中を強いる形で押し進めました。
まず、昭和2年5月、蒋介石の第一次北伐に際して、山東の日本人居留民を現地保護すると称して第一次山東出兵(約4000人)を行いました。この時は、北伐が途中で中止されたためで9月に撤兵しました。しかし、この間、森格は大陸積極政策を日本の統一政策とするため、「軍部との提携に努め、また、官界、財界の各方面に人材を求めて、それを糾合、網羅」することに努めました。
この間の事情を、当時参謀本部作戦課にいた鈴木貞一は次のように語っています。
東方会議の前に、森が会いたいというので会った。どういうことかと聞くと、森は政治家と軍が本当に一体にならなければ、この大陸問題の解決は難しい。自分は東方会議を開いて積極的大陸政策を日本の統一政策とするつもりだが、あなたの意見を聞かせてくれという。そこで、私は、「日本の現在の状態は、一遍○○○○なければ大陸問題の解決は困難だ。」そのために私は軍内の歩調を固めるため、参謀本部、陸軍省の若い連中(石原完爾や河本大作など)と会い、次のような方針を得ている。(○部分は伏字だが、おそらくその後の軍による政治クーデターにつながる内容のものだろう)
それは、「満州を支那本土から切り離して、そうして別個の土地区画にして、その土地、地域に日本の政治的勢力を入れる。・・・これがつまり日本のなすべき一切の、内地、外交、軍備、その他庶政総ての政策の中心とならなければならない」というもの。しかし、これを急にやろうとしてもなかなか難しい、というと森は直ちにこれに同意しそれで行こうということになった。その後森は、奉天総領事の吉田茂やアメリカ大使の斉藤博と相談し、この計画を、元老や重臣、内閣や政界が承諾しやすいものとするため、これをオブラートに包む方策として東方会議を開催することになった、と。
結果的に東方会議では、満蒙における日本の特殊利益を尊重し、同地方の政情安定に努める親日的な指導者はこれを支持するとか、万一動乱が満蒙に波及し治安が乱れて、満蒙の我が特殊の地位や権益の侵害の恐れがある場合には、その脅威がどの方向から来るかは問わずこれを防護する、などの比較的穏当な「対支政策要綱」を提示するに止まりました。しかし、森等の真のねらいは、この後者の防護策において、武力を用いた積極的大陸政策を推進することに公認をとりつけることでした。その結果、三次にわたる山東出兵や済南事件、さらには張作霖爆殺事件を引き起こされることになったのです。
とりわけ、この済南事件における日本軍による済南城攻撃は、居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものでした。こうした軍の行動の背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え(注1)、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのです。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、張作霖軍を武装解除するなどして下野に追い込もうと、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。
(注1) 済南事件当時、陸軍側の軍事参議官会議が開かれており、その会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。
「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」 「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」
こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったか。このことは、田中首相の「不決断」で「計画」が水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。この時、関東軍斉藤参謀長は日記に「現首相の如きはむしろ更迭するを可とすべし」と書き、「村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示」し、これを察知した河本が「張抹殺は私が全責任を負ってやります」と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させた、といいます。
言うまでもなく、この張作霖爆殺事件は、こうした軍の大陸政策にかける思いが関東軍の青年将校たちにいかに強烈だったかを物語るものです。河本は張作霖爆殺後、関東軍に緊急集合を命じ、張作霖の護衛部隊と交戦しようとしましたが、参謀長斉藤恒が(連絡不足から)これに阻止命令を出したため、この事件は不発に終わりました。河本は、もしこの時「緊急集合が出ていたら満州事変はあのとき起きていただろう」と語ったとされます(田中隆吉証言)。それにしても、なぜ、時の首相の方針を無視したこんな暴虐な行動が一参謀に執れたのでしょうか。それは、先の東方会議における森の秘密「計画」なしには考えられません。
ここで確認しておくべきことは、この森と、首相であった田中義一との関係ですが、一般的には、幣原外交が不干渉主義であったのに対して、田中外交は実力行使の積極主義外交と理解されています。しかし、この田中外交は、森と軍の青年将校とが組んだ新体制運動と、張作霖支援を基本とする田中の満州開発論とに分裂していました。この思想的混乱を是正できなかったことが、張作霖爆殺事件を生み、さらにその隠蔽工作となり、そして張学良を後継者とし、その挙げ句の果てに、張学良による中国国民党への易幟へとつながることになったのです。まさに森は、田中にとって「獅子身中の虫」というべき存在でした。
本稿では、森格資料として『東亜新体制の先駆 森格』を重用しています。この本は、昭和14年に出版されたもので、日本の満州事変以降の大陸政策を形作ったものは森格であるということを論証し、それでもって昭和7年12月に病死した森格の事績を称揚するために書かれたものです。従って、森格の行動の真意を知る上では格好の参考資料となっているわけですが、この本の中では、田中首相と森との葛藤関係は次のように説明されています。
「田中男は東方会議の当初、『おら決心したから、世界戦争もあえて怖れない』と断固たる決心と態度を示した。その東方会議で決定した政策を、愈々、実行に移す瀬戸際に立つと、卒然として『一時中止』の裁断を下して些かも矛盾を感じなかった。その結果大陸政策の遂行上、千載の好機を逸したことになった。
田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は、華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。
我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋に於ける二大国が血みどろになって相克抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」  
要するに、済南事件の後に引き続き満州事変を起こすべきであったと言っているわけです。しかし、済南事件で日本が武力でもって中国の統一を阻止し、かつ、張作霖を倒して満州を武力占領するというようなことが、この時点で可能だったとはとても思えません。中国問題はあくまで華府会議で定まった九カ国条約に基づいて処理する他なく、これを無視して、帝国主義時代に逆戻りするようなむき出しの武力占領をやったとしても、中国はもちろんのこと、それを当時の国際社会が受け入れたはずがありません。
こうした森等の考え方は、いうまでもなく、当時の、国際社会秩序であるワシントン体制を破壊しようとするものであり、国内的には、そのワシントン体制を支持する政党政治を転覆させ、政治家と軍が一体となって、独裁的「新体制」を確立しようとするものでした。しかし、こうしたもくろみは、張作霖爆殺事件の不発によって挫折しました。しかし、森格等は、この事件の真相を隠蔽することで、その背後にあった「計画」を温存し、田中内閣崩壊後の浜口内閣では、「統帥権干犯問題」を持ち出して倒閣を画策する一方、その背後で、例の「計画」のクーデター的実行を予定していたのです。
いうまでもなく、それが満州事変だったわけですが、これについて、森は、それは中国が「日本との間に損する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」国だからであり、「こういう暴力団を相手に協調外交、譲歩外交、フロックコートを着て馬賊に対するような国際正義外交を日本が一方的にやってみたところで何の効果もない。所謂外交では今や全く絶望状態なのである」といい、あたかも、日中間の条約や国際条約を無視したのは中国であるとの欺瞞的宣伝を国民に対して行ったのです。
また、この満蒙問題を解決することが世界史的にどれだけ重要な文明史的意義を秘めているかを次のように宣伝しました。
「満蒙は世界的にいかなる地位を占めているか。即ち欧亜大陸の東の関門である。西反面に爛熟せる欧亜の文化は東反面の新たなる力によって、刷新復興さるべき運命を担っている。この新興勢力の通過する道が満蒙である。」これに対し「積極的態度を持し断固としてこれに臨めば、世界平和の発祥地となり、世界文化増進の関門となるべき運命を有している。」
その一方で次のような本音も漏らしています。
「満蒙に於ける事端はその何れを捉えても日本の生存権と密着し、離すべからざる因果関係を有しているのである。古往今来、何れの国を問わず事故生存権のためにする努力は絶対的のものであって、外来の圧迫、環境の如何、条約の拘束もこれを左右することは不可能である。死ぬか生きるかの境に立ったものの叫びは真実であり絶対である。
このことを判然と認識しなければならない。これを解せぬ腰の弱いハイカラ一点張りの軟弱外交は、日本の存立権を自ら犯すものであって、危険千万といわねばならぬ。」
このあたり、近衛文麿の「持たざる国論」との接点も見えてきますね。これが、近衛文麿の満州事変に対する肯定的評価にもつながっていくわけですが、こうした森格の言説はまさに黒を白と言いくるめるもので、どうも近衛にはそれが見えていなかったようです。というのも、森の「日本との間に損する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」という中国に対する批判は、実は、彼の山東出兵以来の軍と一体となった秘密の「計画」行動がもたらしたものだったからです。
で、この森格の草稿は次のような結論で結ばれています。
「さて結論に於いて、私は先日政友会に報告した通り、支那の排日指導方針の下に悪化せる満蒙支那の解決のためには、国力発動以外の道がないと断ぜざるを得ないのである。国民個々の統一なく連絡なき努力では如何とも効果の奏しようがないからである。ただ国力の発動とは、具体的に何を指すか、私個人としては勿論案を有しているが、今日はまだ公表し実行しうる時期に到達していないから、諸君の解釈に一任しておくより仕方ないのである。」
この草稿は、満州事変勃発直前の昭和6年9月6日に執筆されたもので、昭和6年10月号の「経済往来」に掲載されたものです。これで、森格が、石原完爾等の引き起こした満州事変というクーデター計画にどれほど深く関与していたかが判りますね。森格はそうした関東軍一部将校による行動を、文明論的に、また日本の生存権に関わる問題としていかに正当化するか、その宣伝工作に邁進していたのです。
そして、この宣伝に日本国民は見事にだまされたわけで、以後、日本人は満州事変に於ける日本軍の行動を「報償」(国際的不法行為の中止や救正を求めるための強力行為と定義される)と理解し、それを強く支持するようになりました。
最近は、これと同じ理屈で満州事変を正当化する人たちが出てきていますが、幣原外交から田中内閣における森格の行動をつぶさに観察してみれば、これが誤魔化しであることは一目瞭然です。私は、やはり、幣原外交の方が正しかったと思うし、これが継続されていれば、国際社会における日本の信用は保持され、その後の中国の革命外交と称するものが、当時の国際社会において容認されることもなかったと思います。さらに、満州における国権回復運動もそれが行き過ぎれば、当然それに対する「報償」的軍事行動も、幣原外交の元で選択されたと思います。
以上、田中内閣のもとで森格が何をやったかということを紹介してきましたが、彼は、例の「計画」に基づく行動を、犬養毅が政友会総裁となった時にも行ったのですね。それが、本稿の冒頭で紹介した、犬養毅と鳩山一郎を「統帥権干犯問題」追求の矢面に立たせた行動に現れているのです。この時、犬養も鳩山も思想的には議会政治を否定するような気持ちは毛頭なかった。ただし、政友会vs民政党という二大政党制の中で、森格に慫慂され党利党略的な行動をとった、というのが事の真相だと思います。
*この二大政党制下の党利党略という問題は、現在の民主党政権下でも露骨に現れています。
こうして森は、「統帥権干犯問題」を議会政治に持ち込み政争の具とすることによって、田中首相に続き浜口雄幸という政党政治家をテロの標的としました。さらに、犬養が政友会総裁であった時には幹事長として、また、犬養内閣の時は書記官長として、例の「計画」を裏で推進し、ついに、満州事変の処理を巡って、またもや犬養という政党政治家を海軍軍人によるテロの標的にさらすことになりました。
この日本の政党政治にとってまさに元凶というべき政治家森格の評価について、今日もそれが極めて曖昧なままに放置されていることについて、私は大きな疑問を持っています。
ところで、この森格も、ワシントン会議当時は、これについてまともな論評を下していたことを、本稿(5)で紹介しました。また、満州問題の処理についても――長くなるのでその紹介は次回に回しますが――割と常識的な考え方をしていたのです。同様のことは近衛についても言えますね。ではなぜ、森が、以上紹介したような、日本の政党政治を自滅の道に追い込むような役割を演じることになったか。また、あれだけ正論を吐いた近衛が、なぜ森の思想を認めることになったか。この辺りの事情を、次回はさらに詳しく探ってみたいと思います。 
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前回、森格が、日本の立憲君主制下の政党政治を、軍と連携して一国一党の国家主義体制に作りかえようとしていたことを紹介しました。この点について森恪伝では次のように説明しています。
「ロンドン条約を繞る森の活動は、その一面では日本の国家主義運動発展の基礎となった。日本の国家主義運動、普通には、一概に、右翼運動といわれるところの運動は、思想的には、欧州戦争後の自由主義、平和思想からマルキシズムの左翼運動に展開していった潮流に対する反動として、また、外交政策としてはワシントン条約以来の屈辱に対する反抗として、更に、国内的には政党政治の余弊に対する反感として、大正十二年の大震火災以来、漸く、成長の段階に入っていた。
それが大陸政策の形で、現実政治の上に姿を現し始めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、国内の政治運動として勢力を広げ始めたのはロンドン条約の問題(=統帥権干犯問題)からである。
森によって、或いは森の政治活動を機縁にして、政治の現実の足取りを取り始めた日本の大陸政策と国家主義的思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相克しながら、年一年と発展していった。今日、所謂革新外交とか政治の新体制とかいわれるところの政治理念は、森格に発しているといってもあえて過言ではあるまい。」
この本が書かれた昭和14年頃は、満州事変以降の日本の大陸政策や、日本思想の国家主義化は当然視されていて、それを基礎付け発展させたのが森挌だといっているのです。そして、その仕上げとなったものが統帥権干犯問題であり、それを政治問題化することで国際協調・平和外交を推し進める民政党からの政権奪還を図ったのが、森恪だと言っているのです。 
この辺りの事情について『太平洋戦争への道』では次のように説明しています。
「森格の伝記によれば、森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行ったと記されている。
(また)岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』と答えていた。」
つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家であったということです。そして、その首謀者が、当時政友会幹事長だった森恪であり、政友会総裁だった犬養も、彼が構想した党略に乗ることになったわけです。このことについて、当時の新聞は次のように批判しています。
「ロンドン軍縮会議について、政友会が軍令部の帷幄上奏の優越を是認し、責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如きは、・・・・いやしくも政党政治と責任内閣を主張すべき立場にある政党としては不可解の態度といわなければならぬ。しかもそれが政党政治確立のために軍閥と戦ってきた過去をもつ犬養老と、政友会の将来を指導すべき鳩山君の口より聞くにいたっては、その奇怪の念を二重にしなければならないのである。」
ではなぜ、犬養がこのような「二重に奇怪な」政治行動をとることになったか、ということですが、一つは、二大政党がせめぎ合う中での党利党略ということもあったでしょうが、もう一つは、犬養が政友会総裁になれたのは森恪の政治力のおかげだった、ということもあったと思います。しかし、より本質的には、そうした森の党略の背後にある秘密の「計画」を、犬養が見抜けなかった、ということではないかと思います。
というのは、犬養には、海軍軍縮問題についての彼自身の考え方があり、その本音は「日本のような貧乏世帯でもって、いつまでも、軍艦競争をやられてはたまらない」ということであり、軍縮会議には賛成していたのです。結果的には、統帥権干犯問題は、先述したような森の必死の裏工作の甲斐なく、昭和5年10月1日には、枢密院が次のような統帥権干犯問題についての審査報告を行い、また天皇の批准もなされて、政治問題としては収束しました。
「本条約調印の際、内閣の執った回訓決定手続きに関し、海軍部内に紛議、世間に物議を醸したのは遺憾であるが・・・軍令部長にも異議がなかったとの政府答弁、海軍大臣より海相・軍令部長官の意見一致とのこともあり・・・いわゆる統帥権問題は討究する必要がなくなった・・・。是、本官等のすこぶる欣幸とするところである・・・。」
しかし、それを再び政治問題化したのは、またもや森恪でした。
これは、昭和6年2月2日の衆議院予算総会において、当時一年生議員だった政友会の中島知久平が、統帥権干犯問題を蒸し返して幣原首相代理・外相に質問したのに対して、幣原が「この前の議会に浜口首相も私も、このロンドン条約をもって日本の国防を危うくするものではないという意味は申しました。現にロンドン条約はご批准になっております。ご批准になっているということをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではないことは、明らかであります」と答弁したことに端を発しています。
このやりとりについて、ほとんどの議員は、”またまた、蒸し返しの論議をしている”という具合にしか受け取らなかったようですが、傍聴に来ていた森恪は、右手を挙げて幣原を指さし、「幣原っ!取り消せ!取り消せ!」と絶叫しました。これで眠りかぶっていた政友会議員はようやく森のことばの意味を理解し、総立ちになって幣原にこの答弁の取り消しを求めました。
その理屈は、「天皇が批准したから国防上問題がないという言い方は、陛下に対して輔弼の責任を負うべき内閣の責任を、天皇に負わせるものだ」というものでした。確かに、幣原の言い方も不用意だったわけですが、その言葉の前段では、内閣の判断であると断っており、後段で、すでに天皇の批准も得ていることを付随的に述べたに過ぎません。しかし、森はこれを「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか」「単なる失言ではない」と食い下がり総辞職を迫り、これを重大政治問題化しました。いわゆる「天皇の政治利用」ってやつですね。
これで衆議院の議事は一切停止してしまい、「恥を知れ!売国奴」といった怒号が飛び交い、果ては乱闘となり、双方に負傷者を出て、警察官も導入されるなど、議会の大乱闘事件に発展しました。この間の森の思惑について、例の森恪伝では次のような説明がなされています。
この「きっかけを作った者はかねてから、幣原外交の大修正を志し、対支積極政策、満州問題の解決を計画していた森恪であった。」「森はこのチャンスを逃さず一挙に倒閣を敢行しようと腹中に知謀を蓄え、外面には専ら実力派の代表として党内の世論を倒閣一方に導くに努めた。」
さらに次のようなことも述べています。
「森の腹にはもう一つの秘密が蔵されていたと推断すべき理由がある。当時既に陸軍の一角には幣原外交に対する満々たる不満が蔵されており、森と志を同じうして満州問題解決を急務とする人々は、ある一種の決意を蔵しておった。議会がこの所謂醜態が長く続く時には、院外の諸勢力が議会を包囲するかも知れぬ。(三月事件が示唆されている)而してその勢いを以て幣原退嬰外交を精算すれば外交の大転換を来たし、政治勢力の一大変革が期待される。」そういう狙いを森は持っていたのではないかというのです。
それにしても、三月事件というのは、第五十九議会の開催中の3月20日、大川周明がデモ隊を以て議会を包囲する一方、右翼が政友会、民政党本部、首相官邸を襲撃し、軍が治安維持のため出動し、軍代表が議場に入り、内閣に総辞職を強要、元老の西園寺公望に使者を立てて、宇垣一成陸相のもとに大命を降下させ軍部革新政権樹立するというクーデター計画(未遂)でした。こともあろうに、それを、政友会幹事長の森が誘引しようとして、あえて議会を混乱に陥れたのではないか、というのですから、贔屓の引き倒しというべきか、あり得ないことではないだけに、まさに肌に泡する思いがします。
では、こうした森の計画に対して犬養はどう対応したか。森恪伝には次のように書かれています。
「犬養政友会総裁は、森ほど深く倒閣の情熱を持っていなかったし、叉、総裁本来の主張から云っても、議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演は心中苦々しきことと考えている。政府が頭を地にすりつけて謝罪してくれば許してやってもいいという腹があった。」結局、幣原が「過日中島君の質問に対し答えましたる私の答弁は失言であります。全部これを取り消します」と言うことで、政友会の主張は貫徹されたと見なし、犬養首相がイニシアチブをとって天下り的な妥協がなされた・・・。
こうして、森恪が策した「計画」は再び不発に終わったわけですが、しかし、この間、森が火をつけた統帥権干犯問題は、自由主義や政党政治に反対し国家主義を唱える軍や右翼を一層勢いづかせることになり、浜口雄幸首相が右翼のテロに遭って重傷を負う(後死亡)という悲劇を生むことになりました。その実行犯である佐郷屋留雄が所持していた斬奸状には、統帥権干犯の元凶として浜口と幣原の名が記されていました。
そして犬養自身も、犬養内閣を組閣後、関東軍の一部将校が独断専行的に引き起こした満州事変の収拾策を繞って、森恪や軍と対立し、昭和7年5月15日、海軍将校のテロに遭い、こめかみに銃弾を撃ち込まれることになりました。この時の犬養が蔵していた満州事変の解決策とはどのようなものであったか。一つは、当時、若手将校に声望のあった荒木貞夫を陸相に据えることで、陸軍の独断専行を抑止しようとしたこと。もう一つは陸軍の長老の上原勇作に次のような書簡を送り、軍の統制回復に協力を求めたことです。
「陸軍近来の情勢に関し、憂慮に堪えざるは、上官の、下僚に徹底せず、一例をあげれば満州における行動の如き、左官級の連合勢力が、上官をして、自然に黙従せしめたるが如き有様にて、世間もまた斯く視て、密かに憂慮を抱きおり候。そのいまだ蔓延拡大せざる今日において、軍の長老において、救済の方法を講ぜられんことを冀う一事に他ならず。右の根底より発したる前内閣(若槻内閣)時代の所謂クーデター事件(三月、十月事件)もその一現象に過ぎず。
・・・満州事変の終局も近くなれど、現在の趨勢をもって、独占国家の形成(陸軍の目指す満州国独立)を進めば、必ずや九カ国条約との正面衝突を喚起すべく、故に形式は分立たるに止め、事実の上で我が目的を達したく、専ら苦心致し居り候。この機会をもって支那との関係を改善致したき理想に候」
また、犬養は、芳沢謙吉外相に対し、中堅将校の「処士横義」を批判した上、陛下と閑院宮参謀総長の承認を得て、三十人くらいの青年将校を免官にしたい、と洩らし芳沢に制止されました。また、犬養は満州事変の処理については次のような考え方をしており、政権の座に就くとすぐに萱野長知を使者に立て極秘に交渉を進めました。
「関東軍を中心にした陸軍は、満州を独立させ、そこに反国民政府(蒋介石政権)的な、日本陸軍の傀儡政権を作る・・・としているが、これであっては日中間は全面的に対立に陥り、恒久的に平和、友好の関係は崩壊する。したがって、満州の政治的主権(宗主権)は国民政府に委ね、経済目的を中心にした日中合弁の政権を満州につくる」
この犬養構想に対して中国側は、当初は、犬養に軍を抑える力があるかどうか危ぶみましたが、上海事変勃発後、ようやく、この構想をもとに、第一に停戦(上海事変)、第二に日本側の撤兵を取り決め、同時に犬養構想について具体案を作成し協定する、という線で合意しました。萱野は早速この内容を犬養首相宛の書簡で伝え返事を求めました。ところが、これを森(書記官長)が、”これでは陸軍の目指している満州国独立がご破算になる”として、握りつぶしたため犬養には伝わりませんでした。そのため、萱野は待ちぼうけを食わされ、この話は流れてしまいました。
実際の所、もうこの段階では、犬養が目指したような満州事変の収拾策をとることは、日本側では不可能だったのではないかと思います。しかし、犬養自身の大陸政策は、森恪が「計画」していたものとは異なり、至極常識的なものだったということは判ります。また、五・一五事件でテロに遭った際、逃げようともせず、押し入った海軍将校を落ち着かせて話を聞こうとしたことは、日本における立憲政治の確立を目指して奮闘してきた政党政治家としての面目躍如たるものがあると思います。
以上、紹介した森恪という政治家――明治維新以来の自由民権運動の積み重ねの中でようやく確立しつつあった日本の立憲政治、政党政治を、軍や右翼と結託して内部から崩壊させ、それを軍主導の一国一党制の全体主義体制へと強引しようとし、この間、日本の立憲政治確立のために尽くしてきた政治家をテロの標的とした、この、まさに日本の近代政治史上最強の疫病神ともいうべき人物――の存在を抜きにして、私は犬養毅を非難する気にはなれません。
だが、それにしても、なぜこの森恪という人物に、田中義一や犬養毅、さらには本稿の主題である近衛文麿という、キャリアも人格も見識も人並み優れた人物が振り回され、利用され、裏切られ、破滅させられることになったのか。おそらく、この不思議を解明するためには、日本における政治力行使が、どのようになされるのかを見極める必要があると思いますが・・・。
この点、森恪は、こうした政治力行使のノウハウを、三井物産勤務時代や中日実業時代の対支経済交渉を通じて身につけたのでしょう。金の作り方も知っていたし、目先も利き、交渉力も決断力もあった。しかし最大の問題点は、その主な交渉相手が支那人であったためか、日本の支那通と言われた軍人達と同様、支那を対等な交渉相手と見ることができず、いわば「切り取り勝手次第」の太閤記秀吉流冒険主義に陥ってしまいました。
そのやり方で、彼は、第一次世界大戦後ようやく確立したワシントン体制をぶちこわし、東亜の国際政治空間を、かっての暴力的植民地主義時代に逆戻りさせてしまったのです。そうした彼の政治手法に、日本の立憲主義政治家は対抗できなかった。一方、軍は、西洋流の近代思想を超克する思想として、日本の一君万民平等主義的家族的国家観をもつ尊皇思想を手に入れた。それはアナクロではあるけれども、伝統文化に基づくものであるだけに、世論の圧倒的な支持を得ることができた・・・。
それが、戦後の平和主義外交を先取りしたかのような幣原外交を挫折せしめ、一方、人道主義・平等主義的国際秩序建設を訴えた近衛文麿をその罠にはまることになってしまった。では、ここで問われていることは何か。それは、借り物の思想ではだめだということ。それを、自国の伝統文化の延長上にしっかり根付かせることができなければ、本当の力を持ち得ないということではないでしょうか。
昭和の悲劇とは、その意味で、明治以降に日本が欧米より導入した近代思想と、日本の伝統思想とがミスマッチを起こした結果、もたらされたものと言えるのではないでしょうか。その間隙を突いて、森恪の太閤記秀吉流冒険主義や、北一輝の国家社会主義的改造論、石原完爾の最終戦争論など、まさに魑魅魍魎ともいうべき思想が入り込み、収拾がつかなくなった。その結果、満州問題の処理を誤り、さらに軍縮へと向かう世界の潮流を読み誤った。それが泥沼の日中戦争そして太平洋戦争という悲劇につながっていったのではないでしょうか。
次回は、論述が後先になりますが、森恪と近衛文麿の思想的な交錯関係をもう少し詳しく見てみたいと思います。それが、この時代の日本に発生した「転向問題」(一部知識人だけではなく、マスコミや国民を含め一種の社会現象となった)を解明する手がかりを与えてくれることになると思いますので。 
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森恪と近衛文麿の思想の変化を時系列的に見ておきたいと思います。
大正7年末、森恪、中日実業取締役を辞し支那を引き揚げる。この秋政友会に入党する。
大正8年5月、慶應義塾にて「支那解放論」の演題で講演、次はその内容
「世界に於ける、帝国の立場よりみて、極東の平和を保持することが必要なる以上、支那の領土を保全せざるべからざることは問題として考察するの余地なく、従って支那の領土を保全し、支那を統一されたる形に改善することは、日支両国にとりて共通の利益なり。支那の領土を保全するとは何を意味するや?また如何にして保全し得べきや?
支那大陸に住し、また住せんとする者、即ち支那を天地とする者にとりて、統治せられ支配されるが如き形に保全することを、領土保全と称す。支那のみの占有する領土として保全するに非ず。又た一国、一民族によりて支配さるゝが如き形にて保全されることを意味せす、門戸解放されたる富源は国籍の如何を問はず、支那人と外人とを問はず、苟(いやしく)も支那大陸を己れの天地とするものに一様に分布されざるべからず。この意味に於て機会均等ならざるべからず。機会均等は啻(ただ)に支那に来らんとする列強人に對してのみ用ひらるべき言にあらずして、支那人自身にも適用せらるべきものなり。
支那の領土を保全するには、天賦の富源を公開拓発して国利民福を増進せざるべからず。富源の開発利用は現在支那大陸に占住せる支那人のみ依頼し居りては目的を達し得る見込みなく、勢い支那人以上の文明国人の富力と知識を利用するにあらざれば不可能なり。是等文明人の富力と知識を利用せんと欲すれば、支那の門戸を解放せざるべからず。支那人自身の生存の為に必要にして支那を天地とする人類の几てにとりて欠くべからざる方針なり。
知るべし、領土保全を以て国是とする以上、機会均等、門戸解放は緊要方針なることを、故に曰く、帝国は支那の領土保全を目前の国是とし、この国是を実行する手段として門戸解放、機会均等の二大方針を声明し、支那をしてこれを巌守せしめ、苟もこの二大方針に適応せるものは助け脊馳するものは破る事を以て對支政策とすべし。
帝国の對支外交の無為無策、多く機会を逸し去るのみならす、徒に失敗を重ぬるが如き観あるは、畢竟到達すべき主義方針の一定せざるが故なり。拠るべき主義と方針決定すれば、問題如何に複雑するも、局面如何に展開するも執るべき道は自ら定まるべし。豈に右顧左眄するの要あらんや。若し支那をとる考へなく如上の方針をとるとすれば、如上問題に先ず先立ちて先決問題あり。曰く、秩序の恢復なり。」
この時期、森恪は日本の大陸政策は、幣原と同様に、ワシントン条約で主唱された中国の領土保全・門戸開放・機会均等主義でも日本は十分やっていける、むしろ中国の排外主義こそが問題なのだ、と言う認識を示していたわけです。
大正9年5月、森恪、神奈川県より立候補し、初めて衆議院議員に当選
大正10年春、森は近衛文麿(貴族院議員)等と憲法研究会を開く。
この研究会では貴族院改革が論ぜられていますが、その主旨は、「特権貴族が政治の根幹を握っていて、・・・国民を基礎とする政党内閣が如何に強力でも貴族院の牙城には一指もふれ得ないという政治的バリケードを打ち破らなければ、国民政治の進路はない」というものでした。この時、近衛も、京都帝大を出て間もない理想に燃える青年貴族であって革新的気概が強く、貴族院改革をめぐって森と共鳴し、憲法研究会で貴族院改革のための同士的研究を開始したのです。
なお、この年の5月には森もワシントン会議に參加しています。そのワシントン会議についての当時の森の考え方は次の通りです。
「(上略)又我々は国力の実際と国際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ国策を議するは頗る危険であります。世には国力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるが如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓会議を以て我現下の国力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政会の諸君は大なる失敗なり、米国の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。
諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三国干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ国力足らざる結果であります。仮に憲政会の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。
我々は米国を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本国民の堪ゆべからざる處であります。我国の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米国に買われるのであります。米国と国際的に對抗する時はこの生糸か買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬圓の生糸は売る場所がなくなります。
この結果は我が農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我国の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米国より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績が大部分休業するに至ったらば如何なる結果が国民生活に来るでありませうか。国家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。
幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友会の力を率いて能く国論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく、内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(関東大震災)に遭遇し、国家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らす、幸に外憂の心配なく国威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。
是れをしても外政上の大成功といはずして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、国力の実際に無理解なりし国民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まって国民が当時の国力の実際と国際開係を理解するに及び、この講和條約が能く国家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」
この辺りの森恪の外交についての考え方は立派なものです。これは、ワシントン会議当時の内閣は政友会の原敬内閣であり、森恪は政友会に属していたからだ、と見ることもできます。これに対して、当時野党だった憲政会はこの会議に反対しているわけで、党利党略の弊が出ているわけです。
なお、同じ頃の、近衛の日本軍の参謀本部のあり方についての考え方は次のようなものでした。
「日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これではとうてい議会政治、責任内閣の発達を遂げることは出来ない。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の非難を免れる為には、是非ともこの参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何より急務であると信ずる」
また、近衛は、大正11年10月、近衛は、イタリーでムッソリーニのローマ進軍が行われれ、ファッシズムの台頭が世界の関心を惹くに至った頃、大正12年1月の東京毎夕新聞で「代議制度の本義」を論じ、ファッシズムの流行に対して、次のように反対意見を述べています。
近年、代議制に対する反対が、保守反動主義の側からも過激な革命主義の側からも、益々強大となりつつある世界情勢にある。しかし、ファッシズムはこの反動主義の表現であり、わが国の貴族院や枢密院や大学教授の一部にもこれに通ずる思想が見られるようになっている。しかし、これらは「眼前に展開する代議制度の弊害のみを知って、専制政治官僚政治の如何に恐るべき制度であったかを忘却した誤れる考え」である。
そもそも、近時代議制に対する不信が増大した原因はいろいろあって、一は政治の職務が拡大するのに議会の働きがこれに伴わぬことであり、二は国民の文化的向上に比し議員の品位が下落したことであり、三は政党政治の弊害が意外に甚大なことなどである。しかし、結局、他のいかなる制度もそれ以上の弊害があり、政党政治の弊が喧しく言われるのも、弊害の分量が多いというより、ただより多く世間に暴露されるからで、「隠微の間に流弊その極に達した官僚政治に比べれば」、決して憂うるほどのことはない。
そうであれば、結局は、平凡ながら現在の代議制に伴う欠陥を是正し、実質の改善を企図しつつ進むほかないわけで、そのことについては英国人の「平凡の偉大」「常識の偉大」を学ぶべきだである。それによってのみ立憲政治は有終の美を済し得るので、その意味で、「現代の日本青年が徒らに奇を好み、空理空論に走り、然もこの間に煽動的文字を羅列したる雑誌の跳梁することを、慨嘆せざるをえない」
大正13年、森恪、衆議院選挙落選
大正14年3月、森、栃木より衆議院議員当選
大正14年5月、北一輝が「朴烈事件」(朴烈及びその内縁の妻金子文子にかかる大逆事件)にまつわる怪写真(収監中の二人の馴れ合う姿を写したもの)を政友会の森恪(筆頭幹事)に持ち込み、若槻内閣の倒閣のため、これを政治問題化するよう持ちかけた。森は看守に働きかけるなど裏工作を行い、こうして「朴烈事件」は一大政治問題と化したが、翌年1月、三党首(若槻、田中、床次)間で「新帝新政の初めに当たって政争はやめる」ということで妥協が成立、森恪の党略は不首尾に終わった。
これは、要するに、大逆罪(冤罪)で収監中の犯人の待遇が過剰だとして、政友会が政権党(若槻内閣)を攻撃したもので、典型的な党略宣伝行為です。これを、森恪はこれを北一輝と結んで行っていたのです。
大正14年11月、近衛は、彼の主張する貴族院改革論に対する批判に答えるため、「我が国貴族院の採るべき態度」と題して次のように述べています。
「貴族院は自ら節制して、いかなる政党の勢力をも利用せず、叉これに利用せられず、常に衆議院に対する批判牽制の位置を保つと同時に、一面民衆の世論を指導し是正するの機能を有することに甘んじ、大体に於て衆議院に於ける時の多数党と、よし積極的に強調しないまでも、これに頑強に反対してその志を阻むようなことがあってはならない」
要するに、貴族院は直接民意を反映しているわけではないから、衆議院の判断を尊重すべきだ、といっているのです。今日の参議院のあり方にも通ずる問題提起ですね。
昭和元年の2月、森恪は、山本条太郎、松岡洋右等と共に政友会代表として武漢政府視察に行きました。次は、同年4月1日に行った支那視察についての講演内容です(この旅行で陸軍の鈴木貞一と知り合い交流が始まっている)。なお、*部分は筆者の感想というか留意点です。
「私は多数の支那南北の要人や、今同の事件に重大なる開係ある露国人にも面会致しましたが、その人々のいふ處は皆大同小異で一のテキスト・ブツクの様であります。即ち次の如く申して居ります。
第一 日本は今や経済上全く行詰り、国を挙げてこれが転回策に没頭し、支那を苦しめんとするも、日本の実力が之を許さん状態にある。その上戦争を開始すれば日本の海外貿易の六割は支那貿易であるから経済上一国の死命を制するに至る故、一部の者が帝国主義に出んとするのは大いなる誤りである。実に日本活殺の鍵は支那が握っているのである。
第二 満洲問題に就ては、日本が大いに神経過敏である。これ何故かと云へば、日本の経済問題、食糧問題、人口問題に開係あるが為で、我々が若し満洲に於ける日本の要求を容るれば宜しいのである。而して我々は基礎的事業か出来た時、之を始末すれば宜しいのであって、今は余り必要が無いからいゝ加減なことを云ふで居れば宜しい。
第三 南方支那人は、我々東洋人は被圧迫民族である。その被圧迫に反抗した運動の第一の革命者は日本人で、即ち明治維新の革命運動がそれである。然るに日本は我々の革命運動に一向同情せん。
大体以上の三つの誤解が非常に強いのであります。 
*誤解と言うより、正直かつ穏当な見方というべきですね。特に、満州についての考え方は興味深い。
要するに、我々は支那現今の写真を撮りに行ったのでありますが、これに對して我々も一座反駁致しました。第一の経済問題について云ふと、日本は支那が考へたる程貧弱に非ず、支那がその大胆不敵なる態度を改めぬと両国間に大なる不幸が起ると思ふ。日本の支那貿易は僅かに我が貿易総額五十億余円の二割か二割五分に過ぎん、国民党顧問ボロヂシ氏の如きは、我々にこの点を指摘されて大いに狼狽致しました。
*日本は支那に対して、貿易上の依存関係はそれほど大きくはないので、帝国主義に出ることもあるいは可能とでも言いたいのでしょうか?
第二の満州問題に就ては、支那よりも却って日本に発言権があると思ふ。露国の圧迫に依り、馬山をすら取られんとした支那が、露国の南下政策を十分防がざる間は、日本は断じて満洲を渡さん。日本は支那が完全に露国の南下を防ぐ事が出来れば、明日でも満洲を引渡すのである。斯く我が国に重大なる関係を有する満州問題を、支那が簡単に片附けんとすれば、そこに大なる誤解が出来ると思ひます。
*支那に露国の満州南下を防ぐことができれば、日本は明日にでも満州を中国に引き渡す。つまり、満州は日本の安全保障上重要だ、と言っているわけですが、それなら、支那と喧嘩をしないで連携する道を模索すべきです。また、支那は、当面は経済問題、食糧問題、人口問題では当面日本の要求を容れると言っているのですから、これに、あえて反駁を加える必要はありません。
第三、我が国維新の革命は開国運動でありましたが、支那の被圧迫運動は反って閉鎖運動であります。先づ以て内を整へずして如何に立派な事を云ふても誰も承知せんと云うてやりました。皆さんは如何思はるゝか知らんが、我々は大体以上の様な弁駁を致しました處、何事に依らず事々に反對したがる支那人も、誰一人として之に對して何とも云ひませんので、我々は相当反響かあったものと考へます。
*昭和維新も、閉鎖運動ではなく開国運動であるべきでしたね。
尚一つ見逃がすべからざる事は、支那に最近外的関係が加はっている事で、私一個の考より見れば極めて重大であると思ひます。私は支那を支那自身に治めさす時は、今よりは善くも悪くもならんと思ふが、最近の支那には、支那プラスXの力が加はって居ります。即ち露国のインターナショナルと云ふXの力が過去約四ヶ年間加はって大なる支那動乱となったのであります。馮玉祥軍にも露国の力が加はって居ります。
最近漢ロに於ける動乱にも、その背後には露国の力があります。私が議会に於てボロヂンの事を外務当局に質した處、外務当局は、南方と露人との関係は知って居るが、露国の力を認めんと申しました。私はウーフーが南方に占領されて三日目に其處に参りましたが、市民大会で一番長い演説を致したのは露国人であって、その意味は世界的革命を謳歌したものでありました。
*この頃の中国における動乱の背後に露国があるとの指摘は、幣原も認識していて、ただ彼の場合、外交上軽々な非難は出来ない、と言っているに過ぎません。実際、蒋介石は南京事件の後幣原の忠告を受けて、上海事件等の責任者を処刑し、さらに上海クーデターを起こして、国民党からソ連共産党の影響を排除しています。
尚二つ申上げておき度い事は、最近二十年来揚子江沿岸に、日本人の扶植せる勢力が根底から滅ぼされつゝあって、在留日本人は今や生活して行くことが出来ないと思ふことであります。之れは労賃の問題ではなく、経済的政治的革命に、ある一部の支那人が計画的に努力して、日本人を亡ぼさんとして居る為であります故に、今日の支那は日本人が進むか退くか、その一を選ばなければならない状態に遭遇し、大なる苦境に陥って居ります。
(中略)
然るにこの治まらざる支那に投資し、人を遣るのは大なる誤りで、我が当局者の矛盾も実に甚だしいと思ふ。政府は多少の不利は隠忍すべしと云はれますが、現実に苦しんでいる人を、何時までと云はず隠忍しろとは、実に無惨な事で、これ亦深甚に皆さんのお考へを煩はし度いのであります。
*だから、居留民の「現地保護」の為に日本は出兵すべし、と言いたいのでしょうか。先の三国干渉や日露講和における政府の「協調」姿勢は、支那に対しては必要なし、といっているのでしょうか。
先程申上げた支那プラスXの問題は、日本が之れに對し何時までも傍観的態度を持って居ると、数年の中に支那は秩序を為し、一つの形に統一されます。このXが日本であるとしても支那を統一出来ます。日本と露国と提携したとしても、叉欧洲諸国の中であったとしても、亦支那を統一出来るのであります。支那単独では何んでも無いがXの為めに大いに変化を来たします。兎に角現実に我々の前に投げ出されたる問題に就いて、大いに考えなければならないと思います。」
*要するに支那の統一のためには、他の先進国の支援が必要であり、日本がそのX国になるべきだと言っているのです。この辺りの森の議論には論理的な一貫性に欠けるものがありますが、この段階では、一応、支那の主権は認める姿勢は持っていたようです。
ところで、この間の昭和元年3月24日、「第二次南京事件」が発生しています。また、同じ頃、片岡蔵相の失言から金融恐慌となり、全国に取り付け騒ぎが発生しました。その主要因は、大戦景気で急膨張した鈴木商店が戦後恐慌で経営悪化し、その破綻を震災手形で繰り延べしていたため、その手形の最大所持銀行であった台湾銀行の経営が悪化し、その救済のため、政府は緊急勅令案と財政上の緊急処分案を枢密院に提出しました。しかし、枢密院は、4月17日、若槻内閣の外交、特に幣原外交が軟弱であり国威を損じたことを論難し政府案を否決しました。このため内閣は総辞職、代わって政友会の田中義一が内閣を組織しました。 
この時の枢密院に行動は、全く筋違いであって越権行為と言うほかないものでしたが、若槻はあえてこれと戦う事をしませんでした。それは、南京事件の刺激を受けて、政友会の森恪が中心となり幣原外交を「軟弱外交、屈辱外交」と批判するキャンペーンを張り、マスコミも虚実ない交ぜのセンセーショナルな報道を行ったため、幣原外交に対する国民間のごうごうたる非難が巻き起こりました。そのため若槻首相は「人心既に内閣を去った」と感得し、政府案が枢府で否決され日に総辞職を決意したと言います。
こうして、森恪による幣原外交の精算、支那の革命外交の否認、対支武力解決と在留邦人の現地保護の外交方針が、田中内閣のもとで推進される事になりました。これが、昭和2年5月の第一次山東出兵(北伐が中止されたため9月に撤兵)、7月の東方会議(後の「田中上奏文」という偽書を生む事になった)、昭和3年4月の第二次山東出兵と済南事件(蒋介石の全国統一を日本が妨害するものと受け取られた)、それに引き続く第三次山東出兵、そして6月の張作霖爆殺事件の発生を見ることになったのです。
この約2年間の田中内閣の対支積極外交――その内実は、森恪が軍と共謀して推進したものだった――の失敗によって、日本外交は政府と軍の間で分裂するようになり、後の中国との間の泥沼の戦争を運命づけられる事になりました。その発端となった南京事件の処理について、当時、政友会が行った幣原外交非難が妥当であったか否かについて、昭和3年5月5日、民政党の永井柳太郎が衆議院で田中首相に対して質問をし、それに田中は次のように答えています。
永井 南京事件に於て、政友会は在野時代頻りに、流言を放ち宣伝を試みていたが、右事件の調査は既に出来ていると思う。今なお流言を信ずるや。
田中 南京事件に就いては段々調査すると、嘗て世間に流布せられた事柄には往々誤解があると言う事が判った。一例を挙ぐれば婦人の陵辱という如き事は事実ではありませぬ。叉帝国軍人の無抵抗主義ということは、これも軍人が好んでやった無抵抗ではなく、その居留民全体が要求した為、軍人は涙を吞んで抵抗しなかったのである。
当時、森恪がどのような流言を放ち、マスコミや国民がそれにどれ程踊らされたかはあえて述べませんが、その結果、幣原外交が国民に忌避され、これに代わって採用された田中対支積極外交が推進されることになったのです。しかし、これは惨憺たる失敗となり、この結果、中国との外交的信頼関係は全く失われてしまいました。
それだけでなく、森は、張作霖事件の裏にあった「計画」を温存するため、軍と協力してこの事件の”もみけし”を図りました。続いて、石原完爾等が企図する国家改造計画にも荷担することになります。その端緒となったものが、ロンドン海軍軍縮条約締結時の統帥権干犯問題の政治問題化です。これが浜口雄幸首相に対するテロや三月事件さらには満州事変、十月事件へとつながっていったのです。
今日でもそうですが、当時も、この満州問題を論じる時の最大の問題点は、昭和2年以降昭和4年までの2年間の、森恪によって主導された「対支積極外交の失敗」という政治プロセスが、完全に抜けていると言うことです。この事実を抜きにして、この時代の中国の革命外交の不当性を一方的に非難したり、日本の満州権益の合法性を主張したりするのは妥当とは言えない、と私は思うのです。そして、近衛もまたこのことに注意を払うことなく、次第に森恪の主張に引きずられていきました。
「昭和6年5月頃、久しぶりに森とゴルフ場で会うと、彼はこう言った。『世の中は大変なことになりつつある。時代の底流は非常に強い。政党だの貴族院だのと小さいことを考えている時ではない。お互い時代と共に進まなければ、とんだことになる。』それまでの森君は、思想上はともかくとして、有り様は政党主義を基準とする政治家であったので(おそらく貴族院改革の主張を根拠としているのだろう=筆者)、所謂ファッショ的傾向への急転回に驚いた位である。
しかし、森君からヒントを得て以来、時代の潮流に深い関心を持ち出した。一時は貴族院対政友会の問題などで往来が途切れがちになっていたが(森は近衛を憲政会よりと見て離れていた=筆者)それ以来叉屡々会うようになった。森君は軍人では誰がいいかと訊くと小畑敏四郎・・・鈴木貞一、白鳥敏夫等も連れてきてくれた。その当時から私は、軍部の人々とも会うようになった。そうこうしていると、満州問題の切迫、軍部勢力の台頭、社会不安等、成程世の中の潮流が甚だ急であることが判ってきた。」
その結果、「昭和6年秋満州事変勃発の頃より、余は西園寺項初め重臣達と、時局に対する考え方につき、相当距離のあることを感ずるようになった。・・・余は西園寺公に随いて巴里に行きし当時より、英米を中心とする国際連盟を謳歌することは出来なかった(「英米本位の平和主義を排す」)。・・・故に余は当時元老重臣を始め、政府当局が動(やや)もすれば英国に追随する傾向ありしに対しては不満であって、時々西園寺公にもお話ししたが、公は長いものには巻かれろという諺を引いて、反駁せられたことを覚えている
この十年間に於ける日本外交の誠実なる犠牲的国際協調も、支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた。今その事例を一々挙げないが、外交史に明らかである。昭和六年には満州に関する未解決の外交案件だけでも、三百余件を数えるに至った。かくして満州事変は、同年九月十八日ついに柳条溝において勃発したのである。
満州事変を契機として、我が外交は一大転換をなさざるを得なくなった。・・・(その)実際の推進力は軍部事に少壮軍人であって、これを取り巻く民間右派団体の人々の力も、無視できなくなって来た。反動は恐ろしいもので、これらの人々は過去十年間の平和主義、協調主義(国内では議会制等万能主義)への鬱憤を一時に爆発させて元老重臣は君側の奸なり、政党政治家は国体の破壊者なり、という風に排撃の火の手を挙げ、其結果が五・一五となり二・二六となった。
かくの如き一大反動の起こるべきことを、最も早くから見通して居たものは、政党政治かの中では恐らく森恪一人であったろう。余は満州事変勃発後から病を得て、静養の身となったが、余の病室には森恪君や鎌倉の友人志賀直方君等の紹介で、少壮軍人や右翼の人々が次第に訪問するようになった。余がこれら人々を近づけたことを、元老重臣諸公が不快の念を持ってみたであろうことは、想像に余りある。
余はこれらの人々を近づけはしたが、彼らの言説や行動に対しては、元老重臣の人々が疑った如く決して無条件に賛意を表していたのではない。彼らの言説はあまりにも独善粗朴幼穉(ようち)であり、彼らの行動は余りに無軌道激越であって、健全なる常識を以てしては、到底全部を容認し得ないことは言を俟たないことである。・・・(しかし)少壮軍人等の個々の言説を捉えて来れば、我々の容認出来ぬ事は多々あるが、これらの人々が満州事変以来推進し来たった方向は、これは日本人としてたどるべき必然の運命であるということである。
何を以て必然の運命なりとなすか。思うに満州事変の有無に拘わらず、日本の周辺には列国の経済封鎖の態勢が既に動きつつあったのである。英国中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロック等で、世界の購買力の大半は日本に対して封鎖乃至反封鎖の状態にならんとしていた。・・・これを此儘にして行けば、日本は単に海外市場に対する販路を失うて輸出産業を窒息せしむるのみならず、せっかく育てた産業に対する原料を獲得する道もなくなる。・・これは国家経済の根本が立つか立たぬかの問題である。
かく列国の経済ブロックの暗雲が、次第に日本の周辺を蔽わんとしつつある時に、此暗雲を貫く稲妻の如く起こったのが満州事変である。仮令満州事変があの時あの形で起こらなくとも、晩かれ早かれ此暗雲を払いのけて、日本の運命の道を切り拓かんとする何らかの企ては、必ず試みられたに違いない。満州事変に続く支那事変が遂に、大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかったのも、同じ運命の軌道を辿っていたのである。
西園寺公はよくこう言われた。「今日少壮軍人等は熱に浮かされている。此の熱のある間はなるべく彼らを刺激しない様にして、冷えるのを待つに限る。冷静に復したら外交も軌道に乗り、幣原時代の協調主義に戻るだろう」云々・・・
これに反して余は、軍人の熱の冷えるのを待つと言われるが、政治家にして此国民の運命に対する認識を欠ける以上、軍人の熱は決して冷めない。そして軍人が推進力となって、益々此の運命の方向に突進するに違いない。しかし軍人にリードされることは甚だ危険である。一日も早く政治を軍人の手から取り戻す為には、まず政治家が此の運命の道を認識し、軍人に先手を打って、此の運命を打開するに必要なる諸種の革新を実行する外はない。此の運命の道を見逃してただ軍部の横暴を抑えることばかり考えて居ても、永遠に政治家の手に政治は戻って来ますまい。」(近衛手記「元老重臣と余」より)
ここでは、近衛は「日本の必然の運命」について、その原因を「列国の経済封鎖」だけを挙げています。おそらく、ここで近衛の言う「ここ十年間」とは、1922年のワシントン会議以降、満州事変の発生する1931年までの十年間の、所謂幣原外交の時代のことだろうと思います。では、ここで近衛の言う、この間の、日本が「支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた」というのは、一体、この他にどのようなことを指していたのでしょうか。
この点については、私は、渡部昇一氏が『日本史から見た日本人・昭和史』で指摘したように、アメリカによる「排日移民法」(1924年)をその第一原因とするのが最も妥当なのではないかと思います。日本人にとってこの法案が、当時の日本人にどれ程差別的かつ侮辱的なものと感じられたか。それまでは日本人はアメリカが大変好きだった。しかし、アメリカが日本民族を嫌悪していることを知って、日本人はアメリカに対して激しい反発と不信感そして警戒心を持つようになった。
それが米国との協調を基本とする幣原外交への日本国民の信頼を失わせ、その一方で、「アメリカがだめなら満州があるさ」ということで、強硬な大陸政策を求める意見への同調を生むことになった。こうなると、中国に対する内政不干渉・協調外交を押し進めてきた幣原外交に対する世論の風当たりは益々強くなる。その結果、幣原の国際協調外交を推し進めるための、国内における政治的基盤が全く失われることになった、と言うのです。
しかも、中国では国家統一期のナショナリズムが高まる中で、ソ連の影響を受けた反植民地主義運動・反帝国主義運動が繰り広げられ、それが先述したような南京事件や漢口事件を生み、日本人の対支世論を硬化させた。一方、大戦時好況の反動としての戦後不況の発生、関東大震災、金融恐慌、そして世界恐慌の発生、それに追い打ちをかけた浜口内閣の金解禁不況、東北地方の大凶作、そんな危機的状況の中での世界経済のブロック化、さらに満州における排日運動、国権回復運動の高まり等々・・・。
これらの、日本を取り巻く国内・国際環境の連鎖的悪化が、次第に米英主導の自由主義・資本主義体制に対する懐疑を生むようになり、代わって、マルクス主義が多くの知識人の共感を生むようになりました。また、自由主義に基礎を置く複数政党による議会主義民主主義に対しても、現実に対応した立法迅速に行うためには問題があると考えられるようになり、こうして日本でも、一国一党制を求める国家改造が唱えられるようになったのです。
こう見てくると、小林秀雄の大東亜戦争「悲劇論」を思い出さざるを得なくなりますね。これは、小林秀雄の戦後の第一声と言われるもので、当時、知識人間にも多くの冷笑や罵倒を生んだそうですが・・・。
「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起こる。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無知と野心とから起こったか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」
山本七平は小林秀雄のこの言葉の意味について、もし、人が思索するつもりなら、「一身両頭人間」でなければだめだ。つまり、右の頭は戦時中の常識につかっていて、左の頭は戦後的常識につかっていて、それを時代の変化に合わせて使い分けるような反省ではだめだ。大切なことは、その間、自分が一身であることを忘れないことだ。つまり、戦争中自分はなぜその時代の常識を自らの常識としたかについて、それを安易に後悔などというおめでたい手段でごまかさないこと。そう決心することで、初めて自分という本体に出会うことが出来る、という風に解釈しています。
端的に言えば、戦前昭和の日本の歩みは、まさに運命的=「悲劇的」というしかないものだった、という事でしょう。しかし、それを認めるとしても、私は、もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思うのです。そうすれば、世界恐慌の時代を無事に乗り切ることが出来たのではないかと・・・。
そのことを、当時の政治家は、国民に対して辛抱強く訴えるべきだった。それと、もう一つは、軍縮の時代の軍に対する対応をもう少し考えるべきだった。というのは、この時代の日本が抱えていた問題点は、以上述べたような日本を取り巻く国際環境の厳しさということだけではなくて、日本軍に関する固有の問題が、これとは別にあったということなのです。それは端的に言えば、この時代、日本は軍の処遇を誤ったということ。これは、実は戦後についても言えることなのですが、これについては、次回、論ずることにしたいと思います。 
10

 

前回は、近衛の時局に対する見方が、満州事変勃発の頃より急速に森恪らの主張に近づいて行き、西園寺を始めとする重臣等との意見に疎隔を生じるようになったことを述べました。こうした近衛の意識の変化は、実は、国民の意識の変化とパラレルの関係にあって、なぜ、あれだけ政党政治や議会政治を擁護した近衛が、満州事変以降、軍を支持するに至ったのかを理解すれば、それは同時に、当時の国民の思想を理解することにもなるのです。
私は、前回「もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思う」ということを述べました。
このことは、アメリカの排日移民法の成立を見ても判ることで――これを契機に日本人の反米感情が高まり、ひいてはワシントン体制そのものがアメリカの対日封じ込め政策であるかのように理解されるようになった――こうした「持てる国」=英米の横暴に対抗するという意味からも、資源を「持てる国」ではあるが、近代化に遅れたために「奪われる国」になった中国と連携する必要があったのです。
いうまでもなく、日本はアジアにおいて唯一の近代化に成功した国です。そのためのノウハウも持っている。当然、中国の近代化を支援することもできたわけですし、もし、両国間に平等・互恵の関係を構築できれば、日本が抱える人口問題や資源問題や商品市場の問題も解決できたはずです。
おそらく、幣原外交のポイントはここに置かれていたと思います。よく、幣原外交の失敗例として、1025年の支那の特別関税会議で列国の協調を破って支那の関税自主権を承認したこととか、1927年の南京事件や漢口事件に際して、英国等との共同出兵に応じなかったことなどが指摘されます。これは幣原が、対支協調外交の方により傾斜していた事を示すもので、国際協調外交や対支不干渉外交という言葉より、幣原外交の本質を表していると思います。
特に、後者の事件(昭和2年の南京事件)を始末する際に幣原がとった処置について述べると、英米などが蒋介石に対し、最後通牒を突きつけ軍事行動を起こすべく日本に共同行動を求めたのに対し、幣原は、彼らに対して次のように反論し日本の立場を述べています。
「これに對してあなた方の本国政府がどういう態度をとるか、私はそれに干渉するわけではありませんが、日本政府に関する限り、その態度をハッキリあなた方に諒解して貰いたいのです。この最後通牒を、蒋介石はどうするか。方法は二つしかない。承諾するか、拒絶するかである。もし最後通牒を鵜呑みにして承諾するとすれば、彼は中国民衆から腰抜けだ国辱的な譲歩をしたといって攻撃される。蒋介石の立場は当時まだ国内で安定していないから、若い連中から一斉に攻撃されるようになると、蒋介石自身の政権が潰れるかも知れない。
蒋介石の政権が潰れたら、どういう結果になるかといえば、国内は混乱に陥る。それでもあなた方には大したことではあるまい。それは多くの居留民がいるわけじゃないから、逃げれば逃げられるだらう。しかし日本は十数万もの居留民がいるから、これを全部早く安全の場所に移すわけには行かない。直ぐに出兵するとしても多少暇がかかる。そのうちには多くの者が恐らく危害略奪を免れまい。これに反して、蒋介石が列国の最後通帳を断乎拒絶したとしたとしたらどうなるか。あなた方は共同出兵して、砲火によって警罰する外に方法はないであらう。がこれは大いに考えなければならん。
どこの国でも、人間と同じく、心臓は一つです。ところが中国には心臓は無数にあります。一つの心臓だとその一つを叩き潰せば、それで全国は麻痺状態に陥るものです。・・・しかし支那という国は無数の心臓をもっているから、一つの心臓を叩き潰してもほかの心臓が動いていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって、、支那を武力で征服するという手段を取るとすると、いつになったら目的を達するか、予測し得られない。またそういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、支那に大きな利害間係を持つている日本としては、そんな冒険的な事に加はり度くない。
だから日本は、この最後通牒の連名には加わりません。これは私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からも夫々本国政府へお伝えを願いたいのであります。」(『外交五十年』)
なんだか、日中戦争の結末を予言しているかのような言葉ですが、結果的には、日本が参加を拒否したことによって、この最後通牒の話は立ち消えとなりました。しかし、その後、支那側の攻撃が英国に向けられるようになると、欧米各国は漢口、九江、天津などの租界を返還するなど対支融和策に転じました。ところが、こうした列強間の足並みの乱れに支那側が乗じ各個撃破戦術を採るようになると、在支英米人がさかんに幣原外交を列強の対支協調を破壊したものとして非難するようになりました。それが国内にも伝えられて、幣原外交を打倒すべしとの声がにわかに高まることになるのです。
その急先鋒に立ったのが政友会の森恪であったことはいうまでもありませんが、幣原がこの問題について全く無策であったかというとそうではなく、蒋介石に対して次のような忠告を行ったと彼自身は言っています。
「私は蒋介石に対して人を介して・・・早く列国と相談して、思い切って損害の賠償すべきものは賠償し、謝罪すべきものは謝罪して紛争の原因を一掃してはいかかであろうかとといわせた。私の趣旨がのみ込めたものと見えて蒋介石はその通りにやった。」
もちろん、この事件の背後には国民党内部の共産主義分子がいて、漢口のボロジンの指示によって、蒋介石を窮地に陥れるため故意に外国人を襲撃したのでした。幣原はこのことを知っていて、あえて蒋介石に列強の攻撃が向かわないようにしたのです。蒋介石もこうした共産党の意図を察し、上海では先手を打って、一斉蜂起を計画していた共産党を弾圧して上海が共産党の手に落ちることを阻止し、さらに南京の第六軍を粛清して、南京事件等の関係者を死刑に処し、当該国への賠償も行いました。
その後、蒋介石は、幣原が「無数の心臓を持っている」と形容した中国の混乱した政情を全国統一に持って行くべく「北伐」を開始しました。これに対して、居留民の現地保護を名目に、その統一事業を阻止するかのような行動に出たのが、何度も申しますが、政友会田中内閣における森恪でした。おそらく、それは当初は、倒閣のための党略に過ぎなかったのかもしれません。しかし、その時、彼と連携した青年将校等は、幣原外交に対して、ワシントン会議で軍縮を推し進めた元凶として、激しい敵意を抱いていたのです。
この両者の、いわば「私的な思惑」が重なり、それが山東出兵という、中国における日本人居留民の保護あるいは権益擁護のための出兵となり、それが済南事件を経て、日本は、そのためには、中国の統一を妨害する事も辞さない国だと見なされるようになったのです。さらに張作霖爆殺事件を経て、日本軍の暴力体質・隠蔽体質が明らかとなり、張学良は易幟を行って国民党に合流、全満州に青天白日旗が翻ることになりました。その結果、、国民党の外交部長王正廷による革命外交が、満州においても推進されるようになったのです。
こうなると、今度は、こうした国民党による国際法を無視した国権回復運動が、日本のナショナリズムを刺激するようになる。満蒙における日本の特殊権益は、日露戦争における日本軍将兵10万の血の犠牲によって贖われたものだ。にもかかわらず中国は、満蒙における日本の条約上の合法的権益さえ踏みにじって、日本を満蒙から追い出そうとしている。
そもそも、匪賊の跳梁する地であった満蒙を、今日の如く、3,000万人口が安心して暮らせる土地に変えたのは誰だ。日本人ではないか。その日本は、移民問題や食糧問題、さらには世界恐慌下で進行しつつある欧米各国による経済のブロック化によって、資源の調達や商品の販路を閉ざされようとしている。故に、満蒙は日本にとって「生命線」であり、その権益を放棄するわけにはいかない。
これは、日本という国が生存していくための当然の権利=国益である。これを、中国の不当な侵害から守るのは当然であり、必要なら武力行使も辞すべきでない、といった考え方です。そして、近衛自身も、こうした考え方をとるようになった。同様に、大多数の国民も近衛と同じような思考経過を経て、満州事変を熱狂的に支持するようになったのです。
では、こうした考え方はどこで間違ったのか。
順を追って言えば、まず第一に、南京事件をめぐる政友会の森恪を中心とする幣原外交攻撃のやり方が、全く事実に基づかない政略的プロパガンダであり、そのため、幣原外交に対する国民の信頼が大きく損なわれた、ということ。それと同時に、日本人の支那人に対する警戒心と敵愾心が一気に高まった。
第二に、山東出兵それに引き続く済南事件(これも意図的な誇大報道によって点火された)によって、支那人の、日本に対するイメージが決定的に悪化した。日本は、その領土的野心を満足させるためには、中国の政治的統一を武力で阻害し、必要とあらば一国の元首を爆殺することも平気でやる国だと。
第三に、張作霖爆殺事件の処理において、日本政府が事件をもみ消し、その首謀者を軽微な行政処分で済ませたことは、国内政治における法的秩序が決定的に損うことになった。また、こうした処置は、満州の継承者である張学良に消しがたい屈辱感と恨みを残すこととなり、彼をして排日運動へと駆り立てることになった。
こうして、日本人と中国人の間に、ほとんど修復不可能な、恐るべき認識ギャップが生じることになったのです。これを運命と考えるか、それとも、外交的失敗によってもたらされたものと考えるか。私は、後者の視点を重視しているわけですが、とりわけ、その中でも、日本外交において、対支協調外交を重視した幣原外交が、なぜ当時の日本人に「忌避」されるようになったか、ということに関心を寄せているのです。
繰り返しになりますが、日本にとっては、昭和初期の国内及び国際社会における困難な経済環境の中で、その生存を確保していくためには、中国との連携協力は不可欠でした。それは、日本についてだけ言えることではなく、中国にとって歓迎すべき事だった。にもかかわらず、なぜ、上述したような、ほとんど回復不能な仇敵関係に陥ってしまったのか、ということです。
そこで、私が、この問題を解くための一つのモデルと考えたのが、近衛の思想、その「持てる国、持たざる国」論なのです。近衛はこの論理によって、森恪を時代の先覚者として称揚し、満州事変を引き起こした軍の行動を支持し、政党政治の堕落を悲憤慷慨しテロに走った青年将校等に同情を寄せました。そして国民もまた、こうした近衛の考え方を熱狂的に支持しました。
では、この近衛の「持てる国、持たざる国」論の特徴は何でしょうか。その第一の特徴は、その思想の根底に、国際社会秩序形成における一種の道徳主義的人道主義と平等主義があるということです。第二に、ここから、こうした道徳主義的理念が未成熟の段階にある国際社会においては、「持たざる国」が「持てる国」に挑戦するのは当然、とする考え方が生まれた。第三に、こうした考え方は国内政治にも反映し、動機が純粋であれば何をしても許される、といった法的秩序を軽視する考え方につながった、ということです。
この近衛の論理は、もともとは、第一次大戦後にできた国際連盟を批判する論理として考案されたものですが、では、この論理は中国に対してどのように適用されたか。中国は確かに資源的には「持てる国」である。しかし、近代化に立ち後れたために、「持てる国」ではあるが「奪われる国」になってしまった。一方、日本は「持たざる国」であるが近代化に成功し「奪う国」となった。それ故に、中国にとっては最も警戒すべき国になった、ということです。
つまり、ここにおいて、近衛の「持てる国、持たざる国」論は、「持たざる国」であると同時に「奪う国」となった日本が、「持てる国」ではあるが「奪われる国」に止まっている中国から「奪う」ことを、正当化する論理になっているのです。確かにこの論理は、「持てる国」であると同時に「奪う国」である英米に対しては一定の説得力を持ちます。しかし、中国に対しては、それは帝国主義的論理として機能することになる。
ここに、日本人が日中戦争に対して持ったイメージと、対米英戦争に対して持ったイメージが決定的に異なることになった根本原因があります。もちろん日本国民は、この近衛の思想を日本の伝統思想にそって理解しました。つまり、近衛の思想の根底にあった道徳主義的人道主義・平等主義思想を、日本の伝統思想である家族主義的国家観に基づく一君万民・平等思想として理解したのです。
というより、こうした近衛の思想こそ、日本の伝統思想を無意識的に反映するものであったと言うべきかも知れません。従って、先に指摘したような近衛の思想の欠陥は、そのまま日本の伝統思想の欠陥であった、ということもできます。何よりもそれは家族主義的国家観に基づくものであり、それを国内政治だけでなく国際社会にも拡大したところに、国内における法秩序の破壊に止まらず、国際社会の法秩序をも破壊することになってしまった、ということです。
もちろん、近衛は、政党政治や議会政治を否定したわけではなく、また、統帥権を盾に取って独断専行的行動を繰り返す軍を支持したわけでもありません。しかし、軍がそうした行動を取るに至った動機には理解を示していました。つまり、政治がそうした時代の変化を先取りし先手を打たない限り、彼らがそうした行動に出るのはやむを得ないと考えたのです。このため、近衛が首相になってまず第一にしようとしたことは、三月事件以降、二・二六事件に至までの政治犯を恩赦することでした。
「我が国軍内部におけるかくの如き対立相克と、非合法手段による国家改造の思想とを解消せしむる(ためには)・・・他なし、内乱及び叛乱の罪につき大赦を奏請し、これら犯罪に関する一切の責任を赦免して、彼らをして天恩の真に広大なるに感激せしむるとともに、過去を凡て水に流して恩讐を忘れしめ、以て相克の原因を除去すること是なり。しかして為政者たる者は、一面において彼らの志を汲み、今後益々鋭意して庶政の刷新と国威の宣揚とに向かって邁進するを要す。」
ここには、法治主義による秩序の回復ではなく、極めて日本的な温情主義的問題解決法が説かれています。実は、近衛の思想は、京大在学中にオスカー・ワイルドの「社会主義の下における人間の魂」を訳したように、社会主義的人道主義・平等主義から出発しています。ところが、こうした彼の人道主義・平等主義は、次第に日本民族の伝統精神に基礎を置くようになりました。このことは、昭和7年に長男の文隆を米国留学させる時、平泉潔を招いて日本精神を講義させたことにも現れています。
こうして、西洋の社会主義思想から、日本民族の伝統精神である一君万民平等思想に基礎を置くようになった近衛の思想から、満州事変を見るとどうなるか。
「今や欧米の輿論は、世界平和の名に於て、日本の満蒙に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振り翳し、或は不戦条約を楯として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさえある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは日本に非ずして寧ろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。」
日本は真の世界平和を希望するが、経済交通の自由と移民の自由の二大原則が、到底近い将来に実現され得ないので、「止むを得ず今日を生きんがための唯一の途として、満蒙への進展を選んだのである。欧米の識者は宜しく反省一番して、日本が生きんがために選んだこの行動を、徒らに非難攻撃するを止め、彼等自身こそ正義人道の立場に立帰って、真の世界平和を実現すべき方策を、速かに講ずべきである」
ここでは、先に述べたような、「持たざる国」である日本が、「持てる国」である中国から「奪う」、という行為について、それを、今日の世界では、経済交通の自由と移民の自由という二大原則が損なわれていることを理由に正当化しています。しかし、この二大原則を損なっているのは欧米各国であって、中国の場合は先ほど述べたように、「持てる国」ではあるが「奪われる国」であって、日本としては、その中国の近代化を助けて、「奪われない国」にすべきだった。そうすれば、相互に互助互恵の関係が構築できて、経済交通の自由や移民の自由を確保することもできたはずでした。
それをできなくした責任は、もちろん、当時の中国の、行き過ぎた革命外交の推進にも一半の責任はあります。しかし、そもそも、そうした革命外交を満州の地に引き入れたのは、幣原外交を虚偽のプロパガンダで放逐し、日支間の外交関係を修復不能な仇敵関係に変えた、政友会田中内閣の対支積極外交の失敗にあったのです。ところが近衛の論理からは、この責任を追及する視点が全く欠けている。これはまたどうしたことでしょうか。
端的に言えば、ここでは中国は、主権国家として扱われておらず、ただ「奪われる」だけの「持てる国」として扱われているということです。つまり、この近衛の論理は、植民地主義を正当化するための論理になっており、中国の主権国家としての地位を踏みにじるものになっている。それゆえに、田中内閣時代の対支積極外交の失敗ということも、全く問題とされていないのです。
こうした近衛の論理は、軍にとっては大変都合がよかった。ここでは、田中内閣時代以降の軍の独断行動やテロ行為、さらにはクーデター計画さえ責任を問われることはない。それだけでなく、その後の類似の軍の行動も是認されることになるのですから・・・。といっても、近衛は議会政治や政党政治を否定したわけではなく、先に紹介した恩赦を実施することによって、それまでに蓄積されてきた国内政治や軍内における対立相克を解消できる、それによって政治のリーダーシップを回復できると考えていたのです。
一説では、こうした近衛の恩赦についての考え方は、二・二六事件を契機に軍内で主導権を握るに至った統制派に対して、皇道派の復活を図ったものだ、ともいわれます。事実、統制派はこのことを警戒してこの恩赦に強硬に反対しました。また、西園寺を始めとする重臣たちは、こうした措置は、国内の法秩序を崩壊させるものだとして、こちらも強硬に反対しました。西園寺は「そんなことをしたら、憲法も要らなければ,国家の秩序も社会の規律も何もなくなってしまう」といっています。
これに対して近衛は、「社会悪というものがある。資本家の弊悪、権力者の弊害など。それに対して二・二六や五・一五のようなことが起こる。犯人は国家や社会のためを思う純な気持ちなので,社会悪を除こうとの考えからだ。だから、陛下としても大局からご覧になって,公平にその動機を汲んでやるだけの心持がないと、公正が保たれぬ」というようことを言っています。極めて伝統的というか、山本七平が言うところの、日本人特有の「情況倫理」そのものの考え方ですね。
この「状況倫理」というのは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方です。この考え方の問題点は、そうした社会の「情況の創出には自分もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠落している」ことであり、これは自己の意思の否定であり、従って自己の行為への責任の否定になる、ということです。
といっても、こうした「日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範にはなり得ない。いかなる規範といえども、その視点に固定倫理がなければ,規範とならないから、情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。ではその支点であるべき極限としての固定倫理をどこに求むべきかとなれば、情況倫理を集約した形の中心点に,情況を超越した一人間もしくは一集団乃至はその象徴に求める以外になくなってしまう。・・・そして、それを権威としそれに従うことを,一つの規範とせざるを得ない。」
こうして、象徴的権威を持つ一君を中心とする世界ができあがるのです。しかし、この世界は情況倫理を当然とする社会なので、その批判を避けるためには、この一君のもとに万民が平等に扱われる社会の形成へと向かわざるを得ない。これが社会主義乃至共産主義の社会イメージと親和性を持つのは当然です。ただし、この思想は天皇制とは相容れないから日本では受け入れられず、こうして多くの知識人が、社会主義的平等主義から天皇中心の一君万民平等主義へと転向していったのです。
実は、近衛も、その転向者の一人だったのですね。ところが、彼は首相になった。他の知識人と同じように評論家の位置に止まっていれば責任を問われることはないが、首相は国政を動かさなければならない。そうなると、どうしてもこの情況倫理の世界では、自分が一君にならない限り安定しない。しかし、日本ではこの一君は天皇である。従って、それを輔弼する形で内閣を組織しているのだが、この天皇に直属する軍が内閣とは別にあって、これが統帥権論争を経て、首相といえどもアンタッチャブルな存在になっている。
その上、この情況倫理の世界は、動機が純であればテロ行為も上官の命令に反した独断的行為も許されるということになるから、軍の統制も乱れる。近衛が首相になって一月程後に支那事変が勃発したが、政府は不拡大方針を採っているのに戦線は拡大する一方である。
こうした現実に際会して、近衛はその手記に、「軍に最初から遠大な計画があって、作戦上これを秘密にするのなら,政府としては迷惑な話だがまだしも諒とすべきところがあるけれども、実際には何ら確固たる大計画もあるのでないことは,松井、杉山の問答の通りで、形勢の進展に押されて,段々に伸びていったものに過ぎず、ここに支那事変のやっかいな性格があった」と書いています。
これでは、到底責任が持てないとして、近衛は辞意を漏らすようになります。しかし、「軍を事実上動かせる分子――それが青年将校であれ、現地軍であれ――が、これによって反省し,事態を収拾する方向に行動せしならんと考え得らるるや。却って傀儡政府を立てて、事態を日本として誤りたる方向に益々導く可能性なかりしや。余はあくまで軍を激成することを避けながら、極力他の凡ゆる手段によりこれを制御することを以て、余の使命なりと感じてその努力をなせり」ということで首相の座に止まることになりました。
要するに、近衛の「持てる国、持たざる国」思想や「情況倫理」思想では、軍の統制を回復することもできなければ、政府のリーダーシップを確立することもできなかった・・・。というより、むしろそうした思想が、軍の統制の破壊や政府のリーダーシップの不能の原因となった、と見るべきですね。その原因を一言で言えば、国家統治あるいは国際社会の秩序形成における「法の支配」の意味を、近衛は十分理解していなかった、ということになります。
結局、彼の思想は、日本に伝統的な尊皇思想に基づく「一君万民平等思想」の枠内にあった、ということであって、それ故に、その全体的統制を回復するためには、次のように、天皇に対して統治大権を直接行使する一君としての「天皇親政」を求める事になりました。
「日本憲法というものは天皇親政の建前で、英国の憲法とは根本において相違があるのである。事に統帥権の問題は、政府には全然発言権がなく、政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただお一人である。
しかるに、陛下が消極的であらせられることは平時には結構であるが、和戦いずれかというが如き、国家が生死の関頭に立った場合には,障碍が起こりうる場合なしとしない。英国流に、陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進み得ないことを、このどの日米交渉(昭和16年)において痛感した」 
これを読まれた天皇は「どうも近衛は自分に都合のよいことだけいっているね」と不興気だったといいます。というのは、そうした憲法解釈は近衛の思想によるのであって、天皇や西園寺を中心とする重臣達は、天皇を憲法下に置かれた制限君主として解釈していたからです。まして、近衛のいう統帥権の問題は、少なくともロンドン会議までは、軍の編成大権も政府の国務の内に含まれるとの解釈が一般的だったのです。それを統帥権という軍の「魔法の杖」に変えたのは、明治憲法によるのではなくて、政友会の党略の結果に過ぎなかったのです。
以上、近衛の思想について見てきました。一見ハイカラな西洋近代思想を超克するモダンな政治思想に見えたものが、意外なことに、尊皇思想に基づく天皇親政という家族主義的国家観に由来する一君万民平等思想であったことが明らかになりました。そして、このことが判れば、昭和における日本の失敗の原因は何だったかということも、自ずと判ってきます。それは法治主義という近代民主政治を支える基本思想の理解を誤ったということであり、そのために、ようやく日本に根付きつつあった政党政治や議会政治を放擲してしまったのです。
また、こうした近衛の過ちと同じ過ちを、日本国民もまた犯したのであって、その意味では、昭和の悲劇を一部軍国主義者の責任にするのは間違いなのです。というのは、当時国民は、普通選挙権を持っていたのであって、真に反省すべきは、その軍を民主的にコントロールできなかった自らの思想的非力を自覚するということなのです。
おわりに、後年の近衛の述懐を紹介しておきます。
「西園寺公は強い人であった。実に所信に忠実な人であった。そして徹底した自由主義、議会主義であった。自分は思想的に色々遍歴をした。社会主義にも、国粋主義にも、ファッショにも惹かれた。各種の思想、党派の人々とも交友を持った。しかし老公は徹底していた。終始一貫して自由主義、政党主義であった。自分はナチ化はあくまで防いだが、大政翼賛会という訳の判らないものまで作ってしまった。が矢張り老公の政党政治がよかったのである。これ以外によい政治方式はないのかも知れない。識見といい勇気といい矢張り老公は偉い人であった。云々」 
 
青年将校はなぜ暴走した

 

1 暴走の発端「済南事件」 
前回の末尾に、「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」という重光葵の言葉を紹介しました。この「日本国民の政治力の不足」ということは、ひいては当時の日本国民の政治意識を支えた「思想」に帰着します。つまり、この「思想」が、この時代の日本に「自滅」への道を選択させてしまったのです。
私は先に「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したか」について、その根本原因を「日本の伝統的大陸政策」に求めました。特に、昭和期の日本の大陸政策が、独善的・排他的な東亜共和思想に陥ったことが大きな問題でした。確かに、当時の国際環境の中で資源の少ない日本は中国にそれを求めるざるを得ませんでした。しかし、この問題を、あくまでも中国の主権を尊重する形で解決すべきでした。また、第一次世界大戦後の国際協調路線を堅持する中で解決すべきでした。
ここで、明治以降の日本の大陸政策の変遷を概略見ておきます。
それは、中国との朝鮮の支配権をめぐって戦われた日清戦争(1894.7〜1895.4)に始まります。日清戦争に勝利した日本は、朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾、澎糊諸島を獲得しましたが、三国(ロシア、ドイツ、フランス)干渉(1895.4)を受け遼東半島を中国に返還しました(その代償として邦貨約4500万円を取得)。しかし、その後ロシアは旅順港の租借、東支鉄道の敷設をはじめ満洲に支配権を広げ、さらに朝鮮にも進出しようとして日本と対立するようになりました。
こうして日露戦争(1904.2〜1905.9)が勃発し、日本は日英同盟もあって勝利し、ロシアに南満州を中国に返還させた上で、遼東半島(関東州)と東支鉄道の一部(旅順―長春間、南満州鉄道)の支配権(ロシアの25年の租借権を継承)を獲得しました。この内、遼東半島については、日本は二度の戦争の犠牲を払ってようやく獲得したものであり、それだけ思い入れの深いものとなりました。また、南満州鉄道の租借権については、ロシアが採掘していた撫順及び煙台炭坑の開発・経営権や、鉄道付属地(鉄道両側併せて約62メートル及び駅付近の市街地)の行政権も含んでいました。さらに関東州の守備隊として日本の軍隊が配置され、1919年には関東軍司令部が設置され、南満州鉄道の線路防衛にもあたることになりました(1931年の満州事変に至るまで約一万人)。
この間、日本は1910年に朝鮮を併合しました。満洲及び蒙古については、四次(1910〜1016)にわたる日露協約によって、ロシアとの勢力範囲(日本は南満州および東部蒙古)を確定し、相互援助・単独不講和を約しました。しかし、1917年のロシア革命によりこの協約は破棄されました。また、この間の1911年には辛亥革命が発生し、1912年1月には中華民国が発足し孫文が臨時大統領となりました。2月には宣統帝が退位して清朝は滅亡し袁世凱が大統領になりました。
このように中国の政情が激変する中、一部日本人(川島浪速他)による満蒙の分離独立工作が企てられました。しかし、日本側の工作は統一されておらず、革命派を支持する活動もあり、また、イギリスが袁世凱による統一共和政府を支持して、日本に分離独立運動を援助しないよう申し入れたことなどから、この運動は挫折しました。一方ロシアは、1912年11月、露蒙協約を結んで外蒙(モンゴル)を保護国化し、1913年には中露協定を結んで、中国に宗主権を残す形でモンゴルの自治を認めさせました。
1914年7月には第一次世界大戦が勃発しました。日本は日英同盟の要請もあり、東洋からドイツの根拠地を一掃するとともに、この機会を利用して中国における日本の権益確保・拡大をねらって対独参戦しました。日本軍は11月までに膠州湾、青島、山東鉄道を占領、その後加藤外相が袁世凱に出した要求が、いわゆる「対華二十一ヵ条要求」でした。特にその第五号は、希望条項でしたが、支那中央政府に日本人の政治、財政、軍事顧問をおくなどの要求を含んでいたため、列国の反発を招き、中国はこれに激しく抵抗しました。
結局、日本政府は第五号の希望条項を留保した上で、1915年5月7日に最後通牒を発し、5月9日中国はやむなくこれを受諾しました。続けて、二十一ヵ条要求を具体化する「山東省に関する条約」及び「南満州及び東部内蒙古に関する条約」等が締結されました。前者による権益は、その後、ワシントン会議(1922)における中国との直接交渉で全て返還されましたが、日本は後者の条約によって、新たに、日本人が南満州において商工業上の建物を建設するための土地や、農業を経営するための土地を商租する権利を得ました。また、この時満鉄平行線を敷設しないとの取り決めもなされました。
この間、中国では袁世凱の独裁化が進行し、1915年12月に袁は皇帝となり、共和制が廃止され帝政となりました。しかし内外の強い反発を受けて、袁はあわてて帝政を取り消しましたが、各地で反袁武装蜂起が相次ぎました。こうした中国の政情不安の中で満洲では張作霖が台頭し、日本政府(大隈内閣)は張を支援して満蒙独立運動(第二次)を推し進めようとしました。しかし、1916年6月に袁が急死し、副総裁の黎元洪が大総統代理となると日本政府は黎の新政府を日本に依らしめることとし、第二次満蒙独立運動は中止されました。
1917年10月、大隈内閣に代わって寺内正毅内閣が成立しました。同内閣は混迷した対中国政策を立て直すため、「中国の独立と領土保全を尊重擁護し、両国の親善増進をはかり、内政に干渉せず、列国とも協調することで、満蒙の特殊利益の増進と利権の確保」をしようとしました。そのため黎に代わって政権を掌握した段祺瑞に対する借款(西原借款)がなされました。また、1917年11月にはアメリカとの間で「領土相近接する国家の間には特殊の関係が生ずることを承認する」いわゆる「石井・ランシング協定」が結ばれました。
1918年11月には、膨大な犠牲をもたらした第一次世界大戦が終わり、1919年1月からパリで講和会議が開かれました。この会議では英仏そしてアメリカも、日本がドイツ利権を引き継ぐことに同意しました。これに対して中国民衆の憤懣が爆発し、全国的な民族解放運動が巻き起こりました。(五・四運動)それまでの排外運動は、イギリスやロシアを対象としていましたが、今や中国民衆の主要な敵は日本に絞られるようになり、日本政府は大陸政策の抜本的修正を迫られるようになりました。
その後、1920年7月、段祺瑞の安徽派と、これに反発する馮国璋の直隷派と張作霖の奉天派との間で「安直戦争」が行われました。その結果、段祺瑞が敗れて日本の中国における親日基盤は壊滅しました。日本政府は、五四運動が高まりを見せる中で大陸政策を見直す余裕もないままに、「安直戦争」後の新情勢への対応を迫られました。原内閣は大陸政策に関係する諸機関の代表者を集めて満蒙政策の再検討(1921.5)を行い、「満蒙経営には張作霖との親善を保つ」ということで意志統一をはかりました。
1921年7月には、アメリカが提唱したワシントン会議が始まりました。これは、第一次世界大戦後の軍縮要求を受け、列強間の建艦競争を休止させることを目的としていました。またこれを機会に、アジア太平洋地域における国家間の協調体制も作ろうとしました。日本では会議の結果を憂慮す声もありましたが、「日露協約は既になく、日英同盟の存続も危うく、直隷派の勝利した中国との間も多難であり、アメリカとの親善保持は不可欠」ということで、原首相はこれを了承しました。
周知のようにこの会議では、日英同盟条約を終了させ、「太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約する英米仏日による四カ国条約」が調印されました。その他中国に関する九カ国条約、海軍軍縮条約等が調印されました。この九カ国条約の成立を機に、23年4月石井・ランシング協定は廃棄されました。こう見てくると、これまで日本に有利と見られた条件がことごとく消失したかに見えますが、アメリカ全権ルートが提出した「ルート四原則」は日本の満蒙特殊権益に理解を示していました。
この九カ国条約の締結に際して、中国は列国の特権や利権の公表と審査、不平等条約の撤廃等を要求しました。しかし、中国がすでに各国に附与した既得権益には影響を及ぼさないことが確認されました。日本は先述したように、中国との直接交渉で膠州湾租借地の還付他山東省の利権を手放しましたが、満蒙に関する権益は保持しました。しかし、その後中国では直隷派の実力者呉佩孚と張作霖の間に第一次奉直戦争(1922.4)が起こり張作霖が敗れると、二十一ヵ条条約の無効を訴える「旅大回収運動」が提起され日本政府を悩ませまるようになりました。
この間日本政府は、中国政府のこうした要求を拒否する一方、中国の内争に対しては不干渉主義をとりました。また国際関係のおいては列国との協調路線をとりました。こうした外交方針について、この頃は、中央と現地、外務省と陸軍の間に大きな意見の齟齬は見られませんでした。また、原内閣以降も、こうした日本の不干渉政策は維持され、加藤高明護憲三派内閣(1924)の外相幣原喜重郎による「中国に対する内政不干渉・国際協調政策」へと受け継がれました。
その後、1924年9月張作霖の奉天軍と呉佩孚の直隷軍との間で第二次奉直戦争が始まりました。しかし、この戦争は馮玉祥のクーデターにより呉佩孚が追われ、張作霖と馮玉の推挙により段祺瑞が北京政府の臨時執政になりました。こうして張は奉天から上海に至る地域を支配下に収めました。一方、馮は北京地域と、綏遠、察哈爾を中心とする北西部を支配し、コミンテルンと通じ軍備を強化しました。これに対して広東に国民政府を組織していた孫文は和平統一の国民会議を開くことを提唱して北京に入りましたが、目的を達しないまま1925年3月病没しました。
北京の段政府はワシントン会議で調印された中国の関税に関する条約に基づき1025年10月北京で関税特別会議を開催しました。しかしこれに反対して直隷派の浙江督弁孫伝芳と漢口の呉佩孚が奉天軍に対して兵を起こしました。さらに、奉天軍第三軍副長の郭松齢が突然反旗を翻し、張・郭両軍は遼河をはさんで対峙することになりました。これに対して日本は満州に戦乱が及び日本の権益が犯されることを防ぐため有形無形に張作霖を援助することになりました。その結果郭松齢は敗れました。その後、張作霖は呉佩孚と結び馮玉軍を攻め1926年4月天津、北京を占領しました。
このような経過の中で、日本の不干渉政策は、引き続く中国の政情不安の中で安定せず、結局、満鉄沿線の日本国民の生命財産保護を目的としつつ、実質的には張作霖を軍事的に支援することになりました。また、その一方で、加藤高明内閣は満鉄支線の建設促進を図りました。これに対して張作霖は、北京政界に進出するようになると、日本の抗議を無視して満鉄東西平行線の建設を押し進めるようになりました。こうした張作霖の強硬姿勢は、従来在満権益擁護のために張作霖を支持してきた日本側に深刻な危機感を抱かせるようになりました。
一方中国では、蒋介石が孫文の後継者として国民党の実権を握り、北伐(1926.7)を開始し10月には武漢三鎮を攻略しました。これに対して、張作霖は軍閥各派を糾合し国民革命に対決する姿勢を示しました。1927年1月、国民政府が広東から武漢に遷都した時、意識高揚した民衆によるイギリス租界の占拠・回収事件が発生しました。イギリスは日米両国に共同出兵を要請しましたが、幣原外相はこれを拒否しました。さらに3月には国民革命軍が南京に侵入したとき、兵士による各国領事館の掠奪暴行事件が発生し、日本領事館も掠奪暴行を受けました。
この時、南京の江岸には日・英・米の砲艦がいて、英・米の砲艦は蒋介石軍の根拠地を砲撃しました。しかし、日本の砲艦はこの砲撃に加わりませんでした。これは、南京の居留民が尼港事件(1920.3シベリア出兵中ニコラエフスクで起きた日本人居留民・将兵の虐殺事件)を憶えていて、艦長に砲撃しないよう嘆願したためにとられた措置でしたが、これを機に、幣原外交を「軟弱外交」「腰抜け外交」と非難する声が、軍、政界、マスコミの間に澎湃として起こるようになりました。
こうした批判の中で、幣原外交は若槻内閣総辞職(1927.4.27)と共に終わり、これに代わって、田中義一内閣による「積極的大陸政策」がとられるようになりました。一方、反共クーデターに成功した蒋介石は、首都を南京に定め北伐を再開しました。田中内閣は青島の在留邦人の安全をはかるための自衛措置として、5月28日満洲より一旅団を青島に派兵しました(第一次山東出兵)。しかし、この時は、蒋介石の南京政府と共産党中心の武漢政府の間に対立が生じ、北伐は中止されました。
ところで、第一次山東出兵が行われる中、6月27日から7月7日のまでの間、政府や軍の幹部を集めた東方会議が田中首相の主宰で開かれ「対支政策綱領」が決定されました。ここでは「満蒙特に東三省地方は国防上、国民生存の関係上重大な利益を有するので、万一動乱が満洲に波及し、治安乱れて同地方におけるわが特殊の地位権益に対する侵害が起きる恐れがあれば、これを防護し且つ内外人安住発展の地として保持できるよう、機を失せず適当の措置に出る覚悟を要する」とされました。
こうした考え方は、6月1日付けで関東軍が陸軍省と参謀本部に提出した「対満蒙政策に関する意見」とも似ていました。つまり、関東軍の満蒙政策が東方会議によって裏付けされることになったのです。こうした日本の動きは、それが山東出兵中になされたこともあって内外の関心を呼びました。その後1928年4月、国民革命軍の北伐が再開され済南をめざして北上しました。これに対して田中内閣は第二次山東出兵(支那駐屯軍4.20済南着、第六師団は4.25青島上陸、4.26より済南商埠地警備にあたる)を行い、5月1日には北伐軍が済南に入城し、両軍が対峙する事態となりました。
そしてついに、5月3日、小部隊の衝突から日中両軍の戦闘に発展し、日本軍は中国軍の済南からの撤退及び軍団長の処刑を要求するなど期限付きの最後通牒を発しました(5月7日午後4時、福田第6師団長名で12時間後)。しかし、回答が期限までに届かなかったとして、現地軍第6師団は5月8日4時済南城の攻撃を開始し、田中内閣は5月9日第三次山東出兵を決定、5月11日これを占領しました。この戦闘で中国側の死者は三千名を超えたともいわれ、これに対して、日本側の居留民死者は15名負傷者15名のほか、軍人の戦死者は60名負傷者百数十名とされています。
この最初の衝突における日本人居留民死者(12or13名)の多くは、領事館の避難勧告を無視したアヘン密輸入などの従事していた人びとだったともいいます。(『ある軍人の自伝』佐々木到一)これを酒井隆武官は極めて誇大に軍中央に報告し、陸軍省は300人以上の邦人が虐殺されたという新聞発表を行い世論を煽りました。こうして5月8日、済南で全面的な武力衝突がはじまり、上記のような、日本側の犠牲を遙かに上回る犠牲を中国側にもたらすことになったのです。註:ただし、中国側の死傷者数については諸説あり、はっきりしない。
この事件以降、それまで華中方面でイギリスを主敵としてきた中国の排外運動は日本を標的とするようになり、蒋介石始め国民政府要人の対日観も決定的に悪化しました。第一次山東出兵には理解を示した英米も、イギリスはこれ以降国民党との接触を開始し、元来国民党に好意的であったアメリカの対日世論にも悪影響を与えました。蒋をはじめとする中国側は、これを日本側が計画的に北伐を妨害しようとしたものと解釈し、その結果、この済南事件は、彼らにぬぐいがたい恨みを残すこととなりました。
実は、この済南事件こそ、本稿の主題である「昭和の青年将校の暴走」がもたらした最初の事件であり、この事件を機に日本の大陸政策は独善的・排他的・誇大妄想的な方向へと変質していったのです。 
2 「済南事件」に行き着いた日本の大陸政策

 

前回は、日本の大陸政策が日清戦争以降山東出兵までどのように変遷したかについて一通り見てみました。今回は、もう少し掘り下げて問題点を整理しておきたいと思います。
日清戦争までに、朝鮮が日本の安全保障上死活的な位置にあることが認識されるようになり、日清戦争後朝鮮は中国の宗主権を離れて独立することになりました。いうまでもなく日本の勢力下におかれたわけですが、日本が三国干渉に屈したことにより、朝鮮では国王高宗の妃である閔妃一族の勢力が復活し、ロシアの支援を受けるようになりました。これが公使三浦梧郎(陸軍中将)による、大院君のクーデターに見せかけた閔妃殺害事件(1895.10)を引き起こし、朝鮮全土に抗日義兵運動が起こるようになりました。高宗はロシア公使館に移され親ロ内閣を作りました。(1896.2)
他方、そのわずか3年前、日本に対して「遼東半島を日本が所有することは、常に清国の都を危うくするのみならず、朝鮮国の独立を有名無実のものとなす」として、遼東半島を中国に返還するよう迫ったロシアとドイツは、中国の弱みにつけ込み、前者は遼東半島の旅順・大連の25年間租借権と南満州鉄道の敷設権を、後者は、膠州湾の99年間の租借権と膠済鉄道敷設権、鉱産物採取権を獲得しました。これに対して日本は両国に正式抗議一つできずに見守るほかありませんでした。
1898年には中国に義和団事件が発生し、清国政府はこれを利用する政策をとり6月21日列強に対して宣戦を布告し、北京の外国公使館区域を封鎖しました。列強8カ国は連合軍(七万)を組織して北京を制圧しました。この時の日本軍(二万二千)の規律ある行動は列国の賞賛を博しました。1901年には講和が成立し、北京には各国軍隊が駐留権を持つ特別区が設定されました。一方ロシアは、建設中の東清鉄道保護を名目に八万の大軍を満州に送ってこれを占領し、第一次撤兵後もそのまま居座りました。
日本国内では、このようにロシアが満洲に居座り、日本の朝鮮支配は一向に進展せず絶望視される中で、ロシアとの戦争が議論されるようになりました。こうした世論を背景に日本政府は日露交渉を開始し、1903年8月「満韓交換論」をロシアに提案しました。しかしロシアはこれを無視し、韓国領土の軍事的利用の禁止、北緯三九度以北の中立地帯化を日本に要求しました。日本は、財政的・軍事的限界からロシアとの短期局地戦を決意する一方、イギリス、アメリカの調停による早期講和を画策しました。
この段階での日本の大陸政策の狙いは、朝鮮を日本の植民地化することと引換に満洲を列国に解放するというものでした。幸い日本は奉天会戦と日本海海戦(1905.5)に勝利し、ロシアが第一次ロシア革命の渦中にあるこの機を捉えて、ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼しました。この時、日本による韓国の保護国化の承認と引きかえに、アメリカに対してはフィリピン統治を(「桂・タフト協定」1905.7)、イギリスに対してはインド国境地方における特殊権益を承認しました。
日露交渉は、ロシアの強気もあって難航しましたが、1905年9月5日講和条約が調印されました。日本は、韓国における日本の優位、ロシア軍の満洲からの撤退、長春から旅順に至る鉄道と大連・旅順の租借権の譲渡、サハリン南部の割譲、沿海州沿岸の漁業権を得ました。日本国内ではこうした講和条件を不満とする暴動が発生しましたが、日本は政治と軍事、外交と統帥が一体となってこれを抑えました。当時の陸海軍人は、明治人が持つ一種の合理主義と武士的規範意識を持っていたのです。
一方、韓国人にとって日本の日露戦争における勝利は、その植民地化を意味していました。「第一次日韓協約」(1904.8)によって韓国の財政権・外交権は実質的に日本の掌握するところとなり、「第二次日韓協約」(1905.11)で韓国の外交権は日本に接収されました。また、ソウルには日本政府を代表する統監府が置かれ、統監は天皇に直属し、韓国において日本官憲が行う政務の監督、韓国守備軍司令官への兵力使用の命令など、強大な権限を有することとなりました。初代統監には伊藤博文が就任しました。
これに対して韓国国内では、こうした日本による韓国の植民地化は、韓国の独立を約した先行条約や宣言に対する裏切りであると受けとられ、救国と独立をめざす武装義兵闘争が繰り広げられました。1908年には最高潮に達し、この年の交戦回数は1451回に上り、7万人近くがこれに参加し、1万1千余名が死亡したとされます。また、高宗は「日韓協定」を容認せず、1907年6月オランダハーグで開かれた第二回平和会議に密使を送りましたが訴えは斥けられました。
こうした高宗の密使事件に激怒した伊藤統監は、高宗を譲位させ大韓帝国最後の皇帝となる純宗を即位させ、「第三次日韓条約」(1907.8.27)により韓国の内政権も掌握しました。しかし、伊藤博文は、韓国統治の実権を掌握しながらも、韓国官僚に日本人を送り込むことはせず、その傀儡化を進めつつ合邦論は避けていました。それは、韓国を富強ならしめ、「独立自衛」の道をたて「日韓提携」するのが得策であり、「合邦はかえって厄介を増すばかり」と判断していたからです。
しかし、韓国の義兵闘争は収まらず、日本人の間からも伊藤の保護国経営を批判する声が上がるようになり、こうして、伊藤は1909年6月「合邦」に同意するとともに統監を辞任しました。伊藤は辞任後まもなく朝鮮人安重根にハルピンで射殺されました。(10.26)新たに統監となった寺内正毅は、李完用韓国首相に日韓併合条約の受諾を求め、1910年8月22日条約発効、ここに李朝五〇〇年の歴史が閉じられることになりました。併合直後の日本の新聞雑誌は一致してこの韓国併合を支持しました。
こうして、日本の朝鮮支配は「韓国併合」という形で完成を見た訳ですが、日露戦争の結果、ロシアより譲渡された旅順・大連の租借及び南満州鉄道の租借期間は二五年であり、1923年にはその期限が切れることが問題となっていました。そんな折、1914年8月欧州において「第一次世界大戦」が勃発しました。日本はこれを天佑とし、日英同盟に基づく要請を受ける形で、1914年8月23日ドイツに宣戦を布告、青島ばかりでなく済南や膠州鉄道も占領しました。11月7日ドイツは降伏しました。
中国政府(袁世凱)は1915年1月7日、日本に交戦区域の廃止と日本軍の撤退を要求しました。しかし、日本はこれを拒否した上袁世凱大統領に対して「二十一ヵ条要求」(1915.1.18)を突きつけました。この要求は五項からなり、第五号は単なる「希望条項」であり、その主眼は、第二号の、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長(さらに九十九年)、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利、鉱山採掘権の承認させることにありました。
しかし、中国は、第五号の要求項目が「希望条項」とはいえ中国を属国視するものであるとして強く反発し、中国国民は憤激し、日本を「仇敵」視するようになりました。しかし、日本政府は第五号を保留した上で最後通牒を発し、1915年5月9日中国にこれを受諾させました。こうした日本のやり方に不信感をつのらせたアメリカは、中国の「領土保全・門戸開放等」を求める通告を発しました。しかし、1917年11月には、「石井・ランシング協定」により、日本に「領土相近接する国家間の特殊関係」を認めました。
1918年11月11日、ドイツは敗れて休戦条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。1919年1月18日からパリのベルサイユ宮殿で講和会議が開催され、ドイツに極めて過酷な内容の平和条約が調印され、また、国際紛争の調停機関として国際連盟が設立されました。一方、日本が「二十一ヵ条」で要求した山東省のドイツ利権は、アメリカの妥協によって日本に譲渡されました。この頃日本は、大戦景気もあって経済を飛躍的に躍進させ、軍事大国としての地位を確立するようになっていました。
しかし、この間1917年3月にロシア第二次革命が起こり、11月ソビエト政権が成立したことにより、1907年から1916年7月まで四回にわたって、満州における日露の勢力範囲(日本は南満州)や中国における利益範囲を約していた日露協定が廃棄されました。また、ロシア革命の影響や、パリ講和会議においてウイルソン大統領によって提唱された民族自決主義の考え方が広まるにつれ、朝鮮においては民族独立運動、中国においては反帝国主義・反封建主義運動が組織されるようになりました。
ベルサイユ講和会議から二年後の1921年11月、アメリカの主導でワシントン会議が開かれました。その結果、海軍軍縮条約が成立し、主力艦の米英日比率(トン数)を5:5:3としました。また、日本はこの条約に基づいて、廃艦、空母への改造、建艦中止をするとともに、将兵7,500名、職工14,000名を整理しました。また、陸軍においても1922年の山梨軍縮で兵員約6万人と馬匹約13,000を削減、続いて、1925年の宇垣軍縮で四個師団を削減し装備の近代化を図りました。
また、安全保障面では日英同盟を解消し、その代わり四カ国(日本、アメリカ、イギリス、フランス)条約を締結し、太平洋地域に領有する島嶼に関する四カ国の相互の権利尊重、紛争発生の場合の協議について規定しました。また、九カ国条約(上記五カ国に中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加える)によって、中国に進出する列国間の原則(中国の独立・領土保全、門戸開放・機会均等等)を確立しました。これにともなって、日本の大陸における特殊利益を認めた石井=ランシング協定は廃棄されました。
懸案の二十一ヵ条問題については、支那はこの会議を利用して同条約を廃棄しようとしました。しかし、幣原は、日本は南満州において独占権(借款や、政治・財政・軍事・警察等への顧問傭聘に関する優先権)を振り回す意志のないことを表明した上で、二十一ヵ条要求の中で保留となっていた第五号を撤回しました。こうして、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利や鉱山採掘権が正式に認められました。
さらに、日本は中国との直接交渉によって、膠州湾租借地を中国に還付し、膠州鉄道も中国が十五年年賦で国債で引き取ることを認め、鉱山は日中合弁としました。こうして日本軍は青島から撤退しましたが、商業上の利権はそのまま確保され、山東は満洲に次ぐ日本の勢力範囲となりました。しかし、これによって日本の日清・日露戦争以来の大陸政策、軍事力増強政策に歯止めがかかり、「ワシントン体制」のもとにおける国際協調、中国の内政不干渉政策が選択されることになりました。
しかし、その一方で、こうした政府の軍縮政策や国際協調路線に強い不満を抱くグループが軍内に形成されつつありました。1921年(大正10年)秋、ドイツのバーデン・バーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三陸軍中佐が会合し、長州閥の打破と国家総動員体制の確立のため結束することを約しました。1927年には陸士十五期から十八期までの佐官級将校の横断的組織として、二葉会が結成され、ここに陸軍青年将校による国家改革運動がスタートすることになりました。
昭和3年になると陸軍省軍事課の職員を中心に、第二の集団が結成されるようになりました。彼らは二十期から二十五期までの陸軍の佐官級実力者たちで、無名会あるいは木曜会と称していましたが、昭和4年4月頃、先の二葉会と合流する形で一夕会が形成されました。こうして十五期から二十五期までの陸軍佐官級実力者の結合が成立し、藩閥解消・人事刷新、軍政改革・総動員体制の確立による、満蒙問題の根本解決が図られるようになりました。
ところで、彼らには”軍縮を挟んで十年の臥薪嘗胆”という言葉がありました。先に述べた軍縮の時代、大正末期から昭和の満州事変までは、軍人に対する世間の目は冷たく、当時の軍人は税金泥棒扱いされていました。しかし、彼らは、こうした「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんの時である。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで一国の支配を誓」っていました。
この軍縮に象徴される大正末期から昭和初期の時代は、第一次大戦後の慢性的不況に関東大震災やシベリア出兵による費用が重なり、不況のどん底にありました。こうした中で、陸海軍の青年将校たちは、大正デモクラシー下の軍縮政策や、政党政治にともなう利権体質及びその腐敗構造に対して、強烈な反感と憎悪を抱いていました。また、ロシア革命の影響を受けて国内の左右の反体制運動も激化しつつあり、一方、中国においては、反日運動が反帝・反植民地主義運動に結びつく兆候を見せていました。
こうした困難な状況の中で、日本外交の舵を取ったのが幣原喜重郎でした。彼はワシントン会議の時は駐米大使でしたが、日本外交団の全権を務めており、四カ国条約や九カ国条約の締結、さらに二十一ヵ条要求問題とその後始末である山東問題の処理を、上述したような形で行いました。〈軍縮問題は加藤(友)全権が担当〉その後1925年6月加藤高明護憲三派内閣の外務大臣になり、国際連盟規約やワシントン条約に盛られたの精神(民族自決、国際協調)の遵守を基調とするいわゆる「幣原外交」を押し進めました。
幣原が外相に就任したことは米国において特に好評で、ニューヨークタイムスは「その主義というのは、現代のような列国間の相互信頼の時代には協調と親善とが、傲慢と暴力よりも永遠の平和を増進するという確信から発したものである」と激賞しました。また、従来北支における排日派の宣伝機関紙として有名だった「北京益世報」も、従来の排日的筆鋒を収めて日華新提携論を高唱し、旅大の返還要求などは別に協定を締結し相当期間延長すべきである、とする具体的提案をするほどでした。
こうして幣原は、加藤内閣(1924.6〜1926.1)第一次若槻内閣(1926.1〜1927.4)において外務大臣を務める間、対支不干渉政策を基調として、中国関税自主権の確認、支那治外法権撤廃の努力、支那の通商条約改定要求の応諾等中国との関係改善に努めました。しかし、支那における軍閥間の闘争は止むことなく、一方、支那の革命運動は急進して、蒋介石の北伐は広東より開始せられ、段祺瑞政府は倒れ、北京は無政府状態となりました。この頃から、幣原外交を批判する声が上がるようになりました。
特に問題となったのが、1927年3月24日、北伐途上の革命軍が引き起こした南京事件への対応です。この時、日本領事館も革命軍兵士による掠奪・暴行を受けましたが、領事館に派遣された陸戦隊員は、尼港事件の記憶が生々しい時期でもあり、居留民の懇願を容れて無抵抗を貫きました。この時、揚子江上にいた日本軍艦も、南京に居住する多数の日本人の虐殺を招く恐れがあるとして砲撃を控えました(幸い死者は出なかった)。また、幣原は事件後イギリスの求めた共同出兵にも応じませんでした。
しかし、この事件が国内においてセンセーショナルに報道され、その後(3.29)、領事館に派遣されていた陸戦隊員が、任務を全うできなかったとして自決(未遂)する事件が起きました。ここにおいて世論は激昂し、日本人の蒙る屈辱はいずれも幣原外交の結果であるとして政府を激しく攻撃し、反対党(政友会)は、政府の無抵抗政策を「弱腰外交」「軟弱外交」と排撃し、居留民は現地において保護すべし、必要ならば出兵も断行すべし、居留民の引き揚げはわが威信の喪失であると主張するようになりました。
かくして、民政党内閣は倒れ、政友会内閣が出現したことで、従来の国際協調を基調とする幣原外交は、田中内閣の積極的外交に取って代わられることになりました。この時、田中首相は外相を兼任し外務政務次官には森恪を任命しました。(1927.4)当時、森恪は政友会の闘士として活躍しており、対支政策については奔放な積極意見の持ち主で、軍の極端分子と連携して満洲に対する強硬論を煽動していました。彼は、そうした対支強硬策を政府公認の政策に高めようとして「東方会議」(1927.6.27~7.7)を開催しました。
しかし、こうした森の対支強攻策と田中首相の満州問題解決策にはかなりのズレがありました。田中首相は、張作霖が日本の援助によって、東三省だけで事実上独立する事を希望し、張作霖が支那中央部を離れて、日本との間に特殊関係を設定することで、日本の希望する満州問題の解決を図ろうとしていました。そのため北伐中の蒋介石とも連絡し、張作霖を東三省に帰還させるよう働きかける事を約束するとともに、蒋介石の支那統一のための北伐にも了解を与えていました。
そこで、蒋介石の北伐となりましたが、第一回目は、国民党内の内部対立から北伐は中止(1927.7)されました。この時日本は、森恪の強硬な主張で第一次山東出兵(1927.6)をしていましたが、9月に撤兵しました。続いて蒋介石は1928年4月北伐を再開しました。この時も、田中首相は不測の事態が起こることを恐れて出兵を躊躇しましたが、森恪の働きかけや、済南駐在武官酒井隆少佐の執拗な出兵要請もあり、天津より支那駐屯軍歩兵三個中隊、内地より第六師団司令部(約5,000)が、済南に直接派遣(4.26先遣部隊到着)されました。
済南にいた北軍の残留部隊は4月30日全員撤退し、代わって5月1日より南軍の第九軍及び第四十軍が入城をはじめました。5月2日には蒋介石も済南に入りました。日本軍は商埠地内に警備地域を定め警戒に当たりましたが、5月3日午前9時半商埠地内で両軍の衝突事件が発生しました。(双方の言い分は食い違っており真因は不明、酒井武官の謀略という説もある)ただちに不拡大の交渉が開始されましたが、商埠地内においては市街戦や掠奪・暴行が断続的に発生し、4日朝の段階に至って事態はようやく沈静化しました。
この間の日本軍の死者10名、負傷41人、一方南軍の死者は150人とも約500人ともいわれます。また、武装解除された中国兵は1,230人に達しました。また、日本居留民の受けた被害は、掠奪された戸数136、被害人員約400人、中国兵の襲撃による死者2人、負傷者30人、暴行を受けた女性2人と記録されています。また、この外に5月5日に邦人12名の惨殺死体が発見されましたが、これは、避難勧告を無視した麻薬密売人等で、惨殺は土民の手により行われたものが多かった、と佐々木到一の『ある軍人の自伝』にあります。
*中国側死者の中には、北伐にともなう外国居留民との折衝に当たっていた蔡公時はじめ済南交渉公署職員8名他16名がいます。
ところが、この間に酒井武官より陸相宛に発した電報があまりにも誇張されたものであったため、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽り、報道各社もそれに追随しました。そのため、国内では反中国感情がみなぎり「積極的膺懲論」がしきりに唱えられるようになりました。参謀本部内ではこうした世論を背景にして「国威を保ち将来を保障せしむる為には、事実上の威力を示すにあらざれば到底長く禍根を断つ能わず」との意見をまとめて参謀総長に具申しました。総長は動員一個師団の出兵(第三次5月9日)の必要を認めました。
一方、蒋介石は5日参謀副長熊式輝を福田中将のもとに派遣して、国民革命軍は北進する。蒋介石自身も「本日出発」する、ゆえに日本軍も戦闘を中止して欲しい、と要請しました。しかし福田中将はこれに答えず、自らの「膺懲方針」を東京に打電しました。蒋介石は6日午前8時済南を離脱しました。国民革命軍主力が北進した後の済南城には、約3,000人の将兵が、日本軍の攻撃に対して「持久する」事を目的に残留しました。日本側は7日になってようやくこの事態の変化に気づきました。
しかし、福田中将は5月7日午後4時、蒋介石が到底飲めないことを承知の上で、あえて「暴虐行為」に責任ある高級武官の「峻厳なる処刑」、同部隊の武装解除他五ヵ条の要求を手交し、十二時間以内に回答するよう迫りました。中国側には、これはあまりに過酷な条件であり、明らかに「北伐妨害」である、一戦も辞さない覚悟ではねつけるべきだという意見もありましたが、結局、「北伐に支障なき限り忍耐策」をとることとして、回答期限の延長を提案しました。しかし、福田中将はこれを無視し、5月8日午前4時済南城攻撃を開始しました。
この頃、東京では陸軍側の軍事参議官会議が開かれていました。会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。
「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」
「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」
こうして8日早暁以後11日に至るまで、済南城攻撃戦が展開されることになったわけですが、その経過については、資料間に甚だしい食い違いがあり、その実態は必ずしも明らかではありません。臼井勝美氏の「泥沼戦争への道標」(『昭和史の瞬間(上)』所収)では、「9日と10日の両日は昼夜をわかたず済南城内に集中砲火をあびせました。夜は火炎が天を焦がし、済南城内は逃げ惑う住民達の阿鼻叫喚の巷となった」と書かれていますが、児島襄氏の『日中戦争』では、両軍の一進一退の攻防戦が克明に描かれています。
その概要を、両軍の死傷者数で見てみると、上掲『日中戦争』では、中国側の遺棄死体160で、「第四十一軍副長蘇宗轍によると、第一師第一団の死者行方不明約600、第九十一師第二団は同300であった」と記述されています。また、済南惨案後援会会長が6月7日南京で報告したところによれば、「死亡3,600、負傷1,400、財産損失約2,600万元」に上ったとされています。
しかし、日本側にはこうした報告を裏付ける記録も回想も見あたらない、と児島襄氏はいっています。また、済南城攻撃を指揮した第六師団長福田中将の、戦闘報告書には、「済南城陥落にともない支那側は無数の死体と山のごとき兵器弾薬を遺棄して全く二十支里外に逃走し、日本陸軍の武威は十分これを宣揚したり」と書かれていると紹介されています。
一方、日本側の5月3日以来の死傷者数は、『日中戦争』では、戦死11(?)、負傷230人となっています(居留民の死者は14名)。また、臼井氏の先の論文では、第六師団の済南城攻撃による死者25、負傷157となっています。(日本側居留民の死者は15名、負傷者30名)なお、前回紹介した中山隆氏の『関東軍』では、日本側居留民死者15名負傷者15名、軍人の戦死者60名負傷者百数十名となっています。
これらの数字のうち、日本側の死傷者数については、それほど大きな食い違いはなく、ほぼこのあたりの数字であろうと思われますが、中国側(済南惨案後援会)の数字はいささか過大であり(といっても日本側の犠牲をはるかに上回ることは明白)、また臼井氏の語る済南城砲撃の様子も、私にはにわかに信じられません。というのは、児島襄氏の『日中戦争』では、済南城攻撃の戦闘模様が克明に記述されており(戦闘詳報によったものか)、砲撃は城壁破壊が中心で、城内住民の避難措置もとられており、城内に「持久」した中国兵も11日まで良く戦い、そして速やかに撤退しているからです。
だが、以上のような点を考慮したとしても、日本軍の済南城攻撃は居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものであり暴虐のそしりは免れません。というのも、蒋介石は、5日の段階で主力部隊を北進あるいは迂回させることを福田第六師団長に告げ、戦闘中止を依頼しているからです。つまり、南軍には北伐を中止して日本軍と戦う意志は全くなく、両軍の衝突も4日午前中には沈静化していたのです。
ところで、こうした軍中央の常軌を逸した行動は、はたして、酒井駐在武官のもたらした誇張した情報に基づく誤判断だった、というだけで説明できるでしょうか。本当はそうではなく、その背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのではないでしょうか。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。
こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったかということは、これが田中首相の「不決断」で水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。張作霖爆殺事件は、こうした行動への願望が、とりわけ河本大作に代表される青年将校たちにいかに強烈だったかを遺憾なく示しています。
そういえば、済南から誇大情報を送り続けた酒井隆武官(この人、例の梅津・可応欽協定の張本人でもあります)もその一人であり、張作霖爆殺事件の主犯である河本大作もそうです。また、この河本大作を英雄視し、田中内閣を倒壊させてでも彼を守り抜こうとしたのも、一夕会に結集するこれら青年将校たちでした。 
3 軍縮が生んだ青年将校の国家改造運動

 

昭和の悲劇を理解するためのキーパーソンとして、近衛文麿や森恪そして幣原喜重郎を対比的に論じてきました。
近衛文麿の場合は、その「持てる国、持たざる国」論が、国内及び国際社会の秩序形成における「法治主義」を軽視したため、社会の全体主義化や軍の暴走を生むことになったこと。森恪は、田中積極外交以降、その政治手法として軍を政治に引き込んだため、ついには政治が軍を制御することが全くできなくなったこと。幣原喜重郎は、あくまで、ワシントン体制下の国際協調主義によって中国問題を処理しようとしたが、田中積極外交によって中国との外交的基盤が破壊され、その後、その修復を図ったが、満州事変で止めを刺され退場を余儀なくされたこと、など。
これらの政治家のうち、「昭和の悲劇」を招いたものとして、私が最も責任が重いと思っている人物は、いうまでもなく森恪です。それは、もし、昭和の初めに、この男さえいなければ、昭和の悲劇は避けられたのではないか、と思うほどです。ところが、今日の論壇においては、このことを指摘するものはほとんどなく、その代わり、幣原外交の無能――日本国民のナショナリズムに対する無理解、国際共産主義運動に対する無警戒、中国に対する内政不干渉主義など――を根拠に、その理想主義外交を批判する論調が大半です。
また、近衛については、その軍や世論への迎合体質、公家的あるいは長袖者流と評される権力依存体質、最後まで自分の意思を貫徹できず、途中で投げ出す無責任体質の外、日支事変勃発時の支那膺懲声明、トラウトマン和平工作失敗時の”蒋介石を対手とせず”声明、さらに、三国同盟締結、南部仏印進駐などの数々の外交的失敗が指摘されます。確かにそうした批判は免れないわけですが、しかし、彼自身は、軍の政治介入や独断的軍事行動を抑えようとしたことは間違いなく、また、政党政治や議会政治を維持しようとしたことも事実なのです。
ただ、問題は、先ほど述べた通り、彼の「持てる国、持たざる国」論が、いわゆる「法治主義」を軽視していたために、日本の伝統的倫理観である「情況倫理」に陥ってしまったこと。そのために、満蒙権益の擁護を大義名分とする満州事変を容認することになりました。といっても、こうした満州事変を契機とする意識の変化は、近衛文麿だけに起こったことではなく、日本人全体に起こったことなのです。つまり、こうした日本人の意識の変化をもたらしたものこそ、近衛文麿の「持てる国、持たざる国」論に象徴される日本人の「情況倫理」的意識構造だったのです。
*情況倫理とは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方のこと。
だが、その裏側で、大正から昭和にかけた時代の流れを注意深く読み、これをコントロールすることで、自分たちの目的を達成しようとしていたグループがありました。それが、後に説明する二葉会や一夕会に終結したエリート青年将校達でした。
そこで問題は、彼らの目的は一体何だったかということですが、結論から先に言えば、それは、満蒙問題に国民の関心を引き寄せ、それを「彼ら独自の方法」で解決することによって国民の支持を獲得し、政治のイニシアティブを握り、それによって日本の政党政治を打破して、一国一党の国家社会主義体制を実現する、ということでした。満州事変は、このようなプロセスで国家改造を進めるための手段あるいは前線基地としての意味を持っていたのです。
では、このように軍が政治に関与することになった、その原因はどこにあったかということですが、これについては、昭和7年11月頃、陸軍省軍事課長だった永田鉄山大佐が次のように語っています。
「その主なるものは、(一)軍縮問題に伴い軍に対する世間の人気の悪くなり兎もすれば軽ぜらるること、(二)ロンドン会議の際に於ける所謂統帥権の問題、(三)減俸問題、(四)陸軍に於ける人事行政の不手際なりとす。」
この四つの原因について皆さんはどう思われますか。これを少し敷衍すると次のようになります。
(一)は、第一次大戦後の世界における軍縮の流れや、大正デモクラシー下の反戦平和思想の流行によって、軍人に対する世間の評価が明治期に比べて著しく低下し、何かにつけて軽んじられる風潮が生じた事に対して、軍人が強烈な不満を抱くようになったということ。
(二)は、統帥権干犯問題を政治問題化することによって、作戦・用兵のみならず、軍の兵備編成権も軍の統帥権に含まれるとし、かつ、軍に対する指揮命令は天皇のみとすることによって、軍に対する内閣の関与を排除することに成功したこと。これによって、逆に、軍が政治を左右する権能――石原莞爾に言わせれば「霊妙なる統帥権」――を持つに至ったこと。
(三)は、第一次大戦後の戦後不況や、大正12年の関東大震災復興費用を捻出するための緊縮財政なもとで、軍人の給与引き下げが行われたこと。これは、今回の東日本大震災に伴い国家公務員の給与を10%減額するという措置がとられたことと同様の措置ですが、当時は、大正後半期に顕著となったインフレも重なって、将校の給与水準は著しく低下したといいます。
(四)は、日清戦争後から大正初年まで(陸士・陸幼合わせて)平均すれば毎年800人もの将校生徒が採用され続けたため、大正末から昭和にかけて、若い陸士出の将校を大量に軍内に抱え込むことになったこと。しかし、軍隊の昇進ポストは上に行くほど数が極端に少なくなるため、昇進ルートの閉塞や昇進の停滞が生じたということ。
以上永田鉄山の指摘した、軍が政治に関与するに至った四つの原因のうち(一)(三)(四)は、あくまで、国内における軍人の社会的地位や処遇のあり方に関する問題であって、満州問題などの外交問題に直接結びつくものではなかったことが分かります。しかし、軍は、これらの問題は政党政治によってもたらされたものと考え、その結果、軍は、政党政治に対する敵対意識、さらには英米の自由主義・資本主義に対する反発を強めることになったのです。
その最初の表れが、ワシントン会議に対する軍の反発でした。直接的には、そこで合意された軍縮条約に基づいて、いわゆる山梨軍縮や宇垣軍縮が行われ、大量の兵員等の削減が行われたことによります。では、なぜ、ワシントン会議において軍縮が話し合われたかというと、第一次世界大戦による人的・物的被害が余りに膨大だったからで、そのため、海軍力の軍縮が主要国間で協議され、また、陸軍でも、ロシア革命の影響もあって、極東における軍事的脅威が薄らいだと認識されたのです。
(山梨軍縮)
「1922年7月「大正十一年軍備整備要領」が施行され約60,000人の将兵、13,000頭の軍馬(約5個師団相当)の整理とその代償として新規予算約9000万円を要求して取得した。山梨陸相の企図は緊縮財政の基づく軍事費の削減をもって平時兵力の削減と新兵器を取得し近代化を図ろうとするものであった。
さらに、1923年3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。これら、いわゆる山梨軍縮は大量の人員を削減したにも拘らず近代化と経費節約は不徹底であった。これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し新式装備の導入は困難となった。」
(宇垣軍縮)
さらに、上記二度にわたる山梨軍縮ではまだ不足であるとして、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。」
「具体的には21個師団のうち、第13師団(高田)、第15師団(豊橋)、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を廃止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6000頭が削減された。」
特に、宇垣軍縮による四師団の廃止は、「地域にとって少なからず衝撃を与え国民に軍部蔑視の風潮を生み出し、陸軍内での士気の低下が蔓延した。だが、これにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である。主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。また、学校教練制度も創設された(軍人の失業対策としての意味合いもあった=筆者)。」
以上述べたような軍縮の影響や、大正12年に発生した関東大震災の財政支出に加えて、第一次世界大戦後のインフレの影響もあり、さらに(四)に紹介したような「陸軍に於ける人事行政の不手際」もあって、軍人の処遇問題は一層深刻さを増していきました。
こうした問題を解決するために、軍は、ポストの新設や官職充当階級の上昇等の措置を図りました。しかし、そうした措置は、財政上の観点から冗員・冗費を節減すべきとの批判を浴びるようになり、その結果、(一)の軍縮を求める政治の圧力も加わって、師団の削減や冗員の整理や馘首が強行されることになったのです。
また、一般に陸軍将校は、文官や一般の俸給生活者に比べて、退職年齢が早く、そのため陸軍将校の経済生活には不安定さがつきまとっていました。しかも、文官の場合は天下りや再就職の道が開けていたのに対し、将校は再就職が難しく,昇進競争から取り残されたら、四十代半ばで退職し、恩給生活へいることを覚悟しなければなりませんでした。
また、退職した在郷将校は恩給に頼っていたために、第一次大戦後の物価上昇の直撃を受けることになりました。軍人は終身官とはいいながら「その実、力士に次ぎて最も寿命の短い職業」で、「陸海軍で採用した将校生徒中『少なくもその七八割は四十歳より五十歳までの間に於て、老朽若くは無能の故を以て予備役に押し込まるゝのである。中には三十代でお暇の出るのもあ』って、彼らは『働き盛り稼ぎ盛り』の年齢で世間に放り出されるわけである」と慨嘆されました。
(現役を退いたある歩兵大尉の述懐)
「私共は、軍国主義王政時代の教育を受けたものでありますから、永年社会とは没交渉にて、胸中に植え付けられたものは、軍人精神と『右向け右』『前へ』の軍隊的挙動のみで、世間のことは、何にも知らぬ。社交は下手である。位階勲等の恩典に対し、車夫、馬丁となることも出来ぬ。世の落伍者であります。軍人の古手が世に用いられず、体操先生にて終わるも、亦已むなき哉で、過去軍隊教育の因果応報、これも前世の約束かなと、禅味を気取っているの外ありませぬ。」
このような情況の中で、軍人に対する世間の目は次第に冷たくなり、「電車の中で見知らぬ乗客から、なんのかんのと文句を言われ」るようになりました。世間では、こうした軍人を揶揄して、「貧乏少尉のやりくり中尉、やっとこ大尉で百十四円、嫁ももらえん、ああかわいそ」というざれ歌までできる始末。こうした軍人軽視の風潮の中で、いわゆる青年将校と呼ばれた軍人たちの間に、”十年の臥薪嘗胆”という合言葉が生まれました。
「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。いまはがまんのときである。しかし必ず自分たちの時代が来ると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。」
ところで、こうした「昭和の軍閥」を構成したのは、陸士十六期以降の軍人たちで、それ以前の軍人達が日露戦争の実戦に参加したという意味で戦中派であるとすれば、彼らは戦後派でした。その戦後派の一期に当たる陸士第十六期の代表者が、ドイツのバーデンバーデン会合(大正10年)で有名な、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次でした。彼らはここで、「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢」につき密約したとされます。
この密約には、陸軍の派閥(=藩閥)人事に対する不満とともに、第一次世界大戦後の総力戦態勢に備えるための軍政・内政面の改革への決意が込められていました。その背景としては、彼ら以前の陸軍首脳は、そのほとんどが日露戦争において殊勲者となり、軍人の最高栄誉とされた個人感状や金鵄勲章をうけるなど出世・栄達を重ねていたのに対し、彼らはそうした機会を奪われていた。それだけに、総力戦時代に賭ける彼らの復活の思いが強かった、というわけです。
こうして、これ以降、主に十六期以降の青年将校(河本、板垣、永田、小畑、岡村、東条等)がしばしば会合して横断的に結合するようになりました。昭和2年には二葉会(十五期から十八期までの佐官級約18名で構成)が生まれ、昭和3年になると、軍事課課員鈴木貞一の呼びかけで、二十期から二十五期までの第二集団(石原、村上、鈴木、根本、土橋、武藤等、後「一夕会」と称される)が生まれました。その後、この二つの組織は結合して昭和軍閥の中枢をなすようになります。  
ところで、この一夕会の第一回会合(昭和3年11月3日)では、(1)陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進めること。(2)満蒙問題の解決に重点をおく。(3)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護り立てながら、正しい陸軍を立て直す、という三つの事項が決議されました。この決議は、二葉会にも相通ずるものとされますが、決して、非合法の手段に訴えようとするものではなく、況んやクーデターの如き極端な過激行動は強く排斥する、との敷衍もなされていました。
ところが、昭和5年秋に結成された「桜会」(橋本欣五郎、樋口季一郎、根本博、土橋勇逸、長勇、等)の綱領には、目的として、本会は国家改造を以て終極の目的とし之がために要すれば武力を行使するも辞せず。会員は、現役陸軍将校中にて階級は中佐以下、国家改造に関心を有し私心なき者に限る。そしてその準備行動として、(1)一切の手段を尽くして国軍将校に国家改造に必要な意義を注入(2)会員の拡大強化(3)国家改造のための具体案の作為、等と記されていました。
この桜会によって、昭和6年に三月事件、十月事件をというクーデター事件が引き起こされるのです。この三月事件は、省部・統帥部の首脳(小磯軍務局長、永田軍務課長、岡村補任課長、重藤支那課長、金谷参謀長、建川参謀次長、第一部長畑俊六等)の外に、大川周明の動員する右翼等も加わるという大規模なものでした。しかし、計画自体が極めて杜撰であり、首相に担ぐ予定だった宇垣陸軍大臣が、途中で変身した?ために未遂に終わりました。
十月事件は、9月18日の満州事変に呼応して、建川参謀本部第一部長と橋本欣五郎を中心とする桜会一派が、在京の将校学生や民間右翼と連携して起こそうとしたクーデター事件です。橋本手記には「満州に事変を惹起したるのち、政府において追随せざるにおいては軍をもって『クーデター』を決行すれば満州問題の遂行易々たるを論ず」と記されていました。しかし、これも関係将校14名が、直前に憲兵隊に検挙され未遂に終わりました。
こう見てくると、三月事件も十月事件も、先に紹介した二葉会、一夕会に属する青年将校たちだけでなく、省部、統帥部の首脳部も関与したクーデター事件であったことが分かります。そのことは、その後、これらの事件が隠蔽されただけでなく、関係者の処分も極めて軽微だったことで明らかです。しかし、クーデター計画と言うにはあまりに杜撰で、途中で反対に転じたものも多く、当時の青年将校や軍首脳の「満州問題の抜本解決」や「国家改造」にかける思いの強さを示すだけのもの、と見ることもできます。
それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。 
4 満州問題と十年の臥薪嘗胆

 

前回の末尾に私は次のように書きました。
「それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。」
なぜ、私がそのように考えるか。これを説明するためには、まず、「ワシントン体制」というものについて理解してもらわなければなりません。というのは、上記のような陸軍の、異常なまでの「満州問題の抜本解決」へのこだわりや、政党政治に対する敵意、クーデターを起こしてまで「国家改造」しようとしたその理由は、このワシントン体制――ワシントン会議で成立した諸条約(海軍の主力艦を制限する五カ国条約、中国に関する九カ国条約、太平洋問題に関する四カ国条約、日英同盟廃棄)によってもたらされたもの――に対する次のような不満に根ざしていたからです。
一、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約は、米英の圧力により屈辱的に調印されたものである。日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが中国の排日侮日態度を強めることになった。
二、二十一箇条要求以来の日華両国間の懸案であった山東問題について、日本が大戦中に獲得した山東のドイツ権益はほとんど大部分が中国に返還された。また、南満州・東部内蒙古における借款引き受けの優先権と二十一箇条要求中の第五号希望条項も放棄された。
三、九カ国条約によって、アメリカから中国の領土保全・門戸開放、機会均等を押しつけられた結果、日本の大陸政策には大きな拘束が加えられることになった。そのため、中国における日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定も破棄された。
そして、これらは満州事変後、次のように総括されるようになりました。
「(ワシントン会議では)日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定が・・・支那に対するルート四原則で破棄された。支那に対する九カ国条約、日米英仏の四カ国条約等によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果になり、日英同盟は破棄された。叉、同会議に於ける海軍軍縮協定では米英の間に五・五・三の屈辱的比率が結ばれる等、ワシントン会議は即ち、日本の失権会議の実質を以て終わったのである。」
そして、このワシントン会議における外交交渉で主導的な役割を果たした幣原外交は、マスコミによって、次のような批判を受けることになりました。
「思えば拙劣な外交(幣原外交を指す)であった。口に平和を唱えるいわゆる協調外交が、英米の現状維持を保障する以外のなにものでもなかった。その間かえって、英米の軽蔑を招き、さらに支那、満州の排日を激化したのみではなかったか。世界協調、人類平和と、白痴のように、うわごと三昧にふけっているうちに、英米はその世界平和的攻撃のプランを、ちゃくちゃくと発展させていたのである。さきにワシントン会議においては、日本をして満蒙特権を放棄せしめ、ロンドン条約によって日本の武力を無血にて削減し、不戦条約によって世界現状維持を強制した。他方悪辣なる積極攻勢に出でつつ、支那、満州の欧米化につとめた。
だが、果たしてこれらの批判は、客観的事実に基づく批判だったのでしょうか。まず、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約についてですが、この交渉に全権として当たった加藤友三郎は、この交渉の結果について次のように説明しています。
「先般の欧州大戦後、主として政治家方面の国防論は世界を通じて同様なるがごとし。即ち国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人のみにてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし・・・故に、一方にては軍備を整うると同時に民間工業力を発達せしめ、貿易を奨励し、真に国力を充実するにあらずんば、いかに軍備の充実あるも活用するあたわず。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。
戦後、ロシアとドイツとがかように成りし結果、日本と戦争のなるProbabilityのあるは米国のみなり。かりに軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦役のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当らず。しかしてその米国が敵であるとすればこの途は塞がるるが故に、日本は自力にて軍資を造り出さざるべからず。この覚悟のなきかぎり戦争はできず。英仏はありといえども当てには成らず。かく論ずれば、結論として日米戦争は不可能と。いうことになる。
この観察は極端なるものなるが故に、実行上多少の融通きくべきも、まず極端に考うればかくのどとし。ここにおいて日本は米国との戦争を避けるを必要とす。重ねていえば、武備は資力を伴うにあらざればいかんともするあたわず。できうるだけ日米戦争は避け、相当の時機を待つより外に仕方なし。かく考うれば、国防は国力に相応する武力を整うると同時に、国力を涵養し、一方、外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。
即ち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に到着す。余は米国の提案にたいして主義として賛成せざるべがらずと考えたり。仮に軍備制限問題なく、これまでどおりの製艦競争を継続するときいかん。英国はとうてい大海軍を拡張するの力なかるべきも、相当のことは必ずなすべし。米国の世論は軍備拡張に反対するも、一度その必要を感ずる場合には、なにほどでも遂行する実力あり。
翻ってわが日本を考うるに、わが八八艦隊は大正十六年度に完成す。しかして米国の三年計画は大正十三年に完成す。英国は別問題とすべし。その大正十三年より十六年に至る三年間に、日本は新艦建造を継続するにもかかわらず、米国がなんら新計画をなさずして、日本の新艦建造を傍観するものにあらざるべく、必ずさらに新計画を立つることなるべし。また日本としては米国がこれをなすものと覚悟せざるべからず。
もし然りとせば、日本の八八艦隊計画すらこれが遂行に財政上の大困難を感ずる際にあたり、米国がいかに拡張するもこれをいかんともすることあたわず。大正十六年以降において、八八艦隊の補充計画を実行することすらも困難なるべしと思考す。かくなりては、日米間の海軍間の海軍力の差は、ますます増加するも接近することはなし。日本は非常なる脅迫を受くることとなるべし。米国提案のいわゆる10・10・6は不満足なるも But ifこの軍備制限案完成せざる場合を想像すれば、むしろ10・10・6で我慢するを結果において得策とすべからずや。」
この条約によって、「日本は太平洋における防備制限と引き替えに対英米6割の海軍力を受諾し、こうして英・米・日三国は、それぞれ、北海からインド洋に至る海面、西半球海面及び極東海面での海軍力の優越を相互に承認しあい、建艦競争に伴う緊張が緩和されたばかりでなく,軍事費の節減も実現した」のです。海軍部内でもこのことが了解され、また、「日本の世論は一般にこの条約を是認し、英米両国でも同様であった」といいます。
また、「日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが、中国の排日侮日態度を強めることになった」という第一の批判については、むしろ、「対華二十一箇条要求に象徴される日本の威圧政策と中国の内部事情に由来するところが多」かったのです。このことは、先のワシントン体制批判の第二の論点にも関わりますが、日本の対華二十一箇条要求は、当時から「痛恨の外交的失策」とされていたのであって、このために生じた日中関係の亀裂を修復したものこそ、幣原の山東問題の処理や二十一箇条要求中の第五号希望条項の放棄だったのです。
次に、第三の批判についてですが、これは、九カ国条約によって、日本は満蒙特権まで放棄させられた。そのため、日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった、というものです。しかし、日本の満蒙における条約上の権益が失われたわけではありません(中国の主権尊重及び領土保全等を定めたルート四原則は、現に有効な条約及び協定に容喙するものではないこと、原則の適用地域は中国本部にだけ限ることが言明された)。また、「日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった」といっても、中国の主権を無視した勝手な行動がとれるわけでもありません。
このあたりの日本の言い分を最も直截に語っているのが森恪で、彼は、満州事変勃発後昭和7年6月17日に行った演説の中で次のように言っています。
「欧羅巴戦争を一期として、日本は、世界的に、所謂箍(たが)を嵌(は)められたも同様な状態になっている。・・・華盛頓条約は・・・寧ろ之を破壊しなければならぬ・・・日本に箍を嵌めたあの条約が存在する限り、日本国民は、世界という大きい舞台に立って活動することができない。あの条約が国民を、国内に跼蹐させて居る限り、日本は伸びない。日本の国状は、安定されないのである。・・・
日本国民の将来生きていく重点はどこにあるか。それは、この、外に内に嵌められている箍を叩き破るということが重点でなければならぬ。これが成功せざる限り、私は、日本の国情は安定せず、国運も向上せず、ひいては、国民個々の生活も安定し得ざるものと確信します。・・・その箍を叩き破る・・・まず不戦条約、九カ国条約、これを精神的に叩き破れ、国際連盟などは日本のために何の利益があるか。」
これはどういうことを言っているのかというと(この文章の前段に書いてあることですが)、”文明人が国をなして生活していくためには、人間の力を資源に働かせて富や国力に変化させなければならない。問題はこの人間の力だが、日本人は精神的、肉体的、歴史的に養成された文化の潜在力を持っている。しかし、日本は不戦条約や九カ国条約によって箍を嵌められ、一室に閉じ込められたような状態になっている。だからこの箍を叩き破って、東洋において日本人が自由に活動できるようにする。これは日本人の生存条の権利である。”という意味です。
この論理は、近衛文麿の「持たざる国」の論理と似ていますね。つまり、ここで彼が言っていることは、日本は資源を持たざる国であるが、資源を富や国力に変化させるだけの活力・文化的潜在力を持っている国である。一方、支那人はこの力を持っていない。そこで日本人が支那(特に満州)の資源を活用できるようになることで、日本人の活気も横溢するし、日本の人口問題も解決する。また、満蒙の治安を日本が守ることで支那の安全も確保されるし、ひいてはアジア全体の生活安定にも寄与することができる、というものです。
ではなぜ、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなってしまったのか、というと、森格等は、それは、日本が世界の現状維持(植民地分割の)を狙いとするワシントン体制を押しつけられ、中国や満州における資源の獲得に箍を嵌められたためである(その箍が5・5・3の海軍軍縮条約であり、中国の領土保全・門戸開放・機会均等を定めた九カ国条約だという)。従って、日本がその活力をもって大陸に進出するためには、この箍をたたき壊さなければならない、というのです。
実は、このように九カ国条約に対する敵意が公然と表明されるようになったのは、あくまで満州事変以降のことであって、それまでは一部右翼団体を除いて九カ国条約に反対するものはいなかったのです。実際、日本政府は満州事変以降も九カ国条約を守る旨対応していましたし、これを正面切って否定する旨の声明を出したのは、日中戦争二年目の1938年(昭和13年)11月18日付けの、有田八郎外相(近衛内閣)の対米回答が最初でした。
こう見てくると、もともと、この森恪の論理には無理があったわけで、従って、この論理が通らなくなったその原因を、海軍軍縮条約の締結、不戦条約、九カ国条約などに求めるのは筋違いという事になります。つまり、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなった、その主たる原因は、ワシントン体制にあったのではなく、その後の日本の大陸政策の失敗にあったのです。
いうまでもなく、それは、田中内閣時代に森恪主導で推し進められた対支積極政策(三度に渡る山東出兵、その間の東方会議、そして済南事件、さらに張作霖爆殺事件及びその隠蔽工作)の失敗がもたらしたものなのです。これが、その後の日中間の外交的基盤を崩壊させたのです。こんな情況の中で、日中間の外交関係の修復を引き受けたのが、第二次若槻内閣、浜口内閣において外務大臣を引き受けた幣原喜重郎でした。
この幣原の外交的努力を、軍を政治に巻き込むことで徹底的に妨害したのが、これまた森恪で、統帥権干犯問題がそうでした。また、幣原がこの問題に忙殺される間、中国との関係修復交渉を担当したのが佐分利公使でしたが、彼は、箱根の富士屋ホテルで不審死を遂げました。警察発表では自殺とされましたが、私は、満蒙問題が日中間の外交交渉によって解決されることを嫌った者の犯行ではないかと思っています。今、その関係資料をあたっているところですが・・・。
ところで、以上のような「支那や満州において排日運動が高まった」その本当の原因について、『森恪』伝を書いた山浦貫一自身は内心自覚していたようで、この伝記には次のような興味深い記述が見えます。
「ここに、運命的な歴史の不思議を感ずるのは、この第二次出兵によって起こったのが済南事件であり、済南事件は田中内閣の外交を決定的に失敗に導いたところの重大なモメントをなすものであることだ。それは・・・森の対支政策はもともと国共を分離せしめるにある。ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決するという計画であった。
森は前年、その方針で蒋介石とも交歓したのであるが,その森が、蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ち、従来、国民革命を認めない立場をとり北支は北京を中心として独立した政府を樹立して、その支配におくべしとした人々が,事なかれ主義の一時的方便から出兵に反対し、革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象である。
而して第二次出兵は,田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路にもなったのである。」
この記述によると、森恪の対支政策の本当の狙いは、
「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決する」ことだった。しかし、「蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立」ったため、(やむなく)山東出兵したのである。
ところが、この時「革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象」が生じたために、(その膺懲論者達によって)済南事件が引き起こされてしまった。その結果、その後の「日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった」と言うのです。
語るに落ちる、とはこのことですが、森恪を誰よりもよく知る山浦自身は、日支関係がこうした破滅的状態に陥ったその最大の責任は、ワシントン体制にあったのではなく、第二次山東出兵に伴って発生した済南事件、つまり、それを引き起こした軍の膺懲論者にあったと見ていたのです。もしそれが本当なら、森恪は、自らの失敗を巧妙に隠し、それをワシントン体制及びそれを担った幣原に責任転嫁した、ことになります。
この森恪の巧妙な隠蔽工作と責任転嫁が許され、済南事件以降、破局に瀕した日中の外交関係の修復をあえて引き受け、森の悪辣な妨害を受けつつも、何とかして局面打開を図ろうと努めた幣原喜重郎が、満州事変を起こした元凶と見なされる・・・そんな評価が、今日でも、あたかも通説の如く通用しているのですから驚くほかありません。
「(幣原外相は)あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれ過ぎていた。満州に対する幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果で、当時世上には,春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条湖事件を惹起したのだと酷評したものすらあった。」 
5 青年将校にとって満州は生命線だった

 

まず、前回提示した疑問についての私の考えを述べておきます。『森恪』の著者山浦貫一は、森恪の対支政策の「本当の狙い」について次のように述べています。
それは「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決することだった。しかし、北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ったため、(やむなく)山東出兵したのである」。
この間の事情について、『軍閥興亡史』の伊藤正徳は次のように記しています。 
「これより先田中内閣の初期、蒋介石は革命運動に躓いて日本に逃避し、日本の援助を瀬踏みに来たことがある。その時、田中は箱根に於て蒋介石と密会し、蔣が南支を平定することに対し間接に後援するが、満洲の方は日本と北方軍閥(張作霖)の交渉に一任して干渉をしない約束をとり付けていた。だから半年後の蒋介石の北伐に対しても、田中は好意的でこそあれ、之を阻止する考えはなかった。
にも拘らず、二回に亙って山東方面に出兵したのは、一に政友会内閣の方針が、山東方面の居留民(総数約三万五千名)に対しては一弾をも投じさせてはならぬという強硬主義に動かされたわけである。即ちこの出兵は選挙政策であり、軍部の主張に依ったのでもなく、また田中の発意に基いたのでもない。そうして却って済南事件(邦人十数名殺害)などを起こし、且つ支那国民の対日反感を増大させるような失敗に終ったのは、田中にとっては気の毒という外はなかった。」
これを見ると、山浦の言う「北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立った」というのは、政友会の選挙政策上やむを得ずそうした措置をとったということです。ということは、こうした政友会の政策(南京事件の処理に当たって幣原外交を軟弱外交と非難し居留民の現地保護を主張した)を主導したのは森恪だったのですから、これは田中の言い分とはなっても、森恪の言い分とはならない。これは、森恪による幣原外交攻撃が、政友会の党利党略に過ぎなかったことを物語るだけのものです。
なお、田中内閣における外務大臣は田中義一首相自身が兼摂し、外務次官には森恪を充てました。このことは、田中内閣における実質的な外務大臣は森恪だったということを意味します。次に述べる東方会議は、この森恪が、陸軍の鈴木貞一や吉田茂(奉天総領事)らと図って、田中内閣の対支積極(=強硬)政策を、政府、政党、在外各関係者及び陸海軍の一致した国策に格上げしようとしたものです。
しかし、その「東方会議も掛け声だけに終り、その後の張作霖との交渉も順当に進まず、結局は、陸軍方面の要望する武力による解決の外はないか、と田中は段々と転向を余儀なくされて行った。ただ、一点彼の大局観を弁護する材料は、帝国陸軍を表面の主動者とすることを飽くまで回避する方針であったことだ。
そもそも田中の対支外交の一大原則は「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」というにあった。言は壮なるに似たれども、満蒙は支那の主権下にある地域だから、日本がそれを安住の地たらしめる権能も責任もなく、その意味で外交標語としては粗笨(そほん)の非難を免れなかった。単に万難を排しても同地方の既得損益を擁護すると言えば、内外斉しくそれを非難する者はなかった筈だ。(幣原はそれをやろうとした=筆者)ところが「安住の地たらしめる」の一語の中に、何となく支配者の意慾が疑われる点があり、貴族院に於ける質問演説で幣原前外相から酷く油を絞られたようなこともあった。」
この「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」という言葉を対支外交の一大原則とするところに、田中首相の危うさが現れています。まして、蒋介石による中国の全国統一事業(北伐)が行われている最中に、わざわざ山東に出兵することや、そうした対支積極政策を日本の国策とするため、鳴り物入りで「東方会議」を開催するなどということが支那側を刺激しないはずがありません。当然、外交交渉による満蒙問題の解決は困難となる。その結果どういうことになったか。
次の記述は、引き続き『軍閥興亡史』からのものですが、おそらく、東方会議以降第二次山東出兵に至るまでの軍の内情を記したものではないかと思われます。
「満州問題の解決は外交交渉では片附かないとなれば、最早や武力の行使しかない。が、陸軍を表面に出してはならない。軍が満洲へ出て行く場合は、既得権を擁護する上に万己むを得なかったということを、内外ともに承認するような形に於て行われるのでなければ不可(まず)い。」
つまり、当初は、冒頭に紹介したような方法で満蒙問題を解決しようとしていた田中でしたが、そのための外交交渉が進展しないとなれば、従来より武力行使による問題解決を主張してきた青年将校らの意見に耳を貸さざるを得なくなる。その時、そうした武力行使のプラニングをしたのも森恪ではないか、というのです。
「世上、それは参謀長森恪の画策に依るとも言われているが、要は満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決する方式であった。
田中は密かに親交のあった大新聞の実権者を招いて内容を打ち明け、その場合には、言論の支持を得られるか否かを質した。それに対し、そのI博士は襟を正して、「表面は誰が事件を起すにしても、世間は陸軍がそれを起したことを信じて疑わないであろう。俗に謂う、頭隠して尻隠さずで、軍の信用が失墜するだけである――」と率直に苦言を呈した。暫く問答した後、田中は沈痛に「そうかノウ、では暫時中止するか」と言って別れたという。
後で調べると、時余にして田中は陸軍次官畑英太郎を招致し、「あの計画は暫く止めておくから至急手配せよ」と命じている。即ち知る、その計画なるものは、軍が中心となるか、少なくとも某有力パートナーとして画策していたことが明白である。
既にして政友会院外団の一味や、満洲事業家の乾分達は満洲に入り込んで内乱作製の手筈を進めていたのだ。満蒙の地に内乱が起こっては日本は見物をしている訳には行かない、大至急陸軍を動員して之を平定するという筋書が出来上がっていたのである。軍の若い一部将校達は、そこまで策謀しなければ内部的にも治まらない所まで激昂していたのだ。穏健な大・中佐級の一部を評して、「一身のみを守る不忠の輩」と罵るような乱暴な青年将校が、五人や十人ではきかなかったのだ。上級将官が断乎として之を処罰しない限り、そのままでは軍紀軍律を紊る陸軍の一大不詳事を惹起することは必定であった。
ところが、大・中将は既に弱かったばかりでなく、彼らの満州擾乱、出兵平定の筋書きには本心賛成なのであるから、それを抑えるよりは寧ろ心で歓迎し、何時しか「軍の内面指導」の下に計画を進め、一方に外務省は森次官が連絡係として奔走し、今は単に時日を待つばかりに熟していたのだった。そこへ、突如田中から暫時中止の命令が下ったのだ。驚きは忽ち憤りと変わった。以来、田中に対する軍部の信頼と支持とは急角度を以て消散して行った。それは実に、張作霖爆殺事件の発生する僅か一ヶ月前のことであった。」
張作霖爆殺事件は昭和3年6月4日ですから、その一ヶ月前といえば5月4日、丁度済南市街で北伐軍と日本軍第6師団間に軍事衝突が起こっていた頃です。それが拡大して5月8日より日本軍の済南城攻撃・占領となり、北伐軍に多大な死傷者を出すに至りました。このため北伐(国民革命)軍は済南を迂回して北上し北京に向かいました。日本はさらに出兵兵力を増加(第三次山東出兵)し、5月18日には満州治安維持宣言を出し、同時に関東軍を奉天に出動させました。
このねらいは、もし北伐軍と北京の張作霖軍の間に戦闘が始まれば、関東軍が長城線近くの錦州――山海関まで出動して両軍を武装解除し、この機に張作霖を下野せしめて、満州の軍事的支配権を握ろうというものでした。ところが、ここでも田中は、アメリカ政府が抗議めいた動きを見せたこともあって、10日間迷ったあげく「オラはやめた。張作霖は無事に帰してやれ」と初心に逆戻りしてしまいました。
おさまらぬのは、刀の鞘を払って振りかぶっていた関東軍である。温厚な斉藤参謀長すら日記に『現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし』と書いたぐらいで、肚に据えかねた関東軍村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示する。それを察知した河本が『張抹殺は私が全責任を負ってやります。』と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させたのであった。
この間の事情について『森恪』では次のように記述しています。
「田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。
我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相剋抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」
こう見てくると、張作霖爆殺事件のような暴虐無比の事件も、それは決して河本大作の個人的憤激により惹起されたものではなく、田中内閣外務次官森恪が、軍の青年将校等と図って引き起こそうとしていた「第一次満州事変」――満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決しようとした――の一つの暴発的形態だったということが判ります。つまり、満蒙問題とは、この時代の軍の中堅以下壮青年将校達にとっては、こうした謀略的手段に訴えてでも解決すべき死活的な問題だったのです。
「満蒙を何とかせねばならぬ」というのが田中の国策第一条であった。これより先き「満蒙を制圧せねばならぬ」というのが軍部の念願、特に中堅以下の壮青年将校の燃えるような願望であった。これによってのみ、多年軍縮下に抑えられた不満を晴らすことが出来、戦闘によって軍人は蘇生し、軍旗は原隊に還るであろう。この利己的注釈が全部では無論ない。満州の野は二十万同胞の霊の眠るところ、日本発展の運命の地域。それを領有しないまでも、確実に我が勢力下に安定させることは、民族の発展を願う者、国を愛する者の当然の信条でなければならぬ。人心廃れ、政党腐り、恬としてこれを顧みないならば、吾等こそこの天地に廓清の血の雨を降らしても目的に邁進するであろう――と彼らは自ら注釈した。
そして、こうした彼ら「自らの注釈」に、国家改造へと進む政治的道筋をつけたのが、田中内閣において実質的な外務大臣を務めた森恪でした。これが、結果的に張作霖爆殺事件という暴虐とも愚劣とも言いようのない事件を引き起こすことになったのです。問題は、これが反省されるどころか、一夕会に結集する青年将校等によって継承され、より周到に計画され再び実行に移されたということです。こうして引き起こされた満州事変は、単に満州における日本の権益擁護という意味だけでなく、日本国の国家改造を牽引する前進基地づくりとしての意味を持つようになっていました。
つまり、満州における既得権益擁護の問題が、日本国の国家改造を求める革命運動へと転化したのです。おそらくこれが既得権擁護の問題に止まっていれば、満州問題はもっと合理的な解決ができたでしょう。しかし、満州事変以降軍によって推し進められた国家改造の動きは、明治・大正を通じてようやく根付きはじめた日本の政党政治、立憲政治を圧殺することになりました。代わって、一国一党の国家社会主義が追求されました。そして、その思想の日本的読み替えが尊皇思想に基づく忠孝一致の天皇親政だったのです。
この辺りの思想的絡み合いは、アジア主義者や支那通軍人の「アジア諸国連帯論や西洋列強からの解放論」、近衛の「持てる国、持たざる国論」、森恪の「『浮城物語』的冒険主義」、右翼イデオローグの巨頭北一輝や大川周明等によって唱えられた国家社会主義や日本主義、石原完爾の「最終戦争論」などが入り交じって、一体、どこにその中心があるのか容易には分かりません。もちろん、その中心的な担い手が昭和の青年将校等であったことは間違いなく、ではなぜ、彼らがその中心的な担い手となったか。この問いに答えることが、本稿の主題「昭和の青年将校はなぜ暴走したか」に答えることになります。 
6 満州問題が国家改造に発展した

 

これまでの考察で、昭和の青年将校の暴走は「満州問題」の処理をめぐって始まったことが明らかになったと思います。まず森恪によって、その武力解決に向けた政治的道筋が開かれ、それが結果的に張作霖爆殺事件を引き起こすことになった。そして、それが反省されるどころか、一夕会に集う青年将校等によって引き継がれ、周到にその計画が練り直され、理論化され、世論工作がなされて、満州事変となった。この時、満州における日本の権益擁護という問題は、満州を前進基地とする日本国の国家改造の問題へと転化した・・・。これが,その後の日本外交を狂わせた根本的な原因となった、ということです。
ではなぜ、彼らはそれほどまでして日本の国家改造にこだわったのか、ということですが、その理由は、当時の民政党若槻内閣における幣原外交が、中国の主権尊重を基本とするものだったからで、彼らの主張する満州問題の武力解決を容認しない、と考えられたからです。それは、九カ国条約や不戦条約のもとでは当然のことでしたが、問題は、当時の国民党や張学良政権が、そうした幣原の基本姿勢にも拘わらず、満州における日本の条約上の権益を無視した過激な排日運動を繰り広げたということです。これ は、田中内閣における対支積極(強硬)外交の帰結でもあったわけですが、いささか度が過ぎた。そのため、その責めが総て「幣原外交」に帰され退場を余儀なくされたのです。
この当たりの事情については、当時、中国に勤務したアメリカの外交官ジョン・マクマリー(中国関係条約州を編集し、ワシントン会議にも参加して、1920年代のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人だと考えられていた)が、そのメモランダム(1935年)に次のように記しています。
「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。
人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない”けち野郎″と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。
中国国民と気心が合っていると感じており、また中国が屈従を強いられてきたわずらわしい拘束を除こうとする願いを一番強く支持してきたのは、外国代表団の人々であった。この拘束とは、中国が二、三世代前に、国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否したがために、屈従を余儀なくされてきたものであった。彼らの祖父たちが犯したと同じ間違いを、しかもその誤りを正す絶好の機会があったのに、再びこれを繰り返すことのないよう、我々外交官は中国の友人に助言したものであった。
そして中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだった。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。
このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。
(日本の幣原外交による=筆者)協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」
マクマリーはここで、日本がこのように東アジアにおいて孤立するようになったのは、当時アメリカが「アメリカ以外の国々に頑固に楯突くよう中国人を鼓舞し、彼らにへつらっただけの無意味で偽善的な」行動をとったためである、と言っています。そうした「協力国の利害に与える影響を無視してでも自らの利益を追求」しようとしたアメリカの態度が、武力ではなく外交による国際秩序形成をめざしたワシントン体制を崩壊させ、日本をして、その「正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至」らしめたと言うのです。
おそらく、これが、第二次若槻内閣のもとでの幣原の対支外交を行き詰まらせ、満州事変を必然ならしめた当時の国際政治要因だったのではないかと思います。また、マクマリーは、張作霖時代における彼と日本との関係や、その後に起こった張作霖爆殺事件、そして張学良について、次のように述べています。
「張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢しさをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。
たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業側も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。そのあと馬賊は姿を消すといった具合である。
中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応し続けなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、一九二六年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。
そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。
なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状での頼りにならない不安定要因が彼であった。日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん耐えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。
上述の状況が、日本の政情の変化の底にあった。そしてワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での”積極政策″を唱えていた陸軍閥が優位に立った。それが一九三一年(昭和六年)九月十八日の満州事変の背景であり、これがきっかけとなって、満州および他の中国領への日本の侵略が続いていった。そして、日本国民の間に思想の変化が芽生えはじめる。それは中国ならびに極東全般における日本の好機、使命および運命についての考え方の変化である。この考え方は陸軍の指導者や、特定の狂信的な国家主義者知識層にとっては別段目新しくはないが、勤勉で重税に苦しむ大多数の零細農民達の思考とは全くかけ離れたものであった。」
ここで注目すべきは、マクマリーが張作霖爆殺事件について「分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。」と疑問を呈していることです。一体、この事件がいかなる事情の元に発生したのか、ということについては前回詳しく述べましたが、ここには明らかに、日本人の思想の変化というより思想的劣化が見て取れると思います。おそらく、こうした彼らの「理解しがたい」行動の根底には、例の「十年の臥薪嘗胆」の思いが伏在していたのではないかと思いますが・・・。
というのも、この時の首相は、彼ら帝国陸軍軍人の大先輩である元大将田中義一であり、その田中が、ようやく張作霖を説得して満州に帰順させ、新たな日満の共同関係を築こうとしたその矢先、関東軍の一将校が、張作霖を列車ごと爆破し死亡させたからです。それだけでなく、彼の同僚である青年将校等はその犯人を英雄視し、政府に圧力をかけて事件の真相をもみ消し、単なる警備不行き届きの行政処分に止めさせただけでなく、その彼を、その後も軍の諜報組織の中で重用し続けた・・・。
つまり、彼らは、日本国に国家改造を求める以前の、自らの政権とも言うべき田中内閣下において、これだけの独善的・背信的行動を行っていたのです。これを、政府も軍首脳も厳正に処罰することができなかった。こうして、軍内に、軍紀を無視した下克上的行動を蔓延させることになったのです。こうして、昭和6年には軍首脳をも巻き込んだ三月事件というクーデター事件、次いで満州事変、そして、それに連動した再度のクーデター事件である十月事件が引き起こされることになりました。では、これらの連続するクーデター事件の目標は何であったか、それは「日本国の国家改造」ということだったのです。
で、この「国家改造」という言葉ですが、これはおそらく、北一輝の『日本改造法案大綱』からとられたものではないかと思います。ということは、こうした考え方は、この時代、軍人だけに通用した言葉ではなく、一般に通用した言葉だったということです。では、こうした北一輝の言葉=思想は、これらの事件にどのような影響を及ぼしていたのでしょうか。また、これらの事件に関わったとされるもう一人の右翼イデオローグ大川周明の思想についてはどうだったのでしょうか。次回はこの問題について考えてみたいと思います。これによって、この国家改造という言葉の意味するところが分かりますし、その妥当性を検証することができるからです。
結果的には、こうした言葉=思想を生み出した大川や北は、前者は五・一五事件で投獄(15年)、後者は二・二六事件で処刑されてしまいました。つまり、彼らは最初は軍に利用され、そして最後はスケープゴートとされたのです。とはいえ、彼らを単なる右翼イデオローグと決めつけ無視することはできません。特に、北の思想には極めて独創的な見解や、戦後民主主義にも通じる優れたアイデアが数多く含まれています。それを正当に評価した上で、では、なぜそれが「三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とか「在郷軍人団を以て改造内閣に直属したる機関」とするなどの、立憲政治や政党政治を否定する「国家改造」法案へとつながったか。
ここに、昭和の悲劇を理解するための、もう一つの鍵が隠されていると思います。 
7 皇道派の暴走を利用した統制派

 

昭和の歴史を主導した青年将校グループに皇道派と統制派があり、両者が激しい主導権争いを行ったことはよく知られています。その争いの頂点となったのが、皇道派将校相沢三郎による軍務局長永田鉄山斬殺事件でした。この事件は、一青年将校が、軍服軍刀で陸軍省に行き白昼堂々軍務局長を斬殺したもので、軍紀の常識上考えられないことでした。しかし、さらに異常なのは、事件直後、相沢は上司に「これから御前はどうする気か」と尋ねられると、「これから偕行社に寄って買い物をして、直ぐに任地(台湾)に出発します」と答えたことです。
こんな話を聞くと、多くの人は、この相沢という軍人は精神的に異常だったのではないかと思うでしょう。もしそうであれば、この事件は精神異常者の引き起こした特異な事件として処理されたはずです。ところが実際は違った。陸軍省より「相沢中佐は永田鉄山中将に関する謝れる巷説を盲信したる結果云々」と発表されると、皇道派の軍人は「『誤って巷説を盲信し』とは怪しからぬ、それは真実に基づき信念を持って実行した帝国軍人の行動である」といい、恰も永田が殺されるのは当然である言わんばかりの態度を以て抗議したもの」もいたといいます。
さらに皇道派は、この相沢の裁判を利用して統制派に打撃を与え、同志相沢の行動をむなしく終わらせないことを誓い合いました。そこで彼らは次々と裁判の証人台に立ち「永田は国軍を毒する蛇であり、その横死は天誅である」と卓をたたいて叫びました。これに対して永田を弁護する統制派も立ち上がり、これに応じて皇道派の御大である真崎甚三郎が証言台に起つことになりました。こうして皇道派は、「公判に世間の視聴を集め、統制派を痛撃する一方に於いて、クーデターを断行する工作を秘密に進め」、真崎大将が出廷した翌日の2月26日、突如二・二六事件を起こしたのです。
この二・二六事件ですが、その基本的な性格は、皇道派対統制派の対立抗争がその頂点に達した段階で起こったクーデター事件である事が示す通り、現体制を掌握している統制派に対して皇道派が権力奪取を図ったものということができます。この時殺された重臣は、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太カ、重傷は侍従長海軍大将鈴木貫太郎、未遂は首相岡田啓介、前内大臣牧野伸顕、元老西園寺公望でした。この内文官は高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望で、彼らは「君側の奸」と目されたために攻撃を受けました。また、その他は軍人出身あるいは現役軍人(渡辺錠太カ)で統制派と目されたためです。
この襲撃が終わった約1,400名の将兵は、予定通り、首相官邸、警視庁を占領し、麹町区西地区一帯の交通を遮断し、午前五時、大尉香田清貞、村中孝次、磯部浅一の3名は川島陸相に面会し、決起趣意書を朗読した上次のような要望書を突きつけました。
それは(一)全権の奉還、(二)統制経済の実施、(三)以上を実行し得る協力内閣の出現を上奏する、の三項目を主文とし、これに加えて十二項の付則細目がありました。
一、現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
二、皇軍相撃つことは避けなければならない
三、全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
四、警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
五、南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
六、速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
七、軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
八、林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
九、荒木大将を関東軍司令官に任命すること
十、同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
十一、同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
十二、報道を統制するため山下少将を招致すること
次の者を陸相官邸に招致すること
26日午前7時までに招致する者――古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
午前7時以降に招致する者――本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐
要するに「彼らは、『昭和維新』の詔勅を賜った後、具体的には陸軍大将・真崎甚三郎か、陸軍中将・柳川平助などを担いで維新内閣を樹立し、志の実現を図ろうという思いを抱いていた」のです。
ただし、真崎も荒木も事前にはこれを知らなかったとされます。しかし、これらは一見して皇道派の天下を画策したものであること歴然たるものがあり、彼ら(真崎、荒木、柳川)は皇道派の領袖として、また軍事参議官として、この要望書に沿った事件の処理に努めました。
具体的には、26日午後2時には全軍事参議官の外、杉山次長、本庄侍従武官長、香椎東京警備司令官等が出席して軍事参議官会議が開かれ、鎮撫、原隊復帰を第一の収拾策とする立場から、午後3時30分、香椎司令官を経て、次のような陸軍大臣告示が叛乱軍に示されました。
一、決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり
二、諸子の行動(原案は「真意」)は国体顕現の至情に基づくものと認む
三、国体の真摯顕現の現況(弊風をも含む)については恐懼に堪えず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合わせたり
五、之以外は一つに大御心に俟(ま)つ
さらに、午後7時20分には東京警備司令部より、歩兵第一連隊長(小藤恵)に対し、反乱軍である歩兵第一、第三、野重砲七の部隊を指揮して、叛乱部隊が占拠している地区を、之と対決している武力(警備司令部)とともに一括して警備せよという驚くべき命令が発せられました。つまり、大臣告示とこれによって、決起部隊は賊軍ではなく官軍となったのです。こうして一日だけの食糧を携行して兵営を出た反乱軍は、原隊からの食料によって食事をするようになりました。
このため、反乱軍将校の大部分は情勢は全く自分たちに有利と判断し、一挙に維新の断行を推進しようとして、歩一連隊長に対し全面的にはその指揮下には入らず、独自の権限を与えよと要求しました。しかし、こうした軍事参議官等の出した大臣告示以下の措置は、全く天皇の意思に背くものであって、その後、天皇の怒りの激しさを知った彼らは、この上は、皇軍相撃を避けるため、反乱軍をおとなしく原隊に帰すべく、叛乱側を説得しようとしました。しかし、叛乱側は大臣告示等の内容を盾に、こうした説得を受け入れようとしませんでした。
一方、こうした動きの裏で、また別の動きが始まっていました。それは石原作戦部長を軸とする統帥幕僚らの動きで、26日夜、石原、橋本(欣五郎)、満井(佐吉)らが会談し次のような結論を得たとされます。
「陛下に石原より直接奏上して、叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して政局を収拾する。」この時石原は、当初「維新大詔渙発」によって、天皇親政を基軸とする皇族内閣を構想していました。しかし後継首班については意見一致せず、山本英輔海軍大将を推すことになりました。
しかし、天皇の怒りの激しさを知る杉山参謀次長は、石原のこうした進言を拒絶しました。一方、石原は戒厳令の施行を主張していました。戒厳令は、まず閣議決定を必要とし、続いて枢密院の諮詢を経て天皇裁可・布告となります。実は、戒厳令の施行には軍部以外の大臣らは反対で、彼らは、これに乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望を図るのではないかとの警戒心を持っていました。しかし、未曾有の大事件であって、軍部以外の手では鎮圧できない弱みがあるので、やむなく賛成したといわれます。
この間の石原の行動については、当初は、「大赦の請願」や「維新大詔渙発」を画策するなど叛乱軍を幇助するかのような姿勢を見せていました。しかし、天皇の叛乱軍に対する怒りが激しく、それが無理だと判ると、戒厳令の施行(27日午前3時50分「緊急勅令」公布)に伴い、戒厳参謀として叛乱軍の鎮圧する側に立ちました。一体、この間の石原の真意はどこにあったのか、ということを巡って様々の意見が戦わされています。が、おそらくその真相は、次のようなものだったのではないでしょうか。
*石原は戒厳令の施行は当初から主張していたとも言う。
「・・・二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです。」
これは、二・二六事件発生当時、軍務局軍務課員であった片倉衷が、戦後、NHKの中田整一に語った言葉です。彼は、二・二六事件が勃発したこの日の早朝、陸相官邸に駆けつけ、その玄関前で反乱軍の磯部浅一に頭部を拳銃で撃たれました(一命はとりとめた)。片倉は石原や武藤章等とともに、打倒すべき重要幕僚の一人として、かねてより皇道派の青年将校に狙われていたのです。
その彼が中心となって、この事件が発生する2年前に作っていたものが、この「対策要綱」、すなわち「政治的非常時塩勃発に処する対策要綱」でした。これは、予測される皇道派による「軍事クーデター勃発に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、自分たちの側が依り強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという、いわば”カウンター・クーデター”の構想」をまとめたものでした。
その序文は次のようなものです。
「帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞(おそれ)少なしとせず。事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨にして、此場合政府並国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契(ママ)の事たるのみならず、革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。即ち爰に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる」
つまり、この「要綱」は、「国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識」に立って、こうした事変勃発を逆に利用して「軍部自らは直接手を汚すことなく、しかも結果的に『革新の原動力』たらんとする意思」を明確に打ち出したものです。「それは、皇道派青年将校らの国家改造案とは異なり、緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚たちによる反クーデター計画案であった。」
この「対策要綱」の実施案は次のようになっていました。
(一)事変勃発するや直ちに左の処置を講ず
イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二)戒厳宣告(治安用兵)の場合には軍部は所要の布告を発す
(三)後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
(検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項)
(四)内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ
つまり、「統制派幕僚たちは、いつクーデターが起こっても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた」のです。そして、二・二六事件の勃発についても、それは第一師団の満州移駐が決定的な引き金になるだろうと予測し、2月22,23日には、憲兵より事件勃発の警告を得ていました(片倉談)。つまり、先に紹介した石原の奏上案も、また、一転して布くことになった戒厳令も、全て、統制派幕僚である石原や片倉等の構想した、カウンター・クーデターへの道筋に沿うものだったのです。
結局、28日午前5時には、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、反乱部隊の下士官兵は29日午後2時までに原隊に帰りました。残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えました。また、同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕されました。こうして、2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となり、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入されました。
また、侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となりました。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となりました。さらに、皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は、歩兵第40旅団長に転出させられました。
この事件の裏には、上に見た通り、皇道派の大将クラスの関与が疑われたわけですが、事件の基本的性格としては「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表されました。そのため、民間人を対象とする裁判を担当した吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべき」と主張したにもかかわらず、寺内陸相は、極刑の判決を示唆した、とされます。
この事件は、武藤章らの主張に基づき厳罰主義で速やかに処断するため、緊急勅令による特設軍法会議で裁かれることになりました。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷なものでした。また、判決は、陸軍刑法第25条の「反乱罪」が適用され、元歩兵大尉 村中孝次、元一等主計 磯部浅一を含む将校16名が死刑という過酷なものとなりました。
以上、二・二六事件で極点を迎えた皇道派vs統制派という昭和の青年将校グループの対立を見てきました。だが、この皇道派と統制派という二つの青年将校グループは、一体何を巡って、ここまで対立を深めたのでしょうか。実は、本稿でも指摘している青年将校運動の出発点となった「満州問題の武力解決」という点では違いはなかったのです。そこに対立が生じたのは、満州事件に呼応する形で計画された10月事件の処理を巡って皇道派の青年将校側に次のような不満が生じたためでした。
ここで皇道派というのは、いわゆる「隊付き」将校を中心とする青年将校グループのことです。一方、統制派というのは、陸大出の――いわゆる天保銭組といわれ、陸軍省や参謀本部など軍の要職を占有した――いわゆる幕僚将校とよばれた青年将校グループのことです。この両者に、満州事変以降対立が生じたのです。なぜか、幕僚将校等のクーデター計画段階での美技を侍らし酒色に耽る態度が、隊付き将校等の眼には私利私欲に見えたこと。また、クーデタ成功後、彼らが自らを大臣とする閣僚名簿を作成したことが、天皇大権を私議するものに見えたのです。
つまり、皇道派というのは、満州事変以前の幕僚将校主導の青年将校運動に、隊付き将校を中心とする青年将校グループが反発し、独自の国家改造運動を始めたことで生まれたものなのです。これに対して、幕僚将校たちは、満州事変の成功で軍主導の革命拠点を作成したことでもあるし、クーデターという非常手段に訴えなくても、軍の統帥権を盾に政権を合法的に掌握することが可能だと考えるようになった。そして、そのことは同時に、隊付き青年将校等が北一輝等民間の革命家と結んで計画するクーデターを、軍の統制や軍紀を乱すものとして厳しく弾圧するようになった。
といっても、両者が日本を国家改造することで達成しようとしていた新しい国家体制イメージにどれだけの違いがあったかというと、いずれも、政党政治には反対で、天皇中心の一国一党制、軍部主導の国家社会主義的政治体制を作ろうとしていた点では同じだったのです。あえてその違いをいえば、前者が一君万民・忠孝一致の家族主義的国家イメージ、後者がナチス的国家社会主義的国家イメージだったということ。前者は実際権力から阻害されていた分だけ、非現実的な忠誠無私の大御心信仰となり、後者は先に紹介した石原や片倉のように、こうした皇道派の暴発を、自らの国家改造目的達成のために逆利用するというしたたかさを持っていたのです。
この統制派のしたたかさを如実に示すものとなったのが、二・二六事件後、組閣することとなった広田弘毅内閣における組閣人事への軍のあからさまな干渉でした。その閣僚名簿に、外交官の吉田茂、朝日新聞社社長下村宏、前司法大臣小原直、中島飛行機の中島知久、平民政党幹事長川崎卓吉らの名前があることについて、時局認識の不足を露呈するものだとして排撃したのです。その理由、吉田は軍人嫌いで、かつ、二・二六事件で襲撃された牧野伸憲の女婿である。下村は自由主義者だ。小原は国体明徴問題で法相として優柔不断だった。中島は新興財閥で財閥否定の時勢に反するというものでした。
従来は、軍が内閣の人事に干渉することがあっても、それは軍事費を繞る防衛戦闘のためであって、内閣の構造自体に嘴を入れることはなかったのですが、今度は、閣僚を狙い撃ちして、軍の思想及び国策上の要求を貫こうとする攻撃戦闘だったのです。この談判に出かけたのが寺内寿一で、その後4回にわたり組閣本部を訪れ、その間、軍は28センチ砲を発射して、間接射撃の轟音に政界を震撼させたといいます。その結果、川崎が罪一等を減じて伴食ポストに座った外の四人はオミットされました。
さらにその後、二・二六事件で反乱軍将校を幇助したとして予備役に回された皇道派の陸軍上層部が、陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになりました。こうして、「原敬が苦闘幾年にして漸く一本打ち樹てた『軍部横暴制止』の官札」は取り払われることになりました。こうなると陸軍の気にくわない内閣には軍は陸相を出さない。故に内閣は潰れる。こうして、内閣の運命は軍部の掌中に帰するという、軍権横行時代を現出することになったのです。
次回は、こうして皇道派や北一輝の思想を打倒することで勝利を手にし、その後の日本の政治を掌中に収めることになった統制派の思想について、その問題点をもう少し詳しく見てみたいと思います。というのも、この思想は、その後の日本を、泥沼の日中戦争へと引きずり込んだだけでなく、常識では考えられない対米英戦争へと突入させることになったからです。勝った思った思想が実は負けていた?いや、負けた思想はそれ以上に脆弱だった?この辺りの思想的な課題について、大正デモクラシーの時代に遡って再点検してみたいと思います。 
8 皇道派青年将校が生まれたワケ

 

皇道派と統制派という用語は興味深いものがあるが、その後の展開は皇道派の予測どおりに進んだ。
皇道派が軍で主導権を握っていれば日中戦争もひいては大東亜戦争もなかったという意見がありますね。近衛文麿が皇道派を支持し続けたことはよく知られていますし、これに対して昭和天皇は皇道派の領袖と目される真崎を嫌ったとされます。こうした天皇に対する最後の直諫として提出されたものが「近衛上奏文」で、「満州事変から大東亜戦争までを引き起こした張本人は、軍部内の一味の共産主義と両立する革新運動そのもの」であり、それを担ったのが統制派である、とする見方です。
ジャーナリストでこうした皇道派擁護の論陣を張ったのは、岩淵辰雄で『敗るゝ日まで』(s21)があります。同様の主張をしているのは山口富永(『昭和史の証言―真崎甚三郎人・その思想』s45や、田崎末松(『評伝真崎甚三郎』s52)があります。また、山口氏にはNHK特集「二・二六事件消された真実」(s63)に対する反論となる『二・二六事件の偽史を撃つ』(h2)があります。私が前回用いた『盗聴二・二六事件』の著者中田整一氏は先のNHK特集番組制作のプロデューサーを務めました。
まず、このNHK特集番組についてですが、私は丁度この番組をNHKオンデマンドより記録していましたので、それを見てみました。この番組ではその「消された真実」とは、戒厳司令官となった香椎中将少将が「陸軍大臣告示」(26日午後3時下達)より以前に「陸軍大臣告示」(午前10時50分)が近衛師団に下達されていたというものです。これにより、香椎や山下奉文少将さらには荒木大将や真崎大将が反乱軍を幇助した、というよりその首謀者であったらしい事が示唆されて番組は終わります。
ただし、中田整一氏の著書の末尾には、二・二六事件の反乱軍将校安藤輝三の遺書の次のような一節が紹介されています。
「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり。一石二鳥の名案なり、逆賊の汚名の下に虐殺され『精神は生きる』とかなんとかごまかされて断じて死する能わず」
要するに、私が本エントリーで紹介した通り、この事件は統制派に利用されたわけで、彼らはそのための計画を既に持っていたということです。で、この番組の結論としては、この事件の真相が明らかにされることによって、戒厳司令官でもあった香椎中将までがこの事件に関わっていたことが明らかになると、軍の国民に対する信頼や威信が崩壊する恐れがあったからその真相を封印した、というような説明がなされていました。
しかし、そのために皇道派の領袖達に対する断罪を避けたのか、ということになると、私は必ずしもそうではなくて、実は、この事件の真相究明が進みすぎると、これら皇道派の領袖の罪だけではなく、安藤輝三が指摘したような石原完爾等統制派の隠された計画まで明らかになる、それを怖れたからだと思います。中田氏の本ではこのことへの言及がなされていますが、NHK特集番組ではそうなっていませんでした。
で、真崎甚三郎についてですが、私は、事件の計画をあらかじめ知っていた、ということではないと思います。しかし、この事件に至るまでにいわゆる皇道派青年将校が引き起こした数々のクーデター事件の責任が真崎になかったかというと、私はそうとも言えないと思います。にもかかわらず、戦後氏が書いた手記などにはこの点についての言及がない。これが、責任転嫁とか言い訳に終始したとかと批判される所以だと思います。教育者としてはともかく、統制を重んずべき軍隊の大将としては、皇道派青年将校の行動を抑制・教導すべきでした。
この、真崎の教育者としての側面については、田崎末松『評伝真崎甚三郎』が次のような解説をしています。少々長いですが、皇道派青年将校がどのような時代背景の下に誕生したか、真崎は彼らに何を教えたか、ということが大変わかりやすくまとめられていますので紹介しておきます。
四 昭和維新の原点
「昭和維新」ということについては、いろいろの解釈があるはずである。わたくしは、天皇信仰を中心とする国体原理への回帰と、それを軸とする体制内の変革運動であると理解している。
そして、青年将校運動の萌芽と、教育者真崎甚三郎少将の登場をその原点の一つとしてあげるものである。
この青年将校運動の結晶体ともいうべき二・二六事件こそ、真崎の運命を一挙に逆転せしめた決定的な事実でもあった。
(1)青年将校運動
昭和のはじめころの青年将校といえば、たんに若い将校一般という意味ではなく、いわゆる隊付の「一部青年将校」または「要注意将校」といわれ、軍の上級幹部や憲兵隊によってある特別な眼をもって注視されていた「政治化した軍人」とくにある種の「自己−社会変革」を志向する一群を指すものということができる。
彼らのすべては陸軍幼年学校――陸軍士官学校の卒業生である専門軍人であった。
しかし、そのほとんどが、高級軍事官僚の養成機関である陸軍大学校に入校することを意識的に拒否し、いわゆる立身出世コースからはずれた。そして隊付将校として、一般国民から徴募された下士官・兵とともに国防の第一線、現場にとどまろうとする志向をもっており、その場から自己ならびに日本の変革を考えた。
こうした青年将校のリーダーたちのいく人かをあげて見よう。
(氏名)    (生年月日) (陸士卒業期)
 西田税     明治三十四(一九〇一)年 三四期
 大岸頼好    明治三十五(一九〇二)年 三五期 
 村中孝次   明治三十六(一九〇三)年 三七期
 大蔵栄一   明治三十六(一九〇三)年 三七期
 菅波三郎   明治三十七(一九〇四)年 三七期 
○磯部浅一  明治三十八(一九〇五)年 三八期 
○安藤輝三  明治三十八(一九〇五)年 三八期
 末松太平   明治三十八(一九〇五)年 三九期
○栗原安秀  明治四十一(一九〇八)年 四一期
(○印は二・二六事件のリーダー)
このように、青年将校たちは西田から栗原まで、大正十一(一九二二)年から昭和四(一九二九)年にかけてのほぼ一九二〇年代に少尉に任官し、連隊付将校として兵とともに社会に接していたことがわかる。
この時代の世相はどのような状態であったかといえば、要約すると次のような時期であった。
このころの日本は明治維新以来順調にたどってきたコースを登りつめ、ある曲り角にさしかかっていた。
経済的には、第一次大戦後間もなくから慢性的不況のうちにあり、ついで昭和初期の金融恐慌、銀行の取り付けさわぎに出合い、そして二〇年代末から金解禁恐慌と世界大恐慌の大嵐にまきこまれていた。
対外関係の面では、民族独立、一切の外国利権の奪還を呼号する隣邦中国における「反帝愛国」運動が次第に無視することのできない要因に成長しつつあった。
植民地隷属からの脱却をのぞむ中国民衆の声は、いまやようやく高く、日本をふくむ外国の既得権益擁護政策と真正面から衝突するようになってきた。
こうした時期に、青春時代を生きた青年将校たちにとって、内政面でも世間の風は冷たかった。世は滔々として「デモクラシー」の時代である。思想的にはリベラリズム、のちにはマルキシズムが、政治的には政党政治が、一世を風靡していた。軍の存在はとかく煙たがられ、あるいは軽視、あるいは蔑視される傾向にあった。
大正十一 (一九二二)年二月、ワシントン会議で海軍軍縮条約決定、同七月陸軍軍縮計画(いわゆる山梨軍縮)発表、翌々大正十四(一九二五)年、いわゆる宇垣軍縮が実施された。青年将校の「先輩格」であり、のちに二・二六事件に連座した山口一太郎(明治三十三年静岡県生まれ、三三期、本庄繁大将の女婿)は、この宇垣軍縮について次のようにいっている。
「懐しい奈良の歩兵第五十三連隊は廃止となり、此の御旗の下で死を誓った軍旗は宮中へ奉遷される。最後の軍旗祭が、さみだれそぼ降る奈良練兵場で行われた。時の連隊長は江藤源九郎氏である。市民悉くが泣いた。こんなに国防力を減らしてどうなるか、列強は第一次大戦後の尨大な陸軍を擁しているのに、目本だけ減らすとは何事か。しかも街には戦争成金がうようよして百円札で鼻をかんでいるではないか・・・青年将校たちの気持はこれで一ぱいだった」
経済過程の混乱、対外関係の困難という重大な客観的危機の存在、これに有効に対処し得ない″進歩主義的″観念をもつ当局者――こういった図式で問題状況をとらえようとする人達が、第一次大戦時、戦後徐々に、しかし確実に発生し増加してきた。彼らの多くは、こういった問題状況に対し、天皇の下に「維新日本」をつくり「復興アジア」と連帯しようという、国内的かつ国際的の「日本らしい維新」(彼らはしばしば「革命」という言葉をきらった)を構想した。
このような「維新」の思想こそ、いわゆる革新右翼、あるいは日本ファッシズムの典型的思考様式といってもよかろう。それは、巨視的に見れば、世の「欧化主義」的風潮に反発した「国粋主義」的傾向に棹さすものであると同時に、一面それを乗りこえようとするものであった。
このような「土壌」の上に青年将校運動の華が開花するのである。
(2)教育者・真崎甚三郎少将の登場
真崎甚三郎が士官学校教育に奉仕した四ヵ年は、教育者真崎のイメージを定着させた。
しかし、このことは元来、変革思想の信奉者でもない真崎を、昭和維新の原点のひとりとして位置づけることにもなった。
そして、青年将校からは、維新変革運動の最大の同調者として過大に評価され、一般からは変革運動=二・二六の元凶として烙印されることによって、致命的な打撃をうけることになる。
戦争中のマンモス化した軍隊のイメージしか想起することのできない人びとにとって、大正デモクラシーの時代の軍隊は極端に軽蔑されていたといっても、おそらく信じられないことであろう。
しかし、事実はまったくその通りであった。
英国の首相であったチャーチルの言葉を借りるまでもなく、少くとも近代国家において真に権力を握っているものは、予算の審議権、議決権、執行権をもつものである。
明治憲法にどのような欠陥――たとえば統帥権の独立――があったにせよ、予算の審議権と議決権は、一貫して帝国議会が握っていた。したがって議会が予算を通して軍をもほぼ完全に統御しえた時代があったし、またあって当然であった。いうまでもなくそれは、大正時代から昭和初期で、大正元年の閣議の二個師団増設案否決による上原陸相の単独辞職、三年の貴族院による建艦費の大削減、同年の衆議院による二個師団増設費否決にはじまり、「尾張」以下七隻の建艦中止、ワシントン条約の締結、四個師団の廃止等から昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の無条件批准まで、後の″軍の横暴″と対比するとき、全く信じられないぐらいの軍の凋落ぶりであった。
「当時の私を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。第一次世界戦争の中頃から世界をあげて軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌の最も華やかな時代であって、日本国民は英米が軍国独逸の撃滅に提唱した標語を、直ちに我々日本人に志向した。我々軍人の軍服姿にさえ嫌悪の眼をむけ、甚だしきは露骨に電車や道路上で罵倒した。娘たちはもとより親たちさえ、軍人と結婚しよう。又させようとするものはなくなった。物価は騰貴するも軍人の俸給は昔ながらであって、青年将校の東京生活は、どん底であった。
書店の新刊書や新聞雑誌は、デモクラシー、平和主義、マルクス主義の横溢であった。鋭敏な神経をもつ青年将校で、煩悶せぬ者はどうかしている。多くの青年将校が軍職をやめて労働中尉や何々中尉となった。
私もその例に洩れず、盛んに思想、経済、文化等の書を読み耽った。いわゆる何々中尉の一歩手前まで進んだ。が私には母が生きていた。私の軍人になったのは母の希望であった。私は母の悲しみを思って立ち止った。」
この文章は、永田軍務局長暗殺以後の日本を事実上動かす実力者といわれた武藤章(二五期、軍務局長、A級戦犯として処刑される)が、大正九年十二月、陸軍大学校を卒業した当時を追憶した一節である。
エリート中のエリート軍人とうたわれた武藤にして、この軍籍離脱すれすれの煩悶の時代があったのである。
他は推して知るべしである。
まさに軍全体が士気温喪した時代である。
この風潮は、必然的に陸軍将校の養成機関である士官学校に伝播しないはずはない。
この自由主義的風潮は、士官教育の総本山として鉄の規律を誇る陸軍士官学校にもおしよせてきた。
自由主義の嵐にゆらいだ市ヶ谷台は軍紀風紀の弛緩という、創設以来の危機をむかえていた。
こうした空気のなかにあった大正十二年八月の初旬、この士官学校に新しい本科長が着任した。
歩兵第一旅団長から転補された、陸軍のホープ、真崎甚三郎少将である。
そうして、これから、彼が引きつづき学校幹事から校長へと昭和二年八月二十六日、陸軍中将に昇進して第八師団長として弘前に栄転するまでの四年間、いわゆる独特の皇国観にもとづく徹底した士官教育が実施されたのである。
昭和維新を志向する青年将校のほとんどはこの真崎時代の生徒であり、国家改造の思想的原点を天皇制絶対の皇国観、国体原理に求めたのである。
この意味で、真崎の士官学校における教育方針が、昭和維新の原点となったということもできよう。
しかし、ここで明確にしておかなければならないことは、この真崎の皇国観教育というのは、真崎の創意ではなく、沈滞していた天皇信仰、国体原理信仰の興起振作というところに重点があったということであり、昭和維新、国家改造の革新的行動の原点ではなかったということである。
昭和維新の思想的原点は天皇信仰にあったけれども、その変革原理は真崎らの想定することのできないほどラジカルな行動原理、北一輝的な国家改造方式に傾斜していたのである。
この青年将校運動が、二・二六の蜂起となって結晶したとき、ひとびとはその革命的行動原理までもふくめて、真崎の皇道教育にあったと非難した。
このことは、皇国思想即昭和維新と速断するあやまりからくるものである。」
つまり、真崎は大正12年8月に士官学校本科長に就任以来校長となり、昭和2年8月に広前第八師団中となるまでの4年間、士官学校教育に専念し、先に紹介したような「一部青年将校」を育てたのです。といっても、この時真崎が進めた皇国観教育、国体精神教育というのは、大正自由主義が風靡し自我主義が放縦に流れる中で、皇国史観に基づく国民道徳の回復とともに、軍における天皇への忠誠を基本とする兵の統率、部隊の指揮のあり方を説いていたのです。ここから彼の国体明徴論も出ていたのです。
こうした真崎の、皇国思想と兵士の気持ちを分かってやろうとする教育者的な態度、これに加えて、三月事件や十月事件などのクーデター事件を引き起こして「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を破壊せんとする幕僚将校等に対する真崎の批判の眼。それと、先に紹介したような隊付き将校等の当時の政治・社会情況に対する憤激、その正義感に発し、天皇の「大御心」による一君万民平等社会の実現を目指した、いわゆる「君側の奸」排除のクーデター計画。それを逆利用し彼らを弾圧することで、軍の統制回復と共に、軍主導の国家社会主義的体制を実現しようとする幕僚将校たち・・・。
こういった三つどもえの構図の中で、真崎の責任が問われているのだと思います。まあ、真崎が、「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を守ることが本当に大切だと思っていたのなら、一元的な指揮命令系統の絶対の条件とする軍の組織において、青年将校等が横断的結合を強めて政治的要求を行うことなど絶対に許すべきではなかった。まして、その軍の組織において上官の命令なしに「私兵」を動かし、重臣を暗殺しクーデター事件を引き起こすなど、こんな行為に同情を寄せるなどとんでもない話です。
ところが、これに同情というか理解を示し、逆に、そうした過激な行為に青年将校等を追い込んだ政治が悪いというようなことで、彼らの暴走を弁護しようとする・・・それが自己矛盾を犯していることに気がつかなかった。そこに皇道派の失敗の原因というか甘さがあったのです。この点、統制派はこの皇道派の矛盾から生まれる破壊的行動を断罪することで軍の統制を回復するとともに、彼らの政治批判の論理を逆利用することで、自らの信じる国家改造計画を推し進めたわけで、まあ、皇道派はうまく利用されたわけです。騙された方が負け、恨んでも仕方ないということですね。
この点、北一輝はこの理屈がよく判っていたのです。
二・二六事件の裁判で、北を裁いた当時の吉田悳裁判長は、法廷における北の態度を次のように語っています。
「法廷で尋問すると、北は”そうですか、それじゃあそうしておきましょう、とどんな罪でも裁判官のいわれるとおり、私は認めますから”と、そんな態度でしたよ。私は北の死刑直後に刑場に行ったんですが、執行に立ち会った法務官の話では、銃殺の前に、項目隠しをされてですね、刑架に座らされ、縛られた時、”ああ、いい気持ちじゃ”といったというんです。」
そのリアリストの北が、なぜ、皇道派青年将校に付き合ったか。”若殿に兜取られて負け戦”、ということで、天皇の断固たる討伐意思を読めなかったことと、その後の統制派の戦略――この事件の基本的性格を、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走したもの」として世に公表し、北等を極刑に処することとしたこと――に兜を脱いだ、ということなのではないでしょうか。そこが純真な青年将校達との違いですね。
なお、「二・二六事件をきっかけとして、真崎が発言力を失った瞬間から支那事変はおこったのである」という山口富永氏の主張が正しいかどうか、について、私は次のように考えています。私は支那事変のが最大原因は、関東軍が広田と蒋介石の妥協を妨害するために始めた華北分離工作にあると思っています。そこで、真崎や荒木を中心とする皇道派が、そうした関東軍の独断行動を掣肘するための具体的行動をどれだけとったか、ということが問題になります。真崎はその証拠として、熱河討伐作戦で関東軍が長城の線を越えようとしたことを止めたことや、第一次上海事変出の兵力引き揚げに尽くしたことなどを挙げていますが、これは天皇の意向があったからこそできたことです。
その天皇と心を一つにして、関東軍による華北分離工作に起因する華北への戦争拡大を防ぐためには、まず、軍の統制を回復する必要があった。そのためにも、皇道派青年将校が軍の統帥や統制を無視して横断的に結合し政治的行動に出ることを厳しく諫めるべきだった。事実、彼らは五・一五事件以降いくつものクーデター事件が引き起こしていた。なぜ、彼らを説得し善導しようとしなかったのか。まさか、”真崎は皇道派青年将校の犠牲になった気の毒な将軍”などとはいえないわけで、結局、彼は純真な青年将校を扇動して自らの復権を図った、という風に見られてしまうのです。
このあたり、近衛の持っていた弱さと同じものを感じますね。それを利用しようとした統制派の思想を凌駕するものを、彼らは持ち得なかったということだと思います。これを日本の宿命といえば確かにその通りですが、立憲政治や政党政治を守ろうとする意見もあったわけですから、やはり、不明というほかないと思います。もちろん、最大の責任が、国民の政治に対する信頼を損ねた当時の政治家にあったことは申すまでもありません。この点、今日の民主党の政治の現状を見れば、戦前の日本国民が軍の言い分の方を信用する気になったのも、無理ないと思いますが。 
9 真崎甚三郎と北一輝の違い

 

2.26事件はわが国の華だと思っていますが、彼等の思想(?)において世界をどうするということに関しての具体的な知識がまったく無いように思います。
このことは、皇道派といわれる青年将校達がどのようにして生まれたかを考えればおおよその見当がつきます。彼らは隊付きの尉官級将校で、天保銭組といわれた陸大出の将校等が独占する省・部の幕僚となる道が閉ざされていました。中には、あえてそうした出世の道を拒否して隊付きとなった者もいたそうですが、それだけに、その一君万民平等をめざす尊皇思想は純粋主義・精神主義的となり、他からは国体原理主義とも呼ばれるようになったのです。
その出発点は十月事件で、このクーデター事件を計画した幕僚将校等の指導原理を覇道主義と批判したことから、彼ら幕僚将校と親交のあった大川派と対立していた、北、西田派と一派をなすようになったのです。こうして北の日本国家改造法案が彼らのバイブルとなったのですが、ご存じの通り、北の根本思想は「社会民主主義」で、その天皇論も天皇主権的なものではなく、国民主権的な位置づけ(一種の象徴天皇制)であり、天皇機関説により親和的なものだったのです。
このあたり、皇道派の青年将校の間でも、彼を教祖として信奉する者がいる一方、それに疑問を呈する者もいました。つまり、北の思想が彼らに正確に理解されていたわけではなかったのですが、おそらく、北の「霊告者」的カリスマ性が、彼らの純粋思想の非現実制を埋め合わる役目を果たしていたのではないかと思われます。彼ら自身の身の処し方としては、いわゆる「捨て石主義」をとることで、覇道との差異を主張していたわけですが・・・。
しかし、このような考え方をしていたために、クーデター後の政権構想をあらかじめ準備するということができまず、その後は全て「大御心」を信じることとしたのです。もちろん「縦横の奇策」を用いればあるいは成功したかも知れない。
例えば、「山下奉文が杉山参謀次長野後藤文夫臨時首相代理を説得して『青年将校の動機・目的はこうこうである。これをぜひ、あなたは陛下に奏上して、陛下から彼らの希望する人(真人物)に大命降下するように、ではなく、することに決定したと奏上して下さい』ともっていく」。そうすれば、「公的手続きを踏んだ決定には、天皇個人の私意は絶対におよぼしてはならないという、天皇機関説による天皇の機能を十二分に生かすことになる」
しかし、これは彼らが否定する天皇機関説の考え方であり、また、彼らの信じる尊皇思想から言っても、大権私議となる。従って、彼らの論理が貫徹されるための究極の希望は、彼らの思いと天皇の「大御心」が一致すること。しかし、立憲制下の政治機構を国是とする天皇にしてみれば、股肱と頼む重臣等が殺されることは、その政治機構を破壊することと同義ですから、こうした青年将校等の行為を認めるわけにはいかない。
つまり、ここにおける対立構造は、立憲政治を守るか、あるいはそれを打ち倒して天皇親政に復るかという、明治以来の政治思想の二重構造の矛盾に端を発するものだったのです。この対立関係が調整不能となり暴発したのが二:二六事件であったわけですが、皮肉なことに、首相が暗殺(未遂)されたことで、「天皇親政」が一時的に復活した形となって、「断固討伐」を主張する天皇の意思が貫徹されることになったのです。
北一輝についてですが、彼の予言は色々当たりました。結果として彼が予言したようになりました。
北の予言と言うことについてですが、このことを論ずるためには、北の思想とそれに基づく日本の将来に関する具体的提言を知らなくてはなりません。そこで、これを二・二六事件裁判における検事の聴取書の中に見てみたいと思います。そこには、注目すべき北の次のような言葉が綴られています。
私は、第一次世界大戦後ウイルソンの似非自由主義に基づく平和主義が高唱される中で、帝国主義が忘れられていることを指摘し、早晩第二次世界大戦が来ると警告してきた。近年、その機運が次第に醸成されているが、日本はそうした対外戦争を決行する前に、合理的な国内改造を行い金権政治を一掃し支配階級の腐敗堕落を根絶する必要がある。それと共に、農民の疲弊困窮、中産以下の生活困難などの問題に有効に対処することによって内部崩壊を防ぐ必要がある。
また、対外政策については、陸軍がロシアと結んで北支に殺到するような政策をとろうとしているが、これは日本の国策を根本から覆すものである。従って私は、こうした陸軍の方針を変更させるため、昨年七月「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書を提出するなどして微力を尽くしたつもりである。「自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的とした」のである、など。
以下、その部分を抜粋しておきます。
第三回
・・・最近暗殺其他部隊的の不穏な行動が発生しましたが、其時は即ち金権政治に依る支配階級が其の腐敗堕落の一端を暴露し、初めて幾多の大官巨頭等に関する犯罪事件が続出して殆んど両者併行して現れて居る事を御覧下されば御判りになります。一方日本の対外的立場を見ますとき又欧洲等に於ける世界第二大戦の気運が醸成されて居るのを見ますとき、日本は遠からざる内に対外戦争を免かれざるものと覚悟しなければなりません。此時戦争中又は戦争末期に於いて、ロシヤ帝国、独逸帝国の如く国内の内部崩壊を来たす様な事がありましては、三千年光栄ある独立も一空に帰する事となります。此の点は四五年来漸く世の先覚者の方々が紹識して深く憂慮して居る処であります。
其処で私は最近深く考へまするには、日本の対外戦争を決行する以前に於いて先づ合理的に国内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります。国内の改造方針としては金権政治を一掃すること即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る富を国家に所有を移して国家経営となし、其の利益を国家に帰属せしむることを第一と致します。右は極めて簡単な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る所に存在して居りますので、単に夫れ等の所有を国家の所有に名儀変更をなすだけで済みます。
又其の従業員即ち重役から労働者に至るまで直ちに国家の役人として任命することに依りて極めて簡単に片付きます。私は私有財産制度の欠く可がらざる必要を主張して居ります。即ち共産主義とは全然思想の根本を異にして、私有財産に限度を設け、限度内の私有財産は国家の保護助長するところのものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります。
・・・私は十八年前(大正八年)日本改造法案を執筆致しました。其時は五ヶ年間の世界大戦が平和になりまして、日本の上下も戦争景気で唯ロシヤ風の革命論等を騒ぎ廻り又ウィルソンが世界の人気男であった為めに、涙の所謂似而非なる自由主義等を伝唱し殆んど帝国の存在を忘れて居る様な状態でありました。従って何人も称へざる世界第二大戦の来る事を私が其の書物の中に力説しても又日本が其の第二大戦に直面したるとき独逸帝国及びロシヤ帝国の如く国内の内部崩壊を来たす憂なきや如何・・・等を力説しても、多く世の注意を引きませんでした。然るに四五年前から漸く世界第二大戦を捲き起すのではないかと云ふ形勢が何人の眼にもはっきりと映って参りましたし、一方国内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産以下の生活等が又現実の問題として何時内部崩壊の国難を起すかも知れないと云ふ事が又識者の間に憂慮せられ参りました。
私は私の乏しい著述が此の四五年来社会の注意を引く問題の時に其の一部分を材料とせらるるのを見て、是は時勢の進歩なりと考へ又国内が大転換期に迫りつつあることを感ずるのであります。従って国防の任に直接当って居る青年将校又は上層の或る類者が、外戦と内部崩壊との観点から私の改造意見を重要な参考とするのだとも考へらるるのであります。又私は当然其の実現のために輔弼の重責に当る者が大体に於いて此の意見又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、其の人物への大命降下を以って国家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります。
勿論世の中の大きな動きでありますから他の当面の重大な問題、例へば統帥権問題の如き又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、或は血生臭い事件等が捲き起ったり等して、現実の行程はなかなか人間の知見を以ては予め予測する事は出来ません。従って予測すべがらざる事から吾々が犠牲になったり、対立者側が犠牲になったり、総べて運命の致す所と考へるより外何等具体的に私としては計画を持ってば居りません。
唯私は日本は結極、改造法案の根本原則を実現するに到るものである事を確信して、如何なる失望落胆の時も此の確信を以て今日迄生き来て居りました。即ち私と同意見の人々が追々増加して参りまして一つの大なる力となり、之を阻害する勢力が相対立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難いときは、改造的新勢力が障害的勢力を打破して目的を遂行することは又当然私の希望し期待する処であります。但し今日迄私自身は無力にしての未だ斯る場面に直面しなかったのであります。私の社会認識及国内改造方針等は以上の通りであります。尚今回の事件に関する私の前後の気持は後で詳しく申述べたいと思ひます。三月十九日
第五回
・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。
昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。
実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。
年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。
幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。
然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。
唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。
此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。
又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。
[三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。
以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。昭和十一年三月二十一日
確か2.26事件における盗聴において、決起将校の安藤輝三に電話をしていますがそのとき北が<マルはあるか>とたずねています。それに対して安藤はその意味がすぐには分からず、少ししてその意味が分かる、やり取りがあります。北が一番に心配したのは<マル>つまり金で、これは初めてテレビを見た時強く印象に残っています。北一輝は2.26事件が目指したものは心底、思っていたわけではないのではという印象を持ちました。
その<マルはいらんかね>ですが、中田整一の『盗聴 二・二六事件』では次のような指摘がなされています。
この会話の傍受記録がある録音盤には「2/29北→安藤」というラベル記述があるが、実は、北は28日の午後8時に憲兵隊に逮捕されている。この件について北は東京憲兵隊の福本亀治特高課長の尋問を受けている。
問 其方は、二月二十七日午後、安藤大尉を電話に呼び出して『給与はよいか』『○はあるか』と尋ねたことはあるか。
答 私は、安藤大尉とは、四、五年会いませぬ。又安藤大尉が何処にいるかも知りません。かつ其の電話の内容の如きことは考えても居りませず、もちろん問うことがありません。
誰かが、北の名を騙って安藤に電話をかけたとも考えられるが、中田は、この裁判を担当した東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受録」を含む裁判資料の中から、次のような傍受メモを見つけ出した。
28ヒ ゴ11・50分頃 北より→憲兵司令部だと称し 安藤に給与は如何にと問フ 安 順調(細部録音セリ)
北 ソレハ結構 兵力(幸楽ノ)
安 500
北 金ハアルカ マル マル
安 アル
北 ダイジョウブ
これは、ある男が憲兵司令部からだといって交換手に安藤に取り次ぎを依頼し、安藤が出たら、キタだと名乗って行った会話の記録です。この傍受メモの会話の日時は2月28日午後11時50分であり、「2/29北→安藤」というラベル記述とは大きく矛盾していない。おそらくこの勾坂の記述は、彼が各種情報を総合的に検証した結果の記述で、検察調書の二月二十七日は、北逮捕後に安藤に電話がかけているという矛盾を回避するため改ざんしたのではないか。また、勾坂のメモには安藤大尉に兵力を尋ねている箇所があり、傍受録音では雑音で聞き取れなくなっているが、おそらく、この北を騙った男は、安藤大尉の兵力を聞き出そうとしたのではないか。
中田氏は、この偽電話を、他の証拠資料とも併せて戒厳司令部通信主任であった濱田萬大尉ではないか、と推論しています。しかし、そのことを確かめに行った1987年には、濱田大尉はすでにその2年前になくなっていました。
実際のところ、北には右翼団体との仲介を図り財閥から謝礼金を受け取ると言った後ろ暗い一面があり、青年将校との関係で金を渡して背後から扇動していたのではないか、という疑いをもたれても仕方ない部分がありました。しかし、その後、統制派が、北や西田をこの事件の首魁に祭り上げ、処刑したその意図を考えて見ると、この北を駆った会話に出てくる「マルはいらんかね」という会話は、そうした統制派の思惑によって挿入されたものではないかと見ることもできます。
いずれにしても、先に紹介したような北の陳述によって、北が二・二六事件を引き起こした青年将校等の行動に困惑しつつも、彼らへの情宜を捨てられず同意を与えてしまったこと。そのことの責任をとろうとしていること。事件の収拾策としては、真崎に一任させれば「青年将校をむざむざと犠牲にする様な事」はあるまいと考えたこと。しかし、真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと、彼ら軍人の国家改造案は「国家社会主義的色彩濃厚なもの」であって、自分の改造意見とは全く異なっており、それに期待したことはない、と述べていることなど、北独自の卓越した考え方を知ることができます。
また、北は「対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到」しようとする陸軍の方針を変更させるため、「日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的」とする具体的活動をしていました。つまり、「支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居た」というのです。このあたり、石原完爾の「最終戦争論」にもとづく「華北分離中止論」などより、はるかに現実的かつ外交戦略としても優れていたのではないかと思います。
こういった点を真崎と比較してみても、真崎は教育総監更迭問題以来、皇道派の青年将校達との対応を誤まり、その結果、永田鉄山惨殺事件や二・二六事件という青年将校の暴走を許してしまいました。また、北が日支衝突を回避するための具体的行動をとったことにおいても、また、青年将校の行動に同意を与えたことについて、その責任をとろうとしたことにおいても、私は、真崎と北を同断に論ずることはきない、私はそう思います。
もちろん、そのことを踏まえた上で、なぜ北が三年間憲法停止した上での国家改造を提案するに至ったかを考える必要があります。 
10 立憲政治を守れなかった戦前の日本人

 

(二・二六事件で北から安藤への”○○はあるか”という電話について)偽電話の可能性があるのですか。
前エントリーで紹介しましたように、中田氏の推理通り偽電話だと思いますね。北がこの事件の進行に関して心配していたことは金のことではなくて、彼らがその程度上部工作をしていたか、だったと思いますから。
しかし、北は、事件発生後それがほとんどなされていないことを知りました。そこで、27日午前10時頃、彼らに真崎に一任するよう勧め、彼らはそれに従いました。27日午後2時頃、彼らは真崎(山下、小藤、鈴木、山口立ち会い)と会い、事態の収拾を依頼しました。しかし、真崎は奉勅命令が出される見込みであるとして「維新部隊」の原隊復帰を迫りました。
一方、石原は27日夜、磯部と村中を呼び、”真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる”と伝えたといいます。
28日午前5時、奉勅命令が戒厳司令官に下達されましたが、戒厳司令部の香椎戒厳司令官が叛乱軍支持だったため、この実施は保留されました。皇軍相撃を避けるための説得を継続するという理由で・・・。
その後、石原は香椎に対して、臨時総理をして維新断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活安定について上奏するよう意見具申しました。しかし、杉山次長はこれを受けた香椎の進言を拒否して武力鎮圧を命令し、その結果、香椎も、決心変更・討伐断行となりました。
一方、反乱将校らは帰順か抵抗かで迷っていましたが、ついに自刃し罪を天皇に謝し、下士以下は原隊に復帰させることで意見一致しました。そこで、自らの死に名誉を添えるため、侍従武官の御差遣を天皇に奏請しましたが、天皇はこれを拒否しました。
一方、青年将校等の自刃の話を聞いた北は、村中を通じて、極力自刃を阻止すると共に初志貫徹のためあくまで上部工作を継続するよう伝えた、といいます。
28日午後5、6時頃、北、憲兵に逮捕される。
で、お尋ねの北から安藤への電話ですが、これは、28日午後11時50分頃であると、東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受綴」に記されています。また、その発信元は憲兵司令部となっている(交換手にはそう告げた)ことなどから、これが、安藤隊の兵力を聞き出すための偽電話だった可能性が高い、ということになるわけです。
しかし、以上のやりとりで問題は、石原が皇道派青年将校の蹶起を利用してカウンタークーデターを実現しようとしていたことは明白だとしても、では、北自身は青年将校等の行動に何を期待していたのか、ということです。その主張する「上部工作」が”真崎止まり”であれば、それは見込み違いだったことになりますが、北のことですから、あるいは石原等に対する工作まで含んでいたのかも知れません。
そうした構想をぶちこわしたのが天皇の断固たる討伐意思だったわけで、このことは上記の経過説明を見ればよく判ると思います。
ただ、ここで私が疑問に思うのは、皇道派と統制派の国家改造イメージに果たしてどれだけの違いがあったか、ということです。
『評伝 真崎甚三郎』の著者である田崎末松氏などは、二:・二六事件で天皇が皇道派を弾圧して統制派を助けるようなことをしなければ、日中戦争も大東亜戦争も起こらなかったなどと、その罪を昭和天皇お一人に帰すようなことを言っていますが、仮に、天皇がこうした意思を示されなかったとしても、事態の収拾は、結局、石原を中心とする統制派が行うことになったと思います。
その場合、反乱軍将校の処罰は5・15事件と同じようなことになり、将校等は軽い刑で済まされ、北や西田などの民間人には重刑が科されることになったでしょう。だが、「動機さえ純粋であれば重臣や上官を殺すことも許される」という下克上的雰囲気は、軍隊内に一層蔓延することになる。そこで石原は、軍の統制回復のため、青年将校等に名誉の自決を迫ったかもしれませんね。いずれにしろ、その行き着く先は、ナチスをモデルとする一国一党、軍主導の高度国防国家建設だったろうと思います。
また、皇道派青年将校等が、本当に3月事件や10月事件における統制派の大権私議を怒りそれを告発したかったのなら、なぜ、彼らは「私兵」を動かし重臣らを殺害し軍首脳に国家改造を迫るというようなクーデターまがいの大権私議を犯したのでしょうか。なぜ、満州事変という破天荒な大権私議を犯した石原完爾を攻撃目標としなかったのか、あるいは彼に期待するものがあったのではないか・・・。また、彼らが本当に中国との和平を願っていたのなら、なぜ、関東軍の華北分離工作に反対しなかったのか。なぜ、満州への転属を絶望視して、その前に「昭和維新」と称するクーデター事件を起こしたのか等々。
これらの疑問を解く鍵はどこにあるか。それは、こうした矛盾に満ちた彼らの行動について、彼ら自身がそれをまるで矛盾と感じなかった、その思想にこそ問題があったのではないか。実際、そうした青年将校の行動に同情と共感を寄せる空気が当時の世間にはあった。その空気が、青年将校をして彼らの矛盾を矛盾と感じさせなかったのではないか。つまり、この事件の真犯人は、その「空気」であり、この空気が生んだ事件を巧みに利用して、自らの国家改造に利用しようとしたのが、統制派だった、ということではないでしょうか。
これに関して、昭和26年2月『文藝春秋』に掲載された”対決二・二六事件の謎を解く”と言う座談会記事があります。メンバーは二・二六事件で襲撃された生き延びた岡田啓介元首相、首相秘書官であった迫水久常、生き残り青年将校大蔵栄一、皇道派理論家古賀斌、戒厳司令官参謀長安井藤治です。この中での岡田の発言は次の通りです。
「青年将校の気持ちはよくわかるが、要するに三月事件、十月事件の経験で幕僚達は信用できないというので、今度は自分たちだけで事を起こす、起こしてしまえば軍の上層部が自分たちの信念を理解して、これを生かして何とか始末をつけてくれるという確信の下にやったことだね。そうすると、事件そのものの中心人物は誰だったかと言うことは寧ろ小さい問題で、若い連中に今言ったような確信を持たせたのは誰だと言うことが重要なことになるわけだ。さあ、それは誰かな、君たちに言わせればこれは空気だと言う事になるのだろう。」
この本の著者田崎氏は、要するに岡田は真崎が教唆扇動したと言いたいのだろう、と言っていますが、私は岡田はそんな”当てつけ”を言ったのではなく、文字通り、この時代の空気が彼らに以上のような確信を持たせたのではないか、ということを言ったのではないかと思います。
さて、事件後、皇道派青年将校等は、統制派のカウンタークーデターの陰謀に引っかかったと怨嗟の声を上げました。思っていた以上にひどい奴らだったと・・・。この時彼らはどれだけ自らの不明や、無意識の内に石原らに期待を寄せた自分らの甘さを自覚したのでしょうか。磯部などは、その責任を天皇に求め呪詛しました。なぜ貴方は、我々の心情を理解し、我らの味方をし、統制派を懲らしめなかったのかと。
だが、昭和天皇は自らを立憲君主と自己規定していたのです。従って、天皇にとっては、青年将校等の行動はそれを破壊する以外の何物でもなかった。彼らの行動は、張作霖爆殺事件以来の軍の天皇の統帥権をも無視した独断的行動の延長、というよりその極致に見えたのだと思います。それも、天皇の名(大御心)によってなされたのです。だからこそ、それは「真綿で朕の首を絞める」ような行為に見えたのだと思います。
つまり、この事件のポイントは、共に立憲政治を否定する、陸軍内部の皇道派と統制派の派閥争いの決着を、立憲政治を守ろうとする天皇に求めたところにあるのです。それも、天皇の統治大権を輔弼あるいは輔翼によって支えている重臣等を、「君側の奸」を除くという理屈で殺害した上で、天皇に、自らの組織の派閥争いの決着を求めたわけですから、天皇にしてみればむちゃくちゃな話で、天皇が激怒したのも無理はないと私は思います。
では、再び問いますが、陸軍内部で派閥争いをしていた皇道派と統制派の対立点は一体何だったのか。
皇道派の村中孝次の主張は、「陸海を提携一体とせる軍部を主体とする挙国内閣の現出を願望し、大権発動の下に軍民一致の第国民運動により国家改造の目的を達成せんとする」ものでした。また、「小官等の維新的挙軍一体に対し、彼らは中央部万能主義なり、小官等は、軍部を動かし国民を覚醒せしめ、澎湃たる国民運動の一大潮流たらしめんとするに対し、彼ら(=統制派)は、機械的正確を以て或いは動員日課予定表式進行によって・・・中央部本意の策謀により国家改造を行わんと欲したり」と言っています。
これに対して統制派は、「軍首脳部が国家革新の熱意を持ち自ら青年将校に代わって・・・軍全体の組織を動員して」これを実行しなければならない。従って、軍内の一部のものが蠢動して横断的結合を図ることはよくない。青年将校の政治活動は軍人勅諭に反しているし、荒木、真崎を担ごうとすることは軍を私物化するものだ。また、北一輝の改造法案は徒らに扇動的であり飛躍、独善的であって害はあって益はない」というものでした。
つまり、両者の理想とする国家改造イメージは実はほぼ同じで、違いは、それを軍中央の指揮下に組織的に行うのか、「維新的挙軍一体」つまり、隊付き将校達も含めた一大国民運動として行うのかという、いわば実施主体の比重の置き方の差に過ぎなかったのです。卑近な言い方をすれば、これは隊付き将校等の陸大出の幕僚将校等に対する不満から出たもので、旧軍における旧軍における極端な学歴主義がもたらした弊害の一側面とも言えます。
つまり、皇道派対統制派の争いは、田崎末松氏がいうような国策上の争いではなく、派閥次元の争いと見るべきです。で、氏は、昭和天皇が皇道派の言い分を聞かず統制派を応援したと言って、それが泥沼の日中戦争や大東亜戦争をもたらしたと批判していますが、両者の派閥争いで統制派が勝つのは組織論からいって当然であり、また、この時昭和天皇が守ろうとしたものは、立憲政体であって、従って、張作霖爆発事件以来軍が繰り返してきた独断行動に対しては、昭和天皇は派閥の如何を問わず反対だったのです。
その立憲政治を戦前の日本人は思想的に守りきらなかった、この思想的問題点を明らかにすることが、私たちの務めなのではないか、私はそう考えています。 
11 日本人の「法意識」について

 

おっしゃる通り、問題は日本人の「法意識」にあります。つまり、日本人の「法意識」においては、「法」よりも「実情」を優先する傾向があるのです。そのために、個々人から自制心が失われた場合には、無秩序状態に陥りやすい。戦前の陸軍では、五・一五事件以降、この「実情」主義が軍内に蔓延するようになりました。この流れを作ったのが皇道派で、これに対して、軍の統制がとれなくなると危機感を抱いたのが、いわゆる統制派で、ここに皇道派と統制派の対立が生まれたのです。
この両者の関係を象徴的に表しているのが、「陸軍パンフレット」(国防の本義と其の強化の提唱)と国体明徴運動の関係です。つまり、 「陸軍パンフレット」は、統制派の国防国家建設の青写真であり、そのために軍の統制力の回復が必要であることを訴えたもので、一面、皇道派に対する批判の書でもあったのです。これに対して、皇道派が統制派に対して猛烈な巻き返しを図るために起こした運動が「国体明徴運動」でした。
ではなぜ、「国体明徴運動」が、皇道派の統制派に対す対抗措置となり得たか。要するに、統制派のやり方は皇道派から見た場合、自らの権力欲・権勢欲を動機としている。また、彼らが理想と考える天皇親政の「一君万民平等」の統治理念にも反している。彼らのやっていることは江戸時代の「幕府」と同じで、これは、天皇の統治大権を簒奪するものである、とする理屈です。その根拠として、三月事件や十月事件が持ち出されたのです。
結局、この対立は、二・二六事件の時、統制派が皇道派をカウンタークーデターで押さえ込んだことで解消し、軍内の横断的な青年将校運動もなくなり、軍の統制力も回復しました。しかし、満州事変の後遺症もあり、軍の中央組織と関東軍など出先軍との下克上的関係は依然として残ったままでした。そのため、その後も出先軍が暴走し、これを中央組織が抑えられず、結果的にそれを追認してしまうという、昭和の日本軍の宿痾ともいうべき悪弊がその後の軍を悩ますことになったのです。
また、統制派は、このように皇道派を弾圧することに成功したのですが、国民の統制強化の方策としては、皇道派による国体明徴運動を利用することになりました。というのは、この運動は「天皇機関説排撃」に連動して提起されたものである事から判るように、これは明治憲法に規定された立憲君主制を否定し、教育勅語的な国体観を全面に押し出そうとするものでしたので、これと統帥権を結びつければ、統制派の考える一国一党の国防国家建設を正当化できると考えたのです。
こうして、軍主導による一国一党の国防国家体制が完成したのですね。そして、それを支えた国体思想は、明治憲法に定められた立憲君主制を否定するものだったために、まず、政党政治が否定され、次いで政党の自主解党となり、最後は翼賛議会となって実質的に議会は予算審議権を失うに至りました。また、国民思想的には、大正自由主義下で芽吹いた個人主義や自由主義が徹底的に排撃されることになりました。
ところで、冒頭に述べた日本人の「法意識」は、こうした個人主義や自由主義の考え方を受け入れることは出来ないのでしょうか。実はこの点が最も注意を要するところなのですが、日本人の「法意識」の根底には、仏性→本性→本心と言い替えられてきた、日本独自の自然法意識に支えられた性善説的観念があります。そのため、「法」の運用においては、実情主義が重んじられ、法に訴えるより、当事者間の示談による和解が最良とされます。つまり、「法」の裁きより、相互に自制心を働かせることで和解することが求められるのです。
ところが、近代資本主義社会は、人間の利己心を当然としていて、利己心をお互いにぶつかけ合うことで、予定調和的に社会正義が実現されると考えます。これがうまくいく場合は、例えば、日本でも明治のように個人の立身出世欲と国家目標とが一致しているような場合には問題は起こらない。しかし、大正時代のように、この予定調和が破綻して社会的混乱が起こり、社会的正義が損なわれたと考えられるようになると問題が生じる。
つまり、この混乱の原因は、利己心を野放しにする資本主義体制にあるのだと考えられるようになるのです。従って、この混乱から脱却するためには、資本主義的を否定しなければならない。丁度、ロシア革命が成功して社会主義思想に基づく平等主義が日本でも風靡するようになった。しかし、この思想は王政を否定するので日本の天皇制と矛盾する。そこで、これに代わるものとして、日本の伝統思想である尊皇思想の一君万民平等思想及び天皇親政の国体観念が、呼び覚まされることになったのです。
さらに、この国体観念は、日本を盟主とする八紘一宇の世界観や、忠君愛国、滅私奉公の道徳観念を伴っていました。そのため、大正時代の国際協調主義や、個人主義・自由主義的道徳観念が否定されることになりました。また、その自己絶対性から、物事を相対的・客観的・合理的に見る事ができなくなりました。その結果、何のためか判らない意味不明の日中戦争から抜け出すことができず、その果ては、英米中ソという世界の大国を敵に回した無謀な戦争に突入することになったのです。
こう見てくると、戦前の昭和における日本の問題点は、この時代に支配的となった日本思想に問題があったことが判ります。確かにこの思想は、理念としては植民地主義や人種差別に反対していました。しかし、それは「陸軍パンフ」に見るように、多分に建前上のものに過ぎず、本音では優勝劣敗を肯定していました。また、皇道派の主張した天皇親政下の「一君万民平等思想」は、八紘一宇という世界家族観念を世界に拡大しようとするもので、日本人の思想の独善性を病膏肓とするものでした。
では、日本人の思想は、以上述べたような問題点を克服することができるか。これが、戦後の日本人にとって最も重要な問であったはずです。私は先に、日本人の「仏性→本性→本心」と言い替えられてきた日本人の性善説的観念について言及しました。私はこれはこれで大変貴重なものだと思っています。しかし、これを社会組織に適用するときは注意を要する。つまり、この場合は、家族主義的なものではなく、能力主義を基本とした合理的・流動的・契約的なものに転換しなければならないと考えています。
こうしたことは、今日の企業経営においては当たり前になっていると思いますが、戦前の軍組織においては、能力主義に反する薩長の藩閥支配に対する反発から、過度の学歴主義に基づく陸大卒業者による学閥支配に陥ってしまいました。これが隊付き将校等皇道派青年将校の反発を生んだのです。結果的には、統制派が皇道派を押さえ込んだのですが、彼らが作り上げた軍主導の一国一党制の国防国家体制を思想的に支えたものは、皇道派の主張した国体観念に基づく忠君愛国、滅私奉公、八紘一宇の世界観だったのです。
こうした世界観の下で、日本がその盟主として主導権を発揮し、大東亜の新秩序を形成し大東亜共栄圏を完成させる。これが、日中戦争及び大東亜戦争を理由づける軍の考え方というか後付けの理屈でした。しかし、それが日本の伝統的な国体思想と結びついたことで、それから脱却することは極めて困難になりました。また、多くの国民もこの国体思想に巻き込まれることになり、軍が実際にやっていることや世界の現実を、相対的かつ客観的に見ることがほとんどできなくなってしまったのです。
これが、戦前の昭和に悲劇をもたらした思想的現実でした。では、再度の問いになりますが、この思想的現実をどのように克服するか。これが戦後日本人の第一の課題だったはずです。しかし、GHQの巧妙な占領政策もあって、日本人はこれを一部の軍国主義者の責任にしてしまいました。そのため、国民は、これら一部の軍国主義者の引き起こした戦争の犠牲者だとする見方や、さらにそれが嵩じて、日本人を残虐民族と見なす「自虐史観」が蔓延することになったのです。
しかし、それでは問題は解決しない。確かに、満州事変から華北分離工作までの政治的責任は、私は、当時の軍指導者が負うべきだと思います。しかし問題はその後です。なぜ、日本は、何のためにやっているのか判らない意味不明な日中戦争を止められなかったのか。なぜ、それが大東亜戦争へと発展したか。この疑問を解くためには、当時の軍人及び多くの国民を熱狂させ、戦争へと導いたこの思想の問題点について、それを自らが信じた思想の問題点として、初心に返って総点検する必要があるのです。
この思想の問題点を一言でいえば、私は、それは日本人の「法意識」の問題ではないかと思います。といっても、日本は明治以降この西洋的法概念を学び、それによって政治制度を運営し多大な成果を上げて来たのです。だから、この知恵を日本文化の発展に生かせぬ筈はない。では、昭和はなぜこれに失敗したか。まず、大正時代の軍縮期における軍の処遇を誤った。次いで森恪がその軍人の不満を政治的に利用し軍を政治に引き込んだ。その結果、張作霖爆殺事件が引き起こされ、日本政府はそれを厳正に処罰できなかった。
ここから、日本軍の、何よりも厳正であるべき軍法下の「法意識」が根底から毀損されることになったのです。さらに、こうした傾向が、昭和初期の政治的・経済的混乱の中で、国民の政治に対する信頼――つまり立法措置によってこれらの問題の解決を図る政治への信頼の喪失となり、それに代わって、軍部による拡張主義的な国策遂行が支持を集めるようになったのです。次いで、そうした軍の行動が、前述の国体思想によって正当化され、国民もそれを信じ込むようになったのです。
しかし、戦前の昭和の歴史をトータルに見た場合、その最大の責任は誰にあるかというと、先ほど申し上げた通り、私は、満州事変から華北分離工作までの軍の責任は否定すべくもないと思います。しかし、立憲政治体制下における政治責任は、あくまで政治家が負うべきであって、私は、その戦犯第一号は森恪だと思っています。彼は、第二次南京事件では軍縮に不満を持つ軍人をあおり、これを政治的に利用して政権を獲得し、さらに軍人を政治に引き込むことで自らの大陸政策の実現を図ろうとした。
これが、日本の政治に軍人を介入させることになり、さらに統帥権干犯問題(この時は犬養毅や鳩山一郎の責任も大きい)を契機に政治は軍を制御できなくなり、出先軍の暴走を生んで満州事変となり、さらに関東軍の華北分離工作となり、ついに蒋介石をして抗日戦を決断させることになったのです。以後、日本国は戦時体制に突入し、さらに総力戦の観点から軍主導の一国一党の国防国家建設となり、政党政治、議会政治が否定され、ついに明治憲法に定められた立憲政治までもがなし崩し的に否定されるに至ったのです。
こうした流れの道先案内をしたのは、紛れもなく政党政治家でした。従って、昭和の悲劇をもたらしたその第一の責任は、まず、この時代の政治家が負うべきなのです。彼らは、決して軍の被害者ではない。この事実をはっきりと自覚することが、日本に民主政治を確立するための第一の関門であると、私は思っています。 
12 北一輝から見た皇道派と統制派の違い

 

まず、本エントリー9で紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」を再掲します。
「・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。
昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。
実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。
年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。
幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。
然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。
唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。
此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。
又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。
[三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。
以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。
昭和十一年三月二十一日」
これを見ると、北一輝という人物は、右翼イデオローグとしての一般的なイメージとは随分違って、その対支、対米関係調整の視点は、当時の省部の幕僚軍人と比べてもはるかに冷静かつ妥当なものであったことが判ります。また、広田外相や重光次官等外交官を始め、中野正剛、永井柳之介等政治家との連絡の他、中国国民党外交部長張群との盟友関係もあるなど、外交的にも幅広い人脈を有していたことになります。
その彼が、どうして皇道派青年将校と関係したのか。なにしろ、彼の天皇観は、彼等が主張した万世一系の天皇観とはまるで違っていて、それは、彼らが執拗に排撃した「天皇機関説」そのものでした。このことは、北一輝の著作『国体論及び純正社会主義』を見れば明らかで、彼はその中で「万世一系の一語を一切演繹の基礎となす穂積八束の論」を、哀れむべき「白痴の論」といい、彼らのいう「『国体論』中の『天皇』は迷信の捏造による土偶にして天皇に非ず」と痛烈に批判しています。
その上で、次のような彼流の維新革命論が展開されます。(次は『北一輝著作集第一巻』神島二郎による解説文からの引用です。長大かつ難解な『国体論』の本文をわかりやすくまとめていますので)
維新革命、この「万機公論の国是を掲げて民主主義に踏みきられたこの法律的革命は、当初、国民の法律的信念と天皇の政治道徳とによって維持され、23年の議会開設に至って完成した。幕末志士の国体論は、古典と儒教という被布をかぶった革命論(天皇への中によって封建貴族への忠を否認!)であり、その裏には、外国との接触によって触発された国家意識と国内に盛り上がってきた平等感の拡充とによる社会民主主義の要求があった。
彼によれば、社会主義は、主権が国家にある(国体)となすものであり、民主主義は、政権が広義の国民にある(政体)となすものである。これが彼の言う公民国家である。そこでは、国家は国民の特権ある一部分たる天皇と平等な権利を持つ他の部分とから成り、天皇は議会と共に国家の機関として活動し、国民は、天皇の利益のためにではなく、国家目的にのみ奉仕する。その意味で、彼は、国家法人説、天皇機関説を主張し、天皇主権説を否定する。
彼によれば、君民一家、忠孝一致、天皇主権説は、已に述べた国家体制の進化を逆進的に理解する「復古的革命主義〈反革命思想の意味〉であり、こうした「朝権紊乱」「国体破壊」の思想に対して現国体を断固擁護しようとするのがまさに彼の社会民主主義だと彼は揚言する。」ただし、「維新革命は、法律革命によって政治的に公民国家を実現したが、経済的には貴族階級国家に逆倒してこれを空文化している」ので、「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新が必要」。
ただし、以上のような主張をなした『国体論及び純正社会主義』は、北一輝23歳の時に書かれたもので、明治39年(1906)5月に自費出版されたものです。北一輝はこれによって社会主義者と見なされるようになりました。その後彼は、片山潜、幸徳秋水等社会主義者や宮崎滔天、萱野長知等国体論者との接触を通じて中国革命に関心を持つようになり、1911年には中国に渡り、その後十年間、宋教仁等と共に中国の革命運動に挺身することになりました。
この間、大正4年から5年にかけて中国で書かれたものが『支那革命外史』で、北一輝はこの中で、日本のいわゆるアジア主義者に伝統的な「支那軽侮論」に対して、次のような痛烈な批判を浴びせています。「笑うべき支那崇拝論者よ。(軽侮論者たるべき奴隷心の故に崇拝論者たる者よ)」と。
つまり、中国革命の起動因となったものは、日本の国家民族主義的な思想であり、その結果、中国人に国家民族的な覚醒が生じたのであって、そこに日本の中国に対する本質的な援助がある。つまり、そうした中国人の「国家的覚醒による愛国心こそ、まさに親日排日の両面」を持つのであって、中国の排日運動を見て、忘恩民族とそしるのは無理解も甚だしい。
「日本人の支那革命に対して受くべき栄光は当面の物質的助力又は妓楼に置酒して功を争う者の個人的交友に非ず。実に日本の興隆と思想とが与えたる国家民族主義に存するなり。」「不肖は何が故に日本人が佔らざるの恩を誣ひて忘恩民族呼ばわりをなし、却て四億万民に愛国的覚醒を導けるこの嚇嚇たる教鞭を揮って誇らざるかを怪しまずんばあらず。」
つまり、北一輝にとって革命とは、有機体としての社会において、その部分である個人が、自らの自由の拡大を求めてより高次の統一社会に到達せんとして起こるもので、歴史的には君主国から貴族国を経て民主国へと進化していくものである。つまり、その変革のエネルギーはその社会自身の中にある。それ故に、その社会=国家の利益は即ち権利であり正義である。だから、そのような中国の内在的発展として中国革命を捉えよ、と言うのです。
北一輝は、中国革命をこのような歴史の進化過程において捉え、それが成功するためには、中国は、まず封建的代官制度を廃して国家統一し、自らの国家的利益を外邦に対して主張出来るようにならなければならない。そして、そのための方策は「対露一戦」であり、これによって「代官階級の一掃も、財政革命も、軍制改革も、郡県的統一も、省部的軍国的精神の樹立」も可能となる。そのためには中国は東洋的共和制下の大統領制を布く必要がある。
これと共に、「日本の革命的対外策も立案される。日本は露支戦争に乗じて、一方では日英同盟を破棄して英国を「南支那」から駆逐し、他方ではロシアを退けて満州に進出する。「支那は先づ存立せんが為に、日本は小日本より大日本に転ぜんが為に」露支戦争は戦われねばならない。かくしてこれを基にして「日支同盟」が成立するであろう。」これが、北がこの本で提示した「革命的対外策」でした。
というのも、「満州は日露戦争の当時已に日本が獲得すべかりしもの」であって、これは「支那のためにも絶対的保全の城郭を築くもの」だというのです。おもしろいのは、この時北が主張した対米政策です。それは、米国における排日熱は支那の排日熱のようなものであり、これを解消するためには、支那の鉄道建設への米国資本の導入に日本が協力すればよい。そうすれば、米国の世論を「頼もしき親日論」に一変させることが出来るというのです。
「由来米国と日本とは何の宿怨あり、何の利害衝突あって今日の如く相警むるや」「何者の計ぞ日米戦争の如き悪魔の声を挙げて日本の朝野を混迷せしめ、支那に事あれば先づ米に備ふるの用意を艦隊司令官に命ずる如き狂的政策を奔らしむるや」・・・米国の対支投資は日本の保障がなければ元利一切不安になるのであって、日本は、米国の投資によって支那が開発されない限り日本の富強は達成されない。」
こうした提言は、大正5年5月22日稿了とされた本書に記されたものですが、冒頭に紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」に述べられた北の対支・対米政策は、基本的には、このような北の対支・対米認識に支えられたものであったことが判ります。
その後、北は、大正8年8月、36歳の時、「故国日本を怒り憎みて叫び狂う群衆の大怒濤」を眼前に見る上海の客舎で、『国家改造法案原理大綱』(後に『日本改造法案大綱』)を書きました。ここでは、『国体論及び純正社会主義』の末尾において彼が主張した「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新(=国家改造)」を、明治憲法下の議会政治によってではなく、天皇大権の発動による3年間の憲法停止、全国に戒厳令を布く中で、一気に行うとするものでした。
この戒厳令下の国家改造において秩序維持や改造の執行機関となるのは、改造内閣に直属する在郷軍人団とされました。ここで「在郷軍人」というのは、検閲を顧慮して用いたもので、実は、現役軍人をさすのだという説もあります。ではなぜ北が、このように国家改造の主体を軍人に求めたかというと、彼が経験した中国革命の進行過程において、その推進力となったものが、「武漢の新軍に見られるように、腐敗した将官ではなくて、まさに『軍隊の下層階級』」であったためとも言われます。
実際、北が『日本改造法案大綱』書いた大正9年は、ロシア革命、ウイルソンの民族自決主義に刺激された中国の五四運動、韓国の三一万歳事件等の勃発、日本の米騒動など混迷する時代状況の中にありました。また、北一輝が大川周明等の招きに応じて日本に帰った大正9年末以降の日本では、ワシントン条約に基づく軍縮の実施や国際協調主義の流れの中で、軍人に対する世間の目は冷たく、特に青年将校等に不満が嵩じていました。昭和になると、それに経済不況が重なることになります。
そんな中で、彼らを国家改造へと目覚めさせたものが、北一輝の『日本改造法案大綱』でした。その国家改造における主体とされたものが軍人であって、これが天皇の号令の基に行われる。その政治目標は、軍閥・吏閥・財閥・党閥など特権機関を排除して、平等社会を実現すること。具体的には、私有財産や私有地に限度を設けること。大資本を国家統一することの他、労働者の権利や国民の生活・教育の権利、国家の権利としては、自己防衛や不義を行う国に対する戦争、大領土を独占する国に対して開戦する権利などが規定されました。
では、この「改造計画」は皇道派青年将校等にどのような思想的影響を与えたかと言うことですが、昭和11年3月号の「日本評論」には、「青年将校運動とは何か」という対談記事が掲載され、その中で青年将校はその運動において何を望んでいるかと問われ、次のように答えています。
「簡単にいえば、一君万民、君民一体の境地である。大君と共に喜び大君と共に悲しみ日本国民が本当に天皇の下に一体となり、建国以来の理想実現に向かって前進するということである。」「日本国内の情勢は明瞭に改造を要するものがある。国民の大部分というものが、経済的に疲弊し経済上の権力は、天皇に対して、まさに一部の支配階級が独占している。時として彼等は政治機構と結託して一切の独占を弄している。それらの支配階級が非常に腐敗している状態だから承知できないのだ。」
これは、北一輝が『国体論・・・』で否定した、君民一家、忠孝一致、天皇主権説に基づく「復古的革命主義」そのものです。しかし、国家改造を必要とする時代状況認識や具体的な改造計画は同じであり、というより「改造計画」の影響を受けたものです。しかし、そこから変革のエネルギーも生まれている訳ですから、それをあえて訂正するようなことはしなかったのだと思います。そこには、隊付き青年将校等が幕僚将校に対して持った不満に対する同情もあったのではないかと思います。
一方、統制派といわれた幕僚等の国家改造計画は、満州問題の抜本的解決のための対外的膨張政策の推進がその中核にあり、それに反対する政党政治の否認であり、資本主義の是正による国民生活の安定でした。そのために、三月事件や十月事件などの暴力革命による軍事政権の樹立が図られたのです。しかし、満州事変が成功したこともあり、こうした暴力革命主義は次第に統制派による合法的漸進的国家改造へと代わっていきました。
こうした統制派の漸進的国家改造の進め方を明瞭に示したものが、昭和9年に陸軍が公表した「国防の本義とその強化の提唱」でした。ここでは、国防は国家生々発展の基本的活力の作用であるとし、”国民の必勝信念と国家主義精神との培養のためには、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農村漁村の救済は最も重要な政策である、と説かれていました。このように国防と内政は切っても切れない関係にあるとして、軍のこの方面の発言を強化しようとしたのです。
いずれにしても、その具体的な政策は、自由経済に代えるに、統制経済を狙いとすること、統制経済は資本主義そのものを否定しないが、思想的には個人主義、自由主義より全体主義への移行を示していること。具体的には、議会は停止しないが、但し、ヒトラーの授権法に倣い、広範な権限を政府に授権する仕組みとすること。政党は否定しないが多数党が政権を取るといういわゆる憲政常道は認めない。あくまで哲人政治を主張する、等がその目標とされました。
ではこれら統制派の主張と北一輝の思想とはどのように関係していたのでしょうか。いうまでもなく統制派は、軍が組織を動かして軍の一糸乱れぬ統率の下に上記のような国家改造を行おうとしていました。そこで、青年将校等が軍の統制を無視して横断的に結束し政治活動をすることを止めさせようとしていました。従って、それを外部からコントロールしていると見なされた北一輝等が警戒されたのも当然です。ただし、両者の求める国家像には大きな違いはなく、違いは、その対支・対米政策にありました。
よく、支那事件を拡大に導いたのは統制派で、皇道派はこれに反対したというようなことが言われます。しかし実際は、冒頭に紹介したように、北一輝は皇道派青年将校等の動きとは別に、日支同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置くべく外交工作を展開していました。従って、二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校等は、北をそれに巻き込むことでその努力を挫折せしめ、一方、統制派は、軍の無統制の責任を北に転嫁する形で、この事件を処理したのです。
北の「国体論」は天皇機関説を当然とし、「万世一系」を論拠に「天皇主権」を唱える「国体論」の愚を指摘しました。また、日本人の「支那軽侮論」が「支那崇拝論」の裏返しであることを喝破する一方、日支同盟の必要性を説き、米国の投資を支那に呼び込むことで日米親和が図れるとしました。その達識とリアリズムは、アジア主義者や青年将校等の思想をはるかに凌駕していたわけですが、『日本改造法案大綱』はそれを単なるクーデター扇動文書に矮小化してしまいました。
この原因は、北の国家論において、国家と社会の区別がついていなかったとか、国家有機体説をとったたため、個人の人権が国家主権に吸収されてしまい、それが彼を超国家主義へと導くことになったとかが指摘されます。おそらくそれは、日本が一民族一国家であることの反映だと思いますが、根本的には、この文書は、彼の10年間に及ぶ中国革命運動の挫折が生み出したものと見るべきではないでしょうか。それは日本においては、一部皇道派青年将校に「一君万民平等思想」と誤読されることでしか機能しなかった。
思想家がその読者を迷わしたことの責任を問われることはよくあることですが、通常、それは読者の責任とされます。この点、北一輝は二・二六事件を起こした皇道派青年将校等に対して自らの責任をとったわけですが、それは彼等に対する情宜の故であったか、それとも自らの言葉に対する責任の故であったか・・・、おそらく、西田税に『大綱』の版権を譲ったことが彼の失敗の始まりで、北はそのことの責任をとったのではないか、私はそのように推測します。 
   
慰安婦

 

日中戦争、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争及び韓米軍事合同訓練並びにアメリカ軍、連合国軍及び国連軍の駐留時などに、当時の戦地、訓練地、駐留アメリカ軍基地周辺の基地村などに設置された慰安所と呼ばれた施設で日本軍、韓国軍、アメリカ軍及び国連軍の軍人・軍属に対して、売春業を行っていた女性の総称。
慰安婦とは、広辞苑の初版(1955年)では「戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」と定義されている。大韓民国大法院の判決文(1966年)では、「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性を指すもの」と定義されている。
国家による管理売春(公娼制とも)の歴史は古く、古代ギリシアのソロンや中国の周の荘王などがすでに創設していたといわれる。またローマ帝国は捕虜女性を性奴隷としたといわれ、ジョージ・ヒックスは「日本軍と同様の慰安制度」を採用していたと主張している。捕虜女性が性奴隷になるのは古代中国でも同様であるが、漢帝国の時代に良民と賤民を分ける身分制度が成立すると、性奴隷の供給源は罪人の妻などに変化した(籍没)。王朝交代の戦乱などでは被征服者が公娼となる場合が多く、明の初期には前代の元朝の支配層であったモンゴル人女性が後宮に入った。16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている。
近代公娼制
近代において公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったといわれ、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは娘子軍と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたという。ジョセフィン・バトラーらの売春婦救済運動によって19世紀のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止されるが、植民地においては存在し続けた。第二次世界大戦当時には英米においては兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したといわれる。
第二次世界大戦当時の戦地性政策の三類型
秦郁彦によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス)、レイプ型(ソ連、朝鮮)の3つの類型があった。なお、強姦は平時でも発生する。
自由恋愛型とは、私娼中心で公娼制度を持たないものでフェミニズムによる批判や世論を受けて、公娼制を公認できなかったためとされ、英米軍がこれに該当する。ただし植民地においては慰安所が存在し、また日本軍慰安所を居抜きで使用した場合もある。
日本では廃娼運動などもあったが、ドイツ軍と同様の国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し、日本は400箇所、ドイツは500箇所あったといわれる。フランス軍、インド駐留イギリス軍、イタリア軍にも慰安所があったが、慰安婦を現地で募集する場合とそうでない場合とがある(詳細は下記節で述べる)。
ソ連(ロシア)では慰安所は設置されていないがレイプが黙認された。スターリンは敵国の女性を戦利品とする「戦地妻」を容認し、「わが軍兵士のふるまいは絶対に正しい」と兵士を鼓舞した。ソ連軍は占領したドイツで集団強姦を広範囲に行い、レイプの被害者数はベルリンでは9万5000〜13万、東プロイセン等では140万人、ドイツ全域で200万人にのぼった。ソ連軍は満州や朝鮮半島では日本人女性の強姦行為を各地で繰り返し、ソ連軍によって監禁された約170名の日本女性が強姦を受け、23人が集団自決した敦化事件も起きている。また大古洞開拓団(三江省通河県)ではソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、2名の志願慰安婦を提供している事例もある。
また、朝鮮人(朝鮮保安隊)も朝鮮半島の吉州郡や端川市などでソ連兵とともに非戦闘員の女性引揚者への集団強姦行為をおこない、強姦後に虐殺するケースもあった。強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の1946年(昭和21年)の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人であり、場所は朝鮮半島が38件と最も多く、満州4件、北支3件であった。また、中国共産党軍による通化事件が起きたほか、引揚列車に乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された女性もいた。
戦後
日本政府は進駐軍向けの特殊慰安施設協会を1945年8月22日に設置し、暴行を防止した。しかしながら、8月30日に上陸した進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された。9月5日には神奈川県の女子高校が休校した。しかし9月19日にGHQがプレスコードを発令して以後は連合軍を批判的に扱う記事は新聞で報道されなくなった。武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された。進駐軍相手の日本人娼婦(街娼)は「パンパン」などと呼ばれていた。
朝鮮半島においては、朝鮮戦争以降、韓国政府が韓国軍・米軍むけの「特殊慰安隊」を設立した。このように軍人に対する売春に従事した婦女は日本に限らず、米国、韓国、ドイツを含む他国にも存在している。米人女性ジャーナリスト、スーザン・ブラウンミラーは自著”Against Our Will”(1975年)で、ベトナム戦争中、米軍がベトナム人女性がいる軍公認の慰安所を利用していたことについて詳細なルポを書いている。
2002年に韓国の研究者金貴玉が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったとし、韓国軍は1948年の政府の公娼廃止令に背いて、約3年間不法に公娼を設置・運営していたと発表して以降、韓国軍慰安婦の実態調査も開始されたが公文書の閲覧が制限されてもいる。 
日本における慰安婦(戦時売春婦)と「慰安婦問題」 
制度としての慰安婦は、軍相手の「管理売春」という商行為をおこなう存在であり、慰安婦には報酬が支払われていた。しかし、韓国では日本の場合だけは無報酬の性奴隷であったとする主張が主流である。日本のケースでは民間業者が新聞広告などで広く募集するなどして日本人および日本人以外の女性に対しても慰安婦として採用していたが、韓国などでは強制連行であったなどと主張しており、強制的なものであったかどうかなどの点について論争がおこなわれている。慰安婦に関する問題は戦後すぐに起こったのでなく、1970年代になってから、旧日本軍が戦地の女性を強制連行し、慰安婦にしたとする本がいくつか出版されて明るみになった。初期ウーマン・リブの運動家田中美津の1970年の著作に「従軍慰安婦という一大便所集団」の「大部分は朝鮮人であった」)「貞女と慰安婦は私有財産制下に於ける性否定社会の両極に位置した女であり、対になって侵略を支えてきた」という記述がある 。
1973年には千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社)が刊行され、朝鮮人女性が20万連行され、そのうち5〜7万が慰安婦とされたと書く。のちのアジア女性基金調査(高崎宗司)によれば、これはソウル新聞の記事の誤読ではないかとし、また数値の根拠は不明としている(本項「総数」節参照)。1976年には『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉著:三一書房 )などが出版された。
吉田証言と慰安婦論争
いわゆる慰安婦論争が再燃する契機となったのは、元陸軍軍人の吉田清治(本名:吉田雄兎)が自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白し、さらに1982年に樺太裁判で済州島で朝鮮人奴隷狩りを行ったと証言し、1983年7月に戦中済州島で自ら200人の女性を拉致し慰安婦にしたと証言する『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版したことに始まる。1983年11月10日には朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治を紹介した。この吉田の著作内容はのちに済州新聞の許栄善記者や秦郁彦らの調査の末、捏造であることが明らかになり吉田本人も創作と認めることとなるが慰安婦問題は著作を離れ一人歩きすることとなる。
1984年には韓国で宋建鎬(朝鮮語)が挺身隊として動員された女性は20万人でありそのうち5万人から7万人が朝鮮人であった(数値は千田前掲書と同一)とする1969年の韓国日刊紙の報道を日帝が挺身隊の名目で20万人の朝鮮女性を連行しそのうち5万から7万人を慰安婦としたと置き換えて報じたことを発端として、現在では、北朝鮮は朝鮮女性20万人が強制的に慰安婦にされ840万人が強制連行されたとし、大韓民国国定教科書は数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされ、650万人の朝鮮人が強制的に動員されたとしている。これらの韓国・北朝鮮両政府の公式見解について、李栄薫ソウル大学教授は1940年当時の16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であり、20歳から40歳の朝鮮人男性は321万人であるためこれらの数値は正しくないと指摘している。
吉田の著書は1989年に韓国でも出版され、同年中に済州島新聞(1989年8月14日付)や済州島郷土史家の金奉玉によって虚偽であることが判明し日本人の悪徳を表す軽薄な商魂の産物であるとされたが、「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」事務局長青柳敦子と在日朝鮮人宋斗会が韓国で謝罪と補償を求める訴訟の原告を募い、吉田は韓国に渡り、謝罪碑建立と謝罪活動を始めた。
吉田の著書は韓国ではドラマ化もされた。こうしたことを背景に1990年には慰安婦の調査を行なって来た梨花女子大元教授の尹貞玉 (ユン・ジョンオク)が日本軍慰安婦問題を新聞などのメディアで告発し、多数の女性団体が結集した「挺身隊対策協議会」を初めとして、様々な団体がこの問題に取り組み韓国において日本軍慰安婦問題が大きな運動になる。1991年には、韓国で元慰安婦が初めて名乗り出て、自らの体験を語った。その後も韓国、フィリピン、台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数現れ、日本の弁護士らの呼びかけで、日本政府に謝罪と賠償を求める訴訟がいくつも起こされるようになる。
吉田はその後も日本、韓国、アメリカなどで講演を行なったり、メディアに精力的に出演し、数々の裁判の加害証人として加害証言を続け、1990年代には国連の人権委員会に働きかけるなど、世に広く知られるようになった。
吉田証言は済州島の新聞社の調査や秦郁彦らの検証を通じて事実ではないことが明らかになっており、吉田自身も虚構であることを認めた。済州島の郷土史家金奉玉は吉田による証言について、「数年間も追跡調査を行った結果、事実ではないことが明らかになった。この本は日本人の浅ましさをあらわす軽薄な商魂の産物であると考える」と述べている。
しかし、この吉田証言は日本官憲が女性を徴発したとする今日の韓国人の集団的記憶形成に決定的に寄与したといわれ、2012年9月5日にも韓国最大発行部数を誇る朝鮮日報は吉田清治の手記を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として再び強制連行の証拠であると主張している。
朝日新聞の報道・慰安婦訴訟
日本ではこの問題の報道を『朝日新聞』が主導した。(東京の社会部市川速水記者が取材チームを率いていた。)1991年5月22日『朝日新聞』大阪版が吉田証言を紹介し、同1991年8月11日に朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと報道する。同年8月15日韓国ハンギョレ新聞は金学順が「親に売り飛ばされた」と報道し、また金学順の裁判での供述との矛盾などもあり、のちにこれは誤報であることが判明する。しかし朝日新聞による「従軍慰安婦」報道は韓国でも伝えられ、反日感情が高まり、慰安婦問題は日韓の政治問題となっていった。同年10月10日には朝日新聞大阪版が再度、吉田清治へのインタビューを掲載する。
1991年10月7日から1992年2月6日にかけて韓国のMBC放送が二十億ウォンの予算を投入して製作したドラマ『黎明の瞳』を放映し、最高視聴率58.4%を記録した。物語ではヒロインが従軍慰安婦として日本軍に連行され、日本軍兵士が慰安所を利用したり、朝鮮人兵士を虐待する場面がお茶の間にそのまま放映され、反日感情を煽った。原作は金聖鍾の全10巻にも及ぶ小説で、1975年10月から韓国の日刊スポーツ新聞で連載されていたもの。
1991年12月6日には、福島瑞穂(現社民党党首)、高木健一などが日本政府に慰安婦補償を求めた初の損害賠償請求裁判を提訴し、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件として裁判が開始される(2004年最高裁で敗訴確定)。これを朝日新聞は当該訴状で「親に売られてキーセン(妓生。娼婦のこと)になった」と記載されているものを「軍が慰安婦を女子挺身隊として強制連行した」と書き変えて報じた。
宮沢喜一首相の訪韓を前にした1992年1月11日、朝日新聞が一面で「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」「政府見解揺らぐ」と報じる。この記事は陸支密大日記を吉見義明が「発見」したと報道されたが、研究者の間ではこの資料は周知のものであった。同日朝日新聞夕刊では「韓国メディアが朝日新聞の報道を引用して報道」とのソウル支局電を掲載した。翌1月12日の朝日新聞社説では「歴史から目をそむけまい」として宮沢首相には「前向きの姿勢を望みたい」と主張した。またジャパン・タイムズは1月11日夜のテレビ番組で渡辺美智雄外相が「なんらかの関与があったということは認めざるをえない」との発言を、「日本の政府責任者が戦時中に日本軍がhundreds of thousands(何十万人)ものアジア人慰安婦への強制売春(forced prostitution)を初めて認めた」と、実際の発言内容と異なる記事を掲載した。1月13日、加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」の談話を発表、1月14日には韓国で、女子挺身隊を誤解歪曲し「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」と報道、同1月14日、宮沢首相は「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べ、1月16日には天皇の人形が焼かれるなど反日デモが高まる韓国に渡り、首脳会談で八回謝罪し、「真相究明」を約束した。毎日新聞ソウル支局の下川正晴特派員は当時の会見の様子について「韓国の大統領主席補佐官は、韓国人記者たちに謝罪の回数まで披露した。こんな国際的に非礼な記者発表は見たことがない」とのちに述べている。
宮沢首相による謝罪から「河野談話」まで
宮沢首相は盧泰愚大統領との首脳会談で事実関係の調査を経ることなく慰安婦問題について何度も謝罪し、「真相究明を約束する」と表明した。同年、日本の歴史家秦郁彦による現地調査でも強制連行が虚偽であることが確認された。
日本弁護士連合会(日弁連)は1992年に戸塚悦郎弁護士を海外調査特別委員に任命し、海外の運動団体と連携し、国連へのロビー活動を開始し、同1992年2月、戸塚弁護士はNGO国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国連人権委員会に提起し、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動していく。当時日弁連会長だった土屋公献も日弁連が国連において慰安婦を「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 として扱い、国連から日本政府に補償をおこなうように働きかけたと言明している。その結果、1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され、1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制(military sexual slavery)」と明記されることとなる。
中韓国交正常化 / 1992年8月24日、韓国と中国が中華人民共和国と大韓民国との外交関係樹立に関する共同声明を発表、戦後はじめて中韓の国交が正常化される。1992年12月25日には釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟が始まる(2003年最高裁で敗訴確定)。1993年4月3日には、元慰安婦の宋神道が提訴し、在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件についての裁判がはじまる(2003年最高裁で敗訴確定)。1993年、韓国政府は日本政府に日本の教科書に慰安婦について記述するよう要求する。
村山談話 / 1994年8月31日に村山富市内閣総理大臣が元慰安婦に対しておわびの談話(村山談話)を出す。
河野談話 / 日本政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとしたが、韓国政府は受け入れずに、強制性を認めるよう要求する。日本政府は再度調査を行ない、やはり強制連行を行ったことを示す資料は存在しなかった。しかし1993年8月4日、政府調査の結果発表の際に、河野洋平官房長官がいわゆる「河野談話」を発表する。河野談話では「日本政府が強制したということは認めたわけではない」が、日本軍の要請を受けた業者によって女性が意志に反して集められ、慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」として、「日常生活に強制性が見られた」と解釈し、反省とお詫びの意を示した。また、平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた慰安婦の記述がなされるようになり、高校・中学校のほとんどの歴史教科書で従軍慰安婦として記載される。また、河野談話が国内外から出される対日非難決議の根拠とされることにもなり)、河野談話の評価については議論が分かれている(後述)。1994年には永野茂門法務大臣が「慰安婦は公娼である」と述べたことで辞任に追い込まれた。
吉田清治による証言否定とその後の日本国内の動向
吉田は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認め、朝日新聞は1997年に「吉田証言の真偽は確認できない」との記事を掲載した。2007年に安倍晋三首相は「虚偽と判明した吉田証言以外に官憲の関与の証言はない」と答弁している。
1996年6月に文部省(現:文部科学省)が検定結果を公表した中学校教科書では全ての歴史教科書に慰安婦に関する記述がなされていたことを問題として同年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」(略称・つくる会)が発足。教科書を「自虐史観」であると批判し、新しい歴史教科書をつくる運動を進め、慰安婦問題は「歴史認識問題」、「歴史教科書問題」にもなっていった。2001年4月、「つくる会」の中学校歴史教科書が検定を合格したが、強い反対運動もあり、実際にはほとんどの中学校で採択されなかったが一方、同年に検定通過した他の教科書において、政府の方針や世論の関心の高まりもあり、慰安婦の記述も減少し、1999年には中学歴史教科書からは「従軍慰安婦」という用語が消えた。
与党・自由民主党内においても、若手議員らが、「つくる会」と同様に現在の日本の歴史認識を「自虐的」として修正を求める運動を始めるようになる。翌1997年には、「河野談話」発表に至る調査に関わった政府関係者が、強制連行の証拠となる資料は一切なかったが、韓国政府の強硬な要請に押され、政治判断として強制性を認めたことなどを明かしたことから、証拠もなく、日本を不利な立場に立たせたとして、「河野談話」への批判もなされるようになり、強制連行の有無などをめぐり激しい議論がマスメディアで繰り広げられるようになる。
「河野談話」で強制性を認めた政府ではあったが、時折、自由民主党の所属議員が強制連行を否定する発言をし、それが大々的に報じられ、中国、韓国からの強い反発を招くということが繰り返されている。
アジア女性基金と韓国政府による受領拒否
1995年、日本政府は医療・福祉支援事業や民間の寄付を通じた「償い金」の支給などの元慰安婦に対する償い事業のために、民間(財団法人)からの寄附という形で「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立し、運営経費や活動資金を負担した。
1996年には橋本龍太郎内閣総理大臣が元慰安婦(アジア女性基金が対象としていない日本人女性を除く)に対しておわびの手紙を出す。同時に、サンフランシスコ講和条約、二国間の平和条約及び諸条約(日韓基本条約など)で法的に解決済みであることを明らかにし、また河野・村山いずれの談話も慰安婦という職業の存在を認め名誉を傷つけたとはしているが強制連行などをしたとの見解は表明していないともコメントした。また橋本は女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとの認識のもと、道義的責任の観点から、アジア女性基金の事業への協力、日本人女性を除く元慰安婦に対する医療・福祉支援事業に対し資金拠出などを行った。1997年1月よりアジア女性基金は償い金の給付と医療福祉援助を行い、韓国人、台湾人、オランダ人、フィリピン人女性など計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を受給した。元慰安婦の認定が行われていないオランダに対しては現地の慰安婦関係者に対する生活改善支援事業に、元慰安婦の特定が困難なインドネシアに対しては高齢者社会福祉事業を援助した。2001年には小泉純一郎首相がおわびの手紙をを各慰安婦に送った。
韓国や台湾では日本政府に対し「法的責任を認め、国家補償を行なえ」という主張を掲げる運動の影響が強く、アジア女性基金を受け取ろうとする元慰安婦に対して、受け取るべきでないと圧力が加えられる。
特に韓国では、韓国政府や民間団体が「基金を受け取らないと誓約すれば300万円・200万円を支給する」ことを表明したため、韓国では半数以上の元慰安婦が受け取りを拒否した。1996年10月18日、挺対協の尹貞玉は償い金を受け取るということは「日本政府が犯した罪を認めず、ハルモニ(おばあさん)たちを初めから売春婦扱いすることだ」として、受け取らないよう呼びかけた。韓国政府は当初、歓迎の姿勢を見せたが、このような挺対協の強い反対運動によって方針を変える。1997年に11名の元慰安婦が償い金を受領したが、1998年に韓国政府はアジア女性基金の償い金の受け取りは認めない方針を示した。これに対して日本側は医療施設建設など事業転換を提案したが、1999年6月に韓国政府は改めて拒否を通告した。
これにより、韓国政府はアジア女性基金による償い金受けとらないと誓約した元日本軍慰安婦には生活支援金を支給することとし、韓国政府認定日本軍慰安婦207人のうち、アジア女性基金から受給した元慰安婦や既に亡くなったものを除く142人に生活支援金の支給を実施した。一方、アメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は謝罪と補償を求めているが、自発的な売春婦であるとして一切の謝罪・補償をおこなっていない。韓国政府やアメリカ人によりアメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は、韓国政府の日本に対する絶え間ない賠償要求は韓国自身の歴史に対する欺瞞であると訴えている。フィリピン政府としては売春を強制されたフィリピン人女性のために韓国で訴訟活動を行っている。2000年代以降、韓国挺身隊問題対策協議会や韓国政府主催の世界韓民族女性ネットワークは日本軍慰安婦への謝罪と賠償を求める活動を世界各地でおこなっている。日本からは民主党の岡崎トミ子議員が韓国でのデモに合流している。
国連人権委員会の報告書
クマラスワミ報告 / 国連人権委員会には韓国の運動団体や日本カトリック教団や日本弁護士連合会などの組織が積極的なロビー活動を行った。1996年にクマラスワミ報告書が国連人権委員会に提出され、慰安婦制度が国際法違反であり、日本政府に対して慰安婦に対する賠償を勧告した。しかしクマラスワミ報告書はジョージ・ヒックスの著作『性奴隷』に多く基づくものであり、ヒックスの本は二次文献をまとめたもので研究書としての価値は低く、また事実誤認と歪曲だらけと指摘されている。またクマラスワミ報告書も同様に事実誤認や捏造(「ミクロネシア慰安婦虐殺事件」等)が多数あることが、日本の運動団体「日本の戦争責任資料センター」の荒井信一や吉見義明、秦郁彦らの歴史学者より批判されており、またその後創作であることが判明した吉田清治証言も事実の加害証言として典拠とされている。
マクドゥーガル報告書 / 1998年にマクドゥーガル報告書が提出されたが、この報告書でも「20万」の慰安婦が強制連行されたと報告されたが、これは日本のアジア女性基金の調査で出典の信憑性がないことが判明した(#マクドゥーガル報告書と荒船発言参照)。しかし、マクドゥーガル報告書が提出されると、報告書を検証することなしに日本のカトリック教会枢機卿白柳誠一は日本政府に謝罪と補償を求めるとともに「応じよ!国連勧告」100万人署名運動を呼びかけた。2000年に朝日新聞元編集委員の松井やよりが主催する「戦争と女性への暴力」日本ネットワークや韓国挺身隊問題対策協議会などの団体によって「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が開かれた。「法廷」では「昭和天皇および日本国は有罪」との「判決」が下され、取材をおこなった海外のメディアが「日本国が女性を強制連行して性奴隷にした」と報じたことで慰安婦問題は世界各国でも認識されるようになった。
慰安所営業者の半数は朝鮮人であり、日本軍は誇大広告を禁止するとともに渡航する女性が本人自ら警察署で身分証明書の発給を受けて誘拐でないことを確認するよう通達を出し、朝鮮では日本の官憲が日本人や朝鮮人の女性を誘拐して売買をおこなったものを取り締まっていたが、河野談話以降は海外から「日本政府が数十万人の女性を強制連行して性奴隷にした」として非難され、日本国内では女性の人権などの観点をめぐって様々な議論となった。さらに元慰安婦を名乗る韓国人女性たちの証言の信憑性については疑問視されてもおり、証言が虚偽または創作でないかの検証が韓国や日本で行われている]。
2004年8月10日、東京造形大学教授で国際人権活動日本委員会の前田朗はジュネーブで開かれた国連人権促進保護小委員会において20万人もののコリア、中国などの女性が日本軍の慰安婦としての性労働を強いられたうえに拷問や栄養不良などで殺害されたり、なかには爆撃下のたこつぼでレイプされた女性もいたとして大量虐殺的強姦という概念を提唱し、日本政府は何も聞こうともせず、いまだ何も行っていないと非難し、犯罪者である日本を処罰する権利と被害者の救済を要請した。 
米国での慰安婦訴訟
ヘイデン法 / 1999年2月26日、元反戦運動家でカリフォルニア州上院議員のトム・ヘイデン(en:Tom Hayden)とロッド・パチェコ州下院議員・マイク・ホンダ下院議員らが、第二次世界大戦中にナチスや日本から強制労働を強いられた被害者が州裁レベルで賠償を求めることができるとする州法の戦時強制労働補償請求時効延長法(朝日新聞は「第2次世界大戦奴隷・強制労働賠償法」と表記)を提案した(法案番号SB1245「補償- 第二次世界大戦奴隷・強制労働」、法律216号「補償に関して民事訴訟法に第354条第6項を追加し、即時に発効さすべき緊急性を宣言する法律」。ヘイデン法)。同州法は7月15日にカリフォルニア州議会両院で全会一致で可決、施行された。この州法は1929年から1945年までの間のナチスドイツによる強制労働の被害者補償を目的としたもので、ナチスの同盟国であった日本の責任も追求できるとされた。提訴期限は2010年末で、それまでに提訴すれば時効は適用されない。
対日非難決議 / ヘイデン法成立直後の8月にはマイク・ホンダ下院議員が、第二次世界大戦時の戦争犯罪について日本政府が公式謝罪と賠償を求める決議を提案、カリフォルニア州議会は採択した。ホンダ議員が提案した「日本の戦争犯罪」とは、強制労働と5万人の捕虜抑留者の死、30万人の中国人を虐殺した南京大虐殺、従軍慰安婦の強要を指す。議会ではジョージ・ナカノ下院議員が「日本に対する古い敵意をあおることは、日系人に対する反発を駆り立てる」として反対し、また原爆投下は残虐行為ではないかとする緑の党議員に対して民主党議員は「原爆投下によって戦争終結をはやめ、多くの人命が救われた」と反論するなどした。ホンダ議員とナカノ議員の対立は、日系アメリカ人社会の内紛ともなり、ダニエル・イノウエ上院議員がナカノ議員側を支持した。マイク・ホンダ議員は中国系の反日団体の世界抗日戦争史実維護会から多額の献金を受領し緊密な連携をとっているとして、ナカノ議員はホンダ議員が対日非難活動を行う理由は「選挙キャンペーンでの政治献金の問題だ」と語っている。なお、決議には法的拘束力はない。
戦時強制労働の対日賠償請求運動 / ヘイデン法成立後、同法を根拠にしてシーメンスやフォルクスワーゲン、ドイツ銀行などがナチス時の強制労働の損害賠償をユダヤ系団体から請求され提訴されるのと並行して、日本企業への集団訴訟もカリフォルニア州で相次いだ。1999年8月11日、元米兵が太平洋戦争時に捕虜となり炭鉱で強制労働させられたとして三井鉱山、三井物産など日系企業を損害賠償でロサンゼルス郡上位裁判所に提訴。9月7日には在米韓国人が八幡製鐵での労働についてワシントン地裁に提訴し、担当したサンディエゴ市在住のデービッド・ケーシー弁護士は「これは始まりに過ぎない。今後、米国内でこの種の訴訟は激増する」と声明を発表した。
抗日戦争史実維護会などの支援活動 / 1999年9月9日には中国系の反日市民団体の抗日戦争史実維護会(世界抗日戦争史実維護会)が日本に強制労働を強いられた元米兵・中国・朝鮮人ら約500人が日本企業1000社に対して損害賠償を求める集団訴訟を行うと発表。抗日戦争史実維護会は世界に41の支部を持ち、集団訴訟へのよびかけでも強い影響力を持っており、集団訴訟を支援している。同団体はアイリス・チャンの著書『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売を行うなどの活動でも知られ、サンディエゴ州立大学名誉教授アルビン・コークスは対日集団訴訟が広がった背景には、史実として未確認の叙述の多いアイリス・チャンの著書の影響があり、「南京大虐殺=第二次大戦の忘れられたホロコースト」という文言がアメリカで独り歩きしていると指摘した。
このほか、サンフランシスコに本部を置く国際NGO「アジアでの第二次世界大戦の歴史を保存するための地球同盟」や、在米韓国・中国人からなる反日団体の「ワシントン慰安婦問題連合Inc (Washington Coalition for Comfort Women Issues Inc.)」なども集団訴訟を支援した。ワシントン慰安婦問題連合は1992年12月に結成され、2000年12月の東京での女性国際戦犯法廷にも関わり、また抗日戦争史実維護会と同じく『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売を支援した。古森義久はこれらの反日組織は日本の戦争犯罪を誇張し、日本の賠償や謝罪の実績をなかったことして非難を続けるとした。さらに対日攻撃の手段が米国での訴訟やプロパガンダであり、慰安婦問題訴訟はその典型であり、「米国での日本糾弾は超大国の米国が国際世論の場に近いことや、日本側が同盟国の米国での判断やイメージを最も気にかけることを熟知したうえでの戦術だろう」と評している。集団訴訟の原告側の弁護士は2001年春に上海で開かれた慰安婦問題シンポジウムに参加してもいる。
1999年9月14日、元米兵が三菱マテリアル、三菱商事をオレンジ郡上位裁判所に提訴。10月8日には韓国系アメリカ人が太平洋セメントを集団訴訟の形式でロサンゼルス郡地裁に提訴した。10月22日には在米韓国人が石川島播磨重工業と住友重機械工業を集団訴訟でサンフランシスコ上位裁判所に提訴し、訴状では戦時中日本に強制連行された朝鮮人の総数は約600万人で、約150万人が日本本土に連行されたと主張された。2000年2月24日、元英兵がジャパンエナジーを提訴した。
日本側の反応 / 1999年11月9日、柳井俊二駐米大使は日本国との平和条約第14条、19条で請求権問題は解決しており、集団訴訟には法的根拠がないと答弁した。また対日集団訴訟は、ナチス戦争犯罪追求に便乗したもので「日本はそのような犯罪は犯していない。杉原千畝氏のような人もいる。ナチスと一緒にされてはたまらない」と述べた。1999年11月4日、民主党シューマ−議員がユダヤ人団体の訴えを支援して、ヘイデン法と同様の法案を米上院に提案した。2000年4月には東部のロードアイランド州上院議会でヘイデン法と同様の法案が可決され、さらにネブラスカ州、カンザス州、ウエストバージニア州、テキサス州、フロリダ州、ジョージア州、ミズリー州などでも同様の法案が提出された。2000年5月16日には韓国人とフィリピン人グループらが日本企業27社を提訴、原告集団は数十万人にのぼった。2000年8月22日、中国人が三菱グループをロサンゼルス郡上位裁判所に提訴、原告集団は数十万人。
米上院司法委員会公聴会 / 2000年6月28日の米上院司法委員会公聴会で共和党のハッチ委員長は「日本はビルマに賠償しており、米国民も日本に賠償請求する権利がある」と述べた。これに対して国務省ベタウアー法律顧問代理は「日本国との平和条約26条はソ連など共産主義国との講和交渉で、日本に領土問題などで不当な要求を受け入れさせないための措置だった」として、企業への民事訴訟は想定されていないと答弁した。ハッチ委員長は「条文解釈を再検討すべき」と述べた。ウォールストリート・ジャーナルは2000年8月30日の社説で、「戦時中の日本軍の残虐行為を忘却してはならないが、今の日本企業を半世紀以上前に起こった行為ゆえに非難することは軽々しくすべきではない」として、平和条約による請求権放棄、また日本は戦後、中国をはじめとして270億ドルの賠償金および多額の対外経済協力を行なってきたと、原告側を批判した。
慰安婦訴訟 / 2000年9月18日、第二次世界大戦中に日本軍に慰安婦にさせられたとする在米中国人や韓国、フィリピン、台湾人女性ら計15人が、日本政府を相手取って損害賠償請求の集団訴訟をワシントン連邦地方裁判所で起こした。原告のなかにはアメリカ市民でないものも多かったが外国人不法行為請求権法に依拠した。アメリカに限らず国際民事訴訟においては外国主権国家に対して主権免除の原則があり、外国の国家を裁くことはできないが、アメリカ法の外国主権者免責法(en:Foreign Sovereign Immunities Act、FSIA)では国家の商業行為は例外とされており、元慰安婦ら原告側は「日本軍慰安婦制度には商業的要素もあった」として訴えをおこした。日本政府は「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)での国家間の合意で解決ずみ」としてワシントン地裁に訴えの却下を求めた。
連邦地方裁判所判決「ウォーカー判決」と米政府見解 / 2000年9月21日、サンフランシスコ連邦地方裁判所は「日本国との平和条約において請求権は決着済み」「追加賠償を求めることは同条約によって阻まれている」として元米兵や元連合軍人らの集団訴訟12件に対して請求棄却した。集団訴訟の請求内容が日本国との平和条約に密接に関係するため、サンフランシスコ連邦地方裁判所のボーン・R・ウォーカー判事が「アメリカの連邦法や条約に関わる訴訟は連邦裁判所が裁判管轄権を有する」として27件を一括処理した。ウォーカー判事は、元軍人による13件の訴訟については、連合国が対日賠償請求権を放棄した日本国との平和条約14条に抵触することは明白とし、さらに原告が日本国との平和条約26条について「日本は他の六カ国との協定で賠償責任を認める好条件を出したから、連合国国民も請求できる」と主張した件については「26条の適用請求を決定するのは条約の当事者である米国政府であって、原告個人ではない」と却下した。他方、中国・韓国人・フィリピン人らの集団訴訟には他の争点があるため審理継続とされた。2000年10月31日、米上院は「強制労働被害者と日本企業の賠償問題について政府は最善の努力をすべき」とする決議案を全会一致で可決した。2000年12月13日の法廷でウォーカー連邦裁判事は5件を請求棄却し、これにより元軍人の請求はすべて棄却され、「戦後補償は平和条約で解決済み」とする日米両政府の立場が司法判断で確認された。被告側のマーガレット・ファイファー弁護士は「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求権はない」とし、条約締結国でない韓国と中国については日韓基本条約と日中共同声明が日本国との平和条約の枠内にあり、請求権は放棄されていると述べ、また米司法省代理人も「カリフォルニア州法それ自体が合衆国憲法に違反し、アメリカと日本、韓国、中国、フィリピンの国際関係を破壊するもの」と指摘した。
クリントン民主党政権下の米政府の意見書では「平和条約は中国や韓国との賠償問題については二国間条約で解決するよう求め、日本はそれを果たした」「こうした各条約の枠組みが崩れた場合、日本と米国および他国との関係に重大な結果をもたらす」と明記された。
2001年5月、共和党ブッシュ政権下の司法省はワシントン地裁に法廷助言(アミカス・キュリエ)を行い、「日本国との平和条約の解釈が論点となる訴訟の管轄権は連邦裁判所に属する」とし、またアメリカ政府は外国主権者免責法にもとづき日本政府の要請を支持すると表明した。2001年6月にはアメリカ上院司法委員会の公聴会で国務省・司法省ともに「訴訟は無効」とした。
2001年9月4日、元米兵が日本政府に1兆ドルの賠償金を請求して提訴。9月6日に、米国務省のバウチャー報道官が対日賠償請求運動について「平和条約で決着済み」と声明を出しさらに8日にはパウエル国務長官が同見解を述べた。
しかし、9月10日には米上院で、司法省と国務省が対日賠償訴訟に関して意見陳述を行うことを禁じる修正条項法案が可決した(提案者は共和党ボブ・スミス上院議員)。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。10月には元駐日大使のトーマス・フォーリー、ウォルター・モンデール、マイケル・アマコストが修正法案は「米国の安全保障に緊要な条約の破棄になりかねない法案」であり、「訴訟に根拠を与えるいかなる措置も平和条約の重要な条項に違反する」として、日本国との平和条約は米国の太平洋地域の安全保障の要石であり、またドイツは連合国と平和条約を締結しなかったが、日本はドイツと異なり明確に決着したこと、また元軍人には日本からの接収資産から一人3000ドル(2万3000ドル)の補償もすでに行われていると批判した。11月20日、米国議会は上下両院で可決した修正法案を最終審議の議会両院協議会で抹消した。
2001年9月17日、米連邦裁ウォーカー判事は中国・韓国・フィリピン人による対日賠償請求訴訟について「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求をできない」、中国・韓国人については「ヘイドン法が憲法違反であり、したがって訴訟も無効」と判決し、訴えを却下した。原告は控訴。
2001年10月4日、ワシントン米連邦地裁は慰安婦訴訟について日本側の主張を認め請求棄却。原告側はD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)へ控訴。
米最高裁判決 / 2003年1月15日にカリフォルニア州高裁は、1999年に施行された戦時中の強制労働への賠償請求を認めたカリフォルニア州法は合憲とした。しかし、1月21日にサンフランシスコ連邦高裁は「アメリカ合衆国憲法は外交権を連邦政府のみに与えており、戦後補償をめぐりカリフォルニア州が訴訟を起こす権利を州法でつくり出すことはできない」「個人の賠償を解決するために裁判所を使うことは米国の外交権に反する」としてカリフォルニア州法のヘイドン法を憲法違反と司法判断し、日本企業への集団訴訟28件をすべて却下した。
慰安婦訴訟についてワシントンD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)が主権免除の商業活動例外は法の不遡及によって適用されないとして2003年6月27日に一審判決を支持し棄却。2003年10月6日、米国連邦最高裁判所は上告棄却。2004年6月14日、米国連邦最高裁判所はワシントン高裁へ差し戻す、2005年6月28日、ワシントン高裁は平和条約と請求権については司法府に審査権が付与されない政治的問題として一審判決を再び支持した。原告側は最高裁へ再審請求し、2006年2月21日にアメリカ合衆国最高裁判所は、却下の最終司法判断を下した。このアメリカ最高裁の判決によって米国の司法当局および裁判所が日本軍慰安婦案件については米国で裁くことはできなくなり、また米国で訴訟を起こすこともできなくなった。これらの集団訴訟に際してアメリカ合衆国政府・国務省・司法省は一貫して「サンフランシスコ平和条約で解決済み」との日本政府と同じ立場を明言している。ただし立法府(議会)はこの限りではないため、その後も下院などで非難決議が出されていく。
第一次安倍政権と米国下院決議
2007年1月末に民主党のマイク・ホンダ下院議員らが慰安婦問題に関する日本への謝罪要求決議案を提出した。過去にも同種の決議案は提出されていたが、いずれも廃案になっていた。2月15日の下院公聴会で、李容洙、金君子、ジャン・ラフ・オハーンの3人の元慰安婦が証言。2007年2月25日フジテレビ放送の『報道2001』でホンダ議員は「反日決議案ではなく和解を意識したもの」と述べた。
安倍発言 / 安倍晋三首相は2006年の組閣後、2007年3月1日に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言、3月5日には対日決議案は「客観的事実に基づいていない」と述べた。安倍首相は他方で当時の慰安婦の経済状況について考慮すべきこと、斡旋業者が「事実上強制していたケースもあった。広義の解釈では強制性があった」とも発言した。この安倍発言は国内外で大きな波紋を呼び、ワシントンポストは「二枚舌」と批判した。対日非難決議案の動きについて麻生太郎外務大臣は3月11日のフジテレビ番組で北朝鮮、韓国、中国などによる日米離間(分断)の反日工作と指摘した。3月31日には元慰安婦へ補償を行なってきたアジア女性基金が解散。またアルジャジーラは「アメリカ合衆国は日本と中国・韓国との間に問題を作り出そうとしている」と報じた。もっとも、安倍内閣は、2007年3月16日付で、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」としたものの、「河野談話」引き継ぐことを閣議決定している。2007年4月3日、米議会調査局報告書で日本軍は朝鮮半島での直接の徴集を行っていないこと、これまでに日本は謝罪や賠償努力を行なってきたことを指摘して、これ以上の賠償要求を行うことに疑問を呈した。安倍首相は4月27日に初訪米し「私の真意が正しく伝わっていない」と、また慰安婦が当時苦しい状況にあったことに「心から同情する」と述べた。前日の4月26日にはワシントン・ポストに在米韓国人団体が「日本は全面的な責任をとったことは一度もない」と意見広告を掲載していた。2007年5月4日のAP通信が終戦直後のGHQと特殊慰安施設協会(RAA)について報道。ホンダ議員はRAAについても議会調査局に調査依頼した。
米国下院121号決議 / 2007年6月26日にアメリカ合衆国下院外交委員会でアメリカ合衆国下院121号決議は賛成39票、反対2票で可決。続く7月30日、米下院本会議でナンシー・ペロシ下院議長のもと可決した。下院121号決議では日本軍慰安婦制度を「かつてないほどの残酷さと規模であった20世紀最大の人身売買の1つ」とし、「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達への公式な謝罪、歴史的責任、あらゆる異論に対する明確な論破及び将来の世代にわたっての教育をすることを日本政府に要求する」と明記された。日本では読売新聞、日本経済新聞、産経新聞、毎日新聞が米下院決議を批判し、朝日新聞は社説で安倍首相は河野談話と同様の談話を出すべきと報じた。しかし日本政府は反論も抗議もせずに、安倍首相も「残念だ」とコメントするにとどまった。古森義久は「日本の従順な態度は高く評価されて、もう同じ糾弾はしないようになると思ったら、とんでもない。現実は正反対なのだ。日本が黙っているのを見透かしたように同種の非難の矢がさらに激しく、さらに多方面から飛んでくる」と指摘しているが、この米国下院での決議以降、カナダ、ヨーロッパ、アジアでも対日謝罪決議が続いた。
韓国系・中国系住民によるロビー活動
在米韓国人のロビー活動と政治資金提供 / 対日謝罪要求決議の採択は、在米韓国人によって全米各地に慰安婦謝罪決議案採択のための汎対策委員会が設立され、対日謝罪要求決議が可決されるよう韓国系アメリカ人によるアメリカ下院議員へのロビー活動の成果だった。これに対して日本政府は4200万円かけてロビー活動したが失敗し禍根を残した。在米韓国人による米国議員への政治後援金は2007年から2011年までで総額300万ドルにおよび、政党別では民主党へ179万7155ドル、共和党へ114万8597ドルで、年度別では2007年に70万4669ドル、2008年に101万2195ドル、2009年に86万4099ドル、2010年に36万4789ドルであった。議員別ではマイク・ホンダが米国議員のなかで最も多額である13万9,154ドルの政治資金を集めた。
在外中国人団体・世界抗日戦争史実維護連合会のロビー活動 / また、マイク・ホンダ議員は在米中国人の反日工作団体の世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会、The Global Alliance for Preserving the History of WW II in Asia)からも政治資金の提供を受けている。抗日連合会は1994年12月に結成され、幹部にはイグナシアス・ディンらがおり本部は米国カリフォルニア州クパナティノで、ホンダ議員の選挙区内である。その対日戦略の基本方針はアジアでの中国の覇権を確保するために日本の力を何があっても阻止するというもので、公式サイトでも「過去を忘却する民族がその過ちを今後繰り返すたびに、そのつど非難されねばならない」等と明記されている。同団体は1997年にアイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』の宣伝と販売促進、2005年には日本の国連安保理常任理事国入りに反対するために全世界で数千万人の署名を集めたり、日本国内でも憲法9条改正の阻止、従軍慰安婦問題・南京大虐殺・靖国神社問題などで戦争責任を繰り返し日本に叩きつけ、また米国をはじめとする世界各国での反日プロパガンダによって日米分断させ、日本の孤立化と弱体化をめざす。2002年2月には上海で中国政府が開催した「第2次世界大戦の補償問題に関する国際法律会議」にも参加しており、中国政府との連携も指摘されている。カナダでも抗日連合会支部が活動し、対日謝罪決議が採択された。また、下院決議採択直後の2007年8月末にはマイク・ホンダ議員が中国系アメリカ人ノーマン・スー(徐詠芫)から資金提供を受けていたことが発覚し、謝罪した。米国での採択を受けて挺対協は対日謝罪要求決議が各国でもなされるよう運動し、民団機関誌「民団新聞」も8月29日記事で日本への謝罪要求決議がアメリカに続けて世界各国で決議されるように活動することを呼びかけた。2007年9月20日にオーストラリア上院、11月20日にオランダ下院、11月28日にカナダ下院で対日謝罪決議が採択された。
世界抗日戦争史実維護連合会カナダ支部のロビー活動 / カナダの決議案では「日本政府は日本軍のための『慰安婦』の性的な奴隷化や人身売買は実在しなかったとするような主張は明確かつ公的に否定していくこと」と明記された。カナダで対日謝罪決議を推進したのは野党の新民主党の中国系女性議員オリビア・チョウ(鄒至)で、またカナダには世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会)の支部であるカナダALPHA(第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合)がロビー活動を持続的に行なっており2005年にはカナダの教科書に南京大虐殺がユダヤのホロコーストに並んで記載され、この対日決議案も推進した。カナダでの決議採択は2007年3月27日に国際人権小委員会で賛成4票、反対3票で可決、次にカナダ下院外交委員会で5月10日に審議されたがカナダ保守党議員らが「日本への内政干渉だ」「日本はすでに謝罪している」と反対、再調査として差し戻された。以降、カナダALPHAの活動は過激化し、カナダ全土の中国系住民をはじめ韓国系・日系住民を動員し、トロントALPHA、ブリティッシュコロンビアALPHAなどの組織を編成、セミナーやロビー活動を展開した。2007年10月4日から6日まで米国ロスアンジェルスで開催された世界抗日戦争史実維護連合会主催の日本糾弾国際会議でエニ・ファレオマバエンガ米国下院議員が「今後は女性の弾圧や人権の抑圧に関して、日本の慰安婦問題から次元を高めて、国際的な条約や協定の違反行為へと監視の視線を向けていくべきだ。日本ばかりを糾弾しても意味がない。日本にいまさら慰安婦問題などで賠償を払わせることはできない」と主張したが、カナダALPHA議長セルカ・リットは「日本国民の意識を高めるために日本政府を非難し続けることの方が必要」と反論、同会議の声明では日本のみを対象とした謝罪賠償が要求された。2007年12月13日にEUの欧州議会本会議でも対日謝罪決議が採択された。翌2008年3月11日にフィリピン下院外交委、10月27日に韓国国会は謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択、11月11日に台湾の立法院(国会)が日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択するなど、サンフランシスコ講和条約締結国を多く含む国から日本のみを対象とする決議が次々に出された。
これらの対日決議を採択した国には朝鮮戦争に国連軍として参加した国も含まれ、それらの国は戦時中に韓国の慰安所を利用していた。古森義久や渡部昇一は東京裁判やサンフランシスコ講和条約で日本軍の戦争責任や賠償は終わっており、講和条約以前のことを持ち出すことは国際法違反と批判している。
日本の地方自治体の意見書 / 「慰安婦」問題に対して日本政府が誠実な対応をするよう求めた意見書を2008年3月28日に兵庫県宝塚市議会が採択したのを始めとして2010年6月までに民主、公明、共産系が多数を占める25の市議会で採択、2009年に民主党が政権獲得後に増加し、東京の清瀬市・三鷹市・小金井市・国分寺市・国立市、千葉船橋市、大阪箕面市・泉南市、京都京田辺市・長岡京市、奈良生駒市、ほか札幌市、福岡市・田川市が採択した。また民主党は2009年、日本人女性を除く元日本軍慰安婦に対して新たな謝罪と補償と「戦時性的強制被害者」という新たな呼称を定めるための戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案を提出した。2009年8月には韓国江原道知事の招待でマイク・ホンダ米下院議員が訪韓し、江原大学名誉博士号を受けたり韓国のナヌムの家を訪れた。また韓国外務省はホンダ議員の対日行動に感謝の意を表明するとともにFTA批准の協力を求めた。日本国内では2010年頃より、在日特権を許さない市民の会や主権回復を目指す会などの「保守系住民団体」は、「日本軍の従軍慰安婦への謝罪と補償」を要求している団体と激しく対立している。
日韓外交交渉と韓国行政裁判所による判決(2009)
韓国による賠償請求に対して日本政府は、1965年の日韓基本条約と日韓請求権・経済協力協定締結で、1000億円以上を供与するとともに、日本と韓国及びその国民間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と条文に明記されており、また当時の韓国政府とともに確認したこと、従って法的に解決されたとの立場を再三言明している。
2005年1月17日、韓国で日韓会談についての資料が公開され、韓国政府が「日韓基本条約」締結の際に、国民の個人請求権の放棄を確認していたことが初めて公になった。しかし韓国政府側は、2005年8月に1965年当時に「結ばれた協定には反人道的違法行為は含まない」と発表した。
その後、2009年8月14日、ソウル行政裁判所は「1965年に締結された日韓請求権並びに経済協力協定により日本政府から無償で支給された3億ドル(1965年当時のレートで1080億円)で徴用者への未払い賃金への対日請求が完結しており、大韓民国外交通商部としては「すでに補償は解決済み」とした。1966年にも大韓民国大法院は慰安婦の損害賠償請求を不法行為に基づくものであるとして棄却している。
韓国外務省による再請求と韓国憲法裁判所判決(2011)
しかし、大韓民国外交通商部は2010年3月15日に、慰安婦については「1965年の対日請求の対象外」として「日本政府の法的責任を追及し、誠意ある措置を取るよう促している」と発表。同年3月17日、日本政府は改めて「日韓請求権並びに経済協力協定により、両国間における請求権は、完全かつ最終的に解決されている」とする見解を発表した。2010年4月28日、フィリピン最高裁は、フィリピン政府に日本政府への謝罪要求を支持するよう求める訴えを退けた。
2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは違憲」と判決。9月15日、韓国外交通商省の趙世暎東北アジア局長は「慰安婦と被爆者の賠償請求権が請求権協定により消滅したのかどうかを話し合うため、日韓請求権・経済協力協定第3条により両国間協議を開催することを希望する」という口上書を日本側に提出、9月24日のニューヨークでの日韓外相会談、10月6日のソウルでの日韓外相会談でも同様の要求をおこなう。しかし10月19日のソウルでの日韓首脳会談では、慰安婦問題は議題にならなかった。
韓国・アメリカにおける日本軍慰安婦記念碑設置運動
2009年頃より米国で「慰安婦記念碑」を「ユダヤ人虐殺記念碑」と同等とみなして全米各地で建立する運動が韓国系住民によって行われるようになった。韓国系住民が多く住むニュージャージー州バーゲン郡では11人の韓国系高校生が韓国系米国人有権者評議会(the Korean American Voters' Council)とともに、日本軍の被害者である朝鮮人をアイルランド人、アルメニア人、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人の苦難になぞらえて慰安婦記念碑の建設を進め、非韓国系住民をも説得して署名を集めた結果、バーゲン郡は図書館など公共施設の入り口への設置を許可した。2009年9月、米下院外交委員会は対日謝罪要求決議を国連でも採択するよう働きかけた。
パリセイズ・パーク市 / 韓国系アメリカ人が住民の52%を占め、またジェイソン・キム副市長や議長も韓国系であるニュージャージー州パリセイズ・パーク市において韓国系米国人有権者評議会らが2009年8月から慰安婦碑の設置を計画し、2010年10月に「日本軍によって20万人以上の女性と少女が拉致された」と記された碑が設置された。2012年5月に在ニューヨーク日本領事がパリセイズ・パーク市に対して、碑の撤去を求めたところ、市は撤去を拒否し、5月10日にはホワイトハウスでの市民請願運動が在米日本人を中心にはじめられた。5月15日に自民党の領土に関する特命委員会が同市を訪問し抗議を質疑を行った。キム副市長は「日本側の主張にこそ、根拠はない」と述べ、議長は韓国系住民が多い22のアメリカの自治体で同様の記念碑を設置する運動をこれから行っていくと述べた。自民党の古屋圭司議員は「根拠のないことが、なし崩し的に既成事実化されていきかねない」と述べた。また現地の日本系住民からは日本人学校の生徒が犯罪者の子孫であるとして人種差別的ないじめをうけていると報告された。同委員会は5月17日に日本政府に設置撤去と資料の公示を求めた。
ソウル市日本大使館前 / 2011年12月14日、ソウル市日本大使館前に、韓国挺身隊問題対策協議会が1992年より開催している抗議集会の開催1000回を記念し、旧日本軍慰安婦の少女をモチーフとした「平和の碑」が建立された。日本政府は抗議し建立中止を求めたが、韓国政府は日本側の要望を挺対協に伝達したものの工事を止めなかった。
戦争と女性の人権博物館 / 2012年5月5日、ソウル市西大門区に日本軍慰安婦問題について展示する戦争と女性の人権博物館が3億円(35億ウォン)をかけて建設され開館した。日本でも日本建設委員会が結成され、多数の運動家・運動団体や研究者が呼びかけ人となり、自治労、JR総連、NTT労働組合大阪支部などが寄付をした。
ニューヨーク / 2012年6月16日にはニューヨークのアイゼンハワー公園に「日本軍が性的奴隷にするため、20万人を超える少女らを強制動員した。日本軍が行った卑劣な犯罪は必ず認められるべきで、絶対に忘れられない」とする碑文が刻まれた慰安婦碑が韓国人の働きによって設置された。2012年6月21日には在米日本人によってホワイトハウスに真実に基づく行動をとるよう求める請願が出された。7月21日までにホワイトハウスのホームページ上で行えるネット署名が25,000名に達するとアメリカ政府から公式な回答がなされることとなっている。
その他の近年の動向
2012年8月14日には李明博大統領によって天皇に謝罪を求める発言が行れた(李明博による天皇謝罪要求)。
2013年1月16日、ニューヨーク州議会でトニー・アベラ上院議員らが「日本軍慰安婦は人道に対する罪で20世紀最大の人身売買」と断定し、日本に謝罪を求める決議案を提出、2013年1月29日に上院で採択された。 
朝鮮・韓国における公娼制と慰安婦 
朝鮮の公娼制
李氏朝鮮時代には妓生(きしょう、기생、キーセン)制度という公娼制が存在した。もとは高麗時代(918年-1392年)に中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になったとも、また李氏朝鮮後期の学者丁茶山(1762-1836)の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺(賤民)らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう。高麗時代の妓生は官妓(女官)として政府直属の掌学院に登録され、歌舞や医療などの技芸を担当したが、次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった。1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった。朝鮮末期には妓生、内人(宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた。性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた。妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢ぎ物として「輸出」されたり、また明や清の外交官に対しても供与されたり、ほか国境守備兵士の慰安婦として、六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣されたりした。
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札(営業許可証)の取得を義務づけた。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された。しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊郭が形成された。日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった。 1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった。同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した。 日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた。第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。1918年のソウル本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明のものや、13歳の少女などが検挙されている。1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった。
1930年代の植民地朝鮮における人身売買・誘拐
1930年代には10代の少女らが誘拐される事件が頻発し、中国などに養女などの名目で売却されていた。斡旋業者は恐喝を行ったり、また路上で誘拐して売却していた。朝鮮総督府警察はたびたびこうした業者を逮捕し、1939年には中国への養女供与を禁止している。当時の人身売買および少女誘拐事件については警察の発表などを受けて朝鮮の新聞東亜日報や毎日新報(毎日申報。現・ソウル新聞)、また時代日報、中外日報で報道されている。
1932年3月には、巡査出身の33歳の男が遊郭業者とともの少女を恐喝し、誘拐した容疑で検挙された(東亜日報)。
翌1933年5月5日の東亜日報には「民籍を偽造 醜業を強制 悪魔のような遊郭業者の所業 犯人逮捕へ」という見出しで、漢南楼の娼妓斡旋業者だった呉正渙が慶尚南道山清邑で16歳の少女を350円で買い、年齢詐称のため兄弟の戸籍で営業許可を取ろうとしていたこと警察の調べで発覚したと報道した。同1933年6月30日の東亜日報では、少女を路上で誘拐し中国に売却していた男がソウル市鐘路警察によって逮捕され、さらに誘拐された少女が35歳の干濱海に20ウォンで売却された後に殺害されたと報道。
1934年4月14日の東亜日報は、災害地で処女が誘拐されたと報道。同1934年7月17日には、養父から金弘植という業者に売却されたという11歳の少女が警察に保護されている。
1936年3月15日の東亜日報では「春窮を弄ぶ悪魔!農村に人肉商跳梁 就職を甘餌に処女等誘出 烏山でも一名が被捉。」との見出しで、ソウル近郊の農村烏山で「人肉商」(人身売買)業者が処女を誘拐していることが報道されている。
日本軍陸軍省による注意命令
このような人身売買・誘拐の頻発に対して日本軍陸軍省は1938年3月4日に軍慰安所従業婦等募集に関する件を発令し、女性を「不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの」「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる」などに注意をせよと命じている。日本軍のこの指令書は、朝日新聞1992年1月11日の記事などでは、日本軍が朝鮮の少女を強制連行した証拠として報道したが、水間政憲によれば、この指令書は当時の朝鮮社会における誘拐事件や人身売買の実態をふまえれば、悪徳業者を取り締まれと解釈するべきで、日本軍の関与は良識的な関与であったと指摘している。
1938年11月15日には、群山市の紹介業者・田斗漢が釜山で19歳と17歳の女性に対して満州での就職を斡旋するとして遊郭に売却する委任状を作成している時に逮捕されている。
1939年には河允明誘拐事件が発覚する。1939年3月5日の「毎日新報によれば、逮捕された売春斡旋業者の河允明夫婦は1932年頃から朝鮮の農地でいい仕事があるとして約150人の貧農を満州や中国に700円〜1000円で人身売買し、また京城の遊郭には約50人の女性を売却したところ、警察が捜査をはじめたので、それら女性を牡丹江や山東省に転売したことが発覚した。同年3月9日の東亜日報は18歳の女性が山東省の畓鏡慰安所に転売されたことが報道された。3月15日の東亜日報では「誘拐した百余の処女」「貞操を強制蹂躙」との見出しのもとに「処女」たちが河夫妻に多数誘拐されたと報道された。東亜日報は同年3月29日に社説で「誘引魔の跋扈」を掲載、このような悪質な業者が朝鮮で跋扈していることを批判した。雑誌「朝光」(朝鮮日報社刊)1939年5月号も河允明誘拐事件について「色魔誘拐魔 河允明」と題して、処女の貞操が蹂躙されたとして報道している。
また、河允明に続いて逮捕されたペ・シャンオンは1935年から1939年にかけて約100人の農村女性を北支と満州に、150余人を北支に売却していた。また下級役人が戸籍偽造に協力していた汚職も発覚した。
朝鮮総督府警察による中国への養育取引禁止 / 1939年5月には、朝鮮総督府警察が中国人による朝鮮人養女を引き取ったり、また養育することを禁止した。その後も同様の事件は頻発し、同1939年8月5日の東亜日報で「処女貿易」を行なっていた「誘引魔」が逮捕されたと報道、さらに同1939年8月31日の東亜日報では釜山の斡旋業者(特招会業者)による誘拐被害者の女性が100名を超えていたと報道された。なお、2007年時点で、植民地時代の朝鮮総督府警察の記録などは国立公文書館に移管されておらず、元自民党議員戸井田徹は情報公開法に基づいて移管し公開すべきと2007年4月25日の衆議院内閣委員会で政府に要請した。 
大韓民国軍慰安婦
第二次世界大戦後、朝鮮半島は1945年9月2日より連合軍の軍政下におかれた。1948年8月15日に大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が独立する。1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。この朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦として「特殊慰安隊」を募集している。また韓国はアメリカ合衆国との関係を緊密にし、朝鮮戦争やベトナム戦争では連合軍を形成した。そのため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍(UN軍)も利用した。本節では韓国軍慰安婦と韓国における米軍慰安婦についても扱う。
韓国軍慰安婦については1996年に韓国慶南大学教授の金貴玉が朝鮮戦争時に大韓民国陸軍が慰安婦を徴集していたことを明らかにしたが、韓国の学会や運動団体からは韓国軍慰安婦は公娼であるし、また「身内の恥をさらすもの」「日本の極右の弁明の材料となりうる」と警告し、韓国国防部所属資料室の慰安婦資料の閲覧は禁止された。その後、新証言なども出されて徐々に実態が明らかになってきている。
「特殊慰安隊」設置
韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている。朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった。さらに韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致と強姦により慰安婦をおいていた。
韓国軍は慰安婦を「特殊慰安隊」と名付け、慰安所を設置し、組織的体系的に慰安婦制度をつくった。尉官将校だった金喜午の証言では陸軍内部の文書では慰安婦は「第五種補給品」(軍補給品は4種までだった)と称されていた。金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、性的奴隷型、昼は下女として働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった。特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった。計画は陸軍本部恤兵監室が行い、1950年7月には韓国政府は軍作戦識見を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる。韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」されたという。
設置時期は1950年、韓国釜山に韓国軍慰安所、馬山に連合軍慰安所が設置され、1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される。
ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された。
第一小隊用慰安所 (現・ソウル市中区忠武路四街148)
第二小隊用慰安所 (現・ソウル特別市中区草洞105)
第三小隊用慰安所 (現・ソウル特別市城東区神堂洞236)
江陵市には、第一小隊用慰安所 (江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市、原州市、束草市などに慰安所が設置された。
慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで移送し、前線では米兵も利用した。
1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖された。金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている。
朝鮮戦争後も売春斡旋業者による少女誘拐事件が発生している。1956年4月には「売淫ブローカー」によって少女2名が誘拐。また同1956年7月11日の東亜日報は「田舎の処女誘引 売春窟に売った女人検挙」との見出しで、少女を誘拐し売春を強要した容疑で老婆が逮捕されたと報道している。
1959年10月には、慰安婦の66%が性病保菌であることが検査でわかった。1961年1月27日、東光劇場で伊淡支所主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、駐屯米軍第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った。同1961年、ソウル市社会局が「国連軍相手慰安婦性病管理士業界計画」を立案、9月13日には「UN軍相対慰安婦」(国連軍用慰安婦)の登録がソウル市警で開始された。
ベトナム戦争以降
ベトナム戦争では韓国軍兵士がベトナム人女性を多数強姦し、ライダイハン(𤳆大韓)という混血児が生まれた。韓国軍が制圧した地区で殺害されなかった女性は、ほとんど慰安婦にされたといわれる。
少なくとも1980年代までは韓国人女性達は、韓国政府やアメリカ人により在韓米軍相手の売春を強制されていた。韓国人女性達への強制が終わると、ロシア人女性やフィリピン人女性達が代わりとなった。朝鮮戦争時に設置された束草の慰安所は休戦後、私娼の集娼地が形成され、1990年代まで軍の慰安所として機能していた。 1990年代以降の韓国では、アメリカ軍基地の近くでフィリピン人女性達が、韓国人業者により売春を強制されている。1990年代中ごろから2002年までに5000人のロシア人やフィリピン人女性達が密入国させられた上で売春を強制させられていた。2000年代の韓国では、韓国軍相手の女性達の90%がロシア人やフィリピン人女性などの外国人であるとされている。2009年現在のアメリカ軍基地近接地で売春を強制させられている女性に占めるロシア人女性の比率は減少しているがフィリピン人女性の比率は増加している。なお、韓国では現在は売春は違法行為である。
2009年、韓国系アメリカ人の元慰安婦らが米軍と韓国政府に対して提訴した(在韓米軍慰安婦問題)。原告の慰安婦らは韓国政府は米軍のためのポン引きだったと批判している。
2012年9月にはソウル鍾岩警察署長として風俗街「ミアリテキサス」の取締りを行ったこともある漢南大学警察行政学科教授の金康子はテレビ朝鮮の番組で韓国では生計のために売春業を行う女性たちへの支援制度もなく、また警察力の限界もあるとして限定的な公娼制度を導入すべきと主張した。 
欧米慰安婦  
米軍慰安婦
アメリカ軍は1941年米陸軍サーキュラー170号規定において、「兵士と売春婦との接触はいかなる場合でも禁止」されたが、実際には買春は黙認されていた。米海軍の根拠地であるハワイでは「組織的売春(organized prostitution)」が設置され、登録売春宿(慰安所)が設置されていたとされる。1942年に昆明では、フライング・タイガースが性病感染で有名な売春宿のせいで「空軍の半数が飛べなかった」とのセオドア・ホワイトの証言がある。1943年夏のシシリー島占領後は、ドイツ・イタリア軍の慰安所を居抜きで利用している。しかし慰安所について米国国内で論争が発生し、1944年9月には、売春宿(慰安所)の廃止が決定され、1945年4月24日付で「海軍作戦方面における売春について」との通達が米国陸軍高級副官名で出され、同年9月1日に発令された。
第二次世界大戦後 / 日本政府は1945年に日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性に性に飢えたアメリカ軍の慰安婦となることを要請し55,000人を提供した。1945年12月時点で在日連合軍は43万287人駐屯していた。占領軍の性対策については警視庁が8月15日の敗戦直後から検討し、8月22日には連合軍の新聞記者から「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が入った。また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった。
8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視庁総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画し、翌日の8月18日には橋下政実内務省警保局長による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」との通達が出された。早川紀代によれば、当時の慰安所は東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置された。また右翼団体の国粋同盟(総裁笹川良一)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を9月18日に開業している。こうした慰安所は公式には特殊慰安施設協会と称され、英語ではRecreation and Amusement Association (レクリエーション及び娯楽協会,RAA)と表された。
1951年9月8日に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し、関係諸国との2国間条約を締結し請求権問題を解決した。
インド駐留イギリス軍慰安婦
1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた。売春婦登録簿は1888年まで記録されている。
第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹のカルカッタでの目撃証言では、6尺の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで見られたという。性病感染率の記録からは、ビルマ戦戦では6人に1人が性病に罹っていた。また、日本軍の慰安所を居抜きで使用したともいわれる。
イギリス軍の捕虜になった会田雄次は、英軍中尉がビルマ人慰安婦を何人も部屋に集めて、「全裸にしてながめたり、さすったり、ちょっとここでは書きにくいいろいろの動作をさせて」楽しんでいたという。
ドイツ軍慰安婦
ドイツ軍は日本軍と非常に類似した国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し500箇所あった。ドイツ政府は「人道に対する罪に時効はない」と宣言し、様々な戦後補償を行なっているが、当時のドイツ軍による管理売春・慰安所・慰安婦問題はそうした補償の対象とはされてこなかった。しかし、日本軍慰安婦問題がきっかけとなり、検討されるようになった。また秦郁彦が1992年に日本の雑誌『諸君!』で紹介したフランツ・ザイトラー『売春・同性愛・自己毀損  ドイツ衛生指導の諸問題1939-1945』はドイツでも知られていなかったため、当時来日していたドイツ人の運動家モニカ・ビンゲンはドイツに帰国してこの問題に取り組むと語った。
ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は、軍人の健康を守るために、街娼を禁止し、売春宿(Bordell)は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した。入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった。なお、ソ連のスターリンは売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる。
2005年1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春(Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution)」では、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはポーランドやウクライナの女学校の生徒を連行し、慰安婦にしたことを報じた。
フランス軍慰安婦
フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦・第二次世界大戦・インドシナ戦争、アルジェリア戦争の際に存在した。移動慰安所はモロッコで成立したといわれ、ほかアルジェリア、チュニジアにも存在した。慰安婦には北アフリカ出身者が多かった。現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた。秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している。 
「慰安婦」呼称  
第二次世界大戦当時の日本軍慰安婦の呼称
当時女性達は、「慰安婦(위안부)」という呼称が用いられていた。当時の文献によると、「慰安婦」という呼称のほかに「(料理店の店員を名目として)酌婦」「(慰安所)従業婦」「(慰安所)稼業婦」「醜業婦(売春婦)」などという呼称が存在していた。
また現地の軍人は、慰安婦のことを「ピー」、慰安所のことを「ピー屋」(prostitute 娼婦の頭文字)と呼んでいたとも言われている。慰安所に限らないが「娘子軍(=からゆき=海外出稼ぎ娼婦)」という言い方も多い。また、海軍では「特要員」の名の下に戦地に送られたとも言われている。
「従軍慰安婦」という呼称
「従軍慰安婦」という言葉は戦時存在せず、1970年代に千田夏光によって造語された呼称である。
もっとも、女性を慰安婦にするため戦地に強制連行したという主張がなされ社会問題となった1980年代から1990年代にこの呼称が浸透し、旧日本軍の慰安婦は「従軍慰安婦」と呼ばれることが多かった。
これに対し、“従軍”という言葉を巡り、慰安婦は旧日本軍による強制ではなかったとする立場から「旧日本軍が強制連行した証拠はない」、「当時、『従軍慰安婦』という言葉はなく、『慰安婦』と呼ばれていた」という主張や、また強制であったとする立場においても、女性団体などから「従軍という言葉は自発的なニュアンスを感じさせる」との批判や抗議などがなされたため、近年のマスメディアによる報道では概ね「慰安婦」という呼称が用いられるようになっている。
しかし、現在でも一部に「従軍慰安婦」という呼称が用いられる例がある。2009年7月10日、埼玉県平和資料館で在日本大韓民国民団が歴史年表の「従軍慰安婦」から「従軍」の2文字が削除されたことについて復元するよう抗議を行った。また、NHKのように、冒頭にのみ「いわゆる」をつけることで、「従軍慰安婦」を使い続ける方針を貫いているメディアもある。
旧日本軍による強制でなかったとする立場からは、「『従軍』という言葉は、軍属という正式な身分を示す言葉であり、軍から給与を支給されていた」から、慰安婦に使う用語ではないという主張もあった。これは、従軍看護婦、従軍記者、従軍僧侶などと慰安婦を「同列」に扱うことを非難する意味もあった。千田は、従軍看護婦の主力は「日本赤十字社救護看護婦」で、給与は日本赤十字社から出されていたこと。戦後の軍人恩給で、ごく一部の婦長を除き、軍属ではないとして恩給の対象から外されたことなどの例を挙げ、「従軍とは軍隊に従って戦地に行くことであり、それ以上の意味もそれ以下の意味もない」と反論した。
日本でのその他の呼称
慰安婦制度を批判する側では、「慰安婦」という言葉が実態を反映していないとして、「日本軍性奴隷」という用語を使用したり、慰安婦を括弧付きで使用している例もある。また、金銭授受が明確にあった事から「追軍売春婦」とも呼ばれる。
日本では2000年代から民主党などによって日本軍慰安婦(日本人女性のみ除外)は「戦時性的強制被害者」という新たな名称で呼ばれており、民主党などが提出する「元日本軍慰安婦とされる人々へ新たな謝罪と賠償を行う」とする法案名は「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」とされている。
韓国における日本軍慰安婦の呼称 / 「挺身隊」と「慰安婦」の混同
慰安婦問題が社会的問題として表面化した1990年代初めでも、一般民衆は「挺身隊」を軍隊慰安婦の同義語として認識していた。朝鮮半島における「挺身隊」とは、 日中戦争の頃、男女問わず「自ら身を投げ出して進めること」 という意味で1940年から使用されていた。朝鮮(韓国)では、未婚女性を挺身隊として勤労動員することは、「処女供出」とも呼ばれた。朝鮮語の「処女」とは未婚女性や若い女性を指す総称である。。
韓国では、国連軍相手の慰安婦が韓国警察や韓国公務員により挺身隊とも呼ばれていたこともあり、日本軍を対象とした慰安婦問題が起こった当初から、「女子挺身隊」との混同から呼ばれてきた「挺身隊(정신대)」という呼称が一般に定着している。
そのほか、日本軍のみを対象とした慰安婦問題の代表的団体である「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」は「従軍慰安婦という言葉は正しい表現ではない」とし、「日本軍慰安婦」と呼んでいる。
韓国軍慰安婦と朝鮮戦争時における米軍・国連軍慰安婦の呼称
韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、朝鮮戦争中は「特殊慰安隊」または「第5種補給品」とも呼ばれていた。なおこの「特別挺身隊」という呼称は、日本軍の慰安婦問題における慰安婦と女子挺身隊混同の一因とは見られていない。
朝鮮戦争後は「アメリカ軍慰安婦(美軍慰安婦)」「国連軍相対慰安婦(UN軍相對慰安婦)」「洋パン(ヤン・セクシ)」「洋姫(양공주)」「挺身隊(정신대)」とも呼ばれていた。
1966年の大韓民国大法院の判決文によれば、慰安婦とは「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性を指すもの」としている。
ベトナム戦争時は「ディズニーランド」とも呼ばれた。
現在の韓国では韓国軍の慰安婦の存在を当時と同様に認める報道もなされているが、最大発行部数を誇る朝鮮日報は従軍慰安婦は日本軍の性奴隷であるが、韓国軍慰安婦の存在については歪曲であると主張している。
英語圏での呼称
英語圏では、「慰安婦」を直訳したComfort Womanという呼称が用いられている場合が一般的である。
しかし、慰安婦制度を人権問題や戦争責任問題などとして告発する立場などにおいては、性奴隷の訳語に当たるSex Slaveという表現を使う場合もある(『ジャパンタイムズ』など)。
『ニューヨーク・タイムズ』は日本軍相手の女性達を性奴隷もしくは慰安婦と呼称しているが、アメリカ軍相手の女性達については日本軍の慰安婦とは異なるとして売春婦と呼称している。一方、アメリカ軍や韓国軍などを相手とした女性達への当時の韓国政府や韓国報道機関による公式呼称は慰安婦である。
国連などでの呼称
国連の委託によるクマラスワミ報告(1996年)では日本軍慰安婦制度(公娼制度)を「軍性奴隷制(military sexual slavery)」また「性奴隷制」と明記され、マクドゥーガル報告書(1998年)では慰安所をレイプ・センター (rape centres)と表現し、「性奴隷制」としている。こうした「性奴隷」という用語が国連で使用されるようになった経緯について日本弁護士連合会(日弁連)会長(当時)土屋公献は、1992年から日弁連は国連において慰安婦補償を要求するなかで「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 として扱うように働きかけたと語っている。その結果、1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用されたという。日弁連会長鬼追明夫は「軍事的性的奴隷」とも表現している。
なお日本政府は、マクドゥーガル報告書はゲイ・マクドゥーガル個人報告書にすぎず、受け入れられないと回答した。慰安婦問題を国連で扱うように活動してきた日弁連海外調査特別委員の戸塚悦郎弁護士は、国連小委員会による日本政府への勧告にはいたらなかったことを失望し、ロビー活動の不足を訴えた。のちに戸塚弁護士らの政治的活動は日弁連内部から目的外・職務外行為であるとして批判され、戸塚弁護士は1998年には解嘱されている。 
「慰安婦」数 
日本軍慰安婦
日本における調査研究
日本政府・アジア女性基金調査では、慰安所および慰安婦が存在したことは認められるものの、慰安婦の総数は不明とした。また、マクドゥーガル報告書における女性20万以上という数値の根拠には「1975年(原文ママ。1965年の間違い)」の自民党議員荒舩清十郎による「14万2000人」があげられているが、荒船議員が1965年11月20日に選挙区の集会(秩父郡市軍恩連盟招待会)で行った発言における数値については荒船議員が勝手にならべたものであり、これが根拠とされることは遺憾と明記している。
慰安婦の民族別内訳は、日本政府の調査においては、慰安婦には日本人、朝鮮人、台湾人、中国人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人がいた。吉見義明らは戦時中の軍部による日本兵士性病感染調査の研究から、慰安婦で最も多いのは朝鮮人であり次いで中国人が多かったとしている。他方、慰安婦の出身者は日本人が多かったともいわれ、秦郁彦は、日本国内の遊郭などから応募した者が40%程度、現地で応募した者が30%。朝鮮人が20%、中国人が10%程度としている。しかし、正確な内訳を把握することは困難である。
なお、慰安所は1942年9月3日の陸軍省人事局恩賞課長の報告(「金原日誌」)によれば400箇所が設営された(地域別の内訳は北支100、中支140、南支40、南方100、南海(南西太平洋)10、樺太10)。しかしこの報告書で言及された施設のすべてが慰安所であったかどうかは不明であり、新設計画を含めたものかどうかも不明である。
慰安婦の総数の計算法には、日本軍総数をパラメータ(母数)とした慰安婦数の推算方法があり、交代率なども考慮されるが、いずれも各研究者によって異なる。 日本大学教授秦郁彦は慰安婦総数を約2万人と推定している)。
中央大学教授吉見義明は、総数を4万5000人と推算(1995年)。
民主党は8 - 20万人としている。
その他、『マンガ嫌韓流』の著者山野車輪等は、総数を4000人程度であり、また彼女らの中には、現在での何億円にもあたる報酬を受け取っているとした。
なお、外地の日本軍・軍属の総数は、満州(40 - 66万人)を別として、太平洋〜ビルマ(現:ミャンマー)に展開した時期で140 - 150万人、「大陸打通作戦」の末期においては280万人程度とされている。
また当時の朝鮮半島の総人口は約2500万人前後で、20歳前後の女性は約280万人とも推算される。日本の女子挺身隊の結成率は1944年5月では7%で、内地の公娼は、第二次上海事変以前の1937年の21万をピークに太平洋戦争初期の1942年には14.5万人に減少するのに対し、中国本土の日本人娼婦は1935年よりも1940年時点では約1.2万人増加している。
また、朝鮮での公娼の総数は1930年代から1942年までは日本人を含めて約1万人である。
韓国における日本軍慰安婦についての諸説
韓国政府認定の元日本軍慰安婦はすでに亡くなったものを合わせて、2004年には207人、2005年には計215人で、内88人が死亡したとし、2009年と2011年には合計234人としている。
韓国国定教科書では朝鮮女性数十万人を慰安婦にし、650万人を強制連行したと記載しているが、学術的な根拠は不明。
李榮薫ソウル大学教授は、1937年に日本軍首脳は兵士150人につき1名の慰安婦を充当せよという指令を出したとしている。
中央日報は2009年、名前は明らかにしないが歴史学者たちによると20万人以上としている。
北朝鮮の見解 北朝鮮は2005年4月に国連代表部金永好書記官がジュネーヴ国連人権委員会で、朝鮮人慰安婦の総数は20万人、強制連行された人数は840万人だと主張している。
中国における日本軍慰安婦についての諸説
上海師範大学「中国慰安婦問題研究中心」所長の蘇智良は1999年、荒船清十郎発言(14万2000人説)に依拠し、慰安婦総数は36万から41万で、このうち中国人慰安婦は20万と推算。日本政府・アジア女性基金はこの推算について、根拠が荒船発言という個人の見解に基づくものであり、誤導された推論として批判している。なお、蘇は1996年の計算では中国天津慰安所研究により、慰安婦総数を40万人、朝鮮人慰安婦20万人、中国人と日本人の慰安婦が各10万ずつとしていた。
その後2005年6月に蘇智良は『上海日軍慰安所実録』を刊行し、上海市内に慰安所が149あり、最初の日本軍慰安婦施設である「大一沙龍(サロン)」が設置されたとしたうえで、中国慰安婦記念館の設立を訴えた。この訴えに応じて2007年7月5日、世界で三番目の慰安婦記念館となる中国慰安婦記念館が開館した。
アメリカ合衆国における日本軍慰安婦についての諸説
ニューヨークタイムズ記者ノリミツ・オオニシは名前は明らかにしないが日本人歴史学者達によると日本軍慰安婦は最大20万人であるとしている。慰安婦のほとんどが家庭から拉致され最前線に連行された10代の朝鮮女性であるとしており、アメリカ軍の場合とはこの点で大きく異なるものであるとしている。
アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、最大で30万人もの14-20歳の女性たちを強制的に徴集して性行為を強要したとしている。さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている。この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている。退役軍人を顕彰するアイゼンハワー公園は強制動員された20万人超の少女達としている。
日本軍慰安婦の総数についての経緯と諸説
1969年、韓国の日刊紙が挺身隊動員を受けた女性が20万人、その内、朝鮮人が5 - 7万と報じる。
ソウル新聞報道と千田夏光による「20万」数値の解釈
1970年8月14日、ソウル新聞が「1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5〜7万人と推算されている」と報道する。しかしアジア女性基金運営審議委員高崎宗司によれば、このソウル新聞記事における「5〜7万」の推算の根拠は不明である。さらに、金英達と高崎宗司の研究によれば、このソウル新聞の記事が作家の千田夏光による1973年の著作『従軍慰安婦』で「『挺身隊』の名の元に彼女らは集められた」「総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち、『慰安婦』にさせられたのは5万人ないし7万人とされている」と誤読されたうえで典拠とされたとしている。この千田夏光による言及が、慰安婦と挺身隊との混同の始まりとされる。
1984年に元『東亜日報』編集局長の宋建鎬が発表した『日帝支配下の韓国現代史』における「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5 - 7万人が慰安婦として充員された」と述べる(1969年の報道記録からと見られるという)。これについては李栄薫ソウル大学教授は過度の誇張として批判した。また、この数値は、千田夏光がソウル新聞を誤読したうえで発表した数値と同一である。
1993年、「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星 (チョン・ジンソン)ソウル大学教授は「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」としたが、独自根拠不明、詐欺を強制に含めている。
1995年、中央大学教授吉見義明は『従軍慰安婦』(岩波新書)において慰安婦数を4万5000人と推算。
マクドゥーガル報告書と荒船発言
1998年、国連に提出の「マクドゥーガル報告書」の附属文書で、慰安婦総数は「20万人以上」としたが、この報告書の根拠とされたのが、「1975年の荒舩清十郎議員による声明」であった。この「声明」について日本側のアジア女性基金の調査では、同年に該当する声明は存在しないが、おそらくは1965年(昭和40年)11月20日に自民党の荒舩清十郎議員が1965年11月20日に選挙区の集会(秩父郡市軍恩連盟招待会)で行った発言を指すのではないかとした。荒舩議員は当時の日韓基本条約に関する交渉の経緯を説明するなかで「徴用工に戦争中連れて来て成績がよいので兵隊にして使ったが、この人の中で57万6000人死んでいる。それから朝鮮の慰安婦が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万人も犠牲者になっているが何とか恩給でも出してくれと言ってきた。最初これらの賠償として50億ドルと言って来たが、だんだんまけさせて今では3億ドルにまけて手を打とうと言ってきた」と発言した。これについてアジア女性基金は、日韓条約締結時に韓国側は、韓国人労務者、軍人軍属の合計は103万2684人であり、うち負傷ないし死亡したのは10万2603人だと指摘し、慰安婦については全く言及しておらず、また荒船発言の数字はすべて「荒船氏が勝手にならべた数字」としたうえで、このような個人の見解に依拠して国連の委嘱を受けた報告者が作成されたことを残念として、批判している。(なお荒舩清十郎代議士は放言と地元への利益誘導で有名)。 
韓国軍・アメリカ軍慰安婦
1945年の日本占領当時は日本女性55,000人であった。
韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』によると韓国軍慰安婦は1952年における4小隊に限ったケースだけでも89人の慰安婦が204,560回の行為を行わされていたとされる。総数は不明である。
1955年のソウル市警察局によると米軍相手の性売買女性は61,833名であった。
1962年の韓国ではアメリカ兵相手の慰安婦として2万名以上が登録されていた。
ベトナム戦争末期にはベトナムでは30万人から50万人であった。アメリカ陸軍第1師団第3旅団(将兵4000名)ではベトナム女性60人が住み込みで相手した。
1980年代までに100万人超の韓国女性が米軍の相手をした。 
慰安所 
日本政府調査によれば、日本軍慰安所は、日本(別の資料からであるが、沖縄)、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(現:マレーシア)、タイ、ビルマ(現:ミャンマー)、ニューギニア(当時)、香港、マカオ及びフランス領インドシナ(当時)に設置されたことが確認されている。また、労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のためにも事業場慰安所が設立された。
敗戦後、日本の各地に米兵対象の慰安所が設置された。
1946年2月14日、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が南朝鮮(現韓国)での公娼制を廃止。
1950年、韓国釜山に軍慰安所の設置、馬山に連合軍の慰安所の設置がされる。
1951年、釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所の設置が許可される。韓国軍慰安所が設置される(特殊慰安隊)。
朝鮮戦争中には韓国にも設置されたことが韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に以下のように記録されている。
士気昂揚はもちろん、戦争という事実に伴う避けることの出来ない弊害を未然に防ぐことができるだけでなく、長時間にわたる報われない戦闘によって後方との行き来が絶えているため、この性に対する思いから起こる生理作用による性格の変化などによって鬱病、その他の支障を招くことを予防するために、本特殊慰安隊を設置させた。
陸軍本部軍事監室「後方戦史(人事編)」1956年、148頁
1966年までに、ベトナムに進駐しているアメリカ軍の師団キャンプごとに設置される。 
慰安婦の募集方法
1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。これらの募集の待遇が非常に好条件であることから、慰安婦が強制連行され、悲惨な生活を強いられたとする主張に疑問を投げかけられており、連絡先に朝鮮人らしき名前も見られることから、朝鮮人自体も慰安婦募集に関わっていたことが指摘されている。
1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」においては、「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとしたものであることが1997年の国会での政府答弁や河野洋平元官房長官、や石原信雄元官房副長官などによって明らかにされている。
慰安婦問題の研究者秦郁彦は(女衒と呼ばれる)ブローカーが親または本人と話し合い、慰安所の業者に送ったのであり、業者は日本人と朝鮮人が半々だが、ブローカーは100パーセント朝鮮人だと語っている。
海軍省の潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている。
1961年9月14日付け東亜日報には、13日から国連軍相手の慰安婦登録実施と記載されている。 
現地への輸送
日本軍慰安婦 旧日本軍は、業者が慰安婦らを船舶等で現地に送るに際には、彼女らを特別に軍属に準じた取扱いにし、渡航申請に許可を与え、日本政府が身分証明書等の発給を行ったりした。軍の船舶や車両によって戦地に運ばれたケースも少なからずあり、現地に置き去りにされた事例もあったという。1962年の国会において、厚生省(現:厚生労働省)は「慰安婦は、軍属にはなっていないが、敵襲を受けるなどの部隊の遭遇戦で亡くなった場合は戦闘参加者として準軍属の扱いをしているはず」と答弁している。
吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあった。
韓国軍慰安婦 朝鮮戦争中に韓国では、ドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで前線を移動して回っていた。 
慰安所の管理・運営
日本国
太平洋戦争の生き残りの兵士として有名になった小野田寛郎は1940年前後に、商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島では悪徳詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという。中国江西省南昌の「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業しており、軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒するため、鉄帽を被り、銃と剣を携えた歩哨らが、慰安所の内部まで巡察し、利用者数の記録を確認したという。
安秉直ソウル大学教授によると営業者の半数が朝鮮人であるとしている。
陸軍経理学校では慰安所の経営についても講義があったといわれ、陸軍経理学校を卒業した鹿内信隆は「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、持ち時間 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑) 。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。」と述べている。
韓国
朝鮮戦争の時代には大韓民国政府も、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した。韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた。部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した。韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用したといわれる。
朴正煕政権(1963年 - 1979年)
1953年に朝鮮戦争が停戦して以後も慰安所は存続し、1961年1月31日の東亜日報では、慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われたことを報じている。朴正煕政権は性病を規制をする目的として、慰安婦を自治会に所属させ、身元などを正確に把握させた上で相互監視を行わせる教育と管理システムを運営し、自治会長は韓国警察や韓国公務員によって選定されていた。1970年代初、アメリカ軍は韓国政府に基地村浄化事業を行うよう要求した。1971年8月、吴致成内務長官が各警察署に保健当局と協力して慰安婦の性病予防策を講じ教養を強化するように命令した。
モンキーハウス
慰安婦たちの写真や個人情報などはアメリカ軍も管理しており、韓国におけるアメリカ軍相手の慰安婦は性病の疑いをもたれると韓国警察によりモンキーハウスと呼ばれる窓に柵のされた施設に留置され強制的に薬を完治するまで飲まされることとなっていた。また、性病に罹患した女性達は治るまでの間は強制的に拘置所に隔離されていたと在韓米軍の性病報告に記録されている。また、病気ではないと証明された場合には犬のようにタグを付けることを強制された。
韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は容易に行為の相手から見分けがつき易いように番号札をつけることを強制されていた。
韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は韓国政府から特別な講義をしばしば受け、「真の愛国者」や「ドルを稼ぐ妖精」と称賛されていた。また、韓国政府は女性達に韓国を助けるために来た兵士達が満足するように清潔にしなさいと指導した。
全斗煥政権(1980年 - 1988年) 全斗煥大統領による基地コミュニティー浄化キャンペーンが実施されると売春婦とアメリカ兵との関係の発展を目指して、エチケット講義が行われるとともに頻繁に薬物療法が行われるようになった。医師免許を持たない医者達の前で脚を広げることを強制され、抗生物質を打たれて死にいたる女性もいた。女性達が逆らうと医者達に暴力を振るわれて監禁されることとなっていた。
在韓米軍慰安婦問題 米兵との性的行為を1960年代から1980年代にわたり強制されたとして、当時の韓国政府指導者・韓国政府・米軍を、韓国の元慰安婦のグループが、アメリカの裁判所に告発、損害賠償を求める訴訟を起こした。 
慰安婦の生活状況
日本軍慰安婦 慰安婦を求める兵士の数と比較して、慰安婦の数は不足気味であった。東京のある慰安所では和服女性150人をそろえてアメリカ兵を受け入れると初日に47人もの相手をした女性もいた。日本軍の元慰安婦らの証言によれば、戦況次第では一日に十人以上の兵士との性行為に従事する場合も少なくなかった。そのような場合に慰安婦に拒否する自由はほとんど与えられておらず、体調にかかわらず兵士の相手をしなければならなかった。吉見義明は、慰安婦の状況を「1日数10人などの肉体的に過酷な条件のため、陰部が腫れ上がり、針も通らないようになった」事がたびたび(年数回)あったと書いている。
慰安婦との性行為の際には、主として軍が作成した慰安所規程において、避妊具(当時は、「サック」と呼ばれた)の使用が義務づけられていた。ただし、元慰安婦らの中には、慰安所での性行為によって妊娠したと訴えている者も存在する。
慰安婦の多くは故郷から戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが、多くの場合、軍機密や安全等の必要から制限を課されていた。しかし、ビルマ中部のマンダレーでは経営者の許可証があれば外出でき、セレベス島では原住民慰安婦ばかりで外出自由であったという。また、自らだけの意思で慰安婦を辞めることは事実上不可能であり、辞めることを許されたのは、妊娠後期になったり、精神的疾病を発症して、慰安婦としての任務を遂行できなくなった場合に限られていたのがほとんどであったとの報告もあるが、米軍情報部の日本人の慰安所経営者及び慰安婦からの聴き取り調査によれば、北ビルマ(現:ミャンマー)のミートキーナー(ミチナ、Myitkyina)の慰安婦らは、1943年後半、陸軍は借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は韓国へ帰国することをゆるされたという。そこでは個室を与えられており、接客を断る自由もあり、週一日は検診のため休日であり、生活はかなり豊かで町へ買い物に行くこともゆるされ、娯楽やスポーツやパーティを楽しんだりしたという。もっとも反論もあり、他に慰安婦の待遇が良かったという実例記録は見当たらず、これをもって全慰安婦らの生活がすべて良好であったという証拠にはならないという指摘もある(後記)。実際の慰安所での待遇は、各地域と戦況さらに部隊の質によって千差万別であったと推測されている。
1938年から終戦まで七年間の中国北部で兵士を務め、戦後作家になった伊藤桂一は慰安婦達の相談係りのような役目もしたといい、自身が見た慰安婦については「借金を返済し、結婚資金を貯え、結婚の際の家具衣装箱も充分用意していた。」として生活は「かなり恵まれていた」と述べている。
日本軍慰安婦の契約期間は通常2年間であった。ただし、船便が途絶える場合などもあり、相当の数の慰安婦は2年間というわけには行かなかった。
韓国軍・米軍慰安婦 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は自殺や中毒により亡くなることもあった。1957年7月21日付け東亜日報で、アメリカ軍慰安婦がわが身を悲観して自殺したと報道される。1959年7月30日付け東亜日報で、慰安婦が悲觀自殺したと報道される。
1959年9月の韓国保健社会省の性病保菌実態の報告では、接待婦の15.6%、私娼の11.7%、慰安婦の4.5%、ダンサーの4.4%が罹患していた。
1959年10月18日付け東亜日報で、慰安婦の66%が保菌者であると報道される。 
報酬
日本軍慰安婦
日本軍慰安婦への報酬についても争点となっている。報酬を得ていたことを示すものとしては以下のものがある。
当時の新聞『京城日報』1944年7月26日の慰安婦募集広告では「月収300円以上、前借金3000円可」と記されていた。なおからゆきさんの場合、女衒は、前金300円で、3年後渡航費用と食事代と利息で2,000円になると称していたいたといわれる。
大韓民国大法院は1964年当時に慰安婦として働いていた女性が月5,000大韓民国ウォンの収入を得ていたことを判決文に明記している。
李榮薫ソウル大学教授によれば、日本軍相手の慰安婦の利用料金は兵士と将校には区別があったが、兵士はおおむね1円から2円であった。当時の兵士の月給は7円から10円であった。売上金はおおむね慰安婦と業者間で折半されたが、業者に負った前借金が多すぎたり、悪徳業者に出会った場合は、首尾よく金を稼ぐことができない場合もあったとしている。
元慰安婦の文玉珠は、1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが、日韓基本条約に付随する日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとされ敗訴した。裁判で明らかにされたところによると、26,245円の貯金から5,000円を朝鮮の実家に送っていたという。この元慰安婦自身の体験記によれば「千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えた」という。上野千鶴子の慰安婦裁判の取材によれば、郵便預金返還訴訟を起こした文玉珠の貯金は、性交労働の代償ではなく、軍人からのお駄賃をため込んだものであるという。
中国漢口の日本人女性130名と朝鮮人女性150名が在籍していた慰安所では、慶子という名前の朝鮮人慰安婦おり、すでに3万円を貯めたが5万円になったら京城(ソウル)で小料理屋をもつことを夢見ているとの彼女の話が司令官に伝わり「なんとたいしたオナゴであるか」として表彰されたとされている。
当時の物価
当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった。1943年7月時点では二等兵の月給は7円50銭、軍曹が23〜30円で、戦地手当を含めてもそれらの倍額で、慰安婦の収入の10分の1または100分の1であった。中将の年俸は5800円程度であった。当時の貨幣価値を企業物価指数で計算すると1931年時点での100円は現在に換算すると88万8903円、1939年では45万3547円、 1942年では34万7751円となり、3万円の貯金とは現在での約1億3606万円となる。なお平安北道出身の朴一石(パク・イルソク)が経営していた慰安所「カフェ・アジア」は1937年で資本金2000円で開業し、1940年には資本金6万円となっていた。
米軍作成の日本人慰安所経営者及び慰安婦に対する尋問レポートによれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは売り上げの半分を報酬としてもらい、稼ぎは月に1000 - 2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もいる。兵士の月給は15円 - 25円。
フィリピンのマニラの慰安所を利用した日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録によると、慰安婦は通常、スペイン人とフィリピン人の混血であり、利用料金は10円ないし20円……日本人及び朝鮮人女性については2円ないし3円であった」という。
中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳を調べたら、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だったといい、ある内地人(日本人)の慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語っていたという。慰安所の料金は女性の出身地によって上中下にランク分けされており、兵士の方は、階級が上であるほど、利用できる時間は長くなり、料金は割高になっていたという。
吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由でラバウルで慰安婦となったといい「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している。
スマラン事件(白馬事件)のBC級裁判の判決文が引用した証人・被害者に対する警察の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由な時間を得ることができたことを報告している。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦自身が証言している。
からゆきとの労働条件比較
からゆきさんとして有名な北川サキは10歳で売られ、前借りは300円だった。しかし、渡航費用と食事代と利息で2,000円になるとされる。大正中期から昭和前期のボルネオでは、一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せた」 といい、それは最少で月110人に相当する。(なお、フィリピン政府衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)料金は泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと思われる)。港に船が入ったときは娼館は満員となり、一晩に30人の客を取った時もあった。現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、休みたくても休みはなかったという。日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった。 日本の大正中期から昭和の第二次大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったといわれる。
しかし、報酬を得ていた事を認めるとしても、次のような批判がある。
吉見義明や尹明淑によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は、慰安婦の直接の雇用主である業者が、慰安婦から「前借金」「衣装代」「食料代」等の名目で給与を天引きしており、慰安婦の手元に渡された給料はほんのわずかというケースが少なくなかった。李榮薫はこうした業者は女衒であったとしている。秦郁彦も業者が慰安婦に支払わなかったことや楼主の不払いについて指摘している。
慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票という政府紙幣の一種によってなされていた。戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落しており、慰安婦が受け取る軍票の額面は膨れあがったケースがあった。吉見義明は、「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している。また、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同然となり、払戻しを受けられなくなったケースもあった。
韓国軍・米軍慰安婦
1962年の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた。
ベトナム戦争時のベトナムでは、料金は500ピアストル(2ドル)で、女性の手取りは200ピアストル(0.8ドル)で、残りは業者のものとなった。
連合国軍占領下の日本では、料金は8セント(0.08ドル)で1日に47人のアメリカ人の相手をした女性の手取りは2ドルであった。 
兵士との関係
日本軍慰安婦
熊本県の活動家田中信幸は、日本陸軍第6師団の分隊長であった父親が、慰安所に行くことを「楽しい外出」、日本人・朝鮮人・中国人女性を慰安婦として扱うことを「日本、中国、朝鮮を征伐する」と日記に記していたことを、韓国挺身隊問題対策協議会に報告した。
近衛師団通信隊員総山孝雄によれば、シンガポール陥落の時、イギリス兵相手だった売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、予想もしない人数を処理するという彼女らには未経験の種類の過酷な労働だったので、一人が4、5人目でもうできないと言い出し、当番兵が打ち切りを宣言したところ、戦闘が終わった後で列を成して待っていた兵士達が騒ぎだし、怯えた当番兵は、ベッドに縛り付けてそのまま兵士の相手をさせようとしたこともあったという(その次の順番に当たって中に入った兵士(目撃者)が驚いて逃げ帰ったので、その後の情報はない)。
元兵士の伊藤桂一は慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している。
吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている。
北ビルマのミートキーナーの慰安所においては、日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚したものがいることが報告されている。このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある。
韓国軍・米軍慰安婦
韓国におけるアメリカ軍への売春を強制されていた女性達はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった。 
日本軍慰安婦問題の論点  
韓国における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言
当時の日本で使用された「挺身隊」と「慰安婦」のことばはそれぞれ、まったく異なるものである。「挺身隊」は主に工場などでの勤労労働に従事する女性を指し、「慰安婦」は戦地内地等での公娼・売春婦を意味していた。しかし、戦中当時にも朝鮮社会ではすでに両者が混同されてパニックに陥っていた家族もあった。
大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1944年8月、日本内地において日本人女性を工場などへ強制動員する「女子挺身勤労令」が出され、これは12歳から40歳までの未婚女子が対象であった。同時に学徒勤労令も出され、中等学校二年以上の学徒も軍需工場などで勤労した。男子は1939年の国民徴用令で強制動員されていたが、朝鮮では実施を遅らせて民間企業による自由募集、そして1942年1月になって官斡旋(朝鮮労務協会が実務)となり1944年9月になって徴用令が発動された。いわゆる「強制連行」はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す。
朝鮮半島の女子についてはこのような日本内地における徴用令も女子挺身勤労令も発令されなかったが、斡旋によって挺身隊が日本内地へ向かった事例もあったため、挺身隊と慰安婦が混同され、「挺身隊に動員されると慰安婦にされる」との流言(デマ)が流布した。デマによってパニック状態になった朝鮮の未婚女性や親は、学校を中退させたり、結婚することで徴用を逃れようとした。例えば、韓国で挺身隊=慰安婦という認識を広めた韓国挺身隊問題対策協議会初代代表の尹貞玉(1925年生)も父親の忠告に従って1943年4月に入学したのを同年9月に退学している。
そのようなデマについて政府も認識しており、1944年6月27日の内務省文書では
勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる。 - 内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」1944年6月27日付
と「荒唐無稽なる」「悪質な流言」と記載があり、日本政府はそうしたデマを民族主義者による反日謀略とみなしていた可能性も指摘されている。1944年10月には朝鮮総督府が「国民徴用の解説」で女子挺身勤労令を発動しないと答弁した。
また尹明淑によれば、労働力として国民登録する朝鮮の女子はあまりに少なかったため、学校教師による勧誘が進められたが、内地に動員されたことが多かったためデマの元になったとしている。実際、官斡旋による女子挺身隊動員は小学校や女学校の教師が指名勧誘する事例が多かった。日本内地へ動員された女子挺身隊の総数は一万人と推計され、確実な記録では1944年6月頃から日本の富山の不二越工場に1090人(そのうち約420人は1945年7月に朝鮮の沙里工場へ移動)、名古屋の三菱航空機道徳工場へ約300人、東京麻糸紡績沼津工場へ約100人が学校の教師に引率されて派遣され、終戦直後に帰国している(この記録の合計は1490人)。また名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の訴状では、日本語の上手な低年齢世代が内地に行くことが多かったが、工場では夜学の夢が破れ、軍隊式のひどい扱いを受けたという不満を語る人もいる。ただし、1960年代までは、その噂を事実と認める韓国の研究者はいなかった。
「処女・少女の強制連行」言説
このように日本内地での工場勤労を意味する女子挺身隊と慰安婦を混同した認識は戦後も続き、在日朝鮮人作家の金一勉は1976年の著書『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』で日本軍慰安婦について
地上のあらゆるエロ小説よりも奇怪にしてスリルに富み、残酷かつ野蛮なセックス処理の女たち
と表現したあとで、
しかもその女たちはその戦争中、お国のためと称して特志看護婦とか軍要員とか女子工員とかの名目で強制的に集められた十七歳から二十歳までの処女ばかりであった。
と記しており、このような「日本帝國」による「国家的大詐欺行為」によって集められた「処女」は推定20万人であったとしている。なおこの金の本はクマラスワミ報告書における事実認定のほぼすべての出典として提示されているジョージ・ヒックスの『性奴隷』でも参照されており、歴史的事実の根拠として提示されている。
「小学生慰安婦」の言説
「挺身隊」と「慰安婦」の混同、および「少女・処女」が「強制連行」されたとする認識は韓国(および日本での慰安婦問題活動家)の間では1990年代になっても存続し、1992年1月の宮沢主張の訪韓時に韓国の新聞は「小学生までが挺身隊にされ、慰安婦にされた」と、あたかも女子小学生が慰安婦にされたかのような報道を繰り返した。東亜日報は1992年1月14日に「挺身隊、小学生まで引っ張っていった」、朝鮮日報は同1月15日に「日本、小学生も挺身隊に徴発」との見だしで報道した。東亜日報は1992年1月15日の社説「十二歳の挺身隊員」では次のように報道した。
本当に天と人とが共に憤怒する日帝の蛮行だった。人面獣心であるとか、いくら軍国主義政府が戦争を遂行するためだったとしても、このようなまでに非人道的残酷行為を敢えて行うことができたのかといいたい。(中略)
十二歳の小学生まで動員、戦場で性的玩具にして踏みにじったという報道に再び沸き上がってくる憤怒を抑えがたい。(中略)
これまで十五歳の少女が挺身隊に動員されたことは知られていた。しかし、十二歳の幼い子供まで連行されたことは初めて明らかにされたことだ。(中略)
勤労挺身隊という名前で動員された後、彼女らを従軍慰安所に回した事実が様々な人の証言で立証されている…(中略)
このように何もわからず父母のもとを離れ挺身隊に連行された少女らの数はわからない。泣き叫ぶ女性をなぐりつけ乳飲み子を腕から奪って赤ん坊の母親を連行したこともあった。このように動員された従軍慰安婦が八万〜二十万と推算される。東亜日報1992年1月15日社説「十二歳の挺身隊員」
現代朝鮮研究者の西岡力の調査によれば、1992年1月14日に報道された「小学生挺身隊」についての記事を初めて執筆したのは連合通信の金溶洙記者であった。西岡が実際に12歳の少女が慰安婦になったことは事実ではないのに、なぜ報道したのかと質問したところ、金記者は、富山県に動員された6人の児童が慰安所でなく工場に動員されたことは事実であるとして
6人の児童が慰安婦でなかったことは知っていましたが、まず勤労挺身隊として動員し、その後慰安婦にさせた例があるという話も韓国国内ではいわれていますので、この6人以外で小学生として慰安婦にさせられた者もいるかもしれないと考え、敢えて<勤労挺身隊であって慰安婦ではない>ということは強調しないで記事を書きました。
と弁解した。この金溶洙記者による弁解で「小学生慰安婦」の存在が証明されたわけではないことが明らかになり、またその後、当時挺身隊だった女性が名乗りでて、新聞報道が誤報であったことが判明する。しかし、その後も「小学生慰安婦」について報道した新聞やテレビは報道を修正することはなく、「小学生や乳飲み子の母親までを連行して性の玩具にした」というイメージは韓国社会のなかで繰り返しテレビドラマなどで伝えられて、現在にいたっている。慰安婦活動家においてもそのような認識が変更されることはなく、2012年には米国などでの慰安婦(成人女性)像設置運動に続いて「少女」像の建設運動が進められている。 
強制連行の有無
実際に強制性が存在したかについては、いわゆる強制連行の有無や、売春が強制下で行われたのではないかなどを含めて様々な議論がある。強制的に連れ去られた事実が存在したのか、また存在したとしてそれを行い売春を強要させた主体が日本政府(軍)だったのか、被害者の両親と金銭取引を行い、本人の意思を無視して連れ去った民間業者だったのかで意見が分かれる。
2006年9月13日に米上院外交委員会に提出された日本軍慰安婦問題に関し日本政府に謝罪を求める決議案(H.Res.759)は「日本政府は性奴隷にする目的で慰安婦を組織的に誘拐、隷属させた」としており、2007年1月31日に提出された同様の決議案(.Res.121)は「日本政府は「帝国軍への性行為という唯一の目的のために若い女性を職務として連行した」としている。
ソウル大学教授安秉直は韓国挺身隊問題対策協議会と共同で3年間に渡って日本軍慰安婦について調査をしたが、強制連行があったとする客観的資料は一つも見つからなかったとし、また韓国陸軍元大佐の評論家池萬元も、元日本軍慰安婦は大半が厳しい経済事情のため自ら性売買を望んだ人だとしている。
慰安婦問題において旧日本軍の責任追及の急先鋒だった中央大学教授吉見義明は、秦郁彦が済州島での実地調査で吉田証言がウソであったことが判明したと報告して間もなく、人狩りのようなことは“狭義”の強制連行であるが、詐欺などを含む「“広義”の強制連行」というものも問題であると主張するようになった。後の1997年に吉見教授は、自身の見解を質された際に、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認め、同年刊行された著書でも「官憲による奴隷狩りのような連行が朝鮮・台湾であったことは確認されていない」とした。しかし、フィリピン、中国、インドネシアではそうした連行があったと主張している。
小林よしのりは、吉見義明をはじめとする慰安婦制度批判派が、旧日本軍による強制連行を批判してきたのに、証拠が無いとわかっても自説の訂正や謝罪はせず、「広義の強制性」を持ち出してきたことを「論点のすり替え」だとして批判している。
秦郁彦は実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と吉見義明の「広義の強制性」論に異議を唱えている。また、「強制連行」については、志願者が多数いたので「強制連行」する必要性はなかったとし、「強制連行」されたという証言は元慰安婦の証言のみで、第三者の目撃証言はこれまで一切なく、2000年の「国際女性法廷」において、配られた60数人の元慰安婦の来歴には誰が慰安所に強制連行したかという主語が一切省かれていたと指摘している。
『朝日新聞』は1997年3月31日付の社説で、「旧日本軍の従軍慰安婦をめぐって、日本の責任を否定しようとする動きが続いている。これらの主張に共通するのは、日本軍が直接に強制連行したか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向だ」と主張。
親日的で知られる日本国籍を取得した韓国出身の日本の評論家呉善花は自身がインタビューした「生活者の連帯意識も民族意識や民族愛も強い当時の朝鮮人が、娘たちが強制的に連れて行かれるのを見て黙っているわけがなく、そんな世界で女狩りなんてできるはずがない」 という当時を知る日本人の証言を紹介し、自身が韓国にいた間、「慰安婦」の話を耳にしたことがなかった意味が、ようやくわかったと自著で述べている。
慰安婦に関する調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長や石原信雄官房副長官は、政府の調査おいて、軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような証拠も証言もなかったと国会答弁や新聞、雑誌等のインタビューにおいて語っている。
インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、それに反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性35人をスマランの慰安所に強制連行したこと(「白馬事件」)が戦後、連合国によるB,C級法廷で裁かれ、軍人のほかに 、慰安所を経営していた日本人業者のうち、一人が死刑、10人が有罪となったとの記録が残っており、これが強制連行を行なっていた証拠であるとの指摘がある一方、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、元もと自由意思で応募する者だけを慰安婦にする方針だったので、むしろ強制連行を行なっていなかった証拠であるとの反論がある。
フィリピンのアンヘレス市に当時いたダニエル・H・ディソンは、日本兵用の売春宿は存在したが、一般に強制性はなかったと目撃証言している。 
「公娼」か「性奴隷」か
「性奴隷」言説
日本軍慰安所における慰安婦を「性奴隷」と表現する潮流がある。これについては日本弁護士連合会および日弁連海外調査特別委員の戸塚悦郎弁護士を中心に1992年頃から「慰安婦」という言葉でなく「Sex Slaves(性奴隷)」という表記の方が正しいとして国連でロビー活動を続けた結果、1993年以降、国連で浸透していったことが明らかになっており、日弁連も公式サイトでその旨を明記している。以降、1996年のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告書でも「性奴隷」と明記されている。
朝鮮人女性を奴隷狩りのように狩ったと加害証言してきた吉田清治が1996年5月に自らの証言を虚偽(フィクション)であることを週刊新潮で告白して以降、慰安婦強制連行問題を追求してきた吉見義明も1997年には朝鮮で官憲による奴隷狩りを行ったとする証拠は確認されていないと明言した。
中国帰還者連絡会会員の湯浅謙も1998年に季刊『中帰連』に発表した文章において、戦時中、湯浅が中国の山西省南部の陸軍病院の軍医として従軍し、朝鮮人慰安婦の性病検査なども行なったとして、「当時の軍人にとって慰安婦は料金も払うし愛想もよかったので「公娼」に見えたが、植民地支配下にあって、彼女たちは抵抗することも「強制され連れて来られた」と異議を唱えることもできない状況下にあったので、「性的奴隷」であった旨を語っている。
日本の戦争犯罪・戦争責任を追及しているNGO「日本の戦争責任資料センター」は2007年2月の声明において「『日本軍慰安婦』制度は、慰安婦たちに居住の自由、廃業の自由、外出の自由や慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった」「故郷から遠く離れた占領地から逃亡することは不可能だった」などの理由から、「公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、『日本軍慰安婦』制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった」旨を主張している。
2007年7月に採択されたアメリカ合衆国下院121号決議では「強制軍売春という『慰安婦制度』は“残忍さという点で前例のないもの”と認識されており、“20世紀における最大の人身売買の一つ”である」と主張した。
「公娼」言説
他方、日本軍慰安婦制度を「公娼」制度として認識する歴史学者もいる。1997年に発表した研究において歴史学者の藤目ゆきは、日本では前近代より公娼制度があったが、近代日本の公娼制度はヨーロッパの近代公娼制度をモデルとして再編成されたものと指摘したうえで、
日本における従来の公娼制度と廃娼運動の研究は、一般に、近代日本の公娼制度を前近代の公娼制度からの延長線上に把握し、これを特殊日本的で前近代的な制度として認識してきた。「欧米の文明国」には公娼制度は存在しないと信じ込み、近代日本の公娼制度の存在をもっぱら日本の後進性・前近代性の表出と錯覚するのである。
と指摘し、「日本にのみ公娼・慰安所があった」とする見方について批判し、各国における近代公娼制度の比較研究を展開した。
1999年の著書で秦郁彦は、慰安婦を「戦前の日本に定着していた公娼制度の戦地版と位置づけるべきだ」と主張している。
親日的な著作で知られる韓国の評論家、金完燮は2004年に「軍隊という血気さかんな若者の集団にどうやって性欲を発散させるかは、どの国の軍隊にとっても重要な問題であり、“性奴隷”というのは反日キャンペーンのために発明された用語だ」と批判している。
商社員として約三年半の間、中国漢口の慰安所について見聞きして来た小野田寛郎は2005年の文章で、慰安婦制度の背景について、「兵士も、やはり(女性を求める)若い人間であり、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在した」とし、「『従軍慰安婦』なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。」と述べている。
産経新聞2007年5月18日記事は、米軍が1944年にビルマにおける慰安所経営者と慰安婦20人を尋問した報告書で「すべての慰安婦は以下のような条件で契約を交わして雇用していた」とあることから、商業ベースでの契約に基づいて雇用されていた実を率直に記されているとし、「慰安婦の雇用条件や契約条件が明記されており、慰安婦の女性が一定額の借金を返せば解放されるという条項があるという点で、当時の米軍当局が日本軍の“強制徴用”や“性奴隷”とは違った認識を持っていた証拠になる」と指摘している。
その他、歴史学者の倉橋正直は2010年の著書で日本軍慰安婦には「性的奴隷型」と「売春婦型」の2つのタイプがあったとして、画一的な「従軍慰安婦」解釈を批判している。 
「慰安婦問題」の政治的な背景
韓国による政治的利用
自国にも慰安婦が存在したにもかかわらず日本のケースのみを韓国(韓国軍がベトナム戦争時に現地女性を多数強姦し、私生児を残したことが社会問題になった)や中国が殊更取り上げることについては、政治的なカードとして利用するプロパガンダであるとの主張もある。また日本に対する道徳的優位を誇示することで得られるナショナリズム的な「民族的快感」のために韓国は慰安婦問題を国際社会において利用しているとする見方もある。
韓国系アメリカ人の研究者でサンフランシスコ州立大学教授のサラ・ソー(C.Sarah Soh)は2009年の著書で、慰安婦を「性奴隷」や戦争犯罪とむすびつけて描写するのは不正確であるとしたうえで、韓国政府と韓国議会が日本軍慰安婦問題を扇情的に扱い、異論を許さないまま「日帝による被害の物語」を国民に押し付け、誤導したと批判している。ソー教授は「慰安婦が強制連行された」という物語は陳腐な教義であり、韓国政府の政治戦略的な誇張が慰安婦問題の深い理解とその解決を妨害しているとして、韓国社会が被害者意識から脱却すること、また韓国もまた元慰安婦にトラウマを与えた共犯者であり、慰安婦制度それ自体は戦争犯罪ではなかったことを受け入れるべきだとした。テンプル大学のジェフリー・キングストン教授はこの本について、勇気あるこの著書は慰安婦問題への理解を深めるものであり、また日本と韓国の和解を期待させると評した。
日本の運動家による工作
また、特定の政治的意図を持った日本国内のマスコミや団体や人物などの工作と指摘する声もある。「河野談話」発表に関わった当時、内閣官房副長官だった石原信雄は、国会議員との会合において、初期の段階では韓国政府が慰安婦問題をあおるということはなく、むしろこの問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたが、ある日本の弁護士が韓国で慰安婦問題を掘り起こして大きくし、それに呼応する形で国会で質問を行うという連携プレーのようなことがあり「韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけない」という状況があったと語っている。韓国の盧泰愚大統領も、慰安婦問題の発生について「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。」と語っている。
日本からの償い金受給者に対する韓国運動団体による差別
アジア女性基金が償い金を給付すると発表し、1997年1月から韓国人、フィリピン人など計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を受給を開始した。韓国政府は当初は日本政府・アジア女性基金による償い金給付を歓迎した。しかし、挺対協の反対を受けて、韓国政府もアジア女性基金からの給付を拒否する一方、日本からの償い金を受けとらないと誓約した元日本軍慰安婦には生活支援金を支給し、韓国政府認定日本軍慰安婦207人のうち、アジア女性基金から受給した元慰安婦や既に亡くなったものを除く142人に生活支援金の支給を実施した。
1997年1月の償い金給付に先立って1996年10月18日、挺対協の尹貞玉は償い金受け取りは「日本政府が犯した罪を認めず、ハルモニ(おばあさん)たちを売春婦扱いすることだ」として、受け取らないよう呼びかけた。1996年10月、アジア女性基金に反対して「強制連行された日本軍『慰安婦』問題解決のための市民連帯」が韓国で結成され、独自の募金活動を行う。
1997年5月28日、同市民連帯は目標の約30億ウォン(約4億円)には及ばなかったが、日本の市民運動から9731万ウォン(約1500万円)、全体で5億5000万ウォンの募金が集まったとして、必要経費を除き、一人当たり約350万ウォン(約46万6000円)を元慰安婦151人に配布すると発表した。しかし、「日本からの一時金200万円と医療福祉事業としての300万円の計500万円を受け取った7人の元「慰安婦」に対しては配布しない」とした。さらに、他の運動関係者らが償い金を受け取った7人の慰安婦に対して「いくら受け取った?」「通帳を見せろ!」と脅迫したり、「日本からの汚れた金を受け取れば、本当の娼婦になる。7人は娼婦だ!」と中傷したり、韓国政府の生活援助金を7人に対し打ち切るように働きかけた。
挺対協の尹貞玉は「一部の人たちは、ハルモニたちが日本の募金を受け取ろうとするのをなぜ挺対協は邪魔するのかと言っているが、糖尿病にかかった夫が甘いものを食べようとすれば、涙をのんでもこれを止めさせるのが愛する妻のつとめである。ハルモニたちが、民族の自尊心と尊厳を日本に売り渡すことのないよう我々はハルモニたちを支えねばならない。」と弁明した。
こうした日本からの償い金を受け取った慰安婦に対する差別や嫌がらせなどの行動について、日本の支援団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の臼杵敬子は、「あらゆる活動、行事から7人を疎外する韓国運動体の制裁は、被害当事者の人権を無視した行動で慰安婦被害者をさらなる被害者とするもの」として批判し、75歳前後の高齢の被害者に対し、深い人権的な配慮を持つべきで、当事者が選択する意思が尊重されるべきだと主張した。 
朝日新聞の植村隆記事と「女子挺身隊」
1996年に吉田自身が証言における「時」と「場所」はフィクションであることを明らかにしたことで、慰安婦の強制連行の大きな根拠とされて来た「吉田証言」への信憑性が揺らぐこととなる。慰安婦の強制連行を認めない保守系の論客は、吉田証言を大きく取り上げて来た朝日新聞に対して、それまでの慰安婦報道に事実の歪曲があったと批判し、記事を執筆した朝日新聞記者植村隆記者は「(韓国語に詳しいはずなのに)金学順の韓国語での証言に含まれていた「キーセン」(公娼)出身ということは書かずに、実際に発言していない「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との記事を書いたことは意図的な情報操作と指摘した 、これらの批判を受けてか、『朝日新聞』の縮刷版は同じ記事を12日付けにし、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行された」という部分を削除した。 
韓国運動団体による補償金詐欺
2011年5月、韓国ソウル市警察は、太平洋戦争犠牲者遺族会や民間請求権訴訟団などの団体幹部39名を詐欺の容疑で摘発した。摘発された団体は慰安婦問題や強制連行問題について活動してきた反日団体で、日本政府から補償金を受け取ってやるといって弁護士費用などの名目で会費15億ウォン (約1億2千万円)をだまし取っており、被害者は3万人に上った。
ソウル市警察の発表によれば梁順任太平洋戦争犠牲者遺族会会長は各種団体への会員を募集する際に「動員犠牲者でなくても当時を生きた者なら誰でも補償を受け取れる」といって勧誘していた。また会員を集めてきた場合には手当を支払うなどしていた。
この梁順任会長は、1991年8月11日に「女子挺身隊の名で戦場に連行され」と朝日新聞紙面で誤報記事を執筆した記者植村隆の義母でもある。 
日韓基本条約無効論
日本政府は日韓基本条約および日韓請求権並びに経済協力協定で日韓の戦時中の補償問題は解決を見ているとの立場を一貫している。
しかし、2009年1月27日、法改正推進国会の金映宣政務委員長は「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援及び記念事業などに関する法律」改正案を国会に提出した際、日韓基本条約については無効と主張した。2011年8月16日には、韓国で「日韓協定無効化のための国民行動」準備委員会が発足し、同団体は「日韓基本条約は無効」と主張し、韓国政府に日韓基本条約の破棄とその無効性を認めるよう働きかけるとしている。 
人権・人道に対する罪
戦後、ドイツは「人道に対する犯罪(人道に対する罪)には時効はない」と宣言した(ただしドイツ軍慰安婦への戦後補償は実施されていない)。ほか、日本のフェミニスト・女性学者や、クマラスワミ報告書やマクドゥーガル報告書などでは慰安婦問題を女性に対する暴力・性犯罪・強姦罪として問題にしている。
韓国系アメリカ人によるロビー活動においては近年、ホロコースト問題と日本軍慰安婦制度問題とを同列に考えようとしてユダヤ系アメリカ人との連携を進行させており、2011年12月15日にはコロンビア大学で「女性の権利」フォーラム主催のシンポジウム「人類の希望:ホロコーストと慰安婦の生存者の声」が開かれホロコーストの生存者である女性2名と、元慰安婦2名、チャールズ・ランセル下院議員、韓国系アメリカ人投票者協議会(KAVC)のドンチャン・キム会長らが参加した。また2012年5月に慰安婦の碑を建てたパリセイズ・パーク市に対して日本側が抗議を開始した直後に訪韓したヒラリー・クリントン国務長官は「(日本軍慰安婦制度の問題)は性奴隷の話であり、女性の権利と人道に対する罪の文脈で考えられなければならない」と内輪の席で述べたうえで、日本軍慰安婦制度は「唾棄すべきもの」で「巨大な規模の重大な人権侵犯」と語った。
他方、当時は国が売春を認める「公娼制度」があった時代であり、性に対する倫理感覚、女性に対する人権感覚は現在と違っているのに、過去の歴史の出来事を現在の基準で裁くのは間違いだとの指摘もある。政策研究大学院大学教授の北岡伸一も「21世紀の人権感覚を過去の歴史に適用するのは、いかにも乱暴」と述べている。
元外交官の東郷和彦は日本での「強制連行」に関する議論に対して「必ずしも誤りでない」と理解を示しながらも、2007年の安倍発言直後のカリフォルニア大学でのシンポジウムにおいて米国人女性の、米国における慰安婦問題の視点は「強制」であるかどうかなどは誰も関心がなく、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という嫌悪感にもとづくものであり、「これは非歴史的(ahistoric)な議論である。現在の価値観で過去を振り返って議論しているのだ」という発言を紹介している。東郷は日本国内の慰安婦についての議論は国内でしか通用せずガラパゴス化しており、今後の日本政府の対応次第では、日韓のみならず日本と欧米間に「深刻な対立を引き起こす可能性がある」と警告した。他方で慰安婦問題とホロコースト問題とを同列に扱いえないことはユダヤ・ロビー自身が最も理解できるに違いないとしたうえで日本の外交戦略としてユダヤ・ロビーとの連携を訴えた。また東郷は韓国政府がアジア女性基金による補償を受けようとした元慰安婦を非国民扱いしたことを強く批判し、戦後日本の法的秩序を全壊させかねないような過剰な「法的責任の追求」は遠慮してもらいたいと述べている。 
証言・証拠資料・関連書籍 
千田夏光『従軍慰安婦』
作家千田夏光『従軍慰安婦』(1973年双葉社)はのちに国際問題となった「慰安婦」問題に大きな影響を与えた。しかし、アジア女性基金の高崎宗司(歴史学)の研究や、西岡力(朝鮮研究者)、加藤正夫(歴史学)らの検証で、千田の著書は事実ではないことを事実として虚偽記載したことが現在では明らかになっている。また同書に掲載されている原善四郎原(元関東軍参謀)や麻生徹男(軍医)の証言・インタビューは千田による創作であったことが千田本人が明らかにしており、さらに1996年には麻生軍医の親族である天児都に「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した。
しかし、千田の著書は1973年に初版が発行されて以降、金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(1976年)などでも参照され、ジョージ・ヒックスの『性奴隷』でも日本軍慰安婦制度に関する歴史的真実・事実として参照されている。さらに国連委託のクマラスワミ報告やマクドゥーガル報告書やアメリカ下院決議でもヒックスの著作が根拠とされており、すなわち千田の著書における記述は歴史的真実を描いた原典として受容され続けた。
慰安婦の総数についての誤認と虚偽記載
千田が記した「慰安婦が20万人いた」という数値については、ソウル新聞の記述の誤認であった。
関東軍特種演習・原善四郎証言の捏造
関東軍特種演習において慰安婦が強制的に集められたと、千田は同書で記載している。千田は、
(後方担当参謀原善四郎元少佐が)必要慰安婦の数は二万人とはじき出し、飛行機で朝鮮へ調達に出かけているのである。ここで、つまり昭和16年には、すでに朝鮮半島は慰安婦の草刈場となっていたことがわかる。実際には一万人しか集まらなかったというが草刈場になった事実は動かせない。
と書いた。また、それ以降のページで原への対面インタビューが掲載されており、著者である千田の「70万人の兵隊に2万人の慰安婦が必要とはじき出した根拠というか基準は何だったのですか」という質問に対して、原が
はっきり覚えていないけど、それまでの訓練つまりシナ事変(日中戦争)の経験から算出した。
二万人と言われたが、実際に集まったのは8千人ぐらいだった。
集めた慰安婦を各部隊へ配属したところ、中には<そんなものは帝国陸軍にはいらない>と断る師団長が出たのです。ところが、二ヶ月とたぬうち、<やはり配属してくれ>と泣きついて来た
と語ったと記載された。
この原証言に関する記載について1993年、現代史研究家の加藤正夫が「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」(『現代コリア』1993年2・3月号)を発表。加藤が千田夏光本人に矛盾点を問い詰めたところ、千田は原証言は実際に行ったインタビューではなく、千田自身がすべて創作したことを認めた。また関東軍特種演習が慰安婦を集めたという記述については、島田俊彦(武蔵大学教授)の『関東軍』(中央公論社 1965年)に載っていた話を引用したと千田は答えた。その島田の著作も出典はなく「慰安婦を集めた」と記載されているだけであった。
麻生徹男軍医に関する虚偽記載
千田同書では、上海に応召された軍医の麻生徹男へのインタビューが掲載されており、麻生軍医は「はじめ陸軍慰安所という文字を見て、演芸か何かをやる場所だと思いました。ですから待機中の婦女子というのは、内地から慰問に来た三味線を弾いたり歌をうたう芸能人だと考えてきました。」などと千田に語ったと記されている。このほか、麻生軍医の作成した報告書「花柳病ノ積極的予防法」が同書では全文掲載され、千田による解釈注釈が付されている。
麻生徹男軍医の娘で女医の天児都は千田の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと批判して、次の点を挙げている。
千田が造語した「従軍慰安婦」という用語では「従軍」に強制の意味が含まれるため、容易に「強制連行」に結びつき、「性的奴隷」を容易に想像させたため、混乱のもととなった。また、千田は根拠なく強制連行と慰安所・慰安婦を結びつけた。
ヨーロッパの軍も植民地に慰安婦制度を置いてたことは千田が引用している麻生報告書にも明記してあるのに、日本軍を「娼婦連れで戦った唯一の軍隊」として流布させた。
1939年6月30日の軍医会同での講演で発表した麻生軍医の論文で80人の朝鮮人と20人の日本人を診察したことを根拠に、麻生軍医が「朝鮮人慰安婦強制連行」の責任者であると千田が主張した。
また麻生論文では娼館(娼楼)ではない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)を提言しているのに、麻生軍医が娼婦を不可欠と主張したかのように千田が描いたこと。
千田は、麻生軍医を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしてしまったことを娘の天児に1996年4月15日消印の手紙で「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した。この千田による謝罪と自著否定発言を踏まえて天児は出版元の三一書房と講談社へその部分の改訂を要請したが、二社とも改訂しなかった。天児は「慰安婦問題は千田夏光の誤りを検証せず、事実として平成3,4年頃出版した人たちが誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して不幸な日本叩きの材料とされた事件だ」と、日本軍慰安婦問題(いわゆる「従軍慰安婦」問題)についてコメントを述べている。
麻生徹男軍医は上海の慰安所と日本人慰安婦の写真10点を残している。このうち慰安婦の写真とは、1937年12月の南京陥落前後に日本軍の行動が国際問題となったので、婦女暴行の対策として北九州地区で支度金1000円を支払って急遽集めれて上海に行った日本人女性の写真である。また麻生軍医は1957年に博多の雑誌『うわさ』に証言を述べたり、1977年に毎日新聞「不許可写真集」に写真を提供したり、1986年には『戦線女人考』を出版した。1989年に死去した麻生軍医の遺稿は1990年に不二出版から出された『軍医官の戦場報告意見集』(高崎隆治編)に掲載されている。また天児都は1993年8月に『上海から上海へ』(石風社)を、2010年には『慰安婦と医療の係わりについて』を刊行している。
その他
これら以外に千田は次のように同書で主張している。
千田は、朝鮮における従軍慰安婦動員に関する資料は朝鮮で「焼却されたと伝えられる」として、しかし残った資料は朝鮮総督府東京事務所にあり、敗戦後には朝鮮銀行(のちの日本債権信用銀行)の大金庫に保管されていると主張している。
同書には匿名による証言として「女をやっつける兵隊ほどいわゆる強兵、強い兵隊です」という証言が紹介されている。
加害証言(吉田証言)
現在の所、慰安婦を強制連行したという公になされた加害証言は吉田証言のみとされているが、その吉田証言はその信憑性が問題視され、慰安婦問題を批判する側からも採用されなくなりつつある。吉田清治は自著で、韓国の済州島において、慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白し、日本、韓国、アメリカなどで、何度もそのことを証言して来た。自著では当時の命令書の内容まで詳細に記載していた。初めての、かつ今日まで唯一の加害証言として旧日本軍の慰安婦に対する強制連行の有力な証言として、扱われてきたが、秦郁彦、中村粲、板倉由明、上杉千年らの歴史学者の検証によって、その証言をはじめ、吉田の語っていた軍の命令系統から本人の経歴に嘘や矛盾があると指摘されたため、旧日本軍による「強制連行」は捏造だと批判された。
その後1993年5月に、慰安婦制度を批判している吉見義明が吉田を訪ね積極的に反論するよう勧めたが、吉田は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」としたうえで「回想には日時や場所を変えた場合もある」と発言したため、吉田の回想は証言としては使えないと吉見は確認した。こうして、吉田本人も創作を交えたので事実ではないことを認め、その後も真実は明かしていないため、吉見義明の他にも上杉聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)も「吉田証言」は歴史証言としては採用できないとしている。1996年には吉田清治は週刊新潮で
まあ、本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない。-週刊新潮1996年5月2/9号
と語り、自らの証言を創作(フィクション)を含むものであることをあらためて発言した。猪瀬直樹は「それにしてもたった一人の詐話師が、日韓問題を険悪化させ、日本の教科書を書き換えさせ、国連に報告書までつくらせたのである。虚言を弄する吉田という男は、ある意味ではもう一人の麻原彰晃ともいえないか」と述べている。
1998年9月2日に秦郁彦は、吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だったという。
しかし、当時の日本の慰安婦制度を国際法違反であるとした国連人権委に提出された「クマラスワミ報告書」は吉田証言を強制連行の証拠として引用し、また2006年に米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記された。日本側の調査と報告を受けて、2007年の改訂版の報告書では「吉田証言」が削除された。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としていた。
元慰安婦の証言
証言している慰安婦には、金学順・李容洙・姜徳景・金君子・金順徳・李玉善・鄭書云・文玉珠・黄錦周・ジャン・ラフ・オハーンらがいる。
証言の検証と真正性
韓国で初めて慰安婦であったことを証言した金学順を初め、慰安婦と名乗り出た者の証言の中に矛盾があるとして、その証言の信憑性を疑問視する指摘がこれまである。慰安婦問題について日本政府を糾弾し続けてきた千田夏光も金学順証言について、親族が業者に売却したということからすると、日本軍による強制連行であったかどうかは不明確と述べている。
秦郁彦は慰安婦たちの身の上話(証言)について「検証ぬきで採用するわけにいかない」としている。ほかにフェミニズム研究者の上野千鶴子は「<善意>のインタビュアーたちは、自分が聞きたい物語を聞き出すように、語りの図式を変形するという権力を、その聞き取りの現場において行使している」として聞き取り調査のあり方を批判している。
小室直樹は、慰安婦問題の核心は挙証責任(証明責任)にあると指摘している。刑事裁判および民事裁判において証明責任は原告(検察)側にあり、検事は合法的に被告が有罪であることを完全に証明しなくてはならない。証明責任のない被告はアリバイを証明する必要もないと指摘したうえで、慰安婦問題について被告は日本政府であり、原告を日本や韓国の運動団体とすれば、証明責任は運動側にあると主張した。また推定無罪原則によって、合理的な疑いを入れないまでに立証されない場合は被告人は無罪となる。さらに小室は国際法上、国家が「謝罪」するということは国家責任を負うことを意味し、賠償に応ずることを意味すると指摘し、首相や外相が「可哀想なひとたちだから」という理由だけでひとたび謝罪すれば挙証責任を日本が負わされることになるとして「謝罪外交」を強く批判している。
中国海南島戦時性暴力被害裁判の支援団体ハイナンNETによる台湾元慰安婦の調査報告や石田米子・内田知行らによれば、最近(2004年時点)の調査では1人の元慰安婦に数時間のインタビューを数回行い、日時・場所などについては他の資料とつき合わせて確認しており、研究者は証言の信頼性を確認しながら調査を行っているという。ただし、石田・内田らは1990年代の元慰安婦証言の批判的検証を行なっているわけではない。
安秉直による調査
ソウル大学名誉教授安秉直(アン・ビョンジク)を代表とする「挺身隊研究会」は韓国挺身隊問題対策協議会と共同で1992年7月から12月にかけて慰安婦と名乗り出たうちの生存者55人中約40人に聞き取り調査を行なった。一人あたり5、6回以上の長時間の面接調査、記録資料との確認、スタッフは報告書を3回以上輪読、その後の再面談を経てまとめられた。調査の結果は半数以上が「意図的に事実を歪曲していると感じられる」などの理由から脱落し、最終的に証言集に掲載できたのは19人であった。この調査報告書では強制連行は詐欺(主)を含めて大部分だとしている。安秉直は「歴史学的に検証に堪える緻密な調査をすべきという私の考えに運動の論理が対立した」と挺対協との対立について回想し、証言集を発表してからは研究会を離れたとしている。調査は1993年2月に韓国で挺対協・挺身隊研究会編『証言集1 強制で連れて行かれた朝鮮人慰安婦たち』として刊行された。
現代朝鮮研究者の西岡力は安秉直調査による証言集に掲載された19人のうち、官憲等による「強制連行」だったと証言する女性は4人だけであり、その4人のうちの2人が語ったのは日本内地の富山県と釜山の「慰安所」であった。しかしいずれも戦地ではなく、現地には公娼にいた遊郭があったため、軍がわざわざ強制連行する必然性がなく、信ぴょう性がないとした。残り二人は金学順と文玉珠であり、文玉珠は当時2万6145円を貯金していた(当時の3万円は現在での約1億3606万)慰安婦であるが、高木弁護士の作成した訴状ではビルマの慰安所に連行されたと証言しているのに、安秉直教授らの調査ではビルマの前に満州に連行されたと異なる証言をしたが、訴状作成の時点でなぜ満州への連行を陳述しなかったのか、その合理的理由が不明であり、信ぴょう性にかけると西岡は指摘している。また両名共、日本政府を訴えた裁判の訴状では元「キーセン」であったと自ら認めていると西岡が『文藝春秋』1992年4月号に発表した「慰安婦問題とは何だったのか」(以下、西岡論文)で指摘したところ、西岡の指摘後、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」とそれまでの証言を変えた。金学順は1991年12月の訴状作成の時点では「養父に連れられて中国に渡った」と証言していたのを、1992年7月からの安秉直教授らの調査では「北京で日本軍人に暴力的に連行された」と証言を変更しており、西岡力は裁判に有利なことを訴状で意図的に隠すとは思えず、こうした証言の変化は西岡論文での指摘を受けて付け加えたものとみるのが自然であると指摘している。西岡力はこのように、信ぴょう性のある証言を行った日本軍に強制連行された朝鮮人慰安婦は一人もいなくなるとしている。
安秉直ソウル大学名誉教授は2007年3月にも「私の知る限り、日本軍は女性を強制動員して慰安婦にしたなどという資料はない。貧しさからの身売りがいくらでもあった時代に、なぜ強制動員の必要があるのか。合理的に考えてもおかしい」と発言し、当時兵隊風の服を来たものは多数いたし日本軍とは特定できない、また安倍晋三首相が厄介だから謝罪してはならない、そうした「謝罪」は韓国世論をミスリードすると発言している。 
北朝鮮人慰安婦の証言と元総督府官僚の証言
クマラスワミ報告書が採用した元慰安婦の証言の4例のうち、チョン・オクソンという北朝鮮在住の証言では、1933年に拉致されてからは慰安婦にさせられ、慰安婦仲間が一日に40人も相手をするのはきついと訴えると、「ヤマモト中隊長」はその女性を拷問したのちに首を切り、「その肉を茹でて食べさせろ」と命じたという。秦郁彦の考証では、この物語の初出は北朝鮮平壌で発行された「労働新聞」1992年7月15日に掲載された元慰安婦の李福汝の身の上話を酷似している。李福汝は1943年に満州の慰安所で焼印を押されたあとで生首スープを飲まされたと語っていた。
秦はこのようなチョン・オクソンの証言は事実誤認が甚だしく、拉致された1933年の朝鮮半島は平時で戦地ではなく、また遊郭はあったが軍隊用慰安所は存在していなかったと指摘している。
また、当時朝鮮総督府に勤務していた坪井幸生(忠清北道警察部長)と大師堂経慰(江原道地方課長)は、朝鮮半島での慰安婦強制連行は当時ありえなかったとしたうえで、
朝鮮人の間には反日気分の底流があったから、我々は治安維持にはかなり神経を使っていた。もし吉田清治の狩り立てをやれば暴動になっていたろうし、朝鮮人警官が従わなかったろう。
と証言している。
秦郁彦はさらに「だまして連行した朝鮮人周旋人や数年間起居を共にした慰安所の経営者についてもフルネームを陳述したケースがまったくないのは不自然きわまる」と指摘している。
この他、1991年当時NHK職員だった池田信夫は番組制作のため、韓国で数十人の強制連行されたという関係者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかったという。
しかし、吉見義明は1997年、研究者も強制連行のケースとは認定していない文玉珠に対し、強制連行ではないと主張しても研究上は意味をなさないと主張した。しかし、文玉珠の証言は1993年の韓国の挺対協による調査においては、そのときの最も明白な強制連行の証言であった。それ以前の訴状には、騙されて掠われたことになっている。 
非公開証言と日本外務省による「強制性」認定
宮沢内閣は1993年の「河野談話」発表以前に韓国政府の強い要請を受け、元慰安婦16人の証言を聞いたが、この時の元慰安婦の人選は韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が行い、証言には福島瑞穂弁護士などの立会い人が付き添った。日本政府はこの証言に対する質問も、裏付け調査をすることも許されず、この調査における慰安婦の氏名も証言内容も非公開とされた。
この時内閣官房副長官であった石原信雄は、当時どれだけ歴史資料を探しても「日本側には強制連行の事実を示す資料も証言者もなく、韓国側にも通達、文書など物的なものはなかったが」、元慰安婦は強制性があると証言するので、「総合的に判断して強制性を認めた」と語っている。そのような判断に至った理由を「強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった」と語っている。石原は、当時韓国政府は国家賠償を求めていなかったため、元慰安婦の名誉回復と日韓関係のために日本軍による強制性を認めたが、もし当時韓国側が日本政府による個人補償・国家賠償を求めていたら「通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠を求めていた」と語っており、この非公開の「聞き取り調査」における元慰安婦の証言に裏付けはなく一方的な被害証言であったことを認めている。なお慰安婦を被告として裁判したケースはないため、偽証罪や事実認定が法的に適用されたことはない。
平林博内閣外政審議室室長は、1997年3月12日の国会での小山孝雄参議院議員の質問に「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった 」と答弁、翌日の新聞では産経新聞をのぞいてこの「裏取りもせず、非公開のものだけで強制連行を認めた」とする政府答弁について報道するメディアはなく公聴会が開かれることもなかった。西岡力は金縛りにあったように「誰も、なにもいえなかった」として、これは1988年に梶山静六がアベック失踪について北朝鮮による拉致が濃厚と答弁したときの翌日に産経と日経以外のメディアが報道しなかったことと同じ構図だったと述べている。
この時の証言認定が河野談話の前提ともなり、また、韓国政府はその河野談話を日本政府が強制連行を認めた証拠として提示するようになる。
なお、河野洋平は河野談話発表後、「半世紀以上も前の話だから場所とか状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。」と、元慰安婦の証言の裏付けをとらずに証言は真正のものと認定している。 
日本政府・軍関係
政府調査
1992(平成4)年7月6日、加藤紘一内閣官房長官が 「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」を行い、慰安所の設置などに関して当時「政府の関与があったことが認められた」と発表した。
1993年(平成5年)8月4日、宮沢改造内閣は慰安婦調査の結果「いわゆる従軍慰安婦問題について」を発表した。同日、河野洋平内閣官房長官が 「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(河野談話)を発表した。この談話は以後、その意義や根拠について賛否両論を呼んだ。平林博内閣外政審議室室長は、1997年3月12日の国会での小山孝雄参議院議員の質問に「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった 」と答弁。同1997年3月には当時宮沢内閣の内閣官房副長官であった石原信雄も「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない」とし、また元慰安婦を強制的に連れてきたという軍関係者の証言を探したがなかったと明かした。他方、1998年4月に慰安婦訴訟「関釜裁判」で山口地裁下関支部は河野談話発表によって国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し慰安婦側の損害賠償の訴えを一部認めた(後に控訴審で棄却)。また秦郁彦は日韓基本条約締結当時、韓国政府は慰安婦補償はまったく念頭になかったが、後に元慰安婦の補償を求める声が高まったため、補償はするが日本は慰安婦に対する「強制連行」を求めよとの要請に、(日本が「強制連行」したともしなかったとも取れる)玉虫色の「河野談話」が出されたとしている。西岡力は河野談話では朝鮮人慰安婦に触れた段落では「官憲等」の加担については述べられていないと指摘している。
宮沢内閣以降、アジア女性基金によるその後の調査は「政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料」としてまとめられ、龍溪書舎から全5巻刊行され、公式HPでも公開されている(慰安婦関連歴史資料)。この資料集にはこれまでの当時の日本軍慰安婦関連の資料が網羅されている。
2011年(平成23年)8月、外務省は「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」を発表し、これまでの慰安婦関連事業および日本政府による償い事業について再度説明した。
当時の関連資料
以下、慰安所、慰安婦募集等に関する当時の資料について記す。ただし、資料によっては研究者間で解釈が異なることに留意。
日本内地の慰安婦関連 1937(昭和12)年8月31日付外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」
1937年9月29日、陸達第48号「野戦酒保規程改正」では「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」とある。
1938年1月19日付群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 と同年1月25日付高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」、同日付山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」などでは、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノ」とされた神戸の貸座敷業者大内の言葉として、上海での戦闘も一段落ついて駐屯の体制となったため、将兵が現地での中国人売春婦と遊んで性病が蔓延しつつあるので3000人を募集したとある。業者大内によれば、契約は二年、前借金は500円から1000円まで、年齢は16才から30才迄とあった。永井和は「大内の活動は当時の感覚からはとりたてて違法あるいは非道とは言い難い。まして、これを「強制連行」や「強制徴集」とみなすのはかなりの無理がある」と述べている。
1938年2月7日付和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」。1938年1月6日、和歌山田辺で、支那で慰安婦に就職しないかと勧誘した挙動不審の男らが誘拐容疑で逮捕された。男らは軍の命令で募集していると称していた。
1938年2月14日には茨城県知事から内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 、翌2月15日には宮城県知事発内務大臣宛で同名の通達がなされた。
1938年2月18日に起案され、2月23日に内務省警保局長より各庁府県長官に宛てて「支那渡航婦女の取扱に関する件」(内務省発警第5号)が通達された。この通達では中国に渡航させる慰安婦は満21歳以上の、現役の娼妓や醜業を営む女性に限定し、身分証明書の発行の際には、婦女売買または誘拐などがないかよく注意することや、募集に際し、軍の名をかたったり、募集の広告宣伝をする者、虚偽や誇大なことをいう者も厳重に取り締まるよう命じている。
1938年3月4日、陸軍省兵務局兵務課が起案した『軍慰安所従業婦等募集に関する件』(陸支密第745号)。2月23日の内務省発警第5号に応じて作成されたこの通牒が北支那方面軍及中支那派遣軍参謀長宛てに出されていることが、旧日本軍が慰安婦の募集や慰安所の運営、管理に関与していた証拠であると吉見教授が主張し、『朝日新聞』が1992年に一大スクープとして取り上げた。秦郁彦、小林よしのり、高橋史朗らは「慰安婦を誘拐まがいの募集を行なう業者がいるから注意せよという「関与」を示すものだ」と「よい関与論」を唱え反論した。
1940年9月19日、『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布している。
1941年刊行(推定)清水一郎陸軍主計少佐編著『初級作戦給養百題』(陸軍主計団記事発行部『陸軍主計団記事』第三七八号附録)では作戦給養(経理)業務のひとつに「慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演芸会ノ開催」とある。
1942年9月3日の陸軍省課長会報で倉本敬次郎恩賞課長は「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり」としてその結果を報告した。それによると、設置された軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所であった。
台湾での慰安婦 台湾軍が南方軍の求めにより「従軍慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大臣に求めた公文書「台電 第602号」がある。
朝鮮での慰安婦
朝鮮半島では国家総動員法に次ぐ国民徴用令に基づいた挺身隊(女子の動員は1943年9月から)から、植民地女性を中心に慰安婦にさせられた場合があったとされているが、当時の朝鮮では「挺身隊」を「慰安婦」と混同するデマが流布しており、また慰安婦と称する者の証言以外には「慰安婦強制連行」の客観的証拠は見つかっておらず、朝鮮半島における命令書等の公文書は現在までに発見されていない。クマワスラミ報告書も「慰安婦の募集に関する公文書はなく、証拠は元慰安婦の証言だけ」としている。吉見義明も1997年2月27日の朝鮮時報(朝鮮総連機関紙)で「『官憲による奴隷狩りのような連行』を裏付ける文書は今のところ出ていない」と認め、またアジア女性基金呼びかけ人で東京大学教授の和田春樹も「官憲による直接的強制」を立証する文書資料はまだ発見されていないと述べた。
千田夏光や吉見義明らは「強制連行」を指示する資料が見つからないのは旧日本軍が資料を焼却処分したためであり、また、未だ公開されていない資料もあると推測している。河野洋平も2007年3月、「従軍慰安婦の徴集命令に関する旧日本軍の資料は処分されていたと推定もできる」と発言しているが、確実な資料が発見されたわけではなく、推測の域にとどまっている。 
海外・国連の関連資料
米軍作成の捕虜尋問報告書(1944)
日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする目的で、北ビルマ(現:ミャンマー)のミートキーナー(ミチナ、Myitkyina)で捕虜となった慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対して、米国陸軍の戦争情報局心理作戦班が「戦闘地域の日本軍の売春所」と題する報告書を1944年9月に作成、同年11月、米軍の東南アジア翻訳尋問センターが作成した尋問報告書の中に含まれていたこの報告書は、29年後の1973年に公開された。
以下、主な内容。
「慰安婦」とは、日本軍に特有の語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower)に過ぎない。日本軍は1942年にこのような朝鮮人慰安婦を703人ほどビルマに向けて出航させたと報告されている。
1942年5月上旬、日本の斡旋業者が、日本が新たに勝ち取った東南アジアの属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を徴募するために朝鮮に赴いた。この「奉仕」の中身は明らかにされていなかったが、病院で負傷者を見舞ったり、包帯を巻いたり、一般的に兵士を慰労することと考えられていた。、「多くの収入が得られる」、「家族の借金を返すことができる」、「簡単な仕事」、「新しい土地(シンガポール)で新しい生活が出来る」などの斡旋業者の偽りの誘い文句によって、多くの少女達が海外での仕事に応募し、前金として数百円が与えられた。
彼女らの大半は無知で教育も受けていなかった。以前から「地球最古の職業」(売春)に関係していた者もわずかながらいた。彼女らは、家族の借金返済の為に前借りした借金額に応じて6ヶ月から1年、軍の規則と慰安所の経営者のための仕事に従事する契約に署名した。
約800人の少女達が集められ、日本人の慰安所経営者と共に1942年8月20日にラングーン入りした。彼女らは8人から22人のグループに分けられ、大抵はビルマの各地の軍拠点の近くの街に派遣された。
ミッチーナでは、彼女らは通常2階建ての大きな建物に住んでおり、個室で生活し、仕事をした。食事は慰安所経営者が準備した。彼女らはほしいものを買えるだけの多くのお金を持っており、暮らしぶりは良好であった。彼女らは、服、靴、タバコを買えたし、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人からの多くのプレゼントで化粧品をまかなえた。また将兵と共に、スポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等を楽しんだ。蓄音機も持っており、買い物に行くことも許された。接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあった。彼女らの健康状態は良く、各種の避妊用具を十分に支給されていた。
決まった日本軍医が週1回訪れ、病気が見つかった女性は全員治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。
日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚した者もいた。
慰安所経営者は彼女らが契約時に借りた借金額に応じて、彼女らの総収入の50 - 60%を受け取っていた。すなわち、彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済した。さらに、多くの経営者は慰安婦の食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を大変厳しいものにした。
1943年後半、陸軍は借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は韓国へ帰国することをゆるされた。
連合軍の爆撃のため、慰安婦らは捕らえられる直前には、ほとんど壕の中で過ごした。1 - 2名の慰安婦はそこでも仕事を続けた。慰安所は爆撃に遭い、何人かの慰安婦は負傷したり、死亡したりした。
この報告書を巡る評価は以下の通り。
秦郁彦は「資料的価値は高い」とし。小林よしのりは、同報告書の内容は、それまでに伝えられていた慰安婦の生活状況が悲惨であるということとは程遠く、むしろ恵まれていたのではないかと主張している。
これに対して京都大学の白石秀人は、「慰安婦の容姿が水準以下であるとか、無知でわがままであるとか、慰安婦自身が答えている」、「『彼女たちの暮らし向きはよかった』とある一方で、『彼女たちは生活困難に陥っていた』との記載もある」などと、報告書自体の不自然さや矛盾と思うものを指摘し、また慰安婦の待遇が良かったという例はこれ一つ位しか見あたらず、これをもって全慰安婦らの生活が良好であったかのように主張するのは論理が飛躍していると反論している。また、白石は、吉見が「秦氏らが比島軍政監部の慰安所規定などの「一次資料」を無視して、前記米軍の資料を使用している」と批判していることを引用している。
旧日本軍には:ビルマ・マレー・インドシナ・フィリピン・オセアニアなど様々な方面軍があり、最終配置としては南方8方面が知られ、1992年、1993年発表の政府資料には、マレー、ビルマ方面の慰安所規定がある。 その一つ、1943年の中部ビルマのマンダレー(2007年現在のビルマの首都)の駐屯地慰安所規定1938-5-26によれば、「慰安婦の他出に際しては、経営者の証印ある他出証を携行せしむるものとす」とあり、 料金時間は下兵30分、他に「慰安所における軍人軍属など使用者の守るべき注意事項」として、 「過度の飲酒者は遊興せざること」「従業員(慰安婦を含む)に対し粗暴の振る舞いをなさざること」「サック」を必ず使用し確実に洗浄を行い性病予防を完全ならしむること」「違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながりうる」という規定が存在する。 
東京裁判における資料
中国占領日本軍の 工場就職口実 従軍慰安婦募集 詐欺 (「極東国際軍事裁判」判決)Judgment International Military Tribunal for the Far East , p1022
サンフランシスコ講和条約 11 条項: Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East (日本は 「極東国際軍事裁判」の判決を 認める)
ジョージ・ヒックスの著作
オーストラリア人ジャーナリストであるジョージ・ヒックス(George Hicks)の著作”The Comfort Women”(1995年刊)は同年に三一書房から『性の奴隷 従軍慰安婦』と題して日本語版が刊行された。同書では千田夏光の『従軍慰安婦』、金一勉(キム・イルミョン)『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』、吉田清治、吉見義明らの著作が参照され、これらの著作や証言のすべてが真実のものとして取り扱われており、現在では捏造が明らかになった吉田証言にも依拠している。またこの著書の資料については東京大学教授高橋彰の紹介で在日朝鮮人三世のリ・ユミが情報の80%を収集し、またチャルマーズ・ジョンソンの紹介でリ・ハイキュン教授にも資料を提供してもらい、他には吉見義明の協力を得たとヒックスは述べている。しかし秦郁彦の評価によれば、本書はどの文献を参照したのか脚注もついておらず、また原著にない部分を記していたりしており、初歩的な間違いと歪曲だらけの通俗書と断じている。
クマラスワミ報告書と「ミクロネシア慰安婦虐殺事件」
国連報告をまとめたクマラスワミ報告も参考文献はヒックスの著作のみに依拠しているという。
クマラスワミ報告の第21項には「ミクロネシアで70人の慰安婦が日本軍に虐殺された」とあるが、この報告書の引用元であるヒックスの著作、およびヒックスの著作の引用元である金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(1976)にも人数名は記載されておらず、クマラスワミ報告の人数の出典は不明である。
なお金一勉の著作では、日本共産党の京都市議西口克己の小説『廓』(1969年)が引用されている。この西口克己の小説の末尾に1944年2月17日、ミクロネシアのトラック島で米軍の空襲中、日本軍が慰安婦を機関銃で皆殺しにしたとあるが、秦郁彦によれば、そのような虐殺があれば戦後の大がかりなトラック島戦犯法廷で裁かれているはずだが取り上げられていないし、またトラック島第四海軍施設部にいた阿部キヨの回想では空襲直後に女性陣総引揚命令が出され1944年2月28日には氷川丸などを乗り継いで帰国したが、100人ほどの慰安婦も同乗していたし、「そのような事件は当時聞いたことがない」と証言していること、また金子兜太も同様の証言をしていることなどから、これは西口によるフィクションであるとしている。なお『廓』は直木賞候補にもなった回想録スタイルの小説である。
このほか、クマラスワミ報告には数多い事実誤認や歪曲が指摘されている。歴史家の秦郁彦は東京でクマラスワミ本人と一時間ほど質疑した際に「慰安婦の雇用契約は日本軍でなく民間業者との間でむすばれた」と指摘したことが、同報告書では「秦は慰安婦が日本陸軍と契約を交わした(…)と述べた」と歪曲されて記載され、「まことの心外」として批判している。
マクドゥーガル報告書
同じく国連で報告書をまとめたマクドゥーガル報告書でも「20万」の慰安婦が強制連行されたと報告されたが、日本のアジア女性基金の調査で、その出典は自民党代議士の個人的な発言に過ぎず、根拠とならないと批判している。
さらに、1999年の日弁連主催のゲイ・マクドゥーガル講演会において、吉見義明はマクドゥーガルが政府調査に基づくと報告した中で実際に政府資料にない箇所を本人を前に指摘したが、マクドゥーガルは無視したという。
韓国軍慰安婦の資料
韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』では朝鮮戦争中の韓国軍慰安婦や慰安所についての記録や統計がなされている。金喜午(김희오)大将は韓国軍慰安婦について明らかにされたくはない恥ずかしい軍部の恥部であるが事実であると証言している。
「慰安婦」訴訟・関連訴訟
1966年、大韓民国大法院は慰安婦として35歳までに得られるはずであった報酬に見合う損害賠償を求めた慰安婦の告訴を棄却する。韓国人、中国人などを中心に、元慰安婦であると名乗り出た人々がこれまでに強制的に慰安婦にされたとして、日本政府に対し、謝罪と賠償を求める訴訟を起こして来たが、時効・除斥期間の経過、大日本帝国憲法が定めていた「国家無答責の法理」(官吏が公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする)、「個人を国際法の主体と認めない」などの理由で全て敗訴している。
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(1991年提訴、2004年最高裁で敗訴)
釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(1992年提訴、2003年最高裁で敗訴) - この関釜裁判における一審判決(1998年4月27山口地裁下関支部)では、慰安婦側の請求が唯一認められた。原告らが売春を強制されたことを事実認定し、国の立法義務、立法の不作為を認め、「慰安婦」一人あたり30万円の支払いを命じ、一部ながら国の責任を認めた判決として注目を集めた。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は、一審判決を破棄し、原告に対して、立法行為への規制が司法判断になじまない事、該当事項に関する立法責任が明文化されていない事などを理由に慰安婦側の請求を「全面棄却」。最高裁への上告(2003年3月25日)も棄却され、最終的には慰安婦側の敗訴が確定した。
在日韓国人女性が1993年4月に東京地裁に提訴した謝罪・補償請求訴訟で、2000年11月に東京高裁は原告の請求を棄却する判決を出した。この際、判決効力に関連のない傍論において、裁判長は旧日本軍の慰安婦に対する行為が国際法違反であるとの意見を述べた。原告は「国際法違反であるとの判断を示したこと」については僅かながら評価したが判決を不服として上告したもの敗訴した。なお、この傍論をもってVAWW-NETジャパンは「国際法違反であると認定された」と解釈しているが、日本同様に国際社会においても、この慰安婦問題に対する評価は確定していない。
2000年9月、第二次世界大戦中に日本軍に慰安婦にさせられたとする、在米中国人および韓国人ら女性計15人が、日本政府を相手取って損害賠償請求の集団訴訟をワシントン連邦地方裁判所で起こした。アメリカ合衆国最高裁判所は、2006年2月21日却下の最終判断を下した。
日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷(女性国際戦犯法廷とも) - 2000年に東京で開催された民衆法廷(模擬法廷)で、昭和天皇と日本国家を、奴隷制度・強制連行・強姦・人身売買により人道に対する罪で有罪と判決。
ソウル行政裁判所は2009年8月14日、日韓請求権並びに経済協力協定によって戦後補償は解決済みと判決。
フィリピン最高裁は2010年4月28日、自国民の日本政府に対する要求について裁判所が行政機関に意見することは出来ないとして請求棄却。また、日本との外交関係を混乱させ地域の安定を損なうとの外務省の判断があったと指摘した。原告の慰安婦たちは、当局に国際司法の場に持ち込むよう要求、また1951年の日本国との平和条約は無効とし、アジア女性基金から償い金を受け取り謝罪を受け入れたフィリピン政府を国際法違反と主張していた。
韓国の憲法裁判所が2011年8月10日、「韓国政府が日本に対して元慰安婦の賠償請求のための外交交渉をしないことは憲法違反」と判決。 
 
1938-39年の日中外交

 

アーチバルド・クラーク・カー大使(Ambassador Archibald Clark Kerr)というイギリス人が、1938年から1942年の間、上海にいた。 駐華英国大使である。
カー大使というと、テンピンルーに詳しい方は思い付く人もいるだろう。
カー大使の名前は一冊の日本の文献に出てくる。「近衛文隆追悼集」がそれだ。現在は国会図書館でしか閲覧できないと思う。シベリア抑留で亡くなった近衛文隆の生前中の知人や恩師が彼について語った本だ。その本の中で、元満州の建国大学教授中山優氏と、近衛文麿前首相が和平のための密使として上海に送り込んだ早水親重の二人がカー大使に言及している。
まず中山優氏の方であるが、近衛文隆が父近衛文麿の名代として中国戦線慰問に訪れる際に、近衛公から息子の案内役に指名されたのが中山優教授だ。1938年10月のことで、約1ヶ月にわたり、満州から内モンゴル、南京、漢口、そして上海と回った。
その中山優氏の書いた追悼文より、該当部分をそのまま引用する。
その頃(注:1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが日本の有力者に一度重慶(注:蒋介石国民党の本拠地)を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するということで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は「捕虜になってもいいから行きましょう」という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した。 引用終わり
また、ネット上に、「中山優選集」の抜粋が掲載されおり、「近衛家の悲劇」の章で、同じようにカー大使に触れていたので、該当部分のみを引用する。
はじめ別な世界の人のようにおもつていた近衛公とその一家の人たちは、きわめて自然な、癖のない高雅な人たちであつて私には親しまれた。旅行中、文隆君が上海で毎日の高石真五郎氏に出あったら、英国大使のカーが、「誰か日本人の有力者に重慶をみせて、日本人の認識を改めたい、安全は英国々旗で保証するから行かぬか」というが僕にはその勇気がない、文降さんが行かぬかとすすめられた。文隆君は捕虜になる覚悟で行こうと主張するのを、私は役目がら漸く引つばつて日本に帰った。公爵夫妻も私の案内役を喜ばれたが、あの時、もし文隆君の主張に従つて二人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異ったものができたかも知れぬ。 引用終わり
次に、早水親重氏の追悼文の該当部分を引用する。
従って話は、打開の方途を考えようじゃないか、という事になって別れた。それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。六月上旬、汪精衛氏等七人の要人が上京、直接陳情となって廟議(びょうぎ)は俄然その方向に傾き、六月五日のいわゆる対支処理要綱で直接交渉派の動きは一切まかりならぬ事とあいなり、万事休した。六月八日には近衛君は荻外荘(てきがいそう。近衛家の別荘)に軟禁、小生等二人(注:もう一人は武田信近。影佐機関と対立する小野寺機関所属)は東京より二十四時間以内に退去するようにと軍当局より命ぜられる事になった。小生の知る限り、近衛公に代わって直接交渉の道を開き、少しでも公の責任を軽くせしめんとした彼の雄図も、再び上海の土を踏めず破れ去ってしまった。 引用終わり
以上、二人の文章から読み取れることは、1938年10月頃に、クラーク・カー大使が日本人有力者を蒋介石のいる重慶に案内しようとし、たまたま上海にいた文隆に白羽の矢が立ったこと。そして半年後の1939年5月頃、今度はカー大使が近衛文隆氏を指名して、自らの斡旋により重慶へ案内し、蒋介石と直接交渉させようとしたことの2点だ。
そして、クラーク・カー大使の一連の動きからは、少なくとも1939年5月頃までは、イギリスには日中の和平を仲介しようという意図があったのかもしれない、とも類推される。 
引き続き、アーチバルド・クラーク・カー大使というイギリス人大使による日中の和平仲介の動きがあったのでは?という仮説を検証してみる。1938年から1939年のことだ。
オーストラリア発行の新聞記事がネット上にアーカイブされていたので、そこから検証してみる。
まずはこの1938年2月9日の記事から。オーストラリア西部のカルガリーマイナーという新聞の記事だ。1938年2月というと、前年の12月に日本軍が南京を陥落させ、ようやく落ちついてきた頃で、1月には近衛文麿首相が、「今後、蒋介石を相手とせず」という傲慢な声明を発した頃のことである。
[日本語訳] 仲介者としてのイギリス 日本ストーリー
東京 2月8日
香港にいる日本特派員の話によると、中国はイギリスに対し、日中和平の仲介役をしてもらおうと接近しているという。この「日々新聞」特派員は、中国の首相Kung(注:孔祥熙。コウショウギ。蒋介石国民党政府の首相)は、最初の提案において蒋介石夫人を使っているという。「日々新聞」はまた、新しく赴任したクラーク・カー大使が、中国のメンツを潰さず、同時に極東における日本の立場を認めるなんらかの方策をもたらしてくれるだろう、と期待している。(この情報は、香港のいずれのイギリス情報筋でも確認されていない)
ロンドン 2月9日
在ロンドン中国大使は、イギリスに対する和平仲介依頼の話は確認されていないと述べた。 以上引用終わり
次に、翌日の2月10日、キャンベラタイムスの記事である。
[日本語訳] 和平仲介 最新のうわさ 中国は日本の謀略だと言う 香港 水曜日
漢口と東京による否定にもかかわらず、中国におけるイギリスの和平仲介のうわさはさらに広がっている。これはクン首相(孔祥熙。コウショウギ)が、香港のイギリス総領事と夕食を共にした事実に端を発している。中国当局は、このうわさは中国国内の分裂を目的とした日本の謀略だ、と発表した。
中国は続ける ロンドン 水曜日
デイリーテレグラフ上海特派員は、オーストラリア人で蒋介石の相談役であるW.H.ドナルド氏の話として、「報道されているような、蒋介石夫人や親族関係者によるいかなる和平の動きも全くない」と語った。
「中国はやめない」、と彼は続けた。「新しい部隊がルンハイの前線に派遣され、ウーフーと漢口では反撃に出ている。広東では日本の南方への進出を食い止めており、反撃の準備が続けられている」とした。 引用終わり
中国側は、イギリスの仲介による和平の動きを完全否定している。この二つの記事から真実かどうかはわからない。日本側には、現状を追認した和平への期待があるようである。
ちなみに、クラーク・カー大使の中国赴任は、1938年1月初頭だと思われる(注:その後の調べで1938年2月中旬と判明)。下の写真では「このほど中国への新しい英国大使としてアーチバルド・ジョン・クラーク・カーが指名された」と、1937年12月28日付けのクレジット文が添付されている。写真は彼の就任披露のセレモニーだろう。彼の赴任後一ヶ月で、上記のような日中和平の仲介のうわさが広がったことになる。前任地はイラクで、中国の次に駐ソ連大使となり、戦後はヨーロッパ復興のための米国による援助計画「マーシャルプラン」のきっかけを作った人物だ。 
クラーク・カー大使の中国赴任は1938年1月早々のことと思われたが、実際には2月半ばのことのようである。
このほど、クラーク・カー大使の伝記を入手することができた("RADICAL DIPLOMAT" The Life of Archibald Clark Kerr Lord Inverchapel, 1882-1951 Donald Gillees 著)。当時の新聞記事だけでなく、この伝記を見ることによって、本当に重慶の蒋介石との直接和平交渉の道を開くために、クラーク・カー大使が近衛文隆を重慶へ連れていこうとしたのか、そのヒントが得られたらと思う。
まず、クラーク・カー大使の中国赴任の時期の確認の前に、彼の前任大使に対する銃撃事件に触れる必要がある。クラーク・カー大使の前任者たる中華英国大使は、ナッチブル・ヒューゲッセン大使であるが、ヒューゲッセン大使の退任は、突然訪れた。それは、日本海軍機による銃撃がもととなっていた。
1937年8月26日の午後、ヒューゲッセン大使を乗せた車両は、南京を出て戦火にある上海へ向かっていた。彼の車両の屋根には大きなユニオンジャックが描かれていた。ところが、その車両へこともあろうに、日本海軍機が機銃掃射したのだ。日本側は誤射を主張したが、ことの真相は不明である。
ヒューゲッセン大使は、腹に銃弾を受け、緊急手術で背骨付近から銃弾を摘出することとなった。幸い命には別状がなかったが、英国へ帰国せざるを得なくなった。このとき、まずいことに、日本海軍や日本政府は、面子にこだわり最後まで正式な謝罪をせず、むしろ事件のねつ造を訴える方途に出てしまった。
中国を巡るイギリスの立場と日本の立場は、1931年9月18日の満州事変のころより、既得権益を奪われるイギリス、奪う日本という相反するもので、もともと対日感情の悪いところに、これはイギリス人の反日感情にさらに追い打ちをかける事件となった。
そんな中での1937年12月にクラーク・カー大使の赴任決定である。彼が日中の戦争において、中国側に付くのは自然のことだろう。彼は中国での赴任の間、一貫して本国政府に対して、蒋介石中国政府への支援を訴え続けた。
目を日本の駐日英国大使に向けてみると、当時はクレイギーという大使が東京駐在だった。このクレイギー大使は、親日派であり、中国におけるイギリスの権益は日本との協調によって維持される、という自説を持っていた。このクレイギー大使とクラーク・カー大使はその後の対中国政策でことごとくぶつかることになる。
1938年の1月、クラーク・カー大使は、さまざまな中国専門家からレクチャーを受けた末、妻のTita(ティータ)とともにロンドンを出航、2月17日に香港に到着した。
前述で1938年2月8日東京電のオーストラリア カルガリー新聞記事が、「新しく赴任した駐華英国大使のクラーク・カー大使が、中国の面子を潰さず、同時に日本の権益も認めてくれるのでは」と日本側が期待している、と書いていたのを紹介したが、まだこの時点では、クラーク・カー大使夫妻は船の中、ようやく10日後に香港に到着するという時間軸だったことがわかる。つまり、日本はそれほどせっぱ詰まっており、洋上にいる新任大使に、和平の期待を抱いていたとも言えよう。 
ここまでの新聞記事を見た限りでは、日本側は、イギリスに日中の和平仲介の役目を期待していた一方、中国側は中国側からの和平仲介は望んでいない、という印象操作をしようとしていたことがわかる。
ところが、クラーク・カー大使の伝記「Radical Diplomat」の87ページに、どうやらそうでもないような記述があった。 以下引用
Since July the Chinese had appealed for British efforts to galvanize international disapproval and push for economic sanction against Japan. In addition, China hoped that Britain would lead an attempt to broker peace. Chamberlain was reluctant to be seen to do either with any alacrity: he also padded away Chinese requests for military and financial aid. 引用終わり
[日本語訳] 中国は、7月(注:1937年。盧溝橋事件のあった時期)以来、イギリスが、日本への国際的な批判と対日制裁強化を主導するよう、主張していた。それに加えて、中国は、イギリスによる日本との和平仲介を望んでいた。チェンバレン(注:イギリス首相)は、そのどちらも簡単にできるなどと思われたくはなかった。それどころか、彼は中国からの軍事的、財政的支援要求を断った。
赤字で示した部分の証拠となる事実は、この本には見あたらなかったが、中国側にも日中戦争当初は、早期和平の希望もあったようである。しかし、そのことを中国は悟られたくはないために、新聞記事では強く否定することとなったようだ。
また、クラーク・カー大使の思いとは別に、イギリス本国のチェンバレン内閣は、この時点で中国への肩入れを避ける傾向があったようだ。これは、極東における日英軍事力のバランスが圧倒的に不利であること、来るべきヨーロッパ戦線に集中すべきと判断していたこと、アメリカの参戦を待っていたことが理由であろう。
さて、1938年2月17日、クラーク・カー大使は香港に到着した。その夜の歓迎ディナーで彼は、蒋介石夫人宋美麗の兄で、政治的にも経済的にも中国国民党の5本の指に入る実力者、宋子文と会っている。
宋子文は、1940年以降、たびたび日本陸軍の今井武夫が和平交渉をした相手、宋子良の兄でもある。ただし実際には、今井武夫は偽の宋子良と面会をしていたふしもある(「支那事変の回想」今井武夫著による)。
クラーク・カー大使は、香港に長めに滞在して、多くの現地在住イギリス人から中国情報を仕入れようとしていたようだが、上海での緊迫した情勢は、それを許さなかった。上海の英国大使館からの電話にせかされて、その月のうちに彼は妻のティタと共に、上海に上陸することとなった。
1938年の2月といえば・・・・・
近衛文隆を政治的に葬り去った日本陸軍憲兵隊の林秀澄が、台湾から上海への赴任命令を受けたのも1938年2月であった。
中支那派遣軍憲兵隊とは上海市域を担当する憲兵隊である。彼は3年の台湾勤務を経て、ようやく東京に帰れるものとばかり思っていた。それが上海だ。抗日の巣窟、事変の混乱もさめやらぬ魔都上海である。林は頭がくらくらしてきた。しかし気を取り直して、上海での防諜と、抗日テロ対策に専念することを誓うのだった。
その日も上海では、鄭蘋如(テンピンルー)が日本のラジオ局、「大上海放送局」のアナウンサーとして、可憐な声を電波に乗せていた。同時に、ピンルーは抗日地下組織の運用メンバーにもなっていた。林秀澄が鄭蘋如の名を知るのに、それからさほど時間はかからなかった。 引用終わり 
クラーク・カー大使が香港滞在を短く切り上げ上海へ急ぐことになったのは、1937年末のあたりから、上海でのイギリスビジネス界への日本側の圧力が急速に強まってきたのと、日本軍による挑発が盛んになってきたためだ。
1937年12月5日、上海南方の街、蕪湖(ぶこ、ウーフー)を日本軍が空襲をした時に、3隻のイギリス商船が損害を受け、イギリス海軍レディーバード号にも砲弾の破片が当たる事件があった。一週間後、再びレディーバード号が挑発を受けただけでなく、ビー号も至近弾を受けた。この攻撃では、アメリカ海軍パネイ号が爆撃され沈没、乗組員に死傷者が出た(日本側は、偶発的な誤爆であると主張)。
一方、1938年1月4日には、上海で日本軍が行進しているときにテロリストが手榴弾を投げ込む事件も発生。日本陸軍上海憲兵隊は、共同租界内の管理強化をイギリスに要請していた。イギリスは、ヒューゲッセン駐華英国大使が日本軍機の機銃掃射を受けて帰国して以来約半年間、大使不在が続いていたため、さまざまな外交交渉で見劣りがしていた。そのような中でのクラーク・カー大使の早期着任要請だった。
1938年2月下旬に上海に着いたクラーク・カー大使は、情況分析に約1ヶ月かけた末に、蒋介石に会う準備を始めた。就任の挨拶ということになる。妻のティタも同行している。ちなみに、日本陸軍上海憲兵隊長の林秀澄が台湾から上海へ異動してくるのが3月1日付けなので、ちょうどこの頃のことだ。
クラーク・カー大使が蒋介石へ会うまでの旅程は次の通りだ。
上海を出て香港に到着、数日間を過ごしたあと、イギリス海軍の砲艦で広東へ。広東からは特別列車を仕立てて、800kmの鉄道の旅で杭州へ。杭州から飛行機に乗って、重慶空港に1938年4月9日に到着。空港からはセダンチェアーの馬車に乗って、急峻なガケを登り、中華民国の首都重慶の官邸街に到着。4月12日、公式に就任披露が行われた。
中華民国は本来の首都南京が日本軍に占領されていたため、重慶を首都と定めていた。
首都重慶で中華民国政府に挨拶を済ませたクラーク・カー大使は、今度は漢口(現在の武漢)にまで戻らなければならなかった。重慶には蒋介石はおらず、戦場に近い漢口で軍事的な指揮を執っていたのだ。クラーク・カー大使と妻ティタは、今度は揚子江を600kmも蒸気船で宜昌(ぎしょう)まで下り、そこから漢口への約300kmを飛行機で飛んだ。カー大使は、ソ連とアメリカの両大使と会談をした後、ついに4月24日、蒋介石と会談、夕食を共にすることができた。
蒋介石夫人の宋美麗はアメリカで教育を受けていたため、流ちょうな英語で通訳をすることができたことも幸いし、カー大使は蒋介石の考えに好印象を持ったようである。蒋介石側はクラーク・カー大使に対して、イギリスの対中支援が足りないと申し出るとともに、できるだけ長く漢口にいるようにうながした。英国大使がいる間は、日本軍が爆撃をしてこないだろうという算段である。逆に言うと、すでに漢口が、1938年春の段階で日本軍の爆撃の危機にあることを示している。
実際の漢口攻略戦と漢口爆撃は1938年8月から10月25日のことで、日本軍の占領で終わった。同時に、漢口爆撃の人的被害の写真がアメリカで大きくクローズアップされ、アメリカ人の反日意識が高まってしまう結果ともなった。
約5週間の長旅の末、5月1日にクラーク・カー大使一行は上海に戻ってきた。妻のティタにとってはとても重荷となった旅だったようで、彼女はその後の夫、カー大使への同行を拒むようになってしまった。30歳代半ばの彼女にとっては内陸中国で黄砂にまみれるよりは、上海のナイトライフを楽しむ方を取ったようだ。
一方、クラーク・カーは、漢口が日本の攻略作戦に晒されるまでに少なくとももう一度漢口の蒋介石のもとを訪れているようである。
The West Australian 1938年7月1日の記事にはこう書いてある。
[日本語訳] 和平の仲介を否定 イギリス大使が語る 香港 6月30日 
駐華英国大使(サー・アーチバルド・クラーク・カー大使)は、本日、漢口へ向かう飛行機の中で、彼が和平の仲介をしているといううわさを否定した。彼はこう言った。「大使というものはポケットの中にいつも平和の旗を持ち歩いているわけじゃないんだよ。」
相も変わらずの和平仲介のうわさ記事だ。今度は英連邦オーストラリアの新聞に出た。英国にもなんとか和平に持ち込めないか、という期待感があり、それがこのような記事に現れるのだろう。
この訪問からほどなくして、蒋介石は漢口を脱出し、重慶を根拠地とせざるを得なくなる。 
クラーク・カー大使の尽力もむなしく、1938年7月のイギリス議会は中国援助案を否決した。この時の中華民国側の落胆は相当なもので、「ソ連への結びつきを強化する」という、脅しに近い示唆もイギリスに対してなされる始末だった。
(このソ連へのアプローチの話は、以前にまとめた記事「上海防空戦」を再読すると、あながち嘘ではないかもしれない。日本軍によって壊滅させられた中国空軍は、ソ連空軍の支援による立て直しを模索していた)
そのころヨーロッパでは、ヒットラードイツがチェコスロバキアのズデーデン地方を占領した問題について英仏独伊の4カ国がミュンヘン協定へ向けた会談を行っていた。その結果は、ドイツが既に占領したところは現状維持とし、その代わりに、新たな領土拡張を行わない、とするものであった。これは既に領土拡張を果たしたヒットラードイツの外交的勝利である。
中国大陸に置き換えると、日本のこれまでの占領地を認める代わりに新たな領土拡張は認めないという考えに結びつく。日本側はミュンヘン協定を肯定的にとらえ、中国側は外交的な警戒を強めたことは想像にかたくない。
そのような情況の中、1938年の10月14日、クラーク・カー大使は、長沙(ちょうさ)にいる蒋介石と会談するために上海を出発した。長沙は、中華民国政府のある重慶と、上海の中間地点にある都市だ(長沙の位置)。 蒋介石は、それまで軍事的な指揮をとる根拠地としていた漢口(現在の武漢)を、早晩日本軍が攻略することを見越して密かに脱出しており、長沙を新たな根拠地としていた。実際、10月12日、香港の北にあるバイアス湾に3万人の日本軍が上陸、香港を孤立させ、広東を占領、10月25日には日本軍は蒋介石が逃げた後の漢口を攻略した。
クラーク・カー大使の長沙滞在は、11月24日まで約1ヶ月続く長いものとなったが、蒋介石との最初の会談は11月4日になされた。会談内容は公式には残されていないが、彼の伝記「Radical Diplomat」によれば、クラーク・カー大使から蒋介石へ、反日テロリストの活動場所として、天津のイギリス租界を利用しないことを要求している。反日テロリストは、暗殺や爆発などのテロ行為の後に、中国警察や日本軍憲兵の影響力の及ばないイギリス租界へ逃げ込む事件が多発していたようである。おそらくこれは上海も同じ情況であったろう。
会談の二日前の1938年11月2日には、日本政府が「東亜新秩序」なる宣言を発表した。これは「アジアはアジア人のものであり、欧米列強からアジア人の手に取り戻すべきだ」という宣言で、満州、日本、中国が平和に手を結ぶことを呼びかけるものだった。蒋介石国民党陣営は、アメリカはもとより、イギリスからの支援もろくに得られない情況や、日本軍の圧倒的な軍事力の前に、日本との融和を求める声も出てきているタイミングだった。蒋介石は、クラーク・カー大使に対して、「もし日本が中国に勝てば、イギリスのアジアにおける地位は終わる」と警告し、危機感をあらわにしたようである。
さて今回の記事の目的の一つは、クラーク・カー大使が、近衛文隆を重慶に連れて行き、蒋介石、あるいは重慶側要人に会わせて日中和平の一助を担おうとした、という仮説の検証である。それは、繰り返しになるが、中山優氏が「近衛文隆追悼集」に寄せた下記の文章がヒントになっている。中山優氏は、満州建国大学教授で、当時の前の首相で父ある近衛文麿のブレーンの一人。父親文麿が長男近衛文隆の中国戦線慰問旅行の付き添いに指名した人物だ。
この慰問旅行は、1938年10月から11月にかけて行われ、満州、内モンゴル、南京、漢口、そして上海から日本へ帰国、というルートである。そして文隆が上海に滞在中にクラーク・カー大使から、おそらくは間接的に、誘いがあったとされている。
以下、「近衛文隆追悼集」より中山優氏の文章を引用
その頃(注:中国戦線慰問旅行をした1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが 日本の有力者に一度重慶を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するという ことで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は 「捕虜になってもいいから行きましょう」という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した。 引用終わり
このように近衛文隆が重慶に(あるいは蒋介石に会いに)行くチャンスがあったことは日本側の文献に2、3残されているのだが、ことの真偽は不明だった。今回、クラーク・カー大使の伝記「Radical Diplomat」を紐解き、クラーク・カー大使が実際に1938年10月14日上海発で、蒋介石を訪問しているが明らかになったことで、彼が日本人記者を同行させようとしていたことの信憑性が高まった。そして最初に名前が上がったのは、毎日新聞の高石記者だったが、毎日新聞社がこの話に乗らなかったのか、何かの都合が悪かったのか、次に近衛文隆に白羽の矢が当たった、ということだ。
外交交渉のために国の要人同士が会談するときに、マスコミが同行することは現代では当然のことだが、当時もそうだったようだ。前回の記事でも引用したが、ザ・ウエスト・オーストラリアン紙の1938年7月1日にはこう書いてある。
[日本語訳] 和平の仲介を否定 イギリス大使が語る 香港発 6月30日 
駐華英国大使(サー・アーチバルド・クラーク・カー大使)は、本日、漢口へ向かう飛行機の中で、彼が和平の仲介をしているといううわさを否定した。彼はこう言った。「大使というものはポケットの中にいつも平和の旗を持ち歩いているわけじゃないんだよ。」 引用終わり
この記事は、クラーク・カー大使が搭乗した飛行機の中で、記者が聞いた話になっている。おそらく同行記者だったのだろう。
さて、偶然訪れた近衛文隆の蒋介石訪問、面談のチャンスは、付き添い人の中山優氏の慎重な判断によって実現しなかった。文隆はこの中国戦線慰問旅行から11月に日本に帰国した。
そして、翌年の1939年の2月に、今度は上海同文書院という日本人向け大学の学生主事という肩書きを得て、再び上海の土を踏むことになる。彼の悲劇的運命を決定づけた上海における日中和平への試みに、果たしてクラーク・カー大使が絡むのかどうか、を検証してみたい。 
近衛文隆は、1939年の2月に上海の地をふたたび踏み、東亜同文書院の職員として働き始めた。これは単に失業中の彼が新たな就職先を見つけた、ということではなく、前の首相で父でもある近衛文麿の和平密使の一人として送り込まれた、のであろうと私は見ている。
近衛文隆の赴任からほどなくして、テンピンルー(鄭蘋如)が日本人の誰かの紹介を携えて近衛文隆の職場を訪れている。この紹介者は、同じく近衛文麿が和平密使として一足早く上海に送り込み、和平工作組織「小野寺機関」に属していた早水親重(はやみちかしげ)と推測される。
近衛文隆は、その後5月に、影佐機関の暗躍によって日本に強制的に帰国させられるまでの約4ヶ月弱、上海で和平工作に動くことになるが、その間に彼にとって二度目のとなる蒋介石訪問のチャンスが巡ってきたことを、日本の文献で見ることができる。
以下、繰り返しとなるが「近衛文隆追悼集」に寄せた早水親重の文章を引用する。
従って話は、打開の方途(注:停滞している日中和平交渉の打開)を考えようじゃないか、という事になって別れた(注:東亜同文書院での早水親重と近衛文隆の最初の面会から別れた)。
それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。
また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。
五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。 引用終わり
上記の早水親重氏の文章からは、1939年4月から5月頃にかけて、クラーク・カー大使が近衛文隆に対して、自分が紹介するから蒋介石との直接交渉に重慶に行ってはどうか、という提案があったととれるので、今回はここを検証してみる。
クラーク・カー大使の伝記、「Radical Diplomat」の103ページに以下の文章が書いてあった。
Clark Kerr left for Chungking, whrere he arrivied on 19 April. (中略) Clark Kerr was naturally sympathetic to the Chinese resistance, but he was also now resident in Chungking, had met Chiang on the twenty-second and even been for a picnic the following week with the Generalissimo and Madame Chiang. (中略) He left Chungking on 19 of May, travelling to Hong Kong, where he hoped to sort out the practicalities of his proposed internment scheme. In Hong Kong he also had several meeting with Edgar Snow, Gunther Stein and others of the pro-Chinese left in the colony who strengthened his resolve on the issue.
[日本語訳] クラーク・カー大使は、(上海から)重慶に出発、4月19日に到着。(中略) クラーク・カー大使は中国人に対して同情心を持つにいたっていたが、彼は今や重慶の住民ともなった。4月22日に蒋介石に会い、翌週にはなんと蒋介石夫妻とピクニックにも行っている。(中略) 重慶を5月19日離れ、香港に立ち寄り、天津事件(注:天津のイギリス租界における日本側官憲の捜査権限についての圧力)の収集策を練った。彼はまた香港で、エドガー・スノーや、ギュンター・シュタインらの親中派と面談をし彼の解決策に賛同を得た。
以下、関連のオーストラリアの新聞記事を掲載する。
[日本語訳] 英国大使の交渉 早期和平交渉のうわさ 上海(1939年)4月9日
東京駐在の英国大使ロバート・クレイギーは本日、上海訪問を短く切り上げ東京へ発った。駐華英国大使アーチバルド・クラーク・カーは、クレイギー大使との折衝後、重慶(中国西部の政権首都)へ出発した。ある重要な進展の可能性が噂されている。それは大使が早期和平を試みるという噂だ。
[日本語訳] うわさを否定 ささやかれているイギリスの和平提案
東京(1939年)6月8日
駐華英国大使が、蒋介石に対して和平の道筋を開くために辞任を要求した、との噂が、今日の東京株式市場をかけめぐり、株式は全面高となっている。
上海(1939年)6月8日
駐華英国大使(アーチバルド・クラーク・カー)は、蒋介石将軍に和平の示唆をしてはいない、と公式に発表した。
以上、1938年の10月の蒋介石・クラーク・カー会談時と同様、日本側にはクラーク・カー大使に和平の望みを託す思いが記事となってあらわれており、イギリス側がうわさを即座に否定する図式が繰り返されている。
ここで横道に少し逸れるが、上記のクラーク・カー大使の伝記の中に、ギュンター・シュタインという名前が出たので、思い出した。以前の記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」で出てきた名前なのだ。そこで前の記事を読み返してみると、ギュンター・シュタインは、ゾルゲスパイ団の一員で、東京と中国を行き来して伝書係になっていた人物だった。ゾルゲスパイ団はクラーク・カー大使とも、日本の軍事情報について情報交換をしていたようだ。
以下、以前の記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」の中の文章を引用する。
上海のゾルゲ一派と日本のゾルゲ一派の間には無線連絡以外に、伝書使が行き来していたのも事実だ。上に引用した永松の文章の中に、ゾルゲ一派の無線技師、マックスクラウゼンの妻、アンナが下着に隠してマイクロフィルムを長崎出港の船で上海に持ち 込む記述があった。映画のようなシーンであるが、ゾルゲ自身によって書かれた「獄中手記」(1962年みすず書房出版)によるとこう書いてある。かくして、私はクラウゼン、クラウゼン夫人、ギュンター・シュタイン、そして彼女の女友達といった数名の者を、伝書使として使うことができた。1937年の初めから1938年の夏にかけて、私はこの連中を代わる代わる上海へ派遣して書類を運ばせた。 引用終わり
また、おなじく名前の出てきたエドガー・スノウは、共産主義を信奉するアメリカ人作家であり、後の毛沢東のプロパガンダにとって無くてはならない人物となった、この時期の彼は反日プロパガンダの片棒を担いでいた。
話を元に戻す。
今回、このように日英の文書を合わせ読むことで、クラーク・カー大使が近衛文隆に和平進展にプラスになるだろうとの望みをかけて、一回目は1938年10月に長沙にいる蒋介石に、二回目は1939年4月に重慶にいる蒋介石に会わせようとした、あるいは少なくとも中華民国政府を訪問させようとした、という仮説について、時期の整合性が裏付けられた。
私は、この二度目の蒋介石との会談への同行プランには、テンピンルーの推奨もあったと踏んでいる。英国大使館筋と日本側の人的関係は、中国権益と租界統治における対立的立場から難しいものがあったはずである。テンピンルーは、近衛文隆との交際を通じて彼の「人となり」を知る立場であり、また、父親が日本で教育を受けた中国人高等検察官、母親が日本人、そして英語を話せるという希有な人材であった。彼女の仲立ちがあったからこそのプランだったのではないだろうか。
しかし、日中和平の進展にいくばくかの望みを持っていたクラーク・カー大使は、その後1939年6月に入って、銃撃の恐怖にさらされてしまう。決して殺害には至らないのだが、恐怖を与える襲撃のやり方がなされたうようだ。下記に関連記事を掲載する。
[日本語訳] 大使への脅迫 クラーク・カー大使の安全確保を増強 上海(1939年)6月13日
駐華英国大使、アーチバルド・クラーク・カーの安全確保のため、特別警戒が取られている。これは、彼に対する殺害予告にもとづくものだ。中国人の武装警官が、彼の私邸のある和平通りに配置され、イギリス軍と警察官も増強された。大使がどこかに行くときは昼も夜も自動車とバイクに先導され、車内では防弾チョッキを着た武装警官にガードされた。
英国大使館は、先週の土曜日に思い当たることがあった。前回の脅しよりも今回の方が強いものだ。しかし、これが日本側の影響下にあるテロリストの行為なのか、天津租界の殺人容疑者を日本側に引き渡そうとしているイギリスに対する中国側の警告なのかを測りかねている。
この脅迫が行われた1939年6月は、影佐機関、ならびに上海憲兵隊長林秀澄らによる、近衛文隆や早水親重ら和平工作員の日本への強制帰国、テンピンルーと情報交換していた反戦和平派の花野吉平ら軍内文官の逮捕の流れがあった。
その後の影佐機関(梅機関)と、林秀澄率いる上海憲兵隊の傘下にあるテロリスト集団「ジェスフィールド76号」によるテンピンルー射殺の事実などを合わせて考えると、クラーク・カー大使への銃撃による脅迫は、日本側(影佐機関)による工作だと思われる。降ってわいたような、近衛文隆による蒋介石直接訪問および直接和平交渉プランは、影佐機関にとってはやっかいな障害物となったのだろう。
残念ながら、クラーク・カー大使による日中和平仲介につながる動きは、この銃撃騒ぎを境に全く見えなくなりなった。第三国を通じた日中和平はその後は行われた形跡がない。
そして影佐一派が進めていた「汪精衛・中華民国」、との和平が進められると同時に、「蒋介石・中華民国」、との戦争は継続される、という二重構造となった。そして、この構造は1945年8月15日まで続きくのだった。 
 
川島芳子

 

1945年8月15日の終戦日から約二ヶ月後の10月10日、北京紫禁城で、北支地区の日本軍が降伏文書に調印した。その日、川島芳子が北京で逮捕された。彼女を捕らえたのは、2年間も彼女の隠れ家にボーイとして雇われていた男であった。その男の正体は蘭衣社の地下工作員であった。彼女の消息はそこからぷっつりと切れる。約1年後の1946年7月3日、北京の新聞が「金璧輝は、7月2日河北高等法院に移送され、近く公判に付される」と報道した。(中略)
そこからさらに1年以上後の秋、彼女の消息がようやく明るみにされた。彼女の第一回公判は1947年10月8日、河北高等法院でやっと開廷の運びとなったが、この有名な女性の姿を一目見ようと殺到した群衆は3千人を突破したという。それが我先を争い、狭い法廷に押し寄せ、喧嘩が起こる、殴り合いが始まる、そして法廷の扉や窓ガラスをたたき割るやら、イスを踏みつぶすやら、大混乱に陥ってしまった。このため裁判は一時延期され、公園の広場を臨時法廷として、公開裁判が行われた。
だが大詰めは意外に早くきた。10月22日の公判で彼女は死刑判決を受けた。彼女はこれを不服として、南京の最高法院に上訴し、再審請求した。1948年3月3日の報道によると、最高法院は原判決支持の判決を下した。これで死刑が確定した。
判決理由は次の通りである。
請求人、金璧輝は、清国の粛親王の娘で、日本人川島浪速の養女となり、川島芳子と名乗った。幼時より養父の訓育を受け武士道を注入され、中国語、日本語、英語、フランス語と、文学に通じ、男装を喜び、講演をよくし、ダンス、水泳、射撃、乗馬に長じ、自動車、飛行機操縦の技能を収めた。
養父川島浪速は、頭山満、近衛文麿、多田駿、松岡洋右、小磯国昭、東条英機、土肥原賢二、岡村寧次、和知鷹二らと連絡があり、請求人もこれらと接触して武士道精神を養成し、軍事、政治についての関心を深めた。父、粛親王は清国再興を図ったが成らず、請求人は外力を借りて父の遺志を遂げようとした。日本政府はそれを利用し、満州事変後、中国に対する秘密工作に従事させた。
請求人は1931年上海に至り、ダンサーとなり我が国の政治、軍事情報を探り、日本を助けて翌年、第一次上海事変を発生させた。また兄、金璧東と溥儀の妻を護送して、長春(新京)に赴き、満州国政府を組織し、皇宮の女官長となった。
支那事変発生後、日本の駐天津軍司令部の多田駿、特務機関長の和知鷹二らと共謀し、汪兆銘を利用し、偽国民政府の樹立に努力し、我が政府を転覆させようとした。その後、偽河北人民自衛軍総司令、北京満州同郷会総裁、中華採金公司董事長、留日学生総裁等に任じ、終始一貫して日本に通じ、国に反逆した。
我が国勝利後、1945年11月、軍事委員会北京行営督察所が逮捕したが、請求人の罪状は軍事委員会調査統計局での自白書を見ても明白である。また日本人、村松梢風著「男装の麗人」および、李香蘭主演映画「黎明の暁」(このタイトルは誤りと思われるが、原文通りにしておく)、また「満州建国の黎明」(注:このタイトルは「満蒙建国の黎明」と思われる)、その他請求人方の家宅捜索で押収した日記、手紙等によっても立証される。 
さて、山口淑子氏の自伝「李香蘭を生きて」の注釈によると、「黎明の暁」なる映画への出演は山口氏は記憶になく、似たタイトルの映画「黎明曙光」(1940年9月公開)にも出演しておらず真相は不明とある。ただ、ひょんなことから、李香蘭が歌舞伎座の「黎明曙光」という公演に出演していることが判明した。これは李香蘭情報としては新たな発掘かもしれない。
李香蘭が特別出演している。日にちが書いておらず、毎夕5時開演とだけ書いてあるので、歌舞伎座周辺での手配りチラシのようなものだろうか。推薦者として拓務省とあるが拓務省は1941年11月1日に大東亜省に発展解消しているので、この舞台が演じられたのは1940年9月から1941年の10月までの間である。1941年の2月には李香蘭は日満親善歌う大使として来日しており、有名な「日劇7回り半事件」がおきている。彼女はその合間を縫ってこの舞台に出たのだろう。
また、1932年に当時人気絶頂であった女優、入江たか子主演で溝口健二が監督、川島芳子をモデルとした「満蒙建国の黎明」という映画が満州をロケ地として制作されている。このことから、漢奸裁判判決文にある「黎明の暁」というタイトルは、李香蘭特別出演の舞台「黎明曙光」と、入江たか子主演映画「満蒙建国の黎明」(上の写真)を混同したものと思われる。 
川島芳子はこの死刑を宣告する判決書を受け取ってからも北京の地方法院に再審請求を提出した。却下されると河北高等法院に抗議書を提出した。その抗議書の中で、「私は日本の高級将校と親密な関係にあった田島芳子という女性と間違えられている」と述べ、再審の懇願を続けた。
そのころAP通信の記者が獄中の彼女を訪ねた。その会見記によると、二年間の長い獄中生活で彼女は健康を損ない、上の歯は抜け落ちて、まるで人が変わったようになっていた。大きな黒い瞳がわずかに在りし日の美しさの名残りであった。相変わらず髪は男刈りで短くし、ねずみ色のジャケットにズボンをはいていた。(中略)
彼女は獄中で数奇を極めた一生の手記を日本文で書きつつあった。その手記を東京にいる83才の養父、川島浪速に送るつもりでいると言ったが、しかし、「紙を買うお金も無いので、書けるかどうか分かりません」と悲しそうに言った。金がないので食べ物も差し入れてもらえず、獄中の粗末な食事で飢えをしのいでいると言った。彼女はAP記者に、「なぜみんな私を殺したいのかしら・・・」となじったが、哀れみを請うような態度は少しも見られなかった。
1948年3月25日午前5時、夜明け前の暗闇の中、彼女は二人の刑吏に連れられて最高法院北平(北京)分院の刑場にやって来た。壁際向かって立つと執行官は、「なにか言い残すことはないか」と尋ねた。彼女は、「長年お世話になった養父の川島浪速に手紙を出したい」と言って、立ったまま日本文で養父あての手紙を認めた(書いた)。 
さて、「川島芳子が17才で自殺未遂を起こし、断髪し、男装を始めたのは、養父川島浪速による性的虐待、あるいは強姦があったから」、とする説がある。しかし、この益井による記録からは、芳子が川島浪速に対して恨みを持っていたとは思えない。生涯の最後の瞬間にお世話になった養父に手紙を送りたい、という考えが浮かぶというのは、この記録が本当だとすればやはり純粋に感謝の気持ちがあったとしか思えない。(注:山口淑子著「李香蘭を生きて」を読み直したところ、「獄中からの手紙」という章で、「十歳若い生年月日を書きこんだ戸籍謄本を送って欲しい」という手紙を何度も出している、という記載がある。もともと養父には多くの手紙を出していたようである)
彼女は3才から20才の日本在住時代に、中国語はもちろん、英語、フランス語と文学を学び、乗馬や水泳などのスポーツ、車や飛行機の操縦、また養父の人脈関係から武士道や政治、軍事に関して幅広く学んだ。これらは川島浪速の教育的理解があってこそだろう。 
執行官はひざまづくように命じ、やがて一発の銃弾が彼女の後頭部を貫いた。波乱に富んだ34年間の生涯を閉じた。係官の話によると、「彼女は貴婦人のように、眉一つ動かさず、誇り高く死んだ」と伝えられた。
北京の市民は、「3才の時、日本人の養女となり、日本人として育った以上、真の日本人なら誰でもするであろうことをしたまでだ」と言って、彼女に心から同情した。
彼女を惜しむ心理が後日、ちまたに、「刑死したのは替え玉で、本当の川島芳子は密かに脱走して生きている」という噂をふりまいた。
彼女の兄、愛新覚羅憲立(あいしんかくらけんりゅう)の手記によると、漢奸裁判でいくら調べても彼女に不利な証拠は出なかった。逆に彼女に助けられた蒋介石国民党の地下工作員から、有利な証言がたくさん出た。にもかかわらず死刑を宣告したのは、国民政府立法院長、孫科の命令であったという。孫科は昔、上海で川島芳子を秘書としていたときに機密情報を取られたことがあり、それが暴露されると自分が危ないと思ったからだという。
また係の判事は、兄の憲立に対して、「彼女の命を助けたいなら、金の延べ棒50本を出せ」と強要したので、それに近い額の賄賂を出した。にもかかわらず死刑の宣告が下った。判決理由書を見ると、唯一の証拠らしいものは、村松梢風の「男装の麗人」という一冊の本だけである。死刑の判決があってからも、「処刑した形にして生かしておいてあげるから、金の延べ棒100本出せ」と言ってきたという。
夜明け前の処刑に立ち会ったのは、米人記者たった一人である。兄は金の延べ棒を出したが故に、「処刑された芳子は替え玉かも知れない。芳子は脱出して、蒙古かロシアに生きのびたかも知れない。私には判断がつきかねる。とにかく骨肉の兄として、その生存を信じるよりほかにない」とその手記を結んでいる。 
私が不思議に思うのは、なぜ午前5時という夜明け前の暗闇のなかで処刑したのかということ。他の漢奸の処刑は、昼間の公開処刑である。
漢奸裁判後に益井が情報収集していたこの「川島芳子の処刑替え玉説」。60年後の今になって中国で新たな生存説が出てきて、再び話題となっている。2008年11月18日、時事通信社の配信した川島芳子生存説について語る李香蘭の記事を次に記載する。 
川島芳子は生きていた? 李香蘭が語る (時事通信社)
旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」川島芳子が処刑を逃れ、中国東北地方の吉林省長春市で78年まで生きていたという証言について、旧満州で歌手兼女優の李香蘭として活躍し、芳子と親交があった元参院議員山口淑子さん(88)は18日、「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」と語った。
「妹のようにかわいがってくれた」。
山口さんが芳子と初めて会ったのは16歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は「君も 『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」と最初から打ち解けた。山口さんは13歳年上で、り りしい男装姿の芳子を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「方おばさん」として処刑から30年生き延びたとされる芳子が形見として残したものの中に、李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌っ たレコードがあった話を知ると、「そう言えば、お兄ちゃんと最後に博多で会ったときに、李香蘭のレコードを擦り切れるまで聞いているよ、と言ってくれたの を思い出した」。
「生存情報とともにレコードが残されていたということも縁を感じる」と感慨深げだった。
清朝の王女ながら日本人の養女となり、日本籍を取得していなかったため、中国人として死刑判決を受けた芳子。中国で生まれ育ち、中国名で活躍した山口さんも終戦後、中国で「売国奴」として裁判にかけられたが、国籍が日本だったため帰国を果たした。
「国籍という紙切れで、私とお兄ちゃんは運命が変わった」と山口さん。
「78年まで生きていたのなら会いたかった。でも、隠れて暮らしていたんでしょうから、会えなかったでしょうね。切ない思いもする」と声を詰まらせた。 
続「川島芳子は生きていた」
2009年4月20日、中国のネットニュースサイトである、「人民網」に、川島芳子の記事が載っていた。人民網は、中国共産党機関紙「人民日報」のネット版である。つまり、国の思想、政策を国民に伝える宣撫、広報機関である。宣撫目的のため、中国人からも「題名と日付しか合っていない」と皮肉を言われる新聞のようであるが、政府、共産党の公式見解を伝えるメディアとしてやはり重要性があるとも見られている。
先日のテレビ朝日の放送と歩を合わせたような記事であったが、独自の内容もあったので、こちらで3つほど紹介したい。もしかしたら、テレビ朝日でも同じ情報を得ていたのかも知れないが、なんらかの理由で、あえて放送を控えたか、本当に時間が無かったか、そのような情報はそもそもなかったか、いずれにせよ放送されなかった部分である。
1. 李香蘭こと山口淑子氏は、「川島芳子以外の何者でもない」と語る?
テレビ朝日の放送では、画家でもある張ト(ちょうぎょく)さんの描いた方おばあさんの絵をみて、「これはお兄ちゃん」(注:お兄ちゃんとは李香蘭から見た川島芳子の呼び名)だという山口淑子氏の発言を得ていた。しかし、もしこの絵を張トさんが、川島芳子の写真を見ながら描いたとしたら、似ていて当たりまえである。これは残念ながらなんの証拠にもなっていなかった。
ところが、人民網の記事では、張トさんが山口淑子氏に、方おばあさんの生活習慣や住居、茶室の装飾を伝えると、山口氏は、「それはお兄ちゃんだ」と言ったというのだ。となると話は別である。そして、取材者があらためて山口氏に「方おばあさんは、川島芳子でしょうか?」と訊ね、山口氏が「それ以外考えられない」と答えたというのだ。
山口淑子氏によって15分と制限された取材時間は、結局4時間に及んだという。しかし、山口氏が本当にそう答えたかどうか、我々には確認のしようがない。
2. 筆跡鑑定の結果、方おばあさんは、川島芳子だと・・・
張トさんが言うには、方おばあさんは、張トさんを描いた肖像画を一枚描いたらしい。そしてそこにはかすかに、”姥留念”(うばの記念、という意味)という三文字が書いてあった。吉林省の筆跡鑑定家である郭相武が、その三文字と、川島芳子が川島浪速に宛てた手紙の文字を比較したところ、癖が一致しており、その癖は、偽者が思いも寄らないものであり、同一人物だと認定したらしい。
3. テレビ朝日の放送では、寺に安置してあった方おばあさんの物と思われる骨片が、なんらかの妨害工作により入手できなかったとなっていたが、実際は、骨片を調査しており、その骨は完全に焼却されていたため十分なDNAが採取できなかったということである。
以上が、テレビ朝日の放送で提供された情報以外の部分である。そのほか、たとえば日本側の骨格鑑定調査の結果なども記載されている。歴史調査は往々にしていいとこ取りをしがちで、海外にそれを見つけると、お互いが知らないうちにキャッチボールをしていることがある。今回の中国側調査の結果は、ほぼ100%、方おばあさん=川島芳子ということのようである。
さて、冒頭にも書いたが、人民網は人民日報なる中国共産党機関紙のネット版である。その記事は、政府・中国共産党の意志、政策、思想を国民の間に浸透させる目的を持っている。この川島芳子の記事はいったいどういう意図があるのだろうか。
あるいは、三面記事的、娯楽的要素を持った記事なのだろうか。もしかしたら政治的な要素抜きに、本当にそうなのかもしれない。
記事は、しっかりと最後に囲みで川島芳子のプロフィールを以下のようにまとめている。あくまで川島芳子は中国にとっては悪人であることでは一貫している。
東方の魔女 川島芳子(1906〜1948)
彼女は敵を味方と取り違えて、日本軍国主義の暴威を頼り、清帝国復活の甘い夢を実現するために日本のスパイになった。“男装の女性スパイ”と称されて、満州傀儡政権を画策する日本と、国民党との間に立って、秘密兵器となった。日本の中国侵略戦争で重要な作用を発揮。満州事変、満州の独立などの重大な秘密活動をして、国内外を驚かせ、第一次上海事変で売国奴的な活動をした。日本の諜報機関の一枝の花。 
 
国民国家とナショナリズム

 

(一)ナショナリズムの歴史社会学
年甲斐もなくこの手強いテーマに挑むまえに、少し独り言をいわせてもらう。わたくしは昭和六年(一九三一年)生まれである。それは十五年戦争が始まったときで、わたくしの少年期と青年期は丁度、戦前から戦後への端境期に当たるのである。戦争には行かずにすんだ。歳のめぐりあわせで父には召集令状が来なかったし、敗戦間近に来た叔父は、すでに壮年を過ぎかかった歳で、戦場に駆り出されこともなく帰ってきた。年上の従兄弟たちも内地から出撃する前に戦争が終わってしまった。だからわたくしの身内で戦死した人はいない。でも、母の身内に地下に潜っていた共産党の活動家がいて、年に一度か二度こっそり現れては二、三日泊まっていったこと、支那事変の初期のころに父の縁続きに甲種合格で陸軍に入隊した人がいて、日曜ごとに松戸の兵営から家にやってきて母の手料理をたべるのを唯一の楽しみにしていたこと、いまは僧侶になっているその人にせがんで聞いた軍隊生活のあれこれ、戦争が激しくなってからの不自由な生活、なによりも生活まるごと浸かっていた戦意高揚のプロパガンダとか、連夜の空襲の怖さとか、食べるものがないひもじさとか、わたくしにもそれなりに戦争の体験はある。
中学一年のとき戦争が終り、ティーンエイジャー時代のまっただ中を、今度は一転して、アメリカ軍の占領下、頭のてっぺんから足の先まで戦後民主主義に浸かった。でも、民主主義のカリキュラムによる新しい教育は受けなかった。新しい日本の政府にまだその準備ができていなかったのだ。それでも、私たちはみんな次第にアメリカ人が好きになっていった。
つくづく思うのだけれど、私たちくらい、ナショナリズムと気軽に付き合った年代はないのではあるまいか。私たちは、いちばん始めに、ナショナリズムを信用することをやめた。だが、信用するには足りないが、ナショナリズムは便利な道具だった。神国思想ともヒューマニズムとも折り合い、極端から極端へと飛び移るイデオロギーに耐えうるのはナショナリズムしかないだろうし、しかも、そいつは戦前の一円札のようにはかないものだったとはいえ、頼りになってもならなくても、日本国の円は日本国で唯一通用するお金であったのと同様、自分たちがこの地球の上で生き延びていけるのは、国民としての身分あるいはアイデンティティがあればこそだということは、戦に負けたからこそ、骨身に沁みて知っている。「良かれ悪しかれ、おれたちのネイション(国)だ」というわけである。異国で敗残の身となった兵士たちには、復員する先があった。私たちがいくら空襲を喰らったって、そこは自分の国土だった。そこから追い立てを喰うことはなかった。荒廃した国土に佇む私たちは、少年ながらも、そこに平和が戻った幸せよく承知していたのである。そうしてその幸せは、私たちには無残に破壊された国土に進駐してきたアメリカ軍が運んできたもののように思えたのだった。それがただの錯覚ではなかった証拠に、初め恐ろしかった彼らは、やがて信頼できる人道主義と憧れのアメリカ文化の象徴になった。いまから見れば、それはまったく奇妙な光景だったに違いない。でも奇妙でもなんでも、おそらく私たちほど、昭和二十年代の生活と感情の変遷を、頭ではなく、肌身で知っている世代はないはずである。
当時の大人たちは、つまり明治と大正生まれの人たちはよく、アジア・太平洋戦争が始まったとき、底抜けの開放感・高揚感を味わったという。例えば、詩人高村光太郎(一八八三〜一九五六年)は、宣戦布告を聞いたときこう歌う。「詔勅をきいて身ぶるいした・・・天皇あやうし・・・身をすてるほかはない 陛下をまもろう」(色川大吉『明治の文化』一九七〇年)。彼らの日本国民としての帰属意識あるいはアイデンティティは、いまから見れば、いささか芝居がかっている。誰かに手もなく乗せられたといった風に見える。少なくとも、昭和生まれのわたくしは、戦後回想したかぎりでは、そのような感情を彼らとはまったく共有しない。
かように、同時代の私たちのなかにさえ分かり合えない部分がある。まして、ちょっとでも時代が隔たればなおさらのことだ。同じ国民だという意識を共有していても、いわずとも分かり合えるはずだというのは危険な思い込みである。同じ社会でも、いくつもの層をなしていて、重なり合ったそれぞれの層をほぐしていく努力が欠かせないゆえんである。いかにもむつかしい言い方ではあるが、「歴史社会学は、異質的な部分々を共存させ、その表象をめぐる処理の論理を明らかにしつつ組み入れて、それ自体が認識のプロセスを表明しているような構造を有する蓄積として始まる」(佐藤健二『歴史社会学の作法』二〇〇一年)という言説を、わたくしは、わたくしなりに噛みしめたい。
佐藤の本などを読んで、わたくしは、「歴史社会学」という語をやっと最近になって知った。でも、考えてみるまでもなく、歴史社会学という名称で包括されるような著述には過去幾度も出会っていたのだった。佐藤が挙げる柳田國男の著作はもとより、近代史家色川大吉の仕事もまた、そう呼ぶに相応しい内容をもっている。ナショナリズムについて考える上で、出来るかできないかは別にして、わたくしもその作法を取り入れてみることにしよう。ナショナリズムにはいろんな顔があり、それぞれが一個のイデオロギーであるだろうが、ナショナリズムをイデオロギーとしてではなく、柔軟で包括的な考え方の「作法」として捉えることが可能だと思っている。
イデオロギーとしてのナショナリズムにはすっかり愛想を尽かした私たちには、歳をとってもなお、そこから逃れることができない拠りどころにすべき思想は、やっぱりナショナリズムのほかにはないというのがわたくしのエッセイのテーマとなる。
ナショナリズムというのは、存外、新しい概念であるらしい。それは、おそらく近代国家が誕生してから起こったのだった。国民という共通の帰属意識がなければ、そもそもナショナリズムという言葉自体意味をなさないのだから。そして国民とは、まさに近代国家が生み出したごく新しい概念であるという前提に私たちは立つ。国民社会の重なり合った層のあいだからナショナリズムという感情が芽生えたと考えるのだ。それまでは小さな生活共同体の連帯意識で事足りていたのが、強大な中央集権国家というものができて、小さな地域共同体を超えて連帯意識の統合の範囲が広がっていくとともに、国への帰属意識というものに質的に変わっていっただろう。むろんそこには、絶え間ない国家権力の強制があった。国民としての帰属意識の統合に近代国家の存立が懸かっていたのである。ナショナリズム(国家意識)として表されたものは、明治政府の指導者や官僚たちによって都合よく理論が組み替えられながら、次第に、人びとのあいだに認知されていき、同時に、それ自身自立した生き物のように、状況に応じて変化・成長していったはずだ。そうして、変幻に分化し、イデオロギー化したその姿を私たちは見るのだろう。
佐藤がいう歴史社会学は「それ自体が認識のプロセスを表明しているような構造を有する蓄積から始まる」ということをナショリズムに当てはめてみれば、そういうことではないかと思っている。歴史社会学とは、社会の構造をその社会に固有な独自な層を成すものとして捉え、同時に、そこに客観的・法則的なものを探る作法をいうだろうとわたくしは理解する。そしてそれは、そのまま歴史学の方法でもあるだろう。私たちのナショナリズムはもちろん私たちの顔をしている。だが、それにはとどまらない。ナショナリズムは、地球上の近代国家(国民国家)につきものの、それ自身の運動法則をもったシステムでもあるのだ。
グローバリゼイションとナショナリズムさまざまなナショナリズム論があるけれども、論じる人によってそれぞれの顔がある。いまもいったように、私たち日本人が論じるナショナリズムは、いくら客観的・抽象的に論じているつもりでも、日本らしい顔をしているはずである。といっても、それは、そのなかに一般的な定義あるいは共通項が見出せることと矛盾しない。分析を通して、いくつかのモデルと、そのなかに私たちにとっての理想の形を予測することが不可能だとは思わない。
いま私たちにとってナショナリズムの問題がふたたび切実になってきたのは、グローバリゼイションということと関係がある。つまり、近代国家の運動法則がついにそこまで届いて、ナショナリズムにまた新たな変質を迫っているのだ。私たちの思惑には関係なく、世界がグローバリゼイションの方向に動いていることを否定しても無駄だということはだれにも分かっている。だが同時に、グローバリゼイションが私たちの社会の伝統と秩序を破壊してしまうのではないかと恐れてもいるのである。それぞれの国民が育て、守り続けてきた共同体的道徳の危機をそこに嗅ぎ付けているからだ。合理化一点張りのグローバリゼイションの防波堤になりうるものとして、ここに、ナショナリズムが改めて意識されてきたのだった。
この場合のナショナリズムは、ただの保守主義とは違う。ある意味で、リベラリズムとも個人主義とも連携しているからである。むしろナショナリズムが対決しようとしているのは、一見、「新」ナショナリズム風の顔をしている、ネオ・リベラリズムとか、ネオ・コンサーヴァティヴとか、ネオ(新)という字を被せた新たな自由主義経済の思想である。グローバリゼイションは、まだきちんと定義されない段階でとりあえず、国家によって制御され保護された市場経済重視の自由主義と、貪婪な独占的多国籍企業とは相性がよいシステムと見なされていて、そのイデオロギーが新自由主義なのだ。
グローバリゼイションは、いわば経済発展段階の一つの指標で、それ自体、良いものでも悪いものでもない。でも、いま論じられているナショナリズムとグローバリゼイションの関係は、ねじれてもいるし、複雑でもあるので、良いグローバリゼイションと悪いグローバリゼイション、良いナショナリズムと悪いナショナリズム、良い自由主義と悪い自由主義とを区別することから始めるのがよさそうだ。そうして、前もっていってしまえば、いま私たちが見出そうとしているのは、対の語の良い方のぜんぶに関わるリベラル・デモクラシー(人権に配慮する民主主義)である。
ケベック・プロヴィンス(州)というフランス語圏をうちに抱え、英語とフランス語の二つの公用語をもつカナダは、多民族国家あるいは多文化国家であることを公に宣言する国であり、ナショナリズムとグローバリゼイションが交差する典型的な場所である。ケベック州民の圧倒的多数がフランス語を使い、一九九九年の調査では、半数の人びとが自分はカナダ人である前にケベック州民であると考え、カナダ国民であることを誇りに思うと答える人が半分もいない「特別な地域」であるこの州を除けば、全体の九割を占める残りの州の住民は、カナダ国民としての誇りと帰属意識をもっている(K・マックロバーツ『ネイション・ステイツの将来とケベック州とカナダの関係』)。もとより彼らのほとんどは英語を使うのである。このような国から発信されるナショナリズム論は、当然のことながらカナダの顔をしている。それは「ステイツ」と「ネイション」を分ける思想である。ステイツのなかにネイションが包み込まれる状況を予測する強い問題意識に裏打ちされた議論が主流になるだろう。私たちは、カナダ、モントリオール(ケベック州首都)で二〇〇〇年一〇月に開催された「民族国家(国民国家)・多民族国家・超国家の機構」についての研究討論会で発表されたエッセイなどを集めた『ネイション・ステイツの行方』(二〇〇四年)から、ナショナリズムについてたくさんのことを学んだ。その第一部は総論に宛てられ、九つのエッセイが載せてある。編者のM・セイモアは、これらのエッセイを伝統的なネイション・ステイツの有効性をより強く信じるグループとマルチ・ネイション・ステイツ(多民族国家)および超国家的な機構の有効性を信じるグループの二つに分けているが、はっきりとそのどちらかに軍配を挙げることはしていない(セイモア自身はあとのグループに属しているが)。両グループのネイション・ステイツについての認識はそんなに隔たっているわけではないからだ。
私たちが読むのは英文のエッセイなので、なによりもまず問題になりそうな英語の用語をどのように日本語に言い換えるかを吟味する必要があるが、さしずめやっかいなのが「ネイション」と「ネイション・ステイツ」の区別である。「ネイション」を辞書で引くと、国民・国家・民族と出ている。この本では、ネイション・ステイツという語が主旋律のようにして繰り返されるのだが、そうすることによって、けっして取り違えないように、国民という一致した帰属意識(アイデンティティ)を共有する人びとによって構成された、制度としての国家という意味を伝えていることが分かる。「ネイション・ステイツ」は、日本語では「国民国家」と訳される。考えてみると、この表現はおかしい。国民というのは一定の領域をもつ政治機構である国家に公式に所属する人びとを指すのだから、国民の国家では、違う範疇の同属の言葉を並べただけで、意味をなさない。
だから、「ネイション・ステイツ」のネイションには、何か別の仕掛けがあるのである。事実、ネイションだけあってステイツが欠けている場合もあるのだ。例えば、カナダのケベックやスペインのカタロニアやバスクのように。民族というのなら分かる。単一民族で構成される国という意味になるから。でもこの場合、厳密に一つの民族だけで成り立っているなどということは、理想の形でいうならともかく、実際にはありえない。せいぜいのところ、国民が圧倒的に一つの民族ないしは一つの文化社会に属している人びとで占められている国ということである。例えば、わが日本にように。ということは、それぞれ際立つ幾つもの民族や文化によって構成される国もあるということで、それを「マルチ・ナショナル・ステイツ」(多民族国家)と呼ぶ。この場合、「多国民国家」と呼ぶのがおかしいことは一目瞭然である。その国の市民権をまだ取っていない、つまり帰化していない他国民がいっぱい住んでいる場合以外は。その場合は、私たちが主題としている「ステイツ」としての特有の問題を論じるには不適切で、おのずから違った問題を構成することになる。
そこで、「ネイション・ステイツ」(国民国家)はつぎのように説明されることになる。ステイツとネイションはともに国家を意味するけれども、それぞれ違う概念であると。ステイツは支配のための権力機構を指す。一方、ネイションは「政治社会を構成するメンバーの総体を指し、人的共同体としての国家を意味する」と。「国民国家」と名実ともに呼ばれるためには、国民(ネイション)が一つの国家権力のもとに支配されているという合意と自覚が必要で、それはつまり、その国に所属する人民の間に国民的な一体意識が共有されていなければならないことを意味する(石田徹「グローバリゼイションと国民国家のゆらぎ」『グローバリゼイションと国民国家』二〇〇〇年所載)。この二つの違った概念が合体して奇跡的にぴったり重なり合ったところに生まれた初めての国民国家が、十八世紀のフランスだった。石田がいうことが間違っているとは思わないけれども、私たちは、それぞれ違った概念あるいは範疇のものが都合よく一体化するというような説明には満足できない。ステイツが機構を意味し、ネイションが人を意味するなら、両者の関係は、器とそのなかに盛った果物みたいなものだろう。法律とそれに従う人といってもよい。二つはどこまでいっても別物で、「国民国家」が、国民が国家への強い帰属意識をもつ状態を意味するのなら、それはあくまでも歴史的な一つの状況として「一致団結しているように見える」ある特殊な状況にある国家というよりほかにはないのではないか。
だからこそ、石田もネイションが擬制としての共同体にすぎないし、ステイツとの間に含まれる矛盾は、グローバリゼイションという現象のもとで、いまや広がる一方だというしかなかったのである。
さらにその他にもう一つ、『ネイション・ステイツの行方』に取り上げられている「スープラ・ナショナル」がある。これは、主権をもつ国家の枠を超えた国家連合あるいは世界国家機構のようなものを指すだろう。多数の民族がそれぞれ自治権をもち、その上に、限定的な法の強制力をもった国連機構のような、全体としてゆるやかな統治権を認める形である。
要するに、こういうことだろうと思う。単独で「ネイション」の語が使われる場合、それが国民を指すのか国家を指すのかは、使用状況によって判断される。一方、「ステイツ」は明らかに国家の制度の立場でいわれていて、そこに住んでいる人びとの違いには関わらず、すべて同じ市民権をもっている国民を法のもとに平等に扱う機構が意味されている。それにたいして、「ネイション」は国家を指す場合でも、文化的あるいは民族的な領域、つまり文化あるいは言語を共有する社会としての国家という意味が強い。ここでは国民としての帰属意識(アイデンティティ)や絆といったことが重視されるのである。だからネイション・ステイツとは、例えば戦時中の日本のように、国民と国家とが一体となった国家のあり方を指し、それが規範として捉えられているのだと。
とくに注意しておきたいのは、「ネイション」という語には、その国に支配的な文化に帰属する国民が、同じ市民権をもつ国民でありながら異なった文化に属する人びと(日本でいえば、在日韓国人)を排除する願望がおのずから含まれていること。オーストラリアのように、他民族を偏見なく受け入れていると宣言している場合でも、その国(ネイション)のなかの主流の人びと(多数派あるいは白人のように圧倒的な文化的優位を誇示できる人びと)が傍流の人びと(少数派あるいは後進国から来た移民と原住民)に寛容であることの裏には、構造的に非寛容になる権利が隠されている。ある人たちが弱い立場の人びとに寛容である場合に、その逆の関係つまり弱い立場の人びとが政治的に寛容であることはありえない。寛容そのものが不寛容と同じ一方的な権利だからだ(ガッサン・ハージ、保苅実・塩原良和訳『ホワイト・ネイション』二〇〇四年)。それに対して、ステイツという語には、制度あるいは権利としての国民がいわれているだけで、心理的なことがらである差別意識は避けられている。私たちがナショナリズムを問題にするとき、それはほとんどの場合、ネイションとしての国民が問われている。そこから、私たちは、「マルチ・ネイション・ステイツ」が、実はナショナリズムあるいはネイション・ステイツを論じるさいの本質的な対象であることを知る。
私たちは、いま「ナショナリズム」を分析することを主要な課題としているが、なによりもまず、私たちが対象としているナショナリズムが近代に出現した、いわば近代的性格を備えたものであることを確認したい。ある論者(L・グリーンフェルド)が信じているように、近代性はナショナリズムなしでは成り立たない。近代性とは私たちの文化の積み重ねからまっすぐに出てきたものであるし、ナショナリズムはまさに文化そのものなのだから。そこからナショナリズムを分ける二つのタイプ、「シヴィック」と「エスニック」が出てくる。「シヴィック」は市民のとか公民のという意味で「シヴィル」と同義。ここではナショナリズムの制度的・政治的な面がいわれる。市民権をもっているすべての国民がその国家に対してもつ帰属意識を指すのだが、それはナショナリズムの全部を説明しない。
国家の基幹あるいは主流として生まれつき、自分こそ国そのものだと信じ、自分たちだけが国家機関を牛耳り、その国のあり方のあれこれに口を出す資格があると思い込んでいる人びとがどの国にもいる。そうして、そういう意識こそがナショナリズムだと考えている人びとはもっと多い。つまり伝来の文化の面から見たナショナリズムのもう一つのタイプ、「エスニック」(人種的あるいは人種差別的)である。
シヴィック・ナショナリズムは平等な権利をもった自由な個人を母体とするから、近代的な先進民主主義国家に似合う考え方である。
自由な個人に活躍の場を与えるという方向でグローバリゼイションにも繋がり、かつ人道的に正しいという主張と国としての品格の高さを宣伝することによって、国家の国際的威信を高める。だが、人種的なあるいは文化的な立場からたち現れるエスニック・ナショナリズムもまたネイションの本質そのものである。自由に国籍を変えたり、他文化に安易に同化したりすることに対する一般の人びとの根強い反感を考えればそれは分かる。事実、両方のタイプのナショナリズムが交じり合い、渾然一体となっているのが、世界で主流をなす擬制としての単一民族・単一文化モデルのネイション・ステイツの中身である。
さらに、「リベラル・ナショナリズム」と「インテグラル(統合的)・ナショナリズム」というような分け方もある。前者が、すべての国民に個人主義と文化コミューニティの団体の権利を保障するのに対して、後者は、国家統合のために、その国の支配的な文化に国民のすべてが同化することを強制する。
とりあえず、このように幾つかの語の吟味をしたうえで、『ネイション・ステイツの行方』第一部「基礎理論―ナショナル・マルチナショナル・スープラナショナル」のネイション・ステイツ派と超国家機構派それぞれのグループに属するエッセイからまず一つずつ取り上げる。
冒頭のネイション・ステイツ派、カナダのマーガレット・キャノヴァン「眠りこける犬・うろつきまわる猫・空高く舞い上がる鳩」という幻惑的なエッセイの題名は、すべてナショナリズムにまつわる問題が一筋縄ではいかないことを示す寓意である。
「眠りこける犬」とは、シャーロック・ホームズが指摘した、犬にしては奇妙な振舞いということであり、犬が夜吼えないのにはなにか理由があるのである。あまりにも邪な民族独裁国家を退治した第二次大戦を経験したあとの世界は、ネイション・ステイツというものに妙に臆病になってしまい、特定の国民あるいは民族であることをおおっぴらに主張することさえ躊躇うようになった。人びとがナショナリズムについて話さなくなったのだ。とはいえ、ネイションもナショナリズムもこの世界からなくなってしまったのではない。私たちはあいも変わらずネイション(国民)を表に立てて生きている。憚ってばかりいないで、まず野生・野蛮なナショナリズム(犬)をただそっと眠らせたままにしておかないで、番犬として飼い慣らすことを考えるべきではないか?
「うろつきまわる猫」とは、イソップ物語にある誰が猫に鈴をつけるのかというパラドックスをいう。ソ連が崩壊して、再びいろんな地域でナショナリズムが暴れだした。しかも今度は宗教的怨念もからんだ少数民族の自決権を振りかざして。国際人道主義としてはこれを無視できない。なぜなら、私たちがいま期待するナショナリズムとは、リベラル・ナショナリズムというべきものにほかならず、自由で民主的な国民が共同体の自治権にもとづいてしっかりときずなを結ぶところに生じる。個人である前にまず国民であることが前提なのだ。でも肝心な当の国民が分裂していて、それぞれ特殊な宗教・文化をもつ個々の集団が自治権を要求したらどうなるか。リベラル・ナショナリストは、人権を擁護するという己の信条からいって、国民の多数が属する文化に、異なる文化を保持する少数派が同化するよう強制することは避けるのはよいが、国民としてのアイデンティティを共有するためには、多数派と折り合い、新たなハイブリッド(混合)文化をそこに作り出してもらう必要がある。それなのに、文化の純粋性では妥協しない保守的(統合的)ナショナリストの主張が、あらゆる文化をありのままで尊重するという点で、リベラルな国際人権擁護派と手を結んでしまう傾向がある。頑固で融通の利かないナショナリストとリベラリストと折り合うにはどうしたらよいか?
「空高く舞い上がる鳩」とは、列強を構成する西欧の人道主義者たちが、それぞれの地域の実情には目をつぶって、壮大なリベラリズムの理念を振りかざし、グローバルなプロジェクトを繰り広げるありさまを指す。国際的な貿易・金融・平和機構の創設、NGOの活躍等々。実は、それらはみんな西欧あるいは先進国の顔をしていて、彼らにとって都合のよいものばかりなのだ。国際的な受けのよいところにばかり目がいって、政治的・経済的に遅れた地域で、住民を苦しめている特殊・偶発的な政治的事件は知らん顔で放っておかれる。自国民の人権ばかりを護り、世界に向かって基本的人権を宣言するだけでは、これらの大国から疎外された人びと、いくら相手の国民には嫌われても、チャンスが見込める国へ移民するしかない人びとをちっとも救わないどころか、ますます状況を悪化させる結果にしかなっていない。
ナショナリズムが直面する三つのパラドックスとは、それについて論じている人たちが、政治権力の実態を見ないこと、政権担当者のやり方に対応できないこと、各地域で政治が直面している実情に盲目であることである。なによりもまずネイション・ステイツの足元の政治を見詰めること、そのうえで世界の政治に対処することが大切と、キャノヴァンは結論づけるのである。
超国家機構派に属するエッセイの最後を飾る『グローバル・デイーセンシー』を書いたイスラエルのアヴィシャイ・マーガリットは、「ディーセントな社会」というたいへんに興味深いアイデアを導入する。これは、品位ある社会あるいは節度ある社会という意味だろうと思う。マーガリットによれば、その社会の品性は、だれも辱めない、およそ相手に屈辱を与えるようなことをしないことに顕れる。
そういう態度がしっかりと身につき、かつ制度化されている社会が品位ある、あるいは節度ある社会の名に値する。一見、ずいぶん甘い考えにみえるけれど、そうではない。とりあえず、私たちは世界で日常茶飯事のように行われている残虐行為を差し止めなければならないのだから、いま公正で節度ある行動を取るのは、いつできるか分からない理想の世界連邦あるいは世界国家までのつなぎとしてぜひとも必要な、待ったなしの実情に対応するための政治的リアリズムに基づいた折衷的なアイデアなのである。多様な文化を保つ少数民族のあり方を理解し、そこに普遍的な人間性を見極め、理想を実現させるのは簡単なことではないだろう。ナショナリズムが一筋縄でいく問題ではないのは、キャノヴァンがいう通りでもある。だからこそ、相手を辱めないという一点で行う節度のある国際的な干渉が受け入れられなければならない。
マーガリットと同じ多民族国家社会にネイション本来の形を見るグループに属し、カナダ・ケベック州に住むミシェル・セイモアのエッセイにも、ネイション・ステイツとしてまとまっていくのに必須なものとして寛容さが指摘される。(「多民族国家における集団の権利」)リベラルな国家が自分も他人もともに尊重する善い意味での個人主義を必要とすることは、哲学者のあいだで論じつくされているけれど、その国が多民族国家である場合、セイモアは、善き個人の権利とともに集団の権利も認めなければならないという。異なる形の社会の文化を伝える少数民族が、その国の主流をなす多数派文化に同化を強制されて、彼ら独自の社会文化への帰属意識を犠牲にすることがあってはならないと。リベラルな「マルチ・ネイション・ステイツ」(多民族国家)として存立する以上、集団の権利を認めることが、全国民に一つの国民としてのアイデンティティ(帰属意識)を確保するうえで絶対に必要であるとセイモアはいう。しかも、現実の国家はと見れば、程度の差はあれ、すべて多民族国家であるといってよいのだ。個人の権利(制度上の)と集団の権利(文化上の)とは、もとより両立しない。でも一人ひとりの国民には、二つの権利をお互いが少しずつ譲歩して犠牲を分かち合う値打ちがある。とくに文化的な面においては。同じ国に属する少数民族社会が、自分たちの言葉を伝えながら、その国の統一言語を使うのは押し付けとはいわれないし、少数民族がその国の支配的な文化に進んで同化するか混合するのはむしろ普通のことだから。その点で、カナダの二公用語政策は例外であり、かつ必ずしも成功した例ともいわれない。つまり、文化の自由と政治的自由とは区別できるのである。特殊な文化社会を保っていくための集団の権利、一国民としての個人の権利を問わず、並んで認めることは可能だとセイモアは結論する。
近代ナショナリズムは個人の自由な権利を尊重するところに成り立つとネイション・ステイツ派のグリ−ンフェルドはいう。国家は、個人が自分で自分の運命を切り開くことを妨げない。それがリベラル・ナショナリズムであり、それを支えるのがリベラルなデモクラシーであると。ネイション・ステイツとは、本質的に、自由で平等な個人がつくる共同体であるのだから、彼らの活動の先に見えてくるグローバリゼイションもまた、強者の利益一点張りの悪いグローバリゼイションではなく、民主的で「ディーセントな」良いグローバリゼイションである。これらの論調にみる、ネイションの効用を強調する論者たちが容認するナショナリズムとは、一般的に、シヴィックなものだといえるであろう。そしてそれは、国造りについて論じたD・ウェインストックの場合にも共通する。普通、人気取りを意識した政治家の口から出る「国造り」とは、多数派の文化に少数派を従わせ、同化させるのが本音であろう。多数派の文化・言語・シンボルをすべての国民に強制するのだ。植民地主義といってもよい。その反対は、制定された憲法に記された範囲でのみ統合を図る行き方である。例えば、生活習慣や思想には口を出さないが、公に使われる言語と国民の権利や罰則を統一することは許される強制だというように。実際に行われている国造りは、その中間で、いわば「濃い」文化パターンに合わせながら、小数異文化も立ててやるというものだろう。そうして、そこに好ましい混合文化が生まれるのを期待するということもあるかもしれない。国造りが必要なのは、あくまでも安定したネイション・ステイツを造ることにあるが、それは、強制を覆い隠す温情主義(パターナリズム)ではけっして達成できない。自立した個人の自由と自治権が不可欠である。リベラルなデモクラシーの確立こそは王道であり、それはシヴィックなナショナリズムを前提にしている。
理念的にいって、「文化国家」とは、自分たちのものを含め、異なった国々のさまざまな異文化を合わせて尊重するということだろう。その意味では、多文化主義が基本である。文化国家とは、そういう政策をとっている国のことであり、現在では、ネイション・ステイツが保つ凝集力は、その国の文化の高さではなく、まさにそのような国の行き方が生み出しているといってよいくらいである。歴史的に見ても、ネイションはたいていが偶然の産物で、文化的な価値観や帰属意識をすべての構成員の間で共有したためしは少ない。
国家への信頼は、たいていの場合、帰属意識(アイデンティティ)の共有から生まれるのではなく、生活のレヴェルの問題である。同じ制度のもとに結びついているという意識、その制度がみんなに公平に生活の安定を保証してくれているという意識がゆきわたっていれば、それはもう十分に安定した近代国家である。国造りは、文化には口を出さず、そういう環境をつくりだすことにだけ限定すべきだと、ウェインストックはいう。R・プールの意見もまったく同じである(『ネイション・ステイツと民族自決の問題』)。近代国家においては文化こそ政治に不可欠な部分と信じる筆者は、だからこそ、近代国家はネイション・ステイツでなければならないし、リベラルなデモクラシーによって運営されなければならないという。なぜなら、「ネイション・ステイツ」とは一国が均一の文化で統制されている状態でなく、政治的に、少数民族の立場を保障するような民主的制度によって統一され、かつその政策によって国民の信頼を築いている国家のことだからである。
リベラルなネイション・ステイツをそのようなものと捉えれば、どのような文化的価値をもつ国民も、個人主義というチャンネルを通して世界に向かって自分を開いているといってもいいだろう。つまり、互いの文化を尊重しあう良いナショナリズムは、そのままで良いコスモポリタニズムに通じるのである。J・クチュールがナショナリズムと良いグローバリゼイションの関係について強調するのもその点である(『ナショナリズムとグローバル・デモクラシー』)。
利益を追求するだけの経済のグローバリゼイションは、いうまでもなく、デモクラシーを錆つかせダメにしてしまう。その防波堤となるのが、リベラルなナショナリズムであり、リベラルな文化国家である。ネイション・ステイツが近代的なものである限り、彼らの民族的資産とその文化的価値は人類共通の価値として認められに違いない。ナショナリズムが自文化を大切にし、連帯意識を強めることが、そのままコスモポリタニズムのモラルになるとクチュールはいう。文化・自由・コスモポリタニズムの三点セットが近代的ネイション・ステイツの性格を形づくるかぎり、グローバリゼイションは、それが避けられないものだとしても、良い方向に向かっている。
ネイション・ステイツの故郷は、おそらく共同体社会である。私たちの文化も政治制度も行動様式も、もとはといえば、すべて原始共同体のなかで生まれ育ったとすれば、私たちがネイションを意識するとき、文化の場としての社会と政治の場としての社会をあまり区別しないのは当然だろう。ミシェル・セイモアは、これまでのリベラリスト理論家が、単一民族国家のモデルしか念頭に置いてなかったために、国家の暴力から守られるべきものとしての個人しか考えつかなかった。彼らにとって集団はつねに暴力を振るう側だったのである。だが、いま最善の政治的実体と見なされているネイション・ステイツとは、古いリベラリストたちには理解し難いさまざまな異なった文化社会をその中に包み込む機構として理解されているのだ。もとより伝統的な単一民族国家モデルを克服するのに共通の言語や国民の歴史を捨て去る必要などない。多民族国家モデルでは、各民族の独自の文化を尊重し受け入れることが、平等な国民の政治的権利と連帯の絆から生まれる帰属意識(アイデンティティ)を形づくると考えるのである。単一の共同体の理論ではとても説明できないそのような多民族国家では、個人の権利と同様に、小数派の文化社会に属する団体の権利もまた守られる必要があるとセイモアはいう。伝統的な自由主義者はもちろんつねに個人の人権を最優先に考えるだろう。普通の人には理解し難い凝り固まった一群の人びとの集団としての権利を、政治上の要請だからといって認知するのには抵抗があるに違いない。だが多民族国家モデルでは、どんなものであれ、ある人びとを集団として認知することが必要になる。文化の統合は、すでにネイション・ステイツを測る目安ではなくなった。
国民はもうそれぞれに文化価値を共有しないし、また共有を強制される存在でもない。今日、グローバリゼイションの相のもとで考える近代的ネイション・ステイツとは、政治の場での帰属意識(アイデンティティ)によってのみ統一が保たれている存在なのだ。その意味で、私たちはいま、個人主義とともに文化共同体をも「ステイツ」から解き放ったのである。文化はそれぞれの社会をつくり、そこに属するそれぞれの個人に担われて国境を越える。
自由主義の思想も、もとより蓄積された文化の所産である。個性の自由な発展はコミューニティのなかでのみ実現すると国連の人権宣言のなかでも謳われているのだから、私たちの人権意識のなかでは、すでに個人の権利とともにコミューニティとしての団体の権利も両立している(D・イングラム『権利の補完』)。そうしてグローバリゼイションが避けられない趨勢であるのなら、ネイション・ステイツの視点から見て、強いグローバリゼイションと弱いグローバリゼイションという区別を立て、民主主義への脅威となりかねない強いグローバリゼイションに批判の目を向けるK・ニールセンもまた同じことをいっている(『ネイション・ステイツは時代遅れか?』)。
彼は、強いグローバリゼイションのイデオロギーをネオ・リベラリズム(あるいは新保守主義)といい、反民主主義的な合理的利益追求型の資本主義グローバリゼイションだと規定する。一九三〇年代に、ハイエクが国家の役割は市場がうまく機能するための環境を整えることに限定すべきだといったとき、彼はまだそれが強い覇権国家抜きでは実現しえないことを知らなかった。いま世界に自由市場を確保するためには、一つの強大で暴力的な国家の武力と、自分のイデオロギーをほしいままに押し付ける覇権主義と、宗教的な原理主義を振りかざし、福祉国家に敵意を抱くリーダーがどうしても必要である。強いグローバリゼイションが、弱い後進国の国民を犠牲にして、強力なネイション・ステイツのリーダーたちによって押し進められるという矛盾が隠しようもなく現われ出ているのだ。このままいけば、間違いなく、それは悪いグローバリゼイションにしか進まない。グローバリゼイションが避けられないものであれば、それは弱い方がよいと、ギルバート・ライルの「自分のなかの知性の声に導かれて」という言葉を引きながら、ニールセンは締めくくる。
強い・弱いの使い分けがいかに厄介なものであろうとも、そこは私たちの知恵で凌ぐしかない。それを可能にするのが、ディーセントな(節度と品性ある)ネイション・ステイトのあり方であろうから。近代国家としてのネイション・ステイツが、いまのところ人種や文化に関わりなく、日々狭くなる地球上の私たち全員が例外なく所属する政治機構であるのだから、それが何であるかを明らかにし、その行方を究明することがどうしても必要である。私たちが、国家に代わる理想的な権威を保つ緩やかな政治機構を夢み、または国家が人間の文化の唯一の帰結だと信じる必要もないが、でも、私たちが歴史のなかでつくり上げてきたネイション・ステイツという概念が、私たちの現実であり、共有してきたそれぞれの文化の帰結であったことを否定することはできない。いま、私たちは改めて、ネイション・ステイツに向き合い、その実像を新しい理論のもとで理解する時が来たと思う。その鍵はナショナリズムにある。最近手に入れたグローバリゼイションというアイデアを私たちはもっとも便利な道具として使っているが、このアイデアは、まだいまのところ、どこまで役に立つ道具なのか分かっているとはいえない。使い勝手がよいだけ、いまは魔法の小槌のように扱われていても、このアイデアが、ただの道具でない、私たちの国家進化論のゴールであるはずがないし、万能の道具としてもはたして価値があるかどうか大いに疑問である。いえることは、ナショナリズムを分析するうえで、その近代化の側面を捉えるのに、グローバリゼイションがその対の語として利用できること、もしかしたら、ナショナリズムを構成する要素の一つかかもしれないということである。私たちは、改めて、国家の歴史社会学的考察を課題にする必要がありそうである。おそらくその考察の過程で、ナショナリズムはあるべき位置に収まってくるはずだ。  
(二)ネイション・ステイツという近代国家
私たちは、私たちの日本社会を二つの側面でとらまえる。一つは近代的なネイション・ステイツ(国民国家)として。もう一つは独特な文化と伝統をもつ歴史的な国として。近代国家としての国民国家は明治維新によって日本に誕生したのであり、私たち日本人はみんな、封建国家としての幕藩体制から一気に近代的国家へと変身した「離れ業」を自慢にしている。歴史的な国としてはもう二千年近く続いていて、たまたま善い条件に恵まれたこともあるけれど、私たちはずっとこの島国に、同じ一つの民族仲間として棲みついてきた。そういう特異な環境に慣れた私たち日本人は「ネイション・ステイツ」ということをごく当たり前の現象と思うかしらないが、それは違うということをまず確認しておく必要がある。
ネイション・ステイツは近代以後に出現した現象である。ナショナリズムもまた、ネイション・ステイツとともに現れたのだから新しい現象である。ここにいう近代とは資本主義的制度が世界全体を覆う時代であり、その過程を私たちは近代化という相で捉えるだろう。だから、この二つの現象もまた近代化の一齣として現れる。少なくとも、ここで取り上げる「ネイション・ステイツ」あるいは「国民国家」と「ナショナリズム」を、私たちはこの意味で使う。
前章でもいったように、ネイション・ステイツあるいは国民国家というのは、かなり問題の多いシロモノである。それ自体、同じような意味の二つの語をくっつけた名前として、実体がよく分からないうらみがある。たとえば、アメリカ人は自分の国を「ユナイテッド・ステイツ」(合衆国)と呼び、人によってはいまでも「ステイツ」(州)を国家と観念するかもしれないが、両大洋をまたぐ巨大な国土を表現して「このネイションの隅からすみまで一つになって」(スルーアウツ・ザ・ネイション)というアメリカの政治家が好む言い方から見て、合衆国全体を「ネイション」と呼ぶことはあっても、州を「ネイション」と呼ぶことは意味をなさない。テキサスという特異な州でも、自分たちのことをネイションとは呼ばないだろう。
日本という紛れもなく典型的な「国民国家」がきわめて例外的な存在であるように、国民国家は、ある特殊な状況のもとに、特殊な時代に現れた、歴史的な概念である。ヨーロッパのそれぞれの国で一国を単位として資本主義が異常な発達を遂げ、それが一つの自律的なシステムとして変化発展し続けた近代(現代)にだけ出現した、いわば奇跡のこしらえ物なのだ。
私たちは、一般に、日本人のアイデンティティ(帰属意識)を探るときに古来の村落共同社会の生活や生活感情から始める。「ムラ」とか「ムラ意識」とか呼ばれるのがそれである。日本民俗学がそこから具体的に拾い出してきたいろいろな事象を活用して、例えば、祖霊信仰が日本人を日本人たらしめている共通の心だと論じたりする。それは保守主義者に限らない。文学者や民俗学者、歴史学者のなかにも、そのような観察から出発する人は多いのである。
近代史家の色川大吉は、「近代日本の共同体」(色川大吉著作集第二巻『近代の思想』一九九五年)という論文で、人間が生きるうえで欠くべからざる最小単位として、「小地域共同体」というものを考えた。普通は「自然村」といわれる村落共同体を指すのだが、彼はそれを何世紀にもおよぶ底辺人民の叡智の結晶だという。「おびただしい失敗の経験や惨苦の犠牲を通じて考え抜かれ、創りあげられてきた、きわめてダイナミズムに富む民衆の様式である」と。古来、日本の国を支配した権力者は、村落共同体(ムラ)を末端の行政単位として国防や年貢の取立などに利用してきた。その行政的な単位村の領域は必ずしも自然に出来上がったムラ(自然村・小地域原始共同体)と一致しない。色川は国の支配システム、例えば天皇制などによっては捉えきれない、別のより根源的な共同体のシステムがあると仮定する。色川の表現を借りれば「通俗道徳という形で共同体が保持してきた自己規律は、たしかに天皇制を下から支える民衆のなかの『内縛の論理』と化したとはいえ、その根底にまで天皇制を受け入れることはけっしてなかった」のだと。さらに共同体なしで人は生きられないという彼は、「共同体のなかには断固たる基本意識がある、これは人民が一つの緊密な共同体、地縁性・血縁性を含んだ運命共同体を結成して、何百年も闘いながら行き続けてきた所産である」と言い切るのである。
実は、これは丸山真男ら近代化論者への批判から出てきた議論だった。色川は、日本の近代化論者たちが西欧の学者が西欧の社会と文化の成り立ちを説明するために鍛え上げた理論と方法を一般化して、そっくり日本の社会にあてはめて説明しようとしていることに激しく反撥したのだった。一兵士として沖縄戦を経験した色川は、「そのころの同胞と祖国にたいする憂慮の感情」の高ぶりを忘れることができない。「私は知識人による大戦期のウルトラ・ナショナリズムという一括語をきくとき、つねに反撥を覚えてきたが、それは、いわゆる言論人のそれと、私たちのそれとを混同するなという実感がわだかまっていたからだ」と述べる。彼にとって、日本人のナショナリズムとは民衆の情念なのであった。だから、「日本の大衆ナショナリズムは、資本主義(近代市民社会)へ憎しみを集中する一方で、天皇制にはその救済の幻想を求めていった。日露戦争の危機に、日本の大衆は、最高の共同幻想としての国家の方にみずから進んで身をすりよせ、その情念の共同性こそが大衆ナショナリズムの核心をつくった」という。
国家より先にある原始共同体社会が、日本人という民族が生まれかつ私たち日本人のアイデンティティが育った場所だと信じる色川は、現代の官僚たちが、近代化と称して、他ならぬ行政の手で、日本の伝統的な村落社会共同体を解体しつつあるという点に激しい怒りを感じている。「沖縄戦でひめゆり部隊が『海行かば』を歌いながら死んでいったという話をきいたとき、皇民幻想の悲劇をあげつらうまえに、その純烈なナショナリズムの気迫に打たれた」という彼には、天皇制とか天皇統治とかの現象は日本社会ではごく表面的なものにすぎず、ナショナリズムという情念が出てくるのはもっとずっと奥の共同体意識からだろうという仮説がある。そこから色川の「ナショナリズムという野生的な絶大なエネルギーをもったものをいかに正しく社会革命に導くか」という問題意識が出てくるのだが、その場合、天皇制とナショナリズムとが構造的に一体のものだという考えは捨てられている。
そういう地点から、色川は丸山ら近代主義者たちを、彼らの共同体理論が「根源的な共同体意識」にまで達していないといってその不徹底を激しく批判するわけである。色川がいう共同体意識とは、民衆が生きるための知恵、運命共同体であるという自覚あるいは共通感覚、もっと易しくいってしまえば、コモンセンス(常識)である。それはもう、個人としてではなく仲間(集団)としての意識であり、民族という実体への共通の感覚である。だから彼は、丸山のように、国民国家の独立が近代日本の至上命令だとは思わないし、天皇制が、明治政府が作り上げた「近代国民国家」の人工的な制度装置だとも思わない。さらにまた、それが民衆の源意識の奥底から生まれたぜがひでも護らなければならない制度だとも思わない。とはいえ、彼の仮説を認めるかぎりでは、天皇制を根源的な土俗的信仰に結び付けて、それゆえにけっして消滅せず、また変えてはならない日本の民衆の固有の基礎的な情念であると論じる林房雄ら反動的保守主義者と区別するのは難しい。色川が吉本隆明らの言い出した「共同幻想」というあいまいな概念を好んで使うのもその区別を分かりにくくしている。共同幻想は国民国家のナショナリズムという集団的な情念を一つの社会現象として扱うには便利な言葉だが、現象学でいう共通感覚あるいは間主観的な意識という言葉から思いついたらしいこの言葉は、定義するのが困難で、しかも規範や基準としても使えないので、私たちが実体としての国民国家やナショナリズムを理解するにはまったく役に立たない。いってみれば、共同幻想という記号を使用するのなら、その前に、記号が代表するモノを定義する必要があるということである。私たちが目指すのは、現象から当面不要なものを取り去ることによって類型化したそのものに名前を与え、記述し理解することを可能にするなにほどか人工的な装置である。国民国家が歴史社会学的な一個の概念であるからには、そしてそれを歴史的な実体として確認できるのであるなら、天皇制も、歴史的な概念であるかぎり、あるいはあとで述べる「文化システム」の一つと見るかぎり、特殊ではあっても、類型の一つであり唯一不二とはいわれない。丸山真男が、マックス・ウェーバーの方法に従い、近代化という物差しを使って、天皇制という日本の思想の構造的理解を目指したのをいちがいに間違っているとはいえない。もし問題があるとすれば、その物差しの影響が、西欧と日本という地域的な差から出たとするよりも、十九世紀と二十世紀の時代的なズレから出るといった方が当たっている。遅れて始まった日本近代国家が、十九世紀風の産業主義・自由主義と植民地主義の物差しで測れるかどうかだ。というのは、すでに地球的な規模で、社会や国家の見方にたいする合意またはパラダイムが変化しているからである。言い換えれば、ウェーバーが抽出した理想型(類型)そのものが、モデルとしていまでも有効かを問うときに来ているかどうかである。
丸山の方法がどんなものであったかは、岩波新書の一冊として出ている『日本の思想』に明らかである。次に引用する文章は、彼が到達した構造的理解を示す。
「伝統思想(国学、儒学)が維新後いよいよ断片的性格を強め、諸々の新しい思想を内面から整除し、あるいは異質的な思想と断固として対決するような原理として機能しなかったこと、まさにそこに、個々の思想内容とその占める地位の巨大な差異にもかかわらず、思想の摂取や外見的対決の仕方において前近代と近代とがかえって連続する結果が生まれた。」
一方、色川は「経済、政治、教育によるシステムとしての天皇制支配は、すべて一定の幻想を通し、民族的共同幻想を媒介としてはじめて民衆の心に食い入れるものであった」と述べる。それは天皇制が、民衆にとって、国家により創り出された強力な幻想あるいは擬制であるということであろう。幻想なら外からの投影が消えたとたんに雲散霧消するであろうが、そうはならないのは、その支配が家を基本とする民衆の強固な祖霊崇拝の固有信仰に裏打ちされているからである。村落共同体もまた家観念より一つ奥が深い共同幻想で、天皇制はそれらに巧みに擦寄り、働きかけ、彼らを取り込むことに成功したということになる。色川に特徴的なことは民衆の絶対的な主体性を認めることだが、彼がこの論考で、丸山が捨て去ったもの(通俗道徳的思惟や祖霊信仰・家意識を精神的基軸として大衆が保持する強靭な思想性)を回復しながら繰り返し述べるのが、「民衆の側からいえば、かなりな深みまで国体の擬制を受け入れながらも、最後の一点で天皇制に魂を渡さなかった」「いちばんの深部で、天皇制は日本人の心をとらえきれていない」ということである。日本の民衆が天皇制の支配を受け入れるのも、村落共同体の共同幻想から天皇制国家の幻想へと無理な跳躍を主体的に行ったからであると。その点は、「私たち(歴史家)からすれば、伊藤、山形、井上などというのは、ずいぶんとエラーの多い試行錯誤を繰り返してきた政治家で、もっぱら国民各層の創造力というラッキーな歴史的偶然の組合せに助けられて、曲がりなりにも大成功を達成したにすぎないと考えている」という記述にも現れている。
ただし、色川の主張は実証されない。「大衆が保持する強靭な思想性」「最後の一点で天皇制に魂を渡さなかった民衆」という彼の仮説は、控えめにいっても、国民という意識が未発達な中世と近世に遡ってその存在を立証するのはむつかしいし、共同幻想の意味があいまいなままでは、現代の国民国家を理解する手掛かりにはとてもならない。天皇制を幻想だというのは、思い付きとしては俗耳に入り易いだろうが、それだけでは、なんの説明にもなっていない。天皇制をシステムというのなら、それは丸山が分析してみせたような実体であって幻想ではないし、幻想というのなら、それは日本というネイション・ステイツの統合原理にはなりえない。
同じものを、丸山は以下のように規定している。「同族的紐帯と祭祀の共同と、隣保共助の旧慣とによって成立つ部落共同体は・・・決断主体(指導者)の明確化や利害の露わな対決を回避する情緒的直接的=結合体である点、また固有信仰の伝統の発源地である点、権力と温情の即自的統一である点で、伝統的人間関係の規範であり、国体の最終の細胞をなしてきた」と。だが、色川はこの丸山の記述に激しく反撥する。それが小地域共同体(村落共同体)こそ天皇制さえも批判できる決断主体の民衆の最終組織であるという彼の共同体の理論を無視したところに成り立っているからだ。彼は、丸山よりは楽観的に、民衆のなかに埋め込まれた国体観念はやがて消えていくだろうと予想する。彼によって丸山の規定の足りないところがよほど明らかになったが、日本のナショナリズムと国体観念の構造的関連(システム構造)はいぜんとして説明されないままである。
そして、その理由はすでに明らかだ。ナショナリズムを共同幻想と捉える色川は、それが近代国家の属性であり、従って国民国家同様新しい歴史的な概念であることを見逃しているのだから。
ここで私たちは、日本のナショナリズムの原点として史家や保守主義者などが好んで口にする「祖霊信仰」について吟味するのがよいと思う。祖霊とはご先祖様の神霊。日本には、春と秋の最初の満月のころ、祖霊を迎えて饗応する習わしが上古からあったという。
彼らは、ふだんは家の近くの山川草木に憩い宿っていると昔の人は考えていたのである。祖先の霊にたいする私たち日本人の格別な思いを学問の形で示した第一人者が柳田國男であることには、だれも異存がないだろう。昭和二十一年(一九四七年)に発表された『先祖の話』から、私たちは、先祖の霊(みたま)とは子孫の私たちのほかには誰も祭る者がない霊だということを知る。「みたま」が霊という漢字になり、さらに霊が「ほとけ」と呼ばれるようになった後でも、私たちはつねに「無縁仏」というものを祖霊とは区別して扱ってきた。つまり霊は家につく。長く続いた家にはどんどん祖霊が増えていく勘定で、そうなると、ご先祖様の霊を一人ひとり祭ることは難しい。誰か一人を代表にするか、ぜんぶをひとまとめにして決まった日に祭るようになったのは必然の成り行きであった。その年祭(祖先祭)を正月というが、柳田によれば、一月十五日を「神の正月」とし、一月と盆の十六日をもって「仏の正月」とする例がいちばん多いそうである。柳田がこのエッセイを書いたのは「連日の警報の下」、戦争末期の昭和二十年(一九四五年)の四月から五月にかけてであったと本人がいっている。印刷事情などの都合で実際に出版された昭和二十一年(一九四六年)は、天皇神格否定の詔が出て、天皇の人間宣言が行われた年だった。戦争で倒れたたくさんの若者を悼む文章にわずかに戦争の影響が窺われるだけで、彼のエッセイには、天皇を頂点とする日本中の神祗の場所が日本人のアイデンティティの基であるというようなご託宣はまったく記されない。
戦後の社会ではなにか別の日本人の原点を探す必要があったのであるけれども、意識していたかどうかは別にして、日本の国が千年をこえて繁り栄えてきた原因を「私たちの家の構造が確固であったということ」に求めた『先祖の話』は、その要請にみごとに応えているといわなくてはならない。歴史家やナショナリストたちが日本人の心のふるさとと考える原始共同体の核としては、祖霊という概念こそ格好のものだったのだから。
人が死んで残るものを、私たちは「みたま」と呼んだ。霊とか祖霊とか生霊・御霊とかの漢字をそれに宛てたのは、ときどきの勝手な人びとの思惑だったと柳田は見ている。柳田がいっているのは、祖霊(私たちの家につくご先祖さまの霊)以外の「御霊」とか「怨霊」などは、古来日本人が抱いていた観念ではなく、社会情勢の必要に応じてあとから生じた解釈にすぎないということであろう。
祖霊信仰が、原始共同体と自然村の統合原理として考えられているのは間違いない。共同体という言葉を私たちが使うようになったのは、マルクス理論のなかでこの語が使われた影響を受けたのであったが、それとともに、民俗学でもこの言葉は頻繁に使われる。歴史学者であり、また民俗学にも深く関わった和歌森太郎はよくこの言葉を用い、「人びとの間柄的在り方が本然的に共通同根の上にある」と定義していたという(福田アジオ『日本村落の民俗的構造』一九八三年)。マルクス理論では、共同体は社会および経済が進歩していく段階として捉えられるが、民俗学を含む一般の社会科学では、それが経済・権力・社会心理その他なんであれ、家の集合体つまり機能から見た社会のことである。翻って自然村は、とくに有史以来ともに人びとが生活してきた枠としての最小の家々の集りと見なされていて、具体的には、日本で大字と呼ばれる単位を指すとされる。
だが自然村あるいは最小単位の共同体の定義はかなりあいまいで、ともかく人間の生活がはじまった当初からあったというだけの説明で事足りているようである。そもそも、福田によれば、農村とか農家とか言う形態は、基本的には中世末または近世初頭に登場したのであり、それ以前の形はよく分かっていない。「自然村」そのものがほんとうに自然にできたのかどうかさえ疑問視する研究者は多いのである。その意味では、自然村も原始共同体もなんにでも融通の利く便利な概念にとどまっている。
福田もいうように、ムラにおける伝統的な社会組織は超世代的な存在である。その構成員が死んでも、新たな成員を次からつぎへと組み込んで存続していくものだ。その意味では、その機能がもっとも重視される。だから民俗とは、「社会組織が構成員に対し一定の規制力をもって保持させている事象と定義できる」(福田、前掲書)のだが、とはいっても、それは「悠久なる昔に定形品があり、しだいにそれが変化し変遷し、断片化してきただけのものではない」のである。民俗学は、消耗し、欠け落ちた完成品を再現するだけのものではない。環境に従って社会構造が変化すれば、とうぜん民俗も変化する。もとよりすべてが変わるわけではなく、前段階から継承されるものを多いわけだけれど、継承されたものもおのずから新しい内容が盛られているだろう。それを私たちは文化あるいは伝統と呼ぶ。社会もムラも、生き残るということはそういうことだから。福田がいうように、「社会組織は、けっして民俗事象が変化し、衰退して、断片化したもののみを残す遺制ではない」のであって、機能として必要だったからこそ時々の環境に適応して伝わったのだ。
御霊と怨霊は、八世紀から十世紀にかけて、そんな新しく生まれた民俗現象だった。度重なる災害や、政争に敗れて死んだ貴人の恨みをダシに、没落貴族や密教の坊さんたちが手を貸して作り上げたのに間違いはない。それが大きな社会現象になったについてはもとより、社会構造の変化と、変化に伴ってはじき出された人々の間に生じた軋轢、歪み、軋みを修正するシステム機能がそこに働いた結果である。普通、史家たちはそれを、古代律令国家が崩れはじめ、王権の衰微、有力貴族が政治権力を掌握し、それとともに、地方へ威令が届かなくなり、租税を徴収するのが難しくなって、私領化するというありさまになったと捉える。それが、古代末期の「王朝国家」その社会制度的表現としての荘園制から、中世封建制・武士の時代への移行の道程であった。密教の坊さんたちは、もともと鎮護国家で食べていたのだから、彼らが王権・貴族支配に異を唱えるはずもなく、怨霊騒ぎは中央の不平分子・地方民衆の間に漲る不満の意図的なガス抜きだったのではないかという疑いもある。いずれにせよ、日本のハイブリッド文化のシステム、神仏習合がここにていよく利用されたわけだった。神と仏、さまざまな呪術に魑魅魍魎までが参加して、上から下まで、社会変動への恐れから理性を失った人びとが、変動の理由づけをそこに求めたのだ。
国民国家としてのアイデンティティあるいは日本人の伝統を村社会に求めるのなら、そんなに古くまで遡る必要はない。せいぜい、近世初頭から中世までで十分である。知られる限りでの私たちの社会の仕組は、武士の時代に作られたのだからだ。当然のことながら、人びとの意識も、人びとの間柄の構造も、文化も。もともと地域社会という語あるいは観念は、はるか原始の時代にもあっただろうけれど、それが表す意味は、私たちの観察が及ぶかぎりでのモノとしての社会の仕組とその機能以上には含みようがないのではあるまいか。
近代国家とその属性であるナショナリズムを探るのは、近世(江戸時代)から明治・大正にかけての社会の変遷のなかをおいてほかにはない。日本人の生活・文化・意識は時代とともに絶え間なく変化しながら、一方において、変化しない部分も残しつづけてきて、それを伝統という。私たちはそれを、いちばん確かな形で民俗の変遷のなかに眺めるであろう。昭和五年に発表された柳田國男の『明治大正史 世相篇』は、その手掛かりとなる格好な本である。私たちはそこに、柳田の確かな目でいつくしんで描かれた新しい日本の国民国家の諸断面を見届ける。
柳田の『世相編』は「目に映ずる世相」という章から始まっていて、そのなかに「足袋と下駄」という項が設けられている。彼はその項を「明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した」と書き出すのである。
わたくしは虚弱体質だったくせに、脂性だったから、家のなかでは、小さいときから素足を苦にしなかった。当時私たちが通っていた小学校の校舎は木造で、その廊下の雑巾掛けをやるのが生徒の日課だった。ろくに絞らないびしょびしょの雑巾を両手で押さえて滑らせ、腹這いの格好で床板の上を走っていく。そんなことで綺麗になったかどうかは分からないが、足元が濡れるこの作業では、寒中といえども、靴下なんぞ履いてはいられない。だいいち、戦争中のことで、まさか跣足で登校する子はいないけれども、たいていの生徒が、靴下や足袋なしで、粗末な運動靴を素足に履いていた。中学に入るころは、いよいよ物資がなくなって、千葉県の市川市に住んでいたわたくしは、下駄を履いたまま電車に乗って、東京下町にある学校に通っていた。その習慣は戦後もずっと続き、わたくしは海軍に行っていた従兄弟が復員のときに履いてきた皮靴を貰って持っていたけれども、履いてはいかなかった。貴重品だったせいもあるが、生意気盛りの少年には、素足に杉下駄を突っかけて遠い道を通うのが一種の見栄だったのである。柳田がいっているが、元来、下駄はそんなに重宝なものではなかった。一筋の鼻緒だけでこれを御していくのは練習を要することで、いまでもこの足指の技能にかけては日本人の右の出る者はいまいと。下駄が盛んになったのは、やっと江戸も末期になってからだ。
それにたいして、足袋は便利なものだった。とくに木綿が普及してその柔らかな感触が喜ばれるようになると、政府に奨励されずとも、ふだん足袋を履く人は多くなった。明治政府が跣足を禁止した理由は非衛生だということにあったが、それとともに、外国に対して首都の体面を重んじる動機もあったらしい。現に、裸体とか肌脱ぎの取り締まりがすでにその前から非常に厳しくなっていたという。
でも、跣足の禁止はなかなか守られなかった。足を濡らさないと都合の悪い仕事がいくらもあったし、日本人の日々の生活のなかでは、働き易く動き易い跣足がいつまでも好まれたからだ。柳田によると、素足は武士の礼装の一部だったそうだし、年寄りは毎冬殿中でわざわざ足袋御免を願い出る必要があった。ちょっと外出するのにいちいち足袋を履くのが不便だったから、私たち庶民の風俗から跣足はそんなに急速に無くなりはしなかった。一度も公認の履物にはならなかったのに、下駄が明治以降急速に普及したのは、文明開化のおかげで、人びとが足を汚すのを避けるようになったからであるが、それでもまだ生活のなかに跣足の用があるかぎり、足袋や靴下を汚すのを嫌った人びとが、跣足かあるいは素足で下駄を履く習慣を便利としたのだと思われる。わたくしなどは七十を過ぎたいまでも、ちっとでも暖かくなれば家のなかではいつも素足である。
それでも、私たちの生活慣習から下駄と足袋が消えて久しい。いつの間にか、外出には靴下と靴、ちょっと外へ出るときもスリッパを履く。風俗と文化は、早く変わるものも多いけれど、なかなか変わらないものも多い。その境はそんなにははっきりしていないようで、ぜひ必要だから残るというものでもないらしい。下駄と足袋が消えたのは、習慣というか足の指の使い方を忘れてしまったからである。復活はむつかしい。このように、私たちの風俗は時とともに確実に変化していく。変化はときにおかしな方向にも向かうが、全体としては、便利な方、言葉を換えれば、進歩の方向へと向いている。いまひとつ、私たちは同じ『世相編』から、どうでもよい些細な事柄ではあるが、風光の推移についての柳田の観察を紹介したい。
私たちは一般に、美しい浜辺とかエキゾティックな港の光景とか、光溢れる海の景色が大好きである。でもそれは明治になってからの習慣にすぎない。昔の人は海の景色をむしろ気味の悪い荒涼たるものとしか扱っていなかった。昔の和歌集などを見ても分かるように、海人の生活はつねにうらぶれたものであり、とても憧れをもって見る対象ではなかったのである。風景は、見る人の立場の違いもあって、確実に輪郭も色彩も変ってきているのである。「明治大正の六十年間に得たものは、確かに失ってしまったものよりも多いのである」という柳田の言葉は、「戦後六十年の間に」とすればもっとずっとよく当て嵌まるだろう。『世相編』の締めくくりに、「単なる現代人の身贔屓でなしに、僅か二十年前と比べても、前に想像もしなかった事が今は現実になっている」と書いた柳田は、「復古を望むのは、いかなる保守派にも少し困難になっている」と付け加えるのを忘れない。明治・大正の世相に著しかったことは、戦後日本の社会にはその何倍も著しいのである。
私たちが属している社会は実はいろんな顔をもっていて、経済的構造体とか政治的構造体とか、消費生活の構造体、文化的風俗的な構造体など、人びとは職業生活・家庭生活・社交生活に応じていくつもの面を掛け持ちしているが、社会は人間どもの集まりであるから、その社会が変化したり、いろいろな顔をもったりするのも、結局は個々の人がどう行動するかに関わり、全体としての人びとの行為の寄せ集めあるいは組合せから起こってくることである。そんなことは当たり前だといってしまえばそれまでだけれども、そこに生じた社会全体のふるまいはすでに個人的な考えとか気分とか、要するに、個々人の気まぐれや偶然としては片付けられないものになっている。そのところに気付いて理論化した学が、近代社会学である。
とくにアメリカで発達した社会学理論は、そのような社会のふるまいを自然現象と同じような厳密科学の対象つまり「システム」として捉えられると考えたのであった。システムとは、その社会を成り立たせているいろいろな要素が互いに作用し合って作り上げられ、全体として、足したもの以上の性質と目的をもつモノ(実体)を意味する。そうしてその社会システムが、与えられた環境のもとで、どうやってその課題を達成するかを吟味するのが機能理論である(富永健一『現代の社会学者』一九八四年)。
私たちは、そんな社会のふるまいの原則を、タルコット・パーソンズが考え出した理論を借りて説明したい。社会のいろいろな局面を生み出している私たちの行為のシステムのそれぞれに、パーソンズは共通した四つの段階というかカテゴリーがあるという。それを細かく説明するのはわたくしの手に余るけれども、全体として、人びとはまず生き延びるために成り行きに従い1、つぎに行動の目標に向かって行動をはじめたら2、それをみんなで一緒にやるように強制し3、最後に出来上がった行動のしきたりを守ってはぐれ者を出さないような仕組をつくる4。社会の規律と文化はそうやってつくられ、所属する個々人がみんなで支えあう社会の統合された仕組は、逆に集団としての人びとを縛り、彼らはもはや心理的にも行動的にも同一の行動を取ると見なされるのである。その意味では、社会人はみなそれぞれが役割をもたされて生きているといってよい。
パーソンズは、上に述べたシステムの段階というか枠組を、それぞれ順番に、私たちが通常言う経済1・政治2・法と社会統制3・文化4に見合うと考えたのだった(富永、前掲書)。社会システムの理論として、いまこれ以上のものはないであろう。さしあたり私たちがいちばん関心をもつのは、四番目の仕組つまり「文化システム」である。私たちの日本社会でいえば、さしずめ「天皇制システム」ということになる。なぜなら、文化と伝統こそが、私たちの社会と他の人びとの社会を分ける要素だから。ネイションやナショナリズムはつねにその違いの上に成り立つ概念で、文化とはその特定の価値観あるいは人びとが進んで服従する規範である。知らずしらずにうちに、私たちのふるまいには特定の枠が嵌められているのだ。
でも問題はその先にある。社会システムそのものの説明はそれでついたとしても、どんな形の社会がよいかという判断にまでは踏み込めない。ナチの独裁制であれ、何であれ、うまく機能さえしていればシステムはそれでいいのだから。アメリカ人であるパーソンズの「社会」は、当然のことながら、アメリカ・モデルを想定している。神を信じ、自由と民主主義を信じる似た者同士でつくる社会である。価値観あるいは文化は、キリスト教的伝統としてすでに与えられている。一九七八年に出た晩年の著書『行為理論と人間の条件』第三部「宗教の社会学」(日本版『宗教の社会学』徳永彰他訳、二〇〇二年)で、パーソンズは「キリスト教の価値パターンとは、神の命令にしたがってこの世で生きる人の王国の構想として制度化されたもの」といい、さらに「キリスト教神学が述べる神が人間のために定めた運命は、神の計画にしたがって現世で社会を築くことと信じられた。西欧的社会はこの計画にコミットすることを通じて形づくられた」といったのだった。それなら、いったい日本の近代国家と何なのだといいたくもなるが、「わたしは、プロテスタント倫理が死滅したとは一瞬たりとも考えたことはない」と頑固に繰り返す彼は、まぎれもないアメリカ生粋の保守主義者なのであろう。このくだりを読んで、さすがの巨人パーソンズも老いたというのはたやすいが、でもカルヴィン主義的プロテスタンティズムの精神が資本主義をつくったというマックス・ウェーバーの理論に忠実であるかぎり、自らカルヴィン主義の末裔だと公言するパーソンズが、つねにアメリカ・モデルの社会をそのようなものとして理想化していたことをいちがいに不当だとはいえない。ただ問題なのは、彼の社会システムでは、改めて価値判断が妥当なものであるかどうか問われる場面では、その問いはしばしば無力であるか、または禁じられている。批判を受け入れる余地がないからである。
だがいまでは、アメリカ・モデルの社会が唯一のものでもなければ完璧なものでもないということは次第に明らかになってきていて、アメリカ・モデルイコール近代社会学理論とはいえなくなっている。
ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスは、つねに周囲に論議を巻き起こしながら、ずっとアメリカ・モデルから抽出された「システム」という概念と闘ってきた。ハーバーマスは西欧タイプの社会の文化的価値を認めることにおいては誰にも負けないけれど、それがコンピューターのように万能で、自己制御装置つきのシステムであることを信じない。彼が、アングロ・サクソン人が信奉する経験哲学から出発した実証科学を非難するのは、それが実証するかぎりで、社会という人間がつくり出した仕組でさえも、私たち人間の手が届かないモノであることを証明してしまうからである。つまりハーバーマスが主張するのは、私たちがいる世界のなかの社会とは、けっして他(例えば、神)から与えられたモノではなく、基本的に、人間が調整し、相互に納得してつくり上げていく変わることを前提にした歴史的・文化的・伝統的な仕掛けなのだということ。彼は、パーソンズが実証的な行動科学から導き出した機械仕掛けの装置としての「社会システム」には大いに不満なのだ。
私たちは、一九八一年に発表された『コミュニケーション的行為の理論』(日本版、河上倫逸等訳、一九八五年)のなかでハーバーマスのパーソンズを乗り超えた社会理論について述べるまえに、彼が社会をどう捉えているかを見てみたい。「機能主義的理性批判」と題した第二部(日本版下巻)に、彼は「社会をシステムであると同時に生活世界として捉えることが重要である」と書く。ハーバーマスにとって、コミュニケーション的行為の補完として捉えられるもっとも重要な概念である「生活世界」とは、「文化的に伝承され言語的に組織された解釈ストックのこと」である。文化も経済や政治や法制と同じ一つのシステムとして捉えたパーソンズと異なり、ハーバーマスは私たちがふだん生活している文化と伝統が根付いた社会を、システムとはまったく別の場と捉えている。それは、彼によれば、コミュニケーション的行為が成し遂げた「社会的統合」の世界である。人びとが文化や伝統に埋め込まれた知識あるいは客観的世界の解釈を使って、言葉による会話・討論を通じ、合意にまで練り上げた秩序を意味する。それはいつでも修正が可能だし、更新あるいは変革への切り替えだってできる。それに引き換え、システムの統合とは予め決められた法律・規則、権力者や経済市場の命令か強制によって行われるものだという。そこではコミュニケーション的要素、ということは人間らしい要素ということであるが、そんなものが働く余地などなく、すべては機械的に運んでいく。そうして、予め決められた規則・規範を修正あるいは覆すものこそ生活世界で交されるコミュニケーション以外にはないのだった。
理解不十分なところはお詫びするとして、さしあたりハーバーマスの考え方を以上のようなものとすれば、彼の「生活世界」にあたるのがパーソンズの「文化システム」である。システムである以上、規範に従う人びとの行為が作り出すその秩序(システム)もまた自己制御的な機能をもつだろう。そこでは、人びとは利害関係だけの経済の法則か、あるいは天から与えられた道徳や規範に従うばかりで、自分たちの力と討論とで社会をいかようにでも変えていけるとは考えにくい。パーソンズももちろんそれでよしとしていたわけではないが、社会的秩序は功利主義にのみ基づくもではないといいながらも、パーソンズは、せいぜい心の拠りどころとしての正義、自分自身で掲げる法としての自由というイマニュエル・カントが考えていた道徳的規範程度のことしか思い浮かべてはいなかった、とハーバーマスは批判する。パーソンズは、社会的に正しい行為を義務づける力は妥当している規範には進んで従い、強制に由来せず、互
いに納得し共有している価値観から生じるといった。そうやって、文化システムだけには経済や政治とは違った内容を与えている。その意味では、ハーバーマスとそんなに違っているわけではない。でもパーソンズは、文化的価値を総合了解メカニズムというべきものが働いたパターン(キリスト教的伝統から生まれた価値パターン)と解していた。彼によれば、文化と伝統もまた、ハーバーマス的な、コミュニケーション的行為の赴くところ自在に変容していく態のものではなく、目的と機能主義に絡め取られた機械的なシステム的統合運動に従うのである。
翻って、ハーバーマスが「統合」ということをいうとき、それには「社会的統合」(文化の伝承による生活世界の再生)と「機能的統合」(システム維持のためのシステム統合)の二種がある。だがパーソンズにはもともと「システム統合」の一つしかない。ハーバーマスにあっては、社会的統合とは伝統と文化に根ざした自由で民主主義的なコミュニケーションによるのであって、それ以外の理由づけによる社会の統合あるいは人びとのふるまいは、人間には相応しくない機械的なもの(システム的なもの)である。それを彼は、「文化の植民地化」と名付ける。
ここで私たちはようやく、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論が描く私たちの近代社会を紹介する段階に到達した。最初に断っておきたいが、それはかなりペシミスティックな予言である。アンソニー・ギデンズの社会学の教科書に、新手の保守主義者と紹介されているほどのハーバーマスには、理想的な国家的計画という考えも、資本主義的経営が達成したグローバルな規模における経済的な意思決定の計画性(利潤と損益計算)もまったく似合わない。合理化とかシステム化という形で論じられるかぎりでの、近代化の行く末に彼はひどく懐疑的なのである。
近代的な社会は、私的な生活領域と公共的な領域(経済と国家行政)とに引き裂かれているというのがまず前提にあって、そこでは、さまざまな社会システムの専門化あるいは分化ということが近代化とともにどこまでも進行するのである。いずこにあっても、進化は分化(専門化・官僚化・法制化)に同じ。それが彼のいう機能的統合の意味で、そうやって出来上がった熟練した専門家が運営する組織には、人びとの了解手続きは必要でなくなる。すべては法令と手続きであらかじめ決められているから。組織とは、もはやそこに属する人びとの個人的な意見や感情で左右できるようなシロモノではないのだ。そこで重要なのは、全体としての目的合理性であり、法的に規制された相互行為だけである。これは実は、マックス・ウェーバーが描いてみせた官僚制度が行き着いた果ての光景とそっくり重なるし、同時に、ウェーバーを引き継いだタルコット・パーソンズの社会システムの形でもある。そうしてウェーバーは機能的合理化(統合化)が社会的合理化(統合化)と重なり、人間の倫理的な生活世界もその流れのなかにそっくり呑み込まれてしまうありさまを予測しているのだった。ウェーバーによれば、道徳もまた徹底的に合理化されて、法規範と根拠づけという形式的な手続きさえ経れば、日常生活の上でも万事OKということになるだろう。でもそこから先が、ハーバーマスでは違うのである。社会的に統合された行為領域を彼は「生活世界」と呼び、機能的統合の領域である経済や政治から断固として区別するのだ。もちろん、ウェーバーの指摘を待つまでもなく、システム統合の魔の手はたえず生活世界のなかに入り込んでくる。例えば、私たちが利用する貨幣や金融信用という形、あるいは福祉といったおためごかしの行政サーヴィスの形をとって。彼はマルクス主義の予言が機能的統合つまり非人間化以外のもののでないこと、現実的には、社会民主主義的改良主義の方がそれよりもずっと建設的であることを認める。その点では、マルクスの弁証法的唯物論が、世俗的・合理主義的な言葉によるキリスト教の終末論神話の一種の言い換えだといったパーソンズ(『宗教の社会学』)と意見を同じくするが、資本主義と民主主義の間には解消しがたい緊張関係があるというハーバーマスが、正統性を生み出すものは、民主主義的な手続きによる政治的意思決定のほかにないというとき、そこにはパーソンズとは違う、ただの保守主義者ではない素顔が覗くのである。生産の私有化と社会化(公共化)はけっして両立しないが、私たちの近代社会は、その排除し合う二つの道を同時に断行しなければならないという矛盾に向き合う。それはつまり、そこからけっして逃れることができない構造的に不平等な財産・所得それに従属の関係を強いる資本主義の不利益と危険性をいくらかでも緩和するために、システムによって制御された資本蓄積と経済成長が生活世界に及ぼす機能障害を克服しなければならないところに、私たちの「ネイション・ステイツ」すなわち社会国家あるいは国民国家が抱える深刻なジレンマがあるという認識にほかならぬ。
ケインズ理論がその解決でなかったことが明らかになったいま、ハーバーマスにも打つ手はないように見える。彼がわずかに期待を寄せるものこそ、伝統と文化に根ざす生活世界での自由で民主的なコミュニケーションの行為なのだ。袋小路のようにも見える『コミュニケーション的行為の理論』が示すものは、たしかにあんまり心躍るような光景ではないが、それでも、現在いちばん頼りになる理論であるのは間違いない。  
(三)文化と伝統
タルコット・パーソンズは、社会を環境に順応しながら、全体としての人びとの行為によって、自ら修正しつつ自律的に進化していくシステムであると考えた。そうしてその進歩のありさまは、なにほどか生物の進化に似ているだろうと。その是非はともかく、私たちはここでいったんシステムという万能薬に頼るのをやめて、ネイション(国民)を形づくるのは歴史すなわち文化であり伝統であるという素朴な見方に戻る。何故なら、社会をどう理解するにせよ、少なくとも社会学が対象とする現代社会の基本的な単位は「ネイション・ステイツ」(国民国家)であることが前提なのだから。前章で、私たちはハーバーマスが社会のよりよき半分を構成する彼の生活世界を「文化的に伝承され言語的に組織された解釈範型のストック」と定義したことを紹介したが、私たちもそれに従って、歴史的な産物である文化あるいは私たちの日常生活のあれこれを取り上げたい。
私たちの日常生活にかかわる事柄は山ほど語られているが、それらを今日の人びとの問題として提起し、事実と証拠を積み重ねて、その上で評価・判断した社会学的な研究となるとそんなに多くはない。さきに紹介した柳田國男の『明治大正史 世相編』にしてもていねいな世相一般の観察ではあるが、一定の方法で選ばれた人びとへの質問と回答を集めて分類・分析した結果の報告ではない。「文化的に伝承され言語的に組織された解釈」は実はたくさんあるだろう。
それぞれの身勝手な言い分を集め、整理して、ある傾向を見出す作業には、社会学の専門的な知識と多数の専門家の協力による組織的で辛抱強い調査が必要である。昭和六年(一九三一年)に朝日新聞社から発行された柳田の『世相編』にはそんな条件が欠けていた。
歴史学の分野では、歴史学者が考古学・民俗学など周辺学問の研究者と協力して、現地調査と資料をつき合わせ、例えば中世荘園村落の景観を復元する作業は数多くなされており、石井進著作集第八巻『荘園を旅する』を見ると、当時の生活の形の一端をかなり詳細に窺い知ることができる。けれども、歴史上の事柄を問題にするかぎり、そこに住む人びとの生の声や意見を聞くことは適わない。その点で、現代国民国家の民衆の意識調査とその分析が大いに必要とされるわけだが、それは、いまのところアメリカやイギリスの社会学者の仕事に及ばないのが実情である。
私たちは、そのような仕事の一つとして、ロバート・ベラー他『心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ』一九八五年(日本版、島薗進・中村圭訳、一九九一年)を取り上げたい。本書は、一九七九年から八四年にかけて二百人以上のアメリカ中産階級の人びとにインタヴューした結果に基づいて書かれた。ベラーは、パーソンズの考え方を引き継ぎ、自身では宗教への関心が深い社会学者である。前章で引用したパーソンズの『宗教の社会学』のなかでいちばんひんぱんに引き合いに出される研究者でもある。それはベラーがかって提唱した「市民宗教」という概念にパーソンズがいたく関心ももっていたせいだった。
私たちは、このレポートからたくさんの示唆を受ける。対象をアメリカ文化の中核を担う中産階級、ホワイト・カラーと呼ばれることもある人びとに絞ったインタヴューは、まさにアメリカ的価値観そのものを描き出す。しかし同時に、私たちはそれらの価値観がアメリカ的特殊的であるまさにその点で、私たち普通の日本人と通い合う心情を認めて驚くだろう。それがどういうことかを述べる前に、まずベラーたちが抽出したアメリカ的価値観の中身を見てみよう。
その価値観の中身を、著者たちは三つに分けて示す。成功、自由、正義である。アメリカ人の特質を「自分が欲しいものをいかにして得るのかを考える方が、自分は何を欲するべきかを考えるよりやさしい」と言い表す著者たちは、自分で目的を設定するよりも、設定された目的を達成する手段と過程をずっと大事にするアメリカ人にとっては、成功することと自由と正義とは、犯すべからざる神聖な目標、つまりそれらについて議論する余地などまったくない事柄になっているといっている。でもそれは、自分の自由と正義をだれにも邪魔されずに守り抜き、かつ経済的に成功するのはすべて自分個人の選択と努力によることで、いっさい人の世話にはならないという前提があってのことなのだ。アメリカ人をいちばん不愉快な気分にさせるのは、強制的な社会関係のなかに不本意に参加させられた、つまり「嵌められた」という感覚である。アメリカ人の価値観が、あらゆることからの自由、完全に自分らしくあること、個人尊重の精神であるとすると、そういう人たちが支える社会が、彼らの行動に拘束を加え、組織の奴隷として、自由意志を奪うようなシステムとして想定されていないことはいうまでもない。自由こそアメリカ的価値観のなかではもっとも高い位置を占めるのである。逆説的ではあるが、完璧な自由が前もって埋め込まれているシステムである以上、ことさらに犠牲を払って物事の根本を問い直す事態は生じない。懐疑の理由をまったくもたない態度、いってみれば、神様から与えられた運命については言挙げしない態度は、アメリカ人から人生はどうあるべきかを考えるチャンスを奪ったと、ベラーは分析する。インタヴューした人たちはそれぞれ生い立ちや立場も違い、異なった考え方と生き方をしているが、常識的でごく普通のアメリカ市民として、驚くほど一つの文化的な鋳型に嵌った人びとでもあるのだった。彼らは、すべての個人に自分の幸福と思うものを追求する平等な機会を与えることが正義だと確信しているが、みながみな自分だけの利益(幸せ)を追求するとき、社会の分配がどうなってしまうかにまでは配慮が行き届かない。自立することが最高の道徳になっている社会では、慈善は奨励されても、持たざる者が職業生活や市民生活に平等に参加できるような手立てはおろそかになってしまう。「アメリカ人にとって受け入れやすいイメージとは、社会は概ね平等な者どうしが集まって公平に競争する市場のようなもの」なのである。
私たちにとって本書のハイライトとでもいうべきもっとも印象的な部分は、そのようなアメリカ社会が生み出したキャラクター(人物像)についての記述だった。アメリカ人は一般に「自由とは企業家精神および自己のために富を蓄える権利のこと、と唱える人(功利的個人主義者)がとても多い」と分析する報告者たちが挙げるキャラクターの類型は、出現した順番に、「企業家」「経営管理者(マネジャー)」「セラピスト」である。「企業家」というのは分かる。自立した個人をなによりも高く評価するアメリカ文化にあって、いかなる手段を用いようと、競争に勝ち抜いて巨富を得た人が尊敬されないはずがない。でもそれには、あくなき利益追求の行為が神の示された道であるという条件があった。「天職」のことをアメリカ社会では「コーリング」(神からの呼び声)というのだが、金儲けをするのにも、あくまでも「天職」という強い意識に導かれてすることが必要である。とはいえ、そんな企業家タイプは、十九世紀の初期資本主義に活躍するキャラクターにのみ相応しい。荒っぽいことも厭わない彼らにはどうしても汚名が付きまとうし、そんな弱い者から奪い取るような荒仕事一点張りで成功するチャンスは、万事に公正さが求められる二十世紀には細る一方である。そこで必然的に出てくる次のキャラクターの類型は「経営管理者」つまりマネジャーである。闘争的でタフで、あらゆる束縛から自由な「ロバー・バロン」(泥棒男爵)たちはもうこの段階の立役者ではありえない。新しい時代を代表するのは、「営利法人における官僚制組織を動かす職業的な経営管理者」である。彼らの仕事は、「雇われた組織の市場における地位を改善するために、利用できる人的・非人的資源を組織化し、その成績をある達成基準まで引き上げる」ことなのだ。
ここで私たちははたと思い当たる。戦後五十年、私たち日本人から職業的成功者として高い尊敬を受けているキャラクターもまたこの類型に属する人たちではないか。彼らは会社では利益追求にのみ心を砕き、経済的効率を高めることを天職と心得ていて、自分のキャリアをそれに賭けるが、家庭では優しく良心的な夫・父親であり、社会正義を信じ公共心に溢れた良き隣人である。管理者はなによりも良心的でなければ務まらないだろう。ただ問題は、個人主義の立場で自分をいちばん輝かせるためには、ときに良心を公の場と私的な場で使い分けなければならないこともあるということ。本書で、アメリカ的価値観としての個人主義を二つに分けて、「功利的個人主義」と「表現的個人主義」があるといったのは、その辺りのジレンマを意識しての話であろう。職業人としては、功利的個人主義に徹しなければ、少なくとも成功は覚束ないだろうし、さりとて自分の良心を大切にするなら、物質的な欲望に溺れるわけにはいかない。
構造的にはなはだ偽善を憎むタイプである「経営管理者」としては、公私の間で引き裂かれる自分をはっきり自覚している。教育を受けた中産階級のアメリカ人は悩み多き人びとなのだが、その心情は私たち日本人中産階級にもはなはだよく分かるというか、明治以降、西欧の考え方に馴染んでつくりあげてきた私たち日本人のキャラクターに上乗せする形で、戦後六十年の間に、アメリカ人の理想像として聞かされ続けてきたステレオタイプのキャラクターがそっくり私たち自身のものになっているという気がするほどだ。それはつまり、アメリカと日本の文化の違いを乗り越えて、共通のホワイト・カラー意識あるいは市民感情が育っているということではあるまいか。
そうして、そこから第三のキャラクターが出てくる。「セラピスト」と呼んでいるこの純粋にアメリカ的な類型は、少し説明を要する。もろもろの資源を効果的な行動へと動員する特殊技能者という役割では、彼らは経営管理者と同じである。彼らの仕事は、「自立的個人を生かしながら、いくつものシステムで彼らがうまく機能する組合せを実現すること」であり、具体的には「システムの間で生じる個人の不適合を治癒する役目」を負う。この類型を「セラピスト」と呼ぶのは、個人が自分自身の尊厳と自律性を保つこと(ここでいう表現的個人主義)とうまく折り合いをつけながら、職場では他人と上手に付き合い、ジョブ(仕事)の成績を上げていけるよう指導・調整する役割を果たすことを期待されているからである。彼らはシステムが最善の状態で機能することを請け負う職業人であり、そのかぎりで経営管理者と同格の職業的成功者に分類される。セラピーが引き出すのは、いわば教養が邪魔をして、宗教から少し身を離すようになったアメリカ人の良心であるとともに、そんな彼らにアメリカ的な成功を保証する手立てでもある。
だがこの類型は、セラピストという職業にまだあまり馴染がない私たち日本人にはよく理解できない。この類型こそ、アメリカの伝統と文化が図らずもつくりだしたタイプのように思える。私たちの社会で代わりにその役割を果たしているのは、大学の先生やマスコミの評論家たちで、アメリカと違って、彼らの診断や忠告は、聞き流されるばかりで、ほとんど実際の治癒の役に立っていないのである。しかしながら、ジョブとしてあるいは類型として成立しているにもかかわらず、彼らにたいする評価は、アメリカでも芳ばしくないらしい。経営管理者的あるいはセラピスト的システム調整あるいは機能の効率化からは、「人生を生きるに値するものにするのは何かという規範的な問いがすっぽり抜け落ちている」とベラーは判断を下す。この三つの類型がアメリカ的価値の実現を可能にした立役者であるにもかかわらず、「アメリカ社会のなかには、経営管理者・セラピスト的なエートスに対する強い拒否反応がある」と。
アメリカでは、セラピーは自己認識と自己実現を果たす姿勢をつくるものとされる。それはとくに中産階級に特徴的なことのだが、自分を知り、自分を受け入れることがとても大切なことで、それを自立と言い表す。「自分はこれでいいのだ」と思える状態が理想とされ、他人との関係も、結婚相手との関係も、そのような自立の心があってはじめて対等な良い関係が結べると考えられている。本書では、そういう状態を「表現主義的個人主義」と呼んで、アメリカ的価値の最良の部分としているようである。
翻って、私たち日本人はどうだろうか?
平均的な中産階級のアメリカ人が、職業人としての成功と物質的富への渇仰と、その反対のありのままの自分に忠実でありたいという願望との間で揺れ動きながら生きているありさまには、私たちも大いに共感を覚えるに違いない。自立することの大切さを自覚することでは、私たち日本人もアメリカ人に劣るまい。経営管理的職業人としての成功と物質的欲望を満たしたいと思っているのもそのとおりだし、さらにまた、物質的な欲望の充足だけでは満たされないものがあると考えていることも確かである。その点で現代の私たち日本人の社会とアメリカ社会には、文化的な大きな共通要素があるけれども、当然のことながら、違っている点もたくさんある。追々明らかになってくるように、それは個人の自立あるいは独立に賭ける彼我の思いの深さにかかわるだろう。
日本人の手で行われた国民の精神構造についての研究報告として、見田宗介『新版 現代日本人の精神構造』(一九八四年)を紹介したい。本書は一九六五年(昭和四〇年)に初版が出て以来二十年間で十六版を重ねたベストセラーで、私たちが今度参考にしたのは、時代の流れに合わせて増補・改訂した新版である。この新版がまさしく日本人の精神構造を示す決定版ともいうべきものであるのは、見田も協力して、二十五年にわたり六回行われたN H K の『現代日本人の意識調査』の最初の二回の結果を取り入れているからだ。旧版が対象にした時期は一九五〇年(昭和二五年)から一九六二年(昭和三七年)までの間で、いわゆる「戦後日本人」の意識の変遷がテーマになっている。調査の方法は、新聞の身上相談からアンケート、インタヴューと多彩であるが、それぞれの内容は、各機関が実施した統計上のデータを蒐集して読み解いたといった趣である。一九七三年と七八年のN H K の調査結果を加えたのは、もはや戦後とはいえなくなった時期の日本人の意識と比べる戦後の決算の意味もあるに違いない。
ベラーの報告と比べると、なによりも調査の方法が違っている。
彼らの対象は、世界でもっとも豊かなアメリカ社会で安定した生活を送っている白人ホワイト・カラーたちに限定され、それぞれに専門的な知識と経験を具えた研究者が長い時間をかけてじっくり彼らから聞きだした意見である。しかもその時期は一九七九年から八四年にかけてで、見田の報告の時期からほぼ三十年あとだ。報告の結果から窺われる意識の違いは以外ではないけれども、それよりもむしろ、文化も人も環境や条件の違いも飛び越えて、なお私たち日本人が、アメリカ流の個人の自立と成功とを理想と考えていることの方に大きな意味がある。
でもそれらを比較・吟味する前に、日本人についての見田の報告を見てみよう。
私たちが見田らの調査結果に見出す新しい情報はそんなにたくさんはない。それらは、戦後六十年を生きた私たち日本人の多くが常識としてもっている見方とほとんど同じである。第一部は「現代における不幸の諸類型」とあり、新聞の身上相談に現れた、悩む相談者と世故に長けた解答者とのさまざまなやり取りをネタに、日常的な不幸のありようを探ろうとする。著者は、「疎外は人びとの意識をこえた客観的な状況であって、不幸のこれらの形態は、その主観的な帰結と考えられる」また「考察すべき対象は、疎外問題がまさに問題として顕在化している人生である」といっていて、私たちの現代の不幸を「意識の疎外」ということで説明しているようである。
「意識の疎外」とは、著者によって、「人間の日々の関心が、人間にとって非本来的な価値にとらわれている状態である」と定義される。
具体的にいうと、マスコミや世間の目がつくり上げた規格品としての人生がまずあって、たくさんの若者たちが、自分がそれに当てはまらないことに悩む。さらに職場では命じられたとおりに些細な作業をやるだけで、彼の労働が全体の生産あるいはビジネスの流れのなかでどこの位置にあるのか、そこに生み出される結果は何なのかがさっぱりつかめない。仕事が見えないというか、結果とまったく切れているそんな状態を「疎外」という。多くの若者が、自分というものを出せずに、社会の仕来り、生活のうえで守らなくてはいけない規則や規律にただ振り回されているだけと感じている。恋人を作るにも、スマートで世慣れた型に嵌った会話をこなす能力が要る。
自分のしぐさや生き方さえ誰かの真似で、自分で選んだものは何もない。これを物象化現象と称するのだが、この疎外傾向は、戦後民主主義の時代になってますます加速されたのだった。見田によれば、昭和六年(満州事変)と昭和一五年(支那事変)のときの調査では、青年の理想的な生き方は「世の中の不正をおしのけて清く正しく生きること」と「自分のことなど考えず、社会のために尽くすこと」だったという。だが戦後の昭和二五年から三三年の調査では、若者たちは「自分の趣味にあった暮らしをする」のが理想である。いずれも、その時々の世間が決めた規格であることに変わりはないが、戦前の若者は少なくとも受身のままでいることを許されていなかったのにたいし、戦後は逆に気ままに生きることが生き甲斐になっている。しかも人びとの生活は、男は仕事か事業、女は子供と家庭というパターンがそのままずっと続いているのだ。
皇太子(現天皇)の結婚式があった一九五九年(昭和三四年)と日米安保条約が調印された一九六〇年(昭和三五年)のころ、生き甲斐を、国家や天皇のため、信仰のためと考えることをさらりとやめて、人生は目的よりも優雅に生きること自体に意味があると考えるらしい人びとは、この世でいちばん幸福な人とは会社の管理職と一流会社のサラリーマン、それと彼らの家庭の主婦であると思っているのだった。社会的な成功はあくまでも努力による自由競争の成果であるとしながら、一方では、いくら努力しても成功は覚束ないとも感じている。結局、成功はチャンスと生まれつきの能力・才能次第なのだと思っている。戦後、伝来の価値観と道徳にたいする私たちの見方はがらりと変わったが、そのも一方では、戸惑いもある。
それを見透かすかのように、彼らが理想とする人物の第一位は、あいもかわらず二宮尊徳なのであった。
「新版」で増補された部分は、それから十五年ほどたった時代を対象に、一九七九年から八〇年にかけて執筆されたエッセイと分析を含むのだが、政治的により保守化が目立つということのほかに、人びとの精神のありように若干の変化が見られる。十五年たってどうやら安定した生活を手に入れたわが国民の最大の願いは、福祉の向上と経済の発展に落ち着いたらしい。明治と大正の世には、貧乏人は孤立していて、救済の手も届かないまま、飢えと結核やチプスなどの病魔に怯えていたものだったと柳田はいっている。明治の後半になってなお、東北の飢饉(明治三十五年)でおおぜいの農民が死んでいた。だがいま飽食に飽いている人びとがいちばん気にかけているのは、貧乏と飢えと伝染病ではなく、運に見放された結果の失業と隣人の蔑すむ目なのである。
基になったデータは、一九七三年(昭和四八年)の第一回と一九七八年(昭和五三年)の第二回のN H K 「日本人の意識調査」であった。すなわち一九七〇年代の国民思想(とくに青年の意識構造)の変遷を扱い、初版で分析した一九六〇年代の思想と比べられる趣向になっている。おおざっぱにいって、私たちが見田の分析から知るのは、戦後から三十年を経て、いまや日本国民が日常生活の全体にわたって満足しているということであり、とりわけ七〇年代後半にいたって、生活現状への満足度が急激に増加しているのにびっくりするのである。一九七八年には、青年の実に八十五パーセントが現状に満足していると答えているのだ。(男子ホワイトカラー労働者は七〇年代の初めには半数が現状に不満をもっていたのに、終りごろではそれも三十パーセントに減っている。おそらく彼らのうちの多数を占める二十歳代の人たちの意識が反映しているのだろうと見田はいっている)逆に不満だと答えた若者の割合はたったの十四パーセントであり、どちらでもないと考える人がいなくなっているというのも異常である。今はまだやり甲斐がある仕事は見つかっていないが、いずれ見つけると楽観しているのか、不安のうちにいるのがごく自然なはずの若者たちの苛立ちがまったく見えないのだ。それを端的に表しているのが、戦後から一九六〇年代ごろまでは高かった青年の共産党支持者の動向だ。一九七三年にはそれでも十二・二パーセントあった大学生の共産党支持者が、一九七八年にはたったの〇・九パーセント以下になっている。それを裏付けるように、七〇年代の終りごろの若者の八十八パーセントが「日本人に生まれてよかった」と思っている。三割以上の若者が「日本は一流国だ」と信じてもいる。でも、彼らは国のために何かをしよう、役に立ちたいとはあまり考えない。見田の総括を聞こう。彼らは「自分たち自身がとくに何かの行動をしなくとも、この現実の世界というものは、彼らに満足し得る環境を用意してくれるだろうし、現にそのようにしてくれているというイメージを持っている」のだと。
この見田の総括は、驚いたことに、ベラーが報告しているアメリカ中産階級の人びとの意識の裏返しである。ここに見出されるのは、まさに個人主義と自立を最高の徳と考えるアメリカ人の価値観が悪い見本と捉えているような生活態度である。さらに付け加えれば、八〇年代の日本人、とくに若者の意識の底には、伝来の日本の文化的価値とされる共同体的絆が残っているようには見えないし、その代わりに自己中心的で、社会への関心が薄れているか、あるいは失っているような印象さえ受ける。これはおそらく一九七〇年から八〇年代ごろの、世界中の若者に見られる傾向なのかもしれなかった。
私たちは現代日本人の精神構造をもう少し追い、いま挙げたNHKの調査を引き続き見てみよう。「現代日本人の意識調査」は、先にも述べたように、一九七三年(昭和四八年)から一九九八年(平成十年)まで、二十五年かけて都合六回実施された。それぞれNHK放送文化研究所から調査報告が『現代日本人の意識構造』として出ている。私たちが参考にしたのはその第五版(二〇〇〇年)。中身を調べる前に、なによりも一九九〇年(平成二年)にいわゆるバブルの崩壊が起きていることを押さえておこう。さすがにノーテンキな日本人でも、この経済的崩壊だけは大いに身に応えたのだった。一九九八年(平成十年)最後の六回目の調査は不況のまっただ中に行われた。このとき、政治に期待するものはという質問のなかで、福祉元年といわれた一九七三年第一回の調査からずっとトップだった「福祉の向上」が初めて一位を「経済の発展」に譲って二位に落ちたのだった。もう一つ、「保守回帰」を印象付ける傾向として、権利意識についての調査結果を取り上げたい。それぞれの行動についてあなたならどうしますか、と問いかける質問はこういう内容だった。
1思っていることを世間に発表する 2税金を納める 3目上の人に従う 4道路の右側を歩く(規律を守る) 5人間らしい暮らしをする 6労働組合をつくる。こんな質問で私たちの本音が引き出せるものかどうか心配になってしまうが、はたして、5の人間らしい暮らしをするのが七十六パーセントという圧倒的な高率を誇っているのにたいして、その他の質問に積極的にそうするという答えた人の数は、一貫して下がりっぱなしである。しかも見田が一九六五年(昭和四十年)に「戦後の終焉」を見越して分析した私たちの意識の変遷傾向はずっと変らない。みんなが日本人に生まれてよかったと思っている反面、日本人としての権利と義務を行使することには消極的である。集団としての日本人はネイション(国民・民族)としての強い帰属意識をもちながら、個人としては、自分の幸せばかりを優先的に考えるという分裂した姿を現している。働き蜂であることをやめて、余暇を楽しむ人生を目指す私たちの意識を、ステレオタイプの幸せだといって貶すのはやさしい。でも、必ずしも良い方向に向かっているとはいえないまでも、この傾向は、私たちの社会が依然として自由主義化・個人主義化・合理主義化(近代化)の途上にあるということの証拠である。ところがNHK の調査では、近代化についていえば、「二十五年の間、脱・合理的な変化を見出すことはできなかった」と結論づけているのに、最近の九〇年代では、私たち日本人の「保守回帰」傾向が明らかだと分析する。しかもとりわけ印象的なのが、好ましい生き方として、「能率優先が当然と思われる仕事の場において、圧倒的に、仕事などあんまり出来なくても、付き合いやすい相手と楽しくやろうという情緒的価値が尊ばれている」というくだりである。してみると、私たちはまたぞろ、社会システムの中身を、私たちが戦後受け入れてきたアメリカ的な価値から伝来の日本文化の価値に戻そうと願っているようでもある。
だからこそ保守回帰という表現が使われているのだが、調査者の視座には、この流れがたんなる保守回帰に留まるのではなく、日本文化の伝統を踏まえた「脱近代化・脱合理化」へと向かう積極的な意味を含んでいるという見方があると思う。それはとりもなおさず、戦後の私たちが「コミュニケーション的行為」によって、たんなる保守回帰でなく、私たちの文化社会をポスト・モダン(エコロジー風)のモデルに沿ったかたちに修正していこうとすることをどう評価するかの問題に関わる。
ここで私たちは、ベラーたちの報告と見田の報告との違いを明らかにしたい。ベラーの報告では、インタヴュー者は、対象になった人びとの人生観というか、本人さえ気付いていない本音の価値観と日常生活上の建前とのズレ・葛藤まで聞き出しているが、見田の分析は、統計調査のデータという性質上、本音と建前とのズレは質問の仕方とその答え方から推測するしかなかった。ベラーのインタヴュー者が、自分自身の本音もさらけ出して相手とのコミュニケーションを心がけ、いわば同じ仲間としての意見を彼らの答えのなかに反映させたのと比べると、統計データの分析では解釈に限りがある。
だから違っているのは当たり前なのだが、それにしても、普通あまり変化しにくい宗教観に日本だけ著しい変動が見られるのはなぜだろうか。宗教意識の分析を通じて、一般の日本の若者たちが伝統的な神仏の信心からどんどん遠ざかり、占いや魔術といった、本来宗教的なものではないオカルト的な「機械仕掛けの神」に頼る傾向が非常な勢いで強まっていると見田がいっているのは、もしかしたら、心ならずも疎外され絶望した彼らの心の底にある宗教的なもの(神仏への信仰)への憧れをとらまえそこなった結果ではないか。アメリカのホワイト・カラーたちが、すでにキャリアを積んだ人たちであることを割り引いても、なお伝統的なピューリタン気質を持ち続けているのに、私たちは寺や神社をあまり大切にしない。それは確かだとしても、その責任の一端は、戦時中から戦後にかけての彼ら宗教家たちのふるまいにもある。宗教を愚弄するかのような魔術や呪術への依存傾向が表面的なアンケートに現れているといっても、私たちの宗教観が変わったと断定するのはまだ早い。時代が「脱・近代化」の世界に入っているというのはもっと早い。
『心の習慣』は対象をアメリカ人中産階級に限った研究であるが、それが「功利的個人主義」と「表現的個人主義」という二つの概念を取り出して、前者から後者への移行を暗示しているのは、あたかも見田の研究が、現代青年の意識構造の変化として、「理性主義的な自己志向である『利』価値志向が減少して、感性主義的な他者志向である『愛』価値志向が増大している」というのに見合うであろう。
『心の習慣』では、アメリカ人の価値でもっとも大切なもの、個人主義を捉えて、成功と利益だけを追求する古いタイプから心の安定を得るために「自己を深く掘り下げ育成すること」に価値を見出すタイプへの移行を暗示して、そこに「セラピスト」キャラクターが見出される根拠があった。ベラーらの分析の結果分かったことは、彼らは他人を当てにせずに「自分はこれでいい」と感じられる状態を理想とするが、それは結婚においてもっともよく示される。自分というものを全面的に受け入れ、自立的に行動する個人どうしのコミュニケーションにもとづく契約が、彼らがそうあるべきだと思う結婚の姿なのだ。だから自分の立場がない、あるいはこのままでは自分自身でいられないと思えば、離婚は契約のなかに含まれる正しい行為だということになる。要するに、自分はこれでいいのだと思えない状態こそがセラピーが癒すべき病理なのである。アメリカ人にとっていちばん理解しがたいことは、自分と他人の区別を克服する(あいまいにする)ものの見方だとベラーはいう。彼らがつくってきた共同体社会では、自分と他者とは別だという前提のうえで道徳が成り立っていた。なにごとにも、自分と他者との間に展開されるコミュニケーション行為を通じた合意が必要だったのである。
これに対し、日本の社会で個人あるいは「自分への配慮」に関わる事象を見田が扱う場合、仕事や結婚といった対人関係の齟齬・軋轢ではなく、宗教の領域でのふるまいが使われた。一九七〇年代の日本では、全体として神仏を信仰する人が激減し、宗教への関心が下落し続けているという事実から、日本人一般の心理傾向を探ったのである。どの文明国でも似たような現象を見ることがきるけれど、日本の若者の場合に限っていえば、そこにはとくに、世間にたいする甘ったれる姿勢と、親への依存心をどんどん肥大させている状況が観察できるというのである。彼らにはなにをおいても個人として自立しようという覚悟が不足しているし、結婚はおろか仕事さえも他人まかせにしようとする。何百年も続いた私たちの社会のありようを見るかぎりでは、いつも何かに依存しながら、後生の幸せを願い、現世にご利益を期待して生きてきた面があるのも否定しがたいことであった。この国では宗教への関心が薄れたことはけっしてなかった。しかしいま、宗教の役割が目に見えて下落しているのは、近代化とセットで輸入された急激な個人主義化と関係があり、当然、それには日本の文化事情とりわけ宗教システムの変化が絡んでいるに違いない。
だから、見田の『現代日本の精神構造』とベラーのアメリカ人の『心の習慣』とでは、私たちの意識構造が、功利中心から自分や隣人たちを大切にする気持を重んじる風へと移行するという傾向は変らないけれども、その結末が違ってしまったのである。生粋のアメリカ人は信心深くて、独立戦争時代の小さな共同体社会を懐かしみ、もうそこに戻れないことに傷つくのだが、日本人の半分以上の人びとは現在がいちばん幸せだと答え、次にはもっといい社会が来ると夢見ている。それは、目覚しい戦後の復興のおかげで、私たちの物質的な欲望が満たされてきたことと関係があるけれども、それとともに、まだ何かに頼っていけるという望みが絶えていなかったせいもあるだろう。五十年前の戦時中と戦争直後の社会がいちばん嫌いと答える国民には、もとより戦争の悲惨な記憶は消えていなかったが、同時に、それはただいっときのことにすぎなかったという思いがあった。
アメリカ国民がアメリカという国を誇りにしているように、戦後の私たち日本人は、けっしてネイション(国民)としてのあり方に幻滅してはいない。そこにこそ保守主義者たちの主張の拠り所があるのだし、若い世代に脱近代化・脱合理化を願う気持があるとしても、それは官僚化あるいは上からの統制を嫌うからで、戦争を知らないことからくる脱・国民国家の思想とは思えない。
戦後の復興と自分たちの生き方に多少とも自信をもっている日本人の全世代に共通する思いがある。それは自由と平等を基本とする民主主義の理念による国家統合を目指すことと私たちは考える。
その前提になっているのが、世界一の産業国家を築き上げたという自負にあるのは明らかで、戦前の社会秩序や道徳への回帰にあるのではない。私たちの国民国家のイデオロギーは、げんに私たちが享受している生活世界とその世界を支えている秩序のなかに疑いようもなく顕れている。お望みなら、それを新しいナショナリズムと呼んでもかまわない。
私たち日本人は、経験した者もしない者も、すべて昭和初期に十五年続いたアジア・太平洋戦争から測り知れない影響を受けた。戦争と戦後は私たちの歴史を不自然に捻じ曲げ予期しなかった新しい運命をつくった。それは、ニコラス・ルーマンの筆法をもってすれば、それぞれの時期に近代化とは正反対な方向をとったコミュニケーション(マスコミと宣伝)が社会システムに作用して、まったくありそうになかった構造を作り上げてしまった事態だった。私たちの社会システムは、そのときなにごとか歪んだ要素を取り込んだのであって、修正機能が作動することになったのであろう。そこに、ベラーたちが分析したアメリカ人の意識と、「戦後」日本人の意識の変遷に、見かけ上の違いが現れる理由があった。宗教や道徳についての考え方が文化と伝統を異にするアメリカ人と日本人とで違っているのは当然でも、より良い生活環境と社会秩序を求める気持はどんな国民にも共通する。それを探り当てるのが社会学の任務だといってよい。社会学が生まれたときは西欧文化専用の理論だったとしても、その方法を使って成果を上げる相手がアメリカ人に限るとは思えない。ベラーはもちろん、その相手は日本人も含めた人間共通の意識でもあることを射程に入れている。調査結果の分析が違った結末を引き出したからといって、現代人である私たちの「心の習慣」にそんなに違いがあるわけではなかった。
彼我の意識の違いには、調査方法の違いが大きくかかわっていたと思う。見田が利用したNHK の調査では、無作為抽出による対象への四十八の質問は、広い事柄をカヴァーしているとはいえ、質問の仕方そのものが、常識的で答えやすい内容にかぎっていた。とても人びとの本音にまでは入り込めない。調査の結果は、その報告を読むまでもなく、「人間らしい暮らし」と「男女の平等」、「個の尊重」へと向かっているとはなから分かっていただろう。現代の日本人が合理化に反感を覚え、個人主義を嫌い、もっとムラ的な共同体的連帯をと望み、経済的発展よりも助け合いの心を大事にする復古的な方向へと意識を切り替えつつあるというのは本当ではあるまい。NHK の調査は、回答した人びとから、環境に応じてカメレオンのように変わる私たち日本人の生活意識の上っ面を写し取っただけで、回答の表面を装っているのは、ステレオタイプのアメリカ的価値観だったり、マスコミ仕込みの戦後民主主義批判だったりするが、全体としては、私たちはまだ未来に向かって「脱・合理化」「脱・近代化」へと態度を切り替えたわけではなく、まして前近代に後戻りしてしまったわけでもない。  
(四)良いナショナリズム
この章では、私たちが「ナショナリズム」という言葉で一般的に何を意味しているかをいくらかでもはっきりしておくことを試みる。
なにしろ、ナショナリズムにはいろんなヴァージョンがあるのだから。といっても、そうとっぴなことを考えているわけではない。『大日本百科全書』(小学館)の「ナショナリズム」の項を見ると、約一頁半にわたってその複雑な内容を展開しているが、私たちは、その冒頭の定義に従う。味もそっけもないものではあるが、そこにはこうある。「ある民族がその生活・伝統・文化を保持するために国民国家を形成し、国家成立後は、その独立性・統一性を維持・発展させることを目指す思想原理・ないし運動」であると。この項の執筆者田中浩は、「ナショナリズムの思想は近代国民国家の形成とともに登場した」ともいっているから、日本のナショナリズムもまた明治近代国家の誕生とともに登場したのである。
田中の説明を待つまでもなく、私たちは、ナショナリズムはさまざまな顔をもった一筋縄ではいかない厄介なものであることを知っている。なによりも、私たち日本人には、前述の定義の上に意図的に乗っかった富国強兵と、国民よりも国家の威信や利益を最優先する政策をナショナリズムと理解してきた歴史がある。その悪いナショナリズム思想ヴァージョンが、無謀な十五年の侵略戦争に私たちを駆り立て、さらに戦後のいまも、健全なナショナリズムの根っこにあるはずの、権力とは国民の合意に基づくもの、あるいは国家との契約によって託されたものとするホッブス流の考え方から私たちを遠ざけているのである。田中が参考文献として挙げているエドワード・ハレット・カーの『ナショナリズムの発展』(大窪愿二訳、一九五八年版)を手掛かりに、良いナショナリズムとは何かを見てみたい。たまたまわたくしはこの小冊子をもっているので、紹介する。
一九四五年に出版された本書は、ナチ・ドイツ崩壊の前夜、国際連合の胎動を聞きつつ準備されたものだと解説にいう。著者のカーは、切れ者の外交官として、またレアリストとして、一九四八年には国連「世界人権宣言」の起草委員会で委員長を務めているから、戦後の世界平和のための国際協力を訴える必要上、ナショナリズムはその障害になるという立場を取っている。カーの分析では、ナショナリズムは十八世紀以前の中央集権国家の誕生から始まるのだが、当時、権力は君主一身に集まっていたから、国際法といっても、君主個人あるいは君主の代理人だけを律するルールであって、国民はほとんど関与しなかった。だから、国の富を増やすといういわゆる重商主義の後見人を自認するナショナリズムから、人民はすっぽりと抜け落ちていたのだった。現代風の国民国家のイデオロギーとしてのナショナリズムをはじめて実現したのはナポレオンであった。でも十九世紀に近代ナショナリズムを完成させたのは、産業革命を経験したイギリスである。歴史的に見ても、また普遍的な意味でも、近代ナショナリズムが前提としているのは、個人主義とリベラル・デモクラシー(自由民主主義)という二つの思想に基づいて「国家を人格化」すること、つまり人びとの集合的な意思が実体としての一個の「ネイション」を立ち上げることだった。でもそれが実現した十九世紀は、圧倒的に強大な経済先進国であるイギリスの利益ばかりが優先された世界だったし、彼のナショナリズムはそういう顔をしていたのである。他の独立国家たちは、多かれ少なかれ、イギリス経済のおかげを蒙っていたから、独立といっても、それは経済体制と政治体制が別物だという幻想の上に成り立っていただけだったとカーはいう。イギリスの世界経済体制と、その体制に取り込まれている弱小諸国家の独立を維持するために、各国の首長と彼を取り巻く一握りの「パワー・エリート」(権力を一手に握った政治家・官僚・経済人らエリート階層)たちが、不平不満を押し隠して、つかの間の妥協を繰り返していただけだと。やがてドイツとアメリカがイギリスの覇権に挑戦しはじめ、ついに第一次世界大戦が十九世紀的世界秩序に終止符を打ったのだった。
いまやカーが第三期に入ったと称するナショナリズムの性格づけには、彼のそんな思いが顔を出している。第二次世界大戦後のナショナリズムを、彼は、先進諸国のなかに新しい社会層(労働者大衆)が現れ、政治と経済が一体になった新局面のもとで、「国家の社会化」につれて出現したものと分析するのである。大衆の経済的要求が押し出され、国家政策は大衆の支持なしには実現できないありさまになっている。そんな国家では、政治が経済をリードする。この事態を、カーは、「社会主義ナショナリズム」あるいは「ナショナル・ソシアリズム」と呼ぶ。だが、ここでいうナショナリズムにはネイション・ステイツが抱え込む少数民族とその文化にまつわる問題意識は薄いだろう。さきにも言ったように、戦後の世界平和は国際協力からという立場を取るカーには、ネイションを単一民族国家と解するか多民族国家と解するかで悩む前に、なによりもまず、ナショナリズムそのものが厄介なものだったのである。だから、「社会主義ナショナリズム」というようなかなり杜撰な物言いには、民主主義国家で労働者大衆の発言力が増すことの好ましい側面と、ネイション(民族国家)としての自己主張が国際協力に及ぼすマイナスの側面とを測りかねているとまどいが感じられる。のちにロシアのボルシェヴィキ革命の研究をライフ・ワークとしたカーが、スターリン独裁政権下のソ連を分析してたどりついた「一国社会主義」という概念に、このとき名付けた社会主義ナショナリズムの行く末を見ることができるかもしれない(一九五九年、日本版、南塚信吾訳『一国社会主義 一九二四〜一九二六』一九七四年)。「一国社会主義」とは、社会主義を地球の隅々まで輸出しなければ完成しない理念ではなく、一国内で完結するシステムと捉えることを意味する。すでに完成した一個の政治体制として機能しはじめた感のあるソヴィエト・ロシアという社会主義のシステムが崩壊することがあろうとは彼はもちろん予想していない。だからこそ、良い悪いをいう前に、その体制の理解こそが大事なことだと思ったのだった。
一九四五年には、カーは、戦後の二超大国であるアメリカ合衆国とソヴィエト連邦は、多民族国家のつねとしてナショナリズム的な主張が弱いはずだから、国際協力の行方は楽観できると考えていた。
おそらく彼は、ナショナリズムは厄介なものではあるが、二回の世界大戦を潜り抜けた国際社会なら、その知恵によって十分に制御できると考えていたに違いない。事実、カーに負けず劣らず、アメリカの人びとも、またおそらくは世界中の人びとが、国際社会に大きな希望を託していたのである。これからみんなの手でつくる国連についての議論のなかで、カーが引用しているあるアメリカの著述家の言を、すこし長くなるけれども、わたくしもその趣旨を引用させてもらう。「来るべき国際社会の機関には、国家的利己主義を刺激しない、主権の誇りを傷つけない配慮が必要になる・・・必要なのは、説教じみない地味なもので、諸国家が自ら進んでそれに属する機関である。そのためには、まさしく国民の権利と義務に該当するものについてはできるだけそっとしておくこと。騒がしくなく、効率的に始めることだ・・・」(カー、前掲書)ここには、国際社会におけるネイションというものの優位を認めながら、なお国際社会の知恵への信頼がある。
だが世界中の人びととカーの楽観は裏切られた。一九六〇年代になって、ほとんどの国民国家が自国の軍事的安全と経済的福祉を保障できないことが明らかになって、一本立ちしたネイション・ステイツは、自らも繁栄しながら、同時に、国際法も尊重するという光栄ある役割を果たすことができなくなったのだった。悪いナショナリズムは消えてなくなるはずだったのに、そうはならなかったのである。国際法に強制力はなくとも、国内では処理しきれない問題(人権問題・国際通商その他)を的確に処理できる特定の目的をもった地味で効率的な国際機関も、自立したネイション・ステイツの協力で十分機能するはずだったが、そうはならなかった。「国際協力と諸慣行を通じて個人の利益と福祉を増進し保護するために国際法をつかうこと」はいまだに絵に描いた餅である。『ナショナリズムの発展』(原文の題名に即すれば、「ナショナリズム、その後」とする方が適切だったと思うが)のなかで、カーが試みた国際主義の展望は、残念ながら、いまでもまったく実現していない。彼は国際協力が目指す最大の課題に完全雇用を挙げ、具体的には世界中の人びとにアメリカ生活の良さを味わわせることと捉えてみせるのだが、それはたしかに一九四五年には現実的な展望だったかもしれない。でも、それはすぐにただの幻であることが明らかになる。完全雇用は一国内で公共事業を増やすことでしか達成されないというケインズの提案をばかげたことと一蹴するカーには、戦後の疲れきった世界では、完全雇用など一国民国家の手に余る事柄であり、世界の平和と平等という理念を共有する諸国家の国際協力のみがなしうるものとしか考えられなかったのである。
一九六〇年代から七〇年代にかけて、社会諸科学の領域で広い範囲にわたって、パラダイムの転換があった。とりあえずそれを、哲学の分野でいう「言語学的転換」にならって、「社会学的転換」といっておきたいが、とりわけ歴史学の領域で、その影響が著しかった。
私たちはその動きを、例えば、日本の中世史家のなかに見つける。
パラダイムについては「一般に認められる科学的業績で、しばらくの間、専門家の間に問い方や解き方のモデルを与えてくれるもの」という中山茂の定義(石井進「中世社会論」、石井進著作集第六巻『中世社会論の地平』二〇〇五年所載)を私たちも採用したい。歴史学の分野でいえば、新しいパラダイムでにわかに脚光を浴びた「社会史」の内容とは「諸社会集団とそれらの関係の歴史」に焦点を当てることで、具体的には、1貧困層や下層民の歴史 2礼儀とか習慣とか日常生活の言葉でくくる人間活動の多様な側面を扱う歴史 3社会経済史の三つがあると、柴田三千夫が説明している(石井、前掲書)。わたくしはつい最近、これらは歴史社会学と呼ばれる領域に入るらしいということを知ったばかりなのだが、いずれにせよネイションとナショナリズムの問題は、ここで政治的な支配・権力機構のサブシステムとして扱えることになったと思う。そうして、歴史を扱う社会学と人間社会の仕組みの理論だけを扱う社会学の二つに分化したなかで、もちろんその両方に股がったってかまわないが、前者に関わる「社会史」が文献専門の歴史学を少なからず変えようとしているのである。
そのことを少しでも明らかにするために、私たちは、アンソニー・ギデンズの『社会理論と現代社会学』(藤田弘夫訳、一九九八年、原著は一九八七年)に尋ねよう。ギデンズはいわば社会学の教科書のような人だから。事実、彼には大学生向けの教科書として書かれた『社会学』(一九八九年、日本版一九九二年)という七百頁に近い大著があって、およそ社会学が取り上げそうなあらゆるトピックを紹介しているのである。
ネイション・ステイツ(国民国家)から調べはじめるのが現代社会学の常道だと彼はいっているのである。中世的な国家がネイション・ステイツへ移行するには、資本主義的・産業的な構造を発展させることが必須なことであったと。社会主義的な計画経済の国家をそのなかに含めているかどうかは必ずしもはっきりしないが、ネイション・ステイツとは、彼の定義によると、「明確に区分された境界をもった領土を、独占的に、つまり法と暴力手段(警察)をもって支配している制度的な統治形態」だということになる。そういう意味では、ギデンズにとって、たまたま近代国民国家のなかで生まれたからといって、ナショナリズムは必ずしも国民国家になくてはならないものでもないのである。中世国家とその最後の段階である絶対王政国家(たとえばフランス)では、ナショナリズムの感情はほとんど発達しなかった。土台となるべき国民(ネイション)がそもそも存在しなかったからである。ナショナリズムの感情は、典型的には、国民軍を彼一流のやり方で統帥したナポレオンのフランスに発生したのだった。そうしてその後、ボナパルトの甥ルイ・ナポレオンがクーデターを起こして、せっかくの共和制をぶち壊して打ち立てた第二帝政こそ、ブルジョワジーが主役を務める近代フランスのネイション・ステイツ(国民国家)だった(中谷猛「国民国家としてのフランス第二帝政」、望田幸男・碓井敏正編『グローバリゼーションと市民社会』二〇〇〇年所載)。大仏次郎の『パリ燃ゆ』は、そのルイ・ナポレオンの時代を描いた大作である。当時ロンドンにいたマルクスから「猿芝居」と罵倒されたルイの第二帝政は、長く労働者の革命「パリ・コミューン」をお膳立てした準備段階としてのみ見られてきたが、いまやフランス資本主義の黄金時代と評価される、パリ大博覧会に象徴されるさまざまな国家的事業が企てられた産業化の時代なのだった。私たちは、このときフランスで、ナショナリズムが一つの頂点を極めたことを認める。一方、ナポレオンなどいなくとも、経済力だけで世界を制覇したイギリスでは、ナショナリズムは世界制覇の方便として有効ではあったが、必ずしも必要なものではなかった。ナショナリズムをどうしても必要とするのは、お隣りの強国に遅れをとり、つい卑屈になってしまう国民を奮い立たせる必要に駆られた国民国家のエリート指導者の方なのだ。
あらゆる国民国家にとって不可欠なものといえば、それは「精確に規定された領土的区画」の隅々に国家行政を徹底させること、そのための国民の一体感である。強制を必要としないイギリス人の伝統に従って、ギデンズはナショナリズムを二義的な国家統合の要素としてしか見ない。彼にとってナショナリズムとは、ただ「エリート集団によって宣伝された象徴・信念。または地域的、民族的、言語的に分かれた人びとがすべて一致して擁く象徴・信念」である。共通言語さえ必要でないという彼は、国家による制度的な暴力手段の独占だけが、国民国家としたがってナショナリズムの必須の前提条件になる。あえて強制的権力を用いないこと、合法的・合理的であること、つまり産業資本主義的生産システムがもっとも効率化したときの「統治する人びとの活動を完全にモニターするための情報を独占して組織化すること、ミシェル・フーコーがいう近代工場における監視の概念」こそが、ギデンズのいう「ナショナリズム」の実態である。
もとより幅広く社会学を見渡す教師ギデンズは、ナショナリズムの文化と伝統に結びついた心理的な側面も見逃してはいない。日常生活世界に失われかけた伝統や文化を再生させて人びとに安心感を与えるのも、ナショナリズムの作用であるから。そのさい最も有効な要素となるのが共通の言語である。ここで私たちは百科全書の解説に戻り、さまざまなナショナリズムがあること、そのなかに良いナショナリズムと悪いナショナリズムがあることを思い出してみよう。執筆者田中浩が四つ挙げるうちで、良いナショナリズムとは、1「国民の人権や自由を尊重しつつ国民国家をつくっていこう」とする考え方 2「被支配民族が支配者の抑圧からの解放・独立を目指す」思想運動であり、悪いのが、3「個人そっちのけで国家の利益ばかりを優先させる富国強兵」の思想 4「他民族を支配する植民地主義・帝国主義」の思想である。
ナショナリズムは、なんであれ、またどのような形で発動されても、政治的な意味ないしは効果を払拭することはできないが、そうであるならば、つねに政治的に良い効果をもつナショナリズムを選択したいと私たちは考える。啓蒙に使われるにせよ、宣伝に使われるにせよ、ナショナリズムはいつも「日常生活世界」のなかで文化と伝統に関わる運動あるいは感情である。でも、私たちの経験あるいは歴史的な事実からすれば、フランスでもドイツでもまた日本でも、ナショナリズムが利用してきた国家統合の伝統あるいはシンボルは、国民国家が近代特有のものである事実から容易に想像できるように、ほとんどが十九世紀末から二十世紀にかけてつくられたものであった(与田純「国民国家への統合の論理とシンボル」、『グローバリゼーションと市民社会』所載)げんに私たちは、悪いナショナリズム3と4のシンボルを戦時中にいやというほど叩き込まれた経験をもつ。たとえば、古謡に出てくる「撃ちてしやまん」という文句をわたくしはいまでも忘れていない。それがナショナリズムの戦意高揚のシンボルとして利用されたこととともに。
でも、良いナショナリズムに使われるシンボルの例もある。第二章で私たちが引用した柳田國男の『先祖の話』を思い出していただきたい。ご先祖の「みたま」は家にのみつく。家を離れた無縁のホトケはどこにも行くあてがないというのが日本人古来の考え方だったと柳田がいうとき、私たちは家を連綿と伝えていくことが私たちの文化であり、家族を思う心こそが私たち日本人の伝統であるということを素直に納得する。家系や家族を大切に思うのは、なにも日本人にかぎったことではない。でも、死んだ先祖の魂は、私たちが住むムラの周辺にいつもおり、いつでもおだやかに交流することができ、生き死にの境も、外来の仏教が説くほどには、はっきりとしていないという思いが私たちの日生活世界のなかになお残っているかぎり、日本という国民国家の文化的統合の原理は健在であろう。
さきにもいったように、戦争末期のたくさんの若者の死に思いを馳せながら柳田が語ってくれるご先祖様は、良いナショナリズムの極上のシンボルだったといわねばならぬ。
ナショナリズムはネイション・ステイツの統合原理の一つにすぎないのだから、私たちは、つぎにネイション・ステイツそのものについて考えてみたい。何度も繰り返しているように、ネイション・ステイツ(国民国家)とは、国境で区切られた領域のなかに住む人びとを「ネイション」(国民)として統合・支配している近代になって現れた主権国家である。それに不可欠なのは、君主でも独裁者でもいいから、民主的なあるいは見かけ上民主的な手続きに従って選ばれた首長がいて、軍隊と警察を独占している点にあり、国の経済や国民の生活が支障なく動く手助けをするいろいろな政府機構とか裁判所とか郵便局などは、大切さの順位からすれば、その次に来るのである。そうして、ナショナリズムはそれらに勢いをつけるただの道具にすぎない。もちろん国民国家は、構造上は、行政とか司法とか政治とか経済とか外交とか、いろいろな社会システムが重なり合ってできているのだから、国家統合の原理としてのそれらの順位が問題になる。権力が第一で、その次が富という具合に。
これも前に述べたが、「ネイション」と「ステイツ」を一緒にくっつけて呼んでいるけれども、両者の取り合わせは必ずしもよくはない。どちらかといえば、違ったカテゴリーに属するものを合わせて、しっくりしない部分をお互いに保障し補填し合って処理していたようなところがある。地球規模の熱い戦争と冷たい戦争のあいまに、これまで見たこともないほどたくさんの国々が「ネイション・ステイツ」として念願の独立を果たした二十世紀には、ネイションというお題目さえ唱えていれば、それで万事うまくいっていたが、二十世紀も末になるとさすがに無理がたたってボロが出てきた。そのボロにあたるのはいろいろとあるが、いま目立っているのが、福祉国家とグローバリゼーション(世界経済化)と完全雇用であろう。しかも、この三つは互いに連動し合っているから、一つずつではなく、一度に解決しなければならないのだ。一九四五年の時点で、カーがこの事態を見通していたとは思えないが、ケインズ理論が破綻して以来、完全雇用を国際的な協調のもとで解決しようという案が再び現実味を帯びてきている。
ネイション・ステイツのディレンマは、民族とか文化とか言語にあるわけではない。政治も経済も、すべての事柄が昔のように一国内では処理できなくなったことにある。その事情にいちはやく気がついたのが、意匠を新たに再登場したネオ・マルクシズムの社会理論であった。いま国民国家は福祉国家の費用を一国では担えなくなっている。社会主義国家が一国の内でそのシステムを維持できないことはすでに証明された。グローバリゼーションとは、国際的な統一市場なしでは、もはや資本主義が立ち行かなくなったことを意味する。良かれ悪しかれ、グローバル化が資本主義発展の必然的な段階であると信じる点で、マルクシズム理論がいまや正統性を主張できる事態になっているのだ。世界の流れは、地域的な統合から世界的な統合(世界システム)へと向かう。民主主義がネイション・ステイツをつくり、ネイション・ステイツが民主主義を育んだことはまぎれのない事実であるけれども、いまではそれも乗り越えられるべき存在なのだという(碓井敏正「国民国家・グローバリゼーション・世界文化、『グローバリゼーションと市民社会』所載)。私たちは、無残にも食い荒らされた小さなパイを奪い合っている国民国家の群が国民を抑圧する方向に向かうとき、悪いナショナリズムがその恐るべき凶器になることを知っているのだ。個人主義と民主主義、自由と平等と良い関係にあったナショナリズムだけが、健全な国民国家のバックボーンだった。それが消えて、新しい世界システムのなかのグローバル化された「市民社会」がその代わりになるかどうか、私たちにはまだ確信がもてずにいる。
いずれにせよ、今一度ネイション・ステイツをばらばらにして、民族の文化と伝統と言語を担う「ネイション」と、普遍的な人権と協和の精神を担う「ステイツ」を別々に論じるときが来たのかもしれない。  
(五)批判と合意
この章では、コミュニケーションについて考えてみたい。現代人である私たち個人は、標題に掲げた「批判」と「合意」抜きでは、社会生活をよく営んでいるとはいえない。少なくとも、民主的な社会を目指している身としては。その批判と合意を生み出す手段・過程を私たちは、ハーバーマスに従って、コミュニケーションと定義したい。
でもその前に一つのことをはっきりさせておかなくてはならぬ。
機能システムとして見るにせよ、構造的なものと捉えるにせよ、私たちが扱う概念としての「社会」は形式、つまり非歴史的なもの、あるいは私たち人間の集団に特有なあり方の枠組として見ることができる。人間が社会をつくる以上、原始時代から現代にいたるまで、形式はさまざまでも「社会」と呼んでそれが意味するものは一つである。つまり、人が生きるための効率的で機能的である組織、あるいはいくつかの要素を組み合わせた論理的・合理的な構造。その意味では、人間が自然の一部であるように、社会も一つの自然現象であるだろう。それは社会学のパパ、エミール・デュルケームが十九世紀の終りに「社会はモノである」といったときから一貫して変らない認識であった。
一方、私たちは、形式ではなく、社会そのものの内容を問題にすることもできる。時代と地域が違えば、そこに出現する社会の中身はそれぞれに違う。器という用益は一つでも、デザインも形も一つとして同じものがない創作陶器のように。でも特殊と一般がいつも表裏一体の関係にあるように、形式で見ても内容で見ても、社会は社会であって、両者を分けることができないからこそ用益を備える器なのである。そのことを、構造論者クロード・レヴィ=ストロースは、トーテミズムの研究を通じて、見事に論証してみせる。
一九六二年に発表されたレヴィ=ストロース『野生の思考』(日本版、大橋保夫訳、一九八四年)は、私たちに大胆な発想の転換を示唆する。私たちが馴染んできた西欧文明型の思考が、もっと大きな人類の文化の枠組のなかでの一つの特殊なタイプにすぎず、オーストラリア原住民やアメリカ・インデアンの部族のなかに他のタイプの思考が伝わっていることを教えたからである。原住民の思考の方法が自然の因果性を追求する「科学」ではないという理由で「野生の思考」と呼んだ彼は、それが野蛮人の思考でもなければ、未開あるいは未発達な思考でもなく、西欧型の思考と比べてまったく遜色のない「方法の統一性と理論の均質性」をもった形式を具えていることを、トーテムを引き合いに出して、論証してみせたのであった。
ここで複雑を極めるトーテミズムに踏み込もうとは思わないが、最低限の知識としてレヴィ=ストロースのいうところを引用すると、トーテミズムは、「動物もしくは植物による命名、自分に対応する動植物に関する禁忌、名称や禁忌を共にする人間の間の結婚の禁止の三つが同時に存在する」社会区分の規制と定義できる。さらに「トーテム表徴とは結局のところ、ある体系から他の体系に移ることを可能にするコード(略号)」である。原住民が自分のことをワシだとかガラガラヘビだとかいうのは、他から区別する以外には何の意味もなく、多くの場合、信じてさえいない。私たちの「科学的分類」によるのとは違った次元の分類あるいは区分けに必要なシンボルであるからにすぎない。例えていえば、西欧型の思考が「家畜化された思考あるいは栽培思考」であるとすれば、彼らのそれは「野性状態の思考」であると。その論証の仕方については本文についてもらうしかないが、社会区分が人間によって作られた制度であるかぎり、社会をつくる規則とシンボル(象徴)にそれを合わせることは当然で、その一方で、環境に適応しあるいは働きかけて社会の仕組をつくりあるいは手直しする私たち人間の行為そのものが、生き延びていくための必要かつ必然的な自然現象の一部だと信じている点では、現代人の思考も野生の思考も変りはないのだ。
パーソンズが論証したように、社会システムはつねに分化してサブシステム(下位システム)をつくり、そのサブシステムもさらに分化していく。パーソンズが挙げた四つのサブシステムが、それぞれ政治・経済・法と社会統制・文化の四つの機能として分類されていたことを思い出して欲しい。人間も動物も生まれ落ちた瞬間から、世界を識別するために、本能的に分類を始めるのだろう。分類はふつう二つの集合体のうちの一つを選ぶという形で進むのだが、下へいくに従ってだんだんと集合体が小さくなっていき、ついにただ一つの個体になってしまう。その最終レヴェルが固有名詞にほかなならいとレヴィ=ストロースはいう。固有名詞は指標でも指示代名詞でもなく、それ自体意味をもった分類項であると彼は主張するのである。ある社会に新しく生まれた子供に名前をつけるとする。その名前はもちろん世界でたった一人しかいないその子を他から区別するためのシンボルであるが、たいていの場合、いまは使われていないけれどその社会に蓄えられている古い名前である。そうやって名前をつけてもらった子供はたった一人で構成する分類項(個性)を表しているので、名前もただのシンボルではなく、彼の存在自体がその社会に加わった新しい意味なのである。つまり、名前は「意味のあるシンボル」といってよい。名前をつけるということは文化と伝統に係わることである。それは私たちの社会のなかの文化システムが、分化しつつ一つの伝統に特定化していくことなのであって、原住民部落の呪術師が、私たちにはまったく分からない方法で、彼らの社会のある特定の成員をトーテムによって最終的に分類するそのやり方が、私たちの科学者が行う分類と命名の仕方と比べて、いい加減で気まぐれだとはいえないのである。レヴィ=ストロースがいいたいことはこうだ。「呪術的(神話的)認識の技術は、何世紀間にもわたる観察を必要とし、大胆な仮説を立ててその検証を行い、実態を反復して、完成されるという作業によって成り立つ。その具体の科学(呪術的認識の技術)は近代科学と同様に学問的である」と。そうして彼は最後にこう付け加えるのである。「理解しようと努めることによって意味を獲得するか失うかが問題なのではなくて、大切に取っておく意味の方が賢明にも捨てた意味より価値の高いものであるかどうかが問題なのである」と。そこには、結局のところ、絶対に正しい意味などあるわけがないという前提がある。
『野生の思考』の前に書かれた彼の『今日のトーテミズム』(日本版、仲沢紀雄訳、一九八五年)の序論のなかで、レヴィ=ストロースは西欧の人びとが文明人と未開人を区別するやり方に抗議して、もっとあからさまにいう。「トーテミズムとヒステリーは似ている・u12539 .・精神病患者のうちに、たぐい稀な特異な存在、遺伝、アルコール中毒あるいは精神薄弱といった外的、内的宿命の客観的な所産を認める方が、西欧型の思考には、ずっとらくなことであった。
アカデミズムが枕を高くして寝られるためには、エル・グレコがある種の世界の表象法に対して異議を申し立てる資格のある健全な存在であってはならず、かれは不具者であり、かれの描く細長い像は、かれの眼球が畸形であることを証明しているにすぎないことが必要だった」と。要するに、レヴィ=ストロースは、社会の形式ということからいえば、本来西欧の文明人もオーストラリアの未開人もそんなに違いはないといっているのだが、それはパーソンズの「文化システム」が自己補完的で、自律的に均衡に達するための装置であるのと、形式上は、同じである。つまり存続することだけが問題で、自ら変化を生まないものとして観念されている。社会システムそのものを自律的な現象として捉えるこのような見方はもともとアメリカの諸社会科学とくに経済学に特徴的であったが、一九八〇年以降にはますます著しくなって、なにごとも自然のまま、あえていえば、変化は神の御業の領分で人為的な領分ではないという考えから抜け出せなくなっている。社会の変化は、生物学的進化論の相のもとで捉えられ、すべては自然の摂理のままである。そこには人間の意思とか想像力の出番はなく、あったとしても、それもみな大きな神の意思の一部にすぎない。そうではなくて、私たちはやっと内容を形式から分離できないところの社会つまり文化の現場に辿りついたのだから、パーソンズも示唆しているように、またレヴィ=ストロースが思考の型というアイデアで私たちに示したように、人為的な変化と破壊と創造を可能にする「文化」はけっしてたんなるシステム(形式)ではなく、歴史的な実体として捉えるべきなのである。
私たちはやっと、社会は、その形式(システム)と内容(文化)とが不可分に結びついた、「自然現象」であると同時に人為的な構造物であるという結論にたどり着いた。
ここで私たちはユルゲン・ハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』に戻る。もちろんわたくしは彼が自分なぞには歯の立たない難解な巨人であることを知っている。なによりも、ドイツの学者らしく饒舌な彼の文章の要点をつかまえるのはまことに難しい。でもナショナリズムに焦点を合わせ、そうしてどこを攻めればよいかこっちにある程度の思惑があるかぎりは、ハーバーマスだって怖くはないだろう。
一九二九年生まれのハーバーマスを、私たちは、マックス・ウェーバー、タルコット・パーソンズの系譜に連なる近代化理論の専門家・社会学者と位置づけることにする。もとよりそれは彼らが「プロテスタンティズムの倫理」という一本の重要な線で繋がっているからであるが、ただ、前にも述べたように、ハーバーマスは、高い文化的価値をもつ(ということは、西欧タイプのという意味なのだが)社会を調べて、それがパーソンズの行動科学が示唆するような、自己制御装置つきのシステムだとは考えない。むしろその部分だけを「社会システム」と呼ぶ彼は、その他に「生活世界」という、私たち自身の手で修正し、互いに納得して作りあげていく歴史的・文化的な世界があって、その二つを合わせて、はじめて社会というものが完成すると説く。
もとより彼は、パーソンズの機能主義的な分析が「社会を自己制御システムとして構想することを指示するかのような誤った印象」を与えてしまう結果を招いたことを知らないわけではなかった。パーソンズが功利主義を嫌っただけでなく、社会秩序を維持するための方便あるいはただの道具としてのみ国家機構というものを考えていたホッブスに批判的だったことはよく知られている。パーソンズは行為の指針として道徳心を不可欠なものと考えていたし、利害関係だけが社会秩序を支えているのではなく、自分(個人)のなかの道徳価値が命ずる強制に従うからこそ社会は安定すると確信していた。いってみれば、パーソンズの合理性とは、神によって敷かれたレールを理解し、与えられた役割を違わずコースを選択する適応性のことであり、個人の自由とはそのように決定を下す裁量あるいは能力ということになる。その意味で、パーソンズが彼の四つのシステムのなかでも、最後の「文化システム」を「社会共同体」と呼んで、それにいちばん大きな役割を与えていたことは重要である。彼は晩年に、国民共同体とは神のもとにある国民、聖なる共同体の意味だとさえ書くようになる(『宗教の社会学』一九七八年、前掲書)。
すべてのアメリカ人が「神は我らを信ず」と思えるようになったとき、プロテスタント各派、カトリック、ユダヤ教など、全部を等しく包み込んだ「市民宗教」(ロバート・ベラーが提唱した)が出現するはずだと彼はいう。我々が目指すのは、宗教的・道徳的な「愛の共同体」であると。諸国民が互いの文化と伝統を尊重し合い、人びとがいかなる宗教も自由に選べるようになり、みんなが愛に目覚めた世界宗教(市民宗教)の世界は、またごく世俗的な世界であるに違いない。人びとは成功への個人的野心とともに、現世的職業で成功するのが自分の社会にたいする責任であると感じている。そこには狂信的な人間はいない。宗教戦争はもう起こらないだろう。そんな世界を、部分的にではあるが、私たち日本人が神仏習合という形で実現したのであるけれども、それが、パーソンズが信じたような「愛の共同体」だったかどうかはまた別の問題である。ただこれだけはいえる。道徳的社会共同体はいうまでもなく強制や争いを排した合意の形式によって支えられているのだし、それはハーバーマスがいうコミュニケーション的行為がものをいう場と同じなのだと。
つまりパーソンズもハーバーマスも、文化と伝統の場でこそ社会の統合と発展が行われると信じているのであった。
でも、彼らが一致するのはそこまでである。
パーソンズは、そしてレヴィ=ストロースもそうだが、社会を果てしなくある役割をもったシステムに分化していくモノとして捉える。機能として見るにせよ、構造として見るにせよ、システムはその分化の過程で、価値(文化)や規範(社会秩序)に専門化していって、社会全体の維持と再生産を保障しようとするわけである。それに対し、ハーバーマスは社会を行為システムと捉えるパーソンズとは根本的に違い、社会にはシステム(制度)とは別に「生活世界」という次元があると考えている。そうして両者は、社会の近代化あるいは合理化のせいでシステムがどんどん増えていき、そのようなシステム化(制度化)がやがて生活世界に侵入してそれを破壊するという関係にあるという。前章で紹介した彼の定義「生活世界とは、文化的に伝承された言語的に組織された解釈範型のストックのこと」を思い出して欲しい。社会のいちばん大事な創造的部分である生活世界とは、私たちがこの歴史的な社会のなかに蓄え伝えてきたもろもろの知恵を生かして社会をつねに新しく解釈し直し、それを修理再生し、次の世代に伝えていく場なのである。制度(システム)とは、いつまでも現状を保持し続けるしか能がない、死んだモノにすぎない。自由な私たちの行動に枠を嵌め、ただ従うことを強制する支配のための道具なのだ。生活世界は「行為者たちの了解作業の資源であり、文化的に伝承された背景」であって、私たちが、社会を日々更新し、もろもろの不具合を調整し、社会的統合と連帯を新たにできる唯一の場なのである。そうしてこれらの事どもを実現するために私たちが用いる手段、そこで人びとが話し合い、批判し合い、了解し合う行為のことを、ハーバーマスは「コミュニケーション的行為」と呼ぶのである。
ハーバーマス理論の先駆けとして、ジョージ・ハーヴァード・ミード(一八六三〜一九三一)を逸するわけにはいかないだろう。プロテスタント牧師の子に生まれ、一八九四年、ジョン・デューイのもと助教授としてシカゴ大学に移ってから、そこで死ぬまでの三十七年間をシカゴで教えたアメリカ社会学者の草分けである。ついに一冊の本も書かなかったけれども、彼はまぎれもなくアメリカ社会学の先達として、偉大なプラグマティスト(いっさいの観念や信念を行動上の有効性によって評価する)として、いまも深く広い影響を持ち続けている。彼を元祖とする「シンボリック相互作用論」は、一九六〇年代になると、イリノイ学派の名のもとに、タルコット・パーソンズの機能主義とは違った路線を開拓することになる(船津衛『ミード自我論の研究』一九八九年)。「人間の主観的機能を明確にすること、それが他の人間とのかかわりにおいて社会的に形づくられることを明らかにすること」(船津、前掲書)を生涯のテーマとしたミードが唱えたシンボリック作用論とは、「シンボルを媒介とする人間の社会的相互作用に焦点をおき、そこにおける解釈過程から生じる人間の主体的なあり方を明らかにする理論」である。シンボルとは、この場合、言葉や身振りをいい、なによりも自分(主観的自我)が他人にその意図を伝えることを主眼にしている。伝わった内容を受け取った相手の対応の仕方を、今度は発信者自身がわが身に取り込む(客観的自我)。そこに、つまり自他の相互作用によって出来上がった世界が社会なのであって、そういう「社会」に取り込まれたかたちでしか、自我は成り立たないというのがミードの考えなのであった。彼の理論はヘーゲルの弁証法を巧みに取り入れていて、批判・再生・創造といった個人(自我)の社会への働きかけを説明できる点では、既存の社会機構の維持・存続しか考えず、変化を説明しないパーソンズの機能理論よりも優れているといわなくてはならない。そこに、私たちは、ハーバーマスがいうコミュニケーション的行為の先駆を見ることができるという点でとくに。ハーバーマスは、コミュニケーション的行為の機能として了解・社会的統合・人格の形成の三つを挙げる。いずれも、ミードが掲げる「シンボルによる相互作用」(コミュニケーション)抜きでは作動しないだろう。社会の統合の核になる道徳的規範が正しいかどうか、つまり社会的に妥当するかどうかは、いうまでもなく、他のすべての当事者と共同で吟味するしかない。「すべての価値あるものは共有された経験である」というミードの言葉にハーバーマスも賛成する。個人が、自立的であるとともに、協同して社会共同体をつくる存在であるには、自分自身であること(人格をもつこと)、自分の生活史をもち、自己表現ができることが前提になるとミードもハーバーマスもいっているのだ。それはそのまま私たちの「歴史社会学」の立場だといえるだろう。社会のシステムは、本来、自然現象のように、自分で勝手に生成・発展していくものではない。人間がつくる制度であるからには、合意あるいは強制によって、だれかが支えていかなくてはならない。近代国民国家の市民でもある私たちの大多数が支持する民主主義的意思決定あるいは合意の達成の原則を貫くための手段として、コミュニケーションが考えられているのである。
チャールズ・ライト・ミルズ(一九一六〜六二)は、パーソンズに批判的なもう一人のアメリカの社会学者。四十六歳の若さで死んだミルズは反逆が売り物だったが、もう少し長生きして、パーソンズの権威が揺らぐまで生きていたら、アカデミズムでの評判ももっとずっと高かったに違いない。彼の著書『ホワイト・カラー』『パワー・エリート』を読んだことはなくとも、いまやこの言葉を知らない人はほとんどいないだろうから。でも私たちがここで取り上げるのは、死ぬ三年前の一九五九年に発表された『社会学的想像力』(日本版、鈴木広訳、一九九五年)である。ミルズがここでいっている「社会学的想像力」とは、さまざまな情報を手掛かりにして、私たちが現に生活している社会を、「歴史的な構造物」として見通す力のこと。彼もまた、自分の社会学を「歴史社会学」と呼ぶのである。
知らず知らずのうちに、私たちはみんなその社会の構造の申し子である。それを利用して出世する者、はじき出される者さまざまだが、私たちの日常生活も行動もみな、なにがしかその時々の社会構造の変化に影響を受け、支配されていることに変わりはない。自由と平等の世界にいながら、西欧型の資本主義社会が行き着いた先が、例えば、一部エリートが政治活動も生産手段も仕切っているという構造になっていて、その成り行きを、だれも、当のエリートでさえも、自分ではコントロールできない状況を「疎外された状態」というミルズは、もちろんその考えをマルクスから引き継いでいるが、その疎外された状態から突き抜ける武器こそが彼のいう「社会学的想像力」なのであった。
ミルズは現代の文化問題としての社会、変化した現段階の社会構造を歴史的に分析し、その正体を明かすことをもって社会学の使命とする。その意味で、パーソンズ的な純粋理論が描きだす自律的な機能社会理論を信じない。「行動科学とは、ただの宣伝用の策略だ」と彼はいう。あらゆる社会システム論のことを、グランド・セオリー(日本版では「誇大理論」と訳しているが、訳者の意図は分かるけれども、普通「グランド・セオリー」といえば、誇大かつ妄想というだけではなく、それなりに構造を有効に解明するのに欠かせない「壮大な」基礎的理論の意味で使われ、著者もそんな含みをもたせていると思うから、ここでは原著の語をそのまま用いる)と呼んで軽蔑する彼は、あくまでも歴史的な産物である社会構造の定義は、どんなに抽象的であっても、事実の要点を分かり易く絞るだけのものだから、例えば、パーソンズの機能理論(行動科学)は西欧社会に特有な構造を精確に解き明かして、それを一般に通用するかのような規範的構造と呼んでいているが、それはただ現支配体制を正当化するためにしかなっていないという。ミルズの解釈では、パーソンズがいっているのは「人びとはしばしば標準を共有しており、その標準を守ることを互いに期待し合っている(役割を演じる)かぎりにおいて、その社会は秩序を保っているといえる」ということだけである。つまりパーソンズの関心はただ社会秩序がいかにして守られるかにあり、その答は、共通に受容されている価値によってであるということに尽きる。ミルズの考えでは、それではとても「社会学の約束」を果たしたことにはならない。グランド・セオリーを無用なものと断じ、「現代の歴史的構造的な文脈のなかにある問題まで降りてくる」社会学者ミルズは、自分の著作でいっていることこう要約するのだ。「誰がアメリカを動かしているか。誰もそれを完全に動かしているものはない。だが、なんらかのグループが動かしているとするなら、それはパワー・エリートだ」と。
ミルズの関心は、ひとえに強制と権威と操縦を手段とする権力構造の分析にあった。それには、とりもなおさず、西欧社会の政治的現実を観察すること。西欧モデルを社会構造の理想的なタイプとして認めないというのがミルズの行き方である。「正当化されている権力配置と統治者を批判し暴露することで、権力機構から権威を剥ぎ取ることを約束する」彼の社会学が、たんに現社会によりよく適応するための方法を探る「実用主義的な社会学」を徹底的に嫌ったのは当然だった。パーソンズによって代表される「リベラルな実用主義」は、適応を重んじるあまり、調和的均衡に向かう要因ばかりが強調され、非政治的であることが賞賛され、民主主義的なご都合主義に陥りやすいと彼はいう。リベラルにとっては、「社会化された人間」つまりミードが追い求めた「自我を社会に同化した人間」こそが理想的な人間であろうが、ミードにはそれすら生ぬるいのだろう。
しかも最近になって、新しいタイプの「リベラルでない実用主義」が出現したとミルズはいう。それこそ国民国家の巨大企業・官僚制機構・福祉国家的社会奉仕行政に奉仕する社会学。昨今では、労働者には幸福になってもらい、かつ能率的で協力的に働いてもらう必要上、経営者はすべからく知性的で合理的な人事管理者にならなければいけないが、その心理学的戦略を研究する社会学である。このくだりを読む私たちはみな、前章で紹介したベラーの「経営管理者」と「セラピスト」型のキャラクターをいやでも思い出してしまう。
その点でも、ラジカルなミルズがけっして的を外していなかったことを知るのである。一九六〇年初めといえば、マスコミが、ケネディ大統領を支えるブレインを「ザ・ベスト・アンド・ザ・ブライテスト」(極上の秀才集団)と褒めちぎっていたときだ。すなわちミルズのいう「パワー・エリート」(権力を握ったエリート・新しい貴族)たちである。ミルズの洞察を天才的・予言的だったとはいえないかもしれないが、彼の構造的な把握は確かだった。いまやアメリカだけではない、あらゆる国民国家の政治・行政・経済を支配しているのが、その国のごく少数の家族出身者に限定された「パワー・エリート」たちであることに気がついていないのは、よほどおめでたい国民だけである。
チャールズ・ライト・ミルズはアメリカの社会構造を批判し、批判を通じてそれを変革することを望んだのだろう。死後二十年経って現れるハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論については、彼はもちろん知らなかったが、社会の変革にはごく普通の市民たちの生活の場で行われる批判と討論と合意の形成が不可欠だという点では、ミードにもハーバーマスにも賛成したことだろう。一九五〇年から六〇年にかけては、アメリカ社会がもっともリベラルだったときであり、それはアメリカ社会が完全無欠な構造をもった社会だというゆるぎない信仰を前提にしていた。パーソンズの社会学が完璧な機能を備えた自己補完的なシステムを描き出し、市民宗教という幻想的な「愛の世界」のほかには、個人が自分で働きかけて変革を実現する可能性をそこに見なかったのは、批判する対象を見出なかった者の喜劇といってすますことができる。でも、彼の姿勢を継承したアメリカの経済学や政治学が、一九八〇年以降、構造的欠陥が露わになった時期にも、なお批判の能力をもたなかったのは、アメリカの不幸な悲劇というしかないのである。
例えば、一九五一年に発表されたミルズの『ホワイト・カラー―アメリカの中産階級』(日本版、杉正孝訳、一九五七年)を読めば、彼の批判的社会学がどんなものだったかを知ることができる。社会調査とか統計といったものを、管理者御用の見え透いた結果を追認するだけの手段だと貶すミルズが、他ならぬその手法を徹底的に使って書き上げた報告書『ホワイト・カラー』の序文は、二十世紀の中産階級であるアメリカの「ホワイト・カラー」を描いて余すところがない。今度、読み返してみて、わたくしは改めて、これがサラリーマンとして六十三才まで勤めた自分の姿そのままだと思わずにはいられなかった。ミルズが調べたのは、第二次世界大戦から一九四〇年末までのアメリカ人の生活意識で、戦争中の戦意高揚政策の影響がまだ消えていない時期の「独立独歩の小企業主と農民が精神的かつ経済的中核である国家」というアメリカ人の理想が過度に強調されていたことを割り引くとしても、なおアメリカが個人の自由と権利が尊重されたまれに見るリベラルで民主主義的な社会だったことは間違いなかったが、それでもなお、その社会を見る著者のまなざしはまことに呵責のないものだった。彼は左翼の理論家らしく、アメリカの小企業家と農民が、自身そう思い込み、はたからもおだてられていたわりには、大企業と官僚の意のままに引きずりまわされるまったく無力な存在だった事情を抉り出してみせるのである。
それからほぼ一世代を経て、左翼的なものがすっかり消えたあとのリベラルな社会学者ロバート・ベラーが報告した一九八〇年代のアメリカ白人中産階級の人びとの群像は一見みな幸せそうだ。結構な厚生年金を頂いて、それなりに幸せな現在のわたくしのように。
でもホワイト・カラーとは、ミルズがそれぞれについて事細かに説明しているように、個人自営業者をはじめ株式会社の下級管理者、下級官吏、俸給生活の医師や法律家など専門家、あらゆる業種の販売員からデパート・専門店の売り子までを含む近代社会の中核を占める階層で、「誰かに雇われている彼らの大多数は、出世の可能性もほとんどなく、独立の個性を失った、こせこせした、器の小さい人間ばかり。小成に甘んじて、つつましく生活し、実際には社会の最下位にあるのに、自分では中産階級のつもりで満足している」存在であるという分析は、いまでもそっくりそのまま通用する。彼らは「自分の正体を知らず、ただ狂気のようになって焦っている。そのため、個人としては、道徳的に無防備、政治的に無能。何一つ生産せず、のどから手が出るほど欲しいのに自分のものにはならない財貨を、ただ右から左へ素通りさせる仲介者の役を果たすだけの、社会からも、生産物からも、自我からも、疎外された存在、個人的には自由と合理性を剥奪され、政治的には麻痺状態にあるあわれな存在」なのだと。ミルズから引用するのはこれだけで十分だろう。ベラーもハーバーマスもミルズをほとんど一言で片付けているけれども、それぞれの立場によって表現こそ違え、実は彼が描いているアメリカの良心ともいうべき独立独歩の中産階級(ホワイト・カラー)の実情は、多数のアメリカの社会学者たちやベラーが描く一般アメリカ市民たちの意識、あるいはパーソンズから保守主義者のミルトン・フリードマンが主張するあるべきアメリカ人の姿にいたるまで、基本的には、ほとんどが同じ色に彩られているといっていい。事実、一九八〇年代にレーガン大統領が登場してから、アメリカのホワイト・カラーの環境は劇的に悪化する。例えば、二〇〇一年に発表されたJ・A・フレイザー『ホワイト・カラーのタコ部屋』(日本版、森岡孝二訳『窒息するオフィス―仕事に強迫されるアメリカ人』二〇〇三年。原著の題名ではあまりにも刺激的すぎると出版社が考えたのか、日本版では題名が変更されている)を読んでみれば、ミルズの予言が、パーソンズの「グランド・セオリー」より当たっていたことが分かるだろう。
前にもいったように、パーソンズも文化は社会から独立していると知っていなかったわけではないともう一人のグランド・セオリスト、ハーバーマスは考えている。だからこそパーソンズは、価値のシステムである文化システムを、政治や経済といったただの行為システムを制御する基本となる主人の位置においたのだった。でもシステムであるかぎり、固定化し制度化した文化は人を欺く。じつはそこから社会が病んでいくということを彼は認識しなかった。
では、ハーバーマスが描く現代の社会とはどんなものか? 第二章で述べたことの繰り返しになるけれども、社会がシステムつまり政治・経済・司法とその道具である法と貨幣と武器などを独占する場と、生活世界つまり人びとが文化と伝統に生き、自由にコミュニケートする場という次元の異なった二つの世界から成り立っているというのが、ハーバーマスのセオリーである。死滅しないかぎり、社会はつねに再生・維持され続けなければならず、そのための運動ないしは過程を社会学では「統合」と呼び習わすのだが、それぞれの次元ごとに「システム統合」、「社会統合」という二種類の統合を考えていることはすでにいった。そうして、マックス・ウェーバーが描いてみせた「すべての統合機能が、社会化(伝統・文化・家族にかかわるコミュニケーション機能)のメカニズムから、システム的(経済・行政の形式的な命令)なメカニズムへと換えられてしまうという事態」に同意する。「合理化の道程には、倫理が合法的に分離していることが必要である」からには、人びとが自由にコミュニケートできる生活世界は、「徹底的に合理化され、法規範と根拠づけという形式的な手続きを通せばすべてOKというところまでいかねばならない」といったウェーバーは、ハーバーマスにとっても、結局は正しかったのである。システム統合と社会統合(文化的統合)はまったく別の事柄であって、両者は相互補完的だとはいっても、実はシステム統合(経済と国家)を司り、それを生活世界に及ぼして、その揚句、窒息させてしまうのが官僚制度というものなのだ。
彼はその現象(いわゆる物象化現象)を、官僚による「生活世界の殖民地化」と呼ぶ。経済が賃金と引き換えに商品やサーヴィスを提供するように、行政は税と引き換えに組織サーヴィスを提供し、政治的な意思決定を大衆の忠誠心と交換する。システム統合とは、合理的な目的がすべてに優先し、エリート専門家たちがすべての面を仕切ること、倫理的なものはすべて政治的な判断から除外されること、システムの命令がすべての生活世界に行き渡って、国民の間に、批判や討論の余地を残さないことである。なんと、これはミルズが予告したパワー・エリートの世界そのままではないか。
ハーバーマスが、物象化という概念を、ちかごろ息を吹き返したマルキシズムから引き継いだのはいうまでもない。マルクスの用語でいう「物象化」とは、資本主義社会ではあらゆるものが売買の対象になり、人間の労働も商品化されて、人と人の間の関係まで物と物との関係のように見なされる傾向をいう(『岩波哲学小事典』)。なにはともあれ、貨幣だけが物をいう世界である。その物象化が足かせとなって、マルキシズムが福祉国家を説明することも正当化することもできなくなっているからには、いまさら彼らがバラ色の未来を語ってくれる見込みはない。同じ理由で、ユルゲン・ハーバーマスにとっても、福祉国家は由々しくも悩ましい問題である。社会の物象化現象の兆候は法制化であるが、それは歴史的に四つの段階を取って進んだとハーバーマスはいう。最初が支配権を合法的に使う市民的国家、つぎが憲法で市民の自由と安全を保障する法治国家、三番目がすべての市民が政治に参加する民主主義的法治国家、そして最後の段階が社会保障を実現する社会的・民主主義的法治国家(社会国家あるいは福祉国家)である。
福祉国家を資本主義社会の必然的な展開の結果と思う一方で、彼はそれを、理論的には、物象化つまり官僚制化・法制化の果ての姿であるといわざるをえない。「官僚制とは、社会的な権利を金銭の支払いで片付けること」だから、いうまでもなく、それは生活世界の構造転換を迫るし、彼流の言い方でいえば、植民地化を進めることである。老齢年金や失業保険が、金銭(貨幣)の形で支払われるのは、生活世界に馴染まないとハーバーマスは思う。その点では、十九世紀ヴィクトリア朝風の保守主義者そのままである。でもそれは、彼が自由放任主義者(生粋の資本主義者)だということにはならない。彼は人間がモノとして扱われること(疎外されていること)に反対しているだけである。金は人をモノにする。文化と伝統に包み込まれている生活世界では、人間はモノではなく、互いにコミュニケートし合い、了解と合意を生み出し、創造的に社会を再生産するはずだといっているのである。その意味で、彼は大衆デモクラシーも社会国家もいかにも胡散臭いシロモノだと思うだけでなく、雇用政策や消費政策などの形で国家が介入し、国民相互の関係や生活を調整することが常態化している福祉国家にたいしても、それでよしと簡単にいうわけにはいかない。
ハーバーマスが提案するのは、マルキシズムも含め、そのやり方では処理できないことがはっきりしている古い理論をご破算にして、問題そのものの立て方を変え、新たなコミュニケーション的行為の理論で問題を処理するべきだということ。いまこの世界では、実は、金銭による補償(福祉政策)などが問題になっているのではなく、「コミュニケーションを無効にしかねない脅威、生活世界の構造への脅威」を自覚して、「危機に晒された生活様式を防衛し再建する」ことこそが差し迫った問題なのだ。
コミュニケーション的行為の理論で、せっかく「生活世界」というアイデアを華々しく打ち上げたのに、それに比べて、ハーバーマスの問題解決の展望ははなはだ心もとない。章を改めて私たちはこの問題を取り上げたい。 
(六)展望のない締めくくり
本章で私たちは、社会学とりわけ歴史社会学は、経済学や政治学などと違って、問題の解決を目指さない科学だということをはっきりさせる。社会学にできるのは、せいぜい社会を分析し、問題のありかを探るだけで、それを判断し、解決策を差し出すのはあくまでも個人的な仕事である。なぜなら学としての社会学は、デュルケームが信じていたように、モノとしての社会のシステムと構造を明らかにすることで、その点では、生物学者が細胞を扱うのと変らない。
でもその生物学者には、彼が観察するある種の生き物、例えば人間が環境に適応して利口になり、周りに働きかけながら生き延びていく進化の方向を予言することもできる。お望みなら、人間改造のプログラムだって出すことができる。それは歴史的な変化を跡付ける作業ともいえ、それならば昔から歴史学者の仕事だった。学問の境界はいつもそう分明ではなく、モノとヒトとの境界もまた互いに入り組んでいるのだ。文化人類学と社会学はいつも両者の境界上で仕事をしてきた。文化と伝統が関わる場面ではとくに。
その一つの例として、デュルケームが一九八七年、三七歳のときに発表した『自殺論』(日本版、宮島喬訳、一九九五年「世界の名著」シリーズ)を取り上げる。「社会学研究」と銘打った本書が、社会学の黎明期に、個人的であるとともに社会的な現象でもある自殺を取り上げた意味は小さくない。この本がデュルケームの著作のなかでもいちばんよく読まれているのは、自殺という題名のせいばかりではなく、まさに社会学とは何かということ、その本質と方法と目的をあざやかに具体的に示したからである。自殺は社会的な現象であると著者は宣言する。自殺しやすい人びと、自殺者の多い特有な社会集団というものがあり、例えば、欧米諸国ではどこでも、プテスタント信者はカトリック信者より何倍も自殺者が多く、軍人は一般人よりたくさん自殺するいという。ちなみに彼は、自ら望んで死に赴いたキリスト教の殉教者や、軍国日本の「肉弾三勇士」らも自殺者に数える。いうまでもなく、それらはある時期、ある環境のもとに起こった社会現象だから。しかもそれらをひっくるめても、自殺率は、特別の事情あるいは状況の目立った変化がないかぎり、一定していることが統計的に確認できる。犯罪者のいない社会がないように、自殺者が出ない社会はない。もとより好いこととはいえないけれども、一定の自殺者と犯罪者がいるのは、いわば、ノーマルな社会ということである。そこへもってきて、自殺の発生率が特定の戦争・革命・大恐慌・経済的ブームなど、大きな社会変動に応じて異常な増減を示すとなれば、それはもう自殺がモノとして観察・分析できる社会現象だということは明らかだろう。
どんな社会も完全であるということはなく、いつもなにかしら緊張や混乱、そこから生じる葛藤を抱えている。社会学的には、その社会の統合力が強まったり弱まったりするという風に表現する。簡単にいってしまえば、社会が一つの方向に固まって走り出したとき人びとに強いる緊張や、反対に求心力が弱まりみんなが方向を見失ったときの弛緩状態が、人びとの異常なふるまいを誘発し、あるいは自殺的傾向のある人に決行を促すと見て、デュルケームは、自己本位な思い込み・集団に引きずられる・自己喪失(アノミー)という自殺の三つの型を立て、それらはみな本人が社会との絆を失ったとき実行に移されるということを論証したのだった。ただし自殺的傾向といっても、生まれつきの性質とか神経症とかを指すだけではない。実はここがデュルケーム理論の要点の一つなのだが、他人や所属集団の意向に頼らず、なにごとも自分自身で判断する習慣を身につけたいわゆる個人主義者は、なににつけ他人に頼る人よりもずっと自殺する傾向が強いのである。個人の信仰を重視するプロテスタントの自殺率が教会の規律に服従することを最大の美徳とするカトリック信者の自殺にくらべ圧倒的に高い理由は、これ以外には説明できない。ここに近代化と自殺との関係を見て取ることも容易だし、自殺という現象を、昔のように、一方的に邪悪な犯罪と見なすことの不当さも見えてくる。当然なことではあるが、夫婦者は自殺しない。自殺が多いのは離婚した男である。結婚が二人に強いる約束事あるいは規律が自殺の抑止になっているとデュルケームはいう。
社会あるいは家族の一員として役目を果たしている、つまり社会と一体になっていると感じているかぎり、人は無茶をしないし、自殺もしない。反対に、社会から見捨てられ疎外されたと思い、自分のなかに閉じこもったり、自分自身を失くしてしまったりしたときに、人は自殺する。結婚生活という強制的義務から解き放され、気分が緩んだ離婚男は、アノミーに陥りやすい。でも不思議なことに、離婚した妻は自殺しない。受身のセックスをはじめ、性の違いから起きるいろいろな生活環境から、結婚生活は妻には呵責のない義務にしか思えない場合が多くて、それからの開放はむしろ心の平安をもたらすのだろうとデュルケームはいっている。『自殺論』が発表されてから百年たち、男女の平等がずっと進んだいまでも、統計は相変わらず同じ事実を示すに違いない。
それ以前に比べ、十九世紀に自殺がはなはだ増加したのは(二十世紀になってその傾向はますます増大しているが)、社会の病理現象と捉えるべきだとデュルケームはいう。それは人びとが前よりも辛い生活を強いられているからでも、正当な要求が満たされないからでもない。そうではなくて、人びとが自分の要求の限度というものを弁えなくなったからであり、自分の努力をどっちの方角に向けるべきかが分からなくなっているからである。それを彼は「アノミー」の状態と呼び、三つの類型のなかでも、アノミー的自殺にもっとも大きな関心を寄せる。実は、ここまでが社会学の仕事であった。個人としてのデュルケームの自殺抑制の提言は重要ではないし、私たちを満足させるものでもありえない。ついでにいえば、著者はアノミー状態の解決を、国家という大きすぎる機構や政治団体あるいは宗教団体に頼らず、職業組合あるいは同業集団に期待する。それはまだ人びとが、自主的で平等な同業者の組合で助け合いながら生きていた十九世紀の生活社会の反映であったろう。日々の生活に密着した職業人の仲間だけが、人びとに、社会統合に必要な犠牲や譲歩を要求したり、規律を課したりすることが効果的にできたのであった。同業組合はおろか労働組合でさえも、競争社会のなかで、人びとが頼るよすがにはなれなくなっている二十一世紀の社会では、デュルケームの提言は役に立たない。
人の行動は、すべてなにかの形で社会と繋がっている。自殺というようなごく個人的で心理的な現象でも、そこに社会が関わっていることをデュルケームは明らかにした。そうしてそれは、いまに至るまで、社会学の前提になっている。いかさま、人が社会と関わる部分について調べるのが社会学なのだから、問題のありかと同時にその問題の解決についての展望を述べるのもまた研究者の仕事だといっても反対はできない。ただ、その努力が報われることはほとんどないが。
このエッセイのテーマは国民国家とナショナリズムであるが、私たちもまた他のどの社会学者たちも試みたように、無駄と分かっていても、ささやかでも切実な問いを発し、その解決の提言をすることを試みてみたい。私たちの切実な問いとは、私たちの福祉国家(国民国家)が生き延びることはできるだろうかということであり、そのためには、良いナショナリズムを行き渡らせることだと提言したい。そういいながら、一つだけ分かっていることがあった。ハーバーマスにしろ、誰にしろ、社会学にも社会学者個人にも、いまはまだその答えなど出せそうにないということだ。
でも、それではミもフタもない。せめてこれまで述べてきたことの整理をして、提言に替える。締めくくりの枕に、私たちは難解なニコラス・ルーマンの『自己言及性について』(土方透・大澤善信訳、一九九六年)から言説の一部を借りることにする。コミュニケーションを社会の再生と進化にとっての切り札と考える点ではハーバーマスと同じでも、ルーマンは社会システムの活動と再生産を実際に担うのはコミュニケーションのネットワークだという。何をコミュニケートするか、何を排除するかという情報・伝達・理解の選択を行い、それらを一つの意味に纏め上げるのがコミュニケーション・ネットワークの仕事である。相手に友好的な態度をとるか、あるいは攻撃するかの判断を含めて。システム自体に計画したり指示したりする力が備わっているのではないが、ルーマンの考えでは、社会システムが活動するとき、それは自分自身の力で進化し、管理し、コントロールしているのである。だとすれば、およそ近代社会ならば、当然目指していいはずの福祉国家の行く末は明るいといわねばならぬ。
かように、ルーマン理論の要旨は、わたくしが理解するところでは、社会は自己管理できるシステムということにあるらしい。ただわたくしは、彼の本を読み始めてすぐ、日本版の題名にある「自己言及性」という言葉に躓き悩んだことを告白しておきたい。原題は英語で、「セルフ・リファレンス」(『セルフ・リファレンスについてのエッセイ』一九九〇年)という。この言葉は、自己言及とか自己準拠と訳されて不都合はないのであるが、それでは、論旨から引き出すイメージとはそぐわない気がしたのだった。普通、私たちはこの語を「自分に関心をもつこと」あるいは「自分に配慮すること」「自分を中心にして物事を見る、判断する」と理解するだろう。これに関連してルーマンは耳慣れない「オートポイエイシス」という語を、社会システムを説明するものとして愛用する。オートポイエイシスとは、もともと生物を定義する用語で、生物が細胞の自己増殖によって絶えず再生している状態をいうらしい。ルーマンはこの語を、生物体のシステムだけでなく、心的システムと社会システムにも使うのである。この語は、彼によって「構成要素の相互作用を通して、回帰的にそれらを再生産するネットワークを生み出し、実現し、またそれらが存在する範囲において、そのネットワークの実現に参与する構成要素、そしてネットワークの境界を形成する構成要素の生産ネットワークの統一体」として定義される。つまり社会システムは、そのなかに含まれるあらゆるものが自分を見詰め直し、互いに影響し合って、変化していき、かつ統一体を保っていくような有機体に似たエンジンの枠組である。そうして、その本体を動かしているエネルギーがコミュニケーション・ネットワークである。
コミュニケーションが自己言及だといえるのは、とりもなおさず、まず初めに「自己への配慮」をするということではないか。生物学の類推をなお進めれば、私たちが自己再生産に心を砕くということは、分かり易くいってしまえば、「養生する」ということである。養生しても生き延びられないかもしれないし、自家療法は間違っていることもある。しかしながら、生命体は、自分で自分を癒す力をもっていると信じることができれば、その力に縋って養生していくだろう。社会システムもそれと同じだとルーマンはいっているのに違いない。そうすれば、コミュニケートすることが、すなわち養生すること(自分自身の力で再生すること)と理解できるのではあるまいか。このたびの養生がうまくいくのは、実現しそうにない、とてもありそうにないことに見えるかもしれない。でも、病人が生きていくには養生するしかないように、社会システムもコミュニケーション抜きではやっていけないはずだとルーマンはいうのだろう。事実彼は、コミュニケーションの理論は、なによりもまず「実現しそうにない」ことを前提とする議論だという。コミュニケーションは、人びとの話し合いを通じて、ありそうにないことを実現し、システムを改善する方途を探る過程である。なにが適応可能か、なにが排除されるべきかを、シナリオなしで決定するのであるからには。それにたいし、永年の知識と経験の蓄積のなかからもっともらしい基準を採用して、その決定の過程に圧力をかけるのが文化というものである。効果的な圧力となる基準のシンボルとなるものとして、ルーマンが挙げるのが、貨幣・権力・影響力・価値観・科学的真理・愛などであった。ルーマンは別のところで、そのようなシンボルを生かしている力にあたるのが「信頼」だといい、複雑で不可解な世界を分かり易くするその働きを、社会システムのいちばん有効な機能として挙げている(ルーマン『信頼―社会の複雑性とその縮減』一九六八年、日本版、野崎和義・土方透訳、一九八八年)。信頼に値するのは上に挙げた各シンボルなのだけれど、同時に、それらシンボルが信頼されるには、いつもある種のタイプの人間に負うところが多いという。そんなタイプの人を彼はこう描き出す。「洗練されていて、柔軟で、順応力があり、いつも筋の通った策を立て、感情と現実を取り違えず、物事を未決定のままにしておくことを怖れないような、そんな人間」だと。ルーマンの社会において、物の分かった人間がどれほど大事であるかが分かる。これらのすべてをひっくるめた統一体が社会であり、信頼を基礎にしたせめぎ合いの果てに、コミュニケーションがその社会に「ありそうもなかった」新制度を出現させるというのが、ルーマンが描いてみせた見取り図であった。
それでもなお、ルーマンもまた、ハーバーマス同様に、現実の福祉国家の問題を解決できない。福祉国家には、憲法の法規範ではもはや解決できない新たな諸問題が発生しているとルーマンはいう。
福祉国家は解決しきれない任務を抱え込む。成長は無限には続かないのに、成長を前提とするところに生じる危機を勝手につくりだし、それを糧としているのがいまの「国民国家」(福祉国家)体制だから。
ルーマン、ハーバーマス、だれであれ、社会学者にとって福祉国家は厄介なシロモノである。彼らにしてみれば、「福祉国家」という代わりに、一つの仮定の体制として「社会国家」と呼びたいらしいが、それらはまったく同じものである。資本主義体制成熟の結果として、社会国家(福祉国家)は出現する。それは市民的自由と平等とが行き渡ること、つまり近代化・民主主義化が完成に近づくことと見合っている。社会国家なら、あるいは完全に合理的なシステムとしての官僚制国家を選択肢として含むかもしれない。しかし、いまや完璧な官僚制国家は、それ自身、良い解決ではなく、望ましいものでもありえないことが知れ渡っているのだ。
ハーバーマスをはじめ、近代化論者である社会学者は、当然のことながら、福祉国家を見殺しにはできないし、そのために、だれかがなにか良い知恵を出す必要があることも理解している。でもいまの段階では、近代的国民国家がそのまま福祉国家であるかどうかについて、まだよく分かっていないというべきだろう。たかだか五十年しか経っていない福祉国家は、まだ歴史的な実体と認定できるほど実績を積んでいるとはいいがたいし、失敗するか破綻するかをいう前に、まず果たしてそれが幻でないかどうかを見極める必要があるからだ。
前章の終りで述べたように、ハーバーマスにも、福祉国家への具体的な対応策はなかった。でも、それは彼がこの問題に関心をもっていないということではない。それどころか彼は、『コミュニケーション的行為の理論』(前掲書)を出したあと、その解決に向けて精力的に理論を展開しているという。ハーバーマスの最近の議論展開には私たちの理解はとても及ばないけれども、彼の現状を紹介する論文集『批判的社会学の現在』(永井彰・日暮雅夫編、二〇〇三年)が参考になる。そのなかの第三論文、水上英徳「社会国家プロジェクトのリフレクティヴな継続」はこの問題を取り上げた論考である。
水上は、ハーバーマスはつねに社会国家(福祉国家)に関心を持ち続けていたと述べ、最近の著作では、「生活世界の植民地化という原理的問題をかかえているからといって、社会国家のプロジェクトがそもそも誤りであるわけではない」といい、社会国家から後退することなどできないし、行き詰っているいまの行き方を見直し、新たな知恵を出して「社会国家(福祉国家)のプロジェクト」を継続していくべきことを訴えていると紹介するのである。ただし、ハーバーマスにもいますぐ妙案があるわけではないらしい。その代わりに、新しいやり方を提案する。それは「手続き主義的」な法整備のことで、政策の策定を専門家(官僚)の手から引き剥がし、自由な討論を通じて、すべての人びとが納得できる政策を実践できるような手続きをまず取り決めることだという。それは、市民たちが自分で従うべき規範を自分自身で判定できること、道徳的な意味における自律の基本思想に還ることである。
ハーバーマスの努力が成功しているかどうかについて、私たちは判断できない。いえることは、グローバリゼイション問題が立ち現れてから、ますます福祉国家の行方が不透明になってきていること、いままで批判してきた福祉国家(システム化の弊害)はおろか国民国家そのものが危うくなってしまうという危機感から、ハーバーマスが、ここに来て、自分であれほど批判してきたシステム化の象徴であった社会保障政策やケインズばりの富の再分配を擁護する側に廻ったことだった(鈴木宗徳「グローバル化時代における批判理論の課題」、『批判的社会理論の現在』所載)。前章では、官僚主導の福祉国家へのハーバーマスの批判を紹介したが、いまや彼も、グローバリゼイションと世界の超国家体制的連帯の行方を見極めつつ、ネイション・ステイツの役割とその制度としてのしたたかさとを今一度見直さざるをえなくなったということに違いない。
福祉国家は、いってみれば、孕んではみたものの、大きすぎて分娩のさい母胎を危険に落としかねない鬼子のようなものである。懸念しているのは、社会学者ばかりではないが、なかには新自由主義者やグローバル経済推進論者のように死産なんかまったく気にしていない連中もいる。私たちがここで母胎といっているのは、近代国民国家のことである。新自由主義者を含めた保守主義者たちは、福祉国家は妊娠願望にすぎず、西欧流のネイション・ステイツ(ハーバーマスがいう最終段階としての近代民主的法治国家)はいまのままで、危機に晒されているどころか、まさに自律的な民主主義国家として完成したと信じているのではないか。
ネイション・ステイツが絶頂を迎えることは、グローバリゼイション推進派にとっては渡りに船である。ただし、両者が足並み揃えて打って出ているように見えるのには、二重の幻想が働いていると思う。一つは、世界企業が国境を超えてご意見無用の利益追求に走れるのは、その背後に、安定した通貨と武力を保持する国民国家が守っているからで、強力なネイション・ステイツとグローバリゼイションはコインの両面みたいなものだという幻想。もう一つは、ネイション・ステイツとナショナリズムがつくり上げがっちりと支えている近代国民国家の秩序がそのまま延長したものが、国際的秩序(世界経済を仕切っているシステムの権威)だという幻想である。
いずれもグローバリゼイションを、限られた大国で仕切る経済的な面だけで捉えている。
私たちはいま、二つの相反する方向を同時に追い求めようとしている。一方で、良いナショナリズムと良いグローバリゼイション、他方で、悪いナショナリズムと悪いグローバリゼイション。一方で、自由と平等、他方で、計画と分業。一方で、グロ−バルな自由主義経済、他方で、地域的な福祉国家。一方で市民大衆による政治、他方で権力をもったエリートによる政治である。
どちらか一方を選択するのはまだ早い。いま私たちにできるのは、せいぜいのところ、良いナショナリズムを悪いナショナリズムから区別することくらいであろう。
第一章で、私たちは『ネイション・ステイツの行方』という論文集を取り上げて、そこで論じられる望ましいナショナリズムが「一国一民族主義」つまり多数派の文化に強制的に少数派を同化させるのではなくて、さまざまな民族文化を受け入れ平等に扱う多元的な性質のものであるべきことを紹介した。そうして、さまざまなネイション(民族)の文化を包み込むのがネイション・ステイツの本来のあり方であって、単一民族国家モデルは、大多数の人びとが好感を寄せるけれども、実際的ではなく、現実にもほとんど存在しない。
従って私たちは、ナショナリズムとネイション・ステイツをシヴィック(公民権的・人権第一)あるいは多元的な意味に解する。そうはいうものの、いま私たちは二つの価値観の間で揺れ動いているのだから、まだ良いナショナリズムと悪いナショナリズムを、すっぱりと割り切って、どちらかを捨ててしまう段階でもないのである。
良いナショナリズムのことを、私たちは、「シヴィック・ナショナリズム」あるいは「多元的ナショナリズム」と呼ぶことにする。
すべての少数民族の文化を尊重し、排斥しない。それぞれの文化を認めることは、マイノリティ集団の権利を等しく認めることであり、その上で、一つの文化が他の文化を呑み込むのではなく、混合してハイブリッド文化をつくる道を開くことである。ステイツはネイションには干渉せず、中性的でだれにも平等、文化的には多様な思想・主義を認め、国家として緩い統合で満足する。でもご懸念には及ばない。ステイツはもっぱら市民的権利の相互承認と、法の公平な執行、サーヴィスや収入の面で同質の生活水準の維持によって統合されたシステムであるというだけで、市民が同じ生活世界に住み、お互いの生活がそんなにかけ離れていなければ、文化と習慣、考え方は異なっても、人びとは強い連帯感をもつからである。例えば、天皇のような非合理的な統合シンボルを強制するのは悪いナショナリズムである。一方、往来で、とくに外国人の前では、裸や跣足にならないという申し合わせなら良いナショナリズムといっていいであろう。生活水準の格差がない均質化した社会にはそれだけで十分に強い統合力があることは、戦後六十年の経験からいっても、私たちにはよく分かっている。
現在の段階では、社会学者が世界システムあるいは世界経済(グローバル化経済)について語る場合、強い統合力でもって結束している国民国家抜きでは成り立たない。国民国家あっての世界システムであり、世界経済なのだから。ハーバーマスの「生活世界」の住民である世間一般の人びとがグローバルな経済を必要としないかぎりは、各システムを牛耳っているエリート個人がどんなアイデアをひねり出そうと、世界を統合する力にはならない。そこで人びとが気安く他人と交わりながら、次々と新しい文化あるいは歴史を創っていく伝統に根ざした生活世界を無視することはできないのだ。私たちは福祉国家・国民国家を取るのか。それともグロ−バル化された世界経済の世界を取るのか。展望がないままに、双方うまく折り合えるとそう人びとは考えているらしい。でもそんな考えには、もう一つのナショナリズムが冷水を浴びせ掛けるだろう。
第一章で、私たちが悪いナショナリズムとして分類したのは、多数派グループの文化(言語や信仰のシンボル)に全員を従わせるエスニック(民族主義的)なナショナリズムであった。もっぱら文化や習俗の住民への強制を手段とする悪いナショナリズムがでっち上げる「単一民族国家」の国民同士の結びつきが、とても弱いことは歴史的にも証明されている。自由・平等な個人の集まりである共同体がもつ主権のみが、継続的な真の国家の権威を生むというのが私たちの立場である。個人の人格や人権を無視したエリート(選ばれた者)によって独占的に支配される国の権威は、個人の人格と尊厳を反映しない。結局のところ、国民個人の尊厳を産み出しているのは、民族の独立とか文化の自立性とかなのだから。個人の自由が尊重されない国の権威は、もっぱら独裁者や一握りの支配者の対外的成功(軍事国家とか商業国家との)に依存するほかはないから、その国民が周囲の国の人びとから尊敬される理由は、ただその国のメンバーという事実でしかない。国の評判が落ちれば、彼の評判だって悪くなってしまう。
ただしこれらはみな、いわば、ナショナリズムの両極端型の国民国家の話である。実際の国民国家のありようは、それらが入り混じった中間型なのである。
アーネスト・ゲルナーの『ネイションとナショナリズム』(一九八三年、日本版、加藤節監訳『民族とナショナリズム』二〇〇〇年)は、特異な保守主義者の意見として、わたくしのエッセイと同じ主題を追求している点で見逃せない。ゲルナーは福祉国家のことになどほとんどまったく関心をもっていないが、彼の単一民族国家論が問題の在りかを浮き彫りにする。ただし、彼の主張そのものは、わたくしには諸説の粗雑な混ぜ物にしか見えないが。
邦訳ではネイションズをただ「民族」と訳しているが、わたくしが思うに、これはたぶん「民族国家」のことである。それは、のっけに出てくるナショナリズムの定義を読めば分かる。「ナショナリズムは、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である」と。私たちは第四章で、百科全書からナショナリズムの定義を引用した。そこでは、国民国家を民族の文化と伝統を護り受け継いでいくために作られたものという前提がまずあって、国民と民族とがほとんど一つのものと観念されていた。いったん走り出した「国民国家」の独立と統一の維持・発展を願う原理ないしは運動がナショナリズムであるというその定義は、国民と民族と同一視するところに出来上がっているのだから、国民国家の実態に照らしてみても、それはイデオロギーつまり一つの態度あるいは願いを説明したものにすぎない。特定の文化を国の境界内にいるすべての住民に強制服順させるナショナリズムの機能的あるいは構造的な定義にはなっていない。ギデンズが、ナショナリズムを「エリート集団によって宣伝された象徴・信念」と片付けていたことを思い起こして欲しい。であるからこそ、第二章で紹介した色川大吉あるいは司馬遼太郎のようなリベラルなナショナリストも含めた、すべてのナショナリストの夢を代弁するに違いないゲルナーの夢想的な単一民族国家論の定義が、そのまま彼らのスローガンになっているのである。
ここではナショナリズムは、産業社会における特殊な愛国主義と捉えられる。本書を通じて使われる産業社会とは、私たち流にいえば、近代資本主義社会のことだ。産業社会の段階で現れる国家も、もちろん傘下に複数の文化あるいは異なった言語を使う人びとを含んでいるが、それらはみな不可避的かつ強制的に、その国の権力者が所属する多数派の文化と言語に同化されることになる。なぜなら産業社会(資本主義社会)とは、ほとんどすべての国民が特定の言語による「読み書き能力」を備え、同じように考え、同じ程度に国に忠誠を誓う、つまり文化を共有することが必要かつ十分な前提となる社会だからである。産業社会のありようは、権力の意思と読み書き能力の普及によって条件づけられている。多数派以外の文化・言語を維持する下位民族は消滅するか、まったく問題外の存在になる。著者のつもりでは、産業社会に現れる国家は、必然的に、文化と言語によって統合されている「ネイション・ステイツ」であり、住民は国造りの過程で自動的に民族(特定の文化に同化された集団)に仕立て上げられる。そうやって国家権力のもとに人為的に統合された国民を、著者は「民族」と呼び、その統合運動を「ナショナリズム」と呼ぶのだ。
わたくしの理解が間違っていなければ、以上がゲルナーのナショナリズム理論である。彼が提供する民族国家モデルの特色は、資本の支配や所有の概念をいっさい無視することで、「文化の同一性、権力への距離、教育の機会だけ」が問題になる。国家社会の分析に彼が使う尺度は、権力と教育の二つだけだ。教育の手段はコミュニケーションと呼ばれるが、この場合のコミュニケーションは、権力の側が国民を一つの鋳型にはめ込むための道具ということになろう。
ミードとハーバーマスあるいはルーマンがいう、コミュニケーションは異見申し立てと討論そして合意という新しい展望を開く創造的な手段という認識がここでは抜け落ちている。「一つの国家、一つの民族」という標語を掲げる著者が、「国家と民族の一致というナショナリズムの原理が侵害されるとナショナリストの感情は深く傷つく」というとき、国家とは民族そのものだと信じてきたディアスポラ(永く四散・放浪を余儀なくされてきたユダヤ人)である著者のなかでは、単一民族国家としてのイスラエルが念頭にあったことだろう。教育こそが生活全般を含む文化の同一化に唯一不可欠な要素だというゲルナーは、ナショナリズムをただひたすら単一民族国家のイデオロギーと見なすのである。
第一章で、私たちはキャノヴァン論文に出てくるシャーロック・ホームズの「吼えない犬」のエピソードを紹介した。偶然にも、私たちは同じエピソードをゲルナーの本にも見出す。ただしキャノヴァンが、夜吼えない犬らしからぬ異常なふるまいを、ヒットラーの暴挙のあと臆病になってしまい、国家統合に与えられた役割を果たせないナショナリズムの比喩に用いたのにたいし、ゲルナーは同じ犬を、ナショナリズムが創りそこなった民族国家の比喩に用いるのである。吼え損なった犬同様、せっかく文化をもちながら、国を造り損なった力不足のナショナリズムがたくさんあったと。ただし彼にとっては、単一民族国家への道が容易でないのは、そのナショナリズムに「強制的に多数派の文化に同化させる」手段が欠けていたせいではない。ただ単に力が足りなかったせいなのだ。ゲルナーに代表される保守主義者たちは、コミュニケーションを、多数派の文化にマイノリティ(少数派の文化・言語をもつ人びと)を同化させる教育の力と捉える。つまり啓蒙のための道具である。この解釈を取る人びとのなかに、おそらくパーキンスを含むアメリカ・プロテスタントも入る。これにたいし、ウェーバー、ミード、ルーマン、ハーバーマスらは違った解釈を取る。彼らは、コミュニケーションを異議申し立ての手段、討議を重ねながら、新しい地平を開く自由な人間の行為と理解するからである。法令の遵守を教え込むことではなく、むしろ偶像の破壊であると。前者は、例えば昔の植民地経営のための科学といったもので、いみじくもハーバーマスが生活世界のシステム化(物象化)を植民地化と呼んだのに対応するだろう。
ミードもハーバーマスも「植民地化」(疎外、物象化)された世界ではもはやコミュニケーションは何も産み出さないと知っていた。
同様に、ネイション・ステイツにも二つの解釈がある。ゲルナーのような保守主義者にとっては、国民国家とはそのまま単一民族国家(あるいは、教育によって単一民族にされた国家)を意味するから、ネイション・ステイツという座り具合の悪い言葉はもはやいらない。ネイション(民族)はステイツ(国家)であり、ステイツはネイションなのだから。同様にナショナリズムも、人工的に単一民族をつくるための、いわば操作マニュアルとして理解される。だが私たちにとっては、ナショナリズムとは、すでに第一章で十分に紹介したように、マイノリティ文化を承認し共栄するための多元的な理論であって、国民それぞれが自分への配慮をしながらから、あるいは実現しそうにないハイブリッド文化を目指す、マニュアルのない、創造活動であり、その先には、おそらく緩い世界システム統合への道が開いているものとして観念されているのだ。
原理的に「単一民族国家」ではありえないネイション・ステイツが、保守主義者たちに組みしない私たちにとってもいまのところ必要・不可欠であるのは、いうまでもなくそれが福祉国家と重なるからだ。世界システムを取る見返りに、福祉国家を見殺しにはできないと信じる私たちは、ネイション・ステイツと福祉国家が資本主義発展の必然的な形であり、同時に、何かよい知恵を出さないかぎり、それが互いに殺しあう関係にあるらしいと観念している。国民国家とナショナリズムは、ますます目が離せない問題になっているのだ。
一方、保守主義者たちには、ネイション・ステイツを単一民族国家であると定義したときに、すでに福祉国家はただの幻、考慮するに値しないものになっていて、民族国家の危機などいう考えそのものが出てこない。
結局、どちらにとっても、展望は一向に見えてこない。拙速な解決策の提案などはあきらめて、私たちの締めくくりはそのまま第一章に還っていくらしい。 
 
特攻隊に捧ぐ

 

坂口安吾
数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。それは一に軍部の指導方針が、その根本に於おいて、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。
けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。
たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専もっぱら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄ぐろうすることにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈はずはないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。
私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能ちのう方策を傾けて戦う以外に仕方がない。特攻隊よりも遥はるかにみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。戦争は呪のろうべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然しかし、特攻隊はともかく可憐かれんな花であったと私は思う。
戦法としても、日本としては上乗のものだった。ケタの違う工業力でまともに戦える筈はないので、追いつめられて窮余の策でやるような無計画なことをせず、戦争の始めから、航空工業を特攻専門にきりかえ、重爆などは作らぬやり方で片道飛行機専門に組織を立てて立案すれば、工業力の劣勢を相当おぎなうことが出来たと思う。人の子を死へ馳かりたてることは怖おそるべき罪悪であるが、これも戦争である以上は、死ぬるは同じ、やむを得ぬ。日本軍の作戦の幼稚さは言語同断で、工業力と作戦との結び方すら組織的に計画されてはおらず、有力なる新兵器もなく、ともかく最も独創的な新兵器といえば、それが特攻隊であった。特攻隊は兵隊ではなく、兵器である。工業力をおぎなうための最も簡便な工程の操縦器であり計器であった。
私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯ひきょうだの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。
彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否いな、その大部分が途中に射ち落されてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向って歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒をのまずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を怖れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄うたう必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?
我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の偽懣ぎまんとカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。
私は無償の行為というものを最高の人の姿と見るのであるが、日本流にはまぎれもなく例の滅私奉公で、戦争中は合言葉に至極簡単に言いすてていたが、こんなことが百万人の一人もできるものではないのである。他のためにいのちをすてる、戦争は凡人を駈かって至極簡単に奇蹟きせきを行わせた。
私は然しいささか美に惑溺わくできしているのである。そして根柢こんてい的な過失を犯している。私はそれに気付いているのだ。戦争が奇蹟を行ったという表現は憎むべき偽懣の言葉で、奇蹟の正体は、国のためにいのちを捨てることを「強要した」というところにある。奇蹟でもなんでもない。無理強いに強要されたのだ。これは戦争の性格だ。その性格に自由はない。かりに作戦の許す最大限の自由を許したにしても、戦争に真実の自由はなく、所詮しょせん兵隊は人間ではなく人形なのだ。
人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。否応なく、いのちを強要される。私は無償の行為と云いったが、それが至高の人の姿であるにしても多くの人はむしろ平凡を愛しており、小さな家庭の小さな平和を愛しているのだ。かかる人々を強要して体当りをさせる。暴力の極であり、私とて、最大の怒りをもってこれを呪うものである。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。
けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応いやおうなく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶せいぜつな死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以もって敬愛したいと思うのだ。
強要せられたる結果とは云え、凡人も亦またかかる崇高な偉業を成就じょうじゅしうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。
私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩おうのう苦悶くもんとかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。先ごろ浅草の本願寺だかで浮浪者の救護に挺身ていしんし、浮浪者の敬慕を一身にあつめて救護所の所長におされていた学生が発疹はっしんチフスのために殉職したという話をきいた。
私のごとく卑小な大人が蛇足する言葉は不要であろう。私の卑小さにも拘かかわらず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う。
青年諸君よ、この戦争は馬鹿ばかげた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出みいだすことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのであろうか。 
 
建国の事情と万世一系の思想

 

津田左右吉
今、世間で要求せられていることは、これまでの歴史がまちがっているから、それを改めて真の歴史を書かねばならぬ、というのであるが、こういう場合、歴史がまちがっているということには二つの意義があるらしい。
一つは、これまで歴史的事実を記述したものと考えられていた古書が実はそうでない、ということであって、例えば『古事記』や『日本紀』は上代の歴史的事実を記述したものではない、というのがそれである。これは史料と歴史との区別をしないからのことであって、記紀は上代史の史料ではあるが上代史ではないから、それに事実でないことが記されていても、歴史がまちがっているということはできぬ。史料は真偽混雑しているのが常であるから、その偽なる部分をすて真なる部分をとって歴史の資料とすべきであり、また史料の多くは多方面をもつ国民生活のその全方面に関する記述を具えているものではなく、或る一、二の方面に関することが記されているのみであるから、どの方面の資料をそれに求むべきかを、史料そのものについて吟味しなければならぬ。史料には批判を要するというのはこのことである。例えば記紀において、外観上、歴史的事実の記録であるが如き記事においても、こまかに考えると事実とは考えられぬものが少なくないから、そこでその真偽の判別を要するし、また神代の物語などの如く、一見して事実の記録と考えられぬものは、それが何ごとについての史料であるかを見定めねばならぬ。物語に語られていること、即ちそこにはたらいている人物の言動などは、事実ではないが、物語の作られたことは事実であると共に、物語によって表現せられている思想もまた事実として存在したものであるから、それは外面的の歴史的事件に関する史料ではないが、文芸史思想史の貴重なる史料である。こういう史料を史料の性質に従って正しく用いることによって、歴史は構成せられる。史料と歴史とのこの区別は、史学の研究者においては何人も知っていることであるが、世間では深くそのことを考えず、記紀の如き史料をそのまま歴史だと思っているために、上にいったようなことがいわれるのであろう。
いま一つは、歴史家の書いた歴史が、上にいった史料の批判を行わず、またはそれを誤り、そのために真偽の弁別がまちがったり、史料の性質を理解しなかったり、あるいはまた何らかの偏見によってことさらに事実を曲げたり、恣ほしいままな解釈を加えたりして、その結果、虚偽の歴史が書かれていることをいうのである。
さてこの二つの意義の何いずれにおいても、これまで一般に日本の上代史といわれているものは、まちがっている、といい得られる。然しからば真の上代史はどんなものかというと、それはまだでき上がっていない。という意味は、何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない、ということである。上にいった史料批判が歴史家によって一様でなく、従って歴史の資料が一定していない、ということがその一つの理由である。従って次に述べるところは、わたくしの私案に過ぎないということを、読者はあらかじめ知っておかれたい。ただわたくしとしては、これを学界ならびに一般世間に提供するだけの自信はもっている。 
一 上代における国家統一の情勢
日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族をもたぬ。大陸におけるシナ(支那)民族とは、もとより人種が違う。チョウセン(朝鮮)・マンシュウ(満洲)・モウコ(蒙古)方面の諸民族とも違うので、このことは体質からも、言語からも、また生活のしかたからも、知り得られよう。ただ半島の南端の韓民族のうちには、あるいは日本民族と混血したものがいくらかあるのではないか、と推測せられもする。また洋上では、リュウキュウ(琉球)(の大部分)に同じ民族の分派が占居したであろうが、タイワン(台湾)及びそれより南の方の島々の民族とは同じでない。本土の東北部に全く人種の違うアイヌ(蝦夷)のいたことは、いうまでもない。
こういう日本民族の原住地も、移住して来た道すじも、またその時期も、今まで研究せられたところでは、全くわからぬ。生活の状態や様式やから見ると、原住地は南方であったらしく、大陸の北部でなかったことは推測せられるが、その土地は知りがたく、来住の道すじも、世間でよく臆測せられているように海路であったには限らぬ。時期はただ遠い昔であったといい得るのみである。原住地なり、来住の途上なり、またはこの島に来た時からなりにおいて、種々の異民族をいくらかずつ包容し、またはそれらと混血したことはあったろうが、民族としての統一を失うほどなことではなく、遠い昔から一つの民族として生活して来たので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない。この島に来た時に、民族の違うどれだけかの原住民がいたのではあろうが、それが、一つもしくは幾つかの民族的勢力として、後までも長く残ってはいなかったらしく、時と共に日本民族に同化せられ包容せられてしまったであろう。
こういう日本民族の存在の明かに世界に知られ、世界的意義をもつようになったことの今日にわかるのは、前一世紀もしくは二世紀であって、シナでは前漢の時代である。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。それより前のこの民族の先史時代がこの島においてどれだけつづいていたかはわからぬが、長い、長い、年月であったことは、推測せられる。
先史時代の日本民族の生活状態は先史考古学の示すところの外は、歴史時代の初期の状態から逆推することによって、その末期のありさまがほぼ想像せられる。主なる生業は農業であったが、この島に住んでいることが既に久しいので、親子夫妻の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられ、多くのそういう村落のを包含する小国家が多く成り立っていたので、政治的には日本民族は多くの小国家に分れていたのである。この小国家の君主は、政治的権力と共に宗教的権威をももっていたらしく、種々の呪術じゅじゅつや原始的な宗教心のあらわれとしての神の祭祀やが、その配下の民衆のために、かれらによって行われ、それが政治の一つのはたらきとなっていた。地方によっては、これらの小国家の一つでありながら、その君主が附近の他の幾つかの小国家の上に立ってそれらを統御したものもあったようである。君主の権威は民衆から租税を徴しまたはかれらを使役することであったろうが、小国家においては、君主は地主としての性質を多分に具えていたのではないか、従ってまた君主は、政治的権力者ではあるが、それと共に配下の民衆の首長もしくは指導者というような地位にいたのではないか、と推測せられもする。農業そのことの本質に伴う風習として、耕地が何人かの私有であったことは、明かであろう。この日本民族は牧畜をした形跡はないが、漁猟は到るところで営まれ、海上の交通も沿海の住民によって盛さかんに行われた。しかしこういうことを生業としたものも、日本民族であることに変りはなく、住地の状態によってそれに適応する生活をしていたところに、やはりこの島に移住して来てから長い歳月を経ていたことが示されている。用いていた器具が石器であったことは、勿論である。
日本民族の存在が世界的意義をもつようになったのは、今のキュウシュウ(九州)の西北部に当る地方のいくつかの小国家に属するものが、半島の西南に沿うて海路その西北部に進み、当時その地方にひろがって来ていたシナ人と接触したことによって、はじまったのである。彼らはここでシナ人から絹や青銅器などの工芸品や種々の知識やを得て来たので、それによってシナの文物を学ぶ機会が生じ、日本民族の生活に新しい生面が開け初めた。青銅器の製作と使用との始まったのは前一世紀の末のころであったらしく、その後もかなり長い間はいわゆる金石併用時代であったが、ともかくもシナの文物をうけ入れることになった地方の小国家の君主はそれによって、彼らの権威をもその富をも加えることができた。キュウシュウ地方の諸小国とシナ人とのこの接触は、一世紀二世紀を通じて変ることなく行われたが、その間の関係は時がたつにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工芸品や知識やがますます多くなると共に、それを得ようとする欲求もまた強くなり、その欲求のために船舶を派遣する君主の数も多くなった。鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学び初められたらしい。ところが三世紀になると、文化上の関係が更に深くなると共に、その交通にいくらかの政治的意義が伴うことになり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは附近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主を威圧しようとするものが生じたので、ヤマト(邪馬台、今の筑後の山門か)の女王として伝えられているヒミコ(卑弥呼)がそれである。当時、このヤマトの君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。
キュウシュウ地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、セト(瀬戸)内海の航路によって、早くから後のいわゆるキンキ(近畿)地方に伝えられ、一、二世紀のころにはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治的勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。それがいつからの存在であり、どうしてうち立てられたかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう径路でそれだけの勢力が得られたかも、すべてたしかにはわからぬが、後の形勢から推測すると、二世紀ごろには上にいったような勢力として存在したらしい。その地域の西南部は少くとも今のオオサカ(大阪)湾の沿岸地方を含んでいて、セト内海の航路によって遠くキュウシュウ方面と交通し得る便宜をもっていたに違いないが、東北方においてどこまでひろがっていたかは、知りがたい。この地域のすべてが直接の領土として初めから存在したには限らず、あるいは、そこに幾つかの小国家が成立っていたのを、いつの時からかそれらのうちの一つであったヤマト地方の君主、即ち皇室の御祖先、がそれらを服属させてその上に君臨し、それらを統御するようになり、更に後になってその諸小国を直接の領土として収容した、というような径路がとられたでもあろう。
三世紀にはその領土が次第にひろがって、西の方ではセト内海の沿岸地方を包含するようになり、トウホク(東北)地方でもかなりの遠方までその勢力の範囲に入ったらしく、想像せられるが、それもまた同じような道すじを経てのことであったかも知れぬ。しかし具体的にはその情勢が全く伝えられていない。ただイズモ(出雲)地方にはかなり優勢な政治的勢力があって、それは長い間このヤマトを中心とする勢力に対して反抗的態度をとっていたようである。さてこのような、ヤマトを中心として後のキンキ地方を含む政治的勢力が形づくられたのは、一つは、西の方から伝えられた新しい文物を利用することによって、その実力が養い得られたためであろうと考えられるが、一つは、その時の君主の個人的の力によるところも少なくなかったであろう。如何いかなる国家にもその勢力の強大になるには創業の主ともいうべき君主のあるのが、一般の状態だからである。そうして険要の地であるヤマトと、豊沃で物資の多いヨドガワ(淀河)の平野と、海路の交通の要地であるオオサカの沿岸とを含む、地理的に優れた地位を占めていることが、それから後の勢力の発展の基礎となり、勢力が伸びれば伸びるに従って君主の欲望もまた大きくなり、その欲望が次第に遂げられて勢力が強くなってゆくと、多くの小国の君主はそれに圧せられて漸次服属してゆく、という情勢が展開せられて来たものと推測せられる。
しかし三世紀においては、イズモの勢力を帰服させることはできたようであるけれども、キュウシュウ地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統御している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。けれども、四世紀に入るとまもなく、アジヤ大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆くつがえされ、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところがなくなった。東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。四世紀の前半のことである。そうしてこの勢の一歩を進めたのが、四世紀の後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であって、それによって我が国と半島とに新しい事態が生じた。そうして半島を通じてヤマトの朝廷にとり入れられたシナの文物が皇室の権威を一層強め、従ってまた一つの国家として日本民族の統一を一層かためてゆくはたらきをすることになるのである。ただキュウシュウの南半、即ちいわゆるクマソ(熊襲)の地域にあった諸小国は、五世紀に入ってからほぼ完全に服属させることができたようである。東北方の諸小国がヤマトの国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキュウシュウの南半が帰服した時代には、日本民族の住地のすべてはヤマトの国家の範囲に入っていたことが、推測せられる。それは即ちほぼ今のカントウ(関東)からシナノ(信濃)を経てエチゴ(越後)の中部地方に至るまでである。
皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国というきわだった事件が、或る時期、或る年月、に起ったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられた時、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられた時を建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるとしても、たしかなことはやはりわからず、そうしてまたそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられて来たものであるから、特に建国というべき時はないとするのが、当っていよう。要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれとも全くかけはなれたものであることは、なおさらいうまでもない。むかしは、いわゆる神代の説話にもとづいて、皇室は初から日本の全土を領有せられたように考え、皇室のはじめと日本全土の領有という意義での建国とが同じであるように思われていたし、近ごろはこの二つとこの島における日本民族のはじめとの三つさえも、何となく混雑して考えられているようであるが、それは上代の歴史的事実を明かにしないからのことである。
さて、ここに述べたことには、それぞれ根拠があるが、今はそういう根拠の上に立つこの建国史の過程を略述したのみであって、一々その根拠を示すことはさしひかえた。ところで、もしこの歴史的過程が事実に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東征の物語は決して歴史的事実を語ったものでないことが知られよう。それはヤマトの皇都の起源説話なのである。日本民族が皇室の下に一つの国家として統一せられてから、かなりの歳月を経た後、皇室の権威が次第に固まって来た時代、わたくしの考かんがえではそれは六世紀のはじめのころ、において、一層それを固めるために、朝廷において皇室の由来を語る神代の物語が作られたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語が作られたのである。ヤマトに皇都はあったが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになったかも全く知られなくなっていたので、この物語はおのずからその皇都の起源説話となったのである。東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」をうけられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまた神武天皇によってヤマトに遷されたことを、語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によって作られたものである。だからそれを建国の歴史的事実として見ることはできない。
それから後の政治的経営として『古事記』や『日本紀』に記されていることも、チュウアイ(仲哀)天皇のころまでのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀のころであろうと思われるスシン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマトの国家の発展の形勢を考えるについては、それは問題の外におかるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形で後にいい伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の終において、既に知られなくなっていたので、記紀には全くあらわれていない。
ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国の君主を服属させていったそのしかたはどうであったかというに、それはあいてにより場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし血なまぐさい戦争の行われたことは少かったろうと推測せられる。もともと日本民族が多くの小国家に分れていても、その間に断えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味において大地主らしくもある小君主もまた、その生存のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起り易い異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがために、好戦的な殺伐な気風も養われなかった。小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家の現われなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とを来たすべき戦争の少かったことを、示すものと解せられよう。キュウシュウ地方においてかのヤマト(邪馬台)が、附近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。かなり後になっても、日本に城廓建築の行われなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行われたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少かったことは、おのずから推測せられよう。国家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いわゆる国造県主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城廓などの軍事的設備が後までも設けられなかったこと、なども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。
統一の後の国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国の君主はその地位と領土とを保全するためには、みずから進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分れていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新におのれらの頭上に臨んで来る大きな政治的勢力があっても、それに対しては初から親和の情があったのであろう。また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、九州における上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室にかえたのみであるから、その移りゆきはかなり滑かに行われたらしい、ということも考えられる。朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたにちがいなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。
国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマト朝廷のあいてとしたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行われたので、直接に民衆をあいてとしたのではない。武力を以て民衆を征討したのでないことは、なおさらである。民衆からいうと、国家が統一せられたというのは、これまでの君主の上にたつことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民の外は、皇室との直接の結びつきは生じなかったのである。さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血族的関係をもっていたはずはなく、従って日本の国家が皇室を宗家とする一家族のひろがったものでないことは、いうまでもあるまい。 
二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情
ヤマトに根拠のあった皇室が日本民族の全体を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかかったかはわからぬが、上に考えた如く、二世紀のころにはヤマトの国家の存在したことがほぼ推測せられるとすれば、それからキュウシュウの北半の服属した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期と考えられる五世紀のはじめまでは約三百年である。これだけの歳月と、その間における断えざる勢力の伸長とは、皇室の地位をかためるには十分であったので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなっていたようである。何人もそれに対して反抗するものはなく、その地位を奪いとろうとするものもなかった。そうしてそれにはそれを助ける種々の事情があったと考えられる。
その第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服しそれによって君主の地位と権力とを得られたのではなく、民族の内から起って次第に周囲の諸小国を帰服させられたこと、また諸小国の帰服した状勢が上にいったようなものであったことの、自然のなりゆきとして、皇室に対して反抗的態度をとるものが生じなかった、ということである。もし何らかの特殊の事情によって反抗するものが出るとすれば、それはその独立の君主としての地位と権力とを失った諸小国の君主の子孫であったろうが、そういうものは反抗の態度をとるだけの実力をもたず、また他の同じような地位にあるものの同情なり助力なりを得ることもできなかった。こういう君主の子孫のうちの最も大きな勢力をもっていたらしいイズモの国造が、完全に皇室の下におけるその国造の地位に安んじていたのを見ても、そのことは知られよう。一般の国造や県主は、皇室に近接することによって、皇室の勢威を背景としてもつことによって、かれらみずからの地位を安固にしようとしたのである。皇室が武力を用いて地方的豪族に臨まれるようなことはなく、国内において戦闘の行われたような形跡はなかった。この意味においては、上代の日本は甚だ平和であったが、これはその根柢に日本民族が一つの民族であるという事実があったと考えられる。
また皇室の政治の対象は地方的豪族であって、直接には一般民衆ではなかったから、民衆が皇室に対して反抗を企てるような事情は少しもなかった。わずかの皇室直轄領の外は、民衆の直接の君主は地方的豪族たる国造(及び朝廷に地位をもっている伴造)であって、租税を納めるのも労役に服するのも、そういう君主のためであったから、民衆はおのれらの生活に苦痛があっても、その責を皇室に帰することはしなかった。そうして皇室直轄領の民衆は、その直轄であることにおいて一種のほこりをもっていたのではないかと、推測せられる。
第二は、異民族との戦争のなかったことである。近隣の異国もしくは異民族との戦争には、君主みずから軍を率いることになるのが普通であるが、その場合、戦に勝てばその君主は民族的英雄として賞讃せられ、従ってその勢威も強められるが、負ければその反対に人望が薄らぎ勢威が弱められ、時の状勢によっては君主の地位をも失うようになる。よし戦に勝っても、それが君主みずからの力でなくして将帥しょうすいの力であったような場合には、衆望がその将帥に帰して、終にはそれが君主の地位に上ることもありがちである。要するに、異民族との戦争ということが、君主の地位を不安にし、その家系に更迭の生ずる機会を作るものである。ところが、日本民族は島国に住んでいるために、同じ島の東北部にいたアイヌの外には、異民族に接触していないし、また四世紀から六世紀までの時代における半島及びそれにつづいている大陸の民族割拠の形勢では、それらの何れにも、海を渡ってこの国に進撃して来るようなものはなかった。それがために民族的勢力の衝突としての戦争が起らず、従ってここにいったような君主の地位を不安にする事情が生じなかったのである。
ただ朝廷のしごととして、上に述べたように半島に対する武力的進出が行われたので(多分、半島の南端における日本人と関係のある小国の保護のために)、それには戦争が伴い、その戦争には勝敗があったけれども、もともと民族的勢力の衝突ではなく、また戦においてもただ将帥を派遣せられたのみであるから、勝敗のいずれの場合でも、皇室の地位には何の影響も及ぼさなかった。(チュウアイ天皇の皇后の遠征というのは、事実ではなくして物語である。)そうしてこの半島への進出の結果としての朝廷及びその周囲におけるシナの文物の採取は、文化の側面から皇室の地位を重くすることになった。また東北方のアイヌとの間には民族的勢力としての争があったが、これは概おおむねそれに接近する地域の住民の行動にまかせてあったらしく、朝廷の関与することが少く、そうして大勢においては日本民族が優者として徐々にアイヌの住地に進出していったから、これもまた皇室の勢威には影響がなかった。これが皇室の地位の次第に固まって来た一つの事実である。
第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業がなかった、ということであって、このことからいろいろの事態が生ずる。天皇みずから政治の局に当られなかったということもその一つであり、皇室の失政とか事業の失敗とかいうようなことのなかったということもその一つである。多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主のしごとは戦争であって、それに伴っていろいろのしごとが生ずるのであるが、国内においてその戦争のなかった我が国では、政治らしい政治は殆ほとんどなかったといってよい。従ってまた天皇のなされることは、殆どなかったであろう。いろいろの事務はあったが、それは朝廷の伴造のするしごとであった。四世紀の終にはじまり五世紀を通じて続いている最も大きな事件は、半島の経営であるが、それには武力が必要であるから、武事を掌つかさどるオオトモ(大伴)氏やモノノベ(物部)氏やはそれについて重要のはたらきをしたのであろう。特にそのはたらく場所は海外であるから、本国から一々それを指揮することのできぬ場合が多い。そこで、単なる朝廷の事務とは違うこの国家の大事についても、実際においてそれを処理するものは、こういう伴造のともがらであり、従ってそういう家がらにおのずから権威がついて来て、かれらは朝廷の重臣ともいうべきものとなった。
そうしてこういう状態が長くつづくと、内政において何らかの重大な事件が起ってそれを処理しなければならぬようなばあいにも、天皇みずからはその局に当られず、国家の大事は朝廷の重臣が相謀ってそれを処理するようになって来る。従って天皇には失政も事業の失敗もない。これは、一方においては、時代が進んで国家のなすべき事業が多くなり政治ということがなくてはならぬようになってからも、朝廷の重臣がその局に当る風習を開くものであったと共に、他方においては、政治上の責任はすべて彼らの負うところとなってゆくことを意味するものである。いうまでもなく、政治は天皇の名において行われはするが、その実、その政治は重臣のするものであることが、何人にも知られているからである。そうしてこのことは、おのずから皇室の地位を安固にするものであった。
第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。天皇は武力を以てその権威と勢力とを示さず、また政治の実務には与あずかられなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明かにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。政治的君主が宗教上の地位をももっているということは、極めて古い原始時代の風習の引きつづきであろうと考えられるが、その宗教上の地位というのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行うことであり、そのようなことを行うところから、或る場合には、呪術や祭祀を行い神人の媒介をする巫祝ふしゅくが神と思われることがあるのと同じ意味で、君主みずからが神としても考えられることがある。天皇が「現あきつ神かみ」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いいかえると天皇が国家を統治せられることは、思想上または名義上、神の資格においてのしごとである、というだけの意義でこの称呼が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の称呼なのである。天皇の実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称呼が用いられたのである。
これは、天皇が天皇を超越した神に代ってそういう神の政治を行われるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行われるとか、いうのではないと共に、また天皇は普通の人とは違って神であり何らかの意義での神秘性を帯びていられる、というような意味でいわれたのでもない。天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。日本の昔には天皇崇拝というようなことはなかったと考えられる。天皇がその日常の生活において普通の人として行動せられることは、すべてのものの明かに見も聞きも知りもしていることであった。記紀の物語に天皇の恋愛譚や道ゆきずりの少女にことといかわされた話などの作られていることによっても、それは明かである。「現つ神」というようなことばすらも、知識人の思想においては存在し、また重々しい公式の儀礼には用いられたが、一般人によって常にいわれていたらしくはない。シナで天帝の称呼として用いられていた「天皇」を御称号としたのは六世紀のおわりころにはじまったことのようであって、それは「現つ神」の観念とつながりのあることであったろうが、それが一般に知られていたかどうか、かなりおぼつかない。そういうことよりも、すべての人に知られていた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして、国民のために大祓のような呪術を行われたりいろいろの神の祭祀を行われたりすることであったので、天皇が神を祭られるということは天皇が神に対する意味での人であることの明かなしるしである。日常の生活がこういう呪術や祭祀によって支配せられていた当時の人々にとっては、天皇のこの地位と任務は尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の権威があるように思われた。何人もその権威を冒涜ぼうとくしようとは思わなかったのである。政治の一つのしごととして天皇のせられることはこういう呪術祭祀であったので、それについての事務を掌っていたナカトミ(中臣)氏に朝廷の重臣たる権力のついて来たのも、そのためであった。
第五には、皇室の文化上の地位が考えられる。半島を経て入って来たシナの文物は、主として朝廷及びその周囲の権力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いうまでもなく皇室であった。そうしてそれがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。かれらは皇室のために新来の文物についての何ごとかを掌ることによって生活し、それによって地位を得た。のみならず、一般的にいっても、皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊とさと親しさとがそれによって感ぜられ、人々をして皇室に近接することによってその文化の恵みに浴しようとする態度をとらせることになったのである。
以上、五つに分けて考えたことを一くちにつづめていうと、現実の状態として、皇室は朝廷の権力者や地方の豪族にとっては、親しむべき尊むべき存在であり、かれらは皇室に依属することによってかれらの生活や地位を保ちそれについての欲求を満足させることができた、ということになる。なお半島に対する行動がかれらの間にも或る程度に一種の民族的感情をよび起させ、その感情の象徴として皇室を視る、という態度の生じて来たらしいことをも、考えるべきであろう。皇室に対する敬愛の情がここから養われて来たことは、おのずから知られよう。
さて、こういうようないろいろの事情にも助けられて、皇室は皇室として長く続いて来たのであるが、これだけ続いて来ると、その続いて来た事実が皇室の本質として見られ、皇室は本来長く続くべきものであると考えられるようになる。皇室が遠い過去からの存在であって、その起源などの知られなくなっていたことが、その存在を自然のことのように、あるいは皇室は自然的の存在であるように、思わせたのでもある。(王室がしばしば更迭した事実があると、王室は更迭すべきものであるという考が生ずる。)従ってまたそこから、皇室を未来にも長く続けさせようという欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く続けさせねばならぬ、長く続くようにしなければならぬ、ということが道徳的義務として感ぜられることになる。もし何らかの事態が生じて(例えば直系の皇統が断えたというようなことでもあると)、それに刺戟せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。六世紀のはじめのころは、皇室の重臣やその他の朝廷に地位をもっている権力者の間に、こういう欲求の強められて来た時期であったらしく、今日記紀によって伝えられている神代の物語は、そのために作られたものがもとになっている。
神代の物語は皇室の由来を物語の形で説こうとしたものであって、その中心観念は、皇室の祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし、皇位(天つ日つぎ)をそれから伝えられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるという考と、皇位の永久という観念とが、含まれている。なおこの物語には、皇室が初からこの国の全土を統治せられたことにしてあると共に、皇室の御祖先は異民族に対する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られていず、どこまでも日本の国家の統治者としての君主となっているが、その政治、その君主としての事業は、殆ど物語の上にあらわれていない。そうして国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行われたことにしてある。物語にあらわれている人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであって、民衆のはたらいたことは少しもそれに見えていない。民衆をあいてにしたしごとも語られていない。宗教的意義での邪霊悪神を掃蕩せられたことはいわれているが、武力の用いられた話は、初めて作られた時の物語にはなかったようであり、後になってつけ加えられたと思われるイズモ平定の話には、そのおもかげが見えはするが、それとても妥協的平和的精神が強くはたらいているので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戦争の話はない。やはり後からつけたされたものであるが、スサノオの命みことが半島へ渡った話があっても、武力で征討したというのではなく、そうして国つくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が来たというのも、武力的経略のようには語られていないから、文化的意義のこととしていわれたものと解せられる。なお朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜を作り、皇室に依附することによってその家の存在を示そうとした形跡も、明かにあらわれている。
さすれば、上に述べた四・五世紀ころの状態として考えられるいろいろの事情は、そのすべてが神代の物語に反映しているといってもよい。こういう神代の物語によって、皇室をどこまでも皇室として永久にそれを続けてゆこう、またゆかねばならぬ、とする当時の、またそれにつづく時代の、朝廷に権力をもっているものの欲求と責任感とが、表現せられているのである。そうしてその根本は、皇位がこのころまで既に長くつづいて来たという事実にある。そういう事実があったればこそ、それを永久に続けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そのものよりもそういう物語を作り出した権力階級の思想に意味があり、そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治‐社会的状態に一層大なる意味があることを、知らねばならぬ。
皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、このようにして歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであった。時勢は変り事態は変っても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。六世紀より後においても、天皇はみずから政治の局には当られなかったので、いわゆる親政の行われたのは、極めて稀な例外とすべきである。タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、実は親政ではなかったのである。そうして事実上、政権をもっていたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり後のフジワラ(藤原)氏なりタイラ(平)氏なりミナモト(源)氏なりアシカガ(足利)氏なりトヨトミ(豊臣)氏なりトクガワ(徳川)氏なりであり、いわゆる院政とても天皇の親政ではなかった。政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷の内における摂政関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権を握っていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官でありあるいは武人であったが、天皇の親政でない点はみな同じであった。そうしてこういう権家けんかの勢威は永続せず、次から次へと変っていったが、それは、一つの権家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを、示すものである。この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行われなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。
しかし皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかった。そこに皇室の精神的権威があったので、その権威はいかなるばあいにも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、即ち皇室に精神的権威のあったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立して来たために生じたものである。
それと共に、皇室は摂関の家に権威のある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威の保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。摂関政治の起ったのは起るべき事情があったからであり、幕府政治の行われたのも行わるべき理由があったからであって、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士という非合法的のものが民間に起ってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた亡びるようになると共に、その武士によって封建制度が次第に形づくられて来たのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移って来たことを示すものであって、文化の中心が朝廷を離れて来たことと共に、日本民族史において極めて重要なことがらであり、時勢の大なる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことには、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室みずからにおいて確信せられていたからでもある。もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(承久)・ケンム(建武)の際のごとく幕府を覆えそうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、またくりかえして行われたのでもなく、特に幕府に対しての行動は武士の力に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった。(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なればその存在が危くなる。ケンム以後ケンムのような企ては行われなかった。)
このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の下に存在し、そうしてそれが遠い昔から長く続いて来たにもかかわらず、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態がわが国には形づくられていたのである。もし普通の国家において、フジワラ氏もしくはトクガワ氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行われたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、それほどの弱者を皇室として尊重して来たことに、重大の意味があるといわねばならず、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。
けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治的権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。それはどこまでも日本の国家の政治的統治者としての権威である。ただその統治のしごとを皇室みずから行われなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだという見解が世に行われ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的解釈に過ぎないことではあるものの、トクガワ氏のもっている法制上の官職が天皇の任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。これもまた一種の儀礼に過ぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行われたところに皇室の志向もトクガワ氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間つづいて来たということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考が、ますます固められて来たのである。というよりも、そういうことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。神代の物語の作られた時代においては、皇室の地位の永久性ということは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根柢ともなりそれを支持してもいる一般武士の思想ともなって来たので、それはかれらが政治的権力者となりまたは政治的地位を有するようになったからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。
ところで、皇室の権威が考えられるのは、政治上の実権をもっている権家との関係においてのことであって、民衆との関係においてではない。皇室は、タイカの改新によって定められた耕地国有の制度がくずれ、それと共に権家の勢威がうち立てられてからは、新に設けられるようになった皇室の私有地民の外には、民衆とは直接の接触はなかった。いわゆる摂関時代までは、政治は天皇の名において行われたけれども、天皇の親政ではなかったので、従ってまた皇室が権力を以て直接に民衆に臨まれることはなかった。後になって、皇室の一部の態度として、ショウキュウ・ケンムのばあいの如く、武力を以て武家の政府を覆えそうという企ての行われたことはあっても、民衆に対して武力的圧迫を加え、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、ただの一度もなかった。一般民衆は皇室について深い関心をもたなかったのであるが、これは一つは、民衆が政治的に何らの地位をももたず、それについての知識をももたなかった時代だからのことでもある。
しかし政治的地位をばもたなかったが知識をもっていた知識人においては、それぞれの知識に応じた皇室感を抱いていた。儒家の知識をもっていたものはそれにより、仏教の知識をもっていたものはまたそれによってである。そうしてその何れにおいても、皇室の永久であるべきことについて何の疑いをも容いれなかった。儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかかわらず、極めて少数の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかった。そうしてそれは皇室の一系であることが厳然たる古来の事実であるからであると共に、文化が一般にひろがって、権力階級の外に知識層が形づくられ、そうしてその知識人が政治に関心をもつようになったからでもある。仏家は、権力階級に縁故が深かったためにそこからひきつがれた思想的傾向があったのと、その教理にはいかなる思想にも順応すべき側面をもっているのとのために、やはりこの事実を承認し、またそれを支持することにつとめた。
しかし、神代の物語の作られたころと後世との間に、いくらかの違いの生じたことがらもあるので、その一つは「現つ神」というような称呼があまり用いられなくなり、よし儀礼的因襲的に用いられるばあいがあるにしても、それに現実感が伴わないようになった、ということである。「天皇」という御称号は用いられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が神の祭祀を行われることは変らなかったけれども、それと共にまたそれと同じように、仏事をも営まれた。そうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機関である神祇官は、後になるといつのまにかその存在を失った。天皇の地位の宗教的性質は目にたたなくなったのである。文化の進歩と政治上の情勢とがそうさせたのである。その代り、儒教思想による聖天子の観念が天皇にあてはめられることになった。これは記紀にすでにあらわれていることであるが、後になると、天皇みずからの君徳の修養としてこのことが注意せられるようになった。その最も大せつなことは、君主は仁政を行い民を慈愛すべきである、ということである。天皇の親政が行われないかぎり、それは政治の上に実現せられないことではあった(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行われたにしても実現のむつかしいことでもあった)が、国民みずからがみずからの力によってその生活を安固にもし、高めてもゆくことを本旨とする現代の国家とはその精神の全く違っていたむかしの政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考えられたのは、意味のあることであったので、歴代の天皇が、単なる思想の上でのことながら、民衆に対して仁慈なれということを考えられ、そうしてそれが皇室の伝統的精神として次第に伝えられて来たということは、重要な意味をもっている。そうしてこういう道徳思想が儒教の経典の文字のままに、君徳の修養の指針とせられたのは、実は、天皇が親みずから政治をせられなかったところに、一つの理由があったのである。みずから政治をせられたならば、もっと現実的なことがらに主なる注意がむけられねばならなかったに違いないからである。
次には、皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世ころまではつづいていたが、その後次第に変って来て、文化の中心が武士と寺院とに移り、そのはてには全く民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変り文化は進んで来たが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在をつづけていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられると共に、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。ただこうなっても、皇室とその周囲とにそのなごりをとどめている古い文化のおもかげが知識人の尚古思想の対象となり、皇室が雲の上の高いところにあって一般人の生活と遠くかけはなれていることと相応じて、人々にそれに対する一種のゆかしさを感ぜしめ、なお政治的権力関係においては実権をもっているものに対して弱者の地位にあられることに誘われた同情の念と、朝廷の何ごとも昔に比べて衰えているという感じから来る一種の感傷とも、それを助けて、皇室を視るに一種の詩的感情を以てする傾向が知識人の間に生じた。そうしてそれが国民の皇室観の一面をなすことになった。このようにして、神代の物語の作られた時代の事情のうちには、後になってなくなったものもあるが、それに代る新しい事情が生じて、それがまたおのずから皇室の永久性に対する信念を強めるはたらきをしたのである。
ところが、十九世紀の中期における世界の情勢は、日本に二重政体の存続することを許さなくなった。日本が列国の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれかの一つでなくてはならぬことが明かにせられた。メイジ(明治)維新はそこで行われたのである。この維新は思想革命でもなく社会改革でもなく、実際に君主のことを行って来た幕府の主宰者たる将軍からその権を奪って、それを天皇に属させようとしたこと、いわば天皇親政の制を定めようとしたことを意味するのであって、どこまでも政治上の制度の改革なのである。この意味においては、タイカ改新及びそれを完成させた令の制度への復帰というべきである。ただその勢のおもむくところ、封建制度を廃しまたそれにつれて武士制度を廃するようになったことにおいて、社会改革の意義が新にそれに伴うようになっては来たが、それとても実は政治上の必要からのことであった。ヨウロッパの文物や思想をとり入れたのは、幕府の施設とその方針とをうけついだものであるから、これはメイジ維新の新しいしごとではなかった。維新にまで局面をおし進めた力のうちには、むしろ頑冥がんめいな守旧思想があったのである。
さて幕府が消滅し、封建諸侯と武士とがその特殊の身分を失って、すべての士民は同じ一つの国民として融合したのであるから、この時から後は、皇室は直接にこの一般国民に対せられることになり、国民は始めて現実の政治において皇室の存在を知ることになった。また宮廷においても新にヨウロッパの文物を採用せられたから、同じ状態にあった国民の生活とは、文化の面においてもさしたる隔たりがなくなった。これはおのずから皇室と国民とが親しく接触するようになるよい機会であったので、メイジの初めには、そういう方向に進んで来た形跡も見られるし、天皇親政の制が肯定せられながら輿論政治・公議政治の要求の強く現われたのも、またこの意味を含んでいたものと解することができる。ヨウロッパに発達した制度にならおうとしたものながら、民選議院の設立の議には、立憲政体は政治を国民みずからの政治とすることによって国民がその責に任ずると共に、天皇を政治上の責任のない安泰の地位に置き、それによって皇位の永久性を確実にし、いわゆる万世一系の皇統を完からしめるものである、という考があったのである。
しかし実際において政治を左右する力をもっていたいわゆる藩閥は、こういう思想の傾向には反対の態度をとり、宮廷その他の諸方面に存在する固陋ころうなる守旧思想もまたそれと結びついて、皇室を国民とは隔離した高い地位に置くことによってその尊厳を示そうとし、それと共に、シナ思想にも一つの由来はありながら、当時においてはやはりヨウロッパからとり入れられたものとすべき、帝王と民衆とを対立するものとする思想を根拠として、国民に対する天皇の権力を強くし政治上における国民のはたらきをできるだけ抑制することが、皇室の地位を鞏固きょうこにする道であると考えた。憲法はこのような情勢の下に制定せられたのである。そうしてそれと共に、同じくヨウロッパの一国から学ばれた官僚制度が設けられ、行政の実権が漸次その官僚に移ってゆくようになった。なおメイジ維新によって幕府と封建諸侯とからとりあげられた軍事の権が一般政務の間に優越な地位を占めていた。これらのいろいろの事情によって、皇室は煩雑にして冷厳なる儀礼的雰囲気の裡うちにとざされることによって、国民とは或る距離を隔てて相対する地位におかれ、国民は皇室に対して親愛の情を抱くよりはその権力と威厳とに服従するようにしむけられた。皇室の仁慈ということは、断えず説き示されたのであるが、儒教思想に由来のあるこの考は、上に述べた如く現代の国家と国民生活との精神とは一致しないものである。そうしてこのことと並行して、学校教育における重要なる教科として万世一系の皇室を戴く国体の尊厳ということが教えられた。一般民衆はともかくもそれによって皇室の一系であられることを知り、皇位の永久性を信ずるようになったが、しかしその教育は主として神代の物語を歴史的事実の如く説くことによってなされたのであるから、それは現代人の知性には適合しないところの多いものであった。皇室と国民との関係に、封建時代に形づくられ儒教道徳の用語を以て表現せられた君臣間の道徳思想をあてはめようとしたのも、またこういう為政者のしわざであり、また別の方面においては、宗教的色彩を帯びた一種の天皇崇拝に似た儀礼さえ学校において行わせることにもなったが、これらの何れも、現代人の国家の精神また現代人の思想と相容れぬものであった。
さて、このような為政者の態度は、実際政治の上においても、憲法によって定められた輔弼ほひつの道をあやまり、皇室に責任を帰することによって、しばしば累をそれに及ぼした。それにもかかわらず、天皇は国民に対していつも親和のこころを抱いていられたので、何らかの場合にそれが具体的の形であらわれ、また国民、特にその教養あり知識あるものは、率直に皇室に対して親愛の情を披瀝ひれきする機会の得られることを望み、それを得た場合にそれを実現することを忘れなかった。「われらの摂政殿下」というような語の用いられた場合のあるのは、その一例である。そうして遠い昔からの長い歳月を経て歴史的に養われまた固められた伝統的思想を保持すると共に、世界の情勢に適応する用意と現代の国家の精神に調和する考えかたによって、皇室の永久性を一層明かにし一層固くすることに努力して来たのである。
ところが、最近に至って、いわゆる天皇制に関する論議が起ったので、それは皇室のこの永久性に対する疑惑が国民の一部に生じたことを示すもののように見える。これは、軍部及びそれに附随した官僚が、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲解によってそれをうらづけ、そうすることによって、政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にそうであることを宣伝するのみならず、天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、あるいは現にもっていられる如くいいなし、それによって、軍部の恣ほしいままなしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに、主なる由来がある。アメリカ及びイギリスに対する戦争を起そうとしてから後は、軍部のこの態度はますます甚しくなり、戦争及びそれに関するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、国民がその生命をも財産をもすてるのはすべて天皇のおんためである、ということを、ことばをかえ方法をかえて断えまなく宣伝した。そうしてこの宣伝には、天皇を神としてそれを神秘化すると共に、そこに国体の本質があるように考える頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴っていた。しかるに戦争の結果は、現に国民が遭遇したようなありさまとなったので、軍部の宣伝が宣伝であって事実ではなく、その宣伝はかれらの私意を蔽おおうためであったことを、明かに見やぶることのできない人々の間に、この敗戦もそれに伴うさまざまの恥辱も国家が窮境に陥ったことも社会の混乱も、また国民が多くその生命を失ったことも一般の生活の困苦も、すべてが天皇の故である、という考がそこから生れて来たのである。むかしからの歴史的事実として天皇の親政ということが殆どなかったこと、皇室の永久性の観念の発達がこの事実と深い関係のあったことを考えると、軍部の上にいったような宣伝が戦争の責任を天皇に嫁することになるのは、自然のなりゆきともいわれよう。こういう情勢の下において、特殊の思想的傾向をもっている一部の人々は、その思想の一つの展開として、いわゆる天皇制を論じ、その廃止を主張するものがその間に生ずるようにもなったのであるが、これには、神秘的な国体論に対する知性の反抗もてつだっているようである。またこれから後の日本の政治の方向として一般に承認せられ、国民がその実現のために努力している民主主義の主張も、それを助け、またはそれと混合せられてもいるので、天皇の存在は民主主義の政治と相容れぬものであるということが、こういう方面で論ぜられてもいる。このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論のみちすじにも、幾多の肯うべないがたきところがあるが、それに反対して天皇制の維持を主張するものの言議にも、また何故に皇室の永久性の観念が生じまた発達したかの真の理由を理解せず、なおその根拠として説かれていることが歴史的事実に背そむいている点もある上に、天皇制維持の名の下に民主主義の政治の実現を阻止しようとする思想的傾向の隠されているがごとき感じを人に与えることさえもないではない。もしそうならば、その根柢にはやはり民主主義の政治と天皇の存在とは一致しないという考えかたが存在する。が、これは実は民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである。
日本の皇室は日本民族の内部から起って日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想においては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力を以て、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。ところが、現代においては、国家の政治は国民みずからの責任を以てみずからすべきものとせられているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意志を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承あいうけて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。民族の内部から起って民族を統一せられた国家形成の情勢と、事実において民衆と対立的関係に立たれなかった皇室の地位とは、おのずからかくの如き考えかたに適応するところのあるものである。また過去の歴史において、時勢の変化に順応してその時々の政治形態に適合した地位にいられた皇室の態度は、やがて現代においては現代の国家の精神としての民主政治を体現せられることになるのである。上代の部族組織、令の制度の下における生活形態、中世にはじまった封建的な経済機構、それらがいかに変遷して来ても、その変遷に順応せられた皇室は、これから後にいかなる社会組織や経済機構が形づくられても、よくそれと調和する地位に居られることになろう。ただ多数の国民がまだ現代国家の上記の精神を体得するに至らず、従ってそれを現実の政治の上に貫徹させることができなかったために、頑冥な思想を矯正し横暴または無気力なる為政者を排除しまた職責を忘れたる議会を改造して、現代政治の正しき道をとる正しき政治をうち立てることができず、邪路に走った為政者に国家を委ねて、遂にかれらをして、国家を窮地に陥れると共に、大なる累を皇室に及ぼさせるに至ったのは、国民みずから省みてその責を負うところがあるべきである。国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底したすがたがある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれをなし遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大なる発露でもある。 
 
音楽1943 (昭和18年)

 

■『音楽公論』 第3巻第2号 1943/2 
日本交響楽運動批判
(座談会)/山根銀二 園部三郎 大木正夫 諸井三郎 野村光一
記者から、日本の交響楽運動は日中戦争以後向上しているか、また東京には日響、東響、松竹と3つもオーケストラがあるが、これらが国家の要求する方向へ進んでいるかどうか、これらについて検討してほしいと切り出す。/園部は、国民に訴えていく企画性に乏しく、質的には向上していないと指摘する。山根は、過去において交響楽運動がよい形で発展しようとしていたが、そうした理想が失われ退歩している。現在は、日響が日本人作品を上演するなどの変化が起こったが、これも時代の要求を後から追いかける形でとりあげ、自発的な姿勢にかけている。日本人指揮者の養成についても同様のことが言える、と発言している。野村は、オーケストラは腕を鍛えられた人たちの集まりなので、社会認識に欠けている。プロの交響楽団として社会的に自治性をもつ団体となり、社会のほうが、オーケストラのように相当金のかかるものを自治性にばかり頼るのではなく、もっとしっかりとした団体にしようとして、新響が日響に改組されることとなった。しかし、その結果、これまでの自治的なまとまりによってでき上がっていたオーケストラのテクニックが停滞した、と述べている。諸井は、確かに音楽界全体が再編成の時期にきている。如何に打開していくかという方向で話した方がいいと提案。具体的な問題として、日本の交響楽団のプログラミングについて提示する。野村は、邦人作品の取り扱い方は悪く、外国の作品も一部インテリにしかわからない曲を選択する。オーケストラのように公共性が高いものは、演奏曲目の選定も国民的な組織が決定すべきだと唱える。大木、諸井も、ほぼ同調している。続いて山根は、特に日響のようなしっかりした組織になると個人的な意志や熱意がそのままの形では現れにくくなるので、各オーケストラが頭脳を持て、次にその頭脳の意志を伝達させるための段取りを整えろ、と提唱する。意志の伝達に失敗したために日響は技術が低下したのだと指摘する。諸井は、この議論を受ける形で、楽壇の再編成を推進するために協力会議のようなものをやろうと、野村は、同時に外国にあるミュージシャンズ・ユニオンのようなものを日本にも、と述べている。諸井から、これまでの議論は指揮者に嫌なものまで振らせるという誤解を与えないことが大切だと発言が出るが、山根から、日響の定期演奏会でオネガーの『勝利のオラース』のようなものを取り上げたことに疑念が出され、指揮者の自発的な選択も一定の制限の下でのことだと意見が出され、園部も同調する。/ここで記者から、日響がやっている予約会員制度について考えてほしいと発言が出る。園部から、興行の観点からすれば会員の確保は一つの条件だが、それに止まらず、東京の日比谷公会堂でだけ演奏会をやらずに巡回演奏も行なって、会員だけに聴かせるということのないようにしてもらいたいとまとめている。他の出席者も同調しているが、園部は、この議論が抽象論でないことは日本音楽文化協会が行なった巡回演奏がはっきり示していると強調する。野村は、演奏は生でなくればだめだとも述べている。/日響以外で、まず松竹交響楽団については、やっていることが行き当たりばったり(園部)、企画が悪い(山根)といった意見が出されている。東京交響楽団については、東北巡回演奏で熱意を示した功績が称えられる一方で、定期演奏会のやり方は低調だ(山根)、企画性がない(野村)などの指摘がなされている。
二人のピアニストと東響公演 (音楽会評)/寺西春雄
野辺地瓜丸独奏会 / 1942年12月13日、日比谷公会堂での独奏会。演奏曲目は、ショパン「エチュード」「ワルツ」「バルカローレ」。シューマンも演奏したようだが曲目の記述なし。/野辺地については、ペダリング、指使い、打鍵法などの技術的な方法や、解釈上の方法が細かく合理的に研究されているが、それらが完全に消化されて自己のパトスを表現するかと言えばそうなっていない、と指摘している。
井上園子三大奏鳴曲 / 1942年12月16日、ベートーヴェンの『月光』『ワルトシュタイン』『熱情』を演奏した。/従来の技巧的偏向からの転向を示しつつあるような演奏だが、内省的な努力とはいい得ず、外面的な効果を追及する悪い意味のヴィルテュオジティの一変形にすぎない。曲の精神を自己の全人格で捉えなくてはならない。
東京交響楽団定期公演 / 1942年12月12日、第14回定期公演。指揮:グルリット、ヴァイオリン独奏:巌本メリー・エステル。演奏曲目はシベリウス『交響曲第4番』、ヴィヴァルディの協奏曲[具体的な曲名の記述なし]、ベートーヴェンの『ロマンス』2曲。/評者によれば、グルリットの独善的蕪雑さが眼についたという。
齋藤秀雄演奏会 / 1942年12月22日、斎藤秀雄指揮交響楽演奏会。演奏曲目は、バッハ『管弦楽組曲第2番』、ショパン『ピアノ協奏曲第1番ホ短調』、ベートーヴェン『交響曲第3番 「英雄」』。管弦楽は東京交響楽団、ピアノ独奏は黒田睦子が受け持った。/齋藤の指揮は、細部に行き届いた緻密さ、明確なテンポ、歯切れよい清潔な解釈を示しているが、大きな流れを形成するまでには至っていない感がある。
崔承喜の芸術性 /加波潔
舞踊について門外漢の加波は、同郷の朝鮮半島出身者として崔の芸術を眺めてみたいという。崔承喜は1942年12月6日から12月22日までの17日間、帝国劇場を観客で埋めつくすという、画期的な記録を残した。/崔の曲線美や華麗な容姿、朝鮮俗曲における豊富な表情や淡白で軽妙な気分など、魅惑的な雰囲気を作り出している。その領域を精神的な高さにまで引き上げていないが、現代の日本舞踊界からすると、崔の高さまで来た人がなく、また今後もそう簡単には現れないだろう。/柳宗悦は、朝鮮の芸術は愛の訪れを待つ芸術であり、線にその心情を訴えたという。崔の舞踊が線を強調しているかを察知するとき、柳の指摘と合い通じるものを感じる。人情がもつ素朴な美しさや親しさが、半島人の特性とも解されており、それが崔承喜という舞踊家の表現の中に閃いている。さいごに崔が、「追心」「普賢菩薩」「武魂」「七夕の夜」「二つの琵琶調」など日本的素材に視野を広げたことを、高く評価されるべきだと結んでいる。
レッツ先生の思出 /大村多喜子
ハンス・レッツは大村多喜子が留学していた5年間、指導を受けた教師である。/レッツはアルザスで生まれ、ベルリンでヨアヒムに師事し、のちに若くして渡米。ヴァイオリン独奏家として、またシカゴ交響楽団のコンサートマスターとして活躍した。さらにクナイゼル・クヮルテットのメンバーとして、また同団の解散後はレッツ・クヮルテットを組織して永年室内楽の普及に尽力した。/1936年、大村は、当時ジュリアードのヴァイオリン主席教授だったレッツに初めて教えを受けた。セヴスィックの指の教本も、レッツから助言をもらってから後は、大切なものとなって音に対する気持ちが変わっていったという。生徒の相談によくのり、室内楽の指導には特に優れていた。ただ、すでにレッツは公開演奏をほとんどしなくなっていた。教えている間は弾く時間がないし、旅に出てしまうのも生徒に対して無責任だと思うという考えからだという。
ラヂオ短評 /露木次男
1942年12月2日。大阪放送交響楽団の演奏で、宮原禎次作曲交響曲『十二月八日』(第1楽章「大詔奉戴」−第2楽章「英霊に涙す」−第3楽章「朗報全土に洽し」−第4楽章「黎明一億の進軍」)。指揮者の記載なし。12月4日。東京交響楽団の演奏で、池譲作曲の交響組曲『征服』(第1楽章「暁の海を征く」−第2楽章−第3楽章−第4楽章「大東亜の建設」−第5楽章「忠魂碑」)。指揮者の記載なし。12月6日。軍国歌謡「宣戦の大詔を拝して」ほか。露木は、陰気な歌ばかりだと怒っている。12月13日。モーツァルト『ピアノ協奏曲ハ短調』。演奏は、ピアノ独奏がリリー・クラウス、管弦楽がジャカルタ放送交響楽団、指揮が飯田信夫。ラジオのコンディションが悪かったという。12月16日。浅野千鶴子、奥田良三ほかの独唱で北原白秋歌曲集(作曲は山田)。こうした試みは時々放送してほしいが、奥田のようなレコード歌手は歌い方に嫌味が残るので、ご免こうむりたいと述べている。12月17日。東京四重奏団の演奏でモーツァルト『弦楽四重奏曲二短調』。12月18日。ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番』。ピアノ独奏は井口基成、管弦楽は日本交響楽団、指揮はローゼンストック。12月23日。ナルディーニの『ヴァイオリン協奏曲』ほか。ヴァイオリン独奏は山本惠子、ピアノ伴奏は富永瑠璃子。12月27日。久本玄智『朝の歓び』。ヴァイオリンを琴で伴奏しているにすぎず、邦楽になっていない。中能島欣一『組曲』。こちらは、よく筝曲の伝統を守って好感が持てる。12月29日。管弦楽『山形の民謡による幻想曲』、作曲者不明。1943年1月4日。木琴独奏は平岡養一。演奏曲目は不明。1月5日。「邦楽さわりの夕」。三味線音楽の粋を集めた放送だったようだが、演奏曲目や演奏者は不明。1月6日。ヴァイオリン独奏・西川満枝で、ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第5番 「スプリング」』。ピアノ伴奏者は不明。
野邊地瓜丸独奏会 (読者評論)/秋山稔
1942年12月13日、会場は記載されていない。プログラムはメンデルスゾーン(演奏曲目は不明)、シューマン『交響練習曲』、ショパン『バルカロール』『スケルツォ』『練習曲(抜粋)』(どの曲を選んで演奏したかわからない)。野邊地は真に音楽的天分を持ち合わせた少数のピアニストの一人であるから、新しい曲を開拓して楽界に寄与してほしい。 
佐藤清吉氏を悼む /早川彌左衛門
早川が佐藤を知ったのは日露戦争後の園遊会で佐藤が女装して登場したときのようだ。軍楽隊では、佐藤はクラリネット(E♭管)を、早川はB♭管のクラリネットを受け持ち、佐藤が練習熱心だったことを伝えている。内藤少佐も早川も、のちに佐藤の下で指導を受けたが、佐藤が海軍を退いた後は、日本の吹奏楽の指導のために全力を尽くしたと結んでいる。
新比律濱交響楽協会 /田代與志
ここ30年のアメリカによる植民地政策は、フィリピンにジャズの氾濫をもたらし、ダンスホール、キャバレー、教会の前の大広場で踊られている。マニラには十指に余る私立の音楽学校があるが、ジャズに押されてクラシックは影をひそめていた。このころ「フィリピンの音楽家及び作曲家は一丸となってジャズ其の他低級浅薄な音楽の為に久しく埋もれて居た、フィリピンの音楽とそのすぐれた質とを再建」しようとする国民音楽運動があって、新比律賓交響楽協会の結成もその一つの現れだという。これは日本軍の支持とフィリピン行政長官の後援を得て急速に実現した。/今回できたオーケストラは、フィリピン人のみの組織とすることを目的とし、フィリピン人の指揮者、コンサートマスター、独奏(唱)者、室内楽演奏者、作曲家を援助したり、有望な新人に奨励金を与えたり、優れた音楽研究生にも援助することが企画されている。/1942年8月25日、マニラで新比律賓交響楽団創立第1回演奏会があった。プログラムは、ヴィヴァルディ『コンチェルト・グロッソ 二短調』、フラシスコ・サンチャゴ『タガログ・シンフォニー』、チャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』(独奏:ヴァスイリオ・マナロ)、チャイコフスキー『くるみわり人形組曲』より「花のワルツ」。指揮は『タガログ・シンフォニー』の作曲者でもあるサンチャゴ。オーケストラは、コンサートマスターのアーネスト・エクフバレジョー以下70名。まだアンサンブルの粗雑さは否めないが、ブラス・セクションは特に優秀で、真剣な演奏と熱情は洋々たる前途を感じさせた。
『御民吾』の新国民歌作曲を一般から募集
大政翼賛会は『海ゆかば』と並んで決戦下の国民が斉唱するにふさわしい国民歌を創ることとなり、日本音楽文化協会と共催で、愛国百人一首の海太養岡麻呂作の「御民吾生ける験あり天地の栄ゆる時に・・・」に一首を選んで作曲を募集することとなった。/締切は1943年2月20日、送付先は銀座四丁目日本音楽文化協会。曲は国民の斉唱に適するピアノ伴奏つきの歌曲で、当選者一名に賞状および副賞として1,000円を出す。発表は3月中旬。
一流声楽家による国民皆唱運動展開
大政翼賛会の提唱、情報局の後援、日本音楽文化協会の主催で、1943年1月から2月にかけて、北海道から九州にいたる全国の工場農村に、藤原義江、三浦環、矢田部勁吉、四家文子、斎田愛子らを指導者として派遣、さらに地方在住の音楽家たちも積極的に動員する予定。/なお大政翼賛会では、国民皆唱歌曲として『海ゆかば』『愛国行進曲』『大政翼賛の歌』『この決戦』など70余曲を選定した。
音楽協会主催の行事
全国音楽教育者練成大会 / 日本音楽文化協会では29日、30日[1943年1月のことか?−小関]の両日、東京女子高師で全国音楽教育者練成大会を文部省、情報局、東京府市[ママ]の後援で開催する。わが国初の試みで、29日午前9時の開講式に次いで、文部省教化局教学官、東京音楽学校長、情報局第五部第三課長らの講演、講習があり、職域奉公の具体的方策と国民音楽創造に資する教育方策について協議会を開く。
国民士気昂揚厚生音楽大会 / 厚生音楽運動についての認識を深めさせるために、1943年2月7日昼、日比谷公会堂で国民士気昂揚厚生音楽大会を行なう(日本音楽文化協会、日本厚生協会が主催、情報局、大政翼賛会後援、大日本産業報国会協賛)。/出演者は、東洋紡毛工業ハーモニカ楽団、宮田ハーモニカ楽団、加古三枝子(独唱)、武井マンドリン楽団、安田貯蓄合唱団、貿易統制会興亜合唱団、日本電気合唱団、東京鉄道局大宮工機部吹奏楽団、石川島造船所吹奏楽団、海洋吹奏楽団、奥田良三(独唱)、藤原義江。
第二回音楽報国運動 / 朝日新聞社と日本音楽文化協会が共催し、3月下旬に岐阜、大垣、四日市などの工業地帯を中心に産業戦士に巡回演奏を行なって戦争精神の昂揚を図る。出演者は指揮者に山田耕筰、管弦楽が東京交響楽団、独唱者に四家文子を予定している。
南方共栄圏音楽会 / 日本音楽文化協会国際音楽専門委員会の主催で、1943年3月16日に南方共栄圏の音楽会が行なわれる。出演者は、藤原義江,三上孝子、瀧田菊江、齊田愛子、日本合唱団など。
第二回推薦演奏会 / 1943年3月24日、昨年もっとも活躍し優秀な成績を上げた演奏家を推薦する音楽会が開かれる(毎日新聞社と日本音楽文化協会の共催)。
編集後記
1943年1月13日、情報局は英米のジャズ音楽を国民の耳から閉め出して健全な国民音楽を普及するため、これら煽情レコードの演奏禁止と自発的な供出方を指示した。情報局の提唱に応えて各レコード会社では英米レコードの製造中止、それらの廃盤、さらに全国4500のレコード販売業者の手許にある在庫レコードを2月中に回収することとなった。情報局には頻繁に問合せが舞い込んだので、1943年1月17日夜、井上[情報局]第五部第三課長が「英米音楽は一切合切禁止するものではない」とする談話を発表し、禁止の対象はジャズと外国語で歌われている輸入レコードが主眼であること、日本語で歌われ国民感情に沁みこんでいる曲(たとえば『蛍の光』『埴生の宿』『庭の千草』など)は禁止していないと説明した。/作曲家・信時潔は、今回『海ゆかば』の作曲により昭和17年度朝日文化賞を受賞した。『海ゆかば』は1937(昭和12)年、放送局の依頼により国民精神強調週間のために作曲され、1942年12月15日、大政翼賛会によって「国民の歌」に指定された。/今月号の座談会について簡単に紹介。また、用紙割当の激減により本誌の入手がますます困難になるであろうから、直接読者となってほしいと述べている。 
■『音楽之友』 第3巻第2号 1943/2 

 

勤労戦線と音楽施設 /津川主一
近代の戦争は一大消耗戦であり、それは生産部門の異常な活躍によってのみ補われる。たとえ戦争が終結しても、飛躍的発展を遂げた日本の生産力は、大東亜共栄圏や世界の貿易市場における経済戦に向けられ、そのことによってのみ国力は充実されるのである。とはいえ人間の体力と意志力には限界があり、かといって単に休息すれば元気が回復するものでもない。そこで第二次大戦が勃発するや、各国ともいかにして産業戦士を遇し、科学的な方法によって能率を増進できるかについて研究を始めた。/枢機国では、まずイタリアが「ドボ・ラボーロ」という運動を開始した。直訳すると「勤労後」という意味で、休日や休憩時間中に健全な娯楽を与えようという国家的施設だった。しかしドイツは、これを一歩推し進めて1932年5月にドイツ勤労戦線を結成すると間もなく、同年の秋には「カー・ゲー・エフ」(勤労団)の設置が宣言された。これは「歓喜を通じて生きる力」とでも訳すべき言葉の頭文字を拾ったものである。ナチスの指導者は「肉体的ならびに精神的な疲労は、単なる休息によっては回復しない。精神的、知能的、生理的な与えられて、生活と仕事の喜びを取り戻す」と言っている。今日まで枢機国が、多大な資源と広大な地域とをしめている反枢機国に対し、圧倒的な勝利をおさめてきた背後には、こうした組織だった施設のあることを忘れてはならない。/日本においても着々実行されてはいるが、わずかに申し訳的な催しを行なって満足していることは許されない。いったん娯楽や教養の点になると、勤労青年が不良の仲間に入って自堕落な生活におちいるなどということは、本人の責任もさることながら、厚生娯楽施設の不足が指摘されて良いと思う。全員でひとつの歌曲を斉唱することが精神上の団結のうえからも要求される。この集団歌唱を高度に引き上げようと思えば、全然音楽の心得のない人たちに楽譜の読み方を系統的にわかりやすく教える組をいくつも作るようなことも考えられる。何事でも、仕事を始めようと思えば、まず下地を作ることが必要だ。工場や農村に合唱団や合奏団をつくるときに音楽の趣味をもっていたり、理解をしている人たちだけが集まっても意味が少ない。それらの団体に入る予備の組をたくさん作る必要がある。そうでなくとも勤労階級に、精神的にも肉体的にも更生をもたらす爽快無比な音楽を正しく鑑賞することを心の糧として、自分たちの生活の中に採りいれることができるよう、啓蒙・指導しなくてはならない。たとえ簡単な1曲を聴くにも、その演奏に先立って専門家の説明を聞くことは、音楽を一つの教養または文化と考えるものにとっては、得がたい特権である。こうして徐々に音楽に対する深い理解と愛着と感動とを増し加えていくのである。だから、音楽の鑑賞講座のようなものを、初歩から徐々にやっていくことは大切なことである。いきなり交響楽のレコードの鑑賞会などをやることは、むしろ感心しない。/ドイツでは、工場内に1000人前後を収容できる演奏場を建設することが政府によって推奨されている。わずかな時間を利用して音楽を聴くことができ、疲労を回復することができるからである。世界最古のオーケストラであるライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団は、工場の機械の空間(あきま)に陣取って、わずか15分の休憩時間を利用して素晴らしい演奏を聞かせている。日本では演奏家協会理事である大村能章らが目下産報と連絡して、音楽家を動員し、組織的に厚生音楽のために努力して、すでに相当の効果を上げている。[ドイツでは]こうした目的のために国立交響管弦楽団という、厚生団に専属のオーケストラをつくった。わが国にも、勤労者のために専ら働く厚生交響楽団の設立を津川は提唱しているが、一日も早く実現することを祈る。既成の交響楽団がたまに奉仕に行くだけでは足りないのだから。津川の考えでは、市内最大の劇場の一つか二つを産報専属の演奏場としたいと考える。こうすれば楽器運搬の手間などが大幅に省け、安価な料金で、各方面の工場の人たちに交代できてもらえる。会費は月々娯楽費として積み立てたり、それと同額を厚生補助費から援助することもできるだろう。/地方の工場や農村には巡回音楽班が出張するが、これももっと強化して、多くの専用バスを用意して楽器や人員をたやすく運べるように工夫し、東京以外に支部をいくつも置いて、この恩恵に洩れる人たちのないようにしたい。/勤労者たち自身によっても音楽が演奏されなければならない。幸い、今日は各工場や会社で続々と合唱団や合奏団が結成され、その全国的な競技会も行なわれていることはけっこうなことだ。これによって、数年間で日本の音楽文化水準は相当高く上がるであろう。日本でさいしょに有力な職場吹奏楽団を設けたのは、マツダ電気とライオン歯磨であったと思う。職場合唱団としては、日本電気と三越本店などが優秀で、前者は上野耐而、後者は大中寅二によって指導されている。しっかりした指導者が必要なことは、このことからも明らかである。ドイツでは各地に、勤労者のための音楽指導者養成機関があり、ウィーンにはフリッツ・へグラーを校長とする厚生団音楽学校さえある。指導者を養成するには、どうしてもそのための長期養成期間を設置しなければならない。/イタリアやドイツでも未だ[厚生音楽運動を]組織的に行なっていなかったとき、具体的には1921(大正10)年ころ、すでに日本で向上の勤労者のために出かけていって、音楽の演奏を試み歌唱の指導を行なった事実を書きとどめておきたい。津川らが関西学院の専門部学生であったころ、学生の有志8人で複四重唱団をつくっていた。メンバーには、のちの大阪時事新報学芸部・小田切平和、前少年世界編集主任・大崎治郎、パスカル研究者・由木康、前短距離選手権保持者・伊達宗敏などの変り種がいた。当時勃興してきた生産部門の産業戦士に音楽を聞かせようと、播磨造船所、鐘ヶ淵紡績工場などへでかけ、1時間前後のプログラムで男声合唱を演奏した。前者からはあらためて作曲依頼を受け、津川の作曲になる歌曲をもって、津川と故・木原秀夫の2名で指導に行った。ついで、先輩の後援で上京し、震災前の基督教青年会の講堂で演奏会を行なったが、このときも隅田川端のライオン歯磨工場に出かけ正午の休憩時間に合唱を聞かせた。1930(昭和5)年、すでに上京していた津川は内田栄一とともに東洋モスリン工場に行き、幾千人の女工の前で内田の独唱、津川の解説・伴奏で演奏を聞かせたが、それだけにとどまらず二人で歌唱指導をしたところ、女工たちは元気よく熱心に歌ってくれた。このとき以来、津川は勤労と音楽の固い結合を信じて疑わない。 (完)
古民謡に於ける労作唄の意義 /小寺融吉
個人的労作の場合
労作唄は民謡の主要な一面であり、もっとも古い姿を残したもののひとつである。便宜上、これを個人的な場合と集団的な場合とに分けて話を進める。個人的な場合とは、たとえば屋内で一人で糸車を廻しながら唄を唄うような場合である。こういう場合の労作唄は、後には労働の苦しさと緩和と解釈されてしまったが、本来は仕事の成果があがるように神に祈った唄がはじまりである。たとえば埼玉県の唄で調子は近世的だが「機が織れない、機神様へ、どうぞ此手があがるように」という内容の古い文句を持つものがある。手があがるようになれば、仕事の成果も増し、収入も増える。/戸外を牛や馬を連れて歩きながら唄うのは、集団の場合も孤独の場合もある。しかし集団といっても、男たちの距離は会話することができないくらいに離れるので、結局は孤独である。牛追唄あるいは馬方唄は、その起源は乱声と同じく悪魔の折伏である。牛追唄も馬方唄も猛獣毒蛇の害を避けるために、遠くから大きな声で唄っていくのである。夜道を行かなくてはならないときには、特にその必要がある。遠州日坂地方の雲助唄、長持唄に「小夜の中山、夜更けちゃ、およし、鹿の友呼ぶ、声がする」という文句があり、鹿が友を呼び合うのを邪魔すると禍があるという信仰があるのであろう。客や長持がたくさん行くときは、まず長持を先に立て、長持の正面にオカメの面を飾っていくのでも想像できるように、道中は魔よけが大事である。長持唄や籠をかつぎながらの唄は重い荷を肩にして歩いているのだから、立ち止まって休んだときに唄う。これも猛獣毒蛇その他の悪霊への示威行為である。しかし歌詞には変遷があって、たとえば駕篭かきが小田原から客を乗せて箱根へ近づいていく途中で宿屋の名前が入った唄を唄うと客がその宿屋につけてくれという場合が生じる。こうなると原始信仰に発した道中唄も、変わったことになる。
集団的労作の場合
これも古いものは神事と関係があって、始めに唄うべき文句、終わりに唄うべき文句が一定し、それはめでたい神まつりの文句という例が多い。たとえば東京付近の正月の餅搗がそれで、晩の8時ころから夜明けまで大勢で協力して働く。搗く役は男で、のす役は女である。夜は連夜の徹夜だし力仕事だけにそうとう疲れる。だから唄の文句も始めと終わりのご祝儀以外は、どんな文句でもよく、滑稽なもの、エロがかったものも眠気覚ましとして歓迎された。民謡に恋歌が多い、エロがかった唄が多いのもこうした理由による。また東京近郊の麦打のように、農家で近所の人が大勢で協力する作業は、ふつう始めと終わりにめでたい文句を唄うもので、これもその家の幸福を祈ることに始まっている。大勢がひとつの唄のリズムに統一されて力仕事をするとき、声の良い者が存在するということは、声の良い者がいるということは、なにものにも変えられない楽しいことで、仕事の能率もあがる。広い意味の芸術の使命がここでも果たされている。
皆が必ず唄うという不文律
労作唄の目的は、唄って聞かせることにあるのではなく、唄うべき者が全員唄うところにある。米搗も協力の作業であり、その他にいる者は順次唄いまわるのが互いの礼儀である。礼儀を欠く者がいれば少数者が過度に唄い、かえって疲れる。こうして唄い返さなければ不幸になるという原始信仰の名残の思想がもとである。そうしたものの見方が積もり積もってきたので、労作のときでも、酒宴の折でも、盆踊りのときでも、唄うべき者が唄わないという法はない。仕事と唄とがもっとも不可分なのは、酒をつくる場合である。この仕事は12月から3月までの100日にわたり、仕事によって唄も替えるが、中には唄の長さで時間を計ることがある。したがって唄の文句を増減もできず、唄のテンポも改められない。そして唄わなければ仕事は進行しない。現代の労働は昔のように唄と不可分ではない。しかし同時に唄は文学であり、文学は自由を尊ぶ(といっても時代遅れの自由ではない)のだから、あまり制約を加えてもいけない。近代の労作唄には仕事が多いとか、検査が厳しいといった、労働者が雇用主を皮肉ったものが少なくない。昔から上長を風刺する文句はあったが、それらは反語的意味があり、そうしたことがないようにとの警戒であった。民謡には、姑から嫁への注意をする文句などもあるが、明るい風刺で近代の労働者のコソコソ話の皮肉とは違う。明るい風刺は、かえって人心を明るくする。過去の日本の労働の気持ちを知るには、いまは民謡によるしかなくなった。民謡を目で味わい、耳で味わうことは、なかなか大切なことである。
生産力と音楽の効用 /久保田公平
(1) 音楽は婦女子の教養や趣味遊芸の域から最高の芸術として考えられるにいたったばかりでなく、その効用が作戦の重要な役割を果たす要素であるとまで言われるにいたった。音楽のもつ広範囲な伝播力、その日常生活への同化力、直接的な精神への浸透性などは、社会的・政策的な面の要求に応える武器としての音楽の特質だった。音楽のあり方は、こうして個の芸術的価値から、その効果の価値として社会から評価され要求されることとなった。要するに芸術のもつ影響力が問題視されてきたのである。すべてのものは戦争目的の実践に向かって突進しなければならない。そればかりでなく、音楽の質的向上は、さらに量的な発展に展開されなければならない時期が迫ってきたのである。聴衆に関しては、限られた教養人ではなく、良い音楽を享受する層の増大が問題であった。われわれは、国民生活に精神を与えなければならないと同時に、その中から大衆生活を音楽の中に吸収し、浄化しなければならない。こうしてこそ音楽家は国民の一員であり、その音楽は国民のものである。芸術の効用がある目的のために利用されるということは、必ずしも芸術が他のものに隷属したということには相当しない。少なくも日本の芸術的特性は、日常生活の美化、洗練に出発することをわれわれは知っている。われわれも西洋的文化を急速に吸収した今日、これを日本的伝統の上に調和し、発展させなければならない時期に来ている。音楽も西洋の楽器を駆使して世界に日本の精神を昂揚しなければならない。日本の生活の美化、日常生活の洗練は、懐古趣味的な昔への復帰ではなく、戦争目的に通じる日本的精神の芸術化でなくてはならない。こうした美の力こそ、社会が求め国家が要求している音楽の効用の本体であり、効果の価値として力説されている影響力を生む原動力なのである。音楽によって日本の精神を表現することは、即日本的美として日本人の中に、その固有の日本的精神を呼び起こすであろうし、東亜の民族には東洋的精神を、欧米人には世界史的な普遍美を想起させるであろう。こうしてわれわれの任務の重要さは、戦時下日本の生活を貫く強大な日本的美、戦うことの美の探求とその洗練によって得られるべきものであり、その精神的活動の普遍化によって果たされるべきものといえる。要求される音楽の効用を最大に高める道は、美的生活への道をあらゆる方法によって大衆のものとするという、当然過ぎる結論の変奏に過ぎない。
(2) 音楽の発生には3つの面がある。第一は労働の合理化であり、第二は生活感情の余剰から生まれた慰安である。そして第三は自然に対する恐れと感謝を含む宗教としての現れである。音楽の発生は、原始人の生活感情の中に示されたリズム感の表現をもって始められたのである。しかも音楽におけるリズムは、こうした単純な基礎リズムから美化され、感情表現のための変化をもつことによって生命を得、単なる反復から、根本形式としての労働そのもののリズムから区別されるのである。労働のリズムの上に生まれ、それを美化し助けるものは労働歌であり、生活そのものから発生した音楽だった。同じ仕事の反復からくる肉体的、精神的疲労は、その反復するリズム感の美化による以外に救う方法がなかったのである。現在においても、こうした反復作業を要する生産部門においては、その労働の持つリズムの音楽化は昔の作業歌と同じ効果をもち、生産の増大を助長する大きな力たりうることは同じであろう。ここで注意しなくてはいけないことは、昔の作業歌は、その労働の中から必然的に生まれ出た、自然発生的な音楽であったのに対し、今日では、そこに作曲家がその音楽を与えるということである。新しい労働の本当のリズムを自分のものにするためには、音楽家としての生活感情をそのまま作曲することはできない。生活感情を通俗的な感情一般に結びつけようとする音楽や労働の必要を説明するための音楽が、労働を助成し、能率を増大すると考えることは、勤労音楽を製作する人たちの自己満足に過ぎない。/ここに、ほかの難問題が残されている。それは近代的な労働の中心が異なるリズムによって解決できないものを示しているということである。強大な重工業や戦火のただ中にある第一線は、リズムの限界を越えた、生死と紙一重の世界である。われわれの極度に緊張した神経には、すでに音楽的なリズムは存在していないことを知らなければならない。重工業を音楽化した作品が現代の即物的作風をもってニ三発表されているが、それも一歩工場の外に立って客観した工場であり、描写された重工業であったにすぎない。/強大な緊張の後には、それを和らげる要素が必要である。音楽の効用のうち、生活の余裕から生まれる慰安としての一面ということになる。緊張が強ければ強いほど、肉体以上に精神がその生活と反対のものを要求してくる。精神的な要求には、精神的な慰安が与えられなければならない。生活に疲れた心には、ゆるやかなリズムのマッサージが必要となる。清純な美しさによって、メカニズムの中に失いかけた人間的感情を復活させることができれば、単に一日の労働による肉体的あるいは精神的疲労が回復されるばかりでなく、メカニズムの中に一個の機械としてひきづり廻された昨日を反省し、機械によって生み出すものが単なる生産物ではなく、メカニズムを駆使して生産した、戦時下日本の意志の人間的ゆとりを獲得できるのではないか。音楽は、ここにおいて最上の人間的美を日本的性格として、聴衆の心に与えなければならない。それは次の日の戦いに備える健康さをもつ必要に迫られるであろう。このような要求に応じる音楽は古典音楽であり、純粋音楽であり、ときには明るいワルツとセレナードであるはずである。慰安としての音楽には、その聴き手の年齢、性別、教育など非常な注意が必要である。要は美的生活への道を開くことであり、人間としての美しいものに対する憧憬を充たし、高めることである。
外交と音楽 (対談)/柳澤健 市河彦太郎
対外文化工作の先駆
市河: 今度の戦争が起きてから誰もが対外文化政策の必要を叫び、立派な活動が行なわれている。しかし、ここまで来るには、国内においてそういう大きな仕事が行なわれていることを一人も認めなかった時代に、先輩諸氏が縁の下の力持ちのような仕事をされてきたことだ。この点において市河は柳沢さんに感謝しなければいければいけないと思っている。柳沢さんは昔外務省がこの仕事を始めたときの最初の主任で、新しい仕事を切り拓いていくのに苦労された。また来月早々タイにできる日本文化会館の館長として赴任されて大東亜共栄圏の文化工作の中心として活躍される。まず過去において非常に苦心されたエピソードを2、3聞かせていただきたい。柳沢: なるほど苦心といえばないわけではなかったが、要するに好きでやった。それが次第に好きを越えて、義務に嵩じてきただろうと思う。そうするうちに誰もが南方に対する文化事業について言い出す時代になってきた。数日前、大蔵大臣を訪問して日タイ間の文化事業に援助を要請したとき、南方への文化進出が流行のようになって、この種の文化事業に携わったことのない人たちが方々でやっていることに不安を覚える。自分はひとりの専門家として、あるモデルを作りあげたいと言ったところ、頷きながら聞いていた。市河さんあたりに後援をお願いしたいと思っている。市河: いまお話を伺っていて外務省の仕事の先駆性というものをしみじみ感じる。いまでは官制上外務省を離れて情報局に移り、大東亜共栄圏に関することは大東亜省に移ったが、最初に苦心をした先駆者としての外務省の努力は比較的国民に知られていない。柳沢: もっともだが少し留保を付けたい。というのは、この文化事業に関しては省内でも常に理解が得られるとは限らず、外務省に十全な先駆性があるとはいえなかったことだ。7、8年ほど前、タイ国政府筋から国立音楽学校の教師と生徒を日本に派遣しタイの音楽と舞踊を紹介したい、と申し出があった。良い仕事だと思って具体化しようとすると、それは興行にあたり、そういうものに外務省として責任を持つことはできない、もしどうしてもやりたいというのなら柳沢の責任においてやることとし、欠損が出ても外務省は一切補助できないという話になった。結局30数人の一団がやってきて日本から朝鮮満洲まで回って帰国したが、数千円の欠損が出て、ある特殊な人に懇願して全額負担してもらった。ところが今度タイに行ってみると、当時の副団長だった女性が外務大臣の令夫人となっており、音楽舞踊の生徒たちはプリマドンナとなって音楽学校で教鞭をとっている。当時蒔いた種が花咲いたことを知った。市河: この仕事は異なった民族、異なった宗教をもつ人たちに対する仕事で、外国語の知識も必要だし、外国人との交際に対しても苦心した人でないと、つまらないところで誤解を招いて失敗することがある。さいきんある雑誌に載った南方文化工作に関する座談会を読んだところ、フィリピンで大勢の人を集めて日本人が大東亜共栄圏の理想から八紘一宇の精神まで説き明かして、堂々文化工作をやったつもりだった。ところがその時、日本人に適役がおらずフィリピン人通訳を使った。その通訳は日本語がかなりできたが演説が抽象的な内容だったためか、「日本人は泥棒民族ではない。その証拠に三井三菱といった金持ちもいる。安心してくれ」とやったものだから大喝采となった。今回長い経験をもつ柳沢さんが、大東亜共栄圏の中心となるべきタイに出張されることは非常に心強いことと思う。
新しき文化外交
市河:外務省で文化事業をやっている当時、日本とドイツ、日本とイタリア、日本とハンガリー、日本とブラジルとの文化協定ができた。国と国との外交関係がついに文化外交ということになってきた。そのとき柳沢さんが中心となって、大東亜共栄圏の文化工作の中心であるタイ国とのあいだに新たに日タイ文化協定ができた。これは、いままでの文化協定よりも一歩前進したかたちのように見えるが、そのあたりの話を伺いたい。柳沢:1942年12月21日に批准にいたった日タイ文化協定で特記しなければならないことは、大東亜共栄圏内において初めての文化協定であること、またそれ以前の文化協定とは比べものにならないほど詳細な規定をもっていることである。しかし、そのもっとも根本的な相違は両国の文化を互いに尊重しつつ興隆を図ると同時に、新しい東亜の文化を勃興させ創造する点にある。この点が本協定成立の真の目的といってよいと思う。音楽の問題についていえば、従来、日本の音楽はタイの認識するところになっていなかったし、日本人がタイの音楽に接する機会もほとんどなかった。それだけに本協定の実施によって、両国でそれぞれの音楽を聴ける機会がはなはだ増えるものと思う。しかし両国の音楽関係者は、それだけで役割りが終わると思わずに、さらに新しいアジアの音楽を作り上げる抱負と決心とをもたれることを切望する。市河:いまの柳沢さんの話によると、文化協定も新しいアジアの文化を創造するというところまできているわけで、非常に規模が雄大で重大な条約だと理解できる。
伝統的な音楽の型
柳沢:タイは仏教文化で、建築も絵画も文学も音楽も仏教から出ている。これはタイばかりでなくカンボジアから仏印全体まで類似しており、さらにジャワに渡ってバリ島などがやはりまた仏教国ということになっている。したがって仏教と音楽について、いろいろな観点から研究してくる必要があるのではないか。もし日本と南方の仏教音楽が根本において類似しているのであれば、日本の作曲家の新しい宗教音楽のようなものを南方仏教圏にもっていけるということになるであろうから、非常におもしろい運動になるだろうと思う。市河:どうも日本の古い音楽(雅楽はわからないが)は、たとえば遊興の情緒を多分にたたえたものや、一種の市井音楽としてごく狭い範囲の特定階級の男女関係のみを歌ったものが多い。もっと健康で明るく清らかな、あるいは理想主義的な面を含んだ音楽が足りなかったように思う。その伝統は比較的さいきんの音楽まで流れている。ベートーヴェン、バッハ、パレストリーナなどの音楽はキリスト教を抜きにしては考えられない。ところが日本の新しい音楽には、そうした思想的な背景がない。小手先のきれいごとという音楽である。新しい作曲家も現代の影響を受けて、近代の感覚を狙ったものが多い憾みがあったと思う。現在の文化工作に音楽は必要である。日本語の普及がなかなか困難であるときに、言葉を抜きにして相手国の人間を打っていくのには音楽が有力だと思う。
音楽文化工作の現場から
市河:その仕事をやって一番感じることは、印刷された日本の楽譜が足りない。昔は夢二の絵が表紙についた楽譜が出版されていたが、現在はそういうものが市場から消えてしまった。実際、楽譜の足りないのが非常に困る。われわれが軽音楽のものを配って向こうのレストランやホテルで演奏させると、これはいいというので、一流の音楽家が日本の純粋音楽の音楽を求めてくる。その点では日本現代作曲家聯盟の楽譜は役立ったが、それがだんだんと進むと、オーケストラの楽譜が欲しいといってくるが、これが一つか二つしかない。このようにだいじな音楽であるから、作曲家が一定期間安心して作曲に専念できるようにしなければならない。いまこれだけ日本が広がったのに、日本の音楽外交の素材を作るのに間に合わないという事態が展開している。外国にいて世界のラジオを聞いていると、日本はニュースに関する限りうまく行って、宣伝戦では世界に負けていない。それだけにもっと音楽を利用しないかということなのだ。日本でも大日本吹奏楽聯盟ができ、工場に厚生音楽の団体ができてずいぶん普及してきたが、そういう人たちが歌うべき歌や演奏すべき音楽を作る人が、もっとさかんに出てこないと困ると思う。柳沢:南方に対する日本の音楽工作という点からいって、南方は従来欧米人の支配下にあったので、それを拭い去るといっても一息には行かない。欧米人が日本の音楽をどのように見ていたかについても考える必要がある。その問題は南方に日本の音楽を進めるという意味ばかりでなく、国内の音楽の進歩発達にとっても大事な問題ではないかと思う。たとえばジル=マルシェックスが何度か来日して一番感心した音楽は、なんと新内だった。たしかに新内は、長唄、清元、哥沢と似ているが、もっと胸に迫るものがある。また、シャリアピンが来日したときは宮内省に頼んで雅楽の試演をしてもらったところ、非常に驚嘆していた。したがって雅楽の新しい開拓も一つの問題にしていいのではないか。市河:けっきょく日本の音楽家が世界の人を感心させる音楽を作るためには、思想的に一つの世界観を持っていなければならないと思う。日本音楽の将来に課せられた問題や役割りは非常にたくさんあると思うが、一つは日本の新しい音楽を作るために、過去の伝統的なものをよほど深く見据えていかなくてはならない。同時に新しい東洋の音楽を作るという意味において、日本が先覚者としてあるいは指導者として、滅び去ろうとする東洋の各民族の古い音楽舞踊をできるだけ早く蒐集保存し、さらにそれらを再生して、次の時代の音楽を日本の世話によって作ってやらなければならないと思う。したがって、これからは日本の音楽家はみな大東亜共栄圏の各地に出張して、残っている楽器を集めたり、メロディを蒐集したり、舞踊を研究する必要だと思う。
日本を中心として全世界へ
市河:それは音楽におけるネオ・オリエンタリズム、新しい東洋のルネサンスになるのではないか。古代にはペルシャやエジプト、アラビアなどを中心に栄えていたものが、ギリシャ、西ヨーロッパ、アメリカと覇権が移った。それを回復して東洋のあるべき地位に戻すと言うのが今回の戦争である。さらにいえば、西洋が他国を搾取してひどく贅沢していることに一撃を加え、彼らに何が正しい生活であるかを教えること。つまり世界の正しい文明のために戦っているのだと思う。聖戦の大詔の中に「万邦共栄」という言葉があるが、音楽は単に文化工作の道具とか外交に役立つというだけでなく、世界は音楽的に組織されなければならないと思う。柳沢:要するに日本の音楽文化工作の目標は全人類であるはずであって、日本の理想を全世界に知らしめるべきだと思う。ジャズにしてもアメリカ的なものというが、アメリカ人が作り出したものではなく、アメリカとは相容れない黒人がもった遺産文化である。だからアメリカの文化というものは、ある程度黒人に征服されたと見てもいいのではないか。現今のアメリカのジャズが持っている頽廃的な空気は、われわれの今日もっている新しい性格と相容れないが、ジャズ自体そうとう多種多様でアメリカ的ないジャズもありうると思う。今のところジャズに代わるものとしては、「会津磐梯山」「小原良節」を軽音楽に直したものということになっているが、遺憾ながらジャズよりも今の日本の軽音楽のほうが人類性に乏しい。市河:世界のあらゆる文化の良い面を採り入れていくことがなければ、大東亜共栄圏を作るのは無理だ。柳沢:たとえばジャズの音楽性を利用して、日本語の歌詞を付け、その内容もニホン的なものにすることは決して不可能ではない。これは一例だが、あらゆる種類の音楽に対して同じような態度でいけると思う。市河:東洋の復興だから東洋の材料に限るというのは考え方が狭く、世界全体のいいものを自分のものにして使って東洋の復興に役立てるという精神が必要だと思う。そのとき日本人的な個性を失わず、同時に普遍的なものを得る。これが調和の精神ではないか。柳沢:天岩戸を開くとき、音楽と舞踊と笑いをもって成功したわけで、その意味でも日本人の音楽舞踊による東洋の黎明、世界の黎明というものは必然的であると感じる。(完)
演奏著作権の課題 /里中彦志
ちかごろ著作権という言葉がすなおに肯定されるまでに社会性をもってきたのは嬉しいことである。作家の全部が著作権の枝葉末節まで知る必要はあるまいが、ある程度の常識として知っているに越したことはあるまい。しかし案外知らないことを平気で口にし、これを安直に処理して意に介さないのは社会の一般であるが、いま一歩前進してわが国の文化建設に挺身していけるようになりたいものである。ある会合の席上聞いた話であるが、ドイツでは、文化的宣伝的に活の優れた作品については、政府自身がこれを積極的に多方面に利用させ、その著作権使用料は政府が作家に補償するという。求める者と与える者との関係が、緊密に表裏一体の相互信頼関係を形成していかなければならないとつくづく考えさせられた。わが国でも、さいきん政府ならびに各種公共団体が良い作品を広く社会に普及させようと懸賞募集なども枚挙に暇ないほどである。しかし、これは新人の登竜門の一段階にはなるかもしれぬが、それらの作品の全部を目して、わが国のあらゆる部門を動員して結集された代表的作品であるとは断言できないであろう。今日においては、大東亜の指導国としての立場から見ても、従来の懸賞募集形態はその方策について再検討を加える必要がありはしないか。著作権の問題も、作家に対してただむやみに好い作品を書けと強要しただけでは困る。芸術家といえども霞を食って生きられないことは真実である。ことに音楽の部門においては、社会は音楽家を見て道楽息子のごとくに扱ってきた傾向がある。わが国における作家(ことに音楽)は、あまりにも恵まれていないことは事実である。その原因はどこにあるのだろうか? わが国の社会があまりにも現象的な面にのみとらわれているためではないかと考える。音楽の演奏にしても、ひと頃映画館等に圧倒的に進出したアトラクションの場合など、その出演料は大部分の大衆の人気如何によって左右されていたようである。文化問題を取り上げる企業部門においては、企業のプラス面だけを追及するだけではいけない。人間の本能が真・善・美を希求するものであるからには、人間教育にこれがなんらかの形において充足されなくてはいけない。芸術は五感を通じて直接人間の感情に訴えるところに特徴があり、そこに芸術を探求するものの苦心もある。こうした芸術家に対して国家が無関心である筈がない。わが国では、著作権という法律を制定して、これらの芸術家を保護している。著作権の対象としての作品は、学術的であるか芸術的なものであり、かつそれが作家自身の独創性によって生成されたものでなければいけない。改作の場合において、新作と認められる程度の独創性を条件とする。演奏にしても、ただ喉が良いだけでは問題にならない。演奏者がどうして著作権者として保護されるべき理由を考えると、演奏者が楽譜を通じてその譜面の奥に盛り込まれている作家の真の意図を把握し、音楽の真理を追究して行き、自己の演奏を通じて作家の意志を再現するところに、その芸術性が独自のものとして云々されるものだと考えている。演奏著作権は文字どおり演奏家の演奏事態について発生する権利である。このことは著作権法第1条第1項に、演奏・歌唱とあることで疑いを挟む余地はないのだが、わが国の実情からすると演奏家が著作権の保護を受けている例ははなはだ少なく、強いて言えば蓄音機「レコード」に吹込みをしたときにのみ支払われる印税が唯一のものといえるほど情けない状態にある。
演奏著作権を確立せよとの声を聞いて久しい。法律の規定で保護の対象として明文化されているものが、どうして保護されないのか? これは同じ著作権法の第30条第8号の規定で、これに制限を加えているからである。
第三十条  既ニ発行シタル著作物ヲ左ノ方法ニ依リ複製スルハ偽作ト看做サス
第八  音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ著作物ノ適法ニ写調セラレタルモノヲ興行又ハ放送ノ用ニ供スルコト
この条文中、「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器」とは蓄音機「レコード」の類を指し、適法に吹込みをされた蓄音機「レコード」を興行や放送に使用することは偽作とみなさない、ということである。「適法」とは著作権者すなわち作詞者・作曲者・編曲者の承諾を得て吹込まれたものといことである。元来著作権者は、自己の作品が吹込まれた「レコード」を放送や興行の用に供する権利がある(著作権法第22条ノ五第1項および第22条ノ六)のだが、ただ適法に吹込まれたものは偽作とみなさない、というのが前掲の規定の趣旨であり、1934(昭和9)年の著作権法改正の折に新設された。こうした矛盾をきわめた規定が制定された理由を公表する自由をもたないのだが、政府当局は、著作物の文化財たる点を鑑み、もっぱら公益のために著作物を利用する場合の対策云々というのが入れられた。/では今日、この規定はどのような影響を及ぼしているだろうか? 第一にラジオ放送である。実情では著作権者(特に音楽関係)にとってラジオ放送は最大の顧客である。そのなかで「レコード」の占める分野は相当なもので、いくら使われても一文にもならないし、さいきんは国民歌謡など何の前触れもなく放送する場合がある。「レコード」は演奏者の最高最良のコンディションの下に演奏されたものが結集されて吹込まれているはずである。その「レコード」を乱用されると、ただでさえ機会に恵まれず勉強が足りないとされる演奏家の質的向上に重大な影響を及ぼすであろう。第二は興行である。もっとも多いのは「レコード」伴奏による舞踊会と「レコード・コンサート」がある。当然の帰結として、演奏家は自身がステージに立つか、または教育者として現実に得る収入以外には著作権法があるがために何らの恩恵もないのである。「レコード」を個人的に楽しむのは良いとして、これを公衆に対して聴かせる点に注目して考えてみよう。著作権者が自己の作品の公表権をもっていることは明らかで、いくら買った「レコード」であっても買ったのは「レコード」という物体であり、その中に吹込まれている音楽の作詞作曲編曲演奏の権利まで買いとったものではないのである。里中は、著作権第三十条八号の規定を同条七号に規定する程度にとどめる方が妥当ではないかと思われる、と指摘している。
第七 脚本又ハ楽譜ヲ収益ヲ目的トセズ且出演者ガ報酬ヲ受ケザル興行ノ用ニ供シ又ハ其ノ興行ヲ放送スルコト
この規定は、現在ひじょうに有効に働いている公共的な演奏会等の場合、出演者が報酬を受けないときは、その著作権料もいらないわけで、芸術家の職域奉公のひとつである。わが国の音楽作品の資料者側は、君のものを使ってやるという調子で作家に恩を着せるような向きもある。これは本末転倒で、あなたのものを使わせてもらいましたというところまで進展しなければならない。一方、作家の方でも、使ってもらう価値のある作品を提供しなければならないことは言を待たない。 (完)
文明の滋養素と毒素 (随想)/田邊 尚雄
文部省の国民精神文化研究所に入ってわずか1年あまりだが、日本文化の真性について教えられることがとても多い。私たちが子どものうちから教育されてきた学問の大部分が、西洋的な観方・考え方であったために、それですべてが了解・解釈されたような気がして、得々となっていたことにようやく目が覚めかけたように感じられ、日本文化に対して一条の光が見出され、灯台に向かって正しい進路を発見することができたように思われるのである。/従来私は日本文化の歴史に対して、上代において日本は未開であり音楽のごときも原始的であった、それが欽明天皇時代または推古天皇時代からアジア大陸の進歩した文化が入ってきてわが国が摂取したので、初めて世界的な文化国となり奈良町や平安朝の文化を生み出すにいたったと教えられてきた。日本は外国文化の摂取によって文明国になったとする解釈で、これはあたかも中央アジアや他の民族の文化とわが国を同一視するものである。中央アジアには古代において未開な民族が多く出たが、それが漢代から中世にかけてインドやイランの文化を摂取し、一時は高い文化を示していたが、やがて再び低文化民族と化してしまった。ところが日本は隆々として絶えずその文化を続け、発達してやまない。そこに根本からの差異があることが考えられなかったのであった。考古学上のさいきんの研究は、すでに石器時代における遺品からもわかるように、太古において日本民族の文化のきわめて高かったことを示している。いたるところから神の権化としての太陽を慕って東方に向かった各種の民族が、この日本群島に集まってここに大なる協和の精神、すなわち「大和」の心をもって協和の生活を始めたのは数万年前であった。この大和の精神が生み出した文化は、常に世界の第一位を占めていたのである。従来、神武天皇のときに作られた久米歌は、その後再度の改作を経て今日では古代の面影などは失われてしまっているというように解釈されてきた。しかしと故東儀李治も指摘したように、揚拍子の部分などは古代の面影を保っているということは田邊も考えている。これを同時代のギリシャの歌謡に比較すると、比較にならないほどわが国の方が芸術的に高いものであることを認める。東遊の中の求子歌は平安期中期に加茂の臨時祭に際して作られたものだが、駿河唄とその前の一歌や二歌は古くから伝わったもので、恐らく奈良朝以前の東歌に起こるものであろう。これを同時代のグレゴリウス聖歌やカルル大帝の歌などに比較しても著しく高雅であることが判る。要するに古代において日本民族はきわめて高い文化をもっていたと考えられる。このことが、わが国を第一に中央アジアとアジア民族との根本的な差異である。/およそ文明には常に滋養素と毒素とがあることは、世界いかなる国においても見られるところである。滋養素を摂取することは必要であるが、毒素を摂取することは恐るべきことである。したがって外部より栄養物を摂取するときは極力毒素を排除するようにしなければならない。これは食物のみならず、あらゆる文明においてみられるところである。しかるに日本は古代において世界最高の文明国であった。したがって中世の始めにアジア大陸から新文化が入ってきても、日本人はその滋養素と毒素を見極めることができた。当時の日本人は絶対に外国文化の無条件模倣ではなかった。もしそうであったならば外国文化の毒素のために滅びるべきであった。それが逆に奈良町や平安朝の文化は当時の唐やインドに劣るものではなく、むしろその上位にあったことは、絵画・彫刻・建築を見ても知られる。田邊は平安朝の音楽も、その芸術性の高さで遥かに唐に優ると信じている。その例として、笙の和音が唐のものではなく、日本で創作され、それがさいきんの西洋の和声と類似する点を挙げている。/以上述べたことは今日にも当てはまる。日本は江戸時代に低級な文化をもち、明治以降西洋の文化を摂取して初めて高い文化を持つようになったという考え方は浅薄な西洋的考え方で、誤りである。日本は芸術の幽玄性、神性に対して世界最高の文化国民であったところへ西洋から新文化が入ってきたので、その新文化の滋養素と毒素を見極めた。かくしてバッハやベートーヴェンの神性を了解することができた。この能力こそ2600年、いや数万年前から絶えず日本人がもちつづけてきた最高文化国民の誇りである。/西洋文明の毒素のため西洋自身が病んでいるこのとき、文明の滋養素と毒素をつねに判別し、さらに長い間に堆積された自らの文化の毒素をつねに排除し、世界のあらゆる部分より新文化の滋養素のみを摂取してかなくてはならない。このことを立派になしとげるには、外国文化の摂取によって文化が高等になるという西洋人的考え方ではなく、最高文化国民のみに課せられた責任であることを自覚しなくてはならない。この自覚によって初めて大東亜文化のみならず、世界新文化の建設も可能であるし、八紘為宇の大理想も実現されるものと信じる。
塩入亀輔とジャーナリズム /黒崎義英
この文章を書くに当たって一応断っておくが、黒崎は故・塩入の門下生の一人であり塩入が主宰した雑誌『音楽世界』を編集の一員として継承した。常識的な封建論からすれば師匠先輩を批判することは不徳と見られるかもしれないが、近日、故・塩入の『音楽の世界』が日下部書店から上梓されるので、いわばそれについての走り書きである。/塩入亀輔は生前「自分は批評家ではない。ジャーナリストである」と自負しており、後年「僕は音楽批評家であるよりは文明批評かでありたい」と述懐したが、これは彼の本質を決定づける要因であるに違いない。塩入は、1925(大正14)年に読売に入り新聞人としてスタートし、1930(昭和5)年、雑誌人として『音楽世界』に拠ったが、塩入は何にでも興味をもった。読売では社会部記者として音楽美術を担当した。新聞記者にとって人を訪問して談話を筆記することは生易しいものではないが、その当時の体験がのちの雑誌編集の性格を築き上げたといえよう。『音楽世界』以前の音楽雑誌は同人雑誌の域を出ず資本的な依存関係を持たないと経営困難に陥り、音楽雑誌の興亡が常ならなかったことは事実である。堀内敬三は「音楽雑誌が単に雑然と寄稿を配列するだけの旧式編集法をすてて生きたトピックを捕へ、生きたグラフを入れ、全体を統一する方法を執ったのは塩入君が始めての事であった」と指摘した。社会現象としての一切の音楽現象は彼の対象であり、雑誌をひとつの舞台とすれば執筆者は俳優であり、音楽家と読者は観客である。彼は演出家兼俳優として常に新しいプラントアイディアを考え、ときには自らトピックを作りかねない。ではジャーナリスト、言い換えればジャーナリズムとはいかなるものか。/ジャーナルという言葉は新聞雑誌の総称だが、記事行為は選択と批判すなわち一定の世界観のもとになされなければならない。したがってジャーナリズムは、ひとつの思想行為であり、それの代行機関として時代の世論を代表するものであると同時に世論の動向を指導するものでなければならない。塩入の属した社会的環境は階級対立の思想的混乱とともに俗に言うエロ・グロ・ナンセンスの時代を経て満洲事変から日中戦争にいたる世界的不安の時代であった。日本のジャーナリズムがリベラリズムの影響下にあったことは当然であり、彼もまたそうした傾向をたどったとしても不思議ではない。雑誌『音楽世界』は時流に敏感で、ラジオの普及と同時にレコード企業が発展して音楽内容が複雑化し、トーキーの上映に続いて音楽映画がジャズを氾濫させ、新興音楽が起こり外来音楽家が次々にやってきたという音楽の流行現象はことごとく雑誌の中に盛り込まれた。/塩入はモダンでシックで渋かった。クリスチャンであると同時に仏教徒でもあり、日中戦争に応召して即日帰還となり、故人となってからも葬式を教会と仏式によって2回やった。生前は音楽・スポーツ・ダンス・写真・ゴルフと趣味人で、ゴルフを除いたものは素人の域を脱していた。対外的にその中心の基礎をなすものは武器としての音楽であり、対内的な音楽活動においては新興芸術の知識性を手段として使用した。/ではジャーナリスト塩入亀輔に一貫した思想性はなかったのか。塩入は「国民音楽確立の意義と其の方法」のなかで音楽雑誌は「音楽及び楽界に対する自発的批判機関であり、更にそれを成長せしむべき指導的地位にある」と述べたが、それはある意味で実現されたとみて差し支えない。自由主義経済機構にあってはジャーナリズムの営利性は認められてもジャーナリストの思想性は許されない。したがって塩入の指導的理念も時代思潮の大きな流れのもとに中間的なものとなり浮動的な性質を帯びたとしても仕方がない。/塩入の性情を音楽の面に移してみると、彼ははじめ浅草オペラを好み、生来義太夫、長唄に親しんだ。趣味としては古典主義者であり、愛好者としては浪漫主義者であり、性格的には日本主義者であると同時に日常的には現実主義者でもある。彼の批評態度は常にジャーナリスティックであり、多様性を示していた。その批評は絶えず先駆的で進歩的ではあるが真実性に乏しく、批評範囲は多面的であるが連関性が希薄であるとされるのはなぜか。これは一面否定しがたいものを含んでいるが、反面において若干の理解不足もともなっている。なぜなら塩入にとって音楽上の主義や傾向はひとつの流行現象でしかない。社交的で孤立的な当時の音楽と楽界の位置を社会的なものに連関させ、音楽の独自性と社会性を強調しながら音楽と他の新興芸術に対する近似性を発見、交流させるところに彼の思想的力点があったのである。音楽批評における多面的な独自性と、ラジオ・映画・舞踊などに示した局外批評の特異性はある程度まで彼の理念を実現したものといえよう。同時に彼は、種々の先駆的実証のゆえに少なからぬ謬見を犯したことも争えない。彼は音楽の古典及びロマン派の系列に対しては単なる歴史主義者であり、近代の音楽傾向を印象主義と表現主義に固定した観念論者である。また映画批評においても、映画の空間的要素を忘れて時間的芸術であると断定したのは明らかに間違いであり、さらに「ジャズは適当な今日の宗教音楽」でさえという突飛なナンセンスもある。/塩入は優れた素質と感性に恵まれた文化人であった。近時、ジャーナリズムおよびジャーナリストの質的性格の転換がなされていることは断るまでもないだろう。ジャーナリズムは、いつでも時代に対する適応性と弾力性をもつ。そして一般ジャーナリズムと専門ジャーナリズムは次第に分化していき、雑誌編集はジャーナリスト・ブレーンの方式に移行する。いまは国家目的への建設と音楽新文化創造の理念のほか何があろうか。もって『音楽の世界』におくる措辞とする。
楽壇戦響 /堀内敬三
転向途上の音楽
音楽と人間生活とはあらゆる方面で密接に接触している。したがって音楽にはいろいろな思想や生活から生まれたものが併存している。過去の日本には自由主義・個人主義・利己主義・享楽主義・逃避主義・虚無主義など正しくない思想が横行し、われわれの生活をかなりの程度支配してきた。音楽においてもその不健全思想から産み出され、不健全生活に適合するものが珍重されてきた。しかし、いうまでもなく今はそうした思想、そうした種類の音楽も葬らなければならない。今の日本の音楽は士気を奮わせ生活を増強する光明であり栄養でなければならない。われわれは戦時日本人としての正しい音楽を研究し創造すべき責任を負っている。そしてまったく一途に日本的な思想と、勝ち抜くための生活とに合致する音楽だけを今日の音楽として国民に与えなければならない。この戦争は米英の戦力、国力、文化、思想なりを破壊するとともに、新しい大東亜を建設する戦いである。音楽においても同様の破壊戦と建設戦は徹底的に行なわなければならない。音楽のうえでは、いまなお卑俗で軽薄な米英音楽に感傷を注いだり、享楽的・逃避的な音楽に好奇の耳を傾けたりする傾向がなくなったとはいえない。文学・美術に比べて、音楽は未だ正しい方向に転じきってはいないようだ。
国民皆唱運動への参加
現在、およそ音楽に関係をもつ人々は何らかの方法で音楽を国家のために活かすことを実践しなければならないと思う。折から大政翼賛会によって「国民皆唱運動」が開始された。この運動は銃後国民の士気を作興し闘志を高めるとともに、生活に潤いと慰めを与え、唱和することによって和衷共同の精神を発揮させようとするもので、もっとも今日の情勢に適切な運動なのである。多くの場所で唱和が行なわれることになれば、一箇所に一人ずつは指導者が必要となる。この責任は音楽を知るもののうえにかかってくることになり、光栄な任務である。音楽者は言うにおよばず、学生、官吏、会社員、教員、学者など音楽に関する知識と能力をそなえていれば国民皆唱運動の指導者になれる。譜面を手にして人々の前に立てばできるご奉公である。経験を積むまでは失敗もあろうが、人々の善意と敬意の中に包まれて自己の特殊技能を国に捧げるのだから我慢もできよう。戦時下に見栄も外聞もいらない。われわれの蓄積してきた音楽上の才能を国に捧げよう。
音楽文化向上の土台
国民皆唱運動は、国民の全部に健全で平易な歌曲を斉唱させる運動である。選ばれる歌曲は大衆的なもの(愛国歌やラジオの国民合唱など)であるため「そんなものばかり歌っていたら国民の音楽文化は低下してしまう」と真面目に考える人々も多かろう。しかし、そうではない。実際に大衆は満足に歌が歌えない。国民の音楽文化を高めるためには、まず全国民が「君が代」や「愛国行進曲」「海行かば」を正しく歌いこなすことが先決だ。これができるようになったら、高級な音楽に対する欲求が自然と起こってくる。たとえば江戸時代の長唄や常磐津、清元などはたいへん複雑な声楽であるが、江戸の町人たちは、あれを平気で唄いこなした。日本人は一度その道に興味をもつと、ずんずん程度を進めていく。また日露戦争のとき不慮士官が「日本の兵卒は下士官の、下士官は将校の知るべきことを知っている。だから日本軍は強い」と言ったそうだ。西洋人の合唱団はふつうの唱歌の内部合唱で満足しているが、日本人の合唱団はちょっと歌えるようになると「第九」を歌いたがる。国民全体が歌うようになっていけば、音楽文化は必ず急速に高くなっていく。
高度な音楽文化を目指して
いまの日本の音楽文化は、ひじょうな混沌の中にある。邦楽を今日の国情にあわせて活きた国民音楽にすることは、並大抵の事業ではない。洋楽の長所は充分吸っているとはいえ、全般的にみれば、未だその初歩的技法を学んだばかりである。いまの日本の楽壇人は、本舞台に足をかけないうちから大芝居を見せなければならない立場に置かれている。世間は楽壇に対して早急に何らかの成果を示すことを期待している。こういうときは、人間は間に合わせの仕事をしてしまいたくなるが、これは恐ろしいことである。精神文化は間に合わせでは通用しない。現に、実用向・大衆向音楽の需要があるとはいえ、過去の低級愚劣な通俗音楽と同列に考えることはできない。また高級な形式による音楽も要求されているが、安易な模倣的作品であってはならぬはずである。いまの日本には作曲にも演奏にも国民精神・時代精神・戦闘精神を打ち込んだ高い文化性のあるものだけが入用なのである。
「五十年史」を書き終えて
『音楽五十年史』が上梓された。堀内は現今の日本のもつ多用な音楽文化がどのようにして形づくられたかを説き明かすために記述を幕末まで遡らせて、実質80年にわたる歴史を書くことになり、今までほとんど埒外に置かれていた琵琶や浪花節、巷間音楽にも手を広げ、音楽関係の産業や企業と音楽文化との関係を調べようとしたので時間がかかってしまった。同じ時代相のなかに、一国の一民族がもつ音楽文化は、いくら複雑多岐であろうともそのすべての姿を綜合してみなければならない。『音楽五十年史』は、その意味でいくらかの役に立つことと信じる。今の人は幕末から明治終期までの世相と音楽について、ほとんど知らないのである。それを簡単に調べることも難しい。そのためやむを得ず、その時期についてくだくだしい説明をすることとなった。その結果、大正以後の膨大な記録はその要点だけを記し、ほかは他日に譲らざるを得なかった。大正年代の南葵音楽図書館について書き漏らしたり、大正から昭和にわたるハーモニカ・マンドリンの極盛期を十分に書けなかったり、日本音楽文化協会創立時代における楽壇の混沌から統一への動態を写さなかったりしたのは心残りである。本号の広告欄に正誤表を付したが、あとで知ったこととして(1)中山晋平が「カチューシャ」を作曲した年齢は28歳ではなくて25歳(2)日露戦争で海軍楽長三氏のいただいた金鵄勲章のうち赤崎楽長のだけは功七級(准士官であったから)の二つを加えておく。
[ほか]
本欄を「楽友近事」と名付けてきたが、内容が当初の見込みと変わってきたので「楽壇戦響」と改めた。各雑誌の用紙割当量が4割削減されたので本誌も減ページと発行部数減を敢行して刷新を加えなければならない時である。なお本誌の発行部数は今後減少するも増加は期待できないから、読者諸氏は適宜回覧等の方法を講じていただきたい。ページ数が減るため広告収入も減るので、本誌の寄贈は行なわない。(完)
崔承喜の舞踊 /江口博
かつて「半島の舞姫」と謳われた崔承喜だが、それがいつの間にか「東洋の舞姫」に変わり、さらに「世界の舞姫」という言葉まで使われている。すくなくとも人気の点では、まさに世界有数の舞踊家であるといって憚らない。彼女の人気は「崔承喜の舞踊」を解く重要な鍵である。/第一に彼女が半島出身であるの舞踊家だということである。われわれが日常接するのとは異なる、半島の舞踊から工夫した崔承喜舞踊を創案し、それを舞台で踊る。その特殊性が見る眼に愉しく映り、われわれの好奇心をそそるのである。これが広い観客層を動員しうる理由であるが、さらにその観客層をみると多くの半島人を見出すであろう。この点がまた他の舞踊家には見られない現象であり、余人の比肩することを許さない強みである。それにしても石井漠から舞踊を教わった彼女が決然と洋舞から訣別し、朝鮮舞踊に工夫した崔承喜舞踊を創案したことは一世の卓見であった。同時にこのことは、広い意味で舞踊芸術に貢献するところ大である。たとえていえば、一民族舞踊に過ぎなかったスペイン舞踊を舞台的に大成功させたアルヘンチイナの功績にも比べられよう。第二に華麗な容姿、豪華絢爛の肉体が挙げられる。舞踊においては肉体が重要な要素であり、しかもできるだけ美しくあることが必須の条件であるが、崔承喜は東洋人には稀に見る肢体をもち、観客の心を捉えている。第三に踊りの内容である。彼女の舞踊は、ほとんどいつも人間性のもっとも素朴に流露する感情の躍動や沈潜、それにともなう複雑な情緒を舞踊で表現しようとする。これは彼女がいかに劇的な題材を選んだ場合にも例外なく守られる鉄則で、観客の胸に直接通じやすいのである。なぜならば、頭で理解する必要がなく、舞台上の喜怒哀楽がそのまま観客の心に映じ、感情を刺激するからである。さらに崔承喜は、これらの感情表現にきわめて大胆な表情をもってする。要するに崔承喜の舞踊は、転生の華麗な容姿を誇示して高度の愉楽性をもつということができる。そこに比類のない大衆性があり、帝劇で17日間昼夜21公演をなしえた理由がある。/崔承喜舞踊のもつ大衆性は必ずしも低俗なものを意味しない。彼女の場合の大衆性は、主としてその普遍にある。そこに認められる彼女の非凡さは、必ずしも芸術性の高さを誇るものではない。この言い方は崔承喜の舞踊が芸術的でないという意味で誤解される怖れもあるが、彼女の芸術には知性に訴えるところがきわめて乏しい。彼女の舞踊から装飾的な属性を一切排してみると、案外もっとも素朴な舞踊であるといえるだろう。ここに、いま崔承喜が歩んでいる道と、一般の若い舞踊芸術家が精進しつつある道との間にみとめられる大きな開きがある。したがって、いかに崔承喜の舞踊が良いからといって、すぐに他の舞踊家がこれを模倣したり追随したりしないよう警告したい。しかし、崔承喜の舞踊がもつ優れた愉楽性は、それ自身立派な芸術であるともいえよう。しかもその性質がもっとも発揮されているものは、朝鮮舞踊を基礎として創案したものであって、それらの諸作は豊かな魅惑と舞踊の愉しさとがあふれ、そのうえに夥しい公演回数によって洗練を加え、旨味を増したことは注目されてよい。/さいきんの崔承喜は、東洋舞踊を主唱して、それを続々と舞台で実践している。この理念は、未だ崔承喜舞踊ほどの立派な成果を挙げていないというのが真相である。その大きな原因は、単に題材を朝鮮から広く東洋全般に広げた程度にとどまっているからである。それにしても崔承喜が率先して東洋舞踊を唱え、これを敢然と実践に移した慧眼はさすがである。彼女のことであるから、相当の成果を挙げる日も遠くはないかもしれない。ただ願わくは、西洋人が見た東洋観のようなものでなく、確固たる東洋人の自覚の下に、明確な理念によって把握された東洋の精神を舞踊によって表現してほしい。それが大成されてこそ、崔承喜の舞踊はさらに幾倍かの輝きを増すであろう。
時局投影 /唐橋勝 編
開戦一周年を記念する大東亜戦争美術展(朝日新聞社主催)は、1942年12月3日から27日まで東京上野の府美術館で開催されたが、これに先立って29点の陸海軍作戦記録絵画が11月29日宮中千種ノ間と豊明殿で天覧ならびに台覧の栄に浴した。展示された絵画の中には藤田嗣治「シンガポール最後の日」、宮本三郎「山下、パーシパル両司令官会見図」、田中孝之介「ビルマ、ラングーン爆撃」、藤田嗣治「十二月八日の真珠湾」、中村研一「マレー沖海戦」、佐藤敬「クラークフィールド攻撃」などの洋画、山口蓬春「香港島最後の総攻撃図」、江崎孝坪「グアム島占領」などの日本画がある。
1942年11月30日夜、帝国水雷戦隊はガダルカナル島ルンガ沖で、戦艦1隻撃沈、オーガスタ型巡洋艦1隻轟沈、駆逐艦2隻爆沈、同2隻火災の戦果を挙げた。これはルンガ沖夜戦と呼称される旨大本営より発表された。
皇后陛下は1942年12月3日、横須賀海軍病院を、翌4日には臨時東京第一陸軍病院と陸軍軍医学校を行啓された。
いまやあらゆる方面で米英色を払拭しようとしているが、一般雑誌の誌名も、『スタイル』が『女性生活』に、『セルパン』が『新文化』とそれぞれ変わり、また『モダン日本』が新年号から『新太陽』と改称された。
1942年11月17日、戸田侍従は台湾に赴き、12月5日帰京した。初めて侍従を迎えたので600万島民の感情は、ひとしお深いものがあった。
大東亜戦争死没者第3回論功行賞(海軍第2回)が1942年12月7日、海軍省から発表された。
1942年12月6日付朝日新聞によれば、アメリカでは『タイム』『ライフ』『フォーチューン』などの編集関係者で組織している戦後問題研究会というところでは、神国日本の尊厳をいたく冒涜することを公然と論議している。それは米英が日本に勝ったときの降伏条件を紙上に発表しているそうで、その内容は(1)すべての残存軍艦、軍用機、戦車、大砲の引渡し(2)すべての海軍基地、日列島における防御施設の武装解除(3)陸海軍の解散(4)兵器および装備資材などの接収(5)アジア大陸ならびに太平洋における日本占領地域の米英連合国への引渡し(6)米英連合軍による日本本土、少なくとも六大都市の占領駐兵(7)陸海軍高級将校、官吏、新聞、産業の指導者層の処刑、ということが挙げられている。神国日本にアメリカの兵隊が占領駐在するなど考えるだけでも汚らわしいが、国民の総力がゆるんで戦争に勝ち抜いていく気力が萎えたならば、アメリカ兵の土足がこの清い国土を汚すのである。さらに一ふんばりすれば、そうしたことはない。
敵国の俘虜を見て「おかわいそうに」と洩らした婦人の言葉が問題となった。それほど日本の軍隊は強く、日本が敗戦を知らないことを意味し、帝国臣民は勝ち戦に慣れてしまった。よく言えば余裕を示すが、きびしく言えば大決戦に対する構えが充分できていない有様である。戦争の痛手をわが身で痛感しないから「おかわいそうに」などと呑気なことを言う人には12月6日の朝日新聞に載った記事を読ませたい。それによると、日本近海で仕事をしていた漁船が敵潜水艦の魚雷を受けて沈没した。わが海軍に向かっては勝ち目のない敵艦が、無防備の漁民と見るや機銃掃射をあびせたうえ引き揚げたという。このために海中に命を落とした同胞のことを考えるならば、「おかわいそうに」どころの話ではない。
1942年12月8日、大東亜戦争一周年記念全国一斉国民大会が午後2時より各道府県庁所在地で開催された。中央大会は靖国神社の外苑で3万6千余人を動員して行なわれ、午後2時35分から15分、東条首相の全国民に対する告示があった。
戦争勃発以来一年間の国防献金は3億近い額に達した。
南方占領諸地域の地名を米英蘭等の敵国風の呼び方から大東亜本来の呼び方に改めることとなり、旧英領馬来をマライ(カナ書き)、旧英領ボルネオを北ボルネオ、旧蘭領ボルネオを南ボルネオ、バダビヤをジャカルタとそれぞれ呼称する旨情報局から発表された。
1942年12月12日、天皇陛下は神宮を親拝し皇祖神霊の加護を冀(こいねが)った。国家の重大事に当たって勅使を差し遣わすことはあったが、天皇自らが戦争のさなかに皇祖の大前にいくことは未曽有のことである。一億民草はさらに奉公の誠を尽くす決意をあらたにし、謹み、畏んで毎日を迎えなくてはならない。
情報局が中心となり全国1000の評論家を糾合して大日本言論報国会が設立され、1942年12月23日、東京の大東亜会館で創立総会を開催した。同時に旧評論家協会は解散され、ここに思想戦完遂の体制が確立されたのである。報告会会長には徳富猪一郎、専務理事には鹿子木員信、常務理事には津久井龍雄、野村重臣、井澤弘三が就任した。
インフレにならぬよう、今年は230億貯蓄ということになったが上半期の成績は芳しくなかった。そこで大政翼賛会では1942年12月一杯必勝貯蓄運動を展開した結果、予定の50億貯蓄をほぼ達成できた。あと1、2、3月の3ヵ月で年度替りになるが、それまでに何としても230億を突破しなければ前線の兵隊さんに申し訳ない。
天皇、皇后両陛下は、1943年元旦、2万キロを越える戦線の将兵を偲んで朝食に野戦兵食をきこしめしたそうである。材料はすべて前線から来たものである。献立は、小豆粥(米、ささげ小豆、岩弼)牛肉昭南焼(牛肉、味噌)野菜煮(乾海老、南瓜、玉葱)味噌汁(味噌、支那筍、甘蕗)香の物(杓子菜、沢庵、トマト)だそうだ。ありがたい極みである。
紙は一枚もおろそかにできない。これは世界共通の心得となり、イタリア、ドイツ、ロシア、そして紙がありすぎたアメリカでさえ同様だそうだ。(完)
”南へ飛ぶ”音楽映画の演出 (映画紹介)/渡辺邦夫
初の東亜共栄圏向映画『音楽大進軍』は、このほどいよいよ編集に入った。映画のうえに音楽という強力なものを溶け込ませた映画という点が、この映画の性格を形作っている。言葉の判らない東亜民族の心にこの映画がどう反映するか、この映画に流れるメロディがどのように南の人たちに受け取られるか。カメラの美しさを通じて日本楽壇の最高峰を一堂に集めて再現させようというのである。メロディのない喜劇的な進行の箇所は極力台詞をさけて動きで判断してもらうようにした。そして音楽のメロディの流れの中に劇的な進行を生かすべく、演出設計はなされた。この映画の意図を汲んで出演された藤原義江、斎田愛子、瀧田菊江、大谷冽子、木琴の平岡養一、ピアノの和田肇、提琴の辻久子、舞踊の高田せい子、東宝舞踊隊、ロッパ舞踊団、櫻井潔、灰田勝彦、三原純子の諸氏の協力には感謝に堪えない。演出の中心点は内務省に提出した製作意図で述べたが、それを書き記すと、映画と音楽が文化戦の武器として効果的なことはいうまでもなく、殊に東亜共栄圏諸国は祭礼を生活の中心とする民族である点、普遍的かつ効果的な手段である。同時にわが国の音楽が、敵性国家に比して劣ることがないことを示し、わが国の風物と美しい人情を紹介すべきを旨として、明朗で容易に理解できるストーリーとした。
楽界彙報
造船戦士に贈る「造船の歌」決まる 造船統制会では造船戦士に贈る「造船の歌」を制定するため、その歌詞を懸賞募集中であったが、このほど当選歌および佳作歌を決定。当選歌は大村能章、佳作歌は杉山長谷夫が作曲に当たることとなった。当選:「造船の歌」(三菱重工業神戸造船所・川上正)、佳作:「瞳に燃ゆる日の御旗」(川崎重工業艦船工場・富士重太郎)。
大東亜共栄唱歌集九篇の作曲完了 南方諸方面の各民族の間に日本語を普及させ、あわせて日本の音楽を進出させるため「ウタノエホン大東亜共栄唱歌集」が編纂されることとなり、一般から募集した歌詞から5篇を当選とし、また日本少国民文化協会文学部担当の4篇の拠出を得て、計9篇の歌詞に日本音楽文化協会作曲部に作曲を委嘱していた。このほど、それらすべての作曲が完了した。作歌者、曲名、作曲者は次の通り。
応募入選歌 池田真澄(長野県諏訪郡和泉野国民学校)「アジアノコドモウンドウクワイ」(箕作秋吉作曲) / 砂田守一(大阪生野国民学校訓導)「アイウエオノウタ」(堀内敬三作曲) / 古山省三(大垣市藤江町)「ダイトウアカゾエウタ」(平岡均之作曲) / 田中稔(大阪市北河内郡枚方町宇垣)「ボクラノヘイタイサン」(平尾貴四男作曲) / 内永倉直(大牟田市銀水三池中学校)「コモリウタ」(弘田龍太郎作曲)
少国民文協担当 与田準一「日本ノコドモ」(草川信作曲) / 百田宗治「お米」(中山晋平作曲) / 西條八十「フネ」(下總皖一作曲) / 三好達治「ヒノマル」(橋本國彦作曲)
音楽文協大阪支部の新常務と参与 日本音楽文化協会大阪支部では、このほど新任の常務幹事として朝比奈隆、加納和夫、友田吉男、宮原禎次、参与幹事として竹内忠雄と刀原四郎が就任した。
音楽文協選定の日本現代名曲集 日本音楽文化協会の選定によって「日本現代名曲集」のレコードが大東亜レコードより近く予約発売されることとなった。内容は次のとおりである。大木正夫 交響詩「夜の瞑想」(山田和男指揮/日本交響楽団) / 清瀬保二「第二ピアノ曲集」(豊増昇) / 平尾貴四男「フルートとピアノの為の小奏鳴曲」(奥好寛、藤田晴子) / 秋吉元作「ヴァイオリンとピアノの為の奏鳴曲」(巌本メリー・エステル、草間加寿子) / 諸井三郎「絃楽六重奏曲」(加藤絃楽六重奏団) / 市川都志春 歌謡曲「翡翠その他1曲」(三宅春恵、伴奏・三宅洋一郎)
愛国百人一首を五社で音楽化 日本蓄音機レコード文化協会では愛国百人一首の音盤化を計画中のところ、各方面と打ち合わせのうえ、その大綱をを決定した。それによればレコード文協が5首を加盟5社に割り当て、さらに日本音楽文化協会から作曲者を選定してもらって5首に作曲し、計10曲を各社2曲ずつ1枚として発売することになる。発売予定日は1943年2月11日である。
2月の主要音楽会 日響、東響その他 主なものを挙げると、日響臨時演奏会(23日日比谷公会堂)、東響定期公演(9日日比谷公会堂)、東京室内交響楽団バッハ連続演奏会(16日青山会館)、ローゼンシュトックと東京四重奏団演奏会(5日日比谷公会堂)、三浦環宮城道雄独唱と筝の夕(2日日比谷公会堂)
「海ゆかば」国民歌に指定 大政翼賛会では信時潔作曲の「海ゆかば」を君が代に次ぐ国民歌に指定、常会その他各種会合において唱和するよう12月15日後藤事務総長名で通達した。同文化部では「海ゆかば」を史劇化すべく、その創作を菊池寛に委嘱した。
陸軍軍楽隊泰国で演奏 バンコック発同盟電報によれば帝国陸軍軍楽隊は大沼哲隊長指揮のもとに、タイ国で演奏を行なったが、12月22日の放送に際してはビアン首相が大沼隊長に謝辞を送った。軍艦行進曲記念碑着工 故・瀬戸口藤吉作曲の軍艦行進曲を永く伝える記念碑の建設が計画されていたが、1943年1月8日、日比谷公園小音楽堂側の広場で鍬入れ式が行なわれた。遅くとも5月27日の海軍記念日には除幕式挙行の予定である。
消息 土川正浩:志賀直哉の令嬢と結婚。/桝源次郎:このほど結婚される。/寺西一郎:鎌倉市雪ノ下262へ転居。/川面情報局第五部長:このほど辞任。/内田元:渋谷区大向通27へ転居。/杵家弥七:1942年12月17日長逝された。/加田愛咲(読売報知ラジオ主任):1943年1月14日長逝された。/山田耕筰:大陸の旅行を終えて1943年1月8日帰京。/伊藤武雄:山田耕筰と旅行をともにして1943年1月8日帰京。(完)
御挨拶 /大東亜交響楽団 松竹
松竹交響楽団は1943年2月で8回の定期公演と12回の臨時公演を数え、皆様方のご支援に感謝している。決戦第2年目にあたり、たまたま大東亜戦争勃発時を同じくして誕生した当楽団も、必勝第2年目に尽くすべく1943年2月11日を期して「大東亜交響楽団」と改名する。全団員協力一致時代の要請に適応すべく音楽報国に邁進する覚悟なので、倍旧のご支援とご指導をお願いする。1943年2月 大東亜交響楽団 松竹株式会社
編集室 /澤田勇 黒崎義英
1月期から雑誌用紙の割当量が減少したため、2月号より本文を16ページ削り楽譜を4ページ増やした。量の減少を補う質の問題が考慮され、その片鱗は現れていると思うが3月号ではもっと濃厚に出てくるはずである。(澤田)/生産力の増強に、戦場精神の昂揚にと今日ほど音楽の重要性が強調されたことはなかった。大政翼賛会でも国民皆唱運動の実践を全国に展開しようとしているが、心から推奨し、ともに歌える歌曲が甚だ少ないことを痛感している。加藤は作曲家たちにいまこそ奮起すべきであると言いたい。(加藤省吾)。/ジャーナリズム一般が何らかの意味で編集方法の見直しが予知されており、本誌もその対策を練っている。3月号あたりから徐々に新しい性格を形作れるはずである。/今まで一定のページ数に慣れていた編集技法が、相当のページ減でなかなか即応できないでいる。従来一定の枚数で可能となっていた発言を、集中的に要領よく書いてもらうよう、執筆者の協力も必要となる。/ちかごろ音楽雑誌のあり方があちこちで論議されている。その一つに関清武が『音楽研究』で、音楽雑誌が楽壇の中堅をなす音楽評論家たちに協力を求めなかったのは失敗だったとか、編集者が無能であることを証明したとか、政府から彼ら[編集者のことと思われる]が専門家として意見を求められると何も出なかったなどと放言している。ばかばかしくて弁明もできない。何らかの機会に『雑誌年鑑』の音楽雑誌評とあわせて触れてみよう。(黒崎義英) 
■『音楽文化』 第1巻第1号 1943/12 

 

創刊の報告
一.情報局ならびに日本出版会の指導の下に行なわれた音楽雑誌第二次統合によって『音楽之友』『レコード文化』『国民の音楽』『音楽公論』『吹奏楽』『音楽文化新聞』『音響』の7誌が廃刊され、専門誌『音楽文化』と一般誌『音楽知識』が創刊されることとなった。これら2誌は新設の日本音楽雑誌株式会社が発行する。/一.『音楽文化』は音楽専門家(作曲家・演奏家・音楽評論家・音楽教育家)・音楽指導者(合唱・吹奏楽・鼓笛楽・一般歌唱等の指導者)・音楽知識人等、すべて音楽に関する専門の知識を有し、音楽上の指導や創作や批判をなしうる人々を目標として編輯される。内容は記事と楽譜からなる。/一.記事は、音楽に関し政府及び統制団体が音楽指導者に知らせようとする事項の報道および解説、作曲界・演奏界・音盤界・音楽出版界等の活動についての時事報道、音楽に関する論説、音楽に関する研究記事等、各々の読者が時局に即応し国策に準拠して音楽上の正しい指導を行ない、かつ決戦下における大東亜音楽文化の発展に貢献しうるような内容を盛る。/一.楽譜は、時局に関する国民的歌曲を迅速に発表し、邦人の創作に係わる厚生用楽曲(合唱曲および吹奏楽曲)と芸術的楽曲(大東亜圏に普及させることを直接の目的とする)とを併せて掲載し、日本の古民謡や大東亜圏各地の民謡をも加えて、指導者および演奏家が実用に供し創作家および研究者が資料となしうるようなものを提供する。/一.編輯の全般は堀内敬三が統轄し、清水脩が編集主任となり、青木謙幸・黒崎義英・加藤省吾・青木栄・中曽根暁男が編輯・企画・調査・執筆等にあたる。毎号の編輯についてはあらかじめ情報局・日本出版会・日本音楽文化協会と充分な打ち合わせを行ない、公益機関としての任務を果たすことを務める。/一.日本音楽雑誌株式会社の運営は、堀内敬三(社長・編輯部長)、目黒三策(専務取締役・総務部長)、澤田周久(出版部長兼営業部長)が直接鞅掌する。
国民音楽創造の責務 /山田耕筰
戦局の様相はいよいよ凄愴苛烈な状況に突入した。わが音楽界においてもこの戦局を闘いぬき勝ち抜くために、いまこそ音楽の持つ威力を最高度に発揮すべきときであることを思い、国民音楽創造について記述してみよう。/国民音楽の創造、言い換えれば国楽の創成は、山田自身の今日までの音楽生活を通じての一貫した信念でもあり理想でもあったが、同時にそれは全音楽家の多年にわたる宿望であり、音楽界全体の悲願であった。それに対する真摯な研究や活発な意見の発表もあったが、山田の経験から言えばわが国の特殊な音楽発達の概況から、それらの機運や風潮は断続的になされ分立的に行なわれてきたのが今日までの現状ではなかったか。国民音楽の創造が高級な理想としてあまりに観念的に論究されたり、わかりきった問題として常識的に取りあつかわれてきすぎたと称しても過言ではあるまい。山田が音楽の道を転職として選び、今日までそれを自分の職分として努力してきたのは、今日ただいま、国家とともに国民とともに殉ずる精神をもって音楽を武器とするためにほかならない。こういう意味合いから国民音楽の創造を端的に言えば、それは音楽の国家的自主性という言葉に尽きる。たとえばパドリオ政変が起こるとただちにイタリア音楽の可否が問題になるがごときは、わが国の精神文化のうち音楽だけが未だ外国依存の状態にあることを思わせる。いついかなる事態に際しても、いささかも動じないわが民族固有の、そして東亜共通の音楽をもつこと、これが山田のいう音楽の自主性である。それが確立されるか否かは、ひとえに音楽家の精神内容が決戦意識に切り替えられたか否かに存している。/これを2、3の例で具体的に言えば、まず作曲の振興である。西洋音楽の技術の摂取はもとより、わが国固有の伝統的音楽である民謡や古典音楽の系統的研究がなされなければならない。今日では町田嘉章と藤井清水が地方民謡の採譜や録音を行なっているし、田中正平は文部省の国民精神文化研究所で古典音楽の保存と復興を行なっているときく。この文化財を芸術的に、そして国民的に生かすか殺すかは今日の青年作曲家の双肩に課された重大任務でなければならない。山田の経験からすれば、自身、日本的作曲ということに意識的であったことはない。作家としての主観的燃焼力一本槍で押し通してきたのだ。わが国の作曲は外形的な衣装にとらわれたり、末梢的な部分にこだわる傾向があって人間そのもので書かれていない。民謡そのものの旋律を借りるよりは、民謡の中に現れた郷土的な特色や性格、それから日本音楽の中に摂取され消化されている民謡の技術的処理の方法を日本の作曲家たちは学ぶべきだと思っている。/このことは西洋音楽に対する反省にもつながっている。わが国の音楽界は西洋音楽万能で来たが、音楽の専門的立場においてはこうした態度を一擲すべきであろう。それと、主として作曲家以外の人に理解してもらいたいのは、傑作は一朝にして生まれるものではないということである。洋楽渡来以降、50〜60年ほどした経ていないわが国の現状では作曲家の努力のほかに、一般の音楽関係者の理解と協力が絶対に必要なのである。たとえば演奏家の創造性を期待したい。わが国の演奏家たちは音楽が全国民的な共感を獲得する状態、言い換えれば真の国民音楽創造の機運を達成する一人の担当者として、音楽を選ばれたに違いないのである。したがって一人でも多く、一曲でも多く新作を歌い奏さなければならない。しかし演奏家、とくに声楽家の人たちは「いい歌がない、いい楽譜がない」という。それは一応認めるが、そうなったのは作曲家と声楽家が同じ日本に住みながら、没交渉な営みを続けていたからだろう。今日国民の音楽的志向は決定され、音楽の国家的方向は明示された。今後は作曲家の理想と演奏家の希望が一致する新歌曲、それは国民一般に嗜好に対する距離をも縮めた国民歌曲が誕生しなければならない。/批評についていえば、批評家の当初の対象は西洋音楽の鑑賞啓蒙の領域に限定された。しかし、ここでも批評家の創造性が要望される。批評家もまた独自の専門的な領域で創造的な探求をなすべきである。しかもそれは国民音楽の創造という運命のもとに、そして決戦生活の国民的感動という境地で、評論の文字が血を沸かさなければならない。こうして作曲、演奏、批評が有機的な関連をもち、その三者が一体となって民族と祖国のために一大進軍を試みなければならない。
楽譜の効力に就いて(一) (連載)/田中正平
一.言語と文字 人間の生活には自己の思想や感覚や意志を他人に伝える手段が必要である。人智がすすむにしたがって口でさまざまな音を発し、それを順序良く組み合わせて言語をつくる。さらに文化がすすむにつれ自分の歩んできた経過や往時の事跡を記憶する補助として、また思うことを遠方に伝えるため、言語に符牒をつけて書き記すのが便利であることを悟り、文字ができた。/二.楽譜は音楽記録の文字である 音楽も人間の感覚を伝えるための一種の言語である。言語と同様時間に消え去る音楽を、なんとか捉えおく手段が必要になってできたのが楽譜である。楽譜は3000年来、世界の各所で考案されたが、言語の文字がそれに充当されることがもっとも自然であることから、今日でも音名や階名に各種の仮名文字が使用されている(ABCやイロハ、数字など)。ほかに文字以外の特別符牒もあったが、実演に文字の楽譜を使用するにはなお不便があることが800年前の西洋の楽人たちの認めるところとなった。完備した楽譜に要求されるものは、読譜に際し若干数の音を一束または一塊として瞬時に読み取れる構成になっていることである。そしてこの性能をもち、拍子関係をも明確に書き入れようと西洋の音楽家たちが数世紀にわたって苦心して作り上げたのが、今日われわれが重宝している五線譜である。西欧における近代音楽の著しい発達は五線譜の完成とその普及の賜物といい得るもので、その効用は読譜の修養を積みさえすれば古今を通じて未知の楽曲を容易に奏で得ること、容易に共同演奏をなし得ること、各声部を一括して見透しよき総譜を編成し得ること、先人の作風を参照し創作を簡便にすることなどである。以下、各用途にしたがって楽譜の効用を鮮明にしたい。/三.音楽の保存上楽譜の効用 音楽が作曲者の手を離れて他に伝承されるには口または手を介して、受伝者の記憶力によって次から次へと伝えられるものであるが、元来人間の記憶は絶対に信頼できるというものではないし、少数古老の死亡によってまったく跡を絶つとういこともままある。例を挙げれば古代ギリシャの音楽しかり、中世欧州の遊歴歌手、トロバドール、ミンネゼンガー等しかりである。わが国では雅楽、催馬楽などの古曲は1200年を経て今日に至っている。また仏家には教楽として梵唄、声明等、古代インドの楽風が今日に伝わっているが、いずれも師弟相伝が連綿として行なわれたからにほかならない。ただし雅楽や声明等では完全とはいえないが読本が伝わりはなはだしい訛伝を防いだ功績はあった。鎌倉時代に勃興した長編叙事楽の宴曲には整然とした読本がのこっていて、大正の初めころ故吉田東吾、故東儀鐵笛らがその復活を試みたが、原譜には楽趣を窺うに足る綾が示されていないため、そっけない空疎な感じをのこすのみに終わった。その後発達した平家琵琶や謡曲にも胡麻と称する音符号があるが、これはずさんなもので、口伝を受けてあらかじめその道に通じた人のほかは活用できない。そのため楽譜と称せられる資格を備えたものではない。その他徳川時代に起こった筝曲や三味線歌曲には多数の流派ができた。おのおの音芸術としての特色を発揮し、幾多の変遷を経て今日にもちこされた。しかし全体としては今日あえなく消滅してしまったものが多数ある。このようにわが祖先の遺風が廃れてしまったのは、適切な楽譜にのこされなかったことに起因する。この事態は今日でも認められ、たとえば延年の舞曲、幸若、奥浄瑠璃、筑紫流琴曲、八雲琴曲、朝鮮や沖縄の古曲等の確保保存は今日の急務である。わが古楽がこうした淋しい状況にあるうえは、今日わが日本の音楽歴史の編纂に完璧を期することは望めない。なお一言しておきたいことは、音楽の保存は蓄音盤によるを得策とするという考えである。なるほど蓄音機は音声をそのまま写し取り、再生するが、それに音楽保存の役目を一任するのは危険である。理由はまず、われわれのこれに対する態度が受動的であることであり、われわれの音楽的自力行動能力を積極的に推進するものではない。また、これを楽曲保存に用いようにも、あまりにも嵩むしあまりにも高価であるため、大量の蓄積と普遍的拡布貯蔵に不適当であることにくわえ、摩損しやすい。読本の恒久性に比すべくもない。要するに音楽の完全再生を確保する楽譜の様式を制定し、これによって楽曲を写取刊行することが保存の要請であると首肯されるであろう。
最近の邦人の管絃楽作品について /山田和男
高度国防国家のもと音楽の部門がその一翼として動員されていることは、この文化面の力こそ国民のもつ尽きない底力であると考えられる。ここに紹介する20人もの作曲家が、この戦時下といえども日夜思索しえ、創作に没頭し得るこの国のわれわれは、大きな勇気とともに感謝をも禁じえない。12、13年前の「新興作曲家聯盟」時代こそ過剰西洋化の警告をきいたが、戦争下の現実こそは古き「日本の美」が持続され、日本は間違いなくその方向へ進んできている。それが楽界の中心をなしてきている状態はなんと喜ぶべきことではないか。思い出すままに現在活動中の敬愛する管絃楽作曲家諸氏のごくさいきんの管絃楽作品、執筆中・立案中(これは* 印で記す)をもあわせて記す。 山田耕筰氏 いま58を迎えられる山田の初期作品には、R.シュトラウスやヴァーグナーの影響があることについて一言触れよう。彼らの音楽こそは自然の法則を逆にとって、自然を圧倒しようとする生々しい人間臭で満ちているのに反し、山田の「マグダラのマリア」「盲鳥」「明治頌歌」などにおいては西欧の影響の中にもそれらの技術を極度に「自然」に近づかせて、日本人らしい魂を切々とした哀傷の中にこめたことは、あの移入時代にして日本芸道の高級な様式を正しくこの国に継承発展させ、肉感臭を駆逐した偉大な踏跡なのである。人はまだ、一言たりともこのことに触れなかったが、様式とは西欧大家の忠実な模倣からは創作されない。芸術院会員の山田はいま、檜町でオペラ「香姫[シャンフェイ]」を執筆中とのことである。 清瀬保二氏 「日本舞踊組曲」(1939年)カンタータ「みいくさに従ひまつらむ」(1943年)「萬葉曲集」(1942年)。*「小交響曲」。清瀬がいつも平明な音楽を作るといって責めることはやめようではないか。かりにいま、日本の他の芸術について考えてみると、日本人は絵の最高の様式として墨絵をしあげたし、日本建築から導かれた結果は木造の簡素な幽玄な茶室という様式だった。それらはいかにも発生的であるかにみえて、しかし究極の表現だったのだ。このことからしても西洋の意欲的で肉感のある感じが、そのままわれわれの音芸術の尺度になるとは考えなれないのである。清瀬の作品がこの水墨画と同様の焦点に立っているものとすれば、彼の音楽がいたって純化され平明化され、しかも深い綜合性をもった、言い換えれば生活的要素を多分にもっているという私の考えも肯けるであろう。彼は15年前の初期から傾向こそ違え、常に平明化へと苦しんできた作家なのだ。 箕作秋吉氏 「二つの詩」「古典小交響曲」「第一交響曲」(ヘ長調 第1楽章: 序曲<大地を歩む>−第2楽章: 間奏曲<大洋の挽歌>−*第3楽章: 終曲<凱旋行進曲>)。この海軍士官の夢見るような美しい音感、微妙な色彩を崇め讃える人は正しい。しかしまた、彼の音楽のスケールが小さく、圧力がないという別の人たちの非難も理解できる。ベートーヴェンやベルリオーズのように強い輪郭によって現される音楽によって慣らされたわれわれの耳には、威圧の力こそきわめて貴重であり自然な表現要素であるが、箕作のとった手法はそれを無視した方法であったのだ。彼のもつ精神はハッタリのかわりに、あくまでも具体的にして少々かたちがつつましいことが第一の意図なのである。彼の作品はさりげなく始まりさりげなく終わる。それは人々の心に広がろうとし、やがては自然にまで溶け込もうとするありようなのだ。日本のもつ内面的消極的な深い美だ。さすがに十数年も前から日本和声を提唱されていた氏の魂の現われなのである。 池内友次郎氏 「熊野」(1942年)「四季−四章−」(1943年)。*「交響組曲」。池内の作品の表現が控えめであることをもって作家の魂の「無」なることをふれ回るのは大いに見当違いである。彼の音の淡さは、けっして無でもなければ停止でもなく、むしろ味のある余白なのだ。それは後退どころか前進した積極性をもつ、あやしい空気を感じさせる。この空気こそ聴く人によって無限に広げられ、この余白によって彼の音楽は完成されるのだ。「熊野」と「四季」を聴けば、彼が本当の日本人としての要求と嗜好とにあわせて音符を書いたことが知れる。彼は調布という田舎に引っ込んで日本人作家としての魂の戦いを立派に実践している。(つづく) 尾高尚忠氏 「芦屋乙女」「みだれ」「交響組曲」(1943年)。*「チェロ協奏曲」。華麗で豊かな作品を書く作家。独自の境地をこだわりなく流動させる点で、邦人としては珍しい天分をもっている。尾高は深い感動の混沌に正面から敢然と戦う力と図太さがあり、音楽的姿像を作りだす雰囲気をもっている。 橋本國彦氏 「交響曲イ短調」(1940年)カンタータ「英霊讃歌」(1943年)。*「交響曲」*国民歌劇。芸術作品は作家その人が重要な問題となる。それは、作品に表現されたものの裏にひそむ内面そのものが主要な成立要素をなすからであろう。皇紀2600年のために「交響曲」を書き、山本元帥のために作品をものしようとも、それが決して際物にならず感動させられるのはなぜだろうか。橋本は「斑猫」や「お菓子と娘」などにみられる器用さからは脱皮して、さいきんはその器用さを極力抑える。なにか表面をすべらない抵抗を感じるのは表現の背後に働いている人間の振幅にほかならない。近年筆まめになりつつある彼にジックリとしたフランクの交響曲のような作品を与えてほしいものだ。 安部幸明氏 「小組曲」「セロ協奏曲」。*「管絃楽変奏曲」*「小交響曲」。作曲界から抹殺できない作家であるどころか、老年どのようなかたちに大成するかわからない不思議な存在だ。マーラーの影響はあるとしても決して独創性や新奇を追及しない。それでいて古いかといえばそうではなく、おっとりとした調和を書きつけている。だから安部は「ペトルーシュカ」のスコアにいくら魅力を感じてもそれを模倣しようなどとは思わない。 江文也氏 「籃碧の空に鳴りひゞく鳩笛に」(1942年)「世紀の神話による頌歌」(1943年)「木管と管絃楽のための詩曲」(1943年)。*「孫悟空と牛魔王」。日本的作家というよりも「大陸作家」として自他ともに考えようではないか。日本人のまったく持ちあわせない大掛かりなものをもっているし、彼の作品にはエスプリの卓絶さは乏しいものの、それは対象の性格と大きさにふさわしいものをもっているのでそれ自身完璧である。山田は江に創作作品としての美よりも、あらゆる素材的関心を超越した高さに貴重なものを感じるのである。 伊福部昭氏 「ピアノ協奏曲」(1942年)「交響譚詩」(1943年)。*合唱・ピアノ附交響曲。北海道在住の伊福部ほど完成による赤裸々な日本人としての表現をする人はいない。彼は作品に生命を与える手段として客観的な要素を捨てて、対象の中に自らがとびこみ融合する。自分をではなく対象を立てようとして苦悶する。近作「交響譚詩」のもつ構成とは、なんと日本的性格をついたものであろう。それは知性のチの字も出さないが、はっきりとした知性認識のうえに立っている。究極は案外諸井三郎と同じ日本的構成という目的を探求しているのではなかろうかと思わしめるほどである。 諸井三郎氏 「提琴協奏曲」「チェロ協奏曲」(ともに1939年)「交響的二楽章」(1942年)「交響幻想曲」(1943年)。*「第3交響楽」*交響的楽劇「一人の兵士」。大作を次々と書く諸井は、ともすると西洋のスタイルの模倣影響者だと説明される。両者の近時を発見すると、本家は西洋、模倣は諸井と決めてしまって少しも怪しまないのはなんと不思議なことであろうか。「交響的二楽章」には日本人特有の形成が根底からにじみでている。いや、自国的な一種の宿命をすら鋭利に感じて心を打たれるのである。交響的楽劇は「能」的性格を音楽によって形成しようとするたくらみである。 深井史郎氏 「ジャワの唄聲」(1942年)「大陸の歌−五章−」(1943年)。*「交響曲ハ調」*オペラ「敵国降伏−元寇の役を主題とする−」。3、4年前のスランプをのりこえて、いま彼の創作欲は脂がのっている。深井の音楽にはつねに重量感があり、また巧みな管弦楽技術はこの重量感を深めている。ラヴェルがトランクならば深井は信玄袋だ。ラヴェルが新しい技術を発明するごとに皮のトランクは金属製になり、次にはエナメルが彩られ、さらに立派なレッテルが貼られてきれいになるかわりに、心の中がだんだんと繊弱になる。深井の信玄袋は綿紗が緞子になり、次にはより紐の色にも渋みが加わり、はては底板も立派になるという具合だ。しかも厚みによって、われわれの心と生活にしだいに密着したものが作られていくのだ。(つづく)  小倉朗氏 「交響組曲 イ短調」(1941年)「ピアノ協奏曲」(1943年)。*「管絃楽変奏曲」*「パッサカリアとフーガ」*「交響曲」。堅牢で純粋な古典を愛し、カルテット作曲こそ作曲家に鞭打つ材料であるという小倉の態度はまさに正しく、彼の作品にはどこにもごまかしや空虚はなく、強がりも偉がりもない。そして与えられた小さな材料ですら、実に微妙なところまでも美意識を働かせる芸術家らしい才気がある。彼の構想はあまりにも古典的に生かされるので、人々は独創性不足だなどという。しかし、彼の創作過程は近作「ピアノ協奏曲」にみられるように、いかに肉付けをし、いかに表現を推し進めるかに苦しみ、また制作中に涙を流して感激していたのを見ていると、むしろ芸術における技術以上の世界があることを小倉によっていまさらながら示されて驚く。 渡邊浦人氏 組曲「戦詩」(1943年)音詩「闘魂」(1943年)「満洲の子供」。渡邊の音楽は野生的であって、しかも素朴かつのびのびとしている。だから時に応じてその本質としての力を発揮するが、ジックリとした自己形成というおちついた精神の雄軍というには、まだ時間がいる(作家になってからの時間が短いため情状的酌量がある)。それにしても、トーンの正しさと高価の好ましい結合とは渡邊の天性にかかっているといえる。 大木正夫氏 組曲「南支那に寄す」(1941年)交声曲「神々のあけぼの」(大木敦夫詩 1942年)「子供の国」(1943年)。*「仏像に題す−法隆寺にて−」。いつも忙しそうな口調で作品制作中の報告をする。大木は自分の五線紙に夜となく昼となく埋もれている芸術家である。この人の作曲に心惹かれるのは、表現にいたるまでの真摯さにある。たとえ「みたみわれ」序曲のようなさもしい作品においてすら、それは単なる頭脳による構想にとどまらず、肉体的にじかにその構想を苦悩している姿がみえるのである。そして作品の対象は対象以上のものになっている。それは彼の頭の苦悩というよりも肉体の苦悩が切実に感じられるからであろうか。この肉体感が表現の裏に潜むということは、日本のあらゆる人生観・芸道についてみられることで、それを通じて目的に達する「行」の精神の作曲家といっても良いだろう。小智では見当がつかない東洋の新しい美の発見こそ大木の優れた直観と「行」とにまつところが多い。 平尾貴四男氏 カンタータ「おんたまを故山に迎ふ」(1941年)「砧」(1943年)「日本民謡組曲」(1943年)。*管絃楽序曲、*舞踊劇、*歌劇。平尾の人柄に接すると、日本人らしい素直なはにかみを感じ、それが明らかに作品に滲み出ている。この現象は作曲を、内面の深度一筋に探求させる結果となっている。フランスでの作品「隅田川」には老いの芸術、さび、あわれ、幽玄などといわれる要素を感じさせ、近作「砧」その他では「美」の勘によって楽曲を彩り、平尾らしい内気なきらびやかさを身につけはじめたことに気づく。いままであたかも古き日本、老いの日本の情越のみを平尾のみならず全作家の中にみいだそうと苦心し、欲したかのように綴ったかもしれない。しかし、いまこそわれわれは、日本人としての生き方として誠実であればいいのだ。それに徹することこそもっとも高い芸術的な肯定となる。そして現実の日本の動きに、どういう作品を書いたら国家に捧げられるのだろうかと真摯な意欲に燃えた作曲家がどれほどいるかである。音楽家はいい作品を書けばそれがすなわち職域奉公だと考える、悪意のない「芸術家」モラルが浮遊していることに深く反省したい。市川都志春氏、早坂文雄氏の作品はあまりに聴く機会がなく、将来を嘱目されている小林福子氏、戸田盛國氏についても紙面がなく心残りである。さいきんの新人に、先輩を敵ととってもっともらしいことを言うのは何と悲しいことであろうか。山田は各作家の中にひそんでいる、今日のわれわれのよりどころとなるべき要素を汲み出して、ただただ一つの向かうべき世界を見出そうとの情熱によってペンを進めたのである。いまこそこの日本を関心の焦点とすべき日本人は、お互いに勇気と敬愛をもって働こうではないか。(完)
管絃楽作曲 /渡邊浦人
同じ作曲に志す若い人たちの捨石になるならと、自分の半生について書くことにした。自分が初めて音楽を勉強し始めたのは15歳くらいのときである。豊島師範(現在の第一師範)の管絃楽団でヴァイオリンの手ほどきを受けて弾いているうち、猛然と音楽をやろうという望みをもつようになった。卒業して小学校に奉職するからわら、同好の卒業生と豊島管絃楽団なるものをつくって弾いたり、指揮をしたりするうち管絃楽に対する理解が少しずつでき、山本直忠氏についてドイツ的な作曲について約10年間指導を受けた。やがて、どうしたら日本の音楽を世界的水準にまで高められるかと考えるようになった。そして多くの管絃楽曲を学び音楽書を読んで、音楽史上名をとどめている人々は必ず「新しき美の創造」をなしていることに気がついた。では、新しき美はどうしたらよいか。早坂文雄氏を知り「我々の芸術は民族的原始性から出発することによって世界化する」という言に深く共鳴した。まず古典を、次いで在来の日本音楽を研究し、日本民族の偉大さや深い美に感動せずにはいられなかった。外国の模倣がいつの間にか日本特有の美の中に溶け込んで、それ以上の美を生んでいる幾多の事実が認められ、そうした発展性をもつ美こそけっして他国に負けないものである。原始の美を失わないことによって文化が永続し発展してきた事実は伊勢大廟によって表現される。その前では日光の美のいかに貧弱であることか。/ある批評家は、民族音楽はたしかに民族固有の面白さをもっているが、一地方音楽の域を出ず世界音楽とはいえないと言っている。しかし、その民族音楽が一地方の音楽に終わるか世界文化に貢献するかは、作品そのものによると思う。ベートーヴェンの作品は芸術的に高められたものがあるからこそ、ドイツのみならず世界的になり得たのである。純粋な芸術に国境なしである。日本の音楽もすぐれた原始性が高く表現されたとき、必ずや世界文化に貢献し得るのである。世界の創作活動の中心はイタリアからドイツへ、そこからフランス、ソ連へと移ってきたが、今度はいよいよ日本でなければならない。それをなし遂げるには、現在第一線で働いている外国の作曲家を深く研究しなければならない。それらと照らし合わせて日本的なものによって、それ以上に高度なものを心がけなくてはならない。われわれが競争するのはバッハやベートーヴェンではなく、ロシアのストラヴィンスキーやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハンガリーのバルトークやコダーイ、イタリアのマリピエロ、ピツェッティ、レスピーギ、フィンランドのシベリウス、ブラジルのヴィラロボス、メキシコのシャヴェーズなどであり、彼らに勝つには日本民族特有の美を発揮することが近道である。神楽、雅楽、その他の古代音楽、長唄、常磐津、浄瑠璃、清元などのそのものを管絃楽化するのではなく、その真髄を掴んで管絃楽化することである。古代の防人の精神は、いままた南に北に大海原に大空に、新しい息吹としてよみがえっている。/自分はあくまで国民学校に教師であるかたわら作曲をするつもりである。児童の教育に全身を打ち込むことと作曲をすることは、ひとつも矛盾を感じない。子どもの成長はすばらしく、しかも新しい部面の成長は日々指導に当たっている自分でさえ驚くことがある。そして第一線の将兵と同じ心で作曲することによって、日本の音楽がやがて世界の文化に貢献し得るささやかな捨石になればと思う。
信時潔の歌曲作品 /木下保
こんどの第10回独唱会は日本語の、しかも日本人の一人の作家の作品を一晩にまとめて歌った。これまでは、だいたいドイツ歌曲の移り変わりを発表してきたが、それを回顧して、いよいよその知識と経験をもって日本歌曲による独唱会を行なったのである。さて独唱会を開いてみると、日本語の発声法や日本歌曲の歌い方に経験が少なかったせいか、難しいと痛感した。いまさらそんなことを感じるというのは日本人の一人として、あるいは日本の歌手として恥じ入るしだいである。日本歌曲に対する不勉強を取り戻し、立派なものを生み出したいという希望に燃えて緊張した気持ちで勉強することができた。とにかく1943年9月19日に独唱会が開かれてから、この会がひじょうに有意義であったこと、いろいろな問題を投げかけたという意味の手紙が多く寄せられ、とくに青年層の人たちからこの時局下、日本の作家の作品を自分たちの手で開拓したい希望をもっていたという手紙もあり、自分としては共感を得られてひじょうに喜んでいる。手紙の内容はいちいち挙げないが、そこには青年の希望のようなものが現れている。それはこの時局下、厚生音楽のようなものに身命を打ち込むことは覚悟して実践もしているが、その一方で在来の長い伝統をもつ芸術的実りのゆたかな歌も自分の精神生活の向上なり、歌手としての技巧、教養を不断にたかめていきたいという熱意である。/そこで個々の演奏について勉強中の苦労話をご披露すれば、これから勉強する青年に何らか得るところもあろうかと思うので、少しく述べたい。まず土岐善麿訳詩の「鶯の卵」から(イ)<絶句>。この歌では、純粋な日本の母音で音が飛躍する場合に、母音の調節がひじょうに難しく苦慮した。(ロ)「示談」では、高い音で日本語の「ウ」という母音が続く箇所はひじょうにやりにくいと感じた。ドイツ語の「ウ」とちがって日本語のそれは比較的上部に共鳴の箇所があるので、音が痩せてきこえる。この「ウ」と続く母音とのつながりの比例ひじょうに難しい。(ハ)「鹿柴」はピアノの曲に朗読を交えていくもので、どのくらいの音程でどのくらいの大きさの声を出したらいいのか、調子をつかむのになかなか骨が折れた。しかし作品が上手くできているため演奏効果はすばらしいようであった。(二)「張節婦詞」のさいごの段の<良人瞑目黄泉下>は東洋人でなければ到達しえないような歌詞であり音の表現であるため、単純な音にそれだけの意味を含めて歌い流すということは、技巧的にも内容的にも苦労があった。将来こういう気持ちの歌はたくさんつくられるに違いないから、この精神的内容とこの表現の技巧は日本人の歌手であれば一人残らず極めて欲しいと思う。2の「沙羅」の8曲を総括して考えると、この中には日本人でなければ到達できないような心境、さらに日本古来の言葉つき、より具体的には能の表現のし方を考えて、われわれがこれから築いていかなくてはならない発声法で、能とは違った技巧で日本人に現代の表現法というものを築いていかなければならないことなどが意外に苦労であった。また西洋の歌曲は思ったことの100%を表に現すのに対し、日本語の歌曲では思いつめたある小部分を鋭く表して、それで思いの全体をこめたものを感得させる。これを技巧的に考えてみるとひじょうに難しい。すなわち極力表面的な表現を避けて、もっぱら内面的な表現を用いて全曲を歌いこなさなければならない。日本精神を現すうえに、これからの技巧的修練のヒントを得たような気がした。3の与謝野晶子作歌の「小曲五章」の段では作歌者が日本の女性作家であるせいか、女性的な表現法に自信がなかったのであるが、それでもいくらかは作歌者や作曲者の意図を表現したつもりである。第二部に入って4.「小倉百人一首より」。技巧的には特に難しいところはないと思ったが、筝唄や民謡調、あるいは古典的な旋律が多分にあるので、それらの特徴を心得て歌わないと見当違いの表現をする恐れがある。5.の小品集も、だいたいこれまで述べてきたいずれかに該当するが、ただ<野火>については、日本語としては珍しく早口な曲である。日本語は西洋の言語と比べて子音が少ないため、母音をてきぱき変えていかないと何をしゃべっているかわからない曲になる。充分な早口の練習が必要だった。6.の北原白秋詩の「小曲集」は、ただ白秋独特の情緒を詩的にいかに表現するかということに心を砕いた。7.の(イ)、蒲原有明の「茉莉花」。この曲は演奏時間が7分以上かかる、日本の歌曲としては相当長い部類に入るものである。いろいろの変化の中に、叙情的、劇的あるいは叙事的なものを織り交ぜて曲に一貫した感じを与えてゆくことに苦労した。同じく(ロ)の橘曙覧の「獨樂吟」は日本の歌曲としては珍しくほがらかな曲なので、明るい母音を使いながら歌いとおすことを心がけたつもりである。同じく(ハ)は与謝野寛の「短歌連曲」。この曲はかなり劇的な表現が使ってあるが、西洋の曲を勉強した者には苦労なく表現できるもののように思える。この独唱会を振り返ってみて、日本のあらゆる芸術分野と西洋の芸術を比較して、日本的精神文化とでもいうものは西洋のそれと比べて緻密で、静かで、しかも簡素で枯淡の味わいがあり、さらに後味が相当長く続くと思われるものが特徴となっている。その立場からあらゆる技巧の根本の裏づけをしないと、いわゆる日本的表現の万全を期し得ないということを痛切に感じ、技巧を学理的に体系づけることが、われわれの目下の任務であるように感じた。
民謡風土記(秋田県の巻) /藤井清水
東北6県は優れた民謡に富んでいるが、わけても秋田県には明快で歯切れのいいものが多いと思う。一口に「東北民謡」といっても、県別に概観するとそれぞれ特殊な色調をもっているように感じられる。もっとも現存するほとんどの民謡は、旧幕府時代あるいはそれ以前に発生したものであるから県別に考えるのは当を得ないが、相馬藩、会津藩、伊達藩、南部藩、津軽藩などと考えていくと、それぞれの藩領における人情風土の影響が民謡に反映しているということは、容易に首肯される。/さて、秋田県での代表的民謡に富んでいるのは仙北郡を筆頭に、鹿角郡、由利郡という順であろう。秋田民謡といえば誰しもまず「おばこ」を指すだろう。秋田では土地本来のものといっているらしいが、一説には、元和のころ唄われていた庄内(山形県)地方の「庄内おばこ」を馬方が仙厳峠越しに鹿角郡に行き来していた当時、その中途にあたる仙北郡の田澤村に置き土産したものがひろまり、静かな山間の気分に融け込んで原曲とはよほど変わった「田澤おばこ」になったのだとも伝えられている。仙北地方では、ほかにもいろいろな「おばこ」があるが、それらを総括して「仙北おばこ」ともいう。「庄内おばこ」は単純素朴だが、「仙北おばこ」はとても複雑化していて、前者とは別個のもののようにさえ感じられる。一般に世間で「おばこ」といっているのは山形県の「おばこ」で、これは誰にも覚えやすく唄いやすいが、秋田県のはなかなか歯に合わない。/「おばこ」と並んで秋田民謡の雄に「秋田音頭」が挙げられるが、旋律は笛だけにあって歌詞は唄うのではなく、地口めいた文句を囃子のテンポにあわせて「云う」のであるが、ところどころに掛け声が入って明快である。その内容は郷土を礼賛したもの、滑稽味をあらわしたもの、風刺的なもの、そして猥雑なものなど種々雑多である。なお、雄勝郡西馬音内(にしもない)町の盆踊り唄、仙北郡の「仙北音頭」も囃子や踊りは、多少相違しているが秋田音頭と同系のものである。仙北郡には「生保内(おぼない)節」「ひでこ節」などの傑出した唄のほかに、「祭文林坂」「荷方節」「きよぶし」「姉こもさ」などがあるが、角館町の鎮守祭りに奉納する「お飾(やま)囃子」は純粋な意味での民謡とはいえないにせよ、仙北地方の代表的なものであろう。/鹿角郡には「湯瀬村コ」「毛馬内(けまない)甚句」「検校節」「そでこ節」などがある。尾去澤鉱山の作業唄「石刀節」は現代的感覚を有し、比較的新しいものと思われるが、いわゆる新民謡的な曲趣の中にも胸を打つものがある。(つづく) この夏、放送協会の民俗資料調査の仕事で東北地方の神楽、獅子舞、番楽等の調査採譜に巡歴したおり、花輪町に向かう途上で、すでに採譜した「湯瀬村コ」の純朴な歌詞曲調を通じて美しい幻想を抱いていたこの湯治場が現代的な温泉郷となっていることを車窓から瞥見して幻滅した。毛馬内町の盆踊りは「大の坂」と「毛馬内甚句」の両方を踊っているが、「大の坂」(上方から移入)の唄はなくなり笛と太鼓だけで踊り、「毛馬内甚句」は唄だけで踊っている。1943年7月31日には花輪町で民謡を7、8曲採譜したのち、毛馬内町の素封家本田健治氏宅で、「大の坂」の歌詞を記憶しているお婆さんをリヤカーで連れてきて、盆踊りの実演を見せてもらった。84歳のその人が唄を知っている唯一の生存者であってみれば、民謡の考証上貴重な国宝的存在である。仕事に取りかかると退色しきった古写真を再生するようなもので、お婆さんの曖昧模糊たる音声は、さながら幽界の声である。作譜の技術を活用してともかくも楽譜のかたちにした。民謡の採譜は並大抵ではない。/信州追分の馬子唄が越後を経て蝦夷へ渡り、海の民謡に更生したのが「江差追分」や「松前追分」だというのが定説になっているが、越後からの海路を佐竹藩に寄り道したものが「秋田追分」だという。ところで由利郡の「本庄追分」は信州の地元から越後の海岸づたいに本庄に根を下ろしてこの追分となったそうだが、その節調は信州の馬子唄としての原曲とも、今日の追分とも全然別個のものに思われるくらいにその形態、曲趣が相似しないのはなぜであろうか。/南秋田郡には「あいや節」や「出雲節」の流れを汲む「船川節」などというお座敷唄がある。研究的興味を惹くのは「三吉節」であろう。すなわち「荷方節」「松坂節」「検校節」「八澤木節」は皆同系統のものだといわれるが、採譜してそれらを対照してみても同様の推測が下される。県内の代表的民謡か主としては仙北の黒澤三一、由利郡の加納初代がいる。横手町の染子という芸妓もなかなか達者で仙北の「生保内節」「ひでこ節」などが得意らしい。ほかに一寸平姐さんの「岡本新内」も折紙つきらしい。/秋田民謡を今日あらしめたのは、仙北郡中川村の小玉暁村翁の功績が大きい。翁はもともと教育家であったが、その一生を秋田県(とくに仙北郡)の民謡の研究と指導にささげ、自分でも達者に唄ったり太鼓をたたく腕前をもち、郷土の民俗芸能や民俗史的研究にいたっては県内随一の学究だったが、還暦を過ぎたばかりの一両年前に急逝された。この夏には町田嘉章とともに遺族を弔問し、墓所にも参詣した。(完)
映画音楽時評 /深井史郎
もっともいい作品を出さなくてはならない現在において、映画作品は全体に一時より質が低下しているのではないかと思う。情報局の人も関係して、日本音楽文化協会の中にできた映画音楽改善委員会というものがある。深井はこの会に大いに期待をし、同時にその運行の仕方を見て成果を危ぶんだ一人である。現在、この会がどのような運動をしているのかまったく知らない。外部に知れた限りでは、大木正夫を動員して大映で一音楽映画(?)を製作し、また映画会社の音楽企画担当の人々と談合したり、マネージャーのように作曲家を現場へ紹介しているようである。この委員会に対して不思議に思うのは、その作品の質に関してもっとも責任のある作曲家ないしは直接の関係者がいないことである。こういう考えを持っている人は、まだほかにもいるであろう。/映画「海軍戦記」にはシベリウスの「フィンランディア」やR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」がレコードによって堂々と場面に当てはめられており、画面には感激しながらも、作曲家としては耳をおおって赤面した。この映画が外国へ行く。この屈辱はだれの責任か。さっそく音楽改善委員会の園部三郎には報告したが、その後録音のやり直しもしないで映画は外国へ行ってしまったらしい。しかもシュトラウスの曲はクーセヴィツキーとアメリカの交響楽団だとすぐわかる。なぜあの時、われわれの責任において録音しなおすよう当局に迫らなかったかと後悔している。しかし、もしあの時当局に迫っていたとしても、はたしてその考えが受け入れられたかと考えると悲観的になる。映画検察官も映画批評かも多くいるし、映画音楽批評かも少なくない。「海軍戦記」はそうした人たちの前であの「音」といっしょに映写された。その道の権威者は問題なく(音楽も含めて)この映画を通し、しかも推薦のレッテルさえ貼っている。さらに紙面を持った人たちでさえ、深井が考えた問題には触れていない。とすれば深井が赤面したのは、単なる一作曲者の感傷であろうか。以上は一般ならびに指導者の、音楽に対する一例である。映画音楽作家、ひいては映画音楽改善委員会が遭遇しているのはこういう状態である。ブローカーのような役目を引き受けて現場に人を送り込むのもいいが、改善ということについてこの委員会のやるべき問題は、もっとあるのではないか。特にこの委員会が日本音楽文化協会の中にできたということを考えてみてもである。
楽壇戦響 /堀内敬三
出版に臨みて 
新しい音楽専門雑誌『音楽文化』は本号を以って発足する。皇軍の軍楽隊は、いま砲弾の中や敵地に、あるいは海上遠くに転戦している。銃後の音楽は、戦力の増強、皇民意識の昂揚、盟邦との結合、敵地住民の宣撫に、その全力を尽くしている。今回の音楽専門雑誌の統合は、いままで各雑誌がもっていた多くの弱点を除き去り、真に戦時国家有用の機関とすることを目標として行なわれた。その一元的な編輯・運営に当たることを許されたわれわれは、この重責を自覚し、あらゆる努力をささげる覚悟である。1冊の音楽専門雑誌は、それぞれが幾百人幾千人の国民を指導する音楽者に、必要な資料と楽譜を提供する。1冊と1冊を比較するなら、音楽専門雑誌は他のいかなる雑誌よりも利用価値と影響力が大きい。この点に責務を痛感するのである。われわれは『音楽文化』を「商品」とは見做さない。これを以って私利追求の具とはしない。読者諸氏もこれを「楽壇の公器」として活用し育成していただきたい。
一緒に戦はう 
よく楽壇は一致していないといわれるが、党派的な対立や組織はない。ただ楽壇人は個々別々に働く職能人であり、同時に教育程度が高いから自尊心も強く、したがって協力を嫌い我意を張るような傾向はある。そんな了見でいては今日の時局に処することはできない。この戦いに勝つためには、銘々が勝手な説を立て、ばらばらに働いていたのでは成し遂げられないのである。楽壇の中枢をなすべきものは日本音楽文化協会である。これは情報局と文部省との共管する国家的機関である。全楽壇はこの団体の中に一致しなくてはならないのに、これと関係なく多くの団体が存在している。それらの団体は日本音楽文化協会に吸収されるか廃止されなくてはならない。今日の時局に楽壇だけが無統一でいることは許されない。日本音楽文化協会は任意の同志的結合ではなく、包括的な協力機関である。協会に対して不満をもつ人があるかもしれないが、「気に入らんから俺は別だ」というわがままな態度をとってはならない。われわれはいっしょに戦うのである。
演奏会の企画 
東京では芸能関係の取締りが強化されて、演奏会もあらかじめ書類を提出して許可を得なければならなくなった。これは決戦下に不必要なくだらない演奏会を葬るためである。たとえば、「研究」のためと称して行なわれる修行中の門下生や未熟な演奏者の独奏会、独唱会、温習会などは禁断されてよい。発表に値するか否かは主観的な立場から決めるのでなく客観的な立場から決定されるべきであるが、これは教師やマネージャーなどにも見当がつくことであろうと思う。また娯楽価値のある演奏会も必要である。これに対しても内容さえ良ければ弾圧はないと思う。まじめな独奏会や独唱会を催す専門家に対しては無理解な拘束は行なわれないであろうが、特に新進の人たちに対しては独唱会、独奏会をいく人かの音楽家が共同して行なうことを勧めたい。経済的にも楽だし聴衆も喜ぶ。曲目についても充分な検討を加え「この曲を演奏する必要があるからやる」という具合であってほしい。
勝利への道を築く 
大日本産業報国会と日本放送協会の共同主催による第3回勤労者音楽大会が1943年9月から10月にかけて、各府県→地方ブロック→全国の順で行なわれた。全国の分は10月下旬なので本記事には間に合わないが、合唱・ハーモニカ合奏・吹奏楽を通じて1万5千の産業戦士が音楽の技を示したのである。産業戦士の音楽は同じ職場の友を喜ばせ励まし、同時に己の心を磨く。音楽をやる産業戦士は概して成績がよく、音楽のある職場は概して能率が良いそうであるが、音楽が直接戦いに貢献していることがわかる。10月3日からの軍人援護週間の初日、東京の日比谷公会堂で「戦意昂揚、軍人援護強化大音楽会」が行なわれ、各地方へは日本音楽文化協会から優秀な音楽家たちが派遣されて、それぞれの場所から「大アジヤの獅子吼の歌」など軍事保護院へ献納する楽曲を発表した。これらの会がすべて好結果だったことは喜ばしい。音楽が国家的な役割を果たし、現実のその効果を挙げていることを考えれば、道楽ごとの音楽を「研究発表」と称したり、「おさらい会」などをやるのは恥ずかしいことだ。音楽家は勝利への道を築くことに専心して進もうではないか。
現代邦楽の伝統 /町田嘉章
能楽家と特権階級 
1943年9月29日付の朝日新聞東京版に、朝日主催で29、30両日に神田共立講堂で開催予定の五流演能の会が、能楽出演者と警視庁との間の技芸証問題が未解決のために中止になったと報じられた。これは去る1940年に興行取締上、技芸者の結束統合をはかる建前から許可制とし、技芸者には技芸証を交付し、その交付者以外には公開の舞台に立てないとの内規を設けた。そして技芸者はそれぞれの部門で協会をつくり、各協会の統治機関として藝能文化聯盟が生まれたのであるが、能楽は公開的なものではなく、会員組織によって演能を催しているのであるから、興行の取締りを受ける筋合いのものではないとの理由で、能楽家たちは技芸証の交付を受けず、したがって藝能文化聯盟にも加入せず、同じ日本の芸能人でありながら全然別種の行動をとってきたのである。しかし五流からボイコットされて別流を立てている梅若六郎の一派だけは、自家の能舞台以外の公会堂や帝劇などに出演する関係か警視庁の技芸証の交付を受け、一般芸能人の仲間入りをした。しかし、五流の能楽家たちは頬かむりを通し、その間朝日新聞社主催の五流合同演能会は昨年も共立講堂を会場に行なわれたが、今年は警視庁も正面衝突をして、ついに中止ということになってしまったらしい。朝日新聞社は斡旋したというが、能楽家の態度を否として技芸証を受けるように促したのか、警視庁に今度ばかりは目こぼししてほしいと頼んだのかは局外者なのでわからない。同紙30日付夕刊によれば、警視庁のこの問題に対する態度は強硬であること、一方能楽家元連も警視庁の態度に服することはできないと五流の家元会議を催すことが掲載されていたが、能楽家がどうして技芸証の下付を受けることを嫌がるのか、また警視庁の取締りを拒むのか、その心理は理解しがたい。能が高級な芸術品であり、それに携わる技芸者は神聖なものであるから一般俗人と芸能人と肩を並べて警視庁の興行取締りを受けることが恥辱だとでも考えているのだろうか。それとも保護者が昔の大名華族連で自由主義万能時代には相当の金権力をもっていたので、そうした特権階級的権力をかさに着て、警視庁与しやすしと考えたのか、いずれにしても今日の時勢を知らなすぎる。われわれ一般芸能人の側からいえば、こんな非協力的な人たちが芸能界に存在することをむしろ恥ずかしく思う。町田はこの問題を捉えて、能楽家の特権的位置について社会史的な立場から考察してみようと思う。
創成期の能は庶民的芸 
今日の能楽は一般民衆とは無縁な骨董的存在と考えている。もっとも観世100万、宝生50万というたとえがあることから、その半分としても相当の能楽ファンがいるに相違ないが、それでも日本国民1億からみれば物の数でもないだろうし、浪花節愛好者の10分の1にほどなので、ごく限られた特殊芸術であることは事実なのである。特殊芸術であっても芸術として優れていればいいのだが、この能楽が明治維新以前、猿楽と呼ばれていた発生時代はもちろん、足利時代に天才結崎三郎元清世阿弥が能をきわめて高度な芸術品に仕上げた当時も庶民大衆が喜んでこれを鑑賞したのであった。この能楽すなわち猿楽の発生は、伎楽の流れを汲んで聖徳太子の頃に秦河勝が伝えたものといわれ、同じく中国から渡来した「散楽」と呼ばれるものがあって、もっぱら曲芸、軽業式のものを演じていたのを寺院に属していた呪師(のろんじ)がまねて「呪師(ずし)猿楽」を工夫して教化の道具とした。これに準じてできたのが「延年」と呼ばれるレビュー式の演芸で、そのなかに劇的な所作のものも含まれ、これを「延年の能」といった。ところが散楽や延年とは別に、田植えのときに農夫の労苦を慰めるために笛鼓を鳴らして歌舞する「田楽」が発生し、これが漸次遊興用化し神事に供せられるようになった。近衞天皇(1801-15)の頃には、これを専門芸とする法師が生じて本座、新座に分かれて芸を磨き、延年の能式に劇的表現の方へ力を入れることになった。これとともに伎楽から出て滑稽な仕料を本態として変化していった猿楽も、延年や田楽の影響を受けて劇的な表現を主とするようになり大和、近江、丹後などの神社に付属して座を構えていた。その中で大和猿楽は奈良春日神社に奉仕するもので円満井(えまい、金春)、結城(観世)、外山(宝生)、坂戸(金剛)の4座(原文には五座とあるが誤り)があり、結城から三郎清次(観阿弥)とその子元清(世阿弥)とが現れて延年や田楽の長所を取り入れて内容の拡充を図り、応安7年、今熊野における催能で将軍足利義満に認められ、楽頭に登用されるにいたった。観阿弥42歳、世阿弥は藤若といって12歳だった。義満は生来芸術を愛し、五山文学を起こし室町美術を奨励し、作動の発達をはかったことなどからして、芸能方面にも相当の理解があったことがわかる。(つづく)
世阿弥と時代精神の把握 
観阿弥世阿弥父子は将軍のご機嫌取りに終始したわけではなく、演能上の目標はあくまで一般大衆庶民の上にあって、身体の許す限り伊賀、伊勢、近江、山城、摂津、河内、和泉、紀伊の各地を巡業した(観阿弥が没した地は巡業先の駿河である)。父なきあとの世阿弥は将軍の庇護のもと、物心ともに何の憂いもなく芸道に精進し、その才能を発揮して、今日でも演じられている曲の7割方を創編曲したのであった。さらにおびただしい理論書を書いて後進を導いているが、『花伝書 別紙口伝』に芸の伝統は形式的な家系筋にあるのではなく魂から魂へ感得していく人にあることを喝破し、また『申楽談義』には、けっして一定の型に固定させずに時代とともによく交渉をもち、創意をくわえて変化させるべきものと説いているのが面白い。将軍義満の没後も義持、義教、義政など代々の将軍が能を好んで庇護したので、世阿弥の残した規格だけは整備拡充されていったが、発展的融通性は乏しくなり、しだいに民衆の手を離れて貴族階級ものとなっていった。そして[室町幕府]8代将軍足利義政の時代になると謡が幕府の儀式として取り上げられるようになり、毎年正月4日には「謡初めの式」が行なわれ、また将軍や貴族大名等の交歓では必ず演能が行なわれ、一種の交際儀礼用具化した。この慣わしは足利氏が滅びたのちも織田、豊臣に引き継がれた。もし当時、世阿弥のように才能に恵まれた能楽家がいれば世阿弥とは別の桃山式能が生まれたであろうに、当時の能役者たちは型を守ることにのみ汲々とし、権力者のご機嫌を取ることに終始した。能を愛する秀吉の精神は、そのまま徳川家康や前田利家等の諸大名に引き継がれ、秀吉が金春太夫を庇護するのに対し家康は観世太夫を登用するというように、政治勢力の移動が能楽家の流儀の運不運を左右した。
猿楽五流家元の確立 
家康の没後、その後継者である秀忠は元和元年に能の家元として観世、金春、宝生、金剛の四座を確認した。これらはいずれも大和猿楽に属し、家としては金春がもっとも古いが観世は世阿弥の直系ではないにせよ血筋を引く関係から主座に置かれた。足利時代に大和猿楽と対立していた近江猿楽の日吉家、山階家、丹波猿楽の梅若家なども江戸幕府の家元制度確認によって四座いずれかへの合流を余儀なくされた。ことに梅若は名家として伝統も古く四座確立に際して一流を立てたいと願い出たが、すでに四座決定発表後ということで観世座のツレの役となった。その子孫が現在の梅若萬三郎、六郎兄弟で、1921年に三井の金権を背に一流樹立を宣言してもめごとを起こした。萬三郎だけは1932年に観世座に復帰したが、六郎一門は今もってがんばり通し未解決の状態にあることは広く知られている。これがいち早く劇場へ興行的進出を企てたり、警視庁の技芸証の交付を受けたりして頭のよいところを見せたものだから、ますます揉める原因を作ったことは皮肉である。さて元和4年には金剛の流れを汲む喜多七太夫が一流を許され、喜多流として四座の仲間入りをして、以来幕府公認の家元は五流ということになった。しかもこの七太夫は豊臣氏に属し大いに徳川氏を蹴散らした勇士で、豊臣氏滅亡後は大和に隠れていたところを、藤堂高虎のとりなしで許されたばかりか日吉、山階、梅若ですら許されなかった家元樹立を勝ち得た。このことによって七太夫が非凡だったことが想像できるが、権力者の処断がいかに芸術家の人と家との将来に大きな運命と禍福をもたらすかがわかる。(つづく) 
幕府の典礼楽としての能 
徳川氏は足利市の例にのっとって能楽を典礼の式楽として用いることにしたが、その内容はいっそう拡大され、また重要なものとなった。すなわち
(1) 謡い初めの式(毎年正月3日、天下泰平祈願)
(2) 御大礼(5日の能)将軍宣下、官位昇進、代替、婚儀、徒移、誕生等
(3) 公家御馳走(1日の能)正保2年後勅使東下より
(4) 御法事(4日の能)
このうち「謡い初め」は足利幕府では正月4日に行なっていたのを豊臣秀吉が2日に繰り上げ、徳川氏の承応3年から3日にしたものである。その法式は観世が毎年、喜多も毎年、その他の家は順番に勤める掟になっていた。近年、ラジオ放送の開始以来、毎年正月元旦に観世家元がラジオで小謡を放送するのは、この藩政時代の謡い初めの式をかたどっている。また公家の御馳走能は毎年1回必ず行なう慣例となっており、御馳走役は各大名が交代で行った。忠臣蔵事件の発端をなした浅野内匠頭の殿中刃傷は元禄14年3月14日の御馳走能当日に起きた事件だった。このように幕府では能楽をひじょうに重視したため能楽太夫を厚遇し、これにしたがう諸大名も争って能楽家を召し抱え、扶持を与えて生活を保障した。権力者が与えたそうした恩典は、しかし芸術的にはむしろその進歩発達を阻害したと言い得よう。なぜなら彼らは将軍や大名を相手に古い能を繰り返し繰り返し演じていれば職責を果たせたわけで、精進するところは技術的習練だけであった。そして得たものは自らを高しとする気位だけであった。それも旧幕時代ならまだしも、一億国民皆陛下の赤子として自らの職責を尽くしている今日、いくら華族の後押しがあるといっても丁髷時代の妄想にふけって、国家総力の必至態勢である統制に盾つくかのごとき態度は身の程を知らないもので、まことに慨嘆に耐えないしだいである。(完)
音楽時評
1943年9月22日、内閣は国内態勢強化方策の大綱を発表し、軍需省の設定、農商省と運輸通信省の新設を決定した。また17業種の男子就業禁止をも発表し、ここに画期的な強化態勢が成立した。これに対して楽界の歩みはいかなる方へ進むべきか。徹底的な切り替えは一刻も猶予はならない。とはいえ、作曲家が創作活動から離れ、演奏家が音楽の練習を放棄し、批評家が批評精神から脱却する必要は毛頭ない。楽壇が一致結束して壮大雄渾な日本音楽文化の建設に励むと同時に、音楽を真に決戦生活のそれにしなければならない。// 1943年9月19日に日本青年館で行なわれた木下保の独唱会は意義深いものであった。信時潔の歌曲作品だけを曲目に盛るということ自体、独唱会というものの既成の考え方では律しきれないものである。作品の巧拙はいまは第一義的に論ずべきことがらではない。われわれの手でわれわれの作品を育て上げなければ誰をその役目を果たすのか。作品の巧拙は、そのうえで問題にされるのだ。もういまごろは日本人作品のみを演奏するエキスパートが出てきてもよい。しかし芸術家として世に問うのはシューベルトでありショパンであると考えている。これはもちろん清算されなくてはならず、今後は、声楽家もピアニストも日本人作品を世に問う時代が来るにちがいない。また、そうならなくてはならない。「音楽の植民地」から「音楽の独立国」に成長する時代はとっくに来ているはずだ。// 通俗音楽(軽音楽を含む)の副題には考えるべきものが多いと思おう。今日の日本には芸術的な作品でありながら、しかもなお通俗性をもつことが必要なのである。一足飛びに欧州の爛熟に列しようというのは一種の錯誤である。「楽しい音楽」というか、回りくどくものを考えなければわからぬものでなく、直に心をうつような作品が望ましい。この意味で日本音響が募集した管弦楽作品のうち伊福部昭の「交響譚詩」は、さいきん出色のできである。// 音楽雑誌の統合が行なわれた。他の芸術部門の雑誌に比べると案外早く、また手際よくできたのである。6誌の経営者が真に時局の要請を認識して、すばやい転換をなしたことは慶賀に耐えない。しかし、問題はやはり今後にある。すなわち新たに創刊される2誌の使命と責任の重大なことである。衆人環視のなかで創刊される音楽雑誌は、その運命を決する鍵をにぎっている。ほとんど同時期に楽譜の統合問題が出発していたにもかかわらず、原則的な意見の一致以外なんらの曙光も見えないのははなはだ残念である。一日も猶予はない時期であると思われる。
如何にして音楽を米英撃滅に役立たせるか
音楽の戦闘配置 /大木達夫
音楽は軍需品なりと、ある大佐が言った。しかしすべての音楽がいまのままで軍需品だと保証するわけではない。刺のある音楽や感覚の外れた音楽家というものが、一億戦闘配置の役に立てるであろうか。いまや音楽も一切を挙げて戦闘配置につかなくてはならない。策はどうか。すでに政府が敵性の音楽および非時局的なものの一切を禁止し、大政翼賛会も国民運動の分野から特に推奨すべき国民歌数十種を選んで楽譜を出版し、レコード文化協会に協力して用いるべき音盤の選定を行った。また、今年2回にわたり国民歌唱指導隊が全国に派遣されたことも記憶に新しい。しかし、これだけではよりよいものが積極的に生まれない。対策を決定するには、音楽がなぜ一億決戦の軍需品たり得るのか、その本質を掘り下げ、長所を摘出拡大して、建設への熱意の昂揚と方向の確定に努めなくてはならない。そしてその前に、音楽は人間を通して生まれるという現実にかんがみ、日本的なよい音楽の創成と戦闘的な厳しい表現の完成を望むには、音楽関係の一切の人を立派な皇国臣民に練成して国体の本義に徹せしめ、この戦争が聖戦である本質をさらに強く正視させ、皇国臣民としての正しい自覚と感激とをもって戦争完遂に挺身するよう指導することが必要である。同時に音楽家は社会環境の改善を計り、国家公共の諸施設の保護と助成に勤めることも忘れてはならない。[音楽家の]人間としての質の向上については、練成会の断行も一方法であり、音楽家の日常生活を練成道場化する工夫が大切である。日本音楽文化協会[以下、音文・・・小関]が結成する音楽挺身隊は、国民運動への寄与ないし各種の慰問活動の実践課程を通じて立派な練成をするであろうが、もっと手近なところに練成の機会はいくらでもあろう。戦局の緊迫に対しては、官民一致の努力が良い音楽の創成とその環境の醸成とに注がれなければならず、政府、翼賛会、音文の使命が重視される。大木は音文が速やかに優秀な規格を提示することを期待するものであるが、大政翼賛会も音楽著作物の推薦委員会を設け、推薦した以上はその普及を図るなどの策が採るべきだと思う。さいごに一部音楽の健全な大衆化を希望し、そのために日本蓄音機レコード文化協会その他の文化機関の奮起をお願いしたい。 (筆者は大政翼賛会宣伝部副部長。)
国民運動としての企画 /山根銀二
戦局がますます苛烈になるにしたがい、われわれ音楽者の任務も重きを加えてくる。すなわち、いかにしたらよりよく戦力増強の役に立てるか、国民の士気昂揚に有効に働き得るかについて考えるときである。日本精神を盛った荘重雄渾な歌、健全純真な歌が国民に与えられなければならない。それによって、戦場の兵士はもとより、職場の産業戦士たち、出征軍人の遺族や家族をはじめ一般国民に戦い抜く強い気概を吹き込み、また敢闘にふさわしい健康な慰安を与えることは演奏家が今日挺身してなすべき仕事である。ここに演奏家の新しい仕事が始まり、活動様式が新しくなるにともなって歌い方や弾き方が研究され新鮮な技術が成立する。これまで演奏家は往々にして外来の既成名曲を教えられたとおりに反唱するのが使命であるかのように考えていたこともあったし、その限りではそれ相応の役割をも果たしてきた。しかし今日においては、演奏家の使命はすべてが新しい角度から吟味されなくてはならない。内容が不健全な非時局的音楽会はもとより、弟子の温習会、公衆の前に立つには技術の未熟な音楽会、有閑的聴衆に漫然と聴かせる音楽会などは今日あまり開催理由のないものであって、演奏家自信の手によって抑制されるべきものと考えられる。戦争勃発以前にすでに無価値と考えらたものが今日抑制されるのは当然のことである。一方、その内容が今日の評価に照らして適切なものは重点的に推奨されるべきである。また演奏家の日常技術の練磨はおろそかにされてはならない。たとえば日本音楽文化協会主催の音楽報国隊[ママ]の運動や各種国民運動的活動は、これまでの演奏活動とはおおいに趣を異にしており、演奏家の仕事が新しい分野に突入してきていることを示している。これを成功させるには充分な創意と慎重な企画が必要であり、演奏家自体の積極的な熱意が絶対条件である。幸い、これらの運動が予期以上の成果を挙げていることは、音楽報国の誠心を具体化する実力があることを証拠立てたものといえよう。われわれはますます音楽の使命の重大さを思い、身命を賭して音楽を通じて戦争完遂に協力邁進するときであることを痛切に感じる。
音楽参謀本部を設置せよ /増澤健美
「音楽は軍需品なり」という平出大佐の言を俟つまでもなく、米英撃滅の大詔を奉戴すると同時に、音楽関係者としてこれは当然考慮しているべき問題、いや、その実行に取りかかっているべきことなのである。今日、その問題の一部面だけは実行に移されているが、全般にわたる組織的で統制ある活動とはなっていない。広い意味で、今日あらゆる物は軍需品たらざるをえず、軍需品と呼ばれるには、それが米英撃滅戦に直接間接に役立つ場合に限る。音楽は軍需品としても直接に殺生破壊の用を果たすものではないため、その効用は間接的なものである。これが頗る重要な役割を果たしているのであるが、それは必ずしも間接的なものだけとは限らない。至近距離に彼我相対峙する前線においては、敵陣へマイクを向けて音楽を送り、遠隔の敵には電波に乗せて音楽を放送することもあろう。こうした場合の音楽は、敵の戦意を喪失させ厭戦懐郷の情を起こさせるものでなければならない。また場合によっては、敵軍の誘導に音楽を利用し得ることもあろう。このように音楽のもっとも直接的な効用を意図することは、きわめて限定された場合であって、われわれの主として考えるべきは間接的な効用を最大限に発揮させることである。このためには対内的にはもっぱら戦力増強に資すべく、陸海将兵の慰問、産業戦士の慰安構成、一般国民の士気昂揚のために音楽の活用を計るべきであることはいうまでもない。特に産業戦士の慰安厚生については留意を要する。戦況苛烈化にともない軍需産業に従事する人士にますます期待することは言うを俟たぬが、若い徴用工の問題については深く考えさせられるものがある。彼らの大きな欲求の第二は娯楽を与えよというものであり、ここに留意を要望する意味が理解されるであろう。対外的には、占領地域における宣撫工作と対敵文化攻勢の完遂に資すべく、共栄圏各地域における米英系音楽に対する本邦音楽の実力的排撃が行なわれなければならず、さらに共栄圏のみならずわが国と外交関係を維持するすべての国にも働きかけて、わが音楽を流入させなければならない。これはやがて敵国内にも流入する可能性があり、敵国に対する謀略宣伝の役目を果たし得ることともなろう。これら対内的対外的諸条項の実行に当って、さらに具体的な事項について述べる余裕はないが、それぞれの場合の実際的状況に応じて採るべき方法を考究し、使用すべき音楽、その手段方法、実行に当たるべき人選等、周到な計画の下に各活動全般にわたって組織的で統制あるようになされるべきである。そのために音楽参謀本部を設置することも一案であろう。以上、主として音楽が単独に用いられる場合について述べたが、米英撃滅の目的のためには、あらゆる機会や機関を通じて音楽の利用について考慮すべきである。くれぐれも戒めるべきは時日の蔓延である。いたずらに議論に時を費やすことなく、まず実行が肝心である。現下の情勢はそれだけ差し迫っているのだ。
対象を大衆に /有坂愛彦
現代日本の楽壇諸団体や音盤会社等の企画は長足の発展をしつつあるが、戦局進展の急速さから比べると、まだ著しく立ち遅れの感がある。演奏かも作曲家も、評論家も教育家も永年学んできたことや主張してきたことについて、これを放擲して従来の芸術観を切り替え、音楽というものは始めから戦争完遂のためにのみ存在するものだと定義することによって、初めてこれを米英撃滅の武器たらしめることができる。音楽者は先ずそれぞれの対象者をはっきりと認識しなければならない。誰を目標として作曲するのか、誰に聞かせるために演奏しているのかを明確に念頭に置いた仕事をすべきである。過去の時代ならば、国際的な水準を問題にしたり、音楽的知識層を対象としたものであっても差し支えなかった。ところが現在の聴衆は、ともに手をたずさえて戦っている日本人である。ほとんど毎晩のように開かれる音楽会のすべてが、真に日本人の美意識を想い、ともに励ましあい、ともに喜びや悲しみを分かち合うという熱情に燃え立っているだろうか。さらにまた、音楽のもつ精神的に豊かな栄養は、音楽会場へ来ることができる少数の音楽愛好家の占有物ではなく、一人でも多くの日本人に分かつべきものである。放送・巡回演奏・音盤等の事業が一層の努力を要望される所以である。大衆音楽という言葉は「程度の低い娯楽音楽」という意味に誤解されて、一流の作曲家や演奏家がこれに手を染めることはきわめて稀であったが、現代において大衆とは少数の専門家を除く残りすべての日本人を指す。この大衆を対象とした音楽を作り、あるいはこれを演奏するということは何という誇りであろうか、何と働き甲斐のある職場であろうか。すでに決戦下の作曲家は、ことさらに高踏的な技術を衒う必要もなく、明快率直に大衆の魂をつかんだ分かりやすい曲を作らなければならない。ユダヤ人教師の指導の下に、彼らの満足するような表現を理想とするような演奏家はもはや役に立たない。ドイツの歌だから良いだろうとか、パドリオが同盟を裏切ったからイタリア音楽は演奏しないといった消極的な了見では、音楽を決戦下の武器にすることなど思いもよらない。一曲一曲が現代の国民のためにいかなる役目をもっているかを真剣に考えて選曲する演奏家が必要なのである。有力な発言権を持っている外国人[本分では“毛唐人”]を多く審査員に加えて、課題曲の大部分を外国曲によって占める非大衆的なコンクールなども過去の遺物である。評論家もまた、現在の日本に存在するすべての音楽が、ことごとく消化して日本の国力とするように身を挺して働かなければならない。日本の音楽文化100年の計を説くよりも、今の音楽を戦力増強のために、いかに利用すべきかということばかりを考えなくてはならない。いや、日常その実践の中にのみ生活すべきである。地域的にみても、大都会は比較的好事家が多く、この時代には贅沢品に化した音楽もかなりあるため、音楽会は徹底的に整理されなければならない。農村、漁村、鉱山、工場、学校、一般都市民に大量の聴衆を求め、つねにゆたかで美しい大衆音楽を均霑させることである。放送や音楽[ママ。音盤が正しい。・・・小関]は武器としての音楽を直接に前線に運ぶことのできるものである。前線へ向けての放送や音盤は、国内用とは別個の企画において盛んに送り出さなければならない。音楽をもって米英を撃滅するには、並々ならぬ覚悟とよほどの努力が必要である。いまさら決戦下の音楽の役目を説いてみたり、音楽でありさえすれば軍需品であるかのような漫然とした態度であるならば、この逼迫した時代に音楽などやめた方がよい。
音楽家らしい熱情を /宅孝二
直接戦争に役立つ音楽の力については、これを買いかぶりすぎても卑下してもならないと思う。しかし現代の戦争が総力戦であるという観点から見たとき、直接に役立たない音楽の分野はまずないといえる。すでに音感を物理の分野にまで広げてもっとも直接の重任についているし、一方吹奏楽団は産業戦士の意気を鼓舞し短時日のうちに組織化された団体になりつつある。また合唱運動や音楽挺身隊、軍慰問隊によって、楽人は熱情を傾けて直接参加している。このように、あらゆる方法をもって感情を高揚し、増産を図る企てが行なわれている。これらの直接的な音楽の高揚と同時に、音楽は国民相互の親和の力を生み、精神的に高く、正しく、美しく、強く、逞しくあらしめ、しかもなお余裕と暖かさを与えている。また国威を海外に宣揚する精神文化としての純音楽へ発展努力が必要となる。それは利欲のみに走らない純粋無垢な熱情、誠実親愛、豊富な感情感覚、努力勤勉堅忍不抜、緻密さなどの精神力や風格は、もっとも良い姿で音楽に養われたときに培われるものであろう。ただし偉大な音楽家の作品演奏は良質な受信機をもつ音楽的な人々にのみ最大の効果を与えることができる。しかし、このような体験をすることは一生に何度とないようである。音楽をもって人の心を和らげ、困難な生活をも心愉しく切り拓くことは各人の努力如何で不可能ではない。人の和と無私な心が不充分なために、また不誠実なために人々を害し、戦力の源泉である民力をいたずらに涸らすようなことになっては大変である。音楽家が各自の仕事を充分に果たすには、不断の努力と不変の熱情とをもって仕事愛に徹することである。日常の修練は誠実・謙虚・忍耐の性質を生むものである。音楽の深い精神に触れることが遥かに先のように思っている少年少女が、日夜練習に努力を傾けているのをたびたび見かける。このような切磋琢磨があればこそ、ひとたび命令が下れば、いかなる部署にも勇んでつくことができるのである。決戦態勢は極度に強化されている。音楽家は一人残らずこの総力戦に馳せ参じ、音楽家らしい熱情とねばりを傾けなければならない。
日本の歌を /三浦環
敵米英は、必ずわが軍に撃滅される運命にあることは必然のことだが、私たち音楽家は必死の精神をもって帝国軍人の心を心とし、いよいよ強く勇ましく進まなくてはならない。音楽家の奏でる楽譜こそ、また唱う歌声にも精神をこめて演じるべきだと思う。日本精神に満ちあふれた美しく勇ましい音楽が必要なことは、迫っていると思う。戦争を呼吸している私たちは、少しでも外国を手本とする人があってはならない。日本の音楽をけなしたり、自らの国語を音楽に不向きのように考えたり、他人に語ったりする人は敵米英に後ろを見せる人と同じだと思われる。あの鼓の音、詩吟の声、よく味わってみれば神代からなるわが国の尊さに涙を催すべきで、音楽家はあの音を心において作曲したり演奏したりしてもらいたい。浮かれるための音楽は不必要である。ことに軍歌では、ジャズ式の伴奏を用いてはいけない。昔からの名曲は、外国のものといえども学ぶべきだが、その学ぶ心の根本を日本におき、日本の楽の音をより美しくすべきことを考えるための研究におかなければならない。したがって外国音楽は専門家にとどめて、公開の場合にはなるべく日本の真に立派な作曲を演じるべきだと思うのである。/三浦は1943年10月12日にシューベルトの「冬の旅」を独唱することとなっているが、全曲で200ページくらいなのに、昔ロンドンで「蝶々夫人」を1ヵ月で300ページほど覚えたときよりもずっと苦労している。やはり当時と決戦に進んでいる今日とでは、三浦の心にたいへんな違いがあるからだと思う。この「冬の旅」を日本の精神をもって、しかも盟友ドイツの美しい色をより美しく日本のものとして取り入れて歌おうと思っている。しかし、外国のものは今回限りにして、今後、公開の場では日本人作曲のものばかり選びたいと思っている。どうか立派な軍歌、立派な音楽を作曲してもらいたい。作曲はさほど良くなくとも、演奏家が日本精神を身に体しているときは、必ず立派なものになると思われる。
合唱の八得 /吉田永晴
(1)合唱は集団訓練である。一つの指揮のもとに行動し正しい意味での服従を練磨するものである。(2)合唱においては自己を滅却しなければ、全体として生きることができない。滅私奉公の実践となる。(3)協力協和しなければ合唱は成り立たない。一億一心の意気が養われる。(4)合唱芸術による協和の法悦感に浸り、全人的崇高な無我の境地に入れる。(5)合唱は専門的音楽技術がなくとも入ることができ、声楽としてもっとも高級な芸術三昧を味わえる。(6)発生することは健康法の一つになる。(7)合唱はもっとも良い耳の訓練である。聴覚訓練は国防上からも必要である。(8)合唱は資材を必要としない。もっとも経済的な音楽である。 合唱競演会 わが国さいしょのコンクールであった合唱競演会は、第1回の名称を「合唱祭」といい、その後「合唱競演祭」さらに「合唱競演会」と改めた。これは始めから厳格な審査が行なわれて優勝団体が選ばれ順位が決められていたので、「祭り」ではなく競演会だった。1年に1度の合唱競演会はどんなに若人の血を沸かせたことだろう。合唱人は侵食を忘れて努力し、研究し、精進した。そしてその結果に喜んだり無念の涙を飲んだりした。合唱競演会のために年々素質も技術も向上し、新しく生まれた団体も数十を下らないと思われる。そして関西にも関西合唱聯盟が生まれて、国民音楽協会とともに全国的な運動を展開するようになった。こうしてみると合唱競演会は合唱運動の母であり、現在、もっとも必要な国民運動のひとつであるといえる。しかし本年度は時局のため休会することとなった。合唱の必要は時局が重大になるにつれて、ますます大きくなってくると信じるので適切な方法を講じて進みたいと思う。
印度音楽見聞 /枡源次郎
文化練成道場と音楽 ベンゴールにはインド思想の新しい指導者・故詩聖タゴール博士の名高い森の学園、インドを覚醒する人材養成の“文化練成道場”の“平和の郷”があり、夜がほのぼのと明ける頃、幾人もの人間が続いて、荘厳なインド古典の讃歌を合唱しながら森のかなたへと消えてゆく。インドは暗黒の中に眠っているが、インド文化の新しい復古こそ真にインドの覚醒をもたらす。このベンゴール平原の一隅に建設された理想郷文化錬成道場では、人間の魂は音楽の上で発達すべきであり、心の修業は音楽を離れてはならないとされる。音楽はその内部に人間の存在とあらゆる存在との綜合に対する人間の深い信仰を懐いている。その究極は人格の真理であり、それは直接に会得される一つの宗教であって、分析され論議されるべき形而上学の体系ではない。“音楽道場”を中心に“大学院”“予備道場”“初等道場”“美術道場”の5部からなる精神錬成道場の地“平和の郷”と紡織、木工、皮革製作の勤労錬成道場の地“美の郷”からなり、その生活は音楽に始まり、音楽に終わる。/午前4時半、“獅子殿”の鐘の音で起床、荘厳な古典の讃歌を合唱しながら森を通って詩聖の“修養堂”を訪れ、ふたたび森に戻っていく。6時、朝食。7時、課業に就く。樹下に集い、教師を取り巻いて教えを受ける。この頃、1哩離れた“美の郷”では紡織、木工、皮革製作の筋肉労働の神聖が教えられている。11時半、午前の課業終了。午後2時まで昼休み。図書館へ行くもの、修養堂でくつろぐもの、“美の郷”への往復をする乗合自動車も走っている。午後2時から4時まで課業、その後お茶の時間となる。そして日暮れ路を校歌「吾等の平和郷」を歌いながら修養堂へ帰ってゆく。午後8時の夕食後“太陽殿”で、“獅子殿”で、あるいは野外で行なわれる夜の学芸会は深い趣きがある。水曜日はインド教徒の断食日で、日曜日に当たる。この朝、“説教所”で詩聖の新作詩が発表される。この詩は歌となり、歌は古典舞踊に振付けられて選ばれた男女生徒の演ずる新しい古典劇と音楽とともに夜の集いに、あるいは練成道場祭に発表される。また、この音楽と舞踊劇は新しい古典タゴールの歌、タゴール舞踊劇として全インドの学校や社会に流布され、この暗示によって詩聖と理を同じくする幾多の学校が出現するにいたった。そして、この運動はついに全印芸能祭となり、しかもこれは西洋の競技中心主義とは違った、民族の歴史を愛する教養の練成を主眼とする各地方独自の芸能競演が文化講演とともに展開されている。古代インドでは、青年師弟は悉く讃歌と唱歌法を教授され、すべての学問は音楽の曲節に合わせて教授されたのである。インドの社会階級の最上にある婆羅門は、音楽に含まれる幽玄微妙の法を衆人に伝え、その神秘を明らかにするのが聖務であると考え、700年に亘る婆羅門文化時代を築いた。次いで仏教文化の1700年間は、釈迦の「心の修業」は音楽の諧調に合わせてその完成を遂げるべきだという理想に生きた。しかし、その伝統的音楽精神も次の回教時代400年の宗教闘争にともなう文化の解体により、英国の悪性文化政策にインド回教モガル帝国は滅亡し、爾来300年、英国の徹底した搾取政策がもたらしたインド国民生活の恐るべき貧困は、大多数のインド人を無知と文盲に押し込め、ついにインド人に自己の音楽の何であるかを考えさせるすべを失わせ、3000年の光輝ある伝統は歪められた。インドの闇黒の中に惹起した詩聖タゴール博士の文化練成道場の古典模倣こそ、偉大な若い創造力のために音楽、舞踊、美術、文学、哲学の古典研究大家らは教育に邁進し、すでに幾百幾千の若人が全インドに放たれている。かつて米国にいた現代インド唯一の舞踊家ウダイシャンカーも、帰国後米国的手法を清算し、真のインド音楽文化の古典精神を現代に生かそうと故郷ウダイプールに隠遁し、研究に邁進していると伝え聞く。現下日本の音楽家たちに学ぶところが多いものと思う。この文化練成道場も不幸にして詩聖を失ったが、詩聖はガンジー翁に名誉総長を託して逝かれたたとのことである。
洋楽批評 /野村光一
邦訳に拠る第九交響曲(ベートーヴェン作) 
独唱=香山淑子、四家文子、木下保、藤井典明 合唱=国立音楽学校、玉川学園 管弦楽=東京交響楽団 指揮=橋本國彦 邦訳歌詞による第九演奏はわが国ではたびたび行なわれてきた。しかし、音盤界では一度もないばかりか、この曲自体がわが国で音盤化されたことがなかった。このたび日本音響が、ようやく合唱の部分だけを邦訳して録音する勇気を示した。とにかく、この部分だけでも「日本化」することができたのは時節柄意義あることといわなければならない。しかしさらに全曲吹き込むことが望ましい。この曲の外国盤も恐れるには足らぬのだから、なにもおっかなびっくりする必要はあるまい。さて、この音盤のできだが、録音は苦労したと見えて比較的鮮明であるし、音色も相当よい。しかし一番いけないのは音が全体として貧弱なことである。これは日本の管弦楽団そのものの音の弱さによっている。この点、東響は日響よりも弱点をもっている。音をきれいに出すことも大切だが、全体として音が豊かでなければいけないことは音色のきれいさ同様に必要なことである。橋本の指揮は明快で安定を得ている。声楽も皆うまいが、藤井は第九のソロを歌うこととなると幅と力が多少足りない。歌詞は相当明瞭に録音されているに違いないが、耳で聴いただけでは何を歌っているか全然わからない。こうなると、せっかく邦訳しておきながら意味をなさぬことになる。それと原曲とのアクセントの食い違いが、いささかの不自然さを感じさせる。この音盤を聴いて、邦訳による音楽の録音に対する種々の疑問がわいてきた。しかし、そうした難点を征服して、今後この種のことはどしどしやってもらわなければならない。
サン・サーンス第五ピアノ協奏曲 
草間加壽子(ピアノ)尾高尚忠指揮東京交響楽団 こういう時代になったのだから、音盤界でもわれわれの乏しい材料を、なるべくわれわれのもののために生かさなければならないのは当然である。こうなると芸術的な大曲の録音はなかなか至難な事業になるのだが、今回の草間加壽子の吹き込みは、この難関を征服している。いままで日本人演奏家がレコードにして4枚にも5枚にも亘る協奏曲を録音したことがなかったのだから、それだけでもたいへんなことだ。できあがったものは音盤として完備されたとはいえないまでも、この英断と効果をあげた努力については、演奏者にも録音関係者にも企画をした会社にも感謝と称賛が呈されて良い。この曲の草間の演奏は今年のはじめ東京交響楽団の定期演奏会で実演され、おおいに称揚された。草間が帰国して以来発表した協奏曲の中では、これがもっとも彼女の真価を発揮したものだとの定評があったのである。それをサン・サーンスなど今日の時勢に適さないなどというようなことになると、問題はひじょうに難しくなる。野村は、この曲を聴いていると悦しくなって、この苦しい時代に一層音楽による尽忠報国の気構えが起こってくるのだから、こういう好きな曲を聴く機会を与えられることは、こよなき幸せと考えてよいのではないか。草間の演奏は調子がよく、ことに第1楽章と第3楽章は鮮やかなものだ。この人は本当のテクニックをもっているので、レコードに録音しても音が整然と出てくるところはさすがである。尾高の棒は管弦楽と独奏者とを合わせるべく奮闘しているが、この指揮者とフランスものとは、どこかそぐわないところが感じられる。一番上手くいっていないのは日本青年館で行なわれた録音だ。ピアノと管弦楽の、これだけの大曲を手がけたことがないだけに音が混乱しがちになる。それに音色が悪い。しかし考えようによっては、日本でよくここまでできたと思える点も多々ある。第一この曲は、これが世界最初の音盤だということでも大いに認識されて良い。
交声曲「英霊讃歌」(橋本國彦作) 
藤井典明(独唱) 橋本國彦指揮 東京音楽学校(合唱と管弦楽団) 東京音楽学校校長乗杉嘉壽が作詞した、山本元帥に捧げる「英霊讃歌」を橋本國彦が作曲し、作曲者自身の指揮で東京音楽学校が演奏したのがこのレコードである。乗杉は作詞が専門ではないが元帥を痛む熱誠があふれ好感がもてる。橋本の作曲は上手く全体にまとまっているが、迫力が足りず、誠が乏しい。専門家が陥っている一種のマンネリズムがそこに看取できる。演奏については、指揮も合唱も藤井典明の独唱も良い。ことに録音が良いことは、この音盤の特徴だ。音色は演奏する場所も大いに関係してくる。上野の奏楽堂は元来響きの良いホールである。
「ターフェルムジーク」より室内楽のための組曲(テレマン作) 
リインズ指揮ウイスバーデン音楽院 テレマンの作品をコレギウム・ムジクム室内楽団が演奏している。バッハの先駆者として歴史的に功績があって、実際にはほとんど聴かれないテレマンの作品に接することは珍しい機会である。漫然と聴いていると、バッハの音楽よりも総体的に軽快で、小品的な味がして気安く聴ける。当時の世俗におもねっただけバッハの音楽よりも早く滅びたという気がしないでもない。バッハへのひとつの対照として歴史的にも、鑑賞的にも興味ある資料を提供している。演奏はこじんまりまとまった巧妙なものである。なお、この音盤では原盤の第7面「ミヌエット」が未到着のため省略されることになるらしい。
時局下の音盤と蓄音機 /あらえびす
序言 
決戦下の重大時局には音盤や蓄音機の一枚一枚をたたき割ってでも、国運の消長の前にはさしたる問題ではない。何を犠牲にしても、まずは戦いに勝たなければならない。しかし、それはギリギリ決着の話で、今すぐ音盤を割り蓄音機を踏みつぶしたところで、戦力には何ら影響はない。むしろわれわれの手にある音盤と蓄音機をもっともよく利用して、前線銃後の慰安と鼓舞とに役立て、戦力増強の一助とすべき時ではあるまいか。前線の将兵が一基の携帯用蓄音機と数枚のレコードをどれだけ愛玩しているかという話や、若い飛行機操縦者たちが、激しい空中の労苦の後に地上の人となった時、モーツァルトやシューベルトの音楽を聴いているという話を聞かされた。銃後の若い職場の戦士たちが昼休みの音盤にどれだけ慰められているかは、いまさら説くまでもない。音盤をいかにして戦力増強に役立てるか、また前線銃後の慰安と鼓舞に資すべきかについては、音楽界の一分野における緊急重大な問題の一つといって差し支えない。さいきん、ある青年がベートーヴェンの「第九」のレコードを聴いていたところ隣家から「いい加減にせぬか」と抗議を受け止めたところ、まもなくその隣家から響いてきたのは老主人のたしなみである謡曲であったという。謡曲の芸術的価値は高く認めているが、それにしてもベートーヴェンの「第九」の名演奏をやめさせ、素人の謡曲を聴かせる妥当性を認めるものではない。いまの若い人たちがベートーヴェンに傾倒する心持は老人たちには苦々しき謎であるのかもしれない。しかし、それで差し支えないのではあるまいか。1941年の12月8日、あの緊迫した瞬間に朗々とラジオを通じて響いたのは、実にベートーヴェンの交響曲第5番「運命」であった。あの時、単に日本的であるという理由だけで、徳川時代の大名の庇護の下に発達した貴族的芸術である謡曲を放送したのでは恰好がつかなかったのではないか。せめていまの青年たちに、その好むところの「第九」を存分に聴くことを許してやりたい。ベートーヴェンの巨大な魂の声に触れて、彼らは勇躍前線へ、職場へと赴くのである。存分に「第九」を聴かせるためには生の演奏にばかり頼るわけにはいかない。そこで、時局下の音盤と蓄音機について所見を述べてみたい。
蓄音機の保有量 
いうまでもなく蓄音機はすべて製造禁止であり、電気蓄音機のごときは一度破損すると、その修理すら難しい。良い蓄音機が手に入らないではないかと言われる。しかし、代用食とスフとで一言の不平も言わない者が、蓄音機だけは昔ながらの贅沢なものでなければならないというのはばかげた話である。日本には手巻き蓄音機が少なくとも○○万台あるいはそれ以上ある筈だ。そのうち毎年10分の1ずつ破損していったとしても、蓄音機全部が廃滅するには何百何何千年の歳月を費やすと思う。贅沢さえ言わなければ音盤と蓄音機による音楽は5年や10年で滅びるものではない。近頃、1万円と評価される蓄音機もあるというが、一般音盤を楽しむ者にとっては30円とか50円の昔の手巻き蓄音機でいいのだ。あらゆる不自由を忍ぼうとしている時代に蓄音機にだけ贅沢をいうのは、まさに国賊的な趣味だといってよい。時局は1万円の蓄音機1台よりも百円の蓄音機100台を要求しているのである。若い娘たちが大切にした振袖の袖を断っている時代に、大の男が1万円の蓄音機に脂下がっているような姿は恥である。現在日本に保有する蓄音機は少なくとも10年から20年は音盤芸術を守ってくれるであろう。これを融通しあい交換しあって、緊迫する時局下に、前線と銃後の慰安と鼓舞に役立てたい心持ちでいっぱいである。
二つの様式美 /村田武雄
さいきん深く興味を覚えたレコードはバッハのクラヴサンとフルートのためのソナタとサンサーンスの「ピアノ協奏曲ヘ長調」(ともにビクター)である。これらをこの切迫した時期に聴いて、われわれが求めていたものを探り当てた思いがした。バッハのフルート・ソナタは彼の作品中もっとも温和で快適な性質をもったもので、流れるような歌謡性をもった曲である。もっとも、これらのソナタの大部分は難しいフルートの技巧が要求される純器楽的性格をもった作品であるが、厳格な様式の中に平明な感覚美が自然にのびのびとあふれているが故に、あたかも歌うがごとき心地よさを覚えるのである。この歌うような流暢な性質が、われわれの心に澄んだ境地を与えてくれる。それが現在のわれわれの要求にもっともよく適合するのである。一方、サン・サーンスの協奏曲は彼がエジプトを旅した折りの印象をつづったものと言われており、東洋的な異国趣味が多分に盛られて、それが明るいラテン的な感覚によって色彩的に、精緻に描かれている。この曲は、今日の絵画に対する欲求と南国の情緒への興味とを期せずして備えていたのである。/しかし、これら二つの作品が今日のわれわれに深い印象を与えるのは、ただこれだけの理由からではない。その要因は直接外部に現れない様式の美しさである。あるいは型の美といってもよかろう。バッハが実に厳格な型を確守したことはいうまでもない。一方、サン・サーンスは死ぬ少し前に「私にとつて芸術は様式である。美しい様式がゆたかな表情をともなふとき、われわれは讃美する。音楽は―芸術的気分―ではなく塑像的な芸術、即ち様式から作りだされるものである」といった。彼はけっして形式のための形式に終わった作曲家ではなかったのである。この協奏曲の明朗性は、様式の平衡と調和とからのみ得られたのである。/音楽様式の崩れていない演奏にのみ芸術としての音楽の健康性が得られる。色彩的な結合もダイナミックなニュアンスも、また深い構想も、それが様式のなかに生かされているときに力を加え、活動力を得られるのである。われわれが今日切実に求めているのは様式美の芸術であり、表現である。これら2曲におけるバッハもサン・サーンスも、形式を超えた様式美を捉えている点で、内には生々しい感覚美を蔵していながら、それが少しも卑しくならず、透明で典雅なものになっている。バッハにおけるペッスルとバレル、サン・サーンスにおける草間加壽子の演奏は、ともにこの様式美がよく守られ暗い陰が少しもない。われわれが今日求めている音楽は、このように健康的で確実なものでありたいと思う。
時局投影 /野呂信次郎
米英はケベック会談の後「会談の軍事的重要部分は対日戦争のために尽くされた」と発表。戦局の様相は日々深刻の度を高めつつある。関東大震災20周年記念日にあたる1943年9月1日の未明、敵は航空母艦をもって南鳥島に、12日には北千島に来襲。中国大陸の米空軍も武漢地区、広東地区に決戦を挑んでくる傾向があり、北部ソロモン、ニューギニア島方面の彼我の主戦場は言うに及ばず、西南太平洋のアル諸島、ケイ諸島、チモール島、セレベス、ボルネオ方面に対する敵機の来襲も漸次ひんぱんになっている。さらに雨季明けとともにインドよりビルマ奪回を試みようとするものに東南アジア総司令官マウントバッテンがある。第4回航空記念日の9月20日、海軍航空本部大西中将は「大局的には押され気味であり、これは航空兵力が量的に劣勢であるためである」と率直に警告している。/ヨーロッパ戦局は英加軍のイタリア本土上陸(3日)、バドリオ政府の裏切り的無条件降伏(8日)、ドイツ軍のローマ、ゼノア、ナポリ諸都市占領(10日)、ムッソリーニ統帥の奇跡的救出(12日)、ムッソリーニ統帥を首班とする共和ファシスト新内閣の樹立とにわかな動きである。東部戦線では、ソ連軍が撤収を続けるドイツ軍を急追しドナウ川の線に到達したが、ドイツ軍は撤収作戦を停止してソ連軍の冬季攻勢を阻止するものとみられ、この渡河戦が軍事的にも政治的にも東部戦局の帰趨を決するであろう。/5日ジャワ軍政監部は現地住民の政治参与令を公布した。領地割譲に関する条約が日緬[日本=ビルマ(緬甸)]両国間に成立、同日フィリピン島は初の国民大会がありラウレル博士が大統領候補として選出され独立の寸前にある。27日にはイタリアのファシスト政府の正式承認、汪国民政府主席に続くラウレル博士の来訪等新事態に処す帝国外交は活発である。/政府は22日、国内態勢強化の新方策を発表して国民の協力を求めた。その課題は広範にして、たとえば官吏の大幅縮減、特定職業への男子の就業禁止、男子に代わる女子動員の強化、一般徴収猶予の停止、法文系統大学専門学校の整理、都市施設の地方移転と人口疎散による都市防衛、重要生産の発注、運輸の一元化等軍需生産の急速増強、特に航空戦力の拡充と国内防衛態勢の強化を端的に目指すもののみである。そして政府は軍需省、農商省、運輸通信省の設置(いずれも1943年11月1日開庁)と臨時議会の召集(10月25日開会)を決定。画期的決戦態勢への切換えを断行することになった。
音盤彙報
12月の洋楽音盤 ビクター チャイコフスキー作「提琴協奏曲ニ長調」ハイフェッツ(提琴)および管絃楽団(12インチ4枚)/ロッシーニ作「ウイリアム・テル序曲」トスカニーニ指揮管絃楽団(12インチ2枚)/モーツアルト作「奏鳴曲ハ長調」K.330「ロマンス」K.205 フィッシャー洋琴(12インチ2枚)/「シューベルト歌曲集」菩提樹、お休み、糸を紡ぐグレツチエン、水の上にて歌へる、辻音楽師、道標(10インチ、12インチ、3枚)/伊福部昭作「交響譚詩」山田和男指揮東京交響楽団(12インチ2枚)/泰国愛唱歌集‐海軍の歌、輝く海兵、兵士は国の護り、泰国の血の青少年団の歌、立てよ泰/ニツチク モーツアルト作「交響曲39番変ホ長調」ワルター指揮交響楽団(12インチ3枚)/リスト作 交響詩曲「前奏曲」メンベルベルグ指揮コンツエルトゲバウ管絃団(12インチ2枚)/ドビユツシイ作「ベルガモ組曲」ギーゼキング洋琴(12インチ2枚)/大木正夫作「國民総進軍」坂西輝信指揮東京交響楽団(12インチ1枚)/軽音楽選「セレナード集」(10インチ3枚)/テレフンケン 吹奏楽傑作集(10インチ3枚) 
音盤界便り 音盤企画委員会 日本音盤協会では今回官民40余名による「音盤企画委員会」を音盤各社の最高諮問機関として設置することとなった。目的は1.音盤による国民精神の作興ならびに情操涵養 2.製作会社に対する政府指示 3.企画審査ならびに指導 4.優秀健全な音盤普及 5.優秀盤企画選奨 6.音盤製作従事者(企画担当者ならびに芸能人)の表彰 7.大東亜共栄圏における音盤文化発達に適切な調査ならびに事業の具体方策に関する事項。なお従来の協会各委員会はこれを機会に廃止することとなった。/日本音盤協会新参与 八並翼賛会宣伝部長ならびに吉田東京中央放送局音楽部長が新たに参与に任ぜられた。/日本音盤協会 日本蓄音機レコード文化協会では1943年9月29日、宮澤情報官等関係当局出席のもとに総会を開き、名称を「日本音盤協会」と改称することになった。また機構の簡素化を行い、会長の下に理事長をおき、文化部、業務部、庶務課の二部一課に改め、新たに音盤配給会社を新会員として発足することになった。/音盤舊友會相談部 レコード専門誌の廃刊に伴い音盤愛好家の相談機関として、音盤評論家あらえびす氏ほか十数氏による音盤舊友會相談部が京橋区銀座3−3、京三ビル内にできた。質問は蓄音機、音盤に限る。無料。ただし葉書同封のこと。
推薦音盤 第12回文部省推薦音盤 第31号 童謡「カチイクサ」(小田俊興詞=山田芳樹曲) 望月節子 ニッチク 100766/第32号 「セカイノヨアケ」(小田俊興詞=長谷基孝曲) 望月節子 ニッチク 100770
音楽記録
軍人援護献納作曲演奏会は日本音楽文化協会主催、軍事保護院、情報局後援、日本放送協会協賛のもとに1943年10月3日より12日まで全国50箇所で開催。また各療養所ならびに陸海軍病院28箇所で慰問演奏会をした。献納作品は「大アジヤ獅子哮の歌」ほか55曲であった。大政翼賛会の優秀音楽推薦委員会 大政翼賛会では音楽、映画、図書が国民に与える感化力の重大性にかんがみ、近く委員会を設けて優秀なものを推薦し、隣組や各団体を通して推奨させることとなった。情報局芸能課では従来外国音楽中心に曲目編成がされていた[演奏会の]方針を是正し、毎回新鮮味にとんだ日本人作曲を加えるよう要請した。これを反映して今秋の音楽会は日本人の作品で賑わい活況を呈した。とりわけ木下保の信時潔歌曲の夕は、意義ある企画といわなければならない。日本音響第3回管絃楽曲懸賞募集応募規定 1.未発表作品であること 2.演奏時間16分 3.総譜ならびにピアノ用スケッチを提出すること、ただしピアノ用スケッチは総譜の下に書き込むこと 4.楽譜には応募者氏名を記載せず、別紙に応募者の住所氏名(筆名可)を記し楽譜と同封する、締切日は1944年4月末日、賞金は入選一篇に金1,000円(半額は公債)、佳作一篇に金300円(同)、当選作品は発表演奏会を催して紹介するとともに音盤に吹込む。日本音響軽音楽作曲懸賞募集規定 1.健全明朗にして叙情風な軽音楽曲 2.楽器編成は自由だが演奏者は15名程度 3.演奏時間3分 4.未発表作品であること、賞金1等300円、2等100円、応募締切1943年12月末日、総譜先は東京都京橋区築地2丁目13番地日本音響株式会社文芸部宛。
戦時音楽問答
【問】東京都内で独奏会を開きたい。企画届を出す手続きを教えてほしい。【答】企画届は演奏家協会に提出し、協会がこれを開催予定日の1ヵ月前までに警視庁へ届け出なくてはならない。企画届には曲目、出演者全部の住所氏名および技芸者之証の番号、収支予算書などが要る。詳細は演奏家協会へ尋ねること。ただし長唄の会ならば長唄聯盟、三曲ならば三曲協会、そのほかの邦楽は邦楽協会、舞踊ならば舞踊聯盟が扱う。/【問】演奏会出演者は必ず技芸者之証が必要か。【答】必要だ。しかし音楽を職業としない合唱団員が交響楽演奏会に出たり、官立音楽学校の教授・助教授や中等学校の教諭等が演奏会に出るときは技芸者之証は必要ない。さいきん芸能関係の温習会のような催しは許可しない方針になったので、素人が演奏会に出演することは特別な場合を除き許されない。特別な場合とは慰問または厚生慰安のために無料で一定範囲の人々に聴かせる演奏会や、合唱団員として演奏会の一部に出演する場合。/【問】技芸者之証はすぐもらえるか。【答】技術試験があり、藝能文化聯盟所定の練成を終了していなければならない。経歴によっては試験不要の場合もあるので演奏家協会に尋ねること。/【問】大阪府下付の技芸者之証をもっているが、東京で出演するには東京の技芸者之証が必要か。【答】大阪府のがあれば東京で出演できる。また警視庁が下付したものがあれば大阪でも出演できる。/【問】さいきん集会や行事の開催が難しくなったが、どういう集会なら良いのか。【答】1943年6月1日閣議申合わせならびに7月5日次官会議申合わせに基づき、各省およびその外郭団体が行なう行事は、直接戦力の増強、需要軍需物資の増強、食糧自給力の緊急強化、輸送力の集中強化、勤労動員の強化などに直接関係ないものは停廃止または調整し、以上に該当するものといえども多人数が集まることによる延能率の低下の国家的損失、事務の停止、資材の浪費を避けなくてはならない。したがって爾後各種の行事や集会には、事前に情報局の意向をきくこと。問題になるのは各種の音楽大会、競演会、音楽行進、温習会、長期にわたる集会、慣習的または形式的な集会や行事である。これらは行事決戦態勢化[ママ]実施要綱により正式決定をみたものであるから、知らず知らずのうちに戦力の阻害をきたさないように注意してほしい。/【問】楽器はどんな方法で買えるか。【答】楽器の種類を大別して2つの種類に分ける。すなわち、第1類 註文書審査許可楽器(発注生産楽器) / ピアノ、オルガン、喇叭(木管、金管を含む)、太鼓 第2類 見込生産許可楽器(ハーモニカ、アコーディオン、絃楽器および雑品) である。どちらも文部省(学校および教化施設用)、厚生省(産報および厚生施設用)、陸海軍省ほか各官庁(軍官用)および日本音楽文化協会(音楽専門用)の資格證明書を添えて註文申込みをする。第1類の楽器は資材の関係で生産量が少なく、需要を満たせぬ見込みにつき、査定のうえ重点配給を行なう予定。1943年度分配給は10月下旬より開始される見込み。
以上の各回答は本社編集部より情報局、日本音楽文化協会、藝能文化聯盟に尋ねて記した。本欄は読者諸氏の質問に応じ、関係官庁、日本音楽文化協会、その他公共団体等に照会し、責任ある回答を得ることとなっている。
吹奏楽法(1)旋律論 /深海善次
序言 この旋律論で研究するところは、同種の楽器または異なる2個以上の楽器による旋律的組合せによる音の強さおよびその綜合音色である。これによって吹奏楽における各種の楽器がどのように按分配合され、あらゆる性格と表情をもつ旋律がどのように効果的に表現されるかについて詳細に研究し、作者自身の最良と考えられる方法を発見してもらおうというのである。はじめにユニゾンの組合せ、次にオクターヴ、さらに3度、6度と続き、さいごに綜合されたものが述べられる。使用する用語を簡便にするために楽器名とその略号が示されている(略)。なおこの吹奏楽法では、すでに滅びた楽器や試作的に作られたもの、または特殊な目的のものや類型のものも除外した。なぜなら、小型クラリネットは数種あるが代表的なエス・クラリネットを知ればその他を用意に推理し得るからである。サクソフォーンの場合も同様である。困ったことは金管楽器の低音部である。わが国軍楽隊には2つの流れがあり、海軍軍楽隊はドイツ式の実音式を用い、陸軍軍楽隊はフランス式の移調式を採用している。同じ楽器を異なった方法で使用しているところに混乱の原因がある。アメリカにおいても同様に紛糾したため、政府の音楽委員によって実音式を用いるべしと決定され、混乱に幕を下ろした経緯がある。わが国においても無用の混乱を避けるため、一日も早く統一する必要がある。両者の長短論は別の機会に譲り、この吹奏楽法では原則として実音式を用いることとする。(つづく) 第1章 2個の楽器の同音(ユニゾン) 本章は2個の異なる楽器の同音(オクターヴを含まず)における両者の音強、透徹力、迫力、隋勢、音色等の相互比較の研究を個々の音より始め、多くの実例によってこれを実証しようとするものである。 第1節 ピッコロ Cピッコロによってのみ話をすすめる。音階の[実音の]2点ニから2点ロくらいまでは使用に耐えない。この事実を頭において次の混合音を調べてみよう。フルートとのユニゾンでは3点ハあたりから漸次ピッコロの存在を認め得るようになり、3点ト以上はほぼ互角となり、4点ニ以上はフルートの音域外となる。混合音としてはフルートの優雅、華麗さに輝きと明るさを加え、軽快さを増し、時には滑稽味を添える。全体に音強を増大し透徹力は深まるが、各楽器の個性がいくぶんかずつ減殺されることはしかたない。ピッコロとフルートの場合は同属楽器中でも親子関係なので、個性の減殺度はもっとも少ない。ピッコロは歌うことができない楽器とされているため、音強がフルートに勝る場合でも、フルートの支配下に入ろうとすることは首肯し得るところである。(完)
出版部便り /出版部
本社7-9月企画のうち、国民音楽協会が編纂した『國民女声合唱曲集』『國民男声合唱曲集』『國民混声合唱曲集』の3点は11月下旬発売予定。価60銭。/藤井清水採譜による『日本民謡曲撰・巻1』は目下版下を作成中で11月末には発売される。/本社社長の堀内敬三による『日本の軍歌』も版下作成中で12月上旬にはできる見込みである。/本社出版部は今日の日本音楽出版界に営利を度外視した企画を送るはずである。
編輯室 /編輯室
音楽雑誌の使命はひじょうに重くなり、日本音楽文化建設の一翼を本誌が担っている。苛烈凄壮な戦争の現段階に即応して、音楽がいかなる役割を果たすべきか、音楽雑誌はその指針を与える使命を担っている。本誌は創刊号である。この第一歩を踏み誤らぬことが今後の本誌の運命を決するという、いわば背水の陣を布く覚悟でことにあたった。読者諸氏をはじめ、関係官庁あるいは音文の指導のもと、真に今日の日本に必要な雑誌たらしめずにはおかないつもりである。創刊号を飾っていただいたのは、巻頭言の山田先生、指揮者の山田和男氏の久しぶりの長文の論考、邦人歌曲作品の本邦随一と折り紙をつけられた木下保教授の論文。そのほか町田、藤井、田中氏らの玉稿は「音楽文化」の名にふさわしいと自負している。また「米英撃滅」について六氏に意見をうかがった。なお深海善次氏の吹奏楽法は本邦における斯界最高の吹奏楽理論として連載することにした(清)。/雑誌は言論報道機関のひとつではあるが、実践をともなった言論、すなわちただちに正しく反映され、速やかに実行に移される言論が望ましい。そして迅速で的確な報道があって雑誌の使命は生き、言論報国が果たされる。本誌はその使命を歩んでいかなくてはならない。(青木栄) 
 
広田弘毅

 

国際協調、平和外交を旨とする広田弘毅は、一外交官で人生を終えたいと考えていた。しかし、日本を戦争に引きずり込もうとする軍部の画策に直面し、日本の政治は広田を必要とした。外相として、首相として、広田の努力の大半は、軍部の横暴を阻止するために費やされた。
絞首刑になった元首相
1948年12月23日、A級戦犯(戦争犯罪人)7名の絞首刑が執行された。その中に一人だけ文官(軍人以外の官吏)がいた。元首相の広田弘毅である。彼を知る誰もが広田の処刑を疑問に思った。戦争をぎりぎりまで避けようとした平和主義者であることを知っていたからだ。彼は、軍部の暴走、対中強硬論、対米戦争論などに対して、常に抵抗勢力であり続けた人物であった。
終戦後開かれた東京裁判、つまり戦争犯罪人を裁くその場で、多くの軍人が絞首刑を避けようと見苦しい責任逃れの弁舌に汲々としていた。しかし広田弘毅だけは違った。一切の自己弁護をしないばかりか、弁護士もいらないと主張する始末であった。戦争が軍部の暴走であったにせよ、それを止めることができなかった責任を痛感していたのである。彼は、文官の代表として責任を取って死ぬ覚悟を決めていたのである。
座禅と論語による精神形成
1878年2月14日、福岡で石屋を営む広田徳平とタケとの間に長男が生まれた。丈夫に育つようにと丈太郎(弘毅の幼名)と名付けられた。成績優秀であった彼は、県立修猷館中学に入学。成績は常にトップレベルであった。しかし、勉強ばかりしていたわけではない。勉学の合間によく禅寺に通い、座禅を組んだ。町の柔道場にも休まず通った。この柔道場を経営していたのが玄洋社という政治結社。論語などの漢学を講義しながら、社会啓蒙活動を行っていた。ここで学んだ論語は、広田の精神形成に多大な影響を与えることになる。
彼は一度も玄洋社の正式メンバーになったことはなかったが、彼らとの付き合いは生涯続いた。このつきあいが、後の東京裁判で、広田にとって不利に働いたことは確かである。玄洋社は当初、国粋主義的傾向を持つ右翼的愛国団体であった。連合国側の検事は、玄洋社につながる広田を、戦争を引き起こした黒幕とみなしていたのである。
中学卒業と同時に、広田は外交官になるため、一高(現在の東大教養部)を目指した。今後の日本に必要なのは、有為の外交官であると考えてのことである。名前も弘毅と改めた。論語の中の「士は弘毅ならざるべからず(度量を広く、意志を強く持つべし)」から取ったものである。外交官としての心構えを自分自身に言い聞かせたのであろう。このように広田にとって、論語は常に精神の糧であった。一高に入っても、暇さえあれば論語を読んでいたし、忙しい外交官時代でも、就寝前に論語を読むことを日課としていた。
現地に精通した外交官
外交官として、広田は実に異色であった。たとえば北京に在勤となっても、外交官たちの遊びには、ほとんど加わることがなかった。付き合いが悪かったわけではない。学ばなければならないことが多すぎた。一にも二にも勉強、それでも時間が足りない。とても仲間とのんびり遊ぶ暇などなかったのである。
もちろん勉強ばかりしていたわけではない。ロンドン勤務の時には、つとめて街頭に出た。ベンチに座って新聞を読んでいる労働者に語りかけたり、あるいは無政府主義者の演説を聞く群衆に近づいては、その反応を探ろうとした。こうした広田の態度に、「外交官の品位を傷つける」と非難する同僚が出てきたが、広田は全く意に介さなかった。日頃彼らが付き合うトップ層の人脈だけでは、本当の意味でイギリスを知ることはできないと感じていたからである。丹念に資料を読みこなし、現地の実態を自分の目で確かめようとする、こうした広田の情報は、実に緻密で正確だった。外務省で一目置かれる存在として、頭角を現すようになる。
1933年、55歳の広田弘毅は、斎藤実内閣の外務大臣に就任した。前外相の内田康哉の推薦による。内田は平和外交、国際協調を推進してきた政治家である。広田を後継者に選んだのは、軍部に抵抗ができ、人望と統率力で省内をまとめることができる人物と見込んでのことであった。
外相としての広田の苦労は、軍部との対応に尽きる。軍部は常に被害妄想的に危機感を煽り、政治を軍事主導に牽引しようとしていた。「軍部は最悪の事態ばかりを考えすぎる。むしろどうしたら最悪の事態を避けられるかではないか」。外交主導の対外政策を主張する彼の抵抗である。国会答弁では、「私の在任中に戦争は断じてない」とまで言い切り、その信念を表明した。
駐日アメリカ大使のグルーは広田を評価して、日記に次のように記した。「広田は誠実に対外関係改善に全力を尽くしている。彼は主として軍部を比較的静かにさせ、合衆国との間によき雰囲気を作ることに成功しつつある」。
2・26事件で総理大臣に
1936年、広田は首相に就任した。歴代の首相の中で、広田ほど無欲の政治家はいないと言われている。名誉や恩賞を求める立身出世主義とはおよそ無縁の人物だった。その彼がついに国政のトップに昇り詰めてしまった。青年将校が興したクーデター(2・26事件)により、国内が騒然としている時だった。斎藤実、高橋是清らの現職閣僚が射殺され、首相の岡田啓介はからくも一命をととりとめる。
事件後、外相であった広田に後継首班の話が持ち込まれた。「自分には、そうした力があるとは思えない」と言って辞退する。しかし、元老の西園寺公望をはじめとする周囲の説得により、ついに引き受けることになった。銃の威嚇によって政治を壟断しようとする軍部から、日本を守らなければならない。彼を支えていたのは、この使命感だけであった。
広田は覚悟を固めていた。2・26事件のけじめをつけ、軍を粛正する。大規模な処分と人事刷新。「この内閣はそれだけでいいんだ」と言って断行した。陸軍幹部の退官、更迭をはじめ、総勢3千名に及ぶ大規模な人事異動となった。
広田はよく、「外交の相手は軍部である」と言っていた。ここに全てが言い尽くされている。外交官として、あるいは政治家として、広田が最も心を砕いたのは、軍部との関わりであった。「広田内閣は何もやらない」と非難を受けたこともある。しかし、軍と喧嘩して内閣が崩壊し、より好戦的な内閣が成立することを危惧していた。彼ができることは、軍の諸政策の実施を引き延ばすことだけであった。軍部の横暴は、国家予算の約半分に及ぶ巨額の軍事費を要求するまでになっていた。それを阻止しようとして、広田内閣は寿命を縮めた。陸軍の突き上げによる閣内不統一で総辞職。1年に満たない短期政権であった。
その後、広田は近衛文麿内閣の外相として入閣するが、これも望んだわけではない。国家の未曾有の危機に際し、体面を捨て、火中の栗を拾う決意をしたのである。この最後の入閣が、後の東京裁判における死刑判決の決定的な要因となってしまった。
入閣後わずか1ヶ月後に、蘆溝橋で日中間で衝突(1937年)が起こり、日中戦争に拡大したことが広田にとってこの上もない不幸であった。事変不拡大、現地解決の方針を打ち出したものの、軍部の独走は誰も止めることができなくなっていた。ついに日本は泥沼の戦争へとのめり込んでいく。広田はアメリカ、イギリスを通して、日中間の和平を画策したが、陸軍からの徹底的な妨害で頓挫した。挙げ句の果てに、陸軍は広田外相を「害相」、外務省を「害務省」とののしり、広田暗殺を触れ回る始末であった。
中国大陸における軍の暴走に対し、国際協調路線を貫こうとする広田は、軍の尻ぬぐいに奔走するばかりであった。しかし、欧米からは諸外国に陳謝する広田の姿も、欧米を油断させる一つの作戦と受け取られたのである。
最後のつとめ
戦争が終わった4ヶ月後の1945年12月、戦犯逮捕令が広田にも出され、巣鴨拘置所に収監された。広田を妨害した軍人の一人が、広田の姿を見つけて、驚いて叫んだ。「どうしてあなたが」。広田はここにいるべき人ではなかった。彼をよく知る誰もが、そう感じていたのである。
拘置所に向かうとき、広田は妻の静子を軽く抱きしめ、「大きな気持ちで行ってくる。ただ、あまり簡単には考えない方がいい」と言い残した。彼には密かに期するものがあった。天皇に累が及ぶことだけは避けたい。そのためならば、命を投げ出す覚悟である。文官の誰かが責任を負わなければならないとしたら、近衛文麿が自殺した今となっては、それは自分しかいない。外相を3回経験し、首相でもあった自分が文官としての責任を負うしかないと考えていたのである。
裁判で広田は、必要最小限の返事しかしなかった。自己弁護は一切しないと決めていたのである。自分がしゃべれば、誰かを陥れることになる。「責任は自殺した故人が取るべきで、あなたはもっと自己弁護すべきだ」と忠告する者もいたが、耳を貸そうとしなかった。故人を足蹴りにして生き残ろうという気持ちは広田には全くなかった。そして、何よりも戦争を止めようとしても止められなかった責任、自己の不足さを痛いほど感じていたのである。裁判上の罪状認否で、単に形式的に「無罪」と言うべきところを、「無罪とは言えぬ」と言って、弁護士をあわてさせたほどであった。彼は有罪になり、死刑になることで、最後のつとめを果たそうと考えていたのである。
妻の死
広田が巣鴨に収監されて5ヶ月後、妻の静子が服毒自殺を遂げた。その報を聞いて、広田はまるで妻の面影をまぶたに焼き付けるかのように、静かに目を閉じた。二人は老いてなお相思相愛で、周りも羨む仲だった。死ぬ前日、静子は子供たちに「幸せな生涯だったわ」と語っていた。死を選んだのは、死刑という最悪の事態を迎えたとしても、夫の生への未練を軽くしてあげられると考えてのことである。それが彼女ができる夫への恩返しであった。わびしい独房の中で広田は、そんな妻の優しさに身を震わせた。
1948年11月4日、判決の日が来た。広田には6人の軍人と共に絞首刑が言い渡された。広田の死刑は、検事団にとってさえ意外なものであり、キーナン首席検事は「なんとバカげた判決か」と怒りを隠さなかった。あまりに不当な判決である。広田を知る者たちが立ち上がり、道行く人々に減刑嘆願の署名集めを開始した。郷里の福岡や、外務省関係者も嘆願運動に呼応し、合計7万人を超す署名が集まったという。しかし判決が覆ることはなかった。12月23日、死刑は厳粛に執行された。「何か言い残すことはありませんか」と尋ねる僧侶に、「何も言うことはない。自然に生きて、自然に死ぬ」とつぶやくように語っただけであったという。
何らかの欲望は政治家が成功する一つの要件と言われることがある。しかし、これは広田には全くあてはまらない。権勢欲、名誉欲、金銭欲とは全く無縁で、異性関係も潔癖そのものであった。今日、日本が渇望しているのは、広田のように身辺が清潔で、優れた見識を持ち、並はずれた責任感を有する政治家なのかもしれない。
広田夫妻の人生訓は、「清く生きる、そして清く死ぬ」。まさにこの言葉のように生き、この言葉のように死んだ。70年の生涯を終え、広田弘毅は妻の元へと旅路を急いだ。 
 
白洲次郎

 

白洲次郎は、親や教師を困らせた悪ガキであった。その彼が、イギリス留学で大変身を遂げた。イギリス紳士の持つ行動規範を身に付けて帰国したのである。そして戦後廃墟と化した日本の復興を吉田茂の右腕となって、辣腕を振るうことになるのである。
誇り高き日本武士
白洲次郎は、吉田茂の側近として、戦後焦土と化した日本の復興に辣腕を振るった。特筆すべきは、通商産業省(現在の経済産業省)の創設である。この通産省が日本の経済大国化にとって強力な原動力となったことはよく知られていることである。
このように白洲次郎は、戦後復興に大きな役割を果たしながらも、それについて何も語ろうとはしなかった。名利を求めたり、功を誇るということとは全く無縁の誇り高き日本武士であったのだ。「日本は戦争には負けたが、奴隷になったわけではない」が口癖で、イギリス仕込みの英語力を武器にして、GHQ(連合国総司令部)と渡り合った。卑屈になることも、おもねることもなく、常に筋を通そうとした。戦後60年を過ぎ、日本人の精神はすっかり骨抜きになった感がある。白洲次郎から学ぶことは決して少なくない。
乱暴で傲慢な少年
白洲次郎は、1902年2月17日兵庫県芦屋に生まれた。父の文平は、三井銀行や鐘紡で働いたが性に合わず、飛び出し独立した。綿の貿易商を始め、大成功して大金持ちになった。桁外れの豪傑で傍若無人、そしてわがままな性分だったようだ。次郎はそんな父を嫌悪していたが、何から何まで父親そっくりだったと言われている。
神戸一中に入学した次郎は、その腕白ぶりで担任を困らせた。乱暴者で癇癪持ちで傲慢。その上、法外なお小遣いが与えられていた。父の金銭感覚は常人のそれとは違い、「これで1年を過ごせ」と言って大金を渡した。中学生の息子に自動車を買い与えるほどであったから、子供がわがままになるのは無理もない。学校で次郎が何か問題を起こすと、父が菓子折りを持って学校へ飛んでいく。家にはいつも菓子折りが用意されていたという。
そんな手に負えない次郎を親はイギリスに留学させた。次郎自身の言葉によれば、それは「島流し」であった。神戸一中を卒業した1919年、17歳でケンブリッジ大学のクレアーカレッジに入学するため、イギリスに渡った。
留学で得た「素朴な正義感」
ケンブリッジに「島流し」となった9年間で、次郎は豹変した。入学当初の試験結果は、最低点。最も出来の悪い学生となってしまった。その後発奮し、2年後には最も優秀な学生の一人になっていた。経済学者ケインズなど世界トップレベルの知性に触れたことが、要因の一つであろう。
しかし、彼を変えた最大の要因は友情であった。特にロビン・ビングとの友情は格別の意味を持つことになる。彼は伯爵の称号を持つ貴族の出で、身のこなしといい、教養といい、古き良き時代の英国紳士の典型のような人物だった。このロビンから英国紳士の伝統を吸収したのである。友情のきっかけは、喧嘩に弱いロビンが、喧嘩を売られ往生しているところを次郎が見かねて、救ったことにある。何ごとにも地味で控えめなロビン、行動的で闘志をむき出しにする次郎。二人の性格は全く正反対であったが、不思議と馬が合い、二人の友情は生涯続いた。
1928年、次郎は帰国を余儀なくされた。父の会社が昭和恐慌(1928年)のあおりで倒産したからである。9年間の留学生活での最大収穫は、英国紳士からプリンシプル(行動規範)を学び、それを身に付けたことであった。彼自身それを「素朴な正義感」と呼んでいる。手に負えない乱暴者が生まれ変わって帰国したのである。
吉田茂との出会い
帰国した翌年、白洲次郎は樺山正子と結婚した。正子の父は樺山愛輔、海軍大将樺山資紀伯爵の長男であった。愛輔は政財界に知己が多く、特に牧野伸顕(大久保利通の次男)と親しかった。この牧野の娘と結婚したのが吉田茂。白洲次郎の人生に決定的な影響を与えた人物である。
吉田との交流を深めたのは、日本食糧工業(後の日本水産)に重役として迎えられた以降である。役職は取締役外地部隊部長。会社に出向くことはまれで、ほとんど海外で過ごしていた。ちょうど吉田茂がロンドンに駐英大使として赴任していた時期と重なり、イギリスに渡った際は日本大使館が白洲の常宿となった。
吉田も、白洲も、共に歯に衣着せぬ物言いで毒舌家、向う気が強い点もよく似ていた。親子ほどの年齢差にもかかわらず、ずけずけと思ったままを率直に話す白洲を吉田はこよなく愛し信頼した。大使館の地下室でビリヤードをしていると、「コノバカヤロー」「コンチクショウ」と罵声が飛び交う。喧嘩しているのではと館員が心配して見に行くこともあったという。気の置けない二人の仲であったのだ。
従順ならざる日本人
白洲は誰はばかることなく、「この戦争は必ず負ける」と広言していた。このままでは、日本は世界大戦に巻き込まれる。そうなれば東京は爆撃され、食糧難に陥るのは必至。こう判断した白洲は、会社を辞め、鶴川村(現在の町田市北部)に5千坪の土地を購入し、百姓を始めた。1940年、日本は戦争への坂道を転げ落ちていた時期である。
戦時中、白洲は自分の畑で取れた野菜を知り合いによく配り歩いた。野菜を乱暴に新聞紙にくるみ、ドサッと玄関先に置き、そのまま立ち去ってしまう。物音を聞きつけた家人が玄関に出てみると、そこには誰もいない。食糧難の時期である。友人は一風変わった訪問者に心から感謝したという。ぶっきらぼうではあったが、心優しい白洲の一面を伝えるエピソードである。
終戦直後の東久邇宮内閣に続き、幣原内閣が成立したとき、外務大臣に吉田茂が就任した。白洲は吉田茂に請われて、終戦連絡事務局の参与(翌年からは次長)として公職に就いた。吉田が終戦連絡事務局の総裁を兼任していたからである。GHQ当局との交渉が主な仕事であった。
吉田が白洲を選んだのは、気心の知れた仲であり、ずば抜けた英語力の持ち主だということだけではない。むしろ彼の交渉力である。GHQの高官に対して、はっきり物の言える日本人はきわめて少なかった。しかし白洲次郎は違った。相手が誰であろうが言いたいことは言う。この姿勢はマッカーサーに対してすら例外ではなかった。
天皇からマッカーサーに贈られるクリスマスプレゼントを届けたときのこと。マッカーサーに挨拶し、贈り物を差し出した。マッカーサーは、絨毯を親指で示し、事務的に言った。「その辺に、置いていってくれ」。これを聞いた白洲は、烈火のごとく怒り、マッカーサーを一喝した。「これは天皇陛下からの贈り物である。たとえ敗戦国とはいえ、統治者からの贈り物である。それなりの礼を尽くして受け取られるのが原則ではないか。なのに、その辺に置けとは何ごとか。礼儀をわきまえないものに贈り物を渡すことはできない。持ち帰らせていただく」。
マッカーサーはうろたえた。「待ってくれ」と言って、秘書官を呼び寄せ、新たなテーブルを用意させ、その上にうやうやしく贈り物を置いた。まさに「従順ならざる日本人」であったのである。後に白洲は語っている。「抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこの僕だ」。
通商産業省の誕生
1948年、第二次吉田内閣が成立。白洲は貿易庁長官に就任した。当時、海外輸出には貿易庁のライセンスが必要で、その順番を巡って汚職の噂が絶えなかった。占領下の日本のスキャンダルは、マッカーサーの威信に関わることである。汚職摘発に乗り出すべく、マッカーサーが直々に長官として任命したのが白洲次郎であった。
しかし、白洲が貿易庁に乗り込んでも、汚職を根絶することはできなかった。彼は貿易庁の廃止を決意する。それが汚職根絶の近道であるという判断である。その結果、貿易庁は商工省に吸収され、その商工省が後に白洲の手によって通商産業省に衣替えすることになる。白洲は、貿易庁の粛清に精を出す一方、商工省の改革に取り組み始めた。
これまで日本には、産業行政があって、次に貿易行政があった。しかし、これからは輸出行政がまず先で、次に産業行政があるべきである。輸出産業を育成し、外貨獲得を強力に推し進める。白洲による日本復興の明確な青写真である。そのために新しい強力な組織機構が必要だ。こうして1949年、第三次吉田内閣で「通商産業省設置法」案が提出され、国会で通過。日本が「貿易立国」に向けて力強く歩み始めた瞬間であった。
爽やかな風
その後、東北電力会長、荒川水力発電会長などを歴任しながら、1985年11月28日に83年の生涯を閉じた。その生涯に見事なまで一貫しているのは、「素朴な正義心」と呼ぶべき行動規範であった。「困っている奴は助けるもんだ」と言っては、人助けに余念がなかった。それでいて見返りは一切求めない。便宜をはかってもらったお礼に金品を持参したりすることがあると、「馬鹿野郎、俺は大金持ちなんだ。そんなものもらえるか」と怒鳴りつけることが常だったという。
権力を笠に着て威張り散らす人間には、闘志をむき出しにして挑みかかった。その分、敵も少なくない。彼は言う。「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人間に嫌われるようじゃないとちゃんとした仕事はできないぞ」と。また私心なく、信念を持った人間を信頼した。私利私欲の強い人間を毛嫌いし、決して付き合おうとはしなかったという。自己の「素朴な正義心」に忠実に生きようとしたのである。
雑誌のインタビューで「あなたの欠点は?」の質問に、「思ったことを率直に言うこと」と答えている。日本社会では、疎んじられることも多かったのであろう。遺言で葬式は行われなかった。純情で、一本気で、そして照れ屋の白洲次郎は、戦後の日本に爽やかな風を吹き込んだ。そして爽やかに消えていった。 
 
折々の記 / 吉川英治

 

ことばは少く、文はみじかいほどがよい。
しかも意ふかく、餘韻あればなほさらよい。しかるに至らざるわたくしの如き、とかく冗語多く筆をもてば更に長きに失し易い。ここにはその無用をのぞいて簡を旨としたつもりであるが、もとより菜園の新味あるではなく、珠中より珠を拾つたものでもない。一書にまとめるこころもなく、あちこち稿勞の餘暇に書きこぼした[#「書きこぼした」は底本では「書きこほした」]寸想寸墨に過ぎない。しかもきのふのことば今日にあたらず、今日の言もあしたの示唆になるほどのものあるやいなを自ら疑ふ。一家言叢書のうちに架せられれば、人或は著者の一家言なりやともするであらうが、僕なほ一家を成すにいたらない者、何ぞ一家の言あらんやである。ただ青年馬上の語も時には君子の窓簾さうれんを捲くにも足らんか。正直、そんなこころもちである。
時感
女性の力
雪を想はす年の暮になると、毎年かならず赤穗義士が語り出される。映畫に、劇に、書物に、ラヂオに、また爐邊の人々のあひだに。
鹿兒島縣地方では、江戸時代から毎年十二月十四日には、青年子女が各所に寄つて、義士の苦節を偲ぶため、終夜冷たい床に坐つて、義士倫講會をすることが、今でも、年中行事のひとつとなつてゐるさうである。
四十七人の生命が、日本の精神文化に貢獻したことは實に大きい。それは現實社會が科學的になればなるほど、一面、失つてはならないものとして、その價値と光燿を昂めてくる。
いまや澎湃たる太平洋の風雲をゆくてに臨みながら、全土一億の民衆の――この際の心がまへに少しなりと顧みてみたい。
とび込んで手にもたまらぬ霰かな
これは大高子葉(源五)の句のやうにいはれてゐるが、富森助右衞門の句で、討入のとき、槍じるしの短册に書いて、敵中へ突入して行つた彼の心懷であつた。
覺悟、といふ心境を、これほど清々すがすがしく、さつぱり云ひ放つたことばはない。好漢まだ三十三歳、早くもここを死にどころと見極めて、軍人訓のうちにも見えるいはゆる「生死觀」の眞諦に徹して、血と粉雪にまみれ入つた彼のすがたが眼に見えるやうである。
助右衞門の句には、このほか、細川邸へ預けられて、元日を迎へたときのものに、
けふも春恥かしからぬ寢臥かな
と詠んだのがある。――やるべき事はやつたぞといふ氣持。何とおほらかではないか。
大高源五の句としては、
日の恩やたちまち碎く厚氷
が有名である。自分の功もいはず、何事も日の恩と觀じてゐるところがゆかしい。
いつたいに義士たちの辭世や壯擧前後の歌句には秀吟が多い。嘘でないからである。たましひを搏つ眞實があるからである。
間喜兵衞の辭世、
草まくらむすぶ假寢の夢さめて常世にかへる春のあけぼの
も私の好きな一つであるが、原惣右衞門の一首、
かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山みち
を誦すと私は胸にせまつて來るものを禁じ得ない。
原惣右衞門の母は、わが子の門出にのぞんで、その鐵石心を勵ますため、自刄して果てたと傳へられてゐる。或ひは、病死であつたとも史家はいふが、いづれにせよこの歌を見れば、討入の前、すでに母親にだけは、子の惣右衞門が一黨の大願と祕事を打明けてゐたことは想像に難くない。また、彼の母が、子を旅立たせてやつた心のうちも死別を覺悟してゐたに間違ひない。
讐討を仕果して――かねてよりと顧み、また、何よりは、君と母とに知らせんと――と云つてゐる惣右衞門の心情を思ふと、この親と子が生前一夜、いかにひそかに細やかにこの世の愛涙を温め合つて家を立ち出たか、さまざまに思ひやられるのである。
元祿事件の表面の經緯や義士たちの傳は、殆ど語りつくされてゐるが、私はいつも、この快擧の表に出てゐない女性たちの内助の力を考へずにゐられない。
頌しようして、四十七士といはれてゐるが、決して四十七人だけの業ではない。その家庭にあつて、よく義士たちをしてそれを成さしめた裏に、幾多の女性の力がある。
わけて母の力が、子の信念に、どんなに大きな勵みを加へてゐたかは、細川家の家老堀内傳右衞門の日記の一節を見てもわかる。
お預け中、富森助右衞門が、ある時、朝夕身のまはりの世話をしてゐてくれる傳右衞門に、すこし間がわるさうに、かう云つてゐるのである。
「私の所持品のうちに、女の小袖で袖口も狹いのがありませう。さだめし若い者が、女の小袖など、何しに身に着けてゐたかとおわらひでせうが、實は、ちと仔細あつて、老母の物を討入の夜も下に着てゐたのです。穢むさい物と、滅多にお取捨て下さいませぬやうに」
「ははあ、さてこそ」
と、傳右衞門もうなづき、傳へ聞いた細川家の人々も、母子の情、うるはしくも可憐しさよと、みなもらひ泣きしたといふ。
目的を遂げた朝。
松坂町から泉岳寺へひきあげてゆく一列の義士たちが、金杉橋までかかると、大石内藏助が、
「ちよつと、母御に會つて來い」
と、磯貝十郎左衞門にささやいてゐる。
十郎左は、二十四歳の若者だつた。大石主税などと共に、義士中の年少者である。内藏助は、子をもつ親心を、自身にひきくらべて、最期の暇乞をさせてやらうと思つたのである。――ちやうど通りかかつた金杉橋の近くに、十郎左の母親貞柳が住んでゐるといふことを前から知つてゐたからだつた。
けれど、十郎左は、内藏助の好意を謝しただけで、
「もう今朝は、母も清々と、思ひ極めて歡んでをりませう。ひとたび別れを告げて出た門口へ、二度と暇乞ひなどに參つたら、何しに來たぞと叱るにちがひありません」
と云つて、そこの橋を、たうとうわき見もせず、一同と共に渡つてしまつた。
このほか、大高源五の母にも、近松勘左衞門の母にも、いづれ劣らぬ健氣なはなしが遺つてゐる。けれど、遺つてゐる文獻だけが、全部ではない。もつともつと世の人の眼には見えない家庭の奧に、母の力や妻の内助はかくされて居たらうと思はれる。
堀部彌兵衞老人と安兵衞の家庭などを見ても、あの中を、實に和氣靄々と過してゐる。十四日の討入を前にして自宅に義士たちを呼びあつめ、門出の祝ひに、小さゝやかな酒宴などひらいてゐるが、その座敷や臺所で、かひがひしくも立ち働いてゐる安兵衞の新妻や彌兵衞老人の妻は、いかにも良人の大事を理解しきつてゐる姿である。――死にに行く父や良人を、またその友人を、あんなにも歡んで、賑やかに陽氣に、送り出してやるために雪の降る臺所で立働いてゐる女たちの心ねを考へると、何ともいへず今日のわれわれに至るまでが感謝したくなる。胸がいつぱいになつてくる。
人間である以上、義士の人々にも、心のこりなものは數々あつたらう。幼い子ども等、弟妹、また老いたる母をのこしてゆく家庭などでは殊さらに。
小野寺十内なども、孝心の深い人だけに、九十になる老母のことを、くれぐれ妻の丹女にゆだねて京都の家を出發してゐる。それを丹女が大切に守つて、あとあとよく孝養につとめたことは、彼女が、良人の大望達成の後、細川家の邸内へ宛ててしばしば送つてゐる手紙のうちにも細やかに察しられる。
總じて、義士のなかに、不孝な人はない。忠孝一道といふことばは、義士たちが無言に實體化してゐる。
義士たちのうちには、まだ家庭ももたない未婚の男性もある。さういふ青年たちには、許嫁といふやうな女性もあつたらう。また誰とて變らぬ多少の思慕を人知れず寄せてゐた對象もかならずあつていいはずである。しかし、それらの女性に關する事は殆ど史として殘されてゐない。もちろん俗説としてはいろいろに脚色された話もあることはあるが。
しかしこの一事だけは、確なはなしである。義士のお預け中、初めから最期の日まで、親身になつて一同の世話をした細川藩の堀内傳右衞門がその日記「堀内傳右衞門覺え書」のうちに書いてゐることだから疑ひはない。
引揚の朝、金杉橋近くを通つて、母の家にも立寄らなかつたあの年少な磯貝十郎左衞門のことだ。十郎左は、天性の美貌で、よく同志の人々からも、からかはれたりすると、顏を紅あかめてゐたさうだが、年明けて二月四日の朝、いよいよ切腹となつて、檢死その他列坐の庭上に呼び出され、義士たちは順々に、潔い死をとげて行つたが、やがて、彼の番が來ると、
「磯貝十郎左どの」
と、彼の名が、死の庭から呼ばれた。
平常の衣服を脱いで、水裃みづかみしも水色の袴、扇子ひとつを身に持つたきりで、彼もほかの心友たちと變ることなく、極めて物靜かに、切腹の場所へ立つて行つた。
その日、堀内傳右衞門は、
「――けふが、お世話じまひ」
と、部屋に詰めきつて、一人々々、部屋から減つては、花のやうに散つてゆく跡を、涙ながらいろいろ始末してゐた。
當日、脱いだ各々めいめいの衣服をたたみ、持物や鼻紙まで添へて、やがてそれを、郷里の遺族たちへ――と考へてゐたのである。で、今ふと、十郎左の立つて行つたあとで、その衣服を疊んでゐると、袂のうちから、何やら紫ちりめんの帛紗につつんだ物が出て來た。
「何かしら?」
と、何氣なく、開いてみると、帛紗のうちから、琴の爪が、たつた一つ出て來た。
優雅な處女をとめの指を思はす琴の爪――それを見たとき傳右衞門はすぐ、はつと、思ひあたつたことがある。去年の十二月十五日以來、ここにゐた義士たちのあひだに、何か酒でも酌み交される折があると、よく十郎左がからかはれては、顏を紅らめてゐたことである。
「どこの誰とも、おくびにも語つたことはないが、さてはあの十郎左どのの胸に祕められてゐた人は、この琴の爪の持主か」
傳右衞門が、さう察して、白と黒の幕を張りめぐらした切腹の庭をふり返ると、そのときもう介錯人の一陣の刄風が、戞と彼方にひびいてゐた――といふのである。この事が傳右衞門自筆の「覺え書」に誌してある。
武士道の書、葉隱のうちにも、
もののふの戀はほのかにゆかしくあるこそよけれ
といふ意味のことばがあつたと思ふ。私は、武士道と愛との解決をここに見出すここちがする。愛のないやうな人に何で武士道の純熱な道が歩めよう、多涙な艱苦と戰ひきれよう、清々と犧牲の心命を華と永遠の土に咲かし得よう。
だが、大義の道と、私の愛とを、身一つに渾然ともつには、よほどな難しさがある。それをきれに抱いて、道も誤たず、珠も碎かず、しかも孝行な子でさへあつた十郎左のごときは、典型的な葉隱武士といつてもよからう。強いのみでなく、にほはしさ、ゆかしさ、潔さ、さうした數々な武士の奧ふかい心美の燦きを私は十郎左のすがたに觀る。
元祿のこの一事件ばかりでなく、國史を通じて、あらゆる時代の波の底には當然、怒濤の上には現はれない女性の力の潜んでゐたことは疑ひないが、ここに歴史の日本的な性格と、また、日本女性の特有な美徳も深くある所以だと思ふ。
元寇や建武、また幕末維新のときに照らしても、あの國難打開にあたつて、史上にとどめられた人々の名は、極めて稀れな女性の名を除いては、悉くが男性である。――けれど維新の志士たちの背後にも、幾多の母や妻や女性の力があつたかしれないのである。もし各々の身のうしろに、さうした女性たちといふものが絶無だつたら、張合だけでも、おそらく男性の力は半減されてしまふだらう。男性をして、大義の道へ、小さくは日々の職場へ向つてでも、獅子奮進させるものは、有形無形に、うしろにある女性の力が大きい。
いまこの時、日本は、一元祿事件どころの比ではない曠世の國難に立ち向はうとしてゐる。
男たるものは、たとへわれらのやうな書齋の一文人にせよ、すでに日々の生活にも肚の底にも無言のうちに或るものを据ゑてゐる。が、この男たるものをして、小野寺十内のやうに、富森助右衞門のやうに、また磯貝十郎左のやうに、安んじて、笑つて、明日へ立ち向はせてくれるものの偉大な力を、世の男性は擧げて今日に欲しいと思つてゐるにちがひない。
日々、職場へ向つて、朝家を立ち出るわが子、また良人へ、曠はれやかな安心を添へて見送ることでも、その一つである。夕方、疲れて歸る良人へ、笑顏ひとつ、心をこめて迎へることでも、良人が國家の一翼となつて働いてゐる良人なら、そのひとつの笑顏も、女性の忠義といへるものである。義士の行動とその精神結合の單位を見ても、悉くそれは家庭といふものにある。國史國難、いづこを見ても、日本の力は、家庭が單位だ。日本が家族主義國家といふゆゑんはここにある。
よし太平洋の怒濤をさしはさんで、暴慢な國々と世紀の戰ひに臨むとも、それに打剋つ力の源泉と單位は、飽まで各々の家庭にある。また日本女性の力も時代の波の底――國難のしぶきの陰にあることを――特にいまの女性にふかく自覺していただきたいと思ふ。
歳寒二客
歳末の七日だつた。早朝、わたくしの家を訪ねてくれた地方のお客がある。草鞋を玄關に解いて、つぎあてだらけの洋服に、脚絆をつけてゐる。童顏で色つやよく始終にこやかなお爺さんである。
……かやうな者でござりますが。
と、自筆の名刺を出された。宮城縣鹿島臺村、鎌田三之助とある。官民懇談會へも、首相官邸へも、翼賛會本部へも、この草鞋ばきでゆくので、草鞋村長の名を得た篤農家である。
翁を案内して來た私の友人は、翁の徳行やその全生涯にうちこんで來た功績のかずかずを座談した。その忍苦實踐から結んだ實の大きな地方貢獻は夙に有名でもあるし、また一篇の篤農家傳を成すに足るほどなものであるが、翁は始終、少年のやうに羞恥すらおびた面持でにこにこ控へ目がちに默つてゐる。
けれどひとたび、國家の現状とか、銃後増産の問題になると、
「だいぢやうぶでございまする。わたくしども百姓は、それをもつて、天子樣におこたへするために生れついてをりまするで、日本の百姓がたが、しつかと、自分々々の御奉公をここぞと心得て、一人々々が足に草鞋をつけてゐる限りは大丈夫でござりまする。及ばずながらわたくし共も日頃から村のものたちへ、頭を下げて、おねがひ申してをりまする。そのお蔭か今年などは、夏中の冷雨つづきで大不作にもなるところを、平年作よりも多くの物をお國へさし出すことができまして――」
と、云ふところは單に質朴で世の篤農家と變りないままであつたが、つらつらその人となりを見てゐると、心のそこから日本の現状と増産の要を憂へてゐる眞實がほの見えて、私はひそかに、
――かういふお百姓が居てくれればこそ。
と、日本の強味と、そして、ひとりの人間の誠心奉公がいかに一田の稻穗のごとく、多くを益するかを、思はずにゐられなかつた。
――お幾歳になられますか。
わたくしの問ひに、翁は、
――もう二十日と少し經つとちやうど八十になりまする。
と、云つた。
そしてなほ歸りがけには、
――東京へ出て參りますると、あれがない、これが足りないと、宿屋へ泊つても、不便不足ばかり聞きまするで、それがみな、わたくし共へもつと精出してくれとおつしやられるやうで、何とも辛うござりまする。けれど、都會のお方たちも、そんな事にのみ心をとられて、この大事な日本の瀬戸際に、迷うたり怯んだりしてゐるやうなことでは成りません。石を噛み、草を食うても、米英と妥協などはいたしていただきたくないものでござりまする。そんな事にでもなつたら田畑に働く百姓どもの力もげつそり落ちて、日本は百年の悔を孫子へのこしてゆくことになりませう。御先祖にたいしましても、子孫に對しましても、それでは昭和に生れましたわたし共は何とも顏むけがならないことになりまするで……
咄々と云つてゐたが、その質朴なことばの底には、壇上の雄辯にもまさる心もちがひそんでゐた。
その翌る日である。
ハワイ襲撃の快報があつた。そして、宣戰の大詔に、わたくし達、一億のものが、肅と、ラヂオに向つて、われ知らず垂るる涙に世紀の大東亞戰爭を迎へたのは。
――おぢいさんはどこでこの大詔を耳に拜してゐるか。
と、わたくしはふと、きのふ玄關に脱がれてあつた草鞋を思ひ出した。そして、その方はだいぢやうぶ、と力強く思はせられるとともに、
――自分は。
と、まづ机に坐つて身をふかく顧みてゐた。
けふ正月の五日。けふも空には、曉から午後にいたる迄、たえまなき帝都の上空にある轟々のプロペラを聞く。この不斷の守りの下に住んで、火鉢をかかへながら寒いと呟く。何たることだと身を叱る。
さすがに、ことしの松の内は、酒氣狼藉の客もない。しかもみな元氣溌剌だ。希望的だ。いま迄のどんな正月より明るい顏ばかりである。
――長岡地方へ行つて歸つて來ました。歸りに、出征中の兄の留守宅を見舞つて。
と、一友人が、雪焦けのした顏をかがやかして訪ねて來た。
この友人は、こんどの旅行で、或る縁故から越後長岡の郷里に今も息災でをられる山本五十六大將の姉上に會つて來たと、はなしの末に語り出した。
――越後へ行つてみて、大將の人物といふものをほんとに知ることができたといふ氣がしました。郷土と人物といふものは、やはり血と肉のやうに、濃く深いものですな。ハワイ、グアム、マニラ其他のあの偉大な乾坤一擲の指揮にあたつて、あれだけの戰果をあげたといふ世界驚目の事實も、偶然ではない氣がして來ました。世界人はみな奇蹟のやうに云つてゐますが。
そんな事から、わたくしもつい長廣舌になつて、郷土と歴史、歴史と人物、そして一貫した日本だましひの底に流るる血潮の神祕――と多岐にわたつて、自分の信念を語つてゐたが、その友人のはなしのうちに、山本五十六大將からことし七十六になられる郷里のお姉上へ宛てて、あのハワイ戰後に送信されたといふ手紙を寫させていただいて來たとのことに、それはぜひと、わたしも自分の雜記帳の端へそれを複寫させてもらつた。
――これは大將のお姉上も、ひとに見せては、五十六に叱られるからと、他見をおそれていらつしやるものですから。
と、友人はわたくしに念を押した。で、ここにその全文をかかげることは出來ないが、そのうちの一節には、大東亞戰の快捷以後、ともすれば銃後の一面に油のごとく浮きやすい勝利の驕氣について、大いに省みられる一節があるから、その要點だけを、これへ拔抄することを大將のお姉上にゆるしていただかうと思ふ。大陸、太平洋に亘つて、水ももらさぬ皇軍のたたかひが全うされようとも、銃後に驕逸の風がわいては何にもならない。その意味で大將もこのわたくしの無斷をおゆるし下さるだらうと思ふ。以下、大將の文中に見えるその一節である。
――いよいよ戰ははじまりましたが、どうせ何十年もつづくでせうから、あせつても仕方はありません。世のなかでは、からさわぎをして、がやがやしてゐるやうですが、あれでは教育も、修養も、増産も、あまりうまくは出來ぬでせう。重大時局になればなるほど、皆が、持場をシーンとまもつて、こつこつやるのが眞劍なので、人が軍艦の三隻や五隻を沈めたとて、何もさわぐには當らないと思ひます。(以下略)
辭句は至つて短く淡々たるものであるが、世界の耳目を震撼させたあの一瞬を思ひ、その人を想ふとき、しんしんたる滋味をとほして、深くわれわれを省みさせるものがある。三誦、四誦、わたくしはその寫しを机邊においていま座右の銘としてゐる。
元日
明治生れの僕ぐらゐな年齡の者にとつて、少年時代、最も感銘の深かつた日は、舊天長節十一月三日と、元日の記憶であつたやうに思ふ。紺絣に、小倉の袴の新しいのをつけて、清掃された校庭で「今日の佳き日――」を歌ふ日は、ふしぎに毎年よい天氣で、菊の花と日章旗で象徴シンボルされた日本であつた。故夏目漱石氏の句かと思ふが、
菊の咲く日本に生れ日本ばれ
といふ句は、十一月三日の感銘そのものをあらはしてゐる。きれいに掃いた街と、校門と、日章旗と、菊の花と、秋の太陽とに、知らず識らず薫育された少年への感化力は大きなものであつたと思ふが、現代の一年間には、さういふ教化力も、「きれいに掃かれた街」の一日すら失くなつた。
近年の元日の街の穢さといつたらない。去年の疲勞と塵芥が殘つてゐて、街には輝きも清新さもない。又、生活に餘力のある人々の多くは、年の暮から七草頃へかけて、越年の旅行に出てしまふ。元日の都會は留守だ。
僕は、元日でも、一度は机の前に坐つて、そして障子越しの冬の陽に、元日の靜かさを味はふことに、習慣的な樂しみをもつてゐるので、父母の生きてゐた頃から今日まで、家庭の外で元日を送つたことは一日もない。それも、前の晩の除夜は、たいがいすることもないくせに炬燵で夜明かしをして、年越しの蕎麥を食べて、いはゆる「除夜の感激」に耽るまでの、入念な家庭的習慣人である。
ここ七八年來は、さうして、まだ夜の白まないうちに、家族達をみんな連れて、明治神宮へ行くのを例にしてゐる。あの大鳥居の前から數町の參道を、いつぱいに流れて行く群衆の中に伍して、凍つてゐる小砂利を踏みしめながら、ざくざくざくと跫音を揃へて、寒烈な曉闇を衝き進む氣もちは、一年の行動の第一歩として、最も清新で、又、反省的な氣がするのである。
その明治神宮の元日も、やがて陽が高くのぼつて、明るくなると、もう餘りに參拜氣分が濃厚になつて、敬虔な思索的な感激は、篝火の消えるのと一緒に消えてしまふ。まづ曉闇の明治神宮だけは、いちどは歩いてみるとよいと、僕は人にもすすめてゐる。寒烈、鼻柱が曲がるほどであるが、何か得る所がきつとある。自己の生活の歩行に、一つの姿勢を持たうとする意志だけでもきつと起る。
水仙に戯作の恥を思ふ朝
これは、數年前の元旦につぶやいた、自分の句である。
飢ゑ
十二月になると思ひ出す。
ハムスンの「飢ゑ」の中に、一週間も胃に物を入れない奴が、路傍の牛骨を拾つて、いきなり、かぶりついた後で、へどを吐く所があるが、彼はまだ幸福だつた。なぜなら、獨身者だつた。
獨身者なら、何も、ハムスンの「飢ゑ」の人世ぐらゐは、大した事業ぢやない。第一、自分の體一つのくせに、あんなに食へなくなつてるのが滑稽だ。
四十初惑
三十にして立ち、四十にして惑はず、と曰つた古人の言葉はほんとかしら。あながち空言でない實踐的な人物を、吾人は史上に多く見てゐる。たとへば吉田松陰のごとき、橋本景岳のごとき、他の維新史上の幾多の人々のごとき、多くが三十から四十までの途上に、する事をした。しかし、或る意味では、志士の感情や、憂國や、あの行爲は、未成人であつたから出來たともいへる。ほんとの不惑といふ心境になりきつてゐた人は少なかつたらう。
井伊直弼のやうな人も、四十五で宰相になつて、おそろしく剛毅果斷の一點張りにみえるが、あの信念的な足もとにも、つぶさに見ると、やはり醜みぐるしい程な迷ひが絡んでゐる。大鹽平八郎の如きは、五十を越えて身をさへ滅ぼしてゐる。六十にしてすらその轍を踏んだ源三位頼政には、同じ滅んだにしても、死花を求めてやつた生涯の捨て場にも見えるので、大鹽のやうに、迷路で討死した感じはない。だがそれにしても、一つの迷ひは迷ひである。尠くも、不惑の心境ではない。
そこへゆくと、純粹藝術派の田能村竹田などは、三十にして隱遁し、四十一二歳の年には、書簡にも、田翁だの、竹田叟などと、自署してゐる。ずゐぶん老けた人である。生活そのものまでを藝術化して、詩畫と自然に生きようとした。けれど、その竹田にしても、五十歳近くになつて、友人へ洩らした書簡語のうちには、かういふ心境をもらしてゐる。
――若年から今日までを顧み、十から四十までの間は、恥かしいことだが、常に、誰に負けまい、彼に遲れまいと、功利の宇治川に入つて前線ばかり爭つてゐたし、又自分や家族などの滿ち足らない享樂を滿すことで唯一の慰藉としてゐたが[#「慰藉としてゐたが」は底本では「慰籍としてゐたが」]、四十をすこし踏んでからは、これでいいかと考へ出して來た。決して滿足出來なくなつて來た。つまらない雜草の花ではあつても、自分が枯れた後も、この土壤に、自分の種族を、來年の春も、次の春も、咲いてあるやうに欲しいといふやうな本能を感じてくる。極めて平凡な動物的本能でもあるが、又極めて神祕な植物の本能にも似てゐる。しきりと、花粉をこぼしたくなる。風を待つて、仕事の意能を撒布したくなる。これはたしかに三十にはなかつた氣持だ。
衣食足つて禮節を知るといふが、むろん衣食のこともあるが、年齡からくる本能は、もつと自己の仕事に影響を持つてくるのではあるまいか。はつきりと一段、階梯がちがつてくる所から、迷ひの眼は、新しく自己を見てくる。
三十代の認識で、あんな男がといはれた者も、四十に面目を改めるのは、そんな場合ではあるまいか。自分なども、至つて、年齡から受ける思想などは馬鹿にして、いくつになつても、變らないつもりではゐたが、これを、身邊の些事や、又妻などに對しての氣持をみても、いつの間にか變化をしてゐる。大ざつぱに云ふと、二十八九歳頃の自分は、妻に對して、ふた言目には、一喝か、手を出すかだつたが、三十になつては、仕事が可愛い爲に、身をかはして逃げてゐる氣持だつたし、四十をこえると、いよいよ、仕事も身も生涯も大切なので、妻の機嫌をとつても家庭を明るくありたいと、時にはどんな無理でも聞いてあげ得るやうになつてきた。
實業家にしても、政治家にしても、どんな職業のものでも、すでに、衣食足つて、四十にかかる者は、何か、同樣な變化を持つものではないかしら。享樂や、功や、さういふもの以外に、社會へ自己の花粉を、何らかの形で撒布してありたいやうな。
さういふ意味で、僕は、四十にして不惑といふ古人の言に對して、四十は初惑であるといふことも、云ひ得ると思ふ。
背中哲學
祭日や日曜日などの汽車の中で、よく見かける微笑ましい家族がある。夫君は三四人の子供を膝に集め、妻君は年に一度か二度の行樂に、ふだんの零細な家計簿や、内助の刻苦から、今日だけは解放されて、自分も子供の一人になりきつてゐる。キヤラメルの一箱が、お母さんの口にも入る。お父さんの口にも入る。
妻君の半襟は新しい。縫ひ直しではあらうけれど、帶も著物も晴著とみえる物である。子供たちは、今朝土へ下したばかりの靴を穿き、今日のために丹精しておいたらしい洋服を著、女の子は赤いハンドバツグを、男の兒は寫眞機を、それぞれ人中に置いて恥かしくない姿を持たせてある。嬉々として童心は窓外へ聲をあげたり、めづらしく自分たちの中にゐる父の膝に、甘えたり戯むれたりしてゐる。その父の顏はまた、子供以上に他愛もない。まことに※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、28-5]むべき人生の斷片だと、傍らの乘客も、眼を細めて見入つてゐる。
さういふ情景を見てゐると、私は眼が熱くなる。夫君は會社員か、役人か、商店員か、いづれ滅多に休日のとれない人であらう。それにしてもこの夫君は、日々の勤務にも、隨分忍びがたい我慢もし、辛い勞力や精神も費し、今日ばかりはかうしてゐるが、常には下げ難い頭も下げて働いてゐるのだらうと思ふ。それが男性の實社會だ。
男性ほどいぢらしいものはない。家庭でこそやかましい良人だつたり、煙たいお父さんであるが、實社會に出ては、人にいへない忍苦もする。辭表をたたきつけたいことも奧齒の根に噛んで思ひ直す。男泣きをしたい恥も笑顏で歸つて來る。失敗も、不安も、非難も、さあらぬ顏して家庭の外へおいて戻る。あしたの朝は、又、そこへ向つて靴を穿く。
實社會にある男性は、事毎に「忍」を以て當らなければ、忽ち生活の道を失ふか、人との和を缺いて、世に容れられない生涯を辿るだらう。その爲し難いことを爲して、しかもそれが男性の本望であるといふ意力さへ持たせるものは、ただ家庭あるが爲めである。
かう考へてくると、外にあらはれない妻君の内助といふものも、勿論、大きな努力に相違ないが、男性の「忍力」といふものも、女性の眼には見えない、日々の苦鬪であるとおもふ。眼に見える働きばかりしてゐるのが、決して男性の仕事の全部ではないといふことを、女性はもつと認識してよい。
私は多くの社會人に接してゐる。さういふ外にある他家の良人と、日々、仕事の上や社交上で接してゐる。文藝家は元より、實業家にも會ふ、ジヤアナリストとも交渉が多い、宗教家や軍人や思想家や政治家や、さまざまな人にさまざまな場所で會ふが、その折にいつも感じることは、この人も背後うしろに家庭を負つてゐる良人だといふことである。
どんなに豪快に笑つてゐても、磊落を裝つてゐても、その人の背中を見ると、安心があるかないかわかる氣がする。男性が社會人として、外に働いてゐる間の緊張は、寸秒の弛みもない戰場の心がまへにも劣らないから、人には内部の弱點は見せまいとする。
家に病人があらうと、男は職業戰線では笑つてゐる。妻に惱みがあつても、人中では極めて快活な人間といはれたりしてゐる。尚更重要な位置にゐたり、日常人に接して要務を裁さばいてゐる者などは、殊に、自分の職業の上では、他人に壓されまい、負けまい、蔑まれまい、敗れまいと心がける。從つて、職業線から見た男性は、皆、正面は強く、快活で、磊落で、健康さうで、巖のごとく氣負つてゐて、五分の隙もない良人に見える。
だが、ふとさういふ人々の背中を見ると、いかにも脆さうな人が多い。どこか不安の影がただよつてゐたり、或ひは、苦惱の歪みが見える。正面と裏と、二つの假面を合はせたやうにちがふ。正面には、前に云つたやうな心がまへを怠らないでゐても、裏の心の及ばないためであらう。堂々とした大會社の重役でも、背中を見て、ふとその人の弱點を感じることがある。どんな男性でも、裏はかくせない。
かういふ話を或る人から聞いた。聯珠の名人高木樂山氏は、自分の年齡を、他の新鋭な競爭者に告げたことがない。社會的にも、常に若く思はれてゐなければならないと心がけて、もう十數年前から、永遠の青年たらんことを、教科書として守つてゐた。その爲めには、青年に交り青年的な生活をし、青年特有な會話を使ひ、裝身洗顏の點まで、緻密な躾たしなみを怠らずにゐたので、もう五十餘歳になつてからでも、誰もそんな年齡とは氣づかずにゐた。どんな場合でも三十七八歳以上に見られた例はなかつた。
ところが、或る百貨店で座談會のあつた時、たまたま、年齡の話が出て、誰は幾歳いくつ、誰は何歳と判じ合つてゐたところが、百貨店の支配人が、高木氏の年齡をいくつ位ゐかと問はれたのに對して、言下に、
「五十三四でいらつしやいますか」
と、※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、31-10]星を云ひ中あてた。
これには、中てられた本人も一驚を喫した。十數年來の自信を、まつたく壞こはされてしまつたのである。
で、自分は嘗つて一度も、ほんとの年齡を他人に看破されたことがないのに、どうしてそれが分つたかと訊くと、百貨店の支配人は、即座に、
「失禮ですが、私は最前から、あなたのお背中に立つて居りましたから」
と、答へたさうである。
それとは反對に、前から見ると、くしやくしやな顏をしてゐるけれど、背中から見ると、圓光の輝いてゐる人は、私の知己の中では、菊池寛氏だと思ふ。一緒に歩いてゐる時など、後からあの背中を見てゐると、ただまるツこく肥えてゐるだけだが、縹渺として、何か味がある。その味はどんなものかといふと、「後の安心」といふ相だ。
私は、菊池氏の家庭を訪れたことはないし、菊池氏はまた、家庭と職業との線にけぢめをつけて、寫眞や家庭記事なども避けてゐるので、何も想像の根據はないが、それでもこの良人の背中には、家庭がそつくり描いてある。いかにも、搦手の木戸は安心して、大手に向つて床几をすゑてゐる城將の趣だといつも思ふ。
城郭を築く場合でも、後の地相はもつとも嚴密に選擇したものである。山容、樹水、嶮密の徳備があつて、城の正面も初めて搖ぎないものになる。
佛像だつてさうだ。佛像を背中から拜む人はないが、名匠の作品を見ると、決してうしろだからと云つて力は拔いてない。又、諸佛のうしろから背光を見せてあるのは、いはゆる後の徳備と安心をも現はしたものではないか。人間も、この後光を負つてゐなければ、實社會に立つて、ほんたうに根を下した仕事はできないと思ふ。女房たるものは、どうか良人にこの後光を負はせて、朝な朝な社會へ送り出してもらひたいと思ふ。
こんなことをいふのも、實は、私自身に、まだ、不徳にして眞の背光がない脆さを感じるからであつて、夢、他人事ひとごとではない。もし菊池氏ほどの後光があるなら、自分は今の倍も仕事ができると思ふのであるが、それもまた、良人として賞めた考へ方ではない。要するに、この光をつくるには、夫婦共作の努力がなければならないから、まづ共作の和に努むべきである。
轉機
轉機は人生をつくる最大な一瞬だ。岐路の人生は、運命と人間の協同創作である。自己の力が勝つてつくる場合もある。運命のつけた題名みだしと、運命の書いた筋書テーマに、もつて行かれてしまふ場合もある。
惰眠を撲つ
僕、毎夜、或ひは毎曉、寢具に入る時、書一册づつを持ちて、やどかりの如く潜りこむの惡癖あり。明机に清讀をゆるさざる稿勞者なればぜひもなしと思ひありしに、一夜、秋田縣の百姓石川理紀之助翁の小傳を臥讀しつつあるうち、
寢てゐて人を起すなの一章に會ふ。
翁の力行的生涯の事蹟、また、僕ら若輩書生の惰眠を撲つ。
世には、寢てゐて讀まれざる書もありし。
花・菜根
應接間の壺へ、花屋が來て※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)花をかへて行つた。小皿ほどもある光琳菊の白いのと黄色いのとが、誇らしげに客に侍してゐる。
「温室でせうな」と客がいふ。
「西洋菊ですよ」と、ある園藝好きの客が説く。
戸外には春の雪が降つてゐるといふのに、室内では菊が咲くのですから面白いですな、と世辭にいふ人もあるが、自分には、いつかと面白くない。花屋の技巧だから仕方がないものの、出る幕でない時に、ぺちやぺちやしやべり散らす口紅の女のやうに、つまんで部屋の外へ捨てたくなる。
花ばかりではない。冬でも、春でも、お椀のふたを取ると、さや豆が浮いてゐるし、イチゴや西瓜も年中のものみたいに出るし、家庭の惣菜でさへ、三月といへばタケノコめし、キウリといへば夏を待つまでもない。
天保頃には、キウリの走りを食つても法令に罰しられた時世もあつたが、かう四季のものが四季を無視して、踊り子みたいにいつでも金で買へる世の中も、進歩かは知らないがうれしいものではない。
果物でも、たとへば鮎みたいなものでも、鰹でも、食味の世界に、現代の都市人は、四季のおどろきを失つてしまつた。八百屋が春だといつて來ても、魚屋が夏だといつて來ても、待つ物はないし、感覺の新鮮さは一つもない。
釣と飛行機
よくある名人會の演出に、少しも名人らしいのがゐないので、名人は滅んだといふ人もあるが、私の思ふには、いはゆる名人肌なる型がかはつてゐるので、やはり名人は滅びてはゐないと考へる。
畫の一番難かしい點はどこかと問はれたのに對して、大雅堂が「餘白にあり」と答へたといふやうな名人の言葉や、一刀三禮をする彫刻家の話や、極端な唯心的名人生活や、また、權力に反抗したり、日常の畸行に富む逸話的な名人肌なるものは、確かに失くなつたであらうが、現在の名人は、機械科學の中などに多く生れてゐるのではないかと思ふ。
ある飛行將校の話によると、飛行機にも意志と感情があつて、生き物と違ふところはないさうである。たとへば、機に乘る前に、彼の性能を疑つて、神經質に發動機を調べたり、いぢつたりして來ると、その日は、飛行機が一日不機嫌で、兎角思ふやうに任務が遂げられないことが多いが、彼を信頼して、彼もまたプロペラによろこびを現はす時は、砲彈の中を翔けても、決して凶事は起らないものだといつてゐた。
プロペラの喜怒哀樂が分るやうになれば、飛行家も名人の方であらう。日本の紡績業が科學萬能國の脅威となつたり、鐵道工業が世界一といはれたりするのは、多分に、機械機能そのものよりは、日本人の感能に、いはゆる名人素質があるからではあるまいか。
何で讀んだのか忘れたが、釣ずきの朝倉文夫が「おれの釣る魚は一尾も怒つた顏はしてゐない。どの魚も、おれに釣られた魚は笑つた顏をしてゐるのだ」と書いてゐたが、これなどは釣にかけての名人の言葉といへよう。すでに名人的素質のある國民は、魚を釣らせても、飛行機の操縱をさせても、また彫刻に於いても、要するにその性能は働らかずにゐないものなのである。
舌を洗ふ
人にいふべき信念でないかも知れないが、僕は酒の害といふものを覺えない。量は三獻でよし、一合でよし、半夜でよし、まれならば夜を徹してもよろしい。しかし、すすめる杯はのまない。のみたくなる時に杯を手にする。それも獻酬する時のほかは、決して、底までは乾さない。欲するだけを舌の上にうるほして止める。
二十四五歳の頃から今日まで、僕には量といふものが少しも變らない。あがりもせねば下りもしないのだ。一酌すれば明りの燭光を増したごとく周圍に清新を加へて來るが、荒すさびた心にならうとは思はない。微醺を尊ぶこと、ペンにインキを濡らす程度。
つよいばかりが酒のみではないと思ふ。僕は酒のみを以つて自負してゐる。酒を愛すことでは人後に落ちないとしてゐる。たとへば、將棋は下手であつても棋を愛すことでは負けないとしてゐるやうに。
暢叙譜の愛酒の憲法は、讀んで面白いが、あのうちの「酒飮む時」の憲法どほりにやると、僕など朝夕に飮まなければならないことになる。僕にも酒の憲法はあるが、その第一條は「舌を洗ふために」である。僕の酒は自ら「舌洗」と稱してゐるからだ。
古人は腸を洗ふといつたが、僕には體力的にさうは飮めない。平常の舌滓を洗つて、まづ酒客との話に新語が吐きたいのである。味覺を研いで料理をあさることもたのしい。舌洗ひならば三獻でも足るし、また、酒の害を考へたこともない。
益友
益友といふものは、たんとはない。
心の友といふものは、なほさらない。
別れても、戀人は、またあるともいへよう。然し、友は、わかれたら、またと得難い。
慷慨家はきらひ
木崎光吉氏のお宅で、頼三樹三郎の心事についての意見を拜聽しながら、當年の俊才三樹三郎が友人に宛てた書簡を見た。
それにも、
お互ひに棺を蓋つた後で恥かしくない歳月を過したい
といふことばがあつた。
また、彼は時の爲政者から、梁川星巖、梅田雲濱などと共に、反幕府黨の四天王と目された程の熱血兒であるが、その三樹三郎が、書簡のうちに、
僕は慷慨家はきらひ
と、いつてゐる。そして、慷慨でどうなる世の中でなし、慷慨どころの場合でなし、ともいつてゐる。時代は違つても、このことばは、現代へ向つても、痛烈な喝破である。
兵士の顏
「顏」は意志をあらはす。國家にももちろん大きな顏がある。「顏」は又、時代をあらはす。こんどの戰爭にも一つの顏があらはれてゐる。
北支の戰線で、私がもつとも襟を正して見たものは、皇軍の兵士の顏である。あの泥土と汗と血にまみれた眞黒な顏だ。
南口總攻撃の前夜――私は○○部隊の將士の中に交つて、大きな二日月の下に、靴を枕に、露營して眠つた。
夜明けの五時を期して、この隊は、敵陣の中へ、捨て身の突撃を命じられてゐた。――それまでの僅かな間の睡眠なのである。
その時、私は沁々と、自分の周圍に銃を抱いてごろごろ眠つてゐる兵士の顏を見たのであつた。何といふ邪氣のない顏だらう! どれもこれも、實にいい寢顏をしてゐるのだ。いや、さう云つては勿體ない。むしろ崇嚴ともいふべき兵士たちの寢顏の美しさなのである。
都會の中の、白粉や臙脂や、どんな寶玉の中にも、こんな崇高な美は決してあり得ない。こんな顏は、戰場でなければ、人間の中にも見つからない。
明日は死地へ。――それを前にして、夜明けまでの一瞬を、百年の睡りのやうに、兵士はすやすやと眠つてゐる。その眉、その唇、その眞黒な顏には、何等の惑ひも、不安も、邪智も、心殘りもないのであつた。茲にいたると、人間はもう光風霽月なのであらう。
平常の修養をもつて、この心境に達しようとするならば、十年の坐禪でもむづかしい。二十年の劍道の修業でもむづかしい。三十年の學問でも迚も至るまい。
戰爭は、人間をその境地へ、一夜にして到達させてしまふ。
しかし、それは戰爭そのものの力ではない。[#「ない。」は底本では「ない。 」]天皇を持つ臣民の兵にして初めてさうなれるのである。天皇の軍なればこそ、彼等は銃を抱いて、故國に思ふ心殘りも惑ひもないのだ。すでに、天皇の兵である彼等も亦聖なる戰に立つ時は、一人々々がみな神となつてゐたからであつた。
神の寢顏だ!
私は眞實にさう思つて大きな二日月の月あかりに、心の中で兵士たちの寢顏を拜んだ。
その中には、平常、平和な内地にあつては、家庭で困り者のどら息子も居よう。銀座裏をよく飮んで歩いてゐる良人も居よう。人間だから、時と場合では、その顏が醉つ拂ひになるのはあたりまへだけど、征野の露に臥して、身を皇軍の旗下にささげたとなると、誰も彼もない、日本の兵は、一人々々みな神である。それは、彼等の顏が證據だててゐる。
兵士の顏ほど立派なものはない。炎熱の下、苦戰の血地、屋上の歩哨、鐵路の守り、何處で見ても、彼等の眞黒な顏は立派だ。邪智がない、迷ひがない、未練がない、光明にあふれてゐる。ニユース映畫に映し出される兵士の顏に意をとめてみるとよい。敢て、戰線へまで行かなくとも、心して見れば、その輝きは内地の人々にわかるであらう。
人は、戰爭は慘鼻だといふ。しかし私はその征野にこそ、眞の希望と、眞の人間の美とを見る。わけてもその中に、兵士の顏の美に強く心をうたれる。
血液
戰爭があつて以來、私は人に對しこの畏怖を前より深く持つやうになつた。例へば、家庭の臺所口へ出入りする八百屋、肉屋の御用聞きでも、應接へ來て、飮んだり遊んだりの話ばかりしてゐる男にでも、知己のあひだで、困り者になつてゐる札ツキにでも。
なぜならば、彼等にも、平常は眠つてゐても、事あれば、日本人として起つ心構へと、起てば燦然と皇國の一民である光を放つ或るものが、總てが、血液の中に持つてゐる人であることが、今度の戰爭によつて、日々立證されてゐるからである。
名將の眼
個性の本質が、戰といふ超常識な中では、いろいろな形にあらはれるが、平常には、それが人間の表にあらはれてゐない。その見えないものを觀て使ふのが、名將の眼といふのであらう。
友を選ぶにも、事業の傘下に人をおくにも、そこを見ておかないと、悲境の場合に、落寞を感じるだらう。よく、あいつは見損つたと嘆じる聲を聞くが、それは淺白な自己を告白するも同じである。――けれど、更にもう一歩入つて考へると、その見損つたと腹の立つ人間でも、まだその人間の血液の底に、まだ一滴の尊いものが殘つてゐるかも知れない。
人は、容易にその價値を、輕々しく決められないものだと、沁々痛感する場合が多い。

都合で、すこし大きな家を借りて移つたら、訪客に會ふたびに、家の話が出る。非難するのは知己のはうであるが、お褒め下さる人があるから腐る。文士の家がまへといふものは、女の前髮のやうに大き過ぎるのは氣になるものらしい。笑ひながしてゐるのも樂なしぐさではない。伊達正宗の詩をかりていへば、僕らはまだ「青年棲馬上」の時代だ。なかなかこの都門でふさはしき安住はゆるされない。今の家は自分が住んでゐるのではない、仕事が住んでゐるのである。
大きな家にをさまつて、自分の變化を認めようとするほど、僕はまだ落魄れてゐない。
この先もさうだし、これまでもさうであつたが、どんなボロ家に住まうと、門戸を張らうと、僕は、家なんていふ形の中に住んでゐるとは思はない。心のうちに住んでゐるつもりである。
苦徹成珠
有信館といふのは當代劍道界の巨人中山博道氏の道床である。そこの冷嚴な朝の道場へ出て、稽古にひと汗かいた人々に圍まれて苦茗をすすりながら、或る朝、中山氏が語つてゐた話のこれは斷片である。
わたしの母は偉かつた。かういふことを今でも覺えてゐる。何か急なことを告げる場合に、私がつい言葉のくせで、お母さん大變ですと云つた。すると母は、私に向つて、大變といふのは、國が亡ぶとか、御主君の身の上に何か凶事が起つた時のほかはつかふべき言葉ではない。この頃の人は、近所から小火が出ても大變といひ、鐵瓶の湯が噴きこぼれても大變といふ。あまり狹量で見つともない言葉である。大變などといふ言葉をつかふ場合は、生涯にさう幾度もあるものではない、と。
わたしは又、十幾歳の頃からひどく病弱だつた。廿歳を越えた頃には、醫者からも、永くない天命と宣言された程だつた。それから信念に生きようと努めた。その信念を、劍道によせて、生死のなやみを突き破るほど無性に修業へはげんだ。いつの間にか三十、四十、五十となつて愈々體は健康になり、六十に達して、いはゆる心身の強固を一つに持つことができた。これも母の鞭撻と、劍の賜物にほかならないと、今でも感涙がもよほされてくる。
修業といへば、かういふ體驗がある。
ひと通りの劍道を修めてから、居合術の必要をおぼえ、居合の修練に熱中してゐた若い旺んな時代のことである。
山形縣の北村山郡大倉村に、林崎神社といふのがある。永祿年間から戰國時代までは、ここは天童領であつて、本邦の居合術――つまり拔刀法の――林崎夢想流の始祖、林崎甚助を生んだ土地である。
神社は、その林崎甚助といふ流祖を祀つたもので、徳川時代から今日まで、四百年の間、その社趾は今も郷土に殘つてゐた。
ここに、自分は、或る念願を抱いて參籠したことがある。もつとも、林崎神社は前にいつたやうな歴史があるので、徳川時代を通じて、武術を志す人々が、非常に多く參籠して、各々、この神苑で、居合の修練を研き合つたものである。
自分はまづ、參籠修業の期間を七日とさだめ、その前約半月程は、靜に身心を淨めて自適してゐた。――そして愈々、修業の七日參籠にかかつてからは、食物は白湯と粥のほかは何も攝らないで、不眠不休で神庭に立ち、七日七夜、刀を拔きつづけるのであつた。
エエ――イツと、丹田から精心を凝して白刄を一颯する。そのたび毎に、介添の者が、立木の幹へ一つの傷を加へてゆく。これは三十三間堂の矢數と同じやうに、居合の回數を記録しておくためである。
自分は、一晝夜で約一萬一千回の記録を擧げた。腕は凝り、身心は綿のやうに疲れて、朦朧となつてくる。けれど午前二時から四時頃の深更になると、神が力をかして下さるやうに、不思議な程、快く拔けてくる。
七晝夜でおよそ七萬五六千回、この記録はおそらく古今未曾有なものであらうと自分でも思つた。自己の全能全靈は勿論のこと、神の御力もあつてこそ、この精進とこの超人間的な記録を擧げることが出來たのだと思ひ、滿願の朝は疲れも忘れ、心は得意に滿ちて、神前に報告を終り、さて、意氣揚々として、拜殿から起つて、自分の記録を、ここの額堂に誌しのこして置かうと思つたのである。
ところが、ふと仰ぐと、そこには徳川時代の幾多の武藝家の擧げた記録が掲げてある。過去の道友たちにも、恐らく自分ほどな精進をしたものはあるまいと、それらの奉額をつぶさに見て行くと――正保何年何國の某とか、亨保幾年何流の誰とか、無數にある先輩の修業のあとを見れば――一萬八千刀とか、中には、二萬刀を超えてゐる人すらあつて、私の持つた一萬一千刀などといふ記録は、實に、何十人といつていいほどざらにあるのであつた。
ここに至つて私は、自分の愚かな自負心と、かりそめにも抱いた高慢らしい氣持が、遽に恥かしくなつて、再び、神庭の大地へ下りて額いてしまつた。――このやうな心で、どうして一派の達人となることができよう。先人の爲した修業の後に對してすら、頭を上げることができなかつた。いはんや、神の前に。
どうも、人間は誰でも、自分がすこし勵んでゐると、おれはかくの如くやつてゐると、すぐ自負してしまふ所がある。それが、何事に於いても、修業の止りになつてしまふのである。以來私は、いつでも、自分が努力したと自分でゆるす心になる時は、いやまだ自分の先には、自分以上やつてゐる人間が無數にあるぞ――と云ふことを自誡として胸に思ひ出すことにしてゐる。そして、充分にやつたと思ふ以上、猶又以上、やつてやつてやり拔いてこそ、初めて、修業らしい修業をした人間といふことが出來るのではあるまいか。
――苦徹成珠
私は、自分でこの句を額にかいて、人にも與へ、自分も常に壁間に掲げて、修業の心としてゐる。苦徹――それはただ劍道の修業だけとは限らない。人生の道、職業の道、理想への道、あらゆる道は、苦徹を踏んで初めて大道へ達することができるのである。
四四之金
「四四之金」といふかねは、金の極上品を云つたもので、いはゆる純金の純金である。亨保の頃に幕府の命で金座で鑄いたことがあるが、通用金としては流用にはならなかつたらう。
どうして、四四之金といふかといへば、甲州金の山吹色四十八匁八分を、更に精鑄して、四十四匁までに純粹にしたものだからとある。
純粹といふことはいいやうだけれど、活社會の實用には適さない。人間も少しは交じり氣があつて使ひ途になる。
十四金でも九金でもいい。たいがいなことは許し合ふべきである。鍍金だつて、すぐ剥げない程ならよからう。
四十
四十そこそこの人がよく、何か失意にぶつかると、僕ももうこの年では――などと大人みたいな嘆息をついたりする。日本人にはわけて強い觀念である。
迂作「松のや露八」の中に、若い時代の澁澤榮一が登場してゐるが、それを書くべく、澁澤翁の年譜を調べたことがある。その時ふと、自分の年齡も思ひ合せて、澁澤さんて人は四十歳頃にはいつたい何をやつてゐたか?――といふ興味も抱いて見たところ、遉一代の巨人も、四十歳頃にはまだ、事業らしい事業は何もやつてゐない。靜岡で商業會社を計畫したが、見事失敗して、燒打騷ぎやら何やら演じて、東京へ舞ひもどり、一つ橋家の手づるをもつて、古河の臺所へ通つたり、鐵道事業にヤマ氣を起したりして、苦鬪昏迷の最中だつたと云つてもよい。
五十へかかつてもまだ大したこともなかつた。それが六十から七十歳へ入ると、翁の事業は萬朶の花を開いたやうに榮光に輝き出してゐる。世人が、翁の事業と共に、ほんとにその人格までも認めて許したのは、恐らく八十であらう。だからもし翁が、四十や五十の境で終つてゐたら、今日、誰も澁澤榮一なんて名を記憶してゐる者はひとりもあるまい。――あれば、あれはなかなか遣り手な千三つ屋だつたよ、といふぐらゐに止るに違ひない。
日の出
日の出! 太古より悠久まで、永遠に若く、無窮な希望をもつて、常に彼等の朝を勵ます日の出。
小さいかな、われらの百年に滿たぬ生涯は、その過去未來、億萬年の生命にくらぶれば、寔に、一瞬一閃光の短い時間に過ぎぬ。その無限の時の流れにある短い一瞬の人生において、われらは彼と知己たり、彼とは親友たり、彼とは血縁たり、又彼とは職業によつて會ふ。會ひ難き一瞬の間において、かく人々と知りあふことの、何といふ不思議なる、神祕なる機縁であらうぞ。
それを。ああ憶ふだに慚愧。
知己と知己とは、又、爭ひと謗りとの間であることの多い場合を。うらみ、憎み、陷穽、冷薄などの業も、又、知縁のうちに生るる事を。
悠々無窮の日の出はわらふだらう。その大十方無碍の愛と、永遠の時の流れの上から。
われらは、誓はう、今朝。日の出に對して、小心なる爭鬪を捨てることを。せめて知己のうちだけでも。
燈下の秋
むかしの小型本に、燈火占といふ書物がある。
たそがれ毎に、燈芯皿へともすあの佗しい灯によつて、むかしの人は、夜毎の待ち人や、吉凶などを、心ひそかに占つてみたらしい。
現代人にはもう、ほんとの暗闇は思ひ出せなくなつてゐる。同時に、燈火の恩や親しみをも忘れてゐるやうに思ふ。
ネオンサインの群耀よりも、秋は、一穗の灯の下にこそ、味がある、深さもある。
青年・馬上に棲む
生涯一書生――といふのが、私の生活信條である。たとへ先生とか、大家とかいつた言葉を以つて他から呼ばれるやうになつても、自分では飽くまでも一書生の氣持を失はない、何處までも一書生の謙虚と精進とで貫いて行く。これが私の生活信條であり、又生活態度である。
したがつて、私には、一生一書生である者には、「疲れ」とか「倦む」とかいつたことはない。およそ、さうした類の言葉には無縁である。又無縁でなければならぬと思つてゐる。
そこで、私にはべつにこれといふ「勞れを知らぬ法」などの持ち合せはない。「勞れ」と縁を切ること、すなはち、「勞れ」を知らぬ法ではあるまいか。
一體私は、規則的なといふよりは、どちらかといふと、自由奔放、思ひのままに仕事をつづけて居る方である。
朝でなければ駄目だとか、夜でなければ書けぬとか、この部屋、この机に限るとかいつたこだはりは少しもない。隨時隨處に、精魂を打ち込んで仕事に取りかかることが出來る。
これは、私が強ひて努めるのではなく、生涯一書生といつた建て前から、自然と、本質的に左樣修練が積まれて來たものらしい。さうして、この何事にもこだはりを持たぬこと、思ひの儘に働きつづけること、これが又、おのづと勞れを知らぬ法になつて來て居るらしい。
いつも高い山の中腹に立つ氣持、そして頂上めがけて一歩々々と踏みつづける氣持、これが取りも直さず、生涯一書生の氣持であるわけであつて、私の心は常にここに住してゐる。
もうこれで頂上へ來た。もうこれで大成功だ。誰が何と云つたつて動くものではない。もうこれで登る處もなければ、登る必要もない。さういふので、小さな山の頂へ、ドツカと胡床あぐらをかいてしまふやうなことになつては、もう人間もお仕舞である。進歩も發展も何も彼もなくなる。
ただそこに殘されるものは、大きな「勞れ」と「倦み」でしかない。
隨時隨處に、働き、學び、又遊ぶ。それが何時であつてもよろしい、それが何處であつてもよろしい、兎も角、「居る處を樂しむ」といふのが、私の主義であり、願ひである。
他の人がみて、何んだ詰らないとつぶやくやうな處へ行つても、そこに何かしら面白味を發見する。山でも、海でも、都會でも、田舍でも、神社でも、舊蹟でも、大料亭でも、木賃宿でも、そこに必ず興味の對照となるものを見出だす。雨降らば雨もよし、風吹かば風もよし、それに適從し、それを樂しむ自分を常に作り上げる。
大いに働いた後には、大いに遊ばうといふ氣分になり、又大いに遊ぶのが私であるが、この隨時隨處に適從するといふ、これが、又人をして疲れしめない一つの法になるのかも知れない。
一仕事終つた後は勿論、山のやうに積まれた仕事を前に、私はよくブラリと机を離れ、門を出る。さうして、机を離れ、門を出ると、もう今迄の一切をカツトして、そこに全くべつな心境、べつな世界を組立てることが出來る。すべてを忘れて散策し、すべてを抛つて、友人などと談笑の中に夕飯の箸をとることが出來る。
この氣分轉換の法は、べつに努めるのではなく、私にはいつも、自然と無理でなく行へる。
われわれのやうな仕事には、氣分轉換といふことは最も必要である。泥沼に踏み込んだといふか、壁に頭を突き當てたといふか、どうにもならないやうに行き詰ることが屡々である。こんな時は、先づ第一に氣分轉換をはかる外に手はない。
つまり、正面から掘り進んではどうにも掘り拔けなくなつた場合、一寸氣分を變へて、今度は横へ廻つてみる。すると、今までどうしても掘り拔けなかつたものが、何んでもなく易々と掘り進めるやうになる。面白いやうに向ふからボロボロ崩れて來ることにさへなる。
この邊のコツは、獨り執筆に際してばかりでなく、人生のすべてに對して又大切なことがらではあるまいか。
ともあれ、伊達正宗の詩にもあるやうに、「青年馬上に棲む」といつた氣持、常に戰場に馳驅し、奔走する氣持、そこには、ハチ切れるばかりの精氣と、活氣と、それから餘裕とが充ち溢れる。「疲れ」もなければ「倦み」もない。
よくぞ男に生れける
カントの誓言に聞けば、純粹の男性とは、創造力の權化であり、女性の純粹體は、生殖と母性愛の權化でなければならないといふ。
さうすると、男の抱く幸福感と、女が幸福と感ずる場合とでは、根本から質がちがつてゐるのが、抑々あたりまへなことになる。あやめ太刀よくぞ男に生れける――などといふ自己禮讃も、要するにその違ふ質の仲間が、仲間の共感を誇張してゐるだけのものでしかない。これをそのまま女性に云はせれば――生活やよくぞ女に生れける。とも云へるだらう。不風流だといふならば、「鬼灯や」でも「春雨や」でも、歳時記にある題は何れを冠せても、みんな女性の幸福感に結びつきさうに思はれる。要するに、女は女の世界に於いて、男は男の世界に於いて、どつちも知つてゐる限りの幸福感を知つてゐるに過ぎないものだらう。人間に二種あり、一を男性といひ、一を女性といふ。これを比較して、よくぞ男に生れけるなどといふのは、獨善も甚しい。
女性のはうがよく云ふ言葉だが、次の世に生れて來るならば、わたしは男に生れて來たいなどといふ繰り言も、ほん氣でさうかと思つて聞いてゐると間違ひである。さういふ女に限つて、最も惡辣に女性の使行權を行使してゐる。それでもまだ吾儘をやり足りないで、男性の生活圈まで慾望してゐる。沙汰の限りなたはごとなのだ。それが人妻などである場合は、この女房は必ず、良人の歡樂面だけの生活を眺めて、良人の慘澹たる社會面の生活苦や創造苦は見てもやらないし、見ても同情を持ち得ない女房殿であるに違ひない。
男に、女に、生みつけられたといふ宿命の下に、然し人間はよくあきらめを知つてゐる。たとへば、鏡に向つて自分の顏に惚々する者もあるまいが、さりとて、その顏以外、どんな上等な他人の首をすげ代へてやらうといはれても、何の人の首なら自分のと取り換へてもいいといふ首はない。いくら不細工にできてゐる物でも、自分の顏は自分の顏でなければ、絶體に納まらない氣持を、誰でも持つてゐる通りにである。又、その通りに人間は、男女ともに、宿命の下に遺恨を抱き合はないやうに、神は、われ等にうぬ惚れを與へてゐる。
あぶらや白粉などといふ皮膚の塗料を必要としない男性は、夏となれば、すずやかな、單純な、さつぱりした、清潔な――何處から見ても通風のいい姿を置いて、女性のジレンマの群を、憐れなる美しさと眺めたりする。實際、夏こそは男がいい。
でも、洋裝は、女をかなり夏の生活へ解放したが、その洋裝をするために、パーマネント・ウエーブをかけ、爪紅を塗り、ハイヒールに灼けた地上を踏んであるく必要を生じるならば、むしろ、帶は幅は厚いにしても、日本服の裳を風にさばいてゐたはうが、男の眼から見ても救はれる。さういふ點では、むしろ江戸時代の素足に、洗ひ髮の女などは、極めて文化的に放膽であつたとも云へよう。平安朝時代の女性などは、繪畫的には、優婉典雅にあらはされてゐるが、夏となれば、路傍に疫痢病者の死骸がいくらも轉つてゐたやうな當時の衞生状態から考へると、女性の化粧や清潔の程度もうかがはれて、およそ今日の颯爽たる夏姿と比較しては、較べものにならない程、暑苦しい粧ひの汗を、髮の根や肌に怺へてゐたやうに想像される。
焚き香の流行なども、さういふ所に起因があつたのではあるまいか。現代の男性が、香水をしのばせるなどは、およそ自己の不潔か病臭を語つてゐるやうなものである。男の肌の毛穴には、塵のにほひも止めてはならない。いはゆる水拭の肌がいいのだ。焚き香も匂ひ袋も必要としない眞の素肌は、男でなければ持ち得まいと思ふ。若葉時の朝風とか、夏のすず風とかを、肌へじかに感じ得ない女性美は、私たちから見ると同情に耐へない生れつきである。
こんな問題は末梢だとも云へよう。沼の魚は海の水の味を知らない。限界の中には、馴れるといふいい習性があるし――。だが、思想的な世界に入ると、愈々わたしは女性に憐愍を持たずにゐられない。この點では、救ひ難いものとして、釋尊すらべつものに扱つてゐるから、いかに後世われわれ凡俗が、女人濟度の誠意をささげても、女人自身が進歩的に文化の結界を打破してみても、すこしも彼女たちの幸福が増して來たとはわれ等には見えない。むしろ女性生活の進歩相は、よけいに女性へ不幸な胚子を蒔きちらす開拓となり、不幸な花がいたづらに多く、男性の耕地へ交つて亂れ咲いてゐるやうに、近代世相は見ることもできようかと思ふ。
わたしはかう思つてゐるが、かういふ定義を女性へ下しては不遜だらうか。
――女性の空想力は、男性のそれに比して、遙かに狹い天地しかを飛躍し得ない。
といふことである。知識的に高いと云はれる女性のどんな人を檢討してみても、さういふ感じがする。閨秀歌人とか、女流作家とか、思ふまま思想の表現をしてゐる人たちほど、かへつてその限界あることを――そして男性の住む想像の世界より、遙かに狹隘なことが明白にわかるやうな氣がする。
もし人間から空想の世界をとり除けば、地球は地球だけの面積でしかないが、空想の飛躍がある爲めに、人間はずゐ分大きくも呼吸をして生きてゆかれる。その空想に住む面積のせまい女性は、同じ人間として、男性よりも不幸だと云はないまでも、男性よりも幸福が小さいといふことは云ひ得よう。けれど又、女性が戀愛に全部的になり得るところなどは、とても男性には思ひつかない甘醉の菩提境があるに違ひない。結局、どう何を並べてみても、よくぞ男にといふ獨善は、最も獨善性に富む男の仲間だけにわかり合ふだけの話で、これを女性に説いて心から※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、64-13]望を感ぜしめることはずゐぶん難かしい。
獨善とはいふが、男性には獨孤の樂しみがめぐまれてゐる。よき女性と巡り會つた時は、勿論、男性の幸福も最大なものとなるにちがひないが、或る變則な場合、たとへば妻にめぐまれない男性とか、獨身をやむなくされたとかいふ立場の男性でも、男性ならば、藝術に生きるとか、事業に生きるとか、自然の中にひそむとか、何ういふ形式の下にも、かなり生命の充實はさがし得られる。生活にしても、奔放に、自由がよけい持てる。女性の場合では、何うしたつてさうはゆかない。――子とか、良人とか、戀人とか、せめて肉身の愛へなりとも、何ものかへ結びついた場合でないと、生活の醗酵は起つて來ないし、獨り樂しむといふ方便も、男性にはあつても、女性には社會組織が備へてくれてゐない。
夏風の疊の上に、大の字なりになつて晝寢する快味すら、女性と男性とでは、貪りかたがちがふ。だが、暴慢に似た男の自由さと奔放とは、その實、男が對社會的にある時の、忍苦忍從の反面であることを、眞に知つてくれる女性がいくらあるだらうか。殊に女性が自分のものとして持つた男性に對してだけでも。

日本の娘と、日本の果物は、年々美しくなつてゆくやうだ。フルーツ・パーラーへ入るといつもさう思ふ。世界的に驚異されてゐるこの國の科學のうちでも、著しいもののうちに數へてよからう。女性美と果物美(味は別問題)はたしかに近代人の努力した藝術的産業だ。ただその産業的精神にすこし區別の足りないせゐか、近代の女の感じは甚だ果物に似、近代の果物は又女性に似過ぎてゐる。そしてどつちも大地の乳を離れた手工品になりつつある。たとへば、銀座どほりの往き來の女の影を眼でひろつて、假に果物皿に乘せてみるとすれば、それは枇杷か、メロンか、アレキサンドリヤか、水蜜桃か、梨か、クルミか、黄色リンゴか、どの女も何かしらの果物と似かよつてゐる。西鶴の世之介をして銀座を歩かせたなら、彼はその味惑の[#「味惑の」はママ]、あまりにフルーツ・ポンチに過ぎないことを歎くだらう。
戯れに、或る實業家が醉つて詠歎するには――吾々廿年早く生れ過ぎたよと。――つまり彼は、近代の女性美が自分には眼だけのものに過ぎないことに腹を立ててゐるらしいのだ。だが、安んじ給へと傍人がしきりと慰めて云ふ。それは、貴下が明治大正の二百三高地といふ洋髮だの、原油にひとしい臭氣の鬢つけ油だの、羽ぼつたい綿入羽織を著た女などを知つてゐるからの嗟嘆であつて、現代の若い男性たちには、さういふ比較觀照はあり得ないから、今の女性の著しい美の進歩も貴下の如くには眼に映らないのだ。だから、今の壯年者が貴下の年齡になれば、やはり同じ歎きを洩らすのさと。――さう慰めてゐるのも五十四五の男性だつた。
臙脂や眉ずみはずゐぶん古くから婦人の顏を粧つてゐたらしいが、白粉を用ひたのはいつ頃かしらと思つて、古事類苑や女粧考や雜書をくり返してみたが、ちよつと見あたらないのでやめてしまつた。町風呂でさへ、江戸開府の慶長末年にできたのが珍らしがられたといふほどであるから、貴紳の女子などはべつとして、一般の女性といふものは、昔はずゐぶんうす汚いものであつたらうと思ふ。平安朝時代の女性なども、文學や繪畫に現はされたものとはまるでちがつて、齒とか髮とか爪とか、潔癖を要する點だけでも、現代人の女性に對する觀念などからすれば、寄りつき難いくらゐな醜を多分に平氣でゐたらうと思はれる。
女が美しくなつたのは、何といつても、江戸時代からではあるまいか。それも元祿期にはまだ男女同粧の風が濃かつたから、斷然、女性自身が自身の美を確立し出したのは、浮世繪師がそれに着目して取材し出した江戸の中期以後といつてよい。
明治から大正迄の女性には、美への努力が鈍かつたやうに思ふ。それだけ女性の生活意志が緩漫だつたといへる。傳統と輸入との混雜した文化を、漫然と髮や體に着けてゐた昨日までの女性から見ると、現代の女性は驚くべき表現を自覺して來た。それだけ、女性の生存もせちがらくなつて來たにちがひない。生活の激しさから女性美が發達する。女性美も産業である。
女の耳
何かの雜誌で、あなたは女性のどこを美の焦點に見ますか、とあまり賢問でないハガキ回答が出てゐたが、それに對してのいはゆる名士の審美が、殆んど、眼とか、脚とか、知識美とか、曲線とか、たいがい誰もがいひさうな十目十指を出てゐなかつたが、さて、自分はどこを多く見てゐるかと考へて見ると、やはり一般の男性が見てゐるところからかくべつ離れてゐない。
ただ、僕には、女性の耳が妙に眼につく。耳は、人間の顏だちを構成してゐるものの中で、いちばん原始的なものだけに、あれが大きすぎたり、汚なかつたり、形がわるかつたりすると、まつたく女性に對する應接に失禮な嫌氣が生じてくる。支那美人が、古代から、耳環を裝身具のうちでも重要なものにしてゐるのは、たしかに理由がある。耳環の風は、日本にも飛鳥時代にあつたし、西洋にも黒人のうちにはあるが、現代人にあまり行はれないのは何故かと考へてみると、これにも見識があることだ。耳へ耳環をぶら下げることは、却つて耳へ人の注視をひくことになる。つまり反對効果を生ずるからである。だから耳の化粧はあまり紅すぎてはいけない。男性のはべつたが、女の耳は、ありや無しや、氣がつかないでゐられる程のがよい。
女のこのみ
去年、平泉の中尊寺で見た天平佛の人肌觀音の耳の美しさはいつまでも眼に殘つてゐた。あんな人間的な佛像を見ると、千年以前に生きてゐた佳人の息までが感じられて來る。佛像や繪畫には、その時代の美人が代表されてゐるといふが、初期浮世繪の又兵衞の美人などは、どう眺めても不美人である。光起、光隆などに現はされた後宮生活の女性たちでも、現代人の眼には落第であるし、假想的に美人の見方をおきかへてみても、どうしてかういふ型の女を好んだか解らないやうなのがずゐぶん多い。現代畫家が古人を最も凌駕してゐる點は、女の美を描いてゐる仕事だと僕は思ふ。南畫も、大和繪も、その他日本畫の全般が、概して、古人の足跡よりあまり進歩したとはいひきれない現状にあるらしいが、女を描くことに於いてだけは、今日の畫家ほど、女性美をつかんだ例は前時代になかつたといつてもよい。
もつともそこには、現代人の好みに向けた多分な適合性もあるわけだから、今日の美人畫も五十年先にはどんなふうに見られるかもわからない。映畫のスターなどは、三十年も先には、何だつてこんな女優に人氣があつたのかと、滑稽視されるのもあるだらう。志賀曉子をオールの編輯者が連れて來て、推薦文を書いてくれと云はれた時、自分はどこにこの女優の美質を見出したらいいかと思つて書くのに困つたが、その後スクリーンの上では實際に人氣があるので意外に思つたことがある。すでに、僕らの眼は、現代人の眼からはやや遲れてゐるものらしい。
だが、好みとなれば、主觀の問題だから、いくらでも我が張れるし、又先の苦情も入る餘地がある。たとへば直木の愛人が三人が三人共姉妹みたいな型であつたり、菊池ごのみといへば、友人間ではああさうかといふ程度に見ないでも見當がつくやうなものである。※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪畫家の描く女性を見ると、誰のにでも、ふた種の美人は描けてゐない。およそ男性のこのみは直線なものらしい。村松梢風は又、そのこのみにも年齡の階梯があることを、いつか路傍を歩きながら具體的にいろいろ力説してゐたが、すべてがさうも云へないとみえて、僕のごときは、三十歳の境、四十歳の境にも、何の變化も好みには及ぼして來ない。ただ、青年期ほど、風にもたへないやうな腺病質的な女性に多く美を感じてゐたのが、次第に健康な小麥色にも美感を持てるやうになつて來ただけ、違つて來たと云へばいへる。原則としては、自分が小さいから、壓倒するやうな強迫觀念を受ける女には、女としての感じを持ち得ない。
達人の不覺
中學に行つてゐる知人の子が、友達と汐干狩に行つて、溺れかけて歸つて來た。
それで思ひ出したが、千葉周作が自分で筆記した旅行記の中に、劍道の達人だつた彼も途方に暮れたことを書いてゐる。
三河の竹内某といふ門人の家に逗留してゐた時の事、一日竹内家の召使に案内されて汐干狩に出かけた。
三河邊の汐干狩は、貝を獲るよりも、日暮から松明たいまつを持つて、海老や章魚や小魚などを獲るはうが興味がある。千葉周作も、夜更けるのもわすれて、沖へ出てゐた。
そのうち小雨が降つて來たので、氣がついてみると、汐は四方に滿ち、自分達の身は、沖の洲に取殘されてゐた。
遽にあわてて、松明をたよりに、汐を渡らうとしたが、暗夜だし、雨雲につつまれて、どちらが西か東か、陸の方角もわからない。
そのうちに、早汐が上げで來て、脛から腰まで汐になつて來た。周作も、これには途方に暮れて、ただ盲動を誡め合ひながら立つてゐたが、そのうちに、闇の中で千鳥の聲が聞えた。――[#「――」は底本では「―」]千鳥の啼き聲を聞くと周作は、
遠くなり近くなるみの濱ちどり
なく音に汐のみち干をぞ知る
と云ふ古歌を思ひ出して、
「彼つちだ、あつちだ」
と、自分が先になつて歩いて行つたら、果して干潟が見え出し、ほつと、蘇生の思ひをしたと――自筆で書いてゐる。
劍道の達人にも、かういふ不覺があつたのは面白い。同時に、周作ほどな達人であつたから、狼狽の中にも、千鳥の音からすぐ活路を直感したのだとも云へる。
しかし、なほおもしろいのは、それから一同が、生命びろひして歸宅したところ、主の竹内某がそれを聞いて、ひどく召使を叱つたことが誌してある。
その理由は、
「松明は、足元の頼りにはなるが、焔のため、眼が甘えて、遠くはかへつて見えぬものぢや。なぜその時、思ひ切つて松明をみな海へ投げ捨ててしまはなかつたのぢや」
と、云ふのであつた。
召使よりも、達人の千葉周作の方が、叱られた氣がしたであらうと思はれる。僕等の日常や、生活の上に考へても、なかなかこんな時の松明を、思ひ切つて捨てることはむづかしいことだと思ふ。
行に徹せず
常人の最も苦と感じるのは「行」といふ文字である。
行について反省すると、自己の知性に對してすら、ほろにがさがある。物は書く、講演はする、意識は持つてみる。しかし、行を踏み切れない。
僕は十年來の下痢症なんだが、從軍して大地に寢ても下痢はしないし、汚水を飮んでも身體には異状がないばかりか、旺んな健康が取り返されて來る。一年のうち風邪をひかない日の方が少いのだが、それも從軍中、風邪に罹つたことがなく過ぎたのを、あとでは不思議に思つてゐる。
それが内地に歸つて書齋に戻ると、浴衣になつたその晩から寢冷をする、風はひく、下痢はする。
我々の友達、そのほか大陸へは大勢行くが、なほ大陸から持つて歸り難い物がある氣がする。
十年の下痢症も一身から下し切れない。知性の夾雜物を時折り省みて闇然とする。我々が呼ぶところの知性などといふものまで、百腸のうちから下し切つたら定めし凉しからう。
斷崖の猿
支那茶の極く上等品に、岩茶といふ種類の物がある。薄手な蓋附の支那茶碗に、一つまみほど入れて湯を注ぐと、その一葉々々が新芽の緑の色そのままに開いて、ちやうど支那美人の小指の爪ぐらゐな大きさになる。
日本の煎茶でも、佳品を上手にいれると、甘露の油に似て、葉も美しいが、到底、岩茶の美には及ばない。味はもつと爽やかで、甘味があつて、いはゆる支那の香りが濃い。
この岩茶の産地は、長江の上流から四川の奧地で、その茶の木は、斷崖絶壁の自然生と限られてゐる。その絶壁は又、四川の旅行者がよく紀行にも語つてゐるやうに、どんな登山家も取りつけないやうな嶮しさなので、支那人がその茶の木から新芽の葉を摘み採る時には、猿の腰に籠を結びつけ、それに長い綱をつけて、猿に茶摘みをさせるのだといふことである。
だが、それに使はれる猿もなかなか摺れてゐて、飼主の待遇が惡いと、絶壁の上へ行つても、自分の半風子しらみをとつてゐたり遊んだりばかりしてゐて、なかなか人間の意志のままにならない。
そこで支那人は又、引き摺り下して、これに餌を與へたり御機嫌をとつたりして、再び絶壁へ追ひ上げてやる。――さういつたふうに岩茶を採る支那人と猿とが、兩方で懸引をし合つてゐるところがなかなか面白いのです――と、天津の茶房でそれを啜りながら、支那茶の好きな邦人から聞いたことがある。
ソ聯のルートは、支那を操る綱である。危い斷崖へ追ひ上げられた蒋介石は、ちやうどそれに使はれてゐる猿みたいなものだ。
然し、猿は天惠の名茶を摘んで、人間に清爽な甘露と瞑想を與へるけれど、蒋は支那へなにを與へたらうか。
百姓
百姓といふ名稱が、階級的に用ひられ出したのは中古以後である。その名稱が又、「この百姓め」とか、土百姓とか、水のみ百姓とか、輕侮の代名詞みたいに、相手を罵しるに呼ばれたりするやうになつたのは、江戸時代になつてからだといつてよい。
歴史的にいつたら、武家政治の封建制が布かれてから、百姓自身の卑下や、士農工商の分業から、すでにさういふ風が起つてゐたのであらうが、江戸時代になつてからは殊に、百姓輕侮の風と百姓自身の卑下は、ひどくなつたといつてよい。
都會人同志の喧嘩の場合、「なにを百姓」と、呼べば、相手は怒る。
農村とか農民とかいひかへてゐる今日でも、なほ一般の潜在意識には脱けきれないものがあるやうである。都會人の輕佻浮薄も嗤ふべきであるが、それには百姓自身の觀念がまだほんとに革まつてゐないことや、自分の天職に自覺を持たないことなどが、原因をなしてゐるのではあるまいか。
百姓といふ名は、卑むどころか「國創めの族」として、もつと神聖視され、もつと自負してよい稱呼である。
中世以前は、天皇御一人のほか皆、天皇の公民といふ意味であつた。
――百姓は、天皇の大御寶である。
と故にいはれてゐたのである。
大御寶は又、大御財とも書くし、上代研究の學問的な考へからは「民」すなはち「田部」であるから「大御田族」と書くのが正しからうともいつてゐる。
いづれにせよ、百姓といふ名は、征夷大將軍や大臣などといふ俗な名稱より、もつと古く、もつと尊く、もつと清らかなものであつた。天皇の御口づから呼ばれさせ給ふ所に起つてゐる名稱なのである。
なぜ、今日の百姓は、もつと百姓なるものに、自身氣高い誇りを持たないのであらうか。天職を自負しないのだらうか。
江戸時代の徳川政治は、そんな自覺を百姓が知ることは好まなかつたに違ひないが、今日は將軍家の治下にある百姓ではない筈である。
全國民の六割といふ數は百姓なのだ。文部省などが、なぜ國定教科書の一項に、百姓の尊きことを、百姓自身へも、又都會兒童へも教へてゐないのか、自分にはその意がわからない。
聖者の欠伸
生れ出たばかりの赤ん坊の顏といふものは、皺だらけで、赤くて、梅干漬に眼鼻をつけたやうで、ちつともかはいらしいといふ感じなどはしない。むしろ小さい老人の顏を見るやうな氣がする。
この三月、私の家庭にも、ひとり生れた。男の兒の二番目だ。私はつらつらと生れ落ちたわが子を見てゐるうちに、その顏が、自分の父か、祖父かもつと遠い祖父か、とにかくまるで見覺えのない顏ではないやうな氣がして來た。自分より何代か以前の祖父が、百年の眠りから今覺めて、再びこの世へ出て來たやうに思はれた。
さう思つてゐると、赤ん坊は、ほんとに、さもさも窮屈な胎内から出て、
「さあ、これから一人生ひとじんせいだ」
とでもいひたさうに、大きな欠伸をしたので、私はびつくりした。
産科の看護婦に聞いたら、赤ん坊は皆、母の胎内を出ると、間もなく欠伸をするものださうである。やがて人生の長途に疲れ出すと、誰も皆、いろいろな場合で、大欠伸をしはじめるが、人間のする欠伸のうちで、この誕生第一の欠伸ほど、清らかな欠伸は成人の後に出來ないであらう。或ひは、聖者の欠伸といふものは、やや、それに近いものかも知れないけれど。
心の眼
一夕、曉烏敏氏とお目にかかる機縁を得た。曉烏氏は人も知る宗教家だが、失明してからも十數年になるので、食事を共にしても、どんなに氣づまりかと思つたら、少しも盲人といふ感じもしない明るい人なので、勝手なおしやべりを交した。
やはり心の眼があいてゐるといふものは偉い力のものである。文壇人には失明者はひとりもゐないが、盲目の人以上、暗い感じのする人はたくさんゐる。いくら賢しげなことを文章には書いてゐても、御本人の心の眼はあいてゐない證據といへよう。
眼に見えざるもの
小閑に膝を抱へて、庭石を觀てゐた。客が來て怪しんで、何を觀てゐるのかと僕に問うた。僕、有態に石と話してゐたのだ、と答へると、客は又、石がものを云ふかと質す。僕、頷づいて、然りと云ふと、客はなほ不審を重ね、では余といへども石と語り得るかと云つて、僕と共に縁に竝ぶ。
默、默、默、默。
元より石云はず、人答へずである。市街の中の小庭に、若楓のこぼれ陽が、初夏の影を庭石へ靜かに描いてゐるだけであるが、そのうちに客も亦、何等かの默語をなしてゐるもののやうに、石に見入つて飽きない態である。
或席で、外務省の細野軍治氏が話してゐたのを、側で聞いてゐたのである。
細野氏が紐育に在任してゐた頃、一夜、あまりよい月なので、日本人四五名で市街の端れまで行つて月を見てゐた。すると巡査が來て、怪しんで、汝等は路傍で何を謀議してゐるかと詰問するので、生等は月を見てゐるのだと答へると、巡査は愈々いぶかつて、月など見て何のためにするかと叱つて承知しない。日本人等は、心外な顏して、君この月を見ずやと指して、晃々の實在を以て語る以上の釋明としたつもりでゐると、巡査はその手を拉して、社會は月を見る場所にあらず、よろしく獄窓に入つて見るべし、とばかりで、どうしてもこの猜疑を解くことができず、遂に警察まで行つて、日本には、百姓や勞働者の生活にさへ、月見の風のあることを辯證するのに、たうとう一晩かかつてしまつたといふ話である。
「心交」などといふ言葉も外國語に譯語を求めようとすれば、恐らく「月見」以上にこれも至難ではなからうかと思ふ。
然し、年來の思想の危機に際して、辛くも文化の腐爛を救つてゐるものは、國内日本の底には、常にこの心交が個々の基本となつて、默々の裡に、默考されて來たからではあるまいか。
假に今、應接間へ七人の客が集まつたとする。
談笑冗語のうちは一體に見えるが、やや深く一つの問題に入つて行くと、七名居れば七名の觀念や思想が、實にばらばらなことを僕らは屡々接客の間にも感じる。
職業の差、年齡の差、顏のちがふやうに、各人の色態もちがふのは當然だが、現在の日本の如くその國家に報ずるの念慮、政治に對する考へ方、又、社會に處する、個々の生活に信念する、あらゆる觀念の角度が、今日の日本の如くばらばらになつてしまつた時代は、恐らく曾つての日本には見ることのなかつた現象ではないかと思ふ。
要するに、東西彼我の文明の交流が、さしも聰明なこの國の民族の、眼底や頭腦の奧までも渦卷いて、未曾有の錯覺と亂觀を與へてゐるのである。近日の新聞に「話せばわかる政治」といふ言葉が度々眼についたが、錯亂症と錯亂症とが駁し合つてみても、かかる時代には話せば話すほど分らなくなる惧れもある。
先づ文教の府國民の思想情操の貯水池である文部省などから先に、この混濁の燈明作用を活溌に興すべきだと思ふ。現状のやうに、文部省自身が、何十年來のまま、錯覺的な文教事務所となつてゐるのでは、當然、街路や家庭の水道口から蛭や赤い水ばかり出るのもやむを得ない。
日本には文教の府なしと云つても過言でない程、その機關は錆びてゐる。政變政爭、愈々顧みられなくなつてゐる。しかし猶、國民自體が、自體の力を以つて、日本なる姿に歸一せんと苦悶し、幾度かの危機ある毎には、大同一致の閃めきを見せ、前途になほ光明を思はせるものあるのは、決して政治の力ではあるまい。文教の府の働きとは云へまい。例へ現状觀の上からは、國民同志がどうばらばらな考へ方を抱いてゐても、石に向へば石に聞くを得、月を見れば月と語り得る一致點を持ち合つてゐる國民だからである。ましてや、われわれの人と人との間には、外國人の不可思議とする月以上、不可思議なものが存在する。その力が現代日本を辛くも結んでゐると僕は思ふ。その力が心交だと僕は信ずる。
この民心の機微すら掴み得ないやうな政治家は、庭石の眺めともならない無用な存在だ。
舊藩主歸郷論
――地方文化振興の適任者として――
いまの所の小對策や理念だけでは、當面の急はおろか、將來、萎微褪色のほかはあるまいかに見える懸案として、地方文化の諸問題は大きく至難なすがたを横たへてゐる。その解決に向つては、政府も決して閑却はしてゐないし、民間にも個々樣々な角度から働らきかけてもゐるし、殊に大政翼賛會の機構の下には、想像以上に地方人自體の覺醒と欲求もあつて、各地に文化聯盟結成運動なども見られつつはあるが、遺憾ながらそれに期待してゐられない憂惧を全知識人がいま痛切に抱いてゐることも事實である。かつては地方問題といへば割合に閑却してゐた都會人のはうが、むしろ今日では、郷土人以上、痛切に案じてゐるところに、この問題の重大さと、いまこそ打開を決すべき時に迫られてゐることを、はつきり機運が明示してゐるのではあるまいか。
理念の提供はもうたくさんだとは、地方からも聞えてくる聲である。具體案か、實踐かだ。さりとて無言や小對策で糊塗されて行くのはなほ危險いふまでもない。で、自分が前から持論の一つとしてゐる「舊藩主の歸郷」をここに提唱してみたい。當局及び讀者の一考に資され、就中、地方民自體と舊藩主の諸氏からの深省を聞かせてもらへば、それもまた問題考察の一助にはなるといふものであらう。
地方文化の特異性と特徴とは「地方」といふ語そのものが示すとほり、同調一色でないところにある。もちろん都市文化との間には劃然たる性格の差を持つ。これを失ふ時地方力は弱まる。都市確立もない。しかも一貫した統合を時代は要求してゐるのである。組織によるいろいろの文化對策も地方行政の顯著を見ないのも、この複元體な本質のものに向つて、極めて單一な議決を單純に實施して行くからである。まして現代の程度のいはゆる地方文化運動が、いくら日本が小さいからといつて、國土の隅々にまで浸透してゆくわけはない。例證を擧げればいくらでも指摘できるが、敢ていふまい。
率直にいふ。私はこの際、舊藩主――今日の華族諸氏に、どうかもう一ぺんそれぞれの郷土に、文化的使命をもつて、還元してもらひたいと思ふ。祖先の地に歸つていただきたいと希ふ。――それを論ずるといふよりも先に、私はこの問題に對する時、希ふ、頼む、といひたいやうな氣もちでいつぱいになる。
傳統に對する強い信奉は、中央の比でないこと明かな地方である。中央においてはあらゆる刷新面に、その傳統が再檢討され、復古的再生を示してゐるのに、地方に對しては、却つて統一歩調のため、抹殺的施政や文化運動は日に多くなつてゆく。
今日、たとひ如何に地方文化が寥々たる貧困にあらうと、さう中央から思ひつきやお座なりを安手に持つて行つて、地方文化に再生を與へたり、振起せしめるやうなものは、まづこの中央都市にはないと迄いひきつてもいいと思ふ。文化映畫、講演會、ポスター、古雜誌、紙芝居、それらも無いよりはましには違ひないが、果してどれほどの効果をいまに期待していいか。
もしここに、舊藩主たる人が、この文化的貧困の中に歸地して、實際問題に當つてくれるとしたら、この解決は、案外早く光明を見られるのではあるまいか。「舊藩主歸る」の聲だけでも、地方民は新しい感奮を抱くにちがひない。
今なほ郷土の人々と舊藩主とのあひだは決して冷却してゐない。しかもその舊文化のあとにも人間的にも、思慕と尊敬と誇りとを抱いてゐる。その人が再び郷土に歸つて、將來の文化指導にあたり、産業、教育、その他にも勞苦を共にすると聞いたら、それだけでも大きな人間政治の意義はあると思ふ。
もともと華族といふ名門諸氏の今日ある所以は、いふまでもなく聖代の恩浴と、祖先の勳功にある。その祖先たちの業を私たちが史に見ると、かつては戰亂の世に、出でては君前に戰ひ、家に歸つては大小の刀を畦において、一家族泥田の中に働いてをられたやうな人々も見うけられる。
まして今日の日本が宿命してゐるところは、それらの祖先が克服した艱苦の時代とは、比較にならないほど大きなものである。もし思ひをそこに致されたなら、私のこの提唱が、決してかつての階級意識とか、また今日の空閑地を罵るやうな一片の感情でないことは、舊藩主諸氏も判つて下されるだらうと思ふ。
もつとも總ての舊藩主諸氏に對して、これを一樣にいふのではない。寡聞にして一々實例をここに擧げ得ないが、すでにずつと以前、私が青年文化協會の微力を農村に働きかけてゐた事變以前、すでに舊藩主たる人で、實際に郷土の文化や産業面に協力し、中には住居までそこに移しきつてをられたひとも幾人かはあつた。また都市にあつても、その指導や育成に吝さかでない舊藩主はもちろん尠くない。
けれどそれをもつと積極化して、地方文化動脈の聯立を諮つてほしいのである。ともすれば無個性にされ易い國土の四肢たる位置に根をすゑて、指、爪の先まで、強く脈搏つてゐる地方文化をもう一度呼び返してほしいと思ふ。すでに政府の一員なり、或ひは重要な職域に奉じてゐるひとにいふのではない。どうしたらもつとよく名門の子孫として、庶民以上に恥なき今日に處し得るだらうかを、おそらくは考慮してをられる向もあらうが、さういふ諸氏もあればと一考を呈すわけである。
文化の中央集權的病弊は、もちろん歴史的に必然ここに至つた現象であり、その意味での責任は全日本人の負ふべきものである。が現實の問題として、この際、舊藩主の文化的歸郷は、新にその地方々々へ、精神的に強い支柱を打ち樹て、中央集權的文化の病弊は大いに改められると共に、かつては持つてゐたそれぞれの特有なる生命力や色彩や音階をも、正しく息ふき返すのではあるまいか。
文化面だけから封建の制を顧みると、そこには水戸には水戸、藝州には藝州、薩摩は薩摩と競ひ輝ける文化があつた。教育、醫學、美術、音樂等獨自なものを持つてゐた。都市文化は長い期間に亘つて、安手な雜貨品的文化と、彼等の持つてゐたあらゆるものとを交換して、つひには郷土の歌謠まで隈なく取り上げて、これを市場化し、その餘剩品を返して來た程度にとどまる。
今日となつてはもう地方から得るものもなく、中央から與へるものもないといふのが現状である。ここに意識された文化運動は、地方文化とはいへ實は都市文化の生命にもかかはるものである。かさねていふ、今なほ地方人は舊藩主の名を念頭から忘れてゐない。かつての一體協力を辭すものではないと思ふ。その親しみや、相互によく知ることにおいては土は血である。新任の知事などとは雪泥の相違があらう。
知事行政の缺陷は誰もが指摘するやうに、任期の不定と短年月のうらみにある。地方青年や婦女子は、うごくな、農村に樂土せよといふ。彼等もまた、浮動なき指導者の柱がほしいことはいふまでもあるまい。
なほ私のいふ舊藩主歸郷論は、ここに改めて斷るまでもなく、封建制度の還元ではない。舊藩主をして地方行政に當らせよといふのでもない。政治力以外の文化面においてである。各地の知事、行政機關などと密接をはかることとか、舊藩主とその郷土とを横につなぐ連繋方法とか、中央集中の複元歸一などの方法は、ひいていくらでも考へられよう。要は、現舊藩主諸氏が、各地の文化的原動となつて再起することにある。事實それだけの大きな力をこの舊藩主たちはもつてゐる。次の新日本文化の發生を、中央の理念や文化的荒廢のあとの都市から生み出さうとすることは、現代人にとつて餘りに悲痛な課題である。
むしろ土から掘れである。脱落した髮の毛を植ゑようとするよりも、貧血した手脚を温めるはうが結果が出てくるに違ひない。それも中央から一寸指令を發したり、部分的組織を辿つて出張講師が時折の訓話ぐらゐでは、血色を呈してくるわけがない。生々たる文化の樹立は望み得ない。郷土の文化は郷土自身の手で打ち樹てよ、個々誇りを研ぎ競へと私はいひたい。それを誰よりも適任な舊藩主諸氏に至囑するものである。
再び・舊藩主の文化的歸郷に就て
歴史を失つてはならない日本は、歴史的にも必然、無數の名門を擁してゐる。
皇室皇族と庶民とのあひだにあつて、一つの國家組織美をなしてゐる功臣の群裔である。その人たちに國家の優遇と名譽ある所以は、そのまま今日いふところの臣道の實踐者たる範を示した家祖たちの餘徳であつた。だからさうした歴史の家の嚴存と繁榮は、國是からいつても、日本の誇りといつていい。その光輝のいよいよ赫々たることを祈るとも、私は毫もそれに不審を鳴らすものではない。
日本の名門中、數において斷然多いのは、いふまでもなく舊大小名の華族諸氏である。かつては華胄界自體の一部から、華族一代論がいはれたり、また往年の階級鬪爭の燻つてゐた時代には、無用な空閑地視されたこともあるが、決していい風潮や思想から釀されたものでない。さういふ聲のある時その時代の惡さがわかる。國家として歴史が剥落されてならないやうに、その分子たる歴史の家もつねに光輝あらねばならない。亡んではならない。萎縮してはならないと信じる。
けれど、これほど大きな時代轉換の時に當つて、現状のやうな無風帶のまま明日もなほあらうとするならば、その間違ひを私は警告したい。とりわけ、明確な祖先の遺業と郷土とに深いつながりを持つ方々に對して、「舊藩主諸氏は健在なりや」とあらためて問はざるを得ない。
今日、地方へ旅行して、地方人が郷土を語り郷土を誇るのを聞いてゐると、それは大概、今はすでに失はれてゐる過去の文化を云つてゐるに過ぎない場合が多い。
實際、今日の諸地方には、いかにお國自慢な郷土人でも、文化的には現在のものとして誇る何物をも持たぬといふ所が實状である。
地方文化の貧困は、あらゆる部面から見ても、事實、そこまで寂寥を極めてはゐるが、ただ彼等の土に對する愛と傳統への信奉は依然深いものがあるので、國力の母胎は今なほここに、ある頼もしさをわれわれに信じさせてゐてくれる。
かういふ各地の小都市には、かならず今は人無き、舊藩主の城址や邸館の跡がある。老人はもとより女子や小學生にいたるまで、そこの何たるかを知つてゐる。そして曾つての文化をしのび、郷土の先人を慕ひ、その中心として舊藩主に對する尊敬と思慕は、いまも胸底にみな抱いてゐるのである。地方の人々が今もなほ寄せてゐるほどな美しい敬慕を、舊藩主が各々の地元に抱いてゐるだらうか何うか、私は疑はざるを得ない。
文化的貧困の底にあるばかりでなく、各地方とも正しく世界的な動流に搖り拔かれて、いまやあらゆる問題の山積にその解決を急がれてゐる。増産促進に對する人力不足、出征兵の留守遺家族の問題、教學刷新の急、重工業分布による離農者の増加、産兒奬勵に附隨する幼兒死亡率の防止、經濟統制の波及から生じつつある無數の轉業、また特有なる郷土物産の廢滅、小さくは醫者なき村の解決から、大きくは、各郷土の傳統ある文化を、この際中央の文化政策にのみ委ねて、全土同調一色に化し去つていいか惡いか、といふところへまで、今日本の地方文化問題はさし迫つてゐる。
かういふ地方情況に對して、それぞれの舊藩主諸氏はどう考へてゐるだらうか。それを知りたいと思ふのは私のみではあるまい。もつとも農村疲弊の聲が高かつた事變前から、夙に思ひをそこに寄せて、祖先地の文化産業の啓發に、孜々力をそそいでゐた舊藩主も決して絶無ではない。私は寡聞にして多くを知らないが、上總一ノ宮へ住居まで移しきつて、ときに農民とともに鍬を持ち、町長もつとめて模範的な効果と實際を示した加納子爵のごときもあるし、上州の沼田における土岐章子爵の郷土運動も眼に見てゐるし、宇和島の二荒伯などもさうだとは聞いてゐるが、大部分の名門諸家がどういふことをして來たか、現在どう郷土を觀てゐるかは、まつたく聞くところがない。
大政維新の際、聖恩に浴して、華族の榮爵を授けられた舊藩主の數は、明治二年の表によると約二百八十四家(公卿をのぞく)にのぼつてゐる。以後授爵した人々は、郷土はあるにしても、ここでは先づ數へないにしても、それだけ多數の名門が、何ら今日になつても積極的に郷土へ働きかけるところを見ないのは遺憾である。諸氏の名譽ある家門のためにも惜まれるし、各地方へ行つて郷土人士の片想ひ的な誇りを聞いたり、現状の空漠な文化を見るにつけても、あまりに可憐らしい心地がされる。
皇室の御宸念は、この世界的變革期に臨んでいふも畏れ多い程である。皇族方さへ親しく征地に赴かれ、戰死遊ばした方さへある。庶民もまたそれにこたへ奉つて、とまれ一億一心を誓つて時艱克服の姿を全土に示してゐる。ただここに示されてゐないかに思はれるのは、日本の誇りたる名門の諸氏の積極的な思考なり實踐である。もちろん舊藩地と舊藩主の關係は今も密接であるから、各々土地の社寺、國民學校の建築とか、修養基金、水害、恤兵の寄附などには、むしろ折々といへないほど、應援されてゐるからであらうぐらゐな察しはつくが、私のいふのは決して「物的」なものではない。物質的な基本も元より無視できないが、より以上、郷土への精神參加をいふのである。又、それぞれに傳統もあることだし、一般社會方則の圈内にも入らないものなので、自己の信じる程度に於いてやつてゐるといふ人はかなりあらう。けれど今日の地方文化問題は、すでに銃後の國策問題として重要なものであるから、それを私行的に思惟して、隱徳の美風となし、「人知れず」を獨り尊んでゐるとしたら大きな錯覺だと思ふ。もしさういふ美擧が[#「美擧が」はママ]實行されてゐるなら、廣く範を示すことのはうが、はるかに今日では國民の善行であると信じる。大政翼賛の推進ともなり地方文化黎明の先驅にもなると思ふ。
私はこの際、まだ何等案のない舊藩主諸氏に對しては「郷土文化再建のため、もう一度祖先の地へ歸つて欲しい」と希望する。熱願する。
もう當分はこの大都市文化の中には、諸氏に囑する問題は尠いし、まして名門なるが故にきのふまでの晏如もなほあり得るとは考へられない。この際、ふたたび祖業發祥の地へ歸つて、萎微沈衰の底にある郷土民の中へ、文化的使命をもつて還元を約したら、私は私の知る限りな郷土人士の氣もちを察するに、双手を擧げて歡迎するのみか、その事だけでもう大きな人間政治の一役割を果すであらうと思ふ。
舊藩主歸る! といふ聲だけでも、いまの農村に響き渡つて行つたらどうであらうか。ただ古い森と廣大な廢園とが耕やされもせずにある各地の小都市の舊邸舊城址に、新しい文化の指導者が住んでゐると知つたら、地方民の眸はそれだけでも耀きを加へよう。二年か三年に一度郷土の別邸へ立ち寄る舊藩主を迎へれば、沿道を掃き清め、國民學校生、女學校生は堵列して迎へ、いまでも殿樣といふ敬稱を用ひたり、土下座はしない迄も、それに等しい禮儀や尊敬を忘れてゐない地方人である。これこそは美風でなくて何であらう。滔々半世紀に亙つて[#「亙つて」は底本では「互つて」]、安手な西洋文化や外來思想が、あらゆる手段で注入されながらも、依然としてなほ今日、國民の總力のもつとも實體的なものが地方にあるのは、實に頑固ともいへるし、鈍ともいへる、この傳統精神があつい皮膜を持つてゐるからである。
しかもこの特有な郷土精神と文化は、皇室と日本的といふことに於いてだけは、まつたく一億一心のすがたを示してゐるが、各々の誇りと好みと適合とはそれぞれの自體によつて、拔くにも拔けない強固な性格の相違を備へてゐる。今日の文化政策の難しさや混亂は、この複元的なものに對して、極めて單的な一元的理念と實施を布かうとするところにあるとも云へよう。しかも國家の大策はその統合を必要としてゐる。ここに介在して地方文化運動の至難に當る者は、徒らに自分の實踐が泡沫の如く浮游する現象を見るばかりである。
文化政策の地方普遍は、組織とプランと機械だけでは駄目である。やはり人間を基本とする。今朝の新聞面によると、翼賛會はその運動推進員として、地方都市を通じ、最低限三十萬の協力員を網羅するとあるが、數のみが推進力とは頼みきれない。各地においてそれを統御集中する支柱的人材が要る。もちろん人はあるとすればあらうが、肩書や單なる經驗家の手腕だけでは期待できまい。またかういふ組織に對して、將來の地方文化の重要性を期待するのはするはうが無理といへよう。またこの尨大な組織が、どこまで文化に情熱を持つてゐるものや否や、いまの所ではわからない。
地方文化の諸問題については、よく各縣の知事とも、折あるごとに語り合ふことであるが、結論として、かならず最後にいはれることは、計畫半ばに、更迭に會ふ嘆きである。
すぐ實施されてすぐ目に見えるやうな文化政策などに、碌なものがあるわけはない。地方民が知事に期待せざるを得ない立場にありながら、心から將來に信頼しきれないのも、知事と同じ惱みを惱んでゐるからである。産業、縣治、施政上の問題は、時務として處理されて行つても、地方文化などといふ遠大な抱負を理想してゐられないのはいふ迄もない。事、文化的な圈内となると、勢ひ放置され易いのもここに多くは原因する。
地方文化の中心的指導者として、舊藩主ほどな適任者は、色々な點から觀ても、他に見出せない資格を持つてゐる。知事のやうにいつ去るか知れないといふやうな不安がまづ無い。
また、物的にも基礎をもつてゐる。土地でも舊館でも、何にしても足がかりがすでにある。それといきなり他縣から赴任して臨む知事などと違つて、充分に郷土に對する理解があるし、郷土人の特性も知つてゐる。
舊藩主さへ郷土へ歸つて、時局下の同郷國民と、今日の苦樂を共に分つとあれば、東京、大阪、京都などの大都市をはじめ、全國の恰好な都會に、まつたく都會人として、郷土あることを忘れてゐる不在地主なども、安閑として傍觀してはゐられまい。懇談的に、舊藩主として共に呼び返すなり、協力を求めることもあながち不可能ではあるまい。
恩給生活に入つてゐる文官の退職者などにしても、その長い文化訓練と人生體驗とを、可惜、都會の一隅に老朽させておくのは勿體ない氣がするのである。同樣な意味で、郷土ある豫後備軍人にも、惜むべき人材が、隨分空しく脾肉を歎じてゐるのではないかと考へられる。
一個の舊藩主の歸郷は、かうして各自の郷土へ、萬波を呼ぶことができよう。文壇の一部でも今實際問題として、文士も一年に幾月かは郷土に歸り、小範圍にせよ、各自の地方文化のために獻身しようかといふことすら、痛切に考へられてゐるのである。文士の歸郷もいい。醫者の歸郷もいい。あらゆる文化に携る者が、そこに歸住しきらない迄も、一臂の力を郷土へそそぐべきである。歸郷舊藩士はまた、それらの文化力を吸集して、郷土本來の特性に、寄與するものは容れ、適合しないものは避け、咀嚼して土と人の生命力を培ふべき任にも當れるであらう。ただ問題は方法であるが、國家の令としてではないから、舊藩主たる人々の深省と自發に依るしかない。
郷土側の希望からいへば、恐らく拒否する理由は何等ないのではなからうかと思ふ。われわれ都市民にも大きな警鐘として響かう。
もしこの問題に更につぶさな檢討を加へて、その實現を慫慂するによい機關は何かと考へれば、大政翼賛會あるのみである。政令をもつてせず、また民衆直接でもなく、かういふ問題について翼賛會の機能を考へる時、議會以外、やはり翼賛會のなすことは今日に多いと痛感される。ただ囑目して待つに足るか否かは別問題だ。幸、こんどの協力會議には、この提唱に賛意を示してゐる菊池寛氏が、べつな自案の問題とともに、會議へ提出しておいたさうだから、調査委員の取捨はともかく、一應の考慮にはのぼるであらう。
私のこの一文も、日日新聞の文化欄に載つた談話筆記も、こんどの協力會議へ菊池氏が提出しようと云ひ出したことから、實は※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)忙に持説の概念を發表したにすぎない。當然、大きな問題であるし、わけて舊藩主諸氏の立場に對して、無益に國民感情はうごかしたくないと念ずるので、この問題に關する限り、敢て私は意識的に理論的追求階級意志を衝くことは愼むつもりである。その爲やや情念に訴へ過ぎたり、廻りくどいところがあるが、私の眞情は飽くまで、歴史の家は日本の誇りであり、その名門をして、この時にいよいよ恥なく光輝あるやうにと、衷心から祈るところから發してゐる。また昨年來の文藝銃後運動にあたつて、實際に東北から九州その他全土にわたる郷土を踏んで、眼のあたりに各地方の文化的貧困とその建設的回生の至難を見て、憂ふるの餘り平常の素懷を同感の士に正して見たにすぎない。
なほ多分に、この提唱に就て、ここには云ひ洩らしてあることもある。例へば、舊藩主といつても、すべての舊藩主を同視して一樣に云つてゐるのではなく、すでに重要な政府の一機能となつて時務に參與してゐるなり、或ひは軍事、經濟、文化面にあつて、その職能を中央で必要されてゐる人などは、自ら別だといふことなどである。その他の愚感は、日日新聞の文化欄のものと重複するからここで筆を擱くこととする。妄言多謝。
南京陷落に寄す
わづか一世紀に滿たないうちに、南京政府は、これで二度まで外敵に攻略された。この前のは、一八四二年の阿片戰爭で、今日、支那が無二の友邦とたのむイギリス軍に包圍され、その時は、揚子江を溯江した英海軍と、僅少な陸戰隊の威嚇の前に、脆くも、支那は城下の盟ちかひを投げ出して、イギリスの「阿片の押賣」の前に、降伏してしまつたのだ。
多少、東洋の歴史に關心を持つ者ならば、イギリスが阿片戰爭の前後に取つた暴戻貪欲な資本主義的侵略に、人類の正義の上から怒りを覺えない者はあるまい。それが今日の人道主義、平和主義をかざすイギリスのついこの間の履歴なのだ。
支那はこの前科者に過られた。上海には、當時の凄腕の東洋外交官、パークスの銅像が立つてゐる! 何といふ皮肉だらう。同時に、それを仰いで平然として來た支那の無智を憐れまずにゐられない。
國民政府の國定中學教科書の地理書を見ると、滑稽にも、我國全盛時代の中國といふ變遷地※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、105-9]が載つてゐる。その失地年代を一眄すると、支那が、支那自身の顏にも當る上海、香港、廣東、厦門その他の租借地といふ特殊區域を作つたのも皆、千八百年代であるし、また、イギリスやフランスやロシヤなどに、北は沿海州から尨大な西部チベツト一帶を――南はアフガニスタン、ビルマ、馬來半島の要地マラツカ、ボルネオ、佛領印度支那などの東洋の關門と豊饒な沃地を、手脚でも切り刻むやうに、※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ奪られてしまつたのも總て――阿片戰爭以後の千八百年代のことである。
支那が、ほんとに國民的自覺から、失地回復をさけび、國恥を知るなら、なぜ自國のこの中學地理教科書に教へられなかつたか。
嗚呼――といふ文字は支那人が作つたのだが、今こそ支那自身だけが痛切にその文字を抱いたらう。總てはもう支那にとつて終つたといつていい、萬恨千悔も間にあはない。永い依存主義國策に過られてゐる間に、現實の世界は、歩一歩、世界改造の大きな推移を告げつつある。――世界的なこの大變革にあつては、支那といへども、決して大なる存在ではない。
世相の流れにあつては一箇の人間が、微粒に過ぎないやうに、支那も單なる一國でしかない。世界は今それほど大きな變貌をあらはしつつある。南京陷落は、東洋史の一ページを畫するばかりでなく、その意味で、世界への大警鐘として鳴り響くであらう。
だが今、その快報を手にしつつありながら、この日本の帝都といひ、小春日の下にある全國の農土といひ、なんといふ靜肅な襟度であらうか。へんぽんたる日の丸の國旗が、いつもの歳暮風景に軍國色を加へてゐるほか、輕躁亂舞のふうもなく、市民も百姓も、長期對應の生活から少しも足を離してはゐない。
日本の陸軍大學に留學したことのある國民政府部内の要人の間には、青山會といふのが結ばれてゐて、曾つては、東京の青山生活を偲ぶために、毎月一回づつ、日本風に酒をのみ、日本式に胸襟を披き合ふことをしてゐたさうであるが、その要人たちは、果して今、日本の帝都を、どう想像してゐるだらうか。
地を變へて、もし支那が、皇軍の百分の一ほどでも戰果を收めたら、恐らく南京は、狂喜亂舞で發狂するだらう。日本でも、曾つての日露戰爭に、奉天を攻略し、遼陽を收めたあの當時を思ふと、隔世の感がある。自分などはまだ幼少であつたが、全市は戰捷の熱鬧に沸き立ち、仕事も手につかずに、跣足で號外屋を追つたり、假裝した醉つぱらひだの、幾日も幾日も醒めない銃後の熱狂ぶりは、まだ眼にのこつてゐる。
今日の南京陷落は、その世界的意義においては、旅順・奉天の攻略の時以上に、慶祝していい偉觀であるが、國民が皆、その欣びを肅と抱いて、輕噪に過ぎない點は、むしろ三十年前の國民より、今日の日本國民のはうが、深く戰爭の意義を解し、將來の使命を任じ合つてゐるものと思はれて、一層欣びたいと思ふ。
歐洲大戰で各國がなめたほどの忍耐まで行くか、或ひは、日露戰爭の折に、熱狂したほどな熱狂をやるまでには、今の日本國民は、まだ多分に、餘裕を持つてゐる。
しかし上海開戰以來、約數ヶ月に亙つて、今日、南京城頭に立つて、皇軍の一使命を遂げた將士の回望はどうあらうか。僕らは初冬の障子の中に、朝夕膳にむかひ、冬菜の漬物を噛むにつけ、味噌汁の葱を嗅ぐにつけ、深く、征士の人々の艱苦を偲ばずにゐられない。
潰滅亡散の抗日要人たちが、なほ奧地にあつてどう蠢動するか、國際間の――わけてもイギリスやソ聯の暗黒外交がいかに東洋の現實に對處してくるか、當然、皇軍の將士はなほ冱寒の征土にあるままこの歳暮を送り、新春を迎へることであらう。謹んで北支中支の將兵にわれら銃後から萬歳とお禮を申しあげよう。
萬歳とお禮と、それ以外に、國民のこの感謝を告げる言葉は見つからない。そしてただもう一言かう強くいへる。前途なほ、いかに長期、いかに萬難があらうと、すでに先驅し給へる卿等の聖戰の銃後は、百年の計にも、必ず耐へ得るものであるといふことを。
同時に支那の民衆に知らしめたい。抗日支那の態形の崩潰に、徒らに感傷になるなかれと。それは支那そのものではない、僞瞞僞裝せる一政權と、前科者の植民國との野合が作つた偉大なるトリツクでしかなかつたのだ。支那の民衆は、一日もはやく、抗日職業者と戰禍をふりすてて、樂土の建設に、東洋の盟主の力を求むべきである。その賢明は、やがて支那國民の、最も正しい面子メンツとならう。
單に筆の一兵士
文藝人の漢口從軍行について、門出の心構へを聞かせろとよく求められるが、支那人へ向つていふなら聞かせもしようが、われわれ國民同士に對して、僕らの從軍行などは、何ほどの壯擧でもありはしない。今更、心構へなどと、いつて立つのも烏滸がましい。要するに、あたりまへな奉公の一端を爲しに行くに過ぎないのである。それを文人だからといつて、特に派手派手しく書かれたり思はれたりすることは、むしろ僕には心苦しい、また面映ゆい。
もとより書齋の文柔弱の徒、大劍長槍は吾事に非ず――であるが、かつての國史を顧みても、國家の大事にあたつては、筆もまた劍として、報國の具であることを、文人も示してゐる。これは日本の國風である、慣はしである。敢て僕らが特に畫期的なといふわけではなく、ただ曾つての封建的舞臺から世界的舞臺へと、使命の場所が移つたのみに過ぎないのだ。
この擧が内閣情報部の發議として、新聞に報じられてから久しく便りのなかつた友達や、まはりの知己や、また讀者などからも、激勵やら、體の弱いことやらを、案じたりして、頻りと懇切な手紙を下さるが、それらの方々に對しても、御芳情はありがたいが、自分としては、あたりまへなことをしに行くのに、過大な聲をかけられる氣がして、何やら甚だ勿體ない心地がする。
多寡が筆の一兵士、僕らに比してそれでは日々驛頭を立つ郷土の歡呼にも相濟まないと思ふ。
征地へ行つたら、親しく文人の眼をとほして、事態と實體を觀察されるでせう、などともよくいはれるが、これも自分の心構へとは甚だ違ふ期待で、自分には戰爭を觀察するとか、視察するとか、そんな他國人的な冷靜にはなつてをられないと思ふ。きつと現地へ行つたら現地の雰圍氣にいつしよに溶かされてしまふだらう。平常の狹隘な知性の窓などはぶち壞されてしまつていい。ただこの體に戰爭を感じ、白紙となつた精神に何を與へられるか――である。
二千六百餘年前、神武の御聖業に先驅した神々は、今、長江の大陸に在りとわたくしは信じてゐる。近代日本から一足跳びに、高天原の神々の陣營へゆくといふ氣もちが、正直、出發前のわたくしの心境である。――もしそこから歸つて來なかつたら、瞑すべし、わたくしも神の一人である。
文學
私はなぜ時代小説を書くか
時代小説といふ言葉は非常に漠とした抽象的な言葉であるが、今日、夕刊または雜誌でご覽になるやうな歴史小説、また過去を題材にした小説といふ風にお考へ下されば結構である。
さて、この頃、新聞なども非常に減ページされ、世界的なニユースの多い時にも拘らず、約二段といふものは朝夕必ず小説欄にとられてゐるのである。
わけて時代小説といふやうな、過去の、徳川期だとか、戰國期、或ひはそれ以前のものを書いた小説が、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪まで入つてゐるのであるが、あの重要な緊迫した紙面にどうしてこれが必要なのか、さういふご不審をもたれていいと思ふのである。恐らく外國人などは、あのチヨン髷を結つた人物とか、非常にクラシズムな場面を書いたものが、このやうに重要視されることに對して一つの奇蹟とすら考へるんぢやないかと思ふ。だがこれが新聞政策の上から見て、また社會的、民衆的にも娯樂とされ、慾求されて、どうしても拔けないところは、時代小説といふものが、今日の現代的な進歩的な中に、一つの重要な役目をもつてゐるといふことを、事實をもつて示してゐるのである。
ではそれを執筆する作家はどういふ氣持で書いてゐるか。これは折あらば作家としてもその意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、116-5]を發表しなければならない義務があるし、また小説を讀まれる側の方たちも、作者の意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、116-5]をお知りになつて讀まれるならば、なほ深き興味をもつてその意味を發見されるかとも考へるのである。
私一個の考へでは、人間といふものは白骨になつても決して死なないものであるといふ信念をもつてゐる。さういふことは時代小説を書く上において一つの條件となり、また作家意識の信念となつてゐるものではないかと思ふのである。たとへば今日のやうに、非常に大きな國難を克服しようと民心の燃えてゐる時には、その時代小説に選ばれて來る題材は必然的にそれに相當したものが現はれて來てゐる。近世に例をとると、濱口内閣が節約令を出し、農村の疲弊、都市消費の節約を叫んでゐた時分には、二宮尊徳が喚び返され、尊徳精神があの二、三年風靡したのであつた。また歐米文化が氾濫し、ジヤズとか、銀座街の緩んだ雰圍氣が社會に瀰漫した時代には、これではいけないといふ反省から宗教的に心が動いて、親鸞、法然、弘法といふ人たちが小説や、劇となつたと思ふのである。
またあの忠臣義士の精神といふものは今日でもさかんに取り上げられ、私たちの日常生活の中に繪となり、音樂となり、劇となつて愬へるのである。私たちのやつてゐる仕事も、それを傳へるべき義務の中に必然と働いてゐると思ふのである。これは日常の生活に、必ずや影響をもたずにはゐないと信ずる。その影響された民心は、意識するとしないとに拘らず、今日の文化に働き、また明日の文化に働いて行くもので、因果といふか、これを考へて見ると、個人といふものはその肉體こそ地下に埋め、白骨と化しても、時に應じ、變に遭つて喚び返せば、いつでもわれわれの今日に生きて來る。そしてまざまざと今日の文化、明日の文化に私たちの血液と化し、思想と化し、日常の精神生活また物質生活に混るのである。さういふ意味から、過去を書いてゐる時代小説といへども、實はその結果から見ると現代小説である。
歴史といふものが、ただ史實の連鎖、過去の記録に止まるだけのものであつたならば、その價値は半減するのぢやないかと思ふ。私たちの今日の生活意識の中に生き、明日に働きかけるところに歴史の不滅性がなければならぬと思ふ。歴史家のみでは完全にその使命を果すことは出來ないのである。何故ならば、いはゆる嚴正なる歴史學問としての歴史は、その學問に忠實のあまり、文獻とか、史實とかいふものの範圍をどうしても出ることが出來ないのである。たとへば、屋島、壇之浦の次のページをめくつて見れば源氏の時代、大阪落城のすぐ後は徳川時代といふ風になつてゐるが、このやうな點など私たち作家の眼をもつて見ると非常に不滿である。
なるほど平家が屋島で殲滅されて翌日からは源氏の世になつたかも知れないが、たとへ屋島、壇之浦で叩きつぶされても平家はこの地上からなくなつたのではない。その勢力は失つても人間といふものはあくまで生きんとし、いつかは世に出ようとするのが本能であるから、屋島、壇之浦から逃れ去つた翌日には全然この世になかつたといふことはいへない。その證據には、四國祖谷いや山の山中であるとか、九州、中國あたりの奧深い山村には、今日なほ平家の末孫たちがいろんな傳説をもつて住んでゐるのを見てもわかるのである。史實から見た歴史觀のみに止まつてゐては、世の中の實相を酌取ることが出來ないのである。さういふ場合、何か知る頼りがないかと思つて見ても、史實がなければ歴史家は云々することが出來ないのである。ところが作家であると、たとへ史實はなくとも、自己の想像力を入れ得るのである。
大阪落城の後、すぐ徳川時代となり、あらゆるものが完全に徳川化されてゐるが、源平の場合と同じく、自分たちの眼から見るとをかしく感ずるのである。歴史といふものは何時の世にあつても勝利を得たもの、或ひは勝利を得たものの命令によつて書いてをるのであるため實相は掴めない。力のあるもの、發言の權利をもつたものが書いたのであるから、文字通り受取れないものがあると見なければならぬ。そこで作家は自由な立場をもつて、歴史家のごとく史實にのみ拘泥せず、また動かされず、自分はかういふ風に考へる、といふことを作品を以て示すのである。時代小説の面白い分野は自分の意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、119-9]を盛ることが出來る點にあるのである。
私が時代小説に精進しようと決心したもう一つの動機は、あらゆる文化には絶對に反省が必要だといふことである。私は自分の書く文學を反省の文學と稱してゐる。ご承知の通り、明治以後の日本の文壇は、西洋の思想、また西洋文學のテクニツクに非常に影響されて來て、それがだんだんと今日の現代小説といふやうな形式をもつて來たのである。これは現代小説とか、通俗小説と呼ばれたりして、現代の文化、現代人の生活を書くといふ私たちと別な分野が拓けたのである。これは昨日までは重大な使命をもつてをり、また數ある中には幾つかは殘る作品もあつたと思ふのであるが、大體において、一つの短所をもつてゐたことを否めないと思ふのである。それは、あまりに新しいことを採入れようとする意識に急であつて、たとへば思想でも、共産主義であらうと、歐米の刹那主義、デカダニズムであらうと、これは珍しい面白いと感じると非常に鋭敏に作品へ採入れたのである。その時々の傾向、自然主義であるとか、印象派であるとか名稱づけられ、これが日本の文學道流として今日まで來てゐるが、これには非常な危險があつたことを感ずるのである。
どういふ危險かといふと、これは文學ばかりでなく、あらゆる文化の本質がさうであるから、ひとり文學のみを責めるわけには行かないが、いいことでも惡いことでも、珍しいこと、或ひは進歩的だと信ぜられることは何でも採入れて、すぐそのままを自分たちの嚴密なる濾過にかけずして讀者に愬へて來たことである。たとへば女の化粧品とか、自動車だとか、ホテル生活といふやうなものでも珍しいものがあれば、丸善あたりで逸早く外國で流行するものを繰展げ、今日、明日の小説欄に使はれてきた。さうすると、あの人は敏感だとか、あの小説は目新しいとかいはれるので得々として書いてゐた。これなんかは端的にその弱點の一つを遺憾なく現はしてゐると思ふのである。その思想にしても、その目標にしても、かくのごとく上摺つた早急な輕卒な進歩といふものは、本當に健全なものとはいへないのであつて、むしろ非常に危險なものぢやないかと思ふ。さういふものの流行した時、私が反對に、つまり逆を行つた二百年、三百年、或は數百年前といふ過去を書いた小説を出したことは、それに對する一つの反省なのであり「よし君たちが民衆を進歩的に進歩的にと踊らすならば、自分は反對に過去をふり返れ、祖先を見よと叫ぶんだ。これが文學運動には必要なんだ」といふことを自分の心に誓つたのである。
文化の發達して行く姿を一本の木にたとへるならば、大地から生えたところの幹、日本發祥以來次第に大きくなつた文化といふものの幹がある。そしてこれが枝をもち、枝から梢を出し、その梢から細い葉を生ひ茂らせ、そして爛漫と花を咲かして行く。この一本の亭々とした木を文化と見る時、花が梢一ぱいに咲き誇つたならば、さながら文化の盛りだと感じるのである。しかしこれを生命力の上から見ると、この時こそ文化のもつとも危い時だと私は考へる。何となればこの木の生命力は幹よりも枝、枝よりも梢、梢よりも葉、花と末梢に行くほどデリケートに、緻密に美しくはなるが、その生命力は弱まつてゐるに違ひない。花落ち花咲く春秋の姿を見て、これが文化の盛りだ、文化の進歩だと考へるならば、その文化は老齡に入つて行く證據である。そしてその文化の花が咲いたり散つたりする度に國家は動搖を見なければならぬと思ふのである。では文化の逞しき力はどこにあるか、それは幹にあるのだと思ふ。われわれが根と幹を辿つて行く、つまり私たちの祖先の生活なり生命力を見るためには常に過去を反省しなければならぬと思ふのである。私は宮本武藏を書くにしてもこの氣持をもつて書いたのである。あれを題材にしようと思つたのは滿洲事變より少し前で、ジヤズとかデカダンの風靡した時代で、私は前にも述べた通り意識的に「よし俺は野性を書かう」と思つたのである。
野生といふ文字は亂暴とか、粗野とかいふ風にとられ易いのであるが、これはよく考へて見ると味のある言葉であり、人間の生活また思想が將來どれほど文化的に惠まれて來ようとも、野生といふものを失つたならば人間の衰乏ではないかと考へてゐるのである。いい意味の野生を失つては私たち人類はやがて衰へて來るのだと思ふ。極めて端的な例であるが、私は或る時植物學の雜誌を何氣なく讀んでゐるうち、文化的に見て面白いと思ふことを發見したのであつた。それは葡萄の栽培法でフランス葡萄とか、アレキサンダーであるとか、ああいつた優良のものをつくるには、あらゆる科學的な苦心、いはゆる施肥に注意し人工を加へてあれまでに到達したわけで、その優良種の葡萄も或る時期が來ると、その畑にいいものが出來なくなる。如何にやつても實が萎びて來てしまひ、いぢけた皺だらけのものに退化するのである。栽培家はどうしたらば優良葡萄を復活させることが出來るかと苦心したが、どうも思ふやうにならないため、捨ててやり直さうと考へたのである。その時、或る園藝家がもつとも簡單な方法で、衰へて行く葡萄を再び若返らせることを發見したのである。
それはどんな方法かといへば、その優良葡萄の木を二、三本置きに拔いて捨て、その後へ山野に生えてゐる野生のものを植ゑたのだつた。「俺は人間に食はれるために生えて來た葡萄ぢやないぞ」といふやうな野生のものを植ゑたところが、萎びてしまつた優良葡萄が、その翌年から再び瑠璃玉のやうにみづみづしい、ハチ切れるやうな葡萄になつて來たといふ實驗が書いてあつたのである。これは實に面白い話だと私は思つた。
お互ひが文化的な進歩、また發達といふことに對し、あらゆる科學、人智をもつて、政治から私生活にいたるまで、その心構へをもつてやることは、確かに文化人としての磨きをかけるものであり、人類の進歩に違ひないのであるが、この文化性のみをもつて人類は逞しくなり、社會は確固不滅な堅實さを保つて行くかどうか。たとへば、このごろのやうな時局のむつかしい時、文化人ばかり集めた外交、優良人のみ集めた葡萄畑のごとき閣議を開いて、本當に今日に處する力が生れて來るかといふと決して生れて來ないのである。文化的に進んだ優良人には缺如してゐるものがある。それは何かと一口にいへば野性味である。野性といふ言葉は完全でないけれども、本當の生命力といへば、やや近いかと思ふ。本當の生命力がない限り、どんな叡智な文化人とか、巧妙なる組織をもつてしても、眞の力は出て來ないと私は考へる。
かつて、自分たちの周圍にジヤズが横溢した時、祖先の生活を振返らうぢやないか、俺たちの祖先は國難に遭つた際どう切拔けたか、自分自身の修養鍛錬といふものにどれほどの力をもち、どれほどの生命力をもつてぶつつかつたか、それを振り返るために書き出したのが、あの宮本武藏といふ相當野性な男のことであつた。お互ひの血液の中にはどんなに文化的に磨いても、科學的に磨いて行つても、どうしても失はれないものがひそんでゐるのであるから、作家が讀者に教へるとか、與へるとかいふ必要はないのである。作者はただ暗示を與へる人であればいいのである。讀者の血液にひそんでゐるものを喚起して、それを今日の文化なり、生活のうへに働かすやうにしてやれば小説の使命は足りるのである。
「あの小説は何も與へてないぢやないか」「何も教へてないぢやないか」などとよくいはれるが、文學者が與へるとか教へるとかいふことは、昨日までならいざ知らず、今日においては非常に僣越だと思ふのである。私たちは書齋に籠もつて、象牙の塔において獨善的なものを書いてゐては駄目であり、むしろ民衆の中に机を持込んで行けば、そこから教へられることの方が多いのである。何故ならば、私たちの書かうとしてゐるもの、私たちが愬へようとしてゐるものは、書齋にはなくして民衆の血液の中にある。その民衆の血液にあるものを喚び覺まさうとするのが、作家の明けても暮れても忘れることの出來ないものなのである。
日本人の血液には確かに特殊なものがある。外國の文學、思想とかいふものでは侵し難い、除き得ないものがある。共産主義などといふ思想が入り、一ころ日本中が赤くなるのではないかと思はれたことがある。その時「君心配することはない。日本人といふものはいろんな文化を採入れられるだけは採入れるが、こいつをよく咀嚼してしまふとすぐ吐出して、あとはケロリとしてゐるんだ」といつた政治家がゐた。これは政治家的な大掴みではあるが日本人の血液の中に特殊なものがあることは信ぜられるのである。何があるか、その政治家の話だけではぴつたり來ないから追究して見たい。それを考へることによつて、自分の小説の上で何を愬へれば讀者が泣くか、怒るかといふことがわかるわけである。今日自分が掴んでゐるところは、この血液を通して祖先といふものを考へて見たいと思ふのである。血液を唯物的に、醫學的に見られたなら誰それはA型だとか、あの人のはB型だとか、白血球が多いとか、赤血球が少いといつた話になつてしまふが、この自分の身體の中に脈々と動いてゐる血液といふものをジツと考へると不思議な氣がするのである。二千六百年はおろか、より以前から脈搏つてゐる血液は一時たりとも停止しなかつたのである。自分には兩親がある。その母の方にも兩親があり、父の方にも兩親がある。さらにその祖父母にも兩親がある。系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、126-13]學者が具さに調べたところによると、二十代ぐらゐ遡れば廿何萬といふ血液の親が出來るさうで、これを三十代前、四十代前に遡つたならば天文學的數字になるのではないかと思ふのである。太田亮といふ人が書いた系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、127-3]の本に確か二十四代まで計算してあつたと思ふのであるが、もうその後は面倒臭くなつてやめてゐる。ところがわれわれの國土に分布して來た人口といふものは、時代を遡れば遡るほど少かつたことは事實である。殊に肇國當時においては非常に少かつた。だから、讀者諸君の血液も私の血液も七代から十代ぐらゐ遡ればみんな重なり合つてゐるのである。
お互ひの血液は全く一つの源泉から流れて來たことがはつきりしてゐるのであり、畏い話であるが、皇室の御血液を私たちの血管に戴いてゐるといふことも、藤原時代をご覽になればわかるのである。その當時は幕府政策に煩はされてをらなかつたから、玉葉の御身をもつて地方の長官となられ遠國へおいでになつてをられる方は澤山にあり、九州に行かれた方もあり、或ひは武藏で權頭ごんのかみとなられた方もある。今日の知事みたいなものとは違つて、御赴任になればその土地に土着された。そしてそこに一門をつくられたのである。
その一門から一族がわかれ、海濱に住み、山間に住み、その地形を姓として吉川だとか、田中だとか、浦戸といふ風にしたのである。源平時代の戰において、花やかな武者と武者が双方の陣頭に立つて、一方が「われこそは清和天皇の後裔何の某の末孫何の某」とやれば、片方は「われこそは桓武天皇の後裔何代目の誰だ」などとやつてゐる。今から考へると非常に悠長なものであるが、あれは決して自分の門閥だけを誇つてゐるのではなく、俺の血液はかくのごとく正しいのだといふ血液を誇つてゐるのだと思ふのである。
それからもう一つ面白いことは、日本の二千六百年の文化を繙いて見ると、地方々々に分布された百姓の中で、秀吉のごとく時を得て當時の政治を執り、あの桃山、慶長といふ絢爛な文化を建設したかと思ふと、藤原の末葉のやうに、その一族一門が滅んで野に隱れてしまふ。また源平の兩族が滅されれば山野にひそみ、歸農したり、町人になつたりしたやうに、野にあるものと廟堂にあつて時の權を握るもの、いはゆる文化の建設者が絶えず交流してゐることである。丁度さつきの葡萄の話と同じやうに、一つの文化、たとへば藤原文化といふものはその末期非常に墮落した。さうすると次の建設者が逞しき野性を加へて鎌倉時代をつくつたのである。明治維新を見ても、十五代二百餘年の後に江戸文化といふものは、あの頽廢的な、どうにもかうにもならない時が來た。すると足輕、輕輩のやうな役にゐた人々が強力な力をもつてこの文化を覆し明治文化を建設して行つたのであつた。この文化の交流を見ると、丁度雲と海水のやうなもので、雲は雨となつて降り、また蒸發して雲となる。このやうな文化の姿を考へる時、自分たちの血液は如何に長い間われわれの血管の中で鍛錬せられ、同時に特殊な純粹さをもつて來たかといふことがわかるのである。あの強力な科學力を存分に發揮してゐるヒツトラーが日本の何を※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、129-6]望してゐるかといへば、何よりもお互ひに日本人だけのもつてゐる血液の純潔さだといはれてゐる。
かういふものはどこにあるかといふと、今日上層またはインテリにいはれるやうな脆弱なところにはむしろ稀薄である。私たち作家的な氣持から見るならば、いはゆる言葉の上では下層といはれて實社會に苦鬪してゐるものの中にこそ濃厚ではないかと思ふ。この意味において自分は新聞小説を書くにしても、一つの大きな張合ひと責任を感じるのである。
新聞小説の一回分は廿行の原稿紙わづか四枚である。この四枚を毎日書いてゐるのであり、よく社の人から催促されたりするが、書溜めて置くといふやうなことは到底出來ない。毎日あれだけ書くと、大袈裟にいへば心身ともに疲れるのである。何故疲れるかといへば、文學的な縷身彫骨といふことばかりでなく、讀者のもつてゐる現實な動きの中に愬へようと苦心するからである。
忠臣藏はあの當時の作家によつて書かれたものであるが、共産主義的な唯物史觀の流行したころには、義士の行動に對し、忠義は表看板だ、あれは就職運動をやつたのである、その證據にはかういふ手紙があるぢやないかなんて批評を加へたものもある。今日はやかましくなつたためそんな書物はないが、十年も前にはこんな觀方で日本の武士道を批評したものもあるのである。
私はかういふ人に對して非常なる憤りを感じる。なぜならば、忠臣藏はもう決して書いた作者だけのものではないのである。あれは國家のもつてゐる精神的な財産であり、この精神的財産が今日までの日本人に娯樂となり、趣味となり、またその中にある道義觀とか忠義といふものに對するはつきりとした目標を示唆した功績は大變なものである。永遠に傳ふべきこの大切なものをひつくり返し、裏から見て面白がつた時代があるのである。自分が忠臣藏を書いても、むしろ今までのものに磨きをかけて、今日、明日に大きな使命をもつたものを書きたいと思ふのである。
歴史は繰返されてゐる。歴史を題材にした小説の面白さはここにあると思ふのである。現代の問題をとり上げ、現代人に教へるかのごとく書いた場合、讀者の方から反駁が起きるが、讀者には問題として出して置き、讀者の解釋に委すことが出來るのは時代小説の大きな特徴である。今日の獨ソ戰のごときことは歴史の上に幾つも同じ例を見るのである。ちやうど自分が秀吉の長篠の合戰を書いてゐる時、あの獨ソ戰がはじまり、私は長篠の戰爭といふものを非常に面白く考へ直したのであつた。信玄は死んでをり、武田勝頼といふ人は歴史では暗君のやうにいはれ、芝居では廿四孝の中に美少年となつて出たりするが、事實は非常に豪膽で逞しく、勇猛なことは父信玄以上だつたのである。政治的才略とか經營の才はわからぬが、戰には信玄以上であつたことは事實である。信玄が亡くなつて非常に喜んだ四隣の國が一擧に攻められなかつたのを見てもわかるのである。信玄が死んでも徳川家の領土を侵略して長篠へ出て來たのである。その時の徳川は非常に弱小であつた。當時織田家と徳川家は今のドイツとイタリヤのやうな關係にあり、ドイツが織田家、イタリヤが徳川家であつたのである。この徳川家だけでは武田方騎馬精鋭の軍勢に當ることは到底覺つかないのであつた。軍の裝備、人員からいつても、武田軍二萬に對し徳川は三分の一ほどで、つひに織田軍に援軍を仰いだのである。
信長はその時確か三萬位な兵をもつて來て援護した。武田勢が一萬五千か二萬出すといふことがわかつてゐながら三萬の軍勢をもつて來た。徳川と合せれば三萬七、八千、武田勢の倍になるのである。そしてその兵隊に杭と繩をもたせた。三萬の軍勢があるから三萬本の杭を、長篠の戰場へもつて行つた譯になる。それで三段に柵を拵へ鳴りをしづめて、自分の方から決して戰ひを挑んで行かなかつたのである。桶狹間の時、今川義元の大軍の中に、清洲の城を後にした七、八百騎をもつて飛込み、義元を制したといふ短氣な信長が、それから何年も經たない長篠で何ゆゑそんな大事をとつたか。これは戰ひが終つてはつきりわかつたのであるが、武田勢は騎馬が非常に強かつた。徳川でも織田でも武田勢に眞正面から來られると戰慄したくらゐ強かつたのである。殊に武田方には馬場信房、山縣三郎兵衞といふやうな猛者がをつた。それで勝頼は信念をもつて織田勢へ突貫させた。そして柵を越えようとした時、織田勢は一度に鐵砲を撃つたのである。これも後になつてわかつたのだが、その時武田の方では五、六百挺位の鐵砲しかなく、徳川に四、五百、織田は何時の間にか三千挺の鐵砲をもつてゐたのである。この新武器の鐵砲も、今のものから見ると、彈丸をこめるのに非常な時間がかかつたので、柵を三段にしたばかりでなく、鐵砲をもつた銃隊も二段にした。そして前段が鐵砲を撃つと、すぐ左右に散開して彈丸ごめしてゐる間に後段が前進して撃つといふやうにやつたため、さしもの武田勢も名だたる勇士悉く戰死、ここに科學力の差が出て來たのである。信長はあれでなかなか新しい文化に對して敏感であつた。そしてそれを採入れることにおいて當時の有數な文化人の一人であつたのである。桶狹間とか本能寺における信長は、實に癇癪もちのやうに見えるが、この長篠の戰法を見ると、これが果して桶狹間と同一人かと思はれるほどである。とに角、光秀、細川藤孝とともに三文化人の一人であつたのである。
お互ひ人間はどうも自分たちの住んでゐる文化の中に偏し易い。私などは書齋に多く住み、文字を扱ふことを日課としてゐるから、どうしても精神的な文化に偏し、科學的なことをうとんじ易いのであるが、反對に科學的な面における人は、この精神的な面の中に本當の生命力があるとか、信念とか、不滅のものがあることを輕視し易い。これはどの民族でももつてゐる短所ぢやないかと思ふのである。日本は從來どうも日本精神とか東洋哲學の信念に頼り過ぎ、科學的な文化を輕視する傾向があつたのぢやないかと思ふのである。私が眼を患つた時感じたことは、片一方を眼帶されて往來を歩いたところ、どうしても脇の方へ寄る、眞直に歩いてゐるつもりでも何時の間にか曲つて來る。兩眼のある間は一眼でも差支へないやうに思ふのであるが、やはり兩眼があつてこそ中道を眞直に歩いて行けるものだといふことを、そんなつまらないことから感じたのである。ところが自分たちが修業する場合、科學的な正しい理解をもち、併せて精神的にも磨くといふ二つを平均して、人格をつくるといふことは六十年や七十年の生涯では不可能ぢやないかと思ふのである。だから自然的に分業となり、科學文化の中に住む人と、精神文化の面に住む人とが出來て來る。この兩方が深く理解し合はなければ本當の文化は生れないのである。日本の精神力の上に、あの獨ソ戰のドイツの科學力をもつて來たならば、本當に無敵になるのではないかと痛感されるのである。またドイツが起つたあの呼吸は、武藏と巖流が、劍と劍をもつた時と同じやうに、兵法的には實に鮮かで達人の藝だと思へるのであり、ドイツがソ聯未だ起たずと思つて英本土なり、近東の方にでも向つてをつたなら、その後から忍び寄つたソ聯に後袈裟に斬られたであつたらう。ソ聯の動きがきつとあるに違ひないと思つた瞬間、前の敵と斬り合ふやうに見せて、振向きざまといふ形容でも使ひたい位鮮かにやつたのである。
私が從軍した時に各所の航空隊へ行つたが、私の小説を讀んで下さる方もあつて、いろんな話をしてくれた。陸鷲や海鷲の若い人の中には劍道をやつてゐる人が非常に多いさうで、その人たちがいふのに、劍道で瞬間に斬込む呼吸も、敵の上空に行つて爆彈を落す呼吸もちつとも變らない。飛行機に乘つてゐても、劍道が非常に役に立つてゐるといふことを聞いて愉快に思つたのである。飛行機全體が自分の身體か、自分が飛行機か、ちつとも區別がつかなくなるさうである。爆彈を落すには角度とスピードが微細に計算されてゐるが、加へてボタンを押す一瞬の感覺、この三つが一つの焦點に一致した時に命中するのである。だから、私たちの祖先が殘して行つてくれたものには、如何に戰爭が科學的になつても、生活が科學化されても、不要な、役立たない、活し得ないものは一つもないことを痛感して、自分の書く時代小説の上に、大きな示唆と信念を受けて來たのである。
私が小説の上で絶えず書いてゐることは、この果しない文化の中に生活しながら常に反省して修行するといふことであり、自分たちの祖先はかういふ危難をこんなにして切拔けた、かういふ問題にぶつつかつた時はかういふやうに考へた、といふ修行を興味づけて、それを無駄なく讀ませて行くことが、私たちの書く小説の使命の中にあると思ふのである。修行といふことは、今日隣組のやうなものでも、その他あらゆる職域でいはれてゐるが、修行的なことをやつても、生兵法の自信は却つて邪魔になる場合が多いと思ふのである。自分の好きな道であるとか、或ひは自分の短所と思ふことは常時において、絶えず修行、反省して行けば必ず生きて來るといふ例を戰場でもいろいろな人から聞いた。
中山博道氏の話を伺つても、劍道が意識的に役立つといふことはほとんどなく、いざといふ瞬間などにおいて無意識のうちに役立つものである。道場の修行や何段になつたとかいつてそれを恃んでは却つて危いといふ話を聞いたのである。日露戰爭當時の古い話であるが、中山氏の友人で、道場で試合をすると忽ちに相手の竹刀をとつて撃つといふ惡い癖の人がをつたさうである。何しろ自分が自分の竹刀で毆られるので、負けた方は非常に不愉快だつたさうである。どうにかしてその手をやらせまいと意識してやればやるほど竹刀をとられて毆られるので終ひにはこの男と立合ふのが嫌だといつて相手がなかつた。(この人は今でも大連の滿鐵にゐるさうである)ところが日露戰爭のとき應召したので、みんなで刀を贈つた。南山の手前にある小さな橋梁をこの人がゐる一中隊で守つてゐるうち、ロシヤの夜襲を食つてほとんど全滅の災に遭つた。その時この人は隨分善戰したらしい。とも角ここを先途と戰つたが、崖みたいなところから落ちて氣絶してしまつた。夜が明けてほツと氣附いた時、劍道家ですから、頭の中に途端に甦つたものは「俺は昨夜一體何人斬つたか」といふことだつた。他の人が殺したのは突傷であるが、自分のは斬傷ですからよくわかるのである。滿山ロシヤ人の死骸がゴロゴロしてゐる間を數へて歩いたら十六人あつたさうである。必死になると十六人位までは斬れるものと見える。ただしかしその時にしつかと握つてゐた血だらけの刀は、自分の刀ではなくしてロシヤ人將校のものだつたさうである。この話はもう有名な話であるが、修行といふこともここまで徹すれば大したものだと思ふのである。
これに關聯した話は私が武藏を書いてゐるうちに氣がついたことであるが、慶長のころ、あの時代の武藏の身邊、朋友、グループを調べて見ると本阿彌光悦とか灰屋紹由、遊女では吉野太夫などいろいろをつたのである。この本阿彌光悦はどういふ人かといへば、ご承知の通り室町幕府からの刀劍の鑑定、手入れ、磨ぎ、さういふことをやつてゐる一町人といつてもいい人である。それがいはゆる光悦風な今日にも殘るあの優雅にして典麗な繪をかくかと思へば、天下の三筆とまでいはれる書も書いてゐる。烏丸光廣、近衞信尹、本阿彌光悦と天下の三筆といはれる光悦が、茶碗を燒けば例の光悦茶碗といふやうな名碗を燒く。實に多藝な人であつた。灰屋紹由といふ人は小倉時雨の小説の中に出て來る紹益、あのドラ息子のお父さんである。灰屋といふのは灰をどうするのかわからないので調べて見ると、當時は染物をするのに媒介藥として灰を入れる。今日のごとく、いはゆる化學染料ではないから、この灰の需要たるや非常に多かつたのである。室町幕府には灰座といふのがあつて、全國の灰をこの灰座に集めたのである。そしてその後を問屋に委せて配給させた。この問屋が灰屋紹由であつたのである。この人はこんな商賣をしながら文學にも長けてをり、殘つてゐる俳諧とか紀行文を見ても中々いいものを書いてゐる。
近代人のやうに「俺は醫者だけれども、どうも患者ばかりいぢくつてゐるのではやり切れぬからゴルフをやる」とか「俺は銀行家だが、窓口ばかりにゐては何だからテニスをやる」とかいつた風に、昔の人がやつた一つの道を磨くためにやつた趣味でなく、むしろその反對にそこを去つて忘れるためにやる。
要するに私たちが小説を書く上においても、その氣持をもつてやつてゐるといふ作者の文字の裏の決心を幾らかでも察知されて私たちの小説をお讀み下さるならば、その面白さのほかに、もう一つ精神的なものをお掴み願ふことが出來ると信ずるのである。
大衆作家と時代感覺
文藝懇話會の席上か何かで、内務省の檢閲課の人のいつた言葉と記憶してゐるが、
「いつたい、社會動向に鋭敏なのは、現代物作家か、純文學作家であるはずのものに思つてゐたが、どうも實際において、社會感覺のはやいのは、大衆作家のやうですな」
と、意外らしく洩らしたのを、傍で聞いてゐたことがある。僕らは、當然なことだと思つてゐるが、一般は、髷や、さむらひによつて表現される時代小説の作家が、現代の社會趨勢に、もつとも關心を持つてゐるといふことすら、案外らしいのである。これは、一般讀書人が、まだまだ、大衆文學の外形だけを見て、内面にまで深く讀み込んでゐなかつた、過渡期の據言である。尤も、僕らの持つ樣式も、ロマンチシズムや、その他の僞裝が多かつたせゐもあらうが、決して今日の大衆文學は、民衆の回顧趣味だけに繋がつて、滿足してゐるものではない。少くも常に、今日を見、明日を考へようとしてゐる。ただそれが、純文學の如く、現代小説の如く、すがたを現代人に借りないだけなのである。
文藝家と國家關心
文士といひ文壇といふものが、緊張した社會から、甚だ、だらしのない、特殊的な存在のやうに、惡い印象で見られてゐたことは事實である。
文藝家自身の輕んじられることは、文藝家自身の恥とか衰微とかいふよりも、國家の上からみて、まづ嘆くべきことだ。
しかし、日本の今日の文藝及び文藝家は、一般の人がゴシツプ的に見てゐるほど、嘆かはしいものではない。尠くとも、第一線に立つてゐる程の文士に、さういふ怠惰や放縱があつては、あんな仕事のできようわけはない。
菊池寛にせよ、加藤武雄にせよ、大佛次郎にせよ、白井喬二にせよ、僕の知る限りに於いては、一般人の想像も及ばない勤勞をしてゐる。ただ、文士の生活には、屋根がない。私公上のこと、家庭のこと、收入や税金の内輪ごと迄、活字になり、それがゴシツプ的な興味にのぼせられると、變な反映を一般にもたせるのぢやないかと思ふ。
火のない所に煙はたたないから、文壇の底流には、今日もまだ末期的な頭をもつ、頽廢した文人がゐないとは云はない。然し、國民一般が健實ならば、さういふ文人の文章は讀まれなくなるのが當然で、すでに今は、明らかにさういふ傾向が、はつきりと文藝の潮流を清算しつつあるやうである。
いつたい、文學者の生活態度といふものには、ふたつある。よい文學を書いて、書齋の精進をまもり、餘暇餘力があれば、文人的な自由をたのしむ。地位や金力に惠まれない代りに、最も拘束のない藝術家生活の半面で、瞑目することができる。よい作品をのこし、なほ家庭まで修め得たらば、上乘な文人の生涯といへる。社會に對しても、恥しくない。
然し、それも時代による。文人だからといつて、書齋以外の關心を避け、小さく、個人的に一身をまもつてゐられない時代もある。
國家が重大な難局にある場合、文人だからと云つて、以上の特權や、藝術至上の殼の中に、安閑としてはゐられない。それは、俺は坊主だからと云つて、伽藍の奧で、行ひ澄してゐるのみが、決して、名僧でないのと同じである。
ひるがへつて、過去をみると、文人の生活形態も、明治や、江戸時代には、世相の平穩と共に、極めて逸樂な、琴棋書畫的な半面をもち、維新前期のやうな、内憂外患の時には、文藝家もまた、國民として、同樣な慘苦をしてゐる。今日の日本にあつて、明治期のやうな、また江戸中世期のやうな、文壇的自由思想をもつて、海外問題も、國内問題も、よそ事のやうに冷淡視してゐる文藝家があるとすれば、それは、伽藍を出ないのが名僧の行ひだと考へてゐる坊主にひとしい。社會のすみに、有つても邪魔にならないから、そつと、蜘蛛の巣の掃除でもさせておけばよろしい。
大衆と伍し、大衆と共に歩まうとする作家には、それができない迄のことである。
書齋
鳥と巣のやうに、動物と自然のやうに、切つても切れない自分だけの好きな部屋に、また自分だけの趣好で、書齋號を名づけることは古くから行はれてゐる。支那の餘風であることはいふまでもないが、この書齋と主人公とは、それが、書室の名であると共に、又、主人公の號にもなつてゐるから、つまり一名同體で、その書屋の趣きと、主人公の風貌との兩面を、同時に窺ふことができる。
坪内博士の双柿舍などは、書屋の名として、また博士の號として、現代の中では有名な一つである。
いつぞや、加藤朝鳥氏が、その逍遙博士が描いた、熱海の双柿舍の大きな柿の樹の寫生に、歌は忘れたが、何か狂歌めいたものを書いた戯筆の色紙を携へて來て見せられたが、その折も、双柿舍といふ名が、逍遙博士の晩年を、いろいろな意味でよく現はした文字だと思つた。博士と貞淑な老婦人との姿や、晩年の風貌や生活までが出てゐた氣がする。人と書齋、そこから生む仕事、すべてをこの號が現はしてゐる。
芥川龍之介氏は、澄江堂といふ堂號を時々使つてゐた。あの藝術的な凝視と、死とを想ふ時、その澄江堂も亦、偶然でないやうな氣がする。ついでだからいふが、芥川氏は、俳句をやるので、俳號をもち、また陶器に深いし、大雅堂の畫に傾倒してゐたりしたので、自分でも、こつそり、繪を描いてゐたらしい。細物の茶掛だの、半切だのが、どうかすると市場へ出てくる。値だんを聞いたら、地下で、苦笑してゐるだらう。
同じ、墨池の餘技では、有島武郎氏も、繪や詩などを書いて、獨り樂しんでゐたらしいが、堂號などは聞かないし、唐詩を書いた半切などにも本名を書いてゐた。その點、夏目漱石氏には書齋號はあつたかも知れないが、書いたのでは見たことがない。
室生犀星氏は、魚眠洞と、金澤の郷里の家居かに、寒蝉亭と、二つの書齋號があるやうに思ふ。谷崎潤一郎氏の松倚庵は、すでに賣つてしまつたといふ岡本の家居の姿ではないかしら。そのほか文筆の人々にも、數へれば書齋號のある人がまだ多くあらうが、近頃は作品には本名で通すことが、ふつうになつてゐるので、世間にはあまり聞えてないやうだ。尾崎紅葉の十千萬堂なども、どういふ意味であつたか、寡聞にして僕もまだ聞いてゐない。
蘇峰氏の山王草堂は、澎大な修史の勞作場として、山陽の山紫水明處と、後にはよい對照になるであらう。そして、あの文字は、地名であり、草堂とはいふが、どこか氏の業績と經歴のやうに對社會的であり、超文壇的な、ひと構へを思はせる。又、不遇で、陋屋にゐる篤學な木崎愛吉氏が、借家から借家へ移してゐる書齋を、惜不發書樓と號してゐるなど、はつきりと、主人公の個性が窺へて、興味ふかい。
然し、書齋號は、それを古人に見た方が、當然、興味もあり、想像をよろこばせる。いはゆる文人墨客でなくとも、煙草屋の主人、質屋の主人でも、多少素養があつて、雅閑を樂しむ者は、書齋として一室を持つてゐたらしい。ちよつと、狂歌、俳句でもやれば、敢てそれを自分の代名詞にしてゐた。
畫人の畫室では、文晁の寫山樓、玉堂の琴室、蕪村の夜半亭、雪洞。また木村蒹葭堂の蒹葭堂など、それぞれ、その人の姿と居室のさまを想像するに足るものだ。ことに、竹田などには、補拙蘆、六止草堂、花竹幽窓、對翠書樓、雪月書屋、咬菜※(「穴かんむり/樔のつくり」、第4水準2-83-21)、まだ幾つかの堂號があつて、その一つ一つに、彼の心境が托されてゐるか、生活を現はしてゐるかしてゐる。
華山の全樂堂なども、いはゆる彼の全樂主義的な畫の心境であらう。椿山の琢華堂は、いかにも彼の寂美の花鳥にふさはしいし、日根小年の、對山樓だの、田崎草雲の白石山房だの、各々、主人公の何ものかを短い文字が象徴してゐると思ふ。
ひどく文字にやかましい、また凝り性な馬琴が、著作堂といふだけで、はつきりしてゐるのは、いかに馬琴が、世間の毀譽褒貶のなかにも、それを自己の天職とし、精進一途であつたかといふ氣持がわかる。
西鶴の二萬堂と松壽軒の堂號は、ふたつとも、彼の小説に見るやうな心境的ではないが、來歴は有名である。その點では、上田秋聲が、茶器一組しかない書齋を、身輕に、引つ越してばかりゐたので、自嘲的に、その堂號を、鶉居と名づけてゐた方がおもしろい。
書齋は、居るところが書齋だといふ風に、決つた住居のない書齋人もある。西行、芭蕉、一茶など、俳人にそれが多いし、桃水とか、賣茶翁とか、良寛とかいふ僧人にもかなりある。
桃水などは、一日でも二日でも、ゐようと思ふ他人の家の軒下や、樹蔭などへ、一枚の莚を張つて、それへ、携へてゐる小さな軸などを掛け、茶など沸かしてゐたといふから、彼にとれば、忽ちそこは自分の書齋であつたらう。まだまだ、良寛の五合庵などは、よほどぜいたくと言へるかも知れない。だが、五合庵はいかにも良寛らしい。彼の、十字街頭乞食了、八幡宮邊方徘徊、兒童相見共相語、去年痴僧又今來、の詩だの、歌だのをみて、その佗しい一室を考へると、これも亦、これ以外にはない、室の名である。
要するに書齋は、書齋として特にあらうがなからうが、その人の居る所が、書齋といへるし、なほさら、書齋號などは、あつても、なくつてもいいやうなものだが、自分の精神的な生活の重點であり、また日々夜々の仕事と、思想とを生む、神聖な一室である以上、どう狹からうが、汚なからうが、ひとりでに名のつくものなら、そこに何々書屋と、銘を打つても、これ又、ちつとも邪魔にはならない。
で、書齋人の堂號につかはれた文字を拾つてみると、ずゐぶん種類がある。極めて平易に多く使はれてゐるものには、亭、庵、居、廬、軒、舍、屋、處、臺、巣、堂、洞、龕、館、莊、室、齋、閣、樓などがある。
またやや凝つたのになると、
廊、寮、精舍、茨室、窩、舫、書院、山房、草堂、院、小※(「木+射」、第3水準1-85-92)。
まだ種々あるかも知れない。そして、俳人、畫人、市人、僧人、茶人、文人、自らその選ぶところがあつて、およそ堂號によつてその人物は聯想できるし、その室の空氣は、いつの間にか又、その主人公の思想なり、趣味なりに反映して、そこに住む者の土壤となつてゐる。
書齋は人が作つてゆくが、書齋は、反對に人を作る。さういへると僕は思ふ。室はいつか、人の色になつてゆく。たとへば、鳥と巣のやうに、動物と自然との保護色のやうに、微妙である。
橋本關雪氏だかが、幼少の時、自分の寢る部屋に、寂巖の書の屏風が常に置かれてあつて、寢入るごとに、それを見てゐた感化が、成人の後にも強い力になつて、今でも寂巖の書に私淑してゐるといふやうなことを書いてゐたが、僕にも、そんな覺えがある。
子供の頃、僕の寢かされた部屋の欄間には、椿山の名花十友がかかつて居り、床には、藤田東湖の詩と、蕪村だと父がいつてゐた俳畫がかはりばんこにかけてあつた。眠らうとする眼で、うとうとと毎夜それを眺めては寢た。そしてやがて、畫家になりたいといふ志望は、僕が、十四五から廿歳ぐらゐまでの間つづいてゐた。怖ろしい感化と思ふ。
だから、個性の出來上つた中年以後でも、書齋は眼に見えず、書齋を作つてそこに坐る人間を、反對に、色づけたり、感化してゐるに違ひない。さういふ意味で、自分の信念なり、自分のめどなり、心境なりを、その室の名に託して誡めておくことは、決して、無意義なことではない。
洋館の書齋も、時に、氣がかはつていいと思つて、自分なども、壁紙やじうたんのデザインに凝つたことがあるが、どうも、精神的な修養の場所には不向だ。他人の書を讀むにはいいが、自分の書を生むには落著かない。僕の趣味が、僕の仕事とは、極端から極端に違つて、孤寂を求めるせゐか、居る所に居るといふ氣がしないのである。
それは僕ばかりでなく、やや晩年になると、多くの人が、書齋は、やはり東洋的に、と元へ歸つて來るらしい。與謝野晶子氏など、いはゆる、生活も書齋も、洋風の方には、ずゐぶん早い方で、歌の會などもホテルに限つてゐたやうだつたが、近頃では、障子明りの部屋でないと、心から出た歌らしい歌はできないといつてゐる。
といつて、僕等の職業の者には、まだ、孤寂を愛し、障子紙の和やかさにのみ浸つては居られない。あわただしく推移してゆく近代音響の中へも、好んで飛び出してゆく。そして、書齋へかへると、そこはおよそ、銀座の街光とは、西洋と東洋ほど違つてゐるのである。
ひどい生活の矛盾のやうだが、僕などは、その極端と極端の間に、生きることと、修業をしなければならないし、また兩方の意義を見出してゐる。就中、獨りゐる書齋の意義を深く感じる。
歩く構想
大衆文學を、たれも、襟を正して讀むものはない。寢そべつて讀まれて、決してさしつかへないものだ。
ぢや、作家も、純文學や、學究的なものを書くより、氣がるさうなものだが、さうだつたら、大衆はあんなに讀むまい。
この雜誌は、賣れるか、賣れないか、といふことは、新刊のページの角を、ぱらぱらとめくつただけでも、はつきりと感じる。ほんとに生々してゐる雜誌は、ページの風かぜがちがふ。
低いといはれる讀者層にだつて、恐いやうな感覺がある。今時、代作なんかを載せて、のほんとしてゐる作家もあるまいが、そんなのは、忽ち觀破するであらう。この小説は、面白いか面白くないか、標題で、書出しの數行で、或ひは、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪や、ずつと見たページの字感(――こんな熟語はないが)で、もうおよそ知つてゐる。知識的にも、大衆の讀者が、育つて來たことは確かだが、さういふ感覺の、特に鋭敏になつたことは、何といつても、出版の氾濫からであらう。
もう一つ、作家にとつて、氣のゆるせないのは、大衆の綜合知識からくる、作家常識を疑ふ抗議である。愛劍家の劍に對する、工藝家の建築に關する、呉服屋さんの服裝に關する、地方人の植物や地理に關する――すべて、職業か、趣味かに於いて、一人に一つづつは、必ず、何か、作家より專門的な、ふかい知識を持つてゐるものだ。それが、何十萬と綜合された、いはゆる讀者は、大知識といへる。それが、尺八の穴一つでも、間違ひを見つけると、必ず、ヤリが來る。わけて、刀劍家の抗議は、手きびしい。私は、神戸の讀者關五郎といふ人から、よく叱られた。
史實の扱ひにも、同じやうな例が多い。彰義隊のことを扱へば、仙臺の讀者山崎有信氏からきつと、緻密な訂誤が來る。新撰組を書けば、その血統の遺族から。また、かなり時代を溯つたものでも、どうかすると、末孫が出て來る。
テーマを考へるのは、もとはよく、道を歩いてゐると浮んで來た。丸の内の歩道を、あの近代的な高層建築とは甚だ遠い、チヨン髷人時代のロマンチックを[#「ロマンチックを」はママ]、夢中になつて、頭の中につくりながら、ぐるぐる歩いてまとめたこともある。その頃は、深夜、どこかの歸り、家まで歩く間に、何かヒントをつかむと、家へはいるのが惜しい氣がした。
最近は、正しく、机の前に、坐つて考へる。構想のヂレンマに墜ちて、二日もうつろな眼をしてゐる顏は、ゆめ、愛人に見せるべきものではない。
史實ナンセンス
ほんとの、實話といふものは、あり得ないと思ふ。今日のことを、今日語つてゐる新聞記事にも、多分な、觀方の違ひや、誤報がある。
實録といふものも、從來、呼ばれて來たいはゆる實録ものは、すべてといつていいくらゐ、甚だ實録でない。ただ、人物の點出ぐらゐが、類似、或ひは、實際ぐらゐなものだ。
だから、史實に據ると稱しても、その作品は、嚴正な意味の史實小説では有り得ない。明治期の歴史小説にしたつて、今日檢討して見ると、多分なる創作である。
だから私は、小説は、すべて空想が本則だと思ふ。史實は、時代の地上と空氣を借りるだけだ。實在人物は、その効果を攝るのにある。服裝、家屋、調度、あらゆる背景バツク、時に、微細な女の櫛一つの考證にまで、たがはないことを留意するのは、もちろん、作家常識の當然なつとめではあるが、それに捉はれることは、好まない。
元祿時代の人間が、國芳風のくりからもんもんの刺青をしてゐたり、慶應年間に、淺草の仲見世で掏摸が逃げたり、近年開通式をやつた白髭橋で、浪人が斬り合つたり、猪牙舟の障子を開けて顏を出したりなどは、あんまりナンセンス過ぎるけれども、さうかといつて、過去の歴史小説作家のやうに、衒學的な通の配列や、用もない考證などは、およそ、近代感覺からはるけきものだ。たまたま、今でも年長の人には、さういふ點を、功名顏に突つこんでくる人があるが、通人語を借りていへば、そんな揚足どりこそ、酢豆腐つてやつだ。
無智なナンセンスと、與太とはちがふ。又、與太にもいろいろある。作家が知らずにとばしてゐる與太と、史實も、考證も、のみこんで書いてゐる與太は、おのづから一見して、わかるものだ。場合によつて、作家は、そのままできてゐる實際の文字を拾はずに、苦吟して創作による時もある。ほんとに、しつかりした、裏打のある與太が書けたら、私はかなりだと思ふ。
作家の資格
過去もさうであつたが、將來はなほさら、作家は、絶對に、實社會の訓練を十分に受けた人でなければ立てない。
時代小説だから、現代の社會のことは、深く知らなくてもと、考へる人があれば、それは非常な間違ひである。
人間は、永久に人間性である。同時に、社會も永遠に人間の組織する社會性である。いまだに、本を讀むことばかりが勉強だと考へてゐる青年があるとすれば、その人は、非常な時代錯誤だ。
そもそも又、人生、作家にならうなどといふ理想を持つことからして、餘りにケタが小さい。もつと、社會的に、飛躍のある職業をなぜ選ばないだらう。長谷川伸氏みたいに、いろいろやつて、間違つて作家になつてしまつたつて、天分さへあれば、あれ位ゐになれる。
また、その才分の先天的にない人が、ない素質へ、鉋をかけて、苦しむことはつまらない。
私も、作家である以上、自分の天職を尊信すること勿論であるが、いはゆる作家志望者の諸君たちが考へてゐるやうな境遇には決してゐない。一日々々が刻苦と修業である。三十なほ一學生、四十なほ人生の一學生、五十まだ學んで足らないだらう。
郷土文士
封建政治といつても、いい所はあると思ふ。中央集權の弊が極端に現はれて來た今日では、やはり昔の藩制度などには、今日にない特徴があつたと思ふ。
藩風といふものの下に、地方文化が一團ごとに嚴存して、常に隣藩に對して、下らない襟度を持つてゐたなどもその特徴であらう。
たとへば、仙臺には仙臺の文化があり、水戸には水戸の文化があつた。音樂にしても、美術にしても、文學にしても、自己のものを持つてゐた。思想においてすら、同じ勤王といつても、水戸學のそれと、薩摩や長州のそれとは、甚だ違つた派生であるし、武士道といつても、佐賀は葉隱を持ち、赤穗浪士は山鹿の士道を持ち、おのおの特徴のある人文を持つて「わしが國さ」を競つてゐたかたちである。
現代の郷土は、精神的に空つぽである。思想は愚か、小原ぶしやおけさ節や、娘まで都會に捧げてしまつてゐるのだ。
どうかならないものかしら。中央集權文化の殷盛はもとよりよみすべきだが、急速な近代發達は、都市と地方とにおいて、現代ではびつこである。封建の精彩や物質はないまでも、音樂や美術や文藝の恩惠を、地方にももつとあらしめたい。
さういふ點で枯渇してゐる郷土にあつて、郷土に貢獻した隱れた文士の功績を、僕は認めたい。先年、常陸で死んだ横瀬夜雨氏だの、越後の相馬御風氏だの、また信州の高倉輝氏だの、何らジヤァナリズムからは[#「ジヤァナリズムからは」はママ]酬はれないが、文人として、ああいふ存在も、たしかに一見識であり、地方文化の一助である。
原稿が賣れなくなつても、何でもかでも、文士は都會にゐなければならないといふ理窟はない。故山に歸臥して、老躯を地方文化のために終るなども、いい晩年ではあるまいか。
つんぼ
もう十日も前に見たのであるが、いまだに眼に殘つてゐる佳人がある。國寶展の一室に掛けてあつた木米の觀音※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、158-10]である。有名な竹田の圓窓觀音※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、158-10]も、草坪の陳賢寫意のそれも、これを眸に入れては前の印象はうすらいでしまふ。
ある年の國寶展では、新潟の鍋屋の祕藏とかいふ宇治朝敦※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、159-2]が出てゐた。その折も友人の河野通勢と話し合つたことであるが、木米の墨には鬼氣がある、曾我肅白のやうな、覇氣のあらい陰影から湧いてくる鬼氣とはちがふが、一種の鬼墨だと私はいつた。それと、ふしぎな色感と鋭さを持つ藍と代赭のつかひ方も、人間の藝術ではないやうな氣がしてくる。
陶器へも畫へも、彼は自分の作品へは聾米と署名してゐる。人もまた、つんぼとして彼を扱つてゐたらしいし、傳記の筆者もさう信じてゐるが、ほんとに木米がつんぼであつたとはどうも考へなれない[#「考へなれない」はママ]。なぜならば、彼の親友である竹田とか山陽とかいふ人達との間には、筆談を交したやうな樣子もなければ、そんな文獻の斷片も見あたらないからだ。多少耳の遠いぐらゐなことはあつたかも知れないが、木米の耳は、自分の氣にくはない人間だけに對して聞えなくなる、藝術至上主義者の僞つんぼであつたのではないかと思ふ。
封建制度の下にゐた藝術家は、偉大な質ほど、たいがいかういふ韜晦たうくわいの蓑をかぶつてゐた。その點で田能村竹田たのむらちくでんとは、思想も氣ごころもぴつたりしてゐたにちがひない。この二人は封建社會の大きな皮肉であるし、今日の藝術家たちをも、憎いほど高い所から睥睨して嗤つてゐるやうに思へる。
今日の藝術家たちには、木米のやうにつんぼであつたり、竹田の如く隱操生活を守つたりする要のない社會になつてゐるが、作品においてはどうだらう。そのくせ、木米や竹田の畫や詩は、彼等自身が決して自分の本技だとはいつてゐなかつた。全く餘技としてゐた藝術なのである。陶器や畫とは少し畑がちがふといふだらうが、現状の純文學派への一考に供へておく。
映畫と大衆文藝
映畫雜誌の映畫評と、偶々、ゴシツプ風に書かれる大衆文藝評とは、共に、不誠實な與太でなければ、おざなりなものが多い。
正しい大衆文學批評家のないことは、同じ理論で、よき映畫批評家の出ないことをも、語れると思ふ。時代の大衆感覺に、尤も鋭敏な批評家といふものがあつてもいい。
純文藝派の正宗氏、近松氏などの大衆文藝批評も、一家言として、傾聽の値はあるが、ああした高きから低きを見るやうな、純文學概念などは、この際、もう昨日の聲、をととひの聲だ。
私たちは、今日を、明日を、歩まなければならない。本則的に、大衆の動向と、時代感覺から、離れ得ない。――映畫と大衆文藝とは、まつたくこの點で、同じ軌道を、同じ意志と目的に結ばれて進んでゐる。よき大衆文藝批評家の出ないわけは、そのまま、よき映畫批評家もゐないわけになる。
私の書く物は、初めから映畫を意識して書いてゐると、誰かがやや批難した口吻でいつたことがある。
私は、その批評家の感覺のうまさに、をかしくなつた。
小説に、形式はない。かりに、あるとしたら、そんな法定式は、破つていい。
どう書いたつて、小説なら、小説であればいいのだ。そして、少くも大衆の求望に關心をもつて、又、時代人の感覺を、小説機構の上に考へて、ものを書くとすれば、小説が、そのテンポを、表現を、映畫的にリズムを持つのは、當りまへな現象であらう。
といつて私は、處女作から今日のものまで、映畫を意識して書いたことなどは、一遍だつてない、決して無い。然し、大衆と活字、大衆と時間、大衆と讀物――、それらの關係は、常に意識どころではない、頭のしんに置いて書いてゐる。ことに、現代の形をとらない髷物の小説が、どうしたら、濃厚な近代生活層の音響の中に、隔離性なく、重奏できるか。尤も、効果的な感能の調和を見出すか、といふやうな點には、人一倍、苦心をする。
その強さが、意識が、私に、前のやうな評言を與へる結果になつたのであらうが、私をもつていはせれば、小説も映畫も、大衆に對して、眞に、大衆のものを、制作しようとする時は、まつたく、相似た表現が生れるのは、當然である。何の不思議もないのである。
私は近頃、從來の小説のとつて來た一形式――心理描寫といふものに、非常な不滿を持ちだした。
人間が人間と相對した時、一方は、一方の人間に、何のワキ書も、心理説明もなく、その心理を感得する。
だのに、小説の場合には、會話と會話とのあひだに、いちいち、あのうるさい、心理描寫がはいる。或る小説になると、その行數は、小説の大部分になつてゐる。賢明な表現法ではない。心理描寫も、もうこれからの小説には、古い、冗漫なる手法ではないだらうか。
動くといふ上には、どうしても、内面的なものと同時に、形によつて、動いてみなければ、根からの動きにはならない。
たとへば、時に、十七字詩の形をやぶつてみる俳人の試練のやうにも。
私は、自分の小説を、より動かしたい。實をいふと、私にも、私の書きよい文章の型があるが、そんな書き易い點に得意がらないで、實質的に、小説そのものの機構を、表現を、より突きすすめて、從來の法定式から踏み出したい。
たくさんな行數を、心理描寫などに費やさないで、もつと、ぴんと感じるやうな表現を。
又、構想を、題を、テンポを。――といつても決して、奇を好むのではない。讀者を驚かさうなどといふ氣持ではない。どうしても動かずにはゐられない大衆と共に、時代小説も、徐々と、歩を共にして、研究して行かうと思ふのである。
京傳のことば
小説家は、何の書を讀み、何を學び、つとめてどう心がけたらよいか、と質問した弟子に對して、山東京傳は、
漁あさることいやしく、選ばず、芥溜ごみだめの汚物もいとはず。捨てること惜まず、こだはらず、八百善の料理の粹を選ぶごとくす。
といつた。
大衆文學批評
けふ迄、ほんとの意味で、大衆文學批評があつたかといへば、私は、無かつたと斷言する。
偶々、大衆文學に對して、それらしい筆を向ける記事も、多くはいたつて概念的な惡口か、揚足とりでしかない。
甚しいのは、批評家が、あまりものを讀んでゐないことだ。讀まない批評家が批評を書く。また、或る感情を持つてゐる純文學と稱する人たちが、歪んだ尺度と、狹義な文學至上をもつて、徒らに漫罵する。
だから、正しい批評は、大衆文學にはなかつた。又、作家は、本質的な人ほど、不言實行で、ただ、よりよきものを書きつづけて來た。
これからは、大衆作家とならんで、大衆文學批評家としても、正しい見識と、批判力のある人ならば、一家をなすことができるだらう。
だが、從來の狹い文學尺度ではだめだ。讀むことも、常識も、より以上な、努力と理解が必要だ。
個の藝術・衆の藝術
僕だけの解釋として、僕は、かういふ持論である。
藝術は、ふたつだ。
個の藝術か、衆の藝術か。小乘か、大乘か。かう二つの道しかないと――。
西行の生活、芭蕉の心。
また、柿右衞門の藝術、竹田の孤寂な精進。
あれは、個だ。
個の藝術だ。
個の藝術は、他人の批判の容喙をゆるさない、絶對なもの。同時に、自己を掘る深さに於いて、哲味に於いて、藝術の核へ、わき眼もふらない。
これこそ、純粹藝術といへるものである。
だが。
百人か、千人か、どつちみち、限られたグループにのみ解り、その範圍だけを目標とするやうな狹義な文字運動は、やはり、個である。
然し、今日の純文學と稱するものは、いはゆる純ではない、ほんとの個ではない。やはり賣らうとし、讀まれようとしながら、個と衆のあひだに、彷徨してゐるのだ。
なぜ、いつまで、陳ふるい、狹い、文學青年的な考へから離れて、衆の文學へ、あの人達は、努力する氣になれないのか。
大衆は低い――
と、その人達は、蔑むが、私は反對に、大衆とは大知識のことだと思つてゐる。
でなければ、社會を背にして、柿右衞門となり、芭蕉となるべきだ。
さうだ。
つまり數寄屋の藝術か、高層建築かですね、と中村武羅夫氏が、うまい比喩をしてゐた。
始終考へてゐること
大衆的に扱はれた史上の人物として、一番古いのは先づ將門であらう。尤も、その前に、素盞嗚尊、聖徳太子などが取扱はれたのがあるけれども、これ等は餘程豫備知識を必要とするからむづかしい。作者自身も亦大いに勉強しなくてはならぬ。中里介山氏の「夢殿」といふのは厩戸皇子を書いたものだが、古いものは實にむづかしい。一體日本の古い歴史を語つてゐる古事記といふものは、日本人にとつて非常に重要なものであるが、日本の民衆の何割が古事記そのままを讀むかといつたら、何パーセントにも出ない。恐らく一萬人に一人ゐるかどうか、僕は徒らに民衆の手の屆かない古事記でなくして、所謂あの古事記の中に持つてゐる僕達の祖先の姿、それからあの當時から今日の僕等の血液にまで傳つて來てゐる日本人の精神、つまり民族的な血液、さういふものをしつかとつかんで、もつと民衆的に書けないものか――これは、始終考へてゐることである。僕は本當の日本的な大衆作家といふものがあるならば、それが出來ても出來なくても、自分の仕事の一つとして持つて居なくてはならないと思つてゐる。
作家の世界
僕は前にはよく隨筆を讀んだが、此頃は傳記をよく讀む。僕は傳記に對してかういふ私見を持つてゐる。
それは小説なり歴史なりの上では、その一人の人物に對する書き方が、どうしても抽象的部分的である。ところが、傳記は生れた發足からその人の最後までが一讀できる。そしてその人の生涯といふものを通じ、その人の途中でしてゐることが、その人自身の信じてゐることが結果に於いてどうなつたか。總てのものの結果といふことが、傳記には總決算されてゐる。そこが非常に讀んで面白いし、さうして僕等の反省に非常に益するものだ。
それから或る人物を批判しようとする場合には、敵方に廻つた人の傳記も詳しく知らなければならぬ。それは一つの人物傳の觀方ばかりでなく、歴史全體を觀る時も、正しい客觀をしなければならんと思ふ。歴史を辿つてゐると歴史の中に引き入れられてしまふ。しかし歴史には多分な錯誤があり庇曲がある。それを直ちに信じてしまふといふことは危險である。
だから僕は作家といふ立場からすると、歴史は非常に忠實に讀む。忠實に讀み、尊重もする代りに、同時に歴史といふものを、何といふか、輕くも見る。馬鹿にするというては語弊があるが先づ輕く見る。といふのは歴史の總てが眞實でないといふことと、これはやはり人が書いたものである、歴史家は色々な場合に總勘定をしたがる、決算報告をしたがるといふ點からである。
例へば、大阪落城から徳川の初期に移る大阪落城の次の頁をめくつて見ると、もう徳川幕府の時代になつてゐる。壇の浦で平家の一門が亡んだといふと、もう次の頁からは源氏全盛時代で、その間の移り行く世相といふものは何にも書かれてゐない。
所が人間自體の本能を考へて見ても、人間といふものはどこまでも生きよう生きようとする。だから、壇の浦で平家の總ての人間が必ずしも死んでしまつてゐるわけではない。大阪落城で豊臣方の總てが沒落したわけではない。飽くまでも自分たちの勢力を挽回しよう、自分達の持つた文化を再び世の中に生かさうといふ考が、殊に武士階級には激しい。だから、壇の浦の次がすぐ源氏時代になつたり、大阪落城の次がすぐ徳川幕府に入るといふことは非常に不自然で、ここに大きな餘白があるわけで、その大きな餘白が僕等作家にとつて最も面白い所なのである。
所が歴史家はここは厄介だから口を拭つてしまふ。又實際厄介でもある。然しそこが人類の文化史に於いて、最も複雜である、又最も面白い所ではあるまいか。これがわれわれ作家から見ると、歴史家に對して最も大きな不服でもあり、或る意味から有難いわけでもある。詰りさういつたやうな要所々々の餘白に對して、僕等は必ず零細な埋もれたものを拾ひ上げて、ここに僕等だけの世界を作り上げて行くのである。
一面歴史家にはつきり書き過ぎて貰ふと、僕たちは全く手も足も出ない。例へば傳記でいふと、頼山陽などを若し書く場合――普通傳記では、可なり細かく分つてゐる人でも、大概年譜位のものであるが、それが頼山陽に至つては、月譜といふよりも日譜がある。例へば五月二十四日なら五月二十四日に、どういふ友達が來て、夕方どこの會へ行つて、晩には誰が來て、翌日は誰が來る、どこへ御見舞に行つたといふことがはつきり書いてあり、その時の食ひものまで分つてゐる。かういふのになると、あまりに餘白がなくて、吾々としては全く困つてしまふ。
僕は「梅※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)の杖」といふ、頼山陽のお母さんのことを書いたことがあるが、さて書き出して見ると、今云つた何日にはどこへ行つて、何日にはどうしたといふことが分つてゐるから、事實を書くにしても、小説として二進も三進も行かない。嘘も書けない。そこで旅先などで書いてゐる場合には、參考書といふものに非常な不便を感じる折が偶々ある。
小説と史實
小説と史實の關係――これは可なり面倒なことで、最近、僕の書いたものでも問題になつたから、此際一言しておくが、一體史實なんといふものは、どこまでが事實か分らない。假にどこかに行く途中で、一つの事件を或る三人が見て來るとする。偖て、後で三人が各々その觀察を述べれば、そこにもう喰ひ違ひが出來て來る。
例へば櫻田の事變の時でも、井伊掃部頭の駕籠へ一齊に切り込んで行つた瞬間、あの事實を隨分多勢の人が見てゐる。松平出雲守の窓からそこの家臣が見てゐたり、それから又往來の者が見てゐたり、あの邊にゐた葭簀張の親爺とか非常に澤山のものが見てゐるのである。それを後で幕府が、當時目撃したといふ人間に皆書き上を出さしてゐる。その寫本を僕は持つてゐるが、それを皆照し合せて見ても、結局に於いて皆違ふといふことになつてゐる。
掃部頭の駕籠へ切り掛る前に、合※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、173-8]に短銃を撃つてゐる。それを關鐵之助が撃つたんだといふものもあるし、森五六郎だといふものもある。誰だ彼だというて、同志の中でも四人も違つた名前を擧げてゐる。それで結局に於いて、後の記録方が色々なものを綜合して、まあ誰々だらうといふことに決定してゐる。
しかし、小説を書く場合事實を拾ひ上げるに、若し事實といふものの價値を非常に極端に考へ過ぎたらば、所詮いい小説は書けない。さうかというて事實を輕蔑したら絶對にいけない。どんな空想にしても、それは正確に事實は事實として究明して、さうしてあらゆるものから推理的に突き進んで行く。つまり事實でなければならないといふ把握がなくてはならないと思ふ。
その基準は、要するに小説といふものは、讀んでゐる讀者の心理が、これは嘘だといふことが頭にぴんと來たら、その小説は失敗と思ふ。だから作者がどんな空想を書いても、讀者の頭の中には、どうあつてもこれは事實であるといふ感じを持たすことが、小説といふものの一つの使命というてもよいと思ふ。
故人を呼びかへす
僕は歴史上の人物、故人といふものは決して死んだ人でないと考へてゐる。何時でも今日の社會の状勢に應じて、つまり聲をあげて呼べば、歴史上の人物といふものは地下に生きて來て日本の文化を手傳つてゐる。平易に具體的な例にして言へば、濱口内閣が非常に節約政策を採つたといふ時には、二宮尊徳が民衆の間に甦つて色々なものに書かれたり、もて囃されてゐる。それから歐米文化主義が發達し過ぎて、少し日本固有の文化を自覺し直さなければいけないといふやうな時には、楠木正成とか、最も日本精神を具體化した人が史上から拾ひ上げられて民衆の間に讀まれて來る。少し唯物的に人間の生活があまり騷がしいために、考へる暇もなくなり過ぎたやうな反省の状態。
宮本武藏を書く
さういふ觀念の上から、今日大衆小説を書くにも、民衆の血液の中に入つて行つて、生きて行くものでなければならない。人物を拾ふ場合には殊に然りと思ふ。
例へば、數年前、僕が宮本武藏といふものをなんで拾ひ上げて書いたかといへば、その當時の、思想の流れを考へてみると、所謂ニヒリズム、リベラリズム、さもなければ極端にどつちかに偏した思想。その眞中にどうでもいいといふ全然無思想といふ潮流もある。しかし今日民衆の中に何が一番缺けてゐるか――小説を選ぶ前に考へて見ることは先づこれである。すると前に述べたやうに、信ずるといふことが一番缺けてゐると思ふ。つまり自分を信じ、人を信じ、自分の仕事を信じ、自分の今日の生活を信じて行くといふやうな信念が非常に弱いと思ふ。それからもう一つは、さつき云つた希望の世界、それからもう一つ考へられることは、人間が非常に理智的になつて來てゐることだ。僕等の遠い過去の中には、もつと今日にあつて欲しいやうな強さ、強靱な神經。今日々々をもつと希望と力を持つて歩いて行くといふやうな生活力。さういつたものがあつた筈だ。それが今日は可なり稀薄になつてゐる。
だから、今日の文化に對する反省として、僕等が今日忘れてゐる神經を持つてゐる人間をここに持つて來れば、僕等の神經が覺める。さうしてそこに小説としての興味と、生活の上での意味と二つを持つて來る。かういつたやうな目的を以て、僕は、宮本武藏なんかは理想的な人間だと考へて選んで行つたのである。
然し、理論的に説明しなくても、大衆作家といふものは、いつも絶えずさういつた注意を持つてゐる。謂ゆる勘である。時には勘で失敗することもある。例へば僕が「貝殼一平」といふ小説を書いた時は、愈々本格的なものが行き詰つて、この次に來るものは長い時代でなくても、ユーモア時代が來やしないか。又ユーモア時代が欲しいといふやうな氣持から、ユーモリストを主人公にして書いた。所がこれは、結果に於いて僕の勘の方が少し早かつた。大概一年か二年は早いのが普通だが、それが餘り早過ぎると失敗になる。一歩前といふ所が丁度よい。
結局、大衆作家が最も時代感が鋭いといはれてゐる。然し、先へ先へと逸るばかりではいけない。大衆文學の本旨といふものは反省の文學でなければならぬ。文化といふものは、唯さう前へ無自覺に出ることだけが進歩ではない。本當の進歩といふのは、そこに何時も正しい反省がなくてはならない。その反省は、僕等の過去の文化といふものを絶えず振り返つて見て、さうして新しくて健全な認識を、自分の生活の中に注入させて行く。現在の文化と同時に、過去の文化を振り返つて、兩者を渾然と、自分の正確な批判の中に入れて、これを調和し、篩をかけて、さうしていいものだけを自分自身に吸收し、堅實に前に出て行くといふのが、本當の進歩だと思ふ。
その點から、僕自身の考へ方なり著述なりを、一部の批評家が「強烈な保守主義だ」といふやうなことを書いて居つたが、僕は決して保守主義ではない。大衆文學は反省の文學だと自覺してゐるのだ。若し反省といふものがなく、徒らに尖端を狙つた輕佻浮薄ばかりを全部としてゐたら、日本の文學は片跛で、極めて不健全なお先走りのものになり終つてゐることと思ふ。
この信念を以て宮本武藏のやうな小説を書いた。
郷土の文學
昔の封建制度といふものの中にも、文化的に非常にいい所があつたやうに思ふ。今日はあまりに都市中心になり過ぎた。都市中心、中央集權になり過ぎた文化の下では、文學、美術、工藝、個々の僕達の生活の細かいものに至るまで、總てが都會のものでないものはない。例へばおけさ節といひ、小原節といつた所で、今日のおけさ節は越後のものではない。小原節にしても小原の郷土のものではない。あれは東京の歌になつてしまつてゐる。古くから持つてゐる各地方の郷土的のいいものは、各戸に傳はつてゐる固有の美術に至るまで、皆中央に集められてしまつた。そして、各地方には最も幼稚な印刷物だの、安つぽいレコードだの、さういつたものしか返されてゐない。だから地方に於いては、文化が封建時代よりずつと低下してゐると見ても誤りでないやうだ。即ち都會だけが爛熟して、一つの腦充血みたいな形になつてゐる。漢方醫にいはせると、頭寒足熱といふのが健康體だといふが、日本の文化の姿からいふと、今は頭熱足寒になつてしまつた。
これを封建時代の文化に飜つて反省してみると、例へば水戸に行けば、文學の方面には藤田東湖とか、美術の方では立原杏所だとか、經學の方では誰だとか、皆それぞれの人物がゐる。又藝州藩なら藝州藩だけの一つの學系もあり、文學もあり、美術もあるといふ風に、各々が一つの分野を境にして、劃然とした文化の特色を持つて競ひ合つて、結局に於いて全體的に充實してゐる所がある。今都會を除いた日本では、さうした特色がだんだん失はれて行くといふことは、迚も淋しいことである。
その中に於いて僅かながらも、めいめいの郷土に持つてゐるものを再檢討してゐるのは大衆作家である。
由來日本の國民性といふものを見ると、郷土愛と、それから、僕達にいつまでもいつまでも繋がつてゐる歴史性がある。この二つを破壞しては、日本の國民性といふものは殆ど成立たない。だから、一つの人物を見ても、歴史を見ても、郷土色といふものが非常な影響を與へてゐる。今日の文學といふものが、進歩的な文學に對して鋭敏であつても、さう云つたものを持ち得ない。郷土的な國民性と何かアツピールを持たないといふことは、非常な缺點だと思ふ。――大衆文學の總てといふことは迚も云へないが、少くも大衆文學の稍々優れたものと、常に心掛のいい作家といふものは、郷土性、所謂郷土文化といふものには、關心を多分に持つてゐると思つて居る。そこにも僕は大衆文學の特殊性があると思つてゐる。要するに、今日の大衆文學といふものは、一面、反省の文學であると同時に、郷土的のものでありたいといふことを僕は望んでゐるものである。
作家たらんとする人に
いつも云つてゐるのは、結局に於いて勉強するといふことだ。僕はよく本を讀むといはれるが、しかし、新にする仕事にすぐ役に立てるために本を讀まない。人が見たら、こんな忙しい場合に何だつて縁も由りもない本を讀んでゐるか、といふやうな本しか讀んでゐない。
そして別に讀書の時間は持つてない。結局寢るときに、一册づつ持つては先づ寢床のなかに腹這ひになつて讀む。それは大概、現在してゐる仕事とは、殆んど縁も由りもないやうなものばかりだ。
今讀んで今それを役立ててゐるやうなあわただしいことでは、實際に於いて間に合ふものではない。時偶人の使つてゐるのを見ると、如何にも消化されてゐないことがありありと分る。胃も腸も素通りして出てゐる。
自分が目的もなく、興味で讀んだものは、何年か經つてゐるうちに、それは一體本から得た知識だか、自分に生れながら持つてゐる知識だか分らなくなる。さうなつてから、蠶のやうに手繰ると糸になつて出て來る。そこに價値があるのだ。所が多くの人はさうではない。今讀んだものをそのまま出したといふのが多い。だから利用の仕方も小さく狹く、十分に消化もされてゐない。
ここを讀んで何かに使つてやらうといふ氣で讀むのは、骨を折つて使つても、十行のものは十行、或は五行、六行にしか使はれてゐない。
それから例へば、ある小説を依頼されたといふ場合に、それを書くため、それを調べるため急に旅行するといふ人がある。あれなんか僕は凡そ意味はないと思ふ。何故かといふに、長崎なら長崎を書く場合には、長崎を實際に知らなくても、長崎については有ゆる文獻がある。切支丹の歴史もあれば、長崎の貿易史もあり風俗史もある。有ゆる長崎の歴史を坐つてゐて幻想することが出來る。その幻想を捨てて、自分が實際長崎に行つて、長崎に現存してゐる文化の中へ沒入したら、却つて分らなくなつてしまふ。
それから小説なんか書く場合に、誰れそれのことは何處そこへ行けば分るからというて旅行しても、そこで聞いたり何かすることで頭が一杯になつて、肝腎な作家として興奮させる頭の餘地がなくなつてしまふ。だからさういふことを調べるのもいいが、それを直ぐ明日から書くのに使ふといふ目的の下に調べたのでは面白くない。興味をもつて讀むといふことでなくてはいけない。僕が本を讀むのはすべて興味だ。だから何でもいい。陶器の本でもいいし、書畫骨董の本でもいい。興味に觸れたものを讀んでいつでも面白い。それだから、僕は割合に努力しないで、面白かつたなと思ふだけで、それがいつか役に立つ。
それから今の人は根氣が足りない。それについて僕が親父に叱られた思出がある。僕が山の手に移る前に、下町の隅田川のほとりに住んでゐた。朝夕隅田川を眺めてゐると色々なことが想像される。さうして、唯漫然と、東京の中に流れてゐる隅田川だけを書いて居れなくなる。隅田川を一つ研究してやらうと思つて、隅田川に關するものを調べにかかつて、半年だか一年だかそればかり調べた。親父がそれを見て、「お前この頃勉強するが、何を勉強するのか」といふので、「隅田川を勉強してゐる」といつたら、「馬鹿なことをする奴だ」といつて叱られたことがあつたが、親父が死ぬ前に「彼奴はあれで何をして生きて行かれるか」というたさうだ。親父にとつては非常に嘆じられたことであらうが、結局に於いて、それが色々な場合に、非常に役に立つたことは勿論である。
書きたい人物
これから僕が書きたいと思ふ人物は、漫然とした考だが、織田信長があるし、曾呂利新左衞門がある。平將門がある。それから三人一緒には書けぬけれども、勝海舟と山岡鐵舟と高橋泥舟、この三人を通じて、維新から明治への文化の遷り變りといふやうなことを書いて見たいと思つてゐる。
織田信長や平將門を書きたい氣持は、要するに日本文化の過渡期に於いて非常に特殊な存在であるからだ。
それから曾呂利新左衞門は、あの時代の成功者の代表だつた秀吉と反對の側を代表してゐる。詰り同じ時代に出發をして、同じ時代に出掛けて行つた人間の運命律といふものが、秀吉のやうにトントン拍子に行く場合と、反對に行かない人間が居るべき筈だ。今日の社會でも――さういふ脾肉を嘆ずる不遇な人間といふものは何日の世の中にもある。さういつたやうな不遇な人間の味方になつて、秀吉の裏を書いて行く。さうして晩年になつて、とにかく一方は人臣の榮を極めたのに、自分は斯く不遇であつたといふ時に、そのまま失望してしまつたり、詰らない生活に凋んでしまはない。逆境に行つた人間でも尚ほ且つこの世の中を樂しんで、しかもあの秀吉の頭に乘つかつて行つたといふ、この負けた人間の價値を書いて行かうといふのが、曾呂利新左衞門を書いて見たい趣旨であるが、果してうまく書けるかどうか。
現代小説と時代小説
いはゆる現代小説と時代小説との間には幾分か讀者の分野があるらしい。また文化に對する各々のもつてゐる使命からみても相違があると思ふ。文化の進歩相に對して、批判、助成していくのは現代小説のもつてゐる一つの分擔だと思ふ。從つて現代小説は、さういふ圈内にゐる、都會的な、比較的新しい文化の要素の中に生活してゐる讀者には、非常に支持されてゐる。文化といふものはそれ自體性が休止なく進んでいく――生活を進展させていかうとする性質をもつてゐるから、日本みたいに感受性の強い文化と國民性の中では、殊にそれが慌しく發程の經路を辿つて來た。
文學などもさういふ中にあつて、ある場合には取捨反省する暇なく、どういふ傾向でも新しい要素を帶びたものを、無選擇に採り入れて來過ぎた嫌ひがあると思ふ。さういふ弊害は純文學と、いはゆる現代小説のうちに隨分あつた。時代小説といふものが非常に反文化的な形態をもつて、尚その間に今日のやうに擡頭して來たといふところには、やはり進歩的な文化の中にあつて、さういふものもなくてはならないといふ必然的な使命を帶びてゐると思ふ。
それは何だといふと文化に對する反省といふことである。僕らの否でも應でも刻々に前へ押出されていく形式の、物心兩面の生活が、堅實な反省を持たずに、唯流行的な主張や科學的進歩にばかりのせられて駈足になつて行くことは非常に危險があると思ふ。いつも進歩の中に正しい反省を持ち、飜つては自分たちの過去に持つてきた本質的な物を失はないで、新しい影響との調和を根念として行く所に、本當の堅實な進歩がある。さういふ點で、いはゆる大衆小説の中の時代物は、文化に對する一つの反省の文學だと思つてゐる。例へば、特に今日の文化的民衆の間には殺伐だといはれたり、餘りに復古的だといはれたり、また退歩的だと見られたりするやうな封建的な人物、道徳、時代相などを書くうちに、人物には宮本武藏のやうな劍客とか、股旅的人物とか、また戰國の鬪將連が登場する。然しこれは單に、今の近代生活からロマンチツクにだけ眺められてその興味だけが讀者をつないでゐるものではないと思ふ。
僕の信念では、近代文化人といふものは非常に鋭感になつて、知性が細やかになり、リアルに聰明な、いはゆる知識人を民衆の基礎としてゐるやうになり、これが文化の進歩の如く見えるが、人間の知性が生活の眞理を追つて知性的に進歩すればするほど、文化といふものは末梢的に繁茂して行く。一見それが非常に近代文化の進歩かのやうに見えるけれども、末梢になればなるほど、人間の原始に持つてゐた生命力が稀薄になつていかざるを得ない。例へば萬葉文學が今日から眺めて、そこに人間の生地の艶があつたり、遠い繪畫、美術、わけても建築などに於いて、近代科學が驚嘆のみしてゐるといふやうなことは、末梢的にのみ進歩して來て生命力が稀薄になつて來た文化人の自白に外ならないと思ふ。
大衆文學が最も力を入れていいと思ふ點は、前述の反省と、衰弱し末梢的になり易い生命力に對して、絶えず逞ましい、またこの國體に適つたところの國民性――獨自性を嘆いて甦へらせていくといふところに、大きな役割があるんではないかと思ふ。
地方文化と郷土愛
外國文學がその國の民衆に對する關係とちがつて、日本の文學では、特殊な國民性といふものから考へて、郷土愛に對する郷土史といふものが、大衆文學の仕事として見逃せないものの一つであると思ふ。
日本人ほど郷土に對する愛著、また郷土から受ける影響を強くもつてゐるものはないと思ふ。さういふ點で現代小説は、比較的に日本の郷土、殊に地方文化に對しては置き去りを食つてゐる。これを時代小説から取材する場合には、その採る舞臺、人物、時代といつたやうなものから、郷土と密接に讀者と共感することができる。大衆文學が民衆に支持されてゐる原因の一つには、その點が可なりあると思ふ。そして日本の國是としても、國體觀念の自覺といふことは政治の根本になつてゐるから、國民性のうちには必然に、日本人といふ血液的な自覺が、外國のどこの民衆よりも強いと思ふ。
この血液的な自覺をもつてゐる讀者に對する文學の影響を考へてみると、非常にデリケートな考證が、科學的に多分に考へられて來ると思ふが、そのうちの一例としても、都會文化の中に住んでゐる都會人にしても、郷土の話、それから自分の父母系の話、さういつたことになると、誰でもひとくさりの、ロマンチツクな又誇りに近いやうな追憶をもつてゐて、現實の中にある自分とのつながりを可なり濃厚に持つてゐないものはないと思ふ。
時代小説の取扱ふ世界が知らず知らずにさういふ血液的な環境を叩いてゐることも、比較的單純に無自覺に、さういふ要素をもつてゐる大衆に聲援されてゐるところから、大衆文學の愛好者は一と口に「低俗」だと言はれてゐるらしいが、この「低俗」といふ言葉は文學者たちがどういふ角度から言つてゐるのか知らないが、小説の讀者はどんな人々かを考慮するに當つては、この低俗といふ言葉を愼重に吟味して見なければならないと思ふ。單に獨善的な文壇意識から、調子の高い文學が解らないからさういふ讀者は低俗だとするのなら、これは非常に單純すぎる解釋だと思ふ。
廣い社會人として相當な事業に從事し、知識に於いては可なり高い人でも文學に對しては全然低い解釋しか持たない人もある。それは文學者が事文學に對しては非常に賢くても、他の社會面においては、まるで子供みたいな幼稚極る知識しか持ち得ない人が多いのと同じで、理解者だけに對して文學するといふ特殊な節操をもつて足れりとする純文學者ならば問題は別であるが、全般的に大衆文學も純文學も通じて、文學者も社會人でなければならぬ。また文學は一部の理解者に支持されるのでなく、國民の支持にのつて成り立つ文學でなくてはならないとするならば、從來の文學者が、徒らに己れ高しとして言つて來た「低俗」といふ民衆に對しての無禮なる言葉を、一應文學者自身が自省して、眞率に考へて出直さなければならないと思ふ。
新聞小説の舊套打破
實際問題として、從來の新聞小説には一つの定義といふやうなものがあつて、執筆者は觀念的に色々な定石をもつて臨んでゐた。例へば、毎日の切りには無くもがなのことであつても、何か翌日に引つかける宿題を殘して置くとか、二人、三人といふ人物が三日に亘つて、同位置で長い會話が續くともう讀者は讀まないとか、エロチズムが讀者を喜ばす常備藥だといふやうな常套手段の手法を、新聞小説の鐵則かのやうに考へてゐるらしいけれど、さういふことが餘り常識的になりすぎてゐるために、近年の新聞小説の振はない原因も來てゐると思ふ。
宮本武藏なんかの場合においては、あの小説の構成を分解してもらふと、その中にさういふ定石を打破してみようといふ自分の試みが、隨所に實行されてゐる筈である。前に擧げた三つの例なども意に介さずに書いて來てある。例へば武藏といふ一人の人物が病んだ足を引きずつて山巓に登つて行くといふだけのことを、作者として讀者の氣持を非常に危險に感じながらも四日間書いてみたこともある。そんな場合でも作家の意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、192-4]と小説中の人物の意識が強く讀者に映つてゐる場合は、讀者も一緒に默々と山を登つて行くやうについてくる。一人の人物が山を登るだけのことだから會話も事件もないわけである。かういふ事は從來の通俗小説でも時代小説でも全然とんでもない冒險の筈である。してみると、從來の新聞小説に對する作家だけの決めてゐた定石的手法などといふものも、改められなければならない點が澤山あると思ふ。これは純文學から出て來て大衆作品を書かうとする人も、これからより以上大衆文學を開拓して行かうとする人も、ここに發見をして行かなければ、誰が書いたつて類型的な物ばかり出來て行くのだと思ふ。
史感
草思堂史話
勇氣といふものは、いはゆる生死のさかひとか、非常なときにだけ奮ひ起されるもののやうに、自分なども常識づけられてゐたが、ふと大原幽學の傳記を見てゐるうちに、むしろその必要は日頃の何でもない中にあることを教へられた。
それはかういふ話である。
天保初年時代のことだらうと思ふ。彼の出身は尾張藩でそこの家老の子であつたが、劍道、儒學、神道、佛法、あらゆる修行の迷悟を踏破したのち、中年思ふところあつて、常陸の香取郡に落着いてゐた。そしてひとつの教學塾をひらき、今でいふ地方文化の啓蒙にあたつてゐたのである。
或る時、塾生のひとりの家が、他へ移ることになつて、先祖傳來の古家も、そのまま毀してほかへ建て直すといふので、同門の者がみんなして手を借してゐた。
ところが最後に、ちと運び難い物が一つ殘つた。捨てて行くには惜しいし、さりとて運ばうにも、始末の惡いものだつた。
「どうも、かうも、ならんなあ」
「埋めてゆくしかあるまいて」
「だがそれも、勿體ないし」
よほど持て餘したとみえて、大勢はそれを取圍んで空しく腕を拱いてゐた。なにを噪いでゐるのかと、幽學が覗いてみると、それはこの家の者が先祖代々重寶にして來た糞甕くそがめであつた。
甕かめの首に繩をかけてみたり、まはりを掘つててこを入れてみたり、いろいろ苦心してみたが、甕は根が生えたやうに土中に深く坐りこんで、引つ越すのはいやだと云はぬばかりに構へてゐるのである。
「ちよつと、退のいてみい」
幽學は前へ出た。
先生の學徳を以てしても、これだけは何うにもなるまいと、一同が眺めてゐると、幽學は糞甕を股いで、甕のふちに兩手をかけた。
うむと一つ力を入れると、甕は苦もなく拔け出した。實に何でもない事だつた。――しかしこの何でもない事に脅やかされて、片づける勇氣を缺いてゐる仕事が、われわれの日常にもずゐぶんあるやうな氣がされる。大原幽學は、無言のうちに、それを人々に訓へたものだらうと思ふ。
古人は死んでゐない。これは私の信條である。時代は必要に應じて、生ける國民ばかりでなく、過去の偉人にいたるまで、これを時艱の中に、文化建設の中に、土中から呼び起す。動員する。
秀吉なども今、いろいろな角度から、再認識されようとしてゐる。
總力戰研究所長の飯村穰中將からふいに手紙をいただいた。自分の近著「太閤記」を課題として、研究所生の考察を集められてみたといふのである。その答案文を一册にコツピーされたものも併せて送つて下さつた。これは原著者として、今の指導的立場に立つ智識階級の諸子が、われわれの書く小説をどう讀んでゐてくれるかを知る上に於いて、また一部の讀書子が作家に求めるものの何であるかを知る點に於いて、作家にとつても貴重な教材となるものであつた。それについて自分も小感のひとつをここに答へてみる。
秀吉の「孝行」だつたことは、誰をも異存なく同感させてゐるらしい。秀吉の親孝行は決して小説の構造ではない、史實である。子に目のない親の愛を、親ばかと俗諺にいふが、秀吉の母に對する孝養の篤さは、逆に、子ばかといつてよい程で、それは幼少日吉時代から晩年太閤となつた後までも變つてゐない。否、むしろそれはいよいよ深くなつてゐた。
――人間五十になつてもなほ親を慕ふ心のあるは孝行の至高である。
と古人は云つてゐるが、秀吉の親思ひは、それどころではない。彼が日常孜々として小事に勵み、烈々と大志に燃えて働いたのも、その一面の目的は、母をよろこばせる爲にあつたといつても、決して過言ではないといつていい。それほど何事につけ彼は母のよろこびを見ることを以て自分のよろこびの第一にしてゐた人である。
もし彼の少年逆境のころ早くからあの母親といふものをなくしてゐたら、或は、漂泊不定な一不良となつたまま、後の秀吉はなかつたのではあるまいか――とさへ私は考へるのである。あの中村の貧家と冷たい郷土を追はれて漂泊しながら、たえず郷土と母を忘れさせなかつたものは、彼の骨身に沁みてゐた「悲母の愛」であつたにちがひない。そして、信長に仕へる迄は、ずゐぶん世路に虐げられたり惡い環境の中にもゐたが、すこしも朱に交はつて朱に染まることなく、飽まで天質の良さを保つて行つたのは、ひとつは彼の個性にもあるが、また彼の胸には、常にその「悲母」が棲んでゐたからであらう。母を想ふとき、彼はどんな惡い環境につつまれてゐようと、「良き子にならう」と誓つて勵まずにゐられなかつたものであらうと――私はいつも秀吉をとほして秀吉の母の力の偉さを考へさせられる。
信長の出先を川遊びの河原のほとりに待つてゐて、いきなりその馬前へとび出し、「わたくしを召仕つて下さい」
と思ひ入つて動かなかつたといふ秀吉の奉公初めの事なども、近代人にはない氣魄である。學歴や手づるを力に理智的にふみ出す實社會への發足とは――その時代環境がちがふにせよ――いまの青年たちとは覺悟がちがつてゐる。
あの場合の日吉の就職のしかたは、採用されるか斷はられるかなどといふ生ぬるいものではなく、死ぬか生きるかだつたのである。時まだ彼の年は十七、八歳だつたといふ。元より身なりも見すぼらしい一放浪兒にすぎない。まちがへば供の武將の槍先に突きころされる惧れは多分にある。國主の列へ駈け寄るといふだけでも、それは充分な生命がけでなければできなかつた。
そのとき信長が、不愍に見て、
「召仕つてくるるが、いつたい汝は何の能があるか」
と、訊ねると、日吉は、
「何の能もありませんが、ただ事あるときには、いさぎよく死ねる覺悟だけを習ひ覺えてをります」
と、答へたといはれてゐる。
この答へを含味してみると、そこへ出て來る迄の覺悟のほども充分に讀めるし、またその後の彼の奉公ぶりや、晩年の大志をも、よく一言のうちに吐きつくしてゐると思ふ。必死の聲とか、眞情のさけびとかも、時を過ぎれば、自ら裏切りやすいのが人間だが、彼は信長へ向つて初めて吐いた一言を、信長の死ぬるまでも、決して裏切つてゐなかつた。だから信長が秀吉を信頼した第一のものは、おそらく、
「彼は正直者である」
といふ所にあつたにちがひない。その正直さをよほど見込まれてゐるのでなければ、秀吉のやうな大才の器は、却つて信長に忌まれる要素になつてゐたらうと思はれる。秀吉の同僚の諸將のうちで、幾人、さういふ禍に亡びた者があるかを數へてみても明らかなことである。
秀吉といふとすぐ「出世」といふことばが聯想にのぼる。出世太閤記などといふ戯曲があるばかりでなく、從來の太閤傳がことごとく彼の立身出世とその才器縱横を誇張してゐるからである。「猿々」といふ蔑稱に甘んじながら、猿的な狡智をもつて、立身出世の梯子をあざやかに駈けのぼつた人のやうに、かなり權威ある歴史家までが肯定して來た結果である。
秀吉にとつて、少し心外な解釋だらうと思ふ。むしろ彼は、破格な昇進などをつねに警戒してゐた方であらう。信長の寵が加速度に加はつてゆくほど、よほど戒愼してゐなければ、あの中で無事を保つてはゐられない。後年、彼が天下の諸將をつかふやり方を見ても、外交や戰の手口を見ても、決してそんな反省の足らない人ではない。大まかだが要心ぶかい。――ましてその階段を最下級の御小人組から踏み出す途中においては、一歩々々心したらう。或る場合は、餘りに早い昇級や信長の偏寵は、ひそかに迷惑と思つたほどではないかしらと考へられるふしもある。
また、彼の偉大を、その發足から考へに入れすぎて、秀吉自身が、若冠のときからすでに、天下に志があつたやうにいふのも、決して眞に觸れてゐるものではない。秀吉がまだ日吉の頃、信長の馬前に身をひれ伏して、お小人こびとの端でも馬の口取りにでもお召仕ひ下さいといつたあの叫びは、正味正直、それを最大の希望として訴へたものに違ひない。そしてまた、草履取から上げられて、士分の端に加へられれば、それを以て、最大なよろこびとし、最大な恩と生きがひを感じて、奉公に誠意したにちがひがない。彼にも夢はないではなかつたが、いたづらに梢の柿を見あげて足もとの熟柿を踏みつぶすやうな愚はしなかつた。
その證據には、彼はどんな職域に身をおいても、かならずその職域の人に成りきつてゐた。――成りきる! といふことは怖らく彼の職に對する信念の第一でなかつたかと私には信じられる。
草履取の職につけば、飽まで良き草履取に成りきるのだ。臺所方の役人になれば、實に又とない臺所役人となつて心をくばり骨身を惜まない。普請をやらせても、使を命じても、一城を持たせてみても、その在るところの職域に對して、彼ほど他念なくそれに打込んでゐる人間は滅多に見られない。それを信長は觀てゐたのである。
もし反對に、秀吉が、草履取につけば士分をねらひ、士分になれば一郡の將になりたがり、一郡の將に取立ててやればまた一城の主を窺ふ――といつたやうに、居る所の職に心がうすく、野心勃々の氣はいが見えてゐたりしたら――あの信長の性格としても、結局、秀吉に與へるのはその望むものとは反對な物を與へたに相違あるまい。
いや信長でなくても、世の中とは、いつの時代でも、さういふ酬はれ方を示して來るのがどうも定則のやうである。
伊達政宗
古英雄にも運不運がある。
あひにく、楠正成とぶつかつたので、三百年祭の伊達政宗のはうは、いつかうに頌揚されなかつたが、東北文化、東北産業、東北救民と、いくつもの問題が國策にのぼつてゐる時ではあり、とかく、ひつ込み思案な東北人の元氣を鼓舞するためにも、政宗はもつと現代に生かしてみたい人物の一人である。
家康が、政宗を評して「膽剛大才」といつたが、かういふ先入主や、獨眼龍などといふ名稱が、かへつて政宗を過まつてゐると思ふ。線の太いことでは、元龜天正の大物ばかりにぶつつかつてゐる家康の眼にも、恐ろしい荒削りに見えたに違ひなからうが、謙信や信玄よりも、遙かに、政宗の性格や經綸は複雜であり、また、思想があつた。
歐洲へ支倉六右衞門を遣つたことも、史書の多くが、彼の征服慾としてゐるが、事實は、文化使節なのであつたし、あの片嵎へんぐうにゐて、宗教政策に眼をつけてゐたなど、戰國そだちには稀れである。
青葉城に、帝座の間をおき、瑞巖寺に王座をしつらへておいたなど、政宗のあたまには、將軍家はお人形だつた。何の時であつたか、家光をかう叱つてゐる。
「天下は、誰のものであるか、あなたは考へたことがあるか」
朝鮮役の時には、自分の陣に、天照皇太神を奉安し、日の丸の旗さし物をさして働いた。士卒にも、日の丸を用ひさせた。一秀吉のために働くのではないぞといふ意氣がわかる。家光など、子どもに見えたのも至極である。
君臣のあひだは、どこの大藩より濃かつたらしい。情義の美には、東北人特有な所もあつて、いい話がたくさんある。
その一つに。
家來の石母田景頼に政宗が急用をいひつけた。所が、陣屋の蔭にうづくまつて、なかなか使に立たないので、
「何してるかつ」
と叱ると、
「惡路ですからわらぢを新らしくして參ります」と答へた。
政宗はその心がけが非常に氣に入つたらしく、
「さうか、片方はわしがなつてやらう」
と、家來と並んで一足のわらぢをなひ上げ、やがて出立させたといふことである。
墨人私觀
三餘堂の古書目録に、珍らしくも寂巖の書幅が出てゐた。キズ有、黒し、聯落としてある。黒からうが、何があらうが、東京の古書目録に、寂巖が出るなどは甚だ稀れである。眞僞はさて措き、早速、家人をやつてみると、三餘堂の曰く、實はあれは、目録の印刷の中に、もう望みてがあつて他へ讓りました、と。
かう迅いのがゐるのだから、蟹の穴みたいな書齋にのみ引つ込んでゐる僕などに、物漁りなど烏滸の沙汰である。然し、先手があつたとすると、眞物らしいぞといふ氣持まで加つて、いまだに微かな惜みすら、心の隅に持つのである。
詩は作つたらうが、自分の詩はとんと書かない寂巖だつた。寂巖のよさは、僧人にして僧臭のないところにある。然し、僕等のやうな若さには、まだあまり遠い枯淡でもある。そのくせ、ひどく親しみ深い魅力を感じさせられるのは、あの奇韻と高格な書のうちにもどこか、良寛のごとく、墨そのものに童顏の光りが和やかにこぼれてゐるからであらう。書も解さぬ僕のごとき若輩が、寂巖を愛すのは、その字文に立ち入るのではなくて、その人の膝へ、唐子のやうになつかしむ氣持なのである。
大徳寺派の僧人の書は、江月といひ、清巖といひ、また澤庵のごときでも、共通した臨濟病ともいふべき類型をもつてゐる。茶室の構成といふものへ、意識的に調和をとり過ぎた爲であらう。横もの、一行ものの語句、すべてがその病根を語つてゐる。
黄檗系の書風には、さほどの房臭はないが、やはり黄泉以下の教化の書を通じてみるに、劃然と、ひとつの色と匂ひとが、いはゆる一派の畑を爲して、ここにも僧人書の病がないとはいひきれぬ。好む人には、その病はむしろ愛掬するよさでもあらうが、僕ら、書解のない者には、野の聖の自然な慈顏に親しむのとは、まことに遙かな相違がある。藝術としても、むろん、茶室の爲の藝術よりも、後者の方が、價値のたかいことはいふまでもないと考へてゐる。
良寛の草體などは、或物は、僕など淺學には讀めぬ文字が多い。僕は書を愛する場合、あながち、讀めると讀めないとは問題にしない。讀めれば、それに越したことはないが、讀めぬというて、あかの他人のごとくその書に親しめぬといふことはない。書は人である以上、或る程度まで、感覺的に向ひ合つてゐるといふ氣持でも結構である。良寛の草體などには、往々さういふのに出會ふ。
けれど、無言の書も、朝暮對してゐると、いつか、物をいひ出してくるのもふしぎである。讀めてくるのである。ぽつん、ぽつん、と良寛の草字が、毎朝、一つぐらゐづつ讀めて來るのは、まことに樂しい。
鞠をついてる手のやうな線、破れ笠でも抛つてゐるやうな點、良寛の書には、いつも大地の草の香と、蒼空とが感じられる。然し、僕が、良寛に對してもつと好きなのは、いとのどけく、まるで王朝時代の宮人でも書いたかのやうに、長歌などを認めた行楷の間の字である。わけて小判紙などへ書いた場合、著しく良寛の細字には氣品がある。さながら平安朝の貴族である。
寒國の書で、良寛のやうに、素直な藝術は尠い。良寛の書を、藝術と見てはあたらないかも知れないが、とに角、ああいふ澄明と自然さを生活に持つことすら、北國の人には、めづらしい。
山一脈を隔てて、一茶となると、いかに、彼の句境が樂天的であつても、到底、人世の慘苦と涙のない藝術ではなかつた。文字さへ、夏も凍つてゐるやうな筆である。みづツ洟をこすりつけたやうな一茶の書は、北邊の痩土と人とを、そのままな相である。
越後に、良寛と雲泉のあるのは、九州文人畫と、京都の文雅に對して、誇れるものである。信州に春臺鴻山、象山あるも、なほ、山陽時代の京都の文雅に對比して、甚だ語るに足らない。信州人の誇る象山のごとき、むしろ惡書の代表的なものであらう。唯その人をとらん乎、僕は、生憎と、象山の仕事は認めるが、人がらも餘り好きでない。
信州では、むしろ雲坪をとる。又、雲坪に藝術的な同情はもつ。然し畫績はまだ甚だ僕らの求めるものとは一致しない。果亭に至つては、直入よりましな程度だ。
關東雅人のうちでは、餘り、書については語りたくない。徂來は、學究としても、書人としても、ひとかどではあらうが、感情的に僕はきらひである。白石と雖も同斷。かうなると、書を離れて、幕府、社會、儒者、權謀、よけいなことを考へ交ぜるためであらう。幕府の祿に狎れた人々の書は、見るにたへないのである。書に鑑眼のない素人は、これだから困ると古人はいふかも知れないが、さういふ見解でも書を見るの自由を、僕は、素人であるがために持てる。
杏所の書は好きである。繪もこのましいが、書にも氣凛があつて、關東文人畫では、まづこの人に第一の愛執を感じる。
杏所は、武士を捨てない竹田ともいへる。華山の奔筆には、全的に、彼の鬪つてきた人世の慘涙と剛氣とが迸る痕があるが、杏所は、士太夫の態度をいつも失つてゐない。彼がもし、畫にのみ、書にのみ、隱操の道へ方向をとつてゐたら、竹田にも劣らない深奧へ行つてゐたかも知れぬ。
然し、恨むらくは、杏所には、詩がとぼしい。彼は士太夫として、詩作を避けたのではあるまいか。いや詩はその人の天禀の才であるから、つつまうとしてもつつめるものではない。やはり、杏所に一つ物足らないものは、詩のないことだ。
詩のない點では、文晁はより以上である。畫題の如きでも、詩畫交響の面白さは、無視してゐる程缺けてゐる。もし、文晁に詩才があつたら、恐らくは、江戸文雅の精華は、ああまで、關西に奪はれてはゐなかつたらう。
山陽の書、竹田の畫が、不滅の光をもつてゐるのは、詩の基調が、畫を生み、書を爲さしめてゐるからである。竹田の畫に、もしあの詩がなかつたなら――又山陽の書にもし山陽の詩がなかつたら――今日僕らのもつ魅力は殆ど半減する。いや、知己の光榮を得ないかも知れない。
維新と女性
表面の歴史にはまるで出てゐないと云つていい位だが、幕末維新の底流には、女性の力も大きかつたのだ。もつと認めていいと思ふ。いはゆる内助、蔭の者として、女性が好んで外面へ出なかつたので、わづかに、奧村五百子とか、野村望東尼とか、祇園の侠妓とかいふ類の女性しか傳へられてゐないが、あの無數な犧牲となつた志士たちの、母性や愛人たちの苦衷は、實際、史上に殘された人以上のものだつたらうと想像される。
又、朝に生れて夕方に死ぬのを、日々の心がまへにしてゐた當時の青年たちにも、勿論戀愛はあつたが、女性のはうはさういふ場合、むしろ男性以上の氣の強さを持つてゐなければ、あの中で戀はできなかつたらう。木戸松菊と幾松の例でもさうだし、ほかの妓園の妓たちでも、單なる職業婦人ではない情熱を示してゐる。青年たちの背には、常に、さういふ社會の女性やまた、純情な愛人の眼があつたといふことだけでも、彼等の正義をどれ程強くさせたかわかるまい。さういふ巷でなくても、女性の眼は男性の力へ常に拍車をかけてゐる。
吏道夏木立
私の曾つて發表した短篇のうちに「鬼」といふ小説がある。
寛文年間、津輕藩に於ける藩政改革とその治水工事に當つた一武士の業蹟を扱つたものであるが、現代の吏道精神にてらして、又、民衆と爲政者との推移を見たり、行きづまつた農村治策などの上からも、何か示唆するものがありはしまいかと思つて書いてみたものだつた。
短篇の「鬼」は、云ふ迄もなく、脚色も加へてあるし、主人公の名も、わざと別名を用ひて書いた。なぜならば、その史料の主人公は、小やかな宮ながら、現在、神として祀られてゐる人だからである。又、その人の世に遺した業蹟と精神に對しても、脚色した小説に、本名を冒贖して、小説的興味の主役として躍らすことは、私の氣持ちとして、何となく古人にすまないやうに思はれたからである。
だが、茲では、その史實のみを、單的に記録しても、充分賢明な讀者の翫味を得られるにちがひないから、主人公の姓名は元より、總て、藩史の素材のままを抄出しておく。
青森縣北津輕郡は、面積約七十方里、現在二十三ヶ町村の沃土であるが、寛文延寶あたりから以前は、俗にその下流を十三潟といふとほり、縱横な河川と河原の荒蕪地で、一粒の米すらとれなかつたものであつた。
あの附近の地名を見ても、それが推知できる。御所河原だの、十川とがはだの、浪岡だの、そのほか地名に「川」のついた地方が無數である。
津輕藩は、表高僅か四萬六千石ぐらゐなもので、その上に、かういふ廣漠な荒れ地を擁してゐるので、藩政の苦境は、數代の君臣に亘つて、實に慘たるものだつた。
で、その打開策として、北津輕の開拓は幾度となく、多大な工費と人力を賭して試みられたが、津輕半島を圍む陸奧連山の雨水が落ちる季節になると、岩木川その他無數の河川は堤を切つて、そこはいつも一夜で泥海に歸してしまつた。
貧窮の藩中に、輕輩の士で武田源左衞門といふ者があつた。藩に乞うて、わづかな工事費を策し進んでその難事業の衝に當つた。
源左衛門は、土民の中に住み、土民と共に喰ひ、寛文から延寶に亘る十數年間、殆ど、寢食を忘れて、土木を督勵した。
だが、年毎に、洪水に襲はれ、農民の汗は、一夜で泥土に葬られた。農民は皆、彼を憎み彼を呪咀し、彼の身には常に、暗殺の危險すらあつた。
然し、源左衛門は屈しなかつた。自然に屈伏しないのみか、民衆に對して、更に酷烈に臨んだ。藩の吏をもつて任じる彼の手には、常に、怠惰な者を打つ鞭がにぎられてゐた。
彼は農民から「鬼」とよばれた。然し鬼は遂に北津輕の大自然を征服した。彼の大業がほぼ完成した翌年の初夏は、今までの荒蕪な河原は、青田のそよぐ豐饒な沃地と變つてゐた。
農民は、祭りをした。豐年祭りに躍り狂つてよろこび合つた。その一日、武田源左衛門は、多年苦役に服さしめた土民たちをこぞつて呼び迎へ、私財を拂つて、これに馳走を施した。
そして彼は、民衆の前に立ち、深く謝して云ふには、今日までの無慈悲は、今日の慈悲のためにほかならぬものである。これでおん身達は、子々孫々までの安住と食を得、わが藩主もいささかこの開田かいでんの新菜しんさいをもつて、窮せる臣下と藩政とを潤すことができるであらう。君への奉公は、又、民への奉仕である。兩者の間に立つて爲す、わが吏の道はここに遂げた。どうか、源左衛門が今日まで振舞つた鞭は、遺恨としてくるるな、ゆるしてくれ――と。
農民は皆、號泣して、小屋の一室へ引き籠つた彼のすがたを追つて行き、外から戸を打つて、各々、かへつて謝罪した。然し、源左衛門はすでに、見事に、自刄して死んでゐた。
今、北津輕岩木川村の丘の夏木立に圍まれてゐる貧しい一村社は、この武田源左衛門を祀つたのである。
吏たるの道、又難い哉と思ふ。
理性と情熱
英雄には二種類あると思ふ。破壞的な英雄と建設的な英雄とである。破壞的な英雄は末路が悲慘な割合に、その生涯は非常に華やかであるが、建設的な英雄は反對に非常に理性に富んでゐる。總て破壞後の合理化のために、人間までが面白くなく見えるのである。
頼朝と義經の二人が女性に對する場合でも、頼朝は政治上その他のことでも分るやうに、頗る理性家で、詰り情熱家ではない。政子との關係にしても非常にロマンチツクのやうだが、その實、戀愛の動機にもだいぶ北條氏との政策が絡んでゐる。しかも後になると、政子が頼朝を馭してゐるやうな形で、少しもそこにロマンチツクのところがない。
そこへ行くと義經はちがふ。前にいつたやうに義經はどこまでも破壞的だ。新らしいものを建てる前に、古いものを破壞して行くといふのが義經の仕事になつてゐる。この仕事は理性家では駄目だ。むしろ情熱家でなければ出來ない仕事だ。さういふ情熱はやはり戀愛にも現はれる。だから義經と靜との物語など多分に詩である。殊に義經の女性の相手が大勢なかつたことが、われわれによい感銘を與へる。
非茶人茶話
何かで人の寄つた後、酒の後とか茶話の後とかに、色紙が出される。短册にでも何かと求められる。
わけて此頃は、趣味のある者ない者のけじめなく、そんな風潮が流行りのやうでもある。旅館に泊つても、一飯をたべに行つても、甚だしいのは講演會の控へ室に押しかけて來てまでも。
こちらも句の一つも作らうといふ氣のある時なら知らず、迷惑は申すまでもない。然し又、實をいへば、旅先の忙しい中にも、案外、強ひられたが爲にまづい句の一つもできて、後ではなつかしいこともあるし、思ひやうに依つては、女給氏からハンケチにサインを乞はれるよりはまだましでもある。そんなつもりで私は、書ける暇があれば書く。
だが、この揮毫家は無料であるから勝手は云ふ。半紙などへは御免かうむる。墨汁もいやだ。手帖など出せば出す顏を見てやる。旅館の畫帖などにしても、その中に自分のいやな人が先に書いてゐれば、所詮、書く氣にはなれない。
五六名して屋島へ遊んだ時である。あそこには樂燒の竈かまどがあるので、高松市の觀光局だの、市の何だのといふ人たちが、私たちへ陶繪の具と素土の皿や銚子をたくさん持ちかけ、何でも書けといふので書き出すと、妓たちまでが樂燒屋から生地を買つて來て、後から後からと求めるままに、半日そこで樂燒屋になつてしまつたことがある。
氣らくに何でも、乞はれるままよく書いてやる人は久米正雄氏、ぶつぶつ云ひながらも嫌と云へない人が菊池寛氏、書いてくれるんだかくれないのだか分らない間に書いてゐるのが横光利一氏、頼まれると欣しがつて、頼まれた以上丹念をこめて、目高だの、松の木だの一所懸命に書くのが村松梢風氏、きつと書かないで逃げてしまふのが大佛次郎氏――限りがないからもう止めるが、みんなその點も一風ある。
潔癖に書かない人もある。いやしくもしない氣持である、たとへば死んだ泉鏡花氏のやうに。
書かない人の心理をいへば、恥、それを思ふのであらう。文人として當然な潔癖である。まして色紙短册などにあらぬいたづら事が殘されるのは、死後までの笑ひ草をのこすに過ぎない。活字のうへの生き恥だけでもたくさんなのに、何を好んでぞやとも云へる。
けれど私は、かういふ見解を持つ。
何もさう心配することはいらないと思ふ。求めるのは一時の風潮や流行が求めるので、之を百世に保存するはずもなし、市塵の流れに任せてゆくのである。衆の眼と、永い時間は、その無數な反古を選擇してゆく。價値のない物はいつか捨て去る。そして、價値のある物だけが殘る。
價値のある程の物なら殘されてもよからうが、僕等の惡筆がさう殘されてゆくはずもない。さすれば、いつかきれいに時が掃除してくれようではないか――と私はしてゐる。
たとへば、鎌倉だの足利だのと、さう遠く遡らなくても、桃山以後の禪門その他の墨跡や繪畫にしても、どれほど今日に遺つてゐよう。春屋のゐた當時、春屋以上の坊主顏した坊主は雲霞の如くゐたにちがひない。澤庵の當時、澤庵何者ぞと睥睨してゐた禪骨はたくさんあつた。筍はみな竹になるが、墨跡はみな後世の鑑賞とはならない。
光悦、宗達の藝術の世界でも同じである。四條派の發祥する時代、應擧、呉春なみの畫家を以て自ら任じた者はどれほどあつたか知れない。元信、探幽は選して、御用狩野の輩の幾人を今に遺してゐるだらう。いはんやその末の末に至つては。
反對な場合もある。いやその方がむしろ多いだらう。たとへば、生前には一紙を求める人すらなかつたほど、無價値に見られてゐた田能村竹田を、いかにとはいへ、あの通りに勿體ながる。その詩、その畫心を、眞に味得するの知己はまだ尠いかも知れぬが、ともあれ雙軒庵の目録やら、百年祭やら、驚目に値するほど認め直す。
明治初年版の俳人番附なるものを見ると、小林一茶などの名は、隅つこの方に小さく出てゐて、虫眼鏡で探さなければ見出されないやうな所へ置かれてゐる。當時の横綱格といへば、雪中庵某、夜雪庵誰、およそ今日、その名を知る人もなく、その色紙など、屑屋も買ふまい。
そして一茶の筆といへば、幾多の僞筆家を養ひ、その日記は、著述家の半生を奪ひ、その句は、英譯され獨逸語にも譯されてゐる。
かう觀じてくれば、僕らのすさびことなど、後世の恥を思ふなどが、すでに僣上な自己評價に過ぎない。求めらるるままに書いた所で、その場所その數も大した程ではないし、又、春塵去つて秋水に見ずである。
ただ困るのは、難題をいふ人である。畫を描いて欲しいなどといふのだ。稀にではあるが、斷れない人などが殊にさういふ無理を云ふ。
それにも私は易々として描いてやる。もちろん國民學校の兒童にも劣るまづさであることは云ふ迄もない。然しとにかく畫は畫であるから、ねだつた人も一應は首をかしげて、頗るあいまいな讃辭を云つて引きさがる。
友達がよく云ふ。君は大膽だなあ。犬養毅は生前、あなたの書には實に蒼古な趣がありますが、いつたい宋元のうちの何に據つてお書きになりますので、と訊ねた人間に對して、おれは面の皮で書くよ、と答へたといふ話があるが、吉川君の畫は、犬養毅以上の面の皮で描くんぢやないか――などと云つてよく私をからかふ。
さう私は不敵ではない。けれどすでに、色紙とか短册とかいふ形のものを、一時の戯れにせよ、興をもつて書くからには、前に云つたやうな見解と共に、畫に對しても、わたくしだけの考へはもつてゐる。
元々、畫を描くといふ性能は、人間の誰でもが生れた時から持つてゐるものだといふ事である。原始人すら畫を描いてゐるのではないか。文字の方がむしろ後天的で知性である。畫は先天的に人間の官能にあるもので本能に近い。
色紙といふ一つのいかめしい傳統的な形式――それを出されて、ひとつ畫を、と求められると、その形に恐れたり囚はれたりして、多少描ける手を持つてゐる人でも、まづ尻込みする、遠慮する、逃げまどふ。
それは私にしても一應はよくやることであるが、考へてみると、さうした大人びた知性など、要らざるものだし、又自分にあるはずな折角の美の性能を、いよいよ盲目にしてしまふものだとも考へる。
自分には畫が描けないものと、自分へ思ひこませてしまつたのは、誰でもない自身の智惠である。畫人の畫だの、生半可な美術を見る眼だのを持つたために、それに對して、その道の技法を知らない自分を、さう智能の中で、いつのまにか諦めをつけさせてしまつてゐる。
又、人前の恥だの、笑はれまいとする心理だの、複雜な氣まはしも手傳つて、固辭することを當然にし、少しぐらゐ描けたとしても、再三再四、強ひられても猶、固くなる。
ここに今ふと語録のことばや詩語を思ひ出せないが、わたしは田能村竹田が、その知性の邪氣に氣づいて、深く素白な稚拙に返らうと、生涯苦しんで畫のうまくなるのを嫌つたあの氣持が思ひ出される。
竹田は題語や詩の中で、いつも呟いてゐた。畫が上手くならうなどとは思つたこともないと。そして自分の痴、稚、拙、鈍、さういふ生れながらの有の儘を、ただかざり氣なく出せたらいかにそれで自分は欣しいかと。
だから自分の畫は自分が見ても實にまづい。けれどそれは、人に賣り人に娯しませるための畫として作るのではなく、自己が娯しみ、自分のために作るにすぎないものであるから、これでいいのだ――と。
竹田は自分ほど才のない不器用者はないとしてゐる。彼が怖れたのは、その不才と不器用を、淺い小智惠でつつんで、上手らしく飾らうとする人間の誰にでもある――竹田自身にもある――その賢しげな虚飾であつた。
で彼は、性來の稚拙や鈍才を、そつと幼いままに抱擁しようとした。それが竹田の畫であつた、詩であつた、又生涯であつた。
竹田をひきあひに出したのは少し大それてゐるが、私とても思ふのである、もつと素白な氣持にならなければいけないのだと。まして戯れにひとしい素人描きなど、下手なのが當然であり、その下手をうまさうに見せる必要など更にないし、折角、乞ふ人がせめてそれでも氣がすむならば、筆と手と氣のうごくまま、私の畫はこんなですといふ程度に描いてあげてもいいではないか。
竹田にさへ畫が描けたのに、私にだつて畫が描けないわけはない。わたくしはさう思ふのである。
茶はやりませんと云つて、茶など知らないことをかへつて、近代人かのやうに云ひ誇る者もある。
折にふれて、思ひがけない抹茶に會ひ、又、茶を好む人からふと招ぜられたりすると、ひどく窮屈がつたり、固辭に苦しむ人もよく見かける。
さういふ人の氣持はちやうど、自分には畫が描けないと決めこんでゐる一般的な觀念と同じものだと思ふ。白い四角な色紙へ、その傳統と形におそれて、畫筆が落せないやうに、茶席の傳統と形に、敬遠を持つのであらう。
わたくしも茶碗の持ちやう一つ知らない野人ではあるが、茶の歴史や大風流の生涯に徹した先人の心をひそかに窺つてみると、さういふ氣がねや、はにかみなどして窮屈がる小智は要らないことだと思ふ。道法の深遠や約束の作法の意義には、充分な尊敬も持ち必要も感じるが、もつと風流精神に大事なものは、有の儘なことではあるまいか。小智や窮屈を脱ぐことではあるまいか。虚飾から離れて素心になることではあるまいか。さう信じてゐるので私は、多忙のため今猶、茶の約束や道法は知らないが、茶を窮屈なもののやうに思ふ人みしりは少しも覺えない。むしろもし徒然の折に一服のすすめにでも會へば、その好意を迷惑に思ふどころではない。茶に達した人と、茶を知らない者との一席も、ひろく觀じればやはりこの世の一期一會にちがひないのである。知らないものは仕方がないから知らない儘に、ただ素直に常識だけで先の心をいただけばいいと思つてゐる。たとへそこに名工の釜、名匠の茶席がいかめしく構へられてあつても、ただ有體に、馳走になるぶんには差支へないと思ふ。もちろん、色紙の中に致す私の素人畫と同じ筆法にそれも起ち居するほかないが、雅を亂さぬ程な動作は、ふつうの生活常識で間に合せる。さういふ氣易さなら誰でも親しめよう。親しんでからの深さは分つてくるのである。此頃はやや一般にもそれが解りかけて來たらしいが、まだまだ、茶と實社會との通念は、ほんとに結ばれてゐるとは云へない。そのくせ私たちの日常坐臥、家庭の中の器物建築、茶にかかはりなく、茶の影響のない物はない程深く、生活の構成には入つてゐながら、生活の心には沁み入つてゐないのは、いつたい何故であらう。
思ふに、そこに將來の新しい茶道が、東山、醍醐以後の、次の一時代を大きく劃さうとして、道法の曙光と、大きな茶人の出現を待つてゐるのではあるまいか。
京都や大阪には、もつとあるかも知れないが、東京では、街頭でちよつと抹茶を飮ませる家は、銀座の宇治園の二階しかないやうである。
卓で用談を交しながら、脚を組んだり、帽子のまま、外套も著て、雜多な街頭人が、黒燒の茶碗で不器つちよに茶を飮んでゐる。
あれもなかなかいいと思ふ。さういふところから、ふと、茶の味、未知の味に、氣がついて來て眼をひらくものである。
飮まず嫌ひといふのが大部分である。茶はきらひだといふ人に訊いてみると、殆どは、嫌ひではなく飮んだことがないのだつた。
わたくしの父なども、終生、朝暮、茶がなくては居られない愛茶家であつたが、それは煎茶のみで、抹茶の味は、やはり飮まず嫌ひの一人だつた。
どんな形式でもいいから、まづ茶と生活との機縁をとりもつことが、茶道にある人々のつとめではないかと思ふ。いはゆる佛法の佛縁である。色つぽくいふならば、ふとした縁のはづみからであつて欲しい。
理くつ、形、やかましい道行は、それからでいい。やかましくいはないでも、味を知れば、自ら求めるやうになるものである。
一碗の茶をのむのに、茶碗を押しいただいて飮むなどといふ約束は、わづらはしい。作法のための作法にすぎない。――さう私なども始めは思つたし、殊に、人前などであると、よけいに嫌だつたが、これも茶に教へられて、近頃はいやさうでないと思ふやうになつて來た。
茶を押しいただくことは、畢竟、茶をのむ前に、茶と一味にならうとする心の用意である。沁々と茶を舌へ流すには、ぜひ一應、さうして雜念を拂ふ必要がある。烈しい生活意識の中にある社會人ほど、その必要がある。
茶碗に禮をして掌から唇へ移してゆくあひだに、心じたくができるのである。沁々と、舌を通る茶のうまさが味得される。
いきなり、日常の煎茶や番茶を喫むやうに喫むのと、そこに大きな「味の差」が當然にわかつて來た。
で、私は近頃、茶に禮儀をしてのむことが、不自然なことでなく思はれて來た。うまくのむためには、どうしても、心から茶碗を押しいただいてのまなければ、のめないと考へられて來た。
ところが、多年茶道にある人ののむのを眺めてゐると、茶碗を押しいただくのも、餘りに洗練され技巧化され、そこに「心から」といふ眞實さが見られなくなつてゐる。あれでは、いきなり引つ掴んでのんでゐるのと、何の變りもない。
東京あたりでも、もつと街頭で、氣輕に茶ののめる家があつていいと思ふ。宇治園の二階も、靴先の引つかかるやうな冷たいリノリウムにニス塗の卓しか出してないが、もう少し親切に落著きを考へてくれたら猶いいだらう。やり方に依つては、街の賣茶は、きつと或る程度成功するだらうと思はれる。
閑を愛して、柴戸の露地に、清友を持つのもよからうが、ひとつ、醍醐の花見に假裝して路傍の茶賣りになつたつもりで、街の中に素知らぬ顏をしながら、未知の衆に茶の味を傳へるやうな大茶人が、茶人の中にひとりぐらゐ居ないものか。
花柳壽美氏はやはり名人だと思つた。何かの時、茶の話が出て、わたしの茶は踊りを磨くためにはじめたのですと云ふのである。自分の踊りを反省してみると、全姿に心が行き亙つてゐる[#「行き亙つてゐる」は底本では「行き互つてゐる」]つもりでも、まだ指の先まで踊りが行き亙つてゐない[#「行き亙つてゐない」は底本では「行き互つてゐない」]ことに氣がついて――それを修練するには、茶にこしたものはないと考へて、茶を習ひ出したといふのであつた。
さう云はれて、茶のてまへを見てゐると、成程茶をたてる姿態――殊に指さきのはたらきは、微妙な魅力をもつて動く。壽美氏がそれへ氣づいて、猶も自己のものに取入れようとする心懸は、やはり名人のつよい求道心と云つてよい。
踊りの美は「動」の美であり、茶の美は「靜」の姿態美である。ひとりの女性が茶のてまへをする間に、その女性の姿態や性格は、あらゆる角度から茶に見えてしまふものである。踊りでも音樂でも圍碁でもさうだが、茶ほど隱されないものはない。
光悦と母の妙秀尼が、枯野見のむしろに、通りあはせた武藏が、一碗の馳走になるくだりを作中に書いたので、よく人から、宮本武藏も茶をやつたらうかと問はれるが、勿論、武藏も茶道には達してゐたらうと思はれる。その道も、名人であつたと斷言してもよい。
彼の手づくりの茶碗とか、茶杓とかは[#「茶杓とかは」は底本では「茶酌とかは」]殘つてゐないし、茶書にも彼の名は見當らないが、晩年の武藏が、畫に彫刻に、禪に茶道に、閑日を娯んでゐたことは、細川藩の幾多の記録にも見えてゐる。
劍と禪とは、殆ど一體である。又、禪と茶とも一味である。殊に、彼の遺作の畫風を見ると、松花堂風の茶味が横溢してゐる。それに、身を託した細川藩が、幽齋、三齋とつづいて、茶道や文雅の家であるから、家中一般にもその風があつたらう。
從來、武藏の畫は、雲谷派とか、狩野風とか、いろいろに臆測されてゐたが、私の考へでは、當時の武者修業者の宿泊は、多く寺院に選ばれてゐたし、その寺院には多數の名畫が藏されてゐたから、さういふ物に接する間に、自然、感得して、誰に師事するともなく――彼自身の劍道のやうに、會得から得た自己流であらうと思ふ。
海北友松に習つたと、畫人傳には記載してあるが、つぶさに友松の畫風をみると、さうとも頷けきれないものがある。たとへば彼の布袋※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、232-6]とか、鬪鷄※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、232-6]であるとか、などを見ると、むしろ松花堂風に近い。
光悦との交りばかりでなく、松花堂と彼の交渉も、いろいろな點から考へられるのであるが、それは彼が浮浪の間であつたためか、確とした史證に乏しいことが遺憾である。
武藏の畫については、これ迄にもいろいろ檢討されてゐるし、畫人傳にもつぶさであるが、武藏の書に關しては、少しも研究されてゐない。むしろ、この方が、畫以上に、武藏の性格や人となりを知るには、適切な氣がするので、私は今、彼の書の方にむしろ興味を持つてゐる。
中年期から晩年期にかけても、武藏の書はいちじるしく變つて來てゐる。大體、その書系を分けてみると、やはり最初は、支那の古帖などを基本としてゐることが分る。もつとも初期のものは、宋元あたりから、大師流あたりを加味してゐる。そして、中年期には、松花堂の影響が見られ、晩年の書には、近衞三藐院の書風が、著しく、彼の書風の中に指摘できる。
たとへば、三藐院の獨特な平べつたい假名の「の」の字のごとき、偶然な暗合でないことが、双方の文字を照合してみると實によく分るのである。
民間の者が、近衞家から書を得て、手本にするなどといふことは、武藏の時代では、たやすいことではない。それなのに、どうして、近衞三藐院の書にそれほど影響をうける機縁があつたらうか。
この難問は雜作なく解ける。それは武藏の身を寄せた細川家が、幽齋三齊以來、近衞家とは昵懇な[#「昵懇な」は底本では「眤懇な」]間がらである。從つて、細川家には三藐院の筆蹟は充分あつたにちがひない。武藏は客として、親しくそれらの墨蹟を見ることが多かつたのである。
又、松花堂との交友がもしあつたとすれば、松花堂と三藐院とは、殆ど親戚といつてもよい間がらなので、直接、武藏が近衞家に出入りしたといふやうなことも、考へられないではない。
松花堂は、當時から、關白秀次のおとし胤だなどと噂された人だが、ひどく身裝などもかまはない人らしく、瀧之本坊の草庵から、近衞家へ遊びに行くにも、汚ない草履ばきでひよこひよこ出かけるので、近衞家の家從がそつと、これからお館へお越しの時は、どうか羽織だけは召て來てくださるやうにと頼んでゐることが、何かの記録に見えた。
松花堂は今まであまり研究されてゐない。此頃、知恩院の定慶さん(今は京大※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、234-5]書館にゐる井川氏)が、近衞家の古文書の整理をたのまれてせつせと調べてゐるうちに、まだ世に出ない松花堂の手紙が、ざつと、五百通もあるさうである。これからもつと調べて行つたら、まだ二百通や三百通は出て來るでせうと云つてゐた。
その大部分が、松花堂から近衞家へ宛てた手紙であるから、いかに松花堂と近衞家とが、密接であつたかが分る。
松花堂といへば、今年はたしか、松花堂の三百年忌に[#「三百年忌に」は底本では「三百年期に」]なるのではないか。よく調べてみないがそんな氣がする。
從來、茶のはうでも、松花堂は親しまれて來た人であるし、光悦や吉野太夫あたりは、いくたびも顯揚されてゐるのに、まだ松花堂供養はいつぺんも聞いてゐない。ひとつ井川さんあたりが骨を折つて、松花堂忌か遺墨展覽會でもやつてはどうか。
いつか星ヶ岡の中村君と、茶室めぐりをした時、眞珠庵だつたか孤蓬庵だつたかわすれたが、閉めきつた濕つぽくなつてゐる小襖に、松花堂のあざやかな小品が畫いてあつたのを見て、暫く、足の冷える迄、恍惚と立ちすくんでしまつたことがある。
人物も、當時の誰よりも劣らないし、藝術家としても、もつと松花堂は認められてもいいと思ふ。わけても、まんざら無縁でもない茶道の方で、ひとつ、今年は彼の何百年にあたるか、歿年ぐらゐは調べて、一ぷくの茶を獻じて欲しい。
武藏の歩いた「道」とその「時流」
近世人・武藏
三百年前の社會に、孤衣孤劍の生涯を、漂泊のうちに終つた彼といへば、非常に遠いむかしの人を語るやうな感じもするが、法隆寺の塔は、解體改築されて後も、なほ千載の嚴存を約束されてゐるし、紫式部の源氏が今日も愛誦されて、なほ文化の底流に若い生命を息づいてゐることなど思へば、宮本武藏などは、つい近世の人だつたと見て決して不當ではない。
殊に、彼が生長し、又、志望して生き通した天正、慶長、元和、寛永、正保の長い期間は、戰國の動亂と苦境をのりこえて、若い文化日本の近世的な基礎をすゑた黎明期であつて、新興日本の誕生と共に誕生した彼は、やはり時代の孕んだ子のひとりであつたことに間違ひはない。その點でも、武藏は、近世人の圈内に置かれるべき人だし、思考してゆくにも、萬葉の歌人うたびとや、記紀の史上の人々の血を汲みとるよりも、われわれには遙かに身近いここちがするのである。
だが一應、彼をはつきり觀るには、その少年期と、中年期と、晩年との三つぐらゐに分けて、時代の社會相を考へておかねば眞を掴みにくいと思はれる。その時代も亦、われわれの豫備知識にかなり持つてゐる年代であるから、分りよい事も分りよいし、分つてる人には一口ですむ事だが、順序として一通り云つてみる。
中國・小牧役前後
中國山脈の山間の一城下に、彼が呱々の聲をあげた年は、天正十二年の三月だつたといはれてゐる。(一説に十年説や異説もあるが二天記に從つておく)
武藏の生れたつい二年前は、秀吉の中國攻略が行はれた年だつた。武藏の郷土、作州吉野郷の竹山城下は、浮田家の所屬であつたから、秀吉の織田軍に合體して、有名な「高松の水攻」などには、その背道の嶮や糧道の遮斷に當てられたらうが、この地方は豪族赤松の分流やら、その他の土豪の支族が小勢力にわかれてゐて、各々が毛利方に加擔するもあれば、織田の統制に合流するのもあつたりして、中央の動流と共に、いつも小合戰の絶え間なかつた地方であつた。
わけて秀吉の中國征下は、大規模な大軍をうごかして、中國一帶を、一時戰時色に染めた役であつたから、およそ戰爭といふものの實感は、この地方の郷土には、農民の端にまで、よく分つてゐたに違ひなかつた。
老人は老人で、それ以前も絶え間のなかつた――三好、細川、赤松、尼子氏などの治亂興亡の戰語いくさがたりを、爐ばたに寄れば、見たこと聞いたこと、幼い者に聞かせた事であらうし、若い者は、すぐ眼近にあつた、高松城の水攻めの陣だの、その年の本能寺の變だの、すぐ翌年の小牧の大會戰だの、さうした話題に、明け暮れ送つてゐたらうと思はれる。
その小牧の合戰があつた年に、武藏は一歳だつた。
そして彼が、十七歳で臨んだといふ關ヶ原の役までは、實に社會は、秀吉の創造した、秀吉文化に彩られた時代だつた。
「……いかが成行やらん」世
小牧の合戰から關ヶ原までの十七年間。――武藏の一歳から十七歳までの間の――彼の郷土である山間の人心は、どんなだつたらうかと考へるに、その平和中、多少の泰平は謳はれたらうが、なかなか中央に於ける醍醐の茶會とか、桃山文化の、あの爛漫な盛時や豪華ぶりは、夢想もできないものだつたらうと思はれる。
現に小牧の合戰の時でも、
天下動亂の色顯はる。いかが成行べき哉らん。細ぼそきものなり[#「細ぼそきものなり」はママ]。神慮にまかせて、明暮あけくれするまで也。無端事はしなきこと。無端事。
「多聞院日記」の筆者は、その天正十二年三月二十二日の頃で、さう日記に誌つけてゐるのである。中央の知識人でさへ「――いかが成行べき哉らん」と觀たほどの脅えを抱いたのであるから、地方民の心には、もつと恟々としたものがあつたであらう。
小牧の合戰とはいふが、事實は秀吉と家康との二大勢力の衝突で、極く偏境な九州の一部と東奧の一地方をのぞいた以外の土地は、すべて動員された戰爭だつたから、武藏の郷土美作地方にも、當然戰波は起つてゐたし、そして「多聞院日記」の筆者同樣、「……いかが成行やらん」と暗澹としてゐた世間の顏の中に、彼は呱々をあげてゐたのである。
秀吉でさへ、北陸の丹羽長秀へ出した指令の文の一節には、
――此表、十四五之内に者は、世上之物狂ものぐるひも、酒醉之醒たるごとくに(後略)
と見えたりしてゐる。その後には「筑前覺悟を以てしづめ申す可」といふ文字なども見える。いかに戰士自身も緊張してゐたか、日本中の大動亂と前途の暗黒を意識してゐたかが分る。
けれど事實は、後世になつてみると、それから關ヶ原の役までが、すでに戰國日本の奔波は絶頂をこえてゐたのであつた。人心は暗かつたが、大地は平和を芽ざしかけてゐた。
それが、武藏の生れた頃から青年期への時代であつた。
時勢一轉
關ヶ原の役の結果は、「……いかが成行やらん」としてゐた人心に、明白な方向を示した。長期の風雲時代は、もう終熄して來たのである。
二つの勢力が一つに統一されかかり、同時に時代の分水嶺から、不遇に去る者と、得意な機運に乘つて出る者とが二分された。
武藏は弱冠十七歳で、關ヶ原の戰塵の裡へ身を投じてゐる。どういふ隊で、どういふ資格で、と云ふやうな所屬は明白でないが、彼の父祖以來の郷土的な關係から推して、浮田中納言の一部隊につき、輕輩な一兵士として出陣したに過ぎないことは想像に難くない。
それから戰後の行動は審かでない。竹山城の新免家の家士としてだとすると――新免家の落武者は九州へ落ちのびたり、黒田家に頼つたり、其他の地方へも分散したらしいが、徳川家の勢力地方は避けて潜んだに違ひあるまい。
けれどそれは名のある重臣の事で、十七歳の一輕輩なら、どうにでも方針はつく。詮議もそこまでは屆くまい。武藏などは、さういふ點で身の處置は困難でなかつたらうと考へられる。
その證據には、數年後に、京都一乘寺村の下さがり松で、吉岡憲法の一門と試合をしてゐる。その時二十一歳だといはれてゐるから、約四年の後である。
どういふ素質があつたか、どういふ修業をしたか、この間はよほど考究してみる必要がある。
一乘寺村の試合などは、あの名だたる名家の劍と一門の多勢たぜいに對して、一個の武藏が、ただよくそれを克服したとか、強かつたとかいふのみでなく、精神的に觀ても、すでに或る高い境地にまで到達してゐた跡が見える。
巖流島で佐々木小次郎を打つたのが二十九歳だつた。それから三年後、元和元年の大坂陣の折には、西軍について實戰もしてゐる。
それ以後又、杳として、彼の足跡はあまり分つてゐない。分つてゐない間は、樹下石上の武者生活をしてゐたものと觀るしかないのである。唯、その間に飛石のやうにぼつぼつと地方的な逸話だとか、他の武人と試合つた話とかが、稀々遺されてゐるに過ぎない。
彼の全貌が、やがて大成された相すがたを以て、はつきりと再び吾人の眼に浮び出して來るのは、何といつても、晩年熊本に定住してからの武藏である。五十七歳以後、六十二歳で示寂するまでの彼である。もつともその前にも、五十五歳で養子の伊織を具して、小笠原忠眞の軍監として島原の亂に出征してゐたり、二三明白な事蹟もあるけれど、その言行までは詳しく遺つてゐないのである。
見るが如き彼の風采や、聽くが如き彼の言葉は、およそ熊本に落ち着いてから後の武藏のものであつて、それを通して彼の青年期や少年時代を推知する便宜も少くはないが、餘りに晩年の彼をもつて、生涯の彼を律してしまふ事も、過りが多いのではないかと考へられる。
年表とその空欄
以上、武藏の生きてゐた時代を、その年齡に應じて、四期に分けてみるならば、
天正十二年から、慶長五年の關ヶ原の役までを――(彼の少年期に)
慶長五年から、元和元年の大坂陣までを――(彼の青年期に)
大坂落城の元和元年から、五十一歳小倉の小笠原家に逗留までの間を――(彼の壯年期に)
それから後、六十二歳の最期までの間が、彼の晩年期として考へられるのである。
そこで第一期の少年時代の世状と、彼の郷土に於ける逸話や、關ヶ原へ出たことなど思ひ合せてみると、大體、その心持や當時の四圍の事状も[#「事状も」はママ]頷づけてくるし、殊に關ヶ原以後の彼が、その戰爭の結果に依つてどんな示唆を受けたか、そして何うして「劍」へ突き進んで行つたかも、薄々ながら分る氣がするのである。
まづ、思想的にも、彼は大きな教訓を、時勢の事實から與へられたらう。それから片田舍の眼界を、急激に、中央の趨勢から世上へみひらいたことであらう。
彼の素質が、關ヶ原を契機として、一轉したことは疑ふべくもない。
それから第二期の――大坂落城と世間の趨勢を見ては、愈々、彼自身の向ふ道も、胸底に決してゐたに違ひない。それは名利の外表に浮び出ようとするよりも、更に潜心的になつて「道」への究明に沒して行つたことが窺はれる。年表によつて考へてみても、それ以後五十年近くなるまでの彼の足跡は、青年期よりも更に不明瞭にぼかされてゐるからだ。――道から道へ、道から道へ、たとへば、西行の旅にも似て、芭蕉のさすらひにも似て、それとは、求めるものも意志も行も、形ではまつたく違ふが、遍歴に暮してゐたものと思はれる。
すでに二十一歳の折に、又二十九歳の青年時代に、一乘寺村だの巖流島で、あれほどに、しかも京都や九州の中央の地から、武藏の名は、相當に當時でも喧傳されてゐた筈である。――さうした時代の寵兒が、餘りにも今日、遺されてゐる事蹟の少ない點から見ても、彼の旅は、又その修業は、極めて地味な、――雲水的な、孤高獨歩の境を好んで歩いたものであらう。
「道」の人・武藏
彼の目がけた「道」への究明と、それに伴ふ「人間完成」の鍛錬の爲には、どうしても成らざるを得なかつたに違ひない。たとへば、武藏が生涯、妻を娶らなかつたといふ問題などでも、よく「なぜ?」といふ話題を生ずるが、それは身を賭して一道に潜心することが、いかに血みどろな苦鬪精進を要するかを知る人には、すぐ解ることだと思ふ。なぜ芭蕉は妻を持たなかつたか、西行は妻を捨てたかとか、人は不思議にしないが、武藏の場合には、よくそれが不思議がられるのである。然し、「道」のみでなく「劍」そのものには、いつも生死の覺悟がいる。宗教的求道者の多くが、又、旅の空に生涯する者の多くが妻を持たない以上に、武藏が妻を娶らなかつた事は、不思議ではないし、無理もないのである。
彼が細川忠和から宅地をもらつて、安住の日を得た時は、もう五十七歳だつた。
妻を娶る間も、何を顧る間もなかつたのである。それでもまだ究める「道」に對しては、これでいいと安んじないで、六十をこえた後まで、熊本市外の靈巖洞へ通つて座禪をしたり、燈下に著述をしたり、苦念したりしてゐたのだつた。實に、生きるに飽くを知らない人だつた。
慘心の人か・幸福人か
彼の一生涯のうちに、世の中は、前にいつたやうな急轉變を告げた。暗黒な戰國末期から、その次への過渡期を越え、江戸文化の初期にまで亘つてゐる。この波の中に、彼は決して、處世には上手な人であつたやうに思れない。いやむしろその轉機の大波のたびに、不遇な目に遭つたやうである。おそらく二十歳未滿に抱いた志であらうが、唯、その間にも目がける「道」だけは離れなかつた。
急變してゆく世相の中に立つても、彼の志操は變らなかつたが、境遇はそれに順應して行つた。彼は處世下手でも、決して逆劍を使ふ人でなかつた。獨行道どくぎやうどうの冒頭に、「世々の道に反かず」と書いてゐるのを見ても窺はれる。彼の孤獨と不遇を、生涯、彼に持ち續けさせたものは、やはり「道」の爲だつた。求道すぢへの犧牲だつた。彼自身は、それに就いて、みぢんでも悔いたやうな痕はない。だから今日の僕らが、彼の生涯とその姿の一面を、「慘心の人」とは觀るものの、武藏自身は滿足して、いつぱいな志望と愉悦を持ちきつて、終つたらうとも考へられるのである。他の漂泊さすらひ歌人や、涙痕の行脚者を想ふほどな傷みがない。そして、それらの歌人や俳人の遍歴は、人を避けて自然へ行つてゐるのであるが、武藏のは行雲流水の裡に身をおいても、いつもその視界は人間の中にあつた。人間が常に解決しようとして解決できない生死の問題に、その焦點があつた。その究明の目的として、形に取つてゐるものが、即ち彼の「劍」なのである。
彼の短所と「獨行道」のことば
それにしても、彼の「劍」の哲理の深さだの、晩年の高潔な隱操生活などから推して、武藏が弱冠からすでに大成した、聖者めかした人間とは、私も考へてゐない。
むしろ人なみすぐれた體力と意力の持主であつた事から考へて、缺點や短所も多分にあつたと觀たはうが本當だらう。得て一道に沒入したひたむきな人間は、社交的には、人あたりのごつい、我を曲げない、妥協しない、曲解され易い性情のあるものである。江戸幕府の一員と成らうとして成れず、尾張の徳川家に仕官のはなしがあつて又成らず、其の他の藩にも據つて志を展べようとしたがそれも果さず、五十七歳で初めて細川忠和の知遇を得たなどといふのも、どこか世と折合はない性格の一證ではあるまいか。
その他にも、隨所隨時に、武藏の言行や逸話などを檢討してゆくと、かなり肌に粟を生じさせるやうなふしもあるし、もし現代のわれわれの中に住んだとしたら、ずゐぶん交際ひ難にくい人だらうと思はれる點もあるが、それは時代の道徳や社會性格などをも、よく考慮してみなければ、一概に彼の短所とも云ひきれない事かと思ふ。
それと又、武藏が、天正十二年の頃に生れたといふことが抑々、すでに彼の素質に不遇を約束されてゐたやうな氣もするのである。なぜならば、時流の大勢はもう赴ゆくべき方向を決してゐたからである。槍一すぢで一國一城を克ち獲とる時代は、秀吉の出現と、その幕下の風雲兒たちを最後として、小牧、關ヶ原以後に於いては、もうさういふ野の逸駿は求められなくなつてゐたし、又躍り出る機會も稀れになつてゐた。
だが眼まのあたりに、秀吉やらそれを繞る無數の風雲兒の成功を見てゐた時代の青少年たちは、多分に自分も英雄たらんとする熱意と夢に囚はれてゐたらうと思はれる。そしてもう武力よりは文化的知性を、破壞よりは建設を――より多く求めつつ推移してゐた時代の境を誤認して、いつまでも室町期以後の戰亂と機會ばかり窺つて、遂に過つた者がどれ程あつた事かと想像されるのである。
それは寛永や慶安の頃になつてもまだ、夢から覺めない無數の浪人があつた程だから、大坂陣、關ヶ原役前の時人に、時流が見えなかつたことは、むりもないのだつた。武藏なども、その弱冠の多血多恨な年頃には、やはり時流の誤認者のひとりだつたかも知れないのである。そして時には時流に逆行し、時代に抛り捨てられ、苦悶や滅史の底をずゐぶんと、彷徨つたことだらうとも考へられる。
然し、それに訓へられて、彼の奉じる「劍」は亂世の劍から、平和の劍へ推移して行つた。亂脈な武力の器具に、神嚴な「道」を與へた。破壞や殺戮の劍から、修身の道と心的な道味を酌んで行つた。
反省の彼と「獨行道」の言葉
彼以前にも、上泉信綱があるし、塚原土佐守があるし、柳生宗巖があつて、すでに劍技は禪、茶、儒學、兵、治、武士訓などの日常のあらゆる生活のものを砥とにして「道」として確立しかけてはゐたが、以上の三者は皆それぞれ一國一城の主や、豪族であつて、身をもつて世路の危難や艱苦の中を、行雲流水する位置の人々ではなかつた。
武藏はその點で、道風の興立と達成に、選ばれて生れ出た使徒であるといつていい。彼の生ひ立や境遇からして、約束づけられたもののやうに、自然に實踐を重ねて行つた。
武藏以前の、上泉、塚原、柳生の三聖は基本的な理論の發見者であり、武藏は後輩ではあつたが、身をもつて實踐した「道の行者」であつた。
幼少からの不遇や、時勢誤認の失意や、次々の苦惱のうちから、武藏自身も亦、自己の行くべき目標をその一路に見出して、初めて「行」から「信」を得て行つたものであらう。それがかへつて不遇な彼を、より偉大なものにして行つた。又、それへ攀ぢつくべく、自分の短所を壁書にして自誡獨行道としたり、座右の銘としたりして、不斷に自分の慾望や缺點を誡めてゐた。反省力の強いといふこと、それは武藏の性格中に見られる著しい長所の一つだと私は思ふ。
有名な彼の遺文「獨行道」の句々は、今日でも、愛誦されたり、青年間の教材になつたりしてゐるが、その題名が明示してゐるとほり、あれは武藏が人に訓へるために誌したものではなく、彼が自己の短所の鏡として、自分のために書いた座右の誡であるところに、獨行道二十一章の眞價はあるのである。
だからあれをよく觀て武藏の心胸を汲んでみると、武藏自身が認めてゐた短所と性格の一面が歴然と分つてくるのである。たとへば、
我れ事に於いて後悔せず
と、書いてゐるのは、彼がいかに嘗つては悔い、又悔いては日々悔を重ねて來たかを語の裏に語つてゐるし、又、
れんぼの道、思ひよる心なし
と自ら書いてゐるのは、彼自身が自身の心へ云ひ聞かせてゐる言葉であつて、その情血のうちには常に手綱を離せない煩惱の駒やら、れんぼの愚痴やら迷ひやらが、いかに複雜に潜んでゐたかが、讀みとれるではあるまいか。
もし表面の文字どほりに、自身に何の不安も認めないし、枯木寒巖の高僧のやうな心境であつたとしたなら、何も、物にさういふ言葉書を誌して、自誡とする必要はないであらう。唯あの辭句を批判的にのみ見て、武藏の道念を高いとか低いとか、論じる人もあるが、私は以上のやうな見解から、他の五輪書や兵法三十五箇條などの遺文以上に、彼の獨行道といふものは、深く翫味してみると、そこに人間武藏のおもしろさが津々とつつまれてあるやうな氣がする。そしてここにも彼の強い反省心の特質と、不斷の心がけが窺へると思ふ。
日本の劍道と西洋の劍道
飛行機と飛行機との空中戰の場合でも、劍道の體や心境が、科學力と合致して、偉大な働きを發顯することは、今では多少日本研究をした外人なら、氣がついてゐるだらう。
將來も、空中戰はいよいよ戰爭の大局に重要性を加へてくるばかりだから、支那事變に鑑みて、今に西洋でも、武士道復興だの、西洋劍術フエンシングの再檢討などが叫ばれだしてくるかもしれない。
青龍刀でやる支那流劍法も、決して絶滅してゐるわけでなく、すでに北京の保安隊などにも專門家の教士がゐるが、西洋にも、曾ては劍術もあつたし、武士道もあつたのである。唯、その内容と精神はだいぶ日本のそれとは似て非なるものである。先年、獨逸、伊太利を訪問した日本の武道使節が、日本から贈つた甲胄と刀劍を持つてムツソリニ首相の室を訪れた際、ムツソリニ首相はその贈り物をたいへん欣びながら、居室の壁間に懸けてあつたフエンシング用の針金入面覆ワイヤーフエンシング・マスクを指し、「自分も青年時代には、これでも十數回、劍を把つて、決鬪したことがあるんだ」
と、愉快な氣焔をあげたさうである。だからそれで見ると、西洋にもまだ中世紀の劍術は全然後を絶つてしまつたわけではないらしい。
だが恐らく、西洋劍道精神では、飛行機へ乘つても、空中戰の役には立つまい。
西洋の武士道華やかだつた時代は、何といつても十一世紀から十二世紀頃の十字軍時代であらう。劍術などもその頃は、後の生やさしいゼスチユアのものではなく、封建武士學校ともいへるツルノアの戯鬪祭などの慘状を書いたものだの、繪畫や詩などを見ると、日本の慶長武士が、木劍と木劍で仕合して、相手が死んでも、誰も怪しまなかつたといふやうな程度は、戯鬪祭の試合から見ると、比較にならないほど穩健なものである。
もつとも、戯鬪祭の方は、個人同士の立合でなく、何百、多い時は千餘の武士が、實戰の試合をやるのであるが、これは戯刀ではなく、眞劍で鬪ひ合ふので、双方とも、車輛に何臺も載せて引くやうな負傷者を出してしまふ。勿論死者も出るし、千二百四十年頃のガルリアの格鬪には、八十人も死んでゐる。
この大規模な試合場には、棧敷があつて、血に熱狂する者は、婦女子だつたといふ。そしてこの戯鬪祭は、佛蘭西から起つて獨逸、英國にまで流行したといふから、いかに西歐武士も亦、棧敷の婦女子へ自分の鮮血を誇らしく鬪つたかが想像される。
西洋の中世武士のあひだにも、武者修行は行はれたが、目的はだいぶ違つてゐた。武者修業同士が何かの事で果し合をするにも、動機は多く女性の意地であつたり、又、斬り合ふにも、一方が彼女から贈られた手袋をはめたり、楯を片手に立つと、一方も亦、愛人が贈つた絹を劍の柄へリボンのやうに飜して鬪ふといつたやうに、非常に派手やかなものだつたらしい。
もつとも日本の武士も、戰に臨む時は、派手を好んだ時代があるが、それは死を飾る、潔くする、といふ爲であつて、女の贈つた物を、見よがしに身に着けて果し合つたなどといふ例は、高田の馬場の堀部安兵衞のほかにはちよつと見當らない。
西洋劍術フエンシングにも二刀流があつたやうである。だが武藏の二刀流とは、それも天地の差がある。片手に持つ楯の代りに、左手に小劍ダツガーを持ち、右手に長劍レピアーを持つてするのだ。技術が進歩するに從つて、突き、面斬り、受止め攻撃、廻轉、伴撃、防禦などのいろいろな型もできて來たが、遂に西洋では、それが技わざと見得だけに止つて萎んでしまつたのである。日本の劍道の如く――劍法から心法へと、精神的な發達を遂げずにしまつた。
武士道の究極の理念は、葉隱の中にあることばの、
=武士道とは、死ぬことと見つけたり
で既に云ひ盡してゐるし、劍道の極意とする眞理も、柳生宗巖が遠い以前に云つてゐる、兵法の奧義は、劍より入つて劍より脱す「無刀」といふので盡されてゐると思ふ。武藏の圓明流――五輪書の最後の一句も亦、
=萬理一空
で結んである。
山岡鐵舟の無想劍も、反町無格の無眼流も、要するに、戰國末から徳川初期の間に、「無刀」といひ「萬理一空」といふ所まで行つてしまつてゐる。これ以上、日本の劍道と武士道とに遺されてゐる宿題は唯、科學との合致と、近代生活とそれとの飽和である。再言すれば、鎌倉武士のそれを戰國期から江戸初期に再生したやうに、江戸武士のそれを更に幕末維新の呼吸に革新したやうに、時代の煉冶をかけて、不朽に生かすことであると思ふ。
武者修業時代
武者修業といふと、もう語感が古いし、過去の浪漫的世界のもののやうだが、現代に於いても武者修業は、べつな形と使命の下に猶、行はれてゐると云つていい。
京大劍道部の學生諸君は、師範に引率されて、よく各地へ劍道旅行に出かけるし、先年も、高野佐三郎氏の息、弘正氏が桑港大學から私へよこした通信には、昨年から米國で、劍道を以て同地の二世教育をやつてゐる。そして自分も海外に行つてから、猶更、劍道精神にべつな角度から研きをかけられてゐるとあつた。かういふ人々の目的は、その姿や形に於いては、まつたく違ふが、やはり一つの武者修業だと云へると思ふ。
滿鮮武道視察といふ名目の下に、武徳會の内藤、磯貝範士たちが、大正十四年頃、西久保副會長を先頭に大勢で遊歴しながら、實戰武道の研究をしたことなども、現代武者修業ともいふべき一つの例であらう。
今度の事變にも、武道家であつて應召した者とか、或は希望して從軍した人々などには、その志望するところに於いて、昔と變らない武者修業精神があるに違ひない。
海軍省の山口肇少佐の紹介で、先頃私の宅へ見えた劍道家の高山政吉教士などの體驗を聞いても、戰國時代の武者修業などよりは、遙かに辛酸な、廣汎な地域に亘つて、つぶさに生死の境と、現代戰術中の劍道の機能について、生きた經驗を收めて來たやうである。
高山教士は皇軍に從つて、上海戰から南京入城まで從軍した人であるが、その間、科學戰の戰場を馳驅して、餘暇「近代戰用の白兵拔刀術」といふ尨大な研究の結果を著述して歸つて來た。現代の科學戰にあつても、劍道及び劍道精神が、重要な日本軍の基本的な力の一つになつてゐることは、すでに誰にも認められてゐるが、高山教士のやうな、實踐家の研究のあるのを見ても、現今でも猶、武者修業はその形式をかへて行はれてゐる實證の一つと云へよう。
大坂陣の折に、大坂城と西軍の陣地には、「御陣場借の者」といつて、無數の浪人が集つて、東軍徳川へ當つたが、さうした藩籍のない武士のうちには、元より機會をつかんで、生涯の後※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、258-6]を獲ようといふ功名慾も熾であつたらうが、一面には、多數の武者修業者が、
「實戰を實踐する又とない機會」
として參加した者も、多分にあつたのは事實である。
又、諸國を修業の床とし、旅を研磨の道とする――遊歴の方法は、ひとり武道家が武者修業としてしたばかりでなく、學問を求める學術の志望者にも行はれ、僧門の、わけて禪家では、古くから行道の本則としてゐた程であり、又、技能美術を磨く者のあひだにも、かつては唯一の修業法とされてゐたのである。
士道に對して、百姓道を唱へた、秋田の篤農家石川理紀之助翁などの事歴を見ると、百姓も亦、農法研究の爲に諸國の農土を百姓修業して歩いてゐる。
そんなふうに廣汎に觀たら限りもないが、要するに、武者修業と、武者修業的な人間の心的事業は、いつに始まつて、いつに終るといふものではない。
ただ時代に依つて、それにも幾多の變遷はある。
「室町殿日記」に見られる十二代將軍義晴の天文十一年に、中國の武士山内源兵衞といふ者が武者修業にあるいてゐた記載があり、又、十三代將軍義輝の天文二十二年に、三好長慶との合戰に際して、諸國から牢人や武者修業共が駈け加つて働いたといふ條くだりもある。
武者修業といふ文字はまだ用ひられてゐないが、武士の中に、それらしい一色彩が書物に見え出してゐるのは、以上の二項あたりが、最も古いかと思ふ。
虚無僧寺史を見ると、それより以前、楠正勝が、普化僧の群に入つて、宗門を漂泊してゐたことなど誌してあるが、これは社會韜晦で、武者修業ではなかつたであらう。
總じて武者修業と呼ばれる者には、べつに一定の風俗扮裝があるわけではなく、その目的が他日の武門生活の修業にあれば、虚無僧でも何でも、それを武者修業と呼んで差閊へないわけであるが、軈て、それが社會の表面に、殆ど流行的な勢で數を増して來、武者修業といふ稱呼が生じて來た頃には、自ら、いはゆる一見して、
「てまへは諸國修業の兵法者である」
と名乘らないでも知れるやうな、獨自な特徴を持つた一つの風俗が生れて來たであらうことは想像に難くない。
上泉伊勢守や、塚原土佐守などが現はれた天文、永祿、元龜の戰國初期になると、もう武道は社會の一角面に確立し、それを奉ずる兵法者といふ專門家の地位も明らかに出來てゐたやうである。
卜傳、伊勢守等の名が、兵法家として、又、その道流を興して世上に認められてゐた天文、永祿、元龜年間に亘る時代には、一方に松本備前守とか、富田勢源とか、北畠中納言顯房とかいふ上手も輩出してゐた。そして、宮本武藏などはまだ生れてもゐなかつたし、伊藤彌五郎一刀齋なども、桶挾間の合戰のあつた永祿元年の年、伊豆で産聲をあげてゐたので、武藏はそれより遲るること、約二十二年後に生れてゐるのである。
かういふ時代潮流の中で、武者修業は、その發生期を經、愈々、殖えて來たものと思はれる。
上州大胡の城主だつた上泉伊勢守は、川中島の合戰の永祿四年の翌年、その城地を去つて、兵法修業を名として遊歴の途に上つてゐる。
「看聞日記」には、伊勢守上洛の記事や、又、伊勢守が禁庭に召されて、その劍技をもつて、正親町天皇の天覽の榮に浴したことなどを屡々記載してゐる。その道中には、一族の郎黨と弓馬を率き具し、諸國遊歴とはいふものの、堂々たる武者行列で往來したものらしかつた。
塚原土佐守(卜傳)にしても、東海道を上下する折は、いつも六十人位な從者門人をひき連れ、先供の者には拳に鷹を据ゑさせ、乘換馬二頭を率かせて歩いたとあるから、その行裝に威容を心した有樣はほぼ想像がつかう。
かう二人も、勿論、諸國廻歴と稱し、當時の武者修業者のうちに加はるものではあるが、その生活や風俗は、決して、後に考へられたやうな樹下石上の旅行でなかつたことは確である。
だが、前の兩者とか、伊勢の北畠顯房とか、大和の柳生家とかいふ兵法家は、やはり當時でも、少數な宗家さうけ的な存在であつて、一般の武者修業といへば、型の如く、一劍一笠で樹下石上を行とし、克己を主旨として、諸國を踏破するのが、本來であつたにちがひない。
林崎夢想流といふ拔刀(居合)の流祖林崎甚助重信などは、やはり天文、永祿の時代を、その郷土出羽國を出て、諸州を歩いてゐるが、彼の武者修業ぶりなどは、典型的な孤行獨歩だつた。しかし、その武者修業に出た動機には、修業といふ本質のほかに、亡父の仇敵坂上典膳を討つといふ目的があつた。
漸く、武者修業の風が興ると共に、武者修業を名として、仇討、隱密、逃避、その他いろいろな内情をも祕して歩くものが、混入して來る傾向にあつたことも、爭はれない事實であつた。
そしてそれらの雜多なものと、純粹なる求道的廻國者とは、殆ど、見分けもつかず、一樣に武者修業の名をもつて、戰國期から江戸初期にかけては、諸國の都會を又山村を、流寓して歩いてゐる武士がずゐぶんとあつたものに思はれる。
明智光秀は、信長に仕へるまでの壯年期を、武者修業して送つたと、どの傳記にも書いてあるが、さて何どうだらうか。
山本勘助の傳にも、同樣な履歴が見える。
かういふ人たちの武者修業が、どんなものだつたか、知る手がかりもない。光秀や勘助などは、後に、各々一個の謀將として立身してゐるので、その青年期の不明な頃は、諸國の築城兵力地理などを考察して、他日に備へたものであらうといふ、後人の臆測が、多分に、傳記の餘白を埋めてゐるのではあるまいか。
しかし、以上の戰國の武將たちの經歴として、一部にいはれてゐる武者修業も、又、上泉伊勢守や卜傳のそれも、猶、仇討とか隱密とか別箇な目的をもつて歩いたそれも、純粹な意味では眞の武者修業ではない。姿を借りてその群の中に伍してゐたか、或は時流が一樣にそれらの人をもくるめて、武者修業と稱よんだだけに過ぎない。
武者修業には、やはり武者修業精神がなければならない。克己と求道のやむにやまれないものが、安住を捨てて、進んで艱難に就くところに、その純粹な目的があつた筈である。
禪門の雪水のやうに。
又當然な、求道精神の昂まる意志の前に、
すでに足利末期の暗黒混濁な世相の底流には、その頽廢期に躍る人間とは正反對に、時流の息ぐるしさや腐敗から離脱して、甦らうとする新生な思想が、武士の中には芽をふいてゐた。
武者修業の世界ばかりでなく、純粹を求めるならば、その數は、その流行相と反比例して。[#「。」はママ]極めて少いのは當然である。
伊藤一刀齋、丸目藏人、柳生兵庫、小野典膳、諸岡一羽その他、多くの劍客たちでも、等しく武者修業はしたらうが、各々、意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、264-6]する所があり、純粹な劍道修業であつたかどうかは疑はしい。
柳生兵庫などはべつだが、その殆どが流浪の牢人であつたから、先づよき主を探して、仕官するといふ目的が誰にも一應はあつたであらうと思はれる。武藏にも勿論、彼の理想も註文もあつたが、その氣持があつたことに變りがない。
應仁の亂以後、その牢人の數は、夥しく殖えてゐたし、又、戰國期になつての風雲は、山野の青年をその郷土から活動の巷へ、ずゐぶんと呼び出したでもあらう。
興亡の激しい豪族間の遺族や郎黨たちも、踵を追つて牢人の群に落ち、そして牢人の境涯から浮び出るべく、諸國を歩いた。
それ等も、武者修業者の流れの中に、多分に交つてゐた。
武者修業者の殖えたもう一つの理由としては、そこに自然、生活方法が開けて來たことにもよるであらう。いつたい、當時のさうした遊歴者が、何うして生活の資を得てゐたかといふ、經濟面の點を、現代人はよく不審とするが、戰國時代などにあつては、その生活の自由性からも、又、四圍の社會状態からも、衣食に於いては、さして困難はなかつたらうと考へられる。
塚原、小泉といつたやうな豪族は、たとへ城地を去つても、猶、多くの家僕や門下を從へて往來してゐた程だから、これは問題ではない。
問題は、短くも數年、長きは十年も二十年も、一定の住居も持たないで、廻國と武藝に精進してゐる澤山な孤行の劍人たちである。
が、それにも、主君の命を帶びて、表面は牢人し、敵國の地理兵力の状態を探つてゐるのもあるし、又特殊な使命をおびて歩いてゐる者などには、それぞれな資力が背後にあるから、これも問題ではない。
まつたく、何の背景もない、當時の武者修業者にとつて、唯一の生活方法は、やはり他人の合力と、指南の報酬が唯一だつたに違ひない。
戰國期の中層民以下の社會では、彼等がさうして生活して歩くには、最もいい状態だつたことは事實であらう。
まづ、武者修業たちにとつては、寺院が開放されてゐた。武士と寺院との密接な關係、又、武者修業者の心的修養に、打つてつけた場所として、寺院はいつでも、彼等の一泊の乞は容れてくれたらう。
それから、足利中期以後の物騷な世態の反動として、庶民級の中に、百姓にいたるまでが武術を愛した。領主の統治が行亘らず、茨組のやうな暴徒や、匪賊のやうな野武士の襲來に備へて、何の警察力もない民は、それが僻地の村落であればある程、彼等自身が武力を持たなければ、安心して業にも就てゐられなかつたであらう。
又、個人のあひだにも、殺伐な風や、詐謀や、油斷も隙もならない道義の頽廢があつた時代では、その各々も、何よりも武技を身に備へておくことが、力だつたに違ひない。
信長か、秀吉だつたか、制令を出して農家が武器を蓄藏することを禁じ、各村落から押收したところ、驚くべき大量な刀槍が發見されたといふ例など見ても、當時の社會不安が窺へよう。
武者修業の徃來は、そんな時代の村落では、むしろ自分等の防衞者として、歡待して迎へた。山賊の話、人身御供の傳説などは、僻地の村民と武者修業との生活關係にも、一つの示唆をもつてゐる。
宿泊や衣食は、さういふ地方でも、彼等は因らなかつた。又武技の教を乞ふ者は、百姓町人のあひだにもあつた。
假にさういふ便宜のない都會地でも、武藝者同志の相互扶助的な方法もあつたらうし、又、手蔓から手蔓をもつて歩けば、然るべき武家の門でも應分の好意は示したであらう。
武藏の青年期から壯年時代などにあつては、殊に武者修業の多かつた時勢でもあり、又、それらの生活し易かつた頃ではないかと思はれる。
關ヶ原前後、又、大坂夏冬の陣の前後には、どこの大名も、いつ合戰が起るか、いつ陣務を急とするか知れなかつた中に、表面は幾年かの小康的平和にあつた時勢だつた。
當然、全國の大名は、朝夕に武備を怠らなかつた。然し、限りある財力で限りない兵は養へないし、殊に、實力と人品の双備な人物と見ても、戰後の長い經營を思ふと、目前の必要を感じても、さうさうは召抱へられなかつた状態であつた。
で、自然、捨扶持、隱し扶持といふものを、牢人に與へてゐた。いはゆるかうと思ふ人間には、平常に息をかけておくのである。九度山の眞田幸村などは、その尤なるものであらう。幸村へは平時に於いても、大坂城の秀頼から、尠からぬ金力が密かに送られてゐたといふ。然し、幸村自身は傳心月叟と世捨人めかして、草庵に質素な生活をしてゐたし、そんな莫大な金を費ふ途はない。
それが關東大坂の開戰となつて、彼が廬を出る日となると、幸村父子が高野の麓から紀泉を通つて、大坂へ入城する迄の間に、途々、忽ち人數に加はる牢人者が四方から馳せ參じ、無慮二千餘の手兵になつてゐたといはれてゐる。
さういふ牢人の生活費は、總て幸村の手を通して、大坂城の經濟から出てゐたことはいふ迄もないが、かういふ一朝の場合に備へて心がけておく牢人扶養の仕方は、諸國の大名も皆やつてゐたこと勿論である。
で、多少なり、一かどといはれる武者修業は、何らかの形で、その系統のどつちかに扶助されてゐたらうと思ふ。
武藏も三十一歳の時、大坂陣の折には西軍に參加したといはれ、その所屬や功績の程は明らかでないが、西軍に投じたには、何か一片の義心なり理由がそこにはあつたものと想像される。
いづれにしろ、武者修業の生活は室町期の初期にあつては、禪僧の行脚に倣つたやうな所もあらうし、そしてもつと亂脉な、雜多な、無秩序に行はれてゐたらうが、戰國期に入つて、元和の頃までは以上のやうにその生活に一つの軌道があり、又、活溌な意志をも持つてゐた。けれどやがて江戸時代にはいつて、世間が平靜になり、統治者の制度が緊密になつてくると、武者修業の生活は、次第に難しくなつて來たやうである。
又、多くの僞裝浮浪者に對して、法令もやかましくなつた爲、正しい目的をもつて廻國する者までが、いろいろ牽制されて來た。然し、ずつと後の千葉周作の廻國日記などを見ても、まだまだ江戸末期までも、武者修業の數は非常に多かつたものらしく、幕末頃には又、その人たちの生活も、もつと合理的な社交性すら持つて、相變らずさう不自由なく、諸國を歩けたものらしかつた。
それはちやうど、現在の社會でも、舌一枚で地方を講演に廻るとか、講習會をしたり、或は無名畫家が畫筆をもつて旅行しても決して、飢ゑることがないのと相似て遠くないものであつた。
現代青年道
はしがき
むかしは、百姓には「百姓道」があつた。町人には「町人道」があつた。さむらひには「武士道」があつた。政治をする者にも亦「王道」があつたのである。
それらの「道」はすべて文化の改革と共に壞されてしまつた。一時はそれがいいことだと考へられた。けれど今日となつてみると、鼠巣そそうを燒くために家まで燒いてしまつた觀がないでもない。ヒツトラーの苦惱は今、軍事でも科學でもなく、獨逸の國民に對して與へる「國民道」のないことだといはれてゐる。
日本は祝福されてゐる。わたし達には、國土二千六百餘年のあひだ一貫して來た道がある。右でもない、左でもない、眞ん中といふやうな漠としたものでも決してない。そこに立てば、將來の日本文化のあらゆる角度へ向つて「これから」の任務を負擔してゐる現下の青年たちの行くべき道は自ら明確である。
武士に「武士道」があつたやうに、これからの青年にも、確乎として歩み立つところの「道」が見えてゐなくてはなるまい。私はまづ青年に向つてこの「道立」の必要を提唱して來た。
然し、わたくし自身が實はまだ童學の一書生にすぎないのだ。文壇の一隅から乳臭の作品を書いて作家とか呼ばれてゐる人間である。しかも狹隘な書齋にのみ多く日を消してゐる身なのに、どうして現下の烈しい時勢の潮流と、その中にある青年層へ向つて、かくあれといふ「道」などを示す資格があらうか。
又、私は決して、思想運動家でもないし、教育者でもない。飽まで單なる一文人にすぎないのであるが、國民的詩人はいつも時代の先驅者である。國民の先に立つて道をさけんでゐた。文人が文に立つて道を語ること必ずしも異端ではあるまい。

の道に對して。又、餘りに舊道徳のうちに定義づけられてあるために却つて現代人のうちには顧慮されてゐない。

の問題。
忠も、孝も、共に現代の青年にはただ漫然たる忠孝の文字だけがあつて、清新溌剌な將來への精神文化の信念でなくてはならないと思ふが、それに對して、この書がまだ及んでゐないことは御諒恕を乞はなければならない。
なほ、酒に對してすら言及してゐるのであるから、當然、戀愛に就ても言を盡すべきであるが、それもまだ脱稿してゐないので、他日、その他の諸項をあはせて、更に完成した一書を出すつもりである。
斷つておきたい事は、私は、人に教へる力は持たない。けれど、信念は持つ。それと、自分もなほ前述のやうに、童學の一書生たることを忘れてゐない青年の一員なのだ。この一文を私が成す資格があるとすればその點だけである。
祖先と血液
なにも皮膚をやぶるにはあたらない。自分の血液を見ようと思ふならば、赫々たる太陽に直面して自分の指を大空に向けてかざしてみるとよい。
百萬の富より尊く、どんな寶玉よりもうるはしい鮮紅のものが透いてみえる。それが自分の血だ。
科學は、或る程度まで、人間の血液をかういふものだと顯微鏡的に説明するだらうが、それは生理學上のものだ。日本人と歐米人の血液の差を示すことはできない。
資本主義は、あらゆる物質に對して勢力を持つが、自分以外の者の血液に對しては、その一滴たりとも搾取的に購ふ力はない。
この地上において、最高價値のあるその血液を、われらは一人のこらず滿身にも湛へてゐるのだ。これだけには、貧富も階級もない、絶對の平等である。
ただ、民族がちがへば、血液もちがふことはある。然し、それにも各々ちがつた特質をもつてゐて、歐米人種には歐米人種の長があるし、日本民族には、日本民族の固有性がある。
その現はれを、精神といふのである。
太陽にかざして、自分の血液の色をじつと見た時、諸君は同時に、かういふことを考へてみたことはないか。
この血液は何千年、肉身から肉身をとほつて來たものであるといふことを。
又、祖國の土と太陽のあひだにながれて、幾千年の文化に濾こされて今、自分といふものの血管に脈々と生を搏つてゐるものであるといふことを。
そして今日の、毎日の、一刻ごとの、自分の精神となつて發顯してゐるふしぎさを思つてみたまへ。自分の血液が決して自分だけのものでないこともわかるし、自分の精神も決して自分だけの意力だけでうごいてゐるものでないことが感じられよう。
なぜならば人間には、自分で行はうとすることも、行やるまいとする精神に抑止される事もあるし、自分がとどまらうとしても、やむにやまれない氣持に驅られる時もある。
さういふ一方のものを、理智といふが、理智も精神にほかならないものである。では、精神の複雜性は何がうごかすかといへば、血液の中にある祖先の性格といふよりほかにない。科學的にいふところの血球の一粒々々には祖先の何ものかが影響してゐるとみてまちがひない。
遺傳學者は、それを優生學的に、また病理的に研究してゐるが、ここに云ふものとはその目的が根本的にちがふ。
おまへが怒る時はおぢいさんにそつくりだとか、おまへの涙つぽいのはおまへが母の氣性をうけたのだとか、さういふ風によく簡單に云はれることも、ふかく考へると自分といふものの反省になる重大な一提案である。
孤兒にも、數千年先から祖先があつた。祖先を考へないで、自分を、單一に考へる癖のついてゐる人物には、ほんとにこの國土といふものもわからないし、自分といふものも生涯知ることはできない。
祖先を知るには系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、278-5]でもなければわからないときめこんでゐるのは淺はかな常識である。系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、278-6]書などはむしろ信ずるに足らないものである。それよりはまづ自分の父と母と二人のあつたことを基點にして、その父にも、二人の兩親があり、その母にも二人の兩親があつたと考へを溯つてゆくがよい。
すると、自分といふ一の數は、父母の代で二になり、祖父の代で四になり、曾祖父の代では八になる。その先の代では十六になり、卅二になり、六十四となり、百廿八になり、二百五十六といふやうに、祖先は先へのぼるほど數がふへてゆく。
さう過去へ順を追つてゆくと、千年二千年以前には、何萬人、何十萬人といふ血縁を、われ等は、自分といふ一箇のものの血管にもつてゐるわけである。だから戰國時代の武將が、系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、278-13]に威嚴をかざるため、遠祖は藤原鎌足であるとか、清和源氏であるとか、桓武天皇から何代の後裔平の誰の末葉であると記録しても、それが正系ではないにしても、まるで嘘にはならないのである。何萬人、何十萬人の血縁のうちには、必ず名門もあるし、偉人や英雄にも必ずつながりがあるはずであるし、帝系からもたくさんなお方が民間へ下つてゐるので、清和天皇や、桓武天皇の御名をうたつても、不敬にあたらないわけは、さういふ血液の分派が確な爲である。
戰國の武將のみには限らない、諸君にしてもさうである。今は、一職工であり、一百姓であり、一店員であり、或は、孤獨赤貧の一青年であつても、その血液のうちには、藤原氏の血液もあらう、源氏の武將の血液もあらう、平氏もあらう、また、畏れ多いことのやうであるが、さらに溯れば、帝系から臣下に降つた血液もわれ等の中には流れてゐるのである。
どうしてさう斷定できるかといへば、數千年の社會の變革によつて、前に述べたやうな、無數の祖先は、朝てうにあつて權を執つたこともあらうし、野やに下つて庶民の下層にかくれたこともあらう。殊に近世史の初期から以後は、農より立つて武士となるもあるし、武士から下つて商や農に歸つた者も頻繁にあり、その幾變遷が、雨と海水のやうに繰返されて來てゐるからである。
太陽に血液をかざしても、その色を見ただけでは意味がない。幾千年の培ひを層積してきたわれ等民族の文化と、祖先のすがたとを認識して、いかに自分の血液が、國土日本の偉大な濾過をうけてこの五體にあるか。そしていかに自分の血液の尊いものであるかを充分に自覺した時において、初めてわれ等の生命は、眞に祖國の太陽を浴び、大氣を吸つて、
「われ、日本に生れり」
と、新たなる眼をもつて、國土のすべてを見直す心地がしてくるものだ。その感激と信念の土から、生きがひの芽はふいてくる。
修養といふことは、血液を研くことだ。どんな尊い血液をたたへてゐても、爲すこともなく老い朽ちてしまへば、人間の血液を容れた袋に過ぎない。研きをかけない血液は水にも等しい。
さういふ水にも等しい血液をもつた人間が、世に出ようの、幸福になれないのともがいた所で誰のせゐでもあるまい。不斷に研かなければ、誰の血液でも、濁る、澱む、鈍る、落伍する。
しかし研磨された青年の血液は、不斷の希望を一身に負うて向上を辿るばかりでなく、郷土に祖國に、太陽のやうな力と光輝をもつて、同胞の柱石となり、社會の動流をうごかしてゆく。
さういふ血液をわれ等は持ち合つてゐる。よく隣人愛といふことばがつかはれるが、西洋語の意譯から出たことばで、われらの日本精神ではまだ云ひ足りない。私と諸君とも、血においては同身なのだ。また、天皇は民の父母とあがめ奉る意味も、ことばのうへだけではなく、建國以來日本民族の血液はまさに君民一體のものにほかならない。
われ等が、わが皇室の萬世一系連綿たることを誇るゆゑんは、もつて、自分の誇りともするからである。從つてこの血液は、天皇の御命にあらざれば捨てることはゆるされぬものである。
此身すでに國體
高い低いを敢て問はない、誰でも山へ登つて、崇高な大自然の氣に衝たれた覺えはあるであらう。そして日常の社會雜念から離脱して、默々たる天地運行の中に、まつたく生れながらの新たな「我」を見出し、常に固執してゐた狹い人生觀から豁然かつぜんと思ひを革める心地がしてくる。
山は人間の故郷だといふ。山は人間を神に近づける。山に立つ時、われ等は最も人間の本身に立ち回つた自分を見出すものだ。
太古三千年餘の前、われ等の血液を生んだ祖人は、神の眷族として、山に立つてゐた。
天照大神の御勅、(日本書紀)
豐葦原ノ千五百秋ちいほあきノ瑞穗みづほノ國ハ、我ガ子孫うみのこノ王きみタルベキ地くにナリ、爾いまし、皇孫すめみま就ゆきテ治しらセ。
の御精神を享けて、神すなはち、皇孫瓊々杵尊ににぎのみことは立ち給うたのである。われ等の祖人は、神勅の御精神を奉じて、まだ國の構成を爲さない低土のうへに、「王の道」を建つる大聖業をおたすけする爲に神の眷族とし、遣はされた一員だつた。まぎれもなく、われ等の遠い先の血液は、神のお側にあつたものである。
まだ國の構成を爲さないその頃の日本を想像してみたまへ。ただ見る東半球の荒海のまつただ中に細長く横たはつた蒼々茫々たる土の塊でしかない。火を噴く山と、密林と、一鍬のあともない湖沼や草原と、怪鳥と野獸と、そして文化なく人倫なく原始民のわづかな數がその中に爬蟲類のやうな棲息を營んでゐたに過ぎない。
「皇孫よ、ゆきて治めよ、撫育し、教化し、王の道を布きて、千五百秋に榮えよ」
天祖の御旨は、神の御意志であり、又われ等の祖人の一致して捧げた奉公の的だつた。その大聖業が神代とよぶ七世の長い御經營を經て、神武天皇の御即位に至つて始めて大成し、土の塊でしかなかつたものに精神がうちこめられ、祖人の血液がひろく分布され、人倫と文化が行はれ、王の道と眷族の道を明かにし、萬世の後までもこの創世の精神を違へまじといふ君民一如の誓ひの下に政治は立てられたのである。
それを建國といふ。
神武天皇の建國の詔勅は、かうして神と人との完き一心一體の天業から發せられた日本の生聲であつた。
天壤無窮に、わが皇室とわれ等民族は、一器の水を器から器へ移すやうに、歴世、その建國の大精神をこぼすことなく傳へてきた。その純潔を護るためには、海ゆかば水浸く屍の歌とあらはれ、又源實朝の、
山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふたごころわれあらめやも
の誓ひを泰平の裡にも忘れなかつた。苟めにもこの日本に神の御旨を違ふやうな世相が現はれる時は、必ず神人が出てこれを排除した。建武の人々、維新の人々、今も見たまへ、澎湃たる現下の國體擁護の聲を、日本精神に目醒めよの聲を。
なぜ日本を神國といふか。なぜ日本は世界の類型たぐひのない皇室を持つといふか。なぜ[#「なぜ」は底本では「なぜ 」]天皇と臣民とが日本だけかく密接なものであるか。なぜ日本の國家が外國の理論では律せられないのか。さういふ幾多の問題も、われ等の祖人以來一貫してゐる民族精神を以てすれば明瞭な理解が自ら湧いてくる。
最近、頻りに國體論がことあげされて、日本は君民同治であるとか、君主國體だとか、ちやうど外國の帝制や共和制や聯邦制を思惟するやうに、理智的な角度から日本の「體」を一箇の「物」とする觀方で究明しようとする――或はそれで分つたといふやうな顏をしてゐる人々の思想が文化の表面に出て著しく日本を濁してゐるが、日本の國體は、決して一面的法理論や、文字で組み立てた機械的理論で眞の相がわかるものではない。むしろ誤ることの甚しいものになる。なぜならば、絶對にそれは精神であるからだ。物を基調とし文化精神として發達した諸外國國家の建國とは根本的にちがつて、神人一如の精神の結晶體が、そのままの日本であり即ち國體であるからだ。眼に見せよといふならば、唯物的國家科學、社會科學、政治科學、また箇人的利己主義の小智を地に措いて、まづ山へ登れ、雲表に立つて、民族の本身に回つて思へ。
諸君にしてもさうである。すでに「我」といふ一箇のものの何であるかを知つた後は、この「我」を生み育くみつつある國の「體」に對して明確な信念と認識を持たなければならない。なぜなら諸君自身がすでに國家の一分子であるからだ。誤まつた分子、認識も信念も持たない分子、さういふ分子が多い時に、國家は衰退を辿る。
然し、一髮一毛と雖も、間違ひなく日本人であるわれ等にとつて、今更、自身の持つ國體が何ういふものであるかなどといふ事は、思索する迄もない氣がするのであるが、魚に河が見えないやうに、口が酸素の味を知らぬ爲に呼吸が生命であることを忘れてゐるやうに、餘りに大きな恩澤なるが故に、却つてそれに狎れ甘え、當然なこの國民的常識も、日常觀念の裡に、漠と霞んでしまつてゐるのではなからうか。
花に棲む鳥は花を蹴ちらす。われ等はややともすると狎れる。人間の性能である。宏遠な天業の大範と祖神人の恩惠は忘れがちになつて、その道統から發達した現状の物質的文化の動きや色や音響の方にのみ多くを囚はれがちになり、それを基調とする輸入思想や學問の小智は、國家の母胎も、民族的本性を反省するに遑なく、唯、現代の機械的組織のみを論議するのであつた。われ等をして天祖なき光輝なき他の白色民族と同視して、祖神人の建國精神をも喪失した國民となして、惑説を囁いて熄まない。
狎れたる者ほど怖しいものはない。國體輕視の風潮や思想は、國體の恩に狎れた者の口から出る。魚が河の存在を否定し、口が酸素の無味を惡罵するやうなものだ。要するに「我」といふものの深い個念を爲さず、自己忘却の結果、文化に對して不遜な甘え過ぎをしてゐる暴兒の所作に他ならない。
人類の棲む世界のどこにこの天業的建國があつたか。天惠的國家があるか。物質科學基本の他の民族の將來に幸福と光輝があるか。見ずや、それ等の米、英、露、幾多の列強が今日の精神的枯渇のさまと、科學的破産の醜しい狼狽ぶりを。
理論にのみ「我」を陶醉させるな。常に民族性のつよき本身であれ、國體は空漠として彼方にあるものではない。「我」すでに國體の一分子であることを思へ。
さうして後、折あらば靜に繙きたまへ。古事記、日本書紀などを見れば、祖神人たちの建國前期からの天業と精神とがなほ明白に酌みとれよう。けれど、如何にそれらの最古の文典を探り、難解な記紀の二書を初め神皇正統記から大日本史に至るまでの史を讀破しても、ただ讀み、ただ知るだけでは、何の意義もない。國體を認識するといふことの極致は、要するに、
國體の心そのものが自分の一身
になることに極まるのである。研究するとか考察とかなど問題ではない。身に體すことだ。古事記、日本書紀を讀まなくとも、唯ひとつの精神を一身に堅持してさへ居れば、野に耕すも、鐵槌を打ちふるふも、都塵と山澤に汗して働くも、すでに、皆國體を身に體してゐる人といへるのだ。天祖の眷族の末たる者であり、天皇の赤子として、太陽の下、この國の上に、恥しくない「我」なのである。
學問とは何か
先頃、未知の一青年から私信を受け取つた、信州諏訪郡の農村の人である。眞面目な文體であるし、農村苦境の迷ひを訴へてゐる内容にも、淳朴人を衝つものがあるので、すぐ返辭を上げようと思つたが、考へ直してその返辭をここで書くことにした。理由は、その青年の求めてゐる所のものは、等しく、他の農村青年や商工青年の多數も無言のうちに墜ちてゐる懷疑ではないかとも考へられたからである。その私信のうちに提示された問題といふのは、次のやうなことばであつた。
――學問をしなければ今の農村からでも遲れてしまひます。然し、學問をすれば今の農村を捨てたくなると私共の友達はみんな云ひます。いつたい何うしたらいいのですか。(後略)
現代人が學問に對して或る懷疑を抱いてゐることは事實である。農村青年のみではない。工場青年の場合でも假に前掲のやうな認識をもつ者は、やはり同じやうな訴へを云ふだらうと思ふ。
――學問をしなければ今の工場からも遲れる、學問をすれば工場などは捨てたくなる。
主人を持つ實業青年にも同樣な事が云へよう。不遇な家庭にある青年の多數も無意識のうちにこんな懷疑をもつて、學問の必要を感じながらも、學問を嫌厭し、學問を敬遠し、或は、學問を輕蔑してしまふ傾向があるのではあるまいか。これは獨り諏訪郡の一青年ばかりでなく、現代社會の全般が、學問そのものに認識を誤まつてゐる事に起因するのであつて、殊に、青年にとつては、由々しい問題だと私は思ふ。
誤つた認識の下に爲された學問から考へれば、成程、今の農村は捨てたくならう。然し農村を捨てて都會へ來れば、やがて、都會も捨てたくなるに違ひない。學問には窮極がないのだ、都會人になれば都會人としての學問をせざるを得ない、都會を捨てた次は何處へ行くか。
又郷土を捨て、都會を捨て、遂には學問をさへ捨て、あらゆる人生の意義を虚無に觀じて、自分で自分を蝕むしばんでしまふ人間もある。最後に捨てるものが無くなつて、自己の生命までを死へ向つて抛り出してしまふ愚な心理の持主さへある。學問とは、さういふものだらうか。根本的に「學問とは何か」といふ定義を持たないで學問する事はすでに、學問にはならない。
青年の學求心はその旺なるにまかせて、學問の選擇を誤りやすい。腹の底に、「學問とは何か」といふ定義が据つてゐないからだ。學問は決して功利的にやつてすぐ効果の實に舌皷を打つものではない。學問はどこまでも修養の一課目である。修養を離れての學問に價値はなく、學問を無視して修養はあり得ない。從つて、學問とは何かといふ問題は、修養とは何かといふ定義に依つて決定する。それを一口に云へば、
修養とは我を愛する者の我への大願
だと私は思ふ。學問はその大きな希望の下に初まる修養の一課目なのだ。自分を愛するがために力弱く、缺點多く、又不遇不才に生れついた我をして、後天的の實力を持たせようとする努力が學業であり、やがてその一箇の力が、一家を興し、一村を益し、國家に貢獻する時に至つて、初めて學問は光を放ち、學問をした人間といふことができる。
よく封建時代の町人や農土の老人たちが、勉學な子に向つて「學問をしたつて腹は張らないぞ」と叱つたが、決して、笑へることではない、一面の眞理はある。學問をすれば腹が張るやうに教へたのは、西洋的な利己思想である、腹が張るつもりで、大學へ入つたり、書物にのみ噛りついてきた人間たちの今日は何うであらう、博士の失業者すらあるではないか、學士に至つてはルンペンの群の中にも見出される。
學問で腹は張らないといふ言葉は幾分ほんとだつた。功利的な學問はその功利さへ與へない。「我への大願」である修養の一課目として爲するのでなければ學問は死物だ。
又、學問は、絶對にその國土の上に正しく立つた學問でなければならない。國體精神に據らない學問はその國家の上に於いては、學問の意義もなさないし、學問の使命に反してゐる。
又「我」を力づけず、却つて「我」を誤つ學問も學問にならない。學問の光は、充實と、希望と無窮な人類の幸福を築いてゆく智惠の綜合光線だ。自己破壞、國家不安などを、學問は目的としない。學問と呼ぶも、それは人智で組みたてた文字の器械である。
俺は農だ、俺は工だ、俺は商だ、食へてゐる以上、面倒な學問などはしないでもいい。
假にさう考へてみたら何うなるか。それでも生きて行かれることは確であるが、だが人生の途中で後悔をしないだらうか。
人間の生活が、原始的なままでゐるものなら、人間は學問をしないでもすむ。然し、人類が穴を掘つて棲むことを覺え、石で鏃や食器を作ることを考へ初めた時代から、すでに學問の力は生じてゐるのだ。まして現代のやうな社會に於いては、それに怠る人間の敗北は當然のことだ。農村であらうと、漁村であらうと、進歩性のある地上に、學問のなくてすむ所はない。
自分の現在に即した學問を選べ、それが眼目である。職業の現在、境遇の現在、心の現在、自分といふものの立場を遊離しての學問はない筈だ。飽まで、現在のままにと私は望む。現在を充實し、現在の眼をひらかせ、現在の上に希望を持たせてくれる學問。
勝利は、焦心あせらずに、やたらに動かない人に降る榮冠である。不斷に學問してゐる人物の「現在」は、決して前進のない現在ではない。われも人も氣づかぬまに、その人間の高さはいつのまにか違つてゐるものだ。
地球のうちに國は多い。その多い國々の中で、僕等は何の天縁か日本に生れ、何の幸か世界に類のない皇天皇土に育まれ、五體のうちには又、地球上のどういふ民族よりも優美な「やまと・ごころ」に現はさるる血液を湛へて、しかも世界有史以來の今日といふ重大な時代に、青年として生れてゐるのだ。
さういふ「我」である、一箇の「現在」なのである。又と生れ難い身と時だ、何んなに大切に持つても足らない程ではないか、その「我」を研かずに、碌々と朽ちてしまふのは口惜しいことではないか。
繰返していふ。「修養とは我を愛する者の我への大願」である。
いかによく「我」を持ち、「我」を生かし、悔なき一箇の人生を完うするか爲ないかの眞劍な祷りをもつて打つてかかる死ぬまでの心がまへなのだ。學問はその希望に伴うて起る當然な一つの行ひである。
逆境おもしろし
もし訊く人があつて、人生の快事と妙味はどこにあるかと問ふならば、私は言下に、逆境の裡うちに有ると答へる。
順境は短く、逆境は長い。順境は滅多に訪れないが、逆境は頻々と來る。人生は逆境の連鎖だと覺悟してよい。たとへ今が順調らしくある時でも、いつ背後から組みついてくるかも知れぬ敵である。それに負け、それに飜弄され、一波々々の逆境の襲ふたびにいちいち溺れたり泣いたりして居た日には、人生は嘆きそのものである。
然し事實は、逆境の裡にこそ、眞の人生味があるのであつて、逆境の快を味はなければ、遂に人生を味はずしてしまふのも同じことだ。
元より無事なのに越した事はないが、どうせぶつかる逆境である、なるべく大きな逆境に立つて、まづ社會進出する前の自分を確乎と試錬してみるがよい。
系累苦、事業苦、思想苦、戀愛苦、貧困苦、又あらゆる目的の蹉跌などに當つて、克ちとほすか、腰をついてしまふか、兩手をひろげて艱難に當つてみて差閊へない。諸君の精神は若いのだ、決して、避けるべきではない。
だが現在、そのうちの何れかに直面してゐる人々は、必ずさうは考へられまい。十方暗黒な滅失の中に墜ち入つて、生涯の人世觀を黒くぬりつぶしてゐるだらう、困惑の檻に囚はれてゐるだらう。働けど働けど貧困は救はれないもの、歩めど歩めど目的は近づかないものといふ觀念に壓されては居はしないか。その結果、社會機構のせゐに考へてみたり、或は「俺は駄目だ」と自分を安價に見限つて、自暴自棄の穴へ逃げこんでゐる卑怯者はそこらに居ないか。
嘘だ。目前の運命から襲はれる黒い錯覺を捨てたまへ。人生は刎ね返しの利くものだ、必ず打開の道のあるものだ。駄目といふのは、老衰と不治の病だけである。古人は「物窮まれば通ず」と云つた。ナポレオンは「不能とは佛蘭西の國語に非ず」と云つた。――相手を斬り伏せなければ相手から斬り伏せられる――あの劍道の生死の境地は瞬間のものだが、逆境はそれの長いものと思へば間違ひはない。克服して、逆境を後に見送つてやる時の快さは、嶮しい山岳を征伏して絶巓に立つた時のあの愉快さを千萬倍にも膨らませた心地と同じである。僞りなく、
「よくやつたぞ」
と、自分を自分で慰め稱へて遣れる時こそ、人間は、眞實の人生を噛み味はふことができる。生命をよろこばす光輝をいつぱいに彩る。
誰でも、現實にぶつかつてゐる逆境に對しては、息喘いきぎれと、困憊を感じ、とてもやりきれないと思ふ。然し、青年時代の苦勞などは、殆ど、汀なぎさのさざ波である、三十歳臺、四十歳臺と、沖に出れば出るほど、次々に大波が待つてゐるものと思はなければならない。青春早くもこの波涛に弱音を吹いてしまふやうな事では、所詮長途の難を越されまいと思ふ。すでに活社會の選手權を放擲した者に等しい。その社會組織に對し、周圍に對し、批判や不平を鳴らす資格もない者である。――例外な病者でもない限りに於いては。
人間は誰でも、世の中で自分ほど苦勞した者はないと思つてゐるらしい。すこし逆境らしい道を通つて來た者ほどさう考へてゐるのが多い。殊に、三十歳を出たか出ないの青年が、
「私ほど辛酸を嘗めてきた者はありません」
などと人前で語るのはをかしい。それがどれほど深刻な事情であらうと、慘澹たる窮乏であらうと、要するに、思想も社會立場も青年でしかない時代の辛酸である。嬰兒の齒痛であつて、晩年の大患とは比較にならぬものである。それをもし大きな辛酸を經て來たなどと考へてゐたら、やがて來る次のものには一たまりもなくベソを掻いてしまふだらうと思はれる。
ましてその辛酸が、一家の老幼を負ふのでもなく、自分一箇だけの衣食の問題に過ぎぬやうな事であつたら、猶さら人に語るのも見つともない。よく俺は幾日食はなかつた事もあるなどと、過去の荊棘を語る人もあるが、一家の爲とか、主人の爲とか、社會の何かに貢獻する爲でもあつたのなら知らず、わづか一身だけの貧困などが、なんで苦勞といへるか、人に話せることか。
押すか押し倒されるかの阿※(「口+云」、第3水準1-14-87)あうんのあひだが逆境である、張りきつた生活力がそこに湧く。人生の最高な緊張を歩みつづけることは、即ち人生の最高な眞實を味はふ事でなければならぬ。
自分には無いと思ふ力も、逆境に強要されれば出て來るものだ。一度出た力は信念になる、次の艱難に當れば更に次の力を引きだされ、一難ごとに、信念の上に信念を加へて行く。そこに強固な生活力を持つた自己が作られてくるのである。越えては迎へ、越えては迎へて、人生の萬波を半にしながら後を省みる時、心から感謝することは、強い生活信念と生活皮膚を養つてくれた逆境の訓育である。逆境はきびしい恩師だつたとその時になると沁々有難く思ふ。
息づまるやうな暴風雨を正面にうけながら顏を俯向けて一歩々々押しきつて歩いてゆくあの時の氣持で、一つの逆境を歩みぬけた後の爽快さは、到底、無爲平凡な日ばかり送つてゐる形だけの幸福者には味はへないものである。幾度の逆境との鬪ひに、信念がついてからは、この社會を生きてゆくといふ事にひとつの「底」が肚にすわつて來る。山中幸盛が詠じたやうに、
憂き事のなほ此上につもれかし限りある身の力ためさん
鎧袖がいしう一觸の氣をもつて、それを克服しつつ處世するところに、無駄なく、不斷に自分をも鍜錬してゆかうとする快活な餘裕さへ自ら保たれてくる。
肉身と肉身との愛情なども、濃いが上に濃くなつて來るものだ。艱苦にふき曝されて、兄弟や親子のあひだに、物質的な冷たさを抱きあふ場合などは、まだまだそれが眞の逆境とはいへない程度の淺い貧しさだからである。ほんとのどん底といふものは、人間を情美の權化にさせてしまふ。惡の棲む餘地はない。
肉身以外の者の、蔑みとか、冷淡とか、嘲笑などには、胸をひらいて受けておくがよい。そして忘れなければいいのだ。
「今に見ろ」
といふ他日のことを、將來のことを。
自分の現在がどうやら衣食に足りてゐるが故に、かういふ言を弄ぶのでは決してない。
逆境はおもしろい。
苦勞を苦勞だけのものに思つて閉ぢこめられてゐたら、人生は、苦勞の箱だ。苦勞を人生の快味として噛みしめるところに、初めて、複雜な生の味覺が生じても來るし、常に、爽快な運命の展開が面へ吹きつけてくる。
「今に見ろ」
は、山の中腹だ。
頂上の平地は坦々として無味か、或は、上り切つた行きどまりを意味する。ただ中腹から仰ぐ憧憬の焦點であるが故に頂上の尊敬はあるのであつて、眞の人生味は、中腹の嶮にあると思ふ。
逆境にある青年は、果して、今の自分を幸福だと自覺してゐるだらうか。怖らく反對だと思ふ――さう考へられないのは、やがて將來には、今の境遇を見返してやるのだといふ自信が持てないからではないか。
職業信念
生活してゆくには食はなければならない。職業は、食ふ爲であることに間違ひはない。
然し、職業を、金や物資に換へるだけのものとの考へで爲てゐたら、人間の汗ほど、安ツぽい物はあるまい。努力の終日を、金に換算してみて、それだけで、滿足が感じられる人間はあるまいと思ふ。
わけても、百姓の仕事等は、換算率に於いて、歩が惡いのである。工場に働く者だつてさうだ、漁業でも同じだ。都會の種々な職業線にしたつて、決して、職業は、報酬の額のみで、勤勞の精神を滿足させてはくれない。
田を植ゑてみる。
泥土の中に、汗を流して、この苗一つが、幾値いくらになるかといふやうな考へだけで働いてゐたら、沸いてゐる泥田の蛭に食はれて、半日も、働いてはゐられまいと思ふ。よしんば、それも生きる爲と、宿命的にか、或は、無自覺な我慢の下に働いてゐるとしても、それでは、餘りにも、人間が不幸ではあるまいか。又、そんな無自覺や、我慢が、何處までつづくか。
艱苦と、窮乏は、今の農場では、※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしツても※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ツても生えてくる雜草と等しく、殆ど、清掃される遑もない時代にあるが、鎌に觸るる朝露の音にも、鍬を立てて四顧する山野にも、朝夕の道の邊にも、農村には實に自然の伴侶がある。植ゑてきた苗を渡つてくる田水のそよぎにも、すぐ、その自然美と、
「俺の植ゑた田だ」
といふ實際の結果とに、尊い汗の報はれを感じることができる。
農村生活の特長は、數へれば、まだ幾らも擧げ得られるが、單純に云つてそんな點だけでも、工場で働く者や、都會の熱鬧の中で呼吸してゐる者とは、較べものにならない。
だが、常に、向ふ河岸の、よく見えるのが、人間の眼である。
農村の人は都會を――都會の者は自然に富む郷土を――、兩方から向ふ河岸は※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、301-13]望され易い。從つて、自分の工場に、又職業に、不滿を抱く、信念を缺いてくる。
「私は百姓です」
「私は八百屋です」
「私は職工です」
そんな事すら、改まつた場所だと、云ひ憚る人がある。職業に信念のない證據であらう。何といふケチな態度かと思ふ。自分の職業を自分で卑下してゐるやうな事ではその人間の發展も覺束ない。又、職業といふものと、人間の價値といふものと、混同してゐるものである。
自分の天職に對して、その職に成り切つてゐる人を見ると、私は自然に頭の下がる氣がする。――交通巡査が交通巡査に――看護婦が看護婦に――百姓が百姓に――職工が職工に――すべての職業人が天職に向つて他目わきめも觸らないでゐる働きぶりを見かけると、偉い、と眞底から思ふ。その姿こそ、人間として實に立派だと思ふ。然し、職を持たない人は殆ど無いわけだが、その職に成りきつてゐる人間は、之又、殆ど少いと云つてもよい。
秀吉の偉さは、その職に成りきつた所にあると思ふ。草履取になれば、彼は又と無い草履取になつた。足輕になつても、侍格になつても、彼は、與へられた職分に於いて、その人になりきつてゐる。職業を變へてゆく事が、向上のやうに考へて、現在に懶怠らいだな人物などは、いくら方向の轉換を繰返しても、徒らに、逆さかとんぼを打つてゐるに過ぎない。ほんとに向上する人物は、紙屑屋なら、死ぬまでも、紙屑屋をしてゐるやうな顏をしてゐるものだ。
生活力といふものは不思議な力のものである。自分一人の口を糊しようと思つて、あくせく背骨を曲げて歩いてゐるやうな者は、およそ、その人自身の口一つさへ食ひ難かねてゐるものだ。
一家の責任を負つて、六、七人もの糊口を過さんと、孜々として働いてゐる者が、やつと自分と女房子ぐらゐを細々養つて行かれるぐらゐが關の山な實社會である。それが多數の生活實態である。
一村の計を、一町の計を、自分の腕で立ててみせるといふ程な心ぐみで、驀しぐらに働く時、初めて一家の計が立ち、やつと、幾分かの餘力を生じて來るのではあるまいか。大言壯語といふものは、口から外へ出しては、兎角床ゆかしげのないものであるが、百姓は、揮ふり下ろす鍬の下に、
「この鍬で、おれが日本の臺所を背負つてゐるのだ」
と云ふ位な信念はあつてもよい。工場に汗と油でまみれてゐる者も、
「おれの汗は、日本の産業を動かしてゐる油だ」
と、信念していい。
商業に、漁業に、又どんな雜業と雖も、職業には、かういふ光輝があるのだ。「食」は、働く者に當然與へられる天祿であり、「職」の使命は、もつと高い人類への貢獻にあるのである。「天職」といひ「職業の神聖」とは、そこで初めて云ひ得るのである。
更に、もう一歩、われ等の天職と、使命について、深く考へてみる必要がある。
非常時といふ聲は、流行的な時潮に乘せられて、すでに昨日の叫びかのやうに薄れ去つたが、依然として、皇國の前途には、非常時以上の難礁が、世界的に狂瀾の底に、根ぶかく横たはつてゐることは、諸君とても、否み得まい。
一日々々の生活道に於いて、すでに一身一業を持ち、しかもその上[#「しかもその上」は底本では「しかも その上」]、青年として、重大な未來を期待されてゐる諸君である。今を――この一日々々を、いかに信念して働いて行くのが正しいか。この稿は、それ一つを、諸君に告げ得ればそれで足りる。
幸ひ、先賢の言葉がある。幕末の人、大和五條の森田節齋の一詩に、
長槍ちやうそう大劍たいけん非我事わがことにあらず
把レ毫ふでをとつて欲レ報むくはんとほつす聖明君しやうめいのきみ
と云ふのがあるが、その節齋が、中川親王へ上せた書の中に、
殉國之具は、獨り刀劍のみと爲さず
文筆も亦、殉國の具たり
といふ一節がある。節齋は文人なので、かう云つたのであるが、私は、更にそれへ次の一章を加へて、彼の信念を普遍して、その儘、諸君へ贈つても、節齋に不服はあるまいと思ふ。
殉國之具は、獨り文筆のみと爲さず
鍬、亦然り
鐵槌、算帖、亦然らざるは無けん。
繰返して云ふ。「食」は天祿である。働く糧である。食ふことは、鳥獸ですら爲る。――然し、「職」は、貢獻だ。鳥獸の爲ないことである。
靜に居る心
起て、叫べ、躍進せよ。かう云へば青年の氣に入る、青年自體が、その精神期と生理状態が、すでに躍動的なものだから。
その意力や體力は尊いものだ。だが、いたづらに用ふべきものではない。動くべきではないと思ふ。動にも正動と盲動がある。
山陽の子、頼三樹だつたと思ふ、知人へ宛てた手紙のうちにかう云ふ意味の語を洩してゐるのを見た。
――近頃は國事横議ばやりにて、悲憤慷慨せざれば人でなきが如く世事相見え候も、由來、昂肩横刀の唾辯家にまことの志あるは見難しと存候小生など元々悲憤慷慨嫌ひの小膽者にて……云々。
安政の大獄にあの壯烈な殉國死をとげた人にして、平常、かくの如き沈湎ちんめんな謙讓を洩らしてゐるのである。
文化や國情は變化しても、人間のもつ本質はかはらない。兩刀こそおびてゐないが、今日でも悲憤慷慨の唾はずゐぶん吾々の顏にかかる。然し、それが何の益ぞ。
さういふ聲に青年はめつたに動いてはならないし、又自分がかぶれてもならない。たとへば、一頃の赤化運動とか、政黨鬪爭とか、さういふ熱の昂つた時でも、すこし沈着な靜思を平常に持つてゐたなら、ああいふ盲動やお先棒を青年は擔がずに濟んでゐたらうと思ふ。
地方を旅行してみると、選擧肅正の運動の下から、すぐ違反事件がとび出したり、政治運動化してゐたり、又、いたづらに國事に名づけて青年を糾合したり、目まぐるしい現實を隨所に見せつけられる。
又、都會にあつては、ここにも青年の神經を徒らに騷亂するものがある。むかしの浮世風呂にかはつて、近頃では公然と刊行物がものをいふ。
職業へ驀ツしぐらにかかる、生涯の或る目標へ必死にすすむ、勿論いいことだ、さういふ正しい奮鬪をやすめとは云はない。私の云ひたいのは、ここ數年青年は動搖期だつた。それも體驗にはなつたが、一應この邊で各々が落着いて、靜思の一時間でも持つてもらひたいといふことである。偉大なる青年の「正動」は、靜かな「蓄力」から生まれないで何處から出て來よう。
前章にも云つたが、
「うごくな、うごかされるな!」
これを私は暫く同氣の諸君と共に目標として在りたい、無爲に居るといふのでは勿論ない。
靜心蓄力
だ。また靜觀養心だ。ほんとに國家が全青年の奮起を要する大事にいたる迄は、山の如く林の如く、われ等はつまらない事々にうごくまい、うごかされまい。
備へておかう、身を精神こころを、養つてゐよう。
秋である。燈下書に親しむの時だ、一日寸念でもよい、一日一章でもよい、業の餘暇、靜思して日本の明日を見まもらう。
神と科學
人智――進んでやまない吾々の科學的なものの考へ方は、遂に、神へまで及ぼしてゐる。いや神は無いものとして、失ひかけようとすらしてゐる。
神とは何か。
神はあるか、無いか。
神は、眼に見えない。然し、神は屡々僕らの眼にその力を顯然と示してゐる。日本の建國史は神々の業である。史上の國難のページには必ず神力があり、神人の犧牲がある。
神國といふ言葉は、日本に於いてのみは、決して、架空ではない。それを「無」とするならば歴史を「無」としなければならない。
正しく、われ等の踏んでゐる國土は、神土である。
信仰、又精神、さういふ幽玄な學問から神を觀るならば、神は、この宇宙と大自然のそのままが神のすがたであるともいへよう。われ等を生んだ創造の母胎こそ神であるといふのも一説である。いはしの頭も信心といふ諺は、萬物すべて神であり、唯一信心に依るといふ説き方であるが現代人に、殊に青年の思想では、さういふ盲拜的な信心力は沸り得ない。
定義し得ないものが神だ。
神とは、かかる物なり、と人間の使用してゐる言葉のうちでは云ひ得ないものが神である。
神は、ほかに有るものではない。我といふこの身こそ、神である。
これはやや神に近いものを云ひ現はしてゐるけれど、また、そんな言葉では足りない。又、淺く考へられると、神を誤まる惧れがある。
やはり、神は、人間より遙かに遠いものだ、高いものだ。
然し、求めれば、自分の内にさへ、頭にさへ、神は宿る。
人間は、神になれる。だが、人間は神と正反對なものに成る性能も多分に持つてゐるものだ。
もし吾々の住む社會に神が無かつたら何うだらう。まづ、人類の精神美は、殆ど、眞つ黒に消える。恐怖と、不安ばかりの社會にならう。警察力などは、何の用もなさないに違ひない。猛獸に、智惠を加へたやうな生き物と生き物とが、唯、生存を爭ふのみの怖しいこの世を現出するに極つてゐる。
なぜならば、人間が、他の幸福を尊重することや、他を愛する心などは、すべて、神の働きだからである。
大きな愛郷心や、愛國心は、その儘が、神である。史上の偉人を祠り、郷土の恩人を祠るのはその人の赫々とした權化の鏡を、われ等に反映して、われ等の血のうちにもある。神の働きを墮眠させない爲である。神前に立つて禮拜する時、拍手は大きく打て、われ等のうちの神も醒めよと。
唯物主義者は、自分たちの偏頗な學理に、勝利の定義を確證しようとして、神の無を主張し、神の衣を剥ぎ、神の正體を、人間生活のうちから否定し去らうとするが、遂に、また彼等の理智は、それを爲し得ない。いや、爲し得ないのみでなく、遂に、彼等も亦、いつのまにか神のうちに住み、自身のうちに神を抱いてゐる。
ロシアのマルキシズム國策は、神を否定し、宗教を破壞し去つて、國民から、神を奪りあげたが、國民は熾烈に神を求め、いつのまにか宗教を、再建してゐるといふ最近の實相などを見ても頷ける。神の否定はそのまま、人間否定である。
先頃、東京灣に、第一艦隊が入港した折、參觀を許されて徳田秋聲、上司小劍等と共に、三隈を觀た。
その折、感じた事であるが、軍艦ほど、科學的なものはない。あらゆる科學の精粹と最新式な人智を以て人間の腦髓のやうに科學を詰めこんだものが近年の軍艦である。三隈は昨年の八月に竣工して、世界的な優秀巡洋艦と云はれてゐるものだけに、その威力は驚くべき超科學的なものである。
又、その艦内に住む士官、水兵、火夫の衣食住に至るまで、すべて嚴密な數學と科學化に統制されたものであつて、ここに微塵の土もないし草もない。
處が、副艦長と海軍省の將校に導かれて、上甲板から順次、中甲板まで觀てゆくと、鋼鐵の壁と、鋼鐵の梁とで組まれた狹い天井の一端に、小さな一穗すゐの燈芯が灯ともつてゐるので、よくよく凝視すると、それは、僕らの家にあるやうな檜の板で吊つた神棚であつた。
何か、異樣な氣持に打たれて、私たちは、その神棚の下に佇立した。三隈といふ艦名は、飛騨の三隈川の地名をとつたので、その河川の上流にある郷社の神魂みたまを艦に移して來たのです、と案内の副艦長は僕らに説明した。
神を禮拜せよといふ規則はべつに設けてないが、士官、水兵たちは、必ず毎朝の起床後には、ここへ來て拍手を打つといふ事でもあつた。
又、海洋遠く故國を離れてゐる時は、この一穗の神灯みあかしが、日本そのものの一點の明りに見えるとも副艦長は云つた。水兵たちの故郷の家から、老いたる母が病氣であるとか、弟妹の身に心配事があるとか便りのあつた時は、その水兵は、日に幾度も、この神棚の前へ來て、默祷してゐるさうである。
郷里の風水害と聞けば、水兵等は、郷土のつつがない事をここへ祈念し、演習といへば、戰といへば、こぞつて、ここに報國の誓ひをするのですともその副艦長は僕等に話した。
世界優秀な科學と威力の鐵壁、その中に住んでも、人間は、遂に、一穗の神みあかし――精神の燈火――それが無くては居られないものだといふ實際を僕は軍艦の中で觀た。
帝國軍艦の超弩級戰艦をはじめ、日本の軍艦には、すべて、三隈と同じ神棚が必ず一ヶ所に祠られてあるのですと聞いて、猶更、その感を深くした。
渺々の海洋上に於いてさへさうである。いはんや、われらの遠い祖神人の踏み耕やして來た農土の上には、神、顯然と在さずして何うしようか。
ビルデイングの内、機械油の煤る工場の内、われ等の生活の灯ともる所、神のおはさぬ所はない。神が無くてよい所はない。
科學萬能的な考へ方と、科學至上的な現代社會相のうちでは、ともすると、一穗のその灯が、人々の心から、消えなんとし、細々と捨ておかれ勝になる事は怖ろしい。
と云うて、われ等は、神の存在を信奉する餘り、神に恃む心を起してはならない。その場合こそ、心のうちにも外にも、神はない。
宮本武藏は、自著獨行道のうちでかう誡めてゐる。
われ、神佛を尊んで、神佛を恃まず。

あらゆる事相に對して、明確な認識を青年は持つべきである。青年道に、忌避、回避はない。澄徹した觀照の下に、理解を信念化して、常に丹田にすゑて置くべきだ。わけても、金は、精神に對立する最も大きい物的存在である。それに對して、はつきりした心構へと定見を持つことは、云ふ迄もなく、處世の備へであり、又、青年道の大事でもある。――然しながら、私はいはゆる利算の法を説くには適しない人間である。ここに云ふところの信念は、即ち、それに不適な人間の信念であつて、利殖拜金の學問ではないことを斷つておく。
金は大いに儲けたいものだ。正々堂々、儲けるべきものだ。
大いに意義のある仕事を爲すためには。
小さくは寒い一家の計を暖かにさしてやる爲にも。
郷土、或は、國家の爲ならば、猶、わき目をふらず蓄めてもいい。
金は、懷中に入れると、血管にまで浸みこんでゆく。なぜならば、持たない前と、持つた後とは、その人間の心までを變化させる力があるからである。
金は、懷中で持つものだ。血管にまで金が浸みこんだ人間の人格は、もう、人間の人格とは云へない。それは金の人格である。
金以外に、昂奮も感激もできなくなつた人間は、モルヒネがなければ生きてゆくかひが無いと云ふ人間と同じ不幸者である。金以外に感激のない人間は又、危險である。友情も、恩義も、或る場合は骨肉をも裏切るくらゐの兇勇を金の爲には奮ひ出すからである。
金、金、金と、口癖に云つてゐる人間が、金から滿足を得た例しは殆どない。
なぜならば、社會は、餘り露骨に欲する者には、却つて與へたがらない、意地のわるい反對心理をも多く作用するものだからである。泳ぎながら水の上の西瓜を追つてゐるやうな男の人生を見ると、滑稽と憐愍を感じる。假に、滿足を感じ得る僥倖に遭遇しても、途端にその男は、金の下になつて溺れてゐるにちがひない。
銘刀を持つにも、銘刀を持つだけの腕が要る。
金を持つにも、程度に依り、それだけの人間の格が要る。
不要意に、金を持つた人間が、金の爲に生涯を害されるのは、金に暗殺されたのと同じである。
自己の素養ができないうちに、金のみを渇望してゐる人間がよくあるが、さういふ人間に、持つだけの素養を人格に心がけてゐる者は尠い。
大きな金を望まないから、今日をもうすこし樂に切りぬけるだけの金が欲しいなどと嘆いてゐては、所詮、零細な端た金の餘裕もついて來る筈はない。
眼の前の百難と鬪ひぬいてみる。汗も血も絞りつくしてみる。氣がついてみた時は、必ずそんな程度の望みはいつのまにか遂げられてゐる筈だ。今の社會組織は、金力が多くを支配するかはりに、努力に對して金が無反應であることは絶對にない。
もし、かりにである。
飢渇と寒さにふるへてゆく十二月の晦日に近い道に、金が落ちてゐたとする。
それへ、手を出す前の人間の心理は、どう動くだらうか。
やはり誰でも無意識にも一度はその前に立ちどまるだらう。――然し、その一瞬におよそその人間の將來は計ることができる。
もし、その金を、一笑して、石のやうに見て去る人だつたら、その男は、生涯金に困らない人間になると思ふ。
反對に、それを拾つて、一時の飢寒をなぐさめた方は、その後も、更にひどい飢寒に度々見舞はれる人だらうと思ふ。
青年時代には、衣食とたしなみの金にさへ事を缺かねばよい。場合に依つては、生きて行かれる程度の金さへあればよい。修養鍛錬は、後にはでき難いが、金はいそぐにあたらない。又急いで得られる物でもない。たとへ僥倖な利を青年期に占めた例外があつても、それが終生の幸福になつた例外は殆ど稀れである。
無視できない、卑しむべきでもない、日々に、事々に、金の力は、精神力へ向つて、威を誇り鬪ひを挑む。
精神力だけでは生きてゆかれないが、金だけならば何といはれても生きてゆかれさうな氣がするので、人間は、脆くも、自己鍛錬も、道義も、人格も、放抛してしまふのである。金錢至上主義の小さな殼に入りこんで蟲の如く棲んでしまふ。
だが、事實は、反對だ。
金だけでは、人間は、天與の生活を宏大清明に樂しむことはできないが、精神的に生きるぶんには、悠久な富國長春の人生を樂しみあふことができる。
なぜならば、正しい精神力には、必然物質を生じてくるからである。
悲劇、罪惡、あらゆる人生の醜惡面を、金は惡魔的に孜々として描き出す。
然し、人間の美――文化への貢獻、周圍への救援、弱い骨肉への扶養――と云ふやうな涙ぐましい善事も金がする。
紙幣は、人間が、便法として製つくつた假定の證標であつて、眞實は、金のやり取りが社會でも人生でもない。精神の代表を運輸してゐるのだ。
要するに、金は、やはり單なる「唯物」ではない、「精神」である。
酒に學ぶ
正月だ、酒の香ひに充ちる新春だ。酒を語るも又よからうと思ふ。
酒に飮み方はない、米に喰ひ方がないやうに――。だが、米や物を喰べるのは、肉體を養ふのが目的だし、酒を飮むのは、精神を樂しましめる所に本來の目的があるのであるから、盃を持つ場合と、茶碗を持つ場合とでは、自ら心の措き方が違つてゐる筈のものだ。從つて、そこに作法の相違はあるわけになる。そして、かういふ事が先づ酒を飮む折の原則として心になければならないと思ふ。
物を食ふごとく酒は飮むべきものでない。
酒は米の水だといふけれど、僕に云はせれば、酒は日本刀を液體にしたやうなものだと云ひたい。洋酒は音樂に近い。日本酒はさながら日本刀の味に似てゐる。
あの清淨冷徹なにほひ、あの芳烈無比な味。
酒は斬れるものだ。
まちがふと、人も斬る、自分をも斬る。
銘刀をあつかふには、名匠のたましひに觸れるだけの心構へが要る。酒を飮んでたのしむには自分のたましひに怪我をさせない程な要意がいる。人と交つて飮むには更に戒心を要する。
手――盃に觸れる時、心に、日本刀のあの冴えたる斬れ味や錵にえやみだれを思うて見る。色、香、味。さながら銘刀を飮むやうに美味くなければならない。
組し易しと侮つて、酒をいじると、酒のために斬り伏せられる。當然なことだ。青年が酒の爲に過つのは、酒がわるいのではなく、酒のあつかひ方を知らぬ爲である。子供が日本刀を弄具にして血みどろになるのと同じ事だ。指ぐらゐ落して濟んでゐるうちはまだよいが、しまひには、生涯の運命を血みどろにしてしまふ。
酒を惡魔視してゐる人がある。酒の害ばかり觀念して、酒を罪惡のやうに見る。恐いもの扱ひにする。あれもいけない。
恐いと云つたら、人間が何より恐いものだ。惡魔質も害毒性も、酒よりは人間の方が持つてゐる。その人間の中に住んでゐる人間である。酒を恐がつて、酒と交際はないほど偏狹を持つなら、人間とも交際ひを斷たなければなるまい。
友を選ぶが如く、程よく、酒とも理解を持合ふべきである。――自分が飮んでも飮まないでもである。
吾人の周圍をながめると――知己の間にも、系累のうちにも、酒に肉體を害され、酒に人生の行路を過つた者は、ずゐぶん尠くない。
時には、酒毒、九族にも祟る。
だからと云つて、僕は酒の害のみを説けない。むしろ、さういふ一面があればこそ、僕は、酒に學びたい。師に師事するごとく、敬虔に酒につかへ、酒からも人生を學びたい。
飮むと赤くなる。あのやうに、酒は、常にひそんでゐるその人間の性格をも外へあらはしてくる。
友と飮めば、忽ち親しくなる。初めて會つた人と飮んでも、十年の知己のやうに振舞ふやうになる。
酒のうへでは、性格をかくされないものである。で、酒を人と飮む事は――人間のたましひとたましひとが素肌で觸れあふやうなものだ。
醉ふ人を見たまへ。
痴人は痴を吐く、狂人は狂を吐く、利己人は利己を吐く、詩人は詩を吐く。
ふだんの賢人も、ここでは、本音をふいてしまふ。素肌のたましひが躍動して出る。血管にない血が色に出る筈もないやうに、たましひに無いものは決して言語や振舞に出る譯のものではない。酒の上などといふ云譯は絶對に爲ないものだ。酒のうへの事も亦、人間の眞實を表現してゐるものに他ならない。
酒のうちが、いちばん人間がわかる。同時に、酒のうちでは、自分といふものも、最もむきだしに人中へ見せてゐる。
戯れつ、唄ひつ、笑ひつ、心をたのしませて飮んでゐても、酒は、いつも眞劍勝負である。さういふ時ほど、實は白刄の中である。
白刄の中に樂しむ事が大勢で飮む酒である。白匁に恟すくんでしまつてもいけないのだ。妙に構へてゐてもいけないのだ。春風と柳の葉の樣に睦じくなければ酒をのむかひもない。大勢で飮む樂しみはない。
飮むといふのでは、まだ酒を解さぬ人である。仰飮あほるなどは、愚の沙汰だ。よく酒量を誇つて大杯で鯨飮をやつて痛快がる人があるが、小便の逆さま事にひとしい藝である。
たしなむといふ言葉。酒はたしなみでありたい。
又、飮むといふよりは、酒を愛するのでなければならない。愛することは、淫することではない。名墨を摺るごとく、黄金をながす如く、一滴も惜み味はふこと。
又、酒以外の境地――ゆるされたる人生のうちの少時間を、生命のふくらみを和やかに醗酵された氣分のうちに樂しむのでなければ酒は何等の意味もない。
舌で飮む酒は危險が多い。
人のたのしむを以て、自分もたのしむ。
酒の眞味は、これ以外にない。
獨り酒をのむ場合も同じ氣持ちでなければならぬ。
自分を自分で、つつましく、宥はり、なぐさめ、感謝し、鼓舞する。さういふ慰勞の一酌こそ酒は米にも優る氣がする。
自暴、狂噪、愚痴、麻睡、怠惰を求めて飮むなどはおよそ滑稽な自殺行爲にひとしい。青年の最も唾棄すべきものだ。かりにさういふ性癖が自己のうちに微量でもあると自覺したら、今のうちに戒心して、敬虔に酒に師事せよ。酒に修養せよ。
出來ない者は、盃を石に向つて捨てろ。 
 

 

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