卑弥呼

女王卑彌呼 / 魏志倭人伝の謎邪馬台国の九州説と大和説記紀と魏志倭人伝
卑彌呼とは / 天照大神説天照大神説倭迹迹日百襲姫命説記紀にない存在説
魏志倭人伝概要 / 対馬から奴国奴国風俗習慣制度東アジア東アジアと日本の安全保障対魏外交記録1対魏外交記録2卑彌呼の死魏志倭人伝成立の経緯
魏志倭人伝の信憑性 / 信憑性地理的信憑性シナ正史の信憑性
卑彌呼名の探索 / 記紀の卑彌呼倭と大和の語源大和の地理日本国号と天皇尊称の由来魏志倭人伝の信憑性
天照大神説 / 天の岩屋出雲の国譲りと天孫降臨神武天皇の東征物語饒速日命の帰順神武天皇の即位と崩御天の岩屋伝説古代日蝕と記紀の実紀年卑彌呼=天照大神説
神功皇后説 / 第14代仲哀天皇三国史記と好太王碑にのこる神功皇后の事績海外遠征好太王碑による三韓征伐東征伝説任那日本府設置臺與時代の使者派遣第15代應神天皇論語の到来應神天皇崩御と神功皇后実在性神功皇后実紀年魏志倭人伝との一致神功皇后説の確からしさ
倭迹迹日百襲姫命 / 第10代崇神天皇崇神天皇三輪山進出倭迹迹日百襲姫命の神託三輪山と大神神社1三輪山と大神神社2三輪山と大神神社3三輪山と大神神社4倭迹迹日百襲姫命の未来予知と急死稲荷山刀銘第11代垂仁天皇日本武尊が活躍する第12代景行天皇紀
倭迹迹日百襲姫命と籠神社《邪馬台国大和説》 / 親族笠井新也肥後和男倭迹迹日百襲姫命名の意味と別名倭姫命世記の伊勢神宮遷宮籠神社の神宝籠神社の勘注系図勘注系図にある倭迹迹日百襲姫命尊称勘注系図と卑彌呼三種の神器
箸墓と纒向京 / 邪馬台国と大和唐古鍵遺跡と纒向京纒向京年輪年代法編年表の修正纒向京の前方後円墳概観纒向京1纒向京2「祖型」巨大前方後円墳概要箸墓の謎1箸墓の謎2倭迹迹日百襲姫命説の確からしさ・・・
諸説 / 卑弥呼の鏡卑彌呼考文身と鬼道荒御魂
 

雑学の世界・補考   

第一章 奈良時代の学者も知っていた女王卑彌呼

やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし麗し
〔倭建命/日本武尊(古事記)〕
「大和はわが国のなかでもっとも優れた土地だ。青い垣根のように重なった山々に囲まれた大和はなんと麗しいことか。(出典は古事記だが、日本書紀では似た歌が日本武尊の父景行天皇の御製とされている。古くから謡われてきた大和賛歌なのだろう)」
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
〔須佐之男命/素戔鳴尊(古事記)〕
「八雲立つ出雲の地に雲のように幾重にも垣をめぐらし、妻のいるところとして幾重にも垣をつくっている。ああ、この幾重にもめぐらした垣よ。(高天原を追われた尊が出雲国に宮をつくったときの歌で、日本で最初の五七五七七形式の短歌ともいわれる)」 
1-1 「魏志倭人伝」の二つの謎

 

天才的軍師として有名な諸葛孔明が活躍した魏・蜀・呉の三国時代の歴史を記したシナの「三国志」のなかに、「魏志倭人伝」と通称されるみじかな文章がある。
魏というのは、三国時代に覇をとなえた魏の国のことで、倭人というのは、昔のシナの役人が日本人を呼ぶときに使った言葉である。
つまり「魏志倭人伝」とは、史書「三国志」のなかの魏の国の歴史を記した部分にある、日本人についての記事――ということになる。
それによると、三世紀前半の日本に《邪馬台国》と呼ばれる国があり、そこに(卑彌呼)なる女王がいて、三国のうちで日本にいちばん近い魏の国と外交関係をむすんでいたのだという。
諸葛孔明らの活躍を面白く描いた「三国志演義」は十四世紀に完成した大衆文学だが、「三国志」はずっと古く三世紀末に完成した正式の史書である。
したがってそこにある「魏志倭人伝」は、日本について記述した公的で最古の外国文献であり、かつ日本国内には同時代に書かれた文献が発見されていないため、古くから歴史家たちに興味をもたれてきた。
二つの疑問と多様な意見 
ただ、「魏志倭人伝」は記述があまりにも断片的でそれだけでは詳細がわからないため、
「《邪馬台国》とはいったいどこにあったのか?」「女王(卑彌呼)とはいったい何者なのか?」といった疑問が生じた。
この疑問の起源はとても古く、現存するわが国最古の史書「古事記」「日本書紀」(あわせて「記紀」という)の時代からあったらしいのだが、江戸中期から学者の興味をひくようになり、江戸中期〜明治〜大正〜昭和(戦前)〜昭和(戦後)〜平成と、時代が下がるにしたがって議論は盛んになった。
とくに戦後の昭和後半からは、専門の歴史家や考古学者だけでなく、アマチュアの歴史ファンたち――そのなかには在野の歴史家といわれる人もいれば単なる空想好きなマニアもいる――が議論に参入したため、おびただしい量の意見が発表されるようになった。
さらには、(卑彌呼)を主人公にした小説も数多く出版されるようになった。とくに自費出版のなかにそれがひじょうに多く、じつに多様な見解が出されている。
《邪馬台国》や(卑彌呼)の読みにも、異説がたくさんある。
本書ではとりあえず「ヤマタイコク」「ヒミコ」と読んでおくが、「ヤマトコク」「ヒメコ」という説もある。
著者が昔読んでいた昭和二十年代の高校教科書では、(卑彌呼)の右と左に、「ヒミコ」と「ヒメコ」二種類のフリガナがうってあった。
また《邪馬台国》を「ヤマトコク」と読む意見も、多くの著名な学者が主張している。
古代の発音はこれら二つの見解の中間だったかもしれないし、どちらともいえないものだったかもしれない。
だから本書のフリガナはあくまでも仮のものである。
《邪馬台国》の場所についても、意見は多様である。図1・1に、これまで多くの学者やアマチュアが主張してきた《邪馬台国》の位置を図示してみた。
まことに百花繚乱である。
なかには日本列島をはみ出してフィリピンやインドネシアや中東説をまじめに主張する人もいるし、さらには「魏志倭人伝」のなかにある他の国を南米に求める意見まである。
議論の収束と本書執筆の理由 
このように《邪馬台国》問題は収拾がつかないほど拡がりが大きく、呆然としてしまうほどなのだが、しかし平成にはいってから、山のようにあったこれらの議論がしだいに収束の傾向をみせはじめた。
三世紀前後の時代の考古学的な研究がおどろくほどの進展をみせ、新発見があいつぎ、従来の定説がつぎつぎにくつがえされたからである。
著者は古代史・考古学ともに素人であるが、その素人がこのような原稿を書こうと思いたったのは、考古学の進展によって議論が収束しつつあることを知り、さいきんの良心的な学者たちの研究成果を自分なりに勉強してまとめてみたいと考えたからである。
さらにもうひとつ理由がある。
それは、戦後の議論や教育のなかで、現存するわが国最古の史書である「古事記」や「日本書紀」が軽視されすぎていることへの不満である。
「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」といった古い書物は、とうじの日本人のあいだに伝えられていた記憶が結晶したものであり、編者による脚色があったとしても、そこには古代の貴重な情報が秘められているにちがいない。
だからこれらを軽視するのは科学的態度とは思えないのだ。
そこで本書では、「記紀」を最大限に活用することにし、同時に若い人たちのための「記紀」の解説にも意を用いることにした。
大和の定義 
さてつぎに、先の設問のうちの、「《邪馬台国》とはいったいどこにあったのか?」について、どのような学者がどのような説を述べてきたかをまとめてみることにしよう。
(卑彌呼)のほうは、《邪馬台国》が決まればおのずと範囲がせばめられるから、あとまわしでよい。
よく知られているように、《邪馬台国》の位置についての見解は、「九州説」と「畿内説」に大きく分けられる。
このうち「九州説」は北九州から南九州までばらつきがあるが、「畿内説」のほとんどは奈良県内の「大和説」である。
畿内とは古代に都がおかれた大和・河内・和泉・摂津・山城(現在の奈良県・大阪府および京都府の一部)であるが、大和地方以外に求める意見はすくないので、本書では以後「畿内説」とはいわず、「大和説」と記すことにする。
ただし大和とは以下に記すように大から小までいくつかの定義があるので、本書での定義を明確にしておかねばならない。
一 大和魂、大和撫子など日本全体を指す場合。
二 八世紀ごろからの行政区分としての大和国、つまり現在のほぼ奈良県全体。
三 古くからヤマトと呼ばれてきた地域で、奈良県の北西部にひろがる奈良盆地一帯。
四 古代からヤマトと呼ばれてきたとされる地域で、北方の奈良市などを除いた奈良盆地の南東部(いまの桜井市とその周辺の天理市・田原本町・橿原市・明日香村など)。
五 ヤマトという言葉の発祥の地ともされる限定された地域で、桜井市のなかで神の山とされる《三輪山》の北西山麓にある纏向遺跡とそのすぐ北(朝和・柳本地区)および南(磐余地区)からなる地域。
多くの「大和説」の学者が推理している《邪馬台国》は、このなかの四または五に含まれる。
したがって本書では、大和を主として四や五の意味でつかうことにする。
ただし他の意味で使うこともあるので、紛らわしくなる場合には《 》で囲った《大和》という表記で四や五の大和をあらわすことにする。
1-2 《邪馬台国》九州説と大和説

 

「九州説」の学者、「大和説」の学者 
《邪馬台国》の位置については、図1・1のように「九州説」と「大和説」のほかにも多くの説があり、とくにアマチュアの説に奇想天外なものがあって、日本列島以外に求める人もいるわけだが、学問的レベルの高い専門の歴史家や考古学者で九州と大和の二箇所以外を主張する人はすくない。
そこでここでは、この二つの説を述べた著名な学者の名前を並べてみよう。
名前の下の( )内に主な経歴を記した。数字は生年である。
《邪馬台国》九州説
 新井白石 (1657/江戸前中期の儒学者・大和説から九州説に変化)
 本居宣長 (1730/江戸中期の著名な国学者・古事記伝で有名)
 菅 政友 (1824/明治の史家・石上神宮大宮司)
 久米邦武 (1839/文博・岩倉使節団員として米欧回覧実記を執筆・史家・東大教授)
 星野 恒 (1839/文博・史学漢学・東大教授・史学会会長)
 那珂通世 (1851/文博・東洋史学・一高教授)
 白鳥庫吉 (1865/文博・東洋史学・東大教授・東洋文庫主宰・昭和天皇へご進講)
 津田左右吉(1873/文博・白鳥の弟子・古代史学・早大教授・文化勲章受章)
 橋本増吉 (1880/文博・史学・慶應大教授・東洋大学長)
 太田 亮 (1884/法博・立命館大学教授・神道学者・神宮皇學館出身)
 坂本太郎 (1901/文博・東大教授・歴史学・史料編纂所長・文化勲章受章)
 榎 一雄 (1913/文博・東大教授・史学・東洋文庫理事長)
 斉藤國治 (1913/理博・東京天文台教授・古代の日蝕研究など古天文学を開拓)
 井上光貞 (1916/文博・東大教授・歴史学・国立歴史民族博物館初代館長)
 谷川健一 (1921/日本地名研究所長・史家)
 田中 卓 (1923/文博・歴史学・皇學館大學学長)
 古田武彦 (1926/昭和薬科大学教授・邪馬台国研究家)
 森 浩一 (1928/考古学・同志社大学教授)
 安本美典 (1934/文博・日本語語源や邪馬台国研究・産能大学教授)
《邪馬台国》大和説
 舎人親王 ( 676/「日本書紀」編者)
 伴 信友 (1772/宣長の死後の弟子)
 三宅米吉 (1860/文博・東京文理大学長・帝室博物館長・考古学会会長)
 内藤湖南 (1866/文博・萬朝報主筆・京大教授・歴史学)
 高橋健自 (1871/文博・考古学者・三宅の弟子)
 笠井新也 (1884/四国徳島の考古学者・史家・中学校教頭だが鳥居龍藏に師事)
 和辻哲郎 (1889/文博・京大東大教授・歴史学哲学・文化勲章受章・はじめは九州説)
 肥後和男 (1899/文博・史家・東京教育大教授)
 三品彰英 (1902/文博・史家・大谷大・同志社大教授・大阪市立博物館長)
 志田不動麿(1902/東洋史学者・國學院大教授)
 末松保和 (1904/文博・朝鮮史・学習院大教授)
 室賀信夫 (1907/文博・地図史・東海大教授)
 樋口清之 (1909/文博・考古学・國學院短大学長・日本博物館学会会長・初め九州説)
 小林行雄 (1911/文博・考古学者・京大教授)
 和歌森太郎(1915/文博・東京文理大教授・歴史家・都留文科大学長)
 原田大六 (1917/旧制中卒・発掘に業績)
 直木孝次郎(1919/文博・日本古代史・岡山大学教授)
 樋口隆康 (1919/考古学・京都大学教授・橿原考古学研究所長・非断定)
 金関 恕 (1927/文博・考古学・天理大教授・大阪府立弥生文化博物館館長)
 田辺昭三 (1933/京都市埋蔵文化財研究所・考古学者・日本学士院賞)
 石野博信 (1933/考古学・徳島文理大教授・二上山博物館長・橿原考古学研究所)
 山尾幸久 (1935/立命館大学教授・七支刀研究)
 白石太一郎(1938/考古学・国立歴史民族博物館教授)
 都出比呂志(1942/考古学・大阪大学教授)
このなかで奈良時代の舎人親王は「日本書紀」の編者そのものなので奇異に思われるかもしれないが、じつは「日本書紀」には「魏志倭人伝」が引用されており、そのことから、編者たちが(神功皇后)を(卑彌呼)としていたらしいことが判明するのである。
この引用はすこし後で加えられたとする見解が主流であるが、「記紀」には他にもシナや朝鮮の史書の引用がたくさんあり、記述法自体も影響を受けており、「記紀」編纂の担当者たちが多くの海外文献を読んでいたことはまちがいない。
文化勲章級学者でも意見が対立 
さて、ここにあげた学者は、そのほとんどが有名大学教授で文学博士といった人たちであり、文化勲章受章者が何人もいる。
そういう日本を代表する知性の持ち主のあいだで意見が分かれるのだから、《邪馬台国》問題がいかに一筋縄でいかないものかがわかる。
アマチュア学者や在野学者はあまりあげなかったが、あげだすときりがない。そしてそのほとんどは「九州説」である。
著名人としては、婦人生活社を創立した原田常治、推理作家の松本清張、会社社長で盲目の作詩作曲家でもあった宮崎康平、歴史作家の邦光史郎、歌手の三波春夫、作家の井沢元彦・・・などが「九州説」で知られている。
なかでも宮崎康平は、昭和四十二年に出版した「まぼろしの邪馬台国」で《邪馬台国》ブームを起こした。
一方「大和説」では、俳優としてTVでよく見かける苅谷俊介、好著「卑弥呼の謎年輪の証言」を書いたジャーナリストの倉橋秀夫、異色の在野研究者で芥川賞作家の高城修三などがいるが、数では少数派である。
とくに小説となると、黒岩重吾の「鬼道の女王卑弥呼」など、圧倒的に「九州説」が優位である。その方がロマンがあり物語性が豊かで小説にしやすいので、当然といえば当然である。
この一覧でもうひとつ気づくのは、考古学者の多くが「大和説」をとっていることである。
大正十一年の高橋健自の論文は、古墳の考古学的研究から「大和説」をとった最初のものといわれている。
さいきんでは金関恕や白石太一郎が、慎重な表現ながら、かなり明確に「大和説」を述べている。
ただし考古学者のばあい、議論そのものには参入しないのがふつうである。
著者としては笠井新也、肥後和男といった学者の説に合理性を感じるが、それは第八章以降で詳述する。
《邪馬台国》の位置が仮定できると、つぎは(卑彌呼)の正体を探る段階になるが、「九州説」のほとんどは日本側の記録にはない有力者としているし、「大和説」では「記紀」にある人名をとる説と記録にない女王だとする説とにわかれる。  
1-3 「記紀」と「魏志倭人伝」

 

「魏志倭人伝」の問題で根元的に重要なのは、文献の信憑性についての吟味である。
「記紀」についての吟味は、《邪馬台国》問題とは関係なしに昔からあり、とくに飛鳥時代以前の歴代天皇の紀年(西暦紀元から起算した年数)の実際との差異については多くの研究があって、文献学的アプローチに考古学の成果を加えて、第十代崇神天皇くらいまではおおまかな意見の一致がみられる。
それより前は欠史八代といわれるくらいで、「記紀」の記述自体が乏しいので、紀年を探る作業はきわめて困難である。
初代の神武天皇については詳細な記述があるが、その即位が西暦前六六〇年(これを紀元とするのが皇紀)というのは、干支からいって辛酉という革命がおこるとされるおめでたい年を即位の年にし、歴史の古さを誇りたいという「記紀」編纂者たちの興国の志によっているとされ、いわば儀式的なものであるから、その正否を論じることはあまり意味がない。
時代区分の確認と日本人の先祖 
ここで参考までに、縄文から平安にかけての時代区分の概要を図1・2に示しておく。
日本どくとくの縄文時代がひじょうに古く長いことが印象的である。
しかもさいきんの考古学的発見によって、その起源は一万七千年前あたりまで、おおはばに延長される可能性がでてきた。
日本列島における人類の居住は、何十万年も前からだとの説もあるが、それは別問題として、いまのわれわれ日本人に直接つながる人たちの最古の姿は、特有の土器の模様から縄文時代と呼ばれる時代やその少し前の時代――すなわち旧石器時代(氷河期)を含んだほぼ二万年のあいだ――にできあがったのであろう。
では、縄文時代を切り開いた人たちがどこから来たのかであるが、縄文より前は日本列島は独立しておらず、北と南で大陸とつながっていて、日本海は巨大な湖だったので、北から南から西から、さまざまな種族が日本を往来することが可能だった。
また北方では、氷上を歩いて渡ることもできたらしい。
最近いちじるしく発展したDNAによる研究にもとづいて、それら多くの種族のなかでも、寒冷化に適応できなかったバイカル湖周辺の人々が約二万年前の氷河期に暖を求めて南下し、いくつかのルートで日本列島にわたって縄文人の主体をなした可能性が高い――という説が唱えられている。
しかしはっきりしたことは不明である。
いずれにせよ、縄文時代がはじまる直前に氷河期が終わって海面が上昇し、日本列島が大陸から地理的に独立し、温暖化によって緑が豊かになり、独自の文化を醸成するうえで絶好の環境ができた。
アジア諸地域からの海をこえての移動や混合はじわじわとなされたであろうが、幸いなことに、大陸における激しい民族の興亡の影響をじかには受けずにすんだのだ。
豊富な水と森林に恵まれ、外敵の脅威も減った日本列島の住民たちは、どくとくの文化や習俗をつくって、のちに縄文時代と言われた。
それら日本人の集団が、弥生時代を迎えて国内で交易や移動を活発化させ、大陸との物的あるいは人的な交流を深めながらさらにその文化を発展させ、ついに古墳時代を迎えるのだが、ちょうどその弥生時代と古墳時代の移行期――たぶん西暦一五〇年〜二五〇年ごろ――こそが、「魏志倭人伝」に記された《邪馬台国》の時代なのである。
多くの研究によって紀年修正された「記紀」の天皇紀でいえば、それは第十代崇神天皇の御代およびその少し前にあたっている。
したがって幸いなことに、「魏志倭人伝」と「記紀」との照合も可能だし、また近年の三世紀前後の考古学的研究の進展によって、遺跡からの考察もかなりの確度で可能になってきている。
(図1・2に関連するが、「古代」という用語がよくもちいられる。国史における「古代」は、古い辞書では神武天皇即位から飛鳥時代の直前まで――つまり聖徳太子や中大兄皇子によって法治国家が形をつくりはじめる前まで――をいうことが多く、さいきんの辞書では飛鳥・奈良・平安時代をいうことが多い。著者が勉強した史書類では古い用法がほとんどなので、本書では飛鳥時代の前までを「古代」と呼ぶことにする。こういう意味での「古代」の天皇家が狭い意味での大和朝廷である)
縄文・弥生交代説の退潮 
日本人はどこから来たのか、また日本語はどうやって出来たのか――といった日本民族起源論は昔からあり、延々として議論が続けられているが、さいきんの考古学的研究によれば、どうやら、縄文から弥生にかけて徐々に形成されていったもので、特定のある時期――たとえば弥生初期――に大陸から高い文化をもつ多くの移民がきて、それまで日本列島に住んでいた縄文人たちを駆逐して古墳文化を築いた――といった事態は、あまり考えられないらしい。
かつてこのような説を唱えていた学者も、さいきんでは自説を撤回することが多いようである。
じじつ、日本語はシナ大陸の諸言語とはかなり違っているし、朝鮮語とも同じではない。東南アジアにも同じ言語は見つからない。
似た側面をもつ言語はあちこちにあるが、直接つながることが証明された言語はない。
もし、圧倒的に高い文化の集団が到来して、それまでの住民を駆逐したとしたら、日本語がその集団の出発地の言語になっていた筈であり、出発地自体についての記憶が――神話や神社の伝承などに――鮮明に伝えられている筈であるが、そういうことはまったく見られないのだ。
ときおり、特定の地域に日本語の起源をもとめる説が発表されることがあるが、学界の批判に耐えて長続きしたことはない。
最近の研究では、日本語の起源はやはり縄文時代にまでさかのぼるらしい。
古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけての帰化人については、「記紀」などにも記されているのでかなり分かっていて、一時期の上層部――といっても身分の低い役人が主体――ではかなりの人数だったらしいが、当時の人口の大部分を占めていた農業・漁業・林業などに従事する一般の人々のなかにたくさんの帰化人がいたとは思われない。
(この帰化人の人数についての著者の論考は、「女性天皇の歴史」で述べてある)
したがって文化的・技術的には刺激を受けたとしても、日本語や日本人の血統自体が激変したことはないであろう。
帰化人たちの影響は、縄文から弥生の時代でも質的には同様だったと考えられる。量的にはたぶん、古墳時代より少なかったであろう。
つまり、文化的にはつねに刺激をうけつつ、言語や遺伝子については、ゆっくりとした影響をうけながら自律的に進展し、縄文時代から奈良時代にいたったと想像できるのである。
奈良時代を過ぎて平安時代にはいると帰化人も減り、九世紀末には遣唐使も廃止されて、閉ざされた世界で日本独特の文化が爛熟したことは、周知のとおりである。
なお帰化人の問題に関連して、かつて東大教授・江上波夫の騎馬民族征服説が流行したことがあった。
東北アジアの騎馬民族が日本を征服して崇神朝など大和朝廷をきずいたという大胆な説だが、さまざまな矛盾があり、いまでは支持する学者はすくない。
考古学的な証拠がほとんど見られないこととともに、「記紀」に英雄が騎乗して活躍する話が無いこと、大挙して海を渡った伝承が残されていないこと、故郷の地への憧憬が書かれていないことなども、反対意見の有力な論拠となっている。
戦前への誤解 
ここでわずかばかりの余談をお許しいただきたい。
戦後(大東亜戦争後)の通説のひとつとして、戦前・戦中は「記紀」の紀年、すなわち初代の神武天皇の即位が西暦換算で紀元前六六〇年などという記述を、そのまま信ずることを強要された――という意見があるが、それには疑問を感じる。
大正〜昭和初期の史学や考古学の論文を読むと、ほとんどの場合、「記紀」の紀年を大幅に修正するのはむしろ当然のこととして、その先の論述が展開されている。
和辻哲郎、肥後和男といった碩学たちも、戦前・戦中に「記紀」の批判的研究を禁じられたことはないと、戦後になって語っている。
もちろん反日的プロパガンダになれば話は別で排除されただろうし、公式行事としては皇紀二千六百年の祝典がにぎやかに行われた。
しかしそれをいうなら、現在でも両陛下は、この皇紀と「記紀」の記述にもとづいて、仁徳天皇陵への御拝などをなさっておられる。
それは、古い歴史をもつ国としては当然の行事である。遠い先祖を崇拝し、国の安寧を祈る儀式なのだ。
著者が小学校のときに学んだ「小學國史」にも、神武天皇の即位は書かれていても、それが何千何百年前であったとは記されていなかった。付録をよく読むと何となくわかるというていどであった。修身の教科書も同様だった。国の教科書ですら、公式行事の基準としての「記紀」紀年と、学問上の修正とを、両立させていたのである。
「魏志倭人伝」への批判精神 
このように「記紀」についての吟味は古くからなされていたが、一方の「魏志倭人伝」の信憑性についての吟味は、わが国に古来からある大陸文明への憧憬によってからか、なされることが少なかったようである。
江戸時代の本居宣長らの国学的な立場からの批判をべつにすれば、先の一覧のなかでこのことに明確な意見を述べているのは立命館教授の山尾幸久で、昭和四十年代に、「古事記・日本書紀などの国内史料に比べれば、中国の文献に対する本文批判は、一般にたいへん甘い。特に魏志倭人伝は、弁析すべき他の史料がほとんどないため、史料の限界を無視した議論がはなはだ多い(佐伯有清の引用より)」と警告している。
山尾自身の史観には疑問を感じる面もあるのだが、文献批判についてのこの意見は正しいと思う。
このような「魏志倭人伝」を無条件に受け入れるシナ礼賛の雰囲気はずっとつづいていたのだが、戦前から疑問を抱く学者も存在していた。
大和地方の遺跡発掘など考古学で多大な業績をあげた樋口清之は、「「記紀」がA級史料とすれば「魏志倭人伝」はB級史料にすぎない」と断定しているし、文化勲章の和辻哲郎も、(天照大神)の神話を聞いて(卑彌呼)の話を創作した疑いがある、と述べている。
さいきんでは、岡田英弘、渡部昇一、西尾幹二といった啓蒙家たちが、「こまかな議論には値しない文献だ」と主張している。 
 
第二章 卑彌呼とは誰か

 

あまてらす 神の御光 ありてこそ わが日のもとは くもらざりけれ
〔明治天皇御製〕
足姫(たらしひめ) 御船泊てけむ 松浦の海 妹が待つべき 月はへにつつ
〔万葉集3685〕
「神功皇后のお船が停泊したという松浦の海ではないが、妻が待っている月は過ぎてゆくばかりだ。(松と待つをかけている)」
三輪山を しかも隠すか 雲だにも こころあらなも 隠さふべしや
〔額田王/天智天皇(万葉集18)〕
「三輪山をどうしてそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。三輪山を隠してよいものだろうか。(大陸からの侵略に備えるために大和から近江へ突然遷都したときの望郷の歌として有名)」
さて、一般の人が使用する辞典類は、編集者が特定の意図を持っている場合を除けば、最大公約数的な記述をするのがふつうである。
そこで、人名辞典や歴史事典の類が(卑彌呼)について、どのように記しているか、引用してみよう。
「コンサイス日本人名辞典(三省堂)」/ 卑弥呼については、ヒメミコトの略とする説、ヒムカ(日向)という巫女王名とする説などがある。「日本書紀」は神功皇后にあてているが、倭迹迹日百襲姫命説や九州の女王説などがある。
「日本古代史事典(大和書房)」/ 邪馬台国九州説では、九州の女酋とし、近畿説では、倭迹迹日百襲姫命、倭姫命、神功皇后などに比定する説がある。
「詳解日本史重要人物辞典(教育社)」/ 神功皇后、倭迹迹日百襲姫命、倭姫命、熊襲の族長とする説などさまざまである。「ひめこ」とも読む。
「日本歴史人物事典(朝日新聞社)」/ 日女子、日の御子、日女御子など太陽の霊威を身につけた女性の称号。天照大神、神功皇后、倭迹迹日百襲姫命などの説があるが、神話なので根拠はない。
「国史大辞典(吉川弘文館)」/ 熊襲の女酋、天照大神、神功皇后、倭姫命、倭迹迹日百襲姫命などの説があるが定説はない。
「日本歴史大辞典(河出書房新社)」/ 邪馬台国の所在を九州とするか、大和とするかで、卑弥呼をある九州の女酋とする考えと、神功皇后や倭姫命、ないし倭迹迹日百襲姫命にあてるなど諸説がある。
「日本史年表ハンドブック(PHP研究所)」/ 九州の女王、神功皇后、天照大神、倭迹迹日百襲姫命その他の説がある。
「日本大百科全書(小学館)」/ 天照大神、神功皇后、倭姫命、倭迹迹日百襲姫命が候補になっている。
「万有百科大事典(小学館)」/ 天照大神、倭迹迹日百襲姫命、神功皇后などに比定する説がある。
これ以外のものも大同小異である。
(ここにあるすべての辞典に(倭迹迹日百襲姫命)が挙げられていることに注意されたい。一般に(卑彌呼)の候補として(天照大神)を除く辞典はかなりあるが、(倭迹迹日百襲姫命)を無視する辞典はほとんどない)
なお活躍した年代は、どの辞典でも三世紀前半としている。「魏志倭人伝」からそう考えられるからである。
このようにいろいろあるが、文献史料からいうと、九州に特定の名前を探すのは困難である。
「日本書紀」には、景行天皇の九州遠征時に、神夏磯媛や八女津媛に遭遇した記述があり、明治期にはこれらと(卑彌呼)を結びつける説も出たが、「日本書紀」の紀年を修正する研究の結果、かなり無理のあることがわかっている。
これらの媛の先代だろう――といった説もあるが、想像の域を出ない。
九州説の場合には、辞典類のように、巫女的な能力をもった女の酋長だろうというのが、一般的で、良心的な学者は個人名を文献に探してはいない。
(補足・わたしの手元にある昭和40年代の平凡社百科には、該当人物の推理は無い。ただ面白いのは、読みは「ヒメコ」として(ひめこ)の項にあり、説明文に「ヒミコ」とも読む――と注記がある。最近の同社百科では(ひみこ)の項にあるが、同じく該当人物の推理はない) 
2-1 天照大神説

 

まず、「魏志倭人伝」中の女王(卑彌呼)の正体について、前記辞書類にあったような、従来から一般によくいわれてきた説を列挙してみよう。
「日本書紀」重視の理由 
本題にはいる前に日本の古代史書と著者の考え方について触れておく。
本書ではテーマの性質上「古事記」と「日本書紀」に何度も言及することになるし、またそれを重視するつもりであることは前章で述べたが、参考文献としてはそのうちの正史(六国史の最初)である「日本書紀」を中心にすえることにしたい。
「日本書紀」は「古事記」よりずっと詳しく、日本国にとって不名誉なことも正々堂々と書かれているし、また別説も多く記載されているからである。
実質的には「日本書紀」の方が古いという説もかなりあるのだ。
「日本書紀」の信憑性については、江戸時代から多くの研究があり、とくに戦後の一時期には、単なる伝説や創作にすぎないという意見も出された。
しかしさいきんの考古学の進展によって、そこに記されている事柄の多くが史実――または史実の反映――であることが判明しつつある。
「日本書紀」と似た文章の書かれた木簡が、飛鳥時代の遺跡から何千も出土している。
「記紀」の完成は奈良時代の八世紀の初めであるが、そのとき参考にしたいくつかの書――「帝紀」「旧辞」など――があり、さらにその元は百年はさかのぼるとされている。
すなわち飛鳥の推古天皇の御代に聖徳太子らが主導して正史の編纂を開始し、整理された文献を蘇我氏の書庫にしまったといわれているのだ。
この文献は大化改新における蘇我氏滅亡のおりに焼失してしまったらしいのだが、記憶していた役人(当時の歴史家)は多かっただろうし、整理される前の記録は各方面――たとえば豪族たちの本拠――に保存されていたであろうから、八世紀初頭の「記紀」が百年前に整理された元史料によっていることは確かだとおもわれる。
で、この元史料が整理された七世紀初めというと、「魏志倭人伝」の(卑彌呼)の時代の三百年から四百年あとにすぎない。
しかも近世以降の数百年の時代変化にくらべて、古代における変化はずっとゆるやかだったから、古代の三百年はいまの百年以下だったと考えることができるであろう。
だから、聖徳太子の時代の歴史家が(卑彌呼)の時代をふりかえる作業は、現在の歴史家が、明治・大正または昭和の初期をふりかえる作業になぞらえることができる。
書物がほとんど無かったとしても、抜群の記憶力がそれを補い、代々家伝を伝誦する時代だったので、(卑彌呼)の時代についてのかなり正確な記録が「日本書紀」のなかに存在していると考えても、おかしくない。著者が「日本書紀」を重視するゆえんである。
(天照大神)説について 
さて、まず、「(卑彌呼)=(天照大神)説」――である。
(天照大神)は太陽を連想させるおなじみの女神で、高天原の主神であり、《伊勢神宮》に祀られている。他にもこの大神を祀った神社は数え切れないほどある。
さいきんの義務教育では記紀神話はあまり教えないらしいが、素戔嗚尊の乱暴で天の岩屋に隠れて天地が暗くなった伝説(図2・1)くらいは誰でも知っているであろう。
「古事記」では天照大御神と書き、「日本書紀」では生誕時の名は大日靈女貴(靈女は合わせて一つの文字)で、このほうがむしろ本名である。
また両書ともに尊称として日神とも記している。
この(天照大神)こそ(卑彌呼)の正体だという説は素人学者の好みにいちばん合っており、小説にもなりやすく、驚くほど多くのアマチュアがこの説を主張し、自費出版は
「(卑彌呼)=(天照大神)説」――の物語で花盛りである。
三波春夫に影響をあたえた原田常治などはその典型だし、さいきんでは井沢元彦もこれに近い説を述べている。
もちろん「記紀」の年代を信じれば、時代的にはまった合わないし、修正された紀年でも合わない。
古代の天皇一代の期間を十年として(天照大神)を(卑彌呼)の時代に合わせようとする議論もあるが、必然性に乏しい。
しかし伝説上の女王であることは間違いないし、とくに神武天皇の東征伝説とからめて、
「《邪馬台国》九州説」と矛盾しない説明ができる点が強みである。
年代については、(卑彌呼)の活躍への記憶が、(天照大神)の神話として残ったのだ――とすれば、矛盾は解消し、ロマンチックな空想や推理がいくらでもできる。小説に数多く書かれるゆえんである。
この(天照大神)説を補強する自然現象に「日蝕」がある。
(卑彌呼)の死の年と古代の皆既日蝕の年とが一致するため、もし天の岩屋伝説が日蝕をあらわしているとすれば、(卑彌呼)とは(天照大神)のことだ――という説が導かれるのだ。
古天文学の提唱者として知られ、古代の日蝕を研究した斉藤國治も、この(天照大神)説を有力視している。
井沢元彦もこの日蝕と天の岩屋伝説を結びつける斉藤の研究を取り上げて自説を補強している。
「(卑彌呼)=(天照大神)説」はロマンにあふれており、われわれの本能をくすぐるようなところがある。
かりに直接的な結びつきは無く、(卑彌呼)は別人であることが証明されたとしても、その別人が(天照大神)の伝承に影響した可能性はのこされるかもしれない。
「九州説」の白鳥庫吉は、昭和天皇に国史のご進講をした碩学だが、明治時代に、九州にいた(卑彌呼)が(天照大神)の伝承の原形となった――との推理を発表している。
また逆に、前章で記した和辻哲郎の説のように、(天照大神)の伝説を聞いた魏の使者がそれをもとに(卑彌呼)の話を書いた――ということも、考えられないではない。
なおもちろんのことであるが、「(卑彌呼)=(天照大神)説」は、「《邪馬台国》九州説」にむすびつく。(天照大神)は神武天皇が日向から大和へ遠征するはるか前の祖神だからである。
日本の「神」について 
この節のさいごに念のために記しておきたい。
「記紀」における日本の神々の「神」とは、語源的には川上の上や頭と同じとされ、すぐれた人や先祖や自然などへの尊称である。
のちの役職名のXX守やYY帥も語源はおなじだとされている。
卑近なところでは政府や行政を「お上」というのも、料亭の女主人を「女将」というのも、家庭の主婦を「おカミさん」というのも同源である。頭髪を「髪」というのも身体の頂上にある「上の毛」だからで、やはり同源だという説が有力である。この問題については異説もあり、上と神では古代の発音がちがう(甲類乙類の違い――後出)ので別源だとの説もあるのだが、肥後和男、渡部昇一らの碩学が同起源説を述べている。
他の資料(靖国神社一問一答)でも述べたことだが、ほぼ定説と言われている最近の研究結果を、茂木貞純氏(神社本庁)の「日本語と神道」から引用しておく。
「神代」と表記してクマシロともカミシロとも訓んだことが日本最古の辞書である「倭名類聚鈔」にみえる。クマは隈や熊などの字が当てられ、熊野等の地名が示すように奥まった隠れたところを意味する。このクマはクムという動詞から派生したという。姿を示さず隠れるというのが原義である。クムからクマの語が派生し、一方でカムという語も成立した。ウとアと母音の交代した結果だという。そのような語例がいくつもあるという。このクマと同義のカムから神と上の二つの語が成立してきたというのである。ゆえに、神と上とは同源同根の語であるという(阪倉篤義)。
この語源説は日本の神の実態ともぴったり合う。「神は高く深い山や森・遠い川上海上に隠れて目に見ることのできない存在である」「日本人はカミ(上)なる場所にカミ(神)の存在を見るとともに、そこに永遠の命の根源・霊界を考へた」(若井勲夫)。
とすれば「記紀」の神々とは、きわだって優れた祖先または多大な恩恵をあたえてくれる自然や人工物を尊敬して神社に祀ろうという気持ちそのものであり、いまの我々を超えてはいるが、西欧のゴッドとはまったく異なる人間的な存在である。
明治神宮・靖国神社・東郷神社などへの崇拝を想起すれば、それは理解できるであろう。
神道系の宗教として知られる黒住教、御嶽教、金光教、天理教・・・などは、教派神道と呼ばれた狭い意味での神道宗派であり、むしろ神々に基礎をおいた新宗教として位置づけられるものであって、一般的な神社や神道とは異なる。
一方日本の伝統的な神々とは、古い神社や昔からの氏神様を中心とする広い意味での神道――神社神道/古神道と呼ぶ学者もいる――に含まれ、先祖や自然や人工物への崇敬の念であり、日本民族の古くからの文化的伝統であって、神道以外の諸宗教と背反するものではない。
そもそも古神道には教祖がいないし経典もない。縄文から弥生にかけて、緑豊かな日本列島で日本人の先祖が生活している間に自然にできた、どくとくの文化だからである。そういう点で神道は、教祖のいる仏教・儒教・キリスト教などとは「次元」がちがっている。神道という用語もあとでできたものである。そして神道には「教」の字がついていないのだ。
神々の例をあげてみよう。
風は志那都比古神であり、野原は鹿屋野比賣神であり、火は火之夜藝速男神であり、排泄物までが神とされて、大便は波邇夜須毘古神、小便は彌都波能賣神と名づけられている。さらには、外国から来た宗教思想である仏教の守護神や仏そのものまで、神社に神として祀るようになった。
近代においては、「記紀」にでてくる神々だけではなく、明治天皇・東郷元帥・乃木大将など過去百年の偉人も神社に祀られたし、戦死した軍人は全員が神になった。
また人間以外では、多くの動植物や鉱物や空気までが祭神となっている。
神社に祀られる神々がキリスト教などの神とまったくことなる人間的存在であることがわかるであろう。
飛鳥時代以降に仏教が輸入されたが、仏教が普及すればするほど、儀式にも建造物にも古神道の伝統が取り入れられた。
原理主義を捨て、古神道の伝統を取り入れて融和し、神仏習合・本地垂迹・神宮寺・社殿形式や儀式の類似化などがなされた。
そのため、仏教は理屈を抜きにして庶民に受け入れられたのである。
(さらに平安後期から鎌倉時代にかけて、純日本的な仏教が誕生する)
これと反対にキリスト教は神道的な神々を軽視したため、ザビエル訪日からすでに五百年になろうというのに、信者は一パーセント以下にとどまっている。
神道が日本人の血肉となっているなによりの証拠である。
神社について 
以上のようなわけで、現存する神社の数も驚くほど多い。
神社本庁では伊勢神宮を本宗として、新宗教的な神社以外の神社を統括しているが、その数は、約八万である。
しかしこれは、宗教法人数であって、お社の数ではない。一般に法人としての神社には、境外摂末社・境内摂末社と呼ばれる、系列の神社が多数付属している。
たとえば、《伊勢神宮》は合計して百二十五のお社からなっているし、そこから分かれた熱田神宮は四十以上のお社からなっていて、合わせると二百にちかく、そのなかには巨大な神社がいくつもあるが、宗教法人としてはたったの二社である。
先の神社本庁の八万という神社数には、こういう摂末社は含まれていないので、じっさいにお社のある――つまりそこが神社であることがはっきりと分かる――神社の総数は八万より遥かに多く、たぶん、数十万またはそれ以上の数になるであろう。
さらに屋敷内社といわれる、民家の敷地内に奉安された神社まで加えると、おそらくは百万をはるかにこえるであろう。
またさらに、家屋内にある神棚まで入れたら、およそ数え切れないだろうが、それを除いても、おびただしい数の神社があるのだ。
著者はある地方の市に住んでいるが、家から徒歩二十分ほどの範囲内に、三十以上もの屋敷内社をみつけている。その多くは稲荷神社だが、散歩のたびに新発見がある。
日本の神社で数の多いのは稲荷神社や八幡神社だが、たとえば熊野神社も名が知られている。神社本庁の資料による東京都内の熊野神社の数は四十社ほどだが、都内を歩いて調べた人の話では、摂末社を入れないでもその三倍はあり、さらに詳しく調べればもっと増えるだろうと述べている。神社本庁の話では、日本の全神社数は、多すぎて誰も数えた人がいない――ということである。
神社を大切にする人の数も膨大である。神社のなかの神社である《伊勢神宮》――厳密には皇大神宮――の神札・神宮大麻をいただく家庭の数は、一千万にちかい。
また、明治神宮はじめ著名神社に初詣する善男善女の数は何千万にもたっする。
さらにお祭りの御輿や山車を楽しむ庶民の数はかぞえきれない。
以上のように、神々の意味からいっても、神社の数からいっても、国民的行事のありようからいっても、あきらかに、日本は「神々の国」であり、それはわが国の誇るべき文化的伝統である。
一例をあげると、いまのわれわれが新年に明治神宮に詣でて明治天皇に感謝したり、「みたま祭」の靖国神社に詣でて英霊に感謝したりする行為は、すなわち、古代から連綿としてつたわる「神々」を崇敬する文化的伝統なのだ。
神道の話が出たので付記しておく。
日本人は古くから緑豊かな山々を神として崇めてきた――多くの山に鳥居がある!――が、その結果として、日本の森林面積率は世界一を達成するに至った。
さほど広くはない国土の七割近くが森林であり、しかもその森林のほぼ七割が、古くから日本人が大切に植樹し育ててきた人工林である。
これらは、環境問題で話題となる二酸化炭素の吸収にも貢献している。
こんな先進国は他には存在しておらず、欧米の学者も高く評価している。
神道という文化的伝統のおかげである。
神と神社の話が長くなったが、こういうことに思いをめぐらしてから(卑彌呼)の話にもどると、「神」である(天照大神)と(卑彌呼)の尊敬すべき身分である「女王」とは矛盾しておらず、
「(卑彌呼)=(天照大神)説」――にはそれなりの根拠がある、と考えることができる。 
2-2 神功皇后説 

 

(神功皇后)説について 
つぎが、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」である。
(神功皇后)はのちにつけられた謚号(御追号)で、実名は氣長足姫尊である。近江の地名と関係があり、長命という意味をもっているらしい。
また氣長は「古事記」では息長であり、息が長いために水中に長くもぐっていられるというところから海に関係のふかい一族の出身だろうとも推理されている。
系図的には第九代開化天皇の血筋である。
第十四代仲哀天皇の皇后だが、天皇の崩御後に大活躍をし、次の第十五代應神天皇――つまり(神功皇后)の御子――が即位されるまでの七十年間の天皇空白期に、天皇の代わり(神功摂政と呼ばれる立場)として国家運営にあたり、男装して朝鮮への出陣(図2・2)もなしたという、興味ぶかい存在である。
だから、「記紀」と同時期にできた「風土記」などでは、皇后ではなく天皇(女王)として記されている。天皇と認識していたと読めるシナ史書もある。
(本書では、便宜上第十四・五代としている。歴代天皇についてのさまざまなデータは付録を参照されたい)
天皇という称号は、六世紀末から七世紀初めにかけての第三十三代推古天皇の御代に、日本の独立宣言的な意味で定着したという学説が有力であり、その前は漢字で書けば王とか大王とか称していたらしい。また訓読みとしては、オオキミ、スメラミコトのほかいろいろな尊称があったらしいが、本書では天皇で統一する。
この興味ぶかい存在である(神功皇后)の事績として特に有名なのは、新羅を征伐して凱旋したという話である。
新羅・百済・任那はもと三韓と呼ばれた地域なので、これは三韓征伐ともいわれている。
この事績について、一部の戦後の学者が架空譚ではないか――と述べている。
架空譚説では、「記紀」の(神功皇后)の事績は推古天皇や齊明天皇――あるいはその前に実質的な女性天皇だった清寧天皇紀の飯豐青皇女――はじめその後の多くの女性天皇の事績を総合して創作した話だとすることが多いようである。
しかし、(神功皇后)の修正紀年である四世紀から五世紀にかけて日本が朝鮮半島に進出した事実は、朝鮮の正史である「三国史記」にもあるし、鴨緑江の北岸に発見された好太王碑などにも記されており、これらをもとにして(神功皇后)の実在性や三韓征伐伝説の史実性を主張する学者も多くいる。
(神功皇后)の実在性 
著者も、神話的色彩のつよい(神功皇后)伝説のなかに、史実の反映が多く見られるように感じている。「古事記」「日本書紀」「風土記」だけではなく、「万葉集」にもこの皇后についての多くの歌がある。もちろん巨大な前方後円墳もあるし神社もあるし、長く秘匿された神社に伝わる古文書もある。各地方には伝承ものこされている。
非実在の皇后についてこれほど多くの史料が残っているのは不思議であり、架空譚説にくみすることはできない。もし完全に架空だったとしたら、大和朝廷が日本中に、史書だけでなく歌集や神社の秘史にまでも「架空の神功皇后」のことを詳しく書け――と命令し、日本中がいっせいにそれにしたがったことになる。
しかし、「記紀」が書かれたころは、まだ朝廷に敵対する勢力すらあちこちにあった時代であり、敵対ほどではなくとも、対抗意識をもつ氏族や神社がたくさん有った時代である。
そういう人たちが「記紀」に不満をもって、独自の史書である「古語拾遺」や「先代旧事本紀」などまで書いている。
また、朝廷への異論が記されているために神社に秘匿されて門外不出とされ、戦後になってやっと公開された、「勘注系図」のような古文書もある。
そのような秘史の類にも、ちゃんと(神功皇后)が書かれているのだ。もし架空の女帝だったら、これはあり得ないことであろう。
軍事にかんしてどのていど指導的立場だったかはわからないが、モデルとなる強力な女帝がいたのは確かだと感じるし、また日本勢力の朝鮮進出は、複数の外国文献に書かれているので、完全な史実である。
こういう女帝(神功皇后)の出兵によって、とうじの日本は、朝鮮半島南部の任那という軍事的・貿易的な拠点を大きく拡大確保した。
そして百済とは友邦関係、新羅とは半対立半友好関係となり、元三韓の北の高句麗とは抗争をつづけた。
任那の日本府は六世紀に消滅したが、その後も日本は朝鮮半島での権益維持に腐心し、半島での日本の勢力が最終的に失われたのは、七世紀後半の中大兄皇子の時代だった。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に破れたためである。そして日本は大陸からの侵攻にそなえる防御に力を入れるようになり、そのための大津遷都などを強行した。
トビラの歌にもある史上有名な話である。
日本最古の(神功皇后)説 
さて、この(神功皇后)が(卑彌呼)ではないかという説の根拠は、「日本書紀」における三世紀前半という紀年が(卑彌呼)の時代と一致していることや強力な女帝であることのほかに、新羅征伐以外の一般的事績についての記述が、妙に「魏志倭人伝」の話と一致している点にもある。
また(天照大神)を想像させる点にもある。
したがって、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」は、もちろん大昔からあるのだが、その説を唱えたもっとも古い人物は、「日本書紀」の編者(舎人親王)そのものだ――ともされている。
なぜかというと、「日本書紀」の(神功皇后)紀のなかに、何カ所かにわたって「魏志倭人伝」の記事が引用されているからだ。
この引用については、すこし後の書写した人物が注として付加したのではないか――という説もあるが、そうだとしても、奈良時代か平安時代であり、ひじょうに古い注記であることは間違いない。
だから、飛鳥時代、奈良時代、平安時代といった千何百年も前の時代に、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」が存在したことは確かである。
もちろん、「日本書紀」の紀年は修正されており、(神功皇后)の時代は書かれている三世紀前半ではなく四世紀半ばと推測されているので、科学的には合わない。
しかし(天照大神)のところでも述べたように、(卑彌呼)についての記憶が、形を変えて(神功皇后)伝説に生きていると考えれば、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」もまた――ある意味では――ありうることである。
とくに、この皇后が大和〜敦賀〜九州〜朝鮮〜九州〜大和と移動しており、かつその皇子の應神天皇が偉大な伝承をもっていることは、暗示的である。
だから、確からしいといえばとても確からしい説なのだ。
(注 日蝕を連想させる伝承もある!)
なおこの説は「日本書紀」の選者の舎人親王を別にしてもとても古くからあり、江戸時代の学者、新井白石や伴信友もそうだったらしい。ただし白石はのちに九州説に変わったとされている。 
2-3 倭迹迹日百襲姫命説

 

(倭迹迹日百襲姫命)と崇神天皇 
つぎが、さいきんになって知名度が急上昇している、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」である。
前出した辞書類における(卑彌呼)の記述を見ても、ほとんどすべてにおいて、その候補に(倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト))を挙げている。
(天照大神)を挙げていない辞書はあるが、(倭迹迹日百襲姫命)を挙げていない辞書はほとんど見られない。
したがって、とうてい看過できない、きわめて重要な候補だということができる。
辞書とは、学界の最大公約数を記すものだからである。
さて、(倭迹迹日百襲姫命)とは、第七代孝靈天皇のお妃の娘で、第十代崇神天皇の時代に、天皇の大叔母(または叔母)という存在感のもとに、預言者として、また神託を伝える霊能力者として活躍した、神秘的な女性である。
読みのトトヒはトトビかもしれないし、モモソヒメはモモソビメと称したのかもしれない。
崇神天皇は第十代の天皇だが、実質的には大和地方を中心として日本の主要地帯を統一した最初の天皇だろういわれている。
また聖山として知られる大和の《三輪山》の神である(大物主神)の祭祀を天皇家として初めておこない、さらに日本各地に神社の創建をすすめた天皇としても有名である。
そしてこの(大物主神)の神託を天皇に伝えたとされるのが、(倭迹迹日百襲姫命)なのである。
「記紀」はこの崇神天皇を讃えて「御肇國天皇」(ハツクニシラススメラミコト)――つまり国をはじめて創った天皇――と呼んでいるが、この尊称は崇神天皇と初代の神武天皇にのみつけられているもので、飛鳥から奈良にかけての歴史家にとってとくべつ重要な天皇だったことがわかる。
巨大な御陵ものこっているし、この時代の都である三輪山麓の纏向遺跡――本書では《纒向京》と仮称する――も発掘されつつあり、実在したことは確実である。
古代天皇の実在性 
だから崇神天皇が《大和》を中心とした統一国家をつくった最初の天皇であることは確からしいのだが、この天皇以前の九人の天皇が架空の存在だという戦後の一部の史家の主張にも疑問を感じる。
崇神天皇以前の天皇は、紀年を合わせる意図だけで創作したのだという主張なのだが、もしそうだとしたら、天皇一人の寿命をもっと現実的な長さにし、かわりに天皇の数を二十〜三十人くらいに増やす筈であろう。
その方が天皇家の代数が増えて、歴史を古く見せたい施政者にとっては都合がよい。
しかしそうはしていないことからみて、神武天皇以下数代の天皇は、たぶん、大和朝廷が複数の豪族のひとつであった時代の歴代首長を伝承しているのではないかと思う。
大和朝廷とは、大化改新で律令国家に向かうころまでの、《大和》を本拠地として日本の中心だった政権で、もちろん現天皇家の遠い先祖だが、崇神天皇またはその直前の天皇までは、周囲の豪族を完全に従えるところまではいっていなかったと考えられるからだ。
(崇神天皇より前の九代の天皇を史実の反映と認める見解は、決して戦前の歴史家や現在の一部民族派の意見だけではない。たとえば、文部省検定済みの最近の明成社の高校教科書にも、そのように記されている)
ただし、崇神以前の天皇の実在を認める史家であっても、全員を認めるのではなく、たとえば第八代の孝元天皇だけは架空だろうと考える学者もいる。
多くの豪族の伝承を集めるとどうしても相互に矛盾がでてくるので、それを解消させるために「記紀」の編者が天皇を一代ふやしてしまった――というわけである。樋口清之がそのような見解らしい。
(倭迹迹日百襲姫命)の血族 
さて本題にはいって、この第十代崇神天皇の大叔母――本居宣長によれば叔母でもある――にあたる(倭迹迹日百襲姫命)なる不思議な長い名前の女性が(卑彌呼)の正体だ――という説は、昔からある。
笠井新也、肥後和男、和歌森太郎、樋口清之といった大正〜昭和初期にかけての碩学たちが主張しているし、さいきんでは考古学者を中心として、慎重に言葉を選びながらも、この説に賛同する学者が増加している。
(倭迹迹日百襲姫命)という奇妙な名の由来については、倭が大和であること以外はいくつかの推理があるだけでよくわかっていないらしいが、特別な女性につけられた名前であることは確かである。
頭につけられている「倭」というのは大和朝廷の本拠地の《大和》であり、かつ日本そのものだから、それが女性の名の頭につくという事は、重大な意味をもっている。
「日本書紀」全体を見ても、名の頭に「倭」のつく女性は十名しか数えることができない。しかもそれぞれが極めて重要な地位にいる。挙げてみよう。
(倭迹迹日百襲姫命)・・・本人。
(倭迹速神淺茅原目妙姫)・・・本人の別名。
(倭迹迹姫命)・・・崇神天皇紀七年にある本人の略名。
(倭國香媛)・・・本人の母で第七代孝靈天皇の妃。「古事記」では(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)。
(倭迹迹稚屋姫命)・・・本人の妹。
(倭迹迹姫命)・・・第八代孝元天皇の娘で本人の姪。または本人の別名。
(倭國豐秋狹太媛)・・・本人の曾祖父にあたる第五代孝昭天皇の皇后の母、つまり高祖母。
(倭姫命)・・・第十一代垂仁天皇の娘で《伊勢神宮》の初代斎王(御杖代)。本人の甥の曾孫にあたる。
以下はずっと後の時代
(倭媛)・・・第二十六代繼體天皇の妃。
(倭姫王)・・・第三十八代天智天皇の皇后。
(大倭根子天之廣野日女尊)・・・持統天皇(続日本紀)。
最後の三人はずっと後の世なので別にしても、どの姫命も、古代の大和朝廷にとってきわめて重要な地位におり、また「倭」の次にくる名称も、暗示的な女性ばかりである。
また、後の世の最後の三名にしても、天皇家の歴史の節目にあたる重要な天皇の配偶者または女帝である。
この十人(持統天皇を含めて十一人)の名を見ると、特別重要な女性にしか頭に倭という文字が使われておらず、かつ古代のそれは、
全員が(倭迹迹日百襲姫命)のきわめて近い血縁であることがわかる。 しかしそれにしては、(倭迹迹日百襲姫命)は「古事記」には名前が出るのみであり、「日本書紀」でも――かなりの存在感はあるものの――崇神天皇のブレインまたは補助者として記述されているだけである。
だから(倭迹迹日百襲姫命)の存在は、なにか不思議なものがあり、「記紀」の背後に、
「古代大和朝廷の建国の歴史とこの「姫命」の関係について何かが隠されている可能性」が感じられるのである。
奇妙な名前の意味 
つぎに、「倭」の下のいくつかの奇妙な文字の意味についてだが、一説によれば、迹迹日は十×十で百になる霊的な意味を持つ百襲の枕詞で、百襲は数多くの神のお告げがその人を襲うという意味だとする。
このほか迹迹日は神鶏の鳴き声からきたという説や飛速が訛ったもので天に飛ぶの意味だとする説もある。
名称の由来は第九章で再度記すが、いずれにせよ不思議な語感をもつ意味深長な名であり、とくに(倭迹迹・・・)なる名は、無数にある「記紀」のなかの女性を探しても、本人と妹と姪の三人しか見つからない。
すなわち、「日本書紀」によれば(倭迹迹日百襲姫命)には弟が一人と妹が一人いるが、妹の名は倭迹迹稚屋姫命で、やはり倭迹迹がついている。
姪とは、孝靈天皇の次の孝元天皇の姫の倭迹迹姫命である。この姪も謎の女性であり、後述するように(倭迹迹日百襲姫命)と同一人物だともいわれている。
(倭迹迹日百襲姫命)は「古事記」においては、(夜麻登々母々曽毘賣命)と書かれており、文字は違うが読みはほとんど同じである。
(倭迹迹日百襲姫命)の母親は倭國香媛で、大和の国の香という、なにやらとても高貴な名前である。
この母親は「古事記」では(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(オホヤマトクニアレヒメノミコト))と書かれており、「日本書紀」よりもさらに丁寧な名となっている。頭に(大倭)がついているのだ。
名の後半のクニアレというのは、国が有る――つまり国を存在させた――という意味とされ、建国を意味するきわだって高貴な名である。
「日本書紀」のような書き方をすれば、(大倭國在姫命)とでもなるであろう。
神武天皇や崇神天皇の生母につけられるべきような名前が、一皇女の母親につけられているのだ。
この「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」を学術雑誌に最初に明確に述べたのは、笠井新也だとされている。大正十三年のことである。
そのご、梅干博士として有名な考古学者の樋口清之が大和桜井市周辺の発掘調査などを元にそう推理したし、肥後和男、和歌森太郎などの著名な歴史学者も笠井説を発展させて(倭迹迹日百襲姫命)説を唱えた。
しかし昔は多くの説の一つにすぎず、考古学的立場の暦年計算からも文献学的立場からも否定する人が多かった。
だが、この数年、考古学の進展にともなって支持者が急増してきた。
国立歴史民族博物館副館長の白石太一郎はさいきんの考古学的研究によって確信に近いものを持ちはじめたようだし、またジャーナリストの倉橋秀夫は、ハイテクに詳しい考古学者へのインタビューを整理して、著書「卑弥呼の謎年輪の証言」のなかでほとんど結論にちかい書き方をしている。
もちろん決定打はない。
状況証拠がかたまりつつあるにすぎず、今後の研究によってどのような反証がでてくるかはわからない。
紀年の修正 
崇神天皇の御在位は、「日本書紀」で計算すると、西暦前九七年から前三〇年までの六十七年間で、御降誕は西暦前一四八年とされている。だから(卑彌呼)の時代とはまったく違う。
また崩御は退位と同じだから、百十八歳という、信じられないほどの長寿ということになる。
しかしよく知られているように、「記紀」の古い年代は、神武天皇の即位を、「古代シナの学説(讖緯説)で革命が起こるとされたおめでたい辛酉の年(西暦紀元前六六〇年)」にするために大きく引き延ばされており、「記紀」の数字と実際の年代がほぼ一致するようになるのは倭の五王とされる第十七代履中天皇から第二十一代雄略天皇の時代(五世紀)以降のことであるし、きわめてはっきりしてくるのは初の女帝として有名な第三十三代推古天皇のころ(またはその少し前)――六〜七世紀――からである。
したがって崇神天皇御在位のじっさいの年代は、西暦紀元以後で「魏志倭人伝」の時代に重なる可能性が高いし、寿命もじっさいはずっと短かったであろうとされている。
(なお(倭迹迹日百襲姫命)という名前は、漢字で書いてもカナで書いてもわずらわしいので、失礼とは思うが、(百襲姫命)と略称させてもらうこともある)
同時代の別の候補 
(百襲姫命)のほかにも、「日本書紀」のなかの似た時代の女性を探す試みもある。
たとえば、本格的な「《邪馬台国》=大和説」を最初に唱えたとされる内藤湖南は、崇神天皇の孫(垂仁天皇の皇女)にあたり《伊勢神宮》の初代斎王となった(倭姫命)を、(卑彌呼)になぞらえている。この説も過去にはかなり多くの学者が唱えてきた。
もうひとり、注目すべきは、孝靈天皇のつぎの第八代孝元天皇の皇后で(饒速日命)の子孫とされる鬱色謎命が生んだ、前記の(倭迹迹姫命)である。
名前がよく似ているので、本居宣長は(倭迹迹日百襲姫命)と同一人物だろうとしている。事実、前記一覧にあるように、(百襲姫命)をこの略名で記した箇所もある。
本居説が正しいとすると、両親に二説あったことになる。
こちらだと、神武天皇より先に《大和》に入っていて、豪族物部氏の先祖神となった(饒速日命)の子孫でもある――ということなので、天皇家と最大豪族の双方の血をひいた別格の身分ということになる。
この意見も、同意する学者が多いらしい。
互いに覇権を争っていたと考えられる物部一族と大和朝廷の関係を暗示するからである。
専門の歴史家の中にも、(卑彌呼)は物部系の指導者だったのだろう――と推理する人がいるが、そういう説は、(倭迹迹日百襲姫命)は物部系の血をひいていたという仮説ともつながることになる。
なにしろ飛鳥・奈良時代の歴史家が、天皇家の伝承のほかに各豪族に伝わる伝承を参考にしながら何百年か前の家系を記すのだから、父母に二説あることくらいはやむを得ないが、どちらにせよ別格の父母から生まれている神秘的な名と伝承を持つ女性なのだ。
本章でおおまかに述べている(卑彌呼)の候補については、第六章以降であらためて詳しく記すが、とくに(倭迹迹日百襲姫命)については、第八章から第十章までの三つの章で、詳細に説明するつもりである。 
2-4 「記紀」に記されていない卑彌呼存在説

 

ここまでの(卑彌呼)の候補者は、みな「日本書紀」に記された貴人だったが、「記紀」とはまったく無関係に(卑彌呼)がいた――という説も、もちろんある。
というよりも、論争史においてはこの説が多数派である。
「日本書紀」にある貴人説の場合は、その性質上ほとんどが畿内――とくに大和――に本拠地をおく人物になるが、「記紀」にない女王を候補とする説では、その多くは畿内以外である。
とくに九州にあった大豪族の女王に見立てる人が多いようだ。
たとえば明治の東洋史学者の那珂通世は、「(卑彌呼)は九州南部の熊襲の女酋長である」と述べている。
九州のどこだったかについては人によって主張が違うが、(卑彌呼)とはある豪族の女性の首長だったのだろう、という点では、多くの九州説学者の意見は一致している。
また女性の首長を持つ九州の豪族が、自分たちこそ大和朝廷だと偽って魏と交流したのだろう、という説も多いが、これは「日本書紀」にそれに近い記述があるからである。
(いまちょっと思い出せませんが、たしかあったと思います)
アマチュア史家の場合には四国とか三重県とか東海地方とか新潟とか、あるいはインドネシアのような外国とか、百花斉放で、それぞれの土地に(卑彌呼)がいたことにされている。
なかにはたんなる語呂合わせのような説もあり、著者は首をひねるが、じつにさまざまな意見が自費出版本などに飛び交っているし、日本古代史以外の分野では一流の業績を残している学者のなかにも、こういう説を唱える人がたくさんいる。
これらを頭から無視することは出来ないが、そうかといって信じるわけにもいかない。学問的検討に値する史料が乏しすぎるのだ。
例外的に、九州説でも「日本書紀」に記された個人名を出している論者もある。
伊藤博文や大久保利通らに同行して「米欧回覧実記」を編纂した久米邦武は、第十二代景行天皇が九州遠征のときに通過した八女国の山中に住む女神(八女津媛)がそうだろうと、明治四十年に述べている。
八女国は現在の福岡県の筑後市から佐賀県の吉野ヶ里遺跡のあたりだったらしい。
景行天皇がこの女神に逢った形跡はないが、それだけに神秘的な色彩があり、(卑彌呼)になぞらえた気持ちもわかる。
また明治の史学・漢学者の星野恒は、(神功皇后)によって征服されたと「日本書紀」にある九州山門県(やまとのあがた/いまの福岡県山門郡)の(田油津媛)に着目し、この女酋長の先代が(卑彌呼)だったのではないか、との説を明治二十五年に出している。
山門は《邪馬台国》に発音が似ているし、ひとつの見解ではある。
しかし久米説も星野説も、たんにそういう女性名が「記紀」にあったというだけであり、傍証すらほとんど無く、いまでは支持する人はすくない。
このように、《大和》以外を舞台として、無名の(卑彌呼)候補をあげる人は多いのだが、そもそも「記紀」にも無いかあるいはほとんどなく、考古学的証拠もなく、あるのは「魏志倭人伝」の解釈だけ――という説では、その信憑性について評価のしようがない。
せめて考古学的な発掘調査で巨大な墳墓や金印や墓碑銘などそれらしい遺物でも見つかればいいのだが、いままでのところ、何も見つかっていない。
見つかるのは「記紀」より信憑性の薄いものばかりである。
・・・というような事なので、「日本書紀」にも「古事記」にもないか、あったとしても断片的な(卑彌呼)説については、頭から否定するものではないが、文献史料はまったくないし、考古学的史料も少なすぎるので、以下の章では検討を加えないことにする。
あげつらったり深入りしたりするよりは、信憑性の高い史料が出現するまでは検討を差し控えるほうが、学問的な態度であろう。 
 
第三章 「魏志倭人伝」の概要

 

百船の 泊つる対馬の 浅茅山 時雨の雨に もみたひにけり
〔万葉集3697〕
「たくさんの船が停泊する津(港)ではないが、対馬の浅茅山はしぐれの雨に色づいている」
新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思いかねつも
〔六鯖(万葉集3696)〕
「新羅へ行くか家に帰るか、壱岐ではないが行くべき手段も思いつかない。(壱岐は行きにかけられた枕詞)」
大船に 真楫しじぬき この吾子を 唐国へやる 斎へ神たち
〔光明皇后(万葉集4240)〕
「大きな船に櫓をたくさんつけてこの子を唐の国へ派遣します。神々よどうかお守りください。(光明皇后が遣唐大使として出発する甥の藤原朝臣清河に賜った歌)」 
3-1 議論の少ない対馬から奴国まで

 

「魏志倭人伝」は戦後の日本ではとても有名になっていて教科書にもでてくるので、名前と大まかな内容については、ほとんどの読者がごぞんじと思う。
三世紀の前半――現在の日本の歴史用語でいえば弥生時代のおわり――における日本のありさまや魏の国との交流の様子を記した史料である。
ただ、その文章を最後まできちんと読んだ人はすくないかもしれないので、その内容について、簡単におさらいしておく。
くわしいことは、数多くある翻訳書でお調べいただきたい。
文庫判で翻訳文が十頁ほど、原文だとその半分にもならない量のものである。
断片的な知識を無理につないだような短い文章で、論理的にきちんと筋が通る話ではなく、何種類にも解釈できるはしょった文章――何種類にも意味がとれるのが漢文の大きな欠点とされる――なのだが、とりあえず、概要を述べておこう。
金印発見で裏づけられた前文 
話の出発点は、いまの韓国のソウル付近一帯の帯方郡で、ここは当時は魏の国の植民地になっていて、シナが朝鮮半島近辺を統率する拠点だった。
まず、「倭人(日本人)はこの帯方郡の東南の大海に住んでいて、そこには国々があり、もと百余国だった。漢のとき(西暦一世紀半ば)に使者が来た。いま使者や通訳が来る国は三十ほどある」
――という前文があり、ついで帯方から九州本島の北端部までの行程――と思われる――記録とその土地と住民の様子や役人の名前などが記されている。
漢のときの使者というのは、教科書にかならずといっていいほど出ている「金印」の発見によって裏づけられている。
すなわち、江戸時代に博多湾の志賀島から「漢委奴國王」と刻まれた金印(委は倭ともいわれる)が発見されたが、これは、シナの正史・後漢書倭伝にある、「西暦五七年に後漢光武帝が都の洛陽にきた日本の使者に金印を授けた」という記事に対応したものだろう、といわれているのだ。
金印にある「奴國」とは、いまの博多湾岸であることは――地名の研究から――多くの学者がみとめている。
これが別のときの「金印」だったとしても、ひじょうに古い西暦紀元前の弥生時代半ばにすでに、日本の豪族たちがシナや朝鮮の役人や商人たちと、海を渡って活発に交流していたことは、確からしい。
ということは、九州〜大和の交流はもっと盛んだったということを意味しているのだが、この「金印」のほかにも、西暦紀元前にシナ大陸で作られた鏡などが各地の遺跡や神社に残されているし、弥生青銅器の材料も多くは大陸産である。
「魏志倭人伝」にもどって、九州北端部についたあと、日本本土内に入ってからの個々の国についても、同様に行程や国の有様が記されている。
行程とは、次ぎの国に行くのに、どちらの方角に何里とか何日とかいうもので、また有様は土地柄とか家の数とか風俗とか役人の名前とかである。
ただし記述はごく短く単純であり、理解に苦しむことが多い。
朝鮮半島〜対馬〜壱岐 
帯方郡から海岸に沿って朝鮮半島を南下したり東に向かったりして七千里ほどゆくと、狗邪韓国につく。
これはすでに倭国の一部であると読みとれる記述がなされている。
それから千里ほど海を渡ると対馬国に達し、さらに海を千里渡ると一大国に達する。
そこからさらに千里の海を渡ると、九州本島北端部に到達する。
狗邪韓国というのは朝鮮半島南端部にあった弁韓に含まれる加羅と考えられている。
ここは日本が六世紀まで権利を持ち日本人がたくさん住んでいた任那とほぼ同じ地域で、現在の韓国の地理でいうと慶尚南道金海地方(鎮海湾北方)である。
ひじょうに古い時代――三世紀前半――にすでに朝鮮南部が日本の勢力下にあって任那の原型ができていたらしいことがわかる記述である(*1)。
つぎの対馬国(対海国とした書もある)は日本の対馬であることが確実で、一大は一支の誤写ともいわれ壱岐であることが確実とされている。
七千里とか千里とかいう距離の単位の「里」については、魏の時代の一里が435mなので、これで数えたという説が有力だが、他にもさまざまな議論があり確定していない。
いずれにせよ現在の日本の「里」よりずっと短いが、こういう短い「里」で考えても、七千里とか千里といった数値は過大である。
しかし三世紀に厳密な測定ができたとは考えられないし、過剰表現はシナ文書の通例でもある。
対馬や壱岐の官(役人)は卑狗(ひく)、副官は卑奴母離(ひなもり)といい、人家は千余と三千ほどであり、人々は海産物を採り、米は船で買い入れて生活している――とある。
とうじの人たちが九州から朝鮮南端まで、対馬と壱岐を経由して往来していたことについては、多くの史家が確かだとしており、これについて異論を述べる人はほとんどいない。
官の名については、推定しかありえないが、卑狗は「・・・彦(ひこ)」を官吏名と解して記したものであり、卑奴母離は「夷守(ひなもり)」だろうという説がむかしからある(*2、3)。
「彦」は貴人の末尾につく尊称だが、本来的に首長という意味を含んでいるので、敬称としてそれのみで呼んでいたのかもしれない。
夷守とは、辺境(鄙/ひな)を守護する役人のことで、「記紀」に出ている役職名である。
この卑奴母離はあと二回でてくる。
(*1 ちなみに、「魏志倭人伝」のすぐ前は三韓の解説である「魏志韓伝」だが、そこにも「半島南端部は日本領」だと明記されている。反日韓国人のなかには、対馬は昔は韓国領だったという人がいるらしいが、「三国志」の「魏書」には、対馬どころか半島の南端までが日本領だと書いてあるのだ。半島の中央部に植民して居座っていた魏国の役人が言うのだから、間違いないだろう。こういう史料は、韓国の歴史家は無視するらしい)
(*2 彦(ひこ)は日子→貴い男性。日は太陽で、貴人の尊称の一種。これに対して姫(ひめ)は日女→貴い女性または太陽の妻。やはり太陽を意味する尊称といわれている。彦も姫も今の感覚とはまったく違う高貴な尊称であった)
(*3 卑奴母離=夷守(ひなもり)の「ひな」は都から遠い土地の意味で、今でも「ひなびていて素朴」とか「ひなには稀な美人」といった使い方がある)
末廬国〜伊都国〜奴国 
さて九州本島北端部に着いてみると、そこには末廬国(まつろ)があり、人家は四千余である。人々は魚や鮑をとるのが得意である。
ここから陸を東南に五百里すすむと、伊都国(いと)につく。
官を爾支(にき)、副官を泄謨觚(しまこ)および柄渠觚(ひここ)という。
この官名の爾支は「記紀」にでてくる「根子」だろうといわれている。
根子とはその土地の基礎をつくった――といった意味の尊称で、第七〜九代の天皇の御名に入っているし、後の天皇の名にも使われている。また各地の要人の名にもつけられている。
人家は千余で、帯方郡から使者がきたときは、みなこの伊都国に駐留する――と記されている。
重要な国だったことがわかる。
(以下官名の日本語との対応については諸説ありすぎるので説明は簡単にしておく)
この伊都国のところに、国には国王がいてみな女王国に属している――という興味ぶかい文章があるが、属しているのが伊都国の歴代国王なのか、他の多くの国々もそうなのかが読みとれず、いろいろな意見がある。
国王と官(役人)の関係もいまひとつはっきりしないが、王と行政官の長ということであろうか。また地方豪族の長と中央から派遣された監督官ということかもしれない。
伊都国からさらに東南に百里すすむと、奴国(な)に達する。官の名は▲馬觚(しまこ)で、二万余の人家がある。(▲は上が凹で下が元の下と同じ)
副官を卑奴母離(ひなもり)という。
九州本島についてからのこの三つの国がどこだったかについては、古い地名の発音との照合や「記紀」や「万葉集」や考古学的知見によって、かなり明確になっている。
すなわち末廬国(まつろ)は「古事記」でいう末羅(まつら)、「日本書紀」にある松浦県(まつらのあがた)で、現在の東松浦半島やその付け根の唐津のあたりである。
「日本書紀」には(神功皇后)が神意をたずねた場所として出てくる。
松浦の読みは一般にはマツウラであるが、現在でもマツラと読む人名や地名がたくさんある。
隣接する唐津港は、加羅津でもあり、朝鮮半島の加羅の国と連絡する港という意味をもつとされているから、もともと朝鮮半島と関係の深い土地柄である。
伊都国(いと)は今の糸島半島のあたりとされ、「日本書紀」にも(神功皇后)が臨月を石で抑えた事績のところで伊都県(いとのあがた)として出てくる。
伊都(いと)と名づけたのは仲哀天皇ということになっている。
そして奴国(な)は那珂川(なかがわ)のある博多湾の周辺のようで、「日本書紀」の宣化天皇紀では博多湾のことを「那津(なのつ)」としているし、仲哀天皇紀ではこのあたり一帯を「儺県(なのあがた)」と記している。また那珂川を「儺河(なのかわ)」とも記している。
さらに名島という島もある。
奴国の読みは、ナコクではなくヌコクかもしれないし、その中間かもしれない。
千八百年も前のシナや日本の発音が正確に分かる筈はなく、本書にしめすもろもろの読みは、比較的賛同者の多い推定にすぎない。
この奴国は、西暦五七年に金印を贈られた倭奴国の後継なのであろう。金印の発見位置も、この奴国の内部である。
つまり、酷似した地名(および職名)が「記紀」にあるし、現存もしている。
奴国の中心は楕円の中心ではなく楕円の上部(北)の方だったかもしれない。
参考までに、金印出土地と吉野ヶ里遺跡の場所も図示しておいた。
このあたりにはさまざまな遺跡や古い地名があり、弥生時代から重要な地域だったことが推理できる。
三国のうち、奴国の中心位置については、多少の異論もあるようだが、末廬国や伊都国のありかについては、異論はほとんど無いようである。
このあたりは日本から見て半島や大陸に渡る拠点であり、同時に防衛の拠点でもあり、とくに伊都国は重要な場所だったらしい。
さてここまでは、「魏志倭人伝」の記録と日本側の「記紀」や古い地名などさまざまな史料とがほぼ一致するのだが、ここから先の多くの国の所在が急に分からなくなり、
「《邪馬台国》九州説」と「《邪馬台国》大和説」との間で論戦がなされることになるのである。 
3-2 議論百出の奴国から先

 

不弥国〜投馬国〜《邪馬台国》 
議論百出の奴国から先について、とりあえず、順に記してみる。
奴国から東へ百里行くと不弥国(ふみ/ふび)があり、人家は千余で官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)である。
不弥国の位置は、九州内部か関門を渡ったところか決定打はないようだが、小規模な国だし百里というのはたかだか数十Kmだから、この距離を信じれば、いずれにせよ奴国のすぐ近くが想定される。
一説によると、発音から宇美町あたりではないか――とされる。宇美は図3・1の奴国の楕円の右端あたりである。そのほか南東の太宰府、北東の津屋崎などいろいろな説がある。
津屋崎は玄界灘に面した小さな岬で、図3・1の地図の楕円の北端小円部だが、そのすぐそばに福間(ふくま)という土地があることが根拠のひとつである。
津屋はいまではあまり有名ではないが、かつては北前船で賑わった土地である。
帯方郡からこの不弥国までは、どれだけ離れているかはすべて「里」を単位にした距離で記されている。
つまり――正確かどうかは別にして――まともな書き方がなされている。
ところが不弥国から先は、距離ではなく、「日数」によってその離れ方が表現されるようになる。
そのため、「魏志倭人伝」の編者に資料を提供した人物は、北九州までは来たが、その先には行っておらず、日本人から聞いた知識によって推理したのだろう――という説が多くある。
ともかく続けてみよう。
不弥国から南へ水上を二十日行くと投馬国(とうま/つま/ずま)がある。官を彌彌(みみ/びび)、副官を彌彌那利(みみなり)といい、五万もの人家がある。
この数がほんとうだとすると、弥生時代としてはずいぶん大きな国である。
さらにそこから南にすすむと、問題の《邪馬台国》(*)に達する。
この国は女王が都をつくっているところで、水上十日陸上一月がかかる――と記されている。
官は伊支馬(いきま)が長で、その下に彌馬升(みましょう)、彌馬獲支(みまかくき)、奴佳▲(なかてい)などがおり、人家は七万である。(▲は革+是)
(* 《邪馬台国》は最重要なので、《 》でくくります)
《邪馬台国》の謎に直面 
こうして遂に、女王のいる《邪馬台国》が出てきたことになるのだが、その方位と距離が問題なのだ。
不弥国の位置もはっきりせず、投馬国の場所もまた謎であるが、もし「魏志倭人伝」の方位と距離をそのまま信じれば、投馬国も《邪馬台国》も九州の南の海中になってしまう。
そこで、じつにさまざまな解釈が出され、議論が百出し、決着がつかないのである。
記述をそのままいまの地図にあてはめると、《邪馬台国》は外国になってしまいかねず、ある学者のようにインドネシアにある――という説まで飛び出してしまう。
そこで、「九州説」では、距離の解釈を工夫して九州内にあるとするし、「大和説」では方位を変更(*1)しさらに距離も一部変更するのである。
この問題については、あとで詳述するので、ここでは二、三の修正意見のみ記しておく。
そのひとつは、投馬国から《邪馬台国》まで行くのに水上十日に加えて陸上を一月かかるというのは、たとえ「大和説」であってもあまりにも長すぎるので、一月は一日の書き間違え(写し間違え)だろうという意見である。
投馬国は読みの推測(トウマまたはツマまたはズマ)から、「大和説」では出雲か但馬ではないか――と考えられている。
地理や大きさから出雲のほうが有力だが、出雲説における読みの類似については、
出雲=イズモ→ズモ→ズマ(ツマ)=投馬
(出雲=IZUMO(*2)→ZUMO→ZUMA(TUMA)=投馬)
――であろうと推理されている。
投にはツやズという音があるのだ。
さいきん出雲や但馬のあたりに巨大な集落遺跡が見つかっているので、この説は考古学的調査と矛盾しないのだが、もしそうだとすると、そこから《邪馬台国》までが地理にあわない。
出雲から海を十日行き、さらに同じ方角に地面の上を一月も歩いたら、山形方面まで行ってしまうだろう。
(*1 「記紀」と名称が合致する末廬→伊都→奴の経路は、「魏志倭人伝」では南東と書かれているが実際は北東である。つまりほぼ90度違って記述されている。だから、「魏志倭人伝」の方位は、全体として90度違うのではないか――との指摘がある。→この問題は後に詳しく述べる) 
(*2 出雲を古代でもIZUMOと発音していたかどうかは疑問だが、そう仮定しての話)
(*2 「魏志倭人伝」の経路は、大部分が船便を連想する。道路が整備されておらず乗り物も無かった古代においては、陸地の旅は能率が悪く危険もあった。その点船便は圧倒的に効率的だったろうし、海岸沿いなら海難も少ない。したがって陸行は船ではどうしても行けない経路のみだったろう――と推理できる。こういう事からも「不弥国=津屋崎説」は有力視される)
瀬戸内海を船ですすんだとすると、大阪湾についてそこから《大和》まではマラソンコース以下であり、健脚なら半日、ゆっくり歩いても数日でつく。
またさらに、現在よりもずっと川幅の広い河川が大阪湾から奈良盆地まで達していたので、ほとんど歩かなくても《大和》へ行けたはずである(*3)。
昔の文書は多くの人が何代にもわたって書き写して保存されるものなので、一日を一月と写し間違えたのだろうという説が出るのはもっともである。
ただし、一月でよい――という説もある。
出雲を経由して日本海がわを通って若狭湾に上陸して大和へ向かう経路――この経路も有望である――を、休み休み歩いたとして、それを大げさに書いたのだろう――という推理である。
この件についてのもうひとつの意見は、水上十日と陸上一月とは伊都国からの日数ではないか、そして水上を行けば十日で陸上を行けば一月かかるという意味ではないか――というもので、原文があいまいなため、いろいろな仮説が出されている。
瀬戸内を通る実線は、多くの大和説の論者が考えている経路であり、日本海側を通る破線は、笠井新也が大正時代に唱えた経路である。
最近では、考古学の進展を踏まえて、破線を見直す人が多いらしい。
(*3 古代においては、今は陸地になっている大阪湾の奥が巨大な汽水湖で、そこから大河が奈良盆地に連絡していたことは、神武東征の物語からも地質研究からも指摘されている。海外からの使者も、大和に到着してから船を降りたとされている)
《邪馬臺國》か《邪馬壹國》か 
つぎが、《邪馬台国》の台の文字についてである。
原文の《邪馬台国》は《邪馬壹國》と書かれており、壹は壱の正字でイチ、イツ、イなどなので、これをそのまま読めばたぶん「ヤマイコク」である。
古田武彦のようにそのままの読みで考えるべきだとの意見もあるが、それは少数派で、一般には、この邪馬壹國の壹は似た文字なので誤写したのであって、逸文から考えても、原典は「臺(台の正字)」であった――とするのが定説となっている。
つまり《邪馬臺國》だろうというわけである。
著者も、この問題全体を見渡したとき、この誤写説が順当だろうと考えている。
ところで、一般になされている「ヤマタイコク」という読みは現代の日本語風のもので、臺は「ト」とも読むので、「ヤマト」と読まれていたとも考えられる。
つまり《大和》とほとんど同じ発音であるとの説が昔から多く出されている。
《邪馬臺國》と畿内の《大和》や九州の《山門(やまと)》の発音上の照合は、三世紀のシナでの発音と、三世紀の日本での発音の両方を知らなければできないわけで、それが極度に困難な現状では、おおまかに似ていればよし、としなければならない。
碩学として聞こえる田中卓のように、「ヤマトコク」と読むべきだとの意見も多い。
ここでは《大和》や《山門》を連想させる発音だっただろう――とだけ推定しておく。
《邪馬臺國》の本字の臺を現在の簡略文字で台と書き、國も国と略して、一般には《邪馬台国》というわけで、本書でも通例にしたがって《邪馬台国》と記しているが、今にのこる写本では《邪馬壹國》であり、逸文や修正意見が《邪馬臺國》であり、その略字が《邪馬台国》であることを、念頭においていただきたい。
なお本書では人名は極力原文どおりの正字で書くことにしているが、「魏志倭人伝」の最後に出てくる(卑彌呼)の娘の壹與(いよ)も正しくは(臺與)(とよ)だといわれている。
もちろんあくまでも現在の写本どおりに壹としてイヨと呼ぶべきだ――と強く主張する人もいるが、著者は(臺與)の可能性の方がたかいと感じており、以下では(臺與)としている。
国々の一覧 
さて、《邪馬台国》までの以上の国々については、だいたいの距離や戸数がわかるが、その他については、詳細は不明だとして、《邪馬台国》に達するまでにある、女王国に従属している二十一の国名が並べられている。
そのままを信じれば投馬国と《邪馬台国》の間に二十一の国があることになるが、その一部は《邪馬台国》の周辺に点在する国なのかもしれない。
またその先――《邪馬台国》の南――には、女王に反抗している狗奴国(くな/くぬ)があり、男王卑彌弓呼(ひみここ)がいて、官の名は狗古智卑狗(くこちひく)だとしている。
男王の名は、語順が違っていて、ほんとうは卑弓彌呼(ひこみこ)つまり「・・・彦命」または「・・・彦御子」ではないか――というのが多くの意見である。
それから、帯方郡から《邪馬台国》までは、一万二千里ほどだとしている。
ここまで見慣れない名前の国々を記してきたので、整理しておく意味で、一覧表の形に並べておこう。
帯方郡(魏の植民地)
 ↓南と東に七千余里
狗邪韓国(弁韓のあたり)
 ↓海を千余里
対馬国(千余戸/官・卑狗、副官・卑奴母離)
 ↓海を千余里
一支国(三千戸/官・卑狗、副官・卑奴母離)
 ↓海を千余里
末廬国(四千余戸)
 ↓陸を東南に五百里
伊都国(千余戸/官・爾支、副官・泄謨觚と柄渠觚/国王あり女王国に属す)
 ↓陸を東南に百里
奴国 (二万余戸/官・▲馬觚、副官・卑奴母離)
 ↓陸を東に百里
不弥国(千余戸/官・多模、副官・卑奴母離)
 ↓南へ水上を二十日
投馬国(五万余戸/官・彌彌、副官・彌彌那利)
 ↓南へ水上を十日、陸上を一月(または一日/または伊都国からこの日数)
邪馬台国(七万余戸/官・伊支馬、その下に彌馬升と彌馬獲支と奴佳▲/女王が都す)
 ↓ (帯方郡からここまでが一万二千余里)
 ↓              ↓
 ↓さらに南へ        ↓
 ↓              ↓
狗奴国(官・狗古智卑狗  ↓
    男王・卑彌弓呼が  ↓
    いて女王に服さず) ↓
                 ↓海上を東に千余里
                 ↓
               倭種の国
                 ↓女王国から南に四千余里
               侏儒国
                 ↓東南に船で一年
               裸国
               黒歯国
(以下投馬国と邪馬台国の間および邪馬台国周辺の国々)
   斯馬国    華奴蘇奴国
   己百支国   鬼国
   伊邪国    為吾国
   郡支国    鬼奴国
   弥奴国    邪馬国
   好古都国   躬臣国
   不呼国    巴利国
   姐奴国    支惟国
   対蘇国    烏奴国
   蘇奴国    奴国
   呼邑国   (前の奴国と同じ文字)
〔倭国は遠方の島々からなり、めぐると五千余里になる〕
狗奴国の謎と重要性 
この一覧のうしろの方の侏儒国などは末尾近くに書かれていることで、かなり空想的であり、まともな論評はできない。
現実的な検討のできる国々のなかで、《邪馬台国》に服していないとされる狗奴国については、「九州説」では読み方から、「日本書紀」にある、天皇を悩ませた九州の熊襲だろうという人が多い。
クマソとは球磨(くま)と阿蘇(あそ)が繋がってできた言葉だという説があるが、クマをクヌと聞いたとすれば確かに狗奴国になる。
これは「九州説」にとって有利であるが、著者には何ともいえない。
一方「大和説」にとっての有力な説は、上毛野・下毛野地方――のちの上野・下野地方/現在の群馬県・栃木県に相当――の豪族だろうというものである。
ケノとクヌが類似していること(KENO→KUNU)と、この地方の平定に中央政権が苦労した話が、「記紀」に多く記されていることからの、推理である。
さらには熊野説もあるし、さいきんの発掘状況からは東海地方または愛知〜岐阜〜近江地方も有力視されている。
大和朝廷より先に《大和》に達して君臨していたとされる(饒速日命(にぎはやひ))一族の後裔を自認する尾張一族などが勢力をもっていたこれらの地方(愛知岐阜など)は、最近の考古学的調査によって、(卑彌呼)の時代に《大和》と複雑な関係があったらしいと推理されるようになってきたのだ。
《邪馬台国》の周辺から投馬国あたりまでと考えられる二十一の国については、斯馬国は志摩であろうとか己百支国は伊勢石城であろうとか、苦心の探索が報告されているが、決定打はない。
そもそも原文の国名をどう読むかが明確でなく、かつ日本の古代の地名がどう発音されていたかが曖昧なのだから、科学的な探索はきわめて困難なのだ。 
3-3 風俗・習慣・制度

 

「魏志倭人伝」における日本の国々の話は以上でおわり、その次に――脈絡無しにとつぜん――倭人(日本人)の風俗・習慣・制度などの記述がでてくる。
その内容は断片的で順不同であり、もっともな面と奇妙な面とが混在している。はしょって箇条書にしてみよう。
01 古くから倭の使者はシナの都に来ると「大夫」と自称する。(これはシナ風の官名で、日本の使者がシナの制度に通じていたことを意味するとされる)
02 みな入れ墨をしている。
03 帯方郡からの経路で推し量ってみると、倭国(日本)は会稽東冶の東方海上にあることになる。(「会稽東冶の東方海上」とは、奄美大島から沖縄南端部の尖閣諸島あたりまでを含む南北に長い海域らしい。会稽とは現在の浙江省から江蘇省にかけての郡名、東冶とは現在の福建省福州のあたりの県名とされる。これは、本書で問題にしている、当時のシナ知識人が考えていた日本列島の位置と方位を知る上で重要な一行。つまり、ほぼ南北に長い南方の島々だと考えていたらしいことが、「魏志倭人伝」だけからでも推理できるのだ)
04 風俗は乱れておらず、衣服は貫頭衣のようなもの。
05 稲や絹や綿をつくり、牛や馬はいない。
06 武器には矛、盾、木弓を使用する。
07 温暖で生野菜を食べ、はだしである。
08 家を建て、父母兄弟は寝所を別にしている。
09 埋葬時には遺体を棺に納めるが、棺を囲う槨はなく直接土を盛り上げる。
10 海を渡ってシナに来るときは、死者の喪に服しているような持衰という人物をのせ、航海がうまくゆくと褒美をあたえ、そうでないと殺そうとする。(これは今でも日本にある物忌みのことらしい)
11 真珠や青玉がとれ、山からは丹がとれる。
12 骨を焼いてその裂け目で吉凶を占う。(これは「記紀」にある亀卜を連想させる)
13 集会での座席には父子・男女の区別はない。(これも注目すべき風習。父親が特別威張っているわけではなく、しかも男女の区別が無い事が印象に残ったのだろう)
14 酒好きである。
15 身分の高い人への礼儀は手を打つだけである。(これは神社の参拝作法である柏手の原型とされている)
16 寿命は八十、九十、百年という長寿である。
17 庶民でも数人の妻を持つことがある。
18 婦人は淫らでなく嫉妬心もない。
19 泥棒はおらず訴訟も少ない。法を犯すと軽い場合は妻子を国が取り上げる。重いと殺される。
20 身分の上下の秩序がきちんとしている。
21《邪馬台国》は人々に税を納めさせ、これを収納する倉庫がある。
22 国々には市場があって、物々交換をするが、《邪馬台国》では大倭(役職名?)に命じてそれを監督させている。
23《邪馬台国》では、自分の国より北にある国々(投馬国までの国々)に一大率という偉い役人を送って国の様子を検分し、国々はこの役人を怖れている。
24 伊都国には常に一大率がいて権勢をふるっている。
25 女王が使者をシナの都や帯方郡や朝鮮の国々に派遣するときや、帯方郡の使者が倭国に来たときは、伊都国の海岸で文書や贈り物の点検をうけて間違いの起こらないようにしている。
26 身分の上の人の前で説明する場合には、うずくまったりひざまづいたりして両手を地面につける。
27 受け答えのときの承諾の言葉は「噫(あい)」である。(これは現在の日本語の「ハイ」につながるが、噫はオク、エイ、エ、イなどとも読むので、はっきりしたことはわからない)
さて次が、有名な《邪馬台国》を中心とした倭国の歴史と女王(卑彌呼)の話になる。
ここは重要なのではしょらず、三品彰英の訳文をほぼそのまま掲載しよう。
「邪馬台国は、もと男子が王であった。ところが男王の治下、七、八十年以前のこと、倭国は大変に乱れて、国々は互いに攻撃しあって年が過ぎた。そこで、国々が協同して一人の女子を立てて王としたのである。彼女は名を卑彌呼といい、鬼道(神霊)に仕え、その霊力でうまく人心を眩惑している。すでにかなりの年齢であるが夫を持たず、男弟がいて彼女の政治を補佐している。彼女が王となってから後は、彼女を見た者は少なく、婢女千人を侍らせている。ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、神託をうけるために彼女のもとに出入りして外に伝える。彼女の居所の宮室は楼観(見張りやぐら)や城柵を厳しく設け、また常に武器を持った人々がいて守衛している。」
じつに興味ぶかい一文である。
この冒頭に、七、八十年前に倭国が乱れた――という重要な記述がある。
これがどの時代なのかが問題になるが、後漢書や隋書には、桓・靈帝の時代(西暦一四七年〜一八八年)に大いに乱れた――倭国大乱――と記されている。
しかし「魏志倭人伝」を見てそう推理した可能性があるので、あまり詮索することはできない。
ただ、古代の強国ができる過程で混乱がおこるのは歴史の必然なので、この倭国の乱自体はふしぎなことではない(*1)。
この「乱」以外には、補足説明はあまり必要がない。
そして、これ以上の説明がないので、検討や考察はきわめて難しい。
女王を共立した国とはどことどこか、鬼道とは具体的に何か、はもちろん、男弟とただ一人の男子が同一人物なのか違うのかすらも、決定困難である(*2)。
そこで、とくに(卑彌呼)とは誰か、《邪馬台国》とはどういう国なのか、この両者の読みは「ヒミコ」「ヤマタイコク」でいいのか、などについて、じつにさまざまな見解が飛び交うことになったのだ。
またなぜか、女王や補佐の男弟の服装や人物像などについては、まったく書かれていない。九州の国々の一般庶民の習俗はいろいろと書かれているのに――である。
このことから、魏の使者は《邪馬台国》までは来ておらず、(卑彌呼)には会っていない――という説が有力視されている。
鬼道とは当時のシナでの表現で、これだけだと道教的な幻術を想像するが、その実態は、神に仕えて神託を告げる巫女的な存在――シャーマンとしての存在――だったろうと、「記紀」などの研究からいわれている。
つまり古代の神道における神子(巫女)である。
ただし巫女といっても、いまの巫女とはちがって、高度な政治性と指導性をもって霊感(判断力)を働かせ、神託(政策)を告げる、カリスマ的な女性のことである。
政治の政をマツリゴトと読むように、古代においては神々を祀ることと政治とは一体のものであった。
すなわち完全な祭政一致だった。
これは「日本書紀」を読めばよくわかる。
(*1 「魏志倭人伝」にある倭国の乱と「日本書紀」との対応については、後述する)
(*2 東洋史学者として著名な岡田英弘は、こういう文章の混乱について、別々の時期に派遣された二人の使者の報告を混ぜて一つの文章にしてしまったためだろうと推理している。使者の問題については後述するが、あり得ることである)
(卑彌呼)の話はこれでとつぜん終わって、つぎに《邪馬台国》の東に海を千里も行くと倭種の国があり、その南に侏儒国があり、その東南に裸国や黒歯国があって、そこは船で一年がかりの距離である――という凄い話が記されている。
この裸国・黒歯国は南米にあると真剣に考えている人も多いようだが、科学的な検討は加えようがない。
で、結局倭の地(日本)は一周して五千余里だそうなのだが、といっても一里がどれくらいか分からないし、実測の方法もない時代なのだから、この長さは「かなり長い」としかいいようがない。
一里を435mとするとほぼ2200Kmになって、合うといえば合うが、地理的な測定法の無かった時代のことなので、「かなり長い」としておくのが科学的な態度であろう。
さて、もう終わりに近いのだが、この次にとくべつ有名な事項が書かれている。
魏の国と倭の女王――すなわち《邪馬台国》の(卑彌呼)――との間の外交交渉の記録である。
これは《邪馬台国》までの経路などとはちがって、魏の都で魏の役人が使いの日本人と面会して記録した史料によるものなので、「魏志倭人伝」のなかではもっとも信憑性がたかく、重要である。
ただし、この外交記録を理解するためには、この時代の東アジアの勢力分布を知っておく必要があるので、次の二つの節でその概要を述べておくことにしよう。 
3-4 卑彌呼の時代の東アジア

 

前漢から公孫氏の時代まで 
図3・2をごらんいただきたい。これは、「魏志倭人伝」の時代、すなわち(卑彌呼)が活躍したとされる三世紀のアジアの、勢力分布の概要を示した地図である。この時代は、(卑彌呼)の話を除いても、日本人にとてもなじみぶかい。なぜなら、それは魏・蜀・呉の三国が覇権を争った三国時代であり、その覇権争いは後に「三国志演義」という大衆物語にまとめられたが、これを吉川英治が天才軍師・諸葛孔明を主人公にした大長編「三国志」として翻案し、たいへんなベストセラーになったからである。
だから三国時代の覇権争いについては多くの日本人が知っているのだが、そのころの遼東半島や朝鮮半島の情勢についてはピンと来ないことが多い(わたし自身も)ので、簡単におさらいしておこう。
シナ大陸の王朝の交替劇はとても古く、紀元前二千年くらいから話があり、伝説の時代・殷・西周・東周の春秋時代・戦国時代をへて、西暦前二二一年に始皇帝が天下を統一して秦をつくり、万里の長城を築いたりするが、三世になって漢の高祖に滅ぼされ、前二〇二年に前漢が興る。
この前漢の第七代の武帝は有名な名君だが、この武帝が朝鮮半島の経略にのりだし、西暦前一〇八年に半島に楽浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・眞番(しんばん)・玄菟(げんと)の四郡をおき、役人を派遣して、日本を含め半島周辺を支配する拠点とした。
図3・2でいうと、楽浪郡は楽浪のあたり、臨屯郡は東海岸側、眞番郡は帯方のあたり、玄菟郡は北方の高句麗のあたりである。
一方南部の比較的狭い地帯には、馬韓・弁韓・辰韓のいわゆる三韓があり、そのなかがさらにいくつもに分かれていた。
このうち弁韓の一部が加羅(または加耶)であり、「記紀」にある任那である。
シナの都に近い半島北西部はもともとが漢民族の係属国ではあったが、前漢武帝の時代にそれも滅びて、シナの皇帝が直接支配する領土が黄海沿岸に大きく拡がった。
楽浪郡はその南部に位置づけられており、現在の平壌やソウルはこの広大な楽浪郡のなかに含まれていたらしい。
しかし楽浪郡はかならずしも安定ではなく、東の高句麗やその南方の▼(わい/シ+歳)に侵されつづけながら、後漢の末期にいたった。
一世紀の西暦五七年に日本の奴国に金印を贈ったのは後漢であるが、そのときの日本の使者(倭奴国の使者)は、この楽浪郡を経由したと考えられる。
同じような使者は、西暦一〇七年にも来て、生口百六十人を献上したと後漢書倭伝に記されている。この使者を送った国王は帥升(すいしょう)とされているが、日本側の「記紀」では照合できない。たぶん、奴国と同様な北九州の豪族――伊都国など――だと思われるが、大和朝廷だったとの説もある。
後漢末期の西暦二〇〇年近くになると、大陸が乱れ、やがて三国時代に入るのだが、その乱れに乗じて、遼東半島付近の後漢の高級官僚で「遼東太守」だった公孫度(こうそんたく)が独立して、国をつくった。
独立を決意して遼東侯を名乗って勢力を広めはじめたのが西暦一九〇年だった。
公孫度が二〇四年に死ぬと、子の公孫康(こう)があとを継いでさらに勢力範囲を拡げ、高句麗を抑えて楽浪郡を手に入れ、その南側を新たに帯方郡と名づけた。
この公孫一族の領土が、地図で公孫氏と書かれている箇所とその左右および帯方郡までであるが、その力は四代にわたってつづいた。
すなわち公孫康の二二一年の死後、弟の公孫恭(きょう)が西暦二二八年まで、康の子の公孫淵(えん)が西暦二三八年まで、権力をもった。
公孫氏が勢力を保っていた間は、日本にとってはシナの都との間に公孫の領土があるわけだから、外交の相手は主に公孫氏だったらしい。
問題の(卑彌呼)も、西暦二三八年までは公孫氏に使いを送って友誼を確認し、一種の外交をおこなっていたとされる。
公孫氏の滅亡と魏の半島支配 
その傍証として、奈良県天理市の東大寺山古墳――天理市から北にかけての大豪族だった和珥(わに)一族の墓とされる――から出土した中平(ちゅうへい)という年号の刻まれた鉄刀がある。
中平とは後漢の年号で、西暦一八四年から一八八年にかけて使われた。ちょうど公孫度が国を作ろうしたころである。
しかもこの刀は、中国でも二振りしか発見されておらず、高官以外は持たないような貴重品なのだ。
これがもしシナの皇帝からの下賜品であるとすると、シナ正史に記録が残っているはずだが、そういう記録は見られない。しかし公孫氏の場合には、すぐに滅亡した辺境の豪族なので、記録は残っていない方が自然なのだ。
だから、この宝刀は、後漢からの直接の下賜品ではなく、その間にあって後漢への道を遮っていた公孫氏が、後漢に対抗して日本を味方につけるための外交の道具として贈った可能性が高いのである(*1)。
さて、西暦二二〇年に魏が建国し(都は後漢とおなじ洛陽)、二二一年に蜀が建国、そして二二二年に呉が建国して、三国時代にはいるのだが、しばらくは公孫氏の力はつづき、呉と軍事同盟を結んだりしていた。
しかし西暦二三四年に有名な五丈原で諸葛孔明が病死すると、蜀に攻められる心配が減った魏の力が強まり、魏は朝鮮半島への勢力拡張にのりだす。
三国のうち朝鮮半島に接しているのは魏であり、蜀は遠くはなれているし、呉も東シナ海を介しているので、半島から東への直接的な攻勢は魏のみのものであった。
西暦二三七年に公孫氏攻略の軍を起こして撃退されるが、翌二三八年に、司馬仲達が魏の大軍をひきいて攻め入り、ついに公孫氏を滅ぼした。
「三国志演義」に「死せる孔明生ける仲達を走らす」とある、あの軍師・仲達である。
(*1 時代が少し後なら後漢のあとの魏を意識していたことになる。この刀は、わずかに内側に反った形――通常の日本刀とは逆の向きに反っている――の片刃で全長1m程度の長刀だが、金象嵌で次の銘文が刻まれていることで有名である。「中平□□□五月丙午造作(支)(刀)百練清(剛)上應星宿(下)(辟)(不)(詳)」これは、我が国で発見された紀年の刻まれた最古の考古学的史料であり、超重要品である。百練というのは、特別丁寧に鍛えた鉄を意味するらしいが、有名な石上神宮の「七支刀」の銘文と同じ表現である。いずれにせよ、卑弥呼の時代の直前にシナで作られた刀が大和朝廷の皇宮のそばに埋められていたことは興味深い。)
こうして楽浪郡・帯方郡ともに魏の植民地になり、魏の皇帝はそこに役人を派遣して支配した。
この、公孫氏が滅んだ直後の西暦二三八年または二三九年に、(卑彌呼)が使者を、帯方郡を介して魏の都の洛陽に送ったことが、「魏志倭人伝」に出ているのである。
もちろんこれは、朝鮮半島や朝鮮海峡における日本の立場を強化するためで、(卑彌呼)の実権がどうだったかにかかわらず、日本側の見事な外交感覚である。
日本全体としてみれば、これは、公孫氏によってさえぎられていたシナとの国交の回復でもあった。
日本の正史「日本書紀」では、ほぼこの時代と推定される崇神天皇紀に、任那の地(弁韓のなかの加羅)から蘇那曷叱知(そなかしち)なる人物が大和朝廷に朝貢してきたとされている。
また他の文献によれば同じ崇神天皇の時代に、孝昭天皇の子孫である塩垂(乗)津彦命が半島に派遣されて、新羅(の前身?)に攻められて混乱していた任那の地を治めたという話も伝えられている。
どの国の正史でも、古代のものは、自分の国がへりくだった時のことは記されていない。
とくに「記紀」は、日本は大陸から独立するぞ――という気概のみなぎった時代に編纂されているので、朝貢に来た話は記されても、その逆は記録が残らなかったか、あるいは無視したか、したであろう。
しかしすくなくともこの時代に半島との交流があったことはたしかで、日本の正史にちゃんと記載されているのだ。
高句麗の南下と任那の拡大 
その後の朝鮮半島は、高句麗の力が強まり、四世紀前半には楽浪郡は高句麗の領土となって、シナの植民都市は数百年の歴史を終えた。
高句麗はもともと鴨緑江の北側に本拠地をもち、現在の中国領にまでまたがる地域を支配した国で、その住民は北方の騎馬民族の血をひいていたと考えられている。
それが豊富な騎馬軍団によって朝鮮半島を南下して領土を拡大したのだ。
それと同時に図3・2で馬韓とされている付近が、日本と友好を結んだ百済となり、辰韓とされている部分がのちに敵対する新羅となり、そして弁韓の部分が、日本の領土としての任那となった。
百済と新羅の建国は四世紀半ばごろとされている。
百済は馬韓の一国だった伯済(はくさい)が、新羅は辰韓の一国だった斯廬(しろ)が、それぞれ周囲の小国群を併合してつくった国だったが、日本領の任那(みまな)は、つぎのような経過で確立したらしい。
前述のように、三世紀前半に朝鮮半島南端の弁韓の一部に加羅(から)(または加耶(かや))という国があった。
それは「魏志倭人伝」で倭国の一部とされている狗邪韓国(くやかんこく)とたぶん同じとされ、そこに多くの日本人がいた。
もちろん国といっても今の国とは違い、一種の集落である。
日本ではそれを任那と呼んでいたわけだが、四世紀になってこの国――集落――がしだいに勢力を拡大して周囲の小国を従え、もとの弁韓全体を支配するようになったのだ。
この時代前後には優れた人材が任那地区はじめ半島諸国から渡来して日本文化に貢献したことが「記紀」や「万葉集」にも記されているが、もともと任那の指導層には日系が多かったと考えられている(*1)。(「女性天皇の歴史」や渡部昇一氏の諸著書参照)
その後の日本は、シナ大陸の三国時代につづく王朝である晋・隋・唐と外交しつつ、高句麗や新羅と厳しい軋轢をくりかえし、西暦四〇〇年前後には高句麗の好太王軍と半島深部で大激戦を演じて、任那を中心とした半島での日本勢力を拡大した。「好太王碑」にも日本の拠点として任那という名が登場している。
これは(神功皇后)からつぎの應神天皇の御代にかけてのことだったらしいが、こうして日本の勢力圏である任那は弁韓にとどまらず、馬韓(百済)や辰韓(新羅)を圧して三韓のなかで最大の面積になった。
しかし国力は長くは続かず、繼體天皇の御代に半島での日本勢力は縮小・弱体化し、西暦五六二年には任那を新羅に奪われ、六六三年の白村江の戦いで破れてついに友邦国の百済も滅び、(卑彌呼)の時代以来四百年以上つづいた朝鮮半島の足場を失って、日本は次第に内にこもるようになるのである。
西暦四〇〇年前後の應神天皇らの朝鮮経略ののちしばらくは、日本は三韓の盟主としてその地を安定させる責任をもっており、任那の地に日本府という役所を設置して行政をつかさどり、三韓に混乱が生じるたびに大和朝廷の軍がかけつけて問題を処理していた。
高句麗に攻められた百済や新羅を救うために大伴・物部といった豪族が活躍したのだ。
たとえば西暦四〇〇年代後半には、百済が高句麗に攻められて滅亡しそうになったとき、日本が軍事支援して王城を南に移して百済を再興させている。
(*1 親日だった任那・百済・済州島+に多くの日本人がいたこと――ある意味では北九州と一体の地域だったこと――は、渡部昇一氏なども強調しておられ、著者も「女性天皇の歴史」に記したが、敵対していた新羅も山陰地方との交流があり、新羅の第四代の王は丹後地方出身の日本人だと受け取れる伝説がある。)
(済州島は、日本の正史では神功皇后が百済に割譲したとされているが、現在の済州島にも、島で産まれた三人の男神と日本から来た三人の姫とが結婚して子孫が増えた、という伝説がある)
任那の滅亡と日本の危機 
しかし、西暦五一〇〜五三〇年ごろと推定される繼體天皇の御代に、神武以来の重臣である大伴一族の判断で半島南西端にあった任那四県を、要望に応じて百済に割譲してしまったことから、危機が拡大した。
この割譲は(神功皇后)の時代に済州島を百済に与えたという伝承以来の事件であった。
繼體天皇は世継ぎ不足という混乱の時代に地方から迎えられた天皇であり、国内の乱れが任那の経営に影響したことがうかがえる。
この四県割譲が原因で任那に混乱が生じ、やがて新羅による任那侵略がはじまった。
そしてこれを阻止すべく大軍を派遣しかけたとき、九州の筑紫の国造(くにのみやつこ)だった豪族の磐井(いわい)が、新羅にそそのかされて叛乱をおこした。
有名な「磐井の乱」である。
(これは半島勢の工作によって国内が分裂してしまった貴重な歴史的教訓である)
この乱によって新羅を抑えることができなくなり、外交方策に転じたがうまくいかず、新羅の策略にしてやられるようになる。
しばらくして第四章のトビラの歌にある大伴狭手彦らが奮戦して成果をあげたが、それも一時的なものであった。
そして結局、大和朝廷では、新興の蘇我一派が巧みな策略を弄して大伴一族を抑え、蘇我と物部の抗争をへて大化改新にいたって蘇我も亡び、豪族単位の政治をやめて法治国家をめざすようになるのである。
西暦五六二年に新羅に攻められて任那を失ったのは、第二十九代欽明天皇の時代であり、「日本書紀」に詳しくその経緯が書かれている。
西暦六六三年の白村江の戦いは、日本と百済の連合軍と、唐と新羅の連合軍の間でなされ、日本側が大敗して百済は新羅にのみこまれたのだが、それは大化改新で知られる中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足の時代であった。
この敗戦によって日本の防衛が危うくなり、急遽《大和》の飛鳥から守りに強い大津に都を移し、沿岸にたくさんの城を築いたり、沿岸から都に危機を知らせる狼煙制度を作ったりした。
飛鳥の都の北西は山を越えて広い河内や和泉だが――神武東征の話でわかるように――その地形は今と違って入江が生駒山系にまで深く入り込んでおり、海と飛鳥はすぐ近くだったので、海への交通にはよいが国防の観点からはとても危険だったのだ。
このときの飛鳥から大津への移転劇に涙してできたのが、第二章のトビラ裏にある、天武天皇の寵をうけたのち天智天皇の愛人になったとして有名な額田王の歌である。 
3-5 卑彌呼以後の東アジアと日本の安全保障

 

新羅の制覇から現在まで 
さて、唐と結んで半島で勝利した新羅は、やがて高句麗も滅ぼし、西暦六六八年(天智天皇の時代)に朝鮮半島の南半分を統一する。
そのあと掌を返した唐に攻められ、日本もハラハラするが、なんとか七年間の戦争に耐えて、シナの係属になりながらも、新羅の半島南部の支配は九三五年(平安時代中期)まで続いた。
なお現北朝鮮に相当する半島北部は、大陸側のいくつかの国の一部になっていた。
この統一新羅の時代(奈良・平安時代)には、内にこもってしまった日本の国防力は弱まり、しばしば対馬や九州沿岸を新羅人らに荒らされるようになった。
統一新羅は西暦九三五年に滅亡し、そのあとは十四世紀までが高麗の時代で、やはりその領土は南半分で、のちに北方まで勢力を伸ばしたが、同時に元王朝の支配下に入ってしまった。
蒙古のフビライ(ジンギスカンの孫)が唐の後継の宋を滅ぼして建国した元王朝が隆盛をきわめ、高麗はその力に服したのである。
西暦一三二〇年代、北条時宗の時代に、元寇という空前の危機が日本を襲うが、その主導は元王朝だったとはいえ、軍勢の多くはシナと朝鮮の兵士であり、とくに高麗の朝鮮兵によってたくさんの日本人が殺された。対馬などはほとんど皆殺しだったが、日本軍は頑強に抵抗し、ついに元は諦めた 。
大陸では西暦一三六八年に元が滅びて明王朝ができるが、それからまもない一三九二年に高麗は李氏に滅ぼされ、半島は李氏朝鮮の時代となった。
李氏朝鮮も高麗につづいてシナに服従して属国的な立場にあった。
そもそも「朝鮮」という国号も、シナの明国に定めてもらったものであった。
そして日本に対しては常に居丈高だった。
高麗滅亡の理由のひとつとして、倭寇との戦いによる疲弊があったとされているが、とうじの倭寇は日本人が主体とはかぎらず、いまの福建省など大陸沿岸部や朝鮮半島沿岸部の海賊が多かったらしい。
高麗を滅ぼした李氏朝鮮は、十六世紀末の豐臣秀吉による朝鮮征伐で日本と苛烈な戦いをしたが、明国の参戦によって日本軍が苦戦し撤退したことでことなきをえた。
この時の講和会談は、日本と明国との間でなされ、朝鮮は道案内にすぎなかったらしい。
(当時の日本も明国も朝鮮を独立国とは考えておらず、講和会談は日本と明国の間でなされたが、明国の尊大な態度に秀吉は激怒したとされる)
この朝鮮征伐のとき、李氏朝鮮の圧政に苦しんだ人たちが日本に逃れてきて帰ろうとせず、かなりの人数が帰化したとされている。
(これは戦後の朝鮮戦争時の現象と似ている)
李氏朝鮮は、日露戦争において遼東半島の付け根で日本がロシアと戦った末、明治四十三年に日本が併合するまで存続した。
秀吉の朝鮮出兵は世界史にも大きな刺激を与えた。
清国の建国にもナポレオンの野心にも影響したとされている。
そして、昭和二十年に日本が撤退してから、共産勢力の南下による米ソの対立構造がはじまり、ソ連・中国・アメリカを巻き込んだ昭和二十五年から二十八年にかけての朝鮮戦争の結果、北に朝鮮民主主義人民共和国、南に大韓民国が成立し、西暦二〇〇六年の現在まで、不安定な国際情勢の源となっている。
そして日本との間にも、竹島問題をはじめとして、領土・経済・政治・拉致・教育干渉・環境汚染など困難な問題が山積している。
とくに昭和二十年から三十年代にかけての李承晩時代の韓国は、日本固有の領土である竹島を武力で奪い、数千人の日本漁民を不法に拉致するなど、やりたい放題であった。
その後も、半島による日本の苦難が続いている事はご案内のとおりである。
つまり、大陸と朝鮮半島と日本列島の複雑な国際政治情勢は、「弥生時代」「古墳時代」から現在まで、じつに二千年以上ものあいだ、<ほとんど同じ力学>のもとに、日本の安全保障に関係してきたのである。
(補遺1 應神天皇紀――推定四世紀後半の應神天皇紀には高句麗との激しい闘いが記されているが、さらに、瀬戸内海に繋留していた朝廷の新造船が新羅の工作員によって放火された話、高句麗の王からの国書があまりにも無礼だったため応対した皇子の菟道稚郎子が怒って破り捨てた話などが記されている)
(補遺2 刀伊の入寇――寛仁三年(一〇一九年)の三月から四月にかけて、朝鮮北方の女真族らしい賊軍が五十隻からなる軍船を連ねて対馬や壱岐を侵略し、さらに九州に上陸して残虐のかぎりをつくした。老若男女を惨殺し、若い成人男性を拉致して奴隷にした。日本側は必死で闘って、退散させたが、惨殺された日本人はほぼ400人、拉致され奴隷にされた日本人は1300人に達したとされる。この事変は、平安中期の日本の国土防衛の弛緩を物語っている)
(補遺3 応永の外寇――応永二十六年(一四一九年)の六月、李氏朝鮮が、軍船200隻以上、兵士二万人近くという大軍を編成して対馬を攻撃し、多くの惨殺や放火をおこなった。朝鮮軍は永住しようとしたが、日本側も必死で闘って、結局は撤退した。そのあと、対馬を朝鮮慶尚道の属州とするという約束がなされたとされるが、これは当時の島主である宗貞盛も知らない謀略であった。室町中期の事変である)
朝鮮半島との関係は弥生時代から 
ざっと朝鮮半島近辺の歴史をたどってみたが、朝鮮の史書の「三国史記」をみると、こまかな信憑性や年代は別にして、ひじょうに古くから――年代どおりとすれば紀元前から――日本人が朝鮮半島の北方まで進出し、交易や抗争を展開していたことが記されている。
この半島との古くからの関係は、日本に紀元前のシナの鏡や剣や各種青銅器類が残されていることや、考古学的遺跡の比較からも、検証される。
日本の遺跡から見つかるもっとも古い鏡は紀元前三世紀とされ、紀元前一世紀になるとかなり多くの銅鏡が発見されているし、弥生時代の青銅器に使用された金属がほとんどシナ大陸産であることも、鉛同位体比法という方法によって確認されている。
おそらく、有名な秦の始皇帝の時代――日本では弥生時代の前期――には、農業・織物・金属などの大陸の文物が日本に流入し、交易がなされていたのであろう。
始皇帝の意をうけて、不老不死の仙藥を求めて海を渡り、熊野に漂着してそのまま日本に留まったという徐福伝説の真偽は不明だが、(卑彌呼)の時代よりはるか昔の紀元前三世紀にすでに――たぶん縄文時代からすでに――大陸との人的交流が、組織的ではなかったとしても、なされていたことは確かである。
そしてその交流に朝鮮半島が重要な役割を果たしたのは当然であり、とくに紀元前一世紀以後になると、その輸入品の多くは、間違いなく半島の植民地楽浪郡・帯方郡などを経由して渡来したのだ。
奴国の金印もその一環であろう。
さいきんの発掘調査によって、日本海沿岸と《大和》をむすぶ狼煙通信の施設がすでに弥生時代からあったらしいことも、わかりつつある。
「三国志」の「東夷伝・韓の条」に、「弁韓や辰韓は鉄を産し、倭人はここから鉄を入手しており、交易には銭のかわりにその鉄を用いている」と記されている。
(補足)「渡来人」という術語について
この不思議な言葉は、現在では教科書にも出ているので、わたしもつい使ってしまうことがありますが(今の連載では使っていないつもり)、戦後の左翼史家が創作した術語だろうと思います。
理屈はいろいろと付けられていますが、とにかく戦前は聞いたことのない術語です。
たとえば、戦後の広辞苑を見ましても、初版から第四版までは見られません。ようやく平成十年に出た第五版になって掲載されるようになりました。
左翼史家が必死で宣伝した結果なのでしょう。
一方教科書では、中学高校の多くの歴史教科書において「渡来人」として出てきます。なかには「渡来人(帰化人)」と書く教科書もあり、これなどはまだ良心的な方です。
中学では扶桑社の教科書が「帰化人(渡来人)」と記してプロパガンダに抵抗していますし、高校では小堀桂一郎先生方の明成社の教科書が扶桑社と同じ書き方をして頑張っています。
教科書の左傾化はずいぶん前から話題ですが、国語辞書や用語事典の左傾化も着々として進行中であり、憂慮しております。広辞苑への批判はときどき耳にしますが、「現代用語の基礎知識」などの用語事典の左傾化も酷いものがあります。

弥生時代末期の日本人にとって鉄がきわめて重要な資源であり、鉄を求めて朝鮮半島で活躍していたことがよくわかる記述である。
この記述は、帯方郡のすぐそば(歩いて数日の距離)の地域での見聞記なので、「三国志」のなかでもとくに信憑性はたかい。
だから、三世紀の(卑彌呼)の時代に、朝鮮半島との交易や競争があったり、日本と公孫氏・楽浪郡・帯方郡との外交があったりしたのはむしろ当然であって、そのときすでに数百年の交流経験があったのだ。
さらに第七章に示す「三国史記」新羅本紀には、(卑彌呼)が若いころの二世紀後半に(卑彌呼)の使者が新羅に来たことや、三世紀初頭に、辰韓の地で日本軍とそこの王とが戦ったとなどが記されている。
だから、つぎの四世紀とされる(神功皇后)の三韓征伐の伝承も、史実を反映しているのは確実である。
日本と朝鮮半島の国々との困難で重要な関係は、明治時代の日清・日露戦争に始まったのではなく、遠く紀元前の弥生時代からあったのである。
任那は古代日本の領土である 
朝鮮半島の南端部における日本の勢力が、いつごろからあったのかについては、いろいろな見解があるようなので、著者の率直な意見を記しておきたい。
任那という地名で代表されるこの領土については、過激な異論もある。
それは、韓国の学者だけでなく戦後の日本の論者にもあるのだが、
A「まったくの嘘であり日本人が朝鮮半島に進出などしていなかった」
B「日本が朝鮮という国を侵略して任那という植民地をつくったのはけしからん」
――の二種類である。
このうちAはおよそナンセンスな説である。
朝鮮半島南部における日本の勢力については、日本の古文書だけではなく、シナ正史にも朝鮮正史にも、さらには高句麗王の碑文にさえも記されており、否定のしようがない。
Bについては多少の説明がいるかもしれない。
任那についてのもっとも古い記録は「魏志倭人伝」にある倭領(日本領)とされている狗邪韓国(加羅とほぼ同地域すなわち任那)だが、そのほか同じ「三国志」の韓の條にも、韓の人たちの住む地域の地理について、「東西は海だが南は倭との境だ」とあるので、シナの役人たちが半島南端にある狗邪韓国を日本の一部と認識していたことは明白である。
「三国志」には信用しにくい記事も多いのだが、狗邪韓国は魏の植民都市の帯方郡のすぐそばで、歩いて数日のところだから、その記述は信用できる。
したがって、「好太王碑」を待つまでもなく、二世紀ごろから多くの日本人が任那の地にいたのは確実なのだ。
この任那がいつごろできたのかは不明だが、縄文時代の前には陸続きだったのだし、紀元前から交易がなされていたことは遺跡からの鏡などの出土品ではっきりしているので、かなり古く、すくなくとも弥生中期からあったと考えられる。
紀元前後の三韓は原始状態の山野に弥生的な集落が点在していたていどの地であり、ひとつのまとまった国ではなかったから、そこに日本人の大きめの集落「任那の原型」があったとしても、それは自然にできたものであって、植民したとか侵略したとかいった話にはならないであろう。
現在のロシアや中国は広大な領土を有しているが、それはたかだかこの数百年のあいだに現地人を駆逐して拡げたためである。
しかしその多くは現在、国際的に正当な領土として認められている。
したがって二千年も前に自然のうちにできた任那が日本の領土だったのは当たり前の話であり、もし侵略という言葉をどうしても使いたいのであれば、前述のように六世紀から七世紀にかけて「新羅に侵略された」というほうが当たっているであろう。
もっとも厳密には、五世紀以後は、三韓全体の盟主が日本で、任那の日本府はその事務所的な役割であり、日系の人物が百済などの要人としてたくさんいたと考えられる。
(だから渡部昇一氏は、もともと北九州と半島南部は一体の地域で、白村江の大会戦ののちに多くの百済人が帰化してきた話は、大東亜戦争後に大陸や朝鮮から多くの日本人が引き揚げてきた話に相当している――と述べている。つまり故郷への「引揚者」である。どうやら言葉や祭祀も通じるものがあったらしい。韓国に留学して韓国史を学んだ時代作家の荒山徹は「百済は日本の一構成要素として日本史で扱うのが妥当」と断言している)
なお任那というどくとくの地名は、在位が三世紀と考えられる崇神天皇の諱または国風謚号の「ミマキイリヒコ」からつけられたと、「日本書紀」には記されている。  
3-6 謎の多い七つの対魏外交記録1 景初三年

 

(卑彌呼)の時代の東アジア情勢を概観したところで、「魏志倭人伝」の原文にもどろう。裸国、黒歯国・・・といった空想的な記述がおわると、またとつぜん現実にもどり、外交記録がはじまる。これは断片的ではあるが、魏の都での記録を元にしているため、信憑性はかなり高いと考えられている。記録は七項目に分けることができる。
(一)景初三年(明帝(めいてい)・叡(えい)の年号/西暦二三九年)六月 
記された外交記録の最初は、景初三年、西暦換算で二三九年である。
すなわちこの年、倭の女王(卑彌呼)の使者である大夫(たいふ)の難升米(なしめ)らが帯方郡にきて、魏の皇帝に拝謁したいと申し出た。
そこで、魏の役人でもある帯方郡の太守(たいしゅ)の劉夏(りゅうか)は、部下に難升米らを引率させて、魏の都の洛陽に送った。
そして難升米らは魏の皇帝に種々の宝物や男女を献上した――と述べられている。
この景初三年という年は、現在の写本では二年となっているが、それは写し間違いで、ほんとうは三年だろうと、他の文献や魏国と周辺国の事情などから推定されている。
「日本書紀」にも三年と記されているので、ここでは三年としておく。
難升米の読みは、ナンショウメという説もあり、いろいろである。もともと発音不明の文章を史家が推定しているものなので、他の多くの人名地名の読みについても、意見がいろいろある。
難升米に直接対応できる人名は日本側の史書にはない(間接的にはある)が、あとでも魏の皇帝から旗などを下賜されているので、いまでいえば、外務大臣とか有力大使とかいった身分の人間だったのであろう。
内藤湖南による有力な説は、難升米は古代に外交を担ったと「日本書紀」にある田道間守(たじまもり/但馬守)の一族だというものである。
漢字でみるとまったく違う人物に思えるが、シナの発音は濁音がしばしば清音になるので、「タジマ」を「タシマ」と発音すれば、「TASHIMA」となり、「NASHIME」とよく似ているのである。
また、兵庫県日本海側の但馬地方には、海で活躍した一族がいた痕跡が濃厚だと、遺跡などからわかるので、内藤湖南の説も一理あると思われる(*1)。
魏の元をつくったのは吉川英治の「三国志」で有名な曹操だが、初代の皇帝になったのはその子の曹丕(そうひ)で文帝といわれた。
景初というのは、文帝の息子で魏の二代目の皇帝になった叡(えい)すなわち明帝(めいてい)の年号で、元年が西暦二三七年にあたる。
だから景初三年は西暦二三九年になるのだが、この年の正月には明帝は没し、まだ少年の曹芳(そうほう)が即位していた。
またこの年は公孫氏一族が魏の司馬仲達らによって滅ぼされた翌年にあたっていた。
何らかの方法でその事件を知った(卑彌呼)たち日本の指導層が、ただちに公孫氏への挨拶を魏の新帝への挨拶に切り換えて贈り物を届けたわけで、三世紀の日本の政権が、大陸や半島の国際情勢に敏感に反応して、巧みに外交上の手を打ったことがわかる。
また、半島や大陸の情勢が即時に把握できていたことは、すくなくとも半島との間では、交易などの人的交流がさかんになされていたことを意味している。
帯方郡の太守の「太守」とは、郡の長官のことで、植民地の最高責任者の役職名である。
(*1 「日本書紀」にも「魏志倭人伝」にも出てくる「鄙守/卑奴母離(ひなもり)」が、大和朝廷から遠く離れた地方――鄙/ヒナ=地方――の統治者一族に与えられた役職名であることは前に記した。この鄙に具体的な地名である「但馬」を入れると「但馬守」=「田道間守(たじまもり)」となる。すなわち「日本書紀」にある外交職の「田道間守」は但馬地方の統治責任者の一族と推理できる。ではなぜ但馬地方の主が外交を担ったのかであるが、但馬やそのすぐ隣の丹後地方(海部氏が支配)の人たちは船で日本海を航行することに慣れており、半島との交流も盛んだったからであろう。この事は遺跡からも例証されている。さらに、大和朝廷が但馬や丹後地方を重視していたことは、「八咫鏡」を大和地方の外に奉斎した最初の場所が丹後(元伊勢籠神社)であったことからも推理される。また「八咫鏡」が伊勢神宮に落ち着いてからも、外宮に丹後の神だった(豊受大神)を祀ったことでも推理できる。大和朝廷として、どうしても親密な関係を保つ必要のあった地方であり豪族だったのである)
(二)景初三年(西暦二三九年)十二月(1)――重要な詔書の内容―― 
倭国のこの朝献に対して、その年の十二月、魏の皇帝は、(卑彌呼)にたいして詔書を出した。
この詔書の内容は重要なので、三品彰英による訳文を、一部省略して掲載する。
「汝を親魏倭王卑彌呼に任命する。帯方郡太守劉夏が使者をつかわし、汝の大夫難升米と次使都市牛利(読み方は諸説あるがはっきりしない)を送り、汝の献じた男の生口四人、女の生口六人と班布二匹二丈(縞模様の布14mほど)を奉じて、わがもとに到着した。汝の国は、はるか遠くにあるにもかかわらず、こうして使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝のあらわれであろう。そこで私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印紫綬(金の印と紫の紐)を与えようと思う。装封して帯方郡太守に托し汝に授ける。汝は倭人を綏撫(安んじいたわること)し、つとめて我に孝順をつくすようにせよ。汝の遣わした使者難升米・牛利等は遠路を苦労してここまでやってきた。その功を認め、いま難升米を率善中郎将(護衛武官の長)、牛利を率善校尉(護衛武官)とし、銀印青綬を与え、彼らを引見し、汝の賜遣をねぎらって送りかえすであろう。また絳地交龍錦五匹(赤地に蛟龍模様のある錦)、絳地シュウシュクケイ(細い毛羽のついた薄い赤地の織物)十張、セン絳五十匹、紺青五十匹を与える。これらは汝が献上した贈り物の価値に相当するものである。また特に汝には紺地句文錦三匹(紺色地に曲線模様のある錦)、細班華ケイ五張(細いまだら模様の毛織物)、白絹五十匹、金八両(黍二万粒の重さ)、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤(鉛丹は顔料の一種、五十斤は黍二百万粒の重さ)を与えよう。これらの品物はすべて装封して難升米と牛利に託したから、彼らが国に帰ったならば、記録して受け取るように。なおこれらのすべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を慈しんでいることを知らさなければならない。だからこそ鄭重に汝に良い品物を与えるのである」
シナの都から見ればはるか辺境の途上国の女王への返礼にしては、かなり長く、丁寧な文章である。またそこに書かれている品物も、(卑彌呼)が献上した品よりも――人間を除けば――はるかに豪華である。
金印の称号も一世紀の奴国より一段上だし、銅鏡百枚というのもシナとしては異例の豪華さである。
これは、朝鮮半島の経営に苦しんでいるので、その向こうの日本を味方につけようとする司馬氏ら魏首脳の遠交近攻策によるものだろうとされている。
(卑彌呼)が贈ったもののうち、生口(訓ではイクチ)と書かれている男女計十人が問題であるが、この実態については、たんなる奴隷という説、技能者という説、留学生という説まで、議論が分かれている。
ただ一種の奴隷だったとしても、いまの言葉でいえば召使いであり、アフリカからアメリカ大陸に連れてこられたような種類の奴隷ではないであろう。
なんらかの技術を持った人間が、忠誠を表すために贈られたのだろうし、のちに日本にもどっただろうという説もある。
(二)景初三年(西暦二三九年)十二月(2)――証拠は見つかるのか―― 
つぎに問題なのが、金印と銀印と五尺刀と銅鏡である。
他の品物は大切にされたとしても、現在まで残る可能性はすくない。
しかし金印・銀印・刀・銅鏡は、保存状態が良ければ、残存していて遺跡から出土する可能性がある。神社に伝世されていることすら考えられる。
金印はもっとも劣化しにくい金属でできているし、博多湾から一世紀らしい金印が綺麗なままで発見された例もあるので、今後どこかから見つかる可能性は大であるが、なにしろ一個だけなので、僥倖を期待するほかはない。
銀印は使者に与えられたものなので、その使者の居住地付近(*1)を探さなければならないが、それがまったく不明なので、これもまた偶然をまつほかはない。
(*1 推理が正しいとすれば、但馬地方で見つかる可能性もある)
五尺刀の定義はわからないが、遺跡からシナ製らしい大刀が出土する例はあるので、どこかに眠っている可能性はあるが、刀は錆びやすいし、二口だけなので、発見は困難であろう。ひょっとするとすでに発見されているのかもしれないが、同定は困難である(*2)。
その点、三番目の銅鏡は、「魏志倭人伝」の記述が正しいとすれば百枚もあるし、錆びにくいし、副葬品にする習慣もあったから、古墳や宮殿跡から発見される可能性は、かなり高い。銅鏡は、銅・錫・鉛・銀などの合金(青銅)で出来ているが、この合金は純金ほどではないにしても丈夫で腐食しにくく、かつ加工も容易で、現在でも似た成分のものが工業製品に使用されているくらいである。
というわけで、銅鏡こそ、「魏志倭人伝」の記述を裏づける証拠品として有望なのだが、すでにそれらしい鏡はかなり多く見つかっている。
図3・3はその代表例で、大阪府泉の黄金塚古墳から出土し、景初三年の銘が刻まれていて評判になったものである。
これは古鏡の分類では「景初三年画紋帯同向式神獣鏡」と呼ばれているが、とにかく、(卑彌呼)が使者を送ったとされる景初三年という文字が刻まれているのだ。
また平成六年になって丹後の山上の古墳から青龍三年の銘のある「方格規矩四神鏡」が発見された。
この青龍三年というのは西暦二三五年で、(卑彌呼)が百面の鏡を貰った四年前の製作であり、これも百面のうちかもしれない――といわれている。
似た鏡は他にも見つかっており、景初四年とか正初元年(いずれも西暦二四〇年で難升米らが日本に帰った年)といった銘のあるものも発掘されている。
とくにさいきんは「三角縁神獣鏡」はじめ数多くの発掘が続いている。
(卑彌呼)に贈る――といった文字はどこにも無いので、どれが前記の銅鏡百枚のうちなのかの判定はつきにくいが、考古学者の地道な研究によって、かなり絞られつつあるようである。
そしてそれらの発見が畿内に多いことが認められ、上記の詔書の真実性を裏づけるとともに、「《邪馬台国》大和説」に有利な展開になりつつあるらしい。
(*2 詳しい理由は著者には分からないが、先に記した東大寺山古墳出土の長刀をこの候補にする見解は少ないらしい)  
3-7 謎の多い七つの対魏外交記録2 正始元年から泰始二年まで

 

(三)正始元年(廃帝・芳の年号/西暦二四〇年) 
前節で引用した詔書のなかに、
「一般的な宝物は難升米に直接渡したが印綬は大切なものなので使いの難升米には渡さず、魏の植民地の役人である帯方郡の太守に預けて運ばせた」
――と受け取れる記述があるが、その約束どおり、翌年の正始元年(景初四年相当)に帯方郡の太守が使者を(卑彌呼)に送った記録がある。
すなわち、魏の皇帝の前記命令を聞いた帯方郡の新任太守の弓遵(きゅうじゅん)が、部下の梯儁(ていしゅん)たちを倭国におくって、詔書や印綬や宝物を倭王にもたらしたことや、倭王がそれに答礼して上奏文を出したことが記されている。
正始とは三代目の曹芳(そうほう)の年号で、この皇帝はのちに司馬一族の圧力によって退位させられたので廃帝と呼ぶ。
二代目の明帝には実子がなかったので、斉王・曹芳という親戚を養子にして三代目の皇帝に指名したのだが、幼年だったため、事実上は重臣の司馬仲達らが政治を取り仕切っていた。
魏の軍師だった野心的な司馬氏は次第に権力を得て、魏の三代目や四代目を退位させて、三国時代の次である晋を建国するが、この晋の時代に「魏志倭人伝」が書かれることになる。
さて、この皇帝・曹芳に対する答礼の文を、日本側が魏の使者――帯方郡の使者――に渡したということは、当時の日本の指導階級が漢字の読み書きができたことを意味しているようにも思えるが、帯方郡の役人が依頼されて作文したとも考えられるので、断言はできない。
しかし(卑彌呼)や使者・難升米たち指導者層に識字者がまったくいなかったら、魏との外交それ自体を考えなかったであろう。
いろいろな研究から、日本列島に漢字が入ってきたのは紀元前三世紀にまで遡り――古墳から出土する鏡に記された漢字からもそれは感じられるが――(卑彌呼)の時代の百年前にはかなり入っていたらしい。
だから(卑彌呼)たち指導層は、おおまかには漢字で記された文書を理解できた筈だし、自分で漢字文を記すことも、多少はできたであろう。
もちろん、漢字を活用して日本語を巧みに表記する「万葉集」のような方法は開拓途上だったろうし(*1)、漢文による表現も、そう普及していたとは考えられない。
日本人のなかでもとくに学者肌の人たちが、漢字を前にして、これをどう扱うか、試行錯誤していた時代だったのであろう。
それから、この文章をそのまま信じると、帯方郡の高官がじっさいに《邪馬台国》に来て(卑彌呼)に面会して金印などを手渡したことになるが、それはきわめて疑問で、前述のように九州北端の伊都国までしか来ず、そこに留まって、伊都国から《邪馬台国》までは日本の役人が往復して運搬・伝言していた――とする意見が多数派である。
このことは、「魏志倭人伝」全体からも読みとれることであり、著者もそのように感じている。
(*1 最近、「記紀万葉」が成立する前の木簡が大量に出土しつつあり、その研究によって、当時の日本語の実情がかなりの程度まで分かってきているらしい)
(四)正始四年(西暦二四三年) 
この年、ふたたび倭王が使者の伊聲耆(いさんが)や掖邪狗(いさか)ら八人を送り、各種の織物や弓矢と生口を献上し、使者八人は褒美として率善中郎将の位と印綬を授けられたことが記されている。
倭王への返書については記されていないが、もっともらしい文書を出したと考えられる。
なお伊聲耆と掖邪狗の読みには諸説あり、同一人物のくりかえしだとの意見もある。
二人の役人の記録をあとで合わせたので、同一人物が二種類の表記になり、史書の作者が別人だと錯覚して書いたのだろうという説もある。
(五)正始六年(西暦二四五年) 
魏の皇帝はこの年、倭の難升米(なしめ)に黄幢(こうとう)(黄色い旗)を贈ることにし、帯方郡に託した――と記されている。
黄幢の下賜というのは、難升米を魏の皇帝の子分として正式に認め、官位を与えたという意味のようである。
幢は旗の意味だが、主に軍隊の指揮に用いる旗(*1)をいい、幢主というと一軍の大将という意味になる。
この記述を読むと、難升米がその後も大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
おそらく北九州または山陰地方と帯方郡とを行き来しながら《邪馬台国》の窓口となっており、そのことが魏の皇帝に聞こえたのであろう。
(*1 今の我々が考える旗とは形状がかなり違い、ずっと大げさなものだったらしい)
(六)正始八年(西暦二四七年) 
この年、弓遵戦死のため帯方郡の太守が交替して王(斤+頁/おうき)なる人物が任命されると、ただちに(卑彌呼)はこの新太守に截斯烏越(さいしうえつ)たちを使者として文書を送って、「狗奴国(くな)の男王卑彌弓呼(ひみここ)と攻撃しあっている」と知らせた。
そこで帯方郡の新太守は、詔書と黄幢を、使者の張政たちに持たせて、難升米に仮に授け、さらに檄文を作って(卑彌呼)に告諭した――とある。
これは日本国内の戦争を意味するきわめて重要な情報なのだが、原文があまりに簡単で、はっきりしたことはわからない。
正始六年に魏の皇帝が帯方郡の太守に託した黄幢や文書は、この年になって(卑彌呼)からの使いが来るまでは、手元に置いておいたのかもしれないし、まったく別に、帯方郡の役人が――魏の皇帝の意を汲んで――新たに(卑彌呼)への黄幢と詔書や檄文を、難升米を介して与えたのかもしれない。
いずれにせよ難升米は、伊都国あたりで張政に会い、褒美を貰ったり、《邪馬台国》の意図を伝えたりしていたのであろう。
原文のなかの檄文とは布告/説諭のようなものであり、告諭とは告げさとすといった意味である。
解釈すれば、狗奴国がなかなか《邪馬台国》のいうことをきかず、しかも強くて攻めきれないので、女王は困り、魏の皇帝のお墨付きを得て自分の権威を高め、その権威で平定しようとしたのであろう。
「日本書紀」には九州の熊襲や関東の毛野が朝廷に背いて困ったという話がたくさん出てくるから、前述のように、狗奴は熊襲または毛野だという説があるわけである。
つぎに男王卑彌弓呼についてだが、これは前記したように書写時の間違いで、卑弓彌呼(ひこみこ)ではないか――という説が有力である。
じじつ、同じ狗奴国の官の名を狗古智卑狗(くこちひこ)としており、末尾に「ヒコ」がつけられている(*1)。
(*1 彦(ひこ)の語源は前記のように太陽の男で、古代においては役職名の一種であり、かつ太陽の女を意味する姫(ひめ)と並ぶ貴人の尊称――尊敬すべき人物につけられる称号――だったらしい)
(七)泰始二年十月(晋の武帝の年号/西暦二六六年) 
〔(臺與)の代になってからのことで紀年は推定〕
(卑彌呼)を――なんらかの意味で――継いだとされる若い(臺與(とよ))も、国を治めるのに苦労したらしく、それを知った張政らが、同様な檄文をもって(臺與)を告諭した。
これに対して(臺與)は、先の掖邪狗(いさか)ら二十人を御礼の使いにして、張政らの帰国を送らせた。
その使者一行は、張政らを送りとどけたあと、帯方郡から魏の都まで行って朝献し、男女の生口三十人と、白珠五千孔(なんらかの美石?)、青き大句珠二枚(勾玉?)、異文の雑錦二十匹(特異な模様であまり高度ではない錦?)を献上した。
――とある。
これが外交記録の最後で、かつ、「魏志倭人伝」そのものの最後でもある。
この(臺與)の朝献については、暦年は記されていないが、(六)の二四七年よりかなり後のことは確かである。
晋の史書には、泰始初年(西暦二六五年〜)に倭から使者がきた――との注目すべき記述があるので、これが該当しているのかもしれない。
すくなくとも「日本書紀」の編纂関係者は、のちの(神功皇后)の箇所で述べるように、そう考えていたらしい。
これらのことから、張政一行はずいぶん長いこと――十年以上も――日本に滞在していたことになるのかもしれないし、また何度も往復していたのかもしれない。
北九州の伊都国と帯方郡の間を、難升米らとともに行ったり来たりしていたことも十分に考えられる。
日本と朝鮮半島との間の往来は、紀元前からなされていたことが確かなので、三世紀ともなれば、かなりの頻度で往復していてもおかしくはない。
ただ、張政らが伊都国から《邪馬台国》まで出向いてきていたかどうかは、前述のように疑問である。
もし《邪馬台国》が《大和》だとすると、伊都国と《邪馬台国》との往来よりも、伊都国と帯方郡との往来のほうが短時間ですんだかもしれないほど、北九州と朝鮮南端とは近いのである。
幸いにして海が穏やかであったら、伊都国から帯方郡までは、船だけの旅ですみ、順調にいけば数日で到着するであろう。 
3-8 果たして殺人事件か卑彌呼唐突の死

 

興味ぶかい「起居注」の記述 
前二節の外交記録のうち(一)(三)(四)は「日本書紀」にも「魏志倭人伝」より――と明記して記載されている(*1)。
ただし難升米は難斗米と書かれており、外交の最初は景初三年とされている。
また「日本書紀」は同様な個所で晋の皇帝の言行録である「起居注」を引用して、「晋の武帝の泰初二年(西暦二六六年)十月に倭の女王が朝献した」と記している。
武帝とは魏の軍師として蜀の諸葛孔明や公孫氏と戦った有名な司馬仲達の孫の司馬炎のことで、魏の皇帝を退位させて西暦二六五年に晋の国を創建し、三国で残っていた呉も二八〇年に滅ぼして天下をとった。
蜀はすでに二六三年に滅びていたから、結局「三国志」の三国は晋の国に統一されたことになる。
シナの王朝はこのあと南北朝を経て隋になりついで唐になって、日本は遣隋使や遣唐使を派遣するようになることはよく知られている。
晋の都は魏と同じ洛陽だったが、日本側は、魏が滅びて晋ができた翌年にすでに、その洛陽に使者を送っていたわけで、(卑彌呼)の代が終わってからも絶妙な外交感覚をみせている。
同じ天皇紀におけるこの「起居注」の引用は、「日本書紀」の編者――またはそのすこし後の人――がこの記録を「魏志倭人伝」中の上記(七)の(臺與)による朝献と同定していること、および、(臺與)を(卑彌呼)と同一視していること、を意味している。
これは、あとで「日本書紀」と「魏志倭人伝」を比較するとき、大きな意味を持ってくる。
いずれにせよこのような引用は、「日本書紀」の編者たちやその少し後の人たちがシナの史書をよく読んでいた証拠であり、また「魏志倭人伝」の類が「記紀」編纂の八世紀初頭またはその少し後の日本の知識人によく知られていた証拠でもある。
(*1 「日本書紀」は「魏志倭人伝」に言及している最古の史料である。この事だけでも、日本初の正史である「日本書紀」の凄さがわかる。「日本書紀」には、この他にも、今は消滅しているいくつかの近隣国の史書からの引用があり、それが貴重な研究材料となっている)
「記紀」には遣唐使・遣隋使以前の古い時代のシナとの交流はあまり書かれていないが、西暦紀元ごろはまだ大和朝廷が支配的にはなっていなかったために記憶に残っておらず、したがって書かれなかったのであろう。
紀元前後の日本側の交流の主体は九州北部(および山陰、とくに出雲・丹後・但馬地方)の豪族だった可能性が高く、そのため「漢委奴國王」の金印も博多湾の近くの奴国と目される土地で発見されたのだと考えられる。
二世紀から三世紀にいたる「魏志倭人伝」の時代やそののちの二世紀くらいのあいだには、大和朝廷の力はかなり強くなったと考えられるが、その時代の「記紀」の記録にもシナの都への使者派遣の話はない。
「記紀」の元をなす諸史料は、そもそも日本人がシナの册封体制――シナ皇帝が朝貢してくる周辺国にお墨付き(封爵)を出し係属国としてのその国の存在を認める体制――からの独立を意識しはじめた時代に書かれたり集められたりしているから、朝鮮半島諸国が大和朝廷に朝貢に来た話や、半島に出兵した話は数多く書かれていても、古い時代に日本からシナに朝献してお墨付きを貰ったような話はあまり書かれていないのであろう。
これは朝鮮半島諸国が近世にいたるまで册封体制に組み込まれていたのと対照的であり、日本の「記紀」の著者たちが健全な独立精神を持っていた証拠でもある。
(卑彌呼)とつぜんの死と巨大な墳墓 
魏との交流の話が長くなったが、本文に戻ると、(六)のあといきなり、(卑彌呼)が死んだ――と記されている。(七)の(臺與)の使者の話の前である。
何年とは書いていないのだが、なぜ「いきなり」なのかについては、諸説紛々である。
唐の時代に書かれた北朝の歴史を記した北史のなかの倭人伝には、「正始中卑彌呼死す」とあり、正始は西暦二四九年までということから、それを受けて二四九年以前に死んだのだろうとする説がある。
しかしこの記述は前からあった「魏志倭人伝」を解釈してそう書いたとも受け取れて、信憑性は低いようである。
ただ、さまざまな分野の研究からの総合的な判断で、二四七年からあまり経たずに死んだのは確かだろうとされており、これへの異論はすくない。
げんざい多くの歴史家が推理している(卑彌呼)の没年は、西暦二四七年か二四八年であり、とくに前後の事情から二四八年の可能性が高いといわれている。
さて、前記の「いきなり」というのは本当にいきなりで、(六)の外交記録の最後の、檄文によって(卑彌呼)を励ました――と受け取れる――文章のすぐあとに、死の記述が出てくるのである。
議論百出の重要部分なので、石原道博による書き下し文(岩波文庫)を、掲載しておく。
「・・・張政等を遣わし・・・檄を爲りてこれを告諭す。卑彌呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。またまた卑 彌呼の宗女壹與年十三なるを立てて王となし国中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告諭す・・・。」
最初の・・・以下は(六)のおわりであり、最後の政等・・・は(七)のはじめの部分である。
これ以下は前節(七)のみであり、「・・・雑錦二十匹を貢献した」で「魏志倭人伝」そのものが終わっている。
この(六)と(卑彌呼)の死と(七)の部分の写本の写真を、図3・4に示した。説明すると長いが、原文はじつにあっけないものであることが分かる。
冢(ちょう)とは塚とか墓とかいった意味で、訓読みではツカである。径百余歩という歩は、魏の時代の単位としての歩だとすると、1.4mほどである。したがって百余歩は150mほどになるが、単にとても大きい――といった意味だったかもしれない。
徇葬(じゅんそう)は殉葬で、奴婢は男女の召使いである。主人が死んだときに、その部下たちが殉死する習慣は、古代には世界各地に見られ、シナ大陸でも古くから大量の殉死があったらしい。
ただし日本で百人もの殉死がなされたかどうかは大いに疑問で、各種の遺跡発掘の模様から、ほとんど無かっただろう――といわれている。
更々相誅殺とは、お互いに相手が悪いとして殺し合うことであるが、その死者の数千余人については、たんに沢山といった意味だったのかもしれない。
後継者(臺與)と(卑彌呼)の死の謎 
そして最後が、(卑彌呼)の死後の、男王では世が治まらず、十三歳の宗女・壹與を男王のかわりに次ぎの女王としてやっと世が静まったという、(卑彌呼)の後継者についての重要な記述である。
宗女の宗とは世継ぎとか跡取りとかいった意味で、鬼道をよくする(卑彌呼)の正統的な後継女性を意味している。ただし実子であった可能性はうすい。
この跡継ぎ問題についても、議論が多く出されていて、結論が出ていない。そもそも壹與か臺與かもわからないのである。
「日本書紀」のなかにその候補を探す試みは古くからあるが、それについては第八章以降で詳述する。
もう一つ重要なのが、はじめにもどって、「張政等を遣わし・・・・・檄を為りてこれを告諭す。卑彌呼以て死す」という場面である。これはどういう意味なのであろうか?
書き下ろし文で読んでも(卑彌呼)の死は唐突の感があるが、図3・4で分かるように漢文の原文ではなおさら唐突である。そもそも原文には句読点もなく、改行もないのだ。
そして、どの単語がどこにかかるかも分からないことが多い。
したがってこれは、どうとでも解釈できてしまう。
狗奴国問題での(卑彌呼)の訴えを聞いた魏の使者が告諭したために(卑彌呼)が死んでしまった――または殺された――とも受け取れるし、檄文告諭の件と(卑彌呼)の死とは無関係で、まったく別の文章だとも受け取れるのだ。
漢文の常であるが、読む人の感覚によってどうとでも受け取れる、論理的に不十分な文章によってきわめて重要なことが書かれているので、議論百出になってしまうのだ。
そして、狗奴国問題の不手際で(卑彌呼)が殺されたのではないか、これは殺人事件なのではないか――との説も出されるようになったのである。
ともあれ、狗奴国との抗争や告諭と(卑彌呼)の死との関係は不明だが、告諭からいくばくもなく(卑彌呼)が死んで、大きな墓をつくったと書かれていることは確かである。
また次に、(卑彌呼)の後継者として男王を立てたが国中が服さないので、(卑彌呼)の後継者である(臺與)を女王にしたところ、やっと国中が平和になった――と書かれていることもまた確かで、読み違うおそれはない。 
3-9 「魏志倭人伝」成立の経緯

 

「三国志」の中の「魏志倭人伝」の位置づけ 
これまでに断片的に記してきたが、「魏志倭人伝」とは通称で、正確には、魏・蜀・呉の三国の歴史を記した「三国志」全六十五巻のなかの、魏王朝に関係のあった周辺諸種族の話の中のひとつである巻三十「東夷伝(東の野蛮人の話)」の中のさらにひとつにすぎない倭人條――すなわち「倭人について書かれた部分」を意味している。
もちろんこの史書「三国志」とは、天才軍師・諸葛孔明で有名な大衆小説としての「三国志演義」ではなく、シナ正史としての「三国志」である。
この正史としての「三国志」は、
   魏書(三十巻)
   蜀書(十五巻)
   呉書(二十巻)
――の三部に分かれ、合計して六十五巻である。
このなかの魏書三十巻は、皇帝について記した、
   武帝紀 (第一巻)
   文帝紀 (第二巻)
   明帝紀 (第三巻)
   三少帝紀(第四巻)
――という「紀」と呼ばれる四巻と、后妃や重要人物の伝記を記した、
   后妃伝  (第五巻)
   董二袁劉伝(第六巻)
   ・・・・・
   烏丸鮮卑東夷伝(第三十巻)
――という「伝」と呼ばれる二十六巻からなっている。
四巻と二十六巻をあわせて全三十巻である。
ただしこの「伝」の最後の巻(第三十巻)は、伝記というよりは辺境の国々の解説であり、「烏丸鮮卑東夷伝」――という巻題がしめすように、烏丸(うがん)と鮮卑(せんぴ)と東夷(とうい)と呼ばれる国々の説明である。
このうち烏丸と鮮卑は、昔から蒙古高原を中心にしてシナ王朝領土の北方で覇を競っていた遊牧系の諸部族のなかの二つである。
東夷とは東の野蛮国という意味で、満洲、朝鮮半島、そして日本列島などが入っている。
東夷について書かれた部分は、さらにいくつかに分かれている(図3・2)。
すなわち、
   夫余 (満洲北部。高句麗の北、鮮卑の東)
   高句麗(満洲南部から朝鮮半島北部)
   東沃沮(とうよくそ/高句麗の東南部。今の北朝鮮東部)
   婁 (手偏+邑/ゆうろう/ウラジオストクやその北方)
     (シ+歳/わい/高句麗や東沃沮の南、朝鮮半島の東側)
   韓  (帯方郡の南、倭の北)
   倭  (帯方郡の東南の大海の中にあると書き出されている。日本列島)
――といった部分よりなっている。
第三十巻のなかの烏丸・鮮卑・東夷の説明も羅列的であるが、東夷のなかはさらに羅列的で、明確な節に分かれているわけではない。
倭人についての記述も、辰韓の説明のあと、いきなり倭人・・・とはじまっている。そのため、この日本について記された部分を倭人の條――すなわち「倭人條」――ともいうのである。
そしてこの倭人の條に、既述したような三世紀の日本の様子や外交記録が記されているのだが、それが通称「魏志倭人伝」なのである。
つまり、日本について書かれているのは「三国志」のなかのほんとうに端の端であって、当時のシナの都の著者や読者にとってはもっとも重要性の低い、いわば付録の末端のような部分なのだ。
「魏志倭人伝」の執筆者 
「三国志」が完成したのは西暦二八五年――とされているが、これは魏のあとの晋の時代がはじまって二十年たった年である。
「魏志倭人伝」の中身でいうと、(卑彌呼)がはじめて魏に使節を派遣した年のほぼ四十五年後、おわりに付け足されている(臺與)が使いを晋に送った話からほぼ二十年ののちである。
「三国志」を著述(編纂)したのは陳壽(ちんじゅ)という学者だとされている。
陳壽は三国の一つで孔明が活躍した蜀の国に西暦二三三年に生まれ、蜀が滅びたあとは、魏の後継国として成立した西晋に仕えた人で、没年は西暦二九七年とされている。
では、この「三国志」のなかの倭人の條を、編者の陳壽は何によって書いたのだろうか?
これについては、主に先行する史書「魏略」によったらしいといわれている。
「魏略」は魚豢(ぎょかん)という人物が書いたとされているが、完本は現存せず、一部分が残されているだけなので「らしい」ということしか分からない。
なにしろちゃんと残っている当時の文献は「魏志倭人伝」の写本のみなのだ。
魚豢は陳壽とほぼ同時代の人なので、さらに魚豢自身が参考にした史料があった筈だし、両者が共通して参考にした史料もあったであろうが、それらについては、なおさら推測の域を出ない。
倭国について記されていて今に伝わっている似た史書として、「後漢書倭伝」「宋書倭国伝」「隋書倭国伝」などが知られているが、対象とした年代は古くても書かれたのはいずれも「魏志倭人伝」より新しく、(卑彌呼)らの話は「魏志倭人伝」を参考にしているらしいので、歴史資料としての価値は「魏志倭人伝」に及ばない。
もう少し後世の記録になると、倭の五王の記録(宋書)とか、聖徳太子の時代に小野妹子が使者となって対等な挨拶文を渡してシナ皇帝を不快にさせた話(隋書)など、価値の高い資料が見られるようになってくる。
というわけで、陳壽が参考にしたと思われる既知の書物は、一部しか現存しない「魏略」のみであるが、そのほかに伝聞とか報告書とか、もっと古い史書とかの類は、いくつか推理できる。
つぎの章で、「魏志倭人伝」のよってきたる所をくわしく推測し、その信憑性について検討してみよう。「魏志倭人伝」の信憑性について多くの学者が疑問を投げかけていることは前述したが、本書では西尾幹二が「国民の歴史」で述べた意見を、著者の流儀で敷衍してみることにする。
 
第四章 「魏志倭人伝」の信憑性

 

松浦縣 佐用姫の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつをらむ
〔山上憶良(万葉集868)〕
「松浦国の佐用姫が肩にかけた布を振って夫を慕ったというこの山の名だけを聞いていることであろうか。(任那へ赴任する夫を慕って石になってしまった佐用姫の伝説で、松浦の山に領巾の嶺という名がつけられた。夫の大伴狹手彦は朝鮮半島で活躍し、仏教伝来にも功績のあった中央の武将だが、のちに高句麗の女性を妻にしたので、さらに佐用姫の伝説は人々の心をうった)」
松浦川 玉島の浦に 若鮎釣る 妹らを見らむ 人の羨しさ
〔万葉集863〕
「松浦川の玉島の浦で若鮎を釣る娘を見ている人が羨ましいことだ」 
4-1 又聞きの信憑性

 

「三国志」の著者、すなわち「魏志倭人伝」の著者の陳壽や、その元本「魏略」の著者魚豢が参考にしたであろう史料がつぎの二つであることは、よういに推察できる。
(ア)日本に派遣された使者の帰国報告の記録またはその伝聞。
(イ)日本からの使者が帯方郡や魏の都で述べた言葉の記録またはその伝聞。
以下、この(ア)と(イ)について考えてみる。
魏国の使者は北九州までしか来ていない 
まず(ア)について考えてみる。
この時代に倭国を訪問した魏の使者としては、西暦二四〇年に訪れた梯儁と、二四七年に訪れた張政の名が、「魏志倭人伝」に残されているわけだが、この二人の訪日が本当だったとすると、その報告が皇帝の記録書などに残されていて、その書写を陳壽や魚豢が読んだか、あるいは伝聞で耳にしたかの可能性がある。
しかしこの二人の使者は、もし派遣されたのが本当だったとしても、《邪馬台国》を旅してまわったわけでもなく、(卑彌呼)と面会したわけでもないようなのだ。
つまり朝鮮半島の帯方郡から九州北端の伊都国まで来て、そこに逗留して、日本の役人――ひょっとしたら難升米ら――と贈り物の交換をしたり交渉したり話を聞いたりしただけだったらしいのだ。
外国から倭国への使者が伊都国で接待されたり、文物を調べられたりしたことは、前章に記したとおり「魏志倭人伝」そのものに記されているが、さらに「魏志倭人伝」全体からも推測できる。
国々の間隔の記述が、朝鮮半島南端から九州北部までは距離の単位の「里」によってきちんと記されているのに、そこをすぎると、あいまいな「日数」による表示になってしまうのだ。
また、北九州からは遠い投馬国や《邪馬台国》の風物・人物の記録も、北九州の伊都国などにくらべて、きわめてあいまいなのだ。
使者は北九州に留まっていたのだろうというこの推測に反論する学者もおり、その論拠は、印綬のような大切なものを伊都国で役人に渡して帰ってしまう筈はない――というものである。
しかし魏の使者が《邪馬台国》まで本当に来たのだとしたら、(卑彌呼)や男弟や世話役の男の様子がもう少し書かれているのが自然だと思う。
もし(卑彌呼)が神秘性を保つために直接は会わなかったとしても、かわりに接待した人物のことや、建物のことや、建物周辺のことが、詳しく書かれている筈ではないだろうか。とにかく当時の日本の中心だったのだから・・・。
ところが、「魏志倭人伝」にはそれらのことは一行も書かれていないのだ。
(卑彌呼)の容貌も服装も体格も、身辺の男の様子も、建物の構造も、付近の風物も、何もない。
北九州の国々については、一般民衆の服装や食べ物や習慣がかなりくどくどと書かれているのに、肝心の《邪馬台国》の人間や風物の様子がまったく無く、あるのは抽象的なことばかりなのだ。
というわけで、魏の使者が《邪馬台国》まで来た可能性は微弱だし、仮に来ていたとしても(卑彌呼)や弟と直接会った可能性はほとんど無い――といえる。
ついでながら、《邪馬台国》に女王がいるという話自体も日本側は隠していて、シナの都には「魏志倭人伝」が書かれる少し前にやっと分かったのではないか――との説もある。
飛鳥時代の推古天皇のときも、聖徳太子や蘇我馬子らが、天皇が女性であることをシナや朝鮮の使者に隠したらしいといわれている。
古代日本では女帝はごく普通の存在だったが、同時代のシナでは軽んぜられていて相手にされなかったからである。
以上のような次第で、魏からの――実質は帯方郡からの――使者の派遣が本当だったとしても、帰国して報告したのは、言葉のよく通じない相手から聞いたあいまいな話にすぎなかったであろう。
とくに地理や政治や宗教や風俗習慣については、現在のわれわれでも、外国人に説明するのは難しい。
むしろ誤解されることのほうが多い。
本国に戻って日本のことを正確に伝える旅行者のほうが、現代であっても珍しい。
だから、日本の役人が必死で説明したとしても、しごくあいまいなことしか魏の都には伝わらず、誤解も多かったはずである。
さらに、梯儁と張政は別の太守の子分であるため、見聞した事項を互いに照らしあって検討したとは、とても考えられない。
東洋史の岡田英弘はこのことを指摘したうえで、二人の使者の報告がずいぶん違っており、それを繋ぎ合わせたために、筋の通らない文章になったのだろう――と推理している。これもありうることである。
難升米は漢文に通じていたか 
つぎに(イ)の史料について考えてみる。
倭国から魏への使者として再三名前の出てくる難升米が、魏や帯方郡の役人に話した内容が記録されていて、それを陳壽――または陳壽が参考にしたであろう「魏略」その他の文献の著者――が見たり聞いたりした可能性があるだろう、ということが考えられる。
難升米なる名の人物がじっさいにいたのか、あるいは役職や一族をこういっていたのか、著者には判断できないが、読みや役目からの推理で、「日本書紀」でいう田道間守またはその一族のなかの誰かかもしれないという説があることはすでに記した。
田道間守は垂仁天皇の命令で不死の妙薬である橘を求めて常世の国(たぶんシナ大陸)に渡ったが、帰国したときには天皇は崩御しており、悲観して死んでしまった。その墓は奈良市の垂仁天皇陵の濠のなかにある。
この田道間守は但馬地方を本拠地とした地方豪族の出身で、その豪族は古くから外交を仕事としていたらしい。
朝鮮の新羅国の王子で日本に帰化した天日槍の曾孫とされているから、朝鮮やシナの言葉もある程度は理解し、漢字の素養があったのかもしれない。
(卑彌呼)の時代の半世紀後くらいの但馬地方の遺跡から、ごくさいきんになって、船の集団を描いた大きな板が発見されて評判になったが、それは、但馬地方の人たちが常時日本海を航海していたことを連想させる。
古代の大和朝廷の政治形態は豪族(氏族)を単位としており、たとえていえば、物部氏一族が防衛庁、大伴氏一族が総務庁、忌部氏一族が文化庁、千家氏一族が島根県知事・・・といった具合になっていたから、外交は難升米や田道間守が属していたであろう但馬地方の豪族にまかせていた可能性が大いにある。
しかし、そうであっても、難升米がどれほどシナ語の会話や漢字漢文に通じていたかはわからないし、かりに通訳がいたとしても、どれほど正確に訳したのかはわからない。
もしそんなにシナ語や漢文に通じた人物が日本側にいたとしたら、そういう人たちは漢字漢文を得意になって書きまくったり喋りまくったりしていただろうし、そうだとしたら、古墳時代の遺跡にもうすこし漢字が残っていそうなものだが、銅鏡や剣などの輸入品やそのレプリカ以外で漢字の書かれた出土品が見つかるのは、(卑彌呼)の時代よりかなり後の遺跡である。
漢字そのものは、(卑彌呼)もすでに見慣れていたであろうが、存在を知っていることと、それを普段から使うこととは、別である。
だから、かりに難升米が朝鮮からの帰化人の子孫だったとしても、漢文の素養がそんなに高かったとも思われず、魏の役人との間では、手振り身振りを交えてやっと理解させる――という程度だったのではないかと思われる。
魏国や帯方郡の役人の意欲 
それからもうひとつ、日本において、また魏国や帯方郡において、日本人と接した先方の役人の能力や意欲も問題である。
はるか遠方の野蛮国とされていた国の事柄をどこまで真面目に見聞したか疑問だし、そこの人間の話をどれほど真面目に記録したかも疑問なのだ。
それは、現在の北京政府や韓国や北朝鮮が、日本をほとんど理解しようとしていないことを考えれば、推理できる。
しかもその記録が陳壽や、陳壽が参考にしたかもしれない「魏略」を書いた魚豢の耳目に入るまでには、ずいぶん又聞きや反復書写が有ったはずである。
いずれにせよ、「魏志倭人伝」とは、このようなしごくあいまいな経緯で成立した短い文章であり、著者の陳壽にとっては、長い史書の重要で無い部分の一部のまた一部にすぎず、力を入れて書いたとはとうてい思えない記述にすぎないのである。
著者も、読み下し文や現代語訳を読んでみて、とても杜撰な印象をうける。
しかも、これがはじめて印刷されたのは十一世紀の宋の時代だとされているので、陳壽が書いてから印刷されるまでには七百年もの歳月があり、その間の転写回数は相当なもので、写し間違いもかなり多いと想像される。
こういう成立の経緯を振り返ってみると、戦後の日本で専門の学者からアマチュアの好事家までじつに多くの人が議論してきた「魏志倭人伝」なる史書は、その記事の出所がじつにあいまいで、信憑性のないものだと、判断せざるをえない。
陳壽にせよ、陳壽が参考にしたらしい魚豢にせよ、「蛮族の話など正確に記録しようという熱意を持っていなかったであろう魏の使者や役人」が聞いたあいまいな話の、「又聞きや書写」を元にして、首をひねりながら記録した――といったていどだったと思われる。
しかも、難升米らの語学力が十分ではなかったとしたら、日本の役人と魏の役人との間には通訳がいたわけだが、その通訳がどれくらいの実力を持っていたかは、まったくわからないのだ。
むしろ実力十分な通訳がいたほうがおかしいのだ。
そのうえ、とうじ日本列島の内部でさえ言葉がどのていど通じたか、大いに疑問である。畿内人と九州人との会話も大変だったであろう。いまでも東北の方言と九州の方言とではほとんど通じない。
大陸・半島の内部でも方言問題があったであろう。
だから、外交をつかさどったらしい難升米にしても、完全な対話ができたとは、とても考えられない。
身振り手振りを交えた会談だったであろう。

伝言ゲームというゲームがあり、それは何人かで伝えてゆくうちに、何をいっているのか分からなくなってしまう事を面白がる遊びだが、そこまで酷くはなかったとしても、「魏志倭人伝」とは、「熱意不明の使者が実力不明の通訳を介して聞いた記録の又聞きや書写の繰り返しという文献に、どれほどの信憑性があるのか?」という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。 
4-2 地理の面での信憑性

 

地理で考える「九州説」と「大和説」 
「魏志倭人伝」で常に話題になり議論になるのは、女王(卑彌呼)のいた《邪馬台国》とはいったいどのあたりだったのか――ということである。
これが主として二説に分かれ、ひとつの説では「九州のどこか」、もうひとつの説では「大和」となり、延々として議論が続いていることは、ご存じのとおりである。
この二説が出てしまうのは、不弥国から先が、「記述そのままを信じると、ほとんどの国は九州の南端から海に出てしまう」ということから来ている。
この矛盾を解決するために、
[A]「《邪馬台国》九州説」では、距離が今考えるよりもずっと短いのだ。
[B]「《邪馬台国》大和説」では、方角の記述が不正確であり南ではなく東だ。
――とするのがふつうである。
前節の著者の考えでは、「魏志倭人伝」にある《邪馬台国》の位置の記述は、「とても信憑性がうすい」のだから、文献だけから論理的にいえるのは、「伊都国のすぐ近くではない」という程度のことなのだが、仮にあるていどの正確さを、この記述が持っていたとして考えてみよう。
まず、伊都国にいたらしい《邪馬台国》の役人は、とうぜん、《邪馬台国》と伊都国との間を往復していたにちがいないから、距離について「歩いて何日くらい」という数字を桁外れに間違えることはないだろうし、また太陽を基準にして歩くので方角を九十度や百八十度も間違えることは無いであろう。
で、このあとはさらなる仮定なのだが、この日本の役人――この役人がじつは難升米だったのかもしれないが――の話が、直接または通訳を介して魏の人間にだいたいはそのまま伝わったとしよう。
そしてそれが帯方郡に伝言されたり役所で記録されたりして、さらに魏の都の洛陽にまで伝達されて記録され、さらに何回か書写されたものの、それほど大きな間違いもなく陳壽の耳や目に入ったとする。
で、その陳壽がふつうの神経の持ち主で、あるていどの学者だったとすれば――史書編纂をまかされるのだから当然そうだったのだが――書写係の下級役人のように何も考えずにそれをそのまま写し取るとは思えない。
倭国を含む東夷とはだいたいどうなっているのか、地図を拡げて眺めるか、またはすくなくとも頭のなかに地図を思い浮かべるかしながら、記すにちがいない。
これは、倭国の中の国々の位置関係を記述するのだから、当たり前の話である。
古代の日本列島 
日本列島の外形は、ほぼ北を上にして、現在の地図と同じに描いてある。列島の内部の分割は、「記紀」の書かれた八世紀のもので、畿内を中心として、七つの「道」に分かれている。これを「日本七道」という。
奈良時代には東山道の北部から北海道以北にかけては蝦夷だったが、平安初期には本州北端まで朝廷の勢力下にはいり、蝦夷は北海道以北のみとなった。また九州南部より南は朝廷の勢力下には入っていなかったらしい。
この分割は、もちろん今とは異なるが、しかしその境目は現在の地図にも継続しており、われわれにとって違和感はまったくない。
山陽・山陰・東海などは名前もそのままである。
じつはこの分割は、明治元年の地図でも同じであり、呼称も同じだった。
日本がいかに歴史の断絶の少ない古い国であるかがわかる。
この地図に《大和》を中心として四つの矢印があるが、これは三世紀の崇神天皇時代の有名な四道将軍の派遣先であり、後述する。
さらに、よく古い歴史に出てくる畿内部分の各国とその周辺とを、図4・2に示した。
畿内とは太線でかこまれた大和・和泉・河内・摂津・山城の五つの国である。大和は現在の奈良県であり、和泉・河内・摂津は現在の大阪府であり、山城は京都府の一部である。この、畿内や七道の内部にある「国」も、ほとんどそのまま、いまの県になっており、和泉・河内・・・といった国名もいろいろな形でいまに残されていて、ここでも日本の歴史の継続性がよくわかる。大和国は広いが、南部はほとんど山岳地帯であり、大和朝廷が栄えたのはこの北西部にある盆地の部分で、狭い意味での《大和》である。
図4・2には「記紀」でお馴染みの名前がたくさんあるが、古代においては、それぞれの国にそこを支配する豪族がおり、「国造」という大和朝廷の地方官としての地位を世襲で維持し、その地方の首長として、祭政を取り仕切っていた。
ただし大化改新以後は、近代化がすすんで、豪族単位の行政ではなくなり、国造は行政官的な役割を離れて、その地方の主要な神社の祭祀を司る世襲職となり、その一部の子孫は現在にまで続いている。
出雲大社の千家宮司家、阿蘇神社の阿蘇宮司家、籠神社の海部宮司家などがそれである。
北部の丹波と丹後と但馬は、はじめは一体で丹波または但波と称されたが、但馬が西暦六八四年に分かれ、丹後は七一三年に分立している。ただし但馬という地域名は古くからあったらしい。
さて、日本列島というのは、図4・1のように南西から北東および真北にかけて伸びているが、(卑彌呼)の時代に比較的往来が多かったと思われる北九州から近畿にかけては、北九州を起点とすると、ほぼ東北東に向かっている。
そして西端の九州の北側と朝鮮半島の南端の間に壱岐と対馬がある。
こういう日本地図の方位をもとにして「魏志倭人伝」の記事を当てはめて推理するときに出てくる、前記の[A]と[B]の意見、および他のユニークな意見による《邪馬台国》の想定位置を図示したのが、第一章の図1・1である。
見るとやはり、大和と九州に多くの意見が集中していることがわかる。
そのうち「大和説」における《邪馬台国》は、多少のずれはあっても、せまい意味での《大和》地方がほとんどである。
「九州説」については、距離の解釈によってじつにさまざまな種類があり、九州本島のあらゆる場所に広がっている。
「魏志倭人伝」の著者が見た地図とは? 
「九州説」の学者は数多くいるが、そのなかで、とくにユニークかつ強烈な主張を展開しているのが、古田武彦である。氏の「魏志倭人伝」についての著作は数多く出版されているので、ご存じの方も多いと思う。この古田説によれば、《邪馬臺國》は現存する写本のとおりに《邪馬壹國》とすべきであり、それは九州の北部にあったに違いないとして、畿内の《大和》と結びつける説に徹底反論している。
そして、九州王朝が、ひじょうに古くからあり、国歌の「君が代」も九州王朝を讃える歌だった――と力説している。
さらに氏の凄いのは、「魏志倭人伝」の国々の最後にある遠方の裸國や黒齒國を南米かもしれないとしていることで、南米に土器や遺伝子や寄生虫が古代九州の住民と似ている人たちがいることが、その証拠となるらしい。
南米に日本の九州の縄文人に似た人がいることは確かなようで、(卑彌呼)の時代に太平洋を往復していた可能性も、可能性としてはもちろんあるが、同時に陸を渡った可能性も大きいし、第三の場所から日本と南米に分かれた可能性や偶然の一致の可能性もあるだろう。
いずれにせよ、「九州説」をとる人のほうが、「大和説」の人よりも個性的でユニークな意見の持ち主が多いようである。
また、皇室に対する考え方が、「九州説」と「大和説」とで微妙に違っているようにも思える。
著者の表面的な印象かもしれないが、戦後の「九州説」論者はおしなべて皇室への愛情に乏しいように感じられるのだ(*1)。
さてここで、とても重要なことがある。
それは、「魏志倭人伝」の著者陳壽やその前に史書「魏略」を書いた魚豢たちが、それを書くとき、どれくらい正確な地図を見ていたか、またはどのような地理を頭に描いていたか――ということである。
われわれは「魏志倭人伝」の、東へ何里とか南へ水行十日とかいう記述を読んでそれから《邪馬台国》の位置を考えるとき、無意識のうちに現在の日本地図を頭に描いている。
その地図はもちろん、図1・1や図3・1や図4・1のような正確なものである。
しかし、陳壽や魚豢らが現在のような日本地図を見ていたとは、とても考えられない。
近世の日本でも、ほぼ正確な地図ができたのは幕末の伊能忠敬以後のことである。
では、陳壽らはどのような地図を見ていたのであろうか?
これについても昔からいろいろな研究があり、とくに有名なのは、「大和説」をとる古代史家・肥後和男の依頼をうけて「魏志倭人伝」と古代地図の関係を検討した、地図学者の室賀信夫で、「神道学」という雑誌にまとまった考察を発表している。
図4・3は、室賀が指摘した古地図と、他の二つほどの古地図から、日本が描かれている周辺をおおまかに写したものである。
(なにしろ古い地図で、地図全体の方位が不明確だが、地図作製者がよく知っている筈の大陸沿岸や朝鮮半島の向きから、紙面の上がほぼ北方だとして日本列島の配置を考えていた事がわかる)
(*1 さらに気付くことがある。それは九州説論者の皇室への態度の、戦前と戦後の違いである。戦前の九州説論者の多くは、「鬼道を操るような女酋長が神聖な大和にいた筈はない」という考えだったように感じる。これに対して戦後の九州論者の中には、「シナ史書に書かれるような立派な女王は大和にはいなかった」という発想の主が多いように感じる)
「古今華夷区域総要図(ここんかいくいきそうようず)」(図4・3a)について 
これは十一世紀末にできたとされる地図で、日本などはたんに位置が示されているにすぎず、形状がわからないが、日本そのものがいくつもの国に分割されていることに気づく。
「倭奴」が朝鮮半島の南にあり、その南西に「日本」がある。倭奴国は、すでに述べたように、九州北端の国(博多付近)であり、日本の一部なのだが、それを独立した国と考えているのだ。
「倭奴」を独立国とすれば、十一世紀の日本の都は京都だから、「日本」とは京都あたりを中心とした国ということになる。
さらにその南西に「毛人」という国があることになっている。毛人とは一般的には日本列島の蝦夷のことらしいが、ここではたぶん関東の毛野地方のことであり、それはまた「魏志倭人伝」にいう狗奴国のことだろうという人が多い。
毛野とは現在の群馬県と栃木県であるが、このあたりは元々は蝦夷の国々で、それが大和朝廷のかなり初期に朝廷の支配下に入ったとされている。
そしてその支配下におさめるさいの抗争が、「魏志倭人伝」にある、(卑彌呼)が苦労したらしい狗奴国の王との軋轢だったのではないか、というわけである。
もちろんこれは一つの説にすぎない。
「毛人」のすぐ下に「流求」があるが、これは明らかに琉球、すなわちいまの沖縄である。
また地図からはみだしているが、元図では「流求」のすぐ下に「蝦夷」がある。夷は地図では虫へんだが、同じであろう。
蝦夷とは、関東から東北、北海道にかけて、なかなか大和朝廷に服しなかった国々の総称で、時代が下がるにしたがって朝廷の領域との境界は北へ移動してゆき、北海道をさいごに消滅することはご存じのとおりである。
ここで面白いのは、これらの国々が、じっさいの日本列島においては南西から北東へと並んでいるのに、この(a)の地図では北から南へと並んでいることである。
北端の蝦夷が最南端にあるのだ。
(つまり方角が実際と九十度以上違っているのだ)
そして国々の中心は、いまの沖縄県のあたりにある。
まさに「魏志倭人伝」にある「会稽東冶の東方海上」そのものである。
「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」(図4・3b)について 
室賀信夫が肥後和男の依頼に応じて検討した結果のなかで発表した図4・3(b)は、「《邪馬台国》大和説」を補強するものとして有名である。
この混一疆理歴代国都之図という古地図は、十五世紀初頭に朝鮮で作られたものだが、それは元の時代(十四世紀半ば)の二つの地図を合わせ、さらにそれに日本最古の列島地図とされる行基図を挿入したものだといわれている。
行基図とは、有名な僧・行基(西暦六六八年〜七四九年)が作ったと伝えられる地図で、原本は現存していないが、その言い伝えが信じられて、古い日本全図のことを総称して行基図というようになった。
じっさいに行基が描いた地図がどういうものであったかは不明だが、現存する最古の行基図は、鎌倉時代の末、西暦一三〇五年に書写されたとされ、形状からいえば、図(b)とほぼ同じである。
じっさいの日本列島は南西から北東にかけて延びているとどうじに弓状に曲がっているが、昔の日本人は東西に横たわっていると考えていたらしい。
したがって行基図も日本列島が東西に寝た形になっている。弓なりの曲がりをもつ図もあるが、その曲がりはごくわずかである。
この行基図をシナ地図に挿入するに際して、地図の作者は、大きさを朝鮮半島よりずっと小さくし、位置を沖縄(図の琉求)よりさらに南にし、そして角度をほぼ九十度回転させたのだ。
弓なりの曲がりがかなりある元図をつかったらしく、結果としては、真の日本列島を九十度回転したものに近くなっている。
なぜこのように九十度も回転させて、南の海に挿入したのかについて、室賀信夫は古い文献を検討し、古代からシナでは、「日本は大陸の東の海中のかなり南方に、南北に伸びる形で存在しているという思いこみ」があり、それは「魏志倭人伝」などを読んでそう思ったのではなく、「魏志倭人伝」が書かれたころにはすでにそのような地理概念ができていたらしい――と推測したのである。
ちなみに、シナの都からみて日本は「魏志倭人伝」の記述どおり会稽の東方海上にあるという考えは、古くから日本にも知られていて、大学の名前や歌の文句になっている。東海大学の東海や「見よ東海の空あけて」という行進曲の東海がそれである。
朝鮮半島の南端から日本への行路は、対馬→壱岐→北九州とすべて南へすすむので、その先さらに南へ行けば日本の中心部に達すると思ったのであろう。
また五世紀前半のシナ史書「後漢書倭伝」には、日本列島は北西から南東にかけて長いと感じていたらしい文章があるが、だとすると(b)図が彼らの常識だった可能性がさらにたかまる。
(注 図4・1と図4・3(b)がたまたま並んでいるので、比べてみていただきたい。実際の日本と先方の人間の描いた日本とでは、その向きがほぼ九十度違っている事がわかる)
「籌海図編(ちゅうかいずへん)」(図4・3c)について 
これは一例として挙げたものにすぎないが、十六世紀ごろになっても、つまり信長や秀吉の時代になってもなお、このていどのレベルの地図がまじめに描かれていたのである。
この図(c)を見ると、図(b)のような日本列島への理解は、十七世紀――シナでは明から清の初期、日本では江戸前期――まで続いていたらしいことがわかる。
一部に室賀信夫の意見への反論も出されているが、国際日本文化研究センター教授で古代の歴史地図について研究している千田稔は、室賀説やそれへの反論をさまざまな角度から検討して、室賀説が正しい可能性がたかいことを、ごくさいきんも「卑弥呼は大和に眠るか」のなかで述べている。
いずれにせよ、陳壽や魚豢が「魏志倭人伝」を書いたとき念頭に浮かんでいたのは、げんざいのような日本地図ではなく、図4・3(b)のような地図の原形だった可能性がきわめて高いのである。
だとすると、「《邪馬台国》大和説」ががぜん有利になってくる。
九十度ちがう地図の波紋 
「大和説」を有利にみちびくひとつの仮説は、次のようなものである。
まず、《邪馬台国》が《大和》だったと仮定する。
すると、伊都国で魏の使者と会談した難升米ら日本の役人は、とうぜんながら《大和》と伊都国との間を何度も往復していただろうから、その間の距離や方角はかなり正確に把握しており、東に何十日もいかねばならない――と述べたであろう。
それが魏の使者や記録者にどれほど正確に伝わったかはまったく不明だが、仮にあるていどは正しく伝わり、それがそれほどの変形を受けずに陳壽や魚豢に伝わったとしよう。
そうすると、その伝聞を元に史書を書こうとするとき、図4・3(b)しか知らない書き手は、頭を悩ますであろう。
図(b)で東へ船や徒歩で何十日も行くと、海へ出てしまい、さらに《邪馬台国》の近くにある何十もの国も、ぜんぶ海の中になってしまうからだ。
そこで、伝聞と書写で残されたその資料は方角を間違えたに違いないと考え、不弥国から先は、東ではなく南だろうと考え、南に変更して書いてしまうかもしれない。
これは、前記の[B]の「《邪馬台国》大和説」をとても合理的に説明するものである。
昔は大和から伊都国あたりまで――早飛脚は別にして一般の人は――三十日ほどかかったらしく、そういう記述が日本の古い書物(延喜式など)に出ているそうである。
気象条件を見たり船頭の都合を見たり旅の疲れを癒したりしながら、進んだからであろう。
だから、北九州〜投馬国〜《邪馬台国》が水上三十日陸上一日という記述は、北九州から《大和》への日程とよく一致していることになるのだ。
また地図(b)の《邪馬台国》は沖縄よりずっと南方にあることになってしまうが、これは「魏志倭人伝」のなかの倭人の記述や位置の記述が妙に南方的であることと矛盾していない。
倭国の中心はかなり南方だからたぶんこうだろう――と陳壽らが考えたと推理できる。
さらにこの地図にもとづくと、狗奴国は九州南部の熊襲ではなく大和よりかなり東の三重県や愛知県から関東の群馬県・栃木県にかけてのどこかの豪族だろうということになり、これも「日本書紀」の四道将軍の伝説などと矛盾しない。
前述したように、狗奴国とは群馬県(上毛野)から栃木県(下毛野)にかけての「毛野」と呼ばれた地方の豪族ではなかったかとの説が唱えられている。
「狗奴」の魏国読みと「毛野」の大和読みがきわめて似ているというわけである。
また遺跡などからは、愛知県を中心とした東海地方ではないかとの説も有力になってきている。
一方(b)の地図で前記[A]の「《邪馬台国》九州説」をとることは、ほとんど不可能である。
「九州説」の場合には、陳壽らは地理は現在と同じ正確なものを知っており、ただ距離について間違えていたり現在の常識とはかけ離れた表示をしていたのだ、と――たぶんありえない――推理をしなければならない。
しかも距離は長さの単位の「里」だけではなく陸行何日、水行何日という時間を単位とした記述がたくさんあるので、これをうまく九州に当てはめて解釈するのは大変である。
そのため、水行二十日とは二十日に一度船が出たのだ――といった苦しい解釈まで飛び出している。
ところでこの古地図で面白いのは、朝鮮半島や大陸から見るとほぼ九十度のちがい――つまり東と南のちがい――があるが、対馬と壱岐を基準にして日本本土を見ると、けっこう正確なことである。
つまり朝鮮半島から見た対馬と壱岐の位置関係が違っているのであって、対馬から先の相対的位置関係はそれほど違ってはいないのだ。
図4・3(b)の対馬を正しい地図の対馬と一致させた上で壱岐を一致させようとすると、(b)全体を九十度ほど回転しなければならない。
そうすると、日本列島に関しては――大きさはまったく違っているが――列島の角度そのものは真実に近いものとなる。
したがって、朝鮮半島から見た壱岐の位置を間違えたために、日本列島の角度が九十度ずれてしまったようにもみえる。
さらに強力な論拠 
もうひとつ、方角の九十度違いについての強力な論拠がある。
それは、<北九州に到着してからの末廬国→伊都国→奴国の現実の方位は、図3・1でわかるようにほぼ「北東」を向いている>にもかかわらず、<「魏志倭人伝」では末廬国→伊都国も伊都国→奴国も「南東」と記されている>ことである。
つまり、どこにあるのかが明確になっているこの三国間の位置関係が、じっさいと記述とでちょうど九十度だけ違っているのだ。
これは否定しようのない完全な事実なので、その後の不弥国以降も、九十度違っているだろうと、かなりの妥当性をもって推理できるのである。
ちなみに奴国→不弥国は「魏志倭人伝」では東なので、九十度変更して北とすると、いくつかの候補地のうち図3・1の楕円の北側に小円で示した津屋岬(および福間)が最有力となる。これも興味ぶかいことである。
このようなことから、陳壽らが見ていた地図は真実とは大きく異なり、仮に「《邪馬台国》=《大和》」とすれば東と南の書き換えでなんとか説明がつくが、「九州説」ではとても苦しい――ということになる。
したがって地図の問題は「大和説」の人たちの大きな支えとなっている。
著者も、この地図の問題は重要だと考えている。

しかしここで言いたいのは、「《邪馬台国》大和説」の推奨ではない。
そうではなくて、要するに、「魏志倭人伝」の編者の地理的知識はごくあいまいなものだったのではないかと疑う必要がある――ということを主張したいのである。
つまり「魏志倭人伝」とは、日本列島が九十度も違っていて、しかもはるか南方にあるシナの古い地図からみても、「不正確な地理的知識を元にして書かれた文献に、どれほどの信憑性があるのか?」という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。 
4-3 シナ正史自体の信憑性

 

さて次に、そもそもシナの正史における周辺国の記述がどれほど信憑性のあるものなのか、それを探ってみることにしよう。
現代の中国の教科書にある自国以外の国についての記述――とくに日本や台湾についての記述――が強く偏向していることは、多くの人が指摘している。
中国の指導者たちには、隣国の歴史や社会を正確に調べて記述しようという意欲がほとんどなく、あるのは自国中心の中華思想とプロパガンダである。
そしてそれは今にはじまったことではなく、シナの歴史的伝統なのだ。
もちろんほとんどの国の歴史の教科書は、自国に有利なことを中心にして書かれており、それは当然のことである。
自虐的なことを書いて生徒の気持ちを傷つけている日本の教科書は世界でも珍しいのだが、それはともかくとして、自国の誇りを中心に書くのがあたりまえの歴史教科書のなかでも、中国のそれは際だっているといわれる。
多くの識者(たとえば古森氏など)が、現代中国の教科書を精密に研究して、それが徹底して一方的なプロパガンダで埋められ、真実を隠蔽していることを明らかにしている。
奇々怪々な「明史日本伝」 
そういうシナの歴代権力者たちの習性からみて、古典だけ、あるいは「魏志倭人伝」だけが正確で良心的に記されているとはとても思えない。
西尾幹二の「国民の歴史」では、「魏志倭人伝」の信憑性についての節で、岡田英弘「日本史の誕生」から次のシナ正史の一文を引用して、シナ王権の特質を抉っている。
この引用文は有名で、たとえば渡部昇一も著書のなかで言及している。
それは、光秀が信長を討ち、その光秀を秀吉が討った、「敵は本能寺にあり」という例の事件についての記述である。
江戸時代になって著された「明史日本伝」というシナの「正史」のなかに、それがあるのだ。
「日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の下男だという。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
・・・信長の参謀の阿奇支というのが落ち度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて武将の行長らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて帰り、明智をほろぼした」
もし信長、秀吉や本能寺についてまったく知らない人がこれを読んだら、当時の日本の歴史についてどう理解するだろうか?
秀吉の本拠地は九州の薩摩なのか、それとも大阪城のある近畿なのか――と、議論するかもしれない。
それから、阿奇支はシナの発音でアケチで、明智は日本の発音でアケチだから、ひょっとすると阿奇支と明智は同族だったのではないか、まさか兄弟ではないだろうが親戚かもしれない――などと議論するかもしれない。
こういう実例を見てしまうと、たとえば《邪馬臺國》ではなく《邪馬壹國》だといった議論はほとんどナンセンスであるように思えてくる。
邪馬がヤマと読めれば、その次が臺だろうが壹だろうが、おなじていどの重みでそれは大和だろうといえるし、同時にまた大和ではないだろう――ともいえてしまう。
末廬国にせよ伊都国にせよ最初の読みのマツとかイトとかが現在に残る地名と合っていることが北九州地方とするひとつの根拠だし、奴国にいたっては、ナが一致しているだけである。「狗奴国=九州熊襲説」にしても、クが合っているだけである。
だから、(卑彌呼)にしても、ヒやミコが合っていれば、それは「日本書紀」のだれそれだろう――といえるし、またそうではない――ともいえるであろう。
ここでくどいようだが、このていどのレベルの史書を元に詳細な議論をするナンセンスさを、もう一つのたとえで書いてみよう。
もしローマ字での史料の断片しか分からず、真面目に検討しようという意欲のない未来の歴史家が、明治維新前後の日本の首都の名前について書いたとすると、次のようになるかもしれないのだ。
「・・・TOKYOという都市名は昔はKYOTOといっていたらしい。それを明治維新という革命があったので名前を変える必要が生じ、KYOとTOを逆転させてTOKYOとしたのだろう。しかしそれに異議を唱えて、後々までしつこくKYOTOと呼ぶ人間がいたらしい・・・」
これは笑い話だが、「魏志倭人伝」にはそういう側面があることを承知していなければならない。
だから、樋口清之、渡部昇一、西尾幹二、岡田英弘といった論客たちが、「B級資料にすぎない」と喝破して、一字一句を問題にする愚を指摘しているのだ。
対日蔑視と誇大数字 
明智光秀の本能寺の事件をデタラメに書いた興味ぶかい「明史日本伝」は、くりかえすが、江戸時代に書かれたシナの「正史」である。
要するに、シナの伝統的な正史とは、江戸時代になってもこの程度のものにすぎなかったのだ。
秀吉の時代には、日本と明国との交流は有りすぎるほど有ったのだから、もし正史の編者が本気になって調べようとしたら、もっとずっと正確な記述になっていたであろう。
しかし本気にはなっていなかった。シナの役人の周辺国への態度は、大昔からこんなものであった。
だから「魏志倭人伝」の信憑性も――明史より千五百年も前のものだから――良くてこのレベルだ、と考えなければならない。
また、「魏志倭人伝」が「東夷伝」のなかにあることからも分かるように、昔からシナでは、周囲の国々を、「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と呼んでいた。
すべて野蛮な国という侮蔑した意味である。
つまり人間なみには考えておらず、良くて貢ぎ物を持ってくる蛮族といった扱いでしかなかった。
ODAという名の大金を貢ぐ現在の日本も、北京政府から見ればその程度のものにすぎないが、昔はなおのことそうだったのだ。
《邪馬台国》の「邪」にしても(卑彌呼)の「卑」にしても、また倭国、倭人の「倭」にしても、当てはめられている漢字は下品な意味のものばかりである。
差別意識を持っていなかったら、もっと上品な文字をあてはめていたであろう。
そういうわけなので、「魏志倭人伝」の信憑性を客観的に論証するためには、「東夷」のなかの日本以外の国々や、「東夷」以外の外国についてどう書かれているかを見て、それらが事実とどのていど違っているかを検証する必要がある。
それは著者の力の及ばないところであるが、歴史資料として批判に耐えるようなものであるかどうかは疑わしい。
ざっと読んでみても、「女人国」や「顔が二つある人間の国」が東の海(つまり日本の本州の方角)にある――などという記述がいきなり出てくるのだ。
「魏志倭人伝」そのものに戻って、そのあやふやさは、「明史日本伝」を読まなくても、それ自体だけからでもわかる。
たとえば、樋口清之が指摘していることだが、(卑彌呼)の墓をつくったとき、奴婢百余人が殉葬されたとあるが、三世紀の墓の発掘調査からはそういう殉葬がなされた証拠は見つかっていない。
また死者を葬るのに棺はつくるが、それを入れる施設(槨)はつくらず直接地中に埋める――とあるが、地位の高い人の墓には、弥生時代であってもちゃんと槨があった事も、遺跡からわかっている。
しかもシナ大陸や朝鮮半島にも例のない、石と木の二重の槨さえ発見されているのだ。
牛や馬がいなかったという話も、骨の発掘からきわめて疑問であるし、百まで生きるというのも信じがたい。衣服などについても、南方でしかありえないような、いいかげんな話である。
もうひとつ信じにくい数字に、戸数がある。
投馬国が五万余戸、《邪馬台国》が七万余戸などとなっており、数値のあるすべての国を合わせると十五万戸ほどである。
一戸あたりの人数は、奈良時代について概算されており、平均二十二人ほどだったといわれている。
(卑彌呼)の時代はもっと多かったと推理されるが、かりにこの二十二を戸数にかけると、「魏志倭人伝」に数字のある国々の人口の合計は、三百万以上ということになる。
国名が書かれていなかったり数字が書かれていなかったりする国は他にも多数あるので、「魏志倭人伝」から推理される当時の日本の人口は相当な数――たぶん一千万以上――になるであろう。
しかし、奈良時代になっても、「魏志倭人伝」に書かれた地域の人口は、――沢田吾一らの研究から――たかだか数百万であろうと推理される。
奈良時代より五百年ほど前の(卑彌呼)の時代には、これよりはるかに少なかったであろう。
つまり、計算があわないのだ。
このように、シナがつくる日本についての記事は、間違いが多く、あいまいで、かつ下品なのだ。

以上のようなわけで、「魏志倭人伝」とは、江戸時代に書かれたシナ正史の凄い中身から推察しても、また倭人伝そのものを考古学で検証してみても、「周辺国については伝統的に侮蔑的で間違いの多い正史を書くシナの古い史書中のごく短い文献に、どれほどの信憑性があるのか?」という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。 
 
第五章 卑彌呼という名の探索
 併せて册封体制からの独立と国名および天皇という尊称

 

いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋いぬらむ
〔山上憶良(万葉集63〕
「さあみんな、早く日本へ帰ろうではないか。出航のとき航海の安全を祈ったあの大伴の御津の浜の松も、われわれの帰りを待ちこがれているだろう。(御津は大阪難波の港。遣唐使の一員として唐に派遣された山上憶良の望郷の歌)」
大和路は 雲隠りたり しかれども わが振る袖を 無礼しと思ふな
〔遊女兒島(万葉集966)〕
「大和への道は雲の彼方に隠れていますが、私が振る袖を無礼だと思わないで下さい。(太宰府から都に帰る貴人との別れを惜しんで地元の遊女が謡ったとされる。天皇の歌と遊女の歌とが同じ歌集に並んでいるところが「万葉集」の凄さである)」 
5-1 「記紀」のどこを切っても出てくる卑彌呼

 

(卑彌呼)の読み 
ここでは(卑彌呼)を「ヒミコ」と読んでいるが、それはそう読むのが今では一般的だからである。
しかし昔の人がそう読んでいたかどうか、また元の日本語の発音がどうだったかについては、諸説がある。
作家の井沢元彦が調査したところでは、この漢字は、昔のシナの発音では、日本人には「ピメハ」とか「ピメコ」とか聞こえるらしい。
だからまずヒとピの違いがあるが、古代の日本語では日はヒともピともいったようだし、いまでも「月日」を「ガッピ」というようにピということもあるので、この読みは「ヒメコ」と同じだといえるのかもしれない。
最近の研究には、「ヒムカ」だろうという説もある。
前述のように著者の読んだ古い教科書では、(卑彌呼)の左右に二種類のルビをふり、「ヒミコ」および「ヒメコ」としていた。
いろいろな意見があるわけだが、現在の日本の著名な学者のあいだでは、この教科書の二つの読みが定着しているようである。
おそらく、いまの日本では「ヒミコ」や「ヒメコ」と書ける言葉の古い音韻だったのであろう。
もともと古代の発音は、日本のそれもシナのそれも定かでないし、同じ日本でも地域によって異なっていただろうから、あまりこまかな議論は意味がない。
現在の日本人の発音で考える類似は、ごくごくおおまかなものだと考えねばならない。
「ヒミコ」とも「ヒメコ」ともちがうが、それに似たものだったかもしれないのだ。
《邪馬台国》と抗争した狗奴国とは九州の熊襲かそれとも関東の毛野かあるいは熊野か岐阜か愛知か、といった議論にしても、三世紀の日本の役人が熊襲や毛野をどう発音していたか、および、三世紀の魏の国または魏の植民都市帯方郡の役人が狗奴をどう発音していたか――がよくは分からないのだから「ひょっとしたら対応しているかもしれない」というていどのことしかいえない筈なのだが、それにしては、多くの「魏志倭人伝」の研究書に、もっともらしい対応が頻出している。
第三章で、「魏志倭人伝」の難升米と「日本書紀」の田道間守が、似ても似つかぬように見えてもローマ字で表示すると「似ているともいえる」ことを記した。
ここでもう一つ、似ていないようで似ている例として、遣隋使として有名な小野妹子と、その隋での名・蘇因高とを比較してみよう。
この両者は同一人物であることが明確なので、比較は参考になる。
シナの発音を音でおおまかに記すと、小野の小も野もSHOと読める。また妹子の日本での発音はIMOKOなので、これはIMKOまたはINKOに近い。SHOをSOとすれば、そのままSOINKO――すなわち蘇因高――となる。
蘇因高が隋によってつけられた小野妹子の呼び名であることは「日本書紀」の推古天皇紀に明示されているので、疑う余地はないのだが、漢字だけを見てこれを同一人物だと見破ることは困難である。
予備知識無しに「小野妹子」と「蘇因高」という二つの名を見て、即座にこれを同一人物だと見破ったとしたら、その人は名探偵である。
一般に日本人はなるべく原文に忠実に表現しようと心がけるが、シナの役人はそうではない。
彼らにとって都合のよいように――言いやすいように――創作してしまうのである。
だから倭の五王のような愛想の無い名も生じてくるのであろう。
このような例からも、「魏志倭人伝」に書かれた名前を日本の古典のなかに見つける作業は、推理力が必要だし、かつあまり深く考えすぎてもいけないことがわかる。
したがって(卑彌呼)の読み方については、深入りは避けて、教科書や多くの学者の説にあるように、「おおまかにヒミコまたはヒメコみたいな発音だった」――としておかねばならない。
前述のように元来がそのていどの話なのだから・・・。
では、日本の古い文献に、これに似た読みの人物がいるのだろうか?
これについては、「いすぎるほどいる」というのが結論である。
昔の日本の文献に書かれている貴人の名は、つねにかなり長いものなので、単に「ヒミコ」とか「ヒメコ」とかいう人物がいた可能性はほとんど無く、日本の役人が述べた名前のなかから覚えやすい部分を魏の使者が記録したか、あるいは日本の役人が自分の仕える上司を固有名ではない尊称で呼び、それが記録されたものだろうと、多くの人が考えている。
現在の美智子皇后陛下を、ただたんに皇后と記すのと同じである。
社長秘書が来客に社長のことを告げるときも、「社長はいま会議中です」などと述べるだけで、その姓名を全部いうことはめったにない。
したがって古代においても、特に身分の高い人物については、日本側の役人は、尊称のみで話した可能性がたかい。
フルネームを告げたこともあったかもしれないが、会話のほとんどは、尊称だけであっただろう。
(とくに埋葬された後の貴人を生前の長い実名で呼ぶことは少なかったであろう)
また魏や帯方郡の役人も、フルネームでは発音が難しくて記憶も記録も困難で、簡単な尊称のみのほうがずっと親しみやすかったであろう。
(男性の場合、「・・・彦」を「魏志倭人伝」では末尾の「彦(ヒコ)」だけを取り出して単に「卑狗(ヒク)」と書いたらしいことは、すでに記した)
「記紀」にある(卑彌呼)の候補 
では、日本の「古事記」や「日本書紀」に、そういう(卑彌呼)を連想させる尊称が出てくるのかというと、これが、無数に出てくるのである。
多くの学者や研究者が述べている(卑彌呼)の候補をあげてみよう。( )内は代表的な読みである。
   《日子》    (ヒコ)
   《日御子》   (ヒミコ)
   《日神子》   (ヒミコ)
   《日皇女》   (ヒミコ)
   《日巫女》   (ヒミコ)
   《日靈女》   (ヒミコ)
   《姫子》    (ヒメコ)
   《皇女》    (ヒメミコ)
   《女》     (ヒメミコ)
   《姫御子》   (ヒメミコ)
   《姫神子》   (ヒメミコ)
   《姫皇女》   (ヒメミコ)
   《姫巫女》   (ヒメミコ)
   《姫命》    (ヒメミコト)
   《姫尊》    (ヒメミコト)
   《比賣命》   (ヒメミコト)
   《日女命》   (ヒメミコト)
   《稚日女尊》  (ワカヒルメノミコト)
   《大日靈女尊》 (オオヒルメノミコト)
さいごから二番目の《稚日女尊》は(天照大神)の妹であり、最後の《大日靈女尊》は(天照大神)の本名で、靈女は合わせて一つの文字である。
これは白川静の「字通」によると靈と同じ字だそうであるが、古い神社の書き物などでは分けて靈女と書かれていることもある。
このおわりの二つは別格の尊称だが、その一つ前の《日女命》も、それに準じる丁寧な文字――太陽の妻を意味する――を当てた尊称である。
「ヒミコ」または「ヒメコ」を連想させる名前は、まだまだあるだろうが、これくらいでやめておこう。
この一覧のほとんどは、天皇の皇女の名につけられる尊称である。
たんに尊称として使われるものもあるし、「XXX姫命」のように、長い名前の末尾につく場合も多い。
また「姫」は「媛」としても同じ読みだし、また「女」に変えても通じる。カナ表記では「比賣」もある。
「ヒメ」はもともとが神につかえる神子(巫女)的な女性に与えられた称号だが、祭政一致の時代においては、天皇の皇女など身分の高い女性が重要な神の神子となったので、高貴な出の女性を「ヒメ」と呼ぶようになったらしい。
語源をたどると、姫の「ヒ」は彦の「ヒ」と同じで貴い人物の名の接頭語であり、「ヒ」のうしろが「コ」なら男性、「メ」なら女性になったとされている。
さらにこの「ヒ」は、火と同じく日(太陽)と同源であるらしい。
要するに一覧表の名の頭にある「ヒ」は、すべて太陽から来た音で、畏敬すべき物や身分の高い人物につけられたのである。
これは、日神祭祀が重要だった古代の人々にとっては、とうぜんの表記だったであろう。
上のリストから直感できることだが、「姫命(ひめみこと)」が(卑彌呼(ひみこ))である可能性が高いし、さらには「姫御子(ひめみこ)」という説もあるので、「姫」と「命」と「御子」の語源について、もう少し補っておく。
「姫」とは? 
「姫」は「媛」とも書くが、本居宣長によれば、「姫」は皇族の女性、「媛」はそれ以外の出身の女性に付けられている。
これは「日女」とも書くが、この「日女(ひめ)」がもっとも元の大和言葉の意味に忠実な漢字らしい。
ところで、
「ひめ」=「ひ」+「め」
――のように分けられる。
そのうちの「ひ」は太陽の意味で、「日」である。
また太陽のもつ優れた力から、「活力の源泉となる超自然的な力」をも意味するようになり、それには「霊(ひ)」の漢字が当てはめられた。
 昼の「ひ」
 東の「ひ」
 人の「ひ」
 左の「ひ」
・・・なども同源とされている。
古代では右より左が神聖だったらしく、(天照大神)は、左目を洗ったとき、または左手に神鏡を持ったときに生まれたし、注連縄は左撚りである。
なおこの「ひ」は甲類で、「火」は乙類だが、同源という意見もある。
つぎに「め」だが、これは「女」とか「妻」とかいった意味を持つとされる。
愛でるの「め」と同じという話もある。
(付録)「男女の違い」と「年齢の上下」
現在の日本語は、男女と年齢の組み合わせに、「あに・あね・おとうと・いもうと」があり、それに漢字の「兄姉弟妹」が当てはめられています。しかし上代ではそうではありませんでした。まず男女によらず年齢の上下によって「え・おと」が使われ、ついで年齢によらず男女に対して「せ・いも」が使われるようになりました。
これはこれでバランスがとれていますが、そこに「あね」=「女でかつ年上」という新しい言葉が出現したので、このバランスが崩れたのです。
平安以後になると「あに」が出来てバランスが回復しますが、どうやら上代では「あね」は有っても「あに」は無かったらしい。(兄という漢字を「あに」と読むのは後の読み方で本来は性別無しの「え」らしい)
(現在でも兄弟姉妹の日本語表現は不完全だと思います。それは「実の」「義理の」という言葉が頭についた時の定義が不明確だから・・・と思います。上代の言葉では「いろ」と「まま」でしょうか? 今の日本語では「実兄」「実弟」といった表現の意味が辞書によってまちまちなのです)
「あね」と同時に「あに」も出来たという説もあるようですが、下記の本の著者の犬飼先生は、「あに」という読みはどうしても見つからない――と書いておられます。
後の時代になると、「め」だけを単独で取り出して、軽い意味でも使っている(たとえば「奴め」と怒るとき)が、古代(*1)における「ひ」+「め」は、「日女」すなわち「太陽の妻」といった、太陽祭祀の意味があり、神に認められた高貴な女性であったり、神に仕える巫女であったりする。
古代における皇族の女性は、多くの場合、神に仕える巫女でもあった。
要するに「ひめ」とは、高貴な女性に付けられる霊的な意味をもつ尊称である。
またとくに「日女」と表記するのは、「太陽祭祀/太陽の妻」を強く意識したときらしい(この事はのちに(卑彌呼)の正体を探る上で重要になる)。
(天照大神)の尊称は(大日霊女貴)だが、単に(日女命(ひめのみこと/ひめみこと))と書くこともある。
すなわち、「姫(ひめ)」=「日女(ひめ)」=「日(ひ)」+「女(め)」で、神聖な言葉である。
これに対して、男性の尊称である「彦」は、「彦(ひこ)」=「日子(ひこ)」=「日(ひ)」+「子(こ)」 で、やはり太陽を語源とする、貴い男性という意味である。
XX彦はいまでは大衆的な名前だが、古代においては太陽の息子という尊称であり、前述のように、「魏志倭人伝」にある官名の「卑狗」は「彦」だとされている。長い名前の末尾だけを採ったのかもしれないし、日本人が役人のトップを「ひこ」という尊称だけで呼んでいたのかもしれない。
ちなみに、
息子(むすこ)は「産(む)す日子(ひこ)」または「産(む)す子(こ)」
娘(むすめ)は「産(む)す日女(ひめ)」または「産(む)す女(め)」
――である。
(*1 「古代」の用法は戦前と戦後とでずいぶん違っているようですが、ここでは、古い用法で飛鳥時代より前の大和朝廷の時代を言っています。この用法では、古代の前は神代です。ただし厳密な使い方ではありません)
「命(みこと)」とは? 
つぎに「命」に移る。
一般に「命」の訓は「みこと」で、これは「御言」だとされている。
つまり、「命(みこと)」=「御言(みこと)」=「御(み)」+「言(こと)」である。
天皇陛下のお言葉である「みことのり」の「みこと」はこの「御言」で、「御言宣り」である。
また、「言」と「事」は通じており、名前の最後につく「みこと」は、「御事」だとされている。
すなわち、「命(みこと)」=「御事(みこと)」=「御(み)」+「事(こと)」である。
当然ながら、貴人の尊称で、男女ともにつく。
「尊(みこと)」と書くときは、神代における特別重要な身分が多い。
姫と媛に似ていて、意識して使い分けされているが、こちらの命と尊の方が明確らしい。
(このことも、姫/媛と同じく本居宣長が有名な「古事記伝」で指摘している)
前記したように「魏志倭人伝」に出てくる卑弥弓呼は、卑弓弥呼の写し間違いで、「彦命」または「彦御子」だろうとされている。
以上の「姫」と「命」とをまとめると、古代における、「姫命」=「ひめみこと/ひめのみこと」という言葉は、「神につかえる霊的で高貴な女性――大和朝廷の皇女で太陽祭祀を担当したり巫女/神子であったりすることが多い――を意味する最大限の、そして重大な尊称」であった。
つまり、現在の我々とはまったく感じ方が違っていたと考えられる。
「記紀」ができた奈良時代でも、(卑弥呼)の時代とは、かなり違ってきていたのではないかと想像している。
「御子(みこ)」とは? 
(卑彌呼)の候補リストの中に出てくる、巫女・御子・神子・皇女・靈女など「ミコ」と読む漢字は、現在の感覚では書かれた文字によって意味が違ってくるが、祭政一致の古代にあっては、ほとんど同じ意味だったとされる。
神につかえる貴人の子――主に姫――または女性である。
そして漢字が使われるようになってから、皇女(みこ)が尊敬されて御子(みこ)と書かれ、神につかえる役目を与えられて巫女(みこ)や神子(みこ)と書かれ、別格の女性が「靈女(みこ)」と書かれるようになったのである。
無数にいる(卑彌呼)の候補 
このように見てくると、(卑彌呼)を連想させる「記紀」のなかの多くの名前は、最初から最後まで「尊称」であることがわかる。
さて、前掲の表の名は、それ自体ですでに(卑彌呼)と同じと思える読みのものが多くあり、それ以外も、わずかに変形しただけでみな(卑彌呼)になる。
だから、高貴な女性と分かる名前で「ヒミコ」または「ヒメコ」と読めそうなものを探してみようと「日本書紀」を繰ると、ほとんど数頁に一人は出てきてしまうのだ。
まさしく(卑彌呼)のオンパレードなのだ。
高貴な女性のほとんどは「・・・姫命」あるいは「・・・姫尊」などとされているが、この最後の二文字の読みは、「ヒメノミコト」または「ヒメミコト」だから、要するに貴い女性名の末尾はみな(卑彌呼)になってしまうのである!
姫(ひめ)のかわりに媛(ひめ)や日女(ひめ)を使っていても同じである。
そして、先の皇后陛下や会社社長のたとえで述べたように、その時日本のどこかに「xxx姫」という名の偉大な女性がいたとしたら、人々は、最後の姫に尊敬の尊や神子をつけてたんに姫尊(ひめみこと)あるいは姫神子(ひめみこ)と呼んでいたであろう。
つまり「・・・ヒメミコト」「・・・ヒメミコ」といった尊称つきの固有名詞を、「・・・」を略して「ヒメミコト」「ヒメミコ」という普通名詞で呼んでいた可能性が高いのだ。
以上のようなわけで、「ヒミコ」や「ヒメコ」といった読みの名前のみで(卑彌呼)を日本の古典から探して特定しようというのは、まったく不可能である。
いすぎるほどいるのだ。
そして同時に、「(卑彌呼)は「・・・姫命」または「・・・姫神子」の音写ではないか」との推理もまた、かなりの確実性をもっていえるのである。 
5-2 《倭》と《大和》の語源 甲類・乙類の違い

 

「倭」と「和」の問題 
「魏志倭人伝」は正式には「三国志」のなかの東夷伝のなかの倭人の条というのだが、いずれにせよ倭人という言葉がでてくるし、さらに倭や倭国という言葉がでてくる。
つまり当時のシナでは、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ。
なぜそう呼んでいたのだろうか?
これについては、いくつかの説があるが、大きく分けて、
[ア] 漢や魏の役人が勝手に作ったという説。
[イ] 日本人が質問されてそう答えたという説。
――の二つになる。
前者の[ア]は、「倭」という漢字の意味が低いとか曲がっているとか遠いとかいうものなので、遠路はるばる日本を訪れた使者が日本人の醜い姿を見て、そう名づけたのだろう――というものである。
しかしそれはあまり説得力がない。
日本人がシナ人や朝鮮人に比べて醜いなどあり得ない事だが、文献学的に言っても説得力がない。
なぜなら、「魏志倭人伝」のなかの多くの国名は、みな日本での呼び方を漢字に当てはめて、日本人の発音に似た呼称で呼んでいるからである。
ただそのとき当てはめる漢字に、蔑称的なものが多いということなのだ。
一方後者の[イ]は、質問された日本人が「ワ」と答えたので、それに差別的な「倭」という漢字をあてはめたのだろう――というものである。
これは前者よりずっと得心がゆく。
この後者の説にもいろいろあるわけだが、著者が読んだ説を二つほど挙げておく。
そのひとつは、「日本人が昔のシナ人と話をはじめた時代に、日本人は自分たちのことを《われわれ》または《われ》または簡単に《わ》といい、自分たちの国のことを、《われわれのくに》または《われのくに》または《わのくに》などといったので、シナ人は日本を「ワ」と呼ぶようになり、それを漢字で書きあらわすときに、差別意識によって低い姿勢とか従うとかいう意味を持つ「倭」を当てはめ、日本のことを《倭国》、日本人のことを「倭人」と記すようになった」という説である。
南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房の「神皇正統記」にも似た意見が紹介されているが、これはおそらく「釈日本紀」が出典で、とても古くからの説である。
「日本書紀」の研究は奈良時代から平安時代にかけて、かなり行われたが、鎌倉中期か末期に、大学者の卜部兼方が、過去の研究を集大成して「釈日本紀」を著した。
この「釈日本紀」に、「倭」や金印を贈られたことで知られる「倭奴国」についての解釈が記されている。
簡単に言えば――
シナに派遣された日本人が、「お前の国は何というのか」と質問されて、(東の方を指して)「我の国は・・・」とか「我々の国は・・・」といった返事をしたので、その冒頭の「わ」という発音を「倭」であらわして、日本の名としたのであろう。
――というものである。
古代の我は「われ」だけでなく「わ」ともいった。
(印象的な発音を選んで一字で表現するのは、古代シナの役人がよくやることだが、日本人の発音にも「わ」があった。それは現在でも使われている。たとえば「我が国」とか「我が家」という時の「我」は「わ」と発音している)
南朝の忠臣北畠親房は、当時の最高の学者で、天皇に歴史をご進講するために「神皇正統記」を著した。一三三九年成立とされている。
この中で親房は、以下のように述べている。
「昔此の国の人、初めて彼の土に至れりしに、汝が国の名をばいかゞ云ふと問ひければ、我が国はと云ふを聞きて、即ち倭と名付けたりと見ゆ。」
これは「釈日本紀」の意見とほとんど同じで、おそらくそのまま引用したのであろう。
ちなみに後漢から金印を贈られたとされる倭奴国や伊都国の次ぎの奴国の奴とは、召使いとか虜とかいう意味で、これまた倭に負けずに下品な漢字である。
[イ]にはもうひとつ、円形を意味する「ワ」から来たのだろうという説がある。
それは、「日本の集落や都市は昔から環濠と呼ばれる堀を周囲に円周的にめぐらした中にあった。だからシナ人からお前の国は何と呼ぶのか、と聞かれたとき、円形や環形を意味する日本語の「ワ」を使って「わのなかにある」あるいは「わのなかのくに」または「わのなか」といった答をしただろう。そこでシナ人は日本のことを「ワ」と呼ぶようになり、それを差別的な「倭」という漢字で表した」というものである。
おそらくこの後者の[イ]の二つ、またはそれに近いことがあって、かなり昔――たぶん西暦前――の前漢の時代からシナでは日本のことを《倭国》と呼んでいたのだろう。
そしてそれを知った古代の日本の知識層が、「なるほど自分たちの国はシナ人によって倭と呼ばれているのか、それなら我々もこの文字を使って「倭」と記すようにしよう」と考えたのであろう。
ところで、古い文書を読むと、日本人は自分の国のことを「倭」とも記しているが、それが次第に「大和」に変化してきている。
なぜなのだろうか?
それは、日本人が次第に漢字の意味を勉強するようになり、「倭」は差別的な意味を持っていることがわかってきたからだろう――といわれている。
古代の日本人はいろいろ考えた末、シナでの発音が似ていて、かつとても穏やかで良い意味を持つ「和」を採用して「倭」のかわりに使おうではないか――ということになったのであろう。
「和」はやわらぐ、なごむ、友好的、楽しむ・・・といった日本人好みの意味を持つ漢字である。
この「和」を「ワ」と読むのはシナの音であるが、日本古来の発音である「ワ」は、円、環、輪、回・・・といった意味を持ち、落ち着きのある良い語感の言葉である。
だから、「和」という漢字は、当時の日本人にとって、元々の漢字の意味も、読みから来る日本語としての語感も、ともにとても感じの良いものだったのだ。
この「和」の前に「大」をつけて「大和」という単語をつくったのは、大和朝廷やその都がとても強く大きくて立派だ――という自負心からだろうが、ひょっとすると「魏志倭人伝」に記されていてる「大倭」にヒントを得たのかもしれない。
なぜ「ヤマト」と読むのか? 
ここまではなるほど――と思われるのだが、つぎに疑問がうかぶのは、「ヤマト」という読みである。
「記紀」を読むと、「大和」だけではなく「倭」も「ヤマト」と読むことが多かったらしいとわかる。
のちには「日本」も「ヤマト」と読んでいる。
そしてその「ヤマト」という読みは、《邪馬台》の読みとじつによく似ている。
《邪馬台》を「ヤマタイ」と読んでも「ヤマド」と読んでも「ヤマト」によく似ているし、ズバリ「ヤマト」と読むのだと唱える学者も多い。
だから、「ヤマト」なる読みの詮索は、日本国の語源論だけではなく《邪馬台国》探しの面でもきわめて重要になってくる。
「大和」を単純に音で読めば「タイ・ワ」だし、訓で読めば「オオ(オホ)・ヤワラグ」などであり、どう工夫しても「ヤマト」なる読みは出てこない。
したがって「大和」と書いて「ヤマト」と読ませるのは、完全な当て字(当て読み)である。
では、どこからその当て読みが出てきたのだろうか?
もっともなっとくしやすい意見は、日本列島の盟主になった大和朝廷の先祖が住みついていた土地の名前が、漢字を知らなかったころからの純日本語で「ヤマト」と呼ばれていたからだろう――というものである。
またそれを自分たち一族の名前にもしていたのであろう――というものである。
そこで、大和朝廷の先祖がいた土地に、「ヤマト」なる地名が残っているかどうかを調べる段取りになるが、それには、その土地がどこだったかを求めなければならない。
《邪馬台国》に「九州説」と「大和説」があるように、大和朝廷の先祖の土地についても、最初から現在の奈良県の《大和》だったという説と、「記紀」に記されているように九州だったという説がある。
奈良県の場合には《大和》そのものなので、問題はその地名の意味やいつごろからそう呼ばれていたか――ということだけであるが、九州については「ヤマト」なる地名をもつ場所を探さなければならない。
それは、「記紀」にある高千穂の峰の近くや日向の地には見つからないが、中北部には現存している。
福岡県の山門(やまと)郡(ここに大和という町もある)とその近くの熊本県の山門(やまと)である。
神武東征説では、この地点が大和朝廷の先祖に関係するとする考え方があるし、「《邪馬台国》九州説」では、この二箇所のどちらかが《邪馬台国》だったとする意見が昔からある。
江戸時代の新井白石も福岡県の山門説を唱えていた。
地名は変化するので、九州の一部に「山門」なる地名が現存しているということは、昔は他の地域にも同様な地名があった確率が高いということであり、高千穂のあたりや現在の日向のあたりにも「山門」があった可能性がある。
また奈良県の《大和》も、本来は「山門」または「山処」といった漢字を当てはめるべき意味の「ヤマト」という地名だったのだろう――という説が多くの学者によって唱えられている。
というわけで、「大和(やまと)」とは本来の漢字の意味からすれば「山門(やまと)」と書くべき言葉で、山の門つまり山への入口といった意味を持っており、これが、畏敬すべき山地の近くに住んでいた大和朝廷の先祖がその土地につけた名であり同時に氏族名でもあり、それをあらわす漢字として「倭」を改善した「大和」を採用することにしたので、「大和」と書いて「ヤマト」と読む一見奇妙な読みができたのであろう――ということになる。
これはなっとくしやすい推量であり、肯定する学者も多いらしい。
ただしちょっと問題もある。
それは、万葉仮名の研究などによって、古代の日本語には同じ「ト」にも二種類あることがわかっており、その違いを検討すると、「大和」の「ト」と「山門」の「ト」は発音が異なっているので、語源が「山門」という説は成立しない――との意見があることである。
この発音の問題を《邪馬台》にあてはめると、それは「大和」には似ているが「山門」とは違うとされ、「《邪馬台国》九州説」への反論にもなっている。
古代の音韻の問題については、第二章で「神」と「上」は同源であろうと記したときに、古代の発音が違うので別源だという説もあることを記した。
こういった古代の発音の複雑さに起因する議論は、《邪馬台国》論争においてよく出てくるので、認識しておく必要がある。
甲類・乙類の諸問題 
甲類乙類の研究のおおもとは著名な橋本進吉博士(たとえば「國語音韻の研究(橋本進吉博士著作集第四冊)」)であるが、気軽に読めるものではない。そこで、名著として知られる渡部昇一「国語のイデオロギー」をもとにして、「神」と「上」を事例にとって説明してみよう。
古代における「神」と「上」の発音の違いは、甲類・乙類という言葉で表されている。
奈良時代までの母音は、現代のアイウエオの五音ではなく八音であり、いまのイエオに似ているが少しちがう(イ)(エ)(オ)が加わっていた。
これは「記紀」や「万葉集」などの表示から推察されるもので、これを乙類とし、現代のイエオに準ずる発音を甲類とするのである。
(イ)(エ)(オ)は、アルファベット的には、ドイツ語などにでてくるウムラウト(変母音)に類似したもののようである。
この変母音に子音がつくため、
キギヒビミ ケゲヘベメ コゴソゾト ドノヨロモ
――という二十(「古事記」では二十一という話もある)の音節が、甲類・乙類にわけられている。
これを現在の50音図に配置してみると、「い・え・お/ゐ・ゑ・を」列にのみ甲乙があることがわかる。「あ・う」の列には無い。現在「い・え・お」と発音している母音には異音が多くあり、それが時代とともに一つに収斂したのであろう。イロハ歌のエは一種類だが二種類のエを持つイロハ歌もあるらしい。なお現在でも「い・え・お」と「ゐ・ゑ・を」を言い分けたり聞き分けたり出来る人がいるらしい。
問題の「神」は調べてみると乙類であり、また「上」は甲類であることがわかる。
この二つの単語では「ミ」の音が微妙に違い、「神」のミは微・未・尾と書かれているし、「上」のミは美と書かれている。
そこで、この二つの言葉は別源であって無関係だとの意見がでてくるのだ。
しかし、言葉が指し示す対象を次第に変化させてゆく過程でその発音も変わってゆくのは、ヨーロッパの言語でもいろいろと例があるとされる。
また古代の日本語でも、「日」(甲類)と「火」(乙類)が同源である根拠が古代文献にあるとされている。
したがって「神」と「上」は、発音は違っていても、同源である可能性がある。
「神」と「上」については、現在でもいろいろな研究がなされているが、最新の学説でも同源とされているらしい。
つぎに、この甲類・乙類の区別を、「山門」と「大和」にあてはめてみると、
「山門」の「ト」は甲類
「大和」の「ト」は乙類
――となるので、この二つの地名(氏族名)は古代の発音が異なっていたことがわかる。
そしてこれが、「大和」の語源は「山門」ではないし、また九州の「山門」は大和朝廷の出発点ではない――との説に結びつくのである。
しかし、音韻がしだいに変化する例はたくさんあるので、これは一つの意見にすぎず、「大和」と「山門」は同源であるとする著名な学者も多い。
もうひとつ、「山門」に近い言葉に「山処」がある。文字どおり山のある処という意味だが、こちらのほうは「大和」と同じ乙類であり、したがって「山処」が「大和」の語源だという説もある。
(前記の「神皇正統記」で北畠親房は「山迹」説をとり、異説として「山止」説を紹介している。前者は山を歩いた足跡、後者は山への居住という意味だが、これに賛成する学者は少ないようなので、ここでは参考にとどめる)
さて次に、この甲類・乙類の区別を、《邪馬台国》がどこにあったかの問題にむすびつけてみよう。
《邪馬台国》の台を検討すると、
「邪馬台」の「ト」は乙類
で、「大和」の発音に近いらしい。
したがって、甲類乙類を峻別する意見では、
「《邪馬台国》大和説」
――となるし、また音韻変化を認める意見では、「山門」なる地名が九州にあるので、
「《邪馬台国》九州説」
――を否定すべきではない、となる。
これは難しい問題である。
邪馬台の台の読み「ト」を研究した浜田敦は「魏志倭人伝などに所見の国語語彙に関する二三の問題(昭和二十七年)」において、これは乙類であり「大和」の事と主張している。
だが田中卓博士は、「邪馬台国の所在と上代特殊仮名遣(昭和三十年)」において、シナ人が甲類乙類を正確に聞き分けたかどうかは疑問であることや、「ト」の音は「記紀」編纂の時代までに相当乱れていたらしいと述べて、峻別する意見に異議を唱えておられる(ちなみに田中卓博士はウル邪馬台国九州説である)。
おそらく、《邪馬台国》の所在を音韻によって推理する事には限界があり、やはり考古学や他の文献の援用が不可欠であろう。
ちなみに、「古事記」に記された仮名書きの「ヤマト」は「夜麻登」で統一されているが、「日本書紀」のそれは十通りもあり、そのなかには、「耶馬騰」という、「邪馬台」にとても似た音写文字もある。
「万葉集」においては、万葉仮名の「夜麻登」などを除くと「山跡」という表現が多いようである。
七世紀前半の「隋書倭国伝」には、「邪摩堆に都する、すなわち「魏志」のいわゆる邪馬臺」とあるので、「邪馬台」は昔のシナでは「ヤマト」にとても近い発音だったとの印象をうける。
(五世紀半ばの「後漢書倭伝」の《邪馬台国》の註釈(たぶん唐の時代の註)にも、「今考えるに、邪摩堆の音がなまったのだろう」――とある)
以上を総括してみよう。
甲類・乙類という古代の発音の違いは別問題として、「ヤマト」の語源としては「山のあるところ」あるいは「山への入口である門や戸」という意味からきたという説が有力で、漢字で書けば「山門」あるいは「山処」などが語源であろう――という説が一般的である。
だから「ヤマト」は最初は山に近い場所、つまり神聖な山の麓の呼称であって、日本全体の名ではなかった。
日本のあちこちに「ヤマト」という地名があり、また氏族名があり、そういう氏族の代表が大和朝廷の先祖であった。
そして、奈良県の《大和》に本拠をおく大和朝廷が日本の各地を支配下に置くようになったために、シナ式表記の「倭」のかわりに美しく「大和」と書いて「ヤマト」と<当て読み>する単語が、日本列島全体の代名詞になっていったのである。
「和」は「倭」の代わりなので、「和」のみで「ヤマト」と読むのが本来である。
したがって、大和を「オオヤマト」と読むことも多い。
戦艦大和に祀られていたことで知られる奈良の《大和神社》がその例である。
《邪馬台国》との関係については、「邪馬台」も「大和」も乙類で古代の発音は同じと想像されるので、《邪馬台国》が大和朝廷かその先祖の地《大和》であった可能性はきわめて高い。
しかし、それだけで奈良県の《大和》が《邪馬台国》であると決めつけることはできない。
九州の《山門》の音韻が変化して《邪馬台国》になった可能性も否定できないからだし、シナ史書「魏志倭人伝」の正確さにも大きな疑問があるからである。
もともと、録音が残されていない時代の音韻の研究は至難である。
無数の文献が残っている江戸時代の話し言葉でさえ、その復元は困難だと言われている。
(前にテレビで試行していたが、何を話しているのかまったく聞き取れなかった)
まして、文献すら無い時代の音韻研究には大きな壁があり、深入りは避けるべきであろう。 
5-3 《大和》の地理の概略

 

大阪湾から奈良盆地へ 
図5・1に、《大和》地方および、大阪湾から《大和》までの概略の地図を示した。図の右側が奈良盆地または大和盆地であるが、この盆地のどのあたりに都(または宮殿)のおかれたかを、古い方からたどると、
〔一〕初代神武天皇ゆかりの橿原(大和三山あたり)。
〔二〕第十代崇神天皇の磯城宮(桜井市金屋)から第十一代垂仁天皇をへて第十二代景行天皇あたりまでの都《纒向京》がおかれた《三輪山》の北西山麓(狭い意味での《大和》)。
〔《纒向京》は仮の名で、一般には纒向遺跡といわれている。大和朝廷最古の都があった痕跡がつぎつぎに発見されている〕
〔三〕第十九代允恭天皇あたりから第四十代天武天皇のころまでの何回かの《飛鳥京》(飛鳥古京)。
〔四〕第四十一代持統天皇から第四十三代元明天皇までの《藤原京》。
〔五〕元明天皇から第五十代桓武天皇までの《平城京》(奈良の都)。
――となる。
さらに土地勘を養うために、図の全体を見ていただきたい。キイワードは大和川である。
《纒向京》、《飛鳥京》、《藤原京》、《平城京》などは、いずれも、東から東南部にかけてひろがる山地から流れ出る河川が大和川に合流するまでの、山の麓近くの平地にある。
とくに纒向・飛鳥・藤原などの都があった盆地の中央から南にかけては、古代においては湖または水郷のような場所であり、大和朝廷ができたころも、現在よりはるかに幅のひろい――数100mもあったらしい――河川が多くあり、その間の微高地に集落や都市がつくられる、といった地形だったらしい。
隆起による湖や水郷や河川の消失は大阪湾近辺でもおなじであり、河内湖も姿を消してゆくが、もと水郷的な地形の名残はいまでもあり、土木工事の不十分な戦後まもなくは、大雨が降った日の大阪市内は水がでて歩けないほどであった。
奈良盆地全体にも、古墳時代まで水郷だった名残があり、年間の湿度変化がすくなく、したがって正倉院の御物の保存などに適していると、考古学者の樋口清之が指摘している。
《大和》のある奈良盆地とは、以上のように、水利に恵まれていて、船で瀬戸内海からすぐに到達できる交通至便の場所であった。
また仮に徒歩でいったとしても、大阪湾から《三輪山》の麓まで直線距離でマラソン距離以下なので、一日でじゅうぶんに着いた。
うねった道を通ったとしても、昔の人の健脚なら一日の行程である。
もうひとつ付記すると、《三輪山》の南麓を縫って東に向かうと、道はけわしくとも、何日か歩けば伊勢につき、そこから徒歩や馬で尾張や美濃(愛知や岐阜)まで行けるし、また船で湾を横切って対岸に上陸して東海地方に進むこともできた。
このように見てくると、「《邪馬台国》大和説」の《大和》とは、山々に囲まれた豊かな土地として《山門》や《山処》でもあるが、またどうじに、船でも徒歩でも海にすぐに出ることができ、努力すれば伊勢方面へのルートも確保できる、とても発展性のある地勢だった事がわかる。
しかも、この盆地への入口で通りやすいのは、金剛山地と生駒山地の間だけだから、外敵からの防備もしやすい場所であった。
さらに産物も豊富だった。
古代の重要品だった鉄や玉や朱の素材も産出していたし、農業にも林業にも適していた。
大和朝廷はじめ豪族たちが覇権をかけてこの奈良盆地――《大和》――で争ったのも、肯けることである。
加えて、この《大和》が「魏志倭人伝」の時代から開けた土地であったことを示す重要な発掘について記しておく。
その一つは、朝鮮半島製と思われる陶片が大量に発掘されていることである。
またもう一つは、福井県あたりの日本海沿岸から《大和》まで、危機を知らせる狼煙通信の施設が、すでに弥生時代にできていたらしい――という発掘報告があることである。
これらも、《大和》が(卑彌呼)以前から海外と交流していたことの傍証になるであろう。
奈良盆地南部の詳細地理 
図5・2は、図5・1の右下部分――つまり奈良盆地の南部を拡大して精密に描いたものである。以下の各章では、この図を元にして、いくつかの説明図を作成しているので、ざっと眺めておいていただきたい。
土地勘を得るために、JR線を描いてあるが、このほかに私鉄がたくさんあるし、道路も数多くあることは当然である。河川も代表的なものしか描いていない。このあとの多くの章で話題になるのは、初瀬川の両岸および寺川と初瀬川の間の土地で、(卑彌呼)の時代の遺跡が無数にあり、それが初期大和朝廷の都や墳墓の跡だろうとされている。
(初瀬川は大和川の支流であるが、山に近いところまで大和川とも呼ばれている)
図の中央上部に、破線の円で描いた「唐古・鍵遺跡」があるが、これは弥生時代における日本でも最大規模の集落跡であり、大和朝廷の成立との深い関連が指摘されている。
また《三輪山》の北西山麓の《纒向京》は、第十代から第十二代にかけての天皇の都が造られたと考えられる遺跡で、時代的には「魏志倭人伝」とほとんど一致しているので、このあと再三にわたり、くわしく言及することになるであろう。
そのつぎの図5・3は、「日本書紀」などにしばしば出てくる、《大和》周辺の古い地名である。図5・2のさらに中心地帯に書き込んである。
いちばん下の円は、神話の最後の部分にある、初代の神武天皇が即位されたという、畝傍山の麓の橿原である。
このあたりは、発掘によって樫の木(橿)があったことが分かっており、したがって橿原の名に違わず、また河川――というよりも水郷――に突き出た小半島状の土地で、船着き場などがあったらしく、初代の宮殿にふさわしい場所だったといえる。
その右上の楕円が、磐余である。この一帯は、初期の大和朝廷の勢力圏内だったらしく、神武天皇の国風謚号は神日本磐余彦天皇である。
またのちに何人かの天皇が宮殿をつくったとされる場所でもある。
そのすぐ上の楕円の磯城は、神武天皇に最後まで逆らったとされる八十梟帥の拠点で、梟帥が滅んだのちは大和朝廷の勢力圏内となり、のちに第十代崇神天皇はじめしばしば宮殿がつくられた場所である。
おそらく防備によく住みやすかったのであろう。
またその上の纒向は、第十代崇神天皇の宮殿のすぐそばであり、かつ第十一代垂仁天皇や第十二代景行天皇の宮殿が置かれた場所で、数多くの遺跡が発見されているので纒向遺跡と呼ばれている。纏向とはこの地の古い村名で、「日本書紀」に出てくるし、現在でも名が残っている。
東西約2.5Km、南北1.5Kmという広大な面積にわたって、多くの遺構があり、祭祀跡や運河の痕跡もあり、大和川にそそぐ巻向(纒向)川、初瀬川などを利用して大阪湾と連結した開放的な古代の大都市だったと考えられている。
考古学の成果と「記紀」の記述とを総合して、すくなくとも崇神天皇の時代から垂仁を経て景行天皇の時代まで、三代にわたる大和朝廷の中心的な都だったことはまちがいない――と考えられている。
本書では前記のようにここを仮に《纒向京》と称しているが、いずれは正式にそのように名づけられるのではないかと、予測している。
水郷を囲む豊かな土地 
その左に大和湖?――とした大きな半円が描いてある。
前述のごとく古く縄文時代には、この大和一帯が大きな湖であり、土地の隆起によって次第に水が減って平地になったものの、大和朝廷の時代になっても、まだその跡が残っていた――という説があるので、描いておいたものである。
たしかに、縄文〜古墳時代の遺跡は、この想定される湖の周囲に連なる形で発見されており、湖の中心部にはほとんど無い。
明確な形での湖ではなかったとしても、このあたりが水郷であったことは確かと思われる。
この図の左下の外側で金剛山地の右側あたりの広大な地帯が葛城で、そこは有名な豪族の葛城氏が支配していたといわれている。
大和朝廷がこの豪族を帰順させるために、婚姻政策などあれこれ苦労したあとが、「記紀」に多くみられる。
磯城のなかの海石榴市というのは、現在の桜井市金屋のあたりで、聖徳太子の時代に船で初瀬川まできた隋の使者裴世清をここで迎えたという話がのこされている場所である。
初瀬川を船で上ってきてここで下船したのであろう。
瀬戸内からの船便が大阪湾を通って大和まで通じていた何よりの証拠である。
またここは、歌垣という、歌を男女でやりとりして睦み合う遊びがなされたことでも知られる場所である。
歌垣については、場所は不定だろうが、初瀬川岸に宮殿のあった第二十五代武烈天皇と恋敵の鮪との真剣勝負の掛け合いなどが有名である。
纒向のなかの大市は、もじどおり大きな市場があった古代の繁華街ではないかと想定されている場所で、「《邪馬台国》大和説」で(卑彌呼)の有力候補の一人とされる(倭迹迹日百襲姫命)の墳墓《箸墓》(はしはかまたははしのみはか)がある場所である。
《箸墓》は巨大な前方後円墳の最初とされる著名な古墳で、あとの章で詳述する。《箸墓》はまたの名を大市墓ともいわれ、またこの付近から「?市」と墨で書かれた土器が発見されている。宮内庁の正式表示も現在《大市墓》とされている。これはまた、国々には市があったという「魏志倭人伝」の記述とも暗合している。
右上に「山の辺の道」と書かれている道は、いまは大和めぐりの観光の道になっているが、日本最古の国道ともされており、《三輪山》の山麓から笠置山地の麓を縫って天理市の《石上神宮》を通過して北へ続いている。
このほか平野の中心部には、直線的な古代の道が何本も作られたらしい。
地図の説明が長くなってしまったが、このように《大和》はその土地自体が豊かで資源も豊富で暮らしやすいばかりではなく、想像以上に交通も便利で、かつ防備にも適した場所であった。
そして、畏敬すべき山々の近くであるので「ヤマト」と呼ばれていた。
「ヤマト」という呼称が最初から《大和》の地にあったのか、それとも九州などから持ち込まれたのか、あるいはその両方なのかは分からないにしても、「記紀」ができる前からそう呼ばれていたことは間違いない。
そしてここに、縄文時代から生活していたり、弥生に入って外部から進入したりして拠点をかまえた多くの豪族がいた。
それら豪族のなかでもとくに強力だった大和一族が弥生後期に急速に成長して、大和朝廷を建設し、西の九州から東国までを従えるようになった。
そこで自然のうちに、日本そのものをあらわす「倭」や「大和」と、ヤマト地方の「ヤマト」とが一体のものになっていった――というわけである。
なお、図5・3の《大和湖?》は半円になっているが、半円形の湖があったという意味ではない。このあたりが水郷だったらしい、という意味である。 
5-4 《日本》という国号および「天皇」という尊称の由来

 

《日本》という国名の発祥と歴史的意義 
さて、これまでに述べた《大和》が次の段階で《日本》となったのだが、それは、良い意味を持つ《大和》といえども、その元は差別的な《倭》であり、いくらいいかえてもシナから輸入された名前にすぎなかったからであろう。
聖徳太子の時代や大化改新のあたりまで来ると、日本人としての気概がみなぎってきて、シナ皇帝から与えられた名称では満足できなくなり、かつ天皇やその周囲の人たちも、かならずしも「ヤマト地方」出身とはいえなくなり、別の名前を考えるようになってきたと思われる。
そこで出てきたのが、《日本》という漢字で書かれた国名である。
ここで使われている漢字「日」の訓である「ひ」という言葉は太陽を意味していてとても日本人の好みに合った神聖な雰囲気があり、歴代の天皇の名にもじつに多くつけられている。
また(天照大神)の尊称のひとつが「日神」であることからも、「日」のもつ特別な語感が理解できる。
推古天皇の皇子で摂政として実質的な最高指導者だった聖徳太子(六世紀末〜七世紀初)が、西暦六〇七年に小野妹子を遣隋使として派遣したときの国書に、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
――とシナ皇帝の煬帝に述べて册封体制からの離脱宣言――すなわちアジアで最初の独立宣言――をし、不快にさせたというエピソードの出来た時点でその構想が明瞭になり、大化改新(七世紀中葉)のあたりで太陽の昇る所といった意味の《日本》が確立しはじめ、七世紀末の天武天皇・持統天皇のころの律令のなかに定められ、八世紀初頭には遣唐使によって唐の都に伝わったようである。
(法的に明確になったのは七〇一年の大宝令といわれる)
この《日本》の読みは、古来からの日本語では――つまり訓では――「ヒノモト」であり、伝統的には当て読みの「ヤマト」であるが、シナ人にも読んでほしいので音読みを採用して、しだいに「ニッポン/ニホン」となってきたのであろう。
なお当然のことだが、さらにずっと昔から日本という地名はあり、とくに大化改新の結果の都である難波地方に有ったらしい。
難波の都から見ると、その場所から太陽が昇るように見えることから、そういう地名がつけられた――と推理する学者もいる。
だから、そういうことにヒントを得て、《日本》という国名を考えたのかもしれない。
ではシナではどうだったかというと、ずっと「倭国」といっていたのだが、八世紀の初めに《日本》という名が伝えられてからしばらくしてそれを認め、そののち次第に《日本》と記すことが多くなり、十世紀ごろには定着したようである。
九世紀に撰述された「舊唐書、倭國日本傳」に、「日本國ハ倭國ノ別種ナリ。ソノ國日邊ニアルヲ以テ、故ニ日本ヲ以テ名トス。或イハ云フ、倭國自ラソノ名ノ雅ナラザルヲ悪ミ、改メテ日本トナスト。或イハ云フ、日本ハ舊小國、倭國ノ地ヲ併セタリト」とあり、また明代にできた「元史、外夷、日本傳」に、「日本國ハ東海ノ東ニ在リ。古ク倭奴國ト稱フ。或イハ云フ、其ノ舊名ヲ悪ム。故ニ名ヲ日本ト改ム。其ノ國ノ、日ノ出ヅル所ニ近キヲ以テナリ」とある。
シナ大陸や朝鮮半島から見て太陽が昇る方角だという意味も――聖徳太子の文面などからみて――あるだろうが、外国に対してそんな偉そうな事ばかりいっていたわけではない。
属国ではない、対等な国である――と主張し、毅然とした態度で、侮蔑的な意味の「倭国」という名称を改めさせたのである。
なお前記のシナ正史をみると、十世紀前後になってもなお、日本列島の地理的理解はあいまいであり、倭国を併せて大きくなったとか、東の海にあるとか、古くは倭奴国と呼ばれていたとか、誤解が大きいことがわかる。
こういう正史記事からも、「魏志倭人伝」時代のシナの歴史家が、日本列島について正確な地理的認識をもっていたとは、とても思えないのである。
本章のトビラ部分に記した山上憶良の歌は、遣唐使の一員として唐にわたり、西暦七〇四年に帰国した憶良が、唐の都で詠んだ有名な望郷歌だが、原文にも「早日本邊」と記されている。
「天皇」という尊称の制定とその歴史的意味 
さてここまで、《大和》や《日本》の由来を述べてきたが、《日本》という国名を自称するにいたった精神的自立はまた、「天皇」という日本独自の称号を生んだことも、記しておかねばならない。
昔のシナの周辺国の指導者は、「王」またはそれ以下の位であり、シナの皇帝のお墨付きをもらってそれを権威としてその地を支配する册封体制に組み込まれていた。
「王」とは皇帝にくらべてずっと低い称号である。
それは日本も同様であり、一世紀に倭奴国の王がもらった金印にも「漢委奴國王」とあるし、「魏志倭人伝」に記されている(卑彌呼)がもらった詔書にも、「親魏倭王」とある。
倭奴国の時代と《邪馬台国》の時代との間にも、何回か日本の西方の豪族がシナの皇帝に朝献して「王」というお墨付きを貰うことがあったらしい。
ところで、古代の日本国内における豪族(氏族)たちの貴人や首長の呼称は、前述した尊称を用いて「ヒコ」「キミ」「ミコト」などといっていたらしい。
そして大和一族の長の場合には、多くの豪族の中の特別な豪族の長という意味で、「キミ」の前に「大きい」をつけて「オオキミ」といったり、「ミコト」の前に「統べる」または尊敬語の「スメラ」をつけて、「スメラミコト」といったりしていたらしい。
これを漢字で書くと、「記紀」よりかなり前の時代ではやはり「王」であり、特例として「大王」である。
だから初期には豪族の長も大和一族の長もすべて「王」であり、大和朝廷の最高の位を「大王」と漢字で書くのは、五世紀ごろからといわれている。
しかし、日本列島の統一がすすみ、文化も向上し、シナの皇帝を中心としてその支配に甘んじる册封体制から独立しようという気概が漲ってきた六世紀以降、日本の指導層が、シナの皇帝のはるか下の位である「王」や「大王」という文字に満足できなくなったのは当然である。
そこで、シナの皇帝に匹敵する尊称は無いかといろいろ考えた末、七世紀に入るころから「天皇」という称号が登場してくるのだ。
さきの西暦六〇七年の国書にある「日出ずる処の天子・・・」の天子とは皇帝の尊称としての別名なので、日本の側が「天子」を用いたということは、日本の最高指導者はシナの最高指導者の皇帝と同じ地位であって下の身分ではない――という意味を具体化したものであり、すでにこの時に「天皇」という尊称の下地ができていたと考えられる。
「日本書紀」によると、聖徳太子の時代の何回かの外交交渉のなかに、西暦六〇八年の小野妹子の隋への派遣があるが、そのときの日本側の国書に、「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す」とあるので、この時代に天皇という尊称が登場したらしいと推測できる。
しかしもちろん「日本書紀」は八世紀初頭の書なので、これだけではほんとうの証明にはならない。
そこでさまざまな学説が出され、古い方の意見としては六世紀から七世紀にかけての推古天皇の時代(聖徳太子の時代)という説、もっと後だとの意見としては、七世紀後半の天武天皇や持統天皇の時代とする説がある。
さいきんは考古学の進展が著しく、その知見をもとにすると、どうやら推古天皇の御代の中頃に天皇という尊称がきまったらしい。
そしてその訓読みには、前記のような、「統率する尊」という意味を語源とする「スメラミコト」が用いられたのである。
「年号」の制定と日本人の気迫 
これに関連してもうひとつ強調すべきは、天皇という尊称の制定と同時期に、「年号」も日本独自に定めたことである。
その最初は、孝徳天皇のとき、その即位の西暦六四五年を元年とした「大化」であった。
有名な大化改新の年である。
以後平成の今日まで、日本独自の年号が続いている。
シナの年号を使用して年代を表現するのが普通だった当時のアジア諸国のなかで、わが国だけが年号もまた独立を宣言したのだ。これら、
 《日本》という高貴な国名の決定
 「天皇」というシナの皇帝に並ぶ称号の決定
 「年号」をシナに合わせるのではなく日本独自の制定
――は、たとえれば、アメリカ合衆国がイギリスから独立し、インドネシアがオランダから独立したのと同じくらいの、日本国の独立運動だったのである。
そして、東アジアの国々のなかで、このようなシナの権威からの独立を果たしたのは、近代にいたるまで、日本のみだったことも、再度強調しておきたい。
朝鮮半島の王権なども、ずっとあとの時代まで「王」と称して、けっして「皇帝」とならぶ称号はつけていない。
「朝鮮」という国名すらシナ(明朝)につけてもらったもので、清朝時代の朝鮮の国旗には「大清国属」と書かれていた。
(新羅は古い国だが、初期の支配者は「王」とも言っていない)
つまりシナの皇帝のはるか下位に甘んじていたのだ。
明治になって近代国家としての体制をつくった一環として、国旗と国歌の制定があるが、これについては、平成十一年の「国旗・国歌法」の施行に伴って数多くの解説書が出されたので、ここでは省略する。いずれも誇るべき古い歴史をもっている。 
5-5 「魏志倭人伝」の信憑性についての結論

 

この節では、前節までの知識を背景にして、第四章に記した「魏志倭人伝」の信憑性についての検討結果を、補足し整理してみることにしよう。
まず第四章の結論をまとめてみる。
[一]又聞きの信憑性(第4-1節)
「熱意不明の使者が実力不明の通訳を介して聞いた記録の又聞きや書写という文献に、どれほどの信憑性があるのか?」
[二]地理的な信憑性(第4-2節)
「不正確な地理的知識を元にして書かれた文献に、どれほどの信憑性があるのか?」
[三]シナ正史自体の信憑性(第4-3節)
「周辺国については伝統的に侮蔑的で間違いの多い正史を書くシナの古い史書中のごく短い文献に、どれほどの信憑性があるのか?」
この三つによって、もし「古事記」や「日本書紀」を一級の史料だとすれば、「魏志倭人伝」とは二級三級の史料にすぎない――という樋口清之らと同じ結論が導かれる。
「古事記」や「日本書紀」、およびこれら「記紀」のもとになったといわれるいくつかの古い日本の史書は、量的に圧倒的であるだけではなく、古代日本人の「心」が感じられ、またじつに生き生きとした「人間模様」が感じられる。
四百年のひらきがあるとはいえ、多くの日本人が伝承し口伝してきた記録の集大成であり、その迫真力は「魏志倭人伝」の比ではない。
またそこにある固有名詞は現在の日本地図の位置関係やいまに残る地名や神社名とよく一致しているし、記述も考古学の成果と合致することが多い。
もちろん、そうかといって著者は、「魏志倭人伝」を無視すべきだ――と主張するわけではない。
それは、つぎの四つの理由によっている。
(一)年代の信憑性
「シナの正史における他国の記述の信憑性は薄いが、自国に朝貢に来た使者や他国に派遣した使者についての、年号で記した年代は、比較的信用がおけるし、年号と西暦の換算も信憑性がある」
(二)女王の存在感
「女王の記述に奇妙な存在感がある。とくに男王と対比させているので、当時の日本に女性の権力者がいたのは確からしく思われる」
(三)作為の必要性の無さ
「侮蔑的な表現がされているし記述も数値もあいまいだが、当時のシナにとって日本は、今とはちがって競争相手ではなかったから、ことさら事実とちがう日本像を創作する必要性もなかった」
(四)唯一の外国文献
「三世紀ごろの日本について書かれた、現存する唯一の外国文献なので、信憑性の有無は別にして、無視することはできない」
したがって著者としては、「魏志倭人伝」は、[一]〜[三]の理由によってB級史料にすぎないが、そうかといって(一)〜(四)の理由により、無視すべきでもない――と考える。
それは、「古事記」や「日本書紀」を補足するいくつかの――「古語拾遺」「先代旧事本紀」「風土記」「万葉集」などの――史料の一つとして頭に入れておくべきであろう。
だから大切な事は、「魏志倭人伝」の数値や事項自体のことこまかな詮索ではなく、「記紀」の類や古い神社や古い地名や古い伝承などにある古代日本人の「心」と、考古学的研究とを結びつけ、その成果によって「魏志倭人伝」を解釈することであろう。
そしてそれには、科学技術に詳しい人材を大量に投入しなければならない――と思う。
ハイテクを駆使した科学技術的感性に基づく研究こそが、推古天皇以前の神話的な時代の真相に近づく、最善の方法ではないだろうか?
付言するが、以上のように考えてくると、現行の多くの歴史教科書における「記紀」と「魏志倭人伝」の扱いは本末転倒であり、とても奇妙なものに思える。 
 
第六章 天照大神説の検討

 

天の戸の あくる光も のどかにて 神代かわらぬ はるは来にけり
〔桃園天皇御製〕
天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に
八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神計り
はかりし時に 天照らす 日女の尊・・・
〔柿本人麻呂(万葉集167)〕
「天地がはじめて出来て多くの神々が集まって相談なさったとき、天照大神は・・・。(日女の尊という表現に注意)」
ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 岳に天降りし
皇祖の 神の御代より 梔弓を 手握り持たし
真鹿児矢を 手挟み添えて・・・
〔大伴家持(万葉集4465)〕
「わが大伴一族は天の岩屋を開いて高千穂の峰に天降られた皇祖瓊瓊杵尊の時代から、梔の木の弓を手に握り、鹿を射る矢を手に挟んで添えて・・・。(神武前から大和朝廷につかえてきた誇りを持てと、大伴一族を励ました歌)」 
6-1 天照大神と「天の岩屋」
 神代の物語(1) 天地開闢から天の岩屋まで

 

教科書が教えない日本神話 
いよいよこの章から、第二章で略述した(卑彌呼)の正体についてのいくつかの意見を、くわしく説明することにする。
本章の対象は、第2-1節で記した「(天照大神)説」である。
一般に、「(卑彌呼)=(天照大神)説」は、「《邪馬台国》九州説」と結びついており、それはまた神武東征神話とも結びつくことが多い。
ロマンにあふれた説であり、たいへんポピュラーである。
大量に自費出版されているアマチュア研究者の主張も多くはこの説になっているし、この説にもとづく小説もたくさんある。
(天照大神)説について考えるには、とにもかくにも(天照大神)の神話や神武天皇の東征伝説の概要を知らねばならないが、いまは学校でほとんど教えなくなったらしい。
アメリカの義務教育の教科書には、日本神話が、日本の教科書よりもくわしく書かれており、天孫降臨、神武東征、「三種の神器」などもちゃんと載っているといわれる。
こういうことだといまに、日本の若者がアメリカの若者に日本神話を教えてもらうという情けない時代が来てしまうであろう。
――というわけで、まず「日本書紀」をたどる形で、神武天皇即位までの日本神話の概要を記してみよう。
ただし神話の解釈については、議論が多すぎるし、頁も超過してしまうので、ここでは(卑彌呼)問題に直接関係する事項にかぎることにする。
また「日本書紀」は主文のほかに「一書に曰く」として、多くの異説や補足を記している。また「古事記」の方がくわしい部分もある。
以下では、「日本書紀」の主文を主としながら、それ以外の補足も随時記すことにする。
文中「一書では」という注書きは、「日本書紀」のなかの異説や補足のことである。
天地開闢と神世七代
世界の初めは陰陽も天地もない混沌とした状態だったが、澄んで明るい部分が天となり、重い部分が地となった。
その天地のなかに、
  國常立尊(くにのとこたち)
  國狹槌尊(くにのさつち)
  豐斟渟尊(とよくむぬ)
――という三柱の男神が生まれた。
(第二章に記したように読みのミコトは略す)
そのあと、以下の四組八柱の男女の神々が生まれた。
  泥土煮尊(うひじに)・沙土煮尊(すひじに)
  大戸之道尊(おおとのじ)・大苫邊尊(おおとまべ)
  面足尊(おもだる)・惶根尊(かしこね)
  伊弉諾尊(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみ)
國常立尊からここまでを神世七代という。
「古事記」では、この神世七代のさらに前に、
  天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
  高皇産靈神(たかみむすびのかみ)
  神皇産靈神(かみむすびのかみ)
  宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)
  天之常立神(あめのとこたちのかみ)
――の五柱の神がいたが、すぐに身を隠したとされている。
(ここまでの神々については「古事記」と「日本書紀」で少しだけ違っている)
初めての結婚と国土の誕生
天と地を結ぶ天浮橋の上に伊弉諾尊と伊弉冉尊が立って、矛で下界の海を探ると、その矛から落ちた潮が固まってオノコロジマという島になった。
その島に降り立った二神は、そこにある大きな神聖な柱をまわって結婚し、日本列島を生んだ。
巨大な柱は古くから神が宿るとされ、神社の鳥居の源といわれている。
いまでも古い神社には横柱のない二本の柱に注連縄をはっただけの鳥居があるし、また諏訪大社のように御柱祭がなされる神社もある。
(著者の家の近くには二本の巨大な杉が鳥居になっている神社がある)
伊弉諾尊・伊弉冉尊がこのとき生んだ島は八つだったので日本列島を大八洲という。
これは日本が数多くの島から成っていることを、古代のひとたちがすでに知っていたことをあらわしている。
つぎに二神は、海・川・山・木・草などを生んだ。
(天照大神)の誕生
伊弉諾尊・伊弉冉尊はつぎに、(日神)を生んだ。
これを(大日靈女貴)といい、一書では(天照大神)といい、さらに一書では(天照大日靈女尊)といい、さらに「古事記」では(天照大御神)とも書いて尊称しているが、この御子は明るく美しく、天地の隅々までが輝いた。
太陽神の誕生である。
喜んだ二神は、この御子を天に送った。
つぎに月神を生んだ。一書では月弓尊、月夜見尊などと尊称している。
つぎに素戔嗚尊(すさのお)を生んだが、この尊は勇ましく強く過酷で泣くことを仕事にしていた。そのため国土が荒れてしまった。
そこで伊弉諾尊と伊弉冉尊は、「遠く根の国に行きなさい」と、追放なさった。
根の国とは、地底の異境とされる。
(天照大神)と素戔嗚尊の軋轢
素戔嗚尊は根の国に行く前に高天原の姉に会いたいといって、海を揺り動かし山を鳴り響かせて、荒々しい態度で天に昇った。
高天原とは、(天照大神)が統率する天の世界で、この神話が史実の反映だとすれば、九州の一部――たぶん北部――ではないかとされている。
(天照大神)は武装してむかえて――天の川を挟んで――詰問し、それに応えて素戔嗚尊は、邪心のない証拠を示すために、誓約をして子を産むことにしようと提案した。
そこで(天照大神)は素戔嗚尊の剣をかみ砕いて吹き捨てて、三柱の女神を生んだ。
この女神たちは九州の筑紫に祀られて、朝鮮に渡る人たちの守護神となった。有名な宗像大社の祭神などである。
素戔嗚尊は(天照大神)が身につけていた宝玉(瓊)をかみ砕いて五柱の男神を生んだ。
この男神たちは、出雲・河内・山代などの豪族の祖、また葬儀や造墳を役目とする土師連の祖、とされている。
そして(天照大神)は提案して、女神と男神を交換する。なにやら暗示的な交換である。
「天の岩屋」事件
軋轢が解けたようにみえたが、素戔嗚尊は高天原に留まったまま乱暴を続け、田畑や御殿を荒らしまわった末、(天照大神)が機織りをしているときに、馬の皮を剥いで投げ込んだ。
(天照大神)は驚いて機織りの梭(ひ/横糸を通す道具)で身体を突いて怪我をしてしまった。
一書では(天照大神)の妹の稚日女尊(わかひるめ)がこういうめにあって死んでしまうし、また「古事記」では機織の姫が梭で陰部を突いて死んでしまうことになっている。
尖ったもので高貴な女性が下腹部を突かれて死んでしまうこの話は、(卑彌呼)の死と関係が深いという説もある。
(卑彌呼)の有力候補の一人である(倭迹迹日百襲姫命)の死に方ととても似ているのである。
さて(天照大神)は立腹して天の岩屋(天石窟)に隠れて、岩戸を閉じてしまう。そのため国中が闇となり昼がなくなってしまった。
困った神々は天の川に集まって相談して、智慧のある神がつぎの作戦をたてて実行した。
不老長寿の国の鶏を集めて長鳴きをさせた。
力のある手力雄神(たちからおのかみ)を岩戸のそばに隠れさせた。
祭祀担当氏族の中臣連の先祖(藤原氏の先祖)や祭祀実務担当氏族の忌部の先祖が天香具山の聖木・榊を抜いてきて、その上の枝に八坂瓊(やさかに)の五百箇御統(いおつみすまる/大きな勾玉をたくさん連ねた飾りで後の三種の神器のひとつだが、別の見解もある)をかけ、中間の枝に八咫鏡(やたのかがみ/大きな銅鏡で後の三種の神器のひとつ)をかけ、そして下の枝に御幣の一種の青和幣(あおにきて)・白和幣(しろにきて)をかけて、全員で祈った。
勾玉をつくったのは玉作部の先祖であり、鏡をつくったのは鏡作部の先祖であり、そして和幣をつくったのは忌部の先祖である――とされている。
(注 このときの、榊に勾玉と鏡をかけた神木の模型は、一般の家庭でも見ることができる。神棚にかならずそなえられている向かって右側の真榊がそれである。左側の真榊には剣がかけられているが、これは素戔嗚尊が出雲で発見した「神剣」である)
それから鎮魂の舞楽に奉仕する猿女君の先祖の天鈿女命(あまのうずめ)が巧みに演技し、神憑りになって踊りくるった。
この騒ぎを聞いて、岩屋のなかの(天照大神)は、自分が隠れて世が暗くなったのに、どうして喜んでいるのかと不思議に思って、岩戸をすこしだけ開けて外をうかがった。
そのとき手力雄神はすぐに岩戸をこじあけて(天照大神)の手をとってそとにお出しし、ついで中臣と忌部が注連縄(しめなわ)をはって境界をつくり、二度と入らないで下さい――と請い願った。
そして神々は素戔嗚尊から賠償を徴収し、高天原から追放した。 
6-2 出雲の国譲りと天孫降臨
 神代の物語(2) 八岐大蛇から神武天皇御降誕まで

 

八岐大蛇と天叢雲剣
素戔嗚尊(すさのお)が高天原から追放されて出雲国に降りてみたところ、老夫婦が奇稻田姫(くしいなだひめ)という名の娘を間にして泣いていた。
たずねると、八つの頭と八つの尾を持つ八岐大蛇(やまたのおろち)が娘をつぎつぎに飲み込み、のこるこの娘もまもなく食べられたしまうと訴えた。
素戔嗚尊は酒を大蛇に飲ませ、酔って眠ったところを自慢の十握剣(とつかつるぎ/握り拳が十個の寸法=大きな剣)で寸断した。
そのとき尾を切ろうとすると剣の刃がすこしかけてしまった。
割いてみるとそこに立派な剣があった。
これが天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)で、のちに日本武尊(やまとたける)が使って草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになり、現在は名古屋の熱田神宮に御祭神として奉斎されている神剣である。
古代の剣は諸刃の直刀で、刃の部分の形状は鉾とあまりかわらない。
材質はかなり古くから鉄が使われていたが、銅製の可能性もある。
素戔嗚尊は「これは霊剣だ」として、(天照大神)に献上した。
これが「三種の神器」の最後のひとつである。
それから素戔嗚尊は助けた娘の奇稻田姫と結婚するための宮殿を、出雲の清々しい場所――現在の島根県大原郡大東町須賀(清々しいので須賀という)――に建てて、第一章のトビラにも掲載したつぎの歌を詠んだ。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
これは短歌の先祖とされる有名な歌だが、素戔嗚尊のような乱暴者がこういう優美な歌をつくるのが、日本神話の真骨頂である。
奇稻田姫という名は、神聖な稲田という意味である。
また八岐大蛇とは、一説では、河川の氾濫であり、したがってこの説話は、稲田が河川の氾濫によって崩壊するのを、水利工事の知識によって救った史実をあらわしている――とされている。
興味ぶかいのは、のちの第十二代景行天皇の皇子の英雄・日本武尊が、この同じ剣を借り受けて東国に遠征した説話もまた、稲作技術の伝播をあらわす――といわれていることである。
さて、こうしてめでたく奇稻田姫と結婚した素戔嗚尊は、御子(大己貴神(おおなむちのかみ))をおつくりになった。
そして宮殿の管理者を定めて、ご自身は約束通り根の国に去っていかれた。
この(大己貴神)は、「日本書紀」の本文では、のちの(大國主神(おおくにぬしのかみ))の親または先祖であるが、「日本書紀」中の一書や「古事記」では六代目の子孫で(大國主神)と同一神ということになっている。
(大己貴神)とは土地の偉大な貴い神といった意味であり、(大國主神)とは国の偉大な首長という意味なので、ほぼ同じ含意の神名である。
したがって同一神(または同一の豪族)としてさしつかえないであろう。
「日本書紀」のこの部分には、朝鮮に行って戻ってくる話や《大和》の《三輪山》の(大物主神(おおものぬし))との関係など、いくつもの長い異説が載せられていて、それぞれ興味ぶかいのだが、ここでは割愛する。
(大物主神)との関係については、(倭迹迹日百襲姫命)についての章で説明する。
「古事記」のこの部分には、有名な因幡の白兎の説話などがあるが、それも割愛する。
出雲の国譲り
いっぽう高天原の(天照大神)は、素戔嗚尊との対決のなかで、尊が大神の宝玉を砕いて生んだ男神五柱をご自身の御子にしたのだが、その長男である天忍穗耳尊(あまのおしほみみ)が高皇産靈尊(たかみむすび)の姫と結婚して、瓊瓊杵尊(ににぎ)を生んだ。
高皇産靈(*1)とは、高所から降臨する神聖な生成靈力の意味で、「日本書紀」本文ではここでとつぜん出てくるのだが、「古事記」では、前記のように、世界誕生の最初期からおられる神である。つまり神世七代の前の神である。
この高皇産靈尊は瓊瓊杵尊を寵愛して、葦原中国(あしはらのなかつくに)――字義どおりには葦の原のなかの国だが、ここでは天と地底の間の国の意味でつまりは日本の大地――の王にしようとしていたが、土地がたいへん乱れている様子なので、平定するために、男神五柱の二番目の天穗日命(あまのほひ)を派遣した。
ところがこの神は出雲の(大己貴神)に籠絡されて報告もせず戻ってこなかった。
またそのあと、何柱もの神を送ったが、うまくいかなかった。
そこでさらに高皇産靈尊は神々と相談して、剛勇できこえる經津主神(ふつぬしのかみ)に武甕槌神(たけみかづちのかみ)をつき添わせて葦原中国に派遣した。
この二神は、(大己貴神)のいる出雲に出向いて、剣の切っ先の上にあぐらをかくという凄い迫力で談判したところ、(大己貴神)は息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)――物事を代替語で宣言する託宣の神――と相談して、自分たちの国を高天原に譲ることを承諾した。
そして(大己貴神)は遠方に隠れることにし、息子の事代主神は海中に隠れた。
經津主神と武甕槌神の二神は抵抗する残党を制圧して、高天原に戻った。
これが「日本書紀」にある出雲の国譲りの神話であるが、一書ではこのとき、高皇産靈尊が(大己貴神)に、国を譲ってもらうかわりに天上界と同様な巨大な宮殿を造ってあげようと約束し、(大己貴神)は今後は軍事や行政から離れて神事を担当します――と答えている。
これが出雲大社の創建説話である。
出雲大社はいまでも高く大きいが、昔はさらに巨大だったらしく、太い柱の遺跡などが発見されている。
平安時代の記録では、東大寺を上まわる高層ビルなみの十六丈(48m)もあったとされている。
この高さは信じがたいとする歴史家も多かったが、最近になって発掘された遺跡から、どうやら本当だったらしい――と推理されるようになった(*2)。
現在の出雲大社も八丈(24m)の高さを誇り、数多い神社のなかでも最高である。
(*1 この神名は「高霊」の間に「皇産」が挟まれている。これを強引に解釈して、韓国の高霊郡で天皇の先祖が産まれた――として記念公園を作ったりするのが韓国の反日家たちである。牽強付会の極致である)
(*2 著者も先年拝観してきたが、とてつもない大きさであり、48mも嘘ではないように思われる)
「古事記」では、出雲平定に派遣された二神に命令する主体は高皇産靈尊とともに(天照大神)であり、国を譲った(大己貴神)は(大國主神)となっていて、上記の他にも面白いエピソードが多く記されている。
たとえば、事代主神が帰服したあと、弟で勇猛な建御名方神(たけみなかたのかみ)が反抗したがやはり負けてしまって、諏訪湖まで落ち延び、有名な諏訪大社の祭神となった。
これは北陸から長野県にかけて、山陰地方とおなじく古代出雲一族の勢力が強かったことと関連しているらしい。
一般に日本の神社の祭神には、大和朝廷に反抗したがかなわなかったり悲劇に終わったりした一族の神――出雲系やのちに記す(饒速日命(にぎはやひ))や日本武尊など――がとても多く、朝廷側の神よりも多いくらいである。
これは大和朝廷の巧みな融和策――権力を持たせないかわりに名誉を与える策――でもあったろうし、また日本人の心理にある判官贔屓でもあったのだろう。
天孫降臨
こうして(大己貴神)らが出雲の隅(神殿)に隠れたので、高皇産靈尊は瓊瓊杵尊(ににぎ)を葦原中国に降臨させることにした。
瓊瓊杵尊は(天照大神)の孫にあたるので、天神の孫が降り立つという意味で、これを「天孫降臨(てんそんこうりん)」と呼んでいる。
瓊瓊杵尊は、天上の御座を押し離し、天の優れた道を選んで進み(図6・1)、日向の高千穂の峰に降りられた。
そしてその峰から天浮橋という巨大な橋を伝って平地におり、そこから豊かな土地を求めて歩いて、笠狭(かささ)の岬に到着された。
一書や「古事記」では、このとき猿田彦神(さるたひこのかみ)という異形の神が出迎えて案内した話や、(天照大神)が「三種の神器」を瓊瓊杵尊に授けて「鏡は自分の御魂だと思って祀るように」と述べた話や、また瓊瓊杵尊に付き添う武将として大伴一族の先祖神がいた話・・・などが記されている。
本章のトビラにある大伴家持の長歌は、大伴一族に苦難があったときに、この故事をひいて一族を諭し励ました一種の檄文である。
さて(卑彌呼)との関連でいうと、場所が問題になる。
まず日向であるが、むかしの日向は今とは違っていてずっと広く、宮崎県と鹿児島県一帯、つまり九州南部の全体を指していたらしい。
日向はいまは「ヒュウガ」と読むが、元来は「ヒムカ」であり、東(ヒムガシ)のもとになった言葉で、太陽に関係する方角を示す地名だったらしい。
その日向の高千穂の峰であるが、現在まで高千穂という地名が残っている場所は九州に二箇所で、図6・2に示したように、宮崎県の北部と、宮崎・鹿児島の県境にある。
このうち県境の霧島山の高千穂の峰が、有力とされている。
つぎに、ここから歩いて探した良い場所の笠狭であるが、これは薩摩半島の野間岬だとされている。
奈良時代に唐から帰化した鑑眞和尚が漂着した場所でもある。
ずいぶん端の方まで行ったものだが、薩南諸島や南西諸島・台湾を経て大陸とつながるので、海洋漁労や技術の伝搬に関係するのかもしれない。
さらに高千穂の峰に来たときの出発点であるが、もし(天照大神)が(卑彌呼)の史実を反映しているとすれば、そこが《邪馬台国》である可能性もあるので重要なのだが、だとすれば、前述した二箇所の《山門》であろう。ただし、高天原を《邪馬台国》に比定するのが妥当かどうかは、かなり疑問である。
木花之開耶姫と海幸彦・山幸彦
野間岬についた瓊瓊杵尊は、そこで見そめた鹿葦津姫(かしつひめ)――またの名を木花之開耶姫(このはなさくやひめ)で天の神と山の精霊との娘――と結婚し、
   火闌降命(ほのすそり/海幸彦)
   彦火火出見尊(ひこほほでみ/山幸彦)
   火明命(ほのあかり/饒速日命)
――という三柱の神を生んだ。
長男の火闌降命は海の幸を得る霊力をもっていたので海幸彦と呼ばれ、二男の彦火火出見尊は山の幸を得る霊力をもっていたので山幸彦と呼ばれた。
三男の火明命は別名を(饒速日命)といって、古代の謎を秘めた神であり、神武天皇より先に《大和》を制覇していたとの伝承がある。
またこの神は瓊瓊杵尊の兄弟――つまり一代上――だったとの説もある。
さて、あるとき兄の海幸彦と弟の山幸彦が相談して、自分たちの霊力(道具)を交換してみようということになった。
しかしうまくいかなかったので、もとに戻すことにしたが、弟が預かった釣り針が無くなってしまっていた。
兄がそのことを責め立てたので、弟は老翁の助けで海中にある海神の宮殿に行って、魚の口に入っていた釣り針を見つけた。
そしてそこに留まって、海神の娘の豐玉姫(とよたまひめ)と結婚した。
やがて望郷の念が増して、陸に帰ることになったが、豐玉姫は身ごもっていたので、妹の玉依姫(たまよりひめ)をつれて海中から海辺に出て、そこでお産をすることになった。
陸に戻った弟は海神に教えられた方法で兄を懲らしめて降参させたが、豐玉姫のお産のとき、姫との約束を破って産屋をのぞいてしまった。
そこにいたのは龍の姿の姫だったが、見られた姫はひどく恥じて、産んだ御子を置いて海中に帰ってしまった。
この海幸山幸の物語にはいろいろな解釈があり、人生訓話にもなっているのだが、九州南部を勢力圏として大和朝廷に逆らっていた隼人族(はやとぞく)との抗争が一部に反映している――との説がある。
さて、山幸彦と結婚した豐玉姫が産んだ御子は、やはり貴人であり、鵜草葺不合尊(うがやふきあえず)といわれた。
この御子は、母の妹の玉依姫と結婚して、
   彦五瀬命(ひこいつせ/尊称の彦が頭についている点に注意)
   稻飯命(いない)
   三毛入野命(みけいりの)
――をお生みになり、ついで、
   神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)
   {狭野尊/彦火火出見尊}
――をお生みになった。
この四柱の神は、いずれも男神である。
この最後の尊こそ大和朝廷の初代、神武天皇なのだが、幼名を狭野尊(さの)、実名を彦火火出見尊(ひこほほでみ/祖父にあたる山幸彦と同名)とされている。神日本磐余彦尊はもちろん、後でつけられた尊称である。 
6-3 初代 神武天皇の東征物語
 第一代(初代) 神武天皇の物語(1) 難波での苦戦と熊野まわり

 

国風謚号 神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)
(尊称 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと))
漢風謚号 神武天皇(じんむてんのう)
〔在位・西暦前六六〇年〜前五八五年〕
〔降誕・西暦前七二一年/崩御・西暦前五八五年〕(*1)
〔皇宮・畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや/奈良県橿原市畝傍町)〕
〔御陵・畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ/奈良県橿原市大久保町)〕
(*1 史実を反映しているとした場合、推定実崩年は崇神天皇から遡って西暦1世紀ごろか)
神武天皇、いよいよ《大和》へ向けて出陣
瓊瓊杵尊の曾孫にあたる(神日本磐余彦尊)は四男で末子だったが、古代には末子相続の習慣があったらしく、十五歳で皇太子になり、父の崩御後は日向の王になっていた。
四十五歳のとき、「西の地は治まったが、遠方では国々が境をつくって争っている。平定しなければならない」として、どこへ進出すべきかを相談したところ、老翁が、「東方に四方を青い山で囲まれた美しい土地(*1)があります。そこへ天磐船(あまのいわふね)に乗って降臨した者がおります」と答えた。
(磐余彦尊)(*2)は、「それは(饒速日命(にぎはやひ))であろう。そこへ遠征しよう」(*3)といって、諸皇子をひきい、三人の兄とともに水軍を組織し、争う国々を統一するための東征の途についた。
(*1 《大和》のこと)
(*2 ここでは即位前の神武天皇を(磐余彦尊(いわれひこ))と記すことにする)
(*3 出発の前から大叔父にあたる(饒速日命)の大和支配を知っていたことになる)
こうして、(饒速日命)と(磐余彦尊=神武天皇)との、《大和》をめぐる覇権争いが始まる。
(磐余彦尊)一行は、途中いろいろな事はあったが、とくに困難はなく、吉備の国まで着いた。いまの岡山県である。
ここに三年ほど滞在して船や武器や食糧を調達し、浪速(難波)の湾に入り、河内国の草香邑(くさかのむら/東大阪市の日下あたり)に達して上陸した。日下というと、大阪府と奈良県の境の生駒山地のすぐそばだが、前記のように汽水湖が深く入り込んでいたので、古代にはこのあたりまで船で行けたのである。
長髄彦との戦い
(磐余彦尊)はそこから陸路を東に進んで生駒山地を越えようとしたが、そこで長髄彦(ながすねひこ)の激しい抵抗にあった。
生駒越えの場所は、上陸地点のすぐそばで、現在の近鉄奈良線のトンネルの東大阪市側にあたり、物部氏の本拠のひとつとされる石切町の石切神社の近くだったらしい。
図5・2でいうと、左上枠外の「生駒」という文字のすぐ右のあたりである(図5・1も参照されたい)。
長髄彦はこの地に古くから勢力をもっていた物部一族の先祖――つまり(饒速日命)一族――だから、抵抗するのは当然のことで、(磐余彦尊)の軍勢は大苦戦となった。
そこで秘策をめぐらし、「日神の子孫でありながら、太陽に向かって戦っているのはまずい。いったん下がって太陽を背にして戦うことにしよう」と、紀伊半島に沿って船で南下をはじめた。
熊野まわりの作戦
竃山(かまやま)まできたとき、長兄の彦五瀬命は、長髄彦軍の流れ矢でうけた傷が悪化して、亡くなられ、この場所に葬られた。
竃山はいまの和歌山市であり、彦五瀬命を祀る神社がのこされている。
この近くで名草戸畔(なぐさとべ)という者を討ち、紀伊半島を廻って熊野に至り、今の新宮市のあたりの海路を進んだ。
そのとき、暴風に遭遇して、船は大揺れとなった。
すると次兄の稻飯命とつぎの三毛入野命は、「母は海神の娘なのに、どうしてこんな目に遭うのか」といって、海に入ってしまった。
稻飯命は鮫の神となり、三毛入野命は常世国(遠い不老国)に行かれた。
結局、三柱の兄神はすべて薨去されてしまったことになる。
兄たちを失った(磐余彦尊)は、皇子の手研耳尊(たぎしみみ)と二人で軍勢をひきいて、熊野の荒坂津(あらさかのつ/三重県の度会郡のあたりらしい/図6・3参照)に上陸し、ここで丹敷戸畔(にしきとべ)という者を討ったが、そのとき軍勢は毒気にあたってみな倒れてしまった。危機の連続である。
(天照大神)の助け1
〔霊剣と八咫烏で救われる〕
このとき、(天照大神)は布都御魂(ふつのみたま)という霊剣を天から授けられた。すると全員が眠りから醒め、元気になった。この霊剣は、伝えられるところでは、先に經津主神と武甕槌神が出雲の(大己貴神)に国譲りを迫ったときに、その切っ先の上に乗ったという、有名な剣である。
この霊剣の「日本書紀」での名は難しい文字(師の偏を音にかえた文字に霊)なので「古事記」にしたがったが、のちに物部一族に恩賞として与えられ、天理市にある《石上神宮(いそのかみじんぐう)》に奉納されて祭神となった。
そして、戦乱の世の略奪から守るために拝殿後方の禁足地に埋められていたのを、明治になって発掘し、あらためて社殿を建てて奉祭した。
もちろん学問的な同定は不可能だが、神話のなかの剣や鏡や神社が現存していて、今でも神話の神々の子孫が拝んでいるという事実は、日本の歴史の、世界でも稀な長期継続性を示している。
この霊剣で助けられた一行は山中を進もうとしたが、険阻で道もわからない。
そこでまた天の(天照大神)が助けを出して、道案内の八咫烏(やたがらす)を遣わした。
八咫の咫とは親指と人差指を拡げた長さで、二十センチ弱だから、八咫は1m以上となる。
「古事記」では八咫烏だが「日本書紀」では頭八咫烏のなっていて、羽の長さではなく頭の大きさが八咫とされている。超巨大な烏である。
もちろんこれは一種の修辞で、大きくて立派という意味であろう。
一般には、天地の初めの神のお一人である神皇産靈神の孫の賀茂建角身命(かもたけつぬみ)の化身または称号とされており、その孫が、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかずち)となっていて、賀茂県主(かものあがたぬし)の祖とされている。
また熊野にある熊野神社の神事にも、日神祭祀のトーテムとして登場するし、八咫烏神社という神社もある。
八咫烏神社の由緒譚では、賀茂県主の祖が黒い衣装を着て木から木へと飛び移りながら一行を案内したので、(磐余彦尊)が「まるで大きな烏のようだ」と言われ、そこから出来た称号だとされている。
熊野神社を根城とする熊野一族は、物部一族などとならんで(饒速日命)の子孫――つまり(天照大神)の子孫――のひとつとされ、独自の文化をもった豪族である。
八咫烏の道案内は、この熊野一族が早期に大和朝廷に帰順したことを示しているともされる。
そのほかいろいろな説があるが、とにかく天皇の配下につけられた綽名の一種とするのが、昔からの解釈らしい。
この八咫烏に導かれて、天孫降臨以来の直参豪族である大伴氏の先祖たちが先頭にたって険しい山道を進み、ついに兎田(うだ)に達した。
兎田はいまの宇陀郡で、図5・2の右下に記入してある。奈良盆地の南端部に近い山地である。
ようやくにして(磐余彦尊)一行は、太陽を背にする南東の側から、《大和》にたどりついたのだ。 
6-4 饒速日命の帰順と狭井川の恋歌
 第一代(初代) 神武天皇の物語(2) 苦戦を制して大和進出に成功

 

(天照大神)の助け2
〔天香具山の土で救われる〕
兎田の首領は兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)だったが、兄猾の悪巧みを弟猾が知らせたので、無事にすんだ。
そのあと(磐余彦尊)は隣接する吉野の地を視察し、井戸の中に棲んで光った身体で尾のある井光(いひか)や岩の中にいた尾のある磐排別(いわおしわく)を帰順させた。
また阿太(あた)という地方にも行った。ここは現在の五條市の東部で、図5・2の左下の枠外にある。
それから兎田に戻って高倉山(宇陀郡にある山)の上から《大和》を眺めると、国見丘には八十梟帥(やそたける)の軍がおり、磐余(いわれ)には兄磯城(えしき)の軍がおり、また弟猾の知らせで、磯城には磯城八十梟帥が、高尾張には赤銅八十梟帥がいて、容易なことでは《大和》に進出できないことが分かった。
ここで八十梟帥とはたくさんの武人といった意味である。
国見丘は高倉山と桜井市の間にある山、高尾張も地名で、図5・2の左下の葛城地方(金剛山地の東側の御所市やその南北の広い地域)らしい。
兄磯城は磯城の首領という意味で、磯城から磐余に出て陣地を張ったのであろう。
悩んだ(磐余彦尊)が祈ると、また(天照大神)が夢に現れて、「天香具山の土を取って土器の皿や酒瓶を作って祈りなさい」といわれた。
そこで、九州の豊予海峡で味方につけていた椎根津彦(しいねつひこ)を老夫に化けさせ、兎田で帰順させた弟猾を老婆に化けさせて香具山に派遣した。
二人は敵軍のなかを怪しまれずに進み、ぶじ香具山の土を持って帰った。
この土で土器を作って兎田を流れる川(たぶん図5・2の右下の枠外を流れる宇陀川)で天神地祇――すべての神々――に祈ると、いろいろな奇跡があらわれた。
(磐余彦尊)は喜び、榊を立ててさらに諸神に祈った。
これが、土器の皿や瓶に供物や御神酒を盛って祈る「神社神事のはじまり」とされる。
この神事をすませた(磐余彦尊)は、必勝の勢いで国見丘の八十梟帥を討った。
このあたり、討伐のたびに、久米歌といわれる歌が、大伴氏一族にひきいられた久米部という一族の人たちによって謡われている。
久米歌は現在でも宮内庁楽師が雅楽として演奏している。
まだ残党がいたが、大伴氏の先祖たちが、酒を飲ませて酔ったところを退治した。
(天照大神)の助け3
〔再度、八咫烏の救援〕
こうして(磐余彦尊)の軍勢は、いよいよ磐余地方に迫った。図5・3の右下部分に到着し、楕円で描いた磐余の地を目前にしたのだ。磐余には兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)という首領がおり、彼らが八十梟帥たちを配下にしていたのだが、強敵であり従おうとはしなかったので、八咫烏に頼んで、空から帰順を呼びかけてもらった。
すると、兄磯城は烏が不吉な声で鳴いている――と怒って矢を射た。
八咫烏は逃げて、弟磯城の上で呼びかけたところ、弟磯城は恐れ畏んで、八咫烏に料理をふるまい、(磐余彦尊)に帰順した(*1)。
兄磯城はあくまでも逆らったが、(磐余彦尊)の軍は二手に分かれる作戦をたてて猛攻し、兵が疲労すると(磐余彦尊)が歌をつくって励ますなど、日本神話独特の歌の力を加味して、ついに兄磯城を平らげ、待望の磐余や磯城の地に進出することができた。
(*1 この(八咫烏)のエピソードも、(八咫烏)が紀伊半島または《大和》の近くの豪族であった事を示唆している)
神武天皇の実名は彦火火出見尊だが、国風謚号の(磐余彦尊)に磐余(いわれ)地方の名が入っているのは、この磐余や磯城での戦いを記念したからかもしれないし、磐余が大和朝廷にとって「重要な土地」だったからかもしれない。
さらに、出身の秘密が磐余地方にあったからかもしれない。
この土地は、のちに聖徳太子らが活躍した飛鳥の隣接地である。
神武天皇のこの名前の問題にも、古来諸説がある。
(天照大神)の助け4
〔金の鵄の救援〕
こうして(磐余彦尊)の一行は、大和平野を北上して、いよいよ、《大和》に君臨していた長髄彦(ながすねひこ)の軍勢と直接対決することになった。
しかし、大阪湾から入って河内から生駒を越えようしたとき、戦って勝てず、長兄の彦五瀬命の命まで奪った強敵なので、たとえ太陽を背後にしたといっても、簡単には討伐できなかった。
いくたび戦っても勝利できず、困惑しているとき、奇跡が起こった。
天がにわかにかき曇って、雹が降ってきたかと思うと、金色の霊妙な鵄(とび)が飛翔してきて、(磐余彦尊)の弓の先に止まったのである。
その鵄は光輝いて、稲妻のようであり、その光に撃たれて長髄彦の軍勢は目がくらんで混乱し、戦う気力も無くなってしまった。
この現象も有名で、やはり昔の教科書の挿絵の定番であった。この金色の鵄にちなんだ勲章が「金鵄勲章」で、いまは廃止されているが軍功抜群の軍人に下賜されていた(*1)。
その奇跡が起こったのは、鵄の村がなまって鳥見(とみ)となっている場所で、図5・2の枠外のずっと北で、いまの奈良市西部の鳥見町や富雄元町のあたり(近鉄奈良線の富雄駅近く(*2)らしい。
奈良盆地を北へ一気に駆け抜けて長髄彦と対決したのだ。
(*1 神武東征を助けた鳥に、(八咫烏)と(金鵄)があるが、この二つはまったく性質が異なる。(八咫烏)は天皇の配下として記されているが、(金鵄)は光を放つ神秘の鳥である)
(*2 現奈良市ではなく、《大和》の南端部にある神武天皇の神事で有名な鳥見山のあたり(現桜井市)だったのではないか――という気もしないではない)
(饒速日命)の出現と帰順
こうして勢いづいた(磐余彦尊(いわれひこ))は、さらに軍勢を進めて強襲したところ、長髄彦は使者を派遣してきた。
使者は述べた。
「昔この地に天神の御子である(饒速日命(にぎはやひ))が天磐船に乗って降臨され、妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)と結婚して可美眞手命(うましまで)をお生みになりました。天神の御子がお二方もおられるはずはありません」
(磐余彦尊)はこれに答えて、「天神の御子はたくさんいる。もし(饒速日命)が本当に天神の御子なら証拠がある筈だ。見せなさい」といった。
すると長髄彦は、(饒速日命)の天上界の矢とそれを入れる用具を見せた。
(磐余彦尊)は、「たしかに本物だ」と述べて、自分の矢と入れる道具を見せた。
それは(饒速日命)のものとまったく同じだった。
この交渉で長髄彦は(磐余彦尊)に畏敬の念を抱いたものの、反抗心は変わらなかった。
しかしこのことを知った(饒速日命)は、天神が(磐余彦尊)の味方をしていることを感じとり、また長髄彦の乱暴な性質も知っていたので、長髄彦を葬って、(磐余彦尊)に帰順した。
(磐余彦尊)は、(饒速日命)が自分と同じ(天照大神)の子孫――つまり自分の祖父または曾祖父の兄弟――であることを知っていたし、また自ら帰順したので、これを褒賞して親しくされ、味方につけた。
この(饒速日命)の子孫は、尾張一族、(熊野一族?←佐伯の日本古代氏族事典にある)、海部一族などたくさんいるが、その代表が、大和朝廷の重臣となった物部一族である。
そのご、あちこちに残って反抗していた土蜘蛛たち――生駒市、奈良市、天理市、御所市などの土着の豪族たち――を破って帰属させた。
ここまでの東征譚を読むと、大和朝廷の先祖たちは、圧倒的な軍事力や戦いのうまさによって制覇するのではなく、先祖神の助けを得ながら、アノ手コノ手で敵を帰順させて進んだことがわかる。
敵対していた豪族たちを策によって帰順させ、恩賞や名誉をあたえて味方につけるやり方は、ずっとあとの天皇たちも同じである。
神社にもその証拠が残っていて、大和朝廷のがわの神社よりも、敵対していた出雲の神社のほうが巨大だし、《大和》をめぐる競争相手だった(饒速日命)を祀る神社も多い。
(じつは、この平和的な方法は、明治〜平成にまで、形は違うが続いているといえる。谷沢永一の著作など参照)
皇宮の造営と皇后の決定
こうして《大和》は瓊瓊杵尊の曾孫にあたる(磐余彦尊)によって平定された。
やがて(磐余彦尊)は次の詔勅を発する。
これは大和朝廷の「施政方針演説の原型」である。
「東征してから六年がたった。遠い地にはまだ賊もいるが、この《大和》は平穏である。そこで、都をつくり宮殿を建てて皇位につこうと思う。
そして、天神の(天照大神)と高皇産靈神が国を授けてくださったご意向に応え、天孫の瓊瓊杵尊の正しい御心を広めよう。
その場所は大和の奥深い場所である畝傍(うねび)山の東南の橿原(かしはら/図5・2や5・3参照、現在の橿原神宮のあたり)がよい」
そしてそこに宮殿を造営なさった。
また、皇妃を求めたところ、ある人が推薦して、(大己貴神)(大國主神)の子どもの事代主神が玉櫛媛(たまくしひめ)を娶って産んだ媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ/彦が頭に来る名と同じく媛が頭に来ている。彦や媛が尊称だったからである)が容姿秀麗で最適です――と申し上げたところ、(磐余彦尊)はお喜びになって、宮中に召して正妃とされた。
正式におきめになるまえに(磐余彦尊)は、《三輪山》から流れ出る狭井川の近くで遊ぶ媛を見て気に入り、その媛の家に泊まって歌を詠んだと、伝えられている。
これが歴代天皇最初の御製である。
初代の天皇の最初の御製が、好きな女性と寝た情景を謡っているところに、大和朝廷のおもしろさがある。
葦原の 穢(しけ)しき小屋に 菅畳 いやさや敷きて わがふたり寝し
(葦の原のなかのまずしい小屋で菅のむしろを敷いて、わたしたちふたりは寝たものだ)
注目すべきは、この媛の名に蹈鞴(たたら)がついていることである。
タタラとはもちろん古代の製鉄に用いられた足踏みの大型フイゴ(またはそのような製鉄場所)のことである。
つまり初代の皇后が「製鉄に関係する名」をもっているのだ。そこにはいまも記念碑が建てられているが、水源の《三輪山》はもともと鉄鉱石を産したとされ、またそこから流れでる川からも砂鉄がとれたとされている。磐余と《三輪山》のあいだには、製鉄を意味する金屋という地名ものこされ、付近からは古代製鉄所の遺跡が発見されている。さらにこのあたりは、玉や朱の原料も豊富だった。
大和朝廷の先祖が《三輪山》山麓の《大和》に進出した背景に、鉄やその他の産物の問題があったことを想像させる伝承である。
この媛命については、「古事記」にすこし違った伝承があり、《三輪山》に祀られる(大物主神)が、朱塗りの矢に変身して高貴な姫の陰部を突き、そして結婚して産まれたのがこの五十鈴媛だとされている。
《三輪山》の問題は第八章以降で詳しく述べるが、(大物主神)は(大國主神)の分身だという神話もあり、(饒速日命)一族のほかに《大和》の土地の豪族や出雲の(大國主神)一族などをともに納得させるために、大和朝廷が苦労して親戚扱いした痕跡が、「記紀」のさまざまな場面に顔を出している。
「古事記」は物語性がひじょうに強く、出雲の国譲りも、さまざまな童話風のエピソードがあり、史書というよりも歴史物語といったほうがよい。
先の短歌も「古事記」にあるものである。
なお神武東征伝承が史実の反映であることの証拠として、高地性集落の分布があげられている。
高地性集落とは、平地近くの高地に出来て、しばらくして消える集落のことで、平地の人たちが戦乱を避けて高地に避難したためではないか――とされている。
そしてその分布を調べてみると、図6・3の神武東征経路に沿って沢山あり、他にはあまり無いのである。
この事から、大和朝廷の先祖の九州から大和への進出は、史実だったのだろうとの説が昔からある。
この問題について、最近では、芥川賞作家の高城修三が詳しい考察を発表している。
また、産経新聞の八木荘司は、「このような神武東征譚が史実を反映しているとすると、「魏志倭人伝」にある「倭国の乱」はこの東征の結果としておこった戦乱かもしれない。とくに東征経路に防御につよい高地性集落が多く出現したことは、この仮説を裏づけている」と述べている。
以下に、高地性集落と東征譚を結びつける説の中でもとくに興味深い高城説を記してみよう。
高地性集落と神武東征経路
神武天皇の東征伝説と考古学の関係に著者が注目するのは、その年代が、(卑弥呼)が活躍した年代と繋がっているように思われるからである。
ただし以下は、一次資料を私が料理したものではなく、二次資料の紹介とそれへの感想である。
小野忠熈博士の研究 
小野忠熈(ただひろ)博士は、一九二〇年の生まれで、立命館大学の地理学科を卒業して遺跡調査に邁進し、多くの業績を上げた学者である。
とくに高地性集落の遺跡研究は有名で、考古学における一つのジャンルを確立したといってもよいと思う。
(「高地性集落と倭国大乱――小野博士退官記念論集」雄山閣出版など参照)
高地性集落とは、稲作などに適した低地の背後にある、決して住み良いとは言えない高地にできた集落である。
この集落が興味深いのは、永続的ではなく、多くの場合、ある時期に突然出来て、しばらくして消えることである。
これは、「低地に居住していた集団が、ある理由で急に高地に移り、しばらくしてその理由が無くなったために稲作に良い元の低地に戻った」ことを意味するのではないか、と考えられている。
この高地性集落というのは、見晴らしが良くて守りに強い高台に造られるのが特徴で、「見張り台」とか「山城」かといった機能をも持っていたとされる。
つまり、戦争と関係があるらしいのだ。
日本の歴史でこのような一種の山城が盛んに造られたのは、
[一]戦国時代
[二]白村江の大会戦など六〜八世紀の朝鮮半島や大陸との関係が緊張した時代
[三]高地性集落の形で遺跡が残されている弥生時代
――の三時代であり、詳細が分かっている[一]と[二]の理由が戦乱を乗り切るためであるので、[三]の弥生時代の「高地性集落=山城」も、戦乱を生き抜くための智恵ではなかったか、との推測が成立する。
とくに、古くから永続的に高地にあったのではなく、低地から突然移って、しばらくしてまた低地に戻ったらしいことが遺跡から言えるので、なおさら、右の推測がなされるのである。
遺跡の研究結果をもとに考古学者の田中琢が作図した分布地図は有名(たとえば後記高城修三氏の本に掲載)だが、四国の一部を除くと、神武東征の経路に沿ってのみ、高地性集落が分布している。
「日本書紀」や「古事記」による神武東征の地図はよく描かれているが、図S4のようにそれとこれとを見比べると、ドキッとするほど一致しているのだ。
驚くべきことに、神武天皇の軍勢が大阪湾奥から退いて熊野周りで背後をつくために紀州を迂回したその迂回ルートにまで、高地性集落が分布しているのだ。
そして神武東征ルート以外にはほとんど無い。
(時代をさらに分けた図では、このことはもっとはっきりするらしい)
多くの学者がこのことに注目して、神武東征や「魏志倭人伝」にある倭国の乱と高地性集落とが関係しているのではないか――との仮説を唱えた。
この仮説はもう数十年も前からあり、大衆的な邪馬台国の本にも出ている。
ただし、弥生時代の集落の年代の信憑性の高い推定はなかなか困難で、前記の有名な地図も、かなり幅のある期間の集落を集めたもののように思えるし、データが古いようである。
だから、あまり大胆なことは言えなかったのだが、最近の考古学資料はかなり充実してきているので、大胆な仮説を唱える人も出てきた。その仮説の一部をご紹介する。
地図S4の下図を見ていただきたい。大阪付近に高地性集落が集中しており、「記紀」の記述とよく一致しているが、その他、瀬戸内海沿岸の安芸と吉備にも高地性集落が集中している。これも実は、「記紀」の記述とよく対応しているのだ。九州を出てから瀬戸内を通って大阪に達するまでの神武東征軍が、安芸に仮宮を建てて逗留していたこと、吉備に仮宮を建てて三年も留まっていたことが、「日本書紀」に明記されているのである。つまり、神武東征譚と最近の考古学資料とは、大阪→大和だけではなく、遠征途中の瀬戸内海沿岸の経路まで含めて、よく対応しているのである。
高城修三氏の推理 
高城修三氏は一九四七年の生まれ。京都大学の文学部を出た小説家で、一九七七年に「榧の木祭り」で芥川賞を受賞した。
最近は「《邪馬台国》大和説」を独自の視点から探究して、何冊もの本を出しておられる。
強い信念で大和説を唱えている方で、一年を春秋二年とする考えがその基本にある。
その高城氏は、「大和は邪馬台国である」(東方出版)という本の中で、「《邪馬台国》大和説」を提唱し、その論拠の一部として、高地性集落について記しておられる。
ここでは、その本から資料を引用して、「神武東征や倭国大乱と高地性集落の関係」について、どういうことが考えられているのかを、記してみよう。
「記紀」には、何波にもわたる、高天原および九州の日向の地からの「葦原中国」――たぶん大和――への軍事的派遣が記されている。
(注 葦原中国が大和であろうという話は、考古学からも来ている。大和は葦の豊富な水郷地帯で、その水郷の中の陸地に、古代の遺跡がたくさんある)
第一波――
(天照大神)と(素戔嗚尊)の軋轢の中で産まれた五柱の神の二番目にあたる(天穂日命)を、(高皇産霊尊(たかみむすひ))が派遣した。派遣の理由は五柱の長男の(天忍穂耳尊)が(高皇産霊尊)の姫と結婚して産んだ(瓊瓊杵尊)を「葦原中国」に降臨(天孫降臨)させるにあたって、反抗する者を承伏させるためであった。しかし(天穂日命)は葦原中国の(大己貴神(大国主神))に籠絡されてしまって、三年たっても帰ってこなかった。
第二波――
そこで(天穂日命)の子の(大背飯三熊之大人(おおせいみくまのうし))を派遣したが、父親に従ってしまって、やはり帰ってこなかった。
第三波――
ついで、(天国玉(あまつくにたま))の子の(天稚彦(あめわかひこ))を派遣したが、(大国主神)の娘(下照姫(したでるひめ))を娶って、「自分が葦原中国を統治するのだ」と言って帰ってこなかった。やがて怒った(高皇産霊尊)の放った矢に当たって死んでしまう。
第四波――
そこでさらに(高皇産霊尊)は神々と相談して、剛勇できこえる(経津主神)に(武甕槌神)をつき添わせて「葦原中国」に派遣した。この二神は、(大己貴神)のいる出雲に出向いて、剣の切っ先の上にあぐらをかくという凄い迫力で談判したところ、(大己貴神)は息子の(事代主神)と相談して、自分たちの国を高天原に譲ることを承諾した。そして(大己貴神)=(大国主神)は遠方――現在の出雲の地か越前方面?――に隠れることにし、息子の(事代主神)は海中に隠れた。
第五波――
ようやく「葦原中国」が平定されたので、(瓊瓊杵尊)が日向の地に降臨し、その子孫の神武天皇が大和に進出する足がかりができた。
第五・一波――
この直後と思われる時期に、(瓊瓊杵尊)の兄弟または子にあたる(饒速日命)が瀬戸内海を経由して現大阪府の河内のあたりに降臨する。
第五・二波――
この(饒速日命)の降臨は、別説によれば、はじめ丹後に着き、そこから河内に入ったとされている。
第六波――
(瓊瓊杵尊)の曾孫にあたる神武天皇が東征を企画し、強力な軍勢を率いて瀬戸内海を経由し、熊野をまわって大和への進出に成功する。これが神武東征である。
第七波――
神武東征以後も、大和朝廷に逆らう周辺豪族との戦い、崇神天皇の四道将軍派遣、景行天皇や日本武尊の九州遠征などがある。
これを見ると、「記紀」における九州から近畿または大和への東遷は、何度にもおよんでおり、文章どおりとすれば、五回以上もあったことになる。
一方「魏志倭人伝」およびその後のシナ史書にある倭国の大乱は、どうやら、「西暦一五〇年から一八〇年ごろ(二世紀後半)」の時代の日本列島西部の戦乱を指しているらしい――と言われている。
森岡秀人氏の提案 
最近の考古学の資料を基にすると、高地性集落の年代は、どのように整理できるのか、興味がある。
これについては、考古学者の森岡秀人氏が、新しい考古学成果を取り入れて、つぎの五段階を提案しているとされる。
(高城氏の著作より)
〔第一段階〕
 時期 紀元前二世紀末〜前一世紀中頃
 地域 北九州・瀬戸内・大阪湾岸
〔第二段階〕
 時期 一世紀初頭
 地域 瀬戸内・近畿
〔第三段階〕
 時期 一世紀中頃〜二世紀前半
 地域 表六甲・紀伊北中部・大和南部
〔第四段階〕
 時期 二世紀後半〜三世紀初頭
 地域 淀川流域・南山城・近江・南河内・中国四国九州の要地
〔第五段階〕
 時期 三世紀前半〜
 地域 北陸・東国
じつに興味深い整理結果である。
もし、神武東征が西紀元年〜二〇〇年ごろとすると、それは第二段階から第四段階のどこかに相当する。
また「魏志倭人伝」の倭国の乱がよく言われるように一五〇年から一八〇年ごろとすると、それは第四段階に相当する。
もっとも、「記紀」や「魏志倭人伝」などの文献からの年代推理も、かなりの幅があるので、いずれにせよおおまかな事しか言えない。
この五段階提案を元に、高城修三氏は、一つの結論を記している。
それは、神武東征と高地性集落の間には驚くほどの対応が見られる――という事である。
高城修三氏の結論 
高城氏は、森岡秀人氏が区分けした段階について考察して、
第三段階 → 神武東征
第四段階 → (倭迹迹日百襲姫命)の活躍/倭国大乱
――とあてはめ、「記紀」における第四段階の対応を、神武東征が終わってから、崇神天皇による三輪山麓の本格政権発足までの間の混乱として考えている。
「日本書紀」を読むと、崇神天皇が四道将軍を派遣するまでに、大和の周辺でかなりの混乱があり、それが(倭迹迹日百襲姫命)によって救われたと判断できることから、高城氏の推理は、かなりの迫力がある。
つまり――
「第四段階は「魏志倭人伝」にある倭国大乱であり、それは神武天皇と崇神天皇の間の御代に起こり、「日本書紀」に記されている(倭迹迹日百襲姫命)が鎮圧法を忠告した事件そのものだ――ということである」
「日本書紀」などにある神武東征の経路は、戦闘ではなく、進軍の経路である。
神武天皇の東征は、小さな波乱は別にすると、安芸に宮を建てて滞在したのち、吉備(岡山県のあたり)に宮を建てて数年滞在して十分に準備し、準備なってから現神戸を経て大阪湾奥――古代の汽水湖――から大和へ向かおうとして激戦するがうまくいかず、後退して紀伊半島を迂回して大和の南部から大和盆地へ向かって成功する。
これは第三段階にある「表六甲・紀伊北中部・大和南部」という高地性集落分布と、よく照応している。
興味深いのは、安芸と吉備の高地性集落の意味である。
この二点に神武東征軍が仮宮を建てて長期滞在したことは「日本書紀」に記されているが、ここの豪族たちと激しい戦いをしたとは書かれていない。
だから、神武東征の時代には安芸と吉備はすでに神武軍の支配下になっていたとも考えられる。
だとすれば、この二箇所の高地性集落の密集は、その前の(第二段階など)の戦争によるものという事になる。
著者の仮説 
高城氏などの以上の資料をもとにして著者があえて大胆な仮説をつくると、つぎのようになる。
A 「日本書紀」などの第一波〜第五波→高地性集落の第一段階〜第二段階
B 「日本書紀」の第六波(神武東征)→高地性集落の第三段階
C 「日本書紀」にある倭迹迹日百襲姫命の活躍、および「魏志倭人伝」の倭国の乱→高地性集落の第四段階
D 「日本書紀」の第七波(四道将軍など)→高地性集落の第五段階
そして、神武東征が史実の反映だったとした場合、その実年代は、以上から、西暦一〇〇年前後ではなかったかと考えられる。
ここで、神武東征は第二段階ではないか、という意見もあるようなので、著者の考えを記しておく。
神武天皇はたしかに大阪湾岸――今の大阪湾よりずっと奥――で激戦を演じるのだが、第三段階にはその周辺の高地性集落はあまり多くなく、むしろ第二段階にそれがある。
これが、神武東征を第二段階とする考え方だが、私はやはり第三段階が可能性が高いと思う。
その理由は次のとおりである。
神武勢は大阪湾奥では(饒速日命)勢にやられてしまって、退却している。ということは、地元の勢力が勝ったわけだから、地元勢はわざわざ不便な高地に逃げたり防御を固めたりする必要は少ない。
神武勢を撃退したのだから・・・。
で、神武東征神話において、神武勢が勝った地点だけを見ると、第三段階の高地性集落の考古学データとよく一致しているのだ。
だから、第三段階と神武東征はかなりよく照応すると言えるのだ。
これまでに記した仮説(または憶測)は、あくまでも仮説(または憶測)に過ぎず、学説にはいたっていない。
考古学的研究が途上だからである。
とくに年代推定の精度が問題である。
だから、「年輪年代法」などを活用した高地性集落遺跡年代のさらなる精密な研究が、倭国の乱や神武東征の史実性の検討に欠かせなくなるだろうと予想される。
たしかに言えるのは、「高地性集落の研究は文献史学と考古学とを結ぶ重要な接点である」という事である。
この問題の最後に、この高地性集落のこれまでの研究成果は、「《邪馬台国》九州説」の中心に据えられている(卑弥呼)以後の東遷説では、説明困難であることを、強調しておく。
もし(卑弥呼)が九州の女王でその後継者が東遷したとすると、それは時代的に第五段階かそれ以後という事になるが、現在の考古学のデータでは、その時代の高地性集落の分布は九州から大和ではなく、大和から東や北の方角なのだ。
つまり崇神天皇時代の四道将軍の大和から四方への派遣とは照応するが、西方の九州から大和への進出とは合わないのである。
このことも、考古学者が大和説に傾く大きな理由になっているらしい。
以上は、憶測から仮説に進化しかかっているというレベルの話で、まだまだデータの足りない問題であることを強調しておく。戦史学によるさらなる研究も必要であろう。 
6-5 神武天皇の即位と崩御
 第一代(初代) 神武天皇の物語(3) 即位から崩御まで

 

神武天皇の即位
こうしてすべては整い、辛酉の年――西暦に換算すると紀元前六六〇年――に、(磐余彦尊)は橿原宮で即位し、初代の天皇となった。
そして正妃の五十鈴媛を皇后とされた。
この皇后は二人の皇子、神八井命(かむやい)と神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ)をお生みになったが、後者が第二代の綏靖天皇(すいぜい)である。
即位された(磐余彦尊)は、その国風謚号(御名)を、「神日本磐余彦火火出見天皇」といわれる。
また「記紀」編纂後の人が漢風謚号をきめて、「神武天皇」と申し上げた。
また人々はこの初代天皇を、「始馭天下之天皇」と讃えた。
これは賞賛を意味する称号で、はじめて国を治められた天皇という意味である。
(もちろん六世紀より前には「天皇」という尊称はなかったので、漢字での表記は「王」または「大王」だったであろう。日本語としての訓読みは「オオキミ」や「スメラミコト」だったのであろう)
さらに諱は、「彦火火出見」(幼名を狭野尊)である。
諱とは生前の実名のことで、死後は使用することを忌むのでイミナというらしい。神武天皇の諱が祖父の山幸彦と同じであることは前述した。
はじめの二つの謚号(御追号)とは、先般崩御された皇太后陛下に香淳皇后という御名を謚ったのと同様な命名で、国風謚号は「記紀」編纂時からだが、二字からなる漢風謚号は八世紀半ばに第三十九代弘文天皇の曾孫にあたる学者・淡海三船が定めたともいわれている。
したがって古代のすべての天皇は、「記紀」が完成したあとは、国風・漢風二種の尊称をお持ちである。
こうして、天神(天照大神)から数えて五代目にあたり、(天照大神)の孫の瓊瓊杵尊から数えて三代目、すなわち曾孫にあたる(磐余彦尊)が、初代の神武天皇となられたのである。
即位ののち天皇は、大伴氏の先祖をはじめとして功臣たちの論功行賞を行われた。
敵対したがのちに帰順した首領たちにも、たとえば弟磯城は磯城の県主、弟猾は猛田(宇陀郡または橿原市の一部)の県主・・・といったように、恩賞を与えられた。
最大の強敵だった(饒速日命)系の物部一族にも、熊野の苦難の際に(天照大神)から授けられた霊剣「布都御魂」を下賜され、その帰順の恩賞とした。
この霊剣は前記のように物部が担当する《石上神宮》の祭神として祀られた。 (このとき、(八咫烏)にも恩賞が与えられ、その子孫のことが記されている。したがって「日本書紀」の編者が(八咫烏)を天皇の配下の人間と理解していた事は明かである。なお金鵄には恩賞はなく、金鵄と八咫烏は明確に区別されている)
神社祭祀の原型
論功行賞のあと(磐余彦尊)は勅語して、「わが皇祖の御霊が、我が身を助けてくださった。そして天下は何事もなく治まっている。 そこで天神を都の郊外に祀って大孝をなそう」と申されて、斎場を鳥見山に設けて、神事をなされた。
これが有名な「鳥見山の祖神祭祀」で、大和朝廷ができて最初の、きちんとした斎場を設けての祭祀であり、やはり昔の国史の挿絵の定番となっている。
図6・5の天皇の正面にあるのは、榊にかけられた鏡と勾玉と剣であり、三種の神器そのものかどうかはわからないが、そのような三点セットである。
また前の祭壇の上にあるのは、土器に盛られた、神酒や農産物などの神饌(御供物)である。
これらは、兄磯城らを討ったときに(天照大神)から教えられて香具山の土で土器を作ったときにできたとされる作法で、この神事作法はいまに続いている。
考古学的にいっても、古代の祭祀は山中の大きな岩などを斎場としておこなわれたことが多かったらしく、そのような遺跡が《大和》の地ほか全国に多くみられる。
山中の岩での祈りそのものの起源はとても古く、年代的には縄文時代からなされていたらしい。
「鳥見山の祖神祭祀」はこの縄文以来の伝統的な祭祀を大和朝廷が形をととのえておこなったことを示す伝承である。
また場所を定めたという意味では、神社の原型でもある。
じじつ、古い神社を発掘すると、縄文から弥生にかけての岩上の祭祀遺跡が見つかることが多いらしい。
日本の神社の歴史はおそろしく古いのだ。
なお鳥見山とは、前出したように、現在のJR桜井駅の南東約1.5Kmほどのところにある小さな山で、長髄彦の鳥見とは別である。
図5・2におおまかな位置を示してある。
渡部昇一は若いころにこの鳥見山に登って、そこから大和三山が一望できることを知り、またそこにある古い神社の宮司の話を聞いて、「ここなら神武天皇が天神を祀ったという「日本書紀」の記述によく一致していると思った」と語っている。
《大和》の美称
これで「日本書紀」における神武東征の物語は終わるのだが、最後に、この《大和》の地を讃えた美称が記されている。
神武天皇は、「なんと美しい国だろう。狭いけれども蜻蛉(あきつ)が輪になっている姿のようだ」と仰せられたので、「秋津洲(あきつしま)」という名ができた。
伊弉諾尊(いざなぎ)が昔述べた御言葉から「秀真国(ほつま)」という名ができた。
(大己貴神(おおなむち))は、「玉牆(たまかき)の内つ国」(美しい垣根のような山々に囲まれた国という意味)といわれた。
(饒速日命(にぎはやひ))は、天磐船(あまのいわふね)に乗って虚空を飛翔してこの国に天降ったので、「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」といわれた。
これから「ソラミツ」が日本(大和)の枕詞のひとつとなった。
(饒速日命)の天磐船とは、この命が河内から生駒山地をこえて奈良盆地に入ったときの山越えを神話的に表現したものであろう。
立太子と崩御
即位から四十二年の年に、神渟名川耳尊を皇太子とされた。この皇子が第二代の綏靖天皇である。即位七十六年に橿原宮で崩御された。宝算(御年)百二十七歳であった。翌年、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)に葬られた。
欠史八代のこと 
これで(天照大神)の「天の岩屋隠れ」と神武天皇の東征譚はおわるのだが、この初代の神武天皇と第十代の崇神天皇の間にある第二代から第九代の八代の天皇については、その業績はごくわずかしか残されていない。
(天照大神)以外で(卑彌呼)の候補となりうる女性が活躍するのも、第十代以降である。
しかし無視することはできないので、ここにその謚号や皇宮の場所を、「日本書紀」にあるとおりに記しておく。
なかでも第七代から第九代にかけては、(卑彌呼)の候補のひとりである(倭迹迹日百襲姫命)の生誕に関係しているので、重要である。
第二代 綏靖 天皇(神渟名川耳天皇)(八十四歳)〔奈良県御所市〕
第三代 安寧 天皇(磯城津彦玉手看天皇)(六十七歳)〔奈良県大和高田市〕
第四代 懿徳 天皇(大日本彦耜友天皇)(七十七歳)〔奈良県橿原市〕
第五代 孝昭 天皇(觀松彦香殖稻天皇)(百十四歳)〔奈良県御所市〕
第六代 孝安 天皇(日本足彦國押人天皇)(百三十七歳)〔奈良県御所市〕
第七代 孝靈 天皇(大日本根子彦太瓊天皇)(百二十八歳)〔奈良県田原本町〕
第八代 孝元 天皇(大日本根子彦國牽天皇)(百十六歳)〔奈良県橿原市〕
第九代 開化 天皇(稚日本根子彦大日日天皇)(百十一歳)〔奈良県奈良市〕
( )内は国風謚号、( )は宝算つまり崩御されたご年令、〔 〕内は皇宮がおかれたと伝えられる現在位置である。国風謚号の天皇は「スメラミコト」とお読みする。皇宮の位置は、開化天皇以外はすべて奈良盆地南部で、狭い意味での《大和》やその周辺にある。
第十代の崇神天皇の実在性については疑う人はすくないが、それまでの第二代から第九代については、「記紀」における記述がわずかなので、架空の天皇だという史家もおり、欠史八代などとも呼ばれている。
また初代の神武天皇は第十代崇神天皇の業績を投影した創作だろうという人もいる。
崇神天皇紀に、「初めて国をつくった天皇」という、神武天皇と同じ尊称が記されているからだ。
しかしこれに反論して、歴史的事実の反映がある――と主張する学者も多い。
何人かの学者が述べているが、もしすべて架空だったとしたら、年齢を標準的なものにして代数をずっと増やしただろうと考えられる。そのほうが大和朝廷の権威が増すからである。
また神武天皇の即位年にしても、もっとずっと遠い過去にしたであろう。そのほうが外国への発言権も増すからである。
だが、奈良時代初期の「記紀」の編集者たちはそうはしなかった。
――ということは、じっさいにこのような天皇の伝承が各豪族に伝えられており、その初代の即位年を、なんとか納得できる範囲でなるべく古い時代にしようと、革命のおこるとされた辛酉の年の西紀前六六〇年とし、各代の天皇の宝算を「ありうるきわめて長寿」ということにしたのではないだろうか。
・・・これが、実在を主張する人たちの意見であり、著者も同感である。
(実在を主張する意見が書かれている現行の高校歴史教科書もある)
初代の神武天皇の偉大な事績については、現在の著名企業の社史にのこる創始者の物語になぞらえると分かりやすい。
「地方から東京へ出てきて商店を創業してその町で最大にしたのが初代で、そのあと何代目かに有能な企業家や発明家が出て、その商店を一部上場の大企業に育て上げた」といった物語は、企業史の定番である。
一例をあげれば、マンモス企業の島津製作所の基礎を築いた実質的な初代は、蓄電池の世界的発明家だった二代目島津源藏だが、厳密な意味での初代は、その父親の初代島津源藏である。初代源藏も優れた技術者だったらしいが、二代目は飛び抜けた発明家兼企業家だったのだ。
他の多くの企業についても、似たことがいえる。
厳密な意味での初代と事実上の初代との間に、真面目だが社史で強調するほどではない地味な何代かの商店主がいることも、もちろんある。
これを大和朝廷の伝承にあてはめると、大和朝廷の第一歩を印した厳密な意味での初代が神武天皇で、王権を確立した実質的な初代が第十代の崇神天皇だということになり、それは初代が二人いるからおかしい――ということにはならない。
神武天皇から開化天皇までは、三輪山麓南部の《大和》の地のみを支配した豪族であり、崇神天皇になって、《大和》の地全体を支配し、さらに《大和》以外の各地の豪族まで帰順させた強力な政権となったのであろう。
このように考えれば、「記紀」の記述は理解できるし、また神武と崇神の間の何代かの天皇の事績がとりたてて記すほどではないことも理解できる。
第二代から第九代にかけての天皇紀に記述が少ないと記したが、(倭迹迹日百襲姫命)の生誕以外にも、興味ぶかい話はのこされている。
その一つに、神武皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命が歌で皇太子を救ったエピソードがある。
狭井川よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす
――がそれである。
これは、皇太子はじめ自分の生んだ御子たちに対して、神武天皇とともに東征した異母兄・手研耳尊(たぎしみみ)が叛乱しようとしたとき、その急を知らせた歌とされている。
神武天皇崩御ののち、皇后はこの異母兄の妃になった。
だから、自分の義理の息子を夫にしたところ、その夫が自分の実子を殺そうと計るという、悲惨な事件である。
なおこの異母兄は実質上は一時期天皇だったのではないかともいわれている。
こういう複雑な事情が記されている「記紀」は、神武天皇紀であっても、やはり史実を反映していると考えられる。創作ならば、こんな生臭く不名誉な話は書かなかっただろうからである。 
6-6 「天の岩屋伝説」は果たして日蝕神話か

 

高天原はどこにあったのか 
第6-1節でも述べたように、「(卑彌呼)=(天照大神)説」は、「《邪馬台国》九州説」と結びついており、東征神話とも関係してくるのだが、その結びつきかたにも無数のヴァリエイションがある。
それを検討するためにも「日本書紀」の神代紀の概要を記してきたのだが、その神話のなかで、場所的に明確なのが、(天照大神)の孫の瓊瓊杵尊が降臨した九州の日向と、その曾孫の神武天皇が東征して即位した《大和》の橿原である。
しかしその前の、(天照大神)や高皇産靈神らのいた高天原とは、いったいどこなのだろうか?
もちろん神話では天上界らしい神々の世界だが、現実にはそれはありえないから、それが史実の反映だったとしたら、そして、もし(天照大神)が実在の女王の尊称だったとしたら、その場所を探さねばならない。
そして、この章の主題である、「(卑彌呼)=(天照大神)説」を採用したとすると、その場所――高天原の場所――こそが《邪馬台国》だ、ということになる。
つまりそこに女王(卑彌呼)がいて――または跡継ぎの(臺與)がいて――それが日本の伝説では(天照大神)になったのだ、というわけである。
(天照大神)説における《邪馬台国》の位置は、とうぜんながら九州内部かその付近ということになるが、のちの大和朝廷との関係については、多くの意見があるので、「《邪馬台国》大和説」とあわせて、代表的な分類を、ここに示しておこう。
田中卓の分類 
皇學館大學の元学長の田中卓博士は、つぎのように分類して解説している。
一 「《邪馬台国》大和説」
 A《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認める立場
 B《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認めない立場
二 「《邪馬台国》九州説」
 C《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認める立場
 D《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認めない立場
   D・一 まったく別個とみる立場
   D・二 両者の前身が一つだったという立場
このうちAでは、「記紀」のなかに(卑彌呼)が隠されているかもしれない――とも考える。もちろん「記紀」には記録されずに終わったという推定もありうる。
Bでは、大和朝廷の成立をずっと遅いとして、(卑彌呼)の時代よりあとの、たとえば四世紀末以後とされる第十五代應神天皇や第十六代仁徳天皇のころ、とする。
時代が違うから関係しないのは当然である。
Cは、《邪馬台国》が狗奴国に負けて解体させられ、そのため東方に移動して大和朝廷になったという考えである。
D・一は、文字どおり無関係とする考えだが、D・二はすこし違っていて、(卑彌呼)の時代より前に「原・邪馬台国」なる前身が九州にあり、それが九州の《邪馬台国》と大和の《邪馬台国=大和朝廷》に分かれた――とする仮説である。
D・二のこの推理によると、九州の《邪馬台国》に(卑彌呼)がおり、同じ時期に大和の大和朝廷に第九代開化天皇や第十代崇神天皇が出現したことになる。
田中卓はさまざまな考察をおこなって、D・二説をとなえている。
そして九州の《邪馬台国》の場所として、図6・2の福岡県山門を候補にしている。
これは江戸時代の新井白石以来、多くの学者が唱えてきた説でもある。
九州北部に近い山門から南部の日向の高千穂に進出しさらに野間岬まで進出したとすれば、天孫降臨の物語との整合性も良い。
ただしこの田中説では、(天照大神)が実在したとしても、(卑彌呼)の時代の前の存在となるので、「(卑彌呼)=(天照大神)説」にはならない。
しかし(卑彌呼)についての物語が《大和》の大和朝廷に伝わり、それが記紀神話の元になったとすれば、ある意味では(天照大神)説でもある。
井沢元彦の分類 
田中卓とは対照的なアマチュア研究家である井沢元彦も、この問題に熱心にとりくみ、次のような分類をして自説を展開している。
a 「《邪馬台国》大和説」
 (一)大和において、そのまま大和朝廷に発展した
 (二)大和の地で、大和朝廷に滅ぼされた
 (三)他の勢力に滅ぼされ(あるいは連合し)、大和朝廷になった
b 「《邪馬台国》九州説」
 (四)大和へ移動(東征)し、大和朝廷になった
 (五)九州の地で大和朝廷に滅ぼされた
 (六)他の勢力に滅ぼされ(あるいは連合し)、大和朝廷になった
井沢の分類で興味ぶかいのは(四)であり、これは田中卓のCやD・二にほぼ同じで、有名な学者としては文化勲章の和辻哲郎が一時唱えたことがある。
とても魅力的な仮説であるため、これをいろいろとアレンジして、数多くの《邪馬台国》論が書かれ、また小説が書かれている。
井沢も、さまざまな視点から検討して、この(四)の系統の考えを持つにいたったようである。
(注 著者の見解は後に詳しく述べるが、上の田中・井沢のどれとも違っている)
ところで、「(卑彌呼)=(天照大神)説」には、場所が九州らしいことや、女性であることや、神武東征の神話と結びつきやすい・・・といったことのほかに、どのような根拠があるのだろうか。
のちの「日本書紀」の各天皇紀には、日向を平定した話や日向から妃を迎えた話などがあるので、九州南部の日向地方が、大昔から、大和朝廷と密接に関係していたらしいことはうかがえる。
しかし、それだけでは、「(卑彌呼)=(天照大神)説」にはならない。
なにしろ「記紀」神話の時代と「魏志倭人伝」の時代とは、表面上は隔絶しているので、これまで記したことの他にそうとうな根拠がないと、説得力はない。
そこで出てくるのが、「天の岩屋の物語と日蝕の関係」である。
これは井沢元彦が重視している関係なのだが、以下、その話をかいつまんでしよう。
「天の岩屋」事件の日蝕説 
第6-1節に記したように、(天照大神)は弟の素戔嗚尊の乱暴に呆れて、「天の岩屋」に隠れてしまい、そのため世界が暗くなり、大騒ぎがおこった。
素戔嗚尊は出雲系神話の祖神ともいわれ、この話は大和王権と出雲豪族の軋轢を象徴しているようであるが、それはともかく、この、岩屋に隠れたのであたりが暗くなった――という話が、何を意味しているのかが重要である。
これについては、いくつかの説がある。
ひとつは、原因となった素戔嗚尊の乱暴で田畑が荒らされたという記述から、植物を駄目にする台風や天候不良をあらわしているのだろう、というものである。
もうひとつは、冬至になって太陽がかげり、寒くなり、田畑が枯れる有様を、あらわしているのだろうという説である。
これらの一般的な自然現象のほかに、きわめて説得力のある第三の説がある。それは日蝕説である。つまり、
「(天照大神)が岩屋に隠れてあたりが暗くなったのは、天体の知識の無い古代人が恐れた皆既日蝕を反映した神話であり、そこから出て世の中が明るくなったのは皆既日蝕が元に戻ったことを意味している。また同時に考えられるのは、岩屋に隠れた時点で――つまり日蝕の衝撃で――(天照大神)は死ぬか殺されるかしており、岩屋から出て明るくなったのは優れた霊力をもつ後継者が出現したことを意味しているのかもしれない。岩屋は墳墓の象徴でもある」という説である。
この日蝕説の最初の提唱者は江戸中期の儒学者・荻生徂徠だといわれているが、これはとてももっともらしい説だといえる。
《大和》の西側、奈良盆地の南西部は葛城地方であり、そこは古代の豪族・葛城一族の勢力圏で、最終的には大和朝廷に帰順したのだが、その葛城地方では、五世紀ごろまで、「日蝕がおこるとあたりの事物を破壊する祭」がなされていたといわれる。
古代にはもちろん日蝕の予測などできないから、これは突発的な祭りであるが、素戔嗚尊の乱暴と(天照大神)の岩屋隠れをじゅうぶんに連想させる祭りであり、右の説の傍証になっている。
では、古代における皆既日蝕は何年に起こっていたのだろうか?
古代日本人が見たであろう皆既日蝕の年月日やその様子の推定は、昔からなされていたようだが、さいきんでは天文学者の斉藤國治による研究が有名である。 
6-7 古代の日蝕と「記紀」の実紀年

 

古代の日蝕の一覧表 
斉藤國治の古代日蝕のデータは、井沢元彦が着目して評価し、一般に紹介したので、知られるようになった。
それによると、日本列島の本州か四国か九州をとおる中心食が見られた年月日は、西暦紀元後については以下のとおりである。
 1 西暦  一年 六月一〇日(皆既)
 2 西暦 四一年 四月一九日(金環皆既)
 3 西暦 五三年 三月 九日(金環皆既)
 4 西暦一〇三年 六月二二日(金環)
 5 西暦一四六年 八月二五日(金環)
 6 西暦一五四年 九月二五日(皆既)
 7 西暦一五六年 三月 九日(皆既)
 8 西暦一五八年 七月一三日(皆既)
 9 西暦一七九年 五月二四日(金環皆既)
10 西暦二〇〇年 九月二六日(金環)
11 西暦二四七年 三月二四日(皆既)
12 西暦二四八年 九月 五日(皆既)
13 西暦二五四年一〇月二九日(金環)
14 西暦二七三年 五月 四日(皆既)
15 西暦三〇一年 四月二五日(皆既)
16 西暦三〇二年一〇月 八日(皆既)
17 西暦三〇八年一一月三〇日(金環)
18 西暦三二八年 五月二六日(皆既)
19 西暦三八四年一〇月三一日(皆既)
20 西暦四五四年 八月一〇日(皆既)
21 西暦四六九年一〇月二一日(金環)
22 西暦四七九年 四月 八日(金環)
23 西暦五二二年 六月一〇日(皆既)
24 西暦五七二年 九日二三日(金環)
25 西暦五七四年 三月 九日(皆既)
(注 斉藤國治先生は、国立天文台を定年退職の後も、コツコツと研究を続けて「古天文学」という新分野を開拓した天文学者である。まったくの偶然であるが、著者の知人の叔父上にあたっていて、紹介していただき、いろいろな資料を戴いたこともある。九十歳過ぎてもなお矍鑠として研究を続けておられたが、残念ながら先年お亡くなりになった。ご冥福をお祈りする)
以上は紀元後であるが、紀元前の日蝕もいろいろと計算されている。たとえば、西暦前一三八年一一月一日の日蝕が知られている。
これら紀元前の日蝕が「天の岩屋」事件の神話になった可能性もなくはないが、(卑彌呼)との関連づけでいえば古すぎる。
だから面白いのは、「魏志倭人伝」に書かれた時代らしい5から14の間くらいである。
5〜8は、長命だったとされる(卑彌呼)が生まれたころ、あるいはその少し前と想定され、「魏志倭人伝」の記録どおりだとすれば、日本列島に大乱がおこって国々が互いに争い、男の王ではどうしようもなかった時代――つまり倭国大乱の時代――である。
もっとも、(卑彌呼)の時代に日本列島の統一が進んだとすれば、その前は統一されておらず、豪族たちが国々(集落)をつくり境界をつくって争っていたに違いないから、「魏志倭人伝」の信憑性いかんにかかわらず、国の乱れは歴史の必然であり、特異な事件ではない。
じじつ、この時代――弥生時代――の遺跡の多くは、厳重な環濠に守られたつくりになっている。
この5〜8が日本に何か影響を与えたかどうかは、史料が何もないので分からない。
つぎの9や10は、たぶん(卑彌呼)が女王になったかならないかの時期だと思われるが、これも史料がなくて考えようがない。
(卑彌呼)の没年に日蝕が起こっていた! 
で、問題は、11と12である。11の西暦二四七年は、(卑彌呼)が狗奴国の始末に困って魏に助けを求めた年にあたる。また12の西暦二四八年は、多くの学者が(卑彌呼)が死んだと想定している年である。
帯方郡の太守が(卑彌呼)に応えて檄文をもって告げ諭したとされるのがおそらく二四七年か二四八年の初めであり、その告諭のことが書かれたそのすぐあとに、(卑彌呼)が死んだ――と記されていることは、第三章で述べたとおりである。
死んだ年そのものは書かれていないのだが、もしまだずっと生きていたとしたら、帯方郡や魏の宮廷にさらに使者を送った記録が残っていたであろう。
しかしそれが無くてとつぜん(臺與)の話になってしまうので、二四七年に使いを送って告諭をうけたすぐあとの二四七年の暮れから二四八年にかけての一年くらいの間に死んだのだろうと、推察されるのである。
つまり、この計算が正しいとすれば、(卑彌呼)が死んだと想定される二四七年と二四八年の両方の年に「日蝕」が起こっているのだ。
この暗示的な「日蝕」の、もうすこし詳しいデータを、斉藤國治の著書によって、図6・6に示した。
11の二四七年の三月の日蝕は、九州福岡では日没直前に皆既蝕になっており、《大和》では六十三パーセントくらいの部分蝕で日没に入っている。つまり二四七年の日蝕は、九州では明瞭だが、《大和》ではちょっと暗い――というていどのものである。
一方12の二四八年の九月の日蝕は、九州・大和ともに早朝に九十パーセント以上の蝕分となっており、早朝から起きて働いていたであろう古代の人たちにとっては、かなりの衝撃だったろうと考えられる。
もしこれらの日蝕が(卑彌呼)の死と関連づけられるとすれば、それはたぶん12の二四八年のほうであろう。
西暦二四七年は(卑彌呼)の使者が帯方郡へ派遣された年であり、派遣が年初でそれへの返書の使者が大急ぎで来たとしても、その年の三月に間に合うとはちょっと考えにくい。
また、この年の日蝕で目立つのは九州のみであるが、それでも日没直前なので、「日の暮れるのがちょっと早いな」というていどのことだったであろう。
したがって、日蝕が(卑彌呼)の死と深い関係にあるとすれば、それは西暦二四八年のものであり、これはかなりの効果があったと推理できる。
また、シナ王朝の盛衰など日蝕とは無関係ないくつもの傍証から、多くの学者が(卑彌呼)の死を西暦二四八年と想定していることも、考慮に入れるべきである。
こうして、西暦二四八年の日蝕が、(卑彌呼)の死の年に起こり、両者が関連しており、しかもそれが(天照大神)の「天の岩屋伝説」に反映しているとすると、考えられるストーリーは次のようなものである。
(卑彌呼)の死因は日蝕か? 
二世紀後半の日本列島は、各地の集落に住む豪族たちが領土や資源を争って収拾がつかなくなり、そこで神につかえる高貴な女性(卑彌呼)が霊感を買われて北九州の《邪馬台国》の女王となって、男弟を指図して国々を平定した。
しかし九州南方の狗奴国だけは何年たっても逆らうことをやめず、困りはてて西暦二四七年に、それまでも外交関係のあった帯方郡にお墨付きを貰いに行ったが、それでもうまくいかなかった。
そしてその翌年の西暦二四八年九月に皆既日蝕が起こり、人々の不安は頂点に達し、その心労で(卑彌呼)は死んでしまった。
あるいはまた、日蝕は(卑彌呼)の神子(巫女)としての靈力が落ちたためで狗奴国を平定できないのもそのためだと考えた人たちによって、殺されてしまった!
そのあとまた騒乱が続いたが、霊力をもつ若い(臺與)が(卑彌呼)の後継となってようやく一段落した。
そしてそのさらに後継者が北九州から南九州の高千穂の峰などに移り、さらにまたその後継者が東に移っていって大和朝廷を樹立した。
この、日蝕で死んだ(卑彌呼)の記憶と、(卑彌呼)を後継した(臺與)の記憶とが、神話として伝承され、六世紀から七世紀にかけて文字として記録され、「記紀」のなかの「天の岩屋伝説」となった。
これはかなり迫力のあるストーリーであり、(卑彌呼)以後の年代については疑問も生じるが、一応の合理性もある。
今でも多くの好事家や一部の学者がこの説をとっていることも、理解できる。
上の仮説で(卑彌呼)の神子(巫女)としての霊力というのは、「魏志倭人伝」の鬼道――すなわち「記紀」にある神道――のことであるが、それはいまの新興宗教の教祖の祈りのような妖しげなものではなく、現在の総理大臣や大統領の政策決定能力と同じである。
「魏志倭人伝」の(卑彌呼)と男弟との関係が事実だったとすれば、(卑彌呼)が神に祈って決定した政策を、男弟が行政の長として実行していた、ということになる。
こういう、男女の組み合わせによる祭政の遂行は、「記紀」にもよく出てくるし、昔の沖縄にもあったもので、「彦姫制」ともいわれる。
――ということなので、霊力を失ったというのは、政治的指導力が無くなったのとまったく同義である。
要するに戦争や政策についての正しい判断力が無くなったという意味である。
したがって、元々指導力を無くしていた(卑彌呼)が、日蝕によるショックでさらに指導力を失い存在感がなくなり、ついに死んでしまった――ということになる。
さらに、指導力の減退によって「殺されたのかもしれない」という「(卑彌呼)殺人事件」は、松本清張や樋口清之らが真剣に唱えていた説である。
じじつ、弥生期の古墳から、下腹部にたくさんの矢を射られて死んだ高貴で老齢の女性の遺骨が出てきているそうで、これは老齢になって霊力を失った――政治的判断力を失った――姫神子が、若い神子(巫女)を後継者にするために殺される風習があった証拠の一つ、ともされている。
「(卑彌呼)=(天照大神)説」では、(天照大神)が機織りの棒で攻撃された「記紀」神話の話をこれに結びつける事も可能だし、陰部を突かれたという一書での説話も、なにやら暗示的である。
・・・というようなことで、「(卑彌呼)=(天照大神)説」においては、日蝕にともなうこの《邪馬台国》の騒動を、シナ式におおまかに描いたのが「魏志倭人伝」であり、この事件全体を神話にしたのが「日本書紀」であるとし、ただ「日本書紀」の方は、神武天皇即位をずっと古いおめでたい年に設定するために、紀年を大きくずらしてある――とするわけである。
神代の実紀年とは? 
さいごに、(天照大神)と神武天皇の実紀年の推理であるが、これは、「(卑彌呼)=(天照大神)説」ではじつにはっきりしており、神話ではいかに古くとも、実在の(天照大神)は三世紀前半に活躍した女王ということになる。
一方神武天皇はその子孫だから、三世紀以後であり、この説の多くの研究家が、(神功皇后)紀にみえる――次章で述べるような――別の東征伝説を重視していて、神功・應神・仁徳の時代、つまり四世紀末から五世紀にかけて九州から大和へ進出した豪族の活躍の神話化だろう――としている。
もちろんこれへの反論も数多くだされており、外国の史料とも合わないし、また考古学的研究結果とも合わないという意見も多い。
以上の「(卑彌呼)=(天照大神)説」とは別に、「記紀」における紀年が、古代の天皇がすべて実在だったとしても実際の紀年とは合っていない――という研究は、明治時代からあり、明治の末期にはほぼ定説となっていた。
したがって、第一章でも記したように、大東亜戦争が終わるまでは、「記紀」に記された神武天皇の即位年をただただ信ぜよといわれていた――という説はまちがっている。
ただ、具体的な数値については、さまざまな意見があって、平成になっても結論はでていない。
おおまかには、神武天皇の即位が、もし史実だったとしたら、西暦一〜二世紀だろうし、第十代の崇神天皇の在位期間は、三世紀の半ばから後半だっただろう――といわれている。
((天照大神)が実在の女帝だったとして、後の天皇から遡及して――神武天皇の前も「記紀」の通りとして――計算してグラフを描き、(卑彌呼)の年代に一致する――と主張する研究家もいるが、著者には得心がいかない。相当な無理が感じられる) 
6-8 卑彌呼=天照大神説の確からしさ

 

本節では、「(卑彌呼)=(天照大神)説」の確からしさについての著者の見解をのべて、この章のまとめとすることにしたい。ただその前に、(大國主神)と(饒速日命)について、おおまかに触れておく必要がある。まとめるに当たって念頭に置くべき重要な神――または豪族――だからである。
(大國主神)の謎 
「日本書紀」では、国譲りの相手側の神は(大己貴神)であり、それは(大國主神)と同一神ともいわれ、また何代か前の別神ともされるのだが、同一神としての(大國主神)が有名で親しまれ、のちには大黒様にまでなってしまっているので、ここでは(大國主神)で統一する。
もともとが古い伝承で、豪族を神として表現したものだろうから、同一でも親子でもそれほどの問題ではない。
この興味ぶかい出雲の神についての、典型的な解釈はつぎのとおりである。
「記紀」の記述によれば、(大國主神)は(天照大神)の弟の素戔嗚尊の子孫だから、先祖は大和朝廷と同じことになるが、これは便宜的なもので、たぶん出雲(島根県)の地に本拠を持ち、山陰山陽の中国地方に昔から勢力をもっていた豪族(*1)だったのであろう。
この中国の豪族が九州大和一族の東方進出の妨げとなるので、幾度となく九州から討伐部隊を派遣したがうまくいかず、何回目かでやっと帰順させて、政治的軍事的権力を取り上げるかわりに出雲地方の行政と祭祀の名誉ある役割をあたえた史実が、さまざまな神話となって残ったのだろう。
(*1 神武東征神話の中で、神武天皇の軍勢が山陽の大阪寄りでかなり長期にわたって駐留していたとされているのは暗示的である。簡単には進軍できなかったのだ)
「日本書紀」の国譲り神話は既述したように実質的だが、「古事記」の(大國主神)の項は、白兎の話や死と再生などいくつものお伽噺的な挿話に彩られていて興味ぶかい。古代日本人の「心」が伝わってくるようだ。
ところで、この討伐部隊のなかに、(大國主神)一族に籠絡されて高天原に帰ってこなかった何柱かの神がいるが、そのうち最初に派遣されたのが、素戔嗚尊が生んで(天照大神)の養子になった五柱の神の二番目の天穗日命(あまのほひ)である。
この神はのちに(大國主神)との関係の深さを買われて、(大國主神)を祀る神社の祭祀をつかさどる役目を担うことになった。
つまり国を譲った神とその神を祀る神職の長とが元来姻戚関係でともに大和朝廷と先祖を一つにしているという伝承となっていて、豪族たちを帰順させるさいの大和朝廷の苦心を察することができる。
この天穗日命は出雲臣の祖とされ、のちに出雲国造(島根県知事に相当)になったが、大化改新のあとは、巨大な出雲大社の神官職となって現在まで続いている。
現在じつに八十三代めになる千家がそれである。
この出雲の豪族については、もちろん、別の意見もあり、たとえば、元々大和にいた豪族が追われて出雲に逃げて、そこで強国をつくって大和朝廷を悩ませたのだ――と主張する学者もいる。
出雲神話についての幾つかの解釈は(倭迹迹日百襲姫命)とも関連するので、第八章で改めて詳述する。
(著者も、出雲一族は饒速日命一族の前に《大和》の地を支配していた可能性が高いと感じている)
なお、神社のほかにも、この神話に関係すると思われる遺跡や出土品が出雲地方にたくさんある。
とくに、現在の鳥取県の島根寄りの大山町・淀江町の丘陵地帯にひろがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡は、発見された弥生遺跡では最大の集落とされ、面積が160haにも達し、有名な吉野ヶ里遺跡の四倍もある。一辺が1.5Kmと思えばよい。
初期の大和の都にも匹敵する広大さであり、考古学者を絶句させたと言われる。
この大きさからも、大和朝廷の先祖の強敵が中国地方にいたことは明白である。
こういうことからも、出雲が但馬と並んで「魏志倭人伝」の投馬(ズマ)国の候補とされることが理解できる。
(饒速日命)の謎 
つぎに補足しておくべきは、(饒速日命(にぎはやひ))である。
第6-3節に記したように、神武天皇は東征に出発するときから、目的地の《大和》に先に天降った(饒速日命)なる英雄がいることを知っていた。
この神話が史実を伝えているとすれば、出雲地方への再三の討伐軍のほかにも、九州の《山門》らしい大和朝廷の祖先の地から直接《大和》へ向かった一派がいたことを意味している。
この(饒速日命)については「古事記」には簡単にしか書かれておらず、「日本書紀」にもそう詳しくはない。
むしろ義兄にあたる長髄彦との争いが、主眼となっている。
しかし、「記紀」よりもすこし後の時代に(饒速日命)の子孫――と信じている物部系の人たち――によって書かれたとされる「先代旧事本紀」には、かなり詳細な記述があって、とうじの人たちの伝承がわかる。
簡単に記すと――
正式の名前は(天照國照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ))で、またの名は天火明命(あめのほあかり)などといい、その父神は天忍穗耳尊(あまのおしほみみ)とされている。
この尊は、素戔嗚尊が(天照大神)の宝玉から生んで(天照大神)の御子になった五柱の神の筆頭であり、出雲の神官の長となった天穗日命の兄にあたる。
そして母神は高皇産靈神(たかみむすび)の娘の萬幡姫(よろずはたひめ)である。
こう書くとややこしいが、これは要するに、(饒速日命)とは(天照大神)の孫として日向の高千穂の峰に「天孫降臨」した(瓊瓊杵尊(ににぎ))と兄弟だ――ということである。
天火明命は、「日本書紀」の一書と「古事記」では瓊瓊杵尊の兄となっているし、「日本書紀」の本文では瓊瓊杵尊の三男となっている。つまり海幸・山幸兄弟の弟である。
さらに、丹後の籠神社に伝わる国宝「勘注系図」でも、瓊瓊杵尊の兄弟とされている。
だから、天孫降臨の瓊瓊杵尊とまったく同格の神なのだ。
(「日本書紀」の本文で瓊瓊杵尊の三男となっているのは、正史としては(饒速日命)をあまり重視したくなかったからかもしれない。瓊瓊杵尊の兄では、格が高すぎると思ったのであろう。しかしそういう伝承を持つ豪族の意見も入れる必要があるので、一書として入れたのであろう)
こういう高貴の生まれの(饒速日命)は、やはり(天照大神)や高皇産靈神の仰せによって、二種の鏡・剣・さまざまな玉などからなる「十種の神宝」(またはトクサノカンダカラ)を授けられて、天磐船にのって河内の国に降臨し、そこから《大和》に進出した。
そして奈良市の鳥見に遷り住み、そこに昔からいた豪族の長髄彦の妹の三炊屋媛を娶って可美眞手命を生み、《大和》の首領として君臨していた。
つまり、兄の(饒速日命)と弟(または父親)の(瓊瓊杵尊)が、同時に、片や河内に降臨したのち大和へ進出、片や九州の日向地方へ降臨して子孫が日向から大和へと進出――したのだ。
((饒速日命)が最初に降臨したのは丹後地方で河内へはそのあとで遷ったのだという説を記す古文書「勘注系図」もあるが、それについては第九章で述べる)
その兄の所へ、弟の曾孫にあたる神武天皇こと(磐余彦尊)がやってきて、(饒速日命)の義兄にあたる長髄彦と熾烈な戦いを演じたわけで、(饒速日命)の心境は複雑だったろうが、戦況を判断して、長髄彦を排して御子の可美眞手命とともに神武天皇に帰順した。
神武天皇は(饒速日命)やその御子の心根を賞して深く寵愛した。そして(饒速日命)の直系の子孫は物部氏となって長く大和朝廷に仕えることになった。
(饒速日命)の子孫たち 
物部一族が、降臨以来の家臣である大伴一族と並ぶ古い大和朝廷の重臣となり、おもに軍備や警備を統括し、六世紀になって蘇我一族との権力闘争に破れるまで権勢を振るったことは、よく知られている。
物部(もののべ)という名は、武を担当する職業を意味し、その読みは「モノノフ」でもあり、武士を意味する「もののふ」と同義である。
(饒速日命)の子孫を名乗る豪族は物部以外にもいくつかあり、先述した熊野の豪族もそうで、物部にきわめて近い親戚とされている。
また「先代旧事本紀」にくわしい系図がのっている愛知・岐阜を本拠とする尾張一族も(饒速日命)の系統であるとされているし、丹後半島を根城にして日本海側の出口を抑えていた海部氏も、(饒速日命)を祖とする独自の系図を誇りにしている。
瓊瓊杵尊が降臨に際して「三種の神器」を授けられたのと同様に、(饒速日命)も「十種の神宝」を授けられたという伝承も興味ぶかいが、これはいったん神武天皇に献上され、のちに返却されて、物部一族の本拠で武器庫の役目も果たしていたとされる現天理市の《石上神宮》に、先の霊剣「布都御魂」と並んで奉納されて祭神となった。
(《石上神宮》には、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったときに使った剣も奉祀されている。また「十種の神宝」のなかにも剣がある。つまりこの神宮には、「草薙剣」以外の神話における著名な剣がすべて奉祀されているのだ。大豪族・物部の権勢を物語っている)
いずれにせよ、九州のある地域(たとえば山門)にいた大和朝廷の遠い先祖が、九州の日向に進出したり、山陽山陰に進出したり、大和に進出したり、幾度にもわたって様々な形で拡散したことがうかがわれる。
昔から指摘されていることだが、「記紀」の神代史のなかに「雪」がほとんど出てこないことも、大和朝廷の九州起源を連想させる。
まったく無いわけではないのだが、「あわゆきのような胸(古事記)」とか「あわゆきの如く蹴散らし(日本書紀)」といった表現が二、三箇所あるのみなのだ。
もちろん神話には各氏族の名誉を保つための後世の付会もあるだろうが、古い神社の伝承などとも考え合わせると、史実の反映もまた多く見られるように思われる。
とくに九州から畿内に進出したらしい(饒速日命)一族については、史実の可能性が高いように思う。
(饒速日命)を祭神とする神社も残されている。
「(卑彌呼)=(天照大神)説」の確からしさ 
さて、「(卑彌呼)=(天照大神)説」の確からしさについて、著者なりの結論を述べてみよう。
「《邪馬台国》九州説」と、「(卑彌呼)=(天照大神)説」とを結びつけ、ついでその《邪馬台国》またはその後継一族が東征して現在の天皇家の先祖になった――という説は、ほんとうにロマンにあふれており、なかなかの説得力がある。
《邪馬台国》が九州だという説も、距離を大幅に縮めて解釈すれば「魏志倭人伝」のとおりである。
(天照大神)の本名である大日靈女貴や天照大日靈女尊にしても、ヒミコ、ヒメコ、ピミコ・・・などと読めて、(卑彌呼)と共通している。
さらに「皆既日蝕」の件も迫力がある。
この説を踏み台にしたSF的な小説がたくさん書かれていることは、この説が日本人の心に響くものを持っているからであろう。
しかし、なんといっても考古学的な証拠に乏しいことが欠点である。
何人かの学者が九州の何カ所かの候補地を探訪して、ここに都をつくるのは困難だと直観した――と述べている。
また、《邪馬台国》の場所が一箇所に限定されず、人によってまちまちな意見が出されていることもいまいち信じがたい理由である。
「大和説」の場合には、多くの説のほとんどが現在の狭い意味での《大和》の地になるのだが、「九州説」では、まちまちなのである。
さらに、東征の結果が神武天皇なのか崇神天皇なのかあるいは(神功皇后)なのか、はたまた應神天皇なのかも、論ずる人によってまちまちである。
それから大もとに戻って、図4・3のような古い地図から考えた「魏志倭人伝」の解釈とも、結びつきにくいものである。
日蝕の問題にしても、計算が合っているとしてもその効果は意外に薄いのではないかと考えられる。
ちょっと天気が変だな――というていどで過ぎてしまうかもしれない。
(卑彌呼)の時代以後にも日蝕は何回もあったのだが、それで大騒乱が生じたという伝承は「記紀」にも他の史書にも見られない。
また「魏志倭人伝」の(卑彌呼)の死のところにも、天体変異の話はまったく無い。
したがって著者としては、この説はロマンとしては面白いし、われわれの想像をかき立ててくれるものではあるが、今後そうとうな考古学的証拠(科学的証拠)が出てこないと、にわかには信じがたい――と考えている。
吉野ヶ里遺跡や鏡の発掘ていどでは、大和にも同種のものがたくさんあるから、それだけでは科学的根拠にはならないであろう。
《大和》をはるかに上まわる新たな考古学的発見のみが、このロマンにあふれた説を支持するであろう。
もちろん、間接的な関係は、あってもおかしくない。
両者が別の事象だったとしても、伝説ができる過程で影響しあったことは、じゅうぶんに考えられるからである。
天橋立を参道とする《元伊勢籠神社》は、日本でもっとも重要な神社の一つです。
日本の古代史の謎を解くカギを握っている神社だといっても過言ではありますまい。
それは、(天照大神)のご神体「八咫鏡」を《大和》の土地の外に奉斎した最初の神社である(*1)――という事からも言えますし、(卑彌呼)の謎(および(饒速日命)の謎や(神功皇后)の謎)の解明につながると思われる「勘注系図/海部氏系図」(国宝)を伝世した神社であることからも言えるでしょう。
その《元伊勢籠神社》の宮司家は、天皇家についで日本でもっとも古い家系として知られており、現在の海部光彦宮司さまは、なんと第八十二代になられます。
その遠祖は記紀神話にまで溯り、出雲大社の千家さまと並ぶ驚くべき家系なのです。
その《元伊勢籠神社》の海部光彦宮司さまから、「卑弥呼と日本書紀」に対しまして、下のような心温まる推薦のお言葉を頂戴いたしましたので、ここにご紹介させていただきます。
(*1 現在の伊勢神宮よりも前に「八咫鏡」が祀られましたので、「元伊勢」を前につけて《元伊勢籠神社》と呼ばれます)
「邪馬台国論争の第二幕を先導する好著」元伊勢籠神社八十二代宮司 海部光彦
かつて日本古代史研究が国家的規制のはざまをさまよっていたが、終戦を契機としてそのタブーが漸く解放された。中でも新進豪腕の推理作家松本清張が、昭和三十年代に意欲作「陸行水行」をあらわして、その中で象牙の塔内に専断されていた邪馬台国論争を、今こそ天下のアマチュアに解放すべきであると、高々とのろしを打ちあげた。以来周知の如くこの論争は百家争鳴の観を呈し、功名心にはやるつわもの達が語呂あわせやパズルの謎解きに、フィクションと見紛うような手法をも加味して汗牛充棟の書をなしたのであるが、かえって邪馬台国論争はいよいよ八幡の藪知らずに迷いこんで、心ある人士の敬遠するところとなった。それから今日までいくそばくの月日を閲したであろうか。歴史解禁の終戦から六〇年近くもたった今、突如、光通信の権威で、工学博士の肩書を持つ在野の異色史家○○氏によって、「卑弥呼と日本書紀」と銘打った目のさめるような大著が公刊された。六〇〇頁二段組の重厚な本を開くと、この論争に必要なあらゆる基礎的な項目が極めてやさしい文章で整然と網羅され、読者はコンピューター論理できたえられた著者の、知のメモリーの玉手箱を次々にあけてゆくようなぞくぞくした興味で、つい読み進んでしまう魅力に満ちている。又今までの論争が、位置、所在論に終始していたのに、○○氏は邪馬台国の内面を神祭りの巫女名まで解析して、古代建国の意義論にまで踏みこんでいる。これ程の啓蒙的な力作が戦後の論争の早期に若し出ておれば、邪馬台国論争の流れはだいぶん変わっていたのではないかとさえ思われる。私自身、二千年余続いた家系で国宝史料を持つ身として、本書の出現に天意を感じ、平和ボケしたと云われる日本人の起死回生の妙薬の一つになる事を祈るものである。

たいへん有り難い推薦のお言葉でして、恐懼感激いたしました。また海部光彦さまは、貴重な数種類の文献をお送りくださったのみならず、《元伊勢籠神社》の社務所に「卑弥呼と日本書紀」を置いて頒布を図ってくださっておりまして、さらに感激です。過日、神道にお詳しい備中處士さまが《元伊勢籠神社》に参拝なさったおり、それをご覧になって驚かれたそうです。
「天の真名井の水とマナの言霊の神秘に就いて」元伊勢籠神社八十二代宮司 海部光彦
当神社の奥宮の境域は古来真名井原と呼ばれています。そこに悠遠の神代から豊受大神が海部宮司家の大氏神として祀られ、更に崇神朝には倭(やまと)から幽契(かくれたるちぎり)に依って天照大神がお遷りになって、両大神を同殿に祀って吉佐宮と称しました。
ヨサとは天吉葛(あめのよさずら)の省略で天然自生のひょうたんを意味し、これは神に水を捧げる器として古代には最も大事にされました。さてそのお水ですが、本宮に祀られている彦火明命(ひこほあかりのみこと)(天照大神の御孫で、海部宮司家の祖神)の御孫(三代目)である天叢雲命(あめのむらくものみこと)が、地上から天上の至高聖所である高天原に参い上がって、天祖のおつかいになる神水を琥珀(黄金)の鉢に入れて地上に降り、それを奥宮真名井原に湧く泉に和した(合わせた)のが天の真名井の水で、一に天地根源真名井の水とも呼ばれました。このように神秘に包まれているマナ井に、もう一つ逸してはならない伝承があります。それは天照大御神と御弟の須佐之男命が、高天原の天安河の最も聖域である即ち天の真名井を挟んで、誓(うけ)ひ(神の前で二者が物事の正邪を占う行為)を行い、真名井の息吹の狭霧――聖なる水気を媒介として皇統を嗣がれる五男三女神が誕生された事です。この五男神の内の最初の長男神の又ご長男が彦火明命に当たります。
こうして当神社の奥宮のある真名井原は、天上の聖域真名井の地上の雛形であると代々伝えられて来ました。全国に真名井の地名は十数カ所ありますが、伊勢神宮の故地としての真名井原の地名は当宮のみです。
そうして神代(最古代)から真名井原の祭祀を司って来たのは、誠に恐れ多い事ながら、天照大御神の血脈につながる海部(あまべ)宮司家が、現存最古の国宝海部氏系図に裏づけされるように、現代まで直系八十二代にわたってその伝統を守って参りました。
そて茲でマナ井信仰の頭の音である“マナ”について、世界的な流れを概観してみたいと思います。そもそも“マナ”とはメラネシアの土語で、「打ち勝つ」「勢力ある」などの意味で、未開社会の宗教における、非人格的な神秘的・超自然的力を指し、人間・霊魂・動植物・無生物にこもり、移転性と伝染性を特色としています。又マナはいかなる物にも固着せず、ほとんどあらゆる物に伝えられる性質を有し、それ自体としては非人格的でありながら、常にそれを支配する人格と結びついていると云われます。その範囲は南太平洋の島々で、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島、ニューカレドニア等となっています。
次に“マナ”の最も有名な事例を眺めてみる事にします。それは今迄信仰の書として重んじられ、更に現下歴史書としても注目されて来ている、旧約聖書の出エジプト記第十六章に出ている“マナ”です。そこでは昔イスラエル民族を霊的指導者モーゼが率いて、荒野をさまよって民が飢えて時、天からマナと云う白い液状のものが降って飢えをしのいだと云う奇跡が語られています。
次にユダヤの三種の神器と云うものがあります。これに先立って我々大和民族にとって皇統のシンボルであり、根源の霊的遺伝子とされる三種の神器は、申すまでもなく「八咫鏡・八坂瓊勾玉・天叢雲剱」であります。一方イスラエルのそれは、「モーゼの十戒石・マナの壺・アロンの杖」の三種と云われます。この内、マナの壺に入っているマナは、当神社の奥宮真名井原に古代に湧いていた天の真名井の水の訓とたまたま同音であり、又飲料として、食物としての或る種の共通性があるかも知れません。
今より三〇年位前から、ユダヤの十部族の内の一部族が古代に日本列島に来ているのではないかと考える一団の熱心な考古者が増え始め、当神社にもその方々が沢山押し寄せ、真名井とマナとの発音の関連性に就いて随分質問されましたが、所詮偶然の一致と答える外はありませんでした。唯、日本の古代に於いて奈良の正倉院にオリエント(古代東方)の目もあやな工芸品がシルクロードを経て伝来していますように、日本の縄文時代末期から弥生時代にかけて、古代世界の優秀な文化が太陽崇拝と東方憧憬の大潮流に乗って、極東の小島日本に東遷し、或いは漂着したのではないでしょうか。当神社の至宝である、前漢(紀元前)と後漢(紀元直後)の伝世鏡二面(*2)は、黎明日本の活きた証拠と申してもよいかと存じます。何れにしても限りなく懐の深い日本古代の神秘は、物質ぼけと技術ぼけの日本と世界に対して、不世出の哲人アインシュタインが、・・・世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は感謝する。我々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・との遺言が、雷の鳴り響くように、強く迫って来る日を確信するものであります。
(*2 この二面の古代鏡は、まさに奇跡の伝世鏡と言えます。紀元前の鏡そのものは、いくつかの遺跡から発掘されていて、日本列島が紀元前後から大陸と交流のあったことを示していますが、遺跡ではなく神社に代々大切に保存されてきたものは、他に類例が無いと思います。恐ろしいまでの長期にわたって同じ神社に奉斎されてきたのです。この鏡につきましても、「勘注系図」などとともに、本連載の後の章で詳述いたします) 
 
第七章 神功皇后説の検討

 

帯姫(たらしひめ) 神の命の 魚釣らすと 御立たしせりし 石を誰見き
〔山上憶良(万葉集869)〕
「神功皇后さまが魚釣りのためにお立ちになった石を誰が見たのだろうか」
乙女らが 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは
〔柿本人麻呂(万葉集501)〕
「乙女たちが袖を振るのではないが、布留の石上神宮の瑞垣のように、長年思い続けていました。(石上神宮に歌碑が立つ著名歌)」
かくてなほ かはらずまもれ よゝをへて このみちてらす 住吉の神
〔後鳥羽上皇御製〕
「(神功皇后を助けた住吉大神が祀られている住吉大社に後鳥羽上皇が参詣されたときの御製。住吉大社は神功皇后が感謝して住吉大神三柱を祀り、のちに神功皇后自身も祀られた神社)」 
7-1 第十四代 仲哀天皇の悲劇

 

(神功皇后)の不思議と干支による紀年推定 
この章では、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」を検討するが、これはとても面白い説である。
なにが面白いかというと、この説を最初に主張したのが「日本書紀」の編纂者そのもの――あるいは少しあとで注釈を加えた人たち――だからである。
つまり千何百年も前からある、じつに古い説なのだ。
以下に「日本書紀」の神功皇后紀(紀は「日本書紀」に書かれていることを示す)の概要を記すが、その内容はじつに興味ぶかいものがある。
一般に皇后についての記述は各天皇紀の一部としてあるだけで、一行か二行ですませている場合が多い。
しかし(神功皇后)にかぎっては、皇后だけで大きな一つの章となっており、しかもその長さが皇后のご主人にあたる仲哀天皇紀の三・七倍、また皇后の皇子の應神天皇紀の一・六倍もあり、その長さだけでも異常なのだ。
女性の天皇について多くの事柄を書いてある章は、のちの推古天皇などにも有るが、「皇后のみ」についてこんなにも多くの頁を費やしている例は、他には見られない。
それから、神という文字が謚号の頭についている点も興味ぶかい。
漢風謚号は「記紀」が編纂された直後につけられたと考えられるので、そのころの人々の考え方がその名前によって分かるのだが、天皇の謚号ですら神がついているのは神武・崇神・應神の三天皇のみなのに、皇后をたたえてこんな名前で尊称しているのだ。
しかも「頭」につけられている。
天皇でも「神」が「頭」についているのは神武天皇のみなのに――である。
また「魏志倭人伝」や「百済記」の引用を再三おこなっている点も、興味津々である。
(「日本書紀」の中に「倭の女王」などという言葉が出てくるので驚くのである)
そういう神功皇后紀であるが、前後の仲哀天皇紀や應神天皇紀とのつながりについて多くの議論がなされているので、この三つを、「日本書紀」をもとに、おおまかに記してみよう
なお、紀年について注記しておく。
本章では推定紀年を各所に記すが、その一つは「一二〇年加算」で、これは「日本書紀」などの日本の史書に記された紀年を、干支二回り違えてあるとして一二〇年加えると実際と一致するという考えである。
干支による表現は六〇年で一巡――つまり還暦――するが、これを二巡した一二〇年だけ、実際の紀年と違えて古く見せているので、それを補正しようということである。
この方法は、どの時代でも通用するわけではなく、古い時代はもっと違っているだろうし、新しい時代になると「日本書紀」の紀年と実際とが一致してくるので零年加算となる。
しかし(神功皇后)から應神天皇にかけての時代では、一二〇年を加算すると近隣国の史料と矛盾しないことが多いので、かなりの信憑性があるようである。
もう一つの推定法は、伝えられている崩年干支からその実紀年を推定する「崩年干支推定」である。
たとえば、應神天皇の崩御年の干支は甲午(きのえうま)で、これは西暦にすると二七四年、三三四年、三九四年、四五四年・・・などだが、各種の史料や考古学的知識などから、もし干支が正しいとすると、西暦三九四年の可能性が高い――と推定するのである。
もちろん「一二〇年加算」も「崩年干支推定」もごくごく大まかな話なので、これらを元に数年単位のこまかな議論をすることは避けねばならない。
第五十四代天皇までの、崩御の実質紀年の推定数字は、のちに付録に記す。
第十四代 仲哀天皇の物語 
国風謚号 足仲彦天皇(たらしなかつひこ)
漢風謚号 仲哀天皇
〔在位・西暦一九二年〜二〇〇年〕+
〔降誕・西暦一〇九年/崩御・西暦二〇〇年〕+*
〔皇宮・穴門豊浦宮(あなととゆらのみや/山口県突端の関門海峡近く)橿日宮(かしひのみや/九州の福岡市)〕
〔御陵・長野陵(大阪府南河内郡)〕
    +皇紀は西暦に六六〇を加えればよい。
    *崩年干支推定は西暦三六二年
第十四代の仲哀天皇は、その前の成務天皇とともに、わずかな記述しかない天皇である。むしろ(神功皇后)の夫として知られるといったほうがよい。
 第十代  崇神天皇
 第十一代 垂仁天皇
 第十二代 景行天皇
――この三代の天皇紀は記述も豊富だし考古学的にもいろいろと話題がある。
しかし第十三代成務天皇になると、国・県・郡・邑などの境界をきちんとしてその長となる者を定めて諸国を安定させた――という功績が無造作に書かれているていどである。
おそらく、前三代によって大和朝廷の権威が確立し、制度を充実させる時期に入ったからであろう。
成務天皇は景行天皇の皇子で、同じ皇子の日本武尊とは異母兄弟にあたる。
日本武尊は景行天皇より先に薨去したので、別の皇子が即位したのだ。
日本武尊は実質的には天皇だったのではないか――との推理もあり、「風土記」には倭武天皇または倭健天皇として記されてもいる。
つぎの第十四代には、本来なら成務天皇の皇子が即位するのだろうが、男子がいなかったので、甥にあたる日本武尊の第二子が即位したとされている。
不運の英雄だった日本武尊の御子の顔を立てたらしいのだが、これが仲哀天皇である。
母親は第十一代垂仁天皇の姫で兩道入姫命(ふたじのいりびめ)である。
以下編年的に主要な事項を記す。
(以下の各紀年は、上が皇紀を西暦になおした数字であり、下がそれに一二〇年加算した数字である。この数字は単なる加算であって、それが実紀年だと主張するものではない。ただ、実紀年推定の手がかりにはなると考えている)
仲哀天皇元年(西暦一九二年/三一二年)
〔白鳥も焼けば黒鳥!〕
先代の成務天皇崩御の翌年に即位。
この年の冬、白鳥になって虚空に消えた父の日本武尊を偲んで、人々に白鳥を献上させたが、北陸道(図4・1参照)の人が献上するつもりで持ってきた白鳥を、異母弟にあたる蒲見別王(かまみわけのみこ)が、「白鳥も焼けば黒鳥だ」と凄いことをいって奪ったので、怒った仲哀天皇は兵をやってこの異母弟を誅殺する。
皇位をめぐって異母兄弟どうしの軋轢があったことをうかがわせるが、「日本書紀」にはこういった皇室の汚点ともなるような事件が、じつに率直に書かれている。
仲哀天皇二年(西暦一九三年/三一三年)
〔(神功皇后)の奇跡が始まる〕
正月――
第九代開化天皇の玄孫にあたる氣長足姫尊(おきながたらしひめ)を娶って皇后とする。
これがすなわち後の(神功皇后)である。皇后の母親は新羅の王子の子孫ともいわれている。
なおその前にお妃が産んだ皇子が何人かいて、そのうちの二人が、仲哀天皇の死後に皇后に背いて事件を起こす。
二月――
福井県若狭湾岸の敦賀に行幸して仮宮を建てて滞在する。
敦賀から丹後半島にかけては、日本海を渡って朝鮮と交通するときの要地で、大和朝廷としてはぜひ支配しておきたい土地であった(*1)。
それまでは先代の成務天皇の皇宮のあった滋賀県大津市に宮をかまえていたのだが、朝鮮半島と連絡しやすい場所に遷ったことになる。
なお成務天皇より前の都はほとんどが《大和》の地である。
(*1 前に記したことがあるが、この敦賀から丹後半島にかけての若狭湾一帯の地域から奈良県の《大和》まで――遺跡発掘時の新聞報道だが――烽火通信の施設が古墳時代にすでに出来ていたという話もある。いずれにせよこの仮宮は大和朝廷にとっての重要拠点に建てられたのだから、その行幸は決して不思議なことではない。これより前、崇神天皇の時代に、「三種の神器」の「八咫鏡(天照大神の御霊)」を《大和》の地から丹後の天橋立にお遷ししたのも、これと似た理由があったと想像される。日本海への玄関口を抑えていた丹後の豪族海部氏らを配下に置くためである。ここの海洋豪族は、のちに、(神功皇后)に従って新羅遠征に従軍し、軍功をあげて恩賞を与えられている。現在の元伊勢《籠神社》の宮司・海部氏の先祖は、この時に(神功皇后)から海部直(あまべのあたい)なる姓(かばね)を恩賞として与えられたのである。さらに第二十一代雄略天皇の御代に、丹後の地の大氏神である(豊受大神)を伊勢の外宮にお祀りしたことも、朝廷にとっていかに若狭湾周辺とその地の海洋豪族が重要だったかを表しているのであろう。*2)
(*2 上の注で述べたことは、「《邪馬台国》大和説」においての九州から《邪馬台国》への経路が、瀬戸内海ではなく、日本海の沿岸を通って若狭湾に上陸して《大和》に向かうものだった――という笠井新也らの説を補強しているが、この問題はまた後に詳述する)
三月――
南海道(図4・1参照)を巡幸したとき、九州の熊襲が背いて朝貢しなかったので、征伐するために九州方面に居を移すことにし、皇后と穴門(あなと)で落ち合うことにした。穴門とは山口県の下関市のあたりである。
六月――
皇后が敦賀を出発して船上で食事をしていたとき、鯛がたくさん集まってきたので、その上にお酒を注ぐと、鯛が酔って浮かび上がり、漁師が大喜びした。
(神功皇后)の奇跡譚の始まりである。
九月――
落ち合った天皇と皇后は、宮殿を穴門に建てた。これが仲哀天皇の第一の皇宮、穴門豊浦宮(とゆらのみや)である。
仲哀天皇八年(西暦一九九年/三一九年)
〔皇后による神託と熊襲征伐の失敗〕
正月――
いよいよ九州北部、いまの福岡県に移動する。
ここで、北九州市の西方の岡県主(おかのあがたぬし)の祖の熊鰐(わに)や、伊都(いと)――すなわち「魏志倭人伝」の伊都国――の県主の祖の五十迹手(いとて)の迎えを受けたりして、儺県(なのあがた)――すなわち博多湾岸で「魏志倭人伝」にある奴国(なこく)――の橿日宮(かしひのみや)に落ち着く。
これが仲哀天皇の第二の皇宮で、いまの福岡市東区にあったらしい。
九月――
熊襲を討とうと群臣に相談するが、神が皇后に乗り移って、「不毛の地の熊襲など討ってもしかたがない。それより宝がたくさんある新羅国に向かうべきだ。私を祀れば戦わずして帰服するだろう。そうすれば熊襲も自然になびく」と神託を述べる。
この時点ですでに(神功皇后)が物語の主人公になっているのだが、仲哀天皇は山に登って遠くを見て、「海が見えるだけでそんな国は見えない。それに、先祖の天皇たちは多くの神々を祀ってきたのに、さらに別の神がいるのはおかしい」といって神託を信じようとしない。
皇后はまた神憑りになって、「神を信じないのであればお前は国を保つことはできない。しかし皇后はいま身ごもっているので、その御子がその国を得るだろう」と神託を告げる。
仲哀天皇はそれでも信ぜず、熊襲を討ちに行くが、失敗してしまう。
ここで(神功皇后)の神託にあった「宝」とは何か、であるが、玉や鏡の類ではなく、日本ではなかなか採取できない「鉄」であったろうという説が有力である。
じじつ(神功皇后)五十二年――一二〇年加算で西暦三七二年――に、百済王が大和朝廷に朝鮮の鉄の献上を誓う話がある。
また前にも述べたが、「三国志・東夷伝」にも、倭人が鉄を求めて朝鮮半島に来ている――という記述がある。
仲哀天皇九年0(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔天皇の不審な急死〕
二月――
この月の五日に、仲哀天皇は突然身体が弱り、翌日崩御されてしまった。また、熊襲の矢に当たったのが原因だという別説が併記されている。
ただし「古事記」には、もっと不思議な話が記されている。
皇后と重臣武内宿禰(たけうちのすくね)の二人の立ち会いで天皇が神託を得るための琴を暗がりで弾くと、皇后に憑依した神が西へ行け――と託宣する。
しかし天皇は西は海ばかりだ、として熊襲征伐にこだわる。
神は怒って、「この国はお前が統治すべきではない。お前は黄泉の国へ行け」と述べたので、武内宿禰は再度琴を弾くように天皇にすすめ、天皇はしぶしぶ燈火を消して琴を弾いたが、しばらくして音が聞こえなくなった。
心配して明かりをつけると、天皇はその場で崩御されていた・・・という話である。
武内宿禰とは、第八代孝元天皇の孫または曾孫にあたるので先祖は(神功皇后)と同じであり、第十二代景行天皇の時代から活躍を開始し、第十三代成務天皇と同じ日に生まれたため同天皇に寵愛されて大臣(おおおみ)になり、仲哀天皇の時代になってからもそれ以後も、百年以上にもわたって歴代天皇の大臣として朝廷で権力を振るった謎の重臣である。
厳密にいうと、景行・成務・仲哀・神功・應神・仁徳と六代にもわたって天皇の寵臣であり続けた。
「記紀」の年代のままだと二百年も働き続けたことになるが、崩年干支を元に実働を推定すると七十年ほどになるので、ありえない話ではない。
もちろん政治上手な一族が単一名で記されている可能性もある。
この異様な急死事件については、武内宿禰が天皇を暗殺したのではないか――という説が古くから唱えられている。
明治天皇の先代の孝明天皇がヒ素中毒に似た症状で不審な急死をとげた事件が、明治の重臣岩倉具視の謀略による暗殺と推理されているのと似た、奇怪な事件なのである(*1)。
緊急事態を処理するため(神功皇后)と武内宿禰は相談して、武内がご遺体を船で穴門豊浦宮に運び、燈火も用いずに極秘裏に仮葬し、人民には喪を秘した。
また万一の事態に備えて、中臣・大三輪・物部・大伴という《大和》の豪族の首領である四重臣に命じて宮中の警備を厳重にした。
物部・大伴は神武以来の重臣だし、中臣は藤原鎌足ら藤原一族の祖でもあり、大三輪は日本最古の神社とされ卑彌呼に関係するとも想像される《三輪山》に関係する一族である。
つまり朝廷に協力する古代《大和》の代表的豪族が九州に集まっていたことになる。
これで仲哀天皇紀は終わりだが、仲哀天皇が(神功皇后)を介しての神託に背いて死んでしまうくだりが印象的である。
完全な女性上位なのだ。
また皇后がこの段階ではやくも再三にわたって霊感を発揮していることも印象に残る。
さらには、皇后と武内宿禰の仲が、天皇との仲よりも親密であることも、何やら暗示的である。
(*1 もしどちらも暗殺だったとすれば、対外政策についての意見が政界の実力者と異なる天皇が排除された事件であり、排除の理由も似通っている)
仲哀天皇が崩御されたこの年は、一二〇年加算では三二〇年になるが、崩年干支である壬戌(ジンジュツ)をとると、前記のように三六二年になる。
かなりの開きがあるが、この時代ではまだ加算は一二〇年より大きいとも考えられるし、また崩年干支推定に無理があるとも考えられる。
しかし、前後の関係から、南原次男は実際の崩年は干支推定三六二年に近いのではないかと、推理している。
たしかに、三二〇年崩御では、(神功皇后)の治世が長すぎるように思われる。 
7-2 朝鮮の史書「三国史記」と「好太王碑」にのこる神功皇后の事績

 

百年の空白と朝鮮史書の中の日本 
(卑彌呼)の後継者(臺與)が使者をシナ王朝に派遣した西暦二六〇年代から、三六〇年代の(神功皇后)による百済との交渉や派兵まで、ほぼ百年のあいだ、筋のとおった大陸・半島との交渉記録は、内外のどの史書にも記されていない。
あるのは伝説的なものだけである。
しかしこの百年――垂仁・景行・成務各天皇の御代――の大和朝廷は、シナ王朝の権威を借りずに日本列島の九州から東北までの地方豪族を帰順させることに腐心しており、また制度・境界・神社などによる列島統一の安定化に懸命になっていた時代なので、列島外との交渉が途切れていたのは、無理もないことである。
じつは朝鮮半島でも同じ時期に内部での再編が進み、楽浪郡・帯方郡などシナ王朝の植民都市が亡び、三韓も姿を変えて、半島を牛耳るのは北の高句麗、南東の新羅、南西の百済、および日本人が多くいた任那の四つの強国になっていった。
大陸でも三国時代の魏・蜀・呉がつぎつぎに滅びて西晋・東晋などが興っては消えた混乱期であった。
(大和朝廷としても、大陸のどの王朝と外交してよいのか分からない状態だったかもしれない)
したがって、空白の百年の終わりに近い西暦三五〇年ごろには、日本列島を統一した大和朝廷と、朝鮮半島を分割支配した高句麗・新羅・百済三国とが、半島南端部の任那を間にして複雑な利害関係を持ち、あるいは激突する要因ができあがっていた――ということになる。
さて、話を(神功皇后)にもどそう。
「日本書紀」における(神功皇后)とその皇子・應神天皇や孫の仁徳天皇についての記述の多くは、朝鮮との軋轢や出兵に費やされている。
その信憑性については、昔からいろいろな議論があるが、それを考えるには、朝鮮三国の正史である「三国史記」や、高句麗の王・好太王の事績を刻んだ「好太王碑(こうたいおうひ)」の碑文との比較が重要となる。
そこで「日本書紀」の本文に入る前に、この二つの史料で日本に触れている箇所を、抜粋しておこう。
「三国史記」は十二世紀に編纂された、高句麗・新羅・百済三国の史書である。
「好太王碑」とは、西暦四〇〇年前後に活躍した高句麗の王の業績を巨大な石に刻んだ碑文のことで、明治時代に日本人が発見して、古代史界に衝撃をあたえた超A級の史料である。
「三国史記」は十二世紀の編纂で「記紀」よりずっと遅いから疑問も多いし、また「好太王碑」は死の直後の顕彰のための碑文だから、美化もされているし、文章も短い。
しかしそれでも、「日本書紀」の記述の信憑性を判断するうえで、重要な史料となっている。
とくに、実紀年推理には欠かせない。
以下の抜粋の紀年はすべて西暦である。
新羅本紀(新羅の編年史) 
前五〇年 倭人が辺境を侵したが、すぐ帰った。
 一四年 倭の兵船百余隻が海辺に来たが防いだ。
 五七年 日本の丹後地方から渡ってきたらしい日本人が第四代の王・脱解尼師今(トヘニサコム)になった。
一二二年 暴風のとき倭人が攻めてきたとの噂。
一二三年 三月に倭国と講和した。
一五八年 倭人が贈り物を持って修好を求めてきた。
一七三年 倭の女王(卑彌乎)が修好を求めてきた。
(このあたりの紀年には疑問もあるが注目すべき記述である。若いころの(卑彌呼)だったとしても矛盾はないからである)
二〇八年 倭人が侵入したので防いだ。
二三二年 倭人が城を包囲したが将軍の于老(うろう)がうち破った。
二三三年 倭人が東辺を侵した。また于老が倭人の船に火をつけて破った。
二四九年 倭人が反撃にきて于老を殺した。
二八七年 倭人が一千名の百姓を捕虜にした。
二九二年 倭人が城を奪ったが、取り戻した。
二九四年 倭人が城を攻め、新羅は勝てなかった。
二九五年 百済とともに倭国を攻めようとしたが、海戦に不慣れで実現しなかった。
三〇〇年 倭国と使者を派遣しあって修好した。
三一二年 倭国の王から、皇子の妃を求めてきたので、急利という人物の娘を倭に送った。
三四四年 倭国がまた妃を求めてきたが、断った。
三四五年 倭国の王が国交断絶を宣言してきた。
三四六年 倭人が城を包囲したが、食糧が尽きて退くのを待って追撃した。
三六四年 倭人が大挙して攻撃してきたので、草人形数千をつくって騙し、伏兵が待ち伏せして皆殺しにした。
三九三年 倭人が城を包囲したが、堅守し、追撃した。
四〇二年 倭国と修好し王子の未斯欣(みしきん)を人質として倭国に出した。
四〇五年 倭人が攻めてきたが、王が破った。
四〇七年 倭人が東辺と南辺を侵した。
四〇八年 倭人の基地のある対馬を攻撃しようと計画したが、海を渡るのは無理で挫折した。
四一八年 人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
四三一年 倭人が東辺の城を包囲したが退いた。
四四〇年 倭人が東辺と南辺に侵入した。
四四四年 倭人が城を包囲して食糧が尽きて退いたとき、王が追撃したが逆襲され、山に逃げて濃霧で助かった。
四五九年 倭人が兵船百余隻で東辺に来たが破った。
四六二年 倭人が城を破り、一千余名が捕虜になった。
四六三年 倭人が侵入したが退いた。
四七六年 倭人が東辺を侵したが破った。
四七七年 倭人が侵入したが破った。
五〇〇年 倭人が城を攻め落とした。
六七〇年 倭国が国名を日本と改めた。日の出る所に近いからだ――と自ら述べた。
(新羅本紀には弥生時代から天智天皇のころまでの対日関係が継続的に記されているので興味ぶかい。人質の名前なども「日本書紀」と共通している)
百済本紀(百済の編年史) 
三九二年 高句麗の好太王に攻められて多くの城が落城した。
三九七年 阿花(あか)王が倭国と修好し、太子の直支(とき)を人質に出した。
四〇三年 倭国の使者が来たので厚遇した。
四〇五年 阿花王が死んだので直支は帰国を希望し、倭国は兵士百名で護送してくれた。
四一八年 使者を倭国に派遣して朝献した。
四二八年 倭国から随行五十人もの使者が来た。
六〇八年 倭国へ行く隋の使者が百済を通過した。
六五三年 倭国と修好した。
六六二年 唐・新羅連合軍と戦うため倭国と高句麗に援軍を請うた。
六六三年 滅亡した。
(百済本紀には古い記録は無いが「日本書紀」や「好太王碑」との対応は良好である)
列伝(人物伝) 
二五三年 新羅の于老(うろう)は第十代の王の王子だが、倭の使者の接待役になったとき、「倭の王を奴隷にし王妃を炊事婦にする」といったので倭の王(大和朝廷軍?)が怒って攻めてきて、于老は殺された。
その後第十三代の王(西暦二六二〜二八四年)のときに、于老の妻が倭の使者を酒に酔わせて焼き殺した。怒った倭人が攻めてきたが、勝てずに引き返した。
(新羅史の二三三、二四九年に対応している)
四一二年 人質の未斯欣(みしきん)を取り戻すために倭に使者を送り、倭人を騙して帰国させたが、使者は追ってきた倭兵に捕まって処刑された。
このとき次の話を新羅は知った。
百済の使者が倭に来て「新羅と高句麗が共謀して倭国を侵そうとしている」と述べたので、倭は兵を出して新羅の国境外に巡回させたが、これを高句麗の軍勢が捕らえて殺した。
(新羅本紀の四一八年に対応するとともに、「好太王碑」とも「日本書紀」とも対応している)
「好太王碑」(高句麗の好太王の事績 *1) 
高句麗本紀には、シナ王朝や北方の国々、および百済や新羅との抗争の記録はあるが倭国や倭人は――たぶん――出てこない。
好太王の治世の西暦三九二〜四一三年にも、百済を攻めた話はあり、その百済は日本との連合軍だった可能性が高いが、倭人の明確な記録はない。
そこで、好太王(こうたいおう)碑文の記録を元に大体の様子を記す。
三九一年 倭が海を渡って、高句麗に朝献していた百済や新羅を破って配下にした。
三九六年 好太王が倭とむすんだ百済を討った。
三九九年 倭人が新羅の国境に満ち、城と池を破壊したので新羅が助けを求めてきた。
四〇〇年 高句麗軍が新羅の城に至ると、倭兵がその中に満ちていた。一度は退けたがまた占領されたので再度追い払った。
四〇四年 倭が高句麗支配下の帯方にまで侵入したが好太王自ら倭兵を壊滅させた。
四〇七年 高句麗軍が倭軍を破って戦果をあげた。
(これも「日本書紀」とよく暗合している。すくなくとも大きな矛盾はない)
以上の各紀年のうち、「好太王碑」のものはきわめて正確だとされている。また「三国史記」もシナ正史をひとつの基準にしていて、事件の内容はともかくとして、時代は比較的正確らしい。とくに四世紀以降は信憑性が高い。
ざっと見て、新羅は日本や高句麗・百済とのいざこざが絶えず、百済はつねに新羅と高句麗に攻められるので日本を頼って味方につけようとし、また高句麗は日本の配下になった百済や配下になりそうな新羅を攻めて日本軍を追い返しながら領土拡張をはかり、日本は半島南端の任那を死守し拡大しようとはかる――といった複雑な国際情勢がわかってくる。
(*1 「好太王碑」の原史料については、東京国立博物館が一九九六年に出した「高句麗 広開土王碑拓本」が有益である。明治時代の碑の写真や明治初期から昭和初期にかけてとられた拓本四種類の大型の写真(80センチ×60センチ)があり、事実のみを淡々と記した簡潔な解説がある)
またもうひとつ注目されるのは、新羅本紀にある西暦二〇〇年前後の記述で、若いころの(卑彌呼)の時代にすでに日本人の集団や日本からの使者が新羅(辰韓)のあたりにまで進出していたことがわかる。
(卑彌呼)の使者が来たという記述も注目される。
九州の国々(豪族たち)が《邪馬台国》の支配下にあったという「魏志倭人伝」の記録と照らし合わせると、この時代の使者や軍勢は(卑彌呼/邪馬台国)が諸国に命じて派遣した可能性がじゅうぶんにある。
また于老なる将軍が登場する事変は、(卑彌呼)没年前後――西暦二五〇年前後――に起こっているが、話がとても具体的で迫真力があって興味ぶかい。
二五〇年から三〇〇年にかけての記述も、崇神・垂仁・景行三天皇の時代に照応しているようである。
一方(卑彌呼)よりずっと古い時代の倭人の記録は、倭奴国が後漢から金印をもらったり、倭王帥升が後漢に使者を派遣したりしたころのものなので、九州の奴国や伊都国、あるいは出雲・但馬・大和などの勢力が独自に進出していた史実の反映だろうと推測できる。
大和朝廷の指示による正規の出兵がどのていどだったかは別にして、海を渡った日本人の勢力が朝鮮半島南部で――(卑彌呼)の時代よりずっと古くから任那周辺で――活躍していたことを十分にうかがわせる新羅本紀である。
こういった「三国史記」や「好太王碑」を参考にしつつ、「日本書紀」の(神功皇后)の物語に入ることにしよう。 
7-3 男装の神功皇后 疾風怒濤の海外遠征

 

(神功皇后)は應神天皇の摂政だが、実質的には天皇と考えられるので、ここでは仮に「第十四・五代」と記すことにする。以下、その(神功皇后)の物語である。
第十四・五代(神功皇后)の物語(1)  三韓征伐の成功 應神天皇の誕生
国風謚号 氣長足姫尊(おきながたらしひめ/諱でもある)
漢風謚号 神功皇后
〔摂政在位・西暦二〇一年〜二六九年〕
〔降誕・西暦一七〇年/崩御・西暦二六九年〕*
〔皇宮・磐余若桜宮他(いわれわかさくらのみや/奈良県桜井市池之内・他)〕
〔御陵・狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ/奈良市山陵町)〕
*崩年干支は不明だが推定西暦三七五年前後
(神功皇后)の父親は、第九代開化天皇の曾孫にあたる氣長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)で、母親は葛城高{桑頁}媛(かつらぎのたかぬか)である。
父親の名の氣長は近江地方の地名で、開化記によれば開化天皇の玄孫だが、たいした違いではない。
第二章でも述べたが、氣長は息長とも書き、息が長い――つまり海に長くもぐっていられるという意味だと考えられており、海洋に関係のふかい一族を暗示している。
母親の名の{桑頁}は額に似た意味の漢字で、葛城も高{桑頁}も地名である。図5・2でいうと左方の山地に沿った部分である。
注目すべきはこの母親で、「古事記」では垂仁天皇の御代に朝鮮から渡来した新羅王子・天日槍(あめのひほこ)の五代めの子孫とされている。むろん、そうだとしても代々の妃は日本人だろうから、新羅の遺伝子はごく僅かでしかない。
このような高貴でかつ数奇な生まれの(神功皇后)は、幼児から美貌で利発で父親が怪しんだほどだったと記されている。
仲哀天皇九年1(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔神託を告げた神々が明らかになる〕
二月――
前々節の繰り返しになるが、この月に天皇が崩御した原因は神託に従わなかったためだとして、群臣に命じて過ちを改めさせ、福岡県宗像の近辺に斎宮(いつきのみや)を造営した。斎宮とは、身を清め神に仕えて神託を受けるための御殿で、一般には任意の場所に設けるが、これを特定の場所に常設したはじまりは、天皇家の皇女が派遣される伊勢神宮の斎宮である。
三月一日――
(神功皇后)は、斎宮に入って自ら神主となり、大臣・武内宿禰(たけうちのすくね)に琴を弾じさせ、審神者(さにわ)――神託をわかりやすく解く人――も決めて、「先に天皇に新羅征伐を命じた神の名をお教え下さい」と懇請すると、七日七夜たって、「伊勢国の五十鈴宮にいます神・・・・・・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまざかるむかつひめ)」という答が得られる。
この神は(天照大神)の荒魂(あらみたま)である。荒御魂とは、荒く猛々しい神霊で、柔和な徳を備えた神霊の和魂(にぎみたま)と対をなしている。神々の霊はこの二つからなるというのが、古代の信仰らしい。
またその他にも神があるのかと問い、(天照大神)の妹または姫の稚日女尊(わかひるめ)や、(大國主神)の子どもの事代主神(ことしろぬし)など、いろいろ答があったのち最後に、日向の国の水底にいる、「表筒男(うわつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男(そこつつのお)」の名がでて終わる。
この三柱の神は住吉三神といわれ、航海の安全を守る神であり、住吉神社に(神功皇后)とともに祀られている。
住吉神社は大阪など各地にあるが、福岡市住吉にある住吉神社が大元で、この三神は伊弉諾尊(いざなぎ)がそこに来たときに産んだ神である。
章のトビラ裏の後鳥羽上皇の御製は、もっとも大規模な大阪の住吉大社に御拝されたときのものである。
・・・というわけで皇后は、神託に出た神々を鄭重に祀り、そののち熊襲を討ちに行くと、熊襲は自然に服従してしまった。
三月十七〜二十日――
身体に翼が生えていて空を飛ぶ羽白熊鷲(はしろくまわし)という賊が悪さをするので、橿日宮から出てこれを滅ぼした。
三月二十五日――
つづいて山門(やまと)――福岡県山門郡で《邪馬台国》の候補地のひとつ――に進み、土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を討伐した。土蜘蛛とは大和朝廷に服従しない土着の住民のことであるが、首領が女性であることが面白い。東大の前身の教授で史学会会長をつとめた明治の歴史家・星野恒(ひさし)は、この田油津媛の先代が(卑彌呼)であろうと推理している。
仲哀天皇九年2(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔神意をはかる皇后の奇跡〕
四月三日――
周辺の安定が得られたので、つぎに「魏志倭人伝」の末廬国(まつろこく)に相当する松浦県(まつらのあがた)に進み、ここで朝鮮に遠征すべきかどうか、神意をうかがうために、縫い針で釣り針を作り飯粒を餌にして川中の岩に登って、「事が成就するなら川の魚よ、釣り針を呑め」と仰せて竿を投げると、たちまち鮎が釣れた。これがこの地方で女たちだけが釣り針で鮎をとる習慣のはじまりで、この事績を踏まえたのが、第四章や本章のトビラ裏の歌など「万葉集」のいくつかの歌である。
なお、この鮎を見たとき皇后は「メズラシキ物」と仰せられたが、そこから「メズラの国」と呼ばれるようになり、それが訛ったのが松浦(まつら)の語源だと記されている。
このような一種の語呂合わせ的な地名語源説は「日本書紀」の随所にあるが、本書では割愛している。
つぎに(神功皇后)は、遠征を神に助けてもらうための神の田を儺県(なのあがた/「魏志倭人伝」の奴国(なこく))につくるが、岩で塞がれて儺河(いまの那珂川)からの水路が作れない。
そこで武内宿禰に命じて神々に祈ると、落雷があってその岩が裂けて水が通るという奇跡がおこった。
ますます自信をつけた皇后は、橿日宮にもどり、海辺に出て髪を解き、「わたしは神祇の教えをうけ、先祖の霊を頼って、海を渡って遠征しようと思う。もし霊験があるなら髪よ、分かれて二つになれ」と仰せて髪を海中に入れると、髪は自然に二つに分かれた。
この奇跡を皆に見せた皇后は、髪をまとめて、群臣に向かって、「自分は女であるが男子の姿となって雄大な計画をたてよう。神々の霊力と群臣の助けによって海を渡り、財宝の国を求めよう。もし成就したらそれは群臣の功績であり、成就しなかったら私一人の罪である」と告げた。これに元気づけられた部下たちはみな協力を誓った。
仲哀天皇九年3(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔遠征準備ととのう〕
九月――
九月になると船や兵を集めるが、最初は兵がなかなか集まらなかったので、大三輪社を建てて刀や矛を奉納すると、自然に集まるようになった。これは《大和》の三輪山麓にある《大神(おおみわ)神社》の分祀ともされており、福岡県朝倉郡三輪町の大己貴神社がそれといわれている。古くから《大神神社》に祀られているのは(大物主神)だが、これは(大己貴神(おおなむち))や(大國主神)と密接に関係した神である。それから皇后は偵察隊を派遣するが、最初はその国を発見できず、二度目に行った人物が「西北に国があるらしい」と復命する。そこで(神功皇后)は、出兵にあたっての大演説をおこなう。
その大意は、「軍規を乱してはいけない。財物をむさぼり私心をいだくと敵に捕らえられるだろう。敵が少数でもあなどるな。敵が強力でもひるむな。婦女を暴行するな。降伏する者を殺すな。戦勝を得たら褒賞がある。逃亡すれば罪になる」といった残虐を戒めた内容で、古代の演説とは思えないほど理性的である。
ここでまた航海神である住吉三神の次の神託がある。
「和魂(にぎみたま)は皇后につきそって命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となって軍船を導くだろう」
そこで皇后は拝礼し、神主を定め、荒魂を招請して軍の先鋒とし、和魂を招請して旗艦の鎮守とされた。
このとき、(神功皇后)は臨月になっていたが、石を取って腰にはさんで抑え、「事を成就して帰還したらこの地で生ませてください」と祈った。
そのときの石はいま、伊都県(いとのあがた)の道のほとりにある――と記されている。
この県は「魏志倭人伝」の伊都国(いとこく)であり、このときお腹にいたのが、巨大な前方後円墳で知られる、次代の應神天皇である。
仲哀天皇九年4(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔いよいよ出発!〕
図に、(神功皇后)の実紀年あるいはその少し後の朝鮮半島のおおまかな勢力分布を示す。図のなかでも新羅はのちに半島南部を統一する国で、したがって国力も強く、古代の日本にとってもっとも厄介な存在だったらしいことが、「記紀」の記述から知られるが、(神功皇后)が向かう主な相手が新羅であることも、「記紀」に記されている。
(神功皇后)の遠征は三韓征伐という言葉でも知られるが、三韓とは図3・2に描いた馬韓・辰韓・弁韓の三地域のことである。
(神功皇后)のころには各地域内の統一が進んで、馬韓は百済になり辰韓は新羅になっていた。さらに三韓のはるか北方から、騎馬民族国家とされる高句麗が南下してきていた。三韓の残る一つは南部の弁韓だが、この一部は任那といわれる日本領として(卑彌呼)の時代から続いていたらしい。三韓征伐の実態は、弁韓を狙う新羅を押し返して任那を弁韓全体に広げ、さらに拡大することにあったらしい。図は、(神功皇后)から應神天皇の御代にかけてその領域を拡大した任那を描いている。
十月――
冬十月に対馬を出発して(*1)朝鮮半島の新羅に向かうと、天佑神助によって風は順風となり魚は浮かび上がって軍船を助け、櫂を使わなくとも船は進んだ。そして船に沿った波が新羅の陸上にまで達した。
(*1 このような「日本書紀」の記述からも、対馬が古代から日本領だったことが知られる。もしそうでなければ、対馬で戦いがなされたであろう。昨今の近隣反日国の意見はまったくおかしい)
新羅王は国が海になってしまうのかと怖れていると、軍船が海に満ち、軍旗が日に輝いているのが見えた。
新羅王は、「東方の神の国である日本の天皇の神兵なのだろう。防ぐことなどできない」といって、白い絹の旗を掲げ自分を後ろ手に縛って皇后の御船に降伏した。そして、毎年日本に朝貢することを堅く誓った。
(神功皇后)は新羅王を許して配下にし、その国の宝庫を封じ、地図・戸籍・文書を収めた。そして矛を新羅王の門に立てて証拠とした。
(降伏のしるしの白旗はこの時代から有ったらしいが、旗についての日本最古の文書は、この(神功皇后)の話と景行天皇の九州討伐の話で、いずれも降伏・帰順の白旗である。古代においても白旗が降伏を意味していたようである)
新羅王は微叱己(みしこ/「三国史記」の新羅史の未斯欣(みしきん)に対応 *2)を人質ときめ、八十艘の船に日本に贈る財宝を積んで、皇后の軍船にしたがわせた。これ以後、つねに新羅から八十艘の朝献がくるようになった。
この八十艘の朝献というのは、後の天皇の記録にも見え、(神功皇后)の遠征がその由縁らしいが、しかし新羅が大和朝廷にとってじつに厄介な国であったことも、「記紀」の随所にあらわれている。
新羅が降伏したので、半島のあと二つの大国、高句麗と百済も、とてもかなわないと見て、「今後は自分たちを西蕃(西の未開の国)と謙遜の言葉で自称して朝貢を絶やしません」と約束する。
(*2 「三国史記」のこの話はもっと後の時代となっているが、(神功皇后)の遠征譚にあるエピソードは、「魏志倭人伝」から應神天皇にかけての物語を含んでいるらしい)
こうして神の助けで功なった(神功皇后)は、宝物や人質などとともに凱旋する。
「日本書紀」には別説が二つほど記されていて、もっと生々しい戦いの話もあるが、最終的には相手に頭を下げさせただけで、どこかの国のように王一族を皆殺しにして征服するといった残虐なことはしていない。
十二月――
そして帰国してすぐの十二月に、石で抑えていたお腹の子ども、つまり應神天皇を――伊都県または儺県で――出産する。
またそのすぐあとで住吉三神が皇后に教えて、わが荒魂を穴門の山田邑に祭るようにといわれたので、皇后は神主を決めてその地に神社を建立した。いまの下関市内である。これが有名な男装の女帝(神功皇后)による三韓征伐と應神天皇誕生の伝説である。

この物語は、日本にとってとても都合よくできている。だから戦後の史学界には、単なる空想譚だとする意見もある。しかし最近のさまざまな研究によって、四世紀から五世紀にかけて、日本による朝鮮出兵と任那拡大があったことはどうやら確からしいので、その初期の出兵の記憶を美化して描いたのが(神功皇后)の三韓征伐なのであろう。具体的な話の多くは、今は失われている百済の古代史書を参考にしているらしい。
年代的には、「記紀」では単なる一二〇年加算で西暦三二〇年ということになるが、その内容は、内外の史料によってほぼ確実とされる西暦三七〇年前後や四〇〇年前後の大規模な出兵とよく似ている。
しかし南原次男の戦史学的な研究では、大規模出兵には前哨戦があった筈で、それが(神功皇后)の遠征だった可能性が高いという。
もしそうだとすると、「三国史記」とも一致する、仲哀天皇の崩年干支である三六二年の直後の可能性が高いと考えられる。
新羅本紀でお気づきかもしれないが、西暦三六四年に日本軍が大挙して攻めてきたという記述がある。
これが三六二年の直後の(神功皇后)の遠征に該当しているのかもしれない。
日本軍が騙されて破れたことになっているが、新羅側を美化しているので、個々の勝敗の記録はあまり問題ではない。
その後任那が確立したことは史実なので、大枠として日本の権益が拡がったのは確かであろう。
なお南原は、たくさんの魚が軍船を助けたという神話について、「実際にも、魚群が漁船に群がる習性が、漁師によって確認されている」と述べている。とうじの人たちもそのような現象を知っており、それを神話化して記述したのであろう。
(神功皇后)の物語はまだまだ続くが、小休止して、その事績の史実性を確認するために、「好太王碑」について調べておくことにする。 
7-4 「好太王碑」碑文による三韓征伐の確認

 

大和朝廷による朝鮮南部の権益拡大が史実であることは、「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」「住吉大社神代記」「勘注系図(かんちゅうけいず)」といった日本の古典によっても充分に説明できるが、さらに決定的ともいえる史料がある。
好太王とは高句麗の第十九代の国王で、在位西暦三九二〜四一三とされているから、(神功皇后)の三韓征伐の想定紀年とは違っており、おそらく次代の應神天皇紀の後半に記されている事変に対応しているのだろうが、四世紀から五世紀にかけての大和朝廷の半島進出が事実であることの証拠となっているので、ここですこし詳しく記しておく。
「好太王碑」はこの好太王の業績を石に刻んだもので、王の死の二年後に建てられ、鴨緑江の北側の高句麗王の城跡で発見された。高さが7mに近く、太さが2mに近いという巨大な石碑で、その四面に碑文がある。
これは明治の初めに日本陸軍の将校が見出し、ついで学者の知るところとなり、ほぼ解読がなされたが、そこに、日本の朝鮮進出を証明する驚くべき文章が刻まれていたのだ。
倭国について記されたいくつかの箇所を、以下に記しておく。
 百残新羅舊是属民由来朝貢
 而倭以辛卯年(三九一年)来渡海破百残□□新羅以為臣民
 六年丙申(三九六年)王躬率水軍討滅残國軍□□首攻取
 己亥(三九九年)百残違誓與倭和
 新羅遣使白王云倭人満其国境潰破城池
 庚子(四〇〇年)教遣歩騎五萬往救新羅従男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退
 ・・・来背急追至任那加羅・・・安羅人戌兵抜新羅城□城倭満倭潰城
 甲辰(四〇四年)倭不軌侵入帯方界太王率兵自・・・平壌・・・倭寇潰敗斬殺無数
 丁未(四〇七年)教遣歩騎五萬・・・蕩盡所稚鎧・一萬餘領軍資器械不可稱數・・・
その意味を著者なりにごくおおまかに記すと、
西暦三九一年に日本人が海を渡って半島に来て本来高句麗の属国である筈の百済や新羅を破って配下にした。西暦三九六年に高句麗の好太王は日本と結んだ百済を破って降伏させた。西暦三九九年に百済は高句麗との約束を破って日本と修好して日本の助けを求めた。好太王は平壌(いまの北朝鮮の首都)に進出してこれに備えた。新羅の使者が高句麗に来て、日本軍が国境に満ちて城の堀を壊しているので助けてほしいと述べた。西暦四〇〇年に五万もの兵で新羅を救いに行くと、男居城から新羅城にいたるまで日本兵が満ちていた。(おそらくは作戦として)日本兵はいったん退いた。任那地方の加羅まで追ったが、日本軍は任那の安羅国と協力し、また戻ってきて城を潰した。高句麗軍は再度日本軍を追い、九割を殺した。西暦四〇四年には高句麗の勢力下の百済北方の帯方地域にまで日本兵が来たので、好太王自ら戦って海陸両面から挟み撃ちにして、平壌のあたりまで進出していた日本軍を破り、無数の日本兵を殺した。西暦四〇七年にも五万の大軍で百済駐留の日本軍を(平壌の近くで)撃破し、鎧兜一万余などを奪うという大きな戦果をあげた。
――といったことになる。
要するに半島の奥地を抑えていた高句麗の軍勢が、任那を支配し百済を味方につけた日本の軍と、新羅方面や百済方面や高句麗領土内で激しく戦った様子の記述である。
なにしろこれは、好太王の死後わずか二年という、生々しい記憶が多くの人に残っている時に建造された記念碑なので、その信憑性はきわめて高い。
もちろん好太王を顕彰する碑文なので、王を徹底して美化している。
たとえば、任那がこのあと亡びるどころか拡大されたままでずっと残っていたことは、好太王の戦いが碑文どおりの戦勝ではなかったことを示している。
ただ、朝鮮半島の奥地――平壌は大陸に近い半島深部である――で日本軍が戦ったという日本の史書の記述が史実であったと明確にわかること、および、日本の史料では不明確なその紀年がはっきり記されていること、がじつに貴重なのである。
これは、「日本書紀」の記録と符合するほか、三韓の歴史を記した「三国史記」にも、これに関係する記述が多くみられることは、第7-2節の新羅史などにあるとおりである。
また「日本書紀」にある《任那》という朝鮮南部の日本領土名が、高句麗王の碑文に明記されていることも、興味ぶかい。
一部の学者による任那虚構説を、朝鮮半島の考古学的史料が打破してくれているのだ。この時代の日本と朝鮮の関係についての優れた概説があるので引用しておく。
・・・三世紀後半から急速な発展をみた大和朝廷は、四世紀なかばには少なくとも近畿地方以西の主要な地域の統一を完成していたと思われる。そのころ、朝鮮半島においては、百済が新羅・高句麗の圧迫を受けて、わが国に援助を求めてきた。わが国は西暦三六九年半島に兵を進めて弁韓の地を占領し、新羅を破って百済・新羅を朝貢させて、南朝鮮に有力な地歩を築いた。この弁韓の地におかれたのが任那の日本府である。その後、四世紀末から五世紀の初めにかけて、日本軍は高句麗と半島の各地で激しく戦った・・・
この四世紀なかばから五世紀にかけての半島の事変を投影しているのが「日本書紀」にある(神功皇后)と應神天皇、さらには仁徳天皇の物語なのだが、日本が新羅と百済と任那を支配下においた後の高句麗と日本軍の戦いは、南下する高句麗が日本の勢力圏になった新羅や百済を攻めたために起こった。
神功皇后紀の後の項にも出てくるが、西暦三七〇年前後に百済日本連合軍と百済領土内で、また四〇〇年ごろに新羅領土内や高句麗百済国境付近で、さらにその後高句麗が支配していた百済北方の帯方郡あたりで、激しい争いがなされたのだ。
日本の史料も朝鮮の史料も自国を美化しているが、つき合わせることによって、三韓征伐やその後の朝鮮出兵が史実であることが判明する。
したがって前述したように、(神功皇后)の三韓征伐の伝承は、「好太王碑」に記された西暦四〇〇年前後の事変やその前段階(三七〇ごろ)の事変の前哨戦だったと想像できる。
年代的には、前記のように、三六〇年ごろだったのであろう。
(三二〇年という数値は一二〇年加算から来ているが、この時代にはより多くの加算が必要なのであろう)
「好太王碑」の碑文の四〇〇年前後の事変は、天皇の崩年干支から推定すると、應神天皇の晩年、あるいは仁徳天皇治世の初期らしいのだが、最終的には――つまり仁徳天皇以後になると――任那地方は日本の所領として確定し、百済は修好して朝献国となり、新羅は朝貢しては反発を繰り返し、高句麗とはほとんど外交しないまま――という状態に落ち着いたようである。
そして、仁徳天皇は、三代にわたる朝鮮出兵による国民の疲弊と経済の衰退に対処するために、大幅減税を断行し、皇宮が破損しても税による修理をせず、これが善政として史書に伝えられて、「仁徳」という特別な天皇号を追号されることになったのだ。
(仁徳天皇の御代の疲弊の理由について先生に質問された少年時代の昭和天皇が、御学友が答えられないなか、ただお一人正解を述べられたというエピソードがある) 
7-5 謎の多い神功皇后東征伝説と「魏志倭人伝」からの引用

 

第十四・五代(神功皇后)の物語(2) 謎の東征伝承と「魏志倭人伝」の引用
神功皇后摂政元年(西暦二〇一年/三二一年)
〔異母皇子の謀反と討伐〕
二月――
三韓征伐の翌年の二月、摂政としての本格的な活動をはじめた(神功皇后)は、穴門豊浦宮に移り、そこに仮葬してあった仲哀天皇の亡骸を持ち、誕生した皇子――のちの應神天皇――を連れ、群臣を従えて瀬戸内海を通って《大和》に向かった。
そのとき、皇子の異母兄にあたる仲哀天皇の妃の子どものうちの二人――カゴ坂王(かごさかのみこ/カゴは難しい文字なので仮名にした)と忍熊王(おしくまのみこ)――が、(神功皇后)に皇子が生まれたのを知り、天皇になるのは自分たちだから産まれた皇子を殺そうと決めて、明石に仲哀天皇の偽りの御陵をつくった。
そして東国の兵を集めて皇后一行を待ち伏せした。
このとき――たぶん大阪か神戸のあたりで――吉凶を占うための狩りをしたところ、赤い猪がカゴ坂王を食い殺してしまった。
そこで弟の忍熊王は後退していまの大阪住吉区のあたりに陣地をかまえた。
(神功皇后)はこのことを知り、武内宿禰に皇子を預けて南回りをさせ、和歌山市の紀ノ川河口に停泊させた。
そして皇后一行はまっすぐに難波――いまの大阪湾の奥――に向かった。
ところがそのとき、皇后の船が旋回するばかりで前進しなくなってしまった。
そこで尼崎まで戻って神意をうかがい、教えをうけた結果、(天照大神)の荒御魂を広田国(西宮市大社町)、その妹の稚日女尊を生田長峡国(神戸市中央区)、事代主神を長田国(神戸市長田区)、住吉三神の和御魂を大津(大阪市の住吉大社)――にそれぞれ祀ったところ、船は無事に進みだした。
大和朝廷に関係の深い神々を祀ることによって、自分の実子が正統な後継者であることを主張していると解釈できるエピソードである。
忍熊王はこれを知って京都の宇治市まで退いて陣地を立て直した。
(神功皇后)は一直線に進んだのではうまくいかないと判断し、南に廻って和歌山市のあたりで皇子と合流してさらに南下し、そこで上陸して北へ向かい、いまの和歌山県那賀町のあたりに軍をかまえた。
このあたりの話や経路は「神武天皇の東征伝説」と酷似していて興味ぶかいのだが、さらに次に(天照大神)の「天の岩屋」に似た不思議な現象が起こる。
すなわち、世界が夜のように暗くなって、それが何日もつづいたのだ。
しかもこのときの表現として、「天の岩屋」事件と似た言葉が使われているのだ。
これは不吉だというのでその原因を調べると、二人の人間を一つの場所に葬ったためだと分かり、それを分けて葬り直すと、太陽が輝いて昼と夜の区別ができるようになった。
解釈としては、天に二つの太陽はなく、忍熊王より皇后の皇子が正統だという主張を暗示しているとされているが、いずれにせよこれは、「(卑彌呼)=(天照大神)説」のところで述べた西暦二四八年の皆既日蝕に影響された説話とも考えられる有名な記述である。
また、(神功皇后)の想定される実紀年に近い皆既日蝕は、西暦三二八年と三八四年に起こっているので、そのような日蝕が、この説話を生んだのかもしれない。
三月――
皇后は武内宿禰らに討伐を命じた。軍勢は紀伊半島を北上して忍熊王の陣地のある宇治川まで進んだ。そしてそこで武内宿禰は謀略を用い、相手を油断させてうち破った。この対戦の最中、忍熊王と武内宿禰の間で、幾度となく歌のやりとりがあった。
十月――
忍熊王を破って無事《大和》に帰着したので、十月に群臣は(神功皇后)を尊敬して皇太后と呼ぶことにし、この年を(神功皇后)の摂政元年とした。
(まぎらわしいので以下皇太后とは呼ばず皇后とする)
神功皇后摂政二年(西暦二〇二年/三二二年)
〔仲哀天皇の埋葬〕
そしてようやく翌年のこの年、仲哀天皇の亡骸を河内の国の長野陵(大阪府南河内郡の長野西陵)に葬り祀った。
神功皇后摂政三年(西暦二〇三年/三二三年)
〔皇宮の建設〕
この年の一月、皇后の皇子・譽田別皇子(ほむたわけのみこ/のちの應神天皇)を皇太子にする立太子の行事をおこない、神武天皇以来の由緒のある《大和》の磐余(いわれ)に皇宮をつくり、これを若桜宮と名づけた。場所はいまの桜井駅付近(図5・2、5・3および図8・1参照)である。これによって無事、正妻の長男が第十五代天皇と決まったことになるが、古代の天皇の後継決定にはいつも確執がみられる。現在の総理大臣以上の存在を決めるのだから、確執があるのは当然である。
神功皇后摂政五年(西暦二〇五年/三二五年)
〔新羅の謀略と皇后の怒り〕
三月――
この年の三月、皇后との約束どおり、新羅王が朝献してくるが、人質の微叱己を取り返そうと「本土で妻子を官の奴隷にしているというので確かめたい」と人質に嘘をいわせる。それを真に受けた(神功皇后)は、勇武できこえた葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を責任者として随伴させて人質を帰そうとするが、対馬のあたりで嘘がわかり、怒った襲津彦が新羅の使いを焼き殺し、いまの釜山のあたりの城を攻め落とした。このとき捕虜となって日本に来た人たちが、大和西方の山地近くの四つの村の祖であると書かれているが、これは史実に近いらしい。
「三国史記」では、新羅史の四一八年、列伝の四一二年の事項に対応している。
「日本書紀」では、一二〇年加算しても合わないが、何十年か後の事件をここに当てはめたように見える。
さて、これ以後は(神功皇后)は名前が出るていどで事績の記述はほとんど無くなり、三韓との厄介なやりとりの説明が何回も続く。
これらは、朝鮮半島との外交の困難性をあらわす切実な物語である。
朝鮮半島との折衝の難しさは、現代にはじまったものでもなく、明治や大正にはじまったものでもなく、秀吉の時代にはじまったものでもなく、さらには元寇の時代にはじまったものでもない。
じつに古代/神話の時代から続いているのである!
またこのあとの神功皇后紀には「魏志倭人伝」や「百済記」などの歴史書が再三引用されているが、「百済記」は「日本書紀」の引用でのみ断片が知られる幻の史書であって、本国の朝鮮半島にはまったく残っていない。
朝鮮本国に残る最古の史書は、これまで何度か言及した「三国史記」だが、これが編纂されたのは「記紀」の四百年以上のちである。
このあとの事件はごく簡単に記すが、「魏志倭人伝」の引用は重要なので、全文を記す。
神功皇后摂政十三年(西暦二一三年/三三三年)
〔皇后と武内宿禰のかけあい〕
八年とんでこの年、皇后の意向で武内宿禰は皇太子を連れて敦賀(つるが/ツヌガ)の気比(けひ)神宮に参拝し、そのあと皇太子のための大宴会を催し、そこで(神功皇后)と皇太子の代理の武内宿禰が歌のやりとりをした。この二人はまるで夫婦のように仲が良いのだ!
神功皇后摂政三十九年(西暦二三九年/三五九年)
〔「魏志倭人伝」の引用1〕
二十六年もとんでこの年、次の重要な記述がある。
「魏志ニ云ハク、「明帝ノ景初ノ三年ノ六月、倭ノ女王、大夫難斗米等ヲ遣シ、郡ニ詣リテ、天子ニ詣リ朝獻セムコトヲ求ム。太守劉夏、吏ヲ遣ワシテ将テ送リテ、京都ニ詣ラシム」トイフ」
これは第三章に記した「魏志倭人伝」の記述そのものである。この年の皇紀は西暦に換算すると二三九年になるので、それも一致している。
ただし現存する「魏志倭人伝」では景初二年になっている。また斗は升になっているし、劉の字もすこし違っている。写本を繰り返すうちにどこかで違ったのであろう。どれが正しいかは不明だが、紀年については、大陸の政治情勢からこちらの景初三年の方が正しいとされている。
いずれにせよ「記紀」編纂の時代にすでに日本の歴史家が「魏志倭人伝」を読んでいたことがわかるし、そのなかの女王(卑彌呼)を(神功皇后)のことだとしていたらしいことも分かって興味ぶかい。
神功皇后摂政四十年(西暦二四〇年/三六〇年)
〔「魏志倭人伝」の引用2〕
この年にも「魏志倭人伝」からの引用がある。
「魏志ニ云ハク「正始ノ元年ニ、建忠校尉梯携等ヲ遣シ、詔書印綬ヲ奉リテ、倭国ニ詣ラシム」トイフ」
これも第三章の「魏志倭人伝」の記述そのものである。ただし銅鏡百枚はじめ宝物を贈ったという個所は引用されておらず、「記紀」編纂時代の考え方が知られる。
神功皇后摂政四十三年(西暦二四三年/三六三年)
〔「魏志倭人伝」の引用3〕
三度目の「魏志倭人伝」の引用がある。
「魏志ニ云ハク「正始ノ四年、倭王、復使ノ大夫伊聲者、掖耶約等八人ヲ遣シテ上獻ス」トイフ」
これも「魏志倭人伝」の記述そのものである。ただし前と同様、人名については大夫伊聲耆の耆が者となっていて少し違っている。きわめて似た文字だからどこかで間違えたのであろう。
「日本書紀」の編纂者たちまたは少し後の注釈者たちが、(神功皇后)を(卑彌呼)に照応しようとしていたことが明白にわかる、驚くべき引用である。
(当時の歴史家たちが「(卑彌呼)=(神功皇后)説」にたっていたとすると、「三国史記」の新羅本紀にある(卑彌呼)の時代の于老との戦いなどの記述が「記紀」に記されていないのは、それを(神功皇后)の事績として三韓征伐の物語に混ぜてしまったからだ――という推理も成り立つであろう。あくまでも推理であるが・・・)
7-6 任那日本府の設置と新羅との軋轢

 

このあとも外交交渉の記録を中心に、簡単化して記すが、とくに重要なのが、一二〇年加算で三六九年になる摂政四十九年の、任那日本府の設置である。
第十四・五代(神功皇后)の物語(3) 任那日本府の設置「百済記」の引用
神功皇后摂政四十六年(西暦二四六年/三六六年)
〔百済国との国交樹立の記録〕
三月――
(神功皇后)が、任那の新羅寄りの中央部にある卓淳国(とくじゅのくに)に使者を送ったとき、その国の王が、「百済の国王が修好の使者を日本に送ろうとしたが道に迷ってこの国に来てしまった」と話した。そこで日本の使者が従者を百済に派遣したところ、百済王はとても喜んで、宝物を日本に献上したいと述べた。
この摂政四十六年の記録は、百済との修好の始まりを語る伝承だが、その紀年は、一二〇年加算を当てはめると、百済王の使者が迷ったのが西暦三六四年、日本が使者を送ったのが西暦三六六年となる。
(三韓征伐実紀年の数年後と想像される)
「三国史記」では近肖古王の時代で、大陸の晋や新羅と修好した記録があるので、善隣外交を展開していたのであろう。
卓淳国とは図7・1の任那の東部にあり、後に新羅に編入されたが、新羅と百済を隔てる攻防の要衝である。
スポーツ大会で話題になるいまの大邱市のあたりである。
神功皇后摂政四十七年(西暦二四七年/三六七年)
〔新羅が百済の貢ぎ物を奪う〕
四月――
約束どおり百済の使者が朝貢に来、同時に新羅の使者も来朝した。ところが百済の貢ぎ物がとても貧弱だったので質問すると、「途中で新羅に捕らえられて交換させられた」と答えた。そこで、誰を百済に派遣して真偽を調べたらいいかと(天照大神)にたずねると、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者とすればよい――との神託があった。
そこで千熊を新羅に派遣して、朝貢物のすり替えを責めた。
千熊はこの時代の「天才的な外交官」であり、この天才の力によって日本は朝鮮南部の権益を確保したといっても過言ではない。
この千熊派遣は、百済とはうまくいっているが新羅とは軋轢がつづいていることを示す伝承だが、この事件のあった年は一二〇年加算で西暦三六七年である。
ここで百済の幻の史書「百済記」の引用がはじめて出てくる。
この部分では、千熊長彦が「百済記」でどう書かれているかが述べられている。それによると職麻那那加比跪(ちくまななかひく)と記されていたらしい。
日本の「彦(ひこ)」が、「魏志倭人伝」では「卑狗(ひく)」、「百済記」では「比跪(ひく)」となっているのはおもしろい。
「百済記」と現在まで伝わる「三国史記」とでは編纂紀年に数百年以上の違いがあるので、これが「三国史記」の百済本紀にどう影響しているかは不明である。「百済記」はこのあとも再三引用されている。
神功皇后摂政四十九年(西暦二四九年/三六九年)
〔新羅派兵と任那平定〕
三月――
この年の春、任じられた二人の将軍や千熊長彦ら関係者たちが海を渡って、攻防の要衝卓淳国に集結(*1)し、卓淳や百済と協力して新羅をうち破った。それから七つの国を平定した。これは任那七国と呼ばれ、大ざっぱにいって図3・2の弁韓、図7・1の任那とされているあたりの主要な国々である。
国名を記すと、
 火自{火本}(ひしほ)
 南加羅(ありひしのから)
 トク国(とくのくに/トクは録を口偏にした文字)
 安羅(あら)
 多羅(たら)
 卓淳(とくじゅ)
 加羅(から)
――の七国である。
「好太王碑」や「魏志倭人伝」の解釈でお馴染みの名がならんでいる。
いずれも、現在の韓国の慶尚南北道の一部にある国で、一国あたりにすれば、いまの日本の郡以下ていどの規模である。
この時代の任那地方(弁韓)が、集落が点在するといったていどの地域であり、独立した大きな国に日本が攻め入ったわけではないことがわかる。
さらに、この七つの国のほかに、忱弥多礼(とむたれ)を支配下において、百済に譲った。
これは現在の済州島(*2)である。
これによって大和朝廷は任那に任那日本府を置くことができ、半島南部の国々を統治する基礎をつくったことになる。
朝鮮半島における日本の権益を確立したのだ。
日本に新羅を抑えてもらった百済王は喜んで、「今後は常に自分を卑下して西蕃と称し、春秋に日本に朝貢します」と誓った。
これは、日本列島内の統一過程で力をつけた将軍たちの成果であるとともに、「外交の天才・千熊長彦」の努力の成果でもあった。
この事変は、一二〇年を加算すると、前掲田中卓の文章のとおり、西暦三六九年のことになる。
だから、「日本書紀」の記述をそのまま受け入れて一二〇年加算すれば、(神功皇后)は西暦三二〇年と三六九年の二回にわたって南朝鮮に派兵したことになるが、皇后紀は引き延ばされているため、三六〇年代に二度の遠征があったのだろうと推理できる。
神功皇后摂政五十年(西暦二五〇年/三七〇年)
〔百済から感謝の使者が来る〕
二月――
新羅征伐に派遣されていた将軍が帰国。
五月――
千熊長彦らも帰国したが、このとき百済の使いも一緒だったので、(神功皇后)がその理由を質問すると、日本への感謝のために来たのだという。
(神功皇后)は喜んで、任那地方にある河口の城を贈り、百済と日本を往復するときの宿駅とさせた。
神功皇后摂政五十一年(西暦二五一年/三七一年)
〔百済の朝貢と日本の返礼〕
三月――
百済からまた使者がきて朝貢した。(神功皇后)は皇太子や武内宿禰と相談して、千熊長彦を返礼の使者として百済に派遣した。百済の王は平伏して感謝した。
(すでに皇太子つまり應神天皇が事実上のリーダーだったことがうかがえる)
このあたり、全体として、新羅に手こずり、南下する高句麗にも危機感を抱き、利害の一致する百済と組んで朝鮮半島での権益を守ろうとする大和朝廷の外交戦略が読みとれる。
(*1 西暦三六九年のこの事変(232回)のとき、日本軍は攻防の要衝である卓淳(今の大邱市のあたり)に集結した事が「日本書紀」に記されているのだが、この集結地について、左翼史家の井上光貞が、「日本軍が釜山に集結したのなら分かるが、卓淳のような奥地に集まるのは不自然であり、「日本書紀」のこの記述は虚構であろう」と語ったそうである(原文献は未見だが南原次男の著作による)。
しかし軍事の専門家でもある南原はこれに強く反発して、つぎのような意見を述べている。
卓淳は現在でも戦略的要衝であり、また交通の要衝でもある。したがって日本軍が卓淳に集結したのは軍事の常識である。またこの事は、当時の日本軍がすでに半島内部の重要地点を知っていたことを意味しており、したがって西暦三六九年の前にすでに半島で戦った経験があった事を推理させる。・・・つまり(神功皇后)の半島遠征が史実である可能性が高い。
――と述べている。
あらためて韓国の地図を眺めてみると、南原のこの指摘がよく分かる。
新羅軍が百済を攻めようとすると、どうしても卓淳を通って白山越えをしなければならず、したがって卓淳を抑えることが百済を守ることになるのである。
もし日本軍が井上の言うように釜山に集結していたら、新羅軍はやすやすとすりぬけて百済に侵攻し、日本軍は何の役にも立たなかったであろう。東京を守るために瀬戸内海に集結するようなものである。
この卓淳の重要性は、昭和二十年代の朝鮮戦争でも明かで、南下する北鮮軍を迎え撃った韓国軍は、多大な犠牲を払いながらも最後まで卓淳を死守した。
じつにきわどい防衛戦で、あやうく背後に回られかけたそうだが、とにかくここを死守したために韓国は壊滅しないで済んだ。
もし卓淳を破られていたら、あとは一気呵成に半島南端の平地を席巻されて、海に飛び込むしかなくなっていたであろう。
左翼古代史家は、朝鮮戦争から何も学んでいないらしい。
そもそも古代史を真に理解するためには、
(1)文献史学
(2)考古学
(3)戦史学
少なくともこの三つの知識を有機的に関連づけねばならない。
・・・というのが、陸軍士官学校卒で防衛庁に幕僚として勤務した経験もある異色の古代史家・南原次男の意見である。)
(*2 済州島はもともと一種の独立国だったらしいが、百済の係属になったのち、百済の滅亡に際して、日本の援助を得て独立を保とうとしたらしい。しかし結局は新羅に併呑され、現在は韓国の領土になっている。伝説では、済州島に生まれた三柱の男神と日本から来た三柱の女神が結婚して、子孫が繁栄したとされている。おそらく、百済・任那と同じで、人種や文化や言語は日本に近かったのであろう。もし(神功皇后)が割譲しなかったら、あるいは、天智天皇時代の日本にゆとりがあって援助していたら、済州島は現在どうなっていたであろうか。領土問題は千年後二千年後まで影響する)  
7-7 七枝刀の献上と臺與の時代の使者派遣

 

前節の続きであるが、ここには百済から「七枝刀」が献上されたという重要な記事があり、また(卑彌呼)の後継者の(臺與(とよ))ではないかと想定される晋への使者派遣の記録が記されている。
第十四・五代(神功皇后)の物語(4) 注目すべき七枝刀と「起居注」の引用
神功皇后摂政五十二年(西暦二五二年/三七二年)
〔百済が七枝刀を朝献〕
九月――
この年は一二〇年加算で西暦三七二年にあたるが、秋九月に、きわめて重要な貢ぎ物が百済王からもたらされた。
すなわち、千熊長彦が九月に帰国するが、常に往復していた百済の使者が一緒に来朝して、七枝刀(ななさやのたち)・七子鏡(ななこのかがみ)などの貴重な宝物を朝廷に朝貢したのだ。
そして、日本に対して最大限の賛辞を述べ、山でとれる鉄も献上すると約束した。
太刀と鏡の名にある七という数字は、じっさいに七つの部分から出来ているから付けられたものである。
日本と百済が前述の任那(弁韓)七国を平定し領土を拡大した記念に、七つの部分から出来ている特殊な宝刀や宝鏡を献上しにきたのだ。
そしてこれ以後百済は、毎年かかさず朝貢に来た――と記されている。
この記述もまた、(神功皇后)と應神天皇および千熊らの外交戦略がうまくいっていることを示している。
事実日本と百済の友好関係は、白村江の戦いで日本が唐と新羅に破れて百済が滅亡するまで三百年もつづくことになる。
さてここで、とくに重要なのは、「七枝刀」という献上品である。
これはじつは奇跡的に現在にまで残り、奈良県天理市――つまり古代《大和》のやや北部――にある《石上神宮》の社宝として厳重に保管されている。
もちろん厳しい鑑定に耐えた国宝である。
しかもこの宝刀には銘文が刻まれており、そこに年号もあるので、(神功皇后)時代の実際の紀年を定める重要な証拠品となっているのだ。
神功皇后摂政五十五年(西暦二五五年/三七五年)
〔百済の肖古王の死去〕
百済の肖古王が崩じたとの記述のみ。この年は一二〇年加算で西暦三七五年になるが、「三国史記」の百済本紀にある近肖古王の死も西暦換算でまったく同一となるので、このあたりの一二〇年加算はかなりの根拠がある。
神功皇后摂政五十六年(西暦二五六年/三七六年)
〔百済の次の王について〕
百済の肖古王の王子の貴須(くいす)が次の王となったとの記述がある。貴須は「三国史記」では近仇首王のこと。仇首と貴須で読みが一致する。
神功皇后摂政六十二年(西暦二六二年/三八二年)
〔またも新羅征伐〕
この年は一二〇年加算で西暦三八二年だが、新羅が朝貢しなかったので、懲罰すべく、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を将軍として派遣した。襲津彦とは、摂政五年に新羅の人質が逃走したとき、追って新羅まで進軍した人物で、のちに娘の磐之媛命(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后となり、また本人は武内宿禰の子ともいわれ、なにかと話題の多い重臣である。相当な暴れ者だったらしいが、軍事作戦では失敗も多かったようである。
この記事はここで唐突に終わり、あとは「百済記」からの引用文が長々と続く。
それによると、襲津彦――「百済記」では沙至比跪(さちひく)と書かれている――は新羅の美女によって籠絡され、逆に任那北方にある加羅国を討ったので、加羅の人たちは百済に逃げた。加羅王の妹が《大和》に来てそれを報告したので、天皇(應神天皇?)は怒って別の将軍を派遣して加羅国を回復させた。襲津彦は密かに帰国したがやがて岩穴で死んだ――ということである。
かなり情けない日本の将軍の後日譚が記されているのだが、日本側の記録では襲津彦はもっとあとまで活躍しているので、「百済記」のこの記述は、真実味があるとしてももうすこし後――應神天皇紀十四年――のことなのかもしれない。
神功皇后摂政六十四年(西暦二六四年/三八四年)
〔百済王の交替〕
百済の貴須王が没し、王子の枕流王(とむる)が立ったとある。この王は「三国史記」でも同漢字である。
神功皇后摂政六十五年(西暦二六五年/三八五年)
〔百済王の後継争い〕
百済の枕流王が没し、王子が若かったので叔父の辰斯(しんし)が王位を奪った――とある。この記述も「三国史記」とほぼ同一である。
神功皇后摂政六十六年(西暦二六六年/三八六年)
〔重要な「起居注」引用〕
この年の皇紀をそのまま西暦に換算すると二六六年――すなわち(卑彌呼)が死んだあとの(臺與)の時代――に相当しているが、ここに、「魏志倭人伝」に関係する重要な引用文がある。
すなわち、晋の「起居注(ききょちゅう)」を引いて、「是年、晋ノ武帝ノ泰初ノ二年ナリ。晋ノ起居注ニ云ハク、「武帝ノ泰初ノ二年十月ニ、倭ノ女王、訳ヲ重ネテ貢獻セシム」トイフ。」と記しているのだ。
訳を重ねて、というのは通訳を重ねることで転じて遠方の外国人が来ることを意味する。
この出典の「起居注」というのは、シナの皇帝の日記体の記録集で、現存するいくつかの文献にこれに似た記述が見られるそうである。
ただし「女王」というのはこの「日本書紀」の記述のみらしい。
この「起居注」の引用は明らかに、「魏志倭人伝」の最後の部分にある(臺與)がシナ王朝に使節を送ったという記事に対応させたもので、「魏志倭人伝」の(臺與)の貢献には年号の記録がないから、「日本書紀」の編者たちはシナの史書を探して、晋の史書「起居注」のこの記事が該当している――と判断したのであろう。
「魏志倭人伝」にある(臺與)による使者派遣が西暦二六六年という推理は、ここから来ているのだが、この推理は賛同する学者が多い。
それから、これを「女王」とし、かつ、(神功皇后)の崩御の直前の記録にしたのは、「日本書紀」の編者たちが(卑彌呼)と(臺與)を同一の女王でともに(神功皇后)だとしていたことを意味している。
そうでなければ、まったく別の場所に記すか、または記さなかったであろう。
もちろんこれは推理であるが、この推理をさらに進めると、「記紀」が編纂された七〜八世紀の日本の学者たちの記憶のなかには、(卑彌呼)に相当する女帝は有ったが、その後継者としての(臺與)に相当する女帝は無かったし、その時参考にしたであろうさらに古い史書にも(臺與)に相当する存在は無かった――ということになる。これはとても重要な事である。
神功皇后摂政六十九年(西暦二六九年/三八九年)
〔(神功皇后)崩御〕
(神功皇后)がこの年の四月に稚桜宮(わかさくらのみや)で崩御された。ときに数えで一百歳であった。そして十月に狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬られた。これは今の奈良市山陵町で、奈良駅の北西4Kmほどのところに墳丘長280mに達する巨大な前方後円墳が残されている。すぐそばに一代前の成務天皇の御陵があるが、夫の仲哀天皇の御陵とは無関係な場所である。この崩御年は西暦二六九年であり、一二〇年加算では、西暦三八九年である。むろん、一二〇年加算が史実と合うのは三七〇年前後の事件であって、その前は大幅に引き延ばされ、その後もかなり延長されていると考えるべきであろう。
想像しかできないが、後半部分の多くは、次の應神天皇が実権を握ってからの事項だろうという説が有力である。
いっぱんに各天皇の年齢はもうすこし後の代まで、かなり引き延ばされているが、とくに(神功皇后)の崩御をこの年まで引き延ばしたのは、先の「起居注」の事績を(神功皇后)のものとするための苦肉の策だろうともいわれている。これもまた興味ぶかいことである。
(神功皇后)天皇説 
これで神功皇后紀は終わるが、じつに面白い史料である。
朝鮮進出や新羅との軋轢は外国の史書とも対応していて、年代を変えて美化してはいるものの、それ以外の分野では、ふしぎなほど「魏志倭人伝」に対応しているのだ。
また神武東征や(天照大神)の伝承ともよく似たところがある。
この記録が「魏志倭人伝」と大きく異なるのは、(卑彌呼)が魏に助けを求めたり朝鮮を魏の一部のように見ているのに対し、(神功皇后)は逆に朝鮮を攻めて朝献を要求し成功していることである。
(神功皇后)が事実上の天皇だったことは、「日本書紀」における特別な扱いからも明かだが、じっさいに「記紀」に匹敵するほど古い史料に「天皇号」をつけて尊称している例がたくさんある。
田中卓の資料などによれば、
 摂津国風土記
 常陸国風土記
 播磨国風土記
 住吉大社神代記
 琴歌譜
 扶桑略記
 宋史日本伝
――などが、氣長足姫天皇あるいは神功天皇といった尊称を使っている。
さいごの宋史日本伝は、シナの歴史家が十四世紀に、日本の使者から聞いた日本の歴史や地理を記した書であり、そこに神功天皇と書かれていることは、平安から鎌倉にかけての日本の役人が(神功皇后)を「天皇」として尊称していたことを意味している。
「記紀」の編纂者たちは、シナ王朝が伝統的に女帝を軽視しているのを知っていたので、大陸への宣伝効果を考慮して、女性天皇はなるべく秘匿しようとしたらしい。
そこで、六〜七世紀の推古天皇から女性天皇がはじまったとし、それまで天皇(大王)として記憶されてきた何人かの女帝を、皇后のままで摂政にするとか、皇女という肩書きのままにするとかしたらしい。
「日本書紀」を読むと、その事績の記述から、(神功皇后)のほかにすくなくとも二名の事実上天皇だったと思われる女帝が見つかる。
第七代孝霊天皇皇女で、第十代崇神天皇の前に女帝だったと考えられる(倭迹迹日百襲姫命)と、第二十二代清寧天皇の没後しばらく後継者が決まらなかったとき、実質天皇の位についた、第十七代履中天皇の孫にあたる飯豐青尊(いいどよのあお)である。
これに加えて、天智天皇の皇后だった倭姫王(やまとひめのおおきみ)も、短期間ではあったが、天皇の立場だったという説もある。
「(卑彌呼)=(神功皇后)説」の妥当性の分析はあとにして、つぎに應神天皇紀をまとめてみよう。  
7-8 八幡宮の祭神になられた第十五代 應神天皇

 

八幡宮の祭神として祀られた天皇 
八幡宮という神社がある。古くはヤハタノミヤともいわれたし、ハチマン様という愛称もある。
日本は「神々の国」だから神社は無数にあるが、そのなかでも稲荷神社に次いで多いのがこの八幡宮である。
いまでも日本全国いたるところにあり、その数は神道辞典によれば二万五千である。また四万という資料もある。
全国の郵便局の数がほぼ二万五千だから、これに等しいか上まわる数である。
(ちなみに稲荷神社は三万二千、伊勢神宮の御分社は一万八千、天満宮は一万一千といわれる)
神社の数は摂末社や屋敷内社の数え方によって違ってくるが、八幡宮の数は実際にはもっと多く、稲荷神社を上回るという話もある。
神社本庁に属している宗教法人としての神社総数が約八万だから、八幡宮の数がいかに多いかがわかる。
一説によると末社まで加えた全神社の半数に達するのだという。とにかくとてつもない数である。
この膨大な数の八幡宮の代表格が、
    宇佐八幡宮(九州大分県)
    石清水八幡宮(京都)
    鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉)
――で、知名度では後二社であり、由緒としてははじめの宇佐(総本宮)である。
では、このとてつもない数の八幡宮にはどういう神が祀られているかというと、それがこの節の主人公の應神天皇なのである。
どの八幡宮も主祭神は應神天皇で、同時に(神功皇后)が祀られる場合が多い。
八幡宮は奈良時代からあるが、とくに平安後期になって源氏一族に崇拝されて盛んになった。
武士として拝むべき神とされたのだ。
(神功皇后)に続いて應神天皇もしばしば軍隊を海峡を越えて朝鮮半島に送って激戦しているので、軍事の神として、また海にかんする神として崇拝されたらしい。
源氏の武将の旗には「八幡大菩薩」といった文字が書かれることが多かったし、源氏の勇将として有名な源義家が八幡太郎義家と称したのもその信仰のためである。
「八幡」という独特の神社名の由来だが、應神天皇の御降誕にさいして天から多くの幡が降った瑞祥によるという伝説がある。
また、幡は畑に通じる名だという説もあるし、宇佐神宮の場所の昔の地名だという説もある。
さらに、八幡のハタはワタと同じで、海を意味するワタツミから来ているという説もある。
以下、この膨大な数の神社の祭神となっている應神天皇の物語を記すことにする。
第十五代 應神天皇の物語(1) つづく朝鮮三国との確執
国風謚号 譽田天皇(ほむたのすめらみこと)
漢風謚号 應神天皇
〔在位・西暦二七〇年〜三一〇年〕
〔降誕・西暦二〇〇年/崩御・西暦三一〇年〕*
〔皇宮・磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内)軽島豊明宮(かるしまとよあきらのみや/奈良県橿原市大軽町)〕
〔御陵・惠我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ/大阪府羽曳野市誉田)〕
    *崩年干支推定は西暦三九四年
第十五代の應神天皇は、前記したとおり(神功皇后)の三韓征伐の直後に、神の加護があったり、石で出産を抑えて戦ったりしたという神秘的な経過で、生まれた。
應神天皇はのちの追号だが、母親の(神功皇后)と二代続いて「神」が名前につけられている事も注目される。
他に「神」がつく天皇は、初代の神武天皇と第十代の崇神天皇だけなのだから・・・。
幼児から聡く凛々しく、弓を射るときに左腕にあてる鞆(ほむた)のような逞しい肉が生まれた時からあり、それが母親の(神功皇后)が男装して鞆をつけた姿に似ていたので、譽田別皇子(ほむたわけのみこ/諱)と呼ばれており、そこから誉田天皇という国風の謚号ができた。
應神天皇の出生譚はこのように神秘的だが、天皇になってからの記述はとても現実的で、絶大な権力をもって日本国を発展させた強力な指導者だったとして、その業績が記されている。
(神功皇后)在世中の対外折衝も、後半は事実上この應神天皇が取り仕切っていたと考えられるのだが、即位後の記述も、まことにダイナミックなのだ。
なお一二〇年加算はしだいにずれてきていると思われるが、参考のために書いておく。
以下、應神天皇の事績を簡略化して記す。
應神天皇元年(西暦二七〇年/三九〇年)
〔《大和》で即位〕
正月一日――
(神功皇后)崩御の翌年の正月に、第十五代天皇として即位した。一二〇年加算では西暦三九〇年のことである。皇宮は最初は(神功皇后)のいた稚桜宮(桜井市)のはずだが、皇后を定めたときに豊明宮(橿原市)に遷ったのかもしれない。いずれにせよ古くから大和朝廷が本拠とした《大和》の地で、神武天皇はじめそれまでの多くの天皇の宮と同一地域である。
應神天皇二年(西暦二七一年/三九一年)
〔皇后の決定〕
三月――
この月、仲姫(なかつひめ)を皇后に定めた。この姫の祖父は、第十二代景行天皇の皇子として有名な日本武尊や第十三代成務天皇の弟にあたる五百城入彦皇子(いほきいりびこ)である。つまり九州や東国までを支配下においた景行天皇の曾孫にあたり、大和朝廷の実質的な確立者とされる第十代崇神天皇の直系の子孫である。仲姫には姉と妹がいたが、この二人も妃として仕え、結局三姉妹が應神天皇の皇子を生むことになった。應神天皇の出生については、父とされる仲哀天皇の影が薄いため、左翼史家が多くの異説を述べているが、いずれも根拠薄弱であり、年代の問題を除けば、正史に素直に従うべきであろう。
いずれにせよ、皇后として由緒正しい大和一族の姫をたてたことによって、大和朝廷の正統の後継者となったわけである。仲姫は次の仁徳天皇を生み、また多くの妃に合計して二十人(「古事記」では二十七人)の皇子皇女が生まれた。
應神天皇三年(西暦二七二年/三九二年)
〔百済懲罰と蝦夷朝献〕
即位まもなく、対外的難問題がおこる。この年、幼い王子を押しのけて不当に王位についたとされる百済の辰斯王(しんしおう)が失礼な行為をしたので、武内宿禰の四人の息子(いずれも武将)を百済に送って厳しく抗議した。百済では辰斯王を殺して陳謝し、遠征した日本の将軍たちは、正式の王子であるは阿花(あか)をたてて王とした。
この紀年は一二〇年加算では西暦三九二年になるが、「三国史記」における辰斯王の死と阿花の即位もまったく同じ年になっている。
ただし「三国史記」での辰斯王は、高句麗からの攻撃で多くの領地を失い、それでも遊びほうけて狩りに行って奇妙な死を迎えたとされ、阿花王も高句麗との戦いに苦労している。
このころから「好太王碑」にある高句麗対日本の大激戦がはじまったらしく、「日本書紀」にも「三国史記」にも、暗示的な記述が多くみられる。
十月――
東国の蝦夷がこぞって朝献してきた。そしてこの蝦夷に道路工事をさせた。
十一月――
各地の海人が騒いだので、統率者をきめて騒ぎを鎮めた。
(このあたり、強力な王権によって九州から東北まで海陸ともに大和朝廷に帰順させていたことをうかがわせる記述である)
應神天皇五年(西暦二七四年/三九四年)
〔大規模な造船〕
八月――
海人部(あまべ)と山守部(やまもりべ)を定めた。海産物を扱う部(べ)/部民(べのたみ/べみん)や山林を守る部/部民を定めたのである。
十月――
伊豆の国に命じて長さ十丈(約30m)の巨船をつくった。船名を「枯野(からの)」という。朝鮮半島への大規模出兵を想像させる記述である。
應神天皇六年(西暦二七五年/三九五年)
〔近江へ行幸〕
二月――
琵琶湖周辺の近江の国へ行幸して歌をつくった。日本では、どんな無骨な天皇でも和歌をお詠みになられる。戦争や苦難のさなかでもお詠みになる。この伝統はいまに続いている。
應神天皇七年(西暦二七六年/三九六年)
〔渡来人が池をつくる〕
九月――
高句麗、百済、新羅、任那の人たちが来朝したので、池をつくらせた。高句麗人の帰化は珍しいが、「古事記」には記されていない。この應神天皇紀から土木工事についての記録が多くなる。本格的な土木工事が可能になったことがうかがわれる。御陵もどんどん巨大になり、應神天皇陵や次の仁徳天皇陵にいたって世界一の巨大さを誇るようになる。
なお、一二〇年加算では、この年がすでに西暦三九六年になるが、一方天皇崩御の干支が記録されていてそれを西暦に直した崩御年推定は西暦三九四年である。
すなわち崩年干支推定ではこの年にはすでに應神天皇は崩御され、仁徳天皇の御代になっていたことになる。
崩御干支による推定自体が誤差を含んでいるし、干支二回りの他にてきとうな短縮伸長がなされているので、こういう矛盾はやむをえない。
ただ外交問題については、「百済記」という実際の紀年がかなり正確だったらしい史書を参考にしているので、一二〇年加算でほぼ合うらしい。
すでに仁徳天皇の御代になっていたかどうかは別にして・・・。
應神天皇八年(西暦二七七年/三九七年)
〔百済の阿花王との確執〕
三月――
この年は一二〇年加算では西暦三九七年になるが、三月に百済人が来朝した――とある。一方「百済記」の引用があり、そこには、阿花王(あか)が日本への礼を欠いて日本に攻められ土地をとられたので、使者を送って友好を復した――と記されている。「三国史記」の阿花王の記録には、次の三項の日本との関係が記されている。
 西暦三九七年 倭国に人質として皇太子直支(とき)を出す。
 西暦四〇二年 倭国に使者を送って大きな珠を得た。
 西暦四〇三年 倭国の使者が来たので厚遇した。
このあたりの何年かの朝鮮との外交・軍事問題は「三国史記」のほかに「好太王碑」碑文の年代ともおおむね一致しており、史実である可能性がきわめて高い。
應神天皇(および次代の仁徳天皇)が国内だけでなく朝鮮半島に対しても強力な外交と軍事力を発揮していたことがわかる。
應神天皇九年(西暦二七八年/三九八年)
〔武内宿禰の危機〕
四月――
武内宿禰(たけうちのすくね)が九州に派遣されたとき、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に讒言したため兄弟の争いになるが、いろいろあった末、最後は兄が勝つ。何代もの天皇に仕えた武内宿禰の遣り手ぶりがうかがえるエピソードだが、武内の九州派遣は、新羅の勢力が九州まで浸透するのを防ぐ目的があったと思われる。弟の讒言は、兄が三韓と結託して九州に新しい王朝をつくろうとしている――という内容だったらしい。こういう讒言を天皇が無視できなかったことは、新羅などの工作員による九州や対馬への侵略が現実的な脅威であったことを物語っている。
(この脅威は現在も同じである。「日本書紀」や「続日本紀」には、政治家に読んでほしい半島関連のエピソードが無数に書かれている)
應神天皇紀のこの数年間の記述は、「好太王碑」にある「日本軍と好太王軍の血戦」にズバリ照応しており、大和朝廷の緊張もただならぬものがあったと、推察できるのである。  
7-9 論語の到来と船団の炎上 そして高句麗国書の破棄事件

 

第十五代 應神天皇の物語(2) 学者王仁の来朝と高句麗の非礼
應神天皇十一年(西暦二八〇年/四〇〇年)
〔大池の造営〕
十月――
剣池・軽池・鹿垣池(ししがきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)をつくった。進歩した土木技術によって、潅漑用の大きな池をつくったという記録なのであろう。なおこの年にある人が、日向の国に髪長媛(かみながひめ)というたいへんな美人がいる――と報告し、天皇は喜ばれた。
應神天皇十三年(西暦二八二年/四〇二年)
〔日向から髪長媛を招く〕
三月――
天皇は特別な使者を日向に派遣して髪長媛を召した。
九月――
髪長媛がやってきたので、桑津邑(くわつのむら)――いまの大阪市東住吉区らしい――に住まわせた。このとき、後に次代仁徳天皇となる第四皇子の大鷦鷯尊(おおさざき)がこの媛と恋人どうしになってしまったため、天皇はこの媛を皇子の妃にすることにした。このときの天皇と皇子の歌のやりとりが面白い。この髪長媛が仁徳天皇の妃となって生んだ皇女が、のちの雄略天皇の皇后である。また仁徳天皇が即位したのちに定めた皇后は、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の娘の磐之姫命(いわのひめ)であった。
このあたりの婚姻譚からは、神功〜應神〜仁徳の系列が、大和朝廷周辺の有力者や豪族たちを味方につけるために、さかんに姻戚関係を結ぼうとした形跡がうかがえる。
つまり、應神天皇は大和朝廷の開祖に直結する媛を皇后や妃にしたし、つぎの仁徳天皇は大和朝廷以外の大和の豪族の媛を皇后にするとともに朝廷の先祖の地日向の媛を妃にしたわけで、母違いの兄を征伐した應神天皇系列としては、日本を統率する大和朝廷の正統的な後継者として認知されるために、万全の婚姻政策をとったのである。
應神天皇十四年(西暦二八三年/四〇三年)
〔百済からの渡来人〕
二月――
百済王が縫衣工女(きぬぬいのおみな)を献上してきた。着物をつくる技術を持った女性たちである。
またこの年、弓月君(ゆづきのきみ)が百済から来訪し、自分の配下の多くの技術者とともに帰化しようとしたが、新羅に妨げられて技術者たちは加羅国(任那の中心的な国)に留まっている――と訴えた。
弓月君は秦の始皇帝の子孫と伝えられる、機織りの技術者集団の長で、日本にとってきわめて重要な人物であった。
そこで天皇は葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を派遣したが、三年たっても帰ってこなかった。
戦いに明け暮れたことを想像させるが、この話はまた(神功皇后)六十二年にある「百済記」の内容と一致しているようでもある。
また「好太王碑」にある西暦四〇四年の戦いと、年代がよく対応している。
この年は一二〇年加算で西暦四〇三年になるが、前述のように「三国史記」の阿花王のこの年の記録に、倭の使者が来たので大いに厚遇した――とある。
推理すれば、これは翌四〇四年の高句麗との大激戦の原因である。
應神天皇十五年(西暦二八四年/四〇四年)
〔王仁を招聘するために使者を派遣〕
八月――
百済王から良馬二匹が献上された。このとき同時に帰化した阿直岐(あちき)は学者だったので皇子が学問を習ったが、天皇が、お前より優れた学者がいるか――と訊ねると、「王仁(わに)がいます」と答えた。そこで使者を百済に派遣して王仁を招聘した。
應神天皇十六年(西暦二八五年/四〇五年)
〔王仁来朝と新羅との確執〕
二月――
百済から著名な学者の王仁が渡来し帰化した。王仁は漢の高祖の末裔とされ、論語を日本にもたらしたのも王仁だといわれている。「古事記」には論語十巻をもたらしたとある。教科書にも出てくる人物である。この時代に多くの日本人が漢字を覚えてシナの学問を熱心に学びはじめたことがわかるエピソードである。
またこの時期、さまざまな技術を持った人たちが来航して帰化したが、この百済からの帰化人(*1)の増加は、百済が高句麗や新羅との戦いに苦戦し、日本が出兵してこれを助けて任那を守っていたことと関係があるらしい。
これは日本側にとっても都合の良いことで、貴重な人材として尊重したことが分かる。
大和周辺の各地に、帰化人を先祖とする伝説を持つ氏族がいる。
また十四年に派遣した使いが帰ってこないので、新羅がじゃまをしているのだろうと、軍勢を派遣し、取り返す。
新羅や高句麗との軍事的な軋轢が何代にもわたって続いたことがわかるし、ひきつづいて「好太王碑」の記述とも対応している。
(*1 帰化人といっても、その多くは、九州などの日本人と同じ先祖を持つ人たちではなかったか――という推理がある。この問題についてはまた後に記すが、いずれにせよ「日本に対する憧れ」がなければ、多くの人が半島から帰化するはずはない。レベルの高い学者や技術者でも同じである。それは、近現代における半島や大陸からの流入を見ればわかる。日本に不法入国して帰ろうとしない人が多いのは、日本が良い国だからである。その反対に日本を逃げ出して半島や大陸に帰化する人はほとんどいない。日本の悪口を言いながら日本に居座る人は多いが・・・)
(歴史に関係するあちこちの掲示板を覗いた印象だが、近隣国や欧米の歴史に強い人は、日本の正史をあまり勉強していない傾向があるように思う。日本人である以上、日本の史書を「時代順」におおまかにでも読み、その後に外国の史書を読むのが正しい順序だと思う。歴史教科書の改善運動をしている組織にも、意外なほど逆順の人が多い)
またこの年――一二〇年加算で西暦四〇五年――に百済の阿花王(あか)が崩じたので、天皇は、人質にしていたその王子の直支(とき)に、「国に帰って王位を継ぐように」と告げた。
「三国史記」の直支即位の項にも同じ記述があり、照応している。
直支は長男だが、次男は王とならずに摂政として長男の帰りを待った。しかし不満を持つ末弟が次男を殺して王を自称した。
このような血なまぐさい政変のさなか、日本は軍隊をつけて親日的な直支を送り、末弟を排除して直支を王とさせることに成功している。
「日本書紀」は編纂時に「三国史記」の元になったらしい「百済記」などの史書を参考にしただろうから、同様な記事があることは当然でもあるが、しかし双方とも独自の伝承と矛盾していたら記さなかっただろうから、史実なのであろう。
すなわち、日本の天皇の意向を無視して百済の王をきめる事はできなかったほど、應神〜仁徳天皇時代の日本の百済への影響力は強かった――という事である。
(これに対して新羅とは、次のように戦いが続いている)
八月――
武内宿禰の子である将軍・木菟宿禰(つくのすくね)に軍勢をつけて加羅国に派遣し、新羅の国境まで進んで、新羅にじゃまされて帰れなかった襲津彦(そつひこ)と弓月(ゆづき)の技術者たちを帰還させた。
この事件もまた、「好太王碑」の碑文の終わりの方の戦いとよく照応している。
またこの話は、十四年の項にある弓月の一件とともに、秦氏一族の渡来伝承とされている。
高句麗の「好太王碑」にある強力な日本軍を「日本書紀」のがわから見ると、その統率者としてもっとも有力な候補は、武内宿禰の四人の息子たちと、葛城襲津彦である。
そこで、襲津彦について、すこし記しておく。
高句麗軍と激戦したらしい襲津彦の出自は、「古事記」の第八代孝元天皇記では武内宿禰の息子で木菟宿禰らと兄弟とされているが、それはややあいまいである。名前から判断して、葛城地方(図7・7)と関係が深かったのであろう。
剛勇だが戦略や戦術の面で疑問のあるこの襲津彦が重要な地位をしめていたのは、その娘の磐之媛命(いわのひめ)が、のちに仁徳天皇となる皇太子の妃(即位後に皇后)だったからである。
しかもこの磐之媛命は、履中・反正・允恭という仁徳に続く三天皇を生んでいるので、襲津彦は三代もの天皇の祖父になったのだ。
應神天皇十九年(西暦二八八年/四〇八年)
〔吉野山中からの献上品〕
十月――
吉野宮に臨幸されたとき、吉野の山の人が酒を献上した。そしてこれ以後しばしば土地の産物を献上するようになった。
應神天皇二十年(西暦二八九年/四〇九年)
〔倭漢直の祖の帰化〕
九月――
大和南部の地を本拠として朝廷周辺でながく活躍した倭漢直(やまとのあやのあたい)の一族の祖とされる親子が、多くの郎党を引き連れて帰化した。この一族は弓月君(ゆづき)とおなじく、大陸→朝鮮→日本と渡ったとされ(たぶん自称)、文筆などで活躍した。のちに蘇我の手下となって第三十二代崇峻天皇を暗殺したのは、この一族の一人とされている。
應神天皇二十二年(西暦二九一年/四一一年)
〔吉備国などへ行幸〕
妃の一人で吉備国――現在の岡山県――出身の兄媛(えひめ)が両親のもとへ帰りたがっているのを認めたことや、天皇自身が吉備国や淡路島などに行幸したことが記されている。
應神天皇二十五年(西暦二九四年/四一四年)
〔百済王直支の死〕
百済の直支王が崩じたが、王子が若かったので政治を重臣の木滿到(もくまんち)がおこなった。しかし日本への無礼が多かったので呼びつけて叱った。また「百済記」には、木滿到が任那を専横したので天皇に呼びつけられたことが記されている。これは、百済への日本の影響力の強さが続いていたことを示す記述である。なお一二〇年加算ではこの年は西暦四一四年だが、「三国史記」では直支の死は西暦四二〇年とされている。
應神天皇二十八年(西暦二九七年/四一七年)
〔高句麗の無礼と皇子の怒り〕
九月――
西暦四一七年と推定されるこの年の九月、高句麗の王――この紀年を信じれば好太王の次の長壽王である――が朝献してきたが、その上奏文に、「高麗ノ王(こまのこにきし) 倭国ニ教ウ」とあったので、皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が激怒して文を破り捨てた。「教ウ」とは配下に対して使う言葉である。
日本と友好関係にある百済を北から侵犯しつづけ、新羅を配下におこうとしている高句麗と、はげしくやりあっていたことが分かる。
激しい戦争の結果、日本の力が上である事が分かって、高句麗も日本に朝献せざるをえなかったらしいが、相変わらずけんか腰である。
高句麗からの使者がまともな交渉をするようになるのは、次の仁徳天皇になってからである。
應神天皇の御代の終わりまでに任那地方での日本の力が強まり、高句麗の軍事力でも威圧することが出来なくなったからであろう。
この時代の朝鮮南部における日本の力は、シナ王朝も認めていた。それはシナ史書によって明かである。古代から現代まで、日本が朝鮮半島南部に強力な橋頭堡を築いたときのみ、日本の沿岸は安全を保っている。
應神天皇三十一年(西暦三〇〇年/四二〇年)
〔新羅に焼かれた多くの新造船〕
八月――
この年また新羅がトラブルを起こす。即位五年に伊豆の国につくらせた巨大な官船「枯野」が古くなって使えなくなったので、後世に名を残すためにそれを燃やして塩をつくった。なかにどうしても燃えない木材があったのでそれで琴を作ったところ、爽やかな音が遠方まで届いたので天皇が歌を詠んだ。「記紀」にはこういうなんともいえず楽しい話がたくさんあり、古代日本人の芸術性を感じさせる。
さて、天皇はこの塩を諸国に配って、替わりの船を五百隻も集め、これらを武庫の港――いまの兵庫県尼崎市――に係留しておいた。
当然ながら、朝鮮半島に軍勢を送るための船である。
ところが、その近くにいた新羅の使者(たぶん工作員)が火をつけて、多数の船を燃してしまった。
天皇は怒って新羅に責任を取らせた。
新羅王は謝って優れた技術者を献上した。
これが猪名部ら木工技術を生業とする一族の先祖であると記されているが、あいかわらず新羅との軋轢が続いていることがわかる。
應神天皇三十七年(西暦三〇六年/四二六年)
〔シナで縫工女を募集〕
使者を大陸江南の地――三国時代に呉のあったところ――に送って縫工女を募集する。道が分からないので高句麗王の部下に道案内してもらって、無事四人の縫工女を獲得し、天皇崩御の年に帰国した。さかんに技術導入をはかっていたことがわかる。
(雄略天皇紀にもほとんど同じような話があるので、混同しているのかもしれない)
なおこの年は一二〇年加算では西暦四二六年だが、シナ正史の「宋書」に、西暦四二一年と四二五年に、倭王讃(さん)の使者が来た――とある。いわゆる倭の五王の筆頭である。一二〇年加算どおりとすれば讃は應神天皇であるが、崩年干支からの推定ではこの年にはすでに應神天皇は崩御されており、したがって次代の仁徳天皇説が有力である。これは諱からも推測できる。その次の履中天皇という別説もある。
應神天皇三十九年(西暦三〇八年/四二八年)
〔直支王の妹の帰化〕
二月――
百済の直支王が妹を日本に派遣して、朝廷に仕えさせた。この妹は七人の婦女を従えていた。この年は一二〇年加算で西暦四二八年だが、「三国史記」によれば、この年の百済王は直支の二代後になっている。しかしシナ史書の記述では直支の死の直前がこの年となっていて、矛盾はない。
「日本書紀」を見ると、朝鮮問題は結局、日本を頼りにした百済とはうまくいったが、新羅はいったん和睦したものの約束を違えることが多くて苦労し、高句麗については外交関係もおぼつかなく、激戦を演じた――と推量される。
軍隊の面では、任那を守るために、また高句麗に圧迫される百済を助けるために、さらには反抗的な新羅に懲罰を加えるために、しばしば派遣され、その派遣軍が新羅軍および高句麗軍と激戦する――といったことだったらしい。
その抗争は、大和朝廷でいえば(神功皇后)から仁徳天皇の時代まで、高句麗の歴史でいえば好太王の即位前から死後まで、かなり長期にわたって続いたらしいことが、「日本書紀」や「三国史記」などの史書から読みとれる。
とくに新羅関係の難問題はつぎの仁徳天皇の代にも記されていて、歴代の天皇が朝鮮問題に神経を使っていたことがわかる。
(このような新羅との軋轢は、「続日本紀」にも書かれており、討伐軍の編成などもなされている。さらに言えば、この軋轢は、じつに現在にまで続いていると言えるのである)
一方百済との友好関係はずっとのちまで続いたが、六世紀に任那が滅び、七世紀の白村江の大会戦で百済・日本連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れて百済が滅亡し、弥生時代以来の朝鮮権益に最後が来ることは、よく知られるとおりである。 
7-10 應神天皇の崩御 神功皇后の実在性

 

第十五代 應神天皇の物語(3) 崩御と皇統の問題
應神天皇四十年(西暦三〇九年/四二九年)
〔皇太子の決定〕
正月――
次の天皇の候補として、大山守皇子(おおやまもり)・大鷦鷯尊(おおさざき)・菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)という異母兄弟がいたが、天皇は面接試験のような問答をした結果、弟の菟道稚郎子を皇太子にし、兄――第四子だが皇后の子――の大鷦鷯尊をその補佐にするようにきめ、大山守皇子には山川林野を司る役目を与えた。
現在のように長男が継ぐという定めはなかったし、神武天皇のころのような末子相続の習慣もなかったから、派閥・閨閥争いがどの天皇の後継決定時にも有ったようで、それが実におおらかに記されている。
ただし應神天皇の崩御後いろいろなことがあり、不満を持った大山守皇子は争って死に、菟道稚郎子と大鷦鷯尊は互いに遠慮しあってなかなか決まらず、そのうちに菟道稚郎子が自殺して、結局正室の生まれである大鷦鷯尊が即位して有名な仁徳天皇になる。
天皇の後継をめぐる争いの言い伝えである。
應神天皇四十一年(西暦三一〇年/四三〇年)
〔崩御〕
二月――
應神天皇が豊明宮(とよあきらのみや)で崩御された。百十一歳だった筈だが「日本書紀」には百十歳と記されている。もちろん、紀年の引き延ばしがあるので、実際の宝算は数十年は減るであろう。崩年干支からの崩御実紀年の推定は、西暦三九四年とされている。もし降誕年は一二〇年加算が正しく、崩御は干支が正しいとすると宝算は七十四ということになる。また崩年が一二〇年加算でよいとすると、実際の御降誕は数十年あとということになる。
もし崩御年の干支推定が正しいとすると、「好太王碑」の碑文にある激戦は、仁徳天皇の御代ということになるが、「記紀」からは應神天皇の時代との印象をうける。
もっとも、晩年はどの天皇も皇太子に任せた可能性がつよいので、実質がどうだったかは、今となってはわからない。
それから、「好太王碑」はきわめて重要な史料だが、それは三韓征伐についてのほとんど唯一の外国史料だからであって、争いそのものは「好太王碑」の前後かなり長期にわたってなされたことを認識しなければならない。
この崩御の年、應神三十七年に江南に出発した使いが帰ってくるが、すでに應神天皇はおられず、縫工女(きぬぬいひめ)は間に合わなかった。
そこで大鷦鷯尊に献じられたが、その子孫はいまの呉衣縫(くれのきぬぬい)や蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)である――として帰化人の子孫を記している。
驚くべき巨大な前方後円墳 
以上が(神功皇后)の皇子、應神天皇の御生涯であるが、この天皇がとてつもなく強大な権力を手中にしていたことは、造営した母親(神功皇后)陵の大きさからも、また自身の御陵が次代の仁徳天皇陵と並んで世界一の巨大さを持つことからも、よく分かる。
應神天皇陵は現在は誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳といわれて大阪府羽曳野市にある。写真を図7・4の(b)に示した。またつぎの仁徳天皇陵は大仙陵古墳といわれて大阪府堺市にある。同図(c)である。この二つはいずれも大和西部の山地を越えた場所にある。昔から河内、和泉と呼ばれてきた土地で、おおまかな地点を図5・1に示してある。この二つの巨大前方後円墳の大きさを、日本以外の墳墓で最大とされるクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の陵と比較して示したのが図7・5である。仁徳天皇陵は、墳丘長が約490m、周濠を含めると全長860mもある。ほとんど1Kmであり、面積は東京ドーム外周のほぼ十倍である。應神天皇陵もこれに次ぐ大きさを持っている。
高さこそピラミッドや始皇帝陵より下だし地下施設は不明だが、地表の面積では圧倒している。だんぜんたる世界一なのだ。しかもこの天皇陵の周辺に群臣たちの墳墓群があり、それらを含めると、仁徳天皇陵の場合、幅5Km、長さ10Kmにも及ぶとされている。現在の皇居のほぼ十倍である。
古代の古墳群は荒廃と修復を繰り返しているので、造営時の姿がどうだったかについては、個々に発掘調査しなければいえないが、世界一の規模を持っていたことは間違いない。
ついでながら仁徳天皇を継いだ履中天皇の御陵もすぐそばにあり、墳丘長370mに近く、仁徳・應神についで世界第三位である。
これらの巨大前方後円墳の造営は、高度な技術が必要だったことはもちろんだが、財政的にも動員力的にも絶大な力を持っていなければ不可能である。
(神功皇后)陵は應神天皇が、應神天皇陵は仁徳天皇が、それぞれ造営したものだし、仁徳天皇陵は生前から準備されていたとはいうものの履中天皇が造営したものである。
だから次代の天皇の強力さを物語ってもいるのだが、それにしてもその威力が死後まで続いていなければ、このような巨大な墳墓をつくることは出来ないであろう。
この世界一の前方後円墳だけでも、神功→應神→仁徳→履中→・・・の力がいかに強大だったかが分かるし、万単位での朝鮮出兵が可能だったこともうなずける。
さらにその守護神の住吉神社は、大阪・九州など国内各地だけではなく、朝鮮やシナにまでつくられたという伝承がある。
また、應神天皇を祀った八幡宮が数万というおびただしい数存在(*1)することも、この天皇のよういならざる威力を証明している。
(*1 前に記したと思うが、神道事典では八幡宮の数は稲荷神社についで多いことになっている(約二万五千社)。しかし最近では、八幡宮の方が多いという資料もあるらしい。数え方にもよるのだろうが、應神天皇は今でも日本中いたるところに祭られている。稲荷神社の祭神は歴史上の人物ではないので、歴史上存在が明かな人物を祭神とする神社としては、八幡宮が最多である)
虚構説・皇統断絶説への反論 
應神・仁徳天皇の系列は、(神功皇后)の夫――つまり應神天皇の父親――である仲哀天皇の影が薄いために、いろいろな説があり、皇統がいったん断絶したのだという説さえある。
しかし、旧家に嫁いだ女性が才能豊かで、真面目だが戦略眼の無い亭主の代わりに活躍してその旧家を隆盛に導く――といった話は、いまでもありふれている。
したがって「記紀」の物語は、べつだん不思議な事でもなんでもないであろう。
事績はとうぜん美化されているし、神話的な表現も多用されていて超人的ではあるが、(神功皇后)の物語は「記紀」にあるだけではない。
「風土記」にも「万葉集」にもたくさんあるし、朝廷に異論を持つ人たちが書いたらしい「先代旧事本紀」や「古語拾遺」にもある。
また住吉大社や籠神社などの極秘古文書にも記されている。
籠神社の古文書(国宝「勘注系図」)などは、「記紀」に反する内容――饒速日命(にぎはやひ)系重視の内容――をもっているため、朝廷に見つかるのは拙いとして、じつに昭和五十一年になるまで公開されなかったのだが、それにすら(神功皇后)に従って半島に遠征し恩賞を得た話が記されているのだ。
「記紀」などの史書が編纂されはじめた奈良時代初期の朝廷はかなりの権限を持ってはいたが、まだまだ日本中に簡単にはいいなりにならない豪族がたくさんいたし、朝廷に従属しない独立心旺盛な神社もたくさんあった。
内戦すら珍しくはなかった。
そのような時代にあって、あらゆる史料に架空の女帝の業績を書き入れよとか、架空の女帝を讃える和歌をつくれ――といった命令を下して、それを日本中が忠実に守るといったことがあり得るだろうか?
「万葉集」の多くの歌など、じつに自然に地方に残る(神功皇后)伝説を詠み込んでいるのだ。
藤原道長や平清盛や源頼朝が全盛だった時代でも、そんなことはできなかった。
中央集権が徹底した江戸時代・大東亜戦争中・占領下でさえ、そんなことはできなかった。
古代の皇統にかんしては、第十代崇神天皇、第十五代應神天皇、第二十六代繼體天皇という王朝がその前と交替したのだ――という水野祐らによる三王朝交替説があるが、これに反対する良心的な学者も多い。
たとえば南原次男は、この説の矛盾点を例示して、水野祐に何度も質したが、ついに何の返事も無かったそうである。
また南原が水野の早大における講義を連続して聴講したところ、王朝交替説の話は一度もしなかったそうである。
その後水野は、王朝交代説は夢が元だった、と学生達に語ったといわれる。
著者の常識でも、皇統が完全に断絶して入れ替わったとは、とても考えられない。
遠縁の人物が入り婿の形で大和朝廷直系の妃を娶って後継になったという考え方ならまだ分からないでもないが、断絶して新しい王朝をきずいたのだとしたら、日本中が騒然としただろうから、その証拠が豪族の家伝や神社の古文書や歌集などにたくさん残っている筈だし、自身の先祖を美化するとともに大和朝廷を歴史から消そうとしたであろう。
しかしそのような史料はなにも残されていない。
だから、「記紀」のとおり應神天皇自身も血のつながりが有り、(神功皇后)も実在して夫の天皇の代わりに大活躍した可能性が強いのではないだろうか。
このように考えてくると、最近の左翼系の学者による三つの主張、
(一)(神功皇后)はまったくの虚構である。
(二)任那はまったくの虚構である。
(三)皇統の継続性はまったくの虚構である。
――は、牽強付会のように思える。
常識を捨ててイデオロギー的結論を先行させているように思えてならない。とにかく以上が(神功皇后)を中心とした三代紀の概要である。 
7-11 《石上神宮》の七支刀 神功皇后実紀年の推理

 

《石上神宮》の場所と歴史 
大和川の支流のひとつに、笠置山地から流れ出る布留(ふる)川がある。奈良盆地の中央東寄りを流れているが、この布留川を遡ると、天理の市街を斜めによぎって山地に入るあたりの南岸に幽玄な地があり、そこに古式ゆかしい神社が鎮座している。百済王が(神功皇后)に献上したと「日本書紀」に記されている「七枝刀(なささやのたち)」そのものが奇跡的に宝殿に伝世されてきた《石上神宮(いそのかみじんぐう)》である。
この神社は石上振(いそのかみふる)神宮と呼ばれたり、石上布都御魂(いそのかみふつのみたま)神社と呼ばれたり、また布留社(ふるのやしろ)と呼ばれたりしていたが、現在では《石上神宮》が正式名称になっている。
昔の神社の最高の格式である正一位官幣大社である。
石上も布留も神社名であるとともに鎮座地の名にもなっており、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)が伝承されるその土地の名前だが、「布留(ふる)」という奇妙な名は、後述するように「振る」から来ているらしい。
この《石上神宮》は大和朝廷の成立と密接に関係するといわれ、日本最古の神社の一つであり、図5・3でわかるように、大和朝廷発祥の地《三輪山》山麓に隣接し、山麓とは日本最古の公道「山の辺の道」で結ばれている。
創建は第十代崇神天皇七年、天皇の勅令によるとされ、実紀年研究によれば三世紀半ばと推定されている。
すなわち(卑彌呼)晩年の時代である。
この古さは、崇神天皇六年とされる《檜原神社(ひばら)》(伊勢神宮の元となった神社)や《大和神社(おおやまと)》、崇神天皇が初めて祭祀をなされた《大神神社(おおみわ)》の社殿(信仰そのものはずっと古い)など《大和》の著名古社とほぼ同じであり、大和朝廷が正式に認めた神社としては名実ともに日本最古のひとつである。
《石上神宮》を含めたこの四社のうち檜原神社を除く三社までが最高格式の官幣大社である。
檜原神社も《大神神社》の摂社となっているから、官幣大社に準じている。
この《石上神宮》に勅命によって初めて祭神を奉祀したのは伊香色雄命(いかがしこお)だが、この命はかの(饒速日命(にぎはやひ))の子孫であり、したがってまた物部一族の祖の一人である。
このことから、《石上神宮》の祭祀は代々物部氏が預かることになり、物部一族の総氏神となったが、元来物部一族は軍事を担当しており、したがって《石上神宮》は自然に武器庫の役割を果たすようになったといわれている。
西側の河内方面から《大和》に入り込んだ(饒速日命(にぎはやひ))一族らと南東の吉野山地から入り込んだ大和朝廷との軋轢を連想するが、(饒速日命)の子孫を自負する物部一族の勢力範囲は、いまの天理市にある《石上神宮》の周辺であったらしい。
(饒速日命)が河内に降臨してそこから《大和》に進出したことや、争いの末、神武天皇に帰順したことは、すでに述べたとおりである。
さて次に、《石上神宮》の御祭神について記すことにするが、その由緒が記されているのは、「日本書紀」よりもむしろ「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」である。
この史書は、序文に聖徳太子や蘇我馬子の撰と読める記述があるために、昔は「記紀」よりも古いと信じられてきたが、江戸時代からの研究によってそれは誤りであり、平安初期の成立であることが分かった。
しかし内容的には、「記紀」にはない古い伝承が含まれており、かつ物部一族の先祖についての記述に詳しいことから、物部一族の誰かが、「記紀」における物部関係の記述の少なさに不満をもち、「記紀」編纂の前からあった家伝を元に著したのであろう――とされている。
もちろん朝廷への遠慮もあったろうから、「記紀」を攻撃するようなところは無いが、《石上神宮》や丹後の籠神社など(饒速日命)系の古い神社に残る言い伝えとも矛盾しないようである。
自分たち一族が軽視されたことへの不満を史書の形にした点では「古語拾遺」と似た意思によって書かれたように考えられる。
《石上神宮》の祭神 
さて、その「先代旧事本紀」と「日本書紀」、および神宮の解説書(引用文献参照)を元に、御祭神について記してみる。
三柱の主祭神はすべて剣と神宝の霊である。
主祭神
  布都御魂(ふつのみたま)大神
  布留御魂(ふるのみたま)大神
  布都斯魂(ふつしみたま)大神
配祀神
  宇摩志麻治(うましまじ)命
  五十瓊敷(いにしき)命
  白河天皇(第七十二代の天皇)
  市川臣(いちかわおみ)命
ア 布都御魂(ふつのみたま)大神
この神宮の最高位の主神である。
第六章で記したように、(天照大神)らが(大己貴神)または(大國主神)に国譲りを説得したとき、高天原から派遣された神が剣の切っ先にあぐらをかいて談判したのだが、その時の剣の名がフツノミタマとされている。
「日本書紀」や「先代旧事本紀」では{師の左を音}靈という文字をあてている。
その別字が布都御魂であり、その霊威を讃えて布都御魂大神と称している。
この霊剣はそののち高天原に帰ったが、やはり第六章にあるように、神武東征の際の危機を救うために(天照大神)から神武天皇に与えられた。
神武天皇は即位後、これを(饒速日(にぎはやひ)命)の御子である可美眞手命(うましまで)に命じて宮中に奉斎させた。
(饒速日命)一族が帰順したことへの一種の恩賞である。
第十代崇神天皇の六年に「三種の神器」のうちの「神鏡」と「神剣」が宮中から移されて檜原神社(元伊勢)に奉斎されたが、その翌年の七年になって勅命がおりて、こちらの剣・布都御魂も宮中外に祀ることになり、物部氏の先祖の一人の伊香色雄命(いかがしこお)が拝命して、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)という地――つまり現在の《石上神宮》の地――に主神として奉祀した。これが《石上神宮》の創建伝承である。
イ 布留御魂(ふるのみたま)大神
神武東征の前に河内に降臨して《大和》の地に進出した(饒速日(にぎはやひ)命)は、第六章で記したように高天原の天津神(あまつかみ)から「十種の神宝(とくさのかむたから)」を授けられた。
二面の鏡、剣、四種の玉、邪悪なものを打ち払う三種の布帛からなる神宝である。
このとき天津神は、「もし痛むところあれば、この十宝を、一二三四五六七八九十と言いて振るえ。ゆらゆらと振るえ。かくなさば、死りし人も生き返らん」と教え諭した。
これは物部一族の祭祀の一つの形らしいが、「振るえ」は原文では「布瑠部」で、これが地名・川名・社名にある布留の語源である。
この「十種の神宝」が布留御魂で、(饒速日命)が帰順してから、その御子の可美眞手(うましまで)命が神武天皇に献上し、神武即位元年に天皇皇后の長寿祈願に用いられた。
これは鎮魂祭の始まりとされている。
この十宝は歴代天皇の宮中にあり、先の布都御魂(ふつのみたま)の御前に奉祀されていたが、崇神天皇七年に、布都御魂と同時に《石上神宮》に遷され、祭神となった。
なお本章トビラ裏(前掲)の柿本人麻呂の歌にある「袖布留山(そでふるやま)」は、袖を振るの「振る」とこの「布留」をかけた有名な歌で、歌碑が建てられている。
ウ 布都斯魂(ふつしみたま)大神
この大神も神剣の霊である。
素戔嗚(すさのお)尊が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに使った剣は十握剣(とつかつるぎ)といわれる大振りの剣だが、この剣は「三種の神器」の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を大蛇から取り出すのに役立った霊剣でもあるので、その御霊威を讃えて、布都斯魂大神として奉祀され、祭神となった。
つまり、古代神話に出てくる著名な神剣のうち、「三種の神器」となった草薙剣以外はすべてこの《石上神宮》に奉祀されたわけである。
武器庫としての役割をもつ神社にふさわしい祭神であるし、また大和朝廷が対抗者(饒速日命)の後裔を名乗る物部一族の帰順に腐心していた実情を読み取ることもできる。
エ 宇摩志麻治(うましまじ)命
(饒速日命)の御子の可美眞手(うましまで)命のことである。
オ 五十瓊敷(いにしき)命
第十一代垂仁天皇の皇子で、第十二代景行天皇の兄にあたる名門である。
武具の製造を担当して、剣一千口をつくって《石上神宮》に納め、社宝を収める天神庫の管理を司った。
晩年には妹の大中姫(おおなかつひめ)命にその役職を譲ろうとしたが、姫命は女性の身で倉に登るのは困難だとして辞退し、物部氏に譲ったとされている。
この五十瓊敷命を祭神とした神社が岐阜市などにある。
一千口もの剣を収納した神社は珍しいが、武器庫としての性格がわかる伝承である。
カ 白河天皇
第七十二代、平安後期の天皇で、《石上神宮》を深く崇敬されて拝殿を寄進されたりしたので、祀られている。
キ 市川臣(いちかわおみ)命
第五代孝昭天皇の皇子の子孫で、春日臣(かすがのおみ)の一族。
第十一代垂仁天皇の時代から《石上神宮》に仕えた。その子孫は布留宿禰(ふるのすくね)と称し、物部氏を補佐して長く祭祀をつとめた。
以上の祭神でもわかるように、宮中に関係する宝剣の類はほとんどこの神宮の神庫に奉祀されてきたし、また実際に使用するための一千口もの剣も神庫に保管されてきた。
また(饒速日命)の「十種の神宝」のように武具以外の神宝も奉祀されてきた。
この他、帰化王子の天日槍(あめのひほこ)が運んできた朝鮮の宝物もここで保管したと伝えられている。
そういうことなので、当然のことながら、(神功皇后)の五十二年に百済国の王から貢献された有名な「七枝刀(ななさやのたち)」や「七子鏡(ななこのかがみ)」もここで保管したであろう。
「七子鏡」とはたぶん、周囲に小さな六つの鏡が付属した特殊な形状の鏡であろうが、これは残念ながら不明となっている。
しかし「七枝刀」は奇跡的に伝世されて、現存している。
神宮では「六叉鉾(ろくさのほこ)」と呼び伝えてきたが、刀に刻まれた銘文には、「七支刀(しちしとう)」とあるので、現在ではこれが正式の名称となっている。
《石上神宮》の苦難と神宝発掘 
さて次が、この神宮の苦難の歴史である。
最初の苦難は八世紀末の桓武天皇の時代で、平城京から長岡京に遷都したとき、ご神体がその新都に召し上げられてしまった。
都から遠くなった《石上神宮》に武器を保管させるのは危険である――という朝廷の考えによる措置だったらしい。
しかし天皇の身に祟りが生じたので、すぐに返還された、といわれている。
おそらく物部系有力者の尽力があったのであろう。
これは《石上神宮》ならではの例外的な事件であるが、日本の社寺はどこでも、乱世に土地や神宝を失うという苦難に遭遇している。
たとえば、十二世紀の源平の争い、十五世紀の応仁の乱にはじまる戦国時代、十六世紀の信長勢の《大和》侵攻、豐臣・徳川時代になされた検地による領地没収、そして大東亜戦争による空襲被害と終戦後の占領軍による神社への弾圧・・・などである。
この《石上神宮》も例外ではなく、とくに永禄十一年に信長に援助された尾張勢が神宮境内に乱入して、拝殿や神庫を打ち壊し、中のものを強奪したため、多くの神宝や古文書が失われた。
また豐臣秀長の命令によって社領も何十分の一かに減らされ、すっかり衰微してしまった。
この時代には、勅命がなければ開けることを許されない有名な東大寺の正倉院ですら、織田勢などによって多くが失われたといわれているので、やむを得ないことであった。
(このような織田勢の乱暴狼藉が、明智光秀に謀反された原因だとする話もある)
おそらく、このような被害を少しでも避けようとした関係者の苦心の策が、禁足地だったのであろう。
いつのころからか、拝殿の背後に絶対に人の入ることを許さない禁足地ができ、そこに霊剣・布都御魂(ふつのみたま)大神などの御祭神や神宝が埋斎されているという話が密かに口伝されてきたのだ。
その真偽は長く不明だったのだが、明治になって古くからの神社が重んじられるようになり、第1-1節で記した歴史学者の菅政友が《石上神宮》の大宮司になったとき、官許を得て禁足地を発掘(明治七年)したところ、口伝どおり、多くの神宝が出土した。
そしてそのさい、主祭神・布都御魂(ふつのみたま)大神とおぼしき霊剣が、鋭端を東に向けて、地中に鎮座していたのが見つかったのである。
元来この神宮には拝殿はあっても本殿は無く、禁足地に向かって参拝する形をとっていた。そして神庫は禁足地の外側にあったのだが、菅政友の後任者はこれら出土品を奉祀するために、禁足地内に本殿をつくった。
また後に、神庫は禁足地内に遷され、これとは別に耐火施設の宝物収蔵庫を建造して、現在は社宝はここに奉安されている。
さて、菅政友が発掘した霊剣以外の出土社宝だが、それは次のようなものである。
 硬玉勾玉十一箇・碧玉管玉二九三箇・琴柱形
 石製品・弧状管玉・硬玉棗玉・角形管玉・環
 頭大刀柄頭・銅鏃・金銅垂飾品・金銅空玉・
 草花文鏡・萩菊双雀鏡・鏡形銅製品二面・瑞
 花文八稜鏡・草花文五稜鏡
これらの多くは古墳時代前期の製造と思われ、ひじょうに古いものである。(饒速日命)が天津神から授けられた「十種の神宝」を連想させる玉や鏡が多いことに注意されたい。以上の出土品はすべて、国の重要文化財に指定されている。ただし次の品は、鉄製品であるため錆がひどく、指定はない。
 籠手残欠
 大刀
 いくつかに折れた鉾状物や槍状物
 霊剣・布都御魂(ふつのみたま)大神のほかに、明治十一年になって同じ禁足地から、神話にある十握剣(とつかのつるぎ)=布都斯魂(ふつしみたま)大神かもしれない宝刀が出土したといわれる。
(菅政友が布都御魂として記録した霊剣はご神体そのものなので、写真等には撮られていないが、発掘時の手書き図が残されていて、神道大系で見ることができる。日本という国は凄い国で、神話に出てくる大國主神に国譲りを説得した際の剣が現実に発掘されて神社に祭られているのである。ただし考古学的研究対象ではない)
禁足地からの出土品のほとんどが重要文化財だが、もちろん出土品以外にも国宝や重文などがある。それを一覧にしておく。
 拝殿(国宝)
 摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)〔出雲建雄は三種の神器・草薙剣の荒魂〕
 七支刀(国宝)
 楼門(重要文化財)
 鉄盾(重要文化財)
 色々威腹巻(重要文化財)
 境内二十四万平方米(奈良県天然記念物)
 鏡池とワカタ(魚)(奈良県天然記念物)
 太刀・小狐丸(奈良県指定文化財)
 厳甕(奈良県指定文化財)
 繪額二面(奈良県指定有形民族文化財)
要するに神社全体が国宝のような社なのだが、このなかでも近隣国との交流の史料としてとくに重要とされるのが、「七支刀」である。
《石上神宮》の奇跡の至宝「七支刀」 
さて、問題の「七支刀」である。
これは禁足地に埋められていたのではなく、高句麗からの献上品かもしれない鉄盾など他のいくつかの重要文化財とともに神庫に保管されて伝世されたもので、尾張勢の乱入によって神庫自体が破壊されたときにも、略奪を免れて、現在に至った。
これは奇跡的なことであるが、いくつかの最重要な社宝とともに、山中に隠すなどして難を逃れたのかもしれない。
また菅政友の論文には、尾張勢の略奪物のいくつかは翌年に返却されたと書かれているので、「七支刀」も略奪されたのちに戻された可能性がある。
神社関係者や朝廷などによる必死の働きかけがあったのであろうが、何と何が戻ったのか、戻らなかったのは何か、など、詳細は菅も記していない。
伝承があるだけで、文献資料は残っていなかったのであろう。「七支刀」以外の多くの社宝・古文書などが行方不明になったのは確かであるが・・・。
じつに珍しい形状の刀で、たしかに六つの枝と先端とで合わせて「七支」である。鍛鉄製で全長が約七十五センチある。錆におおわれてはいるが、校倉造りの神庫の環境が良好だったのであろう、いまだ原形を保っており、そこに金象嵌で記された六十余文字の銘文があって判読可能である。
百済王がきざんだこの銘文は、次のようなものである。
(注 この時代の織田勢などが略奪した宝物類の多くは、武将の手から次第に流出し、現在でも時々その方面の市場に出てくるといわれる。一説によれば、正倉院の御物の三分の二は織田勢が強奪し、その一部が時々市場に出るそうである。それが本当なら、現在の正倉院御物は本来の三分の一にすぎないことになる)
(表面)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鐵
   七支刀 以辟百兵宜供侯王 □□□□作
(裏面)先世以來未有此刀 百済王 世子奇生
   聖音故 爲倭王旨造 傳示後世
推定されるおおまかな意味を、八木荘司の訳で記すと、
(表面)泰和四年(西紀三六九年)の五月十六日丙午の日の日中、百練した鉄で七支刀を造る。もって百兵(多くの敵)のわざわいを避くべく、侯王(帝または諸侯)に供するにふさわしい霊刀である。□□□□が作る。
(裏面)古来いまだ、このような刀はなく、百済王と世子(太子)の寄生(「日本書紀」の貴須、「三国史記」の仇首)が、聖なるお言葉ゆえに、倭王のおんために造る。後世に伝示されたい。
――といったことになる。
これが特A級の史料である最大の理由は、冒頭に「泰和四年」という紀年が記されていることである。
朝鮮半島の各国はずっとシナ王朝の年号を使用していたので、これは東晋の年号である「太和(たいわ)」の音を仮借したものとみるのが通説である。
そしてこれへの反対意見は少ない。
だとすると、この「七支刀」は、「任那地方の七国が日本に帰順した西暦三六九年に、それを記念して製作された」ことになる。
第7-7節に記したように、日本に献上されたのが、(神功皇后)五十二年で、これは西暦表示で二五二年だが、一二〇年加算をすると三七二年になる。
すなわち、この刀の銘文と「日本書紀」の記述とはピタリと一致する。
おどろくべきことだが、この一致によって、干支二回りの一二〇年加算が信憑性を持つといえるのである。
そしてそのことは、(神功皇后)摂政から應神天皇への交替の時期が、どうやら三七〇年代ではないか――という実紀年推理にも結びつくのである。
西暦三六九年というのは、一二〇年加算した「日本書紀」の事項を見ると、日本軍が百済と協力して新羅を押さえ、弁韓の七国を帰順させて任那を拡大し、済州島を支配して百済に譲渡した年である。
したがって、日本との修好を願う百済王が、七国帰順を祝ってこのような七つの枝をもつ特殊な刀に銘文をきざんで朝献してくる必然性は、きわめて高い。
この時代の百済王は近肖古王といわれ、「三国史記」によると、王と太子の近仇首王(銘文中の奇生)とが高句麗と激しく戦っていること、および新羅となんとか和解して国境を確定しようとしていること、などがわかる。
したがって、高句麗対策の一環としても、元来友邦だった日本に宝物を贈ってさらに味方につけようとしていたことは、十二分に考えられる。
また、「日本書紀」には明示されていないが、対新羅戦だけでなく対高句麗戦にも日本の大軍が参加していたことは、「好太王碑」から確実である。
このようなことから、この国宝「七支刀」は、(神功皇后)から應神天皇の前記の実年代を推理する、日本で最古の、かつきわめて有力な史料なのである。
なにしろ、いまから千六百三十年も前の古墳時代の伝承を記した「日本書紀」にある外国からの献上品そのものが、遺跡からの出土ではなく、神社宝殿の伝世品として、いまに伝わっているのだ。まさに奇跡である!
伊勢神宮の徴古館に収蔵されている六鈴鏡で、古墳時代――つまり(神功皇后)のころ――に作られたと考えられるものである。百済から届いた「七子鏡」も――そのものズバリではないかもしれないが――これに似た形状ではなかったか、と想像される。この形状の鏡は、すこし後の時代の遺跡からも、いくつか出土しているらしい。真似て作ったのであろうか? 
7-12 「魏志倭人伝」との奇妙な一致

 

数多い(卑彌呼)との暗合 
神功皇后紀と「魏志倭人伝」の対応は、じつに多くある。多すぎるくらいだといえる。それを以下に列挙してみよう。
簡単に結論が出るわけではないが、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」は、「《邪馬台国》九州説」とも結びつくし、また、「《邪馬台国》大和説」とも結びつくのである。
(神功皇后)や應神天皇が九州を本拠とする豪族の出だったと仮定すれば前者になるし、「記紀」の記述にそっているとすれば後者である。
ここでは一応、前者もありうるとして箇条書きにしてみる。
(1)暦年の一致
「魏志倭人伝」で年代入りで記されているのは西暦換算で二三〇年くらいから二五〇年くらいの事件だが、この(神功皇后)紀の後半の年代も、修正をまったくしないで西暦に換算すると、同様になる。また(卑彌呼)の活躍はその前、つまり三世紀初頭からあった筈なので、それは(神功皇后)紀の前半とほぼ一致する。すなわち、(神功皇后)が朝鮮へ遠征するのは、「記紀」のとおりの紀年を一二〇年加算しないで西暦に直すと二〇〇年である。
(2)「魏志倭人伝」の引用
「日本書紀」の神功皇后紀には、「魏志倭人伝」にある魏との使者交換の引用が三箇所にも出ていて、西暦換算の年も完全に一致している。また、(臺與)に対比したと思われる西暦二六六年の「起居注」の引用まである。
(3)国の乱れ
「魏志倭人伝」には倭国が乱れたとき、男王が立ったが治まらず、女王を擁立してやっと平穏になった――とある。これを「日本書紀」に見つけることは容易である。すなわち、少し前の景行天皇紀では、国々が乱れて困り、そこで日本武尊が九州や東国に遠征して諸国を平定したが、途中で病没したことになっており、国の乱れに苦労した話が多い。景行天皇は第十二代だが、次の第十三代の成務天皇や(神功皇后)の夫の第十四代仲哀天皇は、「記紀」ではじつに影が薄く、ほとんど無視されている。したがって男王では駄目で女王を共立した――との「魏志倭人伝」の記述に一致するといえる。
(4)名前の一致
(神功皇后)の謚号でかつ諱と思われる氣長足姫尊の末尾の「ヒメミコト」は(卑彌呼)「ヒミコ」そのものであり、名前の点でも類似している。
(5)夫が無く男弟が補佐している事
夫がいないという「魏志倭人伝」の記述に合わせるのは簡単で、夫の仲哀天皇は早世し、その後で(神功皇后)の活躍が始まるのだから、活躍期間のほとんどにおいて夫は無いことになる。また大臣の武内宿禰が夫がわりのような感じで終始補佐しているが、これは「男弟が補佐している」――という「魏志倭人伝」の記述に通じる。また(卑彌呼)の身の回りの世話はただ一人の男がしているという話も、武内宿禰に比定することが可能である。さらに、女王の言葉を外に伝える役割をしている男の件は、仲哀天皇九年1の審神者(さにわ)が暗示的である。
(6)靈力の一致
「魏志倭人伝」の(卑彌呼)は鬼道をよくするとあるが、(神功皇后)も盛んに霊力を発揮し、神託をうけて政治を決定するとともに、数々の奇跡を起こしている。まさに鬼道である。
(7)北九州の地名の一致
「魏志倭人伝」に出てくる末廬国、伊都国、奴国が、(神功皇后)紀――および仲哀天皇紀――にも、次々に出てくる。また仲哀天皇の在位時に皇宮を九州と至近距離にある山口県にかまえ、そのあと(神功皇后)のみの時代に拠点を北九州に移している点、また《邪馬台国》の候補地の一つである九州の山門が神功皇后紀に出てくる点も、なにやら暗示的である。
(8)東征伝説
《邪馬台国》が東征して大和に移ったという神武天皇紀と結びつけられている説に対応する移動が、(神功皇后)紀にもちゃんと見られ、北九州に拠点を持った(神功皇后)が戦いながら近畿に移動する。さらに面白いのは、瀬戸内海からまともに大阪湾に向かったのではうまくいかず、紀州方面に迂回して上陸して成功する話があることで、これもまた神武天皇紀の東征神話と酷似している。したがって「《邪馬台国》九州説」ともうまく結びついている。
(9)皆既日食の記録
「(卑彌呼)=(天照大神)説」のひとつの根拠は西暦二四八年の皆既日食だったが、(神功皇后)紀にも皆既日食を思わせる記述がある。昼も夜のように暗くなったという事件である。
(10)狗奴国と熊襲の対応
「魏志倭人伝」では(卑彌呼)は狗奴国との闘いに苦戦するわけだが、神功皇后紀や仲哀天皇紀では熊襲征伐が大きな難問題となっている。狗奴国が熊襲だったとすると、これもまた記述の一致だといえる。
まだまだ対応は有ると思うが、このくらいにしておく。
以上の照合をまともに考えると、(神功皇后)は(卑彌呼)そのものではないかと考えられる。なにしろ「記紀」の編者自身が「(卑彌呼)=(神功皇后)説」をとっているらしいのだから・・・!
井沢元彦のユニークな説 
なお井沢元彦は、「《邪馬台国》九州説」を補強するものとして、宇佐八幡宮の特異性を記している。宇佐八幡宮は前記したように應神天皇を祀る八幡宮の総本宮で、九州北部にあるひじょうに古い神社である。そこには
 (神功皇后)
 應神天皇
 日賣大神(ひめおおかみ/(天照大神)の姫たち)
――の三柱の神が祀られているが、應神天皇を主神とする神社でありながら一番上座にあるのが日賣大神なのだそうだ。そしてこの宇佐八幡宮の礼拝作法が出雲大社とおなじ独特なもので「二礼・四拍手・一拝」なのだという。
ふつうの神社は「二礼・二拍手・一拝」または「二拍手・一礼・二拍手」だから、たしかに独特である。
それから、古くから皇室で別格の扱いを受けてきた《伊勢神宮》や出雲大社と同じく別格であり、歴史もきわめて古く、應神天皇の御心霊が六世紀に宇佐の地に御示顕になったといわれている。
こういうことから井沢元彦は、日賣大神はじつは(天照大神)そのものであり、東征して《大和》の地に本拠を遷したのは(天照大神)に関係の深い(神功皇后)の系列の豪族で、彼らがその前にいた古い大和一族に取って代わったのだ――としている。
そして、(天照大神)を祀った《伊勢神宮》があるのになぜ宇佐にも祀るのか――という疑問に対しては、田舎から都会に出て成功した人が、現住所に仏壇を飾り、また実家にも飾ってあるのと同じようなことだ、と答えている。
じつにユニークな――というよりも不思議な――仮説で、「《邪馬台国》九州説」をよく説明しているようにもみえる。
(神功皇后)と(卑彌呼)がこれだけの一致点を持っているにもかかわらず、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」が主流になっていないのは、紀年の違いがあるからである。
たしかに「記紀」の皇紀を基準にすれば紀年も一致するが、それは明治以来の学問的研究によって皇紀の引き延ばしが確実視されている以上、そのまま信じるのは科学的ではない。
暗合する事績が多いといっても、故意に似た事績を集めたという可能性もあるだろう。 
7-13 卑彌呼=神功皇后説の確からしさ

 

(卑彌呼)と(神功皇后) 
前節の(1)〜(10)項は、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」にとって魅力的な暗合であるが、そうかといって、これを鵜呑みにするわけにはいかない。
もともと(神功皇后)の大きな事績である三韓征伐や任那進出は、魏に朝貢した(卑彌呼)とは正反対だし、実際上の年代も干支二回りの違いを考えると、まったく時代が異なる。
では、(卑彌呼)の話と後の朝鮮との抗争の話とを混ぜて(神功皇后)伝説を創作したのだろうか?
つまり(神功皇后)は架空の存在なのだろうか?
このように主張する学者も一部にいるけれども、それにしては(神功皇后)の事績についての史書や詩歌や神社の秘文や各地の伝承が多すぎる。
やはり実在した皇后をモデルにして、史実を神秘化して記したのであろう。
神功皇后紀と應神天皇紀とで年代関係が入り組んでいて矛盾があるのは、意図的に創作したからではなく、つぎの理由によるものであろう。
[一]
神武天皇即位を紀元前六六〇年の革命の年に移動したものの、繼體天皇以後はほぼ完全に「記紀」の紀年と実紀年が一致するようにしたので、神武〜繼體の間で調整しなければならず、そのために紀年全体を移動しつつ、一天皇の在位期間を伸ばさなければならなかった。
[二]
(卑彌呼)と(臺與)を(神功皇后)に照応させるために、年代を調整しなければならなかった。
[三]
西暦三六九年ごろや四〇〇年ごろの任那進出や朝鮮出兵の史実と神話的な三韓征伐を結合しなければならなかった。
[四]
「百済記」など百済の史書との対応もとらねばならなかった。
実紀年の推理については節のおわりに再度記すことにして、ここで第七代孝靈天皇以後の御陵の大きさについて記しておく。
ただどの御陵がどの天皇のものか――については、明治初めに強引に決めてしまった面もあるらしいので、研究者によって様々な意見があり、百パーセント正しいとはいえないことを注意しておく。
つぎの数字は現存する墳丘長のみで、周囲の濠や堤防は含まれていない。
それらを含めると、もっとずっと大きくなるし、いまは消えていても発掘によって大きな周濠が推理されているものもある。
幕末の大修理によって墳丘形自体が違ってきたものもあるらしい。
第二章にある(卑彌呼)候補の一人(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)の父親とされる孝靈天皇の御陵は山形で、それ以後はすべて前方後円墳だが、形状がはっきりしかつ巨大になるのは(百襲姫命)の御墓以後である。
また孝靈天皇以前になると、さらにあいまいになる。
 第七代 ・孝靈天皇陵 100m(これは山形、このあとはすべて前方後円墳)
 第八代 ・孝元天皇陵 140m
 第九代 ・開化天皇陵 100m(これ以後超巨大となる)
 倭迹迹日百襲姫命陵  280m
 第十代 ・崇神天皇陵 242m
 第十一代・垂仁天皇陵 227m
 第十二代・景行天皇陵 310m
  同皇子・日本武尊陵 190m
 第十三代・成務天皇陵 220m
 第十四代・仲哀天皇陵 238m   同皇后・神功皇后陵 276m
 第十五代・應神天皇陵 420m
 第十六代・仁徳天皇陵 486m
 第十七代・履中天皇陵 365m
(天皇や皇族の墓の名称にはいろいろな定義があるようだが、ここではすべて陵という言葉を使用した)
表中日本武尊は崩御後白鳥になって飛び遷ったので合計四基もの御陵が知られているが、ここでは羽曳野市にある最大の御陵の寸法を採用した。
この表を見ると、(倭迹迹日百襲姫命)からとつぜん200〜300mという大規模な前方後円墳となり、日本武尊は早世したので別としても、巨大な墳墓がつづき、そして應神・仁徳・履中にいたってとてつもない規模になったことが分かる(*1)。
この御陵の大きさの変移は、大和朝廷の進展を考えるさいにとても参考になる。
ここで着目している(神功皇后)の御陵は、夫の仲哀天皇や先代の成務天皇の御陵よりずっと大きいことに注意されたい。
(*1 百襲姫命の巨大な御陵の墳丘長を天皇陵が上回るのは、三代あとの景行天皇になってからである。つまり、百襲姫命の直後の天皇である有名な崇神天皇や垂仁天皇の御陵も巨大ではあるが百襲姫命にはおよばないのだ。また神功皇后御陵がほぼ百襲姫命御陵に匹敵していることも注目される。つまり(倭迹迹日百襲姫命)の存在感は尋常のものではないのである)
(神功皇后)実紀年の多面的推理 
(神功皇后)と(卑彌呼)の関係を論ずるとき、また(神功皇后)の実在性や朝鮮進出の史実性を検討するとき、その実紀年の推定が大きな問題となる。
そこで、いくつかの面からの実紀年推理について、記しておく。
これらは著者の新説ではなく、従来からある資料の整理である。
以下の紀年数字はすべて西暦である。
〔1〕崩年干支による推定
干支の記述によって実崩年を推定すると、
  成務天皇 三五五年
  仲哀天皇 三六二年
  神功皇后 三七〇年代?
  應神天皇 三九四年
  仁徳天皇 四二七年
――となる。
(神功皇后)の崩年干支は伝えられていないが、仲哀と應神の間にあることは確かなので、その活躍期間(摂政在位期間)は「三六〇〜八〇年ごろ」と推定できる。
仲哀天皇の崩年干支がもし正しいとすれば、(神功皇后)の新羅遠征は三六二年ということになる。
前述したように南原次男は、(戦史学からいって)これは後の本格遠征の前哨戦と考えられ、三六二年という年代に矛盾は無い――としている。
〔2〕一二〇年加算による推定
「日本書紀」にある降誕〜即位〜崩御の三つの紀年を一二〇年加算してみると、
  成務天皇 二〇四〜二五一〜三一〇年
  仲哀天皇 二二九〜三一二〜三二〇年
  神功皇后 二九〇〜三二一〜三八九年
  應神天皇 三二〇〜三九〇〜四三〇年
  仁徳天皇 三七七〜四三三〜五一九年
――のようになる。
つぎに、神功皇后紀〜仁徳天皇紀にある朝鮮半島関係の記事の紀年を、一二〇年加算で並べておく。
神功皇后紀――
  三二〇、三二五、三六六、三六七、三六九、
  三七〇、三七一、三七二、三七五、三七六、
  三八二、三八四、三八五
應神天皇紀――
  三九二、三九六、三九七、四〇三、四〇四、
  四〇五、四〇九、四一四、四一七、四二〇、
  四二六、四二八
仁徳天皇紀――
  四三〇、四四三、四四四、四四九、四七三、
  四八五、四九〇
神功皇后紀の後半については一二〇年加算がかなり合うとの意見が多いので、これらの数字から、活躍期間は「三二〇〜八〇年ごろ」と推定できる。
〔3〕「三国史記」および「好太王碑」による推定
第7-2節に記した倭国との関係事項の数を、「三国史記」と「好太王碑」碑文を合わせて、数えてみる。ただし古い時代の「三国史記」の年代はあてにならない。
( )内は、前記の「日本書紀」にある日本側の朝鮮半島関係の記事数である。
  一〇〇年以前     三件
  一〇一〜一五〇年   二件
  一五一〜二〇〇年   二件
  二〇一〜二五〇年   四件
  二五一〜三〇〇年   六件
  三〇一〜三五〇年   四件( 二件)
  三五一〜四〇〇年   七件(一四件)
  四〇一〜四五〇年  一五件(一三件)
  四五一〜五〇〇年   六件( 三件)
  五〇一〜五五〇年   〇件
  五五一〜六〇〇年   〇件
  六〇一年以降     三件
四世紀から五世紀にかけて――つまり推定される神功皇后から仁徳天皇にかけての時代――に記事数のピークが来ている。
(神功皇后)の三二〇年の三韓征伐が史実だとすると、これは大和朝廷による朝鮮進出政策の初期段階と思われるので、〔2〕と〔3〕を総合して、活躍期間が「三二〇〜八〇年ごろ」との推定に無理は感じられない。
〔4〕宋書にある「倭の五王」の記録による推理
「魏志倭人伝」以後、しばらくはシナ王朝の記録に日本の記事は見えないが、五世紀の初めになって、「倭の五王」と通称される記録が「宋書倭国伝」にあらわれる。
(倭の五王の記述は、「宋書」の他に「南斉書」「梁書」「晋書」「南史」にあらわれるが、ここでは「宋書」を基準にする)
宋とは東晋の武将劉(武帝)が四二〇年に建国した王朝である。
その宋に使者を送ったのは、つぎの五人の王(日本の天皇/六王説は後述)とされる。一般に言われている系図を記しておく。
  ┌讃
  │
  └珍・・・濟―┌興
          │
          └武
(この系図については、シナ史書に(書写時にできた)欠落があるために「日本書紀」と合っていないという説がある)
最初の讃が宋王朝へ使者を派遣したのは、四二一年と四二五年とされている。なお王の名は不明だがその前の王朝・東晋に四一三年に使者がきたことが、「晋書」に記されている。
これらの使者が携えた文書では、日本が朝鮮半島のかなりの地域で権益を確保していると強調していること、またシナ王朝(晋〜宋)でもその権益確保を認めていたこと――が、宋書の記事から判明する。
具体的には、次のような文言がある。
五王のうち二番目の珍が、四三八年に使者を派遣したとき自分のことを、「使持節都督(軍政の官職) 倭・百済・新羅・任那・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)六国軍事、安東大将軍、倭国王」と述べた。
つまり日本列島の支配権および高句麗を除く朝鮮半島(三韓/百済・新羅・任那)の支配権が日本の天皇にあることを、シナ王朝の宋に主張したのだ。六国とは三韓とその後継国とを重複させて大げさにした国数である。
しかしすでに百済の王を使持節都督に認めていた宋では、この主張を認めるわけにゆかず、とりあえず、「安東将軍・倭国王」にした。
そのあと宋は、三番目の濟が四四三年に使者を送ったとき、同様な、「安東将軍・倭国王」を与えたが、これに日本の天皇は不満を持って厳しく要求したらしく、そのあと同じ濟が四五一年にも送ったとき、宋王朝は、「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国軍事」という称号を加えた。
つまり二番目の珍が要求した六国のうち、すでに称号を与えていた百済を除く国々の支配者が日本の天皇であることを認めたのだ。
加羅は任那の前身にあたる国だが、百済を除いたかわりに、数合わせで付加したものである。
当時のシナ王朝が、隣接する朝鮮半島の情勢を知らなかった筈はないし、使者の話が虚偽であれば認める筈はないので、この珍や濟の要求に宋が応じたことは、実際に朝鮮半島南部のほとんどを日本が支配下に置いていたことの証明になっている。
なお高句麗は百済と同様な称号を独自に与えられていた。
また五王の最後の武も、東の五十五国、西の六十六国、海の北(朝鮮半島)の九十五国を平らげた――と述べ、それを認められて濟と同じ称号を得ている。
シナ王朝が日本にゴマをするような必要はまったく無いので、これらのやり取りからいえるのは、四世紀〜五世紀にかけての神功〜應神〜仁徳の朝鮮出兵とその結果として南朝鮮で権益を得た伝承が史実であることが、宋の正史から証明できる――ということである。
当時の大和朝廷がじつに強大な勢力を誇っていて、日本列島の北方を除く大部分と半島南部の多くを支配下に置いていたことが推理できるのである。
さて、この「倭の五王(実際にはたぶん六王)」が、「記紀」のどの天皇にあたるのかについてであるが、なにしろ名前が一字にされてしまっているので、確定は難しい。
日本の使者によるそのとき使われていた天皇名つまり諱の読みを、漢字一字で勝手に表現してしまっているのだ。
ここでは、田中卓の推理する対応を記しておく。括弧内は使者が派遣された年である。
 讃(さん) → 第十六代 仁徳天皇(四一三#、四二一、四二五)
 王(おう) → 第十七代 履中天皇(四三〇*)
 珍(ちん) → 第十八代 反正天皇(四三八)
 濟(さい) → 第十九代 允恭天皇(四四三,四五一)
 興(こう) → 第二十代 安康天皇(四六〇、四六二)
 武(ぶ)  → 第二十一代 雄略天皇(四七七、四七八)
(#は讃かどうかはっきりしない年。*はシナ史書に「倭国王」とだけ書かれていて名が欠けている年)
このうち後の三天皇についてはかなり確実だとされているし、珍についても異論は少ない。
第一の讃については、仁徳天皇説と履中天皇説とがあって結論は出ていない。ただ履中天皇は在位期間が短かったらしいので、仁徳天皇説の方が有力である。
仁徳天皇の諱は国風謚号と同じ大鷦鷯(大きなミソサザイ)なので、日本の使者は「サザキ・・・」と発音したであろう。シナの役人はその発音の「サ」を讃の一時で表現したのだろう――というわけである。
他の一字名についても、似たような対応が考えられている。
このような、役人が勝手に略称をつくって記述する方法は、「魏志倭人伝」の昔からシナ王朝の常套である。
シナでは姓は一字が多いので、日本の天皇を一字で表すのは、あちらの役人としては自然なことである。
前に記したが、遣隋使・小野妹子のシナでの名前は明確になっていて、姓は一字名は二字の蘇因高である。しかも、とても素人には類推できないほど変形されている。
四一三年の遣使については、史書に名が出ていないので、在位年代から推定するほかはない。晩年の應神天皇の可能性もあるが、仁徳天皇説が有力である。
四三〇年の使者については、シナ史書には王とだけあって名前が欠けているが、これを履中天皇と仮定すると辻褄が合う。
これが正しいとすると、倭の五王ではなく六王である。この場合、シナ史書による系図を推理した田中卓の説によると、
    ┌――某王
    │
讃――│――珍
    │       ┌興
    └――濟――│
             └武
――のようになるが、これは、「日本書紀」による系図、
    ┌――履中
    │
仁徳―│――反正
    │       ┌安康
    └――允恭―│
             └雄略
――に一致する。
著者としては、この田中卓の六王説に妥当性を感じるが、断言はできない。
(なお古田武彦のように倭の五王を九州王朝とする説もあるが、左右を問わず学界の最大公約数にはなっていない)
この対応を元に、各天皇の干支による崩年と、シナ史書による推定崩年とを比較してみると、次のようになる。上が干支、下がシナ史書の数字である。
 第十六代 仁徳天皇  四二七年/四三八年
 第十七代 履中天皇  四三二年/ ? 年
 第十八代 反正天皇  四三八年/四四三年
 第十九代 允恭天皇  四五四年/四六〇年
 第二十代 安康天皇   ? 年/四七七年
 第二十一代雄略天皇  四八九年/ ? 年
日本とシナの両史書できわめて近い数字になっていることがわかる。せいぜい十年しか違わない。しかも宋書の数字は次の天皇の使者が来た年だから、実際の崩年はこれより数年は減ずる可能性があり、だとすると一致度はもっと高い。
千六百年も前の、国の違う二つの資料がこれだけ一致するのは興味ぶかいが、このことから、崩年干支推定の〔1〕を活かすことができると考えられる。
すなわち(神功皇后)の活躍期間は「三六〇〜八〇年ごろ」と推定できる。
〔5〕「七支刀」の銘文による推定
第7-11節に記したように、この刀ができたのは三六九年、日本に朝献されたのが三七二年と推定されている。
すなわち日本が任那における権益を確立した直後である。
「日本書紀」によれば崩年の十七年前のできごとなので、(神功皇后)の活躍期間は「〜三八〇年ごろ」と推定できる。
〔6〕御陵の考古学的研究による推定
天皇陵は発掘がなされないため、厳密な調査は困難とされいるが、おおまかに造営年代を推定することはできる。
ここでは、国立歴史民族博物館教授の白石太一郎作成の表から判読してみる。
ただしどれがどの天皇の御陵なのか、については異説もあるので、参考にとどめなければならない。
たとえば仲哀天皇陵とされている御陵は実際は第二十一代雄略天皇のものではないか――という説があるし、十五代と十七代についても、入れ違っているのではないか――との考えもある。
また推定年代も「年輪年代法」などによって今後古い方向に修正される可能性がきわめてたかい。
 第十三代成務天皇陵  三八〇年前後
 第十四代仲哀天皇陵  四九〇年前後
 (神功皇后)陵    三五〇年前後
 第十五代應神天皇陵  四三〇年前後
 第十六代仁徳天皇陵  四四〇年前後
 第十七代履中天皇陵  四一〇年前後
(神功皇后)の摂政在位が三〇年間とすると、活躍期間は「三二〇〜五〇年ごろ」と推定できる。
「(卑彌呼)=(神功皇后)説」の可能性 
これらのさまざまな方角からの推定をまとめると、(神功皇后)とその前後の天皇が活躍された実紀年は、
 仲哀天皇 西暦三〇〇年代半ば
 神功皇后 西暦三〇〇年代半ばから後半
 應神天皇 西暦三〇〇年代後半から四〇〇年前後
 仁徳天皇 西暦四〇〇年前後から四〇〇年代前半
――といったことになるだろう。
(神功皇后)の活躍のなかでも白眉とされる三韓征伐は、「日本書紀」の記述どおりとすれば、仲哀天皇崩御の直後だから、実紀年は三六二年ごろということになる。
またのちの進出を神話化したのみだとすれば、晩年の三七〇年ごろの任那七カ国の事件と、次の代の四〇〇年前後の「好太王碑」にある事変とを主な材料にしている――ということになるが、南原次男が主張するように、三六二年ごろになされたその前哨戦と考える方が当たっているであろう。
したがって、どう幅広く解釈してみても、(神功皇后)の活躍した時代は、西暦二〇〇年代の(卑彌呼)の時代とは合わない。
百年も違っている。
というわけで、多くの照応点があるにもかかわらず、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」が成立する可能性はほとんど無い。
また、「《邪馬台国》九州説」への援用も、神武東征と似た話があるので誘惑にはかられるが、考古学的にはかなり苦しいといえる。
ただ、(卑彌呼)についての古い記憶が、(天照大神)の神話のほかに(神功皇后)の物語にもいくぶんか投影した可能性はあるだろう。
また、神功皇后紀にある「魏志倭人伝」の引用も、きわめて古い時代のものなので、史料として貴重である。
そういう意味で、(卑彌呼)を語るとき、(神功皇后)の検討は欠かせないのである。
奈良時代から長く信じられてきた「(卑彌呼)=(神功皇后)説」にはじめて異を唱えたのは、江戸時代の国学者・本居宣長とされている。
宣長の学問的態度の立派さがわかる。
当時の歴史家がわざと(卑彌呼)を思わせる事績を集めた可能性もあるが、「日本書紀」編纂者の理解には、つぎの二種類があり得るであろう。
(1)「(卑彌呼)=(神功皇后)説」を信じていた。
(2)疑問を持ちながらも、「(卑彌呼)=(神功皇后)説」に合うように記述を工夫した。
著者は(2)の可能性が高いと考えている。
もちろん、(神功皇后)を(卑彌呼)に比定し、「《邪馬台国》九州説」を展開するSF的な創作なら、ロマンにあふれていて魅力的であり、今後も書かれ続けることを期待している。
朝鮮半島からの帰化人についての二、三の考察
七世紀の帰化人は三割もいた? 
「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長で正論派の著名な論客が、ある雑誌に、ちょっと気になる事を書いておられた。
「七世紀の畿内では、人口の約三十パーセントが百済からの帰化人」(甲)
――という一節である。
これがふと気になったのは、前に読んだ歴史書に、
「当時の上層部の十〜三十パーセントが帰化人」(乙)
――と書いてあったのを記憶していたからだ。
反日家の中には、飛鳥時代の日本に住んでいたのは大部分が朝鮮人だと言い張る人がいるが、それは別として、著者なりに検討してみたところ、(甲)がおかしいのは勿論として、(乙)もまた真実とは少し違うと考えるようになった。
そこで「つくる会」に著者の意見を送ったところ、歴史教科書の古代史部門を担当なさっている理事の方から、「あなたの意見の方が正しい」というご返事をいただいた。
著者の意見の概要を以下に記す。
「新撰姓氏録」の拡大解釈はおかしいのでは?
こういう数値の根拠とされるのは、一般に、「新撰姓氏録」と呼ばれる平安初期の書物である。どのような書物か、日本歴史大辞典(河出書房新社)の説明を引用する。
平安時代初期に朝廷で諸氏の系譜を集成した古代史研究の重要資料。
西暦七九九(延暦十八)年に桓武天皇が勘本系使をおき、諸氏に本系帳の提出を命じたが、これが嵯峨朝に継承され、万多親王、藤原園人、藤原緒嗣以下が勅命により編纂に従事し、西暦八一四(弘仁五)年六月一日に序文を付してこの書を完成し、さらに臣籍に降下した源・良岑・長岡・広根の諸氏の条項をこれに追加して、翌年七月二〇日に上表文とともに奏進した。
内容は三〇巻と目録一巻から成り、左右京と畿内五国(大和・山城・河内・摂津・和泉の五国)に住む一一八二(現存本では一一七七)氏の系譜を、皇別(三三五)・神別(四〇四)・諸蕃(三二六/帰化人を元にする氏族)の三部に大別して収め、最後に未定雑姓(系譜不確実のもの一一七)をまとめてある。
はじめから京畿の諸氏だけに限ったものらしく、それも完全に網羅されてはいない。
現存本は抄録本で、原本の逸文は諸書に散見するが、鴨脚家本によって伝えられる巻一七の賀茂朝臣と鴨県主の二条項のほかは、原本の全容を知ることはできない。
古代日本の様相を知る上での貴重な文献である。
「新撰姓氏録」そのものについては、いくつか資料があるが、「田中卓著作集9 新撰姓氏録の研究」(国書刊行会)をおすすめする。
上の引用で「新撰姓氏録」の概要はお分かりと思うが、ここにあるように、帰化人系の諸蕃の氏族の数は三二六、全体数は一一八二だから、諸蕃数を全体数で割ると、「二七・六パーセント」という数値が得られる。これは純日本人と帰化人の割合がほぼ10:4である事を意味する。じつに大きな割合である。
これが、前記(甲)と(乙)の数値的な根拠である。
検討に入る前に、桓武天皇と「新撰姓氏録」の関係について触れておく。
桓武天皇にはゴマスリ役人が創作したとされる生母伝説があり、それにあやかって先祖を百済の王族だと詐称する役人が多く出たため、それを是正する必要が生じ、こういう資料が作成されたとも言われている。
「神皇正統記」にある引用文
先に記したように、「続日本紀」の最後は桓武天皇の前半の事績となっており、そのあとは「日本後紀」にある。
桓武天皇の在位期間は西暦七八一年〜八〇六年だが、このうち、前半のほぼ十年が「続日本紀」に記され、その後のほぼ十五年が「日本後紀」に記載されている。
「日本後紀」の桓武天皇の部分は、全部で十三巻からなっているが、残念なことに散逸が多く、現在残されているのは、巻第五、八、十二、十三の四つの巻のみである。
したがって不明の事が多いのだが、断片的な引用文から推理できる事もある。
本章に関係の深いその一つが、「神皇正統記」における引用(らしい記述)である。
「神皇正統記」は、南朝の忠臣で大学者でもあった北畠親房が、天皇にご進講するために執筆したとされる史書で、西暦一三三九年に初版がなったとされている。
この本には、前にも記した「やまと」の語源、「倭」の語源などについての考察などもあって当時の考え方が分かり、とても興味深いのだが、「新撰姓氏録」に関係するのは、巻二の應神天皇の箇所にある、次の文章である。
異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後なりといふといへり(*1)。かへすがへすあたらぬ事なり。昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり。天地開けて後、素戔嗚尊韓の地に到り給ひきなど云ふ事(*2)あれば、かれらの國々も神の苗裔ならん事、あながち苦しみなきにや。それすら昔より用ゐざる事なり。天地神(*3)の御末なれば、なにしか(*4)代下れる呉の太伯が後にはあるべき。三韓震旦(*5)に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき。秦の末、漢の末、高麗、百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇(*6)の御末と混亂せしによりて、姓氏録(*7)と云ふ文をも作られき。それも人民にとりての事なるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異學の輩の云ひ出せる事か。
(引用文の解説)
わかりにくい箇所があるので以下に注を記す。
(*1) 「晋書」の四夷傳の中の倭人の条に、「自謂太伯之後」とある。太伯とは春秋時代の呉の国の先祖。「晋書」は唐の初期(七世紀初)にできた西晋東晋を通じての史書で、三世紀後半から五世紀前半にかけてのシナ王朝の記録である。この倭人の条は、「魏志倭人伝」の抄録のような短い文章で、その中に前記の文言があるが、これだけが「魏志倭人伝」には無い。日本からの使者の誰かが自分を誇示するために、呉の偉人の子孫だ――と言ったのではないかと思う。
(*2) 素戔嗚尊が朝鮮に行った話は、「日本書紀」の一書とされる部分にあるごく短い記録だが、そこに、「(高天原から)新羅に行ったが、この地には居たくない、と言って船を造って出雲の国に着いた」とある。
(*3) 日本神話の神々。天神地祇。
(*4) どうして
(*5) 三韓は馬韓、弁韓、辰韓(のちの百済、任那、新羅にほぼ相当)。震旦はシナの異称。
(*6) 日本神話の神々や皇族。
(*7) 「新撰姓氏録」のこと。
さて、注目されるのは、この引用文の中に、「桓武天皇が三韓と日本人の先祖をごちゃごちゃにしてしまった本を焼き捨てた」という意味の、看過できない文言があることである。
おそらく散逸した「日本後紀」の中に記されていたのであろう。
だとすると、上層階級ではなかった母親を格上げするために百済を重んじた桓武天皇も、先祖を百済の王様だと捏造する役人たちが数多く出たことに危機感を持って、それを抑える措置をとったのかもしれない。
話が少し逸れるが、自虐史家たちに翻弄されてはいけない。
素戔嗚尊が新羅に行ったという記録は、神話の中の本文ではなく「一書の四番目」という一種の異説を述べた箇所のさらにほんの一部にあるだけだし、しかも行ってすぐに戻ってきた話にすぎないのだが、それだけを取り出して大きく話を拡げて「だから大和朝廷の先祖は朝鮮から来た」とする人が、保守派論客の中にさえいる。
また、北畠親房の引用文の中の「昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが・・・」――という箇所だけを取り出して、その前後から来る文意を意図的に無視し、さらに「神皇正統記」全体に流れる親房の歴史観もまったく無視して、「親房のような勤王派に属する人までが古代の日韓の支配層が同種であると記している」と言い切っている人(韓国の文学博士)がいる。
「新撰姓氏録」に戻って、いくつか検討してみよう。
(甲)においては、畿内に住む人たちは身分を問わずすべて姓氏録に記載されていると仮定し、かつ帰化人の大部分が百済からだと仮定し、さらに帰化系氏族の構成員数が、古くからの日本の氏族と同じだと仮定している。
(乙)は、百済からの帰化人以外にも、新羅・高句麗・大陸など古くからの帰化人も含めるとし、かつ、姓氏録にあるのは上層部のみと考えての日本全体での数値である。
しかし、これらの考え方――というよりも数字――は釈然としない。
(甲)よりは(乙)の方がずっと真相に近いとは思うが、それでも首をひねる。
なぜなら、
(一)姓氏を持つ人間の比率とは?
「新撰姓氏録」に記載されているのは、朝廷の近くにいて朝廷に認められた上層階級のみであり、一般庶民(農民・漁民・樵・労務者・雑役・・・など上流階級に使われていたり地方で独自に働いていたりした人たち)は含まれていないと思われるが、それら日本各地の一般人の中に上層部と同じ比率で帰化人がいたのだろうか?
(* 上層部に帰化人がいたといっても、一般にその階級はあまり高くはなかったらしい)
(二)畿内以外の帰化人の比率とは?
「新撰姓氏録」は畿内・左右京を中心にしたものだが、北海道から九州まで日本中にそれと同じ比率で帰化人が一様に分布していたのだろうか?
(三)氏族の構成員数や支配下領民数はみな同じなのだろうか?
古くからの日本固有の氏族の構成員数や支配下領民数の方が、帰化系のそれよりはるかに多かったのではないだろうか?
(* 初期の部民(べのたみ)の一部が帰化人だったのは事実らしいが)
――という疑問が浮かぶからである。
本章でも記したが、四世紀以降、朝廷を囲む古来からの伝統的な氏では、再三にわたって、何万という大軍を朝鮮半島に派遣している。
しかし帰化人系にそんな事ができたとはとても考えられない。
三十パーセントという数字は、「新撰姓氏録」の拡大解釈ではないだろうか?
なお、たとえば近藤安太郎も、「新撰姓氏録」の氏族の数の比率は人口の比率ではない――としている。
さらに氏は次のように述べている(「系図研究の基礎知識」第一巻)。
「・・・このように見てくると、大化前代の社会は、多くの著名な氏族が知られているとはいえ、全国的視点からすれば、氏族が全体に占める比率はきわめて少いといわざるを得ないし、これらの圏外には多数の人民がいたであろうと推測される。したがって古系図をいかに詮索してみたところでこれら多数の人民の系図など永遠に見付かるはずもない。逆に言えば、先祖が、奴婢・部曲・部民であったというケースもあり得るわけで、そこまで考えては、系図研究は成り立たなくなってしまう。・・・」
これは著者の常識に一致する。
帰化人の数の大胆な推理 
日本の人口と帰化人の数
日本の全人口の中の帰化人の比率という問題を考えるには、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本の人口そのものとその中身を推理する必要がある。
板倉聖宣「歴史の見方考え方」によると、明治時代に数学者の澤田吾一が研究した結果では、奈良時代の人口は六〇〇万から七〇〇万だとされる。
インターネットで教えられた結果では、この推理は、平成になっても変わっていないようである。
(日本の人口の変遷や澤田の研究については、關山直太郎「日本人口史(四海書房/昭和17年)」がよくまとまっている)
だから、百済帰化人が多く流入した白村江の大会戦の直後(七世紀後半)の人口は、たぶん五〇〇万前後だったであろう。
したがって、もし三十パーセントという比率が、日本の全人口に対するものだったとすると、帰化人の人口は一五〇万人というとてつもない数になり、昔からの日本人はわずか三五〇万にすぎないということになってしまう。
(畿内近辺だけの人口が二〇〇万とすると帰化人六〇万、日本人一四〇万となる!)
戦前から戦後にかけての長い間に流入して、いま在日と言われる朝鮮半島系の人口でさえ、帰化した人を含めても一〇〇万人強とされるし、そもそも百済全体でもそんなにはいなかったと思われる。
百済の面積は、やっと四国くらいのものだったのだから・・・。
では、姓氏数からの三十パーセントと、本当の帰化人のパーセントとは、どのくらい違うのだろうか?
ここから先は素人の横議になってしまうが、ごく簡単にチェックしてみる。
A 姓氏をもつ上層階級と一般庶民の違い
七世紀ごろの上層部と一般庶民の人数比は教科書には見つからなかったが、江戸時代の武士・商人の比率は数値が残されており、
 武士 約五パーセント
 商人 約五パーセント
 農民他 約九十パーセント
――とされている。
もし仮に、姓氏録に入っている七世紀の上層部の人口比率が江戸時代の武士+商人と同様だったとし、帰化人がすべて姓氏録に入っていたとすると、帰化人の比率は三十パーセントの十パーセントで、三パーセントというわずかな数字になる。
B 諸蕃と皇・神別の歴史の違い
帰化人を元にしてできた氏族と、皇統に連なったり、天津神・国津神に連なったりした氏族とでは、家系の歴史がまったく違う。
したがって、一つの氏族を構成したりその氏族に従ったりする人数は、帰化人系の方がずっと少なかったであろう。
(前記近藤安太郎氏は、一氏族の構成員数を、十人から百人強と推理している)
C 遺伝子の希薄化
帰化人の氏族といっても、ずっと帰化人どうしが結婚をつづけている筈はない。帰化人中の女性は男性に比して少なかっただろうから、なおさらである。
周囲の大部分は昔からの日本人なのだから、活発な男性帰化人ほど、日本女性と結婚しようとしたであろう。
現在の韓国系の在日の人たちも、最近では、日本人と結婚する人の方がずっと多いらしい。つまり、どんどん希薄化しているのだ。
戦後わずか数十年でそうなったのだから、七世紀はもっとその傾向が強かったであろう。氏の名もどんどん日本的なものに変化している。
前記近藤安太郎の書にも、「帰化系で後世にまで系図が残されている氏族はほとんどなく、本来の和人の系統に埋没してしまったのだろう」とある。
だから、帰化人系の氏族として「新撰姓氏録」(九世紀に編纂)に名が載っていても、朝鮮半島の遺伝子の比率はそう多くはなく、実質的には日本人と変わらない氏族が多かったと考えられる。
(日本人と百済人の遺伝子がもともと区別できない可能性については、あとで触れる)
D 帰化したのは要人が中心だろう
古代においても船便はあったが、それに乗って百済から来日できるのは、とうぜん要人のみであり、一般の農民などが自らやってくるとは考えにくい。
指導層は新羅にやられて逃げたが、一般庶民がわざわざ危険な海を渡って見知らぬ土地に移動はしないであろう。生活ができなくなるのだから・・・。
(農民一万人が――たぶん奴隷として――唐に拉致されたという話はあるが、日本側が拉致したという記録はない)
とくに一度に多数が帰化したとされる白村江会戦の直後は、日本軍と百済の王族とが一緒に戦ったわけだから、その帰化人の大部分は、百済の王族や軍首脳や高級官吏といった男性の要人だったであろう。
だから当然、彼らは朝廷の周辺に集まり、トップクラスとは言えないものの比較的高い地位を与えられ、文書作りなど重要な仕事をし、また前述のように日本の女性と結婚したであろう。
「新撰姓氏録」や「日本書紀」や「続日本紀」からもそれは読みとれるが、そのような要人やそれに準ずる人たちが七世紀の四国程度の面積の百済にそんなに多数いたとは、とても考えられない。
E 日本全土に拡散するだろうか
帰化人が多く居住したのは畿内とその近辺であり、日本のあらゆる地域に急に拡散したとは思われない。
(* さほど重要ではない人たちを特定の地方に集団移住させたことは「日本書紀」にも出ているが、日本の人口を変えるような数ではない)
F 大胆な推理
数字を出したのは項目Aだけだが、これはかなり乱暴で、大きく違っているかもしれない。
しかし、Aを無視して、仮に日本列島に居住する全員が「新撰姓氏録」に記載されていたとしても、そのあとの項目BからEを考えれば、三十パーセントという数字は、あまりにも過大である。
著者としては、白村江大会戦の時代に帰化して姓氏録に記された百済の要人たちの絶対数は、多めに見積もっても一万人ていどではなかったか、と大胆に推理している。
その前の四、五世紀ごろの帰化人の多くは部民に入ったといわれるが、それも日本の全人口の何十パーセントにもなったとはとても思えない。
著者なりの常識による感想
三十パーセントを日本全国にあてはめると、七世紀の帰化人は一五〇万人、畿内近辺では推定六〇万人になるが、その三分の二が白村江事変のときに来たとすると、四〇万〜一〇〇万人となる。
しかし、派遣された日本軍はほぼ三万人で、それすらも帰還は大変だったのだから、七世紀の木造の船で四〇万人以上など、とうてい運べるはずがない。
そもそも百済の軍勢だって総数でたかだか数万人だった。
動力を持つ大型船がたくさんある今だって、一気に何十万人など送れない。
終戦時の外地からの帰国がいかに困難だったかを考えてみてほしい。
たかだか一万人という著者の大胆な推理は、日本全体の人口に比べれば少ないようだが、朝廷に仕える上層階級の中に、とつぜん、この数の帰化人が入ってきたら、大変な騒ぎになったであろう。
仮に一氏族の平均が五十人とすると、「新撰姓氏録」にある帰化人系以外の氏族の合計人口は四万人強になるから、急に二割以上も増えた事になる。
だからこそ、「記紀」にもいろいろな事が記され、官位を新設したり、二千人を東国に住まわせた――といった記述が天智紀にあるのだと思う。
こう考えてくると、三十パーセントを鵜呑みにした六〇万人とか一五〇万人とかいった数字が、いかに現実離れしているかが、わかる。
もし本当にその数字だったとしたら、「二千人を東国に」どころか、数十万人を移住させなければならない。
というよりも、日本列島の中に「新百済国」という国ができていたであろう。
それに、百済は面積が日本の四国程度の国であり、したがって全人口だってそんなにあったとは考えられない。
ちょっと試算してみよう。
四国の場合、明治初期の人口は推定一八〇万人、現在はほぼ四〇〇万人。
七世紀の日本の全人口推定値は、現在の全人口に比べて四パーセントくらいだから、その比で計算すると、七世紀の四国の人口は一六万人ていどになる。
韓国の同地方の人口は、たぶん四国と同等だろうから、七世紀の百済の全人口は、農民漁民最下層女性まですべて含めても、二〇万人にはなっていなかった――と推理できる。
奴隷のような階層まで含めて二〇万人以下の国から、文書などの仕事のできるインテリが四〇万人またはそれ以上来るなど、ありえないことである。
以上はまことに乱暴な話であり、桁の推理にすらなっていないが、七世紀の帰化人の比率が「新撰姓氏録」に準拠した三十パーセントより桁外れに少なかったのは確実だと思う。
(著者の以上の推理は、前記したように「つくる会」の古代史担当理事も認めてくださったが、神功皇后問題や新王朝問題で何度か言及した南原次男先生も「人口の三十パーセントが帰化人だなど想像もできない不思議な意見だ。あなたの推理する一万人でも多すぎるだろう」と述べておられた)
渡部昇一の見解 
これまでの話から、同祖論なども出てくるのだが、著者は思想家の渡部昇一の説が妥当性が高いと感じている。氏は、「かくて昭和史は甦る」や「渡部昇一の昭和史」の日韓併合の箇所で、古代の日本と南朝鮮の関係の密接性について、大要つぎのように述べている。
〔一〕九州と朝鮮南部
「三国志」の「魏志東夷伝」では、九州と朝鮮南部をともに倭国・倭人としている。つまり同じ文化に属する同一種族と見ていた。
〔二〕百済は旧外地
日本と(任那と)百済は協力して戦ったが、日本軍は白村江の会戦で敗れたのち、多くの百済難民を引きつれて帰国した。これは終戦のときに外地に進出していた多くの日本人が引き揚げてきたことに似ている。
(つまり帰化人ではなく外地からの帰国人!)
〔三〕言語の類似
日本の言語と百済など南朝鮮の言語はよく似ていた可能性がある。日本と違って「記紀」、「万葉集」のような古い書物が韓国には残されていないので比較はできないが、帰化した人たちがすぐに活躍しているのは、言葉が通じたからであろう。そうとしか考えられないような記録がいくつもある。
(つまり百済の言語は日本語の方言の一種だった、または日本人が大勢いたので自然に日本語を修得していた・・・といった事なのであろう)
〔四〕言葉は通じていた
百済から帰化した王仁が、じつに日本的感性豊かな和歌、「難波津に咲くや木の花冬ごもり 今は春べと咲くや木の花」を詠んでいるのは、言葉が通じていたから、としか考えられない。
〔五〕信仰の同一性
信仰の面でも、日本と南朝鮮は同一だったようだ。仏教や儒教が伝来するまでの南朝鮮の宗教は日本と同じ神道であったとしか、考えられない。日本の正史にも、帰化人が来日してすぐに日本式の神社をつくって宮司になったと書いてあるのだ。宗教が同じでなければそれは考えられない。渡部昇一が〔五〕について韓国人に質問すると、多くは絶句してしまうそうである。つまり、「儒教や仏教が伝来するまでのあなたの国の宗教は何でしたか?」と質問すると、たいてい答えられないらしい。桓武天皇が今木大神を祭った話なども、共通した神道の伝統があったという仮定なしでは、考えにくいことである。
作家・荒山徹の見解 
荒山徹という作家がいる。
新聞社や出版社勤務を経て韓国の大学に留学して朝鮮半島の歴史や文化を研究し、平成十一年に作家としてデビューした。史実を丹念に調べた上で、奇想天外な空想を展開する人で、剣豪小説においては山田風太郎の衣鉢をつぐとさえ思える手練れである。この荒山徹が、著作「十兵衛両断」(新潮社)の中で、作家の独白として、つぎのような意見を述べている。
・・・また、東洋史学者の岡田英弘氏は、
「朝鮮の民族文化と呼び得るものが成立するのは、新羅王国が半島の南部を統一した七世紀後半よりもあとの話である」
――と指摘されている。なるほど、史書を繙き、史跡を踏査すれば、朝鮮文化の成立以前に滅んだ百済なる国は、韓国よりも寧ろ日本に包摂されたと見るのが妥当である。領土を除けば、その人材、文化の殆どは日本が受容、継承したからである。したがって百済とは、日本の一構成要素として日本史で扱うのが妥当であって、これを後世の朝鮮、韓国に直結させるのは粗忽な歴史認識ということになろう。とまれ、一族の祖の百済なるを以て宇喜多氏を韓人と決めつけることの、厳として慎まれねばならない所以がここにある。
(以上の見解は、鶏林大学校の黄算哲教授の研究にも教示を得た。黄教授は「中国史としての高句麗、日本史としての百済」(同大学紀要八十七号)と題する論文で、韓国史の祖型を新羅一国に限定し、高句麗史および百済史は韓民族史から切り離すべきと提唱しておられる)
(著者注) この一節は宇喜多一族を扱った五味康祐や山岡荘八の小説への反論として書かれている。
小説の一部にある文章ではあるが、傾聴すべき論旨である。
余談ながらこの本には、現在反日韓国人がプロパガンダに励んでいる「剣道韓国発祥説」への痛烈かつ論理的な反論も書かれている。
荒山徹は最近も長編伝奇小説「処刑御使」で、若き日の伊藤博文を暗殺しようとする朝鮮人集団を描いて、自虐史観の多い小説家としては珍しい史観を披瀝している。
冗談ではない喩え話 
渡部昇一先生の前記した説〔一〕と〔二〕に関連して、次のようなたとえ話も出来ると思う。
「南樺太には、明治時代から、日本から渡った人たちがたくさん暮らしており、したがって日本の文化圏になっていた。
ところが、昭和二十年、ロシアが北から押し寄せてきた。日本人は命からがら、北海道などに逃げ、樺太はロシアが占有してしまった。
何百年かたってロシアの歴史家がこのことを自分たちに都合良く解釈して、「いま日本に住んでいるのはロシア領の樺太から渡った人たちの子孫である。つまり日本人の先祖はロシア人であり、日本の文化はロシアがつくった」のように主張した」
反日家たちが盛んに言っている「日本人の先祖は韓国人で、日本の古代文化は韓国人がつくった」という話は、これに近いレベルのナンセンスさではないだろうか。
天皇を慕った百済の王族 
「金策号」の奇妙な行動
平成十四年、小泉総理が北朝鮮訪問を発表した八月三十日の直後から、能登半島沖合に北朝鮮の船団が現れ、日本の警備船に船体を見せびらかせるようにして航行してから去ってゆくという奇妙な事件が起こった。
その中に、日本側にはっきりと船腹を撮影させた船があり、その船腹には「金策号」と記されていた。
「金がほしい、なんとかしてくれ」というブラックジョークのように思った日本人も多かったが、防衛庁は、「金策」とは北朝鮮の地名であると発表した。
しかしそれが北の英雄の名だとは言わなかった。
人名としての金策
これについて、月刊日本の論説委員である山浦嘉久は、つぎのように記している。
金日成はコミンテルンの捏造に乗って平壌に凱旋したが、その後粛清によってソ連派を壊滅させて独裁権力を確立したと言われている。
このとき金日成にソ連派粛清を助言したのが金策だとされている。
金策は、併合時代に朝鮮にいて諜報活動をした明石元二郎(日露戦争時の諜報活動の責任者で後に台湾総督)とも密接なつながりがあったとされ、息子には「国泰(国家安泰)」というじつに日本人的な名をつけている。
おそらく、明石から学んだ諜報活動の要諦を実行したのだろうが、ソ連派粛清の功績によって、出身地の「城津」は「金策」と改称され、また「金策工科大学」という大学が出来た。
「城津」とは、北緯40度40分のあたりの東海岸にある町。
当然ながら「金策号」はこの日本にゆかりの金策氏から来た船名で、日本のマスコミはそこまで考察すべきであったが、同時に、「日本書紀」にある「金策」もまた重要である。
それを次に述べる。
「日本書紀」にある「金策」も重要
北の船名の「金策」は英雄の名前だが、日本の「金策」には、経済がらみの意味のほかに、もっと重要な意味がある。
日本の古代文献では「金策」は「キンサク」または「こがねのふだ」と読む。
「日本書紀」の孝徳天皇の即位前紀に、「辛亥(645年6月15日)に、金策を以ちて阿倍庫梯麻呂大臣(あへのくらはしまろのおほおみ)と蘇我山田石川麻呂大臣(そがのやまだのいしかはまろのおほおみ)とに賜ふ」とある。
この金策は、黄金製の札に詔を書いて臣下に賜うもので、勲章に近いものであろう。古くは「文選」にあるらしい。
とくに天智天皇元年(662年)五月の次の記事は重要である。
「大将軍大錦中阿曇比邏夫連(だいきむちうあづみのひらぶのむらじ)等、船師一百七十艘を率て、豊璋(ほうしやう)等を百済国に送り、勅を宣りて、豊璋等を以ちて其の位を継がしむ。又、金策を福信(ふくしん)に予ひて、其の背を撫で、褒めて爵録賜ふ。時に豊璋等と福信と、稽首(をろが)みて勅を受け、衆、為に涕を流す」
百済滅亡時の悲劇の主人公たちだが、ここで注目されるのは、大和朝廷が百済に対して完全に宗主国としての立場で行動していることである。
だから天皇は豊璋を百済の王に任命し、福信将軍に「金策」を授け、それを受けた百済王や将軍は平伏して天皇を拝んだのである。
豊璋のことは第八章の《大神神社》の話のところで述べるが、いずれにせよ大和朝廷にとって百済は係属国であったことが、この「金策」のエピソードからでもわかる。 
 
第八章 倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ命)が活躍する
 崇神天皇の時代

 

味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積るまでに・・・
〔額田王/天智天皇(万葉集17)〕
「奈良の山の端に隠れてしまうまで、道の曲がり角が重なるまで、三輪山を見ていたいのに・・・。(味酒は三輪にかかる枕詞)」
三輪山の 山辺真麻木綿(やまべまそゆふ) 短木綿(みじかゆふ) かくのみゆゑに 長しと思ひき
〔高市皇子尊(万葉集157)〕
「三輪山の山辺にかけた麻や木綿、その短い神事の幣帛のように、かくも短い命であったのに、私は長いものだと思っていたことだ。(大友皇子の妃十市皇女を想っての歌ともいわれる)」
いにしへに ありけむ人も わが如か 三輪の檜原に 挿頭(かざし)折りけむ
〔柿本人麻呂歌集(万葉集1118)〕
「むかしの人たちも、いまのわれわれがしているように、三輪の檜原で檜の枝葉を髪にかざしていただろうか」 
8-1 大和朝廷の実質的な創始者? 第十代 崇神天皇の即位

 

三輪山麓に進出した大和朝廷 
第十代の崇神天皇は、大和朝廷の歴代天皇のなかで、もっとも興味ぶかい存在である。
天皇家が崇敬した日本最古の神社は、《大和》の代表的な聖山《三輪山》そのものを祀る《大神(おおみわ)神社》であるとされ、また(天照大神)を祀った最古の神社は三輪山麓の《檜原神社》だとされているが、その重要な《三輪山》の麓に初めて皇宮をかまえたのが、この崇神天皇だからである。
歴代天皇の皇宮は、奈良時代までその多くが、奈良盆地南東地域の《大和》にあったが、第九代までは一定せず、神武天皇の橿原以後、川沿いだったり山際だったり、金剛山地の山麓だったり、点々としていた。
その理由としては、皇后の出身豪族の本拠地を皇宮としたためだ――一種の婿入り婚――という説明がよくなされている。
その真偽はともかくとして、それまで代ごとに遷っていた皇宮を三輪山麓の狭い意味での《大和》に落ち着かせたのが、第十代崇神天皇であり、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇と、三代にわたってそれはつづく。
第十三代以降は、成務・仲哀という地味な天皇が大津とか朝鮮半島遠征に便利な土地などに宮をかまえ、そして半島遠征に成功した(神功皇后)にいたって《大和》へ凱旋して、《三輪山》や橿原に近い場所に宮をかまえたことは、前章で述べたとおりである。
このような皇宮の変遷からみても、《三輪山》に皇宮を持った三代の天皇の事績を振り返ることは――大和朝廷の歴史を探る上で――きわめて重要である。
奈良に落ち着くまでの《大和》の歴代天皇の皇宮のおおまかな位置を、図8・1に示した。
図5・3にある大和湖をとりまく形で歴代の皇宮が存在していたことがわかる。
この地図からも、三輪山麓にはじめて進出した崇神天皇の重要性が読みとれるであろう。
しかも、その皇宮の近くには、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」の根拠のひとつとされる《箸墓(はしはか)》が存在し、かつ、纒向(まきむく)遺跡と呼ばれる(卑彌呼)の時代の広大な遺跡が存在しているのだ。
第十代 崇神天皇の物語(1) 重要な尊称「御肇國」
国風謚号 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)
     (尊称 御肇國天皇/はつくにしらすすめらみこと)
漢風謚号 崇神天皇(すじんてんのう)
〔在位・西暦前九七年〜前三〇年〕
〔降誕・西暦前一四八年/崩御・西暦前三〇年〕*
〔皇宮・磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)(奈良県桜井市金屋――三輪山麓南西部)〕
〔御陵・山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)(奈良県天理市柳本町――三輪山麓北部)〕
 *崩年干支推定は西暦二五八年/二七一年
尊称の「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」は、読みも意味も神武天皇の尊称である「始馭天下之天皇」とほとんど同じで、はじめて国を治められた天皇――ということである。
このような特別な尊称で讃えられている天皇は、長い日本の歴史のなかでも、初代の神武天皇と第十代のこの崇神天皇と、二代だけである。もしいまこういう尊称を考えるとすれば、これに明治天皇が加わるだろうといわれている。
このことからもその存在の大きさがわかるが、さらに漢風謚号に「神」という文字がついていることも注目される。
これは多くの神々をはじめて祀ったという事績からきているとされ、日本の神社の祖ともいわれているが、こういう別格の文字がつく謚号は、神武と應神とこの崇神および(神功皇后)の三天皇一皇后のみである。
また應神天皇紀や神功皇后紀と同じく、その前の天皇紀が短いのに、とつぜん長く詳しくなっている。
仮に岩波の日本古典文學大系の「日本書紀」でみると、初代神武天皇とこの崇神天皇の間にある八代の天皇紀が平均二頁しかないのに、崇神天皇になるととつぜん十八頁にもなり、さらに次の垂仁・景行と増え、そのあと成務・仲哀でふたたび激減し、そして先に述べた神功・應神・仁徳の話題性豊かな長尺ものとなる。
こういう「記紀」の記述だけから見ても、この第十代崇神天皇の物語はきわめて重要で、なにか重大な謎が隠されているように思えるのだ。
崇神天皇は先代の開化天皇の第二子にあたり、母親は孝元天皇のお妃でもあった開化皇后で御名を伊香色謎(いかがしこめ)命ともうされ、(饒速日(にぎはやひ)命)の五代目の子孫――すなわち物部氏の先祖――である大綜麻杵(おおへそき)の娘とされている。
ちなみに、この皇后がお妃の時代に生んだのが、武内宿禰(たけうちのすくね)の祖父だと伝えられている。
この婚姻譚は、(饒速日命)系の豪族から皇后や妃を得て政権を安定させようとする大和朝廷の政策を物語っていて、興味ぶかい。
このような出自をもつ崇神天皇は、十九歳で皇太子になったが、若くして気宇壮大で、神々を崇め、天下を治めようとしておられた――と記されている。
こういう誉め言葉も第三代から第九代まではでてきていない。
「日本書紀」としても久しぶりの持ち上げぶりなのである。
なお崇神天皇在位期間の実紀年であるが、これは三世紀前半(または半ば)から後半にかけて――つまり(卑彌呼)の晩年や若い(臺與)と重なる――だと推理されており、その根拠については、第八〜十章、とくに第十章においてくわしく述べる予定である。
崇神天皇元年(西暦前九七年)
 〔天皇と同名皇后の謎〕
正月――
開化天皇が春日率川宮(かすがいざかわのみや/現奈良市内)で崩御された翌年の一月十三日に、天皇の位につかれた。
二月――
十六日に、御間城姫(みまきひめ)をたてて皇后とされた。この皇后は御名が天皇の実名・御間城入彦(みまきいりひこ)とほとんど同じである。皇后の名につく「姫」は高貴な女性(日女)という意味であるが、「入彦」とは、女性の家に入り婿をした高貴な男性といった意味ともされる。
「彦」はそれ自体で高貴な男性(日子)という意味をもっている。
このことから、女性の家に婿に入る形をとった当時の婿入り婚姻形態と、夫婦一対となって政治を司る「彦姫制」が想像できる。
そしてこれは、「魏志倭人伝」にある女王(卑彌呼)とそれを補佐する男弟王との関係をも暗示している。
古代の日本において、そのような社会風習があったのであろう。
天皇の名「御間城入彦」の意味については、御孫からきたという説が昔からある。
しかし他にも有力な意見がいくつかあり、とくに「三輪山麓にはじめて入った高貴な男性」という意味だろうという説が魅力的である。
皇后・御間城姫は次代の垂仁紀によると大彦(おおひこ)命の娘であるが、この命は第八代孝元天皇の皇后が生んだ長男なので、磯城(しき)地方の豪族と(饒速日(にぎはやひ)命)すなわち物部系と両方の血をひいており、弟に開化天皇、妹に第二章に記した(倭迹迹姫(やまととひめ)命)がいる。
この姫命は問題の(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)と同一人物、またはその姪とされている謎の女性である。
また大彦命の母親、すなわち孝元皇后の鬱色謎(うつしこめ)命は(饒速日命)の子孫とされており、やはり物部系の一人である。
(饒速日命)の子孫の物部一族がいかに深く大和朝廷に入り込んでいたかがわかる。
さてこの皇后・御間城姫は皇后になる前にすでに六人の皇子皇女を生んでおられ、その筆頭がつぎの代の垂仁天皇である。
また紀伊国から来た妃の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)は二人の御子を生んだが、その一人が後に重要な仕事をして、「魏志倭人伝」の(臺與(とよ))ではないかとされる(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)である。
つぎの妃の尾張大海姫(おわりのおおあまひめ)は、三人の御子を生んだが、そのうちの一人が、やはり重要な仕事をする渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命である。
すでにこのあたりで、崇神天皇の周辺には、(倭迹迹日百襲姫命)にごく近い血縁がずらりと並ぶ。
そして崇神天皇ご自身、この(倭迹迹日百襲姫命)を大叔母または叔母と仰ぐ血縁なのである。 
8-2 崇神天皇の《三輪山》進出と苦難のはじまり

 

第十代 崇神天皇の物語(2) 大国難と神社の創建
崇神天皇三年(西暦前九五年)
〔いよいよ三輪山麓に進出〕
九月――
この年の秋、九月に、皇宮を磯城(しき)と呼ばれる《三輪山》の南西山麓の一隅――現在の桜井市金屋のあたり――に遷した。これを磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)という。
先代の開化天皇はなぜか一時《大和》の地をはなれて現在の奈良市内に皇宮をもっていたのだが、崇神天皇になって《大和》に戻り、かつそれまで大和朝廷の皇宮のなかった三輪山麓に進出したのだ。
図5・2、5・3、7・7、8・1などを参照していただきたいのだが、このあたりは古くから《三輪山》を崇拝してきた三輪一族がいると同時に、大和朝廷一族やそれに従う大伴一族の勢力圏であり、さらに物部一族の圏内でもあった。
第六章で述べたように、元来物部の先祖(饒速日(にぎはやひ)命)の方が先に《大和》に来て多くの土地を制圧していたのだから、とうぜん物部の勢力圏でもあったことが推理されるのだ。
そしてこの磯城はまた、第二代の綏靖(すいぜい)天皇から第七代の孝靈(こうれい)天皇まで六代の天皇の皇妃を連続して出した場所でもあった。
また初代神武天皇と第十代崇神天皇の皇后も磯城――の北部の――出身ということができる。
すなわち婚姻を通じて大和朝廷になりきってしまったといっていいほど、関係が深い場所だったのだ。
婚姻によって土地の有力者や他の豪族を次々に身内にしてゆく大和朝廷の政策がよくわかる。
この磯城(しき *1)の行政上の首長である磯城県主(しきのあがたぬし)は、第六章に記したように磯城の南の磐余(いわれ)の元首領の弟磯城(おとしき)で、神武天皇の東征に協力したので論功行賞にあずかった人物である。
したがってとうぜん、旧支配者の(饒速日命)=物部一族とも関係が深かったであろう。
もう一つ面白いのは、崇神天皇の皇宮があったとされる磯城の一角に古くから伝わる地名の金屋(かなや)で、鍛冶神が金屋子神といわれるように、この金屋は金物すなわち鉄器を製造する人たちが多くいた場所ではないかと想像されていることである。
事実、この地からは古代の鉄屑が大量に発掘されている。
良質な鉄製の武器や農具を持つことは、この時代の権力者の必須の条件であった。
後述するようにこのあたりからは砂鉄や鉄鉱石が産出するが、そのほかに宝玉の産地でもあったらしい。
また、図8・1の南東端の宇陀(うだ)山地からは、朱の原料となる硫化水銀鉱石が採れた。
朱は古代においてもっとも貴いとされ、珍重された色で、奈良盆地の前期古墳からは、数多くの朱で塗られた遺物が出土している。
つまり古代天皇家にとってきわめて重要な産物を多く出す土地に、崇神天皇は皇宮をかまえられたのである。
(*1 磯城とは、丈夫な石の城といった意味らしい)
崇神天皇四年(西暦前九四年)
〔日本初の施政方針演説〕
十月二十三日――
この日、即位の詔勅、すなわち施政方針演説をおこなう。
おおまかに記すと、「わが皇祖たちが政治をおこなってきたのは、一身のためではなく、人と神を治め天下を治めるためであり、徳を天下に広めてこられた。いま自分がその皇位を継承して、国民を恵み養うことになった。いかにして皇祖の志を継ぎ、永遠の皇統を保てばよいだろうか。群臣よ、天下を平安にするために忠誠をつくし、協力してほしい」といったような意味で、このような大所高所に立った演説は、「記紀」としても珍しい。わが国最初の本格的施政方針演説である。
「人と神を治め」の原文は「司牧人神」で、人と神が並記されている。注目すべき点である。
崇神天皇五年(西暦前九三年)
〔襲いかかる疫病の大苦難〕
施政方針は良かったのだが、現実はきびしく、この年に疫病が大流行して、国民の半分以上が死亡してしまった。とてつもない大苦難が襲ったのだ。この疫病流行は、人口が一箇所に集まりはじめたために、病気が伝染しやすくなったり、汚物の堆積によって衛生状態が悪くなったりしたことと関係しているのであろう。悪性の伝染病だったと推理される。
余談
崇神天皇の話をえんえんとしておりますが、従来の歴史書では、崇神天皇の説明はあまり多くはありません。戦前の教科書やその系統の書物(小学国史、高等小学国史、白鳥庫吉先生の昭和天皇へのご進講(日本史)、平泉澄先生の少年日本史などなど・・・)には、四道将軍や元伊勢の話など、多少は出ていますが、大きな章にはなっていません。戦後になりますと、昭和21年に文部省が出した「日本の歴史」をはじめとして、ほとんど無視です。大和朝廷を意図的に無視したからです。現在では、扶桑社教科書にも崇神天皇の名は見あたらず、明成社の高校用教科書にわずかに出ている程度です。
戦後の歴史家の書いた啓蒙書で、崇神天皇に力点を置いているのは、肥後和男先生(肥後先生は皇族への国史の御進講をなさった碩学です)の諸作が代表的ですが、主流ではありません。
しかし、次第に崇神天皇の御代に興味を持つ人が増えているように思えます。その最大の理由は、ここ数十年の考古学の大きな進展です。とくに纒向遺跡の発掘調査の進展や遺跡の年代を調べる「年輪年代法」の確立が大きいと思います。大和朝廷=日本という国家の成立の根源が、崇神天皇の眠る纒向遺跡に隠されているように思えてなりません。わたしのそのような感覚が、現在のこの連載で崇神天皇紀を強調している理由です。
崇神天皇六年(西暦前九二年)1
〔(天照大神)を初めて神社に祀る〕
この年も苦難はつづき、国民は流離し、なかには朝廷に背くものも出てきた。
天皇は早朝から深夜まで政務にはげみ、天地の神々に祈ったが、効果がなかった。
そこで、それまで皇宮の中に奉祀していた(天照大神)と(倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ))の二神を――天皇と同所では畏れおおいとして――別に神域をもうけて祀ることにした。
(天照大神)はもちろん天上界におられる大和朝廷の最高の先祖神だし、(倭大國魂神)は《大和》の土地を鎮護する神でかつ(大國主神)の荒魂でもあるとされる。
つまり、天津神と國津神(後述)の代表神を、皇宮とは別の神聖な斎場に奉祀することにしたのだ。
そして、その奉祀の責任者として、(天照大神)には皇女の(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)を、(倭大國魂神)にはやはり皇女の渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命を定めた。
このとき、(豐鍬入姫命)は使命を果たしたが、渟名城入姫命は髪が落ち身体がやせ細ってうまく祀ることができなかった。
なお、豐鍬入姫命は紀伊国出身の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)がお生みになった皇女、渟名城入姫命は尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)がお生みになった皇女である。
二人とも、大和朝廷の周辺を支配していた古代の代表的な豪族の娘と天皇との間に生まれた貴人である。
使命を果たしたほうの(豐鍬入姫命)が奉祀したのが、わが国最高の神社、伊勢神宮の内宮――皇大神宮――のはじまりである。
ご神体は、(天照大神)が「自分と思え」として皇孫に授けられた「八咫鏡」と「草薙剣」であるが、これら神器については後述する。
場所は最初は伊勢ではなく、《大和》の笠縫邑(かさぬいのむら)とされ、現存する《檜原(ひばら)神社》の境内だったと考えられている。
そしてその後《大和》内やその周辺を点々とし、奉祀の役も他の皇女に代わり、次代垂仁天皇の御代に最終的に伊勢に落ち着いたのだが、落ち着く前に点々としていた多くの神社を「元伊勢」と呼んでいる。
つまり《檜原神社》は最初の「元伊勢」という栄誉を担っているのだ。
さて、その場所だが、それは《三輪山》の西側山麓で、地名も檜原(ひばら)と呼ばれている。
昔は檜原を含めて北西山麓一帯を笠縫邑(かさぬいのむら)と称していたらしい。
広壮な拝殿周辺の写真を図8・2に示した。また大体の位置は、図8・5の左側や図8・13の中央部に示してある。
この《檜原神社》は正一位官幣大社《大神神社》の摂社の形をとっているが、数多い摂末社のなかでも別格で、本殿をつくらず《三輪山》を背にした拝殿があり、三ツ鳥居という通常の鳥居を三つ重ねた独特の鳥居をもち、さらに柱の間に注連縄をはって鳥居の役をする注連柱をもっている。
これは日本最古の神社とされる本社の《大神神社》とまったく同じ古式であり、いかに重要視されてきたかがわかる。
現在の社殿類は近年再建されたものだが、古い伝承にしたがって造られていて雰囲気は荘重である。また広い境内には、末社のひとつとして、はじめて奉祀の役を果たした(豐鍬入姫命(とよすきいりひめ))をまつる豐鍬入姫宮もつくられている。
またこの姫命の御墓は、やはり三輪山麓のホケノ山古墳(図8・13)だ――という伝承が昔からある。《箸墓》のすぐそばである。
真偽のほどはわからないが、(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)は、「魏志倭人伝」において(卑彌呼)のあとを継ぐ(臺與(とよ))かもしれない――といわれている皇女なので、その御墓も重要である。
「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」と、年齢的にも役柄的にも矛盾が無いのだ。
《伊勢神宮》はとくべつな神宮であるが、長年、皇室から未婚の皇女が派遣されて、神事の役につく習慣があった。
この役のことを、伊勢の斎王(いつきのみこ)または斎宮(いつきのみや)、または御杖代(みつえしろ)という。
伊勢に落ち着いてからの初代斎王は次代垂仁天皇の皇女(倭姫(やまとひめ)命)であるが、真の初代はこの(豐鍬入姫命)だったとされている。《檜原神社》のことは後に再度記す。
崇神天皇六年(西暦前九二年)2
〔(倭大國魂神)を《大和神社》に祀る〕
他方、渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)が(倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ))を祀った神域は、いまでは官幣大社《大和(おおやまと)神社》と呼ばれており、図8・13にあるように《三輪山》からはすこし離れた天理市にある。
しかし創建のころはもっと《三輪山》に近かったらしい。
大市の里と呼ばれた《箸墓(はしはか))》の近くだったとされている。
つまり《大和》そのものといえる場所の神社である。
拝殿の写真を図8・3に示したが、ここもまた広い境内をもち、拝殿は勇壮な雰囲気をもっている。
藤原氏が権力をにぎるまでは、《伊勢神宮》とならぶ広大な社領だったらしい。
この神は《大和》の土地の神として、大和朝廷が進出する前から土地の人々の信仰を集めてきたのではないかと考えられているが、(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)はうまくいったが、こちらを奉祀する筈の渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命が病気で――たぶん多くの国民がかかったのと同じ疫病で――うまくいかなかったという伝承は、土地の神と朝廷の先祖神との相克を暗示しているようでもあって興味ぶかい。
ちなみに、有名な戦艦大和の艦内にあった大和神社は、この《大和神社》の御分霊である。
なお主神の(倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ))のほかに八千戈(やちほこ)神と御年(みとし)神が祭神となっていて、このうち八千戈神は(大國主神)の分神である。
もともと(倭大國魂神)は(大國主神)の荒魂という伝承があるのだが、この八千戈神からも、《大和》の土地の神が出雲の神の影を映していることがわかる。
一般に神々を祀る祭祀をおこなった記録は、神武天皇のころにもあるが、それらは斎場を半永久的に固定したり祭りの日を定めたりしたものではなかった。
神域を定めて本殿や拝殿で祈る神社形式での奉斎の記録は、この崇神天皇紀が最初であり、したがって《檜原神社》と《大和神社》は、記録にのこる日本最古の神社ということができる。
ただし《三輪山》それ自体の山腹にあった斎場は、他の場所へ移るものではなかったから、それを一種の神社とすれば、《大神神社》は崇神天皇のはるか前から――すくなくとも弥生時代から――あったといえる。
前にも記したが、一般に日本の古い神社の大元は縄文時代からと考えられる。祈りに使ったらしい縄文土器が発掘されるからである。 
8-3 崇神天皇を教え導いた倭迹迹日百襲姫命の神託

 

第十代 崇神天皇の物語(3) 《大神神社》創建説話
崇神天皇七年(西暦前九一年)1
〔(倭迹迹日百襲姫命)による神託〕
二月十五日――
(天照大神)や(倭大國魂神)を皇宮外に祀ったけれども、この年になっても疫病はやまず混乱はいっこうに収まらない。そこで崇神天皇は、「自分の代になって災害がおこるのは、神々のお咎めであろう。それがなぜなのかを、占いたい」との詔勅を出して、神浅茅原(かむあさじはら)に神々を集めて占った。
この原は《三輪山》の西側山麓一帯で、図8・13でいうと《檜原(ひばら)神社》と《大神(おおみわ)神社》の間にあたる場所とされている。現在も茅原という地名で呼ばれている。
こうして占っていると(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)に神が憑依して、「もし私を祭るならば必ず天下は平穏になるだろう」と告げる。
いずれの神でしょうか、と天皇が問うと、「倭国の内にいる神、名を(大物主(おおものぬし)神)という」と答えた。
<このあと、「魏志倭人伝」に対応可能な重要な記述がつぎつぎにあらわれる>
いよいよここで、(卑彌呼)の有力候補(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)が出現する。
しかも天皇への神託を述べる神子(巫女)としての登場である。
崇神天皇はさっそく祭祀をおこなったが、効果がないので、さらに斎戒沐浴して祈ると、夢に(大物主(おおものぬし)神)があらわれて、「わが子の大田田根子(おおたたねこ)に私を祀らせれば、世は平穏になるだろうし、海外の国もなびくだろう」といわれた。
(大物主神)が何かについてはあとでくわしく述べるが、とにかく(倭迹迹日百襲姫命)の背後にこの神がついているのだ。
崇神天皇七年(西暦前九一年)2
〔大田田根子の出現〕
八月七日――
倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまぐわしひめ)・大水口宿禰(おおみなくちのすくね)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が同じ夢をみて、天皇に、「昨夜の夢に貴人があらわれて、大田田根子に(大物主神)を祀らせ、市磯長尾市(いちしのながおち)に(倭大國魂(おおくにたま)神)を祀らせれば、かならず天下は太平に なるだろう――と告げられました」と奏上した。
この三人の筆頭の目妙姫(まぐわしひめ)とは、(倭迹迹日百襲姫命)その人である。
神浅茅原で神託を告げたのでこの名で呼ばれたらしい。
天皇はただちに大田田根子(おおたたねこ)を探したところ、すぐに見つかった。
たずねると、「父は(大物主(おおものぬし)神)、母は活玉依媛(いくたまよりひめ)です」と答えた。
父が(大物主神)というのは、要するにこの神に関係の深い有力者ということである。
母親は、一説では《三輪山》の祭祀土器を製作する一族、または三輪産の酒を入れる陶器の産地の一族だという。
活玉依媛という母の名は神霊が憑く媛という意味で、神につかえる巫女をあらわしている。同じ名が神代紀の豐玉媛の妹にもあり、巫女を示す普通名詞でもある。
大田田根子という名の末尾の「根子」は、第七代孝靈・第八代孝元・第九代開化の三代の古代天皇、また後の天皇の国風謚号にもついている尊称の一種で、「その地域の基礎をつくった人」という意味があるらしい。
天皇以外の地方の豪族の名につくこともある。
「魏志倭人伝」にある伊都(いと)国の官名の爾支(にき)はこの根子(ねこ)のことだといわれている。
つぎに「大田田(おおたた)」だが、一説によると田田は祟りのタタで、神の出現を意味するのだという。
また別説では、呉国から渡来した一族の子孫が大田の地に住み、太陽神を信仰したとされる。
しかし、大田田はもともと奈良盆地の《三輪山》からすこし離れたところの地名で、そこを治める首長が尊称の根子をつけて大田田根子と呼ばれたのだろう――という説が、なっとくしやすい。
大田+田+根子 という解釈も可能だと思うが、素人考えにすぎない。
いずれにせよ、稲作を連想させる名である。
崇神天皇七年(西暦前九一年)3
〔日本中に神社を創建〕
この大田田根子(おおたたねこ)の出現を喜ばれた天皇は、物部一族の祖のひとり伊香色雄(いかがしこお/崇神天皇の母伊香色謎(いかがしこめ)命の弟)に祭具をつくるよう命じ、奉斎の準備を進めた。
一方《大和神社》の宮司となる長尾市(ながおいち)は倭直(やまとのあたい)の祖といわれ、さらにその遠祖は神武天皇を瀬戸内海で案内した椎根津彦(しいねつひこ)といわれている。
東征の功労者の子孫を名乗る人たちを要職につけたことがわかる。
朝廷に協力した有力者たちの顔をまんべんなく立てているのだ。
十一月十三日――
こうした準備ののち、祭具を調達して、大田田根子に(大物主(おおものぬし)神)を奉祀させ、長尾市に――病気の渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命のかわりに――(倭大國魂(やまとのおおくにたま)神)を奉祀させ、さらに多くの神々を祀った(*1)ところ、ようやく疫病は途絶え、国は平穏となり、五穀豊穣となった。
(*1 この話に関連するが、「崇神天皇の御代に創建」とされる神社が日本中にたくさんある。著者が住むある市の近くにも二つもある)
崇神天皇八年(西暦前九〇年/三一年)
〔《大神神社》での神事〕
四月十六日――
高橋邑(たかはしのむら)といういまの天理市にあった場所に住む活日(いくひ)を選んで、(大物主神)に御神酒を捧げる職とした。これが、日本酒の造り酒屋で古くから活躍する杜氏(とうじ)の祖神伝説である。三輪山麓が酒の生産地でもあったことと関連しているらしい。
十二月二十日――
天皇が大田田根子(おおたたねこ)に命じて(大物主(おおものぬし)神)の祭祀をおこなった。そして《大神(おおみわ)神社》の社殿で神事の酒盛りをし、活日(いくひ)らが歌を詠みかわした。活日が天皇に神酒を献上したときに詠んだ歌は、酒造関係では有名で、
「この神酒(みき)は わが神酒ならず 大和なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久」といったものであった。天皇もお喜びになり、徹夜で酒盛りをした。
この神酒の話のなかで、三輪の社殿とか三輪君といった言葉がはじめて出てきて、(大物主神)が《三輪山》の神であり、社殿がその山麓にある《大神神社》の拝殿であり、そして大田田根子が三輪一族であることが記されている。
三輪一族は、実際には弥生時代から《三輪山》の山麓に住んでいたと思われるが、こういった神事をきっかけにして大和朝廷との関係を深めたのであろう。
《三輪山》=(大物主神)を朝廷が丁重に祀ったのは、三輪一族を味方につける方策であったろう――という推理は、多くの学者が述べている。
三輪氏は長く天皇の側近として仕え、(神功皇后)の三韓征伐や白村江の大会戦に従軍したり、壬申の乱で天武天皇の側で活躍したりした豪族で、後々まで《三輪山》周辺を本拠としていたとされている。
崇神天皇九年(西暦前八九年)1
〔武具奉納のはじまり〕
三月十五日――
天皇の夢に神人があらわれて、二柱の神に武具を奉って祀りなさいといわれた。
四月十六日――
この教えどおりに、指定された場所(大和の周辺)に神を祀り、武具を奉納して、国の安全を祈った。これは、武具によって神を祀り、武運を祈る日本で最初の神事とされている。
ところで「日本書紀」には、(大物主(おおものぬし)神)が《三輪山》の神であり《大神(おおみわ)神社》がそれを祈る拝殿であることの記述が、わずかしかないが、それは「記紀」編纂時の日本人にとっては、説明するまでもない当たり前のことだったからであろう。
いまのわれわれが明治天皇と明治神宮の関係をいちいち説明しないのと同じことである。
崇神天皇九年(西暦前八九年)2
〔「古事記」にある《三輪山》伝説〕
「古事記」においては、(大物主神)と大田田根子(おおたたねこ)について、すこし違った記述があるので、簡単に記しておく。
まず最初に大田田根子が(大物主神)を祀る場面だが、「大田田根子を祭主として《三輪山》で(大物主神)を拝み祀った」とされている。
つぎに大田田根子(おおたたねこ)自身だが、意富多々泥古(読みは同じ)と書かれており、「(大物主神)と活玉依媛(いくたまよりひめ)の直接の子ではなく子孫」ということになっている。
さらにこの媛が(大物主神)の子どもを宿したときの物語がある。
媛のところに立派な男性が夜毎通ってきて、媛は身籠もった。両親が不思議に思って麻糸に針をつけて男の着物の裾に刺しなさい――と命じる。
そのようにすると、糸は鍵穴から出ており、糸巻には三巻しか残っていなかった。
その糸をたどってゆくと、《三輪山》について、社で終わっていた。そこで宿したのが神の子だと知った。そして三巻(みまき/みわ)残っていたことからその地を名づけて三輪(みわ)といった。
この三巻(みまき)は、崇神天皇と皇后の国風謚号(たぶん実名)の御間城(みまき)を連想させる。
――とすれば、御間城入彦(みまきいりひこ)は、まさに、「《三輪山》の山麓にはじめて入って皇宮をかまえた貴人」という意味になる。
このように「古事記」では(大物主神)が《大神神社》の祭神であることが最初から明示されており、かつ《三輪山》の名の由来譚がある。
《大神神社》の大神は「オオミワ」と読むが、これは、とくべつな神である大神は《三輪山》の神にきまっているので、「記紀」の時代からそういっていたらしい。
つまり(大物主神)と《三輪山》と《大神神社》の三者は一体であり、そして古代の大和朝廷にとってきわめて重要な特別な神であり神社だったのだ。
また「古事記」では、(大物主神)が朱塗りの矢に化身して便所で乙女の陰部を突いて家に入り込んで結婚し、出来た娘が神武天皇の皇后になった――という有名な話がある。
狭井川(さいがわ)のほとりに住んでいて神武天皇の皇后になった媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命(第六章参照)が、三輪一族の女性だったことを示す伝承である。
この三輪一族が古くから崇敬していたらしい聖山《三輪山》の神(大物主神(おおものぬしのかみ))の由来については、いくつかの説があるが、それは次節以降の《大神神社》の所で解説する。
なお「物」は古代では「精霊」ということなので、「大物主」は「偉大なる精霊の主」といった意味になるが、この意味だけからでは由来を推量することはできない。
三柱の神の奉祀とその責任者 
長くなってしまったが、これで結局、
甲 / 大和朝廷の先祖神の(天照大神)およびその神霊が宿る「八咫鏡(やたのかがみ)」と「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」(三種の神器のうちの二つ)
乙 / 大和の国土の神として古くから信仰され(大國主神(おおくにぬしのかみ))とも関係があるらしい(倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ))
丙 / (倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと))が神託を告げた《三輪山(みわやま》の神(大物主神(おおものぬしのかみ))
――という、合わせて三柱の神を皇宮の外に奉斎したことになる。
(このうち甲は朝廷の先祖神なので別格)
はじめの二柱はそれまで皇宮内に鎮座していたのを三輪山の麓に祀ることにしたのであり、あとの一柱はもともと《三輪山》と一体だったのを、大和朝廷として正式に祀ることにしたのである。
これらの神を奉斎する神社名/神事を司る役は、
甲 / 《檜原(ひばら)神社》/(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)(のちに《伊勢神宮》/(倭姫(やまとひめ)命))
乙 / 《大和(おおやまと)神社》/渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命→長尾市(ながおいち))
丙 / 《大神(おおみわ)神社》/(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)と大田田根子(おおたたねこ)や神酒係の活日(いくひ))
なおこのとき、「三種の神器」以外の神話の剣などが《石上神宮》に同時に奉斎されたことは、第七章で述べたとおりである。
この物語のなかで、(大物主神)を《大神神社》すなわち《三輪山》に奉斎した大田田根子と、(大物主神)の神託を告げる神子としての(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)との関係がちょっとわかりにくいが、多くの学者は、(百襲姫命)が政治・行政までを左右した強力な神子であり、大田田根子はいわば事務担当であって、「日本書紀」編纂時に子孫の三輪一族の主張を入れて採録したのだろう――と考えているようである。
なお、「日本書紀」ではこの時点ではまだ(倭迹迹日百襲姫命)は存命中だが、じっさいにはすでに没しており、(百襲姫命)に代わって――山中での祭祀を神社社殿での祭祀に移行させつつ――祭司役になったのが大田田根子だった、という説もある。
この二つの説は違っているように見えるが、(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)が存在感で他を圧倒していると考える点では共通した見解である。
崇神天皇紀はまだ続くが、いったん中休みして、大和朝廷の成立に深くかかわっているらしい問題の《大神神社》について、四つの節をもうけて詳述することにしよう。
余談
この崇神天皇紀は、日本の古典のなかで神々を組織的に祭った記録の最初ですが、天皇にとって神々とは人とともに治め養う対象とされている点が注目されます。つまり天皇は神々より上位の存在なのです。施政方針演説でも「人と神を治め養う」となっていますし、疫病退散のために「神浅茅原に八十万の神々を集めた」とされています。天皇は神々を治め養ったり集めたりするのです。少し後になると天皇が神々に正n位勲m等などの位を授けてもいます。この位は神社や宮司に対するものではなく神そのものに対するもので、名称も価値も人間に対するものと同じです。ただし先祖神の(天照大神)だけは別格で、位を贈るような事はありません。(天照大神)を別格とする経緯は崇神天皇紀や次の垂仁天皇紀全体から読みとれます。もう少し先になると判断できると思いますが、神武東征の前から《三輪山》や《大和》におられた神々に対して(天照大神)を別格・至上とする過程で、それを認めまいとする土地の豪族との間で相当な確執があったらしく思われます。(臺與(とよ))に比定される(豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命)や(倭姫(やまとひめ)命)を御杖代としてこの確執を乗り切った時点で、大和朝廷はその地位を確立したといえそうですが、この争いを別の視点から観察したのが「魏志倭人伝」の(卑彌呼)や(臺與)についての記述であるという仮説が成り立つかもしれません。以上はあくまでも余談です・・・ 
8-4 《三輪山》と《大神神社》1 格式と山の辺の道

 

古代には《伊勢神宮》に並んだ《大神神社》
《三輪山》は大和朝廷の発祥の謎を秘めた聖山である。
既述したように、山そのものが(大物主(おおものぬし)神)という神であり、その神は(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)に憑依して崇神天皇に神託を告げた。
崇神天皇はそのお告げにしたがって《三輪山》=《大神神社》を重んじ、山麓の社殿で祭祀をおこなった。
「日本書紀」のその条を読むと、大和朝廷の先祖神かつ太陽神である(天照大神)や、《大和》の土地(国土)の神である(倭大國魂(やまとのおおくにたま)神)を神社に奉斎しただけでは国の混乱や疫病はおさまらず、(大物主神)を祀る《三輪山》=《大神神社》の社殿で――大和朝廷として正式の――祭祀を丁重におこなってはじめて、国々が平穏になった、と記されている。
ということは、《三輪山》にある《大神神社》は、《伊勢神宮》や《大和神社》とならぶ――あるいはそれ以上に――重要な神社だったということになる。
つまり、《大神神社》を大切にしないと、三輪氏など三輪山麓の人々(元から《大和》にいた人々)を治めることができなかったのだ。
じじつ、古い時代においては、
《伊勢神宮》
《大和神社》
《石上神宮》
《大神神社》
――の四つの神社が、圧倒的に広大な境内を有していたらしい。
このうち《大和神社》と《石上(いそのかみ)神宮》は、長い年月と検地などよって境内が失われたが、《伊勢神宮》と《大神神社》の二社だけは、二十一世紀の現在でもなお、広壮な境内をもち、古代から変わらぬ儀式がなされ、多くの信者を集めている。
日本人にとっていかに大切な神社であるかがわかる。
そこで、本節および続く三つの節で、《三輪山》と《大神神社》について――樋口清之や中山和敬の文献を参照しながら――すこし詳しく解説してみることにしよう。
《伊勢神宮》に匹敵する格式の高さ 
この《大神神社》の格式は――
(一) 一定の斎場での祭祀という点では日本最古級
(二) 日本の別名でもある《大和》の一の宮
(三) 神位・正一位
(四) 社格・官幣大社
(五) 祭は古く国家としての神事
(六) 皇室の崇敬
(七) 万葉集ほか多くの歌集に無数の歌がある
(八) 海外の研究者たちも注目
(九) 文学者や多くの学者が注目
(十) 信長・秀吉・家康も手出しできなかった広大な社領
(十一)いまも祭日には特別列車が出るほどの人出
(十二)いまも日本中に三輪山製杉玉が普及
――といった別格なものである。
(一)の一定の場所とは《三輪山》であるが、山の中腹や山頂付近には無数の磐座(いわくら)と呼ばれる磐を使った祭祀跡があり、大和朝廷としての祭は崇神天皇時代からであっても、祭祀そのものは弥生時代から――あるいは縄文時代から――山中の巨岩を利用しておこなわれていたことは確実である。
(二)の一の宮とは、昔の地方行政単位である国の最高位の神社ということで、たとえば相模国(神奈川県)は寒川神社、武蔵国(東京近辺)は氷川神社、安芸国(広島県)は厳島神社・・・といったように決まっていたが、日本の代名詞でもある大和国(奈良県)のそれが《大神神社》だったのだ。つまり各地の一の宮のなかでも日本を代表する別格の一の宮として存在したのだ。
(三)の正一位は、神にも人間と同じく位階をつけたもので、最高の位である。
(四)の社格は明治に定められたもので、官幣大社は最高の格をあらわす。
(五)の祭のなかでもとくに六月(旧四月)に摂社でなされる三枝祭は、藤原不比等たちによる大宝律令によってすでに国家神事として定められていた。
(六)については、崇神天皇・神功皇后・雄略天皇・・・などの古代のみならず奈良時代以後も歴代皇室の崇敬をあつめ、今上天皇皇后両陛下もご即位前に御参拝しておられる。また昭和天皇も昭和五十九年に御親拝になっておられる。
(七)の歌は数え切れない。万葉集だけではなく江戸時代の俳句にもあるし、謡曲の「三輪」の題材にもなっている。
(八)は後述するが、外国の学者や宗教家が多く訪れている。
(九)の代表は三島由紀夫とされる。
(十)は、史上有名な検地による社領没収が免れたことで、《石上神宮》のところで述べたように他のほとんどの神社は没収や略奪の憂き目にあったが、《大神神社》と《伊勢神宮》だけは免れただけでなく、逆に与えられたりもした。大和全体が秀吉政権の直轄地になったときも、《三輪山》には手を出さなかったのだ。
(十一)は普段の日でも感じられる。著者が参拝したときも、行楽季節を外れたウイークデイで悪天候だったにもかかわらず、参詣者がひきもきらない有様であった。とくに若い男女の参拝姿が印象的だった。
(十二)の杉玉は、縁起ものの一種のくす玉で、三輪の神木でつくられた大きな神玉が、全国の造り酒屋に飾られている。「日本書紀」にある御神酒造りの元祖・活日(いくひ)の伝承が今に生きているのだ。
このように、「日本書紀」に由来が明記された最古の神社である《大神神社》は、歴代の朝廷・政府から重要視されてきただけではなく、全国の一般庶民による崇敬も古代から現在までつづいている。だから、日本国家の成立史を語る上でぜったいに逸することのできない神社なのだ。しかも、《邪馬台国》や(卑彌呼)に密接に関係しているらしい。
鳥瞰図による説明――山の辺の道 
〔一〕《大神神社》の地理的条件
《大和》の地形については、すでに記したが、図5・1、5・2、5・3、図7・7、図8・1によって把握できるように工夫してあるので、ざっと見直しておいていただきたい。
図8・1の歴代皇宮位置の図において、《三輪山》の麓に10、11、12とみえるのが、崇神、垂仁、景行の三代の天皇の皇宮で、この三代は大和朝廷の基礎を築いたとされ、三輪王朝とも呼ばれている。
《大神神社》は三輪山のほぼ西南西にあり、10で示された崇神天皇の皇宮のすぐ北側にある。図8・13にその位置を示してある。
三輪山の南部から流れ出る初瀬川(大和川)と北部から流れ出る巻向(まきむく)川に挟まれた三角地帯はとくに神聖な場所とされており、《大神神社》はその中心である。
この三角地帯は、神聖な川に囲まれているので、昔の地名を水垣郷といったらしい。
そしてこの三角の北側には広大な纒向(まきむく)遺跡があり、前記三代にわたる大和朝廷の都、《纒向京》(仮名)だったとされている(*1)。
土地勘を養ったところで、図8・5を見ていただきたい。西南西の側から《三輪山》を眺めた鳥瞰図で、右がほぼ南、左が北、視線の向きがほぼ東である。
この鳥瞰図に沿って広大な《大神神社》の境内を概説してゆこう。
(*1 纒向とは「日本書紀」にも記されている古代からの地名で、かつ現存もしている)
(注意 図8・5も、《大神神社》社務所様のご了解、および作図された方のご遺族のお許しを得たうえで掲載している)
〔二〕神社の南は史跡の宝庫
図の下方にはJRの桜井線が左右にはしり、中央に三輪駅があり、右の桜井駅で近鉄線にも連絡している。その上に、注連(〆)柱(しめばしら)のすぐ前を通って、うねうねとした道が左右にとおっている。これが有名な「山の辺の道」で、日本で最古の国道とされている。この道は数多くの万葉歌の題材となっており、いまでも万葉の里を訊ねる人の行き来が絶えない。古代から同じ道だったかどうかについては、異論があり、もっと平地に近い直線状の道があったらしいが、山塊に沿っていたことは確かである。この道を右から左へとたどり、ついで参道を下から上へとたどってみることにしよう。山の辺の道のはじまりはほぼこの図の右上であり、初瀬川に沿ったあたりとされる。
古代の地名は磯城(しき)であり、このあたりには第十代崇神天皇の皇宮だけでなく、第二十一代雄略天皇や第二十五代武烈天皇の皇宮跡がある。さらに初瀬川をまたいだ近くには第二十九代欽明天皇の皇宮・磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)跡がある。
著名天皇の皇宮跡がずらりと並んでいるわけで、重要な場所だったことが分かる。また川に近い道沿いには有名な海石榴市(つばきいち)がある。図ではつば市と書かれている。海石榴は椿の意味であるが、この市場は古来交通の要衝でもあり、歌垣もなされ、とてもにぎやかな場所だったらしい。
万葉集からもこの市のにぎわいが想像されるが、前述したように遣隋使の小野妹子が隋の斐世清(はいせいせい)をともなって帰国して上陸したのもこの場所である。大阪湾から大和川を遡って船でここまで往来できたのだ。この場所を紙面右上(東)に向かうと伊勢に達する。したがってここは西日本の人々の伊勢参詣の通路でもあった。
更級日記にも、「初瀬川などうちすぎて・・・」とあり、多くの人が通過する道だったことがわかる。図の右外は方角では南であり、地名としては磯城に続いてさらに南に神武天皇で有名な磐余(いわれ)がある。
海石榴市の左に金屋石仏や崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡が見えるが、このあたりは、磯城のなかでも金屋(かなや)といわれた土地である。
金屋は前述のように鉄製品の製造がなされたためにつけられた地名であろうが、皇宮がその場所に位置していたことは印象的である。
崇神天皇の皇宮のさらに具体的な推定地は、現在の天理教会と三輪小学校の間くらいではないか――とされており、建築工事のさいに鉄製品など多くの出土品が見られたそうである。
磯城瑞籬宮という崇神天皇の皇宮名は、磯城地域の川に挟まれた神聖な水垣郷にある――というところから来たらしい。金屋は水垣郷のさらに中の地名である。
〔三〕神社の北にあった柿本人麻呂の別荘
金屋から左へ移動すると、《大神神社》摂末社としてのたくさんの神社のほかにいくつかの寺や寺跡が見られるが、これらは神仏混淆時代の名残である。
崇神天皇を祭る天皇社をすぎると、拝殿のすぐ前を通過し、神社の建物の間を縫って狭井(さい)川をまたぐ。
この狭井川も日本古代史上きわめて有名である。
第六章に記したように、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命の住まいがこの川のほとりにあり、惚れ込んだ神武天皇がこの媛命の家にお泊まりになって――つまり一種の通い婚をなさって――皇后にされたという伝承があるからだ。
また、神武天皇崩御ののちの混乱を詠んだ「狭井川よ・・・」という媛蹈鞴五十鈴媛命の御歌が神武紀に記されている。
川のそばに神武天皇聖跡碑があるのはそのためだが、その上の出雲屋敷が、この媛命の住まいのあった場所と伝えられている。
山の辺の道をさらに左に行くと、右手の静謐な森のなかに、《三輪山》を背景にした《檜原(ひばら)神社》がある。
先に説明した最初の元伊勢である。
規模こそ《大神神社》の本社に及ばないが、つくりはほとんど同じである。
便宜上《大神神社》の摂社になっているが、それは近年のことで、(大物主神)とは対照的な(天照大神)をかつて祭った神社なので、別格の扱いがなされている。
この《檜原神社》を過ぎると、巻向(まきむく)川がある。《三輪山》と巻向山の間から流れてくるのでこういうが、巻向山は別名穴師(あなし)山でもあるので、川名は穴師川ともいう。
この川は国鉄を越えてすこし行ったところで初瀬川に合流するが、初瀬とならんで万葉集に頻出する著名な川である。
柿本人麻呂歌集にこのあたりを詠んだものが多くあるが、それは、人麻呂の別荘がこの巻向川のほとりに有ったからだ――といわれている。
(ただし川の流れや名はいまとは違っており、人麻呂時代の巻向川はもう少し北を流れていたらしい)
〔四〕皇宮跡と日本を代表する巨大前方後円墳の群
巻向(まきむく)川をすぎると、そこはすでに広大な纒向(まきむく)遺跡の東端であり、野見宿彌(のみのすくね)らの伝承による相撲神社がある。そしてその相撲神社のあたりが、第十一代垂仁天皇および第十二代景行天皇の皇宮があったとされる場所である。有名な日本武尊もここで生まれたのだ。
この由緒ある皇宮跡をすぎてしばらく北へ行くと、そこに景行天皇陵や崇神天皇陵があり、超巨大な前方後円墳が偉容を誇っている。
さらにそれらを過ぎると、山の辺の道は天理市に入り、先に述べた《石上(いそのかみ)神宮》の境内を通って北上し、最後は奈良市東部の春日山あたりに到達する。
この「山の辺の道」とその両側の地名――初瀬・三輪・巻向・大神・海石榴市など――は、万葉集に頻出するので、万葉の里とも呼ばれ、行楽期には古代を想って訪れる人たちで賑わっている。
一方JRの下を――つまり山麓から少し離れた平地を左に行くと、有名な《箸墓(はしはか)》または《箸墓(はしのみはか)》がある。
(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)の御墓といわれている最古の超巨大前方後円墳だが、これについては後に詳述する。
この《箸墓》を含んでさらに左やその下部が、広大な纒向遺跡である。巻向川と初瀬川もこの遺跡のなかを流れて、やがては大和川本流に合流している。
ということは、大阪湾から大和川を遡航して海石榴市に達する途中に、船便がこの纒向遺跡を通ったということで、これはすなわち、この遺跡が、瀬戸内海や大阪湾を介して西日本や海外と水利の便をもっていたことを意味している。九州・四国・山陽はもちろん、シナや朝鮮からでさえ、船便のみでここ《大和》の地まで来ることができたのだ。 
8-5 《三輪山》と《大神神社》2  千古の謎を秘めた三ツ鳥居の奥

 

鳥瞰図による説明――参道から《三輪山》へ 
(一)大鳥居から注連柱まで
図8・5の鳥瞰図の続きである。中央の参道を見ていただきたい。図の左下に大鳥居がある。その高さは靖国神社の大鳥居を上回り、日本最大であるが、これは近年の建造である。
昔からの鳥居は一の鳥居と二の鳥居で、一の鳥居からはじまるのが旧参道、大鳥居からが新参道となっている。参道の長さはほぼ1Kmで、とてつもなく長い。
一の鳥居のそばにある綱越(つなこし)神社は、祓戸(はらえど)大神を祭る神社で、《大神神社》全体のお祓いを司っている。
二の鳥居の左にある若宮は有名。神仏混淆時代には大御輪寺といわれたところで、大田田根子(おおたたねこ)を祀った神社である。
かつて国宝の十一面観音像があった社で、神殿自体も重要文化財となっている。
二の鳥居を過ぎると、やがて三の鳥居のかわりに注連柱(しめばしら)が見えてくる。
これは二本の柱の間に注連縄(しめなわ)をはった古式ゆかしい一種の鳥居である。
(二)拝殿から三ツ鳥居まで
この注連柱の間から拝殿を拝んだ写真を図8・6(a)に示した。写真では背後の神山や拝殿の雰囲気が伝わりにくいが、注連柱(しめばしら)をすぎると、雄大かつ荘重な神域が眼前に広がるのである。拝殿もふつうの神社とはまったくスケールが違い、じつに豪壮である。写真の(b)は、右側からこの拝殿前を写したもので、やはり注連柱がある。この(b)の左奥に見えているのが、有名な神木で、神聖な蛇が棲む杉の老木である。この杉自体も信仰の対象になっているが、それは(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)が蛇の形をした(大物主神)と結婚したという伝説からきている。図8・5では「巳の神杉」と書かれている。いまも実際に蛇が棲んでいるとされ、卵を供えて拝む人が絶えない。荘厳な拝殿は国の重要文化財だが、その背後には直接山が迫っていて、本殿はない。
一般の神社では、拝殿の後ろには本殿があり――あるいは拝殿と本殿が一体となっていて――その本殿の中央に神座があり、そこにご神体が奉安されている。神鏡、神剣、神玉、御幣などである。
しかしこの《大神神社》においては、背後の《三輪山》そのものが本殿でありかつ(大物主神)が宿るご神体でもあるので、建造物としての本殿はない。
いや本殿どころか社宝を安置する宝庫すら置かれなかったのだ。
そのかわり――というわけではないが、拝殿と御山との間に「三ツ鳥居」と呼ばれる独特な鳥居がある。
これもまた重要文化財で、日本に数多い神社のなかでも他では見られない特殊な鳥居である。
注連柱を三の鳥居とすれば、これは四の鳥居ということになるが、その形は、ふつうの鳥居を三つ重ねたよう(*1)であり、拝殿に隠れて見えないので図8・6には写っていないが、図8・2の《檜原神社》の写真に同種の鳥居が見えている。
《檜原神社》は本社と同じ形式を小型化した神社だからである。
なぜ三つの鳥居を組み合わせたのかは分からないが、《三輪山》の三という数に関係するのであろう。
結局、参詣者は、拝殿からこの三ツ鳥居を介して《三輪山》――すなわち(大物主神)――を拝むのである。
なお社務所でとくべつに許可を貰えば、お祓いをうけてから拝殿背後の三ツ鳥居を直接拝むこともできる。
(*1 《大神神社》の解説書はいろいろとあるが、大抵の解説書に三ツ鳥居の写真が掲載されているので、写真を介して拝むことができる)
(三)古代祭祀の跡――磐座(いわくら)
三ツ鳥居の背後の山腹は、絶対に人の入れない禁足地であり、厳重に管理されている。弥生時代においてはここの巨石群――磐座――を用いて祭祀がなされ、祭具が奉納されたらしい。
山頂には高宮(こうのみや)神社があるが、ここは(大物主(おおものぬし)神)の御子が祭られていて、昔は雨乞いなどがなされた。
またその周囲には古代に(大物主神)を祭祀した巨石群がある。
この山頂に登ることは一般には禁じられているが、本社の左にある狭井(さい)神社で住所氏名を明記して申請して許可が出れば、お祓いをうけ特別な襷をして、登ることができる。
ただしその場合も、定められた一本道以外に足を踏み入れることは許されない。
それ以外でこの御山に登ることのできるのは、下草苅りなどの不可欠な作業をするときの神社職員と氏子信者のみである。
(四)奇跡の継続性
《三輪山》はそれ自体がご神体であるため、何千年もの間、厳重に守られてきた。
もちろん考古学的な発掘などは絶対に許されないし、開発など論外である。植林もなされないから、樹相は太古のままである。
崇神天皇のはるか前から連綿として守り続けられてきたこの《三輪山》の継続性は、驚くべきことである。
なにしろ、何千年も前の弥生時代の人々――ひょっとしたら縄文時代の人たち――が祈り、推定二千年近くも前の崇神(すじん)天皇や(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)や大田田根子(おおたたねこ)たちが祈ったその同じご神体を、その百代以上も後の天皇・皇族方や国民が同じ方法で祈っているのだ。
これは渡部昇一の主張にあるように「継続」という日本文化の一大特色であり、他国では絶対に見られない奇跡的な伝統なのである。
《三輪山》の話 
〔一〕《三輪山》の地質と山容
つぎに、ご神体そのものである《三輪山》のデータを少し並べておく。まず地質であるが、このあたりの山のほとんどが花崗岩でできているのに対し、三輪山は斑糲岩(はんれいがん)が主体である。斑糲岩は鉄を含むことで知られており、そのためかこの山から流れ出る川からは砂鉄が採れた。山麓の金屋の製鉄所との関連が注目される。また斑糲岩の山は硬質であるため風雨による侵食が少なく、円錐形になりやすい。じじつ《三輪山》はじつになだらかな円錐形をなしている。
写真の(a)は西方からの遠景で、大鳥居の向こうになだらかな円錐のスロープが見える。(b)は大鳥居のそばからの写真で、人家の向こうに参道が続いている。(c)は北にある景行天皇陵からの遠景である。どの向きから眺めても、ゆったりとした穏やかな円錐状の山容が印象的で、大和朝廷の故郷といわれる日向高千穂の峰に似た面もある。古代の人たちが神山として崇めた気持ちがわかる。
円錐形の山を尊び、それへの眺望に適した土地に集落をつくる風習は、古く縄文時代から日本全国にあったという研究が、縄文遺跡の研究者らから出されているが、《三輪山》の山容はその代表であり、じっさい奈良盆地で最大の弥生遺跡である「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡 *1」からも、この《三輪山》を遠望できるのだ。
つまりこの周辺は、まさに、「神聖な山への入り口」→「山門」→「大和」と呼ぶにふさわしい土地なのである。
(*1 この遺跡については後に述べるが、大和朝廷が確立される直前の都だったといわれる巨大な環濠集落跡である。計り方にもよるが、有名な北九州の吉野ヶ里遺跡を上回ると言われる)
〔二〕《三輪山》の数値と遺跡
この神山の高さであるが、標高は467m、そばを流れる初瀬川の川底からの高さはほぼ400mである。《大和》地方を囲む山並みのなかでも、そう高い方ではない。周囲は、凹凸をいれるとほぼ16Km、面積はほぼ350haである。ほぼ――というのは、立ち入り禁止なので、正確な測量は許されていないからだ。土地にかんする法令をも超越した存在なのだ。山としては面積的にも大きい部類ではないが、この山全体が境内でありご神体だと考えると、とてつもなく広い。現在の東京の皇居の四倍に近い。
山腹から山頂にかけては、神域のため当然ながら発掘調査が禁じられているが、周辺からは、多くの出土があり遺構が発見されている。
それらから、この山の周辺には、数万年前の旧石器時代から人々が生活していたことがわかっている。旧石器から縄文、弥生時代にかけての石器・土器などが多く出土しているのだ。
もちろん古墳時代の遺跡は無数にある。
また特徴的なのは、その遺跡が、古い時代のものほど山に近く、古墳時代に近づくと平地に広がってきていることである。
これはどうやら、大和湖と仮称される湖(または水郷地帯)が縄文時代まではかなり拡がっており、それが時代が下がるとともに干上がって平地への居住が可能になってきたことと関係しているらしい。
〔三〕大和湖を囲む皇宮と祭祀遺物
その一つの証拠が、図8・1の皇宮跡の配置である。図の上半分の中央部分が空白になっており、それを囲む形で歴代の天皇の皇宮があったのだ。空白部分はいまでは肥沃で穏やかな土地なのだが、ここに皇宮跡がまったくなく、さらに他の遺跡も少ないのは、大和湖が干上がってまもなかったため、湿地帯で居住に適さなかったからではないか――と考えられているのだ。比較的古い天皇宮ほど山に近く、また標高70m以上の土地にしか古い出土品が無いことも、この説を補強している。大和湖の位置については、図8・1と図5・3を比べて、推理してみたいただきたい。
いずれにせよ《三輪山》は、ひじょうに古く旧石器・縄文時代からその山麓に人々が棲み、見上げながら暮らしていた山だったのだ。
考古学的な発掘調査は、前述のように許されていないが、偶然の結果としてごく一部が発掘されたことはある。
たとえば、山裾の一部が、かつて農地として開墾されかかったことがあり、そこから数多くの出土品があった。ほとんどは失われたが、一部が保存され、古代の祭祀用の品々であることが分かっている。
また三ツ鳥居の防火工事や補修工事がなされたとき、やむをえず掘った地面から、やはり祭祀用の土器や子持ち勾玉という独特の勾玉が出土している。
子持ち勾玉は、江戸時代にも出土したという記録があり、これまでに合計十五箇の出土が確認されている。この勾玉は《石上神宮》の禁足地から出土したものと同種らしい。勾玉の中央部に内向きに突起のある独特の形状である。
こういう偶然の発掘から、この《三輪山》への祭祀が、すくなくとも弥生時代からなされていたことが知られるのである。崇神天皇と(倭迹迹日百襲姫命)の伝承は、だから、大昔からこの土地の人たちがおこなってきた祭祀を、この地に進出した大和朝廷としても本格的におこなって、人心を掌握しようとした経緯を、物語っているのであろう。
〔四〕神の宿る山名の由来
《三輪山》という山名の由来であるが、これは糸が三巻(三輪)残ったといった前記の伝承などのほかに、美和からきたなど、いろいろな説があって定かではない。
「記紀」でも万葉集でも、いろいろな呼び方がされていて、「神奈備(かんなび)の三諸山(みもろやま)」とも「御諸山(みもろやま)」ともいわれる。
神奈備(神名備)とは神が鎮座する山や森という意味で、主に円錐形の山につかわれ、神が鎮座する場所という意味の御室にも通じる。
御室はまた三室とも書かれ、転じて御諸、三諸になったとされる。
「神奈備の三諸山」とは、だから、貴い神の宿る山――といった意味だが、《三輪山》は最古の神奈備であり三諸なので、この言葉が《三輪山》を指すようにもなった。
だから三輪は、三室や三諸に関係して書かれるようになった文字なのかもしれない。輪は大和や倭にも通じている。
一方神酒や神酒を入れる甕も「みわ」と読むが、《三輪山》は御神酒の本家でもある。
山腹には、禁足地を中心にして数多くの巨石があり、そこで弥生〜古墳時代に祭祀がなされた痕跡がある。つまり多数の巨石を次々に斎場としていたのだ。
これは神武天皇紀に記されているのと同様な山腹での古代祭祀の遺跡と考えられているが、神社ではそれを神座の具体的な形として三つに分けている。
山裾の辺津磐座(へついわくら)、中腹の中津磐座(なかついわくら)、山頂の奥津磐座(おきついわくら)の三座である。これらについてはまた後述する。
〔五〕他の聖山との類似性
《三輪山》のような円錐形の山容が縄文以来の古代人に崇敬されてきたことは前記したが、その好例として、神奈川県の大山をあげることができる。
この山の山頂および山腹には、《三輪山》と同じく山そのものをご神体とする大山阿夫利(あふり)神社があって、古くから関東一円の信仰を集めてきた。
相模国(神奈川県)の一ノ宮は寒川神社、二ノ宮は川勾神社でともに祭りで有名だが、阿夫利神社はそういった神社系列には属さない独自性をもっていて、関東総鎮守ともされ、規模も参拝者数も一ノ宮を凌駕している。
江戸時代の「大山講」をつくっての「大山詣」は、「お伊勢参り」につぐ江戸庶民の楽しみで、多くの記録が残されている。
この大山が大和朝廷に正式に認められたのはやはり崇神天皇の御代らしく、祭神は瓊瓊杵尊の妻になった木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)の父親である大山祇神(おおやまつみのかみ/伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子)とされているが、山そのものへの信仰は崇神朝よりずっと古いことがわかっている。
江戸時代の調査で山頂に祭祀用の磐座が発見され、さらに戦後の発掘調査によって縄文土器が見つかり、その磐座での祭祀が遠く縄文後期にまでさかのぼることがわかったのだ!
このように、緑豊かで秀麗な山容そのものを「神」として崇める日本の習俗は、古く縄文時代からつづいている神社(神道)の源流なのである。
だから《三輪山》の場合も、もし発掘調査をすれば、その信仰の発祥が縄文にあるとわかる可能性がつよい。
崇神天皇七年の記述は、あくまでも、大和朝廷としての祭祀であり、社殿の建築様式の確立であったと考えられる。
なお大山も《三輪山》と同じく山頂での雨乞いが古くからなされている。麓に豊富な水を恵んでくれる山への感謝の気持が、円錐形の山容への崇敬理由だったのであろう。阿夫利神社の阿夫利とは雨降りのことだと言われている。
〔六〕終戦時にあった《三輪山》最大の危機
以上述べてきたように、《三輪山》はそのすべてが立ち入りを許さない絶対的な聖域であり、それは古来厳重に守られてきたが、もちろん危機もあった。
日本の神社史や寺院史で有名な危機は、信長〜秀吉〜家康にいたる略奪と検地である。
略奪はとくに信長において顕著で、《石上神宮》がその被害にあって、古代史の謎を解くであろう神宝を多く失ったことは第七章に記したが、多くの社寺が同様な被害にあった。
朝廷の宝物を保存した正倉院なども、信長らによって過半が失われ、現在残されいるのはかつての三分の一にすぎないともいわれている。
信長が光秀に討たれたのは危機感をつのらせた寺社関係者たちによる計画だったとの説もある。
秀吉の代になってからは、有名な検地がなされ、社寺も例外ではなく、多くの社領が失われた。この検地は徳川になっても続けられ、《石上神宮》の社領のほとんどが失われた話はすでに述べた。
しかし幸いなことに、この《大神神社》には、さすがの信長も秀吉も家康も手出しができず、被害はほとんど無かった。
他の神社のような宝庫がなく物としての宝物がなかったことも幸いしたのかもしれない。
豐臣の検地帳にも徳川の検地帳にも、「除地三輪明神山」と記録されているそうである。
秀吉などは逆に、神社を維持するための所領を寄贈したほどである。
このような、検地における例外的な処置は、《伊勢神宮》も同じであった。つまり《大神神社》は、《伊勢神宮》と同格の扱いを受けていたことになる。
その次ぎの危機は明治四年の上地令だったが、嘆願につとめた結果、除地となって助かっている。
ただし神職の長である大宮司などは明治政府の命令で国から派遣されたため伝統がくずれたし、また社寺分離の嵐で、国宝級の社殿が崩壊したりはした。国宝十一面観音像の移動などもこのときに起きた。
最後の危機は、大東亜戦争の終結時に来た。歴代の危機のうちで、これがもっとも深刻だったといわれている。
なにしろ相手は、神道の意味が理解できないキリスト教国の軍隊で、日本人が勇敢なのは神社のためだと思っていたのだ。
進駐軍の方針で、神社の力を弱めるための方策がつぎつぎに打ち出され、《三輪山》全体が国有地になってしまった。
またこの時代には、付近の貴重な古墳が進駐軍のブルドーザーで壊されて倉庫やトイレなどに改造され、出てきた土器や鏡の類がゴミとして捨てられるという事態も頻出した。
しかしこのときも《三輪山》は、神社関係者の命を賭した運動によって、結局は神社に戻り、かろうじてことなきをえた。
終戦時には、たとえば熱田神宮などでも、門外不出の「草薙剣」――「三種の神器」の一つ――をあえて極秘の場所(岐阜県)に遷すなど、必死の努力がなされている。
こういう危機の記録を読んでいると、ずいぶんおかしくされたとはいえ、占領軍がアメリカだったからまだ良かった――という気持ちにもなる。もし大陸・半島などほかの近隣国に占領されていたとしたら、とてもこんな事ではすまず、日本の文化遺産は根こそぎ壊されていたであろう。自国であっても前の時代の王の遺物を徹底的に壊す国――シナ王朝など前王の墳墓まであばいて捨てるという話がある――が多かったのだから・・・。
話は横道にそれるが、靖国神社についての議論をテレビなどで見ていると、神社や神道への崇敬の念がおそろしいまでに欠落したコメンテイターやキャスターがほとんどであることがわかる。
日本の神社(神道)はあらあゆる宗教を超越して縄文弥生時代から連綿としてつづく日本人の習俗であり文化的伝統であって、憲法二十条などとは本来無縁のものである。
二万年の歴史をもつ日本独自の心とあやしげな新宗教とを同じ法律で扱っていったいどうしようというのだろう・・・。
終戦時につぐ神社の危機――つまりは日本の伝統文化の危機――が、いままさに迫っているのかもしれない。文化国家の名が泣いている。 
8-6 《三輪山》と《大神神社》3  「記紀」にみる三輪一族の人々

 

三輪山麓の人々 
三輪山麓に住み着いて《三輪山》を守り、《大神(おおみわ)神社》を祭祀してきた人たちの多くは、「古事記」や「日本書紀」で三輪を名乗っており、三輪一族と呼ばれている。
《三輪山》は古代の地名では磯城(しき)地方の一角をなしているので、磯城の豪族の一つでもある。
かれらの先祖は、どこからか移ってきたのではなく、おそらくは縄文から弥生にかけて、この山麓に棲んでいた一群ではないか――といわれている。
この土地の人々である三輪一族に、さらに、神武天皇より前に高天原から天降ったとされる――たぶん九州から東征したと想像される――(饒速日(にぎはやひ)命)の子孫や出雲一族が加わって《三輪山》の信仰を形成していた可能性もあるが、詳細はわからない。
三輪一族の由来については、多くの伝承があり、今となっては何が本当かの詮索は困難であろう。しかし、生物学的な血統よりも大切なことがある。それは、当時の三輪の人たちが何を誇りにしていたか――である。これについては、古代史料にかなり記されている。
桓武天皇〜嵯峨天皇のご意向で編纂されたと言われる「新撰姓氏録」では「三輪」には「神(みわ)」の字が当てられているが、その解説によると、三輪一族は出雲神族で、大國主神の五世孫の大田田根子を祖とするとされる。
出雲の国譲りののち、その子孫の中でもっとも栄えた一族として知られた。
《三輪山》の(大物主神)を信仰するが、(大物主神)は大國主神の和魂ともされるので矛盾は無い。
のち、朝廷に仕えた功績で大三輪と呼ばれるようになり、奈良時代になると《大神神社》と同じ大神という表記になったらしい。読みは同じである。
(饒速日命)の子孫と信じる物部一族は《石上神宮》という豪壮な総氏神を、朝廷の許可のもとに、近くに持つにいたったし、現出雲の地の出雲一族は先祖神である(大己貴神)――すなわち(大國主神)――を奉祀する巨大な出雲大社を出雲の地に建立してもらったし、奈良盆地の先住者たちは土地の神を祀る《大和神社》を得た。
だから、それでも不満で《三輪山》の神(大物主神)の奉斎を主張した崇神天皇時代の三輪一族の中心は、やはり(饒速日命)以前から《三輪山》山麓に住み《三輪山》を敬っていた人たちであったのだろう。
この三輪一族と出雲との関係については、学者の間でも多くの意見がある。
これらは第8-7節でまとめてみる。
神武天皇の子孫で大和朝廷の実質的な創始者とされる崇神天皇がこの山麓に進出して都をきずいたとき、天皇が信仰する(天照大神)に対して、彼ら三輪一族が《三輪山》の信仰によって対抗し、それに対する融和政策が、「日本書紀」に記されている、(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)の神託による(大物主(おおものぬし)神)祭祀の朝廷による実現だったのかもしれない。
この《三輪山》の神の名である(大物主神)は、縄文弥生時代からのものではなく、(倭迹迹日百襲姫命)が名づけたのだという説もある。
たしかに「日本書紀」の記述はそのようにも読める。
前にもすこし触れたが、この《三輪山》周辺の人たちとの融和策は、崇神天皇の前から見られる。
すなわち初代の神武天皇の皇后も三輪山麓の狭井(さい)川で生まれた姫だし、以後第二代から第七代まで、いずれも磯城(しき)地方の姫を皇后にしている。
八代・九代は(饒速日(にぎはやひ)命)の子孫を皇后にしたが、第十代の崇神天皇になってまた磯城の系列の姫を皇后にしている。
崇神天皇の皇后は孝元天皇の孫にあたるので、(饒速日命)の子孫の物部系の血をひくと同時に《三輪山》を中心とする磯城地方の豪族の血をもひいている。
これは大和朝廷が、(饒速日命)一族と三輪一族の両方を自分たちの血縁に入れ込んで融和し、《大和》の盟主としての座を安泰にしようとした婚姻政策の明瞭なあらわれである。
問題の(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)も、こういう婚姻政策のなかから誕生した貴人であり、したがって大和朝廷や饒速日系の一員であると同時に、三輪一族の血縁でもあったのだ。
一方出雲一族については、こういう種類の婚姻政策はとれず、その本拠である出雲地方とのいざこざが続いて苦労したらしいが、出雲に巨大神社を建立する以外にも、《三輪山》の神が出雲と関係しているという神話をつくりだしたり、《大和神社》の神を出雲の神の荒魂としたりして、融和をはかった形跡が明白である。
三輪周辺の皇宮は、どこまでを三輪周辺とするかによって数が違ってくるが、歩いてすぐの場所のみをとっても、第十〜十二代の崇神・垂仁・景行をはじめとして、十二もある。
第十五代應神天皇の初期もたぶん(神功皇后)と同じであった。
これら以外でも、たとえば初代の神武天皇の橿原の宮などもハイキング・コース程度の距離であり、周辺といえなくもない。
つぎに、大和朝廷に仕えて功績をあげた三輪一族の著名人を、「日本書紀」に従ってあげておこう。ただし、以下の人々が太古から《三輪山》の山麓に住んでいた人々とどのような関係にあったかは分からない。とりあえず三輪と呼ばれた要人たちをピックアップしたものである。
崇神天皇から雄略天皇まで 
第十代崇神天皇の御代
大和朝廷の意向をうけての初代《大神神社》宮司である大田田根子は、三輪君の祖であると記されている。
第十一代垂仁天皇の御代
新羅の王子である天日槍(あめのひほこ)が帰化したとき、三輪君の先祖の一人である大伴主(おおともぬし)が天皇の使いとして話し合いを持ったとされる。「先代旧事本紀」によると大伴主は素戔嗚(すさのお)尊の第十一世の孫で、崇神天皇から大神(おおみわ)君という名を賜ったとある。
第十四代仲哀天皇(神功皇后)の御代
仲哀天皇崩御のとき、(神功皇后)の命令をうけて大三輪大伴主君が四大重臣の一人として宮中を守った。他の重臣は中臣(なかとみ)、物部(もののべ)、大伴(おおとも)だから、三輪は大伴や物部と同列の重臣として(神功皇后)に従っていたことになる。
第二十一代雄略天皇の御代
即位前紀に、御馬皇子(みまのみこ)が三輪君身狹(みむさ)と親しかったので相談しようと出かけたが途中で伏兵にあい、《三輪山》の近くで処刑されたとある。
雄略天皇七年に、「《三輪山》の神の姿を見たい、捕らえてまいれ」と力自慢の使者を派遣した。
使者は大蛇をとらえて来たが、その大蛇は雷鳴をとどろかせ、目を爛々と輝かせたので、天皇は怖れて、その大蛇を逃がし、名を雷とした、とある。
勇猛をもって知られる雄略天皇でさえ、《三輪山》の信仰には勝てなかったことを暗示する伝説であるが、同時に、天皇が「神を捕らえよ」という命令を出していることも興味深い。崇神天皇の施政方針でわかるように、天皇は人と神の両方を治めていたのだ(*1)。
そのような経緯があったためか、十四年には、呉の国から到来した衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)が《大神神社》に奉られたとある。
高度な技術を持った帰化人が三輪一族に与えられた――と考えられる。
(*1 神に対する古代日本人の姿勢を示す面白い話が「常陸国風土記」にある。夜刀という神と住人との軋轢の物語である)
敏達天皇から持統天皇まで 
第三十代敏達天皇の御代
敏達天皇や蘇我系の炊屋姫(かしきやひめ)皇后(のちの推古天皇)の寵臣として大三輪逆君(さかうのきみ)が活躍した。
第三十一代用明天皇の御代
敏達天皇が崩御されて次ぎの用明天皇が即位された直後、敏達天皇の皇后だった炊屋姫を穴穗部(あなほべ)皇子がおかそうとしたが、敏達天皇の寵臣だった大三輪逆君が守った。逆君はその後皇子と物部守屋らに追われて《三輪山》に一度は隠れたが、戻って殺された。この事件によって推古天皇は物部守屋(もりや)を恨むようになったとされる。聖徳太子の時代の直前の混乱期におこった有名な事件である。
第三十五代皇極天皇の御代
蘇我入鹿が斑鳩(いかるが)の山背大兄王(やましろのおおえのみこ/聖徳太子の御子)を不意打ちしたとき、三輪文屋君(ふみやのきみ)は大兄王にしたがって奮闘し、東国を拠点にして再起する作戦を授けたが、大兄王はきかずに斑鳩寺に戻って自決した。文屋君は自決にあたっての大兄王の言葉を、囲む武将たちに告げた。この天皇の御代に、百済の人質の余豐(よほう)が《三輪山》でミツバチを飼おうとしたが成功しなかった――とある。
(余豐は、第七章の文末で言及した百済の王族である)
また《三輪山》で猿が昼寝をしているのを見つけた人が腕を掴まえると、その猿が眠ったままで歌を詠んだという話が記されている。《三輪山》の存在感が大きかったとこがわかる。
第三十六代孝徳天皇の御代
孝徳天皇が百済の使者に述べた言葉として、かつて、任那を百済の属領として与えたのち、三輪栗隈君東人(みわのくるくまのきみあずまひと)が任那国の境界を視察した――とある。時代は不明。三輪君甕穗(みかほ)が改元の儀式に輿を持つ役目についた――とある。三輪君色夫(しこぶ)が新羅に派遣され、その折衝の結果として新羅王は人質を寄こしたとされる。有能な外交官だったことがわかる。またこの色夫は、法頭という仏教を統制する役職にもついている。
第三十八代天智天皇の御代
三輪君根麻呂(ねまろ)は白村江の戦いの直前、二万七千の大軍を率いて半島に渡り新羅を討ったとされる。二万七千とは大変な大部隊であり、輸送だけで膨大な費用がかかるし、普段からこれだけの大軍を養っていなければならない。したがってこの時代の三輪も大豪族だったことがわかる。
第四十代天武天皇の御代
三輪君高市麻呂(たけちまろ)は壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)のもとで武将として活躍し、《三輪山》の麓の《箸墓》のあたりで近江軍と戦ってこれを撃破した。
この功績で重臣として朝廷に仕え、理官という内務省的な要職についている。
また高市麻呂は、次ぎの持統天皇の御代に、天皇が農繁期に伊勢行幸を計画するのを、農民を苦しめるからと諫めたが、天皇は聞かなかった――と伝えられている。
おなじく壬申の乱のとき、三輪君子首(こびと)も大海人皇子にしたがって奮戦したが、天武天皇五年に病没した。
天皇は悲しんで、内小紫位(従三位相当)を追贈し、また謚号として大三輪眞上田迎君(まかみたのむかえのきみ)という名を贈った。迎君とは壬申の乱で天皇を鈴鹿に迎えたことからきている。
天武天皇の十三年に、三輪引田君難波麻呂(ひけたのきみなにわまろ)が大使として高句麗に派遣された。
この時期、新羅は高句麗の併合を図っており、帰国したのは併合された後だったとされている。白村江の事件のあとの複雑な国際問題で揺れる朝鮮半島に派遣されたのは、きわめて有能な外交手腕をもっていたからであろう。
同じ十三年に、姓(かばね)の制度が改革され、「朝臣(あそみ)」という姓が新設された。そして五十二の氏族が朝臣となったが、三輪一族もその一つだった。したがって三輪氏を呼ぶとき、名に朝臣をつけることが多い。
また先の謚号・大三輪眞上田迎君で分かるように、この時代に三輪は大三輪(おおみわ)と改められたらしい。したがってこの少しあとで出来た「日本書紀」では、古い時代の三輪一族でも大三輪と表記されることが多い。
第四十一代持統天皇の御代
大三輪朝臣安麻呂(やすまろ)なる人物が、持統天皇三年に九人の判事のなかの一人に登用されている。判事とは現在のそれと似ており、訴訟の審理などにあたる役職で、浄御原(きよみはら)令制によるものだろうといわれている。またこの天皇の時代に、諸氏族に命じて先祖の墓記を出させた――との記述があり、その氏族のなかに大三輪も入っている。墓記とは先祖の業績をまとめたものであろう。これが「記紀」編纂の基礎資料になったことは十分に考えられる。
やがて奈良時代へ
このあと、藤原一族の勢力が強まるが、そうなってからは、物部や蘇我と同じように三輪一族も国の中枢から次第に遠ざかったらしい。「続日本紀」を見ても、国政を左右するような重要な役職にはついていない。また「新撰姓氏録」では「三輪」ではなく「神」が使われ、大神朝臣とされている。「続日本紀」でも同様である。
ユニークな存在
以上のほか、三輪一族らしいといわれる特別ユニークな人物に、役小角(えんのおずぬ)がいる。七世紀前半に《大和》に生まれ、生駒、熊野、葛城などの山に籠もって修業し、孔雀明王の神呪を唱えて奇跡を現出したといわれる伝説的な人物であるが、実在したことは確かであり、八世紀初頭に没したらしい。足跡は日本全国に至り、冨士山に初めて登ったのもこの役小角だとされている。坪内逍遙作「役の行者」でも知られている。
著名人の参拝
関連事項としてであるが、歴代の朝廷はじめ著名人の信仰は数え切れず、昭和天皇や今上天皇皇后も御拝しておられることはすでに述べたが、戦後の著名人としては、三島由紀夫が「豊饒の海」第二部執筆にあたって三日三晩の参籠をしている。海外からも、ローマ法王代理のマレラ枢機卿、ジュネーブ大学のエルベール教授、エール大学のダッドナフ教授、フランス文化使節のマルセル博士など多くの学者や宗教家が訪れている。 
8-7 《三輪山》と《大神神社》4  磐座と祭神の謎

 

神社の原型としての磐座 
(一)国津神と磐座
神社に祭られる神々には、大別して天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)がある。天津神とは高天原の神々や高天原に生まれてこの国に降り立たれた神々のことである。国津神とは地上で生まれた神々や天孫降臨の前から地上におられた神々のことである。(國學院大學「神道事典」より)
一般に天津神を祀るには、古代から神鏡や神玉などの御霊代を斎場におくのがしきたりであり、このしきたりは神社本殿を斎場としていまに続いている。
一方国津神の祀り方は、縄文弥生以来――第8-5節で詳述したように――山中の磐座(いわくら)に神が宿るとするのがしきたりであった。
磐座とは本来的には「神が鎮座する堅固な場所」であるが、多くの場合それは山にある「巨岩」であった。
この伝統は今も続いている。
どちらもはじめは場所は一定せず、のちに神社の社殿として固定されるようになった。
《大神神社》の祭神は国津神であり、したがって原初にあっては《三輪山》山頂や山腹の巨岩がその斎場であったと考えられている。
そして、国津神であっても多くの神社がしだいに本殿をつくって神鏡を持つようになったのに対し、《大神神社》においては伝統を守り、いまもなお本殿をもうけず、《三輪山》自体に神が宿るとして、拝殿と三ツ鳥居を介して山容を拝んでいることは、先に述べたとおりである。
(注 ある祭神が天津神と国津神のどちらに属すかについては、古来かなりの混乱があり、研究対象でもあるらしいが、ここでは深入りしない)
(二)三柱の神と磐座
さて、《大神(おおみわ)神社》の祭神の主神は当然(大物主(おおものぬし)神)であるが、その他に二柱の神――(大己貴(おおなむち)神)と少彦名(すくなひこな)神――が祭神になっており、合わせて三柱の神が祀られている。これは《三輪山》の三という数に合わせたものかもしれない。
社伝によれば、(大物主神)は神代から奉祀されており、(大己貴神)は第五代孝昭天皇の勅によって祀られ、少彦名神は第二十二代清寧天皇が神のお告げによって祀ったと記されている。
前後関係や国津神の定義など、ここまでの説明と矛盾する面もあるが、(大物主神)以外は後の世の政策や権威付けではないかと思われる。
(大己貴神)はこれまで何度も出てきており(大國主神)の別名といってもよい神である。
少彦名神ははじめてだが、この神は、「日本書紀」では高皇産靈(たかみむすひ)神の指の間からこぼれ落ちた小さな神で、海上から現れ、(大己貴神)に協力して農耕や医療を始めたとされる。
したがって出雲系の(大己貴神)を(大物主神)に関係づけるとすれば、とうぜんこの神も関係することになる。
この三柱の神の山中の斎場である磐座だが、昔はつぎのように分けられていたらしい。
  大物主神・・・奥津磐座(おきついわくら/山頂)
  大己貴神・・・中津磐座(なかついわくら/中腹)
  少彦名神・・・辺津磐座(へついわくら/山麓)
禁足地は中腹から山麓にかけてだが、無数の磐座があるとともに、(大物主神)への祭具を奉納した場所でもあるらしい。もし仮に発掘したとしたら、無数の古代祭具が発見されるであろう。
(大物主神)の謎 
〔一〕(大物主神)と(大國主神)
さて次ぎに、主神である(大物主神)について、その由来を整理しておこう。
前述のように大物主の物とは「モノノケ」の「モノ」であり、直訳すれば「偉大なる土地の精霊の王」といったことになる。
「記紀」におけるこの神は、(大國主神)すなわち(大己貴神)と関係が深いので、まずこの出雲の両神についておさらいしておく。
(大己貴神)は「日本書紀」本文では素戔嗚尊の御子で他では子孫とされており、地上を治めていたが、高天原からたびたび下された使者との厳しい折衝によってついに地上の権利を高天原の神々に譲り、そのかわり出雲に巨大な宮殿(出雲大社)を建ててもらう。
この神社を奉祀する責任者の出雲国造の先祖は(大己貴神)説得に高天原から初期に下されたが(大己貴神)の側についてしまったとされる天穗日(あめのほひ)命である。
(大國主神)は素戔嗚尊の子孫で、「古事記」にしか出てこないのだが、その物語が寓話としてとても面白いので、著名な神である。
少彦名神と協力して国土を経営し、大和朝廷の祖に国を譲ってからは幽界に隠れ、出雲大社の祭神になった。すなわち(大己貴神)と重複する神であり、同一神と考えられている。
のちには大黒様として庶民の人気者にもなった。
この(大國主神)または(大己貴神)は、神話は別にして、推定される史実としては、大和朝廷の先祖とは別に日本列島の主要部――とくに畿内から日本海沿岸にかけて――を支配していた豪族であり、朝廷の祖との争いに破れて《大和》やその近隣の支配権を大和朝廷に譲り、《大和》から遠い出雲地方に居着いたのだろうという説がある。
大和朝廷としては、この出雲一族に叛乱されないようあれこれ気を使って、一族の顔を立てる措置をいろいろと講じてきた様子が「記紀」からうかがえる。
《三輪山》の(大物主神)との関係もその一つで、つぎのような物語が記されている。
〔二〕「日本書紀」
(大己貴(おおなむち)神)が国土を開発しつつ出雲に到着して、「この国を平定したのは自分一人だろう」といったところ、あやしい光で海を照らして到来する者があり、「私がいたから平定できたのだ」と語った。
これはおそらく蜃気楼現象を神話化したのだろうが、(大己貴神)が質問すると、「私はあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)で、大和の三諸山に住みたい」と答える。
幸魂とは狩猟漁猟の幸をもたらす魂で、奇魂とは健康をもたらす魂だとされ、また人の穏やかな魂である和魂の二つの機能のことだという本居宣長らの説もある。
自分の魂と会話する話も神話として興味ぶかいが、この答をきいて(大己貴神)は自分の和魂を祀る宮殿を三諸山につくった。
これが《三輪山》の神の(大物主神)で、この話が《大神神社》の源であるとされる(*1)。
神社は一般に祭神を崇敬する人たちが創建するのだが、この伝承では祭神そのもが神社をつくる。
神が神社をつくるのはきわめて珍しく、これが唯一の例だとされている。
そしてこの神の子が神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命であり、子孫が大三輪君らの一族である。
なお《大和神社》の祭神とされる(大己貴神)の荒魂は、和魂と対になる概念で、神霊は和魂と荒魂とよりなるとされる。
(*1 大己貴神の子ともされる事代主(ことしろぬし)神とともに帰順して天に昇った(大物主神)に対して高皇産靈(たかみむすび)尊が勅して「吾が女(むすめ)三穂津姫(みほつひめ)を以ちて汝に配せ妻とせむ。八十万神を領(ひき)いて、永に皇孫の為に護り奉るべし」として地上に降らせた――とされる。大和朝廷の守護役としての役割を与えて味方につけた伝承である)
〔三〕「日本書紀」の一書
(大己貴神)の御子の事代主(ことしろぬし)神の姫が神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命であるとする。
〔四〕「古事記」
(大國主神)は大穴牟遅神とも呼ばれていて、度重なる危機を切り抜けて国土を造り、多くの神を生んだ。また出雲に流れ着いた少彦名神と協力して国造りに励んだ。のちに少彦名神は常世国に渡った――つまり没した――ので、(大國主神)は嘆いて、「自分一人でこの国をうまく造ることはできない。どの神が一緒にやってくれるだろうか」といったところ、海面を光らせながら近づいてくる神があった。
その神は、「自分をよく祭るなら協力してあげよう」と述べる。
その祭り方を(大國主神)が質問すると、答えて、「大和の青々と垣のようにめぐる東の山の上に祭るように」と述べた。
この神が御諸山の神――つまり《三輪山》の神――である。
(この「古事記」の神話には幸魂・奇魂の話はない)
(大物主神)の由来のまとめ 
(大物主神)について正史に書かれていることは以上のとおりなのだが、その由来については、いくつもの説が解説書に記されている。よく言われる説を列挙してみよう。
A / 《三輪山》への素朴な信仰は縄文・弥生時代からあったが、弥生中期と想定される神武東征の前に出雲一族が大和東部まで支配するようになり、そのころに(大己貴神)の魂が《三輪山》に宿っているという信仰ができた。その後に出雲一族は大和朝廷に国を譲った。大和朝廷は彼らの誇りを守るために出雲の地に巨大な社を立てることを許した。このとき《三輪山》に残ったのが(大己貴神)の和魂でそれが(大物主神)となり、出雲に遷ったのが荒魂でそれが(大國主神)になった――ともいわれる。
B / 出雲一族はもともと大和の地の豪族で《三輪山》を(大己貴神)の霊として信仰しており、後に大和朝廷にゆずって出雲に移ったが、信仰は残り、新たに(大物主神)という神名ができた。出雲の巨大な社や和魂荒魂の件についてはAと同じ。
C / 《三輪山》の祭神(大物主神)(山そのもの)は、古く縄文時代から山麓に住んでいた人たちの信仰の対象だったが、その山麓に進出した大和朝廷の首脳たちは、地元住民との融和をはかりつつ祭祀権を得て《大和》全体を支配するために、朝廷として公式に(大物主神)を祀ることにした。さらに《大和》周辺を領有して抗争相手だった出雲一族との融和もはかるために、(大物主神)が、出雲一族の祖神である(大己貴神)や(大國主神)と関係する――という神話をつくった。ただし(大物主神)という名称そのものは、崇神天皇の時代に(倭迹迹日百襲姫命)が神託によってつくったものかも知れない。
D / 出雲一族とは別に、神武東征より前に東征して《大和》を支配していた(饒速日命)の一族も《三輪山》の神を崇拝していた。だから(大物主神)は(饒速日命)かもしれない。しかし物部として朝廷に仕えるようになり総氏神の《石上神宮》もでき、また(饒速日命)を祀る神社も数多く出来たので、(饒速日命)は《大神神社》の表面からは姿を消した。
E / 古代史家として著名な田中卓は次ぎのような仮説を述べている。(大己貴神)の本拠は(現在の出雲ではなく)元来が《大和の三輪山》で、元々三輪一族の神だった。そして(別の一族だった)出雲一族が三輪一族と婚姻関係に入って(大己貴神)を奉じるようになったが、やがて朝廷に追われて出雲に移ったのであろう。
(これはAやBに近い推理である)
F / 出雲一族ははじめから海に近い中国地方――とくに日本海がわ――が本拠で、九州から畿内への道を塞いでおり、さらに《大和》周辺にも勢力を伸ばしていた。したがって瀬戸内海航路や日本海沿岸航路を確保して《大和》に王権を築きたい大和一族との間ではげしい軋轢があり、大和一族としては武力だけでは抑えきれないので、融和策として出雲に巨大な神殿をつくる一方、出雲一族の先祖神と(天照大神)や(大物主神)が関係するという神話をつくりだした。一方大和朝廷と兄弟関係の(饒速日命)/物部一族は、大和朝廷より先に《大和》に進出して出雲一族を圧しており、神武東征時の奈良盆地での覇権争いは大和朝廷と(饒速日命)系の間のみとなっていた。
いずれの説であっても、三輪山麓に都を築いた初期大和朝廷が、祖神である(天照大神)を祀ると同時に《三輪山》の神である(大物主神)、および土地の神である(倭大國魂神)を奉斎して信仰の面で地元民と融和し、同時に対抗豪族である物部一族や出雲一族が親戚筋であるという伝承を持つ巨大な神社をつくって反抗を抑え、さらに各方面の豪族の娘を妃に娶って実際上も血縁化する――という政策によって《大和》の地に地歩をきずいたと考える点では、同じである。
だから大和朝廷発展時の構成員は、天津神の子孫を自認する人たちであるとともに、もとから《大和》にいた人たちの子孫であることを誇りにする人たちでもあったのだ。
これらの由来譚とはべつに、本地垂迹説の影響をうけた三輪流神道においては、三輪の神(大物主神)と(天照大神)を同一視する考え方がある。
しかしこれは鎌倉時代にできた一種の新宗教であるらしい。
数多い摂末社と社宝 
《大神神社》の摂社は、奈良市内のものも含めて十二社ある。また末社は二十九社ある。合計四十一社だが、神木や祠の類を入れればはるかに多いであろう。
また全国にある御分霊と考えられる関係社は数百社を数える。
(神功皇后)が招聘した社などもその一つである。
現在名と所が明確な関連神社は十八社である。
以下、大和にある主要な摂末社を、本社を含めて列記しておく。(フリガナは部分にとどめる)
ア 本社・大神神社
   大物主神(主神)
   大己貴神
   少彦名神
イ 摂社・高宮神社
   日向御子神(大物主神の御子)
   山頂にある特別な神社であり、雨乞いでも有名。
ウ 摂社・活日神社
   高橋活日命(日本初の御神酒職で杜氏の先祖神)
エ 摂社・狭井神社
   大神荒魂神(大物主神の荒魂)
   大物主神(記で神武皇后の父)
   媛蹈鞴五十鈴媛命(神武皇后)
   勢夜多々良姫命(記で神武皇后の母/紀で神武皇后の祖母)
   事代主神(紀で神武皇后の父)
   第十一代垂仁天皇の御代に勅命で創建。御山に登る信者のための入口。
オ 摂社・檜原神社
   天照大神の若御魂の神
   伊弉諾尊
   伊弉冉尊
   参道から鳥居から拝殿まで本社《大神神社》とそっくりな形式をもつ。最初の元伊勢として著名。
カ 摂社・神御前(かみのごぜん)神社
   倭迹迹日百襲姫命(卑彌呼の有力候補)
   茅原の南入口付近で三輪山の正面を背景にしている。
キ 摂社・大直禰(おおたたねこ)神社(若宮)
   大直禰命(大田田根子)
   少彦名神
   活玉依姫命(記で大田田根子の祖/紀で大田田根子の母)
   第十三代成務天皇が靈夢によって創祀されたと伝えられる。本殿は国の重要文化財。国宝乾漆十一面観音立像は神仏混淆の時代にこの社に奉安され明治になって聖林寺に遷された。
ク 摂社・率川(いざがわ)神社
   媛蹈鞴五十鈴媛命(神武皇后)
   事代主神(紀で神武皇后の父)
   玉櫛媛命(紀で神武皇后の母)
   第三十三代推古天皇の御代に三輪一族が勅命によって創建した。
ケ 末社・豐鍬入姫(とよすきいりひめ)宮
   豐鍬入姫命(はじめて天照大神を祀った斎宮。臺與の有力候補)
コ 末社・冨士社
   木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(天孫降臨した瓊瓊杵尊の妃)
サ 末社・天皇社
   御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)
シ 摂社・磐座神社
   少彦名神
ス 摂社・綱越神社
   祓戸(はらえど)大神(お祓いを司る神)
   三輪山全体のお祓いをおこなう神。延喜式にもある。一の鳥居のそば。
セ 末社・八阪社
   素戔嗚尊
神話で馴染みの神々が祀られた神社はまだまだあるが割愛し、社宝について記しておく。
《大神神社》は《石上神宮》と違って、古代においては物としての宝を保持する宝庫を持たず、したがって「記紀」に伝承されているような神宝はない。
《三輪山》自体が神宝なのだ。
しかしそれでも、かなり古い史料類はいくつかある。
  境内全体(国史跡指定)
  拝殿(国の重要文化財)
  三ツ鳥居(国の重要文化財)
  大直禰神社の本殿(国の重要文化財)
  乾漆十一面観音立像(国宝/現在は聖林寺に)
  周書断簡一巻(国宝/大直禰神社で発見された唐時代の文書)
  木楯(国の重要文化財)
  高坏(奈良県重要文化財)
  湖州鏡(奈良県重要文化財)
  近代になって発掘された土器・玉・勾玉など
  樋口清之が奉納した、付近のホケノ山古墳から出土した鏡など
かなり長くなったが、以上が《三輪山》すなわち《大神神社》の概要である。日本の古代史を語るうえでいかに重要な神社か、またいかに古い信仰形態を持続している神社か、理解していただけたと思う。 
8-8 倭迹迹日百襲姫命の未来予知と奇怪な急死  四道将軍派遣

 

第十代 崇神天皇の物語(4) (百襲姫命)の活躍と急死 (第8-3節の続き)
崇神天皇十年(西暦前八八年)1
〔大和朝廷の発展と四道将軍の派遣〕
七月二十四日――
周囲が安定したので自信をもった崇神天皇は、この年、野心的な詔勅を発した。それは、「神々を敬ったので災害は除かれた。しかし遠方にはまだまだ教化の及ばない人たちがいる。そこで重臣たちを四方に派遣して私の教えを知らせたい」というものであった。
神社や婚姻によって諸豪族と融和し《大和》を平定した大和朝廷が、いよいよ周辺(奈良県の外れや外部)の平定に向かおうという、有名な宣言である。
九月九日――
吉備津彦(きびつひこ)を西道(山陽)に、丹波道主(たにはのみちぬし)命を丹波(京都北部から山陰)に、大彦(おおひこ)命を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に、それぞれ派遣する。これが有名な四道将軍である。四人の将軍が四つの道に進んだので、四道将軍と呼んだのだ。
この四つの方角は、もちろん《大和》から見たもので、図4・1に矢印によって示しておいた。左から時計回りに、西道・丹波・北陸・東海である。四人の将軍はいずれも崇神天皇を囲む有力者で、
吉備津彦 / 第七代孝靈天皇の皇子で(倭迹迹日百襲姫命)の弟。
丹波道主 / 第九代開化天皇の曾孫で第十一代垂仁天皇の皇后の父。(倭迹迹日百襲姫命)の甥の孫。
大彦命 / 第八代孝元天皇の長子で開化天皇の兄でしかも崇神天皇の皇后御間城姫の父親。(倭迹迹日百襲姫命)の甥。
武渟川別 / その大彦命の子、つまり皇后の兄弟。(倭迹迹日百襲姫命)の甥の子。
――とされている。
すべて(倭迹迹日百襲姫命)の近い血縁であることを覚えておいていただきたい。また、百襲姫命の男弟の吉備津彦が有力者であった事も注目される。
(「魏志倭人伝」にある(卑彌呼)の男弟?に対応可能だからである)
崇神天皇十年(西暦前八八年)2
〔(倭迹迹日百襲姫命)の未来予知〕
さてここでまたも(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)が活躍する。甥の大彦命が出発して今の天理市のあたりを通ったとき、童女が、天皇が殺される――という奇妙な歌を歌っているのを聞いて、驚いて天皇に知らせる。
すると(倭迹迹日百襲姫命)が霊力を使って禍を予見し、「それは武埴安彦(たけはにやすひこ/先々代の孝元天皇の皇子の一人)が謀反を起こす兆しである。武埴安彦の妻が密かにこの近くに来て神聖な香具山の土を盗り呪い言をして「これ大和の国の物実」と言って帰った。早く備えなければいけない」と忠告するのだ。
香具山の土は神武天皇のころから神々を祭るのに使っているので、その土を盗むというのは、大和政権を奪うことを意味している。
この描写のところで「日本書紀」は(倭迹迹日百襲姫命)のことを、「於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命聡明叡智、能識未然。」((倭迹迹日百襲姫命)は崇神天皇の伯母できわめて聡明で未来のことを予知する能力があった)と重要な記述をしている。
この予言を聞いた崇神天皇は将軍たちと相談して、出発予定の四人の将軍を留めてこれに備え、激戦のすえ武埴安彦夫婦を討ち取り、政権の維持に成功する。
崇神天皇十年(西暦前八八年)3
〔(倭迹迹日百襲姫命)の神人婚と怪死〕
この戦いの模様はいかにも古代らしい面白いものなのだが、その後、とつぜん、奇妙な説話が語られる。(倭迹迹日百襲姫命)が《三輪山》の神の(大物主神)と結婚してしまうのだ。しかし(大物主神)は夜しか姿を見せないのでお顔をはっきりと見ることができない。
そこで、「もうすこし留まってください。朝になればお顔が見えるでしょう」と懇願する。
(大物主神)は、「それもそうだ。では朝になったら櫛箱に入っていよう。だが私の姿を見て驚かないように」と述べる。
(百襲姫命)は変に思ったが、朝になって櫛箱をあけてみると、そこにはとても綺麗な小さな蛇が入っていた。
(百襲姫命)は驚いて思わず叫んでしまう。すると蛇は人の形になって、「お前は私に恥をかかせた。今度はお前に恥をかかせてやる」といって、空を飛んで《三輪山》に去る。
(倭迹迹日百襲姫命)は後悔して急に座り込むが、その弾みに箸で陰部を突いて死んでしまうのである。
《大神神社》で蛇が尊重されるのはこのためだが、《三輪山》には白い蛇が多くいたので「(大物主神)=白蛇」という伝説ができたのだろう。
この説話は、(倭迹迹日百襲姫命)の話と大田田根子の母親の伝承とが混乱した結果だとの説もある。
しかし大田田根子の母の方は死んではいないから、(百襲姫命)の唐突の死は独特であり、重大な事件である。
(大物主神)との結婚自体は、元来が神につかえる神子(巫女)とは神と結婚した女性なのだという思想があるので、不思議ではない。
(百襲姫命)が(大物主神)の神託を告げる《三輪山》の神子――もちろん神秘的な霊力をもった高度な巫女――であったことをあらわしているにすぎないであろう。
だが、箸で下腹部をつかれて死ぬ伝承はいささか異常である。
崇神天皇を指導するほど身分と学識の高い皇女にしては、奇妙な死に方である。
推測を重ね過ぎてもいけないが、「魏志倭人伝」における(卑彌呼)の唐突な死は自殺または他殺ではないのか――という松本清張たちの説を連想する。
またそれが(天照大神)の岩屋隠れと暗合するという井沢元彦の説を連想する。
さらに、古墳の中で下腹部だけを矢で突かれて死んでいる老女が発掘されているという樋口清之の話や、素戔嗚尊の乱暴で梭で陰部をついて死んだ姫の話も想起される。
(卑彌呼)の唐突な死とこの(倭迹迹日百襲姫命)の突然の死とのあいだに、奇妙な暗合があるのだ。
「尖ったもので下腹部を突かれて突然死する」という、古代の重大事件である。
崇神天皇十年(西暦前八八年)4
〔(倭迹迹日百襲姫命)の《箸墓》造営譚〕
さて、本文に戻って、没した(倭迹迹日百襲姫命)は大市の里に埋葬され、その墓は《箸墓(はしのみはか)》または《箸墓(はしはか)》と名づけられた――とある。
現在でもそのように呼ばれており、図8・1、8・5などにその位置がある。
「日本書紀」ではその次に、「是墓者日也人作、夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓、人民相踵以手逓伝而運焉。」(この御墓は、昼は人がつくり夜は神がつくった。使用した石は、大坂山から御墓まで人民が並んで手渡しして運んだ)と記し、その様子を歌った歌までが書かれている。
  大坂ニ繼ギ登レル
  石群(いしむら)ヲ
  手遞傳(たごし)ニ越サバ
  越シカテムカモ
――という歌である。
大坂山とは大和と河内の間にある山で、現在二上山と呼ばれているあたり(図5・2または8・1の左端中央)らしい。この山の石を大勢で手渡ししつつ運んでいる有様を歌っているのだ。
これが、古墳時代の到来を告げる御墓として有名な、日本で最初の超巨大前方後円墳《箸墓》である。
墳丘長だけで280mもある。
現在は埋められているが、発掘調査の結果周濠跡が発見されており、それまで入れるとはるかに大きい。
それまでのすべての天皇陵をはるかに上回っている(直前の開化天皇陵や父君である孝靈天皇陵の十倍に近い!)ばかりではなく、直後の著名な崇神天皇や垂仁天皇の御陵をも上回っているのである。
また、このように墳墓がつくられたときの様子や歌までが書かれているのは、「記紀」としては異例中の異例で、最初で最後といってよい。
古代の天皇紀では、天皇の墓でも御陵名が一行で書かれているだけ(崇神天皇についても同様)がふつうだし、場所すら書かれていない天皇もあるくらいなのに、ここでは天皇ではない一皇族なのに異常なまでに詳細なのだ。しかも女性である。
一人の皇女にすぎないにもかかわらず、その前後の天皇陵より巨大な御陵ができ、「日本書紀」の編纂者が天皇以上の詳細な造営譚の記述をあえて行ったのには、そこになにか特別な事情があった――と考えざるをえない。
三輪一族の主張があったとしても、ここまで詳細に書くのは不思議だし、事実その御陵は天皇陵を上回る規模なのである。
図8・8に、「日本書紀」における(倭迹迹日百襲姫命)の死から御墓築造までの部分を示した。また図8・9に、北西の池の側からみた雄大な《箸墓》を示した。写真の右が前方部、左が後円部である。図8・10は、古代の巨大墳墓の工事の想像図である。よほど高度な土木技術を駆使しなければ、このような巨大な墳墓を構築することはできない。崇神天皇時代の大和朝廷が、きわめて高度な技術と大きな動員力を有していたことをあらわしている。
「日本書紀」中の(倭迹迹日百襲姫命)は「崇神天皇を指導する女性」として記述されているが、この時代の女性の地位は一般家庭でもかなり高かったらしい。
稲を植える田植という重要な仕事は女性が独占していた。
近世〜近代の日本女性の地位の高さは、幕末から明治初期に来日した欧米人が近隣国と比較して驚いているが、(倭迹迹日百襲姫命)の時代や推古天皇を生んだ飛鳥時代にあっては、とくに高かったらしい。
だから最高の神社の祭神が女神の(天照大神)であっても、最初の超巨大な前方後円墳の主が女性であっても、そのこと自体は不思議ではない。
不思議なのは、天皇とされていないのに当時の歴代天皇よりはるかに詳しく、その死や墳墓造営の話が書かれていることである。
いや、死や墳墓だけでなくその業績についても、初代神武天皇と第十代崇神天皇の間のどの天皇よりも詳しく記されているのだ。
しかもその御陵は、それまでのどの天皇陵よりも遙かに大きい。隔絶した巨大さである。
(倭迹迹日百襲姫命)が崇神天皇の直前に事実上の天皇――しかも最初に大和を平定した天皇――だったという仮説が唱えられる所以である。
崇神天皇十年(西暦前八八年)5
〔四道将軍の出発〕
十月一日――
混乱がようやくおさまると、崇神天皇はあらためて詔勅を発して、「いまや反逆者はすべて伏して畿内は平穏になった。しかし畿外にはまだ騒動があるので、四道将軍はただちに出発せよ」と命じ、二十二日に改めて四人の将軍は《大和》を出て、それぞれの目的地に向かった。この年の「日本書紀」の紀年は西暦前八八年であるが、考古学を加味した実紀年研究では、三世紀半ばから後半にかけてだろうと推理されている。すなわち(卑彌呼)が没したすぐあとである。
崇神天皇十一年(西暦前八七年年)
〔四道将軍の凱旋〕
四月――
翌年のこの月、四道将軍が凱旋して、四方を平定したことを天皇に報告する。そして異俗の人が多く《大和》にやってきて、朝廷に帰順し、国内が安泰になった――と記されている。ここの異俗とは大陸の外国人のことではなく、日本国内の遠方の各地方の人たちが天皇を慕ってやってきた――という意味であるらしい。
この前後の崇神天皇の周辺平定の苦心譚を読むと、「魏志倭人伝」における(卑彌呼)の死後のつぎの記述(第3-8節)が頭に浮かぶ。
「・・・更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千人余を殺す。またまた卑彌呼の宗女臺與十三なるを立てて王となし国中遂に定まる・・・」
「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」においては、男王に服せず、という箇所が、崇神天皇の苦労に暗合すると考え、(臺與(とよ))を後継者とした記述が、(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)が(天照大神)を祀る役を担ったことに暗合すると考えることが多い。
年代の順がすこし混乱するが、なにしろ各豪族の古い伝承をまとめているので、前後するのはやむをえない。
前記したが、(倭迹迹日百襲姫命)の死がもうすこし前か、または(豐鍬入姫命)の祭祀担当がやや後だとすれば、年代の矛盾はなくなり、「魏志倭人伝」と「日本書紀」の一致度はきわめて高くなる。
そしてこの説では、(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)から(臺與)=(豐鍬入姫命)への移行は、大和朝廷や豪族たちの祭祀の中心が《三輪山》の(大物主神)から先祖神の(天照大神)に移ったか、もしくは大和朝廷が土地の豪族たちに(天照大神)を認めさせることに成功した――と解釈し、さらに、男王=崇神天皇の事績が「魏志倭人伝」では過小評価されている――と解釈するのである。
(この説において、(卑彌呼)を補佐した「男弟」なる存在もまた若いころの崇神天皇である可能性が高いと考えるのは当然である。すなわち男弟=男王の可能性があるとするのだ。本当の弟だったらしい吉備津彦なのかも知れないが、のちに記すように、崇神天皇も義理の弟――またはそれに近い立場――だった可能性があるのである) 
8-9 稲荷山刀銘による四道将軍派遣の史実性 と出雲・任那との関係

 

四道将軍を証明する奇跡の稲荷山刀銘 
さて、(卑彌呼)の死の直後らしい時代に大和朝廷の力を畿外にまで広めた四道将軍の実在性であるが、それは考古学上の発見によって見事に実証されている。
すなわち、昭和五十三年九月に、埼玉県行田市の稲荷山古墳から、一一五文字の銘文が刻まれた刀が発掘され、その銘文によって、四道将軍の派遣が史実であることがわかったのだ。
もちろん古代の神話的な事件を推理するのだから、一部に異論もあるのだが、他の考古学的知見と合わせて、さいきんでは四道将軍が実在したとの見解がきわめて有力となってきている。
図8・11にこの稲荷山刀銘を示した。
文字は《石上神宮》の「七支刀」と同じ手法で、彫った線に金を埋め込んだ金象嵌である。
読み方にはいくつかの説があるが、ここでは田中卓のものを記しておく。多くの学者がほぼ同じ読み方をしている。
「辛亥の年の七月中、記す。ヲワケの臣の上祖、名はオホヒコ、其の児、タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサハヤ、其の児、名はヲワケの臣、世々、杖刀人の首として、奉事し来たりて今に至る。ワカタケル大王の寺、シキの宮に在り。時に、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」
衝撃的な銘文だが、とくに注目すべきが、これを作ったヲワケの臣(おみ)なる人物の先祖が、オホヒコだと記していることと、ワカタケル大王(おおきみ)がシキの宮にいたときに仕えたと記していることである。
オホヒコとは北陸に派遣された四道将軍の一人である大彦(おおひこ)命と考えられ、この命を先祖とする人物が自分の家系と自分の働きを記した記念の刀を作ったというのだ。
出土は埼玉だが刀の製造場所は《大和》だっただろうとされている。
またワカタケル大王とは、初瀬川岸つまり磯城(しき)に皇宮をつくった第二十一代雄略天皇に違いない。
シキの宮という場所(図8・1の21)も一致しているし、ワカタケルは「日本書紀」にある雄略天皇の国風謚号の大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)とピタリと一致している。
このワカタケルという呼び名は、熊本県から出土した同時代の江田船山大刀の銘文にも見られる。
辛亥(かのとゐ)は西暦四七一年を示す干支だが、雄略天皇の崩年干支による推定崩年は四七九年または四八九年とされるので、四七一年は在位中であり、年代的にも矛盾がない。
この銘文の前半は家系だが、後半の解釈は田中卓によれば次ぎのごとくである。
「その児のヲワケの臣にいたるまで、世々、杖刀人(刀を帯びた警護の人)の首長としてお仕えして今に至りました。幼武大王(わかたけるのおおきみ/雄略天皇)の皇宮は磯城(しき)にありますが、この時私は、大王が天下を統治されるのをお助けし、この練りに練り鍛えた鋭利な刀を作らせまして、その刀に自分の先祖以来、お仕えしてまいりました根源を書き記しておくものであります」
「卑弥呼と日本書紀」は、このあと考古学的な話が多くなり、いよいよ邪馬台国の核心に迫ります。
痛感するのですが、平成に入ってからの考古学の進展は驚異です。歴史というのは、私の専門である工学とは違って、学説の真偽を実験で確認することが困難です。まあ多少はそういう面もありますが、ごく一部に過ぎません。歴史――とくに古代史において、工学の実験に相当するのは、なんといっても考古学の進展でしょう。高名な学者の何十年にもわたる文献を中心とした古代史研究の成果が、考古学の新しい知見によって一夜にして覆る――という光景を、平成になってから何回も見てきました。
邪馬台国問題におきましても、平成になってからの考古学の成果はじつに強力で、昭和期の学者の無数の研究が覆され、大正時代の無名の研究家の意見が復活する、という現象も見られます。
この十年、大和説が優勢になってきた理由も、考古学の進展にあります。
つぎに、この刀銘の系譜における系図と歴代天皇との照合をしてみる。
一代をほぼ三十年とし、天皇の紀年を崩年干支で推定して、田中卓は次ぎの対比を有力としている。
  オホヒコ       崇神天皇
   ↓          ↓
  タカリのスクネ    垂仁天皇
   ↓          ↓
             景行天皇・日本武尊
  テヨカリワケ      ↓
   ↓         成務天皇
  タカハシワケ      ↓
   ↓         仲哀天皇・神功皇后
              ↓
  タサキワケ      應神天皇
   ↓          ↓
  ハテヒ        仁徳天皇
   ↓          ↓
  カサハヤ       履中・反正・允恭天皇
   ↓          ↓
  ヲワケの臣      安康・雄略天皇
はじめの崇神天皇の在位がほぼ三世紀半ば、さいごの雄略天皇の在位が五世紀半ばなので、古代の二百年の系譜が記されていることになる。
天皇は政治的理由によって交替が早いことがあるが、一般豪族ではそういうことは少ないので、右の表では天皇のほうが代数が多くなっている。
このような系譜の照合からも、オホヒコが崇神天皇の御代の大彦命である可能性がきわめて高いと推理されるのである。
この銘文は、紙に書かれたものとしては日本最古とされる海部氏の系図よりもはるかに古い。
そして四道将軍の名前までが記されており、これによって「日本書紀」の記述の信憑性が、部分的ではあるが、第十代の崇神天皇にまで遡って確認することができるのだ。
だから、同じ崇神天皇紀に記された(倭迹迹日百襲姫命)の活躍や《三輪山》の祭祀の問題も、単なる伝説とは考えられないのである。
このような系図が出土したことは、戦後の考古学の大きな成果である。
この奇跡の刀銘系図によって「日本書紀」の記述の信憑性を確認したところで、崇神天皇紀にもどろう。
第十代 崇神天皇の物語(5) 出雲との確執と崩御 (前節の続き)
崇神天皇十二年(西暦前八六年)
〔「日本書紀」編纂者による最大限の賛辞〕
 月十一日――
この日に詔勅を出して、これまでの苦労を偲び、今後の戸籍調査と課税についての方針を述べた。
そのおおまかな意味は、「皇位を継承してから苦難が多く、昼夜は混乱し、天候不順となり、疫病は蔓延し、百姓(おおみたから/宝のように大切な国民という意味)は災害をうけた。しかし過ちを改めて神々を敬い、乱暴者を教え諭し、帰服しない者は討伐した。こうして国の秩序が良くなり、国民は生活を楽しむようになった。異俗の人たちも訪れ、海外の人たちも帰属している。この時にあたって国民の戸籍を調べ、長幼や課役の順を知らしめよう」といったことだった。
これまた従来の天皇紀にはない、自信にあふれた施政方針演説である。
ここで面白いのは、「昼夜は混乱し(原文は陰陽謬錯)」で、西暦二四八年の日蝕((卑彌呼)の死の原因になったという説がある)の生起と推理できないでもない。
九月十六日――
前記施政方針にもとづいて、史上はじめて戸籍を調べ課役を科した。男は狩猟、女は織物である。
これによって神々は穏和になり、天候も良くなり、百穀豊饒となり、家々は豊かになり、人々は満足し、天下は平穏となった。
そこで人々はこの天皇を讃えて、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と申し上げた。
御は治という意味を持っており、初めての国を治めた、または初めて国を治めた――といった意味である。
この特別な尊称が、百二十五代にわたる全天皇のなかでも、初代の神武天皇とこの第十代の崇神天皇の二天皇にしかつけられていないことに注意されたい。
この特別な称号といい、(天照大神)ほかの神々の奉斎といい、《箸墓》の特別な説明といい、「日本書紀」編纂者たちが、この時代をどのように考えていたか、この時代についてどのような元史料を見ていたかが推理できてじつに興味ぶかい。
崇神天皇十七年(西暦前八一年)
〔はじめての計画造船〕
七月一日――
「船は国にとって重要なものであるが、海辺の民は船がなくて困っている。そこで諸国に命じて造船させよ」との詔勅を出された。
十月――
この詔勅によって、はじめて船を建造した。これは、大和朝廷が計画的な造船をはじめたことを示すとともに、出雲族、海部族など海に強い豪族を配下においたことを示す記述である。
崇神天皇四十八年(西暦前五〇年)
〔夢による皇太子の決定〕
一月十日――
いきなり三十年も飛んでしまうが、これは実紀年を延長して天皇をきわめて長寿として記述していることによるやむをえない飛躍である。天皇はこの年、二人の皇子に夢を見るように命じた。すると兄の豐城(とよき)命は《三輪山》に登って東方に向かって槍を突き出し刀を振るった夢をみた。また弟の活目(いくめ)尊はやはり《三輪山》に登って縄を四方に張って粟をたべる雀を追い払った夢をみた。
四月十九日――
天皇はその夢を根拠にして、弟の活目尊は四方に気を配っているので皇太子に定め、兄の豐城命は東方を向いているので東国の支配者に命じた。この東国を治めた豐城命が上毛野(かみつけの/群馬県)と下毛野(しもつけの/栃木県)の始祖になった。東国とは関東周辺のことだと分かるし、また「魏志倭人伝」の狗奴(くな)国の有力候補である毛野(けの)国が平定された説話として読むこともできる。
崇神天皇六十年(西暦前三八年)
〔大和朝廷と出雲一族との確執〕
七月十四日――
この年、出雲と大和の間で激しい確執が有ったらしい記述がなされている。有名な話だが簡単に述べる。崇神天皇が、「出雲大神の宮(出雲大社)に収めてある、出雲臣の祖神武日照(たけひなてり)命が天から持ってきた神宝を見たいものだ」と希望して使者を派遣する。
当時の天皇が「見たい」と仰せになるのは「献上せよ」に等しい一種の命令であり、地方の豪族を帰順させるための方策だったから、事は重大だった。
武日照命とは、出雲大社を管理している出雲国造(くにのみやつこ)または出雲臣(いずものおみ)の先祖の一人で、国譲折衝のために高天原から下されたが(大己貴(おおなむち)神)ら出雲の神の味方になってしまった天穗日(あまのほひ)命の子とされている。第六章の国譲りの箇所を参照されたい。
ところがちょうどそのとき神宝の管理責任者出雲振根(いずものふるね)が九州の筑紫に行っていたため、弟の飯入根(いいいりね)がその神宝を天皇の使者に渡す。
管理責任をおう出雲振根は帰ってからそのことを知って怒り、何年か恨みが続いてついに弟を斬り殺してしまう。
その話を聞いた崇神天皇は怒って、(倭迹迹日百襲姫命)の弟の吉備津彦(きびつひこ)と、大彦命の子の武渟河別(たけぬなかわわけ)に命じて出雲振根を征伐させる。いずれもかつての四道将軍である。
これが原因で出雲臣たちはしばらく出雲大社の祭祀をしなかった。
出雲大社の神は(大己貴神)または(大國主神)であり、これを祀るのが出雲臣一族であることは神代からの決まりなので、これは大きな事件である。
しかし今の兵庫県に住むある人が、「子どもが出雲の鏡を祭るべきだという意味の不思議な歌を歌っている。神が憑依しての言葉でしょう」と述べ、これを活目尊が天皇に告げたため、天皇もその鏡を祭らせたということである。
ここで天皇が欲した神宝が鏡であることがわかるが、この話は、取り上げた宝物を返却したことの表現かもしれない――といわれている。
子どもや一般の人が不思議な歌を歌い、それによって天皇が動く話は、「記紀」に何カ所もでてくるが、一般国民の気持を政策に反映していた伝承なのであろう。
いずれにせよこの事件は、出雲と大和の軋轢がずっと続いていたことを意味している。
これに関係する話は後の天皇紀にも出てくるが、物部一族・三輪一族や大和の土地の豪族たちが、それぞれ豪壮な神社を持たせられたり婚姻したりして大和朝廷の一員となったのに対し、遠方の出雲の地に神社を得た出雲一族だけは、なかなか承伏せず、朝廷を悩ませたことを物語っているようにも思われる。
崇神天皇六十二年(西暦前三六年)
〔潅漑用の池をつくる〕
七月二日――
天皇は農業は国の基だとして、河内の田には水が少ないのでそこで池をつくるべきだ――と述べて、潅漑用の池や溝を掘ることを命じた。
十月――
一つの池をつくった。
十一月――
二つの池をつくった。
(大規模な潅漑用の池を朝廷主導のもとにつくる制度と技術が確立してきたことをあらわしている)
崇神天皇六十五年(西暦前三三年)
〔朝鮮任那からの使者〕
七月――
朝鮮半島の任那(みまな)の使者蘇那曷知(そなかしち)が朝貢に来たとの記述がある。これは、対外折衝を具体的に述べた「日本書紀」の最初の記録とされている。こういう記録からも、崇神天皇の御代が、事実上の日本国のはじまりであることが推理できる。ここで任那は筑紫の国から二千里余で、北の海をへだてて新羅の西南にある――と記されており、地理は正確である。任那は後に日本府がおかれる土地だが、このころの任那は弁韓の加羅国または「魏志倭人伝」の狗邪韓国であったのだろう。すでに任那という日本式の名で呼んでいたのかもしれないが・・・。
この時代に朝鮮との使者の行き来がどの程度あったのか、よくはわからないが、交通手段的には、すでに朝鮮半島やそこを経由して大陸との往来が可能だったことは間違いない。そしてそれが水路のみで可能だったことも、すでに述べたとおりである。天候さえ船便に都合よければ、《大和》から朝鮮南端まで十日もかからずに行けたであろう。崇神天皇の御代と「魏志倭人伝」の時代とはほぼ一致するとされているので、《邪馬台国》が魏の国に使者を送ったとすれば、《大和》と魏も往来できたことは当然である。
《邪馬台国》が《大和》でなかったとしても、《大和》と《邪馬台国》との往来はもちろん出来たからである。
崇神天皇六十八年(西暦前三〇年)
〔崇神天皇崩御と前方後円墳の築造〕
十二月五日――
崇神天皇が崩御された。御年百二十歳と記されている。一年合わないようにも思うが、たいした問題ではない。翌年、山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に埋葬された。これは現在の天理市の桜井市に近い場所だが、やはり《三輪山》の近くでもある。写真を図8・12に示した。墳丘長だけで240mを超え、周濠をふくめると300mと想定され、《箸墓》に匹敵する巨大な前方後円墳である。この時代の大和朝廷の勢力の強さがわかる。
(倭迹迹日百襲姫命)の眠る《箸墓》の巨大さは崇神天皇の力をあらわしているし、崇神天皇の御陵の巨大さは次ぎの垂仁天皇の力をあらわしているのだ。
(ただし、前述したように、有名な崇神天皇の崩御とはいえ、その記述は簡明で一行か二行であり、(倭迹迹日百襲姫命)のような詳細な記述はない。この事からも百襲姫命の容易ならざる存在感が浮かび上がってくる。天皇に仕えた皇女の没時の記述の方が、天皇よりずっと詳細で、しかも御陵はより巨大なのである)
なお崩御の実紀年については、「古事記」に記された干支である戊寅(つちのえとら)から推定すると、西暦二五八年となる。また「日本書紀」の崩年を干支に換算すると辛卯(かのとう)であるが、これから推定される崩年は西暦二七一年になる。これらの推定崩年は、こまかな数字は別として、考古学的知見と矛盾しないので、さいきんでは多くの学者が支持しているようである。
じっさいの宝算(御寿命)を百二十年の半分の六十年としても、その御生涯は二世紀末または三世紀初頭から三世紀後半ということになり、「魏志倭人伝」の時代とほぼ一致している。つまり、崇神天皇の御代とは、「魏志倭人伝」における(卑彌呼)の時代の後半と(臺與)の時代の前半とにまたがっていると想定できるのだ。また、(卑彌呼)と(臺與)に照応できる高貴な女性も存在していて、じつに興味ぶかい天皇紀である。
崇神天皇陵について、興味深い考古学的史料があるので、記しておく。
「日本古代遺跡事典」の崇神天皇陵の項目に、つぎのように出土品が記されている。
「このほか渋谷出土(崇神陵?)と伝える石枕や長方形銅板の拓本が知られている」
(渋谷とは景行天皇陵)
この長方形銅板について、《大和》の遺跡調査で知られる樋口清之が、井沢元彦との対談でつぎのように述べている(「神道からみたこの国の心」より)。
「(樋口)崇神陵については興味深い話がありましてね。戸田大和守という人が幕末の文久三年に、あのあたりの陵墓を修築するんです。戸田大和守はいまの栃木県の宇都宮の殿様の弟で、陵墓監に任命されて大和守を名乗ったことになります。幕府に命じられて天皇の陵墓を修繕するのですが、堀を作るのに土が足りないものだから、古墳を削ってしまってそれに当てたわけです。ひどいもんですね。その時に、厚さが〇・七ミリぐらい、大きさが襖一枚ぐらいの青銅の板が出てきた。ちょっとカーブしていて、ちょうど盾のように構えるために使ったものだと思います。それが出た時、近くの農家の井戸端で洗ったらしいのですが、その際にどこかにぶつけて縁を割ったのです。青銅板は行方不明ですが、割られた縁だけがまだ残っています。その裏表を拓本にとって、考古学雑誌に発表したんですけどね。崇神天皇陵と言われているものから、銅鐸につながるような青銅板を作る技術を示す鋳造品が出てきたことは、非常に興味深い、と。そんな例は他にないです」
「(井沢)そんな大きな青銅板が出土していたというのは私も初めて聞きました。すごいものですね。模様はどのようなものなのですか」
「(樋口)直弧絞曲行紋を描いてあったり、円や線、装飾古墳にあるような模様で、壁画みたいな凹凸があります。私はやはり盾の一種だと思いますね。角のところに蝶番のようなものを彫った跡があって、あれが蝶番だったら、木製板をとりつけて開け閉めの調節ができる。よく考えて作られたものであることも確かです。もしあの青銅板の本体の行方が分かったら、大発見だし、日本の青銅器文化の系譜が変わると思いますよ。五世紀以前に、あんなに厚くて大きい青銅板を鋳造できたということは、銅鐸を作るのとは桁違いの技術ですからね」
この青銅板が見つかったのは幕末なので、そんなに古いことではない。どこかに秘匿されている可能性もある。だとしたら、発見が待たれる。
それにしても、残された断片からだけでも、驚くべき技術がすでに崇神天皇の時代に有ったことがわかる。
ひょっとしたら、本体から文字が見つかるかもしれない。
なお、図8・12の(b)を見ていただくと分かるが、崇神天皇陵は形が歪んでいる。これは、樋口博士の言葉にあるように、幕末の修繕時に一部を削ってしまったからなのだろうか・・・(*1)。
いずれにせよ、(卑彌呼)の時代と重なるとされる崇神天皇の時代に、巨大な天皇陵やこのような青銅器があった事は、当時の大和朝廷のレベルの高さをうかがわせるに充分である。
(*1 削られた面積が大きかったとすると、崇神天皇陵は(倭迹迹日百襲姫命)の御陵とほぼ同じ大きさという事になるだろう) 
8-10 「非時香菓」を求めた第十一代 垂仁天皇の物語

 

第十一代 垂仁天皇の物語 
国風謚号 活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)
漢風謚号 垂仁天皇
〔在位・西暦前二九年〜後七〇年〕
〔降誕・西暦前六九年/崩御・西暦後七〇年〕*
〔皇宮・纏向珠城宮(まきむくたまきのみや/奈良県桜井市三輪山麓北西部)〕
〔御陵・菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ/奈良市西部の尼辻西町)〕
  *崩年干支推定は西暦三一一年
垂仁天皇は、崇神天皇の御代に夢を元に皇太子に推された弟の方の活目(いくめ)尊が即位された天皇であり、崇神天皇のめがねにかなっただけあって、きわめて英明な指導者だったと考えられる。母親は崇神皇后の御間城姫(みまきひめ)で、前節の稲荷山刀銘にあった四道将軍のひとり大彦命の娘である。崇神天皇二十九歳のとき、皇宮磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)で降誕された。
生まれつきぬきんでており、成人してはすぐれた才能や度量が備わり、父の崇神天皇に愛され、夢のお告げによって皇太子となられた。
この天皇も先代と同じで、国風謚号に「入彦五十」がついている。
やはり婿入り婚や彦姫制を連想させるが、その実態は男性側の垂仁天皇のほうがはるかに強力だったと考えられる。
垂仁天皇元年(西暦前二九年)
崇神天皇崩御の翌年正月に即位。十月に崇神天皇を御陵に葬った。
垂仁天皇二年(西暦前二八年)
二月、第九代開化天皇の孫にあたる狹穗姫(さほひめ)を皇后とした。
そして十月に纏向(まきむく)に皇宮をつくった。これを珠城宮(たまきのみや)という。場所は図8・1の11をごらんいただきたい。
この年、任那と新羅と日本との間で複雑な関係ができたことが記されている。
すなわち、崇神天皇の御代に日本に来た蘇那曷知(そなかしち)が帰国するというので土産を与えたところ、任那に帰る途中でそれを新羅が奪ってしまった。
これが任那と新羅の抗争のはじまりである――と記されている。
また別の一説が書かれている。
加羅(から)の王子で額に角の生えた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が崇神天皇を慕って日本に来たが、崩御されたので仕えることができなかった。
角というのは朝鮮南部で大臣のことを角干と記すことからきた錯覚らしいのだが、この王子が垂仁天皇の御代になって帰国することになったとき、天皇は、「先代の御間城(みまき)天皇にあやかって国名を変えたらどうか」と提案し、それで加羅を「ミマキ」に似た任那(みまな)という名で呼ぶようになった。
加羅が弁韓(べんかん)のなかの一国で任那地方の主たる旧名であることは確かだが、これは「記紀」に数多くある語源譚のひとつである。
またこの王子が漂着した敦賀(つるが)の地名は、王子の名の「ツヌガ」からつけられたという語源譚もある。
この一説でも、帰国途中で新羅が土産を奪ったので、任那と新羅の憎しみ合いが始まった――とある。
さらにもう一説として、前記の人物が日本に来たのは、乙女の姿をした神を追って東の方に進んだからだ――という話が伝えられている。この神を祀った神社は今も大阪市にある。
朝鮮半島に高句麗、新羅、百済、任那という四つの国が明確な国名のもとに並立するようになるのは四世紀の(神功皇后)以後と考えられるので、崇神〜垂仁の時代の呼称は公孫氏、帯方郡、辰韓、馬韓、弁韓、加羅といったものだったろうが、「記紀」では多くの場合、五世紀以降の呼称で記しているようである。
垂仁天皇三年(西暦前二七年)
この年の三月に新羅の王子の天日槍(あめのひほこ)が帰化し、そのときの天皇への献上品を但馬国に納めて神宝とした。
天日槍は諸国をめぐったのち但馬に落ち着いて日本の娘を娶ったが、その子孫の一人が、のちに「非時の香菓」を探して大陸に渡った田道間守(たじまもり)である。
「魏志倭人伝」にある難升米(なしめ)と同系説のある人物である。
また五代目の女性が(神功皇后)の母親だとされている。
帰化の際の話し合いには、三輪氏の祖の一人の大伴主(おおともぬし)と倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおいち)という崇神天皇紀で述べた人物が代表になっている。
これも史実に近いらしく、いまの兵庫県日本海側にあたる但馬地方からは、朝鮮半島との交流を偲ばせる古代遺跡――船団の絵など――が多く発掘されている。
垂仁天皇四年(西暦前二六年)
ここから激しい権力闘争の様子が語られる。九月に皇后狹穗姫(さほひめ)の同母兄の狹穗彦(さほひこ)が、懐剣を皇后に渡して、これで天皇を殺せ――と強要するのだ。皇后は困ってそれを衣のなかに入れておいた。
垂仁天皇五年(西暦前二五年)
十月に垂仁天皇がいまの橿原市に行幸されたとき、皇后の膝を枕にして昼寝をしていると、皇后は兄の謀反を思って涙を流した。その涙が天皇の顔にかかったとき、天皇は、蛇が首に巻きつき大雨が降る夢を見た。
その夢の話を聞いた皇后は、兄の謀反のことを告白した。
怒った天皇は、皇后の罪ではないと、狹穗彦を征伐しようとしたが、強固な城に籠もってなかなか落ちない。
皇后は、自分が皇子とともに城に入れば兄が許されるかもしれないと考えて、城に入ったが、結局皇子だけを城の外に出し、自分は兄とともに死んでしまった。
死ぬとき皇后は、自分の後継者には丹波(たには)の国の優れた婦人がよい――と遺言した。悲痛な物語である。
垂仁天皇七年(西暦前二三年)
七月に、大和の当麻蹶速(たぎまのくえはや)と出雲の野見宿禰(のみのすくね)が力比べをし、野見宿禰が圧勝し、朝廷に仕えるようになった。相撲の起源譚である。これを記念して相撲神社がつくられている(図8・13)。
垂仁天皇十五年(西暦前一五年)
二月に前皇后の遺言にあった丹波の国の五人の乙女を召して、そのうちの日葉酢媛(ひばすひめ)命を、八月に皇后に立てた。この皇后は三男二女をもうけられたが、そのなかには著名な貴人がおおい。第二子の大足彦命(おおたらしひこ)はのちの景行天皇だし、第四子の倭姫(やまとひめ)命は(天照大神)を伊勢の地に祀った斎王(いつきのみこ)である。
垂仁天皇二十三年(西暦前七年)
事件の衝撃によって三十歳になっても言葉を話さなかった前皇后の皇子の誉津別(ほむつわけ)王が口をきくようになる話がある。大変なトラウマだったのであろう。
垂仁天皇二十五年(西暦前五年)
この年の二月に天皇は、阿倍(あへ)・和珥(わに)・中臣(なかとみ)・物部(もののべ)・大伴(おおとも)のそれぞれ先祖にあたる重臣を集めて、「先帝は聡明で謙虚で神々を祀り、人民は富み天下は太平だった。私も神々の祭祀を怠ることはできない」と言われた。
そして三月になって、(天照大神)を祀る役を、それまでの先代皇女の(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)から、新たに自分の皇女の(倭姫(やまとひめ)命)に託された。これは権力の移行というよりも年齢によるもので、(豐鍬入姫命)の希望でもあったと伝えられている。
命を奉じた(倭姫(やまとひめ)命)は、大和国、近江国、美濃国など二十ちかい場所をめぐった末、伊勢国に達し、ここで永遠に(天照大神)を奉斎することにした。
これが伊勢神宮(皇大神宮)の起源であるが、この伝承にしたがって伊勢では代々未婚の皇女が祭祀の最高位につく伝統ができ、その皇女が斎王(いつきのみこ)と呼ばれることになった。
つまり(倭姫命)は伊勢における最初の斎王となられたわけである。
このときの(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)の退陣も暗示的で重要である。
なぜなら「魏志倭人伝」の(臺與(とよ))がこの(豐鍬入姫命)だろうという説が有力なので、垂仁天皇二十五年が三世紀末に近いという年代の推理ができるからである。
垂仁天皇二十六年(西暦前四年)
崇神天皇の御代にも出雲の宝物を調査する話があったが、垂仁天皇もしばしば出雲に使者を出して神宝を調べさせた。しかし出雲一族はなかなか正直にいわない。そこで物部一族の重臣に命じて、徹底した調査をさせたところ、今度はすべて分かった。そこで天皇は、物部にその神宝を管理させた。《石上神宮》に納めたのかもしれない。物部氏の勢力の強さが分かるとともに、この時代になっても出雲一族を帰服させることに苦労していたことがうかがえる。出雲と物部の対立関係も興味深い。豪族物部が出雲の制圧に成功したと読める伝承だが、出雲の領土内に物部系の神社が出来ている。
垂仁天皇二十七年(西暦前三年)
占いの結果によって、弓矢や刀を神々に奉納した。また神社を維持するための田や家を定めた。これによって広大な社領をもつ神社ができるようになった。またこの年、倉庫をつくった。
垂仁天皇二十八年(西暦前二年)
十月に天皇の同母弟の倭彦(やまとひこ)命が没し、翌月御墓をつくったのだが、側近を殉死させたために悲惨な状態になった。そこで天皇は、殉死をやめさせるよう議論せよと命じた。
垂仁天皇三十年(西暦元年)
日葉酢媛(ひばすひめ)命皇后が生んだ有力な兄弟の五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)命と大足彦(おおたらしひこ)命に希望を訊ねたところ、前者は弓矢をほしいと述べ、後者は皇位がほしいと述べた。そこで天皇は弟の大足彦命を次の天皇に定めた。これが、日本武尊の父親として知られる景行天皇である。
垂仁天皇三十二年(西暦三年)
七月に皇后の日葉酢媛命が亡くなられた。このとき天皇が殉死の習慣を無くすためにはどうしたら良いかと諮問した。野見宿禰(のみのすくね)が考えて、出雲から祭祀に使う土器を作る職人である土部(はにべ))を集めて土で人や馬などを作らせ、それで殉死の代わりをなすようにと、お答えした。これが埴輪の起源であるが、天皇は喜ばれて、今後はすべてそうするように――と仰せられ、野見宿禰の姓を土部臣とし、天皇の喪の係にした。これも有名な話であるが、考古学的な研究からは、殉死の証拠の骨は発掘されておらず、ほんとうに垂仁以前に殉死があったのかどうか、疑問とされている。
「魏志倭人伝」を「記紀」編纂者がすでに読んでいたことは明かなので、そこにある(卑彌呼)の墓の殉死の話(*1)との整合性をとるために、こういうエピソードを考えたのかもしれない。
(*1 古代中国には悪霊を除くための人の生贄や要人の死にあたっての殉死の習慣があったので、それが「魏志倭人伝」の記述になったのであろう。これは、現代中国の反日プロパガンダに似ている。彼らの残酷な習慣を日本人に当てはめて宣伝している。それはタウンゼントの「暗黒大陸中国」を読むとよくわかる)
垂仁天皇三十四年(西暦五年)
皇后没後に二人の妃を召された。
垂仁天皇三十五年(西暦六年)
河内国や大和国に池をつくり、諸国に八百もの農業用の水路をつくった。これらによって百姓は富み、天下は太平になった。
垂仁天皇三十七年(西暦八年)
大足彦(おおたらしひこ)命を正式に皇太子にされた。
垂仁天皇三十九年(西暦一〇年)
皇太子の兄の五十瓊敷(いにしき)命が剣一千振を作り、《石上(いそのかみ)神宮》に納められた。そこで五十瓊敷命は《石上神宮》の神宝を司る役目を命じられた。
垂仁天皇八十七年(西暦五八年)
半世紀近くとんでしまうが、《石上神宮》の神庫管理の話が記されている(第七章参照)。五十瓊敷命は年老いたのでもはや《石上神宮》の神宝を司ることがむずかしくなり、妹の大中姫(おおなかつひめ)に依頼した。姫は女の身で高い神庫に登ることは出来ない――と断ったので、兄は梯子を作るといったが、やはり駄目で、結局、垂仁天皇の重臣の物部十千根大連(とおちねのおおむらじ)に神庫の管理をさせることになった。《石上神宮》が物部一族の総氏神になった因縁譚である。またある人の犬がムジナの腹から八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)を取り出したので、これを《石上神宮》に納めた。
垂仁天皇八十八年(西暦五九年)
天皇は新羅王子の天日槍(あめのひほこ)の宝物が但馬国の神宝になっているが、見たいものだ――といわれた。見たいというのは献上せよ――と同義なので、天日槍の曾孫の清彦が献上に来た。玉や鏡、小刀などであるが、清彦は小刀だけは渡したくないと思って衣に隠していた。しかし酒席で見つかってしまったので、他の神宝とともに《石上神宮》の神庫に奉納した。ところがしばらくしてその小刀が消えてしまい、夜にになって自然に清彦のところに戻り、またさらに朝には姿を消してしまった。天皇は畏れて、それ以上小刀を求めようとはされなかった。
のちにその小刀は淡路島に自然に到着し、島の人が神として祀った。その場所は前に天日槍に与えた土地だったらしい。この伝承の解釈はいろいろとできるが、明治になって《石上神宮》の禁足地から出土して重要文化財になっている玉類のなかに、この新羅王子の神宝が含まれている可能性がある。残念ながら判別は不可能だが・・・。
垂仁天皇九十年(西暦六一年)
天皇は天日槍の子孫で清彦の兄ともいわれる田道間守(たじまもり)に常世の国に行って「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めて帰れ――と命じられた。この人物は名前の読みで分かるように、新羅王子の子孫であることを誇りにする但馬地方の豪族であり、主として大陸や半島との外交を専門とした一族だったのだろうと考えられている。また一説によれば、「魏志倭人伝」にある難升米(なしめ)と同一族でもある。
(第三章に記したように、田道間→但馬と難升米は、ローマ字で書けばよく似ている)
常世の国とは不老長寿の国のことで、具体的にはシナの神仙境である。
また求めた非時香菓とは、常に輝いている香の良い果実という意味で、橘または橙のことだとされている。昔は不老長寿の妙薬とされたのである。
垂仁天皇九十九年(西暦七〇年)
この年の七月、垂仁天皇は纏向(まきむく)宮で崩御された。御年百四十歳であった。崩年干支による崩御実紀年の推定は、西暦三一一年とされている。崩年干支推定がほぼ正しいとすると、在位期間は五三年ということになり、現実的な数字となる。また、「魏志倭人伝」にある(臺與(とよ))の時代の後半だと仮定しても矛盾はない。そして十二月に菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬り祀った。
これは崇神天皇陵とはちょっと離れていて、現在の奈良市尼辻西町にある。奈良市の西部で、近鉄京都線の尼ケ辻駅のすぐそばである。また唐招提寺の北西すぐ近くでもある。やはり巨大な前方後円墳で、墳丘長だけで230mある。周濠まで含めるとおそらく300mに達するであろう。
崇神天皇陵のところでも述べたように、雄大な御陵の造営は次の天皇の力をあらわしている。崇神天皇は在位中に《箸墓》を造営したが、垂仁天皇も崇神天皇の巨大御陵をつくった。そして垂仁天皇自身のこの奈良市の巨大御陵は、つぎの有名な景行天皇の事績である。
垂仁天皇崩御の翌年に、田道間守は無事、「非時香菓」を得て帰国した。しかしすでに垂仁天皇は崩御しておられ、田道間守は墓前で嘆き悲しんで死んだ。人々はみな涙を流した。この田道間守はのちの三宅連の始祖とされている。図に見える、周濠のなかの丸い小島は、田道間守の霊を慰めるために後の人が濠の中につくった墓である。
垂仁天皇紀はざっとこんなところであるが、崇神天皇紀と合わせて「魏志倭人伝」との関係がいくらでも推理できる内容となっている。 
8-11 悲劇の王 日本武尊が活躍する第十二代 景行天皇紀

 

景行天皇と「魏志倭人伝」との関係は、それほどつよくはないので、ごくおおまかな記述にとどめることにする。この天皇の物語は、天皇自身よりも日本武(やまとたける)尊の活躍で有名であるが、それはじつに多くの解説書や文学やドラマで語られているので、日本武尊その人に興味のある読者は、それらを見ていただきたい。ここでは、「魏志倭人伝」の記述と「記紀」を関連づける参考のために、要点を記述することにする。
第十二代 景行天皇の物語 
国風謚号 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
漢風謚号 景行天皇
〔在位・西暦七一年〜一三〇年〕
〔降誕・西暦前一三年/崩御・西暦後一三〇年〕*
〔皇宮・纏向日代宮(まきむくひしろのみや)他(桜井市三輪山麓北西部)〕
〔御陵・山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ/奈良県天理市渋谷町――三輪山麓北部)〕
  *崩年干支は不明だが前後関係から西暦三三〇年代か
(崩御時数えで百四十三歳/本文では百六歳)
垂仁天皇の御代に本人の希望によって二十一歳で皇太子になった三男の大足彦(おおたらしひこ)命が、即位して景行天皇となった。
景行天皇は、崇神天皇時代の四道将軍派遣よりもさらに遠方まで軍勢を派遣して、大和朝廷の勢力範囲を九州や東国にまで拡大したことで知られるし、またその勢力拡大に尽力した日本武尊の父親としても知られる。
名前の「足(たらし)」は、満ち足りたという意味で、つぎの成務から神功まで三代の天皇・皇后にもついている名前である。
「忍代(おしろ)」は圧し領治するという意味らしい。
「別(わけ)」は五世紀中葉以前の貴族・豪族が用いた称号で、高貴な血統から分かれ出た――との意味である。
第8-9節の稲荷山刀銘の系図でも、景行天皇の時代以後に連続して「ワケ」のつく人物名が出てきている。
景行天皇以後に使われた名だと「日本書紀」に記述されているが、それと考古学的発見とが一致しているのだ。
景行天皇二年(西暦七二年)
〔日本武尊と武内宿禰の誕生譚〕
播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とされた。この皇后は双子をお生みになった。第一子を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二子を小碓尊(おうすのみこと)といった。この小碓尊はまたの名を日本武尊といい、雄々しい気性で身の丈一丈もあった。一丈は3mだが、ここでは大男という意味である。皇子と尊の使い分けは、尊のほうが皇位継承予定者であることを示している。翌年の項で、武内宿禰(たけのうちのすくね)の誕生譚が語られている。
景行天皇四年(西暦七四年)
〔成務天皇の誕生と《纒向京》の建設〕
崇神天皇の孫にあたり、かつ(倭大國魂(やまとおおくにたま)神)を《大和(おおやまと)神社》に祀った渟名城入姫(ぬなきいりひめ)命の姪にもあたる、美濃国の八坂入媛(やさかのいりひめ)を妃とされ、七男六女が生まれたが、その長男稚足彦(わかたらしひこ)尊がのちの成務天皇である。
景行天皇にはこの他にも多くの妃がおられ、皇子・皇女の数は八十人に達した。
このうち、日本武尊、稚足彦尊、五百城入彦(いおきいりひこ)皇子の三人を除いては、諸国に向かわせられた。
これらが別王(わけのみこ)で、諸国にいて「別(わけ)」という名のつく首長たちはこれらの皇子・皇女の子孫である――と記されている。
ワケの語源譚である。
《大和》に残った三人のうち、日本武尊は悲運の最期を遂げるが、稚足彦尊は次代の成務天皇になり、五百城入彦皇子は應神天皇妃の祖父となった。
またこの年、美濃国の美人姉妹の容姿を大碓皇子に確かめに行かせたところ、この皇子は姉妹と密通してしまい、復命しなかった。
さらにこの年、纏向(まきむく)に都を造り、同時に皇宮の日代宮(ひしろのみや)を造営された。この日代とは、檜を植林した場所という意味で、《檜原神社》の檜原に隣接している。先代の垂仁天皇の皇宮とも隣接した場所である。図8・1の12である。纏向の都とは、やはり図8・1で《纒向京》と記してある部分で、崇神天皇の時代からあった都を、点線の方形面積にまで拡大したものと想像される。
景行天皇十二年(西暦八二年)
〔熊襲の叛乱と出征〕
この年の七月、九州の熊襲が背いて朝献がなかったので、八月に熊襲討伐に出発する。九州北部から山陰・山陽までは崇神・垂仁両天皇の御代になんとか平定できたが、その先の九州南部はなかなか大和朝廷に服さなかったことがわかる。景行天皇の九州遠征の経路は図8・15に示してある。
九月には神夏磯媛(かむなつそひめ)という祭祀を司る巫女の知らせで四人の賊を討つ。
この媛は大きな鏡を吊り、白い旗をかかげて帰順の意を示して天皇を出迎えたとされる。
九州に(卑彌呼)的な強力な女性がいたことを示すエピソードの一つである。
またこのときの白旗が、日本の文献に「旗」が記された最初である。降伏の白旗が最初というのも面白い。どうよう形状の旗だったのだろうか。
さらに十月には速津媛(はやつひめ)という土地の首長の知らせで五人の賊を討った。
この媛の存在も、女性が一族の長となる例があったことを示しており、興味ぶかい。やはり巫女的な女性だったのであろう。
十一月には日向に仮の皇宮である高屋宮(たかやのみや/図8・15)を造営し、そこで熊襲征伐の作戦を練り、二人の熊襲首長を、その娘を利用して策略で討伐する。
大和朝廷はつねに策をもって反抗者を処罰し、帰順すれば厚遇し、真正面からはあまり戦わずに成果を挙げていたことがわかってこれも興味ぶかい。
景行天皇十三年〜二十年(西暦八三年〜九〇年)
〔九州を巡って熊襲らを討伐〕
十三年には熊襲の襲の国の平定に成功し、以後六年間は高屋宮を拠点として九州平定に力を入れ、またそこで一人の妃を得て皇子が生まれる。
十七年に、《大和》を偲んで、
やまとは 国のまほらま たたなづく 青垣 山こもれる やまとし 麗し
――という有名な歌を詠まれる。
「古事記」ではほぼ同じ歌が日本武尊の作といわれており、第一章のトビラ裏に載せてある。
十八年に、九州の各地の平定のほか兄夷守(えひなもり)と弟夷守(おとひなもり)を派遣して視察させた話がある。
これは鄙(ひな/辺境)を守る役人といった意味で「魏志倭人伝」にある九州の奴国や不弥国の卑奴母離(ひなもり)という役職名と同じだと考えられている。
また、いまの筑後市や八女市周辺とされる八女県(やめのあがた)で、八女津媛(やめつひめ)という女神が山に棲んでいることを見つける。
これも勢力のある巫女の一種と考えられるが、岩倉使節団の記録「米欧回覧実記」の執筆で有名な古文書学の創始者・久米邦武は、この八女津媛こそ(卑彌呼)ではないか――と推理している。
こうして九州の平定に一応の区切りをつけた景行天皇は、十九年に《大和》に帰還された。足かけ八年におよぶ大遠征であった。帰還の翌年、娘の五百野皇女(いほのひめみこ)に(天照大神)の祭祀を命じられた。(倭姫命)が没したとはされていないので、老齢になった(倭姫命)の補佐をしたのかもしれない。
景行天皇二十五年〜二十七年(西暦九五年〜九七年)
〔武内宿禰の活躍のはじまり〕
二十五年に、武内宿禰(たけうちのすくね)が活躍をはじめる。すなわち北陸や東国の巡視に出発し、二年後の二十七年に戻ってきて、地理や人民の様子を報告するが、その内容は、東北地方に蝦夷(えみし)という人たちがいて乱暴なので討つべきだ――というものだった。
武内宿禰はこれまで何度か出てきたが、景行天皇から成務天皇・仲哀天皇・神功皇后をへて應神天皇まで、五代の天皇・皇后に仕えた大重臣である。
「記紀」紀年のままだと二百年も仕えたことになるが、推定実紀年でも五十年以上にわたって重臣であり続けたことになる。
景行天皇二十七年〜二十八年(西暦九七年〜九八年)
〔日本武尊の九州遠征〕
二十七年、景行天皇の遠征で平定したはずの九州南部がふたたび不穏となり、熊襲(くまそ)が天皇の土地を侵すという事件が起こった。そこで天皇は日本武(やまとたける)尊を九州に派遣した。日本武尊はこのときまだ十六歳だったが、すでに強力な武将であり、部下をつれて九州に渡る。そして熊襲の首長の川上梟帥(かわかみたける)の宴席にまぎれこみ、梟帥を討つ。死ぬ間際に梟帥は皇子を讃えて、日本武皇子と呼ぶべきだと述べる。これが日本武尊という尊称の語源だという。敵に尊称を与えられたのだ。日本武尊はそのご熊襲の残党を討ち、また瀬戸内海を通っての帰路に吉備や難波の賊を平らげて帰還する。
景行天皇四十年〜四十三年1(西暦一一〇年〜一一三年)
〔日本武尊の東国大遠征〕
いよいよ有名な日本武尊の東国大遠征がはじまる。東方の辺境が叛乱し、とくに武内宿禰が警告していた蝦夷(えみし)が謀反をおこしたとの知らせが《大和》に届いた。日本武尊は先に九州に遠征しているので、今度は双子の兄の大碓皇子(おおうすのみこ)の番であるが、この皇子は怖れて、草むらのなかに逃げてしまった。そこで大碓皇子は《大和》から追放されて美濃国(岐阜県)を治めることになり、困難な東国遠征は日本武尊がつとめることになった。
天皇は、「そなたは形はわが子だが実体は神人である。この天下はそなたの天下である」と述べて励まし、送り出した。
この遠征の想像される経路を、図8・16に示した。これは著者の習った昔の教科書にあったものである。
日本武尊は東国に向かう前に《伊勢神宮》に立ち寄って参拝し、叔母にあたる斎王(いつきのみこ)の(倭姫(やまとひめ)命)に挨拶した。(倭姫命)は日本武尊に神宝の「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」を授けて励ました。これは「三種の神器」の一つで、ながく皇宮に安置されていたのだが、崇神天皇の御代に(天照大神)を皇宮から神社に遷し祀って以来、神鏡「八咫鏡」とともに神宮のご神体として奉安されていたのだ。
日本武尊の最初の苦難は駿河国(静岡県)の野原で賊に火をつけられたときだが、「天叢雲剣」で草を薙いで助かった。このことから、この剣を「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と尊称するようになった。
つぎの苦難は、船で相模(さがみ/神奈川県)から上総(かずさ/千葉県)に向かう途中の嵐だった。
この嵐で船が沈みそうになったとき、従ってきた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、駿河で火のなかから「草薙剣」で助けてくれた日本武尊の優しさにむくいるために命を捧げる決意をし、祈りながら船から身を投げた。
媛の祈りは通じて、嵐はたちまち静まった。
妃の純情をあらわす古来有名なエピソードで、多くの名画の画題にもなっている。
弟橘媛に助けられた日本武尊は無事に東北地方にまで遠征し、そこの蝦夷などの賊をことごとく平らげた。
このとき関東の御獄神社やその他の地で武運を祈ったり、危機から救われたりしたので、御獄神社など多くの関東の神社が日本武尊を祀るようになった。
それから信濃国(長野県)に行ったが、その途中の峠で東南の地を望み、死んだ弟橘媛を偲んで嘆息して、「吾嬬(あづま)はや(わたしの妻よ)」といわれた。
それ以来「東」のことをアヅマというようになった。これもまた有名な語源譚である。この語源譚は語呂合わせ的なものではなく、真実に近いのではないかとされている。「東」の訓読みは「ヒムガシ」と「アヅマ」と二つあるが、前者は日向(太陽を向く方角)が語源だとなっとくできるのに対し、後者については、この弟橘姫の伝承以外に理屈がつかないのだ。
景行天皇四十年〜四十三年2(西暦一一〇年〜一一三年)
〔日本武尊の無念の死と白鳥への変身〕
信濃国を平定してから、尾張一族が支配する尾張国(愛知県西部)まで戻り、なぜかそこにしばらく滞在した。それから近江(滋賀県)の一部にいる賊を討つために「草薙剣」を置いたまま出かけたところ、身体が弱ってしまった。そして能褒野(のぼの/三重県亀山市のあたり)に着いたとき、病が篤くなった。そこで日本武尊は捕虜にした蝦夷たちを《伊勢神宮》に献上し、景行天皇に使者を派遣して遺言を述べた。そしてついに能褒野で崩御された。御年三十歳であった。
足が三重に折れるほど疲れきって崩御されたので、その地に三重という名がつけられた。いまの三重県である。
景行天皇は悲しんで能褒野に御陵をつくって葬った。
ところが日本武尊の遺体は白鳥となって、故郷の《大和》へと飛んだ。
そして琴弾原(ことひきはら/奈良県御所市)に留まったので、そこに改めて御陵をつくったが、白鳥はまた飛んで、河内の古市邑(ふるいちむら/大阪府羽曳野市)に舞い降りた。そこでまた、その土地に御陵をつくった。
しかしその御陵からも白鳥は舞い上がり、ついに天に向かって消えてしまった。
景行天皇四十三年のことであった。
残された「草薙剣」は、日本武尊の御妃となっていた尾張国造の娘・宮簀媛(みやずひめ)命の家に安置されていたが、尾張一族によって、置かれた場所の近くの熱田神宮(名古屋市)に大切に祀られた。
その熱田神宮のすぐそばに、白鳥が最終的に落ち着いたとされる白鳥陵がある。ただしこれは少し後の顕彰の意味の造営らしい。
羽曳野市には、日本武尊の御陵とされ、白鳥陵と名づけられた、墳丘長190mに達する巨大な前方後円墳がある。
その前の墓所である御所市にも日本武尊陵とされる90mの前方後円墳が残されているし、最初の亀山市にも全長90mのノボノ古墳がある。
さらに熱田の白鳥陵も約75mの前方後円墳であり、古墳時代の造営であることがわかっている。
四つもの巨大な前方後円墳が残されている英雄は、長い日本の歴史のなかでも、日本武尊のみである。
これが悲劇の英雄として小説や劇や絵画になっている日本武尊の物語であるが、この皇子の実体は、すでに天皇に即位していたが、政争に破れて《大和》に帰郷できなくなっていたのではないか――という説がある。
亡くなったとき「日本書紀」では「崩」という文字が使用されているが、天皇以外でこの文字が使われるのは(神功皇后)と日本武尊のみなのである。
また妻に「后」、御墓に「陵」という、天皇のための文字が使われている。
さらに常陸風土記では、倭武(やまとたける)天皇と記され、その皇后として、弟橘媛に似た名が記されている。「風土記」で天皇とされているのも、(神功皇后)と同じである。
もし「魏志倭人伝」の(臺與(とよ))が(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)であるとすれば、その後継者の(倭姫命)に剣を貰った日本武尊は、(卑彌呼)没後の混乱とも関係の深い英雄ということになる。
伊勢神宮にかわって「草薙剣」を祀った尾張一族は(饒速日命)の子孫とされているが、同じ子孫の物部とは違って皇室との関係は微妙であり、そういう尾張を頼っていた日本武尊の行動はなにやら暗示的である。
もともと伊勢神宮に祀られていた「草薙剣」が伊勢に返されず、地方の豪族によって熱田神宮に祀られたという歴史も、大和朝廷と尾張一族・日本武尊の確執を物語っているようである。
景行天皇五十一年(西暦一二一年)
〔日本武尊没後の話〕
日本武尊が没し、その双子の兄も《大和》を離れてしまっていたので、異母弟で第四子にあたる稚足彦(わかたらしひこ)尊を皇太子にたてた。これが次代の成務天皇だが、この天皇は知名度は低いものの、景行天皇が拡大した勢力圏を整備し、行政的手腕をふるって国々を安定させた。地味ではあるが凡庸ではなかったらしい。
武内宿禰(たけうちのすくね)はこのころから目立つ活躍をはじめるが、とくに誕生日が同じだというので成務天皇に可愛がられて要職についた。
日本武尊が捕虜にして《伊勢神宮》に預けた蝦夷(えみし)たちは、騒いで困ったので《大和》に移され、一時は《三輪山》の麓に置いた。しかし山の神木を伐ったり人々を脅かしたりしたので、遠方の国々に分散させた。
東国の蝦夷対策がとても大変だったことを窺わせるエピソードである。
日本武尊の子孫であるが、遠征の前に前代の垂仁天皇の皇女である兩道入姫(ふたじいりひめ)皇女をめとっており、その第二子足仲彦(たらしなかつひこ)尊が成務天皇の次の仲哀天皇――つまり(神功皇后)の夫――である。
成務天皇の皇子ではなく日本武尊の御子が成務天皇を継いだことは、日本武尊が実質的な天皇であったことの傍証でもある。
また尊のために入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)も死の前に稚武彦(わかたけひこ)王を生んでいる。
景行天皇五十三年〜五十四年(西暦一二三年〜一二四年)
〔日本武尊を偲ぶ御巡幸〕
景行天皇は日本武尊を偲んで尊が平定した国々を巡幸なさることとし、伊勢を通って東海に入り、上総国から東国をまわって戻り、翌年に伊勢から大和へ戻った。
晩年の巡幸は、各地がかなり平穏になっていたことを物語っているが、蝦夷(えみし)だけは一筋縄ではいかなかったらしい。
景行天皇六十年(西暦一三〇年)
〔蝦夷の再叛乱と崩御〕
五十五年以後、東国の蝦夷がまた騒動を起こした話がある。また五十七年には池を造ったり直轄領の屯倉(みやけ)をもうけたりした。そして五十八年に纏向(まきむく)の宮から近江の高穴穂宮(たかあなほのみや/滋賀県大津)に三年ほど滞在され、六十年の十一月に崩御された。宝算百六であった。崩年干支は不明だが、前後関係から、崩御の実紀年は四世紀前半と推定される。
御陵である山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)は次代の成務天皇の二年に完成した。場所は崇神天皇陵のすぐそばであり、より《三輪山》に近い。図8・13でわかるように、むしろ《纒向京》の北端に入っているといってもよい。
現在は周濠の形も墳丘の形もかなりゆがんでしまっているように見えるが、現状でも墳丘長は310mもあり、崇神・垂仁・神功各御陵より大きく、前期古墳では最大である。造営当時の周濠まで含めると、おそらく、400mに達するであろう。
成務天皇は景行天皇が崩御された滋賀県大津の高穴穂宮を皇宮とされたので、《三輪山》北西山麓の《纒向京》の朝廷は崇神・垂仁・景行の三代で終わることになる。
景行天皇陵は、その纏向三代の天皇の掉尾を飾る雄大な御陵なのである。またこのことは、それを造営した次の成務天皇も、地味ではあってもきわめて強力な天皇であったことを物語っている。崇神〜景行三代で国内の平定がすすみ、それを成務天皇が仕上げたのであろう。
以上で、(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)が活躍する崇神天皇紀と《三輪山》の謎、またそのあと二代の興味ぶかい天皇の物語は終わって、ついで、(卑彌呼)と(倭迹迹日百襲姫命)の関係についての考察にはいることにしよう。 
 
第九章 倭迹迹日百襲姫命と《籠神社》の秘密
 文献史料でみる《邪馬台国》大和説

 

朝日さす みもすそ川の 春の空 のどかなるべき 世のけしきかな
〔後鳥羽天皇御製〕
「(みもすそ川/御裳濯川とは、五十鈴川の上流で《伊勢神宮》内宮境内を流れる部分をいう。初代斎王(倭姫命)が裳を清めた伝承から名づけられた)」
巻向(纏向)の 檜原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来めやも
〔柿本人麻呂歌集(万葉集1813)〕
「纏向の檜原にたちこめる春霞のようにぼんやりとあなたを思うだけなのなら、どうしてこんなに苦しみながら来ることだろうか」
味酒 三輪の社の 山照らす 秋の黄葉の 散らまく惜しも
〔長屋王(万葉集1517)〕
「三輪山の大神神社の山を照らしている秋の紅葉の散ってしまうのは惜しいことだ。(味酒は三輪の枕詞)」 
9-1 絢爛たる倭迹迹日百襲姫命の親族

 

古代天皇紀の三つの高峰 
この節では、問題の神子(倭迹迹日百襲姫命)の親戚関係についてざっと調べることにするが、その前に図9・1をごらんいただきたい。この図は、「日本書紀」における初代神武天皇から第十八代反正天皇(五世紀前半の天皇)までの記述の長さがどのように変化しているかを、岩波版の行数によって表示したグラフである。ただちにわかるのは、三つのきわだった山が存在することである。
第一の山は神武天皇で、これは初代の天皇の神秘的な事績をのべているので、当然の山である。
うしろにある第三の山は、(神功皇后)〜應神天皇〜仁徳天皇という三韓征伐や世界一の巨大古墳で有名な天皇の事績なので、これもまた当然といえるであろう。
しかしその間にある第二の山――崇神・垂仁・景行という三天皇の山――は、神話と史話が混在している時代の記述なので、とくべつな吟味が必要である。
しかも、それまでの八代の天皇紀がごくわずかしか記されていないのに、崇神天皇からとつぜん詳細な記述になっている。
さらに同じ神話的な部分であっても、神代紀とはちがってとても具体的なのだ。
したがって、この第二の山――とくに第九代開化天皇にくらべていきなり増大する第十代崇神天皇紀の記述――は、たとえ神話的な部分であっても、なにか強烈な史実を反映しているように感じられる。
もしそうでなく後世の想像だったのだとすれば、それまでの八代の天皇紀から漸増させればよいであろう。時代が下がるとともに記述量がすこしずつ増えるのが自然だからだ。
しかし、「記紀」はそうなっていない。いや「記紀」だけではなく、古い神社にも、崇神天皇の時代に祀られた――という伝承がとても多いのだ。
もうひとつ注目されるのは、この三つの山の天皇の御追号(謚号)に、いずれも「神」という文字が使用されていることである。
第一の山・・・神武天皇
第二の山・・・崇神天皇
第三の山・・・應神天皇(および神功皇后)
図9・1にある漢風謚号は、いずれも奈良時代に淡海三船らによって考案されたものであるが、そこに「神」の文字を用いたのは、その御追号を定めた人たちが、この三天皇を「とくべつな天皇」として記憶していたことのなによりの証拠である。
そして、この三天皇と(神功皇后)以外に、「神」のつく天皇や皇后は、存在しないのだ。
というわけで、前章で述べた、神話的な時代と歴史記述の時代とのはざまにある崇神天皇こそ、大和朝廷成立の鍵をにぎっていると考えられる。
したがって、その崇神天皇の時代に活躍して、天皇に数々の助言をなしたと伝えられ、現実的な記述と神話的な記述との双方に彩られている(倭迹迹日百襲姫命)もまた、大和朝廷成立の秘密にふかくかかわっていると考えられるのである。
頭に「倭」という文字のつく女性 
くりかえすことになるが、大きな秘密をもっているらしい(倭迹迹日百襲姫命)が、崇神天皇の時代にいかに重要な地位にいたかについて、記しておこう。
はじめは、頭に「倭」という文字のつく女性の一覧を、第二章から再掲する。
(1)(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)・・・・本人。
   (「古事記」では(夜麻登々母々曽毘賣命))
(2)(倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらめまぐわしひめ))・・本人の別名。
(3)(倭迹迹姫(やまとととひめ)命)・・・・崇神天皇紀七年にある本人の略名。
(4)(倭國香媛(やまとくにかひめ))・・・・・本人の母で第七代孝靈天皇の妃で安寧天皇の曾孫。
   (「古事記」では(意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おほやまとくにあれひめ)命))
   (「日本書紀」風に書けば(大倭國在(生)姫))
(5)(倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)命)・・本人の妹。
(6)(倭迹迹姫(やまとととひめ)命)・・・・第八代孝元天皇の娘で本人の姪または本人の略名。
(7)(倭國豐秋狹太媛(やまとくにとよあきさだひめ))・・本人の曾祖父にあたる第五代孝昭天皇の皇后の母、つまり曾祖母の母。
(8)(倭姫(やまとひめ)命)・・・・・・第十一代垂仁天皇の娘で《伊勢神宮》の初代斎王(御杖代)。
    本人の甥の曾孫にあたる。
(9)(倭媛(やまとひめ))・・・・・・第二十六代繼體天皇の妃。(六世紀)
(10)(倭姫王(やまとひめのおおきみ))・・・・第三十八代天智天皇(中大兄皇子)の皇后。(七世紀)
「日本書紀」において頭に「倭」という「日本」または「大和」を意味する重要な文字のつく女性は、ぜんぶで十名しかいないのだが、そのうちのずっとのちの時代――崇神天皇時代より何百年ものち――の二人を除けば、すべてが本人または本人の血縁であり、さらになかの三人はとくに近い親族なのである。
また後の時代の二名にしても、時代の変革期における著名な天皇のお妃や皇后である。
さいごの倭姫王は、天智天皇崩御後に実質上天皇の位についたとの説もあるほどの重要な女性である。
もうお一人、国風謚号の頭ではない場所に「倭」のつく特筆すべき女帝がおられる。
それは七世紀末の第四十一代持統天皇である。
持統天皇の御名は(大倭根子天之廣野日女(おおやまとねこあめのひろのひめ)尊)で、ここでは「倭」の上にさらに「大」がつき、その次の「根子(ねこ)」も基礎をつくったという尊称であり、それ以下も別格の尊称である。
「魏志倭人伝」にある「爾支(にき?)」はこの「根子」だろうとされている。
持統天皇は天智天皇の皇女で天武天皇の皇后でかつ夫をついで次代の天皇になり、さらに次の文武天皇を補佐する太上天皇ともなり、そしてわが国初の本格都市《藤原京》の造営に力を尽くし、律令国家の建設に功績をあげた女傑中の女傑として知られる。
こういう後の世の超別格の女性天皇につけられた国風謚号に準ずる尊称が、古代においては、(倭迹迹日百襲姫命)とその係累だけにずらりとつけられているのだ。
これだけでも古代史における(百襲姫命)の地位の特異性がわかるが、それは特異なだけではなく、おどろくほど高い地位でもあるのだ。
(倭迹迹日百襲姫命)の絢爛たる血族 
つぎに、何代か前から後にかけての著名な親族を並べてみよう。
(1)初代神武天皇 / 直系の曾祖父の曾祖父の父(七代前)
(2)第二代綏靖天皇(神武天皇の皇子) / 直系の曾祖父の曾祖父(六代前)
(3)第三代安寧天皇(綏靖天皇の皇子) / 直系の曾祖父の祖父(五代前)
(4)第四代懿徳天皇(安寧天皇の皇子) / 直系の曾祖父の父(四代前)
(5)第五代孝昭天皇(懿徳天皇の皇子) / 直系の曾祖父
(6)第六代孝安天皇(孝昭天皇の皇子) / 直系の祖父
(7)第七代孝靈天皇(孝安天皇の皇子) / 実父
(8)倭國香媛または意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(安寧天皇の曾孫) / 実母
(9)第八代孝元天皇(孝靈天皇の皇子) / 母違いの兄
(10)吉備津彦命(西道に派遣された四道将軍の一人) / 本人と父母が同じ実弟/別名彦五十狭芹彦命
(11)倭迹迹稚屋姫命 / 本人と父母が同じ実妹
(12)稚武彦命(吉備津彦の協力者) / 従兄弟
(13)第九代開化天皇(孝元天皇の皇子) / 甥
(14)大彦命(北陸に派遣された四道将軍の一人) / 甥
(15)倭迹迹姫命(孝元天皇の皇女) / 姪(本人そのものとの説もある)
(16)武埴安彦命(謀反して百襲姫命に見破られた) / 甥
(17)第十代崇神天皇(開化天皇の皇子) / 甥の実子(本人の甥との説あり)
(18)御間城姫(崇神天皇の皇后) / 甥の大彦命の娘
(19)武渟川別命(東海に派遣された四道将軍の一人) / 甥の大彦命の子
(20)武内宿禰(歴代天皇の重臣) / 甥の子または孫
(21)第十一代垂仁天皇(崇神天皇の皇子) / 甥の孫
(22)丹波道主命(丹波に派遣された四道将軍の一人) / 甥の孫
(23)豐鍬入姫命(天照大神の初代祭祀責任者) / 甥の孫/宗女(臺與)の有力候補
(24)渟名城入姫命(倭大國魂神の初代祭祀責任者) / 甥の孫
(25)豐城入彦命(東国(上毛野下毛野)の経営責任者) / 甥の孫
(26)第十二代景行天皇(垂仁天皇の皇子) / 甥の曾孫
(27)倭姫命(伊勢神宮の初代祭祀責任者/斎王) / 甥の曾孫/(臺與)の二番目の候補
(28)播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ/景行天皇の皇后) / 従兄弟の娘
(29)日本武尊(東西平定で有名な英雄) / 甥の玄孫であり同時に従兄弟の孫
(もし樋口清之の説のように孝元天皇が非実在か、あるいは本居宣長がいうように倭迹迹姫命が本人そのものだったとすると、甥→兄弟、曾孫→孫というように一代ずつ関係が近くなり、崇神天皇との関係も大叔母ではなく叔母となる。前章に記したように「日本書紀」の本文でも(倭迹迹日百襲姫命)のことを崇神天皇の姑と記しており、この説を肯定する人も多い。もしこれが正しいとすると、(倭迹迹日百襲姫命)の朝廷での比重はさらに高まる。さらに、前に少し触れたが、義理の親戚まで考えると、もっと崇神天皇に近いかもしれないのだが、これについては後に述べる)
以上二十九人を見返していただきたい。まことにもって絢爛豪華、綺羅星のごとき著名な親族群である。本人が天皇の実の娘なので、親族に要人がいるのはあたりまえの話ではあるが、それにしても豪華である。「倭」の文字のつく親族群とともに、この系図は圧巻である。
さらに、実父孝靈天皇までの歴代の天皇の皇后は、みな三輪や磯城の一族であることも、注意を要する。つまり(倭迹迹日百襲姫命)には、大和朝廷一族の血とともに、《三輪山》周辺の豪族の血が濃厚に入っているのだ。その豪族のなかには物部の祖とされる(饒速日命)の系列も含まれていたであろうし、出雲系もあったかもしれない。
だから(百襲姫命)は、崇神天皇の大叔母(または叔母)という大和朝廷の有力メンバーであるとともに(饒速日命)の血統でもあり、かつ、《三輪山》を囲んで(大物主神)を祭る一族の代表でもあった可能性が高い。
もうひとつ注目すべきは、(天照大神)をはじめて神社に奉斎した神子で、名の類似から「魏志倭人伝」にある(臺與)ではないかと言われている(豐鍬入姫命)が、本人の甥の孫――または兄の孫――という近い血縁にあることである。
「魏志倭人伝」では(臺與)は(卑彌呼)の宗女つまり世継とされているが、(豐鍬入姫命)は(倭迹迹日百襲姫命)の近い血縁なので、神子としてだけではなく血のつながりからみても「世継=宗女」であり、とうてい無視できない対応関係があるのだ!
こういう濃厚な血縁関係の要人群のなかで、超常的な能力をもつ神子(巫女)として崇神天皇に重要視され、《三輪山》の神(大物主神)の神託を告げ、数々の予言や忠告をなし、死後は「記紀」の記述のなかで初の、そして別格の、陵墓造営譚が記された・・・それが(倭迹迹日百襲姫命)なのである。
したがって、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」が出るのはとうぜんのことである。 
9-2 卑彌呼=倭迹迹日百襲姫命説を初めてとなえた笠井新也

 

本節と次節では、「《邪馬台国》大和説」かつ、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」をとなえた学者の代表的存在である、笠井新也と肥後和男の論述をおさらいしてみよう。笠井新也は明治十七年に四国徳島で生まれた古代史家で、一般的な意味では著名な学者というわけではないが、現代の評価にも耐えうる近代的な「大和説」と「(百襲姫命)説」をはじめて発表した先駆者として知られている。専門は中学教師で出発点はアマチュアだが、おなじ徳島出身の人類学者・考古学者として有名な東京帝大教授鳥居龍藏の講義を聴講して勉強し、大正から昭和初期にわたって学術雑誌にいくつもの論文を発表した学究である。ここでは、考古學雑誌に掲載された二篇の論文の概要を記そう。
「邪馬臺國は大和である」(大正十一年)
(一)緒言
多くの学者は「九州説」を唱えている(当時)が、内藤湖南先生と高橋健自先生が「畿内説」を唱えられたので、それに元気づけられて、かねがね考えていた「大和説」を発表したい。
(二)邪馬台国推定の標準
考えるべきは、つぎの三点である。
1 地名の一致
2 遺跡の一致
3 行路・行程の一致
「大和説」は1と2は満足している。問題は3である。
(三)邪馬台国の比定
ア 不弥(ふみ)国の位置
従来の諸先生の説とは異なり、「津屋崎」と推定する。その理由は方角の問題とともに、水路の出発点だからである。またすぐそばに福間(ふくま)があり、発音が不弥(ふみ)に似ている。
(津屋崎は福岡市から20Kmほど北の海岸で、図3・1の奴国を示す楕円の上部にある小円。かつて北前船の寄港で賑わった港町)
イ 方角が九十度ちがっている
末廬→伊都→奴国の向きはじっさいは北東なのに、「魏志倭人伝」では南東としており、九十度ちがっている。朝鮮半島から末廬までは南なので、そのあとも南と思ったのだろう。そうすると奴国の東方と書かれている不弥は北方とすべきであり、津屋崎と考えられる。
ウ 投馬(ずま)について
不弥から南へ行くと投馬があるとされるが、九十度変えれば東なので、それは中国地方にあることになる。ただし多くの意見のように瀬戸内側ではなく、山陰地方の出雲か但馬であろう。つまり津屋崎から日本海側の沿岸を航海したのであろう。
エ 邪馬台国への上陸地点
敦賀(つるが/昔の名は角鹿つぬが)に上陸し、越前・近江・山城(および伊勢)を経て大和に入ったのであろう。
オ 山陰行路
神功皇后、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと/任那からの帰化人)など、関門〜出雲〜敦賀〜大和という行路をたどった話は「記紀」に記されている。また朝鮮から畿内への経路は敦賀港経由が有力だった。これに対して瀬戸内は賊がたくさんいて危険だったことは、四道将軍や日本武尊の伝承で知られる。
カ 投馬は但馬か出雲か
出雲は古くからの中心地だし、不弥から二十日、敦賀まで十日もよくあう。名前もトウマとは読まずズマと読めば、イヅモ→ヅモ→ヅマ(投馬)として一致する。さらに垂仁天皇紀の都怒我阿羅斯等が関門から敦賀に向かう途中で出雲に寄泊したのは明か。
(著者注 「魏志倭人伝」にある《邪馬台国》の北側の二十一ヶ国は、使者は通過しなかったが一応大和朝廷に服していた《大和》周辺の主要集落だとすれば、理解できる。名前だけを日本人から聞いた可能性が高い)
キ 卑奴母離(ひなもり)と夷守(ひなもり))
卑奴母離という役職が九州の対馬国、一支国、奴国、不弥国にいることになっているが、これは日本書紀にある夷守と一致しており、都から遠方の鄙(ひな)を監督する役人である。
「卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命」(大正十三年)(笠井新也の第二論文)
〔一〕緒言
邪馬台国が大和だとすると、卑彌呼は大和朝廷に関係する女性でなければならない。昔からの神功皇后説は明治になって年代の研究がすすんでから否定された。内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う。卑彌呼は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命である。
〔二〕魏志倭人伝にあらわれている卑彌呼
日本の古代の祭政一致時代の宗教的女王であって、祭祀を事とし神意を奉じて民衆を信服させていたのであろう。
〔三〕国史における卑彌呼の年代
魏志倭人伝にある卑彌呼の年代は、国史における崇神天皇の御代と確信する。記紀にある年代は信じられない。菅政友や那珂通世などの研究によって成務天皇以下歴代の崩御紀年があきらかになったので、それから崇神天皇の崩御年を推理できる。成務天皇の崩御年は乙卯の年で西暦三五五年であり、崇神天皇の崩年干支は戊寅で西暦一九八年または二五八年または三一八年である。崇神崩御から成務崩御までは垂仁・景行・成務三代の御代があるが、崇神崩御を二五八年とすれば、この三代の合計が九七年となり、妥当な長さとなる。この数字は那珂道世も白鳥庫吉も認めている。したがって崇神崩御は西暦二五八年と考えられ、これは倭人伝にある卑彌呼の死のほぼ十年のちである。したがって倭人伝の卑彌呼の時代は、国史における崇神天皇の御代である。
(著者注 「日本書紀」の崩年である西暦前三〇年を五巡――六〇×五――ずらして西暦二七一年とする説がこれとは別にある。この干支は辛卯にあたる。これは次節の肥後和男の説でもある)
〔四〕日本書紀に現れている倭迹迹日百襲姫命
ア 確信
日本書紀を読むたびに、卑彌呼は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命であると感じる。
イ 陵墓(ミササギ)
陵墓から見ても天皇を上回り、卑彌呼と考えられる。
ウ 孝元天皇の皇女
記紀では孝靈天皇の皇女となっているが、ほんとうは次の孝元天皇の皇女であろう。孝元天皇の皇女の倭迹迹姫命がそれである。崇神天皇紀においても、倭迹迹日百襲姫命のことを倭迹迹姫命と記している箇所がある。またその方が年齢的にも合う。つまり開化天皇の同母妹であり崇神天皇にとっては叔母である。逆に百襲姫命にとって崇神天皇は甥である。
(著者注 最近では孝元天皇が後で挿入されたという説が有力らしい)
〔五〕人物・事績の一致(「魏志倭人伝」と「日本書紀」の関連)
ア 卑彌呼という名
卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命の末尾の「姫命(ひめみこと)」である。
イ「鬼道につかえ能く衆を惑わす」
宗教的奇跡をおこない民衆を畏服させたことは日本書紀にも明かである。
ウ「年すでに長大なるも夫婿なく」
百襲姫命も未婚で、結婚や子孫についての記述はない。神人婚の説話は巫女という意味である。
エ「男弟ありたすけて国を治む」
弟とは崇神天皇のこと。甥と弟の違いのみだが、じっさいに弟だった可能性もある。なぜなら崇神天皇までの歴代天皇はシナ式の親→子継承となっているが、史実が明確になってからは兄→弟継承が一般である。兄弟継承を親子として記述してしまった可能性がある。祭政一致の古代にあっては、百襲姫命と崇神は一体であり、畏敬されていた百襲姫命が主として考えられていたことはとうぜんであり、墓からもわかる。
オ「王となりしより以来見る者少なく」
日本書紀に直接の話はないが、神女として力をもっていればとうぜんのこと。
カ「婢千人を以て・・・兵を持して守衛す」
日本書紀に直接の話はないが、墓を見ても天皇を凌ぐのだから、その宮殿もとうぜん大規模だっただろう。
このほかにも笠井新也は、「卑彌呼の冢墓と箸墓」(昭和十七年)において、箸墓の寸法が倭人伝の冢墓の記述と一致することを述べている。
すなわち――卑彌呼の墓は径百余歩とあるが、とうじの魏の定義では一歩は六尺、一尺は二四・一二センチだったので、百余歩はほぼ150mになる。これは箸墓の後円部の直径にほぼ一致する。したがって卑彌呼の墓は箸墓であり、箸墓に埋葬された倭迹迹日百襲姫命こそ卑彌呼である。
以上が笠井新也説の概要である。
この説は、発表された当時はむしろ異端に近かったらしいが、いまになって考えてみると、とても合理的であり、別の説を唱えていた博士号をもつ碩学たちの意見よりもむしろ納得しやすいものがある。
ただし、やはり笠井説にも限界がある。
それは、「魏志倭人伝」の記述を、方角以外は絶対的に正しいと信じて国史や地理との対応を論じている点である。 
9-3 笠井新也説を学問的に深めた肥後和男

 

学生時代に前節の笠井新也の説を知って刺激をうけ、「大和説」を学問的に深めて展開したのが、肥後和男である。肥後は明治三十二年生まれの古代史家で、京都帝国大学の史学科を卒業して文学博士となり、東京教育大学教授などをつとめた碩学で、日本古代史についての多くの著述をもつ。戦後GHQやコミンテルンに影響された左傾史観が全盛になったときも自分の信念を貫き、時流におもねないことで知られた学者である。常陸宮妃殿下に四年間にわたる日本史のご進講をされたことでも知られる。肥後の「大和説」は、笠井説を基礎としながらも、はるかに洗練され、学問的に高度なものとなっている。したがってその全貌を記すのは困難だが、つぎの著作によって略記してみよう。
「崇神天皇と卑彌呼」弘文堂(昭和二十九年)
(一)序
戦後になっていっさいの古伝を否定する風潮となったが、それは科学的ではない。いまは九州説が大勢だが、自分の大和説に耳を傾ける人も多少はいるだろう。地理の問題では室賀信夫氏の助言を得た。
(二)開かれた歴史のとびら
卑彌呼の研究にさいして、崇神天皇を無視すべきではない。
(三)これまでの研究
ア 江戸時代まで
議論されたのは神代の話のみ。
イ 明治期以後
那珂通世や津田左右吉が神代以後について批判的研究をした。
ウ 疑古派と釋古派
自分は釋古派である。すなわち古典の記述がそのまま史実ではないとしても、いかなる理由と事情があってそのような記述になったのかを研究すべきだと思う。
エ 魏志倭人伝について
ながく卑彌呼=神功皇后だったのに対して本居宣長が九州の女酋としたのは画期的だった。白鳥庫吉が本居説を発展させた。橋本増吉も九州説で多くの論文を書いた。一方内藤湖南が明治四十三年に邪馬台国は大和であり卑彌呼は倭姫命であるとした。三宅米吉も大和説だった。大正になって笠井新也が「卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命」を発表した。
(四)どんな史料があるか
ア 記紀の前
古代は系図がものをいう時代だったので、各氏族に伝えられていただろう。また應神天皇の御代に史部をつくったらしいし、聖徳太子が天皇記をつくったとされる。したがって多少の史料はあっただろう。
イ 魏志倭人伝と記紀
那珂通世の研究では崇神天皇時代は卑彌呼の時代。戦後になって記紀を否定し魏志倭人伝を中心としているのはおかしい。両者を照合して上代史を再編成すべきである。
(五)崇神天皇はいつ頃の人か
ア 朝鮮の史書から
朝鮮の史書との照合で、應神・仁徳の御代が西暦四〇〇年前後なので、逆算すると崇神天皇の時代は西暦二〇〇年前後になる。
イ 崇神天皇崩御の干支
古事記の最古の写本眞福寺本や住吉神社神代記に戊寅とあり、これは西暦二五八年である。両史料とも奈良時代のもの。海外との交流によって、崇神天皇の時代から干支が記憶されたのだろう。日本書紀の崩年は西暦前三〇年で、これは干支で辛卯であり、三世紀でおなじ干支を探すと、二七一年となる。自分としては三世紀前半が活躍期と考える。一方九州説ではこういった検討が無い。
ウ 九州説を批判する理由
九州説には、つぎの二つの論拠がある。
1 方位が南なので九州内である。
2 三世紀の大和には女王国の歴史がない。
この二つともに批判する。
このうち1について、室賀信夫氏の見解を求めたところ、氏は精密な論証によって、シナの地図は日本の行基図を九十度回転して当てはめているため、日本が南北になっていることが明らかになった。この地理的知識は魏の時代にまでさかのぼれる。不弥から邪馬台国までの水行三十日は、三宅米吉の指摘で延喜式に大和〜太宰府が海路三十日とあるのに相当している。上陸してからの一月は一日の間違いであろう。
(著者注 倭人伝の九十度違いの指摘は笠井新也が有名だが、古代地図を詳しく研究して方角の違いを指摘したのは室賀信夫が最初であり、その室賀に研究を依頼したのが、肥後和男である)
2については、記紀の編者が神功皇后を卑彌呼に擬してしまったため、女王についての伝承が記紀から消えてしまったのだろう。
(六)崇神天皇の家族関係
崇神天皇の母親は物部系。武内宿禰の祖でもある。和風謚号のミマキイリヒコのミマは御孫という説が古くからある。また任那を連想させる。当時の任那は弁韓のなかの加羅の別名で、魏志倭人伝で倭の一部ととれる半島南部の狗邪韓国がそれらしい。魏志倭人伝の官職名としては、伊支馬、弥馬升や弥馬獲支がミマキを連想させる。
(七)神々を祭った話
大和朝廷の勢力が大きくなって三輪山の祭祀権を奪取して三輪山麓に王朝を築いた。そのとき媒介となったのが倭迹迹日百襲姫命である。二世紀の半ばに日本が乱れて女王が立ったのだろう。その乱れは武埴安彦の乱、四道将軍の派遣、出雲振根の事件などで日本書紀にある。大物主神のモノとは威力ある精霊の意味で、物の怪のモノである。沖縄ではこのことをムヌーといっている。三輪の大物主神の巫女である百襲姫命を崇神天皇が助ける時代から、崇神天皇の全盛期に移った時点で、大物主神は大和一族の先祖神である天照大神に主人公の座を譲り、その巫女は豐鍬入姫命となった。これが倭人伝の臺與であろう。崇神天皇が八十万の神々を集め、祭ったのは、周辺の豪族たちを組織したことを意味し、それを可能にしたのが倭迹迹日百襲姫命という偉大な巫女の出現だったのだろう。
(八)倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇
女王は日本ではオオキミで、天皇とは限定されない。沖縄のキコエオオキミも、国王の姉妹で最高の司祭であり、結婚せず神の妻として神託で国王を助けたとされている。三輪山は大和の山門(やまと)であり、この三輪山を祭る巫女は国家最高の女性である。鬼道は侮蔑語でじっさいは神道である。時代が大きく変化するとき、古代においては宗教的な女性が出現している。神功皇后、推古天皇など。男弟は崇神天皇のことで、倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇の関係は、推古天皇と聖徳太子、齊明天皇と中大兄皇子、飯豐青皇女(いいどよのあおのひめみこ)と弘計王(おけのみこ/顯宗天皇)、キコエオオキミと琉球国王・・・とのペアと類似している。
(九)国内統一の進展
記紀では、四道将軍の話はあるが、北九州がいつ大和に関係づけられたかの記述がない。風土記などから、崇神天皇の御代にはすでに大和の勢力に入っていたのだろう。だから特別な記述はないので、九州説の主張はおかしい。豪族たちが協力して洛陽や楽浪郡に行ったのだろう。使者が自ら大夫と称していたのは、シナの制度に通じていた証拠である。崇神天皇のハツクニシラスとされる具体的内容は、
1 神社制度の確立
2 四道将軍の派遣
3 出雲問題の処理
4 財政機構の確立
――であった。
(十)出雲との関係
日本を最初に統一したのは出雲ではなく、大和朝廷であり、併合された諸国の表徴が大國主神だったのだろう。出雲神話も大和において農耕神話として構想されたのではないか。垂仁天皇紀に物部氏が出雲に行くのは、物部勢力がすでに出雲を圧していたことを示す。出雲を通りこした石見に物部神社がある。
(十一)筑紫と毛野
北九州の筑紫を征服した話がないのは、記憶に無い時代から大和と一体だったためだろう。大和は北九州の植民地として発展したのかもしれない。魏志倭人伝を読むと、北九州と大和が一体だったことは明かである。倭人伝の邪馬台国以北(以西)の斯馬、伊邪、弥奴、為吾は、それぞれ、志摩、伊勢、美濃、伊賀であろう。また邪馬台国と争っていた狗奴(くな)は、関東の毛野(けの)だろう。崇神天皇紀に上毛野と下毛野を支配下においた話がある。
(十二)海外との関係
ア 朝鮮半島の日本人
日本書紀からも倭人伝からも、狗邪韓国(くやかんこく)――つまり加羅または任那――のあたりに日本人がたくさん住んでいた可能性がある。対馬、壱岐、北九州の日本人が渡っていたであろう。大和の勢力は北九州まで及んでいただろうし、また九州を経ないで任那へ行くことも簡単だった。
イ 崇神天皇と任那(みまな)
名前の類似からいっても、崇神天皇の時代に任那との関係が築かれたという伝承は肯定できる。任那は鉄源の確保からいっても重要だった。倭人伝の末廬は北九州の唐津付近でありそれは加羅の津という意味であるので、ここと朝鮮南端の加羅(任那=狗邪韓国)とで往来していたのだろう。
ウ 卑彌呼の位
魏からみて、卑彌呼は親魏倭王であり、これは博多湾で発見された金印の漢委奴國王より上位である。魏の使者は伊都国でとどまり、大和からの返事を待って帰国したのだろう。都まで来たにしては邪馬台国の記述が簡単すぎる。
エ 崇神天皇は行政家
崇神天皇は、大物主神の巫女である倭迹迹日百襲姫命=卑彌呼から、天照大神の巫女である豐鍬入姫命=臺與に主役が交替する前後に生きて、神託を巧みに実行した優れた行政家だったのだろう。
(十三)経済の発達
崇神天皇が晩年に池をつくった伝承は、畿内の新田開発を意味しているし、税制を整備したのは、産業が発達したからだろう。箸墓の規模からみても、技術・産業の発展がわかる。
(十四)結び
邪馬台国は大和であり、卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命であり、時代は第一次大和統一期である。以上の肥後説は、弘文堂の本によっているが、つぎの本によって少しだけ補っておく。
「崇神天皇」秋田書店(昭和四十九年)
(1)自分は九州をはじめあらゆる場所を見てまわったが、大和がもっとも適切である。
(2)九州には箸墓のような巨大な墓はない。
(3)西暦五七年に奴国が漢に行っていることから考えて、卑彌呼のいた三世紀に瀬戸内海を通って大和と九州を往復するのはとても簡単なことであり、大和は辺地ではない。四道将軍が吉備までしか行っていないことが大和説への反論となっているがそれは成り立たない。
(4)神(かみ)と上(かみ)は発音が違うが元は同じだろう。
(5)大物主神に対する大和(おおやまと)神社の倭大國魂(やまとのおおくにたま)神は、総合的地靈である。
(6)自分の説は少数派だが、発言する権利はある。
以上が肥後和男の説の概要である。
本人は「自分は少数派ではあるが自説を述べる」――と記しているが、さいきんの考古学的知見をもとに判断すると、きわめて納得しやすい論であり、笠井説を大きく発展させている。この十年、賛同者が急速に増えている。
樋口清之による大和有利説 
つぎに、樋口清之の議論を記しておく。
弥生時代に稲作があったことを例証するなど著名な考古学者であり、多くの歴史書・啓蒙書を書き、また國學院短大学長や博物館学会会長などを務めた樋口清之は、大和の出身で大和の遺跡にきわめてくわしい。はじめは九州有利と考えていたが、のちに考古学的な考究から、邪馬台国=大和である可能性が大であるという見解を発表するようになった。いくつかの著作から、要点を抜粋してみる。

奈良盆地の中央には大和湖があったらしく、縄文時代の遺跡は標高60mまででそれ以下にはない。弥生時代の遺跡は50mまでである。「記紀」の神武天皇に関係する数十の地名はすべて標高60m以上のところにある。神武即位の橿原の遺跡も発見されている。

稲作は斜面の方がやりやすい。平地だと水面の設計が難しい。その点で《三輪山》の周辺は稲作に絶好の土地である。また《三輪山》は斑糲岩であり、その周辺には砂鉄があり、製鉄遺跡が多い。玉の原料も出る。

九州に文化圏があって、それが東に伝播して中国地方の文化圏や大和の文化圏ができ、しだいに地の利の良い大和に統一されたのだろう。中国の出雲や吉備にも政権があり、それが大和に吸収されたのだろう。

「魏志倭人伝」は伝聞を元にした三級史料である。

(卑彌呼)は(姫巫女)であろう。とうじはどの集落にも神託を伝える巫女がいて力をもっていた。その最高位が(卑彌呼)だったのだろう。年が長大といっても昔は三十歳すぎると老女だった。卑彌呼に仕える男とはたぶん夫で、臺與は娘だろう。

昔は巫女が神託を間違えると死を迎えた。下腹部に多くの矢を射込まれた老女が出土(*)しており、卑彌呼の死を連想する。(* 著者は下腹部を箸でついて死んだとされる(倭迹迹日百襲姫命)を連想する)

「《邪馬台国》大和説」が有力なのは、鏡の出土状況による。景初四年の鏡は日本製であろうし、日本人はすでに漢字がわかっていた。

孝元天皇は架空だろう。したがって孝靈天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の大叔母ではなく叔母になる。

以上、三人の代表的な、「《邪馬台国》大和説」の学者の説を略述した。とくに前の二人は、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」でもあり、参考になる。
ごく最近まで、笠井説や肥後説は軽視されていたが、この数年の考古学の進展によって、見直されてきた。
ここで記したのは大和説の代表的論文であるが、どれも考古学的な知見が論文の背後にあるように思われる。
《邪馬台国》問題を「魏志倭人伝」の解釈のみによって論じると、その議論は主観的なものになりがちなので、考古学の成果を加味する必要がある。
《邪馬台国》問題における考古学の重要性は大正時代から指摘されるようになったが、その口火を切ったのは考古学者の高橋健自と言われている(第1-2節の一覧表参照)。
これに対して史学者の橋本増吉が異議を唱えた(同前一覧参照)が、平成に入ってからの考古学の成果は、高橋健自〜笠井新也〜肥後和男らの説をますます補強していると考えられる。
ただし現在の史料ではまだ断言はできない。
さまざまな説を唱えて断言するアマチュア史家が多いが、現時点での断言は非科学的ではないだろうか。
ただ、可能性としては大和説が高まっていることは間違いない。 
9-4 倭迹迹日百襲姫命という奇妙な名の意味と別名

 

「記紀」はじめ古代の伝承における人物(神)の名は、人々がその人物(神)についてどのように考えていたかをあらわしているので、それ自体が史料として重要である。
そこで、問題の人(倭迹迹日百襲姫命)の名前の由来や別名について、知るかぎりのことを記しておこう。
〔一〕主要名(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)および(夜麻登登母母曽毘賣(やまととももそひめ)命)
前者は「日本書紀」における主要な表記であり、後者は「古事記」における表記である。
この二つは読みが微妙に違い、トとヒが少なくなっていたり、古代の発音で百は甲類なのに母母は乙類だという違いがあるなどしているが、両親も同じであり、明かに同一人物である。
ただし「古事記」においては、「日本書紀」のようなこの姫命の活躍は記されていない。
「古事記」は皇室と男性天皇中心の色彩の強い短い物語なので、略されたのであろう。
現在では「古事記」のほうが普及しているようだが、ごくさいきんまでは「日本書紀」が古代史書の中心だった。
たとえば、大正時代の「古事記」の解説書に、「日本書紀」ばかりを重要視することへの批判が記されていたりする。
そして昭和初期の「古事記」中心の時代を経て、さいきんになってふたたび「日本書紀」を重視する意見が多く見られるようになったのは興味ぶかい。
最初にこの主要名を分解しておく。
「倭迹迹日百襲姫命」
 =「倭」+「迹迹日百襲」+「姫」+「命」
 =「倭」+「迹迹」+「日」+「百」+「襲」+「姫」+「命」
問題は「迹迹日百襲」の解釈である。
〔二〕小学館「日本書紀」にある注
さて、この(ヤマトトトヒモモソヒメミコト)という奇妙な名前の意味についてだが、本書が主に参考にしている小学館の「日本書紀」の訳注においては、「迹迹日は十十靈で、十×十=百となる霊的な――といった意味で、百襲姫にかかる枕詞的なものであろう。また百襲は数多く神異がその姫を襲うという意味かもしれない」としている。
〔三〕岩波書店「日本書紀」にある注
一方岩波の「日本書紀」の訳注においては、「トトヒ(迹迹日)は鳥飛び、モモ(百)は百、ソ(襲)は十の意であろうか。トトヒは魂の飛ぶことの比喩となることがある」としている。
これは飛鳥を連想させる見解である。
飛鳥と書いて「アスカ」と読ませるのは明日香地方にかかる枕詞を飛鳥(とぶとり)といっていたためらしい。それが明日香の代わりをするようになったのだ。
――ということは、《大和》は飛鳥を愛でる地でもあったということになり、その《大和》の神子である(倭迹迹日百襲姫命)に飛鳥を意味する迹迹日がつくのは不思議ではない。
〔四〕「倭」「姫」「命」
この三つの尊称については、すでに何カ所かで述べているが、再記すると――
頭につく「倭(やまと)」は、もちろん大和朝廷の重要人物であることを意味している。
うしろにつく「姫(ひめ)」は太陽の妻(日女/ひめ)から来たとされ、高貴な女性=巫女的な女性への敬称である。
巫女は御子・神子・皇子・皇女などと同じ読みであるだけではなく、語源も同じである。ミコのミは海神(わだつみ)のミと同じで、神霊の意味である。
最後の「命(みこと)」はもちろん高貴な人物への尊称で、語源的には御事(みこと)だとされる。このミも神霊につうじるのであろう。
小学館も岩波も高名な学者が「日本書紀」を編纂しているが、それでも同じ名について解釈がまったく違うのは、専門家のあいだでも決定打がでていないことを意味している。したがって、つぎのように、多くの人が様々な意見を発表している。
〔五〕原田大六の意見
たとえば、《邪馬台国》の議論で有名で考古学の実践家でもある原田大六は、つぎのように述べている。
「迹迹日は飛速から出た言葉で、天に飛び国に飛び帰るの意味であろう。また百襲は百衣で多くの衣裳という意味だろう。すなわち(倭迹迹日百襲姫命)とは、日本の都である倭国の天界と地界を結ぶ有翼の、たくさんの衣裳をもつ姫ということである」
この解釈は、(百襲姫命)の別名に(倭迹速・・・)とあることや、妹の(倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)命)が「古事記」では(倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ))とされていることからも、導かれている。
なお原田は、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」をとっている。そして、(百襲姫命)が持っていた日神祭祀の主導権を、「記紀」の編者が無視したのだと主張している。
〔六〕苅谷俊介の意見
俳優で《大和》の発掘にも携わってきた苅谷俊介も、つぎのユニークな意見をだしている。「迹迹日の迹迹(トト)は鳥のこと。いまでも幼児言葉で鳥や鶏をトトと呼ぶ。日は霊力・太陽だろう。百襲は百十で、これは「魏志倭人伝」にある(卑彌呼)の墓が「径百余歩」とあることを連想させる」
これもまた、いわれてみるともっともに思う意見である。
鳥は接頭語にしたとき「と」とも読む。鳥座(とぐら)、鳥屋(とや)などがある。
したがって「迹迹」は「鳥」だろうという意見は、苅谷だけでなく多くの人が唱えているらしい。
もっとも鳥は当然空を飛ぶので、「鳥」も「飛」も同じことかもしれない。
このほか「とと→ちち→千々→縮み→縮織の布→立派な衣服」という説もあるらしいが、著者には読みとれない。
ちなみに、「襲」は「押す」と「覆う」の複合語で「そ」とも言うが、衣をつくる繊維を「麻(そ)」といい、「衣」も「そ」というので、覆い被さるという漢字の意味だけではなく衣という意味にもなる。
著者も、自分なりに解釈してみた。
「美しい大和(倭)において、飛ぶ鳥(迹迹)のごとくに、霊力(日)が、数多く(百)、覆いかぶさってきている(襲)、太陽の妻(姫)であるところの、高貴な人(命)」
(これは著者の想像であって学問的な見解ではない)
どの意見が正しいにしても、大きな力を連想させる特異な名であることにかわりはない。
つぎに別名を検討してみよう。
〔七〕別名(倭迹迹姫(やまとととひめ)命)
これはあまり問題はないであろう。
崇神天皇紀には(倭迹迹日百襲姫命)の略称として記され、孝元天皇紀には(百襲姫命)の姪として出てくる。この姪は「古事記」には出てこないし、孝元天皇の実在性には疑わしい点が多いので、同一人物を姪として記してしまったのだろうとの説があることは、前述のとおりである。
〔八〕別名(倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまぐわしひめ))
この名は崇神天皇紀にあるが、天皇が神淺茅原(かむあさじはら)で占ったときに神が(百襲姫命)に憑依して語ったことからつけられた名称とされている。
その前の迹速については、小学館の「日本書紀」では速を迹の誤りとするか、または音速で神の声(音)を速く聞く――の意味か、としている。
迹速と迹迹の関係については、逆に迹迹が迹速の写し間違いではないか、という意見もある。
尾部の目妙は見て美しいといった敬称である。
以上が「記紀」における(百襲姫命)の本名と別名であり、いずれも特異な形で別格の意味をもっている。
なお「勘注系図」には(倭迹迹日百襲姫命)のさらに重要な別名が記されており、「先代旧事本紀」にも似た表現があるが、それは後に述べる。
〔九〕母親の尊称(倭國香媛(やまとくにかひめ))および(意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)命)
本人の名や別名のほかに、母親の名前も重要である。
(百襲姫命)の母親は孝靈天皇の妃で、その名は、「日本書紀」では前者、「古事記」では後者となっている。
「日本書紀」の名も国を香らせたという高貴な意味を感じさせるが、「古事記」の名はさらに意味深長である。
それは「日本書紀」的に書き直せば、(大倭國在(生)姫命)となる。
偉大なる大和の国に霊性をもって生まれ出た――という解釈が一般らしいが、偉大な《大和》の国を生んだ姫命、あるいは《大和》の建国を念じた姫命という意味にもとれる。いずれにせよ、おどろくほど別格の尊称である。
〔十〕「クニアレヒメ」の謎
この時代の天皇である崇神天皇の国風謚号(または実名)の御間城入彦(みまきいりひこ)が、「三輪(三巻)の地域に入った高貴な男性」という意味を持つ可能性があることは前に述べたが、これは(倭迹迹日百襲姫命)が神子(巫女)をつとめる《三輪山》の神の地に崇神天皇が入って国を創ったということであり、したがって建国を意味する(百襲姫命)の母の名とむすびついている。
さらに崇神天皇の尊称が初代の神武天皇とおなじ御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)――すなわち「はじめて国を創った天皇」――とされている事ともむすびついている。
これは不思議な結びつきである。
名目的な建国を果たしたのが初代の神武天皇で、実質的な建国を成功させたのが第十代の崇神天皇であるという説は一般的なものとなっているが、もしそうなら、神武天皇や崇神天皇の母親にこそ「オオヤマト・クニアレヒメ」という名を奉るべきであろう。
しかしそうではなく、天皇の助言者として登場する(倭迹迹日百襲姫命)の母親のほうを、「オオヤマト・クニアレヒメ」と尊称しているのである。
「國在(生)」も意味深長だが「大倭」だけでも別格の尊称である。
前にも記したが、古代において頭に「倭」がつく女性は(倭迹迹日百襲姫命)を含めて六人だが、その上にさらに「大」がつく女性はこの母親のみなのである。
この奇妙なくいちがいが発生したのは、大和朝廷の確立に関して(倭迹迹日百襲姫命)の存在が重大な意味をもっていることを、「記紀」の編者たちがよく知っていたからではないだろうか。
「記紀」の記述は、この謎の(倭迹迹日百襲姫命)を天皇の助言者の地位につけているが、それは、古代の正史は男性の天皇を中心にしなければならなかったことと、《三輪山》の(大物主神)より先祖神の(天照大神)を物語の中心に据えなければならなかったことによるのであろう。
――というのが、ひとつの推理である。
(なお第9-1節に記したように、百襲姫命の母親は安寧天皇の曾孫だが、もう一つの別名に、「古事記」では蠅伊呂泥(はえいろね)、「日本書紀」では?(糸ヘンに亘)某姉(はえいろね)がある。これはたぶん幼名または実名であろう) 
9-5 「倭姫命世記」に記された《伊勢神宮》への遷宮経路

 

ここまでの(倭迹迹日百襲姫命)の本名や別の尊称は、頭に「倭」の文字がつく重要な名前だった。これだけでもこの「姫命」の存在の大きさが想像できるのだが、じつは、「記紀」とは別の、ほぼ同時代の古典のなかに、「倭」はつかないが、もっと意味深長な別名が記されているのだ。
そのことを述べる前提として、崇神天皇の御代に皇宮に祀られていた(天照大神)のご神体、
   「八咫鏡」
   「天叢雲剣(草薙剣)」
――を外部の神社に移してから、げんざいの伊勢の皇大神宮に落ち着くまでの経路を、記しておこう。
このことと(倭迹迹日百襲姫命)の別称とが密接に関係するからである。
典拠は《伊勢神宮》などに古くから伝わる神道古典のひとつ「倭姫命世記」である。
御杖代(みつえしろ)、すなわち祭祀責任者である斎王(いつきのみこ)は、最初は「魏志倭人伝」にある(臺與(とよ))の有力候補とされる崇神天皇の皇女の(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)だったが、途中で(倭姫(やまとひめ)命)に交替した。
(倭姫命)は崇神のつぎの垂仁天皇の皇女だが、かつては(卑彌呼)の有力候補だった。内藤湖南の説は有名である。
(倭姫命)のご巡幸 
以下、遷宮の地を時間の順に個条書きにしてゆく。
皇宮に奉斎(瓊瓊杵尊から崇神天皇六年まで数百年間)
〔崇神天皇六年に崇神皇女の豐鍬入姫命を御杖代(祭祀責任者)として皇宮の外に祀ることにした〕
倭国の笠縫邑・三輪山麓の檜原神社(三十三年間)
但波国の吉佐宮・丹後半島のつけね(四年間)
倭国の伊豆加志本宮・檜原神社の近く(八年間)
木乃国の奈久佐浜宮・和歌山市(三年間)
吉備国の名方浜宮・岡山市の近傍(四年間)
倭国の弥和乃御室嶺上宮・(二年間)
〔この終わりに豐鍬入姫命は、すでに奉斎の日数を重ねたとして、姪にあたる垂仁天皇の皇女・倭姫命に御杖代を委任された〕
倭国の宇太乃秋宮・奈良県宇陀郡(次と合わせて四年間)
倭国の佐佐波多宮・奈良県宇陀郡
伊賀国の隠市守宮・三重県名張市近傍(二年間)
伊賀国の穴穂宮・名張市の近傍(四年間)
伊賀国の敢都美恵宮・三重県上野市近傍(二年間)
淡海国の甲可日雲宮・滋賀県甲賀郡(四年間)
淡海国の坂田宮・滋賀県坂田郡(二年間)
美濃国の伊久良河宮・岐阜県本巣郡(四年間)
尾張国の中島宮・愛知県西部(前者に含まれる)
伊勢国の桑名野代宮・三重県桑名市付近(四年間)
伊勢国の奈具波志忍山宮・三重県鈴鹿市付近(前者に含まれる)
伊勢国の阿佐加藤方片樋宮・三重県松阪市付近(四年間)
伊勢国の飯野高宮・三重県松阪市付近(四年間)
伊勢国の佐々牟江宮・三重県伊勢市付近(一時的)
伊勢国の伊蘓宮・三重県伊勢市磯町(一時的)
伊勢国の瀧原宮・三重県度会郡大宮町滝原(一時的)
伊勢国の矢田宮・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の家田田上宮・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の奈尾之根宮・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の宇遅五十鈴河上・三重県伊勢市の五十鈴川のほとりの皇大神宮、すなわち《伊勢神宮》の内宮
(垂仁天皇二十六年十月に鎮座し平成の現在まで継続。実紀年で推定一千七百年以上続いている)
以上、(天照大神)のご神体が崇神天皇の皇宮から現在地に遷されるまでに計二十五の宮をへたことになるが、これが倭姫命御巡幸といわれる昔からの物語である。この二十五の宮の信憑性については、なんともいえず、実際はもっと少なかっただろうともいわれているが、どの土地にも現在まで神社が残されている。おそらく、重要な史実を投影した物語なのであろう。
ご巡幸の深い意味 
時代的には、第十代崇神天皇の六年に皇宮を出発して次の第十一代垂仁天皇の二十六年に落ち着いたのだが、その実紀年は三世紀と四世紀の境くらいだろうと推定されている。
「日本書紀」の垂仁紀や「倭姫命世記」の干支で求めると西暦二九七年になるが、この年は「魏志倭人伝」における(臺與(とよ))の時代のすぐ後であり、これもまた興味ぶかい。
このご巡幸には、大和朝廷の勢力を周辺に定着させ、同時に鉄や玉や稲の産地を確保し、そして東海方面への出口にあたる伊勢に新しい根拠地をもうける・・・といったさまざまな意図があったと推理されている。
《大和》の地の背後(東側)は今の三重県であるが、そこを《大和》の勢力圏にすることに成功したとしても、その地域をさらに北や東から囲う形の滋賀・岐阜・愛知・静岡県の豪族たちを抑える必要がある。
岐阜や愛知や静岡は、さいきんの考古学の知見では、《大和》とはかなり違った文化圏であり、同時に《大和》と交流した形跡があり、したがって「魏志倭人伝」にある《邪馬台国》に反抗した狗奴国かもしれない――とされている。
したがって、陸を介して岐阜を抑え、海を渡って愛知や静岡へ進出できる伊勢の地は、当時の大和朝廷にとってきわめて重要な土地であったといえる。
落ち着くまでの経路を見ても、わざわざ滋賀や岐阜を通っているのだ。
だから、皇女が神子(巫女)となっての御巡幸ではあるが、その実体は多くの武人をしたがえ、各地方の豪族たちを威圧する堂々たる大和朝廷軍の行軍だったろうと考えられている。
だからこそ日本武尊が東国に遠征したとき、最初にこの《伊勢神宮》に寄って、「天叢雲剣(草薙剣)」を(倭姫命)から借り受けたのであろう。
つまり権威を借り、武具を調達したのである。
(この剣が伊勢へは戻らず熱田神宮に奉斎されたことは既述のとおりである)
もちろん、伊勢に落ち着いた意味は、そのような――いまの考えでの――現実的なものだけではなく、海に近い五十鈴川のほとりが、神の座にふさわしい神秘的な景観にあったことも大きいであろう。
また、地図を見ればすぐに分かるとおり、伊勢は《大和》の地の真東にあたっており、古代大和朝廷にとっては太陽の昇る方角である。
そのような方角の清涼な地に太陽の化身である(天照大神)を祀るのは、とうぜんのことかもしれない。
参考までに、(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)と(倭姫(やまとひめ)命)の推定ご巡幸経路を、図9・2に示しておく。
日本海へ出る地点と、問題の多かったらしい岐阜県と、伊勢湾や三河湾を横断して東国へ進出する地点とに向かって、試行錯誤しながら巡幸したことが読みとれる。
最終的に落ち着いた《伊勢神宮》の内宮の写真を図9・3に掲載する。
「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を日本武(やまとたける)尊に授けてからは、(天照大神)の最高のご神体「八咫鏡」を奉斎して、今日に至っている。
そして現在も、日本の神社の最高峰として、二十年に一度の式年遷宮が国民的な行事としてなされている。
江戸時代には「お伊勢参り」が国民的行事であり、日本全体の七割の家庭にこの《伊勢神宮》の御神札(神宮大麻)が祀られていた。
現在でも、毎年一千万に近い御神札が全国の家庭の神棚に祀られているし、毎年正月には総理以下閣僚が参拝している。
《伊勢神宮》を詠んだ歌のいくつかは第二、六、九章のトビラに記しておいたが、ここで三首ほど追加しておこう。
とこしへに 民安かれと 祈るなる わがよを守れ 伊勢のおほかみ
(明治天皇御製/明治二十四年)
天照す 神の御馬の いななける 清き夜明けの 杉木立かな
(與謝野晶子/大正四年)
ここはこころの ふるさとか そぞろまいれば 旅ごころ うたたわらべに かへるかな
(吉川英治/昭和二十五年)
文豪・吉川英治の歌は、「伊勢神宮は心の故郷」という言葉の始まりとも言われ、昭和二十五年十二月に参拝したおりの即興だが、この時代は占領軍の抑圧によって、境内は閑散としていたとされる。
なお《伊勢神宮》は通称であって、本来は単に神宮または皇大神宮(あるいは天照皇大神宮)という。また伊勢の内宮ともいう。
このほかに(豐受大神)を祀った外宮――豐受大神宮――があり、内宮と外宮を合わせた通称が《伊勢神宮》である。
さて、この(倭姫命)の御巡幸をここに特に記したのは、前述のように、「この御巡幸と(倭迹迹日百襲姫命)の別名とが深く関係している」からである。 
9-6 《大和》を離れた最初の元伊勢《籠神社》に伝わる奇跡の神宝

 

最初の大和外元伊勢《籠神社》
(天照大神)のご神体が皇宮を離れて三輪山麓笠縫(かさぬい)の《檜原(ひばら)神社》に遷ったその次の巡幸先は、前節に記したように但波(たには)の吉佐宮(よさのにわ)である。
このときの御杖代はまだ(倭姫命)になっておらず、「魏志倭人伝」にある(臺與(とよ))の候補の(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)である。
吉佐宮は《大和》から地方に遷った最初の神宮とされているので、その史実性は別問題として、大和朝廷にとってきわめて重要な地域にあったことはまちがいない。
注目されるのは、第九代開化天皇の妃や第十一代垂仁天皇の皇后と妃が、丹波の出身だったことで、成立期の大和朝廷が丹波地方と密接な婚姻関係をむすんでいたことがわかる。
但波とはのちの丹波・丹後・但馬をあわせた国名で、いまの京都府と兵庫県北部である(図4・2参照)。
吉佐宮の現在の姿は、日本海に突き出た丹後半島に鎮座する《籠(この)神社》である。
そしてそこに、日本最古の系図が神宝として秘蔵されており、その系図に(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)とその驚くべき別名が記されているのだ。
以下、多くの歴史家に衝撃を与えた《籠神社》の神宝について、金久与市の「古代海部氏(あまべのうじ)の系図」にしたがって概説する。
《籠神社》の場所 
場所は、京都府の北端・日本海側の宮津市で、日本海に突き出た丹後半島の若狭湾寄り――東側――の付け根にある。
図9・4を参照していただきたいが、日本三景として有名な天橋立のすぐそばといえばわかりやすいかもしれない。
じつは天橋立とは、《籠神社》の元々の参道なのだ。
有名な雪舟の名画に国宝「天橋立図」があるが、これにも《籠神社》の鳥居のすぐそばから天橋立が海上に延びている有様がはっきりと描かれている。
昔から面白い話が伝わっていて、天の伊弉諾尊が地の伊弉冉尊を訪ねるときに天から地へ渡した梯子(SFでいう軌道エレベータの元祖である!)を使っていたが、その梯子が倒れてできたのが天橋立だという。
この二柱の神も《籠神社》に配祀神として祀られている。
若狭湾は紀元前の弥生時代から、日本海をわたって九州・朝鮮半島・大陸などと往来する玄関口のひとつであり、日本海へ出る経路を確保したい大和朝廷がこの地を勢力下におこうとしたのはとうぜんのことである。
崇神天皇の御代に四道将軍の一人で(倭迹迹日百襲姫命)の親戚にあたる人物がこの地に派遣されて丹波道主(たにはのみちぬし)命と呼ばれていたこと(第9-1節)でも、それはわかる。
丹後半島とその周辺一帯が丹後国であり、その西が但馬国、南にひろがるのが丹波国だが、これら三つはもとすべて丹波国(または但波国)だった。つまり但馬も丹後ももとは丹波だったので、古代史の文献を読むときには注意を要する。
なお丹波はいまはタンバと読むが、かつてはタニハまたはタニワであり、但波とおなじである。
この国は、いま伊勢の外宮に祀られている(豐受大神)が田畑をつくり農業を起こした国とされ、丹波の語源は田庭だとされている。
庭はまたバとも読むので、田庭をタバと読めばそのまま丹波(たんば)につながる。
とても広い地域なので西暦六八四年に但馬国が独立、ついで七一三年に丹後国が独立した。
そして《籠神社》は丹後で最高の位をもつ著名社である。
丹後や但馬の地は縄文・弥生・古墳各時代の遺跡が豊富にあり、貴重な品が数多く出土している。
さいきん、丹後半島の赤坂今井墳丘墓から、三世紀前半――つまり(卑彌呼)の時代――の豪華な頭飾が出土して人々を驚かせた。
また「魏志倭人伝」にある正始元年に魏でつくられたらしい鏡などが発掘されているし、《大和》と共通する出土品も多い。
したがって同じ日本海側の出雲よりもむしろ大和朝廷との交流が盛んだったと推理されている。
また、伝承や遺跡から、日本海で活躍した海洋氏族の拠点だったとも推定されている。
但馬の丹後寄りにある、古墳時代前期の袴狭(はかざ)遺跡からは、十五隻の船団を描いた2mもの長さの板が発見されて評判となった。
このあたりは、新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)が渡来して朝廷に神宝を献上したという伝説がのこっている地点だし、また加羅国(任那)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が半島から長門や出雲を経て漂着した地点・敦賀(つるが/つぬが)のすぐ近くでもある。
《籠神社》の祭神 
(一)本宮の祭神(饒速日命)
《籠神社》は本宮と二つの奥宮とに分かれている。
本宮の主祭神は彦火明(ひこほあかり)命で、これは天火明(あまのほあかり)命と同神で著名な(饒速日(にぎはやひ)命)の別名であることが、のちに記す系図に明記されている。
つまり物部・尾張・海部(本神社宮司家)などの一族の先祖神である(饒速日命)を祀る神社なのだ。
そして古代から高い地位を得ており、十世紀はじめの延喜式に記載された式内社であり、丹後の一の宮(最高位の神社)であり、また官幣中社であった。
第六章にも記したが、「記紀」および物部系の史書とされる「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」によると、天火明命こと(饒速日命)は瓊瓊杵(ににぎ)尊と兄弟であり、瓊瓊杵尊が日向に天降ったときに同時に河内に降臨し、そこから天磐船(あまのいわふね)で《大和》に入り、義兄の長髄彦(ながすねひこ)と神武天皇が戦ったときに御子の可美眞手(うましまで)命とともに神武天皇に帰順し、降臨時に天津神――(天照大神)など高天原の神々――から授かった神宝も献上して隠棲した。
これは有名な話だが、その(饒速日命)その人が、この本宮の主祭神なのである。
大和朝廷と争った大豪族(饒速日命)一族の先祖を祀る神社が、(天照大神)の《大和》以外での最初の鎮座地に選ばれたのは、意味深長である。
(二)奥宮の祭神1(天照大神)
さて、本宮からすこし離れたところに二つの奥宮があり、そこにいまも(天照大神)と(豐受大神(とようけおおかみ))の御分霊が祀られている。
この奥宮は別名眞名井(まない)神社というが、そのうちの一つこそ、かつては吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた神社――つまり(天照大神)が《大和》をはなれて最初に祀られた神社――なのである。
(豐受大神)は昔から祀られていたらしいので、(天照大神)は第十代崇神天皇の御代に、(豐受大神)と(饒速日命)の鎮座するこの神社に《大和》から遷られ、四年間を過ごされたことになる。
そのため、この奥宮は「元伊勢」と呼ばれている。
伊勢に落ち着かれるまでの鎮座地にのこる神社はすべて元伊勢だが、ここは《大和》の《檜原(ひばら)神社》とならんでその筆頭なのだ。
(三)奥宮の祭神2(豐受大神)
奥宮のもうひとつに奉斎されている(豐受大神(とようけおおかみ))は、元来がこの丹後――もと丹波――の地を五穀豊饒にした農業の神で、きわめて古くから祀られ、信仰されてきたらしい。
系図的には伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊の孫娘であり、したがって(天照大神)の姪にあたる女神である。
(天照大神)は四年で別の宮に遷られたが、(豐受大神)はそのまましばらく鎮座されて、第二十一代雄略天皇の御代になって、《伊勢神宮》の外宮に遷られた。
内宮の正式名が皇大神宮であるのに対し、こちらの正式名は豐受大神宮である。
この遷宮は(天照大神)のご意向によるとされているが、おそらくそれは、豪族への支配と融和政策の一環だったのであろう。
この雄略朝以後、(天照大神)の祀られている内宮と(豐受大神)の外宮を併せて、《伊勢神宮》と通称するようになって現在に至っている。
このような経緯から、いまでも《籠神社》には、本宮の(饒速日命)のほかに、二つの奥宮に、(天照大神)と(豐受大神)の二女神の御分霊が祀られているのだ。
(四)(天照大神)と(豐受大神)の関係
こういった祭神関係を見てみると、日神である(天照大神)が、その姪で大地の農業神である(豐受大神)の神社に巡幸するのは、祭祀のバランスをとる上でとうぜんと思えるし、またそこが(饒速日(にぎはやひ)命)一族の重要拠点だったことを考えると、大和朝廷が競争相手だった(饒速日命)を先祖神とする豪族を支配下において海への窓口を確保するための、とうぜんの戦略だったともいえるだろう。
のちの(豐受大神)の伊勢への遷宮であるが、裏の意味は前記のような豪族への融和・帰順策であったとしても、神事としては、天の最高神である(天照大神)に大地の農業の神(豐受大神)が五穀を献上するという役割を果たすためであった。
そのため伊勢の外宮では、朝夕天神への食事をつくる儀式を遷宮以来毎日続けており、じつに千五百年ものあいだ一日として絶やしたことがない。
これは高野山の仏前の火を千二百年間絶やしていない行事を上まわる、世界に類例のない歴史の「継続性」である。
内宮と外宮の関係については、星座による面白い説明もある。
十月十七日は神嘗祭で、天皇がその年の新穀を《伊勢神宮》に捧げる日であるが、この日の星座をみると、内宮をあらわす北極星に、外宮をあらわす北斗七星が、柄杓で新穀を献上しているように見える、というのである。
内宮の二十年ごとの式年遷宮は有名で、神殿だけでなく鳥居や神宝まで作り替えられるのだが、それは外宮も同じである。
なお《籠(この)神社》という名称は、七世紀の大化改新時に吉佐宮(よさのみや)を変更してつけたもので、その際社殿をいまの奥宮の地から現在の本宮に移し、それまでの社殿を奥宮として残して元伊勢の眞名井(まない)神社と呼ぶようになったらしい。
《籠神社》の神宝 
以上のように、驚くほど古い伝承をもつ神社であり、戦乱や空襲にも遭わず宮司も世襲で続いたので、多くの神宝が秘蔵されている。代表的なものに、
(一)「辺津鏡」と「息津鏡」(図9・5参照)
(二)「籠名神社祝部氏系図」(国宝/略称「海部氏系図」)
(三)「籠名神社祝部丹波国造海部直氏之本記」(国宝/略称「勘注系図」)
(四)「丹後国一宮深秘」
(五)「倭姫命世記」(最古の写本といわれる)
(六)「御正体等経塚遺物」(重要文化財)
(七)「藤原佐理卿筆神額」(重要文化財)
(八)「経筒一対」(重要文化財)
(九)神前狛犬二基(重要文化財)
――などがある。
以下に説明を加えよう。
(一)「辺津鏡」と「息津鏡」
まず二つの鏡だが、この名称は九州北端(福岡県)の有名な古社・宗像大社の辺津宮と沖津宮(沖ノ島)と同じであり、名前そのものも海に関係がふかく、海洋民を連想させる。考古学的には「辺津鏡」は「連孤文昭明鏡」と呼ばれる前漢鏡(西紀前/日本の弥生中期)で、北九州からは出土例があるが、畿内や但波では出土したことのない貴重な逸品である。また「息津鏡」は「内行花文鏡」と呼ばれる後漢鏡(西暦一〜二世紀/日本の弥生後期)で、畿内では《箸墓》のすぐそばの、(卑彌呼)生存中の造営とされる大塚古墳から一面、ホケノ山古墳から二面出土している。うち一面は平成十二年というごく最近の出土である。考古学上での分類では、この二面の鏡は同じ系統に属しており、時代も西暦紀元をはさんで前漢・後漢と連続している。神話との関連では、「先代旧事本紀」にある「十種の神宝」の筆頭の二面の神鏡(瀛都鏡、邊都鏡)と同名である。したがって通常の(饒速日命)伝承とよく照応している。また「日本書紀」に「三種の神器」としての「八咫鏡」のことを「経津鏡」と記しているので、類似名である。
大きさや形式では、後漢鏡の「息津鏡」のほうが「三種の神器」に似ているだろうといわれている。そしてこの二鏡とも、天の祖神(天津神)から下されたものと伝えられている。つまり「三種の神器」に匹敵し、「十種の神宝」そのものともいえる神宝なのだ。
くわしい由来は後述するが、こういう、「二千年以上も前の鏡が、遺跡からの出土ではなく、神社の本殿に伝世され、かつその由来を記した古文書が同時に神社に存在し、さらにその古文書の内容が「先代旧事本紀」の神話と多くの共通点をもつ」というのは、まったく稀有なことである。
遺跡の土中に埋もれていたわけではないので、図9・5でわかるように、じつに綺麗で模様も鮮明である。 公開は昭和六十二年で、それまで二千年間も秘されていたので、公開時には大きな反響をよんだ。
(二)国宝「海部氏系図」
つぎの国宝の「海部氏系図」は、滋賀県三井寺に伝えられた和気氏系図(国宝)とともに、紙に記された日本最古の系図とされ、伝承によれば平安前期の貞観年中(西暦八五九〜八七六年)に、その前からあった史料を参照して書かれたのだという。系図のわかる最古の家系はもちろん天皇家である。天皇家の系図自体は「日本書紀」編纂時に同時に編纂されたものの今では消失しているが、その内容は「記紀」本文の記述でわかっている。「海部氏系図」は、この「記紀」によって構成される天皇家系図を別にすれば、日本最古なのである。平安時代には古い神社などの宮司家の系図を定期的に提出させており、これはそのために書かれたものの副本で、役所で確認したという意味の「丹後國印」が押印されている。したがってきわめて信憑性が高い。これは昭和五十一年に国宝に指定され、翌年に公開され、平成四年に神道大系ではじめて活字化され、評判となった。
(三)国宝「勘注系図」
つぎの「勘注系図」は、《籠神社》の神宝のなかでもっとも重要で、秘宝中の秘宝とされ、長く秘匿されてきたが戦後にやっと公開され、厳格な審査によってその信憑性が認められて、やはり昭和五十一年に国宝に指定された。そして、平成四年に神道大系によってついに全文が公開され、古代史の研究者たちに大きな衝撃を与えた。その由来や内容については次節に記す。
(四)「丹後国一宮深秘」
これは、(天照大神)のご神体が《大和》の笠縫からこの地にご巡幸されたことを記した文書で、十四世紀の書写である。
(五)「倭姫命世記」
《伊勢神宮》などに伝わる写本より古い、日本最古の写本ではないかといわれている。 
9-7 《籠神社》が千年以上秘匿した秘宝「勘注系図」の謎

 

「勘注系図」の由来 
《籠神社》の神宝のなかでもっとも重要な「勘注系図」の由来は、以下のとおりである。
七世紀の初め、推古天皇の御代に、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史を集めたことがあった。
その貴重な史書類は大化改新における蘇我家滅亡のおりに焼失してしまったのだが、この推古天皇の国史蒐集時に(饒速日命)の子孫で丹波国の豪族かつ国造(くにのみやつこ)だった海部(あまべ)家の海部直止羅宿禰(あまべのあたいとらのすくね)が「丹波国造本記(たにはのくにのみやつこほんき)」なる一族の史書を編纂して朝廷に献上し、それとは別に似た内容の自家用をつくって保存した。
奈良時代初期の「記紀」の完成より百年も前のことである。
なお国造とは朝廷の許可を得てその地方を統治する古代の世襲の地方官で、もともとその地を支配していた豪族がなっていた。
止羅宿禰の三代あとの養老五年(西暦七二一年)になって、これを数人で修選して「籠名神社祝部氏之本記(このなじんじゃはふりべうじのほんき)」とした。
養老五年といえば、「古事記」が完成した和銅五年(西暦七一二年)のわずか九年後、「日本書紀」が編纂された翌年である。
これは、皇室の求めに応じて「記紀」編纂用の史料を再提出した機会に、自分たち一族の史書を整備する意図だったのかもしれないし、また「記紀」の内容に異論があって、編纂したのかもしれない。
おそらくこういう史料編纂は、多くの豪族が皇室の求めに応じてなしたり、また「記紀」に不満をもって独自になしたりしたであろう。
有名なものに物部系の「先代旧事本紀」や齋部廣成(いんべのひろなり)の「古語拾遺」があるが、《籠神社》ほどの古さは珍しい。
それから平安前期、西暦八五九〜八七六年の貞観年中になって、第三十二世の海部直田雄祝(あまべのあたいたおのはふり)が勅命をうけ、過去の史料をもとに朝廷に差し出すための自家の系図を作成し、「籠名神社祝部氏(このなじんじゃはふりべうじ)系図」と名づけて丹後の役所に提出、同時に同じ内容の副本をつくってこれにも役所の丹後國印をうけて神社に保存した。
これが、現在まで伝世されて「海部氏系図(あまべのうじけいず)」と呼ばれている国宝である。
しかしこの系図は各代に一人ずつの代表者だけを縦に並べた縦系図で、詳細はわからない。
しかも、ある意図があったらしく、第四世から第十七世までが抜けている。
この第四世から第十七世にかけての時代は、大和朝廷でいえば(倭迹迹日百襲姫命)や崇神天皇の時代前後に相当しているし、「魏志倭人伝」でいえば(卑彌呼)の時代とその前後に相当している。
つまり、「大和朝廷の確立期と考えられる(卑彌呼)や(倭迹迹日百襲姫命)の時代の前後数代だけが抜けている」のだ。
(これらの系図では、「X世孫」という記法が用いられている。初代の子を兒、その子を孫、曾孫を三世孫、その子を四世孫・・・という表現法である。これは昔からの一般的な用法だが本書ではいちいち孫をつけるのはわずらわしいので「第X世」とする)
そこで第三十三世の海部直稻雄という人物が、仁和年中(西暦八八五〜八九年)に、それまでの史料をもとにして「丹波国造海部直等氏之本記(たにはのくにのみやつこあまべのあたいたちうじのほんき)」なる詳しい説明つきの系図をつくった。
正確にはこの前に「籠名神宮祝部(このなじんぐうはふりべ)」がつく。
これが略称「勘注系図(かんちゅうけいず)」で、そこには縦系図で抜けていた大和朝廷成立期の海部氏の先祖のこともくわしく記されている。
また天孫降臨についても独特の物語がある。
その内容は、「古事記」「日本書紀」などとはかなり違っていて、どちらかというと、海部氏と遠い親戚の物部一族が編纂したとされる「先代旧事本紀」に似ている。
大和朝廷の神武天皇と張り合った(饒速日命)を重要視しているのだ。
つまりこの「勘注系図」の内容は、朝廷の正史に抵触するおそれがあったため、朝廷から危険視されることを避けるために、「秘記として他見を許さず。海神の胎内に鎮め」と子孫に命じ、神社の奥に秘匿したのである。
この指示はじつに厳密に守られてきたらしく、著名な古文書学者もその内容を知らないできた。
たとえば、水戸黄門で知られる徳川光圀が有名な「大日本史」の編纂を計画したとき、この「勘注系図」の存在を知って見たいと申し入れたが、《籠神社》では丁重に断ったといわれている。
とうじの日本では将軍につぐ権力者だった光圀の依頼を断るほど、厳重に秘密を守ったのである。
これは代々書写されて保存され、現在国宝になっているものは、江戸時代初期の写本である。この写本の残りかたや古さも、「記紀」に匹敵している。
「記紀」の写本も、現存する完全なものはやはり江戸初期に写されている。
「勘注系図」の内容 
以下、この注目すべき史書「勘注系図」の内容について、略述する。
〔一〕主祭神の系図
《籠神社》の主祭神で始祖の彦火明(ひこほあかり)命は、またの名を天火明(あまのほあかり)命、さらにまたの名をお馴染みの(饒速日(にぎはやひ)命)といい、その家系はつぎのとおりである。
    (あまのおしほみみ)
 天照大神―天押穗耳命――長男・瓊瓊杵(ににぎ)尊(*1)
           ――二男・杵火火(きほほ)置瀬命
           ――三男・彦火明(ひこほあかり)命(*2)
           ――四男・彦火耳(ひこほみみ)命(*3)
(*1)「記紀」では日向に天孫降臨し、神武天皇の曾祖父になった神。
   「日本書紀」ではこの兄弟の長男ではなく父としている。
(*2)「古事記」と「日本書紀」の一書では長男になっている。
   「古事記」では天火明命、「日本書紀」では火明命と記述。
    別名は(饒速日命)で物部氏や海部氏の祖神とされ、この別名のほうが有名。
(*3)「日本書紀」では彦火火出見(ひこほほでみ)尊と記述。
この系図は、「古事記」や「日本書紀」や「日本書紀」の一書や「先代旧事本紀」と大まかには一致し、こまかな点では違っている。
〔二〕(饒速日命)の天孫降臨
さて、ここから興味深い神話が展開される。
瓊瓊杵尊が「三種の神器」を(天照大神)から授けられて日向の高千穂に降臨したとき、同じ天孫の(饒速日命)はやはり天祖神から息津(おきつ)鏡・辺津(へつ)鏡に弓矢を添えた神器を授かって丹波国――のちに丹後国になった地域――に降臨し、農業の神で(天照大神)の姪にあたる(豐受大神(とようけおおかみ))を祀った。
降臨した地点――瓊瓊杵尊の高千穂峰に相当する地点――は、《籠神社》から20Kmほど先にある息津島で、いまの名は冠(かんむり)島と沓(くつ)島である。
この二島は有名な雪舟の国宝「天橋立図」の手前部分に描かれている。実際には遠方なのだが、位置を大きくずらして描いているのだ。重要な伝説の島であることを知っていたからであろう。
またこのとき授かった神器の鏡が、本殿に伝世された図9・5の二面の「神鏡」である。
そのあと(饒速日命)は天磐船(あまのいわふね)にのって天空をかけて河内国に降り、さらに生駒山地を磐船で越えて《大和》の鳥見白辻山に移り、そこで可美眞手(うましまで)命を生んだ。
(この部分は、丹波降臨を除けば「先代旧事本紀」とほとんど同じである。先代旧事では(饒速日命)は最初河内に天下り、そのあと《大和》に入る。また子ども可美眞手の名は「記紀」とも同じである。この部分はどの史書も物部系の伝承を元にしていることがわかる)
そののち(饒速日命)は《大和》を神武天皇にゆずって丹後にもどり、《籠神社》の祭神となった。
《大和》を去った後の(饒速日命)の行方については、「記紀」など他の史書ではあいまいにされており、理屈にあう説明のあるのは、この「勘注系図」くらいであろう。
〔三〕神器の献上
そのあと第三世つまり(饒速日命)の曾孫である倭宿禰(やまとのすくね)命の代になって、《大和》に進出した神武天皇に大切な神器である息津鏡・辺津鏡を献上して恭順し、重んじられた。
「記紀」や「先代旧事本紀」とよく対応し、かつ微妙に違う物語だが、代数的にはこちらのほうが合理的だといえる。
すなわち倭宿禰命は(天照大神)から数えると第五世ということになるが、神武天皇もまた(天照大神)の五世の孫であり、同じ代の血縁なのである。
何代も代が違う(饒速日命)と神武天皇とが直接交渉したように読める「記紀」よりも得心がゆく。
この倭宿禰命は神武天皇その人と一致させる伝承もあるのだが、丹後から《大和》への道筋にはこの命に関係の深い神社がたくさんあり、古代においては、大きな存在感の一族だったことがわかる。
〔四〕朝廷提出系図では隠されていた部分
このあといよいよ、縦系図の「海部氏系図(あまべのうじけいず)」には隠されていた、崇神天皇前後のことが記される。
とりあえず(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)以外の件について記すと、第八世の日本得魂(やまとえたま)命のときに、(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)が(天照大神)を奉じて、(豐受大神(とようけおおかみ))のおられる吉佐(よさ)宮に遷ってこられた。
(これは朝廷側の記録とおなじである)
このあと記述は次第に具体的になり、第十四世は丹波国の大県主(おおあがたぬし)になり、第十六世のときに丹波国の国造(くにのみやつこ)に任じられた。広い丹波全体の統治者として、大和朝廷に認められたのだ。
天皇の代でいうと、国々を整備されたとされる第十三代成務天皇の御代である。
その孫が第十八世の建振熊宿禰(たけふるくまのすくね)だが、ここからは縦系図の「海部氏系図」でも隠してはおらず、各代一人ずつ正確に記入されている。
つまり、第四世(笠水彦(かさみずひこ)命)から第十七世(明國彦(あきくにひこ)命)までが、朝廷に提出した「海部氏系図」では省略されており、それが、朝廷には見せずに「厳秘」「門外不出」とされた「勘注系図(かんちゅうけいず)」には記されているのである。
天皇の代でいうと、推定だが、神武天皇の直後から仲哀天皇または(神功皇后)の時代まで――つまり大和朝廷確立期――である。
〔五〕(神功皇后)の遠征に従軍
第十八世の建振熊宿禰が注目されるのは、その時代がちょうど(神功皇后)の新羅遠征時にあたっていて、勅命を奉じて丹波・但馬・若狭の海人三百人をひきいて従軍し、功績をあげたと記されていることである。
有力な海洋族であったことを明白に示す記事だといえるし、(神功皇后)の実在性についての強力な証拠にもなりうるであろう。
もし(神功皇后)が架空の存在で大和朝廷が無理に正史に記入したものだとすると、この「勘注系図」のような、朝廷に抵抗して秘匿した史書にまで記されるはずはない。
この建振熊宿禰は「古事記」にも出ており、(神功皇后)が忍熊王(おしくまみこ)と戦ったとき、皇后側の武将として知略を用いて功績をあげたことが記されている。すなわち実在性はきわめてたかいといえる。
そしてこれらの功績への褒賞として、(神功皇后)から「海部直(あまべのあたい)」なる姓を賜ったとされている。
つまり、いまの県知事に相当する国造の姓(かばね)の直(あたい)は(神功皇后)を助けた恩賞であると、誇らしげに書かれているのだ。
そしてつぎの應神天皇のときに「丹波直(たにはのあたい)」や「但馬直(たじまのあたい)」にもなったと記されている。
〔六〕大化改新と初代国司
第二十四世になったとき、大化改新によって世襲の国造制度が廃止され、各国の統治者は朝廷が任命して派遣する「国司(くにのつかさ)」という地方官になった。
そしてそれまで首長だった「国造(くにのみやつこ)」の一族は、主として、その地方の中心的な神社の宮司として祭祀をつかさどるようになった。
祭政が分離されて、各地方の行政官は中央が任命するようになり、世襲の豪族は祭りのみを役職とするようになったのだ。
ただし海部氏のような力のある豪族は、祭祀とともにそのまま国司にも任命されて、政治行政もまかされた。
海部一族は祭祀者としての祝(はふり)が名前につけられ、大化四年(西暦六四八年)に(豐受大神(とようけおおかみ))を祭る神社が、眞名井原(まないはら)に籠宮(このみや)としてできた。
朝廷に正式に認められた《籠神社》の原型の誕生である。
和銅六年(西暦七一三年)に丹後国が分離独立したが、このとき第二十五世が丹後国の初代国司となった。政治力が認められたのであろう。
〔七〕《籠神社》の正式の創建
ついで第二十六世の海部直千嶋祝(あまべのあたいちしまのはふり)は養老三年(西暦七一九年)から三十一年間宮司の職にあったが、このとき《籠神社》に始祖神の(饒速日(にぎはやひ)命)を祀るようになったとされている。
(豐受大神)も(饒速日命)もずっと前から奉斎されていたのだが、この時期に神社の制度が朝廷によって明確なものとなったので、これをもって《籠神社》の正式の発足としているのである。
〔八〕「勘注系図」の編纂
第三十三世の海部直稻雄はこの「勘注系図(かんちゅうけいず)」の編纂者であるが、系図は第三十四世にあたる子の諸茂で終わっている。
海部家はそのあとも《籠神社》の宮司として延々とつづき、現在は第八十二世の海部光彦氏がつとめておられる。
これは驚異的な長寿家系で、一代の平均が天皇家より長いので、今上天皇の第百二十五代にはおよばないが、古さは同じであり、天皇家以外でこの代数にくらべられるのは出雲大社宮司の千家(せんげ)氏の第八十三代くらいなものである。
〔九〕姻戚関係
海部家はとうぜんながら古代からの諸豪族と関係が深く、天皇家に嫁いだ姫もいるし、江戸時代には徳川家に嫁いだ姫もいる。
系図上でつながっている天皇家や物部氏以外の古代豪族としては、尾張(おわり)・安曇(あずみ)・伊福部(いほきべ)・和珥(わに)・葛城(かつらぎ)氏などがある。
安曇氏は同一祖先を主張する海洋系豪族だし、和珥氏は前述の建振熊宿禰を祖とすると伝えられる。
「先代旧事本紀」の天孫本紀の系譜によると、(饒速日命)の子孫は大きく「物部氏系」と「海部+尾張+その他系」に分けられており、後者がさらに分かれて尾張氏系や海部氏系が生まれている。
物部氏系は天皇家とさかんに婚姻関係をむすんでいてほとんど一体化しているが、分かれる前の海部氏+尾張氏系も何人かの皇后やお妃を出している。
第五代幸昭天皇の皇后で奥津余曽の妹の世襲足媛(よそたらしひめ)命や、第十代崇神天皇の妃となって渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命を生んだ大海姫(おおあまひめ)命(別名葛木高名姫命)などがそれである。
「古事記」「日本書紀」「先代旧事本紀」「勘注系図」を比較すると、同一名が代のちがう所にいたり、別の人物に同じ名がついていたりして整理しにくいが、何百年間もの口伝を別個の豪族たちがそれぞれ主張し記録しているのだから、あまり神経質になるのも意味がないであろう。
〔十〕海外との関係
本書でしばしば引用した朝鮮最古の史書「三国史記」に、丹後と新羅の関係についておもしろいエピソードがあるので、記しておく。
「三国史記」の新羅本紀に、第四代の王について、つぎのように書かれている。
「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」
「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」
「脱解尼師今が即位した(吐解ともいう)。王はこの時(A・D五七)、年が六十二歳で姓は昔氏、妃は阿孝夫人である。脱解王はもと多婆那国の出身で、その国は倭国の東北一千里のところにある。・・・(金思Y訳)」
(このあと、朝鮮によくある伝説として、多婆那国の王の妃が卵を産んで海に流されて生まれ、海岸に漂着した――という話がある。脱解尼師今は「とへにさこむ」で、尼師今(にさこむ)は首長といった意味。箱(船)を解いて脱出してきたので脱解という名がついたという話も書かれている。多婆那国は「たばな国」と読める)
一方《籠神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているらしい。
そこで、丹後と多婆那国の関係について、少し考察してみる。
まず地理についてだが、「三国史記」には「倭国の東北千里」とある。
倭国とは日本のことだが、弥生時代においては、北九州の国々を主として倭国(一部朝鮮半島南端部を含む)と呼んでいたようである。
それは、「三国志」の東夷伝を読めばわかる。
だとすると、北九州を起点にして「東北へ千里」の場所で脱解尼師今は生まれたことになる。
北九州から見た東北の方角で、王様のいそうな場所というと、日本列島の日本海側だけである。
で、千里とはどのくらいかというと、仮に昔のシナの里を使っていたとすると、魏の時代の里は、
「一里=435m」なので、「千里=435Km」となる。これを地図上で計ると、「鳥取から丹後のあたり」になる。もちろん、単に遠方という意味で千里といった可能性もあるが、概略の距離を示しているとすれば、こうなる。
そういうわけで、丹後半島付け根の《籠神社》の伝説と合わせて、《多婆那国》=《丹後国》が暗示されて興味深い。
もともと丹後地方は、海洋族の勢力圏で、朝鮮半島との交流があったと考えられているので、丹後の王権の王子の誰か(またはその一族)が新羅に渡った可能性は大きい。
渡っていないほうがむしろ不思議なくらいである。
さてつぎに、「多婆那国とは現在の丹後ではないか」という推理の根拠を、読みで示すが、その前に丹後と丹波の関係を記しておく。
前にも記したが、現在の丹後は、かつての《丹後国》で、さらに昔は《丹波国》の一部であった。
西暦713年に《丹波国》の(都から見て)後ろの方が独立して《丹後国》になったので、新羅云々の時代には《丹波国》と呼ばれていた。
つまり、《籠神社》の一帯は、古代においては《丹波国》であった。
現丹後の《丹波国》は、《伊勢神宮》の外宮の神(豊受大神)で知られるように、田畑に恵まれて食べ物の生産に適した地方だった。
で、《丹波》の語源だが、もともとは田畑の豊富な場所という意味の《田庭》だったらしいと言われている。
これも既述したことだが、以下にもう少し詳しく記す。
国語辞書に書かれている事だが、昔の「庭」の発音は(には)で、それが省略されて「場(ば)」という言葉が出来た。
日本語における「には」や「ば」は、仕事をする場所や家の近くの場所を意味するが、漢字の「庭」の元々の意味は祭祀の場所である。
日本においても、神聖な場所、汚してはいけない場所をも意味していたらしい。家の近くは汚してはいけないし、仕事場は神聖だから、当然である。
だから、こういう漢字を当てはめたのであろう。
ところで、「には」から「ば」が出来てから、「庭」という漢字は「ば」とも読むようになった。
「大庭」「古庭」といった苗字があるが、これは「おおば」「こば」と読むことが多い。
だから、田の庭(田庭)の意味の「たには」が省略されて「たば」になり、それが「たんば」と読まれて《丹波》という漢字で書かれるようになったといわれる。
つまり、現《丹後国》の弥生時代の呼び名は、《田庭(たば)国》であった可能性が高いのである。
(以上は語呂合わせ的に考えた話ではない。国語の専門家によって編纂された多くの辞書類に記されていることである。この先はすこし著者の推理が入る)
以上から、現在の丹後地方は、もと《丹波(たんば)国》であり、それはさらに前には《田庭(たば)国》と呼ばれていた――ということになる。
さて、日本語では、多くの場合、《出雲国》は「いずもの国」、《尾張国》は「おわりの国」・・・というように、国の前に「の」をつけて発音するのが普通である。
だから発音をきちんと書けば、《田庭国》は、「たにはの国」から庭(には)→場(ば)の変形がなされて「たばの国」(田畑のある場所)と呼ばれるようになり、さらにそれが「たんばの国」になって《丹波国》と書かれるようになったと推理できる。
したがって、現在の《丹後地方》は、弥生時代には「たばの国」と呼ばれていた可能性が高く、それをローマ字で書くと、「TABANO国」となる。
ところで「三国史記」の《多婆那国》は、音で読んで「タバナ国」、ローマ字にすると、「TABANA国」である。つまり、ほとんど同じ発音なのだ。
だから、古代の新羅の人たちが、現丹後地方に対する日本人の呼び方をそのまま音写して、《多婆那国》と記した可能性はきわめて高いと思われる。
以上のことから、新羅の第四代の王・脱解尼師今が現丹後地方出身の日本人だった可能性が考えられるのである。
(あまり言いたくはないのですが、僞史をふりまわして古代日本が半島の属国だったように言う韓国人はたくさんいるようですが、上のような史料性の高い逆の話をする日本人は見かけません) 
9-8 「勘注系図」にある驚くべき倭迹迹日百襲姫命の尊称

 

朝廷に秘匿した「勘注系図」の部分 
朝廷(丹後国の役所)に提出された「海部氏(あまべのうじ)系図」には、大和朝廷確立期にあたる崇神天皇前後からしばらくの家系が抜けており、第三世からいきなり第十八世にとんでいることはすでに述べた。
そして興味ぶかいことに、この提出用系図に記されなかった第四世から第十七世にいたる部分が「勘注系図」には詳しく記されており、そこに(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)がいくつかの重要な別名とともに記載されているのである。
この年代は「記紀」でいえば初代神武天皇のすぐあとから第十四代の仲哀天皇あたりまでとなるなので、そのころの天皇名がいくつも記されている。
初代神武天皇、第二代綏靖天皇、第七代孝霊天皇((百襲姫命)の父)、第十代崇神天皇、(神功皇后)、第十二代景行天皇、その兄で物部一族の神社《石上神宮》の初代責任者だった五十瓊敷(いにしき)命・・・などが、国風謚号(しごう)または諱(いみな)によって記されているのだ。
海部一族は、大和朝廷と遠祖神を同一とし、かつ(饒速日(にぎはやひ)命)系として仕えて婚姻関係もあるので、成立期の天皇名が系図上に記されるのは自然なことである。
さて「勘注系図」は、一代一人の提出用「海部氏系図」とはちがって、ある代に何人もの人名がならび、それに注や解説がこまかく付属していて輻輳しており、読みとるのが困難なのだが、しばらく睨んでいるとおおまかなことは分かってくる。
(倭迹迹日百襲姫命)に関連する重要な部分を図9・6に示しておいたので眺めていただきたい。
まず最初に、第二十世までの歴代海部氏と、同時代と推理される大和朝廷の各代の名を、ならべて書き出してみる。
上が「勘注系図」にある中心的人物であり、下がその時代の「記紀」による大和朝廷の代表名――主に天皇名――である。
朝廷提出用の「海部氏系図」のほうで隠されていた代を太字で表示してある。
なおこの一覧にいたるまでの神代系図は両者同じである。また読みの一部に著者の推定がある。(以下のリストでは読みがなは略します。見にくくなりますので)
 始祖   彦火明命(饒速日命)    −03瓊瓊杵尊
 兒    天香語山命            −02彦火火出見尊
 孫    天村雲命              −01鵜草葺不合尊
 第三世  倭宿禰命(神宝を献上)    01神武天皇
 第四世  笠水彦命              02綏靖天皇
 第五世  笠津彦命
 第六世  建田勢命              03安寧天皇
                               04懿徳天皇
                               05孝昭天皇
                               06孝安天皇
 第七世  建諸隅命              07孝靈天皇
                               08孝元天皇
 第八世  日本得魂命(天照を奉斎)   09開化天皇
 第九世  意富那比命(姉が百襲姫命) 10崇神天皇
 第十世  乎縫命(妹が豐鍬入姫命?)
 第十一世 小登與命(御間木入彦)   11垂仁天皇
 第十二世 建稻種命              12景行天皇
 第十三世 志理都彦命
 第十四世 川上眞稚命(大縣主)     13成務天皇
 第十五世 丹波大矢田彦命
 第十六世 丹波國造大倉岐命
 第十七世 丹波國造明國彦命      14仲哀天皇
 第十八世 丹波國造建振熊宿禰    15神功皇后
 第十九世 丹波國造海部直都比    16應神天皇
 第二十世 丹波國造海部直縣      17仁徳天皇
この対応はおおまかなものにすぎず、とくに「勘注系図」においては、同じ名が数カ所にあるなど多少混乱するが、何代も違っていることはないであろう。さて、「海部氏系図」で隠されていた第四世〜第十七世のなかでとくに興味ぶかいのが、第九世、第十世、第十一世の三代なので、ここにどのような人物が記されているかを書き出してみよう。
第九世意富那比命の代にいる(倭迹迹日百襲姫命)
第九世の箇所にはつぎの兄弟姉妹がならんでいる。
  乙彦命(おとひこ/長男/亦名彦國玖琉命で孝元天皇と同名)
  日女命(ひめ/長女)
  玉勝山背根子命(たまかつやませねこ/二男)
  若津保命(わかつほ/三男)
  置津世襲命(おきつよそ/四男/尾張の祖とされる孝昭天皇皇后世襲足媛の兄と同名)
  意富那比命(おおなひこ/五男/第九世/古事記で尾張の祖)
  葛木高千名姫命(かつらぎたかちなひめ/二女/亦名大海姫/古事記で孝元天皇皇子の妃)
  (括弧のなかは系図の右ほど年長と仮定)
この兄弟姉妹の名は聞き慣れないようだが、「日本書紀」と比較すると、似た名が似た年代にいくつも見つかる。これらの御子たちにはほかにも別名があるが、とくに驚くのは長女・日女命の別名である。一云、亦名といった書き方で記されている名前を列挙してみると、
(倭迹迹日百襲姫命)
(日女命)(これを主要名としている)
(日神)
(神大市姫命)
(中津姫命)
(千々速日女命)
――の六つである。
興味津々たる名前がならんでいるので、この各別名について「記紀」との関係を調べてみよう。
(一)(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)
いうまでもなく、第八〜十章で話題にしている、崇神天皇を助けた神子(みこ/巫女)で、(卑彌呼(ひみこ))の有力候補である。世代的にも崇神天皇紀と矛盾していない。また長男・乙彦(おとひこ)命の別名が孝元天皇と同じなので、これを孝元天皇とすると、日本書紀の孝靈天皇の御子たちの記録と同じになる。
(二)(日女(ひめ)命)
この「勘注系図」で主要名として記されているが、もちろんこれは姫(ひめ)命という神子(みこ)的な敬称をより高貴な――太陽の妻の意味をもつ――文字であらわしたものであり、本来は(XXX日女命)と書くべき尊称である。それがたんに(日女命)となっているのは、この女性が尊称だけで誰にでもわかるほど著名だったということを意味している。いま天皇といえば今上天皇をあらわしているのと同じである。
(三)(日神(ひのかみ))
これは(日女命)にもまして容易ならぬ別名である。とうぜんながら日神祭祀・太陽祭祀を連想する名で、「太陽神」という意味である。すでに記したが、歴代天皇名ですら、「神」なる文字が使用されているのは神武天皇、崇神天皇、應神天皇の三天皇のみであり、また皇后では(神功皇后)のみである。それが、天皇でも皇后でもない女性に対して、太陽の神という(天照大神)なみの別格の尊称を与えているのだ。
(四)(神大市姫(かみおおいちひめ)命)
(倭迹迹日百襲姫命)の《箸墓》の場所の古代の名が大市(おおいち)であることが「日本書紀」に記されており、宮内庁の正式の名も《大市墓》なので、この名は謚号として理解できる別名だが、頭に「神」がつけられている点が印象的である。神代を除くと、こういう種類の名はほとんど見られない。神代では素戔嗚尊が出雲で娶った姫の名として神大市比賣がでてくるが、これは神の娘である。つまりこの(神大市姫命)も、じつに神代的な名なのである。
(五)(中津姫(なかつひめ)命)
この名は「記紀」には探せなかったが、水流や港を連想させる名で、水郷だったと想像されている《大和》の貴人にふさわしい。
(六)(千々速日女(ちちはやひめ)命)
この名も高貴な印象を与えるが、「古事記」において、孝靈天皇の皇女で(倭迹迹日百襲姫命)とは母違いの姉妹として出てくる千々速比賣命と同名である。だから錯覚があったのかもしれないが、逆に「古事記」のほうが違っていて(倭迹迹日百襲姫命)と同一人物なのかもしれない。文字で注意をひくのは、姫や比賣ではなく日女という特別な文字をあてていることである。また、「千々速」が(百襲姫命)の「日本書紀」の別名にある「迹速」を連想させることも注意をひく。いずれにせよ、「日本書紀」とこの「勘注系図」を合わせた(倭迹迹日百襲姫命)の別名は、「一皇女にしては、偉大すぎる」のである。
(七)他の兄弟姉妹
「勘注系図」にある(百襲姫命)の妹は葛木高千名姫(かつらぎたかちなひめ)であるが、これは「日本書紀」にある妹の倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)命や「古事記」にある妹の倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)とはかなり違っているので、別の伝承なのであろう。
男の兄弟も「記紀」と一致していないことから、(倭迹迹日百襲姫命)の兄弟姉妹について、「記紀」とはかなり違った饒速日系独自の伝承があったことが推定できる。
ところで葛木高千名姫という名は「古事記」の第八代孝元天皇のところに出ている。すなわち孝元天皇の皇子のひとりの比古布都押之信(ひこふつおしのまこと)命が尾張連(おわりのむらじ))の祖の意富那毘(おおなひ)の妹の葛城之高千那毘賣(かつらぎのたかちなひめ)を娶った――とあるのだ。
これが同一女性とすると、(倭迹迹日百襲姫命)の妹が天皇の皇子と結婚したことになる。
また「勘注系図」でも「先代旧事本紀」でもこの姫の別名は大海姫(おおあまひめ)とされ、だとすると前出の崇神天皇の妃で、日本大国魂神の祭祀を命じられた渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命を生んだ尾張大海姫ということになる。
(「先代旧事本紀」での名は葛木高名姫命)
もしそうだとすると、崇神天皇は(倭迹迹日百襲姫命)の義理の弟ということになる。ズバリ「魏志倭人伝」の「男弟」そのものになるのだ!
第十世乎縫(おぬい)命の代にいる(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)
ここには次の兄弟姉妹がならんでいる。
 安波夜別命(長男)
 伊岐志饒穗命(二男)
 宇麻志饒田命(三男)
 小止與命(四男)
 大原足尼(五男)
 乎縫命(六男/第十世)
 大倭姫命(長女)
ここで注目すべきは大倭姫命で、別名としては(倭迹迹日百襲姫命)の姪として何度か記した孝元天皇の皇女(倭迹迹姫命)があげられている。
このほか崇神天皇の皇女の(豐鍬入姫命)も別名として記されている。
そしてすこし前の部分に、この大倭姫が崇神天皇の御代に(天照大神)の祭祀を司り、亦名倭迹迹日女命千々姫、亦云豐鍬入姫である――と記されている。
皇女名の混乱があるのかもしれないが、これが「記紀」の(豐鍬入姫命)を示している可能性はきわめて高く、だとすれば(百襲姫命)の姪ということになる。
まさに「魏志倭人伝」の「宗女臺與(とよ)」そのものである!
第十一世小登與(おとよ)命の代にいる(倭姫命)
この代には、第九世についで注目される名がある。
 阿多根命(長男)
 建稻種命(二男)
 小登與命(三男/第十一世)
 日女命(長女)
このなかで建稻種命は第十二世の名であるが、これは意見が複数あって混乱したのかもしれないし、じっさいに兄弟が後継者になったのかもしれない。兄弟の継承は古代の天皇家でもありふれたことであった。
第十一世となった小登與命もほとんど同じ名が第十世の兄弟にあるが、この小登與命は、「草薙剣」を祀って熱田神宮を創建した尾張一族の第十一世の当主・乎止與命または小豊命(おとよのみこと)と同一と考えられる。
「先代旧事本紀」にも第十一世として記されている。
つまり尾張一族と海部一族とが同一の系譜上にあることになる。
熱田神宮の伝承では、この乎止與命の子の建稻種命(たけいなだねのみこと)が日本武尊を助けて奮戦したとある。
小登與命は第十一世であるが、その別名に御間木入彦(みまきいりひこ)とあるのが注目される。
これは崇神天皇の国風謚号――または諱/実名――である(御間城入彦)と同一である。
したがってこの小登與命が崇神天皇その人である可能性も無いではないが、不明確である。
第八章に記したように、《三輪山》の語源譚に糸巻に三巻残ったので三輪と名づけたという話があるので、三輪はミマキとも発音したと想像でき、したがって「ミマキイリヒコ」とは、入り婿婚を示す以外に、《三輪山》の麓に入ってきた高貴な男性をあらわすとも解釈できる。
そして海部氏の第十一世にもこの名がつけられているということは、「ミマキイリヒコ」が普通名詞に近い使われ方をしていて、外部から《三輪山》近くにやってきた何人もの貴人がそう名乗っていた可能性を示している。
そう仮定すると、「魏志倭人伝」にある《邪馬台国》の副官・彌馬升(みましょう)や彌馬獲支(みまかくき)(第三章参照)の「ミマ」が「ミマキイリヒコ」に近い名前だった可能性が強まる。
外部から三輪山麓に来た要人たちのおおくが「ミマキイリヒコ」を名乗り、そのあとにつく言葉で区別したのかもしれない。
崇神天皇の場合は「ミマキイリヒコ」の次に五十瓊殖天皇(いにえのすめらみこと)という典雅な尊称をつけて、天皇であることを明確にしている。
さて、最後にならんでいるのが、問題の日女命である。
きわめて高貴な女性であることは間違いないのだが、「日本書紀」で誰に相当するのだろうか?
第九世の日女命は(倭迹迹日百襲姫命)であることが明瞭に記されていて「日本書紀」との対応がとれるのだが、ここの日女命はどうなのだろう。
この命には、数多くの別名が注記されていて、やっかいなのだが、わかりやすい名のみを書き出してみよう。
(日女命)(これが主要名)
(稚日女命)
(小豐姫命)
(豐受姫命)
(倭姫命)
このうち(稚日女(わかひめ)命)は、(倭迹迹日百襲姫命)である(日女命)の後継者であることが、かなり明確な名である。そして、たんに若い日女命で通じたということは、別格の著名人であったことを意味している。
つぎの(小豐姫(ことよひめ)命)と(豐受姫(とようけひめ)命)は、「魏志倭人伝」における(臺與(とよ))を連想させる名である。
またさいごの(倭姫(やまとひめ)命)は、(天照大神)を《伊勢神宮》に祀った初代斎王の名そのものであり、「記紀」と比較して世代的にも矛盾はない。
このいくつかの別名でおもしろいのは、第九世の(日女命)の後継者である(稚日女命)が「トヨ」という別名をもち、そして「記紀」における名が(倭姫命)だということである。
つまり、(天照大神)の祭祀を途中で降板した(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)と同じように、(倭姫命)も「トヨ」とも呼ばれていた可能性がある――ということである。
(ちなみに(稚日女命)は(天照大神)の娘または妹とされる(稚日女尊)と同名である)
だから、(豐鍬入姫命)と(倭姫命)の両者が「魏志倭人伝」の(臺與)の候補になりうることになる。
ただし年代的には(豐鍬入姫命)のほうが矛盾がすくないように思える。
もちろん「勘注系図」の記法にはあいまいなところがあるので、これ以上議論をすすめるのは危険である。
前節の〔九〕に記したように海部+尾張氏の系統は(饒速日命)系といっても物部氏とは別であるし、大和朝廷を別の角度から見たものでもない。
したがって系図をまともに解釈すれば、「勘注系図」の(倭迹迹日百襲姫命)や(豐鍬入姫命)や(倭姫命)は「日本書紀」のそれとは別の人物である。
しかし崇神天皇の前後に偉大な女性が存在したという記憶が天皇家と海部氏の双方にあり、それが同一人物なのに天皇家では神託を述べる直系の皇女とし、海部一族では日神と尊称すべき自分たちの先祖であると信じていたことは十分にありうる。
海部+尾張氏系も大和朝廷と婚姻関係を結んでいるので、(倭迹迹日百襲姫命)が双方の血縁であっても、すこしも不思議ではない。
しかし、「日本書紀」と「勘注系図」とでは違いも多いので、もし正否を争ったら海部氏は朝廷に滅ぼされるかもしれない。
だから海部氏の先祖は「勘注系図」を秘匿したのだろう――とも考えられるのである。 
9-9 「勘注系図」と卑彌呼についての二、三の推理

 

本節では、ここまでの数節で述べた《籠神社》や「勘注系図」をもとにして何が考えられるかを、とりあえずまとめてみたいが、その前に「先代旧事本紀」において(倭迹迹日百襲姫命)の時代に何が記されているかについて触れておく。そこにもまた、じつに興味ぶかい系図があるのだ。
「先代旧事本紀」に記された(倭迹迹日百襲姫命)
「先代旧事本紀」は「記紀」よりすこしあとの時代に海部氏とおなじく(饒速日命)を祖とする物部系の人たちが、大和朝廷の正史「記紀」に不満をもって編纂したと伝えられている。
この史書には「勘注系図」によく似た場面が多いのだが、最初から公開を目的として書かれているため、崇神天皇の時代の話は「勘注系図」ほど露骨ではない。
しかしじつは、同じ(日女命)がちゃんと記されているのだ。図9・7にその部分を掲載した。
これは、「先代旧事本紀」の古い研究書「國造本紀考」の尾張氏系図の部分で、(饒速日命)から数えて十三世くらいまでは「勘注系図」とよく対応しており、海部氏は物部とは遠い親戚、尾張とは近い親戚であることがわかる。(日女命)の部分もそうで、
 弟彦命     → 乙彦命
 日女命     → 日女命
 玉勝山代根古命 → 玉勝山背根子命
 若都保命    → 若津保命
 置部與曽命   → 置津世襲命?
 彦與曽命    → 意富那比命?
 否井命     → ?
――のように対応している。
(日女命)の別名については、「勘注系図」のようなくわしい説明がないが、それは朝廷にも見せる史料だったからであろう。
とにかく、「ヒメミコト」のみで通じる偉大な女性が崇神天皇の時代前後に活躍していたという記憶が、「勘注系図」の編者だけではなく、「先代旧事本紀」の編纂者にもあったことは間違いない。
そしてその(日女命)が(倭迹迹日百襲姫命)である可能性はきわめて高く、さらに当時のシナの使者によって(卑彌呼)と記録された可能性もまたきわめて高い。
「勘注系図」も「先代旧事本紀」も(饒速日命)を祖と考える人たちが編纂したことから、(倭迹迹日百襲姫命)への崇拝は(饒速日命)と関係しており、その系列の氏族に伝承されていたと推理できる。
さて本題にはいって、「勘注系図」と「記紀」を比較したときすぐに脳裏にうかぶいくつかのことを、記してみよう。
「勘注系図」と「記紀」の比較から推理できること 
(一)(天照大神)の尊称との類似
「勘注系図」にある(倭迹迹日百襲姫命)の別名を見たとき、最初に頭に浮かぶのは、もちろん、(天照大神)である。
(天照大神)は「古事記」では(天照大御神)または(天照大神)として出てくるが、「日本書紀」の神代紀では、「(伊弉諾尊・伊弉冉尊が)是に共に日神を生む。大日靈女貴(おおひるめのむち)と号す。一書に天照大神という」とある。
つまり伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊が生んだのが日神で、その正式名が大日靈女貴、別名が(天照大神)だというわけである。
一般名を除いて、(倭迹迹日百襲姫命)の別名と対照してならべると、
(大日靈女貴)→(日女命)
(日神)   →(日神)
(日女命)  →(日女命)
――となる。
つまり、(倭迹迹日百襲姫命)の別名は、(天照大神)の別名とそっくりなのである。
(天照大神)が日神祭祀の対象であり、日神すなわち太陽神そのものだったことは明かだが、それと同じ名をつけられた(倭迹迹日百襲姫命)も、「勘注系図」の編者にとっては、太陽の妻(日女命)であるとともに、日神であり、したがって太陽神でもあり、たぶん日神祭祀を司った貴人として記憶されていたのであろう。
これは重要な対照関係である。
(二)史実の推理
(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)は《三輪山》の(大物主(おおものぬし)神)の神託をのべただけではなく、日神祭祀もつかさどって大和朝廷を指導し、(日神)(日女命)(神大市姫命)などと尊称されていたが、崇神天皇の力が強まってからは、大和朝廷の祖神で太陽神の(天照大神)を、(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)に奉斎させ、日神祭祀の中心を《三輪山》の(大物主神)から神殿の(天照大神)に移した。
「魏志倭人伝」にある(卑彌呼)の死後の混乱や(臺與(とよ))の後継による終息は、そのときの、
「《三輪山》(大物主神)派」対「朝廷祖神(天照大神)派」の軋轢と解決を物語っている。
そしてこの軋轢は、大和朝廷と(饒速日(にぎはやひ)命)系との勢力争いでもあった。
(臺與)という後継者名は、(豐鍬入姫命)の略である。
シナ史書では、日本名が極端に縮めて記載されることは、倭の五王の所でも記したとおりである。
もうひとつ面白い対応がある。
それは、「魏志倭人伝」の卑彌呼には夫がいないが、「記紀」や「勘注系図」の(倭迹迹日百襲姫命)にも夫がいない事である。
(三)「記紀」編者の立場
「記紀」の編者は崇神天皇の業績と(豐鍬入姫命)による(天照大神)奉斎を物語の中心にすえる必要上、(倭迹迹日百襲姫命)についての(日神)などの尊称を記さず、日神祭祀を連想させない別名のみを記し、予言や神託は記しても、日神祭祀に関することは記さなかった。
(これは有名な原田大六の考え方に近い)
(四)「勘注系図」の編者の立場
(倭迹迹日百襲姫命)を崇敬する(饒速日命)系の海部氏は、この「記紀」の内容に不満をもって「勘注系図」を編纂し、(日神)(日女命)(神大市姫命)といった別格の尊称を明記した。
しかし大和朝廷に提出する「海部氏系図」ではその時代の前後を隠して記さず、かつ、明記した「勘注系図」は秘匿するよう子孫に厳命した。
似た立場の物部氏も「記紀」に不満をもって「先代旧事本紀」を編纂してそれを記したが、公開の書だったために、(倭迹迹日百襲姫命)の箇所に単に(日女命)とのみ記し、あいまいな形にした。
(五)(天照大神)との関係
人々が(倭迹迹日百襲姫命)を(日神)と尊称したのだとしたら、それは(天照大神)とおなじくらい偉大だと考えていたからだと推理できる。
これとは逆に、(天照大神)を(日神)としたのは、(倭迹迹日百襲姫命)への崇敬を大和朝廷の先祖神に移行させる意図によるものかもしれない。
この考え方からすると、西暦二四七年や二四八年に日本列島上で生起した日蝕による騒乱が、(倭迹迹日百襲姫命)=(卑彌呼)の死をもたらし、そのことが神代における(天照大神)の岩屋隠れの伝説を生んだとも推理できないことはない。
(六)(卑彌呼)なる名の由来
(倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめみこと))がたんに(日女命(ひめみこと))と呼ばれていたとすれば、それは末尾の尊称だけで話が通じるほど偉大で人々の記憶にのこる別格の存在だったからである。
そして、(日女命)は(卑彌呼)(ひみこ、または、ひめこ)とほとんど同じ発音であり、「魏志倭人伝」の記述は、当時の《大和》の人たちの言葉をほとんどそのまま音写していたことになる。
(七)「勘注系図」の信憑性
神社にのこされた古文書には偽書も多いといわれる。
しかし前述のように「勘注系図」は、科学的鑑定法が高度化した戦後の専門家によって厳格な審査をうけ、その結果が認められて国宝に認定された文書である。
したがってその信憑性はきわめて高い。
また、(卑彌呼)とは誰なのか、《邪馬台国》とはどこなのか――といった議論は明治中期以降に盛んになったものだから、この「勘注系図」の編者や書写の主はそのような議論が後世になされるだろうなどとはまったく考えておらず、したがって特定の意図をもって(日女命)や(日神)を創作したとは、とうてい考えられない。
だからこれは、「記紀」より古くから饒速日(にぎはやひ)系の氏族に伝えられ、信じられてきた史話そのものなのであろう。
おおまかにいって、「勘注系図」について以上のようなことが考えられるが、これらはあくまでも一つの「推理」であり、そういう可能性もあるだろう――ということである。 
9-10 「三種の神器」の謎について

 

これまで数回にわたって「三種の神器」の話がでてきた。これは名前はとても有名だが、その歴史や意味については、あまり知られていない。戦後の歴史教育が軽視したからである。
そこで、いくつかの資料をもとに、「「三種の神器」とは何か」「その歴史はどうなのか」「それは現在どうなっているのか」について、簡単にまとめてみたい。
「三種の神器」とは、つぎの三種の神宝である。(またはミクサノカンダカラ)
「神鏡」=「八咫鏡(やたのかがみ)」
「神剣」=「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」(はじめは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」といわれた)
「神璽」=「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)」(「八坂瓊の五百箇御統(いおつみすまる)」ともいわれる)
鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、とくに天皇家に永く継承されている「三種の神器」は、太陽神で日本全体の祖神というべき(天照大神)の時代に端を発し、それが現在まで――精神としても物としても――伝えられているものであって、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。
「三種の神器」の由緒 
第六章に記したが、高天原において、素戔嗚(すさのお)尊の乱暴に悩んだ(天照大神)が天の岩屋にお隠れになったとき、困った神々が岩屋の前に天香具山の聖木・榊を立てて、上部に「神璽」をかけ、中ほどに「神鏡」をかけたのが、この二つが歴史に出てくる最初である。
「神鏡」である「八咫鏡」の咫は手指をひろげた長さとされるが、ここでの意味は大きな立派な神鏡ということであり、伊斯許理度賣(いしこりどめ)命がつくったとされる。鏡をつくる職人集団・鏡作部の祖神である。
「神璽」と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,のような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖(たまのおや)命と呼ばれる職人集団の祖神である。
家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々が立てた、鏡と勾玉をかけた神木を模したものである。
「神剣」は、やはり第六章で述べたとおり、高天原から追放された素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、その尾のなかから出てきた霊剣で、それを和解した(天照大神)に献上したものである。
これについては、出雲の豪族が帰順のしるしに大和朝廷に献上したのだという解釈もある。
神棚の向かって左の眞榊にこの「神剣」を模した剣がかけられている。
(天照大神)は、天孫の瓊瓊杵(ににぎ)尊が高天原から日向の地に降臨するにさいしてこの「三種の神器」を授け、とくに「神鏡」については、「これを自分(御霊代/みたましろ)だと思って祀るように」と教えた。
このため「三種の神器」のなかでも「八咫鏡」は別格の存在として扱われてきている。
「三種の神器」の神社への奉斎 
「三種の神器」は瓊瓊杵尊から神武天皇まで引き継がれ、神武天皇が即位してからは、ずっと皇宮に祀られてきた。
しかし第八章に記したように、第十代崇神天皇の御代に、大和朝廷に大きな変化がおこり、「神鏡」と「神剣」を(豐鍬入姫命)が斎王としてあずかって、皇宮外の神社に奉斎することになった。
この神社は(豐鍬入姫命)から(倭姫命)にかけて何カ所も遷ったが、第十一代垂仁天皇の御代に《伊勢神宮》の内宮――皇大神宮――におちついた。
このうち「神剣」は、つぎの第十二代景行天皇の御代になって皇子の日本武尊が東国遠征の途についたとき、(倭姫命)から授けられ、火攻めにあったときに草を薙いで一行を助けたため、「草薙剣」と命名された。
日本武尊は《大和》に帰ることができずに悲運の死をとげるが、そのとき剣がおかれていた近くに熱田神宮ができ、剣はそこに祀られた。
熱田神宮の場所は、昔尾張国だった名古屋市内であるが、そういう関係でこの「神剣」の管理は尾張一族がおこなうことになった。
尾張氏は(饒速日命)の子孫だが、天皇の先祖と争った一族の子孫が責任者になったのはおもしろい。
《伊勢神宮》は二十年ごとにすべてを作り直す式年遷宮――前回は平成五年でつぎが平成二十五年――がなされるが、そのときは、本殿だけではなく鳥居や橋や古代から伝わる神宝類や装束類も、同じ形のものをつくりなおす。その数は数万点にもおよぶと言われる。
このときにトキの羽が必要なのでトキの絶滅が大問題になっているのだ。
ただし「八咫鏡」だけは――当然のことではあるが――絶対に直視することなく、新しく造られた御樋代に奉安され、それがさらに御船代と呼ばれる容器に奉安されて、厳粛な儀式によって新殿に遷される。
熱田神宮の話をくわしくするゆとりはないが、境内二十万平米、摂末社四十四、年間一千万の参拝者で賑わう巨大な神社で、「神剣」のほかにも数々の神宝をもち、国宝二十七、重要文化財七十六、県指定文化財五十三を数えるという、文化財の宝庫でもある。
さて、崇神天皇の御代に「神鏡」と「神剣」が神社に遷されたわけだが、このとき、似た鏡と剣をつくって御霊代とし、それを皇宮に置くことになった。
したがってそれ以後、皇宮には、新たにつくられた「神鏡」と「神剣」と、そして元来の「神璽」とが、奉安されることになった。
これもやはり「三種の神器」と呼ばれており、天皇の代がかわるときに引き継がれるのは、こちらのほうの神器である。
以後、説明の便宜上、皇宮に残された「三種の神器」を「神鏡」「神剣」「神璽」と記し、伊勢神宮と熱田神宮に奉斎されたほうを「八咫鏡」「草薙剣」と呼ぶことにする。
「三種の神器」の皇居における奉安の場所 
「神鏡」は新造とはいってもやはり別格であるため、平安時代からは温明殿などの別殿を造営して奉安し、みだりには動かさないことになった。これは内侍(女官)がつかさどるので内侍所と呼ばれた。明治以後は賢所と呼ばれるようになった。
この「神鏡」を祀る賢所と、神々を祀る神殿と、歴代天皇の霊を祀る皇霊殿が、いわゆる宮中三殿であり、天皇皇后両陛下はこの三殿への拝礼を毎日欠かさない。
一方「神剣」と「神璽」は、はじめは「神鏡」のそばにあったが、近世以降は天皇皇后が日常お暮らしになる場所のそばに「剣璽の間」をもうけて、そこに奉安しお守りなさることになり、それは今に続いている。
そして、つねに天皇とともにある――という大原則によって、行幸のさいには、「剣璽」も同行(ご動座)されるのがきまりになっている。
ただし賢所の「神鏡」は別格なので不動である。
剣璽等承継の儀 
皇居内の「三種の神器」は、天皇の代がかわれば、とうぜん新しい天皇がそれをひきつぐ。皇位の継承にともなって神器も相承されるのだ。
ただ、その方法は時代によって変化してきた。
豪族が割拠していた大化改新の前までは、践祚時に有力氏族の代表が「神鏡」と「神剣」をいったん預かって、あらためて新天皇に献上する儀式があった。
これは、新天皇を豪族たちが認めたことを証明する重要な儀式だった。
ただし「神璽」は内侍が皇居内に奉斎したままだったらしい。
神鏡」→「神剣」→「神璽」の順に格付けされていたことがわかる。
大化改新以後は、祭祀職の忌部(齋部)氏が鏡剣献上を役職としておこなうようになった。忌部氏はのちに、同じ祭祀職の中臣氏に圧せられたことを無念に思って、有名な「古語拾遺」を編纂したといわれる一族である。
この鏡剣献上の行事は平安時代になって、践祚時ではなく大嘗祭(ダイジョウサイ)――新天皇の最初の新嘗祭――における行事にかわったが、平安初期に踐祚と即位が分離してからは「剣璽渡御の儀」が成立する。
これは践祚にさいして、「神鏡」は別扱いにして「神剣」と「神璽」を新天皇が承継する儀式で、ここではすでに豪族による献上の儀式は影がなくなっている。
そして、もっとも重要な「神鏡」は、温明殿などの別殿に奉安したままで動かさないことになった。
この「神剣」「神璽」継承の儀式は、いまでは「剣璽等承継の儀」とされ、今上天皇が即位されたときも、憲法に定める国事行為としておこなわれた。
このとき今上天皇が承継されたのは、「神剣」「神璽」のほかに天皇の印章である「御璽」と日本国の印章である「国璽」であった。
そして同時に今上天皇は、「神鏡」が奉安されている賢所へ、このことを奉告する儀式をなされた。
(天照大神)の御霊である「神鏡」は、まったくの別格扱いなのである。
以上が、古代から連綿として実質二千年もつづく「三種の神器」の継承である。
もちろんこの長さは、世界に類例がない。
あるイギリスの貴族が、かつてこの連綿たる長さを知って感激して、百二十四代すべての天皇名を暗記して朗詠したというエピソードがある。
神宮における「八咫鏡」と「草薙剣」の危機 
祭政一致の古代においては、神器は政争の的でもあって、その継続には困難があったが、神社に奉斎されてからのそれは、昔の木造建築なので火事は当然あったけれども、人為的な問題では、皇居内の神器ほどの苦難には遭っていない。
しかしそれでも、危機は何度かあった。
とくに熱田神宮の「草薙剣」は、つぎのようなきわどい被害にあっている。
〔一〕
天智天皇七年(西暦六六八年)、日本に来ていた新羅の沙門道行が、「草薙剣」を神宮から盗んで帰ろうとした。しかし海が荒れて帰れず、大阪湾で降参した。このとき道行が盗んで通った清雪門という神社内の門は、不吉だというのでずっと開かずの門とされている。
〔二〕
この事件は朝廷でも問題となり、事故再発を防ぐために皇居に置くことになった。しかし天武天皇のご病気の原因がこのことだとの説が出て、さらに神宮側の懇望もあって、天武十三年(西暦六八六年)に返却がきまり、その年の十二月に熱田神宮に戻った。
〔三〕
神宮の火事は何度もあったらしいが、鎌倉時代の西暦一二九〇年に社殿が焼けたとき、火のなかから「草薙剣」を助け出す様子を、ここで奉仕していた貴人の娘が日記に書き残している。それによると、幅一尺長さ四尺の漆の箱のなかに、赤地の錦の袋があり、「神剣」そのものは見えなかったが、その袋の中にあったという。見ることは絶対に許されない神器なので、これはじつに貴重な記録である。
〔四〕
江戸も幕末になった西暦一八三九年に、賊が神社に入って「草薙剣」を奪って逃げた。賊は即日捕らえられ、剣は無事だったが、これに懲りて神殿を改造した。
〔五〕
大東亜戦争の末期になった昭和二十年の三月と五月、東京大空襲と同じ時期に、焼夷弾で神宮に大被害が出、本殿の主部だけかろうじて残った。このころから神社をねらい打ちに爆撃するという蛮行がなされだしたので、本殿を解体して隠した。それから岐阜県の神社の境内に地下の熱田神宮をつくるという計画ができたが、これは実行しないうちに終戦となった。米軍の進駐にさいしては、万一を考えて、「草薙剣」を飛騨の水無神社に隠し、のちに仮殿をたてて奉斎した。
〔六〕
昭和三十年になって、信者の寄付と《伊勢神宮》の古殿の用材によって、本殿の再建がなり、正式に遷宮して、現在にいたった。戦後の混乱期には、米軍の神社への無理解によって、ほとんどの神社の鎮守の森が失われ、パリなど欧米の大都市に劣らなかった東京など大都市の緑地比率が、大幅に縮小してしまった。もともと神道は諸宗教を超越した日本独自の習俗なので、神社の境内は、信教とは無関係に誰でも入れる場所であり、公園と同じ役目を果たしていたのだが、それが米軍によって潰されたのだ。一方《伊勢神宮》のほうは、さいわい熱田神宮ほどの混乱はなかったようだが、それでも皇室の力が弱まった時期には、遷宮もままならず、正殿も古びてしまって危機に瀕した時期もあったらしい。むろん火災もあった。またもちろん、終戦前後には、一宗教法人になってしまったために、やはり遷宮もままならない時代があり、熱心な人たちの協力で、やっと今日の姿に復旧した。
(なお例外的な事件として、雄略天皇の御代に、皇女で斎王の稚足姫が男関係を讒言されて悲嘆し、「八咫鏡」を地面に埋めて自害した。これは「日本書紀」にも記されている重大事件だったが、幸いにもまもなく発見されている)
「八咫鏡」と「草薙剣」の実体 
つぎに「八咫鏡」と「草薙剣」の実体であるが、これは眼で見てはいけないことになっているので、公式的には分からない。
しかし、いろいろなことから、おおまかな推定はついている。
伊勢内宮の「八咫鏡」は、厳重な器に入れられて、内宮本殿の中に、人間が夜寝るのに近い形で奉安されている。
この器を御樋代といい、さらにそれは御船代という器に奉安されている。
式年遷宮の際にその器を交換する儀式があるのだが、江戸時代のある神職が、その儀式のとき、眼をつぶったままで入念に触り、それを記録に書き残した。
それによると、直径が二十センチほどの凸面鏡で、中心に紐を通す輪がついており、裏には同心状の唐草模様のような模様があったらしい。
この大きさは、《籠神社》に伝世されている息津鏡の大きさに似ている。
「草薙剣」についても、江戸時代にひそかに見てしまった人の記録があり、それによると鉾のような形(諸刃の直刀)だとされている。
大きさや昔の容器は、先に述べた鎌倉時代の女性の貴重な日記で判断できるが、さらに終戦時に岐阜県に疎開したときに神職が袋の上から捧げ持った感触では、長さ六十センチほどの諸刃の銅剣らしいという。
もちろん「三種の神器」の科学的な意味での本当のことはわからないが、弥生〜古墳時代の遺跡から多数出土する鏡、剣、勾玉を代表する宝であることはまちがいない。
皇居内の「三種の神器」の苦難 
一方皇居内の神器は、政争や戦乱にも巻き込まれて、神宮の神器にくらべて、はるかに大きな苦難の連続だった。ざっと列記してみよう。
(一)
「神鏡」は、村上天皇の西暦九五七年や一條天皇の西暦一〇〇五年など平安中期から何度となく火災にあって、そのつど修復したが、灰燼とはならず、かろうじて形を保った。
(二)
安徳天皇の西暦一一八五年、長門壇ノ浦の源平合戦に巻き込まれた形で、わずか七歳の安徳天皇が海に沈んだが、このとき「三種の神器」も動座して船上にあった。幼年の安徳天皇を抱いて身を投げたのは、平清盛の妻で天皇の祖母にあたる二位尼だが、そのとき彼女は「神剣」を腰につけ「神璽」の御箱をかかえていた。「神璽」は軽くて箱に入っていたので入水ののち浮き上がり、源氏によって拾われたが、「神剣」は重くしかも腰につけていたため浮かばず、のちに源氏兵士が必死に捜索したが見つからず、行方不明のままとなった。一方「神鏡」は御乳母の大納言佐殿が櫃ごとかかえて海に入ろうとしたが、源氏の矢で衣が船に縫いつけられて果たさず船上に残った。源義経はこれを丁重に扱って、後に「神璽」とともに宮中に戻した。このとき、「神璽」の箱を見た女官がおり、それによると二段の箱に八つの宝玉が見えたという。これは今も宮中に奉安されている。
(三)
この事件で「神剣」が失われてしまったので、仮の宝刀で一時をしのぎ、しばらくして《伊勢神宮》が新たに剣をつくって朝廷に献上した。朝廷ではこれを新たな「神剣」とした。これが現在の皇居に奉安されている「神剣」である。したがって皇居内に現存する「三種の神器」のうち「神剣」がいちばん製作の年代が新しいのだ。なお、熱田神宮の「草薙剣」の大きさは前述したが、皇居にある「神剣」も、これとほぼ同じ大きさらしい。今上天皇即位のおりの「剣璽等承継の儀」のお写真にある、捧げ持たれた「神剣」の袋の大きさから、そのように推量されるのである。
(四)
南北朝時代には北朝が偽神器をつくったと伝えられるなど、いろいろと危機がつづいたが、結局は北朝が受け継いで危機を脱した。
(五)
南北朝が合一してから三代目にあたる北朝系の後花園天皇の西暦一四四三年に、南朝の後裔たちが京都の御所に乱入し、宮殿を焼いて「神剣」「神璽」を奪って延暦寺に立てこもったことがあった。しかしすぐに一党は討伐されて、神器はぶじ皇居に戻った。
(六)
それ以後も危機はしばしばあったが、なんとかもちこたえ、大東亜戦争末期の空爆にも耐え、終戦のおりの危機も忠臣たちの涙ぐましい努力によってくい止めた。そして神器も皇統も主要な神社も絶えることなく、平成の御代につづいている。いまも今上天皇・皇后両陛下は、「三種の神器」への祈りを欠かさない。また神々や皇霊への祈りも欠かさない。さらには主要な神社や御陵への御拝もなされておられる。政府の信じがたい無情な判断によって靖国神社への御拝が中断しているだけである。

以上概説した「三種の神器」は、もちろん考古学的な研究対象ではないので、注意していただきたい。そうではなくて、「古事記」「日本書紀」「万葉集」などを共有するわれわれ日本民族の心の歴史なのである。
「三種の神器」の精神的な意味 
さいごに、国史家・田中卓や哲学者・長谷川三千子の論説をもとにして、「三種の神器」の精神的な意味に触れておく。南北朝時代の南朝の支柱となった忠臣・北畠親房は「神皇正統記」を著したが、そのなかで、「記紀」の記述をもとにして、
  「神鏡」・・・正直の本源(日の體)
  「神璽」・・・慈悲の本源(月の精)
  「神剣」・・・智慧の本源(星の氣)
――としている。
つまり天皇は「三種の神器」によって、正直と慈悲と智慧の心を承継するのである。
江戸時代になると、水戸学の泰斗である藤田東湖は、やはり「記紀」の記述をもとに、天皇の役割を、「蒼生安寧」としている。
蒼生とは四書五経にある言葉で、人民とか百 姓とかいった意味である。
人民も百姓も「記紀」に出てくる言葉で、今でいえば国民であるが、「記紀」ではこれを「オオミタカラ」つまり「大御宝」と称し、宝物であると認識していた。
つまり、
「天皇とは「三種の神器」を先祖から受け継ぐことによって、宝物である国民の安寧を成就するように正直と慈悲と智慧をもって政治(祭祀や行政)を行うことを義務とする存在」
――なのである。
権力者が自分の支配下の人々を「至高の宝」としてその安寧を願うというこの考えは、世界の古代史においてきわめて珍しい。
日本の大和朝廷独自の平和思想である。
近世以降は祭政がほぼ分離したので、天皇皇后両陛下の主要な役割は行政から離れて「祈り」となった。
ふだんほとんど報道されないが、今上天皇皇后も連日祈っておられ、また全国の神社や陵墓をめぐって祈りを捧げつづけておられる。
元東大教授兼白山神社宮司で「少年日本史」で知られる碩学平泉澄の名とともによく語られる「皇国史観」という言葉がある。
これは、「日本とは「三種の神器」を継承した万世一系の天皇を中心とする「神々の国」である」という考え方で、その内容は、前述のように、正直・慈悲・智慧の象徴である「三種の神器」を守って、蒼生(国民)の安寧を祈り続ける天皇を中心(象徴)として、先祖や自然や芸術(これらのすべてが神々)を大切にする国だ――という史観のことである。
「皇国史観」という言葉そのものは、戦前や戦中にはほとんど使われなかった。
平泉澄にしても、「皇国史観」という言葉を使った論文を書いたことは一度もない。あたりまえの考え方だからである。
これは戦後に左翼組織が天皇への不当な指弾のためにプロパガンダ用語として使ったために、有名になると同時に誤解が拡がってしまった。
しかしその実質は以上のようなことであって、本来的に悪い意味はまったくないのである。
なお「天皇制」という言葉も、ソ連共産党が指導するコミンテルンが創作し、大正十二年に日本に輸出してきたプロパガンダ用語である。
目的はもちろん日本崩壊で、日露戦争に破れて日本・朝鮮・滿洲などを植民地にできなかったことへの報復であった。
だから戦前にはほとんど使用されず、戦後になって左翼勢力がさかんに悪用したのである。
(この節の頭にも記したが、以上の「三種の神器」の話はかなりはしょっているので、できれば拙著「皇統の危機に思う(栄光出版社)」を参照されたい) 
 
第十章 倭迹迹日百襲姫命が眠る日本最古の超巨大《箸墓》の謎
 併せて《大和》に展開する雄大な《纒向京》

 

遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび けふも旅行く
〔昭和天皇御製/昭和六十年〕
神なびの みむろの山の くずかづら うら吹かへす 秋は来にけり
〔大伴家持(新古今集)〕
巻向(纏向)の 穴師の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む
〔柿本人麻呂歌集(万葉集1100)〕
「纏向の穴師川(巻向川)を流れる水が絶えないように、私も絶えることなくここに来ることにしよう」 
10-1 《邪馬台国》の有力候補地《大和》の地理と地勢

 

日本最古の首都《纒向京》
古代の首都――大和朝廷の都――のほとんどは奈良県(大和国)の北西部の奈良盆地に集中しているが、そのなかでもっとも詳しく構造や規模がわかっているのは、八世紀の奈良時代の《平城京》である。いまの奈良市に広大な遺跡がある。
そのつぎにわかっているのが、《平城京》にうつる直前の《藤原京》であろう。七世紀の終わりから八世紀の初頭にかけの短い期間ではあったが、きわめて計画性の高い都市構造をしていたらしい。
その前が《飛鳥京》で、聖徳太子のすこし前から大化改新のすこし後くらいまで明日香の地につくられた。時期的には六世紀から七世紀にかけてと考えられる。ただしこの《飛鳥京》は断続的であって、都市構造は《藤原京》ほど明確ではなく、遺跡の発掘も容易ではなく、明確になっていない点も多い。
その前の四世紀から五世紀にかけての皇宮は、桜井市、明日香村、天理市、橿原市などを転々としていたらしい。またその間には、大阪府方面に遷ったり滋賀県に遷ったりしている。それぞれ遺跡は指摘されているが、明確な都市構造の発掘はなく、規模もさほどではなかったらしい。
ところが、さらにその前の三世紀には、同じ奈良盆地に、広大な都があったらしいと、最近の発掘調査によって分かってきた。
場所は、もっとも狭い意味での《大和》である。
すなわち、これまで何度か言及してきた、《三輪山》の北西山麓にひろがる《纒向(まきむく)京》である。
《纒向京》という都としての名称は著者が便宜上使っているもので、考古学的には纒向遺跡といわれる。
この纒向遺跡という名はこれまでの歴史書にはほとんど書かれておらず、なじみの少ない名前であるが、命名者は徳島文理大教授で二上山博物館館長などもつとめた考古学者の石野博信で、「記紀」に纏向と記され、昔纏向という村があったことが命名の理由である。
(纒向または巻向という名前は現存もしている)
《纒向京》の本格的な発掘調査は、戦後の昭和四十年代からはじまり、現在百回をこえる回数の調査がなされている。
この地域の多くは私有地であり、民家や田畑のなかに古墳が点在しているような土地である。また代表的な古墳は皇族の御陵なので宮内庁の所管になっている。
したがって発掘調査は簡単ではなく、予算の関係もあり、百回をこえる調査で調べられた面積は、推定される《纒向京》全体の二パーセントていどにすぎないといわれている。
しかしそれでも、ずいぶんいろいろなことが分かってきた。
とくにこの十年の成果はめざましいものがあり、規模からいうと《飛鳥京》を上まわり、《藤原京》に匹敵するほどの大きさと計画性を持っていたらしい――と分かってきたのだ。
《纒向京》の地理的利点 
まず最初に、この問題の《纒向京》のある場所がどのような利点を持っているかを理解するために、いくつかの地図を眺めてみよう。
ここまでの章ですでに説明した関係地図に、つぎのようなものがあった。
 図4・2 畿内とその周辺の古い国名図
 図5・1 大阪湾から奈良盆地にかけての地図
 図5・2 奈良盆地の南半分の基本地図
 図5・3《大和》地方の古代地名の地図
 図7・7《大和》地方の有力氏族の勢力分布図
 図8・1 図5・2に歴代皇宮位置を書き込んだ地図
 図8・5《大神神社》周辺の俯瞰図
 図8・13《大和》の主要な神社と前期古墳の地図
これらの地図をざっと眺めることによって、あるていどは地理的問題が頭にはいるであろう。いちいち詳しく見る必要はないが、図5・1と図5・2および図8・1は、《纒向京》を理解するうえで参考になると思う。ざっと見ていただいたところで、本章のために新たに描いた地図を説明しよう。
図10・1は、図4・2をもう少し詳しくしたもので、大和国(奈良県)が、周囲の国々に対してどのような位置関係にあるかを示している。
奈良市や三輪山麓の《大和》は奈良県のなかでも北西の端であって大阪湾にきわめて近いこと、瀬戸内を通らずに日本海に出るためには《籠神社》のある丹後(または若狭湾)が重要であること、東国へ行くには伊勢が重要であること、などがわかる。
さらに、《大和》の安定をはかるためには、北西の播磨やその西の吉備(兵庫県から岡山県)、北東の美濃や尾張(岐阜県や愛知県)を味方につけることが必要であることも、一目瞭然である。
このことは(倭姫命)一行の旅程である図9・2を見ても理解できる。大和朝廷が周辺の豪族を帰順させるために苦労した跡がうかがえる順路だからである。
《纒向京》と大和川 
図10・2は、図10・1における大和国(奈良県)とその近傍のみを拡大した地図である。
奈良盆地を斜線つきの太線で明示しているが、まず第一に、大和川によって大阪湾すなわち瀬戸内海と短距離でつながっていることがわかる。
大阪湾の内側は、図5・1で説明したように、河内湖と呼ばれる巨大な湖(水郷)になっており、それは大阪湾と直接つながっていて、海水と淡水が混ざった汽水湖だったらしい。
つまり湾の内側にもう一つ湾があるような地形だったのだ。
古代の大和川はその河内湖に流れ込んでいたので、奈良盆地を出るとすぐに海に注ぐという感じであり、おおまかにいって《纒向京》から海までは直線距離にすると20Kmていどにすぎず、マラソンコースよりずっと短い。
しかも大きな大和川が流れているので、船でそのまま行けたのである。
大和川の上流を初瀬川ともいうが、その初瀬川が《纒向京》に近接して流れていたのだ。
のちの飛鳥時代に遣隋使やその返礼の使者が初瀬川から上陸したという「日本書紀」の記述も、地図を見れば納得できる。
《飛鳥京》はこの図には記載していないが、《藤原京》のすぐ右下である。
奈良盆地の周囲は山地であり、とくに南方は神武天皇が苦難の遠征をおこなった奥深い山々であり、敵に攻められる恐れは少ない。
盆地は南でいったんくびれたのち、東西に伸びる部分があるが、これは紀伊水道に注ぐ有名な紀ノ川の上流の両岸であり、《大和》とは別の低地と考えたほうがよい。交通も不便だったと考えられる。
奈良盆地の北部を除いた主要部を破線で四角に囲ってあるが、これは、図5・2や図8・1、またつぎの図10・3に描いた部分である。見比べれば、大きさの感覚がつかめると思う。
水郷地帯としての《大和》
図10・3は、図5・2に歴代天皇の御陵位置を記入してみた地図である。図8・1は歴代皇宮位置だったが、比較すると、大体は皇宮と同じような場所に御陵が造営されたことがわかる。
樋口清之が大和湖と呼んだ中央部――図5・3参照――を除いた周辺の区域に、皇宮も御陵も設けられていたことは興味ぶかい。また樋口が述べているように、橿原のあたりが、大和湖に突き出た半島状の地形だったらしいこともわかる。
この図10・3で大和地方の主要部全域が一望できるので、この地図によって《大和》の特色を概説しておく。見にくいときは、基本図である図5・2に立ち返っていただきたい。中央部には、大和川の支流が数多く流れているが、古代においてはそれぞれが今よりもずっと大きな川幅をもっており、幅数100mに達することも珍しくはなかったらしい。したがって図の中央部分は――とくに梅雨時においては――湖ではなかったとしても、ほとんど水郷地帯といっても過言ではない領域だったと考えられる。そして、それらの河川の間に、微高地と呼ばれるわずかに隆起した丘状の地帯があったとされる。
大和川の支流のなかでも有名な飛鳥川は吉野山地の方角から図の中央を流れているが、山に近い南の上流に、神武天皇即位の地・橿原や、《飛鳥京》や《藤原京》がある。
このあたりは全体が飛鳥の地域であるが、大阪湾から船だけで短時間に到達でき、南に吉野山地があり、北に水郷地帯を望み、近くに香具山・畝傍山・耳成山の大和三山が見え、北東に《三輪山》が聳える、皇宮には絶好の地形だったことがわかる。
樋口清之は前章に記したように、古代の奈良盆地には大和湖があり、それが次第に隆起して水が減って現在のようになった――と主張しているが、その樋口が指摘している例証の一つに、「万葉集」にある飛鳥時代の第三十四代舒明天皇の御製「国見の歌」がある。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は
意味は、「大和には多くの山があるが、とくに香具山に登って国を見渡すと、広い平野にはかまどの煙が立ちのぼっており、広い海面には鴎が飛びかっている。大和の国は本当に豊かで平和な国であることよ」といったことであるが、注目されるのは、この御製のなかに、《大和》の香具山から「海原が見えた」と歌い込まれていることである。
この海原を単なる池とする従来の解釈に樋口は異議を唱え、じっさいに香具山から海のような広々とした湖水が見えたに違いない――としている。
他の考古学者の最近の資料を見ても、盆地の中央部一帯が水郷に近かったことは確かなようで、この欽明天皇はじっさいに香具山から広大な水面をご覧になったのであろう。
山から自分の国を一望しようという歌に、足もとの小さな池を詠みこむのはおかしい。香具山からの遠望に果てしない水面があったにちがいない。
飛鳥時代でもそうだったのだから、それより約三百年前の崇神天皇や(倭迹迹日百襲姫命)の時代の奈良盆地の中央部は、なおのこと明確な水郷地帯または湖だったのであろう。
絶好の帯状地域にあった《纒向京》
橿原・《藤原京》・《飛鳥京》のあたりが、この奈良盆地の代表的な都の適地であるが、もう一つ適地がある。それは、図10・3の中央より東寄りを流れる初瀬川と寺川で挟まれた地帯とその東側(山地の近く)を合わせた帯状の地域で、水にも土にも恵まれて農作に適した土地だったらしい。
この帯状地域の大和川主流に近いところに、後述する「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」があり、山に近い上流部分には神武天皇の活躍で知られて国風謚号に使われている有名な磐余(いわれ)の地がある。
また初瀬川の東岸は、次第に山に近づくので、洪水の恐れも少なく、《三輪山》やその周辺の山地からは木材・玉・鉄鉱石などを産し、川では砂鉄も採れ、農作にも居住にも技術にも適した場所だったようで、その恵まれた初瀬川東岸にあったのが、《纒向(まきむく)京》なのである。
「唐古・鍵遺跡」と《纒向京》の内部のことは次に記すことにして、図10・4には、古代の都がどのように変遷したかを大まかに示す図を描いておいた。
神武天皇は南方の山地を越えて橿原に達して即位し、それから幾代かして《纒向京》ができ、それからしばらく転々としたのち《飛鳥京》ができ、ついで《藤原京》ができ、そして北方の《平城京》ができて奈良時代になった。
その間、大津に都を移したり、河内や摂津に皇宮を設置したり、また朝鮮半島との関係で北九州や山口県に臨時の皇宮ができたりしたこともあった。このような歴史を振り返るとき、《纒向京》の重要性がよくわかるであろう。 
10-2 「唐古・鍵遺跡」と《纒向京》の地勢と時代

 

「唐古・鍵遺跡」の地理 
飛鳥川の上流とならんで《大和》の地で恵まれた居住環境をもつ地帯に、大和川の下流の初瀬川と寺川の流域があることは前節で述べたが、そのもっとも北側に、巨大な弥生遺跡として知られる「唐古・鍵遺跡」がある。
場所は、今の地理でいえば磯城郡田原本町の唐古と鍵という地区で、位置は図5・2の円または図10・3の+記号で示してある。磯城郡の磯城は神武天皇紀にも崇神・垂仁天皇紀にも出てくる地名で、《纒向京》やその南を指していたようだが、古代と現在とでは示す範囲が違っているらしい。
「唐古・鍵遺跡」の地形は、長い年月の氾濫によって堆積したのであろう、二つの河川の間の低い丘のような沖積地帯で、大阪湾から河内湖や大和川を遡航して《大和》の地に入った最初の船着き場だったらしい。
水路の便がきわめてよく、また湿地帯よりすこし高いので居住や倉庫にも適していた。
付近は豊かな農作地帯なので、食糧にも困らない場所だったであろう。
おそらく、交易品の集配所としてこの微高地に倉庫の類があり、北東に向かう布留川、南東に向かう初瀬川(大和川)、南に向かう寺川などを利用して、集まった農作物や土器や銅製品や鏡や玉などを大阪湾方面に送り出し、また逆に外から来た産物を《大和》内各地に渡していたのであろう。
はるばる朝鮮半島や大陸から届いた品々も、弥生時代にはここで集配していたのかもしれない。
この「唐古・鍵遺跡」の発掘が始まったのは古く明治にさかのぼるが、ここ数十年に新発見が相次ぎ、面積も当初の予想よりはるかに大きく、中心部だけでも径1Km近くあり、弥生集落に特有の何重もの環濠にかこまれており、周辺にも多くの集落があったことが分かってきた。
栄えた時代は、消長がいろいろとあったらしいが、おおむね西暦前三世紀から西暦後二世紀にいたるとされている。すなわち《纒向京》出現の直前であり、かつ(卑彌呼)の時代の直前でもある。
はじめは複数の小さな弥生式の集落だったが、人口が増えるにつれて統合され、ついには、図10・5(a)の概要図にあるような、弥生時代としてはきわめて巨大な環濠集落に発展したらしい。
周辺を加えると、北九州の吉野ヶ里遺跡を上まわる規模の雄大な環濠集落跡である。
遺跡からは各時代、各地方の土器・石器・金属器・銅鐸鋳型・占い用の卜骨など、あらゆる弥生的な品が出土している。
平成十七年には、紀元前二世紀にまで遡る銅鐸鋳型が発見されて話題になった。
また建物の絵の描かれた土器が発見されて注目を集めたが、その絵をもとに楼観が復元された。
図10・5(b)にその写真を示す。これに登ると何Kmも先まで見渡せたであろうし、到着する船を前もって知ることもできたであろう。
もうひとつ無視できないのは、この「唐古・鍵遺跡」から聖山《三輪山》が遠望できることである。
縄文・弥生の集落が円錐形の山容を眺望できる場所によく作られたことはすでに述べたが、この遺跡もその条件をみたしているのだ。
この事実も、古代の《纒向京》成立の謎を解く鍵なのかもしれない。
《纒向京》の位置と時代 
ふしぎなことに、二世紀の後半になると「唐古・鍵遺跡」は急速に衰亡し、それと反比例するように、この遺跡から初瀬川をしばらくさかのぼった東岸にある《纒向京》が勃興する。図10・2や図10・3でその位置を確認してから、内部の想像図である図10・6を見ていただきたい。
《纒向京》は、時代的には二世紀末の西暦一八〇年ごろに突如として現れ、三世紀に大いに栄え、そして四世紀初めの西暦三四〇年ごろに急速に衰退した――といわれている。
出土品からそう推定できるのだ。
すなわち、飛鳥時代のほぼ三百年前に全盛期をむかえた都であったらしい。
西暦一八〇年という年は、「魏志倭人伝」にある、倭国の乱をおさめるために女王(卑彌呼)が共立された時期に対応している。
また「記紀」でいえば、第七代孝靈天皇から第九代開化天皇にかけての時代と推理される。
倭国の乱がどこまで真実なのか疑問もあるが、巨大な都ができる前にたくさんの集落どうしが競い合うのは歴史の必然なので、大なり小なり騒乱があったことは、倭人伝を読まなくとも想像できることである。
だから騒乱自体は不思議なことではないのだが、興味ぶかいのは年代の一致である。
「後漢書倭伝」などに西暦一五〇年から一九〇年にかけて倭国が乱れたという意味の記述があるので、そこから女王共立が一九〇年前後と推理され、西暦一八〇年という《纒向京》出現時期の考古学的知見と照応するのである。
また「記紀」との関係は、第十代以降の崩年干支などから推理できる。
《纒向京》が衰退したと考古学が推理している西暦三四〇年は、第十二代景行天皇が崩御され、次の成務天皇が都を滋賀県大津に移して全国の行政区画を整理し、国の役職(国造や県主)を置きはじめたころの推定年とほぼ一致している。
 つまり《纒向京》時代の天皇は、第七代孝靈天皇・第八代孝元天皇・第九代開化天皇・第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇・・・だと想像でき、とくに最盛期は第十代の後半から第十二代ごろだと考えられる。
推定をまとめてみると、《纒向京》とは、第十代崇神天皇の直前の時代に勃興し、(倭迹迹日百襲姫命)の指導をうけた崇神天皇の御代に発展を開始し、次の垂仁天皇と景行天皇の御代に大きく進展し、景行天皇の崩御と次の成務天皇の遷都によって衰退した――ということができる。
要するに大和朝廷が、有力ではあっても《大和》の支配者にすぎなかった状態から抜け出して、周辺の諸氏族を束ねた本格的な王権へと移行した時期に、《大和》の地にできた広大な都――それが《纒向京》だったのである。
もちろん、考古学の推定時期が「記紀」の諸天皇の推定在位年代と一致していたとしても、それだけでは、
「《纒向京》は「記紀」にある前記諸天皇の都である」と断言することはできない。
しかし、崇神・垂仁・景行三天皇の皇宮がこの《纒向京》周辺にあったことや景行天皇が纒向に都をつくったことなどが「日本書紀」や「古事記」に明記されており、しかも巨大な天皇陵・皇女陵などの古墳がいくつもこの地に実在しているので、その蓋然性はきわめて高いであろう。
図10・6はその《纒向京》の概要で、上半分の太線内が、推定される全盛期の都の区域である。
全盛期の大きさは、下の縮尺でわかるように、東西が2.5Km、南北が1.5Kmほどで、古代の集落としては桁外れの大きさである。東はすぐに山地であり、西方は奈良盆地の中心部である。
近くには大和川の支流の初瀬川が端をかすめるように南東から北西に向かってながれており、その上流は《三輪山》の南山麓に達している。
初瀬川に流れ込む巻向川(纏向川)は《三輪山》の北側山麓から流れ出て南西に向かっている。
ただし古代の河川は、経路も川幅も今とはかなり違っており、考古学者が推定している河川を、《纒向京》内部のみ斜線の帯で描いておいた。
つまり、東の山地から、幅が100mをこえるような豊かな河川が何本も西に向かって流れており、その河川の間に微高地があり、そこに宮殿や祭祀施設や居住地があったらしいのである。
よく「万葉集」に、七世紀後半の有名な歌人・柿本人麻呂が巻向川や穴師川を詠んだ詩が出てくるが、それは現在の巻向川ではなく、むしろ景行天皇陵の近くを流れる川だったらしい。
万葉時代の都は明日香のあたりで図よりずっと南だったが、人麻呂はこの巻向川や穴師川の上流の景観を愛でて、図の上右のあたりに別荘をかまえていたといわれている。
《纒向京》の内部 
《纒向京》推定範囲の大きな囲いの中央に、太線で方形の区域が描かれているが、この部分が、西暦一八〇年から二三〇年ごろまで――つまり(卑彌呼)の時代――の初期《纒向京》と推理される地域である。
その北東の隅に初期の宮殿跡あるいは祭祀建物らしい遺跡があり、その同じ場所に、天照御魂(あまてるみたま)神社という古い神社がいまも残されている。
そしてその真西にあたる地域に、きわめて古い前方後円墳の祖形をなす――帆立貝型ともいわれる――巨大な古墳がいくつかある。
その古墳群のあたりに、纒向大溝と呼ばれている運河の遺跡が発見された。発掘場所が限定されるので、ごく一部しかわかっていないが、何条かの天然の河川を結んで船で産物を往来させる通路として使われたらしい。つまり本格的な都市施設である。
有名な《箸墓》は南の微高地にあり、そのすぐ右に、やはり前方後円墳の祖形をなすホケノ山古墳がある。
北東には景行天皇陵があるが、そのすぐ南(楕円の部分)に、どうやら後期の宮殿があったらしい。
初期《纒向京》が大きく拡がって太線枠になった時代の宮殿である。
考古学的な推定はそういう事だが、「日本書紀」によれば、この楕円のあたりに、第十一代垂仁天皇の皇宮「纒向珠城宮(たまきのみや)」や第十二代景行天皇の皇宮「纒向日代宮(ひしろのみや)」があったと伝えられている。つまり、古代史書の記述が現代考古学と、地域の呼び名までふくめて照応しているのだ。
この二天皇の皇宮があったらしい楕円と《纒向京》の中心部とはかなり離れているように見えるが、古代の皇宮のほとんどは都の中心から離れた場所にあった。
奈良時代になっても、皇居は《平城京》の中心ではない。だから第十代崇神天皇の皇宮が図10・6の右下隅の金屋のあたりだったのも不思議なことではない。さらにこの地図から気づくのは、いずれの皇宮も山に近い場所にあることである。おそらく神聖な山に近くかつ守りに強いことから選ばれたのであろう。
さて、この《纒向京》の中央には、南北に一直線の「原上ッ道」という古くからの道が通っているが、これは日本で最古の国道の跡とされており、もうすこし南の磐余のあたりからはるか北部にまで続いている。
いまでは山沿いの山辺の道が《大和》を忍ぶ古道として観光ルートになっているが、この一直線の道も印象的である。
時代ははっきりしないが、きわめて計画的な道路が作られ、《箸墓》はその道路に接した位置にあるのだ。
(むろん南北に歩くためには多くの河川を渡る必要があるので、船便が庶民の足としても発達していたのだろうと推理できる。一方山辺の道は山に近いので川幅は狭く、橋を渡ったかもしれない)
この《纒向京》の範囲はもちろん推定だが、その重要な特色として、「環濠がない」ことがあげられている。
それまでの弥生集落は、ほとんどが環濠をめぐらしており、集落を外敵から防ぐ構造になっていた。
直前に栄えた「唐古・鍵遺跡」もそうである。
それが、弥生時代の終わりである二世紀末に、とつぜん、環濠を持たない大集落がここに出現したのだ。
これは《纒向京》独自の特徴で、同じ時期の他の地域の集落には、大和であってもやはり環濠があったらしい。
つまり、「弥生の末にあたる西暦一八〇年ごろに、それまでの日本列島の集落とはまったく異なる構造を持った開放的な巨大都市が、突如として、しかも日本でただ一つ、《三輪山》の麓だけに誕生した」のである。
そしてその誕生の時期が、「魏志倭人伝」にある女王(卑彌呼)擁立の時期に一致する。
――と推理されるのだ。
環濠が無いということは、敵に攻められる恐れが無いか、または攻められても圧倒的な力で追い払うことが出来るほどの軍事力を持っているか、どちらか――または両方――だったことを意味している。しかも水運によって遠方と交易できる場所でもあったのだ。
西暦一八〇年ごろ、三輪山麓の《大和》を中心にして日本列島に何か大きな動きが起こったことは、なにも外国史料の「魏志倭人伝」によらなくても、このように考古学と「記紀」によって推量できるのである。 
10-3 《纒向京》周辺の主要地域

 

《纒向京》の周辺 
つぎに図10・6によって、《纒向(まきむく)京》近くの主要な場所を説明しておこう。
《纒向京》の右隅のあたりに、《檜原(ひばら)神社》がある。これは第八章や第九章で述べたように、(天照大神)を皇宮外に奉斎した最初の神社である。
図示したのは現在位置だが、古代にはこのやや北だったらしい。――ということは、《箸墓(はしはか)》から真東にあったことになり、逆にいえば、(天照大神)を祀っていた神社を真東に拝む位置に、(倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命)の御墓が造営されたことになる。
これは、《檜原神社》が《箸墓》より先にできたという前提のもとにいえることであるが、「日本書紀」の記述はそのとおりの順序になっている。
さらにこの《箸墓》のあたりは、大きな市場があったらしく、大市墓とも呼ばれ、(百襲姫命)の別名にも神大市があることはすでに述べた。
考古学的にも、このあたりで「市」という墨書ののこる土器が発見されている。
だから《箸墓》の場所は、古代の国道沿いで交通至便であり、大きな市場があり、また(天照大神)を真東に拝む「日神祭祀」がなされた場所でもある――と推理できるのだ。
もちろん聖山である《三輪山》を目前に望み、その神(大物主神)に祈るにも、その神子だった(倭迹迹日百襲姫命)を祀るにも、絶好の位置であった。
《檜原神社》のそばに矢印があるが、その方角が《三輪山》の山頂である。そしてその山頂の南西の山際に、(百襲姫命)が神子(巫女)をつとめた(大物主(おおものぬし)神)を奉斎する《大神(おおみわ)神社》の拝殿がある。鳥居を描いておいた。
《大神神社》のすこし北に「神武天皇聖跡」という石碑が建てられているが、このあたりが、第六章で述べた、神武天皇が皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命を見初めて歌を詠んだ場所――狭井川(さいがわ)という小さな川のほとり――だと考えられている。
これは、《三輪山》を祀る豪族の娘を皇后にすることによって、大和朝廷がこの山麓に進出して《三輪山》の祭祀権を手中にすることを可能にした、巧みな婚姻政策を暗示する伝承である。
《大神神社》のさらに南、地図の右下ぎりぎりのあたりは、古くから金屋と呼ばれていた土地で、そこの初瀬川の北岸あたりに、第十代崇神天皇の皇宮「磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)」が置かれていたと伝えられている。
考古学的には崇神天皇の時代にこの《纒向京》が発展を開始したと考えられるのだが、皇宮は郊外にあたる場所に有った。
人々の集まるにぎやかな場所と王宮がすこし離れているのは、前述のように古代では一般的なことで、権力者の城は防御に適した場所を選んでいたのであろう。
すでに何度か述べたことだが、金屋の金は鉄を意味していて、このあたりに鉄を生産した遺跡が多数発掘されている。
したがって古代の武器を造る最善の金属だった鉄の産地に皇宮を設けたのかもしれない。
なお金屋と呼ばれる地域は、数百年あとまで栄えていて、飛鳥時代に遣隋使の小野妹子や隋の使者の裴世清(はいせいせい)が朝廷の盛大な迎えを受けて船から降りたのもこのあたりで、初瀬川の南岸だったらしい。
隋の使者など遠方からの旅人は大阪湾で外洋船から川船に乗り換えたのであろうが、それにしても大国の要人を乗せた船が行き来できるほどの川幅が、このあたりの上流でもあったのだ。
またそのあたりは、海石榴市(つばきいち)とも呼ばれて歌垣などの遊びもなされたにぎやかな場所であった。
「敷島の大和心」と「葦原ノ中国」
江戸時代のもっとも著名な国学者である本居宣長の詠んだつぎの短歌は、よく知られている。
敷島の やまと心を 人問わば 朝日に匂ふ 山櫻花
この歌の冒頭の敷島(しきしま)は大和にかかる枕詞だが、それは「磯城(しき)の地」が古代の《大和》を代表する場所だったからであろう。
前述したように、第十代崇神天皇の皇宮は現金屋の磯城の地にあったし、第二十九代の欽明天皇の皇宮も同じ場所にあった。また第六章に記した神武東征神話にも磯城の戦いが強調されている。
だから「磯城すなわち敷」が大和の枕詞になるのは判るのだが、そのあとになぜ「島」がつくのだろうか?
じつは欽明天皇の皇宮は、厳密に「磯城島」とされているのだ。
島というのは、海のなかの小さな陸地であり、それがのちに意味を拡大して、特定の場所を示す言葉にもなった。ヤクザ言葉のシマもそうである。
だから、たんに皇宮の場所として「島」がついたと解釈できないことはないのだが、図10・6の地勢を見ると、《纒向京》のなかの宮殿地域にせよ磯城宮のあった金屋にせよ、幅広い河川に囲まれた微高地であり、本来の意味での「島」であったとも考えられるのである。
古伝の一部には、初瀬川と栗原川に挟まれたせまい地域(図10・3の東端の34のあたり)が磯城島と記されているらしい。つまり、水郷の中の居住地だからこそ、「島」という文字がつけられているのだ、とも考えられるのである。
「記紀」のなかに「葦原ノ中国(ナカツクニ)」という言葉がでてくる。
これは、天と地底のあいだの国――つまりこの地上の国(日本列島)――として理解されており、じじつ文脈はそのとおりであるが、では、なぜこの地上の国が、「葦の原の中の国」という言葉で表現されたのだろうか?
字義どおりに解釈すれば、それは葦の生えている原っぱの中にある国――ということになる。
そこで、大和朝廷の先祖が王権を築いた土地が、葦原の中にあったからではないか――との想像が浮かんでくる。
第六章に記した神武天皇の御製の冒頭も「葦原の」である。
葦というのは水辺の湿地帯に自生する多年草で、稲の親戚である。したがって葦の生えている場所は水のある場所であり、どうじに稲のつくりやすい場所に隣接しているといえる。
俳優で《大和》の発掘に長年従事してきた苅谷俊介は、図10・3の+印に位置し、図10・5に図示した「唐古・鍵遺跡」こそ、この「葦原ノ中国」にふさわしい土地だ――と述べている。
つまり《纒向京》ができる直前のこの弥生集落は、水郷(二つの大河)の間の微高地であり、水郷には葦原があるのがふつうだから、まさに「葦原ノ中国」だというわけである。
「唐古・鍵遺跡」に限定する必要はもちろん無く、《纒向京》やその周辺もまた、岸辺に葦の生えた河川の間の微高地の連なりであり、「葦原ノ中国」にぴったりなのである。
(なお、先の枕詞「敷島」の元になった神武天皇の時代からおなじみの土地、「磯城」であるが、この名には、丈夫な石の城という意味があるらしい。神武東征譚からも、それは納得できる) 
10-4 遺跡の木材の伐採年を確定する「年輪年代法」

 

「年輪年代法」の登場 
前節で、《纒向京》の時代を西暦一八〇年から三四〇年と推理したが、これは、最近の考古学の成果に基づいて石野博信教授らが提唱している数値である。
この数値は「魏志倭人伝」の《邪馬台国》を連想させるにじゅうぶんなものがあるし、《纒向京》南端の巨大古墳である《箸墓》(またはハシノミハカ)が、やはり倭人伝にある(卑彌呼)の大きな冢(墓)である可能性をも感じさせる。
つまり、「《邪馬台国》大和説」かつ、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」である。
しかしごく最近まで、そのような主張は少数派であり、学会の主流ではなかった。
なぜなら、纒向遺跡の年代も《箸墓》の年代も、しばらく前までは「魏志倭人伝」の時代よりずっと後だ――とされていたからである。
北九州の大きな遺跡は「魏志倭人伝」の時代と合うかもしれないが、《大和》の同様な遺跡はその何十年かあとである――というのが、多くの学者の見解だったため、《大和》説に同意する人が少なかったのだ。
それが、この十数年ほどで、多数派にかわった。それは、考古学的な年代の決定法が、画期的に進展したからである。この節では、ジャーナリスト倉橋秀夫の「卑彌呼の謎年輪の証言」によって、その新しい年代決定法である「年輪年代法」を概説することにしよう。以下は倉橋の解説を著者なりに短くアレンジしたものである。
放射性炭素年代測定法の限界 
古代を対象とした考古学おいては、ある遺跡が成立した年代の推定は、主として遺跡から出土する土器の時代変化によってなされる。
土器類の形式変化と年代の前後関係は、きわめて精密に研究されていて、数年単位の違いがわかるらしい。
ただし絶対年代の決定となると、なかなか決め手がなく、困難であり、さまざまな関係史料や物理的方法から推定されていた。
物理学的方法のなかでよく用いられてきたのが、木材に対する放射性炭素年代測定法と呼ばれるもので、木がふくむ炭素14という元素の量から伐採年を推定する方法である。
これは木材についてはかなり有効で、たとえば青森市の有名な縄文遺跡・三内丸山遺跡から出土した栗の大木を測定した結果、四八二〇年前の伐採であることが分かった。
こういう方法で遺跡の木材の伐採年代が分かれば、そこに埋められている土器類も、ほぼ同じ年代に製造されたものだろう――と推理することができ、ひいては遺跡そのものの年代も推理することができる。
ところが、この方法は、誤差が大きいという欠点がある。
右の三内丸山遺跡の栗の場合は、プラスマイナス十五年という誤差がいわれているが、一般には数十年の誤差を覚悟しなければならない。
したがって、物理的方法として有力ではあっても、《箸墓》が(卑彌呼)の墓かどうかといった「きわどい問題」に使用するのは――不可能ではないにしても――難しい。
十年か二十年ちがうと、次の代になってしまうのだ。つまり(卑彌呼)が(臺與)になってしまうのだ。
そこで、近年になって登場したのが、「年輪年代法」という方法である。
「年輪年代法」とは何か 
この方法の原理自体は簡単である。
樹木の成長は均質ではなく、一年間には成長の速い時期と遅い時期があるため、輪切りにしたとき濃淡が見える。これが年輪だが、この年輪は、毎年一定の幅でできるわけではない。
その樹木にとって都合の良い気候が続いた年は、大きく成長するため年輪の幅は広くなる。また気候の悪い年は狭くなる。
したがって、年輪は年代の記録になっているのだ。
図10・8でわかりやすく説明しよう。
たとえば、三十年前に生まれて今年伐採した樹木の各年の年輪の幅を顕微鏡で見て測定したところ、図(a)のようだったとする。グラフの上ほど年輪の幅が広く、下ほど狭い。横軸は年で、右端が今年であり、左端が五十年前である。
これとは別に、もう一本の同じ種類の樹木があり、それは三十五年分の年輪をもっていて、測定してみるとその幅が図の(b)のような変化をしていたとする。
図(a)と(b)を比較すると、(b)の外側の伐採時の年輪から十五年前までの変化の形が(a)の十五年前から三十年前までの形と同じになっている。
すなわち、この(b)の樹木は、五十年前に生まれて十五年前に伐採されたものだと判定できるのだ。
そして、(a)と(b)を組み合わせることによって、現在から五十年前までの年輪幅の変化の様子――つまり各年の気候の様子――をあらわす図(c)のパターンができる。
もちろん気候が同じでも樹木の個性や場所によって年輪変化は違ってくるが、だいたい合っていればそれを統計的に処理して、標準の年輪幅のグラフをつくることができる。
そこで、この操作を何百本何千本という樹木に適用してゆくと、百年前、五百年前、千年前・・・というふうにさかのぼることができ、古墳時代や弥生時代までの年輪の標準パターンが描けるであろう。
それができてしまうと、遺跡から出土した木材が、何年ごろに伐採されたものかが、判定できるはずである。
図の(a)が多数の樹木によって得られた標準年輪幅のパターンだとし、(b)がある遺跡から出土した年代不明の木材のパターンで○印の右端がその木の樹皮のすぐ近く――いちばん外側――だったとする。そして(b)を(a)と照合していった結果、図のようにパターンが一致する年代が見つかったとする。すると、この出土した木材は、六十年前に生まれて三十年前に伐採されたものだと判定できるのである。このように「年輪年代法」の原理はとても単純であり、すぐにもできそうに思える。しかしじっさいは、そう簡単にはいかない。日本では不可能だといわれていた時代もあったのだ。
「年輪年代法」の歴史 
この方法は、一九二〇年代にアメリカの天文学者A・E・ダグラスによって考案され、アメリカとヨーロッパで発展した。アメリカは年々の気候の変化が激しく、したがって年輪の変化が大きいため、出土した木材に十五年分ていどの年輪が刻まれていれば、それがいつ頃の伐採かが分かるといわれている。ヨーロッパはもうすこし長く必要だが、それでも三十年分くらいの年輪が分かれば、判定可能だとされている。
しかし日本では、
一 島国で海によって気候が緩和されるため、年毎の気候の変化が少なく、したがって年輪幅が毎年ほとんど一定である。
二 地形が複雑で、山地や平地の森や水際など、じつにさまざまな場所に樹木が生育しており、同じ年でも場所によって年輪幅がまちまちであろう。
三 日本列島は北から南まで細長く、北と南では気候がまったく違うので、統一的に扱うことは不可能であろう。
――といった困難が考えられ、欧米のようなわけにはいかないだろう、と誰もが考えていた。
じつは日本でもかつて試みた人はおり、大正時代、終戦直後、また昭和五十年ごろ・・・などに実行されかかったことはあったのだが、成果をあげられずに終わってしまった。
戦後まもなく、西岡秀雄という学者(トイレットの研究でトイレット博士としても知られていた)が、法隆寺五重塔の解体修理のときに中心となる木材をこの「年輪年代法」で計測して、西暦六〇七年という値を出したことがあったが、周囲の納得は得られなかった。
図10・9(a)に相当する資料が不備だったからである。
しかし考古学の進展が著しくなるにつれて、日本でもこの方法ができないか――との要望が強くなり、一度徹底的にやってみようということになり、昭和五十五年(西暦一九八〇年)に、光谷拓実という当時三十二歳の若い学者がはじめることになった。
光谷は東京農業大学で造園を学び、千葉大学大学院で園芸を学び、そののち奈良国立文化財研究所に入って遺跡の植物の研究や遺跡発掘あとの公園化などを担当しており、考古学者としては変わった経歴だったが、この経歴が「年輪年代法」の確立には大きくものをいった。
「年輪年代法」とは、もともと植物を対象とする研究だからだ。
光谷拓実の予想外の成果 
光谷は年代が明確に分かっている原生木の測定からはじめて、同じ年代で二十ていどのサンプルをとって統計的に処理しながらデータを積み上げていった。微妙な変化を見るために年輪測定の精度は一〇ミクロンという微細な値にした。
選んだ樹木は、古代から現代まで一貫して使いつづけられていて、どの地方にもあり、そして百年以上の年輪が得られやすい――という条件を満たす、杉・檜・高野槇の三種だった。
こつこつとデータをとり続けた結果、数年ほどで、日本でも年輪のパターンが――同じ地域なら――どの木材でも一致することがわかってきた。
ただし、日本は気候変化が微妙なので、年輪の照合には、欧米とちがって百年から二百年という多くの年輪が必要だった。
しかしさいわいなことに杉や檜の類は長寿であり、各地に百年をこえる太い木材がかなり残されていて、データの収集は可能だった。
これは予想外の嬉しい結果で、周囲の期待も高まった。
つぎに日本列島の各地域で年輪パターンが一致するかどうかの研究がなされた。
その結果として、従来の考えをくつがえす「驚くべきデータ」が得られた。
日本列島の北と南ではまったく気候が違うので、大和なら大和、山陽なら山陽・・・といった具合に、別のデータになるだろうと思われていたのが、ほとんど同じであることが分かったのだ。
青森・秋田・長野・岐阜・三重・和歌山・高知・屋久島など遠く離れた場所でも、パターンの一致が見られたのだ。
またさらに、地域による微妙な違いの資料も得られて、産地の推定も可能となってきた。
年代的にもじわじわとさかのぼり、六年後には二千年前までの年輪パターンが得られるようになった。つまり弥生時代から古墳時代にかけての年輪変化が分かってきたのだ。
光谷の所属する研究所は各地の遺跡からの木材や、古い寺社の解体修理のおりの古材などが求めやすい環境であり、そのことも研究に幸いした。
そして、倉橋が執筆した平成十一年には、七千本もの木材を測定した結果として、
 杉で西暦前一三一三年(いまから三三〇〇年前)まで
 檜で西暦前九一二年(いまから二九〇〇年前)まで
――の標準年輪幅パターンが得られるようになった。
(悠仁親王殿下の御印で有名になった高野槇でもかなりのデータが得られた)
欧米では一万年前まで分かっているので、それに比べれば僅かな期間だが、古墳時代をこえて弥生時代までの精密なパターンが求められたのだ。
こうして、百年ていどの多くの年輪を持ち、かつ樹皮に近いところまでの年輪が残されている太い木材であれば、それが伐採された紀年を、年単位で――うまくすれば季節単位で――確定できる技術が完成した。 
10-5 「年輪年代法」の衝撃と編年表の大修正

 

この節では、「年輪年代法」を実地に適用した結果とそれによって弥生時代から古墳時代にかけての古代編年表がどのように修正されたかを、前節と同じく倉橋秀夫の資料によって検証しよう。
衝撃的だった「年輪年代法」の適用結果 
(1)紫香楽宮の柱根の測定
「続日本紀」によると、第四十五代聖武天皇(皇后は光明皇后)の離宮である紫香楽宮(しがらきのみや))は天平十四年(西暦七四二年)の八月に建て始めたとされる。候補地は滋賀県にいくつかあったが、その一つの宮町遺跡から出た檜の柱根を測定したところ、一本が七四三年の初秋に伐採、他の一本が七四二年の冬か翌年の春に伐採されたことがわかり、正史の記述を裏づけた。この九年あとに木簡が出土して、測定の確かさが証明された。
(2)法隆寺五重塔の心柱
前記の西岡秀雄の測定した檜の心柱を、新たに光谷のデータによって測定しようとしたが、樹皮に近い部分が無かったために推定しかできず、創建の七世紀初頭よりかなり遅く、六七〇年の火災によって再建されたのだろうとの説が一度は流布した。ところがそのご平成十三年になって、エックス線撮影により樹皮に近い部分――白太と呼ばれる部分――が残っていることがわかり、再測定したところ、西暦五九四年という意外な伐採年が出た。これは再建どころか創建時よりさらに十年以上も前の伐採であり、議論を呼び、現在著名な学者たちがいろいろな仮説を発表している。
(3)滋賀県の二の畦・横枕遺跡
典型的な弥生時代の環濠集落であるこの遺跡は、従来は西暦後五〇年くらいとされていたが、井戸の遺跡の檜や杉を測定したところ、紀元前六〇年と九七年という値が出された。つまり百年以上古く出たのだ。ただし井戸に使うような木材は、古材の再利用かもしれないので、まだ編年表の修正には疑問がもたれた。
(4)池上曽根遺跡の驚くべき建造物と古さ
大阪府の堺市の南西、和泉市と泉大津市にまたがる池上曽根遺跡は弥生中期の遺跡として知られてはいたが、発掘調査が進んだ結果、平成七年に高床式の大型建造物や巨大な井戸が発見されて、大きなニュースになった。吉野ヶ里遺跡より古い時代に、より大きな建物をもつ大規模な集落が関西にあったのだ!遺跡から出た多数の檜の柱根は直径が七十センチもあり、《平城宮》なみの大きさで、樹齢も二百年前後だったし、井戸は樹齢七百年の楠をくりぬいた外径2mにも達する巨大さだった。この発見は、弥生時代には大型建物は無いという通説をうちやぶるものだったが、その古さが「年輪年代法」によって測定されると、衝撃はさらに強まった。測定可能な柱根の発掘も、測定そのものも、大変だったが、多くの関係者の努力によって、いくつものサンプルが測定され、さらに土器の調査をはじめさまざまな調査がなされた結果、この遺跡の大型建造物の柱の檜は、
「西暦前五二年に伐採された」ことが明らかになり、かつ、
「古材が再利用された可能性はきわめてうすい」ことが明らかになった。
この結果は平成八年三月に発掘報告書の形で公式に発表された。
この前五二年という伐採年はじつに衝撃的で、従来の土器の推定より百年はさかのぼることになったのだ。
つまり弥生時代中期は、ごく最近の教科書に書かれていた数字にくらべてさえ、百年も古いことが分かったのだ。
奈良時代なみの大規模な宮殿状の建物があったというこの西暦前五二年がどういう意味を持つのかを、いくつかの事例で述べてみよう。
▽この年はクレオパトラが女王に即位したころだが、その時代に日本にも巨大な宮殿に住む王がいた。
▽「漢委奴國王」という金印を九州の倭奴国がもらった年よりも百年も古い時代に畿内に大きな国があった。
▽「魏志倭人伝」の(卑彌呼)の時代より二五〇年も前の時代にすでに大規模宮殿が畿内にあった。
▽(卑彌呼)の時代よりずっと古くから、畿内に九州より大きな集落遺跡があった。
▽さらに、弥生時代の畿内に大きな国がいくつもあり、独自に大陸や朝鮮半島と交流していたらしいことも推量されるようになった。
考古学界がうけた衝撃の大きさがわかるであろう。
この「年輪年代法」の威力によって、いまでは、九州在住の考古学者ですら、「《邪馬台国》九州説」を唱える人が激減したといわれる。
(5)その他の測定と《箸墓》の推定
その後もいろいろな遺跡の出土木材が測定された。
たとえば、《纒向京》の纏向石塚古墳の周濠から出た檜の板材は、西暦一九五年伐採らしいことがわかった。つまり(卑彌呼)の死の五十年以上も前の造営であることがわかった。
またそのすぐそばの勝山古墳の周濠から出土した檜板は、西暦一九九年の伐採であることがわかった。
《箸墓》からの木材の出土はまだ発表されていないが、こういう多種の測定と土器の研究から、《箸墓》の造営年は、西暦二五〇年から二六〇年の間くらいであろうと推定されるようになった。
それまでは、西暦三〇〇年以後であろうとか、どんなに古くても西暦二八〇年ごろであろうとかいわれていたので、これはじつに大きな修正だった。
「魏志倭人伝」から考えられる(卑彌呼)の死の西暦二四八年から五年後くらいには、《箸墓》ができたことになるが、巨大な墓の造営には最低でも五年はかかるだろうから、《箸墓》の造営年と(卑彌呼)の没年はピタリと一致することになったのだ。
それまでは、(卑彌呼)の死から何十年もたって墓ができる筈はなく、したがって別の人物の墓だろうとされていたのが、あっさりと覆され、「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」が急上昇することになったのだ。
さらに、《大和》の古墳がこのように古いと判明したことは、逆にいうと(卑彌呼)の時代に北九州に無いような巨大古墳が《大和》にはあった――とわかってきたことでもある。
それまでは、《大和》の発展は北九州より何十年か遅れていると考えられていたので、《大和》の巨大古墳と(卑彌呼)を結びつける人が少なかったのだ。
「年輪年代法」に基づく編年表の大修正 
以上のような多くの適用結果を考古学者が受け入れた結果として、弥生時代から古墳時代にかけての畿内の編年表がどのように修正されてきたかを、図10・10に略描した。
いずれも佐原真、都出比呂志といった著名な考古学者の案で、倉橋秀夫の前掲書の資料をアレンジした。
これをみると、一九七〇年の説Aと一九九八年の説Cとでは、弥生後期の始まりが二百年も後退し、古墳時代の始まりも五十年後退していることがわかる。
さらに驚くのは、一九八三年Bから一九九八年Cまでのわずか十五年の間に、同じ学者の説が、弥生後期の始まりで百年、古墳時代の始まりで五十年も後退してしまったことである。
この、一九八三年Bから一九九八年Cへの変化こそ、「年輪年代法」の衝撃によるものなのである。
(なお前述した放射性炭素年代測定法によっても、弥生前期の大幅な後退が唱えられており、精度は別にして「年輪年代法」と矛盾しない結果が出ているようである)
読者の多くは、おそらく、一九八三年より前に中学高校などで弥生・古墳の年代を先生から習ったであろうから、その記憶と現在の最新の研究成果とは、弥生時代後期にして二百年も違っているのだ。
都出比呂志は平成十年の講演録で、古墳時代のはじまりは三世紀半ば(一説では二世紀末)とわかったのに、教科書には検定基準によって三世紀末から四世紀初と書かねばならない――と述べている。
再度図10・10をみて、(卑彌呼)の推定没年の西暦二四八年を縦軸で確認していただきたい。
つい最近の一九八三年ごろまでは、その没年は畿内の弥生時代であって、古墳時代の始まりより五十年かそれ以上も前であり、したがって《大和》に径百余歩もあるような巨大な墳墓はなかった――とするのが通説であった。
しかし「年輪年代法」の威力が認められるようになった二十世紀末になって、大和の古墳時代の始まりと(卑彌呼)の没年とが一致するという判断が主流になったのだ。
さらに細かな検討の結果として、本邦初の「超巨大」前方後円墳である《箸墓》の造営年が、西暦二五〇年から二六〇年の間くらいだろうと推定されるようになり、「《大和》説における年代の矛盾が一挙に解消してしまった」のである。
そしてその同じ年代には、《箸墓》のような「超巨大」な墳墓は、《大和》以外のどの地域にも――北九州にも南九州にも――存在しないことが、あらためて認識されるようになってきたのである。
この節の最後に、「《邪馬台国》大和説」と「《邪馬台国》九州説」の論争にこの「年輪年代法」の成果が与えた影響について、倉橋秀夫のコメント(大意)を紹介しておく。
「・・・「年輪年代法」で《大和》の古墳の年代がずっと古いことが分かった結果、九州説につきものの《邪馬台国》東遷時期より以前に、《大和》に九州より大きな墓があり、その後に九州に大和式の墓ができるようになったと認められるようになった。土器も近畿から九州への流れが認められるようになった。・・・すくなくとも《纒向京》に日本列島ではじめて大王墓――箸墓のこと――ができたことは間違いない。・・・最近では考古学者の九割までが「大和説」になり、九州在住の考古学者でさえそうなっている」
断言はしていないが倉橋の感想は「大和説」極めて有利であり、著者もそれに同感である。 
10-6 《纒向京》に集中する「祖型および前期」前方後円墳の概観

 

前方後円墳の名づけ親 
日本の古墳時代は弥生時代と飛鳥時代をつなぐ重要な時代区分であるが、それは巨大な前方後円墳で特徴づけられている。
巨大前方後円墳は世界的にみてきわめてユニークな日本独特の墳墓形状である。
弥生時代の小さな円墳が巨大化する過程で小さな方形部をもつようになり、その方形部が、相対的に急激に大きくなり、ついには円形部を上まわるようになった――と考えられている。
方形部の役割は、墳墓造営後の祭祀に関係しているらしい。
前方後円墳というお馴染みの名称を発案したのは、江戸後期の勤王の志士として高山彦九郎とならんで著名な蒲生君平で、出典は文化五年(一八〇八年)に刊行された「山陵志」である。
山陵とは天皇や皇后の御陵のことであるが、この本は極貧のなかで全国の天皇陵をめぐった君平が、その現状を漢文で書き記したもので、御陵についての総合的な研究書の先駆である。
その前に松下見林が似た仕事をしているが、昔の史書を参考にしただけで実地の調査はほとんどしなかったといわれており、内容においては「山陵志」が群を抜いている。
蒲生君平はこの経験によって、天皇陵が荒廃しているさまを知り、心を痛め、その修復や維持を幕府に訴えた。
訴えは幕府には通じなかったが、それからほぼ六十年ののち宇都宮藩がこの「山陵志」に刺激されて御陵の修復整備を計画し、幕府の許可を得て実行した。
そして文久三年(一八六三年)から慶應元年(一八六五年)までの幕末騒乱期に、百以上の天皇陵を修復し垣根をめぐらすなどして荒らされることを防いだ。
これは昨今の幕末史ではほとんど無視されている偉業であった。
さて、前方後円墳の命名だが、蒲生君平は「山陵志」のなかで、つぎのように記している。
「其爲制也。必象宮車。而使前方後圓。爲檀三成。且つ環以溝。」
読み下すと、「その制をなすや、かならず宮車にかたどり、前方後円となさしめ、檀をなすに三成とし、かつめぐらすに溝をもってす。」である。
これが前方後円墳の語源で、言い得て妙である。
蒲生君平のころは上から見ることは難しく、横からみた形を前方後円と描写したのだ。
さらに君平はこの形が古代の宮車を模したものだと推理している。この推理は現在では否定されているが、面白い考えである。
檀をなすに三成――というのは、墳丘が三段でできているという意味だが、たしかに古代の前方後円墳はそういう作り方が多かったらしい。
蒲生君平は戦前は修身の教科書の常連だったが、戦後は忘れられている。
しかし日本独自の巨大墳墓に「前方後円墳」という名をつけただけでも、日本人が記憶すべき人物ではないだろうか。
前方後円墳の分類 
話を《纒向京》にもどして、この日本最古の本格的な都の内部とその周辺――すなわち狭い意味での《大和》――には、最初期の前方後円墳がきわめて多い。
おおまかにいって《大和》の前期の前方後円墳は全国の四割をしめるが、最初期の大古墳にかぎれば、百パーセントが《大和》にあるといってよい。
古墳時代はかなり長いため、三つにわけられており、
 前期・・・ほぼ三〜四世紀
 中期・・・ほぼ五世紀
 後期・・・ほぼ六世紀
――と考えればよい。
このほかに前期と弥生期の境目にあるものが《纒向京》には多いので、これを祖型とすると、
祖型・・・ほぼ二〜三世紀
――となる。
《纒向京》にあるのはほとんどが祖型か前期のなかでもとくに早い時期のものであり、真の意味で最初期の巨大な前方後円墳によって《纒向京》が構成されているといっても過言ではない。
図10・6を振り返っていただけばおわかりのように、《纒向京》には少なくとも七つの最初期の前方後円墳があり、それは大小二つの大きさに分かれている。
しかし小とみえる古墳も、じつは弥生時代の墳墓にくらべればはるかに巨大で墳丘長が100mもある。
そしてその多くは前方部が後円部にくらべて小さく、円墳時代の形状を残している。
この前方部が小型の形の古墳は、時代的には超巨大な前期古墳の前であり、形状も過渡的なので、前記のように祖型と呼ぶことにしたのであるが、便宜上大きさの呼び方をつぎのように決めよう。
 祖型(前方部が小さく、墳丘長が100m前後)→「巨大」
 前期(前方部が大きく、墳丘長が300m級)→「超巨大」
100m前後とは、サッカー・グラウンドの大きさであり、図10・6では小さくみえても、じっさいにはじつに「巨大」なのだ。さらに300m級の「超巨大」になると、東京ドームの外周を上まわり、周濠を合わせるとドームよりはるかに大きい。
前方後円墳の《大和》での分布 
これらの祖型と前期の巨大、超巨大な前方後円墳によって彩られる《纒向京》の雰囲気を、図10・11と図10・12によって感じとっていただきたい。
図10・11は北方からの航空写真で、中央が崇神天皇陵、右上が景行天皇陵で、上部中央が聖山《三輪山》である。図10・12は南方からの航空写真で、中央下部が《箸墓》であり、右上が景行天皇陵である。「超巨大古墳」が《纒向京》の地勢そのものとなっていることが実感されるであろう。つぎに《纒向京》およびその北方と南方の古墳群を描いた地図を、図10・13のAとBに示しておこう。
Aは下方が《纒向京》で中央から上が天理市の範囲で朝和(大和)、柳本と呼ばれる古墳群である。小さな黒点もすべて古墳であり、数え切れないほどの古墳が密集していることがわかる。
Bは上部が《纒向京》の南端で、下方が磯城から磐余と呼ばれた地域で、現在の桜井市の南部である。Bの中央部に古墳が見られないのは、地形的に河川を中心とした低地であって古墳の造営に適していないからである。
このAからBにかけての土地は、前述した初瀬川(大和川)と寺川の流域でつくられた農業や住居に適した地勢をもち、範囲は広いが両河川の流域という意味では単一の地域である。
A、Bにある大きな古墳は、そのほとんどが祖型と前期の前方後円墳である。
参考までに、北から順に書き出してみよう。( )のなかは所属する地域名と周濠を除いた墳丘長の概略値である。巨大、超巨大の区別も記しておいた。
  東殿塚古墳(朝和/139m/巨大)
  西殿塚古墳(朝和/234m/超巨大)
  中山大塚古墳(朝和/132m/巨大)
  黒塚古墳(柳本/130m/巨大)
  崇神天皇陵(柳本/242m/超巨大)
  景行天皇陵(纏向/310m/超巨大)
  勝山古墳(纏向/90m/巨大)
  纏向石塚古墳(纏向/96m/巨大)
  矢塚古墳(纏向/96m/巨大)
  東田大塚古墳(纏向/96m/巨大)
  ホケノ山古墳(纏向/90m/巨大)
  箸墓古墳(纏向/280m/超巨大)
  桜井茶臼山古墳(磐余/208m/超巨大)
  メスリ山古墳(磐余/250m/超巨大)
ここでホケノ、メスリというカナ名は、その古墳の場所の小字名が昔からカナで表記されていたからであり、漢字が難しいからカナにしたわけではない。年代・形状や出土品などについては後述するが、とにかく《纒向京》を中心とした地域に、弥生時代から古墳時代への過渡期と見られる最初期(祖型と前期)の「巨大」および「超巨大」な前方後円墳がずらりとならんでいることがわかるであろう。図10・13の最初期古墳群はまさに壮観である。
前方後円墳の一覧と形状変化 
つぎに、これらのなかでもとくに目立つ前期「超巨大」前方後円墳が、中期・後期まで含めた前方後円墳群のなかでどのような地位にあるのかを、日本列島のすべての前方後円墳を大きさの順にならべたベスト二十の一覧で示してみよう。図10・14がそれである。
もちろん最大は、世界でも最大といわれる仁徳天皇陵で、墳丘長だけで500mに近く、面積は東京ドームの外周の三倍もある。これに三重の周濠を入れると長さ800mにも達し、ほとんど1Kmである。
面積は東京ドームの十倍である。
こういう超々巨大な天皇陵は中期古墳であるが、それらのベスト三を除くと、《大和》の「超巨大」古墳群は、中期や後期の古墳群に劣らない大きさをもっている。
仁徳陵などを含めた全体で景行天皇陵が七位、《箸墓》が十一位、崇神天皇陵が十六位である。
そのなかでも最古が《箸墓》であるが、この中期後期に負けない大きさの「超巨大」前方後円墳が、《纒向京》に「いきなり」出現したのである。
図10・15に、
  祖型(二〜三世紀)
  前期(三〜四世紀)
  中期(五世紀)
  後期(六世紀)
――にかけての形状の変化の概略を描いた。
個々によって形は異なるが、おおまかにはこういった変化――すなわち時代とともに前方部が次第に大きくなる変化――をなしている。祖型については、前方部の形状が推測の域をでないことも多いが、その形から帆立貝型と呼ぶこともある。また前方部がもっと細長いものもあるらしい。
従来からの考えでは、古墳時代のはじまりは前期形状の古墳が出来はじめた時期とされ、それは図10・10で説明したように、最近になって、西暦三〇〇年ごろから西暦二五〇年ごろにさかのぼることになった。
しかしその直前の祖型の墳墓も、弥生時代の小型の円墳墓とは大きさも形状も明らかに異なっており、古墳時代の特徴を備えている。
したがってこれらの祖型墳墓ができた時期を古墳時代のはじまりとする考え方もある。となると《大和》における古墳時代の幕開けは、西暦二〇〇年より前にまでさかのぼることになる。この問題については、考古学者の間でも意見の統一はまだ見られないようである。
図10・16には、《箸墓》と第十代から第十二代までの一皇女三天皇の四つの前方後円墳の形状を描いておいた。これは長年のあいだに損壊したり、また幕末に修復したりしているので、最初の形を厳密に残しているとは限らないが、いずれも本格的な前方後円墳で、大きさも拮抗しており、《箸墓》が三天皇の墓とほぼ同一寸法であることが印象的である。
つまり《箸墓》は、単なる一皇女の墓とはとても思えないほど巨大なのだ。しかも、史上有名な三天皇に先駆けての造営なのである。
この節では前方後円墳の大きさや形状に着目して《纒向京》とその周辺の特徴をみてきたが、もちろん古墳以外にもさまざまな特色を、この《纒向京》は有している。 
10-7 国家の黎明を告げる古代の都《纒向京》1 その自然と祭祀

 

石野博信、苅谷俊介はじめ多くの考古学者が述べている《纒向京》の特徴を整理して箇条書にすると、以下のようになる。
A めぐまれた自然環境 
(A1)交通の便と防御の便がよい
《大和》の主要部を占める《纒向京》が、大阪湾から船で大和川をさかのぼればすぐに着く場所にあり、瀬戸内海を経由して大陸や半島にまで連絡していることは、すでに何度も述べたとおりである。また日本海側の港である丹後半島の東の若狭湾に出るのも、決して不可能ではなく、さらに伊勢から東海への経路も可能な場所であることも述べた。一方東側は山地であるため狭い道しかなく防御は簡単で、背後から攻撃される恐れは少ない。また敵軍が南から北上しようとしても、神武東征の苦労で分かるように紀伊の国の山地がひかえていて困難である。したがって、主な部隊は西側の生駒山地と金剛山地の間の大和川周辺のみを守ればよく、防御もしやすい。
(A2)聖山《三輪山》の山麓にある
当時の人たちにとって特別な聖山だった円錐形で秀麗な《三輪山》の山麓にあり、祭政一致の時代にあっては、絶好の場所であった。《三輪山》は古く縄文・弥生初期の時代から信仰を集めていたと考えられ、事実縄文時代からの遺跡が山の周辺にある。したがってここに都をかまえたということは、その主が《大和》全体の祭祀と政治を手中におさめたということを意味している。とくに《大和》の外から来た豪族にとっては、ここに都をかまえることは、付近の諸豪族の頂点に立つことを意味していたであろう。神武天皇が三輪山麓の狭井川岸から皇后をむかえたことを想起していただきたい(第六章)。これは《大和》の祭祀権を手中にするための政治的判断だったと考えられる。
(A3)水田をつくりやすい斜面をなす
《纒向京》およびその周辺は、東の山地と西の大和湖(水郷)の中間にあって、水の豊富なゆるやかな斜面であり、したがって稲田をつくりやすい土地である。完全な平地だと――古代の土木技術では――水を万遍なく行き渡らせるのは大変だが、緩い斜面で斜面の上方に水源があると、きわめて容易に水田をつくることができるのだ。
(A4)大きな河川の流域で肥沃な土壌がある
初瀬川(大和川)と寺川の流域で、そこに流れ込む無数の川があるため、肥沃な土壌が形成されていて夏枯れの心配もなく、農作物に最適な場所である。また斜面の微高地だから洪水の心配もない。
(A5)山地が近く木材が得られやすい
東側は《三輪山》だけではなく巻向山、初瀬山はじめ笠置山地の山々があり、そこから巨木をふくめて木材を容易に得ることができる。
(A6)鉄や玉や朱が得られやすい
周囲の山々――とくに《三輪山》――は鉄を含んでおり、それが川に流れ込んだ砂鉄もあり、古代の重要産物である鉄を得ることができたと考えられる。また付近の山々は玉の産地であり朱の産地でもあった。
B 革命的な祭祀遺跡 
(B1)日本初の祖型(帆立貝型/手鏡型)前方後円墳が多い
本格的な前方後円墳が出現する直前の墳墓形式である祖型(帆立貝型または手鏡型/図10・15参照)の古墳が、はっきりしているだけで五つもある。また周辺にもあるし、さらに現在では消滅してしまって「・・・塚」などの土地の名のみで推察される古墳も多い。帆立貝型は弥生時代から古墳時代への過渡期につくられた巨大古墳だが、その造営年代が、きわめて古いと推定されている。したがって日本列島でもっとも古い時代に、巨大な前方後円墳の原型が「発明」された地域であると考えられる。
(B2)日本で最初の「超巨大」古墳がある
おなじみの《箸墓》は、日本列島で最初の「超巨大」な前方後円墳であり、神につかえる一皇女の墓であるにもかかわらず、その大きさはのちの時代の著名な天皇陵に負けていない。しかも、それまでの日本列島のどこにも無かった、まったく新しい前方後円墳という形状をなしている。つまり、「超巨大」という点でも、「前方後円墳というユニークな形状」という点でも、日本で最初の墳墓が造営された場所である。
(B3)前期前半の「超巨大」古墳はここのみ
《箸墓》のほかに同じ《纒向京》内には景行天皇陵があるし、そのすぐそばには崇神天皇陵があるが、それらも前期前半の古い「超巨大」前方後円墳である。前期の前半の超巨大前方後円墳のあるのは《大和》のみだが、そのうちの代表的な三墓がこの《纒向京》とその隣接地にあることになる。
(B4)鏡の出土状況が他と異なる
奈良県の古代研究で知られる石野博信は、(卑彌呼)が魏の王から鏡を受け、かつそれが有力者の墓に副葬された時期を西暦二四〇年から二七〇年ごろと仮定して、その時代の鏡の出土状況を調査している。それによると、合計六十面が発見されており、その分布は以下のとおりである。
  北九州(筑豊)   一七パーセント
  丹波・丹後・但馬  一三パーセント
  瀬戸内海周辺    二七パーセント
  大和・大阪湾周辺  三二パーセント
  関東・東北      八パーセント
  若狭・加賀      三パーセント
つまり、大和とその西側の大阪湾や瀬戸内周辺に、(卑彌呼)の時代の鏡の六割が出土しているのである。これに対して九州は一七パーセントでしかなく、古代《大和》勢力圏との差は歴然としている。さらに鏡の形式を調べると、この《大和》と北九州の差はもっと明確になる。
(卑彌呼)の鏡が威力を発揮したと考えられる前記の西暦二四〇年〜二七〇年の六十面の鏡は、大きく後漢式鏡と神獣鏡にわけられる。
後漢式鏡は「魏志倭人伝」の時代の少し前の形式で、《籠神社》のところでも述べた内行花文鏡がその代表である。また神獣鏡は四獣鏡、獣帯鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡などからなり、瑞祥のある獣の像が特徴である。そして、後漢式鏡よりもあとの四世紀まで使用されている。この二種類の鏡の分布を、各地方ごとに見ると、以下のようになる。
            後漢式鏡  神獣鏡
  北九州(筑豊)   六面    二面
  丹波・丹後・但馬  四面    なし
  芸備        四面    なし
  大阪湾岸      九面    なし
  近畿内陸      二面    五面
  四国北部      四面    五面
  上総        なし    二面
  会津        二面    なし
これを見ると、《大和》地方や四国北部に、当時としては新しい形式だった神獣鏡が多く、瀬戸内海から九州にかけては、古い後漢鏡が多いことがわかる。(卑彌呼)が魏の王からもらった鏡がどのような形式であったかについては、神獣鏡だろうという説、そうではないとする説、および混在説に分かれており、決着がついていない。ただ、新しい形式の神獣鏡が(卑彌呼)の時代に《大和》で流行しはじめ、輸入だけでなく国内でも数多くつくられはじめたことは、確かだと感じられる。
(以上の石野博信の資料に、「年輪年代法」の成果がどのくらい入っているかは不明で、新しい出土とあわせて変更される可能性もあるだろう)
(B5)神社の祖と思われる建物の遺跡がある
図10・6の解説(第10-2節)で記したように、初期《纒向京》と思われる地域の北東の隅に、宮殿と思われる古代建築の遺跡が発見された。これは専門家の手によって復元図が描かれており、それは図10・17のような形をなしている。柱の間隔はきちんと三十二センチになっていて、魏の国の魯般尺と呼ばれる縁起のよい単位の一尺に一致している。魯般尺は(卑彌呼)の時代に魏との交流の結果として伝わったと想像されている。またこの尺は出雲大社や伊勢神宮の宝殿にも古くから使われてきた単位である。つまりこの遺跡は神社の原形とも考えられるのだ。図10・17が当時の面影を映しているとすると、これは神社建築様式のなかの神明造と大社造を折衷したような形式である。神明造は切妻かつ平入で屋根にそりがなく、その代表は《伊勢神宮》である(図9・3参照)。また大社造は同じく切妻だが妻入で屋根はそりをもっている。また入口が偏った位置にある。代表は出雲大社である。さらに南北二つの建物の配置は、伊勢神宮や熱田神宮の宝殿を連想させる。このようないくつかの検討から、この遺跡が古代から続いている多くの神社の原形をなしていることは確からしく思われる。
(注 切妻は本を半ば開いた形の屋根、平入は屋根を横から見る部分に入口をもち、妻入は屋根が三角に見える部分に入口をもつ形式である)
図10・17は場所からいうと宮殿(皇宮)と思われるが、祭政一致の古代においては首長の住居と行政の場所と祭祀の場所とは一致するかあるいは同種の建築物であったと考えられるので、皇宮の原形はまた神社の原形でもある。元来が神社の本殿や拝殿は古代の貴人の住居の面影を残すとされており、したがってこの図10・17の遺跡は、宮殿であったと同時に、その後の全国の神社の原形となった可能性が、きわめてたかいのである。さらに図10・17の両側の建物は、高床式の倉庫のようにもみえ、伊勢や熱田の宝殿配置にそっくりなのだが、これはまた、「魏志倭人伝」にある、
「租賦ヲ収ム邸閣アリ(年貢を収納する倉庫がある)」という一文を連想させる。
なお、この遺跡が皇宮や神社だったとして、そこの主が誰だったのかが問題になるが、初期の《纒向京》の主要建築物であるため、(倭迹迹日百襲姫命)、若いころの崇神天皇、あるいは崇神の前の開化天皇やその前の孝元天皇であった可能性もあるであろう。いまのところ、人物を特定する史料は発見されていない。
(B6)新嘗祭の遺跡が数カ所で見つかっている
新嘗祭の原形と思われる祭の遺跡が何カ所かで見つかっている。新嘗祭とは天皇がその年に収穫された穀物を神前に供え、またこれを食して、神々に感謝する行事である。一般国民もこれに参加する。古くは陰暦十一月の卯の日に催されたが、いまでは十一月二十三日になされる。戦後はこれを「勤労感謝の日」という奇妙な名前で呼んで国民の祝日としているが、もともとは新嘗祭である。さらに天皇の即位後に初めておこなうものを大嘗祭といって、「三種の神器」とからんで、きわめて重要な宮中の儀式である。この新嘗祭がいつからはじまったのかは、議論のあるところであるが、その原形らしい遺跡がここで見つかったということは、《纒向京》と天皇家とが不可分の関係にあることを暗示している。遺跡からの判断では、この祭の際に地方の豪族から農産物が供物として献上されたらしいとされる。これもまた興味ぶかい発見である。
(B7)新しい形式の祭祀用具の出土
それまでの弥生時代の集落から出土している土器をはじめとする祭祀用具にくらべて、新しい形状をもった祭祀用具が多く出土している。このことも、《纒向京》が時代を画した都であったことを示唆している。 
10-8 国家の黎明を告げる古代の都《纒向京》2 その都市構造

 

C 飛鳥京・藤原京を先取りする都市構造 
(C1)圧倒的な広さ
《纒向京》より前の弥生集落にも、考古学者を驚かせるような巨大なものがある。たとえば、
  池上曽根遺跡  12ha(中心部のみ)
  唐古・鍵遺跡   16ha(中心部のみ)
  吉野ヶ里遺跡  45ha
  妻木晩田遺跡 165ha
――などが知られている。
とくに鳥取県の日本海よりで発見された妻木晩田遺跡は、考古学者を絶句させたほどの大きさで、「魏志倭人伝」にある国の一つではないかともいわれている。しかし、全盛期の《纒向京》は、この妻木晩田をも大きく上まわる、隔絶した大きさをもっていたのだ。
すなわち、推定だが、纒向遺跡(纒向京) 400ha――もあるのだ。有名な吉野ヶ里遺跡の十倍である!この広さは、三百五十年ものちの《飛鳥京》の約250haを凌駕し、また日本で最初の都市計画による造都とされる《藤原京》の約670haにすら匹敵している。驚くほかはない。
(C2)環濠がない
第10-2節で述べたように、この《纒向京》には環濠がない。これは、それまでの弥生遺跡とも違うし、同時代の他の地域の集落跡ともまったく違う特色である。守るための環濠がなく、逆に外部との交通を便利にするための河川の利用や一種の運河までつくられていたのだ。都市――大規模な集落――の性格が、このとき大きく変化したことを意味している。これは、前述のように、外敵から攻められる恐れが減り、仮に攻められても簡単に追い返すほどの力を持つにいたった強力な首長がこの《纒向京》の支配者であったことの強力な証拠である。そしてそれは、第八章に記した「日本書紀」三天皇の記述と、じつによく照応しているのだ。
(C3)人工の運河の遺跡がある
これまでに見つかっている運河遺跡は図10・6にあるように一部分だけであるが、《纒向京》の全体像から判断して図の部分だけで終わった筈はなく、もっと長い運河が四方に走っていたであろう。そしてその工事はじつにしっかりしたもので、木材による護岸壁もきちんと造られており、高度な技術が使われていたことがわかっている。
(C4)竪穴住居が見つかっていない
これは、《纒向京》の特異性をもっともよく表している事実である。《纒向京》の時代である弥生時代から古墳時代前期にかけての日本列島の住居は、竪穴式が一般である。ところが《纒向京》には、この広い面積があるのに、竪穴式住居がひとつも見つかっていないのだ。見つかるのは、高床式および平地式のみである。高床式は弥生から古墳前期にかけては豪族の住まいまたは収蔵庫とされた種類の高級建築物である。同時代の一般庶民用の竪穴住居が《纒向京》のどこにも見つかっていないという事実は、やはりこの都が時代を画する、そして他地域の集落とはまったく異なった性格を持っていたことを意味している。
(むろんこれまで見つかっていないから存在しなかったとは言えない。しかし、仮に存在したとしてもごく僅か、または周辺地域のみだったのであろう)
(C5)外来土器が突出して多い
弥生時代の終末期から古墳時代の前期にかけては、それまでにくらべて日本列島の各地域間の交易や人の移動が盛んになった時代である。したがってこの時期から各地の集落遺跡に、他の地方の特色をもった土器が増加するのだが、その増加の率は《纒向京》が突出しているのである。一般に弥生集落にある外来土器の比率は数パーセントていどであるし、《纒向京》の直前に栄えた「唐古・鍵遺跡」でもほぼ三パーセントで、それがふつうだったのだが、それが《纒向京》では、じつに三十パーセントにもなるのだ。突如として十倍に増えたのである。このことも、《纒向京》がそれまでの大規模集落とちがって環濠がなく河川利用ができ、外部との往来に便利な構造になっていたことと関係している。《纒向京》で見つかる外来系土器は、北九州製から新潟や東海製までさまざまだが、なかでも多いのが、伊勢から東の東海地方の形式である。これは、《纒向京》を中心とする《大和》地方が、伊勢(三重)やその先の尾張(愛知)・美濃(岐阜)などと密接な関係をもっていたことを示している。交流と軋轢の両方があったのだろう。一方瀬戸内海沿岸の文化の中心だった吉備(岡山)だが、ここからの外来系土器は、最初期こそ多かったが、のちに減少し、《纒向京》の終末近くにはほとんど無くなっている。これは吉備勢力の消長を暗示しているようで興味ぶかい。もうひとつ土器についていえるのは、同じ大和(奈良県全体)でも、とくに《纒向京》とその周辺だけに新様式が多いということである。つまり、前期の巨大古墳が密集している図10・13の地域にのみ、新しいタイプの土器が多く出土し、それ以外の大和地方(奈良県全体)は伝統的な弥生土器が大半なのである。《纒向京》が当時の日本列島のなかでいかに特別な場所だったかが分かるであろう。
(C6)出土品の品種の豊富さ
ここからは、他の地方では見られない種類のさまざまな遺物の発掘が続いている。祭祀用のほかに、農耕具、建築用具などで、なかには用途不明の金属製品などもある。
(C7)大規模な市場があったらしい
図10・6でいえば《纒向京》推定範囲の下方――《箸墓》のあたり――に、大きな市場があったらしい。これは、古くから(倭迹迹日百襲姫命)の別名に「大市」とついていたり、《箸墓》を「大市墓」と呼びならわしていることなどから想像できるし、すこし後の時代ではあるが、「市」という文字が墨書された土器が発見されたりもしている。
そしてこのことが、「魏志倭人伝」にある、「國國市アリ有無ヲ交易シ(国々に市場があり交易している)」――を思い出させる。
(C8)水洗トイレらしい遺跡がある
導水施設が発掘されているが、その施設から寄生虫の卵がみつかり、したがって水洗トイレだったのだろう――との推理がなされている。しかしこれとは別の考えとして、「聖水を汚す儀式」がなされた跡ではないか――との説もある。清らかなものをわざと汚すことによって禍を避けるという儀式は、《纒向京》の時代にずっと続いていたらしく、その内容は(天照大神)と素戔嗚尊の説話にそっくりだったらしい。またそれは、第六章に記した、奈良盆地西部の葛城地方にあった日蝕の際の「破壊する儀式」を連想させるものでもある。
(C9)三代の皇宮の伝承がある
天皇や(倭迹迹日百襲姫命)の御陵のことはBですでに記したが、「日本書紀」にある皇宮の場所もまた、この《纒向京》にある。すでに記したことでもあるが、第十代崇神天皇の皇宮は、図10・6の右下の部分にあったと記されているし、第十一代垂仁天皇と第十二代景行天皇の皇宮は、右上の楕円の「推定宮殿地区」というあたりにあったと、記されている。つまり、古代の天皇紀と考古学的推定とが一致しているのだ。これもまた、何百年ものちの《飛鳥京》や《藤原京》とならぶ、注目すべき《纒向京》の特色である。
D「日本書紀」と《纒向京》の対応 
以上、ABC三つの面から、《纒向京》の特色を調べてきたが、どの特色も、「日本書紀」に記されている崇神・垂仁・景行三代および(倭迹迹日百襲姫命)の事績――に照応している。――と同時に、「魏志倭人伝」にある《邪馬台国》の描写――にも照応している。
この節のさいごに、《纒向京》の時代約百六十年間を五期に分けて、文献史料と考古学資料との対応を、もうすこし具体的に記しておこう。もちろん西暦の年代は、干支や考古学に基づく著者の推理である。
〔前期〕
初代神武天皇より第六代くらいまで 西暦一〇〇年前後?
(大和朝廷の先祖が九州から《大和》への東征を何度か試行したのち、ついに成功して大和南部の橿原などに拠点を作り、《三輪山》山麓への進出を計った時代)
〔第一期〕
第七〜九代天皇および(倭迹迹日百襲姫命)の活躍期 西暦一八〇〜二三〇年の初期《纒向京》
(《三輪山》山麓の《纒向京》への進出を果たし紛争に勝利して祭祀権を得た時代。西暦一八〇年は、「魏志倭人伝」にある(卑彌呼)が女王となって倭国の乱をおさめた年と推定されている)
〔第二期〕
(倭迹迹日百襲姫命)の晩年および第十代崇神天皇や(豐鍬入姫命)の活躍期  西暦二三〇〜二七〇年の発展期《纒向京》
(「魏志倭人伝」によれば狗奴国との抗争に悩んだ(卑彌呼)が没して(臺與)が後継した時期。「日本書紀」にも相応する記述がある)
〔第三期〕
第十一代垂仁天皇や(倭姫命)の時代 西暦二七〇〜三一〇年の最盛期《纒向京》
〔第四期〕
第十二代景行天皇や日本武尊の時代 西暦三一〇〜三四〇年の後期《纒向京》
西暦三三〇年ごろ滋賀県大津へ遷都
〔第五期〕
第十三代成務天皇の時代 都は大津だが、西暦三四五年ごろ、《纒向京》に景行天皇の御陵を造営
(大津への遷都の理由として、豪族間の軋轢など政治的理由、人口集中による汚物堆積や不衛生化、土地の隆起による川幅の狭隘化、などが考えられる) 
10-9 《纒向京》にある「祖型」巨大前方後円墳の概要

 

造営年代順の推理 
《纒向京》にある前方後円墳の造営年代を定めるのはきわめて難しく、分かっているのは二、三にすぎないが、それもごくごく大まかであって、しかも異論のあるのがふつうである。
ここでは、纒向遺跡の名付け親である石野博信の推理をもとにして、それに著者の推理を加えて、《纒向京》の前方後円墳群を、年代順に並べてみよう。( )の中は、祖型か前期かの別、墳丘長、推定造営年である。とくに造営年はごくおおまかな推理である。天皇陵の推理は「記紀」や「住吉神代記」の干支などによっている。
《纒向京》のはじまり(西暦一八〇年)
  ↓
纒向石塚古墳(祖型/96m/西暦一九五年)
  ↓
勝山古墳(祖型/90m/西暦一九九年)
  ↓
ホケノ山古墳(祖型/90m/西暦二二〇年)
  ↓
矢塚古墳(祖型/96m)
  ↓
東田大塚古墳(祖型/96m)
  ↓
《箸墓》(前期の最初期/280m/西暦二五五年)
  ↓
崇神天皇陵(前期の初期/242m/西暦二七五年)
  ↓
{垂仁天皇陵(前期/227m/西暦三一五年/奈良市)}
  ↓
《纒向京》のおわり(西暦三四〇年)
  ↓
景行天皇陵(前期/310m/西暦三四五年)
周辺までふくめると、《箸墓》と崇神天皇陵の間の年代に、「超巨大」前方後円墳を三基があげることができる。
すなわち、
西殿塚古墳(前期の初期/234m/朝和)
  ↓
桜井茶臼山古墳(前期の初期/208m/磐余)
  ↓
メスリ山古墳(前期の初期/250m/磐余)
――である。
この三基はおそらく、大和朝廷の重要人物か、あるいは周囲の有力氏族の首長の墓であろう。西殿塚古墳は、宮内庁としては繼體天皇の皇后だった手白香(たしらか)皇女の御陵ということになっているが、繼體天皇の在位は六世紀であって時代があわないし、また一皇后の墓にしては大きすぎる。そこで、すぐそばの東殿塚古墳が手白香皇后の墓であり、「超巨大」な西殿塚古墳はしかるべき権力者の墓だろうとされている。両古墳がすぐそばにあることから、明治初期に間違って登録してしまったのであろう。
纏向石塚古墳(祖型)について 
〔一〕その配置
つぎに、前記の五基の祖型古墳のうち、発掘調査によってその実態がかなり分かっている二基について、時代順に概説してみよう。はじめは纏向石塚古墳である。まず、その配置を、図10・6によって確認していただきたい。《纒向京》の勃興期の推定範囲の方形のなかに位置しているが、そこから太陽が昇る方角である真東に、図10・17にある神社(宮殿)の遺跡が正面を向いてある。またその背後には《三輪山》に隣接する初瀬山がある。
つまりこの古墳に早朝立って真東を見ると、「初瀬山および聖なる神殿の背後から朝日が昇ってくる」のである。とくに春分秋分でそれが顕著である。またもう一つ興味ぶかいのは、「前方部がきっちりと聖山《三輪山》の山頂――ほぼ南東方向――を向いている」ことである。
したがってこの古墳は、有力者の墳墓であったかもしれないが、それ以上に重要な祭祀施設ではなかったか――との想像がはたらく。
〔二〕形状と大きさ
前方部は直径約64mの後円部にくらべて小型で、あきらかに祖型であるが、そうかといって決して突起物ていどのものではない。
その形状は三味線の撥に似ており、長さがほぼ32m、幅はくびれた狭い部分が16m、先端の広い部分が32mである。この部分だけで野球の内野ほどの大きさである。
この前方部と大きな後円部とを合わせた墳丘長は96mに達する。
後円部の周囲には周濠のあとが認められるが、後年の前方後円墳の周濠とはちがって、円形に近い形をしている。
濠の幅は約20mで、その外に堤もあるので、全体の直径は100mをはるかに超える。
まえに祖型古墳の大きさをサッカー・グラウンドにたとえたが、周濠まで入れれば、さらに一回り大きい。
近くに「超巨大」古墳があるので大きさでは目立たないが、弥生時代の一般的な古墳に比較すれば「桁外れの大きさ」である。
〔三〕出土品
出土品であるが、二世紀末〜の最古級の土師器など各種の土器のほか、祭祀に使用されたらしい木製品が多いのが特徴である。木製品としては、朱色に塗られていた鳥型、どくとくの円弧模様のある弧文円板、鋤、樹皮製の円座などが出土している。また周囲には、図10・18に描かれているような、柱を建てた跡が見つかっている。古墳時代を特徴づける埴輪は無いが、多くの木製品から、弥生時代とは異なった祭祀が行われたことはたしかであり、古墳時代の祭祀の祖型が推理されている。
〔四〕「年輪年代法」による造営年測定
もうひとつこの纏向石塚古墳の調査で画期的なのは、周濠内から出土した檜の板に対して、前述の光谷拓実による「年輪年代法」の測定がなされたことである。その結果、この板は、「西暦一九五年に伐採された可能性が大きい」ことがわかった。樹皮近くまでの年輪は残っていなかったのだが、かなりの確度で推理できたのである。
この板が造営のころに伐採されたとすると、この古墳は二世紀末――《纒向京》が勃興しはじめたころでかつ(卑彌呼)が共立されたころ――にできたということになる。すなわちこの祖型古墳は、「記紀」と「魏志倭人伝」と考古学とを結ぶ、じつに興味ぶかいモニュメントなのである。
ホケノ山古墳(祖型)について 
(一)形状と大きさ
この古墳は、《纒向京》の祖型古墳のなかで、もっとも保存状態が良く、精密な発掘調査がなされている。もちろん古墳一般の例に漏れず、盗掘はかなりなされたらしいが、それでも貴重な収穫があったのだ。場所は、図10・6で見られるように、《箸墓》のすぐそばにあり、前方部は南東を向いている。図10・19は平成十二年の発掘調査時に明らかになった中身であり、全体の構造がよくわかる。
三段になった円形部の直径は約60mであり、それに長さ20m、最大幅30mほどの前方部が付属している。前方部は、石塚よりやや小ぶりな撥に近い形で、同じ系列にあることがわかる。これと円形部を合わせると全長は80mになるが、原形はもっと大きく、おそらく90mはあっただろうとされている。
纏向の五基の祖型前方後円墳の特色として、「後円部の直径と前方部の長さの比が二対一」という規則があるらしく、その規則を当てはめても、全長は90mになる。周濠の痕跡も一部にのこされており、やはり幅が20m近くあったらしい。したがって周濠まで入れると、大きさは100mを超え、纏向石塚古墳とほぼ同じと考えられる。
(二)出土した鏡
平成十二年の出土品でとくに目をひくのは、鏡および棺を包む木槨である。鏡については、棺の部分から画文帯神獣鏡が一面発見され、棺の外側からは内行花文鏡が一面と画文帯神獣鏡の破片が発見された。内行花文鏡は、第九章の《籠神社》の神宝のところでも触れたように一〜二世紀からの後漢鏡であり、また画文帯神獣鏡も、二〜三世紀の弥生時代からある鏡である。つまりのちの本格的前方後円墳の時代に多い三角縁神獣鏡よりも数十年から数百年古い時代の鏡が出土したのだ。
これらが(卑彌呼)が魏王から得た鏡かどうかはまったく不明だが、こういう種類の鏡を、(卑彌呼)の時代の《纒向京》の有力者たちが大陸から輸入していたことは、確実である。なぜなら、このホケノ山古墳の構築時期は、(卑彌呼)の生存中だと考えられるからである。この推理は、《箸墓》が(卑彌呼)の墓でなかったとしても成立する。
(三)独特の木槨
つぎの木槨であるが、これは、古墳の研究史に新しい頁を加えたほどユニークなものであった。槨とは遺体の眠る棺を包み込むような施設のことで、石槨や木槨があり、とくにシナ大陸に多い。ホケノ古墳の内部は、まず土に大きな穴が掘られ、その内側に石が積まれて石室(一種の石槨)ができている。その大きさは、石の外側で、奥行き7m、幅2.7m、深さ1.5mである。かなりの大きさであるが、その内側にさらに木の囲いがあり、これが内部の棺を包み込むような施設になっていたのだ。つまり石と木の二重の槨(棺を包む施設)ができていたのだ。最内部の棺は、幅1m、長さ5mで、巨大な高野槇をくりぬいて造られていた。
古墳時代に入ってからの一般の前方後円墳では、石材で壁をつくる竪穴式石室の中に棺を入れているし、またその前の弥生墳墓では、槨をつくらないのがふつうで、造ったとしても木槨のみである。したがってホケノ山古墳の埋葬施設は、弥生時代とも古墳時代とも異なる、独特なものなのだ。まさに過渡期の巨大古墳である。
(倭人は槨をつくらないという「魏志倭人伝」の記述が間違いであることは、こういう発掘調査からもわかる)
(四)その他の出土品
鏡以外の出土品としては、棺内には、鉄剣や大量の水銀朱が残されていた。棺の外側には、鏃、刀剣、埴輪状に並べられた壺などが見つかった。その他全体として、甕、大型甕、壷、大型壷、高杯、その他の土器類、また祭祀用の木製品などが多く出土している。また墳丘の構成には、土が崩れないように、葺石が丁寧に積み上げられていた。
このホケノ古墳は、とうぜんながら盗掘にあっているだろうし、また風雨で土が流れて自然に出土したものもあったであろう。近隣の農家には、ここから出土したと口伝される品々がかなり伝わってきたらしい。第九章でその学説を取り上げた《大和》出身の考古学者として著名な樋口清之は、その人脈によって、ホケノ山古墳から出土したという伝承のある鏡を、二面入手したそうである。ひとつは内行花文鏡で、最近の出土と同じ種類のものである。またもう一面は、縦列式神獣鏡と呼ばれる鏡である。このうち内行花文鏡は《大神神社》に奉納され、また神獣鏡は國學院大学に寄贈された。この二面が本当にホケノ山古墳からの出土だったとすれば、花文鏡が二面、神獣鏡が三面出土したことになる。おそらく、最初はもっとたくさんの鏡が副葬されていたのであろう。
さらに樋口清之の著作によれば、昔は周囲に埴輪円筒があり、頂上に家型埴輪があり、さらに勾玉も出土したらしい。この埴輪はのちに奉納されたものかもしれない。ホケノ山古墳や《箸墓》のあたりは、戦国〜江戸時代には織田一族の領地になっており、その領主が古墳を庭園としてかなり加工してしまったらしい。そういう折りにも、かなりの出土があったのであろう。
これらの多彩な出土品は、いずれも後の古墳時代の先駆であり、また《大神神社》の祭祀遺跡とも密接に関係しているようである。
(五)造営年代の推定
ホケノ山古墳の場合は「年輪年代法」を適用できる木材は出土していないので、精度のよい造営年代推定はできていないが、木棺に放射性炭素測定法を適用した結果、西暦三〇年から二四五年という数値が得られた。これでは精度が悪すぎるが、鏡など他の出土品からの推定を加えて、西暦二二〇年前後の可能性がたかいといわれている。つまりホケノ山古墳は纏向石塚古墳と《箸墓》の中間期に築造されたらしい――ということである。この時期は本格的古墳時代の黎明期であり、同時に大和朝廷の黎明期でもあって、じつに興味ぶかい。
勝山・矢塚・東田大塚古墳(祖型)について 
この三基の古墳については、前二基ほどくわしいことはわかっていない。盗掘は当然されただろうし、現状も、農地がぎりぎりまで迫っているなど、調査はかなり困難らしい。以下分かることを簡単に記す。位置や向きについては、図10・6を参照されたい。
[甲]勝山古墳
後円部の直径は約60m、前方部の長さは約30mで、全長90mと推測される。前方部の形は細長く、手鏡の柄のような形状だったらしい。向きはほぼ北東である。やはり周濠があり、その大きさは石塚やホケノ山と同様らしいが、その跡地から平成十三年になって大量の木製品が出土した。とくに面白いのは鋸歯文が描かれた1m近いU字状の木製品で、埴輪の原形ではないかといわれている。これらの多くの木製品は、墳丘上で祭祀がなされたときの建築物の廃品だろうと推理されている。
平成十三年の五月になって、この出土木製品のひとつに外側までの年輪の残されていることがわかり、光谷拓実が「年輪年代法」で測定したところ、「西暦一九九年に伐採されたもの」であることがわかった。
すなわち、纏向石塚古墳の直後の造営である可能性が高まった。ただし同時に出土した土器は布留〇式といわれるもので、修正編年でもその数十年後とされているので、今後の研究が必要である。土器はのちの時代の祭祀遺物であると考えれば、矛盾はなくなるが、確言はできない。
[乙]矢塚古墳
現状は方形に近いのだが、かつては直径64mの後円部を有していたと推定されている。前方部の推定寸法は、長さが32m、幅が40mで、ほぼ南西を向いており、墳丘の全長は96mと推測される。周濠は幅20mほどで、濠跡からは壷、甕、高坏、線刻土器などが発見されている。
[丙]東田大塚古墳
これは石塚・勝山・矢塚とは別の微高地にあるが、前方部の向きは矢塚と同じである。後円部の直径64m、前方部の長さ32mと推定されており、全長は96mで、大きさや形状も矢塚古墳と同種である。どの祖型古墳も、このように、方形部の長さが円形部の直径のちょうど半分(半径と同一寸法)になっており、これも《纒向京》祖型古墳の特徴である。この東田大塚古墳にも、やはり幅20mほどの周濠の跡があり、そこから土器が発見されているほか、周濠の外周部から壷型の棺が発見されている。

この節で記したのは、《纒向京》に残された五基の祖型巨大前方後円墳の考古学的調査結果であるが、古代史として興味をひくもう一つは、埋葬者は誰か――ということである。しかし残念ながら、これについては史料がまったく残っておらず、人物名を特定することはできない。ただ、《纒向京》の性格から、「二世紀末から三世紀初にかけて没した、三輪山麓の豪族の首長もしくは成立期大和朝廷内部の要人、または朝廷に協力した有力者」ということはいえるであろう。また崇神天皇より前の天皇が埋葬されていた可能性も、まったく無いわけではないであろうが、《纒向京》の主体が大和朝廷になったのは崇神天皇の直前と思われるので、その仮説には少々無理があるだろう。 
10-10 《纒向京》のシンボル 日本最古の超巨大《箸墓》の謎1
 形状と造営の経緯

 

たんに《大和》だけではなく、日本列島全体を見渡しても、史上初の――つまり日本最古の――「超巨大」な前方後円墳・・・それが《纒向京》のシンボルともいえる《箸墓》である。
位置と向き 
図10・6や10・12でわかるように、《箸墓》は《纒向京》を縦断する幹線道路とJR桜井線と巻向川に挟まれた位置にあり、その周囲は、一部が民家、多くが田畑である。そして北西のがわに農業用水として維持されてきたらしい大池がある。地図や写真の右側はもちろん山地で、《三輪山》がそびえている。
前方部の先端に小さな突起がみえるが、これは宮内庁でつくっている拝所で、その写真を図10・20の(a)に示した。鳥居、説明板などがつくられている。守衛所もあるが、ふだんは無人である。
宮内庁の説明板には、「孝靈天皇皇女倭迹迹日百襲姫命・大市墓」とある。説明版の拡大写真は図10・21にあるが、「大市墓」がとくに大きく書かれていて印象にのこる。現在の住所表示は「奈良県桜井市箸中一〇四三番地」であるが、この箸中というのは、もちろん《箸墓》から来た地名で、《箸墓》を中心とした一角である。昔の地名は「磯城郡大市郷」だったらしい。この御陵を北西の大池を挟んで対岸から写真に撮ると図10・20(b)のように写る。この写真は四月撮影だが、樹木が鬱蒼としてくる五月以降に撮ると、その雄大さが実感できる。図10・20(c)は図10・12と同じく末永雅雄による航空写真である。
《纒向京》内部における位置は、図10・6によって明確にわかる。拡大された《纒向京》の南の端にあるが、方形で示した初期の範囲からは、南の郊外にあたる土地にある。
現在の幹線道路は墓の左側を通っているが、古代の国道である原上ツ道は、《箸墓》と一部重なっている。
つまり、古代国道に接する位置に(倭迹迹日百襲姫命)の御墓が造営され、一部重なった部分の道を迂回させたのだ。
原上ツ道が《箸墓》の前からあったのか後でできたのかはわからないが、遠方から来るのにじつに便利な場所であることは間違いない。
また、古代の幅広い二つの河川の間の住み良い微高地にあったこともわかる。
方角的には、前方部を逆に伸ばせば、ほぼ初瀬山を向くようにつくられている。
前方後円墳の向きについては、意見がいろいろあるのだが、この《纒向京》の古墳群を眺めると、後円部の先端が北東または東北東を向いていることに気づく。
図10・6に描かれた七つの古墳のうち四基までがそうであり、そしてその向きは初瀬山の向きである。
勝山古墳は、それと正反対だが、前方部の先端が初瀬山を向いている。
のこる二つの、纏向石塚古墳とホケノ山古墳は、他の五基とちょうど九十度ちがう向きにつくられている。
このように見てくると、雑然としてみえるこれら古墳群にも、おおまかには規則性があることがわかる。
古墳の向きは地勢によってつくりやすいように決められたという説があるが、それとともに宗教的な意味もあったのであろう。
《箸墓》の位置について、重要なことがあと二つある。
その一つは、真東に《檜原神社》があることである。図ではすこしずれているが、かつてはわずかに北にあったらしいので、真東ということになるのだ。「日本書紀」によれば、《檜原神社》は(倭迹迹日百襲姫命)存命中に創建されているので、だとすれば、(天照大神)をはじめて奉斎したこの神社の向きから朝日が昇るような位置に、(百襲姫命)の墓が造営されたことになる。
二つめは、当然のことではあるが、この《箸墓》から聖山《三輪山》が間近に一望できることである。さらに付記するならば、西南には天香具山など大和三山が望めるし、大気が澄んでいれば、とおく西の金剛山地の端の二上山も望めたであろう。夕日が沈む方角にあるこの山から、《箸墓》の大石が運ばれたと「日本書紀」にある。まさに眺望絶佳である。
(倭迹迹日百襲姫命)が眠る《箸墓》は、《大和》の地でももっとも神聖な景観に恵まれ、交通や立地条件の良い場所に造営されたのだ。
形状と大きさ 
《箸墓》の形状は、本格的な前方後円墳のなかでもっとも古い前期前半の形であり、図10・20(c)の航空写真によって見ることができる。また他の御陵との形状の違いは、図10・15と16によって知ることができる。
帆立貝のような祖型であるホケノ山古墳などと比較すると、前方部がとつぜん巨大になり、本格的な前方後円墳になっていることと、同時に、その前方後円墳のなかでは明らかに古い形であることが、図によって理解できる。大きさであるが、現況の数値は、
   後円部径    156m
   後円部高さ    25m
   前方部最大幅 132m
   前方部長さ   125m
   前方部高さ    15m
   墳丘全長    276m
――である。
しかし、長年の侵食や農地・宅地造成によってかなり縮小されていると考えられるので、造営時の大きさは、右の数値のすべてを切り上げたものに近いであろう。
現在の等高線図は、図10・22のとおりである。よく見ると、後円部は基礎の上に三段の層があり、その上に頂上部がつくられていることがわかる。だから厳密には五段であるが、曲線状ではなく三段の層があると記した蒲生君平の観察眼は鋭かったといえるであろう。
つぎに周濠であるが、これは長い間不明であった。
しかし平成九年、後円部の隣接地を調査したさいに、大きな周濠と大規模な周堤の跡が発見されて、古代史界で評判になった。
発見された周濠の幅はほぼ10mで、その周囲の周堤の幅は15mほどである。
またそのさらに外側にも周濠があったと推定する学者もいる。
図10・22の外周部は、これまでの発掘調査結果をもとにして、石野博信が推定した内濠と外濠の形状である。
内濠を守る周堤の長径は370m、外濠の長径が470mと算定されている。
つまり外濠まで含めると、ほとんど二分の一Kmにも達する「超巨大」さなのだ。面積を、東京ドームの外壁までの面積と比較すると、
 墳丘部分がほぼ同じ
 内濠の外側ではより大
 外濠まで含めると、四倍
――ということになる。
驚くべき大きさである。あらゆる時代の古墳を含めても奈良で三番目であり、前期古墳のみでいえば景行天皇陵についで日本で二番目に大きい。さらに注目すべきは――繰り返しになるが――すこし後の著名な天皇陵(崇神・垂仁・景行)とまったく同じか、または上まわる規模を有していることである。
造営のいきさつ 
「日本書紀」にこの《箸墓》の造営の話が記載されていることは、第八章で述べたが、ここでもう一度、原文の読み下しを記しておこう。
「爰ニ倭迹迹姫命、仰ギ見テ悔イテ急居。即チ箸ニ陰ヲ撞キテ薨リマス。乃チ大市ニ葬ル。故、時人、其ノ墓を号ケテ箸墓と謂フ。是ノ墓ハ、日ハ人作リ、夜ハ神作ル。故、大坂山ノ石ヲ運ビテ造ル。即チ山ヨリ墓ニ至ルマデ、人民相踵ギテ手逓伝ニシテ運ブ。時人、歌シテ曰ク、坂ニ継ギ登レル石群ヲ手逓伝ニ越サバ 越シカテムカモトイフ。」
小学館の「日本書紀」の訳文を一部アレンジして記すと、つぎのようになる。
「そこで(倭迹迹日百襲姫命)は、天空を去りゆく神を仰ぎ見て後悔し、急に座り込んだ。そしてそのはずみに箸で陰部を突いて亡くなられた。そこで大市に葬った。それゆえ時の人は、その墓を名づけて《箸墓》といった。この御墓は、昼は人がつくり、夜は神がつくった。大坂山の石(たぶん二上山の石)を運んで築造した。山から墓に至るまで、人々が立ち並び、石を手から手へ渡して運んだ。時の人は歌を詠んで、大坂山の麓から頂きまで連なる 多くの石を 手渡しにして運べば 運ぶことができるだろう といった。」
「日本書紀」を通読したことのある方なら、これがいかに例外的な記述であるか、お分かりになると思う。どんな著名な天皇でも、その天皇の埋葬についてはごく簡単にしか記されておらず、XXX陵に葬りたてまつった――といった一行ていどの説明があるだけである。例示してみよう。
(倭迹迹日百襲姫命)の父親にあたる第七代孝靈天皇については、「(九月六日に)片丘馬坂陵に葬りまつる」
第九代開化天皇については、「(十月三日に)春日率川坂本陵に葬りまつる」
(倭迹迹日百襲姫命)の活躍時期と重なる第十代崇神天皇についても、「(八月十一日に)山辺道上陵に葬りまつる」
・・・といった具合であって、どのようにして造ったなどという記述はないし、まして人々が墳墓造営にからんで歌を詠んだなど、まったく無い。
(倭迹迹日百襲姫命)が助言したとされる崇神天皇の崩御と埋葬ですら、「何月何日に崩御された、何月何日にxxxに葬った」とあるだけなのだ。
最高首脳の天皇より、神子(巫女)をつとめた皇女のほうが、ずっと詳細に、その墳墓造営の様子が記されているのである。しかも大きさはそれまでの天皇陵を遙かに超え、かつ現在までちゃんと残っているのだ。
《箸墓》の謎/(倭迹迹日百襲姫命)の謎 
(倭迹迹日百襲姫命)は実質的には天皇であったが、推古天皇以前には女帝を認めないという「記紀」編者たちの方針があって、皇女や神子としてのみ記述したのだろうか?
それとも他になにか、書くことのできない重大な秘密があったのだろうか?
あるいは、「記紀」の編者たちはさほど重大だとは認識しておらず、ただ《箸墓》周辺にこの皇女についての特異な伝承が残っていて、それを記載するように豪族たちが主張したのだろうか?
つぎに、「魏志倭人伝」にある(卑彌呼)の墓の記述を引用してみよう。
この《箸墓》が(卑彌呼)の墓かどうかは、意見の分かれるところであるが、大いに参考になるからである。
「卑彌呼以テ死ス 大イニ冢ヲ作ル 径百余歩 徇葬スル者 奴婢百余人((卑彌呼)が死んだ。大きな墓を作った。直径百余歩で殉死する者は奴婢百余人だった)」
ここで歩を魏の尺度とすると、1.4mほどなので、百余歩は140m以上となる。
これは《箸墓》の後円部の直径約160mにほぼ等しい。
だから《箸墓》は(卑彌呼)の墓だ――との説は、昔からあるが、「魏志倭人伝」の歩がそうかどうかもわからないし、たんに「とても大きい」という意味で書いたのかもしれない。
数値の一致は偶然にすぎないとも考えられる。
そもそも、魏の使者が日本に来てわざわざ墓の寸法を計ったり、また日本の役人が測定値を出してそれを魏に伝える――といったことが有ったのかどうかも、疑問であり、「とても大きい」という評判を百余歩という表現で記しただけだった可能性もある。
ただ、つぎのことだけはいえる。
それは、魏の使者が、「日本の女王が死んでとても大きな墓をつくった」という情報を、なんらかの方法で得ており、その話が彼らにとって「とても印象的だった」――ということである。
なぜなら、「日本書紀」における《箸墓》の記述が「例外的」であるのと同様に、「魏志倭人伝」における(卑彌呼)の墓の記述もまた、数多いシナ正史のなかで「例外的」だからである。
日本の様子を記したシナ史書は、「魏志倭人伝」以外にもたくさんあるが、首長が没したあとの墓の大きさを記したような史書は、「魏志倭人伝」の(卑彌呼)の項以外には見あたらないのである。  
10-11 《纒向京》のシンボル 日本最古の超巨大《箸墓》の謎2
 造営法と出土品

 

造営の方法 
図10・23に、苅谷俊介による、構造の推定図を示した。この図によって、造営法も想像することができる。図10・22の等高線図からもおおよそわかるが、《箸墓》は五段の構造をしているらしい。つまり、なだらかな円錐として造営したのではなく、階段状に下から積み上げていったのである。
前述のように平成九年に周濠や周堤が発見されたが、翌十年には長さ10mの渡り堤も見つかり(図10・23の右下)、また道のできかたから、右上にも渡り堤があったらしいと推測された。
苅谷の図では古道の原上ツ道(今もそれに近い道がある)は後円部の中心を通っているが、図10・6や図10・13の現況からの推測では、中心をすこし外れており、むしろ渡り堤のある場所を通っていたように思われる。
そしてそのほうが合理的である。道をまっすぐに来るとそのまま堤を渡って墳丘に登ることができるのだから・・・。
こういう大型の墳墓をつくるには、土を積むことが基本の作業になるが、その土を遠方から運ぶのは大変なので、周囲に穴を掘ってその土を盛り上げるのがふつうである。
そしてその穴が、自然に周濠になる。だから、大型の墳墓の場合には、周濠ができないほうが、むしろ不思議なのだ。
《箸墓》もこうして周濠と墳丘とが同時に作られたことは明かである。
盛り土をとめるために、葺石が大量に使われたらしいが、それは、調査の結果、近くの河原などの石であることが判明した。
だから、「日本書紀」にある大坂山(二上山)から運んだ石というのは、もし史実だとすれば、河原石の不足分の補充や、内部の石室などに使用された大型の石なのであろう。
この造営工事に、いったいどれくらいの人員と年月がかかっただろうか――という推理は興味ぶかいが、これについては、「(株)大林組」の試算結果がある。
まず容積だが、高さ20mまでを五段に積み重ねると、三十万m3の盛り土が必要となる。
これだけの土を盛るためには、道具が鉄や木の鋤、鍬、モッコなどとし、労働時間を一日八時間で月に二十五日とすると、「毎日五百人が働いたとして十二年かかる」「毎日千人が働いたとして六年かかる」という計算になる。
いまなら千人の動員はそう困難ではないが、奈良盆地全体でも十万人いたかどうかという時代だから、当時の千人はいまの十万人以上に匹敵するであろう。そう考えると、五百〜千人はたいへんな数だし、命令系統もよほどしっかりしていなければ働くことなど不可能である。
また、もし現在これを実現しようとすると、かかる費用は二百億円以上になるらしい。じつに大変な大工事だったことがわかる。いまから一七五〇年も前に、よくこんな大事業を完遂したものだと、感嘆する。これを実行した第十代崇神天皇の力の大きさは驚異である。まさしく、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)という尊称にふさわしい。
出土品 
(一)昭和後期
宮内庁が管轄している御陵は発掘は困難であり、考古学者による本格的な調査はなされていない。しかし、墳丘の補修時にたまたま遺物が発見されたり、周囲の調査によって土器類が見つかったりしており、かなりのことがわかってきている。戦後の発見のはしりとしては、昭和四十年代から五十年代にかけて、補修工事中に、後円部で特殊器台など、前方部で二重口縁壺などが――多くは破片で――発見された。これらは埴輪の祖型であり、とくに特殊器台は墳丘の頂部に集合的にあったらしい。
(二)平成六年〜七年
昭和の間は断片的だったが、平成に入ると、発見は急展開する。平成六年から七年にかけて、大池の護岸工事にともなう前方部北側の調査が200mにわたってなされ、そのとき池の底から土器がいくつか発見された。これらの土器は、布留〇式と呼ばれるもので、年代的には、西暦二五〇年〜二六〇年に作られたと推定されている。かつては西暦三〇〇年より後とされていたのだが、他の遺跡における「年輪年代法」の適用によって、大幅に修正されたのだ。またこのとき、後円部と前方部とで作り方が違うのではないか――との意見がでた。そして、最初は後円部のみ作られ、十年か二十年して前方部が付加されたのではないか――という昔にあった説が復活した。しかしこれには異論もあるらしい。
(三)平成九年
前記したように、この年の後円部南東隣接地調査によって周濠と周堤が発見され、「周濠の有無についての議論」に決着がついた。この発見も最近のことなので、現在刊行中の考古学書にも「周濠は無い」という解説が見られることがある。
(四)平成十年1
後円部の南東隣接区域で、周濠・周堤・渡り堤などが発見された。
(五)平成十年2
秋に台風で墳丘上の樹木が倒れ、その整備工事中に三千数百点もの土器類が発見された。後円部からは、とくに「特殊器台」の発見が注目された。その写真を図10・24(a)に示す。これは断片だが、全体像もかなり判明している。「特殊器台」というのは、高さが1m近くもある大型の円筒に、写真のような斜線状の模様が刻まれた土器で、その発祥は吉備地方(岡山県)とされており、墳墓供献用に用いられた神具の一種で、のちの埴輪の祖型とされている。したがって「特殊器台型埴輪」ということもある。その製作年は、「年輪年代法」を援用すると、西暦二五〇年ごろとされている。すなわち、(卑彌呼)の死とほぼ同じ年代である。前方部からは、壷型土器が多く発見された。とくに注目されるのが「二重口縁壺」で、ほぼ完全な形のものが複数ある。これも埴輪の原型と考えられており、発祥は瀬戸内沿岸らしい。製作年は、やはり「年輪年代法」による修正編年表にもとづいて、西暦二六〇年〜二七〇年と推定されている。
問題は内部の石室や木槨や棺であるが、これは残念ながら発掘調査はできない。もしそれが可能ならば、盗掘されていたとしても、かなりの新発見があるだろう。そのため、多くの考古学者や古代史家が、発掘調査の希望を述べているが、天皇家の先祖の墓を開くことについては、モラルの面からも反対意見が多くあり、難しい問題である。出土品に吉備地方や瀬戸内沿岸の影響が強いことは、《纒向京》全体の発掘調査において、初期には吉備からの土器搬入が多く、それが次第に減って後期には東海が増えたとの前述した知見を裏づけるものでもあり、興味ぶかい。後円部が先に造営されて、前方部はかなり後でできた――という昔からの説は、「魏志倭人伝」の(卑彌呼)の墓の記述を一つの根拠にしている。つまり、《箸墓》を(卑彌呼)の墓とした場合、「魏志倭人伝」に記されているのは「円形」らしいので、まず後円部のみができて、それを魏の使者が報告したのだろう――との解釈である。しかし「円形」と明記しているわけではないし、出土品の年代の違いは、造営時の祭祀は後円部でなされ、後の祭祀は前方部でなされたとすれば説明できるので、二回造営説が正しいとはかぎらない。周濠付近の調査から、二回造営説に反対する学者も多いようである。
いずれにせよ、台風のおかげで多くの出土品が得られ、それと「年輪年代法」によって、《箸墓》の造営年代が西暦二五〇年〜二六〇年ごろらしい――とわかってきたことは、古代史研究として画期的なことである。
保存状態 
ほとんどの古墳が盗掘の被害にあっているので、《箸墓》だけが例外とは考えにくい。とくに戦国時代はひどかったらしい。《箸墓》一帯は戦国〜江戸時代にかけて織田氏の一族の領地になっており、武将が自分の庭として使っていたことはホケノ山古墳の所でも記したが、そのとき、《箸墓》を庭園の築地のようにして墳丘上まで道をつけるなど、かなり加工していたそうである。大池は周濠の名残かもしれないが、農業用水として維持されたらしいので、いろいろと工事がなされたであろう。後円部の一部は削られて宅地造成がなされているが、農業用地を確保するために古墳が削られることは昔からよくあるので、《箸墓》の大きさも初期よりは小さくなっているであろう。ただ希望を持てるのは、この地の人たちは《三輪山》への信仰が篤くて山を大切にしてきたことである。だから《三輪山》に関係の深い《箸墓》もまた、大切にされたと考えられるのだ。今後も、皇室の尊厳を損なわない範囲で調査がなされることを、期待したい。 
10-12 卑彌呼=倭迹迹日百襲姫命説の確からしさ

 

ここまで三つの章で、《大和》と(倭迹迹日百襲姫命)について知るところを述べてきた。また第三〜五章にも、関連事項を記してきた。
すなわち、「《邪馬台国》大和説」「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」の傍証となるさまざまな事項である。さいごのこの節では、これまでに述べた事柄を、まとめておこう。詳しいことは、これまでの各章を振り返っていただけばよいので、ここでは重複は避けてなるべく簡明に箇条書きにする。
「《邪馬台国》大和説」
[一]国名の問題
「魏志倭人伝」にある《邪馬台国》(邪馬臺國)は、その読みにおいて《大和国》に酷似している。国を除くと、《邪馬台(やまたい)》または《邪馬台(やまと)》であり、甲類乙類の区別までふくめて、《大和》にそっくりである。この国名は、残っている写本では《邪馬壹國(やまいちこく)》となっているので、ヤマトとは無関係だとの意見もあるが、写本作業の過程で《邪馬臺國》が誤写されたという見解が、専門家の多数意見である。逸文などからもそう判断されている。
[二]都としての水準の高さ
「魏志倭人伝」に記述された期間であるほぼ西暦一八〇年から二七〇年にかけての日本列島で最大の都は、《箸墓》のある《纒向京》であり、その規模・計画性・交易性・文化水準などの面でこれに拮抗する――またはこれを上まわる――都は、他に見つかっていない。
[三]方角の問題
「魏志倭人伝」にある《邪馬台国》の位置は伝聞によるものと思われ、南→東というような方角の九十度変更をおこなえば、北九州から自然に《大和》に達する。しかも九十度の違いは、北九州の経路や古地図によっても裏づけられており、九州内部説よりはるかに納得しやすい。
[四]「記紀」との関係
この十年ほどの考古学的研究の成果によって、《大和》の《纒向京》で活躍した第十代崇神天皇の時代が、ほぼ(卑彌呼)の晩年から没直後と重なることが、わかってきた。また崇神天皇紀には、朝鮮半島との交渉の記録も残されている。さらに崇神天皇は(御肇國(はつくにしらす)天皇)と讃えられており、「初めて国をおつくりになった天皇」であることが「日本書紀」に明記されている。
[五]人によって異なる「九州説」
「大和説」の場合、ほとんどの人が《邪馬台国》の場所を狭い意味での《大和》=《纒向京》としているのに対し、「九州説」では、九州各地千差万別であり、迫力が感じられない。
「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」
[六]女王の名前の問題
「魏志倭人伝」にある(卑彌呼(ひみこ))または(卑彌呼(ひめこ))なる女王名は、古代日本における高貴な女性名の末尾につける尊称の(日女命(ひめみこと))(姫命(ひめみこと))や(姫御子(ひめみこ))(姫皇女(ひめみこ))、また神に仕える高貴な女性である(姫神子(ひめみこ))(姫巫女(ひめみこ))に酷似している。そして(倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめみこと))の末尾もまた(姫命)であり別名は(日女命)で、その役目は(姫神子)または(姫巫女)だし、出自は(姫御子)(姫皇女)である。
[七]活躍の内容
「魏志倭人伝」にある(卑彌呼)の鬼道による活躍と、「日本書紀」崇神天皇紀にある(倭迹迹日百襲姫命)の《三輪山》の神子(巫女)としての活躍(古神道)とは、年代的にも内容的にもよく照応している。神武東征の話や、世の乱れを神意によって鎮静させた「日本書紀」の話は、倭人伝の女王共立の経緯と対応するし、四道将軍の派遣についての苦心は、倭人伝の狗奴国問題を連想させる。とくに、(倭迹迹日百襲姫命)の甥(または兄弟)の子で東海に遠征した武渟川別(たけぬなかわわけ)命が注目される。
[八]墳墓の問題
《箸墓》が(倭迹迹日百襲姫命)の墓である可能性は、「日本書紀」の記述や考古学的知見から、きわめて高い。そして、「魏志倭人伝」にある径百余歩の墓と、《箸墓》とは、年代的に一致するほか、巨大さにおいても造営の経緯においても、また寸法においても照応している。また死の唐突さにおいても通じるものがある。そして、西暦二五〇年〜二六〇年ごろに造営された古墳のなかで、《大和》の《箸墓》は隔絶した巨大さをもっている。一回り小さな古墳すら、他の地域では見つかっていない。もちろん九州にもない。だからこそ、当時の日本の役人もシナの役人も話題にし、「日本書紀」にも「魏志倭人伝」にも例外的に記された可能性がある。「日本書紀」に墳墓造営が詳しく記されているのは(倭迹迹日百襲姫命)のみであるし、シナの史書中の日本の項に、墓の大きさが記されているのは、(卑彌呼)のみである。
[九]女王かどうかの問題
「記紀」における(倭迹迹日百襲姫命)は天皇(大王)とはされていないが、崇神天皇の大叔母(または叔母)として天皇を指導したと記されており、「魏志倭人伝」における「女王と男弟の関係」に照応している。すなわち、推古天皇以前には女帝を認めなかった「記紀」編者の方針によって「とくべつ高貴な皇女」として扱われただけだったが、実質的には天皇であった可能性が高い。
(推古天皇以前に女帝を認めない方針は、(神功皇后)や飯豐青皇女について、「日本書紀」で天皇としての業績を記しているのに、天皇号はつけていないことでもわかる。天皇と記した史料も多くあるのに、「日本書紀」のような正史においては天皇としていないのだ)
「日本書紀」における、「倭」なる国名が頭に来る名称の女性は、実質的に(倭迹迹日百襲姫命)とその近い係累だけであり、別格の扱いがなされている。またその母親は、「古事記」では「オオヤマトクニアレヒメ」と呼ばれているが、これは大和国(つまり日本国)を存在させた女性――という意味が考えられ、これまた別格である。また国宝古文書「勘注系図」や物部系史書の「先代旧事本紀」では、(倭迹迹日百襲姫命)のことを、(日神)や(日女命)という、(天照大神)に匹敵するほどの重大な尊称で記している。つまり、古代の文献史料のなかに、「別格の女王として尊敬されていた痕跡」が認められるのである。
[十]後継者の問題
「魏志倭人伝」においては、(卑彌呼)の後継者は、わずか十三歳の(臺與(とよ))だったとされている。「日本書紀」においては、(倭迹迹日百襲姫命)よりはるかに若い(豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命)が、(百襲姫命)没後も祖神祭祀を担当して丹後・吉備などの重要地点を歴訪し、やがて(倭姫命)がひきついで《伊勢神宮》を創建する。
したがって、「(臺與)=(豐鍬入姫命)説」は、年代的にも活動の内容からいっても、納得しやすい。なお、「魏志倭人伝」に書かれている、(卑彌呼)を補佐する男弟は、(倭迹迹日百襲姫命)の同父母弟とされる吉備津彦命だったのかもしれないが、崇神天皇だった可能性のほうが高いであろう。勘注系図」の箇所で記したように、崇神天皇は義理の弟とも考えられるからである。また、(卑彌呼)と(臺與)の間にいた男王は、崇神天皇だった可能性がさらに高い。この男弟や男王の影が薄いのは、「魏志倭人伝」の編者や元資料の作成者たちが、女王の存在に気をとられて、崇神天皇を軽視してしまったからかもしれない。さらにもう一つ、(卑彌呼)も(百襲姫命)もともに夫がいない事も重要な一致点である。
[十一]断言はできない
「《邪馬台国》大和説」「(卑彌呼)=(倭迹迹日百襲姫命)説」を断言するためには、《箸墓》から墓碑銘の記された青銅板なり刀剣なり鏡なりが出土する必要がある。あるいは、すくなくとも《纒向京》の近辺から、魏から贈られた金印が発見される必要がある。だから、いま断言することは、科学的ではない。
[十二]本書での結論
しかしながら、別の説(九州説など)が大和説以上の信憑性をもつためには、まったく新しい画期的な考古学的発見がなければならない。それがあるまでは、《邪馬台国》とは、
  第一候補  《大和》の《纒向京》
  第二候補  《纒向京》以外の《大和》のどこか
  第三候補   九州のどこか
  第四候補   その他の地域
――であり、もし第一候補だとすれば、
(卑彌呼)の有力候補は(倭迹迹日百襲姫命)
  (臺與)の有力候補は(豐鍬入姫命)
  男弟や男王の有力候補は崇神天皇
――というのが、本書の結論である。
《邪馬台国》かどうかは別にして、ここ《大和》の地に栄えた古代の《纒向京》が、大和朝廷最初期の都でありわが国の原点であることは、まちがいない。 
 
卑弥呼の鏡

 

卑弥呼は、238年(または239年)に魏に朝献し、「親魏倭王」の称号とともに金印紫綬や銅鏡などをもらったと伝えられる。なぜ卑弥呼は、当時朝鮮半島に日本を脅かす勢力があったわけでもないし、また魏は、それ以前に倭が朝貢した漢とは違って、中国大陸全体を統治する大王朝でもないのに、魏に朝貢したのか。『魏志倭人伝』には、鏡が卑弥呼および倭人の「好物」であると記されているが、なぜ卑弥呼と倭人は、鏡を望んだのか。卑弥呼がもらった鏡は、本当に三角縁神獣鏡なのか。
1. 卑弥呼はなぜ魏鏡を必要としたのか
卑弥呼は、もともと自らのシャーマン的な能力で邪馬台(やまと)国連合体を治めていたのであって、外国の権威など不要だった。卑弥呼(日巫女)は、それこそ太陽のような輝きでもって邪馬台国連合体を50年以上も治めたが、彼女が晩年に魏にお墨付きを求めるようになったことは、その輝きに陰りが見えてきたことを意味する。 
花粉分析や縄文杉の年輪幅の調査から、西暦240年頃から古墳時代にいたるまで、日本の気候が寒冷化したことが知られている [阪口豊:日本の先史・歴史時代の気候]。いわゆる古墳寒冷期である。気候が寒冷化すれば、作物は実らなくなり、食糧不足から社会不安が広まる。これは自然現象である。しかし当時の人は、卑弥呼がかつての若さを失って、霊力がなくなったので、太陽の力が衰えたと考えた。そして、これが、卑弥呼が魏に鏡を求めた時代的背景である。
日本人は「鏡(kyang)」を「かがみ」と訓じる。多くの学者は、その語源を「影見(かげみ)」に求めているが、吉野裕子は、蛇の古語が「カカ」であること、名前に「カガミ」を含む植物が、すべて蛇そっくりの蔓植物であることを手掛かりに、「カガミ」を「カカ」+「ミ」、つまり「蛇」+「身」と解釈する [吉野 裕子:蛇―日本の蛇信仰]。
しかし、「カガミ」の「ミ」は甲類で、「身」の「ミ」は乙類だから、この解釈は無理である。『類従名義抄』には、「カヾミル」という訓もある [白川静:字通] ことから、「蛇」+「見る」と解釈できる。ちなみに、「見る」の「ミ」は、甲類である。「カヾミル」は、転訛して「カンガミル」(鑑みる)になった。
古代に日本では、K音とH音の区別がないので、「カカ」と「ハハ」は同じ言葉である。このことは、日本にも、世界の他の地域でと同様に、蛇を地母神の化身と見る女性崇拝の宗教があったことを示している。蛇は、川のように大地の上を蛇行するがゆえに、水の神としても見られていた。原始の日本人は、銅鏡ではなくて、水面を鏡として使っていたはずだ。その時、我々の祖先は、蛇のように身を「カガメ」て、「カガミ」に「カカ」を「ミ」たことだろう。
私たちが、鏡を通してはじめて、自分の全身を見ることができるように、そして、鏡像段階の幼児が、母親を通してはじめて、自己の存在を確認することができるように、縄文時代の人々は、地母神としての蛇を通してはじめて、自らの共同体をまとめることができた。ここでは詳述しないが、縄文人が蛇をトーテムとして崇拝していた証拠はたくさんある。
弥生時代になると、崇拝の対象は、蛇から太陽に変わる。男根期に幼児の関心が母親から父親に向かうように、古代人の関心も、母神から父神へと移っていく。鏡のメタファーを使うならば、鏡の中の理想自我と自己同一できるのは、鏡のおかげだけではなく、光のおかげでもあることに子供は気が付く。そして、その光の源が、父なる太陽という自我理想なのである。
卑弥呼の時代は、まさにそうした時代だった。卑弥呼は、太陽神と人々とを媒介する巫女であって、少なくとも生前は太陽神そのものではなかった。邪馬台国の民と卑弥呼と太陽神は、子供と母と父の関係にあったと考えてよい。
158年に皆既日食が発生した時、倭の人々は、自己同一するべき理想自我を失い、内乱状態となった。卑弥呼は、日の巫女としてこの混乱を収めた。人々は、卑弥呼という鏡を通して、太陽神との自己同一、すなわち、太陽神のもとでの再統合を果たした。
やがて、自分の老衰と同時に太陽の衰退が始まり、太陽神のもとでの秩序の維持が難しくなると、卑弥呼は、<邪馬台国の民−卑弥呼−太陽神>という<子−母−父>の関係を、邪馬台国の<民−魏の銅鏡−魏の皇帝>の関係で補強しようとしたわけだ。
2. 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か
魏が卑弥呼に銅鏡を下賜したことが史実だとしたら、その銅鏡は、国内に残っているはずだ。邪馬台国が畿内にあったとする畿内説支持者は、畿内を中心に4世紀の古墳から大量に出土している三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)こそ卑弥呼の鏡だと主張している。三角縁神獣鏡は、背面が半肉彫りの神人および獣形の文様を持ち、縁の断面が三角形をしているのでこう呼ばれる。
『魏志倭人伝』によると、魏の皇帝は、景初二年(景初三年の間違いとする説あり)に、卑弥呼が遣わした難升米に「銅鏡百牧」を下賜した。邪馬台国が畿内にあったと想定する人々は、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと主張しているが、邪馬台国が九州にあったとする人々は、三角縁神獣鏡は国産鏡で、魏の皇帝から賜った鏡は、北九州から多く出土する漢鏡のはずだと主張している。
三角縁神獣鏡は、本当に卑弥呼が魏からもらった鏡なのだろうか。以下の理由で、私は違うと思う。
2.1. 中国からは全く出土していない
三角縁神獣鏡は、日本国内では600枚以上見つかっているが、中国では全く出土しない。また、三角縁神獣鏡の径は22cmもあり、後漢・三国時代の鏡よりもはるかに大きい。だから、王仲殊(おうちゅうしゅ)や徐苹芳(じょへいほう)といった中国の考古学者たちは、三角縁神獣鏡は魏が作った鏡ではないと主張している。
三角縁神獣鏡とは別に、画文帯神獣鏡という、三角縁神獣鏡とよく似た神獣鏡があり、これも中国よりも日本で多く出土する。また、中国とは言っても、画文帯神獣鏡が出土するのは、魏の領土でではなくて、敵国である呉の領土や呉と内通して滅ぼされた公孫淵の領土である朝鮮の楽浪郡からである。この理由は、後で説明することにしよう。
2.2. 枚数が合わない
現在、三角縁神獣鏡の数は600枚以上にのぼっているが、これは、銅鏡百枚を贈ったとする『魏志倭人伝』の記述と矛盾する。但し、卑弥呼が生きていた時代の魏の年号が入った三角縁神獣鏡はわずかしかないので、畿内説支持者のなかには、年号の入ったものだけが本物だと考え、この難点を説明しようとする人もいる。
2.3. 記年が間違っている鏡がある
ところが記年銘鏡にも怪しげなものがある。「景初四年」という実在しない記年が入った鏡が、京都府福知山市の古墳から出土している。景初は三年で終わりで、翌年は正始元年でなければならない。
これに対して、畿内説支持者は、三角縁神獣鏡は、魏で作られたものではなく、魏の皇帝が職人を遣わして、倭人の好みに合わせて倭で独自の鏡を作らせたとする特鋳品説を唱え、倭に来ていた職人は、元号が変わったことに気が付かずに、「景初四年」という記年を入れてしまったのだろうと推測する。なるほど、この特鋳品説ならば、三角縁神獣鏡が、中国では全く出土しない理由をも説明することができる。
魏の皇帝が職人を遣わすというのは、ありそうにない話だが、百歩譲って三角縁神獣鏡が特鋳品であると認めても、さらに次のような問題がある。
2.4. 三角縁神獣鏡は呉の様式で作られている
中国の考古学者・王仲殊氏は、鏡の様式から「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と判断している。そもそも作った年月を鏡に記す習慣も、魏ではなく呉のものである。
問題は、三国時代の呉が魏の敵国であったことである。魏の皇帝が呉様式の鏡を倭に下賜することは、現代の譬えで言えば、中国の北京政府が、李登輝台湾総統の肖像が刻まれた日中友好記念硬貨を日本に贈るようなもので、おおよそありえない国辱的行為である。奴隷と引き換えに鏡を贈ることは、例えば、自動車を輸出して石油を輸入する現在の実利的な貿易とは異なって、象徴的儀礼的な政治的行為である。だから魏の皇帝の名のもとに敵国様式の鏡を贈ったり、まして敵国の職人を派遣するなどということは考えられないのである。
畿内説支持者の中には、画文帯神獣鏡が朝鮮半島から中国北部にかけても見られることから、三角縁神獣鏡が魏鏡だと主張する人もいる [福永伸哉:三角縁神獣鏡の系譜と性格] 。しかし、画文帯(がもんたい)神獣鏡は、朝鮮半島よりも、かつて呉が存在した長江流域でたくさん見つかっているから、やはり呉の鏡といわなければならない。少なくとも、魏の本土では全く見つからないのである。
卑弥呼の朝貢直前に、魏は、朝鮮半島北部の楽浪郡を占領していた公孫淵が呉と結び、独立して、漢の後継を目指したので、公孫淵を滅ぼしているが、公孫淵が呉と同盟を結ぶ際、呉の鏡が同盟の証として贈られたと考えることができる。もしも卑弥呼が画文帯神獣鏡を持っていたら、呉と内通しているのではないかと魏の使者に疑われたことであろう。だから、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡といった呉様式の鏡は、卑弥呼の鏡ではない。
2.5. 銘文に疑わしい点がある
魏王朝特鋳説は鏡の銘文からも否定される。詩や銘は韻文であり、韻を踏むのが原則であるが、三角縁神獣鏡には、魏ではすでに韻を踏まなくなった字を韻字として用いたり、韻文をつくるつもりすらない拙劣な銘文が見られる。森博達は次のように言っている。
そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として文学史上高く評価されている。詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような詩文隆盛の時代である。
そのとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。「これらすべてを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。 それゆえに鄭重に汝に良き物を賜与するのである」
この荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。魏の詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。 [毎日新聞 2000/09/12]
これに対する考古学からの説得力ある反論はまだ出ていないそうである。
2.6. 三角縁神獣鏡は四世紀の古墳から出土する
卑弥呼は三世紀中頃に死亡したにもかかわらず、鏡はすべて四世紀の古墳から発掘される。畿内説支持者は、虚偽の年代が鏡に入れられるはずがないというが、銘文の字体から、虚偽が明らかな鏡もある。安萬宮山古墳から出土した「青龍三年」(235年)鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。この字体は四〜五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。つまりこの鏡は四〜五世紀の作品であるということである。
私は、邪馬台国は北九州に存在し、畿内に東遷したと考えている。邪馬台国東遷説の立場からは、三角縁神獣鏡は、九州にあった邪馬台国が4世紀初頭に畿内を征服し、現地の豪族と主従関係を結んだとき、連れてきた呉の職人に量産させ、卑弥呼以来の由緒ある中国鏡と偽って彼らに下賜したと考えることができる。
1998年1月に、奈良県天理市の大和(おおやまと)古墳群にある古墳時代前期前半(四世紀初めごろ)の前方後円墳・黒塚古墳の竪穴式石室から、三角縁神獣鏡三十二面を含む大量の副葬品が、埋納当時のままの状態で出土した。黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の兄弟鏡の分布地を見ると、畿内、瀬戸内海、九州、東海といった大和政権の友好国の領域と重なる。他方で、記紀で敵国として描かれている出雲や諏訪からは一枚も出土していない。
鏡を作ったのが、なぜ呉の職人なのかについても説明しよう。三角縁神獣鏡には、「絶地亡出」「至海東」といった銘文を持つものがある。呉が滅び西晋王朝が中国を再び統一したのは280年である。呉が280年に滅亡して、呉の鏡職人は新たな活動の場を求めて、鏡の需要が大きい日本に来たと考えられる。呉の鏡職人の渡来と九州勢力の東征は時期的に非常に近い。三国時代が終わると、中国では鏡の生産が急速に衰えて行った理由もこれで説明できる。
3. 邪馬台国に関する最近の報道
ここ数年、邪馬台国畿内説に有利な報道がなされているが、私が見るところ、決定力に欠けている。以下、マスコミで大きく取り上げられた「畿内説有利情報」を検討してみよう。
3.1. ホケノ山古墳の築造年代測定
私は、「三角縁神獣鏡は四世紀の古墳から出土する」と書いたが、畿内説支持者たちは、畿内の古墳の年代を引き下げることで、奈良県纏向遺跡にある箸墓を卑弥呼の墓に、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡にしようと懸命に努力している。
2000年3月27日に大和古墳群学術調査委員会が発表した、ホケノ山古墳第4次研査の結果の報道にもそのような努力の跡が見られる。マスコミは、箸墓と同じく奈良県纏向遺跡にあるホケノ山古墳が造られたのは3世紀前半と報道した。畿内説支持者の中には、これは卑弥呼の父の墓で、これと同じ前方後円墳の箸墓は、卑弥呼の墓かもしれないと言った人もいた。
3世紀中ごろの築造で、国内最古の前方後円墳とされる奈良県桜井市のホケノ山古墳から出土した木棺の破片を放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果、築造年代が3世紀前半にさかのぼることが分かった。7日発表した大和古墳群学術調査委員会(委員長、樋口隆康・同県立橿原考古学研究所長)は「前期古墳の築造年代を、全体的に引き上げて考える必要がある」と評価。卑弥呼の墓との説がありながら、3世紀後半から末期の築造とされてきた最古の大型前方後円墳・箸墓古墳の築造年代が、卑弥呼の没年とされる247年ごろに近づく可能性も強まり、邪馬台国大和説の補強材料になりそうだ。
出土したのはコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5m、幅1m)。加工を容易にし、腐るのを防ぐため、棺の表面は焼かれ、黒く炭化していた。調査委が木棺北側の炭化部分から1センチ角のサンプル5点を採取し、米国フロリダ州の専門機関に分析を依頼した。
測定の結果、サンプルの年代は「西暦120年を中心に、75〜215年」「120年を中心に、80〜155年」などと判明。調査委は、欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し、木棺を加工した際に木材表面が削られていることなどを考慮、伐採年を2世紀末〜3世紀前半と推定した。中国で2世紀末〜3世紀初めに作られた画文帯神獣鏡が副葬されていたことなどから、築造年代を3世紀前半と判断した。[毎日新聞 2000/04/12]
どのように調査委員会がデータを補正したのかわからないが、放射性炭素年代測定法は、精度の低い方法で、同一資料を、より精度が高いと言われる年輪年代法で測った場合と比べて、200年古く出る傾向にある [C14年代測定法の信頼性] 。だから、ホケノ山古墳の築造年代は、西暦120年に200年を足すと320年となるから、4世紀前半と考えられ、邪馬台国東遷説と矛盾しなくなる。
ホケノ山古墳を邪馬台国の古墳とすることには、別の問題もある。『魏志倭人伝』は、倭人の墓に関して「棺あって槨なし」と記しているが、ホケノ山古墳では、木槨のなかに木棺がある [ホケノ山古墳の年代について] 。
3.2. 勝山古墳から出土した木材の年輪年代測定
放射性炭素年代測定法では信用性が低いからなのか、奈良県立橿原考古学研究所と奈良国立文化財研究所は、翌年には、より精度の高いと考えられる年輪年代測定によって、畿内の古墳は3世紀初頭(遅くとも西暦210年)に造られたというレポートを発表した。測定対象となったのは、纒向古墳群に所属する勝山古墳である。
奈良県桜井市東田(ひがいだ)の勝山古墳から出土したヒノキ材を年輪年代測定で調べた結果、同古墳か三世紀初めに築かれた、わが国最古の古墳であることがわかったと、県立橿原考古学研究所が三十日、発表した。古墳出現が半世紀近くさかのぼって中国の史書「魏志倭人伝」に登場する女王・卑弥呼の時代と重なることから、弥生時代と考えられてきた邪馬台国の時代(二世紀末〜三世紀後半)がすでに古填時代だったことを示すなど、古代の年代観を変える画期的な成果となった。邪馬台国は初期ヤマト政権だった可能性が高まり、畿内説に弾みをつけそうだ。[読売新聞 2001/05/31]
ところが、このヒノキ材が出土したのは、墓の中からではなくて、周濠埋土中からだった。両者を結びつける必然性は何もない。だから、ヒノキ材の推定伐採年代を勝山古墳の築造時期とみなすことはできない。
橿原考古学研究所は、次のように、両者を関係付けようとする。
これらの木材および木製品には、建築部材と考えられるものが多数存在し、また、朱が塗られたものや付着したものも多く認められる。出土した鋤柄は小形のもので実用品とは考えにくい。これらは、いずれも意図的に破壊された後、墳丘側から一括投棄された可能性が高い。以上の点から、これらの遺物は、墳丘上で執行された何らかの祭祀で使用された後、一括廃棄されたものと考えられる。
[橿原考古学研究所:勝山古墳出土木材年輪年代測定結果について]
しかし、こうした祭祀葬礼の慣行は、後世にない。そもそも、彼岸と此岸を分かつ境界である周濠をゴミで汚すなどということは、宗教学的にありそうにない話である。
ところで、奈良国立文化財研究所がやっている年輪年代測定は、本当に正確なのだろうか。奈良国立文化財研究所は、2002年2月21日に、法隆寺の五重塔の心柱の伐採は594年であると発表した。法隆寺五重塔は、670年の火災の後、遅くとも711年までに再建されたということがわかっている。そうすると、100年ほど前に伐採された木材が建築資材として使わたという奇妙なことになる。
実は、1987年の発表では、ヒノキには建築材料として不適で、切り捨てられた部分が53±17年分あると推定して、心柱の伐採は644年、早くても627年とされていた。それが2002年には、3年へと大幅に短縮されて、594年になってしまった。このように、年輪年代測定では、丸太から何年分が切り捨てられたかの推測に関してあいまいなところが残る。
ともあれ、もしも、100年前に伐採された木が法隆寺の心柱の資材として使われたのであれば、100年前に伐採された木でできたゴミが勝山古墳の周濠に捨てられたとしても、別に不思議ではない。
3.3. 三角縁神獣鏡の成分測定
2004年には、卑弥呼の墓ではなくて、卑弥呼の鏡に関して、畿内説に有利な報道がなされた。
青銅鏡のコレクションを持つ京都市の泉屋博古館(せんおくはくこかん)(樋口隆康館長)と、スプリング8を運営する兵庫県三日月町の高輝度光科学研究センターが共同で分析に取り組んだ。15日午後、京都市で開かれた文化財科学会大会で発表した。
強力なX線を鏡に当てて、不純物としてごく微量に含まれている銀とアンチモンの反応の強さを調べた。この方法で、同館所蔵の中国の戦国時代(紀元前3世紀)から三国西晋時代(3世紀)にかけての鏡69枚と、古墳時代前・中期(3〜4世紀)の三角縁神獣鏡ではない日本製の鏡18枚を分析したところ、中国製の各時代の鏡と日本製の鏡はそれぞれ異なるまとまりをつくった。
その上で、同館にある三角縁神獣鏡8枚を同方法で分析した結果、6枚からは三国西晋時代の年号が入った中国製鏡と近い測定値が得られ、残る2枚は日本製のまとまりに入った。 [朝日新聞 2004/05/15]
これに対して、安本美典は、比較対照となった中国製鏡が本当に中国製かどうか疑わしいと言っている。
泉屋博古館所蔵の鏡はほとんどが出土地不明であり、考古学的な資料価値は低いものである。ふつうの人は「中国製」と書かれれば中国産と信じてしまうが、これらの鏡は模様などから館長の樋口隆康氏が中国製と判断しているだけで、中国で作られたものかどうか疑わしい。
調査対象になった三国西晋時代の神獣鏡というのが、画文帯神獣鏡だとすると、画文帯神獣鏡は日本での出土数の方が中国からの出土数の倍近くあり、その一部は日本で作られた可能性がある。
[邪馬台国の会:三角縁神獣鏡神獣鏡に関する最近の報道について]
仮に材料が中国のものであったとしても、それが中国人の手によって、中国で作られたという証拠にはならない。
廣川守は、レポートの末尾で次のように付け加えている。
上記検討は測定件数が非常に少ないため、今後、三角縁神獣鏡および古墳時代製鏡の測定試料数を増やす必要があります。また、三国・西晋時期の中国鏡についても、今回は神獣鏡のみに留まっており、神獣鏡以外の形式の魏・西晋鏡の測定も不可欠です。
[廣川守:SPring-8を利用した古代青銅鏡の放射光蛍光X線分析]
材料の由来と製造地を確かめるには、中国から出土した魏の鏡と「景初四年」の記年が入った三角縁神獣鏡と正常な三角縁神獣鏡の三種類の鏡の成分を比較しなければならない。 
 
卑彌呼考

 

内藤湖南
後漢書、三國志、晉書、北史等に出でたる倭國女王卑彌呼の事に關しては從來史家の考證甚だ繁く、或は之を以て我神功皇后とし、或は以て筑紫の一女酋とし、紛々として歸一する所なきが如くなるも、近時に於ては大抵後説を取る者多きに似たり。今余が考ふる所は此の二者に異なる者あれば試みに左の序次により、其の所見を下に述べんとす。
一 本文の撰擇
卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、晉書、北史の如きは、固より後漢書、三國志に據りたること疑なければ、此は論を費すことを須ひざれども、後漢書と三國志との間に存する※(「止+支」、第3水準1-86-36)異の點に關しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり。
次には本文の中、各本に字句の異同あることを考へざるべからず。三國志に就て言はんに、余は未だ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本等を對照し、更に北史、通典、太平御覽、册府元龜等、此記事を引用せる諸書を參考して其の異同の少からざるに驚きたり。其の※(「止+支」、第3水準1-86-36)異を決せんことは、即ち本文撰擇の第二要件なり。
今先づ單に其の先出の書たる理由によりて、左に三國志魏書第三十の本文を掲ぐべし。
倭人傳
倭人在二帶方東南大海之中一。依二山島一爲二國邑一。舊百餘國。漢時有二朝見者一。今使譯所レ通三十國。從レ郡至レ倭。循二海岸一水行。歴二韓國一。乍南乍東。到二其北岸狗邪韓國一。七千餘里。始度二一海一千餘里。至二對馬國一。其大官曰二卑狗一。副曰二卑奴母離一。所レ居絶島。方可二四百餘里一。土地山險。多二深林一。道路如二禽鹿徑一。有二千餘戸一。無二良田一。食二海物一自活。乘レ船南北市糴。又南渡二一海一千餘里。名曰二瀚海一。至二一大國一。官亦曰二卑狗一。副曰二卑奴母離一。方可二三百里一。多二竹木叢林一。有二三千許家一。差有二田地一。耕レ田猶不レ足レ食。亦南北市糴。又渡二一海一千餘里。至二末盧國一。有二四千餘戸一。濱二山海一居。草木茂盛。行不レ見二前人一。好捕二魚鰒一。水無二深淺一皆沈沒取レ之。東南陸行五百里。到二伊都國一。官曰二爾支一。副曰二泄謨觚柄渠觚一。有二千餘戸一。世有レ王。皆統二屬女王國一。郡使往來常所レ駐。東南至二奴國一百里。官曰二※(「凹/儿」、第3水準1-14-49)馬觚一。副曰二卑奴母離一。有二二萬餘戸一。東行至二不彌國一百里。官曰二多模一。副曰二卑奴母離一。南至二投馬國一。水行二十日。官曰二彌彌一。副曰二彌彌那利一。可二五萬餘戸一。南至二邪馬壹國一。女王之所レ都。水行十日。陸行一月。官有二伊支馬一。次曰二彌馬升一。次曰二彌馬獲支一。次曰二奴佳※(「革+是」、第3水準1-93-79)一。可二七萬餘戸一。自二女王國一以北。其戸數道里可二略載一。其餘旁國遠絶。不レ可レ得レ詳。次有二斯馬國一。次有二已百支國一。次有二伊邪國一。次有二郡支國一。次有二彌奴國一。次有二好古都國一。次有二不呼國一。次有二姐奴國一。次有二對蘇國一。次有二蘇奴國一。次有二呼邑國一。次有二華奴蘇奴國一。次有二鬼國一。次有二爲吾國一。次有二鬼奴國一。次有二邪馬國一。次有二躬臣國一。次有二巴利國一。次有二支惟國一。次有二烏奴國一。次有二奴國一。此女王境界所レ盡。其南有二狗奴國一。男子爲レ王。其官有二狗古智卑狗一。不レ屬二女王一。自レ郡至二女王國一。萬二千餘里。男子無二大小一。皆黥面文身。自レ古以來。其使詣二中國一。皆自稱二大夫一。夏后少康之子。封二於會稽一。斷髮文身。以避二蛟龍之害一。今倭水人好沈沒捕二魚蛤一。文身。亦以厭二大魚水禽一。後稍以爲レ飾。諸國文身各異。或左或右或大或小。尊卑有レ差。計二其道里一。當レ在二會稽東治之東一。其風俗不レ淫。男子皆露レ※(「糸+介」、第4水準2-84-12)。以二木緜一招頭。其衣横幅。但結束相連。畧無レ縫。婦人被レ髮屈※(「糸+介」、第4水準2-84-12)。作レ衣如二單被一。穿二其中央一。貫レ頭衣レ之。種二禾稻紵麻一。蠶桑緝績。出二細紵※(「糸+兼」、第3水準1-90-17)緜一。其地無二牛馬虎豹羊鵲一。兵用二矛楯木弓一。木弓短レ下長レ上。竹箭或鐵鏃。或骨鏃。所二有無一。與二※(「にんべん+瞻−目」、第3水準1-14-44)耳朱崖一同。倭地温暖。冬夏食二生菜一。皆徒跣。有二屋室一。父母兄弟臥息異レ處。以二朱丹一塗二其身體一。如二中國用一レ粉也。食飮用二※(「竹/邊」、第4水準2-83-79)豆一。手食。其死有レ棺無レ槨。封レ土作レ冢。始死。停レ喪十餘日。當時不レ食レ肉。喪主哭泣。他人就歌舞飮レ酒。已葬。擧レ家詣二水中一澡浴。以如二練沐一。其行來渡レ海詣二中國一。恆使下一人不レ梳レ頭。不レ去二※(「虫+幾」、第4水準2-87-84)蝨一。衣服垢汚。不レ食レ肉。不上レ近二婦人一。如二喪人一。名レ之爲二持衰一。若行者吉善。共顧二其生口財物一。若有二疾病一遭二暴害一。便欲レ殺レ之。謂二其持衰不一レ謹。出二眞珠青玉一。其山有レ丹。其木有二※[#「木+冉」、249-16]杼、豫樟、※(「木+柔」、第4水準2-15-17)櫪、投橿、烏號、楓香一。其竹篠※(「竹/幹」、第3水準1-89-75)桃支。有二薑橘椒※(「くさ/襄」、第3水準1-91-42)荷一。不レ知三以爲二滋味一。有二※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猿黒雉一。其俗擧レ事行來。有レ所二云爲一。輙灼レ骨而ト。以占二吉凶一。先告レ所レト。其辭如レ令。龜法視二火※(「土+斥」、第3水準1-15-41)一占レ兆。其會同座起。父子男女無レ別。人性嗜レ酒。(魏略曰。其俗不レ知二正歳四時一。但記二春耕秋收一爲二年紀一。)見二大人所一レ敬。但摶レ手以當二跪拜一。其人壽考。或百年。或八九十年。其俗國大人皆四五婦。下戸或二三婦。婦人不レ淫。不二妬忌一。不二盜竊一。少二諍訟一。其犯レ法。輕者沒二其妻子一。重者滅二其門戸及親族一。尊卑各有二差序一。足二相臣服一。收二租賦一。有二邸閣一。國國有レ市。交二易有無一。使二大倭監一レ之。自二女王國一以北。特置二一大率一。檢二察諸國一。諸國畏憚之。常治二伊都國一。於二國中一有レ如二刺史一。王遣レ使詣二京都、帶方郡、諸韓國一。及郡使二倭國一。皆臨レ津搜二露傳送文書、賜遣之物一詣二女王一。不レ得二差錯一。下戸與二大人一相二逢道路一。逡巡入レ草。傳レ辭説レ事。或蹲或跪。兩手據レ地。爲二之恭敬一。對應聲曰レ噫。比如二然諾一。其國本亦以二男子一爲レ王。住七八十年。倭國亂。相攻伐歴レ年。乃共立二一女子一爲レ王。名曰二卑彌呼一。事二鬼道一。能惑レ衆。年已長大。無二夫婿一。有二男弟一。佐治レ國。自レ爲レ王以來。少レ有二見者一。以二婢千人一自侍。唯有二男子一人一。給二飮食一。傳レ辭出入。居二處宮室一。樓觀城柵嚴設。常有レ人持レ兵守衞。女王國東渡レ海千餘里。復有レ國。皆倭種。又有二侏儒國一。在二其南一。人長三四尺。去二女王一四千餘里。又有二裸國、黒齒國一。復在二其東南一。船行一年可レ至。參問倭地絶在二海中洲島之上一。或絶或連。周旋可二五千餘里一。景初二年六月。倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡。求下詣二天子一朝獻上。太守劉夏遣二吏將一。送詣二京都一。其年十二月。詔書報二倭女王一。曰制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣レ使送二汝大夫難升米、次使都市牛利一。奉二汝所レ獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈一以到。汝所レ在踰遠。乃遣レ使貢獻。是汝之忠孝。我甚哀レ汝。今以レ汝爲二親魏倭王一。假二金印紫綬一。裝封付二帶方大守一假授。汝其綏二撫種人一。勉爲二孝順一。汝來使難升米、牛利渉レ遠。道路勤勞。今以二難升米一爲二率善中郎將一。牛利爲二率善校尉一。假二銀印青綬一。引見勞賜遣還。今以二絳地交龍錦五匹、(注略)絳地※(「糸+芻」、第4水準2-84-49)粟※(「(罪−非)/「厠」の「貝」に変えて「炎」」、第4水準2-84-80)十張、※[#「くさかんむり/倩」、250-16]絳五十匹、紺青五十匹一、答二汝所レ獻貢直一。又特賜二汝紺地句文錦三匹、細班華※(「(罪−非)/「厠」の「貝」に変えて「炎」」、第4水準2-84-80)五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠鉛丹各五十斤一。皆裝封付二難升米、牛利一。還到録受。悉可下以示二汝國中人一。使上レ知二國家哀一レ汝。故鄭重賜二汝好物一也。正始元年。太守弓遵遣二建中校尉梯儁等一。奉二證書印綬一詣二倭國一。拜二假倭王一。并齎レ詔賜二金帛錦※(「(罪−非)/「厠」の「貝」に変えて「炎」」第4水準2-84-80)刀鏡采物一。倭王因レ使上レ表。答二謝詔恩一。其四年。倭王復遣二使大夫伊聲耆掖邪狗等八人一。上二獻生口、倭錦、絳青※(「糸+兼」、第3水準1-90-17)、緜衣、帛布、丹、木※[#「けものへん+付」、251-2]、短弓矢一。掖邪狗等壹拜二率善中郎將印綬一。其六年。詔賜二倭難升米黄幢一。付レ郡假授。其八年。太守王※(「斤+頁」、第4水準2-92-20)到レ官。倭女王卑彌呼與二狗奴國男王卑彌弓呼素一不レ和。遣二倭載斯烏越等一詣レ郡。説二相攻撃状一。遣二塞曹掾史張政等一。因齎二詔書黄幢一拜二假難升米一。爲レ檄告喩之。卑彌呼以死。大作レ冢。徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。更立二男王一。國中不レ服。更相誅殺。當時殺二千餘人一。復立二卑彌呼宗女壹與年十三一爲レ王。國中遂定。政等以レ檄告二喩壹與一。壹與遣二倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人一。送二政等一還。因詣レ臺獻二上男女生口三十人一。貢二白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹一。
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬國、次有己百支國、次有伊邪國、次有郡支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里、男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東冶之東。其風俗不淫、男子皆露、以木緜招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫、婦人被髮屈、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻紵麻、蠶桑緝績、出細紵緜、其地無牛馬虎豹羊鵲、兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鐵鏃、或骨鏃、所有無與耳・朱崖同。倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣、有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也、食飮用豆手食。其死有棺無槨、封土作冢、始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒、已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰、若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。出眞珠・青玉、其山有丹、其木有※[木+(冂<はみ出た横棒二本)]・杼・豫樟・・櫪・投・橿・烏號・楓香、其竹篠・・桃支、有薑・橘・椒・荷、不知以爲滋味、有猿・黒雉。其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒、見大人所敬、但搏手以當跪拜、其人壽考、或百年、或八九十年。其俗國大人皆四五婦、下戸或二三婦、婦人不淫、不忌、不盜竊、少諍訟、其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族、尊卑各有差序、足相臣服、收租賦、有邸閣、國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都・帶方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書・賜遺之物詣女王、不得差錯。下戸與大人相逢道路、逡巡入草、傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬、對應聲曰噫、比如然諾。其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治國、自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食、傳辭出入居處。宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黒齒國、復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、帶方太守劉夏、遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二丈以到、汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝、今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授、汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・※[くさかんむり/倩]絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米・牛利、還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金帛・錦・刀・鏡・采物。倭王因使上表、答謝詔恩。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青・緜衣・帛布・丹・木※[けものへん+付]・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年、太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雜錦二十匹。
この三國志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ點竄を加へたる者なるが如し。蓋し三國志、特に其の東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざる處あり。高句麗王傳に「今高句麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ち其例にして、この文中にも今使譯所レ通三十國といへるは、亦此と同一の筆法なり。但だ三國志の作者陳壽が、果して此の記事を魏略より取りて、他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三國志の裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の條にも、又西戎の條にも、屡「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顏師古注に、此に掲げたる本文中、「女王國東渡レ海千餘里。復有レ國。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、此の疑は氷釋すべし。既に三國志の倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。
倭在二韓東南大海中一。依二山島一爲レ居。凡百餘國。自三武帝滅二朝鮮一。使譯通二於漢一者。三十許國。
三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有二倭人一。分爲二百餘國一。以二歳時一來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と舊字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへる今は魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる處なれども、左の條の如きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。
樂浪郡徼去二其國一萬二千里。
魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡の徼より起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く
其地大較在二會稽東治之東一。與二朱崖※(「にんべん+瞻−目」、第3水準1-14-44)耳一相近。故其法俗多同。
三國志の文は「所二有無一」即ち風俗物産の※(「にんべん+瞻−目」、第3水準1-14-44)耳朱崖と同じきをいひ、其下に風土を記せる句を續けたるを、後漢書には位置の意義と變じたり。是れ改刪の際に起れる疎謬なり。
有二城柵屋室一。父母兄弟異レ處。
三國志には「城柵」の字は、卑彌呼の居處に關する條にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書が其造語の嚴整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり。更に著しき疏謬は左の一條に在り。云く
自二女王國一東度レ海千餘里。至二拘奴國一。雖二皆倭種一。而不レ屬二女王一。
三國志のこの記事は、前に顏師古が漢書の注を引けるにても知らるゝ如く、魏略と全然一致して、たゞ女王國の東に復た國ありといへるのみにて、之を狗奴國とはせず。狗奴國の記事は、女王境界の盡くる所たる奴國の下に繋けて、其南に在りとしたり。されば後漢書の改刪が不當なることは明らかなるに、從來の史家には、反て三國志を誤として、後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。是れ蓋し顏師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。其他、後漢書が魏略の文を割裂し、※(「隱/木」」、第4水準2-15-79)括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち
又有二夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)洲一。傳言秦始皇遣二方士徐福一將二童男女數千人一入レ海(中略)所在絶遠。不レ可二往來一。
の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及※(「さんずい+亶」、第3水準1-87-21)洲を求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、或は直ちに三國志に據りけんも知れず。されば此記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益※(二の字点、1-2-22)明白なり。
但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く
建武中元二年。倭奴國奉レ貢朝賀。使人自稱二大夫一。倭國之極南界也。光武賜以二印綬一。安帝永初元年。倭國王帥升等獻二生口百六十人一。願二請見一。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無レ主。有二一女子一。名曰二卑彌呼一。云々
此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之が三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。
附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。
已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。
第二の要件たる字句の校定は、本文即ち地名官名人名等の考證と相待つて爲さざるべからざる者多く、單獨に各本の※(「止+支」、第3水準1-86-36)異を列擧せんことは、益少きを以て、後段に合併して、此には省略することゝし、今はたゞ已に掲げたる本文が、元槧明修本を本として、一二乾隆殿板本を參照せる者なることを告白するに止むべし。余が見たる諸本の中にては、大體に於て元槧明修本、最も正しきを覺えたり。汲古閣の十七史は、世に善本と稱せらるゝ者なるも、余が知れる所にては三國志、後漢書等は、頗る劣れるが如く、三國志は往々乾隆殿板よりも劣り、後漢書は夐かに元大徳本に淵源せしと見ゆる寛永活版本より惡し。乾隆殿板本は明の北監本に出でたれば、此は重複して擧ぐるを要せざるべく、三國志の明南監本は馮夢禎が手校を經たれば、監本中のやゝ善きものとせらるゝこと、顧亭林の日知録にも見えたれども、其の體式已に古ならず、字句の訛奪も亦往々にしてあり。此等は余が撰擇の標準を定めたる理由なり。又參考せる書中、太平御覽は未だ宋本を見るの機會を得ざれば我が倣宋活字本を主として、極めて希れに鮑刻本を參照したり。鮑刻本は明板本を宋本にて校したる者によりたるが、四夷部倭國の條は、明板の粗惡殊に甚しく、鮑刻本は又之を汲古閣本の三國志にて校改したる跡ありて、校宋本として取るべき處殆ど之なく、我が活字本の影宋本を墨守せるに如かざるなり。通典、册府元龜等は通行本を用ひたり。
二 本文の記事に關する我邦最舊の見解
本文の記事を考證するにつきては、先づ日本書紀の作者が卑彌呼を何人と見たるかを知らんことを要す、是れ我邦史家が本文の記事に下したる最舊の批評と謂ふべき者なればなり。神功皇后紀に左の記事あり。
三十九年。是歳也大歳己未。(魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣二大夫難斗米等一詣レ郡。求下詣二天子一朝獻上。太守※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)夏遣レ使將送詣二京都一也。)
四十年。(魏志云。正始元年。遣二建忠校尉梯携等一。奉二詔書印綬一。詣二倭國一也。)
四十三年。(魏志云。正始四年。倭王復遣二使大夫伊聲耆掖耶等約八人一上獻。)
六十六年。(是年。晉武帝泰初二年。晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣二重譯一貢獻。)
此の記事にして日本紀作者の手に成りたらんには、卑彌呼を神功皇后なりと信じたりと斷ぜんに何の碍げかあらん。然るに近世の國學者の間には、此等の細注ある記事の大部分を、後人の※[#「てへん+纔のつくり」、255-9]入にかゝる者とする説ありて、頗る勢力あり。之を※[#「てへん+纔のつくり」、255-10]入とせる所以は、其の外國史書の文が國史に混ずることはあるまじき事なりといふ一種の尊王説に本づけること疑なきも、其の口實とする所は、古本に之なしといふに在り。されども此等の説も、近時田中勘兵衞氏の藏せる奈良朝の古寫本と思はるゝ應神紀斷簡出づるに及びて、大に其の信用を薄弱ならしめたり。應神紀五年船を造りて枯野と名づけたる條の細注、及び二十二年、「兄媛者吉備臣祖御友別之妹也」といへる細注は、書記集解に古本に無し、私記※[#「てへん+纔のつくり」、255-14]入せりとなせる者なるに、古寫本には之あり、此外にも集解に引ける古本の據るに足らざる證あれば、同じく集解が古本になしといへる神功紀の細注も、之を※[#「てへん+纔のつくり」、255-15]入なりと見るべき根據なし。特に六十六年の細注が晉起居注を引きたるは、尤も其の信ずべきを見る者にして、晉起居注は藤原佐世が日本國現在書目にも見え、古く我邦に流傳せること論なく、神功紀が唐太宗勅撰の晉書を引かずして、此の書を引きたるは、或は未だ晉書を見ざりしに由るならん。されば此の細注の古きことも隨て知らるべし。又日本紀が用ひたる韓國の地名が、往々三國志の三韓傳中に在る地名と符合することも注意せざるべからず。應神紀八年の細注に出でたる支侵シシム、同十六年の細注に出でたる爾林ニリムの如き、三國志馬韓の條にも支侵、兒林の國名あり。神功紀四十九年に出でたる古奚津は、同じく馬韓の條に出でたる古爰國なるべく、爰は奚の形似によりて訛れるなるべし。又同年に出でたる布彌支ホムキ、半古ハムコの地は、、馬韓傳に不彌國、支半國、狗素國、捷盧國の名見えたり。こは三國志が不彌支國、半狗國、素捷盧國とすべきを誤りて四國に分ちたる者なるべく、之を日本紀によりて正すことを得るは、實に奇と謂ふべし。凡そ此等の地名は、韓國の古史にも多く見えず、見えたるも、兒林が爾陵に作らるゝなど、反て日本紀と三國志との近接せるに似ざるを證するに過ぎざるに、日本紀と三國志との符合は、以て日本紀の作者が、已に三國志若くは魏略の類を見たりしことを推知すべし。かく神功紀の細注、並びに紀中の地名の兩端によりて考ふれば、日本紀の作者が、卑彌呼を神功皇后と推定して、其年代をも同時に置きたりしことは疑ふべからず。是れ實に我邦の史家が卑彌呼の記事に對して下せる批評の嚆矢といふことを得べし。此の古き批評は、固より今日史家に在りても漫然看過すべからざる所なり。但し此の見解が果して正當なりや否やは、猶ほ別問題に屬す。(以上明治四十三年五月「藝文」第壹年第貳號)
三 舊説に對する異論
足利氏の中世に當り、僧周鳳あり、文正の頃、善隣國寶記を著はして、始めて倭國が果して日本なりやに疑を挾めり。即ち前漢書地理志の樂浪海中有二倭人一。分二百餘國一。とあるを、若し日本とせば百餘國とするは疑ふべしといひ、又魏志の在二帶方東南海中一。依二山島一爲レ國。度レ海千里。復有レ國。皆倭種。とあるを、若し日本とするときは、上に所謂樂浪海中百餘國とある倭人は何れの國を指すやといひ、韻書に倭を以て女王國の名と爲す、蓋し天照大神を地神の首として、此國の主たり、故に之を女王國の名と謂ふか、然るときは凡そ此國の人民は皆其種其奴たるのみ、但し海を度ること千里の語は、樂浪海中の倭と倭種の國と異あるに似たり、未だ疑を決せざるのみといへり。此れ樂浪海中の倭と海を度ること千里の東に在る倭種の國と、何れか果して日本なりやを疑ひ、并せて女王の名が天照大神に本づくにあらざるかを疑へるなり。(善隣國寶記に此疑あることは鶴峰戊申の襲國僞僭考にも摘出せり)
然るに元禄年間、松下見林が其の名著、異稱日本傳を作りし時は、後漢書、三國志の所謂卑彌呼を全く神功皇后の舊説のまゝに信じて、少しも疑ふ所なき者の如くなりき。
此の從來の定説を一轉したるは、本居宣長の馭戎慨言なり。本居氏は卑彌呼の名が三韓などより息長帶姫尊、即ち神功皇后を稱し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑彌呼と稱して魏使を受けたるも、誠は男兒にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。
鶴峰戊申に襲國僞僭考あり、(やまと叢誌に出でたり)本居氏を祖述して、更に一新説を出し、襲國は呉太伯が後なる姫姓の國にて、久しき以前より王と僞て漢に通じ、光武の建武中元二年に奉貢せしも、安帝の永初元年に生口を獻ぜしも、皆此國なり、景行帝の親征より後數度の征伐を經て、既に主を失ひつるが、神功皇后の攝政のはじめより、ひそかに皇后に擬して、一女子を立て主として、畏くも姫尊と名告せつるを卑彌呼とは傳へたるさまなりといへり。此説は又頗る世の學者を驚かして、靡然として之に從はしむる力ありたる者の如く、黒川春村の北史國號考には、猶ほ本居氏の舊説によりて、卑彌呼を神功皇后とし、筑紫人の使譯、僞りて朝廷のと名告しならんといへるも、鶴峰氏の説の後の史家に奉行せらるゝには如かざりき。
明治以來の史家は、大體に於て鶴峰説の範圍を出でず。菅政友氏の漢籍倭人考、吉田東伍氏の日韓古史斷、那珂通世氏の日本上古年代考、久米邦武氏の日本上古史等、皆一樣に筑紫女酋の説を取り、但だ熊襲の女酋とする者と、筑後、肥後あたりの女酋とする者との小差を存するに過ぎず。久米、菅諸氏の手に成れりと見ゆる國史眼の若き、吉田氏の日本地名辭書の若き、常用の典據とせらるべき性質の書にすら、已に此説を載せ、久米氏の如きは邪馬臺の考證時代は既に通過したりといふに至れり。
此等諸家の説に對し、各別に批評を加へんことは、煩雜にして且つ冗漫に渉るを免がれざるを恐るゝを以て、單に其の大意を述べて、評論の變遷を示し、而して其説の可否は、必要なる限り、本文考證の際に道及ぼさんとす。
四 本文の考證
本文は上に掲げたれば、此には主として考證を要する字句のみを擧ぐべし。猶ほ事の次でに述ぶべきは、前號の發刊後、友人稻葉岩吉氏が宮内省圖書寮に藏せらるゝ宋槧本三國志を以て、余が録せる本文を校正し、其の異同を告げられしことなり。かの宋本は市野迷庵の舊藏にして、經籍訪古誌にも出でたる者なり。其異同は各々其字句の下に擧ぐべし。
帶方 / 漢末公孫氏が遼東に據りたる時、置きたる郡名にして、魏が公孫氏を亡ぼせる後も、之に因りたり。本と樂浪郡の縣名なりしを陞せて郡としたるにて、樂浪の南、即ち今の韓國の忠清、全羅二道の間に當るべし。松下見林が帶方會稽郡名。今八※(「門<虫」、第3水準1-93-49)地方といへるは妄なり。
舊百餘國。漢時有二朝見者一。今使譯所レ通三十國。 / 舊時を説くは前漢地理志に據り、今とは魚豢が魏略を作れる時を指すこと、已に前に言へり。史通に魏時京兆魚豢私撰二魏略一。事止二明帝一。とあれども、三國志に引く所の魏略の文は、正始嘉平の際に及ぶ者あれば、其の記する所、齊王芳の世を包括せること明らかなり。されば此に今といへるも、齊王芳の世を指せるか。菅氏が之を以て陳壽が自ら其時を指すとせるは、高句麗傳等の例を察せざる誤なり。
到二其北岸狗邪韓國一 / 同じ魏志の弁辰傳中に弁辰狗邪國あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に當てたり。日本紀にありては南加羅に當るべし。こゝに其の北岸といへるは倭國の北岸をいへるなり。後漢書に樂浪郡徼去二其國一萬二千里。去二其西北界拘邪韓國一七千餘里といへるも、二の其字は皆倭國を指せり。然るに菅政友氏は誤りて之を韓國を指せるものとして北岸といへるを疑へり。此誤は蓋し當時狗邪韓が已に倭國に服屬せることを思はざるに出づ。魏志の韓傳に云く、韓在二帶方之南一。東西以レ海爲レ限。南與レ倭接と、又弁辰傳に其涜盧國與レ倭接レ界といへり。弁辰涜盧國は吉田氏之を今の陝川郡に當てたるはよし、然るに其の倭と接界すとあるをば、涜盧津として、別に東莱府多太浦に當て、二つの涜盧あるが如く説きしは牽強なり。涜盧は唯一にして古の大良州郡、日本紀の多羅なること疑ひなし。若し韓國内に倭の領土なくば東西南並に海に限らるべき理にして、又其内地の涜盧國が倭と接界すべき理なし。此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る。
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、 / 對馬は宋本に對海に作れるは誤なり。一大國は本居氏が北史に據りて、一支國と改めたるを可とす、梁書も同じ、即ち壹岐なり。末盧を肥前の松浦とし、伊都を筑前の怡土とし、奴を儺縣、又那津、不彌國を應神天皇の誕生地たる宇瀰に當つることは本居氏以來、別に有力なる異説もあらざればすべて之に從ふ。
南至二投馬國一。水行二十日。 / 之には數説あり、本居氏は日向國兒湯郡に都萬神社有て、續日本後記、三代實録、延喜式などに見ゆ、此所にてもあらんかといへり。鶴峰氏は和名鈔に筑後國上妻郡、加牟豆萬、下妻郡、准上とある妻なるべしといへり。但し其の水行二十日を投馬より邪馬臺に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説を擧げ、一は鶴峰説に同じく、二は投を殺の譌りと見て、薩摩國とし、三は和名鈔、薩摩國麑島郡に都萬郷ありて、聲近しとし、更らに投を敏の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をも擧げたるが何れも穩當ならずといへり。國史眼は設馬の譌りとして、即ち薩摩なりとし、吉田氏は之を取りて、更に和名鈔の高城郡托摩郷をも擧げ、菅氏は本居氏に從へり。之を要するに皆邪馬臺を筑紫に求むる先入の見に出で、南至といへる方向に拘束せられたり。然れども支那の古書が方向を言ふ時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其發程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雜を生ずることも珍らしからず。後魏書勿吉傳に太魯水即ち今の※(「さんずい+兆」、第3水準1-86-67)兒河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。故に余は此の南を東と解して投馬國を和名鈔の周防國佐婆郡玉祖郷(多萬乃於也)に當てんとす。此の地は玉祖宿禰の祖たる玉祖命、又名天明玉命、天櫛明玉命を祀れる處にして周防の一宮と稱せられ、今の三田尻の海港を控へ、内海の衝要に當れり。其の古代に於て、玉作を職とせる名族に據有せられて、五萬餘戸の聚落を爲せしことも想像し得べし。日向薩摩の如き僻陬とも異り、又筑後の如く、路程の合ひ難き地にもあらず、此れ余がかく定めたる理由なり。
南至二邪馬壹國一。水行十日。陸行一月。 / 邪馬壹は邪馬臺の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。本居氏は明らかに其地を指定せざれども、日向大隅地方と看做したるべし。鶴峯氏は邪馬臺は襲人の僭稱にて、おのれがをる處を皇都大和に擬して呼しものなり、今も琉球人は薩摩をさしてやまとゝいふなり、琉球の童謠にりゆうきうとやまとが地つるぎならば云々(地つるぎは地續をよこなまれるなり)水行十日は、十日の上に二字を脱せるなりといへり。菅氏吉田氏の説も略之に同じくして詳なるを加へ、大隅國噌唹郡の中なる國府郷小川村の隼人城、清水郷姫木村姫木城あたりに擬し、星野恆氏、久米氏は之を筑紫國山門郡にあてたり。其陸行一月とあるを一日と改め讀むことは諸説皆一致せり。然るに此の陸行一月の字は魏略及び三國志より出でたる梁書、北史を始め、太平御覽、册府元龜、通志、文獻通考等、一も一日に作れる者なければ輕々しく古書を改めんことは從ひ難き所なり。鶴峰氏の水行十日を二十日とするは更に據なし。本居氏の説の如く、いつはりて魏の使を受つるなどは、菅氏も兒戲に等しとし、たとひ邊裔なればとて、有るべくも思はれずといへり。菅氏は當時、漢國にて倭と指しゝは、筑紫九國の地なれば、其を領きて威權ありし者を倭王とは稱へしなり、大和に天皇の坐しますことはもとより知らざりしさまなりといへり。然るに此説は邪馬臺が筑紫に在りしを證するには不十分なり。且つ日本紀によれば、意富加羅國王の子、都怒我阿羅斯等が日本國に聖皇ありと聞きて、歸化して穴門に到りし時、其國人伊都都比古、吾は是國の王なり、吾を除きて復二王なしといひしも、其の人と爲りを見て必ず王に非ざることを知れりといひ、後世に於ても、明の太祖が僧祖闡等を日本に遣はせし時、征西將軍に抑留せられたれども、猶ほ京都に持明天皇あることを知れるなどより推すに、魏國の使が親しく筑紫に來りて其の内亂にまで遭遇しながら、大和の皇室あることを耳にだもせざるは有り得べき事とも思はれず。琉球にてやまとゝいへる語も、大和朝廷の威力が九州に及びし後に交通して得たる者ならば、據るに足らず。隋書及び北史に倭國都二於邪摩堆一、則魏志所レ謂邪馬臺者也といへり。是れ隋の時には大和を以て邪馬臺と看做したる證なり。東晉より宋、齊、梁の代に亙りて倭王讚珍濟興武等が朝貢の記事は宋梁各書に見えたるが、之を以て大和朝廷の正使にあらずして邊將の私使なりとするの説あるも、其の上表文によれば、大和朝廷の名を以て交通したる者なるは明白なり。されば梁代に當りて、大和朝廷の存在は明らかに彼國人に知られたるは勿論なるが、梁書は當時の倭王を以て魏志の倭王の後として疑ふ所なし。かくの如く支那の記録より視たる邪馬臺國は、之を大和朝廷の所在地に擬する外、異見を出すべき餘地なし。其投馬國より水行十日陸行一月といへる距離も、奴國あたりより投馬までの距離を水行二十日と算するに比しては、無理なりとせず。又當時七萬餘戸を有する程の大國は、之を邊陲の筑紫に求めんよりも、之を王畿の大和に求めん方穩當なるに似たり。此れ余が邪馬臺國を以て、舊説の大和に復すべしと思へる理由なり。尤も邪馬臺と呼べる土地の限界は、恐らくは今の大和國よりは廣大にして、當時の朝廷が直轄したまへる地方を包括するならん。
斯馬國 / 本居氏は筑前國志摩郡か或は大隅國噌唹郡志摩郷かなるべしといひ、吉田氏も亦以て櫻島とす。余は之を志摩國とす。附て云く、余が地名を考定する方針は和名鈔の郡郷等につきて聲音の類せる者を彙集し、其中に就きて地望に準じて然るべき者を擇び取るに在れど、こゝには唯だ其の擇び取れる結果を示すのみ。以下皆此に倣ふ。
已百支國 / 吉田氏は之を伊爾敷と訓み、薩摩國麑島郡伊敷村に當てたり。余は之を石城と訓む。栗田寛氏の古風土記逸文に伊勢國石城の條に日本書紀私見聞を引て云く、伊勢國風土記云。伊勢云者伊賀事志社坐神。出雲ノ神ノ子出雲建子命。又名伊勢都彦命又名天櫛玉命。此神昔石造レ城坐二於此一。於是阿倍志彦神來集不レ勝而還却。因以爲レ名也云々と、則ち此の石城なり。
伊邪國 / 吉田氏は薩摩國南北伊作二郡とす。余は志摩國答志郡なる伊雜宮所在地とす。即ち天照大神遙宮と延暦儀式帳、延喜式神名帳等にいへる者なり。又伊勢國度會郡にも伊蘇郷あり、伊蘇宮、伊蘇國は並びに倭姫命世記に出でたり。
郡支國 / 明南監本、乾隆殿板本は並びに都支に作れども、宋元本に從て郡支に作るべし。吉田氏は串伎、即ち今の大隅國姶羅郡加治木郷なりとす。余は之を伊勢國度會郡棒原神社の所在地にあてんとす。谷川士清の和訓栞「くぬぎ」の條に云く、神名式伊勢國度會郡に棒原神社見ゆ、こは棒ノ字字書の義に違ひたれば欅クスキ原にて訓もぬをすに誤りたる也社地今田ノ邊郷淺管村に在り萬葉集に
「度會の大河のへの若歴木ワカクヌキわれ久ならば妹戀ひんかも」とあり。神名帳考證にも棒は欅字の誤也、久奴木の略語奴木原也、長谷街道也とあり。和名鈔に又度會郡沼木(奴木)郷あり。
彌奴國 / 吉田氏は薩摩國日置郡市來郷の湊かといへり。余は之を美濃國とす。
好古都國 / 吉田氏は之を好占都に作り笠沙、即ち今の川邊郡加世田郷とす。余が見たる諸本、一も好占都に作れる者なし。故に舊に從て讀み、美濃國各務郡、若くは方縣郡を當つべし。備前和氣郡に香止(加加止)郷ありて聲音はよく通へども、地勢の連絡なきを奈何せん。
附記、松下見林の異稱日本傳には次有伊邪國より好古都國に至る二十一字を脱したり。本居氏の馭戎慨言にも同數の字を脱したるを見れば、本居氏は異稱日本傳によりて説を爲し、三國志の原本をも檢せざりしことを知るべし、其の力を用ひたる考證にあらざること明かなり。然るに其説のよく後人を動かせしは、一は後人の其名に眩せられ、一は國人の自尊心に投ぜしに由るのみ。
不呼國 / 吉田氏は薩摩國日置郡日置郷とす。余は伊吹山の邊にある伊吹、即ち和名鈔の美濃國池田郡伊福とす。伊福吉部氏の占據せし地なるべし。
姐奴國 / 本居氏は之を伊豫國周敷郡田野郷とし、吉田氏は訓で谿とし、薩摩國谿山郡とす。是れ皆姐を以て妲と爲せるなり。然るに諸本妲に作る者なし。余は之を近江國高島郡角野郷とす。津野神社あり、川上郷廿餘村の産土神にして、都奴臣の祖、木ノ角ノ宿禰を祀ること、栗田氏の神祇志料に見えたり。
對蘇國 / 本居氏は土佐をいふかといひ、吉田氏は薩摩國阿多郡田布施郷とす。即ち和名鈔の田水郷なり。土佐とよむは、聲音に於て最も適へども、地勢隔離すれば、余は姑らく之を和名鈔の近江國伊香郡遂佐郷に擬すべし。
蘇奴國 / 吉田氏は之を噌唹即ち今の大隅國西噌唹郡とせり。余は之を延暦儀式帳、倭姫命世記に所謂佐奈縣なりとす。伴信友の倭姫命世記考に云く、佐奈縣は古事記上卷に佐奈縣(イセ也)中卷伊邪川宮段に伊勢の佐那造、帳に伊勢國多氣郡佐那神社とあり、佐那は今多氣郡に佐那谷とて一谷の大名にて、村八村ありとぞと。
呼邑國 / 吉田氏は大隅國肝屬郡鹿屋郷とす。余は伊勢國多氣郡麻積(乎宇美)郷とす。中麻積公の祖豐城入彦命を祀れる麻積神社あり。又倭姫命世記に櫛田よりして御船爾乘給弖幸行、其河後江爾到坐、于時魚自然集出天御船爾參乘支、爾時倭姫命見悦給弖、其處爾魚見社定賜支とあり。伴氏の考に魚見社は神名祕書に機殿、儀式帳云、魚見社三前、月讀命、豐玉彦命、豐玉姫と見えたり、延喜式神名帳にも多氣郡魚見神社見えたり、麻積と關係ありげにも見ゆ。
華奴蘇奴國 / 吉田氏は噌唹の別邑(今東噌唹郡にや)歟といへり。余は二の擬定地あり、一は遠江國磐田郡鹿苑神社の所在地なり。一は古事記に八島士奴美神の子に布波能母遲久奴須奴神あり、母遲は大穴牟遲神の牟遲に等しく、貴の義にして韓語の matai (上の義)に當り即ち不破の國主なり。久奴須奴といへる神名も、古代の習として地名を取りたるべければ、之を華奴蘇奴に當てんと思ふなり。
鬼國 / 本居氏は肥前國基肄郡なりとし、吉田氏は城、即ち薩摩國高城郡なりとす。されども鬼の音はクヰにしてキにあらず。古音は又魁、傀、槐等に近かるべければ、寧ろ桑の訓にあてゝ、尾張國丹羽郡大桑郷か、美濃國山縣郡大桑郷などにあてん方穩かならんか。
爲吾國 / 松下氏はイガと訓みたれば伊賀に當てたるならん。本居氏は筑後國生葉郡にあて、吉田氏は可愛即ち今の薩摩國薩摩郡高江郷に當てたり。然れども當時の爲の音はウヰ若くはウワ、クワなるべければ、余は之を三河國額田郡位賀郷即ち今の岡崎地方、若くは尾張國智多郡番賀郷にあてんとす。
鬼奴國 / 松下氏はキノと訓みたれば紀伊國に當てたるなるべし。吉田氏は今の薩摩國出水郡阿久根なりとす。余は之を伊勢國桑名郡桑名郷に當てんとす。
邪馬國 / 本居氏は豐前國下毛郡に山國あり、又景行紀に八女縣といふも見ゆるといひ、吉田氏も八女即ち今の筑後の山門及上妻下妻二郡なりとせり。余は伊勢國員辨郡野摩(也末)なりとす。
躬臣國 / 吉田氏は其名審にし難しといへども、猶今の三潴御井の地にあたるといへり。余は伊勢國多氣郡櫛田(久之多)郷なりとす。倭姫命世記にも御櫛落し賜ひて、櫛田社、定賜ふことあり、儀式帳にも櫛田根椋の神御田奉ること見え、神名帳には多氣郡櫛田神社、櫛田槻本神社、大櫛神社等あり。
巴利國 / 吉田氏は原、即ち今の筑後國御原郡なりとす。余は之を尾張國若くは播磨國に當てんとす。
支惟國 / 吉田氏は之を以て肥前の基肄郡としたり。大和の附近にては、之を紀伊とも見るべけれども、惟の音ウヰより推せば寧ろ吉備に當てん方的當ならん。
烏奴國 / 本居氏は周防國吉敷郡宇努郷とし、又大野といふ處も西の國々にこゝかしこ見えたりといへり。吉田氏は大野、即ち今の筑前の御笠郡大野山なりとす。余は之を備後國安那郡に當てんとす。國造本紀に吉備穴國造あり、孝昭帝の皇子天足彦國押人命の後、彦國葺の孫八千足尼を定められ、又安那公といふよしも姓氏録に出づ。景行紀に穴海あり、安閑紀に婀娜國あり、即ち安那、深津二郡を兼ねて海に瀕せる地なることは、吉田氏の地名辭書にも見えたり。
奴國 / 即ち前に出でたると同じ。
此女王境界所レ盡。其南有二狗奴國一 / 其南とは奴國を承けて言へるなり。菅氏が之を汎く女王國の南と解したるが爲に、反て三國志を疑ひ、後漢書の恣意改竄して、自二女王國一東度レ海千餘里、至二拘奴國一といへるを正しとして取りたるは、善く讀まざるの過なり。後漢書の取るに足らざることは已に言へり。本居氏も後漢書によりて、伊豫國風早郡河野郷を狗奴國とし、吉田氏も其誤りを襲へり。余は之を肥後國菊池郡城野郷に當てんとす。即ち奴國の南に當れる地なり。
會稽東治 / 治は冶の訛りなり。續漢書郡國志に會稽郡に東冶[#「冶」はママ]縣なし、楊守敬が三國郡縣表補正に其の誤脱なることを辯ぜり。今の福州府治なり。
以上 地名を考證し畢る。(以上明治四十三年六月「藝文」第壹年第參號)
次に官名に就て述ぶべし。但し其中、卑狗のヒコ即ち彦たり、卑奴母離のヒナモリ即ち夷守たるが如きは、辯證を費すを須ひざれば、主として、其餘從來未だ解釋せられざりし者に就て試みんとす。
爾支 / 隋書、北史に擧げたる我國の官名に、伊尼翼あり。黒川氏は翼を冀の訛りなりとして、之をイネキと訓み、即ち稻置なりといへり。此の爾支即ちニキも同語の轉訛と見るべし。
泄謨觚、柄渠觚、※(「凹/儿」、第3水準1-14-49)馬觚 / 泄謨觚も※(「凹/儿」、第3水準1-14-49)馬觚もみなシマコ、即ち島子と訓むべきに似たり。但し我が上古にかゝる官名、もしくは尊號ありといふことを聞かず。柄渠觚はヒココ即ち彦子などゝや訓むべき。されど此も亦古書に證例なければ、確かには定めがたし。
多模 / タマ即ち玉、魂と訓むべし。櫛※(「瓦+髟−彡」、第4水準2-81-14)玉命、櫛明玉命、天明玉命、天太玉命、豐玉彦命又倉稻魂命、宇都志國玉神など、玉、魂の語を有せる神名甚だ多し。本居氏の古事記傳には宇迦之御魂ウカノミタマの御魂を解して恩頼ミタマノフユ(神靈ミタマノフユ又靈ミタマノフユなどもあり)又萬葉五(二十六丁)に阿我農斯能美多麻多麻比弖アガヌシノミタマタマヒテなどある意にて其功徳イサヲを稱へたる名なりといひ又宇都志國玉ウツシクニタマノ神の玉は御靈ミタマなり、故國御魂カレクニミタマと云なり、故カレ此名は此神に限らず、倭大國魂ヤマトオホクニミタマノ神、高市ノ郡吉野ノ大國栖御魂ノ神社、山城ノ國久世ノ郡水主ニ坐ス山背ノ大國魂命ノ神、和泉ノ國日根ノ郡國玉ノ神社、攝津國東生ノ郡生國魂ノ神社、兎原ノ郡河内ノ國魂ノ神社、伊勢ノ國度會ノ郡大國玉比賣ノ神社、度會乃ノ大國玉比賣ノ神社、尾張ノ國ノ中島ノ郡尾張ノ大國靈神社、遠江ノ國磐田ノ郡淡海ノ國玉ノ神社、能登ノ國能登ノ郡能登ノ生國玉比古ノ神社、對馬上ツ縣ノ郡島ノ大國魂神社など各其國處に經營の功徳ありし神を如此申して祀れるなり、右の外にも國々に國玉ノ神社大國玉ノ神社と云多し皆同じといへり。(傳卷九)是にて大かたは釋き得たりと思はるれど更に一證の擧ぐべき者あり、新撰龜相記(友人富岡謙藏氏が井上頼國博士の藏本より傳鈔せる者によれり井上本は吉田家の祕書を寫せる者なりと云ふ)に今祭二卜部坊一櫛間智神社とありて其の注に母鹿木ハハカキノ神社也、一云ク櫛玉命とあり。されば間智マチといへる語と玉といへるとは同義なることを知るを得べし。間智は宇麻志麻遲命の麻遲に同じく、荒木田守良が鹿龜雜誌(富岡氏藏本)に麻遲の名の古書に見えたるを擧げて、宇麻志麻遲命の外に神名帳の遠江國佐野郡己等能麻知コトノマチ神社、近江國高島郡麻知神社、及び中臣壽詞に麻知波弱韮仁由都篁生出牟とあるを引き、其の釋義は明かならずといへり。意ふに是れ亦大名持、大穴牟遲、大己貴の持、牟遲、貴及び神功紀五年に見えたる新羅人、富羅母智の母智と同じく、韓語にては上の義なること、此の富羅母智に當るべき人を、三國史記には朴堤上とし、三國遺事には金堤上とし、いづれも母智が上の義なることを推すに足るが上に、訓蒙字會には上を matai と訓じ、恰かも我が古書が貴をムチと訓むに當れるに徴しても知るを得べく、かくてタマ即ち多模も亦上、貴の義にて地方君長の尊稱と解することを得べし。本居氏が布刀玉命を釋して、特に玉を手向の義としたるは、穿鑿に過ぎたり。(古事記傳八)
彌彌、彌彌那利 / 彌彌は天忍穗耳、神八井耳、手研耳などの耳と同じかるべし。古事記傳卷七に、天忍穗耳命の名義を釋して、耳は尊稱なり(耳字はもとより借字)下に布帝耳フテミミノ神と云あり、又神武天皇の御子たちに某耳ナニミミと申す多く、其外の人名にも多かる、皆同じことなり(中略)さて耳てふ尊稱の意は、美は比に通ひて、かの産靈ムスビなどの靈ヒなるを靈々ヒヒと重ねたるものなり、開化天皇の大御名大毘々オホヒヾノ命と申す是なり、此を書紀には太日々フトヒヾノ尊とありて、垂仁卷に太耳フトミミと云ふ人ノ名もあるを以て日々ヒヾと耳と同じきことを知るべし、又明ノ宮ノ段なる前津見マヘツミてふ人名を、書紀には前津耳マヘツミヽとある(又水垣宮ノ段に、陶津耳スヱツミヽとあるを、舊事記には大陶祇オホスヱツミと云ふも、據あるなるべし)を以て耳ミヽと云は美ミを二つ重ねたるにて、見と云は、其を一つ略けるものなることを知べし云々とあり。此にて彌彌の義は明らかなり。彌彌那利は我が古書に其語見えず。景行紀十二年に御木川上に居れる賊を耳垂ミヽタリといふこと見えたり。音やゝ近し。但し紀の文にては鼻垂ハナタリといへる賊と相并べて出でたれば、地方君長の尊稱とも見えざれども、傳説の混入多き古記には、彌彌那利の尊稱を種として、耳垂、鼻垂の説話を生出さずとも限らざれば、姑らく此に擧げて參考とするのみ。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳※(「革+是」、第3水準1-93-79) / 梁書及び南史には彌馬升なし、蓋し脱落ならん。宋本太平御覽(近ごろ又友人稻葉氏を煩はして※(「にんべん+方」、第3水準1-14-10)宋活字本御覽を圖書寮の宋槧本に對校せるに四夷部の倭國の記事中三國志を引ける者は全く相同じき由を報ぜられたり因て以後は皆宋本として引用せり附記して稻葉氏に深謝す)には彌馬升を彌馬叔に作れり、是れ叔を古寫本などに※[#「叔」の別体、268-18]に作るより生ぜし異同なるべし。今いづれを正しとも決し難けれども、二字の音も相遠からざれば、いづれを取らんも妨げなきに似たり。此の四の官名は邪馬臺國のものなれば、此の記事考定の資料としては、最も重要なる者なり。凡そ此の倭人傳の官名考定は從來史家の甚だ等間に付せし所なるが、余は最も之に注意し、明らさまに言へば、先づ此の四の官名を考へ得たるによりて本傳考定の鍵を得たるなり。第一の伊支馬といへる語には神名帳には大和國平群郡に往馬坐伊古麻都比古イコマニマスイコマツヒコノ神社二座あり、栗田氏の神祇志料に、北山鈔を引て、凡そ大甞祭膽駒社の神部をして火鑽木を奉らしむといひ、又神名帳頭注を引き、卜部龜卜次第奧書を參して、卜部氏又此神を祭て、龜卜火燧木ヒキリキノ神と云といへり。新撰龜相記にも又祭二卜部坊一行馬社(一名膽駒社在大和國平群郡)火燧木神也とあり。されば此神を祭る卜部の官氏を指して伊支馬とせるか、此れ一説なり。又垂仁天皇の御名を活目入彦五十狹茅天皇(記には伊久米伊理毘古伊佐知命)と申し奉れり。我が上古の制度には御名代といふことありて、景行天皇の世に日本武尊の功名を録せんが爲に武部を定め賜ひしこと書紀に見ゆ。御名代と并び行はれし御子代の制度は、垂仁天皇の世に御子伊登志和氣王、子なきに因て、子代として伊登志部を定めたること、古事記に出でたれば、此の二樣の制は、其の起源更に記録に見えたるよりも古かるべし。記紀等には垂仁天皇の御名代を定められたりとの事實見えざれども、當時の制度よりして言へば有り得べからざることにあらず、この伊支馬は或は垂仁天皇の御名代ならんも知れずと思はるゝこと、此れ又一説なり。又書紀には、大伴氏が率ゐる來目部クメベノ遠祖天※(「木+患」、第3水準1-86-5)津大來目アメノクシツオホクメといひ、大來目部といへるあり、記には久米直等の祖天津久米アマツクメノ命あり、本居氏は其の大伴氏に屬せりや否やに就きて議論あれども、要するに其上古に於て、大なる官氏たりしことは疑ひなし。伊久米といふは伊久久米の省略にてもあらんか。伊久イクは伊香イカ、嚴イカなどゝ同じく蒙古語の yeke に通ひて、大の義なるべければ、伊久米も大來目も同義なりといふことを得べし。活目入彦の入は親み愛みて云る稱なること、本居氏の説の如く、又孝徳紀二年に見えたる子代ノ入部、御名ノ入部の事などを參し、垂仁天皇の來目の高宮に坐せしことどもを取綜べて考ふれば、大來目部と此の天皇とは何等かの關係なくんばあらざるに似たり。されば伊支馬の官名を、大來目部と垂仁天皇の御名代と兩樣に縁ありと考へんことも不可なかるべし。次に彌馬升と彌馬獲支とは、相似たる官名なれば、一併に説くを便とせんか。上の垂仁天皇の御名代といふ事に考へ合すべきは、崇神天皇の御名を紀に御間城入彦五十瓊殖天皇と申し奉ることなり。(記には御眞木入日子印惠命とあり)此外にも孝昭天皇を紀に觀松彦香殖稻天皇(記には御眞津日子訶惠志泥命とあり)と申し奉るも、并びに彌馬といへる地名と覺しきを冠したり。國造本紀には長國造の條に志賀ノ高穴穗ノ朝御世。觀松彦色止命九世孫韓背足尼定二賜國造一。とあり。此の長は阿波國那賀郡なるべきが上に、此國には又美馬郡といふもあり、神名帳には此國名方郡に御間都比古神社ありて、栗田氏は即ち觀松彦色止命を祀るとせり。又播磨風土記にも大三間津日子は即ち孝昭天皇ならんといへり。此等の種々のミマツヒコをいかにして歸一すべきかは、今の急とする所にあらざれども、其の何れも孝昭天皇に縁ありげに見ゆれば、彌馬升を此天皇の御名代、御名入部の類と解し、彌馬獲支を崇神天皇の御名代御名入部の類と解せんとす。上古に於いて族裔の榮えたる皇別の中にては、孝昭天皇の皇子天足彦國押人命の後、崇神天皇の皇子、豐城入彦命の後など著しき者なれば、此の推定は甚しき牽強には陷らざるべし。次は奴佳※(「革+是」、第3水準1-93-79)なり、中臣氏が上古に在て強大なる官氏たることは、證例を擧ぐるまでもなし。此外にも中跡直といふあり、栗田氏の國造族類考に中跡直は舊事紀に天椹野命中跡直等祖とあり、中跡は和名鈔伊勢國河曲郡中跡(奈加止)郷、東鑑七に中跡庄、神名式に奈加等神社ある地に起れる氏なり、上に云る中臣伊勢連、中臣伊勢朝臣の中臣は即ち中跡にて、此に起れり、神名帳桑名郡中臣社あり、此氏神ならんとあり。奴佳※(「革+是」、第3水準1-93-79)が天兒屋根命の裔たる中臣連なると、此の中跡直等なるとは必ずしも問はず、中臣もしくは、中跡の對音と見るべきは疑なし。若し果して邪馬臺を九州地方に擬定せんには、此の四の官名をいかに解すべきか。此の四の官名の擬定は、又本傳の主なる人物たる卑彌呼の何人たるかを推定するにも、極めて有力なる資料たること、下文を見て知るべし。
狗古智卑狗 / 汲古閣本に智を制に作るは誤れり。宋本三國志、宋本太平御覽、皆智に作れば宜しく之に從ふべし。狗古智は即ち肥後國菊池郡にして菊池の古音は久々智なり。菊池彦は城野郷即ち狗奴國に在る右族にして、熊襲に屬する者なるべし。
以上官名を考證し畢る。
次に人名を考證せんに、其の主なる者は即ち
卑彌呼 / なり。余は之を以て倭姫命に擬定す。其故は前に擧げたる官名に伊支馬、彌馬獲支あるによりて、其の崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。事二鬼道一、能惑レ衆といへるは、垂仁紀廿五年の記事並に其の細註、延暦儀式帳、倭姫命世記等の所傳を綜合して、最も此命の行事に適當せるを見る。其の天照大神の教に隨て、大和より近江、美濃、伊勢諸國を遍歴し、(倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し)到る處に其の土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。余が邪馬臺の旁國の地名を擬定せるは、固より務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、其の多數が甚しき附會に陷らずして、伊勢を基點とせる地方に限定することを得たるは、又一證とすべし、三なり。年已長大無二夫婿一といへるは、最も倭姫命に適當せること、神功皇后とするの事實に違へる比にあらず、四なり。有二男弟一、佐治レ國といへるは、景行天皇を指し奉る者なるべし。國史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事に是程の相違は有り得べし。此の記事によりても、國政は天皇の御手中に在りて、命は專ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たゞ其の勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に當りて、必ず之に謁し、其の凱旋に當りても、俘虜を神宮に獻つりし事などを見て知るべく、特に其の天照大神を奉じて、神領を諸國に徴するは、一種の宗教的領土擴張にして、其の成功は武力を用ひたる四道將軍にも比すべければ、外國人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。以二婢千人一自侍といへる、數の過多なるはいかゞと思へど天見通命の孫に八佐加支刀部が兒、宇太乃大禰奈といふ童女などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有二男子一人一(隋書及び北史には二人に作る)給二飮食一、傳レ辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其餘は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑彌呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に火之戸幡姫兒千々姫ヒノトバタヒメコチヽヒメノ命、また萬幡姫兒玉依姫ヨロヅハタヒメコタマヨリヒメノ命などある姫兒に同じとあるは非にして、この二つの姫兒は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。彌をメと訓む例は黒川氏の北史國號考に上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比彌乃彌己等キタシヒメノミコト、また等已彌居加斯支移比彌乃彌己等トヨミケカシキヤヒメノミコト、註云 彌字或當二賣音一也とあるを引けるなどに從ふべし。
難升米 / 雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼以スデに死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。
伊聲耆掖邪狗 / 倭人傳に此人名を出すこと三處なるが其の始めて出せる時のみ伊聲耆掖邪狗とありて、後の二處は、單に掖邪狗とのみありて、伊聲耆の字なし。按ずるに伊聲耆の音はイ、サン、ガと訓むべく、掖邪狗も亦イ、サ、カと訓むべし、蓋し魏人が同一の人を兩樣の對音にて記せる者が、一は重複して記され、一は單に一方のみ記されたるならん。神名帳に出雲國出雲郡阿須伎神社同社神伊佐我神社あり、又同郡に伊佐波神社、伊佐賀神社あり、栗田氏の神祇志料に皆出雲國造の祖、天夷鳥命の子伊佐我命を祀るとせり。此神果して天穗日命の孫ならんには年代合はざるの嫌あれど、出雲國造系圖、中臣系圖、舊事紀の天孫本紀、物部、尾張二氏の系圖すべて帝系に比しては、太だ世數の少きを常とすれば、伊佐我命の年代も必ずしも天穗日命を標準とすべからず。且つもし其名にして居地などに取りたらんには、かの命の後裔が其名を襲用せりとも見ることを得べし。因て姑らく伊聲耆、即ち掖邪狗を以て此命に擬す。
都市牛利 / 此の人名に就ては、一は田道間守に縁ある者として解することをも得べく、又一は伊佐我命に縁ある者としても解することを得べし。故に上の二者の後に出したり。田道間守に縁ある者としては都市ヅシを出石に擬することなり。和名鈔に淡路國津名郡都志(豆之)郷あり、此島は天日槍命に縁あれば、此の都志も但馬の出石に縁ありて、イヅシの省略なるべしとの説あり。牛利ゴリは心ゴリの義なり。舊事紀天孫本紀に出石心大臣イヅシゴヽロオホオミノ命あり此命は固より田道間守と何の縁故もあるにあらざれども、出石心といへることが人名として用ひられたる例とする事を得べし。心は紀の神代卷に田心タゴリ姫とある例にて、牛利に當るを得べければ、天孫本紀とは別人としても出石心イヅシゴリ、即都志牛利ヅシゴリといふ人名は、有り得べし。出石は天日槍以來、田道間守が家の居地なれば、其人が正使たる難升米即ち田道間守に縁あるより、次使として魏國に赴ける事を推定し得べし。伊佐我命に縁ある者としては、神名帳に出雲國出雲郡に都我利ノ神社あり、栗田氏の志料に武夷鳥命(即ち天夷鳥命)の孫、津狡ツガリ命を祀るとせり。都志牛利の志を邦語及び韓語に多き助語とせんには、都我利とも音近くなるべし。此も全く舍つべきに非ず。
載斯烏越 / 載を戴の訛とせば、武内に近しといふ説あれど、今は字を改めずして解釋を試みんに神名帳に出雲國飯石郡須佐神社あり、今須佐郷に在り、又大原郡佐世神社あり、今佐世郷に在り倶に須佐能袁命を祀ると栗田氏の志料に見えたり。此の須佐能袁命をかの素盞嗚尊とせんには、牽強に近かるべけれども、須佐もしくは佐世の地に居りし名族の名と解せんには不可なかるべし。
卑彌弓呼素 / 從來此の人名を讀むに、多くは素の字をモトヨリの義として、下の不和につけて讀めども、余は之を上につけて人名の中に入れたり。呼素はコソと訓むべく、國造本紀に見えたる凡河内國造彦己曾保理命の己曾、孝徳紀に見えたる神社カミコソノ福草の社、神名帳に見えたる攝津國東生郡比賣許曾神社の許曾、垂仁紀二年の註に見えたる難波と豐國國前郡と二處の比賣語曾神社の語曾などのコソと同じ樣に用ひられし者なるべく、比賣語曾といへば女性を見はすに對して卑彌呼といへば男性を見はすにもやあらん。卑彌呼と故さらに一字を違へたるもヒメコの意にあらざるが爲か。國造本紀には又山背國造に曾能振命ありて、彦己曾保理命とは異人なれども、命名の義は似通ひたるより思ふに、己曾といへるも曾といへるも本義には差なくして此の呼素も襲國の酋長などをや指しけん。
壹與 / 本傳には邪馬臺を邪馬壹と誤りたれば此の壹與も臺與の誤りなるべし。梁書及び北史には並びに臺與に作り、宋本御覽には臺擧に作れり、證とすべし。卑彌呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が國史にては崇神天皇の皇女、豐鍬入姫(又豐耜姫命)の豐トヨといへるに近し。國史にては豐鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる體なれども、倭人傳にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豐鍬入姫の方を第二代と誤り傳へたるならん。景行天皇の五百野皇女は、倭姫命の職を嗣ぎしさまに、國史に見えたれども、其の名字の音、似ざること遠ければ、之に當つべきやうもなし。
以上 人名を考證し畢る。
次に論ずべきは道里なり。白鳥庫吉博士は、最近の考證に於て、道里に關する意見を發表せられたるが、其の大要は帶方郡より女王國に至るまで一萬二千餘里なるに、其の中間帶方郡より狗邪韓までは水路七千餘里、狗邪韓國より末盧國まで水路合して三千餘里、末盧より不彌まで陸路合して七百餘里なれば水陸合計、已に一萬七百餘里を算し、剩す所は一千三百餘里に過ぎず。此の一萬七百餘里は我が二百九十餘里に過ぎざれば殘れる一千三百餘里にては大和に達するに足らずといふに在り。然れども當時の道里の記載はかく計算の基礎とするに足るほど精確なる者なりや否や、已に疑問なり。帶方郡より女王國に至るとは、女王之所都なる邪馬臺國を指せりや、女王境界所盡なる奴國を指せりや、將た投馬國と邪馬臺との接界を指せりや、先づ之を決せざるべからず、女王之所都に至るとせんには、白鳥氏の計算の如くなるべきも、奴國に至るとせんには一萬六百餘里に過ぎず、もし投馬と邪馬臺國の接界を標準とせば、一萬二千餘里は必ずしも短きに過ぎたりとはすべからず。且つ此道里は海路をば太だ遠く算し、陸路をば比較上近く算したる者なることを認めて、伸縮する所なかるべからざるが上に、下節に述ぶる如く帶方より不彌に至る道里と、帶方より女王國までの道里とは、其記者をも記事の時をも異にしたれば、之を一致せしめんこと難かるべし。又當時奴國、不彌國以南にして道里明白ならば、宜しく其の數を記すべきに、單に其の行程を日數にて計り、里數を擧げざるを見れば、此間の道里を一萬二千餘里の中より精確に控除して計算せんことは、杓子定規に近きの嫌あり。故に考證の基礎を地名、官名、人名等に求むるの寧ろ不確實なる道里に求むるよりも安全なるを知るべし。地名を等閑視するの過は、白鳥氏の考證に於て、已に之を見る者あり。氏は魏使が一支より末盧に至れる地點を定むるに、菅氏の説に據りて松浦郡値嘉島の見禰良久崎に因りし者となせり。値嘉島は今の五島なれば此より陸行して伊都に至るべき理なきことをば注意せられざりしと見ゆ、是れ著しき誤謬なり。余が見る所にては、魏使の上陸地點は、恐らくは松浦郡名護屋附近ならん。仲哀紀に崗縣主祖熊鰐、天皇を周芳の沙磨サバ之浦(即ち佐波にして、本傳の投馬に近き程の處なり。此の沙磨に關しては景行紀及び豐後風土記ともに景行天皇の筑紫征伐の際經由したまひし事を記せり、以て其の古代より舟行必由の地たることを見るべし)に迎へ奉りて奏せる言の中に、穴門より向津野ノ大濟に至るを東門とし、名籠屋ノ大濟に至るを西門とすとあり。名護屋が當時に在りて、要津たりしこと以て知るべく、其壹岐より水路亦最も捷なれば、かくは決せるなり。向津野大濟とあるは、周防の上之關、室積あたりに當るべきか。此あたり今は熊毛郡なれども、古は都濃郡とともに角國の中なりしならん。或は熊毛郡を古の周防郡なりしならんと説く者あれども、沙磨之浦が周芳に屬するを見れば、周防郡は都濃の西に在りて、東に在らざりしなり。此の都濃即ち向津野の津野と解すべく、向といへるは上之關などの海島にて、都濃の對岸に在る者を指せるならん。余は魏使の投馬以東に於ける上陸地點を此の向津野附近の要津ならんと想定す。道里を考ふるの次で聊か之に及ぶ。
次に此傳を構成せる材料に就て論ずべし。三國志は魏略に據れること、已に言へる如くなるが、魏略が何等の材料を採用せしかも推定し得べからざるに非ず。余は之を四種に解析せんとす。
一、倭人在二帶方東南大海之中一より使譯所レ通三十國までは漢書地理志に據りて、當時の事に及ぼし總序せる者、是れ一種なり。
二、景初三年六月より末尾に至るは、是れ當時官府の記録に據れる者、是れ又一種なり。
三、倭使の始めて帶方郡に詣りし時、之に本國の事情を訊問し、加ふるに漢書の如き前代の記録を參考して作れる記事、是を第三種とす。余は傳中、左の各節を以て此の性質の者と斷定す。
次有二斯馬國一より與二※(「にんべん+瞻−目」、第3水準1-14-44)耳朱崖一同に至る一節。(い)
其行來渡レ海詣二中國一より持衰不レ謹に至る一節。(ろ)
其會同坐起より人性嗜レ酒に至る一節。(は)
參問倭地より五千餘里に至る一節。(に)
四、魏使が倭國に至り親しく見聞せる所を記せる者、是を第四種とす。即ち左の各節なり。
從レ郡至レ倭より旁國遠絶、不レ可レ得レ詳に至る一節。(イ)
倭地温暖より以如二練沐一に至る一節。(ロ)
出二眞珠青玉一より視二火※(「土+斥」、第3水準1-15-41)一占レ兆に至る一節。(ハ)
見二大人所一レ敬より船行一年可レ至に至る一節。(ニ)
一種と二種とは辯證を要せず。三種四種をかく解析せる標準は、一には三種に屬する記事が多くは倭より郡に至る方面より着眼し、四種に屬する記事が多くは郡より倭に至る方面より着眼せるの別あるに由る。二には次有某國云々といへる國名の排列が大和の王畿附近、特に伊勢を起點として、次を逐て最後に及べるに、從郡至倭云々といへる國名の排列は、之と全く反對の排列を爲せるに由る。三には記事に重複ありて、屬辭に脈絡なく即ち三種の(い)節、風俗不淫の句が四種の(ニ)節、婦人不淫不妬等の句と重複し、三種の同節、禾稻紵麻以下、箭鏃に至る物産が四種の(ハ)節に記せる物産と脈絡相屬せず、四種の(ハ)節、父母兄弟云々の句、三種の(は)節會同坐起云々の句と脈絡相屬せざるが若きに由る。又
夏后少康之子。封二於會稽一。斷レ髮文レ身。避二蛟龍之害一。(三種い節)
とあるは、漢書地理志に粤地の事を記せる文を襲用し、
作レ衣如二單被一。穿二其中央一。貫レ頭衣レ之。種二禾稻紵麻一。蠶桑緝績。――其地無二牛馬虎豹羊鵲一。兵用二矛楯木弓一。――竹箭――或骨鏃。(同節)
とあるは、大要漢書地理志の※(「にんべん+瞻−目」、第3水準1-14-44)耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。最後の參問云々も亦然りとす。
次に零碎なる字句の異同を校訂して以て、此章を終ふべし。
注に魏略を引きて正歳四時とある時を宋本には序に作り。記二春耕秋收一とある記を宋本には計に作れり、從ふべし。重者滅二其門戸及親族一の滅を宋本は沒に親を宗に作れり亦從ふべし。
其國本亦以二男子一爲レ王。住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年。乃共立二一女子一爲レ王。名曰二卑彌呼一。此數句異同甚だ多し。後漢書には前にも引ける如く、
建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱二大夫一。倭國之極南界也。光武賜以二印綬一。安帝永初元年。倭國王帥升獻二生口百六十人一。願二請見一。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無レ主。有二一女子一。名曰二卑彌呼一。
に作れるが、隋書、通典は全く後漢書に據り、北史は桓靈間を靈帝光和中に作り、餘は後漢書に同じ、梁書は漢靈帝光和中に作ることは北史と同じく、歴年の下に無レ主二字なきことは三國志に同じ、宋本御覽は三國志を引きて住七八十年を靈帝光和中に作れり。因て思ふに魏略の原文は建武中元より願二請見一に至るまでは、後漢書に同じく、次に漢靈帝光和中とありて倭國亂相攻伐歴年以下は三國志に同じかりしならん。三國志が本亦以二男子一爲レ王といへるは、中元、永初二次朝貢せる者が男王なりしを以て、略してかく改めたるなるべく、又永初より光和までを算して住七八十年の句を作りしなるべし。靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり。宋本御覽が三國志を引て靈帝光和中の句を殘せるは、當時の異本或はかく作りし者ありけん。
景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。
五 結論
已上の各章に於て、魏書倭人傳の
邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと
女王卑彌呼とは倭姫命なること
は粗ぼ論じ盡せり。但だ其の魏と交通せる時期が我が國史に於て、如何なる時代に相當するかは、尚ほ未だ語て詳かならざるの憾あり。少しく之を補て以て此の考説を結ばんとす。
余は女王國が狗奴國と相攻撃せりといふによりて、其の時期を景行天皇の初年、熊襲親征の事に該當する者と斷ぜんとす。上古に在て語部が語り繼ぎたる史實なりとも、當時の大事を全く語り漏すべき者とは信ぜざるが故に、魏國の記録に著はれたる史實が、我が上古史に全く缺佚せる筑紫女酋の事蹟なりと信じ得ざること、猶かの魏使が筑紫に來りて、全く大和朝廷あることを知らずして歸れることを信じ得ざるがごとし。故に此の魏國まで知れ渡りたる攻撃の事を、景行天皇の御事蹟に當る者と定め、かくて之より下れる世に考へ及ぼすに、神功皇后攝政の期は、那珂通世氏の説の如く、三國史記と神功紀の干支と、續日本紀の菅野眞道等の上表とによりて百濟近肖古王の時とすること當然なれば、此間凡そ百年にして、景行、成務、仲哀、神功、四朝に彌れば必ずしも荒唐に流れざるべし。又之より上に溯りて漢靈帝光和中の内亂を、崇神、垂仁の二朝に於ける百姓流離。或有二背叛一(崇神紀六年の語)により、神祇を崇敬せしこと、武埴安彦の叛、四道將軍の出征、狹穗彦の亂などに當る者とせんには、其間五六十年にして、長短頗る當を得る者の如し。是れ我が古史の紀年を定むるに於て亦甚だ有益なる資料たるべきなり。
今一事の注意すべきは、余が考定せる倭國の使人が田道間守以外の諸人も、皆但馬、出雲より出でし人物たることなり。崇神紀六十年に見えたる出雲大神宮の神寶を貢上せしめたること、垂仁紀八十八年に見えたる但馬出石の神寶を獻ぜしめたることを併せ考ふるに、神寶の貢獻は實に其國の服屬を表する者なるべく、此の二國の服屬は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと、已に説く所の如くなるを以て、其時外交の使命を奉ぜし者が但馬、出雲二國の名族たりしことは、事情に於て極めて當然なりと謂ふべし。
若し倭人傳に見えたる倭國の習俗其他をも旁證し、又諸韓國との關係にも及ばんには、更に闡發を要する者あるべきも、此の考證已に長きに過ぎたるを以て、今皆之を略し、別に補考を草するの機を待たんとす。(以上明治四十三年七月「藝文」)
附記
此の一篇は之を發表せし當時に於て、已に頗る專門學者の注意を惹き起したり。余と同時に白鳥博士は邪馬臺九州説を發表せられしが、尋で博士の門人橋本増吉氏は、長篇の論文を史學雜誌に載せて、同じく九州特に筑後川流域説を主持し、以て余が所説を覆さんとせられしも、多くは余と見解の相違より生ぜし異論にして、別に駁議を要すべき所なきを以て、余は敢て之と爭はざりき。唯だ余が滿足せし一事は、此の一時の議論ありし結果、並時の學者が九州説を定論とせし迷信的意嚮より離脱し、再び近畿説と九州説との兩端に就て考慮するに至りしことにして、六七年前、考古學雜誌に於て、已に幾多の議を再發し、有力なる學者にして、復た畿内説を主張せらるゝ人を出すに至り、其の中には九州以東の海路を山陰に考察する説などをも生じたり。之が一定の結論をなすまでには、尚ほ討究を累ねざるべからざること勿論なるも、學者が遠くは本居、鶴峯諸氏の名に震ひ、近くは星野、菅諸先輩の言に雷同せざるに至りしだけにても一の進歩と謂ふべし。今此篇を再び世に問ふに當り、二十年間に於ける史論の變化を囘顧して、中懷に※(「木+長」、第4水準2-14-94)觸する所なきを得ず、因て聊か篇末に附言すること此の如し。
余が此篇を出せる直後、已に自説の缺陷を發見せし者あり、即ち卑彌呼の名を考證せる條中に古事記神代卷にある火之戸幡姫兒、及び萬幡姫兒の二つの姫兒の字を本居氏に從ひて、ヒメコと讀みしは誤にして、平田氏のヒメノコと讀みしが正しきことを認めたれば、今の版には之を改めたり。
其外、「到其北岸狗邪韓國」の條下に
此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足るといひ、又篇末に
此の二國(但馬、出雲)の服属は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと云々
といひしが、其後余は倭人が支那の戰國の末より漢代に至るまで、半島の南部に定住せしこと、山海經の記する所によつて推定し得られ、姓氏録に載する所、左京皇別吉田連の祖鹽乘津彦命が三己※(「さんずい+文」、第3水準1-86-53)の地に遣されしは、半島に殘存せし倭人が、他族の壓迫に對して、本國に援助を請ひし者なるべしと考ふるに至りしを以て、任那を崇神天皇の時、始めて服屬せし如く見ゆべく記せる前説は改訂せざるべからずと考ふるに至れり。
又「對蘇國」の條に、之を近江國伊香郡遂佐郷に擬したれども、村岡良弼氏の日本地理志料に遂佐は遠佐の訛誤ならんとの説當を得たりと考ふれば、改めて之を同國蒲生郡必都佐郷に擬せんとす。延喜式神名帳によれば、本郡に比都佐神社あり、又此地方に鳥坂長峰あるによるなり。
又投馬國につきては、近年之を備後の鞆津に擬する説あるは、余も一考すべき者と考ふ。余が前説は周防の佐波が古代より要津として知れわたりたる地なるに重きを置きたれども、鞆といづれか可なるやは、更に考ふべし。
又西高辻男爵の藏せらるゝ張楚金の翰苑卷第卅に倭國の條ありて、其中に魏略を引きて「女王之南又有狗奴國」とあり、狗奴國を女王之南とせるは、恐らく魏略の文を誤解せる者ならんも、之によりて後漢書の「自女王國東度海千餘里。至拘奴國。」とするの誤は益々明らかなり。
猶ほ參考すべき各論文の略目を左に掲ぐ
白鳥博士「倭女王卑彌呼考」(明治四十三年六月、七月東亞之光第五卷第六號、第七號)
白鳥博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號)
橋本増吉氏「耶馬臺國及び卑彌呼に就て」(明治四十三年十月、十一月、十二月史學雜誌第貳拾壹編第拾號、第拾壹號、第拾貳號)
高橋建自博士「考古學上より觀たる耶馬臺國」(大正十一年一月考古學雜誌第十二卷第五號)
三宅米吉博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號)
笠井新也氏「耶馬臺國は大和である」(大正十一年三月考古學雜誌第十二卷第七號)
笠井新也氏「卑彌呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的關係」(大正十二年三月考古學雜誌第十三卷第七號)
笠井新也氏「卑彌呼即ち倭迹々日百襲姫命」(大正十三年四月考古學雜誌第十四卷第七號)
中山太郎氏「魏志倭人傳の土俗學的考察」(大正十一年三月、五月、八月考古學雜誌第十二卷第七號、第九號、第十二號)
山田孝雄氏「狗奴國考」(大正十一年四月、五月、六月、七月、八月考古學雜誌第十二卷第八號、九號、十號、十一號、十二號)
志田不動麿氏「耶馬臺國方位考」(昭和二年十月一日史學雜誌第參拾八編第拾號)
以上八氏中、九州説は白鳥博士と橋本氏とにして、餘の六氏は近畿説なり。
(昭和三年十二月記) 
 
卑弥呼 / 文身と鬼道

 

卑弥呼 / 文身(刺青)
卑弥呼の時代の習俗は中国江南地方と類似しています。卑弥呼を知ることにより、日本の古代信仰の一端が見えると思います。注目したいことは、卑弥呼(二四八年頃)と道教の関係です。『魏志倭人伝』に卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道に事(つか)えて人々を惑わしていたという(「卑彌呼 事鬼道能惑衆」)一説があります。この鬼道について本居宣長は安永七(一七七八)年に、『馭戎概言』(ぎょじゅうがいげん)を著し、このなかに鬼道とは古神道と解釈しています。『魏志倭人伝』の著者である西晋の陳寿(二三三〜二九七年)は、二八〇〜二九七年の間に『魏志倭人伝』を記録してます。『魏志倭人伝』は中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第三〇巻「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の略称です。『三国志』は中国の後漢末期から、魏・呉・蜀の三国時代にかけて三国が争覇した時代(一八〇年頃二八〇年頃)の興亡史です。撰者は西晋の陳寿です。『三国史記』は、朝鮮の高麗一七代仁宗の命を受けて金富軾らが作成しました、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書です。朝鮮半島に現存する最古の歴史書です。日本の四世紀頃から七世紀頃を指します。それ以前に古朝鮮といわれる時代から三国と並行して、扶余・沃沮・伽耶・于山国・耽羅国などの小国や部族国家がありました。
陳寿が『魏志倭人伝』を編纂するにあたり『魏略』を参考としています。その『魏略』の中に「郡より女王国まで一万二千余里、其の風俗は男子大小となく皆鯨面文身(顔や身体に刺青)す、昔からその使いが中国に来ると自らを太伯の後という」、とあります。つまり倭国の人々は身体に刺青をし、自分たちは呉の太伯子孫と名のったのです。この太伯とは周王朝の嫡系ですが、権力争奪の国政に見切りをつけ南方に隠遁し、鈎呉と称して呉の開祖となります。孔子から「至徳」の聖人と仰がれた人物です。その死後千余年の間、王統が連綿として続いたというのが太伯伝説です。中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説があり、それが日本にも伝えられて林羅山などの儒学者に支持されました。徳川光圀がこれを嘆いて歴史書編纂を志したのが、『大日本史』執筆の動機だったといわれています。文中にある鯨面文身は江南地方の習俗であり、稲の伝来とともに刺青の習慣がもたらされたといいます。荘子によりますと、さきの越の人々の頭は断髪で、上半身は裸で刺青を施していたとあります。刺青というのは彫り物・文身・刺青・刺文・点青ともいわれます。この倭人の刺青は装飾のためではなく、一種の禁饜(きんえん)・符呪(呪い)を目的としたものといいます。この刺青が呉越の刺青と同一ですと、倭人の入れ墨も龍子のような文様であったと推定しています。また、『後漢書』(西南夷列伝)の哀牢夷という民俗の女性に淵源があり、雲南省から江南の住民と九州の倭人に見られるといいます。(鳥居龍蔵稿「倭人の文身と哀牢夷」『人類地理学』第三二巻三〜六号所収)。海中へ潜り魚や鮑を捕る海人(海士)は成人も子供も顔と体に刺青をしたのは、もぐり漁のとき大魚や水鳥を寄せつけないためといいます。顔の刺青は共通しており、体の方は地域差があったといいます。アイヌや沖縄では二〇世紀まで風習が続き、アイヌの古語に「黒曜石の傷」という名が残っています。(奈良文化財研究所『日本の考古学』上。三九五頁)。『古事記』にある神武東征の中で、同行した久米族の刺青をみて畿内の人々が驚いたとあります。畿内には刺青の習慣がなかったことになります。神武東征が九州勢力の東遷としますと、邪馬台国九州説を裏付ける状況証拠となるといいます。『魏志』東夷伝をみると、朝鮮南部の韓族と倭人の文化的な共通点はなく、あるのは文身だけといいます。しかも馬韓で文身している人は稀で、辰韓・弁韓の地でも見られないことから、入れ墨は元来倭人の風習とみられます。倭国に近いところに住んでいる韓族が、倭人からその風習を受けたのではないかといいます。(『日本の古代』一三、依田千百子稿、三七九頁)。この三韓は一世紀から五世紀にかけての、朝鮮半島南部に住した種族とその地域をいいます。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓といい、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる、馬韓(百済)・弁韓(任那)・辰韓(新羅)に分かれます。南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ例があり、『日本書紀』もそれに倣っています。三世紀当時の韓族社会は整然と統一されておらず、村落共同体的な社会であったとされます。馬韓(百済)の民族と通交していたことがわかります。
卑弥呼 / 鬼道
陳寿が卑弥呼の巫術を「鬼道」としたのは、中国の帳魯が創始した道教(五斗米道)を指していたといいます。「鬼道」という言葉は『三国志』の倭人条以外に、『魏志』張魯伝に二回、『蜀志』劉焉伝に一回触れています。ここに、張魯の祖父の張陵は巴蜀(はしょく。現在の四川省で巴は重慶、蜀は成都)の五斗米道の創始者であり、父の張衡と張魯はその後を継いでいたことや、盧氏の母は鬼道(巫術)に長けた美貌の持ち主であることが書かれています。つまり、卑弥呼の「鬼道」は張魯の道教に類似していたのです。あるいは、『史記』封禅書の文から、卑弥呼の「鬼道」は道教的なものではなく、越の俗人が信仰した「鬼神」であり、人々を惑わしていたというのは制御ということで、人々を治め操っていたとする説もあります。(『日本の古代』1、一五八頁)。ただ道教的信仰は二世紀末から三世紀前半の鏡に、東王夫・西王母を鋳した方格規矩鏡が、福岡県糸島市の井原鑓溝墓で出土していることから、道教の神仙思想に基づく信仰が日本に導入されていたのは事実です。また、卑弥呼が用いた鬼道の鬼は、朝鮮語でクイ(kui)と発音し、また曙光をピョックイ(pyotkui)とクイが同音であることから、光の意味の発音を吏読字で鬼と表現したといいます。ピョッ(pyot)は陽の意味で、クイ(kui)は銅のクリ(kuri)の発音からr音が脱落してクイとなります。金はクチ(kuti)と発音します。これは、祖語がクッ(kut)で語根がクル(kul)となります。つまり、鬼道の鬼の字義は黄金色に輝く光の存在や金や銅の輝きであり、朝日をピョックイ(曙光)という太陽信仰といいます。鬼道は明図(ミョンド)といわれる銅鏡と同じように、「光が導く」という意味になるといいます。明図の図は道や導と同音で、明図は明りが導くという意味といいます。(荊の紀氏の日本古代史掲示板より)。
卑弥呼の宮居は「宮室楼観城柵厳設」とあり、「楼観」とは中国の高所重層の建物であり、多くは道観であったといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』一二頁)。また、城柵の柵は木で作られた垣のことで、これは扶余や朝鮮古代三世紀頃の辰韓(四世紀に新羅 が成立)に見える木を並べて造った城柵と同じで、中国のような土で築き固めた城壁とは違います。さらに、鬼道は鬼神信仰をした墨子の移入信仰であったといいます。禊ぎの儀礼においても、『霊基経』の祭法に齋戒沐浴が説かれており、邪馬台国の禊ぎと関連するといいます。占いにおいても『日本書紀』(神代下)に見られる太占(ふとまに)の法を行っていました。太占は獣骨(主に鹿)を用いた卜占のひとつで、鹿の骨を用いることから鹿占(しかうら)ともいいます。朝鮮における主な骨占いは鹿の骨が用いられています。『魏志』夫余伝に、戦争のような大事があるときは、牛の蹄をもって占いをしたとあります。中国では江南地方からの卜骨の出土がないので、、朝鮮の鹿の肩胛骨占いは北方系であるとみられ、それが日本に移入したといわれます。『魏志倭人伝』の骨を灼いて卜すのは『記紀』の布刀磨爾にあたるといい、日本での鹿の肩胛骨占いは、中国系の亀卜が流入する以前に、朝鮮半島からもたらされたといいます。(『日本の古代』一三、依田千百子稿、三八一頁)。この鹿の肩胛骨を焼いて占う職種は中臣氏が行っており、祖神の天児屋命の掌るところとされます。これは、藤原氏の氏神である春日社に鹿が飼われているのと関連します。広鋒銅矛・銅戈・平形銅剣についても、鬼祓いや魔除けのための道教の霊具であったとします。矛は両刃の剣に長い柄をつけた刺突用の武器ですが、儀仗・祭祀 にも用いられていたといいます。中臣氏の祝詞のなかに戈の字が書かれています。(重松明久著『古代国家と道教』八四頁)。卑弥呼に下賜された鏡(景初三年の銅鏡一〇〇面)は魏鏡といわれます。日本の古墳に埋葬されている三角縁神獣鏡は、ほとんどが二一a前後の大型鏡です。漢鏡は直径が一四〜一二aの中型鏡のものが多く、主に化粧用に使用されています。日本の弥生後期になりますと、八〜五aほどの小型鏡が造られるようになります。つまり、卑弥呼の魏鏡は化粧具としての中型鏡の可能性が強くなります。三角縁神獣鏡は現在、三七〇枚を超えて発見されています。内訳は奈良県から八〇枚、京都から五六枚、兵庫県から三九枚、大阪から二二枚、畿内から一九七枚発見されています。卑弥呼の時代以後の鏡もあり、別なルートから移入されていたことになります。邪馬台国以外にも三角縁神獣鏡を下賜される国があったと思われます。
中国からタイにかけて分布するミャオ族は、天上・地上・地下の三界から宇宙が成っており、地上界と天上界は山頂から伸びた十二段の梯子により連結されていて、ここを通れるのはシャーマン・祭司のみであるとします。韓国のシャーマンは巫堂(ムーダン)で祭祀します。巫堂の正面上段に巫神図を掲げ、明図といわれる銅鏡を置きます。巫神図の最上層の神々は天神・七星神・山神で、この神々と銅鏡が神体とされます。日本の天照大神も鏡を神体としているところに共通性が見られます。歴史言語学者の加治木義博氏は、卑弥呼を魏の時代の発音で読むとphemyergo(ピェミャルゴ)と発音したといいます。マレー語ではピェーミェルは政府という意味で、ペーメーロクは保護者を表します。アイヌ語でもピミクは、「解き告げ吠え」神託を下す人を意味するといいます。素語理論学者の野村玄良氏は、奈良時代以前は乙類読みで「fimikwo・ヒミクォ」と発音していたといいます。奈良時代の真仮名読みで、卑弥呼を「ヒミコ・fimiko」と読むのは誤りとします(甲類読み)。奈良時代の卑彌呼の学的に正しい読み方は、万葉仮名・真仮名読みで「ヒミヲ・fimiwo」とします。巫術などの日本のシャーマニズムには脱魂と憑依があり、機能的には憑依のほうが強いといいます。字義からも卑弥呼は女性シャーマンの代表といえましょう。(『神道史大辞典』四六八頁)。「日の御子」「姫児」とする説や、卑弥呼は地位を示す称号とする説があります。(日本博学倶楽部『学び直す日本史古代編』三一頁)。卑弥呼は二四七年ころに没し、殯宮をへて二五〇年ころに、前方後円墳の起点となる箸墓古墳に埋葬されたといいます。この地は古代の出雲荘になります。(小川光三著『ヤマト古代祭祀の謎』一三四頁)。二〇一三年六月二一日に、邪馬台国説のある纒向遺跡が国の史跡に指定することになりました。邪馬台(ヤマタイ)国の読みを「ヤマト国」とする説もあります。(三浦祐之氏)。
そして、倭国統合の第三段階に入ります。卑弥呼の没後に男王が立ったところ、国中が服さず殺戮の権力争いが続きました。そこで、卑弥呼の一族から十三歳の宗女壱与(台与。二三五〜?)が女王となり、戦乱を治め統治します。壱与は魏から晋に代わった、武帝の即位直後の二六六年に西晋に朝貢します。そして、南朝(建康に都を置いた宋・斉・梁・陳の四王朝)にも通交を重ねましたが、五世紀になると倭国の消息は中国の文献から消えます。中国の史書『晋書』安帝には、先の二六六年に倭国の記事があり、その後は五世紀の初めの四一三年に、東晋に倭国が献貢したことが記されているのみで、この間の記録は中国の史書にはありません。邪馬台国は歴史上の記録から消えます。水野裕氏はこの時期に、狗奴国により征服されたとのべます。大和には原大和国家という崇神天皇の王朝が存在したとのべます。そして、仲哀天皇のとき九州に遠征しますが、逆に狗奴国が大和に攻め込み、崇神王朝を滅ぼし大和を掌握したとします。これは邪馬台国論争ですが、九州や吉備・出雲。そして、畿内にも勢力があったと思われます。考古学的文字記録がないことから、謎の四世紀と呼ばれています。また、壱与墓とされる西殿塚古墳と同じ時期に、茶臼山古墳が築造されています。茶臼山古墳は三角縁神獣鏡から二七〇年代に男性が埋葬されています。壱与は倭国王としても実権を握っていた執政者がいたことになります。(『史跡で読む日本の歴史』2、岸本直文編。二四頁)。高句麗は南北両朝に遣使していましたが、北朝との通交頻度が高まります。百済・新羅も六世紀後半には北朝に通交するようになります。また、太宰府は百済の都城ともっとも近似しています。太宰府を中心として水域や大野城、椽城の山城を築く構造と百済王都との相似は、日本へ亡命した百済人たちによって指導されたといいます。(『日本の古代』9、岸俊男稿、五七頁)。 
 
荒御魂

 


「日本書紀(神功皇后記)」を読むと天照大神が登場し「我が荒魂をば皇后に近くべからず、当に御心を廣田國に居らしむべし」という記述がある。どういう意味かと注釈を読むと「住吉三神や天照大神の荒魂は皇后の乗る船上にあって征船を導くとある。いま、その荒魂を皇后のみもとから離して広田の地にまつるのであろう。」と記されている。これは「日本書紀(神功皇后記)」で三韓征伐に出航する前「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。「住吉大社神代記」でもほぼ同じ事が記されているが、その注釈に「荒魂は現魂の意があり、外に進み現れ出て神威を顕現する魂なり。」と説明されている。確かに、椿大神社に合祀されている石神社に伝わる「石神社略縁起并古書」では、倭姫命が、この霊巖は太神宮荒魂を奉斎し"石太神"と唱え、暫くした後に天照大神も影向したとあるから、どうやら天照大神の荒魂は、先導神のようでもある。先んじて、戦も含めその場の穢祓をする存在であると考えて良いだろう。実際にその後の文に「荒魂をヒぎたまひて、軍の先鋒とし」とある事から、まさに戦の先人に立ち、神威を持って敵を威圧する為の荒魂か。この「日本書紀(神功皇后)」では、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と住吉三神の荒魂も登場しているが、その荒魂は穴門の山田邑に祭はしめよとされた事から、住吉三神の荒魂は航海の守護としてのものだろう。つまり戦船の船首に祀られた戦の先鋒神は、荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であった。
ここで思い出すのが「室根神社縁起」だ。今から20年程前に「エミシの国の女神」の著者であった風琳堂氏が「熊野から最強の神が、室根山に運ばれてきたんだよ!それが瀬織津比唐ネんだ!」と、興奮気味に話していた事を思い出してしまう。水神と思っていた瀬織津比唐ェ、最強の神であるとはどういう事だ?と思っていた。その室根神社縁起では、甚だ強力乱暴な東夷の征討の為、神明の霊威の加護に頼らんとし、霊験あらたかなる熊野神の勧請するのを決心し、当時の天皇であった元正天皇に奉請したとある。しかし、熊野神である瀬織津比唐ェ荒ぶる戦神という記録はまず無いだろう。恐らく、それを証明する唯一の記録が、「日本書紀(神功皇后記)」「住吉大社神代記」に記された天照大神の荒魂の記述になるのではなかろうか。
しかし、先に紹介した注釈では何故、神功皇后に天照大神の荒御魂を近づけてはならないのかの理由にはなっていない。ただ、征船を導くとは「戦の船」を意味するのであろうから、戦の荒ぶる神として荒魂があるのだろうか。仲哀天皇を祟った神で真っ先に名前が呼ばれたのが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、天照大神の荒魂であると。その荒魂の名を一般的に「皇大神の御許を疎らせ御在坐て、遥かに向ひ居たまう義」という解釈が成されている。またこの荒魂の神名に使用されている「疎」は「荒い」という意味もある事から、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、戦神であり祟り神としての位置付けとなるか。いやそれよりも、祟り神としての撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に長く接するのは良くないという意であったろうか。
全国各地に伝承されている民俗芸能を調べると、あらゆる災害の根源になると信じられた荒魂を鎮める為のものが殆どだ。その荒魂は大抵の場合水神である竜蛇神とされ、また山神でもあり、その宗教的本質は祖霊神であるとされている。天照大神の荒魂は、荒祭宮に祀られる瀬織津比唐ナあり、その異称が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命となる水神である。「天疎」は、西へと向かう月を意味する。つまり、太陽の意がある東から離れ西へと向かう義が”天疎”であるなら、学者が一般的に解釈した「遥かに向ひ居たまう義」は、天照大神から離して荒魂を祀るべしとなろうか。ここに天照大神が、いや…天照大神を祀る者達にとって、その荒魂を恐れる意識を感じるのは自分だけであろうか?
「住吉大社神代記」や「日本書紀(神功皇后記)」での主役は神功皇后であり、住吉三神となっており、世の学者達も、それを中心的に取り扱い研究している。例えば、仲哀天皇を祟り殺した神はと問い、真っ先に登場したのが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であったが、最後に登場した住吉三神を重視している風潮がある。これは武内宿禰が何度か「亦有すや」と問いて、意図的に最後の住吉三神を呼び出したのだろうとされている。また「住吉大社神代記」では仲哀天皇の崩御した後の記述が「是に皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ)」と書かれたものだから、皇后と住吉三神の関係はただならぬものとされた。しかし最初に書き記した様に、わざわざ天照大神が登場し、荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を皇后に近付けるなと言葉の真相が、やはり気になる。
「日本書紀(神功皇后記)」には別伝も紹介しており、ここでは仲哀天皇を祟った神として真っ先に登場した神が住吉三神であり、その次に登場した神が「向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつおもそはふいつのみたまはやさのぼりのみこと)」という聞きなれない神であった。本文の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に対比させるように登場した神だとされるが、正しいかどうかはさて置いて、この神の正体は注釈に書いてあり、大野晋氏の説によれば、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊は「向ひ津をも押し覆ふ」であろうとしている。河村哲夫「神功皇后の謎を解く」ではそれを、香椎宮の鬼門の方角である向津国を意味し、その要約は「鬼門の方角である向津で死ね」という意味であろうとしている。これはつまり、仲哀天皇を殺すという暗示をした神であり、実際はその通りに仲哀天皇は死んでしまった。理解は出来るが、この説には若干の違和感がある。何故ならそれは、香椎宮を拠点として考えているからだ。
「向津」とは、確かに向津国かもしれないが、津は港の意でもある事から、対岸の港の意味とも取れる。仲哀天皇は、熊襲平定の為穴戸豊浦宮に七年間政務を執っていた地であり、そこには現在、和布刈神事という秘祭がある忌宮神社がある。その海を隔てた対岸の福岡県には香椎宮もあるのだが、忌宮神社の向津には、やはり同じ和布刈神事が伝わる和布刈神社がある。今でこそ和布刈神社の和布刈神事は公開されてはいるが、以前は秘祭の為に密かに執り行われていたらしい。しかし、同じく対岸の忌宮神社では、今でも秘祭となっているようだ。その和布刈神社と海を隔てた忌宮神社を上空からの地図で見た場合、半島同士が交わり融合するようにも見え、まるで陰陽の和合を示す太極図のようにも思える。忌宮神社の地には仲哀天皇が拠点としていた。では和布刈神社の祭神はというと「和布刈神社志」によれば、第一殿に祀られる神は比売大神であり、「宗形坐三女神也 宇佐宮正殿之姫ノ大神ト同躰ニ而天照大神之御荒魂三女神也 賊敵降伏之神ニシテ玉依姫ト奉称」とあり、つまり仲哀天皇の向津に鎮座しているのは、仲哀天皇を祟り殺した撞賢木厳之御魂天疎向津媛命だという事。和布刈神事に関しては、別記事で詳しく書いたのでここでは述べようとは思わないが、この忌宮神社の位置と、和布刈神社の位置は、何等かの意味があると思って良いのだろう。そして、「日本書紀(神功皇后記)」には、もう一つ気になる箇所がある。これは、次の機会にする事としよう。 

「古事記」の仲哀天皇記では、仲哀天皇の不慮の死の後に”国の大祓”の記述がある。その内容は、天智天皇時代に作られた「大祓祝詞」とほぼ同じである。「大祓祝詞」といえば、その舞台背景が琵琶湖周辺の地名に近似しているのだが、「日本書紀(神功皇后記)」で忍熊王を討つ舞台が、淡海である琵琶湖周辺となっている。忍熊王は敗戦の中、船に乗ったとされるのが瀬田であったようだ。そこで忍熊王は、五十狭茅宿禰と共に入水して果てたとされる。その時の歌がある。
いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは鳰鳥の 潜せな
上記は「日本書紀」だが、「古事記」では下記のようになる。
いざ吾君、振熊が、痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ
梅原教授は「シンポジウム東北文化と日本」において、それ以前に不明とされていた「吾君(アギ)」をアイヌ語で解釈できるとした。1980年代以前は「吾君」をそのまま「わがきみ」という解釈としていたが、それは意味を成さないとされていた。ところが「アギ」はアイヌ語の弟などを意味する「アキ」ではないかとした。忍熊王が琵琶湖に追い詰められ入水する時、家来の五十狭茅宿禰対しての歌が「吾君(わがきみ)」ではなく「わが弟よ」と解釈すれば、意味が通りやすくなったようだ。
ところで「吾君(アギ)」がアイヌ語だとすれば、仲哀天皇の正当な血筋である忍熊王がアイヌ語の「アギ」を使用したとは考え辛い。仲哀天皇の父はヤマトタケルであり、その父は景行天皇だ。景行天皇時代、武内宿禰の蝦夷の報告は、蝦夷を討ってしまえという程、蔑んだ酷いものであった。その景行天皇の息子であるヤマトタケルは蝦夷征伐へと赴き、そして最後には伊吹山で果ててしまう。その息子である仲哀天皇が、息子である忍熊王に対して、アイヌ語を教え伝えるだろうか?確かに景行天皇自体日本武尊の蝦夷征伐の時に、蝦夷の捕虜を伊勢神宮に献じたと記述しているが、その景行天皇の時代から仲哀天皇の時代の間に、アイヌ語だとする「吾君(アギ)」の言葉が自然に口から出るとは考え辛いのだ。
柿本人麻呂が、淡海を詠った歌がある。
ささなみの志賀の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ
ささなみの志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまたも逢はめやも
古田武彦「古代は輝いている」において、この歌は忍熊王の事件を詠ったものだとしている。実は、この柿本人麻呂の歌は、壬申の乱によって廃墟になったものを詠ったものとされていた。しかし、壬申の乱での大友皇子は山前で自決したのだが、柿本人麻呂の想いは、湖上と湖底へと向けられている。
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのにいにしへ思ほ
後藤幸彦「神功皇后は実在した」では、この柿本人麻呂の歌の「いにしえ」とは、やはり忍熊王の悲劇を想っての歌であろうとしている。「日本書紀」では、武内宿禰が瀬田の水に沈んだであろうその忍熊王の死体を探したところ、宇治で見つかったとある。その歌は下記の通りとなる。
淡海の海 瀬田の済に潜く鳥田上過ぎて兎路河に出づ
そして重なるのが、柿本人麻呂の歌。
もののふの八十氏河網代木にいさよふ波の行く方知らずも
網代木とは、魚を捕る為に両岸などに打ち込む仕掛けの網の杭であるらしく、まさに瀬田で入水し死んだ忍熊王が、宇治川で見つかったものが、網にかかった魚の様に表現されているようにも思える。この柿本人麻呂の歌は「もののふの八十」と「氏河」を分けて解釈される場合が殆どだ。しかし「もののふ」と「八十氏河」と分けて考える事も可能であろう。「もののふ」は戦で負けた忍熊王だとして、その死体が宇治川で見つかった。
宇治の橋姫神社に祀られる神は、琵琶湖畔の佐久奈度神社から勧請され、「大祓祝詞」の中心となる瀬織津比唐ナある。佐久奈度神社は、黄泉に引き込まれるという伝承のある桜谷に祀られていた桜谷明神であった瀬織津比唐勧請したものであった。その別名を八十禍津日神と云い、やはり水による穢祓の神である。「八十宇治」とした場合、宇治がそのまま祓処としての機能を持つ事から「八十宇治」とはその死体の穢を祓う意味としても考えられる。これを強引に感じる人もいるだろうが、考えて見て欲しい。この忍熊王の死んだ舞台に見え隠れする神とは、瀬織津比唐ナはないか。
瀬田は、佐久奈谷と並んで黄泉へ引き込まれるという伝承の地であり、七瀬の祓い所である。そして、俵藤太の逸話から竜宮への入り口でもある滝へと導くところ。それを導いた正体は白竜であった。この「日本書紀(神功皇后記)」の中の忍熊王の死への流れは、まさに「大祓祝詞」のそれであり。瀬織津比唐フ掌の上での出来事であるようだ。
国家として「大祓」を採用したのは、天武天皇であった。それを踏まえれば、この「日本書紀(神功皇后記)」内の、仲哀天皇の「大祓」とアイヌ語の「アギ」はあからさまに時代のズレを感じ、それはもしかして、この「神功皇后記」を記させたのは天武天皇では無いかとの想定が成される。次は、天武天皇が恐れたであろう、荒御魂について書く事とする。 

「日本書紀(神功皇后記)」で、神功皇后が応神天皇を神武天皇の道筋に立たせようとしているのは、既に理解されている事である。息子を抱いて紀伊水門に向い、熊野に立たせ再び大和に戻る事は神武天皇の再来を願っての事であり、更に「日本書紀(神功皇后記三年春)」では「誉田別皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくる。是をば若櫻宮と謂ふ。」という事から、徹底した神日本磐余彦尊に対する意識である。そして、それと共に意識しているのは、熊野ではないだろうか。一般的に、天照大神が登場する神武天皇の熊野での物語は、七世紀後半の造作と考えられている。その七世紀後半の時代の主とは、やはり天武天皇であろう。
「日本書紀(神武天皇記)」での熊野において、高倉下の夢の中だが天照大神が登場する。「古事記」では、天御中主命と天照大神の二柱の神が登場しているのだが、ここでは天照大神の単独である。天照大神は武甕雷神を降らせようとした。また今度は直接神武天皇の夢に立ち、八咫烏を遣わし、その導きにより助かった話になっている。烏は太陽の使いであるから当然であるという風潮がある。確かに、ギリシア神話での太陽神アポロンの使いは烏であり、烏の黒色は太陽の黒点を意味すると云われる。「伊勢風土記」には金色の烏が登場して、神武天皇を導いたとされるが、金色が太陽の輝きを意味しているという事らしいが「伊勢国風土記」が後から成立したものであるから、金色の烏の登場は後付けである。また10世紀に編纂された「和名類聚抄」で「陽鳥」として三本足の赤い烏が八咫烏ではないかとされ、いつの間にか八咫烏は三本足になってしまったようだ。赤色は金色に等しいと考えて良いだろうから「伊勢国風土記」に結び付く事でもある。
しかしだ、ギリシア神話のアポロン以外に、烏を使役する神がいる。それは、北欧神話のオーディンだ。オーディンは戦の神であり、死の神である。息子に雷神であるトールがおり、フギンとフニンというカラスを使役とする。「日本書紀(神功皇后記)」に登場する天照大神は、武甕雷神を降らせようとし、八咫烏を遣わした。
また、熊野の起請文で知られる牛王宝印の烏は別に「牛王神(ゴオウジン)」とも呼ばれる。学者たちは、この「牛王」を様々な角度から調べてはいるが決定打は未だに無い。ただ気になるのは、熊野牛王宝印である起請文とは誓約である。その誓約を破ると熊野の神使であるカラスが三羽死に地獄に堕ちると信じられ、別に熊野誓紙と云われる。何故、熊野の誓約を破ると、破った相手では無く熊野の烏が三羽死ぬのか、まだ理解されていないようだ。起請文には多くの神々の名が連ねて書き込まれ、それに誓いを立てるのであるから命を賭す重いものである。それを破れば等価交換では無いが、命が無くなるものと思った方が良い。。西洋で言えば、悪魔の契約であり、それを破れは魂を奪われると同じである。しかし日本には護法童子や身代わり人形などがあり、自らの代わりにその攻撃や罰を受けてくれたり、護ってくれたりする。恐らく、約束が破られれば熊野の烏が三羽死ぬだろうが、当然の事ながら、誓約を破った相手も死ぬのであろう。仏教民俗学者の五来重は八咫烏の「八咫」を「忌まわしい」「憎々しい」などの古語で「あだ」と同じく「あだし野」「はかない」などの意で、不吉な死に関係する鳥だとしている。その死に関係する烏が、何故に太陽神の使いであろうか?
ところで起請文である「牛王宝印」の絵となる烏の「牛王神(ゴオウジン)」を「護応神(ゴオウジン)」としてはどうだろうか?誓約を破ると、応神天皇の身代わりに熊野の烏が三羽死ぬと考えれば、話はスムーズになる。そして先に紹介した北欧神話の「オーディン」と「応神(オウジン)」との語音の共通性は、どこからきているのか気になるところである。その熊野に祀られる神に家都御子神がいる。その家都御子神が気比神宮の伊奢沙和気神という説もある。何故なら、伊奢沙和気神の異称が御気津神でもある事に由来しているようだ。応神天皇は、気比大神と名前を交換している。その御礼として気比大神が応神天皇に食物を贈った。そこで応神天皇が「我御食の魚給へり」と言った事から御食津神と名付け、それが気比大神の名前になったという。気比大神の名前も別に笥飯(けひ)大神であるから、元々御気津と同じ意味を持つ名前である。その御気津神が応神天皇と名前を交換した後が不明となっている。だいたい、交換した名前をどうするのか、どうしたのかさえ不明となっている。あくまでも、応神天皇は応神天皇であるからだ。しかし、現代と違って古代における名前は重要であった。清少納言や紫式部さえ本名を名乗らないのは、その名前が呪いなどの悪しき事に使われるのを恐れたからだ。もしも、その本名を交換するとなれば、それ相応の事があったと理解できる。その可能性として考えられるのが、熊野に祀られる家都御子神が、実は応神天皇では無いのか。「記紀」は史書であるから、普通に応神という名前は出るだろうが、その時代の中ではどうだったのかは定かでは無い。もしも応神天皇が熊野に祀る為に名前を隠したのならば、その意味を探さねばならないが、先の「ゴオウジン」が応神を護る為のものであるならば、やはりその奥には深い闇があるのだろう。とにかく「日本書紀(神武天皇記)」と「日本書紀(神功皇后記)」は、深く熊野に関わるという事だとは思える。
ところで「遠野物語拾遺」にも、ほぼ北欧神話と思えるような話が伝わっている。どういう経路で誰が伝えたのかわからないが、古代日本にも北欧神話が密かに伝えられた可能性はないのだろうか?ここまで見事に重なると、意図的に北欧神話の神の性質を重ねた物語として作られたとも思ってしまう。ただ、それを行うとしたら天武天皇しかいないだろうとは思う。
今回は話が八咫烏と牛王宝印へと飛んでしまったが、実は「日本書紀(神武天皇記)」での一番の疑念は、ここに登場している天照大神とは、実は天照大神の荒魂の方では無いかという事。また別に、崇神天皇時代には、祟り神としての天照大神が登場するのだが、これも含めて「日本書紀(神功皇后記)」に登場する天照大神の荒魂が歴代の天皇を苦しめていたように思えてならない。次は、それらについて書こうと思う。 

熊野の牛王神は極端な話になってしまったが、とにかく熊野に祀られる神と天照大神が深い関係にあると考えている。
田村圓澄「伊勢神宮の成立」に、面白いデータが載っていた。「日本書紀」において「天照大神」という神名が記されるのは、神代記から神功皇后記までで、その後は何故か天武天皇時代にならないと「天照大神」という神名は出て来ないという。では、その神功皇后から天武天皇時代の間の時代に「天照大神」の代わりに記される神名は何かというと、「日神」と「伊勢大神」であるそうだ。「日神」も「伊勢大神」も「天照大神」だろうと思うのが一般的であろうが、違和感もある。何故なら、天照大神は別に「大日女」「大日女尊」「大日孁貴神」などと呼ばれる。全て神名に「女」の漢字が使用され女神だとわかるが、「日神」という表記であれば男神であってもおかしくはないからだ。また日神と伊勢大神の使い分けも、何故にここまで統一性が無いのか気になる。あたかも、日神と伊勢大神はまた別の神では無かろうか。
また神武天皇の話も、神功皇后の話も7世紀後半の造作であるなら、「伊勢神宮の成立」に示されたデータから、神代記から神功皇后の話の中に天照大神という名が登場しているのは、意図的と言わざる負えない。何故なら皇祖神は天照大神であり、伊勢大神では無いからだ。現在の伊勢神宮は698年に建立され、その前に祀られていた滝原宮から遷宮したとある。しかし、伊勢神宮の建設中、持統天皇は滝原宮へは向かわず、真っ直ぐ建設中の伊勢神宮に行幸していたというのは、持統天皇の中で新たな天照大神を心待ちにしていたからであろう。つまり、滝原宮に祀られていた神は、天照大神では無いという事。滝原宮に天照大神が祀られているならば、自らの皇祖神を無視して伊勢神宮だけに通う筈が無い。天照大神の宮を造る事は天武天皇の発想だとされている。そして、その発想を実行に移したのが持統天皇であったが、完成したのは息子である文武天皇二年(698年)の時であった。
滝原宮に祀られる伊勢大神が天照大神では無い理由が、もう一つある。持統六年に、度会・多気の二郡から赤引糸が貢納するようになっているとの事だが、持統天皇は天照大神の皇孫であるから、天照大神を奉祭する立場なのだが、逆に天照大神側が持統天皇に貢納するのはおかしい。つまり、滝原宮に祀られる伊勢大神とは、天照大神では無いのだろう。その滝原宮の伊勢大神には未婚の王女が奉侍していたというが、これで思い出したのが、伊勢神宮内部に立てられている心御柱の祭祀である。心御柱は、伊勢神宮の謎であり「秘中の秘」であるという。
関裕二「伊勢神宮の暗号」で、この心御柱を解説している。心御柱の祭祀には禰宜も関与出来ないのだが、それが出来るのは、度会一族から選ばれた大物忌という童女だけであるという。そしてこの祭祀には、度会と多気の両神郡から持って来た榊で宮を飾らなければならないという。では、何故大物忌でなければならないのかとされる理由は、その心御柱の神が祟る恐ろしい神であるからだと。その恐ろしい神に相対する事の出来るのは、昔話などで鬼を退治してきた童子・童女の神秘に頼ったからであるとされる。酒呑童子や茨城童子など、鬼もまた童子であり、それを退治できるのも金太郎や桃太郎の、普通では無い童子であった。そして心御柱では童子では無く童女が採用されているのは、それは女神であるからではなかろうか。大物忌はあくまで神を世話する存在であるから、その神が女神であるからこそ、禰宜は近付かず、童女の大物忌が世話をするのだろう。
ここで滝原宮の伊勢大神に戻り、心御柱を照らし合わせて考えれば、滝原宮に祀られる伊勢大神とは女神であり、祟る恐ろしい神である事がわかる。だからこそ、未婚の王女が奉侍していたとの事は、それが大物忌であったのだろう。田村圓澄「伊勢神宮の成立」では、心御柱は元来、滝原における伊勢大神の憑代であり、神籬であったと考えられるとしている。実際、この心御柱の祭祀と荒祭宮と滝祭神でも同じ事が成されると云う。つまり伊勢神宮で祀られる神とは本来、天照大神では無く、恐ろしい祟り神という推測が成り立つ。ここで「日本書紀(神功皇后記)」での天照大神の言葉が甦る「我が荒魂をば皇后に近くべからず」祟り神である荒魂は、天照大神やそれを祀る者達にも恐ろしいと思わせる神だと理解できる。となれば、崇神天皇時代に、祟った神は天照大神では無く、荒魂の方だったのではなかろうか?それが笠縫村から倭姫に託され彷徨い、滝原宮に祀られたのが、本来の伊勢大神であり、天照大神では無かった事になる。 

「日本書紀(崇神天皇五年)」「國内に疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす。」崇神天皇五年に、疫病が流行って多くの民が死んだようだが、この記述と似た様なものが多くの風土記に記されている。その殆どは、荒ぶる女神の祟りによるものだった。「昔者、此の川の西に荒ぶる神ありて、路行く人、多に殺害され、半は凌ぎ、半は殺にき。(肥前國風土記)」「此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半を生かし、半を殺しき。(肥前國風土記)」「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半生き、半は死にき。(筑後國風土記)」本来「半」という漢字は、牛を真っ二つに切り裂いて神に捧げる意味を持つ。つまり「半」という漢字を使用して表現している「風土記」や「崇神天皇記」などは、初めから民という生贄を神に捧げた意として表現していたのかもしれない。そしてその疾疫による多くの民が死んだ原因が、大殿に祀っていた天照大神と倭大国魂によるものだったとわかり、この二柱の神を外に出したという。これはつまり、祀っていた皇祖神が祟ったという事になる。これについては、皇祖神が祟るのはおかしいのではないか?という意見が多い。とにかくここから、天照大神は豊鍬入姫命に託され、笠縫邑まで運ばれ祀られた。
ところで気になるのは、天照大神と倭大国魂が並んで大殿で祀られていたという事実だ。古代の祭祀では、彦神と姫神が並んで祀られている場合が多い。ここでも天照大神を女神とすれば、倭大国魂は男神となるか。近藤雅和「記紀解体」によれば、倭大国魂は大物主、そして饒速日命という事になる。倭大国魂の説は様々あるのだが、倭大国魂=饒速日命の詳細は「記紀解体」を読んで貰うとして私は、この合理的な近藤雅和説を支持したい。
近藤雅和「記紀解体」より借用
そして近藤雅和はもう一つ、気になる説を唱えていた。天照大神の遷座の旅は、武力制圧であったというものだ。遷座の旅に参加している者達は「皇太神宮儀式帳」によれば、安倍武淳川別、和邇彦国葺、中臣大鹿島、物部十千根、大伴武日の五人の名門豪族の長が部下を引き連れている事に加え、「倭姫世紀」において「阿佐賀の悪神を平らげた安倍大稲彦も共の中に加わった。」とする事が、その武力制圧の旅を裏付けるとしている。
ここで頭を過るのは、蝦夷平定を祈願して、最強の神であった熊野に祀られていた瀬織津比唐、現在の岩手県室根山まで、わざわざ勧請した事。その最強の神としての裏付けは、菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」で紹介されている。「白山大鏡」に「白山瀬織津置倉宮は東馬場の麓の宮に坐す。東夷異国の征伐を為し神宮を東の麓に卜す。託宣記曰く、慶雲二年、我大将軍と為り兇賊の陣を誅し平ぐる。天慶年中、官軍鎮飽し、一乗の法味の勢力我に勝る。」とある。更に白山の「由来伝記」では、瀬織津比唐フ本地である十一面観音を北斗七星の「破軍星」と見立てている。破軍星とは北斗七星の先端であり、それを剣先に見立てて,その方向に向って戦うものは勝ち,逆らって戦うものは負けるとされる。別名「剣先星 (けんさきぼし)」 とも呼ぶ。
また大和の斑鳩には伝説があり、四道将軍を派遣した崇神天皇は御幣岩の上で滝祭をご覧になったとされる。「神皇正統記」には「瀧祭の神と申すは瀧神なり。」とあり、その滝神は滝原宮に祀られている神でもあった。それはつまり、崇神天皇が大殿で祀っていた神という事になる。崇神天皇10年に四道将軍を各地に派遣して武力制圧をした崇神天皇であるから、最も欲した神とは戦神では無かったか。だからこそ、御幣岩の上で滝祭りを観た。実は、この御幣岩には他の伝説もあり、大峯山へと登る場合は、塩田の森の祓戸大神へと参詣し、御幣岩で身を清めてからでないといけないとされる。役小角もまた、これに従って大峯山へと登ったとされる。この祓戸大神は現在、車瀬の白山神社に遷されたようだが、元々は白山神社の祭神が祓戸大神であったようだ。そしてその祓戸大神とは、瀬織津比唐ナあり、どうも大峯山との関係が深い様である。
ここで「日本書紀(神功皇后記)」を確認してみると「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。また別に「荒魂をヒぎたまひて、軍の先鋒とし、和魂を請ぎて、王船の鎮としたまふ。」事から実際、戦に率先して参加しているのは天照大神荒魂だけであった。そしてこの天照大神荒魂の性質はまさに、北斗七星の「破軍星」そのものではないか。
ならば、笠縫村から倭姫と共に武力制圧で彷徨った天照大神とは、和魂では無く荒魂であった可能性が高いのではなかろうか。となれば大殿に祀られていた二柱の神とは、倭大国魂と天照大神荒魂という事になる。倭大国魂が饒速日命であるなら、その属性は日神である。相対する神が今まで天照大神とされていたが、それでは日神の二柱となり、陰陽の和合とはならない。あくまで彦神と姫神を祀るのは、陰陽の和合を意識するからだ。ところが天照大神では無く、その荒魂となれば、それは笠縫村からの終着点である滝原宮に祀られた神であり、現在伊勢神宮の荒祭宮に祀られる水神である瀬織津比唐ナあるから、倭大国魂と瀬織津比唐ニいう二柱の神は、陰陽の和合となり、合理的な祭祀である事がわかる。ただ何故に崇神天皇が大殿に祀ったのかは、定かでは無い。ただ考えられるのは、神功皇后時代から天武天皇時代の間、天照大神という名前は登場せず、ただ伊勢大神と日神という名前が登場しただけという事実がある。伊勢大神=日神=天照大神というイメージが強いのだが、天照大神という女神の正式な誕生が天武天皇時代から始まり持統天皇時代に完結したのなら、それ以前の伊勢大神と日神とは、もしかして瀬織津比唐ニ饒速日命の可能性もあるのではなかろうか。
更に気になるのは、上記の地図が武力制圧の行程であるなら、その武力制圧の地に熊野がまったく含まれていない。熊野は神武天皇時代に支配したといえばそれまでだが、神武天皇以来の拠点である大和でさえ未だに周辺の地を武力制圧しているのに熊野だけは全て全域平定されていたのか?という疑問が起こる。次は、熊野神と伊勢神、その共通性について書こうと思う。  

田村圓澄「伊勢神宮の成立」で、田村圓澄は疑問を呈している。神功皇后時代以降から天武天皇時代前までは、伊勢大神と日神の名称が登場するが、天照大神という名称は登場しなかった。しかし天武天皇時代の初年に突如、天照大神の名称が二か所登場するのだが、その後は伊勢大神の名称が続くのには意図的に天照大神の名称が使われたのではないのかと。ただ、大海人皇子に従って吉野を出発した舎人の一人である安斗智徳の日記にも「廿六日辰時。於朝明郡迹大川上而拝礼天照大神」とある事から、天照大神を遥拝したのは信憑性は高いと云われる。
丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の邊にして、天照太神を望拜みたまふ。
天武天皇が遥拝した天照大神はこの時、滝原の地に祀られていた。神武天皇は太陽を背にする事によって戦に勝利する事が出来た。この時の天武天皇も、その太陽である天照大神を望んだ事によって壬申の乱の勝利を祈願したのだろうという意見が殆どである。では、その滝原という地は、どういうところであろうか。猿田彦神社購本部「神宮摂末社巡拝」によれば「滝原といふものは、この大内山川や頓登川に沿ふて大瀧、雄瀧、雌瀧などいふ瀧が四十八もあり、その間を縫ふた原野の地勢をそのまゝ名としたものである。」と説明している。遠野にも、藤沢の滝群というものがあり、その滝群の手前に応瀧神社が鎮座しており、那智の瀧神が祀られている。その藤沢の瀧もまた四十八瀧であり、全国に四十八瀧という名称の殆どが、熊野の四十八瀧からの影響を受けているのは言うまでもない。その滝原の地に祀られる神社の殆どは水神系神社であり、僅かに御饌都系神社が祀られているばかりだ。つまり滝原という地は、その名の通り水の溢れる聖地であるのが理解できるが、天照大神の性質である太陽信仰を見出せない地でもある。そしてその前に、この滝原の地は既に熊野の影響を受けた地では無いかと思われるのであった。
「日本書紀(垂仁天皇二十五年三月)」に天照大神が登場し、伊勢のイメージを言葉に表している。
「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。傍國の可怜し國なり。是の國に居らむと欲ふ」とのたまふ。
この後に、この伊勢国に祠を建てるのだが、それが滝原の地であるのは言うまでもない。ここで気にしなければならないのは、常世信仰とは熊野から始まったものであるという事。後に補陀落とも呼ぶようになったが、要は黄泉国、死の国の入り口が熊野であるという事だ。死といえば不吉なイメージが纏わりつくが、古代では太陽は毎日東から生れ、西に沈み死ぬと思われていた。つまり死とは生との連続性の中にあるものであり、それを陰陽五行に当て嵌まれば陰となる。太陽の昇る東は陽であり、それが沈む方向は陰となる。天照大神の荒魂の異称に撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神名があるが、この神名の「天疎向津」とは、東から離れて西へと向かう月を意味している。その西である死の地がまさに熊野であり、この熊野の地こそ、天照大神荒魂にふさわしい地ではなかろうか。
西国三十三所観音霊場の第一番札所である青岸渡寺の御詠歌がある。
補陀落や 岸うつ波は三熊野の 那智のお山に ひびく滝つ瀬
補陀落であり常世の波の音とは、那智の滝音でもある意味になる御詠歌であるが、垂仁記の天照大神の言葉は、まさに伊勢国には那智の滝音が響く地であるという意味合いにも取れる。その滝原の地は熊野の四十八瀧と同じものがあるのはつまり、那智の滝と同じものがあると考えて良いのではないか。だからこそ、天照大神はここに斎くと言ったのは、それは天照大神ではなく、水神である天照大神の荒魂の言葉では無かっただろうか。垂仁記の「常世の波」とは、熊野からの波が押し寄せるもの。つまり、那智の滝音が響く地であると考えるのが妥当であろう。
室根山に勧請された瀬織津比唐ヘ、熊野本宮神であるとされている。その熊野本宮だが、現在の本宮の地では無く、旧社地の大斎原とは「水霊の斎く霊地」の意であり、古くは大湯原と表記され、それは「聖水によって清められた聖地」との意であった。それは、熊野川の奥に坐す地主神である水神であったとされている。また、平安中期の仏教説話集である「三宝絵詞」には、その熊野川の奥に坐す神が熊野の「本神」と記され、それが熊野坐神であった。つまり熊野本宮神の本来が、水神を祀っていたのは疑いの無いものである。
それでは、その熊野川の奥には何があるかといえば、そこに鎮座するのは天河神社。菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」で、その天河神社が紐解かれている。天河神社の本来の祭神は「天照大神別体不二之御神」。つまり、天照大神荒魂とされる天河神社に祀られるこの神が、熊野本宮神、熊野坐神であったという事になる。
「エミシの国の女神」の著者である故風琳堂氏は、この天河神社の結びをこう書いている。「弁財天と習合する神を「地神」の位相で透視するなら、この位相は、そのまま熊野へ、そして伊勢へ、また白山へと、もう一つの祭祀の地肌を共有しているといえようだ。」この時点で、この位相は想定されるものの、決定的証拠が無く、まだ確信に到って無いようでもあった。しかし、こうして一つ一つ積みかせね検討していくと、その地神の位相が数珠繋ぎとなり広がって行き、一柱の神に帰結していく。この小さな発見を、風琳堂氏が生きているうちに報告出来なかった事が残念である。
田村圓澄「伊勢神宮の成立」で、こう訴えている。672年(天武元年)の時点で大海人皇子が望拝したのは「天照大神」ではなく、滝原に祀られる「伊勢大神」ではなかったか、と。神武天皇は、熊野において軍勢を立て直す事の出来た地である。また、それに倣ってか、神功皇后もまた応神天皇を連れて熊野の地へと向かった。何故なら、その熊野の神とは「破軍星」に等しい神であった為だ。だからこそ、その神の力を持て余した崇神天皇はその神を手元から切り離し、先鋒として各地の武力制圧へと連れまわした。その果てに祀ったのが滝原の地であった。そして天武天皇もまた壬申の乱の勝利を祈願して、滝原の地に祀られる「伊勢大神」を望拝したのだろう。その伊勢大神は天照大神ではなく、滝原の地に祀られた伊勢大神である天照大神荒御魂である瀬織津比唐ナあった。歴代の天皇が頼ったその神威を信じたからこそ、天武天皇は望拝したのだ。天照大神の荒御魂、その神はその遥遠くの早池峯にも、その地域を平らげる為に祀られたのだろう。滝原の地は、別に遥宮(とおのみや)と呼ばれる。その更なる遥か遠い遥宮(とおのみや)が、現在の遠野市であり、その地に聳える早池峯ではなかろうか。 
 

 

■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。