戦後政治 吉田茂・岸信介・中曽根康弘

1945-1990 時の話題 / ポツダム宣言日本国憲法2.1ストの禁止戦争犯罪人長崎の鐘/下山三鷹松川事件警察予備隊講和条約/日米安保鉄腕アトム空母横須賀配備ビキニとゴジラ55年体制もはや戦後ではない/ 国連加盟「昭和の妖怪」岸信介憲法改正/団地族砂川事件/皇太子結婚安保反対運動所得倍増計画昭和30年代人間裁判東京オリンピック日韓基本条約全逓東京中郵事件革新自治体/ベトナム戦争学園紛争公害ウーマンリブ沖縄返還/金ドル日中国交正常化福祉元年家永教科書裁判司法の冬ロッキード事件君が代日米ガイドライン/A級戦犯合祀「ジャパン・アズ・ナンバーワン」消費者の権利第二次臨調戦後政治の総決算家族分解時代/サラ金法靖国公式参拝プラザ合意男女雇用機会均等法国鉄民営化バブル景気冷戦終了/消費税/日米構造協議/昭和天皇死去湾岸危機・・・ 
吉田茂 / 吉田1吉田2吉田茂の時代贈る言葉平和条約の受諾演説吉田3年譜吉田4吉田茂の外交55年体制戦後政治と吉田茂鳩山一郎犬養毅大隈重信星亨石橋湛山 
岸信介 / 岸1CIAと岸信介岸2文鮮明師裁判自由民主党のあゆみ岸3 
中曽根康弘 / 中曽根1中曽根2中曽根3 「暗躍」原発国家初一念日本人よ貪欲になれ憲法改正に日本色今の政治家に気概菅直人日中韓賢人会議東アジア共同体首相に必要な人間的余裕
 

雑学の世界・補考   

 
1945-1990 時の話題
 

 

1945年 ポツダム宣言の受託と敗戦
1945年8月14日、天皇の臨席の下に開催された御前会議における「御聖断」で、軍国主義の基盤の除去、領土の占領、民主化促進など日本の無条件降伏を求めた米英中ソによるポツダム宣言の最終的な受託が決定され、翌15日、アジア・太平洋戦争は終了しました。尤も、アメリカは天皇制存続の可能性を示唆していたため、天皇と即時受託派はそこに望みを託していました。その意味では「無条件降伏」ではなかったともいえるでしょう。  
アメリカは、日本の陸軍を中心とする本土決戦の固い意思を踏まえ、戦争は早くても1945年いっぱいは続くと予想していたようです。それよりも早く終戦となった外的な原因の一つに、原爆投下により日本を降伏に追い込み、東アジアにおけるソ連の影響力の拡大を阻止するというアメリカの戦略があります。他方、日本国内でも、この年の2月14日、近衛文麿元首相が天皇に対して、最も憂うべきは敗戦必至のまま戦争を継続すれば「生活の窮乏、労働者発言権の増大」等により「共産革命達成」の条件が具備されることであると上奏し、早期和平を唱えていました。  
8月9日の御前会議では平沼騏一郎枢密院議長は戦争継続による国内治安の乱れを語っています。本土決戦になると、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という戦陣訓がどれほど守られるのか等の危惧もありました。敗戦は、連合国と日本との地図的な対抗関係で語られるのが通常です。しかし、民衆の発言力の強化や共産主義の影響力が強まることをおそれるという点では、戦争の両当事国の共通した思惑という横断的な視点も必要でしょう。第1次大戦終了時には、ドイツ革命やロシア革命が勃発しました。  
1946年 日本国憲法の制定と「押しつけ」憲法論

 

1946年は、11月3日に日本国憲法が公布され、新体制の出発点となった年です。新憲法の制定は、45年10月、日本を占領した連合国最高司令官マッカーサーを長とする総司令部(GHQ)が、自由で民主的な新憲法の制定を強く促したことから始まります。これを受けて、幣原喜重郎内閣は、松本烝治国務大臣を長とする委員会で検討を開始しました。しかし、46年2月1日に毎日新聞によってスクープされた松本委員会案は「第1条 日本国は君主国とす」など、明治憲法の字句上の修正に止まるものでした。そのため、GHQは日本政府による新憲法案の作成を断念し、同月3日から自ら憲法草案の起草を開始し、13日には草案を政府に手渡しました。幣原内閣にとって最大の関心事は天皇制が護持されるか否かでした。GHQ案は占領政策を円滑に進めるために天皇の戦争責任を問うことなく天皇の権威を利用すること、その代わり天皇は象徴の地位に止めること、及び軍国主義の体質を除去するため戦争は放棄することなどを骨子とするものでした。幣原内閣は議論の末、国体護持のためにはやむなしとしてこの草案を受け入れました。  
このような経過から、1954年、「押しつけ」憲法論が現れました。「自主的憲法」の制定を提起する自由党の憲法調査会(岸信介会長)における松本烝治氏の発言を端緒とするものです。「押しつけ」憲法論は、憲法がどのように運用されているかという事実を検証するよりも、早く日本自身の手で「自主憲法」を制定することが重要であると主張しています。2000年に国会に設置された憲法調査会でも、最初に「押しつけ」論が議論されました。  
確かに、GHQ案が政府に提示された経過を見ると、「押しつけ」の側面が存在したことは否定できないという見方が一般的です。「他国を占領するときには他国の基本的な法制、制度を尊重する」という、1907年にできた「ハーグ陸戦法規」に反するのではないかという意見もあります。  
しかし、この法規は、交戦中の占領に適用されるもので、当時の日本は前回紹介したポツダム宣言を受託したことによって休戦状態にありました。この場合、休戦条約であるポツダム宣言の方が優先されると考えられています。日本は、国民主権の採用等をうたうこの宣言の受託によって、国民主権を実現する憲法を制定する義務を負いました。  
また、外形的には押しつけのように見えますが、草案には日本人の意思が反映されています。  
映画「日本の青空」でも詳細に紹介されていますが、GHQは、国民主権や手厚い人権規定をうたう鈴木安蔵らの憲法研究会案等に現れている日本の民間の考えを参考としたことは確実です。これらに見られる自由で民主的な思想には明治初期の自由民権運動や大正デモクラシーの思想が流れています。GHQ案を土台として受け入れ修正を加えた政府作成の草案要綱は、マスコミ、財界、世論調査等で圧倒的に支持されました。この要綱は、4月の衆議院議員の普通選挙で選出された議員による衆議院を経て貴族院に送られ、これらの過程で詳細に審議されました。二院制、25条の生存権規定、前文の「国民主権」の明言などは日本の政府と議会による意志を反映させた重要な修正点です。さらに、アメリカを含む連合国は、新憲法に日本国民の自由な意志が表明されるための国民投票などによる新憲法の再検討の機会を作ることを日本側に提示しました。しかし、政府も国会も再検討の必要なしと判断しました。これは不作為による新憲法の選択といえます。  
国会の憲法調査会では、改憲論を採る多くの議員からも、憲法はその内容が重要であり、今日まで日本国民が憲法を受け入れてきた事実を尊重すべきであるという意見が提出され、  
「押しつけ」論は克服されたという見方が多数です。立憲主義の憲法は、国民が政府等の権力に憲法規範の遵守を強制することを本質としています。すると、「押しつけられた」かどうかは、国民の視点から判断することが必要でしょう。  
1947年 「不逞の輩(やから)」発言と2.1ストの禁止

 

戦後の日本の変化は、まさに革命といえるものでした。「民主主義革命」です。一般に、政治や社会の永続する革命は現地の社会の中から、すなわち「下から」生まれてきます。  
しかし、日本の戦後は連合国の占領・軍事的な支配による「上からの革命」として出発しました。これは世界史的にも異例でした。GHQはまず、45年10月4日、思想・言論規制法規の撤廃と政治犯の釈放を指令しました。自由で民主的な社会を建設するためには、思想や表現の自由がまずもって保障されなければならないことを物語っています。この権利は「下からの革命」の要石です。次いで同月11日、憲法改正を示唆するとともに、労働組合の助長、婦人解放、教育自由化などのいわゆる「5大改革」を指示しました。12月には、末弘厳太郎座長の委員会の諮問に基づき、労働組合法が制定されました。  
その結果、45年から46年にかけて労働組合が急速に結成されました。46年8月には社会党の指導下にあった日本労働組合総同盟(組合員数86万人)と共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)(組合員数157万人)が創立されました。産別会議は、同年8,9月には国鉄(JRの前身)や海員の組合が首切り反対闘争を行い、10月には電産、新聞、通信、石炭などの組合の労働争議が始まりました。尤も、争議による作業量の損失はそれまでは1%以内に止まるものでした。労働組合は、12月には、生活を守るためには政治闘争が必要だとして、吉田茂内閣打倒を掲げ50万人を集めて国民大会を皇居前広場で開催しました。  
急速な労働運動の盛り上がりは、政府や、ニューディール派が主導権を持っていたGHQの予想を超えました。背景には、食糧不足と激しいインフレで餓死者も出る極度の貧困と政府やGHQの無策がありました。また、戦前からあった産業報国会など企業別の従業員の組織が戦後の労組の結成を容易にしました。さらには、マルクス主義理論の広がりがありました。  
占領下にある日本人がどの程度まで「実力を行使」した場合GHQが介入できるかは、45年9月、米大統領によって承認された「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」に記載されています。この「介入」が最初に問題になったのは、46年5月のメーデーにおける数百万人が参加したデモ(「プラカード事件」で有名な食糧デモなど)でした。このデモは破壊や暴力を伴うものではありませんでした。しかし、最高司令官マッカーサーは、これは「暴民デモ」であり、「集団的暴力行為は、日本の将来の発展に重大な脅威となる」と警告しました。これは、労働者・市民が自発的に行う表現行為の限界を告げたものとしてショックを与えました。  
労働争議が高揚する中で迎えた47年の元日のラジオ放送で、吉田茂首相は、「経済再建のための挙国一致を破らんとするがごときもの」を「不逞の輩」と呼び、「彼らの行動を排撃せざるをえない」と述べました。マッカーサーの「暴民」と気脈を通じる発言でした。  
これに対して労組はいっせいに反発し、賃上げなどを求めて1月9日には全官公庁労組拡大共同闘争委員会がゼネラル・ストライキ(ゼネスト)実施を決定しました。ゼネストとは、全国的な規模で行われるストライキです。ちなみに、国労組合員の平均賃金は、生活費の4分の1をかろうじてまかなえる程度でした。1月15日には民間の組合も合流し、全国の労働組合の共同闘争委員会が結成され、要求が2月1日までに受け入れらない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告しました。スト中止勧告を拒否した共闘に対してGHQは、1月31日、公開の中止命令を発し、組合側はやむなしとしてストを中止しました。全官公庁共闘の伊井弥四郎議長は、ラジオで涙ながらに「一歩退却、二歩前進」と訴えました。  
ゼネストは不発に終わりましたが、これをきっかけに官公庁労働者の労働条件は大きく改善され、労働組合の共闘・統一も大きく前進し、民間も含めて労働組合の組織率もますます高まってゆきました(49年には推定組織率約56%)。同時に、ゼネストに対する弾圧は、日本の労働者が自発的に「民主的な」改革を担う可能性の限界を明確に示し、GHQを「解放軍」視さえしてきた従来の視点の転換を迫ることとなりました。  
1948年 戦争犯罪人に対する裁判と天皇の責任

 

ポツダム宣言第10項に基づく、アジア・太平洋戦争の「戦争犯罪人に対する処罰」は、46年に開始されました。この年の1月、マッカーサーは、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言を発するとともに、これに付属する極東国際軍事裁判所条例に基づいて裁判を行うことを命じました。この条例による裁判所の管轄に属する犯罪は、(1)「平和に対する罪」(2)「通例の戦争犯罪」(3)「人道に対する罪」でした。(1)の「平和に対する罪」とは、侵略戦争又は条約等に違反する戦争の計画、準備、開始、遂行やこれらのいずれかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加です。(2)の「通例の戦争犯罪」とは、戦争法規又は慣例違反、(3)の「人道に対する罪」とは、戦前又は戦時中の殺人、せん滅、奴隷的虐使その他の非人道的行為等です。  
(1)の裁判は、戦争指導層に対するもので、A級戦犯裁判と呼ばれています。(2)(3)の裁判は特定の地域の戦争犯罪に対する裁判でBC級戦犯裁判と呼ばれています。(2)と(3)、B級とC級は現実には混同されることが多く、「BC級」戦争裁判と呼ばれるのが普通です。  
この条例に基づいて、46年5月、A級戦犯に対する裁判が東京で開始されました(「東京裁判」)。判事は11の連合国から1人ずつ参加しました。国際検察局は首席検察官キーナン以下500名近い陣容で、大多数のスタッフはキーナンを含めてアメリカ人でした。アメリカは、世界戦略をにらんだ日本の占領政策に沿った訴追と裁判運営を進めました。判決は48年11月に言渡されました。6か国の判事による多数判決でした。起訴された28人のうち、東条英機元首相ら7名が絞首刑(同年12月23日執行)、16名が終身刑でした。  
他方、BC級戦犯に対する裁判は、横浜の他、戦場となったアジア各地を中心に国内外49カ所で行われました。被告人は5,700人、死刑判決は984人でした。被告人には日本の植民地支配下にあった朝鮮や台湾出身者の軍人軍属も含まれています。  
これらの裁判の結果、対象となった1928年以降に日本が中国等で犯した蛮行が法廷の場で初めて明るみに出ました。中国兵の爆破で開始したと宣伝されていた満州事変は実は関東軍の謀略だったことや南京大虐殺の事実などを知った日本国民は、「だまされた」ことに大きな衝撃を受けました。国民は、政府やマスメディアが言うことを鵜呑みにせず真実を知ることの大切さを学びました。  
また、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が新たに設けられ裁かれたことも、戦後の平和な世界を構築するうえで大きな意義を持ちました。もっとも、これは、従来犯罪とされていなかった行為について後から犯罪として処罰することは許されないという刑事法の原則(事後法の禁止)に反するというインドのパル判事その他の意見があります。確かに重要な問題であり、政治的な「勝者による裁き」だったことは否定できないと考えられます。しかし、ナチス指導者を裁いたニュルンベルグの裁判同様、これからは重大な戦争犯罪を強力に抑止する世界を創っていくのだという方針を世界は支持しました。  
裁判の政治性という点で最大のポイントとなるのは、天皇を免責したことです。天皇は、最高司令官たる大元帥でした。その天皇に、統帥権の独立と陸海軍の対立傾向によって、首相や国務大臣も知らない最高度の軍事情報が集中していました。天皇は戦局の全体を常に把握し、「能動的君主」として命令、作戦計画を変更させることも少なくありませんでした。天皇は、41年11月5日の御前会議で、明確にアメリカに対する開戦を決意しました。「御上にも御満足にて御決意益々鞏固」(陸軍参謀本部による機密戦争日誌)。終戦についても、側近の勧めに従っていれば、早く停戦交渉に入ることも可能でした。連合国の間では天皇を逮捕すべしという強硬な意見が少なくなく、アメリカの多数の世論も天皇の責任を問うていました。  
大元帥である天皇を訴追しなかったこと、さらには終戦直後には退位の意思もあった天皇をその地位に止めた背景には、天皇を新憲法に組み込み独特の日本型民主主義体制(「敗北を抱きしめて」の著者ジョン・ダワーによれば「天皇制民主主義」)を作って戦後の日本と世界を支配したいという当時のアメリカの指導層の戦略がありました。アメリカは、天皇は平和主義者で戦争遂行に関しては形式的な役割しか果たさなかったという「物語」作りのキャンペーンを大々的に展開し、これに反する議論は強力な検閲で禁止しました。この「物語」は日本の独立後も続いています。  
最高責任者である天皇の責任を法的にも道義的にも不問に付したことは、今日に至るも日本人の戦争責任の意識を希薄にしました。のみならず、指導者の政治や道義面での責任のとり方にけじめがつかなくなりました。  
免責という点では1500万人〜2000万人ともいわれる最大の犠牲者を出したアジアに対する犯罪の責任追及が軽視されたことも重大です。東京裁判の判事団にはアジアからは3名しか参加を認められませんでした。朝鮮の代表はいませんでした。アジア軽視のつけは、80年代末から表面化して現在に至っています。東京裁判は、基本的には、日本から植民地を回復した米英仏蘭など帝国主義国家による旧帝国主義国家に対するダブルスタンダードを持った裁判という性格を有していました。  
被告人の範囲も恣意的に絞られました。東条が率いた統制派以外の軍人、軍部と一体となって戦争を推進した財界人、政治家・官僚の多数、中国で化学戦に従事した731部隊や1644部隊などの責任は問われませんでした。  
占領は、占領された国民自身による戦争犯罪の追及の禁止と同義ではありません。戦争に対する強い怒りは、日本人自ら訴追を免れた戦犯を追及したい、あるいは東京裁判に日本人も参加したいという声となって現れました。しかしこのような主張は46年の終わりごろには発禁処分になりました。戦争に対する反省の徹底は、21世紀の日本と世界の平和を建設するうえで思想的、人道的、政治的に不可分の課題として私たちに引き継がれています。  
1949年 「長崎の鐘」/「下山、三鷹、松川事件」

 

T 「長崎の鐘」  
人類の終末を思わせる核兵器の被害は、もう戦争は絶対にしてはいけないという想いを強く抱かせました。長崎医科大学教授・永井隆博士が病床で書いた「長崎の鐘」と「この子を残して」は、1949年、2冊ともベストセラーになりました。平和への夢を記した文学がベストセラーに入ったのは、これが最初でした。それまで彼の原爆体験に関する著作はGHQによる検閲の網にかかっていました。  
45年6月、永井は長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受けました。 8月9日 長崎に原子爆弾が投下されたときは、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室で被爆しました。右側頭動脈切断という重傷を負いながら布を頭に巻くのみで、救助に当たりました。翌日帰宅し、爆死している妻を発見しました。  
原爆とは何かという問題に情熱的に取り組んだ永井の著作群は、その行動とともに多くの人の胸を揺さぶり、「長崎の聖者」と呼ばれました。永井は、51年、2人の子供を残して43歳で他界しました。  
49年7月、「長崎の鐘」をモチーフにした同名の歌がコロムビアレコードから発売され、大ヒットしました(作詞サトウ・ハチロー、作曲古関裕而)。“こよなく晴れた 青空を”で始まるこの歌は、藤山一郎の高潔な歌唱力に乗って全国に広まりました。  
翌50年には、これを主題歌とし永井の生涯を描いた映画が新藤兼人の脚本で完成しました。原爆を取り扱った劇映画の第1号です。  
U 下山、三鷹、松川事件  
非軍事化と民主化を2大目標として進めた占領第1期は、『長崎の鐘』が世に出る前の年の48年に終わっていました。48年1月、ロイヤル米陸軍長官は、日本の軍事化と経済復興を優先するよう、占領政策の転換を求めました。このロイヤル文書は、映画「戦争をしない国 日本」で説明されています。同年10月、米国務省のジョージ・ケナンらは、日本を反共の防波堤として冷戦体制に組み込むための政策転換を公式に承認した「日本に対するアメリカの政策についての勧告」を作成しました。  
経済復興を推進するため、49年2月、デトロイト銀行頭取のドッジがGHQの経済顧問として来日し、財政金融引き締め政策を推進しました。日本国有鉄道(JRの全身)の労働者10万人を含む官公労働者27万人の解雇もその一環です。同時に民間企業でも大量の人員整理が発表されました。労働者側はこれに抵抗して各地で激しい労働争議となりました。占領軍や当時の吉田茂内閣は、徹底的に弾圧する姿勢を見せていました。当時国鉄労働組合や共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)は、人員整理に強く反対していました。  
国鉄総裁下山定則氏が第一次の人員整理を発表した7月4日の翌5日の朝、同氏は国鉄の常磐線の線路上で轢死体として発見されました。増田甲子七官房長官は解剖の結果が出ない段階で他殺を示唆し、共産党系労組の犯行を印象づけました。警視庁は自殺と断定して捜査を終了しますが、GHQの圧力でその発表は取りやめになり、結局原因不明のままになりました。  
7月15日には、中央線の三鷹駅で電車が暴走し、同駅利用客6人が死亡し、重軽傷者20人を出しました。吉田茂首相は社会不安の原因は共産党にあると非難しました。12人が共同謀議によるものとして起訴されましたが、共同謀議は「空中楼閣」であるとして否定され、共産党員11名は無罪となりました。非共産党員の竹内被告1名のみが死刑判決を受けました。最高裁では8対7の評決でした。同被告は無罪を主張する再審請求中に獄死しました。  
続いて8月17日、国鉄の東北本線金谷川―松川両駅間(現在の福島市松川町)で、上り旅客列車が脱線転覆し、機関車乗務員3名が死亡しました(松川事件)。レールが1本、完全にはずされていました。国鉄労組と東芝松川労組の各幹部・活動家らによる共同謀議に基づく列車転覆罪として、両労組関係者20名が起訴され、1審は検察の主張をほぼそのまま認め、5人の死刑を含め全員を有罪としました。これら3事件を含むいくつかの謎の事件の影響により、「労働運動は悪である」というイメージが広がり労働運動は大きな打撃を受け、各界における人員整理は、当初予想された程の混乱もなくスムーズに進行しました。松川事件は、5審・14年の長期裁判の末に、被告全員が無罪となり、その後の国家賠償裁判において、捜査から裁判までのすべてが国家機関による違法行為だったと認定されました。この裁判では裁判所が1審段階から被告人の無罪を証明する証拠を握りつぶすなど、その訴訟指揮や判断にも強い批判が集中しました。松川事件は謀略事件であった可能性が極めて高いとされています(日本全国憲法MAP福島編(1)伊部正之元福島大学教授のコメント)。  
仮に、国策による市民の殺人が許され、あるいは思想の如何で死刑になるとすれば、「自由」の核心を破壊します。この3事件は、戦後の日本が目指そうとしている「自由」とは何かを、深く考えさせ続けています。  
1950年 警察予備隊の設置

 

再軍備への道  
アメリカ政府は、48年中には日本を反共の防波堤として冷戦体制に組み込む政策に転換しました。すなわち、「軍事化」と「民主主義の制限」の占領第2期が開始しました。  
もっとも、より広い視点で見ると、「戦後民主主義」は当初から冷戦体制の枠内にあり、民主主義も一定の制約を受けていたといえるでしょう。占領ですから、戦後の世界で突出した力を持ったアメリカの国益に適う限りでの支配としての「戦後民主主義」の性格を持っていたことは、ある意味で当然でした(パックス・アメリカーナ)。沖縄を軍事基地化し同県民の選挙権を停止して(45年12月の選挙法改正)新憲法の適用外においたことは、9条の制定と表裏一体の関係にあります。昭和天皇は、マッカーサーに、沖縄を長期に渡り利用することを認めるメッセージを渡していました。「天皇制民主主義」の採用は民主主義の徹底を深い所で阻みました。  
沖縄を基地として確保したアメリカは当初、非武装となった日本は連合国の後身である国連によって安全を保障されることが望ましいと考えていました。しかし、占領の長期化に伴うアメリカの負担軽減の声の増大と冷戦の激化の中、朝鮮戦争の勃発は第2期の政策を一気に具体化させました。朝鮮戦争勃発の翌月の50年7月、マッカーサーは日本政府に対して7万5000人の警察予備隊の結成を指令しました。憲法9条に違反する実質的な軍隊が、改憲を経ずにポツダム政令によって創設されたことは注目されます。予備隊は、朝鮮に出兵する米軍の空白を埋めることを直接の目的とし、兵器や装備は米軍によって供給され、米軍が訓練しました。訓練を担当したアメリカの大佐は「小さいアメリカ軍」と呼びました。警察予備隊は52年10月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組され、再軍備は進みました。この過程で、旧軍人の追放が解除され、50年代半ばには上級幹部の50%以上が旧陸軍正規将校で占められました。また、旧海軍なくして海上自衛隊の創設はありえませんでした。現在に至るも、自衛隊員の時代錯誤的な歴史認識やいじめ体質が残存していますが、出自における戦前との連続性が関係していると指摘されています。なお、海上自衛隊は、朝鮮戦争に際して機雷除去のために掃海艇を出動させました。これは極秘です(掃海艇の海外派兵は湾岸戦争が最初だったと言われることが多いようです)。  
警察予備隊の創設に当って、アメリカは一挙に30万〜35万人規模の軍隊を要求しました。しかし、旧軍や軍事体制の復活に対する日本の世論の反発に加えて、吉田首相は経済的な余力がないことなどを理由に強く反対しました(軍事小国主義)。  
以上に見られる「小さいアメリカ軍」「戦前との連続性の要素の存在」「国力に比して小さい軍隊」という自衛隊の特徴は、発足当時から現在まで続いています。  
軍事化は、自由・民主主義・平和主義を求める言論を公共空間から排除する政策と一体となって進められました。この年、地方公共団体では初めてそれまでは届出制だったデモを許可制とする東京都公安条例が公布・施行されました。朝鮮戦争の開始と前後して、新聞700紙が休刊させられ、公共部門、次いで民間部門の報道業界、映画業界などからおびただしい数の人々が魔女狩り的に解雇されました(レッド・パージ)。  
1951年 サンフランシスコ講和条約/日米安全保障条約

 

連合国による日本の占領を終結させ、対日講和条約を締結する動きは1947年からみられましたが、日本で議論が活発になったのは、49年の秋にアメリカのアチソン国務長官らが講和のあり方を具体的に検討し始めたという情報が入ってきた頃からでした。  
ソ連など社会主義国も含めた全面的な講和か、米英仏など西側諸国だけとの講和(単独講和ないし片面講和)かが議論になりました。政府は、冷戦の激化を考慮すると片面講和しかないという立場を採りました。これに対して丸山真男、大内兵衛らの学者・文化人の「平和問題談話会」は、50年1月、全面講和を主張しました。社会党も51年1月には「全面講和、再軍備反対、中立堅持、軍事基地反対」(いわゆる「講和4原則」)を決定しました。  
全面講和か否かは、独立した日本が西側諸国の一員となってアメリカ軍の駐留の継続を認め、武装も独自にするのか、あるいは、軍事的にもアメリカから独立し、憲法9条についての制定当初の政府の見解どおり非武装を維持し、中立の国家になるのかという問題と不可分に関係していました。  
第3の道としてこの時点では講和しないという選択もありえましたが、米英の間で片面講和が合意されました。吉田首相も早期の片面講和と米軍基地の提供を申し入れました。その方針に従って、51年9月、サンフランシスコで講和会議が開催されました。戦争の和解という講和の趣旨からすれば、主たる被害を受けた中国や朝鮮が参加することは不可欠とも考えられましたが、両国は招請されませんでした。参加国のうち、米軍の駐留等に反対したソ連、東欧諸国、インド、ビルマを除く48か国が片面的な講和条約に署名しました。  
問題点として、(1)部分的な講和であり、中国との講和にはさらに20年以上要し、ソ連との講和不成立で北方の島々の領有権問題が未解決に終わったこと、(2)東南アジアの国々が日本に要求した損害賠償がアメリカの圧力で大幅に減額されそれらの諸国民に大きな不満を残し(1)とあいまち日本の戦争責任があいまいになったこと、(3)沖縄等がアメリカの信託統治として残ったこと、(4)独立した国家としての主権の核心である軍事面でのアメリカへの従属から脱却できなかったこと、(5)多数の国から求められていた日本の再軍備の制限条項がアメリカの拒否で規定されなかったことなどが挙げられています。  
講和条約の調印式には日本からは6人の全権が参加しましたが、その日、吉田首相だけがひそかに場所を移動して講和条約と表裏一体の関係にある日米安全保障条約に署名しました。両条約は翌52年4月28日に発効し、日本は独立しました。  
安保条約によると、日本は米軍の駐留の継続を認める義務を負いますがアメリカは日本防衛の義務を負わず、アメリカに対する基地貸与条約の性格を濃厚に持っていました。また、米軍が「日本国における大規模の内乱および騒擾」を鎮圧する規定(内乱条項)は、米軍の軍事的な占領の延長としての側面を残していました。  
講和条約で日本の再軍備が制限されず、安保条約で日本政府による防衛の「効果的な自助」が謳われた結果、早くも52年には保安隊と海上警備隊が創設され、警察予備隊がかろうじて維持していた「警察」としての縛りが解かれました。  
発足した保安隊は精神的な支柱がないため、士気が盛上がらず、それをどう解決するかが大きな問題になりました。そこで、「愛国心の高揚」、「君が代」「日の丸」の復活が推進されました。しかし、愛国心によるナショナリズムの再興は、安保条約により占領軍の駐留の継続を認めたことと対立する側面を持ち、国民の関心はほとんど盛上がりませんでした。「愛国」と「日米安保」が矛盾する側面を持つという問題は、今日に至るまで抱えられています。  
1951年は、憲法法体系と日米安全保障法体系を並存させ、しかも後者が優位する体制を開始させた歴史的な年になりました。  
1952年 「鉄腕アトム」連載開始

 

1952年、手塚治虫(1928〜1989)の代表作であるマンガ『鉄腕アトム』の連載が、雑誌「少年」で始まりました。連載は17年間に渡りました。アトムは、原子力をエネルギー源にした感情を持ったロボットで、21世紀の未来を舞台に活躍します。それまでの日本の4コママンガに代わってストーリー性と哲学があり、さらに戦後の日本の未来を背負う科学を豊富に採り入れたマンガの登場は、手塚が重視した冒険心も魅力となって、子供だけでなく大人も惹きつけました。手塚は、63年にはこれを国産初のテレビアニメ化し、日本のアニメ文化を世界に発信するパイオニアとなりました。  
手塚は、「訴えたいことがないといい漫画は書けません」と言います。そして「『生命の尊厳』が永遠のテーマです。これは私の信念なのです。」と続けます。原動力になったのは、子供の頃からずっといじめられっ子だったことや、軍隊におけるいじめ体験だったとのことです。軍人から「この場で殺す」と刀を構えられる恐怖の体験もしました。戦後の日本は、戦争から解放され平和を希求する優れた芸術家を多数輩出しました。手塚もその一人でした。  
手塚のマンガを26冊読んだという作家の開高健は、手塚の理念についてこう書いています。「人種偏見のない世界、国境のない世界、資本の策略のない世界、人を殺す機械のない世界、人を殺す理論のない世界、階級のない世界、小国の積極的中立主義の生きる世界、誇りの硬直のない世界、愚者と弱者が賢者や権力者や強者と同格で肩を並べられる世界、寛容と同情の世界。それが彼の主張する世界像なのである」(1964年)  
医学博士でもあり、科学技術に強い関心を持っていた手塚は、『鉄腕アトム』について以下のように記しています。  
「『鉄腕アトム』が私の代表作といわれていて、それによって私が未来は技術革新によって幸福を生むというようなビジョンンをもっているようにいわれ、たいへん迷惑しています。アトムって、よく読んでくだされば、ロボット技術をはじめとする科学技術がいかに人間性をマイナスに導くか、いかに暴走する技術が社会に矛盾を引き起こすかがテーマになっていることがわかっていただけると思うのですが、残念ながら、十万馬力で正義の味方というサービスだけが表面に出てしまって、メッセージが伝わりません」  
08年5月、賛成多数で成立した「宇宙基本法」は、69年の国会決議にあった宇宙利用の「非軍事」の文言を削除し、「我が国の安全保障に資する」と付け加えることによって、宇宙を軍事目的にも使用する方向へ大きく転換しました。これを具体化する作業として、先日の12月2日には「宇宙基本計画」の骨子が政府によって了承されました(専門調査会座長・寺島実郎氏)。  
アトムは、2026年の大晦日、過熱した太陽の核爆発を抑制するために、某物質を携えて太陽に向かい、カプセルとともに太陽に突入し、壮烈な死をとげました。今、手塚もアトムもこの世にいません。生きていたら、「宇宙基本法」と闘う壮大なスぺクタルを展開していたかもしれません。否、手塚は今、復活して闘っているでしょう。梅原猛氏によると、手塚の中心問題は、もう一つの代表作「火の鳥」に表れているように、人間の「永遠の生」であり、「不死」なのですから。  
今、マンガやアニメに熱中する「消費文化」が盛んです。これは各人が別々の世界にはまる文化で、かつての文化にあった「共同」の要素が薄れてきています(中西新太郎著「若者たちに何が起こっているのか」)。マンガやアニメ文化の火付け役だった手塚はどうみているのでしょうか。  
1953年 空母オリスカニ横須賀に配備

 

核兵器の持ち込みが始まった  
日本国憲法は、戦争を違法化する歴史を進めた不戦条約(1928年)や国連憲章(1945年6月)の後に制定され、9条で戦争放棄、戦力の不保持を謳いました。その間に、「ヒロシマ・ナガサキ」という、人類未曾有の経験がありました。核爆発の凄まじさないし核戦争は、「戦争は政治の継続」という古典的理解、及び勝利のために戦うという戦争の概念をも吹き飛ばしました。  
核兵器を「持たず、作らず、持ち込まさ(せ)ず」という非核3原則は、1967年の国会で佐藤首相が公式に表明して以来、日本の核政策の基本とされてきました。政府は、55年の鳩山首相の発言を含めそれ以前にも一貫して日本への核の持込みはなかったと説明しています。しかし、それは「タテマエ」であり、「ホンネ」は米軍に核兵器を持ち込ませて日本を核攻撃の基地とすることにあるのではないかという“疑惑”が存在していました。  
この「ホンネ」こそ真実だったことを、08年11月9日に放映されたNHKスペシャル「こうして“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」は生々しく報道しました。米国立公文書館の文書や当時の日米の軍関係者の証言など、豊富な資料に基づいています。これによると、朝鮮戦争末期の1953年6月、アメリカのアイゼンハウアー大統領は、初めて空母への核配備の許可を決定しました。その8日後の6月28日、空母オリスカニに核が搭載されました。3か月後の9月、オリスカニはアメリカのアラメダ海軍基地から日本に向かい、途中で核を降ろすことなく、10月15日横須賀に入港しました。オリスカニの艦内には、核兵器組み立ての部屋があり 部屋いっぱいに核爆弾のマーク5がありました。このとき、空母から核攻撃できる態勢がようやく整ったとされます。オリスカニが到着した直後から神奈川県の厚木基地より核攻撃専用機AJがオスカルニに着艦訓練を 繰り返していました。そして、ある日、司令官は核攻撃の準備をするよう命じ、核部隊員は核爆弾を組み立てました。甲板にはAJが来ていましいた。平壌周辺の軍事施設が目標でした。出撃態勢が取られて3日後、突然キャンセルされました。後に実戦を想定した訓練だったことが明らかになりましたが、隊員は全員、ヒロシマ・ナガサキに続いて史上3回目の核攻撃を実行することを覚悟しました(核部隊員 ケネス・ペリー氏証言)。しかし、朝鮮戦争は、オリスカニがまだアメリカにいた7月27日には既に休戦になっていました。オリスカニの行動は、休戦協定成立後もいつでも核攻撃可能な態勢を整えていたことを意味します。  
その後もオリスカニを含む米第7艦隊は、ソ連や中国との全面核戦争に備えた極秘の作戦「サイオップ」等に基づいて展開してきました。米海軍には核兵器が溢れていました(米第7艦隊旗艦の元艦長ラロック氏)。海上自衛隊の最も重要な任務は、アメリカの攻撃能力を補完することだったとの証言も出てきます。アメリカは日本を最前線の基地、すなわち盾として使いました(NHK)。  
今年9月、『東奥日報』の斉藤光政記者が出版した『在日米軍最前線 軍事列島日本』は、嘉手納基地に最低でも200個以上の核弾頭が貯蔵されていたことを明らかにしました。核貯蔵の具体的事実が示されたのは初めてです。  
「アメリカが“ない”というのだから“ない”ことにしておこうと考えていた。誰も本気にしていなかった」(上記NHK番組にて元防衛庁事務次官の夏目晴雄氏)。  
「1953年の話題」は、1953年当時には「疑惑」としてであれ「話題」とすることは不可能でした。2008年にはもはや「疑惑」ではない「事実」になりました。国民のいのちに関わる核戦争態勢情報を極秘にして政策転換した政府。非核3原則の法制化を求める国民の声は、国会や政府に届くでしょうか。  
1954年 ビキニとゴジラ

 

T ビキニ・スタイル  
1946年、アメリカは、信託統治地域である太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、第2次世界大戦後初めての原爆実験を行いました。その報道直後の同年7月5日、フランスのデザイナーであるレアールがその大胆さが周囲に与える破壊的な威力を原爆にたとえ、ビキニと命名してこの水着を発表したと言われます。日本では、その後キャンペーンガールのアグネス・ラムのビキニ姿のポスターで人気が広がりました。  
U ビキニ環礁での被爆  
年から67年まで、アメリカ軍はビキニ環礁とエニウエトク環礁で67回の原水爆実験を行いました。中でも54年3月1日の広島型原爆のおよそ1000倍といわれる史上最大規模の水爆実験は、広い太平洋や大気圏を強力な放射能で汚染しました。同日、静岡県焼津漁港の乗組員23名の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」は危険地域外とされ事前の移動の対象とならなかった地域で操業中に被爆しました。無線長の久保山愛吉さんが同年9月に放射能障害で亡くなったことは有名です。しかし、その後も同乗組員の半数の12人がガンなどを発病して亡くなり、あるいは奇形児を出産したり、周囲の目を気にしてひそかに暮らして来た事実はほとんど知られていません(大石又七さんのコメント日本全国憲法MAP静岡編2)。被爆した船は第五福竜丸だけではなく、厚生省が認めただけでも856隻、およそ1000隻に及び2万人近くが被爆したと言われます。  
久保山さんは、アメリカによる核実験だと気づいたとき、軍事機密を知った故に証拠隠滅のために米軍に撃沈されることを恐れ、SOSを打電することなく逃げるように帰国したと語っていました。以前にも同海域で消息不明になった漁船があったことを知っていたからです。  
ヒロシマ・ナガサキに続いたビキニ環礁における3回目の被爆、とりわけ久保山さんの死は大きな衝撃を与え、世界的に原水爆反対の声が高まりました。翌1955年8月には、日本で原水爆禁止第1回世界大会が開催されました。現在、第五福竜丸は修復され、東京・夢の島公園にある「第五福竜丸展示館」で訪れる人を待っています。  
V ゴジラの出現  
かつては、お正月映画の定番とまで言われた怪獣「ゴジラ」の映画。今までに28作制作されました。「ゴジラ」を誕生させたのはビキニ環礁の水爆実験でした。1954年の末に第1作が公開されました。ゴジラは、大昔生息していた生物が、水爆実験の影響で住んでいた環境を破壊されて地上に現れた「核の落とし子」です。太平洋上で船舶を襲った後、東京を襲撃します。本多猪四郎監督は、「真正面から戦争、核兵器の恐ろしさ、愚かさを訴える」と語りました。人間の身勝手で現れたゴジラに人間がおびえるという設定も人気となり、961万人もの観客を集めました。円谷英二さんの特殊撮影技術も脚光を浴びました。  
ゴジラが国会議事堂を破壊すると、観客は立ち上がって拍手したという逸話があります。当時の政界では造船疑獄事件などで政治に対する不信が国民の間に高まっていました。  
この初代ゴジラは、最後には芹沢博士が発明したオキシジェン・デストロイヤーによって殺されます。当時のアメリカの原子怪獣映画のように軍隊によって殺す方法を採らなかったこと、芹沢博士が科学者の良心としてオキシジェン・デストロイヤーを使用することに煩悶したことなど、現在にも通じる深い問題も提起しています。  
1955年 55年体制の成立

 

1955年、左右に分裂していた社会党が統一され、次いで日本民主党と自由党も合同して自由民主党が結成されました。この政党体制はのちに「55年体制」と呼ばれ、93年に非自民である細川護煕連立政権ができるまで、38年間続きました。  
51年のサンフランシスコ講和条約で占領軍という絶対的権力がなくなった後の日本では、一つは、軍事をどうするかが大きな問題になりました。講和条約と同時に締結された日米安全保障条約と自衛隊による軍備だけでは不十分であり、憲法を改正して本格的な再軍備をすべしという意見が、アメリカの要求もあって次第に強まりました。当初は憲法改正に消極的だった自由党の吉田茂首相に業を煮やしたアメリカのダレス国務長官は、鳩山一郎に会うことに一つの活路を見出しました。ダレスに対して鳩山一郎など公職追放された政治家たちと会うことを薦めたのは、昭和天皇でした。天皇はダレスに文書を送り、公職追放の緩和に言及しました。政界に復帰した鳩山は、憲法改正・再軍備を掲げて民主党を率い首相になりました。もう一つは、占領軍の重しがとれたこともあって、天皇の元首化、人権の制限など軍事面以外での戦前回帰が問題になりました。  
この「逆コース」と呼ばれる動きに対して、4年前の51年の党大会で分裂していた左右両派の社会党は強い危機感を持ちました。分裂は、主として単独講和条約に対する賛否をめぐって生じました。しかし、単独講和が既成事実となった以上、決定的な意見の対立は小さくなっていました。当時の衆院の社会党は、左派89人、右派67人で、両者合わせれば156人という大きな力になりえたことも背景にあって、55年10月に両派は合同しました。  
他方、保守側も合同の機会を探っていました。吉田茂を支持する自由党の政治家たちもやがて改憲に賛成し、民主党との意見の相違は小さくなっていました。合同を強く後押ししたのは、革新政党の拡大を危惧する経済界でした。社会党が統一された翌11月、民主党と自由党は合同して、「自由民主党」を結成しました。党名の公募では「日本保守党」が最多となりましたが、この案は選挙に不利だとして採用されませんでした。かくして、55年は、敗戦後10年たって保革の2大政党を中心とした政党政治が各種の問題を抱えながらも確立した重要な年となりました。  
当時の新聞論調のほとんどはイギリス流の保革の2大政党による政権交代可能な緊張感のある与野党関係に期待を寄せていました。  
「55年体制」は、結果として「吉田自由党」の日米安保条約を基盤とする日米協調の基本路線を引き継ぎ、また、比較的安定して経済成長路線を進める自由民主党一党支配の時代となりました。自由民主党と社会党の議席の比率は概ね2対1で、「改憲を阻止する体制」でもありました。社会党は次第に議席を減らし、代わって共産党、公明党などが野党として「2対1政治」の構成員として加わりました。  
自民党1党による長期政権の継続は、政財官の癒着構造、官僚政治などを強固にし、「民意の忠実な反映」という国民代表の機能(43条)にも重大な問題を蓄積しました。  
1956年 「もはや戦後ではない」/ 国連加盟

 

T「もはや戦後ではない」  
1956年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述、この言葉は流行語になりました。それは、最もよく経済水準を示す指標である1人当りの実質国民総生産(GNP)が、55年に戦前の水準を超えたという意味です。55年は、高度経済成長の始まりとなった神武景気の幕開けの年でもありました。56年には、家電を中心とする耐久消費財ブームが開始し、皇室の三種の神器にちなんで、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と言われました。但し、これらは庶民にはまだ高嶺の花であり、当時大人気だったプロレスラーの力道山を見るために、人々は街頭のテレビに群がりました。もっとも、この年すでにテレビ文化を称して「一億総白痴化」(大宅壮一)も流行語になったことは注目されます。  
ここで比較されている「戦前」とは、1934年〜36年平均を言います。故に、日本経済は、戦争のために20年間も足踏みしていたことになります。  
20年は長過ぎたという側面があります。大きな原因として、日本が行った戦争は自国民の人命を軽視し、基礎的な生活条件を破壊したという特徴が考えられます。ナチス・ドイツでさえ敗戦の瀬戸際まで開戦時の消費水準を保ったのと対照的です。日本は徹底して生活を切り詰めさせ、戦略爆撃が始まり敗戦必至になってからも天皇制の維持を事実上約束させるまで戦い続けて住宅も約210万戸失いました。敗戦後、アメリカ政府・GHQは、日本の経済再建に関しては当初「ハード・ピース」路線、すなわち、日本から近代工業施設を撤去し、外国貿易も遮断して農業国にするという方針を採っていました。トルーマン大統領の個人的代表として来日した日本派遣賠償視察団E・ポーレー大使は、「われわれは日本経済の最低限度を維持するに必要でないすべての物を日本から取り除く方針である」と言明しました。日本政府は、鉄鋼業や石炭鉱業などに重点的に資金を配分する傾斜生産方式等を採用し経済の再建に努めましたが、インフレの昂進や技術の立ち遅れなどでなかなか成果は上がりませんでした。  
他方、焼跡の廃墟に住み飢餓に苦しんだ人々が、敗戦後10年で立ち直ったのは早かったという側面もあります。事態が転換し始めたのは冷戦の激化がきっかけでした。1949年の箇所でも触れましたが、48年のアメリカのロイヤル陸軍長官の文書などに示されるように、対日方針は転換されました。経済面では、工業を発展させることによって経済を再建し日本を反共の防波堤にする「ソフト・ピース」路線に変更されました。その一環として、戦争による実物賠償は棚上げされました。さらに、50年6月に勃発した朝鮮戦争が情勢を一変させました。緊縮財政であるドッジ・ラインの下で需要不足に悩む経済は、朝鮮半島に出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負い(朝鮮特需)、日本経済は大幅に拡大されました。また、51年のサンフランシスコ条約の締結に伴い、東南アジアの国々が日本に要求した損害賠償がアメリカの圧力で大幅に減額され、あるいは日本企業の新たな利益獲得の準備の視点で実行されたことも日本にとっては好都合でした。但し、技術革新などにより経済の自立を目指す日本国民の努力と、所得分配の相対的な平等化の進行による購買力の増大があったことは重要です。平等化の進行は、総力戦の遂行の観点から国民の協力を得るために必要だったこと、敗戦後の激しいインフレ、GHQによる民主化政策等の結果です。  
「もはや戦後ではない」生活は、朝鮮の人々の悲劇、戦後の賠償もきちんとしない東南アジアの人々の貧しいままの生活、さらには、沖縄の人々の生活等の犠牲の上に乗っていたことは忘れられがちです。日本国憲法の視点から見つめ直す必要がありそうです。  
U 国連加盟  
日本は、憲法制定直後は、憲法前文が予定しているとおり、国連を通じて日本の安全保障を実現するべく、国連への加盟を考えていました。しかし、1951年、西側諸国とのみ講和するとともに、安全保障はアメリカに依拠する決断をしました。反面、ソ連や中国との対決関係は固定化されました。  
とは言っても、独立を回復した日本にとって、国連への加盟は外交的な悲願でした。これには日本との戦争状態がそのままになっているソ連が拒否権を行使していました。そこで、アメリカとの関係のみを重視した吉田首相に代わった鳩山首相は、日ソ国交回復を急ぎ、北方領土問題と日ソ平和条約の締結を棚上げしたまま56年10月に「日ソ共同宣言」に調印、日ソの戦争状態は終了しました。これにより国連加盟の障害は取り除かれ、翌12月、日本の国連加盟が実現しました。  
1957年 「昭和の妖怪」岸信介

 

戦前との連続性  
1957年は、東条内閣の重要閣僚として日米開戦の詔勅に署名し、戦後A級戦犯として逮捕された岸信介が首相になり、戦争の指導層が戦後も引き続いて日本の指導層となった象徴的な年となりました。特殊日本的な「戦前との連続性」です。ナチズムを生んだドイツでは、戦後に旧ナチの幹部が政界の指導者として復活することは決してありえないことでした。戦争国家体制と民主主義・人権の抑圧は不可分の関係にあります(治安維持法体制)。この体制の責任者が日本の指導者となったことは、現在に至るまで日本のあり方に多大な影響を与えています。  
岸は山口県の官吏の家に生まれ、大資産家である実家・岸家の養子となりました。島根県令などの要職を務めた政治家である曽祖父の残像が幼い頃から色濃く刻み込まれたと言われます。東大時代は、当時の右翼のトップリーダーだった北一輝や大川周明に面会を申し入れ、深い影響を受けました。天皇制絶対主義を唱える憲法学者・上杉慎吉に見込まれ後継者にと誘われましたが、当時の農商務省に入り、戦時統制経済を立案・推進した「革新官僚」を代表する存在となります。間もなく、東条らと共に満州国の5大幹部の1人として植民地経営を指導、軍・財・官界にまたがる広範な人脈を作り、政治家としての活動の基礎を築きます。東条内閣では商工相、軍需次官を歴任し戦時経済を指導しました。  
45年9月、岸はA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監されました。しかし、アメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)、多くの戦犯と共に不起訴となり釈放されます。さらに、52年4月、単独講和条約の発効に伴って公職追放解除になりました。直後に復古的な「自主憲法制定」を最大の目標に掲げることを主導して「日本再建連盟」を設立、翌年には衆議院議員になりました。56年の自民党総裁選では巨額の資金をばらまき、金権総裁戦の原型を作りました。首相は60年の安保国会後に退陣しましたが、以後も田中角栄と並ぶキングメーカーとして、89年に90歳で没するまで政界に隠然たる影響力を及ぼし、「昭和の妖怪」と呼ばれました。岸の政治の最終的な目標は最初から最後まで「自主憲法の制定」でした。  
岸は晩年のインタビューで語っています。「大東亜共栄圏は随分と批判があったけど、根本の考え方は間違っていません。日本が非常に野心を持ってナニしたように思われるけど、そうではなく…」 。  
戦前との連続性は今、戦争を知らない世代によって「日本の伝統・文化・歴史の尊重」というスローガンで語られています。  
岸に代表される政治家については、1戦前との連続性の他、2戦前はファシズムに傾倒して国民を「鬼畜米英」に誘導したことと対照的に戦後は民主主義を標榜しアメリカへの従属を推進した無節操(非連続)、及び3戦争責任が話題になりました。日本国憲法については「押付け」が論じられています。しかし、GHQによる「逆コース」の支配(「逆押付け」)がなく、日本の民主化が促進されていたならば、戦争を指導・推進して内外に天文学的な犠牲者を出した政治家・官僚の政治的・道義的な免責はあり得たのか、問題となるところです。  
1958年 憲法改正の動き/団地族インスタント元年

 

T 憲法改正の動きと「憲法問題研究会」の発足  
1958年の6月には、湯川秀樹、我妻栄、宮沢俊義など代表的な知識人が「憲法問題研究会」を発足させ、「憲法の基本原理とその条章の意味をできるだけ正確に研究し、関心を抱く国民各層の参考に供」することを目的として講演会等憲法の普及活動を始めました。以下の経緯によります。  
そもそも、日本国憲法が審議される段階では、理想主義的な知識人や社会党、共産党は、憲法の生活保障や平等の規定が抽象的過ぎるなど、むしろ批判的に見ていました。憲法を全体として彩る自由主義的な理念が、「主食にイモをかじる」当時の生活状態に適合しないと思われたからです。しかし、その後経済状態も安定して来て、憲法にうたわれた理念を実現できるだけの社会的基盤が整うに従い、第9条とともに、憲法は広範な人々の中に受け入れられて行きました 。  
しかし、逆にアメリカは、早くも憲法9条の改正を要求して来ました。これに呼応して自由党と改進党は、保守合同の前年である1954年に、相次いで憲法改正案を公表しました。これらは、19条を改正して軍隊を持つこととする他、2大日本帝国憲法の時代への復古的な改定を目的にしていました。すなわち、天皇を元首ないし国の代表とすること、公共の秩序のための法律による人権の制限、家族制度の復活、国家に対する忠誠の義務などを定めることを内容にしていました。これは憲法が国民に定着しつつあることを読み誤っており、翌55年の総選挙では護憲派が躍進しました。そこで、あくまで改憲を志向する合同した自民党・岸内閣は、復古色を薄めたうえで、57年8月、内閣に憲法調査会を発足させました。調査会の委員は国会議員と政府が任命する学識経験者でしたが、社会党は参加しませんでした。  
この憲法調査会は、日本国憲法下における最初の本格的な憲法改正のための公的な活動でした。上記の「憲法問題研究会」は、これに対抗して設立されたものです。憲法調査会は、以後7年間に及び活動し、64年7月、最終報告書を提出しました。それは、この間の「憲法問題研究会」を柱とする護憲論の高まりの影響を受け、改憲意見を中心としつつも両論併記の形をとりました。この報告書以降、明文改憲を求める動きは大きく後退し、解釈改憲が主流となりました。  
U 団地族・インスタント元年  
1958年には「団地族」という言葉が生まれました。前年には、埼玉県・草加市の当時東洋最大と言われたマンモス団地である「松原団地」の居住が始まっていました。この頃、急速に都市化が進み、都市中産階級が生まれつつありました。58年は日清食品からインスタントのチキンラーメンが発売され、爆発的な人気を博した年でもありました。以後次々とインスタント食品がお茶の間に入ってきます。インスタントコーヒーが発売されたのは、60年、森永製菓からです。58年は「インスタント元年」と呼ばれました。  
家庭の幸福を大切にするマイホーム主義は、一面では政治的無関心を生む土壌にもなりましたが、他面で私生活の平穏を脅かす政治に対してはノー!を突きつけました。プライバシーの権利(憲法13条)の目覚めです。58年10月、岸内閣は、警察官の職務質問や所持品調べの権限を拡大し、国民の集会・デモの自由(21条)を大幅に制限する警察官職務執行法の改正案を国会に上程しました。これに対して市民は、治安維持法とオイコラ警察の復活であるとして大規模な統一行動で反対運動を展開しました。週間明星も“デートもできない警職法”と若者にアピールし、戦後派も多数参加して11月5日には全国で1,000万人、同15日には1,500万人が集会・デモに参加し、同法案を廃棄にさせました。日本弁護士連合会が、第1回人権擁護大会を開催したのもこの時です。58年は、戦前回帰の「逆コース」に一定の歯止めをかけた年でもありました。  
1959年 砂川事件判決/皇太子の結婚

 

T 砂川事件判決  
1959年は、最高規範(98条1項)である憲法の上に、日米安全保障条約による法体系を置いた重要な年になりました。  
米軍基地の接収や拡張に反対する地元住民の反対運動は、1953年の石川県の内灘村(当時)をはじめ、全国に広がっていました。55年には、米軍機のジェット化等に伴い、米軍から40飛行場の拡張を要請され、鳩山内閣はこれを受け入れたため、土地を奪われ生活権を脅かされる住民は各地で大きな反対運動を起こしました。東京都下の砂川町(当時)の立川飛行場もその一つです。基地拡張に反対するデモ隊のうちの7名が基地内に1時間、4.5メートルほど立ち入ったとして、「(旧)安保条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」違反として起訴されました。この裁判では、安保条約による米軍の駐留は憲法9条2項の「戦力」として違憲になるかが争点になりました。  
第1審の東京地裁は、9条の解釈は憲法の理念を十分考慮してなされなければならないとし、「安保条約締結の事情その他から現実的に考慮すれば…、かかる米軍の駐留を日本政府が許容していることは、指揮権の有無・出動義務の有無にかかわらず、9条2項前段の戦力不保持に違反し、米軍駐留は憲法上その存在を許すべからざるものである。」と判示しました(59年3月)(裁判長の名前を採って「伊達判決」と呼ばれます)。  
この判決は、翌年の60年に安保条約を改定する準備を進めていた日米両政府にとって大きな打撃となりました。そのため、政府は、高裁を飛び越して最高裁に異例の飛躍上告を行い、最高裁はスピード判決で、年内の12月に違憲判決を破棄しました。これを受けて、60年1月には、日米両政府によって新安保条約が調印されました。  
最高裁は、駐留外国軍隊は憲法9条2項が禁じる「戦力」に該当しないと示しました。「戦力」とは「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであ」るという理由です。最高裁は続けて、「安保条約は…主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものであって」違憲かどうかの判断は内閣や国会の自由裁量的な判断に委ねられ司法裁判所の審査には原則としてなじまないとしました。しかし、「一見極めて明白に違憲無効である」場合は司法審査できるが、安保条約の目的は平和と安全を維持し戦争の惨禍が起こらないようにすることだから、「一見極めて明白に違憲無効」とはいえないと結論しました。  
この判決は大変分りにくいと評されています。日本の指揮権、管理権が及ばない外国の軍隊だから合憲だというのでは、9条が「目的」として明示している「国際平和を誠実に希求」することができるのかということがまず問題になります。そのため、最高裁は、安保条約の条文の文章を理由にして「一見明白に違憲」ではないと判断しました。これに対しては、裁判というものは、条文の字面ではなく、実態に基づいて行うべきものであるという問題があります(立法事実論)。ベトナム戦争やイラク戦争に参戦している在日米軍の実態を見ると如何でしょうか。さらに、「高度の政治性を有するものは裁判に服さない」というのでは、国民のいのちに関わる国家の重大な行為が憲法の枠外に置かれてしまい、国民(具体的には裁判所)が「国家の行為を憲法で縛る」という近代憲法の根本原理(立憲主義)を司法権が自ら放棄し、違憲審査制(81条)のたてまえと三権分立制の基本構造を崩壊させかねないという問題があります。この点、政治部門の多数決の方を重視するというのが最高裁の立場です。  
異例の飛躍上告の経過が、昨年4月30日の各新聞で明らかされ、大きな衝撃を与えました。すなわち、判決直後に、駐日アメリカ大使(ダグラス・マッカーサー2世)が、この判決の早期破棄に向けて岸内閣の外務大臣藤山愛一郎や最高裁長官田中耕太郎と接触、密談して判決の早期破棄を積極的に働きかけたことを示す、同大使の国務省宛て秘密電報14通が、国際問題研究者新原昭治によってアメリカ政府解禁文書の中から発見、入手されたことが大きく報道されました。田中長官は、訴訟の関係人ないし準当事者ともいうべき立場に立つアメリカ政府の大使と密談し、審理の見通しを述べる形で早期結審ひいては違憲判決の早期破棄を「約束」したに等しい発言を行い、実行していたことになります。これは、日本の命運を決する重大問題について、司法権の独立(76条)、さらには最高裁自ら述べている「主権国としてのわが国の存立の基礎」である日本の主権(対外的独立性)に関わる問題です。  
憲法は何のためにあるのか、司法は根本のところで誰(外国を含む)のためにあるのかを将来に渡って問い続ける重大な判例です。  
U 皇太子の結婚  
59年4月、皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子の結婚式(「結婚の儀」)が行われました。前年の11月、二人の婚約が発表されると、日本中に興奮が走りました。皇族か五摂家という特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、日清製粉の社長令嬢とはいえ「平民の娘」が雲の上の存在と思われていた皇室に入ることになったからです。しかも2人はテニスコートで知り合い「自由恋愛」で結ばれたというエピソードは、血筋の違いを超えた愛という普遍的な物語の共有として皇室を身近に感じさせることとなりました。婚約記者会見で初対面の印象を聞かれた彼女の皇太子評「ご清潔で、ご誠実で」は流行語になり、彼女がテニスで着ていた白地のVネックセーターやヘアバンド、カメオのブローチなどのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行しました。  
2人の結婚は、それまでの家父長的な天皇制のイメージを、新憲法の象徴天皇制にふさわしいものに変える大きな転機となりました。しかし、「ミッチー」と呼ばれたのは結婚まででした。「平民」から「皇族」への変化に対応して「美智子様」になりました。同時にはちきれんばかりの健康美に輝いていたミッチー自身にも変化が生じました。それは、「象徴」となったとはいえ、厳として続く「天皇制」が「人間美智子」に与えた変化でした。皇族に対する憲法の適用は大幅に制限されています。一人の人間を個人として最大限尊重することを目的とする憲法の原理と皇室の原理の狭間で、美智子皇后、、そして雅子妃はどのような思いで過ごしておられるのでしょうか。  
1960年 新安保条約の成立と反対運動

 

1960年は、新日米安全保障条約によって今の日本の政治、軍事、そして経済のあり方を確定した歴史的な年です。社会運動が時の政治を左右したという意味でも空前絶後の年になりました。  
もっとも、戦後日本の政治経済の基本構造自体は、51年の単独講和及び同時に調印された(旧)日米安全保障条約で決定されました。05年7月19日付けの日本経済新聞によれば戦後政治で重要な出来事のトップは旧安保条約の締結であり、日本国憲法の制定が第2位となっていることは、このことを端的に示しています。「極東のスイス」(永世中立国)を目指していた日本は、50年の朝鮮戦争の勃発で戦後5年目にして早くもアジアの戦争を支援する「反共の砦」に変身しました。この戦争では日本の全土の米軍基地が最大限利用されました。この基地提供の義務を制度化したのが旧安保条約で、軍事的には占領時代と変わらない状態が継続しました。軍事同盟とはいっても、「極東における平和と安全の維持に寄与」する目的(第1条)を持つ、アメリカに対する基地貸与の性格が中心の条約でした。要点は、これによって日本の軍事的な対米従属が決定されたことにあります。  
新安保条約も、アメリカが極東戦略上日本を基地として利用するという基本的な性格は変わっていません(第6条)(浦部法穂「憲法学教室」)。そして、第5条で、日本とアメリカは、日本自体だけでなく、極東に出動する在日米軍基地が攻撃された場合も、ともに戦争を行なうことが義務づけられました。自衛隊がアメリカの軍事戦略の中に位置づけられ、日本が知らないアメリカの戦争に日本は自動的に巻き込まれることになります。この点を批判されて、条約とは別の交換公文によって、米軍の配置の重要な変更等の場合は、事前に協議することが約束されました。しかし、これまでこの協議がなされたことは一度もありませんし、核兵器積載艦・航空機の通過には事前協議は適用しない旨の密約が存在します(政府は存在を否定)。新条約は更新されて今日まで続いています。   
この条約の第2条が語られることは少ないのですが、極めて重要です。第2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定しています。これらは、近年の新自由主義(経済面での市場原理主義)の実行や、「年次改革要望書」などアメリカ主導の経済政策の実施となって現れています。軍事面の従属は経済面のそれと密接に結びついています。憲法25条が生存権を掲げ福祉国家への道を開きながらも、北西欧型福祉国家でなく、アメリカ型に引きずられた経済社会政策が採られているゆえんです。9条に関わる問題と25条に関わる問題は関連しています。  
「同盟関係というものは、弱い方はわなにかかる。弱い方は最大限手を貸す。強い方は、自国の利益のためには相手を切る。放棄する。」という指摘は、同盟関係のポイントを突いています(07年10月4日明治大学で行われた名古屋大学・愛敬浩二教授の講演)。  
このような重大な国策を決めた安保条約は、当然ながら、国民の強い反発を呼びました。「安保改定阻止国民会議」は59年3月に結成されていましたが、60年1月の日米交渉妥結で反対運動が一気に全国に広がりました。条約反対という反戦的な運動が主軸ですが、5月の衆院の特別委員会における警官隊を導入しての質疑打ち切り・強行採決、あるいは本会議における討論なしの単独可決は、重大な国政の決定に対する民主主義の重大な危機ととらえられ、以後民主主義を守る運動としての色彩を強めました。6月の4日には560万人を超える組合員がストに入り、2万の商店がシャッターを下ろしました(閉店スト)。同月15日、580万人のストと共に、13万人の国会請願デモの際、警官隊の暴行によって多数の負傷者を出し、大学生樺美智子が死亡すると、反対運動は頂点に達します。  
安保条約は、参院で実質審議が行われることなく、6月19日に自然成立し(憲法61条)、同23日、批准・発効しました。しかし、岸内閣は、混乱の責任を取って翌7月、総辞職しました。国民の積極的な意思表示の行動によって内閣を退陣させたという意味では民主主義にとって歴史的な意義を持ちました。同時に、岸信介に代表される戦前の政治家による強権的な政治の続行は不可能となりました。  
1961年 所得倍増計画

 

高度経済成長の時代  
新安保条約で憲法の平和の理念が空洞化すること、及び民主主義が蹂躙されたことに対する国民の反対運動は空前の高まりを見せました。それは、この頃から肯定的に用いられるようになった「市民」の力の増大を意味しました。そのため、政府・与党は大きな危機感を抱き、60年7月、岸内閣は任期途中で退陣、代わって池田隼人内閣を誕生させました。国民運動は、安保条約の成立は阻止できませんでしたが、条約を消極的軍事同盟に止めたこと、自衛隊を個別的自衛権の枠で縛ったことなど、「軍事小国主義」の道から踏み外させなかったことは、その成果でした。  
池田内閣は、「国民所得倍増計画」を政策の目玉として掲げました。池田首相は、独特のダミ声で“10年間で月給が2倍になる”と分りやすい説明を行ない、国民に強くアピールしました。「所得倍増という経済政策の問題で国民統合を実現したのは、日本の政治の画期的な転換」でした(中村隆英「昭和史U」)。この計画は、道路、鉄道、工業用地など産業基盤の公共投資を軸にし、社会福祉の増進や農業保護にも一定の予算を振り向けることにより、年率7,2%の経済成長を想定していました。計画期間の61年から70年の間の実績は10.9%と上回りました。国民1人当りの消費支出は10年で2.3倍になり、「東洋の奇蹟」と呼ばれました。  
尤も、この計画の背景には、既に55年から始まっていた経済の高度成長があり、「所得倍増計画」はそれに乗った側面がありました。高度成長は73年まで続きました。管理されたケインズ経済政策としての政府の所得倍増計画、そして18年間の高度成長を可能にしたのは、1財政・金融面では、投資の源泉である高い貯蓄率、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、輸出に有利な円の固定制(円安)、低率の法人税、2労働力の面では、農村の余剰労働力を活用した良質で安い労働力の大量供給、労使協調する企業内組合を要素とする強固で安定した「企業社会」の構築などが挙げられます。さらに、4冷戦期の日本をアジアにおける中核的な反共工業国として育成するというアメリカの戦略があったことも見逃せません。アメリカは、アジア諸国からの日本に対する戦後補償を値切ること、朝鮮やベトナムの戦争特需で多大な寄与をしました。また、5平和運動の高まりが、防衛関係費の対GNP比を1%以内に抑えたこともポイントの一つです 。  
吉見俊哉氏は1月20日に刊行された近著「ポスト戦後社会」の中で、「高度経済成長」は「70年代初頭までの(歴史の)最大のモメント」であり、「近年の多くの研究が示すように、戦時期を通じて強化されてきた総力戦体制の最終局面」でもあったと記しています(ちなみに、70年代以降の最大のモメントはグローバリゼーション)。  
大局的には、“一生懸命勉強し、働けば豊かになる”経済の高度成長期は、人権の保障という点でも評価されます。1第1に、経済成長は賃金の上昇と働く場の提供(ほぼ完全雇用)として国民に還元されました。2また、労働力不足も要因になって賃金の平準化・農村と都市の経済的格差の相対的縮小、すなわち一定の平等化が進行しました。この点、02年〜07年の景気拡大期には株式配当や経営者の報酬が著増する一方、労働者の賃金の低下と格差拡大・貧困化がもたらされたのと対照的です。  
経済成長の最優先は、一方で公害の多発など生活環境の破壊、農業の荒廃、過密と過疎、お金万能主義の考えなどさまざまな問題を引き起こしました。  
1962年 「昭和30年代」

 

レトロ趣味?「空気」が濃かった時代  
「昭和30年代」(1955年から64年までの10年間)というキーワードがブームになり始めたのは2002年頃からでしょうか。05年頃からは書店や図書館の棚にも、「昭和30年代スケッチブック―失われた風景を求めて」「東京慕情 昭和30年代の風景」 「なつかしの昭和30年代図鑑」「昭和30年代主義―もう成長しない日本」その他類書が最近になるほど増えて来ています。シネマでも、昭和33〜34年の東京・港区界隈の情緒あふれる商店街を描いた『ALWAYS 三丁目の夕日』、『ALWAYS続・三丁目の夕日』が05年と07年に公開され大ヒットしました。06年には、通天閣の見える大阪の下町の屋台の焼き鳥屋家族などを扱った「昭和30年代の日本・家族の幸福(しあわせ)」がDVDになりました。  
「昭和30年代」がキーワードになるのは、昭和31年に「もはや戦後ではない」水準に達し、かつ、高度経済成長の功罪の全体像が目に見える形で現われるようになる以前の時代だからです。  
このブームは、一面では批判的に扱われています。当時はやはり貧しかったし、格差は大きく、非効率だった、それなのに後ろ向きのレトロな懐古趣味に過ぎないのではないかと。  
確かに、その側面はあります。しかし、それ以上に、世紀は新しくなったのに未来の展望が見出せない閉塞感から脱却するためのヒントが隠されているのではないかという思いが、ブームを呼んでいるのでしょう。1当時は、『三丁目の夕日』の映画にも出てくるように、人々の人情の篤さが健在でした。親は権威的でしたが家族は肩を寄せ合い、街には生活を彩る駄菓子屋、紙芝居、銭湯があり地域の横の会話がありました。会社で働く仲間との関係も含めて、物心両面で助け合う共同体の原風景がありました。映画や漫画はエゴイズムの克服と連帯の形成をテーマとするものが多く見られました。2経済は右肩上がり成長し、その成果は還元されるという「信頼」に基づく「元気」がありました。3都会にも空き地や緑が多く残っていて、野比のび太やジャイアンは、広場の土管の中で遊んでいました(漫画「ドラエもん」の連載開始頃)。4人々はそれなりに「夢」や「理想」を持っていました。この頃はやった歌に「幸せのうた」があります。“仕事はとっても苦しいが 流れる汗に未来をこめて 明るい社会をつくること”。吉永小百合主演の映画「いつでも夢を」の世界は自然に受け入れられました。「普遍的な理性」や「近代」に対する信頼がその基礎にあったと言えるでしょう。  
その後、徐々に様相は変わってきました。上記の番号に即すると、1人々の孤立化が進み、映画や文学では都会の青年の孤独な心象風景が多く採りあげられるようになりました。豊かさを得た代わりに、人と人との交流が減りました(週刊金曜日06年9月8日号)。2経済の成長には限界があることが明確になってきました。資源、エネルギー、環境破壊などのほか、資本主義経済の舵取りが極めて困難な事態を迎えています。3自然環境の破壊が進行するとともに、高層ビルでの生活、自室に閉じこもってのゲーム遊びなど、日常生活において人間と自然の接触が切断される傾向に拍車がかかっています。自然と共生して種族保存してきた人間の存続可能性や人間の属性の変化への不安が増しています。4「自分を生きている」という実在感が希薄になり、虚構の世界ないしバーチャルな世界で生きているという浮遊感が広がっています。1970年代頃からは、「理想の終焉」とも言える風潮が強まっています(ポスト・モダン思想)。1970年代後半以降は「消費社会」と称され、都市農村を問わない地域共同体の解体=共同体から隔絶した個人の時代となっています。このような情況の中で、現在、新たな「貧困」が深刻な問題となっています。  
憲法が目指す人間の「自己実現」を可能にするために、いかに生き、いかなる社会を創ったらよいのでしょうか。「モノと人間のバランスがとれていた希有な時代」(「読売ウイークリー05年10月30日号」の「昭和レトロを究める(上)」)である「昭和30年代」を、大きな視点から検証することは大変意義深いことだと思います。  
1963年 「人間裁判」

 

朝日茂さんの壮烈な“権利のための闘争”  
憲法25条の「人間らしく生きる権利」(生存権)が大きな問題になっています。年末年始には東京・日比谷公園の「派遣村」が大きく報道されました。「貧困」が社会全体の共通認識になっていることを示す象徴的な出来事でした。「人間らしく生きる権利」を正面から採り上げたのが、朝日茂さんが起こしたいわゆる「朝日訴訟」です。朝日さんは、第1審後の1963年、死期の迫る病床で手記「人間裁判」を執筆しました。「朝日裁判は、戦後日本の社会保障の歴史のうえで、最初のそして最大の裁判であった。朝日裁判をぬきに日本の社会保障をかたることはできない」 。  
朝日さんは、日中戦争中重い結核にかかり、国立岡山療養所に長期入院し、生活保護法に基づく医療扶助と月額600円の日用品費の生活扶助を受けていました。しかし、600円では、病状が悪化して病院食が口に入らないため生卵を飲むなど補食に必要なお金がなく、2年に1枚の肌着、1年に1枚のパンツでは足りませんでした。そこで、日用品費の額は憲法25条及びそれを受けた生活保護法に違反するとして、1957年に提訴しました。憲法25条1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定は、生存権という基本的人権を保障したものだという主張です。当時この規定は、もっぱら国家の政治的・道義的な責任を規定したものに過ぎず権利を保障したものではないとする見方(プログラム規定説)が一般的でした。  
喀血しながらただ一人権力に立ち向かうという朝日さんの気力そのものが多くの人の感動を呼び、「人間にとって生きる権利とは何か」を真正面から問いかけるこの裁判は、「人間裁判」と呼ばれました。また、生活保護の基準は、最低賃金額の参考にされるなど多くの国民の生活に関わる広範な問題であることの理解も広まり、国民的な訴訟支援運動が巻き起こりました。裁判の詳細は「憲法MAP・岡山編」及び浦部法穂著「憲法の本」をご覧ください。注目されるのは、1審の東京地裁(1960年10月19日)が朝日さんの主張を認め、厚生省の決定を憲法25条の趣旨に合致せず違法と判断し、25条は人権であると認めたことです。「健康で文化的な最低限度の生活」とは、「理論的には特定の国における特定の時点において一応客観的に決定すべきものであり、またしうるものである」と明確に述べました。1963年の2審は、原判決を取消したものの、日用品費の基準は低すぎ、月670円が妥当だとしました。パンツは年1枚で足りるが、チリ紙は月1枚でよいというものでした。朝日さんはその後の1964年に還らぬ人となり訴訟は養子が引継ぎましたが、最高裁は1審判決と異なり、生活保護費は厚生大臣の裁量に任されていると判断し、プログラム規定説に近い立場を採りました。  
しかしながら、政府は、裁判の過程で1審判決に強いショックを受け、その翌年に生活保護基準を30%以上引き上げ、以後も改善して行きました。裁判の役割は司法の場だけでなく、政治や行政にも生かされることを国民は学びました。人権とは、国民が闘い取るものであるという憲法12条、97条の精神を文字どおり命をかけて実践した朝日さんをしのぶ「人間裁判の碑」が朝日さんの地元の岡山県・早島町に建てられています。今年も2月の命日に恒例の碑前祭が行われました。「朝日茂さんに内在し、その血を吐く苦闘、鮮烈な生き方、勇気ある思想、人間的な立ち振る舞い、やさしい息づかいなど細部にふれて、現代に生きる一人ひとりが明日に向かって生きる希望と励ましを受け取る」 。  
現在、生活保護制度が利用可能な人のうち、利用できている人は約16〜20%の124万世帯、156万人です。独英はそれぞれ70%、80%を超えています。ヨーロッパ諸国では多くの国が貧困の実態調査をして貧困の削減目標を立てています。しかし、日本政府は調査をしたこともなく、当然削減目標も立てていません。後藤道夫教授の分析によれば、勤労世帯中、生保水準以下の生活の貧困世帯は、07年で675万世帯(19%)です。貧困は、人間の尊厳を奪い、場合によっては命も奪います。そして、貧困の広がりは社会を分裂させ崩壊させる危険性があり、社会に住むすべての人の問題です(宇都宮健児「反貧困運動の前進」・世界09年3月号)。生活保護の老齢加算や母子加算が廃止・削減され、さらに保護基準そのものの切下げも検討されている現在、朝日さんの「鮮烈な生き方」は多くのことを語りかけています。  
1964年 「世界は一つ」東京オリンピック開催

 

1964年10月10日から24日まで、東京を中心として開かれた第18回オリンピック競技大会、いわゆる東京オリンピックは、アジアで最初のオリンピック開催となりました。近代オリンピックは、1896年のアテネ大会を第1回とし、日本は1912年から参加しました。1936年には、1940年に東京で開催することが決まりましたが、日本は翌1937年に日中戦争を勃発させ戦争の遂行を優先、38年にオリンピックの開催を返上しました。そして40年に予定していた開催から24年後、ついに念願が実現しました。今また、東京は2016年のオリンピックの開催都市に名乗りを上げています。  
近代オリンピックは、後に「近代オリンピックの父」と呼ばれる、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって始まりました。列強が覇権を争う帝国主義の時代に青年期を過ごした彼は、国家の枠組みを越えたスポーツによる人間個人の教育と国際平和に強い関心を持ちました。彼は、「人生にとって大切なことは成功することではなく努力することであり、オリンピックの理想はスポーツを通して心身を向上させ人間を作ることだ。オリンピックには参加するまでの過程が大事であり、そして参加することは人と付き合うことであって、文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」ことをオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)として提唱しました。「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、実は彼の創作ではありませんが、彼はこの言葉に強く共鳴し、しばしば引用していました。  
さて、64年の東京オリンピックは、高度経済成長の中で、日本が先進国に肩を並べるまでに発展してきたことを象徴するできごとでした。同時に新幹線も開業し、モノレールも開通。首都圏は建設ラッシュにわき、幹線道路が通りその上を首都高が走るという都市改造にオリンピックは絶大な力を発揮しました。テレビ中継を視た人は97%に達し、優勝した「東洋の魔女」日本の女子バレーの視聴率は、NHKだけで空前の85%を記録。日本は予想の2倍を超える29個のメダルを獲得し、16個の金メダル数は米ソに次いで世界で3位となりました。  
憲法13条は、個人の尊重を受けて、幸福追求権を保障しています。スポーツを楽しみ、心身を鍛える権利、スポーツをする権利は広い意味での人権として「幸福追求権」に含まれています。前文は諸国民の平和的生存権を規定しています。オリンピズムは、まさに日本国憲法の理念を体現していると言えるでしょう。  
この観点から、東京オリンピックあるいはオリンピック全体についていろいろな議論があります。  
開会式の当日の毎日新聞は「オリンピック精神に帰れ」と6段抜きの社説を掲げ、「近年は‥‥オリンピックは国の威信のまたとない宣揚の場」となり、「ナショナリズムがスポーツを引きずり回す傾向」にあることに警鐘を鳴らしています。ナショナリズムには功罪があります。しかし、オリンピックが国内の少数者の声を抑圧したり、対外的な覇権を強めるために利用されることは常に戒められなければなりません。  
この社説ではナショナリズムと関連して、政治の要素の混入の排除も主張しています。東京オリンピックの標語には、全国から集まった36万通の中から「世界は一つ」が選ばれました。しかし、新興国競技大会に参加した朝鮮人民民主主義共和国とインドネシアの選手団に課された出場停止処分は解除されず、両国選手団は選手村に入れないまま帰国しました。不参加の中国は、大会期間中初の核実験を行いました。「世界が一つになって平和を目指す」ためには、普段からの外交や政治が憲法の平和と国際人権の理念に則って積極的に行われていることが極めて重要であることを示しています。  
社説はさらに、「総じてプロ化の傾向にある」として、アマチュアリズムの重要性を訴えています。「参加すること」よりも「勝つこと」を優先し、おカネのない人は参加するための標準記録に達することができなかったり、メダルを取れず肩身の狭い思いをするとすれば、オリンピズムに反します。近年深刻化している薬品を使用した肉体改造も重大です。プロ化は、選手が広告塔となったりする商業主義化とも密接です。商業主義と言えば、長野オリンピックでは特定の企業グループのスポーツ産業開発との癒着が問題になりました。これは、「人間」よりも「経済」の方が大事であるという主客転倒した昨今の風潮に関係する根深い問題です。また、100年前には想像できなかった、環境破壊も見逃せません。  
最後に、オリンピックに限りませんが、スポーツの競技会は、私たちがスポーツをする権利を行使する延長線上に設計されるべきものです。スポーツができる自然や施設、そして時間の確保・拡充と結びつけて考えることが、オリンピックの精神にも適っている一番重要な課題でしょう。 
1965年 日韓基本条約発効

 

1951年の講和会議では、1910年の日韓併合以来植民地となった朝鮮は排除されました。当時の吉田首相やイギリスが、朝鮮は対日参戦国ではないという理由で招請に反対したことなどが理由です。しかし、45年のポツダム宣言の受託によって日本の植民地支配は終了していたことに鑑みると大きな疑問を残しました。結局、終戦から20年も経過したこの年、日本と大韓民国政府との間で日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)の批准書が交換され、関連する協定とともに発効しました(12月18日)。条約は日本の植民地支配が終わっていることを法的に確認し、両国間の国交を正式に樹立するものでした。  
条約の交渉は15年の長きに及ぶ難交渉でしたが、この年に多くの問題を先送りして急遽締結されました。その背景として、この年北ベトナムの爆撃を開始したアメリカ、ベトナム派兵を決めた韓国、そして日本の3国の軍事的な関係の強化をアメリカが急いだことが指摘されました。そのため、朝鮮の南北分断を固定化させることへの懸念とあいまち、条約締結に対して日韓双方で激しい反対運動が起きました。しかし、両国とも条約の締結が強行されました。  
問題点として、1韓国を朝鮮半島全域における唯一の合法的な政府としました。そのため、現在に至るも、朝鮮人民民主主義共和国との国交は樹立されないという極めて異常な事態が続いています。21910年の日韓併合条約については、日本は韓国の独立時に失効、韓国は当初から無効と主張しました。この点も現在でも歴史認識の問題として争われています。3在日朝鮮人のうち、韓国籍を持つ者についてのみ永住権等が認められました。4対日戦勝国として戦争賠償金を求める韓国に対して日本は、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対してそれを支払う立場にないと主張しました。結局韓国が妥協して、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が締結されました。内容は、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び貸付です。これによって、国民の請求権に関する問題は、「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とされました。しかし、同時に協定には、「供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない」と規定され、事実大部分はインフラの整備等軍事政権の基盤の強化に使われました。軍人・軍属・労務者に対する補償は僅か(日本円にして3万円)でした。終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元性奴隷の方々には全く補償がありませんでした。  
そのため、1990年代以降、冷戦体制が崩壊し民主化が進んだ韓国からは、他のアジア諸地域からと同様に、軍事政権の正統性を問うことと並行して、日本の戦争責任の追及・個人からの対日補償要求が台頭し、重大な問題となっています。  
1966年 全逓東京中郵事件最高裁判決と内閣の人事政策

 

資本主義の時代にあって各国の労働者は激しい闘いを経て、労働条件の切下げに抗し、生活を向上させるために不可欠な権利としての労働基本権を獲得してきました(憲法28条)。この労働基本権は、法制上認めらるに至った後も、その行使を巡る攻防は政治的、社会的に極めて重大な、ある意味で核心的な問題として位置づけられています。日本は、先進資本主義国の中では、国際労働機関(ILO)からの度重なる厳しい勧告も無視して公務員等に対する労働基本権を厳しく制約し続けている特異な国です。  
1966年、最高裁判所は世間をアッと言わせました。核心的な問題についてそれまでの判例を変え、画期的に方向転換して国際水準に接近したからです(10月26日、全逓東京中郵事件大法廷判決)。今、郵便局は民営化され、職員は公務員ではなくなりました。その前の時代の話ですが、歴史的な裁判です。  
民間であれ、公務員であれ、勤務時間中に職場を離脱して仕事をしないことが許されないのは当然なことです。しかし、民間の場合争議行為としてなされた場合は、正当な行為として刑罰は科されません。しかし、旧郵便局など公共企業体の職員は、公務員と同じく争議行為は違法とされてきました。違反した場合、刑罰まで科すかは争われていました。最高裁は、公務員は「全体の奉仕者」(憲法15条2項)であることを理由に、争議行為を煽った者等に刑事罰を科すことを合憲としてきました(第1期)。しかし、「全体の奉仕者」であるということは、公務員は旧憲法時代と異なり「国民の使用人として一党一派に偏することなく国民全体に奉仕すべきであること」を意味するに過ぎません(浦部法穂「憲法学教室」)。  
66年の最高裁は、「全体の奉仕者」の理論を否定しました。判決は、公務員(及びそれに準じる者)も憲法28条の保障を原則的に受けるべきものだとしました。その上で、この権利の保障と国民生活全体の利益とを比較衡量して両者を調整すべきであり、権利の制限は必要最小限度にとどめるべきだとしました。この観点から、争議行為が国民生活に重大な障害をもたらすなどの例外的な場合を除いて、刑事制裁は科さないと判示しました(第2期の始まり)。原則として刑事罰から解放し、憲法、労働法、刑法などの学界の通説に追いついた判決であると高く評価されました。この判決の立場を踏襲・発展させたのが、69年の地方公務員に関する都教組事件、国家公務員に関する全司法仙台事件の最高裁判決です。  
あわてたのが政府です。最高裁の裁判官は内閣が任命します(89条1項)。司法の判断が政治の基本的な枠組みからはずれるのを防ぐことは、この制度によって可能とされてきました。しかし、政府にとっては想定外の判決が出たのです。従来、裁判官出身の最高裁裁判官は、基本的人権を尊重する少数意見を少なからず書いていました。実務的に優れた裁判官であることと、憲法感覚に優れた裁判官であることが一致する場合が増えてきていました。他の要素も重なり、66年のこの判決でついに人権を重視する最高裁判事が多数になりました。そこで、政府は最高裁の裁判官の人事政策を変更し、判事出身の裁判官を任命するに当っては、政府の意向に忠実な人をより厳しく選ぶことにしました。裁判官人事など司法行政事務を豊富に経験した裁判官が多数任命されるようになりました。  
その効果が現われてきたのは、73年の全農林警職法事件です。「雪どけ」とも評された第2期の判決の論理は全面的に否定され、再び公務員の争議権の全面的な否認に逆戻りさせられました。以後現在に至るまで長い第3期が続いています。第3期の主力となった裁判官出身の最高裁裁判官・最高裁事務総局は、憲法の理念を重視する下級裁判官に様々な圧力を加えるなど、司法行政面でも豪腕を発揮しました。司法権の独立(76条1項)は、三権分立、ひいて基本的人権や平和の保障の生命線です。今なお、重大な課題です。  
「全逓中郵判決を契機として、財界・政府・自民党などによる、司法に対する激しい政治的・思想的攻撃が開始された。その攻撃目標とされたのが青法協であり、裁判所は全体としてこれに対抗し切れなかった」「68年については、逮捕状請求につき0.20%、拘留請求について4.57%、‥‥が却下されたのに比して、30年後の97年になると、逮捕状請求につき0.04%、拘留請求について0.26%‥‥(いずれも司法統計による)に落ち込んでいる。捜査、取調べの側からの令状請求に対し、国家組織の中で司法的チェックを本分とする裁判所が独自の判断で「ノー」と言うことがほとんどなくなっているのであるすなわちそれは、裁判所が権力機関としての機能だけは急速に肥大化させながら、市民の権利を守る機能の方は徐々に無力化いていく「官僚司法」へと大きく脱皮、変貌していった経過と考えられる」(以上秋山賢三「裁判官はなぜ誤るのか」)。「1960年代末から70年代前半にかけて『司法の危機』、偏向裁判批判と呼ばれる出来事がある。偏向裁判批判とは、直接には。1967年ころから、雑誌『全貌』などのいわゆる『右翼的ジャーナリズム』や日経連タイムズなどの財界誌、さらには、自由民主党の機関紙『自由新報』などによりなされた69年4月の都教組事件最高裁判決を受けて、翌5月には自民党司法制度調査会が設置された」。  
1967年 全国で革新自治体広がる/ベトナム戦争と日本

 

T 全国で革新自治体広がる  
67年4月の都道府県知事選挙で、東京都では社会・共産両党が推した経済学者の美濃部亮吉氏が当選し、革新知事が誕生しました。それ以前にも京都府では蜷川虎三知事、横浜市では飛鳥田一雄市長など革新首長が選出されていましたが、67年はこの傾向が強まりました。71年には、大阪府の黒田了一氏(憲法学者)を含む160の革新首長が活動しています。これらの背景には、高度経済成長の結果、全国で公害問題や都市問題が深刻化して住民運動が活発になったことなどがあります。革新自治体は、政策面では環境保護のための公害規制や福祉の充実など政府の行政よりも人権保障を重視した政策を実行して、政治をリードしました。そのため、国の法律よりも人権保障に厚い自治体の条例は法律に違反するのではないか、憲法上問題になりました。「地方自治の本旨」(憲法92条)に基づき地方の政治を優先させるのか、中央政府による集権的な政治を優先させるのかに関わる根の深い問題です 。  
U ベトナム戦争と日本  
ベトナム戦争は大変長く、かつ極めて残虐な戦争でした。エポックメーキングなことはたくさんありますが、良心的兵役拒否ともいうべき行為をした4人の米兵を日本の市民が支援した1967年で採り上げます。  
第一次インドシナ戦争で北ベトナム(ベトナム民主共和国)に敗北したフランスは、1954年、ベトナム統一総選挙実施を決めた休戦協定(ジュネーブ協定)を結びました。2年後のこの選挙の実施に危機感を持ったアメリカは、南ベトナム(ベトナム共和国)の軍事支援に乗り出しました。これに対して南ベトナムの反政府勢力は60年、南ベトナム解放民族戦線を結成、これを支援する北ベトナムと南ベトナム・アメリカとの第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)は深刻な戦争に発展しました。アメリカはピーク時には軍艦を含めると68万人を超える軍隊を派兵して北ベトナムをも爆撃、第二次世界大戦に使用した3倍の砲爆弾、枯葉作戦、ナパーム弾など大量破壊兵器を動員しました。100万人を超える死者と数千万人の負傷者を出して戦争が終結したのはやっと1975年でした。世界最強を誇るあるアメリカが、東南アジアの小国ベトナムに完全に敗北を喫したことに、世界は驚愕し、刮目しました。  
冷静にみると、アメリカが敗北せざるを得ない理由がありました。一つは南ベトナムでの戦争が地主階層から土地を解放する戦争として農民らの強い支持を得ていたことです。もう一つは、ベトナム民族の強固な自決権を軽視していたことです。他人(地主)や他国(フランス、日本、アメリカ)に支配されず自由で人間らしい生活をしたいという欲求は人間にとって基本的なものです。アメリカは、これを資本主義と共産主義の代理戦争と位置づけましたが、それではベトナム人の強力な抵抗を説明することはできません。アメリカは本質を見誤った愚を犯したと言えるでしょう。しかし、今アメリカは「歴史に学ぶ」ことをしないで、イラクやアフガンでの戦争をイスラム原理主義との戦いとみなし、同じような間違いを犯しているかに見えます。  
日本政府は一貫してアメリカの政策を支持し続け、沖縄はベトナムへの出撃拠点となりました。横須賀などの本土の基地も提供しました。報道されていないようですが、深夜の東京近郊の米軍基地には戦車のチェーンについた肉片を洗い落とす、一桁違う高級の学生バイトの姿がありました。日本の支援なくしてはアメリカのベトナム戦争は不可能だったという点で、日本は戦後も、朝鮮戦争に続いてアジアに対する加害国になりました。「戦後の日本は平和だった。日本人は平和ボケだ」としばしば語られます。しかし、日本は国際法上はこの時点で戦争当事国だったと言えます。ベトナム戦争は戦争犯罪であり東京法廷も開催されましたが、安保条約にも違反していました。第6条に在日米軍の守備範囲として規定されている「極東」の範囲を超えており、日本を基地として米軍が出撃する場合には日本と事前に協議するという条項も完全に破っていました。  
ベトナム戦争に対しては、今のイラク戦争等より激しい抗議行動が世界で展開されました。一つは、米兵の死者が多数に上りアメリカの世論を激しく動かしたからです。ジョンとヨーコは「Bed In」で抗議しました。もう一つは、ジャーナリストが戦場に入り、戦争の悲惨さを世界に知らせたからです。「西側記者の目」だけでは真実は伝えられないとの認識のもとに「泥と炎のインドシナ」レポートなど命を張った毎日新聞の大森実外信部長らによるジャーナリズムが健在でした。今の戦争はこの二つの「教訓」を踏まえ、無人爆撃機に代表される攻撃側の犠牲者を出さない非対称の戦争の性格を強め、かつ戦場からジャーナリストを締め出しています。  
ベトナム戦争に関与したことも反映して、日本でも反戦の運動は高まりました。高畑通敏や鶴見俊輔が提案し小田実が代表となったベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は、「普通の市民を幅広く集める」「組織ではなく運動である」新しい表現のスタイルを生み出しました。67年、横須賀に寄港した米軍空母から脱走した4人の水兵がベ平連の援助で脱出に成功して大きな注目を浴びました。「愛国的脱走兵」を自称し、「米国憲法の権利章典に保障された権利を行使する」という趣旨の2人の19歳の脱走兵の声明文について、小田は「私には日本語でこれを書けるだろうか。書けない。」と記しています。  
1968年 学園紛争の季節

 

68年から69年にかけて、全国の大学を中心とする学園紛争が燃え盛りました。紛争は、60年代の半ばから始まり(64年の慶応大学、65年の早稲田大学、66年の中央大学の各学費値上げ反対闘争など)、ピーク時には、全国の大学の約8割に当たる165校がストライキを含む紛争状態に入り、その4割以上の70校でバリケード封鎖が行われました。  
68年に拡大した背景には、世界の青年・学生等の運動の高まりがあります。中国の文化大革命の若者のスローガンである「造反有理」、ソ連型社会主義に反発して市民が起ち上がった旧チェコスロヴァキアの「プラハの春」、そして世界各地で起きたスチューデント・パワーと呼ばれる大規模な学生運動です。   
中でも、パリの「五月革命」は大きなインパクトを与えました。ベトナム反戦デモに関するソルボンヌ大学の管理強化に抗議する同大学の学内集会に端を発して、カルチェ・ラタンでは市街戦になりました。賃下げなどに反対する労働組合も加わり、運動はフランス全土に拡大して、最終的には政府に「参加の社会」実現を公約させ、強大だったド・ゴール政権を倒しました。ドイツでも学生を中心とする反戦運動の盛り上がりは、保守中道政権からリベラルな中道左派政権への交替のきっかけになりました。アメリカでは、学生運動の枠を超えて、ベトナム反戦運動、黒人の公民権運動、女性解放運動が連動して、リベラルな文化の基盤が拡大しました。これらの学生運動に共通するのは、従来の左派政党や労働組合による権力奪取を目的とする運動と異なり、管理しようとする既成の権力に対する新左翼的な傾向の強い「管理化されることに抵抗する民衆」としての闘争といえるでしょう。大衆社会化、脱工業化が進み、学生も大衆化していました。  
日本の学生が立ち上がった原因として、一人ひとりがトータルな人間として成長し発展しようと希望に燃えて進学したのに、マスプロ教育や自説を述べるだけで教育に情熱のない教員たちなどに失望したことがあります。進学率の急激な上昇に伴い、学生数は10年間で約10倍に増加したのに、大学側の教学改革は遅れていました。また、大衆化した大学生にとって、高い学費は重い負担となりました。教育を受ける権利(26条)の保障の不備です。  
また、当時、ベトナム戦争を戦うアメリカと日本政府に対する激しい怒りや、70年に迎える安保条約自動延長への反対も盛んでした。  
さらに、本来民主主義国家をリードする役割を期待されれるべき大学に残存していた古風な権威主義があります。学生の団体結成や印刷物の自由な発行を認めない日本大学における学園民主化闘争、医学部の医局の徒弟制度に端を発し、集会・デモの自由などが問題になった(行政法ないし憲法でいう「特別権力関係」)東大の大学自治を担う主体の拡大を求める闘争などが広がりました。  
学生らの不満は、教員に対する不信、さらには、「戦後民主主義」や「近代」自体という既存の社会秩序に向けられ、近代の知性を代表する存在だった丸山真男教授らも激しく批判されました。  
学生間の温度差は大きいものがありますが、高度経済成長による物質的豊かさの追求の波に飲み込まれることを容認する自己を「解体」し、そのことを通じて自己実現したいという願望が底流にありました。各クラスで活発な討論がなされました。その結果、ストライキが多発しました。方法論をめぐっては各セクトの間で激しい議論があり、バリケードの構築、大学封鎖も行われ、「大学解体」さえ叫ばれました。また、率先して「国家権力」に暴力的な攻撃をしかける街頭行動主義と、個々の行動の政治的な意味を考慮することよりも「異議申し立て」自体に力点を置いた政治的象徴主義の傾向が目立ちました(小阪修平「思想としての全共闘世代」)。  
紛争の結果、一般的には大学の民主化、教学の一定の改善がみられました。それを受けて、70年代は大学による自主改革と官僚統制の拮抗期に入りました。  
しかし、多くの問題も残しました。学生と教職員のそれぞれの間が多数の各派に分裂したことは、肝腎の大学の自治(憲法23条)の担い手の拡大の未達成、大学の管理を強めようとする政府への対抗力の劣化を招きました。また、多くの学生が暴力行為を繰り返し、建物を占拠したことは、機動隊の学内導入という大学の自治の破壊を惹起しました。  
大学紛争の頃から勃興したポスト・モダンの思想は新しい社会構想や希望を誕生させたのかも問われています。  
社会との連携を欠いたまま「革命」が主張され、暴力も容認・行使されたことは、一般の市民にとっては理解できないことであり、学生たちは孤立し、社会や文化の変革につながりませんでした。欧米と異なるところです。そもそも、憲法でいう「平和」とは、「非暴力」を意味するのではないか(前文)、厳しく問われました。  
但し、暴力化は、政治権力が誘導した側面がありました。大学紛争で多数の学生が起訴され有罪になる中、リーダーだった学生の起訴が取り下げられたこともあります。彼が当局と通じていたことを知ったある学生は自殺しました。68年10月21日の国際反戦デーでは、新宿駅の騒動に騒乱罪が適用されました。適用のきっかけになった駅構内の放火に関しては、学生や群集以外の異様なグループの存在が示唆されました。  
今、一つの時代の主役である団塊の世代は、多くは企業戦士としての勤めを終えて、続々と定年を迎えています。これから長い余生をどう過ごすか、話題になっています。  
1969年 公害の多発

 

現代の「いけにえ」を作った企業・政府  
1969年、鎮魂の文学「苦海浄土―わが水俣病」(講談社)が出版され、日本列島に激震が走りました。生後3か月から水俣に住んでいた主婦・石牟礼道子が水俣病の患者のようすを土語で克明に記録し、告発した書です。「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらおう。奥さんがたにも。」(同書より)。石牟礼さんは、今も“語部”として“文闘”し続けています。  
この年は水俣病訴訟が提起された年でもあります。  
水俣病は、熊本県・水俣市の企業であるチッソの工場排水などに含まれるメチル水銀化合物が魚介類に蓄積されることによって起きた中毒性中枢神経疾患で、手足の麻痺、歩行困難、目や耳の不自由、知能障害等を伴い、重篤な場合は廃人になり、死に至ります。すでに戦前から「猫踊り病」などとして知られていましたが、53年に第1号患者が発生し、死者も出ました。政府が公式確認したのは56年です。熊本大付属病院は原因は工場排水にあると報告していましたが、国も県も排水を調査せず、調査をチッソに命じることもありませんでした。排水は、政府が水俣病を公害病として認定した68年まで続きました。長年に渡る政治と行政の放置政策が被害を拡大させました。  
水俣病の放置は、新潟県の昭和電工の工場排水による新潟水俣病を発生させました。これ以降、水俣市のケースを熊本水俣病、新潟県のケースを第二水俣病または新潟水俣病と呼ぶようになりました。この二つに加えたイタイイタイ病、四日市ぜんそくの四大公害訴訟はいずれも60年代後半に集中して提訴されました。「MINAMATA」「KOUGAI」は国際的な言語となりました。  
公害運動の先駆者の1人である宇井純は、公害の歴史を、165年の新潟水俣病の発生までの、患者が少数者として社会の片隅に追いやられ無視された長い時期、265年から75年頃までの少数派運動が全体を引っ張っていく時期、3それ以降の行政と政治の壁に対して患者が繰り返し挑んで跳ね返される時期の三つに分けています。この3つの時期を通じて、多数派は息をのんでいるだけであり、弱者の運動論はまだできていないと述べています 。  
公害病対策が放置されたのは、経済の高度成長を優先させるという国家政策によるものです。旧通産省は、度々水俣病調査に介入し、工場の生産ラインに支障が出るのを防ごうとしました(吉見俊哉「ポスト戦後社会」)。国民の多数が求めたモノ中心の「豊かな社会」は、公害病患者の“いけにえ”と表裏一体の関係にあります。  
上記2の時期には、運動の高まりを受けて、公害対策基本法が制定され、71年には環境庁も発足しました。2004年には「水俣病関西訴訟」(熊本、鹿児島両県の不知火海沿岸から関西に移り住んだ水俣病の未認定患者45人―うち15人死亡―が、国と熊本県に損害賠償を求めたもの)の最高裁判決がありました。対策を怠った国と県の責任を「「著しく不合理で、違法で、国家賠償法1条1項の適用上違法というべき」と認定し、損害賠償の責任を認めています。  
この判決を受けて、認定申請が爆発的に増えました。しかし、政府は、1977年に当時の環境庁が策定した厳しい認定基準に固執し、司法の判断を無視したままです。この基準は、76年に環境庁長官になった石原慎太郎大臣時代のもので、これ以降企業利益優先・環境行政後退期を迎えます。今国会に、与党は連名で「水俣病に関する特別措置法」を上程しました。この法案に対して患者団体は、「被害者を大量に切り捨て、保障水準も極めて低く、チッソの分社化により企業を免罪する」「沿岸住民の調査もしないまま加害者を救済する法案だ」と反発しています。放置する政治・行政・企業の責任は、実質的には私たち納税者の責任に帰します。  
「環境権」など新しい人権を憲法に明記することは、改憲論の柱の一つになっており、世論調査によると国民の支持もかなり高率です。しかし、この改憲を強く唱える人ほど、水俣病など現実の環境行政には冷たく、改憲は他の目的のための口実に過ぎない傾向が伺えます。環境権はすでに現憲法の13条や25条で保障されています。  
“現場では、まさに「終わらない闘い」が続いていることを忘れてはならない”。ノーモア・ミナマタ訴訟原告代理人の板井俊介弁護士(熊本県弁護士会)は記しています。詳しくは、日本全国憲法MAP熊本編(2)をご覧ください。  
1970年 ウーマン・リブ

 

近現代憲法に対する女性からの挑戦状  
1970年、「女性解放」運動であるウーマン・リブ(ウィメンズ・リベレーション)が産声を上げました。田中美津は、「エロス解放宣言」を各地の反戦集会などで配り始めます。中絶禁止法に反対して72年に結成されたピル解禁を要求する女性解放連合(略称中ピ連)の激しい運動は社会現象となりました。  
これは、60年代後半の大衆化した「ふつうの市民に」よる「ふつうの運動」の流れの中にあります。ボーボワールが「第二の性」で書いた「女に生まれるのではなく女になるのだ 」は、世界の女性たちの心をつかみました。  
ウーマン・リブは、その言葉を作ったアメリカでは、表面的には幸せなマイホーム生活を送っていた主婦たちが、夫や子供のためにだけ生きている「私って何?」という閉塞感から発生しました。ヨーロッパの場合は、学生運動の中から出てきました。従来の伝統的な女の役割に何の疑問も抱かない男性優位社会に対する反発です。日本のリブもどちらかというと、ヨーロッパ型と言われます。私生活の領域での男女差別や「女らしく」振舞うことへの強制を告発し、タブー視されていた性の問題にも踏み込みます(姫岡とし子「戦後五〇年をどう見るか」下所収)。ヨーロッパと日本では近代家族の成熟がアメリカよりも若干遅れていました。  
しかし、70年代半ばまでのウーマン・リブは、「草の根運動体」による時代とは言え、一部の人による運動に止まり、社会全体として女性個人が自己実現したり性別役割分担を打破して行こうという傾向はあまりみられませんでした。高度経済成長の過程で、男性は次第に会社人間・企業戦士になり家庭から遠のき、子育ては女性に任せるようになっていました。「性役割分担撤廃」が女性運動の大きな流れになったのは、「国際女性年」である75年頃からです。姫岡とし子は、「専業主婦から兼業主婦の時代へ」と特徴づけられるこの時期こそ、社会史的にみた女の戦後の決定的な転換点だと言います。農村からの労働力の供給が限界になり、主婦のパート労働がこれに代わったことが背景にあります。  
70年代末からは、女性学が登場し、80年代はそれまでの運動の時代に替わって女性学研究者によるフェミニズムの時代になりました。それらの運動や研究の成果を受けて85年には不十分ながらも雇用機会均等法が成立し、90年代は制度的達成の時代と言われます 。  
ところで、近代憲法は人間平等を掲げ、日本でも日本国憲法の制定によって女性は「解放」されたはずでした。それなのになぜ「解放運動」が起きたのでしょうか。  
ことは近代憲法の人間観に遡ります。人間の平等を強調したルソーでも、平等なのは市民社会と公権力(公共圏)を構成する男性間の平等に過ぎませんでした。資本主義経済の成立過程で自由・平等な個人として厳しい競争関係に生きる「市民」とは男性でした。女性はその男性を家族内部で支える貞淑な妻の役割を求められました。近代社会は、公共圏と家族圏という二元的構成を持ち、人間平等論と女性差別論を両立させました(若尾典子「フェミニズム法学」所収)。近代憲法は、具体的な家族像の規範化を家族法に委ねました。家族法は、性的特質・役割分担にもとづく性秩序を尊重・維持し、近代憲法のもう一つの顔となりました。  
1789年のフランス人権宣言は、女性からは当時から「男性及び男性市民のための権利宣言」に過ぎないと喝破され、1791年には「女性および女性市民のための権利宣言」が発表されました 。  
既にこの頃から芽生えていたフェミニズムの思想は、19世紀後半から20世紀にかけて、国際的に連帯する第1波フェミニズム運動として顕在化し、女性参政権が認められて行きました。しかし、両性の平等はこの公民的権利に限定され、家族法だけでなく、家族生活や社会保障の領域でも性的特質・性別役割論は維持・強化されました。女性参政権保障後の課題は、この問題の克服でした。  
現代憲法はこの課題に答えました。ワイマール憲法は、婚姻における両性の平等を掲げました。日本国憲法24条も家族圏における両性の平等に言及しました。学会には日本国憲法の成立による戦後民主主義の進展をもって女性問題の転換点とみる傾向が見られました。  
しかし、これは憲法の規定の転換に止まり、経済社会、家族の現実は性差を維持したままでした。女性の生活という面では戦前からの連続性の側面が強く残存していました。この連続性に注目したのがウーマン・リブ以降の第2派フェミニズムです。女性参政権はすべての女性に共通していました。しかし、性に関わる問題は中絶やレイプ、DVなど当事者となった女性の個別の問題だという性格を持っていました。それゆえ、当事者個人の資質に問題があるかのように受け止められました。そこで、当事者女性とそうでない女性を結びつける視点として「女性の身体」が注目されました。ウーマン・リブは「ボディ・コンシャス」の要素を色濃く持ちました。  
なお、若尾典子(憲法学)は上記書の中で、女性の人権は日本国憲法の規範構造において最も鮮明に宣言されていると述べています。すなわち、近代憲法は、人権を掲げる国民国家を宣言するがゆえに、軍事力の担い手たりえない女性を公共圏から排除し、この構図は女性参政権の確保によっても変化しませんでした。近現代国家は、戦争に必要な「家族」の擁護を女性に担わせました。国家の対外的な暴力の容認は、家族圏における男性の暴力性の容認・放任の温床になりました。これに対して、日本国憲法は9条によって明確に近代国民国家の枠組みを否定し、人権の普遍性を非暴力によって確保することにしました。9条は、24条と連動して、公共圏と家族圏を貫く男性優位支配からの解放を提示しています。  
貧困が「自己責任」とされた時代から「社会的責任」と認識されるに至った過程と類似した変化があるように思われます。  
1971年 沖縄の返還/金ドルの交換停止

 

T 沖縄の返還  
1971年6月、戦後26年目にしてようやく沖縄返還協定が調印されました。  
沖縄には「非武の文化」があります。沖縄はかつて琉球王国という独立国で、15世紀後半から16世紀前半にかけて約50年在位した尚真王が、武器の携帯を禁止した結果、琉球は武器のない国、人々は「守礼の民」として海外にまで知られるようになりました。沖縄は、武力を持たずどこの国とも仲よく付合う通商に徹した国でした。本土が床の間に槍や刀を飾る「武士の文化」だったのに対して、沖縄は三味線を飾っていたことは象徴的です。  
その沖縄を、明治政府は1879年、軍事力で日本に編入し、沖縄県を設置しました(いわゆる「琉球処分」)。アジア・太平洋戦争の末期、敗戦が決定的になった段階で、本土への米軍の上陸を防ぐ捨石として沖縄を利用、島民の4分の1が犠牲になりました。武士の国が非武の国の民を死亡させたことになります。  
戦後の日本を占領したアメリカは、天皇制を利用して間接統治することが政策的に極めて有効であると考えました。これに対して、天皇制が再び軍国主義の精神的支柱として使われることを警戒した他の諸国は、天皇制の維持に危機感を抱きました。これに対して、アメリカは日本の非武装化で答えました。しかし、非武装化は、沖縄を日本から分離して直接統治し軍事要塞化することと有機的に一体の関係にありました。極東に軍事的な真空地帯を作らないためです。アメリカの政策が、日本を再軍備し、全土に米軍基地を配置する方向に転換しても、そしてサンフランシスコ講和条約で日本を独立させても、沖縄を軍政下に置くことは変わりませんでした。沖縄県民は講和条約が発効した52年4月28日を「屈辱の日」ととらえ、復帰運動を展開しました。それは、9条を持つ日本国憲法、すなわち「非武の国」の憲法が適用されることを願ってのことでした。  
アジア・アフリカ諸国の植民地解放運動もバックになって、沖縄の復帰運動は高揚し、1969年、佐藤栄作首相とニクソン大統領は共同声明で「72年・核抜き・本土並み」復帰を発表、協定は71年に署名され、国会で承認されました。しかし、本土の基地と異なり沖縄の基地からは事前協議なくベトナムなどへの自由な出撃が容認されました。また、07年になって、沖縄への核持込みの密約が存在した決定的な文書の存在が明らかになりました。ベトナム戦争に敗北したアメリカは、沖縄を返還することの代償として、核兵器と海・空軍重視の新しい戦略に切り換え、沖縄と本土の米軍基地機能を強化し、「日米安保」から「アジア安保」に格上げしました。沖縄の基地の重要度は高まり、公約とは逆に「核隠し・基地強化」となりました。そのため、沖縄県民からは、新たな差別と犠牲を強要するという意味で「沖縄処分」と呼ばれています。  
U 金・ドルの交換停止  
通貨の価値や流通は、国民の経済生活に直結し、国民の幸福追求権や健康で文化的な生活を左右する憲法問題でもあります。国際的な通貨政策の歴史は、戦争や無秩序な投機などによって、世界の人々の暮らしを翻弄してきた歴史でもあります。  
資本主義は金や銀という貴金属を貨幣(投資手段)としました。金や銀を得るために南米の先住民を虐殺したのも、これらが貨幣だからです。19世紀の資本主義は、金を準備金として銀行券を発行することで金の量を大幅に上回る信用創造のシステムを開発し、さらに国債や株式などによる投資機会の拡大を考案しました。同時に中央銀行制度によって通貨発行を国の規制下に置くことによって金融秩序を維持しました。20世紀に入ると、まず国内市場で金本位制を廃棄して通貨発行量の金による制約を解除しました。世界経済は金本位制を採っていましたが、第一次大戦で増大した対外債務支払いのため各国とも金を国家に集中させ、通貨の金兌換を停止します。大戦後各国とも金本位制に復帰したのもつかの間、世界大恐慌で総ての国がまた離脱しました。その結果、通貨圏はドル圏、マルク圏、円圏など狭い形でブロック化され第二次世界大戦に突入します。第二次大戦後はこれを反省し、通貨価値を安定させ自由で多角的な世界貿易体制を作るため為替相場の安定が図られました。戦争で各国経済が疲弊する中、アメリカは世界一の金保有量と貿易黒字で世界経済をリードできる立場にあったので、アメリカのドルを中心とする通貨制度が発足します(1945年12月に発効したブレトン・ウッズ体制)。すなわち、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めました(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円に固定されました。ドルを基軸通貨とした国際通貨基金(IMF)、世界銀行が国際経済を支えます。この新体制は、植民地が次々と独立していく中で、大国が各国の経済を支配するための新秩序の構築という側面がありました。  
しかし、アメリカは新しい世界秩序の構築のために世界各地で軍事力を積極的に行使した結果、1950年代の後半からは国際収支は著しく悪化し、金の保有量も激減して行きます。特に60年代後半以降のべトナム戦争の戦費の増大(国家財政の40〜49%)・海外投資の増加・貿易赤字の増大は決定的で、ドルに対する信用は大きく低下し、金1オンス=35USドルの維持は困難となりました(ドル危機)。そのため、71年8月、ニクソン大統領は突然ドルと金の交換の停止と10%の輸入課徴金の実施などのドル防衛策を発表しました。IMF制度を揺さぶる事態であり、実質的な円安によって輸出を伸ばしてきた日本経済は大きな打撃を受けました。その後もドルの急落は止まらず、73年には主要通貨は市場の売買で交換比率がその都度変わる変動相場制に移りました。  
このようにして、米ドルは制度的には基軸通貨としての資格を失いましたが、米ドルは政治力と軍事力でその後40年近く国際取引の中心としての役割を維持してきました。しかし、昨年からの金融危機で、ブレトン・ウッズ体制は実質的にも崩壊する可能性をはらんでいます。  
1972年 日中共同声明/国交正常化

 

戦後の東アジアの歴史は、日米中ソ相互のパワーポリテックスが色濃く支配してきました。1971年7月に発表されたアメリカのニクソン大統領の訪中宣言で米中の関係改善の動きが突然表面化しました(ニクソンショック)。翌年2月のニクソンの北京訪問でアメリカは中華人民共和国を中国の唯一の合法政府として認めました。対米従属一辺倒で中国を敵視していた日本はあわてました。  
アメリカの狙いは、中ソ間に楔を打ち込み進行していた離間をさらに促進すること、中国のベトナム支援を止めさせることなどにありました。一方、中国側は、台湾は中国の一部であると認めさせること、アジア地域で日本が軍事的・経済的に強くなり過ぎないように日本を牽制すること、さらには、中ソ対立がありました。中ソ間では政治路線の違いと領土論争をめぐって緊張が高まっていました。69年、中ソ国境のウスリー川中州にあるダマンスキー島(中国名珍宝島)で大規模な軍事衝突が発生。衝突と前後してクレムリンの指導部内では「中国が核大国になる前に、核兵器で北京などの主要都市を攻撃する」という軍事路線が台頭しました。ブレジネフ書記長は、ホットラインでニクソンに核攻撃した場合の承認を求めました。しかし、中国が倒され世界が二極化されるとソ連の強化につながることなどを懸念したアメリカは中国をつぶすのは下策と見なしました。この経緯は、大統領補佐官ハルドマンの回想録に表れています。そのため、ソ連は対中核攻撃を断念しますが、中国側の危機感は残り、病気で余命が少ないことを悟った周恩来首相はアメリカと手を結ぶことでソ連の脅威を防ぐ道を選びます 。  
しかし、米中間はあくまで関係改善に留まり、国家関係の樹立には至りませんでした。そこで米中関係を後戻りできなくするためにも、中国は対日関係の正常化を望んでいました。一方、日本側も民間は貿易など経済交流を促進することを利益としていましたが、政治の対米従属がそれを阻止していました。そのため、米中接近は政治の障害を除去しました。  
72年7月、自民党の総裁戦に勝利した田中角栄首相は、早速、同年9月29日、中国を訪問して中国の周恩来首相との間で、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」に調印。これにより両国の外交関係が樹立しました。問題点は主に4つありました。1日本側は、1952年の「日本国と中華民国との間の平和条約」(通称日華平和条約)の締結によって日中間の戦争は終了したとの立場をとっていましたが、中国側は続いていると主張していました。この点については、条約第1項で、「不正常な状態は、この共同声明で終了する」と宣言されました。2中国の合法政府がいずれであるかについては、日本は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する、 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である旨を認めました。  
難関は3と4でした。3日本が戦争で中国側に与えた莫大な損害については、中国政府は、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言することで決着がつきました。条約締結を急いだ中国側の大幅な譲歩であり、その後、中国の戦争被害者から日本政府や加害企業に対して損害賠償の請求が続くこととなりました。  
4さらに、日中戦争に対する日本側の姿勢が重大な問題になりました。田中首相は、訪中当日の歓迎夕食会で「多大のご迷惑をかけました」と述べたことで済ませる方針でした。これは中国側の怒りを買い、共同宣言では「過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と表明することになりました。日本側は「申し訳なかった」と謝罪を名言することは拒みました。この点は3とともに問題を先送りし、しこりを残しました。  
3と4が課題を21世紀の現在に至るまで残したのは両国に原因があると思われます。中国側は従来、国民の世論を背景に、歴史認識で日本と妥協する意図はなく、損害賠償請求権も留保すると言明していました。しかし、上記のパワーポリティックスが共同声明を可能にしました。請求権放棄には、「両国人民の友好のため」という論理が用いられました。  
一方、日本側では戦争責任を直視して真摯に謝罪する方向で国交の正常化運動を担ってきた人たちが取り残される形で正常化が図られました。すなわち、一つは折からの中国の文化大革命に従順な勢力、もう一つは日中貿易に伴う利権を目当てとする勢力が田中政権を後押した経緯があります。  
政治を担い、歴史を作る主役は主権者である両国民です。国民同士の理解を深めるために、率直で多様なコミュニケーションの促進と議論の進展が不可欠です。  
1973年 福祉元年

 

戦後の日本は、憲法で福祉国家を謳いました(25条以下)。1973年になって、田中内閣はようやく「福祉元年」と宣言しました。  
1940年代以降の欧米は、雇用政策の考え方を構築したケインズと、社会保障制度のモデルを提唱したべヴァリッジの名前を組み合わせて、「ケインズ・ベヴァリッジ型福祉国家」を概ね追求してきたと言えるでしょう。日本も基本的にはこの方向を目指しました。福祉国家への道の第1期は、1961年までです。福祉3法(生活保護・児童福祉・身障者法)、そして1950年の社会保障制度審議会の勧告を経て、福祉国家の理念や制度の枠組みが形成されて行きます。57年に誕生した岸政権は、社会党との対抗関係の影響もありますが、広範な国民を包摂する社会保障制度の実現を目指します。尤も、戦前の「革新官僚」の体質を備えていた岸らしく、ナショナリズムの帰結としての格差是正論でした。1961年には健康保険と公的年金が国民すべてを被保険者とする、皆保険皆年が成立しました。国際的には早い部類に属します。しかし、社会保障の枠組みができただけで、内実は伴っていませんでした。社会保障給付の規模を見ると、60年の日本は対国民所得比で4.9%に過ぎず、同年の西欧諸国のほぼ3分の1程度でした。  
第2期は、池田内閣の高度経済成長政策の展開から73年の「福祉元年」までです。池田内閣の下では、ナショナリズムとともに、所得再分配の論理も後景に退き、国民所得倍増という、パイの拡大そのものに力点を置く路線に転換します。生活保障を目的とする福祉国家は、社会保障と雇用保障(雇用の創出と拡大を実現する諸施策)の連携で成り立ちますが、この時期は後者を重視し、北・西欧型の福祉国家に追い付く道は最初から放棄され、経済成長のための産業インフラ整備(公共事業投資)に財政を重点的に投入しました。「日本では、西欧の福祉国家型の枠組みとは異なり、大企業の成長と蓄積に国家努力を集中し、その結果として雇用と賃金が拡大・上昇して相対的過剰人口(≒「二重構造」)が吸収される、という道筋が選ばれた。図式化すれば、西欧福祉国家の場合、国家財政の多くを社会保障費や各種の社会的支援に用いる、直接的な国民生活支援が主であったのに対し、日本の国民生活安定策は大企業の成長を間においた間接的な支援を中心としたのである。年金保険と医療保険の分立・格差構造は、こうした開発主義的な大衆社会統合策を前提したものであり、…開発主義的社会保障を形作ったのである。」(後藤道夫「日本型社会保障の構造−その形成と転換−」吉川弘文館『高度成長と企業社会』所収)。敗戦による経済的苦境から出発して驚異的な経済復興を遂げた日本と西ドイツを比較すると、70年の対GDP比では日本の社会保障移転は4.7%だったのに対し、西ドイツは12.2%でした。「福祉国家」としての北・西欧、「軍事国家」としてのアメリカに対して、日本は「企業国家」と特徴づけられました 。  
しかし、生産至上主義は3大都市圏と地方間の格差を生み、政権政党だった自民党の地盤を危うくしました。その影響もあり、70年代に入った頃からは、公共事業で地方に雇用を創出する、いわゆる「土建国家」のシステムが採用されました。推進したのが「日本列島改造」を唱える田中角栄内閣です。以後、GDP比に占める公共投資の割合は、先進国の中では例外的に突出して行きます。雇用保障のもう一つの柱になるべきものは職業訓練などの積極的労働市場政策ですが、少なくとも支出規模で見る限り、OECD諸国の平均を一貫して下回っています。就業構造や経済の二重構造をそのままにして、中小零細企業の保護政策が採られました。  
とはいえ、経済の驚異的な高度成長の持続をバックにしたこれらの諸施策のため、雇用レジームにおける所得格差は縮小しました。社会保障の分野でも72年には老人医療の無料化、73年には年金給付額の大幅な引き上げなどが行われ、社会保障関係の国家財政は15%台まで上昇し、「福祉元年」と称することが可能となりました。これは、東京をはじめ全国の主要都市で、「福祉と環境」を掲げた革新自治体が相次いで誕生したことに対する対抗策でもありました。福祉国家の明確なビジョンに基づく成果ではなく、政権維持のための政治の論理によるものでした(宮本太郎『福祉政治―日本の生活保障とデモクラシー』)。  
そのため、74年にオイルショックに見舞われると、福祉国家への道は途中で挫折し、今日に至るも北・西欧諸国と比較すると「小さな国家」として止まっています。「福祉元年」は1年で終わりを告げました。  
70年代後半から始まる第3期は、「企業国家」としての日本型福祉国家に固有のバイアスが現われてくる時期です。北・西欧では、国による相違はあれ、横断的な労働市場と高い組織率をバックにした強力な労働組合と社会民主主義政党の存在などが、労働者個人の生活費以外の部分は公共的で統一的な経費として国家が保障する体系的な社会保障政策を強力に求め、実現させてきました。これに対して、日本の場合は、雇用環境でも社会保障でも、戦前からの大企業、中小零細企業、農林漁業、公務員などの間の分立と対立をそのまま引きずって来た側面が濃厚です。大企業においてはさまざまな優遇策を受けて、終身雇用制と、男性世帯主に対する家族賃金、企業年金などの企業内福祉が公的な社会保障をカバーしあるいはそれに上乗せされ、相対的強者として労使一体となって国家の中核を形成しました。それからはずれた部分は、公共事業をはじめとする各種補助金を使った利益誘導政治でカバーされました。二宮厚美氏は、「企業社会プラス利益政治」が福祉国家のカウンター・パワー(対抗力)として有力になってきた時期」と述べています(憲法25条+9条の新福祉国家)。  
1974年 家永教科書裁判

 

家永教科書裁判は、高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎氏(旧東京教育大学教授・思想史研究)が教科用図書検定(教科書検定)に関して国を相手に起こした一連の裁判です。74年は二つ目の地裁判決が出た年です。  
『新日本史』は53年以降、検定済教科書として広く使用されていました。しかし、戦後の「逆コース」の動きの中で、教科書に対する検定・採択をめぐる統制は、1955年ごろから厳しくなりました。58年の拘束性学習指導要領と教科書調査官による検定は、教育内容に浸透してきました。『新日本史』は60年改訂の学習指導要領に基づき、改訂して検定を受けましたが、それまで合格していたにもかかわらず指摘された事柄は、主としてアジア・太平洋戦争に関するものでした。例えば、「この教科書は『本土空襲』『原子爆弾と焼け野原になった広島』『戦争の惨禍(白衣の傷痍軍人の写真)』のような暗い挿絵が多すぎ、教科書には不適である。もっと戦争の明るい面を出さなければならない」「『無謀な戦争』という評価は一方的である」などの意見が付されました。これに対して家永氏は、検定を違憲・違法として国家賠償法による損害賠償請求(第一次訴訟)と不合格処分取消の行政訴訟(第二次訴訟)を起こしました。その後、80年・83年両年度の検定で、南京大虐殺、婦女暴行、731部隊、沖縄戦などの記述及び日清戦争の朝鮮人の反日抵抗、戊辰戦争の時の草莽隊などへの検定処分に対して違憲・違法を訴えました(第三次訴訟)。65年から始まり97年まで及ぶ32年間の訴訟は、「最も長い民事・行政訴訟」としてギネスブックに認定されました。  
家永氏は、訴訟を起こした心境を次のように述べています。「教科書検定は憲法違反であるという前例にない訴訟を提起しようと考えついたのは、まったく私一人の発意であって、‥‥むしろ成功の見込みがないからやめたほうがいいという消極的意見さえあった。‥‥憲法の基本理念をあくまで守り抜き、これを破壊しあるいは空洞化しようという試みに対して、‥‥できる限り努力することが、特に私のようにあの悲惨な戦争に生き残った世代の人間に課せられた責務ではないかと考える」 。  
裁判では主として、検定は憲法21条2項の「検閲」に当たり許されないのではないかが争われました。最初に出された1970年の第二次訴訟の東京地裁判決(裁判長杉本良吉)では、「審査が思想内容に及ぶものでない限り、検閲に該当しない。しかし、本件不合格処分は執筆者の思想(学問の成果)内容を事前に審査するもので、検閲に当たる」として取消を命じました。検定制度を定める法律自体を違憲(法令違憲)としないで、法律がこの事件に適用される限りで違憲とするより穏やかな違憲判決の手法です。行政処分を違憲とすることのほとんどない裁判所にとっては果敢な判決として評価されました。この訴訟は、結局最高裁では、学習指導要領が変わったので訴えの利益を欠くとして却下で終わりました。  
次に出たのが、第一次訴訟に関する74年の東京地裁判決です(裁判長の名前をとり「高津判決」と呼ばれます)。この判決では検定意見の一部に裁量権濫用の違法があるとして請求を一部認めました。しかし、控訴審は検定処分のすべてを合法としました。最高裁も控訴審判決を全面的に維持して上告を棄却しました。この中で、「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」と極めて狭くとらえました。そして、本件検定は、一般図書としての発行を何ら妨げるものではない等の理由で「検閲」ではないとしました。しかし、この定義については、禁止される検閲の範囲をあまりにも狭く限定し過ぎると批判されています。また、検定不合格の教科書は市販できると言うのも事実を無視した認定だと評されています。  
最後の第三次訴訟では、検定自体は合憲としましたが、上級審に行くに従って検定を違法とする範囲を広げました。最高裁では、南京大虐殺、婦女暴行、731部隊、草莽隊に関する検定が違法とされました。この間の世論の強い関心・監視が背景にあると言えるでしょう。その他の沖縄戦の記述などに関する判断は適法とされ、議論を呼びました。  
家永氏の裁判については次のような評があります。「10件の判決を全体的に評価するならば、わが国の裁判所は、政府・文部省当局の検定行政に対して積極的に違憲審査権を行使することに臆病であり、わずかに個々の検定処分の行き過ぎをたしなめる程度の判決でお茶を濁してきたというほかないように思われる」 。  
しかし、一学者が生涯をかけて挑んだ裁判は、国民の間に教科書問題への関心を呼びさまし、憲法が保障している教育のあり方を問い、教育における国民の自由や表現の自由、学ぶ子供たちの学習権を深く考える大きなきっかけを作りました。また、裁判の過程で裁判所の文書提出命令等を通して文部省の部外秘の関係文書を法廷に公開させ、検定の手続や実態を明らかにしたことは、大変大きな功績となりました。  
1975年 司法の冬の時代

 

1975年以降、下級裁判所による違憲立法審査権の行使の事例はぐっと少なくなり、また行政裁判では住民敗訴の判決が続きました。司法行政における最高裁判所のイニシアティブが徹底され、司法の「冬の時代」と呼ばれる状況が続きます 。  
日本国憲法は、基本的人権の保障、民主主義、平和主義という基本原理の実現を最終的に担保する役割を司法権に与えました(司法国家)。そして司法権がこの役割を果すことを可能ならしめる核心として、「すべて裁判官はその良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定し、裁判官の独立を強く保障しました(76条3項)。  
しかし、裁判官に対する戦争責任の追及は稀で、戦前の幹部のほとんどが重要な部署に配置され、裁判所内の民主化の動きは他部門に比べて相対的に弱いものでした。このことも影響して、裁判官の独立を保障するための裁判官会議による司法行政権の行使は、早くも50年代の半ば頃から後退に向かいます。それでも、60年代に入ると、社会の一定の民主化を反映して憲法感覚に富む下級裁判所の判例が続出するようになりました。戦後の教育を受けた裁判官が増加してきたこともその大きな原因です。66年には全逓東京中郵事件、69年には都教組事件で、最高裁も公務労働者の労働基本権に理解を示す判例を出すに至りました。  
これに対して、政治部門は強烈な危機感を抱きました。その結果採られた方策の一つが、政治部門の政策に理解を示す傾向の強い一連の最高裁判所裁判官(及び長官)の任命です。最高裁は、73年の全農林警職法事件をはじめとする人権制限的な判決の時代へと逆コースの道をたどります。もう一つは、個々の裁判官の独立を侵害する裁判所内外からの動きです。典型的には、69年の平賀書簡事件として現われます。自衛隊が9条に違反して違憲かが争点になった長沼ナイキ訴訟を担当する札幌地裁の福島重雄裁判長に対して、同地裁の平賀健太所長が、判決の方向性を指示する書簡を交付しました。同地裁の裁判官会議は、これは裁判官の独立を脅かす行為だとして厳重注意する旨を決議しました。しかし、福島氏が青年法律家協会に加入していたため、翌70年にかけてこれを批判する意見が自由民主党の機関誌に掲載され、大新聞の社説もこれに同調します。福島氏は国会の裁判官訴追委員会で「訴追猶予」という、「不訴追」の平賀氏よりも重い決定を受けました。青年法律家協会は、「全国の若い法律家があつまって平和と民主主義をまも」り、憲法を擁護する趣旨で設立された研究会・親睦会です(70年には裁判官部会が部会の一つとして独立)。最高裁判所は青年法律家協会を「政治的色彩を帯びる団体」であるとの公式見解を発表し、個別に脱退勧告を行い、各地で退会が相次ぎました。71年には、会員だった熊本地裁の宮本康昭判事補が任期10年の再任を拒否されます。一連の動きで最高裁が論拠としたのは、裁判官の「公正らしさ論」でした。これに対しては、会員の花田政道横浜地裁判事からの「この職業倫理が過度に強調されると、裁判官が世評を気にしすぎて必要以上に自制することになる。職務内容の向上にもつながる知識の吸収や研究の自由が妨げられることにもなる。青年法律家協会裁判官部会は研究活動を中心とするものであり、政治的色彩のある団体ではない」旨の指摘などがありました 。  
他にも、最高裁判所みずから「裁判官の独立」を侵害する例として、1判決内容や裁判官会議での発言、思想に基づく勤務評定、人事(任地・昇進、給与)差別、2一時みられた裁判官カードへの裁判所内外の交友関係の記載、3担当事件の経過等の最高裁への報告書提出の義務づけ、4検察官と裁判官の広範な人事交流による両者の事実上の一体化、5最高裁事務総局主催の裁判官会同や照会に対する回答による裁判内容の間接的な統制など、多数指摘されています(木佐茂男「西ドイツ司法改革に学ぶ―人間の尊厳と司法権」など)。  
戦前はファシズムの歴史を持ち、戦後は民主主義社会の建設を追求する憲法を手にした点で共通するドイツと日本はよく比較されます(ドイツは「ボン基本法」)。(西)ドイツでも、60年代までは戦前の体質を持つ官僚的な司法制度が問題になっていました。しかし、60年代末以降、裁判官の独立、司法の民主化、社会的な弱者への配慮への努力は目覚しいものがあります。日独の相違を一言で言えば、「裁判官の独立性」の徹底度の差です。日本では、能力が優秀でも、最高裁が是認できない判決(違憲判決など)をした裁判官は左遷と見られるような支部の裁判所や家庭裁判所に転勤させられ例が枚挙にいとまがありません。そのために裁判官自身による自主規制は相当なものがあるといわれています(いわゆる「ヒラメ裁判官」)。ドイツでは具体的な事件がなくても憲法判断ができるシステムを採っているとはいえ、連邦最高裁判所が下した違憲判決は500件を超え、同裁判所は各種公共的機関のうちで最高の信頼を得ています(木佐茂男同上書)。これを可能にした大きな要因は「裁判官の『市民化』」です。裁判官も一労働者として労働組合に加入して活動しています。政党加入や、政治的なものを含め、市民として意見表明することも自由です。反核運動は有名です。裁判は市民の目線でなされるべきものであることを考えると、これは当然なことです。そのうえで、個人としての思想と、法に基づく裁判は、明確に区別しています。見逃せないのが、司法行政のみに携わる裁判官がいないことです。日本では最高裁事務総局に代表される、司法行政のみに従事するエリートが裁判所全体の動きをリードする傾向にあること(司法官僚制―「裁判官の『官僚化』」)と対照的です。  
1976年 ロッキード事件と金権政治

 

先日、朝日新聞が「昭和といえば思い浮かぶ人物」というアンケートをとりました(09年3月30日付け朝刊)。昭和天皇を除けば、田中角栄が他の人物を大きく引き離しています(田中494票、2位美空ひばり143票、3位吉田茂129票、ちなみに6位長嶋茂雄31票)。同紙の解説によれば、「地方出身で高等教育を受けずに首相に。日本列島改造論を唱え、ロッキード事件で逮捕。清濁含め、昭和の右肩上がりのイメージにぴたりと重なる」。  
田中は、高等教育を受けずに首相になったことから「今太閤」と呼ばれました。政権発足時には「角栄ブーム」が起こり、内閣支持率は62%と、それまでの歴代最高を記録しました。田中は、「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれ、緻密な知識に裏打ちされた行動力で、巧みに官僚を操縦しました。政策の中心は「日本列島改造論」でした。それは、列島全体を新幹線、高速道路、空港等で結び、地方の僻地に巨大工業基地を建設し、開発指向で中央と地方の格差是正を目指す新全総(69年策定)の延長線上にあり、福祉国家型の利益配分政治でした 。  
田中の「今太閤」の源泉は、利権に関わる仕事を時には大臣の頭越しに直接官僚に指示することや集金力などの「金の権力」にありました。田中政権の時代には、中央省庁の官僚たちは、地方の政策への影響力をかつてないほど強めて行きました。金権度の頂点は74年7月の参院選でした。このとき、自民党は経団連から空前の260億円を集めました。田中は他にも銀行から100億円借りました。しかし、巨額の資金投入にもかかわらず、自民党は選挙に敗北。保革伯仲となった参院選に対して「空前の金権選挙」との批判が起こります(古賀純一郎「政治献金」等)。同年11月号の「文藝春秋」に掲載された立花隆による「田中角栄研究―その金脈と人脈」等で大きな打撃を被りました。結局、金権腐敗体質を批判されて、同年11月末に首相の辞任を表明しました。  
しかし、辞職後も党内では絶大な支配力を維持していましたが、76年2月、アメリカの上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会でロッキード社が民間航空機売り込みのために、日本やドイツの多数の政府高官に多額の賄賂を贈っていた事実が公表されました。同社の賄賂のルートは3つありましたが、その一つが、全日空に民間航空機トライスターを採用させるため、丸紅商事を通じて田中に5億円献金したことです。7月には外為法違反の容疑で田中が逮捕されるなど、18人の政治家、財界人、「政商」と呼ばれた児玉誉士夫ら黒幕が逮捕、20人が起訴されました。田中の起訴罪名は受託収賄も加わりました。日本の首相が関係した疑獄事件としては芦田均が逮捕された昭和電工事件がありましたが、このときはうやむやに処理されました。しかし、今回は国民の重大な関心の下、1983年10月、東京地裁で懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下りました。  
この事件では、「構造汚職」という用語が、評論家の室伏哲郎氏によって生み出され、広がりました。それは「汚職・疑獄的状況が存在するにもかかわらず、それが刑法上の汚職事件としては立件されないという、権力構造の聖域化、政治資金の流れの体系・合法化」を指します(「朝日ジャーナル」83年10月14日号)。自民党政権にとって最大の資金源の一つであった戦後の航空(機)利権は児玉誉士夫と岸信介の二人の暗闘で彩られていました。総理経験者で2度も国会の証人喚問席に座った中曽根康弘元首相は児玉の流れに属していました。「ロッキード事件」は、50年代末の岸首相時代に開始され、今日まで途切れることなく連続している巨大な航空機利権構造の一コマに過ぎません。そしてロッキード事件当時でも、ボーイング社、マグダネル・ダグラス社(現ボーイング社)など米航空機メーカーすべてが不正資金工作に加わっており、工作が糾明され裁判にかけられたのはごく一部に過ぎません。「ロッキード事件」という呼び名自体、問題の本質を見失わせる危険性があります。一機77億円で防衛庁に45機納入された対潜哨戒機P3Cを巡る動きは闇の中に葬られました(成澤宗男「血税にたかった巨悪たちの犯罪」金曜日06年12月刊「この国のゆくえ」所収)。軍事秘密という「聖域」に捜査は踏み込みませんでした。  
そのうえ、航空機利権政治は、金権政治の一局面に過ぎません。おカネのある企業・団体が、合法的な政治献金をすることによって、有利な法律を制定させたり予算を付けさせたりなどして政治を買収しているのではないか、大きな問題になっています。政治家の側は、おカネを手段として自己の地位を高めて行きます。憲法は、1人ひとりの個人の尊重をこそ目的としています(13条)。「団体・法人の活動にも憲法的保障は及ぶが、それは、‥‥団体構成員たる自然人の人権のいわば反映としてである。個人との関係では、団体は憲法上の権利主体とはなりえないとすべきである。‥‥会社の政治献金の自由をあっさり認めてしまった八幡製鉄政治献金事件の最高裁判決(最大1970.6.24)は、やはり、大いに問題である」(浦部法穂「憲法学教室全訂第2版」)。憲法のタテマエは、「主権者である国民」(前文、1条)のための「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」政治家(15条2項)が、一部でなく国民全体の福利のために民意を反映するという意味をも含む「全国民を代表して」政治をすることです(43条1項)。これが政治のホンネになっていたら、日本のカタチはどう変わっていたでしょうか?  
1977年 君が代の国歌化

 

「君が代」は、戦後の学校教育では歌われなくなりました(46年10月9日、国民学校令施行規則からの削除)。社会の中に、天皇讃歌である君が代は、新しい憲法の内容にふさわしくないという時代感覚がありました。代って、新時代に見合った国民歌の募集・作成の様々な動きがありました。毎日、読売、朝日の各新聞社も君が代を批判し、毎日と朝日は憲法の精神に基づいた新しい日本の歌を応募作品の中から選んで発表しました。これらの中で比較的広まったのは、51年に日本教職員組合が募集して作った「緑の山河」や、53年に壽屋(今のサントリー)がフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のような歌をと全国民に呼びかけて作られた「われら愛す」です。  
しかし、新しい国歌制定の民意は、「逆コース」の動きの中で封じ込められて行きました。「逆コース」の言葉が流行した51年には、吉田首相による靖国神社の公式参拝が行われました。53年には、旧内務省出身の大達茂雄氏が文相に就任し、文部省内の人事や空気が一気に「内務省化」しました。それまでは文部省も政権政党も、教育基本法に則って教育の内容には原則的に不介入の立場を採っていました。変わったのが大達文相の時代からで、教員統制、教育行政統制、学力テストなどが強行されます。天皇の元首化を含む復古的な自主憲法制定の流れの中で、「日の丸」「君が代」の復活と定着は、再び国民統合のシンボルとなることを期待されました。そのためには、学校教育で子供たちに教えるのが最も効果的であると考えられました。それゆえ、「日の丸」「君が代」は、教育問題として位置づけられた側面が濃厚です。  
58年の小中学校の学習指導要領の改訂で、「日の丸」「君が代」を義務教育として教えることが明記されました。「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」。58年の学習指導要領は、同時に「文部省告示」として法的拘束力を付与されました。「国旗」とは「日の丸」を指しました。  
この「君が代」が「国歌」として位置づけられたのが、77年の学習指導要領の改訂の際です。学習指導要領の改訂を審議する教育審議会にはこの旨の諮問はなく、審議会での議論を経ないで文部省が決定しました。「国歌」とした趣旨について、文部省の調査官は、「国歌と書いていないから歌わなくてもいいという論法があるようなので、その論争を打ち切るためにも国歌とした」と述べています。これにたいして、政府の法解釈責任者のトップである内閣法制局長官は、国会で「文部省が、あるいは文部大臣が特定の歌をわが国の国歌であると決める権限を持っていらっしゃるはずはございません」と答えています 。  
その後87年には、「君が代」でいう「君」とは象徴天皇の意味である旨が国会答弁で示されています。「君が代」については、歌詞が国民主権と調和しない、軍国日本のシンボルとして機能した歌が平和国家にふさわしいのか、さらに国が特定の歌詞を教育現場に押付けることが教育の自由を侵害しないかなど、さまざまな問題が論じられています。  
なお、天皇制に関わるこの時期のできごととしてもう一つ重要なのは、「元号法」の制定です。日本国憲法の制定に伴い、明治国家になってからの皇室典範は廃止され、元号の制度は実定法上の根拠を失っていました。そこで、70年、自民党は元号の法制化を決定します。そのキャンペーンの一環として、78年には「元号法制化実現国民会議」が結成されました。呼びかけ人は、石田和外氏で、69年に内閣から最高裁長官に任命され、「司法の冬の時代」の主役として、憲法に従った裁判を重視する青年法律家協会に所属する裁判官を排除した人です。元号法は、天皇制の強化につながるとして反対運動が繰り広げられましたが、79年に成立し、一世一元の制度が採用されました。官公庁では元号を用いることが決められ、国民は公文書などの記載を通して間接的に元号の使用を強制されることになりました。  
元号法の成立に伴い、石田氏らは、「元号法制化実現国民会議」を「日本を守る国民会議」に改組しました。「日本を守る国民会議」は、その後「日本を守る会」と統合して「日本会議」となりました。日本会議は、天皇を元首とするなど、復古的な憲法の「改正」運動を積極的に推進する母体となっています。現会長は元最高裁長官・三好達氏です。  
1978年 日米ガイドライン/A級戦犯合祀

 

T 日米ガイドライン  
日米安全保障条約の締結以来、同条約と憲法との関係は、最高裁も追認した前者の優位の体制の下に推移して来ました。この関係を時代区分すると、第一期(51年からの旧安保期)、第二期(60年からの新安保期)、そして、78年からの第三期に分類できます 。  
78年は、日米安全保障協議委員会の決定を受けて閣議了承した「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が策定され、軍事史の画期となる年となりました。  
その特徴は、1安保が核安保であることは知られていましたが、アメリカの核の傘のもとにあることを最初に文書で示したこと、2日米安保が単なる日米間のものにとどまらず、アジア全域をおおうアジア安保、つまり集団的自衛権体制であることを確認したこと、3日本有事体制の本格的登場にあります 。  
その背景には、73年のオイル・ショックはアメリカの経済的、軍事的地盤の低下を明確にし、アメリカは世界戦略の補完の強化をNATO諸国や日本などに求めたことがあります。日本のいわゆる「思いやり予算」もこの年から始まりました。また、日本側の事情として、日本企業の多国籍的進出は1970年代末から本格化し、海外資本投下が活発に行われ、企業の権益を保護するためにも、自衛隊の海外出動に対する要求が強まったことがあります。  
このような重大な政策転換を国会の関与なしに進めたことは、国会中心主義を無視する国民不在の軍事外交として批判されました。なお、第四期は、90年の新ガイドラインの策定から始まります。  
U A級戦犯の合祀  
東条英機元首相ら、14人のA級戦犯が、78年10月17日(秋季例大祭の前日)に靖国神社に「昭和殉難者」として合祀されました。職員にも緘口令を敷いていましたが、翌79年4月の新聞報道で明らかになりました。  
靖国神社は、天皇に忠誠を尽くして戦い死んで行った者を祭神としてまつる神社です。これに対して、東京裁判では、天皇にはアジア・太平洋戦争の責任がなく、配下の最高幹部クラスの責任者たちが侵略戦争を起こし遂行したことを理由に、「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」で裁き、処刑しました。東条らは、天皇に忠誠を尽くして戦争を遂行した者ではないとして、昭和天皇と「戦犯」を分離した構造の上に成り立っていました。  
靖国神社は、戦前は陸海軍省が共管していましたが、戦後は一宗教法人になりました。しかし、戦後も、厚生省援護局(当時)が戦死者の名簿を靖国神社に渡し、神社側が「祭神名票」を作って合祀していました。A級戦犯の名簿も、66年に厚生省から靖国神社に送られ、70年の崇敬者総代会で合祀が了承されましたが、「宮司預かり」となっていました。当時の筑波藤麿宮司の在職中は実施されませんでした。  
しかし、78年から宮司となった松平永芳氏(元海軍少佐・一等陸佐・祖父は福井藩主松平慶永)は合祀を強行しました。氏は、その動機を次のように述べています。「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々…思いきって、14柱をお入れしたわけです」(『諸君』92年12月号)。先の戦争を「自存自衛」「アジア解放」の「正しい戦争」だと評価する立場です。もっとも、合祀は松平氏だけの個人的な意思によるものではなかったと見られています。保阪正康氏は、松平氏の宮司就任自体が、靖国神社崇敬者総代会(賀屋興宣東条内閣蔵相、青木一男同大東亜相ら元A級戦犯らで構成)の意思によるものだったと想像しています 。  
この合祀に対しては、侵略戦争を否定する東京裁判の歴史認識に真っ向から反するものとして、国民の間からも、アジア諸国からも強い批判の声が上がりました。また、そもそも、日本国憲法の下においても厚生省が名簿をや靖国神社に送付していたことは、政教分離(憲法20条3項)に違反する行為です。  
06年年7月20日、88年当時の宮内庁長官だった富田朝彦氏が昭和天皇の発言・会話をメモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを示す発言をメモしたものが残されていたと日本経済新聞の1面で報道され大きな衝撃を与えました。メモでは、「だから私(昭和天皇) あれ(合祀)以来参拝していない それが私の心だ」とも記しています。昭和天皇にとって、東京裁判は、自身の責任を否定し、それゆえに、戦後も「国体」の護持を可能にすることにもつながった、妥協できない決定的なものだったことが、再確認されました。  
A級戦犯を合祀したままでよいか、分祀すべきかの議論は、現在に至るも闘わされています。  
1979年 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」

 

1979年、ハーバード大学の社会学の教授であり、同大学の東アジア研究所長でもあったエズラ.F.ヴォーゲルが著した『ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as 1)』がベストセラーになりました。長年日本に滞在して日本の社会、経済、政治を観察、研究した氏は、「効率性という点では、日本は間違いなく世界第一位である」として「日本の驚異的な発展」を「アメリカの鏡にせよ」と訴えています。「鉄鋼業はアメリカを追い抜いた。オイルショックにもかかわらず造船総トン数は世界の半分以上だ。日本の成功の原因を安い労働力に帰することは、もはや時代遅れだ。むしろ、近代的な設備と生産性を理由としてあげるほうが適切である」。70年代の終わりのこの頃は、日本はすさまじい勢いでアメリカを追い上げ、やがて追い越すのではないかという危機感さえ持たれていました。  
氏は、日本の企業が業績を上げている原因として、終身雇用、年功序列賃金、企業と協調的な労働組合作り、企業内福利厚生の充実、目先の利益でなく長期的な利益を上げることの重視、比較的小さい賃金格差等を詳細に説明しています。企業と一体化して「その働きぶりと自尊心」のある「会社人間」からなる日本の企業は、効果的な近代組織であると評価します。高い教育水準、治安の良さなども紹介しています。  
後進資本主義国家として出発した日本は、官民一体となって欧米に追いつくことを目標に突き進んできました。その過程で、内外の多数の論者は、1終身雇用、年功序列賃金、企業別組合という日本型雇用慣行や、それを基礎にした企業への強い意識は日本の大企業が資本主義の論理から逸脱し、遅れている現われだと見てきました。また、2企業の株主の発言権は弱く、3会社の経営者の多くは株主の代理人というよりは従業員の代表という性格を持っており、これも本来の株式会社のあるべき姿を歪めているものと見られてきました。  
日本の経済成長は、この見方を逆転させました。ヴォーゲルのような評価が高まり、80年代まで続きます。日本の経営者は自信を持ち、労働者の間にも、資本家と対立する労働力商品の主体というよりは、企業と利害を共有する共同体の一員であるという意識が広がりました。  
しかし、ここで再逆転が起きます。労働力と比べて資本ははるかに容易に国境を越えて、アメリカを中心としたグローバリゼーションが世界を覆い、脱工業化時代における多国籍企業は政府の新自由主義政策を取り付け、「資本の論理」の貫徹を図りました。モノ作りよりも、おカネの投機で利潤を上げるアメリカ主導の金融資本主義が謳歌しました。上記の3つの特徴に関しては、1日本型雇用慣行は概して企業の足かせとして攻撃されました。正規労働者の非正規化はその典型です。2株主は目先の経済的利益を求めて株価の高騰や高配当を求めました。3経営者は従業員よりも株主の方を向きました。  
ところが、近年の投機資本主義による世界的な経済危機は、資本主義の再構築を迫っています。  
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の背景となったのは、日本独特の「法人資本主義」であるという見方が大変有力です。戦後日本においては、個人が大量の株式を保有して会社を支配するという形態よりも、企業間の株式持ち合いや所有に基礎を置かない経営者が会社を支配するという法人資本主義の形態が取られてきました(奥村宏)。岩井克人氏は、「良心も持たず、気まぐれ心も持たない法人という抽象的な存在が企業の所有者になっている方が、はるかに効率的で成長志向的だ。資本主義のもっとも純粋な形態でさえある」と述べています。(「資本主義を語る」)。成長を長いスパンで実現するかどうかにも関る問題でしょう。法人資本主義については、内部留保を極大化させ、複数の産業部門に渡って国境を超えて支配分野を拡大する法人資本主義は、「個人を『法人』と呼ばれる自己永続的な組織に従属させるものになる」という警告があります 。  
また、「終身雇用・年功序列・会社別組合を特徴とする日本的経営は、後期産業資本主義の至上命令だった機械制工場の効率的な運用に必要な組織特殊的人的資産をうまく蓄積するにためには最適な仕組みだった。これからポスト産業資本主義に変わっていくなかで、日本的経営は自らを変革することが困難になっている」との指摘もなされています(岩井克人「資本主義から市民主義へ」)。すでに、情報などのソフト面を中心とした資本主義の時代になっているからです。個人を企業と政府・地方自治体(公共)のそれぞれがどの側面で支えるか、役割分担にも関係する、大きな課題です。  
経済社会の中心となるべきは、やはり人間です(憲法13条)。「日本の近代化は、軍事力、経済力と進み、そして最後の壁はルールとか法です。そこに挑戦するということは、非西洋国家・日本の国家的な課題、あるいは文明的な課題だと思います。人間中心の日本型モデルの理論構成は日本だけがやれると思うのです」。  
1980年 消費者の権利

 

灯油訴訟  
人間の生活の内容や水準を決めるうえで、消費者としての属性は基本的なものです。この点、市場経済の原則によれば、消費者と生産者の間は自由で対等な取引関係にあります。しかし、消費者は商品の性能、欠陥、価格などの情報について知識が乏しく、生産者、特に大企業から見ると、利潤を生み出すための単なる消費客体として扱われてきました。従って、両者の交渉力には歴然たる差があり、消費者は不利な立場にありました。人間の属性の基本的な要素である労働者としての地位が、近代の初期からの長い間の闘争の歴史によって、今日では憲法上の権利にまで高められていることと対照的です。  
権利の獲得は人間の努力の成果であること(憲法97条)は、消費者の権利についても当てはまります。国民生活のなかで消費者問題が深刻になり消費者運動が活発になったのは、日本では70年代頃からです。消費者運動の担い手は、女性団体と生活協同組合でした。80年には、公共料金の引き上げなどで消費者物価の上昇率は7.8%と高率を示したことを背景に、消費者運動が盛り上がり、6月には新聞代、郵便料金、電力料金、灯油など個別課題への取り組みとともに、悪性インフレと一般消費税導入反対などを求めて、全国消費者団体連合会は大規模な決起集会を開きました。  
なお、消費者問題の前史として重要なのは、独占禁止法の「改正」反対運動です。1945年の経済民主化(財閥解体、私的独占の禁止)は、GHQによる改革の主要な柱の一つでした。しかし、53年の独占禁止法の「改正」を皮切りに、50年代末までには全産業分野でカルテルは大幅に開花し、寡占体制の時代になりました。「国益」とは国際競争力の強化とほとんど同義であり、経済的民主主義は極端に後退しました。このような中で、60年代後半から、ヤミ再販(安売り禁止の再販売価格維持契約)や家電6社が国内のカラーテレビ価格を輸出価格の3倍にするというヤミカルテルなどが問題になり、公正取引委員会に摘発されました。68年には消費者保護基本法が制定されました。もっとも、消費者を保護の対象とするわくを超えるものではありませんでした。他方、革新自治体運動と結びついた自治体条例は、消費者を権利主体としてとらえ、「消費者権」という新しい人権概念を作り出しました 。  
70年代から80年代にかけての消費者の「権利のための闘争」として象徴的な裁判が灯油訴訟です。73年の第4次中東戦争の勃発は、日本にも深刻な石油危機や狂乱物価を招きました。背景には大手商社などの買い占めもありました。74年には、石油連盟が生産調整を行い、元売り各社は価格協定を結び、石油製品の一斉値上げを実施しました。これに対して川崎生協と主婦連の98人が、東京高裁に対して公正取引委員会が認めたヤミカルテルだとして、石油会社を相手に、独禁法に基づく無過失損害賠償を請求しました。また、同じく東京高裁に、「奪られたものを取り返す消費者の会」を母体とする方々も提訴しました。同じ年に、山形県鶴岡生協の組合員1645人が、山形地裁鶴岡支部に対し、民法709条にもとづく損害賠償を請求しました。川崎生協と主婦連の訴訟は、高裁、最高裁とも敗訴しました。「奪られたものを取り返す消費者の会」を母体とする裁判は、和解になりました。  
鶴岡支部の訴訟は、原告が1600人を超え、日本初の本格的な多数者被害・少額被害訴訟として注目されました。原告らは、第1審では敗訴しましたが、2審の仙台高裁では85年に勝訴し、大きな反響を呼びました。しかし、89年、最高裁で再び敗訴しました。この判決は、価格協定による価格と現実の購入価格による損害との間の因果関係の立証責任を原告に負わせるものであり、裁判所はこの裁判の過程で作られた民事訴訟法第248条を適用して積極的に損害額を認定することはできたのではないか、との強い批判があります。  
鶴岡訴訟は、東北の主婦たち1600余人が、僅かな金額を求めるというよりも、権利や社会正義のために、最後まで脱落しないで闘った訴訟として歴史を残しました。  
弁護団の1人である宮本康昭弁護士(元裁判官)は、この裁判を契機に上記の民事訴訟法248条が作られ消費者運動に有力な武器を提供したこと、独禁法が強化されたこと、公正取引委員会の姿勢に一定の変化を及ぼすきっかけとなったことなども成果として挙げています。  
なお、今年の5月末に、消費者行政を一元的に所管するため、内閣府の外局として消費者庁を設置する関連三法が成立し、この10月に発足が予定されています。内閣から独立した第三者機関「消費者権利院」を創設する旨の民主党案は通りませんでした。  
1981年 第二次臨時行政調査会

 

第二次大戦後拡大・浸透した「アメリカの世紀」=ブレトン・ウッズ体制は、70年代に入るとベトナム戦争の泥沼化、金・ドルの兌換停止(ニクソン・ショック)等に伴い動揺しました。大量生産・大量消費のシステムに依存したフォーディズム・ケインズ主義は危機に直面しました。さらに、73年のオイルショックや第三世界諸国の叛乱、労働運動など社会運動の高揚は、アメリカのみならず先進資本主義諸国に、「統治能力の危機」ないし「ヘゲモニーの危機」という情況をもたらしました。そのため、米英を軸にして、新自由主義の流れが台頭するとともに、デイビッド・ロックフェラーらの働きにより、米欧日の私的組織による「三極委員会」が結成され、先進国の政府及び民間の指導者に政策提言を始めます。これに対応して、75年には米欧日の財務を預かる政府高官が集まり、経済的課題を討議する会議であるサミットが始まります(この時のサミットの参加国は6か国でしたが、現在は8か国になりました)(土佐弘之「ネオリベラルな受動的革命の始動」−「戦後日本スタディーズ3」所収)。サミットは、「先進民主主義大国」が、新しい時代に対応したヘゲモニーの構築を目指していると言えるでしょう。  
石油危機後の不況克服のため、日本も景気対策で大規模な財政出動に踏み切ります。不況による税収不足のため、75年からは赤字国債の発行を認める1年限りの公債特例法が制定され続け、財政に占める国債依存度が急激にアップしました。国債発行を政府に迫ったのは土光敏夫氏を会長とする経団連でした。しかし、過度の国債依存のため、経団連は、80年からは国債発行の抑制=財政再建策に転換します。  
このような経緯のもとに、81年3月、鈴木善幸内閣は、経団連の名誉会長となっていた土光氏を会長にして、第二次臨時行政調査会を設置しました。その旗印は「増税なき財政再建」でした。ここに至る前に、大平内閣は税収不足を補うため、一般消費税の導入を追求しましたが選挙で敗北し、この方針は撤回していました。また、企業課税の強化の動きが出ていました。そのため、経済界の意向を反映してこの旗印が掲げられました。  
この第二臨調の答申のもと、国債依存度はしばらくの間は低下しました。しかし、発行残高は一貫して増え続け、90年度には第二臨調発足時の約2倍の164兆円に膨れました。このスパンで見ると、「財政再建」は失敗したと言えます。増税の方は、一時は避けられましたが、88年には消費税が導入され、結局は庶民増税策が採られました。他方、法人税は42%から30%に引き下げられました。  
第二臨調は、別名「土光臨調」と呼ばれ、国民の間に相当浸透しました。「メザシをおかずに朝食する土光さん」の「つつましい個人生活」は「行革フィーバー」と形容される状況を生み出しました。実は、「増税なき財政再建」を支えたのは、米欧にも連なる新自由主義のはしりの論理による構造改革でした。「土光臨調」は、マスコミを味方にして、この経済第一主義の思想を国民生活の中に内面化することに成功したと言えます。臨調の答申事項の多くが大きな抵抗もなく実行されて行きました。まず、1政府規制の緩和です。土地利用・都市開発規制の緩和や、検査・検定の緩和と外注化などです。前者はその後バブル経済を招き、後者は欠陥商品を生みました。次に、2政府公社の民営化です。国鉄、電電、専売の3公社が民営化されました。また、370年代前半の社会保障の高度化の流れに対して、医療と福祉の領域でブレーキをかけました。4さらに、地方への移転支出を削減し、生活保護費負担金などが削減されました。  
第二臨調の構想は、小泉内閣の本格的な新自由主義による構造改革とは同列には論じられませんが、それに連なり、準備した性格を持っています。  
最後に、第二臨調が持つ政治的な意味は極めて大きいものがあります。憲法は、国民主権の原理のもと、国会中心政治を予定しています(41条)。国会は少数派の意思をも反映しつつ民意を統合して法律を制定し(43条1項=代表民主制)、多数派は内閣を組織して民意を反映した政治を行うのがタテマエです。しかし、第二臨調は、財界5団体の責任者が「行革推進5人委員会」を結成し、議論をリードしました。全体の人事構成も、財界の意向を反映するものでした。内閣は、この答申を忠実に実行しました。さらには、公式の臨調とは別に、財界と政府の中核となる人たちが「裏臨調」を作り、定期的に会合して表臨調の方針を決定しました。伊藤忠商事相談役の瀬島龍三氏を参謀役とする「裏」の動きは、当時の新聞で確認できます。表と裏の関係は、国際政治における三極委員会とサミットの関係を想起させます(さらにはサミットと国連の関係も)。小泉内閣のもとでの「経済財政諮問会議」は、第二臨調よりも法的権限を強化しました。  
1982年 戦後政治の総決算

 

この年の末、長らく総理候補として取りざたされてきた「三角大福中」の最後の中曽根康弘氏が田中角栄元首相の支援を受けて総理大臣に就任しました。5年間に及ぶ長期政権となりました。氏は、就任後の国会での施政方針演説で、「日本は今、戦後史の大きな転換点」にあると強調し、「従来の基本的な制度や仕組みをタブーなく見直す」と述べました。  
「戦後政治の総決算」路線です。  
「戦後政治の総決算」とは何か。その意味としては政治内容が論じられることが多いのですが、氏自身は「自省録―歴史法廷の被告として―」(04年 新潮社)の中で、「戦後政治の総決算」の真意は、「調和とコンセンサス」という事なかれ主義の政治の悪弊を断ち切り、強力なリーダーシップを持った総理大臣という政治手法にあると記しています。総理大臣の「首長」性を最大限大統領型に運用したものです。  
また、大衆民主主義社会において直接国民に政策を訴えることを重視し、ポピュリズムとも評されました。  
この手法は、中身としての「戦後政治の総決算」を進めるうえで有効でした。80年代になり、ケインズ的な経済政策は経済成長を阻害するとして、レーガンやサッチャーは新自由主義の政策に転じましたが、中曽根内閣もそれに近い路線を採りました。その中心は、中曽根氏自身が鈴木内閣の行政管理庁長官として担当してきた「第2臨調」の答申の具体化です。政府規制の緩和、「民間活力の活用」と称する日本国有鉄道など3公社の民営化、社会保障の後退を実行しました。  
第二に、軍事化を進めました。前任の鈴木善幸首相は日米安保条約は軍事同盟ではないとしてハト派的な側面を有していましたが、中曽根氏は就任早々訪米し、レーガン大統領との会談で「日米両国は運命共同体」であるとの認識を示し、ソ連の侵攻がある場合は日本列島を「浮沈空母」にし太平洋に通じる3海峡を封鎖すると発言しました。また、日本は武器輸出禁止政策を採っていましたが、アメリカの要請に答え、「安保条約を優先させる。同盟国たるアメリカに対して技術協力することに何ら問題ない」として、アメリカに限っては技術供与を解禁しました。さらに、アメリカの求めにより、大蔵官僚の強い抵抗を排除して、防衛費を大幅増額させました。サミットでも、アメリカ主導による西側の軍事力強化を側面支援しました。  
第三に、戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝するなど、復古的な思想を実行に移しました。  
中曽根氏は、「政治の究極の目的は文化に奉仕するにあり」を信条としています。「文化」の具体的な内容は、「日本の歴史伝統の枠としての『天皇制』」のようです。  
氏は、エリートの道を歩み、23歳で海軍主計中尉として部下2000人余を率いてフィリピンで戦い、多くの戦友を失いました。そのときのことをこう記しています。「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた2000人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じりけのないほんものと、身をもって感じました。『私の心の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです」。   
主宰する世界平和研究所の「憲法試案」(05年1月発表)の前文冒頭は、「我ら日本国民は‥‥天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた」、第1条は「天皇は、国民に主権の属する日本国の元首であり、国民統合の象徴である」と記しています。  
1983年 家族分解の時代/サラ金法

 

T 家族の分解の時代  
1970年代後半からは虚無的な社会現象が目立ってきました。社会の最小構成単位である家族の虚構性も表面化し、家族の分解が社会問題になりました。1983年に発生した戸塚ヨットスクール事件も、これと無関係ではないと考えられます。家族の分解を象徴するのは、若者による、家庭内の孤立や孤独が大きな原因と考えられる新しいタイプの犯罪です。  
これと対比される1960年代までの少年犯罪は、家庭の貧しさを遠因としていました。永山則夫被告の連続射殺事件が代表的です。この頃の日本社会は、経済的な豊かさの実現を信じ、努力すれば幸福な生活を獲得できるという未来志向がありました。家族などの共同体にも原風景が存在し、それなりに喜怒哀楽を共有していました。永山事件は、母子家庭の貧しさ故に豊かさから取り残されたことに起因する悲劇でした。  
70年代に始まったいくつかの事件を経て、80年には大学受験の2浪中の青年が金属バッドで就寝中の両親を惨殺しました。両親に粗末にされたことによる怨恨殺人といわれました。青年にとって、家族は厄介で煩わしい、消失すべき対象に変じていたのかもしれません。88年には、「礼儀正しい普通の子」である中学2年生が、父母と祖母を包丁で刺し殺し、平然としている姿に、世間は魂の空虚さを感じました。(佐々木嬉代三「社会的病理からみた戦後50年」「戦後50年をどうみるか」下巻所収)。88年から89年にかけて東京と埼玉で起きた25歳の青年宮崎勤被告による連続幼女誘拐殺人事件は、さらに深刻な問題を提起しました。彼は両親との関係は極めて希薄で、アニメやビデオなどの仮想空間にのめり込む孤独な生活を送っていました。  
これらに共通するのは、家族の分解ないし崩壊と、自己の現実的な存在感の希薄さです。人間の尊厳の内実をなす「自己実現」(13条)の対極にある状況です。それが、相手の存在をも否定し、モノ扱いする関係性につながっていると評されています。  
青年による事件ではありませんが、80年には若い女性たちによる「ノアの方舟」事件がありました。暴力的な夫や心が通わない家族に見切りをつけ自らの意思で、ある男性教組と共同生活に入ったことが世間から奇異な眼で見られました。教組は勾留されましたが、共同生活は彼女らにとっては家族の再生の場であることが判明し、不起訴になりました。  
戸塚ヨットスクールの事件は、情緒障害児等に対するスパルタ教育と称するしごきで、多くの死傷者や自殺未遂者を出した事件です。家族が情緒障害児を安易に家庭から放逐し、体罰を伴う戸塚宏氏に教育を委ねた事件で、家族の解体の一側面が見られます。  
家族の分解の背景には、先進国の中でも際立った日本の企業社会化の進展や、人間の商品化、情報の個人化などがあります。生活の場に直結する地域共同体の崩壊も無縁ではありません。消費社会化が浸透した70年代からは、スカイラークやデニーズなどのファミレス、レンタルビデオ店、家電、冠婚葬祭など消費空間のロードサイドビジネス化が進みました。生活が便利になった側面と同時に人間関係の稀薄化を惹起しました。  
物質的に豊かになり独立した部屋を与えられた子供たちは、孤立した自室で電話しテレビやビデオを視、マンガを読み、親と断絶することが多くなりました。ウォークマンなどメディアを通じたバーチャルな空間の方に親近感があるという子供が多くなりました。家族にも隣人にも挨拶をしない子供が増えました。  
家族の解体は子供が通う中学や高校における校内暴力の多発化にも影響しています。  
それでも80年代は、青年たちの暴力性は学校教育やマスメディアによって抑え込まれ内閉化されました。反転するのは、90年代後半以降の新自由主義の本格化以降です。  
「私達の安心と幸せは人間として助け合える一体感の中にあり、生身の人間がふれあって活力を与え合う協働の中にある。人間は個人的存在であると同時に、社会的存在であり、また同時に自然とともにある自然的存在でもある。これが人間の本来の姿なのだ」(暉峻淑子「豊かさの条件」)。  
U 司法判断を骨抜きにした「サラ金規制法」の成立  
日本の司法は、国会が制定した法律の審査に甘く、三権分立の機能不全と批判されています。それでも、民事部門などでは、法律を積極的に審査し、国民の権利や利益を相当程度擁護する裁判を行ってきました。  
即ち、裁判所は、利息制限法の上限(最高年20%)を超える金銭消費貸借上の利息の約束は無効であり、債務者が超過利息を任意に支払っても、元本が残存すればそれに充当され、また、元本が完済された場合には、不当利得として返還を請求することができると判示しました(最高裁判例1968年11月13日など)。裁判所の判断は、利息制限法をはるかに超えた利息(出資法により刑罰を受ける年109.5%未満のいわゆるグレーゾーン)で貸し付けていたサラ金業者の暴利を戒める一方、一家離散や自殺など、「サラ金地獄」で苦しむ国民を救済する裁判として歓迎されました。他方、サラ金業界と、そこに資金を貸し付けて莫大な利益を得ていた銀行業界にとっては大打撃でした。  
憲法の建前からすれば、国会は裁判所の判断を尊重することになります。しかし、国会は逆方向に動きました。長年に渡る業界の要望をほぼそのまま受け入れた内容の通称サラ金規制2法案が、1983年4月、自民党、民社党、新自連(新自由クラブ・民主連合)の賛成多数で可決成立しました。この法律は、グレーゾーンの利息でも、貸金業者に任意に支払ったときは、「有効な弁済とみなす」として、裁判所の判断を骨抜きにしました。しかも当時既に大部分の業者が年利70%前後で営業していましたが、法律は施行後3年間は現実の営業実態を追認し、年73%の高金利を公認しました。上限を段階的に引き下げることになっていても、期限は不明確でした。尤も、契約書面の交付などの条件が義務付けられましたが、ほとんど無意味な条件でした。この法律に対して、日弁連は、法律の名称とは裏腹の「業界保護法」であると猛反対しました。  
その後、従来にも増して、一家心中など、サラ金地獄は拡大しました。消費者保護の運動の高まりなどを背景に、現在では最高利率は29.2%にまで下げられ、明年6月22日までには、「有効な弁済とみなす」旨の規定を削除する法律も施行されることになっています。  
1984年 中曽根総理大臣の靖国神社「公式参拝」

 

中曽根康弘元首相は、「政治の究極の目的は文化に奉仕するにあり」を信条としています(中曽根康弘著「自省録―歴史法廷の被告として―」)。元首相にとって、靖国神社の公式参拝は、「政治の究極の目的」を実現するための「信条」に関わることでした。  
内閣総理大臣や閣僚の靖国神社参拝問題は、75年8月15日の三木武夫総理大臣の参拝以来顕在化しました。但し、この時は私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)を付しての私人としての参拝でした。  
80年11月、鈴木内閣の宮沢官房長官は、国務大臣としての資格で参拝することは憲法上問題であり違憲ではないかとの疑念を否定できない、とする政府統一見解を発表しました。  
これに対して、「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根首相は、84年8月、藤波官房長官の「私的諮問機関として、「閣僚の靖国神社公式参拝に関する懇談会」を発足させました。大統領型首相を志向した中曽根流の私的諮問機関の多用の一例です。懇談会は、翌85年の終戦記念日の直前の8月9日、予想通り公式参拝にお墨付けを与える報告書を提出しました。中曽根首相はこれに基づき、同月15日、神道色の儀式はやめて本殿に一礼するに止めつつも、「供花の実費」は公費で支出し2閣僚を伴い「内閣総理大臣の資格で」「公式参拝」しました。  
報告書は、戦没者の追悼は「人間自然の普遍的な情感である」から国及びその機関が国民を代表する立場で行うのは当然であり、「国民や遺族の多くは、‥‥内閣総理大臣その他の国務大臣が同神社を公式参拝することを望んでいるものと認められる」としています。これに対しては、戦前の反省に基づいて厳格な政教分離を規定した憲法20条3項をまったく踏まえていないとの批判がなされました。この時の公式参拝について大阪高裁は、「憲法20条、89条に違反する疑いがある」との判断を示しました(92年7月30日)。その後最高裁も、「愛媛玉串訴訟」で「戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教とかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができる」として、政教分離の規定を厳格に解しました(1997年4月2日)。報告書の論理は完全に否定されたことになります 。  
中曽根首相の公式参拝に対しては中国などが激しく反発し、翌年から取りやめになりました。総理大臣は、「信条」もさることながら、プラグマティストでないと長く務められないということでしょう。尤も、その後現在に至るも、教育基本法の改定や日の丸・君が代教育、憲法改定などの場面で「日本固有の文化」を実現するうえで指導性を発揮しています。  
1985年 プラザ合意

 

20世紀末の日本経済は、80年代後半のバブル経済と、90年代のその崩壊による「失われた10年」で彩られます。その端緒となったのが85年の「プラザ合意」だと言われています。  
「プラザ合意」は、85年9月、ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5でなされました。為替市場は、アメリカ経済の相対的な弱化を受けて73年から変動相場制に移行しましたが、80年代のドル高は、アメリカにとっては好ましくないものでした。78年には1ドル176円も記録しましたが、85年には263円にまで上っています。そこで、同年、レーガン政権の強力な要望により、ドル安=円高・マルク高の方向に各国政府が協調介入する旨を取り決めたこの合意がなされました。その背景を見ます。  
73年と78年の2度に渡るオイルショックは、エネルギー資源のほとんどを海外に依存する日本経済にとっては、とりわけ大きな打撃要因となりました。しかし、日本は、リストラクチャリングと呼ばれる企業の再構築を実行し、省エネ努力、半導体などの技術開発で乗り切りました。しかし、そのために国家財政の赤字を拡大し、以後の日本は財政再建に乗り出さざるを得なくなっていました(第二臨調の設置)。  
一方アメリカも、財政赤字を拡大させていました。軍産複合体となっていたアメリカは、ソ連等に対抗するための軍事支出を増大します。そのうえ、所得税の大減税と投資減税で税収減となりました。  
また、貿易赤字も続いたままでした。投資を助長するために採られた上記二つの減税でしたが、その多くが消費や配当に回されました。短期の利益を追求する新自由主義的な行動です。それもあって、輸出競争力は強化されませんでした。反面、経営努力を実行した日本などからの輸入は増大しました。ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるゆえんです。  
ドルが高いのは、資金のドル離れの懸念とインフレ抑制のため高金利政策をとり続けたためでした。ドル高が続き、米商品の競争力はますます落ちて、85年のアメリカの経常収支は市場空前の1200億ドル近くの赤字になりました。一方で日本は世界最大の債権国になっていました。  
このような状況の中で、アメリカ国内では、特に日本の輸出に対する保護主義派と、ドル高の是正という通貨政策転換派に分かれましたが、後者が優勢になりました。保護主義を避けたい日本の輸出企業にとっても、ある程度のドル安=円高であれば、後者が受け入れやすい選択でした。  
このようにして、プラザ合意に向けての準備は日米間で進められ、合意の直前になってヨーロッパの3国(英、仏、西独)が加わりました。先月末、アメリカと中国の戦略・経済対話(SED)が開催され、早くも「G2」という言葉を使用するメディアも現れましたが、このときは米日によるG2とも評されました。  
プラザ合意の成立を見て、アメリカは為替レートの面ではドル高の全面修正を各国に求めました。日本に対する市場開放と内需拡大の要求も強まりました。新聞には、「構造的内政干渉」の文字が躍りました。  
ドル安に向けた協調介入の結果、円は急騰しました。政府は、対内的には内需拡大による景気浮揚策を採ります。空前の超低金利政策や臨調路線に反する国債の増発です。86年には3兆円、87年には5兆円の公共投資も追加され、バブル経済へと突入して行きます。  
1986年 女性差別撤廃条約の批准と男女雇用機会均等法

 

戦後、女性は憲法の上では平等になりました。しかし社会的には、「女は劣った性」などという偏見や性差別慣習によって、女性に対する差別は暮らしのなかで日常的に行われてきました。  
姫岡とし子氏は、社会史的にみた女性の戦後の決定的な転換点は75年頃だと記しています。「専業主婦から兼業主婦の時代へ」と特徴づけられるのがこの時期であり、同時に、家事・育児・介護は女性という「性役割分担撤廃」が女性運動の大きな流れになった時期だからです 。  
女性の労働力率は75年を境に上昇して行きます。それは主に、既婚女性がパート雇用として労働し始めたことに起因しています。この雇用形態が大きく影響して、日本における男女の賃金格差は先進工業国の中では最大です。欧米では、結婚退職、子育て後の再就職という典型的なパターンをほとんどとっていません。「性役割分担」は、労働市場の他にも広範に見られます。この頃、「私作る人あなた食べる人」というコマーシャルがテレビで放映され、家庭における「性役割分担」を固定化させるものだとして婦人運動家の市川房枝さんなどから異議申し立てを受けました。  
世界を見ると、75年の国際婦人年以降、男女平等に向けての国際的な取り組みは目覚しいものがありました。79年には、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(女性差別撤廃条約)が国連総会で成立しました。  
日本は85年にこれを批准し、同年に発効しました。この条約は、締約国に対して女子に対するあらゆる形態の差別をなくして事実上の平等を実現するよう求めています。特に注目される以下の点を明言しているこの条約は、「一歩進んだ人権条約」といわれています 。  
1 法律、規則に加えて、偏見、差別的慣習・慣行もなくすこと。  
2 個人、団体、企業による差別もなくすこと。  
3 「男は仕事、女は家庭」という固定的な性役割分業をなくすこと。  
4 男女の特性は異なるという「特性論」を否定したこと。  
この条約を批准するためには、雇用における男女差別全般を規制する法律が必要でした。そのため、85年に「男女雇用機会均等法」が制定され、86年から施行されました。採用、配置、昇進等に関して女性を差別してはならないとするこの法律は、罰則規定がなく、法律の遵守は企業の努力義務に委ねられるなど、ザル法だと批判されました。それでも、均等法は大きな話題になり、テレビ・ニュースのアナウンサーなど能力や意欲のある女性にとっては男性と対等に働ける道が開かれました。  
女性たちからの均等法の改正の声の高まりや少子化対策によって、女性労働者対策は徐々に重視されて行きました。97年には、努力義務の規定は修正され、募集・採用から定年・退職・解雇まで、女性差別はすべて禁止されることになりました。しかし、平等化の道のりは遠いのが実情です。総合職や管理職に占める女性の割合は小さく、賃金格差も大きいままです。  
日本における女性差別は極めて根深いものがあります。例えば条約は介護育児休業など男女が共に担うことを宣言していますが、日本は世界の流れから大きく遅れています。  
女性差別撤廃条約が定める権利が侵害された場合、条約を批准した国の個人または集団は、権利侵害を国連女性差別撤廃委員会に対して直接、通報ができるという「個人申し立て制度」を保障する選択議定書があります。今日までに、96カ国が批准しています。しかし、日本は未だに批准せず、国会でもしばしば追及されています。しかし、マスコミもほとんど採り上げないためか、進展していません。女性たち自身が世界に目を向けて、もっと声を上げるべきでしょう。  
1987年 国鉄の分割民営化

 

司法の「この国のかたち」への関り方  
財界による政治の支配ともいえる「第二臨調」の答申を受けて、1987年4月、公共企業体(公社)だった日本国有鉄道(国鉄)は、分割・民営化されました。すなわち、国鉄は6つの民営旅客会社(JR各社)などに分割され、国鉄は新事業体を分離した後、清算事業団となることになりました。民営化の理由とされた表向きの最大の理由は、30兆円を越える巨額の累積赤字の処理でした。巨大化した組織を分割・民営化して市場原理で効率的に経営し、赤字を解消するという臨調・政府の意見はマス・メディアを通して多くの国民の支持を得ました。国鉄労働組合(国労)等組合のストライキや勤務態度についてマス・メディアを通じて批判が展開されました。一方、借入金による公共事業で採算の見込みのない路線となることを十分に承知しながら建設して赤字を膨張させ続けた政・財・官に対する追及は極めて甘いものでした。  
民営化したものの、国鉄清算事業団による返済は進みませんでした。バブルによる地価の高騰で保有する用地の実勢価格は30兆円を下らず、民営化の必要はないとも言われました。しかし、清算事業団は7兆円余で売る見積もりを立て大企業に時価より安価で売却するなど、その仕事振りは極めて不自然でした。債務のうち、16兆円の有利子債務は一般会計に承継され国の借金となりました。私たちが私腹を肥やした者の責任を持つことを意味します。国鉄の解体から20年以上経った現在でも、例えば2008年12月、政府・与党のワーキンググループは、北海道、九州などの新幹線について本年12月までに新たに着工を認可することで合意しました。「民営化」は公に寄生していた政・財・官の特権層による公的資産の私物化とも言えます。公社の職員の勤務態度に問題があれば―政財と癒着して公益よりも私益に走る幹部職員を含めて―国民の監視の下で職員自身が強い責任感を持って積極的に改善するべき事柄です。「民主化」を標榜する組合の自己革新も必要です。しかし、分割・民営化するかどうは、公共交通機関としての使命など他の広範な問題点を含めて議論すべき別問題です。  
こう見ると、国鉄の解体は、赤字の解消を本気で考えてはいなかったことがわかります。では、本音はどこにあったのでしょうか。指揮を執った中曽根元首相は、後にあちこちで、「総評の中核部隊である国労を潰す」→「総評を潰す」→「総評に依存している社会党を崩壊させる」→「改憲する」とともに、「利潤原理」を労働者・国民に浸透させ、「この国のかたち」 を根本的に変えていこうというのが本来の目的であり、この戦略は成功したと、「成果」を誇っています。89年1月、総評は解散し、日本労働組合総連合(連合)が発足し、以後大企業と基本的に一体となった特殊日本的「企業別組合」による労働者の統合が進展しました。社会党も保守化し、衰退への道をたどります。この結果、新自由主義が益々ばっこし、憲法が掲げる「福祉国家」から離れて行きます。国鉄に限らず、一連の民営化に財界が強力に関与していたこと、民営化の目的を隠蔽したという2点だけでも、「国民による政治」という民主主義の原則からも大きく逸脱しています。  
国鉄再建のキャンペーンに反対する国労など国鉄の各組合に対するJR不採用の脅しによる組合脱退工作は苛烈を極め、追い込まれて自殺した国鉄職員は約200人に及びました。JR各社に採用されたのは20万余名で、脱退に応じなかった7628名の国鉄職員が、国鉄を承継した国鉄清算事業団に送られました。その内、1047名が3年後の1990年4月に解雇されました。80年代前半までは25万人だった国労組合員の数は激減しました。  
今日に至るも、解雇された国労などの組合員は、解雇は組合潰しの不当労働行為に当り無効であるとして(労働組合法7条)、地位確認や未払賃金の支払いを求めて裁判所で争っています。国鉄とJRは実質的に同一で、JRも責任を負うというのが主張の根底にありました。これに対して最高裁判所は、国鉄とJRは別人格であり、JRの責任はないと判示しました 。  
しかし、破綻を偽装して新会社を設立し、気に入った者だけを新会社に採用することが社会でまかりとおったら、法治国家とはいえなくなり、私たちの生活は成り立ちません。実質的には違法・違憲(憲法28条)だというのが普通の感覚でしょう。国鉄分割民営化が政府の手で行われて以来、これをまねして大中小企業を問わず偽装倒産による解雇が横行していると言われます。  
なのになぜ裁判所は「普通の感覚」を認めなかったのか?実は、国鉄分割・民営化に当って、最高裁からエース級の裁判官が国鉄法務課調査役に出向し、偽装倒産→解雇の戦略作りに深く関与しました(1998年6月12日東京新聞)。その後もエリート裁判官がJRに出向して法務部門を担当しています。「国」は、最初から司法の専門家を取り込み、司法が「裁判所一家」であることを十分に踏まえて裁判の結果までにらんでいたと言えるでしょう。「この国のかたち」を決める根幹の局面で、司法が制度設計・法案作成・執行・裁判という全プロセスに絡んでいたことになります。裁判所が行政部門などに人材を出向させ法案の作成や執行に関与していることは日常的に行われています。今回の問題に限らず、三権分立を脅かす重大な問題として、国民的な議論の必要性が指摘されています。  
1988年 バブル景気とその崩壊

 

「バブル」という言葉は、1980年代半ばまでは、「泡」を意味するに過ぎませんでした。しかし、86年からの日本経済の状態を指して命名されました。すなわち、「実態以上に経済がふくらみ、みせかけの繁栄を作り出した状態」をいいます。企業や個人は、土地や株式への異常な投機的な投資で一時的に資産を著増させ、消費も伸ばしました。都市部の地価は5年程度で3.5〜5倍になりました。株価も他の先進諸国に比して、急騰しました。  
「見せかけ」の経済は、91年には崩壊し、土地、株、ゴルフ場会員権など、軒並み暴落しました。その後10年間は空前の不況となり、おびただしい企業と個人が大きな打撃を受けました(「失われた10年」)。「バブルになってしまった」というふうに、原因をあいまいにして、どこにも誰にも責任がないかのような言われ方がバブル期には流布していました。  
1985年、「軍事国家」アメリカは、軍への莫大な支出と新自由主義による富裕層への減税などで財政の赤字がふくらみ、また、企業の国内生産力の低下と多国籍化などで貿易赤字を膨らませました(双子の赤字)。85年、G5各国はアメリカのドル高是正の要請に応じて為替市場に協調介入します(「プラザ合意」)。その結果、円は急騰しました。  
政府はその後、行き過ぎた円高による打撃を受けることの予想された輸出業界を救済するため、また、アメリカからの要請もあって、超低金利政策に転じました。87年〜88年には2.5%という世界最低水準の低金利政策を実施しました(87年末のアメリカの公定歩合は6%)。アメリカの目的は、日本の金利をアメリカの金利より低くしておき、日本の資金をアメリカに流入させ、赤字の穴埋めをさせようというものでした。  
加えてアメリカは日本にたいして内需拡大(輸出の抑制)による経済成長を求めました。日本はすでに多額の財政赤字減らしに取り組んで来ましたが、バブルのさなかに年50兆円の公共事業計画を対外公約として約束し、財政を拡大しました。  
それまでの素地として、80年代からの外貨取引の自由化による投機的資金の流入の影響も無視できません。84年にアメリカの要求で「日米円・ドル委員会」が設置され、日本の金融市場の開放や金利の自由化、いわゆる「金融・資本の自由化」が始まりました(内橋克人「悪魔のサイクル―ネオリベラリズム循環―」)。ネオリベラリズムがアルゼンチンなどラテンアメリカ諸国の経済を破綻させたことは知られていますが、日本でもこれに近い現象が起きていました。  
しかも、70年代前半までで日本経済の高度成長は終わり、企業の多額の内部留保金も行き場を失っていました。  
このような超金余り現象の下で、主に二つの経路でバブルが発生しました。一つは、銀行が中堅・中小企業(不動産関連)あるいは住宅専門金融会社(住専)などのノンバンクに貸し出し、その資金が土地に流れ込むルートです。担保の審査もずさんを極めました。末端では、「地上げ屋」が暴力団を使って土地を手放さない住家にダンプカーを突っ込ませて立ち退かせるようなことも珍しくありませんでした。  
二つ目は、一般企業が主として資本市場から調達した資金で、財テクといわれた多様な資金運用の一環として株式などを購入したルートです。株価は額面総額よりはるかに高くなっていたので、銀行から資金を借り入れるよりもずっと有利でした。もっとも、銀行からの融資もありました。こちらの方はマイナス金利で融資していたことなど一般には知られていない事実もあります。  
株価は90年1月に暴落し、地価も同年末には低下し始めました。跡には巨額の不良債権と不良資産が残りました。「現実の経済では、貨幣量はバブルの期間を通じて着実に上昇しつつあったから、いずれは深刻なインフレが生じると考えるのが常識である。だが、それにもかかわらず、当局は輸出に悪影響があるという論理で金利を変更しようとはしなかった。政府は相変わらず経済成長に大きい関心を持ち続けており、経済の金融面に関する政府の理解は、計画経済だった戦時中と同じく貧弱なままであった」 。  
経済学の常識を無視して、「土地や株は値上がりし続ける」という思い込みによる貸付額の「ノルマ制の強行」で、「日本経済の司令塔の役割を果たしていた銀行員のモラルの荒廃は致命的だった。保険会社も証券会社も、…製造工業ですらそうだった。職業倫理は荒廃してしまった」(森嶋通夫 同上)。「資産格差が大きくなるという問題点も生じた。とくに低資産層を重視して分析した結果をみると、不平等度が大きくなるところに社会的な問題の深刻さがあった(「経済白書」1989年版)。「金融の超緩和と公共投資による内需拡大策がバブルを生んだ。既得権益が残り、官も民もそれを失うことを恐れて、円高を生かそうという構造改革にならなかった。道路公団の役割が終わったことも当時から指摘されていた。米国債を買い、米国の赤字を支える構造も変わっていない。」。  
1989年 冷戦終了/消費税/日米構造協議/昭和天皇死去

 

T 冷戦の終了  
1989年は、第2次大戦後世界を二分していた、アメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営とソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造(冷戦)の終了を決定づけた年となりました。11月9日には東ドイツが冷戦の象徴ともいえるベルリンの壁の開放を宣言、この年から91年にかけてソ連・東欧諸国の体制が崩壊しました。その後10年間で、これらの国々は、相次いで資本主義国家となりました。この変革には国によって固有の要因もありますが、政治的無権利状態に置かれ、指令型の経済が破綻して不自由な生活を強いられた民衆の不満の存在が共通の要因として挙げられます。「ソ連型社会主義」は失敗しました。  
冷戦の終了は、欧米諸国では第一義的には人権を求める民主主義革命として理解される傾向がありました。これに対して日本では、社会主義体制の経済的不効率の問題として捉えられる傾向がありました。対比的に言えば、日本の戦後は経済開発を重視し、人権や民主主義の問題は第2次的な問題として捉えてきたことがここにも現われています。日本国内では、労働組合運動等における社会主義思想の後退や混乱、90年代における日本社会党の消滅による「55年体制」の崩壊に影響しました。その後、「新しい社会主義」の模索も行われています。  
冷戦の終焉は、世界の民衆からは概ね歓迎されました。“これで平和で民主的な時代が来る”と。確かに米ソの代理戦争はなくなりました。しかし、軍事的にはアメリカの覇権主義を抑える国がなくなりました。冷戦「秩序の解体」により民族紛争や民主化運動が世界の各地で勃発すると、ロシアや中国を含めて各国が軍事力で抑え込むことが容易になったという重大な側面があります。経済的には、アメリカ型市場主義がグローバリゼーションによって世界全体に拡大しました。軍事面と経済面は密接な関係にあります。  
冷戦の終焉は、もっと長いスパンで見ると、過去数世紀に渡って展開してきた資本主義的な世界システムから別のシステムへの移行期の始まりという位置づけもあります。近代化をパラダイムとする時代の終わりという見方と重なります(ウォーラーステイン「入門・世界システム分析」、水野和夫「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」)。また、普遍的な価値の保持者であることを正当化理由として覇権を目指してきたスペイン以来500年近い歴史の終わりではないか、という捉え方もあります(豊下楢彦「冷戦体制とポスト冷戦」 「戦後50年をどうみるか 上」所収)。近年のラテンアメリカにおける社会主義への道の動きも注目されます。  
U 消費税の実施  
竹下登内閣によって88年末に成立した3%課税の消費税法が89年4月から施行されました。大型間接税反対の請願署名は、国会史上空前の7188万人に達しましたが、十分な審議もなく自民党単独で強行採決されました。  
当時、税制全体の見直しによって実質的には減税になるという説明は、現実とはマッチしませんでした。直間比率の見直しで税負担が公平になるという説明もなされましたが逆進性は否定できず、応能負担を内容とする納税者の権利(憲法13、14、25条、前文の「恐怖と欠乏からの自由」)の観点から強い疑問が提示されました。ヨーロッパ諸国は間接税を大幅に導入しているという説明もありました。しかし、それならば、ヨーロッパの高・中福祉国家諸国の社会保障制度や労働法制、教育法制等国家・社会の全体像を比較して日本の福祉国家のあり方をどうデザインするかという大きな議論の中で合意すべきであるという反対意見は、ほとんど考慮されませんでした。  
V 日米構造協議始まる  
85年のプラザ合意以降の円高ドル安の中にあってもアメリカの対日赤字は膨らむ一方で、日米貿易摩擦が昂じていました。アメリカは、対日赤字が膨らむ要因は、日本の市場の閉鎖性(非関税障壁)にあるとして、主に日本の経済構造の改造と市場の開放を要求し協議の場を求めて来ました。これが89年7月の日米首脳会談で「日米構造問題協議」として結実しました。商習慣や流通構造などの国のあり方や文化にまで及ぶ広範な要求は200項目を超え、「ワシントン発の経済改革」とも称されました。  
90年6月のこの協議の最終報告で、アメリカは日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求しました。海部内閣はこれに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定しました。その後村山内閣は、アメリカからの要求で630兆円に積み増ししました。これは日本の財政赤字(さらに世界から嘲笑される日本の一層の土建国家化)の大きな要因となり、憲法が予定している福祉国家の建設は重大な危機に追い込まれて行きます。  
W 昭和天皇の死去  
89年1月7日、昭和天皇が癌のため死去しました。  
前年9月、発熱が続き病状の悪化が報道されると、その月の19日以降、国民の間に広範な自粛ムードが広がりました。テレビのバラエティや歌謡番組の中止、企業の創立記念パーティー、年末の「日本歌謡大賞」中止などが自主的に行われました。テレビCMの「元気」「笑う」「おめでとう」などのキャッチフレーズは削除されるか変更されました。各地のお祭りやパレードも中止されたりして、社会全体がフリーズした観のある数ヶ月は、戦後半世紀近く経っても象徴天皇制の議論がはなはだ欠如していたことを思い知らせました。  
1月9日の平成天皇の「即位後朝見の儀」や2月の昭和天皇の「大喪の礼」が天皇の国事行為として行われたことは、政教分離の原則(20条3項)違反ではないか、大きな論議を呼びました。昭和の時代の終わりに当たって、昭和時代とはなんだったのかの本格的な議論はなされませんでした。「死者にむち打つ」戦争責任論はこれまで以上にタブー扱いされました。  
1990年 湾岸危機

 

1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻・占領し、8日その併合を宣言しました。いわゆる湾岸危機の始まりです。主権国家を侵害する侵略行為であることは明白でした。  
しかし、背景は複雑です。第一次世界大戦後の1921年、オスマン帝国に勝ったイギリスは委任統治領としてイラクを成立させる一方、同年から23年にかけてクウェートの地帯をイラクから分離し、61年に独立させました。80年〜88年のイランとの戦争で疲弊したイラクは、平和裡に経済再建する環境を構想していました。しかし、クウェートはイラクに経済制裁・経済戦争をもって臨み、国境をイラク側に移動させ、アメリカから供与された技術でイラク領土内の油田を盗掘するなど、挑戦的でした。これは、クウェートは本来自国領だったという従来からあったイラクの感情に火をつけ、侵攻の理由として主張されました。  
安保理は直ちに即時無条件の撤退を要求し、経済制裁を決定しました。平和的な解決を求める国際世論も多く、湾岸諸国の多くは対イラク武力制裁に反対でしたが、安保理はアメリカなどの多国籍軍に武力制裁の権限を委任する決議を採択しました。翌91年1月17日、多国籍軍はイラク軍に対して攻撃を開始、湾岸戦争が始まりました。多国籍軍は大規模な空爆と地上攻撃でイラクを圧倒し、イラクのフセイン大統領は2月27日に敗北を認め、3月3日には暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結しました。  
アメリカは世界最大の原油埋蔵量を誇るペルシャ湾岸で支配権を確立するため、早い段階からこの地域における武力行使も辞さないとして軍備を増強していました。今日まで至る一貫した軍事介入策です。きっかけは、73年〜74年の「オイルショック」でした。75年にはキッシンジャー国務長官が戦争の準備があると述べ、80年にはカーター大統領が「武力行使を含むあらゆる手段による敵対勢力の排除」声明を出し(カーター・ドクトリン)、ペルシャ湾に緊急展開部隊を常時展開しました。89年後半には、アメリカはイラクとの全面戦争に備える作戦立案を開始しました。翌90年8月2日のクウェート侵攻の2日後には、ブッシュ大統領は作戦計画1002−90の遂行準備開始を命じました。(マイケル・T・クレア「世界資源戦争」)。  
「米国政府は、まずクウェートの王族を利用してイラクに侵攻を行わせるように仕向け、次にこの侵攻によりイラクに対し大規模な攻撃を行う大義名分を得ようと考えていた。」(ジョンソン民主党政権の司法長官ラムゼー・クラーク「ラムゼー・クラークの湾岸戦争 いま戦争はこうして作られる」)。  
湾岸戦争は、平和的な解決を原則とする国連憲章の観点からも大きな問題がありました。安保理は多国籍軍に広範な武力行使の権限を付与し、しかも安保理の監督を放棄しました。戦争直前にフランスが提案しイラクが承諾した、イラクのクウェートからの撤退を含む和解案は無視され、経済制裁の効果も見ずに戦争に突入しました。さらに、米軍はイラクを撤退させるにとどまらず、イラク国土を深く攻撃しました。冷戦終結後の国連の変化―アメリカの力の増大―の始まりを示すものでした。  
湾岸戦争の特徴は情報作戦の発展でした。情報操作だけなら以前からありました。ベトナム戦争後のアメリカは、報道の主役となったTVを使い、情報の「パッケージ」「洪水による操作」の手法を研究開発し、湾岸戦争の開戦から数日間、TVはイラクの重要施設がアメリカのハイテク兵器によって華麗にピンポイント攻撃される映像を流し続けました。映像は軍からの提供でした。「プール取材」(代表取材)といわれる厳しい報道統制も敷かれ、爆撃の93%を占めたB52などによる人口が密集する都市に対する無差別爆撃やハイウェイの旅客バス攻撃などによる市民の多数の犠牲は隠蔽されました。放射性物質である劣化ウラン弾を使用した事実も報道されませんでした。逆に、「油まみれの海鵜」など、イラクによる環境破壊を非難する等の捏造した映像作戦で、動物愛護を含む世界の良心を味方に付けました 。  
アメリカからの要請により、海部俊樹内閣は自衛隊の初の海外派兵となる「国際連合平和協力法案」を準備しましたが、激しい議論の末、廃案になりました。代わって、政府はアメリカの要請で総額135億ドルというおカネによる支援をしました。これも一種の参戦であり、憲法の理念に違反しているとの批判がありました。政府はさらに、ペルシャ湾に自衛隊の掃海艇を派遣しました。自衛隊法99条が根拠とされましたが、個別的自衛権を根拠とする同法に違反した初の海外出動となりました。  
自衛隊をめぐる従来の問題はその違憲性でした。しかし、この時から、国民の関心の焦点は海外派兵の問題に移りました。派兵の目的として「国際貢献」が謳われました。しかし、その実質は、資源の確保という大国の利益(「国益」)でした。  
直接に多国籍軍に守られたサウジアラビアとクウェートを除けば、日本が支払った金額は第1位でしたが、「国際社会」から「日本は血を流さない」という批判を受けたとされ、その後の日本のトラウマとなりました。「国際社会」の象徴として報道されたのが、クウェートが91年、2回に渡ってワシントン・ポストなどに掲載した約30か国に対する感謝広告の中に「日本」の名前がなかったことです。その理由の一つとして、日本が支払った金額の圧倒的な部分がアメリカに渡り、クウェートにはほとんど渡っておらず、さらに、各国から徴収した費用は実際には余っていて巨額のおカネが所在不明になっていたことが考えられます。海外では問題になりましたが、日本では報道されませんでした。全体として、マス・メディアは、「国際社会」の実態を検証しないまま報道しました。  
湾岸戦争は、「民主主義」の時代の戦争には、戦争を計画・実行する人間がいる空間とお茶の間という二つの「戦場」があることをこれまでになく痛感させる戦争になりました。   
 
 
吉田茂1

(明治11年-昭和42年 1878-1967) 日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、 第一復員大臣(第2代)、 第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。  
東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日〜1947年5月24日、および、1948年10月15日〜1954年12月10日まで在任した。優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学にて総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。  
生涯

 

生い立ち  
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。吉田の実父と義父は若い武士として1868(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった。1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。  
学生時代  
少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶応義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に学習院高等学科を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格する。ちなみに合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。  
外交官時代  
当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離」論を支持。1928年、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務事務次官に就任する。  
但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。  
太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)。40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる。
第二次世界大戦後  
内閣総理大臣就任  
終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。  
1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。  
自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。  
第2次、3次吉田内閣  
このときGHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の第24回衆議院議員総選挙で自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。  
1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は長い間、米議会の非米活動委員会をモデルにした『非日活動委員会』を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が1952年(昭和27年)に設置・施行されるきっかけを作る。アメリカでは当時赤狩り旋風が吹き荒れていた。  
サンフランシスコ平和条約  
直後の朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。  
独立達成を花道とした退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投。しかし、公職追放を解かれた鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。  
1954年(昭和29年)12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。  
内閣総辞職後  
1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。  
1964年(昭和39年)、日中貿易覚書にともなう中華人民共和国との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた中華民国を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。またこの年、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米。1965年(昭和40年)米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。  
その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、ブリタニカ百科事典1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。しかし、さらに2ヵ月後の10月20日正午頃、大磯の自邸にて死去した。享年89。突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、身内は一人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。前日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に起こしてもらい、椅子に座り一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である。  
葬儀は東京カテドラルで行われた。10月31日には戦後唯一の国葬が日本武道館で行われ、官庁や学校は半休、テレビ各局は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ。 戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。遺骨は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。
人物

 

尊皇家・臣茂   
尊皇家であり、終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。  
1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。  
辞めたくなったら…  
1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。  
自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任し今は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶。そこで鳩山は松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、なんと「あの殿様じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。  
ところがこの日の夜から毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を受けるよう吉田を口説き、ついにはその気にさせてしまったのが、その手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた元政友会幹事長の松野鶴平だった。しかもこうした松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から二人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。  
一方の吉田はといえば、蓋を開けてみると松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、  
1.金作りは一切やらない  
2.閣僚の選考に一切の口出しは無用  
3.辞めたくなったらいつでも辞める  
という勝手な三条件を提示して鳩山を憤慨させている。しかし総選挙からすでに一ヵ月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くか分らなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。  
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。  
吉田学校・ワンマン体制  
自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。そこで、官僚出身者を中心とした吉田学校と呼ばれる集団を形成した。1949年(昭和24年)の第24回総選挙で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅や大野伴睦らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。 吉田学校の主な人物として、佐藤栄作・池田勇人・田中角栄がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流を形成することになる。  
孤高のサイン  
日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。  
講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約に一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。  
マッカーサーとの関係  
吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。  
復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。  
東方会議をリードし治安維持法に死刑条項を設けたため、公職追放の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたという。  
ユーモア  
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。  
寺内正毅が首相に就任する際、寺内の朝鮮総督時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から総理秘書官就任を要請された。しかし吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。  
ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。  
皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際に、「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した(吉田は気に入らない質問をした記者に水をぶっ掛けたことがあった)。それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。  
憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。  
単独講和に反対していた松野鶴平に、「このご時世、番犬くらい飼っているだろう?」と切り出し、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」。  
終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者はでなかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという。  
戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と慇懃無礼に辞退したという。  
バカヤロー解散における広川弘禅農林大臣らの裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川農相は僧籍を持っている)と皮肉を言った。  
晩年に大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。  
1964年(昭和39年)11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。  
日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した。  
吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった。  
雪子夫人がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。昭和39年(1964年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父・牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けていなかった。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送っている。  
落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代りにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。  
言行・逸話  
1951年、サンフランシスコ講和会議へ向かう機上にて白洲次郎(左)と 耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせる。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという。  
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。  
1947年(昭和22年)、GHQにより公認された労働組合がストライキを乱発し、政治闘争路線を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った 。  
保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせた迷言であった。  
サンフランシスコ講和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。  
サンフランシスコ講和会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。  
上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。  
吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりする事もしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて天皇から注意を受けたことがある。  
1952年(昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名。このエピソードの背景にはある事情がある。吉田は妻の雪子を1941年(昭和16年)に亡くしていたが、まもなく愛人の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて生活を共にし始めている。ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたのだが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには良い感情を持っていなかったのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげでかえって世間体を気にする必要もなくなり、1944年(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。  
これら吉田の行動は、当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。  
駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省から吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりにムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。  
首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。  
佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。  
幣原内閣で外相に就任した際、芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。  
大の葉巻好きで知られていたが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には好きな葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えた。  
英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代、英国の権化のような高級車、ロールス・ロイスの中型モデル「25/30hp」1937年式(フーパー社製サルーンボディ架装車)を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍等への「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30hpロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホールしてまで使い続けた。一方1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、個人的に西ドイツ首相コンラート・アデナウアーと交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。何れも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉に引き継がれてのち日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている。   
 
吉田茂2

 

明治11年(1878)9月22日東京神田駿河台の竹内綱東京別邸で綱の五男・茂が生まれました。(母は竹内の2度目の妻瀧(たき)。瀧にとっては最初の子供)茂は生まれてすぐに親同士の以前からの約束により横浜の貿易商吉田健三の養子になります。戦後の日本復興に力を尽くした名宰相・吉田茂の誕生でした。  
彼の活動は外交官時代、戦時中の和平活動家としての時代、そして戦後の宰相としての時代の3つに大別できます。以下それを順次追いかけていきます。  
竹内家は土佐藩家老伊賀氏に代々仕えて来た家柄です。伊賀氏は秀吉の重臣、山内一豊(奥さんのへそくりで名馬を買ったことで有名な人)の姉通(つう)の子・伊賀可氏の子孫で、山内一豊が関ヶ原の戦いで家康側についたことから土佐24万石を与えられて四国に来た時に付き従い、家老として宿毛城に入りました。竹内家はその伊賀氏に重んじられていたのですが幕末頃には落ちぶれていて、綱の時代にはすっかり貧乏侍になっていました。  
しかし綱は持ち前の見通しの良さと誠実さで、最初樟脳の販売で土佐藩の財政を潤し、維新後は後藤象二郎に重んじられて財界で活躍しました。しかし茂が生まれた時はつまらぬ事件に連座して刑務所に入ったりしていた頃でした。  
茂は11才の時に養父を亡くし、若くして莫大な財産を受け継ぎます。その後、小笠原東陽の耕余義塾に学んだ後、高等商業学校(後の一橋大学)、東京物理学校(後の東京理科大)などいくつもの学校を短期間ずつ転々としてから明治30年10月学習院に入り、ここで7年間学びます。学習院は華族の子弟ばかり集まっていましたが吉田茂も十分な「お坊っちゃま」。ここで彼は自分の人生の進路を見出しました。それは外交官として生きる道です。  
明治37年東京帝大に移り、同39年7月卒業して外交官試験を受けて合格。この時の同期に彼に後々まで深く関わることになる広田弘毅もいました。  
明治40年奉天領事館に赴任、すぐに実質的な領事代行になります。翌年帰国してロンドン赴任を命じられ出発前の明治42年3月、牧野伸顕(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚します。これは実父竹内綱が積極的に進めた縁談でした。夫婦そろってイギリスへ赴任して1年ほど務めた後、イタリアへ移り、イタリア万博の事務に携わります。そして明治45年帰国。  
元号が改まって大正元年、安東領事兼朝鮮総監府書記官に任命。このとき、大熊重信内閣の対華21ヶ条要求に彼はただ一人反対しました。むろん内閣は一介の領事の意見など聞かずゴリ押しをしてこれを中国に押しつけ、国際世論の反発を招きます。この反抗が災いして大正5年帰国してから資料整理の仕事に左遷。この時の吉田はふてくされており、外務次官だった幣原喜重郎から呼び出しがあっても聞こえないふりをして仕事をサボタージュしていたといいます。  
大正7年済南領事を半年ほど務めた後、義父・牧野伸顕のパリ講和会議出席に随行して渡欧、そのままイギリス大使館一等書記官としてヨーロッパに残りますが、この時重要な出会いがありました。皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のヨーロッパ歴訪をロンドンでお迎えします。この時吉田は裕仁親王の人柄に感動し、また自分が持っている英国観・英国皇室観を熱く皇太子に語りました。  
大正11年実父竹内綱が亡くなったのに伴い帰国、そのまま天津総領事、奉天総領事をつとめ、昭和3年には田中義一首相兼外相に抜擢されて外務次官になりました。その後イタリア大使を短期間務めたあと、広田弘毅外相のもとで海外の大使館を巡回する特命を受け、それを数年間続けました。そして昭和10年11月定年退官。 
広田弘毅は吉田の同期生ですが、吉田と違ってエリトーコースを歩んでいました。彼はこのままではいづれアメリカと戦争になると考え、それを回避するための必死の作業を続けていました。  
当時この広田弘毅の対外政策が成功して、もし日本が平和な国家に戻っていたら、吉田の社会活動はこれで終わって、反骨精神旺盛で、筋の通らないことを嫌う、気骨のある外交官としてだけ吉田茂は一部の人の記憶の中に残ったものと思われます。しかし時代はそれを許してくれませんでした。  
広田弘毅の外交活動も内部に軍部という爆弾を抱えたままではどうにも実を結びませんでした。昭和11年、とうとう226事件が起きて岡田内閣がひっくり返ります。その後任として白羽の矢が立ったのはその広田でした。広田は自分はただの外交官だとして首相就任要請を頑固に拒否しますが、その説得役として吉田が駆り出されました。広田は口説き落とされて首相になりますが、結果的にはこれは彼に絞首台への道を歩ませることになります。  
広田はその自分を口説き落とした吉田を組閣参謀にして新内閣を作り吉田を自分の後任の外務大臣に指名します。この内閣がこのまま発足していたら、日本はひょっとすると悲惨な戦争への道を歩まずに済んだかも知れません。しかしここに軍部から横やりが入り、戦争拡大に否定的な吉田は外務大臣に就任することができませんでした。広田弘毅は手足をもがれたような状態で苦しい内閣運営をしなければなりませんでした。  
吉田は外務大臣にできなかったお詫びとしてイギリス大使に任命され英国へ赴きますが、やがて日英関係の悪化により帰国。この時彼は英国首相に何とか戦争をやめさせるよう工作してみるから日本を見捨てないで欲しいと言い残しました。しかし既に外務省を定年退官してただの市井の人である吉田には工作を実らせるだけの充分な影響力は発揮できませんでした。そんな中、長年連れ添った妻の雪子が乳癌で死亡。意気消沈している間にとうとう日本は対米開戦してしまいます。  
そんな吉田を尋ねてきた人物がいました。鳩山一郎と岩淵辰雄です。彼らは無謀な戦争を続ける東条英機を退けて和平志向の内閣を作るべく相談を進めます。吉田邸にはその路線の人々が多数集まり、過激な細川護貞などは東条を暗殺しようとまで言いましたが、さすがにこれはたしなめられます。東条に代わる首相候補として穏健な宇垣一郎元陸軍大将や小林躋造海軍大将などの名前が検討されました。  
しかし当局も彼らの動きをいつしかつかんでいました。特高は吉田邸内に2人の女性スパイをお手伝いとして潜入させ、彼らの動静を念入りに調べました。そして昭和20年4月15日、吉田は突然特高に連行され投獄されます。岩淵らも同様に拘束されており、刑務所が火事になった時に再会しました。結局彼らは5月いっぱいまで拘束された後、仮釈放されました。 
終戦。  
天皇の肉声による放送があると聞いた時、吉田は天皇の性格からしてその内容が何であるか、きちんと分かっていました。  
昭和20年8月17日発足した東久邇宮内閣は英米にうけのいい人物を中心に閣僚を揃えようとし、イギリスに3度にわたって外交官として赴任していた吉田茂を外務大臣に迎えようとします。しかしこの時は木戸幸一が反対して実現せず、重光葵が外相になり、ミズーリ号での降伏文書調印を行います。しかし重光は首相にも米軍にも非協力的であったため解任され、昭和20年9月17日代わって吉田茂が外務大臣に任命されました。この時66歳。政治家としての非常に遅いスタートでした。  
外務大臣に就任した吉田は早速マッカーサー元帥と会談します。この席で彼は昭和天皇の人柄をよく説き、これからの日本にぜひとも必要な人物であることを主張、そしてイギリス風に天皇を国の象徴として扱うことを提案しました。マッカーサーは即答を避けますが、すぐに27日天皇との会談を行い、吉田が言った昭和天皇の性格というものを確認します。  
この天皇とマッカーサーの会談時の記念写真は、平服のマッカーサーに対して正装の昭和天皇、背の高いマッカーサーと低い天皇、がみごとに対比されており、国民に「日本は負けたんだ」という意識を強烈に植え付けます。この写真の流布を恐れた山崎内務大臣は写真報道を差し止めようとしますがGHQが差し止めをすることを禁じ、結局これがきっかけの一つとなって東久邇宮内閣は退陣しました。  
後任の首相には吉田が外務省時代の先輩であり当時隠居していた幣原喜重郎を担ぎ出しました。この辺りから吉田はもう実質日本のリーダーとして活動し始めています。がこの時はまだ外務大臣のままです。早速、幣原は吉田を伴ってマッカーサーに会いに行きますが、ここで日本の民主化に関する五ヶ条の要求を渡されました。そこには女性に参政権を認めること、労働組合の結成を奨励すること、基本的人権の保障をすること、などがうたわれていました。吉田にはそれは予想の範囲でしたが保守的な幣原にはショックでした。幣原は憲法改正の必要性を感じ、その素案をまとめますが、マッカーサーに見せると即座に拒否されます。この結果マッカーサー自身が憲法素案を書く羽目になりますが、そこにうたわれた精神はマッカーサーと吉田が共に理想と考えることでした。  
昭和21年、幣原内閣は厳しい食料不足や激しいインフレなどで社会不安が高まる中、国民の不満を収めることができずに退陣に追い込まれます。その後任は鳩山一郎になるものと思われました。ところが、ここで鳩山は以前ファッショ的な著作を書いたことがあったとして、公職追放の憂き目にあってしまいます。そこで急遽鳩山は吉田自身に首相になってくれるよう要請、やむを得ない状況なので受諾。ここに昭和21年5月22日、とうとう第一次吉田内閣が発足しました。  
この吉田内閣のもとで新しい憲法の制定作業が進められます。吉田はマッカーサーに負けないくらいの理想家でした。憲法9条についても彼は「過去の戦争というものはみな自衛の為といって始められたもだ」といって明確に軍備を否定します。  
そして新しい憲法が成立し発効を待つ中、一足早く施行された改正選挙法により昭和22年4月25日、女性も参加した総選挙が行われました。新しい憲法の元では首相は国会議員でなくてはならないので、吉田は郷里の高知全県区から出馬、トップ当選します。しかし皮肉にも当時の社会不安を背景にしてこの選挙では社会党が大躍進、第一党になってしまったため、吉田内閣は退陣。社会党政権の片山内閣が発足します。  
しかしこの片山内閣は50年後の村山内閣と同様で、社会党政権であるのに保守政権と全く同じ政策しか取ることができませんでした。人を批判するのと実際にやるのとの違いは甚だしいものです。実際に自分がやることになるわけがないと思っている人だけが無責任な批判をすることができます。  
片山内閣に人々は失望し、党内外からの批判がつのって片山内閣は7ヶ月半で瓦解、芦田均が引き継ぎますが、昭和電工疑惑が起き、閣僚が逮捕されるに至って芦田内閣も退陣に追い込まれました。そしてその後を受けて昭和23年10月15日第二次吉田内閣が発足します。しかしこの時点では少数与党。政権は不安定で内閣不信任案が通ってしまい、国会解散。総選挙に入りこれに圧勝して、昭和24年2月16日第三次吉田内閣へと移行しました。しかしこの選挙の最中A級戦犯7名が巣鴨で処刑。その中で東条の処刑は当然としても、日米関係安定の為に尽力するも果たせなかった広田弘毅も含まれていたことに吉田は涙します。  
この頃吉田は佐藤栄作・池田勇人ら次世代を担うべき政治家を積極的に登用しました。そして昭和24年内閣が発足するとすぐに「インフレ終息宣言」を出し「終戦の終了」をアピールし始めます。  
このころ吉田が最も手を掛けたのが正式に戦争の終結となる講和条約の締結問題です。それに際してアメリカ大使ダレスは日本が独立を回復するに当たっては軍隊を持つことが必要であると主張しました。これに対して吉田はこれからの時代の安全保障はそれぞれの国が軍隊を持って自分の国を守るのではなく、国連の軍隊により全ての国の安全を守るべきだと考えていました。会談は平行線をたどります。吉田はその理想を分かち合える相手であるマッカーサー元帥を頼みとしましたが、そのマッカーサーが朝鮮戦争における発言の責任を問われて突如解任されてしまいます。マッカーサーは吉田に「日本をいい国にしてください」という言葉をのこして去っていきます。  
ここで吉田もとうとう妥協を余儀なくされました。昭和26年9月8日サンフランシスコで太平洋戦争を完全に終結させる講和条約が結ばれて日本は独立を回復しましたが、この時吉田以外にはほとんどの日本人がその内容を知らされていなかった日米安保条約も同時に調印されました。吉田は国連の機能が米ソ対立によって形骸化している現状では、日本の安全保障をアメリカにゆだねる以外ないと判断したのです。そして同時に日本自体の防衛力も整備する必要性を感じていました。翌昭和27年10月には警察予備隊を保安隊に改組します。(昭和29年7月さらに自衛隊に改組)  
さて、吉田を首相に押し上げた鳩山一郎は昭和26年やっと公職追放がとけて政治の世界に戻ってきます。そして吉田に首相の座を譲るように言ってきますが吉田はまだ自分の仕事は完成してないという思いがあり、これを拒否します。  
拒否された鳩山はあの手この手で吉田の回りから圧力をかけてきます。これに対抗するため、吉田は奇策を用いました。昭和27年8月28日、国会が開幕したと同時に国会を解散してしまいます。『抜き打ち解散』です。  
ここで行われた総選挙により、自由党内の吉田支持勢力は吉田が日本の独立を回復させたことに対する世論の圧倒的な支持により、鳩山の分派勢力を大きく上回って、これによって第4次吉田内閣が発足しました。ところがこの内閣は思わぬところでケチがついてしまいます。それは昭和28年2月28日のことでした。  
その日、衆議院予算委員会で右派社会党の西村栄一が質問に立っていました。  
 西村:首相は国際情勢を極めて楽観しているようですが、どのような根拠にもとづいてのことなのでしょう?  
 吉田:アメリカのアイゼンハワー大統領もイギリスのチャーチル首相も同様の見解を持っています。  
 西村:私は欧米の政治家の意見を聞いているのではない。日本国首相として答弁されたい。  
 吉田:私は日本国総理大臣として答弁したのである。(明らかに西村が喧嘩を売っていることが分かってきたため、やや語尾が震える)  
 西村:首相は興奮せずに答弁されたい。  
 吉田:無礼なことを言うな。  
 西村:何が無礼だ。  
 吉田:無礼じゃないか。  
 西村:質問しているのに何が無礼だ。日本の総理大臣として答弁できないのか。  
 吉田:バカヤロー!  
この失言はさすがに問題とされ、総理大臣への譴責決議案という前代未聞の決議案が国会に上程され、しかも鳩山一郎に近い広川農相の一派が欠席したため可決されてしまいます。吉田はこの閣僚として不実な広川をとがめて罷免します。閣僚の罷免というのは戦後3度しか起きていませんが、この時がその内のひとつです。  
勢いに乗った野党は続けて内閣不信任案を提出。鳩山一派が自由党を正式離党、不信任案は通過して、吉田は国会を解散しました。『バカヤロー解散』です。  
この選挙ではさすがに吉田も苦戦しました。結局自由党だけでは単独過半数を確保できず改進党と連立の上で昭和28年5月21日第5次吉田内閣を発足させます。  
しかしこの内閣は連立政権という基盤の弱さに加えて、汚職事件によって打撃を受けます。造船疑獄です。やがてその取り調べの手が吉田の懐刀である佐藤栄作幹事長まで及ぼうとすると、吉田は犬養法相に命じて指揮権を発動させ、検察庁に捜査の中止を命じました。この強引な措置はさすがに各方面からの批判をあび、とうとう昭和29年12月7日、吉田茂は内閣総辞職の道を選びます。そして吉田の理想はやがて、彼がその政治生命と交換に守った佐藤栄作に受け継がれ、10年後に総理大臣に就任した佐藤は平和的な交渉による沖縄返還という大事業を成し遂げます。  
吉田はその佐藤が首相として活躍し始めたのを見守るように昭和42年10月20日11時50分、心筋梗塞の為死去。享年89歳。マッカーサーと、昭和天皇と3人で日本の戦後復興に力を尽くした大政治家は逝きました。彼が総計約7年間の首相任期中に任命した大臣の数は79人。彼らは後に「吉田学校の生徒」と言われます。彼のような政治家が戦争が終わった時に日本に存在したというのは非常に幸運なことであったといえるでしょう。  
 
吉田茂とその時代

 

吉田茂については実に多様な本が出ている。  
ギョーカイで有名なのは高坂正堯の『宰相吉田茂』や猪木正道の『評伝吉田茂』だが、どちらも大所高所につきすぎていて、冴えがない。では何を採り上げてみようかとおもいながら、結局は二つに絞った。  
ひとつは吉田茂自身の『回想十年』で、文庫本で4冊になる。吉田が書いたというより周辺が動いて吉田を取り囲み、むりやり喋らせたものに吉田が手を入れた。デキについては序文で吉田自身が不満だらけのものになったと書いているものの、なんといっても占領下の日本の首相を8年にわたって務めた本人のナマの言葉がずうっと続いているのだから、やはりおもしろい。  
もうひとつが本書である。  
すでに『紋章の再発見』(淡交社)でおなじみの著者で、『回想十年』もふまえているし、アメリカ側から書いているのが日米のちょうど真ん中に立たざるをえなかったオールドリベラリスト吉田茂についての見方をダイナミックしているので、これを選んだ。著者の大学時代の卒論が『白鯨』だったというのも気にいった。政治史や政治家を書くには『白鯨』と格闘するくらいの執拗がなくてはいけない。  
で、『回想十年』では吉田の生涯も首相退陣後の様子も見渡せないので、ジョン・ダワーのほうにした。  
本書はノーマルな名著である。それとともに、日本人が一度だけでよいが、必ずや開いてみるべき本である。  
まず吉田茂の少年期から青春をへてイギリス時代までがニュースのように解説される。土佐藩の竹内綱の14人の子のうちの5男で、竹内が投獄されたため竹内の親友の吉田健三の庇護のもとに育てられたこと、そのせいで実母の名も知らなかったこと、養母の吉田士子(ことこ)が佐藤一斎の孫で、彼女から愛国心と伝統主義を植え付けられたこと、9歳で家督をついで早くに資産家になったこと、杉浦重剛の学校に通って尊王心を養ったこと、父親に対する反抗が伊藤博文系の政治家たちにのちのちまで親近感をもつ契機になったことなどにも、その後の吉田の母体を見ている。  
明治42年(1909)、吉田は牧野伸顕の娘の雪子と結婚をする。牧野は大久保利通の息子である。吉田にとっては二人目の養父であった。この縁組で、吉田は大久保と牧野がもつ政治的現実主義の正当な継承者になる資質を輸血された。実際にも、吉田が最初の"政治"を実感したのは、西園寺公望を大使としたヴェルサイユ会議に牧野のお付きとして派遣されたときだった。  
天津総領事と奉天総領事の時期については、ダワーは森島守人の意見そのままに、とくに奉天時代に書いた満州経営論が時の田中義一内閣の幣原喜重郎外相にうけいれられていれば、あるいは満州事変はおこらなかったかもしれないという見方をとっている。  
これはいささか楽観で、東方会議をめぐる当時の吉田の提案や判断にそんな実力も魂胆もなかっただろうというのが、その後の評者の見方だ。ただ、このとき吉田の周辺にいた反共主義者の鳩山一郎と殖田俊吉のその後の思想と行動をかんがえると、あるいは吉田には列強諸国に伍する方針がしっかり見えていたのかもしれないともおもわせる。  
昭和5年(1930)、吉田はイタリア大使になりムッソリーニ時代のローマを2年体験する。が、関心はアジアに向いていて、満州事変後の中国に照準をあてていた。なんとか満州国を鬼っ子にしないようにするための、人呼んで"中国通"としての方策を練っていたのである。  
この時期の吉田の言動は、今日の日本を考えるといろいろ示唆に富む。一言でいって、吉田は満州事変が「重大な誤算」の産物であることを諸外国の外交官にちゃんと告白する一方で、「それは説明と処理の誤謬であって、日本の立場は非難されるにはあたらない」と必ず付け加えたのである。いまアメリカが必ずやってみせている外交だ。  
その後、日本はしだいに戦争に突入していくのだが、その危機感を吉田は「4つの集団のバランスがどう崩れるか」という見方で見ている。これも鋭いものがある。日本の軍部の動向、日本の外務省の言動、英米両国の方針、国連参加の小国の動き。吉田はこのうち日本を不運にするのは外務省の無気力な動きと小国の発言に左右されることだと見ていたのである。田中真紀子にはわからないことだろう。  
このあと、吉田はアメリカ大使への道をみずから断って、30年にわたる外交官としての活動を閉ざしてしまう。そしてジョセフ・グルーの日本ロビーの隠れた論客になっていく。樺山愛輔・松平恒雄・杉村陽太郎・出淵勝次らとともに。  
二・二六事件のあと日本にいよいよ暗雲がたちこめるなか、吉田は日独接近に反対し、軍部派対穏健派の構図を描きつつ、たとえば林銑十郎内閣に穏健派の佐藤尚武が外務大臣に入ったことなどをよろこぶ。吉田は「振り子理論」というものを信じていて、日本は極端に走ったあとに、また逆の方向に振り子のように動くはずだと見ていたのである。  
しかし、現実の振り子はまだまだ一方の極に進んでばかりいた。日中戦争である。この時期、吉田にとって意外だったのはソ連の台頭で、このときの恐怖感はその後ずっと吉田につきまとったようだ。  
日中戦争については、吉田はイーデンとの間で秘密計画を策定しようとするが、失敗をする。このあたりの事情、ぼくはよく知らなかったのだが、ダワーはかなり詳細に証かしている。かくて吉田は外交の仲介者としては不正確であるという烙印を押されてしまう。日本が太平洋戦争に突入したとき、吉田はグルーにすら確信をもたらせないでいる。  
ついで日米戦争下、吉田はいわゆる反戦グループをつくり、皇道派を統制派に対立させるという和平シナリオを動かそうとしていた。宇垣一成を担ぎ出そうとしたりしたが、うまくいかなかった。すでに昭和17年には日本の敗戦を予感していた吉田は焦る。が、その焦りは終戦工作まで生かせなかった。もっとも、そうした徹底した工作シナリオづくりに埋没する性格こそが、敗戦後の日本を自立させるに役だった。  
敗戦時、吉田茂は何歳だったのか。67歳である。  
当時も今も、かなりの老人だ。この老人が日本の政治の中核を演じつづけた。良くも悪くも、この67歳がその後の8年、いやその後の政界の数年にわたる日本を指導したことが、今日の日本のあらゆる基盤になっている。  
吉田が占領下の日本で覚悟したことは、1. 天皇と国体の存続をのぞけば、エリート官僚が考えることとほぼ同じことで、とくに新しいものはない。2. 国内の革命勢力の弾圧、3. 旧守派の伝統的手段の復活、4. 資本主義的繁栄、5. 日本の国際地位の向上、これである。けれども、その新しいものがとくにないことをひとつひとつ実現することが、最も困難だったのである。それに第一次吉田内閣について、アメリカは当初はくそみそだったのだ。アメリカとの溝も埋めなければならなかった。  
では、何が吉田をして日本の自立に向かわせた原動力で、何がアメリカから見てよきアメリカの代理人に見えるようにさせた仕掛けだったのか。ジョン・ダワーの本書における後半の議論はこの解明にあてられる。  
一言でいえば、吉田は日本が悲劇的な戦争をおこしたのは「歴史的な躓き」だと捉えていたのに対して、マッカーサーをはじめとするアメリカ政府は日本の過ちは明治政府以来の構造的な問題にあると見ていた。  
この日米の根本認識のズレを吉田がどのように解消していったのか、そこに吉田戦後政治の本質と、戦後日本の社会的本質がつくられる素地があった。ひとつだけ"幸運"がつきまとった。それはアメリカにとっても吉田にとっても、日本が共産主義化することが脅威だったことである。マルクス主義陣営にとってはとんでもないことだったが、これを吉田は巧みに利用する。ソ連がスターリン時代という強力な圧政時代だったことも手伝った(この件についてはダワーは「近衛上奏文」をかなり重視している)。  
こうして吉田は、マッカーサーの断固とした改革のもとで、日米関係の回復、帝国日本と新生日本の融和、尊皇主義の波及、表面上の民主主義の社会化、結果だけの機会均等の実施といった、まるでアクロバティックな政治を実現していったのだ。  
吉田は人材をフルに動かす才能にも長けていた。そこは譜代と外様を使い分けた家康にも似ているが、それだけではなく自家薬籠の人材を登用する術も知っていた。  
これがいわゆる「吉田学校」である。当初は、経済政策の池田勇人、党務のための佐藤栄作、法と再軍備の岡崎勝男、大橋武夫らの1期生の活躍が目立つ。  
吉田が新憲法よりも明治憲法に愛着をもっていたことはよく知られている。また農地改革で地主がなくなっていくことに不満をもっていたこともよく知られる。  
ようするに吉田は民主主義改革などに大きな価値を見出していなかった。それがうまく運んだのはマッカーサーがいたからである。逆にマッカーサーがいたから、吉田は巧みに勝手なことを言い、日本の自立へのバランスをとっていた。  
この吉田の巧妙で頑固なやりかたがはたして大成功だったのか、それともそうでもなかったのかを決定するのは難しい。その最も重要な問題が、再軍備と主権回復をめぐる一連の出来事、すなわち安保を伴うサンフランシスコ講和条約につながる政治というものだ。この出来事は今日にいたる日本の運命を決定づけただけに、吉田政治が何をしたかという評価がいまもって難しい。  
なにしろ日本は完全に「パックス・アメリカーナ」のすべての事情の中に組み込まれたのである。主権は回復したが、たとえば台湾政府を認めさせられ、中共の封じ込めにも加担させられたのだし、講和後に日本の各地にアメリカの軍事基地を残すことにもなったのだった。  
こうした状況下、ダワーは、吉田が講和条約の締結に向かって、吉田自身がアメリカに対して発動できるカードをすべて使いきれていないと見ている。そうだったかもしれないし、そうでないかもしれない。「吉田の真実」はなかなか正体をあらわさない。  
本書を読んでずいぶん時間がたつが、いま思い出すと、やはり吉田が日本の自衛権についてどう考えていたかが気になった。さきほどそのあたりの箇所を拾い読んでみたが、どうもダワーもその点をはっきりさせていない。  
ともかくも吉田は用心深かったのだ。どんなこともそうだった。だから吉田は「用心深い自衛権」「用心深い自衛隊」をつくろうとしたとしか言いようがない。きっとアメリカもそのように見るしかなかっただろう。問題はむしろ国内である。そうしたアメリカの鏡に映った日本を見せつづけた吉田を、日本人はどう読んだのか。池田勇人まではともかくも、岸・佐藤以降の日本の政治は、しだいに吉田の用心深さの意味のタガから外れていったからである。  
もうひとつはっきりしていることがある。吉田は終生、政党に関心をもたなかったということだ。自民党政治という言葉があるが、それは吉田茂以降のことなのだ。だとすれば、自民党政治のあとにくるものを知るためにも、諸君は"吉田茂とその時代"を知らなければならない。  
 
防衛大学の生みの親である吉田茂氏が防大生に送った言葉の一節

 

「・・・君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときなのだ。 言葉をかえれば、君たちが『日陰者』であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい。・・・」  
 
サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説

 

サンフランシスコ / 1951年9月7日  
ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく、日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。  
過去数日にわたつてこの会議の席上若干の代表団は、この条約に対して批判と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決にあつては、すべての国を完全に満足させることは、不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも、若干の点について苦情と憂慮を感じることを否定出来ないのであります。  
この条約は公正にして史上かつて見ざる寛大なものであります。従つて日本のおかれている地位を十分承知しておりますが、敢えて数点につき全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責務と存ずるからであります。  
第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。  
千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。  
千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。  
また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。  
その2は、経済に関する問題であります。日本はこの条約によって全領土の45パーセントをその資源とともに喪失するのであります。8,400万に及ぶ日本の人口は、残りの地域に閉じ込められしかも、その地域は、戦争のために荒廃し、主要都市は焼失しました。又、この平和条約は、莫大な在外資産を日本から取り去ります。条約第14条によれば戦争のために何の損害も受けなかつた国までが、日本人の個人財産を接収する権利を与えられます。斯くの如くにしてなお他の連合国に負担を生ぜしめないで特定の連合国に賠償を支払うことができるかどうか、甚だ懸念をもつものであります。  
しかし、日本は既に条約を受諾した以上は、誠意を以て、これが義務を履行せんとする決意であります。私は、日本の困難な条件の下になお問題の円満な解決のためになさんとする努力に対して、関係諸国が理解と支持を与えられることを要請するものであります。  
平和は繁栄を伴うものであります。しかし、繁栄なくしては、平和はありえないのであります。根底から破壊された日本経済は、合衆国の甚大なる援助をえて救われ、回復の途に進むことができました。日本は、進んで国際通商上の慣行を遵奉しつつ世界経済の繁栄に寄与する覚悟であります。そのために既に国内法制を整備致しましたが、今後もその完成につとめ、且つ、各種関係国際条約にすみやかに加入して、国際貿易の健全なる発展に参与する覚悟であります。  
この平和条約は、国際経済の面において、このような日本国民の念願を実現しうべき途を開いてはおります。しかし、この途は、連合国側で一方的に閉ざしうることにもなつています。これは、平和条約の本質上、やむを得ないことかも知れませんが、われわれ日本国民としては、すべての連合国が現実にこの途を最大限に開かれるよう希望してやまないのであります。  
私の演説を用意してから、今朝インドネシア外相から私に3つの質問をされたことを承知しました。質問は、他の代表もていきされた疑問を解明しようとするものであります。答は「しかり」であります。けだし、それは条約第14条及び第9条の公正な解釈だと思うからであります。この答がこの条約の下における日本の善意に対する他の国の疑問を解決するにたることを希望します。  
その3は、未引揚者の問題であります。この平和条約の締結は、34万に達する未引揚日本人の運命について、日本国民の憂慮を新にするものであります。私は、すべての連合国が国際連合を介し、または他の方法によつて、これらなお抑留されている日本人のすみやかなる帰還を実現するために、あらゆる援助と協力を与えられるよう、人道のために切望してやまないのであります。引揚に関する規定が特に起草の最終段階において平和条約に挿入されたことは、日本国民の甚しく満足とするところであります。  
上述のような憂慮すべき事由があるにもかかわらず、否、その故にこそ、日本は、いよいよもつて、この平和条約を締結することを希望しているのであります。日本国民は、日本が平等な主権国家として上述のような懸念を除去し、諸国の不満疑惑等を解消するために現在よりも大なる機会をもつことを期待するのであります。  
私はこの会議に代表されている諸国がなるべく多く平和条約に署名されることを希望してやみません。日本はこれらの国々と相互に信頼と理解ある関係を樹立し、且つ、相共に世界のデモクラシーと世界の自由を前進させる覚悟をもつものであります。  
日本代表団はインドとビルマが会議に連なつていないことを知り甚だ残念に思います。アジアに国をなすものとして日本は他のアジア諸国と緊密な友好と協力の関係を開きたいと熱望するものであります。それらの国々と日本は伝統、文化、思想ならびに理想を共にしているのであります。われわれ日本国民はまず善隣の良き一員となり、その繁栄と発展のために十分貢献し、もつて日本が国際社会の良き一員となることを覚悟するものであります。  
中国については、われわれも中国の不統一のためその代表がここに出席されることができなかつたことを最も残念に思うものであります。中国との貿易の日本経済において占める地位は重要ではありますが、過去6年間の経験が示しているように、しばしば事実よりもその重要性を誇張されておることであります。  
近時不幸にして共産主義的の圧迫と専制を伴う陰険な勢力が極東において不安と混乱を広め、且つ、各所に公然たる侵略に打つて出つつあります。日本の間近かにも迫つております。しかしわれわれ日本国民は何らの武装をもつておりません。この集団的侵攻に対しては日本国民としては、他の自由国家の集団的保護を求める外はないのであります。之れわれわれが合衆国との間に安全保障条約を締結せんとする理由であります。固よりわが国の独立は自力を以て保護する覚悟でありますが、敗余の日本としては自力を以てわが独立を守り得る国力の回復するまで、あるいは日本区域における国際の平和と安全とが国際連合の措置若しくはその他の集団安全保障制度によつて確保される日がくるまで米国軍の駐在を求めざるを得ないのであります。日本はかつては北方から迫る旧ロシア帝国主義の為めに千島列島と北海道は直接その侵略の危険にさらされたのであります。今日わが国はまたもや同じ方向から共産主義の脅威にさらされているのであります。平和条約が成立して占領が終了すると同時に、日本に力の真空状態が生じる場合に、安全保障の措置を講ずるは、民主日本の生存のために当然必要であるのみならず、アジアに平和と安定をもたらすための基礎条件であり、又、新しい戦争の危険を阻止して国際連合の理想を実現するために必要欠くべからざるものであります。日本国民は、ここに平和愛好諸国と提携して、国際の平和と安定に貢献することを誓うものであります。  
日本が前述の安全保障の措置をとりたりとて之をもつて直に日本の侵略の恐怖を惹き起こすべきいわれはありません。敗戦後多年の蓄積を失い海外領土と資源を取り上げられる日本には隣国に対して軍事的な脅威となる程の近代的な軍備をする力は全然ないのであります。この会議の開会式の席上トルーマン大統領も日本が過去6箇年にわたる連合国の占領下に総司令官マッカーサー元帥及びリッジウェー大将の賢明にして好意に満ちた指導を得て遂行した精神的再生のための徹底的な政治的及び社会的の改革ならびに物質的復興について語られましたが、今日の日本はもはや昨日の日本ではないのであります。新しい国民として平和デモクラシー、自由に貢献すべしとの各位の期待を決してゆるがせにしない覚悟であります。  
私は最後に過去を追懐し将来を展望したいと思います。日本は1854年アメリカ合衆国と和親条約を結び国際社会に導入されました。その後1世紀を経て、その間2回にわたる世界戦争があつて、極東の様相は一変しました。6年前に桑港に誕生した国際連合憲章の下に数多のアジアの新しき国家は相互依存して平和と繁栄を相ともに享受しようと努力しています。私は国民とともに対日平和条約の成立がこの努力の結実のひとつであることを信じ、且つ、あらゆる困難が除去されて日本もその輝しい国際連合の一員として、諸国によつて迎えられる日の一日も速からんことを祈つてやみません。何となれば、まさに憲章そのものの言葉の中に新日本の理想と決意の結晶が発見されるからであります。  
世界のどこにも将来の世代の人々を戦争の惨害から救うため全力を尽くそうという決意が日本以上に強いものはないのであります。  
われわれは、諸国の全権がさきの太平洋戦争において人類がなめた恐るべき苦痛と莫大なる物質的破壊を回顧せられるのを聞きました。われわれはこの人類の大災厄において古い日本が演じた役割を悲痛な気持をもつて回顧するものであります。  
私は、古い日本と申しましたが、それは古い日本の残骸の中から新しい日本が生れたからであります。  
わが国もさきの大戦によつて最も大きな破壊と破滅を受けたものの一つであります。この苦難によつてすべての野望、あらゆる征服の欲から洗い清められて、わが国民は極東ならびに全世界における隣邦諸国と平和のうちに住み、その社会組織をつくり直して、すべての者のためによりよい生活をつくらんとする希望にもえております。  
日本はその歴史に新しい頁をひらきました。われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。  
 
吉田茂3 年譜

 

吉田茂は昭和21年5月、第1次吉田内閣を組織し、同29年第5次吉田内閣を総辞職するまで、前後7年2ケ月の長い間政権を担当して、戦後日本の政治に大さな足蹟を残した。即ち占領下の日本の内閣総理大臣として、よく困難に堪え、やがて交戦47ケ国との講和条約を締結して敗戦日本を再び、独立の昔に還した。壊滅から復興へと、この歴史的な重大使命を遂行した、近代日本最高の政治家である。昭和42年10月20日80才を以て逝去。戦後始めての国葬の礼を以て葬儀は執行された。  
かかる偉人が郷土宿毛と最も深いゆかりを持つことは、我々のこの上もない喜びであり、又この上もない誇りと云わなければならない。  
吉田茂については既に幾巻もの伝記類が刊行されて居り、1代の宰相はその人間的正面も、又側面も遺憾なく語りつくされている。しかも新聞や雑誌にもあます所なく発表されている。故にその詳細は総てこれらの印刷物にゆずることにし、ここでは氏の年譜をかかげ、その一部を説明することのみとどめたい。 
年譜  
明治11年9月12日 誕生  
 高知県幡多郡宿毛町、竹内綱の五男として、東京神田区駿河台に生まれた。  
明治14年8月4日 吉田家に入籍、時に3才  
 吉田家はもと福井藩士、養父健三は長崎に留学、後イギリスに留学、帰朝後貿易商を営んで産をなした富豪家である。  
明治20年 養父健三死亡、吉田家相続、9才  
明治39年7月 東京帝国大学法学部政治科卒業。  
 幼時藤沢の漢学塾に学び、ついで官立商学校(現在の一ッ橋商科大学)中退、学習院を経て帝大に進んだものである。  
明治39年9月 領事官補に任ぜられ天津在勤  
明治40年2月 奉天に勤務  
明治41年11月 ロンドンに勤務  
明治42年6月 牧野伸顕の長女雪子と結婚、時に茂30才  
明治42年10月 イタリー在勤どなる。  
明治45年6月 安東領事となる。  
 在任4年、かっての華やかだった、欧州生活をはなれて満州の片田舎で領事生活をしていた時代である。当時岳父(妻雪子の父)牧野伸顕は外務大臣として外交界の最高の地位にあった時代で、これについて茂の次女麻生和子は父の思い出を次の様に語っている。「牧野の祖父が外務大臣をしている間じゅうは父は、忘れられたように、安東領事館のような田舎に置かれていたのも、いかにも祖父らしい、又それを苦にもせずに知らん顔をしてつとめていたのも父らしい」この一語は確かに吉田茂の性格の一面を語っているものと思う。  
 
大正6年7月 外務省文書課長心得となる。  
 大正5年12月にワシントンに勤務が内定されたが、赴任直前に取り消しとなった。それは安東時代に時の内閣の対支政策に反対運動を起そうとしたことがバレたためで、ごたごたのあと文書課長心得に落ちついたと言われている。善と信じないことには、徹底的に反ぱくするイゴッソーの面影が、若きこの当時から既に頭をもたげているのも面白い。  
大正8年2月 第1次世界大戦講和会議委員の随員となり巴里に赴く。  
 この随員としての経験が三十余年後、ワシントンでの第2次世界大戦首席全権としての茂に極めて大きく役立ったものと思われる。これについて彼は「長い外務省生活で自分から猟官運動をやったのは、パリ講和条約の全権随員と浜口内閣の外務次官の2度だけだ。」と云っている。自分から進んで随員を引き受けたことにくしき因縁さえ感ずるものである。  
大正9年5月 英国在勤となる。  
大正14年10月 奉天総領事となる。  
 
昭和3年7月 浜口内閣、弊原外相の外務次官となる。  
昭和5年12月 駐イタリー大使  
 イタリー大使時代の彼はムッソリニーとはあまりうまく行ていなかった。「父は軍事的な人とか、何でも彼でも頭から押えようとする人はきらいである。思想のあわない人と仕事の出来ないいらだたしさをまぎらわすためか、イタリーにいた間は、すみからすみまで、自動車で遊び歩いた・・・」 彼の麻生和子さんが右のように述べているのを見ても、生れつきの自由主義者の彼と、独裁者ムッソリニーでは肌合いがあわなかったことは事実であろう。そのためか昭和7年11月待命となり帰朝している。  
昭和11年4月 駐イギリス大使となる。  
 茂のイギリス大使時代に日独伊防共協定が結ばれた。この協定締結について、大使館付武官を通じて軍部より強力に、吉田大使の同意を求めて来たが、彼は徹頭徹尾これに反対し、理路整然とその不締結を要求したがついに入れられず、3国協定は締結され、やがて日本を破滅に追い込んでしまったものである。そしてこれに反対した彼は遂に軍部の反感と圧迫により、昭和14年3月駐英大使の職を追われて、退職帰国の止むなきに至った。  
昭和20年4月 憲兵隊に拘置さる。  
 退職帰国した茂は悠々と大磯の自邸に閑居する身となったが、しかし窮迫した世情は、彼の自適を許さなかった。即ち支那事変はやがて大東亜戦争となり、勇ましかった旗色も次第にあせて、戦局は日を追うにつれて悪化、ついに本土決戦にまで追いつめられてしまった。この間彼は元首相近衛文麿公や木戸内府と互に連絡をとって、戦争終結への懸命の努力を続けたが、この事を知った軍部は彼を危険人物として絶えずその身辺に目を走らせ、特高や憲兵が常に彼につきまとうように成った。そうして、昭和20年4月ついに九段の憲兵隊本部へ召喚されたのである。「九段の憲兵隊本部へは2週間位いたかな。それから代々木の陸軍監獄に移された。近衛さんの内奏文をこしらえたのは私だと云うことで、しきりに責められたが、私が書いたわけじゃなかったから、知らぬ存ぜぬで通した。」とは、その当時の模様を後に彼自身が語った話。5月25日の東京大空襲では火の手はこの監獄にせまって来たため、憲兵に助け出されて、代々木の練兵場で一夜を明かし目黒の刑務所に移された。そうして四十余日間の尋問に堪えて6月仮釈放された。後年彼は「君は牢屋に入ったことがあるかね?1度ははいっていいところだよ」と時々友人達に語って笑うことがあったと聞くが、負け惜しみの強い彼にとって獄中生活は辛かったよりしゃくにさわったに違いなく最も苦しい時代だったと云える。
 
昭和20年9月17日 東久邇内閣の外務大臣となり、同年10月の政変(弊原内閣誕生)にも引続いて外務大臣拝命。  
 自由主義者であり、この大戦に批判的であった彼が、終戦後直ちに招かれて外務大臣の要職に就いた事はけだし当を得たものであり、これが戦後の彼が政治の本舞台に躍り出た最初である。然し、被占領国の当時の外務大臣は占領軍、司令部との折衝連絡が唯一の外交活動で司令部の役人達に、いつも頭を下げて恐れ入っていなければならないこの仕事は、彼にとってはまったくつらい仕事であった、と考える。当時の食糧危機は言語に絶し100万人の餓死者は避けられないと云われたものを、彼の持前の粘り強さと優れた交渉により、ついにマッカーサーをして、70万トンの占領軍食糧を放出せしめて危機を脱したことは、国民挙げて彼に感謝をしなければならない。  
昭和21年5月 第1次吉田内閣生まれる。  
 この年4月総選挙の結果鳩山一郎の率いる日本自由党は第1党をかち得た矢先、党主鳩川一郎は追放と決定、首の無い第1党の出現と云うまことにおかしな事になってしまった。そこで鳩山一郎の依頼により総裁受諾、大命降下に及び5月22日組閣完了第1次吉田内閣が成立した。郷土の先輩林譲治はこの内閣の書記官長を拝命している。なお党主受諾の際鳩山との条件に次の3つを彼は申し出て約束させている。  
 1、私は党の金の事については一切知らない。  
 1、人事については一切わたしにまかせる。  
 1、やめたくなったらいつでもやめる。  
 彼の面目躍如たるもので、これが彼をして7年余の長年月内閣主班たる彼の政治的生命を支え得た原因と考える。  
昭和21年10月 新憲法を可決し、11月3日これを公布し、日本はここに改めて生れかわった日本となった。  
昭和22年5月 第1次吉田内閣総辞職。  
 この年4月衆議院は新制度による初の総選挙があった。吉田茂は高知県全県1区から出馬し、始めての衆議院議員に当選した。彼は東京に生れ県外生活、国外生活と、父祖の郷土宿毛とは極めて疎遠であったが、しかし宿毛の持つ人情美、土佐人の持つ人間愛にほだされて郷土高知県から立候補したと伝えられている。この時彼の率いる自由党は第2党に転落した。彼は権謀術策をきらい快よく第1党の社会党にバトンをわたして下野した。即ち片山社会党内閣が成立したのがこの年5月24日である。  
昭和23年10月 第2次吉田内閣成立  
 片山内閣は僅か8ケ月余にて倒れ、引き継いだ芦田内閣がまた7ケ月の短命で終り、再び吉田内閣の成立を見た。しかし自由党はこの時少数与党であり、いわば選挙管理内閣である。そのためこの年の12月に解散し、あけて1月の総選挙には、再び高知より出馬して当選、自由党は264名を獲得して第1党となった。  
昭和24年2月 第3次吉田内閣成立  
 総選挙により第1党となった自由党はここに第3次吉田内閣を誕生させた。この内閣は爾後3年8ケ月余り続き、吉田内閣が最も安定し成熟した時代である。即ち昭和26年9月に行なわれた朝日新聞の世論調査では内閣支持率58%の高率を示したことでもその一端がうかがわれる。しかしながら当時の世想はいまだ戦後の混乱期を抜けきらず、下山事件、三鷹事件、松川事件等世を騒がした事件が引続いて発生すると共に、政党は離合集散を重ね、外では朝鮮戦争の勃発等世の中はまことに騒然としていた。その中での講和条約の締結と日米安保条約の締結は、けだし吉田内閣の最大の課題でこれの功罪については、後代の歴史が之を決定することであるが、とにかく、彼が畢生の智能をしぼって、これに当り、この結末を彼自身でつけた事に対して、彼は快心の喜びを覚えたことにちがいない。  
昭和27年10月 第4次吉田内閣成立  
 昭和27年8月彼は突如衆議院を解散した。世に之を「抜き打ち解散」と云う。之は自由党内に生じかけている反吉田の勢力を一掃せんために打った手であると云われる。そうして彼の持つ主導権の確立をめざしたものであった。これより先に追放されていた鳩山一郎は前年6月にこれを解除され、またかねての病気も次第に快方にむかうにつれ、かねて親交のあった人物達が相はかって之を擁して反主流に立ち、政権を鳩山に渡そうとして事をかまえたものである。したがってこの選挙運動中の両派のやりとりはまことにすさまじいものであったが、自由党は240の議席を得て第4次内閣を成立させた。  
昭和28年5月 第5次吉田内閣成立  
 第4次内閣成立後も党内紛争は益々紛糾をきわめた。農相広川弘禅は党内野党「同志クラブ」を結成し、鳩山支持者も亦、「鳩山派自由党」を結成した。こうした中での衆議院本会議で、右派社会党の西村栄一議員(現在の民主社会党主)に対して吉田ははからずも「バカヤロー」と暴言を吐き、首相に対して前代末聞の懲罰動議が発せられ、ついに内閣不信任案が可決されたものである。そこで世上「バカヤロー解散」と云われる解散が行なわれ、28年4月、総選挙の結果は、又も第1党は得たが199名で過半数は得ず、彼は第2党改進党の協力を要請、5月21日第5次吉田内閣を成立させた。  
昭和29年12月 吉田内閣総辞職、前後7年2ケ月の吉田政権終末をつげる。  
 混迷を続ける政界はその後も収まらず鳩山派は改進党と合同「日本民主党」を結成し、鳩山一郎総裁、副総裁重光葵が就任したのは29年11月である。これより先9月に彼は欧米視察の旅に出た。米、仏、西独、伊、英を訪問し、内容的には幾多の収獲を得て帰国したが、その間に国内では吉田打倒の計画が着々と進んでいたものである。そうしてこの新党を軸にして左右社会党の3派による内閣不信任案が12月国会に提出された。彼は再び解散して信を国民に問うことを止め、ここに潔く退陣を決意し、内閣を投げ出したものである。と共に自由党総裁をも辞任してまったくの一党員となった。  
昭和42年10月20日  
 その後の彼は32年、33年、35年と3度高知県より衆議院議員に立候補して、3度とも悠々と当選している。がしかし彼はその後はあまり議会にも出ず、大磯の私邸で悠々自適の生活をおくっている。と云っても決して無為に送る日は1日も無く、毎日のように内外の有名人の来訪を受け、彼の及ぽす政治上の影響力はまことに隠然たるものがあった。殊に池田勇人、佐藤栄作等、彼の直系の首相が相継いで登場したので、彼は単なる隠居の境涯では無く、その一挙手一投足は直接国勢に影響を及ぼしていたといわれている。かの有名な吉田書翰が、彼の死後もなお日中間に度々間題を引き起している事等は有弁にこれを物語っている。  
 昭和42年10月20日、彼は89才の天寿をまっとうして遂にここ大磯の私邸において波乱に満ちた一生を終えた。彼は素涯そわと号し、多くの揮毫を残している。素涯とは彼の姓名のローマ字綴りの頭文字S、Yをもじったものである。この年譜をつくる為、幾つかの文献に目を通して来たが、どの文献でも感ずることは、吉田茂その人はまつたく信念に生きた偉人と云うことである。日独伊3国防共協定には身体を張って、彼は反対した。当時の絶大な軍部の圧力に抵抗して、あれだけ斗った人は外には見当らない。彼はそのため駐英大使の職を失なつている。又戦争となると、到底勝ち目のない戦争には終始反対し続け、和平工作を練り続けた。そのため彼は投獄され、あのはげしい空襲下陸軍監獄に叩き込まれて四十余日の獄中生活をおくっている。  
 吉田茂は7年余の長きにわたって政権を担当した。占領軍の圧力下における彼は、常に日本の独立と復興を念頭に置いて粘り続けた。戦争に敗けても外交で勝てば国は隆昌する。之が彼の信念であった。敗戦国の首相が絶対の権力を持った占領軍の総司令官を相手に斗い続けた。そうして彼は独立をかち取り、復興へのたくましい足取りを歩み続けた。  
 占領が終り独立国となると、国内は百家鳴争一時に飾やかな交響楽を奏で始めた。革新勢力はもとより、自由党内にも反吉田の旗幟をかかげて政権奮取をこころみる者が生じて来た。しかし彼は自分以外にこの日本の復興と発展を委すべき何人も居ないと云う大きな確信のもとに粘り続けた。まったく信念に生ききった人である。離合集散常なく、利によって集る政治家の多いこの時代において、彼こそよく節操を守り信念に生き抜いた偉大なる人物であったとつくづく感銘したことであった。  
 
吉田茂4

 

太平洋戦争の敗戦と外交官時代の吉田茂 
枢軸国の一翼を担って第二次世界大戦に参戦した日本は、度重なる都市部への大規模な空襲と広島(8月6日)・長崎(8月9日)への原爆投下による甚大な被害を受け、日ソ中立条約を不当に破棄(8月8日)して対日宣戦布告をしたソ連までが敵国に加わった為、万策尽きて本土壊滅の危機に追い込まれました。昭和天皇は御前会議で降伏の決断を下し、昭和20年(1945)8月14日にアメリカ(トルーマン大統領)・イギリス(アトリー首相)・中華民国(蒋介石代表)が提示してきた降伏勧告であるポツダム宣言を受諾しました。8月15日に、天皇自らの声で国民と軍隊に敗戦を告知する玉音放送がなされ、日本は太平洋戦争(大東亜戦争, 1939-1945)に敗れて連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治下に置かれる事となりました。同日8月15日に、戦時最後の内閣であった鈴木貫太郎(1868-1948)内閣が総辞職します。  
ポツダム宣言の調印式はアメリカの戦艦ミズーリ号の甲板で行われ、日本からは大日本帝国全権・重光葵(しげみつまもる)と大本営全権・梅津美治郎(うめづよしじろう)が出席して梅津が降伏文書に調印しました。8月30日には、連合国軍総司令部(GHQ)・総司令官のダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)が神奈川県の厚木に到着して、戦後日本の国政改革はマッカーサーの絶対的な指示の下に推進されることになりました。マッカーサーが主導するGHQは占領政策として、日本の民主化と思想・言論・表現の自由を妨げていた治安維持法(1925年制定)を廃棄して、日本の軍需産業を積極的に支えていた財閥の影響力を弱体化させる為の財閥解体を進めました。  
終戦時の内閣であった鈴木貫太郎内閣が総辞職した後には、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)を第43代総理大臣とする史上初の皇族内閣・東久邇宮内閣(昭和20年8月17日〜10月9日)が組閣されます。内閣総理大臣と陸軍大将を兼務した東久邇宮は、戦後になって『一億総懺悔論』を主張しますが、GHQが主導する政治的・宗教的・民事的な自由化(民主化)を遂行する決断ができず短期間で総辞職を余儀なくされます。吉田茂は、東久邇宮内閣で外務大臣を短い期間務めますが、それは吉田茂の前任であった重光葵がGHQの民主化政策の推進に消極的であったからです。  
初の皇族内閣の後に立ったのは、吉田茂の外務省時代の先輩であった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)でした。第44代内閣総理大臣となった幣原喜重郎の元に組閣された幣原内閣(昭和20年10月9日〜昭和21年5月22日)では、GHQの民主化五大改革の指令が出され、戦争責任者に対する公職追放令が施行されました。この公職追放令によって、戦時中に日米開戦に賛成した大臣たちが殆ど追放された為、当時それほど首相の座に近くなかった吉田茂に、首相となる大きなチャンスが生まれたのです。  
吉田茂の先輩筋の外務官僚に当たる幣原喜重郎は、田中義一内閣の軍事外交路線に反対し、英米協調路線と中国大陸への内政不干渉を唱えていたので、戦後、幣原外交派に属していた人たちが結果として影響力を強めることになりました。戦後の幣原内閣の組閣には、裏で吉田茂の強力な推薦があったと言われていますが、幣原から吉田へ政権が継承されることで、戦後日本の親英米路線が固まったと見ることも出来ます。幣原喜重郎は、現代的な平和主義者や進歩主義者では決してありませんでしたが、国際協調路線こそが日本を救うという合理的な考えを持った当時では数少ない政治家の一人でした。  
英米との協調や国際世論との宥和を重要視する幣原外交は、太平洋戦争前に台頭しつつあった日本の軍国主義化を牽制する役割を持っていて、1930年にはロンドン海軍軍縮条約の締結にまで漕ぎ着けました。しかし、幣原喜重郎は、1931年の満州事変の事態収拾で判断を誤ったことと田中義一内閣以降の軍拡戦争路線に否定的だったことで、急速に政治的発言力を低下させて自らの意志で政界から引退しました。故に、戦後の幣原内閣の組閣というのは、一度、政界から引退した外交官が、再び政界の頂点に上るという異例な事態でした。  
幣原内閣の後に政権を取ることになる吉田茂内閣(昭和21年5月22日〜昭和22年5月24日)ですが、外務省時代の先輩後輩の関係にあった幣原喜重郎と吉田茂は、親米派であり、軍部との仲が良くなかったという事では共通していましたが、戦時中の政治思想や外交方針には大きな違いがありました。吉田茂は戦争末期には、太平洋戦争を早期終結させるための和平工作に関与した廉で憲兵隊に検挙されたという経歴を持っていますが、戦時中には戦争外交の全てに積極的に反対していたわけではなく、日米開戦に反対しつつも中国進出には肯定的な態度を示していました。戦後日本の方向性を定めた首相・吉田茂の政治思想を一言で表現するならば、国家間の利害関係を見極めて損失を出すような政策判断はしないプラグマティズム(実利主義)であると言えます。  
吉田茂が戦争回避に動いた背景には、義父であった牧野伸顕(まきののぶあき)の意向が強く働いていたといいます。牧野伸顕は、薩摩藩出身の明治の元勲・大久保利通の次男であり、外交官から閣僚(文部大臣)にまで上り詰め、伊藤博文や西園寺公望といった明治初期の政界の主流派とも深い関わりがありました。吉田茂が中心となって結成された吉田反戦グループは『ヨハンセン・グループ』と呼ばれたが、そのメンバーには、牧野伸顕や岩淵辰雄、若槻礼次郎、古島一雄などがいました。戦中に内閣を結成した近衛文麿なども、吉田茂の“天皇主権の国体護持のための早期和平構想”に基本的に賛同していたといいます。吉田茂は太平洋戦争の早期和平を画策して憲兵に検挙されましたが、その動機は平和主義的な理想ではなく、戦争が長期化することによる反体制感情の高まりや共産主義勢力の増強を懸念したのです。吉田茂や牧野伸顕は、飽くまで明治以来の伝統である国体護持を守ることを目的として戦争に反対したので、どちらかといえば保守的な守旧派であったと言えます。  
吉田茂は、アメリカ合衆国的な民主主義や自由主義を積極的に日本に導入することにはそれほど熱心ではなかったという意味で、進歩的知識人などではなくどちらかというと保守的な価値観を持つ政治家でした。アメリカとの同盟関係を強固なものとすることで、赤化を進める共産主義圏から侵略されない国家安全保障を実現し、戦争で荒廃した国土を復興する経済力を蓄えようとした吉田茂は、イデオロギー対立や価値観といった『理念』よりも安全保障や食糧の確保といった『実利』にこだわった人物といった趣きがあります。  
太平洋戦争開戦前の吉田茂は、アメリカやイギリスとの協調路線を強化して同盟関係を結ぶべきだという主張を持っていましたが、それはアメリカやイギリスの政治体制を支える自由主義・民主主義・人権思想のイデオロギーに共鳴したわけではなく、当時のアメリカやイギリスの総合的な国力がドイツやイタリアよりも圧倒的に勝っていたからです。イギリス単独であればヒトラー率いるナチスドイツは勝利することが出来るかもしれないが、非常に大きな経済生産力と軍事力を持つアメリカの支援を受けたイギリスとドイツが衝突して戦争になれば、ドイツが敗退してヨーロッパの勢力圏を失う恐れが高く、そうなると日独伊軍事同盟などは国家安全保障にとって何の意義もなくなるということです。プラグマティスト・吉田茂は日本の国体を護持するために、当時から世界の最強国となりつつあった経済的・軍事的大国のアメリカと手を結んだ方が合理的であると考えたのでした。  
戦時中の外交官・吉田茂は、国際的な協調路線と勢力均衡を模索する幣原喜重郎の『幣原外交』よりも、軍事大国化を国是として積極軍事外交で国益獲得を目指す田中義一首相の『田中外交』にシンパシーを感じる部分が大きかったようです。吉田茂は中国の奉天総領事時代(関東軍の満州国建設以前)には、大陸進出の生命線となる満州の積極経営に肯定的であり、日本の軍部(関東軍)ではなく、中国の北洋軍閥の首領であった張作霖に満州を経営させようと目論んでいたこともありました。  
張作霖の軍閥はその後、中国国民党と中国共産党の国共合作で組織された中国革命軍との戦いに敗れて、政治の中心地である北京から追われました。政治的な利用価値が殆どなくなったと見て取った日本軍(関東軍)は、河本大作の立案によって張作霖爆殺事件(1928)を起こし、関東軍主導の満州国の建設に乗り出していくことになります。張作霖の後に軍閥を継承した子の張学良が日本に敵対してきたため、石原莞爾(いしわら かんじ)と板垣征四郎が率いた関東軍は、南満州鉄道を爆破する柳条湖事件(1931)で満州事変を勃発させ張学良の軍閥勢力を放逐しました。そして、清王朝のラストエンペラーだった宣統帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を復位させて傀儡政権を樹立し、日本軍による満州全土の間接支配に乗り出したのです。満州国建設の後、日本と中国(国共合作の勢力)は終わりの見えない日中戦争の泥沼へと入り込んでいき、戦争状況は悲惨と停滞を極めていくことになります。 
GHQ主導の戦後処理とサンフランシスコ講和条約の締結

 

吉田茂は国体護持を目指す反戦主義者であり、国益を図る為の親米主義者ではあったが、天皇制を廃そうとする共和主義者ではなかったし、自由主義や民主主義の拡大普及などにも余り関心を持っていなかったといいます。吉田茂は、高知県の自由民権運動家であった竹内綱(たけのうちつな)の五男として生を受け、生後まもなく、竹内綱の友人で横浜で海運業(船問屋)を営む資産家だった吉田健三の養子に出され、氏名が吉田茂となりました。太平洋戦争の終戦は、反戦と親米であった吉田茂に予期しなかった首相の座をもたらしましたが、吉田茂の政治的な思想・信条は、戦前と戦後で殆ど変わっておらず基本的には保守主義の政治家と言えます。  
吉田茂は、戦後も天皇の権威性に基づく国体を温存することを強く望み、昭和20年9月27日に、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーと昭和天皇の会談を媒介して二人を引き合わせました。国家元首である昭和天皇の温厚で毅然とした人柄に触れたマッカーサーは、『日本の長い歴史に裏打ちされた天皇制は、戦後日本の混乱した国民感情を安定化する為に必要である』と判断し、天皇制を全廃することはアメリカの占領政策の不利益になると本国に申し送りました。しかし、11月にアメリカ本国の議会から『日本の天皇制を、天皇主権を認めた現在の形態で維持することは許されない』との通達がきたので、現在の日本国憲法に定められているような、天皇が政治的権限を一切持たない『象徴天皇制』を導入する運びとなりました。  
GHQは戦後日本で行政を統括する内閣総理大臣の条件として『反米的思想を持たない人物・太平洋戦争を遂行した戦争責任者でない人物・外交政策に精通した人物』などを上げ、東久邇宮の後に、当時の日本では珍しかった先進的な自由主義者・幣原喜重郎が首相になりました。幣原内閣は短期に終わって、第一次吉田内閣(昭和21年5月〜昭和22年5月)が成立しますが、戦後の混乱期には、対米関係を再建する外交交渉が重視されたこともあって、幣原喜重郎と吉田茂、芦田均(第47代総理大臣, 任期昭和23年3月10日〜昭和23年10月15日)といった外務官僚出身の首相が多く誕生しました。  
GHQの戦後占領政策の基本は、日本が再び軍国主義化したり報復戦争をすることが出来ない政治体制を再構築することであり、日本に平和主義と自由主義・民主主義を導入することで、全体主義的な熱狂や危険を抑制できると考えました。しかし、GHQ及び最高司令官のマッカーサーは、日本経済の復興や成長には直接の責任を負っておらず、占領直後は、食糧危機や飢餓の苦境に対する支援に余り熱心ではありませんでした。日本において、軍事用途への転換が容易な重化学工業や機械工業を発展させることにもアメリカは否定的でした。昭和20年(1945)は農作物の収穫量が少ない不作となったので、国民を養う為の米や野菜が大幅に不足し、日本各地で激しい『米寄こせデモ』が起こりましたが、外相であった吉田茂はマッカーサーとの直接交渉で食糧支援への同意を引き出しました。  
全てが焼け野原となって国民の精神が疲弊し、経済活動を円滑に行う為の社会インフラや生産設備が破壊され尽した日本を前にして、吉田茂は『徹底した現実主義』を貫かなければ日本の将来はないと考えました。昭和21年(1946)3月、憲法改正草案の作成が幣原内閣で閣議決定されますが、吉田茂外相は天皇主権の大日本帝国憲法に執拗にこだわってGHQに無闇に抵抗することは国益を損なうと考えました。つまり、『独立国家としての主権』を回復する為に『アメリカとの講和条約の締結』を最優先すべきだと考えて、妥協できる問題については妥協していくことにします。吉田茂自身は、平和主義や民主主義を信条とする政治家ではありませんでしたが、自由民主主義国家として平和を重んじる姿勢を国際社会に示すことが、日本の評価・国益につながることを知悉していたのでした。  
吉田茂本人は、戦時中には、満州進出(中国進出)による国益の獲得に関して肯定的であったように、日本国憲法9条に定められた『戦争放棄の平和主義』を永続的に保持する気持ちはなかったようです。GHQにしても、『とりあえず、一応、日本国憲法への改正を進めてみて、将来の日本に不都合な部分が生じればその都度再検討して改正すれば良いではないか』という形で、(大日本帝国憲法から)日本国憲法への憲法改正に難色を示す日本の有力政治家をなだめたと言います。憲法9条の平和主義条項について、吉田茂は、『所謂、不磨の大典の一条項として、将来に亙って変わらざる意義を持つというよりも、どちらかといえば間近な政治的効果に重きが置かれていた』といった記述を残しており、当時の段階では(現在の日本国憲法の持つ意義と価値は別問題として)、日本国もGHQも日本国憲法の公布・施行についてそれほど重大な決意と長期的な視点を持っていたわけではないと言えるでしょう。  
戦後60年以上が経過した現在でも憲法は一度も改正されていないし、改正することが良いのか悪いのかについて国内の世論も大きく分かれる状況がありますが、吉田茂という政治家は、国家の最高法規であっても日本の国益と国際社会の現実に合わせて臨機応変に改変すればよいという柔軟思考の持ち主であったとは言えるでしょう。戦争放棄を規定した憲法の改正気運が何故、国民レベルで高まらなかったかの理由には色々あるでしょうが、その最大の理由は、悲惨で残酷な戦争を二度と繰り返したくない、戦争にはかかわりたくないという嫌戦の意思と厭戦の気分にあったと思います。また、国家権力の暴走を抑止する立憲主義に基づいて、『現実的な利益』よりも『普遍的な正しさ』を追求することに価値を見出した日本の国民性も大きく影響していると考えられます。  
普遍的理念を定義する憲法だけでは平和は実現できませんが、日本は、米ソ冷戦やアメリカの核の傘、高度経済成長、国際貢献など各種の要素によって戦後の長い期間、一切の戦争を行わず戦争による自国民の死者を出さずに歴史を刻むことが出来たのは幸運だったと思います。日本国憲法の優れた部分の一つは、『国家の命令によって、個人の意思に背いて徴兵することや戦争に参加させることを禁じている』部分にありますが、この普遍的理念を有効にする為には、周辺国との緊張状態の緩和や諸外国の戦争放棄に向かう意思と統制主義と拮抗する個人主義の普及が欠かせません。  
保守主義者であった吉田茂が戦後間もない時期に目的としていた事柄は、『対米講和条約締結による国家主権の回復』であり、国力の基幹となる経済と財政を再建する為に『国防に必要な軍事負担を削減すること』でした。元々、軍部と対立することが多く、軍部の越権的な増長に手を焼いていた外務官僚であった吉田茂は、アメリカが起草して提示してきた日本国憲法の第9条2項にある『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』ということが、戦後日本の経済再建や軍事負担の切り下げに役立つと思ったのです。国家安全保障を自前の軍隊で行うのではなく、安全保障の確保の大部分をアメリカに移譲して、国防にかかる経済的コストや人的被害を最小限度に留めることは、結果として日本の高度経済成長に貢献しました。  
幣原内閣の時に衆議院が解散されて、戦後初めての総選挙が行われますが、その選挙の前にGHQによって、戦時体制への積極的貢献者(軍国主義・軍事占領を肯定した政治家・官僚)の公職追放が行われました。総選挙を終えて自由党総裁となった鳩山一郎は、連立政権の首班となって首相となることが確実とされていましたが、1946年5月4日に、三国軍事同盟を結んでいたナチスドイツ政権を礼賛した文章を書かせたという罪状で、GHQから公職追放の処分を受けました。首相就任を目前にして夢を立たれた鳩山一郎は、戦前の田中義一内閣(昭和2年4月20日〜昭和4年7月2日)で同僚だった吉田茂に自分の後任を託そうと決め、松野鶴平が吉田茂を後押ししたことで吉田茂は自由党総裁の責務を引き受けることになります。  
しかし、政党政治の有力者であった英才の鳩山一郎は、長期間にわたって自由党総裁と内閣総理大臣の地位を吉田茂に譲渡する意図はなく、自分の公職追放が解除されるまでの期間、中継ぎとして吉田茂に政界を取りまとめていって欲しいと考えていたのでした。とりあえず、外務官僚であった吉田茂が苦手だった党内実務や政治に必要な金策は、鳩山一郎が担い、吉田茂は内閣の人事と政策判断に集中することになりました。昭和21年5月13日に行われた会談の場面において、『鳩山一郎の政界パージ(追放)が解けたら、すぐに鳩山に政権を譲り渡す』という口約束が為されたのか為されなかったのかは、吉田茂と鳩山一郎の回想で大きく食い違っており、これが後になって吉田茂と鳩山一郎の対立原因となります。  
第一次吉田内閣が政権を担っていた1946年11月3日に日本国憲法が公布され、翌年1947年5月3日に新憲法が施行されました。人間的な愛嬌があり楽天家の性格であった吉田茂は、アメリカの軍人らしい鷹揚さと強い自信に満ちた雄弁家のマッカーサーとウマが合い、個人的な関係でも友情を育むことが出来ました。その結果、吉田茂はマッカーサーから、日本国民を飢えさせないように食糧支援を積極的に行うという確約を取り付け、日本国憲法9条を盾にして、日本にとって大きな財政負担となる軍事力強化の再軍備を回避し続けました。貴族趣味的な振る舞いを好んだ吉田茂は、外交官時代に培った国際社会の時流を読むセンスを最大限に活かし、単一の価値観にこだわる頑迷な政治交渉ではなく、国家間の経済関係で確実に利益を引き出すような柔軟な交渉を好みました。吉田茂は、ケーディス次長率いる民生局とマッカーサー率いる参謀本部の確執を巧みに利用してマッカーサーの意を汲むことで、財閥解体や農地改革、教育体制の変革など国益と大きく矛盾しない戦後政策を実施してきたと言えます。  
昭和22年(1947)4月に実施された総選挙で、吉田茂を総裁とする自由党は敗れて、片山哲(1887-1978)が率いる社会党が与党となり内閣を組閣し、その後は芦田均内閣へと続いていきます。その後、自由党と民主党(旧・日本進歩党)の一部が連立して民主自由党ができ、吉田茂はその総裁となります。昭和23年(1948)10月15日に第二次吉田内閣が成立、昭和24年2月16日に第三次吉田内閣が組閣され、吉田茂を首相とする内閣は昭和29年(1954)の第五次吉田内閣まで続く長期政権となります。吉田茂が政治課題として最も重視したのは、敗戦後に失われた日本の国家主権の回復であり、そのために必要な講和条約の締結でした。  
極東における米ソの冷戦状況が緊張してきたのを見た吉田茂は、ソ連や共産圏を含めた『全面講和』を後回しにして、とりあえず、西側諸国(資本主義圏)との講和を実現する『多数講和』を選択することにしました。アメリカが提示してくる講和条約を締結し、西側の自由主義国家とサンフランシスコ体制を確立することが、海洋貿易国家である日本の繁栄と安全につながると判断したわけです。吉田茂は外務官僚出身ということもあり、基本的に世論に配慮せずに政策を決める権威主義的な首相でしたが、民意よりも自分の理性とセンスを信頼する天才肌の自信家でもありました。その意味では、国民から圧倒的な人気を集めていた政党政治の雄・鳩山一郎と対照的な政治家でした。鳩山一郎の政界追放(パージ)が解除された時に、官僚政治家であった吉田茂の時代は終焉へ向かい、党人政治家が激しく民意を問いながら勢力を競い合う政党政治(派閥力学)の時代へと突入していきます。  
対日本の講和条約を詰める為に日本に来日したジョン・ダレス特使と吉田茂首相との間の議論では、主権国家としての独立と独立に伴う自由主義国家としての責務についての意見が交換され、吉田は積極的に冷戦に対する軍事的貢献は現段階では出来ないが、最小限の国防の責務を果たす為に警察予備隊を強化した保安隊を設立することを約束して、将来の再軍備に対する意識を暗示的に示しました。その結果、昭和26年(1951)9月8日にアメリカのサンフランシスコでサンフランシスコ講和条約が締結され、同時に、日米安全保障条約(日米安保条約)で日米同盟を結んで、米軍の無期限駐留を認めたのです。  
吉田茂の最大の功績は、サンフランシスコ講和条約の締結で自由主義圏に日本を加え、国家主権を法的な手続きを経て取り戻したこと、そして、混乱期にあって食糧不足に喘いでいた日本の基礎的な再建をやり遂げたことだと言えるでしょう。しかし、吉田内閣以降の政治には、沖縄の領土返還、北方領土の返還、ソ連や中国など共産圏の国々との国交回復(講和条約締結)、再軍備の問題、本格的な経済復興(社会インフラの再建)など困難な課題が残されることとなりました。  
 
敗戦国の外交戦略 / 吉田茂の外交とその継承者

 

はじめに  
戦略が、自己の定めた目標をその持てる力によって達成するための合理的な手段選択を意味しているとすれば、第二次世界大戦後の日本ほど、戦略を立てにくい状況にあった国家は少ないだろう。なぜならば1945年8月の敗戦によって日本はその力を大幅に失ったからである。その時点で日本は、軍事力はほとんど完全に喪失し、経済的にも大幅なダメージを受け、外交的にも旧敵国として占領され、警戒される存在となった。いわば日本は国際政治の中で主体としての行動能力を喪失し、受け身の客体となったのである。この状況において戦略を語ることは意味を持ち得ないとすら思われた。  
しかし敗戦後1945年で世界有数の経済大国となった軌跡を見れば、戦後日本が全く戦略をもたず、幸運のみによってその地位に達したと考えることにも無理があるだろう。本報告では、敗戦から1970年頃までの戦後日本外交は、数多くの対立や混乱も経験したが、巨視的にはある一定の目標を追求する点でかなり一貫した戦略をもっていたと捉える。その目標は敗戦国としての地位から脱し、国際社会の正当な一員としての立場を回復することであった。  
こうした目標を明確に設定し、日本に与えられた力とその限界を冷静に把握し、国際環境の現実を観察することによって、戦後日本の外交戦略の基本枠組みを設定したのは敗戦後の最初の10年間のほとんどの期間、外相や首相として指導した吉田茂であった。彼の外交路線については1960年代以降日本において再評価され、80年代には「吉田ドクトリン」という表現が定着するに至った。しかし近年の史料公開や研究者による再評価では、従来の吉田外交論はその経済志向の側面を過剰に強調するものであったと見なされ始めている。吉田が日本の経済復興を重視し、また、軍事力ではなく経済的互恵関係に日本外交の軸足の一つを見出したことは確かだが、吉田の目標はそれにとどまらず、より政治的な側面をもっていた包括的なものであったのであり、何よりも当時の日本人の感情に適合し、また、国際環境の中で実現可能なものであった。その点にこそ、吉田の敷いた外交戦略が戦後日本外交に安定した基盤を与え得た根拠を見出しうるのである。  
また、本報告では、吉田がその骨組みを与えた戦後日本の外交戦略を実際に肉付けしたのは、吉田を後継した指導者たちであった点にも言及する。その系譜は、経済的発展、国際社会への非軍事的関与、自由主義を基調とする国内的調和を重視する石橋湛山や池田勇人の流派と、反共主義、国際社会での威信と独立性の回復、ナショナリズムを強調する鳩山一郎、重光葵、岸信介などの流派に分かれていた。佐藤栄作は両者を融合する立場にあり、アメリカの占領状態が継続していた沖縄の施政権返還を最大の目標とし、1972 年その実現を果たして引退した。二つの流派は対抗しつつも脱敗戦国の外交戦略に関しては協力し、その目標を実現したのである。  
1 「外交戦略」の意味

 

まず、「外交戦略(diplomatic strategy)」という言葉について考えてみたい。外交については、ハロルド・ニコルソンの「対外政策(foreign policy)」と「外交(diplomatic negotiation)」という有名な区分がある[1]。ニコルソンは、前者は国内の政治過程や手続きによって営まれる政策形成過程を指しているのに対して、後者は他国との平和的な調整を目指した交渉を指しているのだという。すなわち、「対外政策」は多様な国内的利害を反映した「立法的」性質を有するのに対し、「外交(交渉)」はその技術の機微に通じ、交渉相手の状況も知悉した専門家の「執行的」業務だというのである。  
こうした区別はニコルソンの経験、つまり、第一次世界大戦以前の少数のエリートが対外関係を手中に収めていた時代が終焉し、対外関係に対する国内政治や世論の影響が重要性をもつようになった時代への変化を反映していることは容易に推測できる。しかしニコルソンは、ある国家の対外政策と外交交渉を成功に導かれるための基礎となる、より高次の概念には言及していない。それは外交戦略(diplomatic strategy)と呼びうるものである。ニコルソンの定義による対外政策はもっぱら国内過程を反映しているので、それがその国の置かれた国際環境に合致し、実現可能であるか否かについて保障はない。また、外交交渉はいかにすぐれた専門家によって行われても、そもそも実現不可能な目標を実現するような手品ではあり得ない[2]。  
対外政策と外交交渉が成功するためには、一国の対外政策が全般的に整合的であり、かつ、その国が置かれた国際環境の中で実現可能な範囲の目標を設定することが必要なのである。特に国内体制の民主化と国際関係における相互依存の進展は、国内社会からわき上がる対外的要請を際限なく増大させる可能性をはらんでいるので、様々な要請の間で優先順位をつけ、実現不可能な要求や重要度の低い要求に対して実現可能でかつ重要度の高い要求を優先させるよう、世論や政府を説得せねばならない。こうした機能を担うのが、ここでいう外交戦略である。それは公的には外交ドクトリンとして表明されるし、政府内では様々な対外政策や外交交渉を統合する見取り図として作用する。外交戦略、対外政策、外交交渉という区分は、戦略(strategy)、戦術(tactics)、戦闘(battle)という軍事分析ではなじみのある区分と共通性をもつ。外交交渉や戦闘は訓練された兵士や外交官の仕事であり、対外政策や戦術は兵士や外交官に指令を与える将校や立法者・官僚の仕事である。外交戦略や軍事戦略は政府指導者や軍事指導者の仕事である。  
前世紀の大戦略(grand strategy)の歴史を扱った論文の中で、軍事史家マイケル・ハワードは「(軍事)戦略とは、常に自国の独立を目指し、しばしば自己の影響力の伸張を目指し、時には自己の支配圏の拡大を目指す」とし、その手段として「軍事力、富、同盟国、世論」があると指摘している[3]。外交戦略も、基本的に同様の目標(ただしその目標は軍事戦略よりも多様で精細に富んだものになり得るが)を設定し、軍事力や経済力、友好関係、国内世論といった手段(ただし暴力的、強制的な使用は除き、平和的な手段に限る)で実現することを目指す。  
このように外交戦略を考えた時、第二次世界大戦に敗北した直後の日本ほど、戦略の立案が困難な条件にあった国家は珍しいだろう。戦略は常に目標と手段の相関関係によって設定されるのだが、敗戦後の日本は国力をほとんど失っていたからである。日本は軍事的に完全に敗北し、ポツダム宣言によって非武装化を命じられていた。経済的には国富の約三分の一を戦災で失い、海外の植民地も失い、更に海外から600万の日本人が急速に帰還した。外交的には日本は戦争末期には完全に孤立し、しかも戦後世界では連合国が国連を組織するのに対して旧敵国という二等国家の地位を与えられることが予想された。そして国内世論についても、このような破滅的な戦争をもたらした責任はどこにあるのかをめぐって分裂する危機をはらんでいた。  
しかしこのように不利な条件にもかかわらず、戦後日本は、達成されるべき目標を限定し、限られた力を賢明に用いることで外交戦略を組み立てることは不可能ではないことを示す例となった。日本は、第一次世界大戦後のドイツとは異なり、戦後秩序の正当性を基本的に肯定した上で国際社会に早期に復帰し、国際社会の正当な一員と見なされることを目指し、その目標を1970年前後にはほぼ達成した。1950年代に日本は独立を回復し、GATTや国連といった基本的な国際機構の一員となった。1960年代にはOECDに加入するなど先進国としての地位を獲得し、1970年代には先進国サミットの構成国となるなど、世界の国際秩序の一角を担う存在となった。その過程で、日本に課せられた様々な制限は次第に撤廃され、日本を占領したマッカーサー元帥が強く固執した米国による沖縄の保有すら、その施政権の日本への返還という形で終止符が打たれたのである。  
もちろんこうした外交的成果がなんらかの幸運によってもたらされたと考えることは可能である。実際、後に見るように戦後国際環境は奇妙な形で日本に有利に作用することになった。しかしそのことを考えてもなお、戦後日本の成功が一定の外交戦略なしになし遂げられたとすることは常識に反しており、むしろ何らかの戦略の存在を推定させる。それは日本が敗戦国としての立場にあることを認めた上で、それを脱することを目標とし、各種の手段を統合的に発揮した結果であった。日本人自身が、日本が首尾一貫した外交戦略を追求したことを認めたがらない傾向をもつし、実際、政権交代のたびに「ドクトリン」が称揚されるアメリカと比べて、日本では「戦略」といった概念で思考する政治家や専門家が少ないことは事実である。にもかかわらず、マクロな視点で捉えた時、日本は外交戦略と呼べるものをもってきたし、その形成に主導的に携わった指導者を挙げることもできる。戦後期については、こうした外交戦略の形成者として吉田茂を考えることができる。  
2 吉田茂の戦略構想

 

吉田茂(1878〜1967年)が戦後日本外交に対してもつ重要性については、今更語る必要がないほど指摘されてきた。敗戦後十年間という重要な時期のほとんどの期間を首相ないし外相として指導したという事実だけを考えても、吉田の残した遺産の大きさは否定しようもない。特に1960年代に国際政治学者高坂正堯が吉田茂の業績を肯定的に再評価して以降、吉田外交の重要性は戦後日本外交を語る上での正統教義となった[4]。英語圏では、高坂以降の吉田再評価に対して批判的な立場をとるJohn Dowerの著作が吉田茂についての唯一の本格的な伝記であり続けており、ダワーの著作は日本における進歩的左翼の見解と基本的に一致するものだが、吉田に対する肯定的、批判的いずれの立場をとるにせよ、吉田の決定の重要性は一般に認められてきた[5]。  
高坂の吉田評価は包括的でニュアンスに富んだものだが、その主要部分は以下のようにまとめられるであろう。吉田は日本が軍事的に完全に敗北したことを認めた上で、よき敗者として占領政策に協力した。にもかかわらず、軍事的敗北を外交的策略で取り戻すことはある程度可能であり、それを実現しようとした。特に吉田は軍事力が対外関係で果たす役割を相対的、副次的に捉え、むしろ経済的目標の追求を第一義に掲げ、そのために米英の海洋勢力と友好関係を結び、開放的な国際経済体制に参画することを重視した。逆に冷戦が軍事的緊張を増す中でも日本の再軍備に消極的であり、むしろ日米安保体制下でアメリカによる軍事的庇護を受けることを選択した。  
こうした吉田評価は70年代から80年代にかけての日本で定着した。特に1980年代には、「吉田ドクトリン」という言葉で吉田の外交戦略は表現されるようになった。日本でこの言葉を最初に普及させたのは国際政治学者の永井陽之助であると見なされるが、永井によれば、経済中心主義、軽武装、日米安保という三本柱が吉田ドクトリンの本質であって、それこそが戦後日本外交の正統教義として継続されるべき外交戦略とされたのであった[6]。  
しかしこの時期から、吉田の外交戦略が戦後日本の正統教義であることを認めた上で、それを批判する立場が増え始めた。たとえばアメリカの日本専門家Kenneth Pyleは、永井とほぼ同時期にYoshida Doctrineという言葉を使い始めたが、彼の場合はそれを日本型重商主義という意味で捉え、批判的に扱った。つまり国際秩序や国際安全保障問題について負担を負うことを避け、経済的に定義された自国の国益を追求することに専心する外交戦略として「吉田ドクトリン」を定義し、批判したのである[7]。吉田の経済中心主義こそが自己中心的な政策の源泉という訳であった。  
更に90年前後に冷戦終焉と湾岸危機・戦争という巨大な変革を経験した後、「吉田ドクトリン」は日本国内でも厳しい批判に曝されるようになった。右派は、吉田が憲法問題を曖昧にしながら自衛隊を発足させ、占領権力と日米安保に依存することで国民の独立心を奪ったと批判した[8]。左派は吉田の対米配慮は過剰なものであり、結果としてアメリカに従属的な戦後外交の源泉となって基地その他の過重な負担を負わされた日米安保体制の元凶であると批判した[9]。こうした変化は、1990年代に日本が外交的、経済的に挫折感を抱き、日本の自己イメージが従来よりも批判的なものとなったことと無縁ではないだろう。  
しかし近年の史料公開や研究の進展は、吉田外交に対する別の観点からの再評価も促している。高坂が提示し、後に永井などによって整理された吉田路線ないし吉田ドクトリンのイメージは、過度にその経済中心主義や軍備に対する躊躇を強調し、吉田自身が抱いていた安全保障に対する強い関心を正当に評価していなかったのではないか、というものである。特に新たに公開されたいわゆる「西村調書」は、吉田の下でサンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結を取り仕切った西村熊雄が外務省を引退する前に整理した記録であり、従来明らかにされていなかった吉田周辺の動きや文書を明らかにした[10]。同史料によれば、1950年頃から本格的に講和準備を開始した吉田は、安全保障問題について自らイニシアティブをとり、官邸に外交専門家と軍事専門家の懇談会を設けて検討を依頼し、その結果を外務省の準備に反映させた。  
1981年)であると思われる。その後、『堂場肇文書』として青山学院大学国際政治経済学部に所蔵されるようになった同文書の一部は、植村秀樹『再軍備と55年体制』(木鐸社、1995年)、豊下楢彦『安保条約の成立』(岩波書店、1996年)、田中明彦『安全保障』(読売新聞社、1997年)などによって本格的に利用されはじめ、近年では多くの研究者が西村調書を利用している。2001年になって外務省は西村調書の公開に踏み切り、2002年に入って『堂場肇文書』に含まれていない巻も含めて、『日本外交文書』として刊行された。(外務省編纂『平和条約の締結に関する調書』(外務省、2002年)、五冊。)文書公開を機に行われた対談として、管英輝・坂元一哉・田中明彦・豊下楢彦「吉田外交を見直す」『論座』2002年1月号、94〜113頁がある。ただし、「西村調書」は間違いなく貴重な史料だが、西村熊雄による整理を経た史料であり、原史料そのものではないことには注意を要する。  
吉田外交の頂点は1951年1月から2月にかけて来日したジョン・フォスター・ダレスらとの交渉であった。ダレスは中国共産化などの東アジア外交の低迷に苦しむトルーマン政権が共和党の支持獲得のために国務省顧問に任命した人物であり、対日講和問題の解決を委任されていたのである。ダレスの関心は、朝鮮戦争の動乱の中で緊張を増す東アジアの冷戦の中で講和独立し、米軍の占領を解除された日本が西側志向を選択し、特にアメリカと同盟関係に入る意思をもつかどうかであった。  
ダレスが代表するアメリカの思惑に対して吉田の外交戦略が練り上げられ、対外政策と外交交渉が執行されたかを詳細に分析する余裕はない[11]。結論的には、吉田の外交戦略は次のような構造をもっていたと言えるだろう。  
1.日本を敗戦に至らせた日本の政治体制について伝統的、保守的要素と改革的、進歩的要素を混合させ、再構築を図ること。具体的には国民の大半の尊敬を受ける天皇制を象徴天皇制という形で脱政治化した上で存続、定着させつつ、同時に国民主権、平和主義といった要素を盛り込むことで急進的な国内世論や占領権力の要求に応え、連合国の対日猜疑心を弱めること[12]。  
2.戦前日本が国際連盟の理事国として世界の主要国の一角であったことを肯定的に評価し、そうした立場を取り戻すために一刻も早く主権を回復すること。長期的には、敗戦国としての地位を脱し、国際社会の中で「名誉ある地位」(日本国憲法前文)を占める存在に復帰すること[13]。  
3.戦前日本が軍国主義化し、無謀な拡張主義をとった背景には国内経済の脆弱性があったと考え、米英が主導するブレトン・ウッズ体制に早期に参加し、自由貿易の恩恵を享受することで戦後復興を進め、経済発展の基礎を据えること  
4.日本が自ら対外的機能を備えた軍事力を保有することは、国内の政治対立とアジア、オセアニア、ヨーロッパ諸国の国際的警戒心を強め、経済的にも大きな負担となるだけでなく、戦前軍部との人的継続性を残してしまうことになる。朝鮮戦争にもかかわらず、日本に対する軍事的脅威は大きくなく、特にアメリカが日本の防衛にコミットしていれば対外的安全保障は当面確保されうる。  
5.共産主義の脅威は深刻なものであり、明確に対決されねばならない。しかしこの脅威の性格は本質的にイデオロギー的なものであり、社会経済的問題やテロによる不安醸成、宣伝等による政治的浸透が問題である。従って共産主義の脅威に対抗するためには、治安力の強化、資本主義的政治経済体制の安定と繁栄、対抗宣伝などが主たる手段となるべきであり、軍事的対応はむしろマイナス面が大きい[14]。  
要するに吉田は、(1)日本の敗戦国としての地位からの脱却、(2)経済的繁栄の追求と非軍事的手段を基調とする対外関係の構築、(3)共産主義のイデオロギー的脅威に対抗した対称的な手段による封じ込め、という三つを日本外交の基本目標に据えた。この時期の日本の多数の国民や特に保守的な指導層にとってこれらの目標は歓迎すべきものであり、また当時の日本が置かれた国際環境の中で相互補完的に追求しうるものであった。  
こうした戦略的目標の追求にあたって吉田が動員できる資源は限定されたものであった。にもかかわらず、二つの環境的要因が吉田に力を与えた。第一は、日本の地理的、人的資源であった。太平洋をはさんでアメリカに対峙し、しかもユーラシア大陸アジア部において中ロ朝鮮半島と海を隔てて接している日本は、戦略的要衝であり、特にアメリカにとっては味方につけておく価値が高い存在であった。しかもアジアにおいて唯一の工業化を開始していた日本は、天然資源をほとんどもっていないにもかかわらず、高い人的、知的資源をもっていた。第二に、いうまでもなく冷戦の開始、特に東アジアでの激化は日本の戦略的価値を一層高めた。軍事的にソ中の太平洋進出を抑え、対朝鮮半島、ソ連、中国への作戦基地として重要であるだけでなく、政治的に数少ない非西洋の反共国家としてアジア諸国を西側に引きつける材料となり得た。経済的にも繁栄し、安定した日本の実現は、資本主義の普遍的効用を共産主義に対して示す格好の証拠となるものであった。  
更に吉田にとって幸運だったのは、冷戦期の世界においては軍事力が特殊な位置づけを与えられるようになったことである。すなわち軍事力の役割はますます、潜在的敵国による使用を抑止、限定することに集中されるようになった。朝鮮戦争が結局、38度線の南北分断を継続したまま休戦に終わったことは、軍事力の帰納的限定を決定づけるものであった。こうした環境の中で、対外的に行使できる軍事力を保有できないという戦後日本の条件は対外戦略を実行する上での障害となる程度が限定された。  
吉田の具体的な対外政策として二つをあげておこう。第一は、日米安保関係の設定である。吉田にとって米英との協調こそが戦後日本の基調となるものであり、特に冷戦環境下でアメリカの軍事的保護を受けることは当時の日本の安全保障にとって基本的重要性を有していた。しかし他方、アメリカとの緊密な関係は一定の対外政策の拘束要因となり得たし、また、米軍の駐留や日本再軍備要求が国内的に大きな負担になる懸念もあった。吉田はダレスとの交渉を通じて、日米安保関係の設定については積極的姿勢を示し、また、講和後の米軍駐留の継続、講和後の漸進的な防衛力の整備といった点でアメリカ側の要求に譲歩し、妥協を成立させた。  
しかし吉田は対米交渉だけに集中し、アメリカから安上がりな安全保障を獲得することだけを目指したわけではない。日米の国力の差は否定すべくもなかったが、吉田は同盟の安定のためには何らかの相互性の感覚が必要であることを理解していた。ダレスとの交渉の際、吉田は日本の工業力の積極的な提供を申し出ることで日本が同盟に貢献しているとの姿勢を示そうとした。吉田のこの提案は「日米経済協力」構想としてしばらく追求されたが、アジアの軍事的緊張が低下するにつれて棚上げとなった[15]。しかし吉田がアメリカに依存すれば事足れりと考えていたわけではないことは明らかである。  
第二に吉田は、対中政策について積極姿勢を示した。朝鮮戦争で中国の義勇兵と交戦した結果、アメリカは極度に反中的姿勢をとるようになっていた。しかし吉田は、中ソ関係は「一枚岩」ではないと見抜き、早期から中国に資本主義国が働きかけ、一種のチトー化を促すことができると考えていた。彼は「民主主義の第五列」として日本の実業家が中国に資本主義に近づくことを促すことができるとアメリカ側を説いた。それはもちろん日本経済にとっても有利な政策であったが、吉田は共産主義に対する逆浸透作戦としてこうした提案を重視していたようである[16]。  
結局吉田の提案はアメリカの受け入れるところとならなかった。米世論、特に米議会は対中強硬色が強かった。それだけでなくダレスらは、日本と中国の接触は中国を西側寄りにするよりも日本を東側寄りにする危険が大きいとも考えていた。しかし吉田の提案は、彼が東アジア国際情勢について独自の認識をもち、それに基づいて政策判断を行っていたことを示している。  
吉田の外交戦略は、51年9月に締結され、翌年4月に発効したサンフランシスコ講和条約という形で大きな成果を挙げた。それは完全に孤立し、大敗北を喫した国家に対する講和条約としては寛大なものであり、賠償範囲も限定され、沖縄を始めとする周辺諸島に対する日本の主権も否定されなかった。それは冷戦と特に朝鮮戦争という特殊状況のなかでこそ可能であったとは言え、吉田が外交の大局観と機敏な判断力を示した結果であったと評価できる。  
しかし吉田は、講和独立後に彼の外交戦略を有効に追求できなかった。官僚出身の吉田は国内政治に強い基盤をもたず、特に保守政治家が復帰してくると主導権を低下させた。更に吉田の再軍備に対する曖昧な姿勢、日本国憲法の非武装条項と日米安保という同盟関係に伴う米軍駐留の矛盾は国民の吉田に対する不満を増大させた。とりわけ米軍基地問題は、右翼からは日本の独立を損なう弱腰として、また左翼からは対米従属として非難された。  
他方で吉田はアメリカとも摩擦を抱えた。アメリカ、特に米軍部は講和独立後に日本が早期に軍備、特に30万人規模の陸上兵力を整備し、米地上兵力が日本防衛義務から早期に解放されることを期待していた。しかし吉田はこうした規模の再軍備は経済負担となり、国内論争を巻き起こし、旧軍勢力の復活を許し、国際的な懸念を増大させるとして反対した。吉田は憲法を理由に再軍備を拒否し、警察予備隊から保安隊、自衛隊へと兵員と任務を徐々に拡大していく道を選んだ。しかも陸海空の兵種構成を備え、陸上兵力主導の構成をとらなかった。陸上兵力は編成上18万人規模を目標とすることとされ、その後上方修正されることはなかった。  
また、吉田は戦中期から戦後にかけておきた大きな国際政治上の変化にもついていけなかった。この間、朝鮮半島や東南アジア諸国やオセアニア諸国が独立したのだが、吉田の世界地図は欧米と中国が主体であったようである。アメリカの後押しを受けて吉田は韓国やフィリピン、インドネシアなど東南アジア諸国との国交樹立を図ったが、大きな紛糾の末にフィリピンと賠償協定を結んだ以外には外交的進展は果たせなかった。  
結局1954年には吉田政権は内外共に行き詰まり、首相の座を放棄せざるを得なくなった。しかし吉田の外交戦略は、吉田を追放した人々も含む彼の後継者たちによって引き継がれ、実施されていくことになった。  
3 吉田茂の後継者たち―二つの系譜

 

吉田茂の政界引退後、保守政党は糾合され、1955年に自由民主党が発足した。自由民主党には吉田子飼いの池田勇人らのグループも加わったが、反吉田を掲げた鳩山一郎、重光葵、岸信介らが当初は主導権を握った。彼らは吉田の政策が国家の独立や自衛力の整備といった基本政策をないがしろにし、アメリカに依存した外交を行っていると批判した。  
彼らの外交は、特に国際社会への復帰という面で成功した。1955年、日本はガット(GATT)加入に成功した(多くの国からは制限的な条項を適用されたが)。また、鳩山一郎は吉田との対抗意識もあってソ連との戦争状態を終了させることを追求し、スターリン死後、雪解け政策をとっていたソ連との間で56年に日ソ国交回復宣言の成立にこぎつけた。北方領土問題を棚上げにしたために平和条約は結ばれなかったが、日本はソ連とも外交チャネルを確立したのである。その成果の一つは56年の国際連合への加入だった。また、東南アジアや反共的なアジア諸国に強いのも彼らの強みだった。岸信介は首相として台湾、東南アジア、オセアニアを歴訪し、インドネシアとの賠償交渉を妥結させた。彼らにとって反共民族主義は親和的だった。  
しかし独立や国家の自尊心を重視する彼らにとって、皮肉なことに対米関係や防衛力の整備は困難なテーマとなった。重光は鳩山政権の外相として55年夏訪米し、日本の防衛力整備計画と、米軍の日本からの将来の撤退、日米安保条約の対等条約への改定を訴えた。しかしダレス国務長官は、日本が太平洋のアメリカのプレゼンスの防衛に参加できない段階で、日米安保を変更する必要性を認めず、重光に乱暴にお説教をした[17]。  
重光に限らず、独立を訴える民族主義者にとって、冷戦下で日本がどのような軍事力を備えるべきかは困難な問題を惹起した。冷戦下では大量の核を保有する米ソ以外は軍事力の意義づけを与えることは困難になっていたのである。岸政権は発足当初に「国防の基本方針」を閣議決定し、防衛力の長期整備計画も立ち上げたが、アメリカが核抑止に比重を移し、日本の再軍備を待たずに地上兵力を日本本土から撤退したことが示すように、日本の防衛力は軍事目標なしに積み上げられる結果となった。  
彼らはまた、国内での支持獲得にも困難を来した。鳩山は長く続いた吉田政権への嫌悪感の反動から人気を博したが、選挙では自民党は期待したほど伸びなかった。特に彼らが掲げた自主憲法制定のスローガンは大衆的アピールを獲得できなかった。岸信介も中小企業や農業に対する保護を拡充し、同時に「日米対等」を訴えて大衆の支持獲得を図ったが成功しなかった。岸は矢継ぎ早に国内治安強化政策を打ち出し、その強権的体質が批判されるようになったのである。  
また、岸らの反共主義は中国との関係改善を困難にした。岸が1957年6月に台湾を訪れ、蒋介石が掲げる大陸反攻路線を支持するかのような姿勢を示したことに対し、中国は岸首相を厳しく非難し、それまで進んでいた政治と経済を分離して、経済面での関係を強化するという路線を凍結させた。日本の世論では、中国との関係改善ができないのは自民党政権の対米従属路線の帰結であるという見方が強く、岸は威信を低下させた[18]。他方で岸はアメリカの支持を獲得し、日米安保改定を通じて「日米対等」のイメージを打ち出したが、当時の日米間の力関係からして日本は圧倒的なジュニア・パートナーでしかあり得なかった。岸の安保改定の決断は、特に岸がアイゼンハワー来日をにらんで批准を急いだ手法への批判が高まり、戦後最大の大衆運動を引き起こした。安保改定は実現したものの、その過程で岸は旧敵吉田茂の支持を獲得せねばならなくなったし、最終的には内政混乱の責任をとって辞職することになった[19]。  
結局彼らは、吉田がその外交戦略の目標として設定した、日本国内の政治的、経済的安定を実現し、日本を国際的に定位させることには十分には成功しなかった。それに対して、石橋湛山や池田勇人の政権は、吉田の経済重視、中国重視、日米の友好関係を対外政策の基軸とすること、といった側面を引き継ぐことになった。石橋は病気のために短期で引退せざるを得なかったが、積極的な財政政策によって経済の高度成長の端緒を与えた。  
池田は吉田の一番弟子として、1953年には防衛力整備をめぐってアメリカと協議するために訪米し、様々な理由を挙げて防衛力整備は急速にできないことを説いた経験をもっていた。1960年、岸を引き継いだ池田は、日米安保の反共同盟的色彩を弱め、協商的色彩を強めようとした。池田は「所得倍増政策」を掲げて国民の意識を安保闘争や労資対立から経済成長へと転換した。憲法についても自民党が主導する改憲運動を棚上げし、戦後体制の正当性を事実上認めた。  
池田はまた、東南アジア、オセアニアに加えてヨーロッパも訪問し、日本の国際社会への復帰を印象づけた。特にGATT 11条国、IMF8条国となって先進国としての義務を完全に引き受けた。また、OECDに加入して、非欧米の唯一の経済先進国としての地位を獲得した[20]。  
池田政権の下で経済は順調に成長した。1964年、日本で初めてのオリンピックが東京で開催され、日本中が熱狂した。このオリンピックに間に合わせるように東京・大阪間の新幹線が開通し、日本の鉄道技術が世界一であると喧伝された。こうした出来事は、敗戦の結果コンプレックスを抱いていた国民に自信と誇りを与えるものであった[21]。  
1964年、池田は病を得て引退し、その座を佐藤栄作に譲った。佐藤は岸信介の実定であり、池田とはライバル関係にあったが、吉田に見出されて政界入りした官僚という点では共通であり、吉田を深く尊敬していた。佐藤は兄が代表した国家主義的路線と、池田が成功させた経済路線とを糾合し、定着させたと言える。佐藤自身は経済成長を熱心に追求するよりも、社会的調和を重視し、「国を守る気概」の涵養の必要を語る政治家だったが、日本経済は佐藤政権下で最も急速に成長した。佐藤政権は7年以上続き、日本史上最長の政権となったが、何よりもそれは高度成長のためであった。  
佐藤は決して口数の多い政治家ではなかったが、政権についた当初から沖縄の施政権返還を目標に掲げた。第二次世界大戦末期に米軍によって激しい地上戦の結果制圧されて以来、沖縄では米軍が広汎に基地を整備し、住民統治を行っていた。しかし次第に沖縄住民の反米感情、独立意識が強まり、その運動は国内に波及して自民党への攻撃材料ともなっていた。のみならず、佐藤にとって沖縄返還は日本が敗戦国としての地位を脱する象徴としての意義をもっていた。65年に首相として初めて沖縄を訪れた佐藤は「沖縄が帰ってくるまでは戦後は終わらない」と明言した[22]。  
しかし沖縄はアメリカにとって高度の軍事的価値をもつことは明白であり、いかにして沖縄の施政権返還を認めさせるかは難題だった。佐藤は経済成長の結果拡大した日本の経済力を軍事力に転化するのではなく、むしろその逆によって外交手段とした。すなわち日本は軍事大国とならないこと、特に核兵器を保有しないことを明確にすることによって、当時アメリカが熱心に追求し始めた核不拡散体制の実現を側面支援した。他方で佐藤は経済力を西側のアジアにおける立場の強化に積極的に利用し始めた。韓国との国交樹立は池田政権の時代に交渉が進んでいたが、佐藤政権は韓国に5億ドルの経済協力をすることで植民地化の歴史についての清算や、北朝鮮との関係という厄介な問題を避けて日韓基本条約締結にこぎつけた。また、佐藤はヴェトナム戦争について、紛争当事国には武器援助を行わないなどの武器輸出三原則を打ち出す一方で、積極的にヴェトナム周辺国に経済支援を行い、1967年のASEAN結成を側面支援した。文化大革命の混乱期に入った中国との関係は停滞したが、日本はアジアにおいて一応の安定した立場を築いたのである。  
その上で佐藤は、アメリカとの同盟関係を率直に認め、役割を果たす意欲を示すことで沖縄の施政権返還を図ろうとした。アメリカも、沖縄の軍事的役割を再検討すると共に、ニクソン政権の開始と共に同盟国に負担分担を求める姿勢を強めるようになった。最大のネックとなったのは、沖縄の軍事的役割の最も先鋭な部分、つまり核兵器の配備と朝鮮半島有事の際の緊急展開だった。1960年の安保改定の際に米軍の基地使用や核持ち込みは日本との事前協議の対象となることになっていたが、日本側は唯一の被爆国であるとの世論から一切の核持ち込みを拒否する姿勢を公にしていたし、朝鮮有事の際も事前協議の対象となると説明していたのである。結局、公的には日米安保体制下の事前協議制が沖縄の米軍基地にも適用されるとされながら、秘密裏に日米間に特別合意がなされたとする見解が専門家の間では一般的である[23]。いずれにせよ1969年、佐藤は訪米して3年以内に沖縄の施政権が返還されるとの合意をニクソン政権と取り結んだ。  
吉田はその二年前に死去していたが、佐藤が沖縄返還合意の直後に日記に記したのは吉田のことであった[24]。そして訪米直後の総選挙で自民党は300議席という史上最多の議席を獲得し、容共的な左翼は完全に少数派の立場に転落した。日本の国内体制を安定させ、国際的に有力な主要国としての地位を回復し、共産主義の脅威を封じ込め、経済的繁栄を獲得するという吉田茂の外交戦略は、1972年に沖縄の施政権返還が実現したことで、一応の完成を見たのである。  
結論

 

吉田茂は、戦後日本の外交戦略を定義した。それは敗戦後の日本の力の限界を率直に認めた上で、日本に残された力と国際環境を慎重に分析し、実現可能な目標とそのための手段を定義したものであった。それは吉田外交について言われてきたように、経済主義に徹して政治的、軍事的側面を見落としたものではなかった。吉田の中では日本の国際社会での地位回復、共産主義封じ込め、経済的繁栄による市民生活の安定は分かちがたく結びついた目標であった。こうした目標に背馳する外交手段、たとえば冷戦下で中立主義を志向するとか、大規模な軍備を急速に整備するといった手段を吉田は大胆に否定し、内外の圧力に抗して貫いた。  
しかし吉田はすぐれた外交感覚や政治的洞察力をもっていても、すぐれた政治指導者ではなかった。少なくとも民主化された政治体制の指導者としてはふさわしくない面をもっていた。日本が講和独立を達成し、国際社会への復帰の第一歩を歩み始めるやいなや、曖昧な表現で国民に率直に訴えない吉田の政治スタイルは資産というよりも負債になった。結局、吉田自身が引退し、その外交戦略の実現を後進に委ねることが必要であった。  
吉田政権の時代に吉田を攻撃した者も、吉田を支持した者も、広い意味では吉田の外交戦略の枠を抜け出ることはできなかった。吉田が認識した戦後日本の力の限界が、吉田の外交戦略を継承させたのである。鳩山、重光、岸らは吉田外交を批判し、より国家主義的で独立や他国との対等性を重んじる外交を追求しようとしたが、内外の限界につきあたり、吉田と和解せざるを得なくなった。石橋や池田は吉田の経済重視の側面を継承発展し、経済成長に関しては見事に成功したが、政治的には指導性を欠き、国民に明確な政治イメージを与えることには失敗した。佐藤は二つの系譜を継承し、蓄積した経済力を基盤に、沖縄の施政権返還という象徴的目標を掲げてその実現に成功した。それは吉田が掲げた外交戦略が基本的に成功したことの証左であった。  
しかしもちろん、吉田の外交戦略の成功は吉田や彼の後継者の力量のみによっているわけではない。それどころか、彼らの力量よりもはるかに重要だったのは、日本をとりまく国際環境であった。冷戦という特殊な軍事的、経済的、イデオロギー的対決状況にあって、日本の国際社会への復帰、反共主義の定着と経済的繁栄はアメリカを指導国とする西側の全般的目標と合致していた。朝鮮戦争と東アジアにおける東西対立は、第二次世界大戦で日本が失った大義と戦争責任の問題を棚上げにし、革命状況のアジアとの関係を制限して日本の外交的混乱を抑制した。のみならず大国が自ら軍事力を使わず、他国にそれを使わせないために軍備を整えるという特殊な環境は、対外的軍事力をほとんどもたない日本の国力の欠陥を総体的に覆い隠したばかりか、経済力を軍事力に転化しないことが外交手段となりうる状況をもたらした。  
こうした条件は佐藤政権末期には急速に失われつつあった。冷戦はデタントと多極化の時代へと変化し、日本はより積極的な国際社会および西側への貢献を求められるようになった。日本の防衛力や日米安保の存在意義が改めて問われることになったのである。また、日本の経済力はもはや無視できる範囲を越え、国際秩序への関与のあり方が問われるようになった。そして日本国内でも、沖縄返還の成果に沸き立った後で、どのような外交目標を設定するべきか模索することになるのである。  
 
1 Harold Nicolson, Dip omacy , 2nd ed. (London: Oxford University Press, 1950) (ハロルド・ニコルソン(斎藤眞・深谷満雄訳)『外交』(東京大学出版会、1968 年)。  
2 ニコルソンの外交観は、第一次世界大戦後のパリ講和会議に大いに影響を受けている。そして「外交戦略」という観点を明確に意識しなかった点に、ウッドロウ・ウィルソンの外交に対するニコルソンの二律背反的評価の一つの源泉があるように思われる。Harold Nicolson, Peacemak ng 1919 (London: Constable, 1937). l i  
3 Sir Michael Howard, “Grand Strategy in the Twentieth Century,” Defence Sudes, Vol. 1, No. 1, (Spring, 2001), pp.1-10. t i  
4 高坂の吉田評価は、1964年に公表された「宰相吉田論」によって開始され、1967年の「吉田茂以後」および「偉大さの条件」という二つの論文で補足、修正された。最初の論文は大いに注目を集め、これら諸論文は1968年、『宰相吉田茂』という題名で中央公論社から発売された。  
5 J.W. Dower, Empire and Aermath : Yoshida Shigeru and theJapaneseExperence1878-1954 (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1979).この著作は、吉田が戦前に帝国主義的政策を実行した外交官としての経歴をもっており、自由主義的、開明的な政治家というイメージは虚飾に過ぎないと強調する。 ft i ,  
6 永井陽之助『現代と戦略』(文藝春秋、1985年)。  
7 パイルの立場は後に、Kenneth B. Pyle, The Japanese Queston: Powerand Purpose n the New Era (Washington D.C.: AEI Press, 1992年)(ケネス・パイル『日本への疑問』(サイマル出版会、1995年))にまとめられた。  
8 たとえば片岡鉄哉『日本永久占領:日米関係 隠された真実』(講談社+α文庫、1999年)。  
9 たとえば豊下楢彦『安保条約の成立』(岩波書店、1996年)、三浦陽一『吉田茂とサンフランシスコ講和』(大月書店、1996年)。  
10 史料を特定していないが、この史料を最初に使った研究は、猪木正道『評伝吉田茂』(読売新聞社、 i i  
11 より詳しくは、中西寛「吉田・ダレス会談再考−未完の安全保障対話−」『法学論叢』140巻1・2号(1996年11月)、204〜265頁。この論文の際には、「西村調書」そのものは利用できなかったが、その後「調書」を読み、基本的な点で見解を修正する必要を感じなかった。「調書」に基づく吉田外交についての報告者の分析は、中西寛「講和に向けた吉田茂の安全保障構想」伊藤之雄・川田稔編著『環太平洋の国際秩序の模索と日本』(山川出版社、1999年)282〜305頁参照。  
12 GHQの強い圧力の下で明治憲法が日本国憲法へと改正される過程で、吉田は当初は外相として、後に首相として改正を推進する立場に置かれた。吉田は当初憲法の全面的改正に消極的であったと見られるが、GHQの強い意向が明らかになるにつれ、憲法を一種の「国際条約」と見なして積極的に支持した。  
13 吉田がダレスとの対話で繰り返し強調したのは、日本が主権を回復し、自主独立の国となること、またアメリカが日本の自尊心(amour-propre)を尊重することであった。  
14 こうした吉田の共産主義観は、ある意味でジョージ・ケナンのそれと相通じるものがあったと言えるだろう。両者は共産主義の脅威が軍事的なものよりもイデオロギー的なものであり、社会経済的な問題の深刻化こそが共産主義の脅威を強める主たる源泉と見ていたのである。  
15『調書W』183〜93頁。日米経済協力については、中村隆英「日米『経済協力』関係の形成」近代日本研究会編『年報近代日本研究4 太平洋戦争』(山川出版社、1982年)279-302頁。  
16 FRUS, 1951, Vol. 6, part 1, pp. 827-8、『調書X』47-8、196-7頁。  
17 重光訪米についての詳細な分析は、坂元一哉『日米同盟の絆』(有斐閣、2000年)、第3章。  
18 五百旗頭真編『戦後日本外交史』(有斐閣、1999年)、93-6頁。  
19 同上書、97-104頁。  
20 中村隆英『昭和史』第二巻(東洋経済新報社、1993年)、530-2頁。  
21 同上書、532-8頁。  
22 佐藤栄作については、高坂正堯「佐藤栄作−『待ちの政治』の虚実」渡邉昭夫編『戦後日本の宰相たち』(中央公論社、1995年)、175-208頁。  
23 佐藤政権とニクソン政権の秘密交渉を仲介した学者若泉敬はその死の直前に沈黙を破って、密約の存在を認める回顧録を執筆した。若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)。  
24 『佐藤日記』第3巻、五百旗頭編前掲書、137頁に引用。   
 
55年体制の形成

 

吉田内閣から鳩山内閣へ  
昭和26(1951)年9月の講和条約締結を前に、鳩山一郎ら大物政治家の公職追放が解除され、反吉田勢力の結集と政界再編への動きが強まった。度重なる衆議院解散や、造船疑獄事件などで支持率が低下する吉田政権に対して、昭和29(1954)年11月、反吉田系の保守新党として日本民主党が結成され、鳩山が総裁となった。翌月吉田内閣は総辞職し、鳩山内閣が成立した。  
鳩山一郎の復帰  
日本の独立回復を目前にした昭和26(1951)年6月11日、東京都文京区音羽の鳩山邸に安藤正純、三木武吉、石井光次郎、大久保留次郎、岩淵辰雄、山下太郎が集まり、鳩山の公職追放解除を見据えて、吉田茂が率いる自由党に復帰すべきか否かについて激しく議論を闘わせた。しかし、鳩山は、この最中に脳溢血で倒れ、療養生活に入り、政界復帰の第一声は翌年9月の総選挙時になった。石井は、鳩山の縁戚関係にあり、戦後、朝日新聞社を退社して日本自由党に入党、昭和22(1947)年1月、第一次吉田内閣の商工大臣を務めたが、同年公職追放となった。昭和25(1950)年追放解除となり、昭和27(1952)年第四次吉田内閣で運輸大臣に就任。日記からは吉田と鳩山の融和に腐心する石井の様子が読み取れる。  
改進党の結成  
昭和27(1952)年2月8日、国民民主党、農民協同党、新政クラブの合同により改進党が発足した。結成大会では総裁は空席とし(6月13日の臨時大会で重光葵を総裁に選出)、自由党に対抗する政党として「日本の独立自衛」「極右極左に偏せざる国民精神の作興」「進歩的改革と社会主義的政策をも断行」等を主旨とする宣言が発表された。  
吉田対鳩山  
鳩山一郎ら追放解除になった多数の有力者が政界に復帰し、反吉田の動きが活発化した。これに対して吉田首相は、昭和27(1952)年8月28日「抜き打ち解散」を行い、反吉田派の虚をついた。選挙戦は自由党を二分して行われ、吉田批判の選挙演説をしている石橋湛山と河野一郎らに対して、吉田は党内一本化を妨害するようなら断固たる措置をとるように党幹部に指示し、9月29日、石橋と河野は自由党を除名された。(吉田茂書翰 林譲治・益谷秀次宛)  
総選挙後の10月30日、第四次吉田内閣が成立したが、鳩山派の欠席により池田勇人通産大臣の不信任案が可決されるなど、対立は激化した。鳩山は吉田に、双方の「我慢」と除名の即時取消を求める書翰を送り、12月16日両者は復党する。(鳩山一郎書翰 吉田茂宛)  
翌年2月28日衆議院予算委員会での吉田首相の「バカヤロー」発言を契機に提出された内閣不信任案は、分党派自由党を結成した三木武吉、石橋ら反吉田派22名の賛成によって3月14日に可決され衆議院は解散された(分党声明書)。その後、分党派自由党には自由党広川(弘禅)派15名も合流、18日には鳩山を党首に迎え鳩山自由党とも呼ばれた。  
さて総選挙では、自由党が過半数を割ったのをはじめ、鳩山自由党、改進党とも保守勢力はいずれも敗退した。選挙後の特別国会での首班指名は、吉田と重光改進党総裁との決選投票となったが、両派社会党が重光支持に同調せず、吉田が指名され、第五次吉田内閣が成立した。掲出資料(テキスト表示のみ)は、吉田の私設秘書として終始その身辺にあった安斎正助が、吉田の選挙中の遊説日程について、メモしたものである。(昭和二十八年四月総選挙遊説日程)  
日本民主党の結成  
昭和29(1954)年、造船疑獄事件が発覚し、収賄容疑で与党自由党幹部に検察の捜査が及んだが、4月犬養健法相の指揮権発動により逮捕は中止され、刑事責任追及は困難となった。この渦中で与党は、緒方竹虎副総裁の構想として、自由党と改進党両党の合同による新党結成構想を発表したが、改進党はこれに応ぜず反吉田新党結成に向けて動きだした。  
一方自由党内の反吉田派勢力である岸信介、石橋湛山と改進党の芦田均等は、反吉田新党結成に動き、新党結成準備会を結成。11月自由党が岸、石橋を除名したのに伴い、自由党内反吉田派は脱党、彼らと、改進党、日本自由党が合流して11月24日日本民主党が結成された。総裁に鳩山、副総裁に重光が就任した。  
吉田退陣  
鳩山派の安藤正純は第五次吉田内閣に入閣していたが、日本民主党結成に参加するため11月24日に閣僚を辞任した。このメモは、閣議で読み上げるために準備したものと思われるが、この日閣議は開かれず、吉田との面会も拒否された。12月6日日本民主党は両派社会党とともに内閣不信任決議案を提出し、吉田は解散を断念して、翌日総辞職した。その結果、10日に鳩山の日本民主党単独内閣が成立した。  
55年体制の成立

 

昭和30(1955)年2月の総選挙で鳩山内閣与党の日本民主党は、過半数を獲得することができなかった。一方、講和問題をめぐり左右に分裂していた社会党の再統一の動きが強まったこともあり、保守合同への気運は高まって、同年10月に社会党が統一したのに続き、11月には日本民主党と自由党が合併し、自由民主党が結成され、二大政党対立の図式(いわゆる55年体制)が成立した。  
社会党の統一  
講和条約と日米安保条約の両問題をめぐって、日本社会党は昭和26(1951)年左右に分裂したが、昭和29(1954)年4月、両派は連携に関する共同声明を発表し、翌年1月に両社会党統一交渉が始まり、10月13日の第12回日本社会党大会で再び合同した。掲出の宣誓書は、大会で読み上げられたもので、筆は当時左派社会党総務部長であった荘原達による。  
保守合同  
鳩山首相は昭和30(1955)年1月24日衆議院を解散した。総選挙の結果、民主党は大幅に躍進し第一党になったが、過半数には程遠く、また左派社会党勢力の伸長と社会党左・右両派合同の動きを受け、経済界などからも保守合同を期待する声が高まり、4月には民主党の三木武吉が保守合同積極論を表明した。芦田均は日記に、三木が保守合同に障害となるものとして、「鳩山の態度決心、自由党吉田派、民主党内の革新派」の三つを挙げたことを記している。結局保守合同は、11月15日の自由民主党結成大会で実現した。大会では、4人の総裁代行委員を選出し、翌年4月に鳩山一郎を総裁に選出した。自由民主党結成当日、吉田茂は、新党には当面参加しない旨を腹心の林譲治と池田勇人に宛て書き送った。(昭和31年2月1日自民党に入党)  
日ソ交渉と鳩山内閣  
鳩山内閣の重要課題である日ソ国交回復は、昭和31(1956)年7月に重光葵外相がモスクワで交渉を再開したが、領土問題に関するソ連側提案をめぐり中断。また党内の旧吉田派は早期妥結に反対し、鳩山訪ソにも反対の態度の声をあげていた。10月7日鳩山ら全権代表団はモスクワへ出発、19日日ソ共同宣言が調印され国交が回復された。掲出のメモは、当時、自民党参議院議員会長の野村吉三郎が、鳩山邸における政府与党首脳の鳩山訪ソをめぐる協議の模様を記したものである。一方、吉田茂の林宛書翰では、吉田派の脱党を期してまで鳩山訪ソを阻止しようとする吉田の強い意思が表われている。  
石橋内閣  
昭和31(1956)年12月14日、鳩山の後継総裁を決める自民党総裁選挙で決選投票の末、岸信介を破り首相に就任した石橋湛山は、翌年1月、福祉国家の建設、世界平和の確立など「わが五つの誓い」を発表した。掲出資料は全国遊説のための自筆原稿で、自主独立の平和外交、国民生活の安定と向上などとともに、民主主義の根本は個性の尊重であるという石橋の自由主義的政治信念が表明されている。 
安保闘争前後

 

岸信介内閣下の昭和35(1960)年、日米安全保障条約の改定をめぐって、与野党が激しく対立し国会は混乱した。院外でも国民を巻き込んだ空前の反対運動が起こったが、6月19日に条約は自然成立した。翌月、岸内閣は退陣、池田勇人内閣が成立した。池田首相は「寛容と忍耐」を唱え、経済重視政策への転換が打ちだされ、高度経済成長を力強く促進した。  
岸内閣と警職法  
昭和32(1957)年2月、石橋内閣は石橋の病により、成立後わずか2カ月で総辞職し、岸信介が内閣を組織した。翌年9月、第二次岸内閣のもとで開かれた臨時国会では、警察官等職務執行法(警職法)改正案をめぐり与野党の対立が激化し、会期内成立が困難とみた自民党は会期延長を強行する。これに対し社会党は、会期延長を無効であると宣言するよう鈴木隆夫衆議院事務総長に求める一方、登院拒否を続けた。自民党内にも警職法廃案の声が上がり、自社両党首の会談により審議未了となった。  
日中関係  
首相就任後間もなく病に倒れた石橋湛山は、以後療養を続けながらも、対共産圏外交の推進に積極的に取り組んでいた。昭和34(1959)年9月石橋は訪中して周恩来首相と会談、共同声明を発表し、日中の正常な関係を回復すべきこと等を主張した。また石橋は持論の「日中米ソ平和同盟」構想を提唱し昭和39(1964)年にはソ連も訪問した。  
民主社会党の結成  
昭和34年10月、日米安保条約改定等をめぐる社会党内の対立から、西尾末広ら右派が離党した。翌年1月24日、民主社会党(のちの民社党)が結成され、西尾が委員長に就任した。綱領は民主社会主義の立場に立つ学者グループが起草に関わり、国民政党を基調とし、漸進的な社会主義が目指されている。  
60年安保  
岸内閣は、昭和26(1951)年に締結された日米安全保障条約の不平等性を解消し、日本の自主性を強化するとして、昭和35(1960)年1月19日新安保条約に調印した。野党はこれに強く反対し、社会党の石橋政嗣衆議院議員は日米安保特別委員会で論戦を展開し政府を追及した。審議に備えて用意したノートと質疑原稿は、過去の政府答弁の詳細な事前調査など、緻密な議論の積み上げをうかがわせる。  
審議をめぐり混乱が続く国会では、衆議院で5月19日、与党が警官隊を導入して50日間の会期延長を可決し、翌20日未明の本会議で新安保条約を承認した。議会の権威を守るためあくまで警官隊導入に反対した衆議院事務総長鈴木隆夫は、所感日記に与野党との緊迫した折衝の模様を記し、事務総長としての苦悩と慨嘆を書き残した。  
一方、条約の批准に合わせて、アイゼンハワー米国大統領の訪日が予定されていた。掲出のアイゼンハワー書翰は、岸首相が関係者のサインを刻んだ記念の葉巻入れを贈呈したことへの礼状である。6月16日、死者を出した国会デモの翌日、政府はアイゼンハワーの訪日延期を要請し、結局訪日は実現しなかった。  
この年3月、社会党委員長に就任した浅沼稲次郎は安保条約改定阻止のため、院内外の闘争の先頭に立った。5月20日未明の強行採決を受けて、審議が空転する中で、社会党は代議士会で議員総辞職の方針を決定し、岸内閣退陣、国会解散を要求した。  
条約が批准された6月23日岸首相は退陣を表明し、7月19日第一次池田内閣が成立した。10月12日日比谷公会堂での3党首立会演説会で、浅沼委員長は右翼の少年に刺殺された。掲出資料は浅沼が亡くなる5日前に来る総選挙を見据えた社会党の政策を述べたものである。  
池田内閣の所得倍増論  
「寛容と忍耐」を掲げる池田勇人内閣は、所得倍増論を打ち出すことで、政策目標を政治から経済に転換していった。昭和36(1961)年7月、内閣を改造し、その所信表明演説では、経済成長政策の堅持、物価上昇の抑制、国際収支の均衡を掲げた。演説草稿には、池田のブレーンで異色のエコノミストであった高橋亀吉による推敲が随所に見られる。  
 
戦後政治と吉田茂 保守構想の継承

 

吉田茂元首相死去のニュースはトップ記事の扱いで報ぜられた。もりだくさんな追悼の企画は全体として「戦後最大の政治家」の死をいたむというムードをつくりあげた。政府はすぐさま戦後最初の「国葬」で、かれの死をとむらう意向を発表した。翌日の『朝日新聞』夕刊は教室で黙とうする大磯中学校の生徒たちの写真をのせている。  
たしかに、戦後の政治史をみる場合、吉田茂は欠かせない重要な地位を占めている。しかし、吉田茂が政界の表面から姿を消していった首相退陣当時の状況を想起してみると、あのときいったいだれが「国葬」をもって遇されるという今日の有様を想像できたであろうか。最後の吉田内閣が倒れてからすでに13年近い年月がたっている。しかし、かつては悪評サクサクの感があった吉田に対する評価が、いつの間にか今日の高さにまでのぼってしまったのは、年月の流れとか、あるいは座談の名人といわれる吉田個人への親近感とか、あるいはまた、かつての吉田側近、いわゆる「吉田学校の優等生」である池田勇人や佐藤栄作が首相の座についたとかいうことだけによるものではない。根本的なことは、吉田時代につくられた政治構想が、現在の政治のなかでもなお大きな地位を占めつづけていることであろう。 
占領のつくり出したワンマン

 

吉田茂がはじめて、首相の座についたのは、1946年5月、組閣を目の前にして追放となった鳩山一郎の要請によるものであり、そのときの「いやいやながら」という吉田の姿からは、その後合計7年2ヶ月という長期にわたって政権を維持し、最後まで首相の椅子を放そうとしなかった後年の吉田を想像することは不可能だったにちがいない。外交官出身で政党に身をおいたことのないかれが、政党総裁としてワンマンと呼ばれるような地位を固め、長期政権をつくりあげることができたのは、「占領」という特殊な状況を除いては考えられないことであった。  
このため吉田はまずマッカーサーとの間に直接の親密な関係をつくることに努め、このマッカーサーとの関係が、かれの長期政権を支える一つの条件となっていたのは確かであろう。ここでは、吉田が外交官時代に養った外交感覚や社交術に関するエピソードが語られるのが普通であるが、私はむしろ、かれが頑固な反共主義者であり、一貫して治安の確立と資本主義経済の復興を中心的な政策と考えていたこと、そしてその点でマッカーサーを共通していたことに目を向けておきたい。  
吉田が最初の組閣にあたっていた46年5月は、食糧危機が最も深刻な状態を示しており、5月19日にはいわゆる食糧メーデーのデモが首相官邸に押しよせている。敗戦後の大衆運動はここで最初の高揚の頂点に達したのであるが、マッカーサーはすかさず「暴民のデモを許さず」と声明するとともに、翌6月から食糧の大量放出を実施して大衆運動の抑圧につとめた。吉田内閣はその最初の仕事を、このマッカーサー声明に対応して、生産管理闘争を否定する社会秩序声明を出すことから始めている。ついで、この年の末までの半年の間に、新憲法の議会審議が進められるわけであるが、同時にGHQはこの内閣に経済安定本部の発足、復興金融金庫法の成立、傾斜生産方式の決定など、資本主義再建の基本的な道具立てをやらせていた。  
しかし、この時期にはマッカーサーにとって吉田の利用価値はまだここまでであった。翌47年初め二・一ゼネストを禁止したマッカーサーは、その直後、吉田に総選挙の実施を命じた。占領政策はすでに資本主義再建の方向に向かっていたとはいえ、まだ民主化政策のほうが基本であった。マッカーサーは労働者の協力を得られる指導者を望んだ。政権は片山内閣に移る。  
しかし、中国革命の進展に対抗して、アメリカの政策が日本を反共の防壁とする方向に転ずるに従って、マッカーサーにとって吉田はぜひとも必要な人物となってくる。一方、吉田のほうは高級官僚の入党をはかって、次の機会に備えていた。それは吉田の好みでもあったろうが、日本の官僚機構を通じて占領政策を実施するという間接統治の方式にマッチしてもいた。48年10月、昭電疑獄で倒れた芦田内閣のあとをうけて、吉田は少数党内閣を組織、翌年2月の総選挙で絶対多数を獲得し、マッカーサーの期待に応えた。この選挙で佐藤栄作、池田勇人、岡崎勝男ら官僚出身の新人候補が当選してくるのであり、吉田とマッカーサーの結びつきと、官僚出身者とGHQ当局との折衝との組合せが、吉田ワンマン体制をつくりあげ維持することになる。  
この絶対多数を基礎とする第三次吉田内閣は、経済9原則の実施から講和発効半年後の52年10月までつづくのであり、この時期が吉田の政治生活の最盛期であった。しかし、9原則の段階では、吉田はまだマッカーサーのよき助力者にすぎないのであるが、講和が具体化するに従って、かれ独自の構想を打出す余地が生れてくる。 
「経済自立」と「国民道義の高揚」

 

50年6月に朝鮮戦争が始まったことは、アメリカにとって対日講和実現の好機とみられた。朝鮮戦争は、実質的に共産圏を講和から除外し、日本に軍事基地を維持し、さらに日本を反共国家の一員として再軍備させるための絶好の口実とされた。一時は釜山周辺に追いつめられた米軍が、仁川上陸によって優位を回復するのと並行して、アメリカの対日講和への動きが公式に開始された。この間、マッカーサーの指令による警察予備隊も発足した。  
吉田はいち早くこのアメリカの講和構想に賛成し、全面講和論は現実性がないと主張する。かれは世界政治はいわゆる自由陣営と共同陣営に分裂しており、その中間的な立場はないとし、軍事的真空は共産勢力の侵略を招くというダレスの真空論を信奉した。この頑固な反共主義者にとって、アメリカとの結合は日本の将来の自明のコースであった。ではかれにとって、講和後の日本の独立とはどのようなものとなるのか。  
講和特使としてダレスが来日した翌日、51年1月26日、第10国会の施政方針演説で吉田は次のように述べている。「講和条約の問題は、自然わが国の安全保障に想到し……わが再軍備論は、すでに不必要な疑惑を内外に招いており、また事実上強大なる軍備は、敗戦後のわが国力の耐え得ざるところであることは明白であります。……講和条約後わが国が真の独立国家として立上がるためには、経済の自立を図るはもちろんでありますが、強く国民道義を高揚し、国民の自立精神を振起することが根本であります」  
つまり、かれは独立の中身を「経済自立」と「国民道義の高揚」とに求めたのであった。この「経済自立」とは世界市場への再登場を、「国民道義の高揚」とは、それに見合う国家意識・反共的秩序の確立をめざすものであることはいうまでもあるまい。ここから、かれはアメリカの望む軍事基地を提供して軍事的真空を埋め、アメリカの要求する再軍備はできうるかぎりおくらせて、経済自立に全力をあげようという構想を生み出した。  
そしてこの構想の実行のためには、占領軍の指導の下につくられた新憲法が絶好の道具となった。彼は新憲法を楯として、アメリカの要求する再軍備に対しては経済自立政策と矛盾しないと考える範囲でだけ受けいれ(「自衛力の漸増」)、再軍備に反対する国民に対しては、新憲法に強引な解釈を加えてその反対をそらそうとした。「再軍備はいたしません」から「戦力なき軍隊」にいたるかれの答弁は、このような構想の実行にほかならなかった。それはできうるかぎり、憲法の条文を変えることなく、現実を憲法から遠ざけてゆこうとするやり方であった。  
彼は一方でダレスとの間に日米安保条約をねりあげるかたわら、「経済自立」と「国民道義の高揚」の具体化にも着手した。マッカーサー罷免のあとをうけたリッジウェイが、着任早々の51年5月1日、占領法規の再検討を許可すると声明するや、吉田は早速私的諮問機関としていわゆる政令諮問委員会をつくり、この作業を開始する。石坂泰三、板倉卓造、小汀利得、木村篤太郎、中山伊知郎、原安三郎、田中二郎といったメンバーで構成されたこの委員会は、追放解除問題を手はじめに、独禁法緩和、ゼネスト禁止、行政機構改革と人員整理、教育委員会の任命制、国による標準教科書の作成、警察制度の改正など多方面にわたる答申を出していった。その間道徳教育を唱えていた天野貞祐文相は、51年11月に「国民道徳実践要領」を発表するにいたっている。  
ここにはすでに、その後の政治の争点となる問題が出そろっているといっていい。それは大まかにいえば三つの問題に整理することができる。第一は資本蓄積・経済の近代化による国際競争力の強化であり、第二には中央集権化と治安の観点からする大衆運動・労働運動の抑制であり、第三は愛国心の高揚であろう。これに自衛力漸増を加えたものが、吉田の独立構想の具体的な姿であった。  
講和・安保両条約が52年4月に発効すると、吉田はこれらの構想の強引な実現をはかりはじめる。以後吉田内閣が倒れるまでに、次のような重要法律が成立した。企業合理化法、独占禁止法改正、破壊活動防止法、スト規制法、警察法改正、政治的中立をめぐる教育二法、MSA協定、自衛隊法。そしてその上に紀元節復活運動が重なってくる。  
しかし、占領軍という背景なしにこうした諸政策を強行しようとすれば、さまざまな反発がおこってくるのは当然であった。一つはいうまでもなく、破防法反対闘争に典型的にみられたような、労働者を中心とする大衆運動と、それを基礎とする革新政党の反対であり、もう一つは、追放解除によって政界に復帰した政治家たちからの攻撃であった。吉田は直接にはこの後者の勢力によって政界から追いおとされてゆく。その中心は政権を返せと呼ぶ鳩山一郎一派であった。そしてかれらはたんに吉田打倒を叫ぶだけでなく、吉田構造の結び目であり、かなめになっている憲法問題に攻撃を加えていった。  
すでに陸海空三軍を備えた自衛隊の存在と憲法の理念との間の矛盾は明らかであったし、またかれらが発する愛国心高揚の叫びは、憲法をこえて天皇制にもどろうとしていた。「憲法改正」は反吉田派の共通のスローガンとなっていた。吉田はこの攻撃に権謀術数をつくして対抗したが、退勢はおおうべくもなかった。「占領」という特殊な条件を失った吉田派自力で大政党を維持してゆくだけの力を持たなかった。 
失脚と「国葬」とのあいだ

 

最後の吉田内閣が総辞職したのは、54年12月7日、すでに反吉田派は脱党して改進党とともに日本民主党を結成し、左右両派の社会党とともに内閣不信任案をつきつけていた。吉田は少数党に転落した自由党をひきいて国会を解散し、最後の一戦を試みようと決意した。しかし党内の大勢はこの勝ち味のない一戦に反対していた。副総理緒方竹虎をはじめとする塔長老クラスの反対にあって、吉田もあきらめざるをえなかった。そして次に鳩山ブームと呼ばれる局面があらわれたことは、このときいかに人心が吉田から離れていたかを示している。  
しかし吉田退陣の実現は、たんに鳩山あるいは反吉田派の勝利というだけに止まるものではなかった。反吉田勢力による憲法改正の主張は、次第に保守合同による憲法改正の実現をめざすという方向に転換しつつあった。そして財界主流はこの方向を保守勢力全体に広げようと努めていた。吉田・鳩山の激しい争いの間をぬって、社会党の勢力が伸びつつある情勢を憂慮した財界は、保守合同・憲法改正によって、強力な保守安定政権が出現し、世界市場への進出をより強力にバックアップすることを望んだ。ひたすら権力に執着し、権謀術数のかぎりをつくす吉田は、その実現にとって障害でしかなくなっていた。  
当時、商工会議所会頭であった藤田愛一郎は次のように語っている。「結局、経済界にいる者の一人としては、やはり保守安定政権を望んでいる。そして占領中のいろいろな制度に対して根本的な改革をしてもらう、そういう態勢を一日も早く確立してほしいと思っている。したがって吉田内閣に退陣してもらうことも、そういうことが円満にいく過程においては必要なことであった」(54年12月10日付『日本経済新聞』)  
吉田退陣後一年足らずで保守合同が実現した。55年11月、史上初の単一保守党としてこの党を基礎とした鳩山内閣は、一方で吉田時代から予定されていた教育委員会を公選制から任命制に切りかえる地方行政組織法や教科書法案などとともに、他方で憲法改正を目的とする小選挙区法案、憲法調査会法案を提出し、吉田政治を乗りこえる意気ごみを示した。  
この試みが成功し、憲法改正の方向が急テンポで進んでいったとすれば、今日の吉田茂に対するイメージは、はるかに異なったものとなっていたにちがいない。しかし保守合同の威力をもってしても、憲法改正が容易でなかったことは、われわれの記憶に新しい。従ってこの単一保守党も次善の策として、吉田構想を徹底化してゆくほかはなかった。つまり実質的改憲の道である。以後のおおかたの政策は吉田構想の延長上に整理することができ、そこから吉田時代の残像をわれわれにはね返してくる。再軍備の進行と憲法との関係についての政党答弁が、いつもその原形であった「戦力なき軍隊」の規定を思い出させるのと同様に。  
一つだけ異質にみえる日ソ国交回復も、それによって国連加盟を実現し、世界市場への進出をより容易にするという以上の積極さを持つことができなかった。全体として吉田政治の延長上を進む政治状況の中では、それ以上の進展は不可能だったというべきであろう。むしろ逆に、新安保体制、日韓条約によってアジアの反共体制とより緊密に結びついていった。さらに、高度経済成長にもとづくマス化現象と、拡大したマスコミを利用する権力の意識操縦の強化とは、現状肯定の意識を生み出し、吉田茂への親近的なイメージを広げてきた。そして吉田「国葬」は吉田に対するこのイメージを尊敬の方向に強めることによって、現状肯定の意識を進めるというイデオロギー的役割を果たすにちがいない。そして保守勢力はこうしたイデオロギー的効果をつみ重ねながら、吉田茂の遺産をかれらの方向にとびこえる機会を待ちつつあるにちがいない。  
 
鳩山一郎

 

(1883-1959)  
鳩山家の華麗なる血脈  
鳩山一郎(1883-1959)は、自由党と民主党の保守合同を成し遂げて自由民主党を結党し、自民党の初代総裁となった政治家ですが、鳩山という姓が示すように、戦前から戦後にかけての政党政治家を代表する鳩山一郎は、現在(2006年末)の民主党幹事長である鳩山由紀夫(1947-)と自民党衆議院議員の鳩山邦夫(1948-)の祖父に当たる人物です。鳩山一郎の父に当たる鳩山和夫(1856-1911)も衆議院議長を務めた人物であり、鳩山一郎の長男で鳩山由紀夫の父となる鳩山威一郎(1918-1993)も福田赳夫政権で外務大臣を務めていますから、鳩山家は4世代に亙って有力な政治家を輩出している家系になります。  
また、鳩山和夫・一郎・威一郎・由紀夫・邦夫の全員が、東京大学(東京帝国大学)を卒業しており、海外の一流大学への留学経験がある人も少なくないという意味で、4世代に及ぶ卓越した学歴エリートの家系ということが出来ます。政治家の道を選んでいない為に知名度はあまり高くないのですが、鳩山一郎の弟で東大教授の道へと進んだ鳩山秀夫は、身体に虚弱な部分があったが、一郎を足元にも寄せ付けない学問上の俊英であり、一高と東大ドイツ法学科在学時の6年間にわたってずっとトップの地位を維持していたといいます。弟・秀夫が余りにもずば抜けて成績優秀なため、兄の一郎は『賢弟愚兄』と揶揄されることも度々であったといいます。  
名門・鳩山家がコンスタントに最高学歴のエリートを生み出し続けている秘訣について、鳩山一郎は自著『鳩山一郎回顧録』の中で、『教育熱心だった母親・春子がいる家庭こそが最上等の学校であった』と述懐していますが、一郎の母親である春子も夫の和夫に負けず劣らずの経歴を持っている明治の賢女でした。東京女子師範学校の英語教師を勤めた鳩山春子は、当時の女性としては一級の学歴と教養を持っており、後に共立女子職業学校(現・共立女子大学)の創立に関与して、第六代の校長に就任しました。夫の和夫も、アメリカのエール大学とコロンビア大学で法学を修めています。現在の鳩山家の当主である鳩山由紀夫も、東大工学部卒業後にスタンフォード大学の大学院を終了しており、元々政治家の道を志す以前には、東工大や専修大で教鞭を取っていました。 
党人政治家の軌跡  
鳩山一郎の政治家としてのキャリアは、東京市議会議員から始まり、大正4年(1915)に立憲政友会から立候補して衆議院議員に初当選します。鳩山一郎の側近には、絶えず盟友として鳩山一郎の政治活動を支持してくれた大野伴睦(おおのともちか・ばんぼく)と三木武吉(みきぶきち)がいますが、憲政会の三木武吉と知り合ったのは東京市議会時代で、初めは近しい政治信条を持つ好敵手でした。鳩山一郎・大野伴睦・三木武吉は、戦前と戦後を代表する党人政治家であり、それまで主流であった官僚政治家と対照的な存在でした。  
普通選挙を踏まえた議会政治が進展しようとする大正デモクラシーの時流の中で、大正7年(1918)に政友会の原敬(1856-1921)(爵位を持たない衆議院議員)が内閣を組閣して『平民宰相』として歓迎されました。しかし、平民宰相という呼称を持つ原敬は、必ずしも民衆寄りの政策を提案したわけではなく、どちらかというと政権近くにいる財閥や政商などに有利な政策を立案施行し、貴族院の反感を買わないように適切な根回しと配慮をしていました。  
また、平民宰相・原敬というと、普通選挙の実施に熱心な首相であるイメージがありますが、実際には、納税額に関わらず全ての成人男子が参政権を持つという(憲政会や立憲国民党が進めようとした)『男子普通選挙制度』の制定には反対していました。鳩山一郎も、共産主義勢力を支援するプロレタリアートの伸張を懸念して、財産や納税額に関わらず全ての国民が参政権を持つという『普通選挙法』の施行に反対していたので、その点では原敬と共通する部分があります。しかし、鳩山一郎は男子普通選挙に反対する一方で、条件付きの婦人参政権を認めるべきだという考えを持っていたので、男女差別などの意図はなく『政治に参加する権限を持つには、一定の資格や教養が必要だ』と考えていたと言えるでしょう。  
日本で財産(納税額)による制限選挙が廃止されて、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられるのは大正14年(1925)の加藤高明内閣の時ですが、全ての成人男女に選挙権が与えられるのは太平洋戦争の終結後のことであり、鳩山一郎は、政治領域における男女平等感覚に関しては先進的なものを持っていたのかもしれません。鳩山一郎は、清浦奎吾内閣の時に立憲政友会を離れて政友本党に移籍しましたが、その後も、政友会の離党と復党を繰り返しながら昭和2年(1927)に発足した田中義一内閣で内閣書記官長の役職を得ます。  
田中義一内閣(昭和2年(1927年)4月20日-昭和4年(1929年)7月2日)は、対中国の外交政策で幣原喜重郎の国際協調外交を転換して、山東半島に陸軍を派遣し、満州(満蒙地帯)を特殊権益地帯とする政策を提示して強硬外交を行いました。田中義一内閣では、国体護持(無政府主義規制)と共産主義や自由主義などの思想統制を目的とする治安維持法(1925年施行)に、罰則としての死刑が導入されました。田中義一内閣では、満蒙を特殊権益地帯とする強硬外交路線が取られ、思想・言論・結社の自由を抑圧する治安維持法が強化されたという意味で、(張作霖爆殺事件から派生した)満州事変や太平洋戦争へと傾斜していく国家総動員体制の基盤が作られたと言えます。  
田中義一内閣で首相を書記官として補佐した鳩山一郎も、日本の右傾化の歴史と深い関わりを持っていて、1920年代当時の鳩山一郎は、対中国の強硬路線にはある程度の同意を示していたといえます。しかし、満州事変以降に政党政治家としてのアイデンティティを確立してきた鳩山一郎は、軍閥官僚(軍人政治)の専横や議会を無視した大政翼賛会への批判を強めていきます。昭和18年(1943年)には、翼賛政治会代表者会議の席上で、議会政治を蔑ろにする翼賛体制へ批判的な演説を行って、軽井沢の別荘で一時的な隠遁生活に入りました。  
田中義一の内閣が倒れた後には、立憲民政党の浜口雄幸(在任:1929年7月2日-1931年4月14日)が第27代内閣総理大臣として立ちますが、彼は鼻が大きな容貌からの比喩で『ライオン宰相』と呼ばれました。怜悧かつ実直な現実主義を政治信条とした浜口雄幸は、日本が幾ら軍事拡張をしても当時の軍事的スーパーパワーであったアメリカやイギリスに対抗することは難しいと考え、明治時代以来の常識となっていた軍事拡張路線を転換して軍事縮小(軍縮)を推し進め平和協調外交を行おうとしました。  
1922年のワシントン海軍軍縮会議に続く1930年のロンドン海軍軍縮会議(1936年に脱退)で、浜口雄幸がアメリカとの妥協案を批准しようとして、天皇に裁可を求めたことが『統帥権干犯』とされ政友会の犬養毅や鳩山一郎から厳しく非難されました。更に、鳩山一郎は、浜口内閣で外相を務めた幣原喜重郎の『英米協調外交』にも否定的でした。また、犬養毅内閣と斉藤実内閣の下で文部大臣の重職に就いた鳩山一郎は、京都帝国大学の滝川幸辰教授を共産主義者であるとして罷免する『滝川事件(昭和8年, 1933)』を起こしています。これらの事から分かるように、鳩山一郎は軍閥官僚の専横や太平洋戦争の開戦は非難しても、軍縮路線を支持する平和主義の考えまでは持っていませんでした。  
但し、政党政治の議会の決定が軍閥官僚の暴走を抑えられなかった一因が、上記したようなタカ派(強硬路線)とハト派(協調路線)に分かれた党利党略を巡るいがみ合いにあったことも事実であり、その点に関しては当時の議会政治で重要な役割を果たしていた鳩山一郎にも責任があると言えるでしょう。英米協調路線を批判する鳩山一郎とそれを支持する幣原喜重郎の確執は、GHQの統治下にある戦後の議会政治にまで持ち越されていくことになります。  
鳩山一郎は、政治に民意を反映させる議会制民主主義(政党政治)を重視して、選挙の洗礼を受ける代議士こそが政治で中心的役割を果たすべきだという信奉的な考えを持っていましたが、戦後にも『天皇中心の国体』を前提とした『日本民族の自主独立』というナショナリズムの色合いの濃い思想を持ち越しました。 
戦後の政治活動の軌跡  
戦後、内閣総理大臣に就任することが確実だった自由党総裁・鳩山一郎は、GHQ(連合国総司令部)の公職追放令で政界からパージされました。鳩山一郎から後事を託された吉田茂は、GHQによる政治家・軍事官僚のパージによって、第一次内閣を成立させることが出来たと言えます。吉田茂に総裁の座を委譲した際に交わした約束として、鳩山一郎は『公職追放から鳩山一郎(私)が復帰したら、総裁の座を即座に返還する』という事柄を挙げていましたが、吉田茂はその約束の履行について承認することはありませんでした。  
GHQによる政界パージが解除される直前(昭和26年6月11日)に、鳩山一郎は脳溢血で倒れて半身不随と言語障害を発症しますが奇跡的に急速な回復を見せて、昭和27年には意気揚々として政界に復帰しました。吉田茂が、サンフランシスコ条約と日米安全保障条約を締結(1951年)して効力が発効したすぐ後、1952年9月12日には、鳩山一郎は東京の日比谷公会堂で演説をして、『日ソ国交回復』と『憲法改正による再軍備の必要性』を国民に訴えています。鳩山一郎は、政界の名門・鳩山家の出自を持っていて、一郎自身が貴族的な優雅な振る舞いと坊ちゃん育ちの人の良さ、民意を重視する党人政治家としてのスタンスを持っていたため、敗戦後の失意と貧困に喘ぐ国民から強い支持を受けていました。社会主義(共産主義)を標榜する革新派で最も人気を集めたのは、共産党の野坂参三でしたが、保守主義(民族主義)を標榜する保守派で最も民意を集めたのは、自由党の鳩山一郎でした。  
平和主義の新憲法が施行されて間もないこの時代には、憲法9条を改正する議論はまだまだタブーとはなっておらず、保守的な政治家は積極的に憲法改正の主張をしていました。日本国憲法や憲法9条の平和主義(戦争放棄)が不磨の大典として定着してくるのは、もう少し時間が経過してからのことであり、池田勇人内閣か佐藤栄作内閣くらいの時代、高度経済成長に入って経済大国となる目処がついてきてからのことだと思われます。岸信介内閣の時代には、安保改正反対の激しい市民デモが各地で多発していましたから、まだまだ日米軍事同盟を核とする安全保障路線は既定事実化していなかったことを伺わせます。  
政界に復帰してすぐに鳩山一郎は、『吉田茂内閣打倒』を掲げて政治活動を精力的に行うようになりますが、その具体的な政策内容は、『ソ連からの侵略の脅威を抑止する為の日ソ国交回復』『日ソ国交回復によるアメリカ一辺倒の追随外交からの脱却』『日本の国防を自力で賄える程度の再軍備とそれに必要な憲法改正』に集約することが出来ます。吉田茂は、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安保条約をアメリカと結びましたが、日米安保については永続的な対米従属外交や自主防衛の放棄につながるのではないかという批判が当時は根強くあったのです。  
鳩山一郎が脳溢血で倒れる(1951)前の昭和23年(1948)に、自由党と同志クラブが合同して民主自由党が結成され、昭和25年(1950)には、民主自由党に民主党の一部が加わって自由党(1950-1955)が結成されました。1950年に結成された自由党より前の自由党は、正式には日本自由党といいますが、自由党は『日本自由党(1945-1948)→民主自由党(1948-1950)→自由党(1950-1955)』という歴史過程を経て、1955年の保守合同によって自由党は党名としては消滅することになります。1954年には、吉田茂の米国追従路線に反対する保守政治家の鳩山一郎・三木武吉・河野一郎・岸信介らと改進党の一部議員が集まって『日本民主党』を結成しました。  
鳩山一郎・三木武吉・緒方竹虎らが中心となって構想したのが、日本の保守主義の政党を一本化しようとする『保守合同』であり、1955年11月15日に自由党と日本民主党が合同して自由民主党(自民党)が結成され、右派と左派が統一された日本社会党に対立する『保守合同』が成立しました。保守合同とは簡潔に言ってしまえば、『象徴天皇制・資本主義・自由主義』を弁証法的に否定しようとする共産主義・社会主義といった革新勢力の防波堤として、保守派の勢力が大同団結したものと言えます。1955年の自由民主党結党は、日本の政治の大きなターニングポイントとなり、自由民主党(保守勢力)と日本社会党(革新勢力)を二大政党とする政治体制を『55年体制』と呼びます。  
55年体制が崩壊して久しい現在(2006年)の日本の政治は、自民党と民主党という保守主義を標榜する二大政党制の時代に突入しようとしているといえます。太平洋戦争が終戦する以前の日本も、立憲政友会と立憲民政党という保守主義の二大政党制でした。保守派の大同団結によって成立した55年体制の意味は、自由民主党という保守主義の政党が、他の政党の政策に妥協して連立政権を組むことなく、単独過半数で政権を掌握する時代を招いたということにあります。  
吉田茂内閣は、1953年2月28日の衆議院で吉田茂首相が、右派社会党の西村栄一への答弁で『バカヤロー』と暴言を吐いたことがきっかけで、3月14日の衆議院解散(バカヤロー解散)に追い込まれます。4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われ、その結果、第5次吉田内閣は総辞職することになり、その後に樹立したのが第1次鳩山内閣(昭和29年12月10日-昭和30年3月19日)です。昭和30年(1955)2月に解散総選挙が行われますが、鳩山一郎率いる日本民主党は国民からの圧倒的支持を集めて『鳩山ブーム』を巻き起こしました。鳩山一郎は、戦争で失われた国土回復や憲法改正と自主憲法の確立による完全な独立の回復といったナショナリズムの政策を掲げて選挙に臨み、結果、圧勝することになりました。  
米ソ冷戦の状況下では、アメリカを首領とする西側諸国に付いた戦後の日本にいつソビエト連邦の侵略の手が伸びてくるか分からないという根強い不安があり、鳩山一郎は日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)を結べないまでも最低限、当時の戦争状態を終わらせて、日ソの国交回復を実現したいと考えていました。鳩山一郎が選挙戦で掲げた安全保障政策の中心は、『日ソ国交回復による共産圏への防衛』と『自主憲法制定による再軍備体制』でしたから、鳩山は、日ソ国交回復に後半の政治生命を費やすことになりました。鳩山一郎は、純粋な保守主義者であり、共産主義のイデオロギーには徹底的に批判的でしたが、それ故に共産主義圏の国家の持つ軍的脅威を最もよく理解していた政治家でした。  
保守合同がなった昭和30年(1955)に、元ソ連駐日代表部臨時主席のドムニツキーと会談を持った鳩山は、日ソの国交正常化を目指す交渉を本格的に開始し、昭和31年(1956)10月19日に『日ソ共同宣言』に調印することに成功しました。対米協調路線で海洋国家である日本の国益を増強させ、日米の国交正常化(サンフランシスコ講和条約)を実現したライバルの吉田茂に対して、鳩山一郎は、自由主義圏(西側)に所属する事となった日本の最大の軍事的脅威であるソ連と国交回復の共同宣言を調印するという難事業をやり遂げました。日ソ交渉は交渉前の予想よりも順調に進み、実行支配されていた北方領土(国後・択捉・歯舞・色丹)のうち、歯舞諸島と色丹島は平和条約締結後に返還されることが約束されましたが、国後と択捉の日本帰属を巡ってはソ連は明確な回答を返しませんでした。  
もう一つの鳩山の悲願であった憲法改正の事業は、選挙によって日本社会党の革新勢力が台頭した為に断念せざるを得ませんでしたが、鳩山の改憲の意志は、現在に至っても、再軍備による自主防衛や対米追随外交からの脱却という意志となって一部の保守派政治家に受け継がれています。  
 
犬養毅

 

(1855-1932) 言論の自由を貫徹した憲政の神様  
清貧を凌いで学問に打ち込み言論人となった  
1855年(安政2年)に犬養毅(いぬかい・つよし, 1855-1932)は、備中国(庭瀬藩)の川入にあった大庄屋で、父・源左衛門(げんざえもん)と母・嵯峨(さが)の間に生まれました。犬養家は備中国(岡山県岡山市吉備町)では由緒正しい旧家であり、犬養毅は16歳で倉敷にある藩校・明倫館に入学し、その後西洋の先進的で合理的な学問に興味を抱くようになります。特に、犬養毅はイギリスから伝来してくる英語で書かれたテキストを熱心に読み、国際法(万国公法)や議会政治、国家主権などを解説する政治思想や法律学を真剣に学びたいと考えました。欧米の先進的な政治制度や市民生活に魅了された犬養毅は、東京に上京して当時最新の洋学(西洋の学術)を学びたいという意志を持ちます。明治維新によって経済情勢が混乱していた時代だったこともあり、犬養家には毅を上京・留学させるだけの財力が最早なかったのですが、母方の叔父や姉の旦那の実家、友人などから経済的援助を受けて毅は上京することになります(1875年)。  
しかし、親族や知人の善意と援助を受けて何とか上京できた毅には、東京で生活をし学校に通うだけの経済的原資がなく、残金も残りわずかとなって大きな不安と焦りに襲われることになります。学費の送金を約束してくれていたはずの姉の旦那の実家も浪費放蕩の末に財政破綻状態に陥ってしまい、犬養毅は実質的に一文無しに近い貧窮に追い込まれつつありました。そんな悲惨な状態にあった犬養を助けて学問への道を開いてくれたのが、備中国の知人・山口正邦(やまぐち・まさくに)であり、山口正邦が紹介してくれた『郵便報知新聞』の主筆・藤田茂吉(藤田鳴鶴)でした。藤田茂吉は、東京で英語と洋学を学びたいという犬養毅の為に学校を探して、学費と寮費が安くて英語が勉強できる本郷湯島の共慣義塾を紹介しました。共慣義塾の寮に入って極貧の中で英語を懸命に勉強しましたが、蜘蛛の巣や虫・やもりの多い学生寮に辟易してそこで食事として出されていた泥臭い「どじょう鍋」を後年まで嫌っていたそうです。  
犬養毅の貧乏生活は更に深刻なものとなり、犬養毅は学費が払えないということでいったん共慣義塾を退学して、藤田茂吉の口利きによって『郵便報知新聞』の原稿書きの仕事を貰えるようになります。とりあえずの経済的な収入源を確保した犬養毅は、今度は福沢諭吉が開いていた慶應義塾に入学して英語を本格的に学びました。『郵便報知新聞』の原稿料は決して高いものではありませんでしたが、犬養は学生寮で寝る間を惜しんで英語の習得に刻苦勉励し、学費と寮費を稼ぐ為に新聞の原稿を書き続けたといいます。犬養毅は1877年(明治10年)に、西郷隆盛が決起した西南戦争の従軍記者を務めており、この時に書き上げたリアリズムの筆致が鋭い従軍記事が高く評価されました。しかし、西南戦争への従軍・取材と引き換えに慶應義塾の学費を支援すると約束していた郵便報知新聞が、その約束を破ったため、犬養毅は憤慨して郵便報知新聞の原稿執筆の仕事を辞めてしまいました。  
犬養毅は、福沢諭吉(1835-1901)という明治時代の教育界・言論界の知的巨人を学問の師とする幸運に恵まれましたが、結局、慶應義塾を中退して財閥・三菱の経済支援を受けて『東海経済新報社』という新聞社を立ち上げることになります。犬養毅は、国政を民主的な議論と議会の決議によって動かそうとした政党政治家として歴史にその名を刻んでいますが、彼の社会人としてのスタートは、社会問題や国際情勢、政治情勢のファクト(事実)を国民一人一人に言葉で伝えようとするジャーナリスト(言論人)でした。福沢諭吉の慶應義塾は、経済・法律・語学・会計・医学などの実学を学んで社会の利益増進に貢献することを目的としていたので、日本国を主導する有能な政治家を養成するために大隈重信が創立した東京専門学校(早稲田大学)と比較すると、慶應義塾には政治的な熱狂や意志が余り見られませんでした。東海経済新報社を設立した犬養毅も、初めの頃は藩閥政府を批判するような政治問題を余り取り扱わず、経済政策や貿易事情などの評論記事を多く執筆していました。政治に積極的に参加しようという意志がなかった言論人・犬養毅の人生を劇的に変えたのが、議会政治と立憲主義の必要性を主張する参議・大隈重信(1838-1922)との出会いでした。 
政党政治家への転身と大正デモクラシー  
薩長出身の有力者が政権を独裁する藩閥政治に反対する動きが日本各地で起こり、明治政府に対抗心を燃やす不平士族たちは次々と内乱(佐賀の乱・西南戦争など)を起こして、強力な近代兵器と有効な兵站(ロジスティクス, 食糧や兵器の供給路)を準備した官軍の前に砕け散っていきました。明治政府において参議や陸軍大将という重要な官職を担っていた明治の元勲・西郷隆盛や江藤新平、前原一誠、板垣退助が次々と朝廷から任命された官職を捨てて郷里へと下野していきましたが、肥前(佐賀)出身の大隈重信だけは藩閥政治への不満や問題を感じながらも政権中枢に残り続けました。外交政策や経済財政政策の立案に抜群の才覚を持っていた大隈重信は、戊辰戦争に余り功績のなかった肥前国(佐賀藩)の出身でありながら政府の重要なポストを占めていました。  
しかし、立憲主義者でもある大隈重信が抱いていた基本的な政治思想は、元老独裁の藩閥政治を批判するものであり、早期の国会開設(議会政治)や政党単位の政策論争による民主的な政党政治を求めるものでした。明治維新で大きな貢献をした薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)の出身者は、独裁的な藩閥政治を出来るだけ長く維持したいと考えていましたから、次第に立憲主義や議会政治に基づく民主主義政治を主張する大隈重信が目障りな存在になってきます。『東海経済新報』の新聞記事や社説を書いていた主幹・犬養毅の言論人としての能力と熱意を認めた大隈重信は、犬養に国会開設が成立した時に国会答弁を行う政府委員になってくれないかと要請します。新聞社の主幹を務める言論人への強いこだわりを持っていた犬養ですが、大隈の情熱的なアプローチと魅力的な人柄が効を奏して、犬養は新聞社主幹を務めながら政府委員になることを約束しました。  
その後間もなく、薩長閥の政治腐敗(汚職事件)を隠蔽する為の明治十四年の政変(1881)が起こり、伊藤博文や西郷従道など政府の元老によって大隈重信は明治政府から追放されることになります。薩長閥の独裁や腐敗への世論の批判が強まる中、下野した大隈重信への関心と国会開設への支持が強まっていき、薩長閥は遂に1890年(明治23年)に国会を開設すると発表することになりました。国会開設を求める板垣退助らの自由民権運動が漸く(ようやく)実を結んだわけです。1881年には板垣退助の自由党が結成され、1882年には大隈重信の立憲改進党が結成されることで日本の政党政治の黎明が訪れましたが、大隈の立憲主義と議会政治の理想に兼ねてから共鳴していた犬養毅は立憲改進党に加わります。  
犬養毅(犬養木堂)は尾崎行雄(尾崎咢堂, 1858-1954)と並んで『憲政の神様』と呼ばれることがありますが、『大隈重信門下の三傑』といえば犬養毅・尾崎行雄・島田三郎のことを指します。日本初の政党内閣となった隈板内閣(1898)において尾崎行雄は文部大臣に任命されますが、『君主制を批判する意味合いを持つ共和制発言』をして失脚します。辞職した尾崎行雄の文部大臣のポストを、犬養毅が継ぎました。『憲政』とは端的には、強大な国家権力を憲法で束縛する立憲主義に基づく政治という意味であり、独裁的な藩閥政治を否定して国民主権の議会政治を行うことも含まれます。また、犬養毅(犬養木堂)は明治〜大正期の最高の書道の達人(筆聖)としても有名であり、明治時代の政治家で書道の大家として知られる副島種臣や後藤象二郎よりも圧倒的に優れた優美かつ精細な書を書いていたとされます。  
立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅は憲政擁護会を結成して、議会主導の民主政治を主張する大正デモクラシーの護憲運動を牽引したために「憲政の神様」と呼ばれているわけです。藩閥の桂太郎内閣に、犬養と尾崎が不信任案を突きつけた1913年の第一次憲政擁護運動を皮切りにして、国会における政党政治を肯定する民主主義思想が拡大する大正デモクラシーの運動が起こりました。その後、普通選挙の実施と政党内閣制の一般化を求める第二次憲政擁護運動(1924)が起こり、貴族院議員のみで組閣された超然内閣(議会・選挙・政党と無関係に組閣する内閣)である清浦奎吾内閣を打倒しようとする政治運動へと発展したが、第一次と比べると第二次の護憲運動は小規模なものに止まりました。  
立憲主義者であり平和主義者でもあった犬養毅(犬養木堂)は、1882年、結党間もない立憲改進党の演説会で、「政略上の対立的な外交(圧力外交)」を辞めて「経済上の相互的な外交(通商貿易・対話外交)」を盛んにすべきだという平和主義路線の外交政策を論じ、『万国公法(国際法)』のルールを一歩先に行く理性的な啓蒙性を発揮しました。国際政治や国際法の分野で博識だった犬養毅は、クリミア戦争後のパリ会議(1856)などの国際平和会議(中立条約)を例に出しながら、日本も緩やかに領土拡張を目指す覇権主義から相互繁栄を目指す平和主義(経済優位の外交)に移行しなければならないと語りました。明治から大正の時代において、犬養毅ほど明確に戦争反対と経済振興(貿易振興)、相互共存を主張した政治家はおらず、大アジア主義の思想を持って辛亥革命(1911)を主導した孫文(1866-1925)とも交流があり、中国大陸侵略の端緒となる満州事変にも強い不快と懸念を示しました(そのことが5.15事件の犬養暗殺につながったと言われます)。犬養は、中華民国を建設する近代化革命を成功させた孫文だけでなく、アメリカからの独立を模索するフィリピンのアギナルド大統領などとも交際があり、基本的に、帝国主義的な支配からの民族独立を目指すアジア諸国に強いシンパシーを感じていました。  
明治時代に生きた政治家・犬養毅は、現代民主主義においても欠かすことが出来ない自由主義と立憲主義を支持しており、戦争をしてはいけない理由として、徴兵で『国民の自由』を拘束し秘密政治で『国民の知る権利』を奪うからであると明確に述べていますが、弱肉強食の帝国主義外交が当たり前だったこの時代に、国民個々人の自由と権利の尊重を考えていた政治家はまずいなかったと言ってよいでしょう。『東海経済新報』の主幹を務める言論人(ジャーナリスト)としての犬養毅は、20代の青年期に世話になった『郵便報知新聞』の藤田茂吉と共同戦線を張りながら、政党の政策論争を基軸とする議会政治(政党政治)の必要性を世に訴えていました。しかし、藩閥政府を支持する御用新聞であった『東京日日新聞』『東洋新聞』『明治日報』との政党政治(議会主義)や言論の自由を巡る論争が激しくなります。遂には、薩長主体の明治政府は「治安維持」を表面的な大義名分に掲げながら、「新聞紙条例」や「集会条例」を改悪して言論の自由や集会結社の自由を弾圧・制限するようになります。新聞紙条例改正により政府の検閲が強化され、集会条例改正によって集会結社の自由が大幅に制限されたので、政党政治思想や自由主義思想を大々的に普及させようとする言論活動は厳しく規制されました。  
政府の言論弾圧が厳しさを増す1884年には、自由党は福島事件・加波山事件・秩父事件など反政府的な激化事件(暴力的な政治クーデター)が相次いで解散し、自由党と同じ暴力的な結社であるという偏見を持たれた立憲改進党も次第に政党としての存在感や影響力を落としていきます。国会開設と政党政治の発展を目指した自由民権運動はここでいったん頓挫することになり、1887年には集会結社の自由を抑圧する「保安条例」が出されて実質的に政党政治は機能不全に陥ります。言論人としての犬養毅は、『郵便報知新聞』から『朝野新聞』へと移り、『民報』という雑誌を創刊して議会政治や立憲主義を主張する言論活動を継続しますが、政府によって『民報』が発行停止処分にされると、犬養毅は言論人としてのキャリアを捨てて純粋に政治家として生きることを決意します。 
国会開設と衆議院議員選挙を経て政治家となった  
日本では1889年に大日本帝国憲法が公布され、1890年に初めての国会である帝国議会が開かれます。1890年(明治23年)7月1日に第一回衆議院議員選挙が行われ、その制限選挙に立候補した犬養毅は対立候補に圧倒的大差をつけて当選しました。この時の選挙は制限選挙であり、女性に選挙権が与えられておらず、直接国税15円以上を納付している満25歳以上の男子だけに選挙権が限定されていました。犬養毅は男女平等の普通選挙までは主張しませんでしたが、納税額と無関係に全ての男子に選挙権を与える普通選挙には強い関心を抱いていて、山本権兵衛内閣(1923)で逓信大臣(郵政大臣)を務めていた時には選挙改革を推し進めたかったようです。犬養が逓信大臣だった時期にちょうど、関東大震災の大きな被害が襲い掛かりましたが、犬養は的確かつ迅速な判断で被災後の東京の郵便・通信インフラの復旧を成し遂げ、被災した国民に対する人道的な政策支援を行いました。  
逓信大臣としての犬養は公益法人としてのNHK(日本放送協会)を創設したことで、『日本放送の父』としての顔も持っています。犬養毅は最晩年に内閣総理大臣の地位を拝命しましたが、基本的に官職や位階への野心が余りなく、特定の団体と結びついた利権政治や政権だけを目指す党利党略を嫌いました。国民の利益や世論の訴えに真摯に耳を傾け、政党単位で将来の国益と国民の福祉を追求するというのが犬養毅の描いた政党政治のビジョンだったのです。1925年(大正14年)に、加藤高明内閣で成立した「普通選挙法」は、犬養毅の原案を下敷きにしたものですが、貧困層を糾合する社会主義勢力の台頭や急速な藩閥政治の終焉を恐れた政府は同時に、言論の自由と集会結社の自由を大幅に制限する「治安維持法」を制定しました。  
犬養毅は、「立候補者の政策論争・人格吟味・政治思想」を踏まえた有権者の投票によって、政党政治と議院内閣制はより成熟したものになるので、有権者である国民は政治や社会に対する勉強を怠らずに「人気(知名度)・利権(賄賂的優遇)・ムード(社会の大勢)」に流されて投票することがないようにしなければならないと主張しました。1930年(昭和5年)には、ニューヨークのウォール街の株価暴落から始まった世界恐慌(1929)の煽りを日本も受けて昭和恐慌が起こりますが、街中には失業者と破産者が溢れるようになり、農村では子女の人身売買が横行する悲惨な事態となってしまいました。 
言論の自由を唱え、5.15事件の凶弾に倒れた  
昭和恐慌(1930)によって、日本経済は慢性的な不況と金融不安(銀行への取り付け騒ぎ増加)に陥り、中小企業は相次いで倒産して街中には失業者と倒産者が数多く出回って治安が悪化しました。株式市場と商品市場の暴落によるデフレが深刻化した昭和恐慌の時に政権を担当したのが立憲民政党の浜口雄幸内閣でしたが、浜口雄幸は、ロンドン海軍軍縮条約調印に伴う統帥権干犯問題で国粋主義者に狙撃され総辞職することになりました。浜口雄幸の後を継いだのが若槻礼次郎内閣でしたが、文民統制(シビリアン・コントロール)によって軍部(中国北部駐屯の関東軍)を制御できず、満州国建国(傀儡政権樹立)へとつながる満州事変を悪化させた若槻首相は総辞職します(1931年12月)。  
1931年(昭和6年)9月に満州事変の発端となる柳条湖事件を起こした関東軍は、日本政府(内閣)の指示を無視して暴走を始め「自衛戦争」の大義を立てて次々と中国各地を占領していきます。日本陸軍(関東軍)は清王朝最後の皇帝(ラストエンペラー)であった宣統帝(愛新覚羅溥儀)を擁立して、関東軍の思い通りになる傀儡国家である「満州国」の建国を宣言しました(1932年3月1日)。この関東軍による満州国建設は、欧米列強をはじめとする国際社会から厳しい批判を浴びることになり、1932年3月には国際連盟からヴィクター・リットン卿を団長とするリットン調査団が満州を訪れ、リットン報告書を作成しました。1933年の2月24日に、満州国の政治状況を調査したリットン報告書を踏まえた勧告案が提出され、「満州国における日本の権益は不当である」と主張する勧告案が国際連盟特別総会において賛成多数で可決されました。1933年3月にそれを不服とした松岡洋右外相は国際連盟を脱退することを宣言し、その後、日本は英米を中軸とする国際社会からの孤立の度合いを深め、帝国主義的な侵略戦争へと傾斜していきます。  
立憲民政党の若槻礼次郎内閣が総辞職した後に、立憲政友会の総裁であった犬養毅が77歳という高齢で内閣総理大臣に指名されることになりました。犬養毅が内閣総理大臣に就任した1931年(昭和6年12月12日)は、「昭和恐慌による日本経済のデフレ不況」と「中国大陸において関東軍が独走した満州事変の事後処理」という難しい内憂外患を抱えた時期でした。総理大臣を拝命した政治家としては、正に腕の見せどころという政治の混迷と危機の時代ですが、犬養が一つ判断を間違えれば日本の国運を危うくするという極めて危険な状況でもありました。首相となった犬養毅は、「満州事変の適切な事後処理と国際社会での信認の回復・日本陸軍に対する文民統制・金輸出の禁止による為替の安定化(景気対策)」という「3つの政策」を掲げて、日本を国際的孤立や経済的危機から救おうとしました。  
犬養毅は満州事変に対して明確に反対の姿勢を示し、国民世論の満州事変に対する賛否を明確に問うために解散総選挙(1932年2月)を断行することにしました。つまり、犬養は自分一人で強大な軍部に対抗することは無理でも国民の総意をもって「満州事変(満州国建設)の中止」を訴えれば、如何に文民統制を無視する関東軍でも日本政府(犬養内閣)の指示に従わざるを得ないと考えたのです。謂わば、この犬養内閣の満州事変の中止を求める訴えが、日中戦争や太平洋戦争といった第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)を回避する極めて重要なターニング・ポイントとなっていたのです。しかし、現実の日本国では犬養毅の予想を越えて、独裁的な軍国主義や全体主義の病根が根深く政治に浸透しつつあり、総選挙で立憲政友会を従えて圧倒的勝利を果たした犬養毅は、反軍部的な政治改革を焦り過ぎたことにより国家主義者の青年将校に暗殺されることになります。  
議会制民主主義の正常な機能を担保するのは「言論・思想・表現の自由」と「集会結社の自由」であり、犬養毅は死の間際まで言論の自由に基づく政党政治と民主主義(議会政治)の力を信じ続けました。犬養毅は「政治の本質は暴力(テロ)や恐喝(威圧)であるべきではない」ことを生命を持って訴え、「民主主義政治は、言論の自由と議会政治(政党内閣)を通して初めて実現できる」ことを生涯を通して主張し続けました。近代国家の高い教養と常識を備えた国民は、自分が気に入らないことがあるからといって感情的に殴ったり殺したりしてはいけない、理性的に話し合ってお互いの妥協点を模索するのが近代国家における民主主義政治だというわけです。しかし、「話せば分かる」を信条として政党政治家の人生を生き抜き多数の国民の支持を得ていた犬養毅も、緊迫する国際情勢と台頭する全体主義・軍国主義の狂気の前では為す術もありませんでした。  
1932年(昭和7年)5月15日夕刻に、犬養首相がくつろぐ首相官邸に乱入した大日本帝国海軍急進派の青年将校(三上卓・海軍中尉,黒岩勇・予備少尉, 後藤映範・士官候補生ら)によって、犬養毅は暗殺されました(5.15事件)。5.15事件による犬養毅の死は政党単位の政策論争を重視する政党政治の衰退を意味しており、その後、軍部の政治に対する発言力が強まり軍部にひきずられる形で対外的な強硬政策を日本は推し進めていくことになりました。犬養毅は5.15事件で銃撃を受けた後も「今の若造を連れて来い。俺が話をしてやるから」という強気の発言を残し、死ぬその瞬間まで「人間を変える言論の力」と「暴力に対する理性の優位」を信じ続けた政治家でした。 
 
大隈重信

 

(1838-1922) 立憲改進党と早稲田大学の創立者  
薩長藩閥に比肩する佐賀藩出身の実力者  
1838年(天保9年)に大隈重信(おおくま・しげのぶ, 1838-1922)は、肥前国(佐賀藩)の会所小路(かいしょこうじ)というところで、父・信保(のぶやす)と母・三井子(みいこ)の間に生まれました。父の大隈信保は佐賀藩で大筒組頭を務めていましたが1850年(嘉永3年)に没したので、その後は母の三井子が二人の兄弟と二人の姉妹を育て上げました。重信は幼名を八太郎と言いました。佐賀藩(鍋島藩)では、藩士・山本常朝(やまもと・じょうちょう, 1659-1719)が書いた『葉隠(はがくれ)』や徳川幕府の国学であった『朱子学』に象徴される滅私奉公的な武士道が推奨されていました。しかし、ペリー提督率いる黒船来航以後の列強の外圧と西欧文明の猛威に曝された幕末期には、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」のような禁欲的な精神主義だけでは通用しない時代に入りつつありました。  
佐賀藩を西国の雄藩へと押し上げた明君鍋島閑叟(鍋島直正, 1815-1871)は、先代藩主の鍋島斉直(なべしま・なりなお, 1780-1839)の放蕩浪費によって破綻寸前だった財政を緊縮財政(質素倹約)によって立て直し、藩校『弘道館(こうどうかん)』と初等教育機関『蒙養舎(もうようしゃ)』の充実による教育改革に力を入れました。大隈八太郎も7歳で、四書五経など漢学の基礎的な素養を身に付ける『蒙養舎』に入学し、16歳で卒業して当時の藩校の中でも高い教育内容を誇っていた『弘道館』へと入学しました。大隈八太郎が弘道館に入学する頃に、ちょうどペリー提督率いる黒船が神奈川県の浦賀へと来航し、幕府に開国と通商(自由貿易)を迫り更なる不平等条約を押し付ける構えを見せていました。アメリカ・イギリス・フランスといった西欧列強の強硬姿勢に対抗することが出来ない江戸幕府(徳川幕府)は次第に政権の正統性を失っていき、薩長同盟が成立すると急速に幕藩体制は揺らぎます。帝国列強の軍事的圧力に屈服して不平等条約を締結しただけではなく、1865年の二度目の長州征伐(反幕府の姿勢を明確化した長州藩の武力征伐)にも失敗した幕府は威信を失い、遂には、1867年11月9日に幕府(徳川慶喜)が朝廷に政権を返上する大政奉還が行われます。日本国の統治権を徳川幕府から取り戻した明治天皇が、『王政復古の大号令』を発して徳川慶喜の官位剥奪と領地返還を断行したことにより、地方分権的な幕藩体制が崩壊して中央集権的な明治政府が建設されました。  
弘道館の学校内部の論争で規則を破って激しくやり合った大隈八太郎は、学校側から対抗処分を命じられ、当時の先端的な学問であった蘭学に志すようになります。国家の政治や経済の基盤に子弟の教育があることを深く理解していた藩主の鍋島閑叟(なべしま・かんそう)は、西欧文明の精髄を学ぶ為の「蘭学」と東洋文化(日本文化)の要諦を得る為の「漢学」をバランス良く佐賀藩士に学ばせようと考えました。そして、大隈八太郎(大隈重信)には長崎の藩校で蘭学を、副島二郎(副島種臣)には京都に留学させて漢学を学ばせ、日本国の将来に役立つ人材へと成長させました。鍋島閑叟自身は、徳川将軍家や大老・井伊直弼と親しい関係にあったこともあり、それほど開明的な変革を好む主君ではありませんでしたが、保守的ながらも時代の変化を鋭敏に感じ取っていました。鍋島閑叟は、尊皇攘夷思想に傾いて徳川将軍家に弓を引く討幕運動に賛同することはありませんでしたが、西欧列強に対応するために革新的な新しい学問や知識の必要性を認識していたと考えられます。  
欧米諸国の中でオランダが必ずしも一番先進的な大国ではないことに気づいた大隈重信は、蘭学を見限って、世界共通語となりつつあった英語を長崎の宣教師・フルベッキから学びイギリス・アメリカ(アングロサクソン系)の文化・知識・技術を習得しようとしました。経理・財政に才覚のあった大隈重信は、佐賀の商人の米の貿易を補佐して資金を獲得し、江戸幕府の崩壊が迫っていた1865年に『致遠館(ちえんかん)』という英会話学校を建設しました。教育機関が充実していた幕末の佐賀藩には、明治維新後にも政府の重要なポストを担う頭脳明晰な英傑が数多く輩出しましたが、その代表格が、大隈重信であり、江藤新平、副島種臣(そえじま・たねおみ)、大木喬任(おおき・たかとう)でした。  
王政復古を目指す尊皇攘夷(倒幕運動)に極めて慎重だった鍋島閑叟は、大政奉還への積極的な介入ができず、(大隈重信の大政奉還の意見を聞いていた)後藤象二郎の勧めによって将軍家に大政奉還を働きかけた土佐藩主の山内容堂(やまのうち・ようどう, 1827-1872)に遅れを取ってしまいます。維新後間もない明治政府では、肥前・佐賀藩(佐賀県)も土佐藩(高知県)も、薩摩藩(鹿児島県)・長州藩(山口県)に比較すると優遇されませんでしたが、それは、西郷隆盛を首班とする薩長連合が倒幕の為の戊辰戦争で非常に大きな功績を挙げたからです。鍋島閑叟が徳川幕府に対して強気に出られない理由として、閑叟自身が第11代将軍・徳川家斉(とくがわ・いえなり)の女婿であったこともあります。大隈自身は綾子と明治2年(1869)に結婚し、築地の自宅には伊藤博文・前島密・井上馨などの錚々たるメンバーが度々集って政談・雑談をしたので大隈の自宅は「築地梁山泊(つきじりょうざんぱく)」と呼ばれることもありました。  
大政奉還が実現した後に、大隈重信は長崎の外交業務を担当し、副島種臣は長崎鎮台の建設を京都の朝廷に進言しましたが、公卿の沢主水正宣嘉(さわもんどのしょう・のぶよし)を総督とし長州藩の井上聞多(井上馨)を参謀とする長崎鎮台が設立されると、大隈重信は長崎裁判所の判事を拝命する事になりました。沢主水正宣嘉は九州鎮撫総督の官職にも就いていたが、キリスト教徒を弾圧して投獄した為、イギリスやフランス、オランダの公使から激しい抗議を受けました。この時、国際法にも造詣を深めていた大隈重信は『主権国家における内政不干渉』の原則を主張して、『信教の自由』を主張する強硬派の英国公使であったハリー・パークス(1828-1885)を相手に、大阪の本願寺別院で堂々と外交論戦を取り交わしました。剛直なパークスの威圧や脅しに屈することのなかった大隈重信は、イギリスとの論戦の席を共にしていた木戸孝允や大久保利通、井上馨(井上聞多)、後藤象二郎、小松帯刀(こまつ・たてわき)らにその名と外交上の才能を遺憾なくアピールすることになりました。1872年(明治5年)9月12日に開設した京浜間(新橋‐横浜間)の鉄道建設に必要な資金も、大隈重信が国内保守派(薩摩藩の島津久光・海江田信義・黒田清隆)の反論をはねのけてイギリスからの借款によって準備したものでした。  
長崎裁判所判事の次に大隈は横浜裁判所の判事に任命されて、(厳しい明治政府の財政状況の中で)『フランスが建造した横須賀造船所の新政府の接収』と『アメリカから購入した軍艦・ストーンウォール号の受取』という難しい任務を見事にこなしてみせました。この任務の遂行に必要な巨額のお金を新政府に融資したのは、イギリスのオリエンタル・バンクであり、大隈重信の政治家としての器量と威厳を信頼した英国公使パークスの口添えが効を奏したといいます。東京の中央政府にその存在と能力を一躍知られることになった大隈重信は、1870(明治3年)に西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らと共に参議(現代の宰相・閣僚に相当する朝廷機関で中納言に次ぐ位階)の官職に任命されました。 
明治維新の世代交替により躍進した  
1871年12月23日には、岩倉具視を筆頭とする岩倉遣欧使節団(岩倉使節団)が、「欧米諸国との不平等条約改正」と「西洋文明(思想・技術・知識)の修得」を目的として日本を出発します。公卿の三条実美(さんじょう・さねとみ)を首班とする政府中枢に残った参議(閣僚級の人物)は、武断派で内政に興味の薄かった西郷隆盛・板垣退助と行政能力に優れた大隈重信だったので、大隈はその政治的才覚と知識を遺憾なく発揮して次々と重要な政治改革を推し進めていきました。岩倉使節団がアメリカやヨーロッパ各国を訪問している間に、参議の大隈重信や司法卿の江藤新平、兵部卿・山県有朋らが中心となって重要な政治改革が次々と行われました。明治6年(1873)には、太陰太陽暦(旧暦)が太陽暦(グレゴリオ暦)へと改暦されて、日本のカレンダーの日時が西洋のスタンダードなカレンダーに合わせられるようになりました。司法卿・江藤新平(佐賀藩出身)は「司法省誓約五箇条に基づく司法の独立性(三権分立の基盤整備)」を強く主張し、兵部卿・山県有朋は「(徴兵制度の前提となる)兵制改革」を実施し、1872年には義務教育の原型となる「学制」が発布されました。  
岩倉遣欧使節団は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの13ヵ国を1871年12月から1873年9月13日までの約2年間で回りました。岩倉や大久保らの帰国後に、西洋の都市文明や政治制度に直接触れた岩倉使節団のメンバーと、留守政府を預かり「征韓論」に傾いていた西郷隆盛や板垣退助、江藤新平との対立が深刻化していきます。岩倉使節団に参加していて、後に明治政府で重要な役割を果たすことになる代表的なメンバーには、特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳がいて、その他にも、日本のルソーと呼ばれた民主主義思想の啓蒙家・中江兆民や津田塾大学を開いた津田梅子がいました。李氏朝鮮に武力外交を用いてでも開国と通商を求めるべきだと主張する西郷・板垣・江藤らの征韓論派は、政府での論争(政権闘争)に敗れて官位を辞してそれぞれの郷里へと下野していきます。  
大久保利通や木戸孝允が主導する中央政府との征韓論を巡る外交論争に敗れた西郷隆盛と江藤新平、前原一誠らは、最終的に明治政府への反乱を企てて失敗しその人生を終えることになります。1874年(明治7年)の佐賀の乱で、江藤新平は捕縛されて極刑に処せられました。1876年(明治9年)には、熊本・神風連の乱、福岡・秋月の乱、山口・萩の乱が相次いで勃発するもあっけなく明治政府の官軍に鎮圧されました。1877年(明治10年)には、鹿児島・私学校党の薩軍を率いる明治の元勲・西郷隆盛と桐野利秋、篠原国幹らが決起して西南戦争が勃発しました。明治維新で最大の軍功を上げた西郷隆盛率いる旧薩摩藩の軍隊(私学校の薩軍)は、政府軍を圧倒する当時最強の軍隊と考えられており、西郷が決起すれば明治政府は転覆するのではないかとも言われていました。しかし、徴収できる兵力と近代的な兵器、兵站(食糧補給)において勝る官軍が、谷干城が守る熊本城攻略に固執した薩軍(反乱軍)を打ち破って西郷隆盛は死去しました。当時最大の軍事勢力であった旧薩摩藩(鹿児島県)の士族が西南戦争で敗れたことにより、日本における不平士族の反乱は終結して明治政府の権力基盤は強固なものになりました。  
明治の元勲として圧倒的な存在感を誇っていた西郷隆盛が西南の役(西南戦争)で死ぬと、その後すぐに長州閥の元老である木戸孝允が病気で死去し、1878年(明治11年)には明治政府で独裁的な権力を振るっていた大久保利通も石川県士族・島田一郎らの手で紀尾井坂(東京都)で暗殺されました。戊辰戦争で大きな功績のあった明治政府の第一世代とも言える西郷・木戸・大久保・江藤などが死去したことによって、重要ポストに空白が出来て明治政府の世代交替が急速に進みました。西郷や大久保、木戸ら明治の元勲が死去しても薩長中心の藩閥政治は相変わらず続きますが、明治政府の第二世代として政治(行政)分野で頭角を現してきたのは、大隈重信(肥前)や伊藤博文(長州)、井上馨(長州)、大木喬任(肥前)、黒田清隆(薩摩)らであり、軍事分野で影響力を強めたのは、山県有朋(長州)や西郷従道(薩摩)、川村純義(薩摩)でした。  
薩長を中心とする藩閥政治に対する士族と民衆の不満が高まる中で、国会開設を求める板垣退助らの自由民権運動が高まりを見せるようになり、1874年1月17日には板垣退助・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎らの愛国公党が民撰議院設立建白書を政府に提出しています。進歩的な知識人であった大隈重信は、イギリス型の立憲主義(慣習法)に基づく議会政治の必要性を訴えていましたが、伊藤博文や井上馨はドイツ憲法(プロイセン憲法)に基づく立憲政治を模範にすべきと考えていました。国会開設と議会政治(イギリス型の立憲主義)を巡って薩長閥の政府首脳部(伊藤博文・井上馨・黒田清隆・西郷従道・山県有朋)と対立した大隈重信は、明治十四年の政変(1881)によって政権を去り佐賀県へと下野します。伊藤博文と西郷従道の訪問によって下野を促された大隈は、それを了承していったん政府から退き東京専門学校(早稲田大学の前身)や立憲改進党の設立に力を尽くします。1889年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)は、プロイセン憲法を模範にして作成されたものでした。  
1886年(明治19年)から伊藤博文を首相とし井上馨を外相とする日本政府は、欧米各国と結んでいた不平等条約の改正に着手します。井上馨は華やかな舞踏会とパーティーで、各国の外交官(大使)をもてなす鹿鳴館外交を展開しますが、国家主権を確立する為の条約改正はなかなか上手く進みませんでした。 
東京専門学校の創設と立憲改進党の結成  
明治14年の政変(1881)で政権を追われた大隈重信は、政府中枢の仕事の一線から退き、教育者や政党政治家として後世に残る偉業を達成することになります。1882年に、板垣退助の自由党(愛国公党の後身)に続く立憲改進党を大隈は結成しますが、それから間もなく(1882年10月21日)、早稲田に東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立しました。大隈重信の東京専門学校(早稲田大学)よりも早く、福沢諭吉の慶應義塾(慶應義塾大学)が開設(1868)されていましたが、大隈重信は将来有為な政治家や理科系の研究者を養成する為の学校として東京専門学校を創立しました。福沢諭吉は近代教育制度の父として先進的な西欧文明の学術知識を逸早く日本に導入した人物ですが、慶應義塾では、東京専門学校のような政治家の育成よりも経済(理財)や法律など実学の教育普及に注力していました。  
大隈重信は外交政治や内政の制度改革に抜群の能力を見せましたが、元々、肥前藩の藩士だった頃に『致遠館』という英学(洋学)の学校を開設して校長を務めていたこともあり、「私学の開設による教育振興」や「西洋の学問の研究」に非常に強い関心を持っていました。東京専門学校(早稲田大学)が創立(1882)されたばかりの頃の教授陣には、大隈重信の盟友である小野梓(おの・あずさ)が率いていた「鴎渡会(おうとかい)」という学生メンバーが多く起用されたようです。鴎渡会のリーダーは後に東京専門学校の学長となる高田早苗であり、それ以外にも、坪内雄蔵(坪内逍遥)や天野為之、市島謙吉といったメンバーがいました。東京専門学校は初め、大隈の養子である大隈英麿が教授となって理科系の学問(数学・物理学・天文学・化学)などを中心に教える学校にしようかと構想していたようですが、国政への関心が旺盛な鴎渡会のメンバーが多数、学校運営に関わるようになって「政治家養成のための学校」という色彩が濃くなりました。  
東京専門学校(早稲田大学)は、近代国家を機能的に運営する為に必要な「高度な知性・能力・気力」を備えた人材を育成する学校機関でしたが、薩長閥を中心とする明治政府は、大隈の東京専門学校を鹿児島の私学校(西郷隆盛の派閥で西南戦争を引き起こした勢力)のような反政府的な学校なのではないかという疑念を抱き様々な方法で圧迫・威圧しました。明治政府は依然として、戊辰戦争に勲功のあった薩長閥の9人の元老(山県有朋・井上馨・大山巌・松方正義・西郷従道・西園寺公望・伊藤博文・桂太郎・黒田清隆)が政治の実験を握る「藩閥政治」のシステムから脱け出ていなかったのです。  
1886年(明治19年)には大隈重信は東京専門学校の経営と指導からいったん身を引くことを決断し、高田早苗を学長に任命して後事を託しました。外務大臣・井上馨を中心とする不平等条約改正が暗礁に乗り上げていた頃、再び外交政治のエキスパートである大隈重信の活躍が必要とされるようになります。同じ立憲改進党に所属する矢野文雄の勧めもあり、1888年2月1日、大隈重信は停滞した日本外交をブレークスルーする為に伊藤博文内閣の外相(外務大臣)に就任します。大隈は伊藤内閣の後を継いだ黒田清隆内閣において外相を務め、精力的に欧米各国との条約改正の交渉を行いメキシコ・ドイツ・アメリカとの調印に成功しました。  
最も強硬に不平等条約改正を拒絶していたイギリスとの交渉も終盤に入っていたのですが、改正条約との調印を遅らせたいイギリスは新聞紙『ロンドンタイムス』で条約改正の具体的内容をスクープして、日本の国内世論を二分させようとしました。そのイギリスのロンドンタイムスの策略に影響されてしまった伊藤博文と井上馨は、「大隈重信の改正案」が国家の利益と独立を損なうものであると強く反対してイギリスと日本の条約改正交渉はいったん中絶しました。更に、大隈には「大隈を国賊と見る玄洋社の来島恒喜(きじま・つねき)」によるテロリズムの不幸が襲いかかり、大隈は投げつけられた爆発物によって右足を失うことになりました(1889年10月18日)。大隈が途中で諦めざるを得なかった不平等条約改正の仕事は外相の陸奥宗光(むつ・むねみつ)へと引き継がれ、日本は欧米の列強諸国と法的に対等の地位に立つことが出来るようになりました。 
晩年の政治生活と日本の軍国化  
突如襲い掛かった卑劣なテロリズムにより右足を失う負傷を負った大隈ですが、大隈重信率いる立憲改進党は1892年に進歩党と改称します。日清戦争後の1896年9月に成立した松方正義内閣(第二次)では大隈重信は外務大臣となり、政党政治が藩閥政治に大きな影響力を持つきっかけになりますが、日本は朝鮮に対する領土的野心を急速に強めていきます。大隈が外相を務めた第二次松方正義内閣が総辞職すると、第三次伊藤博文内閣が成立します。伊藤博文は自由党と進歩党の双方を取り込む挙国一致体制の確立に失敗して衆議院を解散し、独裁的な藩閥政府が議会制民主主義を担う政党を押さえ込むことが出来ない政局の変化が生まれました。藩閥政府と一体化することを拒否した自由党(板垣退助)と進歩党(大隈重信)は、1898年(明治31年)6月22日に合併して憲政党を結成し、日本で初めての政党内閣となる『隈板内閣(わいはんないかく)』が誕生しました(1898年6月30日)。  
大隈重信を内閣総理大臣とし、板垣退助を内務大臣とする隈板内閣は11月8日にわずか4ヶ月で総辞職することになりますが、大隈は旧進歩党を憲政本党として再結成して政治活動を続けました。この時代の政党政治の急速な変化の歴史については、『星亨(1850-1901):明治時代の議会制民主主義と政党政治の歩み』の項目を参照してみて下さい。その後、1908年には一度政界の表舞台から引退して、東京専門学校(早稲田大学)の総長や大日本文明協会の会長に就任して、教育文化の方面で充実した活動を行いますが、『閥族打破・憲政擁護』をスローガンとする第一次護憲運動の高まりと共に政界に復帰します。  
政治家・大隈重信としての最後の晴れ舞台は、海軍の収賄汚職事件であるシーメンス事件によって山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)内閣が総辞職した事によって訪れました。国民の圧倒的支持を得た大隈重信は、1914年(大正3年)4月13日に、立憲同志会・大隈伯後援会・中正会を与党とする大隈内閣を組閣しました。大隈重信はサラエボ皇太子暗殺事件を引き金とする第一次世界大戦(1914-1918)が勃発すると、中国大陸での権益拡大を目的としてイギリスとの日英同盟を根拠にドイツに対して宣戦布告しました。第一次世界大戦でドイツが劣勢になると、日本(首相の大隈重信・外相の加藤高明)は中国(袁世凱の中華民国)に対して対華21か条要求を突きつけて、ドイツが中国に持っていた山東省の利権を受け継ぎ、関東州の租借期限や満鉄の経営期限の延長を中国に強硬に要求しました。  
政治生命の最後で軍部(陸海軍)に急速に接近して、第一次世界大戦への消極的参加を表明した大隈重信首相は、日清戦争・日露戦争から続いていた日本の軍事拡張路線を更に拡大する役目を果たすことになりました。イギリスに味方して連合国側に立った日本は、西欧列強と対等に肩を並べるようになり日本の国際社会における発言力は急激に強まりました。日清・日露・第一次世界大戦の勝利や韓国併合によって東アジアに大きな利権と影響力を持つようになった日本は、この後に満州事変を起こし、急速に国際社会から孤立して破滅の隘路へとはまり込んでいってしまうことになります。早稲田大学を創設して、欧米の先進的な学術と文化を積極的に取り込もうとした教育者としての大隈重信は日本に大きな知的財産を残しましたが。一方、日本に立憲主義的な政党政治を根付かせようとして立憲改進党を結成した政治家・大隈重信は、政治生活の最後の最後で(歴史の必然的な流れではあったでしょうが)将来の災禍の種子(帝国主義的な政治戦略の萌芽)を残して政界を去ることになりました。1916年10月に大隈内閣は総辞職し、その時に大隈重信は政界から完全に引退し、1922年1月10日に東京の早稲田でその人生の幕を下ろしました。  
 
星亨

 

(1850-1901) 明治時代の議会制民主主義と政党政治の歩み  
左官職人の息子から税務官僚になった  
現代の人々からすると、星亨(ほし・とおる, 1850-1901)の知名度は、同時代人の政党政治家である板垣退助や大隈重信、原敬などに遠く及びませんが、星亨の名前から『押し通る(おしとおる)』と渾名された豪腕無双の星は、数々の汚職疑惑を掛けながらも薩長主導の藩閥政治を転換する重要な政治的役割を果たしました。星亨は、板垣退助を筆頭とする立憲自由党においてその政治的才覚を遺憾なく発揮し、藩閥政府が政党の言論活動を弾圧する空気の中で日本の国会開設(1890)と政党政治の基盤作りにも尽力しました。明治時代の半ば頃までは、有力政治家や高級官僚・軍人官僚の大部分が、明治維新(戊辰戦争)に功績のあった薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の出身者で占められていました。長閥・薩閥が政界を縦横する中にあって、星亨は無位無官の江戸(東京)の左官職人の子として生まれ、医学や英学(英語)・法律などの勉学に励みながら英語教師から政治家への転身を遂げました。  
多数の無頼者の書生や食客に慕われた星亨は、良く言えば面倒見の良い親分肌の性格であり、悪く言えば攻撃的で傲慢不遜な雰囲気の強い人物でした。藩閥による官僚独裁に反対する政党政治家としての星亨も、極めて野心的なところがあり、他人と正面から論戦することを恐れない好戦的で豪放磊落な壮士でした。何者をも恐れない傲慢な自信家として振る舞った星亨には当然政敵も多くいましたが、それ以上に知識人から財界人、無法者まで幅広い人材を統率する強力(剛腹)なリーダーシップを持っていました。外見的な行動や挑発的な発言だけを見ると星亨は粗野で乱暴者の親分という印象がありますが、暇さえあれば世界各地から政治・法律・語学などの専門書を取り寄せて読んでいたというほどの誠実な知識人であり、同時代の政治家で星亨の教養水準に並ぶものは殆どいませんでした。星亨は相手を言い負かす議論(ディベート)に非常に強かったことでも有名ですが、星は日本初の弁護士(代言人)でありその主張・反論にはいつも知的な論理や客観的な根拠がありました。  
星亨は、江戸の左官の棟梁である父・佃屋徳兵衛(つくだや・とくべえ)と母・松子の間に「幼名・浜吉」として1850年(嘉永3年)に生まれました。大酒飲みの父親は、多額の借金を残して浜吉(星亨)が2歳の時に蒸発し、母親と浜吉・二人の姉妹は路頭に迷って貧窮に苦しみました。姉妹を商家に奉公に出した母親・松子は食べる物にも困る貧困生活の中で、ふと浜吉を堀に投げ捨てて楽になりたい欲求に駆られますが、何とか思い留まって漢方医の星泰順(ほし・たいじゅん)と再婚することになります。星泰順と再婚しても生活はそれほど裕福ではありませんでしたが、浜吉は星登(ほし・のぼる)と改名して、神奈川の奉行付蘭方医であった渡辺貞庵(わたなべ・ていあん)にオランダ医学を学ぶことになります。星登は渡辺貞庵からオランダ医学を学びながら、次第に欧米の先進的な学問(洋学)や政治制度、法律、技術に興味を覚えるようになります。その後、星亨と名前を変えた星は、日本の近代郵便制度を開設した前島密(まえじま・ひそか, 1835-1919)の推薦もあって、官学の開成所(かいせいじょ)で外交業務に欠かせない英語を学ぶことになります(1866)。  
開成所で優秀な学業成績を修め続けた星亨は海軍伝習所の英語教官に就職しますが、語学堪能で知られた星亨はその後の職業キャリアでも英語の読解力と会話力を高く評価されていました。1867年(慶応3年)に徳川幕府最後の15代将軍・徳川慶喜が天皇に大政奉還をし、1868年には鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争によって江戸幕府を首班とする幕藩体制は瓦解して、近代国家の建設を目指す明治維新が成立しました。語学堪能で洋学の素養を身に付けていた星亨は、大阪府立洋学校や神奈川県英語学校などで語学教師を勤めた後に、不平等条約改正の功績で知られる陸奥宗光(むつ・むねみつ, 1844-1897)の推薦で、税務官僚として大蔵省に入省しました。しかし、星亨を敬慕して集まっていた気の荒い書生の一人が泥酔して警官と揉め事を起こし、その書生を弁護した星が警官を弁論で侮辱したために、入省後間もなく大蔵省を解雇されることになります。  
大勢の食客(学生)を自宅に養っていた星亨は、侠客的な豪放さと義理人情を持っていましたが、この事件以降は軽佻浮薄な振る舞いを慎むようになり、(陸奥宗光や大蔵大輔の井上馨の口利きで)大蔵省の租税寮七等出仕で公職に復帰してからは税務畑で順調にキャリアを積んでいきます。1873年(明治6年)に横浜税関に勤務するようになり、1874年には横浜税関の税関長に任じられます。当時、治外法権の特別待遇で税関をパスしていた西欧列強(イギリス・フランス・オランダ)の人々の荷物や品物を規則どおりに厳しく検査して、西洋人からは強い反対や抗議を受けましたが、豪胆な星亨はイギリス公使パークスの苦情さえも無視して脱税品や密輸品を摘発しました。  
しかし、イギリス(ヴィクトリア朝)のヴィクトリア女王(1819-1901)の呼称である“Her Majesty”を星亨が“女王陛下”と訳したことに「不敬である」と憤激したイギリス公使パークスの訴えによって、星亨は2円の罰金を科され横浜税関長の職務を解任されました(「女王事件」)。大英帝国の国家元首であるヴィクトリア女王を「女王」と呼ぶことが不敬(無礼千万)であると抗議された理由は、「王・女王」という称号が一般的に「皇帝・天皇」よりも格下(劣位)だと認識されていたからです。特に、日本では、皇室の内親王よりも遠い血縁の女性皇族を指して「女王」と呼んでいます。その為、イギリス公使・パークスは、世界最強の帝国の元首であるヴィクトリア女王を「女王」と呼ぶことは、日本や他国の国家元首よりもヴィクトリア女王が下位であることを意味するので相応しくないと抗議したのでした。日本ではこれ以降、外国の君主を全て「皇帝」という最高の尊称で呼び表すことを決定しました(太政官布告)が、結局、イギリスの女帝については慣習的に「女王」と呼ぶ状況が今も続いています。 
日本初の代言人(弁護士)になり、自由党の民権運動に参加  
ヴィクトリア女王の呼称を巡る「女王事件」で横浜税関長を辞した星亨は、その後いったん大蔵省に戻るものの、西欧文明の実利的な知識と先進的な制度を学ぶ為にイギリス留学を決断します。1874年(明治7年)にイギリスの首都ロンドンに留学した星亨は、日本とは比較にならないイギリスの機能的な都市文明に圧倒され、活発な経済活動や民主的な政治制度に深い感銘を受けます。同時期にロンドン留学をしていた学者には、後に東京帝国大学総長になる数学者の菊池大麓(きくち・だいろく)などもいました。法律専門大学のミドル・テンプルで寝る間も惜しんで学んだ星亨は、4日間にわたる卒業試験に合格して日本人で初めてバリスター・アット・ロー(Barrister=at=Law)という法学の国際的学位を取得しました。1877年に帰国した星亨は翌年に司法省付属の初の代言人(弁護士)となり、法治国家の訴訟業務に必要な専門的(職業的)法律家の育成の必要性を訴えますが、1880年に官吏としての代言人制度は廃止されます。星亨は判事(裁判官)の職務を辞退して民間の代言人となりますが、司法省付きの代言人であった時代に、後藤象二郎(1838-1897)経営の高島炭鉱の巨額訴訟事件を取り扱って高額な報酬を得ることに成功しました。  
弁護士稼業で一財産を築いた星亨は、1882年(明治15年)に土佐出身の民権家・板垣退助(1837-1919)を総裁とする自由党(1881年に結党)に加盟して、自由民権運動を熱心に推し進めるようになります。西郷隆盛(薩摩出身)や板垣退助(土佐出身)、江藤新平(佐賀出身)らは征韓論を主張して明治政府の論争に破れ、1873年に官職を返上して下野しています(明治六年の政変)。西郷隆盛ら薩摩藩出身の士族(私学校党)は、1877年に西南戦争の武装蜂起を起こして鎮圧されますが、板垣退助・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎らは愛国公党を結成して(1874年1月12日)、1874年1月17日に民撰議院設立建白書を政府左院(立法機関)に提出して国会の開設を訴えました。天賦人権論に基づいて有司専制(官僚独裁)を批判する民撰議院設立(国会開設)の建白書は即座に退けられましたが、板垣退助が中心となって構想した「民撰議院(国会)の設置」と「平民(士族・富農・豪商)の参政権」は日本の議会制民主主義の原点になるものでした。しかし、1874年2月には、参議であり司法卿であった江藤新平が島義勇(しま・よしたけ)と共に佐賀の乱を起こして西郷隆盛よりも早く自滅し、長州(山口県)出身の前原一誠の萩の乱(1876)や太田黒伴雄率いる敬神党の神風連の乱(1876, 熊本県)も次々と鎮撫されました。  
イギリス留学の経験を持つ博識な法律家の星亨は、日本が近代国家として発展するために「議会制度の整備(国会の開設)・政党政治の成熟・民主政治の浸透」が必要不可欠であると考えていました。星亨自身はイギリス型の二院制の議会政治よりも一院制の議会のほうがより効果的で迅速な意志決定が出来ると考えていたようですが、日本の議会は、結局、貴族院(後の参議院)と衆議院の二院制で慎重な議決を取る方向に整備されました。自由民権運動の旗手として知られる板垣退助は初め愛国公党を結成して国会(民撰議院)設立を訴え、それに続いて、国会期成同盟が発展した自由党(1881-1884)を結成します。  
しかし、自由党は、武力革命を肯定するような急進派の過激分子(不平士族・貧農・労働者)を含んでいたので、増税に反対する農民の武装蜂起である秩父事件(1884年10月-11月)を筆頭として過激な反政府運動(激化事件)が起こり、自由党の自由民権運動は政府から武力弾圧を受けました。自由党に関連する勢力が武装蜂起した激化事件として、秋田事件(1881)や福島事件(1882)、高田事件(1883)、加波山事件(1884)などがありますが、これらの武力鎮圧には、民主化(議会開設)を嫌った藩閥政府が自由民権運動を弾圧したという側面もあります。最終的に、自由党執行部は急進派の過激分子を抑えることが出来ず、1884年に自由党はいったん解散することになります。  
1881年の「明治十四年の政変」とは、伊藤博文率いる専制的な「薩長閥(藩閥政権)」とイギリス型の議会政治(国会開設・憲法制定)や内閣制度(政党政治)の必要性を唱える大隈重信が対立した事件であり、政権闘争に敗れた肥前(佐賀)出身の大隈重信は政府から追放されました。明治十四年の政変(1881)は実質的に「自由民権運動」の是非を問う政争であり、とりあえず自由民権運動の国会開設や内閣制定に否定的な薩長閥の伊藤博文・井上馨らが、自由民権運動の国会開設に親和的な大隈重信を追い落とすことに成功します。明治十四年の政変のきっかけになったのは、北海道開拓使長官の黒田清隆(薩摩藩出身)が政商の五代友厚に官有物を格安の金額で払下げようとした「開拓使官有物払下げ事件(1881)」です。  
しかし、大隈重信が政権中枢から追放されることになったこの政変で、明治天皇の「国会開設の詔勅(1881年10月12日)」が出され10年後に国会を開設することが決まり、板垣退助が一院制の立憲君主制を主張する自由党を、大隈重信が二院制の立憲君主制を主張する立憲改進党(1882-1896)を結成しました。国会開設の詔勅によって、日本では1889年に大日本帝国憲法(明治憲法)が公布され、1890年に日本初の議会・国会である帝国議会が開かれました。法律や政治に関する深い学識と弁護士(代言人)として蓄積した資産力などを身に付けた星亨は、自由党急進派として知られる大井憲太郎(1843-1922)の勧めもあって自由党に加入しますが、星と大井は後に自由党の主導権を巡る政争を戦うことになり星が勝利を収めます。朝鮮の独立党を支援して朝鮮に政変(朝鮮の民主化)を起こそうとした大阪事件(1885)で大井憲太郎は禁固刑に処せられますが、その後、1890年に「東洋のルソー」と称された民主主義思想家の中江兆民(1847-1901, 土佐出身)と共に立憲自由党を結成します。  
豪胆な気質と旺盛な行動力を持つ星亨は、『腕力(強力な交渉力)・資力(党の財政基盤)・知力(政策立案能力)』の三本柱で自由党の政党活動を強化しようとし、裕福な市民から寄付を募る『10万円募金計画』や党機関紙である『自由新聞(古沢滋・主幹)』上での反・立憲改進党(大隈重信)の言論活動を推進しました。当時の日本には、板垣退助を総理(党首)とする自由党と大隈重信を総理とする立憲改進党しか大きな政党がありませんでしたから、星亨は大井憲太郎や植木枝盛(1857-1892)らと共同して徹底的に立憲改進党を「偽党撲滅」のスタンスで叩きました。土佐藩出身の植木枝盛は、私擬憲法である『東洋大日本国国憲按(日本国国憲案)』を書いたことで知られますが、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を『民約論』の民主主義思想として日本に紹介した同じ土佐藩出身の中江兆民と並ぶ自由民権運動の理論的指導者です。  
星亨や板垣退助のいる自由党には、血気盛んに日本の国政を語る感情的(情熱的)な青年の壮士(党員)が多く、急進的な思想に根ざした旺盛な行動力を特徴としていたので、時に暴発して粗暴な激化を見せることもありました。自由党はどちらかというと、地方政治よりも国政からのトップダウンの政治を理想としていました。大隈重信の立憲改進党には、政策や制度の具体的研究などに関心を示す知識人・研究者のような党員が多く、現実的な思想に根ざした段階的な改良主義を特徴としていました。立憲改進党は自由党と比較すると、暴力的なデモよりも理性的な議論によって問題の解決を図る傾向があり、地方政治の改革から国政の改善へとつなげるボトムアップの政治手法を基本としていました。活発な行動力(破壊力)の自由党と穏健な思考力(交渉力)の立憲改進党は激しく対立しましたが、政党政治に否定的な中央政府は両党を牽制しながら主だった政党人を弾圧しました。星亨も1884年(明治17年)に新潟県で専制的な政府を批判する演説会に出席して、召喚された新潟県警の警察を言論で侮辱したために「官吏侮辱罪」に問われ、6ヶ月の禁固と40円の罰金の刑罰を受けました。その後に続発した秩父事件など自由党の「激化事件(武装蜂起)」によって、結局、過激分子を抑制できなかった自由党は1884年に解散することになりました。  
自由党が解散し立憲改進党も大隈重信が離脱したので、1885年から暫く日本の政党政治は実質的にその活動を停止することになり、薩長中心の藩閥政府(官僚主導体制)が、政党活動とは無関係に立憲君主制の確立を推し進めることになります。新潟の刑務所から出獄した星亨は『各国国会要覧(国会組織要論・各国現在組織)』という著作を書き上げ、国会の基本概念や重要課題、世界各国の議会制度やその役割を詳細に解説しました。星亨自身は一院制の議会政治を理想としていましたが、婦人参政権と匿名投票の実施を含む「普通選挙」の実施や「政党単位の政策論争」を中心に選挙が行える「比例代表制」の導入を強く求めました。星亨は党派的な対立によって民権運動が中途で挫折したことを反省し、後藤象二郎を首領に仰ぐ自由派と改進派の「大同団結」による政党政治の基盤作りに奔走しましたが、立憲改進党の大隈重信は政府(藩閥)の懐柔政策によって伊藤内閣(第一次)に入閣することがほぼ確実な情勢となっていたので、改進派は殆どこの星亨が扇動する大同団結運動に参加しませんでした。  
自由党派と改進党派を結びつけようとする大同団結運動は、『地租軽減・言論の自由及び集会結社の自由・諸外国との対等外交』を政府に求める『三大事件建白運動』へと発展していきますが、政府は警視総監・三島通庸(みしま・みちつね, 1835-1888)が中心となって1887年に保安条例を制定してこれらの運動を弾圧しました。皇居を危険人物から守るという建前を持つ言論弾圧の保安条例の規定によって、それらの運動の主導者である星亨や片岡健吉(1844-1903)は東京から追放されました。翌年の1888年(明治21年)に、外遊を予定していた星亨は、政府批判の書籍や機密漏洩の文書に関わる「秘密出版事件」の罪に問われて、軽禁固1年6ヶ月と罰金5円の有罪判決を受け再び獄中生活を送ることになりました。どんな時にも学問と読書を忘れない星は、獄中でも毎日勉強のための読書を勤勉に続けたといいます。大日本帝国憲法発布(1889)の特赦で出獄すると、星はすぐに欧米旅行(アメリカ合衆国・カナダ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア)に旅立ちました。  
開明的に経済活動の将来を見通していた星亨は、藩閥政府が行っている地租軽減の農業保護的な政策に反対して、地租(農民への税金)を増額して農業よりも商工業の発展に政府は力を注ぐべきだという考えを持っていました。しかし、直接国税(地租・所得税)を15円以上納める25歳以上の男子のみに選挙権が限られていた制限選挙では、有権者(全国民の1.1%)の大半が農業を営む中規模以上の地主だったので、候補者は「地租の値上げ」を主張することが出来ませんでした。また、商工業が十分に発展しておらずサラリーマンの労働者階級が成長していなかったので、都市部には衆議院選挙の当否に影響を与えるだけの有権者の層がありませんでした。その為、制限選挙を行っても地方の地主・農家への「利益誘導型の政治」にならざるを得ず、日本の将来の発展を見据えた産業政策の振興が出来ないという問題があったのです。 
栄華と没落  
日本で最初の衆議院議員総選挙は1890年7月1日に行われ、1890年11月29日に初めての帝国議会(国会)が開かれましたが、その時に星亨が加入していた自由党は、四派の連合体として立憲自由党(1890)を名乗っていました。立憲自由党の四派というのは「東北派(河野広中)」「関東派(大井憲太郎・星亨)」「土佐派(板垣退助・片岡健吉・林有造)」「九州派(松田正久)」ですが、星亨は政党内部の派閥争いを嫌って、立憲自由党の統制を強化して国政への影響力を強めようとしました。星亨は、国政を混乱させるだけの急進的な激化を批判して、政治の成果を国益や国民の福祉に還元できる欧米流の政党政治や議会主義を理想としました。  
1891年に星亨は、立憲自由党の党指導部の統制力と党全体の連帯感を強める為に、急進派の大井憲太郎の反対を押し切って党全体を代表する「総理(党首)」を置くことを提唱して、党名も「立憲自由党」から「自由党」へと改称しました。そして、党大会における選挙の結果、自由党の総理は大井憲太郎に大差をつけて勝利した板垣退助に決まりました。自由党の関東派で勢力を二分していた星亨と大井憲太郎でしたが、未来の政局と日本の産業政策を見通した星亨のほうが、次第に急進的で明確な政策ビジョンのない大井憲太郎を圧倒するようになりました。大言壮語に基づく『政治情勢の破壊』を得意とした大井憲太郎は、実際的な政権担当能力や政策立案能力に乏しく、1892年には自由党を脱党してわずか4人になった同志と共に東洋自由党を結成しました。  
ライバルの大井憲太郎を追い落とした堅実な実務派の星亨は選挙でも当選して代議士となり、第3回帝国議会における政党間の調整で河野広中を抑えて衆議院議長に選出されました。衆議院議長となった星亨は、自由党内の主導権を掌握して正に政治家としての絶頂期を迎えましたが、自由党のそれまでの政策であった「民力休養・経費節減」の消極主義政策から社会インフラ基盤を整備する積極財政へと方向転換し始めました。藩閥政府の陸奥宗光と深い関係のあった星亨は、政府の最高実力者・伊藤博文とも会談する機会を持ち、最大の影響力を誇る政党人(政党政治家)として栄華を極めました。しかし、自由党を掌握して思いのままに独断専行の政治をしようとする星亨には政府だけでなく党内にも敵が多く、「改進新聞」に収賄疑惑をスクープされた頃から、絶頂期にあった星の権勢に陰りが見えてきます。1893年には、衆議院本会議において星亨が衆議院議長として不適格であるという緊急動議・出席停止決議を受けることになります。続く12月13日には、懲罰委員会の議論を経て除名処分という厳罰を与えられ、星亨は議会から追放されました。  
衆議院を追放されて後の星亨は、駐朝鮮公使の井上馨の要請により1895年の3月〜10月までを朝鮮政府顧問として勤務しましたが、井上馨の後任となった三浦梧楼公使が閔妃殺害のクーデター(乙未事変)を起こすと、文化侵略的な野蛮なクーデターに我慢できない星はそのまま職務を辞して日本に帰国しました。星亨が帰国しても日本の政界には星が活躍する舞台は殆ど用意されておらず、日清戦争後に、自由党は政府(伊藤内閣)と協調路線をとって軍備増強や産業振興の積極財政政策を進めていました。1896年に自由党を形式的に離れた板垣退助は、伊藤内閣(第二次)の重要ポストである内務大臣に就任しました。大隈重信率いる立憲改進党は1892年に進歩党となっていましたが、1896年9月に成立した松方正義内閣(第二次)で大隈重信が外務大臣のポストを得て、政党政治が藩閥政治に大きな影響力を与えるようになりました。  
大隈が外相となった第二次松方正義内閣が総辞職すると、第三次伊藤博文内閣が成立しますが、伊藤博文は自由党と進歩党の双方を取り込む挙国一致体制の確立に失敗して衆議院を解散します。藩閥政府に取り込まれることを拒絶した自由党と進歩党は、1898年6月22日に合併して憲政党が結党されました。日本で政党と藩閥政府の一致協力が深まる中で、星亨は1896年5月に駐米日本公使としてアメリカに赴任して読書と学問の日々を送っていました。星亨は日本の議会政治の成熟や立憲主義の確立にその政治的生命を注いでいたので、外国に赴任する外交官としての職務には殆ど熱意や関心を示さなかったとも言われます。  
衆議院における圧倒的多数を占める憲政党に、伊藤博文は新党立ち上げで対抗しようとしますが、政党政治の更なる発展と政党内閣(議会制民主主義)の常態化を嫌悪した元老・山県有朋によって、伊藤の新党結成は断念させられます。その結果、第三次伊藤内閣は総辞職することになり、憲政党が政権を担う『日本史上初の政党内閣(隈板内閣・大隈重信と板垣退助を首班とする内閣)』が誕生しました。総選挙の結果、衆議院の定数300のうち憲政党は260を占めて圧倒的多数の与党となり、大隈重信が首相と外相に板垣退助が内相になりましたが、念願の政党内閣が成立したと聞いてアメリカから急遽帰国した星亨は大隈に外相のポストを要求しました。その要請が聞き入れられないと知るや、星亨は憲政党の政党内閣を潰しにかかりました。  
大隈が、尾崎行雄文部相の後継に同じ進歩派の犬養毅をもってきたことを理由にして、自由派の分裂を煽り、憲政党を自由派と進歩派に分裂させて瓦解させてしまったのです。自由派に属する板垣退助内相と西山志澄(にしやま・しずみ)警視総監は、進歩派が憲政党を名乗って結社を築く事を禁止したので、大隈重信は立憲改進党を糾合して新たに「憲政本党」を結成しました(1898)。外相ポストを拒絶された星亨の内部崩壊を促進する陰謀によって、憲政党は分裂してしまいました。かつて隈板内閣を組閣した大所帯の憲政党は、自由党派の憲政党と進歩党派の憲政本党とに分裂することになり、板垣退助率いる憲政党は1900年に伊藤博文を首班とする立憲政友会へと改組されました。憲政党に影響力を伸ばした星亨は、1898年11月に成立した山県有朋内閣と政策面での提携を図り、藩閥政府と政党政治との静かな融合を目指しましたが、山県は元々政党政治や政党内閣に対して強い拒絶アレルギーを持っていたので、いずれは伊藤博文へと乗り換えようと考えていました。  
藩閥政府の首領である伊藤博文も、政党政治家に対して良い印象は持っていませんでしたが、これからの議会政治を政党なしに乗り切ることは出来ないという現実主義的な感性の持ち主であり、山県有朋と比較すると政党政治への親和性や妥協性を持っていました。国家の利益や発展に貢献する政党の必要性を痛感していた伊藤博文は、星亨の説得に乗って、1900年(明治33年)9月15日に立憲政友会を立ち上げてその総裁に就任しました。政党政治の雄であった「憲政党(自由党)」と明治政府(藩閥体制)の首領であった「伊藤博文」が融合して立憲政友会が誕生することにより、近代日本の政党を前提とする議会制民主主義に新たな一歩が刻まれることになったのですが、それは同時に、長閥(長州出身者)の影響が政党政治に対して継続的に強くなることを意味していました。  
1900年10月に、立憲政友会によって組閣された第四次伊藤博文内閣で星亨は逓信大臣(現在の郵政大臣)に就任しますが、国政だけでなく東京市会も同時に牛耳っていた星亨は、東京市会の清掃業務の汚職収賄事件で嫌疑を受けて不起訴となります。しかし、金権政治のフィクサーや汚職政治家としての糾弾・非難を浴びた星亨は、伊藤内閣に迷惑を掛けられないということで自ら逓信大臣を辞職しました。逓信大臣辞職後も東京市会議長として、実業界との太いパイプを持って東京市政を掌握していた星亨ですが、1901年6月21日に、政治を腐敗させる国賊(巨悪)として星を憎悪していた伊庭想太郎(いば・そうたろう, 心形刀流剣術第十代宗家)によって市庁参事会室内で暗殺されました。旗本の家柄に生まれ金権政治を嫌う伊庭想太郎の隠し持っていた短刀によって、星亨は左わき腹を一突きされ更に右胸を鋭く斬り付けられて絶命しました。強引な辣腕を振るって政党政治と議会運営に尽力した一代の怪傑・星亨は、彼を汚職腐敗の巨魁と見る暗殺者・伊庭によって命を奪われた訳ですが、星の評価は現代においても毀誉褒貶が激しいものとなっています。  
 
石橋湛山  
政治家には、高い教養と知性、思考力と洞察力、そして意志の強さが求められる。その上、倫理性があれば申し分ない。石橋湛山という人物は、これら全てを有する稀有な人物であった。日蓮宗の寺に生まれ、様々な人生の師と「不思議な出会い」を体験しながら、人間的力を磨き上げていくのである。  
僧侶の家  
石橋湛山は、総理大臣まで務めた政治家である。しかし、彼の人生の大半は政治家というより、言論人として活躍した。「東洋経済新報」の誌上にて、戦時中、軍部のいかなる弾圧にも屈することなく、一貫して自由の論説を主張し続けた気骨ある人物だった。社内からは、社の存続のために、軍部にいくらか同調すべきではないかという声が上がったこともあった。しかし、湛山は断固として言った。「東洋経済新報の伝統と主義を捨て、軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけを残したとしても無意味だ」。剛毅の人であり、清廉にして潔癖、まさに言論界のサムライだった。  
湛山が生まれたのは1884年9月25日。生まれたのは東京であったが、乳飲み子の時、母の実家である山梨県甲府市稲門(現在の甲府市伊勢)に転居し、そこで育った。父の名は杉田湛誓、日蓮宗の僧侶であった。母は石橋きん、日蓮宗の有力な檀家の娘であり、湛山は母の実家の石橋を名乗った。詳しい事情はわからない。  
10歳の時、父は湛山を知り合いの寺(長遠寺)の住職望月日謙に預けた。預けた以上は、親子の一切の交流を断つ。家に未練を残して、師の躾にそむいてはならないという父の方針だった。寺での日常生活は、生やさしいものではなかった。広い寺の掃除、客へのお茶出し、食事の給仕など、さながら修行生活であった。そんなある日、父母との交流のない寂しさからか、学校の授業料を使い込んだことがある。しかし、住職からは叱責の言葉は一言もなく、黙って払い込んでくれた。それゆえ、湛山はかえって恐縮し、深く反省した。「望月師の薫陶を受けたことは、一生の幸福であった」と語るのである。  
落第生  
後の湛山からは想像もつかないことだが、湛山は落第生だった。中学1年で落第し、中学4年の時も、落第した。怠けて勉強せず、遊び歩いていたからと湛山自らが語っている。授業料を使い込み、2度にわたる落第、どう見ても「不良中学生」である。  
しかし、悪いことばかりではなかった。この落第のおかげで湛山は、運命的出会いをすることになる。中学最後の年、大島正健校長が赴任し、その薫陶を受けることができたのである。大島校長は札幌農学校の第一期卒業生で、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の言葉で有名なウィリアム・クラークから直接指導を受けていた。校長から、折に触れクラーク博士の精神を聞き、「自分もクラーク博士になりたい」と強く思うようになった。「それはわたしの一生を支配する影響だった」と語っている。  
後に湛山は母校に呼ばれてスピーチをしたことがある。その時に、大島校長との出会いを語った。2度の落第という不名誉な結果、大島先生に出会ったと述べ、学問や生活の覚悟なり方針を切り換えることができたと語った途端、言葉が突然、途切れてしまった。そして「不思議なことです。実に、不思議という他はない」と言って絶句したという。  
湛山が早稲田大学文学部哲学科に入学したのは、1904年のこと。しかし、この入学は願わざるものだった。第一高等学校(現在の東大教養学部)の受験に2度挑戦し、2度とも失敗した結果であった。しかし、ここでもまた運命の神による不思議な縁が準備されていた。田中王堂教授との出会いである。「私は先生によって、初めて人生を見る目を開かれた」と述べるほどの感化を受けた。倫理学の担当教授が海外留学に赴いたため、東京高等工業学校(現在の東工大)から、兼任講師としてやってきたのが、田中王堂であった。これもまた、落第と受験失敗がなければ、出会えなかった奇縁である。  
田中王堂との出会いにより、湛山は学問の深さ、おもしろさを感じ、猛烈に勉学に励んだ。その結果、文学部全体で首席卒業の栄誉を勝ち取った。あの落第生がである。田中は、プラグマティスト、ジョン・デューイの薫陶を受けてきた人物だった。湛山が当時流行の社会主義に関心を向けなかったのは、このプラグマティズムの影響を見過ごすことはできない。また早稲田大学には、自治の精神と改進の力を重視する校風があった。これを「早稲田精神」と呼ぶなら、まさに石橋湛山こそがその精神の体現者と言っても過言ではない。  
自由主義、反帝国主義の論陣  
湛山が東洋経済新報社に入社したのは、1911年のことである。言論人として活躍する舞台が与えられた。この社の支柱は、帝国主義政策への反対、近代思想を基調とする個人主義、自由主義の主張であった。こうした社風に後押しされ、湛山は、軍国主義、帝国主義との果敢な戦いを繰り広げていくのである。  
特に力を入れた言説は、普通選挙の実施と小日本主義の主張であった。その中でも小日本主義は、当時の帝国主義的拡張政策に真っ向から反対を唱えるもので軍部を敵に回す主張であった。彼は言う。「満州(中国の東北地域)を捨てろ。中国が日本から受けつつあると考える一切の圧迫を捨てろ」と。そればかりではない。「朝鮮・台湾・樺太も捨てる覚悟をせよ」と言う。当時の時流に抗う、驚くべき主張であった。  
湛山は時代を透徹した目で見ていた。異民族を併合したり、支配したりする大日本主義は長くは続かない。どうせ捨てねばならない運命にあるならば、早くこれを捨てるのが賢明である。いたずらに執着し、異民族から敵対視されるのは、目先の見えない話ではないか。さらに、彼らを解放すれば、その道徳的後援を得ることにもなり、アジア諸国の原料と市場を十二分に活用できる。つまり、小日本主義とは、国土を小にせよという主張ではなく、経済活動を通して、むしろ世界大に広げる策なのだと説くのである。  
1931年、軍部は満州事変を引き起こし、翌年には満州国を建設してしまう。軍部の大陸進出を日本国民も喝采を持って迎える中、湛山は言う。「満州は中国の領土である。彼らの領土に日本の主権の拡張を嫌うのは、理屈ではなく、感情である。我々日本国民も、たとえ善政をしかれても、日本国民以外の者の支配を受けることを喜ばない。ちょうどそれと同じではないか」と。さらに、満州国の「王道国家(理想国家)」のスローガンに対し、「日本国内にさえも実現できぬ理想を、中国人が住む満州にどうしてこれを求めることができようか。まずは日本国内においてこの実現を目指すべきではないか」と批判した。  
こうした湛山の主張は、領土拡張を目指す軍部との命がけの戦いを意味した。日中戦争(1937年)の拡大と共に言論の取締りが厳しくなっていく。もはや、真っ正面から反軍、反戦などを打ち出せる時ではない。たびたび全面削除を命じられた。頁数の削減を余儀なくされた。「東洋経済新報を救おうと思うなら、石橋が社を退くことだ」と圧力がかかった。しかし、湛山は屈しなかった。その頃の湛山を支えていたものは、日蓮の言葉であった。「我、日本の柱とならむ。我、日本の眼目とならむ。我、日本の大船とならむ」。石を投げつけられ、家を焼かれ、島流しにあっても、その信念を曲げなかった日蓮に自分の人生を重ね合わせていたのであろう。  
これほどまでに軍部と戦った湛山ではあるが、驚くべきことに戦後、GHQ(占領軍)により「公職追放」の憂き目にあった。様々な政治的思惑の故と言われているが、よくわからない。いずれにせよ、当時のパージがいかに杜撰だったかを示す一例であろう。これに対し、湛山は審査委員会に意見書を提出した。その中で、クェゼリン島で戦死した愛児和彦に触れた箇所がある。「私は自由主義者であるために軍部から迫害を受けてきた。その私が今や一人の愛児を軍隊に捧げて死なせた。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからだ」。この一節を読んで、ある経済学者は思わず泣き出したと書いている。自由主義者であるが、愛国者でもあった湛山の苦悩の一端に触れたからであろう。  
政界進出  
約4年に及ぶ公職追放が解除され、湛山は活動の場を政界に移していく。権力への野心は毛頭なかった。敗戦後、政策担当者がインフレを恐れる余り、緊縮政策を行おうとしていることに、湛山は強い懸念を抱いていた。恐ろしいのはインフレではない。生産が止まり、多量の失業者を生むデフレである。この緊縮政策を何としてもくい止めるには、言論の力では間に合わない。政界に出るしかないとの決意であった。  
第一次吉田茂内閣で蔵相、鳩山一郎内閣で通産相を歴任し、1956年の自由民主党の総裁選挙で総裁に選任され、ついに石橋内閣が成立した。しかし、新内閣誕生1ヶ月後、72歳の湛山に病魔が襲う。老人性急性肺炎で倒れ、起き上がれなくなってしまった。長期療養が不可欠という診断。これでは、予算審議には一日も出席できず、首相としての責任を果たすことができない。湛山は総辞職を決断する。わずか2ヶ月の内閣だった。  
かつて浜口雄幸首相が銃弾に倒れ、首相の重責を担えない状況の中、国会が大混乱したことがあった。その時、湛山は浜口の災難には同情しつつも、すぐに辞表を提出しなかった浜口の責任を厳しく追及したことがある。かつて浜口を裁いたように、この度、湛山は自らを厳しく裁いたのである。言行一致の人だった。  
湛山は退陣声明の中で、「私は政治的良心に従います」と述べ、「私権や私益で派閥を組み、その領袖に迎合して出世を考える人は、もはや政治家ではない。政治家が高い理想を掲げて国民と共に進めば、政治の腐敗堕落の根は絶えるはずだ」と語った。国民はこの言葉に粛然とし、心から彼の退陣を惜しんだのである。言論人として、政治家として、理想主義、自由主義を唱え続け、さらに言行一致を貫いたその生涯は特筆に値する。  
 
 
岸信介1

 

(明治29年-昭和62年 1896-1987) 日本の政治家、官僚。内閣総理大臣(第56・57代)。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤(さとう)。元衆議院議員。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)などを歴任した。  
東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省、同省廃止後は商工省にて要職を歴任した。建国されたばかりの満州国に渡ると、国務院の高官として実業部次長や産業部次長など要職を歴任し、「満州開発五か年計画」などを手がけた。その後、日本の商工省に復帰すると次官に就任した。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣となった。なお、東條内閣の閣僚を務める間も、商工省の次官や軍需省の次官を兼任していた。  
その経歴から、太平洋戦争後にA級戦犯容疑者として逮捕されるが、不起訴となり公職追放。公職追放解除後に政界に復帰すると自由党に入党するが、その後日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。石橋内閣にて外務大臣に就任。首班である石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名された。  
第61 - 63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟、第90代内閣総理大臣安倍晋三は外孫である。 
生涯 

 

生い立ち  
山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字を取って「信介」という名が付けられた。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった。  
秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)。  
学生時代  
岡山市立内山下小学校から岡山中学校に進学したが、叔父の松介が肺炎に依り急逝したため2年と一ヶ月足らずしかいることが出来なかった。山口に戻り、山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。  
1914年(大正3年)、山口中学を卒業。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば映画(当時は活動写真といった)や芝居を見に行ったりした。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だったが、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。  
1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった。我妻栄と二人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、二人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。  
このころ岸は北一輝の思想に魅了され、中込に北を訪ねている。のちに岸は北について「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている。  
1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入省したことは意外の念をもって受け止められ、同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。  
農商務官僚(商工官僚)時代 - 満州国時代  
農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(元首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった。同期には平岡梓(作家・三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった。  
1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であった。1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。  
東條内閣の閣僚時代  
伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。その後、商工大臣に座った小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、戦局悪化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。  
1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。  
同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、すでに岡田と気脈を通じていた岸が、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する。東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。  
1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。 
復権

 

戦犯容疑者から復権まで  
1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結した後、故郷の山口市に帰郷していた所をA級戦犯容疑者として逮捕された。東京の巣鴨拘置所に収監されたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。東條ら7名の処刑の翌日の1948年(昭和23年)12月24日に釈放、公職追放となる。  
保守合同  
公職追放処分を受けて岸は、東洋パルプの会長などを務めていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となり、4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、日本再建連盟を設立、会長に就任した。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選したが、1954年(昭和29年)に吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。  
11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導。  
1955年(昭和30年)10月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに結成された、自由民主党の初代幹事長に就任した。かくして「55年体制」が始まる。  
なお、岸は1955年8月、鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、ジョン・フォスター・ダレス国務長官と重光の会談にも同席している。ここで重光は安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための周到な準備を練りあげていくことになる。 
岸内閣誕生

 

1956年(昭和31年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。2か月後に石橋が脳軟化症に倒れ、首相臨時代理を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。1958年(昭和33年)4月25日に衆議院を解散。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。  
1958年(昭和33年)に日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、国内の反発を恐れた岸はこれを拒否した。  
当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。  
この他、最低賃金制や国民皆保険や国民皆年金など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張した。
外交

 

安保改定  
岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。  
1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。  
新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆(=暴力団組長)の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」(『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』)。ただし岸によると、動員を検討していたのは消防団や青年団、代議士の地元支持者らであるとのことである。  
連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生した。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。  
6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。  
この総辞職の一日前の14日、岸は暴漢に刺され、瀕死の重傷を負っている。暴漢は戦前に右翼団体大化会に属し、その後は大野伴睦の院外団にいた男とされる。岸側近の小川半次は、岸が大野への禅譲を臭わせながら池田が後継となったことへの憤激が動機であるとする。暴漢本人は、樺美智子とその父親樺俊雄への同情が動機であり、美智子の死亡後に俊雄と面会したことがあったという。また岸への殺意は否定している。  
岸は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」のいう言葉を残している。岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。  
日韓国交回復  
岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。  
日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を組織する。また日韓の反共政策を推進する過程で「統一協会」とも1973年(昭和48年)より親交を持ち「国際勝共連合」結成に協力、1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税容疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送るなど、同教団が政界へ影響力を広げるにあたって重要な役割を果たしたとされる。  
中華民国・蒋介石との関係  
岸は中華民国の蒋介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年(昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蒋介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蒋介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蒋介石死後も岸は「蒋介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蒋介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄は、岸の名刺を示すだけで蒋介石や息子の蒋経国に面会できたと語っている。 
晩年

 

政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。  
1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は山口1区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。  
1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。  
弟の佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという。  
1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、地盤を吹田あきらに譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された。  
晩年は御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。これは女婿安倍晋太郎、外孫安倍晋三など後世に大きな影響を与え、自民党清和政策研究会の基本政策となって現在まで受け継がれている。1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。  
死ぬまで自民党内で影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー、黒幕、昭和の妖怪(この渾名に関しては自身も「私も昭和の妖怪と呼ばれておりまして」と冗談めかしながら発言し笑いを誘うこともあった)とも呼ばれた。また、正力松太郎などとともにアメリカCIAから資金提供を受けていたとされる。  
 
CIAと岸信介

 

NYタイムズで20年以上、CIAを取材してきた専門記者が、膨大な資料と関係者の証言をもとに、その歴史を描いたもの。全体として、CIAが莫大な資金とエネルギーをつぎ込みながら、肝心のオペレーションではほとんど失敗してきた(最新の例がイラク戦争)ことが明らかにされている。日本についての記述は少ないが、第12章では、終戦後CIAがどうやって日本を冷戦の前線基地に仕立てていったかが明らかにされている。  
 
CIAの武器は、巨額のカネだった。彼らが日本で雇ったエージェントのうち、もっとも大きな働きをしたのは、岸信介と児玉誉士夫だった。児玉は中国の闇市場で稀少金属の取引を行い、1.75億ドルの財産をもっていた。米軍は、児玉の闇ネットワークを通じて大量のタングステンを調達し、1280万ドル以上を支払った。  
しかし児玉は、情報提供者としては役に立たなかった。この点で主要な役割を果たしたのは、岸だった。彼はグルー元駐日大使などCIA関係者と戦時中から連絡をとっていたので、CIAは情報源として使えるとみて、マッカーサーを説得して彼をA級戦犯リストから外させ、エージェントとして雇った。岸は児玉ともつながっており、彼の資金やCIAの資金を使って自民党の政治家を買収し、党内でのし上がった。  
1955年8月、ダレス国務長官は岸と会い、東アジアの共産化から日本を守るための協力を要請した。そのためには日本の保守勢力が団結することが重要で、それに必要な資金協力は惜しまないと語った。岸は、その資金を使って11月に保守合同を実現し、1957年には首相になった。その後も、日米安保条約の改定や沖縄返還にあたってもCIAの資金援助が大きな役割を果たした。  
CIAの資金供与は1970年代まで続き、「構造汚職」の原因となった。CIAの東京支局長だったフェルドマンはこう語っている:「占領体制のもとでは、われわれは日本を直接統治した。その後は、ちょっと違う方法で統治してきたのだ」  
 
岸がCIAに買収されたのではないかという疑惑は、昔からあったが、本書は公開された文書と実名の情報源によってそれを実証した点に意義がある。  
 
安倍首相の祖父・岸信介2

 

安倍政権が誕生して1か月あまり。安倍首相が尊敬するとされる彼の祖父・岸信介の名前もいろいろと出るようになっています。岸信介という人物がどのような政治家だったのかみてみることにします。 
岸信介と「国家社会主義」との関係 

 

祖父・岸信介に影響を受けた安倍首相  
安倍首相が書いた『美しい国へ』(文春新書)には、いろいろと祖父・岸信介の話が出てきます。  
この本のなかで安倍首相は、岸が安保条約を「隷属的な条約を対等なものに変えた」と評価し、また「国民年金制度と最低賃金制度という、福祉の基礎となる二つの制度ができたのは……岸内閣のときである」と、岸のあまり語られない業績を強調しています。  
また、この本の第一章「わたしの原点」では、自分が「保守主義者」であることが自負を込めて述べられていますが、そこにも岸の影響が見て取れるところがあります。  
「小さなころから、祖父が『保守反動の権化』だとか『政界の黒幕』とか呼ばれていたのを知っていたし、『お前のじいさんは、A級戦犯の容疑者じゃないか』といわれることもあったので、その反発からか、『保守』という言葉に、逆に親近感をおぼえたのかもしれない。」(『美しい国へ』から)  
おそらく安倍首相の人格形成に大きな影響を与えた岸信介について知ることは、一つの意義があるのかもしれません。  
官僚として始まった岸のキャリア  
さて、その岸について、ここから語っていきましょう。  
山口県に生まれた岸は、東京帝国大学(現在の東京大学)在学中すでに高等文官試験(今でいう国家公務員I種試験)に合格し、卒業後すぐに農商務省に入省します(1920年。後に農林省と商工省に分かれ、岸は商工省へ)。彼の政治的キャリアは、まず官僚として始まったのでした。  
優秀な成績を持つ岸が、当時の花形省庁の内務省などではなく、「二流官庁」ともいわれた農商務省に入ったことは周りの人にとっては意外なことでした。  
これからの権力の中枢は「経済」にある、と考えていたからではないか、と考えるのは、生前の岸にロングインタビューを行って出版し、岸研究の第一人者である原彬久氏(東京国際大学教授)の見解です(『岸信介 権勢の政治家』)。  
事実、彼は早くから「国家社会主義」というものに触れていました。天皇制の枠内で国民の平等を図ろうとするこのイデオロギーは、マルクス主義とはまた違う立場から、「統制経済」の必要性を主張していました。  
岸は、こうした環境のなかで、政治力の軸足を内務省のような警察力ではなく経済においたのでした。そして、やがて戦時中の統制経済をリードする「革新官僚」として活躍することになるのです。  
戦前の社会主義の動き  
ここで、戦前の社会主義というのがどういう状況だったのか、整理しておきたいと思います。  
明治末期の「大逆事件」(社会主義者たちが「天皇暗殺」を企てたとして多数逮捕、処刑された事件)をきっかけに「冬の時代」に入っていた日本の社会主義運動ですが、大正時代になって徐々に復活してきます。  
その転機となったのが世界初の社会主義革命、ロシア革命の勃発でした。これに刺激され、1920年には日本初のメーデーが行われるなど、労働運動や社会主義運動は次第に高揚していきました。  
そして1925年の普通選挙導入に前後する形で社会主義政党(無産政党)も相次いで結成されていきました(ただし共産主義は、治安維持法によって徹底的な取り締まりを受けていました)。  
このようななかで、社会主義運動から国家社会主義運動に転じる人たちが出てくるようになりました。北一輝などはその例です。  
1931年の満州事変による日本の満州占領の成功は、その動きを加速させました。有力な社会主義者だった赤松克麿は「満州権益の社会主義的国家統制」を主張し、国家社会主義へと転じました。  
赤松派が抜けたあと結成された戦前最大の社会主義政党・社会民衆党も、反ファシズムをうたいながら、しだいに「軍隊と無産政党の合理的結合」を主張し始め、徐々に国家社会主義へと軸足を移しはじめます。  
結局、近衛文磨が新体制運動を唱えはじめると、他の政党とともに社会民衆党は解散し、大政翼賛会に合同していったのでした。 
戦時中の統制経済を担った岸信介  

 

「革新官僚」岸の活躍  
1930年、世界恐慌の影響を受けた深刻な恐慌が日本を包むなか、岸はドイツをモデルにした産業合理化運動の推進役として大きく働きます。この国家社会主義的色彩の濃い運動は、翌年に重要産業統制法という法律を生み出します。  
この法律起草の中心となったのも岸でした。こうして岸は政党内閣時代から早くも、国家社会主義を目指す若き「革新官僚」として、頭角を現わしていったのでした。  
こうして岸は1932年の「5・15事件」で政党内閣が崩壊した翌年に商工省の文書課長に、35年には工業局長に就任。エリ−ト官僚としての出世コースを着実に歩んでいました。  
ところが36年、広田内閣の商工大臣に民政党の川崎卓吉が就任したことで、岸に転機が訪れます。政党内閣時代が終わったとはいえ、まだまだ政党の力は侮りがたいものがありました。川崎は政治的意図から岸ら商工省中心官僚の一掃を図り、そのため岸らは商工省から去ることになります。  
この岸を待っていたのが陸軍でした。満州事変によって建国した日本の傀儡(かいらい)国家、満州国の経営に岸を当たらせようとしていたのです。こうして岸は満州に渡ります。  
満州で出会った岸と東条英機  
満州で岸は産業計画の最高責任者となり、満州は「国家社会主義」の大きな実験場となります。満州の豊富な資源がそれを実現味あふれるものにしました。  
彼の活躍はそのうち東京にも伝えられ、ほどなく「岸コール」が起こるようになります。こうして1939年、岸は商工省に復帰、商工次官に就任します。  
この満州での3年間で、岸はさまざまな人脈を築きました。なかでも重要だったのが、満州を事実上治めていた「関東軍」の主要メンバーたちとの交流でした。  
特に岸が関係を深めたのが、当時関東軍の参謀長だった東条英機でした。このときの関係が、その後の東条内閣への岸入閣へ大きく影響することはいうまでもありません。  
東条内閣への入閣  
こうして岸は統制経済を率いる革新官僚のリ−ダ−的存在となりました。省庁横断的に「月曜会」という革新官僚の会が作られましたが、その中心となったのが岸であることはいうまでもありません。  
このような岸の「政治力」はしばしば反発を招き、彼の次官辞任にまで発展するようなあつれきも起こすのですが、1941年、東条が首相になると岸は商工大臣として入閣、いよいよ政治の表舞台に姿を現わすことになります。  
また、翌年の総選挙(大政翼賛会推薦以外の候補に政府が露骨な妨害を行ったため「翼賛選挙」といわれる)で当選、衆議院議員にもなります。革新官僚から「政治家」となった瞬間でした。  
岸が入閣した東条内閣は太平洋戦争を開戦した内閣として知られていますが、そのような状況のなか、いよいよ本格的な「戦時体制」となった日本において、岸は産業体制のさらなる統制を断行。  
さらに軍需省創設にも力を注ぎ(1943年)、軍需生産の効率化に寄与。商工省は軍需省に吸収され、東条が自ら軍需大臣を兼ねますが、岸も次官として東条を支えていました(ただし、国務大臣の地位はそのまま)。  
しかし、このときすでに戦局は悪化の一途をたどっていました。  
一転、反東条運動に加わる  
1944年、日本はアメリカ軍に相次いで拠点を奪われ、劣勢は明らかな状態でした。それとともに「東条責任論」もささやかれはじめ、彼の求心力は急速に落ちていきます。  
そして同年7月、サイパン陥落。日本の制空権はほぼ奪われる形になります。これを機に、岸は「戦争続行の不可能」を主張し、東条と対立するようになります。  
東条は岸の更迭などを含む大幅な内閣改造を重臣グループに提案しますが、重臣たちも東条を見放していました。こうして東条内閣は倒壊することになります。  
岸がなぜいきなり反東条にまわったのか、よくはわかっていません。終戦後の訴追を見越した「アリバイ作り」という説もありますが、この時点でそこまで考えていたかどうかも疑問があります。  
このあとも彼は動きます。終戦直前の1945年3月、大政翼賛会の政治部門は崩壊し、大多数が「大日本政治会」に入りますが、岸は自ら実質的リーダーとなって「護国同志会」を結成します(ただし、このとき岸は議員を辞職していた)。 
首相に上り詰めた岸の足をすくったもの

 

戦犯容疑者として逮捕  
戦後、岸は戦犯容疑者として逮捕され、東条らが処刑される翌日までのおよそ3年間を獄中で過ごすことになります。結局岸は訴追されることなく、釈放されるのでした。  
その間、米ソ冷戦が激しさをましてきていました。当初はいわゆる「東京裁判」に嫌悪感を示し、反米の姿勢を見せていた岸も、やがてこの冷戦を機に、日本をアメリカと対等な「同盟国」とし、その復活をはかろうと考えるようになります。  
後の安保条約改定は、まさにこのときの考えの延長線上にありました。「日米相互防衛」などを明確に規定することで、日本をアメリカの「従属国」から対等の「同盟国」に格上げし、日本の地位を高めることを彼は考えたのでした。  
戦犯容疑者から首相に上りつめる  
サンフランシスコ平和条約の発効(1952年)によって公職追放解除を受けた岸は、本格的に政治活動を復活させます。まず彼は、保守政党ではなく社会党右派との提携を考えます。  
彼の社会主義的性格からするとそれほど唐突なことでもないのですが、結局これは不調に終わります。岸は吉田首相率いる自由党に入党し衆院議員に復活しますが、このときから反吉田を掲げる鳩山派と吉田派の抗争が激しさを増していました。  
結局、岸は鳩山が自由党から離脱して作った日本民主党に入党、幹事長に就任します。事実上、岸が反吉田派のナンバー2となったのでした。そして1954年、吉田は退陣、鳩山内閣が成立します。  
そして直ちに岸は民主党の自由党との合同に着手、1955年に自由民主党結党を実現させ、初代幹事長となります。その後、翌年の鳩山退陣後の総裁選で石橋に僅差で敗れるものの、石橋が病気のため2ヶ月で退陣したため、岸は3代目の自民党総裁、そして首相へと上り詰めたのでした。  
岸が安保改正直前につまづいた問題  
首相となった当時の岸は低姿勢でした。社会党への刺激はなるべく減らして無事に国会を乗り切ると、彼は東南アジアを歴訪、そしてアメリカにも訪問して首脳会談を行うなど、精力的な外交日程をこなしました。  
このころから、日米安保の改定作業が両国で行われるようになりました。吉田政権が結んだ旧安保はアメリカ軍の駐留を許すのみで、アメリカが日本を本当に守ってくれるのかどうか、さだかでないものでした。  
この不平等性をなくそうと岸は努力することになります。  
ところが、岸は思わぬところで失敗をしてしまうことになります。警察官の職務内容を増やす警職法の改正を無理やり行おうとして、世論の猛反発を受けることになります。  
出し抜けてきにこの法案を強行採決した岸政権に反発して労働組合は一斉にストに突入、国会は群集によって包囲されてしまいます。戦犯容疑者という過去もあって、このころから岸に「反動政治家」というレッテルが貼られるようになってしまいます。これは岸にとって大きな失敗でした。  
そして、自民党からも岸のやり方に批判が集まるようになり、反岸派の力が日増しに大きくなっていきます。有力政治家が閣僚を辞任するなどし、岸包囲網は自民党のなかにおいても徐々に狭まってきていたのです。  
もしこの警職法改正問題で岸がつまづかなかったら、安保改正闘争はどのような動きを見せていたのでしょう。気になる点です。  
岸の「教訓」は安倍首相にいきるか  
そしてよく知られているように、岸は安保条約改定とともに退陣を余儀なくされます。空前の反対闘争をしずめるには、それしかありませんでした。  
岸は決して理念のない政治家ではありませんでしたが、それよりも「結果」を重視した現実主義者であったということがいえるでしょう。しかしそのことが、彼を「権謀術数の政治家」といわしめる点でもあります。  
しかし、その彼でさえ、警職法改正問題で「低姿勢」なイメージを落とし「反動政治家」のレッテルを貼られてしまい、それが空前規模の安保闘争に火をつけることになってしまいました。  
安倍首相がこの「教訓」を生かしきることができるでしょうか。今の「清廉・低姿勢」のイメージを今後も守ることができるか。その点を注目していきたいと思います。  
 
文鮮明師裁判と岸信介

 

岸信介は文鮮明師の裁判について米国大統領に意見書を提出  
親愛なる大統領閣下  
本日私たちは恐らく前例がないと思われる憂える米国民および世界市民の集まりとして、閣下にこの書状をしたためております。この集まりは、特に報道・通信分野で活動する者たちを代表しています。(中略)  
「教会と国家」の問題はあまりにも数多くありますが、その中で閣下に書き送るという点で、私たちが一致した問題は、合衆国と文鮮明師との間の訴訟です。私たちは文鮮明師を弁護する必要も、文師の教会を支持する必要もないのです。私たちの伝統が、すなわち万民に対し自由と正義を認めるという遺産が、文師にも同様に与えられるべきであるという、強い信念のゆえの行動なのです。  
文師は米国で評判のいい人物ではありません。彼は強固な反共の立場を取り、同時に伝統的な価値観をはっきりと擁護しました。多くの人々がこれらの価値観を嘲笑している時にです。このような文師とその教会の人気のなさにもかかわらず、文師の訴訟は、事実上キリスト教会全体から支援されただけでなく、米国の主な公民権擁護団体の多数から支持されました。  
歴史上の主な宗教指導者が皆そうであったように、文師は今、迫害のただ中にいます。文師は誰かの助けがあってもなくても、最終的にはこの期間を乗り越えて、神の真の人として認められるようになるだろうと思います。しかし、精神的、物質的再復興という神から与えられたこの国の使命にとって、今世紀最大の希望の灯をともしている政府の下で、このような不正が行なわれているのを見るのは痛烈な皮肉であり、悲劇です。米国は信仰と道徳と正義の善なる手本を自ら示すことで、世界を導いていくという使命を担っているのです。  
「宗教の自由」が、米国で保障されている自由の根幹を成していることを考えると、「宗教の自由」が侵害されているのを見ることは、実に恐るべきことであります。文師の裁判では、文師を支援する書状が、米国でも著名な人々や、主流教会をはじめ3人の州検事総長を含む40の主要団体、個人から合衆国最高裁宛に提出されました。最高裁史上、これほど多くの支援が寄せられた人はいないのですが、それでもなお、最高裁は審理することさえ拒否したのです。  
300万人近い人々の宗教指導者で国際的にも認められている人物が、このような状況下で米国の刑務所に投獄されていることは私たちにとって非常に気がかりです。大統領閣下、私たちは「宗教の自由」および「言論の自由」を保障した米国憲法修正第一条に基づいて、閣下が直ちに過ちを是正する行動を取るようお勧めするものであります。文師を引続き投獄しておくことは、国家にとっても何ら利益になりません。私たちは閣下がこの問題に注意を向けてくださるようお願いするものであります。  
敬具  
 岸信介 元・日本国総理  
 ダグラス・マッカーサー2世 元・駐日大使  
 ジャック・スーステル博士 元・フランス副首相  
 
自由民主党のあゆみ

 

保守合同前史  
わが国の戦後民主政治は、昭和二十年八月十五日の太平洋戦争の終結と、連合軍による占領政治の開始とともに、その幕をあけました。  
しかし、それから「保守合同」による自由民主党の結党までの十年間は、終戦後の社会的・経済的混乱、急激な民主的改革、占領政策の変化等によって、文字どおり激動と混乱を続け、平和条約締結後も占領政治の後遺症からぬけだすことに精一杯で、いわば戦後民主政治確立への、生みの苦しみを続けた「準備期」であったといえましょう。  
終戦直後の十一月、鳩山一郎氏を中心とする「日本自由党」の結成を皮切りに、「日本社会党」「日本進歩党」「日本協同党」「日本共産党」などの各政党が旗揚げし、それぞれ多彩な政策、綱領を掲げて出発したのでした。  
だが、その後、連合軍総司令部の指令による公職追放や政治介入が進むにつれて、戦後政治はめまぐるしく揺れ動いたばかりでなく、選挙による各党の消長とともに、政界分布図もまた、激しく流動を続けました。  
自由民主主義政党の各派についてみると、まず「日本協同党」が二十一年五月、他の少数党と合同して「協同民主党」となり、さらに翌二十二年三月には、国民党といっしょになって「国民協同党」を結成しました。また「日本進歩党」は、二十二年三月には「日本民主党」となり、のちに「国民協同党」と合同して「国民民主党」に変わり、独立回復直前の二十七年二月には、解党して「改進党」を結成し、二十九年十一月に「日本民主党」に発展したのです。  
他方、「日本自由党」は、二十三年三月、民主クラブと統合して「民主自由党」となり、二十五年二月には、民主党連立派と合流して「自由党」を名乗るにいたり、ようやく自由民主勢力は、自由党と民主党との二大潮流に整理、再編成されたのでした。  
また革新陣営では、「日本社会党」は結党以後、長い間左派と右派の対立を続けていましたが、二十六年十月、平和条約と日米安保条約に対する去就をめぐって意見が対立、ついに左右両派に分裂したのです。  
この間、内閣のほうも、終戦直後の東久邇、幣原両内閣に続き、第一次吉田内閣、片山内閣、芦田内閣、第二次から五次までの吉田内閣、鳩山内閣と変転しました。しかし、昭和二十二年六月から翌二十三年二月までのわずか八カ月間、片山哲氏を首相とする社会党内閣が存在したのを除けば、終始一貫、自由民主主義内閣による政治が続いたのでした。  
しかもその間、連合軍による占領行政は、形の上では日本政府を表に立てた「間接統治」ではあっても、実質的には、連合軍総司令部の指示と意向によって左右される「直接統治」に等しいものでしたから、歴代内閣がその行きすぎや、国情無視の占領政治を是正するために払った苦労は、筆舌に尽くせないものであったのです。それでも歴代の自由民主主義内閣は、敗戦直後の廃墟の中からの日本の建て直し、空前の食糧難の打開、行きすぎた労働争議など社会的混乱の克服、現行憲法の制定、農地改革、教育改革、一ドル三百六十円の固定相場制への移行、財政の確立をはじめ、新憲法制定にともなう内閣法、国会法、裁判所法、地方自治法、財政法、労働関係法、教育基本法、学校教育法、独占禁止法等の憲法関連諸立法を重ねて、今日にみるわが国民主社会の基本制度を固めたのでした。  
こうして、激動と混乱に明け暮れた占領下の政治も、二十三年十月、民主自由党総裁の吉田茂氏が第二次吉田内閣を組閣し、翌二十四年一月の総選挙で圧倒的勝利をおさめるにおよんで、ようやく長期安定政権の基礎が固められたのです。以後吉田内閣は、二十九年十二月の退陣まで、足かけ六年にわたって政権を担当し、日本経済の再建、平和条約締結による独立の回復と国際社会への復帰等、歴史に残る偉業を達成したのでした。  
吉田内閣時代の不滅の功績は、何といっても、二十六年九月八日、サンフランシスコで調印された平和条約による独立の回復と、日米安全保障条約によるわが国の平和と安全の確保でありましょう。  
当時、その前年に突発した朝鮮動乱と、冷戦時代の深刻な東西対立という国際情勢を背景に、共産党、社会党左派、左翼的文化人の間には、「全面講和・安保阻止」の主張が異常な高まりを示していたのです。しかし吉田首相は、毅然として所信を貫き、これらの反対論を押しきって「多数講和・安保締結」に踏み切ったのでした。  
その後の歴史にてらして、この両条約の締結が、わが国の平和と安全を守り、国民の自由を取り戻し、やがて世界の歴史に類をみない経済的繁栄をもたらす前提となったことは、あまりにも明らかであり、その意味で、吉田首相および自由民主主義政党の決断は、歴史的な選択として、長く後世に残る偉業だったというべきでしょう。  
独立回復後、吉田内閣はさらに、(1)自由国家群との提携、(2)国力の充実と民生の安定および自衛力の漸増的強化、(3)国土開発、生産増強、貿易振興による経済自立などの「独立新政策」を打ち出し、独立体制の整備と民生安定、経済再建をめざす諸施策に意欲的に取り組みました。  
すなわち、二十六年から翌二十七年にかけて制定された「破壊活動防止法」「義務教育費国庫負担法」「電源開発促進法」「新警察法」「防衛庁設置法および自衛隊法」「義務教育諸学校の教育の政治的中立の確保に関する臨時特例法」「電気事業、石炭鉱業におけるスト規制法」「厚生年金保険法」「学校給食法」「硫安需給安定法」等の重要立法がそれです。  
しかし、さすがの吉田安定政権も、長期の政権担当による人心の倦怠には勝てず、二十七年四月の平和条約・日米安保条約の発効と独立回復を境に、人心は次第に吉田内閣を離れ、これを背景に政界は不安定化していきました。こうした情勢が、「保守合同」による政局転換をめざす気運を急速に高め、吉田首相もついに二十九年十一月、政局打開のため進退を党の会議に一任する旨の書簡を自由党幹部に送りましたが、続いて改進党と、自由党から離脱して結成した日本自由党が合体して、「日本民主党」が結成されるにおよんで、その直後の十二月七日、総辞職を決意するにいたりました。  
このあとをうけて、日本民主党総裁の鳩山一郎氏が、同年十二月十日、首相に指名されて、第一次鳩山内閣が成立しました。  
鳩山内閣は、(1)住宅問題の解決、(2)中小企業対策の充実、(3)失業対策の強化、(4)税制改革、(5)輸出の振興等を重点政策に掲げて、翌三十年一月の総選挙に臨みましたが、開票の結果は、日本民主党百八十五、自由党百十二、日本社会党左派八十九、同右派六十七、その他十四議席という勢力分野となり、小党分立の状態となったのです。  
このため第二次鳩山内閣が発足したものの、政局不安が続いたため、民主、自由両党の合同による政局安定を求める動きが、ますます強まっていったのでした。  
いよいよ戦後民主政治も、十年間にわたる「準備期」を終えて、新しい「興隆期」に向かって、大きく飛躍すべき転換期にさしかかっていたのです。 
自由民主党結成  
先述のとおり、終戦後の十年間は、内外ともに苦難と激動と独立体制の基礎固めの時代であり、政界もまた、自由民主陣営、革新陣営を問わず大きく動揺を続けました。  
しかし、そのような環境の中で、国民も政治家も、実に多くのことを体験し、学びました。そして、やがてその貴重な体験と反省の中から、わが国が真に議会制民主政治を確立して、政局を安定させ、経済の飛躍的発展と福祉国家の建設をはかるためには、自由民主主義勢力が大同団結し、一方、社会党も一本となって現実的な社会党に脱皮し、二大政党による健全な議会政治の発展をはかる以外にない、という強い要望が国民の間にも、政治家の間にも芽生えてきたのでした。  
このような国民世論の強い要望と、自由民主主義政党内部での反省も加わって、「保守合同」への動きは、二十八年ごろから活発化したのですが、二十九年十一月の改進党と日本自由党の合同による「日本民主党」の結成を経て、三十年五月の民主・自由両党幹部会談、同年六月の鳩山民主・緒方自由両党総裁の党首会談から、本格的な自由民主勢力の合同への動きが始まったのです。  
とくに、この鳩山・緒方会談は、「保守勢力を結集し、政局を安定させる」ことで意見の一致をみた歴史的な会談でした。  
これをきっかけとして事態は急進展し、民主・自由両党から選出された政策委員会で、新党の「使命」「性格」「政綱」づくりの作業が進められる一方、新党組織委員会では、新党の基盤になる党組織の構造の研究が行われ、その成果にもとづいて広く国民に根をおろした近代的国民政党としての「組織要綱」、党の民主的運営を規定する「党規・党則」「宣伝広報のやり方」等の立案作業が行われました。  
やがて、これら新党の根幹となるべき「政策」「組織」の基本方針の策定が完了したので、十月には政策委員会も新党組織委員会も「新党結成準備会」に切りかえられ、政党の生命ともいうべき「立党宣言」「綱領」「政策」「総裁公選規程」等が最終決定されたのです。  
最後まで問題になったのは、新党の名称でしたが、広く党内外に公募した結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」に決定しました。  
こうして諸般の準備が完了し、民主・自由党の合同による「自由民主党」は、とりあえず鳩山一郎、緒方竹虎、大野伴睦、三木武吉の四氏を総裁代行委員として、全国民待望のうちに昭和三十年十一月十五日、東京・神田の中央大学講堂において、華々しく結成大会を開き、ここに戦後最大の単一自由民主主義政党として歴史的な発足をみました。ちなみに、当時の自由民主党所属国会議員は、衆議院二百九十九名、参議院百十八名です。  
自由民主党は、まず「立党宣言」の冒頭で、「政治は国民のもの、即ちその使命と任務は、内に民生を安定せしめ、公共の福祉を増進し、外に自主独立の権威を回復し、平和の諸条件を調整確立するにある。われらは、この使命と任務に鑑み、ここに民主政治の本義に立脚して、自由民主党を結成し、広く国民大衆とともにその責務を全うせんことを誓う」とうたったあと、「われら立党の政治理念は、第一に、ひたすら議会民主政治の大道を歩むにある。従ってわれらは、暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する。第二に、個人の自由と人格の尊厳を社会秩序の基本条件となす。故に、権力による専制と階級主義に反対する」と、自由民主政治の基本精神を明らかにしました。  
また「党の性格」については、(1)わが党は国民政党である、(2)わが党は平和主義政党である、(3)わが党は真の民主主義政党である、(4)わが党は議会主義政党である、(5)わが党は進歩的政党である、(6)わが党は福祉国家の実現をはかる政党である、と規定し、「綱領」には、  
一、 わが党は、民主主義の理念を基調として諸般の制度、機構を刷新改善し、文化的民主国家の完成を期する  
一、 わが党は、平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して、国際関係を是正し、調整し、自主独立の完成を期する  
一、 わが党は、公共の福祉を規範とし、個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し、民生の安定と福祉国家の完成を期する  
と定めました。  
かくして、わが国戦後民主政治の発展に画期的な歴史を画する自由民主党の歩みは、ここに始まりました。  
なお、これより一カ月早く、社会党はすでに左右両派の統一をみていましたから、いわゆる保守・革新の二大政党時代が本格的に幕あけしたことになり、日本の政治は、これを契機として全く新しい前進を示すものと期待されたのです。 
初代 鳩山一郎 

 

民主・自由両党の合同による新党結成から約四カ月間、自由民主党は、総裁代行委員制のもとで地方の党組織の確立に全力をあげ、都道府県支部連合会の結成を完了したので、昭和三十一年四月五日、第二回臨時党大会を開いて、国会議員に地方代議員を加えた総裁選挙を行い、初代総裁に鳩山一郎氏を選出しました。  
これを契機として、大衆政治家としての鳩山新総裁と、自由民主党に対する国民の期待の高まりは、まさに爆発的なものになりました。同年七月の参議院選挙では、このような国民的人気を背景に、鳩山首相は、不自由な身体をおして全国遊説し、「友愛精神」の政治理念と、日ソ国交回復、独立体制の整備、経済自立の達成などの政策目標を訴えて、いわゆる"鳩山ブーム"をまき起こしました。その結果、自由民主党は、非公認当選者を加えて全国区、地方区合計で六十四議席を獲得、社会党を圧倒したのでした。  
また政策面でも、鳩山内閣は、独立体制整備と経済自立の達成をめざして、「憲法調査会法」「国防会議構成法」「新教育委員会法」「日本道路公団法」「科学技術庁設置法」「首都圏整備法」「新市町村建設促進法」等の立法化を行い、内政面でのめざましい充実をはかったほか、外交的にも、フィリピンとの賠償協定を締結して戦後処理をさらに一歩前進させました。  
しかし、鳩山内閣時代の不滅の業績は、何といっても、戦後の長い外交懸案だった日ソ国交の正常化であったのです。  
この問題解決を政権担当いらいの悲願としてきた鳩山首相は、同年十月、自ら病躯をおしてモスクワを訪問し、陣頭指揮で交渉に当たりました。日ソ交渉は、南千島の領土権をめぐって難航を続けましたが、同月十九日、ついに「日ソ国交回復に関する日ソ共同宣言」「貿易発展、最恵国待遇相互供与議定書」の調印をみるにいたったのです。  
これはまさに、吉田内閣時代における平和条約と日米安保条約の締結に並ぶ、戦後日本外交史上の二大イベントの一つであり、身命を賭してこの歴史的偉業を達成した鳩山首相の功績は、戦後の日本政治史に不朽の事績として刻みこまれることでしょう。また同年十二月、わが国の国連加盟が実現したことも、鳩山時代を飾る輝かしい外交的成果でした。  
しかも、政治生命を賭けた「保守合同」と、「日ソ国交回復」の二大宿願を果たした鳩山首相は、心中深く期するところがあり、日ソ交渉を終えて帰国後ただちに、総理・総裁引退の声明を発表したのです。そして同年十二月の第二十五回臨時国会で、日ソ共同宣言など四議案が承認され、批准書を交換して正式に国交が回復されるのを待って、たんたんとして政権の座を去ったのでした。 
第2代 石橋湛山

 

鳩山内閣が退陣したあと、同年十二月十四日、石橋湛山氏が第二代総裁に選ばれました。  
石橋新総裁は、激しい総裁選挙の結果、選出された総裁でした。そのため、新政権の人事は極めて難航しました。  
石橋新総裁としては、(1)派閥にとらわれぬ適材選別主義をとり、党内融合をはかる、(2)積極経済政策を推進するため、経済閣僚の人選を重視する、(3)幹事長、官房長官は意中の人物をあてる、という人事方針に立ち、幹事長に三木武夫氏、総務会長に砂田重政氏を起用しました。  
第二十六回通常国会は、十二月二十日召集され、午後四時から両院で首班指名選挙が行われ、石橋湛山候補が第五十五代内閣総理大臣に指名されました。  
しかし、閣僚人事は難航し、翌日を迎えたが話し合いがつかず、結局、首班指名三日後の十二月二十三日午前、石橋首相一人のみについて親任式が行われました。他の閣僚は、石橋首相の臨時代理または事務取扱というかたちの極めて異例なものとなりました。  
その日の午後、ようやく組閣は終わり、夜になって閣僚の認証式が行われました。しかし、参議院自由民主党からの要望によって閣僚三名を割り振ることは決まったものの、参議院側が防衛庁長官に野村吉三郎元海軍大将を推してきたため、憲法の「文民」条項とのからみから参議院の入閣者が確定できず、石橋内閣は、二、三のポストを首相兼任のかたちで発足しました。専任の小滝彬防衛庁長官が決まったのは、二月に入ってからでした。  
石橋首相は、首相個人の経歴と庶民的な人柄から「平民宰相」と呼ばれ、「一千億減税・一千億施策」を柱とする積極経済政策と、政官界の綱紀粛正、福祉国家の建設、雇用の増大と生産増加、国会運営の正常化、世界平和の確立など「五つの誓い」を発表して、大衆的人気を集めて内閣支持率は高率に達しました。  
ところが、残念なことに、翌三十二年、新春早々からの全国遊説と、予算編成の激務が原因となって病に倒れ、同年二月二十二日、「私の政治的良心に従う」との辞任の書簡を発表して、政権担当いらいわずか九週間で、石橋内閣は総辞職のやむなきにいたったのです。しかし、このときの石橋首相の責任感にあふれた潔い態度は、ひとり政治家のみならず、一般国民にも深い感銘を与えました。  
六十五日間の石橋内閣 その実績としては、わずかに前半、全国遊説の先々で国民に訴えた抱負と、首相臨時代理の岸外相によって代読された施政方針演説が残されただけです。しかし、石橋首相はその潔い出処進退によって政治家のモラルのあり方を示し、これには野党も敬意を表し、世の中も石橋首相のために同情と賛辞を惜しみませんでした。 
第3代 岸信介

 

石橋首相の病気辞任のあとをうけて、岸信介氏が首相の座につき、昭和三十二年二月二十五日、岸内閣が発足しました。  
以後、三年四カ月にわたる岸内閣時代の最大の政治的な業績は、なんといっても日米安全保障条約の全面改定をあげねばなりません。岸内閣は、左翼勢力の激しい集団暴力にも屈せず、従来の不平等な日米安保条約の改定に全精力をつぎこみましたが、この日米新安保条約こそは、その後の激動するアジア情勢の中でのわが国の安全確保と、世界の平和維持に貢献したばかりでなく、世界の驚異といわれる経済的繁栄の達成を可能にした大きな要因となったもので、その意味で岸内閣の果たした役割は、まさに歴史的な功績だったといえるでしょう。  
しかし、岸内閣の功績はそれにつきるものではなく、岸時代の特色として、次の二つを見逃すことはできません。  
そのまず第一は、自由民主党立党の成果の上に立って、党の政治的基盤を中央、地方を通じてがっちりと、日本の政治の中に定着させたことであります。第二には、真の独立日本建設の意欲に燃えて、占領時代色の脱皮をめざす新しい内外政治の本格的な推進に取り組んだことです。  
このような自由民主政治の基礎固めと、内外政治の面で果たした新しい前進は、このあとに続く自由民主党政治の「栄光の時代」への礎石を築いたものとして、高く評価されるものだったのです。  
首相就任直後の三月、第四回党大会で第三代総裁に選任されたとき、岸新総裁は、次のように就任の抱負を述べました。  
「自由民主党の伸びが、たんに議席の増加としてではなく、また選ぶものと選ばれるものの間が、因縁のきずなによって結ばれるものでもなく、選ぶもの一人ひとりに、自由民主党を支持する理由がはっきりするようになること、また農民、勤労者、婦人、青年の方々に、真に信頼を託しうる近代的な政党として理解されるよう、党風の刷新と組織の拡充が行なわれなければならない」  
このような党近代化と、幅広い国民的な組織政党をめざそうという岸総裁の意欲的な指導のもとに、自由民主党は、同年九月から十月にかけて、党役員・閣僚を総動員して全国遊説を行い、自由民主党の政治理念と政策を国民に訴えるとともに、党勢拡張のため「五百万党員」の獲得運動を全国的に展開しました。やがてこうした積極的な努力が実を結び、中央、地方を通じて、各種選挙での圧倒的な勝利をもたらし、自由民主党の政治的基盤は、確固不動のものとして安定するにいたったのです。  
すなわち、三十三年五月の二大政党下初の総選挙では、自由民主党は、二百九十八議席(選挙後の入党十一名、繰り上げ当選三名を含む)を確保し、社会党の百六十七議席を大きく引き離し、絶対多数の体制を固めました。次いで翌三十四年六月の参議院議員選挙でも、社会党が、前回に比べ全国区、地方区あわせて十一議席も激減したのに対し、自由民主党は逆に十議席を増やし、非改選議席とあわせて百三十二議席となり、安定過半数を確保したのでした。  
一方、同年四月の統一地方選挙では、福岡、茨城の両県を除く各都道府県知事選挙で社会党をおさえたほか、都道府県会議員は定員二千六百五十四名のうち千七百四十八名、市町村会議員にいたっては、保守系無所属議員を加えると、実に全議席の八五%を超えるという躍進ぶりだったのです。  
岸内閣は、このような政治的安定に自信を得て、進歩的国民政党の自覚のもとに、内外政策の力強い推進に乗り出しました。それらのうち、岸内閣時代の政治的業績として、とくに見逃せないのは、次の諸施策です。  
まず内政面では、  
(1) 老齢者、母子世帯、身体障害者に対する「国民年金法」を制定したのをはじめ、国民健康保険法の全面改正を行い、国民の一人びとりが残らず健康保険をうけられるようにする「国民皆保険」(実施は三十六年)への道を開き、また「最低賃金法」の制定を行うなど、福祉国家の建設に向って大きく前進したこと  
(2) 実質六・五%の経済成長と五百万人の雇用増加、四割の生活水準の向上などを内容とする「新長期経済計画」を策定し、以後約四半世紀におよぶ高度経済成長時代への端緒をきりひらいたこと  
(3) 「道路整備五カ年計画」をつくり、一兆円の資金を投入して幹線道路の完全舗装、地方道の整備などに力を入れ、今日、全国各地でみられるようなりっぱな道路網づくりの糸口をつくったこと  
(4) すし詰め教室の解消や、老朽危険校舎の改築のため、「学校施設の国庫負担制度」を確立して、現在みるような鉄筋コンクリートづくりの近代的校舎をつくる道をひらいたこと  
などが、とくにめざましい成果だったでしょう。  
また外交面では、  
(1) 鳩山内閣時代の国連加盟のあとをうけて、「国連中心の平和外交の展開」「自由主義陣営諸国との協調」「東南アジア諸国との親善協力関係の強化」という三原則を確立し、その後の日本外交の基調を固めたこと  
(2) 岸首相の二度にわたる東南アジア、米国訪問をはじめ、欧州、中南米諸国歴訪など積極的な外遊によって、これら諸国との親善友好関係を強め、戦中、戦後の外交的空白を埋めて、わが国の国際信用を高めるのに貢献したこと  
(3) その他、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアなど東欧諸国と相次いで国交を樹立したのをはじめ、カンボジア、ラオスへの経済援助、インドネシアとの平和条約、賠償協定、ベトナムとの賠償協定の調印など、戦後処理に着実な成果をあげたこと  
などの功績を見逃すことはできません。  
国連加盟後、なお日の浅いわが国が、三十二年十月には国連安全保障理事会の非常任理事国、三十四年十月には同経済社会理事国に選ばれたのも、そうした外交努力の一つの成果だったといえるでしょう。  
しかし、岸内閣時代の後半は、教職員の勤務評定問題、警察官職務執行法の改正問題等をめぐって、社会党、総評、共産党などこれに反対する左翼勢力と鋭く対立し、やがて日米安全保障条約の改定問題にいたって、自由民主陣営と左翼陣営との対決は頂点に達したのです。  
このように政局が、二つの勢力にわかれて激突し、はげしく相争った原因としては、まず第一に、当時の冷戦時代を背景に、東西両陣営の国際的対立がそのまま国内政治に反映したこと、第二には、「独立体制確立」の立場から、行き過ぎた占領行政のより現実的で、国情に即した是正に積極的に取り組もうとした岸内閣の施政に対して、観念的なイデオロギーや、社会主義政党としての立場に固執する社会党など左翼勢力が、教条的な対決行動に出たことなどが指摘できるでしょう。  
だが、それにしても許せないのは、これら一連の問題を通じて、社会党、共産党などの左翼政党が、院内での議事引き延ばし、審議拒否、座り込みなどの実力行使はいうにおよばず、総評、全学連などが院外での大規模な集団デモ、違法スト、はては国会乱入など手段を選ばぬ集団的暴力行動によって、国政を左右しようとする反議会主義的、暴力主義的な動きに出たことです。  
その結果、とくに三十五年五月の衆議院本会議での、新安保条約その他の関係案件の審議に当たっては、警官隊の国会内導入という異例の非常手段を講じて、これら勢力の暴力を排除しなければなりませんでした。そればかりでなく、翌六月には、アイゼンハワー米大統領の来日準備のため、羽田空港に着いたハガチー大統領新聞係秘書に対して、デモ隊が乱暴を働き、ついに同大統領の来日が不可能になるという国際的不祥事件までひき起こしたのです。さらに、全学連を中心とする暴力デモ隊が国会構内に乱入した際には、女子学生一名が死亡、デモ隊、警官隊の双方に数百人にのぼる負傷者を出す流血の惨事まで引き起こし、わが国議会史上に大きな汚点を残したのです。  
このような左翼陣営の破壊活動に対して、自由民主党は、勤評騒動、警職法騒動、安保騒動のたびごとに、党組織、広報活動の総力をあげて国民運動を展開し、良識ある国民大多数の理解と支持を集めることができました。  
さしもの「六〇年安保騒動」も、六月十九日、参議院での条約批准承認案件の自然成立とともに、潮がひくように沈静化したのですが、その間、約半年余にわたり社会党、総評、共産党など左翼陣営の集団的暴力行為に屈することなく、毅然として、安保改定の所信を貫いた岸内閣および自由民主党の決断は、長く歴史に残る功績だったといわねばなりません。  
こうして、画期的な安保条約改定の大事業をなしとげた岸首相は、それを機会に「人心一新」と「政局転換」の必要性を痛感し、六月二十三日、退陣の決意を表明したのでした。  
 
 
中曽根康弘1

 

(大正7年(1918)- ) 日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。財団法人世界平和研究所会長。中曾根 康弘とも表記される。衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第34・35代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)などを歴任した。  
衆議院議員連続20回当選(1947年〜2003年)。  
現職は財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。  
職歴は内務省、大日本帝国海軍を経て、内務省に再勤、退官後、衆議院議員選挙に立候補。 以来、中曽根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、内閣総理大臣となる。  
2004年7月19日に鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者であり、昭和の総理大臣の最後の存命者となった。 
人物
出生から大学卒業・内務省入省まで  
群馬県高崎市に材木商・中曽根松五郎の次男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタール(3万平方メートル)もあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという。  
地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。  
同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇や小沢辰男、大村襄治らがいた。  
海軍時代  
短期現役制度に応募し、1941年(昭和16年)8月に大日本帝国海軍の海軍経理学校'にて初任教育を受ける。海軍主計中尉に任官、海軍主計科士官となって連合艦隊に配属されると、第一艦隊第六戦隊の旗艦である巡洋艦青葉に乗艦し、高知県の土佐湾沖の太平洋上で猛訓練を受けた。  
同年11月20日に転勤命令が下り、広島県呉市の司令部に緊急配属されると、第二設営隊の主計長に任命され、参謀長より、工員2000名に多少の陸戦隊をつけて、敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにしろとの命令を受ける。この時の目的地と物資の量は「蘭印(インドネシア)三ヵ月分、比島(フィリピン)三ヵ月分」だった。それから出航する29日までは、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。  
29日は予定通り、14隻の船団で出航。中曽根は「台東丸」に乗船。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、後で自らの部屋である主計長室にその男を呼んだ。そして、やってきた古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、人心掌握に努めた。  
1941年12月7日に太平洋戦争に突入すると、最初はフィリピンのミンダナオ島のダバオに敵前上陸することとなる。上陸戦闘は獰猛なモロ族と闘い、アメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の猛爆撃を受けた。また明け方近くになると、決まってB-17がやってきたという。  
次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。そしてようやくバリクパパンの湾に入って上陸しようとしたら、オランダとイギリスの巡洋艦から、いきなり攻撃を受けてしまう。こちらには軽巡洋艦神通がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は、あっという間に撃沈されてしまい、さらに接近してきた敵艦から副砲や機関銃で攻撃され、それが船尾に当たり火災が発生してしまう。  
消火班長でもある中曽根は飛んでいって火消しを行うが、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、手や足が吹っ飛んでいるもの、血だるまになり「助けてくれ」とうめくもの。そしてどこからか「古田班長がやられている」という声に誘われて行ってみると、古田が誰かに背負われていた。足は砲弾にやられて皮一枚でようやくつながっており、中曽根に「隊長、すまねえ」とだけいうと、すぐに息を引き取った。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの波が打ち寄せる海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。  
友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜  
夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ  
当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。  
「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです」  
中曽根はその後も主計科士官として従軍し1944年10月の「捷一号作戦」(いわゆる「レイテ沖海戦」)には戦艦「長門」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。  
終戦時の階級は海軍主計少佐であった。 
政治家への転身

 

少壮議員時代  
戦後内務省に復帰し、 内務大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視・監察官を務める。その後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年の保守合同までの所属政党は、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党。この間、反吉田勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。  
1954年3月2日、一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている。)。1955年の保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いた。  
1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行なったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったりしたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった。  
初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正や首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には福井県の九頭竜ダム建設をめぐる落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。時代は下るが、行政管理庁長官時代の1980年に行われた総選挙においても、富士通や日本製作所から違法献金を受け取るなど、賄賂政治家として日本政治史にその名を轟かせている。  
三角大福中  
第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣で防衛庁長官を歴任。運輸大臣として入閣した際にはそれまで佐藤を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され以後これが中曽根の代名詞になった。防衛庁長官時代には1970年に防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際に、中曽根は防衛庁長官として「事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」と発言し、海原も出席していた議場を騒然とさせた。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体等から強く批判された(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)。1972年には、殖産住宅事件では株取得で証人喚問される。翌年脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人であったため、親友も見殺しにすると囁かれた。  
こうして要職を経験するなかで、いわゆる「三角大福中」の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていた事等から自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、角栄の買収等と後に週刊誌に憶測を呼ぶ事にもなった。  
第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。  
1976年(昭和51年)、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。1978年に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否。非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず早くから本会議での造反に反対するなど三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。  
鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ鈴木首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、よりによって派の後輩の渡辺美智雄にその座を攫われるという屈辱を味わう。しかし財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化等の答申をする事になる土光敏夫の信頼も得る事になった。 
総理大臣就任

 

長期政権  
田中派の支持も得た中曽根は党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年(昭和57年)11月に第71代内閣総理大臣に就任。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ1987年(昭和62年)まで一国の総理の座にあり、小泉内閣に次ぐ歴代第4位の長期政権となった。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。  
ただし、政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「直角内閣」などと揶揄された。これは1983年10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出した後に行われた同年12月の第37回衆議院議員総選挙(田中判決選挙)での自民党過半数割れへとつながり、中曽根は新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一を自治大臣兼国家公安委員長として迎える苦渋を味わった。1984年には福田赳夫元首相に野党の公明党や民社党まで加わった「二階堂擁立構想」まで持ち出されたが、1985年2月に田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年6月の第38回衆議院議員総選挙と第14回参議院議員通常選挙で自民党を圧勝させ、中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。  
一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」等といった激しい批判を浴びた。ただし教育改革については自身の私的諮問機関である臨教審に日教組元委員長の槙枝元文を入れた事が1988年に内示された所謂ゆとり教育に繋げられたという見方も存在している。政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄、勝田吉太郎、香山健一、小堀桂一郎、西義之、佐藤誠三郎等、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者」の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。  
1986年に発生した伊豆大島の三原山噴火では首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行等は、後年の阪神淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。  
一方、広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」等の失言で物議を醸す事も多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。  
首相在任中2度あった総選挙(1983年の第37回と1986年の第38回)では現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制)。これは戦後の首相では中曽根だけ。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。  
中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照のこと)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲や石橋湛山、海部俊樹の例がある)。  
任期後半には上記の通り田中の影響を脱するとともに、バブル経済につながる好景気を演出し、支持率も概ね高水準を維持した。好調すぎる対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブル期において横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネをめぐる問題が再び取りざたされるようになった。 
外交 

 

日米関係  
1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった。時代背景は、ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアがまったく無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。  
1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。  
そして参議院本会議では、鈴木首相・宮澤喜一内閣官房長官と伊東正義外務大臣が日米同盟の解釈をめぐって対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なる事となる。大村襄治防衛庁長官がワシントンでワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。  
おまけに伊東正義外務大臣の後任である園田直が、韓国との関係まで損なう事件まで起こしてしまう。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルのドルの政府借款要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、びた一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をしてしまい、韓国の反発を招く。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。  
1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ日韓関係の修復を図り、アメリカが御執心だった防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。  
訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」及び「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した。一連の防衛力強化政策の仕上げとなったのは、中曽根政権が最後に編成した1987(昭和62)年度予算での「防衛費1%枠」撤廃だった。ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産(GNP)の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取るむきもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy)と批判されることもある。  
また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したため、アメリカの貿易赤字が増加した事に対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。  
ただし、中曽根自身が引き起こした日米間の懸案として、1986年9月に自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言した事から「知的水準発言問題」が起きた。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言した事は北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった。  
不沈空母発言の真相  
ワシントンポスト会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われたワシントン・ポストの外交記者ドン・オーバードーファーの質問に「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連のバックファイアー爆撃機の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳したのだった。  
後日オーバードーファーから、中曽根の秘書官に電話が入り、録音テープを調べなおしたが「不沈空母」なる言葉がなかった、用いた言葉は「大きな船」であり、正確な内容をもういちど記載すると言ってきたが、中曽根は即座に訂正の必要はない、と答えさせた。  
ウィリアムズバーグ・サミット  
中曽根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングIIクルーズ・ミサイルを配備すべきか否か、であった。  
だが、前向きな姿勢なのは、アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。  
そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示す事であり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示す事だ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は、従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。  
そして、政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、また、そのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長の為の十項目からなる共同指針が示されたのだった。  
クレムリンの機密文書  
ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。  
このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っていると言えよう。  
日中関係  
以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったのだが、中曽根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化につとめたので反中派であったかのような印象もある。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曽根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曽根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曽根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としており、このことからも在任当時反中派であったとは言い難い。  
また中曽根内閣当時、中華人民共和国のケ小平は、主敵はソビエト連邦であるとし、日米同盟や日本の防衛力整備を歓迎するコメントすら出してもいた。  
角福対立時代には一貫して日中国交回復支持の立場をとっていることから、中曽根の姿勢は反中的でも一方的な対中追従でもなく、中華人民共和国を親日化することが目的であったと言える。いわゆる「21世紀委員会」の設立、中華人民共和国からの留学生の多数受け入れと日本人青年の中国訪問事業もその一環だった。 
 

 

民営化推進  
中曽根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義・新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社を民営化させた。これによって総評の切り崩す意図があった。また、長年半官半民であった日本航空の完全民営化を推進させた。  
次第に国民からの支持も安定し、1986年(昭和61年)の衆参同日選挙(死んだふり解散)では300議席をこえる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。また、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策をとり、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともあり、批判の声も少なくない。  
退任  
同日選大勝後の中曽根にとって最悪の状態となった。藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も「黒人は知的水準が低い」「日本は単一民族」「女の子が書いた事だから」等の失言が問題化しさらに選挙中に「導入しない」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及されて支持率が一時的に急落。  
1987年(昭和62年)4月の統一地方選を敗北し翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。 さらに、内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。このためNBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。しかし、夏を越すと支持率が復活し、同年11月に余力を持ったまま退任する。ニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一のうちから事実上の後継者指名権を得て竹下を後継に指名(中曽根裁定)した。  
中曽根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下がもっともふさわしいと判断したという。首相在任1806日は歴代6位(戦後4位)、中曽根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。  
「印象に残る存在」  
長期政権を務め(ちなみに彼と小泉純一郎を除く近年の首相はことごとく自由民主党総裁の任期を満了できずに退任している)、前述後述される様々な要因によって強い印象を与えたため、国民の間における知名度は極めて高く、また親しまれ、在職当時はアニメ映画『ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱』に、名前こそ出なかったものの顔がそっくりなキャラクター「首相」が登場したりなどした。ちなみにこの人物も防衛費GNP1%枠内での自衛隊維持を政策として実行していたことが、劇中での側近の台詞によって明かされている。  
1990年代後期になってなお、中央の情勢に疎い田舎の住民から現役の総理大臣として健在であると誤解されている冗談があり(当時のバラエティ番組に出演し上京した田舎の青年が首相官邸を見て『あそこに中曽根総理がいるんですかね』と発言し、ツッコミを入れられる一幕があった)、知名度と印象度、存在感の高さがうかがえる。  
また、陸上自衛隊の駐屯地へ視察(1泊し隊内生活している隊員と一晩を共にする)した際には、トイレットペーパーを自費で購入している話や事務仕事に使用する筆記具などを自腹で購入している話を聞き、それらを公費で購入するよう関係各署へ働きかけをし、自衛隊員の生活面を向上させた功績がある。そのため、当時の隊員が今でも若手にその話を聞かせるなど印象に残っている存在でもある。  
一方でレーガン大統領との緊密さを「ロン・ヤス」関係として国民に強い印象を与えたが、そのコミットの実質は「岸・アイゼンハワー」の関係とは比較にならないとの評価もなされている。  
リクルート事件  
1989年には自身が関与していた戦後最大の汚職事件と言われるリクルート事件が直撃。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し小沢一郎とともに海部俊樹を担ぐが失敗するも党からは貢献度を重視し不処分であった。  
鳩山由紀夫が自民党の巨額の政治資金の実態を明らかにした後に自民党を離党し、旧民主党を創設した際には「政治は友愛だの何だのと綺麗ごとを言うが中身がなく薄っぺらい。ソフトクリームのようにすぐ解けてしまうだろう。」と酷評しこれが流行語候補になる等話題を集めた。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫として主張した。1996年(平成8年)には小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに比例区での終身一位の保証を受ける。  
その後  
1997年(平成9年)2月、憲政史上4人目の議員在職50周年。同年4月、大勲位菊花大綬章を生前受章。同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、結果佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受けた。中曽根派が山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後1999年、亀井静香、平沼赳夫率いる亀井派と合併し志帥会となり、最高顧問に就任。竹下、宮澤とともに本会議場の通称長老席と呼ばれる最後尾に陣取り三人が居眠りをしている写真が老害の象徴として週刊誌や夕刊紙に取り上げられる事もあった。
政界引退後  
2003年自由民主党の比例区における73歳の定年制導入により、2003年の総選挙では、自民党の比例区からの出馬が出来ず、立候補を断念し引退した(なお、比例名簿で終身比例名簿1位から退いたことで比例当選最下位順位の早川忠孝が復活当選している)。  
中曽根は中選挙区制から小選挙区制への移行に際し、比例北関東終身1位を約束されていた。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判があがり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁は中曽根と宮澤の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを、小泉が一方的に破棄して中曽根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曽根は「政治的テロだ」と強く反発した(詳細は上州戦争を参照)。なお、中曽根は宮沢とともに、第42回衆議院議員総選挙では、特例により比例区定年制対象外となっている。  
個人事務所を世界平和研究所内に置く。(旧個人事務所を2009年まで43年間砂防会館内に置いた)。財団法人世界平和研究所で、会長を務め、中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に期す研究業績を表彰する。  
2005年10月28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曽根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文はより大幅に簡略化された内容となる)。  
2007年3月23日午後(ブルームバーグ)における日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時にボルネオ島で設営したと書かれている「慰安所」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らが碁を打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した。しかし、現地女性を集めて慰安所を設置したこと示す資料が見付かったと、2011年に高知市の市民団体が明らかにした。  
2008年9月3日付の読売新聞朝刊に、9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。  
2008年12月7日には自宅で転倒し右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど活動を続けている。また同年10月、急逝した中川昭一元財務大臣の告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られる。  
大連立構想を仲介  
自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。  
ライフワーク  
「自主憲法制定」をライフワークとしており、防衛力増強や「国労つぶし」など革命指向の労働運動への敵対に力を入れたことから、長く左派・中道派や「護憲派」などからは右派、改憲派の頭目として批判を受けてきた。しかし、小泉総裁との関係が悪化した事から、自民党は新憲法起草委員会で前文小委員長であった中曽根が作成した憲法前文の試案を使用せず、中曽根は身内であった自民党によって憲法改正論議の蚊帳の外へ追い出された。 
政治姿勢   
憲法改正  
前述のように改憲をライフワークとしている。現在は新憲法制定議員同盟会長を務めている。  
核武装  
日米同盟が破棄された時に備えて日本は核武装の準備をするべきと主張している。  
小泉内閣への評価  
小泉内閣の最大の功績として「アフガニスタン、イラクでの国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣」を挙げる。最大の失政として「憲政の常道に反し、参議院で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」を指摘。「小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ。」と発言。  
保守意識  
保守本流が、吉田自由党系の池田派佐藤派の系列を指すのが通常で、佐藤派保利系と合同した福田派まで含めることまではあっても、通常中曽根派は含まれない。三木派と並んで傍流扱いされることに反発していた。 
戦後政治の生き証人  
松村謙三から「緋縅の鎧を着けた若武者」と賞賛された新人議員時代や、いち早く一派を率いた時代から平成の世まで保守政界の一方の核にあった。保守合同以前は野党、自民党においても反主流時代が長く、保守本流の嫡流とも言える宮澤喜一(2007年死去)とは別の意味で、国会や内閣、派閥取引の裏事情を知る生き証人として知られ、本人も長い政治生活を背景とした過去との比較などの発言を度々行う。とりわけ、保守合同の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る三木武吉を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ!」とおだて上げ、加藤の乱鎮圧後の野中広務には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。 
交友関係  
ロナルド・レーガン  
レーガンとは互いに「ロン」「ヤス」と呼び合うほどの親密な仲を築き、自著の中でも「たぐい稀な人間的魅力」と評している。 1983年1月16日、中曽根がブッシュ副大統領の晩餐会に招待された席上での事、「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、インディアナ州ミシガンシティのモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後20数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」この話の途中で中曽根は感情がこみあげ言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、ブロック通商部代表、ボールドリッジ商務長官など、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。翌朝シュルツ国務長官から前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。 1983年1月17日、ワシントンポスト紙の社主だったキャサリン・グラハムの朝食会に招かれ、その席上で「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体である」と発言したと、ワシントン・ポストは大きく取り上げた。この会食の翌日にレーガンがホワイトハウスの私的な住居で朝食に招き、その時レーガンから「今後はお互いファーストネームで呼び合おう」と言われたという。 キッシンジャーは「もし政治が可能性の芸術であるならば、レーガンは掛け値なしに一流の芸術家」と発言し、中曽根もこれに同意している。  
マーガレット・サッチャー  
大英帝国伝統の血を引いた現代宰相で卓抜な能力を備え、強気ながらも一方で女性らしい非常にきめ細やかな繊細さを持っていると中曽根は評した。  
竹村健一  
中曽根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曽根がまだ、総理・総裁候補だった頃からの付き合い。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曽根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の一月の全国大会では、毎年中曽根が基調講演を行っている。  
渡邉恒雄  
読売新聞会長の渡邉恒雄とは盟友関係にあり、小泉純一郎の推し進めた郵政民営化や靖国神社参拝などには異議を唱えた。  
田中角栄  
永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲。同じ1918年5月生まれでもある。  
胡耀邦  
『三国志演義』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だという。 1984年9月、「日中友好二十一世紀委員会」が発足。これは胡耀邦と中曽根が「これからの日中関係は、外交辞令ではなく、本音で話し合えるチャンネルを作っておく必要がある」という意図の元に作られたという。  
全斗煥  
中曽根首相の就任から間髪を入れない訪韓は、教科書問題が沸騰した直後にという微妙な時期であったが、晩さん会での韓国語でのスピーチや全大統領のカラオケで韓国語の歌を披露するといったパフォーマンスも奏功してか、学生など少数の左翼過激派を除く韓国人一般に好意的に受け止められた。日韓関係はその後、紆余曲折を経ることとなり、全大統領も部下だった盧泰愚が大統領となるや政治力を奪われ、金泳三政権のもとで冷遇された。そうしたなかで中曽根が、全の来日の際には必ず付き添うなど、過去の盟友に対しての一貫した友情は植民地支配も経験した保守的な韓国人高齢者の間でも好意的に受け止められている。  
胡耀邦総書記への書簡  
胡耀邦総書記閣下  
拝啓 炎暑厳しい折から、閣下には益々御健勝のことと心からお慶び申し上げます。一九八三年秋には閣下を我が国に御迎えして、日中両国の子々孫々の代までの平和と友好の契りを交わして以来、早くも三年の歳月が流れようとしています。顧みますと、その翌春の私の貴国訪問と日中友好二十一世紀委員会の発足、閣下の御提唱による我国青年三千人の御招待による日中青年大交流の成功、北京の日中青年交流センター建設の具体化などを通じて、日中両国の青年・文化交流、経済・科学技術交流は、政府民間のさまざまな分野でかつてない新たな進展を遂げて参りましT。私はこの三年間を振り返って、閣下と私の間で確認し会った日中関係四原則、すなわち「平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定」の考え方が、激動する内外の諸情勢の風雪と試練に耐えて、しっかりと定着しつつあることを、閣下と共に大いなる満足をもって回顧するものであります。日中両国の各分野における交流が量的に拡大するにつれて、両国関係に若干の摩擦、誤解、不安定要因が生起することを完全に避ける事は困難であります。私達にできることは日中関係四原則、なかんずく日中両国の「相互信頼」の原則に立って、日中間に生起する摩擦、誤解、不安定要因を早期に発見し、率直に意見を交換し、小異を残して大同を選び、これらの諸問題の解決のために機敏に行動することによって、問題の拡大を未然に防止し解決を見出すことであると確信いたします。  
私はこの両三年間に生起したさまざまな諸問題について、日中両国がこの基本原則に従って行動し、着実な成果を収めてきた事をよろこばしく思うものであります。日中関係には二千年を超える平和友好の歴史と五十年の不幸な戦争の歴史がありますが、とりわけ戦前の五十年の不幸な歴史が両国の国民感情に与えた深い傷痕と不信感を除去していくためには、歴史の教訓に深く学びつつ、寛容と互譲の精神に基づいて、日中双方の政治家たちが、相互信頼の絆により、粘り強い共同の努力を行う必要があります。  
私は、四十年の節目にあたる昨年「一九八五年」の終戦記念日に、わが国戦没者の遺族会その関係各方面の永年の悲願に基づき、首相として初めて靖国神社の公式参拝を致しましたが、その目的は戦争や軍国主義の肯定とは全く正反対のものであり、わが国の国民感情を尊重し、国のため犠牲となった一般戦没者の追悼と国際平和を祈願するためのものでありました。しかしながら、戦後四十年たったとはいえ不幸な歴史の傷痕いまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました。如何に厳しい困難な決断に直面しようとも、自国の国民感情とともに世界諸国民の国民感情に対しても深い考慮を行うことが、平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定の国家関係を築き上げていくための政治家の賢明なる行動の基本原則と確信するが故であり、また閣下との信頼関係に応える道でもあると信ずるが故であります。  
正直に申せば、私の実弟も海軍士官として過般の大戦で戦死し、靖国神社に祀られています。戦前及び戦中の国の方針により、すべての戦没者は、一律に原則として靖国神社に祀られることになっており、日本国に於いて他に一律に祀られておるところはありません。故に二四六万に及ぶ一般の戦死者の遺族は極少数の特定の侵略戦争の指導者、責任者が、死者に罪なしという日本人独自の生死観により神社の独自の判断により祀られたが故に、日本の内閣総理大臣の公式参拝が否定される事には、深刻な悲しみと不満を持っているものであります。特に過般の総選挙で圧倒的大勝を私達に与えた自民党支持の国民は殊に然りであります。私は、この問題の解決には更に時間をかけ適切な方法を発見するべく努力することとし、今回の公式参拝は行わないことを決断いたしたものであり、この事情について閣下の温かい御理解を得たく存ずるものであります。  
私は、日中間の如何なる困難な問題も、両国国民及び政府間の相互の理解と思いやりにより、双方の満足する適切な解決方法を、時によっては時間をかけても解決する実績を積上げつつ、更に更に強固な相互信頼と新たな発展を拡大強化することを念願致しております。今秋九月、東京と大礒におきまして日中友好二十一世紀委員会第三回会議が開催されることになっており、既に日中双方の委員会は会議の成功のため精力的な努力を続けていると聞いております。私はこの第三回会議の成功を心から祈るとともに、閣下を通じて王兆国座長以下中国側委員の御来日を歓迎し、お待ちしている旨お伝え下さい。閣下の御家族の御健康と御多幸を謹んでお祈り申し上げます。  
昭和六一(1986)年八月十五日、内閣総理大臣 中曽根康弘 
宗教関連  
靖国神社  
中曽根は1985年に内閣総理大臣として公式参拝。しかし翌年は後藤田官房長官の圧力に屈し、更に胡耀邦の中国共産党内での立場に配慮し参拝中止。1988年3月11日、赤報隊から脅迫状が送りつけられる(赤報隊事件)。国会議員勇退後にA級戦犯分祀や小泉総理の靖国参拝反対を主張。2006年春、稲田朋美率いる保守派政策集団伝統と創造の会に講師として招かれた際は小泉総理の靖国参拝を期待する稲田ら新人代議士達に「個人的信条も大事だが、それ以上に国家的利害も重要だ」とたしなめた。 
キリスト教  
TV番組に出演した際、「軍隊に入った際にも聖書を持っていった」と述べている。 
禅  
自著において宗教観を語っており、どの宗教も心の底から信じられないとするが、座禅だけは好んで行っている。また雑誌の読書特集のインタビューで道元『正法眼蔵』を座右の書としていると語った。 
世界基督教統一神霊協会  
世界基督教統一神霊協会(統一教会)・国際勝共連合との関係について以下の指摘がある。 1992年3月、出入国管理及び難民認定法の規定で日本に入国できなかった統一教会の教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した際、文鮮明と会談した。 1992年9月、統一教会発行「中和新聞」によると、桜田淳子や山崎浩子が参加したことで注目を浴びた1992年の統一教会の合同結婚式に中曽根は元総理の名で祝辞を送ったとされている。 1994年8月 勝共連合の幹部の誘いで文鮮明の側近である朴普煕(パク・ポーヒー)と会談。1991年の文鮮明と金日成の会談の報告を受ける。金丸信が(「東京佐川急便事件」で)失脚したので、北朝鮮と日本を結ぶパイプ役をお願いしたとされる。2006年3月21日、千葉県の幕張メッセで開催された統一教会系列の「天宙平和連合 (UPF)日本大会」にその活動趣旨に深い理解を示し、祝電を送ったという。  
渾名  
「政界の風見鶏」「薮枯らし」「緋縅の鎧を着けた若武者」「青年将校」「中曽根大勲位」「大勲位閣下」「ヤス」(ロン・ヤスとして、ロナルド・レーガンと並べて呼称される)「ヤストラダムス」 
 
党のあゆみ / 第11代総裁 中曽根康弘2

 

鈴木内閣退陣のあと、四年ぶりに全党員・党友の参加による総裁選挙が行われた結果、中曾根康弘氏が第十一代総裁に選ばれ、清新気鋭の中曾根新内閣が登場しました。  
新政権の発足に当たり、中曾根首相は、「思いやりと責任」「直接国民に話しかけるわかり易い政治」を基本姿勢に、「内外における平和の維持と民主主義の健全な発展」「たくましい福祉と文化の国日本の創造」を政治目標に掲げて、国民の協力を要請しました。  
また政策的には、まず外交面で、世界に開かれた日本の見地に立って、「自由貿易の維持強化のための市場開放対策のいっそうの推進」「世界経済の活性化と着実な拡大への貢献」「世界の平和維持のための米国、ASEAN(東南アジア諸国連合)はじめ近接するアジア諸国、西欧諸国など自由主義諸国との連帯強化」「軍縮の推進と総合安全保障体制の拡充」等の諸政策の実行を公約しました。  
さらに内政面では、鈴木前内閣以来の方針を継承して、「行財政改革の推進」を最重要課題に取り上げるとともに、「国鉄の再建」「創造的な新技術の研究・開発とその導入」「生産性の向上を基本とする農林水産業の体質強化と中小企業の近代化」「国土緑化対策の推進」「がん研究対策の強化」「住宅・都市再開発対策の整備」「非行青少年対策の充実」等を重点政策に掲げました。  
中曾根首相が、このような基本姿勢と政治目標、重点政策等を打ち出した背景には、次のような首相独自の時代認識と政治哲学が、色こく反映していたことを見逃すことはできません。すなわち、まず国際的には、戦後長きにわたり、戦後世界の平和と繁栄を支えてきた政治、軍事、経済に関する基本秩序は、急激な時代の変化によってようやく崩壊の危機に瀕し、わが国はいまや、自由世界第二位の経済大国として、米国、西欧諸国など先進民主主義各国とともに、新たなる平和、経済秩序の再構築のために重大な責任を担うにいたったこと、また国内的にも、低成長時代への移行と急速な高齢化社会の到来などにそなえて、健全な民主主義の再生と社会・経済の活性化を基軸に、一切のタブーを設けることなく従来の基本的な制度や仕組みの見直しを行う必要があること などの透徹した時代認識がそれでした。  
中曾根首相が、就任後初の施政方針演説の中で、「わが国はいま、戦後史の大きな転換点に立っている」と述べて、既成の価値観にとらわれず戦後政治の総決算を行い、時代の変化に即応した新構想のもとに、適切な内外政策を強力に推進する決意を表明したのは、その現われだったといってもよいでしょう。  
以後、中曾根首相は、自らの信ずる理想と信念の達成に向かって、外交に内政に、まことにめざましい活躍を開始したのでした。  
まず外交面では、五十八年一月早々、日韓国交正常化後、わが国の首相としては実質的に初めて韓国を公式訪問。全斗煥大統領と会談して、多年の懸案となっていた経済協力問題について、総額四十億ドルとすることで一挙に解決するとともに、「新しい次元に立った日韓関係」をうたった共同声明を発表、今後幅広い国民的基盤に基づいた両国関係を発展させていくことで合意しました。  
引き続いて同月中旬、こんどは米国を訪問してレーガン大統領と会談、国際情勢全般と両国間に存在する諸問題について意見を交換して、日米親善友好関係の基盤を固めました。とくにこの中で中曾根首相が、「日米両国は太平洋をはさむ運命共同体である」と述べるとともに、今後わが国が、平和と安全のために積極的に責任を分かちあう決意を表明し、両国間の信頼の絆をさらに確固としたものにすることに成功したことは、大平、鈴木両内閣以来続けられてきた日米関係強化の路線を、さらに一歩前進させたものとして高く評価さるべき業績でした。  
日米外交と並んで、近接するアジア太平洋地域との外交を重視する中曾根首相は、同年四月末、ASEAN(東南アジア諸国連合)五カ国とブルネイ訪問の途につき、世界不況の影響をうけていくたの経済的苦境に立つASEAN各国の首脳と会談、歴代内閣が公約してきた経済協力その他の諸案件の着実な処理を約束するとともに、「ASEANの繁栄なくして日本の繁栄なし」と述べて、各国に多大の感銘を与えました。  
このような意欲的な中曾根外交の展開の中で、ひときわ光彩を放ったのは、同年五月末、米国の古都ウィリアムズバーグで開かれた先進国首脳会議での中曾根首相の積極的な活躍でした。  
首脳会談の幕あけとともに、冒頭発言に立った中曾根首相は、この首脳会議が現在、世界をおおう先行き不透明感を払拭し、世界の期待にこたえるための共同行動の指針として、(1)西側先進諸国の連帯と協調による一枚岩の結束、(2)内外のバランスのとれた経済運営、幅広い構造調整の推進、自由貿易体制の堅持による世界経済のインフレなき持続的成長、(3)南北間の対話の促進と南側の自助努力に対する支援の推進、(4)東西経済関係についての協調的行動の四項目を提案して、会議全体のリード役の役割を果たしました。また米ソ間の中距離核戦力交渉(INF)について、「グローバルな視点に立った解決」を提唱、各国首脳の同意を得たことは、ソ連のSS20の脅威に対し、自由主義陣営全体の協力で阻止する基盤を固めたものとして、特筆すべき成果だったといえるでしょう。  
以上のような外交努力と相まって、自由貿易体制の維持強化のための国際責任履行の一環として、精力的に一連の市場開放政策を進めたことも見逃せません。  
すなわち、五十八年一月、農産品四十七品目、工業品二十八品目の合計七十五品目の関税引き下げを中心とする包括的市場開放政策を決定したほか、さらに従来、関税引き下げ中心だった市場開放策から一歩進めて、輸入検査、規格・基準など、わが国の社会風土に根ざした非関税障壁を一掃し、内外無差別の原則を打ち出した「市場開放促進法」を制定するという勇断をふるったことは、中曾根内閣の画期的な業績の一つに数えられるでしょう。  
一方、内政面に移りますと、何といっても、中曾根内閣の最重要課題に掲げた行財政改革の積極的な推進が特徴的です。まず財政改革の面では、五十六、五十七両年度にわたる大幅な歳入の減少によって、事実上、赤字特例公債依存の五十九年度脱却は不可能になったものの、昭和五十八年度予算の編成に当たって中曾根首相は、「増税なき財政再建」の既定方針を毅然として貫き、全く前例のない五%のマイナス・シーリングの基本方針のもとに歳出の削減につとめ、一般会計予算の歳出規模は対前年度比わずか一・八%という、わが国財政史上かつてない超緊縮予算を組んだのでありました。  
また行政改革の面では、鈴木前内閣以来引き続いていた臨時行政調査会の作業は、五十八年二月の行政改革推進体制の在り方に関する第四次答申、同年三月の最終答申をもってその任務を完了しました。これをうけて同年五月、その具体化の方策と実施の優先順位および目標時期等を盛りこんだ「行政改革大綱」を決定する一方、同年春の第九十八通常国会では、「臨時行政改革推進審議会設置法」、国鉄再建のための「日本国有鉄道経営再建臨時措置法」を制定させたほか、公的年金一元化のための各種立法措置を急ぐなど、着々と臨調答申を尊重した行政改革を推進しています。  
一方、五十八年は"選挙の年"でした。四月には第十回統一地方選挙があり、自由民主党は好成績をおさめました。続く六月の第十三回参議院通常選挙では、選挙法の改正により、これまでの全国区制を改め、拘束名簿式比例代表制による政党名投票が採用されました。その結果、自民党は安定多数をさらに強固なものにすることができました。しかし、十二月に行われた第三十七回衆議院議員総選挙では、史上最低の六七・九四%という投票率の影響もあって、解散議席を三十五名減らし、衆議院の単独過半数を下回る敗北を喫しました。その後、新自由クラブとの政策的合意による院内会派「自由民主党・新自由国民連合」を結成し、二百六十七議席の安定多数となり政局の運営を行うことになりました。  
総選挙後の特別国会では、冒頭において、中曾根総裁が再び内閣首班に指名され、即日、第二次中曾根内閣が発足しました。  
この頃、国内的には、戦後史上でも特筆されるような引き続く物価安定の中で、経済は新しい発展の力を見せ始めています。同時に、肥大化した行政の制度・機構を抜本的に改革し、効率的近代的行政体系を確立するため、五十九年七月に「総務庁」を設置し、さらに国の地方出先機関を整理し、医療保険制度を改革し、専売公社、電電公社の改革も実行に移しました。この行政改革と財政改革という日本の二大基本的改革に加えて、中曾根首相は、国民的輪を広げ、大きな国民の力を背景にした教育改革も新たにスタートさせました。  
そして五十九年十月、党総裁選挙では、中曾根総裁ただ一人が立候補の届け出をし、選挙を行うことなく再選されました。  
昭和六十年は、時あたかも、昭和二十年の終戦より四十年、立党三十年、明治十八年の内閣制度創設より百年、歴史の流れにおける大きな節目というべき年でありました。党においては、全国で三百六十四万五千八百四十三人という、党史上最高の党員数を記録しました。また自由国民会議の会員である党友も、四十九万七千三百二十四人となり、わが党は党員・党友あわせて実に四百十数万人という大きな組織に成長しました。ここに自民党は、党員による強力な基盤を固めたのです。十一月十五日、自由民主党は立党三十周年を迎えました。内に国民生活を向上させ、外に国際社会で重要な地位を築き上げた先達の輝しい偉業を讃え、これからも建設的で、二十一世紀に向かって先導的な政策を打ち出していくための「特別宣言」「新政策綱領」を採択したのでした。自由民主党と中曾根首相は、いよいよ迫ってきた二十一世紀に向かって、さらに力強く前進を続けています。  
一方、昭和六十年は世界の歴史の上でも記憶に値する年でした。西側のINF配備開始をきっかけに米ソ軍縮交渉が再開され、ソ連では新たにゴルバチョフ書記長が就任して軍縮・平和共存路線を打ち出し、東西対立緩和の兆しが見られました。中曾根首相はチェルネンコ前書記長の葬儀に出席のため訪ソした際、ゴルバチョフ書記長と会談して領土問題の解決を強く訴え、ソ連側も日ソ関係の安定化に同意しました。また、中国でも指導部が若返って改革・開放の路線が強まり、朝鮮半島でも南北対話が活発化しました。国際経済面では、先進国間の経済摩擦が深刻化して保護主義が台頭し、開発途上国では累積債務の増大が世界経済の発展に不安定要因をもたらすことが懸念されるようになりました。とくに日米間では、貿易不均衡が大きく問題化したので、中曾根内閣は、新たな市場開放策として「アクション・プログラム」を決定し、五月に行われたボン・サミットでも、中曾根首相は、新ラウンドの早期開始を力強く主張しました。  
さらに、中曾根首相は、秋の国連創設四十周年記念会期に出席し、記念演説を行って、平和と軍縮の推進、自由貿易と開発途上国への協力、世界の文化・文明の発展に協力するわが国の基本方針を明らかにしました。また、この期に、六年半ぶりの米ソ首脳会談を控えたレーガン米大統領の提唱で「緊急サミット」が行われ、西側各国の結束と連帯が決議されましたが、中曾根首相は、軍縮の問題は世界的規模で解決されるべきで、アジアが犠牲になってはならないことを強調し、各国の合意を得ることができました。戦後四十年、かつての敗戦国・日本はもはや紛うことなく、世界の重要な指導国の一つと見られるにいたっていたのです。  
なお、この年十二月には、内閣制度創始百周年記念式典が開催され、天皇陛下が初めて首相官邸に赴かれて、これに臨席されました。  
昭和六十一年は、五月に二度目の東京サミット、夏に衆議院議員選挙、そして秋には中曾根総裁の任期切れに伴う総裁選挙が予定されており、しかも、解散・総選挙含みというのが、この年頭の政局見通しでした。  
中曾根首相は、一月にはカナダを、四月には米国を訪れて、土台づくりを行い、東京サミットを見事に成功に導きました。ここで発表された「東京経済宣言」では、インフレなき成長の持続ほか、政策協調の必要が強く打ち出され、参加国の固い結束がはかられました。  
選挙がらみの政局のなかで解決を迫られていたのは、衆議院の定数是正の問題です。これはすでに昭和五十八年の総選挙の時点で、議員一人当たりの有権者数の格差が最大四・四倍に達していたため最高裁がその是正を求めていたものです。自由民主党は、前年の国会に六選挙区で増員、六選挙区で減員のいわゆる六増六減案を提出しましたが、野党の同意を得られずに成立を断念したという経緯があり、これをクリアしないかぎり、かりに総選挙を行っても、違法とされかねないという苦しい局面に立たされていました。そこで自由民主党は、一票の格差を三倍以内に改める八増七減案を提出、第百四回通常国会でこれを成立させました。  
六月二日、臨時国会解散と同時に国会は解散、衆議院選挙は参議院選挙と同日選挙で行われることとなり、自由民主党はこれを「二十一世紀を目ざす日本の軌道を設定する選挙」と位置づけて、戦いに突入しました。中曾根首相は遊説のなかで、「国民や党員が反対する大型間接税と称するものをやる考えはない」と明言し、行革の推進、社会資本整備の促進、教育改革の推進等を訴えました。七月六日の投票の結果、自由民主党は、追加公認を加えて、衆議院において三百四議席、参議院においては七十四議席を獲得するという目ざましい勝利をおさめました。これは両院ともに、立党以来最高の当選者です。開票三日後に首相官邸を訪れた岸元首相は、「この大勝はまさに保守合同の成果と言うべく喜びに堪えない」と述べました。  
こうして第三次中曾根内閣が発足しましたが、中曾根総裁のめざましい指導下にかちとられた選挙結果をうけて、九月の党大会に代わる両院議員総会で、中曾根総裁の党総裁としての任期を、翌年十月三十日まで一年間延長することが決定されたのです。  
なお、この年、昭和六十一年四月には天皇陛下ご在位六十年記念式典が盛大に挙行されました。  
昭和六十二年は、前年十二月に党税制調査会がまとめた税制改革案をめぐる攻防で開けました。この案は、所得・住民・法人税の減税と新型間接税である「売上税」を組み合わせたものでしたが、野党は、「大型間接税を行わない」との中曾根首相の約束に反するものとしてこれを攻撃し、国会は冒頭から荒れ模様となって、予算審議は難航しました。野党攻勢に拍車をかけたのは、三月の参議院岩手選挙区補欠選挙における社会党候補の勝利と、四月の統一地方選挙における自由民主党の不振です。党執行部の方針に批判的な声が出はじめ、予算は議長の調停でようやく通過したものの、売上税は廃案になりました。  
もう一方、政府が対応に追われたのは、日米経済摩擦の深刻化です。この年、日本の貿易黒字が千億ドル以上、対米黒字も五百億ドル以上と、いずれも史上最高を記録するようになったのがその原因でした。レーガン米大統領は二月に包括貿易法案を議会に提出し、三月には日本が日米半導体協定に違反しているとして、一九七四年通商法三〇一条にもとづく対日制裁措置を発表し、四月には日本の内需拡大政策の推進を強く求めました。このため、中曾根首相は訪米して大統領と話し合い、制裁措置の早期解除の約束を取りつけるとともに、構造調整のための総額六兆円強におよぶ緊急経済対策を決定し、百九回臨時国会で成立した補正予算でこれを裏付けました。その政策効果はめざましいものがあり、その後の日本経済の本格的な構造転換を方向づけたのです。  
夏から秋にかけて、政局は秋の党総裁選挙に集中しました。いわゆるニューリーダーと呼ばれる竹下登幹事長、安倍晋太郎総務会長、宮沢喜一蔵相が候補者と目されましたが、それに加えて、二階堂進前副総裁が出馬の意思を表明しました。党則上は、四名以上立候補の場合、党員・党友による予備選挙を行う規定になっていたので、予備選必至と思われましたが、告示前日に二階堂前副総裁が立候補辞退を声明し、本選挙は、党所属国会議員による本選挙のみで行われることとなりました。  
政権構想としては、竹下候補が「世界にひらく『文化経済国家』の創造」のため"ふるさと創生"を実現することを上げ、宮沢候補が「『二十一世紀国家』の建設」をめざして"生活大国"を唱え、さらに安倍候補は「新しい日本の創造」を掲げて"ニューグロウス"と"創造的外交"を訴えました。  
十月三十日に予定されていた本選挙は二十日に繰り上げられましたが、その間に三者間で一本化の話し合いが進み、最後に竹下指名の中曾根裁定が実現して、十月三十一日に党臨時大会で、竹下候補の後継総裁が確定したのです。  
中曾根首相は、内においては、「戦後政治の総決算」を目ざして、行財政改革、税制改革、教育改革に大胆に取り組み、外に向かっては、「国際国家・日本」を合言葉に、政治的には西側陣営の一員としての立場を確立し、経済的には自由貿易体制の擁護につとめ、開発途上国の支援に力を入れるなど、わが国の国際的地位を大きく向上させました。その首相在任期間は千八百六日、戦後では佐藤、吉田両政権に次ぐ長期政権でした。  
 
中曽根康弘3 「暗躍」

 

小泉純一郎の圧勝により幕を閉じた自民党総裁選。新しい内閣支持率は85%(毎日新聞調査 4月29日)と、歴代最高である。国民の期待を一身に背負った小泉内閣であるが、その成立の背後には一人の元首相の影があった。  
その名は中曽根康弘、1982年から87年にかけて首相であった男だ。  
今回の総裁戦において中曽根は最初自派(江藤・亀井派、志帥会)の亀井静香前政調会長を支持していた。しかし小泉優勢の状況になると、小泉と会談を持ったりしていつの間にか小泉支持になっていた。  
実は亀井の出馬を促したのは他ならぬ中曽根である。中曽根は以前「亀井君を首相にしてみるのも面白いではないか」と発言したこともある。つまり亀井の支持者・後見人である。では何故中曽根は小泉支持に走ったのか。その前に中曽根とはどのような人物かを紹介する。  
中曽根は政治家として改憲主義者・親米のタカ派に分類される。しかし中曽根には1つの特徴がある。それは状況に応じて最も適切と思われる行動を取ることである。そのためには以前の主張を平気で翻し、同士や仲間を平気で裏切る。そして上手く流れに乗り、最後には持ち前の策略と強運で自分の願望を果たすのだ。  
そのため中曽根は「政界の風見鶏」と呼ばれた。政界入りしたときから首相になることを目標としてきた彼は、権力の表舞台に立つためなら手段を選ばなかった。まさに「変身・適応の人」である。1947年改進党に入党した彼は、1955年の自民党結成後河野一郎(河野洋平前外相の父)派に属していた。しかし河野の死後派閥を引き継いだ中曽根は、河野と対立していた佐藤栄作に取り入って初入閣を果たした。  
その後「三角大福」(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)の4人が自民党内で権力闘争を繰り広げた1970年代、中曽根は彼らの中で上手く立ち振る舞った。時には田中・大平と、時には三木と、時には三木・福田と手を結ぶ相手を変え、中曽根は常に政治の表舞台にたった。そして1982年最終的には田中の力で首相になった。  
内閣発足当初は田中の意向に沿った内閣を組閣して「田中曽根内閣」と批判されたが、田中が病で倒れると田中を見限って独自の内閣を組閣した。そして次世代のリーダー「安竹宮」(安部晋太郎、竹下登、宮沢喜一)を翻弄して1987年前首相の指名という形で竹下内閣を発足させた。その後田中派を引き継いだ竹下派(経世会 現在の橋本派 平成研究会)が数と金の力で自民党を支配するようになっても、経世会の実力者金丸信や竹下にひけを取ることなく、自らの影響力を保ちつづけた。  
現在82歳の中曽根は、高齢になっても決して政界を引退することなく相変わらず縦横無人の活躍を続けている。ライバルだった大平、三木、田中、福田、金丸、竹下は既にこの世にいない。もはや自民党に中曽根に対抗できる者は完全にいなくなってしまった。そんな中曽根が狙うのは改憲という自らの主張の達成である。  
ひところ流行った「石原新党結成」にも中曽根の意向が働いているという説がある。国民的人気の高い石原慎太郎東京都都知事を中心に鳩山由紀夫民主党党首や小沢一郎自由党党首、自民党の森派や江藤・亀井、山崎派ら憲法改正を主張する者達を一致させて改憲を行う。それが中曽根のもくろみである、という説だ。真偽の程は定かではないが、中曽根なら考えそうなことである。  
このように中曽根という人間を分析するとその野望には果てがなく、常に自分の都合のいい行動を取っていることが分かる。それでは本題に戻ろう。今回の総裁戦における中曽根の行動にはどのような意図があったのだろうか。私なりにまとめてみた。  
「総裁戦が間近に迫った3月、自民党内には次世代のリーダーとして平沼赳夫経済産業相を総裁候補として擁立する声があった。しかしこれに反対するものがいた。亀井と中曽根である。数と金の力に頼らない小泉が総裁となった現在とは状況は違うが、当時は政権運営には最大派閥橋本派の協力が必要不可欠であった。仮に平沼が総裁になると、1989年に発足した海部俊樹内閣と同じ状況になってしまう。  
経世会の力を借りて首相になった海部は派閥(河本派 現在の旧河本派)のナンバー2であった。ナンバー2が総裁になったため、世代交代の流れにより派閥の会長であった河本敏夫は総裁になる機会を失ってしまった。また海部は経世会の傀儡として自らの意思を反映できない弱い総裁に甘んじなければならなかった。そして経世会の意向により海部は政権から降ろされると河本派は派閥としての力を失い、現在では13人という弱小派閥になってしまった。  
平沼は現在派内ナンバー2の存在である。もし平沼が総裁となれば、派閥の親分亀井は総裁になる機会を完全に積まれてしまう。そして江藤・亀井派は最大派閥橋本派の意向に飲み込まれてしまい、派閥としての独自性を確保できなくなる。そうなれば江藤・亀井派の後見人中曽根の影響も必然的に低下する。それでは困るということで、亀井は自らが派閥の代表として権威を保ちつづけるため、中曽根は党内の影響力を保持しつづけるために、平沼を降ろして亀井を総裁候補として総裁戦に出馬させたのだ。  
つまり亀井の出馬は派閥の親分としての権威と派閥の影響力を保つためだけのものに過ぎなかった。最初から勝つための出馬ではなかったことになる。その証拠に小泉優勢の状況になると小泉総裁の下重要ポストを狙うため亀井は本選を辞退し、中曽根は小泉と会談して小泉指示を打ち出す。小泉は総裁戦時に「靖国神社参拝」、「憲法第9条改正」と中曽根の主張にあった意見を発表している。中曽根にしてみても自分の願望をかなえられる内閣に影響力を残すのは得策であると判断したのだろう。」  
以上が総裁戦における中曽根の行動分析である。首相を引退した後でも中曽根は「風見鶏」として振舞っている。今回の総裁戦の行動により、中曽根は今後の小泉内閣においても少なからず影響を与える存在となるであろう。  
しかし中曽根はこれまでの風見鶏的な振る舞いにより、戦後政治に数々の悪影響を及ぼした人物でもある。 
中曽根が戦後政治に及ぼした悪影響を紹介する。  
戦後政界では多くの汚職事件が起こり、多くの政治家が疑惑を持たれた。しかしその中で中曽根ほど疑惑を持たれた人物はいない。九頭竜川ダム汚職(1964)、殖産住宅事件(1972)、ロッキード事件(1976)、リクルート事件(1988)と実に4件の事件において疑惑が持たれている(黒田清・大谷明宏著「権力犯罪」より)。  
しかし不思議と中曽根が逮捕された事件は1つもない。中曽根が関与したと思われる汚職事件のうち、多くは疑惑のままで終わっている。しかし中曽根の汚職が限りなく"クロ"に近い事件では、側近の逮捕によって決着がつき、決して中曽根本人に捜査の手が及ぶことはない。  
例を挙げると、ロッキード事件では側近の佐藤孝行元総務庁長官が、リクルート事件では藤波孝夫元官房長官の逮捕で幕を閉じている。また汚職で逮捕された政治家にも中曽根側近は多く存在する。東京協和・安全信組事件(1993年)の山口敏夫元労相、贈収賄事件(2000年)で逮捕された中尾栄一元建設相、最近でKSD事件(2001)の村上正邦元労相はいずれも元中曽根側近である(ついでながら、現在中曽根が後見人を勤める亀井静香前政調会長はイトマン事件(1990)に関与したという疑惑が持たれている)。  
現在法律上では中曽根は犯罪者として認定されていない。しかしこれだけ多くの事件の関与を疑われ、これだけ多くの自分の側近が逮捕されていれば自ずと中曽根を疑ってしまうものだ。  
しかし私がここで問題にしたいのは中曽根の汚職暦ではない。自分の犯罪をあたかも「トカゲのシッポ切り」かの如く部下に押し付けて自分はのうのうと政治家を続けているところである。これでは中曽根の下から後継者となる有能な人材が育つことはない。しかも中曽根は自民党の顧問的存在であるため、自民党から有能な人材が育たないという事にもつながる。  
つまり戦後政治において旧体制が維持されつづけてきたのは中曽根に責任の一端があるのだ。  
また中曽根には国民の政治不信を招いた責任もある。具体例として、1997年に発足した第二次橋本内閣において佐藤孝行が総務庁長官に起用されたことが挙げられる。前述の通り、佐藤はロッキード事件で逮捕された人物であり、この頃には収賄罪で有罪判決を受けていた。橋本首相(当時)は佐藤の入閣に難色を示したが、中曽根に押し切られる形で佐藤の入閣を容認した。しかしこれに世論は猛反発。橋本内閣の支持率は半減もしくはそれに近い下落を記録し、結局橋本はわずか12日にして佐藤を辞めさせなければならなくなった。国民の支持を失った橋本は失政を繰り返し、1998年の参院選で惨敗を喫して退陣に追い込まれた。  
前回小泉内閣誕生に中曽根が関与していると書いた。しかし戦後政治に悪影響を与えかつ今日の政治不信を招いた張本人が政治改革を目指す内閣設立に協力したというのは明らかに矛盾である。つまり自民党の腐敗は依然解消されていないのである。  
リクルート事件の際ある検察官が明治時代にできた現行形法を武器になぞらえてこう言った、「三八銃で浮沈空母(*)は沈められない」。しかしリクルート事件から13年。未だに浮沈空母を沈める武器は存在しない。  
 
原発国家

 

原子力、米国を追いかけて  
米国の原爆投下で敗戦を受け入れた日本は、今日の「原発国家」に至る道を米国に付き従って歩いた。その先に、最悪の原発事故があった。菅政権は米国人の専門家を首相官邸に招き入れ、対応策を練り上げた。日本が頼ったのは、やはり米国だった。  
「長期的国策を」  
原発国家・日本を振り返るに欠かせない中曽根康弘(93)の政治人生は、米国抜きには語れない。  
米大統領アイゼンハワーが国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」を唱えたのは1953年。ソ連が水爆実験に成功し、米国は慌てていた。原発を積極的に輸出して経済支援することで米国の「核の傘」を広げる世界戦略への転換だった。  
衆院当選4回、35歳だった中曽根はアイゼンハワーに魅せられた。「原子力は20世紀最大の発見。平和利用できなければ日本は永久に4等国に甘んじると思った」と著書やインタビューで繰り返している。  
この年、中曽根はハーバード大学の国際セミナーに招かれた。主催はのちの国務長官キッシンジャー。22カ国から45人が集まった。  
その後、中曽根はサンフランシスコに寄り、カリフォルニア大バークリー校の原子力研究者、嵯峨根遼吉に出会う。そこで最先端の原子力技術に触れた。「長期的な国策を確立しろ」と説かれ、「日本もボヤボヤしてはいられないと痛感した」と述懐している。  
吉田茂が講和条約に調印し、日本が独立を回復して2年。軽武装・経済優先の吉田は、憲法改正や再軍備を唱える中曽根の目に「対米従属」と映った。  
一方で米国から期待されることを喜んでもいた。中曽根は96年の著書で自らを招請した米国の狙いについて「吉田的なものにこのまま日本が流れていってはいけない。新しい政治家を育てなければと考えたんだと思う」と分析し、吉田的政治への対抗心をみせた。  
対米従属を嫌いながらもどこかで米国に認められたい。戦後日本の「二面性」にもがく姿がそこにある。  
「キノコ雲見た」  
「原発」にこだわる原点は「原爆」のキノコ雲を見たことだ――中曽根はのちに何度も公言している。  
45年8月6日朝。中曽根は海軍軍人として広島から150キロの四国・高松にいた。「西の空にものすごい大きな入道雲がもくもくと上がるのが見えた」「この時私は、次の時代が原子力の時代になると直感した」  
その「原点」を裏付ける材料は乏しい。高松で約600人の戦争体験談を集めた喜田清(78)は「キノコ雲を見た人に会ったことはない」。市にも記録は残っていない。  
54年3月に提出された日本初の原子力予算も、野党改進党の予算委理事だった中曽根が主導したと言われる。中曽根は国会で原子炉調査費2億3500万円の積算根拠を問われ、「濃縮ウランはウラニウム235だから」と爆笑を誘った。少数与党の吉田政権が修正要求を丸のみして予算は成立。中曽根は「原子力の重要性を考え、断固として邁進(まいしん)した」と胸を張った。  
だが、実は中曽根は中心人物ではなかった。原子力予算の構想は、直前にあった改進党秋田県連大会から帰京の車中で、TDK創始者の斎藤憲三や、のちに法相となる稲葉修らが描いたものだった。中曽根はそこにいなかった。  
「自分がやったみたいなことばかり言ってるが、うまいことしたんじゃないか」。原子力行政の重鎮である島村武久は、歴史検証を目的に官僚らの証言を集めた「島村研究会」で中曽根をそう評している。  
政界の階段を駆け上るにつれ、中曽根は原発推進でも絶大な影響力を振るっていく。原子炉技術も原子力行政の制度も当初は米国からの借り物だったが、「自立した国家」を掲げるには原発を主体的に導入したとみせる必要があった。いつしか、日本社会は自力で原子力を制御できると過信した。私たちがそれに気づくのは、初の原子力予算から57年後の3月11日である。 
大衆の懐柔に奔走  
中曽根康弘と二人三脚で原発を導入した人物がいる。33歳年上の正力松太郎だ。読売新聞と日本テレビを率いた戦後復興期の「メディア王」が担った役割は、日本社会の原子力への抵抗感をやわらげる「世論対策」だった。  
湯川博士を起用  
中曽根は1955年10月、国会の原子力合同委員会の委員長に就任した。一方、翌年1月に発足した政府の原子力委員会の初代委員長に就いたのが、55年2月の総選挙で69歳で初当選したメディア界の大物、正力である。ふたりは、ノーベル物理学賞を受賞して国民的人気の高かった湯川秀樹を原子力委員会の委員に起用するため奔走した。  
正力は当時、朝日新聞のインタビューに「できるだけ大物ばかりを入れる」と表明。中曽根は日本学術会議会長で東大総長となる茅誠司の自宅に赴き、湯川起用に理解を求めた。  
国内は朝鮮戦争の特需景気にわく一方、54年3月の米国の水爆実験による第五福竜丸の被曝(ひばく)事件で反米感情は高まり、原水爆禁止世界大会が東京で開かれ、原子力へのアレルギーは強かった。国民が納得する「原子力の顔」をふたりは探し求めていた。  
正力の秘書だった萩山教厳(79)は「中曽根さんは正力先生を訪ねては『正力閣下』と呼んで慕っていました」と言う。中曽根は自らの国会演説がソ連を批判したと社会党から批判を浴びて議事録から削除されると、正力に頼んで読売新聞に全文を掲載してもらったと著書で明かしている。  
正力は戦前、警察官僚だった。共産党員の一斉摘発を指揮したこともある。原発による経済発展で共産主義の拡大を防ぐ思想も持っていた。米国は、正力が米国の専門家を招いて原子力をアピールした「原子力平和使節団」や、読売新聞主催の「原子力平和利用博覧会」に協力した。読売新聞は、原子力の将来性を訴える連載「ついに太陽をとらえた」などのキャンペーンを展開した。  
昭和天皇も視察  
正力には、政治への野望があった。高齢を跳ね返して政界を駆け上がるために「原子力」を旗印にしようと考えた。55年2月に故郷の富山2区から立候補した時の公約は「原子力の平和利用」。秘書の萩山は「田舎の支持者はピンと来なかった」と振り返る。巨人の選手も動員したが、次点と271票差の初当選だった。  
原子力委員長の執務室は首相官邸に構えた。窓ガラスは汚れ、じゅうたんはほこりっぽい。職員の庄子小枝子(89)はビール会社の景品をコップとして使っていたと振り返る。正力はそれでも「官邸」に固執したが、首相の座は遠かった。  
科学技術庁長官の正力は57年8月、日本初の原発運営会社の形態を巡って民間主導を主張し、国家主導を唱える経済企画庁長官の河野一郎と対立した。中曽根は河野派だった。「風見鶏」と呼ばれる中曽根がこのとき、正力に肩入れした形跡はない。  
正力は民間に原発の運営を任せることで押し切ったが、実力者に刃向かった代償として政治的立場を弱める。一方の中曽根は59年に初入閣。やがて河野派の大半を引き継いで中曽根派を旗揚げし、首相への足がかりをつかむ。  
59年6月、正力は昭和天皇を後楽園球場に迎えた。長嶋茂雄がサヨナラ弾を放つ天覧試合で、プロ野球は黄金時代を迎える。  
その前月、昭和天皇は東京での国際見本市で米国製の研究用原子炉を2メートルの階段を上ってのぞきこんだ。経企庁長官の世耕弘一は「陛下もご覧になったんだから大丈夫だよ」と言って自らが総長を務める近畿大にこの原子炉を購入した。  
原爆投下から14年、第五福竜丸事件から5年。日本の大衆社会の原子力アレルギーはかなり払拭(ふっしょく)された。その後、正力が入閣することはなかった。  
50年余が過ぎ、原発事故による電力不足でプロ野球や巨人は節電対策のやり玉に挙がった。東京ドームの巨人戦は例年より2割ほど暗い。一角にある野球殿堂の一番手前に掲げられた正力のレリーフも、以前より陰っている。 
カネで推進、転換点  
菅政権が浜岡原発の運転停止を要請した中部電力には、もう一つの原発立地計画があった。2000年に白紙撤回された三重県の芦浜原発計画だ。1960年代、国策・原子力を推進する中曽根康弘に、漁民の反対運動が立ち向かった。  
漁民から海水  
東京五輪から2年後の66年。人口が1億人を突破し、「鉄腕アトム」が流行していたこの年、茨城県東海村で日本初の商業用原発が営業運転を始めた。  
中曽根は48歳。閣僚を経験し、自民党で頭角を現していた。9月、衆院科学技術振興対策特別委員会の理事として、社会党議員ら3人と三重県・芦浜の原発予定地へ視察に向かった。真珠の養殖を営む漁民が反対の声を上げていたからだ。  
中曽根らを乗せる海上保安庁の巡視船が停泊していた長島町の港で、ヘルメットや鉢巻きをした漁民約300人が待ち構えた。養殖で生計を立てていた南元夫(86)は「原発ができれば海が汚れる。許せなかった」と振り返る。水俣病や四日市ぜんそくなど公害が社会問題化し、漁民は原発からの排水で海が放射能に汚染されると恐れていた。  
三重県副知事らが岸壁で小突かれる間に中曽根は巡視船に乗り込み、出航して約150メートル進んだ。そこで港内に集まった漁船約300隻に取り囲まれた。「中電の者が乗っとる」「バカにするな」。漁民たちが怒号を浴びせて巡視船によじ登ってきた。海上保安官は羽交い締めにされ、中曽根もひしゃくで海水をかけられ、びしょぬれになった。  
中曽根は巡視船長に「船を出しなさい」と命じたが、漁民たちは「視察を中止するまで居座る」と甲板で寝転んで対抗。中曽根はやむなく中止を決め、漁民1人ずつの手を握って「社会党ばかりひいきせず、自民党も大事にしてくれ」と声をかけた。  
「反対」先鋭化  
だが、中曽根は怒っていた。宿泊先を訪ねてきた三重県漁連常務の宮原九一(93)に「ここまでくると事件だ」とぶちまけた。三重県警には当時の幹部が中曽根から「国会議員が視察するのに、なぜ排除できないんだ」と問い詰められたという逸話が残る。  
三重県警は3日後に捜査本部を設置。事件当日に海保が撮影した写真から特定した30人を公務執行妨害容疑などで逮捕した。  
帰京した中曽根のもとに三重から釈放を陳情する人が続いた。県漁連の山下健作(84)は中曽根から「原発を受け入れなさい。そうすればすぐに解き放してあげる」と告げられた。間柄侃也(かんや=75)は取り調べの検事から「中曽根さんは罪を軽くしてやってくれと言っているぞ」と原発容認を迫られたと証言する。  
結局、25人が起訴されて有罪判決を受けたが、反対運動は立地計画の白紙撤回までやまなかった。全国の漁民にも原発への怒りが広がり、宮城県の女川原発計画、青森県から出航した原子力船「むつ」への反対闘争に飛び火した。  
中曽根が20年後、「ちょっとやりすぎたな」と旧制高校時代の親友に語ったことを、元社会党参院議員の山本正和(83)はこの親友から聞いた。事件が原発政策の転換点となったのは間違いない。政府は「カネ」で原発立地を推進し始める。  
68年度の原子力関係予算に初めて「広報啓発費」約1千万円を計上。74年には立地地域に多額の交付金を投入する「電源三法」が成立した。中曽根は通産相として「地元住民の反対で着工できない例もある」と説明した。芦浜の地元、紀勢町だけで7億円が20年間にわたって交付された。  
「炭鉱でガスにやられることもある。原子炉がよけい危険だというファクターはない」。中曽根は原発の安全性を強調する答弁を続けた。通産省は米ソで原発事故が起きるたびに、日本の原発は安全だと訴えるパンフレットを発行した。  
だが、反対運動は一層先鋭化する。原発は「迷惑施設」の色彩を強め、新規立地は進まなくなった。その結果、60年代に立地を受け入れた地域に集中して増設が進み、古い原発を廃炉にせず使い続けることが増えた。東京電力福島第一原発はその代表例である。 
安全論議を避け同日選に大勝  
ソ連のチェルノブイリ原発事故が世界を震撼(しんかん)させた1986年4月、中曽根康弘は首相になっていた。欧州諸国では原発政策の見直しが始まったが、中曽根は左右のイデオロギー対立に持ち込み、国民の目が「原発の安全性」に向くことを回避する。  
「ソ連での事故」を強調  
日本で事故が報道されたのは、発生から3日後の朝だった。原子炉破壊でヨウ素131など大量の放射性物質が飛散し、日本でも牧草や水道から検出された。  
中曽根は事故直後に離任あいさつに訪れた駐日ソ連大使アブラシモフに「情報を提供してほしい」と促した。目前に迫った5月の東京サミットで事故が議題になることは確実だった。  
中曽根は2年半前の「ロッキード選挙」で敗れ、新自由クラブとの連立で何とか政権を維持していた。サミット議長として存在感を示し、7月に「衆参同日選」に踏み切って政権基盤を固め直す筋書きをひそかに描いていた。  
首相官邸で連日開いた事前勉強会。外務事務次官の柳谷謙介は「事故の問題はなるべく食事の席に限定すべきだ」と進言したことを著書で明かしている。原発事故の話題は極力避け、経済に議題を集中すべきだとの助言だった。  
米ソは前年11月の首脳会談で対話の細い糸がつながったばかりだった。前年9月のプラザ合意以降、為替相場は1ドル240円台から160円台まで急騰し、輸出業界は大きな打撃を受けていた。  
中曽根は助言に従った。原発事故声明を「原子力は将来ともますます広範囲に利用されるエネルギー源」との内容でまとめ、直接的な対ソ批判は避けた。  
だが、中曽根は国内では対ソ強硬派の顔をみせる。  
日本政府は「ソ連とは原子炉の型が異なり、日本の原発は安全性が確保されている」と繰り返した。中曽根も国会で「我が国の原発はまるっきり構造が違っていて心配はない」と断言。政府は7年前の米スリーマイル島事故で国内の同型の原発を停止したのとは対照的に、今回は「再点検は考えてない」と押し切った。  
社会党は原発の是非で党内対立が続いていた。ソ連は事故情報の公開に消極的で、同じく共産主義を掲げる日本の共産党にも批判が集まった。日本では「原発の事故」よりも「ソ連での事故」であることに関心が集まっていく。  
「反原発は左翼勢力」  
中曽根は、衆参同日選なら自民党が勝つという極秘の電話調査を把握。この数字を幹事長の金丸信に伝え、「死んだふり解散」に踏み切る。そこで「原発」を攻撃材料に使った。  
「社会党は原発も(容認に)変わらない。自民党がダメな時に交代するピッチャーが幼稚園。大学生にもなってない」と唱え、原発を認めない政党に政権担当能力はないと主張。実現はしなかったが、野党が提案してきた党首討論会のテーマに「原発の是非」を加えるよう求めた。社会党出身の北海道知事として泊原発を容認した横路孝弘は「ソ連は日本の科学技術より遅れているという国民全体の意識をうまく中曽根さんが使った」と振り返る。  
「反原発」と「革新勢力」を結びつける戦略はあたった。選挙中に茨城県東海村でプルトニウム汚染事故が起きたが、それでも「原発の安全性」は争点にならず、社共両党は防戦一方だった。投票率は71%を超えて自民党は圧勝。中曽根は長期政権を手にした。  
政府の原子力委員会の発足から30年。日本は33基の原発を稼働させ、全発電量の26%を占めて火力を抜いていた。通商産業省の総合エネルギー調査会は衆参同日選の2週間後、2030年に58%まで拡大する構想を発表した。  
1986年10月31日の閣議に「着実に原発を推進する」とする原子力白書が報告された。中曽根はその夜、原子力開発30周年記念懇親会で「原子力はさらに安全に確実に、平和と人類に貢献するよう育っていく」と宣言。チェルノブイリ原発事故直後の衆参同日選で圧勝した自民党は、国策・原子力を続行していく。 
平和利用の陰に潜む核武装論  
核燃料サイクルを核不拡散条約(NPT)の体制下で認められている国家は、国連安保理の常任理事国を除くと日本だけだ。中曽根康弘が首相時代、米国の「お墨付き」を得た。唯一の被爆国・日本はその結果、核兵器に使うプルトニウムを大量に保有する国家となった。中曽根は首相就任直後の1982年末、社会党議員から「総理は核武装論者ではないか」と国会で質問され、否定した。「私を核武装論者という人がおったらとんでもない誤解で、勉強してない人の言うことだ」  
専門家招き研究  
だが中曽根は防衛庁長官だった70年、私的に専門家グループを招いて核武装の是非を研究させていた。中曽根はのちに著書で「当時の金で2千億円。5年以内で出来るというものだった」と明かしている。  
中曽根はその研究を踏まえ、直後に訪米して講演する。「日本への核の脅威に対し、米国の抑止力が機能している限り、核武装する可能性はまったくない」  
能力はあるが、つくらない――。中曽根の核戦略について、外務省で初代原子力課長を務めた金子熊夫(74)は「必要なら持てる力が核の抑止力になる。中曽根さんは昔からそういう意見だった」と解説する。  
中曽根自身は核燃料サイクルの狙いについて「日本の自主独立でできる。外国から燃料を輸入しなくてすむ」と月刊誌Voiceの対談で語っているが、真意はむしろ、核武装の潜在能力を残しておくことにあったとの見方は絶えない。  
中曽根は83年11月、米大統領レーガンを別荘の「日の出山荘」で迎えた。そろいのちゃんちゃんこを着て、中曽根はホラ貝を吹くパフォーマンスでレーガンを歓待。この「ロン・ヤス」関係のもとで日米原子力協定の改定を目指した。  
日本は原発導入期に技術と資源を米国に頼ったため、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す際にいちいち米国の同意を必要としていた。この先30年間は同意を要しないように協定を改めることが日本側の主張だった。  
米側に秋波送り続ける  
だが、米国には日本の核武装への警戒感があった。米国務省高官は「30年の間に何が起こるかわからない。日本がNPTを脱退して日米安保条約を破棄する可能性もある」と難色を示した。  
中曽根は米側に秋波を送り続けた。「日本列島を不沈空母にする」と発言。懸案だった対米武器技術供与に踏み切り、たばこ関税引き下げや円高容認など防衛、経済両面ですり寄った。米側は徐々に軟化し、レーガンの決裁を残すだけになった。  
中曽根は87年9月、最後の日米首脳会談で日米原子力協定の改定を求め、レーガンは前向きな姿勢で応じた。両国は2カ月後に調印。日本は2018年までプルトニウムを堂々と大量保有する資格を得た。  
太陽国家へ転換  
だが、核燃料サイクルは技術的トラブルや事故で進まず、日本は国内に10トン、核兵器1250発分に相当するプルトニウムをためこむことになった。国際原子力機関(IAEA)への報告では、米国、ロシア、英国、フランスに次いで多い。エネルギーの自立を飛び越え、日本の核武装への疑念を世界から招きかねない状況にある。  
福島第一原発の事故はこうした中で起きた。政府は使用済み核燃料を保管するプールの冷却に手間取り、政権内にも核燃料サイクルからの撤退はやむを得ないとの声が広がる。それは「自立した国家」を目指す一部の政治家や官僚、学者たちにとって、ひそかに受け継いできた「核武装の潜在能力」を放棄することにほかならない。  
中曽根は原発事故から3カ月たった今年6月、太陽光発電の普及を目指す会議にビデオメッセージを寄せた。「原子力は人類に害を及ぼす面もある」とあっさり認め、こう結んだ。「太陽エネルギーをうまく使う。日本を太陽国家にしたい」。国策・原子力を引っ張ってきた93歳は、自民党に先駆けてエネルギー政策の転換を表明した。  
 
「初一念 風雪を突破せよ」中曽根康弘

 

日本人には勝負魂と活力がある  
――EUではギリシャ危機に端を発するユーロの通貨価値下落があり、一方日本でも国の借金が一千兆円を超えようという危機に直面しています。こうした状況で、いまの政治に求められているものは何なのか――その点を、今日は伺いたいと思っております。  
中曽根 日本の国力から考えると、一千兆円程度の借金であれば、そう憂えるような問題ではないと私は思っています。むしろ借金する力によって生産力や国際的地位を固めてきたこれまでの実績に目を向けるべきだと。元来、資源のない日本は、「借金力」で世界的にその存在を示してきたわけです。問題は、将来その借金を返す力があるのかどうかなのですが、私はその力は十分あると見ています。ただ国民は、政権を担当している政治家の能力、日本の将来像に対する考え方、信念の強さ、国際的理解力などを総合的に判断して、「この為政者に借金をさせていいのか」を考えます。それをクリアできなければ、為政者としての資格はないということになるわけです。これまでは「GDPの倍以内」といったあたりを一応の目安としてきたわけですが、GDPは名目で四百七十兆円ほど。その意味で現在の一千兆円という数字は、ギリギリのラインに来ているとは言えますね。  
――昨年、野田総理の就任一カ月目ぐらいだったと思いますが、韓国に行く前に中曽根さんを訪ねて、助言を得たと聞いています。あの時はどのようなお話をされたのですか。  
中曽根 あの時私は「国内の政治の仲間、あるいは外国との関係において強い味方を一人ずつつくりなさい」と助言しました。特にサミットにおいては強い味方の存在は不可欠ですからね。ただ、これまでのところ、野田さんのやり方を見る限りにおいては、明確にそれをやっているとは思えない。むしろ「平均点の高さ」を狙っているように見えます。  
――ということは、平均点よりも一点突破で攻め込むべきだと。  
中曽根 そうです。「初一念をもって風雪を突破せよ」ということです。日本が直面する現状程度の困難は、政権を担う者であれば当然考え、覚悟しているべき状況です。むしろ勇を鼓して前進するための刺激剤と考えるべきですよ。ところが彼は、自分の信念をあまり周囲に見せるような性格ではない。何事もコツコツと事務的に処理していくタイプの政治家でしょう。その意味では「ほとばしる情熱」というものは感じられませんね。ただ、これまでの実績を見ていると、国民からの支持率などはそれほど大きな落第点というわけでもないんです。支持率が二〇パーセント台であれば、不支持率が三〇パーセント台になっても、概ね一時期の自民党政権時代と変わらないし、もっと言えば日本の政権の性格ということもできる。要するに「普通の姿」の範疇に入るレベルですからね。  
――中曽根さんの首相在任中は、三公社の改革、外交面ではロン・ヤス関係で日本を大きく切り開いた実績があります。野田総理がいま一点突破で当たる対象としては、どのあたりに照準を定めるべきでしょう。  
中曽根 財政処理とアジア太平洋関係における政策展開。この二つだと思います。  
――アジア太平洋の展開となると、中国、アメリカ、あるいはロシアとの関係も出てくる。その中で特に力点をおくとなると。  
中曽根 まず大事なのはアメリカです。この関係を確実にした上で、中国、ロシア、インド、韓国などの国との関係を調整し、充実させていくことが大切です。  
――ただ、民主党に政権が移ってから、外交面での漂流、中曽根さんがよくおっしゃる「流砂現象」が起きているという見方もあります。  
中曽根 先ほども言ったように、野田総理は地味な実務派タイプですから、G8やG20等においても、リーダーシップを発揮するような派手なことはせず、しかし堅実に日本のポジションだけは守っていこうとするでしょう。ただ、確かに外交展開力についての国民の期待外れは否定できない。  
――歴代総理でいうと、竹下登さんみたいな実務家タイプですね。その意味では消費税増税のような辛い仕事は、野田さんに向いているのかもしれませんが、ただ総理大臣として持つべき要素の中で、中曽根さんがよくおっしゃる「説得力」が果たしてどの程度あるのか――といったあたりが問題になってきますね。  
中曽根 野田さんの場合は、「説得力」よりも「耐久力」が持ち味です。これは野党での経験から来るものですが、耐久力はあると思いますよ。  
――先日、キッシンジャー元米国務長官が「経験の足りない政治家の登場が政治の劣化につながっている」という趣旨の発言を読売新聞で行っていました。野田総理も経験の蓄積の面では不安があるのでは……。  
中曽根 キッシンジャーからみれば、世界中の政治家はみな経験不足でしょうね(笑)。とはいえ、私は野田さんが日本の歴代総理と比較して経験不足とは考えていません。ただ、私たちの時代と比べると、「苦しみ」と「喜び」の振幅が小さいとは思います。何事もサラリーマン的に流れているので、国民から見て印象が薄くなってしまうんです。  
――確かにいまはすべてが予定通りに進んでいて、驚かされることがなくなってきた。中曽根さんの首相時代は、緩急自在の手法に我々もびっくりすることの連続でしたからね。  
中曽根 戦前の教育は複線的でしたが、六三制になって単線化した。そして戦争の経験もある。その影響かもしれませんね。  
――中曽根さんと因縁のある小沢一郎さんのいまの動きはどうご覧になっていますか。  
中曽根 今度の判決次第で彼のポジションは大きく変わってくるでしょう。無罪なら息を吹き返し、民主党内部での勢力地盤が拡大するし、総理に対する発言力も大いに高まってくる。つまり、政界に対する影響力が急速に増大してくるわけですが、反対に有罪判決となると、前途はしぼんでしまう。  
――仮に無罪判決が出たとき、小沢さんはどういう動きをしてくるでしょう。  
中曽根 彼の「一念を通す」という性格から考えて、時間をかけて当然政権を狙うことになるとは思います。ただ、すぐにどうこうというのではなく、当面は野田政権を助けて、次の総選挙で自らの派を拡大する――というのが妥当な見方ではないでしょうか。  
――ところで、「一票の格差」について最高裁が昨年違憲判決を出したことで、定数の是正が与野党で議論されています。中曽根総理時代の、昭和六十一年の選挙前にも定数是正問題がありました。選挙制度と一票の格差についてのお考えは。  
中曽根 解散の必要性、および解散の政治的意義と歴史的価値を考えると、事前の選挙法の改正、定数の改正は望ましいことであり、できるだけ速やかに進めていく必要があると思います。しかし、その時間がないときには、解散もやむを得ないでしょう。「値打ち」で比較をするのであれば、定数是正よりも解散のほうが重みがあるわけですから。違憲状態での選挙には最高裁が異を唱えるという見方もあるようですが、解散というのは総理大臣が政治家としての運命を賭して下す決断です。総理の姿勢に合理的な政治的必要性と緊迫性の突破力があれば、裁判所もそれなりに考えるでしょう。  
――よく自衛隊の違憲合憲を言う時に、最高裁は「統治行為論」という理屈で憲法判断を避けますが、それに似たようなことですね。  
中曽根 政治について口を差し挟むことに、司法は非常に慎重な姿勢を堅持するだろうと私は思います。過去もそうだったし、未来も変わるものではない、と……。  
 
「日本人よ、もっと貪欲になれ!」中曽根康弘

 

成長への野心が、真のリーダーを育てる  
今ほど政治が軽くなったことはない  
今、日本国民だけでなく、世界中が日本政治の混迷を心配しています。その原因についての考えをお聞かせください。  
「今の政治家は、現代に対する認識が欠けていると思います。長期的な視野に立って政策を考え、深い歴史観と哲学に裏打ちされた大局観を持って政治を動かすことが政治家の基本だが、今の政治家たちには、その基本が備わっていません。学問的解明をもとにした政治的方策、あるいは戦略のようなものもありません。自らの価値観を磨き、情勢判断力に対する検討を行うといった努力もまったく足りません。結果的に、現代の時局、政治情勢、日本が置かれている位置というものが認識できなくなっています。彼らは、ただ現実的に起きている諸問題に対応する方策を論じることしかしていないようです。与野党の討論や喧嘩の場にしか、視線が及んでいないように見えます。中身のない単純な言葉のやりとりだけです。国民にお茶の間の喧嘩のように受け取られても仕方がない状況ですね。完全に政治の深さや厳粛さというものは失われました。今ほど政治が軽くなった時代はないと思います」 
歴史観と哲学が大切  
野田佳彦首相は、著書の中で「最も尊敬する戦後の宰相」として中曽根元首相の名前を挙げています。新首相へのアドバイスはありますか。  
「総理大臣にまでなっている政治家ですから、日本の現状、世界情勢に対する分析力というものは、一応は備わっているはずです。ただ、それをかみ砕いて、ジャーナリストや国民に分かるように説明する機会がほとんどないのが残念です。昔は、緒方(竹虎)さんにしても、吉田(茂)さんにしても、鳩山(一郎)さんにしても、私にしても、情勢感とか価値観とかの基本がありました。つまり、政治の基本となる学問がありました。学問体系の上で、政治を展開するという頭と体の訓練ができていたと思います。また、われわれの時代には、宗教というものへの強い関心もありました。吉田さんも、鳩山さんも、私の先輩の世代の政治家はみな宗教家と交わっていました。京都の禅宗の僧侶を呼んで話を聞いたり、修行道場へ行って座禅を組んだりと、さまざまな精神修養を行ったものです。私も毎週、東京・谷中の全生庵という寺で座禅を組んでいました。宗教家と同様に、学者とも積極的に交流を持ちました。鳩山さんは自宅で、吉田さんは首相官邸でという違いはあっても、月に何回かは学者の意見を聞く機会を設けた。緒方さんも同様です。戦前、戦争直後の政治家には、『定見を持たないものは政治家の資格がない』という共通認識があり、言動には常に学問や哲学の裏付けがなければ世に出られないようなところがありました。しかし、現代の政治家は自らの思想、哲学を磨くための修業を行う機会がほとんどなくなったように見えます。単に、議会における言葉の応酬、宣伝効果、短いフレーズでの表現力だけが問われる、言葉のマヌーバー(戦術)が今では政治の中心です。政治が浅く、軽くなりました。言い方を変えれば、政治があまりにもジャーナリスティックになりすぎ、アカデミズムが消え去ったということです。最近の政治家の発言は実に軽い。野田総理の「どじょう」とか、閣僚の「放射能つけてしまうぞ」とか、まるで茶の間の茶番です。日本の政治が宗教性、哲学性を失い、一種のテレビゲームのようになってしまったということを考えないといかんと思いますね。もう一度、哲学的、学問的、宗教的に政治の基本というものを洗い直して身に付けることが必要ではないでしょうか」  
ジャーナリズムの責任でもありますね。  
「確かにそれはありますよ」 
政治家の力量が問われる首脳外交  
日本政治の混迷は外交面にも及んでいると思います。2012年は世界の主要国でリーダーの交代があるなど、大きな変化が予想されます。日本の外交政策はどうあるべきでしょうか。  
「最近の有力政治家の間に、体系化された日本の外交戦略がほとんど見えないですね。日本の政治家が、海外の政治家とも交わっていくという面からも、国際的見識、国内政治に対する戦略、そういうものを合わせた自己の外交戦略を持つことが必要です。こうした点において、外国の政治家はみなしっかりとしたものを持っています。彼らはしっかりとした基礎の上で、自国の代表として外国と交わります。日本でも政治がアカデミックだった時代には、外交においても、政治家が基本体系を学ぶという土台がありました。先ほど指摘した通り、政治家としての基本的な立脚点、政治が負うべき価値観などを再検討し、確立させる必要があるように思います」  
内政においても、外交においても、政治家にとっては基礎が重要で、それがリーダーに求められる資質ということになるのでしょうか。  
「今、自分が立脚している足場はどこにあるのか。現代とは何かということに答えるために、基本的な価値観なり、哲学、そして歴史観が重要です。昔は、その点を極めることが、政治家になる要件でしたが、現代の政治家は、研鑽が欠けている。政治に対する価値観、哲学性、そして歴史観を磨くことは、人間としてのボリュームを増すことにもなります。外交というものは、外務大臣がやるものではありません。外務大臣はあくまで補佐であって、主力は大統領や総理大臣です。だから、首脳外交こそが外交の本質なのです。外交とは首脳間における力と智慧の競争です。その意味で、私は、サミットを外交のオリンピックという表現で説明することもあります。政治家にとって自らのボリュームを大きくすること、つまり、歴史観を養い、現代への認識、独自の世界観を持つことで、外国の政治家に太刀打ちするのみならず、外国の政治家を凌駕する。そういう見識が必要です。首脳会談を始めると10分程度で、相手の器の大きさが分かります。言葉が違っても、表現力や発言する姿勢を見ていれば分かるものです。そして、お互いの価値を認め合い共鳴することもあれば、対立することもあります。たとえ対立したとしても、敵ながらあっぱれ、というような気持ちを抱かせることができれば、それもまた、国の力となります。こうした中で養われた首脳間の信頼が、外交を動かすのです。そして、各国首脳の信頼を得るために必要なのが、個々の政治家の力量です。首脳外交に耐えうる政治家を育てるという点でいえば、戦後教育には物足りなさを覚えます」 
危機を乗り越えるのが政治家の使命  
2011年には東日本大震災が発生し、原発事故も起きました。こうした危機においても、状況を左右するのは、やはり政治家の力量ということになるのでしょうか。  
「政治家というものは、運命を背負って生きていかねばなりません。たまたま総理大臣に就任したときに、大震災があるとか、大規模な原発事故が起きるとか、国際紛争が発生するとか、財政危機に見舞われるとか、それもみな、政治家の宿命です。しかし、それを乗り切るのが、政治家の使命です。そのときの情勢を的確に読み、見事にこなして、次の時代へと引きついでいく。それが政治家の仕事です。ですから、普段から勉強をし、修行もする。緒方さんも、吉田さんも、鳩山さんも、そして私も、みんなやってきたことです」  
中曽根総理の時代には、伊豆大島の三原山が噴火し、迅速な全島避難を成し遂げるなど、危機管理も見事に成し遂げられました。  
「それは、われわれの世代は戦争体験がありますから、非常事態に対処する心構えが備わっていました。非常時に指導者はどうあるべきかを、少尉、中尉のころから学んでいます。政治家になったときには、非常時に指導者はどう動くか、ということが完全に理解できていた。すでに経験もあった。何が起きても、パパッと行動を起こせるようになっていた。改めて人に相談する必要もありません。だから、総理になっても別に驚くことは、また慌てることもなかったのです。それまでに勉強したことをやれば良かったですから。今の人は、そういう経験もまずないし、勉強の場も与えられない。自ら勉強するか、先輩に教えを請うしかない。先輩もまた教える必要がある。しかし、先輩後輩の関係や、政治家としての実学を学ぶ機会も失われてしまった。危機管理のあるべき姿を考えれば、今はまったくの素人が政治をやっているような状態です。政治家だけでなく、その他の分野においても、指導者教育というものが、日本全体の課題になっていると感じています」 
人間を作るのに必要な“貪欲さ”  
今後の日本の教育、だけでなく、これからの日本人に必要なものは何でしょうか。  
「私は、人間的修行、個人的勉強、政治家の基本となるべきものを確立することを学生時代から始めました。そして、政治家になると決めた段階から、日常のすべてをその目標に集中し、精神的栄養分を増やし、丹田力(たんでんりょく)を強化しました。今のみなさんも、政治家になろうという人はおそらく、そういう心掛けをお持ちなのでしょう。しかし、われわれの時代には、先哲の学問や、禅僧とかに非常に傾倒して、何かを獲得したいという貪欲な思いがあったと思います。今の人にはそういう貪欲さが少ないのではないでしょうか。おそらく、戦前の教育体系というものが、そういう人間修行に対する貪欲性を養ったと思います。逆に現代の教育の場からは、そういう野心的な栄養吸収力が育ちにくくなっている。要するにいかに人間を作り上げるか、ということです。旧制高校の教育は良かったという話を聞くことがありますが、確かに、教室や本だけではなく、運動部の競技、寮の生活、先輩から話を聞くなど、学ぶ場がたくさんあった。先輩が持っていたものを、自分も獲得しようということに非常に貪欲であったと思います。今の人は、そういう点があっさり、さっぱりしていますね」  
今の人間は、勉強不足で本質を見抜く力が弱くなっているのでしょうか。  
「そうですね。やはり、貪欲、真実究明ということが一番必要なのではないかな」  
21世紀の日本は大丈夫でしょうか。  
「大丈夫です」  
大丈夫ですか。  
「ええ。日本の民族は、古い歴史をたどれば、大八島と呼ばれた日本列島に閉じ込められていた民族で、ある意味においては、民族の結束力が非常に強い。普段はあまり発揮されることはないが、危急存亡のときには必ず、この結束力が表面に現れるはずだ。その基本が、歴史とナショナリズムです。私は、日本には強いものが残っていると思います。ですから、そう心配はないと思います」  (2011年)  
 
憲法改正「日本色は当然」中曽根康弘

 

嗚呼(ああ)戦いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す 平和民主の名の下に 占領憲法強制し 祖国の解体計りたり  
我(わ)が憲法を打ち立てて 国の礎(いしずえ)築くべき 歴史の責を果たさんと 決意は胸に満ち満てり  
国を愛する真心を 自ら立てて守るべき 自由と民主平和をば 我が憲法に刻むべし  
これは昭和31年に私が作詞した「憲法改正の歌」の一部なんだ。現行憲法は、国民主権、平和主義、民主主義を高らかにうたった点で意義はあり、日本の改革に果たした役割と功績は認めなければならない。  
しかし、憲法の基礎には、歴史的、伝統的、文化的な日本的共同体という実体がなければならない。GHQ(連合国軍総司令部)が強制的に作らせた現行憲法には日本らしさが失われ、マッカーサーの占領政策は憲法改正への本格的論議をも妨げてきたんだ。  
日本は独立を果たしたのだから、憲法をもう一度日本人の手で練り直すのは当然のことだろう。それに欠陥を放置すればそれを悪用する「輩(やから)」が生まれる。明治憲法の「統帥権」はまさにそうだ。憲法は適切に変えていかねばむしろ危険だという教訓だといえる。  
私は「国家主義者」とか「右翼」とか、罵詈(ばり)雑言を浴びながらも憲法改正に取り組んできた。「歌」には、日本の歴史、国民性、未来に対する覚悟、理念を憲法に法律的整合性を持って組み込もうという考えを込めたわけだ。日本が戦争と敗戦の上に蘇生して新しい未来に向かって進んでいくことを願ってね…。  
「自主憲法制定」を結党の理念に掲げた自民党もなかなか憲法改正に動こうとせず、小泉純一郎政権下の平成17年の結党50年に合わせてようやく新憲法草案を策定することになった。そこで私は新憲法起草委員会の「前文」小委員長に起用されたんだ。  
前文には、その憲法の体系や基本精神を要約して掲げることが多い。にもかかわらず、現行憲法の前文は文章が未熟な印象を受ける。自国の安全保障を他国に任せて自らは積極的な努力をしないようでもある。  
そこで自民党の新憲法の前文には、日本の歴史や文化、個性を入れ、過去と現在と未来を網羅しうるような内容にしようと考えて原文をまとめたんだ。  
ところが、できあがった新憲法草案を見て驚いた。「日本色が強すぎる」と党執行部が完全に差し替えたんだな。思想や国家観の相違といえばそれまでかもしれないが、法技術のみに走りすぎ、日本というものへの認識不足、愛情不足を感じたね。これは実に残念であった。  
これに比べ、サンフランシスコ講和条約発効60周年となる4月28日に向け、自民党憲法改正推進本部(保利耕輔本部長)が新たにまとめている憲法改正原案は、日本というものの基本体系と精神が盛り込まれ、適切な内容ではないかな。  
憲法改正には「改憲すれば戦争になる」というデマゴーグが浸透していたこともあり、自民党にさえ護憲を唱える政治家がいた。まあ、国民の意思を尊重しつつ、慎重に対処することは政治家として当然のことかもしれないがね。  
とはいっても憲法改正の機運は高まっている。にもかかわらず、最近の政治家は目先の臨床的な問題にしか対応しようとしない。改憲ルールを定めた国民投票法は平成19年に成立し、22年5月に施行されたが、衆参両院の憲法審査会がようやく始動した段階だ。もたもたし過ぎているんじゃないかな。憲法改正は国の運命を決する日本の柱だ。国家百年の計を考える観点から政治家は積極的に議論に関わってほしい。  
 
「凶弾も恐れない気概が今の政治家には必要だ」中曽根康弘

 

日本の政治は、まさに混沌としている。昨年、戦後初となる本格的な政権交代が実現したものの、政権をとった民主党は経済政策や外交問題で苦戦を強いられ、支持率が急落。6月2日、鳩山由紀夫首相と小沢一郎幹事長は、そろって辞任を表明した。民主党は引き続き政権を担うものの、求心力の低下は避けられそうにない。一方、下野した自民党も急速に求心力を弱めており、政権奪回のメドは立たない。政治はこのまま羅針盤を失い、漂流を続けるのか?  
日本が「世界の大国」の名を欲しいままにした1980年代に長期政権を担った中曽根康弘元首相は、現在の政界に警鐘を鳴らす重鎮の1人だ。激動の戦後、高度経済成長時代、バブル経済時代、そして平成の「失われた20年」を一貫して政治の第一線から見つめ続けてきた中曽根氏の目には、今何が映っているのだろうか?  
昨年、戦後初となる本格的な政権交代が起き、長年政権を担っていた自由民主党が下野して、民主党政権が誕生しました。しかし鳩山政権は、発足からわずか8ヵ月目で崩壊。混迷を続ける日本の政界に、二大政党制は本当に根付いたのでしょうか? 評価を聞かせてください。  
「二大政党制が本格的に根付いたとは、まだ言えません。民主党は政策が安定していないし、支持勢力の恒久性も確立されていないから。政権をとった民主党も、復活を狙う自民党も、努力をしているのはわかります。ただ現実には、先の衆議院選挙によって2つの大きなブロックができただけの話であり、今の政治体制は、長期に続く国民の本当の意志の上にでき上がったものではない。このような状態では、「第三極」の台頭もあり得ない話ではないでしょう。」  
自民党からは、渡辺喜美氏、鳩山邦夫氏、与謝野馨氏、舛添要一氏などが次々に離党し、既存の政党と合流したり、新党を結成したりしています。このような「第三極ブーム」は、今の二大政党が岐路にさしかかっているからでしょうか?  
「民主党にしても、元をただせば過去の自民党の分派に過ぎない。今までは一緒だったものが、2つに分かれて対立しているだけです。民主党も自民党も、新しい時代に対応するための内部的変化が自由に起き、それを昇華できない鬱屈の状態になっています。そういう状況だからこそ、片割れ分裂が少しづつ起きているのです。今度の参議院選挙の結果いかんによって、再び政界再編が起きる可能性は十分あるでしょう。現在の新党の動きは、選挙結果を先読みして再編の先駆を期しているものです。」  
今度の参院選の結果をどのように予測しますか? 民主党は、経済・外交政策において引き続き苦しい立場に置かれており、支持率の回復も難しいと思われます。  
「ひょっとしたら自民党が多少優勢になるかもしれないが、まず互角でしょう。新党では、みんなの党あたりが票を伸ばし、他は伸びないでしょう。渡辺喜美君(みんなの党代表)は、お父上の渡辺美智雄氏に瓜二つです。お父上と能力も宣伝力も同じくらいはあると思う。ただし、個性や自己主張を持っている点が買われていても、解散総選挙を経ないとそれは定着したというわけではない。政治家は、国民の判定を受けることによって自立し、成長していくもの。今の若いリーダーたちは、本格的な選挙を2〜3度経験する必要があるでしょうね。政治家にとって、選挙はそれほど重要なもの。だからこそ、政界では政治家の当選回数が重視されるのです。」  
中曽根さんは、首相在任中の1986年に衆参同日選挙で大勝した経験をお持ちです。政治家が厳しい選挙を勝ち抜くために、必要な資質は何でしょうか?  
「衆議院選挙の場合なら、解散総選挙に打って出る政治指導者の決断力の強さ、そして政治の進路に対する強い確信ですね。国民の支持を得るためには、自分の信念や決意を深く印象づけなくてはいけません。それはまさに「信頼される力」です。」  
前首相の祖父・鳩山一郎元首相は政党政治家としての真骨頂を示した。しかし、今の政治家からはあまり強い信念が見えてきません。辞任した鳩山由紀夫首相に信念の強さを感じましたか?  
「昔の人ほど感じないです。失礼な言い方かもしれないが、いまだに母上から政治資金をもらっている「良家の子弟」という印象が拭えません。お父上の鳩山威一郎氏(元外務大臣)は、私の東大(東京帝国大学)の同級生でした。(由紀夫首相を)祖父の鳩山一郎元首相と比べれば、雲泥の差と言ってもいいかもしれない。一郎氏は、明治・大正を通じて鳩山家が持ち続けていた政治的な遺伝子を、明確に持っている人でした。彼は、軍部に対抗して、官僚政治家ではなく政党政治家としての真骨頂を、政策においても政治的態度においてもはっきり持っていた。しかし、孫の由紀夫氏になると、やはりそういう面は見えなかった。」  
その「弱さ」は何が原因なのか? 時代の流れで仕方ないことなのか? 政治家としての鍛錬が足りないのか、それともポリシーが弱いのでしょうか?  
「個性の弱さでしょうね。一郎さんは、明治以来の典型的な政治家でした。原敬も浜口雄幸も、戦前の首相には暗殺された人も少なくなかった。そういう場面を目の当たりにしているから、昔の政治家は強かったのでしょう。彼らには、「暗殺も凶弾も恐れず」という気概があり、政治に身を奉げる気持ちや、一心不乱に努力する姿勢が、今の政治家とは比べ物にならないほど強かった。戦後の首相では、石橋湛山さんも印象的でしたね。彼はいわば「禅坊主」のような人で、政治家としての権威を持つ前に、人間としての権威を持っていた。もともとジャーナリストだったこともあり、戦前軍部に面と向かって抵抗していた根性の座り方は、戦後のGHQ(占領軍最高司令部)に対しても変わらなかった。今の時代に、あれだけの信念を持った人は、そうそういないですよ。私も戦争に行って、勝つか負けるかで生死が分かれるという経験をしています。後の政治家人生は、その延長線上にあった気がする。しかし、今の政治家には、そういう気概が感じられませんね。」  
今の時代に、それほどの気概を持った政治家はいるでしょうか?  
「小沢君(小沢一郎・前民主党幹事長)に、そういう気概を少し感じますね。彼には明朗さはないけれども、東北人特有の不敵さや根性を持っている。何回たたかれてもめげない。あれは、東京人にはない資質でしょう。しかし、暗い陰がつきまとう。明るさが見えない。」  
鳩山首相と共に幹事長を辞任した小沢さんは、かつて核武装論までタブー視せずに主張したほど、ポリシーの強い政治家でした。しかし、政権をとった後はどちらかというとそういうイメージが薄くなり、政策面では社会民主的な主張が多くなっていた気がします。なぜでしょうか?  
「基本的なポリシーは変わっていなくても、国民に対して「変化」を見せていたのでしょう。時代は絶えず変わり続けるもの。政治家もそれに合わせて変わっていかないと、時代に捨てられてしまう。だから、政治家は時代に鋭敏でなくてはいけない。小沢君は、そういうセンスを持っているのだと思います。しかしながら、民主党が政権をとるために社民党との連立を策したが、自主独立の要素も示さなければ駄目だった。「不易と流行」ではないが、私も首相時代にはよく「風見鶏」と言われたものです。風見鶏は足許はしっかりしていて、体はいつも風の方向を向いている。不動の上に柔軟な対応も見せる。政治家には、時としてそういう姿勢も必要です。」  
それにしても、今の民主党政権は足許さえおぼつかないように見えます。彼らが安定政権を維持するためには、どうしたらよいのでしょうか?  
「もっと自民党との基本政策の相違点を明確に打ち出して、独自の政策や財政基盤を固めていくことが、政党の信頼度を高めていくうえで必要でしょうね。自民と一線を画した基本哲学や政策を明らかにしていく。それこそが、自民党の対抗勢力としての民主党の信用を確立するための、大事な要素です。政権を維持しようとしたら、本来はそれがないとダメ。自民党と同じだったら、意味がない。」  
では、民主党は何をアピールすればよいのでしょうか? 今、中曽根さんが首相を務められているとしたら、何を重視しますか?  
「やはり外交・安全保障問題でしょうね。ここには自民党と同じ点もあれば相違点もあり、これを明確にする。外交では、特に対米・対中政策が重要になります。民主党は旧社会党系の勢力を抱えていることもあり、これが徹底していない。「政権党だから自民党と違うところを見せようと」という気持ちが強いが、基本が乱れて外交や安全保障に対する取り組みには、大きな綻びが見えていました。たとえば、対米関係です。普天間基地の移設については、「外国だ」「県外だ」と議論が二転三転した結果、結局は現行案に戻ってしまった。移設先の立地や工法についても、「杭打ち方式」から自民党時代の「埋め立て方式」へと帰着している。そもそも外交には、国策が一貫して逸脱してはならない「一定の幅」があります。それを逸脱すると、その影響が対外関係全般に波及してきて、両国の関係を破壊する危険性さえあるので、本当に難しいものなのです。しかし民主党は、「これまでと違うところを見せよう」とするあまり、かえって混乱を招いてしまった。米国にしてみれば、これは明らかな違約。民主党は、あえてそれをやらざるを得ないという苦しい状況に陥っています。野党が政権をとると、野党時代に言っていたことや、現実から遊離したことをあえて言わなければならない状況も出てくるもの。しかし、政権をとってみると、いずれはそれが無理であることがわかってくるものです。そのときは、国策の継続的基本線に従うことこそ肝要です。」  
 
「昭和の妖怪」に遠く及ばない菅直人

 

決定的に欠ける首相の資質、このままでは日本が沈没する  
「宇宙人」宰相、鳩山由紀夫の、いまだに真意が分からぬ政権投げ出しを受けて菅直人が第94代内閣総理大臣に指名されたのは6月8日。あれから半年、多くの有権者はダメ菅政権に「もう、いい加減に辞めてほしい」と三行半を突きつけているのだ。  
民主党の支持率が自民党を下回った  
1年前の、あの政権交代の熱気は何だったのだろう。半世紀に及ぶ自民党政治を拒絶した有権者は、今、あまりに期待外れだった政権与党・民主党に「トホホ」状態なのである。  
それは、各種の世論調査の数字にハッキリと表れている。  
例えば共同通信社が11月23〜24日に実施した全国緊急電話世論調査では、民主党の支持率は22.1%に下落し、自民党支持率24.6%を2.5ポイント下回った。与党の支持率が野党を下回るのは菅内閣発足後初めてだが、今、選挙をやれば世論の潮目は完全に自民党のものということである。  
内閣支持率はもちろん右肩下がりで、浮上する気配はない。同調査によれば、内閣支持率はたった23.6%で、不支持は61.9%に拡大した。庶民はこの期待外れ政権にレッドカードを突きつけているのである。  
間違って首相になってしまった未熟な政治家  
菅直人は首相就任直後の記者会見で「政治の役割は、貧困や戦争など国民や世界の人が不幸になる要素をいかに少なくしていくかだ」と語った。 「最小不幸社会」の実現という政権スローガンを掲げたのだ。  
しかし、民主党政権15カ月を振り返ってみると、八ッ場ダム中止の中止、企業献金中止の中止、高速料金無料化の棚上げなど、主張と行動はブレにブレまくった。  
子ども手当、農家の戸別所得補償、ひも付き補助金の一括交付金化など目玉の政権公約(マニフェスト)も次々と破り捨てられるか、書き直されている。これでは支持率が上がるわけがない。  
「強い経済、強い財政、強い社会保障」「1に雇用、2に雇用、3に雇用!」に象徴される菅流アジテーションも、口先だけの「ひらめき」「思いつきレベル」だったようだ。その証拠に、経済再建・雇用拡大どころか、菅内閣の円高無策・経済無策は目を覆うばかり。  
それにさらに輪をかけたのが、外交無策だ。尖閣、北朝鮮、北方領土──、外交無策の3連荘は国際政治・外交の歴史に大きな汚点を残した。  
英会話、安全保障、財政が不得手の菅直人の半年間は、宰相の無能が社会に不幸をもたらす「宰相不幸社会」を生み出したのである。それでも国がメルトダウンしないのは、国の運営が「政治主導」ではないことの皮肉な証左でもある。  
「アキ菅、ダメ菅、ズル菅、ヌル菅、ニゲ菅」と批判されるこの人の、見るからに自信がなさそうなうつろな目。それは国民に政治不信を植え付けると同時に、「総理の資質」そのものを問われざるを得ない未熟な政治家が、間違って宰相の座に就いてしまった不幸な姿の象徴と言えるのではないだろうか。  
青年将校時代の中曽根康弘の決意  
自民党の一党支配が続いていた1960〜70年代のこと、総理大臣候補の必須キャリアは「自民党内では党三役(幹事長、政調会長、総務会長)の経験、閣内では外務大臣か大蔵大臣(当時)の経験」だった。  
党運営で汗をかき、外交か財政のどちらかは専門的な経験を積んでいることが最低条件。さらにその上、人一倍胆が据わり、踏まれても蹴られてもめげずに立ち上がる打たれ強さを併せ持つ人間でなければ「総理の資格はない」と言われたものだった。  
4年11カ月にわたる長期政権を維持した大勲位、中曽根康弘は、ただ1人生きている昭和の総理大臣経験者で「昭和の妖怪・その2」のような人物だが(「昭和の妖怪・その1」は岸信介元首相)、同時に、生涯「宰相の資質」を身につける努力をし続けた人物でもある。  
現役政治家時代は、「風見鶏」「口先男」「やぶ枯らし」などとボロくそに批判されたがまったく動じない。そして、ポスト小泉純一郎時代、安倍晋三以降の総理が1年も持たずに次々と政権を放り出す様を見てこう言ったという。  
「根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」  
中曽根は青年将校と呼ばれた時代には「首相公選論」を訴え、「総理になったらこれだけのことをやる」と自分の政策を大学ノートに記していた。そのメモは大学ノート30冊分あったという有名な逸話の持ち主でもある。  
中曽根流の改憲・核武装の主張には与しないが、「その日」のために歴史を学び、政策と哲学を磨き、人脈と金脈を広げた努力は素直に評価すべきだろう。  
「菅直人は全共闘世代の代表なんかじゃない」  
国民の安全と安心を守る宰相の資質論という面から見ると、市民運動出身が唯一の売りの菅直人や、問責決議が可決されても官房長官の職に居座る仙谷由人は、何か重大な勘違いをしているように思えてならない。  
先日、東大全共闘出身者の出版記念パーティーがあった。出席者の中には仙谷由人と東大同期で、所属セクト(「統一社会主義者同盟」の学生組織「社会主義学生戦線・フロント」)も同じだった人物らも来ていた。  
出席者の1人がこうつぶやいた。  
「あの当時、『権力を握ったら俺は文部大臣になりたい』と大真面目な顔で言っていた奴がいたな。俺は笑っちゃったけどね。権力を握るなんて、考えたこともなかったからな。  
おそらく菅や仙谷は、文部大臣願望者と同じように、当時から権力志向が人一倍強かったのではないかと思う。  
特に全共闘にも敵対していた菅の場合は、自分の得になることならば、誰とでも手を握るタイプ。理念も哲学もなく『敵の敵は味方』との単細胞思考をする輩だ。こんな男が全共闘世代の代表のように思われることは実に不愉快だ」  
中曽根大勲位は総理になったら何をするかをとことん考えていたが、菅直人はそんなことを考えたこともないのではないか。  
その場その場で権謀術数の限りを尽くし、権力の座に就くことだけに邁進してきた政治家生活。夢のまた夢と思っていた総理大臣になれた今は、その座に1日でも長くいることしか考えていない。  
11月27日の鳩山由紀夫・前首相との会食で「内閣支持率が1%になっても辞めない」と語ったと報道されているが、この人物には国家、国民のために身を粉にして働くなんて発想はさらさらないのだ。  
ひらめきで生まれた「幼保一元化」がもたらすもの  
ところで菅政権は先頃、2013年度から実施予定の「幼保一元化」に関する原案を明らかにした。  
文部科学省所管の「教育施設」である幼稚園と、厚生労働省所管の「児童福祉施設」である保育所を10年程度の経過措置の後にそれぞれ廃止し、「こども園」に一元化するという。  
民主党は2006年の国会に「認定こども園 民主党案」を提出するなど以前から幼保一元化に積極的で、「幼稚園派の自民党vs保育所派の民主党の闘い」と言われた。  
だが、この政策ひとつとっても、国や国民の将来にとって本当にプラスになるのかどうか大いに疑問なのだ。  
内閣府は「こども園」の目的を「親の働き方や所得に関係なく、地域の子供たちに幼児教育も保育も一体で提供する」と説明している。  
確かに「専業主婦家庭の子は幼稚園、共働き家庭の子は保育所」「保育料が一律の幼稚園と、所得によって保育料が変わる保育所」といった子供の世界の差異がなくなることは悪いことではない。  
しかし、こんな大転換を「おれはひらめきが得意なんだ」(朝日新聞11月28日付)を口癖にする菅首相の「思いつき」や「ひらめき」で断行されてはかなわない。とても国民的な議論、十分な検討がなされているとは思えないからだ。  
しかも、待機児童問題を引き金に、保育所が金儲けの手段として異常な注目を集めている。インターネットの検索サイトで「保育所経営」でググってみると、「保育事業の独立・開業・起業 保育園の経営FC情報」といったサイトがごまんとある。  
そうしたサイトには、「保育所経営は初期投資金額の低さ、利益率の高さ、投資回収率の高さ等、 事業経営の観点から非常に恵まれたビジネスモデルである」なんてことが堂々と書かれている。そして200万円近い「保育所開業コンサルタント料」が右から左に動いているのである。  
拙速な幼保一元化は、こうした保育所ビジネスの過熱を煽る結果となりかねない。まるでコンビニを開店するような気安さで参入する「事業家」たちに、就学前児童を預かる責任と覚悟があるだろうか。少なくとも、理想の幼児教育の実現を目指して奮闘してきたフレーベルの後継者たちとは月とスッポンだ。  
しかし、「悪貨は良貨を駆逐する」のが世の常。「幼保一元化(=こども園)」が日本の教育破壊の最終兵器にならないことを祈るばかりである。  
そして一事が万事、このような未熟な宰相が権力の座にしがみついている限り、外交も経済も立ち直れず、日本の社会は取り返しのつかない混迷に陥る危険性がある。  
 
日中韓賢人会議 日本代表団長挨拶

 

皆さん、おはようございます。このような歴史的に非常に意味のある会議を開催していただきまして、主催されました3社の新聞社の皆様方、特に今回お世話になっております中央日報の皆様方に厚く御礼申し上げる次第でございます。また、こういう機会に、久しぶりに中国の銭其琛先生にお会いすることができまして、大きな喜びであると同時に、2008年の北京オリンピックの成功を祈念いたしている次第でございます。私は、この会議が歴史的に見て、非常に大事な会議であったということが、後世、証明されるであろうと思いますし、そういう会議にしたいと思っているのであります。  
ただいまありました銭其琛先生のお話のように、韓国、中国、日本、3国だけのGDP、貿易量、あるいは債権等々を見ますと、既に世界一流のEU、あるいはアメリカのNAFTAの水準に今はもう追い付きつつあり、場合によっては追い越しているところもあります。中国の最近の目覚ましい躍進ぶりを見ますと、5年、10年のうちに北東アジア3国の経済的実力は、まさに世界のリーディング・パワーとして、大きな責任を背負う運命にあるだろうと思います。  
しかし、それが実現するかどうかということは、現在の3国の協調・協力の如何によるのでありまして、その3国の協調・協力関係を作る基礎として、現在我々がやっている賢人会議と称するものが非常に有効ではないかと思うのであります。なぜなれば、この賢人会議は、第1ラウンドは韓国ですが、第2ラウンドは中国あるいは日本で行われ、3年のうちに一回りするわけです。この間に世界情勢はかなり大きな変化が出てくると思いますし、いよいよ第2ラウンドを行うという段階になりますと、今まで我々が第1ラウンドでしてきた諸議論が大いに反省され、また伸ばすべきポイントを皆が自覚し合って、目的に向かって一致して進むということができるからであると思います。  
しかし、そういう方向へ持っていくために大事な点は、何といっても「平和と友好」であります。ここにいらっしゃる皆さんはもとより、3国の指導者も、今ほど平和と友好が必要な時期はないと自覚しております。それは3国の力を皆さんが自覚していますし、それが結束することで、世界に対するアジアの発言権をさらに強くするという基本的なものを提供するという意識があるからだろうと思うのであります。  
私は前に総理をしていた時に、中国の指導者の皆さんと4原則というものを作りました。平和友好、互恵平等、相互信頼、長期安定という原則を確立して、共に努力してきつつあったのでございます。この3国の皆様方のご努力によって、3国の経済協力、文化協力は素晴らしいスピードで、今前進していると思いますし、さらに今後の中国の躍進によって、大きく変化していくだろうと思うのであります。私は、そういう意味において、この4原則は昔作ったものであっても、必要であると思います。  
それと同時に大事なことは、相互尊重ということであって、その反面には内政不干渉ということが確立されていなければならないと思います。私は昨年ここへ来て、新聞記者から「今、世界の指導者に必要なことは何か」という質問を受けました。私は「各国の指導者が、自国の行き過ぎたナショナリズムを抑制することです。これを抑制しないで放っておけば、世界は非常に乱れた状態になるでしょう」と答えました。日本に帰ってもそのことを公言して、自ら戒めてきたものであります。  
私は前に3国間のトップ会談を定期的に、輪番で行うように提議したことがあります。こういう考え方は、中国の朱鎔基先生もおっしゃっていたと思います。やはり韓国、中国、日本の大統領、総書記、首相が、きちんと期日を決めて、年に2回なら2回と、順番に定期的に3者会合を開くことができることが、これから今言ったような北東アジアの力を伸ばしていく非常に大事なファクターであり、現在これができていないという状況を非常に残念に思って、我々としてはできるだけ早くこれを改善しなければならないと思っているところであります。  
ところで私は、3国関係を今後建設するについて、二重構造をお伝え申し上げたいと思っています。これは前から言っていることでありますが、1つは東アジア共同体であり、もう1つは東アジア経済協力機構の建設であります。  
東アジア共同体の建設については、既に10+3(ASEAN10カ国+北東アジア3カ国)の首脳会議でも一致しておりまして、各国ともその共通目標を開いているものであります。このことは非常に重要なことであって、北東アジアおよび東南アジアの13の国々が、そのような将来にわたる共同体建設という共通の目標と理想を持つということは、国民に対してその将来の行く道を教え、自ら行うべきことを教えることになります。それと同時に、政府自体がこの最終的目標のために、自己の行動をある程度節制しなければならないという場合もあり得るのであって、この共通の目標と理想を設定したということは、非常に重要な意味を持つと思い、それを成功させたいと思っているのであります。  
もちろん東アジア共同体については、EUのように宗教的・文化的統一性があるわけではありません。非常に多くの困難な問題がございます。私はケ小平先生が前に「今解決できないものは、解決しないという解決方法があるのだ」とおっしゃったのを、よく覚えております。主権に関する問題等については、いろいろ錯雑した状況が絡んでおり、国民感情もありまして、政治家としてはなかなかやりにくいポイントがあると思うのであります。ケ小平先生がおっしゃったことは、ある意味において政治家に対して名言を与え、また将来の東アジア共同体というものを既にお考えになっていたかもしれないと、私は敬意を表している次第でございます。  
そして、もう1つの問題、つまり重層構造の1つは、東アジア経済協力機構という問題でございます。先ほど銭其琛さんがお話になりましたが、去年の12月にクアラルンプールで首脳会議というものが開かれました。これは10+3の13カ国に加えて、3つの国が参加したものであります。私はそれに対して、今の13カ国のほかに、アメリカ、ロシア、インド、オーストラリア、ニュージーランドの5カ国を加えた経済協力機構を作るというアイデアを申し述べております。太平洋の向こうのアメリカをなぜ入れるかというと、経済の問題は国境を越えて自動的に活動できるものであり、それが東アジアをこれだけ大きく成長させた原因でもあります。その中にはアメリカの貿易や知的所有権の活用、投資といった大きな市場があって、これを経済の場合には無視すべきではありません。そういう意味で、アメリカが入るのであります。ロシアを入れるのはなぜかといえば、現在、最も大きな問題として石油と資源があります。そういう意味においても、ロシアを参加させるというのは合理性があると思うのであります。  
このような経済協力機構を設定して、ある程度の宣言なり、軟らかい協定を作る必要があります。そして、今現在行っているFTA(自由貿易協定)のネットワークを東アジア全体にできるだけ早期に形成し、WTOのルールや市場原理を尊重して、それを基本原理にしていくという考え方をして、さらにアジア開発銀行やIMFとの連携を十分に取っていく必要があります。なぜなれば、我々が行おうとする経済協力の中には、為替や金融市場の協力・発展という問題もあるからであります。関税の引き下げ、貿易の開放、知的財産の保護、為替の安定、債権市場を含む金融市場の拡大と安定、その他情勢によっては複数の共通基軸通貨を作る必要もあります。いつまでもドルに依存している時代ではありません。そういうことも将来は考えていくべき時代に入るだろうと思います。  
以上のように、13カ国による我々の共同体、これは伝統的に何回もトップが会合を繰り返しておりますし、さらに五カ国を入れました新しい東アジア経済協力機構の建設を目指して宣言や協定を作るという実質的努力をしていくことが、東アジアが現に持っているこれだけの偉大な力をさらに発展させ、世界的発言権を強化する根本になると思う次第でございます。  
第1回会議がこのように盛大に行われますことに対し、改めまして主催者の皆様方に厚く御礼申し上げまして、将来の発展を期待し、協力申し上げたいと思う次第であります。ありがとうございました。    (2006)  
 
東アジア共同体について

 

はじめに  
おはようございます。ただいまご紹介いただきました中曽根でございます。  
この四大学の共同研究というのは素晴らしいアイデアを発足されたと思います。四大学とも韓国、日本の一流大学で相当な学績を持っていらっしゃるところでございますが、学問的研究という点において、そういう最高水準の大学が提携し合うということが公式にこういうふうに行われることは割合珍しいことでありまして、私はこれをお聞きしまして、素晴らしいアイデアだと思いました。  
研究の一つのアイテムが「東アジア共同体」というお話も聞きました。東アジア共同体というアイデア自体はなかなか難しいもので、実現の可能性というのはかなり遼遠の将来と考えられているでしょう。しかしこれは恐らく東アジア人が必ず持つ一つのアイデア、理想であるだろうと思います。そういう時間はかかるけれども、必ず運命的に実現されるであろうという理想を掲げられたということは、非常に賢明だと、学問的に努力する余地が非常にたくさんある、その基礎を築いていかれる。そういうようなことで、理想とは力なりと私はしみじみ感じたところでございます。  
経済関係が東アジア共同体の基礎  
ただしかし、一つ東アジアという定義はどういうものだろうか。私はこの問題をいただきまして考えてみましたが、今まであまり確定していなかったようであります。最近に至ってASEANプラス北の韓国、中国、日本あるいは台湾、これを入れたいわゆる10+3、これが東アジアという考え方にやや安定して出てきつつある、そういうふうに思います。私も昔から実は東アジア共同体をいずれ建設しなければならない、そのために関係国ができるだけ早くその目標を持って、一歩一歩現実を克服していく必要がある、そういうことを言ってきた人間でありますので、この命題をいただきまして喜ぶと同時に、しかしこれをお話し申し上げるということは非常に難しいとしみじみ感じたわけであります。  
今のような東アジアの定義というものを前提にいたしまして考えてみた場合に、東アジア共同体というものが将来形成されていく一番の力強い基礎はどこにあるか、また現在それが形成されつつある根本的な力はどこにあるかということを考えると、やはり経済にある。経済交流というものが東アジアの協力関係を作り、いずれは将来そのようなコミュニティー結成への基礎になっていくだろうと思うのであります。それくらいヨーロッパの場合と違って東アジアの場合には、文化的な多様性というものが非常に大きい。それから距離的にもかなり離れている。大陸関係ではなくして大体列島関係が主でありますから、そういう遠隔な地という意味もあって、ヨーロッパとは違う性格を実は持っている、そういうことだろうと思います。そこでやはり何といっても経済というものが主力になって扉を開いていくし、いきつつある。日本は割合に賠償問題等を通じてASEANの諸国と早期から交流を始めておりました。ASEANの諸国もいわゆる開発主義という方策を採って、経済成長を促進し、あるいは科学技術を導入するという面で非常に努力をなさって、そういう意味においても経済関係というものが基礎にあったと考えるものであります。  
そういう中にあって一つの転機をもたらしたものというのを考えると、やはり1997年、98年のASEAN等の金融経済危機がございました。韓国にもそれは入ってきたわけでありますが、1997年、98年の金融危機というものに対して、ASEANおよび北の3つの韓国、中国、日本等が協力するという気運が非常に出てきた。日本では宮沢構想等を通じて資金的協力のネットワークをあの時に初めて形成したと思います。そういうようなこともあり、この1997年、98年というものはある意味において同じ危機を同時に持ち、あるいは同じような発展の系列という運命的なラインにあるということを北も南も同じように感じたと思います。そういうこともあって、東アジアの連帯関係という意識が現実に自覚されたということがありますし、アジア開発銀行というようなものも作られてそれを促進してきているというふうに思うのであります。  
ASEAN+3に形成される東アジア共同体の萌芽  
そしてそういうような中にあって、割合に初めの段階においては賠償関係等もあって日本がASEANとの関係を濃密にして進んでいきましたが、最近においてはFTA等を通じて中国が非常に積極的に包括的に弾力性を持ってASEANとの協力、あるいは北との協力という面を非常に強化しているように思います。日本が割合に先行してやっていた時には、いわゆるNIESという発展中進国も出てきていて、韓国や台湾、香港、シンガポール等が先行する。それに続いてタイやマレーシア、あるいはその他の国々が連携して、初めのうちは日本との雁行形態による経済的発展ということが言われていたと思いますが、その後はしかし日本の力が割合に後退してきて、それに代わって中国が前進してきているというのが最近の情勢ではないかと思います。  
そういうような中でASEANの方面の経済水準も次第に高められて、各国に中産階層が相当生まれてきている。タイあるいはマレーシアも含め、かなりの国々に中産階層が生まれてきている。この中産階層というものが経済推進の一つの推進力にもなっている。彼らはサラリーマンであったり、あるいは経営者であったりしておりますけれども、割合に開明的な層であって国をある程度引っ張っていく、事実上引っ張っていく力を持った層が各国にも生まれてきた。それが同時にまた民主体制を前進させる大きな力にもなった、そういうことが言えると思います。各国によっていろいろ水準は違います。マレーシア、タイ、インドネシア、その辺を考えただけでも非常に大きな水準の差がありますが、ともかくそういう似たような現象で民主化というものが前進している。そういう中にあってASEANの団結というものが非常に強化されてきた。完全に一つの地域的ユニットとして結束を持ち、また発言権を持って、政治・経済においてその中における結束力というものを顕著に我々に見せてくれるようになってきたというのが現実であります。  
それに比べて北側の三つ、韓国、中国、日本というものの連携はまだまだ遅れている。しかし、にも拘らず10+3というASEANを中心にする会議が行われて、そこへ中国の総書記、韓国の大統領、日本の総理大臣が呼ばれて、10+3の会議というものがASEAN自体の会議の付録のような形で行われてきていた。これがずっと行われるようになって、10+3、すなわち将来における東アジアの共同体というものの萌芽がここに形成されてきている。そういうふうに私たちは考えたものであります。  
米国の安全保障ネットワークがもたらした安心感  
しかしそういうものが行われている基礎を一つ考えてみますと、経済が中心で、ある意味においては自然発生的にそういうような成長が行われたものでありますけれども、もう一方考えてみると安全保障という問題が実は根底にあったと思うのです。具体的に申し上げれば、ASEANリージョナル・フォーラムというものがあって、ASEANおよび日本、韓国、中国、ヨーロッパの国々も入って、共同してリージョナル・フォーラムとして安全保障問題を討議してきておりますけれども、この会議はなかなか進まない。予防外交という問題ですらまだ入り切れないような状態であります。しかしそれより前に、戦争が終わってからアメリカの安全保障のネットワークがこの辺にずっと巡らされていた。日本とは日米安保条約、米韓条約、それから場合によってはタイとの間の協力関係、シンガポールとアメリカとの特別協力関係、あるいはさらにオーストラリア、ニュージーランドまで入れた同盟条約、このような安全保障のネットワークが東アジアの海底に埋められていた。やはりそうした安全というものを維持していくという安心感の上に立って、経済がさらに進んでいったという現象がある。これは事実として否定できない。ちょうどこれはヨーロッパのECがEUにまで前進してきた、その背景にはNATOというものがあって、安全保障を確立、保持していた。これも無視できないものだろうと思うのです。そういう安心感、安定感がないところに資本や経済が移動することは難しい。そういう意味でアメリカが東アジアの海の底に巡らした海底ネットワークは、目に見えないけれども東アジアの協力関係を作っていくという上において無視してはならない問題で、これが将来どういうふうに展開していくかは時代変化によって変わってまいります。中国の存在というものも次第に大きくなってまいりました。そういうような関係で、分かりませんけれども、やはり安全保障面も無視してはならない一面であると私は考えているものであります。  
そこでこれからのいろいろな課題等を考えてみますと、今のところはそういう東アジア経済共同体を作るというような明確な目標や、あるいは政治的意志というものが各国間のリーダーの間に成熟しているとはまだ言えない。学者や一部の識者の間に将来の必要性および必然性を考えて、それをいろいろ構想し、あるいは主張しているというのが現実の状況であります。  
FTAとインターネットが東アジア共同体前進の鍵  
そういう中にあって我々が考えなければならないのは、これからFTAの問題がずっと張り巡らされていくというのが一つあり得る。これは中国が非常に熱心で、ASEANとの間でも協力して進めておりますが、日本もASEANの国々との間でFTAを今交渉している。シンガポールとの間でまず先に成立しましたが、最近はメキシコとの間でも成立しているし、タイあるいはフィリピン、マレーシアと交渉もやっているし、韓国とも交渉を今始めている。そういう状況で日本も熱心でありますが、中国も日本以上に積極的に熱心にやっている。このFTAというものが次第に成熟して張り巡らされるということは、最初に申し上げた経済協力体系のネットワークができて、それがやはり政治的協力関係にも発展するし、それがまた非常に安全保障を呼んでくる、そういう効果も出てくる。だから現在のFTA的努力というものを関係各国が懸命にするということが、我々が将来の共同体を結成する非常に有力な基礎になると考えて、これは重要視しなければならないと思っているのであります。  
もう一つは情報化時代になって、いろいろな情報が自由に勝手に入るようにもなりました。特にインターネットというものが非常に発達してきて、それが個人間の交流というものを非常に促進する。今まで国家の枠やその他で遮られていたものが個人で自由に流通するという状況に今なってくるということは、これが積極的になればなるほど、共同体への前進あるいは連帯性というものが深められてくる。我々が想像している以上にインターネットの交流は激しいようでありますから、これも無視してはならないし、その善用を考えていくということが我々にとってまた非常に重要な問題ではないかと思うのであります。  
遅れている日本の東アジア外交  
そこで一つの問題点を考えてみますと、10+3というものを今のような共同体のほうへ前進させていくために、10のほうは割合にしっかりしてまとまっていますけれども、北の3のほうはまだ不協和音がかなりあって、南のほうのような結束にはいっていない。北の3、中国、韓国、日本の関係を改善して、南の水準にまでできるだけ早く高めていくということが10+3が順調に進行する非常に大事なファクターだと思っているのであります。  
最近中国が非常に包括的な、積極的な、柔軟的な地域政策をやって、それは全人代でも共産党大会でも決めたことでありますから、東アジアにおいてもASEANともやり、あるいは北朝鮮問題で六カ国協議の主導権を握ってやるし、あるいは中央アジアの面で新疆その他の問題もあるのですが、上海宣言をやって中央アジアの国々と連携強化をやっております。先ほど申し上げたように、中国自体が近隣政策を非常に強化している。中国の朱鎔基さんが首相でありました時に、朱鎔基さんはやはり東アジアの共同体のようなものが必要である、経済協力機構、あるいは東北三国の協調関係が必要であるということを言われたことを私はよく記憶しているし、温家宝さんも恐らくそういう考えは一致していると思いますが、日本と中国との間で靖国問題その他の問題があって、トップレベルの交流が順調にはまだ行われていない。ということはその下のレベルの交流にまで影響を非常に及ぼしていると私は思う。日本から考えてみて、最近の東アジア外交というものは中国が非常に積極的に成功してやっていて、日本は非常に遅れていると私は日本人として考え、そういうことを論壇等でも言っているものであります。  
やはり一番の基本は東北アジアの三国、中国、韓国、日本、この関係をスムーズに順調に交流や提携が行われるような形に早くいかにして持っていくか。ASEANに対して日本や中国が競り合う、負けてはならないというので競り合ってアンフェアなことまでもやって優先的に入ろうというようなことが行われてはならない。やはりこの北の三国が協調して、ASEANに対する姿勢というものを一致させて、もちろん技術の高低はあるでしょうけれども、大体臨む姿勢というものは同じレベルでASEANに相対するという関係を作らなくてはいけない。そのために今の日本と中国の問題を早く打開する。こういう国際間の苦しい困難な問題を打開するのが外交の力であって、外務省は何をしているのかと私は言っているものであります。両方の面子が立つような妥協案を考えられないのか。ともかく両方がトップレベルの間で張り合っているということは、私に言わせれば非常にまずい現象なのであって、これを打開するということがまず東アジア共同体の前進の一歩であると考えているものなのであります。北の3と南の10というようなものが大体同じレベルで交流なり交渉が行われる。これはFTAができてくれば恐らくそういう方向に行けると思うので、そういう意味でもFTAの重要性というものを私は今言っているわけであります。  
そういうような問題に持っていくためには、政治や財界あるいは学会における指導者のリーダーシップというものが非常に大事になってきます。ヨーロッパの場合はEU結成をやったのは、実はフランスのシューマンとベルギーのスパーク、ドイツのアデナウアーで、この三人が非常にリーダーシップを発揮して、石炭鉄鋼共同体という資源的な協力関係から遂に経済・政治的統合まで前進してきた。ヨーロッパの場合にはその三人の指導力というものが非常に力を持ったと思うのです。この場合でも困難はあるし、幾つかの山坂を越えていかなければならない問題はあるけれども、そういう理想というものを持って、協力関係を設定していくアイテムを共同に持つということが非常に大事なことなのであって、政財界あるいは学会における指導者がリーダーシップを発揮できて、そのような共通理念のもとにある程度力を合わせるという体系を作る。これをシューマンやアデナウアーの例を見て、我々はやはり無視してはならない、そういう気がしているのであります。  
リージョナリズム、ナショナリズム、グローバリズム  
その他に大事な点は、リージョナリズムとナショナリズムとグローバリズムの関係をどう調和させるかという問題がもちろんあります。しかしこの東アジア共同体あるいはその協力関係というものは排他的なものであってはならない。そういう意味においてASEANはASEMをやって、ヨーロッパの国々とASEANおよび東北アジアの国々とで定期会合をやっています。アメリカとの関係は前から彼らは緊密なものがある。我々がここに東アジア共同体を建設していくという場合においても、そういう排他的な要素があってはならないのであって、ヨーロッパやアメリカ、あるいは世銀やIMFといった国際機関、そういうものとの協調関係も無視してはならないし、連携を持っていくということはやはり大事なことではないかと思うのであります。  
そして一番の大きな問題は文化的多元性というものをある程度尊重しながら協力関係を形成していくということでありますが、そういう雰囲気や空気を作っていく上において大事なのは大衆文化の交流という面、これが意外に大事である。「冬のソナタ」というようなもので日本の相当な人たちが韓国に熱を上げて、撮影所まで皆見に行くというような状態で、写真を撮ってくるのを喜んでおりますが、あの力は無視できない。最近においては韓国の映画あるいは中国の映画が日本にも、あるいはASEANにも相当好感を持って迎えられている。この大衆文化レベルの交流というものは将来の大きな栄養剤になるだろう。そういうものが今出てきたのを我々が現に見まして、将来のためにもこれをさらに拡充、発展させていくという、今まで手を抜いていたところの大事なファクターが大きく出てきたということを私は印象づけられたものであります。  
時間が参りましたので、以上問題点だけ申し上げて恐縮でございますが、そういう課題をいかに克服するかという課題の提供を申し上げましてご挨拶を終わります。どうもありがとうございました。    (2004)  
 
「首相に必要な人間的余裕」中曽根康弘

 

政治混迷が続く日本は、国際政治の荒波になすすべもなく飲み込まれようとしている。今の日本にどんな指導者像が求められているのか。半世紀以上も政界の中心に身を置き、その深淵を見つめてきた中曽根康弘元首相が縦横無尽に語った。  
国家のリーダーに必要な資質とは何か  
「一つは先見性、次に説得力、それから判断力と国際性だ。さらに物事を実現するには総合的な人間的魅力が必要だろう。例えば首脳会談の場合、話し合いを始めて10〜20分間で相手の大きさ、重さ、容量などの判定がつく。落ち着きが非常に大事なんだ。それから、頑なでない人間的な余裕や融和性、人間性など自然にあふれ出るものも大事な要素だな」  
昨秋、野田佳彦首相の訪問を受けた際、何をアドバイスしたのか  
「野田君には、首脳会談前に外務省などを通じて相手の性格や経歴、長所、短所をよく調べろと…。相手に対する認識をまず持つことが大事なんだね」  
中曽根氏自身はどんな外交を展開したか  
「私が出席した主要国首脳会議(1983年の米ウィリアムズバーグ・サミット)は対ソ連戦略が大きな要素だった。まだソ連はスターリン時代の延長線にあったから。自由世界の結束をどう形成して共産主義に立ち向かうかが潜在的な主題だった。私は議長国である米国のレーガン大統領とどう協力してどう持っていくかを中心に考えていた。そこで会議前にレーガン氏と話した際、『あなたは議長だからピッチャーをやれ。私はキャッチャーになるよ。ピッチャーはキャッチャーの言うことを聞かないといけない』と言っておいた。レーガン氏は笑って私と固い握手を交わしてね…。それが政治家の大きさであり、首脳同士の信頼関係だ。外交で非常に重要な要件だな」  
民主党政権は鳩山由紀夫元首相以来、外交で負け続けている  
「政治家としてスケールが小さいね。だからサミットや個別会談で日本の主張が通る雰囲気を作っていく力がない」  
菅直人前首相は2010年のカナダ・ムスコカサミットに出席した際、首脳たちの輪に入れず独りぼっちで立ち尽くした  
「それは私以前の首相たちもみんなそうだった。国際会議のコーヒータイムでは米欧勢が集まってコーヒーを飲みながら話をするんだが、日本の首相は離れて独りで立っている。だいたいそういう光景だった。私はそれを見ていたからそうさせないように真剣に努力した。レーガン氏も助けてくれたしね。だから私と話をし続けて他の連中が来ても一緒に輪になるように努めてくれた。これは友情というものだな」  
中曽根氏は08年の韓国の李明博大統領就任式に出席の際、大統領に指導者の心得を説いたそうだが  
「首脳会談というものは互いが国を代表して友人となることだ。この首脳同士の友情が国家間の友好関係の基礎になるんだ。だから互いにしっかりやろうという話をした」  
菅前首相は胡錦濤中国国家主席との会談で冒頭から紙を読み上げた。野田首相も首脳会談の多くで官僚が書いたペーパーを読むだけだという  
「国家間の外交は首脳間の相互信頼と友情が生まれて初めて本物になる。だから首脳外交が外交の本旨なんだ。外交は外務省がやるものじゃない。首相官邸と大統領府がやるものだ。私はそういう意識を持っていたし、そう言ってきた」  
日本外交はなかなかその域に達しない  
「首相となる者の経歴と資質に問題がある。私の場合、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和22年に衆院に初当選し、米国の軍人や政治家と付き合い、交渉することから出発した。したがって首相になる前から首相になったときの心構えや発言をどうしたらよいのか相当勉強してきたわけだ。就任時にはすでに精神的にも体系的にも準備はできていたと思う。それから静岡県の熱海に行って徳富蘇峰(戦前・戦後の言論人)に彼が関係した歴代首相の挙動、挙措をいろいろと聞かせてもらった。明治の終わりから大正にかけての首相はみなある意味で蘇峰が指導していたから大変勉強になった。特に桂太郎元首相(第11・13・15代)や原敬元首相(第19代)に詳しかったな…」  
産経新聞の世論調査で、もっとも評価できない戦後首相の1位は鳩山氏、2位が菅氏だった  
「彼らは野党時代が長くて与党として国家主権を背負い、国家の権威を背景に動くという修練がなかった。歴代首相を批判するばかりで自分がなったときの心構えが全然なかった。その結果が出たのだろう」  
野田内閣では、一川保夫防衛相と山岡賢次国家公安委員長が参院で問責決議を受けた  
「ドジョウと自嘲するところからまず始まっているが、野田君は閣僚の選抜に失敗している。閣僚には能力と同時に人間的修養の深さが必要なのに計算に入っていない。それが鳩山由紀夫政権以降如実に表れている。やっぱり歴史とか伝統、国家観、政治家としての修行だね…。そういうものがない。政党としての浅さが出ている。国会対策の巧さや答弁の上手さなどを中心に選ぶから閣僚の中に人間的な深みのありそうな者が1人もいない。政権与党で権力にしがみついて酔っている要素がうかがえ、権力を恐れ慎む気持ちがない」  
中曽根首相の時代には瀬島龍三元伊藤忠商事会長らブレーンも多士済々だったが、今は人材そのものがあまりいないのでは  
「人材を集める首相自身によって集まる人の質のよい悪いが出てくる。主人公が大きく深くなければ集まる人も小さくなるものだ。とはいえ今は与野党問わず人材がいないね。学術界にも財界にもいない。悲しいことだ…。昔は経団連会長の言葉というと、世の中の人はみな耳を傾けたが、今は『ああ、一介の経済人か』という程度だ。財界も学術界もその重さを背負う人がいない。これは首相も政党代表も同じことだ」  
残念な時代ですね  
「新聞も昔はおっかなかったが、今はおっかなくないじゃないか」   (2012)  
 

 

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