小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)

小泉八雲諸説 見たもの1民族の魂見たもの2見たもの3高僧が見た普賢菩薩神國日本怪談「庚申堂」・・ ・
思い出の記死生に関するいくつかの断想手紙橋の上で停車場にて・・・
神々の猿ハーンと「近代の超克」「もう一つの日本」としての出雲ハーンの古事記
 

雑学の世界・補考   

小泉八雲 諸説

ラフカディオ・ハーンの見たもの1
明治三十七年(1904年)9月26日、『怪談』の著者として知られる明治の文豪・小泉八雲が狭心症により、東京の自宅で54歳の生涯を終えました。
小泉八雲(やくも)・・・日本国籍を取得する以前の名前はラフカディオ・ハーンと言い、ギリシャのフカダ島にて、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれました。
その後、アイルランドのダブリンという場所に移りますが、6歳の時に父と母が離婚・・・同じダブリンに住む大叔母に引き取られ、以降、両親に会う事は一度も無かったと言います。
やがてフランスの神学校へ進んだハーンは、16歳の時、遊びの最中の事故により、左目を失明するという重傷を負ったうえに別の女性と再婚していた父が病死・・・さらに不幸な出来事は続くもので、その翌年には、大叔母が破産して、やむなく学校も退学し、生活も困窮を極めます。
心機一転19歳の時に、夢を抱いて移民船に乗り込んでアメリカに渡り、幸運にも24歳のとき新聞記者となりました。
その後、新聞記者としての紆余曲折もありましたが、そのかたわらで外国文学の翻訳や創作物を発表しているうち、その文才が認められるようになっていき、やがて、ハーンが尊敬する女性ジャーナリスト・エリザベス・ビスランドが話してくれた日本に興味を持った事から、明治23年(1890年)、39歳の時に記者として日本にやって来たのです。
来日後まもなく、出版社との契約を破棄したハーンは、帝国大学(東大)のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となり、翌年には松江の士族・小泉湊の娘・節子さんとの結婚も果たしました。
ただ、どうやら、松江の冬の寒さがかなり苦手だったようで、わずか1年3ヶ月で松江を去り、その後は、熊本第五高等中学校、さらに神戸クロニクル社、帝国大学文科大学、早稲田大学などに勤務しつつ、その間に日本国籍を取得して「小泉八雲」となり、ご存じのような様々な著作物を残す事になります。
日本の伝統的精神や文化に興味を持ち、その著書で、日本を広く世界に紹介した八雲ですが、その集大成と言える『怪談』は、死の直前に完成し、明治三十七年(1904年)に出版された作品です。
こうして八雲の生涯を見てみると、不遇な時代を送った少年期から一転、日本にやって来て運が開けた感がありますが、実は、その根底となる物は、あの両親の離婚の時から始まっていたようです。
そもそも、軍医として家を留守にする事が多かった父と、そのために夫婦のコミュニケーションをとれなかった母が、精神を病んでしまい、一人で故郷に帰ってしまった・・・
これで離婚となって大叔母に引き取られる事になるのですが、未だ幼い八雲にとっては、そこで両親から見捨てられたような不安とともに、父への憎悪が渦巻き、かなりのショックを受けて心を痛め、毎夜のように、幽霊や鬼に苦しめられる恐ろしい夢を見ていたと言います。
そんな八雲少年の心の支えとなってくれていたのが、大叔母の家に居候していたジェーンという女性・・・彼女は敬虔なカトリック教徒で、6歳の八雲にやさしく接し、いつも、神の思し召しについて語っていたのだとか・・・
そんなある日の夕暮れ時・・・八雲は、屋敷内のとある場所で、黒いドレスに身を包んだ彼女を見かけたので、「ジェーン姉さん!」と声をかけると、ふりかえったその顔は、目も鼻も口もないのっぺらぼう・・・「アッ!」と声をあげた瞬間、その姿はかき消され、一瞬にして見えなくなってしまいました。
腰をぬかして、しばらくは恐怖におののいていた八雲少年でしたが、果たして、その数ヶ月後、ジェーンは肺病で亡くなってしまったのだとか・・・
夢か幻か生霊か、はたまた、不幸な境遇に耐えかねた少年の心の叫びだったのか・・・
今となっては、本当の事かどうかもわからないエピソードですが、八雲が描くお化けや幽霊が、ただ怖いだけの存在ではないのは、そこに、やさしかったジェーン姉さんの面影を感じていたからなのかも知れません。 
 
民族の魂

 

親が子を殺し、子が親を殺し、夫が妻を、妻が夫を殺す事件が多発しています。ちょっとしたもつれで、男女が殺人に至る事件も続発しています。また、面識のない人物への通り魔殺人、教師が児童に性的ないたずらを、警官が婦女に暴行をする事件も珍しく、老人を相手にした振り込め詐欺が横行し、食品企業が食品販売物に不正表示をし、子が亡くなった親の年金欲しさに葬儀も出さず、遺体を放置するなど、世相の乱れは例を挙げればきりがありません。
筆者が子供の頃には、家の構造にもよりますが、外出する時に「鍵」などかける習慣など皆無であったように記憶しています。
しかし、つい半世紀ほど前までは、日本人は、正直で勤勉で礼儀正しい国民であると世界から尊敬を受けていました。
そんな日本に来日し、日本に帰化し、日本の「魂」を世界に発信された外国人がいます。
日本名・小泉八雲。帰化される前の名前は、ラフカディオ・ハーン
日本では専ら『怪談』等の名作で有名です。彼は日本文化を世界に知らしめた外国人として、しばしば第一に挙げられます。小泉八雲が世界に伝えようとしたもの、それは日本の「魂」でした。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1850年6月27日、ギリシャのレフカス島で生まれました。父はアイルランド人、母はギリシャ人でした。2歳から17歳まで、ハーンはアイルランドで育ちました。
そこはヨーロッパの辺境にある島であり、キリスト教浸透以前のケルトの文化が残存していました。
こういう土地の影響で幼い時から妖精や精霊の存在を感じていたハーンは、一神教にはなじめませんでした。自然の中の神秘を排除していく西洋近代文明にも違和感を覚えていました。
ハーンは、アメリカで新聞記者をしていた時、日本に魅力を感じるようになりました。運よく明治23年、40歳の時に日本に派遣されて、憧れの国に来ました。
そして、通信員の仕事をやめ、英語教師になりました。
場所は、島根県の松江中学校です。ハーンは英訳の『古事記』などを読んでいたので、神々の国・出雲へ行けることを非常に喜びました。8月末に松江に着き、翌月から学校に勤務し始めました。
当時、彼はアメリカの友人に宛てた手紙に、こう書いています。
「私は強く日本にひかれています。(略)この国で最も好きなのは、その国民、その素朴な人々です。天国みたいです。世界中を見ても、これ以上に魅力的で、素朴で、純粋な民族を見つけることはできないでしょう。日本について書かれた本の中に、こういう魅力を描いたものは1冊もありません。私は、日本人の神々、習慣、着物、鳥が鳴くような歌い方、彼らの住まい、迷信、弱さのすべてを愛しています。(略)私は自分の利益を考えず、できるなら、世界で最も愛すべきこの国民のためにここにいたい。ここに根を降ろしたいと思っています」と・・・
小泉八雲は、古い伝統と文化を守る城下町・松江が、この上なく気に入りりました。そしてこの地で約1年半を過ごします。その間、松江で見た光景を、ハーンは次のように書き留めています。
「彼等は手と顔を洗い、口をすすぐ。これは神式のお祈りをする前に人々が決まってする清めの手続きである。それから彼等は日の昇る方向に顔をむけて柏手を四たび打ち、続いて祈る。……人々はみな、お日様、光の女君であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである。『こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万有難う存じまする』。たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない」と・・・
小泉八雲は、西洋では失われた自然への畏敬、八百万(やおよろず)の神々への信仰が、日本では生きていることに驚き、心から共感し、そして、日本の民話や伝説、怪談などを聞き集め、それを作品にまとめて、海外に紹介していきました。
小泉八雲自身、昔ながらの日本の家に住み、着物を着て、日本食を食べ、日本の習慣に親しんだのです。
日本女性と結婚するように勧められると、拒むことなく、来日した翌年、明治24年、士族の娘・小泉セツと結婚しました。セツ夫人は、第七十五代出雲国造千家俊勝の次男千家俊信(国学者)の玄孫でした。
結婚式も和風で行い、明治29年には日本へ帰化し、小泉八雲と名のります。小泉は夫人の姓、八雲は出雲の枕詞「八雲立つ」に因んだものでした。
日本人として生活するなかで、小泉八雲は、西洋が失ってしまった古きよきものを見出しました。小泉八雲は言いました。
「西洋文明から日本の自然な、完全にノーマルな生活環境にとけ込むと、プレッシャーがだいぶん減ります。西洋文明の根本的特徴である個人主義が、ここにはないのです。それは私にとって日本社会の魅力の一つです。ここでは、個人は他人を犠牲にするところまで、その範囲を広げようとはしないのです」
「私の考えでは、日本人の生活を一層客観的に見ているその他の多くのオブザーバーもそうであろうが、日本はキリスト教に改宗しても、道徳やその他の面に関して何の得もない。むしろ損をするところが多い」と・・・
小泉八雲が亡くなったのは、日露戦争の最中、明治37年の9月でした。当時、日本は大国ロシアを相手に驚くべき善戦をしていました。小泉八雲は、絶筆となった『神国日本』の最終章にて、次のように書いています。
「日本のこの度の全く予期しなかった攻撃力発揮の背後に控えている精神力というものは、もちろん、過去のながい間の訓練のおかげであることは全く確かである。……そしてすべてのあの天晴(あっぱ)れな勇気 ―― 生命を何とも思わないという意味ではなく、死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気なのである。現在戦争に召集されている何千何万という若者の口から、名誉を荷ないながら故国に帰りたいなどという表現を一言も聞くことはできない。 ―― 異口同音にいっている希望は『招魂社』(註 靖国神社)に長く名をとどめたいということだけである。 ―― この『社』は『あの死者の霊を迎える社』で、そこには天皇と祖国のために死んだ人すべての魂が集まるものと信じられているところなのである。この古来の信仰が、この戦時におけるほどに強烈に燃え上がった時はない。……日本人を論じて彼らは宗教には無関心だと説くほど、馬鹿げた愚論はまずあるまい。宗教は、昔そうであったように、今なお相も変わらず、この国民の生命そのものなのである。―― 国民のあらゆる行動の動機であり、指導力なのである」
小泉八雲は、「死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表わす勇気」と書いています。彼が感じた日露戦争における日本人の精神力、勇気の源泉は、天皇を中心とする忠誠心・団結心であり、それと結びついた日本人の宗教的伝統だというのです。
小泉八雲はこの宗教的伝統の核心は、祖先祭祀であり、神道であるとします。わが国では、死者の魂を神として祭り、家の先祖を祀る家族的祭祀、氏神を祀る社会的祭祀、国の祖先を祀る国家的祭祀が、古代から小泉八雲の見た近代まで貫く宗教的伝統となっています。
この祖先祭祀は、天皇陛下を中心とする忠誠心・団結心と結びついています。そこに、小泉八雲は、日露戦争において発揮された日本人の強さ、優秀さの根源を見出していたのです。 小泉八雲は、次のようにも述べています。「日本の強さは、伝統的宗教の強さと同様に、物には現れていなくて、その民族の底に潜んでいる『民族の魂』にある」と述べています。
小泉八雲は、日本人の「民族の底に潜んでいる『民族の魂』」を深く感じ取り、それは古代から近代まで日本人の心底に保たれているものであり、明治日本の活力の源となっているものでもありました。
小泉八雲が追求し、作品の中に描こうとしたもの、それは日本の「魂」だったのです。日本の「魂」を伝えるものであるからこそ、彼の作品は、海外でも多くの人々を引き付けてやまないのです。
日本人の先祖・先人は、多くの欧米の人々に称えられるような美徳を持っていたのです。筆者は、そのことを思い起こし、日本人が本来持っていた日本の魂を取り戻して欲しいと願うばかりです。
 
小泉八雲が見た明治日本人の生と死の形

 

小泉首相の靖国参拝に寄せて
ラフカディホ・ハーン(日本名・小泉八雲)が描いた明治の日本人は、平成の今から顧みて、遥かに遠い昔語りのようであり、且つ又、今の冷たい隣人以上に親しい隣人のようでもある。
この間久しぶりにハーンの本を買った。「東の国から・心」という660ページもある分厚いものである。
「心」は、岩波文庫にも納められていて、読んだことがある。また、新潮文庫の「小泉八雲集」は、古い愛読書の一つでもある。「停車場にて」や「赤い婚礼」は、忘れられない小品である。
さて、この久しぶりに買った本をパラパラと見ていた。不思議と何か語りかけてくるような感じのする本で、書店で出会って思わず買ってしまった一冊なのである。しみじみとした、暖かい感じがするのである。何気ない装丁で別に何処といって変哲なところがあるわけではないのだが。
「願望成就」という一文を見出し、何気なく読み出した。
これは、ちょうど日清戦争の時のエピソードである。
当時、熊本に居たハーンのもとに、松江時代の教え子だった小須賀浅吉が、出征の暇乞いに訪れた。
この一夜の対談が、丁度、西洋と日本の、生と死に関する対話になっている。それは、今の時点から見ると、日本人が忘れてきてしまった大切なものを、さらりと語っている。それをハーンが書き留めておいてくれたのだ。
「いまでもかれは、松江の学校で十六歳のはにかみやの少年だった時分とおなじように、あいかわらず、心はうぶのままでいることは、一見してあきらかだ。じつは、この青年は、わたくしに暇乞いをするために、わざわざ隊の許可をえて、きてくれたものなのであった。隊は、明朝、朝鮮へ出発することになっているのである。」
「かれは軍隊が好きだった。はじめは名古屋の連隊にいたのを、つぎに東京へまわされた。ところが、東京の連隊は、朝鮮へは出征しないということがわかったものだから、かれは熊本の連隊師団へ転属を申し出て、さいわいそれがうまく許可されたのであった。「それで、自分はいま、ひじょうにうれしいであります。」とかれは兵隊らしい喜びに顔をかがやかしながら、いうのであった。「自分らは、明日、出発するであります!」そういって、自分の腹蔵のない喜びを思わず口に出したのが、なんとなく、きまりがわるいとでもいうようなようすをして、もういちど顔を赤く染めた。」
うぶな青年のはにかむ様子が目に浮かぶようである。自分の喜びをあからさまにしたことを恥じて、顔を赤く染めるという心の動きは、最早この国の青年には見られなくなってしまったものの一つであるかも知れない。
会話は以下のように続く。
「君は憶えているだろうね?」とわたくしは尋ねてみた。「いつぞや君は教室のなかで、自分は天皇陛下のおんために死にたいといったことがあったっけね?
「はあ」と、かれは笑いながら答えた。「その千載一遇の機会が、いよいよ到来したわけであります。――これは自分ばかりではないであります。自分の級友たちにも、その機会がきたのであります。」
「あの連中、みんないま、どこにいるの?」とわたくしは尋ねた。「君といっしょかね?」
「いや、連中は広島師団におりましたが、みんなもう、朝鮮に征っておるであります。今岡と(おぼえておられるですか、先生。彼奴(きやつ)、ひじょうなのっぽな男でありました。)長崎と、石原――この三人は成歓の戦いにいっしょでありました。それから、自分らの教練の先生だった中尉殿――おぼえておられますか?」
「藤井中尉か、おぼえているよ。あの先生は、退職中尉だったね。」
「ところが、予備だったのであります。あの方も、やはり、朝鮮へ征かれたであります。先生が出雲を去られてから、あれからまたひとり、坊ちゃんがお生まれになりました。」
「わたしが松江にいた時分には、お嬢さんがふたり、坊ちゃんがひとりだった。」
「はあ。それが今は、坊ちゃんがおふたりであります。」
「それなら、あちらのお家でも、きっとお父さんのことをたいそう案じていらっしゃるにちがいないね。」
「中尉殿はちっとも心配しておられませんでした。」と青年は答えた。「戦争で死ぬのは、非常な名誉であります。政府は、戦死者遺家族を保護してくれるであります。でありますから、自分らの士官殿たちは、ちっとも心配しておられません。ただ、男の子がなくて死ぬのは、こいつはやりきれんであります。」
「それはまた、どうしてだね?」
「善良な父親は、たれしも、わが子の将来というものに心を砕いているからね。それが、いきなり父親をさらわれてしまったのでは、あとに残ったものが、いろいろ憂き目を見なければならんわけだろう。」
「自分らの士官殿たちの家族には、そういうことはないであります。子どものことは、親戚が面倒みてくれるですし、政府(おかみ)からは扶助料が下がるのでありますから、父親たるものは、あとあとのことを心配するにはおよばんのであります。そのかわり、子どもがひとりもおらんで死ぬものは、これはじつに気の毒であります。」
「気の毒って、その人の妻子が気の毒というのだろう?」
「いやいや、死んでゆく当人、つまり、御亭主がかわいそうだと申すのであります。」
「どうしてね?息子があったって、死んで行くものにとって、そんなもの、なんの他足にもならんじゃないか?」
「男の子は家の跡取りであります。家の名を存続させてゆくものであります。供養をするのは、そこの家のせがれでありますから。」
「供養というと、死んだ人の供養かね?」
「はあ。もうおわかりになられたでありますか?」
「そういう事実は、それはわかったがね、しかし、そういう気持が、どうもよくわからないね。いまでも軍人は、そういう信念を持っているの?」
「もちろん、持っております。西洋には、こういう信念はありませんですか?」
「ちかごろではないね。大昔のギリシャ人やローマ人は、そういう信念をもっていたがね。むかしのギリシャ人やローマ人は、先祖の御霊というものは家の中に宿っておるものであって、供え物や供養をうけて、家の者を守っていてくれるものだと思っていた。どういうわけで、そんなふうに考えていたかということは、多少われわれにもわかるけれども、むかしの人がどんな気持ちでそれを感じたかということになると、はっきりしたことは、われわれにもわからんね。つまり、自分の経験しないことを、あるいは、先祖から伝承しない感情は、われわれはわからんのだから。それと、おなじりくつで、死者に関する日本人の正直な気持ちというものがわたしにはわからない。」
「先生は、それでは、死は万事の終わりだとお考えでありますか?」
「わたしが難解だというのは、そういうことを言ってみたところで、いっこう説明にはならんのだよ。ある感情は遺伝する。――おそらく、思想のうちでも、ある思想は遺伝するだろうさ。ところが、君たち日本人の、死者についての感情・思想というもの、あるいはまた、死んだものに対する生きているものの義務といったもの、これは、西洋のそれとは、ぜんぜん、違っているのだよ。われわれ西洋人にとっては、死という概念は、完全な別離を意味している。生きているものから別れるばかりではない、この世からも別れてしまうことだ。仏教だって、死者がたどらなければならない、長い、暗黒の旅のことを説いているでしょう?」
「冥途の旅でありますか。―そうであります。みんな旅をしなければならないのであります。しかし、自分らは、死というものを完全な別離とは思っておらんのであります。死んだものは、いまでも自分らといっしょにおると考えております。そういう死んだ人たちに、自分らは、毎日話しかけております。」
会話はまだまだ続きます。やがて、戦死者の話になります。
「しかし」とわたくしはいった。「先祖の墳墓の地を遠く離れて、異境で戦死するとは、西洋人にすら、とても気の毒な気がするねえ。」
「いや、そんなことはありません。郷里の村や町には、戦死者を弔うために、記念碑が建てられます。それに、兵隊の死骸は戦地で焼かれて、日本へ送りかえされます。すくなくとも、それができる時には、そうされるのであります。大激戦のあったあとでは、それはちょっとむずかしいかもしれませんが・・・。」
「してみると、こんどの戦争で戦死した将卒の霊も、将来また国難がきたようなときには、いつでもかならず祈念されるのだろうね?」
「そうであります。かならず祈念されます。自分らは全国民に敬慕され、尊崇されるのであります。」
浅吉は、自分がすでに戦死するときまっている人間のように、ごく自然な調子で、「自分ら」といった。そして、それなり、ややしばらく黙っていたが、やがて語をついだ。―
「自分は、昨年学校におりましたとき、行軍にまいりました。意宇の在に、英霊の祀られてある神社がありますが、自分らは、その神社に向かって行軍したのであります。あすこは、岡にかこまれた、幽邃な、景色のいいところでありまして、神社は、うっそうとした高い木の蔭になっております。昼なお暗く、冷え冷えとした、静かなところであります。自分らは神社の前に整列いたしました。もちろん、だれも物を言うものなどはありません。おりからラッパの音が、戦場への召集ラッパのように、神社の森にひびきわたりました。自分らは、みな、捧げ銃をしたのであります。その時、自分は目に涙が出たのであります。―なぜ出たのか、自分にもわかりません。朋友を見ますと、みなやはり、自分と同感のもようでありました。先生は外国人でおられますから、自分らのこの気持は、おそらく、おわかりにならんでありましょう。この気持をひじょうによく言いあらわした和歌がありますですがね、日本人なら誰でもみな知っておる和歌であります。むかし、西行法師というえらい坊さんが詠んだ歌でありまして、この西行という人は、僧侶になるまえは武士でありました。本名は、佐藤義清というのであります。―
なにごとのおわしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」
ハーンの文章はもう少し続くが、これ以上は原文を是非見て欲しいと思います。
この浅吉青年は、戦死します。してみると、この言葉は、英霊の方々の思いを代表しているもののようでもあります。
この浅吉青年の体験は、別に取り立てていうほど特別な神秘体験というわけのものではありません。ハーン自身も多くの人々から同様の体験を聴いていました。
私も、学生の頃のことではありますが、半年ほど毎週日曜日に、靖国神社にお参りしたことがあります。
ご社頭で、ちょうど、昨日、小泉首相が頭を垂れて祈念されたあの場所で、静かに目を瞑り、合掌して、思いを凝らしておりますと、本殿の奥にある御神体の御鏡の方から、霊風というのでしょうか、爽やかな「気」とでもいうようなものが流れてきて、心身共に洗われて、落ち込んでいた心が沸々と元気に満たされていく、という体験を何度も致しました。
靖国の英霊は生きている、生きて日本を、我々を見守っていてくださる、と、それは観念ではなくて、実感として感じるものであります。
これを、非合理なものであるからといって、では嘘だ、思い込みに過ぎない、と断言できるものでしょうか。あるいはまた、科学的でない、の一言で、断ち切れるものでしょうか。そういう行為は、人間というものへの洞察を欠いた、薄っぺらで衰弱し切った現代人の傲慢であると思います。
奇しくも同じ苗字の小泉純一郎首相、小泉八雲は、イギリス人の父親とギリシャ人の母親の間に生まれ、アメリカで新聞記者としての職業を得て、やがて通信員として日本に渡り、日本を愛し、この国土の土になった方です。
小泉首相、靖国神社のご社頭で、英霊は、何を語りかけられましたか?  
 
小泉八雲の見た日本

 

「金儲けがなされ、収入が高く、生活水準が絶えず上昇し、必然的に無慈悲な競争が行われている所では、精神的・道徳的な弱者は、他の地域におけるよりもっと恐ろしい極端な行動に駆りたてられる。将来、日本の産業が発展すると共に、必然的に弱者の不幸の増加と、その結果として起こる悪徳と犯罪の増加が危ぶまれている。」(註一)
これはラフカディオ・ハーンこと、小泉八雲(一八五〇―一九〇四)が神戸時代、神戸クロニクルの論説「悲しい変化」(一八九四・十月)に書いたものである。時あたかも日本は日清戦争に突入した矢先であった。(註二)
世界的なテロ、イラクでの長引く戦争のみならず、わが国内においても、政治・官僚機構の腐敗、教育政策の不備、犯罪の激増、そしてアジア近隣諸国との軋轢等々が二十一世紀の今日、国民の不安をいやが上にも高め、自信を失わせている。明治以降、西欧の機械文明・キリスト教文化を金科玉条の如くに崇拝して、西欧に肩を並べるべく奮闘努力し、やっと成し遂げた高度経済成長を誇る日本ではあるが、冒頭に掲げた八雲の痛烈な批評を読んで、現状に危惧を覚えない御仁はあるまい。とても百年前に書かれたものとは思えないほど新鮮且つ今日的内容を含む先見性ある警告である。
日本にいながらも国際情勢に通じたジャーナリストである八雲は、近代化が物質面偏重となり、精神面を置き去りにした明治政府のやり方には顔を曇らせていた。一八八五年に福澤諭吉は「脱亜入欧論」を発表し、これが日本を主導する国際論となるが、八雲はこれとは対照的に、日清戦争後には日本、中国、朝鮮とで「三国同盟」を結ぶことを主張した(註三)。一九〇三年には岡倉天心が『東洋の理想』を著わし、「アジアは一つ」と叫んだ。天心の観点は八雲と通底するものがある。
一八五〇年ギリシャで誕生した小泉八雲は父の祖国アイルランドで少年時代を過ごした後、単身アメリカに渡って新聞記者となった。ハーパー社の特派員として取材のため日本にやってきたのは一八九〇(明治二三)年である。やがて八雲は生涯の最後の十四年間を日本で過ごすことになったが、それは日清・日露の両戦争に挟まれた期間であった。八雲は神戸時代の一時期を除いて、松江、熊本、東京でそれぞれ中学、高校、大学の教壇に立った。東大で七年近く英文学講師を勤めた後、早稲田大学に奉職したが、そのわずか半年後狭心病のため他界した。遺骨は豊島区の雑司が谷霊園に眠っている。
日本における八雲の業績は、先ず英語教師としてのもの、『怪談』など文学作品を通しての作家活動、『日本暼見記』から『日本―一つの試論』に至る十三冊の著書によって日本を世界に紹介した日本研究家(ジャパノロジスト)としての面の三つが指摘されている。
八雲に対する幾多の好意的な評論に比して、大きな誤解が二つあると言われる。それは、八雲が近代化以前の古い日本のみを愛して、日本が近代化することに反対だったのではないか、ということ。また八雲の作品が昭和期になって日本の国家主義、国粋主義の成長を助長し、わが国近代化の悲劇的終焉に責任があるものとするものである。
確かに八雲は至るところで旧き日本の有する稀有の素晴らしさを嘆美し、それをやがて西欧文明の浸透と共に消え行くことへの哀惜の念を表明した。しかし彼にとって、欧米は一神教(キリスト教)的価値観と資本主義をアジアに強要する恐るべき存在であった。八雲は日本の近代化に反対したのではなく、資本主義に対する警戒心が強かったのである。
八雲はアメリカ時代から教育における想像力の価値に注目していた。彼は『日本―一つの試論』の中の第二十一章「産業の危機」で、欧米の資本主義との競争に勝ち抜く為には、日本国民に自由で個性的な活動のできる能力が必要であるが、そのためには画一的機械的な教育を改めるべきであると説いている。そして、「人間憎悪の消滅と健全な世界同胞主義の普及を期待しうるのは、知性の成長によらなくてはならない」とも述べていうる(註四)。八雲への非難が全く根拠のない誤解であることは明らかである。
昨年二〇〇四年は八雲没後百年記念の年に当たり、国内外を問わず八雲縁の地で盛大な顕彰活動が展開された。松江では十月一日(金)、二日(土)の両日、松江市総合文化センターで国際シンポジュウムが開かれた。第一日目には、内外の研究者による「没後一〇〇年―ハーンをどう評価するか」のテーマでパネル討論会があった。その際の発表者の一人、八雲会理事・島根史学会会長の池橋達雄氏は、「ハーンの見た一〇〇年前の日本・アジア・欧米そして現在」と題して発表をされた(註五)。氏はその中で、先に挙げた八雲についての二つの大きな誤解に明快な解答を与えておられる。また、会場で池橋氏の講演を聴きそれに刺激を受けた藤田昭彦氏が、神戸時代の論説記者としての八雲について『毎日新聞』に発表した(註六)。
詳しくは、池橋達雄、藤田昭彦ご両名の発表を参照していただく他ないが、開国から、西洋近代化路線を邁進し、やがてナショナリズムの復権へと歩む日本の姿を、冷静な目で見つめていたジャーナリスト八雲に今一度着目する必要があるのではなかろうか。

註一 『ラフカディオ・ハーン著作集』第五「神戸クロニクル論説集」佐藤和夫訳。
註二 八雲は日清戦争が始まった一八九四(明治二七)年に神戸に移転した。この年から翌九五年にかけ、英字紙「神戸クロニクル」の論説記者として腕を振るった。
註三 九四年十二月の神戸クロニクル紙解説「極東における三国同盟」参照。なお八雲は一八九四年一月、日清戦争の直前、勤めていた熊本第五高等中学校で「極東の将来」と題して講演した。この中で、八雲は日本が中国(清朝)と協力して欧米に対処しなければならない旨を力説している。
註四 「神戸クロニクル論説」一八九五年十月四日。
註五 八雲会発行の『へるん』二〇〇四年・特別号に載っている。
註六 『毎日新聞』(二〇〇四年十月二十三日)、藤田昭彦氏は元毎日新聞編集委員。 
 
高僧が見た普賢菩薩の正体は?

 

小泉八雲集に「常識」という作品がある。怪奇現象をモチーフにした仏教寓話なのだが、話の粗筋はつぎのようなものだ。
むかし京の近くの山中に、座禅と聖典研究にひたすら精進する博識の高僧が住んでいた。信心深い村人たちが野菜や米を運んで高僧の暮らしを支えていた。あるとき、一人の猟師が米を持って寺へやってきた。
高僧は猟師に言った。「不思議なことがおきておる。わしは長年座禅と読経を続けてきたが、その功徳かと思われるが、毎晩、普賢菩薩が白象に乗ってこの寺へお見えになる。今夜はここへ泊まるがよい。仏様を拝むことができよう」
猟師は泊まることになった。しかしそんなことがあるかとと疑いはじめた。そこで寺の小僧に訊いてみると、「もう六度も普賢菩薩のお姿を拝みました」という。猟師は小僧のこの言葉によってますます疑いを深めた。
真夜中過ぎ、東の方に星のような白い点があらわれ、近づくにつれ光は大きくなり山の斜面を照らした。やがて光は六本の牙のある雪のように真っ白い象に乗った普賢菩薩の姿となった。
僧と小僧はひれ伏したまま必死に経文を唱えはじめた。が、猟師は弓を取って二人の背後に立ち上がり、光り輝く菩薩めがけて長い矢を放った。激しい雷鳴とともに白い光は消え、姿も見えなくなり、寺の前には暗闇がのこった。
僧は猟師に向かって「いったいどうしてくれる、どうしてくれるのだ!」と叫んだが、猟師は一向に平気で、静かに僧の非難を聞いていて、こう言った。
「和尚さま、あなたは座禅と読経の功徳によって普賢菩薩をおがむことができるとお考えになりました。しかしそうであるなら、仏さまはあなたにだけあらわれるはずです。私やこの小僧さんには見えるはずもありません。私は無学の猟師で、殺生を生業としております。殺生は仏さまの嫌われるところです」
「あれは普賢菩薩ではなく、あなたを騙し、ひょっとすると殺そうとしている化けものにちがいありません。夜のあけるまで気をおしずめください。そうすればきっと、いま申したことの証拠をご覧に入れますから」
夜明けになり、猟師と僧が普賢菩薩の立っていたところを調べると血の痕があった。
そして数百歩離れたところまでたどると、その窪地には猟師の矢を突き立てた、大きな狸の死骸があった。
話は以上であるが、小泉八雲はつぎのように結んでいる。
僧は信心深い人であったが、狸に容易にだまされていた。猟師は無学で信心のない男だったが、たしかな常識を備えていた。そして、この生まれつきの知恵だけによって、ただちに幻影を見破り、それを打ち砕くことができたのである。 
 
神國日本

 

彼は書の中で、日本人の創造した神々が、太古以来断絶することなく、いかに生きてきたか。そして、当時の日本人の家庭生活・社会組織・国家体験の中で、いかに祖先の神々への信仰が生き続けているか、を情熱を込めて書いています。ハーンはその間、日本人は仏教やキリスト教にいかに対応したか。そして、祖先信仰を失っていったギリシャ・ローマや西欧諸国との比較にも及んでいます。
「日本人は目に見える一切の森羅万象の背後に、超自然の神霊を考えて、山川草木湖海風雷から井戸・かまどに至るまで、それらを司る神を想像した。日本人はこの国土をつくった神々の子孫で、この神々こそ我々の祖先である。この祖先である神々に奉仕し、この祖先を崇拝することが、我々の最高のつとめであると考えてきた。神道では他の宗教のように、地獄・極楽を説かない。日本人はその肉体が終えると同時に、超自然の力を得て、時間空間を超越した霊となって、子孫と国家を護るのである。この考えのない者は、日本人ではない」
ラフカディオ・ハーンのように、日本人には自然崇拝と祖先信仰への原始以来の宗教感情がいき続けている、という見方をする人は多い。ラフカディオ・ハーンの言われるように、私も自然崇拝と祖先信仰、この二つが日本人の宗教観の根源を成すものだと考えています。

私は日本国について興味を持って学び始めるまでは、日本人は宗教心あるいは信仰心というものが薄い、「無宗教」の民族だと思っていました。
しかし、私の住んでる周りをみてみると、各地区ごとに必ず神社があって、今も地区の住民によって維持管理されており、春や秋のお祭りの時期には幟を立てたり、神輿を出したりしています。そして、山へ行けば、山道の入り口には祠(ほこら)があって、山の神様を祀っています。古い巨木や、変わった形の岩などがあれば、それにもしめ縄を付けたりして信仰の対象になっています。他にも、お寺などもあったりして、見渡せば宗教に関するものが様々あることに気付きました。ですから、私が日本人は無宗教だと思っていたのは、全くの見当違いだったのです。
ラフカディオ・ハーンは「この考えを持たない者は日本人ではない」と言われていましたが、まさにそのとおりだろうと私も思います。

日本起源の奉祭の3つ区別 『神道』 神々の道
1 一家の祭礼 家族の祖先礼拝/ 家族
2 村邑の祭礼 氏族・部族の祖先礼拝/ 地方
3 国家の祭礼 帝国の祖先の礼拝/ 国家
「祖先礼拝に潜む信仰の根底」
第一 死者はこの世界にとどまって居る。その墳墓や又以前の家庭に出没し、目に見えないながらも、その生きている子孫の生活を共に享けて居る。
第二 すべての死者は超自然の力を得るという意味に於いて神になる。併し存生中その特徴であった特質をなほ保持している。
第三 死者の幸福は生存者行う尊い奉仕に依るものであり、又生存者の幸福は、その死者に対し忠実に義務を果たすことに依るのである。
第四 善なると悪なるとに拘わらず、現世における事件---四季の順調、多分の収穫─出水、飢饉、─暴風雨、海嘯(かいしょう)、地震等─は死者の業である。
第五 善にあれ悪にあれ、すべての人間の行為は死者に依って左右されて居るものである。 
 
怪談

 

果たしてこれは外国文学なのかという気もするが、とにかく岩波文庫の赤帯であることは事実なんだから読んでみたよ。ラフカディオ・ハーン、別名小泉八雲の『怪談』だ。
よく知られているように、この作品はラフカディオ・ハーンが日本に古くから伝わる昔話や伝説を広く狩猟して、その中から怪異や幽霊を扱ったものを訳出した短編集だ。たとえ『怪談』そのものを読んだことはなくても「耳なし芳一」や「雪おんな」「むじな」といった物語は知っている、という人は多いだろう。私もハーンの名前、そして『怪談』という作品のことは子供の頃から知っていたし、その中に収められている作品のほとんどは子供向けの簡易版や他の怪談アンソロジーで読んでいたものの、『怪談』自体を読み通したのは今回が初めてだ。
読んでみて、本当にいろいろな感想を抱いた。何のまとまりもない、印象を並べ立てるだけの書評になってしまうが、こんな古典中の古典相手に、たかだか一回読んだだけで筋の通った読解を提示しようというのは土台無理な話だ。開き直って、好き勝手に書くぞ。
まず最初にしみじみ感じ入ったのは、「ほんとに『耳なし芳一』はよくできた話だな」ということだ。ハーンが『怪談』の冒頭に持ってくるのもわかるよ。ハーンはあくまでも海外に日本の怪異譚を紹介する目的で『怪談』を書いたわけだが、この「耳なし芳一」を読んだ英米人の反応はどんなものだったのだろう。そのうち調べてみたいな。これは外国の読者のど肝を抜いたろう。
第一に構成が素晴らしい。芳一が怪しい武士に誘われて琵琶を語りに行く、行った先には位の相当高いらしい人々が居並んでいて、そこで芳一が平家の没落を語る、そんなことが幾晩も続くので、芳一が間借りしている寺の住職が異変に気づく、そしてあの超有名な結末へなだれこんでいくという、完璧な起承転結だ。大理石のような、堅く引き締まった構造美を感じる。
さらに、全体に横溢するイメージやモチーフも見事だ。盲目の琵琶法師、滅亡した平家の怨念、全身に書き込まれた経文、引きちぎられた耳と、あらゆる細部が空前絶後の世界観をかもし出している。特に、芳一が盲目であることは、「芳一は一体誰に、どこに連れていかれているのか」というサスペンス、ミステリの要素を物語に組み込む効果をも担っているし、また「耳だけが引きちぎられる」という結末も、古典怪談には珍しいほどの激烈さだ。構成の確かさ、イメージの豊かさ、語りのスリリングさ、ほとんどスプラッターホラー的ですらある結末の残酷さ、どれをとっても比類のない、完璧な一作である。
「耳なし芳一」には及ばないとしても、他の物語もやっぱり粒ぞろいだ。例えば「かけひき」では、「恨みを残して死んでいく人間の呪いから逃れるにはどうするか」が主眼だが、物語が示すのは「そんなのアリか」という感じの、ほとんどこじつけのような対処法だ。数ある怪異譚の中からこれを選んだハーンは変わってるなと思ったよ。センスありますねということだ。
「ろくろ首」の怪奇とファルス(笑劇)が入り混じった感触も独特だし、様々な謎を残して終わる「雪おんな」も、定番ながらじっくり読むと深い読後感だ。しかし、「耳なし芳一」に次いで殊に強い印象を受けたのは「おしどり」という話。村充という猟師が狩場の沼でつがいのおしどりの雄を撃ち殺すが、その晩、枕元に一人の女が現れる。女に言われるままに明朝村充が再び沼に行くと、
さて、赤沼へ行ってみると、なるほど岸べに着いてみれば、きのう見かけた雌のおしどりが、きょうはひとりで泳いでいる。そのとき、おしどりの方でも村充のことをみとめた。けれども、おしどりはすこしも逃げようとはしなかった。奇妙なことに、おしどりは村充のことをじっと見つめたまま、わき目もふらずに、まっすぐにこちらに向かって泳いでくるのである。やがておしどりは、たちまちあっと見るまに、自分の嘴で自分のからだをつき破ったとおもうと、村充の見ているまえで、みずから命を絶って相果てた。……
村充は剃髪して、僧になった。
鮮烈な印象を残す話だ。前々回の書評でルナールの『博物誌』を取り上げたとき、作品中に動物を殺生することへの罪悪感、ためらいが色濃く漂っていたことを指摘した。しかし、殺生に対する憤りを伝えるのなら、個人的にはこの「おしどり」のほうがよほど強力な喚起力を持っていると感じた。ルナールが数十ページ使って語ろうとしていたことを三ページで読者に突き刺す、凄みのある内容だ。
このように、ラフカディオ・ハーンの選択眼および語りの鋭さは素晴らしいのだが、同時に特筆すべきは訳者の平井呈一氏の訳文の巧みさだ。こんな上手な翻訳久しぶりに見た気がするな。例えばこんな調子だ。
しばらくたって、ふとあたりを見回してみると、とある峰の頂のやや平らかなところへ出た。仰げば、頭の上には玲瓏たる氷輪がかかっている。と見ると、目のまえに、ささやかな草ぶきの小家が一軒あって、家の中からにぎやかな灯影がもれている。山樵はその小家の裏手へと、回竜を案内した。家の裏には、近くの流れから筧でひいた清水がとくとくとこぼれている。ふたりはその清水で足を洗った。小家のむこうには、ひとくるわの菜畑につづいて、うっそうたる杉林と竹やぶがあり、竹やぶの奥には、よほど高いところから落ちているらしい、一簾の滝がかかっている。その滝が、おりからの月の光にきらきらと輝いて、ちょうど白妙の長い衣をかかげたように揺曳している。
格調高く、かつ簡潔な文章だ。読み手に情景をくっきりと思い起こさせる描写力と、厳かな表現が気負いなく共存している。「玲瓏たる氷輪」とか「一簾の滝」「揺曳」といった荘厳な形容に気取りやいやみがない。朝日新聞の「天声人語」なんかを読んでるとしょっちゅう「そんな表現があったのか」みたいな凝った形容詞や名詞、古語に出会うが、そのときに感じるようないやみや臭み、いかにも「掘り出してきた」という印象の説教臭さを、平井氏の訳文からは嗅ぎ取れない。いたずらに重々しい表現を使う文章にはない、自然な格調高さがある。
また、平井氏は人物の台詞回しについても堂に入っている。例えば、「かけひき」に登場する死刑囚の長台詞はこんな感じに訳しだされる。
そのとき、科人がだしぬけに大きな声で、主人に言いだした。―  「旦那、わっちはこれからお仕置きを受けることになりやしたが、わっちの科は、なにも手めえでわざとにやったんじゃござんせんぜ。あやまちのもとはといやあ、みんあこのわっちが馬鹿ゆえでござんす。なんの前世因果からか、生まれ落ちるとから馬鹿に生まれつき、どじはしょっちゅうしでかしとおしでござんした。けどね旦那、人間、馬鹿だからといってそいつをぶち殺すてえのは、こりゃあよくござんせんぜ。そんな無理無法なことをなさりゃあ、それこそ罰があたりまさあ。……ねえ旦那、旦那がどうあってもわっちをぶった斬るとおっしゃるなら、ようがす、わっちはきっと仕返しをしてお目にかけやすよ。人に恨みをかけるようなことをなさりゃあ、その酬いがくるのはあたりきな話でさ。仇を仇で返すたあ、ここのこってすぜ」
落語の登場人物みたいな、強烈に生き生きした話し方だ。ある意味芝居がかっているとも言えるが、怪談のような神話的フォーマットにはちょっと芝居がかっているくらいのほうがふさわしい。キャラクターを一人の人間としてリアルに、個性的に描き出すより、一個のステレオタイプとして型にはめたほうがおとぎ話はより深く息づく。この死刑囚の、いかにもがらっぱちなやくざ者といった口調が、この話をプロットをくっきり際立たせているのだ。しかも、あくまで「いかにも」でありながら、何かを真似した、引き写したといったわざとらしさはない。本当に巧みな訳だ。もちろんこの死刑囚のほかにも武士や僧侶、老人などいろいろな人物が『怪談』には登場するが、そのどれもが「いい口調」なんだ。岩波文庫ではときどき
「原文を読んだことはないが、原文の良さを全く伝えきれていないだろうということは間違いなく分かる」
というくらい駄目な翻訳に出くわすことがあるが、この平井氏の訳は最高にいい。確かに『怪談』は、もともと日本語で書かれていた物語をハーンが英語に直したものだから、他の作品の翻訳とは少し事情が異なるが、それでも一度ハーンの文章になったものをこれほど巧みに訳出できるのはすごい。
しかし、私が今回『怪談』を初めて読んでみて驚いたのは、作品の最後に「虫の研究」というハーンのエッセイが収められていたことだ。『怪談』にこんなものが入っているとは知らなかった。
「虫の研究」とは、ハーンが「蝶」「蚊」「蟻」の三種類の昆虫について、それぞれ思うところをつづったエッセイだ。怪談話ではない。蝶や蚊にまつわる物語の一例として怪談めいた話を紹介することはあるが、基本的にはハーンの思いをつづる随筆的な文章だ。
このうち、「蝶」と「蚊」については、『怪談』全体のムードとそれほど乖離したものではない。中国人、そして中国文化の影響を受けた日本人がいかに蝶を偏愛してきたかを語る「蝶」の章。自宅裏の寺の墓地から湧いて出る蚊に悩まされながらも、蚊をこの世に念を残した亡者の化身と解釈し、「あの弱よわしい、刺すような歌をうたいながら、自分の知っている人たちを噛みにそっとここから出て行かれるように、わたくしは竹の花立から水溜めの中に、もういちど生まれて出るおりを持ちたいものだ」と語るハーンにしみじみする「蚊」の章。これらはあくまでも怪談ではないものの、ハーンが日本とその文化に抱いている愛着を示して、作品全体のトーンと調和するものだ。
しかし「蟻」の章はまったく違う。「蟻」には怪談的な要素はまったくない。「蟻」は、蟻の生態を例に採ってハーンの科学的、社会倫理学的な思想を披瀝する内容で、『怪談』全体のトーンと著しくかけ離れているのだ。
ハーンは当時の著名な哲学者、ハーバート・スペンサーの思想を参照しながら、「蟻の生態、蟻の社会が倫理的に卓絶したものであること」を説明する。蟻は生まれながらにして完全に「無私」であり、「利己」がそのまま「利他」であるような社会を作り上げたからだというのだ。
個々の蟻はすべて「自分の属する社会、種族の繁栄」のみを至上の目的としており、我欲をまったく持たない。人間にとっては最も抗しがたい欲望であり、そして人間をいずれ破滅のふちに追いやるであろう「性欲」すら、特定の個体に生殖行為を一任するという形でコントロール済みである。ただ一時の生殖行為のためにのみ雄の個体を生み出し、雄は女王蟻と交わって卵を産ませた後はすぐ用無しになって死ぬ。このような、「完全なる無私にもとづく社会秩序」を理想として提唱し、人間はいつの日か蟻のレベルにまで進化できるのかと問いかける、それがこの「蟻」の章なのだ。
これには驚いたな。こんなエッセイが『怪談』の中に含まれているとは知らなかった。そして、一人の無責任な読者として好き勝手なことを言うと、これはないほうが多分よかった。
なぜかというと、第一にこの思想にはあまり交感が持てないからだ。ハーンが蟻の社会に見出しているのは典型的な西洋のユートピア思想だ。悪徳が秩序によって完全に消去された、あるいはコントロールされた理想郷。しかし、巌谷国士氏が『シュルレアリスムとは何か』という本の中で言っているように、ユートピアとは常にディストピアだった。ユートピアとは、見方を変えれば個性の抹消であり、自由の窒息であり、異物の排除を目指す究極の全体主義社会だからだ。
確かに蟻は悪徳に陥らない。しかしそれは善を選んだからでも、悪徳を努力によって克服したからでもなくて、「悪徳を為せるようにつくられていないから」というだけだ。生まれついて善しかできないようになっているから善を為す、こんなみすぼらしいことはないよ。悪を為し得る存在だから善の大切さを感じられるのであって、ハーンも自分の心底に「悪」を実感できる「人間」だから「蟻の無私」を賞賛できるのであって、「悪」が欠落していたら「善」の喜びなんか得られないぞ。
『怪談』の中には「安芸之介の夢」という物語がある。これも有名な話だと思うが、簡単にあらすじを説明すると、
安芸之介という郷士がある日、庭の杉の木の下で昼寝をして、夢を見た。夢の中で安芸之介は「常世の国の王」と名乗る人物に招かれ、その姫君の婿になる。婚姻の儀が終わるとしばらくして安芸之介は、常世の国の西南にある島の統治を任される。島の住民はみなおとなしく、安芸之介の統治に熱心に従うので、特に苦労もなく月日が過ぎ、安芸之介と妃は幾人もの子供たちを作る。 しかし、島の統治を任されて二十四年目に安芸之介の妻が亡くなると、彼は生きることに絶望する。墓碑を島の美しい丘に建てた後は、何をする気もなくなってただ妻の喪に服していたが、ある日常世の国の国王から「安芸之介を本国に送還する。残された子供は常世の国で養う」という通達が来る。そして島を去ろうとしたところで目が覚めると、安芸之介は以前として庭の杉の木の下に寝転がっていた。
そばにいた友人にその不思議な夢の話をすると、友人によれば、安芸之介が眠っている間、小さな蝶が安芸之介の顔の上を舞っていた。すると蝶は突然地面に落ち、地面の穴から出てきた大きな蟻に巣穴に引き込まれた。その後、安芸之介が目ざめる直前に蝶は巣穴から出てきて、また安芸之介の顔の上を舞って消えたという。それを聞いて安芸之介は即座に辺りの地面を掘り返すと、地下にはいかにも巨大な王国を思わせる蟻の巣穴が広がっていた。そしてその巣穴から少し西南の土を掘り返すと、巣穴の中に小さな丘のような土の盛り上がりを見つける。そこには一つの小石が転がっており、それをどけると、一匹の雌の蟻の死骸が静かに横たえてあった。
という話だ。これも大変によくできた、感動的ですらある物語だ。夢の中で過ごした長い年月、安芸之介の妃への愛情、そして最後に表れる雌の蟻の死骸。美しい話だなあ。なにか「もののあはれ」とか「はかなさ」といったおぼろな観念を一瞬で理解した気にさせてくれる。
しかし「蟻」を読んだ後では、その深い余韻が少し乱れてしまう。じゃあなにか、安芸之介はあの蟻の社会における厄介者、生殖しか能のない雄の個体の代替物として、その完全な秩序の中に取り込まれていただけだったのか。安芸之介と妃の間の愛情は。島国の住民が従順に統治に従ったのは、彼らが「反抗」などという悪徳をそもそも持たない、マシーンのようなものだったからなのか。寂しさが残っちゃうよ。
また、「蓬莱」という物語についてもそうだ。これは「安芸之介の夢」よりずっと短い作品で、中国に伝わる桃源郷「蓬莱の国」にことを語ったものだ。この蓬莱の国の描写も、最初に読んだときは、その乳液のような大気、遊び戯れる乙女たちの翻る袖、哀しみに沈んだときしか顔を隠さないのでいつも静かに微笑んでいる人々、小さな椀と小さな杯での質素な食事など、豊かなイメージに浸れる優雅な短編と感じたが、「蟻」を読んだ後では少し浸りにくくなる。語り手が蓬莱の住民に対して敬意をもって捧げる「無私の生涯の朴直な美しさ」という言葉に、蟻社会の影を見出してしまうからだ。
このように、素晴らしいと思ったところと不満だったところをとりとめなく並べてみたが、我ながら相当勝手なことを言っている気がするな。ハーンの社会思想にしたって、それほど反発するほどのものでもないかもしれないしね。「虫の研究」を読むと、少なくともハーンの人となりがわかる。もしかしたら「虫の研究」と「無私の研究」をかけた洒落の可能性もある。ただ、ハーンの人となりを知りたいなら、解説で平井氏が引用つきで紹介してくれている、ハーン夫人の『思い出の記』のほうが役に立ちそうだ。夫人はハーンにいろいろな怪談話を読み聞かせたそうだが、そのときのハーンの様子がすごい。
話が面白いとなると、いつも非常に真面目に改まるのでございます。顔の色が変りまして目が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれど、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。「あらっ、血が。」あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ったでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います。あなたはどうです。などと本に全くない事まで、色々相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。
この「耳なし芳一」を書いています時のことでした。日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で芳一、芳一と呼んでみました。「はい、私は盲目です。あなたはどなたでございますか」と内から云って、それで黙っているのでございます。[中略] それから書斎の竹薮で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと、「あれ、平家が亡びていきます」とか、風の音を聞いて、「壇の浦の波の音です」と真面目に耳をすましていました……
ハーン夫人の話し方が綺麗だ。それはともかくハーン、とんでもない変わり者。そりゃ恐ろしくもなるだろう。創作のための熱意なのか、自分なりのユーモアなのか、それとも単にそういう人なのか。面白いなあ。 
 
外国人の目に映った「庚申堂」

 

ハーンが日本にやって来たのは明治23年(1890)である。最初、松江中学に英語教師として赴任する前、横浜に5か月間滞在し、その折りに江ノ島を訪れている。江の島の様子については、彼の著作「知られぬ日本の面影」中、「江ノ島巡礼」に書かれていることが判った。「知られぬ日本の面影」は見つけることができたが、「江ノ島巡礼」は収録されていなかった。孫引きになるが、北沢瑞史著「藤沢の文学」の中に江ノ島や庚申堂についての記述があったので紹介したい。
「江ノ島での描写は島の印象、弁財天、竜窟など詳細にわたっているが、江ノ島の貝細工については……『名状し難い貝細工の宝玉箱・・…』と絶賛に近い描写がある」北沢さんによると「当時から昭和20年前までは、江ノ島の土産物は、各家がそれぞれ細工に工夫を凝らして独自のものをつくっていた」という。今でも、江ノ島道の泉蔵寺と上諏訪神社の間に(有)I貝細工という製作所がある。
「さらに小泉八雲という人間を決定付けるような場面が登場する。江ノ島からの帰途藤沢へ向かう路傍に六体の石像に惹かれ、人力車を止めて庚申に対面する。これに似たものは藤沢の村の中に、庚申の神社があると聞くと、早速に庚申堂を訪れるのである。古い木造の祠は荒廃して世間から見捨てられ、風雨に打たれまかせであった。(中略) その姿に落胆しながらも、境内の石像を丹念に見て回り、実に詳しい観察をしている。庚申の絵を買いたいと八雲が番人に告げると、絵は売っていないが、庚申の一幅の掛け軸がある。「見たいならば帰って持ってくる」というので依頼する。しかし、その掛け軸を見て失望してしまう。信仰がしだいに薄くなり、やがて消えてしまうこと、神、仏の命がしだいにこの世から失われてゆくことに憤りを感じるのである」
この一文からすると、金井旅館の隣にある庚申堂は、当時からかなり傷んでいたことが窺がえる。だが、当時の藤沢の人々について、興味ある一文もある。『・・…それを観ているうちに私は始めて周囲に群集が来ていることに気が付いた。・・…野良仕事から来た、親切そうな、日に焼けた顔の百姓共、赤ん坊を背負ったお母さん達、小学生の子供、車夫などが、皆外人がどうしてこんなに彼等の拝む神々に興味を感じているのかと不審がっているのだった。そして周囲からの圧度は極めて柔らかで、恰も生温るい水が身にあたるようなものであったが、私は幾分当惑した』
「藤沢の人々がいきいきと登場している。その藤沢人への八雲のやさしい眼と、素朴な村人のやさしさが、ある懐かしさで結ばれていることを注意しておきたい」
八雲の帰るべき時刻が来た時のことである。『機関車の汽笛が丁度列車に間に合うだけ、時間のあることを警告した。それは西洋文明が鉄道網で、すべて原始的な平和を征服したからである。哀れ庚申の神よ、これは汝の道路ではなくなった。往昔の神々は西洋文明が石炭の残灰を撒き散らす路傍で、死に瀕しつつあるのだ』と言い残して藤沢を去る。
蛇足ながら、明治20年(1887)7月に横浜、国府津間に鉄道が開通し、藤沢停車場が出来、以後、藤沢は変貌を遂げてゆくのである。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
思い出の記・小泉節子

 

へルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。ついて間もなく会社との関係を絶ったのですから、遠い外国で便り少い独りぽっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。
伯耆の下市に泊って、その夜盆踊を見て大層面白かったと云いますから、米子から船で中海を通り松江の大橋の河岸につきましたのは八月の下旬でございます。その頃東京から岡山辺までは汽車がありましたが、それからさきは米子まで山また山で、泊る宿屋も実にあわれなものです。村から村で、松江に参りますと、いきなり綺麗な市街となりますので、旅人には皆眼のさめるように驚かれるのです。大橋の上に上ると東には土地の人の出雲冨士と申します伯耆の大山が、遥かに冨士山のような姿をして聳えて居ります。大橋川がゆるゆるその方向へ流れて参ります。西の方は湖水と天とぴったり溶けあって、静かな波の上に白帆が往来しています。小さい島があってそこには弁天様の祠があって松が五六本はえています。へルンには先ずこの景色が気に入ったろうと思われます。
松江の人口は四万程ございました。家康公の血を引いた直政という方が参られまして、その何代か後に不昧公と申す殿様がありましたが、そのために家中の好みが辺鄙に似合わず、風流になったと申します。
学校は中学と師範の両方を兼ねていました。中学の教頭の西田と申す方に大層御世話になりました。二人は互に好き合って非常に親密になりました。へルンは西田さんを全く信用してほめていました。『利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆云ってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です』お気の毒な事にはこの方は御病身で始終苦しんでいらっしゃいました。『唯あの病気、如何に神様悪いですね――私立腹』などと云っていました。又『あのような善い人です、あのような病気参ります、ですから世界むごいです、なぜ悪き人に悪き病気参りません』東京に参りましても、この方の病気を大層気にしていました。西田さんは、明治三十年三月十五日に亡くなられました。亡くなった後までも『今日途中で、西田さんの後姿見ました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした』などと話した事があります。似ていたのでなつかしかったと云っていました。早稲田大学に参りました時、高田さんが、どこか西田さんに似て居ると云って、大層喜んでいました。
この時の知事は籠手田さんでした。熱心な国粋保存家と云う事でした。ゆったりした御大名のような方で、撃剣が御上手でした。この時には色々と武士道の嗜みとも申すべき物が復興されまして、撃剣とか鎗とかの仕合だの、昔風の競馬だの行われまして、士族の老人などは昔を思い出すと云って、喜んでいました。この籠手田さんからも、大層優待されまして、凡てこんな会へは第一に招待されました。
へルンは見る物聞く物凡て新らしい事ばかりですから、一々深く興に入りまして、何でも書き留めて置くのが、楽しみでした。中学でも師範でも、生徒さんや職員方から、好かれますし、土地の新聞もへルンの話などを掲げて賞讃しますし、土地の人々は良い教師を得たと云うので喜びました。『へルンさんはこんな辺鄙に来るような人でないそうな』などと中々評判がよかったのです。
しかし、ヘルンは辺鄙なところ程好きであったのです。東京よりも松江がよかったのです。日光よりも隠岐がよかったのです。日光は見なかったようです、松江に参りましてからは行った事がございませんから。日光は見たくないと云っていました。しかし、行って見ればとにかくあの大きい杉の並木や森だけは気に入ったろうと思われます。
私の参りました頃には、一脚のテーブルと一個の椅子と、少しの書物と、一着の洋服と、一かさねの日本服位の物しかございませんでした。
学校から帰ると直に日本服に着換え、座蒲団に坐って煙草を吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りました。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤しんだように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似をしますか』と云う調子でした。これは面白い、美しいとなると、もう夢中になるのでございます。
松江では宴会の席にも度々出ましたし、自宅にも折々学校の先生方を三四名も招きまして、御馳走をして、色々昔話や、流行歌を聞いて興じていました。日本服を好きまして、羽織袴で年始の礼に廻り、知事の宅で昔風の式で礼を受けて喜んだ事もございました。
松江に参りまして、当分材木町の宿屋に泊りました。しかし、暫らくで急いで他に転居する事になりました。事情は外にもあったでしょうが、重なる原因は、宿の小さい娘が眼病を煩っていましたのを気の毒に思って、早く病院に入れて治療するようにと親に頼みましたが、宿の主人は唯はいはいとばかり云って延引していましたので『珍らしい不人情者、親の心ありません』と云って、大層怒ってそこを出たのでした。それから末次本町と申すところのある物もちの離れ座敷に移りました。しかし『娘少しの罪ありません、唯気の毒です』と云って、自分で医者にかけて、全快させてやりました。自分があの通り眼が悪かったものですから、眼は大層大切に致しまして、長男の生れる時でも『よい眼をもってこの世に来て下さい』と云って大心配でした。眼の悪い人にひどく同情致しました。宅の書生さんが書物や新聞を下に置いて俯して読んでいましても直ぐ『手に持ってお読みなさい』と申しました。
この材木町の宿屋を出ましてから末次に移りまして、私が参りまして間のない事でございました。ヘルンの一国な気性で困った事がございました。隣家へ越して来た人が訪ねて参りました。その人はヘルンが材木町の宿屋に居た頃やはりその宿にいた人で、隣り同志になった挨拶かたがた「キュルク抜き」を借りに見えたのでした。挨拶がすんでから、ヘルンは『あなたは材木町の宿屋にいたと申しましたね』と云いますとその人は『はい』と答えました。ヘルンは又『それではあの宿屋の主人の御友達ですか』と申しましたら、その人は又何心なく『はい、友達です』と答えますと、ヘルンは『あの珍らしい不人情者の友達、私は好みません。さようなら、さようなら』と申しまして奥に入ってしまいます。その人は何の事やら少しも分らず、困っていましたので、私が間へ入って何とか言分け致しましたが、その時は随分困りました。
この末次の離れ座敷は、湖に臨んでいましたので、湖上の眺望が殊に美しくて気に入りました。
しかし私と一緒になりましたので、ここでは不便が多いと云うので、二十四年の夏の初めに、北堀と申す処の士族屋敷に移りまして一家を持ちました。
私共と女中と小猫とで引越しました。この小猫はその年の春未だ寒さの身にしむ頃の事でした、ある夕方、私が軒端に立って、湖の夕方の景色を眺めていますと、直ぐ下の渚で四五人のいたずら子供が、小さい猫の児を水に沈めては上げ、上げては沈めして苛めて居るのです。私は子供達に、御詫をして宅につれて帰りまして、その話を致しますと『おゝ可哀相の小猫むごい子供ですね――』と云いながら、そのびっしょり濡れてぶるぶるふるえて居るのを、そのまま自分の懐に入れて暖めてやるのです。その時私は大層感心致しました。
北堀の屋敷に移りましてからは、湖の好い眺望はありませんでしたが、市街の騒々しいのを離れ、門の前には川が流れて、その向う岸の森の間から、御城の天主閣の頂上が少し見えます。屋敷は前と違い、士族屋敷ですから上品で、玄関から部屋部屋の具合がよくできていました。山を背にして、庭があります、この庭が大層気に入りまして、浴衣で庭下駄で散歩して、喜んでいました。山で鳴く山鳩や、日暮れ方にのそりのそりと出てくる蟇がよい御友達でした。テテポッポ、カカポッポと山鳩が鳴くと松江では申します、その山鳩が鳴くと大喜びで私を呼んで『あの声聞きますか、面白いですね』自分でも、テテポッポ、カカポッポと真似して、これでよいかなどと申しました。蓮池がありまして、そこヘ蛇がよく出ました。『蛇はこちらに悪意がなければ決して悪い事はしない』と申しまして、自分の御膳の物を分けて『あの蛙取らぬため、これを御馳走します』などと云ってやりました。『西印度にいます時、勉強して居るとよく蛇が出て、右の手から左の手の方に肩を通って行くのです。それでも知らぬ風をして勉強して居るのです。少しも害を致しませんでした。悪い物ではない』と云っていました。
私が申しますのは、少し変でございますが、へルンは極正直者でした。微塵も悪い心のない人でした。女よりも優しい親切なところがありました。ただ幼少の時から世の悪者共に苛められて泣いて参りましたから、一国者で感情の鋭敏な事は驚く程でした。
伯耆の国に旅しました時、東郷の池と云う温泉場で、先ず一週間滞留の予定でそこの宿屋へ参りますと、大勢の人が酒を飲んで騒いで遊んでいました。それを見ると、直ぐ私の袂を引いて『駄目です、地獄です、一秒でさえもいけません』と申しまして、宿の者共が『よくいらっしゃいました、さあこちらヘ』と案内するのに『好みません』と云うので直にそこを去りました。宿屋も、車夫も驚いて居るのです。それはガヤガヤと騒がしい俗な宿屋で、私も厭だと思いましたが、ヘルンは地獄だと申すのです。嫌いとなると少しも我慢致しません。私は未だ年も若い頃ではあり、世馴れませんでしたから、この一国には毎度弱りましたが、これはへルンの極まじりけのないよいところであったと思います。
その頃の事です、出雲の加賀浦の潜戸に参りました時です。潜戸は浦から一里余も離れた海上の巌窟でございます。ヘルンは大層泳ぎ好きでしたから、船の後になり先きになりして様々の方法で泳いで私に見せて大喜びでございました。洞穴に船が入りますと波の音が妙に巌に響きまして恐ろしいようです。岩の間からポタリポタリと滴が落ちます。船頭は石で舷をコンコンと叩くのです。これは船が来たと魔に知らせるためだと申します。その音がカンカンと響きまして、チャポンチャポンと何だか水に飛びこむ物があります。船頭は色々恐ろしいような、哀れなような、物凄いような話を致しました。へルンは先程着た服を又脱ぎ始めるのです。船頭は『旦那そりゃ、いけません、恐ろしい事です』と申します。私も『こんな恐ろしいような伝説のあるところには、何か恐ろしい事が潜んで居るから』と申して諌めるのです。ヘルンは『しかし、この綺麗な水と、蒼黒く何万尺あるか知れないように深そうなところ、大層面白い』と云うので、泳ぎたくてならなかったのですが、遂に止めました。へルンは止めながら大不平でした。残念と云うので、翌日まで物も云わないで、残念がっていました。数日後の話に『皆人が悪いと云うところで、私泳ぎましたが過ありません。ただあの時、ある時海に入りますと体が焼けるようでした。間もなく熱がひどく出ました。それと、あゝあの時です、二人で泳ぎました、一人は急に見えなくなりました。同時に大きな鮫の尾が私の直ぐ前に出ました』と申しました。
松江の頃は未だ年も若く中々元気でした。西印度の事を思い出してよく私に『西印度を見せて上げたいものだ』と申しました。
二十四年の夏休みに、西田さんと杵築の大社へ参詣致しました。ついた翌日、私にも直ぐ来てくれと手紙をくれましたので、その宿に参りますと、両人共海に行った留守でした。お金は靴足袋に入れてほうり出してありまして、銀貨や紙幣がこぼれ出て居るのです。ヘルンは性来、金には無頓着の方で、それはそれはおかしいようでした。勘定なども下手でした。そのような俗才は持ちませんでした。ただ子供ができたり、自分の体が弱くなった事に気がついたりしてから、遺族の事を心配し始めました。大社の宮司は西田さんの知人でありまして、ヘルンの日本好きの事を聞いていますから、大層優待して下さいました。盆踊が見たいと話しますと、季節よりも少し早かったのでしたが、態々(わざわざ)何百人と云う人を集めて踊りを始めて下さいました。その人々も皆大満足で盆踊をしてくれました。尤もこの踊りはあまり陽気で、盆踊ではない、豊年踊だとヘルンが申しました。この旅行の時、ヘルンが『君が代』を教わりまして、私共三人でよく歌いました。子供のように無邪気なところがありました。
二週間許りの後、松江に帰り盆踊の季節に近づいたので、ヘルンと私と二人で案内者も連れないで、伯耆の下市に盆踊を見に参りました。西田さんは京都へ旅を致されました。私共ただ二人で長旅を致したのはこれが始めてでした。下市へ参りまして昨年の丁度今頃赴任の時泊りました宿屋を尋ねて、踊りの事を聞きますと『あの、今年は警察から、そんな事は止めよ、と云って差止められました』との事で、ヘルンは失望して、不興でした。『駄目の警察です、日本の古い、面白い習慣をこわします。皆耶蘇のためです。日本の物こわして西洋の物真似するばかりです』と云って大不平でした。
この時には、到る処盆踊をさがして歩きました。先きに申しました東郷の池のさわぎもこの時の事でした。漸く盆踊を見つけて参ります、と反対に西洋人が来たと云うので踊りそこのけにして、いたずらに砂をかける者がある。あとから謝罪に来ると云うような珍事もございました。出雲に帰りましたのは、八月の末で、京都から帰られた西田さんと三人で旅行の話を致しまして愉快でした。これは一月程の旅行でしたが、この外一日がけの旅はよく致しました。
出雲は面白くてへルンの気に入ったのですが、西印度のような熱いところに慣れたあとですから、出雲の冬の寒さには随分困りました。その頃の松江には、未だストーヴと申す物がありませんでした。学校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ教場に出るだけでした。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着たままで、授業をなさいとの事でした。この時一着のオヴアーコートを持っていましたが、それは船頭の着る物だと云っていましたが、それを着ていたのです。好みはあったのですが、服装などはその通り無雑作で構いませんでした。 

 

熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩へルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です。月のない夜でした。宅を二人で出まして、淋しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だと云うのです。草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。薄暗い星光りに沢山の墓がまばらに立って居るのが見えます、淋しいところだと思いました。するとヘルンは『あなた、あの蛙の声聞いて下さい』と云うのです。
又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、私淋しい田舎道を歩いていました。暗いやみの中から、小さい優しい声で、あなたが呼びました。私あっと云って進みますとただやみです。誰もいませんでした』など申した事もございます。
熊本にいました頃、夏休みに伯耆から隠岐へ参りました。隠岐では二人で大概の浦々を廻りました。西郷、別府、浦の郷、菱浦、みな参りました。菱浦だけにも一週間以上いました。西洋人は始めてと云うわけで、浦郷などでは見物が全く山のようで、宿屋の向いの家のひさしに上って見物しようと致しますと、そのひさしが落ちて、幸に怪我人がなかったが、巡査が来るなどと云う大騒ぎがありました。西郷では珍客だと申すので病院長が招待して下さいました。ヘルンはこの見物騒ぎに随分迷惑致しましたが、私を慰め励ますために、平気を装って『こんな面白い事はない』などと申していましたが、書物にはやはり困ったように書いて居るそうでございます。御陵にも詣でました。後醍醐天皇の行在所の黒木山へも参りました。その側の別府と申すところでは菓子がないので、代りに茶店で、『ゑり豆』を出したのを覚えています。
帰りに伯耆の境港で偶然盆踊を見ましたが、元気な漁師達の多い事ですから、足を踏んでも、手を拍ってもえらい勢ですから、ヘルンはここで見た盆踊は、一番勇ましかったといつも申しました。杵築のは陽気な豊年踊、下市のは御精霊を慰める盆踊、境のは元気の溢れた勇ましい踊りだと申しました。
それから山越しに、伯耆から備後の山中で泊った事をいつも思い出します。ひどい宿でございましたが、ヘルンには気に入りました。車夫の約束は、山を越えまして三里程さきで泊ると云うのでしたが、路が方々こわれていたので途中で日が暮れてしまったのです。山の中を心細く夜道を致しました。そろそろ秋ですから、色々の虫が鳴いて居るのです。山が虫の声になってしまって居るようで、それでしんとして淋しうございました。『この近くに宿がないか』と車夫に尋ねますと『もう少し行くと人家が七軒あって一軒は宿屋をするから、そこで勘忍して下さい』と申すのです。車が宿に着きましたのが十時頃であったと覚えています。宿と云うのが小さい田舎家で気味の悪い宿でした。行灯は薄暗くて、あるじは老人夫婦で、上り口に雲助のような男が三人何か話しています。二階に案内されたのですが、婆さんが小さいランプを置いて行ったきり、上って来ません。あの二十五年の大洪水のあとですから、流れの音がえらい勢でゴウゴウと恐ろしい響をしています。大層な螢で、家の内をスイスイと通りぬけるのです。折々ポーッポーッと明るくなるのです。肱掛窓にもたれていますと顔や手にピョイピョイ虫が何か投げつけるように飛んで来て当るのです。随分ひどい虫でした。膝の近くに来て、松虫が鳴いたりするのです。下の雲助のような男の声が、たまに聞えます。はしご段がギイギイと音がすると、あの悪者が登って来るのではないかなどと、昔話の草艸紙の事など思い出して心配していました。婆さんが御膳を持って上って来ました。あの虫は何と云う虫ですかと尋ねますと『へい夏虫でございます』と云って平気で居るのです。実に淋しい宿で、夢を見て居るようでございました。ヘルンは『面白いもう一晩泊りたい』と云っていました。箱根あたりの、何から何まで行き届いた西洋人に向く宿屋よりも、こんなのがかえって気に入りました。それですから、私が同意致したら、隠岐の島で海の風に吹かれてまだまだ長くいたでございましょう。飛騨の山中を旅して見たい、とよく申しておりましたが、果しませんでした。 

 

神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいと云うのが、私の兼ての望みでした。ヘルンは『あなたは今の東京を、廣重の描いた江戸絵のようなところだと誤解して居る』と申していました。私に東京見物をさせるのが、東京に参る事になりました原因の一つだと云っていました。『もう三年になりました。あなたの見物がすみましたら田舎に参ります』と申した事も度々ありました。
神戸から東京に参りましたのは、二十九年の八月二十七日でした。大学に官舎があるとか云う事でしたが、なるべく学校から遠く離れた町はずれがよいと申しまして、捜して頂きましたけれども良いところがございませんでした。
この時です、牛込辺でしたろう。一軒貸家がありまして、大層広いとの話で、二人で見に参りました事がございました。二階のない、日本の昔風な家でした。今考えますと、いずれ旗本の住んで居られたと云う家でしたろうと存じます。お寺のような家でした。庭もかなり広くて大きな蓮池がありました。しかし門を入りますから、もう薄気味の悪いような変な家でした。ヘルンは『面白いの家です』と云って気に入りましたが、私にはどうもよくない家だと思われまして、止める事に致しましたが、後で聞きますと化物屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとうこわされたとか云う事でした。この話を致しますと、ヘルンは『あゝ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました』と申しました。
富久町に引移りましたが、ここは庭はせまかったのですが、高台で見晴しのよい家でございました。それに瘤寺と云う山寺の御隣であったのが気に入りました。昔は萩寺とか申しまして萩が中々ようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩致しました。度々参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、色々仏教の御話など致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
日本服で愉快そうに出かけて行くのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』と云うので瘤寺に案内致しました。子供等も、パパさんが見えないと『瘤寺』と云う程でございました。
よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』
ある時、いつものように瘤寺に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おゝ、おゝ』と申しまして、びっくり驚きましたから、何かと思って、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います』『あゝ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹切るより如何に如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から』と云って大層な失望でした。『今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰をかけて、がっかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下され』と申していましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云う静かな世界はとうとうこわれてしまいました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。
淋しい田舎の、家の小さい、庭の広い、樹木の沢山ある屋敷に住みたいと兼々申していました。瘤寺がこんなになりましたから、私は方々捜させました。西大久保に売り屋敷がありました。全く日本風の家で、あたりに西洋風の家さえありませんでした。
私はいつまでも、借家住いで暮すよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたいと申しますと、『あなた、金ありますか』と申しますから『あります』と申します。『面白い、隠岐の島で建てましょう』といつも申します。私は反対しますとそれでは『出雲に建てて置きましょう』と申しますから、全く土地まで捜した事もありました。しかし私はそれほど出雲がよいとも思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買って建増しをする事に、とうとうなったのでございます。
兼てへルンは、まじりけのない日本の真中で生きる好きと云うのでしたから、自分でその家と近所の模様を見に参りました。町はずれで、後に竹籔のあるのが、大層気に入りました。建増しをするについては、冬の寒さには困らないように、ストーヴをたく室が欲しい。又書斎は、西向きに机を置きたい。外に望みはない。ただ万事、日本風にと云うのでした。この外には何も申しませんでした。何か相談を致しましても『ただこれだけです。あなたの好きしましょう。宜しい。私ただ書く事少し知るです。外の事知るないです。ママさん、なんぼ上手します』などと云って相手になりません。強いて致しますと『私、時もたないです』と申しまして、万事私に任せきりでございました。『もう、あの家、宜しいの時、あなた云いましょう。今日パパさん、大久保に御出で下され。私この家に、朝さようならします。と、大学に参る。宜しいの時、大久保に参ります、あの新しい家に。ただこれだけです』と申しまして、本当にこの通りに致しました。時間を取ると云う事が大嫌いでした。
西大久保に引移りましたのは、明治三十五年三月十九日でした。万事日本風に造りました。ヘルンは紙の障子が好きでしたが、ストーヴをたく室の障子はガラスに致しただけが、西洋風です。引移りました日、ヘルンは大喜びでした。書棚に書物を納めていますし、私は傍に手伝っていますと、富久町よりは家屋敷は広いのと、その頃の大久保は今よりずっと田舎でしたのとで、至って静かで、裏の竹籔で、鶯が頻りに囀っています。『如何に面白いと楽しいですね』と喜びました。又『しかし心痛いです』と申しますから『何故ですか』と問いますと『余り喜ぶの余り又心配です。この家に住む事永いを喜びます。しかし、あなたどう思いますか』などと申しました。  

 

ヘルンは面倒なおつき合いを一切避けていまして、立派な方が訪ねて参られましても、『時間を持ちませんから、お断り致します』と申し上げるようにと、いつも申すのでございます。ただ時間がありませんでよいと云うのですが、玄関にお客がありますと、第一番に書生さんや女中が大弱りに弱りました。
人に会ったり、人を訪ねたりするような時間をもたぬ、と云っていましたが、そのような交際の事ばかりでなく、自分の勉強を妨げたりこわしたりするような事から、一切離れて潔癖者のようでございました。
私は部屋から庭から、綺麗に、毎日二度位も掃除せねば気のすまぬ性ですが、ヘルンはあのバタバタとはたく音が大嫌いで、『その掃除はあなたの病気です』といつも申しました。学校へ参ります日には、その留守中に綺麗に片付けて、掃除して置くのですが、在宅の日には朝起きまして、顔を洗い食事を致します間にちゃんとして置きました。この外掃除をさせて下さいと頼みます時には、ただ五分とか六分とか云う約束で、承知してくれるのです。その間、庭など散歩したり廊下をあちこち歩いたりしていました。
交際を致しませぬのも、偏人のようであったのも、皆美しいとか面白いとか云う事を余り大切に致し過ぎる程に好みますからでした。このために、独りで泣いたり怒ったり喜んだりして全く気ちがいのようにも時々見えたのです。ただこんな想像の世界に住んで書くのが何よりの楽しみでした。そのために交際もしないで、一分の時間も惜んだのでした。『あなた、自分の部屋の中で、ただ読むと書くばかりです。少し外に自分の好きな遊びして下さい』『私の好きの遊び、あなたよく知る。ただ思う、と書くとです。書く仕事あれば、私疲れない、と喜ぶです。書く時、皆心配忘れるですから、私に話し下され』
『私、皆話しました。もう話持ちません』『ですから外に参り、よき物見る、と聞く、と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本読むばかり、いけません』
その書く物は、非常な熱心で進みまして、少しでも、その苦心を乱すような事がありますと、当人は大層な苦痛を感じますので、常々戸の明けたてから、廊下の跫音や、子供の騒ぎなど、一切ヘルンの耳に入れぬようにと心配致しました。その部屋に参りますにも、煙草をのんで、キセルをコンコンと音をさせて居る時とか、歌を歌って室内を散歩して居る時を選ぶようにしていました。そうでない時は、呼んでも分らぬ事もあるかと思えば、極小さい音でもひどく感ずる事もありました。何事につけこの調子でございました 。
西大久保に移りましてから、家も広くなりまして、書斎が玄関や子供の部屋から離れましたから、いつでもコットリと音もしない静かな世界にして置きました。それでも箪笥を開ける音で、私の考こわしました、などと申しますから、引出し一つ開けるにも、そうっと静かに音のしないようにしていました。こんな時には私はいつもあの美しいシャボン玉をこわさぬようにと思いました。そう思うから叱られても腹も立ちませんでした。
著述に熱心に耽って居る時、よくありもしない物を見たり、聞いたり致しますので、私は心配の余り、余り熱心になり過ぎぬよう、もう少し考えぬようにしてくれるとよいが、とよく思いました。松江の頃には私は未だ年は若いし、ヘルンは気が違うのではないかと心配致しまして、ある時西田さんに尋ねた事がございました。余り深く熱心になり過ぎるからであると云う事が次第に分って参りました。
怪談は大層好きでありまして、『怪談の書物は私の宝です』と云っていました。私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。
淋しそうな夜、ランプの心を下げて怪談を致しました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いて居るのです。その聞いて居る風が又如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。私は折々、恐ろしい夢を見てうなされ始めました。この事を話しますと『それでは当分休みましょう』と云って、休みました。気に入った話があると、その喜びは一方ではございませんでした。
私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。
話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。『アラッ、血が』あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ってたでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います、あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。
『怪談』の初めにある芳一の話は大層へルンの気に入った話でございます。中々苦心致しまして、もとは短い物であったのをあんなに致しました。『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないと云うので、色々考えて『開門』と致しました。この「耳なし芳一」を書いています時の事でした。日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか』と内から云って、それで黙って居るのでございます。いつも、こんな調子で、何か書いて居る時には、その事ばかりに夢中になっていました。又この時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を弾じて居る博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見ると直ぐ『やあ、芳一』と云って、待って居る人にでも遇ったと云う風で大喜びでございました。それから書斎の竹籔で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと『あれ、平家が亡びて行きます』とか、風の音を聞いて『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすましていました。
書斎で独りで大層喜んでいますから、何かと思って参ります。『あなた喜び下され、私今大変よきです』と子供のように飛び上って、喜んで居るのでございます。何かよい思いつきとか考が浮んだ時でございます。こんな時には私もつい引き込まれて一緒になって、何と云う事なしに嬉しくてならなかったのでございました。
『あの話、あなた書きましたか』と以前話しました話の事を尋ねました時に『あの話、兄弟ありません。もう少し時待ってです。よき兄弟参りましょう。私の引出しに七年でさえも、よき物参りました』などと申していましたが、一つの事を書きますにも、長い間かかった物も、あるようでございました。
『骨董』のうちの「或女の日記」の主人は、ただヘルンと私が知って居るだけでございます。二人で秘密を守ると約束しました。それから、この人の墓に花や香を持って、二人で参詣致しました。
『天の河』の話でも、ヘルンは泣きました。私も泣いて話し、泣いて聴いて、書いたのでした。
『神国日本』では大層骨を折りました。『此書物は私を殺します』と申しました。『こんなに早く、こんな大きな書物を書く事は容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけの事をするのは、自分ながら恐ろしい事です』などと申しました。これは大学を止めてからの仕事でした。ヘルンは大学を止められたのを非常に不快に思っていました。非常に冷遇されたと思っていました。普通の人に何でもない事でも、ヘルンは深く思い込む人ですから、感じたのでございます。大学には永くいたいと云う考は勿論ございませんでした。あれだけの時間出ていては書く時間がないので困ると、いつも申していましたから、大学を止められたと云う事でなく、止められる時の仕打ちがひどいと云うのでございました。只一片の通知だけで解約をしたのがひどいと申すのでございました。
原稿がすっかりでき上りますと大喜びで固く包みまして(固く包む事が自慢でございました。板など入れて、ちゃんと石のようにして置くのです)表書を綺麗に書きまして、それを配達証明の書留で送らせました。校正を見て、電報で『宜しい』と返事をしてから二三日の後亡くなりました。この書物の出版は、余程待ちかねて、死ぬ少し前に、『今あの「神国日本」の活字を組む音がカチカチと聞えます』と云って、でき上るのを楽しみにしていましたが、それを見ずに、亡くなりましたのはかえすがえす残念でございます。
ペンを取って書いています時は、眼を紙につけて、えらい勢でございます。こんな時には呼んでも分りませんし、何があっても少しも他には動きませんでした。あのような神経の鋭い人でありながら、全く無頓着で感じない時があるのです。
ある夜十一時頃に、階段の戸を開けると、ひどい油煙の臭が致します。驚いてふすまを開けますと、ランプの心が多く出て居て、ぽっぽっと黒煙が立ち上って、室内が煙で暗くなっています。息ができぬようですのに、知らないで一所懸命に書いて居るのです。私は急いで障子を明け放って、空気を入れなどして、『パパさん、あなたランプに火が入って居るのを知らないで、あぶないでしたねー』と注意しますと『あゝ、私なんぼ馬鹿でしたねー』と申しました。それで常には鼻の神経は鋭い人でした。
『パパ、カムダウン、サッパー、イズ、レディ』と三人の子供が上り段のところから、声を揃えて案内するのが例でした。いつも『オールライト、スウィートボーイス』と云って、嬉しそうに、少し踊るような風で参りますのでございます。しかし一所懸命の時は、子供だちが案内致しましても、返事がありません。また『オールライト』と早く返事を致しません。こんな時には、待てども待てどもなかなか食堂に参りませんから、私がまた案内に行きます。『パパさん沢山時、待つと皆の者加減悪くなります。願う、早く参りて下され。子供、皆待ち待ちです』『はー何ですか』などと云っています。『あなた何ですか、いけません。食事です。あなた食事しませんか』『私食事しませんでしたか。私は済みましたと思う。おかしいですね』こんな風ですから『あなた、少し夢から醒める、願うです。小さい子供泣きます』ヘルンは『御免御免』など云って、私に案内されて、食堂に参りますが、こんな時はいつも、トンチンカンでおかしいのです。子供にパンを分けてやる事など忘れて、自分で『ノウ』などと独り合点をしながら、急いで食べています。子供等がパンをと頼みますので、気がついて『やりませんでしたか。御免御免』と云って切り始めます。切りながら、又忘れて自分で食べたりなど致します。
食事の前に、ほんの少々ウィスキーを用います。晩年には、体のためにと云うので、葡萄酒を用いていました。こんな時にはウィスキーを、葡萄酒と間違ってトクトクとコップについで呑みかけたり、コーヒーの中に塩を入れかけたり、などするのです。子供達から注意されて『本当です。なんぼパパ馬鹿ですね』など云いながらまた考に入るのです。幾度も『パパさんもう、夢から醒めて下され』などと申します。
食物には好悪はございませんでした。日本食では漬物でも、刺身でも何でも頂きました。お菜から喰べました、最後に御飯を一杯だけ頂きました。洋食ではプラムプディンと大きなビフテキが好きでございました。外には好きなものと云えば先ず煙草でした。
食事の時には色々話を致しました。パパは西洋の新聞などの話を致しますし、私は日本の新聞の話を致します。新聞は永い間『読売』と『朝日』を見てました。小さい『清』が障子からのぞきます。猫が参ります。犬が窓下に参ります。自分の食物をそれぞれに分けてやります。なかなか愉快に喰べました。それが済むといつも皆で唱歌などを歌いました。
よく独りで、何か頻りに喜んだり悲しんだりしていました。喜んで少し踊るようにして廊下を散歩して居る事もありますし、又独りで笑って居る事もあります。私が聞きつけて『パパさん何面白い事ありますか』と尋ねますと、こらえていたのが、破れたように大きい声になって大笑など致します。涙をこぼしてママさんママさんと云って笑うのです。これは新聞にあったおかしかった事や、私の話した事などを思い出してであります。
あのように考え込んだり、怪談好きである事から、常談など申さぬだろうと思われるようですけれども、折々上品な滑稽を申しました。『いつも先生に遇うと、何か一つ常談の出ない事はない』と申された方がございました。
面白い時には、世界中が面白く、悲しい時には世界中が悲しい、と云う風でございました。怪談の時でも、何の時でも、そうでしたが、もうその世界に入り、その人物になってしまうのでございました。話を聞いて感ずると、顔色から眼の色まで変るのでした。自分でもよく、何々の世界と、よく世界と云う言葉を申しました。
ヘルンの平常の話は、女のような優しい声でした。笑い方なども優しいのでしたが、しかし、ひどい意気込みになる人でしたから、優しい話のうちに、えらい勢で驚くように力をこめて云う事がありました。
笑う時にも二つあります。一つは優しい笑方で、一つは何もかも打忘れて笑うのです。この笑は一家中皆笑わせる面白そうな笑で、女中までが貰い笑を致しました。大学を止めた当時、日本に駐在でしたマクドーナルドさんが横浜から毎日曜毎に御出でになりました時などは、書斎からへルンのこの笑声が致しますので、家内中どんなに貰い笑を致したか知れません。
書斎のテーブルの上に、法螺貝が置いてありました。私が江の島に子供を連れて参りました時、大層大きいのを、おみやげに買って帰ったのでございます。ヘルンがこれを吹きますと、太い好い音が出ました。『私の肺が強いから、このような音』といって喜びました。『面白い音です』と云って、頬をふくらまして、面白がって吹きました。それから煙草の火のなくなった時に、この法螺貝を吹くと云う約束を致しました。火がないと、これとポオー、ウオーと云うように、大きく波をうたせるようにして、長く吹くのです。そう致しますと、台所までも聞えるのです。内を極静かにして、コットリとも音をさせぬようにして居るところです。そこへこの法螺貝の音です。夜などは殊に面白いのでございます。私は煙草の火は絶やさないように、注意をしていましたが、自分で吹きたいものですから、少しでも消えると直ぐ喜んで吹きました。如何に面白いと云うので、書斎の近くに持って参って居りましても、吹いて居るのでございます。この音が致しますと、女中までが『それ、貝がなります』と云って笑いました。  

 

よく出来た物などを見ますとひどくそれに感じまして、賞めるのでございます。上野の絵の展覧会にはよく二人で参りました。書家の名など少しも頓着しないです。絵が気に入りますと、金がいくら高くても、安い安いと申すのです。『あなた、あの絵どう思いますか』と申しますから『おねだん余り高いですね』と私は申します。金に頓着なく買おう買おうとするのを、少し恐れてこう返事を致すのでございます。すると『ノウ、私金の話でないです。あの絵の話です。あなた、よいと思いますか』『美しい、よい絵と思います』と申しますと『あなた、よいと思いますならば買いましょう。この価まだ安いです。もう少し出しましょう』と云うのです。よいとなると価よりも沢山、金をやりたがったのです。そして早く早くと云って、大急ぎで約定済の札をはって貰いました。
京都を二人で見物して歩きました時に、智恩院とか、銀閣寺とか、金閣寺とかに廻りました。五銭十銭という拝観料が大概きまっています。ヘルンは自分で気に入りますと、五十銭とか一円とか出そうと云うのです。そんな事には及びません、かえっておかしいと申しましても『ノウ、ノウ、私恥じます』と申しまして、聞き入れません。お寺でも変な顔して、御名前はなどと聞くのですが、勿論申した事はございません。
松江にいました頃、あるお寺へ散歩致しまして、ここで小さい石地蔵を見て、大層気に入りまして、これは誰の作かと寺で尋ねますと、荒川と申す人の作と云う事が分りました。この人は評判の偏人でございましたが、腕は大層確かであったそうです。学問のない、欲のない、いつも貧乏をしていながら、物を頼まれても二年も三年もかかっても、こしらえてくれない老人でございました。ヘルンは面白いと云うので、大きい酒樽を三度まで進物に致しました。それから宅に呼びまして御馳走をしたり、自分でその汚い家を訪ねて話など致しました。彫刻を頼んで、そんなに要らないと云うのを沢山にやりました。しかし、宅にございますあの天智天皇の置物は、荒川の作にしては出来のよい方ではないが、ヘルンの申しましたこの『貧しい天才』を尊敬して買ったのでございます。
ある夏、二人で呉服屋へ二三反の浴衣を買いに行きました。番頭が色々ならべて見せます。それが大層気に入りまして、あれを買いましょうこれも買いましょうと云って、引寄せるのです。そんなに沢山要りませんと申しましても『しかし、あなた、ただ一円五十銭あるいは二円です。色々の浴衣あなた着て下され。ただ見るさえもよきです』と云って、とうとう三十反ばかり買って、店の小僧を驚かした事もあります。気に入るとこんな風ですから、随分変でございました。
浴衣はただ反物で見て居るだけでも気持ちがよいと申しました。始めの好みは少し派手でしたが、後にはじみな物になりました。模様は、波や蜘蛛の巣などが殊に気に入りました、これを着ますと『あゝあの浴衣ですね』などと云って喜びました。日本人の洋服姿は好きませんでした。殊に女の方の洋服姿と、英語は心痛いと申しました。
ある時、上野公園の商品陳列所に二人で参りました。ヘルンはある品物を指して、日本語で『これは何程ですか』と優しく尋ねますと、店番の女が英語でおねだんを申しました。ヘルンは不快な顔をして私の袖を引くのです、買わないであちらへ行きました。
早稲田大学に参るようになりました時、高田さんから招かれまして参りました。奥様が、玄関に御出迎え下さいまして『よく御出で下さいました』と仰って案内されたのが英語でなくて上品な日本語であって嬉しかったと云うので、帰りますと第一に靴も脱がずにその話を致しました 。
『読売新聞』であったかと存じます、ある華族様の御隠居で、昔風が御好きで西洋風の大嫌いの方の話がありました。女中も帯は立て矢の字、髪は椎茸たぼの御殿風でございました。着物も裾長にぞろぞろ引きずって歩くのです。ランプも一切つけませんで源氏行灯です。シャボンも嫌い、新聞も西洋くさいというので、西洋くさい物は奉公人の末に到るまで使わせないのだそうです。こんな風ですから奉公人も厭がって参りません。『あの御屋敷なら真平御免です』と申します事が記してございました。この話を致しますと、ヘルンは『如何に面白い』と云って大喜びでした。『しかし私大層好きです、そのような人、私の一番の友達、私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私西洋くさくないです』と云って大満足です。『あなた西洋くさくないでしょう。しかし、あなたの鼻』などと常談申しますと『あ、どうしょう、私のこの鼻、しかしよく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するです』などと申しました。
子供に白足袋をはかせるように申しました。紺足袋よりも白足袋が大層好きでございました。日本人のあの白足袋が着物の下から、チラチラとするのが面白いと申しました。
子供には靴よりも下駄をと申しました。自分の指を私に見せて、こんな足に子供のを致したくないと申しました。
ハイカラな風は大嫌いでした。日本服でも洋服でも、折目の正しいのは嫌いでした。物を極構わない風でした。燕尾服は申すまでもなく、フロックコートなど大嫌いでした。ワイシャツや、シルクハット、燕尾服、フロックコートは『なんぼ野蛮の物』と申しました。
神戸から東京へ参ります時に、始めてフロックコートを作りました。それも私が大層頼みましてやっとこしらえて貰ったのでございます。『大学の先生になったのですからフロックコートを一着持って居らねばなりません』と申しますと『ノウ、外山さんに私申しました。礼服を私大層嫌います。礼服で出るようなところへ私出ませんが、宣しいですかと云いました。それで宣しいですと外山さんが約束しましたのですから、フロックコートいけません』と云うのです。しかし漸く一着フロックコートを作りましたが、それを着けましたのは、僅かに四五度位でした。これを着る時は又大騒ぎです。いやだいやだと云うのです。『この物、私好きない物です、ただあなたのためです。いつでも外にの時、あなた云う、新しい洋服、フロックコート、皆私嫌いの物です。常談でないです。本当です』など云っていやがりますけれど、私は参らねば悪いであろうと心配しまして、気の毒だと存じながら四五度ばかり勧めて着せました。自分がフロックコートを着るのはあなたの過ちだと申していました。
ある時、常談に『あなた日本の事を大変よく書きましたから、天子様、あなた賞めるため御呼びです、天子様に参る時、あのシルクハット、フロックコートですよ』と申しますと『それでは真平御免』と申しました。この真平御免と云う言葉は前の西洋嫌いの華族の隠居様の話で覚えたのです。マッピラと云う音が面白いと云うので、しきりに真平と云う事を申しました。
外出の時はいつも背広でございましたが、洋服よりも日本服、別して浴衣が大好きでした。傘もステッキももった事はございません。散歩の途中雨にあっても平気で帰るのですが、余り烈しいとどこででも車を見つけて乗ってかえりました。靴は兵隊靴です。流行には全く無頓着でした。『日本の労働者の足は西洋人のよりも美しい』と申しました。西洋よりも日本、この世よりも夢の世が好きであったろうと思います。休む時には必ず『プレザント、ドリーム』とお互に申します。私の夢の話が大層面白いと云うので喜ばれました。
ワイシャツやカラなどは昔から着けなかったようです。フロックコートを、仕方なく着ける時でもカラは極低い折襟でした。一種の好みは万事につけてあったのてすが、自分の服装は少しも構わない無雑作なのが好きでした。シャツと帽子とは、飛び放れて上等でした。シャツは横浜へ態々(わざわざ)参りまして、フラネルのを一ダースずつ誂えて作らせました。帽子はラシャの鍔広のばかりを買いましたが、上等物品を選びました。
うわべの一寸美しいものは大嫌い。流行にも無頓着。当世風は大嫌い。表面の親切らしいのが大嫌いでした。悪い方の眼に『入墨』をするのも、歯を脱いてから入歯をする事も、皆虚言つき大嫌いと云って聞き入れませんでした。耶蘇の坊さんには不正直なにせ者が多いと云うので嫌いました。しかし聖書は三部も持っていまして、長男にこれはよく読まねばならぬ本だとよく申しました。 

 

日本のお伽噺のうちでは『浦島太郎』が一番好きでございました、ただ浦島と云う名を聞いただけでも『あゝ浦島』と申して喜んでいました。よく廊下の端近くへ出まして『春の日の霞める空に、すみの江の……』と節をつけて面白そうに毎度歌いました。よく諳誦していました。それを聞いて私も諳ずるようになりました程でございます。上野の絵の展覧会で、浦島の絵を見まして値も聞かないで約束してしまいました。
『蓬莱』が好きで、絵が欲しいと申しまして、色々見たり、描いて貰ったりしたのですが皆満足しませんでした。
熱い事が好きですから、夏が一番好きでした。方角では西が一番好きで書斎を西向きにせよと申した位です。夕焼けがすると大喜びでした。これを見つけますと、直に私や子供を大急ぎで呼ぶのでございます。いつも急いで参るのですが、それでもよく『一分後れました、夕焼け少し駄目となりました。なんぼ気の毒』などと申しました。子供等と一緒に『夕焼け小焼け、明日、天気になーれ』と歌ったり、または歌わせたり致しました。
焼津などに参りますと海浜で、子供や乙吉などまで一緒になって『開いた開いた何の花開いた、蓮華の花開いた……』の遊戯を致しまして、子供のように無邪気に遊ぶ事もございました。
『廣瀬中佐は死したるか』と申す歌も、子供等と一緒に声を揃えて大元気で、歌いました。室内で歌ったり、子供の歌って居るのを書斎で聞いて喜んだり、子供の知らぬ間にそっと出かけて一緒に歌ったり致しました。先年三越で福井丸の船材で造った物を売り出した時に巻煙草入を買って帰りました。その日に偶然ヘルンの書いて置きました『廣瀬中佐の歌』が出ましたから私は不思議に思いまして、それを丁度その箱に納めて置きました。
発句を好みまして、これも沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。 

 

奈良漬の事をよく『由良』と申しました。これは二十四年の旅の時、由良で喰べた奈良漬が大層旨しかったので、それから奈良漬の事を由良と申していました。
熊本を出まして、これから関西から隠岐などを旅行しようとする時です。九州鉄道のどの停車場でございましたか、汽車が行き違いに着きまして、四五分、互いに止まりました時に、向うの汽車の窓から私共を見た男の眼が非常に恐ろしい凄い眼でした。『あゝえらい眼だ』と思って居ると、私共の汽車は走ってしまったのですが『今の眼を見ましたか』とへルンは申しました。『汽車の男の眼』と云う事を後まで話しました。
角力は松江で見ました。谷の音が大関で参りました。西洋のより面白いと申していたようでした。谷の音という言棄はよく後まで出まして、肥ったという代りに『谷の音』と申すのでございます。
芝居はアメリカで新聞記者をして居る時分に毎日のように見物したと申していました。有名な役者は皆お友達で交際し、楽屋にも自由に出入したので、芝居の事を学問したと申していました。日本では芝居を見たのは僅か二度しかないのです。それは松江と京都で、ほんのちょっとでした。長い間人込みの中でじっとして見物して居る事は苦痛だと申しました。しかし、よい役者のよい芝居は子供等にも見せて宜しいと申しまして、よく芝居を見に行くように私に勧めました。團十郎の芝居には必ず参るように勧めました。その日の見物や舞台の模様から何から何まで、細い事まで詳しく話しますのが私のおみやげで、ヘルンは熱心にこれを喜んで聞いてくれました。團十郎には是非遇って芝居の事について話を聞いて見たいと申していましたが、果さないうちに團十郎は亡くなりました。
晩年には日本の芝居の事を調べて見たいと申していました。三十三間堂の事を調べてくれと私に申した事もございました。これから少しずつ自伝を書くのだと申しました。その方は断片で少しだけでもできていますが芝居の方は少しもできぬうちに亡くなりました。
私はよく朝顔の事を思い出します。段々秋も末になりまして、青い葉が少しずつ黄ばんで、最早ただ末の方に一輪心細げに咲いていたのです。ある朝それを見ました時に『おゝ、あなた』と云うのです。『美しい勇気と、如何に正直の心』だと云うので、ひどく賞めていました。枯れようとする最後まで、こう美しく咲いて居るのが感心だ。賞めてやれ、と申すのでございます。その日朝顔はもう花も咲かなくなったから邪魔だと云うので、宅の老人が無造作に抜き取ってしまいました。翌朝ヘルンが垣根のところに参って見るとないものですから、大層失望して気の毒がりました。『祖母さんよき人です。しかしあの朝顔に気の毒しましたね』と申しました。
子供が小さい汚れた手で、新しい綺麗なふすまを汚した事があります。その時『私の子供あの綺麗をこわしました、心配』などと云った事もありました。美しい物を破る事を非常に気に致しました。一枚五厘の絵草紙を子供が破りましても、大切にして長く持てば貴い物になると教えました。
祭礼などの時には、いつももっと寄附をせよと申しました。少し尾籠なお話ですが、松江で借家を致しました時、掃除屋から、その代りに薪(米でなく)を持って来てくれた話を聞いてへルンは大層驚いて『私恥じます、これから一回一円ずつおやりなさい』と申して聞き入れなかった事がございました。 

 

へルンはよく人を疑えと申しましたが、自分は正直過ぎる程だまされやすい善人でございました。自分でもその事を存じていたものですからそんなに申したのです。一国者であった事は前にも申しましたが、外国の書肆などと交渉致します時、何分遠方の事ですから色々行きちがいになる事もございますし、その上こんな事につけては万事が凝り性ですから、挿画の事やら表題の事やらで向うでは一々へルンに案内なしにきめてしまうような事もありますので、こんな時にへルンはよく怒りました。向うからの手紙を読んでから怒って烈しい返事を書きます、直ぐに郵便に出せと申します。そんな時の様子が直に分りますから『はい』と申して置いてその手紙を出さないで置きます。二三日致しますと怒りが静まってその手紙は余り烈しかったと悔むようです。『ママさん、あの手紙出しましたか』と聞きますから、態(わざ)と『はい』と申し居ります。本当に悔んで居るようですから、ヒョイと出してやりますと、大層喜んで『だから、ママさんに限る』などと申して、やや穏かな文句に書き改めて出したりしたようでございます。
活溌な婦人よりも優しい淑(しとや)かな女が好きでした。眼なども西洋人のように上向きでなく、下向きに見て居るのを好みました。観音様とか、地蔵様とかあのような眼が好きでございました。私共が写真をとろうとする時も、少し下を向いて写せと申しましたが、自分のも、そのようになって居るのが多いのでございます。 

 

長男が生れる前に子供が愛らしいと云うので、子供を借りて宅に置いていた事もありました。
長男が生れようとする時には大層な心配と喜びでございました。私に難儀させて気の毒だと云う事と、無事で生れて下されと云う事を幾度も申しました。こんな時には勉強して居るのが一番よいと申しまして、離れ座敷で書いていました。始めてうぶ声を聞いた時には、何とも云えない一種妙な心持がしたそうです。その心もちは一生になかったと云っていました。赤坊と初対面の時には全く無言で、ウンともスンとも云わないのです。後に、この時には息がなかったと申しました。よくこの時の事を思い出して申しました。
それから非常に可愛がりました。その翌年独りで横浜に参りまして(独り旅は長崎に一週間程のつもりで出かけて、一晩でこりごりしたと云って帰った時と、これだけでした)色々のおもちやを沢山買って大喜びで帰りました。五円十円と云う高価の物を思い切って沢山買って参りましたので一同驚きました。
へルンは朝起きも早い方でした。年中、元日もかかさず、朝一時間だけは長男に教えました。大学に出て居ります頃は火曜日は八時に始まりますからこの日に限り午後に致しました。大学まで車で往復一時間ずつかかります。昼のうちは午後二時か三時頃から二時間程散歩をするか、あるいは読書や手紙を書く事や講義の準備などで費しまして、筆をとるのは大概夜でした。夜は大概十二時まで執筆していました。時として夜眠られない時起きて書いて居る事もございました。
壽々子の生れました時には、自分は年を取ったからこの子の行先を見てやる事がむずかしい。『なんぼ私の胸痛い』と申しまして、喜ぶよりも気の毒だと云って悲しむ方が多ございました。
私の外出の日はへルンの学校の授業時間の一番多い日(木曜日)にきめていました。前日にはよく外に出かけてよいおみやげを下さいと親切に注意致しました。『歌舞伎座に團十郎、大層面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のおみやげ』など申します。そしていつも『しかし、あなたの帰り十時十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。如何につまらんです。しかし仕方がない。面白い話で我慢しましょう』と申しました。
晩年には健康が衰えたと申していましたが、淋しそうに大層私を力に致しまして、私が外出する事がありますと、丸で赤坊の母を慕うように帰るのを大層待って居るのです。私の跫音を聞きますと、ママさんですかと常談など云って大喜びでございました。少しおくれますと車が覆ったのであるまいか、途中で何か災難でもなかったかと心配したと申して居りました。 

 

抱車夫を入れます時に『あの男おかみさん可愛がりますか』と尋ねます。『そうです』と申しますと『それなら、よい』と申すのです。
ある方をへルンは大層賞めていましたが、この方がいつも奥様にこわい顔を見せて居られる。これが一つ気にかかると申していました。
亡くなる少し前に、ある名高い方から会見を申しこまれていましたが、この方と同姓の方で、英国で大層ある婦人に対して薄情なような行があったとか申す噂の方がありましたのでヘルンはその方かと存じまして断ろうと致して居りました。しかし、それは人違いであった事が分りまして、愈々(いよいよ)遇う事になっていましたが、それは果さずに亡くなりました。凡て女とか子供とか云う弱い者に対してひどい事をする事を何よりも怒りました。一々申されませんが、ヘルンが大層親しくしていました方で後にそれ程でなくなったのは、こんな事が原因になって居るのが幾人もございます。日本人の奥様を捨てたとか、何とかそれに類した事をへルンは怒ったのでございます。
ヘルンは私共妻子のためにどんなに我慢もし心配もしてくれたか分りません。気の毒な程心配をしてくれました。帰化の事でも好まない奉職の事でも皆そうでございました。 

 

電車などは嫌いでした。電話を取つける折は度々ございましたが、何としても聞き入れませんでした。女中や下男は幾人でも増すから、電話だけは止めにしてくれと申しました。その頃大久保へは未だ電灯や瓦斯は参って居りませんでしたが、参っていても、とても取り入れる事は承知してくれなかったろうと存じます。電車には一度も乗った事はございません。私共にも乗るなと申していました。
汽車も嫌いで焼津に参りますにも汽車に乗らないで、歩いて足の疲れた時に車に乗るようにしたいと云う希望でしたが、七時間の辛抱と云うので汽車に致しました。汽車と云う物がなくて歩くようであったら、なんぼ愉快であろうと申していました。船はよほど好きでした。船で焼津へ行かれる物なら喜ぶと申していました。
へルンが日本に参ります途中どこかで大荒れで、甲板の物は皆洗いさらわれてしまう程のさわぎで、水夫なども酔ってしまったが酔わない者は自分一人で、平気で平常のように食事の催足をすると船の者が驚いていたと話した事がありました。
灯台の番人をしながら著述をしたいものだとよく申しました。 

 

ある時散歩から帰りまして、私に喜んで話した事がございます。『千駄谷の奥を散歩していますと、一人の書生さんが近よりまして、少し下手の英語で、「あなた、何処ですか」と聞きますから「大久保」と申しました。「あなた国何処です」「日本」たゞこれきりです。「あなた、どこの人ですか」「日本人」書生もう申しません、不思議そうな顔していました。私の後について参ります。私、言葉ないです。唯歩く歩くです。書生、私の門まで参りました。門札を見て「はあ小泉八雲、小泉八雲」と云いました』と云って面白がっていました。
『アメリカに居る時、ある日、知らぬ男参りまして、私のある書物を暫らく貸してくれと申しますので貸しました。私その人の名前をききません。またその男、私の名前をききません。一年余り過ぎて、ある日その人その書物を返しに参りました。大きい料理屋に案内しました。そして大層御馳走しました。しかし誰でしたか、私今に知らないです』と話した事がありました。
煙草に火をつける時マッチをすりましたら、どんな拍子でしたかマッチ箱にぼっと燃えついたそうです。床は綺麗なカーペットになっていたので、それを痛めるのは気の毒だと思いまして、下に落さぬようにして手でもみ消したそうでございました。そのために火傷いたしまして、長く包帯して不自由がっていた事がございました。 

 

ヘルンの好きな物をくりかえして、列べて申しますと、西、夕焼、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、食物や嗜好品ではビステキとプラムプーデン、と煙草。嫌いな物は、うそつき、弱いもの苛め、フロックコートやワイシャツ、ニユ・ヨーク、その外色々ありました。先ず書斎で浴衣を着て、静かに蝉の声を聞いて居る事などは、楽みの一つでございました。 

 

三十七年九月十九日の午後三時頃、私が書斎に参りますと、胸に手をあてて静かにあちこち歩いていますから『あなたお悪いのですか』と尋ねますと『私、新しい病気を得ました』と申しました。『新しい病、どんなですか』と尋ねますと『心の病です』と申しました。私は『余りに心痛めましたからでしょう。安らかにしていて下さい』と慰めまして、直に、兼てかかっていました木澤さんのところまで、二人曳の車で迎えにやりました。へルンは常々自分の苦しむところを、私や子供に見せたくないと思っていましたから、私に心配に及ばぬからあちらに行って居るようにと申しました。しかし私は心配ですから側にいますと、机のところに参りまして何か書き始めます。私は静かに気を落ちつけて居るように勧めました。ヘルンはただ『私の思うようにさせて下さい』と申しまして、直に書き終りました。『これは梅さんにあてた手紙です。何か困難な事件の起った時に、よき智慧をあなたに貸しましょう。この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭位のです。私の骨入れるのために。そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。如何に私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです』
私は『そのような哀れな話して下さるな、そのような事決してないです』と申しますと、へルンは『これは常談でないです。心からの話。真面目の事です』と力をこめて、申しまして、それから『仕方がない』と安心したように申しまして、静かにしていました。
ところが数分たちまして痛みが消えました。『私行水をして見たい』と申しました。冷水でとの事で湯殿に参りまして水行水を致しました。
痛みはすっかりよくなりまして『奇妙です、私今十分よきです』と申しまして『ママさん、病、私から行きました。ウイスキー少し如何ですか』と申しますから、私は心臓病にウイスキー、よくなかろうと心配致しましたが、大丈夫と申しますから『少し心配です。しかし大層欲しいならば水を割って上げましょう』と申しまして、与えました。コップに口をつけまして『私もう死にません』と云って、大層私を安心させました。この時、このような痛みが数日前に始めてあった事を話しました。それから『少し休みましょう』と申しまして、書物を携えて寝床の上に横になりました。
そのうちに医師が参られました。ヘルンは『私、どうしよう』などと申しまして、書物を置いて客間に参りまして、医師に遇いますと『御免なさい、病、行ってしまいました』と云って笑っていました。医師は診察して別に悪いところは見えません、と申されまして、いつものように常談など云って、色々話をしていました。
ヘルンはもともと丈夫の質でありまして、医師に診察して頂く事や薬を服用する事は、子供のように厭がりました。私が注意しないと自分では医師にかかりません。ちょっと気分が悪い時に私が御医者様にと云う事を少し云いおくれますと、『あなたが御医者様忘れましたと、大層喜んでいたのに』などと申すのでございました。
ヘルンは書いて居る時でなければ、室内を歩きながら、あるいは廊下をあちこち歩きながら、考え事をして居るのです。病気の時でも、寝床の中に永く横になって居る事はできない人でした。
亡くなります二三日前の事でありました。書斎の庭にある桜の一枝がかえり咲きを致しました。女中のおさき(焼津の乙吉の娘)が見つけて私に申し出ました。私のうちでは、ちょっと何でもないような事でも、よく皆が興に入りました。『今日籔に小さい筍が一つ頭をもたげました。あれ御覧なさい、黄な蝶が飛んでいます。一雄が蟻の山を見つけました。蛙が戸に上って来ました。夕焼けがしています。段々色が美しく変って行きます』こんな些細な事柄を私のうちでは大事件のように取騒ぎまして一々ヘルンに申します。それを大層喜びまして聞いてくれるのです。可笑しいようですが、大切な楽みでありました。蛙だの、蝶だの、蟻、蜘蛛、蝉、筍、夕焼けなどはパパの一番のお友達でした。
日本では、返り咲きは不吉の知らせ、と申しますから、ちょっと気にかかりました。けれどもへルンに申しますと、いつものように『有難う』と喜びまして、縁の端近くに出かけまして『ハロー』と申しまして、花を眺めました。『春のように暖いから、桜思いました、あゝ、今私の世界となりました、で咲きました、しかし……』と云って少し考えていましたが『可哀相です、今に寒くなります、驚いて凋みましょう』と申しました。花は二十七日一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散ってしまいました。この桜は年々ヘルンに可愛がられて、賞められていましたから、それを思って御暇乞を申しに咲いたのだと思われます。
へルンは早起きの方でした。しかし、私や子供の『夢を破る、いけません』と云うので私が書斎に参りますまで火鉢の前にキチンと坐りまして、静かに煙草をふかしながら待って居るのが例でした。
あの長い煙管が好きでありまして、百本程もあります。一番古いのが日本に参りました年ので、それから積り積ったのです。一々彫刻があります。浦島、秋の夜のきぬた、茄子、鬼の念仏、枯枝に烏、払子、茶道具、去年今夜の詩、などのは中でも好きであったようです。これでふかすのが面白かったようです。外出の時は、かますの煙草入に鉈豆のキセルを用いましたが、うちでは箱のようなものに、この長い煙管をつかねて入れ、多くの中から、手にふれた一本を抜き出しまして、必ず始めにちょっと吸口と雁首とを見て、火をつけます。座布団の上に行儀よく坐って、楽しそうに体を前後にゆるくゆりながら、ふかして居るのでございます。
亡くなった二十六日の朝、六時半頃に書斎に参りますと、もうさめていまして、煙草をふかしています。『お早うございます』と挨拶を致しましたが、何か考えて居るようです。それから『昨夜大層珍らしい夢を見ました』と話しました。私共は、いつも御互に夢話を致しました。『どんな夢でしたか』と尋ねますと『大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中』などと申して居るのです。『西洋でもない、日本でもない、珍らしいところでした』と云って、独りで面白がっていました。
三人の子供達は、床につきます前に、必ず『パパ、グッドナイト、プレザント、ドリーム』と申します。パパは『ザ、セーム、トウ、ユー』又は日本語で『よき夢見ましょう』と申すのが例でした。
この朝です、一雄が学校へ参ります前に、側に参りまして『グッド、モーニング』と申しますと、パパは『プレザント、ドリーム』と答えましたので、一雄もつい『ザ、セーム、トウ、ユー』と申したそうです。
この日の午前十一時でした。廊下をあちこち散歩して居まして、書院の床に掛けてある絵をのぞいて見ました。これは『朝日』と申します題で、海岸の景色で、沢山の鳥が起きて飛んで行くところが描いてありまして夢のような絵でした。ヘルンは『美しい景色、私このようなところに生きる、好みます』と心を留めていました。
掛物をよく買いましたが、自分からこれを掛けてくれあれを掛けよ、とは申しませんでした。ただ私が、折々掛けかえて置きますのを見て、楽しんでいました。御客様のようになって、見たりなどして喜びました。地味な趣味の人であったと思います。御茶も好きで喜んで頂きました。私が致していますと、よく御客様になりました。一々細かな儀式は致しませんでしたが、大体の心はよく存じて無理は致しませんでした。
ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は『あの音を何と聞きますか』と、ヘルンに尋ねますと『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。気の毒ですね、可哀相な虫』と淋しそうに申しまして『この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう』と私共は約束致しました。
桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かへルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。
午後には満洲軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへ手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、常談など云いながら大笑など致していました。『パパ、グッドパパ』『スウイト・チキン』と申し合って、子供等と別れて、いつのように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で『ママさん、先日の病気また帰りました』と申しました。私は一緒に参りました。暫らくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んで居りました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、愈々(いよいよ)駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今に思われます。 

 

落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をした事があります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。
平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそへルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。
瘤寺は前に申したようなわけで、ヘルンの気に入らなくなったのですが、以前からの関係もあり、又その後浅草の伝法院の住職になった人と交際があった縁故から、その人を導師として瘤寺で式を営む事になりました。ヘルンは禅宗が気に入ったようでした。小泉家はもともと浄土宗ですから伝通院がよかったかも知れませんが、何分その当時は大分荒れていましたので、そこへ参る気にはなりませんでした。お寺へ葬りましても墓地は直に移転になりますので、どうしても不安心でなりませんから割合に安心な共同墓地へ葬る事に致しました。青山の墓地は余りにぎやかなので、ヘルンは好みませんでした。
雑司ケ谷の共同墓地は場所も淋しく、形勝の地でもあると云うので、それにする事に致しました。一体雑司ケ谷はへルンが好んで参りましたところでした。私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ケ谷へつれて参った事もございました。面影橋と云う橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。鬼子母神の辺を散歩して、鳥の声がよいがどう思うかなどと度々申しました。関口から雑司ケ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。
表門を作り直すために、亡くなる二週間程前に二人で方々の門を参考に見ながら雑司ケ谷辺を散歩を致したのが二人で外出した最後でございました。その門は亡くなる二日前程から取りかかりまして亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました。 
 
死生に関するいくつかの断想 / BITS OF LIFE AND DEATH

 

七月二五日。 今週は思いがけない訪問が三つ、わが家にあった。
最初のものは、井戸掃除職人たちだった。毎年すべての井戸は空にされ、掃除され、井戸の神様である水神様が荒れ狂わないようにしなければならない。この時に、私は、日本の井戸と、ミズハノメノミコト(水波能売命)とも呼ばれる二つの名を持つ井戸の守り神にまつわるいくつかの事柄を知ったのだった。
水神様は、屋敷の持ち主が浄めについてのきまりをしっかり守っていれば、井戸の水を甘露にして、かつ冷たく保って、あらゆる井戸を守ってくれる。これらの掟を破った者には病や死が訪れるという。稀には、この神は蛇の姿となって現れることがある。私はこの神を祀る神社を一度も見たことがない。しかし、毎月一度は、近所の神主が井戸のある敬虔な家庭を訪れて、井戸の神様に古式の祈りを捧げ、幟や紙の御幣ごへいを井戸の端に立てるのである。井戸が清掃された後にも、また、これがなされる。新しい水の最初の一汲みは男たちがしなければならない。というのは、女が最初に汲めば、その井戸はそれ以後ずっと濁ったままであるからだという。
水神様の仕事を手助けする使者おつかいはほとんどいない。ただ、フナ (1)という小さな魚がいる。一匹か二匹のフナがどの井戸にもいて、幼虫から水を綺麗にする。井戸浚いのとき、この魚は大事にされる。私の井戸にも一組のフナがいることを知ったのも、井戸浚い職人たちが来たこのときであった。井戸水が溜められている間には、フナは冷たい水を張った桶に入れられていた。その後、再びそれらの寂しい場所へ投げ込まれたのである。
私のところの井戸の水は透明で氷のように冷たい。しかし、私は水を飲むたびに、暗い井戸の中をつねに動き回っており、また桶がピチャピチャと音を立てて降りてくるために、何年にも渡って嚇されてきた二匹の小さな白い生き物のことを思わずにはいられない。
第二の興味深い来訪は、手動の竜吐水ポンプを携えて、装束に身を包んだ地元の火消たちであった。昔からの慣例に従って、乾燥した時期に担当の全地域を廻っている。そして、熱くなった屋根に水を掛けて、裕福な家々から、何がしかのわずかな心付けを受け取るのである。長いこと雨が降らなければ、屋根は太陽の熱で火が付くだろうと考えられていた。火消たちはホースを操って、屋根や樹木それに庭に水を掛け、かなり涼しい雰囲気を作り出したのであった。その返礼に、私は酒を買えるだけの祝儀を彼らにあげた。
三番目の訪問は、子どもたちの代表者のそれであった。それは、私の家のちょうど真正面、道路を挟んだ反対側にお堂のある、お地蔵さんのお祭である地蔵盆をふさわしく祝うために、幾らかの寄進を請うものであった。私は喜んで寄付をした。というのも、この優しい仏様が好きだったし、地蔵祭りが楽しいものであることを知っていたからだ。つぎの朝早く、お堂はすでに生け花と奉納された提灯で飾り付けられていた。お地蔵さんの首には新しいよだれ掛けが掛けられており、その前には仏式のお供え物が整えられていた。この後、大工たちがお寺の境内に踊り舞台を作っていた。日没前には、玩具売たちが境内に屋台を立て、小さな夜店ができていた。暗くなってから、子どもたちの踊りを見ようと、私はたくさんの提灯の明かりの中へ出かけた。家の門の前に、一メートルはあろうかと思われる巨大なトンボが止まり木に止まらせてあったのに気がついた。それは、私が寄付したものに対する子どもたちの感謝の印で――お飾りのひとつ――であった。その瞬間、おや、そうなのだと私は驚いたのだ。よく見てみると、トンボの胴体は色紙でくるまれた杉の枝であり、四つの羽は四つの十能であったし、綺羅めいているトンボの頭は小さな茶器であった。全体は、それも意匠の一部をなしていると思われるが、異様な影を作り出すように置かれた蝋燭で照らされていた。工芸用の材料を少しも使わずに作られているが、美術的感覚のある、すばらしい工作であった。それにもまして、それがわずか八歳に過ぎないかわいらしい小さな子どもの作品だったのである!
七月三〇日。 南側の隣の家は――低くくて、黒ずんだ構えをした家であるが――染物屋である。ご存知のように、日本の染物屋は天日で乾かすために、家の前で竹の柱と柱との間に、濃紺、紫、バラ色、薄青、パールグレイなど、さまざまな色の絹や綿の長い布を広げている。昨日、この隣人が私に自分の家に来ないかと誘ってくれた。その小さな住まいの正面を通って案内されたが、奥の縁側から、京都の古いお屋敷にも匹敵するような庭を見て驚いた。築山山水つきやまさんすいの優雅な庭園が広がり、清水の池には、すばらしい尾びれのある金魚が泳いでいる。
しばらくこの景観を堪能していたが、染物屋はお寺のようにしつらえた小さな部屋に案内した。あらゆる調度品は小さく造作されており、どのお寺でもこのような工芸的な造りとなっているものを見たことがなかった。彼は一五〇〇円ばかり掛かりましたよと言ったが、私には果たしてこの額で足りたものかどうか分からなかった。そこには、丹念に彫られた三つの仏壇があった――金泊でできた三重の黄金の輝きである。また、可愛らしい仏像が数体と多数の精巧な仏器が置かれており、黒檀の経机、木魚 (2)、二つの立派な鈴りんがあった――つまり、お寺さんの仏具一式を小さくしたものがみんなここに揃っているというわけである。ここの主人は、若い頃、仏門に入り、お寺で修行していたので、浄土宗で用いられるすべてのお経を持っていた。そして、普通のお勤めならできると言っていた。毎日、決まった時間になると、家族全員が仏間に集まって、家族のみんなのために、たいていは彼がお経を読んでいる。ただ、特別な場合には近くのお寺のお坊さんが来て、お勤めをするのだという。
彼はまた泥棒についての不思議な話をした。染物屋はとくに泥棒に入られやすいのだという。理由の一端は、彼らが預かっている絹織物の価値の故であるし、また、仕事柄、儲かるものであると知られているからである。ある夕、泥棒が入った。主人は町におらず。彼の老母、妻それに女中が、その時家の中にいた。三人の賊は戸口から侵入したが、覆面をして長い刀を帯びていた。そのうちの一人が、建物の中に見習い職人たちがいないかと女中に尋ねた。女中は、闖入者たちが驚いて逃げるのではないかと思って、若い男らがまだ働いていますと答えた。しかし、泥棒はこの言い種ぐさには乗らなかった。うち一人が玄関を見張り、他の二人は寝室に入り込んだ。女たちは恐怖し、妻が「わたしらば殺したかとですか?」と聞いた。頭領と思しき男が答えた。「殺したかなか! 金が欲しかだけたい。それが手に入らんと、こうなるまでたい」――と、刀を畳に突き立てた。老母が言った。「そぎゃんに義理の娘ば驚かせんでよかでっしょ。こん家の有り金全部ば差し上げますたい。ばってん、せがれは、京都に行っとるですけん、ここにはそんなにはなかとです。そればご承知おきくだはりまっせ。」彼女は金庫と自分の財布とを差し出した。頭領がこれを数えたが、二七円八四銭しかなかった。が、おだやかに言った。「驚かすつもりはなか。お前たちがとても信心深か信徒だというこつは知っとる。お前たちゃあ、嘘ばついちゃおらんだろうね。で、これで全部かね?」「はい、そぎゃんです」と老母が答える。「おっしゃるごと、私らは仏様を信じております。あなたたちが今私から盗ろうとなさっとは、私自身がかつて前世であなた方から盗ったことがあるけんでしょう。これはそん時の罪に対する罰ですたいね。そんならば、あなた方を騙す代わりに、私が前世であなたたちにした罪をこの際喜んで償うことしまっしょ。」泥棒は、笑いながら言った。「婆さん、あんたはよか人たいね。あんたば信じるよ。おれたちゃあ、貧しい奴からは盗らん。そこでたい、何さおかの着物とこれだけはもらうよ。」と、上質の絹の羽織に手を置いた。老母が答える。「倅せがれの着物なら全部さし上げますばってん、それだけは盗らんで下さりまっせ。それはせがれの物じゃなかとです。染めに預かった、他所よそ様の品ですけん、他人ひと様の着物ば差し上げるわけにはいかんとです。」泥棒も納得したと見えて「そりぁそうたいな。そんなら、これは持っていかんたい。」と言った。
二・三の着物を受け取って、泥棒はおだやかに暇乞いをし、女たちに後を付けるなと命じた。女中はなお入り口近くにいたが、泥棒の頭領が傍を通るときに言った。
「お様はよくも俺たちに嘘ばついたな。――それだけん、こればやろう!」と、女中に一撃を加えて気絶させた。泥棒の誰もまだ捕まっていない。
八月二九日。 ある仏教宗派の葬儀の儀式に従って、遺体が火葬されるとき、骨の中から、ほとけさん、もしくは「仏さま」と呼ばれる小さな骨が探される。これは、一般には喉の小さな骨であると考えられている。どの骨がそれなのか、私は分からないし、また、そのような遺骨を調べるという機会を持ったこともない。
焼かれた後に発見される、この小さな骨の形によって、死者の将来の状態が預言されうるのである。魂が運命づけられている次の状態が幸福なものなら、この骨は仏陀の小さなイメージの形をしているという。次の人生が不幸ならば、その骨は奇妙な形をしているか、あるいはまったく形をなしていないだろう、という。
近所のたばこ屋のせがれの、幼い少年が一昨日の晩に死んだ。今日、火葬に付された。火から残された小さな骨には、三体の仏様の形があった――三体――それはおそらく、悲しみにくれている両親への、精神的な慰めとなるものであったろう (3)。
九月一三日。 出雲の松江からの手紙によると、私にキセルを作ってくれた老人が死んだということだった。(キセルは、日本のパイプのことで、周知のように、――エンドウ豆が入るくらいの大きさの金属の火受け皿、口金それに、定期的に交換される竹の筒という、三つの部分から成っている。)彼は自分のキセルをいい色合いにしていた。ヤマアラシの針の模様のように見えたし、あるときは蛇皮の筒のようであった。彼は松江の町の外れの狭い小路に住んでいた。その通りを知っているのは、かつて私が見たことのある白子地蔵――白い子どもの地蔵――と呼ばれる有名な地蔵尊の像がそこにあったからである。この呼び名は、踊り子の顔のように顔が白く塗られているからなのか理由は分からなかった。
この男にはお増ますという娘がいた。お増は今も健在である。彼女は長年幸福な妻であった。しかし、彼女は口がきけなかった。その昔、怒った群衆が略奪して、町の米問屋の住家すまいや米蔵を打ち壊した。小判を含むその金銭は通りにばら撒かれた。暴徒たちは、――粗野だが正直な農民たちで――それを欲しなかった。彼らが望んだのは打ち壊しであって、盗むことではなかった。しかし、お増の父は、その夜、土の中から小判を拾い上げて、家に持ち帰った。その後、近所の者が彼を非難し、告発した。このため、父親は出頭を命ぜられたが、裁判官は、当時一五歳の、恥ずかしがりの少女であったお増を反対尋問して、確実な証拠を得ようとした。お増は、自分が答え続けると、意に反して父親に不利な証言をさせられることになると思った。また、お増は、自分の前にいる検察官が有能なので、自分が知っている全部の事柄をなんなく喋らせられることになるのではないかと感じた。彼女は話すのを止めたが、すると口から血が溢れ出した。自分の舌を噛み切って、永遠に話すことができないようにしたのであった。彼女の父は無罪放免となった。この行ないを讃えたある商人が結婚を申し入れ、お増の老いた父親の面倒を見たのであった。
一〇月一〇日。 子どもの人生において一日――ただの一日だけ――自分の前世について思い出すことができ、また喋ることができるという。
ある子どもがちょうど二歳となった日に、その子は家の中で最も静かな処に母親によって連れて行かれ、そして穀類を振るい分ける箕みの網の中に置かれた。その子は箕の中に座っている。そして母親が子を名前で呼んで「お前の前世はなんだったろうかね?――言ってごらん」と尋ねた (4)。 すると、子どもはたいがい一言で答える。不思議な理由によってそれ以上の長い答えはなされない。しばしばその答えは謎に包まれているので、お坊さんや占い師にどういうことか尋ねなければならなかった。たとえば、昨日、家の近所の銅細工師の幼子は、謎かけの問いに「うめ」とだけ答えた。ウメと言えば、今日では梅の花、梅の実、あるいは梅の花を意味する、少女の名前を意味するのである。この少年が少女であったことを意味するのだろうか? あるいは、彼自身が梅の木だったことを意味するのだろうか? 近所の者は「人の魂が梅の木に入ることはあるまいよ」と言った。占い師は、今朝この謎について問われて、男の子はおそらく、学者か詩人か、政治家ではなかったろうかと、のたもうた。梅の木は、学者、政治家それに文学者の守り神である天神様の象徴だからというのである。
一一月一七日。 日本人の生活のうち、外国人が理解できない事柄について書いたら、驚くような本が出来あがろう。その中には、怒りがもたらす、稀とはいえないまでも、恐るべき結末についての研究を含むことになろう。
国民的な傾向として、日本人はめったに怒りを外に現わさない。一般庶民においてさえも、重大な威嚇の場合でも、あなたの御恩は決して忘れませんよ、そして、こちらも受け取っていただいたことに感謝します、というような微笑みの請け合いの形を取ることが多い。(これは私たちの語感では皮肉の意味に聞こえるかもしれない。しかし、それは婉曲的なものに過ぎず――忌むべき事柄をその本当の名で呼ばないことである)しかし、この微笑みによる言質げんちはおそらく死を意味することになるのである。
復讐は思いがけずやって来る。この国では、全部の荷物を小さな手ぬぐいにまとめ、ほとんど無限の忍耐をもつ仇討ち人は、日に八〇キロも歩くことが出来るので、距離も時間も妨げとはならない。彼は包丁を選ぶが、たいていは刀――つまり日本刀を用いるであろう。これは、日本人が手にする武器の中では最も致命傷をもたらしうるものである。一〇ないし一二人を殺すのに一分と掛からないだろう。殺人者も逃げようと考えることもない。古い慣習によると、他人の命を奪った者は自分の命も断つことが求められる。それゆえ、警官の手に落ちるようなことは、自分の名を汚すことになる。彼はあらかじめ準備を調える。遺書を認め、葬儀も取り決め、おそらく昨年の驚くべき例のように、自分自身の墓碑銘を彫らせることさえした。復讐を首尾よく果たすと、自害したのである。
理解しがたい悲劇の一つが、熊本の街からさほど遠くない杉上すぎかみ村というところでちょうど起きた。主要な人物は、若旦那の成松一郎、その妻お乃登のと、両名は婚姻してわずか一年余り。それに、お乃登の母方の叔父の杉本嘉作かさく、気性の荒い男で、かつて入牢したことのある前科者。この悲劇は、つぎの四幕からなる。 
第一幕。場面――公衆の湯屋ゆやの中。杉本嘉作は入浴中、そこへ成松一郎が入ってくる。服を脱ぎ湯気の中に入るも、親類の者がいるとは気がつかない。そして、叫ぶ。
「おゝ、こりゃ、むごう熱か! あゝ、地獄におるとはこのこつたい。」
("地獄"とは仏教にいう地獄をいうが、一般には牢屋・監獄のことも意味する――この時は不幸にもたまたま一致した)
嘉作 (激怒して) おい、若造、喧嘩を売る気か? 何が気に入らんとか?
一郎 (驚いて、また恐怖して、しかし嘉作の調子に対抗するように) 何ぃ! 何だと? 知ったことじゃなか。湯が熱いと言ったんだ! もっと熱くしてくれと頼んだ覚えはなか。
嘉作 (険悪である) 俺の不始末で一度ならず二度までも牢屋におったが、そこの何が面白れぇんだ? 大馬鹿な餓鬼かちんぴらじゃねぇのか?
(互いに相手をにらむ。しかし、両者ともためらっている。他の者たちは自分に類が及ばないように、沈黙したままでいる。老いたのと若いのとが、互角ににらみ合いの格好になった。)
嘉作 (一郎が怒り出すにつれて、次第に落ち着いてきた) 餓鬼のくせ俺と喧嘩する気か? 餓鬼たれが女房と何をした? お前の女房は、俺の血縁たい。俺は、――地獄から来た男の血だ。女房を俺の所へ返せ。」
一郎 (絶望的に、しかし、嘉作の方が強いと分かった) 女房を返せだと? あの女を戻せと言ったかね。おお、すぐ返してやるたい。
ここまでで十分、事の起こりは明らかになっている。一郎は、急いで家に戻り、妻の機嫌をとり、自分が愛していると約束し、嘉作の家にではなく、妻の兄弟の家に送り届けた。二日後、少し暗くなってから、お乃登の元へ夫が尋ねてきた。そして二人の姿は夜の闇の中に消えた。  
第二幕。夜の場面。 嘉作の家は戸締まりされ、灯りが戸の隙間から漏れている。婦人の影が近づいてくる。戸を叩く音。戸が開けられる。
嘉作の妻 (お乃登と分かって) おや、まあ、今晩は! お入いんなさいよ。お茶でもどうぞ。
お乃登 (とても優しく話す) 有り難うございます。ところで、嘉作おじさんはいずこでございましょう?
嘉作の妻  隣村へ出かけましたばつてん、すぐに戻りましょう。まあ、入って、お待ちにならんですか。
お乃登 (やさしく) お構い下さりますな。なら、しばらくしてから、また参りまっしょう。まず兄に知らせて来なくちゃなりまっせん。
(おじぎをし、闇の中に滑り込む、再び影となり、もう一つの影と一緒になる。二つの影はじっとしたままである)  
第三幕。 場面―― 松の木のある、夜の川の土堤。遠くに嘉作の家の影。お乃登と一郎は木陰に、一郎は提灯を持っている。両人は頭には白い手拭いをきつく結んで、鉢巻き姿である。着物も端折って身軽くし、両手を自由にするために、袖もまた襷がけに結んでいる。二人はそれぞれに長い刀を手にしている。
頃ころは、日本人が言うように川の音が最も高くなる時刻である。時たま、松葉を渡る風のざわめく音くらいしか聞こえない。もう秋も終わりの頃であり、蛙も鳴いてはいない。二つの影は、押し黙ったままである。川の音は次第に高くなった。
突然、ザブザブという水音が遠くにした――誰かが浅瀬を横切っているのだ。そして下駄の音が――不規則な千鳥足で――酔っぱらいの足取りがだんだん近づいてくる。酔っぱらいは声を上げた。嘉作の声だ。彼は唄っている。
「好いたお方にすいられてや、とん、とん」(5) ――愛と酒の唄である。
二つの影は、すぐに、唄の方に走って近づいた――音がしないように。彼らは草鞋を履いている。嘉作はまだ唄っている。ふいに、足の下の石が動いたので、くるぶしをひねり、怒りのうなり声を発した。それとほぼ同時に提灯が彼の顔に近づけられた。おそらく三〇秒もそのままであったろう。誰も一言も発しない。黄色い灯りは三つの奇妙な、何とも言えない、顔と言うよりも顔面を照らし出していた。嘉作は酔っていたが――相手の顔に見覚えがあり、先日の風呂屋での一件を思い出しが、手にしている刀に気がついた。彼は恐れなかったが、どっとあざけり笑った。
「ヘッ ヘッ 一郎夫婦じゃなかか! また俺を赤児とでも思っとるのか。手に持っている奴でどうしようというとか? どんな風に使うか俺が見せちゃろう。」
一郎は、提灯を捨てて、突然に両手で刀を掴んで力一杯、嘉作の右腕から肩にかけて、一太刀を浴びせた。嘉作がよろめいたところを、女の刀が彼の左肩を切り裂いた。彼は、「人殺し!」――とは"殺人"を意味する――と恐怖の叫びを上げて、倒れ込んだ。二度と声を上げなかった。一〇分あまりも、彼に刀が突き立てられた。提灯にはまだ灯りがあり、身の毛のよだつものを照らし出している。二人の通行人が近づいて来て、見ていたが、下駄をおっぽりだしたまま、一言も発せず闇の中へ逃げ去っていった。一郎とお乃登の両名は、なかなかの大仕事だったので、息をつこうと、提灯の傍に座った。
嘉作の一四歳の息子が、父を捜すために走ってきた。彼は唄と叫び声を聞いた。けれども、怖いと感じたことはなかった。二人は彼が近づいてくるのと出会った。少年がお乃登に近づいたときに、お乃登は彼を捕まえ、突き飛ばして、細い腕をひねり上げて膝の下に組み敷き、刀を掴んだ。しかし、一郎は、まだ喘いでいたが、叫んで「違う! 違うぞ! そん子は違うたい! 何も悪いことはしとらん!」お乃登は、彼を放した。少年はまだ放心状態だったので、動くに動けなかった。お乃登は彼の顔をぴしゃりと叩くと、「行け!」と言った。彼は走り去ったが――甲高い声を出す気力もなかった。
一郎とお乃登は、切られた死骸を残して、嘉作の家へと歩いて向かい、大声でよばわった。返事はなかった。ただ、可哀想に、怯えてうずくまって死を待っている女と子どもたちがいた。しかし、彼らは怖がらなくてもいいと言われている。そのとき、一郎が叫んで
「弔いの支度をされよ! 嘉作おじは我が手によって死んだぞ!」
「同じく、私も討ち果たしたり!」お乃登も甲高く叫んだ。それから、足音が遠のいた。  
第四幕。 場面―― 一郎の家の中。客間に三人が正座している。一郎、その妻、そして、泣いている老婦人。
一郎  さて、母上、他に男子もいないゆえ、この世にあなた一人ば残して先立つのは忍びなかこつです。お許し下され。叔父が面倒を見てくれまっしょう。私ども二人はもはや死ぬつもりですけん、叔父さんの家へ行ってくださりまっせ。私たちは、見苦しい死に方はしまっせん。見上げた、立派な死ですけん。看取る必要はなかです。さあ、行かれまっせ。
老いた母親は嗚咽しながら退出した。そして、部屋の戸は固く閉ざされた。すべては整った。お乃登は、刀の先を喉にあてがった。彼女はなお苦しんでいる。一郎が、最後の優しい言葉をかけ、首を切って彼女の苦痛を終わらせる。
それから?
彼は、手箱を取り出し、硯を用意し、墨を摺り、良い筆を執って、注意深く選んだ紙に、五つの辞世の歌を綴った。つぎが最後のものである。
「冥土より郵ゆう電報があるのなら 早く安着あんちゃく申し送らん」 (6)
そして、喉をりっぱにかき切った。
さて、警察の取り調べから、一郎とその妻がみんなから好意を持たれていたこと、そして、二人とも幼いときから気だての良さは評判であったことが分かった。
日本人の起源は科学的にはまだ解明されていない。一部マレー起源説を採用する者たちは、その見解に沿う心理学的な形跡があるとしているようだ。愛らしさというのは、西洋人がほとんど忘れ去ったものであるが、最もしとやかな日本の婦人の従順な愛らしさの下には、断固たる強情さが潜んでいる。ただ、この面は、実際に目撃しないことには全く理解できないものである。日本の女性は、幾度となく赦ゆるすことができ、またいじらしくも何度も自分を犠牲にすることができる。ところが、ある心の琴線に触れると、怒りの激情の炎に駆られるよりは、かえって赦してしまう。そうすると、突如として、か弱そうな女性の中に、信じられないほどの胆力が据わってくるのである。それは、本心からの復讐というべきもので、ぞっとするほどの、また冷静で飽くなき決意である。また、男性の驚くべき自己抑制や忍耐の下には、触れるととても危険で、堅固なものが存在している。それに不用意に触れようものなら、許されはしない。憤りはたんなる危険によってはめったに引き起こされないが、動機は厳しく吟味される。つまり、過ちは許されるが、意図的な悪意は決して赦されない。
富裕な家庭の家では、来客に家宝のいくつかを見せたりするようだ。なかでも日本の茶の湯の作法にまつわる品々がそうである。おそらく、とてもきれいな小さな箱があなたの前に置かれる。それを開けると、中には、小さな飾り房の付ついた絹の通し紐で包まれている綺麗な絹の袋がある。絹はとても柔らかく、また選りすぐられたもので、丹念に織られている。そんな包みの下にどんな宝石が隠れているのか? 袋を開けると、その中にもう一つの袋がある。それは違った品質の絹でできたものであるが、これもとても素晴らしいものである。それを開けると、おやまあ! 三つめの袋があり、それは中に四つ目の袋を包んでおり、それはまた五つ目の袋を、それはさらに六つ目のを、そして、これはつぎの七つ目の袋を中に包み込んでいるといった具合である。こうして、読者はこれまでに見たことがないであろうが、七つ目の袋の中には、陶土でできた、じつに不思議な、また粗雑だが、とても固い器が入っているのである。この器は珍しく、また貴重なものである。それはおそらく千年以上も古いものであろう。
これと同じように、何世紀にも渡る最も高度な社会文化によって、日本人の特徴は、礼節、繊細さ、忍耐強さ、柔和さ、それに道徳感情といった、多くの貴重で柔らかい被おおいで包み込まれている。しかし、これらのチャーミングで幾重いくえもの包みの下には、鋼鉄のように固い原始的な粘土が今もって残っているのである。それは、おそらくはモンゴル人の気質と――マレー人の危険な従順さとを捏こね合わせたものであろう。  
一二月二八日。 庭の周囲の高い垣根の向こうには、とても小さな家々のわらぶき屋根があって、もっとも貧しい階層の人たちが暮らしている。これらの小さな住まいの一つから、うなり声が絶えず発せられている――人が苦痛で発するときの深いうめき声である。私は、昼も夜も、もう一週間以上もそれを聞いている。しかし、音はあたかも断末魔のあえぎのように長くなり、また大きくなってきた。「誰かそこで重い病気なのでしょう」と、私の古い通訳者の万右衛門が、ひどく同情して言う。
音はしだいに耳障りで、神経に障るようになってきた。そのせいで、私はかなりぶっきらぼうに言った。「誰か死にかけているなら、いっそそうなった方がましだと思うがね」
万右衛門は、私の意地悪な言葉を払いのけるかのように、両手で突然、慌ただしく三度も身振りをした。このかわいそうな仏教徒は、ぶつぶつ唱え、とがめるような表情をして、立ちさった。そして、いささか良心が咎めたので、使いの者を遣り、病人に医者が必要か、また何か助けが要るか聞きにやらせた。戻った使いの者の話では、医者が病人を診ているし、他は格別必要ないということだった。
けれども、万右衛門の古くさい身振りにもかかわらず、その忍耐強い神経も、この音に煩わせられるようになってきた。彼は、これらの音から少しでも逃れたいとして、通りに近い、正面にある小さい部屋に移りたいと白状した。私も気になって書きものも、読書もできない。私の書斎は、一番奥にあり、病人があたかも同じ部屋にいるかのように、うめき声が間近に聞こえるのである。病気の程度が分かるような、一定の身の毛のよだつ音色を発している。私はつぎのように自問し続けている。私が苦しめられているこれらの音を立てている人間がこれから長く持ちこたえることがどうしてできるのだろうかと。
つぎの朝遅く、病人の部屋で小さな木魚を叩く音と何人かの声で「南無妙法蓮華経」と唱える声で、うめき声がかき消されていたのは救いというか、いくらかほっとした。明らかにその家の中には僧侶や親せきの者たちが集まっている。万右衛門が「死にそうですね」と言う。そして、仏様に捧げる祈りの文句を繰り返した。
木魚の音や読経は数時間続いた。それらが終わったとき、うめき声がまた聞こえた。一呼吸、一呼吸がうめき声だった! 夕方になると。それらはさらにひどくなった――身の毛のよだつほどである。そして、それが突然止んだ。死の沈黙が数秒続いた。そして、ウワーッと泣き出す声――それは女性の泣き声で――そして名を叫ぶ声が聞こえた。「あゝ、亡くなりましたね!」と万右衛門が言った。
私たちは相談した。万右衛門はこの家の者たちがとても貧しいことを知っていた。私は、良心が咎めたので、遺族にわずかな額だが、香典を出そうと言った。万右衛門は、私が全くの好意からそうしようとしているのだと思って、それがいいでしょうと答えた。私は使いの者に、悔やみの言葉と死んだ男のことが分かるなら聞いてくるようにと言った。そこには一種の悲劇があるのではないかと感じていたのだ。そして、日本人の悲劇は一般に興味深いものである。
一二月二九日。 予想したように、死んだ男の話はなかなか聴きでがあった。この家族は四人である――父と母は高齢で弱っているが、それに二人の息子がいる。死んだのは三四歳の長男で、七年も患っていた。歳下の方は人力車夫で、一人で一家の面倒を見ていた。彼は自分の人力車を持っていなかったので、一日五銭で借りていた。強健で足も速くなければ、稼ぐことはできなかっただろう。この頃は、競争相手がたくさんいるので、儲けを維持していくのは大変だ。それに両親と弱った兄を養うことは大きな重荷であった。不屈の自制心がなければ、それをやれなかったであろう。彼は決して一杯の酒すらも飲まなかったし、独身のままであった。彼は子として、とくに兄弟としての義務のためにだけ生きた。
つぎは兄の話である。兄は二〇歳の頃、魚の行商をしていたが、ある旅館の綺麗な女中を好きになった。娘も彼の愛情に答えた。二人はお互いに将来を誓い合った。しかし、結婚するにはいくつかの障害があった。この娘は綺麗だったので、世間的な慣習で、彼女の手助けを必要とする資産家の男の注目を惹いた。娘はこの男を好きではなかったが、男が出した条件は娘の両親にとっては魅力的であった。このため絶望した二人は情死をしようとした。どこか他のところで、夜に二人は落ち合い、酒で誓いを新たにして、この世への暇乞いをした。若い男が短刀の一突で恋人を殺し、すぐに同じ刀で自分の喉を切った。両人が息絶える前に、他の者が部屋の中へ入り込み、短刀を抜き去り、警察に通報し、駐屯兵から軍隊式の応急手術を受けた。自殺未遂の者は、病院に運ばれて手厚く看病されたが、回復後数ヶ月して、殺人罪で裁判にかけられた。
どんな刑が言い渡されたのか、詳細は知らない。当時日本の裁判官は、人情がらみの犯罪を裁く場合、かなりの個人的裁量を有していた。刑法典は西洋のをモデルに作られたものであったが、情状酌量の余地を制限していなかった。この事件の場合も、おそらく情死を遂げずに生存していたこと自体がすでに厳しい処罰を受けていると考えられたのだろう。だが、このような場合、世の意見は、一般に法律よりも手厳しく、慈悲深くはない。この哀れな男が刑期を終えて、帰宅を許されたものの、警察の絶え間ない監視の下に置かれた。周りの人たちは彼を避けた。彼は生き残って、生き恥をさらすという過ちを犯したのであった。両親と弟のみが彼の味方だった。まもなく彼は言いようのない身体の病気の犠牲になったが、なおも生に執着した。
喉の古傷は当時の状況の下ではうまく治療してあったが、ひどい痛みを引き起こし始めていた。表面上は治癒したように見えたものの、そこから緩やかにガンが進行しており、短刀が貫いた上下の息の道に広がっていた。外科医のメスや灸きゅうの灼熱しゃくねつの苦しみも最期を遅らせるだけに過ぎなかった。男はしだいに増してくる痛みに耐えながらも、七年を生き延びた。死者を裏切るような結果――つまり、冥土へともに旅するという互いの約束を破ったこと――について、まことしやかに信じられていることがある。殺された娘の手が傷口を広げている――言い換えると、外科医が昼間治療したものを夜になるとまた元に戻しているのだと、周りの人たちは噂した。というのも、夜になって、痛みは一層ひどくなり、心中が試みられたちょうどその時刻に最も激しい痛みとなったのである。
この間じゅう、家族は、傍目はためにもつらいほど質素倹約に勤め、薬代や看病、それに今まで自分たちですら食したことのない滋養ある食物を購うためにいろいろ工面した。彼らは、自分たちの恥辱や貧困さらに重荷であったはずの、当の生命をできる限りの手を尽して長らえさせた。そして、今、死がこの重荷を取り除いたはずなのに、家族は嘆き悲しんでいる。
この事件から私たちみなはつぎのことが分かったのである。いかなる苦痛を引き起こすものであっても、人は耐えて自分を犠牲にしてまで、それを愛することがあるということである。ならば、次なる問いが問われよう。もっとも苦痛を引き起こすものを私たちは最も愛さざるか、と。  

(1)フナは、小さな銀色をした鯉の一種。
(2)イルカの頭のような格好をした木の塊で、中が空洞になっている。仏教の読経に合わせて敲かれる。
(3)大阪の天王寺という大きなお寺では、この骨はみんな納骨所に投げ込まれる。骨が落ちるときに出す音 によって後世についての証が得られるという。このようにして集められた骨は、一〇〇年毎に、粉にされて、大きな仏像が造られる。
(4)「以前の世はどんなものだったの? どうか[あるいは、お願いだから]見て、教えておくれ」
(5)意味は「好きなお方にもう少しお酒を差し上げましょう」である。「や、とん、とん」とは意味はないものの、私たちの「ヘイ! ホイ!」などと同じような相の手である。
(6)これは、「冥土から手紙や電報を送ることができるのなら、われら二人がここに早く、また無事に着きましたよと書き送るのになあ」というほどの意味である。  
 
手紙・一八九三年七月二二日付 チェンバレン宛

 

拝啓
先に長崎からお手紙を差し上げると申しておりましたが、それはかなわない事になりました。というのは、実際、私は長崎から逃げ帰って来たからです―― 何があったか、そのいくつかをお話しします。
七月二〇日の早朝、私は、一人、熊本を出発し、百貫ひゃっかん経由で長崎へ向かうつもりでした。熊本から百貫までは人力車で一時間半あまりの距離でした。百貫は水田の中の、くすんだ小さな村です。土地の人たちは淳朴で善良です。そこで、漢文を勉強している生徒の一人に会いました。そこからは、小舟で蒸気船に向かいます。この舟の舳先へさきは壊れていました。コールリッジの詩にあるような静かな海をゆらりゆらりと四里ばかり進んで行きました。それは退屈でした。そして、停泊して一時間以上も待たされましたが、海面をじっと見ていると、さざ波が繰り返し/\押し寄せて来るので、まるで反対方向に引っ張られて動いているような、奇妙な錯覚を覚えました。他には見るものとてありません。ついに、私は、はるか水平線上にコンマを逆さまにしたような船影を見つけました。それが近づいて来ます。ついに、ボーッという汽笛を聞いたときは、嬉しくなりました。けれどそれは別の船でした。先の小舟に乗ったまま、さらに一時間も待たされたあげく、やっと目当ての船が現れたのです。
私は、隠岐の蒸気船を除けば、そんな拷問のような道具には不案内です。私が乗った船の名は太湖丸ですが、着物や浴衣の客が座り込むようになっていて、椅子はありませんでした。船室の暑さときたら、蒸気を使う洗濯屋の乾燥室のようでした。お茶の外には飲み物はありません。象の頭を持った唐獅子の面白い絵の付いた薄い牛革の枕と快適な畳の上で横になりました。私が背広スーツじゃなくて、和服だったらもっと快適だったと思います。けれど、ヨーロッパ式のホテルに行くというので、服装の決まりに従って、私は洋服だったのです。―― これは、あとで、とても後悔することになりました。
長崎にはまだ暗い午前三時に着きました。苦力クーリーがホテルまで連れて行ってくれる約束でしたが、一・六キロばかり行ったところで、どこか分からないというので、手荷物を受け取りました。まだ営業していた車屋に出会いましたので、ホテルまで連れて行ってもらいました。けれど、ホテルの門はもう閉まっていました。背中を門塀にもたれかかったところ、それが開きましたので、低い植込みの列と観葉植物が植えられた鉢の列との間の階段を上り、ホテルのベランダまで行きました。そこには、揺り椅子とランプそれに静寂がありましたので、ここで夜が開けるのを待つことにしました。長崎湾の日の出は本当に美しいものでした。―― 私は古いバラッド詩に謳われているような金色こんじきの光線を見たのです。ついにホテルも起き出しましたので、私はやっと部屋に入ることができました。
けれど、ホテルの中はひどい暑さでした。私がかつて経験した熱帯のどの熱さよりもひどいもので、太陽が昇るにつれてますます厳しく、死ぬほどの熱さになってきます。車屋を雇って、街の中を走ってみました。私は、最も美しい光の中で、できるかぎりこの美しい街を見ました。丘にも登りました。金属でできた新しい鳥居も見ましたが、今まで日本で見たものの中では愚劣極まるものでした。それは、ひどい格好をしているのです。上部が重いように見えて、優雅さなどはなく、全体が黒ずんだストーヴの色をしていました。こんなデザインをした者は、刀かたなで成敗されてしかるべきです。
朝食を摂ると、また出かけました。私の印象では、総じて長崎は今まで見た最もきれいな港です。―― それは、画家がエッチングの絵を描き、写真家が写真に撮るような、風光明媚で古風な趣おもむきで溢れています。しかし、私が欲しいと思っていた品は買うことができませんでした。西洋の輸入品で探したいと願っていた品物のどれも見つけることはできませんでした。ここには外国人もとても少なく、これといった本もありませんし、日用品も大量購入でないと手に入れることができない始末でした。
しだいに蒸し暑くなるにつれて、スーツを着込んで、このベルヴュー・ホテルに来たことを、ひどく後悔し始めました。西洋式の服や建物の中の居心地といったら、この暑さじゃ、問題外です。ベネズエラの午後の一番暑い時間さえも、これほどまでに暑くはなかったでしょう。このホテルの客たちも暑さで眠られなかったと話していました。暑さに対しては、一杯が二五セントする冷たい飲み物の外には何もありません。私は四円ばかりも飲みました。服を脱ぐこともできず、ちっとも涼しくないので、腹が立ってイライラしていました。
夕方の六時までには、逃げ出す決心をしました。何と言っても蒸し暑さは地獄でした―― 私は熱いのは好きなんですが、熱さと愚かな習慣とが一体となったものは、もはや我慢の限界を超えています。もし洋服を着て、ヨーロッパ式の建物の中で一週間も暮らさなければならないとしたら、もう狂ってしまうか死んでしまいそうです。私は、今すぐにでも長崎から脱出しようと思いました。
日本式のホテルはいつも快適ですし、裸でもいられます。日本のホテルでは、買いたい物があるなら、探して来てくれます。日本のホテルでは、頼めば、あなたやあなたの連れに、船や鉄道の切符を買ってきてくれて、その上、停車場や船着き場まで見送ってくれます。けれど、野蛮な西洋式のホテルでは、誰も質問にも答えてくれません。何かトラブルがあって解決してくれるように頼むときに、出来の悪い日本人のボーイが日本語以外には分からないような場合を除けば、尋ねるべき人もいません。私は、車屋を見つけて、日本の汽船会社に連れて行ってもらい、できるだけ早く長崎から離れる方法はないかと、片言の日本語で頼み込みました。驚いたことに、彼らは同情してくれて、早朝三時に私を迎えに来るという手筈が整いました。私は暑いのが収まって、蚊が刺す力を失う頃まで、ホテルの中で待っていました。―― それから出かけようとしたところ、外では良からぬ風体の男たちが、「旦那、良いい娘こがいますぜ」と声を掛けてくるので、―― 私はまたホテルへ引き返して、むっとしているベランダで三時まで座っていました。そうしたら、日本の汽船会社が男と渡し船を寄越して、連れて行ってくれました。それゆえ、私は彼らに感謝した次第です。
「きんりん丸」(旧知)に乗船して、三時半頃までには長崎港を出ました。三角みすみ港からは、百貫港行きの小さな蒸気船があると言われていました。三角港には朝の九時に着きましたが、あいにくとその日は百貫港行きの船の予定がない日でした。
三角には、西洋式に建築され、内装された浦島屋というホテルがありますが、―― 太陽が蝋燭よりも良いように、長崎のホテルよりもはるかに良いものです。また、とても美人で―― 蜻蛉かげろうのような優雅さがあり―― ガラスの風鈴の音ねような―― 声をした女主人が世話をしてくれました。車屋を雇ってくれたり、素晴らしい朝食を整えたりしてくれて、これら全部ひっくるめてわずか四〇銭でした。彼女は、私の日本語を理解しましたし、私に話しかけたりもしました。私は極楽浄土の大きな蓮の花の中心で突然生まれ変わったような気がしました。このホテルの女中たちもみな天女のように思えました―― それというのも、世界中で最も恐るべき場所から、ちょうど逃れて来たばかりだったからでしょう。それに、夏の海霧うみぎりが、海や丘それに遠くにあるあらゆるものを包み込んでいました―― 神々しく柔らかな青色、そして真珠貝の中心の色たる青色でした。空には夢見るような、わずかに白い雲が浮かんでいて、海面に白く輝く長い影を投げかけています。そして、私は浦島太郎の夢を見たのです。私の小さな魂は、夏の―― 青い光が滲み込んでいる―― 海へと漂い始めました。また、妖精の舟には乙女が立っています。この娘は、青い光よりもっと美しく、またもっと柔らかくて、もっと魅惑的です。乙姫様は一千年の時ときを超えて響いてくるような声で私に語りかけます―― 「さあ、私の父の宮殿である、南の海の底にある龍宮城へ、ともに参りましょう」「イイエ、ワタシ、熊本ヘ帰ラネバナリマセン―― サッキ電報カケマシタデス」と、私が応えます。「それでは、車屋に七五銭だけお払い下さいまし」と乙姫様は言いました。―― 「この玉手箱をお開けにならないでしょうから、あなたがお望みのときに、また戻ってくることができます。」この白日夢の中に、神々の古い物語についての解釈が浮かんできました。私はその謎と意味が分かったのです。私は、この玉手箱を心の中に深くしまっておきます。それから出発しました。
私は何時間も有明海の青い世界を眺めていましたし、その素晴らしさに心ときめいていました。また、古い神々とその有り様について考えていました―― ただ、道路沿いには電信柱が並んでいましたが。電柱の一番上の電線には、胸の白い小さな鳥たちが並んでとまっています。彼らは私たちが通り過ぎるのを、恐がりもせず眺めているのでした。何百という数です。どの鳥も、海の方を向いて、道路の方には尻尾を向けて止まっていません―― 一羽たりともです。どれもみな何かを待っているような様子でした。数え続けているうちに、人力車の上で眠り込んでしまいました―― 幻の舟に乗って、どこかを漂っています―― すると、海神の娘の乙姫様が私の枕元に立ち、微笑んで、こう言いました―― 「車屋には七五銭だけお払いくださいまし」……
太鼓の音がして目が覚めました―― あちこちの村で農家の人たちが雨乞いをしているのです。もうずっと雨が降らずに、白い雲だけが浮かんでいます―― 千年も昔に死んだ雲の亡霊でしょうか―― あるいは浦島の玉手箱から逃げ出した夏の霧かもしれません。(浦島が玉手箱を開けたのは本当に愚かなことだと思います。私もそんな箱をかなり以前に開けたことを思い出しました。そのために、私の魂もこんなに老ふけたのです。)電線の上の小鳥たちは、一列になってずっと止まっており、一羽とて尻尾を道路側に向けているものはいません。絵のような景色が何ヵ所かありました。長浜という村は綺麗な所です。そこには、丘の麓に大きな泉があります。少年少女たちが、一緒になって、水遊びをしていました。私は休息して、しばらくその様を眺めていました。若い娘が車屋に冷たい水を汲んであげました。すると彼女の薄い着物がわずかにはだけて、成熟する前の果実のような、まだうら若いふくらみがのぞきました。どの村からも雨乞いの太鼓を打つ音がずっと響いています。
車屋は私を置き去りにしました。つぎのにも詐だまされたのでしょう。水田の真ん中で、ペテン師の車屋を解雇すると、私は自分の鞄を受け取って、一人てくてくと歩き出しました。熊本までまだ三里半もあります。電線の小鳥たちが私を見下ろしています。たくさんの蝉たち―― それらは出雲のとはまったく違った種類です―― が、少年たちに捕まえられたときに、哀れな鳴き声を出し、また悲しげに断末魔の鳴き声を上げています。もちろん、口で鳴いているというよりは足で鳴いているようでした。救いを求める意思を持ち、また突然の哀れみの目的のためですので、鳴き方はおなじように悲痛なものでした。
それから、今度は良い車屋を見つけて、やっと  家に帰り着いたのはもう影が長くなる頃でした。日焼けして両腕の皮膚が剥けました。朝九時から何も食べていませんでした。それに、都合三日間も寝床で眠っていません。また、服も汗でびしょびしょでした。再びわが家にたどり着いて、まったくもって幸せの限りです。長崎は、私にとっては地獄にあるホテルとして、まさしく悪夢でしかありません。―― 給仕人らは七つの大罪に値します。私がそこへ行くことは金輪際ありますまい。そこは、行ったり戻ったりするには、世界中で一番困難な場所です。そこに居たときには、熊本が、いくつもの台風をかいくぐり、幾多の山々を越えて行かなければならないような、はるか一六万キロも離れた遠い所にあるように思えました。私は、再び浴衣姿になって―― 畳の上に座っています―― これが真しんの日本です。けれども、この旅行にはいくつかの愉しい思い出もあります―― それと、山々や夏の海を描いて、「浦島屋」の屋号の入った綺麗な団扇うちわです。これを眺めていると、またあの夏の日の夢と想いとが甦ってきます。私は、これからもおりおりにそれらを眺めるでしょう。だって玉手箱は決して開けられないでしょうから。けれど、私は乙姫様に唯ただ一つ従いませんでした。車屋―― 三人の車屋に、一円二五銭も払ってしまったことです。もし、連中がこのことを知っていたとすれば、私に百二五円だって払わせることができたでしょうに。
妻が尋ねます。「長崎のベルヴュー・ホテルにあと一週間滞在しなければならないとしたら、いくらならお承けになります?」
「イヤー、オ金ナンボ積マレテモダメデス。タダ、龍宮城デ千年ノ間、若イママデ暮ラセルカ、阿弥陀様ノ極楽浄土ヘ行カセテモラエルナラ、別デスガネ」と答えました。
敬具   ラフカディオ・ハーン 
 
橋の上で / ON A BRIDGE

 

お抱え車夫の平七が、熊本の町の近郊にある有名なお寺へ連れて行ってくれた。
白川に架かっている、弓のように反そった、由緒ありそうな橋まで来たとき、私は平七に橋の上で停まるように言った。この辺りの景色をしばし眺めたいと思ったのである。夏空の下で、電気のような白日の光に溢れんばかりに浸ひたされて、大地の色彩は、ほとんどこの世のものとは思われないほど美しく輝いていた。足下には、浅い川が灰色の石の河床の上を、さざめきながら、また音を立てて流れていて、さまざまな濃淡の新緑の影を映していた。眼前には、赤茶けた白い道が、小さな森や村落を縫うように曲がりくねり、ときに見えなくなったり、また現れたりしながら、その遙か向こう、広大な肥後平野を取り囲んでいる、高く青い峰々へと続いているのだった。背後には、熊本の町が広がっていた――おびただしい屋根の甍いらかが遠く青味がかって渾然こんぜんとした色合いを見せている――なかでも、遠くの森の岡の緑を背にして、お城の灰色の美しい輪郭がくっきりと見えていた……。町の中から見れば、熊本の町はつまらないところだ。けれども、あの夏の日に私が眺めたときのように遠望すれば、そこは靄もやと夢で出来たおとぎの国の都である……。
「二二年前でしたか」、平七は、額ひたいの汗を拭きながら話しました――「いいや、二三年前でしたろう――、わしはこの橋の上に立って、町が燃え上がるのを見とったです。」
「夜にですか?」私は聞きました。
「いいえ、雨の降る日の――昼過ぎでしたな。……戦いくさの真っ最中で、熊本の町は炎に包まれとったですよ。」と、老車夫は言った。
「どことどこが戦っていたのですか?」
「お城の中の鎮台兵と薩摩さつまの軍勢ですよ。大砲の砲弾たまを避けようと、わしらは地面に穴を掘って、その中にしゃがんどった。薩軍さつぐんは丘の上に大砲を据すえて、お城の鎮台兵はわしらの頭越しに、敵目がけて打込んでおった。町は全部焼けてしもうた。」
「でも、どうしてここにいたのですか?」
「逃げてきたとですよ。ひとりで、やっとこの橋まで逃げてきました。ここから二里半ばかり先のところで、農家をしている兄の家へ行こうとしとったんです。ところが、止められたとです。」
「誰が止めたのです?」
「薩摩の兵たちです。――その人たちが誰だったか分からんです。この橋にたどり着いたときに、欄干らんかんに寄りかかっている百姓姿の三人を見かけたんですが――てっきり農家の人たちだと思っとったんです。その人らは、藁わらの大きな笠を被り、草鞋わらじを履いていた。わしがその人らに丁寧に話しかけたら、一人が振り向いて、「ここに居ろ!」と言った。言ったのはそれっきりで、他の者は何も言わんかった。それで、この人たちが百姓ではないと感づいて、わしは恐ろしくなったですよ。」
「どうして農夫でないとわかったのです?」
「着ている蓑の下に長い刀を隠しておった――とても長いやつをね。みんな背がかなり高くて、橋に寄りかかって、川を見下ろしていた。わしもその人たちの傍にいました――欄干の左から三つめの柱のところ、ちょうどそこいら辺りに。その人らと同じように寄りかかっておったです。そこから動いたならば、たぶんこの人らはわしを殺すだろうと思ったですよ。誰もものも言わず、わしら四人は長いこと、欄干にもたれて立っておったです。」
「どれくらいですか?」
「はっきりとは分からんがの――たぶん長い間だったでしょうな。町が焼けるのを見とった。誰もわしに話かけんし、見むきもせんで、皆みな川面を見つめとった。そしたら馬の蹄の音が聞こえてきた。馬に乗った士官が一人――あたりを見回しながら、速歩はやあしでやって来たとです。」
「町の中からですか?」
「そうです――旦那さんの後ろにある、その道に沿って……。男たちは大きな笠の下から士官を窺うかがったが、振り向かんかった。――みんな川の中をのぞき込んでいる振りをしておった。ところが、馬が橋にさしかかったその瞬間、男たちは振り向きざま、躍おどりかかった―― 一人が馬の轡くつわを捉え、もう一人が士官の腕を掴つかみ、三人目が首を刎はねた――目にも止まらぬ手並みだった……。」
「士官の首ですか?」
「ええ――切り落とされる前に叫び声を上げる暇もなかった……。あんな早業はやわざを見たのは生まれて初めてでした。三人の誰も一声も出さんかった。」
「それから?」
「三人は胴体を欄干から川の中に投げ込んだ。一人が強くひと叩きすると、馬は走り去ったです。」
「町の方へ戻ったのですか?」
「いいや――馬は、橋をまっすぐ村の方へ駆けて行きよった。首は川へ投げ込まんかった。薩摩の連中の一人が、蓑の下に、持っておった。それから、また欄干に凭もたれて、先刻と同じように――川を見おろしておりました。わしの膝はもうがくがくしておったですよ。三人のおさむらいたちは黙ったままで、息をする音すら聞こえない。わしは恐ろしくてあの人たちの顔を見られんかった。――それで川の中を眺め続けておったです。そのうちに別の馬の足音が聞こえてきた――すると心の臓がドックンドックンと高鳴ってきよって、気持が悪うなったとです。――見上げると、道に沿って、馬に乗った士官がもう一人、かなり速くやって来る。橋のたもとに近づくまで、誰も身じろぎもせずに待っている。あっという間に――首が切り落とされた! 最前とまったく同じように――死骸は川に投げ捨てられ、馬は逃げていった。三人の男たちがこんな案配に斬り殺されて、おさむらいたちはこの橋を立ち去ったですたい。」
「一緒に行ったのですか?」
「とんでもない。三人目の男を斬るとすぐに、おさむらいたちは、首を携えて去っていったが、わしには目もくれんかった。遠くに立ち去るのが分かるまでは、動くのが怖かったので、橋の上に留とどまったままだったです。それから、燃えている町の方へ走って戻った。――走りに、走ったねぇ! 戻ってみると、薩軍が退却しているという話を聞いたです。それからしばらく日にちが経つと、東京から軍隊が到着しました。おかげで、わしは少し仕事にありついて、兵隊さんのために草鞋を運んだです。」
「あなたが目撃した、橋の上で殺された人たちは誰ですか?」
「知りまっせん」
「確かめようとはしなかったですか?」
「ええ」 平七は、また額の汗をぬぐいながら言った。
「あの戦いくさが終わってだいぶ年月が経つまで、誰にも話さんかったですもん。」
「どうして話さなかったですか?」 私はなおも尋ねた。
平七は、驚いた様子で私を見ると、少し困ったような笑みを浮かべて、答えた。
「だって、それは悪いことじゃものなぁ――他人ひとに喋ったら恩知らずになったですたい。」
こう言われて、私は、自分の不分明さを気づかされた思いだった。
それから、私たちはまた旅を続けた。 
 
停車場にて / AT A RAILWAY STATION

 

明治二六年六月七日
きのうの福岡発信の電報によると、当地で逮捕された兇徒が、裁判のために、きょう正午着の汽車で熊本へ護送されるということだった。熊本の警察官が、この兇徒を引取るために福岡に出張していたのである。
四年前、熊本市相撲町すもうちょうのある家に、夜半、盗人が押し入り、家人らを脅して、縛り上げ、高価な財産を盗んだ。警察がうまく追跡して、盗人は二四時間以内に逮捕されたので盗品を処分することもできなかった。ところが、警察署に連行されるとき、捕縄とりなわを解ほどき、サーベルを奪い、巡査を殺害して逃走したのである。つい先週までこの兇徒の行方はまるっきりつかめなかった。
ところが、たまたま福岡の監獄所を訪れていた熊本の刑事が、四年もの間、写真のように脳裏に焼き付けていた顔を、囚人たちの中に見つけたのである。
「あの男は?」獄吏に尋ねた。
「窃盗犯でありますが、ここでは草部と記録されております。」
刑事は囚人のところに歩み寄ると、言った、
「お前の名前は草部ではないな。熊本の殺人容疑でお尋ね者の、野村禎一だ。」
重罪犯人はすっかり白状したのである。
停車場に到着するのを見届けようと私も出かけたが、かなりの人が詰めかけている。人々が憤るのをたぶん見聞きするだろうと思っていたし、一悶着ひともんちゃく起こりはしないかとすら恐れてもいた。殺された巡査は周囲まわりからとても好かれていたし、彼の身内の者も、おそらくこの見物人たちの中にいるはずである。熊本の群集もとても温和おとなしいとはいえないのである。それで警備のために多数の警官が配置されているものとばかり思っていたが、私の予想は外れた。
汽車は、下駄を履いた乗客たちのあわてた急ぎ足やカラコロという音が響き、また新聞やラムネなど飲み物を売る少年たちの呼び声などで、いつものようにあわただしく、また騒々しい光景の中に停車した。改札口の外で、私たちは五分近くも待っていた。そのとき、警部が改札口の扉を押し開けて出てきて、犯人が現れる――大柄の粗野な感じの男で、顔は俯うつむき加減にしており、両の手は背中で縛られている。犯人と護送の巡査は二人とも改札口の前で、立ち止まった。そして、詰めかけている人たちが黙って一目見ようと前の方に押し寄せた。そのとき、警部が叫んだ。
「杉原さん! 杉原おきびさん! いませんか?」
「はい!」と声がすると、私の近くに立っていた、子どもを背負った細身の小柄な婦人が人混みをかき分けて進み出た。この人は殺された巡査の妻で、背負っているのが息子である。警部が手を前後に振るしぐさをすると、群衆は後ろずさりに下がった。そうして、犯人と護衛の警官のためのスペースが出来た。この空間で子どもを背負った未亡人と殺人者とが向き合って立つことになった。あたりは静まり返っている。
そして、警部がこの未亡人にではなく、子どもに話しかけた。低い声だが、はっきりと喋ったので、一言一言が明瞭に聞き取れた。
「坊や、この男が四年前にあんたのお父とつさんを殺したんだよ。あんたはまだ生まれちゃいなくて、お母つかさんのお腹の中にいたんだからなぁ。あんたを可愛がってくれるはずのお父とつさんがいないのは、この男の仕業だよ。見てご覧――ここで警部は犯人の顎に手をやり、しっかりと彼の目を向けるようにした――坊や、よく見てご覧、こいつを! 怖がらなくていいから。辛いだろうが、そうしなくちゃいけない。あの男を見るんだ!」
母親の肩越しに、坊やは怖がってでもいるかのように、眼を見開いて見つめる。そして、今度はしゃくり泣き始め、涙が溢れてくる。坊やは、しっかりと、また言われたように男をじっと見つめている。まっすぐにその卑屈な顔をずっと覗き込んでいた。
周りの人たちも息を呑んだようである。
犯人の表情がゆがむのが見えた。後ろ手に縛られているにもかかわらず、彼は膝の上に崩れ落ち、顔を土埃ほこりの中に打ちつけて、人の心を震わせるような、しゃがれた声で自責の念に駆られて、しばらく嗚咽おえつしていた。
「済まない! 許してくれ! 坊や、堪忍しておくれ! 憎んでいたからじゃねぇんだ。怖かったばかりに、ただ逃げようと思ってやっちまったんだ。俺がなにもかも悪いんだ。あんたに、まったく取り返しの付かない、悪いことをしちまった! 罪を償わなくちゃならねぇ。死にてぇだ。そう喜んで死にますとも! ですから、坊や、お情けと思って、俺を許しておくんなせぇ!」
男の子は静かにまだしゃくり泣いている。警部は肩を震わせている犯人の男を引き起こした。黙りこくったままだった人々は、左右に分かれて道を空あけた。するとそのとき、まったく突然に、群衆がみなすすり泣き始めたのである。銅像のような表情をした護送の警官がそばを通りすぎるとき、私は以前にも見たことのないもの――ほとんどの人もかつて見たことのない――そして私もおそらく再び見ることのないであろう――日本の警官の涙を目撃したのである。
人だかりも潮しおが引くように少なくなった。私は取り残され、この場の不思議な教訓について考えている。ここには、自分が犯した犯罪行為のために遺児となり、未亡人となったという明白な結末を目の当たりにして、心情的に犯罪の意味について悟らせるという、本来そうあるべきだが、温情ある裁きがあったのである。ここには、死を前にしてひたすら赦ゆるしを乞う、一途な後悔の念があった。また、ここには、怒りだせばこの国の中では最も危険な庶民がいた――ところが、この人たちは、人生の困難さや人間の弱さを純朴に、また身にしみて経験しているので、激しい怒りではなく、罪についての大きな悲しみだけで胸塞がれ、後悔の念と恥を知ることで満足しており、またあらゆることに感動し、何もかもを分かっているのであった。
このエピソードのもっとも重要な事実は、それがきわめて東洋的であるからだが、つぎのことにある。犯人を悔い改めさせたのは、彼自身も持っている、子に対する父親の心情に訴えたからであった――子どもたちへの深い愛情こそが、あらゆる日本人の心の大きな部分を占めているのである。
日本では最もよく知られた盗賊の石川五右衛門に、つぎの話がある。ある夜、殺して、盗みを働こうと人家に忍び込んだときに、自分に両手を差し伸べている赤ん坊の微笑みに、五右衛門はすっかり気を奪われた。そして、この無邪気な幼子と遊んでいるうちに、自分の所期の目的を達成する機会を失ったというのである。
これは信じられない話ではない。警察の記録には、毎年、プロの犯罪人たちが子どもらに示した同情の報告がある。地方新聞に載った、数ヶ月前の凄惨な大量殺人事件は、強盗が睡眠中の一家七人を文字通りに切り刻んだものであった。警察は、一面の血の海の中でひとり泣いている小さな男の子を発見したが、まったくの無傷であった。警察によれば、犯人らが子どもを傷つけまいとしてかなり用心した確かな証拠があるという。 
 
神々の猿

 

この意味深長そうな標題からは何の本かわからないだろうが、これはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)について六〇年代に新たな解読をもたらした幻の一冊なのである。副題にも「ラフカディオ・ハーンの芸術と思想」とついている。
ハーンの語り方はさまざまにある。ハーン自身の著作がかなりの数にのぼるだけでなく、ハーンについての評論著作もそうとうにある。ぼくはそのうちのきっと一割くらいしか読んでいないとおもうけれど、それでもハーンを語ることは「近代が扱うべき記憶の問題」と「近代が立ち会うべき言語の問題」を引き受けているだろうことだけは、存分に確信できる。あとで書くけれど、ハーンをどう見るかは日本の国語文化の出発点を問うとともに、近代日本を内と外で同時に見るにはどういう方法をつかえばいのかという、はなはだ難解な問題を孕んでいる。
ハーンの語りが溢れる魅力をもっていることは言うを俟たない。ぼくも子供のころは「耳なし芳一」や「雪女」や「むじな」などの『怪談』で怖い目にあい、長じてはわれわれがすっかり忘れている「失われた日本」を次々に見せてもらった。とくに東洋文庫で『神国日本』(1975)を読んだときは、脳天を割られたような衝撃を食った。
いまでもよくおぼえているが、冒頭に、日本についての書物はおびただしいが、日本を理解するためにすぐれたものというと20冊をくだる。それは日本人の生活の影にひそんでいるものを認識するのが日本人にさえ格別に難しいからだとあって、ヨーロッパを理解するのに「その国その民族の宗教観を深く知ること」と「貧しい者たちの諺や市井の歌謡や工場での会話を知ること」が不可欠なように、日本を知るにもそのくらいの準備が必要なんだと告げている。これではぼくなんぞ、日本を語る資格なんてとうていありえないと銘じたものだった。
さすがに『神国日本』はハーンの日本研究の卒業論文といわれるだけあって、十数年におよんだハーンの蘊蓄が理路整然と展示されていた。信仰の底流の説明から家庭や地域社会における制度と民俗と感情にいたるまで、いまでこそその手の本をぼくもいろいろ通過してきたのでそれほどでもなくなっているのだが、当時はまさにハーンの一言一言が「おまえはそれでも日本人か」と詰問されているような追いつめられた気分になった。
しかも、香ばしい。ハーンは、あたかも日本人が日本を思い出しているかのように、日本をつねに香ばしく書いた。それが日本人なら、たとえば明治を偲ぶ日本人なら誰にもできるというものとは思えなかったのだ。たとえば渡辺京二さんに『逝きし世の面影』(葦書房)という大著がある。いつかとりあげたい一冊で、それこそだれもが書けるというものではないのだが、まさにそういう稀な心根の持ち主によって日本の「面影」の本来を教えてもらったのがハーンだったのである。むろん『怪談』などが出来がいいのは当然だけれど、そのほかの『知られぬ日本の面影』『心』『霊の日本』などもたまらず泣けてきた。 
松江に行くとハーンに会える。何度か訪れた。ハーンが小泉セツ夫人と住んでいた家の面影が残っている。
ハーンが松江に来たのは明治二四年(1891)である。文部省普通学務局長の服部一三が松江の中学校のお雇い教師に推薦した。八月に来て十二月にはセツと結婚し、小泉八雲を名のった。それ以来、セツ(節子)夫人が日本の昔話を語りつづけた。夫人はこう、語りのこしている。「私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと、"本を見る、いけません。ただあなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません"と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました」。
松江にくる前のハーンは横浜にいた。ニューヨークから来たばかりだった。ニューヨークでは編集の仕事のかたわら『支那怪談』を書いたり、諸国のクレオール文化を採取した『飛花落葉集』を書いていた。その前はニューオリンズにいて、「デイリー・アイテム」の記者や「タイムス・デモクラット」の文学部門の編集長をしていた。そしてその前はシンシナティにいて、さらにその前はフランスに、その前はイングランドに、そしてその前はアイルランドで父母の離婚を目の当たりにした。
つまりハーンは1850年のギリシアのレフカス島に生まれ、そのハーン家の原郷がアイルランドだったのだ。それからアメリカに渡り、日本にやってきた。モーパッサンとは同い歳、漱石の十五歳年長になる。
このように、ギリシアとアイルランドの古代神話に育ちながら、その後はたえず異郷をめぐってきた経歴をもつハーンが、近代の繁栄に酔いつつあったアメリカを捨てて日本の松江に落ち着き、その数年後には明治37年(1904)に急逝するまで東京牛込に住んで、頻繁に各地を旅行しながら日本の神秘にとりくみつづけたということは、ハーンにとっても意外な人生だったろうが、日本人にとってこそ恩寵のような奇蹟だった。
しかし何が奇蹟かといったら、ハーンにとっての日本こそが奇蹟だったのであり、そのハーンが書いた日本の面影が奇蹟だったのである。
横浜港に近づいて富士山を遠望した瞬間から、ハーンは日本の面影に身も心も蕩けさせ、それからというもの、一心に「思い出のなかの日本」を書きつづけた。初めて日本の土を踏んだ四月の朝のことを、ハーンはこう書いている。
「朝の大気には言い知れぬ魅力がある。その大気の冷たさは日本の春特有のもので、雪におおわれた富士の山頂から波のように寄せてくる風のせいだった。何かはっきりと目に見える色調によるのではなく、いかにも柔らかな透明さによるのだろう。(中略)小さな妖精の国――人も物も、みな小さく風変わりで神秘をたたえている。青い屋根の下の家も小さく、青い着物を着て笑っている人々も小さいのだった。おそらく、この日の朝がことのほか愉しく感じられたのは、人々のまなざしが異常なほどやさしく思われたせいであろう。不快なものが何もない」。
小さな妖精の国には不快なものが何もないとは、本当にそんなことがありえたただろうかと思えるほどに、絶妙の日本なのである。ハーンの目がよほど澄んでいるか、そのころの日本にはまだそういう日本がそこかしこに息づいていたか、あるいはハーンの思いすごしか、そのいずれかだ。 
ハーンは日本を愛惜した。村の家の障子が黄色いランプで仄かに輝いているのが好きだった。小さな中庭の桃の木が屋根の甍にまで影を落としているのが何にともくらべられるものがないほど、美しかった。日本の夏は簾と虫籠のゆれぐあいに見とれ、晩秋の石段にはいつも「無」というものの言葉が秘められているのを感じた。
美しさに注目しただけではなかった。「日本の内面生活の暗示と影響」のサブタイトルをもつ『心』では、おおかたの日本人には思いがけないだろう数々の指摘をした日本論を綴っている。
たとえばそのひとつ、ハーンは、ギリシアに発する西欧の美術が「永遠」をめざしてルネサンスから近代までを駆けたのに対して、日本は「一時しのぎ」のために西欧に匹敵する技量をもって家屋や調度を彫琢してきたと指摘した。ハーンはいわば「一時しのぎ」という「かりそめ」に日本の本来があるとみなしたのだ。そしてそのことが、世界の諸文化のなかでは比類のない成果だという見方を披露したのだった。
いったいなぜ、ハーンはここまで日本を書けたのか。たんなるエキゾティシズムではここまでは書けない。
そのようなハーンの日本賛歌ぶりを、日本贔屓の先輩友人で、明治6年から日本に滞在して『古事記』を試訳したバジル・ホール・チェンバレンは、次のように見ていた。「ハーンが見た日本はハーンの空想だったのではないか。そんな日本は実際にはほとんどなくなりかけていたのである」と。チェンバレンは『日本事物記』の著者でもあるが(これはこれでおもしろい、やはり東洋文庫に入っている)、ハーンは理想化した日本の面影に視線を注入しすぎているのではないかと見たのだった。 
はたしてハーンの見た「神々の国」は幻影だったのか。そうでないとも言えるし、そうであるとも言える。
なぜならわれわれ日本人の多くが、日本の面影の本質を読みとる感覚と才能のかなりの部分を失っているからだ。それは、ハーンが去ったあとに柳田国男が登場し、さらに折口信夫が登場して日本の昔話を再生させて古代のマレビトを感じようとしたときすでに、そのように日本の面影を見ることが正しいのかどうか、誰も見当がつかなかったことでも推測がつく。われわれにはハーンを"判定"するには分母の損傷がありすぎる。
そうとなると、さて、ハーンの日本論をいったい日本人に評価できるのだろうかということになる。この問題はけっこう重い。なぜハーンが日本の魅力をあれほどまで絶妙に表現できるのかという謎を追求するだけでは、答えがつかないことがあるからだ。
そこでたとえば、ハーンおける東西文化の融点をさぐる必要が出てくる。また、ハーンにおけるオリエンタリズムの発生と頂点と限界を観察してみる必要がある。さらにまた、ハーンにおけるクレオール文化に対する探求心がどのような表現に及んでいたのか、それをギリシアやアイルランドやニューオリンズの「クレオールな面影」にも求め、その表現深度を見ておく必要がある。こうした問題を深めないで、ハーンの「日本の面影」を"判定"することは難しいのだ。
本書はそのようにハーン解釈の転換をするためにはどうしたらいいかという問題点を求めた一冊だった。ベンチョン・ユーは、ハーンを「再話文学者」という視点から解読してみせた。視点はハーンの業績のごく一部にかぎっているが、それがかえってハーン読みの迷いを払拭していた。 
そもそも再話とは神話・伝説・昔話を再構成する文学のことをいう。この意味を広くとれば、ゲーテの『ファウスト』のように中世のファウスト伝説を素材にしたものも、上田秋成のように中国の白話小説をもとに再構成しているものも、再話文学だということになる。
それゆえハーンが小泉セツを語り部として聞き書きした多くの作品は、まさに再話文学だったということになる。その再話領域は日本のみならず、欧米諸地域・西インド諸島・その他の中国をふくむ非西欧圏におよんでいて、かつ集中的だった。さらに、ハーンの血に流れている地域があった。父親はアイルランド出身のイギリス陸軍軍医で、母親がギリシア人だった。ハーンは幼年期からアイリッシュな神話と古代ギリシア神話を聞いて育っていた。
こうしてハーンの再話はいきおい根元に向かっていったのである。日本を見る目は根元に向かう目だったのである。 
ハーンの再話は「再話という方法」そのものに過激にとりくんだものだった。たんに幻想的な素材に感じて再話に走ったというものではなかった。しかも実はこの時代まで、ハーンほどにこの作業に真摯に熱中した文学者はいなかったのだ。
そのハーンを読むことが、われわれには気づきにくい日本を深層でゆさぶってくれるのは言うを俟たないが、たんにハーンの再話『怪談』や随筆『神国日本』を読むだけでは、そこがうまく深彫りできない。だいたいは贔屓目や日本的情感に流される。そしてついつい「忘れられた日本」という感想にただ溜息をつく。それでおしまいなのだ。
それだけに、本書のようなユニバーサルで鋭角的な研究がときにおもいがけない望外の視線を与えてくれることになる。ハーンは風土にひそむ"文化のクレオド"を通して、日本の数々のお話を世界文学のレベルのリテラシーにしたかったのである。
著者は韓国に生まれて、東京の一高に学んだ後、アメリカで多彩な文学研究にとりくんだ人だが、まだあまり知られていない。が、漱石の『行人』の英訳など、それはそれは渋い名訳なのである。あえてここに紹介した所以だ。 
附記 / ラフカディオ・ハーンについては、きっと主なものでも100冊以上の本がある。その濫觴には驚くほどだ。ぼくはその一部しか覗いてはいないが、たとえば日本側から見たハーン論としては平川祐弘『オリエンタルな夢』(筑摩書房)が出色だったし、外国側から見たハーン論としてはエリザベス・スティーブンスの『評伝ラフカディオ・ハーン』(恒文社)が頷けた。肝心のハーンのものとしてぼくが感心したのは数多いのだが、考えさせられたのは平川祐弘がアンソロジーを組んだ『クレオール物語』(講談社学術文庫)である。これを読むとハーンがイギリスにいたときすでにフランス語を得意とし、モーパッサンを英訳し、そのうえに学界では「参与観察」とか「参与記述」という方法に長けていたことが見えてきて、この才能をもって乗りこんだ日本を、ハーンがあのように自在に文章にできたという秘密が見えてくるのである。 
 
ラフカディオ・ハーンと「近代の超克」 / 斉藤延喜

 

まずはじめに、「ラフカディオ・ハーンと『近代の超克』」という論題に関して断っておかねばならない。実は、このような論題の立て方には二つの大きな問題が含まれている。ひとつは時代錯誤的な要素である。ラフカディオ・ハーンは、彼の最後の著作、『日本―一つの解明』が出版される直前の1904年(明治37年)9月に没した。他方、雑誌『文学界』が「知的協力会議」の名のもとに、河上徹太郎を発題者・司会者として座談会「近代の超克」を開催したのは、太平洋戦争勃発の翌年、1942年(昭和17年)7月であり、ハーンの死から37年後のことである。座談会でハーンが論じられることもなく、彼の名が出るのは、「近代の超克」論文集の中の、林房雄の「勤皇の心」の中の次の一節のみである。「小泉八雲は外にあって日本の欧米化の危険を警告し、岡倉天心は『日本の理想』と『東洋の理想』をかかげて内よりこれと戦い、内村鑑三は基督教の中に武士道の復活を霊感して、日本の腐敗を喰い止めようとした」(河上 107)。林は続けて、自然主義文学の「猛毒」として、「人間の獣化、神の否定、合理主義、主我主義、個人主義」(108)をあげて、それらの「行きつく道は、当然、『神国日本』の否定である」(109)と述べているが、この「神国日本」というのは、ハーンの英語著作『日本―一つの解明』に漢字で印刷された日本語の書名でもあった点に注目される。いずれにしても、林にとってさえ、ハーンは単に「外にあった」外国人であり、座談会に出席した13名の二日にわたる発言の中で、他にハーンの名が出されることはなかった。
論題の立て方に関わる二つ目の問題は、二重の意味で、文学史的な問題である。まず、ハーンはあくまでも文学者であって、河上徹太郎が「開戦一年の間の知的戦慄のうちに」(166)開かれたと述べている、この大日本帝国の直面する重大な時局そして国家的課題としての「近代の超克」を巡る知識人たちの言説のやり取りとは馴染むようには見えない。しかし、他方では、その「文学者ハーン」自身は、英文学史においても、米文学史、また国文学史においても、正当な位置づけがなされているようには思えない。独創的な想像力に基づいた言語的な自己表現の芸術が近代文学だとすれば、ハーンの活躍した翻訳、随想、紀行文、または民間伝承の翻案・再話文学というジャンルは、詩・小説より一段低いものとして扱われてきたジャンルである。また、個々の作家の自己表現である個々の作品は、「国民文学」という有機的全体の中に包括されて初めて、一貫した歴史性を与えられ、文学史の中に定着されてゆくのだとすれば、ハーンはその出自と経歴からして、いかなる「国民」にも属さず、従って、彼の作品はいかなる「国民文学」にも属することもなかった。アイルランド出身のイギリス軍人である父とギリシャ人の母との間に生まれたハーンは、父の離婚と再婚、そして精神を病んだ母の帰国によって実質的に孤児となって、ロンドンの貧民窟を彷徨い、アメリカへ渡って、シンシナティで新聞記者になり、ニューオーリンズを経てカリブ海の西インド諸島へ行き、そして、1890年(明治23年)に日本の松江に流れ着いた。ハーンは文字通り「漂流者、放浪者」であって、彼がたどり着いたいかなる土地においても、その「国民」になることはなかった。1896年(明治29年)に日本国籍を取得し、「小泉八雲」と改名したのも、直接の理由は、妻と長男の財産相続権を守るためであり、また、死の前年あたりから、長男を連れてアメリカへ渡るべく、知人に職の紹介を繰り返し頼んだりしている。
以上、「ハーンと『近代の超克』」という論題の立て方に含まれる問題点を指摘してきたが、しかし、漂流者ハーンが人間として、そして文学者として直面し、乗り越えなければならなかった一連の様々な問題と課題を、「近代の超克」という名称でまとめることは正当なことであるように思われる。彼の全行動と全著作を貫いているひとつの主題は、自らの西欧近代からの追放を、自己追放の運命として主体的に引き受けること、西欧近代の価値体系を否定して、この追放を自ら選びとった脱出あるいは自己解放として捉えなおすということであった。この主題は、空間軸と時間軸に沿って展開された。それは、空間的には、西欧と反西欧の対立と選択という地政学的問題としてあらわれ、時間的には、近代と反近代の対立と選択という歴史哲学的問題としてあらわれた。 
 

 

ハーンが想像の中で、また、実際に訪れた土地の数々―ギリシャのレフカダ島、ニューオーリンズ、マルティニーク島、そして松江―は、ロンドン、ニューヨーク、パリ、東京から最も隔たった場所として想定されている。それらはすべて西欧と対峙する「アジア」であった。レフカダ島とニューオーリンズ、マルティニーク島と松江がともに属す世界としての「アジア」、それはもちろん、実体としてのアジアではなく、「幻想としてのアジア」であった。しかも、その「幻想としてのアジア」とは、ピエール・ロティ、ラドヤード・キプリングあるいはパーシバル・ローウェルのような所謂オリエンタリスト達の欲望と支配の眼差しの対象でしかない「幻想のオリエント」ではなく、むしろ、人間的価値体系の総体において西欧世界全体と原理的に対峙し、そしてそれを乗り越えるひとつの世界であった。それは、竹内好の言葉を借りれば、実体としてのアジアではなく、「方法としてのアジア」、反西欧的な「主体形成の過程」としてのアジアであった(『近代の超克』137)。つまり、ハーンは、「方法としてのアジア」を彷徨うことによって、西欧世界からの自己追放者、超克者として自らの「主体形成」を行ったのである。
時間軸に沿ってあらわれた歴史哲学的問題とは、ハーンにとって、近代という時代をどのように否定し、乗り越えるかという問題であった。ヘーゲルの『歴史哲学講義』によれば、世界史とは、精神が自己の本質である自由を実現してゆく過程であり、アフリカには存在せず、古代中国で開始され、19世紀ドイツで完成した。世界史の完成態としての19世紀ヨーロッパ近代は、しかし、19世紀末には既に、後に第一次世界大戦が現実化するような危機」を迎えていた。ある者は「西洋の没落」を論じ、またある者はデカダンス芸術に没入していった。このようなヨーロッパ世紀末の中で、ハーンは近代という時代を、未来そして過去の両方向に向けて乗り越えようとした。ハーンは、ハーバート・スペンサーに倣って、社会進化論を論じ、フュステル・ド・クーランジュに倣って、古代国家を論じた。文学者ハーンの耳にスペンサー的な「科学の妖精」(“The Fairy of Science”)が語ったのは、「アリ達は、その生活のすべてを愛他的な目的に捧げている点において、経済的のみならず倫理的にも、本当の意味で、人類より一歩進んでいる」(“Ants、” The Writings、XI 296)ということであった。また、日本を論じた最後の著作の中で、ハーンは、社会的共同体の土台となってきたのは「祖先崇拝の祀り」であり、それは「家族の祭祀(家の宗教)、地域社会の祭祀(地方神つまり氏神の宗教)、そして国家の祭祀(国家的宗教)」という神道の三つの形式をとって、共同体を発展・進化させてきたのだと論じた。つまり、蟻の共同体と「神国日本」とは反近代という点において同等のものであり、ともに、経済的、倫理的、宗教的に近代を超克した理想として、近代以後もしくは近代以前に措定された幻想なのである。
西欧を超克する「幻想としてのアジア」、近代を超克する幻想の共同体としての「神国日本」、これらはともに、ハーンの西欧近代批判のための「方法としての幻想」であった。「反西欧近代」の中の「反」という否定辞を文学的想像力によって、方法として実体化させたものであった。西欧近代の何が実際に否定の対象であったかということを、具体的に挙げるならば、林房雄が「自然主義文学の猛毒」としてあげていたもの、つまり、「人間の獣化、神の否定、合理主義、主我主義、個人主義」がそれに相当するといえる。西欧近代主義とは、物質主義と個人主義から構成された悪しき人間中心主義である、というまとめ方もできるだろう。物質主義は、人間においては、肉体的欲望の充足を至上の目的として精神性・宗教性の否定に至り、社会においては、資本主義体制の中での富を追求する実利・功利主義、拝金主義に陥り、芸術においては、ロマン主義的夢想や象徴主義的な意味の世界を否定するリアリズム、自然主義をもたらす。このような選択の基準となるのは個人主義であるが、この「近代的個人」とは、単なる道具的理性によって自らの利害を計算し、個人的快楽を追求するだけの、砂粒のような単独者に他ならない。この「近代的個人」は、愛によって他者と融合し自我という牢獄から解放されることもなく、他者達と結ばれて家族や氏族・国家という社会的共同体に参加することもなく、死者達の霊との交流によって個人の生を超えた歴史的連続性の中に迎え入れられることもない。 
 

 

このような西欧近代主義批判をハーンがまとめて展開した作品のひとつとして「ある保守主義者」という作品があるが、その中で、主人公の元侍階級の日本人に、長年の西欧滞在の後に、次のように総括させている。「かれは、そういう文明を憎んだ。―恐ろしいすべて計算ずくめの機械主義を心から憎んだ。功利的ながっちりさを憎んだ。その常識を、飽くことを知らぬ貪婪を、盲目的な残忍性を、底なしの偽善を、欲望の不潔を、その富の傍若無人さを憎んだ。道義の上からいえば、この文明は、言語道断だし、常識の上からいえば、残忍暴虐である。現代文明は、量り知れない堕落の深淵をかれにのぞかせたのである」(『心』196)。近代西洋文明に幻滅した主人公は最後に、「保守主義者」となって、故国日本へ―洋上の船から暁に仰ぎ見る荘厳な富士山へ、そして「先祖の位牌の前」へ―帰還する。彼が戻ってきたのは、もちろん、近代化された現実の日本ではなく、「近代」を過去の方向へ超克した幻想の日本であった。彼にはもはや「近代日本を形づくる一切の物という物が、なにもかも見えなくなってしまった。ただ、古い日本だけが、かれの眼底にありありと見えていた」(200)という言葉でこの作品は閉じられる。
西欧近代を超克しようとする者が、保守主義者となって、眼底に焼きついた古き日本の幻想に回帰するというヴィジョンは、ハーンにおける「近代の超克」という問題の解決の方向性、志向性を明瞭に示している。個人主義、主我主義を乗り越えるのは、自他の融合をとおして発見される共同体性であるが、始原の、そして究極の完全共同体とは、ハーンにとって、自我が芽生える以前の、母との完全な融合状態に他ならなかった。物質主義、功利主義、リアリズムを乗り越える精神主義、象徴主義、神秘主義とは、万物の背後に霊的な運動体を感知し、その運動の起源であり統括者としての、不可視の、無限の母の愛を探し求め、それを「見る」ことへの渇望の現れに他ならなかった。ハーンは「夢想」という作品の中で、「女性的なもの」について、次のように述べている。「絶対者を父と定めた、[西洋の]厳格そのものの古い教えのうちに、その後徐々に注入されてきたのは、無限のやさしさというもっと明るい夢―『母なる女性』の記憶が創り出した、すべてを聖なるものに変容する希望であった。世界中の人種がより高きものに向かって進化すればするほど、その神の概念は女性的なものになる」(『光は東方より』308)。未来に向かっての進化は、過去にある始原に向かっての記憶による遡行に等しく、両者は合わさって、物質主義と懐疑主義に引き裂かれた西欧近代の「表皮の下」に、永遠に変わらぬ本質あるいは神としての「母の愛」を探し求めることになる。ハーンは続けていう。「ありとあらゆる人間の経験のなかで母の愛ほど神に近いものはない―母の愛ほど神聖の名に価するものはない・・・。この惨めな小さな星の表皮の上で思想のか弱き生命をはぐくまれ、生きながらえることができたのも、母の愛があったればこそであろう。人類の頭脳のうちにより高尚な感情が花咲く力を得るようになったのも、その無上無私の愛があったからであろう―見えざる霊界を信ずる高尚な心がよびさまされたのも、母の愛の助けがあったればこそであろう」(309)。
このように、ハーンにおける「近代の超克」とは過去、もしくは過去と未来の融合態としての永遠に向けての、女性原理による超克であったとすれば、未来に向かう歴史の中での、いわば男性原理による近代の超克を目指したのが、「近代の超克」論の枠内で、極めて明確な、竹内好に言わせれば、見事なまでに「現実を無視した」理念的見取り図を描いた京都学派による「世界史的立場の哲学」であった。
奇しくも、京都学派の盟主と目される西田幾多郎がラフカディオ・ハーンについて論じた一文が残されている。ハーンの死から10年後の1914年(大正3年)に出版された田部隆次による評伝『小泉八雲』に寄せた序文である。その中で西田は、ハーンの「思想」について次のように述べている。「ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るという様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であった。・・・氏の眼には、この世界は固定せる物体の世界ではない、過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である、不変なる物と物との間に於ける所謂自然科学的法則といふ如きものは物の表面的関係に過ぎないので、その裏面には永遠の過去より永遠の未来に亙る霊的進化の力が働いて居るのである」(X)。西田によれば、スペンサーのいう「物質力の進化」理論を「文学的気分に富める」ハーンは「霊的進化の意義に変じ仏教の輪廻説と結合する」ことで「著しく詩的色彩の宗教」を作り上げたのであった(XI)。生物進化論のロマン主義的精神化という点でニーチェやベルグソンに通じるところもあるが、ハーンの論は「単に感傷的で空想的なることはいふまでもない」と断じ、その理由として、「両親からうけた多情多感の性質は惨憺たる前半生の運命に鍜はれて、氏の如き感傷的な一文学者を作り上げたのであろう」(XI)と結論づけている。 
 

 

西田がハーンの「思想」について最も不満であったのは、ハーンが「万象の背後」に見た「心霊の活動」なるものが、結局、ハーンの孤独癖と社交性、厭人主義と愛の渇望という個人的な心理的葛藤が文学的感受性によって増幅され投影されたものに過ぎないという点であった。他方、西田自身が「万象の背後」に見た「心霊」とは、1924年(大正13年)の科学哲学論文「物理現象の背後にあるもの」で論じられている様に、世界を形成する根源的な力としての意志であった。
意志は自らの力によって、物理的世界と精神的世界を構築し、さらに、これらの実在的世界のみならず、可能的世界をも創造する、と西田は論じる。ここにいう、自らの力によって世界を構築・創造するとは、カントの先験性(アプリオリ)の概念に即したもので、それらの世界が世界として成立して立ち現れ、我々によって経験可能なものとなる、その条件を我々自身が予め貸し与える、という意味である。これを西田は、世界は「意志の影像である」と説明している。「精神現象界も物質現象界も共に意志のアプリオリにおいて成り立つ、意志が自己の内に自己を見ることによって成り立つ、共に意志の影像である」(『西田哲学選集』第二巻56)。意志が貸し与える世界成立の条件のうちもっとも根本的なものは時間で、すべての現象世界は時間の軸に現れ来たる。そして、この時間の中に現れる現象がその存在・形式において捉えられるか、意味・内容において捉えられるかの違いで、物理的世界と精神的世界との区別がなされる。「時の軸に現れ来るものを単に量的と考える時、すなわち時自身を単に形式的と考える時、物理的世界が成立し、これを質的と考える時、すなわち時自身の内容を見る時、精神現象界が成立する」(56)。最後に、意志が世界を構築する自由を行使するものとしての自己を自覚し、自らが世界成立のために貸し与えた時間という条件からさえも自由な直観となる時、可能なるものの世界も実在として創造される。「理念が真に理念自身に返り、理念自身が自覚した時、いわゆる実在的なるものは可能なるものの中に包まれ、時は時自身の意義を失って直観の世界があらわれる。時は実在を見る形式ではなく、働く創造の形式となる。此においては、種々なる空想の世界も客観的意義を有するのである。自由我の立場においては、我々は種々の世界を同列的に見ることができる。物理的世界といえども可能的世界の一に過ぎない、我は自由に種々の世界に出入りする」(59-60)。
意志はその直観的理念に従って、世界を構築する自由と力をもつ、というのが西田の結論であった。この短い科学哲学論文が重要な意味をもつのは、その論旨が、後に西田が戦時下の1944年(昭和19年)前後に書いた一連の「国体」論に直結するものだからである。この西田の「国体」論は、一方では、1942年の時局を巡る二つの座談会、『文学界』での「近代の超克」および『中央公論』での「世界史的立場と日本」での京都学派の発言と一体のものであり、他方では、同年の東條英樹首相の国策演説の骨子となったものでもあった。1 「世界新秩序の原理」と題された付録三を含む「哲学論文集第四補遺」全体の主題は、理性と民族はそれぞれに「歴史的世界形成の使命」をになうというものであった(『西田幾多郎全集』第十二巻 397)。先の科学哲学論文では、世界形成の能力としての「意志」が強調されていたが、ここでは、形成されるものが理念によって秩序付けられたひとつの世界であることに力点がおかれ、「理性」が強調されている。「第四補遺」の最大の眼目は、先に論じられた観念的な世界形成論が、いわば歴史主義的転回を経て、歴史の中で実際に建設されうる民族・国家としての世界形成論へと発展させられている点にある。そしてこの転回を可能にしたのが「歴史的身体」という概念である。「世界自覚の時代」に、理性は自らの自覚的理念に従ってあるべき世界を構想するが、この理念的構想を、実在的歴史的世界の中で世界秩序として実現するのが「歴史的身体」である。この「歴史的身体」は、身体と精神の分裂もしくは矛盾―質量と形相、特殊と一般、個と全体、内在と超越の矛盾―を、「民族」および「国家」という有機的統一体の中で「矛盾的自己同一」として止揚する。このようにして、「歴史的世界の自己形成の形」としての「国体」の概念が生まれる。「世界的世界形成主義」に基づく「世界史的立場」から見られる時、この「国体」とは、個別国家内部での個と全体の有機的統一の形であり、国家と国家間での個と全体の有機的統一の形である。この有機的統一体は、具体的には、前者では「神国日本」として、後者では「東亜共栄圏」として、現実の歴史世界の中で実現されるべきものとされる。有機的統一のあり方は、「職分的に」区別されて、形相が質料に秩序を与えるという形をとるが、この統一体の中心を占める形相を具現しているのが、前者では「現人神」としての天皇であり、後者では「神国日本」とされ、この中心と周縁との有機的結合を保証するのが、前者では「大政翼賛体制」であり、後者では「八紘為宇の原理」であった。2 
 

 

以上論じてきた二人の「近代の超克者」、ラフカディオ・ハーンと西田幾多郎は、それぞれ1904年そして1945年の死の前年に、それぞれの「神国日本」を発見したといえる。ハーンは死んでなお、40年の間、霊となって死後の生を生き、彼の「近代の超克」という課題を負った「神国日本」の行く末を見守っていたと言えるかもしれない。1914年田部隆次の評伝『小泉八雲』が出版され、翌1915年には、大正天皇即位に伴う大礼記念叙勲によりハーンに従四位が追贈された。英和対訳本集全9巻が1921年に、翻訳全集全18巻が1926年に出版される。1933年には松江に「小泉八雲記念館」が開館、1935年に富山大学付属図書館に「ヘルン文庫」が開設される。1942年(昭和17年)には、田部隆次による『神国日本』改訳版が出版されるが、その訳者解説で田部は、「著者の見た日本は、約四十年前の日本であった。欧米の資本の侵略に関する著者の憂は、幸いに杞憂に過ぎなかったとも云える。しかし、著者の洞察には今なほ傾聴すべきものが多かろう」(2)と述べ、「日本の『神国』たる所以、ホオマア以前のギリシャを除いて、外に類例を見ないこの『神国』の意味を強調した部分・・・著者の見た日本精神」について説明した後、ハーンの靖国神社の記述に関して、「著者が逝いて三十三年、今日の明治神宮、東郷神社、乃木神社に額づく日本人の姿を目撃することを得たとすれば、彼はあたらなる感激と共に共鳴したであろう」(8)と結んでいる。その間、1913年(大正2年)に上杉慎吉が「現人神」論を、同年に田中智学が「八紘一宇」説を発表、1917年に「臨時教育会議」が「国体の本義を明徴にする」ことを求め、それは、文部大臣による「国体明徴の訓令」および「国体明徴声明」を経て、1939年の「国体の本義」としてまとめられた。同年に近衛内閣による「東亜新秩序建設声明」が出され、1941年には「臣民の道」が文部省教学局より刊行された。もちろん、このような時局の進展は死んだ後のハーンにとっては与り知らぬことである。しかし、このような歴史的動きの前史の中にハーンを置いてみるとき、それは我々のハーン像に大きな影響を与える。大戦後、いつの間にか定着した観のある「日本人以上に深く日本精神の本質を理解し体現した外国人」というハーンの通俗的イメージの歴史的無批判性の問題点はまさにここにある。
敗戦によって「大東亜共栄圏建設」の夢が破れ、「近代の超克」論が戦前の軍国主義イデオロギーとして葬り去られようとしていたころに、竹内好は、単なるイデオロギーのなかから真正の思想を救い出し、「近代の超克」論が提出した問題意識の有効性を継承しようとした。それが、アジア本質主義を拒絶し、この本質なるものによって正当化される帝国建設の企てを否定する、「方法としてのアジア」であった。この「方法としてのアジア」を引き継ぐ形で、子安宣邦は、21世紀日本で公的言説にも現れてきた「東アジア共同体」という新たなスローガンに強い警告を発して、次のように述べている。「二十一世紀の現代における『方法としてアジア』とは、人間の生存条件を全球的(グローバル)に破壊しながら、己の文明への一元的同化を開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否(ノン)を持続的に突きつけ、その革新への意思を持ち続けることである」(『「近代の超克」とは何か』252)。ここにいう「覇権的文明とそのシステム」がアメリカを中心とし、日本が追随するいわゆるグローバル資本主義の謂いであることは明白であるが、そこには又、ヨーロッパ近代文明および帝国主義に対する、日本を盟主としたアジア文明―大東亜共栄圏―の徹底抗戦とされたものが、同時に、アジアに対する日本自身の帝国主義的侵略戦争でしかありえなかったという、二重の意味を抱え込んだ、竹内好の言う「日本近代史のアポリア」であったことへの深い自覚が込められている。従って、子安は、「エセ文明」に「否をいうアジア」の可能性は、「植民地・従属的アジアから自主的アジアへと転換させた創成アジアの意思を、殺し・殺される文明から共に生きる文明への転換の意志として再生させる」ことにある(253)とし、日本がそのようなアジアの真の一員となる出発点は、「戦争をしない国家としての戦後日本の自立、、、その非戦国家への意思」(253)を再確認することであると結論づける。
こうした「近代の超克」論再考の動きに呼応するかのように、近年のハーン研究の焦点も、日本精神の理解者としての小泉八雲から、クレオールとしてのラフカディオ・ハーン、その混淆性、移動性、越境性へと移ってきたように思われる。自分を追放したヨーロッパ近代を自らの意志で追放しかえすこと、そしてそのことを通して、あらゆる「覇権的文明とそのシステム」を拒否し続けること、それは同時に、覇権的システムとしての国民・国家の中の片隅に囲い込まれたマイノリティーに寄り添うことであり、グローバル化された文明・帝国の中に散在する無数のローカルな土地・風土・文化をローカルなものとしたまま連結してゆくこと、驕りたかぶった生者達の王国の喧噪の中に虫たちの声を、そして死者たちの声を聴きとろうとすることであった。このようなハーンの「近代の超克」のための方法論は、今日でも有効であるように思われる。それは、西田が断じたように、単なる感傷や空想ではなく、むしろ、それは「近代の危機」という歴史的な刻印を、ヨーロッパ世紀末の刻印を帯びている。文学者ハーンを正当に位置付けるべきは、まずは、英文学史だろう。その中で、「近代文学」そして「国民文学」の終焉の証人として、そして、「近代以降」、「国民以降」の文学―英文学史上のモダニズム文学―の前触れとして、トランスシルヴァニアの吸血鬼を描いたストーカー、サモア諸島に渡ったスティーヴンソン、緑のカーネーションを身につけたワイルドらと相並ぶことになるだろう。英文学史の19世紀末の章の中で、ハーンが立て、そして実践した「近代の超克」という主題とその方法に一節が割かれてしかるべきであるように思われる。 
 

 

おわりに
つまるところ、ハーンの見た「神国日本」は幻想にすぎなかったのだとすれば、西田が見た「東亜共栄圏」もまた幻想にすぎなかった。敗戦後、日本はいちはやく西田の「東亜共栄圏」の幻想から目覚めた。とすれば、同時にまた、我々はハーンの「神国日本」の幻想からも目覚めるべきだろう。
「日本」像をめぐる我々の歴史には、戦前と戦後の間、そしてハーンと西田の間に、奇妙な断裂線が引かれているように思われる。戦前の西田の「日本」像を幻想として暴き、そこから覚醒するために、戦後の我々はハーンの「日本」像を実像として必要としたかのようである。それはちょうど、西田をはじめとする京都学派が彼らの「大東亜共栄圏」、「万世一系の国体の精華」を日本の実像として構成するために、ハーンの「日本」像を単なる異邦人の感傷的な虚像として貶め、黙殺しなければならなかったことと符号する。「幻想」を打ち破ろうとするものは常に、己れ自身を「本質」として呈示する。しかし、この「本質」なるものが、もう一つの、新たな幻想にすぎないことを暴くのは、先に打ち砕かれたはずの「幻想」が、新たなる「本質」として蘇ってきた時なのである。
「日本」そのもの、「日本」なるものとは、決して永遠不変の本質ではなく、「日本」をめぐる様々な幻想の歴史によって産み出された、その都度の、暫定的な視覚的効果に他ならない。ヘーゲルの『歴史哲学講義』から西田の「人間の歴史的発展の終極の理念」に至るまで、およそ「本質」を見出したと称する歴史そのものが幻想であり、「歴史記述」という物語行為の効果に他ならないのである。事物にそそがれた人間の眼の前に、すべては幻像として立ち現れる。物理現象の背後に、「日本」という国土とその山河の背後に、人間の眼は精神的な意味世界を、本質の王国を、あるいは霊の国を夢見てしまう。見えるものの真理は常に見る者の視力の関数であることを免れえない。そして、その視力自体が、見て観察するのみならず、夢想し欲望する人間の眼の諸能力の、その都度その都度の、配置形態もしくは分布状態の効果にすぎないのである。事物の可視性と人間の眼の視力の出会うところに、無数の像が結ばれ、それぞれが「神国日本」、「大東亜共栄圏」と、また、「旧日本」、「国体の精華」と名づけられ、あるいはまた、「本質」、「歴史」とされてゆくのである。ハイデッガーの「世界像の時代」によれば、近代の本質は、世界が主観の「前に・立て・られた」(つまり「表・象」された)像として立ち現れることにあるが、この近代を「超克」すること、つまり、人間の眼の外へ出て、眼を経由せずに、表象の背後にある世界そのものを「見る」こと、言いかえれば、幻想光学の圏外に脱出することは、今もなお、きわめて困難な夢想的な企てであるだろう。だとすれば、現代の我々は、今もなお、実は、ヨーロッパ19世紀末を生き続けているということになるのかもしれない。  
注1 「哲学論文集第四補遺」の執筆と発表の経緯については『西田幾多郎全集』第12巻の注(470-473)を参照のこと。軍の要人を相手にした西田の講話、西田の草稿の田邊壽利による部分的書き換え、東條英樹の国政演説での利用、等の実際についてはより精緻な書誌的研究が必要であるように思われる。後の昭和34年に行った講演の中で田邊は、講話会での軍部の前線視察報告に対しての西田の反応について、次のように述べている。「そうしたらいきなり先生は『しょうもなしに何を言うか』と一喝された。『何だそれは、帝国主義ではないか。共栄圏である以上、皆が満足しなければ共栄圏ではない、勝手にこちらから決めて共栄圏だと、ああせい、こうせいというんだったら強制するんだから、皆他の自由意志を束縛するんだ、そんな共栄圏はないもんだ』・・・西田先生はそういう様に言われた」(471)。この「文脈の不明な箇所が多い」田邊の講演筆記のみにて、西田が単に軍部の没理念的な堕落を嘆いているのか、あるいは、後に竹内好が「日本近代史のアポリア」と名付けるものの危険性について西田がいち早く危惧の念をもっていたのか、にわかに断定するのは難しい。
注2 少し長くなるが、ここで「世界新秩序の原理」、特にその後段から、西田自身の言葉を引いてみる。「各国家民族が自己に即しながら自己を超えて一つの世界的世界を構成すると云うことは、各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、先ず一つの特殊的世界を構成することでなければならない。而して斮く歴史的地盤から構成せられた特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。かかる世界的世界に於いては、各国家民族が各自の個性的な歴史的生命を生きると共に、それぞれの世界史的使命を以って一つの世界的世界に結合するのである。これは人間の歴史的発展の終極の理念であり、而もこれが今日の世界大戦によって要求せられる世界新秩序の原理でなければならない。我国の八紘為宇の理念とは、此の如きものであらう。(中略)東亜共栄圏の原理も自ら此から出て来なければならない。従来、東亜民族は、ヨーロッパ民族の帝国主義の為に、圧迫せられてゐた、植民地視せられていた、各自の世界史的使命を奪われてゐた。今や東亜の諸民族は東亜民族の世界史的使命を自覚し、各自自己を越えて一つの特殊的世界を構成し、以って東亜民族の世界史的使命を遂行せなければならない。これが東亜共栄圏構成の原理である。今や我々東亜民族は一緒に東亜文化の理念を提げて、世界史的に奮起せねばならない。而して一つの特殊的世界と云うものが構成せられるには、その中心となって、その課題を荷うて立つものがなければならない。東亜に於て、今日それは我日本の外にない。(中略)今日の世界的道義は・・・各国家民族が自己を越えて一つの世界的世界を形成すると云うことでなければならない、世界的世界の建築者となると云うことでなければならない。我国体は単に所謂全体主義ではない。皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来たった所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである」(428-430)。
 
「もう一つの日本」としての出雲―虚像と現実― / クラウス・アントーニ

 

神国とは日本の聖なる名称である
神国、「神の国」;そして、その神国の中で
もっとも聖なる土地が出雲の国である
   ラフカディオ・ハーン 1
出雲の場合をみると日本列島各地に
明確な自主独立の旗を上げ続けた首領を仰ぐ支配層が
ほかにも存在したことが分かる
   Piggott  
1.はじめに  

 

19 世紀末に向けて日本に住み、その作品をもって今日にいたるまでの西洋人の日本人観を作り上げたラフカディオ・ハーン(1850-1904)が、異国情緒あふれるロマンに満ちた日本を伝えて以来、出雲地域は、完璧な「もう一つの日本」を代表すると考えられてきた。それは近代日本と対峙する、真実なる、正真正銘の、「実際の」日本という意味においての「もう一つの日本」である。ハーンのこの理想に対する熱意は極めて大きく、彼は松江での小泉セツとの結婚後、日本に帰化し(1891)、彼が過ごした松江での思い出として、出雲の枕詞を自らの日本名2にしたほどである。それは八雲(「八つの雲=多くの雲」)が立ち上るところである。この表現は、また、直接的に出雲信仰、出雲大社を指すものである。なぜなら、それこそが、神話が語るごとく八雲立つところだからである3。
しかし、我々は、ハーンによるロマン主義的出雲の変容をもって、この地域の客観的な文化的、宗教的歴史の領域に入るわけではなく、むしろ近代日本におけるその独自性に関する観念的なディスコースという複雑な領域に入り込む。そのディスコースはかなり出雲によって活気づけられたところがある。それはまさに国学者、平田篤胤の仕業であった。篤胤は、幕末の復古神道において最も重要な先駆者であり思想家として知られている人物であり4、古代、「純粋」日本のシンボルとしての出雲のイメージを形成する上で絶大なる貢献をなした人物である。この点については後で改めて注目する。
日本文化の発展という文脈において出雲が特別な位置を占めたとする思想は、しかし、篤胤以前からすでに存在した。それは、神話の時代、また古代から今日まで、(出雲)地域の独自性と地域性に関するディスコースに脈々と流れてきたものである。また、その見解の中では、文化的独立の維持が叫ばれてきた。それは、特に、日本の国民思想においては精神的、政治的中心である伊勢に対する出雲の有名な競争心むき出しの行動において顕著であり、明治時代のいわゆる「祭神論争」にも例をみることができる。『古事記』『日本書記』そして『出雲風土記』に初めて記された神話の記述以来、出雲の文化と信仰は、大陸、特に朝鮮への志向性が強かった。この異文化との接触、文化を超えた交わりへの基本的開放性故に、出雲は今日でも、しばしば自国の殻に閉じこもりがちで自己得心型の「公式」日本とは顕著な違いを見せている。
従って、様々な面で特殊かつ魅力的な出雲の歴史と文化及びその受容について徹底的に検証することは価値あることであり、限定的な日本地域研究の領域をはるかに超えるものとなる。 
1 この文は、ハーンの日本に関する最初の作品『知られざる日本の面影』に収録されたエッセイ「支豆支:日本最古の社」[Hearn 1997:172-210]の冒頭である(172 頁)。
2 ハーンは自分の帰化について、1986 年2 月に日本政府からの正式な文書で知らされた。彼はその文書に初めて新しい自分の姓名である小泉八雲と署名した[Hori 2002]。
3 『出雲風土記』の94-95 頁及び98-99 頁参照[秋本校註 1958]。また、その註19 も参照。
4 特に、[Antoni 1998:142-150]参照。 
2.千家尊祀と出雲の国造  

 

つい先ごろ、日本国民にとってどうしても出雲を意識しないわけにはいかない出来事があった。2002 年の春、それまでの50
年間日本の宗教と文化における出雲の特殊性を誰よりもよく象徴していた人物の死について全国メディアが詳しく報じた時のことである。千家尊祀は、出雲大社の宮司であったが、2002
年4 月17 日、89歳で没した。千家尊祀死去の報は、その特殊な立場故に特別な関心を呼んだ。千家は、報じられた通り、国内で最も重要な神社の一つである神社の宮司であったばかりでなく、『古事記』『日本書紀』によって日本の古代・神世の時代までさかのぼるとされる役職を継いだ83代目であった。それは出雲国造といわれる役職であり、「出雲国の領地を治める者」の意味を持つ。千家尊祀は、代々この職を受け継ぐ家のものとして1947年にこの職を継いだ。國學院大學を卒業後、近代日本で最も重要な二つの神社である伊勢神宮と明治神宮で神職としての修養を積んだ後の事である5。
出雲国造の職においては、今もって、日本国内における出雲の文化的、宗教的、そしてしばしば政治的な独立性に関する出雲のまぎれもない主張が表出することがある。残念ながらここではこの役職の歴史について詳しく論じることはできないが、少なくともいくつか歴史の基本については言及しておかなければならない。
国造(くにのみやつこ)
まず、日本の古代史に注目する。大和の国の形は、6 世紀、つまり645 年の大化の改新以 前は、明確な社会的、政治的秩序によって特徴づけられていた。社会は氏(うじ)、部(べ)、家(や)つ子という集団にわかれていた。この制度では、氏集団は氏神からその姓を受け上流階級を形成した。その長は氏上(うじのかみ)であり、氏上は神主でもあった。「部」(労働階級)は、氏族に役務を提供する形で従属していた。その仕事は、手工業、農作業、及び兵役(例えば「物部」がそれである)であった。社会の底辺には家つ子(奴隷階級)がいたが、彼らは、総人口のおよそ5%に過ぎなかった。時代の経過とともに、氏族はそれぞれ勢力を拡張し、日本におけるその後の封建制度の萌芽を思わせるものとなっていった。臣下となった氏そして隷属した氏が勢力の強い氏族に吸収され、その領土は「国」となり――大化の改新後は単なる「一地方」となって――地方行政官、国造6により統治されるようになった。この役目は、その所有する土地ゆえに権力を持っていた当該地方の最も重要な氏族のメンバーが担った。
国造家は、従って、もともとは独立した地方の首領7であり、後に新たな中央の大和政権に封建的な関係で隷属するようになったものである。国造家は、出雲のように重要な信仰の土地にある場合を除いて、通常は明確な神主としての機能を持つものではなかった。国造のほかに、いわゆる伴造(とものみやつこ)がいたが、ここではこれについてはこれ以上論じない。645年の大化の改新とともにこの制度は終わりを告げたが、個々の身分は律令国家制度においても残った。しかしこれ以後は、国造家は先祖代々受け継いだ領地において単なる地方行政官として機能するにすぎなかった。その一方、新たに作られた国は中央の貴族により統治されることとなった。隷属させられた地方の為政者はその地位を追認されたことは確かだが、最終的に中央政権を受け入れたのである。しかし日本国内で唯一国造の称号が残った地域がある。それが出雲8であり、出雲が宗教的権威と中央の天皇家からの独立を要求したことと関係する。千家尊祀の死去を伝える各種報道は、この役職とその暗示的要求が今日でも、少なくとも形の上では残っていることを示している。
出雲国造の役職は、日本史上あらゆる画期を通じて厳として存在し続け、明治時代9に広がった創られた伝統と「伝統主義」の部類には属さない。中世以来、出雲の古代領地の為政者間で対立10が発生した時は、こうした分裂により発生した千家と北島家の両家が、千家家当主が明らかに上位にあったとはいえ、交代でこの役職を担ってきた。 
5 『朝日新聞』2002 年4 月19 日付。[編注:初出では以下にオンライン版の新聞記事へのリンクが記載されていたが、既にアクセスできないため削除した。]
6 「国造」の制度に関しては、[Piggott 1997:97][新野 1981]参照。また、[Wedemeyer 1930]がすでに日本古代史の観察するなかで、「国造本紀」を研究している(同書235 頁以下)。「国造本紀」は聖徳太子と蘇我馬子の著作で、『先代旧事本紀』の第10 巻 におさめられたとされる。「国」という言葉について、著者は645 年の大化の改新以前と以後とで「国」の概念が異なることを強調している[同:236]。
7 [Wedemeyer 1930]は、この役割についてドイツ語では“Hausknappe”すなわち「みやつこ」(中世の「家つ子」)と、“貴族の息子、子供”すなわち「封建氏族に依存する者、後の封建領主に仕える武士」と訳している(『日本国語大辞典』18 巻666 頁参照[日本大辞典刊行会編 1972-1976])。
8 [Naumann 1988:122,127,173]参照。
9 明治期の「伝統主義」の概念に関しては、[Antoni 1998]の250 頁以下を参照。
10 [Schwartz 1913:539]参照。国造の歴史に関しては、同書の補遺を参照。 
3.神話に見る根拠  

 

出雲国造は、その突出した立場を日本の宗教、特に神話的伝統に根拠を置いており、神である天穂日命直系の子孫であるとする。歴史家としてSchwartz[Schwartz 1913:533-]がすでに述べたように――それは当時その歴史的重要性を持った研究を行った後のことだが――この一族の原点はおそらく大陸系の部族の支配者であったであろう。James Murdochはこれとの関連で伝説的言い伝えをもつ熊襲に言及する11。周知のごとく、出雲神話は、日本の古典『古事記』『日本書紀』の中でも独自の位置を占めており、主に天皇家の伝統に関するいわゆる大和と筑紫の神話に比べて明らかに異色を放っている。出雲神話では、大陸系、すなわち朝鮮系の系譜が明らかである。このことは出雲の神々の中でも主役の一人、スサノオノミコトが大陸系とされるところにも表れている12。 
3.1 『出雲風土記』  

 

これまでにあげた著作の他にも、特に出雲地方の情勢を記した『出雲(国)風土記』(733年)13が、はっきりと出雲文化の大陸的要素について述べている。その中では「国引き」神話が注目される。島根半島の一部、古代出雲地方の中心地域は、大陸から4 分割された陸地が神の剛腕によって引き寄せられ出雲の国とつながったものだとされる話である。その最初の陸地部分は、朝鮮王国、新羅から引き寄せられた14。『出雲風土記』には、冒頭から以下のように記されている。

国引きましし八束(やつか)水(みず)臣(おみ)津野(つのの)命(みこと)15、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾、新羅紀の三崎を、国の余ありやと見れば、国の余あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々と引き来縫へる国は、去豆の折絶より、八穂爾支豆支の御埼なり16。

この最初のエピソードの後には、さらに対岸の他の土地を引き寄せる3 つの「国引き」神話が続き、最後には合わせて4 つの国が引き寄せられて終わる17。八束水臣津野命は、他の文献ではほとんど触れられていないのだが、『出雲風土記』の中では、出雲の主神として登場する。一方、皇室にまつわる文献では、出雲信仰にとって極めて重要な三神が登場する。すなわち、須佐之男、大国主――別名が多いが、特に大穴持としても知られる18――そして少彦名毘古那命である。 
3.2 出雲神話19

 

『古事記』には、須佐ノ男/須佐乃鳥とその子孫であり「偉大な国の統治者」である大国主の神話のくだりがある。その中では皇室の祖先である天照大神は登場しない。複雑な神話の語りは、一連の神話的年代記に織り込まれているが、出雲の景観の中で進められていく。本来、野蛮で荒々しいスサノオは、ここでは、その悪しき暴力的な側面が鎮められ、ずっと穏やかな人物として登場する。出雲を治めるべき神としてのスサノオの地位は、ついには大国主に受け継がれる。
出雲系の神々は、記紀にはいわゆる「国津神」として登場する。一方、天照系の神々は「天津神」に属す。天津神たちは、天津神による地上の統治を要求するため、地上に代表を送り込むこととする。この説話は、しばしば歴史的には独立を維持していた出雲地域と新たな中央の大和政権との対立と解釈される。複数の神々の遣いが派遣されるが、大国主は、そのすべてを拒むことに成功する。大国主はやがて杵築の宮に隠れる。杵築大社――今日の出雲大社――はこの神の宮の遺跡と見られている。
大国主が国を譲った後には、天皇家を正統化する重要な説話が続く。天照は皇孫ニニギを地上に送り、その統治が始まるのである。その後は、日の女神の子孫以外に統治権を握るものは出ない。出雲の神々は、これ以後、従属的な地位へと落としめられたのである。
しかし、出雲信仰がその独立を証明するのは、このような歴史的寓話においてのみのことではない。多くの文献等が出雲信仰の大陸――中国と朝鮮――並びに島嶼地域や東アジアや東南アジアの宗教との密接なつながりを示唆している。道教的伝統とのつながりは、Naumann の研究20で明らかにされたように、明白である。しかし、東南アジアの神話や宗教的概念とも密接なつながりがある。たとえば、島嶼国(インドネシア)や琉球諸島の信仰にみる概念とのつながりもあり、出雲の文化をいわゆる日本列島の古代文化に見る南の要素と密接に結びつけている。
特に重要なその一例は、出雲神話にみる死後の世界の概念、根の国と常世の国である。複雑な「常世」の国に関する思想のすべてを超えたところに、初期の日本の信仰体系の根本領域への接点が開かれる。
「常世の国」は、記紀には散発的な描かれ方しかしていないが21、これら8 世紀の文献では「出雲」と常世との切り離しがすでにできていたと言えるかもしれない。常世は8 世紀に記紀を編纂した人々によって、道教でいう極楽の概念と同じととらえられていた。『日本書紀』の神世の後のくだりでは、明らかに道教的な極楽が描かれている。これは、中国文献中の記述が『日本書紀』のモデル22となっていたとの証明であるとも言える。しかし、中国の道教的改編は、もともとかなり古代からあったことをいかにも新しいことのように主張する比較的表層的で、時代錯誤のやり方である。常世はこれまでの研究者により「マナ」として活力を発散する死後の世界であると認識されてきた。つまり、それは日本の様々な記録に残る別の死後の世界(黄泉の国)のように暗い死の世界ではなく、むしろ「生命力を授ける島々」のような国であり、それは特に東南アジアやオセアニア的な信仰の世界23から来るものであることが認識されている。
こうした考え方はマレー半島やインドネシア諸島の原住民族の間によくみられるもので、その文化は、いわゆる日本文化の「南方要素」という文脈における原初日本の信仰や価値観とも密接な関係を示している。
しかし、日本神話の中の海を越えた神秘の国の具体的特徴は、これら神話上の人物の性格によってのみ明らかにされる。それらの人物は、神々として、記紀において常世の国と結びつけられている。ここでその複雑かつ自己完結的で、主には月の世界の神話という想像の世界24を考察することはできないが、この伝説的世界観の中心にあるのは出雲神話の中心的二柱の神々であることを強調しておくべきであろう。すなわち、少彦名毘古那命と大国主――別名大己貴、また別の名を大物主――という出雲の主神であるが、さらに出雲と密接なつながりのある大和の三輪山の神についても言及しておかねばならないだろう25。
少彦名金毘羅命も大国主命も記紀の中では、真の造化の神とされており、文化的英雄でもある。日本神話にあるように、この二柱の神々は力を合わせて世界を造りだしたのである。そして病気治癒の方法をもつくり出した。江戸時代の国学者にとって、薬師の原点が少彦名金毘羅と大国主にあったことは疑う余地のない事実であった。また、平田篤胤がこの文脈において初めて語源学のレベルで注意を喚起したことはよく知られている。つまり「不思議にも素晴らしい」という意味の「奇し」と「薬」とが同じ語源を持つことを指摘した26。「縁起」や「天恩」はこれらの神々からもたらされるものであり、両神は互いに互いの分身であったから、究極的には一つであった。このことと分かちがたいつながりを持っていたのが、常世の国の概念である。それは海の向こうにある常に変わらぬ国として天来の力の源泉を意味するものであった。加えて両神は聖なる精神高揚の妙酒、すなわち神酒の神でもあり、その神酒――あるいはまた三輪とも呼ばれる――は、この二柱の神から人への贈り物としてこの世におくられたものとされる。ここにおいて、この二柱の神々はまた統治者として顕れているのである。これと密接につながりを持っている概念は、愛と性における生命の再生の概念――たとえば三輪の伝説がある――であり、陶酔における生命の再生の概念である。陶酔をもたらす神酒はこの二柱の神がもたらしたと古代から唱えられ、その神々は自ら神酒に顕現する。歌にも人間でなく、神みずからが造った酒のことがうたわれているのである。
大国主命が愛と性とにつながるという信仰は、それに対応する信仰伝統に残されている。大国主、出雲の大神は、今もかつてと変わりなく――縁結びの神として――男女の運命的な縁結びの神として人気を博す27。日本全国いたるところで、大国主命は幸せな結婚をもたらす神として知られている。全国の神社の中でも、出雲大社はこの意味においてきわめて重要な存在であり、出雲大社の祭神は、全国で縁結びの神と見られているのである。従って、今日、出雲大社は、その結婚式場の広告宣伝の中で特に大国主命を縁結びの神として強調している28。しかし、この概念は古代の出雲信仰にはなかったものであり、近代になって作られたものである。それは、最も早い時期としては、徳川時代後期の杵築大社の御師にさかのぼる29。今日では、商業的結婚式が有名な出雲の名を利用して行われており、出雲大社や出雲信仰に何らかかわりのない人に対しても神前結婚が行われる。ここでは、「出雲」は一つの製品のブランド名になっている30。この関連で述べておくべきは、大黒天のことであるが、七福神の一人、大黒天も大国主命と関係している。しかしこれは単に名前が似ているというだけで借りてこられたものである。出雲大社の祭神の名前のなかで「大きな国」を意味する部分の漢字「おおくに」が「だいこく」とも読めることに由来しているが、結局はこの二つの神々の関係は、単にこのように名前が似ているということに過ぎない31。 
11 Schwartz は、この『日本歴史』(1 巻、1910:50)より、以下を引用している。「出雲国は朝鮮系熊襲を先祖に持つ中国系の民族によって打ち建てられたが、『朝鮮系熊襲の言語』の習得を強いられた」[Schwartz 1913:533, note]。
12 [Naumann 1996:123]も、『日本紀』の中にあるいくつかの神話物語にみるスサノオの「奇妙な朝鮮とのつながり」を特記している。
13 『出雲風土記』の本文については、『日本古典文学大系』第2 巻を参照[秋本校註 1958]。翻訳としては、Michiko Yamaguchi Aoki によるものがあるが[Aoki 1971]、これについては問題がある箇所もある。現在、スウェーデンのAnders Carlqvist が『出雲風土記』の諸側面について研究している[Carlqvist 2004]。
14 Joan Piggott は、「雄略大王」時代の出雲と新羅の貿易関係について、「出雲人は半島と、特に新羅との貿易関係を維持するに地の利を得ていた」と指摘している[Piggott 1997:54]。
15 加藤義成は、この神の名を「ヤツカミズ-オミズヌ ノ ミコト」と読んでいる[加藤 1997:5]。
16 「国引き神話」は、いくつかの版にて刊行されている『出雲風土記』において見ることができる。例えば『日本古典文学大系』第2 巻[秋本校註 1958]の99-103 頁、[加藤 1997:5-7][川島 2001:10-12][名村 2001:9-14]など。英訳としては、[Aoki 1971:82-83]参照(ただし部分的に不正確な英訳があり問題もある)。なお、本文中の引用は『日本古典文学大系』第2 巻の99-101 頁より[秋本校註 1958]。
17 Hearn は、この「神道伝説」を以下のように要約している。「次のように言われている。初め出雲の神は、その国を眺めて言われた、『この新たな出雲の国はごく小さな国である。そこで私はこれに土地を加えて拡大しようと思う。』そういうと、神は朝鮮の方を眺め、この目的にぴったりの土地があると思った。そこで神は巨大な綱をもって4 つの島を引き寄せ、それを出雲の国に付け加えた。最初の島はヤオヨネとよばれ、今の杵築の地を作った。二つ目の島は、狭田の国、今の大社が造られた地で、毎年杵築で最初の神々の会合を開いた後、第2 の会合が開かれる地である。第3 の島は新たになった土地では闇見の国と呼ばれたが、現在の島根郡である。第4 の島は、今は、かの大神の宮が建ち、信心深き者たちに田の守護をもたらした。これらの島々を海の向こうからいくつかの地域に引いてくるに当っては、出雲の神はその大綱を堅固な大山の山にかけ、また佐比売山にかけた;そしてこの二つの山は今日に至るまで不思議な綱の後を残す。一方この綱については、その一部は夜見浜と呼ばれる古代の長い島となり、また園の長浜となった」[Hearn 1997:180-181]。
18 大国主は神話では様々な名前で登場しており、『日本書紀』では以下のように記されている。「大国主神のまたの名は大物主神、またの名を国作大己貴命。またの名は葦原醜男。またの名を八千矛神。またの名を大国玉神。またの名を顕国玉神。その子供は総勢181 神を数える」[坂本ほか校註 1967:128-129]。大国主、大己貴、大物主の特性に関しては、[Naumann 1988:92-93]を参照。
19 出雲神話についてはすでに多くの研究がなされているが、特に以下を参照。石塚尊俊編 1986『出雲信仰』雄山閣出版(東京)、[伊藤編 1973]、松前健 1976『出雲神話』講談社現代新書(東京)、松村武雄 1958「天孫民族系神話と出雲民族系神話」久松潜一ほか編『古事記大成 第5 巻』平凡社(東京):31-69、三品彰英 1971「出雲神話異伝考」『三品彰英論文集 第2 巻 建国神話の諸問題』平凡社(東京)、水野祐 1994『古代の出雲と大和』大和書房(東京)、水野祐 1972『古代の出雲』吉川弘文館(東京)、[Piggott 1989]、佐藤四信 1974『出雲国風土記の神話』笠間書院(東京)、千家尊統 1968『出雲大社』学生社(東京)、千家尊宣先生還暦記念神道論文集編纂委員会編 1958『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』神道学会(東京)、神道学会 1968『出雲神道の研究』神道学会(東京)、神道学会編 1977『出雲学論攷』出雲大社(大社町)、鳥越憲三郎 1966『出雲神話の成立』創元社(大阪)、WatanabeYasutada. 1974. Shinto Art : Ise and Izumo Shrines, tr. Robert Ricketts, Tokyo: Heibonsha.
20 Naumann は、出雲文化の中の非日本的要素を幾分詳しく論じ、この文脈における道教の概念を明確に指摘している[Naumann 1971:249;同 1996:34,139]。
21 [Antoni 1988:133, note260]に、原文献への詳しい言及がある。また、[同 1994:23-30]を参照。
22 『日本書紀』垂仁天皇記100/3/12 を参照[坂本ほか校註 1967:280]。また、その註では中国語の文献『列仙伝(列子)』に言及している。[Bauer 1974:245-246]参照。
23 [Antoni 1982:201-213, 296-297]において、原文献への詳しい言及がある。また、[同 1988:89]参照。
24 [Antoni 1982]を参照。
25 [Antoni 1988][Naumann 1988:92-93]参照。
26 平田篤胤「志都能石屋」(『平田篤胤全集』第1 巻14 頁、1911 年)。
27 [Antoni 2001]参照。また、[朝日新聞社編 1979:5, 48]も参照。
28 http://www.izumo.com/kustani/index.html. 参照。
29 [國學院大學日本文化研究所編 1994:318]参照。
30 例えば大宮や東京の結婚式場、出雲会館はそのウェブサイトに出雲大社と直接言及している。「出雲殿グループ」は、浜松に本社を持ち、全国に代理店を置いているが、非常に大々的な規模で展開している。その豪華な施設は、どんな結婚式でも執り行うことができる。http://www,.izumoden.co.jp/1st.htm.参照。
31 大黒天に関しては、[Ehrich 1991:117-188]の、特に132 頁を参照。 
4.近代 

 

出雲地方の歴史は、古代から今日までの国造の歴史を通して顧みることができる。この神職の家は、すでに説明した通り、神である天穂日命の直系であると主張しており、古代の文献によると天穂日命は、出雲を統治した豪族の先祖であるとされている。天穂日命は、大国主命を従わせようと、日の女神、天照大神が地上に遣わした神であったが、「寝返って」大国主命の側についた神である32。『日本書紀』では、この神は出雲の豪族、出雲の臣、すなわち出雲国の領主の先祖であったとされている33。先祖が神の降臨であったことから、歴史的由緒ある宮司の家(千家家)は、後に、天皇のみが持っていた特権、「生き神」として受容されるという特権を要求した。
すでに江戸時代から、出雲は「純粋」神道という思想において先行していた。神仏分離令、すなわち土着の神と蕃神である仏とを分離する施策は、1868 年の明治維新にともなって、出雲以外の全域で実施されるようになったが、この施策はいくつかの地域ではすでに江戸時代から実施されていた。杵築大社(今日の出雲大社)は、いわゆる寛文時代(1661-73)の神仏分離を実施に移し、それを後々まで継続した全国でも数少ない神社の一つであった34。したがって、出雲は近代において1868 年以降全国各地で行われた過度の廃仏運動による神仏分離を免れた。同時に、出雲ではそもそも短期間しか存在しなかったシンクレティズムが早期に排除され、特に政治的に過激な国学思想家・平田篤胤には魅力的であった古代日本の信仰と文化の場としての出雲の近代イメージ作りに功を奏した。 
4.1 平田篤胤35  

 

平田篤胤は、復興神道の最も重要かつ過激な思想家であるが、驚くべきことにキリスト教の思想も自らの神道概念に取り入れるべく修整した36。イザナギとイザナミをアダムとイブになぞらえた。キリスト経典が、出雲の大国主命が統治した顕世と相対する死後の世界についての篤胤の観念に影響を与えた可能性がある37。平田は、神道は他のすべての宗教を超えるものであり、産霊神(むすびのかみ)(すなわちタカミムスヒ・高皇産霊)は万物の創造主であるとした――彼にとって他の宗教の主たる祭神たちは、この日本の造化神が各地で顕現したものにすぎなかった38。
平田篤胤の世界観は、近代日本における出雲のロマン主義的で排外主義的なイメージ作りに決定的な影響を与え39、同時にラフカディオ・ハーンのロマンチシズムの背景にあったと見ることができる。平田篤胤はその著『幽顕弁』の中で、高皇産霊と大国主命の関係を述べている。

かくて年老期至りて、死れは形体(ナキカラ)ハ土に帰り、其霊性ハ滅(キユ)ること無れバ、幽冥に帰りきて、大国主大神の御治に従ひ、其御令(ミオキヲ)を承給はりて、子孫(ウミノコ)ハ更なり、其縁(ヨシミ)ある人々をも天翔り守る、是ぞ人の幽事にて、産霊大神の定賜ひ、大国主神の掌給ふ道なる故に、簒疏に、幽事ハ神道也と言(ノタマ)へりと通(キコ)ゆ40 
4.2 祭神論争41 

 

明治維新後、平田篤胤の弟子たちは、自らも篤胤の弟子であった大国隆正の弟子たちと論争を起こした。そして1875 年、いわゆる祭神論争で神道界は二分した42。当時の出雲大社の宮司であった千家尊福(1845-1918)43が、天皇家の祖先を祀る伊勢神宮の至高性を攻撃し、出雲大社の主祭神大国主命を、平田篤胤の神学論に従って幽世の主祭神として神殿に併せて祀ることを要求した。神宮の大宮司田中頼庸(1836-79)は、この要求を拒否した。このことから、神道界に亀裂が入り、二つの対立するグループに分裂することとなった。
村岡典嗣[Muraoka 1988:217]の説明によれば、千家尊福――第81 代出雲の国造であり44、宗教家千家尊福(そんぷく)としても知られている――は大国主神が造化三神とともに祀られることを強く主張した。そうすることで神道の公的かつ基本的な「信仰告白」を正して出雲の地位を伊勢の地位と同等、すなわち皇室そのものと同等の地位に置こうとした。これに反対した田中頼庸ほか神宮を代表する人々は、この問題に疑問を呈し、特に田中は、大国主神が幽世の神とする平田の考えは、単にイエス・キリストをまねたものだと断じた。明治政府は、キリスト教を禁じていたことから、これはまさに重大な批判であり、平田篤胤の思想にキリスト教的側面があることを指摘したものであった45。
この論争はその解決のため、1881 年1 月に天皇に上奏された。しかし、天皇の答えは尊福が期待したものではなかった。天皇は出雲の祭神を国家の神殿に統合することに賛成も反対もせず、代わりに一定の地位以上の神官に神道教導職につくこと、あるいは神葬祭などの氏子を対象とした儀式を執行することを禁止した。この驚くべき決定の背景にあったのは、神葬祭を執り行う必要のなくなった神官にとって、どの神が幽世を支配しているかと問う理由がなくなるという論理であった46。
この決定の影響は極めて大きく、多くの神職は当初葬式の執行を拒否した。それは一方で彼らは自らを司祭であって教導職ではないと見ていたからであり、他方で死に関わることは不浄であると考えていたからである。この死を不浄とする思想は神道神学の中心的思想であり、それ故に天皇のこの決定は一部の神職にとっては大きな問題とはならなかった。しかし単に神社の祭式に関わるだけという役回りに納得せず、結果として実ることはなかったにせよ抗議を行った神職も少なくなかった。その後、出雲大社宮司の千家尊福は1874年9 月に出雲大社教を設立、これに専念した。太平洋戦争終結まで、出雲大社教はいわゆる教派神道13 派の一つに数えられていた47。
従って、天皇自身がこの論争に介入したが、神学者としてではなく、政治家としての介入であった。結果は千家尊福にとって大きな打撃となったが、杵築大社は1882 年、伊勢神宮も靖国も含まれる国家の重要神社の中に含まれた。これらの信仰の場での祭式が整備され国家神道の重要な柱となっていった。しかし政治的責任を担う人々の神道関連事項に関する関心は、以後低下して行った。1887 年には、政府による官国幣社への財政的支出すら見直されることとなった。
こうした出来事の後、出雲信仰は特別であるとの考え方は、千家尊福が創設した出雲大社教に限られてきた。驚くべきことに、尊福は、大社教の管長職でありながら、引き続き出雲大社の宮司を務めた。その出雲大社は今日国内最重要の神社の一つである。明らかに尊福は、自分が二つの職を兼務してこそ、特別な出雲の地位とその宗教的指導者としての国造を堅持できると考えたのである。太平洋戦争終結後、そしてその後の神社への国家の庇護の喪失後、出雲大社はその独立を回復した。今日、出雲大社と出雲大社教は共存している。2002 年4 月、千家尊祀が死去した折の報道が示すように、この状況をみる限り、出雲国造が持つ意味は失われていないということである。  
32 『古事記』[倉野校註 1985:112-113]、[Florenz 1919:61][Naumann 1996:130-141]を参照。
33 [Schwartz 1913:547]参照。特に、Hearn の記述(『知られざる日本の面影』[Hearn 1997])は、宮司千家専紀が「生き神」として崇敬されていると報告している(特に、[Hearn 1997:189][同 1921:203]参照)。Schwartz(上記引用文中に)は、さらに以下のように記す。「この生き神としての特性の喪失が今日の大社教会設立をいろいろな意味で説明しているように思われる」。
34 [Antoni 1998:65-66]参照。[Schwartz 1913:540]に、以下の記述がある。「この宮司千家家の家系の上層にいるもう一人の重要人物は第68 代国造尊光である。1660 年からわずか13 年間の国造であったが、その間様々なことが起きた。大名松平家の命で、1662 年には仏教式の祭式は廃止され、所領は開墾により拡張した」。
35 [Antoni 1998:147-148]参照。
36 [Odronic 1967:34]参照。
37 このテーマに関しては、Harold Bolitho の観察を参照[Bolitho 2000]。
38 [Odronic 1967:35]参照。
39 特に、[原 1996:36-66]を参照。この中で彼は平田篤胤の「出雲思想」の発展への影響を詳しく述べている。
40 平田篤胤『幽顕弁』[平田篤胤全集刊行会編 1978:267]。
41 このテーマの詳細は、[Hardacre 1989:48-51][Antoni 1998:205-213]を参照。
42 [Hardacre 1989:49]参照。
43 Hearn は、その著作において常に「千家たかのり」と書いている。
44 [Schwartz 1913]の補遺参照。
45 落合直亮(1852-1934)は『神道要章弁』の中で、千家尊福の『神道要章』を批判した。出雲の祭神大国主が天皇家の祖先神天照大神と同等視されたためである。また、常世長胤は、当初千家尊福と同意見であったが、後にその理論には歴史的根拠がないとして、支持を撤回した[Muraoka 1988:219]参照。
46 [Hardacre 1989:49]参照。
47 [Schwartz 1913:548-555]参照(“The Taisha Kyokwai; Great Shrine Sect”)。教派神道の教えについて著者は以下のように述べている。「その教義はすべて平田の著作から導き出されたと言ってよいだろう。杵築で聞いたことだが、平田篤胤に負うことなく何かをなすことはほぼ不可能である。しかし教派神道の最大の特徴は、疑いもなくその熱心な先祖信仰にある」[同 :553]。大社教に関する詳細は、[Schwartz 1913:559-681](補遺)にある。  
5.ラフカディオ・ハーンと西欧社会の日本観 

 

出雲の名をより広い世界に知らしめたのはラフカディオ・ハーンであった。ハーンは出雲を純粋かつ正統で正真正銘の日本と同義語としたのである48。特に、ハーンが日本について書いた『知られざる日本の面影 Glimpses of Unfamiliar Japan 』第一巻の陶酔感に浸りきったような日記調の記述は、まるで夢のようなおとぎの国を思わせる出雲の姿をつくり出した。その記述を詳しく検証してみれば、そこにはハーンの個人的意見が述べられているだけでなく、ハーンがある文学的お手本の影響を受けて、神秘的な古色蒼然たる「純粋」神道の世界に導かれていたことが見えてくるはずである。バジル・ホール・チェンバレンの『古事記』の翻訳 The Kojiki が、ハーンをして出雲の国にロマンティックな変容をとげさせたのである49。
思想史という観点から考える場合に、これは極めて重要な意味を持っている。すなわち中から見た日本と外から見た日本という二つの受容のあり方――「エミック」的受容と「エティック」的受容50――が、ある一個人において、つまりラフカディオ・ハーンにおいて出会うのである。ハーンとチェンバレンの複雑な関係をここでくわしく検討することはできないが、いくつかの基礎的な事実を確認しておきたい。出雲、さらには日本の一般的なイメージ――日本人が抱くものであるか、非日本人が抱くものであるかを問わず――の重要な部分は、ハーンとチェンバレン51を通して形作られた面がある。そしてそこでは『古事記』が決定的に重要な文学作品、かつ記録資料として中心的位置を占めているのである。広く知られているように、国学者・本居宣長が、その文献学的な研究を通して『古事記』をあらためて読解可能なものとし、これに綿密な注釈を加えた。
宣長がいなかったなら、近代の『古事記』受容はなかったであろうし、その結果として近代神道の受容もなかったであろう。宣長の後を継いだのは先に挙げた平田篤胤であり、平田は国学を過激な政治思想へと変容させ日本の優越性を説いた。これは平田が神学的には折衷主義をとったこととは関係なく、今日では原理主義というべき排外主義に基づいたものであった。平田は、重要な点で宣長と異なっていた。それは、平田が天照大神をその神学の中心に据えなかった点である。しかし高皇産霊を中心に据えた。そして、先に述べたように、平田は大国主を幽世の神として、その意味に特に注意を喚起した。
宣長と篤胤のおかげで、『古事記』は近代において再生し、明治時代の神道の「バイブル」になったのである。その中で、明治期に日本の新政府のお抱え専門家や学者となった外国人が、『古事記』に触れるようになったのである。中でも著名なのがB・H・チェンバレンであり、W・G・アストンであり、カール・フローレンツであった。特にチェンバレンはこの文脈において重要である。彼は『古事記』を英訳した。今日でもその英訳の価値は高い。作家でありジャーナリストであったラフカディオ・ハーンは、この偉大な学者に遭遇し、松江の学校での職を紹介された。チェンバレンの博学多識にいたく感銘したハーンは、彼の『古事記』の翻訳を手に――それを道しるべとして、また旅行ガイドとして――出雲を旅した。そして、翻訳書に記された神話上の場所を現実にはどこかと探っていったのである。従って、ハーンは神々の神話の時代と現代とのギャップを埋める役目を果たした。本人は認識することはなかったが、ハーンはまさに国学の土着主義を地で行ったのである。それはまた古代の伝承を文字通り実話として見ていたということである。ハーンと国学の立場のつながりはチェンバレンの翻訳the Kojiki によって成立したのである。
そうなると、チェンバレン自身は伝承を普通以上に厳しい原文批判をもとに見ていたことを考えると、皮肉なことである52。批判的視点を持った学者として、チェンバレンは、篤胤やハーンのように、つくり出された古代史への熱狂に染まることはなかったのである。ハーンは翻訳 the Kojiki の序文で、神話の受容に関する歴史的な問題点を複数指摘している。しかし、ハーンは、この作品を読みながら、明らかにチェンバレンの学者としてのコメントをよく読まず、ロマン主義的で、無批判にその文章に浸ってしまった。特にこのような視点の違いから、後にチェンバレンとハーンの間に行き違いが生まれることになったのである。一方のチェンバレンはその歴史的知識ゆえに、明治政府の官僚達によって「発明された宗教」53に対し次第に強い拒否を示すようになり、他方においてハーンは時の政府の文化的プロパガンダに乗せられ、彼の抱いていた古代的かつ純粋な出雲のイメージを広めていくことになった。そしてそのイメージはある種の文明のイメージとして――つまり西洋において日本の近代性を指し示すものとして――機能し、その意味において重要な意味を持ったのである。
ハーンとチェンバレンは、西欧社会における日本のイメージの両極端を代表したが、二人は翻訳the Kojiki によってつながってもいた。特に出雲神話のくだりが二人をつないでいた。ハーンはおそらく自分では気づいていなかったであろうが、篤胤の立場に極めて近くなり、それを「古代日本の真実」54として世界に広めていったのである。
ハーンが西欧社会の日本に対するイメージに及ぼした影響は、今でも残っている。彼の日本に関する著作がいまだによく読まれていることがそれを示している。チェンバレンの科学的、歴史的、かつ客観的な批判は、ハーンがその熱心な読者達に対して提供したエキゾチックでロマン主義的なイメージの力にほとんど抗することはできなかった。我々の「他者」認識というものは、曖昧で矛盾に満ちていて退屈であるといった本質を持つ現実よりはるかに精彩に富んだものとしてしばしば立ち現れる。このように見るならば、ハーンの出雲もまたそうした「他者」認識においてイメージが暗示的な力を持つことを示しており、またその点において教訓とすべき事例なのである。  
48 特に、[Hori 2002]を参照。
49 特に、[Hearn 1997:20,172]参照。
50 日本の「エミック的受容」と「エティック的受容」 の概念と意味については[Antoni 2001b]を参照。
51 ハーンとチェンバレンの違いについては、[Antoni 2001b:641][Antoni 2002:290-291][Hori 2002]を参照。
52 明治後期の日本の政治的発展に関する批判的歴史家、観察者としてのチェンバレンについては、[Antoni 1998:304-;同 2001b;同 2002:290 -291]を参照(また、[Hori 2002]も参照)。
53 [Chamberlain 1927]の、補遺「新宗教の発明 The Invention of a New Religion」参照。
54 [Ota 1998:163]参照。  
6.出雲と今日の「日本の精神世界」 

 

現在の出雲、すなわち、島根県のその地域に行くと独自性と地域性についてのディスコースに、この地域ならではの歴史的特性があることに気づかされる。このことを示すのは、たとえば松江の県庁のすぐ近くにある県立歴史博物館の見事な建物である。ここでは、とりわけ広範な考古学的知見と研究の成果が、見事なまでに魅力的で一般市民にも楽しめる形で展示されている。そこでは出雲の独特なイメージが形成され、それは「“エキゾチック”の自己適用 auto-exoticism」(自らを“エキゾチック”な、つまり異国的な他者と見ること)に限りなく近い。その展示手法は日本人観光客を刺激し、遠く経済的に脆弱な島根県への関心を引くことをねらっている。しかし、その意図にはそれ以上のものがあるようである。たとえばその意味深い例が、出雲大社からの遺物の展示である。平安時代の文献から、出雲大社の本殿は、当時、今以上に度肝を抜かれそうな外観を呈していたと考えられる。現在の本殿は1744 年に造られたもので、高さは24 メートルある。今では、かつての本殿は高さ48 メートルもあったと推定できている。「八尋殿」と呼ばれた本殿へは巨大な斜面が造られていたと、ネリー・ナウマン[Naumann 1971]は記している55。
次は出雲大社の展示を見てみよう。出雲大社の建築模型が並ぶ小規模な展示が、時代を追って本殿の変化を示し、説明が施されている。ここでは特に、古代のまるで塔のようにそびえ立つ原初の社殿が訪れる人の目を引く。
この再現された本殿のイラスト入りポスターが、出雲地域のあちこちに張り出されている。古代の宮が不可思議で神秘的な背景に埋め込まれ、見る者にはエソテリックで霊感的な表象、たとえばエジプトか中米のピラミッドなどを思い出させる。
このような絵が伝えようとしているメッセージは明白である。出雲大社の本殿は古代日本で最も高い建物であったばかりでなく――常に奈良の東大寺よりも高かったことが強調されてきた56――独自の古代宗教性を持つ場所でもあるということであり、それは我々現代人には神秘的でエキゾチックに見える。
同様の意図が、歴史博物館の官制ポスター(次頁参照)にも見える。その中央には大きな満月をバックに凛々しく着飾った馬上の騎士が描かれている。ここでも見る者は再び、エキゾチックでエソテリックな絵画的表象で太古の時代を思い描くことになる。
そのような「“エキゾチック”の自己適用 auto-exoticism」が、ニューエイジとの関連で今日的日本の知的ディスコースの中で広まっているという事実は明確に示されてきている。「霊性知識人 spiritual intellectual」という概念は宗教学者・島薗進[Shimazono 1993:島薗 1996]が最初に指摘し、その後 Lisette Gebhardt[Gebhardt 1996,2001]や Inken Prohl[Prohl 2000]57によって論じられてきているが、ある種の「霊性知識人」が「古神道」58運動の中核を為している。この運動は仏教伝来以前、儒教伝来以前の神道、すなわち正統かつ「純粋」とされる神道を構想するものであるが、これは国学の伝統、特に平田篤胤の解釈に拠って立つものである。
典型的「霊性的知識人」の一人とみなされている鎌田東二59は、出雲とその祭神である大国主をその研究の中心に据えており、また明らかに平田篤胤の伝統を受け継いでいる。従ってこの諸現象全体を、現代日本のニューエイジ/新霊性運動の文脈の中で見ることが可能であり、またそうであるが故に今日の出雲をめぐるツーリズムと観光広告において「“エキゾチック”の自己適用auto-exoticism」が行われているのである。
これらは、「出雲」のイメージの強さが今日の日本においても堅固であることを示しており、かつそれは様々な点において再び土着主義的な知に回帰するように見える。
また、この分析は以下の事実によっても裏付けられる。すなわち、主に神道国際学会などにおいて古き純粋な神道のイメージを広めようと活動している日本の古神道提唱者達の間で、ラフカディオ・ハーンがきわめて高い人気を博している一方、歴史的・批判的なチェンバレンは拒否されているのである。 
55 “Acht-Klafter-Palast”とは、八尋の高さを持った御殿という意味である。
56 特に、[島根県教育委員会編 1997:166]の図144。
57 この文脈においても平田篤胤の著作が常に重要な役割を果たしている。[Gebhardt 1996:159;同2001:84,97,135,137][Prohl 2000:31,95]参照。
58 『古神道の本』[署名なし 1994]の複数箇所、[Prohl 2000:72-]を参照。
59 鎌田東二(また鎌田の平田篤胤研究)については、[Gebhardt 2001:96-99][Prohl 2000:28-32]参照。  
7.まとめ  

 

かくして議論は振り出しに戻った。出雲の特殊性は、現代の理想主義者達やイデオローグ達によって、本来的かつ真正な日本のイメージ――今なお古き神々と共生している日本――として利用されている。このイメージそのものが近代の産物であるかどうか、それは平田篤胤の神学的政治的思弁に戻るのだが、この点についての考察はほとんどない。歴史家、原武史はこうした問いに取り組み、1996 年に『「出雲」という思想』という著作を刊行した[原1996]。今日的視点から思想史をみるならば、この問いをさらに追及していくことは非常に興味深く、有益であろう。
しかし、単にイメージあるいは虚像といった問題に留まることなく、「出雲」という主題そのものが様々なる魅惑的な問題を提起し、かつ数多くの未解決の問題を投げかけている。出雲という地域と文化は、実際に日本の中でも他の地域とはっきりと「異なって」おり、それ故に平田篤胤のロマン主義的でイデオロギッシュな虚像や、或いは不幸な異邦人ラフカディオ・ハーンによって創出された今なお遍在しているイメージ等を持ちだしたところで、出雲に対する関心が消え去ってしまうことはないように思われる。今日、出雲地域は大陸、特に韓国とのつながりの再構築に力を入れているように思われる。James. H. Grayson が、その造詣深い“Susa-no-o : a culture hero from Korea”[Grayson 2002]で指摘したように、「西日本の島根地域が古代において朝鮮半島南西部と関係を持っていたことは明らか」60なのである。これは近代日本の鎖国的な中央集権主義と対極をなしており、例えば沖縄やここ島根県出雲のような地理的境界の地において、現代版鎖国は姿を消し始めている。そして、これは、自らの目的のために「出雲」を利用しようとするある種の新しい「霊性知識人」が唱道しているロマン主義的―イデオロギッシュな土着主義とは全く相容れないのである。  
60 [Grayson 2002:465]参照。著者はさらに以下のように述べている。「また現在のウルサン市と出雲市の距離が、最短で朝鮮半島と本州とを結ぶ距離ではなかったとしても、最短ルートの一つと言えることは注目に値する」[Grayson 2002:483]。  
 
ラフカディオ・ハーンの『古事記』

 

1 ハーンと出雲地方
ハーンにとっての松江を考えたい。『古事記』の舞台である出雲地方は、ハーンにとって、生まれ故郷のギリシャを思わせる、神々が集う場所であった。ハーンが『古事記』に誘われ滞在を決めた松江の地は、彼の思惑通り、否、それ以上の日本の姿を彼に見せた。わずか1 年3 ヶ月の滞在で、ハーンの中に一つの<日本>が形成されたと言っても過言ではない。それゆえ、「ハーンが日本滞在を始めた最初の場所」以上の意義があるとして注目されてきた。
池田雅之氏は、松江を「ハーンにとって、まだ西洋文明がその世界においてとうに駆逐したはずの異端の神々が住み給う聖なる都であった」とし、彼が生まれ故郷のギリシャと出雲地方を類推し、一つのユートピアとして捉えていたと述べている。その宗教的な側面から、或いは壮大な自然や純朴な人々との出会いから、ハーンにとっての松江は非常に重要な意味を持つようになる。しかもこれが単なる短期的な感情ではなく、晩年まで続くいわば一つのトポスとして彼の中に息づいたことを、池田氏は以下のように指摘する。
「異境で暮らすこの「驚きと喜び」は、最晩年の『神国日本』の中でも繰り返し表れている。そこには、ハーンの鎌倉や松江や出雲に代表される<永遠の日本>というイメージが、来日以来十四年経った晩年においても、変化をきたしていないことがうかがい知れる。」
そこで本稿では、ハーンにとっての松江を含む出雲地方全体が、単なる一つの場所ではなく、「知のトポス」となったと仮定し、検証する。とりわけ、『古事記』の舞台としての出雲地方に注目し、ハーンの神々との出会いが、彼に如何なる影響を及ぼしたのかに迫りたい。筆者が現在関心を強く抱くのは、近代化と対峙する場所出雲地方がハーンの<永遠の日本>とどのように重なっているのかという点である。言い換えれば、出雲の如何なる事物が、彼の中で如何に蓄積され<永遠の日本>を構築していったのかということを、改めて明らかにしたいのである。
この「ラフカディオ・ハーンの中に、出雲地方が如何に存在していたのか」を浮き彫りにすることで、出雲という「トポス」と、ハーンが求め続けた<永遠の日本>との呼応に迫る研究において、本稿では、出雲という地がハーンにとって知的な面を強く刺激し、彼の中のパラダイムを転換した「知のトポス」として存在したことを明らかにすることを目的としている。そして、この「知のトポス」形成の過程の第一段階として『古事記』の存在に注目する。 
2 受け継がれるハーンの『古事記』世界
日本時代のハーンを知ろうとするとき、まず彼を日本へと誘った翻訳版『古事記』A Translation of the 'Ko-Ji-Ki'.(1883)(以下Kojiki とする)の存在に注目することから始めなければならないだろう。わずか33 歳の若き日本学者B・H・チェンバレンによって英訳されたKojiki は、それまでいくつかの要因から日本へ関心を抱いていたハーンに渡日を決意させるに足るものであった。ハーンがこれを最初に手にしたのはアメリカ時代で、ハーパー社の美術主任ウィリアム・パットンから渡された時のことであった。そして、極東の地に存在する多くの神話に魅了された彼は、本格的に日本行きを決めたのである。さらに、横浜到着後、改めてこの著作を購入し、かなりの書き込みをしながら精読したことが知られている。
そして、ニューヨークのハーパー社の現地特派員として来日したハーンは、その契約をまもなく破棄し、日本に関する書物を著すため長期滞在をすることを決意する。そして彼が選んだ場所こそ、『古事記』の舞台島根県であった。ハーンが松江への赴任を決意したのは、「日本紹介という野心を十分に満足させる土地柄であるという判断」があったからである。古い文化や風習が根強く残っている裏日本の、神々が集う『古事記』の舞台である出雲地方へ向かうことで、他の外国人が見ることのなかった日本を発見できるという強い確信があった。ハーンは来日前、既にKojiki を介して「日本」に魅せられ、来日後、幸運にもその聖地で本格的な生活を始める機会を得たのである。
それでは、この『古事記』について、私たち日本人はどれだけ知っているだろうか。何年に、誰によって書かれ、どこで発見されたのかといったことだけではなく、その内容についてどれ程の知識があるだろうか。これについて、阿刀田高氏は次のように述べている。
「私は昭和十年生まれで、第二次世界大戦あたりの教育を受けて育ちました。『古事記』というのは、歴史の時間に習うことが多かった。子ども心にもヤマタノオロチや天の岩戸とかは本当ではないのではないだろうか、と思っていても、非国民と言われるので考えないようにしていました。
天照大神という大変偉い女神様がいて、我が家でも拝んでいました。昭和天皇は神武天皇から数えて百四十九代目であると教えられ、天照大神の子孫だと教えられた。大和朝廷が連綿と続いていることを学んでいたわけです。主だった『古事記』の話は、大体その時代に仕入れました。(中略)
昭和二十年になり、戦争に負け、日本はぺちゃんこにされてしまった。日本は間違っていたということになり、『古事記』のような文学作品、古典が読まれないようになってしまった。天照大神が国を作ったのは嘘だと言われ、教育現場で『古事記』を習うことがほどんどなくなりました。(中略)
昭和二十年以降の教育を受けた方は、みずから『古事記』を学ばない限り、知識の中からすとんと抜け落ちてしまっていると思います。」
このように『古事記』は、大戦前か後かでその扱われ方が大きく変わり、現在では「日本最古の歴史書」ということ以外、ほとんど触れられることはない。そしてそこに描かれた神話に光が当たらなくなってからもう半世紀以上が過ぎているのである。
ところで、古い日本文化に憧れを持って来日する欧米人の中には、ハーンの日本での処女作『知られぬ日本の面影』を携えてくる人も未だにいるのだという。この著作はKojiki を精読したハーンが、彼が体験した実際の日本文化、日本社会にその世界を投影させ著したものであり、この点で『古事記』を当時の、そして現代の世界に伝えたものだといえる。
つまり、教育現場から消された『古事記』は、現代の日本人にさえその姿を十分に見せることが叶わなくなっているが、その一方で、『知られぬ日本の面影』が『古事記』の存在を蘇らせているといえるのである。さらに言えば、現在われわれが出雲地方を「神々の国」だとか「神話の国」だとイメージするのは、『古事記』そのものの印象からではなく、ハーンの著作のおかげなのである。
そこで、ハーンが彼の著作に描きたした『古事記』のイメージについて、それがKojiki とどのような点で異なっているのかに迫ることにする。つまり、チェンバレンにより体系的に翻訳されたKojiki よりも、それを読み来日したハーンにより著された『知られぬ日本の面影』の中に見る『古事記』世界に、これほどまでに多くの人が心を惹かれるのは、どういった要因によるものかを考えるのである。この問いは、ハーンの独特な日本観と、その価値が浮き彫りにしてくれるものであろう。 
3 ふたつの『古事記』
ハーンの『古事記』世界と、チェンバレンのKojiki は、いくつかの点において異なっているが、その最たるものの一つに「出雲」の存在がある。端的に言えば、『古事記』の舞台の3 分の1 を占める「出雲」の地が、実体験として文に表れているか否かということである。池田雅之氏は、チェンバレンの『古事記』に対する姿勢を「あくまで十九世紀型の書斎派(アーム・チェアー)の学者」であるとし、対するハーンは「フィールドワーカーとして、出雲の『古事記』世界に身も心もどっぷりつかることができ」たと述べている。つまり、ハーンは横浜到着後、島根、熊本、神戸、東京と日本の中を転々とするが、『古事記』に関しては、その聖地とも言える「出雲」の地で、他の外国人が見ることのなかった「日本」を具に見ることができたのである。
ハーンは島根での仕事を紹介してくれた尊敬すべきチェンバレン教授に、杵築のすばらしさを伝え、チェンバレンもこの地に足を運ぶように、次のような手紙を書いている。
「わたくしの随行者は――たぶん、確たる根拠もなしにでしょう――わたくしのことをあなたの友人だと話したのです。すると、そう述べたことが喜びのささやきを呼び起こしました。あなたのお名前は、杵築では非常な尊敬の念をもってうけとめられていると、わたくしははっきり断言申し上げます。ですから、万一あなたが杵築においでになったとしたら、あなたは神々の長でもあるかのように歓迎されるに違いないと思います。そして、あなたがこれらほんとうに上品で気高い人々を気に入られることもまちがいありません。」
教育熱が非常に高かった島根県において、チェンバレンは東京帝国大学の教授として多くの人に名が知られていたことは想像に難くない。ハーンの言うように、もしチェンバレンが訪問していたら、島根の人々は「神々の長でもあるかのように」チェンバレンをもてなしただろう。しかし、チェンバレンが島根へ訪れることはなかった。それは、彼が病弱であったこともあるだろうが、それ以上にその必要性を感じていなかったからだと言えるだろう。つまり、チェンバレンにとっての『古事記』は、原話を英訳する対象以上のものではなかったのである。池田雅之氏によると、チェンバレンは1880 年頃にイギリスに一時帰国し、比較神話学者マックス・ミュラーから勧められて、『古事記』の翻訳に着手したという。そして氏は、チェンバレンの『古事記』翻訳の動機が、「イギリス学会への寄与」であり、必ずしもその物語性や文学性に関心があったとは言えないと述べている。また同様に斎藤英吉氏も次のように述べている。
「また神話の内容を理解するうえでは、(チェンバレンは)当時の比較神話学、人類学をリードしているイギリスのマックス・ミラーやエドワード・タイラーなどの影響を受けている。とくに近年、書簡資料などの調査から、チェンバレンがオックスフォード滞在中に『古事記』翻訳を決意したこと、そのきっかけがマックス・ミラーからの提言であったこと、またタイラーに宛てた書簡なども発見されるなど、チェンバレンが日本研究者としてイギリスの学会に寄与せんと考えていたことが明らかにされている。」
19 世紀半ば頃の風潮として、大帝国イギリスでは、植民地主義政策と同時に、世界の未開の国々の文化や風俗、習慣などに多くの人の関心が向かうようになっていた。そのため、この時期にはチェンバレンの他にもウィリアム・アストンが『日本書紀』を英訳し、レオン・ド・ロニが『記・紀』をフランス語に訳し、カール・フローレンツが『日本書紀』をドイツ語に訳した。東アジアで真っ先に開国した日本について、その「未開の地」を明らかにしようと、ヨーロッパでは『記・紀』に関心が集まっていたと言える。
そして、この流れの中でチェンバレンが行った翻訳は、言うまでもなく、それを勧めたマックス・ミュラーの「進化論」的な見方に追随するものであった。つまり、「未開の地」で古代に書かれた「神話」たちは、それ自体、文化的、歴史的、文学的といったことに何らかの意味があるのではなく、「言語の病」、すなわち「訳の分からない話」とか非論理的な物語として、如何に言語表現が表出していったのかという点においてのみ、見るに値するにすぎなかった。
これについて池田雅之氏は、チェンバレンによる翻訳において、イザナギ、イザナミの国生みのシーンが意図的にラテン語訳されている点に注目し、次のように述べている。
「 「天地の初め」の一節は、初めて性をもつ夫婦神の出現によって、日本の国土と神々の生成が行われるきわめてドラマチックな場面です。性のいとなみと生命の誕生の神秘をきわめて神話風に語った有名な箇所で、私たちはここにおおらかな男女の交わりを感じ取ることはできるものの、卑猥なものを感じ取ることはないでしょう。(中略)
この箇所は、性(sex)の営みと生命(life)の誕生が一体となって、次々に命が成りゆく様、生命誕生のダイナミズムを感じさせる一節として読むべきでしょう。
さて、次に引用するのは、チェンバレンの問題の翻訳箇所です。次の英訳をご覧頂くと、冒頭の二行程は英訳されていますが、その後は見慣れないアルファベットの文字づらが並んでおり、(中略)ラテン語訳になっているのがおわかりになるかと思います。(中略)
チェンバレンは、このラテン語に変えた『古事記』の箇所(中略)をヴィクトリア朝のイギリスの倫理観からすると「猥褻」「みだら」と考えたのでしょう。ヴィクトリア朝時代は、「性」に対して抑圧的でタブー視する傾向が強かったからです。」
このように、当時の社会状況を考慮したものだということの他に、前述のような、イギリス中心的、「進化論」的な態度が反映されていることにも触れ、「ここにチェンバレンの『古事記』理解の問題点と限界が表れている」と指摘している。ただ、これを「チェンバレンの」問題と限界だとしてしまうのは、少々かわいそうな気もする。当時、彼の仕事は理に適っていた、すなわち、最も一般的で、然るべき理論に基づいた、正当なものであった。「大英帝国」、「進化論」が言うまでもなく大義であり、その視点から「未開」の日本を記すことが求められ、その枠組みの中で、一学者として充分に寄与したと言えることも忘れてはならない。
一方、ハーンという人には、そのような「理に適った」仕事をしようなどとは毛頭なく、もっぱらの関心事は、如何に独特で、それまでにない文章で日本を表現するかということであった。言い換えれば、日本学者の巨匠として『古事記』と向き合ったチェンバレンに対し、ハーンはそういった束縛から完全に自由であり得たのである。そこには、当時の彼の社会的な立場が関係している。
ハーンが『知られぬ日本の面影』において、『古事記』世界を描いたのは、その世界(出雲地方)に足を踏み入れた頃のことである。当時、彼は一お雇い外国人に過ぎなかった。そもそも、ニューヨークの出版社の特派員として来日したにもかかわらず、その契約をまもなく破棄したことで、ハーンは日本での滞在資金を調達できなくなった。松江での英語教師という職も、チェンバレンの斡旋のおかげでかろうじて得たに過ぎなかった。ギリ
シャで生まれ、イギリス、アメリカ、西インド諸島などを転々とした彼は、日本でも根無し草になりかねない状況だったのである。
繰り返すが、チェンバレンは23 歳で来日を果たし、24 歳の若さで海軍兵学寮の教師、41 歳で東京帝国大学の英語教師に就任した謂わばエリートであり、ハーンとは境遇が非常に異なっていた。それ故、彼らの日本に対する姿勢は、否が応でも異質なものとならざるを得なかったのである。
ハーン自身、それまで社会的地位のある外国人たちによって描かれた日本に自分が改めて向き合う際、そこにどのような価値を持たせるのかという問題について、明確な計画を持っていた。以下は、来日直前1889 年11 月に書かれたパットン宛ての手紙であり、そこにはハーンの具体的な計画を見ることができる。
「親愛なるパットン氏へ
日本ほど人がよく歩いて調べた国について本を書こうと考えると、まるきり新しいことを発見することは望めません――慎重に考えても同じだと思います。できるかぎり全く新しい方法で物事を考えてみることができるだけでしょう。私はこれまでの本に、能力の許すかぎり「いのちと味わい」を注ぎ込むのです。旅行家であれ学者であれ、その作者たちの報告や説明よりもっと生き生きした印象を与えるのです。(中略)
エッセイ形式のものは本当に全く考えていません。主題はもっぱらそれに関係した個人的体験に基づいて考えることにし、平凡な物語に類したものは注意深く避けます。狙いを考え抜き、読者の心に日本で「生活している」生き生きした印象を与えるのです。――単なる観察者ではなく、普通の人々の日常生活に参加し、「彼らの考え方で考える」感じをもってほしいのです。
このように、それまでの外国人が、日本を「未開の地」と見做しているのに対し、ハーンにとっての日本はすでに多くの外国人によって「踏み均された場所」であり、後発者としての意義は、全く新しい方法で、日本という題材と向き合うということであった。そして、それまでの本に描かれた<日本>には、「いのち」と「味わい」が欠如しているとし、ハーン自身が日本の生活に溶け込み、日本人の視点から日本を見ることで、それらを表現することを目的とした。そして結果的に、ハーンによって彩られた『古事記』世界は、現在もわれわれの心に響き続けているのである。
さらに、ハーンの視点や描写を独特なもの足らしめる要素として、ハーンの中に流れている血があるだろう。つまり、彼のギリシャ的な要素こそ、チェンバレンを含む他の外国人とは根本的に異なっている重要な部分だということである。ハーンは著作や書簡などで、自分がギリシャ的な人間であることを述べてきた。これについては、単純にハーン自身が言うように、彼をギリシャ的な人間と見做すわけにはいかない問題もある。遠田勝氏は、ハーンの「ギリシャ性」について、次のように述べている。
「ハーンは、自伝的作品や書簡において、しばしば、自分はギリシア人であると告白している。彼がそうした民族的文化的アイデンティティを自覚していたことに間違いはないのだけれども、それではそのギリシアという観念は、どのような体験と教育と知識に由来するのか、この点を調べてゆくと、出てくるのはむしろ否定的な答え――つまり、生母がギリシア人であったということをのぞけば、彼とギリシア文化とのあいだには実質的なつながりがほとんど存在しないという事実なのである。」
氏の主張の通り、ハーンとギリシャとの直接的なつながりはほとんどないと言える。だが、ここで問題なのは、実際にハーンとギリシャがどれだけのつながりがあったかということではなく、彼自身がどれほどそこに自我を置いていたのかという点である。これについて、ハーンが弟ジェイムスに宛てた書簡を例として見てみよう。
「私の魂は父とは無縁だ。私にどんな取り柄があるにせよ、そして必ずや兄に優るはずのお前の長所にしても、すべては私たちがほどんと何も知らない、あの浅黒い肌をした民族の魂から受け継いだものだ。私が正しいことを愛し、間違ったことを憎み、美と真実を崇め、男女の別なく人を信じられるのも、芸術的なものへの感受性に恵まれ、ささやかながら一応の成功を収めることができたのも、さらには私たちの言語能力が秀でているのも(お前と私の大きな眼はその端的な証拠だが)、すべてはお母さんから受け継いだものだ。」
ハーンにとって、自らの中に流れるギリシャの血は、慕い続ける母への思いと重なり、自身への誇りとなった。それゆえ、西洋至上主義的な考えは、キリスト教同様、彼が最も嫌うところであった。しかし、もちろん当時の状況を考えると、それまで多くの人によって一つの方向から見続けられた<日本>を、全く異なった角度から見つめなおし、再び描き出すハーンの作業は、大波に立ち向かう小舟に過ぎなかった。時代は、ハーンを「夢想に耽るロマン主義的オリエンタリストの放浪者」とし、彼の描く日本は、実際には存在しない空想の世界であるとも評した。だが、その小舟は沈没することなく、荒波を抑え、現代のわれわれの前に姿を現している。
それでは次に、ハーンによって描かれた『古事記』世界が如何なるものであったのか、いくつかの部分を引用しながら検討してみたい。 
4 ハーンの『古事記』世界と出雲
ハーンの描き出した『古事記』世界が、チェンバレンのそれと大きく異なっている要因の一つに、チェンバレンが単なる文献の読解をしたに過ぎないのに対して、ハーンは実際に『古事記』の舞台、出雲で改めてその世界を感じ、描き出したということがある。さらに、これはハーン自身が、かなりその部分を強く意識していた、言い換えれば、単なる「文献学的な読解の段階」を超えるものを書こうとしたということは前述の通りである。
そして、その願望を叶え得る地こそ、「出雲」であった。それは、単に出雲地方が『古事記』の舞台だからということではなく、その地理的、歴史的な条件が相まってハーンの筆を走らせたといえる。以下は、ハーンが如何に出雲の地に魅了され、古事記の舞台に思いを馳せていたのかが分かる描写である。
「まさにこの大地の中に、――幻のような青い湖水や霞に包まれた山並に、燦々と降り注ぐ明るい陽光の中に、神々しいものが存在するように感じられる。これが、神道の感覚というものなのであろうか。私はあまりにも『古事記』の伝説に胸を膨らませていたせいか、リズミカルに響く船のエンジン音までが、神々の名と重なり合って、祝詞を唱えているかのように聞こえる。
コトシロヌシノカミ
オオクニヌシノカミ」
この描写からも分かるように、当時の出雲地方はハーンがそれまでに滞在した都市部(東京や横浜)とは異なり、豊かな自然が残っていた。ここにある「青い湖水」とはハーンが特に好んだ宍道湖のことであろう。穏やかに波が棚引いている宍道湖の様子は、『知られぬ日本の面影』でも美しく描写されている。ここで、その部分を確認してみたい。
「その水面は宍道湖へと注ぎこみ、灰色に霞む山々の縁まで右手方向に大きく広がっている。(中略)
ああ、なんと心惹かれる眺めであろうか。眠りそのもののような靄を染めている、朝一番の淡く艶やかな色合いが、今、目にしている霞の中へ溶け込んでゆく。はるか湖の縁まで長く伸びている、ほんのり色づいた雲のような長い霞の帯。それはまるで、日本の古い絵巻物から抜け出てきたかのようである。この実物を見たことがなければ、あの絵巻物の風景は、画家が気まぐれで描いただけだと思うに違いない。
山の麓という麓が霞に覆われている。その霞の帯は、果てしなく続く薄い織物のように、それぞれ高さの違う頂を横切るように広がっている。その様子を日本語では、霞が「棚引く」と表現している。そのために、湖は実際よりずっと大きく見える。いや、現実の湖というより、むしろ暁の空の色が溶け込んだ美しい幻の海に見まがいそうである。(中略)その風景は薄靄がゆっくりゆっくりと立ち上るにつれて、たえず違う顔を見せ続ける、えも言われぬ美しい混沌の世界である。」
この文章から、彼が松江時代初期に滞在した旅館から見える宍道湖の景色に、如何に恍然としていたかが想像できる。
   【図1】ハーンが愛した宍道湖の風景
また、「霞に包まれた」景色とは、小泉凡氏のいう「vapor tone」(霧の風景)のことである。これには、ハーンの視力が弱かったことに加え、この地が山陰地方に属し、太平洋側よりも曇りがかった天気が多かったことも因んでいると考えられる。朝には、霧がかった宍道湖に、小舟が浮かび、人々が太陽に祈りをささげる姿を見、何か「神々しいもの」や「神道の感覚」を感じ取ったのではないだろうか。出雲という地が、大自然の中に存在していたことは、或いは近代化から取り残されていたと見ることもできよう。確かに、現在も「裏日本」と呼ばれるこの地は、鉄道の開通が山陽地域に対して、20 年も遅れたことで、近代化に乗り遅れていた面があった。だが、このことがハーンにとってはこの上ない魅力として映ったのである。そして、この地で響く小型船のエンジン音が、「事代主神」、「大国主神」とハーンの耳に響くまでに、彼は『古事記』の世界に心酔していった。
それでは、先に述べたチェンバレンによる「淫らな」古事記の箇所について、ハーンがどのように描写しているのかを見てみよう。
「日本には、神国という尊称がある。そんな神々の国の中でも、一番神聖な地とされるのが、出雲の国である。この国を生み、神々や人間の始祖でもある伊邪那岐命と伊邪那美命が、青い空なる高天原より初めており立たれ、しばらくお留まりになったのが出雲の地なのである。
伊邪那美命が埋葬されたという地も、出雲の国境にあり、そこから伊邪那岐命は亡き妻の後を追って、黄泉の国へと旅立ったのだが、ついに連れ戻すことはできなかった。その冥土への旅と、そこで遭遇した事の次第は、『古事記』に残されている。あの世のことを描いた古代神話は数々あるけれど、これほど不可思議な物語は聞いたことがない。アッシリアのイシュタルの冥界下りでさえ、この話には足許にも及ばない。
出雲はとりわけ神々の国であり、今もなお伊邪那岐命と伊邪那美命を祀る、民族の揺籃の地である。その出雲において、神々の都とされる杵築に、古代信仰である偉大な神道の、日本最古の神社がある。
私は『古事記』で出雲の神話を読んで以来、かねがね杵築を訪ねてみたいと思っていた。」
ハーンが伊邪那岐命と伊邪那美命の国生みのシーンについて言及するとき、出雲の地は一番「神聖な地」であり、出雲大社は「古代信仰である偉大な神道の、日本最古の神社」であった。この描写からは、国生みという神話が「淫ら」だとか、「未開の地」で古代に書かれた「訳の分からない話」だという印象は見受けられまい。逆に、メソポタミアに伝わる「アッシリアのイシュタルの冥界下り」ですら、この話の足元にも及ばないと評しているのである。これについて、小泉凡氏は以下のように述べている。
「 「杵築」には、昇殿する八雲を出迎えた神官たちの不動の姿から、幼い頃見ていたアッシリアの占星術師の一団を描いたフランス製の版画を思い出したという記述があるので、子どもの頃からアッシリアという国名、あるいはメソポタミアの文化に、母方の血筋との親近性と一種のエキゾティズムを感じていたのかもしれません。
もちろん、ギリシャ神話のオルペウスやペルセポネの物語にも思いを馳せたことでしょう。(中略)比較神話学者の吉田敦彦氏によれば、冥府で主人公が「見るなのタブー」を犯して亡妻の連れ戻しに失敗したという、狭義の意味での「オルペウス型神話」は、ユーラシアではギリシャと日本にしかないことを指摘し、その伝播の可能性を説いています。」
これまでにも言われてきているように、ハーンは常に自らの中に流れるギリシャ的な側面から物事を捉えようとした。『古事記』に関しても例にもれず、他の欧米人のような視点からではなく、彼の中に流れるオリエンタルな部分からその世界を見続けた。彼の中には、東洋(ギリシア)人としての血だけでなく、西洋(アイルランド)人としての血も流れていたが、母親から受け継いだ彼の東洋的な側面が、彼を「西洋至上主義」的な考えから遠ざけた。さらに言えば、彼のそのような部分が自らを日本へと溶け込ませ得たのである。それ故、日本への視点に「いのち」と「味わい」を付与することを可能にした要因の一つに、ハーンの中のギリシャ的なアイデンティティの存在があると言えるのではないだろうか。
そして、ハーンの『古事記』世界に「いのち」と「味わい」を与えた要素として、見過ごすことができないのが、出雲の地である。ここからは、出雲地方が、ハーンの『古事記』世界に如何に寄与したかについて、「稲佐の浜」に関する神話に関して、二つの部分を取り上げたい。
   【図2】二つの神話の舞台となった稲佐の浜
稲佐の浜とは、出雲大社の西にある海岸で、10月(神在月)に、全国の八百万の神々がまずこの浜へ降り立ち、出雲大社へと向かう浜として知られている。また、『古事記』の中でも有名な二つの神話がここで繰り広げられた。それは、「国引き」と「国譲り」の神話である。ここでは、これら二つの神話をハーンがどのように描き出したのかについて見ていくこととする。
まず「国引き」神話である。この物語が、彼の著作のどの部分で触れられているかに注目すべきであろう。中でどの部分に位置しているかに注目するべきだろう。それは、ちょうど杵築(現出雲大社)への道のりの中に描かれている。
「太古の昔、出雲の神様は、国土を見渡し「八雲立つ出雲の国は、小さく作りすぎたようだ。ほかの土地をつなぎ合わせて、大きくして進ぜよう」といい、はるか朝鮮まで望み見て、格好の土地を見つけられた。そしてそこから、太い縄で四つの島を出雲までお引き寄せになったのである。
最初に引き寄せた島が八百丹で、現在、杵築のある場所にあたる。二番目の島は狭田の国で、ここにある佐太神社では、毎年一回、全国の神々が杵築に参集なさった後、二度目の集いをされる。三番目は闇見の国で、今の島根郡にあたる。四番目は、稲田を守る白い祈願のお守りが配られる美保神社のある、美保関である。それらの島々を、はるか海の彼方から引き寄せるために、出雲の神様は、太い縄を巨大な大山と佐比売山にかけた。どちらの山にも、今でもそのときの縄の跡が残っているという。更に縄そのものは、その一部が夜見ガ浜という昔の細長い島や薗の長浜になった。
堀河を過ぎると、道は狭く次第に悪くなるが、北山には近づいていく。日が沈む頃には、山の木立が見分けられるようになってきた。さあ、道は登り坂になる。深まる夕暮れの中、俥はゆっくりと山道を登ってゆく。すると目の前に無数のきらめく灯火が見えてきた。いよいよ神々の都、杵築だ。」
このように、文の前半部分は、「国引き」神話の概略である。この中で、杵築(八百丹)、狭田の国、島根郡(闇見の国)、美保関の4 つの場所と、大山、佐比売山、山夜見ガ浜を紹介している。これらの場所は、必ずしも『古事記』と絡めて書き記すという方法だけではなかっただろう。都市部には見られない広大な田畑や、悠々と流れる斐伊川の様子、連なる山脈など、『古事記』を念頭に置かずしてもその美しさを描き出すことは可能であったと考えられる。しかし彼にとって、これらは『古事記』の時代から続いている特別な場所であり、自らがまさに向かおうとしている大社へと繋がる意義深い事物であった。つまり、彼が足を踏み入れようとしているのは、大昔に書かれた『古事記』の舞台ではなく、過去から続く現在の『古事記』世界であった。言い換えれば、「神話」を「現在」と切り離して考えるのではなく、「現在」の中に埋もれた『古事記』的要素をあぶり出し、表しているのである。彼の著作の中で、『古事記』は過去のものとして存在してはいない。彼の目に映る風景は、『古事記』世界から続いている事実としてそこにあるのである。この描き方は、「国譲り」の部分からも見て取れる。
   【図3】因佐神社
この浜は今では人気の海水浴場で、居心地のよさそうな小さな旅館や可愛らしいお茶屋が軒を並べている。稲佐という名は、大国主神が、初めて正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に、出雲の国の国譲りを迫られたという、神話の故事に由来している。つまり、稲佐という言葉は、そのときの「否か諾か」という諾否を問う意味になっているのだ。古事記の第一巻三十二章に記載されているその箇所をここに引用しよう。
この二柱の神(鳥船の神と建御雷之男神)は、出雲の国の伊那佐の浜に降り立ち、長い剣を抜き、それを波打ち際に逆さまに突き立てると、その剣の前にあぐらをかいて、多く荷主神にこう尋ねられた。「天照大神と高木神の仰せによって、そなたの意向を伺うために使いとして参った者である。そなたが領有している葦原中国は、わが御子が統治する国として任を受けられた国である。そこで、そなたの考えは如何なものか」
すると、大国主神は、こうお答えになった。
「私からはお答えできかねる。息子の八重事代主神の意見も聞いてみて下され」
……そこで、建御雷之男神は大国主神に向かって、こうお尋ねになった。
「今、あなたの子の事代主神が、このように(承知しました)と申した。他に意見を問う御子はおるか」
すると大国主神が、「もうひとり、わが息子の建御名方神がおる」と言われた。……そうこうするうちに、その建御名方神が、千人引きの大岩を指先に差し上げてやって来て、「力競べをしてみたいものだ」と言った。
……
この浜の近くに、因佐神社という小さなお宮がある。そこには、力競べに勝った建御雷之男神が祀られている。また浜には、建御名方神が指先で持ち上げたという巨大な岩が水面から顔をのぞかせている。それは千引の岩と呼ばれるものである。」
このように、「今では人気の海水浴場」は昔、「大国主神が、初めて正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に、出雲の国の国譲りを迫」った場所であると記している。出雲の人々が、「稲佐」と呼び、賑やかに夏を楽しむこの浜辺は、「否か諾か」の問答が行われた、重要な場所であるとしているのである。また、【図3】を見ると分かるように、因佐神社は決して大きな神社ではないが、ハーンの描写の中では、ここも重要な場所の一つであった。現在でも、武運の神様として知られ、参拝後に鳥居を無言で、振り返ることなく通り抜ければ、勝負運がつくなどと言われるこの小さな神社は、「力競べに勝った建御雷之男神が祀られている」ことが由来しているのである。これらの描写からも神話を独立した昔の事実として捉えるのではなく、現実社会に確かに息衝くものとして考えていることが分かる。
以上、「国引き」と「国譲り」の神話の描き方を見てきた。ここまでで、ハーンの描き出す『古事記』世界が、彼の思惑通り、単なる文献の翻訳ではなく、それが如何に当時の社会に生きているのかということにまで言及していることが明らかになった。この試みは、確かにいくつかの点で当時の主流なやり方からは逸脱していたと言えるだろう。だが、日本に関する書籍を多読していた彼が、その方法に従い、同じように日本を描写していたならば、現在、これほどまでに注目を浴びることはなかったと断言することができるだろう。彼の文章にある「いのち」と「味わい」に、我々は今でも心惹かれているのである。 
5 新たな『古事記』世界が示すもの
ここまで見てきたように、彼の著作にはそれまで他の外国人によって描かれなかった日本の姿が、独特な方法で描かれている。それでは、ここで改めて、ハーンが<日本>とどのように向き合おうとしていたのか、彼の著作にどういった視点を取り入れようと考えていたのかが分かる部分を引用し、検討したい。
「神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のようにとらえることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。実際に優秀な学者であれ、神道とは何たるかを、解きあかすことはできなかった。
神道を単なる先祖崇拝だとする者もいれば、それに自然崇拝が結びついたものだとする者もいる。神道とは、およそ宗教とは定義できないとか、無知な宣教師たちには、最悪の邪教だとか言われたりもした。神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における東洋研究者が、その拠り所を文献にのみ頼るからである。つまり、神道の歴史を著した書物や『古事記』『日本紀』、あるいは「祝詞」、あるいは偉大な国学者である本居や平田の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の神髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ、国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。
風変りな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直観も、それと共にあるのである。したがって、神道をわかろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。なにしろ日本人の美意識も、芸術の才も、豪勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。
自然や人生を楽しく謳歌するという点でいえば、日本人の魂は、不思議と古代ギリシア人の精神によく似ていると思う。それは、誰しも認めることではないだろうか。私は、そんな日本人の魂を多少なりとも理解できればと思う。と同時に私は、いつの日か、古くは「神の道」と呼ばれたこの古代信仰の、今なお生きているその偉大な力について、語れる日が訪れることを信じてやまないのである。」
この文章が、一人の「西洋人」によって、しかも1890 年代前半に書かれたものであることに驚嘆する。それは、まず、西洋至上主義が普遍的な考え方であった時代に、これほどまでにその旧套から自由であり得たこと、言いかえれば「Open Mind」であったことにおいてである。「文献に頼らない」ことを明言し、先行のものを超える魅力を与えるという、前代未聞の試みを、ハーンは<日本>という題材を持って行おうとした。
そして、これについて本稿では3 つを挙げて論じてきた。
まず一つ目は、彼の社会的立場である。幕末から明治初期にかけて来日した西洋人たちは、高学歴者が多く、必然的にエリートであった。対して明治23 年に日本へ来たハーンは、そういった集団に属さない存在であった。それが、ハーンを自由にした。ここでいう、「その拠り所を文献にのみ頼る」「西洋における東洋研究者」は、取りも直さずチェンバレンをはじめとするそれまでのエリート日本学者たちのことを指しているだろう。彼は、自身を彼らとは異なった視点から、同じ題材を、全く異なった方法で描き出すとしているのである。
そして、それを可能にしたのが二つ目の要素である。それは、ハーンがギリシャ的な自分を強く肯定したい気持ちがあったことである。彼の中でのギリシャは、東洋的な世界であり、そこに母の面影を感じた。またそこには、父親の存在やキリスト教を含む「西洋」への嫌悪があった。このことは、従って、それまでの西洋における普遍的な考え方に彼が追随することを拒ませた。自らの「オリエンタル」な部分を強く信じることが、彼自身を日本社会へと溶け込ませた。これは他の外国人が試みようともしなかったことであり、日本への新たなアプローチとなった。
そしてこれらの要素に加え、『古事記』の舞台出雲地方と、そこに存在する多くの神々が、ハーンの『古事記』世界に「いのち」と「味わい」を与えたことが明らかになった。つまり、出雲の地理的、歴史的、文化的な魅力にハーン自身が浸ることで、それまでどの外国人も見ることのなかった世界を見、描き出すことに成功したのである。時に、『古事記』世界が描かれた『知られぬ日本の面影』は、盲目的に日本を愛したハーンの夢物語であったなどと評されたこともあるが、筆者はハーンが「出雲の地」を詳細に歩いて見たフィールドワークの成果であると解したい。そして、すっかり西洋化してしまった日本社会に生きるわれわれが、この著作に触れるとき、そこにはまさに「知られぬ日本の面影」が存在しており、われわれに懐古することを示唆してくれるのである。
ハーンの新たな『古事記』世界への挑戦は、彼が出雲地方という「トポス」から、<永遠の日本>の断片を見始めた初期段階にすぎない。このトポスが彼にどのような<日本>を提示し続けるのかは、次稿に譲ることとする。 
 

 

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