「獄中への手紙」 後半 宮本百合子

「獄中への手紙」 昭和九年〜昭和二十年
前半 / 昭和九年・十年・十一年・十二年・十三年・十四年・十五年
後半 / 昭和十六年十七年十八年十九年二十年・・・宮本百合子と顕治雑話
悪妻論歴史の落穂若き世代への恋愛論・・・
 

雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
 後半 昭和十六年〜昭和二十年

一九四一年(昭和十六年)  
一月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月三日第一信
私たちの九年目の年がはじまります、おめでとう。割合寒さのゆるやかなお正月ね。あの羽織紐していらっしゃるのでしょう?明日は、あの色によく調和する色のコートを着ておめにかかりに出かけます。
三十一日は吉例どおり、家で寿江子と三人で夕飯をたべそれから壺井さんのところへお恭ちゃんもつれて出かけました。壺井さんのところでは大きい大きい茶ダンスをでんと茶の間にすえて、その下に御主人公、おかみさん、小豆島から出て来ている大きい方の妹さん、それから小さい妹さんの上の息子がかたまって、おもちを切っているところでした。それにマアちゃんと。
喋っていて、十時すぎたら、玄関の格子がガラガラとあいて「はっちゃんだヨ」と、小さい妹さん、仁平治さん、赤ちゃんの一隊が、やって来ました。小豆島の姉さんに会うために。大した同勢でしょう?
井汲卓一氏が理研の重役で、支満へ旅行して天然痘になったということで皆びっくりしてさわいで(手も足も出ず)種痘したりしたという年の暮です。熊ケ谷の農学校の英語の先生一家は二日に種痘をしようということで、私は余り人員超過になったから、引上げて稲ちゃんのところへゆきました。
稲ちゃんは三十日の夜十時すぎ蓼科からかえって来た由。買物からかえったばかりとコート着て長火鉢のところにいます、眼をクシャクシャに細めているの、痛いと。何だろう、この夏の私のようなのかしらと思ったら、考えた末、白い雪の反射をうけすぎていると判断しました。ひろいところに雪が白(はく)皚々(がいがい)でしょう?それを白い障子のたった明るい室で見て、白い紙の字をよんだり書いたりする毎日だもの!ほんとにめくらになります、リンゴのすったのでひやすことを教えました。
ここでもいろんな買物の陳列でね、何だかいろいろ面白いような妙のような感じです、正直のところ。お金があると買うものって大体自分の体のまわり、家の中のもの、とはじまるのが通例と見えるのね、鶴さんどこか通(ツー)な店の帽子のお初をちょいと頭にのせ、稲ちゃんに阿波屋の見事な草履買ってやって、時計買ってやって、なかなかいい正月というわけの顔つきでした。品物にでもしておくのがいいわ全く。
今年は年越ソバがないので(出前をさせないのです、ソバ組合のキヤクで、大晦日にかぎり。ソバ粉の値上りを見越して、配給をひかえている由)支那ソバの年越しをいたしました。おばあちゃんは八十二歳です、二十九日三十日と箱根へ一家で一泊に行って、おばあちゃんは極楽だったそうです。タア坊にエリ巻の可愛いの、健ちゃんには文具。それが私のおくりもの。
四時頃うちへかえり、お風呂に入り、それからねて、おひるにお祝いをいたしました。去年のお雑煮ばしの袋のような奇麗なのはなくて、白い紙に赤で縁どりが出来ていて、鶴まがいの字で寿とかいてある、それに先ずあなたのお名をかき、自分をかき、寿江とかき、恭子とかいた次第です。
三十一日まで私はパタパタだったから元旦、二日のうのうして、元日の夜は全家八時半就寝で私は又完全に十二時間眠りました。
林町では一家揃って四十度近い熱を出して風邪正月です。寿江子は二十九日からうちでかぜでこしをぬかして今だに滞留です。
元旦は窪川のター坊が来て、まア私は何をしたとお思いになって?羽根つきよ。門の外で。何年ぶりでしょう!なかなか面白くてこれから一人運動につかうかと思います、上を見るでしょう、そして羽子をおっかけるでしょう、それがテニスのように激しくなくてなかなかいいの。タア坊、お恭、寿江と羽子ついていたら、近所の小さい女の子がのぞくので、あそびましょう、と一緒にハネをつき、その子も来てちょっとスゴロク(花咲爺よ!)して、やがて健造と女中さんが迎に来て夕方かえりました。珍しい正月でした。
丸い私が陽気に羽子をつく姿はなかなか見ものらしうございます、相当なものよ。あなた凧上げお上手でしょうね、ふっとそんなこと思いました。この辺ではまだ凧上げていないわ、風がない日ですからかしら。 三日だけは、うんとのびるつもりです、つまりきょう一日は。
それから又例によって〆切りでしょう。これが一区切ついたら、ずっと仕事を整理して、長いものをこねはじめます。
きょうは、うちへ三人の姉弟妹のお客です。二十二、十九、十六という。けさはおKちゃんの兄が豊橋へ幹部候補生の学校で来ているのが、休暇で福島へかえったのが、かえりにより。この家の人たちは、実にうちへ来るのよ、やっぱりあの子がああいう生理だったから心配しているのでしょうね、何だか大変明るくよくなっているのでうれしいと云っていたから、まアようございます。考えると可笑しいわ、つまりうちでは少々もてあまし気味だったのね。でもこちらではいないよりよくて、本人がましになってゆれば、結局は互の仕合わせというわけでしょう。しかし、そういう信頼のエゴイスティックなところ可笑しいわね、だって、うちへよこしておけば大丈夫というのはこっちの責任だけ勘定して、自分がそういう娘をよこすということについての責任は勘定に入れていないのだもの。そういう信頼は面白い。世の中は大部分そういう信頼を平気で適用させているのね。信頼を自分の責任として感じることが少いのね。夫婦でもそうね。
本年は年賀郵便なし、です全国。どんなに郵便局員は助ったでしょう、あれは殺人的なものでしたから。大変いいことだわ。年賀郵便の形式的忙殺はなくていいから、キントンはほしいわね。食べるものはないが、天気はいい正月と皆笑って居ります。
おもちの工合そちらはいかがでしょう、変に今年のもちはもたれるという評判ですが。
島田へ御年始かきました。今年はお母さんおたのしみね、初孫の御入来ですから。名前いかがです?すこしはお考えになった?お正月のひまつぶしにお考え下さい。本の名づけ親から、小さい人の名づけ親に御昇格です。女の子私は桃子というのはすきよ。可愛いでしょう?宮本桃子ハハア姓と余りよく合わないことね。字面の美感が不足ね。上が重くて。そうしてみると、平たくない字がいいのね。宮本何でしょう、四五月前後ならば初夏に近い気候。友子なんて画が少いから合うのね、私は上の百が長めで、やっぱり合うのね。さっぱりとして生々した名がいいことね、案外初子なんてよくないのでしょうか、宮本初子、わるくないでしょう、正子はどうでしょう、豊田正子がいるからだめ?宮本正子これは初子よりいいかしら。男の子だったらやっぱり治をつける?父さんとくっつきますか?何一というのはどうかしら、この間うち生れた男の子たち佐藤さんのは稲ちゃんが行一郎とつけたの、小説っぽいでしょう、もう一人は伸一郎(これはあのメチニコフくれた夫妻)何太郎もわるくないかもしれないことね。でも何だか男の子の名は変に見当がつかない。重吉でもないでしょうしね。吉はお父さんのお名前にもあったから、何吉郎がいいかもしれませんね。それがいいかもしれないわ、孫だから。女の子なんか余りその名からキリョウを考えるようなのはどっちみちよくないから。男の子もサラリとしたのが結構ね。間へ治を入れて郎をつけるという法も在るわけですが。宮本何吉郎と何治郎というのと比べると、宮本何治郎の方が温和ね。何吉郎には圭角があって。又いまにいくつもの名を見つけ出さなければなりませんからそのついでにいろいろ考えましょう。
小説の名を見つけるとき、いろいろ名簿みたりして何百という名の中で、ピッタリと感じをとらえるのは実にすくないものです。バルザックだったか誰だか人の名を見つけるのに街を歩きまわったということもよくわかるわね。
大晦日までに部屋の道具おきかえてなんて云って居りましたろう?ところが三十一日だって午後まで仕事していてそれどころでなくやっぱりあのスケッチどおりの室の様子で万両の枝をいけて、おそなえの日にやけた小僧のような色したのをかざっただけです。ボチボチかえるということになりました。
そちらのよせ植えどんなかしら。今年も梅、南天、松、福寿草かしら。昨夕散歩に目白の通へ出たら、ボケの真紅の奇麗な鉢がありました。
きょうは午後からその三人のひとたちとトランプでもして、休みのおしまいを遊びましょう。トランプもうちではお正月に出るだけね。
昔札幌のバチェラー(アイヌ研究家イギリス人)のうちにいたとき、夜お婆さんがトランプの御対手をたのむのには閉口した覚えがあります。私は大体ああいう遊びごと大して好きでありません、何だかあきるわ。
多賀ちゃん今年は一年ぶりで国のお正月で、きっとこっちでこしらえた着物着ておしゃれしているでしょうね。それを小母さんがうれしそうに見ていらっしゃるでしょうね。マアあちらもおだやかな新年でしょう。では明日ね。 
一月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月八日第二信
やっぱり雪になりました、雪明りの部屋で書きます。ゆうべ夜なかに何だかひどい音がして目がさめ、寿江子が一緒に寝ているので「何だい!」と起きて、上っぱり着てしばらく様子をきき耳たてました。
稲ちゃん、その息子、娘、午後からずっと遊んでいて、林町が今泥棒にねらわれている話したりしていたので、何者か二階の屋根を辷ったと思ったのよ、その様子でもないからハハア雪がなだれたのだと思って、ぐっすり眠って、けさ下へおりて庭を見たら、妙な木片が散っているの。変でしょう?そこでまだ寿江子のねている部屋の雨戸あけて見たら、南側に葭簀(よしず)の日よけがさしかけてある、その横の棒がくさっていたのが夜来の雪で折れて宙のりとなってしまっていたのでした。早速大工をたのまなければ。この日除けは冬も余り直射する日光よけに大切なの。南に向って平たく浅い六畳ですし、縁側がないからその日よけと、すだれと、レースカーテンとで光りを調節しているわけですから。
東京って、一月十日ごろよく雪ね。父の亡くなった年も一月十二日ごろ大雪になったわ。私は雪が大好きです。平気でいられないわ、サア降り出したとなると。雪のゆたかさは面白いことねえ。
さて、二十八日のお手紙を一昨日、六日のを七日頂きました。二十八日のお手紙は年の末にふさわしく「よくも飽かずと思っているくらいなら」という希望が語られていて、私も、リフレインは余りおさせしまいと思います。でも、決しておさせ申しませんなんかとは云わないでおくのよ。何故なら、余りきれいな挨拶をしすぎては、家庭的でありませんから。ホラ又と云われるのも、云うのもわるくないところもあると思うの、勿論意義を軽く見てのわけではなくよ。更に、そのようにやろうと思わないしというのとは全く反対ですが。私は今年は勉強するのですから。仕事の質を深めてゆくのは勉強以外にナシ。このこといよいよ明白ナリと思っているのだから。ほんとの勉強のない作家はテムペラメントでだけ平たく横に動きがちです。明るさ、について実に深い教訓を与えられましたから。自然の気質の明るさなんか歴史の複雑な襞(ひだ)の前には、わるく行けばその日ぐらしの鼻唄となり、よく行って、せいぜい、落胆しない程度にそのものを保つだけで、決して真の人類史の明るさと一致した明るさは保てないことが実にまざまざとしたから。
面白いでしょう、歴史の大転換の時代に、多くの人々が却って小市民風に何となし自分一人一人の安寧、マアかつえない日々をよしとする気分におかれているようになるということは、政治の貧困の半面の時代的な心理ですね。大きい言葉が空中にとび散っているけれど、何となし人々の目は小さく身のまわりに配られています、様々な意味で。
この正月はそういう気持が一般に著しくて妙な空虚でした。一応おめでたいみたいなのよどこもかしこも。だがお正月と共に万事お休みの感で、次に何が出て来るのか何だかこわいみたいなそんな変な新年の雰囲気でした。
『現代』で売切れのトップを御発見になったということ、あなたに珍しかったばかりか私にも大変珍しいことです。「現代の心をこめて」は、つけないでよかったのよ。羽仁五郎の「ミケルアンジェロ」のどこかにある言葉にごく似ているのがわかったから。現代の心のかぎりをこめて、というのですが、ミケルの方のは。三つの単語を並べた題というのはどうでしょう、ポツンとしていて、そして二昔前に割合はやった題のつけかたで与謝野晶子からいてうに「雲・草・人」というのなどあり。全く実質はちがうけれど。竹村のをまとめたらほんとに目次かきましょうね。でもまだ枚数不足と思うのですけれど。それに私とすると、評論集ばっかりつづくのはいくらか不本意なのよ。せめて『第四日曜』でも出てからね。その時分になれば枚数も揃うでしょうし。
佐藤さんのおばあさんが、あなたのやさしい心と大変よろこんで居りますって。いつもお手紙下さるときにはよろしくとかいてあるから、と。若い夫妻は折々御飯を一緒にたべるのに、おばあさんはなかなかお招きしないから五日にはおばあさんと夫妻と赤坊とを夕飯によび、柔かいお魚の鍋をして皆で団欒(だんらん)いたしました。そのとき偶然戸台さんが来合わせて、一緒にたべました。ひどい風邪をやって、大分参ったらしい様子でした。北海道のおっかさん、二月が近づくと東京が恋しくなって来る心、ねえ。そして、弟息子のボロ洗濯を山ほどしてやって二階借りの暮しをして。余りこの正月は人が沢山で私は人当りして居りますから、暫く独りぐらししてその上ゆっくりよんであげるつもりです。
今年の第一信へ。そう?ユリも正月らしく見えました?私の第一公式で出かけていたのよ、大おしゃれなのよ。
羽根つきは、昨夜も座敷の中でやりました。坐り羽根つきという新しい名をつけて。ややピンポンに似てしまいますが、それでも面白いわ。子供がいると。健造ぐらいの子供はナカナカ好敵手です。(この三月にもう六年ヨ、医者になる由です)
それでもお菓子がおありになったの凄いわねえ、こちらは餡の菓子は買えず、よ。ひとが持って来てくれた菓子の正月でした。
作家として、抒情詩は抒情詩としてのリアリティを目ざすところに逞しい面貌があるのだから、というところ、ここは全く真実であって何と面白いでしょう!そうよ。全くそうよ。「朝の風」は私にそのことを教えているのよ。それは創作においての方法にふれて、私にはこういうこととしても云われるのよ、――主観的に作者をつよくとらえている一定の気持の中に入ってしまっているために、それに甘えているために、つきはなして、リアリティをきずきあげる力を発揮し得ていない、と。いつかのお手紙に、抒情性が芸術の迫力を弱めるなら本来の主旨に反するとおっしゃって笑ったことがあったでしょう、それよ、ね。ここいらのところは、実に微妙で、作家は一生のうちに何度かそういうようなモメントを経験するのでしょうね。自分の境遇への感情なんて、何とはっきり作品へそのよさもわるさもあらわすでしょう、だから小説は大したものよ。どんないい筈の境遇でもそこで人はわるくもなるのです。そして、そのことを、いつも明確に知ってはいないことがある。だから今年は勉強したいというの、お分りでしょう?去年は相当の量の仕事いたしましたから、いろいろ学ぶところも少くなかったというわけです。しかし、それとは別に又今年は勉強と思うわけは、ね、どの雑誌も頁数を切りちぢめ、たとえば、二十枚とつづけてたのむところが減ります。これ迄の(明日への精神)に集めてあるのは二十枚ぐらいのが多いのよ、ですから相当に腰が入りテーマも本気です。でも今年はそうでないと見とおして居ります。ですからすこし長い腰の入ったものはやはり自分の勉強のつもりでかいて、その上でなら又発表の場面も出来るということになるのでしょう。パンにつられた犬の小走りと書いていらっしゃること、ああいう小間切れ仕事だけになっては大変ですから。それも書く上で、ね。
お正月にかかなかったものというのは、『文芸』の評論で、この頃小説の明るさというものが求められている、それが教化的に求められていると同時に生活的にも求められていて、その明るさが他愛なさに通じたり好々爺的なものに通じたりしている、それでない小説の明るさ芸術の明るさとはどういうものか、ということを書くわけだったのですが、作品に即してかこうと思っていて間に合わなかったのよ。決してサボには非ず。来月かきましょう。小説の明るさ、明るい小説なんて言葉が文学の領域に入っていることさえ変なのだから、そこから先ず語り出さねばならないわけでしょう、だからつまりは今日の生活と文学の論となり、そこまで踏み込まなければつまらない。
『文芸』で評論を募集したらパスカルの何とかデカルトの何とかですって。選者に小林秀雄がいるというばかりでなく、そのことに若い世代の文学的資質の傾向、及び、トピックを見つける分野の狭くかぎられている客観的な事情等あらわれていて、私は大笑いしました、じゃパスカルだの何だのと、選者はおそらく先ずそんな本をよまなければならないのだろう、と。助ったわ、私が選者でなくて。
『現代』はそうして見ると、『現代文学論』の素材的でもあるわけですね。それは知らなかったわ。古いのでも送って頂いて見ましょう。作家がいつしか段々臆面のないものに化しますね、知慧というものは常に或る美しい含羞をもつものです。その新しさ、新しさをうけいれてゆく弾力、自分の未発展なものへの期待、その故に羞(はじ)らいをもっている。(おどろきの変った形として)そのような精神の浄(きよ)らかな命は、いつの間にやら失われて、通俗作家以下のものになっているのね。今は云わば愧(はずか)しいなんていうのは自分の心があからむだけのことみたいなところがあるから、ひどいことになってゆくのでしょう。自分に向ってしらばっくれてしまえば、万事OKであるわけです。
お年玉のこと、呉々もありがとう、たのしみにしておいで。そういう響のなかに何とたのしさがこもっていることでしょう。たのしみにしておいで。たのしみにしているわ。
この頃私はいい絵が部屋に欲しくてたまりません。今あるのは、松山さんの近来の傑作と柳瀬さんのホラあの水屋のスケッチ。どうもこちらのボリュームをうけてくれるに足りず。写真でいいからいいのが欲しくてたまりません。そして、もしかしたら林町の古いビクターをかりて来るかもしれません。絵は欲しいことね、私は仕事の間にタバコすわず、お菓子つままず、余り方正でさりとてトランプのひとり並べはいやですし、やっぱり絵なんか見たいわ。丸善のけちな画集すこし買おうかしら、それもいいわ、ねえ、あなたのお年玉の一つとして。雪解けの音はすきです、荷風はうまくかいています、「雪解」という小説で。 
一月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十一日第三信
今この二階へ斜かいに午後の陽が一杯さし込んでいて、家じゅう実にしずかでいい心持。
お恭は、一時二十分の準急で立つのですが、十二時に家を出てそれでもういくらかおそめです。この頃の汽車は、出発前十分に駅にゆくなどという昔のハイカラーなのりかたは夢で、上野なんか西郷の銅像のあたりまでとぐろをまきました、それは暮だけれど、今日はどうでしたろうか。小さいトランクにふろしき包み一つ。コート着て、赤い中歯の下駄はいて。顔を剃ってかえりました。
きのう迄寿江子がいて、二階狭いから私はベッド下へ布団しいて臥(ね)て、何だか落付かなかったので、昨夜はいい心持でいい心持で、久しぶりにベッドの中で休まりました。寿江子神経質ね、毛布なんかに虫よけが入れてある、その匂いでゼンソクおこすのよ、ですから戸棚にしまってある布団にはねかされないの。ひどいものでしょう。それにカゼ引いていたし優待してやったの。
見事なお年玉いただいたしこれで私のお正月になりました。
お年玉といえばね、きのう本当に珍しいボンボンをたべました。あんなボンボンこの頃どうしてあったのかしら。ボンボンであるからチョコレート製にはちがいないのだけれど、口がひとりでにそこへ誘いよせられるような工合で、口の中へやさしくうけとったら、かんでなんかしまえなくてね、ボンボンが溶けてゆくのかこっちがとけてゆくのか分らないような濃(こま)やかな味なの。素晴らしいでしょう?ボンボンとはよくつけた名と思います。お美味(いし)い、お美味いというそのままの名なのだもの。フランス人はしゃれて居りますね。キャンディなんて、それは歯でかむものの名です。かみそうな名じゃないの。ボンボン、響も丸やかで弾力があって、本当にボンボンの感覚です。
こんなボンボン好きみたいなことを書くと、あなたは心配なさるかしら、さてはユリは糖分過剰にならないかナと。大丈夫よ。このごろ、きのうのようなボンボンは決して決してざらにはないのです。
こうやって、お年玉のお礼だの美味なボンボン物語をしていたら、十一日づけのお手紙着。(十二日)
そして、何だか折角頂いたお年玉をみんなとりあげられそうで、びっくりいたしました。
二月号に書くもののばしたというのは一つだけなのよ。『文芸』で、「小説の明るさ」についてこの頃いろいろ云われている、その正しい概念について書いてくれということで、このことはこの頃考えている精神の明るさの問題と等しい根拠で語られなければならないから、大切なことと思い、ただ、展開してゆくのに具体的でなければならないから、骨子だけで語ることは出来ないから、いろんな作品――所謂(いわゆる)明るいという――宇野のもの、武者のもの、徳直のもの等――その作品の分析をして、語らねばならず、小説のこと考えていたら、こまこまそんなものよむのいやで六日に間に合わず、のばしたのよ。一月号のためのものは一つもあまさず書き終って居ります。長いものの手入れだって、二十日の自分の〆切りが二日のびたのだけれど二十二日には全部わたしているのだし、小説だって書いたし(『文芸』)その他こまこましたものだって書いたし。
あんなにいいお年玉頂き、それを忽ちとり上げられたりしては一大事だから、ユリこのところ必死の防衛よ。くりかえし申ますが、正月号のは、小さい女の子の雑誌から『婦人朝日』対談会出席まで一つも違約なくやって居ります。のばしたのは二月号のものの中でも『文芸』のそれ一つよ。あとは書いて居ります。そして、そういうことはお年玉をとりあげられたり、お嬢さん的云々というほどのことではないように思えるのよ。
度のすぎた労(いたわ)りや祝辞は云々は全く恐縮で、これから本当にお止め?しかし、もし相当ちゃんとしているのだとしたら、お止めの理由もないわけね。人間が成長してゆくためには、暖い光も時にはいるものよ。まして、その一本の草がどのようにのびようとしているかということについて、真実の同感や思いやりや期待をもっていてくれるものが、ほかに大していもしないという場合には、ね。そして、同じ源からの激励に対しては、全くそれを評価して、最大に活かそうと試みられているときには、ね。
食って、しゃべって、遊んで、のびが戻らず、間に合わないではというところよんで何だか笑えました。のびが戻らず――まるでそれではこの頃のゴムのようね。
いろいろぐるりの空気、文学上の空気が何しろこうですから、あなたが、小乗的愛を警戒なさるお気持は大変よくわかるわ。私がよく書くように、人間の生活の条件は実に微妙で、私たちの生活の条件から保たれている健全さというものが、どの位貴重なものか、それが生活や芸術の成長にどんなものとなっているか。それが有ると無いということで、何だかごく近い友達たちとの生活感情との間にさえ近頃は何か変化を生じて来ているようでさえあるという事実を、私は決して軽く見てはいないと思います。この後二三年も経ったら、どういうひらきを生じるのだろうと思うことさえあるわ。
主観的肯定に陥る危険について自分で深く考える理由の一つとしては、逆にそういうことから、狭い自己肯定になってはならない――文学上のこととしてはリアリティーが弱まってはいけない、と思いもするわけです。
私には云ってみれば、慈悲の鬼がついているのだから、なかなかのびが戻らぬという有様でもいられないわけです。ここにあげられている四つの条項は、これは常に変らない自省の土台となるべき点であることはよくわかります。温泉や旅行は云々と老後が結びつけられていること、何か頬笑まれました。だって、私は老後というものをそういう条件であらわれ得る歴史の性質でないとばかり思っていたから。何だか珍しい珍しい気がして面白かったの。自分たちを、じいさんばあさん(鴎外の小説の主人公たち)のようにして考えると。でも、やっぱり本気にされないわ、おはなしのようです。
叢文閣の本火曜迄の約束。たしかに果せます、着手して居りますから。
十一日づけのお手紙、お年玉とりあげについてはこわかったけれども、然し勿論ありがたい心でよんで居ります。
心持って面白いことね。もし私が正月号のための仕事やその他本当にすっかりなげていたら、こんな手紙頂いて、どんなに悲しく思ったでしょう。
又心持って面白いものねえ。この間、あなたが、ユリにもし旅行の計画でもあったら、いったらいいね、と仰云ったとき、家へかってみんなにそのこと話したぐらい、くつろいだのびやかな楽な気分がしました。行ってもいいよと云われ、しかしあながち、では、と出かけないでも、そこに何とも云えないゆとりのある心持が生じる、行っていいこと?ああ。そう云われたのとは全くそれは別種のこちらの気持に与えられるゆたかさね。こういう心理的なふくらみというものを考えます。そして、互にそういうふくよかさを与え得る者はきまっているということも。
でも生活は何と面白いでしょう。たとえば手紙一つの読みかたも次第に立体的になって、心の全体の動きとしてよめるようになって来て。ねえ。
わかってゆくということは極めて生的動的ね。わかる部分ずつわかってゆくのね。すべての価値がわかってゆくそのわかりかたの面白さ。そうやって、少しずつ少しずつわかって行く部分がそのひとの身についたものとなってゆくことの面白さ。
頂いたお年玉はもう頂いておかえしはいたしません。きっと、とりかえさずとよかったことがおわかりになったと思いますから。 
一月二十日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十九日第五信
きょうは風のない暖かな日曜日でした。十六日、十七日のお手紙、二つ一度に着、ありがとう。
ボンボン、私がよろこぶのもあたり前とお思いになったでしょう?昔子供のとき、風邪で咳が出るとコルフィンボンボンというのをのまされました、それは咳とめよ。ハッカが入っていたようです。
計算書のこと承知いたしました。これとは別にかきます。あの本は本当に面白く、みんな通って来たところどころの変化の姿の真実が語られているのだから、まざまざとしてウィーンの破壊された建物の話でもね。そのアパートメントを私は見物に行って、そこの住居人の子供が名所エハガキを売るようにそこのエハガキを売りつけるのを見て、一種の感想をもちました。そして、やはりその感じの当っていたこと、そんなにして小遣稼ぎをする子供らの生活が語っている実相がその真の向上の方向には向けられていなかったことがまざまざと分り、実に面白うございました。
一九二九年の五月はワルシャワでね、その朝の光景なんかいつか書きましたねえ。みんな目に見えるようで、従って、実に会得するところ大かったわけです。
それにつれて、あなたが(武麟評して大伽藍(がらん)のような構成だと云った)文芸講演会のトピックの意味も、くりかえし思い出されました。何日かをぶっとおしに当てるという方法が一番有益ね。この間のは菊版で四百何十頁か。二日殆ど食べる間だけ休んでよみました。本をもっては国府津でよめたりしたらいいのにね。益〃そんなことは実現おぼつかないことになります、切符の関係で。
甘やかすと為にならないのは天下の通則ながら、私は、しかし甘やかされすぎたということが、いつかあったのかしら。
動坂で、松林の模様のある襖のところで、やっぱりそういう意味のこと仰云ったことがあったわね。常に、甘やかすまいという戒心をもっていらっしゃるのね。それは本来的な意味でよくわかります。私も其は賛成だと思います。
多くの生活は、甘やかされているという言葉が、どこかに予想させる甘美さ、ゆるやかさ、和やかさ、そんなものは影もないプロザイックな明暮のまま、しかもゆるんで低下して、引き下った調子で、結果としては互に甘えて暮してしまうのね。
私の生活の味は何とこみ入っているでしょう。大変高級なのね。砂糖は殺してつかわれているというわけなのでしょう。しかし舌の上にしっとりとくぐんで味ってみれば、なくてはならない甘味はおのずから含まれているという凝った模様なわけでしょう。そうしてみればあなたは大した板前でいらっしゃる次第です。
「英国史」を書いたモロアの『フランス敗れたり』という本があって大層よまれています。これはフランスの敗北を政治家たち上層の腐敗として語っているらしいのです。いつかよんでみたいと思って居ります。この間よんだ本の印象を活溌に対比させてみたらきっと随分面白いでしょう。真の敗因を著者はどこに見ているかということが、ね。
こういうものの書評がじっくり出来たらいいのだが、と思います。
金星堂の本、送って来たのをすぐそちらへ一冊、島田へ一冊お送りいたしました。あの表紙は何か生活の音があるようで好きです。なかどんなのかしら、そう思うような表紙でしょう?
隆ちゃんへの袋も、この頃はなかなかむずかしいのよ、物がなくて。甘味類のカンづめがすっかり減って居ります。カン不足ね、大体。富雄さん中支派遣で、ハガキをよこしました。本部づきになっているとかの話でした。ハガキとは別に。本部づきでは、あのひとの性格の、どういう面が果して発達するでしょう。達ちゃんのように技術があるわけでもなし。本部づきなら決して不自由しない。そのことは、一般からみれば特権です、それが、どうあのひとに作用するでしょうか。いずれこの人にも袋送ってやりましょう。この頃はちょいと入れると十円よ、一袋。
休養の話、それに対する心組の話。よくわかります。私の表現がはっきりしなかったのでしょうけれど、ここに云われているように感じているのよ根本には、ね。冬は暖いところへ、夏は夏を知らないところへ、なんかと考えるわけもなし。ほんとにリュックにお米をいれて、二三日も国府津へ行って来るぐらいのことしゃんしゃんやればいいのに、それをやらず、どっかへ行ってみたいナなんかとばかり云うから、あなたはユリが、少し働いては休養休養という珍妙エリート女史かと訝しそうになさるのね。そうでしょう?
あら、やっとお恭がかえって来ました。十一日に出かけ、十八日にかえる筈だったところ、十八日にツゴウニテカエリ一九ヒトナル電報が来て、やれやれと思って居りました。まアこれで私の日常も再び順調になります。仙台のおみやげという堆朱(ついしゅ)のインクスタンドだの、お母さんのおみやげのころがき玉子。
茶の間の隅に山田のおばあさんのくれた四角い台を出していて、その上には諸国土産が一揃いのって居ります、箱根細工の箱のハガキ入れ(稲子さんみやげ)鵠沼の竹の鎌倉彫りのペン皿(小原さんという、お恭ちゃんをよこしてくれた娘さんのみやげ)女の子が彫った小箱(それにはそちらへ送る本にはるペイパアが入っている)朝鮮の飾りもの(栄さん稲ちゃん)そこへこの堆朱も参加して、茶の間のものらしい文具一組です。
二階のは全く別でね、これは例のガラスのペン皿その他変ることなき品々です。
きょうは桜草の鉢が机にのって居ります。
『アトリエ』という絵の雑誌御存知でしょう?あの雑誌がグロッスその他の特輯をやるのですって。そして私にケーテ・コルヴィッツのことについてかいてくれと云って来て、私は大変うれしく思って居ります。すこし勉強してかきます、十五枚ぐらい。魯迅なんかがコルヴィッツについてどうかいているかも興味があります。昨夜、ベルリンで買って来た画集出してみて、新しく真摯な仕事ぶりに感服しました。人生的なモティーヴをもっていて。ケーテのようなその級の婦人作家はいなかったのでしょうか、知らないわね。婦人画家というものについてやはり沁々面白く思います、「女らしくない」力量をもった画家として、ロザ・ボンヌールの動物画があげられるけれど、それは女がそれ迄近づかなかった馬市などに出かけて描いたというだけのことです。ケーテなんか女でなければつかまない子供や女の生活のモメントをとらえて、それを深くつよいモティーヴで貫いて、技量も大きいし。日本には二種しか画集がないのですって。その一種は私のもっているの。もう一つの方もかりて見たいと思います。
女の絵としてローランサンなんかが示しているもの、それとの対比そのほか、日本の婦人画家は目下展覧会へかいたりする人でこの位生活的なひとはいません。そのこともいろいろ考えます。新井光子なんか、今NewYorkでどんな勉強をどんな気持でしているだろうかと思ったりして。伝記を学びたいと思います、ケーテの。
竹村の本は、こんなものだの、ヴァージニア・ウルフの「婦人と文学」についての感想をすこし長くこまかくまとめたものだのがかけたら、そのほかのものと一緒にして、本に出来るでしょう。ケーテのことはこれだけ書いてみたい心を動かされる。日本にそんな婦人画家が出たら私はどんなにうれしいでしょう、ねえ。たとえばレムブラントの生涯はベルハーレンが詩人らしさで描いています、しかし私が新しく書いたっていいわ。そういうものがあるわけです、レムブラントの芸術的生涯には。却ってミレーなんかよりあるのです。日本の洋画家の誰がそうでしょう?それもこの間考えました。男だって、ないわ。
ケーテについて正しく書ければ、やはりうれしいと思います。専門家でなくたってね。通俗講座でなければ、ね。でも、通俗講座とはよく穿たれた表現です。
この頃玉子切符で買うのです。砂糖の切符をみせるのですって。そして、その人の割で売ってよこすのです。米も一日に一回二升までで毎日二升いるうちでは日々買いに行っているところがあります。うちは組合で、そうしなくてもいいのですが。東京は二合とすこしになるのでしょう一人一日。御飯のお客なんかは出来なくなります。
いまに島田へゆくのにも、自分の分の切符持ってゆかなくてはならないことになるかもしれませんね。
ああ、有光社という本屋を御存知?そこで短篇集を出したいのですって。いろんな人のを出すのですが。インディアン・ペイパアは字引にしかつかわないのかと思ったら、その本やはそれを使ってポケット型にして一円の本にして五千刷るのですって。四月末に原稿が揃えばよいとのことですが。三百頁余で。どんな風に揃えられるかまだ見当がつきません。前の二つに相当入れてありますから。有光堂はお茶の本、仏教の本など出していて、自分のところでは二万は確実に読者をもっている、というようなことを云って居りました。一ヵ月に四五冊ずつ出してゆくのですって。何だか荒っぽい話ねえ。若し特別な支障がないと今年は今わかっている分で五冊まとまる筈になっているのですが。高山のはぬきに。もうこれはじきでしょう。とらぬ狸の皮算用ということはことに昨今全く論外ですから、一つ出れば、はァ出たかというようなものね。
それからもう一つきょうきいた話。
上り屋敷の電車でずっと行ったところにいい原っぱがあって私が遊びに行ったところ、覚えていらっしゃるでしょう?あすこは風致地区なのです。体に空気が大変よかったの。ですから、折々私の空想の十坪住宅があのあたりに建てられていたのですが、きょうの話では、すぐその奥に宏大な地所が買われて、プロペラーの音でもするわけになって来ました。地べたに近くプロペラーが来ると、空気が猛烈に震動して苦しいのよ、地上にいて。
この間行ったら、武蔵野電車会社が分譲していろんなマッチのような家が出来て居りましたが、そこの人たちは空気がよいということにひかされて、あんな不便なところにも移っているのでしょうね。武蔵野が、そんなに近く実現する変化について全く知らなかったというようなことを考えるのはむずかしいことです。土地を買ったひとはどんな気になるでしょう。
きょうは、大家さんの林さんから植木屋が来て、樹木に寒肥をやりました。年々やることですが、今年のは特別の意味があるのです。人不足ガソリン不足で正月来一度もくみとりが来ず戸毎に大恐慌で、林さんでは遂にその年中行事をもう一つの打開方法としたわけです。
一昨日二階の日よけの折れたのを直しました。戸締りを直した大工をよんで。この大工さんに留守番して貰って一寸用足しに出て、動坂で畳や留守番にして出た日のことなど思い出しました。何もない家って何ていいだろうと思いました、勿論その大工は正直な男ではありますが。火の気なしで手がかじかまないのは暖い晩ねえ。ではこれはおしまい。 
一月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
支払いした記録うつしや速記の表。
(一)十五年五月二十五日に支払ズミであった分。
一、第一回速記三四・〇〇
二、加藤・西村公判記ロク四七・一六
八一・一六
(二)木島、袴田(上申、公判)重複分ハ一九二・〇六銭の中前回一一〇・四〇支払イ今回はのこりの分担一〇・三〇銭だけ支払。
(三)逸見上申四通三・一六
同二通二七・二八
宮本公判期日変更願其他二通一一・九九
木俣鈴公判四通ノ中二通
七・五〇
上申二通ノ中一通
(四)速記六月二十一日以降五月二十八日
七月二日五六・〇〇
七月二十日
五月四日、十八日二四・〇〇
八月十日分一〇・〇〇
計一八一・九六銭
内十二月一〇〇・支払
一月二十日八一・九六銭支払
右の工合です。これはこれだけで。 
一月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十三日第六信
きょうは何年ぶりかに雨かと思ったら、やっぱりいいお天気になりました。
ゆうべは座談会で、日比谷の陶々亭を出ようとしたら雨になっていたので、あらと思い、雨の音を珍しくききながらいい心持で眠りました。すこし風があることね。今は月のない夜ですね。でも雨降りの夜であったことがないのは面白いこと。一遍も雨がふっていたことはこれ迄もありませんですもの。
ゆうべは、さち子さんの姉さんが宮城県から出て来ていて、身の上相談的なことで、かえるのを待っていたものだから、疲れているところを又相手して、おそく湯に入りました。雨の音をききながらお湯に入っていてあっちのうちの風呂場思い出し、夢中のような心持でお湯に入ったことや、ブッテルブロードのことや、こまごまイクラが丸く赤く光っていた様子まで見え、ちょこんとした浴衣の花模様など、大変大変ゆたかな晩でした。
そして、床に入りながら思ったのよ。今年は思いもかけないお歳暮だのお年玉だのを私は頂いたのだけれど、私はあなたに格別いいものもあげられない、と。私だって、どんなにかボンボンをあげたいでしょう。ボンヌボンヌを。私の御秘蔵のボンヌは決してありふれてはいないのだけれど。残念ね。「化粧」というソネット一篇ぐらいしかあげてないのですもの。私も、今年は今年のおくりものを見つけたい思いは切です。でも、いい思いつきがなくて。
そう云えば、本つきましたろうか。高山のも。高山の表紙もわるくないわ、落付いていて。しかし『第四日曜』と『進路』と並べてみると、さっぱりしすぎのようなところもなくはないでしょう?検印の判のことちっともおっしゃらないことね。私は一つ一つあれを捺してゆくときそこに声をきくような気持でいるのですけれど。いいでしょう?あれをこしらえたばかりのとき一昨年だったか、手紙の中におしてお目にかけたの、覚えていらっしゃるかしら。この頃は朱肉のいいのがなくなりました。朱もよそから来ていた由。日本画家はキューキューの由です。金箔はもう夙(とう)に日本画の世界から消えて居ります。
ケーテの伝が昭和二年の『中央美術』に出ていていろいろ面白いと思います。一八六七年にケエニヒスベルグで生れているのね。祖父さんというひとはドイツの最初の自由宗教的牧師で、お父さんというのは判事試補試験にパスしているのに、そういう立場のためにそれをやめて石屋の親方で暮したのですって。一八八五年というから十九歳位のときベルリンで画を修業しています、コルヴィッツというのは兄さんの友達なのね。この人は医者です。ベルリンの労働地区の月賦診療所をやっていて、そこでケーテは実に生々しい生活の姿、母と子との姿にもふれたわけでした。一九三〇年頃はケーテがそこに住んでいたのですね。六十歳のお祝は盛にやられたらしい様子です。一部の人はこの卓抜な婦人画家を、宗教的画家ときわめつけようとしたらしいこともかかれて居ります、人類愛のね。
文学の面から多くのものをうけているそうです。一八九七年のハウプトマンの「織匠」の絵で認められたのですって。どんな絵なのでしょうね。見たいこと。私のもっているのにはありません。十数葉のエッチングだそうです。エッチングとリトーグラフィーで主に制作しているのね。大したリアリストです、実に鋭く内的につかんでいます、人間の顔一つが、生活を語っていて。そこにケーテが風俗画家ではない本質があるのでしょうと思います。題材を描いているのではないのです、生活を描いていて。彼女の芸術は良人の仕事の性質でつよめられているのは深い興味があります。きっとそのコルヴィッツというお医者も立派なところのあった人でしょう。
一九一四年にはケーテの二男が戦死しています、五十八歳頃に、その後に(一九一四年)ひきつづくひどいドイツの生活の中から飢えや失業、子供の死を描き出しています、私のもっているのは主としてこの時代の作品が集められているのね。ケーテは実に女と子供と父としての男の生活に敏感です。グロッスより時代的には前の画家だそうですが、グロッスよりも遙にリアルな作家ですね。勿論グロッスは諷刺画家だけれど。
『アトリエ』ではフランスのマズレールとコルヴィッツとグロッスなどの特輯をやるのですって。マズレールの人の一生という極めて面白い版画本があります、それから『都会』という大きい本も。
同じこの雑誌に藤島武二の絵、藤井浩祐の彫刻など出ていて、何だかびっくりする位ね、下らなくて。
この時分、中川一政はまだ若い画家で山塵会というものをつくったりしていたのね。(昭和二年ごろ)
明日あたり図書館へ行って魯迅全集を見て、ケーテについて彼のかいているもの[自注1]をしらべましょう、なかなかたのしみです。
お早う。けさはいかがな御機嫌でしょう。いい気持?机の上の桜草が、たっぷり水をもらって、こまかい葉末に露をためながら輝いて居ります。私はしんからよく眠り大変充実した気分よさです。ゆうべはすこしかげになった同じようなあかりのなかで、おくりものへ頬っぺたを当てているような心持で、お風呂から出てすぐ寝てしまいました。きのうはいい日だったことね。いろいろと心をくばって下さり、本当にありがとう。
あれからね金星堂へまわり、高山へまわり、銀座へ出ました。咲枝が三十三になったのよ女の厄年と云われていて、きっと咲枝心の中では気にしているのでしょうからいろいろ考えていて、ふと栄さんから帯を祝ってやるものだときいたので、銀座の裏のちょいとしゃれた店へ奇麗な帯を注文してあったの。それは十八日に出来ていたのにとりにゆけなかったのです。それをもって、ひどい混む電車にのって、余りひどく圧されるときフーと云いながら林町へまわりました。咲枝大よろこびの大よろこび。私はその様子を見てうれしかったわ、自分の心のたのしい日に、ひとのよろこびを与えてやるのもうれしいというものです。食堂がもとの西洋間に移ったことお話しいたしましたね。あの大きいサイドボールドがやっぱり引越して来ているので、咲枝その鏡に帯をうつしてみてしんからよろこんで居りました。
太郎にとってもきのうは特別な夕方でした。それはね、区役所から、千駄木学校(あすこよ、動坂の家のすぐ裏の)へ入るようにと云って来たから。僕千駄木学校へ行きたいと思ってたから丁度いいやとよろこんで居りました。
その太郎のために私は近所で木綿の靴下を見つけてやって、一年生の間と二年生との間はもつだけ、ああちゃんに買ってやったのよ。あっこおばちゃんもなかなかでしょう?
寿江子に云わすと、太郎は何でもこれこれはこういうものという型通りが好きすぎるそうです、でもそれは父さんが全くそれ趣味だから今のところ真似でしょう。今にすこしは変るでしょう、利口は悧口よ。なかなか可愛い息子です。四月十日からですって。近いから心配なくて何よりです。何を祝ってやりましょう、あっこおばちゃんのおじちゃんというお方は何がいいとお思いになること?いずれ御考え下さい。二人でやりましょうよ、ね。太郎はぼんやり覚えて居るのよ、あっこおばちゃんのおじちゃんを。眠くなって九時すぎかえり、そしてたのしい晩を眠った次第です。
ときどき思いがけないボンボンを見つけたりして話しますが、きのう銀座の方で、私は何とも云えない見事な花の蕾を見たの。飾窓の中におかれていて花やでなかったから手にさわることの出来なかったのは残念ですが。蘭の一種かしら。大柄な弾力のこもったいかにも咲いた花の匂いが思いやられる姿でした。ほんのりと美しくあかみさしていて。自然の優雅さとゆきとどいた巧緻さというものは、おどろくようなときがあります。この頃温室の花は滅多にないのよ、石炭不足ですから。本当に珍しく。花の美しさって不思議ね。決して重複した印象になって来ないのね。描かれた絵だと、何か前にもその美しさは見たというところがあると思うのですが。花はその一目一目が新鮮なのは、実に興味ふかいと思います、それだけ生きているのね、溢れる命があるのね。そういう生命の横溢には、きっと人間の視覚が一目のなかに見きってしまえないほど豊富なものがひそんでいるのね。こんな小さい桜草でさえ、やっぱりそういうところはあるのですもの。蕾がふくらみふくらんで花開く刹那、茎が顫えるのは、思えばいかにもさもあることです。蓮の花のひらく音をききに夏の朝霧の中にじっとしていた昔の日本人の趣味には、あながち消極な風流ばかりがあったのでもなかったかもしれません。花の叫びと思えば何と可憐でしょう、ねえ。花はいろいろに声をあげるのでしょうね。そのような花の叫びをきいたのは誰でしょう。
満開の白梅はよく匂っているでしょうか。今は寒中よ。花の匂いにつめたい匂いのないことも面白いこと。さむい花の香というものはどうもないようね。でもそれはそうなわけね、花はいのちの熱気でにおうのですもの。花のそよぎには確に心を恍惚とさせるものがあります。
ひろい庭が欲しいと思うのは、いく人も子供たちが遊びに来たときと、花々のことを思ったときです。自分が子供だったとき樹の間でかくれんぼしたり裏の藪へわけ入ったりしたあのときめきの心、勇気のあふれた心を思い出すと、子供たちのためにひろいいろんな隅々のある庭がほしいと思います。花を、花圃(かほ)にはしないであっちこっちへ乱れ咲くように植えたら奇麗でしょうねえ。自然な起伏だのところどころの灌木の茂みだの、そういう味の深い公園は市中には一つもありませんね。庭園化されていて。いろんな国のいろんな公園。菩提樹の大木の並木の間に雪がすっかり凍っていて、そこにアーク燈の輝いているところで、小さい橇をひっぱりまわしてすべって遊んでいる小さい子供たち。仕事からかえる人々の重い外套の波。昼間は雪を太陽がキラキラてらして、向日葵(ひまわり)の種売りの女が頭からかぶっている花模様のショールの赤や黄の北方風の色。その並木公園に五月が来ると、プラカートをはりめぐらして、書籍市がひらかれ、菩提樹の若いとんがった青緑の粒だった芽立ちと夜は樹液の匂いが柔かく濃い闇にあふれます。アコーディオンの音や歌がきこえ出します。そして、白夜がはじまって、十二時になっても反射光線の消された明るさが街にあって、そういう光の中で家々の壁の色、樹木の姿、実に異様に印象的です。
三月はまだ雪だらけね。日中は雪どけがはじまります。それはそれは滑って歩きにくいの。ミモザの黄色い花が出ます、一番初めの花は、雪の下(ポド・スネージュヌイ)という白い小さい花です。小さい菫(すみれ)の花束のようにして売ります。
私は北がすきです、冬の長さ、春のあの愉しさ、初夏の湧くような生活力、真夏のあつさのたのしみかた、旺(さかん)ですきよ。東京は雪の少いのだけでも物足りませんね。特に今年は一月六日に一寸ふったきりで。
あなたは雪の面白さ、お好き?雪だるまをつくるくらい島田に雪が降ります?初めて島田へ行って駅に下りたとき、それは一月六日ごろで、かるい粉雪が私の紫のコートにふりかかったのを覚えて居ります。つもりはしなかったわ。それでも炬燵(こたつ)は本式ね。今年は炭がないので、どこでも急に炬燵を切ったりして稲ちゃんのところは信州から一式買って来たそうです。うちはこしらえません。では、又のちほど。

[自注1]彼のかいているもの――魯迅がケーテ・コルヴィッツの版画を紹介した文章。 
一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十五日第七信
こんにちは。きょうは寒い日です。きのう神田へまわったら魯迅全集がなくて、きょう、とりよせておいて貰うことにして、さっきお恭ちゃんがとりにゆきました。六巻で十二円よ。でもケーテのことをかいたり、本が出来たり、二十三日だったりしたことのために買ってもいいと思って。
魯迅全集は七巻あって、短い感想が非常にどっさりです。なかに、夫人へかいた手紙が集められているのがあります。なかなか辛苦した夫婦でありました。その手紙は、初めの部分はみんな広平兄という宛名です。コーヘイケイとよみたいでしょう。男のようでしょう?ところが女士あてなの。兄という字を自分は友人や後輩などにつけるので、よびずてよりはすこしましという位の意味だからと説明して居ります。許女史は、初め先生とも思うひとに兄とかかれて、びっくりしておどろいたらしいのよ。そしてきっと、どうして私にそんな兄という字がつけられるのでしょう!というようなこと書いてやったらしいのね。そこで魯迅はびっくりしないでよろしい、と説明しているわけです。ずっと後になって、妻になってからのにはH・M・Dという宛名です。このひとは女子大学に働いていてね、そこでなかなかよくやって、一部から害馬(ハイマー)という名をつけられたのです。そこでHMなのですって。Dは何でしょう、英語の出来た人たちですから推察も出来るようです。小鬼はあせったり気をせいたりしてはいけません。というようなこともかかれていて。小鬼とは許さんが自分で呼んだ名なのでしょうね。いろんな感情、わかるでしょう?チェホフが、オリガ・クニッペルに与えた手紙もクニッペルはヤルタにいられなくていつもレーニングラードやモスクワにいたからどっさりあって、いろいろ芸術上有益なこともかかれています。でもチェホフらしさが溢れていてね、「わが馬さん(マヤー・ロシャードカ)よ」とかいたりしていますが、ゆうべよみながらおなじ馬ながら、HM(ハイマー)とクニッペルのロシャードカぶりとは何というちがいかとつくづく思いました。それにH・M・Dと頭字だけに表現しているところも、東洋風でしょう。D・LETD・H・Mこんなに重ったのもあります。そして、日本文に直されている文脈は大変欧文に似た感じです。etという字もあるところをみると魯迅はフランス語も近かったのでしょうか。親愛が日常のこまかな消息のうちに示されているのも、わかります。月よ花よの佳句もなく、と序文に魯迅がかいていますが、やはりそれ以上の内容と面白さがあります。なかなか大したことも云っています、婦人の文章について。婦人の文章に美辞が多く感歎詞が多いばかりでなく、評論の場合、一々対手の表現を反駁して小毒はある、しかし猛毒はないのが女の文章である、と。なかなかでしょう?頂門の一針的でしょう?許さんは文章をいつもみて貰っていて、直して貰っていたのですが、それにつれてのことなのです。
私のさがしていた版画の紹介の文章はどうも見当りません。一つ、これかと思うのがあり。しかしスメドレーはケーテと友達だったのですね。一九三五年頃、上海で出版された画集にアグネスが序文をかいているのね。さぞいい本でしょうね。実にみたいと思いました。どうか私も、一生のうちには、そのひとの画集に心から序文のかきたいような婦人画家にめぐり会いたいものです。
光子さんなんか或るいい素質はあるのですが、旦那さんの技法、傾向と自分のものの成育との間の衝突で、どうにも苦しかったのです。ニューヨークで、どんな気持でどんなに暮しているのでしょうね。メトロポリタン[自注2]で本ものを見ているのはいいけれども。表(ヒョー)の仕事手つだっている娘さんも又それとして珍しい位のひとですが、どの位までやってゆくか、このひとはやはり三十越してからが期待されるような資質です。ゆうべも、これでミューズが揃ったと大笑いしました。とにかく文学・音楽・絵画が一つ火鉢のまわりにあつまるのですもの、こわいでしょう?!

[自注2]メトロポリタン――ニューヨークのメトロポリタンミューゼアム。 
一月三十日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
どうもあいまい至極な先生と、算術下手のより合い勘定は、閉口ものだと思います。
この間の計算が合いません由、十二月請求の分は全部で二六三・一二だったのです。そのなかで、仰云っていたのを差引き、その差引が八一・一六です。その八一・一六の中には、五月に支払いずみのもの及こちらでは二部及び一部しか負担しないでよい分(木俣という人の分)と、いつぞやからの話に出ていた重複した分を処理してた分(あと十円といくらか当方で支払う分)とで、この一月二十日に八一・九六支払い、暮の一〇〇と合して一八一・九六となっているわけなのですが。どうしても変かしら。
五月支払ズミ
(一)速記三四・〇〇
(二)加藤・西村マリキロク四七・一六
八一・一六
重複していた分は一九二・〇六のうち七月に一一〇・四〇支払ズミで、残金八一・七六のうちこちらでもつのは一〇・三〇に願うというわけでした。
それと、あとの速記九〇・〇〇
袴田上申二三二・一六
その他の謄写四九・八〇
合計一八二・二六(ハハア、笑ってしまう、先生三十銭御損です。一〇・に三〇くっついていたのおとしている)
そのうち一〇〇暮にわたし、八二・二六わたすところ、三十銭私が間違えたから八一・九六というわけです。
こんどは分りますでしょうか。どうぞおわかり下さい。こんなにわかりにくいのも終りでしょう。
二十九日
〔二枚目欄外に〕こんなに切れて失礼。 
一月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月三十一日第八信
二十七日づけのお手紙、それから二十九日づけのお手紙、どうもありがとう。二十七日のは、よしんば私をしぼんだ風船にしたにしろ、やっぱりそれは欲ばられているということで、お礼を云わなければならないわね。
第一の部が、日本評論のを入れられなかったために、量感が減って、あなたもなーんだというような印象をおうけになったのは無理もないと思います。でも、いずれにせよ三〇〇頁ぐらいのところにする必要はあったのよ。それより多いと定価がずっとたかくなってしまうから。はじめに書き下しでも加えればよかったという御心づきはなるほどと思います、本当ね。そのとき私は心づきませんでした。これからの場合のため、よく覚えておきましょう。たしかにたっぷりした感じということもその著者の身についたものであるべきなのですから。ブックメイカアでない限り、ね。
私としては、仕事総体について見て下すって、その上で一冊一冊の本について云われているという感じがはっきりわかっていると、その一冊についてどんな突込んだ批評もまごつかないでわかるのです。どっちが地だかというような表現は悲しいのね。そんなわけのものではないと思えるから。そんなわけではあり得ないから用語の逆説的なつかいかた、どうしてもその路をとらなければならない場合の、前後の周密さということについて特別注意ぶかくなくてはならないということがわかるのね。二十九日のお手紙では、その点もよくこまかに語られていてありがとう。
大陸性その他のこともわかります。大陸文学というものの本質についての考察の一側面的な要素としてあのことも云われ得るのですが、あの文章は、その側面にだけふれているから、あれだけとして不完全なわけであると思えます。
中公の本のこと。著者も困るところがあるということを客観的な事情として念頭において、しかし本人としては可能な限りの正しさでありたいのね。その両面からの関係のなかにその本が評価されたらうれしいと思います。このことはつまりいつでもどれについても云われるのでしょうが。
二十七日のお手紙でしぼんだ風船になったことやこのお手紙にこめられているものいろいろ自分の心として考えてみて、自分の仕事に対する心持というものの機微を考えます、極めて高いごくリアリスティックな規準からの批評というものが、そのときの現実のなかで一つの本なら一つの本のもっているプラスの意味をそれとして見てゆくものだということは自明だけれども、著者としてその標準で自分の仕事を自分からみているということは、やはり優秀な著者の少数にしか期待されないことなのかしら、と考えるのです。一般に立っての美点というとき、一般と極めて高くリアルな標準というものとの間にどんなひらきがあるのでしょう――つまり、一人の著者が、一般に立って云えば云々と美点をかぞえて貰うことで、いささかは心なぐさむというようでは、と思うのです。自分としての標準が確立していてしかるべきですから。その標準でいつも云って、いつも云うことはその標準でのことという自信があって、それ以下の比較は語るに足りない自明なことというわけであっていいのだと思うから。
でも、これは、私が必しも自分として自分の仕事の水準を持っていないということではないと思うの、私たちの話し合う場合の心持として。きっと私はいくらかそんなとき女房じみた心なのね、あなたの気に入ったものを見せてあげたいと主観的に思いこんでいるその心持によりすぎていて、しぼんだりふくれたり様々の芸当を演じるのね、そのとき、おユリ少しもさわがず、と謡曲の文句のようにはどうも参りません、呉々もあしからず。あなたが、我々はよくばりだからね、と仰云ったのはその間のことにもふれていて本当です。
二十七日のお手紙で、私の手紙の順のことおききになっているけれど、十一日第三、十三日の第四、十九日の第五となっているのよ。十三日のはよんでいらっしゃるのよ。一月十六日づけのお手紙に、十三日の手紙きのう見たということがあり、十三日のその手紙というのはボンボンのうれしかったこと書いてあったのに。それはよかったと書いて下すってあるのに。可哀想なこと!ボムでボンボンなんかけし飛んだわけだったのでしょうか、何て可笑しいでしょう、あなたの雷相当なのねえ。何て愉快でしょう。
ボムと云えば、この間建築家のクラブでドイツの宣伝映画を見ました。ああいう猛烈な破壊の画面の連続だとさすがに見る人々のかえるときの顔がちがいますね。暴力というものの凶悪さが心にしみるのね、やっぱり。一種の侮辱を蒙っている感もあるのでしょう。威カクだもの。
二十九日には、かえりに講談社へよりました。あすこは事務所の設計です。はじめて入ってみて、何だか余り建物と内容とがちぐはぐで妙でした。建物は堂々としていて端正で正統的なんですもの。その中にいるのが講談社でねえ。ここが出来たとき父が挨拶させられて、建物がこんなに合理的に出来たからどうか内容もそれにふさわしく発展するようにと云ったと云って笑っていたことがありました。『キング』には思い出があるのよ、ずーっと昔短篇をたのまれたことがありました。やさしく、やさしくと。私は随分やさしくかいたのだけれどことわられて以来縁なし。やっぱりこれは純文学ですからという意味で返却されました。何でも鎌倉のホテルの何かをかいたと思います。地図はね、行ったら無いというの。だって私がきのう、と談判してやっと出して来ました。無いことになって居りますと云っていました、どういうわけなのか。だから小売屋の小僧が行ったってないわけね。『女性の言葉』と一緒にお送りいたしました。ついでに十六年版の日露年鑑の内容見本も。
三十日(昨日)はいい天気で、私は朝のうちケーテを(二十二枚)書き終って、『進路』を島田へお送りしたりしてそれから青山へ出かけました。花がどっさりあって、賑やかな様子でした。しかしいつもここへ来てつまらないのは、何しろここは中條家の墓ですからね。戸棚です。ちっとも父のパーソナリティも母の気分もない。ですから来るたびに索然として、来ないでもよかった気になるの。太郎と寿江が来るのを永い間待っていました。しーんと日がよく当って暖いところに花の匂りがかすかに漂っていて、スウィートピイやバラのところに早いこと、もう蜂がかぎつけて来て働いています、それを眺めています。それは何だか父らしい活気とも思える。その勤勉な蜂は。
やがて二人来て、太郎もおじぎして、そこへ大瀧の基夫妻が来て、つれ立ってかえる(林町)のに、地下鉄で尾張町へ出て、そこからバスで団子坂上まで。長いのよ迚も。私と寿江子の対立するのは、いつも市電を私がいいと云い寿江子はバスがいいということから。バスちっともいいことないわ、第一木炭ガスがどんなに体にわるいか。太郎すっかり眠って大観音のところでおこしました。二重(ふたえ)になっておとなしく腰かけて眠ってしまうの、大変可愛い様子です。
四月になったらあなたも太郎に短いお手紙下さい、何しろ小学一年生になりますから。あなたが行った小学校は山の上にあって海が見えたと書いてやってね、どんなに珍しく思うでしょう。
三時から式で神主が来て、それから築地の延寿春という北京料理でお客しました。
花のこと云っていたのに到頭私は花を買いませんでした。だって、何だか、はいこれはお父様私たちの花よと云っておく場所がないのだもの、心の中にしか。形式充満で。札のついた花なんかいっぱいで。私たち三人のことを考えると、国府津の暖炉の前の夜の光景や林町の食堂のことが浮ぶでしょう?結局式の日の花なんかいらないと思ってしまうの。私たちや寿江子の記念のしかたは又おのずから別なものでもあるのですし。机の上に美しい一輪の花と写真でもおいて、そらね、見ていらっしゃい、やっぱり私たちよく勉強しているでしょう?そういう方がふさわしいわ、ねえ。その写真もスナップのごく日常的なのがいいわ。すべての親愛さは日常の活動のなかに在ったのだもの、その表現はやっぱり何か日常的な特徴をもっていなくては。来年からは、私たち流のをやりましょう。特別何年祭とかいうのでなければ、それで結構よ。夜だって、父の話なんか一人もしやしない、隣組のことだの配給のことだの。しかしそれは私は面白いと思いました、作家の心として。人間が、どんなに生活の現実の刻々に切実かということが感じられて。
うどん粉がありませんから、料理でうすいうどんこからこしらえた皮を出すところをパンにしてあったりして。今もしお父様やお母様がいらしたらどんなに困っていらしたかしれないと国男が云い出して、皆笑って、そしてそのパン的御馳走をたべている。一つの光景でしょう?
きょうはなかなか寒く、いかにも寒中らしい空気です、上り屋敷の駅に立っていたら、秩父連山が青くむこうに見えました。この部屋は殆ど大抵火鉢なしです、日がよくさすから。でもきょうは机の板がつめたく感じられます。手袋ホコホコでよかったこと、あれは傑作のうちね、もうあんな柔かい可愛いのはないわ。大事にして、又来年寒中だけつかいましょう、前後はすこしわるいので辛棒して。きょうは、いかにも寛闊な、インバネスの翼が肩の上にあるような気分です。そうでしょう? 
二月五日ひる〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二日
三十日にかいて下すったというお手紙、まだつきません。どうしたのでしょうね。
きのうは、あれから小川町にまわって高山から本をとって、伊東やへ行って子供たちへのおみやげ買って、それから小田急にのろうとしたらまず栄さんがモックリモックリ段をのぼってゆくのを見つけ、やアとインバネスがふりかえったらそれは繁治さんでした。まアねったよう、というのは、北海道のおっかさんでした。それに豪徳寺でおりたら健造とター坊が、父ちゃん来られないんだってと来ていて、珍しい一隊をなしてくりこみました。
大きい紅茶の一組になったオママゴトを卯女に買って行ってやったものだから、そのよろこびよう!康子にはクルクルまわる輪車に、お人形、栄さんは下駄よ。実に大笑いして子供たちのさわぎを見物しました。一ヵ月ちがいの二人の娘たちよ、三つの。全く面白い。ふた子ってやっぱりこんなに面白いのでしょうね。卯女は何でもアクティヴです、康子リードされている、それできっとずっと仲よしでしょう。
きょうは一日ゆっくりうちにいて、中公の本の序文のかき直ししたり小説をこねたり。いい日曜よ。
本の目次はざっと次のようです。
一藪の鶯(明治二十年代(一八八七年―)の社会と婦人の文化)
二清風徐ろに吹き来つて(樋口一葉)
三短い翼(明治三十年代(一八九七)と明星)
四入り乱れた羽搏き(明治四十年代(一九〇七)青鞜)
五分流(明治末(一九一二)『白樺』前後)
六この岸辺には(大正初期(一九一八)新興の文学)
七渦潮同
八ひろい飛沫(昭和初頭(一九二七)新世代の動き)
九あわせ鏡(同)平林たい子の現実の見かたのアナーキスティックなものの批評。
十転轍(昭和十二年(一九三七)現代文学の転換期)
十一人間の像(同)(岡本かの子)
十二しかし明日へ
このような工合です、そして樋口一葉のところはすっかり書き直したから、同じ題で『明日への精神』の中(人の姿)に入っているのとは全くちがいます、枚数の正確なところは不明です、整理してとってしまったところもあるし又こまかく一杯かきこんだところもありして。本文だけ三百枚ほどでしょうね。以内でしょう。それに年表が六十頁ほどついて。これは独特な本になります。個性的に、というよりも歴史的に。対象の扱いかたで。(ああそうそう、広告はおやめ、おやめ!)題もひろい豊富な示唆にとんだものを見つけたいことね。小題はそれぞれふさわしいと思いますけれど。
二月四日。どうもいい題が思い浮びません。しきりとこねているのに。こんなのを不図思いついたのですがどうかしら。「波瀾ある星霜」――明治大正昭和の婦人の生活とその文学。という傍題をつけて。
きょうは中川一政へ表紙のことたのむ手紙をかきます。こういう本ですから表紙は柔かみのある白で、表紙の見かえしのところに何かこっくりした画があったら、しゃれているでしょうと思って。
ああこっちの方がいい。「波瀾ある世代」、ね。こっちの方が動いていて。星霜というのはやや古いし固定していて、人間が主でなくて時間が主になっていてよくありません。「波瀾ある世代」これはいいわ、きめていいでしょう?
三日のお手紙頂きました。三十日のはいよいよ不着です。どうしたのでしょう。そんなにあなたの手紙の好物なネズミってあるでしょうか。私は気にかかるのよ。もしそちらを出ていないのならそれでいいのですが。
おかぜいかがでしょう(これは五日の朝かいているところ)今朝の雪は貧相ね。こんな貧相な雪って。まるで地面へ塩をひとつまみこぼしたようでした。大丈夫?しゃんと雨がふればいいのにねえ。そしたらかぜのためにいいのに。
三省堂の辞典のことはきのうお話ししたとおり。支払表その他謄写料というのは重複した部分だったのでしょうか、お会いして伺ってから。又、ピントがちがったのをゴタゴタ書くといけないから。
私のかぜは追々にましです。この間うち顔がすっかりあれて、ピシピシと顔の皮がむけて、夜などかゆくてこまりました。もうそれも大丈夫。ヴィタミン半年はあなたらしいと笑えました。そんなに私の方はヴィタミンを気にしないでもいいでしょう、そちらよりは食物からとれますから、まだ。しかし来月からお米は配給で、本当に寿江子だって袋へお米いれて来なくてはならないわ、もしうちでたべたいなら。一人分一日三度お米は食べられないのです。これ迄日本人は米をたべすぎて胃カク張になったり脚気になったり頭脳鈍重になったりしていたという人もあるけれど、それはほかにもっと優良な食物があっての上の話でね。パンにチーズをつけてたべられる人々の生活からの話です。お魚のひどさ話のほか。菓子屋のガラス棚は全くカラで、この頃は菓子の中村屋で佃煮とのりを売って居ります。千円札が出るというような巷の噂が新聞に出ていましたが、それはおやめになったそうです。
ヴィタミンのほかの利く薬は、この頃服用法が段々のみこめて来て、オヴラートのつつみかたうまくなり気のもめることがへりました。ですからきっと益〃効果は良好でしょうと思います。
「花の叫び」の詩話。あったかくてよく合った手袋の童話。どれもやっぱり面白いことね。
文学における大陸性のこと、又チャイコフスキーのこと。これについて云われていることをくりかえしよみ、こういう問題にふれてかく場合には、いつもその一つ一つの文章に必ず土台となる理解のキイは示しておかなければならないものであるということを学びました。ほかの文章で土台の性質について云っているからと云って、それぞれのものの中でオミットして、それを前提のわかり切ったこととして云うことは、やはり一箇の文章としては間違いであるということがわかりました。その課題を、全体として、あの範囲でみているのではないのですから、いかに何でも。文化に冠する固有名詞のこともその通りです。表現の正確さ。このことのうちにどれだけの内容がこめられていることでしょう。そして、狭い作家気質でいう表現の正確さというものが、どんなにその一面に不正確なまま平気でいる悪習をもっているでしょう。表現の正確さ、というようなことに無限の含蓄のあるのは、実に実に面白い。今年はそういう意味で作品も評論も勉強したいと思います。ふっくりとして滋味たっぷりでそして正確でなければなりません。チャイコフスキーのことは、あれだって私のかいた気持は、ゴーゴリが「黄金の仔牛」と発展して来ている、そこにある質の相異のようなものとして、音楽における日本的要素がみられなければなるまいというわけだったのよ。いつも雅楽のメロディーを一寸かりてさしはさんでお座をにごしていてはすまないというわけだったのだけれども。余り間接にしか表現出来ず曖昧になるのですね。逆に、そうだから曖昧でもしかたがないということは全然成り立たないわけであることはよくわかっているつもりです。今年は、いろいろそういう点を特に心がけて勉強しましょう。余り余り忙しいということをないようにして。幸か不幸かそういう傾があらわれても居りますから。概して去年のような忙しさはないでしょう。内部からのテムポで、次々とたゆまず仕事してゆけたらうれしいと思います、本当に去年は忙しすぎました。
今月は短い小説を二つ書くのですが、それで忙しくないとも云えないわねえ。
小説をかく心の内の工合と、評論とは同じようでもあるけれど又何とちがうところがあるでしょう。二つの仕事のむずかしさと苦痛とは、一つの状態から他の一つの状態に移るとき、うつりかたの心理的過程です。これは本当にむずかしくて、或る苦痛が伴っているのね。だから大抵一方にしてしまうのね。小説をかいてゆく心のままで書いてゆけてそれがしゃんとした評論であるということは可能なことなのかしら、どうかしら。それを理想として一致させ得るものなのかしら。させられそうであり、させられそうでなくもあり。いずれにしろ、非常に豊富でつよいメンタルな力がいるのだと思います。小説そのものが質を変化させて来ていることで、一致の可能は増大していることは現に自分について云えるのでしょうけれどね。私の評論に何かの価値の独特さがあるとすれば、それは小説をかく人間が書く生活性であるということ、そしてその生活性の質によって結果されるアクティヴィティであるということだと思いますが、そう批評する人は少いわ。そこにもやはり文学における小説と評論についての考えの旧い型があるわけです。では明後日、ね、かぜをお大切に。 
二月八日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月六日第九信
五日づけのお手紙をありがとう。それにつけても気になるのは行方不明の三十日づけです。本当にどこにどうなったのでしょう。
今夕方の六時半。外からかえって来たばかり。『朝日』に生活科学の座談会(対談会)があって、私は職業と性能のことをききました。午後じゅうかかって。五時すぎのラッシュにもまれてかえって来て、これから夕飯です、その仕度の出来る迄これを書こうと思って。つまりタダイマーッとかえって来て先ず、ひどいこみようねえからはじまる家庭雑談の字にしたものよ。きょうは余り風がきつくて埃ひどくて顔がパリパリになりました。有楽町の駅からおりて、朝日へ出るまで日劇の横の谷間の風!有楽町の駅は今とりひろげかけていますが、全く今のままではお話になりません、それにこの頃はどの駅でも針金だのナワだので仕切りがしてあるのよ、余りこんでフォームからこぼれたり左右の側がまぜこぜになったりするものだから。そういう殺風景な駅のフォームにオフィスがえりの娘さんたちに交って立っていると、目の前の東日会館の屋根で朝日ニュース。ナマムギ町から発火して忽ち漁師町をヒトナメにして百三十軒全焼、と電光ニュースが話してゆきます。生麦と云えばこの間まで野沢富美子の居たところです、その一家はどこかに家を建てたそうです、その家はやけなかったのかしら。火災ホケンなどということをあの酒のみのおとっちゃんは考えているかしらなどと、考えました。ものをまるきり持たなかったひとが、持たない苦労から持つ苦労に変ったとき、どんな気がするでしょうねえ。そんな風に変って行って、しかし野沢富美子の心の飢えはどうみたされているのでしょうね。あの娘の本の中(「長女」)に「根っからの不良少女でないかぎり結局は親の云うことにしたがわなければならない」(それは売られてゆくことよ)という文句があってそれも忘れられません。「根っからの不良少女でない限り」とそういう正当な抵抗が対比されているところに、ああいう環境の深い浪曲性があるとも思われます。その痛ましさを彼女たちのために感じている批評はありません。
茶の間のタンスを本棚におきかえる話ね、まだ実現しないのよ。ひどいでしょう?暮のギリギリ迄私忙しくて布地を寿江子に買わしたら一枚分しか買わず。やっときょうまわったらそれは売れ切れてしまっているの。寿江子たちどうして時々ああして変に上の空なのでしょう。まるで気取って歩くために行って来るみたいに用事の中心をいいかげんに忘れて。若い女の上の空性、実に私はきらいよ。何とかちょいと鼻を鳴らすとその場はごまかして。何だかズルリとしている。その不気味さ。そしてこれはきっと勤労生活をしない娘にひどいのだと思います。(ここであなたは苦笑なさりそうね。私は、そうひがむのよ。ハハム、上には上があると見えるね、と。そうでしょう?ちがうかしら)頭の機敏なこととそういうところでキッチリしていないこととは一致しないようなところ。自分の興味と結びついたことについては正確機敏なところ。一つの近代娘のタイプですね。否定的な。
七日の朝、あらアやっと来た!というお恭ちゃんの叫びとともに三十日づけのお手紙着。よかったこと。ネズミがたべたのでなくて。きょうもしずかな暖い日でした。あれから銀座へ一寸まわって、子供たちへおみやげ買って、永福寺の近くへ行きましたが、町の様子がすっかり変ってしまっていてびっくり。
表紙のこと、大体こちらの希望をつたえました。装幀にはこまることね。あの本のは、青楓にして貰おうかと思ったりしていたけれど、あの還暦の会の日の青楓を見てやはりいやになってしまったし。私に合うようにするのが一番いいから、ということでした。そうならいいけれど。
その行きに、朝日へよっておっしゃったグラフききました。去年十月ごろの出版でしたってねえ。つい気がつかなくて。もうすっかり切れて居ります由。もう十日ほどすると出版局の人がかえります(大阪)から、そしたらきいて見て無理をたのみましょう。その人は杉村という人。
さて、三十日のお手紙、こまごまとありがとう。ああこれはミューズお揃い物語のあとにかかれたものだったのね。年鑑のこと、わかりました。本の質量についてのこと。一冊一冊ごとにそうでなくてはならないことだと思います。そのつもりで勉強しなくてはね。有光社のへは、「道づれ」その他は他の理由で、そのほかは大していれたくないし、ユリがとてもとてもと云っているが云々とおっしゃっていたの(前に)は、「海流」ではなくて「道づれ」なのよ。「鏡餅」は一九三三年十二月末ごろの題材を正月にかいた作品です。まあ入れれば「心の河」「白い蚊帳」ぐらいね。「高台寺」も、もうすこし深く見てかいてあるといい作品だけれど、あの時分にはあれだけだったのね、その甘さがやりきれません、舞妓が出ていて、それは面白いのにそれをよくつっこんでないからダメね。
「海流」しかし今になると、作者は、もっともっとあの題材をリアルにしてかいておきたいと思う心がつようございます。伸子の発展であるが、発表する関係から、宏子が女学生でそのために一般化され単純化されている面が非常に多いのです。心理の複雑さ、人生的なもののボリュームの大さ、それは、やはり「伸子」以後の、「一本の花」をうけつぐ(間に「広場」、「おもかげ」の入る)ものとして描かれてこそ、本当に面白い作品です。歴史の雄大さのこもったものです、書いておきたいわね。それは作家としての義務であるとも思います。必ずいつか時があるでしょう。
お使いに行って云々のところ、そうね。このことの心理は、瑛子のつくりだした雰囲気の微妙な影響があるのね。感受性のつよい敏感な早熟な女の子が、母であり又同性であるという錯綜した刺戟を蒙ってゆく過程ね。この一部の題材について云ってもやはり描かれ足りていません。もっともっと立体的なのだから、少女の心理の要素は。学校のつまらなさ、その他も。文房堂で原稿紙を買って、亢奮した心持で街をフラフラ歩いたりした心持。こういう部分を非常に高い調子で描ければ、それとして興味ふかい作品でしょう。そこにやはり時代があります。その頃そうやってフラついたって、食べるものの店へ入るなどということは思いもかけない一般であったし、ましてシネマへ入るなどということはなかった、そういう一般で、そういう少女の苦悩が(みたされない知識慾や情感や)それなり文学へ読書へ方向づけられて行き得たこと。やはり今日には期待出来ないかもしれませんね。こんなに書いていたら、大変その少女が書きたくなりました。あの憤懣と大人の常識への不快さが甦って来るようで。
「今日の読者の性格」の終りは、きっともう枚数ギリギリで苦しまぎれに圧縮してしまったのね、あれは新聞のものでした。どうもありがとう。本当に隈なくよんで下すって。よく、ユリが「だ」で文章を区切るのを気になすったことを思いおこします、まるをつけられたわねえ。
どこまでも自分の文章という文章で書きたいものだと思います。文学的な香気もつけたものでなくね、おのずから馥郁(ふくいく)たるものでありたいと思います、詩情というものが、人間の深い理性の響から輝きかえって来るものであること、やさしさは見とおしの遙かさ壮大さから映って来るものであることを語った文章論は、まだ誰もかいて居りません。文章の美の要素の一つにはまぎれもなくそれが在りますけれど。
これから五日づけへの御返事。先ず小包到着して居ります。もってかえる手袋のことわかりました。雪もあれっきりではね、却ってふくれるようなものです。あの大名の夫人のこと覚えていらしたのね、びっくりしました。あれについていつか云っていらしたように悲劇の性格がちゃんとつかまれなければつまらないから、今にポツポツよんで見ましょう、しかしね、私は天邪鬼(あまのじゃく)だから、この頃のようにいろんな人が何ぞというと歴史的題材へかくれんぼするのがはやりになると、不十分にしかかけなくても「紙の小旗」を書きたくなるのよ。批評の基準のこと。ここにはこまごまとその説明の展開そのものが既に暖かな説得力をもって語られていて、うれしいと思います。インドの例よくわかります。此とゆきちがいになった私の手紙の中で、私が、プラスの意義の場合、マイナスに悪用されている場合の現実について盲目でないことは分って下されたでしょう?猿だと表現しないようにするうちに、曖昧になってしまうのね。「どっちが地だか分らない」というような冗談に私が野暮くさくこだわるのはね、私として、やはり不安があるからよ。ユリはちゃんと天の与えたおへそをもっているのだけれど、余り着物でしめつけられて、もしやあなたがユリも河童のようにへそをなくしたかとお思いになるのじゃないかと、それが不安であるからよ。河童が日本文学に登場する意味について芥川と火野とを比べて、私は何しろ「日本の河童」という文章をかいているのですから。でも全くおへそ御用心だわ。
あなたはうどんのことなんかは私にお話しにならないのね。勿論こんな小さい紙にそんな話までは入りきれないのですけれど。
十三日には、きょうお話したように三人でお米もって十二日の午後あたりから国府津へ出かけ、十四日ももしかしたら泊ろうかと考え中です。考え中というのはね、『婦人朝日』へ小説をかくのが十日迄に出来そうもないの、十一日か二日になるかもしれないのよ。そうすると十二日には出かけられませんし、雨のふる中傘さして小狸三匹ヨーチヨーチでは可哀想だし。雨中のミューズというほどでもないし。未定です。天気がよくて、仕事まとまりがついたら、そういうお客から絶対に保障された二日はたのしみです。又数百頁むさぼれますし。夏から誰も行きません。さぞひどい塵でしょう。あすこには父が私のために買ってくれた机があるのよ。父の植えたバラもあります。丁度あの門からの道がつき当って左へ玄関にかかる右側の花壇に。
風邪大したことがおありにならなくて本当に大成功でした。 
二月十日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月八日第十信
きょうは私は大変ぜいたくをして居ります。火鉢に火を入れたの!素晴らしいでしょう。そしてその火の上には鉄瓶がのっていて、しずかにたのしい湯の音を立てて居ります。鉄瓶のわく音は気をしずめます。お茶なんか、先ずすべての手順が、(湯が釜でわく音をきくに至る)気を落付けるために出来ているのね。このお湯のわいている音は一つの活々した伴奏で、私の空想は段々ほぐれて、いろいろの情景をわき立たせて、そこに峯子という若い女やとき子という一種の女や小関紀子という女のひとやらの姿を浮き立って来ている最中です。大変面白いのよ。その女のひとたちはみんな現代の生活を其々に反映しているタイプです。春代というまだまるで無邪気な女の子もいます。この娘は、この寒いのにカラ脛でいるのよ。ピチピチした娘さんです。この頃私には、高等小学だけ出て働いている若い娘さんよくわかるようになりました。女学校卒業、それ以上の、皆職業婦人でもタイプがちがうわ。電車にのってもよくわかるようになりました。小学校の女教師というものの文化の内容の大略も。二十枚ほどの間にこれらの若い女たちはどんな生活を示すでしょう。ああふっと思いついた。この二十枚と、あとからかく二十枚ほど、続篇として構成したら(人々の名なんかみんな一致させて)一つの本となるときすこしまとまって面白いでしょうね。これも万更すてた知慧にあらず。
今、時間は充実して、それ故きめこまやかに重く平らにすぎていて何といい心持でしょう。評論をかくたのしさ、それは丁度しこった肩をもんでそこから筋にふれてゆくような感覚。小説をこうやって考えているたのしさ。いろんな人々の顔、感情、動き、景色。そこにある生活の熱気。声。脚の恰好。ネクタイ。いろいろいろいろ。しまりかかった省線へいそいでのりこもうとして、すぐそのドアによっぱらいの顔が見えたのでスラリとそこをよけて次の車にとび込む娘の、都会生活の中での神経の素ばしっこさ。(自分の経験。それが転身してゆくその面白さ)そういう女の神経。いろいろいろいろ。ね。
こんな小さい作品でも、私は本気なの。長いもののためのウォーミングアップとして。この前の手紙にかいたように、私の内の工合は、全く小説のために適合した流れかたにならなければ、長い小説なんてかけませんから。そして、長い小説も私はうちで書くということを実現したいから。寧ろ一寸そこからはなれて新しく展開させるその気分のために、ちょいちょいしたピクニックを使おうとして。
小説をかいているとき私は喋りたくないの。何をかいているときでもそうですが、だまって、内部が生々して、黙っていることのたのしさがわかってくれるものがうちにいるといいけれど。多賀ちゃんも初めは何だか顔が変るからとっつきにくかったって。私はそういうとき本当に美人だのに。顔みるなり雑談するというような気分になれ切っていて、さもないとむずかしいと感じるのね。黙っている顔に漂っているものはとらえられないから。ましてお恭においてをや。この意味で、細君は旦那さんが留守で温泉ででも仕事しているという方が気らくなのかもしれないわね。
火鉢の炭をつぎ足していて、あら、とおどろきました。どうして十日にそちらへ行かないなんて法があるでしょう。十日の晩に、あなたは新聞をまるめ、こうやって火をおこすの知ってるかい?とおっしゃったのだわ。どうして十日に、うちにいる法があるでしょう!
つづきは九日の夜。
そして、面白いわねえ。ブッテルブロードのときは、あんなにはっきりしていたユリが、火起しのときは、まるで子供らしくなっていて、困ったとわかる迄困ったの、つい忘れていたりしたこと。何と笑えて、たのしいでしょう。このことの中には大した大した宝がひそんでいたわけだったのだと思います。だって、もし非常に親密な、非常に全体的な信頼で心がいっぱいになっているのでなければ、そんなことは寧ろおこらなかったのですものね。そういう極めて全体的なゆるがないものが、自覚されるより深い本然なところに在ったことが、火起しの物語をひきおこし同時に、今日をもたらしているのですもの。天才的に更に多くのものが具体的な内容としてもたらされてはいるのだけれども。
ああ、あなたにとっても益〃面白い小説を次々と書きたいと思います。
この間うち道々よんでいる小説は「話しかける彼等」という訳名、原名は「心は寂しい猟人」TheHeartIsaLonelyHunterというので、二十二歳のアメリカの女の作品です、なかなか面白い。一九三八年の南米の工場町での生活を描いていて、バックのこの間うちよんでいた「あるがままの貴方」などと対比すると大変面白うございます。よみ終ったらお送りして見ましょう。「あるがままの貴方」は「この心の誇り」の人を理解する限界としての輪の論ね、あすこからかかれているものです。そして何かやっぱりあの輪論が私におこさせた疑問が一層深められます。あるがままのその人を理解する、うけいれるということが一般性で云われているから。あらゆる人物間の事件が、その肯定のために配置されているから。このことは、バックにとって芸術の一つのスランプへの道を暗示するいくらかこわい徴候ですが、バックはそれを心づいているでしょうか。文学の世界の交通ももっと自由だと、たとえば『エーシア』だの『ネイション』だのに日本の一人の女の作家の批評ものって、バックはやはり満更得るところがなくもないのでしょうのにね。何と互に損をしていることでしょう。
ケーテ・コルヴィッツの插画のことでアトリエ社の人が来ての話に、百五十人ほどの人から、十人、明治画壇の物故した記憶すべき画家をあげて貰ったのに、一人も婦人画家は名をあげられていなかったそうです。画は大変おくれているのね、その理由は何でしょう、文学は苦しんでいる若い女の心が直接ほとばしって表現し得るのに、画は従来、そういう表現としてみられている伝統がないからなのね。純文学というより以上に純粋絵画というような迷妄が空虚をこしらえて、それで婦人画家は出なかったのね。日本の女の生活と日本画と洋画のいきさつは、一つの面白い真面目なテーマです。いつか出て来る若い婦人画家たちのために、そういう点を、こまかくかいておくことも有益ですね。ホトトギスの写生文と一緒に写生が流行しはじめた時代、スケッチ帖をもったりした女学生が、婦人雑誌の口絵の画にかかれたのを見たことがありますが、その時分から成長して来た婦人画家というものは日本で誰だったのでしょうね。どんなに下手だったにしろ、中途で没したのにしろ、近代日本のはじめての婦人画家というのは誰かあった筈です。婦人画家たちがそういうことで自分たちの歴史を考えようとしないのも、やはり文学とちがうことね。日本画の婦人画家のジェネレーションの推移と洋画のそれとを対比したらどんなに面白いでしょう。なかなかすることはどっさりありますね。一生退屈しなさそうね。めでたし、めでたし。
それからね、流感は画家たちにまでうつっているという有様ですから、私はよくヴィタミンのんで体に気をつけ、もしユリが盲腸を切ったときのような場合でも、費用がつぐのってゆけるようにということ、テムポテムポで心がけるつもりにしました。なかなかむずかしいけれど、まアその気になってね。
実業之日本で又本が出したい由。私は竹村より、こちらをのぞみます。部数その他の円滑な点から。只、『明日への精神』とはどこかちがった、つまりどこか展開した内容の本にしたいと考えるわけです。それがどんな風にゆくかと考え中ですが。なかなか考えることどっさりあるでしょう。
頭ってよく出来て居りますねえ。体というものが全く驚歎すべきものではあるけれど。よくよく眠って、美味しいボンボンでなぐさめてやって、散歩して、精力をたくわえてよく仕事することだと思います。かぜお大切に、呉々もね。 
二月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十五日第十信
今は静かな午後二時。二階にいっぱい日がさしていて、手すりに布団が干してあります。物干に小さいカンバスの椅子を出しかけて、そこに私の上っぱりを着た寿江子が桃色の紐を上からしめて、おとなしく日向ぼっこをしながら本をよんで居ります。私は室の内で、スダレをおろしカーテンで光線を柔らげ、足元を暖かくこの手紙をかいているという、そういう光景。
そして、広さのせまさということについて一寸面白く感じたところ。林町の庭は、ここの物干しよりそのひろさは何倍かです。でも人間の視線が直線であるというのは面白いことねえ、平地でしょう?いくらひろくたって。だから立木だの建物だのにさえぎられて、この目白の物干しへ出て眺めるようなひろびろとした空間、視野の遠近がなくて、つまらないのですって。そう云えば全くそうです。そして、ここにはそういう只の空間のひろさばかりでなく、人間の生活の光景がその風景にあってつまり生きている。(野沢富美子のところでは、こんどは人間のジャングルになっている)それで休まる、という感じ。寿江子はこの間うちすこし気を張って勉強して居りましたら、又糖が出だして夜安眠出来なくなって、又こっちへ来ました。こっちだと妙に眠れる由。日光によくふれるからかしら。とにかく二晩とも私より先にフースコよ。私は小説をかいているときは気がたつから、なかなか枕へ頭をつける、もう不覚とはゆかず。
十三日、全く!どの位私がっかりしたでしょう!丁度油がのっていたのに、エイとやめて、いそいで出かけたら、あの位バタつかざるを得ないわけでしょう。あなたがもしや心配なさりはしまいかと、しまいにそれが気になって、かえってから気がおちつかずすっかり番狂わせになってしまいました。おめにかかると思って八日のお手紙、十日分返事あげてないのだし。
お恭ちゃんが、折角十三日だからと、腕力出して茶の間をかたづけて、書棚を運びタンスをどけ新しいカーテンをその本棚に吊って、お祝のサービスをしてくれました。
私は上で仕事。仕事。夜までやりつづけて、夕飯に寿江子、あの小さい娘さん二人、私、恭、それで、たべました。こういうのも珍しい顔ぶれです。私のぐるりの最少年たちが、それぞれチョコンとした顔を並べ、スカートをふくらましてたべていて、何だかやっぱり愉快でした。二十二歳前後だから。あの絵の娘さん、買おうたって買えないもの持って来てあげた、と新聞にくるんだものもちあげているのよ。いやよ、猫の仔でも持って来たんじゃないのと云って見たら、それは鉢の真中に、一本、小(ち)いさな小さな桜草の芽がうえてあるのでした。こんなの買えないでしょう?本当ね。それに又蕾がついているの。こんなものをくれる人がいたりしてあなたもユリは仕合わせ者だとお思いになるでしょう?それに百合という名の人が知人に二人いて、大百合はそんな百合、百合にかこまれることもあるのです。
石板のこと、きょう申上げたとおり。それは池袋の武蔵野電車の売店にあったのよ。子供の算術遊びのいろいろの木の玉と一緒のセットで、チョークでかく黒板でした。びんの方はさがしてみましょう。うちにはなかったけれども。
国府津は、寿江子体の工合わるく、私は仕事、その絵の娘さん風邪で。うごけずでした。いろいろパタパタ自分たちでやるのは、いくらか暖くなってからの方がいいのかもしれないことね。だって、あのガランとしたところ火であっためるのだって、いつかみたいに大きな薪をぶちこんで燃(た)くことは今出来ないのですもの。あのとき覚えていらして?父が夕方かえって来て、オヤ火もたかないんだねといったでしょう?そんなに寒くなかったわと云ったら、それは君達は寒くないだろうけれど……と父が笑ったわね。お風呂はやっぱりボイラーで一度ずつ流すわけですから水と燃料不足のときは閉口です。この頃は原始へと逆行なのだから進化したことしか出来ないと大弱りで、最大の不便となるから滑稽ね。
八日のお手紙。支払の内訳(!)ふー。困った。御免なさい。今日あとで書きましょう。つい忘れて。「二十年間」書名か何か一寸わからないようなのですが、これはおめにかかって。年代のこと。あの傍題つきは、本の背なんかごちゃついて余りのぞましくないという意見が出ているので未定です。それに、年代の表現についてはいろいろうるさくて、そのうるささは常識を脱して居りますから、もしかその点に特別の感じなら、ぬいてしまうのです。年代だけで口実は御免ですから。「藪」「翼」あれは、初めのは『改造』に出したのであとのは『文芸』に出したので、今度本になるについての書きおろしは一葉の部です。勿論全体に手を入れてはありますけれど。一葉はどこへも出してないのですからそのことはさしつかえますまいでしょう。きっといろいろおっしゃるような諸点あるのでしょうと思うけれど、でも全体とおしてよまれた場合、いくらかあの二つだけで想像されるよりは多くひろく深く語っているでしょうと思われます。中公に入る部分のままで高山のに入っているのよ、直そうと思って居ませんでした。「明治の三女性」はよみました。岸田俊子のことなど、あれで大分学んで、明治初年の『女学雑誌』を上野で見て得たところ補充しました。夏葉は青鞜の時代にまとめて出ました。私の願うところはね、チョロチョロと流れ出した水の流れについて我知らずゆくうちに、濤も高く響も大きい境地に読者がひきこまれてゆくというところなのよ。
十日のには、雪が降って悦んでいることだろうとあり。あの雪はなかなか作用して、この小説は「雪の後」という題になりました。あの日の情景がいろいろと映った短篇です。峯子というのが主人公よ。小さいけれど、真面目な作品よ。なかなか愛らしいところもある、そう思っているの。正二という峯子の許婚(いいなずけ)がいます。「夜の若葉」で気がおつきになったでしょうか、順助の口調。作者は順助に好感をもっているのです。情愛というものがある男として描いています。男が女を愛すという、その偶然や自然力やそのものの支配の底に人間として情愛をもっている男、そういう男を作者は描くと、そこにどうしても響いて来る声があって、そのまざまざとした声音(こわね)があって、ああいう口調が出るのです、面白いでしょう?ひろくひろくよむ人の心の奥までその響がつたえられてゆく。面白いでしょう?そしてそこに、その人々の人生にとってもましなものとしてたくわえられてゆくのよ。正二もやや順助風な男です。そして、やっぱり或る口調をもっているのよ。「海流」ではそういう口調のデリケートなところがまだ描かれていません。重吉のそういうところ迄まだ宏子がとらえていないから。宏子のとらえたものとして描かるべきものでしたから。そうでしょう?作品の必然として。
ユリのいささか千鳥足の件。そうでしょうねえ。さぞそう見えるでしょうねえ。もちろん、ここに云われていることを否定する意味ではなくこんなことも思うの。よっぱらいは真直歩いていると思っているのよ、常に。そして、千鳥足なのよ。急な坂をのぼるとき、ジグザグのぼります、でもそれは千鳥足ではない。しかし、ジグザグ登りのとき登っているものの脚力が弱って来ると、本人はジグザグのぼりをしているわけなのだが、千鳥足ともなるのね。ここいらの辺まことに錯交します。ユリの千鳥足。笑いながら、くりかえし考えました。小刻みでぴったりと足を平らに斜面につけてジグザグと正確に、山登りの術にしたがって、のぼりたきものと思います。
そして、ああ、あなたは何とずるいだろうと感服するの。詩集増刷のこと云っていらっしゃるのですもの。それに対して、いくら私だって、詩集は別なんだものとは云えないのですもの。ずるいと思うわ。ほんとにうまくつかまえる。こういう飛躍が科学者の云う天才的な「労作の仮定」というものでしょうか。
十三日に着くようにと書いて下すったのが今朝になったのは残念のようですが、呉々もありがとう。紙の小さすぎることからおこる条件はこの頃やっと私も馴れて、もとのようにその紙のその字の上にないものをいきなりつよく感じとるということもなくなったから、マアましです。けれども、正直なところ、私はほんとに、あなたにすこしコンプリメントをいただくと、しんからうれしいと思います。そういうことでがっつくのはけちくさいと思うけれど、やっぱりこの心持は消すことは出来ないことね。私は却って逆に自分を批評することがあります、私はあなたに自分をいくらかでもいいものとして見せようといつも骨を折るのではないかと。本当に自分のものとしている範囲で骨を折っているかどうか、と。この点、この頃はすこしぴったりして来ているようですね。
文集、面白いだろうと思うの。昔の旅行記なども入れたいと思います。しかし、入れたい心と、入れられるか否かは又おのずから別でね。竹村のなんかそういうのでいいといいのだけれど。そう云えば『明日への精神』九千になりました。お話ししたかしら。十三日に又百合子百合子をやりました。
ユリも朝起き以来、というらしいのに、朝寝とかいてあって、笑えてしまいます。よっぽど「ユリも朝」と来ると寝がしみついて、眼玉だったのね。昔より、二十三日前よりは健康ということ、それは全く当然なわけでしょう?何しろ、それから後の消耗の大さに対して、こんな状態が保てているのですもの。大変綜合された意味で、そうなのは確かです。
あなたの、夜があければおなかのすくこと、食欲がすこしでもあるようになったという面からは万歳だけれど、玉子ナシ、バタナシナシナシの方からいうと、やっぱりこの頃私たち何となしおなかすかせることのひどいのと似たわけなのだろうと思われます。そういうとき栄養が不足すると惜しいわねえ。私のたべた夕飯はもうすこし夕方に近かったようでしたが。やっぱり三時〆切り五時におかえりだからかしら。
きょうは早く寝ます、そして、明日いろいろこまかいものいくつか書くの。すこし眼がつかれているから。今年の十三日のためにアトリエから出ている画の本をすこしまとめて買い、茶の間におき折々見ようと考えます。
きょうの気持の工合では月曜日に行ってしまいそうよ。 
二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日第十一信
きょうはすこし虫がおこって、さっきパラパラと雨の音がしはじめたらひどくそちらへ行きたくなりました。でも、ごちゃごちゃ仕事を片づけなくてはいけないし、私はうちにいた方がいい体の調子だし、それで机の前にねばって居ります。昨夜寿江子と目白の通りを散歩して、この間うちから云っていた今年の十三日のために絵の本買うと云っていた、それを新しい古で十二冊ほど買い8.60也、チューリップの立派なの一輪、黄色い奇麗なラッパ水仙二本計.90買って、きょうは机の上にチューリップを、ベッドの裾の柱にこのダフォディルを活け、大変さっぱりとした眺めです。朝からひとしきり片づけ、一寸一服にこれを。
チューリップというものはこの位になると、気品とゆたかさがあります、葉の旺盛な感じも面白くて。オランダの野原に一杯咲くチューリップは、今年もやっぱり咲いているのでしょうね。
ゆうべ、かってかえった本の中から「ドガ」を見て、実にいろいろ感服し、あなたにおみせしたいと思いました。寿江子が気づいたことですが、ドガは、日本ですぐ踊り子を描いたドガと云われるけれど、たとえば、競馬について、洗濯女について、帽子つくりについて、そして踊り子について、決して、一枚そっちかいて次にこちら描いて又あっちかくという風でなくて、必ず一つのまとまりをもって実に追求しているのね、競馬なら競馬を。そして、ドガの絵にある不思議な動いている感じは又おどろくべきものです。モネ、マネという人たちの、客間的要素がドガを見てはっきりわかりました。ルーブルではドガを「オリンピア」のある絵にかけておくべきです。そうすると、すこし真面目に芸術を感じるひとは、そこにある明日へのび得る芸術の本質を、どっちに在るかおのずから考えるでしょう。本当にためになるのに。小説をかくものはドガが分らなければうそですね。武者がルオーをすきとかいています。武者らしいことです、あくまで自分の語りたいことを語る、に自足している点で、ルオーと武者は似ているのよ、その主観性で。その点では似ているけれどルオーの中にあるその主観沈湎(ちんめん)のデガダンスに対して、野生な生命力の溢れを追求する仕方にあるデガダンス(近代的な)を武者は感じないのね。そういうかんは欠けているのです。現代フランス画家の病的さ。それに正当な判断なくまねする日本の洋画家たち。模倣のひどさは文学以上ですね。つまりまね物が通用する点で。
牧谿(もっけい)の絵は、ドガなんかから与えられる力と同量のものを与えます。牧谿の絵、覚えていらっしゃる?これはお目にかけられるわねえ。動物だの景物だの。青楓の蔬菜図とはちがいます。私は自分では全く描けず、それでも絵は時々随分すきです。パリから大きいトランク一杯に複製だの画集だの買って来て。あれらは誰が買ったでしょう、時々ああこれ私のだったんじゃないかしらと思ったりします。一誠堂なんかで。可笑しいわねえ。きっと間接に私は少なからず日本の画学生に貢献しているのよ。福島という現代画家の相当のコレクションをしていた人のところへ見せて貰いに行ったとき、ルオーがもう手離した絵だのに時々気が向くと来ては、もうすこしもうすこしと手を加えてゆくその粘りかたを感服していました。ああいう蒐集家がどこまで本当のことがわかるでしょう、きっと通なのね。通というものは要するにその道のガクヤ話や癖や迷信や伝統を知り、それに屈伏している評価者ですから。通は素人おどしにきくけれど。
こんなことをかいていると、そして、この間一寸『新しきシベリアを横切る』をよみかえしていたときも、ああして暮した時代もっともっと勉強したかったとしみじみ残念です。
生活、特に外国生活での対手というものは大きい意味があります、ほんとうにそこに在るものを知りたい、と思っての生活態度と、主我的な態度とでは得るものが実にちがいますもの。ほんとうにそこに在るものを知りたいという私の気持は、あの時分まだひよわくて、気に入るとか入らないとかいう気分で支配されている傍の性格とはっきり対立して、独自の線を描き出してゆくというところ迄育っていなかったのね。パリや何かからかえって、「広場」でああいう風に、自然発生ながらはっきりはしたのだけれど。もっともっといろいろ書けもしたのに、と。日々の空気がもっと知的なら。まだまだ書きたいことでのこっていることがあります。でも、それもよかったかもしれないわ。だって、ギリシア以来のあれこれをアカデミックであることも知らず余りうんとつめこんでしまうと、生活的感動そのものまで静的なものに化してしまったかもしれないから。ちっとやそっとの下剤ぐらいでは、おなかがきれいになり切れないかもしれないから。
それにしてもドガの、ほんとのことという感銘の絵はいいことねえ。ヴァレリーの『ドガに就いて』という本がありますがどういうものかしら。この間レンブラントを一寸よんで、レンブラントが最後に一緒に暮した女をやっぱりサスキアを描いたように富貴の姿にして、そう幻想して描いたというところ、何だかわかるような下らないような。ねえ。どうして水色木綿の働き着を着て白いキャップかぶって、そして彼にとってなくてはならない女であったその姿のままかかなかったのでしょうねえ。何故「王女のように」飾るのでしょうねえ。レンブラントさんよ。
林町からヴィクターの古いのもって来ようと云っていてなかなか実現しないものだから。
それからね、私の左のひとさし指に、もしかしたら魚のめが出来るのよ。いつかとげをさして、そのあとが黒く小さくかたくなってまわりがすこし半透明になりました。
中公の本の初校出はじめました。技術的な校正は、メチニコフのおくさんにして貰います。あのひとはそのことはよくなれているのよ。そして、傍ら索引をこしらえて貰うの。ざっとしたものでも。よむひとの便宜のために。メチさんは今お留守番で、いくらか収入があった方がいいのですから。市価は払うことにします。年表の娘さんのためにもいくらかためになってやれたし、一つの本の功徳はいろいろあるものですね。
さアもうこの位にして、もう一息。ああそれからね、もう一つ。きのうの夜散歩して、私がちっとも散歩しないわけわかりました。やっぱりひとりだからね。ちらりと何か見ておやと興味ひかれるでしょう、そういうとき少くとも云うことのわかる対手と歩いているとちょいちょいそんなこと喋って、何だか自分でも印象はっきりして面白いのね、歩いてみるのが。目白の通りに一軒釣道具屋があって、その店には気がついていたのですが、ゆうべその店先に女のひとが坐って客と話していてその女のひとはやっぱりどこか下町風で、着物の縞の色や髪や横顔、ある印象があり、釣の伝統がその女のひとに映っているのよ。やや雪岱流でね。おやあの女のひと、と私が何心なく云い寿江子わかり、それで私、なるほど散歩になんか出ないわけだと合点したのよ。「御飯のあとなんか旦那さんと散歩してみたいところもちょいとある」但これは寿江子の申し条ですが。うてば響く対手がある二十四時間。ない二十四時間。私がまめに書くけれど、それはカイタモノであることを否定はし切れず、ね。いろいろねえ。五月蠅(うるさ)くもあるが寿江子もいていいわ、寿江子のためにもうちにいていいわ。では本当にもうこれでおしまい。
中公の題はやはりなかなかいいのがなくて。「近代日本の婦人作家」となりそうです。これはいい題なのだけれど。ちゃんと年表がついて、サク引がついて。そういう本らしいことはわかっているのよ。四六版。校正112頁まで。では。床に入っていらっしゃるの?そしてかいまきの袖から手を出して何かよんでいらっしゃるかしら。暖いこと?顔がつめたい、つめたいでしょう?つめたい鼻、でしょう? 
二月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(代筆封書)〕
今日は、おかしい手紙を差上げます。言葉は、お姉さまがベッドの内から云って居て、字は私が傍のテーブルで書いていると云うわけです。お姉さまはやっぱり風邪です。
そちらの風邪はいかがですか、やっぱり、こんなに目と鼻が痛くてくしゃくしゃになって不便でしょうか、お姉さまが少し変な声を出して「熱が出たア」と云うから、おデコにさわってみると、そのオデコは私の手よりも決して熱くありません、「冷イー」と云うと、嬉しそうに笑います。つまり、熱もないし、御機嫌もよいし、味噌汁のおじやもよく食べますが、起きて仕事が出来なくて、弱っているわけです。
予定では今日全快の筈だったけれど。寿江子がいるので、便利です。(邪魔ニサレルコトダッテ度々デスヨ!スエコ)一寸待ちなさいと、云って何かゴチョゴチョ書き込んだようです。
今日は三通目の代筆で、この間うちから寿江子が手紙を上げる上げると云いながら書かないから、一つ掴えて、代筆させて、姉さん孝行ぶりと、お見舞とをかねさせます。
あんまり孝行した事がないので、どっちの字が上になるのか、まごついたようです。(姉サント云ウモノハ怪(け)シカラント思イマス。スエコ)
寿江子は、夜ねしなに入浴すると、眠りにくいので、もうソロソロお風呂に入ります。出たらばどうせクタクタで、代筆どころの騒ぎでないから、今のうちに一筆。
家の床の間はしゃれていて、小さい穴が一つ有って、そこから夜中には風、朝になれば朝日が差込みます。今夜はそこを塞がなければなりません。目じるしに今は細くさいた原稿紙のはじがメンソラでちょいと付けてあります。 
三月四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月三日第十二信
ああ、やっと!やっと!という心持でこの手紙をはじめます。だって、この前私の書いたのは十一日ごろです、そして、風邪で臥てしまって寿江子の代筆で、それから血眼つづきで一日にやっと『新女苑』の小説27枚わたして、二日には(きのう、よ)あの氷雨の中を横浜まで出かけ、かえり寿江子のことで国が用があるというからまわって、けさおきぬけに大森の奥さん来で。本当にああ、と云いながらぺたんとあなたの前に坐ったような恰好よ。(寿のことは何でもないの、あとでかきますが。いつぞやのことなどではなく、ピアノ買う買わぬのことよ)
きょうは、おだやかなお雛さん日和です。うちにも桃の赤白の花と、小さい貝の中に坐っているおひなさんを飾ってあります。私の風邪は大体ましで二十七日ごろから仕事しはじめましたが、疲れが後にのこっていて、そこへきのう四時間も独演だったのできょうは些かおとなしい状態です。もう鼻の奥の痛いのはなおりましたから大丈夫。眼も大丈夫。
あなたはいかが?二十七日に書いて下すったお手紙、速達頂きました。すぐ森長さんへ電話いたしましたが、どうだったかしら、日曜日に行かれましたかしら。今の風邪はあとが大変長びきます。呉々もお大切に。
『フランス敗れたり』あれで大観堂は一財産をこしらえたそうです。歴史の何の真のモメントにもふれていない。ふれ得る男でない。それでも、世界がどう動いているかを知りたいという思いのピンからキリまでが、ともかくよむのね。良書として紹介したりしてあったりします。この間『帝大新聞』で今日の読者と作家とのことをかいてくれというので、私はたとえば『フランス敗れたり』を作家がどうよむかその読みかたにおいてそれぞれの作家が所謂読者として考えている人々と、どういう相異をもち得ているか、今日では読者の問題は、作家にとって、自分がどういう読者であるか、という点に省察されなければならないということを考えました。もとのように作家対読者という関係でだけ見て、読者の質が下った下ったと云っていたのでは、作家自身自分も半面では何かの読者であってその面でどんな読者であるかということを考えるきっかけを見出さないわけですから。そして、文学が創られてゆく過程では、下った質の読者に追随するのがわるいとして、では何処から自立的な作品を生んでゆくかと云えば、つまりは作家がどういう質の読者であるかということにかかって来るわけでしょう。ここいらのところがなかなか微妙で文学にとって極めて本質的で、面白いわねえ。いろいろの面とのひっかかりで、文学の文学としての自然な自主性が云われているけれども、作家として問題にすれば、窮極のところ、そこが要のようなところがあるのにね。
二月はそれでもなかなか能率的であったと思います。『婦人朝日』の小説二十二枚。それに『新女苑』のが二十七枚。『帝大新』が十枚。そのほか婦人のためのもの二十枚ほど。小説を二つはがんばったでしょう?『新女苑』のは杉子という女主人公で、その題です。これは女大ぐらいの女学生の生活からの物語です。
中公の本の初校、もう殆ど終り。さち子さんが技術家ですからやって貰って、今夜あたりから私がそれを又見てすこし手を加えてわたします。索引がもうじき出来ますし年表も略(ほぼ)完成して居ります。十日ぐらいまでにすっかりまとめて表の原稿もわたしたいと思います。題のこと、つまりそうなりそうです、どうもいいのがないのですもの。変に弱い題でもこまるし、余り抽象的でもこまるし。私の心持で一番はじめの題は面白いと思うのです。いきなり幅は感じられないけれど、奥ゆきは在る題です。間口が大きくないけれど、扇形にひろがった感じの題ね。
太平洋の波もピンチながら、三角波を立てているというところでしょうね。ルーズヴェルトの一日というのがあって(雑文よ)朝九時から生活がはじまって、事務室までゆく道は車付の椅子にのって運ばれて、(このひとは小児痲痺をやっているのですって)五時すぎまでみっしり働いて、それから九時すぎまで大いにくつろいで、寝室には石でこしらえた豚が三十ほど、いろんなものでこしらえた驢馬(ろば)が又うんと並べてあって、馬の尻尾の剥製が一本飾ってあるのですって。その馬は彼の父の愛していたレース・ホースでどこかに売られてゆく途中汽車の事故で死んで、尻尾だけがのこったのですって。それを飾ってあるのだって。
チェホフのヤルタ(クリミア)の家を見に行ったら、そこは今博物館なわけですが、書斎にいろんな人の写真が飾られていて、机の上に象牙の象の群を飾ってあって、何だか面白く思いました。私の机の上が、今あるまま公開されたら、オヤ、このひとの机の上には小さい琉球の唐獅子夫妻と、妙に思案したような形の茶色の小熊とがのっている、と笑うんでしょうね。仔熊は花の下に今日は居りますが、何かのはずみでずーっとはなれたところに餌でも拾っているようにおかれています、主としてお恭ちゃんの御気分に、或はハタキの都合によるわけです。そう云えば動物が多いこと、文鎮は山羊ですから。仕事机に小さい動物や花は休るのね。写真なんかは迚も駄目と思います。
そして、ルー爺さんは一週三回の水泳と毎日四十分のマッサージとをきっちりやっているのですって。この間うちの選挙のときの写真を見て、あの遊説をよくやるとびっくりしましたが、日常生活を実によくやっているのね。それだけ体を大切にしている――仕事を大切にしているということは、只贅沢な手入れをすきなほどやっているということとはちっとちがいますね。ユリの早ね励行のことも、あだやおろそかではないわけね。とにかく徹夜はしないでやりくって居ります。おかげさま、で。そしてそれが絶対に必要であることは益〃明かです。
きょうからお恭ちゃんは、月・水・金と近所で洋裁の稽古に通います。六時からはじまります。御飯がすっかりくり上ります。でもマアいいやと思うの。夜がそれだけのびますから。六時―九時。歩いて十分以内のところで大通りです。目白通りの先の左側の交番ね、あのずっと手前ですから。はりきりです。ああいう気質の娘は大変むつかしいのね。この頃いろんな調査表がまわって来て、お米にしろ、家の中の成員をかきます。そのとき女中さんでは絶対にいけないのよ。それが、いけない感情のよりどころが下らないところなのだが、それはうんとつよい。その洋裁の願書でも私とのつづきがらというところへ、私の友人の妹と書くのよ。ほっとした顔しています、そう書いてやったら。こんな気持。一事が万事です。今の若い女の子の心持という部分と、このひとのものと半々ね。なまけもののところがあるから、自分のやりたいこと一方にしていればそのことのためにくされないでしょう。ひとを置くこともあれこれと、ね。
さて、ピアノの物語ですが、それは開成山の小学校にピアノを昔寄附したのです母たちが。古いのを。それがガタガタになって、この頃は郡山に放送局も出来たしなおしてくれと云われ、それは千円もかかりしかも命は五年というのでそれに一寸足してホールゲールというのを買ってやって、国君はピアノと云えばこちらへ来る話を区切りたいのね。寿江子は自分の持っていないから、そして、自分の商売道具だから、そんなところへ買ってやるんなら自分に、という神経にさわるところもあるらしい。父がいれば自分の方を買ってくれるんだのに、そう思うところもあるのね。国ちゃんのいい心持になってお辞儀されるのがすきさからと思うのでしょう。まだ田舎での立場の辛さわからないところがあって。それで、私に相談というわけなのよ。ですから私から間接に話すなんて、水臭いことせずに、寿江子に自分から話して、寿江子の今使っているのでコードの切れたところをなおしてやる、今はそういうことにしておくと、あっさり云えばいいということにしてうち切り。
寿江子は不仕合わせに育って、ひどく浪費的です。自分で知らないで。だから、ピアノなんて、買いなおしたり出来ない(にくい)ものでも、使うのを大切にしないで、それは又国が正反対にラジオでも何でも大切にやかましくつかう気質とぶつかるのね。仕事のものをどうしてこう荒く粗末にするかと、私もその点では腹が立つ位。ですから国とすると、直してやるのも張合いがないっていうの。でもね。私に相談する位気を使ってやるなら、自分の気持として直してやるんだから、直してやれということに決着いたしました。こんなところ面白いでしょう?兄妹で、気質の肌合いがちがうと、その微妙な触れ合いで何となしうまく行かないところがあるのね。本当に寿江子はいいところ多分にあり、芸術のことよくわかり鋭いのに、そういう生活に対して懇(ねんごろ)でないところ物に対しても主我的なところがあって、妙ねえ。境遇から来たものとしても。いくらかずつ、直ってはいるけれど。小市民風のこせつきの代りに、ちっとかさの大きいそういう荒っぽさがあるのねえ。そして、今日、彼女の現実の能力はそのかさ高な荒っぽさに充足しきれないのだから。国なんかの眼に、かさばる面ばかりしか見えないのねえ。性格のスケールの相異というものはむずかしいのね。寿江子の方がスケールは大きいのよ。ところが、そのスケールが生産的に創造的に発揮されるところまでなっていないのですね。だから普通の娘から見るとずっと生きにくいのよ。そして、普通の人々は、だから成たけ早くそのスケールが正常に発表されるような方法手段を養い育ててやろうとは観察しないで、かさばりの面だけ特に女の子についてはいうから、寿はシニカルになって、この同じ自分がいくらか金をとったり世間からチヤホヤされたら忽ちピアノだって買おうといったりする気になるんだろうと見るわけです。それが又当ってもいてね。自分で人間の評価の出来ない人は、ぐるりの評判で、自分の判断とするのですから。仕事が金にならなければ、そのねうちを評価しないというところ迄常識は金に買われてしまっているのねえ。ですから私は、全く沢山の若い女のひとたちに同情いたします、金がその仕事でとれるようになったとき誰の助力がいるでしょう、ねえ。金にならないうちこそ助けがいるのですもの。だから私は金のとれないとき(時代)、助けを必要としている若い女のひとにどうしても冷淡になれません。女には投資として仕事をさせるひともないわ、投資すれば常にそれは女に投資するのです、仕事へではないわ。これは大略、世界の女の苦しみでしょうね。
そう云えば栄さんが『暦』で新潮賞一千円也を貰います。そして、いろいろ計算すると、借金をかえし貸金をさせてやると、五十円ほどのこるそうです、それで私たちに御馳走をしてくれるそうです。中野さんが『三田新聞』に『文学の進路』の書評をかいてくれました。この本は面白い本である。本の形は小さい。けれども読むと中味において大きいという本である。大きいというより誇張にとられても困るけれども、一種壮大なところのある構造物といった感じの本である。そんな風な書き出しです。『都』に『第四日曜』の書評が出ていて、ぎごちなさや固苦しさやがあるけれど心にふれて来る作品集とあり。ぎごちなさ、かたくるしさというものについていろいろ興味ふかく感じました。ここにいろいろ面白い問題がふくまれているわけですから、芸術家の課題として。そして、客観的には、その動機が何であれ、かたくるしさとしか読まない読者が読者なのでありますから。小説は面白いことねえ。くるりくるりととめどなく流暢になることではなくて、云ってみれば、ぎごちなさそのものが美の魅力となるまで作家の努力はつづけられなければならないわけですから。それには、たとえば文章のテムポというようなもの、テムポが平均人の頭脳的情緒的リズムに合うように存在するということ、そんなことも又決して無視出来ず面白いと思います。説得する力というものは文章の中にあって、単に筋の明かさ、否定しがたさばかりではないのね。「杉子」その他では、この面で関心が払われているのですが、どういう結果でしょうか。小説でもわかるように云う、云いあらわすということで、或場合、決して作者の自然発生な表現のままでは不十分ですね。低くなるということとは別なわからせてゆく力、いろいろな要素からそれは出来て居ります。特にその作家が、常識の波調のままの情緒でものを云っていない場合、ね。
この間、私が余りいそがしくて詩集くりひろげるどころでないかい、と笑っていらしたわね。或意味では反対ね。一日に仕事終ったときなんか、詩集をくりひろげその頁の間に顔を埋めたい気持でした。あなたはこの頃どの詩を御愛誦でしょう。私はよく「季節の思い出」「アンコール」「よろこばしき病のように」などをくりかえし読みます。「季節の思い出」の中の「口紅水仙」覚えていらっしゃるでしょう?口紅水仙の花弁のなかにはもう一つまるく敏感な紅のふちどりの花びらが抱かれていて、春の初め、漸々水仙が開きはじめの頃、待ちどおしいやさしい指にふれられて、新鮮なその感触に花びらは戦慄しながら次第次第に咲きほころび、匂いたかくなってゆく描写。それから「よろこばしき」の中の空気の中に鳴るような一節、「ああこれは何かの病気だろうか」といういのち溢るる詠歎。この「よろこばしき」の格調は一度よむと、もう耳につき魂について決して忘れられない美しさね。どうしてあんなに美しいのでしょう。ほんとにどうしてその美しさはいつもまざまざと描き出されて、うすれるどころか印象の中で一きわ光彩陸離となってゆくのでしょう。そこが芸術である所以でしょうか。「泉」の描きかたにしろ。ねえ。それから「木魂(こだま)」という、あの可愛らしくて真実みちたソネット。森の中で――忘れておしまいになったんでしょう?――一人の少年が爽やかな早春、一匹の栗鼠(りす)を見つけ、おやと眼をみはります。その栗鼠は不思議と、余り遠くへ行かずやっぱり眼をパチクリさせて少年を見ています。ふっと少年はその栗鼠をつかまえようとします、栗鼠は逃げます、でもふりかえりふりかえり逃げて到頭、それは少年の二つの手につかまります。何と可笑しい栗鼠でしょう、その手の中から逃げようとしないのよ。少年は笑って、いいかい、もう決して離さないよと心持よさそうに叫びます、するともう決してはなさない、とどこからかもう一つの声が答えるの。どこからかしら、少年は栗鼠がいうのかしらと思うの、もう一度ためしに、いいかい、もうはなさないよ、そういうと、どこかで又もうはなさない、というの。それは木魂でした。少年はリスにつかまったのでしょうか、それともリスが少年につかまったのでしょうか、森の木魂は何と答えるでしょう。そういう物語。「季節の思い出」は風景がゆたかで全く飽きません。「仮睡」というの、これもあなたはあやしいわね、そっくり覚えていらっしゃるかどうか、夏の部よ。牧童が泉のほとりへ来かかります、せせらぎながら溢れこぼれる泉にひきつけられて、喉のかわいている牧童はそのゆるやかな丘の斜面に体を伏せ、芳しい草をかぎながら、口をつけて泉をのみます、甘美な泉に満足した牧童は丘のなだらかな線に体をまかせたままいつの間にか眠ってしまいます。いつしか日が沈み、白い月が夕暮の中にさしのぼり、しかし、丘も泉も牧童も夏の生命の横溢の中で一つの影にとけ合って、やはりまだ眠っている。この叙景は非常に典雅で而も健やかで、音楽的です。やさしいメロディーの旋律が插画のように入っていたでしょう?私のところにこの集があるのにそちらに別なのが在るの、ほんとにおしいことね。あなたは風邪でいくらか御退屈でしょう?ですから、詩の一篇一篇を、そこにひろげてお目にかけたいと思います。では明後日。面白いわ、大きい字は遠いよう、小さい字は近いよう、ね。 
三月四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(速達封書)〕
大変おそくなりました。例の謄写代の内わけ。
逸見上申書四通三・一八
同上申二通二七・二八
宮本公判期日変更願其他二通一一・九九
木俣鈴子上申書二通
一四・八五
公・調四通
袴田上申書二通三二・一六
計八九・四六
右のうち、木俣上申書二通の中一通。公調四通中二通、計三通分をこちらで支払い。(7.50)
これでわかりましょうか。それとも例のひどく重複の分。
合計一九二・〇六也の内訳
木島一・二回公判調書四通四七・五二
同三・四四通五九・一八
袴田上申書三通四四・二二
同・公判一二三回四通四一・一四
それに対して、十円三十銭だけ支払えばよいということでした。前に一一〇・四〇支払ったのこり分として。どういう勘定で、今回はその金額が出たのか存じませんですが。
この前に私の手紙で、その他と略したのはこの分ではなかったでしょうか。
あとは速記で第一回が重複していて取消。西村マリ・加藤の件で重複して取消あり。
これで分れば大いに結構ですが、いかがでしょうか。どうもあやしいものね。とにかく大変おそくなってすみませんでしたが、とりあえず。 
三月十日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月五日―十日第十三信
きょうは久しぶりで蓬々拝見してうれしゅうございました。余り蓬々だから顔の色がいくらか蒼く見えましたけれども、それは熱っぽくなくなった故なのね。そうして見ると、この間うちはほんとに火照(ほて)った顔していらしたこと。気持わるかったのでしょうね。うまくお癒しになっておめでとう。あとがなかなか疲れますから猶々お大事に。
今かえって来て、佐藤さんの行坊とちょいと遊んで二階へ来たところ。お恭ちゃんが、そろそろ稽古に出かけるので、盛にカチャンカチャンバタバタをやって居ります。月水金は夕飯ひとりよ。まだ馴れないからいやです。私はこの頃ひとりのきらいなことと云ったら猛烈です。
島田の赤ちゃんの名、志郎とはなかなかいい名ね。宮本志郎。わるくないと思います。美津代でしょう?お母さん、およろこびになるでしょうね。美津代でも志郎でもいいから元気で丸々として明るい子が生れるといいことね。私は実に繁昌よ。行坊、あのメチニコフのところの伸一郎、あの看護婦さんだったバラさんが二日にデコ坊を生みましたし、ほかの友達のところで最近一人生れるし、既に二人の女の子がいるし、林町、中野卯女、康子、ターンその他、無慮十二人は私にお人形だの犬だの猫だのを思い出せるのですもの。子供たちのこと思うと、大きい庭と長い廊下がほしいわね。その廊下をドタドタかけたりかくれんぼしたりさせて見たいと思います。十五年も経つと健造はもう二十七歳ぐらいよ。大したものでしょう。卯女、康子は十八歳の乙女たちよ。彼女等の生活はどんなに展開されることでしょう。
太郎は学校になる前に是非泊りに来ることになっています。小ちゃいおばちゃんと私と三人でねなければいけないとなると、うちは大鳴動なのよ。其でも三月中には一夜その旺なるお泊りをやらなければなりません。今に太郎のための本棚というのをこしらえてやります、これは今に島田にも入用です。子供の本は私たちで供給してやりましょうねえ。子供の育つのに雰囲気というものは何と大切でしょう。そして複雑な気持でクスリともします。だってお母さんにしろ達ちゃんにしろ、きっと立派ないい子欲しいと思っているでしょう。いい子は欲しい、だが心配。そのディレンマ。本当にどんな子が育つでしょう。
ボンボン欠乏のこと。その心持、こうしてかえって又手紙かいていると思います。本当は忙しいのよ。一刻が大切なわけなのよ。それでもやっぱりこうして書いている。妙ね。
ものの味とは何と微妙でしょう。私はきっと今にボンボンの詩を見つけるでしょうと思います。フランス人ならきっと詠ったひともあるでしょう、美味を美の一つのものとしている習慣があったから。日本の「美味求真」ではどうかしら。いささかあやしいものです。
いろいろのことが非常に書きたい心持です。いろいろのこととは何でしょう。いろいろ、いろいろの心持。字のない字で書くような心持。いろいろ書いているくせに何かもっといろいろ書きたいのは変ね。さアもう仕事しなくては、そう思って自分で僻(ひが)んでいるのよきっと。字で書くなんて!とふくれてもいるのね。無理ないよと云って下さるでしょう?字でかくことは話すこと。何にも話したいというのではないそのときは、何で話すの?ああ。すこしじぶくるのは珍しいでしょう?
何しろ私はこの頃あなたとけんかもしてみたいのよ。私たちはどんな風にけんかするでしょうね。どうも考えてみるに、ちょいちょい口げんかをするという風ではないらしいことね。わたくしは、たいへんおとなしい細君でありますから。たまにするとすれば、それはこわいでしょうか。こわいのはいやです。勿論こうしていてするけんかなんか真平、真平よ。もしそういうことがあればわたくしは四辺(あたり)はばからず、おーんとやります。
さあ、本当にもうやめなければ。そして、御飯たべて、一がんばりしなくては。勉学勉学よ。ほんのちょっぴりでいいからおまじないが欲しいのになアと思うことは、たけきもののふも思うことでありましょう?
そして、きょうはもう十日です。この手紙を引出しの中にしまい込んで、その上でうんさうんさとやって、きょうは上野へ参り、それで年表が終り、校正に目をとおし、それで放免です。一昨日と昨日とは、年表をこしらえてくれた絵の娘さんをわが家にかんづめとして、本を山積して補充でした。大へばりよ。文学年表というようなものを誰もこしらえないから。いちいち本でその人の年表を見るわけです。たとえば万太郎さんというような人は、私としては閉口ですが、私を閉口させるところが存在性ですからやはりさがしたり、ね。
索引も出来ました。それの直すところを紙を入れたり。本つくりの仕事は書く仕事と全然ちがうようです。大したひまを費します。
六日の日ね、そちらからのかえり、私は大変可愛い碼瑙(めのう)のようなかざりものを見たのよ。何だか光線の工合であかい碼瑙の円い珠のような飾りもので、今時あんなものもあるのでしょうか、泉子がみたら、知らず知らず口をもってゆきそうなの。マアと思い、忽ち通りすぎました。
お金、島田へも手紙つけてお送りいたしました。私たちの赤ちゃん歓迎費として。
そちらへも着いたかしら。
図書館へもって行って書こうと思いましたけれど、きょうは間もなく手つだいの娘さんも来て、並んでやるのよ。ですからうちでおべん当ののり巻を買って来てくれる間に、これを書き終って出そうというわけになりました。だから急にせわしくなったのよ。だって、今出さなければ又おそくなり、今夜あやしいのですもの。
寿江子が今一寸来ていて、昨日一昨日二階へ籠城でしたがおかみさん役をやってくれました。
きょうは文芸年鑑と、松井須磨子の小説というものをよもうというわけです。スマ子小説を『早稲田文学』にのせたりして居ります、どんなのでしょうか。そんな点も何だか、今のヒヨコヒヨコとは少しちがって興味があります。
「生活と文化の問題」というのを二十余枚かきました。重点は、所謂健全なというものが不健全なものに転化する生活の機微を理解しそれを正常ならしめるたたかいが、文化の健やかさであるというわけです。こんなにあたり前の考えがあるでしょうか、このあたり前のものの考えかたが、女に毒だという考えのお方がカーキーの情報にいます、女の雑誌には、というのですって。女がバカであって便利をうける率はごくわずかなのにねえ。きょうは春めいた日です。夕方までにしまって、寿が夕飯に待っていてくれます、だからきょうは月曜でも一人でなくてすむのよ、およろこび下さい。では明日、ね。 
三月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十六日第十四信
十四日づけのお手紙をありがとう。風邪がややましにおなりになって何よりだと思います。きょうなんかすっかり春ね。そちらにも沈丁花の花が咲いているでしょうか。おとなりの庭にあるのが下によく匂います。
十四日づけのお手紙をくりかえしよみました。花園の被害についての話[自注3]。表現はすこし風がわりですから興味をもっていろいろ文学的考察をしました。そして大変立体的にいろいろの関係を理解しましたから、私もやっぱりそのような詩趣を失わずに物語るのがふさわしいと思います。中村ムラ夫が、『花園を荒す者は誰だ!』という論文集をかきましたね、昔。結局こんな題の論文なんか書けたのは天下泰平ね。お手紙の中に泰平的テムポのことありましたけれども、あれは寧ろ大局的にはいいのよ。何故なら、もし原形のまま出ていたならそれを種として、必ず波が立ったのですから。そうすると、これからずっと様々の曲折を営んでゆく上に途が切れてしまう結果になったでしょう。芥川の小説の「極楽」というの覚えていらっしゃるでしょう?一縷の糸につながって極楽へゆくという話。極楽ではないにきまっているけれども一縷の糸もなきにはまさります、その一縷の糸にいろんな名の人がつながって極楽へ行けた云いつたえを信ずればね。仏様はきっと臆病ではないでしょうね。しかし、現実の糸のもちてはまことに兢々たるものですから。一縷の糸に一度シャッキリ鋏が入れられでもすると、もう糸を切られたと絶望して、もっていた手を諦めてはなしてしまいますから。その糸をいかに巧にかしこく手ぐるかというところに蜘蛛の智慧がひそむわけです。蜘蛛は、アナキネという乙女の化身ですって。アナキネは大変織物が上手で、その美しい織物の技術に、或るギリシャの神が魅せられたのを、その男神の恋人が嫉妬して呪詛で蜘蛛にしてしまったのですって。可哀そうね。
具体的ないろいろのことが大変複雑でむずかしいので全く閉口です。毎日そのことを研究中です。只今のところ名案皆無です。秋ごろから予定どおり出版企画が実現するとすれば、出版種目は急を要するもの――科学、工業、軍事だけが先になって、文化の方はずっと割合が低下するでしょう。そして、もし今云われているように初版が一千部ときまって、再版は許可制となるとすれば、許可制の内容は文部省のスイセン図書をみてよくわかりますから、それも極めて小範囲となるでしょう。どんな本やも、特別な文学物の店をのぞいては再版の可能なものの方を選ぶわけですから、その面からも一般に大変落付きを失っているわけです。そういう変化が迫っているということも、私の名案がなかなか浮ばない原因でね。川口松太郎は「蛇姫様」というようなものをかく男だけれども、余り艷かすぎるということでいざこざがおこって、何とか云われたとき、生活しなければならないんだからと云ったらば、それは十分よくわかる、そのためなら何も心配はいらない、満州へ行って電気屋になって下さい、足りなくて困っている、すぐ紹介状かきますと云われたよし。実に今日の逸話です。
T・Yという人がいましょう?伺いたてたらノートを端から端までめくって見て、居ない。これで見るとよっぽどペイペイだろうということであった由。
私はさびた小刀になってしまうのもいやですが、さりとて余りのコマ鼠の遑しさで(心の、ね)結局その日その日のために本当の書きものが出来ないというのも非常に困ると思います。そういう風な生活のプランを立てたくない。それから、永い時間ということは必然で、云わば一生かもしれないから借金生活はいけません。結局つづきませんから。そこで、まことに私の不得手な算術を、ああ足して見てこう引くと、こう引いてああ足すと、とやって小首をひねって居ります。最低限の安定をどう求めるかという力学のようなことを考えているわけです。それの上にくもの智慧もいかして行かないと、私はすり切れてしまいますからね。いろんな面で何かの創痍(きず)がさけられないのならば、最も肉のあつい部分でそれをうけなければなりますまい。母親が子供のおしりをぶっても眼の上は打たないように、ね。私はわたしのおしりを見つけ出さなければならないと思います。眼をつぶさないために、ね。そして、その案の一つとしてこの家の便利なたてかたを利用して、二分してつかうと大いにいいのですね。今は何でも配給ですから、一人ぼっちでは手も足も出ません。お砂糖にしても一人では一ヵ月八十匁ですもの。さて、実際にその人のことになると大変むずかしいわけです。何しろこっちがこっちですから。
この前のときはあのときの条件から、強引生活をやって一ヵ年と四ヵ月暮しましたが、あれはいい経験となってプランを立てるについても今は有益です。ああいう方法ではいかに不可能かということが分っているから。どんなに小さくても自転作業がなくてはなりません。わたしも少しは実際的能力がたかまったというわけです。この点についても御褒美がほしいわ。私たちの最低の安定を発見さえ出来たら、もう心にかかる憂雲もなしと、勉強して、働いて、ボンボンになぐさめられてやってゆけます。〔中略〕
「どうしてもわけがわからない、ピンとこない、のみこめず不思議」と寿江子が眼をパチパチやっているのが無理もないわけね。のみこめる訳がない現象なのだもの。きょうあたりは、何だかいろいろ考えていて、ふっと可笑しくなるようなところもあります。大分御思案だな、無理もない、と。ホラ、ユリ、どうしたい?と。
きょう税の申告をいたしましたが、これこそ不合理そのものよ。前年度はたった七百円ぐらいに五十三円ばかりの税でした。五倍だというなら二百六十何円の税というわけです。どこから其を払ってゆくかということについてはとりたてる方は問題にしないのね。
こんなに苦心していれば、小説の点のようにどうにか展開いたします。小説はつまり現実のことですから、丁度小説の世界のシチュエーションを考えてゆくように、諸条件をよく調べて、内外の動的な作用をよく観察してプランを立てれば、きっと最小の展開はいたしましょう。感情的にならないで考えられるようになればもう占めたもので、そろそろ大丈夫よ。それは手紙の調子でお感じになれるでしょう?何も経験ねえ。子供のひきつけで、はじめ動顛した母さんだって二度目には少しは呼吸がわかります。先は、いいえ大丈夫です、落付いています、そう云いながら洗面器の水で手拭をしぼろうとして洗面器のそとへ我知らず手をやっていたようなところを思いだします。やかましく云って下すって、金ダライのありかがわかって、というようでもあったわねえ。あれこれ考えると、やっぱり面白いものと思い、苦しいところの面白さも感じて来て、何かのスポーツのような興味もあります、今度は今度の条件でうまくやろう、と。
私はちっともスポーツの鍛練はないけれど、こういう気分を考えてみると私もなかなかスポーツの精神は諒解して居りますね。相当の登山家ともなれる素質が些かあるようでもあります。チンダルの「アルプス紀行」はそのことを思いおこさせます。氷河のわれ目だの雪崩の観察だの、自分の肉体の力の測定だの、美しい人間の精神の敏活さを感じます。それが、自然を剋服してゆくものとして明瞭です。私も段々にこうして贅肉のそがれた精神の力を身につけて行くのでしょう。さらりとして、自在で、自在であり得るということそれ自体がどんなに中心が確立しているかということを語っているという風だったら見事ねえ。
『文芸』の仕事の間、あついときも上野で暮して、これも実にいい習慣です、その点、やはりのんびりした見とおしがあってね。自分の本棚にない本は無い本だという古典調はないから。楽天的よ。何かまとまった勉学は、自分の書棚だけで出来ないこと痛感していますから。
私のたった一つのおねがいはね、あなたにのんびりしていて頂くことよ。ピンをとめるべきところへはもうピンがちゃんととめられてあるのですから、ユリはがたがたにならないのだから。きょうあたり、こうやって書いていて、いくらか愉しい心が揺いでいるということは、万更でもないでしょう?沈丁花がいい匂りだからばかりでもないわ。すらりと、簡素で、しかもしんは瑞々(みずみず)しいという日々がつくられるようにしましょうねえ。極めて実際的によく組立てられて、妙なもやもやのない、やっぱり私たちらしい生活にしましょうねえ。形を変えることが必然であると分れば、それに工夫をこらすのが又一つの愉快さをやがて感じさせ、たのしみを与えてくれるというのは、人間の何という見つけもののところでしょう。いいモーターのように小型で便利で能率のいい生活にしましょうねえ。きっとあなたは一種の安心をなさるでしょうと思うわ。だってユリの育った伝統からの云々というものがもう顔を出す余地はどこにもないのですもの。では明日ね。

[自注3]花園の被害についての話――戦争拡大のため、宮本百合子、中野重治その他の作品発表が禁止された。 
三月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十三日第十五信
この前の手紙さしあげてからもう一週間も経ったのねえ。この頃の毎日の迅さは一種独特な味です。忙しさも亦独特。中公の本の様々の手入れ、手つだいの人が来ていて、(あの娘さん)もう二日ほどで完成です。(表の方は)どんな片わでも、生まれるものなら生んで置きましょう。この忙しさは、粗悪なトンネルがくずれないうちに通りぬけて置こうとするような味ですね。
附箋つきのお手紙。住所が変ればこういうこともなくなるのだろう、そういう感懐をもってしげしげと眺めます。そして、あすこの門の前のこと考え、たとえばこんな手紙がポストの中に入れられている。門は奥が遠くて、人がとりに来ない。その間に、勝手に手を入れて、何が来ているか見たりするのは必定です、それを考えると、嘔きたくなる位いやです。生理的に苦しい気持がします。その中の一通がなくなったとして、無邪気にどうしたんだろうなどと誰が思えるでしょう。私が先にあすこをいやがった理由の一つにはこれもあったわけです。そして、今益〃いやよ、この点は、ね。何たるいやな場所と思います。このいやさは我ままではないでしょう?同感をもって下されるでしょう?
このお手紙に、雨降りでやや寒い。とあります、きょうも雨降り。ややさむい、方ね。「ねぎらい」の描写を思い出していらっしゃるところ、一寸お話したように、大変うれしくやさしいと思うの。一緒によんだ同じ詩でも、印象の濃い行は、独自で本当に微妙なものだと思います。でも、こう書かれていると、あの雄蜂のつややかな躯やすこしつかれて柔かく重くなっている姿など、何とまざまざと浮ぶでしょう。芸術家が心や目に刻まれたものを丹念に再現してゆく力は、窮極には愛からしか湧かないものなのね。それが芸術の精髄的な本質なのね。「よくぞ生れ来たる」この詩は抒情歌の形でかかれてはいますが、実質には雄勁なものが一貫している作品ですね。反対に、テーマが雄勁であり得ているからこそ抒情詩としての流露も豊饒、豊麗であるということにもなっているのでしょう。私たちの生きている感情って実に面白い。今のような心でこの詩の一篇を記憶に甦らすと、その美しさや歓喜の高潮は余り美しくて、よろこびそのものが悲しみに通じるほどなのは面白いわねえ。深い深い美の感覚は常にそんな工合ですね。あら奇麗ねえ、という感歎の言葉がすぐ唇をついて出て来る美しさはその程度というところがあってね。
芸術家のめぐり会う波瀾というものも、複雑極りないわけで、一人の芸術家と歴史の組合わせの苛烈さ。その芸術家がその状態を客観的によく知って感じて、素質を守って闘って生涯を終ることが出来れば、それは一つの凱旋でありましょう。どんな平和時に生れ合わせたにしろ、彼が書記ではなくて芸術家ならもう自身としての波瀾は予約ずみなのですものね。まして、いわんや。歴史の波そのもののうねりが表現具現されるような場合。
こんどはわたしも非常によくプラン立ててね、勉強し仕事もためて行きます。この前は、余り最善でもない心理状態でしたがともかくキューキューやって頂いて、いくらか(しかし、正直に云えば相当)進歩しました。今は自分で勉強法も少しわかったところもあり、よくこまかく働いたという自覚もあり、そういうこまかい働きかたで生じている不十分な面をどう補ってゆくべきかということも略見とおせます。あなたが、本格の成長と云っていらっしゃること、ただわたしへの励しと伺うばかりでもありません。
「広場」いろいろ思います。あれはあのテーマの必然として、外にありようはないのです。しかし、もしひょっとして、あの小説の主人公としての何か空想的な心持で、ミス・リードを気取ったら、どうだったでしょうか。本当に面白いわね、幾巻もの詩集なんかどこにもないのよ。ああいう詩集を愛読してからの心で考えると、何か一寸した角の曲りかたで、こんな詩もないわけだと思うと、不思議ですね。作者のイマジネーションは自由だと云っても、あの背景の中へ重吉を案内して、公園の楡(にれ)の木の五月の葉かげで、朝子に震撼的感銘をもたらすだろうという細部までを保証することは出来ませんもの。それは全く出来ないわ。重吉という人物には他のひとが配合されなければならないでしょう。それが自然ね、すると、作者はやきもちをやかざるを得ないのね。やきもちというようなややユーモラスな云いかたを借りるのですが、そんなものではなく、ああ実に残念と唸る、そういう風でしょうねえ。あのテーマは現実にぬきさしなく展開されています、そして長篇的構成をもってつづいて居ります、ね。
鵜呑みのハラハラは、すみません。あぶなっかしいものを見ている気持よくわかります。時々よろよろと千鳥足になったりして行く形を眺める心持思うと、笑えるところもあります。だってさ、相当がっちりかまえて心得顔に歩いて行っていると思うと、急に二三歩ひょろついてそれなり倒れもせず又とり直して行きつづけるの、うしろから見ていたら、あらと思うのはあたり前ですものね。まアどうせ車道を横切るときは、くっついて、守られている気持で歩くのだけれど、ピョコリと膝をがくつかせれば、あなたにしろ、どうしたいとおっしゃるわね、つい。御免なさい。ときどきハラハラさせて。
『女性の言葉』の終り。そうだと思います。一昨日でしたか一寸よって、大笑いしてしまった、昭和の大通人になるのですって。お花を活けて、ゴを打って。大石クラノスケをやる気なのよ、大笑いねえ。あのひと、野上彌生子の大石をかいた小説よんだかしら。個人の内面の弱さをむき出したという範囲で、あの時代の社会の波としてつかんではいませんが、それにしてもその人のなかに素質としてないものではない、うそとまことの綯(な)い合わせ式のところをその小説はかいているのです。そんなところもあるようで。
困難な山阪をついらくしないで小さな車を押しあげようというとき、その輪は極めて丈夫な車軸をもっていなければならないと同時に、自在な角度に動く巧緻な設計を具えていなければなりません。けれども、車をああうごかし、こう動し安定を保とうとしているうちに車軸は変な磨滅をして、こんど真直車を押してゆくというときすらりと進まず、必要もないのに、あっちへくねりこっちへくねりもしなければならないこともあり。もののすりへることについて、どの面がどうすりへらされるかということについて、少くとも自分だけははっきりして科学的観測の能力をもっていなければならないのねえ。この頃は深くそのことを感じます。自分の物理学を知っていなければいけないと、ね。それぞれに違った条件の中でそれぞれちがったへりかたが生じ、そういうことが全然ないというようなことは現実にあり得ないのですもの。
パウル・ヴォルフの写真帳が偶然目に入り、うれしくておめにかけます。私が余り砂っぽい風を顔に吹きつけられているせいか、ヴォルフの芸術のたっぷりさは実に快く、きっとあなたもいいお気持でしょうと思って。あのお送りかえしになった作品集の中に二枚ヴォルフのがありましたね、海浜の子供のと、花の蕊の美しいのと。ヴォルフがこの作品集の中のでも、機械と人間のくみ合わせを扱っているところで先の写真帳の中のアメリカの作品のように、単なメカニズムの興味で、反射映像を弄(もてあそ)んだりちっともしていないところ、やはり自然のよさがあります、ヴォルフ夫人も実によくとれているわ。変な不必要な肉体の露出なんかなくてね。しかも情愛がちゃんと肉体の理解にも及んで描写されていて。どうぞくりかえし折々タバコかユリのボンボンのように休みのため、瑞々しさのため、よろこびのため、御覧下さい。大枚八円也を奮発したのはそういうわけですから。
あのヴォルフの先の海浜にて、どうしたかしら。何だか見当らないようですけれど。カメラがこんなに生々としていて美を吸い出して来るとは美事ねえ。こういう文学がほしいことね。美しくて、その美しさを感じる故に自分も美しいものをつくりたいと思う、そんな小説がよみたいことね。明日午後おめにかかります。 
三月二十五日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十四日第十六信
ほんとにわるかったことね。たしかにどこかが痺れたのね。何だか変だな、こんなに永くという風に思いながら、一生ケンメイこまかいことコチャコチャやっていて(表の)。本当に御免なさい。忘れたと、はっきりわかれば、勿論けさ早くかけつけただろうと思います、忘れたとはっきりするところまでも行かなかった次第です。いやな二日を暮させました。雨は降ったし、ねえ。三月二十日すぎから四月初めの荒っぽかった天気もお思い出しになったでしょうね。
子供の名、きょうの案はなかなかわるくない感じです。字に情緒もあります、この字を紙にかいて眺めていると、男の子のいろいろの年代の心がうつって来るようです。悠ちゃんという男の子、少年悠造、大人の悠造さん、面白いわ。おじいさんの悠造殿。こうして見ると、男の子の名をきめるのはむずかしくて、そのむずかしさに生活が語られて居りますね。美津代と云ったって正代と云ったっていくらか性格のニュアンスのちがいが感じられるだけで桃色と水色ほどのちがいはないわ。女の一生の一般的なきまりきった内容があるのね。個性的でさえないようです。どうしたってそんな名妙だというような女の子が生れたら愉快ね。でも、一方から云えば、名できまるのではないのですが。
けさ、周子さんという山崎の娘さんからハガキ来ました。今月は迚も一杯だから来月の日をきめましょう。
さっき一寸出た家の話。私はなかなか名案のつもりでしたし、やはり名案だとは思います。しかし、仰云るようなひとなかなかないでしょう?日本の一般では、そういう女のひとが一定の資力をもっているということは極くまれです。大抵親のところへまとまって暮します。さもない人は、条件の切迫しているのを、いくらかましにしたいという計画しかもたないでしょう。私は、いろいろおちついて考えて、この前と全体の条件のちがうことをよく計量して、感情的に処さない決心です。ですから、この前は売り払うものを払って、通りぬけたのですが、これからはそれはききませんから、この前の前の手紙に書いた最低の安定力学は重大です。いろいろ計算すると、家を半分ずつにして使うにしろ、まとめてお送りしている位はミニマムね。それに六倍したものもミニマムです。それだけが流れ入る河筋について研究をこらす必要があります。本の平均の印税として換算すると、(『明日へ』を例としてみると)一万部以上の必要があり、初版一千部が実施されれば十冊の本となります、再版可能のものとして三冊ね。それぞれトピックをとらえそれぞれに塩梅し、年三冊の可能はたやすく見出せないのが実際だろうと思います、「天の夕顔」の作者がプロンプタアです。そして、河上徹太郎、中島健蔵という人たちが、本で苦労をする必要のある世の中ということを考えて御覧下さい。三冊の可能の少さもわかります。私のプーパタパタで、今の(ある)用意の継続が保たれれば寧ろ上乗と思うべきだと考えます。そして、それだけは是非やりたいと思います。そして、自分の勉強をやりたいと思うの。この計画はなかなか大変でね、だからその面からは林町のことも考えるし、あなたのおっしゃるのもわかるし、いたします。でもそれには何と心の抵抗がきついでしょう!何だかまったく折れにくい、そして折れているのが自然でもない若い竹を力ずくでねじ伏せるようなところがあってね。自分の心でも、ふっと気がついて見ると、イヤあ、とそりくりかえっているのよ。無理もないことですが。どんなにそれを云いなだめて、すかせるかというようなところですね。その上、前の手紙で云ったような位置に在るのですし、ね。唸ってしまうわ。せめて、もうすこしあたり前のところに在ればいいのに。ハイ出ました。ハイ入りましたよ。まあ。でもね、もう一つ大局から見ると、そんなことにも平気になっている方がいいのかもしれません。あなたにじぶくっているようで相すみませんが。
とにかく眼目は、私が車軸が曲って減った小車にならないようにすること、まとまった勉強が出来るようにすること、そして小さな貯水池が乾上らないようにすること。です。家の半分は実現しにくいのね。きっとうまくゆかないでしょう、笑い草ですが、折角考えついたおじいさんおばあさんにしろ、その息子さんのこと思えば、何だかすこしつっかえるでしょう?大体余り無理はしないことですね。全体無理だらけなんだから、そこへの無理は二倍になってかかるから。まアこんな風にああ考え、こう考え、秋のヴォルガの川船みたいに、うねくね航行して、林町の二階へ辿りつくのでしょう。私は変にカチカチにがんばって、顔が赤茶色に光るような女になりたくないのよ。そうなっていしまえば私たちの生涯の善意が全部裏でばかり現れたことになって、そんなくちおしいことは自分に許せません。あなただってそうお思いになるわねえ。眼の吊ったユリなんて、余りぞっとなさらないでしょう。
それにしても、いつも精一杯に暮すということは何といいでしょう。沁々そう思います。精一杯に暮すために、ついいろいろのこともあるが、勉学のやりかたにしろ、やはり段々つかむところがあって。
この前職業につけたひとも今はむずかしいでしょう。映画でもなかなか返事して来ない由。ねえ。
四月一日から、バス、市電、ラッシュの時間に急行になります、お米も切符になります。一人一日私たちの職業で二合五勺です。子供は年で区切られていますが、なかなかたべるから(大人よりも)大変でしょう。ジャガイモ、甘藷、パンなかなかないので閉口。うちは一人二合五勺だとどうやらやって行けましょう、一度すっかりはかって見てたかなくては。お客をするということもなかなか出来ません。昔のようにみんな持ちよりしてくれなくては。何でも現金が主になって来ていて、勤人は誰も苦しいでしょう。炭の配給、そら金。米、そら金。八百屋、ソラですから。一般的に貧乏しているのだが、現金のないところの窮迫はさぞひどいでしょう。どこのうちも百円でやっていたところが倍ですね。あっちこっちきいてみると大体そうね。卯女のところもそうよ。行一郎のところもそうよ。大したものでしょう?
私はあなたの冬のための襦袢だとか、衣類だとか、少し心がけてあったからその点全くほくほくです。それだけは心安らかというのはありがたいわ。これからのプーパタに加ったらそれこそですから。
いろんな世帯じみた話。でもこの頃はいろんなインチキ会社が出来てね、とんだ会社員でくみ立てられた会社が、一流会社のようにひとをだましているらしいようです。空巣も大ばやりです、花見にかけてだから。そしてこれは実に面白い、質札買います、という広告が新聞に出ます。もとはなかった広告でしょう?そんな会社にしろ、世間の必然でだぶついて来ているものを吸収して、どしどし破産させてゆく力は旺盛です。そう云えば文芸春秋でよこした国債が大当りでもすればいいのにね。
太郎、あのお手紙に返事かいたかしら。きょうはおなかをこわして臥ているそうです。あのお手紙に、熱のない風邪のことかかれていて、本当に、と思いました。さっきの肝臓病のこと、肝のあるおかげで肝をつぶすというようなこともあるけれど、こればかりはとれなくてね、盲腸のようには。今夜は大層早寝いたします、何だかくたびれがあるの、くたびれが出ていると分るときは、すこし正気に立ち戻ったわけなのでしょう。土曜日ほんとに御免なさい、考えれば考えるほど、すまなかったと思います。 
三月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月三十日第十七信
覚えていらっしゃるかどうか、目白の方から上り屋敷の駅へぬける通りに大野屋という米屋があって、そこはこの辺の大地主の一家のやっている米やで、大変いばった米やなの。そこが配給所になったらいやだナと思っていたら、きのうかえりに通ったら大きい白い紙に謹告として、発展的閉店の余儀なきに至りとありました。うちの配給米屋は目白の消防署の裏です。一週間ごとに配給して来るそうです。一日二人で五合の割で、滞在客は十五日以上、もらえる由。冠婚葬祭には特配なしのよし。三度外食のひとも働きによって食糧がちがって切符制です。甲乙丙とあります。その点どこも同じになりましたね。何号の御飯という点で。
この大野や米やは大した金持故、きっと儲けがなくて人をつかうような方法をとるより一組合員となる方を選び、組合員と云っても、達ちゃんの自動車の組で、いろいろの事情が内にあるわけでしょう。でも、やはり一つの風景ではあります。
お手紙の店の消長のこと、私にはよく判っているつもりよ。本当によくわかっているつもりです。私が頭でだけわかって胸はバタバタしているというのでなくわかっていることは、いろいろの調子で十分おわかりでしょうと思って居ります。ですから、心理的に前のときとは大ちがいです。先のときは同じ状態でつづいている人達の方へとかく目をひかれがちな心理もありましたが、今はもっと自主的よ。自分としてしてゆく勉強も仕事の蓄積もわかっていると感じられます。一つには、不安でより合っても、何一つ互に力がないということがはっきりわかっていることもあり、めいめい自分で方策をたててゆくしかないということもわかっている故でもありますが。その点でもそれだけ移って来ているわけです。いろいろな推移の中にめいめいのうけようというものが又あるのね。そのこともつよくわかります。その性格的なものの中におのずと救いも亦あるのね。悲観といううけかたをしていないこと、おわかりになるでしょう?私が粘って考えているのは、この前手紙で云っていたでしょう?一番自分が傷をうけるにいいおしりを見つけるという点です。いずれどこかが無理なのは知れている以上、重点を明らかにして、そのためにはおしりに少しのやけどはしかたもないと思うわけです。益〃芸術家にとって貴重なものとなって来ている時間を一番重点的に充実させてゆくための方法を考えるわけです。 
 

 

四月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二日第十八信
三十一日のお手紙けさ。どうもありがとう。いろいろと。
ダラダラ・ラインというのは真に傑作で、ふき出しました。どんな用事もくいとめるのかもしれないとは、正に驚くべきものねえ。そんな堡塁があるとは知らなかったから、これからは大にそれによって、あらゆる用事をくいとめましょうか(!)でも、あなたも、こういう秀逸をおかきになるから大変大変うれしいわ。ユリのダラダラ・ラインも、あなたのユーモラスな表現を導き出すとは洒落(しゃれ)たものだと思います。
本のこと、おっしゃるとおりの注意いたしましょう。
それから家のこと。それも大体きょうでわかったわね。でも私にはまだ心持の抵抗があります。しかし、大局の見とおしから冷静に計量して、あなたのおっしゃる意味で気安くも考えて、きょう云っていたようにはこびましょう。あとへは佐藤さんたちが入るようにたのんで。おばあさんと赤坊とで今は二間でギューギュー故。そうすれば、私は時々来ることも出来るし、いろいろと棲みよいために手入れをしていたことも生きますから。但、まだ交渉はしないからどういうことになるかは分りませんが。
ほんとに書生並に暮していい私の気持と、いろんな条件がめんどうくさくくっついている現実とのバランスがむずかしくて、やっぱり具体的な可能はそう幾とおりもないのですね。私のいないとき来て、お恭ちゃんにさえあんなことを云うのですもの、名刺があるだろう見せてくれないかという調子ですからね。常識で判断は出来ないわ。家のこと、きまったことにしましょうね。
私としては、あなたがいろいろと雰囲気的な点を気におかけになって、いつかのように、お嬢さん的逆転というようなこと余り敏感に考えなければならないようではよくないと考えていました。その点にはっきりわかった上でなら気も休まります。でもいろいろの事情って面白いものね。現今の一般的な条件のよくなさが、却って或る意味ではあすこに住める、住んでもまあという条件となって来ているのは実に面白いと思います。だってどこだってお米はないのですもの。菓子はないのですもの。もみくしゃで歩くのですもの。
私は上にわれらの家を形成します。そこの掃除その他は、すっかり自分でやることにします。このベッドをおき、この机をおき、下の台をおき、例の茶ダンスを置き。柱にはこのボンボン時計をかけましょう。そして、自分の時間割にしたがってやりましょう。こまごましたものに時間をとられない代り一年の大体半分はまとまったものにかけながら、自分の仕事をためてゆきましょう。小説をかきましょう。それから一つの系統だった文芸評論も。(これは、あの婦人作家たちの勉強や十四年間からの収穫ですが、明治以来の作品について創作の方法の推移を辿って見たら、大変興味があろうと思います。開化期の渾沌にある二筋の傾向、福沢なんかの流れと、「安愚楽鍋」(魯文式のと)からずっと。これは大した仕事だけれど、やっぱりなかなか面白そうです。そして、かけ出しに出来る仕事でもないでしょう?いろいろ面白いわきっと、一時期ずつに区切ってしらべて行ったら。外国文学の方法の風土化の面もよく見て行ったら、ね。これは極めて巨大なプランですからぽちりぽちりとやって見ましょう。日本には評論の史的研究は久松潜一氏のものなどなくはないし土方定一がいつか一寸したもの出していたりしましたが、作品についての、そういう具体的な、作家の矛盾にまでふれての方法の研究はまだありません。日本に最初の仕事なのだけれど、これまた系統が立ちすぎて、なかなかの苦労というわけでしょう。評論風の仕事でやってみたいのは今そのプランと、荒木田麗子とかいう徳川時代の婦人歴史家の仕事についてのノート。これは手近で、案外『文芸』あたりにのるのかもしれません。徳川時代の女が和歌俳句の領野にかたまっていたとき、この細君一人、永い歴史ものをいくつもかいています。この夫人の旦那さんはものわかりがよかったのよ。大いにはげまして、方法も教えて(或は)テーマもヒントしてやったらしいのですから、夫婦としてもなかなかほめるべきです。この女のひとと、婦人の狂歌師――諷刺詩人が一人いてね、それもどういうのか知りたいの。何をどう川柳としてうたったかということについて。大変珍しいのですもの、女のそういうジャンルの人は。
小説は、筑摩の仕事まとめてからかかります。ほんとに骨格のしゃんとした、肉づけの厚くて動いている小説かきましょうねえ。
太郎が四月一日、きのうから学校よ。三百二十何人か新入学だそうです。五組にわけて、太郎は第三の組。今年から国民学校で八年です。きのうは、あれからカンガルーのブックエンドをお祝にもって行ってやりました。
おけさという開成山のばあさまが、太郎の入学祝いに田舎からわざわざ餅をついてかついで出て来ました。これはおじいさんのとき一郎爺(私は三郎爺としてかいている爺さん)というのがあって、その娘で、大した働きもので、今では富農です。気のからりとしたばあさんで、寿江子や太郎なんか私もろとも孫と思っているので、お祝に来たわけ。
そのばあさまは、私があなたのことや島田のこと話し、やっぱりあなたがおばあちゃん子だったこと話すので、お目にかからないのにそんな噂も知っているのよ。雪雄っていう六つの孫が御秘蔵でね、なーして(どうして)、こんげな(こんな)鬼みてよなばあさまにとっつくだ、というと、雪雄は、そいでもいいんだア、めんごくねえことねえ(かわいくないことない)って云ったと云って、トロトロになって云って居りました。そして、東京へ来るって云ったら、おら、どうすんだ、道ばたさばっかりいんのかアと歎いた由。なかなかおばあちゃん、恋々たらざるを得ないわけね。どうして大した殺し文句です。そういう気質って何だか面白いわね。お母さんがいつかこんなことお話しなさいました。誰か何か用があって、ついて来ちゃいけないってあなたに云ったら、その家の外まで来て、青葉しげれるの歌をくりかえしうたっていらしたって。母さん忘れることがお出来にならないのよ。御存じないでしょう?忘れてしまっていらっしゃるでしょう?雪雄の表現で、私はすぐその話を思い浮べました。それはきっとあなたも五つか六つの頃のことよ。この話は私の大の気に入りです。そういう風情のふかいエピソードは私にはないらしいわ。オダマヤチャン、ケムシイネぐらいのことで。オダマヤチャンとは自分のことですって。
『文芸』で評論募集をやりました。選者中島、窪川、小林。そして佳作になった二つのものは、いかにも今日らしいもので二十二歳のとんだおそるべき児も居ります。うつって来て居りますね。カルシュームが全然不足した赤坊です。募集の真の意味がもうなくなって来ているということは皆の一致した感じのようです。よい泉がないということより、ふき出るものの質の意味でね。在るということと表現されるということとのいきさつが決して「『敗北』の文学」のような一致をもち得ないわけになっているから。
あら、あら。きょうは又何たる豊年でしょう。考えて下すった通り一日午後のと二日朝のと二通到来。たしかにいい休日になりました。昨夜はたっぷりも眠ったし。余り風もないし。いい日らしいわ、きょうは。
くすりのこと、本当にそれはきいて居ります。神経の緊張をとくためには全く目に見えず偉大に作用しているようです。相当むしゃくしゃしたところもあるのだけれど、この程度でいるのは、くすりのおかげだろうと思います。
さて、一日の分。「牡丹のある家」と「樹々新緑」との間にある成長は、きわめて著しいものです。「くれない」以後、作者は数歩進みました。この頃のことは、単純に云えない進歩の段階です、というのはね、うまさが余りきわだって文章がひとりでに走って行っているような感銘で、批評に、職人的うまさについて注意が払われていることも全然はずれていないという心配があります。「素足の娘」のあたりからそういう一つの時期に入っていて、この作家が本当に文学のよい素質でそこをどう成長してゆくかということを考えさせ期待させます。今、やはりむずかしいところね。一応うまくなったというところにその時期の成長のモメントがかくされているのは、私自身のいろいろな仕事の、いろいろな段階についても同じです。たとえば、うまい、というのではないが、「新しい船出」について云っていて下さる点など、ね。
刻みということ、(文学の)面白いことね。この頃の世情の荒っぽさは刻みのこまかいものをまどろこしいとするのよ。だからうまくなった作家は立体的に刻みこんでゆかず、つい横に流れ出すのよ。そして、テーマもそのように扱われがちになる危険があります。
それから、私は大変深い興味で感じたことは、あなたは「広場」「おもかげ」を比較的完成したものとして内容も十分よみとって下さいました。そういう人もあったけれど(他に。そして美しい作品とした人も)なかには、あすこで語り切れなかったことを全然わからなくて、わからない、と云った批評家もありました。それも、外的条件にしばられた一つのことであるが、又、読む人が小説というものに対する気持も、お楽なのね。(マア、こんな風になって来たわ、ガタガタよ)
二日のお手紙で、感じたことをためておくのは面倒だからと仰云ることよくわかっています、それはもうそろそろ分っていい頃ではないの、もうやがて十年めよ、私たちの生活は。来年で十年よ。
作家としてリアリティーへの追究が生涯を通じたものだということは実にそうですね。私は重吉という人物は本当にそこに動く暖い人がいるように描き出したいと思います。今は少年の重吉から書きたいわ。そして、いつか手紙にかいた米の小説ね、その中で。私は一つの雄大なプランを考えているのよ。「海流」などでも一部そうだったのですが、ひろ子の家庭の社会的なありよう(形成)とその分化と、重吉の家庭とその分化と、もう一人店員である女の子の家庭とその分化とが、全く互にかかわりのなかった地域から源を発して、一つの大きい歴史のなかで結ばれて行くことについて、あの小説を書こうとしはじめたのですが、今はもうすこし深まり進んで、重吉の環境は、三代に亙る日本の米の物語の推移として書いて行こうと思うの。ひろ子の境遇は、都会における富の分布の反映として。だから、先のように無理に一つの本の中にはつめこまず、三冊ぐらいになって、一つの大きい交響楽が組立てられるわけなのですね。それだけの腰をすえて、ねっちり余念なくかからなければかききれず、「海流」のようにせき立った目前の輻輳になるのだわ。昨今の生活の事情を、そういう仕事の完成のためにあてることが出来たら、一つの大した収穫でなければなりません。「伸子」から後の発展、展開は複雑であって、余り歴史的で、片々たるものにはつくし切れないのね。しかし、あれから次の長いものをつなぐ踏石としては、「広場」、「おもかげ」、「乳房」、その他あって、筋は一筋貫いて居りますが。その点で私はたのしみがなくはないのよ。「おもかげ」にかかれている青年の死をめぐる一くさりも、もっともっと描きたいところです。いろいろいろいろ書きたいわ、ねえ。
夜着の裏が切れましたって?困ったわね。やはりカバーがないと駄目ですね、あの方はカバーなしでしょう?あれは丈夫な木綿でこしらえたのに。でも、夜具の裏が切れるなんて面白い、(面白くないとも云えるけれど、それだけ臥ていらっしゃると思えば、でも女はきらないから、そんな生活の力もっていないから)ね、手袋なしですむようになったら、あの大事なフカフカ手袋すぐかえして頂戴ね、大事、大事にしまっておきましょうよ。もうあんなのさかだちしたってないことよ。お恭ちゃんは、只今顔剃りに出かけています、おしゃれして、親類へ行くのよ。洋裁は七日迄春の休みです。十一月一杯で卒業よ。メン状くれる由。そしたら田舎でひとに教えられるとたのしみにして居ります。
周子さんがもうそろそろ来るころです。その話をかこうと思っていたら、こんなに二通も到着で、私は歓迎にいそがしくて、紙は一杯になってしまったわ。何とひどい風になって来たでしょう。東京の春は、これでいやね。女の人はちっとも美しくなれないわ、風に吹きまくられて。風が吹くと、ほんとに日本服の愚劣さを感じます、衣類が人間の肉体を守るのではなくて、衣類をまもるために女は体を折りかがめて苦しむのですもの。
では、マタアシタ(これは太郎が夕方友達とわかれるあいさつ。) 
四月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月三日(紙がこんなで御免なさい)
今は夜で、机の上のアネモネの花がつぼんだために花茎をぐっともたげたような形でかたまっています。
あちこち宿題の手紙をどっさり書いて、それから仕事をしようとしてその下準備にレオーノフの「スクタレーフスキイ教授」という小説をよみはじめ、いろいろ面白くてずっとよみつづけているのですが、よみながら私の気持は二重に働いていて、どうしてもねじまがりにくい方向へ自分の頸をねじまげようとしているようで、どうも駄目だ、何故だろうと考えているところです。その方向というのは林町なの。実に曲りにくい。おさえつけて納得させたつもりで、もうそっち向いているものとしておくのに、気がつくとこっち向いて、だってと云って坐っています。奇妙ねえ。実に奇妙ねえ。感情的になるまいとしているけれどももしかしたら、これは単なる感情ではないのではないかしら。ふっとそう思います。私はこれまでも何だかどうしてもそうは出来ないということを野暮に守ってそれに従って、いろいろな生活の刻み目を越して来ています。どうしてもそういう気になれない。これには何か私の天然的なそして、それが自然だというものがこもっているのではないかしら。この自然の抵抗に私として耳を傾けるべきものが、案外にあるのではないでしょうか。
この感じは、あなたにきいてもおわかりになり難いわね。どんなに肉体的な抵抗であるか。それは丁度抵抗しがたくひかれるものに抵抗することが全く出来にくいと同じ程度に困難です。こんなに何だか承知しない生きものが腹の中にいるのに、それを無視するというのが果して自然なのでしょうか。そうしてよいのでしょうか。全感覚が感覚として反対するというこの感じ。可怪(おか)しいわねえ。いろいろと計量して考えているのは、つまりは私の俗的賢明さであるのでしょうか。常識のみとおしにすぎなくて、この抵抗が私のより生粋な作家らしさ、愛(め)づべき魂ではないのかしら。
もうすっかりきまったことに自分でもしていて、気がつくと抵抗が生じています。本当に何かこのことのなかには無視してはいけないものが在るのではないでしょうか。
六日に五日づけのお手紙。ありがとう。
隆ちゃんやっぱり代筆?変ね。私のところへも代筆で来ましたので、早速手紙出しました。手紙はその人の字を見るからこそ心が安まるのだから、ハガキなり自分でかいてよこしなさい、と。あなたの方へそういうのをあげたら心配なさるでしょう、と云ってやったら、やっぱり来ていたの?病気でしょうか。私はこんなに思ったの。姉上様なんてかいてるのを見て、オイ姉上か俺にかかせろよ、なんていうのかと思ったのに。すこし心配ね。両方では。
それから、ダラダララインのこと。いくら私が傑作と称讚しても余り私を築城術の大家になさらないでね。マジノだってそう丈夫じゃなかったのよ、と云った本人は、だからダラダララインだって破れるのよというつもりだったのに、逆により堅きものときこえたというのは、何たることでしょうねえ、雄々しい良人をそんなにもおどかしたラインがあるとは!世の中のことは分らないもの也!性根を据えてよくよく体得のこと、については真面目にそう考えます。いろいろのこと考えます。この一年半ほどの仕事ぶりは、いろいろ欠点もあったけれども、それでもいくらか私がそうしたいと思っていた面で達成したこともあって、こまかいもの書いて永いものあとになってしまったようなところもあるけれど、その欠点ばかりでもないようです。
三日に書いた手紙のはじめのところでごとごと云っているような工合で、何とかなるまいかとまだ思案中よ。こんなに一般が暮していて勿論その外にあるというような暮しではないけれど、それでも何とも云えないからみついた空気があすこにあって、それを思うといやになるのよ。どんなものにかなってしまいそうで、そうならないために、こうしていて使う神経と又ちがったつかいかたして、その点ではあなたも何かユリが生ぬるいところにいる不安をおもちになるのだし。そういう過敏にされた良心の監視を自分が自分に絶えずもつようなのって、さっぱりしなくて、皮膚がつよくないようで、どうも気にそみませんね。同感でしょう?日々の空気の当り工合で人はいろいろになるようなところもあってね。小説をかいてゆく空気ってものもあるしね、と仰云ったことは全く当っているのよ。そういうこと考えないのなら恐らく私もこんなにとつおいつは致しますまい。こまこました接触が全然変ってしまう、そのことがいやで不安なのよ、ね。何だかじぶくるようで御免なさい。でもやっぱり云わずにいられないの。
中公の本、すっかり出来ているのを切ったり書き直したり貼りつけたり、経師屋稼業です。一番面倒くさいところを今日大体終り。『都』がきいたら、内容によってかまわないと云ったのですって。何が何だか分らない有様です。そうかと思うと、三木清、直、島木健作、青野、稲ちゃん、それぞれがと云われたり。同じところでも他の一部からは大いに不評だそうだとか。皆が自分の気持でうけとるから。
きょう、雨が降るね、と笑っていらしたこと、私もそう思ってすこし意外でした。でも、そうなのがあたり前なわけなのだし、そうでないのが妙なようなものです。でも、私の細君ぶりが大いに感動されているらしいのよ。人徳があるらしいの。えらいでしょう?ごくあたりまえの人の心もちというものはそういうようなところから動かされてゆくものであるという例ね。
周ちゃん、てっちゃんのお父さんの若かりし日を思い出し、この十年の複雑であったことを考えます、ときょう手紙をよこしました。そんなにおっちゃんに見えたんでしょうか。しきりに感服していました。そして虹ヶ浜のとききれいな方がいて、背中のあいた海水着着ていてうしろにまわっては見たと大笑いしていたわ。その人はお嫁に行きました、てっちゃんがそう云ったら、しばらくして田舎のものは男のひとと女のひとといると、すぐ結婚でもなさるものと思うて、と云ったら、いや結婚していたんですが、と云い、周ちゃんのそのときの顔つきに私は好意をもちました。そういう点ではすれていないのね。こういう環境って在るでしょう、娘二人いて、そういう職業で下らない奴等がうるさくて、それに対抗してゆくためにお上品ではやって行かれなくてヤガル言葉もつかうという風な。そんなところがあるのよ、ね。男と遊ぶ遊ぶっていうけれど、遊ばなけりゃお金にならないし、(女優のこと)そういう表現もつかいます。随分ひどいことを見ききしてはいるのよ。やっぱりよくないことはよくないわ。或るくずれも感じます。しかし自分ではくずれた暮しでやって行きたいとは思わず、堅気な安定を求め、工賃だけでもいいから定収入がほしいと云っています、結婚の対手もなかなかないのね。気質はいいのだから何とかまとまればいいと思います。お母さんのお手紙にあった人との話のことね、事実はあったのだろうと思われます、今もう自分で何とか考えきめたのねきっと。顔のきれいな人は得ですね、というような考えかたもそのままでしているらしいわ。何だかああいう女のひと面白い。変にまとまらない輪廓で、人柄はわるくなくて、案外堅気で、一寸そうでもないようだったりして。
きょう、大森の奥さん来て、かえりによったと云って涙こぼしていました。やっぱり一緒にやってゆく気がしなくなっているのね。時間とかその他の原因ではなくて、その人との合いかたが保てなくなって来たのね。まるでつっぱね(なした)る物云いで、と涙こぼしていて気の毒に感じました。たった一本の棒のようで結びかけてゆくいとぐちもないようなのらしいのね。勿論私は話されることをきいているだけですし、何の差出も出来ることではありませんが。奥さんは割合普通の気質のひとなのね。ふりかえってもくれない人のあとから自分だけついてゆく、ゆかねばならない、そういうのがやり切れなくなっているのよ。ふりかえりなんかすることはいらない、という素振りのひとにしろ、心は勿論かかわっているのですが、それをまともに生活として表現もしないし生かさないのね。気の毒です。ただ、やって行けないことが他に人的関係でもあってのことと思われたりしては事実そうでないのに互の不幸だから、そうでないことや何かこまごま分り合いたいのにとりつく何もない由。云うことはきまっている(自分として)、だからよく考えて来い、もうかえれ、ではやはり涙こぼれるのね。人と人とのことは本当に複雑だし、生きているし。
これは、タイプライタアの用紙を書簡箋に刷ったものらしくて紙はにじみませんけれど重いらしいわ。もう六枚で、一枚では行かないかもしれないことよ。
今夜からお恭ちゃんの春休み終って只今外出中。おけいこよ。私は一人。夕飯たべて、それから一休みのところをこうやって書いて居ります。
きょうも一寸おはなしした分割のプラン一寸一人相談して見て、すこし研究してそれで駄目そうだったらやっぱりきめてあったようにいたしましょう。
それはこのお手紙にあるとおり、心持のもちかた次第というところはそうですが。私の望ましいのは、もっと私の日常があたりまえの大人や子供の日常に平凡に入ってゆくことであって、たとえば周ちゃんにしろ、ここならあんなに安心して横坐りしてコンパクト出しておしろい鼻の頭へ叩きつけたりしているけれど、あっちでは全然ちがってしまいますしね。人がそういう風にちがってしまうのよ、それが、私の心持のもちかたにかかわりなくあらわれるのよ、私はそれが余りまざまざでいやなのですね。
何しろしかし、私のこの間の算術の示したサムはいかにもチビですからね。余程うまくゆく条件でなくては無理です。邦文タイピスト級とは大笑いね。同時にまことに厳粛な事実です。
寿江子の体、大してわるいのでもないでしょうが、今時候がよくなくて、私なんかもひどい御疲労よ。あれやこれやで。そして、そうつかれると薬が欲しいでしょう?そして、薬かわきになったり多忙をきわめます。
タイピスト級の宿題と薬補給のねがいとの間をあっちこっちして相当眠るのがおくれてしまうと云ったら、バカだなとおっしゃるでしょうね、きっと。けさなんかあれでふらふらだったのよ。寿江子は、ホラよく芝居に出るでしょう、お姫様がナギナタひきずったのが。一応ナギナタかいこむのは健気(けなげ)だけれど、つまりはひきずって、はたで見ていて私がジリジリするというのが落ちで、経済上の意味でも暮せないわ。
土曜日に周ちゃんを送って目白の駅の横で自働電話を森長さんのところへかけました。そして雨の中傘さしてやっぱりうれしい心持でかえって来るナと自分の心持を思いました。
今日の気持では何だか明日午後でもふらりと行きそうな調子です。ね、面白い心持です、懐の中から詩集が一寸その美しい角をのぞかせているのよ、でも、今は又仕事だからね、ひっこんでおいで、と猫の仔を抱いているように云ってきかせて、頭一寸たたいてしまっておくのよ。 
四月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十四日第十九信?
まあ、まあ、どうでしょう。十日も御無沙汰!それだのに私はきょうおやと何だかびっくりしたのよ、三日の手紙よんだよ、とおっしゃったから。あら、それから私は一つも書かなかったのかしら。と。書いていやしないことねえ。手帖出してみると、三日からあとはかいたしるしないわ。何とひどい御無沙汰でしょう。しかも御無沙汰どころか、毎日云わばめっぱりこで、一寸仕事の手がとまると、すぐいろいろ考えて、いくらかクタクタ気味だのに。そういう風になるのね。正気にかえりっぱなしではないのね。余震が相当なものね、こうしてみると。大変頭疲れた気がします、もう丁度一ヵ月経ちます。
さて、面白いようなおかしいような心持についての物語を一つおきかせいたしましょう。家のこと、私はなかなか心をきめないでしょう?ひどい愚図つきかたなのよ、ねえ。寸刻の休みなく愚図ついているのだから、疲れもしようというものです。昨夜、ひどい雨が宵のくち降って、十一時すぎにははれました。私はお恭ちゃんをつれて林町からかえって来ました。開成山のおけさというばあさま、(孫の口説かいたでしょう?あのばっぱちゃんよ)が急に夜行でかえるというのでね、もう年だからといそいで土産に下駄を気ばってやって、ザンザ降りの中を持って行ってやったの。一人ではさすがにいやで、二人づれで。
すっかり濡れた足袋をはいてかえって、ゆたんぷ入れていくらか暖めて眠りかけながら又候(またぞろ)あれこれ御思案中をやっていたらばね、私ったら狡いわねえ、ふっとこういうことを思いついたの。私たちの家としてここを愛着していて、動坂だって、といかにも腹にすえかねるところがあるわけなのですが、あれこれ思っているうちに、縁側のことを考えました。この家には二階には縁側がないし、下もぬれ縁だけなのよ。縁側というものは気のくつろぐもので、縁側に坐布団出して、庭というものでも眺めたらあなたも私もどんなにのびのびするでしょう。ふっとそういう光景を考えました。私たち縁側と云えば、動坂の家で徹夜した朝窓をあけて、外の空気を吸ったぐらいのことだから、これは大変新鮮な空想なの。あなたと縁側とのつながりは。
そんなこと想っていたら、いいや、いいやと思う気持が湧いて来ました、そのときはそのときで、私は縁側のある家を見つけよう、と。そのとき、さっぱりとした縁側のある家を見つけるための根気のいい準備だと思えば、いいや、ということにしてしまおう、と、そういう狡い自分への云いなだめの口実をつかまえた次第です。勿論私の他の考える力は、そんなことではくらまされないから、何だかニヤリといやに笑ってまあ、そんな風に思って見るのも今のところわるくあるまい、と構えているという塩梅です。そんな声、こんな声。なかなか頭の中に休暇日なしです。ああいう条件、こういう条件、何か自分が一つでも気の向くような条件とさがします。
ほかに其々人のいる中での生活も、今の時期になると、或は私にいいかもしれないと。何故なら、私はずーっと自分一人の形で暮していて、お客か、さもなければ、お久さんだのお恭ちゃんだので、たった一人のひとに向って私が自分を投げかけてゆく以外はいやに私の輪廓はくっきりなのよ。そういうことは心理的に何というか事理明白すぎて、小説をかいたりしてゆく気持にとって、必ずしも最上と云えない、このことは割合心づいていたのです。そういう点から時々、チビ坊に侵入されたり、小さい女の子の手で顔をひっかかれたり愚痴をきいたりするのもいいかもしれません。
私は、随分気を張って(それはそうよ、こわいときは一番私がこわいのを辛棒しなけりゃならないから)いたのだから、ここいらでこわいときはギャーギャー云えば来て呉れるもののいるところで、暮すのもいいのでしょう。余り女丈夫になりでもしたら、あなたにすみませんから。私は益〃瑞々しくなければならないのですもの。そうでしょう?待って居りました、と、石のようなものが出たらお弱りになるでしょう?それでは全くあわれ無惨となりますからね。
こんな思いを、しずのおだまきの如くくりかえしくりかえしたる揚句にきめるのですから、あっちの暮しで、ユリがお嬢様還元をやるだろうということからの危惧は、本当になさらないで下さい。自分としてこんな気持で動くのに、あなたが元と同じにその点お気づかいになって、いつも自分に対して何か心配していなければならないとしたら、本当に生活は却って不健全になると思います。仰云るように、私は二階がりのつもりでね、一生懸命にすることをやりましょう、それでさえいろんなこまかいことはすっかり違ってしまうのです、私はそれがどんなにいやでしょう。第一あの玄関へ私を訪ねて来る人の心持は、ここの玄関へ来たときのその人の心持とはもうちがうのです。ここの家へ来ると、そのひとが自分の親切は小さいことでもここでは役に立つのだと知る、そういうそのひとの善意が自然に流露することさえ変ります、こんな家にいるなら、自分の思っているこんなことと、よい意味で謙遜したって、そういうことになってしまう。いやね。それを思うと、又、黒煙濛々(もうもう)です。
でもまあ、度胸をきめましょう。辛さにもいろいろあるというわけをよく知ってね。一方のいやさをなくしようとして、もっと本質的な、時間の経過によって消されない生活の結実を喪っては大変だという考えからだけ、どうやらやっと肚(はら)をきめるのね。こんなに骨を折ったことは、近年にないことだと思います。
でも、もしかしたら大局的にそういうきまりのついた方が、あなたとして御安心なところもあるかもしれないとも思えます。それもそうだ、というところもあるでしょう?生活の複雑さ、微妙さ。ね。いい方法というものが発見されてゆく上の柔軟さを大切ということはよくわかってはいるのですけれども。
勇気をふるって、よく精励して、居たくないところにいる人間の気むずかしさなどは持つまい決心です。それこそ大負けですからね。ユリがもし精神の活溌さからの明るさを持っているとするなら、それは益〃雲ふかき間を射し貫くものとならなければならないわけでありましょう。(と、自分に申しきかす)
今年の桜は、咲くが早いか雨に遭いましたが、花吹雪はなかなか風情があります、いろいろの思いの上に吹き散ります。
ロマン・ロランの脚本で二十五年間持ちこしたのがあるそうです、「獅子座の流星群」その他。ねえ。チェルヌイシェフスキーだって、ね。あれは二十年。この間、丸の内を歩いていて、ああ成程、と感服したことがあります、地理に関することでね、ずーっと以前、そうやって、二人で鉄砲うちにも出かけたり出来るなら、と笑った、人たちの生活の舞台ね、ああいう広大さがないところでは、形も変って、その土地で、そこで、そのままで、しかし同じような効果を生み出す、方法もあるのねえ。ああそうか、と大いに合点をして、そうだと分ればそのようにも致しましょうと、思ったわけでした。平面、立体というのを女学校の幾何のとき少し習わりましたけれど、立体的というのもいろいろ様々ね。ですから私は大いに立体的小説をかこうというわけです。
そう云えば、もうきっとあなたはピーピーでいらっしゃるでしょうね、ごく近日のうちにお送りいたします。
やっとこすっとこ、明日中に中公の手入れ終ります、決して見苦しい片輪ものではないだろうと骨折り甲斐もいくらかあります。まるで経師屋でした、あっち切ってこっちへはって。書きこんでは又貼って。この部分はどうせ全部くみかえですね。それでいいからというのだから、かまわないけれど。おしまいの「しかし明日へ」の「しかし」をとって、ただ「明日へ」とします、それでいいと思います。二つの章がとけこんで消えてしまいました。「渦潮」と「転轍」。枚数はまだ不明。かきこみの工合で見当がつきません。
重治さん一家は、保養に淡路島へ行ったそうです。暫くのことでしょう。通う千鳥のなく声は、の島です、どんなところでしょうね。
稲ちゃんは箱根。鶴さんは大変血を出しておどろいたら喉の真中がさけてそこから出たのだそうですが、佐藤先生の話によると、傷があるようだと、別の意味で真面目に考え、駆除しなければならないのだそうですが。いろんなことがあります。
ああ、お久さんが女の子をもちました。ばらさんというのは男の子よ、お恭ちゃんが桃色の布、水色の布でおくりものを縫いかけて居ります。そういえば、シーツおいりになるのでしょう?何とかいい丈夫なのがあればいいのにね。キャラコ忽ち?
では又明日に。暖かかったり寒かったりだから呉々お大切に。きょうはありがとうね、おっしゃったようにしたら口の中でとけるようでした、美味しく、美味しく。 
四月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十九日第二十信
こんにちは。ああきょうは何とのんびりでしょう。花を自分で久しぶりに買いに出て、何となく柔かな春の花が机の上にふさふさとしていて。クロッカースというのは何にも大した花ではないし、やすい花ですが、こうして様々の濃淡であるのは美しいわ。そちらのヒヤシンスよく匂いましたろうか。
きのうはね、あれから家へかえったら、仕事手つだってくれている娘さん来ていて、夕方お恭は留守になるし(金、稽古)私は云わば足かけ三年ぶりの仕事終ったのだし、実にのーのーしたくて、六時ごろ出かけて、日比谷の新緑見物いたしました。すこしおそすぎて、もう若葉にさす夕方の斜光の美しさはなかったけれど、芽立った樹々の重りの奥ふかい軟かさ、色調の変化の素晴らしさ。日比谷も全く見ちがえます。この公園は私たちの生活にどうもなじみふかいのよ。先は、接見許可をとりに行ってかえりにはすこし樹の下を歩くのが習慣でしたし、いつか冬の晩、父の命日の会食のかえりに雪見を寿江子としたり。新緑の日比谷は、日頃ここに手入れしている人をありがたいと思います。
それから、一寸夕飯をたべて、咲枝の誕生日のおくりものに、やすくて可愛いタバコ入れを買って(のむのよ)新橋からのって、早くかえって早くねむりました。そんなにして、羽根をのしつつ、懐の中にひそめた一巻の詩集は、しっとりとした重さで私が見るものやきくものを共感しているというわけです。きのうはね、陽光のかげんで、むき出しにした若い女のひとたちの腕や脚が、新鮮な桃色の絵の具で艷々描かれたように見えて、描きたい衝動を感じました。新しい緑と桃色みたいなそういう人体の美しさを、それなりの自然の品のよさで画面にとりいれたら素敵ね。そういう人なかなかなし。
新緑に感じる私の恍惚は一年の絶頂ね。秋もいいにちがいないけれど、新緑の美しさは夢中にさせるところがあります、そして、日比谷を歩きながら考えてね、新緑を見たいというとあっちこっち田舎を考えるけれど、足まめなら東京のいろんなところに新緑が見られるのだから、と。冬の雪、今ごろの新緑。リズムがあって、それで面白いのね。風景に。
さて、十四日と十六日のお手紙。二つ並べて、私は、さてさてどうしても封緘を見つけなければ、と思います、ハガキだと、おそらくこの四分の一よ、ねえ。それはあんまりと申すものでしょう、ねえ。
十四日のお手紙の大森のひとのこと。ここに云われている点は十分よくわかります。積極に肯定する意味での尤もというところは云わば一つもないでしょうと思います。初めの出発が継続されなくなったということに、プラスは一つもないのは明らかね。その人にしろそれを知らないのではないのです、知っているのよ。でも、人間がある場合、正当である、という判断でだけ一人の人と共に万端やっては行けないこともよくわかりますしね。木や棒のようなひとは、私たちの生活でさえ、頭脳的なもので支えられていると解釈したり、その他もろもろの筋だけで理解しようとしたりする貧弱さですからね。人間生活についてのそういう粗朴さ、一般になかなか在ります。そして、そこから様々の行きちがいをも生じるのね。余り単純にしか心のニュアンスがないと、その一つのものにいろいろの感情を統一させてゆくだけの生活実力がなくて、却って、それとこれ、それとあれ、という風にバラバラに扱って、始末に負えないことにしてしまうのねえ。よられた糸のようであるからこそ、一つとなって切れないという生活相への叡智がかけると、たくさんの困ったことが出来ます。人の味は大切ね、最も高い内容において益〃大切です。味がどうであるかということが、とりもなおさず現実には善意の内容、表現と思考の素質ということになるのだから。そういう意味では、作品の味いと同じことですね。
隆治さんへ本を送ること承知いたしました。お金にしてやることも。
早起のこと。ニヤリとしてしまいました。これも一つ久しぶりに知りたいものだね、なんて、気味のわるい。
この間うち、寝坊と顔にかいてあったのは、夜をやたらに更かしているのではなくて、いいかげんに床に入ってもなかなかあれこれと頭の方が眠らなかったからのことです。くたびれた顔していたのでしょう?でもね、その位のことはありますでしょう、何と云ったって。
家のこと、きのうも云っていらしたように、いろいろの点わかりますが、私はやっぱりなおなお考えているのよ。たとえば十六日のお手紙に云われている、作品の生活的確実さと作家の生活というものについて、やっぱり私は、目下大体きまった方針を、いいとはどうしても思えません。現実にピラピラがつくのがいやということは、やっぱり私のかんのまともさであると信じます、決して決して庶民的[自注4]なんかではないわ。間借人的労苦というものが、それなりには出ないで、自分に向っても庶民的なものに向ってのロマンティシズムみたいなものがついてまわって、私がものわかりのわるい犢(こうし)のように尻をおとしてひっぱられながら抵抗しているのは、実にそこのところです。
やっぱり林町向きとは反対の方向にあるのも自然らしいと思って居ります。ここの家賃なんか、今のアパート一室代ですものね、六畳三畳で少くとも30以上なのよ、今のアパートというものは、大したちがいでしょう?もととは。私はやっぱりもうすこし共同的な方法について考えて見るつもりです。
ないならないなかから、いろいろましな文化もうけいれ知ることも知って伸び育って行こうとする積極さ、美しさ、虚飾ない熱心さ、それを欲します。
あの中公からの本の終りにね、こういうことを書きました。私たちは自分たちの獲ていないものについて、どういう見かたをもつかということこそ大切であると。女性が文学の仕事に従うなんて、獲ていないことへの目ざめ以外にモティーブはないのですものね。
協力出版という本やの内容、大体まとまりそうです、きのうあらまししらべたところでは。月曜日の午後にでも来て貰って相談いたしましょう。三百枚以上(原稿で)わたせましょうから大した貧弱さでもないわね。それから、筑摩書房のにとりかかります。五月一杯に原稿をわたすという予定で六月初旬になるでしょうね。少くともその仕事が終る迄は、このままにして居ります(林町で引越したがって家さがしたりしていますし。もし万一、もっと直(チョク)にくらせる場所へ行けたら、或は私にとっても大仕合わせね)しかし、うっかりは動けないでしょう、とりつけの店がないとあれに困る、これに困る、でね。

[自注4]庶民的――人民や労働者という正確な言葉をつかうと検閲が思想問題を扱っているとして禁止の可能性があるので、わざと漠然とした用語をえらんだ。 
四月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十六日第二十一信
オハガキアリガトウ。こういう字でお礼をかくような気分ね。何とペラっとしているでしょう、一枚の葉書というものは。何度裏から表へひっくるかえして見ても、やっぱりこれっきりよ、いやねえ。そして、私は恐慌を来します。こうしてハガキが四分の一になると、私の方は妙な逆作用が起って、何だか四倍書かなくては気のすまないような猛然たる心情となります。ハガキではあなたも何となし坐りにくいような御様子に見えます。益〃この家はかわれないわ。四年の間郵便局へはひどいときには一日三四度用事がありますから、そのおかげで、やっと、来月は何枚か封緘をわけてもらいます。実感でわかるように、とおっしゃったこと、大意地わるです。
いろいろなものがなくなったが、こういうものもなくなるのね。ダラダララインは一撃のもとに破れますね、こういうことに及ぶと。
「北京の子供」は、よんで居りませんけれど、この間包む前パラパラとくって見て、そう思いました。小父さんというような情愛があるでしょう?いかにも小父さんぽい味ですね。
お恭ちゃんの洋裁は大助りよ。お久さんの娘は千鶴(ちづる)というの。私のすぐ下に千鶴子(ちづこ)というのが生れて、その子は札幌で生れ、へその緒を産婆がランプの芯切りばさみで切って(!)それを知らずにいて、すぐ死んでしまいました。その産婆は営業停止になったそうですが、お久さんの娘が、わざわざ田舎へかえって生んだりしてやはりおへその扱いが完全でなくて大変わるくて、やっとこの頃よくなったそうです。名は同じだし、お久さん元来丈夫でない体だから、私はヤイヤイ云ってお恭ちゃんに番をとって貰って(パンから卵からすべてバンをとるのよ、そしておあいそをよくするのよ)木曜日に女子大の幼児の健康相談へ来させました。いろいろ有益だったそうで、来週又来ます。ここへは、何人かの子供づれの友達たちが皆ゆくので、お久さんは計らず久闊を叙すのよ。面白いでしょう?そして、うちは赤坊だらけになるの。その娘のためにお恭ちゃんは可愛い女の子の服縫いましたし、あの看護婦だったバラさんの男の子のために今水色の布で肩へ一寸かけるケープぬっていて、なかなかいいお祝が出来ます。何しろ今はぞっくり子供で、賑やかねえ。私はきょうあなたが赤坊のこと云って大笑いしていらっしゃるお顔みて、あなたの膝で赤坊がギャアギャアわめいてあなたを閉口させたらどんなに面白いだろうと思いました。でもあなたは余りちょくちょく自分で抱いたりなさらない方(ホウとよむのよ)かもしれないわね。どうかしら。私と赤坊とは思うにまかせぬ仲なの。私が丸いでしょう?赤坊も丸いでしょう?丸いものと丸いものとは何だか工合がむずかしいのよ。だっこしてやると。
林町の風呂がこわれたというので、昨日は泰子を入浴のため珍しく親子三人で出かけて来て、お湯に入り、夜までいてかえりました。泰子すこしはましになりました。然し、まだ脚がくにゃくにゃ。体がよわくて頭がおくれたというより、頭がよわくて体おくれているのだそうです。本当に一年経ったというよその子を見るとびっくりします。そして咲枝の悲観するのも尤もと思われます。マアこの子はこの子なりでいいのだわ。
きょうは実にふき出して且ついくらかバカらしくなったことがあります。万里閣って本や、ね、あすこの人が来て、婦人のために八巻からなる講座を出すのですって。そして、私に監輯として名をかしてもらい一講座担当して貰いたき由。執筆者の中には昨今高名を轟かして居られるところの情報局鈴木庫吉中佐殿その他があります。その任にあらずと申さざるを得ない次第でしょう。この頃の本屋は、先生と云って呼ぶ対手なら、と常識もそなえていないのねえ。女性のための講座だからとしきりにいうの。全くおもろしい。おもしろい以上。そのくせ、このごろの出版やはものを知らないと盛に云っているのです。
そのお客の前には私の国文学の先生、たまにお話しいたしましょう?あの方が源氏物語の研究的な本を脱稿されてその話。
その又前は、市場で一生ケン命封緘を貰うことをたのんでいて、丸善に電話かけてあの本まだ来ていないということをききました。
その又前は銀座にいて、これもたまにお話する古田中という母のたった一人の女の従妹のひとのお見舞の品を、風に吹きまくられつつさがし、何にも当にしていたのがなくて到頭ねまきの下に重ねるゆかた買って、それが案外たかくて、ペチャリの財布になりました。もう三年以上床についていて、糖尿の悪化したところへこの間腎臓を患って、今月中には行くと云って約束してあるのよ。お察し下さい。今月あと何日あるのか。
その又前は、大層ないじわるのところにいてね、そのひとは、ニヤリとしながら、ハガキの味を私がまずいまずいと云うのを可笑しがっていました。
この間本の中へ入れようとして外国からの手紙見つけ、つまりはどこかへ行ってしまっていて分らなかったのですが、日記が(小さいときからの)出て、いろいろおもしろく、やはり又日記がつけたいわ。もう何年も何年もつけません。
たくさん、こまかく生活の話をするようになって、つまりそれが日記みたいになってしまうのでもあるけれど、でもやっぱりおのずとちがうところもあって。日記をかく生活ということについてもいろいろ感想が湧きます。ねえ。
そう云えばね、角の印判屋ね、あすこなくなりました。この間通ってオヤと思い、きょう大きい眼玉で見たら。きっと店が立ちゆかなくなったのね。よく電車で通って、斜(はす)かいにチラリと見るのですが、もうあのお婆さんも住んでいないのかもしれません。二階はあいていて、ちょっとしたものが干したりしてあるわ。
島田では、どの名になさいましたろう。光雄は、ミもツもつまる音でしょう?ミヤがそうですから、音のひろがりがなくて、ミヤモトミツヲは窮屈と思うの。治雄がいいのかもしれません。
お話するの忘れたけれど、台所の大きい膳棚の奥に小部屋がありましたろう?あすこを手入れしたら小じんまりとした四畳半が出来たのですって。赤ちゃんは二階で生んで、すこしたったら若い一組は赤坊つれて、そっちへ居間をうつすのですって。それは大変いいと思います、今に小さいのがふえれば、逆にお母さんがあすこへうるさいときお引こみになれるから。冬はいいでしょうが、夏暑いかしら。うしろが丁度今まで俵つんであったところですから。でも、もうそっちは何にもないのならぬいて風通しをおつけになりでもしたかしら。隆治さんかえって来て二階にいられていいことね。私が行っても助ります。
初端午に何あげましょう。何がいいかしら。あなたは鯉のぼり持っていらしたこと?きっとおさとのお母さんがうぶぎと鯉のぼりはお祝いになるのでしょうから、私たち何にしましょうか。あすこは余り床の間が淋しいから何か端午の幅を私たちからあげましょう。林町で一寸した飾りを送ると云っていたから。
今に女の子が生れたら、可愛い桃の花を描いたかけものをやりましょうね。私は仰々しいのは真平だけれど、そうやって、小さい男の子や女の子の伸びゆく姿へのgoodwishesを大人が示してやるというのは非常にすきです。大きくなってからやはりその子はゆたかよ。思い出が。尤も、私はおひな様なんか知らないのだけれど。
子供と云えば犀星が今月「蝶」という小説をかいて居ります。十七八の娘とその友達の五人の娘たちの中に一人死んだ子があって、それを中心にかいているのですが、ああいう境遇で成りあがって、娘の友達でも八百善(江戸時代から日本屈指の料理屋よ)の娘だけはそう小説の中にかいて、軽井沢へ持って来た米がちがうなんかということかいたり、不自由なく育つ娘を、わきから感歎したり珍しがったりいくらか卑屈になったりして見ている父親の気持、それこそ犀星このんで描く脂のきついものだのに、蝶のような娘たちのスカートというような、どうももってまわったものです。親父えらい目を見て、四十五十になって庭のどうこうという生活に入り娘はその条件の上での交友があって、それを親父がたんのうして眺めている、芸者のおふくろとちがうようで実は似た心理。ひどく感じにうたれました。別の小説が一つかけるのですもの。志賀直哉が前月「早春の旅」という随筆のような小説で、直吉という息子への心持かいているのが、全くちがって。舟橋聖一のヒューマニズムの納骨所としての親子の絆の肯定ぶりだの、なかなかこの芸術にあらわれる親子の面は意味深長ね。
本当に犀星のこの蝶はそのものとして一つの社会因果を示していて小説になります。娘は無邪気なのよ。至極。
太郎は学校に行くようになってから、大人らしいのが大好きで面白いわ。昨日も親たちこっちへ来るのに、自分は裏の家のひとが子供づれでどこかへゆく(植物園)について行って(同級生がいるものだから)僕フロなんかよりいいや、とそっちへ行ったのですって。
協力から本出るのかしら。どういう題がいいか、まだはっきりしません。パラリと楽にくんで楽な本にして貰いましょう。
それからね、この頃おもしろい心持があります、私はきっとBookレビューをあきてしまったのね。それとも、余り「婦人と文学」が資料的なものだったせいか、もう書評だの読書案内風のもの迚も手が出ません。ひとがもう一旦書いたものについて書く、ということはいっぱいなの、もう。即ち小説そのほか生活からじかに書きたいのです。
そしてね、この欲望はやっぱり林町へは背中を向けさせるのよ。私の仔豚の鼻面が、そっちの匂いは気にくわんとこっちを向くのです。実に強情ねえ。笑い出してしまいます。そして、その強情さは何と自然で可愛くもあるでしょう。皮膚がものをいうのでね。
まだこの手紙にははっきりかけませんけれど、私にはたたいてもこっち向くその薄桃色の鼻面が改めて自分にいとしく思われるし、やっぱりどっちへどうするかということで先の十年は大した相異をもつことを痛感しはじめています。積極な生きてゆく態度というものの微妙な複雑さを思います。私が正しい人間であり作家であり、しかもそのままいつしか用に立たないものとなることもあり得るのですもの。いつかあなたが、(もう何年か前の夏ごろ)ちゃんとしているということと女史になるということとのちがいを云っていらしたようなものでね。ちゃんとした作家だということは生活の構えによらないのでね、構えを破るよりたかき構えというものがあるわけでしょう。ここに、まだ自分にはっきりつかめてはいないけれど、大変面白そうな何かの示唆(より芸術家に、と。)が感じられて居ります。ここをいまつかまえてはなさずいるわけです。こねくりながら。
シーツほんとにやぶけね。 
五月六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月四日第二十二信
こちらでどうやら封緘を買えたら、やはりそちらにも出来ましたね。
お恭ちゃんのことについての速達ありがとうございました。おっしゃることもちろんよくわかりますし、そのようにしましょう。
きょう、私がついて保生園へ行って結果をきいたところ、キンが出ているそうですし、(左の方)前からのもので、キキョーをするのに空気が入るかどうかということでした。去年四月にとったというレントゲンの写真を見せてほしいということでした。
けさ、お恭ちゃんあてに手紙いただいて、本当にありがたいとよろこんで居ります。工合によってはうちで(目白で)気をつけて癒して行けたらいいと思っていたのですが、村山のお医者の話では、やはりかえった方がよいとのことですし、相当の期間安静にしているのならやはりここでは駄目ですから。皆がよく心つけて心配してくれて、はげましてくれるから、その点では気持も助って居るようです。
速達でお心づきの点、大丈夫よ。まさか私がそういう風にする女でもないわけでしょう。うちでの仕事は、普通のところから見たら半分にも足りない働きです。それでさえ、工合をわるくしたということは、お恭ちゃんの可哀想なところね。いろいろの点から淋しい心でなくかえるようにしてやりましょう。
私がいくらか変なやりかただとお話ししたのはね、お恭ちゃん自身のことではないのよ。兄というひとがその専門で、ジャーナリスティックには派手にいろんなこと話しているのに、妹の体の現実については、神経のこともこのことも全然だまっていて、私にきびしくしつけて下さいなどとたのむところ、科学者らしくなくていやだ、というだけ。
お恭ちゃんは云わば自分で自分のことをよく分っていないのですから、可哀想に思ってやらなくてはならないのです。
思いがけないことで、ここへ来たと思って、きょうは青葉の嵐を電車の中から眺めました。東村山でおりて、三十分ほど歩くのですが、きょうはあの雨で、しかもお医者予約してあったので、いいあんばいにハイヤーがあって(保生園のため)往復ともそれで濡らさずにすみました。いろいろの結果は、封をした封筒に入れたものに書いてくれて、それを兄さんの方へ送りました。そのお医者さんは私や本人が見たってろくなことはないと思ったのでしょうね。
十坪住宅は今誰も住んでいないそうです。つつじの赤く咲いている丘を歩きながらそんなことも訊きました。目白から電車だけ小一時間ね。
私は協力出版というのに渡した原稿ののこりの部分の整理で今忙しいところ。又題に困ってね、割合楽なものだし範囲のひろいものだし「私たちの生活」としようと思います、わるくないでしょう?そして、藤川さんに表紙を描いて貰って女のひとが何かしながらひょいとこっちへ顔を向けて今にも物を云いかけそうな、そういう表紙をかいて貰おうと思います。
題と云えば、只今島田からお手紙でね、坊主の名ね、正輝にしようとしたが、すこしむずかしいようだというので、二人の若い親が相談して輝(あきら)としたのだそうです。それで届けたそうです。宮本輝というわけね。まあ、いいのでしょう、その小さい男の子の顔をみたらきっとあきららしい気がして来るわけでしょう。輝がアキラとよめるとは漢字の魔法ね。些か魔法すぎる傾もある位ですが。でもあの二人は一字名が何となしすき、というところ面白いことね。勝という字も、やはり一つだし。親の気に入ったのが一番いいと、あなたも呉々云っておよこしになっているからとありました。
お産は大層安産でした由。よかったわねえ。一時間で生れ、お乳もたっぷりたっぷりですって。これこそ全く何よりです。この頃人工栄養でなくてはならなかったらもうやり切れません。ものがないのだもの。お母さんが来て世話していられるそうです。お母さんが、あなたのお手紙を見て(玖珂の、よ)大変よろこんでいられましたそうです。お母さん一荷をおろしたとおっしゃっているのは全く御同感ね。多賀ちゃんや冨美子お祝いに来たそうです。きっと冨美子は赤ちゃん珍しくて可愛いと思ったでしょうね。あのは子供に大人望があるのよ。
あしたは五月五日で、そろそろ送ったお祝がつくでしょうから二階の床の間に、初端午の兜の飾物が燦(かがや)くわけでしょう。かけものなんかでなくて賑やかで子供らしくてよかったわ。
この頃は余り鯉のぼりはありませんが、それでもたまには若葉の間にひるがえっているし、そちらへゆく途中、いつも往来から迄子供たちの万年床の見えているひどいおかみさんのうちがあってそこを通ったら、珍しくも畳から床があげられて、掃かれて、そこに二つ、赤い布をしいてガラス箱入りの人形が飾ってありました。
太郎の鯉のぼりは風にへんぽんと舞っていることでしょう。
二十九日にね、かきかけの手紙があるのよ。それは、お客で中断されたというばかりでなく、むずかしくて、今よみかえし、やっぱりこういうテーマというものは何と捉えがたく、云いあらわすにむずかしいだろうと感歎いたします。
夢が本当のようにまざまざとそこに坐っていらっしゃる絣(かすり)の膝だの、そのわきに仰向いて高く二つの手をのばして、重い頭をその手の間に感じ、響きのような訴えを心に感じているままさめて行って、そうでない朝の中に出てゆく心持は、何と独特でしょう。
あなたにもおそらくは、こういう明方の訪れることもあるでしょうねえ。昔の歌よみは夢の通い路というような表現をもっていたけれど、それはそんな限られた幅の上でのゆきかいではないと思えるのよ。そんなことみんなかきたくて、書きかけて、どうも下手にしかかけなくて。
余韻の中にゆられていて、ひるから迄も私はいつもの心もちでなくて、涙がこぼれるようなのに、書けないの、可笑しいでしょう?こういう情緒を表現する方法はつまりは二つしかないものなのね。一つは極めてリアルに決して体にわるいことのぞんでいるのではないわ、ただただ、と願っているその心の叫びのあらわれのまま描くか、さもなければ、抒情小曲として表現するしかないのね。でも、私は詩だって散文でかくたちでしょう?小説でかくしかないのでしょうか。
生活って面白いのね、名をつけるとか、病人が出るとか、二人ともいそがしくて詩集ふところのままおちおちしなくて、そして、生活のそういう間にあらわれて再び生活のなかに消えてゆく詩も持ったりして。
芸術の中に生かされなければ、そういう生活の花のようなものは遂にどこにも跡をとどめないでしまうということを考えると、びっくりするようね。書く。そうすると、それは在る。書かない、そうならそれは在ったという跡もとどめない。このちがい何と僅かのようで決定的でしょう、人生にはどっさり不思議なことがあります、それの一つね。生き過ぎるという人間の生活を考えると、何とおどろくでしょう。刻々とその人の人生はすぎつつある。でも、それは関係のなかでだけ実在しているというような人生。自分の生きて居るということの次第をはっきりと我ものとしたいという人間の欲望を、芸術がうけもっているというのは面白いことですね。
芸術と云えば、重治さんのところの卯女が一本田へ行って川を見て、すばらしい川だと云ったとハガキよこしました。親の言葉がこんなにそのままうつるのよ。大笑いで気味がわるいわ、ねえ。三つの女の子なのよ、やっと足かけ。
北海道のおかあさんの次の息子がやっとお嫁さんをきまりました。その嫁さんをむかえにかえっていて、今につれて来るでしょう、あの母と息子はこういう風に気質がちがうのよ、たとえば嫁さんもらうと、母さんの方は、はア若いものが何かのとき世話になるだもの、皆さんにおちかづきになって貰えというと、息子の方は、きまりわるいよ、田舎なんかからぽっと出た女房。万事そういうちがいがあるの。お嫁さんが来るときっとそういう問答が行われるでしょう、と栄さんと話して居ります。何かいいお祝いを考えましょう。
明日はてっちゃん。火曜に午後。風が吹いていやね。
きょうはくたびれて何となくほーとして居ります。では。 
五月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月八日夜第二十三信
今九時すこし前で、私はおどろの髪をふり乱してこれを書いて居ります、そうかくと可怖(こわ)いでしょう?髪を洗ったのさっき。そしてそれがかわく迄これを書こうというわけです。干いたらすぐねてしまうのよ、きょうは。
さて、お恭ちゃんも今ごろはさぞムニャムニャ云ってうちでねていることでしょう。
すこし様子を申上げるとね、月末から咳をしていて、佐藤さんに診て頂いた方がいいなどと云っていたところ、二日の日に(金)貰った映画の切符があって、佐藤さんのおばあちゃんをつれて一緒に行きました。そしてかえりに送って行ったら丁度在宅で咳が変だし顔つきが変というのでとっつらまえていやがるのを見てくれたのだそうです。そして、左にラッセルが相当ある由。
翌日、いそがしいのにトゥベルクリンをやったりいろいろしてくれて、三日に東村山へ行って、又その次の日は私もついて行って、五日に仙台へ手紙を出したという順でした。ねあせかいたりしていたのに、私にかくしていたりして。今思えば、ちゃんとわかっていて、それで自分では見当をつけていたのね、だから私にいやがられたりしないうちに、きっとうちへ相談でもしてやろうとしていたのでしょう。そういうことにならずわかって実に私たちとしてようございましたね。心持がいいわ、ちゃんとわかって、するだけのことして。ねえ。黙ってかえって夜具なんか乾したぐらいで別の人がかけたらどうするのでしょう、キンが出ているのだそうだから。私は反応が陽でしたから大丈夫ですが。
日曜以来、すっかりタガをゆるめてしまっていたので、実にいろいろ気をもみ、本当にきょうは吻(ほ)っと、よ。昨夜は、切角いたのだからと寿江子も夕飯に一緒に近所からちょいとした支那料理をとって御馳走をしてやりました。そして、おっしゃっていた半分をもたせてやりました。ちょろりとどこかへおいてのこして行こうとするので、包みの中へ突こんでやりました。かえって御覧、あってよかったと思うのだから、と云って。
上野へは白田と云って従兄で、これも目下やっているのが送りに来ていて、すまなかったと云っていました。
さっきお話したようなわけで、何だか兄さん男を下げた気味ね。どうりで、恭子が工合がわるくなったら白田に云ってくれと云っていたのだわ、初めに。いろいろ兄さんとしては可能を知っていたわけですものね。神経系統の方はうちでは大丈夫だったのは見つけものですが、イジワルがいないから、それはよかったのね。気質も明るくなったと云われたそうでした。正月かえったときに。あの子とすれば全く可哀想です、体のよわいということは、気の毒としか云いようないのだから。でもね余り、特権をふりまわすから、その調子だと母さんにはもっとふりまわして結局体も心もろくになおらないといけないとお灸をやりました。食べものなんか気をつけて気が変ってたべられるようにとしてやるのに、口の先でクチャクチャやったりして。女の子って。
大体女のひとは病気を直すのが下手ですね。これを癒さなければ、というはっきりした目的がないのが多かったり(若いひとなんか)さもなければ、家庭で、目の先のことから気分をはなすことが出来なくてずるずるになったり。
多賀ちゃんのことを思い出します、大丈夫かしらと思って。迚も疲れやすい子でしたから。不思議なほど疲れていたわ。空気のいいところだからやれているのでしょうね。
きょうは、可笑しかったの、朝時間がなくて、大あわてで、帯をおタイコなんかにむすんでいるひまがなかったものだから、小さい帯しめて羽織着て出たら、まア、暑かったこと!夏なのね、セルを着ている人が何人かありました。フーフーになって、上野から林町へまわって、咲枝の帯をかりてしめて、そしてそちらへ行きました。
あなたはきょうお湯上りだったでしょうか?さもなければ着すぎていらしたのかしら。何かあつそうに見えました。熱なの?そうではないでしょう?てっちゃんはいつも元気そうでした、というから何にも当にはなりません。私は疑わしそうに、いつも、そうかしらと答えます。お大切に、ね。本当に大切に。
上り屋敷でおりてから(真直かえりました)お礼に佐藤さんのところへよったらば、赤坊がそりくりかえって泣いていて、お婆ちゃんが、もてあましているの、さち子さんおなかをわるくして二階に臥ているというので、上って見たら、その声もきこえず眠っている、下では行坊わめいているので、私は市場へ買物にまわる、そのついでに乳母車にのせてやろうと、おばアちゃんをすすめて車にのせてひき出してやったら、ハア、ハア?とふりかえって顔を見てすっかり泣きやみました、そこで上りやしきの駅の横で電車を見物させて、私は市場へまわり買物しようとしたら、きょうは肉なしデーでした。うちの肉屋も一ヵ月に四日休みます、玉子を買うハンコを押したりいろいろして、かえりに魚やへまわって夜のお菜を云いつけて、かえって、ヤレとおしりをおとしました。
夕飯の仕度をする間、どうにも髪を洗いたくて、たきつけて、ゆっくり食事して、さて又ゆっくり髪を洗い、体を洗い、あげくに風呂桶を洗って、さて、ここで一服というわけです。
今度はね、私はちょっとちがった心持で暮せそうなところもあります、一時一人がまるでいやで、今だっていやだけれど、何とかして寂しいのいやで、そうでなくしようとばかり焦立っていたように思われます、今度は何だか寂しくないわけに行かないのなら、どうしてそれをもっと自分のものとして自分にうけいれてしまわないのだろうと不図思ってね。何故うちの人の気なさにこだわってばかりいて、ほかのうちの中までこちらの気持ひろげて暮さないかと思ったら、何だかすこし心持が変化しひらいて、いくらかましのようです。これは少くともこの条件に立つ以上健全なものでしょう。私はね、子供らしいかもしれないけれども、自分がこうして、いろいろにちがって来る条件の中で、いろいろ暮しかたを学んで、段々いつもたっぷりした自分のあたり前の心でいられるようになりたいと願います。面白いことねえ、ある条件が自分にいや、どうかしてそうでないようにしようとする、いろいろ考える、しかしもっと本質のいやなのをうけまいとすると、第一のいやを受納しなくてはならないというの、私面白いと思います。だってね、私これ迄は大体小さい条件は、自分のいやと思うことは変えて来ていて、いやならかえるようにするという形での積極な動きを知っているだけでした。今はもっとそこが複雑になって来て、変えようとそのものをつっつくより、それから先へ何かをつくり出して行こうという――今の場合なんかそういう心持ね。「朝の風」の弱さは、寂しさなら寂しさというものをそれをつっつきまわして追いはらおうとしている範囲に作者がいたから、その感情が映っているのですね。あの作品についてあなたも書いて下さり、自分も申しましたが、何だかハハンと今、合点の行ったところがあります。
寂しかない、寂しくなんかあるものか、そういうのではなくてね、それを、もっと愛して、自分のうちにとってしまって、寂しいとはこういうものかとうち興じるような何かそんな生活の味。
そして、生活は又一層のニュアンスをふかめるのです。向日性というものは寂しいなんて思いをしたがらない、しようとしない、寂しそうになると大いそぎでそれをふき消そうとするアクティヴィティだけでは、浅くそして単純ね。その寂しさをそれなり透明な光で射とおしてしまうのが、寂しくてそして明るいという、そういう美があり得るわけです、こんな風にして、成人してゆくのねえ。今の心持が私には興味があります。
こうも思うのよ、誰が見たって自分で考えたって一応はそれが一番いい方法というその方法になかなか自分を従わせることが出来ないで、そして、こういう風に大きらいな一人暮しをもやっぱり自分のなかにとりこんでしまってゆくところ、そこにつまりは人間の面白いがんこさ即ち小説があるのではないか、と。人生におけるその作家の線のひねりかた面白いわねえ。実におもしろいわねえ。常識の判断でだけスラリヒラリと身をかえせたら、やっぱりそれだけのものだわ。なかなか味がある、という、どうもそういうところ迄わかりそうな気がして、たのしみのようです。動くとしても、もうすこし、この味をかみしめてからよ。六年ほど前上落合に一人いて、あのときも一生懸命暮して、「乳房」のような愛すべき作品をかいて居りましたが、あのときなんか、寂しさをやっぱり見たくないつらとして日々の中ににらんでいたわね、どうもそう思われます。私たちの生活は、いろいろのものを私たちに味わせていて、これだってその実に正統の愛子なわけだのに、と思って、私の明るさも陽気さの範囲であったかと思ったりいたします。陽気な人っていうのは、私は土台淋しいのきらいさ、と口やかましく賑やかに暮して、それは小説なんか書かない人だわ。こんな話、一寸ちがって風味がなさるでしょう?
あっちのうちで、かんを立てて、我ともなく自己肯定に陥っているよりは、この方が余程人間をましにすると信じます(今のところでは、よ)、細かいことでいろいろの心持を経験して。
きのう、送られて来た同人雑誌を見ていたら、六芸社から出た『文芸評論』の、芸術性の問題にふれているところ、内容とか形式とか二つに分けて芸術的感銘は語れない、その統一がいると云われているところを一つの発展としてとりあげているのをよみました、誰かの文芸評論の中で。
これは私を肯かせるのよ。何故なら、中公の『現代文学論』では六芸社の著者が、そこへともかく線をのばして描き出しているという文学史のステップを一つも見ていませんからね。あれはその点正当に云って落ちている点です、いきなり『芸術論』の著者の見解の未展開であったところだけに視点をあつめてものを云っていますから。何か感情的なところもある。文学史としてちゃんと眺めれば、その一つの前へのばされた線はよしんば短くあろうとも本質においてとばせません。
人間にかえるものがたりについて書いていらしたけれど、そればかりでなく、この点に私としては云いたいところがあって、それで書評はどの中へも入れなかったのよ。書評は好意をもってかいていて、それは勿論いいのですが、いろいろごたついたあと、そんなことへの全く私だけの心くばりがあってつとめてよく見たというところが、あとから見ると、文芸評論書評として不満になったわけです。
さあ、もう髪もすっかりかわきました。今夜は早くねるのよ。この間うち私はくたびれて、かえって眠り不足になっていたから。
中公の書き直した部分の校正が出はじめました。年表はまだ。火曜迄には、『私たちの生活』もすっかりあちらにわたせて、次のにかかれる頃でしょう。ではおやすみなさい。 
五月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月十六日第二十四信
ね、今ね、家じゅう屋鳴り震動という有様です。おかしいでしょう。けさね、派出婦さんが来たの。今掃除しているのですけれどね、この人は働く音響効果を大変愛好するらしいわ。実に笑えます、だって、ハタキにしろ箒にしろ、その道具が立てられる最大の音を出すのだもの。そして今はガラスを拭いているのよ。ガタガタ云うでしょう、たださえ。その最高のガタガタをやるのだもの。それでも、これで家じゅうさっぱりして、お恭ちゃんが使っていた布団類の洗い張りも出来ていいわ。
今月は半月大ばたばたでした。そして、御無沙汰つづきのようになってしまいました。この前書いたのは八日でしたもの。九日に書いて下すったお手紙ついたのは十二日よ。丁度、光多がなくなったという栄さんの電話で、出かけようとして郵便箱のぞいたら(午後三時ごろ)来ていて、それをフロしきにつつんで出かけて、ちょっと隅で封を切って走りよみいたしました、うちへかえるのが待ちきれなかったので。
久しぶり久しぶり、ねお手紙は。おKちゃんのことは全く悄気(しょげ)てしまった、佐藤さんからきいて。去年の初め来る前とった写真にも空洞は出ているのですって、もう。それだのに、あの兄先生ったら、それを私に見せて、肺門のところのかげをさしたのよ、それは血管のかげですって。別のところに空洞があり、この間のではいくつも出来ていて、つまりもう治癒することは非常に永くかかる状態になっていて、キンもぞろぞろでしたって。一年そういう人といたのよ、お察し下さい、別の桶で茶わんも洗わず。私は病気そのものには何の偏見もないから、ちゃんと別に洗うものは別にとさえ出来ていたらいいのに。そんな先生が、一つの村で結核の集団検診をした報告を本にしたりして時流にのっているのは、殆ど非人道的ね。実の妹をそういう扱いでおきながら。
村山の先生もふんがいしていた由。佐藤さんだっておこっています、赤坊をつれて来ていたし、赤坊をだいたし。この前マントー反応をしらべたときは陰性だったが早速又しらべると云っています。責任を知らないほどこわいものはないと思いました。おKちゃんだって可哀想に。その上兄さんのお礼の手紙には、作品で感じると同じ暖い心で対して頂いてとあって、これにも腹を立てました。だって、そうでしょう。ふだん、こんなこと書いているが実際はどうかという風にいろいろ見たりしていたということで。
最もわるいのは、ふさわしからぬ功名心のあることです。
詩集のこと、火曜日に笑ったように。でもユリがだよって、そうかしら、そうお?私だけ?私だけならつまらないと思います。あなたの方にダラダララインがないのはあなたにとって何というお仕合わせでしょうね。私の方は閉口ね。ダラダララインに到る迄に小ダララインだの、あわてラインだの、ハット思いラインだのっていうのが散在しているのよ。そして私は自分でそのラインにひっかかって、赤くなったり蒼くなったりよ。
うちでは牛乳を一合だけとることにしておいてようございました。今はもうとれません。そのとっている分も場所が変ると駄目なの。玉子は市場では二人で一ヵ月五つ位。玉子と云えば、私よく思い出します、いつか夜仕事していて、おなかがすいて玉子を茹(ゆ)でたらいそいでいて何か工合がわるくて、カラをむいたらカラにくっついてまるであばたのゆで玉子が出来たでしょう。そしたらあなたは、いかにも妙な顔をして、おなかが空いていたのにあがらなかったわね。あれをよく思い出します。あなたは不自然なような、変なことやものが、ひとりでにおきらいね。感覚的におきらいね。〔中略〕
封緘のことはもう大丈夫よ。あっちこっちから集めることが出来て、この次不足しても相当間に合います。光井・島田からさえ送って下すったから。大尽よ。どうぞ御安心下さい。
きのう『都』にヴァージニア・ウルフが自殺したと出て居りました。[自注5]何だか、分る気がします。彼女の心理主義も、この欧州の混乱に対する気持も。私はウルフが『三ギニー』という本をかいて、今日の歴史の様相と女性の無力さに抗議したというのをよんだとき、ウルフは彼女の心理主義(ジョイスなんかと同じな)からどう脱出するだろうか、それしか彼女の道はないと思っていたの。そしたら死にました。しかも河へ身をなげて。――六十何歳かで。彼女のよく散歩する河辺に愛用のステッキがのこされていたのですって。彼女の愛する沙翁の女で、ピストルを自分のこめかみに当てた女はなかった。河へ身を投げるなんて。何だか実にしめっぽい死にかたで、そんなこと迄或はウルフらしいと云えましょう。「世界よさようなら」という手記を妹に送ってぶらりと出たままの由です。
それでも、やっぱり欧州の婦人作家ですね。五十に近くなるともう隠居婆さん風になって自分の小さいぬくもりの中にかがまっていないで、さようなら、というにしろ世界よと云うのだから。ウルフの『女性と文学』が翻訳で出ていて、そのこと何かお話ししたでしょう?本当にあれをよむとこの世界の動きかたをウルフはどう見てゆくだろうかと思いましたが。中公の書き直したのでは終りにウルフの婦人作家についての感想をいくらか批評してふれました。年五百磅(ポンド)の収入と閑暇と静かな部屋とがなければ婦人作家はよい仕事が出来ないというウルフの考えかたも分るけれど、しかし私たちは、自分たちにそんなものはどこにもないという、そのないことをどう見てどう感じてゆくかということから文学をつくって来ているし、これからもつくるのだということをつよく語ったわけでした。そんなこともこのニュースとてらし合わして見るといろいろ思われます。
それから文学者の会で松岡と一緒にぐるりと歩いて来た長谷川進一という人の話をききました。三巨頭についてなど。それからその話について質問する婦人作家たちの所謂政治的関心、国際的話題の出しようなど。大変面白かった。というのは、金子しげりと同じようなことしかきかず、同じようにしかきかないという意味で。モスクワ芸術座の話なんか質問したのは私きりというのも珍景でしょう。人間の見かたなんかもいろいろフームと思うところあって面白うございました。鼻下チョビ髭の人は我を忘れて神がかりにすぐなる人、大親分というのがふさわしい人、或は深淵のような人という工合でね。その人はI夫人のお婿さんの由でした。
さあ今日はこれからそちらに行って、かえって夜は久しぶりで落付いて仕事いたします。屋鳴震動ももうすみましたから。うちの方の大掃除は五月三十日ごろだそうです。すっかり畳をあげてやろうと思い、今から心がけて居ります。
では又、この次はこんなに間をとばさないですみます。

[自注5]ヴァージニア・ウルフが自殺したと出て居りました。――イギリスの心理主義婦人作家ヴァージニア・ウルフ。ヨーロッパ大戦がはじまり、ロンドン空襲があってのち、投身自殺をした。 
五月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十六日第二十五信
かえってポストを見たらば、からっぽ。やっぱり明日ね。あしたはあしたとして、きょうはきょうのを一寸。何故ならば、ベソの件は別として相当もうたまって居りますもの。
先ず、チブスの予防注射は完了いたしました。いいでしょう?これで大安心というものです。それから林町の子供たち二人はツベルクリンが陰性で、これも予防注射が出来そうです。親たち二人はもう陽性よ。寿江子だって、私だって。私のレントゲンは来月に入ってからです。今本物の高橋先生(研究所の)が旅行中だそうですから。
それからね、きのうはね、全く可笑しい日曜を致しました。寿江子が作曲の勉強に平塚の方へ毎日曜出かけるの。この頃。それで、一日くっついて行って海辺の空気がかぎたいというので、雨なのに出かけたのよ。そしたら、平塚というところは海岸に休むところなんてないのですって。ザーザー降りの中を養生館という昔からある旅館へ行って、そこでお昼をたべて、寿江子が稽古に行って、かえって六時の汽車で戻りました。
こないだっから、スーッとした空気が吸ってみたくてたまらなかったので、雨を冒して出かけたところ、たしかに海岸の空気は吸いましたがびしょ濡れで。でも面白うございました。私ったらね、手紙を書くつもりでね、この紙だの切手を貼った封筒だのをもって行ったのは殊勝でしょう。ところが、余り豪雨の中を強行してフーとなって書くどころではなかった次第です。平塚はつまらないのよ。今度から一緒に出て、国府津へ行っていて、寿江子もそっちへかえって一晩とまる位のことをしようということになりました。せいぜい一月に一度でしょうね。
平塚は市です。そして、そこの旅館は皆協定して、料理を配給にしているのよ。その本もとがその養生館といううちです。面白いわねえ、養生館というような名のつけかた。母の家の従兄の一人に、体をよわくしてアメリカからかえって来て小田原に宿屋をひらいて、そこで暮した人がありました。それが、やっぱり養生館よ。私が十四五ぐらいのときよく冬そこへちょいと行きました。きたない小さい家だったけれど、今どうなっているかしら。白秋が小田原にいた時分とかに、その世話でお嫁さんが来たとか云々で、却って何となし行きません。親類のひとのやっている宿屋なんて妙ね、却って、さっぱりしなくてね。
きょうの夜具は、ものの哀れをさそわれました。ひどいのねえ。あなたの布団は毎年必ず新しくしているのよ。綿を入れかえ縫い直しして。今年のようになったのは初めてでした。メリンスは、丈夫なものではないけれどああはなりませんでした。十月から四月まで一枚では、これからは駄目かもしれません。間で一枚とりかえる方がいいけれど、間がこまりますね。本当に困ると思うわ。だって、私が一生懸命心がけたってスフはスフというわけでね。
緑郎はちょっとお話したようなわけで、今は朝日の仕事していくらかお金を貰っているでしょう。そして、やはりいられるだけいる方針だそうです、それがいいわ。この間写真みたときはでっぷりしてどういうことなのかと思ったけれど、なかなか沈着によくやっているらしくてうれしいと思います、せめて緑郎一人ぐらい何ものかであっていいわ。
二十二日のお手紙の返事は、土曜のを見てからということですが、私が悄気こんでいたのはね、ものをキチンとする方がいいという注文についてではなくてね。若しすぐ片づかないようだったらそちらに行くのを、それにつれて延期するのだ、ということだけよ。そうだとすれば、私はそれは困ると思って、せっせと済まそうとするにきまって居て、私の心持がそう働く予想の上でしか効力の生じない方法だから、それでツマラーナクなってしまったわけでした。どうして、どんな人でも、私にとって一番切実な感情を、それぞれの手法によってとらえるのかと、そのことで、いやアになってしまったのよ。些か嫌人的になりました、誰彼ということなし。
壺井の栄さんとでも会う用なら、まだすまなかったからのばすわ、そうね、それがいいわですけれど、ね。
おわかりになるでしょう?きちんと用を果す果さないとは全く別箇のことなのよ、私の心持にこたえた意味は。こういうところが、機微ですね。そして、同じことを、そのように私なら私がつよく感受するのは、ただそれだけがあるからではなくて、あなたに向っている私の心持全体が生活的に、そういう心持なら、じゃアという扱われかたをうけているものだから、そういういきさつの中で更に、そのひともやっぱり何かの形でその点をつかむということが、がっかりさせるのね。この感じは私にとって初めての感じでした。紙やすりで、胸のどこかをさかさに撫でられたようで。
今日、あのときのままの感情でいるのではないのですけれど、それでも、どんなにそれは索然たる情けなさだったかやっぱり表現したいと思います。そして、面白い思いも経験しました。そのつまらないという感じを通してでは、良習慣とか何とかいうものへの魅力も、心を輝やかすものとしてはちっとも作用して来ないというのも、あなたにとっては意外に思えるでしょうか?私は自分の心持を辿りながら、ははアこういうものか、と大いに学びました。
自分の感情に甘えるつもりはないから、勿論私は出来るだけキチンと事務は片づけるようにいたします。
ざっとまあ、そういうわけよ。
書かないだってすむようなものかもしれないけれど、書かずにいられなくて。だからこれだけでは出さないで、次のを拝見してから出しましょうね。
今夜は本降りね。こんなに永雨式にふり出すと麦が又腐りはしないかと思います、島田で、ずっとむこうの線路の方に水があふれて麦の頭だけそこから出ていた眺めは侘しかったから。ジャガイモはこの間の(十七・八日ごろの)晩霜で大した被害をうけたそうです。
明日は、実業之日本へ行って、つい先日の千部の印税をとって来ようという予定ですが、きっと降りそうね。『私たちの生活』は来月二十日ごろ本になるそうです、これはいろいろのことからでしょう。まるで順調にゆけば四五日でなくなりそうな部数しか初刷しないのですって。再版がゆけばどしどしのつもりね、商売だからそれもそうでしょう、大きくない本やなのだし。
弘文堂という本やで、世界文庫という小さな本を出していて、スタンダールの『ナポレオン』なんか出しているのが、ベリンスキーの『選集』を出しました。たった六十銭の本よ。本とは何と不思議なものでしょう。たのしみにして居ります、文芸評論らしいものは何一つ近頃見ないから、食慾を刺戟され、勉学欲を刺戟され、いい小説が書きたくなりますね。ああ、ああ、いい文芸評論家がいたらば!その批評の故に、小説を書くものは励まされるような工合であったらば!
文芸批評の領域で、読者大衆がどういう風に扱われて来たかという過程は、大変面白いということを、このベリンスキーの二頁ほどで感じました。群集として見られているものの質、及びそれへの文芸批評家の視角。いつか、「どん底」の作者について書いたかしら?彼の感覚のうちでは群集と大衆というものとの間にあるいろいろのものが、ずーっとぼんやりとしか感じとられていなくて、それが、はっきりしたのはごくの晩年であったということ。そのときもこの点は大変面白いと思ったの。スペインで死んだイギリスのラルフ・ベーツの評論集で小説と大衆、ノベルズandピープルスというのがあります、シェクスピアなんかこういうところどうだったのでしょう、ふっと思って面白いと思います。文学史の辿られる糸は幾条もあるのですね、尤もそれがあたり前だが。でもシェクスピアの文学のそういう点での時代の性格を誰が語っているでしょう。彼のリアリズムについての探求で、その点にはっきりふれられているのかしら。バルザックについて、最も科学的な研究に立って書かれた本が出るらしい話です。バルザックから何を学ぶかというものを書いたこともあったから楽しみです。私は秋ごろ本にするもののためにこのベリンスキーはこまかく学ぶつもりです。
二十七日。
けさになってもまだつかない。うたのようね。けさになってもまだつかない。きっとそれには心がいっぱいつめられているから重いのね、それで時間がかかるのかもしれないわ。
これはこれで出してしまっていいでしょう?あとの分は又あとの分として。今朝は晴れました。太陽も出はじめました。うちの物干には足袋を乾しました。足袋がなくて大閉口よ。では、ね。 
五月三十日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十九日第二十六信
けさ、やっと到着いたしました。西とかきかけて半分で消してちゃんと目白となって居りました。
どうもいろいろありがとう。事理としては明白なのですから、天気がわるければ云々と云われると、大変きまりがわるいことね。何かじぶくりでもするようで。でも、このお手紙を頂いて私としてきのうの手紙はやっぱりあれとして書いてよかったように思えます。決して心理主義ではないけれども、このお手紙には私があのとき感じたような感じかたへの想像が具体的にまだ通じていないことがわかりますから。
面倒くさいみたいな印象をおうけになるかもしれないけれど、でも、生きてゆく心持のあの波この波でね。事理は明白であっても、おのずから又そこに伴って感じるものがいろいろにあるところが、つまり小説というものが人生に存在してゆくわけでもあるのでしょう。そして、いろいろの事情のなかで、或る種のことに対して、つよく感じる場合があるのも現実のいきさつでしょう。
私のきのうの手紙をあなたがどう御覧になるかということには深い興味があるわ。
この幾通かの往復は様々に面白いのだと考えます。だって、あなたのこうあって欲しいとお思いになることは、全くそのとおりであってそれは私も同じくそうしたいと思うことなのですもの。そういう順序や筋の理解では同じであって、猶私が書いている、そこのところがいかにも面白い。私はひねくれて感じているとは思いませんが、いかがでしょう。勿論、その感じかたに執していはしないのよ、今。
一寸した告白をすればね、私は、常にこう考えているの。あなたの明白な事理は、少くとも私に対しては無碍(むげ)に通用するべきであり、するのが自然であるという風でなければならないと。そこに事理の自然な展開の場所がなくてはいけないと。これは、あらゆる意味の健全さとしてそうなくてはならない筈のものだと考えて居ります。二つの掌が合わせられて、岩間の清水をくんでのむように、ね。
そのことが、ただ単純化された、いつもその道さえとおれば行くところへ出る小路という風な、心持の表現の習慣の型になってしまったりすれば、やはりそこに、ただ約束が在るだけになってしまうのでしょうね。想像力のとぼしさが生じる場合もあって、私は又そこでも慾張るのね、きっと。私は、単純な心情でない筈のひとが単純になることはくやしいと思うのよ。太き円柱は、その美しい直線のバランスの中に、人間の視線の角度というものをちゃんと計量して、ふくらんだりやや細くなったりしていて、浮彫の様々な頭飾ももって、そして、美しいのですもの。私はそういう柱列をいつも見ているわけでしょう?そういう円柱であればこそ眺めあきるということがないのですもの。
きのうは、あれから大バタバタをやりました。かえったら、第二回目のマントー反応をしらべるために、林町から一家がやって来て太郎はギャアギャア泣いたりして。二百倍ので陰であったら百倍のでしらべて、それで陰であったらいよいよ予防注射をするのですって。大体大丈夫でしょう。いきなり二百倍でやると、もし陽の場合、よくないのだそうです。
先生一族はこの三十日から国へゆきます、母子は二週間ぐらい滞在の予定の由。体の弱い娘、あれこれの娘として、お母さんになっているのを信じないのですって、親類の年よりたちが。だからハイこれが旦那さん、ハイこれが息子、ハイここにもう一人とおぽんぽをたたいて、名刺を貼りつけたお盆をもって歩いて来るのですって。どこでも旦那さんというものは、なかなかなのよ。アニ、ダイコウノミナランヤ。
私の眼は、この頃大体大丈夫です。疲れるとちらつくのですね、余りくたびれたら又薬を貰ってさしましょう。夜は大変眼がつかれて、いやと思うときは夜仕事いたしません。反射する光は目に堅くて、いよいよ昼間ずきとなるわけです。
今の派出は問題外のようなひとですが、でも今月中はこの人でとおします。きょう畳バンバンは駄目で(人足の都合で)明日になりました。丁度いいわ。これで布団類の手入れもみんなこわすことだけはすんだから。今の派出婦は、せんたくものをちゃんと知っている人さえ少いようです。
中野さんのところでは原さんが又腎盂炎で、卯女が百日咳で、よく眠りもせず看病したそうです。だから、きょうはお見舞に甘いものを届けて貰います。たのんで、てっちゃんに。ところがね、台湾に去年大風がちょくちょく吹いて本年の砂糖は大分減って又砂糖欠乏の由です。サッカリンずくめということになりそうですね、例年の2/3しか収穫なしの由。うちも牛乳は、用心のため一本とって居ります、工合でもわるくしたときソラと云ってないのですから。野菜が主の食事になっても牛乳があるといくらかましですから。でも三人迄の家には三合ぐらい(月に)食用油を配給するそうですから、いいけれど、どんな油でしょうね。ヒマワリの油を用(つか)うのでしょうか、私はあの不消化工合にはこまった覚えがあるのですが。ヒマワリの種をたべるところの庶民的食用油はヒマワリで、それはこなれにくいわ。油がひどかったりして私はあんな胆嚢炎をやりましたから、油には大いに注意するつもりです。きっと肝臓の病が殖えるでしょう、肉の油が不足でどこでもそれを多く使うというわけになるでしょうから。家庭ではひどいものしかたべられない。そとで、うんと高ければましなものもある、そういう傾向になって来ます。
私の血圧は大丈夫と思うのですけれど。あぶなそう?この頃は又そとめにはお分りにならないでしょうが、すこしほそいのよ、私としては。ですから猶いいと思って居ります。私はどうせ、急にポクリのタイプではあるけれど、中風の型ではありません、体つきからそうの由です、その点は大体御安心。チブスも今のところは大丈夫。虱のいるところは大変伝播して居ります、あれはいつも虱ね、ジョン・リードだってそうよ、虱よ。
これからとりかかる仕事は、うまく行けばいいのですが、かなりむずかしいと思います。いかに生くべきか、というようなことをいろいろの角度から扱ってゆくのはやさしいようでそうでもないことね。いろいろのポイントが煙霞のなかにぼやかされるために。
高見順が文学について書いているのに、先ず文学は非力である、非力であるが、獅子と鼠の物語のように、ライオンのとらえられた網をくいやぶるのはネズミであるというような云いかたをしている。そんな工合ね。イソップの出来た時代はどういう時代であったのでしょう。そのものとしての特性を主張する率直な形をとらないで、一先ず非力と云うのは何という現代のひねこびた曲線でしょう。その位一方で強引なものがあるわけです。
日本の芸術家が、年をとるにつれて納るということについて、たとえば石井柏亭のところへ、若い一人の女の子が絵の勉強の相談にゆきました。面白いところのある絵だということは認めました、でも、その子は自分の生活の界隈としてきたない細町を描いているのよ、電信柱のある。そうすると先生は、電信柱というようなものは土台美的なものではないのだから、と。芸術についてのセンスの一致している点又はなれる点、面白いことねえ。その子の絵に面白いところがあるとすれば、それは即ちそうやってあり来りのきたなさの中に何か生活を見ているからでしょう?そこが別々に見られるのね。美的なものというものがあるという風に見るのね。健全なものがあってそれはどんな不健全なつかいようをしても健全であり得ると誤解している人だらけなのを、改めて考え合わせます。
芸術における世代とは何と厳然たるものでしょう。
そのことは、詩集のありようにも映って居るわけですもの。
全五巻のほかに別冊としてある素足だのボンボンなどの描写、追随を許さないものがあります。別冊がやがて全六巻という工合にあみこまれて、きっと又未定稿がまとめられるでしょうね。ちょいちょいした断章に、忘られないのがあるわ。すぐれた詩人は、二三章の断章の中にも感銘をこめる不思議な魅力をもって居ります。息吹という題で、いく章かの断片がある中に、覚えていらっしゃるかしら、さっぱりとすがすがしい丘に、さわやかに軽く匂い茂っている浅い叢。その丘にふさり、手でその軽い叢を梳(す)きながら、遠い泉のしぶきの音に耳をかたむけている一人の女を描いた、淡彩風の短詩。それから、夏の篇の驟雨(しゅうう)。あれも見事ね。さし交した樹々の枝は愈〃深くかげを絡ませながら、揺れ、そよぎ、根から梢まで震動をつたえつつ、葉と葉とからしたたりおちる雨粒が、下の泉の面にころがり、珠と結び、その珠のつながりは忽ち泉のふきあげるしぶきにまじって、紅の罌粟(けし)の花弁をひたしながら溢れる様子。すがすがしい丘の上に、が淡彩であるなら、これはたっぷりとして油の香りも濃い絵ですね。こういう風景画なら、風景画でもただものではないわけですが。私はあの驟雨を読むと、自然の旺溢の美しさを身にしみます。葉のさわめき、つたわる雨粒の丸い柔い変化の多い音。枝のきしみ合う風に交った音。
でも、夏は又面白い題材も多いものと見えます。
「無邪気なウォタ・シュート」というの覚えていらっしゃるでしょう。あれには、心持のいい插画がついていたわ、かーっと晴れた夏の午後、公園の大池のウォタ・シュートの尖(とが)り屋根。その屋根は赤と白とでお祭の時らしくぬられていて、元気のいい男の子が、いくらか風変りな曲線をつけられたところを、池に向って小さいボートにのって、辷る、辷る、と笑って叫びながら辷って行っては水のしぶきをあげている様子。ちょいと雀斑(そばかす)のあるような顔をした男の子がかいてあったでしょう、ぷりっとした体で、溌溂として、いい匂いの髪のある。あれもなかなか爽快な作品です。
まだすっかり夏にもならないのに、こんなに夏の詩の物語をしてしまっては早すぎるでしょうか。
でもいいわね、季節のよろこびは、よろこびを期待するそのよろこびの中にもあるのですから。
昨今の世の中はね、五月のへぼ胡瓜(きゅうり)という次第なのよ、野菜を目方で売買して居りますから、お百姓さんの心理として、一本でも重い方がいいでしょう、五月のへぼ胡瓜の由来です。
だから私たちの詩についての話ぐらい、ふさわしいしゅんであってもいいでしょう。この頃はどこでもちょいちょい畑つくりよ、うちは駄目ですが。まねして紫蘇(しそ)でも生やしましょうか。ではね。 
五月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(紀伊田辺・元島遊園地の写真絵はがき)〕
五月三十一日。きのうは畳あげ、今日は古雑誌の大整理、五十貫売りました。五十貫あって十二円五十銭よ。大したものです。すっかりくたびれて、タバコ一服のつもりでこれを。ベッドの裾のところにあなたの羽織をかけてあります。時々そちらをながめます。大島の絣が柔かく華やかに見えるというのは大変面白いことね。こういう風にまじっている光景の珍しさ。ごみだらけの顔で眺めて居ります。 
五月三十一日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(紀伊田辺・文里港の写真絵はがき)〕
このエハガキが戸棚から出ました。きっと去年だか戸台さんがお国へかえったそのときのでしょう。あのひともお嫁さんが九分どおり出来たのに、まだきまりません。お母さんが後家さんで決心しないのね、故に、上の息子はいつの間にかおかみさんをもちました。上の姉は、母さん私およめに行くわとふろしき包を一つもってゆきました、妹は戸台さんのところへそうしてはゆかないらしい様子です。 
六月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月六日第二十七信
きょうは、本ものの暴風ね。私は妙なところでこれをかいて居ります、下の茶の間の隅のカリンの机で。二階をふきこむのですっかり雨戸がしまって居て、ランプつけて今頃いやでしょう、ですからここへ来ました。
二日づけと三日づけのお手紙、ありがとう。一どきにつきました。学燈の本のこと。ありがとう。三一年というと、今日にしてみればその頃来るべき新しい時代の女性というものをどう考えていたかというようなことが逆に見られるわけでしょうね。その意味では或は面白いかもしれませんね。本当に十年前。もとより十年の間にも決して古びない婦人観はあり得るけれど、どんな視点でかかれているのでしょう。
文学古典から、ということを、やはり考えます。トルストイはもうつかまえて居るのです、彼の性と女性との見かたについて。あといろいろたぐりよせるのですが、シェクスピアの「オセロ」なんかやはり面白いところがあります。『私たちの生活』の校正がもう出て、ね、大スピードね、百頁以上初校すみました。その間に、あれこれ次のこと考えている次第です。書く以上やっぱり美しい高いところのある本が書きたいことね。本にしろにせものと本ものとの区別出来る感覚をめざませたいことね。人間が発見してゆく智能というものの価値をしっかりとしらしめたいとも思います、プランがむずかしくて。科学の精神というものについてだってやっぱりはっきり書きたいのですもの。
私の手紙へのこと。恐縮仕(つかまつ)ったというところを読んで、何だかにやりとしてしまいました。即ち幾分ユリはてれたのであります、そして、そこにひろい大きい手のひらを感じ、おめにかかったとき、手紙書いたよと笑っていらしたその空気を感じます。
あなたはおこらず、ともかく私の感じかたをきいて下すって、ありがとう。私にしろ土台から、プランをもって、まわりくどく手法的とは思っていません、そんな風に考えることは、私の自然の感情から不可能なのはあきらかです。でも、このお手紙に「ほとばしり」とあって、私はやっぱり面白いと思いました。ほとばしるものにはほとばしっただけの勢があって、それは流れているものとはちがった顔へあたる感じをもっているわけなのね。ですから、私は何だかキュッと感じて、その感じは苦しくて、ふくれたわけだったと思います。一番私の閉口なところに向ってほとばしったからでしょう、きっと。水鉄砲のように。
三日のお手紙に云われていることは、くりかえし読み、又くりかえし考え、ここには何一つ納得ゆかないものはないと感じます。そのとおりであると思えることしかないわ、どこからどこまで。私だって、用事が用事だけの単純なものだとは思いもいたしませんし。そして、やっぱり満点細君でありたいわ、ねえ。それは、そうでしょう?そして、私としてそうである現実のモメントはどういうところにあるかということだって、それはわかるわ、ここにシンセリティのこととして云われているとおりに。わかるのよ、そして、わかっているのよ。
私は一つお願いをして置こうと思います、よくて?どうぞどうぞ忘れないで覚えていらして下さい。それは、次のようなことです。三日に、あなたは、これからこういう必要もないだろうが、と云っていらっしゃるけれど、実際のところ私たちの生活で、もうこれから決して只の一度もダラダララインにひっかかるようにしないなどという高言は放てないと思います。私は、ほんとうにひっかけないようにしますが、でも、もしそういうことがあったら、そのことについてはどんな落雷もいとわないわ。そのことについてだけのガラガラピカリは相当であってもいいから、どうか、ほとばしらないでね。つまり、それが出来ないなら云々というところは、どうかのみこんで下さい。どうも私はあれをきくと少々気の変になった驢馬めいた気持になるらしいから。何だかデスペレートになってしまう。バタつきたくなるのよ、可笑しいでしょう。
ピカピカゴロゴロは風雨を誘うものでありますから、その天然の理法によって、ピカリとすればおのずからホトバシルのかもしれないし、そのところだけはぬかして鳴ってくれとたのむ方も虫がよすぎて相すまないのかもしれないけれど、でも本当にお願いいたします。よくて?本当のお願いよ。どんなひとだって、急所はあるものよ、私の急所はその辺らしい様子です。ソクラテスは、偉かったでしょうが、或はこの急所をきっといくらか揶揄(やゆ)したのよ。女房というものは獰猛(どうもう)なものだということを余りえらすぎて忘れたのよ。クサンチッペをこれだけ擁護するということは、私もバタつく驢馬になれるし、それから先のものになる可能もある(!)というおそるべきことなのかもしれません、可怖、可怖。
私は、よくよくあの「それに応じて」以下数個の文字がいやと見えます。たとえばこの二つのお手紙の、懇切さにつづいて出て来たにしろ、そこへさしかかれば、きっと、私は胸の中が変な工合になって来て、いやあだと感じるでしょう。もとより原因をなくすかなくさないのが自分の責任だということは承知の上で。自分の弱点を、家庭的な云いならわしだの笑い草だので、合理化してしまえば、それは過去の幾百千万の家庭のなかみと同じになってしまうから、あなたが、あれは事務的に下手なのだからと諦めて下さらないことも正しいし、私がこれからの落雷も、わけがあれば敢てさけないわけです。
下で書いていると、珍しいところがあります。すぐ前で、八ツ手と青木の赤い実が、突然の激しい風に吹きあおられて揉まれるのが見えたり、脚が痛いから坐り直したり、いろいろと。
派出さんかえって来ました。私もかえって来ました、というのは、林町へ泊りましたから。
稲ちゃんは満州へ立ちました。二日の夜九時すぎに。家へ行ったら臥ていて熱があると云って。おやめなさいよと云っていたら、それでも立ってしまいました。今瀬戸内海にてとハガキが来ました。熱もなくなった由。よかったこと。強引ですね。私は、南京虫にくわれたときつける薬と、オーディコロンと、タルク粉と、小さい袋へ毛ぬきだの鋏だのの入ったものをあげました。私は南京虫にくわれると実にひどくてアンモニアをつけてやっとしのぎました。それを思い出して。マヤコフスキーに「南京虫」(クロプイ)という劇があって、現在はどこにでもいるクロプイが、或る時代には全く標本しかいなくなって、南京虫、ネップ、ビュロクラートみんな標本として博物の教室で学生が観察する芝居がありました。舞台に大きい張りものの南京虫が出て来るのでした。
さち子さんは三十一日に田舎へ行って、もう二枚もハガキくれました、二枚とも目白四ノと書いて三に直してあります。四ノ六二?かがうちだから。きっと随分書いているのよ、ね。旦那さんは細君と子供とがいなくて、さっぱりしたような淋しいような工合でしょう、おばあさんどんなにしているか、見て来ましょう。あすこのおばあさんは、本当に真白な髪で、深く腰がまがっていて、腰を曲げたなり袋をふりまわしてお買物です。
この頃は、牛肉がちっともありません。鶴見かどこかにある巨大な屠殺場では一日七頭の牛を扱っているぎりだそうです、牛として来れば、どこから来ても一頭いくらと公定で、肉となってくれば、近江一等肉ならそれとしての価でうれるわけです。従って、料理屋には入るが家庭には入らず、という珍現象です。うちのもう何年もとっている店も休業中です。
岩手がいわしの本場だが今年は地元の肥料に足りない、何故なら肥料はやすいが、干物にして売り出すとずっとたかくて、静岡辺ではその干物を買ってお茶の肥料にしますから。こういう関係。
下で書いている珍らしさの一つで、間にちょいと稲子さんの『季節の随筆』というのをよみました。そして、あなたにもおめにかけようと思います。何だかいろいろと面白いから。人って何といろいろでしょう。この夏か秋に、秦山房という本やから、私のいろんなノートや断想のようなものを集めて出すのだそうです。そんなものでも、やっぱりひとによってちがうのね。栄さんも近いうちに随筆集が出る由です。こないだ出た『たんぽぽ』という本は余りかきあつめできまりわるいそうですが、送るようにたのみました。
きょうは、朝ひどい雨の中を歩いて来て、(林町から)すこしそれから休んだりして、今の夕日の光が何だか珍しいようです。ラジオで三時頃から天気になると云っていたら、本当に三時ごろから晴れて可笑しいようです。
林町では国男さんが太郎よりも熱心で、小鳥をかって居ります。大きい金網の中にいろいろの鳥が十七羽居ます。私はこんなのを見るといやなところもあります(「伸子」の終りのところ覚えていらっしゃるかしら)。事務所は今、あのひとのほかには一人しか人がいません。あとは女の子のタイプとお使の青年と。こんど、すこし暇を見て、ゆっくり話してみたいと思いますし、人は自分の専門については本当に熱心でなくては駄目だと思います、生活の中によさがなくなってしまって。一心なところがなくて。益〃行きたくない条件ばかりふえて困ります、本当にそう思うのよ。 
六月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月九日第二十八信
きょうは本ものの暑さですね。ところが天気予報だときょうから小雨よ。でも、当っているかもしれません、雲は薄りかかっていて、だからこんなにあついのかもしれませんから。暑さにせかれて、紺ガスリ二枚と人絹のサラリとしたシャツをお送りいたしました。セルはもうつきましたろう。
けさ隆治さんからハガキが来て、うれしいお知らせを一つと、上等兵になったことを云って来ました。肩章も、とかいて消してあります、あのひとらしいことね。およろこびのハガキをかきましょう。きっとそちらへも行くわ、ね。
七日のお手紙、きのういただきました。ありがとう、その前の二つへの御返事とゆきちがいね。それにあの二つはおそくつきました、どうかして。
写真週報のこと、私は電話かけませんでした。
森長さんは四谷の方へ引越されたハガキが来ました。そして謄写は皆出来て、多分きょう(月)そちらへゆくとのことでしたから、夜でも電話して見ましょう。四谷の番衆町ってどこいらでしょうね。きっと賑やかなところでしょうね。音羽の家は、空俵屋の角を入り、もとのホーヘイ工廠の山の下で、こわくもあったのでしょう。あの辺はよく泥棒が入りますから。
封緘は、相当ございます、今のところ段々補充して行けば相当大丈夫ぐらいあります、島田へも勿論ねがいますが。
前の二つへの返事で書いたのですが、ガクガク的に云われること、まるで見当ちがいという風に思っているのではなかったのよ、あのときにしろ。心もちだけ勿体つけて云えば、それは笑止千万のようね。坐ってお題目となえてるみたいで。でも、もうきっと前にかいたのがついて居りましょうが、私は、どんなに叱られてもいいから(あなたとして其が閉口、でしょう?! )ああいう条件だけは、どうしてもどうしてもいやということなのよ。そうじゃないかしら。万ガ一はかがゆかなかったからって、急にその日に現れなければ、その理由とすぐあなたにおわかりになるどんな方法があるの?私としてそれをお知らせ出来るどんな方法があるのでしょう、だから駄目よ。そんないやなことって困る、と、私がバタバタになるのお分りでしょう?バタバタしているといくらか不条理でしょうから、それは、ユリが、少くともその時間の間に運べるだけ運んで、それで解決されてゆくことなのだよ、という声はよくきこえなくて、そんなら来ないでいい、ということだけがーんと響くのよ。女房の聴覚というものに、ね。だから考えようによっては私のいやがりかたは可笑しいのよ。仰云っているとおりあり得べからざること、ということへのつながりの想定なのですから。前の手紙でお願いしたとおり、私はダラダラしないよう十分気をつけますけれど、その代り、あなたもほとばしりならないように、と懇願しているのよ。
「いかに生きるべきか」本当にそう思います。小説の方がいいのだけれど、そこにもやはり多くの困難があります。私はエッセイとしてかきたくなくてモジャモジャやって今日までのびたのですけれど、誰かいい人の伝記ないかしらとも思ったのですが、つまるところしかたなく、やはり感想として書くことになるでしょう。これを終ったらもう私は小説しか書かないようにと思います。書くからには本当に若い心の心にふれ、精神をうるおわすものをかきたいと思って居ります。たとえば、今日死の問題が私たちのまわりにあります、ブルージェの『死』が、あんなにうれたりする理由。葉がくれの哲学がもてはやされます。武者小路の「愛と死」という小説がどびます、しかし、死が、いかに生の中にあるものだ、かということ、一番明白な理由、死んだ人にはもう死がない、その人の死は生きているものの心の中にある、という関係で、そのような死を生にいかにうけとってゆくかということだって若い人の心もちの納得ゆくように解いては居りません。葉がくれの死狂いなり、死ねばよい、という表現だって、ごろつき学生の解釈とはちがうべきものです。こういうことはしかし、小説ではちょっとかきにくいでしょう、場面的に。
今日の性格が、今日的色彩を一応は一般的なテーマに投げている。それを正常な理解において明らかにしてゆくということはやはり一つの大切なことでしょう。えせ宗教論のはびこる心理についても書くつもりです。
例えば結婚論にしたって、先ず人と人との正当な理解ということがすっかりオミットされて、ごく皮相な優生的条件だけで、結婚が云われている。それはやはり一つの間違いですもの。
眼の衛生の本。去年、南江堂で買おうとして品切れで、そのうち私の方がよくなったのでそのままになって居ります、眼の本はうちにありません。
「ミケルアンジェロ」そうだったの?よんだ本によって調子が書評につたわって来るということは、あのとき痛切に感じ、そこによいところとよくないところ(自分として、よ)があると思ったことでした。
協力の本はもう二百頁も校正が出ました。これなら本当に本月二十日すぎ本になるでしょう、すらりとゆけばいいこと。すこしはどしどし増刷になってほしいと思うわ。
家のこと、一昨夜、うちへ仕事てつだいに来ていてくれる娘さんといろいろ相談して、もしかしたら何とかゆくかもしれなくなりました。そのひとは母娘きりなの。父さんはお灸をやっていて、今は満州の何かの病院の物療科へつとめて行っていて当分かえらず、そこから生活費が来ているのよ。(少々ですが)
娘さんは掘り出しもの的逸品です、絵をやっています。ずっと高等小学を出てから働いていた人。おっかさんというのは、とびの者の親方の娘で、やはり辛苦した人で、それは気質はいいのよ、勿論、そういう世の中で育った人で其れらしいものの考えかたはあるけれど。江戸っ子だし。
経済的な点で、私の条件が本が出てゆけばやってゆけるの、その人たちと。私が下宿した形で。いいでしょう?ここで。もしそうしたらいろいろの意味から環境としてずっと林町よりましです、生活のつつましさ、情愛や。いろいろ。いやさはどうせあるにしろ、それもその性質がちがうから。
私は生活の中に情愛のなさにあきていて、(たとえば、きのう用で出かけてかえって見たら、その娘さんが机の上へ花を新しくさして行ってくれてあるのよ。そんなことをこんなにうれしく心が和らげられて感じる、そういう乾きあがって胸のわるくなるような毎日だから。派出婦って、そうね。)そんなおばあさんや娘と暮してみたいのよ。同じ気がねなら、そういう人にした方がさっぱりしていると感じるの。食事なんかそのうちの程度を基本にして(大変粗末です)そして特別は特別として、やればいいでしょうということも話したの。そして、大笑いしたのよ、どうも私の心持はこうやって粘って粘って見た結果、荷物は林町へやっても身柄は自分のところへとっておく方が自然に思える、と。たとえばいろいろ倹約にしろ、林町ではその家との関係その他で、つつましいながら精一杯のよろこびを獲てゆこうとするいいところがなくて、しわさとして現れるのよ。何故なら、自分だけ一人でこっそりつかう金についてはひとに口を入れさせないで、うちに使う金、働くもののために使う金、それをやかましく云うでしょう。そうすると、しわいという感じが先で、私は腹立たしく思うのよ。
そういう経済上の秘密主義に立って、こせこせ云われる空気、大きい家のあちこちにボーとした電燈しかつけておかないで、夜は薄明りの中を歩く心持、どれも私の流儀(人生への)ではないのです。
自分がそこで過した子供時代の生活がまざまざとのこっているその場処が、現在そうであるということは感じなしでいられなくて、その点では芥川の「庭」という小説ね、あれをよく思い出します。あれを思い出す、そのことに、もう一つのトーンがあるわ、生活感の。私にそれがいいことでしょうか。決して決して、そうではない。心の声がそう叫びます。その叫びは本当よ。しかるが故に、林町へ送られるのは私でなくて荷物であるべしということにもなるわけです。荷物がいつかかびたりくさったりしたって、それはものだわ、生きている私ではないわ。生きている私は飽くまで生きていなければいけないわ。本当に仕事をする生活、勉強し、精励な生活、それは、自分にこれでいいのだと納得出来ない生活からは生れず、私はいつもそうです。これまでだって。親のいた頃だって林町にいきりになれなかったのですもの。家の件は、こういう工合に推移して来て居ります。何とか、こっちの方向で解決したいと思います、そして、あなたが「朝の風」についてあの女主人公が部屋借りにうつらなかったことを必然がないと云っていらした、そのことを思い当ります。そうなって行って、それではじめてわかるという道があるものなのね。では明日。
珍しくきょうはGペンでかいていて、その方が万年筆よりなだらかでした。 
六月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月十八日第二十九信
大笑いね、私は再び、というよりは寧ろ忽々に舞い戻って目白のテーブルでこれをかいて居ります。
昨夜、おばあちゃんが八時三十四分でかえり、それを上野へ送って行って、きのうから三人となりました。家が見つかる迄この調子でやって、もう五日か一週間したら石川さんという若いすこしはましな派出婦が来る予定です。この子は、ものをかく女のひとの暮しも知っているからこの間うちのひとのようにおそろしいことはないわ。でも、その恐ろしい人さえ、大変いいうちと云って会に好評をしているので、あのひとさえそういうならと、案外石川さんを予約出来たりする様子です、虎穴に入らずんば、のところがあっておかしいわね。
さて、先週の火曜からの一週間は、私にとって輾転反側の一週間でした。そして、いろいろと発見をいたしました。
物をかくひとの生活の空気というものは、学生なら学生が、勉強してゆくのとは全くちがったものであることも明瞭になりました。体の毛穴があるように私たちには精神の毛穴があるのね。所謂勉強は毛穴がふさがってもやれるのね。書いてゆくこと、何かつくり出してゆくことはこの毛穴のうちと外との流通、呼吸がちゃんとしないと迚も溌溂とゆかないものであることが生理的にわかって、林町では、私の毛穴はぬりごめよ。精神のそよぎというべきものがどこにもない一家の空気、どう生きて行こうという勢のはずみのどこにもない家、それは全く他人であって、私が二階がりをしているのなら其きりでしょうが、そうでないのですもの、本当に苦しい焦だたしい工合でした。私は何とか落付こうと努力したから猶更ね。
私たちの生活というものは、もうちゃんとあるのよ。それは、そうどこにでもはめこんで、はめ合わせのつくような鈍い角のものではなくなって来ているのね。私たちの芸術的な生活の感覚は、酸素がたっぷりいる種類のものなのだと見えます。
こうやって、それ人がいない、やれこうだと、バタバタやりながらこうやってやりくりしてゆくのが、つまるところ生活の一番能率的なやりかたらしいわ。もっと縮めればどこかの二階へ動くという方向しかないでしょう。
林町なんかで、キューキューつめた仕事出来るものではないということが余りわかってびっくりして居ります。それを今まで知らなかったということで、よ。うちのことがうるさいときには、却って宿屋がいいということもわかります。自分の世界がはっきりしていて、こっちから求めなければ乱されることはありませんから。宿屋へかきにゆくということは所謂家庭の道具立てのそろった人にはさけがたいでしょうね。妻もい、年よりもい、子供たちもいる、という場合、書こうとする世界へ本当に没頭し切るのは、そういう空気をつくらなくてはね。自分の方法としてもこの二つしかないことがよくわかりました。
今度の仕事はうちでやることにきめて居りますが、今に何か別の仕事のとき小説でもかくとき、私はどこかへ出かけたいわというかもしれません。一週間に一度ずつかえりながら。そのときになると又何とかわるか知れないが、マア今のところはそうかいときいておいて頂戴。
三吾さんは朝八時半ごろ出かけて、五時半ごろかえります、うちにいる間は私が在宅ならキーキーはやらない風です。本人がそれほど熱心な勉強家でないし、且つ今のところは生活も例外ですから。
奥さんは浩(ひろ)子さんと申します。やはり同じ土地のひとで、全然の媒酌です。家じゅうの人が皆実にいい人たちだもんだからお嫁さんも安心しているのよ、今のところは。これで愈〃二人きりで暮して年が経つうちにどんな心持になってゆくか、それがおばあちゃんにも心配らしくて、どうかこのまま行ってくれればと、きのうもステーションで云って居ました。大連の満鉄に兄さんがいるとかで、そっちも見て来たことがあるのですって。東京暮しにちっとも困ることはないでしょう、きれいな人よ。どうかうまくゆくよう願う次第です。二十七ぐらいのひとです。三吾さんは三十三になったって。呉々もおばあちゃんよろしくとのことでした。
十四日のお手紙、十五日につきました。ありがとう。島田の赤ちゃん景気のいい肥りかたで万歳ね。写真まだこちらへは着きません。長谷川という人は、肩書きつきなの?秘書として?女流作家の会の集りで、話はきいたのです。いつぞやのと意味も形もちがいます。
家のこと、一応よさそうでしょう?でも又この一週間の経験で考えているのよ。何しろ年よりの女のひとと娘だから、もの事のいろいろの判断のようなこと、つまりは私が参加するわけですから、すっかり下宿にしてしまえるようにしなければ、やっぱりうるさいだろうと思うの。家庭的になりすぎてはやはり困るでしょうかとも思って、今は考え中です。派出さんなら急にどう変ったっていいけれど、そうして一家を動かしておいて、さて今月からは、では少々こちらも困りますので。
「それに応じて」の物語は、これで一篇の終りとなりましたわけね。実際には滅多にないにしろ、やっぱりいやよ。ですからこうしておいて下すってうれしいわ。そうすれば、ロバはロバなりに嬉々として小さい鈴でもシャンシャンならしながら小走りぐらいは厭わないのよ。駿馬を使うよりロバを使う方が遙にむずかしいのよ。その天下の理を果して何人の良人が心得ているでありましょうか。クサンチッペになることは本来の性に逆らっているから、デスペレートになった揚句というおそろしいわけ合いで、我ながらのぞましくない仕儀です。どうもありがとう。
てっちゃんは私が留守のとき林町へ電話をかけた由です。きっと会いたかったのでしょう、電話して見ます。
『季節の随筆』、本当にそうね。私が折々感じて書いたりしていること御同感の節もあるでしょう?亀戸に住んだりしたの「くれない」以前なのよ。そのことについても私たちは何かの感想を抱きます、外部的にそんなことの出来にくいということのほかにも。旦那さんはゴの先生をよんでやっているそうです。「父ちゃんゴに余念ないよ」健造もこういう表現をします。もう六年生よ、来年は中学よ。向いの下宿に父さんが二つ部屋をもっていて、その一つの方をこの頃は健ちゃんの勉強部屋になっていて、父さんは大いに督戦係よ。面白いことね。ター坊は踊を一心にやっているし。
丁度中学の二三年というときに父母が急死して一家離散して育ったという人が、自分の家や妻や子に対してもつ感情というものをこの頃すこし理解します。おれのうち、おれの何々、大変つよいのね。いろいろ面白いわ。似たもの夫婦ということの微妙さもいろいろと感じます。
似たもの夫婦という表現は、粗笨(そほん)ですね、よく観察するとそれはもっと複雑で、只同じ種類という形で似ているという単純なものではないことね。一方の或る特色を他の一方もそれと同じにもっているというのではなくて、一方のもちものを気持よく思ったりそれを肯定したり、或る場合にはそれに負かされる要素が他の一方にあって、それが組合わされ、似たもの夫婦というところが出来るのね。だから案外要素として切りはなせば反対なものがあるのかもしれないわ。たとえば、どっちかというと受動的な、或はどうでもいい大まかさで、一方の金づかいの荒さをそれなり肯定しているかもしれなかったりね。しかも、どうでもいい大まかさを持っている方が、生活の意欲の逞しいのは快いとする、その点では一致して、その内容では敗北していたり。なかなかこういう人間関係面白くて複雑ね。こういう小説面白いでしょうね。
小説の面白さこんなところではないこと?ねえ。私もすこし大人になって小説の真髄にふれかけて来たかしら。事柄が小説でない。それは勿論だわ。テーマだけが小説でもない。そうだと思えるわ。心理というものを所謂心理小説で扱ったのも誤って居ります。ドストイェフスキーの歴史からみた負の面はそこでしょう。
私のこの間のロバのバタバタも面白いわ、そう思ってみると。あなたの動機は清純なのよ。私の感情の方がケチくさいのよ。単純なめかたのはかりかたではそれきりよ。私自身これ迄そういうはかりしか自分たちの生活にとりつけていなかったようです。そこにはモラルがあって小説はないわ。私はロバになる自分をも心持の生々しい姿として、あなたにつたえ、しかもそこに私のけちくささだけに止っていない歩み出しをつけてゆけて、やっぱりこういう生活方が、高いと思うのよ。手間をかけてもね。前のようなモラルは、極めて一般的であって、それは私でないAでもBにでも特長のないものの道理の当然であってね。
生活のなかに美しさを多くもってゆくということ。そして、美しいものを、自分がながめるときの様子を、わきで見たらどんなかしらと思いました。美しいものをみる視線は不躾けでないということは味の深いことね。美しいものに対して私たちはごくつつましい眼つきを与えるか、さもなければその堰(せき)をのりこえて全傾注を面に現して、その美しさの裡に没入してゆくしかないのね。美しいものの上に視線を凝せばおのずから表情も変って、美しさはそれを見ているひとの面に映り栄えます。いろいろの場面で、自由にそういう美しさのうつっている顔をして暮したら、現代の人間の顔だちは一般にもっと気高くて情感的でしょうね。しみじみそういうことを感じながら歩きました。感動し得る、という感銘をうける顔さえ少いのですものね。何かそういうものとはまるでちがった日常の打算だの何かで面(メン)をつけたようなツラをしていて。それは人間の顔ではない、でも人間の顔だというところにバルザックの世界はあるのだわ。美しいものを限りないその美しさのまま、醜さをその醜さでちゃんとうつす顔、そういう顔、そういう人間の顔、をもっている女はすくないわ。全くすくないわ。
ねえ、こういう感情があるでしょう?美しさは固定していなくて、益〃その美さの中に誘われようとする心、美しさの中に自分を溶かそうとする願い、私の人間の顔は果してそういう願を表現するだけ修練されているでしょうか。
詩集の別冊をくりながらそれを考えているの。そして、頁をくりながらこの作者は、美しさにうたれたものが、辛くもわが身を我から支えて歩くそういう時の描写をまだしていないことを見出しました。あなたはどこかでもうお読みになったかしら。 
六月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十三日第三十信
二十日のお手紙、二十一日に頂き、きのうその返事ゆっくり書こうと思って先ず目前の仕事を片づけていたら林町から電話で、佐藤功一さんの死去のしらせ。
国府津のあの芝の庭覚えていらっしゃるでしょう?父のなくなったあとは、内輪のことで世話になったのよ、いろいろと。一通りというつき合いではなかったから、ともかく仕事をすまして、それから夕飯の仕度をしてたべて片づけてお客に会って、お湯を浴びて黒い服装になって、そして十一時ごろ家を出ておじぎをして一時ごろかえりました。この頃はお通夜と云えば、本当に夜どおしかさもなければ十一時限りぐらい。乗物がありません、夜なかにたべさせるものがなかなかない。ですからよ。
六十四歳でした。結婚前からの結核で、それを実によくもたせて子供も六七人いるし、その子供たちも別状ないし仕事もして、六十歳を越したのですからよく生活したという方です。派手な性格で、文筆的なところもあって、夫妻で句集なんか出したりしました。二十五年記念に、結婚の。私は子供のときから知っていますから。でも昨夜は何だかすこし妙な気がしました。あれはどういうのかしら。何だか余りサバサバ片づきすぎ手まわしよすぎ、要領がよすぎて薄情っぽい空気でした、万端のとりさばきかたが、ね。故人の周囲に情愛がめぐっていないのよ。変に大きい家ってああなるのでしょうか。林町でもはた目にはああだったのでしょうか、もっと間が抜けていたと思うけれど。余りとり乱しすぎない空気も変ね、こっちが心を動しているのが感じられるなんて、変ね。
うちの若いお客さんがたも家さがしが大変ですが、何しろこれ迄一度も貸家さがしはしたことがないというお人たちですから、さがすということがどんなことかのみこめないらしいわ。じきくたりとしてしまって。マア、うまく二人でやってゆけるようにと希います。旦那さんの方がとても持ちにくいたちだが、おくさんはまだそこがよくわかっていなくて、私はいくらか気の毒よ。全く結婚て不思議ね。お嫁に来るということの不思議さ。ねえ、見合結婚だからこそ結婚出来るということなかなかあるのねえ。音楽なんか分らない人の方がいいと云う条件でしたって。東京の女なんかいやだというのですって。でもこの浩子さんというひとは、貸家さがしを知らないということでは都会人でないかもしれないが、すべて都会風でちっとも田舎めいてなんぞいないわ。いろいろのことが一目で比較される、そういう面での東京女は手に負えないというわけでしょう。浩子さんというひとは正反対に率直なひとよ。小(コ)ていな小市民生活の中で大きくなって、きりつめた暮しにおどろかないのは本当に良妻です。本当にどうにかうまくやってゆけばよいと思います。三吾さんと二人のさし向い生活って、いかにも詰らなそうに考えられるけれど、そうでもないのでしょう、とにかく生活は大変よ、ね。
きのうはジャガイモが二百匁(一軒に宛て)配給になって、珍しく夜はジャガイモをたべました。パンもきょうは二ヵ月ぶりで買えるかもしれません。果物のたかさと品不足はひどくて、バナナなんてそれだけは買えないのよ。バナナが三本ぐらいにあとリンゴその他つめ合わせて二円ぐらいよ。お菓子だってそうですし。夏ミカンの姿なし、どこへ消えたのでしょう?ビワ、サクランボ、三尺下って箱のかげを踏まずの程度よ。バカらしくて。レモンの紅茶をのんでお菓子とクダモノの共通の目的を達します。
この間新聞に人口の大部分を占める一〇〇―一五〇円ぐらいの人の生活は最少限50円ずつ赤字だって。それはそうでしょう。よくわかるわ。あなたも準じて御不如意なのでしょうね、余程かしら。これ迄あなたはよく、くりこしをしていらしたけれど迚もああいう芸当はお出来にならないのが当り前だし、余り足りないと困るわねえ。実力は半分のわけですものね、無理なのじゃないでしょうか。困るわ。心配のようで。せめて、キチンとお送りいたしましょうね、来月でしょう?
こちらの暮しかたのこと。全くひとのことは何とかしがくがつくのですけれど。私は益〃仕事の出来る生活的空気を大切に思う気がつよくて、この間の一週間は、ほんとにいい試みでした。
私はこの三四年の間に、それより前の私ではなくなっているのよ、どこがどうかはよく分らないけれど、とにかく。あの空気の中にいて何となくつめたい汗をいつも腋の下に流しているようなのは迚ももちません。生活している空気でなくては。よかったのよ、ですから、すぐあのときパタパタ荷作りしてしまわないで。ああ可愛らしい直感よ、わがカンの虫よ、と思います。このカンの虫は今にきっと又何とか方法を見つけ出してゆくでしょう、本月末のがすらりと通って順調にゆけばまたそこで一つ見当もつきますし。けれどもマア一年を半分に分けてやりくってゆくというところが現実の落付きどころでしょう。それは最低のスタビリティーよ。私たちは生きそして仕事をしてゆく、というその原型的形態ね。林町で朝目のさめたとき感じる、あの、これでいいのかしらという気持、孤独感(生活からの、よ)は病気にするわ。
これでいいのかしら?それはそこにある生存の全体に向って感じる深い不安です、でも、そういうものは全く感じないでやっているのね、不安を感じないばかりか疑さえ感じないのよ、それは今のような世の中の空気の中で非人間的な、印象よ、何だか。
殿様的空気ということは現代ではおき去られた非存在的存在の感じでね。私がそういう空気に棲息出来ない生物であるということは、私の健やかさだし身上だと痛感いたしました。何だかだからさっぱりしてね、だってそっちの山道へは足を向けないときまったのですもの。人々の中へ。人々の中へよ。文学はそれを自然の方向としているのですし。こっちの方向で、さがす、工夫する、思案するという次第です。御同感でしょう?二兎を追うべからず、というのは生活の上でも二筋はかけられないという真理をつたえているわけね。そこのところにはなかなかごまかしがきかないから、面白くて。そこのところが何とかうまく二筋道になっていれば、きっとどこかにそれだけの裂け目があって。
このお手紙の「波乗り」の描写をよんで、私は本当にあなたは海の感覚を体で知っていらっしゃると思い、同じ詩の話にしろ、ここには、あの虹ヶ浜の波を体に浴びたひとの感覚があります。引きしおに全身がまきこまれるところという感じかた、ほんとうに溌溂と語られていて。そういう瞬間、子供たちは我知らず叫ぶでしょう?叫ばないでいるというのはむつかしいわ。面白さ、うれしさ、いい心持、こわさ、みんな一どきですものね。
「波乗り」につれて思い出します、あなたがいつかお話しになったこと、覚えていらっしゃる?波のりをして、のうのうとしてゆるい波に仰向いて体を浮かせたまま、いつの間にか眠っていらした話。夏の日はキラキラとしていて、何と横溢的だろうと忘られない印象よ。
海にあなたは本当に馴れていらっしゃるのね、荒しもなぎもよく知っていらっしゃるのね。波の底の地図も。海底のいろいろな様子で、潮がどんなに変ってゆくかということも。あああなたは、よろこばしい魚のように身をおどらしてそこにもぐっていらっしゃるのね、それから波と体とをやさしく調和させながら、高く低く、迅くおそくと力泳して、すこしつかれたときはじっと浮んで、いつか又波のうねりに誘われて泳ぎはじめ。
飽きることのない夏の日がそこにあるのです。
海にもおよがれるよろこびというものはあるのでしょうねえ。波が体にあたってとびちるとき、体の下をすべっておされてゆくとき波は小さい笑いのように燦(かがや)くし、独特のざわめきを立てるのですもの。自分のなかで縦横におよがれるとき、海は自分が海であるのがどんなにうれしいでしょう。
まとめる仕事、本当に、仕上げるからには大いに奮発いたしましょう、私はこの本は今日の生活からかけている生きる歓びをつよく、つよく脈うたせたいと思います。それが私のモティーヴです。明智をもつこと、そこにある美しさ。つよく意志的であること、それの可能であるために必要な科学性と感性との統一。バラバラにほぐされているものを互の正しい関係で自身のうちに発見させてゆけたら、それはやっぱりいいことでしょう、肉体のよろこびと精神のよろこびがどんなに一致したものであるかということにしろ、或人にとっては啓示かもしれないのですもの。では明日ね。 
六月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十九日第三十一信
面白いのね、二十五日午後のお手紙、けさよ。二十六日朝は二十七日朝で。
二十五日へのから先へ。しかし、それよりもっと先にお話ししたいのは、きのう、雨の中を原宿の方へ浩子さんとアパート見に行きました。新聞の広告を見てね、浩子さんがひとりで行って見て六本木の方への出場はいいし、あたりはいいしするけれど、何しろ四・半で二十九円五十銭、六畳では三十七円(!)というので決心しかねているの。この頃のはこういうのよ、ひどいでしょう?原宿から右の方へ行って、河に沿ったところですというの。その川には私心覚えがあるようで珍しかったので、それもあってじゃ一緒に見てあげましょう、と又出かけました。丁度あの並木のきれいな参宮道からちょいと右へ入ったところの細かい長屋の間に建っているアパートです。河というのは、この辺では両側がコンクリートの崖になっていて、丁度下落合あたりの川のよう。六畳は東南と二方に窓、その川を見下すの。四半は、西向で、めの前に黒くぬったトタン屋根が二重三重にあって、そこへ西日がさしたら、小さな四角い室は熱の反射箱のようになってしまう工合です。だから空いていたのねえ。きっとこの間九十二度という日(この二十五日でした)その暑気でにげ出したのね、来てくれてよかったと大よろこびでした。
それから渋谷へ出る大通りの角で蚊やり線香を買ってかえり、二人で青い豆の入った御飯をこしらえて、どっさりたべて、きょうは早ねよと十時に二階へ上り、すこし小説をよんですぐ眠りました。
浩子さん、きょうは又世田ヶ谷へゆきました。その前に千駄ヶ谷の方のアパートを見てから。私もそろそろ本気に仕事したいから家が見つかってくれるといいと思います。仕事する神経は分らないのが当然ですから、二階から下りて来ると、やっぱり話したい風で、対手にならないのも気の毒ですから。
きょうもむしますね。眼は本当に大事に大事に、よ。でも、わるいのはゴロゴロするんでしょう、やっぱり。
髪おきりになるといいわ。きっと本当にうるさいようでしょうから。水でサアと洗えたらいいお気持でしょう。女でもそう思ってよ。すこし大入道だって平気よ。もう私の目にはそういうあなたの御様子もちゃんとしまってあるから、アラなんて目玉は大きくしませんから。グリグリ坊主におなり下さい。
五月十一日号、どうしたでしょうね、きのうのうちに着いたでしょうか。ああいう方法を発見して、これからはすぐ計らえますね、電話かけてたしかめて、価をきいてすぐカワセつくって速達にしてしまえば、私が行こうとダラダララインにかけるよりずっとスピーディです。
『東洋経済』も全くそうでしょう、綜合雑誌についてのこともそのとおりです。まれにほり出しものがある、そういう程度よ。
海の連想はやっぱりでしょう?きのういつかお目にかけた海と陸との太陽というヴォルフの写真帖が出て来て、又くりかえし眺めてきれいだと思っていたところでした。私に泳ぎ教えて下さるという話、何だか不思議な幻想のようにリアルよ。虹ヶ浜の夕方や夜を知っている故でしょうね。自分の体がそうやって海に入っている感覚や、あなたにつかまっている気持や、ぬれて光る体やまざまざとして、想像される、というよりは感じられます。
ひところよく通俗小説に海を泳ぐ男女がとらえられましたけれど、本当はそういうポイントとは全然ちがった美感があっていいわけです。実際それはあるのだけれど、何というかしら、そういう運動の中での感覚は感覚そのものとして生命的で、自然的であるから、よほど作者のつかみが複雑でないと感性的な面ばかりになったりしてしまうのでしょうね。
『文学の扉』『たんぽぽ』明日お送りいたします。武者さんは相も変らず、よ。同じポツポツ文章に年功がかかって、あのひとの顔や頭のようなつやはついて来ていますが、独断と単純な――歴史性のない人間万歳にみちています。それでも、ああいう風に単純に人間に立ってものをいうひとは少くなっているので、やはり何かの魅力なのよ。明るさのレベルは、彼が講談社から本を出して平気なような、そういうところからも出ていて。
新書の『人生論』なんかみると、恋愛と結婚のことなんか古い古い考えです。恋愛が結婚の中で消えてしまうのが当然という風に云っている。これで、彼の女性とのいきさつのルーズさも分るでしょう。そう考えているのだわ、ですから結婚の外に恋愛したりして、そっちはそれでズルズルに分れたりしてしまうのね。
本当のオプティミズムが身につくためには、大した勉強や砕身がいるのですもの。武者さんはそれとは反対のひとだわ。持ちものだけで満足しているひとです。自分のもちものを、客観して疑うということのない、その故の明るさです。持たないものについてはあきらめている、大した東洋人よ、その点でも。それに第一ああいう風な羅漢(らかん)さん的完成そのものが古い東洋です。おびんずるだもの、撫でられぱなしだもの。(おびんずる、って何だか御存じ?それは浅草のカンノンさんなんかにもある妙なつるりとした坊主の坐像で、自分の痛いところをなでて、おびんずるの同じところをなでると苦しみがとれるというのよ。さし当りあなたはトラさんの眼[自注6]をなでて又おびんずるの眼をなでて、益〃ひどいバチルスをお貰いになるという工合)
島田の電車は、てっちゃんのうちの前の川の、あっち側かこっち側を走るのだそうです。あれは島田川?島田川と云えば、いつか又ゆっくり行って見たいものです、用事なしで。只あのうるささには全く閉口するけれど。光井へゆけば光井へ、ですから。あなたのおかえりになった時分とは何倍かよ、何しろ全部軍事的中心地ですから。何という変りかたでしょう。そういう空気が心理的にいろいろ影響しているのよ。もう十分御察しのことと存じますが。この間多賀子から手紙で、何だか具体的には分らないが、この頃はおえらがたが目先にチラつくので話もそういう傾きになっておばさまも云々とありました。
私の方は金曜日に申しあげたように八月一杯ね。自分ではなるたけ七月一杯としたいと思って居りますが無理でしょう。
そちらへ、家は暑いと云えないわけだけれど、でもやっぱりそう能率はあがらないから。去年は二階にいて、うだって疲れて、ホラ眼が変になってしまったでしょう、ですから今年は下へおりて勉強いたします。下の四・半に机を出して。うまくあんばいをしてやりましょう。一日十枚はかけるでしょう、小説でないから。そこに望をつないでいるわけです、私は一心に、親切な真面目なものをかくつもりよ。
『私たちの生活』は七月五日ごろに出来上ります、さっぱりした可愛い表紙よ。藤川さん本気でかいてくれたから。つよい動きの感じはかけていますが、この画家の真面目さや清潔さは出ています。
おや、前のうちで電気チクオンキが買えたらしいわ、なかなかいいレコードがきこえます。ラジオのようではないから。この頃はボーナスシーズンよ。ワグネルのタンホイザーか何かをやっています。ここの家よ、ピアノのおけいこをしているの。こうやってたまにきくのはうれしいけれど、しょっちゅうになっては閉口ね。
達治さん、では九月まで大丈夫ということにして置こうというお話しでした。何か気になることね。又本当におっしゃったとおりね、なんかというのは困るわねえ。でも八月なんかと云って、もうすこし待ってなんかというのわるいし。それに東京の八月、御本人もそれは戦地へ行ってたのだからと云えばそうでしょうが、お互につらいわ。案内する方も。九月ね。どうも。あっちは九月でもいいのでしょう?こっちへ何のお話もありません。
私がいくらかやせたと云ってもホーとお笑いになるでしょうけれど、ほんとにいくらかやせたのよ。やっぱりバタなし牛肉なしたべるもの何となくなし(お菓子なんてまるでないから)というのがきくのでしょうか。血圧のことは本当なのよ。あなたはユリの円さにおどかされて御心配なのだけれど、みるひとがみればユリの円さは溢血的丸さからちがっていることを申しますよ。栄さんの方は実際血圧がたかいし、溢血的傾向なのよ。私は父のようよ、或は西村の祖母のようよ。溢血はおこさないで死ぬまで元気で、わりあいあっけなくさよならのくちよ。それは殆ど十人が十人そうだろうと云います。ですから、あなたもどうぞそのおつもりで(?!)(いくらか、ゆするみたいですみません)
さて二十六日のお手紙。「深刻」かっこつきのこと。自負なんかしていないわ、まさか。それから歪みのげてもの的興味も肯定しては居りません、それは大丈夫と云ってしまっては又浅くうけ合っているようですが。そういう「深さ」「神経」には私は調和出来ないたちなのだから。ほめて苦笑されるけれど「ロバとキリンの間を往来している存在に対してのみ」は適評ね。
これらのことにつれて沁々と思うことは、武者さんの例にしてもね、私たちは、本当の明るさに到達するだけの努力を怠りがちなように、本当の面白さに到達するだけの精励をなかなかしないのね。「尤も」ということは低いレベルでは常識一般への妥協にすぎないし、それより一寸さきだと道学流ですし、それより先は「哲学的」で、もっと人生の味を求めるものは、それよりもっと高い精神の美に達しなくてはならないけれど、これ迄の文学というものを考えると、尤ものつまらなさにせいぜい「哲学的」レベルで抗しているのね。トルストイ、バルザック、スタンダール。日本の小説はせいぜい「尤も」に抗そうと試みているという工合。文学に新しい面白さがいるのだわ、そしてそれを得ることは大した大したことなのね。これ迄の文学の観念から溢れ溢れなければならないでしょう。しかし果して何人の芸術家が自分の輪廓を自分でのりこすでしょう。
作家の心理(作品のかくれたバネとなっている)というものは、この頃実に微妙になって来ていて、ひねくれているわ。たとえば主人公に老人をもって来る、何となしの流行。『帝大新聞』に感想かきましたけれど。文学が一応常識からは歪んだようなものの正当さ正常さの人間価値を見出して、更にそれより高くなろうとするに多くのものが力及ばないというところには、これはカッコつきでない深刻な課題があるのね。そういうことを考えるときのロバはクサンチッペではないのよ。ああ、でもロバという名をつけたのは誰なの、あなたなの?それとも私?

[自注6]トラさんの眼――顕治トラホームに似た眼疾を患った。 
 

 

七月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月三日第三十二信
三十日づけのお手紙、きのうの朝。
それから、きのうは電報をありがとう。丁度午後から留守していて、その間に浩子さんが一寸出かけた又そのルスにあれが来たので、浩子さんは、雑司ヶ谷のあの分室まで行ってとって来てくれて、白木屋の角で会ったらすぐわたしてくれました。
浩子さんいいところがあるでしょう?大変律気でうれしく、何だかおキクさんのよかった面をふっと思い出し、あのひとも北海道だったと思い、何だかいろいろ感じながら、霊岸島の方へ歩いていました。(というのは、きのうは寿江の誕生日で林町一同夕飯をたべたので、浩子さんも一人だし誘ったの)
あれは大助りよ(電報)東京官報ハンバイ所なんて電話がないのね。ああ閉口と、行かなければならないと思っていたからほっといたしました。ありがとうね、よく早く知らして下すって。とにかく着いてようございました。
私の勉学はそろそろとよ。
今も、下ごしらえにアランの本を一寸よんでいたら思わず何か笑い出すところがあって、急にこれを書き出しました。
「礼儀というものは無関心な人たちのためのものであり、機嫌は上機嫌にせよ不機嫌にせよ、愛する人たちのためのものなのである。お互に愛し合うことの影響の一つは、不機嫌が素直に交換されるということである。賢い人はこれを信頼と委任の証拠と見るだろう」
私は思わずクスリとして急にこれを書きたくなったのよ。先日のロバの声思い出して、ね。何となし滑稽でしょう?(アランは勿論、そういう信頼と委任が度をこすところに家庭の悪徳を見ているのだけれど。)私は実にあなたを賢い人として扱っているということになるし、私の信頼と委任とは随分大きいわけねえ。ロバとキリンの間の往復という、天来の珍妙性をもって信頼される良人というものは何たる天下の果報者でしょう(!)
きのうも九十度になりました。私は手が又はれぼったくなりましたから、気をつけてオリザニンのんで、今年の夏は下へおりて、四・半で勉強します。去年の夏は多賀ちゃんがいて、私は二階にいたので眼が変になるようになってしまったから。今年はいろいろ工夫をこらして、うまくやらなければなりません。それに可笑しいのね、私の体は。風の吹きとおすところにいては仕事出来ないし、ひどくつかれるし。せんぷうきの風なんてじかに当るのは全く駄目です、それで二階がたまらなくなるのね、しめますから。むれる一方で。
若い人たちの家、それはいいのがないのも実際です、が、旦那さんの方が、消極的我ままで、きまらないところもあり。私はこういうタイプ迚もやってゆけないと思う。よくあるのね、女にも男にも。男のこういうのは、本当によくあります。ちっとも生活の輪が内からの力でひろげられて行かないところ。こういう性格も描くべきです。二人を比較して実に対照的よ。おくさんの方は、自然に反応して自然にひろげられてゆく、そういう傾向ですから。
Kの殿様的我ままの消極性も似ていて。
今の勉強が沈潜しなくてはならないというのは実にそうね。個人の範囲のことでなく、そうなのだと思います。そのことについてもいろいろ考え、私は会なんか実に出ない方よ。会歩きが馬鹿に人間をすることを痛感しますから。いろいろの場面に書かない、しかし会はもれなく出る、そういうことに意味はありません。出たら随分いろんな会があるけれど。たまに、きいて見たいことがある場合だけ出ます。物事がどううけとられどう判断されているか、謂わばその間違いのなかに或ものが語られているときがあってね、何故それがそう誤られて考えられるかということのかげに大きい真実が見られるような工合のときもあって、大いにうなずくこともあります。
会の話やなんか、十分語らないので、そちらで御覧になると何だか変てこりんなのでしょうね。私がそういうところへ出てみる気になるポイントがはっきりしないでしょうね。たまに、こっちではっきりした一定の判断をもっていて、或る現象がどう見られ語られるかをきくということも、何かである場合もあります。だって、そういうもので現実を動かそうと出来ぬ相談をやっているわけですから。
本質的に、会へがつがつ出るというような心理ではないから御安心下さい。
こういうこと、そして又家のこと。ほんとに一通りのことではないわね、どうでもいいということではないわ、やはりそこに態度があるべきですから。
北原武夫が『都』に、作品の世界の客観的確立ということをあのひとらしくかんちがいして、作品の世界だけが一箇の作家の存在にとってリアルなものであって、実生活は空な抽象だということを会得してはじめて芸術家だ、なんかと云っています。誰かが、この頃の作品の中に作家の生活的実質がうちこまれていないのに不服で、作家の俤(おもかげ)のない小説はつまらない、という風に、これも二次的な理解で云ったのに、北原がくってかかって云っているのです。現代の或種の作家のくいちがいや、ピントのはずれたしかも本来は健全な欲求だの、高びしゃでしかも空虚な自己の生活的タイダを肯定している北原の論理や。
実生活がそのまま小説にならない、それでは自然主義時代だ、というところ迄は分っていて、それでは、とその先一歩出るともう混迷に陥っている。その混迷で、現代をしのいで行かなければならないとしたら、およそそれは察しられるというものです。
作家たちの或人々は、人間の進歩の大道は、一つの次から次へさけがたく動くもので、トルストイのモラルの後の世代はどうなるものかという、その自然さ当然さがどうしてものみこめないのね。一段一段と階段がつづくということ、私たちはどうしたってその段々に足をおかなければのぼりも下りも出来ないと思いきめなくて、何だか俺の足に合う間(ま)の段々を出せ、だの、大体こう一段一段とあるのがつまらないとか云っているのね。それで苦しい思いもして、主観的なその苦しさのつよさによって、我から気やすめもしている傾がなくはないのね。自然主義の文芸思潮からの成長ということはこれ迄考えられていたよりも更に更に重大な、そしてまだ未解決未達成な文学上の課題ですね。世界文学として云えるのだわ、このことが。
自然主義の時代から、溢れ出し、或はころがり出した、が、本当の次代のものにはなかなかゆきついていないと思います。そのことがもっと実感されていいのね。よくこの点がはっきりすれば、ころがり出した勢で、うしろの方へころげこんで、本質は自然主義以前というようなホラ穴へころがりこむわけもないのだけれど。
いろいろ考えます、一九一四年の経験で、フランスの作家なんか伝統の中にあるカソリックの精神へ随分すがりついて身をもたしたでしょう?ジイドなんか筆頭です。イギリスの作家は、過去のものの崩壊を誇張することで身をもたした、ローレンス、ジョイスその他。現在、それらの国々の作家は、どんな勉強しているでしょう、どんな身のもたせかたをしているでしょうね。いろんな小さい形の精神のマントは、はがれたのだし。ヨーロッパの真面目な作家の仕事は、今日、或は毎日細かい日記をつけておくことかもしれませんね。小づかい帖は歴史ですから。そういう風に、自分たちの世代の経験をいとおしんで居る誰かがあるでしょうか。たとえば、そんな婦人作家があるでしょうか、ねえ。コレット婆さんなんかやっぱりパリで、おしゃれの店出して、それがフランスの外貨カクトク法だからとモードこしらえているのかしら。
この頃深く感じるのですが、人々は普通、あのことをあのこととして、このことをこのこととして理解することは出来ても、あのことと、このこととの間のつながりを見出す力は非常によわいのね。一寸頭のまわる人間は要するに、そのつなぎめのところでいろいろうまく立ちまわるのね。よいことも醜悪なことも何かそのつなぎめのところに発生いたしますね。実に妙なほど、神経にぬけたところ、頭のぬけたところがあるのね。例えば歌よみの吉植庄亮という男は千葉で大地主で多角経営をやっています、代議士よ。蘇峰そっくりな顔をしている。そして自分で百姓百姓という。この男が、米のことでいろいろ話します。四五年前、ゴムローラーで白米にすると、同じ一石に米粒が多く入って百姓はそれだけ損をする、米もくさりやすいということで、いろいろ運動した。竹内茂代という女の博士が白米廃止運動をそのときはじめ「これだけですね、ものになったのは」と云っている。吉植の考えのポイントが、竹内さんにどううつっているのでしょう。竹内さんはお医者として云っている、賛成しているつもりなのよ。こういう組み合わせ。ひとの説に賛成するしないの機微。バルザックやスタンダールはこういうモメントをどう描破しているでしょうね。
それから、絵で描いたら頭部が半分しかないような人たちが集って、ゴの手でも評定するように、妙な形のマス目で、国際のいきさつ、動きをああこう喋り合っている光景、これはブリューゲルの世界に近いし。
では金曜日に又。そちらの番地半分だけ活字ね、面白いこと。眼を呉々お大切に。 
七月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月七日第三十二信
これは、四・半に机を出して書いて居ります。きのうあのお二人は愈〃引越し完了よ。日曜日でしたが、その前々夜やっときめて来て、六畳一つの集合住宅で二十五円也。日曜日引越すと云っていたのですが、午前中ぐずついていて、どうなるかと思ったら越せました。この頃に珍しく俥夫がすぐひきうけてくれたのですって。
おかつぶしをあげたり梅干あげたり大いにおばさんをやって、それがすっかり出かけたのが四時すぎ。さてそれから四半の廊下の隅につっこんである小さい方のテーブル出しかけて布をさがしてかけて(手が汗だらけだもんで、こすれて痛いから)あっちこっちあけて、スダレかけて、さて、と昨夜はそこに腰かけてかなりエンジョイしました。
十日にあのひとたち来たから殆ど一ヵ月ね。浩子さん本当に名残惜しそうでした。でも今度引越す代々木上原というところのごく近くに女の従姉だかが家をもっていて、いろいろ世話して貰えるし、いいでしょう。浩子さんはどこへ行っても周囲と自然にやってゆける性質ですから。幸きのうはいく分しのぎよかったから引越しにはもって来いでした。
[図1、家の間取り図]
私もここへ越して来て大変楽よ。茶の間とはカギの手にこんな工合に出ていて、左手の二階の段々のつき当りだの台所の方だのから北風が通って下では六畳の次に涼しいのよ。只西が射して弱りますが、でもそれはね。すぐ格子窓の外がおとなりと竹垣で、おくさんが台所でことことやっているのや「ほんとうにひとばかにしていますわ」と、旦那さんと喋ったりしているのもきこえます。マアこれからもうすこし趣向をこらして、これから三ヵ月(九月)暮すに工合よくして、大にがんばらなければなりません。
がんばらなければなりません、というところに御推察でしょうが苦衷があってね、目下まだ十分がんばりがきいているとは云えないのよ。暑さにまだ馴れなくて閉口頓首して居ります。お米をほして虫をとったり、うどんほしたりしていたわ、この二三日。引越しさわぎの落付かなさもありましたが。こういうときって実に可笑しいわね、さあユリそろそろがんばって!と自分に云って頭だかおしりだかとんとんと、お茶を紙袋に入れるときみたいにトントンとやると、大抵何とかまとまるのに、目下のところ、かためそこねたところてんよ。さあ、さアなんて云ったって、上っ皮がいくらかかたまって、しんがとろりでどうも頭の中が湯気の立つようで。ほんとに可笑しいこと。自分に仕事をさせるのにも骨が折れるときがあるというのは夏景色ですね。
でもこうやって、廊下歩いても台所コトコトやっていても、縞の布のかかった机が見えていると相当食慾的だから、きっとこれからうまく行くでしょう、どうぞ御心配なく。そんなで八月中に何とかなるのかなとお思いでしょう?何とかなるから面白いわね。
自分に仕事させる、でこんな話があるのよ、私はこれ迄冷蔵庫というものなしでやって来て居ります、夏冷いもののまない方だから。ところが、この頃玉子にしろ牛肉にしろ配給の都合で、肉なんかあるとき勝負で、きのうなんか二ヵ月ぶりですこし買えました。バタにしろそうだから、すこし力のつく食物を心がけるためには冷たくしておくところがいるのよ。で今年は一つ買おうかと云って見たら、迚もうちには買えないようなのばっかり七十何円、八十何円。四五十円のなら氷一貫目で、一昼夜どうやらモツのですが。もしみて、その位のがあったら買おうと思います。そんな風になって来るのね。もう久しくバタもたべず油もきれていて、それでいくらか、かたまりそこねのところてんかもしれないわ。みんな暑気がこたえるらしいわ今年は。どうぞあなたも呉々もお大事に。本当に、よ。暑気に対して体力が負けている感じはいやね。私は割合夏はがんばれる方だから、今のところ珍しくて、調子が分らないようです。どっこも悪いのではないんでしょう、熱もないし。一年の間の食物の変化なんかがこういう工合にして影響をあらわして来るのでしょう、きっと。今年の夏はきっと仕事のある人たち、何だか精力的でないと思っているかもしれないわ。お米にはこの次の配給のとき一キロ青豆のほしたのがついて来ます、お米の代りに。
こんなこと書いている、これも一種のウォーミングアップかもしれないからどうぞあしからず。
仕事の下ごしらえで、アランのちょいちょいした論集をよみました、幸福についてや何か。アランはこの二三年来日本に流行して紹介されるフランスの哲学者よ。アンリ六世高等学校の教授。直観的良識をアラン独特の感性にとんだ表現で語ってゆくひとですが、日本にアランのはやる傾向の意味もわかります。アランには体系というものは一つもありません。一定の立場というものもなくて、あればそれは全面的というようなもので、強制のない美しさをあらゆることに求めているところがある。おわかりになるでしょう?ちょいと面白いところもある。だが、文学について又人生態度について不十分なところ或は間違っているところもあります。いつかアランが詩と散文について書いている点で、不備だったこと書きましたろう?詩は真直に立っている(精神が)、散文は現象とともに走りまわっているものだ、ということで。アンドレ・モロアはこのアランの弟子ですって。アランのところでは辛うじて良識の域にとどまっているものの見かた(もう一歩で常識、保守に入りこむところを)が、お弟子ではちゃんと地辷りしていて、あの如き有様なのね。
そう云えば『誰がために鐘は鳴る』の下巻出ましたね、お買いになった?まだ?送りましょうか?机の横にはあの平たく低い方の本棚(あなたの)があって、そこには河出の世界文学叢書と、岸田の『美乃本体』だの小田の『魯迅伝』だの、ちょいとよみたいものも置いてあります。
文泉堂という本やがあってね、これは『古事類苑』だの何だのの月賦販売者ですが、いろいろの名士のところへまわって歩く、妙な中爺ですが、この男はいろんな人間を見ているものだから一種の哲学をもっていてね。伊藤永之介の書斎を見ましたが、寄贈本ばっかり並べています、あれじゃ先が見えて居りますハイ、と云っていました。こういう云いかたにはいやなものがあります、しかし本当のこともふくまれている。ほんとにしろ、いやだけにしろ、いろんな人をとおすところに本はおかないものだという教訓がここにふくまれて居りますね。うちの茶の間には置場がなくて万やむなく二つ本棚をおきますが、それにはカーテンがかかっていて、それも実におかしいカーテンよ。というのは、こっそりあけてなんか迚もみられないの。というのはね、この頃、ハリ金、金棒なしですから画鋲でとめてあってね、布がおもいからうっかり手をさわるとすぐポロポロにこぼれてとれておちてしまうのよ。素晴らしいでしょう。文泉堂もその中までは見られませんからね。一つは日本文学史関係の本棚、一つはまだちゃんと整理してなくて、ガチャガチャ。書斎に人をとおせるのは学生時代だけでしょうね。
なるほど、こうやって机に木綿の布をかけるのは妙案です、本当に楽よ、手がこすれてもキューキューしていたくなくて。それにきょうは私一人でまだ派出婦来ないから、黙っているのもいくらかいいらしい。浩子さんは、ものを考えつづけている人の顔に馴れないからキゲンわるいのかと心配するだろうと思って、下にいると、ついつとめても話していたから。何だかこうやって黙っていると、すこしおなかに力がたまって来るわ、益軒の「養生訓」に、おしゃべりするなということが多分ありました。それは当っているわ。
この本箱に『支那女流詩集』があります。女の詩人はすくなかったのね、各時代を通じて二三首ですって。支那では歴代の集、「唐詩選」、「三体詩」、「唐宋詩醇」のようなものには一つも女の作品はいれなかったのだそうです。やっぱり支那ね、あんな魚機のような作家もいたのに。
ゆで玉子をたべながらチラリチラリ頁をくりますが大して面白いものなし。ところが妙なことで思い出しますが、戦国時代の一人の女のひとが「秋の扇とすてられたらば」という意味の「怨歌行」という詩に、新しい斉(セイ)の※[「糸+丸」]素(ガンソ)(真白い練絹)の鮮潔霜雪のようなものを裁って合歓の扇となす。団々として明月に似たり、君が懐袖の中に出入し動揺して微風を発す。云々。団々として明月に似るというの面白いし、そういえば、私たちの小さかったとき支那団扇(うちわ)のまねをしたダエン形の絹団扇があったわねえ、あなた御覧になったかしら。絹のふさなんか一寸ついたのが。
今年は、軒に絵のあるギフ提灯もつけてみるのよ、大した甘やかしかたでしょう?季節のその位のことぐらい。夏は夏をうんとたのしんで勉強しなくては、ねえ。涼風おこらざれば、みずから西風になって吹かん、でしょう?こうきくと、いかにも颯爽(さっそう)としているようですが。
ね、下にいると面白いことよ、いろいろあたりの生活の動きが響いて来て。水を出したりいろいろしていて。今夜もうんと早ねをしてみます、ダルク眠たくなくなるように。明日は朝そちらへゆくつもりよ。さもないと青いものを入れられませんし、なるたけ早いうちにお中元をすましてしまいたいから。ほんとに落付ききらないうちに。 
七月十五日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 徳山駅にて(徳山市街の一部(2)、徳山市熊野神社(3)、縣社遠石八幡宮(4)の写真絵はがき)〕
2、ここのエハガキはおやしろばっかりで中学のがないのね。あればいいのに。珍しく涼しくて混んだ汽車でも大助りでした。この分でしたらきょうも曇天ね。ここまで来て二時間も待つのは可笑しいこと。汽車の中では、ヴォードレイル伝というのを読み初めてこの詩人の生活を知りました。十九世紀のロマンティストというものの意味も突めて考えながら。ハイネとの比較。
3、大雨の被害は静岡までに目につきます。泥田になってしまっているところもありました。全国に大雨だったから相当でしょう、「いやんなっちゃうなア」と見ながら悲しそうな声を出している男あり。この男は盛に商売人の合同のことを話していました。子供づれで北海道から九州へゆくという一家があったり。いつもよく今頃旅行して、崖のくずれたのを見たりいたしますね。
4、ああ。巖松堂の六法全書は出版九月頃だそうです、南江堂の本は送るようにうちのひとにたのみました。うちの留守のひとは菅野きみ子と申します。そのお母さんも来てくれています。本がついたら、ハガキでもおやり下さい。よろこぶわ、きっと。かけぶとんお送りいたしました。 
七月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡光町上島田より(封書)〕
七月十六日午後
今四時ごろ。鶏の声のきこえる二階でこれを書きはじめます。
私は十四日に立って、徳山からのハガキ御覧になりましたろう?十五日の七時前につきました。きのうは達ちゃん歯医者だの挨拶だので大多忙で、夕飯を終ったのは十時すぎました。それから持って行くものをつめたりして、それでも皆が床についたのは十一時半ごろ。
今度のはね、いろいろの点が前とちがって又あとから広島へ行くということも出来ないかもしれないし、一切がひっそりで組合のひとたちが「柔(やわ)うにバンザイやりましょう」と本当にやわうにそれをやるという式でした。だから平服でお出かけよ。いろんなものを、ひきつれて出かけてはいけないというわけで、私たちは駅までときめ、友ちゃんだけがずっと一緒にゆくということにきめて床につきました。二人にとっては眠るどころではない夜であったわけです。
けさは皆早おきで、そこへ速達が来て、あれは実にいいお手紙であったし、達ちゃんにとっても自分の感情の一番まともなところへ、まともにふれて来たものであった様子でした。兄さんにこんな手紙もらった、云いつけは必ず守るからよう申して下さいと本気に云って居りました。そして私もあのお手紙拝見したのよ。手紙のことなど強い実感が響いて居ります。達ちゃんもいろいろと前より深い感情と経験とをもっていて、あのお手紙はどんなにかよかったでしょう。お母さんは、今度達治が戻ったら三人で東京へ行かそう、と云っていらして。――そのお気持もわかるでしょう?
九時四十二分の上りで立つので、輝を野原のおばさんがだっこして、友ちゃんは持ってゆくふくろもったりして、それでもあの町筋では目のそばだつ一行が駅へ着いたら、切符は入場券六枚というので、それで友ちゃんの姉さんの文子さんやおせむさんや私たちが入り、うちの時計がすすんでいるというので安心したらもうぎりぎりでした。すぐ汽車が来て、大いそぎでのって、達ちゃんはパナマの帽子を振るものだから、それが白くてずっとずっと先まで見えました。ずっと遠くで、橋のあたりで又一しきり高くふるのが見えました。組合のひとたちは構内に入れないから、そっちの畑の方に出ていたのです。白い帽子が見えなくなって、それから暫く立っていて、それから家へ戻りました。
うちの二階は、床の間にお母さんが端午のお祝の兜と太刀をお飾らせになって脇には花が何とか流に活かって飾られました。二階の六畳のつき当り一杯に友子さんのタンスがはめこまれていて、うちの様子は随分変って居ります。そんなものを眺めながら野原の小母さんと休んでいて、おひる皆でたべて「もう広島へついてじゃろう」と云いながら終りかけたら、あのお爺さん野田、あの人が来て、又改めておひるを出して私が給仕して、お母さんは横におなりになりました。気づかれで盲腸がすこし変におなりのようなので。
二時のバスでおせむさんがかえり、私はお母さんの横になっていらっしゃるわきで、いろいろ話して、さて、と上って来た次第です。
丁度、もう一時間余で達ちゃんが出るというとき、河村のおばさんが大あわてで入って来て、長男が現役で入営しているのが急にあっちへわたることになったというので、徳山の製塩につとめているおとっさんを電話でよび出してかえって貰うことにしたり、混雑は二重になりました。
達ちゃんがのりこんだその汽車から河村のおっさんがびっくりした顔でおりかかるとおかみさんが、ああ、あなた、そのままおいきませ、というわけで、どういうわけだったのか河村のおじさんは黒い上着をぬいで、縞のシャツだけになって、すぐそのままのって行きました。どこもかしこもこういう風景。
達ちゃんは伍長ですから、こんどは責任を負う立場だそうで、修理なら小さい工場一つをもつようになるそうです。仕事その他の見当は勿論全然ついて居りません。
家の方は合同はしていても内容は個人経営の部分もあって、達ちゃんの代理は山崎の峯雄さんがやってくれるそうです。さもないとYという人が自動車をつまりは自分のかせぎのために使うということになるのだそうです。やはり二台のままやって行って見るそうです。あとで買ったフォードは中古で、五千いくらかだそうですが、これは無理をして買ったのではないから楽なじゃありますよ、とのことです。これが借金になっていないのは大助りね。半年、今の稼ぎがつづけばいいそうです。〔略〕
輝は可愛いわ。私は、あらと心の内におどろくのよ、あなたに似ていると感じて。そして実に可笑しく思うの。友ちゃんは友ちゃんで、あらと思うところがあるのでしょうし、お母さんはお母さんでやはり俤をそこに認めて一層可愛くお思いになるのでしょう。こういうところ、滑稽で面白いわねえ。三代に亙る女性たちの生活だけれど、そういう点では執拗に妻たちであるのね。
実際私は友ちゃんを思いやるわ。当分、どこへ行っても(うちじゅう)どうしても感じる空虚の感じは、友ちゃんの場合痛切にむき出しでしょうから。輝がいて仕合わせだけれど、只、それはまぎれるだけでね。まぎらしのすぐ裏にどっさりの語られない思いがあるのだから。
こっちももののないことは東京と大差なしです。お豆腐もなかなか手に入らず、野菜も少い。お魚もなかなかこっちへ迄はまわらないうちに売切れてしまう。牛肉がそれでも買えて珍しいと思います。玉子もあるの。お菓子も出来た時にはある由。七分づきのお米です。でもやっぱりおかずに困っていらっしゃるのよ、東京と同じねえ。何にしようときめるとその材料がない、それで又考え直しという工合。
明日あたりお墓詣りいたします。十九日二十日は野原。二十一日にこちらへかえって、もし達ちゃんにもう会う折がなさそうならば二十四日ごろにでも立つかもしれません。
きょうは友ちゃんも達ちゃんも涼しくて、そして雨があがっていて大助りでしょう。
(ゆり子はん、おふろへお入りませとおっしゃるので一寸入って来て)
お母さんもつまりは商売をぱったりやめられもせず、で却って気に張りがおありになるらしく、くず折れては決していらっしゃいません。私が来てよかったとくりかえし仰云います。よかったことね。新しい顔が一つ加ると、家の者ばかりでしめっぽくなるのがなおるのですって。東海道の不通が分ったときには、私は閉口して困ったけれど、それでも間に合ってようございました。
蓑(みの)を着た人夫がどっさり出ていて、そこいらに腰をおろしたさんだわらがいくつも散っている景色は物々しい眺めでした。汽車はそういうところは徐行いたしますしね。人々は窓からのり出して線路をのぞくのよ。主に静岡までです。
ここも汽車に近いこと、山にこだまする汽笛の音を久しぶりでききます。きのうはトラックが七十台うちの前を通ってゆきました。うちのは年式が古すぎて徴用にならないのです。うちの方はいろいろ余り無理しないで、やれるところ迄やってゆくから心配しないように、よう云うつかわせということです。
心から達ちゃんが早く無事にかえることを願います。健気な女のひとたちの勇気が使いはたされてしまわないうちにね。
輝が風邪をひくといけないから、友ちゃん余りおそくないうちにかえって来る筈です。達ちゃんが友ちゃんと輝のかえる汽車まで送って、そして来れば友ちゃんは送られた心持ものこされて何かしのぎよいでしょうと思って。自分たちが遠ざかり、そこに立っていた人を思い出す方が、段々小さく小さくなって行った人を思い出すより楽よ、ね。 
七月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月十七日島田からの第二信
十五日づけのお手紙、けさ拝見。割合早いことだと思いました。私は日曜日には立てなかったのよ、東海道が不通でしたし。月曜でした。そちらもやっぱり涼しかったのね。
輝はきのう(十六日)一日広島でくらしたのですこし疲れ亢奮して夜珍しく泣きましたって。
友ちゃんと河村夫妻、昨夜八時すぎに戻りました。河村のは到頭息子に面会出来なかったのですって。練兵場からあっちへは入れないのですって。そこで達ちゃんがいろいろ骨を折ってやって、お金だけことづけてやった由。達ちゃんが出たあとに憲兵が来て、やはりいろいろの準備はすっかりして行った方がよいだろうと教えてくれました。
前夜迄達ちゃんは先のように体一つで行くつもりだったのよ。けれどもいろんな様子からどうも其では不便になりそうなので、すすめて、すっかり一応もってゆくことにしてものつめを初めたの。ロバの判断でも適中することがあります。
そして、私が一緒に広島へ行ってやろうかと思ったけれど、まあ、と考えて友ちゃんと水いらずにして、宮島から電車で己斐(こい)の一つか二つ手前の何とかいう海水浴場で午後ずっとゆっくりして、そして夕方友ちゃんをのせてから市へ行けばいいと云っていて、そのつもりにしていたの。そしたら急に河村さんと同心せて、ということになって、そのために達ちゃんあっせんしてやって、つまりは福屋にいたのですって。何だか気の毒でした。でもそれでいいのかもしれないわ。達ちゃんは輝の着物を買ってやって友ちゃんもって来ました。これが好きと云ったというその布には、まるで輝のような顔の人形がついているの。
よかった、すっかりそろえて行ってよかった、と友ちゃん安心していました。河村さんは会えないから顔つきが夫婦ともかわっていました。
輝は、二日うんちをしなかったので、ゆうべは、おかあさんがルスリンかんちょうをして、うんちを出して、ねかせました。
お母さんにけさのあなたのお手紙をよんでおきかせしました。ほんにのうと云っていらしたけれど、血圧を計ることは笑っていらしたわ。本当にお気丈で、けさも六時から自動車の運転手が来たのに応待してやっていらっしゃいます。
友ちゃんもすこしやつれているが元気にしています。お姉さんの文ちゃんというのもまだいます。手伝に来ていたフジヤマのばあさんはきょうどろ落しでかえります(この表現覚えていらっしゃる?苗をうえ終って、お百姓の骨休め)。そして、お母さんは多賀さんへおまいりです、きょうは多賀さんのおまつりよ。うちではおすしをこしらえるのよ。
きょう八時達ちゃん入隊したわけです。隆ちゃんからハガキ来。体重は六十九キロの由。十八貫を越しているわけよ。「大きい男になってじゃろ」本当にそうでしょう。そして、達ちゃんの話では、この頃は本部づきらしいとのことです、そうすればいくらか危険も少いわけです。
封緘のこと、出る前の日に送りました。
物のことは、前便にかきましたとおり。
島田川もこのお手紙の思い出はあどけない子供の永い夏の日が蝉の声と一緒に思いやられます。
麻里布ってそういうところなの?この頃はどんなでしょうね。何だか行ってみたいこと。一二度汽車の乗りかえでおりただけです。
光井の方へは、これから。あの道普請は終って、すっかりきれいになった由。海へなんか、もう光井のところからは近よれないのよ。虹ヶ浜という駅の名は、光(ひかり)となっていました。浜の様子は虹ヶ浜のあたりは大してちがいもないらしい様に見えました。住宅払底なのをかんわするために、各戸で空いているところは貸すようにと、婦人会の講演会できのう話した由。その話をしたひとはハワイがえりの女のひとで十五から二十年いて、かえって十年。あっちに娘たちがいて、孫もあっちにいるそうです。いろんなものをことづけて貰います、ハムも、というとき、このひとは日本風に云わずHamと発音記号のようにヘムときこえるように云いました。微笑禁じ得ず。だってここの家の職業はおいなりさんの神主なんですもの。可笑しいことねえ。ハワイでおいなりさんを信心していたのねえ。職業はこのヘム夫人が理髪をやって御亭主は自動車か何かをやったんですって。第三高女(東京)を出ていることまで僅か五分間の店先のお喋りで話してゆきました。私は誌上でよく知っていたって。
そのおいなりさんの御託宣で、Tの写真屋に病人が絶えないのは、死霊のたたりだということで、そんな筈はないと云っていたところ、そこのおばあさんが亡くなるとき、自分が若いとき後家で赤坊をもって、それをこっそりうずめてしまったことがあったことや、息子も結婚前そんなような芸当をしたので、大方それでじゃろということを云ったので、おいなりさんにざんげしなくてはならないことになって、それをやって、おまつりをしたのですって。そのおいなりさんの御託宣を、おばあさんがうけて死霊ということをきいて来たというのは十分合点が行くことですね。
あら、むこうの道を、二人の男が太鼓かついでふれてゆくわ。お母さんが多賀さんのお祭りと思って達ちゃんの写真もっていらしたらそうじゃなくて、ここの夏祭りというのですって。その太鼓ね。おや、赤い旗が行くわ、それから人が行くわ、それから白鳥が小さい神輿(みこし)をかついであとから神主が行くわ、一列になって、あのお医者の石崖の下の道をとおって、提灯がアーチになって下っている下をくぐってこっちの道へ出て来るらしいことよ。こういうの御覧になったわけでしょう?子供の頃は。
近衛さん総辞職の号外をもって来たおっさんが帽子とって、こちらも御出征でとあいさつしてゆきました。そして軍手を三つばかりほしいって。
きょうは今迄のうち一番夏らしい日なのですが、こっちはこんなにしのぎよいのかしら。そうでもないんでしょうねえ。こんなに汗も出ないでどこか涼しい風が通っていて夏がすぎるのなら、私は本当にかえりたくないわ。でも、私が着いて、小一時間もして二階でねているうちに、もう室積からここのとつれ立って、東京からお客さんが見えたそうでって来た由。こういう風なんでね。こちらは。
お母さんは急に思い立って、三田尻のどこかへ前のおかみさんとお詣りです。たまよけの御守りがあるそうで。それをもらいかたがた。自己慰安ちゅうのじゃろうのあんた、と笑いながら。
一つ吉報を申しあげます。ここのあの恐るべきノミはどういうものか今年は姿をあらわさず、私の助りかたは一とおりでありません。きっと家じゅう清潔になったからなのね。タバコやと店との間に水色レースのカーテンがひらひらしていたり、店と台所との区別にのれんが下っていたり、あちこち改良よ。向う座の四畳半も南だけ開いて風が台所の方からだけとおるから、いくらか真夏はあついかもしれないが落付いた小じんまりとした部屋になって居ます。きれいに納めたらなかなかいいわ。いまに、こっちの子供たちがふえると、あすこがおばあちゃんのおへやになるのですね。別に建てるよりずっとまとまってようございます。出入りにもいいし。お母さんが本箱のこと云っていらしたの、本当に一つあった方がいいわね。いろいろのものがこの頃はすっかりそろっている、でも本棚は一つもない、そういうのはよくないから。林町と同じことで。目白から送ってくれというお話だったのを、今度そちらへ行ったとき買いましょうと云っていた、今度買おうかしら。友ちゃんの部屋に小机がないのよ。これから丁度こうやって私がちょこちょことあがって来ては書くように、輝が眠るとそのよこでちょこちょこと書きたいでしょうのにね。あのかくれ部屋に机がないのは友ちゃんにゆっくり話しをする世界の中心がないようで可哀そうね。こんな堂々たる一間に一間の大ダンスだの、半畳の畳を立てたようなやぐ箪笥だのあっても、小机がお道具にはついていないのよ。それを私たち買ってあげましょうか、大したものでなくていいのだから、ねえ。いい案でしょう?それとその上に飾る小さな写真たて(これはかえってから送ってあげる)折角優秀花嫁が二三年あとにはBさん同様のものではこまりますからね、ただ目はしの利く利口ものになられてはおそろしいからね。店の机で書くのは出来ないわ、私にさえ。お母さんはお出来になるけれど。息子たちへの手紙だし。今私が使っている二階のこれはおろせないし。本当にそうしよう。室積でも売っているでしょう?光井へ行ったときでも買ってあげようかしら。お兄さんは御亭主にああ云っておやりになったのだから、姉さんはおかみさんに書き易い条件をつくってやる責任がありそうね。お互っこですもの。ねえ。
「ミーとかユーとかいうのはあっちの言葉じゃろのうんた。ミーがやるたらこれユーのかとか姉妹でやっちょります、いくらか気(け)がのこっちょってじゃのう。」面白いでしょう?私面白くて。ミーがやるっていうようなことひょっと出るのね。そういう言葉づかいの生活だったのねえ。このあたりにはやはり海に面したらしいところがあって、ハワイだの、アメリカだの、なかなか広闊なわけです。友ちゃんの弟はお父さんのところへ行っていて、これはIとmeとを正しく使うために、今学校ですって。七年級にいるって、小学のね。写真みましたがいい子だわ、そしてその子に輝がよく似ていて、なるほどと感服いたします。
これを書き出したときは、明後日野原へもって行って、そこで書き足しておしまいにして封じようと思っていたのに縷々(るる)としてつきず、遂におきまりの頁の終りに来てしまいました。
達ちゃんには会えるか会えないか見当がつきません。或はもっと時が経ってから逢えるのかもしれない。けれどもそれは期待出来ません。むこうへ行っても相当手紙は書けないかもしれないね、と云っていたのよ、十六日の晩も。今度はクレオソート玉がどこにもないし、梅肉エキスだの水を消毒するものだの持たせました。こっちも今年は余程用心しなくてはいけませんね。水なんかひどい水よ。おとなりから飲料水は貰って居ます。
今はもとと方式をかえて、渡辺という運転手はおかみさんと近所に一軒もっているし関根というのは妹と又つい近くに一軒もっていて、うちで御飯をたべる人はなくなりました。こういう変化も時代らしいわね。ですから台所のバタバタは随分減っているわけです、ひところよりも。その点は友子さんもいいわ。お母さんはいつかのKのことをおこりになったばかりでなく、使われる方の気持としてもそういう方を望むわけですね。達ちゃんの代りを(車を動すこと)やるのはTという人ですって。このひとは先に達ちゃんに会いに広島へ行ったとき会ったひとです。なかなかはしこい男の由。でもお母さんはよくそこいらを御承知ですからうまくおやりになりましょう。リューマチスになって早くかえって、一等傷というので又わるくなればいつでも病院に入れて、病気になりながらよく修理で働いたというので感状とかをもらってかえった由。持病もってゆきよってのう、すごい奴ちゃ。上のお寺の坊さんは四年になるのにまだかえりません。大方それは坊さまじゃからだろうというこってありますよ、あとからあとからとぶらいせんならんからのう。成程ねえ。そうならかえられっこないわねえ。秋本精米所のおじさんは心持のいい人だが、おかみさんを失ってまるで病人かと思う程げっそりして居ります。うちでなおそうとして手おくれしたのですって、腎臓を。お米の俵をあつかって無理したからだって。ではこれで〆切りにいたします、出すのはあしたにしましょうね、私はおひろいにならないのだから。 
七月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月十九日島田からの第三信
いま午後三時すこし前。私はこの手紙を大変珍しいところで書いているのよ。店のあのびっこになったテーブルで。うち中、今日は私一人。お留守番。
午前十一時ごろ電話がかかって来て、友ちゃん出たら、どちらにいらっしゃいます?川へ行ってです(お母さんのことよ)、一寸およびして来ますからと云っているの。何だろうと思って私が立って行ったら、びっくり間誤ついた顔で、広島からですの、というの。まあ、といそいで出てきいたら、外の民家へ泊っていて、会えるというので、すっかりところをきいてかきつけたところへ、おかあさんがあたふたおかえりで、そこで達ちゃんはいろんな注文をしたらしいの。いつがええの?今日?そいじゃすぐ仕度せて、ということになって、御注文のビールを何とかしてとどける方法はないかと大さわぎをしたけれども駄目で、結局四本包に入れてゆくということになり、私は七輪をパタパタ煽いで、ゆで玉子をこしらえるやら、鰻をやくやら(丁度河村さんがくれたので)珍しくとっておきのマイヨネーズもトマト、胡瓜もつけて、一包みこしらえて、それおしめ、それ着代えと大騒動の上、一時五分の上りでお立ちでした。今夜は広島泊りです。
今夜は珍しく私はひとりでここでお留守番ということになりました。タバコと塩だけ売っていればいいから大体わかるでしょう。店の留守番というのは馴れないで妙ね。奥へひっこんでいたのではものにならないから、ここへ出張って、これを書いたり、「ベリンスキー選集」を読んでノートをとったりという次第です。
友ちゃんももう会えないものとあきらめていたところを思いがけなかったので、本当にうれしそうです。私たちと感情表現がちがうのねえ。きょうなんか全くおどろいてしまった。だって、まあ!ともあら!とも電話口でどんな表現もしないのですものねえ。それで、しんからうれしさで動顛しているのですものねえ。こういう人たちの感情って十分思いやってやらなければいけないのだと思います。お母さんなんかは真率にお現しになるのだけれど。よう電話かけられてじゃのう、よかったとすぐおっしゃったのよ。友ちゃん、はっとして言葉も出ないというところ、いじらしいみたいです。ねえ?それミーのじゃろなどと姉さんと云っている、しかし何たる大和撫子でしょう。そんなことも可憐よ、いろいろと、ね。〔略〕
もうそろそろ四時ね。広島へおつきになるわ。相生橋のそばに宿がありますから、この前のように郊外へ行くのでなくていいでしょう、その近所にお母さんのもとお泊りになったという宿屋もあるから。
さて、ここで事態は一変いたしました。夜九時半頃、お湯に入りに来た河村さんたちもかえって、私は店をしめ、戸じまりをして二階へあがったら、チリチリチリ。いそいで降りたら「広島からです」、様子をお母さんがおききになるのかと思いました、私一人で困って居るだろうからと。そしたら、お母さんたちが着いたときは、達ちゃんボートこぎに遊びに出ていて、かえったらつろうてすこし歩いたら、おなかが痛いいうて、段々ひどいのでかえって、本部がお医者の家になっているのでそこへ見て貰いに行ったら盲腸だといって今知らせて来てであります、というの。
やっぱり体がつかれていたのよ、可哀そうに。よくかえって一年経つと病気すると申しますが、それでも船の中なんかでなくて何とよかったでしょう。友ちゃん愈〃もってびっくりでしょう。さぞお母さんお困りと思い、すぐ行きましょうかと伺ったら、来て下さいということで、遠い電話口で私は些か金切声をあげて、手おくれにしないように、無理しないように、早く手術するものはするように、という次第です。それではとにかく浴衣でも持って三時何分かの上りで出ようということにして河村さんにも留守たのんだら又チリチリ。すぐ入院して、本部の命令で、家族は私物をもって一応かえるようにということだとあります。それでもお母さんたちは昨晩は広島に一泊。いろいろの様子をきょうきいて、そしておかえりになるということになりました。
いい塩梅に、慢性でないし、ほかにくっついたものがないし、ただお酒が入っていて、注射がきいたかどうだか分らず、そうだったら迚も痛い目を見るでしょうが、ともかく命に別状はないでしょう。けれども私は恐慌よ、というのはね、一つの家族の中に盲腸の出る条件は共通なので大抵つづけるのよ。父の亡くなった年国男(夏)私(十二月)。お母さんも十六日にはすこし張ると云っていらして私はやいやい云って横におならせしましたが、もうどんどんバスにおのりになるし。
こうやって今朝は平静ですが、ゆうべ電話口での声は一寸おきかせしたかったわ。ロバにこういう声もあるというようなところでした。だって前夜一時ごろまで飲み歩いて、と一緒にいた人がかえって話していたしね。お酒の入っている盲腸の悪化の迅さは天下一品です。戸台さんがそうでした。そのとき徹夜して手術の番をしていて、宮川さんというお医者様からそのことききました。倍のスピードで悪化するって。だからキーキー声も出たわけよ。広島で盲腸の手おくれで命をなくしてなんかいられませんからね。しかし、達ちゃんへの手紙で余りお酒のことはおっしゃらないで。素面(しらふ)で船にのれるだけ勇気のあるものは少いそうですから。気がもてんのじゃそうです。隆ちゃんなんかのこと考えるわ。あのひとは今どうでしょうね。もとは飲まず立って行ったけれど。お母さんがおかえりになったら(きょうの午後になりましょうが)そしたらこの先の様子つづけます。なかなか千変万化でしょう?私のかえるのもこの調子では見とおし立たず。もうすこし様子みて決定いたします。塩十銭、五銭、五十銭というお客。バット一つ、あれ二つこれ一つというお客。なかなか立ったりいたりです。便利瓦ありましょうかいな、と云って入って来る。さあどうでしょう、そう云って店の鴨居に貼ってある公価目録を片はじからよみあげる。ありませんですね。そうじゃのう、お世話さん、どうもおあいにくさま。(ここの調子は名調子よ。)店には今肥料は一つもありません。豆タンの袋、セメンの袋、石粉。煙突左官などの材料。
鴨居の品書き
五吋四・五吋四吋三・五吋三吋
石綿煙突一本三円二・六三二・二五一・五〇一・三五
バンド一本六〇銭五〇三九三五二九
パッキング一ヶ二一一七一五一二〇九銭
笠頭一ヶ四九四〇三三二九二八
笠足五八五〇四五三九三三
曲手又ハ丁字曲二円一四四一二〇七九七三
※[「○付き公」]セメント一袋一・六〇
※[「○付き協」]赤煉瓦上焼一等一個五銭五厘
〃石粉四十キロ入一袋一・一〇
灰煉瓦(黒レンガ)一個四銭五厘
煉炭四寸一包六十七銭
豆炭一袋一・五〇
寒水石(何でしょうね御存じ?)十貫二・〇二
あなたの御存じの頃の店の物と随分ちがいましょう?
○お母さん友ちゃん七時近くおかえり。いいあんばいに達ちゃんは本院にすぐ入院して、面会が出来るようになったら知らせるということだそうです。ごく初期に発見したから大丈夫と、初め見た医者もうけ合ってくれたそうで、本当に何よりでした。安心して、すこしゆとりのある工合でしたからようございました。随分宿もひどくて、その点ではお困りでしたようですが、友ちゃんは髪結いに行ってウェーブした髪になっていたりして、面白いものねえ、生活って。こっちではなれて心配しているのと、その場にあたっている人とのちがい。二十四、五日ごろにでもなればいくらか消息もわかるでしょう。すぐどこかへ行ってしまうのでないとなったら、友ちゃんもいくらかほっとしているようです。一週間ぐらい入院でしょう。
きょう(二十日)は野原に来て居ります。人通りがひどくなっているのと、農家が店やになっているのとではびっくりです。多賀ちゃんも冨美子も元気よ。きのうおばさんが来られて、けさ一緒につろうて来たの。午後室積へ行ってみます。友ちゃんの机とりかたがた。あすこ初めてよ。ここの空気はやはりまだ昔の野原の空気です。海のある村の空気です。 
七月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡光町野原より(山口県・室積海水浴場の写真絵はがき)〕
七月二十一日
今日はこういうところへ買物かたがた見物に出張いたしました。この町を御存じ?角の写真やさんでこのエハガキを買って角のはす向いの郵便局で書いて居ります。昔のおもかげと今日のいろいろな人の生活とが狭い通りの上に見えます。店にはやはり品不足。 
七月二十二日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県野原より(山口県・室積港(1)、室積湾鼓ヶ浦(2)、室積公園より見たる周防灘(3)の写真絵はがき)〕
1、七月二十一日、さっき郵便局でハガキ出してから、ここのはとばへ来て海を眺めました。このエハガキだと、左から二つ目の船のかげの橋ね、そこの根元の石のところに腰かけて海を眺めたらいい心持で、海をわたって松山へ行って見たくなりました。柳井から何時間かしら。海の上を風にふかれながら渡って行って、道後に一泊してみたいと思いました。但実現のところは不明ですが。
2、同。こんなところを御存じ?きょうはバスの中からはじめて光井の小学校を見ました。相当たかいところにあって、松の大木のがけです。あの下に避病院があったでしょう?そこを改造して、奇妙な用途にあてられて居ります。新しく共済病院というのや、ガス会社やも出来ていてよその土地から来たものということを誇らかに身辺に漂わしている細君連が室積の町やバスの中に居ります。
3、室積の清木(セイキ)という家具屋を覚えていらっしゃるかしら。そこで友ちゃんの机を買いました。中学校の生徒でもつかえるようなので、輝が今に母さんのお古を頂けるでしょう。十一円五十銭也よ、島田までは届けないというので野原まで届けて欲しいとところを云ったら国広屋と云っていました、年よりの番頭が。おばあさんの家は、あの薬屋のある通りに見える松の古木の先ですってね、岩本のお嫁さんのおさとという前も通りました。うちも店は物がありません。達ちゃんから消息まだなしです。 
七月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月二十三日島田からの第四信
十九日づけのお手紙今朝。ありがとう。
本当に涼しいつづきでした。でも、それではお米が大変でしょう。土用前の十日がよく照りこめばよいというのだってね。その期間が雨つづきでこの頃はこうというのでは困りでしょうね。きのう一日は土用らしくてきょうはもう曇天よ。
きのう朝十時半のバスで野原からかえりました。野原から島田市のところまでは人通りが東京のどこかの横町のようよ。野原の徴用土工たちは、朝六時すぎ、夕五時ごろ群をなしてあの前を通ります。朝早くお墓りをして、それからかえったわけです。あの丘ね、あなたが小さかった頃よくお遊びになったという、あの小山の横手にすっかり官舎が出来て、まああんなに景色のいいところだのに、家と家とはくっついて木もないのよ、そのすぐ上が火葬場。
それでも野原の風はまだ心持よい沖からの風で、お宮の縁に小学上級らしい少年が二人、一冊の本に一人が何か書き入れのようなことをして居りました。そして、お手紙の貼ってあるのをよんでいたら、室積の途中の松原のところや、島田と野原の間のあの池のところが、あなたの勇気のいる場所だったというのをよんで、大いに愉快になりました。きっとそうだったでしょう、今通ったって、やはり印象にのこる独特のところですから。あの池のところは、尤もひどい変化で、右手には工廠の塀つづき、左手のあの池が貯水池になって居ります。でも一種寂しい趣は漂っていて、妙ねえ。ああいうところというのは。野原の横へ出て見れば、全く截りひらき、平らにし、建てかけているという赫土の地肌が到るところにむき出しで、新開の気分充満。その気分が軒並の小店となって村道にあふれている次第です。
野原の家のとなりの材木屋があの二階つきの翼を買ったのねえ。いつか行ったとき何心なく下駄ばきで上って行って見たところ。あすこがあなたの部屋だったのですってね。材木屋の小さい六つと五つの女の子が一昨日の祭日には、きれいな着物を着てあの二階に遊んで居ました。涼しそうな二階ねえ。今時分ここにいたのは初めてですから。
私は大分グラついて、本当に何とかしてこっちで仕事しようかと考えましたが、何だかそれもいろいろ無理だし、第一、八月という月一杯、東京にいないという気にもなれず。本屋のこと考えると余りのびていて身がちぢまる思いですが、仕方がないわ、やっぱり東京でやることにいたしましょう。
あなたの眼はいかがでしょう。トラホームの本つきましたろうか。私は大体変りなし。大体という勿体のつけかたは、何となし腸の工合が上々でないというだけです。何しろ大水の出たあとの井戸の水をのんでいるのですからね、いくらも水はのまないけれど。チフスの予防注射の安心が思いがけないところで役に立って居ります。
達ちゃんの盲腸は、その後一向音信なし。音信外出なしというのがこの頃の原則らしくてね。きょう、Tが広島へ部分品を買いにゆくついでに何とかして様子をきいて来るとのことです。友ちゃんもきのう届いた机で達ちゃんへの速達のかきぞめをいたしました。どうせ東京へかえるなら、達ちゃんにもう一遍あえるならあって、そしてかえりたいと思って。徳山仕立の急行でかえります。
その後お母さんお元気です。友ちゃんもやつれすこし恢復しました。達ちゃんは修理の方の由です。修理の一番こわいのは、前進してゆく後から故障車を収容してゆくときだって。さもありなん、ね。でも対手が人でなくて車だから気持はいざとなればちがいましょう。
こんどは達ちゃんもおかみさん子供もあっての出征で、万々ガ一、どんなことがあるかもしれないから、分家戸主の届けをしようと云っていらっしゃり、それはいいでしょう。友ちゃんや輝が、それで直接の関係が明瞭になりますから。
あの町の一部は、徳山の一番にぎやかな通り、駅から出て丁の字に大通りにつき当るでしょう、あすこのどこかね。
このあたりには、むずかしい名の山や河や池があること。たとえば室積で机買ううちをセイキ、セイキというのよ。どうかくのかまるで見当つかず。清木ですってね。このお手紙の小山の名、何とよむの?岐山きやま?
寮歌はやはり昔ながらでしょう、その昔ながらというところに一つのセンチメンタルなよさがあるのではないの?高校と云えば松山ゆきも実現いたしませんね。柳井から高浜までたった四時間半ぐらいなのにねえ。まあ、又のおたのしみにしておきましょう。かえりに倉敷で一寸おりて大原コレクションを見ようかと思いましたが、これまた汽車のつづきがわるくて、あのあたりで急行にのりついだりしたら、立って東京迄かえらなければならないでしょう。これも亦いずれのおたのしみ。
『週報』のこと。あの電話の模様だとね、ちぢみのシャツ、ズボンの無精髭を生やした五十すぎのだらしのない男が、三四人人をつかって、妙な机並べてやっている、そういう感じよ。ごろつきくずれの昨今仕事めいていた、いかにも近代事務性に欠けて居る感じでした。きっと寿江子が電話口でかんしゃくおこして汗をふくことでしょう、名前さえその親方は正確にきこうとしないのよ。
外交と云えば、この間の丸善のに、ハバードで出る外交の本の広告があって、十六円で閉口ながら面白そうでした。もしお気が向いているなら注文しましょうか、ああいう風にまとまっているのは余りこれ迄もなかったようです。War&PeaceinSovietDiplomacy.ハバードだのその他の監輯の下に。一番終りの裏に出ている広告よ。これには御返事下さい。ドイツ語の本も入らず、英仏入らず。日本は完全な島国風景になりましたね。種本のなくなった日本の文学・評論が、これからの数年間いかにのびるでしょうか、面白いみものでなければなりません。現実はどしどし推移して行っていて、それを、本をとおして模倣していたような政策家たちが(各方面の)もし現実を洞察し得る実力に欠けていたら、独善に陥って益〃自負しているなら、どういうことになるでしょうね。これも極めて興味ある歴史の光景です、しかしその興味は具体的、また深刻でね。云いかえてみれば、ここにいて東京から来る留守居の手紙に、八百屋の店には玉葱とモヤシしかなくて、という、その生活をとおしての興味で、なかなかの肺活量を必要といたします。
かんづめ類はこっちにもありません。かんでなくてびんよ。これから慰問袋も弱りですね、びんでは入れられないから。
アキラは本当に可愛い子ね。いかにも可愛い男の児という感じに満ちていて、すこし風変りな、すこしせっかちらしいくりくり元気な様子は、何とも云えず。ホラ、こんにちは、とちょいと抱いておめにかけたいわ。男の児らしい男の児って面白いわ。生れてやっと三ヵ月で、もうどうしたって男の児なんだもの。すべてがよ。ほろがやのなかに、くびれて丸々した手をのばして大の字になって立派な顔つきして眠っているのや、おばあちゃんや私にあやされて、キキと笑う顔つきや。とにかく大したものよ。傑作よ。この子は技術家にするのだそうです。いいでしょう。偉い役人という希望のもとに育てられなければ、幸福というものです。
髪の短いの、そうでしょうねえ。涼しいと云ったってじっとりいたしますもの。私は昨夜南の窓をあけて眠って、こんな夢を見たわ。林町の家の前へ出る交番の横の坂をのぼって行って、ひょいと交番のよこからむこうを見たら家のあったあたり一面すっかり水なの。満々たる青い水で、こっちの通りだけはいつものとおりで家のあとかたもない水の面をおまわりさんは白服でぼんやり見ているの。私は驚きと悲しさとで体が立っていられないようになりながら、じゃお父様もお母様もどうしただろう、死んでしまったんだろうと思うの。水の色は何と碧く、その水の面は何とひろかったでしょう。珍しいわ、こんな夢。
きっと室積で余り海を眺めていたからよ。それとうすら寒いのとが一緒くたになったのね。私の夢、いつも複合体で、色つきで、いろいろと手がこんで居りますね。目がさめても忘られない感じです、あの水の色。ああ、じゃあと思ったときの心持。こんな風にして悲しみが再現するの面白いことですね。心理的に家がないという微妙なところが表現されてもいて。
先に、やはりあのあたりがすっかり林になってしまっていて、どこから入って行ってみても、家(うち)らしいものがなくて、よその家は樹の間にあるのに、悲しかった夢を見たこともあります。
夢は私のところへ余り漠然とあらわれず何か感じを伴うのね、余りいつも見る習慣というのでないからかしら。その夢の中から目ざめて、しばらくは身動きも出来ない優しさで胸がしめつけられるような夢は、更に更に珍宝だから、一層まれにしか現れませんし。そういう夢から目醒めると、思うのよ、私の日常の表情の奥にしまわれている表情があるということを。ほかの人々のようにその表情は私たちの生活の中で表を流れず、地下水のようであることを。いつもその地下水から直接ふきあげ井戸が、小さいとは云え何とすがすがしい味でしょう。まさにその水でこそ眠る前の体が拭かれ、頭が洗われるにふさわしいと思います。あなたはずっぷりとその水をお浴びになると、私はいかにもさわやかに背中を拭いてあげるわ。
お母さんは、輝を実に上手にお扱いになりますよ。気候の変りに注意ぶかくて、友ちゃんは本当にいいおばあちゃんもちです。あれで、食物にもお母さんが注意ぶかくおやりになれば輝は普通の病気はしらずに育てるかもしれません。私はもう「おばちゃん」というよび名を貰いました。なかなかいいわ。おばちゃんは一人だから大きいも小さいもございません。
渡辺という車を運転していた人が召集で立ちます。友子さんが駅まで出かけるので、それにたのんで出して貰います。暑さ呉々お大切に。私は二十七八日ね、きっと。 
七月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月二十五日島田からの第五信
二十二日づけのお手紙。きのう。ありがとう。達ちゃんの様子は分らないの。今日迄のところ、あの手紙に申上げたところ迄しか分っていないし、Tというひとが広島へ部分品を買いにきのう行ってよって見たがやはり様子は不明。一昨日友ちゃんが速達を出しましたが、やはり音沙汰なし。(きっと手紙なんか書いてはいけないというのでしょう、今度は全体そうですから)そこで、きょう友ちゃん、息子、おばあちゃんの一隊が、六時四十五分の上りで探険に出発いたしました。この前のとき泊っていた宿やや、会った人がありますから多分何とか様子がわかっておかえりのことと思います。生憎雨になって来て俄雨か本降りか降っている雨も我ながら分らないというふりかたです。けさ初めて一輪咲いた紫色の朝顔にその雨がかかって居ます。すぐ前のとうもろこしの生々とした青い葉がその雨にぬれて輝やいています。
そういうわけだからユリの先輩ぶりも一向に発揮されず、お手紙にあると同じように、マアきょうは涼しいから臥(ね)ていても楽だろう、などとたよりのない評定をしているだけでした。
紀(タダシ)のこと、そうお?ちっとも知らなかった。だから私たちみんな、仕度なんかどうだっていいんだから早くちゃんとしろとあんなにすすめていたのに。寿江子何をまごついたのか一筆も申してよこしません、もう東京にいないのでしょうね。いやんなっちゃう、というのは、この間、お中元の買物をしていて、偶然出会って、丁度私お金が不足して、あっちはボーナス間ぎわだからと大見得切って十円かりていたのよ、いやねえ。あのひとは太原にいて、死にそこなったのよ。可哀そうに。
こちらの調子は、順調です。順調ながら、やはりいろいろとあって、会社長になっているYが、自動車自分でかりて儲けたいのね。そこをこっちへ人を入れたんで、いくらかお冠りらしく、自分が雇えばお気に入りのTが、宮本にいるとお気に入らずのTだというような微妙なところがあって、二三日お母さん神経にさえていらしたけれど、どうせああいう男なんだから、事務の打合わせという範囲で毎日の電話もきいておおきなさいと云い、その気におなりです。
達治さんがいたときには何とも云わざったのに、ねえお母さん、と友ちゃんがしきりにいうが、それはおのずから又別で、お母さんが直接Yに会って毎日仕事していらっしゃるのではないから、やはり電話もしきりとかけるわけのところもあるでしょう、Tが間で、又それぞれ才覚を働かせもするし。
面白いでしょう、今石粉を一袋1.10売りました。めくらじまの野良着に合羽姿の爺さんで、石粉かどうかと散々念をおして、それからおつりに新しい五銭で三十銭やったら、ひっくるかえしてみ、とっくりかえしてみて、五銭かのうと云って、到頭どうしてもうけとらず、元のととりかえました。この頃はさいさい銭がかわるけに、わかりまへんで。というわけです。新しいおかね、もとのお金へのこんな感覚。お百姓の心持の生きた断面ですね。
私は、やっとこの二三日すこし落付いて、体の調子もよくなって来ました。今年の夏は、しかし不順ねえ。腸が変で薬のんでいたとき、あっちこっち同じような苦情でした。おなかは大丈夫でいらっしゃるかしら。ベリンスキー読んで居ります。「一八四六年の文学観」はなかなか面白いし、有益であるし、近頃愛読のものです。(だが、やはり著者の生きた時代の到達点というものを考えさせる限度をもちつつ。)
あら、又石粉が欲しいひとが来ました。今度は売れないわ、だって四十キロは一円十銭ですが、何合というようなのは分らないもの。今は何をつくのだろう、表をついたりするのに入れるのだそうですが。この間うちはらんきょうと梅をつけるのに塩が繁昌したし。らっきょうをらんきょうというのね。
私のかえるのは、勿論いろいろの事情とてらし合わせていたしますから御安心下さい。
ところで、きょう、ユリの左腕は惨たる有様なのよ、あわれ玉の(腕(うで)に非ず)かいなも虫にくわれて、赤ブツブツで、丁度この間の輝坊のようです。ノミは少いので、よろこんで御報告いたしましたが、ここにも今年は家ダニがいます。全国的なのかしら。東京は南京虫のいるところは凡(およ)そどこときまっていたのが、相当どこにでもいるようになったし家ダニが又あっちこっちに発生しました。去年ぐらいから。去年はここにこんな悪虫はいなかったのにね。ここに出来ると、家は古いし、退治が困難ね。ネズミにつくシラミですが、ネズミの体をはなれても殖えて、人間の皮膚をさすしもぐり込むのよ。いらいらと迚もいやにかゆくてなかなかなおらず、ひどい痕をのこします。おみやげは何にもないからせめてこの虫くい腕をお目にかけましょうね。これだってなつかしき故郷よりのたより、よ。赤紫斑入りの腕なんて、女房の腕として、あなたもお珍しいでしょう、きょうは見事なんだのに。惜しいこと。背中で蠅が盛に集団運動をやっています。蠅と云えばチェホフに蠅をとっている退屈な人の物語がありますね。あれはきっとタガンローグという彼の生れた町での見聞ですね。タガンローグの町には小さいチェホフの博物館がありますが、そこの中央ホテルという大ホテルには食堂がなくて、となりの食堂へ行くのよ。そこで美味しい魚の清汁をたべましたが、美味いも美味かったが蠅がひどくて、ほんとにスープたべているサジについて口へ入って来そうな勢なの、太ったおかみさんがいて日本の女が珍しいもんでわきにくっついて喋っていて、何て蠅が多いんだろうと云ったら、何だか陽気にうれしそうに笑いながら、ここの土地にはどっさりいますよ、と云ったわ。自慢していいものみたいに。その町の裏に出口のない湾みたいなアゾフ海があって、崖があって、人通りがありませんでした。あの博物館や蠅や、この頃いかがの工合でしょうね。大した犠牲です、全く大した。人間は進歩のために自身を最大に浪費するかと思えます。輝は、あなたが余り御ひいきなんで、家じゅうで大笑いしました。又くりかえしますが、男の児の男の児らしく、くっきりしたのっていいわねえ。見ていても愉快で、可愛いことね。男の児の男の児らしさ、而もその無心さ。やっぱり健康さには、この男の児らしさ、女の児らしさが、くっきりしているという点が伴うのねきっと。充実した自然のほほえましさが可愛いという感じに通じているのだわ。この子はほんとに一寸抱いてはいと見せてあげたいと思います。ひるすぎおばあちゃんと母さんのひる休みの間、よく輝は二階へつれて上られて、私の机のわきにねているのよ、そして眠っていることもあり、チュッチュッと音をたてて手を吸っていることもあり。
便通のこと、早速会議にかけましたら、この頃は大変よくなって、毎日一度は必ずあるとのことですから御安心下さい。うちの母さんは私が心配するぐらい、余り食べないんだけれど、ちょくちょく間にたべた方がいいたちだって、まあよろしくやってゆくでしょう。でも二三人子供もって疲れを出したりしないように、よく気をつけなさいと云っているの。骨細ですから。
汽車はこの頃実に通ります。先は冬の夜なんか貨車の音がガチャガチャンとしたりして淋しい村駅の感じでしたが、この頃は夜中にもひどい地響を立ててひどい速力で通ります。頭に響いて、いやあな気持で目がさめます。河村さんよく暮しているようなものね。村道も夜更けて、夜なかでも人が通ります。用事もふえた証拠です。手塚さんの旧い家をかりている医者が召集をうけました。あとはお母さんたちがかえられてから、達ちゃんの様子をお知らせいたしましょう。あしたは多賀子、冨美子とまりに来ます、私がかえる前にもう一度会いたい由で。もうあっちへゆくのも面倒だし。
きょうはむし暑くなりそうね。魚も何もなくて、茄子(なす)もないの、皆がかえって来たら何を御馳走いたしましょうね。おや肉を売りに来たわ。(いろいろの物音がきこえて面白いでしょう?)でもこっちにはこうやって肉があるから大したものなり。きゅうりにつめて煮てでもたべて頂きましょう、お母さんお好きかしら。
どうもきょうの天気は困りね、可哀そうに。広島で三人はどうしているでしょう。今一降り大きく降って、うちは二色の音楽よ、ピーン、トン、ピーン、とん。これは御仏壇の前の深いバケツに雨が洩る音。もう一ヵ所どこかでトン、トンと落ちているけれど、そっちの方はいやに陰性で、茶の間の私のところからはどこか見当もつきません。小さかった頃うちに硝子戸がなくて、雨が降ると雨戸をしめて、いくらか間をすかして、そのすかした間から吹きこむ雨で縁側がぬれると、私たち子供は面白がってすべって歩いたものです。うちの母は雷が猛烈にきらいで、どういうわけだったのでしょう、考えてみれば滑稽だけれどひどく雷が鳴ると子供を三人自分の膝の前へかためて坐らせて、頭の上から黒いゴム布をかぶせて、息もつかないようにしていました。随分暑苦しくて、何だかその方が雷よりこわい夕立めいた物々しさでした。地震部屋というのもありました。これはいつか書いたかしら。廊下のはじにいきなり一枚戸をあければ出られるような一間半に三四尺のトタン屋根のつき出し小舎があって、そこに毛布、ビスケット、ローソク、衣類なんかがいつもおいてあったこと。いざというとき一先ずそこへとび出して、それから逃げようというわけだったのね。それを使うほどの大地震はなくて、やがて子供たちはそこを雨の日の遊び場にしました。そして震災のときはもう夙(とう)にそんなものなくなっていて、倉が立っていました。西村の祖母は安政の大地震を知っているのよ。祖父は厠にいて内で身じたくをなおし乍ら、母上はどうしたどうしたとよんでいたということです。堀田の殿様が家の下じきになって、何とかして地震の下からほった(掘った、堀田)殿様という落首が出来たりしたそうです。昔の災難は今からきくと何となし単純で、直接法で、それっきりというところがあるわね。もうこれで紙がなくなりました。思っていたよりずっと手紙書いてしまったもんだから(この紙は貴重品故そちらにしかつかわないのよ。こんな細かい字で、こんなにあとからあとからひとりでに書く手紙なんて、ユリの通信範囲には他にありようないわけですから)もうかえらなけりゃね、だから。ここはポストが駅で不便です、何しろ島田の町を縦断する大旅行(!)ですから。
今小ぶりの間にお風呂たきつけに出たら珍しいものを縁の下で見つけました、うちのだったのかしら、茶色のところへ白で宮本酒店と焼いた徳利が一つころがっています、何年ああやってころがっていたのかしら。うちで、油や米のほかに酒があったこともあるのでしょうか。
ベリンスキーの文芸評論、一八四六年にこれだけ「現代」に近づいているということは、いろいろのことを考えさせます。この著者の精神に近づいて来ていてまだその語彙とはなっていなかった幾つかのこと、それによって彼がもう一層現実的に実現を見られるものがあることも興味あります。では、と、一寸くらべて見たい本も出来ますが、ここには何もないし、私の頭の中に本棚、特に年表部は整備されていないから、いろいろ考えながらふろを燃(た)き、一寸座敷へ上ってこれを書き。一人というのは面白いところもありますね、こんな工合で。一層愉しい光景を考えれば、今ここに出ている籐椅子に腰かけている人があってね、こんな話をみんな私が片手に火掻きをもったまま、ぬれた雨上りの庭に立ったまま出来るという場合でしょう。
○お母さんたちやっと達ちゃんに会えておかえりです。よかったこと。手術はごく順調に行って、一週間めですが、もう糸をぬくばかり。二三日うちにはすこし歩いてもいいようになるとのことで、一室に二人、看護婦もよく世話していて、すこしやせたか位の大元気だそうです。初め編成されたとき石津という、この前中隊長だった人が又中隊長で、ああ宮本か、とすぐ万端計らってくれて、すべて大変手まわしよく出来たのだそうです。そのほか、知っている人が何人かあって、便利している由。二度目もわるいことばかりはないものでありますのう、と云っていらっしゃいました。私は日曜日に行って見ます、そしてその上でもし出立の見とおしもないならば(編成が変えられましたから)火曜日ごろ出発しとうございます。
二十四日づけのお手紙(きょう二十六日着)輝のこと、音読してかあさんとおばあちゃんにおきかせしました。本当におじちゃんの輝びいきどうでしょう。
本棚は、小さい本箱が(二本立て)一つあるのよ、古風なの。覚えていらっしゃらないかしら。しかし新しいのは勿論私たちがこしらえましょう、島田市のさしもの屋にでも云いつけてゆきましょう。この間出来合ではなかったのよ、適当のが。高いばかりで。達ちゃん食事等なかなか厳格にやられているらしいから大丈夫でしょう。ところがきをお知らせいたしましょうね。 
七月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 己斐より(縮景園浅野泉邸の写真絵はがき)〕
なかなかよく降ります。きょうは珍しい顔ぶれで多賀子と冨美子をつれて達ちゃんに会いに来ました。達ちゃんは却ってこの間うちより神経の休まった顔つきをしていて、盲腸もごく早くとれて、もうすこしは歩けかけて居りました。背中をすっかり拭いてやりました。呉々も御安心下さいとのことです、自分でおっつけ書くでしょうが。今己斐の駅のベンチよ。 
七月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(広島・紙屋町電車通附近(一)、大本営(二)、饒津神社(三)の写真絵はがき)〕
(一)七月二十八日、きょうから友ちゃんが三十一日迄広島へ泊って来ます、病院のうちならば会えるというので。きのう三人で広島へ行ったとき、河本という小さな宿屋へ、おむつや着がえのボストンバッグをあずけて来てやりました。お母さん、やはりおつかれが出ましてね、昨日は工合よくない御気分でしたそうです。きょうは私がすっかりしてお母さんは休んで居られ、すっかりようなったと云っていらっしゃいます。二三日は余りお動きにならないようにします。
(二)七月二十八日。お母さんのお疲れは脚と胃にこたえた風です、きょうは本当に見たところも大丈夫ですから御心配なく。お動きになるのが好きだから。ついすぎるのです、実に大切なお体だからということは、この頃又新しくお感じ故、私が、きょうはカントク係とやかましくいうのをもおききになります。友ちゃんがかえる迄は居りますから、二日に立ちたいものと思って居ります。中公の年表の校正出たら一息で、さち子さんが校正見ていてくれます、これはうれしかったわね。
(三)七月二十八日。きょうはやっと土用らしいからりとした暑さで、でも涼しいのね、台所で火をいじっても大して大汗になりませんから。土用らしく蝉が前の松林で鳴いて居ります。友子さんのいない間だけは、せめて私が御飯のことをして親孝行をいたしましょう。味だのもののくみ合わせだの一寸ちがって又舌に気持よいでしょう。お料理がうまいと云ってほめて下さいます、何にもしないのがたまにするからなのね、きっと。ほめられるとホクホクしているのよ。あの台所で働くユリはドメスティックでわるくないでしょう。 
七月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月三十日島田からの第六信
きょうはなかなかの土用らしい天気です。今午後三時ごろ。階下で岩本のおばあさんがひるねです。ユリも二階で三十分ほどねむって、むっくりおきて、そのござは机の横にしいてあるから、これを書きはじめます。
お母さんはけさ三時十二分かで広島へお出かけ。二時におきてお見送りして五時半におきて店の戸をあけて、ユリは大ねむでしたが、きのうの夕方岩本のおばあさんが見えているので、やはり御馳走もしなければならず、店であきないもし、なかなかいいお内儀さんよ。
友ちゃんは二十八日広島へゆきましたが、昨夜電話で、赤ちゃんが熱をすこし出したと云って来たので、お母さんは心配やら達ちゃんに会いたいやらで、お出かけになったわけです。午前十時ごろ電話で、輝はケロリとしているが友ちゃんが疲れて下痢をして、いまおかゆをたいて貰っているところ、午後つれ立ってかえるとのことです。だからもうそろそろお湯をたかなければいけないというわけなの。
岩本のおばあさんは二三日保養していらっしゃるって。
さて、二十六日づけのお手紙、ありがとう。そちらのところがき、飛躍しているので笑いました。
達ちゃん経過は最良ですから自重するよう、お母さんもやたらに食べたり歩いたりさせないようにと友子さんにも注意していらっしゃいます、この前の分は二十一日に出ました、それだと修理部でした。今度は全く別だから、どういうくみ合わせに加えられるかもとより不明です。その点では出たところ勝負の感です。十九日づけの手紙が二十五日につくの?今は。Yという人は全くそのとおりです。そして、家としてそういうタイプから受けた記憶のこともわかります。この頃はすこしましになって口のききかたもちがいますから、お母さん吻(ほ)っとしてです。何しろ一ヵ年間すっかり達ちゃんにまかせ、ハアこんな安気なじゃが、いつまでつづこうかしらと思っていらしたのだって。だから、いくらかせんないところもありますのよと仰言ってですし、それもよくわかるわ。でも友ちゃんが留守だと、やっぱりいろんな内輪話が遠慮なく出て、お母さんさっぱりなすったそうです。あれもこれもまア結構よ、友ちゃんはあっちで、こっちはこっちで。
お手紙みんな頂いて居ます、こんどはちょいちょい下さるから私はほくほくよ。妻にはよく手紙をかいてやるべし、という教訓を御実行だと思って。先来た頃は、何となし、私がこっちにいるということであなたは堪能したように余りお書きにならなかったわね。
達ちゃんへの伝言の件。私も切実に思ったことでした。一寸はふれて話しました。達ちゃん一人の折。けれども、もう私から話す折はないでしょう。もう広島へは行きませんし、私も二日にはかえりますから。そちらから手紙で改めて仰言って下さい。もと行っていた間のそういう面の生活について私は塵ほども存じません。塵ほども話さないのでしょう、家のものには。達ちゃんの今の気分では平静ね。友ちゃんに満足しているし輝は可愛いし、その場の空気でまきこまれるようなことさえなければ、いいのですけれど。もとのときも余り粗暴ではなかったと思うのよ。でもお母さんに月五十円ずつ送ってくれと云ったので、それはいけません、金をもっちょるとよいことがありませんからのうと云っていらした。そこいらに機微があるのよ。この前の経験の。友ちゃんはナイーヴに、物はいくらも買えるから金だけ送ってほしいて云うてですのと云って居りますが。
きょうは三十一日。朝。輝がこの机の横へ来ておとなしく臥て足をパタパタやって居ります。きょうは月末ですから店はなかなか多忙で、岡田という男が車にはのらないで集金その他をやって居ります。自動車の収入は大きいのねえ、びっくりしてしまいます。しかし又修繕その他にずっしりと出てもゆくから、なかなか荒っぽい仕事です。収入だけ云えば二台の車が半月で――達ちゃんが出てから千八百以上らしいのよ。実収とはもとより別です、実収といえば、その三分の一或は四分の一ぐらいなのでしょう。
私はこの男がいるうちに荷物つくりをして駅まで出そうというのでまとめているところへ二十九日づけのお手紙着、では荷もつと一緒にこの手紙を、と思って、たすきがけで書いているというわけです。
本のこと分りました。でもあれは、スペインかイタリ系統の名でしょうね。そうだとすれば又そこにあることもあるかもしれず。注文はいたしません。岐山(サン)なの、成程ね。ヤマでは重箱よみね。中條(ナカジョウ)とよむと同じで。この歌は私には一種の愛着を感じさせます。鼓海なんて、やはり大陸の影響の早かった地名ね。つづみが浦とでもいうのが後代(平家物語時代の命名法)でしょう。
あの辺が怪談の舞台とは、そうでしょうと思う。一種の鬼気があってね。
達ちゃんは二十九日にもう大勢いる室に移ったそうです。お風呂にも入ったそうです。
私は、もう達ちゃんにいつ会うという見当もつかないから、(三十日にもう接見は駄目になりました)一日か二日に立ちます。二日に立つ予定でしたが、或は一日に立ちます。カンヅメをすこしもってかえります。こっちにいて呑気すぎた様子で、些か困ります、あなたが云っていらしたように、本当にそうだったわ式では、これは困りますから。五日に林町で皆立ち、それ迄にいろいろのうち合わせがあります。年を越す用意してゆくらしいから。それもいいでしょう。こちらも私はかえりますでは相すまないから、何かのときどこへ子供をつれてゆくか、どんな準備がいるか、ということなど、すっかりとりきめてかえります。何しろ光のとなり徳山のつづきで、駅近く、ちっとも保障のない位置ですから。何もないときでも心がけはたしなみですから。そんなことかまわずかえったりしたら、あなたが、じゃもう一度行って来いとおっしゃるかもしれないと云って笑ったの。そうでしょう?段々旅行が厄介になって来つつありますから。不定期は一つもなくなりました。食堂、寝台も減少しました。広島宮島間は汽車のよろい戸を皆おろします。めくら列車が真昼間走ってゆくのを己斐の駅で見て、何かすさまじさを感じました。走ってゆく、感じがね。
手帖出してみたところ一日に立てば二日(土)につくのね、駅から真直ゆけば十一時前にはつけるのね、二日に立つと四日(月)ね。でもあしたは余り遑しい。四日迄になりそうです。でももうじきだわ、お大事に。二十日の留守よ、珍しい方でしょう、すこしはお見直し下さるでしょうか。 
八月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 麻里布駅にて(錦帯橋美観「錦川に架して」(一)、「建築美」(二)、錦帯橋「清流に映えて」(三)の写真絵はがき)〕
(一)八月二日十一時(午前)今マリフの駅のベンチで涼しい風にふかれ乍ら、のりかえを待っているところ。
柳井線マワリの急行でも、この頃は柳井に止りません。マリフまで来なくては駄目。すいた汽車だったら助かるがと思います。けさ出がけにお手紙よんできかせて頂きました。野原のおばさんも見えていました。
(二)ここの駅は、目の前がすぐ青田です。その先は海です、実に涼しい風。何と飛行機の音が低く劇しく響くでしょう。
人絹スフ工場も大きいのが出来て居ります。ここは柳井よりずっとあけっぱなしな気分の駅ですね。ここで〇・一分まで待つのよ。
(三)徳山のエハガキはお宮づくし。ここのエハガキは一つの橋をあっちこっちから。この橋はまだ本ものは一度も見ません、あなたは?宇野千代は岩国のひとよ。ほかに岩国のひともあったようですね、学者で。明朝東京は七・三〇ですが、どうかしら、そちらへすぐまわる元気あるかしら。今のところ不明。おなかが変なものだから。 
八月八日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月八日第三十四信
帰って来たら手紙の紙まだあると思っていたら、おやおや。もう一綴もないわ。そして又この紙になってしまいました。
三日にかえって、ちゃんと待っていたお手紙拝見して、四日に二十日ぶりにお会いして、まだほんの数日しか経っていないのに、もうすっかりここに納って、うちって面白いものね。
かえるとき何かかんちがえをして、土曜日だと思ったのよ。東京につくのが七時半だから、もし誰か迎えに来ていたらカバンと岡山の駅で買った白桃のカゴをもたせてかえして、私は一寸池袋から降りてまわってしまおうかしらと考えて居りました。そして鏡を見てね、でもこんなにくたびれていては、久しぶりであなたどうしたかとお思いになるといけないかしらなんかと考えていたら(大船あたりで)横の席の人が、日曜日だって朝刊がないっていうわけはないだろう、と笑って云っているのがチラリと耳に入って、あら、じゃきょうが日曜かと急にぐったりした次第でした。
そんなにせっついた気持だったところへかえってみれば待っていたものがあるし、おなかは力がぬけているしで、月曜おめにかかったら、笑える唇の隅が妙な工合にぴくついて。可笑しいわねえ、おなかがフワフワになるとああいう風になるものなのかしら。あなたも気がおつきになっているのがわかりました。
一昨日は、あの手紙の束もってかえり、夕飯後すっかり整理してみました。一どきにしたいことが三つもあって、あの晩は弱ったわ。明月でしたろう?二階とてもいい月見が出来ました。その月も眺めたいし、手紙も書きたかったし、整理もしたかったし。丁度お愛さんが一ヵ月のくくりで五十四円六十銭也をもって会へかえって留守で、たった一人でしんとしているし、どれをしようと迷った末、遂に最も実際的な整理をすることにきめました。一九四〇年は前半までありました。上落合からのはたった二通なのね。第一信第二信はなくて第三信がそもそもの初りですね。十二月二十日以後で、あの上落合の家には五月初めまでしかいなかったのですが、たった二通しかなかったのねえ。その五月からは殆ど一ヵ年以上へだたりがあって。二通の手紙は可哀そうな気がいたしました。
それに、ちょいちょいよみかえして、大きい字を見ると変ね。いろんな響や匂いが大きい字の間からぬけてしまっているようで。細かい字にとおっしゃった感じわかるようです、紙数ばかりのことでないものもあって。
きのうはそちらからかえりに池袋で円タクひろって、目白へまわって荷をもって林町へゆきました。寿江子は十四日に立つそうです。国が、土・日と行って。林町は今臨時の留守番のひとと武内というもとうちにいた人の夫婦がいますが、丁度一尺ざしを三本立てたような感じでね。これもどうもとっつきにくい空気です。私も留守番、私も。という気分からそういうことになるのね。大変工合がしっくりしないので、国、夜業から十時すぎかえって寿江子が安積(あさか)へ行ったら姉さん来てくれるといいなあと申しましたが、評定の結果、こちらは動かないことにしました。国だってあすこから行けるところがどこかになくては困るのだし、私にしろ、やはりいざというとき家を放ぽってどこかへ行ってもしまえないから。隣近所に対しても。ここから奥の方でいくらか森でもあるところにすこし心がけておいて、やはりここは動かないのが落ちでしょう。留守いと云ったって、自分の家をすててひとの家の留守をする人は居りませんものね。ひどく困りそうだったら、或は戸台さんでも来て貰うかもしれず、それはあのひとがひとり暮しだからというわけなのですが、いずれ御相談いたしましてから。目下のところは現状のままとしか考えて居りません。
きょうお送りした分。すみませんが、あれが九月から十二月迄よ。あとには全部全部であれと同じしかないのですが、まあどうにかなるでしょう。とにかくかつかつながら、そちらが本年じゅうもてばいくらか気が楽と申すものです。不意なことが起ったりして、小さい水たまりは瞬くうちに蒸発してしまいますね。フッ!そんな速さね。世に迅きもの、稲妻と匹敵いたします。
『私たちの生活』あれとして気に入って頂けて嬉しゅうございます。ああいう風にして集めると、又別様の趣が出ますね。この次予定されているのは、あれとも亦ちがって、ノート抄とでもいうようなものにするのですって。(本やの名今一寸思い出せず、名刺みなくては)それも面白いでしょうね。たとえば日記から、手紙から、メモから生活、文学いろいろの面にふれたものを収めてゆくのね。勉強不勉強もわかるというところがあって。全然新しいちょいちょいしたもの、たとえばこの間野原で見て来た夜の光景だのもそれには入りますから、きっとやはり面白いでしょう。
それはともかくとして八・九は筑摩の仕事です。さもないと、ユリの河童の小皿が乾上りますからね。そっちがこの仕儀に到ったので、ぺちゃんこにもなっているわけです。書きにくいことねえ。実に何だか書きにくい。こんな仕事早くしまって小説をかきたいと思います。第一次の欧州大戦のとき、あの五年間、ヨーロッパのいろんな作家たちは大抵その間まとまった仕事出来なかったのね。すんで、落付いてから。そういう気分が誰でもを支配していたようです。しかし今日はどうなのかしら。少くとも私たちは、済んで落付いてからという風に考えては居ないのが実際です。仕事をつづけてゆく、非常に強壮な神経の必要というものを感じて居りますね。作家の成長のモメントがそこにひそめられている、そう感じます。成長ということは徒らな順応のみではない、そこも面白いところですし。小林秀雄が、歴史小説について、歴史がひとりでに語り出すのを待つ謙虚さが大切ということを云って居ます。人も問うに落ちず語るに落ちるではないか、と。こういうひとの考えかたは、どうしても、白髪になってもやはり髄ぬけのままなのね。尾崎士郎は庶民にかえれ、と云っている。精神を庶民の精神にしろ、というのですが、そこでは受動性の肯定で云われて居ります。文芸面もそういう工合です。
病気の手当法についてのお話。どうもありがとう。私も日頃そのつもりで居ります。それがいい方法ということが確められて一層ゆとりが出来ます。でも急病になんかかかりたくないことねえ。まして疫病で死になんかしたくないことね。この頃の豆腐は恐ろしいのよ。極めて悪質の中毒をおこします。うちでは、この豆腐ずきなのにたべません。出来る用心は細心にして居るわけですが。
重治さん茂吉論も駄目でしたって(中公)。
筑摩の仕事をすまして見てその頃の状態によって、暮しかた考える必要があるだろうとも思って居ります。
きょうも昼間は大分暑うございましたが、風は秋ね。秋が待たれます。十分夏らしくないくせに体にこたえた夏でしたから。
お愛さんという娘はこういう娘としてはましの部よ。いろいろまめにいたします。ひねくれていません。月曜日にはお愛さんをつれて林町へ行って、泊って、寿江の荷造り手つだいます。 
八月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十三日第三十五信
お手紙けさ、ありがとう。本当に今年の天気はどうでしょう。私も汗の出ないのには今のようなのが楽ですが、でも心配ね。こんなひどい湿気は決してあなたのお体にもよくはないでしょう。つゆ時と同じですもの。
きのうは、夕方八重洲ビルへ行って、国男と寿江子と紀とで夕飯をたべました。国さんの誕生日でした。天気があやしいので雨傘をもって、無帽でバス待っているところを眺めたら憫然を感じました。髪の白いのはかまわないが、ふけたこと。あなたなんかどんなに見違えになるでしょうね。私の弟だと思うひとはないのも無理ないと思います。余りひどく呑んだりすると、あんなに早く年とるのかしら。衰えているというのではないのよ。精悍なのですが、輝き出しているものがないというわけです。一昨年の誕生日には咲枝の兄夫婦をよんで庭で風をうけながら夕飯をたべて、夜なかに咲枝が産気づいた年でした。その前の年はやっぱり咲枝たち開成山に行っていて、私が国男さんを神田の支那へよんで、緑郎とおもやいでゾーリンゲンのナイフをおくりものにした年でした。きのうもね、国男すこしほろよいなの。寿江子一緒にかえりたがらないで一人で市電にのってかえしてしまって、私たちは省線迄歩いて。そんなとき私は国男が可哀そうでいやあな気になるのです。ともかく自分の誕生日によんで、一人でかえるなんて。私はいつ迄も気にして、いやがるのよ、寿江子は。兄と弟とはこんなにちがうものと見えるのね、寿江子の方は、何だか妙にねっとりして来る兄貴なんかと一緒にかえりたくないのね、それもわかりますけれど。でも何だか薄情らしくていやに思える。さりとて私がぐるりとまわってかえるのも余り時間がかかるし。始終一緒に暮していると、あっさり先へかえしたり出来るのかもしれないわね。私たちはあなたも私も一番上で、弟たち妹たちしかしらなくて、その心持は年をとってもかわらず、却って年をとると又別のあわれさが出来たりするところ面白いものですね。親が、子をいつ迄も子供と思うの尤もね。あわれに思う心というものの面白さ。
ゴッホがこの頃妙な流行で読まれます、「焔と色」という小説を式場が訳して。弟のテオというのがいてね、これは画商の店員をしているのが終生実に兄のためによくしてやっています。こんな弟は本当に珍しい。テオという単純な名が、その気質のよさをあらわしているようです。ゴッホのような個性の極めて強烈であったひと、病故に強烈であったところさえある人の生涯の物語が、今日の日本の人々によまれるというところもなかなか心理的に意味ふかいわけですね。個性というものを人間は失えないものだ、ということの証左です。
「女性の現実」の中の数字のこと。私あれをいろいろなもので見たのでしたのに間違えたのねえ。しかし、女の働くひとの総数はその位のようですよ。月給もそれは新聞の日銀統計で出たのでした。平均というのは、工業の熟練工で一番とるのが平均三百何円で、女の最高の平均が百何十円というのなのですが、そのことが分らないように書けていたでしょうか。最高でさえ男の半分しかとれない、ということをかきたかったのでした。
『ダイヤモンド』ありがとう。とっておきましょう、私が見たのは谷野せつの調査や新聞の切りぬきや年報やらでした。
私がこれから書くものをおっくうがって気がすすまないのも、この号令式がひっかかりがちだからだろうと思います。
「ケーテ」面白く思って下すって満足です。私は芸術家の女のひとの伝記がもうすこしあったら面白かったと思います、音楽とか絵とかね。本朝女流画人伝というものだって私が書いてわるいということはないわけでしょう?そういう仕事だって、やはり前人未踏なのよ。いろんな女がどうして女の業績全般に対してひどく無頓着なのでしょうね。発揮は私いつも輝とかいていたようです、これからは手へんにいたしましょう。光の方がいかにも自然にかけてしまっていたのです、でも世間から云えば当て字ということでしょう。
本当にあの本はともかく今というところですね。
持薬のこと。きのうはでも思いもかけなくいくらか手にいれることが出来て幸運でした。薬屋さんも親切なのだとしみじみ感じます、全く苦面してくれるのですもの。粒々ありがたくのみこまなくてはならない次第です。
派出婦のこと、困るのは経済上の点です。ほかのひとを置かなくてはならないなら、この人がいいという人柄で、珍しく縫いものもすきでやっています。縫物が好き、というような人は珍しいのよ。常識的家政学からいうと、派出のひとを今置いておくなんて狂気の沙汰ですが、私は仰言るように背水の陣をしいて筑摩の仕事をしようと思うので、そのためにはやはりいて貰わなくてはなりません。家をあけて、どこかへ行ってしまうことも出来ず。いつものことながら暮しの形はむずかしいので閉口です。菅野さん母子も満州にいる父さんからもし為替が不通になった場合、義兄さんが扶助するのでしょうし、こっちと一緒にグラグラでは困るし。この頃は食料の買い出しだけで一人分の仕事よ。朝のうちパンの切符をとり魚やを見て予約しておいて、午後パンを買いにゆき、八百屋の切符とっておいて次の日買うという有様で、お菓子でもすこしたべようと思えば一日じゅう一人は歩きまわっていなくてはならないことになります。だからうちなんかいつもうまい買物はのがしつづけです。何しろこの間はそちらのかえりに、あの界隈で古ショウガを三銭買って来て大威張りという有様です。思いもかけず、米沢の方から一箱胡瓜、ナスを貰って大ホクホクという有様だったり。
郡山へは必要上、年内に一遍行かなければならないでしょう、整理しなくてはならないから。寿江子咲枝はそういう点では実に散漫ですから。あのおばあさんはそうよ、政恒夫人よ。運という名をつけるのね昔のひとは。開成山の家の上段の間の欄間に詩を彫りこんだ板がはめこまれていて、それにはじいさんが開拓した仕事のことが書いてあるようでした。いろいろ近頃になって考えるに、じいさんは晩年志をとげざる気分の鬱積で過したらしいが、自分が初めから青年時代から抱いていた開発事業への情熱も、まさしく来るべき明治の波が、底からその胸底に響いていたからこそだとは思わず、個人的に自己の卓見という風にだけ考えていたのね。だからあの仕事全体を、当時の全体につなげて考えられず、閥のひどい官僚間の生活が与えた苦しみを、すべて感情にうけて苦しんだのですね。じいさんの頃、生れが米沢で長州でなかったということには絶対の差があったのでしょうから。私たちにさえ、もしあのじいさんが長州出であったら必ず大臣になっていた人だと云う人があります。じいさんは生涯そんな妙な「であったらば」ということに煩わされたのね、可哀そうに。その煩いのために、自分の輪廓を却って歴史の中ではちぢめてしまっているように思えます。なかなかそうしてみると人は、自分の仕事を思い切って歴史のなかに放り出しておく度胸はもてないものと見えますね。歴史と個人との見かた、個人の生きかたを、そういうリアルな姿でつかめる人は少いわけでしょう。つまりは歴史の見かたの問題だから。
私は断片的に二人のじいさん二人のばあさんにふれて居りますが、いつかの機会にもっと系統だててしらべて祖父、父というものを歴史的に書いてみたいと思います。
室積の海の風にふかれていて、私はやはりそんなこと思いました。室積生れのおばあさん、野原の国広屋、それからそれへと。そして、その生活の物語を書いておくのはやはり私の仕事だと。宮本のうちの子供たちは、それをどんなに面白くよむでしょう。過去の生活の歴史を知るということは、人の一生が空虚でないということを感じて、少年にはいいわ。輝にそういう誰もしないおくりものをしてやりたいと思います。経済上の没落を、おちぶれと見ないだけ、おちぶれないだけの気魄をそういう物語の中からも知らしておいてやることは大切だわね。何しろアキラは、後代の子孫ですよ。オリーブ油を体にぬられて育てられているのですものね。人間として一番平凡になられては閉口ですからね。歴史のひろくゆたかな波が私のようなものをその家族の中に運んで、そのひとが、そういう物語も書いてあるというのは、あとでは随分面白いことだと云えるでしょう。二つの立派な長篇の題材です。一つは都会の中流の歴史。一つは地方の老舗の歴史。大いに私も精進してしかるべしです。本当に私は特にあとの方が書いてみたいと思います。お母さんのいろいろのお話も大変面白いわ。「雑沓」ではじまるのにはその二つの流れを交えて書こうとしていたわけですが、それは無理です。そんな小さいものではないわけですから。いつかいい機会に私は室積へすこし暮したり、野原のこともっとしらべたり、いろいろ自由にあのあたりを跋渉してノートこしらえておきとうございます。天気晴朗な日、それらの小説がつつましくしかし充実して登場することはわるい気持もいたしますまい。
自分の幅、重さ、みんなその中にぶちこんで活かせるような題材でないと、私はいつも評論より何かくい足りない小説ばかり書いていなくてはならないでしょう。云ってみれば、小さき説の底がぬけているのでしょう。だから思い切って踏みぬくべきなのよ、ね。ジャーナリズムの二三十枚小説の底はぬいていて、自分の足で歩いていいのです。――小説についても――自分の小説について思うことどっさりです。
(こんな紙、あやうくしみそうで字をつい軽くかきます) 
八月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十六日第三十六信
きのうはタイ風が岡山の方を荒して東京はそれたそうですが、きょうの風は何と野分でしょう。すっかり秋になりました。私はうれしいうれしい心持です。この乾いた工合がどんなに心持よいでしょう。ひとりでにうたをうたうほどいい心持です、暑くはなかったけれど、しめり気がいやで、本当にさっぱりしませんでした。せめてこれからカラリとした初秋がつづけば、私は元気になって毎日うんすうんすと仕事が出来ます。
この間うち、こまかいものを書きながらちょいちょい小説をよんでいて、大した作品ではなかったけれど、いろいろ得るところがありました。作家のテムペラメントということについて、何となし印象がまとまりました。女の作家、同じアメリカの作家でも、三つの世代がはっきりわかるようですね。ヴィラ・キャーサなんかの世代、バックの世代、マックカラーズの世代という風に。第一の世代の人たちは小説には特別な感情の世界をきずきあげなくては満足出来ず、お話をこしらえていた人たちの時代。バックの世代にはもっと現実に真率になって来ていて、お話はこしらえないけれども、やはりあたりまえに話すのと小説に書くのとは、気のもちかたがちがっていて、問題なりは、それとして問題として作品の中に存在させられた時代。最近の人たちは、更に動的で、バックのように自分はいくらか傍観的に生きて観察し考(思)索して書いてゆくのではなくて、毎日の中から生きているままに書いてゆく(技術的にではなくて、心理的にね)風になっていて、その意味で文学感覚そのものが行動性をもっていることです。偏見のすくないこと、現実のひどさを見ていてそれにひるまないで暖さも賢さも正しさも見失うまいとしている態度、変転をうけ入れてゆく態度。説教はしないで話すという態度。これらは平凡なことですけれど、しかし平凡さが次第にリアリスティックな把握力をつよめて来ているということの興味ある現象だと思います。(マックカラーズ)
第一次の大戦のとき、性急に動くひとと、動きを否定して内面の動きだけ追求した人々(心理派)とに分れて、行動派は重厚な思慮を持たなかったし、考え組は体をちっとでも動したら考えがみだれる式であったでしょう。第二次の大戦には、そういう段階でなくなっているのね、万人が二十五年の間に大きい範囲で、考えつつ行動し、行動しつつ考え、行動がいつも最善に行われるのでないことも知り、悪と闘うのにより小さい行為で黙って行って闘って行くという風なところを持って来ているのがわかります。これは私を元気づけます。文学というものはやはり人間精神の解毒剤として存在するということの証拠ね。そしてやはり人間はいくらかずつ前進しているのであるということを感じさせますから。
ヘミングウェイの小説ふとよみはじめて、あなたが割合感興をもっておよみになったろうと同感しました。これは自然私にフルマーノフの「チャパーエフ」(覚えていらっしゃるでしょう?農民とのこと。)を思い比べさせました、二つは大変ちがっています。でも私にはなかなか面白うございます。あの娘、マリアが橋の事件の前、ロベルトにたのむことやいろいろ。ね。スペインの娘でなくても同じことを考える、そこを面白く思いました、ただああいう風に表現するかしないかというちがい。更にそれが小説として書かれているということと、それが小説としては書かれていない、ということにはもう絶対の相異があります。そのことも。そして、それが書かれていなければ、無いと全く同じだということは、何ということでしょうね。
下巻はもうおよみになったの?もしおよみになったのなら又下さい。この小説はいろいろの面、角度からよめて、その意味からも面白うございますね。
蓼科からエハガキが来ました。家が出来て、見晴しはなかなか立派だそうです。例年の半分ぐらいの人だそうです。保田からもハガキが来て、あちらは落付かないそうです。お魚も(!)野菜も不自由だそうです。きょうは八百屋の問屋に荷が来なかったそうで何にもありません。うちのぬかみそには人参、ジャガイモが入って居ります。生れてはじめてね、ジャガイモのお香物というのは。新聞でよんで御試作です。きのうはそこの門を出たすぐ角の豆腐屋さんで油あげ二枚かって、すこし先の八百屋でミョーガを六つばかり買ってかえりました。そのあたりもこの頃ではきょろついて歩くというわけです。ミョーガの子が三つで六銭ぐらいよ。明日あたり立つので寿江子がきょうよります、せめて甘いもの一つと大さわぎして妙なワッフルまがいを買いました。それにきょうは配給のお米を一回分だけ前の家へわけてあげます。そこは男の子(大きいの)ばかりで細君と若い女中がお米不足で大弱りしていますから。うちはお米はたっぷり前からのくりこしであるの。
今この手紙下の茶の間でかいて居ります、二階はすっかりベッドひっくりかえして布団をほしているの。ですからスダレがおろされないでもう西日が眩しいのよ。目の前にはあなたのセルが風にゆられて鴨居から下って居ります。おあいさんは台所の外の日向でお米をほして虫とりをしています。
ああそう云えば島田からの写真!つきました?面白いわね、輝、なんてあの顔はおじいさんそっくりでしょう。まあるいおばちゃんの胸のところへちょいと抱かれて、面白いわねえ。あのしっかりさで、たった三ヵ月少しよ。輝はごく生れて間もないときから両手をひらいていて、普通の子のようにきつくにぎりしめていません。これも気の太い証拠よ。あの写真は珍宝の一つです。私の他愛のない口元を見て頂戴。いいわねえ。自分の一番まるくうつる角度なんかてんでわすれて、ホラ輝ちゃんと我を忘れているのだから罪がないと思います。あれも河村さんの息子の写真屋がとったのよ。すらりとした気質の子で、あれはいいかもしれません。この子に高校時代の写真で外国人の先生を中心にしてその左の端の方にいらっしゃる写真をそこだけ焼いて貰うことをたのんであります。それには感じが出ています。そういえばこの間は野原で小学一年のときのを見たこと、手紙に書いたでしょうか。
シャボンを一つお送りしておきます。
きのう一寸お話の出た綿入れは、大島の羽織、着物、茶じまの下へ重ねて着る分。赤っぽい縞の八反のどてら。めいせんのしまの厚いどてらがかえっていて、全部でしょう?これで。
それから銘仙の上下おそろいの袷ね。袷は一そろいしかお送りせず、それはかえって来て居ります。毛糸ジャケツ上下もかえって来ていて目下クリーニング屋です。
さあこれから二階へ行って、パンパンパンパンふとんを叩いてとりこみます。この頃はたのしんで早ねをして居ります。多分そのうちにすっかり好調になりましょう。チェホフは、自分の気持が紙と平らになるという表現で、仕事にうまくはまりこんだ状態を語って居ります。私には何かうまく歯車が合うという感じですが。では火曜日にね。一時ね。 
八月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十一日第三十六信
十六日のお手紙への返事、家については、火曜日に申上げたようにしたいと思います。いろいろとこの数ヵ月自分の気持をこねくっているうちに、段々一つの方向がついて来たようなところもあって、申しあげたように、決心もきまったところがあります。
極めて現実的に、そして歴史というものをすこし先の方から今日へと見てみると、私の存在というものは、こうやって一つの生活を保ってゆくために、どんな苦心をしたかということにかかっているのではないのですものね。どんなに辛苦したにしろ、云ってみればそれはそれだけのことだわ。その辛苦の上に何を成したかがつまるところ存在を語るので、予備的な条件のためにもし全力がつくされてしまうほどであるならそれは熟考をしなければならないというわけでしょう。
あなたが条件がかわって来ていることをおっしゃるのもこの点なのでしょうと思います。私はそれをあっちの道、こっちの道から、自分はどういう風に仕事をしどんな仕事をするべきかと考えて見て、その仕事をするための生活はどんな方法で支えられるかということを謂わば一日は二十四時間で人間のエネルギーはどの位かと考えて、そして、そこで幾とおりの事が出来るものかと考えて見て、一番大切なことを守らなければ意味ないとよくわかったのです。書けないということは、書けないのではないのですからね。育たなければならないわ。そういう育つべきこととして考えて、あっちのいやなこともこれ迄とちがった気持でやってゆけそうになって来たのです。
これと、もう一つ内心ホクホクのことは、この間うちいろんな新しい小説をよんでいて、所謂書けないからこそ、とっくりそこの井戸は掘って見ようと思う文学上の新しい方法(というのも変だけれど)がちらりと心に浮んでいて、それがたのしみで私はこの二つのことを最近つかまえた狼の子と呼んでいるのよ。
この頃の、抜き糸を箱の底へためたような小説がいやでいやで。文学はどこかにもっと堅固な骨格や踝(くるぶし)をもって、少くとも歩行に耐えるものでなければならないと思っているものだから。ヘミングウェイなんか実に暗示にとんで居ります。題材その他いろいろの点全くここにある可能とは異ったものではありますが、でも私にとってはやっぱり広い野面に視線が向けられた感じです。
そういう狼の子たちの育つのが、育てるのがたのしみで、そのそれで新しく引越す生活に自分としてのはっきりした心持のよりどころ、中心が出来たわけです。都合のためだけで、ああいう空気の中に入ってゆく気は迚も迚も出ないのです。
つかまえたものが心にあれば、私は愚痴もこぼすまいと思います。ぐるりの人たちの生活態度にばかり神経が反応するという弱さも生じないでしょうと思います。このことは私として最も修業のいることの一つよ。そのひとたちはそのひとたち、私たちは私たち、その各〃の生きかたで生きてゆくということは分り切ったことで、しかも時々何だか感情が分らなくなるわ。余りいろんなものが流水の表面に浮んで、一方の岸で水はあっちへ流れているようなのに、こっちでは水はこっちへ流れているようだったりすると。
でも、私はちっともそういうことについてよけいな心を苦しめなくていいのだし、おせいっかいはいらないことなのね。自分のことにもっと謙遜に全力をつくしていればいいのだわ。自分が全力をつくしていれば、あるところでその流れはやはりこっち向きだったのか、あっちむきだったのか、自然わかって来るのだから。
そういう点も、つきはなすというのではない自分としてのわきまえをもつべきなのだと思ってね。それで益〃自分の所産ということをだけ注意し、関心し、熱中すればいいのだと思うようになって来たわけです。どんな形であろうとも、そのひとはその人の歩きようでしか歩かないみたいなものだから。いろいろなかなか面白いことね。人間が俗化してゆくモメントは何と微妙でしょう、私は自分についてやはりそのことを考えるのよ。私の場合にはきちんとしたさっぱりした自分たちの生活をやって行こうと決心している、そのことのために丁度模範生がいつか俗化するような俗化の危険をもっていると思うの。こういうところなかなかの機微ですから。今のような生活の問題があって、あらゆる面から自分の生活感情をしらべる必要がおこったりすることも、有益よ。
さて、チクマの本のこと。この案は立派ねえ。これは魅力のふかい構想です。しかし、云わば文芸評論をかき得るか得ないかという空気とつながった問題があってねえ。
女性の生きかたの問題だけの糸をたぐれば、これは文学史を流れとおして今日に到り得るのよ。それはいつか書いてみたいと思っていますし、書けるのよ。
いずれは文学作品だのから語るのでしょうが、形は、一つのトピックからひろがってゆく形、間口は小さくて奥でひろがる形になってゆくのではないでしょうか。だってね、さもないとそれぞれの時代の人間生きかたについての中心的な観念がいきなり辿られることになって、それはとりも直さず校長さんのかけ声となってしまうでしょう。
親子のことについて漱石は、本当の母ではないということを知ったことから人生に対して心持のちがって来る青年を書いていますけれども、自分が実の子でないということを知って、それに拘泥してゆくそのゆきかたがどういうものか、というようなところから親と子の自然な健全な考えかたを導き出して来る、そういう風に扱ってゆくしかないでしょうね。自分の計画としては、そんな方法しか思いつかないのよ、可能な形として。階子の上の段からちゃんちゃんと一段ずつ下りて来て廊下へ出て、廊下を歩くという順には行きそうもないと思います。そういう堂々的歩調のむずかしいところがあるわけです。トピックとしてふれないものもあるわけですから。余り定式の行列歩調のきまっているものについては。一つ義務というものについて考えてみたって、私が本をなかなかかき出せないわけが分って下されるでしょう?イギリス人は紳士道の一つとしてデュティー・ファーストと教えます。しかしデュティとは何でしょう?インドに向って船を駆ってゆくそれはデュティであったのです。だからキプリングがああいう愚劣な女王の旗の下になんていう動物物語を「ジャングル・ブック」のおしまいに加えているのでしょう。
本当にこの紙はひどくてすみません。伊東やへ行くと、先つかっていたようなタイプライターの紙があるかもしれないのだけれど、あっちへつい足を向けないものだから。原稿紙だって今時はなかなか自家用をこしらえるなんてわけには行かないのよ。私は自分の原稿紙だの用箋だのをつくらせるのは寧ろ滑稽な感じがするのよ、何々用箋だなんて。そんな紙に手紙かいて、一層滑稽なことは自分の名を印刷した封筒に入れてね。
原稿紙もあたり前に何のしるしのないものをこしらえさせてはいたのです、用箋の紙はおそらくないでしょうね。あれば日本紙でペンでかけるのなんかでもまあ用に足りますね。ボロに還元するに時間がいくらかもつでしょう。
ヘミングウェイの下巻、古で見つけました。上巻よりも何というかしらテーマの集注した部分です。二十世紀の初めから、たとえばトルストイに「ハジ・ムラート」があるでしょう、そのほかどっさりコーカサスをかいたものがあります。それからファデェーエフの「ウデゲからの最後のもの」、それからこの作品の中のソルド。ここでは又農民というものも歴史の水平線の上にあらわれて来て「チャパーエフ」、「壊滅」そのほか。こういう文学の筋を辿ると面白いことねえ。アメリカの文学の中でだってやはり随分面白いのです。一九二九年以後のアメリカの文学は、真面目に対手にされなければならないものであると痛感いたします。
榊山潤というような作家は果して正気でしょうか、アメリカ映画その他外国映画の輸入が全くなくなることについての意見として、ドイツやフランスの映画がなくなるのはおしいがアメリカの下らない映画がなくなるのは何より結構だ、と。しかしパストゥールを映画化したのはどこでしょう。昨今大評判のエールリッヒを制作したのはワーナーですが、ワーナーとはどこの会社でしょう。エールリッヒになって科学者の精神と人間的威厳で私たちを感動させ六〇六号が何故六〇六号という名をもっているかを知らせた主役のロビンソンはアメリカの俳優です。ロスチャイルドの傑作、その他。妙なことをいう人があるものね。アメリカが気にくわんというのとは芸術家だったら別箇にわかりそうなものだのにねえ。せかついた世の中になると、めいめいが自分の専門の魂を自分で見失ってしまうようですね。どしどしといろんな専門の分野で専門から滑り落ちてゆく人がダンテ的姿で見られるという次第でしょう。
ホグベンの「百万人の数学」が紹介されたとき日本で忽ち『百万人の数学』という本をかいて、それが悪い本だと云って石原純や小倉金之助におこられた竹内時男という工業大学教授があってね、その人が、この頃は「科学のこころ」というようなものが出て、その程度でいいものだとでも思ったと見えて「人工ラジウム」というものを特許局に請願して許可になりました。医療用として。ところがそれに対して、囂々(ごうごう)たる批難が学界におこって、日頃はあんなに仲もよくない物理・数学・化学その他の専門部が一致して物理学界の例会で討論をやり、竹内時男という人の学者的立場は、そのにせものの本来をむき出しました。この事に一般の関心と興味の向けられた情熱は一種まことに面白いものであったと思います、うそにあきているのでね。
そしたら新聞か何かのゴシップに、この頃は彼の研究室に助手となるものがなくて閉口ですって。大笑いしてしまった。それでもやはり先生をしていたのかと、却ってびっくりよ。よく先生になっていますね。肝心の学問がそんなで、根性がそんなで、無上のスキャンダルをおこしながら。石原は原アサヲと一緒になって学校やめさせられたけれども、彼の学者的実力は決していかがわしいものではないのだそうですが。学校もひどいと思います、生徒こそいい面の皮ね。
寿江子開成山からかえりました。あすこもすっかりかわりましたって。小二里ほどある山のまわりに兵営が出来て来年は寂しい林の間の道に小店が並ぶだろうと云って居ります。 
八月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十八日第三十七信
これはこれで、又妙な飾りつきね。イトウ屋の紙よ。半紙はやはりだめだそうです。九段へは電話をかけておきました。例によって二三日中には上りますそうです。北海道の方は一段落ついた由で、珍しく電話口で声をききました。
さて私の方は、昨日、勇気を奮ってうらの林さんのおばあさんに話をいたしました。それは大した気合を自分にかけて出馬したのよ。けさ返事があって、あとに佐藤さんが入ることを承諾いたしました。五十円になります。それで可能であったわけです。一大事業をやって、ほっとして、今おあいさんに夜具の袋を買いにやったところです。佐藤さんが来るなら、いろいろあっちがちゃんとしないのにすっかり持ち出さなくたっていいし、こっちへよれるしいろいろと万事気が楽です。思い切ってまあよかったと思って居ります。全くあなたのおっしゃるとおり仕事部屋をよそに持ったっていいのだし、或る意味では、これ迄何年間か知らず知らず肩へ力を入れて暮して来ているのがやすまるかもしれません。少くとも島田へ呑気に行けるだけも仕合わせかもしれないわね。出ることを考えなければ行く気にならぬ、というところ何卒何卒お察し下さい。真面目な話よ、これは。まあ生活には様々の屈伸曲節があっていいのでしょう。たとえばKたちの生活を、何とかしてもう少しましにしてやりたいと気をもんだって、これ迄何ともなりはしなかったのだから、自分で自分として生活して行って、そこに一つの生活の流れが通っているものだから、おのずから何かうち全体が変化して来るというのでいいのでしょう。そういう意味からも謙遜に熱心に生活すればいいのだしね。私はよくよくああいうところでの生活術というものを考えました。本気で今度は考えて、追随もしないし、おせっかいもしないし、ちゃんとユリちゃんらしき世界を建ててゆく決心をいたしました。批評だけに終る批評はしないわ、もう。やってゆくだけよ。つまりあの家に欠けているのはそういう力なのですから。そういう点で、私はこれ迄幾度か林町へちょいちょい暮しましたが、今度は別の私としての段階で生活をはじめるわけです。この点もわかって下さるでしょう?私にはどうしたって生々として皮膚にじかにふれて来る生活の風がいるのだから、今になってもあの空気を考えると涙が出るわ。苦しくなったら机と夜具をもって出かけるわ、ね。わかっているのです、息がつまって来て、バタつくのが。だから私がアプアプしはじめて、何とかうごきたがるときは、どうかそのようにさせて下さい、これは今からあらかじめ諒解ずみということにしておいて頂きます。あれこれの条をわかっておいていただくと、こまかいことについてごたごた喋らないでも話の意味がわかりますから。そのようにして開始したいの。
今ここにきこえている省線の遠い音だの、いかにも秋らしい西日の光だの、そういうものを一つ一つ鮮やかな感情で感じます。
生活っていうものは不思議なものね。本質的なものでないものでもそれが自分の生活として身について何年か経ると、そこからはなれるのに、丁度、植木をぬくとき細い根の切れて来るプリプリプッというような音がするのね。
今度は生活というものについてなかなかいい経験をしたと思います。[図2]こういう形なら形で毎日の生活が運ばれて来ていると、その中のどの部分に大事なものがあるのか、ほかの形のついている部分はどういうものかということを吟味するのは、やはり根本的な問題がおこらないと、だらだらに、しかも一生懸命骨を折って形を守って暮すことになったりもするのね。
私は指一本さされない暮し、というものにも地獄の口があいているのをよくよく発見して、面白いわ。それからいろいろな人とのいきさつにしろ私は、これまで何でもして貰うよりして上げる側にばかりいつしか立って来て、そういうならわし、自分の可能性から、家のものにきがねして友達を外へつれ出して夕飯でも一緒にたべるというそういう気分は余り味っていないわけね。ごく若いときから、自分の努力で、こう進もうという方へそのように進んで来たものが、或る時期に、その裏うちとなるいろいろの生活のニュアンスを経験するのは、決してわるいことではないと思えます。一本道に益〃複雑な景観が加り変化が含蓄されるわけで、つまりは柔軟でつよい豊かさを増すことともなってね。悪くないぞとも思っているの。一つずつちがった経験を重ねて、段々自分を甘やかさないで生きる法を学び、人生で大切なものを大切としてゆくようになるということは考えれば愉しいことだわね。生活してゆく人間らしい適応性が、そのようにしてましてゆくということはねうちがあります。生活において、非常に運動神経が鍛えられていて、どんな角度が生じても自身としての均衡の破られない力がつくことは、これからの世界が私たちに求めている資質の一つね。
ざっとこういうようなわけなの。ポツポツと月の中に荷物を動かします。チクマもまさか、合の手にこんな引越しがはさまっていようとは思って居りますまい。可笑しいわね。このドタバタが一かたついて、私はやっと落付きますでしょう。四月以来随分輾転反側でしたが。この家は足かけ五年でした。間に十三年という年をはさんで、十三年のときと今との心持をくらべて見ると興味があります。ずっと今の方が進歩して居ます、必然ですが。極めて巨大なスケールで、モラルを示されているし。こうやって、いろんな思いをして暮して、ユリが段々事物の価値をはっきり見るようになって、さっぱりして、しめっぽくなくて、かさばらなくて、そしてユーモラスであるようになれば、少しはほめてやってもいいと思います。
ヘミングウェイの小説は相当なもので、自然主義期の感情の質との相異を沁々感じさせました。透明である憤り、憎悪、そういうものは今日から明日へのものね、例えばドストイェフスキーなんかにしろ、人間のそういう感情はいつも暗さを伴っていました。初発的とでもいうのか、あの時代には何だか感情はそれだけで暴威をふるったのね、人間をひきまわしたのね。理性は随分あとからいつも駈けてついて歩いていて、そして間に合わなかったのだわ。最近の十年の間に、そこが変った。これが現代文学の根源的変化です。感情の方向が変ったというより質が全く変っていて、ひろい内容を感情しているし、さっきの憤りにしろいやさにしろ、それはくっきりと感じられていてしかし作者はその感情で頭を濛々(もうもう)とさせてはいないのね。ここが急所です。十九世紀から二十世紀の三十年迄の文学精神は、云ってみれば濛々とすることそれ自体をよりどころとしていたようだけれど、ちがって来ています。私は父に死なれたとき、すきとおって、明るくて、悲しくて悲しくて、しかも乱れることの出来ない感情を経験しましたが、そういうものがひろがるのね。理解の透明さでしょうか。
明るさの本来はこういうものであるわけですね。私がいつか手紙に、私は単に快活であったのだろうかと書いたことがあったでしょう?快活さの上は、そのような明るみに通じる可能をふくみ、底は甘ったれやいい気や軽率さやにも通じるものね。快活が時にやり切れなく単調である所以ね。明るさは光りだからそうではないわ。色を照し出しますもの、ね。人は所謂朗らかではなくて明るくあり得る筈です。そういう明るさ、渋い明るさ。男らしさに通じるもの、それは人間の美しさだから女にも通じているのよ、女がもしもう少し動物的でなくなれば。或はそのことを自分で心づけば。
ヘミングウェイの小説は、あれこれ濛々的文字の氾濫の折から実に快うございました。
隆治さんこちらへ珍しく二枚つづきのハガキくれました。休み日でレコードを戦友がかけているそのわきで書いているのですって。七月二十六日に島田から書いた長い手紙への返事よ。きっとあんなに細かく書いてあるのにペラリと一枚ではわるいと思ったのね。この間あなたのおくりものやいろいろよかったと思います。では明日。きょうは乾いた天気になりました。 
九月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 本郷区林町二一より(封書)〕
九月十日第三十八信
随分久しい御無沙汰になりました。この前は八月二十八日に書いたきり。あとはパタパタさわぎで、あなたもくしゃみが出るほど埃をおかぶりになったというわけです。
きょうは私としてはいい雨よ。やっといくらか落付きましたから。自分の机をおくところだけ、どうやら埃の中から島をこしらえて、となりの室や廊下にはまだがらくたの山をのこしながら、エイ、と今日はすこしものを書いてさっき送り出したところです。
八月二十九日に林町へ行って、さて、とからかみをあけて長大息をして、それからはじめて五日までに一応あっちのものをこっちへもちこめるようにして、目白の荷は三日にもち出しました。九月一日に、何と話が間違ったのか荷車が一台来て、ふとん包みなんかもち出して、一日おいて三日にオート三輪四遍往復して、あとリヤカー二台で大きいものを動かしました。本がえらくてね。重量も大きいし。それから四日にもう一人来て貰って二階へはこびあげて、畳もいくらか埃をはたき出して貰って、ともかく納めました。本はまだそのままよ。玄関わきの書生部屋に入っていて、これには閉口です。どうしたって出さねばならないから。五日には派出婦さんに一日休みをやって、七日の日曜日に佐藤さんが引越しました。引越しをすると、本当に簡単に暮したいと思いますね。私たちのような生活でさえやっぱりいろいろとごたごたがあるわ。としよりのいる家なんか全く大したものです。何のためにそういうものがとってあるかと思うようなものまで、やはり引越しについて来るのですものね。
月曜日はおあいさんは目白に働いて、私はこちらに一人で、いろいろ古い雑誌の整理なんかをポツリポツリとやり、きのうの火曜日はあれからかえりに目白へまわって近所へみんな挨拶をして、おばあさんを新しく紹介しておそばを配って、そしてあっちで白飯たべて、九時ごろ野菜の袋を下げて、ホーレン草の種だの肥料の袋だの、ヘミングウェイの前の作品だのを入れた包みをもって林町へかえりました。大変妙だったわ、目白からかえるなんて。足かけ五年の古戦場ですもの、無理もないと思います。そして今度は派出婦のおあいさんやあの手つだいの若い娘さんやらだけが相手で、あすこへ引越すとき手つだってくれた人々は誰一人い合わせないのも感じ深うございました。さっぱりしたものよ。却って気が楽なようで、いろいろの感情を経験しました。軸がキリキリと回るとき、何と遠心力がつよいでしょうね。一人一人の顔を思い浮べると、みんな遠い遠いところに目下暮していたり、そうではなくても生活の上で大きく変化していたりして。歴史だの生活だのの力学は、昔のひとの転変と呼んだものですね。
今は労働つづきで疲れるから全く枕につくとすぐという程よく眠ります。林町の間どり、ぼんやりとしか御存知ないでしょうね。八畳と並んで十二畳があって、この十二畳が問題の室なのよ。何しろバカに大きい床の間がある上に、間どりの関係から、うちで悲しい儀式があるときは、いつもこの十二畳と八畳とがぶっこぬきになって、神官がおじぎしたり何かして、奥は、誰もそこで暮したことのないという部屋です。
だから今度はね、私が一つコロンブスになるのよ。そこに生活を吹きこもうというわけです。あたり前に着物がちらかったり、お茶があったりする、そういう生きた人間の場所にしようというと、咲枝はあらァうれしいわ、お願ね、ユリちゃんならきっと出来るわと大いに激励してくれました。私はこっちのひろい室へ大きい本棚を立ててね、あの白木のよ。その御利益に守られて大いに活力のある座敷にしようと思って居ります。
今のようなときこそ本当の落付きがいるということ、実にそう思います。あれよ、あれよと景観に目をとられて、と云っていらっしゃるが、それさえ現実にはまだ積極の方よ。迚も景観に目をとられるというだけの余裕はなくて、あれよ、あれよといううちにわが手わが足が思わぬ力にかつぎあげられ、こづきまわされて、省線の午後五時のとおり、自分の足は浮いたなりに、体は揉みこまれて車内に入ってしまうという位の修羅です。
年鑑のこと、ありがとう。それから、ユリがこういうことになると、ややそっぽ向きで素通りで、苦笑だって?そうでした?御免なさい。そっぽ向いたりしていなかったのよ、ところが年鑑は今ごたごたで、手もとに出せません。すぐ見ないのはわるいわね。ホラ又ダラダララインというところね。でもきょうは御容赦。こんどはっきり間違いを自分でしらべておきますから。
私は、僕等の家としては、というところから目を放さず、無限の想像をよびさまされます。私たちの家として何年間か暮して来た間には、住んでいるところがとりも直さず私たちの家で、想像もリアルなのよ。たとえば二階に一つ机があって、下の四畳半に机がおけて、六畳で御飯たべたりいろいろ出来るという工合に。そういう気持で暮しているのね。今のようになると、何とまざまざと、しかも空想的に、僕等の家というものが考えられるでしょう、そこは明るそうよ。大変居心地よさそうよ。さっぱりと清潔で、生活の弾力とよろこびと労作のつやにかがやいているようよ、何と私たちの家らしい家が思われるでしょう。今は心のどこかに、一つのはっきりしたそういう家が出来ています。その変化に心づいていたところへ、家の話がかかれていて、私の胸の中にある思いは、つよくて切れない絹糸のように、そこのところをキリキリと巻いてしめつけるの。しかも一方に腹立たしいところもあるの。そんなに鮮やかに、私たちの家が、明るくどこかに在る感じがするということが。分るでしょう?
本を焼かないようにということもなかなかのことで、殆ど手の下しようがないことです。今書庫なんて建てようもないし、でも追々うちの建築家と相談して、今ある設備を百パーセントにつかう方法は考えましょう。
引越しのゴタゴタの間、つかれるとちょいとひろげては、モームの「月と六ペンス」ゴーギャンの生活から書いたという小説をよみました。ゴーギャンは、ロンドンの株屋だったのね。それが四十歳を越してから絵をかきたくて家出してしまうのよ。モームという作家は、やはり大戦後の心理派の一人で、そういう欠点や理屈づけや分析やらをもっていますが、イギリスの作家の皮肉というものは、皮肉そのものが中流性に立って居りますね。所謂中流のしきたりに反撥して皮肉になっている、悪魔を肯定し、人間の矛盾を肯定する、そういう工合なのね。モームもその一人です。ゴーギャンに当る人間は、いくらか偶像的に間接にしかかかれていません。このゴーギャンにゴッホがひきつけられ、しかもそれは不安な魅力で、ゴッホが自画像の耳が変だとゴーギャンに云われて、てんかんの発作をおこして自分の耳をきりおとしてしまったことなど、そういう人間の火花は面白いけれど、書かれては居りません。モームの小説では。でもゴーギャンの絵のあの黄色と紫と赤のあの息苦しいような美はよくとらえて、タヒチの美として、ゴーギャンの感覚としてかいて居ります。
ヘミングウェイをよんで思うのよ。イワノフの「スクタレフスキー教授」が何故にこの作家のような、くっきりとした線の太さ明瞭さで書かれなかったかと。それから「黄金の犢」も。それについては、又ね。余り長くなりますから。 
九月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十七日第三十九信
もうきょうはこんな日。びっくりしてしまいます。何という恐るべき引越しでしたろう。今夜は、やっとやっと、もうこれで動かないところ迄こぎつけて、風邪ひきで休んでいた国男さんに机の上のスタンドがつくようにして貰って、吻っとしたところです。
今夜は障子が骨だけなの。明日張れます。そしておしまい。それで当分は、もう知らない、というわけよ。二階を片づける、片づけたものをもってゆく場所がない。そのために土蔵の中を片づけなければならない。そういうおそろしい因果関係で、つまるところ私は二階から土蔵の中までの掃除をしなければならなかったのですもの。こんな引越しなんて天下無類です。そしてすっかり片づけの要領を覚えてしまったようです。ああ、ほんとうにひどかった。こういう折でもないと、家じゅうの邪魔ものをみんな二階へぶちあげるきりで更に何年間かを経たでしょう。この部屋も全く別のところのようです。よかったわ。お化けじみたところは消散してしまいましたから。
さて、九月二日、目白の方へ下すったお手紙。この前の手紙にこの手紙へのこと素通りしてしまっていたって?二日のお手紙はそういう可能を自分の条件の裡に発見し具体化してゆく心持に直接ふれて来ていたのに。あとで手紙書いたときは、何しろ手拭で頭しばって働いている間みたいで、きっとおとしてしまったのでしょう。
随分あっちこっちから考えた上のことですから、本当にこの最少限の最大限というような生活の奇妙な条件を充実して暮したいと思います。万事私の勉学次第ですものね。それだけがやがて、今日の生活を価値づけるのですものね。そこをはっきりつかまえて、一心不乱であればよいのだと思うの。ひとが、こう生活すべきだとつけまわして、自分の生活を空虚にしてはいられませんから。謙遜に、たしかに自分の道を怠らずゆくことというのは、自身の充実への戒心のわけです。それにね、あのダムを必要によってこわしてしまったというニュース[自注7]も、もし事実なら、やはり、いかに生活はあるべきかという意味ふかい教訓だと感じました。みんなはどんなにあれをつくることを愛したでしょう、どんなに模型をクラブにおき、それについて詩をつくり、小説をかいたでしょう。建設の一つの塔のように響いていたものを、出来上ってやっとまだ三四年の今、それが必要なら自分たちでこわすということには再び又それをこしらえるというつよい確信がこもっていて、こわすことに却って勇気がこもっています。生活の勇気とはそういうものなのね。そうだとしたら、自分がもちつづけた生活の形を変えるということを決心しにくいというのは、何と滑稽な意気地のないことでしょう。様々の変化に耐えないというわけなのだろうか?そう自分に向ってきいて見ると、私の中には、そんなに自在さの失われている筈はないというものがあって、それで、私は明るくされるのよ。
隆治さんのことは、私は次のような点から感服するのよ。酒をのむのまぬ、煙草を吸う吸わぬ、そのこと自体は吸ったからわるいという考えかたでは余りかたくるしいけれど、そういうものなしに様々の艱難を凌ぎとおしてきたという、そういう素面(しらふ)でいる人間の勇気というものを私は感服するの。達ちゃんの話では、迚ももてん、というのですから。そしてまわりは皆やる。自分がやらない。いつも正気でいる。そして酒の勢をかりてやることを見て来ているし、やらせられて来ている。そこに何か痛切なものがあります。私はそこを思うのよ。隆ちゃんがその正気の心で経験して来たことを思うのです。例えばヘミングウェイは大変男らしい作家です、爽快な男です。私は随分気に入ったところがあるのだけれど、この人の小説には、酒とたべものが何と出て来るでしょう、官能の性質が推察されるようです。どうなってゆくだろう、この先、という心持の中にはこの作家のそういう面もやはり一つの条件となっているようなもので、隆ちゃんのしらふについて深く考えるわけです。
さて、十三日のお手紙はいかにも用向のお手紙ね。これは竹の垣根のすこし古びたののようよ。パラリパラリと大きい字があって、間から風がとおしているようよ。(慾ばり?! )
さあ、いよいよ落付いて、仕事をすすめなくてはね。私は実にうまく引越して、ギリギリの一文なしよ。だからあなたに年の末までをお送りしておいたのはなかなかやりくり上手だったということになります。そのうちには又ポツリポツリと雨だれを小桶にうけておきますから。
夢の話大笑いね、でもなかなか哀れふかいところもあるとお思いにならないこと?あなたは本やに何とか云っておくれたことを話していて下さるのよ。こうやって、云って貰うのは何て楽だろうとほっこりしてわきにいるの。大変たのみになる心持だったことよ。実際だったら、あなたはそんなとき云って下さる?余り心理的で、陽気にふき出してしまいました。こんなのだって、かりに私が本やに話したりすると、本やは本気にしないわきっと。余りつぼにはまりすぎていて。人間の心もちって妙ね。では今夜はこれで終り。咳すこし出ますが大丈夫です。協力は笑草ほど増刷いたしました。

[自注7]あのダムを必要によってこわしてしまったというニュース――ソヴェト同盟の労働者は、一九四一年の秋ナチス軍の手から守るためにドニエプルの大ダムを自ら破壊した。 
九月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月二十一日第四十信
きょうは日曜日で日蝕が〇時四十六分一秒からはじまるというので、国ちゃんがガラスをローソクの煙で黒くして太郎も私もそこからのぞきました。真赤な太陽の右下のところから欠けはじめました。
井戸がえをはじめていて、七八人の人が働いていますが、繩をひっぱる女も三人ほど交っています。あの昔きいた井戸がえの一種独特なかけ声をやはり今でもやるのね。職業の声なのね。
市内ではこの頃万一の用心に井戸掘や井戸さらえがあっちこっちで行われて、職人が不足していて、市の近郊の職人がひっぱりだこの由です。井戸をつかえるようにすることや、水洗の厠の外に普通のをこしらえることだの、様々の仕事です。太郎は生れて初めて井戸がえを見て大変珍しそうです。僕手つだっていいかしら。あのつなひっぱると、つな引のときつよくなるんだネなどとやって居ります。
きのうはてっちゃん初のお客によってくれました。私も段々馴れはじめました。いろいろなことが段々気にしないでやれるようになって来て(日常の用事よ。たとえば雨戸しめるということにしろ。馴れないと、あすこしめ忘れたという風で)これで、私の下宿出来るところとしたら最も自由のきくところであるということがわかって来て、いろんなことにはこだわらないで自分は自分としてやってゆくことを覚えそうですから御安心下さい。
初めのうち、国さん風邪で事務所休んでいて、起きるとから寝るまでラジオなので本当に閉口しましたが。私はよくよくラジオぎらいなのよ。あの雑音は実にいやで、荷風のラジオぎらいもわからなくない位。だからどうしようと思いましたが。きのうきょうは静よ。助ります。その代り寿江子のピアノね。
女中さんが一人留守で、大いそがしよ。やす子が全然弱いから完全に一人の手をとります。
いかが?こんなに日常の暮しは手紙の中に照りかえします、面白いことねえ。夜こわいというような思いをしないでねられるのは一徳です、大変神経に薬でしょうねえ。こういう目に見えない休みがあるのだから、女人夫をやった疲れが直って調子がわかったら大いにがんばらなくてはね。起きぬけにラジオきかなければならないのが辛くて、これだけはいやです、人手があれば本当にせめて朝食だけは雑音ぬきでたべたいと思います、今に何とか工夫するわ、つめてものをかき出したら。もとだとお茶とパンですませたのに、今はそれがききませんからね。自分だけ自分で運んで朝は別にするかもしれないわ。
きのう二十日でしたが、電報どうだったかしら。適当なときに届きましたろうか。森長さんには三通のことともう一つの用件をよくつたえました。話の意味はよく分ったそうでした。何にもそういうことは今話に出ていないそうです。
達ちゃんのこと、実現したら余り見つけものすぎる、という位の感じですね。専門がああいうのだからそういうことは殆ど不思議だと紀も云っていました。不思議にしろ、そういう不思議は大歓迎ね。
山崎のおじさんが御上京で三軒茶屋の家にいられます。ハガキが来て(目白宛に)来たいとおっしゃるから、いつも、あっちからばかり来させてわるいから今度は私の方から訪ねることにしました。金曜日そちらのかえりにずっとまわりましょう。いつかは五年前、目白へ引越したばかりのとき来て下すったし、今度はこっちへ来たばかりへ来て下さるし、奇妙なめぐり合わせね。田舎ではすっかり呆けたようにしていらしたけれど東京ではいかがでしょう。やはり東京が気が楽なのね。大した家柄のおよめさんなんておじさんには年とともに苦手になる一方なのでしょう。まして息子たちは、皆負傷してかえって来ているのだし。美味しい鳥肉を買ってもって上りましょうとお約束してあります。目白の鶏屋がよいから。前から電話しておいて、よってもって行きましょう。私はあの山崎のおじさんという方には親切にしてあげたいところを感じます。年をとっていらして、それでいて子供のようなところ世智にたけないところがあってね。およめさんたちはそういうところを意気地ないと見るのもわかりますが。あっちを訪ねるのにいい機会でしょう、こっちもいくらか困るのですし。つづき合いから云って、私一人食事のお対手するのは妙で、やはり家のお客様とすべきなのに、旦那さんはそういうつき合いはきらいですからね。おっくうがるからね。すこしゆっくり滞在なさるのなら又そのうちにおよびして、二階で何かやって国男たちもお客にしてしまいましょう。そうすればいいでしょう。私が主婦役一人でね。そういうところのやりかたについてもいろいろとのみこめて来ました。二階をすっかりつかっているのはそういうとき便利です。
連日の女人足の疲れ、相当ね。単純なつかれではありますが。疲れて風邪気でもあるから、本当は私は少しクンクンになりたいところです。クンクンになって、あの美味しくとけるようなボンボンをたべたいと思います。
あんなボンボン類なしねえ。美味しがるのを御覧になれば、あなただって思わずもっとたべさせたいとお思いになるのも無理がない次第でしょう。この節はなかなか手に入りませんでした。だからもし見つけたら私は一つや二つ夢中と思うわ。味なんか分らないでしょう。半ダースもたべてたべて、ああやっとおいしさがしみとおったわというのでは恐慌かしら。恐慌的ということのなかにも愛嬌のあることだのうれしいことだの恐縮なことだのがあったりするわけなのですから、ユリのボンボン好きぐらい、ねえ。理の当然ではないでしょうか。それはみんなユリが丈夫で、いい味覚と特別に高い趣味とをもっているということにほかならないのですものね。
ボンボン貪慾についてあなたはすこし辛棒づよくきいて下さらなくてはならないわけもありそうです。だって、知っていらっしゃること?あなたよ、初めてあの蜜入りを私におたべさせになったのは。人間の味うものの範囲も考えてみればひろいと感服いたします。
私は今自分のまわりに浮んで来るいろいろの情景の中にいて、何かおとなしい小さい声で物を云っていたいのに、ピアノは何てせわしくうるさく鳴っていることでしょう。あなたもうるさくて?今何にもあんなに鳴るものなんか欲しくないのに。ねえ。
困った心持になって凝っとしていたら、ふっとやんだわ。暫くこうしていて間もなくねてしまおうと思うの。
子供は、早くあしたになればいいと思うとき、早くねてしっかり目をつぶって、あしたが早く来るようにするでしょう。自分のいたい世界だけになるようにするでしょう。それとおんなじよ。 
九月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月二十二日第四十一信
けさはがっかりいたしました、と云ってもうかつなのは私だったのですけれど。火曜日はお休みと気がついたのが九時なのよ。さあ、とあわてて仕度して出かけたってついたのは十一時すこし前。二百十何番というのなの。午後二時にはお客の約束あり。仕方がないから、切り花をいれてかえりました。ときならぬ花を、変にお思いになったでしょう。ユリがてけてけあすこ迄行っての上のおくりものと、お察し下すったでしょうか。
それから毛布送りました。お寒くはなかったでしょうか、この間うち。二枚つづきの毛布と麻のかけぶとんだけでは必しもぬくぬくとした寝心地ではなかったでしょう。気にかかっていて、やっとお送りしました。上手に洗濯して来て大変柔くフクフクして居ります、但し毛のあるところは、の話よ。いくらか枯れた芝生めいた毛布で、地(ジ)が出ていても今のスフよりは何層倍かましでしょう。
きのうの手紙の終りに一寸かいていたように、きょうは薬とりかたがただったのに。
「ジョンソン博士伝」を(上巻)よみ終りましたが、大変偉大と思われているジョンソンがやはり十八世紀年代という時代の特色は十分もっていて、その有名な警抜さというものもつまり現代にショウがいると同じ本質のものですね。つまり常識です、ややつよい匂の常識です。金銭とか社会的地位とかいうものに対する見解も、当時のイギリスの社会らしく、その差別の適当であることを認めています。スウィフトやフィールディングを余り買っていないのね、ゴールドスミスは可笑しい見栄坊でジョンソンのとりまきの一人だったのね。そしてルソーに対してジョンソンはその時代のイギリス市民の一番お尻ッぺたの厚いところのような見かたをしています、ルソーの必然を、せいぜい本人が心得てやっているバカらしいこと、としか見ていないのも面白く思えます。十八世紀のイギリスの新興貴族事業家、市民のそれとの妥協などのいきさつが、ジョンソンの巨大な体の中にまざまざと見えます。漱石はジョンソンをどう見ているのかしら。
ストレチーという伝記作家が「エリザベスとエセックス」というのを書いているのを片岡鉄兵さんが訳して其をもらいましたが、この人がポープをかいているらしい様子です。あのポープの型にはまってしかも常識的なひややかな詩をストレチーはどう見ているのでしょうね。
ストレチーはヴァージニア・ウルフなどのグループに属していた人で、やはり歴史を心理的機微をモメントとして見る人です。そこに面白さとつまらなさとあります。心理主義の傾向は、対象の個人の内部にだけ事件の入口と出口をもとめる傾きを導き出しますから。
あああしたは又休日ね。少くとも今夜は夜中に寿江子が出入りする音でおこされたくはないわね。丁度一しきり熟睡した夜中急に物音でおこされると、頭の中が妙に明るくなってもう永く眠れず、その頭の苦しさと云ったら。私はこういうときには思わず泣声でおこりつけるのよ。起した本尊はグーグーで。このいやな腹立たしさはあなたに想像もおつきにならないことでしょうね。
さて、きょうはよく眠ってヒステリーはしずまって居ります。電報頂きました。やっぱりもう待ち切れなくおなりになったのね。もうきょうはついているのでしょうけれど。あしたは届くかしら。
今度お送りしたのでない方を、この次暖くなったら又洗濯に出しましょうねえ。
大体今年は寒くなるのが早めのようです。
段々勉強したくなって来たからしめたものです。上林なんかゆかなくってよかったこと。ここのごたごたの物凄さは一通りでないのだからそれに馴れる迄反則いたしますからね。それに無頓着になるためには、なるたけ早くそれになれなければなりませんからね。他人が下宿しているのではないのだから人手がなければ赤坊のおむつも世話してやるし、台所へ往復もするし、ね。それはあたり前なのだからそういうごたごたをもって、しかし、自分の時間はしっかりもてるような新しい秩序がいるわけです。
いずれにせよ段々やりかたを覚えて来るから御安心下さい。みんなとの心持は上々に行って居りますから、その点ではいうことはないわ。ひとりでいるよりはつまりはいいのかもしれないわ、ね。片づきすぎて瘠せたような生活にならないだけ。子供がいるとなかなか面白いわ。太郎がね、一昨夜夜中に、おかあちゃあと泣いているのですって。床のところを父さんがさぐって見てもいないのだって。スタンドつけても見当らないので、さがしたら、ずっと枕もとの上の方に母さんの机がおいてある、その足の間にすっかりはまって、手をバタバタやって天井をさぐったりあっちをさぐったりして泣いているのだって。よっぽどこわかったのでしょう、父さんにだかれてあっためて貰いながらそれでも泣いていたって。きっと何とこわく感じたでしょう、翌日、ちいちゃいおばちゃんの室へ行ってベッドの上に仰向きになって、そこはすこし天井が低くなっているので、そこをしげしげ見ていたが、やがて、ネエ、ちっちゃいおばちゃん、ベッドへねていて、天井がずーっとずーっと低くなってそこいらぐらい低くなったらどうする?としきりにきいていたって。ぼんやり感じ思い出したのね、でもよくうまくあの机の下へすっぽり入りきったと大笑いしました。
今に島田へ行ってもなかなかにぎやかなことでしょう。机の前に、あなたも御覧になった輝をだいた写真とあきら一人のとをおいています。咲枝はじめてその写真を見て、あらアと羨しがっていたわ。きっともう随分大きくなったことでしょうね。
稲子さん飛行機で満州国のお祝の『朝日』の銃後文芸奉公隊というので出かけました。同勢は林芙美子、大田洋子、大仏次郎、横山健一。
鶴さんは甲府とかへ講演に出かける由。おばあさんが丹毒にかかっていて、顔がすっかり張れた由。(これは佐藤さんからの電話ですが)
栄さんはこの頃ひどく疲れているそうです。春子さんという、学校は(小豆島の)一番でとおした女の子が手つだいに来ていて、それが大したもので、それでつかれるのですって。学校の一番も眉つばねえ。栄さんでも手に負えないものに出合うかと何となくユーモアを感じます。まだどこへも行かないのよ、引越してから。
きょうは又雨になりました。毛布どうしたかしらと思って居ります。けさの床の中で暫く目をさましていて、あることを考えました。
この前の前の手紙で、詩集の話が出て、どうしてあの詩人は秋冬を余り季節としてうたっていないのかと思うと云っていたでしょう。考えて見て、一つ一つの詩について見なおすとね、あるものは肌さむい秋だの凩(こがらし)の冬だのが季節としての背景にはあるのだけれど、詩は、いつもそんなつめたさやさむさを忘れて様々の美しさへの没頭でうたわれているのですね。それに気がついて、ほんとにほんとに面白く思いました。生活のあたたかさ、よろこびのぬくもり、そういうものの中で、どの詩も単純な季感からぬけてしまっているのねえ。
実に素晴らしいと思います、だって「月明」にしろ背景は冬よ。けれども、あの詩の情感のどこに寒さが在るでしょう。ほんとに、寒さがどこにあるのでしょう。
それから「草にふして」というのなんか、秋も深くもう冬なのね、季節は。しかし、その草のかんばしさ、顔にふれる心地よさ、そうして小犬がその草原にある※[「木+解」]の若木にまといつき、うれしそうにかみつき、一寸はなれてはまた身をうちつけてゆく様子なんか、やはりそこにあふれているのは優しい暖かさよ。ちっともさむくないわ。代表的なのは「春のある冬」という序詩ね。覚えていらっしゃるでしょう?
あなたの体をつつむ毛布からこういう詩の話になるというのも、きっと何かふかいつながりがあるのかもしれないわ。とにかく私は、今あなたを寒くないようにと大変思っているからなのね。 
 

 

十月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月二日第四十一信
太郎がわきのベッドに入って、山羊の文鎮をもってねています。お風呂のぬるいのに入って遊んで、さむくなって、二階へくっついて来てベッドへ入っているのよ。
ところで、きのうの夜の風はひどうございましたね。夜中に幾度も目をさまして、ああこの風がガラス一重に吹き当るときはどんなだろうと思いました。ガラス越しのうすら明りだの、そこに揺れるまとまりないかげだの音だの、そういうものを想像いたしました。目白だったらこわかったろうと思いました。あすこは南が実にふきつけるのよ。
三十米の風速だったのね。先年、てっちゃんのうちの羽目がとばされたりしたときは四十米以上ありました。山陽線又不通よ。そして大分で、汽車が河に落ちて、百二三十人死にました。大半は中学生の由。
きょうは私はうれしい心持よ。やっとやっと夜具が送れましたから。この頃はどこも手がなくて、約束していても急にその職人が出征したという風で、夜具も、袖のある方はうちで縫ったのよ。本を見て。そして職人を呼んで綿を入れさせ。ああ、ほんとに気が楽になったこと。袷は、ちょいとよそゆきの方が、先になってしまいましたが、近いうち、例のをお送り出来ますから、そしたらそっちをしまっておいて頂戴。
島田への毛糸も送ったし。さあこれで引越しにつづくバタバタは一段落ね。そして愈〃筑摩のにとりかかります。
そして、きょうは手帖をくりひろげて少しびっくりしているのよ、この前私は二十一日に手紙を書いたきりだったのね。もう十日余も立ってしまったなんて。二十六日からは夜具ごしらえでさわいだにしろ。
あなたの方もきっとあっちこっちへ書いていらしたのでしょうね、こちらへ頂いたのは九月十三日に書いて下すったのきりね。やっぱりこれも少し珍しいくらいだわ、九月にはつまり二通であったというのも。私たちは何となく落付かなかったのね、きっと。今月からは普通の軌道にのってゆけるでしょうと思います。そちらでももしかしたらきょうあたり書いて下すったかしら。
二十六日の金曜日にはね、一寸お話したとおり相当くつろいだ一夜でした。山崎の周ちゃんの店は渋谷から出る東横バスの若林というところのすぐわきです。おりて、どこかしらとクルクル見まわしていたら、いかにも新開の大通りらしい町なみに、ヤマサキ洋装店とかんばんが出ていて、すぐわかりました。何とかミモサとか、何とか名をつけないでヤマサキと簡単に云っているのもあのひとらしいわ。店はひろい板じきで、わきから上ると、六畳で、つき当りが台所。二階のあるうちです、新しいの。そして、その六畳には洋服ダンスだの、大きい鏡だのがあって、その鏡の前には花だのフクちゃん人形だのがあって、山崎のおじさんはズボンにシャツという姿でした。お兄さんもかえっていてね、店の外のところにカスリの若い男が少年と立ち話をしていた、その人だったの。写真帖を見せてくれたり、戦の話が出たり、獄中記を著した斎藤瀏というひとは歌人としてもそのほかの意味でもセンチメンタルすぎてがっかりしたという感想談があったりして、のんびり御飯たべました。山崎のおじさまは、とりが好物でいらしたのですってね、知らなかったのに偶然よかったわ。それに、こまかく柔かにしたのがあったりして。
ビールをのもうとおっしゃるの。私は本当に頂けないからと云ってもすこしとおっしゃってあけて、ついで、こっそり立って妙なビンをもち出して、それを自分のコップに入れなさるのよ。大笑いしてしまった。それは、タンシャリベツなのですもの、あの甘い。マアこれは妙案だと大笑いでね、しかもおじさまはいくらか気のぬけたビールがおすきなのですって、愉快でしょう?でも、口が大分まわりにくく、おっしゃることをききとりにくいわ。一杯きこしめして、暫くしてもうわきへころりと横におなりになってスヤスヤ。やがて九時ごろになって、私が急に大きい声出して、笑いながら、さあおじさま、もうそろそろおいとまいたしますよって云ったら、むくり起き上ってパチパチして、改って御挨拶で、これも大笑いいたしました。こっちはすることがないから、かえりたいかえりたいと云っていらっしゃるのですって。せまくて、木を切ったりも出来ないからね。
でもこういう親子三人みていると、みんな単純な心持で、周子さんなんか、頭もそれなりにきいていて、なかなかいいわ。いろいろのことがないと私なんか時々はフラリと行って見たいようだけれど。さっぱりした気質ね。
富田みやげというせともの入りのわさびの味噌づけというのを頂きました。それと雲丹(うに)の玉というのを。あちらの雲丹は美味しいけれど、あなたは雲丹お好きだったかしら。私知らないわね。私たちの御飯に雲丹なんてあったことなかったことねえ。十月二十日すぎ防空演習が終りますから、そうしたらもう一度あの三人を何とか御せったいして、おじさまをおかえししましょう。六十六ぐらいでいらっしゃるのに、まだわかいのに。年をおとりになっているわねえ。
周子さんは和服より洋服がすっきりしてきれいよ、和服は妙にごてごてにきるもんだから。赤い色(日本風の)が似合わないのに、日本の服は年で紅さを氾濫させるでしょう、顔が変に重くるしくなってしまうのよ。平凡な服をさっぱりきていてよかったわ。ああいうことでも働いている女のひとには活々したところがあって、大まかのようでいてなかなかつましいのよ。都会の暮しかたをすっかり身につけていて、生活力があるわ。姉さんは、あれはもっとちがった人らしいことね、写真で見ると。美しいと云っても弱々しく、つまらない美しさね、湧き出す力が全くないのだから女優として駄目だったのは当然です。小林一三のおめがねもあの位なのかと、人物評論的おもしろさを感じました。
叢文閣の本ね、きょうで完了よ。この人は、面白い本をかきますね、何というのかしら、大抵のひとは事実をその関係で示し語るだけだのに、この人はその関係のなかにしんからの理解をもっていて、展望の結果の面白さを自分でも十分感じていて、その感じが、本の云うに云えないニュアンスとなっているのね。つまり人間としての情熱が感じられるのね。この人の本は、最近どんなものが出ているでしょう、もしよめたら面白いでしょうね。そして、きっと面白いものをかいているでしょうと思われます。わかることを云えば一目瞭然的に明確ですからね、今日においては。
別の話ですが、今度翻訳権が統一的に処理されることになりました。今までのようにめいめいが勝手にその権利を原著者から貰うということではなくなるらしいことよ。
筑摩の本は決心して、やはり云っていらしたようなプランでやります。古典の作品から現代の作品をひろい範囲で対象として行って見るわ。絶えずいろいろに考えて見ますが、どうしたって、そうでもしなければ書けない本なのですものね。人生論的なものを書くなんてその形では、いかにも書く気がしないし。どこまでも文学をはなれず、古典のよみかたもおのずから会得しつつ作者とその時代もわかり、そこからひろくふえんされたものの感じかたに導かれるというのもわるくないでしょう。もうそういうやりかたしかないときめたの。きのうの晩。それできょうはのこりの30頁を終ってそっちの仕事に着手いたします。
歴史的な精神発展の順がどのように辿れるのか今のところ見当がつきませんけれども、でもたとえば、「ジャン・クリストフ」の中ではクリストフとオリーノワィエの友情の面でとりあげてゆくという風にして、それと何か女の友情の問題のある小説とを並べてふれて、友情の内容のぎんみも出来れば幸だと思います。そういう風にやって見たいの、同じ問題が女の生活ではどう現れるかというところも見落さず。そういう立体的な背と腹とのあるもの、そしてその両面のいきさつも鮮かに示されているもの、そういう本なら、やはり独自な価値をもちましょう。文学という面で云えば、少し大きく云えば世界文学評みたいなものになるわけだから、そう思うと私はまだまだよみ足りない感がします。
英雄崇拝ということについて、スタンダールの小説を見のがすことは出来ないわ。ところで私はスタンダールをどうマスターしているでしょうか。大した自信がありようもないわけでね。しかしこういう方法しかないときまれば私はもう腰をすえてかかります。又ケイオーの桑原さんから眼の疲れを守る薬をもらって、せっせとやるわ。この機会に、これまでちりぢりばらばらだった世界文学に、自分なりの一貫した整理が出来れば仕合わせですから。人生への理解のひろさ、ふかさという味だけでなく、人生と文学との見かたが、文学的にやはり何かであるという風にやりたいことね。
九月はじめのお手紙で、マンネリスムのポーズに陥ることについての戒心がかかれていて、あれは全くのことですが、でも、自分の仕事として本当に自分がアペタイト感じる迄つきつめて行って見ると、とどのつまりはやはり何かの点で、いくらかでも勉強の重ねられたものでなければ満足出来ないから、そこは面白いものね。同時にユリが、器用人でないことの有難さよ。先生になることに皮肉を感じているありがたさよ、ね。
白揚社と万里閣から、女の生活についての本の契約があって、それは、こちらよりも自分で早く目あてがつきます。一つの方には一寸面白いプランあり、これも勉強がいるのよ。それはいずれまた。白揚社の方の本では、益軒の「女大学」、それから女のひとの書いた庭訓と当時の文学にあつかわれている女と川柳などの女の生活と、その関係を見きわめながら明治へそれがどう流れこんで来て、今日どう変化しているか、そういう点を見たいの。(つい書いてしまったわね、いずれ又なんかと云いながら)さし当りこの三つを目前にひかえてフーフーの態です。こういう種類の本三つもかけば、小説が書きたいわねえ。実に書きたいわねえ。
それでも白揚へのプランは、もしちゃんと出来れば、今出来かかっている『婦人と文学』の前期、明治以前をつなぐものですから価値があるわ。徳川時代の女に何故歌よみと俳人はあっても、小説家が出なかったかということなど、考えるべき点ね、女性の教養と当時の文学――小説の考えられかたの点。馬琴と春水との出現が語っているような分裂、その間に所謂文のかける女は皆つまりは馬琴側で、しかしそれでは女にはかけなかったという矛盾。十八世紀にフランスではラファイエット夫人が立派な小説かいているのにね。そして、これは、藤原時代に女が小説をかけたことの、その可能のうちに潜んでいた弱さの結果を語るものとしてあらわれているのですから。
おやおやもう八枚目ね。では又ね、あした。 
十月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月五日第四十二信
きょうはむし暑いこと。セルを着ていて汗ばみます。そちらも?太郎は急にとうさんとかあさんとにはさまれて、鉄道博物館を見に出かけました。
お手紙、やっと着。ありがとう。
あの間違いのこと、そのケタちがいの理由がわかりました。労働年鑑や何かで有職婦人の総数をしらべて、それと間違ったわけでした。有職と云えば広汎で、あの数が出ているのですけれど、勿論働いている女のひとの数はその一部ですからずっとちがいます。有職には待合のおかみでも入るわけですから、度々注意して下すってありがとうございました。私はときどきこういう間違いをやるのね。そしてそれはやはり様々の原因があることで威張れないと思います。よく気をつけましょう。
本のこと。おっしゃるとおりと思っているのですけれど、はかどらないことよ。東京市もところによっては指定区域というものが出来る(出来ている様子です)そこでは防火用の設備もいろいろときまりがあって、小石川の高田老松の辺や目白の方もそういう方らしい様子です、戸山ヶ原その他があるからでしょう。こちらとその条件が大分ちがうようです。各戸にポンプや何かそなえるというのよ、指定のところは。そしてバケツでも一定数以下しか買えないところは市で配給するということです。その点ではこちらはよかったと思います。
輝ちゃんの毛糸は、お話しいたしましたとおり。一ポンド二十円というのは毛ならきまったねでしょう、上海あたりからのものもその値段だそうよ。
巖松堂の六法、承知いたしました。鴎外の歴史もの私はみんな(と云っても、後期のものは別ですが)文庫でみたのよ。もし全集がうまく手に入らないようだったら、文庫でも我慢して下さるでしょう、こまこましてうるさいにはちがいないけれど。全集は岩波からホンヤクの部と創作の部と二種並行にして出して居たと思います。鴎外なんかやはりきんべんな人だったのね。ドイツ語が自由だったにしろ。
私もどうやらやっと仕事に向って来たようです。でも辛いのよ、この間叢文閣の本、実に面白くて、丁度そちらへの途中、新書の「アラビアのローレンス」をよんでいて、ローレンスの悲劇が何と一九一八年をめぐる世界的な意味をもつかと思って、興味おくあたわずです。ストレイチーという人(エリザベスなんか書いている)がもし真に歴史小説家ならば、たり得るならば、「アラビアのローレンス」こそとりあげるべきです。でもストレイチーには書けないでしょう、ストレイチーは個人の心理のニュアンスを追ってものを分析するから。ローレンスの悲劇は分らないわ。歴史小説のテーマはつまりはこういうモメントでつかまれなくてはうそです。あの本をよみながら殆ど亢奮を覚えました。「スエズ」その他引つづきよみたいものが出て来て、ほんとにあの本はうれしうらめし、よ。そして又一方には、こういう本の面白さ、現実性に対して、同等の熱量をもつ小説というものが実に不足を感じます。文学の立ちおくれということは、単純でない理由をもっているから、或意味でおくれているのが本当ながら、しかし本質が非常に弱ったものの上におかれているとき、文学のおくれは実にひどいことねえ。何ものをも描き出していないという位の印象で。私は面白い本をよむにつけ、同じように面白い小説がよみたいわ。波頭について云えば、勿論小説の書く現実はずっとおそくうちよせた波についてかいているのが必然だが、少くともその波の描きかたの深さ、正確さ、規模に於て、ね。本当にそういう小説がほしいわねえ。何てほしいでしょう。自分だけとしての感情で云えば、古典が実に古典化してしまった感じです。今私は自分のためばかりに古い小説をよみたいと思いません。今日の歴史性刻々の古典がほしいわ。
あの支那についての本の著者が生きていることはおめでたいことです。こんなものね。いろんな希望がいろんな形で話されるのが分って、面白うございます。
朝おきについて、皆で笑ってしまったわ、ホーラね、こっちへ来ればきっと出ると思った、と云って。大して悪い成績でもありません。けれども目白のようにはいかないときもあります。北の四畳へ籠城ときめてからはピアノも大して邪魔にならず、昼間落付くからもう安全になりました。なかなかいろいろよ。一日中殆どピアノがきこえるのですからね。あっちこっち工夫して、つまるところ一番せまくるしい、寒いところへ昼間はとじこもりにきめました。こちらだと左側から平らな光線が来て目も楽なの。南向でも大きい木や何かが邪魔してくらくて。夜は南の方へ引越すの。
冬の詩集の話、本当にそうでしょう?アイスランドのことは面白いと思います。アイスランドにそんな暖いお湯のあふれるところがあるなんて、何となし思い及ばないことね。そして外面の事情のつめたさだけ零下〇度ではかっているというのは何と興味があるでしょう。自然とは豊富なものね。すべて自然なもの、自然さをけがされていないものは、同じようなゆたかさをもっているのね。アイスランドの暮しはアンデルセン風のものがこもってさえいるようではありませんか。
専門学校以上は十二月で卒業になります。一学期くりあげの卒業です。やがて一ヵ年短縮になる由。文部省はいろいろ賛成しかねる点を見ているのだそうですが、青年団に学生が多い方がいいという点だそうです。七月で外国雑誌は入らなくなったし、大変なことね。学問の水準を保つ必要は、一面他の刻下の必要にも通じているわけなのでしょうが、両立しかねるものと見えるのね。先生も生徒も急にきまったことで急にせわしない思いをしているようです。女のひとも同様ね。美校の卒業生も中学の先生になるか工場へゆくかという風だそうです。
この妙な紙もこれでおしまいよ。なかを見ないでいそいで買ったらこんな字入り。こんなのを見ると、子供のとき父の事務所用のタイプでいろいろ打って(印刷したのね、考えると)ある紙が珍しくて、それをもち出してつかって、子供が使うと可笑しいと云われてよく意味が分らなかったことを思い出します。そしたら、この間、東北へ行っている娘さんが、大学のいろいろのことつまらながっているのに、大学と押し出した紙つかって書いているのを見て何となく微笑しました。あのひともやっぱりそういう紙を偶然手に入れたのかしら。
夕方、寿江子へのおはがき。道後のことが書いてあって又行ってみたくなったわ。この夏、海のきらめくのを眺めながら、室積で、すぐ道後に行って見たくなりましたっけが。電車で行くんでしょう?「坊っちゃん」のなかにも、そこいら辺が出ているわね。太郎を今に虹ヶ浜へつれて行って泳ぎを教えようというのが目下のところ私の憧れよ。太郎もたのしみにしています。
冨美子が学校にいる間だと、あの子が上手く教えてやってくれるだろうからいいのだけれど、十歳前ではおっかさんからはなしてつれてゆく自信がないから。太郎には乗馬と泳ぎと機械体操だけは、ちゃんとしこんでやらなくてはいけないと本気に思っているのだけれど、太郎は運動ぎらいで、運動会の予行演習があると、おなかが痛くなってしまって(?! )早びけしてかえって来てしまうのよ。頭からっぽのスポーツ好きも悲しいけれど、こういうのも些か苦手ね。これからの男の子はどういう面からも自分の肉体を水陸でこなしてゆける実力をもたないと、或る場合、下らなく消耗しなければならないのにね。この間九州で汽車の事故がおこったときだって、死んだのは女、子供よ。泳ぎを知らないから。私は運動会――競争そのものはしんからきらいだったけれど、体操や何かはきらいではなかったのに。ものぐさというのでもないのだけれど、太郎のは、ね。緑郎がそうでした由。緑郎は最後に出る船でかえるでしょう。この間イギリスから最後の船が日本に来て、それと交換のようにリスボンから日本の船が出るらしいの。外務省へ電報が来ました由。緑郎ももう二十九か三十よ。どんなに変ったでしょう、ひどく変ったことでしょうね。どうかよく成長しているようにと願います。緑郎がかえって、もしこっちにいるようだったら二人の音楽家で、まア私はどういたしましょう。迚も身がもたないでしょうね。緑郎のことはまだ未定ですけれども。
トラさんのことね、硼酸(ほうさん)をうすくといたもので洗えるといいそうですが。それに水が硬水ならば、湯ざましは軟水になっているから、ということを云っていた人がありました。どびんのお湯がさめたのは、水道のよりいいというわけね。硼酸のうすいのはなかなかいいらしいのですけれどもね、薬と併用してゆくと。どこかの小学校で殆ど全部かかっていたのが、それを三四ヵ月つづけたら殆ど全部なおりましたって。切るなんていうのはよくよくわるいのらしいわ。私は空気浴をやって行こうと思って居ります。その間にこすればいいのでしょうね。今健康ダワシをたのんであります、これ迄ずっとお風呂のときつかっていたのですが。
それからね、これは歯のことですが巷間の歯ミガキというものは、いろいろと歯の表面や何かをいためる薬を入れているらしいのね、おちるという素人らしい効果のために。シソーノーローは大分そのためらしい由です。それで、塩のことが云われていて、硬い毛の歯ブラシで塩をほどよくつかうと、歯ミガキがもたらす害は少くともないということです。勿論決定的には云われないのでしょうが、この頃のように材料すべてがむずかしく従っていかがわしくなると、或は一考の価値あるかもしれませんね。栄さんが、髪を洗うのに、シャンプー(花王や何か)つかいすぎて今前のところがひどい有様になっているのよ。顔ちがいがするほどよ。シャンプーとか歯みがきとか、要心ね。あなたは普通のシャボンで髪洗っていらっしゃるのでしょう?その方がいいわ。私はおはげはこまるからこれからはふのりで洗いましょう。布地をはったりするのりよ。栄さんたら、どんな短いものでも書くときは髪を洗いたいんですって。可哀そうに!三四冊の本のためにあんなになるなんて!しかも内からではなくて、外からあんなになるなんて。私の手を洗いたい癖の方が余程安全ね。何か書いているとき何度洗うでしょう、実際膏汗(あぶらあせ)も出るのでしょう。いろんな細かい仕事をする人が神経の調節のためにいろんな癖をもっていて、必ずそれをやるのは可笑しい、しかし生理的なことなのね、きっと。近日うちに達ちゃん出かけるかもしれませんね、中旬か下旬に。
夜着、お気に入ってうれしいわ。私は大変気に入っているのよ、では明後日に。 
十月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月十一日第四十三信
今夜は四日と八日とへの御返事。本気で勉学をはじめると、それでも御褒美が出るからうれしいことだと思います。
四日のお手紙の諧謔調は、ひとり読むには余り惜しく、かたがた些か恨みのこもる人も居合わせたので(寿)声高らかに音読して一同耳をすませて拝聴いたしました。国男がニヤリとした顔は御覧に入れたく、ああちゃんは(咲)まア可哀想にねえ、あっこおばちゃん、と同情し、寿江子はヘヘヘヘと笑いました。それでもパニック的状況がすんでから手紙を書くというところまであなたの御修業がつんだということは、あなたの誇りでしょうか、それとも私の恥でしょうか。極めて微妙なところであると思います。この間の消息はスウィート・ホーム(!)の門外不出に属すわけでしょう。冬シャツのこと、それからもう一組の袷と羽織、おうけとり下さいましたろう。
ところでね、今、私は少しそわついて居ります。十二日から防空演習が二週間はじまります。二十五日迄。消化が主です。パンフレットをよんでいたら、余り焼夷弾を花火のようにかいてあって、却って心配になると同時に、良妻の本能を目ざまされて、うちがやけて私たちのものがなくなるのはともかくとして、万一真冬にそちらが何もナシになったら困ると急に困った気になり初めました。それについて一つ御勘考下さい。今着ていらっしゃるようなものを、こちらへとることはどうでしょう。こっちなんかね、木と紙よ、そちらは少くともコンクリートよ。来年になって冬ものを一つもないようにしてしまって大丈夫でしょうか(そちらに、のこと)一つ考える必要があります。夏なんかつまりはどうにでもすごせますけれどね。
本のことも改めて気になり。
今文学史をずっと一とおり目をとおしノートとって居ります。ジョルジ・サンドと同じ時代に、フロラ・トリスタンという人がいたのを御存じ?私は存じませんでした。この女性はサンドとは一つ年長ですが、サンドが晩年には田舎の家の領地へ引こんで、「悪魔ヶ淵」その他、初期の作品の発展ではない方向に向ったとき、フロラという人の方は一貫して、歩み出しをつづけた婦人だそうです。ゾラの時代ね。こんな人のことを知ったりして、それらは、婦人の作品で物語る女性史の中へくりこまれます。フランスは女詩人をどっさり持っていたのね、その人たちは前大戦からその後にかけて大抵活動をやめてしまったのですね、サロン的詩人であったというわけでしょう。閑雅に咲いた花というわけでしたろう。生活の花ではなかったのね。そういう時期に、各国の婦人作家がどう暮したかということも考えて見ると面白いわ、ジイドみたいに聖書ばかりよんでいた人もあるのですし。ブルージェが「愛」だの「死」だのという観念ぽい題の故もあって今の日本で大いによまれているのは妙なことです、ドルフュスのときブルージェは大きい虚偽の側に立った恥を知らない男です。
この頃はレオン・ドウデエの本が訳されます。どうでえと平仮名に書いた洒落のわけでもないのでしょうが。
范とお書きになっているって。そうだったのね、私は字なんかおちおち見ていなかったものだから。泉子がたよりをよこして、こんなこと書いているのよ。「好ちゃんは私を覚えて居てくれるでしょうか、ねえおばさま。好ちゃんは私の顔や声忘れはしないかしら、ね、おじさま。わたしは好ちゃんに会いとうございます。泣きたいほどです。でも私は涙が出ると、いそいで鏡を見て、ちゃんとして、ちっとも泣きなんかしないようなふりをいたします。そして元気な手紙をかきます。私は好ちゃんもきっと時々はせつないときもあるだろうと思って、私が泣いたりしてはわるいと思いますから。でも私は欲ばかりだから、きっと好ちゃんは、私のことをちゃんとわかっていてくれると信じて居ります」
もっといろいろ書いてありました。そのたよりをよむと、泉子のぽーっと上気した顔つきや単純で熱烈な表情や身ごなしがまざまざとして。泉子もいつか成人したものと思います。好ちゃんのたよりおうけとりになるでしょう?相変らず精気にみちた様子でしょう?こちらへはたまにたよりよこすだけですが、それでも片鱗のうちによく全貌がうかがわれます。本当にすっとするような男らしい美しさだから、泉子が思わず私に訴える思いのあることは十分察しられます。泉子の恍惚ぶりが決して不思議でなくて、その自然さがやはり奇麗だからいいものねえ。そういうときの泉子のきれいさは、花びらの真中に見事な蕊をもっているような、微塵空虚なところのない姿ですね。あなたもあれを御覧になればきっと、そうね、何と仰言るかしら。仰言る声をききたいものだと思います。月曜におめにかかります、十七日から三日間お休みつづきよ。 
十月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月十六日第四十四信
きょうかえって見たら十三日のお手紙着。楽しみにしてね、先ず封を切らないまま二階へもってあがって、それからすっかり部屋の掃除をして、途中で買って来たきれいな淡桃色のカーネーションを机の上に、それから赤い小さい玉のついたつるもどきを北側の窓のところにそれぞれさして、すっかり顔を洗いいい心持になって、開封式。きょうはうちは(というのは二階はのことよ)あしたのお祝の準備でうれしいことのあった日で、私も思い設けぬヴィタミンをのむことが出来たし、本当にいい午すぎです。小包二つも送り出しましたし。本とタオルねまきに紐を。本は御注文のがないのに、ほかのあれこれ入っていてつまらなくお思いになるかもしれないけれども、まあもし気がお向きになればと思って。文庫類の品切れの多さはどうでしょう。
『文学史』、一昨日あれから神田へまわりました。東京堂で年鑑を見たらアルスから出ているので、とってくれと云ったら、紫の上っぱりを着た女店員曰く「お手間がとれるんですけれど」「何日ぐらいでしょう」「サア……十日もかかりますでしょう」十日では待てっこないわ。アルスどこでしょう、そこをきいて、同じ通りのずっと九段よりなのね、そこへ出かけて買いました。この頃はすべて配給会社を通じてやって、もとのように出版元へいきなり本が行かないことになって手間がかかる上に、どういうのかしら本やの店員が別なもの、何かデパートの廉売品売場の売子のような荒っぽい気風になって来ているのはびっくりいたします。本へのやさしい心持や、本やで働いているという心持のどこかにあったちがいはなくなって来ているのね。この一年の間にこう変ったとおどろきます。
あの『文学史』、残念ながら訳がよくないようです。訳序第一行「この書はユダヤ人誰々の」という調子です。全体が一寸必要に迫られないと読みにくい訳文です、ガサガサと荒くて。ああいう文章の味を、落付いた日本語にうつせるためには、本当のものわかりよさがいるというわけなのでしょう。推論のパリパリしたところを文調で反射しているようで。でも文化史としての概括や作家論は本当に面白そうです、ありがとう。先に教えて下すったときね、私は何だか小説と思いちがいしていました。それとも「金が書く」というのかと思ったらそれとも別のものでした。なかなか語学の力のいりそうな文章ですから、あれをおよみになったというのはえらいことね。達ちゃんと夏休みに暮していらしたという、そのときのこと?
今度はともかく世界文学史を一貫してよんで、いろいろ大変面白いし、わかるし、十九世紀初頭からそれ以前の古いものについてのこともいくらか分るようになりました。しかし大戦後のいい文学史というのはないのねえ。この『新文学史』の終りにしろアナトール・フランスです。尤もその時代に入れば直接作品から判断のもてるものが殖えているわけですが。
ノートをとってよんでいると、二つばかり別の副産物が得られて大変面白く、この頃は随分長い間机について居ります。ピアノにも追々馴れて、神経を大して使わなくなりました。
「アラビアのロレンス」はそれは仰言るとおりよ、私があの叢文閣のとつづけて興味を感じた理由は、ロレンスという一人の人間が、自分の悲劇の真の理由を知らず、自分としてはテムペラメントにひきまわされつつ、しかも今日の私たちから見れば、ダットさんが示しているような時代のすき間に落ちこんだ典型であるというところです。
あの宿題を勢こんで片づけたことから段々仕事にはまりこんだ気になれて来てよかったと思います。ブランデスを見たらブランデスなんかはバイロンを自然主義作家の中に入れているのね。しかし、『発達史』の著者が見ているようにロマンティシズムの一つのタイプだというのが妥当でしょう。ハイネが三つの時代的要因の間に動揺したいいきさつもよくわかって面白うございます。バルザックからゾラへのうつりゆきも面白いし、フランスの十八世紀後半から十九世紀の世相というものは実に大したものだったのですね。ディケンズの背景をなすイギリスの様子もよくわかります。そして改めて感服し、おどろき、深い感想をもったことは、日本の文学が十一世紀頃大した進歩をしているけれども、十六世紀以後、ルネサンス後の世界が大膨張をとげて近代文学を生んでゆく時になると、もう関ヶ原の戦いでやがて十七世紀は鎖国令を出している点です。文芸復興の初頭十五世紀、日本には足利義満がいて、能楽が発展していて、平家物語の出来た十三世紀にダンテは「コメディア」をかいているというようなこと。徳川三百年というけれど、もっとさかのぼりますね。沁々そう思いました。十二世紀に入って、比叡山の山僧があばれはじめたとき、それは何かであったと思われます。哲学年表とてらし合わせて見て暫く沈吟したというような塩梅です。
今日世界の文学史をよむことはためになります。大きい無言の訓戒にみちてもいます、作家の消長は歴史の頁の上には、その人が強弁しがたき現実の跡を示してむき出されているのですもの。この勉強は、ですからどうも一つの本にふくまれる必要以上のみのりとなりそうです。ハイネを好きになれない理由が自分に納得されたりもして。
今度は無理ですが、いつか又プランを立ててせめて日本に訳されている十八世紀ごろの古典ディドロなんか、我慢してよんで見て置こうと思います。モリエールなんかもっともっと知られるべきです。ヴォルテールなんかがアカデミックな人たちの間に訳されているのに。芝居の方のひとで、そういう勉強や整理をやる人が一人ぐらいあってもいいのでしょうのにね。ナポレオンが自分の舞台装置として古典(ローマ)を飾ってアンピールという様式を服飾(女の)や家具にこしらえたのなんかその筋道が分ってやはり面白いわ。父の仕事の関係から、子供のときから、ゴシックだのルネサンスだのバロックだのアンピールだのときいていて、そのぼんやりした概念はもっていて、今は一層の面白さ。今父がいたらきっと面白いでしょうね。私は、おとうさまおとうさま一寸おききなさい。こういうのよと喋ったでしょうから。父の時代の芸術史は外側から様式だけ扱ったのですものね。たとえばバロックという、あの人間が背中をまげて大きい柱の支柱飾りとされている様式なんかだって、ルイ時代の宮殿生活そのものがローマ帝国をあこがれて、神話のアトラスを柱飾りにしたのでしょうか。だってあれは柱を負っている人間の姿で出ているわ。子供らしく面白がっているようで、すこしきまりわるいようですが、御免下さい、余り面白がらないことがどっさりだから、まあこの位は健康上お互様にわるくもないでしょう。
ああそれからきょうは、一昨年みんなが私たちにくれたカーペットを出しました。こっちならゆったりとひろげて日光に直射もされない場所がありますから。ずっとしまって大事にしてあったから全く色もあざやかよ。それを敷きましょう、ね、そして、あしたは、新しい生活の条件にふさわしく一ついいことをするのよ。太郎に生れて初めて顕微鏡というものを見せてやります。太郎の生涯に一つの新しい世界をひらいてやるのよ。いい思いつきでしょう?午後二三時間さいて。うれしい思いつきだと賛成して下さるでしょうと思います。大人がきまった顔で集って、何かたべてみたって初りませんから。これは今年らしい、そして今年の十七日には最上の行事でしょう。
中公の本やっと目鼻つきます。
あなたのトラ退治も漸々で安心いたしました。よくは分らないけれども、いくらか白眼がさっぱりして来たように見えます。この間うち本当にうるさそうな眼つきしていらしたから。
すこし足なんかつめたくなりはじめましたけれども心持よい時候になりました。あの菊はいかが?この次の夏にはいい匂の百合の花をおめにかけたいと思います。今年はありませんでしたから。もう程なく例によって赤っぽいしまのどてら(薄い方)お送りいたします。小包にするとき暖く日にほして(今は縫い最中)ポンポンポンと背中のところたたいて、よく衿のところを合わせて、そして送ってあげるのよ。
あしたはお天気がいいといいと思います。では火曜に。 
十月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月十八日第四十五信
きょうは雨がわり合いい心持の日です。
いかが?そちらのきのうはいかがな一日でしたろう。私はね、早くおきて、午前中ずっとよみかけのものを読んでノートとって勉強して、午後から太郎をつれて目白へ出かけました。
太郎は学校が近くて、通うのに電車にのらず行っているものだから、混んだ電車なんか迚も不馴れで一生懸命でキョロキョロつかまえた手を決してはなさないの。
目白へ行って、顕微鏡で人間の血液、兎の血液、蛙、やもりの血を見たり、自分の爪の間にたまった黒いものの中にどんなこわい妙な形のものがあるかを見たり、髪の毛は松の樹の如し、という見聞をしたりして、お菓子を三つもたべて五時ごろ出かけて、目白の通りのビリヤードのすぐよこの鳥常という昔から出入りの店へよって、御馳走のための買物をして六時一寸すぎかえりました。
二階へあがったらね、となりの皆で食事する方に奇麗な菊がどっさり鉢にさして飾ってあります。火をおこしおなべかけて呼んだら、国男さんと太郎が横一列にあらわれて、どう?ちゃんと並んで坐って合唱なの。「おめでとうございます」凄いでしょう?見ると、二人は胸に赤っぽい菊の花を飾っているのよ。ほかにおしゃれのしようがないからですって。
やがて、真赤なズボンをはいた泰子がああちゃんにだっこされながらケトケト笑って(これは偶然です、残念ながら。やす子にはおめでたいのが分らなくてね)あらわれて、そのああちゃんは青いような縞のきれいな外出着で、やっぱり髪に花つけているのよ。寿江子のものぐさが夕飯に着物着かえて現れたという、全く驚天動地の盛会でした。
こんな盛況があろうとお思いになって?一人一人敷居のところで今晩は、ととても気どった声を出して入って来るのよ。見せてあげたい姿でした。御覧になったら、あなたはきっと、むせておしまいになったでしょう。余り素晴らしいから。
ゆっくり御飯すまして、国男さんが、かけ時計の高さを直してくれて、それから一寸三人で(咲と)一仕事やって熟睡いたしました。
きょう、太郎をつれて国と三人で国府津へゆこうということになって、国は植木屋の用事、私はすこし片づけもの(この間から私たちの話に出ていた)をして来ようと思ってあらまし仕度したら、この天気でおながれよ。
十五日のお手紙は、きのうかえって来たらテーブルの真中に出て居りました。どうもありがとう。きのうついたというのはうれしゅうございます。
追い出された目録たちのこと。たしかにいくらかヒステリーだったのね。それもそうだし、むき出しに云ってしまえば、私がまだ本当の勉強のやりかたを十分わかっていなくて、間に合わせの方法でやりつけて来ているということを認めなければならないのでしょうと思います。私の勉強法なんて全く、自家製のお粗末なのですものね。誰からも教えられず、極めて遅々たる自分の自然な成長の歩調で、やっと本を使うことの一つ二つを知った程度ですもの。しかも、もしあの婦人作家の研究でもしなかったら、私はいつも自然発生の感想をかくことしか学ばなかったかもしれません。
目録類を粗末にしたことについては、強弁の余地なく、「それも亦妙なる」自己弁護もする気がありません。僕のコレクションと云われると、駭然として悄気(しょげ)ます。御免なさいね。出来るだけ何とかして恢復を計りましょう。全然不可能でもないでしょうから。
けれども実際本の保管には弱ることね。永年に亙って本をとっておくということは(雑誌の場合)大したことだし、さりとて文芸評論だけ切りぬいたってやはり、その号の全体の表情との関係がいるのでしょうし。何とか考えなくてはいけないわね。
段々真面目に仕事を組織してゆくようになるにつれて、集積として、素材として、本は益〃好きという身勝手なものから大事というものになってゆくのでしょう。私は中ぶらりんのところね、だからヒステリーの作用を蒙りもいたします。
朝日年鑑、この間も見てどうも変なのよ。あなたの示して下さっている鉱山のは、次のように書いてあります。単位千人
五三三・九
つまり五十三万三千九百でしょう。これだけでも私は間違えていたことが分りますが、どうしたわけかといろいろ使った統計しらべて見たら労働年鑑を百単位によんだのでした。人単位を。だからケタちがいを生じたわけです。二七、〇〇〇三と(十一年)あるのにね。十四年の働く女性の総数が二、五五八・四です。閉口ね。この次の時(増刷すれば)直しましょう、忘れずに。どうもありがとう。くりかえし云っていただいてすみませんでした。
文学史に関する本で焼きたくないものはかなりありますね。明治文学に関する古い出版のものにしろ一旦やけたら、やはりなかなか再び手に入らないでしょう。個人の書物がこんなに露出されていると、本当にせめて上野の図書館ぐらい安心であってほしいと思いますね。もしあすこが本当に安全であればまとめて寄附して、いつでもつかえるようにして貰ったっていいのにね。あすこが又どうでしょう、上野駅に近いのですもの。
多賀ちゃんへは手紙こちらから出します。今日つづけてかいてしまいましょう、何かにとりかかるとつい手紙を不精してしまって。きょうから『新世界文学史』にかかります。そして、これが終ったらカルワートンを見て日本文学の作品を直接よんで、いろいろ段々と面白い計画をお話しいたしましょうね。例えば、この頃英雄ごのみがあって、ナポレオン伝やニーチェ伝がよまれるのよ。英雄とは何でしょう、ニーチェとはどういうものの考えをした人でしょう、私はそういうことも分るようにしたいと思います。同時に平凡ということの真の意味も。そういうトピックについてスタンダールの作品、ニーチェの「ツアラトゥストラ」やショウの「人と超人」や二葉亭四迷の「平凡」、花袋の「田舎教師」が出て来るだろうと思います。平凡の実質は高まるということについて、ね。
読まれるものの意味と、そういうもののよまれる心理をはっきり描き出すことで、私たちは自分の生きている生きかたを知ることが出来るでしょうから。
親と子とか、友情とか、そういう風に扱って行きたいのよ。性の課題ではトルストイが親方として登場するでしょう、「クロイツェル・ソナータ」。性の扱いかたの偏向、フロイドの或種の亜流や何か、をも見ながら。だからなかなかなのよ。腕を高くまくって肱まで粉につけて、深くよくこねなくてはね。しかし、もしうまくこねて焼ければ、これはそう不味(まず)くはない風味の食物になり得るでしょう。モラルの形でなく、人間の真実としてまともなものを示したいと思います、モラルや風格ならほかのひとがやりますから。恋愛のことについて書くとき私は恋愛小説の存在の意義をも明らかにしたいと思います。所謂真面目な恋愛小説というのはどういう要素に立って云われるべきかということを。「ウェルテル」にしろ真面目だったでしょう、あの時代としては。しかし今日の意味には、通用しないという、その点を。
ゲーテが「ウェルテル」をかいて、それからワイマールのおあいてになってから、そのような方向への戸口をひらかれて、段々と「ファウスト」の第二部にある貴族的なギリシアへの復帰や有用人的見地へひろがって行った過程も面白うございました。どうして第一部と第二部とあんなにもちがうかとずっと思っていたもんだから。恋愛小説というと「ウェルテル」と云うでしょう?何も知らずに。恋愛小説は、前進して理解されなければならないと思います。そんなことも考えているのよ。
これは別の話ですが、作家の生活というものの不健全さが、今日、いろいろな形で文学を歪める作用をしている中に男らしさの問題があると思いはじめました。
世間の普通の人とはちがった日暮しをして来た作家は、男でも、男らしさの感覚から萎靡(いび)させられているのね。だもんだから戦場でめぐり合う兵士たちの男らしさに男でさえ特殊な印象をうけ、のっぴきならぬところに生きている人間の美を改めて感じ、それでとにかくあすこでは、と云うのね。私はおどろきをもってききます。女の作家なんかへなへなにかこまれていて、そういう人たちを見て男をはっきり感じるのね。稲ちゃんの奉公旅行からかえっての話で、考えました。そこには原形にかえされた男らしさや女らしさが見られるのでしょうか。
芸術の仕事をする男が男らしくないというのは全く笑止なことね。これは北條民雄の癩とのたたかいをかいた文学について川端が生命のぎりぎりの感覚として称讚したときも、私の感じたことでした。
この人たちは、生きてゆく、丈夫で生きてゆく日々がいかに充実し緊張したものであるかを感じないぐらいのびているのだナと。そういう生命の緊張、生命の意味への絶えざる自覚なしに生きていると、アブノーマルな条件でなければ生命感を感じないセンチメンタリズムが出来る。
文学は何と強い高い美しいものでしょう、でもその裾には何というごみもひきずっているでしょう。
健全に行動する機会がないと、只、行動そのものに妙な評価をはじめもするのですね。
そう云えば、こんどの本には行動と思索とのいきさつも扱って見るつもりです、どんな作品がいいか分らないがさし当りは「生活の探求」のあの井戸直しでも。
行動の讚美はイタリーのマリネッティのように、未来派からローマ進軍へとうつりゆきますから。私たちの思索と行動とが自立した統一をもつために、今日はどういう道程を歩いているかということについて、思索力そのものが、運動神経を丈夫にしてゆくことの価値をはっきりさせたいわね。
物質のスピード行動力の方が精神を圧倒したところに未来派の速力への陶酔があるのだから。そんなことも面白いでしょう?私たちはさかさにおかれてもちゃんとものの考えられる習練がいります、ああこんなにお喋りしてしまった。では火曜日ね。 
十月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(「ロシヤ寺院・哈爾浜(ハルビン)」の写真絵はがき)〕
眼の本と文学の扉をお送りいたします。きょうは又曇りましたね。けさ早く南江堂へ出かけたら、どこもかしこも防護団の制服をつけた人だらけでした。帝大の鉄柵は、鉄回収のために木の柵になって、何となし牧場のようです。正門入口の門扉も木の柵ですから。私は昨夜思いついて、いつかあなたの着ていらした毛糸の(糸の交った方)ジャケツを直して、いざというとき着ることにしました。いい思いつきでしょう?誰にきいても私たちのまわりでは、本はあきらめています、手がないという形らしいようです。 
十月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月二十三日第四十六信
きょうはからりとした天気です。二階の手摺りのところには夜具をいっぱいほしてあります。昨夜は寒かったことね、はじめて室へ火鉢をすこし入れましたが、いよいよもって心細いことは、この火鉢で冬の夜仕事は出来るだろうかということです。
ところで、きょうは可笑しい日です。空気の工合か何か、うちじゅうの女のひとたちは顔が乾いて、何だかくすぐったくてピリつくようで閉口というの。私は落付けなくて、顔を又洗ってオリヴ油つけて、それでもまだ駄目よ。変にかゆいようなの。可笑しなこともあるものです。
(あらあら大変。寿江子がブーブーやり出したら、すっかり開けてあるものだからまるでとなりでやられるようです。)
南江堂の本いかがでしたろう。あなたがおっしゃっていたことを一寸思い出してそのあたりひらいてみたら、ほほうそういうものかしらと思うところがありましたけれども。片方の疾患が平静になったとき云々というところ。そういうものなのでしょうか。ヴィタミンはあがっているのでしょう?ずっと。AB?Dが入ったのがいいらしいけれども。そういうのはないのでしょうか。
きのうはエハガキに書いたように朝早く南江堂へ出かけ、午後は、あの例年の八反のどてらが仕立上って来て送れて一安心いたしました。もう、一枚は綿の入ったものがほしいわね。そして、その柔かく綿の入ったものをなつかしく思う心持は晩秋の感情ね、一つの。温度は綿のないものをいくつか重ねたって保てるかもしれないけれど。これはおくればせではなかったでしょう?
『新世界文学史』はもうやがて終ります。やっぱり読んでようございました。『発達史』の方の扱いかたは、もっと正確で、基本の現実にふかく入り、又文芸思潮としてはっきりした類別をも示していて、その点大事でしたが、あの著者はドイツ近代古典が自分としてくわしいのね、どっちかというと。
『新世界』の方は、そういう点では学問的ではないけれどもワーズワース、スコット辺から俄然精彩を放って来ていて、イギリス文学の中でバーンズをとりあげていることは大いに賛成です。バーンズを、『発達史』のひとはふれていません。私は詩を印象ふかくよんでいて、覚えているから、正しく評価されていると我意を得ました。ラファエルとミケランジェロの比較も面白いわ。ラファエルのシステンのマドンナという絵を見てね、どうしてもしんからすきになれませんでした。あの時代として大した技術であり美ではあると分るが、すきなものではなくてむしろきらいでした。しかしラファエルはきらいと云い切る人はないのでね(即ち因習によって)これからは安心してすきでないと云えるから、いいわ。そして、この本が、『発達史』と全くちがう価値をもっているという点はそういうところにあるわけです。いろいろ面白いと思います。ワグナーのことも書いていてね。生活的鼓舞をもつ本というものは、なかなか生きのいいところがあってようございます。(書きかたも半ばごろからずっと落付いて性急な過去と現在のモンタージュがなくなって――歴史はくりかえす式のまちがいがそこにあります――よくなっています)
いい本教えて下すったお礼を云わなければならないわね。読みかえして見たくお思いにならないかしらと思いました。そこいらの作家と称する人々よりずっと勉強しているということを、本当だと思います。
今ロシア文学のところに入りかけています。大体は明日じゅうによみあげてしまうのよ。カルワァートンの本は神田でさがして来なければなりません。さもなければ上野へ行くわ。その方が能率的ね。日本の古典をよむに、必要もあるから。今月じゅうそういう仕事をして、来月から書きはじめます。
つまりは、これ迄こんなに系統立ててはしなかった仕事が(勉強が)出来てうれしいと思います。自由に各方面にひろがって、突き入って、そして書いて見ましょう。それぞれのトピックについて、どんな作品、作家にふれてゆくかということをきめるのにもなかなか手間がかかり、判断力がいります。今日という世界をはっきり目の前に据えておいて、すべてのことを書くつもりです。それがふさわしければ、文学の作品ばかりでなく音楽にも絵にもひろがって行っていいわけでしょう。才能とか天才とかいうことを語るときには画家、セザンヌやゴッホやそういう人を語らずにはいられないだろうと思います。これらの人たちは、才能とか天才とかいう抽象名詞を、自分の身についたものかそうでないものかと詮索することはしないで、努力精励というものが、つまりは才能と天才との実物的表現であることをよく示しているのですから。
きのう、一寸美術雑誌を見たら面白いことがありました。フランスの画家たちは、そういういい手本が伝統の中にあるから、実に勉強だそうです。仕事着からネマキ、ネマキから仕事着で(それで又相当どこでも通用するが)ピカソなんかでも実に仕事するのですって。或る日本の画家がじゃ一つ俺もまねてやれと思って、在仏日本人の評判にされる程がんばったのだそうですが、二年でつづかなくなったって。体力のこともある。けれども情熱の問題もあると書いていて、見栄坊ぞろいの画家としてはよく率直に語っていると思いました。
こういう話をよむと、龍之介の「地獄変」を思い出すの。あの画家は、娘を火の中に投じるヒロイズム至上主義はわかるし、作家はその面でかいているけれど、そこに何か日本の芸術至上主義の体質があらわれているようです。そのフランスのことを書いた画家は、体力というが、体の小さい日本人は戦いにつよいとかいていて、つよいのは本当だが、どういうときどうつよいかが本質の問題であるように、芸術の上の情熱もそこにかかっているわけでしょう。(つまりこんな風に、その本のなかでも話してゆくことになるでしょうと思います)
二十六日の日曜日にはね、世田ヶ谷へお出かけです。十七日が防空演習でのびて、その日になります。一日の午後から二日休みのつづく日に、もしかしたら国府津へ出かけます。この間の休日は行かなかったの。国男さんと太郎とだけ行きました。もし今度も私が行かなければ、咲枝が赤坊つれてゆくからたのむものはたのみましょう。一寸行ってみたいところもあるわ。一昨年の夏行ったきりでしたから。この間行ったとき国男さんが、きれいに真青な橙の大きいのをもって来ました。初めて、うちの樹になったのですって。
この間原智恵子のピアノをききました。久しぶりに日本へかえって来ての演奏でしたが、余りひどくなっているのでびっくりしました。もとは、そのいろんな外向的な素質が、近代的な扮装につつまれていて、謂わば理性的、つめたい情熱とでもいうような型に装われていたものが、この間は、シューマンのコンチェルトを弾いたのだけれど、すっかり崩れて、何にも作品の精神をつかもうとしていないで、一つの要領、大衆作家のきかせどころのようなもので弾いていて、井上園子とは、もうどこかで決定的にちがってしまったことを感じました。映画界の人と結婚して、フランスへ行って、かえって来て、その二三年の間に、低いすれからした雰囲気の女王気取りで暮していることが、服装から、身ごなしから、音楽に溢れて表われていました。例によって、有島生馬が、老いたる瀟洒さで出現してきいていたが、彼はあれを何と判断したでしょう。下手とちがうのよ。いやな気がするのよ。そして、女だということは一層ものを哀れにして、ごく胸を低くカットしたイヴニングで、十九世紀の悪趣味よろしく胸の二つのもりあがりをのぞかせたりして。そして、あんなひどくひくの。
本当に音楽がすきというのではないのね。所謂世界的舞台でスポイルされたために、現代の混乱で、そういう道具立てがなくなると、妙に張りがなくなって、日本の本当のレベルがわからないもんだから、がったりひどくなってしまうのでしょう。井上園子だって金持すぎて名流すぎて、彼女の音楽はいつも社交性と手をつらねている危険がありますが、音楽は勉強しなければならないもの、というところは分っているようです。諏訪根自子はベルリンだそうです。音楽に国境がないばかりか、ベルリンではさぞ自由にやっていられるのでしょう。この若い女性もそういうことでは抽象的音楽天才ですから、当然。
外国と云えば、これからは、外国郵便は、発信人の住所氏名を明記して、切手をはらず、郵便局へもってゆくのですって。それからどういう手順があるのでしょうか。エハガキも二重封筒もいけなくなるのだそうです。
国内はいいのよ。
只今のところ、演習まだ大したことなし。八百やが来て夕方から空襲があります由。今年は、警防団その他はなかなか具体的にやっている様子ですが、町内は割合気がしずかですね。これは面白い心理だと思います。もうお祭りさわぎとして、世話やきずきの小母さんの活躍舞台より以上の実感があって、却ってワイワイしなくなっているというところもあるのでしょう。
林町の裏から動坂のひろい通りへ出る迄の一帯は本郷区内の危険地区の一つですって。何しろ、あの裏通りは御存じのとおりですから手押ポンプしか入らないからだそうです。従って、うちも裏から火が出て、冬のことではあり北西の風でもあれば、ことは到って簡単というわけでしょう。そういうときになれば、私は体と手帖とエンピツと封緘さえあればいいと思って居ります。
では火曜日にね。眼をお大事に。泉子からよろしく。
ね、ふっと原さんが泉子という名だったと思いました。原さんかんちがいしたら可笑しいわ、ねえ。イヅミ子に可哀そうだし、ね。 
十一月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(青木達彌筆「薄」の絵はがき)〕
きょうは(一日)天気がはっきりしないので国府津で一年も閉めこまれたままの布団を干せそうもなくて大弱りよ。それでも出かけるのでしょう。出かけてしまえば又それで気がかわるのでしょうが。
眼の本いかがなりましたか?
この間本やで計らずオーエンの『自叙伝』というものを見つけました。珍しいと思いましたが、知っている人にとっては格別興味も少い本なのかしら?あなたはいかが?ノートや本やをもって出かけるのよ。それからお米も。タクアンも。 
十一月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 神奈川県国府津前羽村前川より(封書)〕
十一月三日
今度は何しろ同勢が同勢なので、おっかさん役おかみさん役兼任のため、なかなか忙しい思いをしました。
一日の午後、太郎が学校をひけてかえって来るとすぐ出かけ一時四十分の小田原ゆきをめがけて東京駅へ行ったところ、列がずーっとむこうの端れで、最後尾の車に、しかも立ちづめで二の宮迄よ。どこかの中学生の練成道場行がのっていて、お米を忘れたとさわいでいる四年生もあり、という工合。太郎だけよそのひとのわきにわり込ませて貰ってリュックをやっとおろして、小さい三角型の顔してのっているの。太郎は人ごみだの何だのの中だとそれは情けない情けない顔して、あっこおばちゃんを歯痒ゆがらせます。ヤアこんでるんだなアというような、からっとしたところなくてね。いとど物哀れに小さくなるのよ。私はそういうのは無視なの。いたわったりしないの。
さて、国府津へついたら、バスがこの頃はダイヤめちゃめちゃで一時間、あの朝日という店で待ち合わせ。駅前のあのテーブルなんか並んでいた店覚えていらっしゃるでしょう?もうあんなことはしていないのよ、店はしまって、ちょいと梅干が並んでいるだけよ。
私は重いスーツケースを下げて太郎に片手つかまられて辿りついた時は吻っとして、でも、いい心持でした。
八時頃国男来。二日は太郎がはりきりで砂遊びにおやじさんをさそい出し、私はエプロンで片づけもの。
午後一休みして太郎を見たら、一人でぽつねんと芝の枯れたのを植木屋が焚火している、それをつっついています。可哀そうになって、駅で買った柿の袋下げて、ナイフもって、ミカン畑の間を歩きながらその柿をむいてたべさせてやりました。ミカンが黄色くなりかけで空は青々。白い蝶が二つ高く低くとび交っていて大変新鮮でした。狭いミカン畑の間の草道を日やけ色した手足を出した太郎が短い青いパンツで汽車を見ようとかけてゆくのも面白い眺めでした。
太郎は七時半ごろ、寿江子が駅まで来てつれてかえりました。明治節のお式に出なくてはいけないから。
あの仕事てつだって貰っている絵の娘さんがきのう午後から来て、昨夜は珍しい、国、そのひと、私、女中さんという顔ぶれでした。
本をもって来たのによむどころかという有様よ。炭がない。野菜がない。海は朝も夜も目の前にとどろいているのにお魚はなしよ。大したものでしょう?お魚と云えば、この間うち市中に余りお魚がないので困りはてたとき、新しい首相は早朝騎馬で市場へ行かれました。魚がないじゃないか。ガソリンがないもんですから。ナニ、ガソリン?早くおきて働けばいいんじゃ、と云われた由、そしてあんちゃん連の万歳におくられて馬蹄の音勇ましく朝の遠征を終えられた由です。こっちではそういう勇ましい光景もなくて魚はないのね。
すべて御持参で来れば、今頃から冬にかけては、いい心持だと思います。久しぶりでのんきな気分で空気のよさ感じます。あしたおめにかかると、日にやけたのが目につくのではないかしら。
きょうはゆっくり眠って、午後は三時間ほど裏の山の方と海辺とをぶらつきました。裏の山の南に向った日だまりには、きれいな薄紫の野菊や、しぶくてしゃれた赤の赤まんまの花や何というのか可愛い赤い筒形の花やらが咲いていて、なかなかたのしいぶらぶら歩きでした。すぐ下に二本線路があって、それが東海道本線なんですもの。全く不思議のようです。こんなに細い、たった往復一本ずつの線路が、日本の交通の幹線だというのだから。でも土台線路というものはじっと見ていると一種の感じのあるものね。小川未明ではないけれど。浦塩へ出るまでのあの茫大な山や原の雪のつもった間に、たった二条ある線路の感じを思い出したりしました。
今は、玉ネギをどこかで売ってはいないかと近くの店へ行ったら、そこはこの土地の旧家なのね、木炭、米の配給店をやっていて、中学だか実業学校だかの制服をつけた男の子が何人も、若い女が何人も、おっかさんが出て応待するのを見ています。こういう土地でのこういう古い店の人たちは、又浜辺の漁師とはちがって、圧しがあるものねえ。
さっき海辺であっちこちさがしたのだけれど、あの短い草の生えていた砂丘ね、あれはもうなくなっているわ、いつの間にか。それからうちの前の松の生えていた崖ね、つかまって私がやっとかけのぼった、あれは道路拡張ですっかりなくなって、平ったい到ってわけのわかり切った大通りとなって居ります。
それでも今度来て思うのですが、ほんとにリュックでももって三日ぐらい、休んでのびるために、もうすこしここも使っていいと思うの。
寿江子がもっとちょくな人だといいのにね、毎日曜にどうせ平塚まで来るのですから、私は土曜からいて、日曜月曜ととまって二人で何かやってかえれるといいのだけれど。
こんなこと考えながら、これでおそらくもう今年は来ないでしょうね、来年になって来ればいい方ね。
又明日からは机へへばりつきです。休んだ元気で又せっせとやりましょう。
あなたの眼いかが?本はいかがでしょう?晴天つづきだったから、そちらも暖かかったでしょうと思います。こっちでは足袋なしよ。
こういう風にしていたりすると、一日のうち何度かふっふっと私のすきな組み合わせでの暮しを思います。そして、こんな風に思うのよ。よく一生懸命に仕事をしていい勉強をしておいて、そういう折は御褒美に、暫くは仕事のことなんかポイ御免蒙って、おそるべき牝鶏かみさんになって見たいものだと。クウコッコッコ、クウコッコッコとね。なんにもほかのことなんか考えたくないわ。それで御異存もなしという位に日頃からの心がけ専一に仕事をして置こうというのだからすごいでしょう?太郎はこういう形容はごく感性的に、日本のゴと柔らかく発音しないで、sugoidaroとgoiにはっきりアクセントつけていうのよ。
戸塚のおばあさんのお見舞に行ったらばね、おばあさんの方は、小さい溢血だったそうで舌ももつれず、手足もしびれず、ちょこなんと床の上に坐っていて、旦那さんが肺炎のなりかけで熱出して、胸ひやしてフーフー云って臥て居りました。あっちの細君は四国巡回の講演です、銃後奉公の。では明日ね。 
十一月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月六日第四十八信
国府津のには番号がぬけましたが四七に当るわけね。
さて、いかが?十月は仕事の仕度をしなくちゃならないと思って気を張って、いくらか手紙御無沙汰になってしまいました。
かえって来てみると、国府津では今度本当に休んで来たことを感じます。丁度いろいろと疲れが出る頃、足かけ四日バタバタしながらものんびりして、頭のなかがすっかり静かになって、きめのこまかい感じにしっとりして大変いい心持よ。こちらへ住むようになってから二ヵ月経って段々落付き、家族のもののいる中での日々が、やはり一人きりで二六時中気をはっている生活と、どこかで非常にちがって、少くとも今の自分には薬になっていることも感じはじめました。
あなたはそういうこと予想していらした?
こうしてみると、一人で女中さん対手の生活というものは、自分ではのんきにやっていたつもりで、実は輪廓をくっきりと一人で始末したところがあって、ぼーっとしたところがなかったと思います。これが又先でどう変化してゆくかは分らないけれども、少くとも当分、こうやって、うちのものがごたごたしてやってゆくのよかったと思います。
ですから思ったよりよかったということになるのよ、どうぞ御安心下さい。勉強するために一日中部屋にいて苦情が出るわけではなし、お喋りの中に入ったからと云って苦情が出るわけではなし。いずれにしろ私が今はここでよかったと思って暮せていることはお互の仕合わせね。あなたにしろ、すぐ通じるからユリが工合のわるい巣箱で絶えずパタパタやっていたら、やっぱりお落付きなさらないでしょう?そのことではびっくりしたことがあるのよ。九月頃引越しのことで私がちっともおちつかずせかついていたとき、そちらも何となしそういう空気で、生活の流れの生々しさを深く感じたことでした。私はよく生活しなければいけないのだ、と改めて思いもしたのよ。
生活って面白い生きたものねえ。そういう流れのまざまざさでは、私たちに距離がないようなところ。
『婦人公論』で、「我が師我が友」というのをずっと出していて、阿部次郎だのいろんな人がかいているの。正月私のをためしにのせてみるのですって。これから二十枚ほどかいてみます。何かあのひとたちの間では目算があるのでしょう。私は自然に書けるものを真面目に書いてみて、それでのせられればよしと思う程度の心持で考えて居ります。
きょうは三笠へ電話かけて、教えて下すった本をきいて見ましょう。
きのう春江という咲枝の姉さんが一寸来て、面白い話をして行ったわ、そこのうちのおかあさんは七十歳でおじいさんは八十です。七十のおばあさんは勝気な江戸っ子で多勢の子供や孫を育て、大きい家をとりまわしてこれまで暮して来て、数年前突然喀血しました。肺の故障ですって。それでもいいあんばいに大したことなくて、東京のうちに暮し、八十のおじいさんは茅ヶ崎とかに下の弟の夫妻といるの。おじいさんは謡をやり、和歌をよみ、古今の歌をよむのですって。すると、おばあさんがふっと本をよみはじめて、古典をずっとさかのぼって、この頃は万葉に熱心で、看護婦対手にわからない字があると字引きひっぱってなかなか本を集めて一日あきずにやっているのだって。そして、ぽつぽつは自分もつくるのだけれど、おばあさんのは万葉調なのよ。古今は本流でないというのですって。おじいさんは古今で「ふやけたチューブみたいに」だらだらぬるぬると多作するのだけれど、おばあさんの方は「なかなか出ない方でね」ですって。茅ヶ崎と根岸とで歌のやりとりをして、この頃はいくらかずつおじいさんに万葉風をしこんでいるのですって。左千夫がおばあさんのお気に入りだって。いい歌があると、丹念にしおりして春江のところへよこして、あとで、どうだったい?ときくのですって。おばあさんは「おかずの心配さえしなければ私は生きていられますよ」と云って、おじいさんをおどかすので、おじいさんも茅ヶ崎へかえれとは云わないのですって。
面白いでしょう?八十と七十のこのじいさんばあさんの物語は。そして私たちは七十のおばあさんの生活というものに、やはり女の働き盛りの生活というものが、その間にはなかなか歌一つでさえ満足にはやらせるひまがなかったのだということを考えさせられました。七十まで生き、すこし病人になって、そしてそうやって却って楽しい生活が夫婦にあるなんて、面白いけれど、でもねえ。やっぱり、でもっていうところがあるわ。
咲枝なんか、何か大して関心ももたずきいて笑っていたけれど、咲枝にとったってひとごとではないと思われます。
うちでは、咲枝がこうしているからこそみんなこうやって暮してゆけているのだけれど、なかなかよ、見ていると。
旦那様というものは大切にされるのねえ、どこでも。
勿論それは私だって決して決してで、それは御本人がよく御存知と思いますけれども、旦那様の非条理がいくらか通りすぎるわね、どこのうちでも。家庭ではそこがおそろしいところね、うちの中だけのことを云えばどんな風変りも通用するのだもの。ちゃんと社会的活動をしない、うちの旦那という人々がみんなどこか偏屈だったり、変ったりしているのは尤もね。イギリスの貴族のひどい偏屈変りものが十九世紀の小説にはよく出て来ていますが、それは人間性の浪費でああいうことになってしまうのね。
夕方や朝、丸の内に津浪のようにさしよせる灰色の人浪を見ると、余りただ一色の人間群で悲しいし。本当に人間らしい姿と足どりとで生きるということがそのようにむずかしいということが抑〃の問題であるわけです。
きょうはね、何ということなし、あなたのまわりにいるのよ。そして、ちょいと用事にいなくなって、又来て、何かと話しするの。
私たち十分自分たちの時間があったとして、あなたは何か仕事以外の道楽をおもちになるたちでしょうか、たとえばゴを打つでしょうか、ショーギをおさしなさるでしょうか。この頃のゴの流行は相当のものらしい様子です。ゴ、茶、禅、お花、習字、そっちの方角ね。この間哲学をやるひとがやっぱりゴをやっていて、ゴのつき合いは自由自在にひろがれるからいいと云っていたわ。わかりますけれどもね、私は、でもという感じがするの。読むべきものするべき勉強がうんとあって、それをしないで、ゴうっていられるというのはどうも少し妙ね。今時、変にうごきまわるのはろくでなしというのは分るが、だってねえ、うごかないということと、ゴをうつということとはすぐ結びついてそれで終りではないわけでしょうし。
私の道楽はなさすぎるわねえ。音楽だってせいぜい新響の定期をきくぐらいのところですし。二人とも案外芸(ゲイ)なしなのかもしれないことね。のんきな一日は、気持のいいところへとぐろをまいて本をよんでいて、たんのうしているというのが落ちかもしれないわね。
国府津の長椅子式で。あのときの青竹色の表紙の本は何でしたっけ、細田民樹か何かだったかしら。一日よんでいらしたわね。それでちっとも退屈ではなかったことね。ああいう退屈でない時間の流れかた。ゆったりとした水が流れるのを知らず流れているようなああいう含蓄ゆたかな時の流れの味。私たちの気質は一日をせかせかと小さく区切って小まめにあれやったり、これやったりして、夕方になるとやれ一日すんだという型ではないらしいことね。夜からひるへいつか夜となり、という調子らしいわね。私たちはなかなか詩人なのですもの。
詩人と云えば、この頃あなたの読んでいらっしゃるのはどういう詩でしょうか。
この間うちのような秋日和には、ゆたかな海の潮のみちひのうたや、暖くて芳ばしい野草のうたやがなつかしくて、裏表紙の深紅の本を折々くりひろげました。おぼえていらっしゃるかしら、あのなかに、「ああせめて私の眼がたんのうするまで」という短章があるのよ。一本の実に美しい樹の梢があるのよ。幹の雄々しい線と云い、梢の見事なしげり工合と云い、それは空にひひるばかり。一人の旅人はその樹の美にうたれ心をひかれて、その幹によって飽かず眺め、遂に手をのばしてその樹を撫でるのですが、その山地は霧が多くてね、もっともっと見たいのに忽ち霧が湧き出て梢をかくしてしまうのです。旅人は去りかねています。そして思わず心の願いをうたにうたうの。ああせめて、私の眼がたんのうするまで、と。
それからこんな対話風のソネットがあるわ。
あら、あなたは、どうしてそんなにいそいで行こうとなさるのでしょう。まだ日は高いわ。
私たちの影法師は、さっきから、まだ、
ほんのちょっと、
ホラ、あの樹の根元から少し動いたばかりなのに。
対手のひとは黙って、そういう娘をじっとみています。
顔を仰向け、眼に見入り、答を待っていた娘の心と体とを貫いて戦慄が走りました。娘にも急にわかったのよ、言葉の消えるときが来るのが。碧くてひろい大空は、そこに真昼の太陽をのせたまま、二人の上に墜ちて来ようとしていることが。
刹那を支えているひとの美しさ。
娘は叫びのように感じます、ああ自分は大地だということを。大地だというよろこびを。
いくらこんなに書き直したって駄目ね。
詩には響きもあるのですもの。その響は耳できかなければききようもないのですもの。詩の諧調が次第次第に高まるにつれて、律動の間から響いて来るひびき。
今そちらはどんな気候になりました?何だか手とつま先とがつめたいようになって来たわ、こんなに、ね。
今にも出かけてそちらへゆきそうなのを、こうして机のところにいる心持。結局早くあしたにならなくては駄目だわ。
ではあした。ちょっと、こんなのがこの頁にあるわ、「野苺の願」。私を啄(ついば)んで頂戴な、そこを。それから、ここを。ええ、ええ。そしてね、ここも。苺は胸のきれいな鳥に云っているのですって。 
十一月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月七日第四十九信
本当は仕事しなければいけないのに、これをかかずにはいられないという仕儀にたち到りました。
お手紙ありがとう。ところで今大いに駭(おどろ)いて、わざわざ下までけさの新聞を見直しにゆきました。だってね、このお手紙は六日午後に出ているのよ。これ迄の例では最も早くてなか一日か二日だから、はっとして、さてはアンポンきょうは土曜日かと駭然といたしました。やっぱりきょうは金曜よ。そしてみると、この手紙は稀しくも市内の速度で来たというわけになります。
そうよ、二十日以上です。格別それでどうと思ってもいなかったのだけれども、こうして来てみると、何をおいても先ずこの仕事にうち向うところをみれば、うれしいのね。やっぱりほしいのね。あなたが、余り御無沙汰にならぬようにしようと思って下さるのは極めて適切です。こうやって字が来ると、体温や声や顔やいろいろがどっさりついて来るのですもの。
きのう書いた手紙いずれこれの前につくでしょうが、きっとあなたは、このお手紙がきょうついたのはつく折としても大変適薬的だったということがおわかりになるでしょう。それは、きのうの手紙をおよみになれば、おのずからあきらかなわけによって。
さて、十七日のありがとうは皆によくつたえましょう。国男ったらね、折角国府津で心持よく暮して、よかったよかったとよろこんでいたのに、かえったその晩お酒のみすぎて下らないことにじぶくって、そのまま臥て、すっかり風邪を引いて、ずっとねているのよ。残念ねと云ったら合点してきまりわるそうにしていたわ。ずっとまだねていて、それもいいけれど、家中あやしくなってしまってそれが閉口よ。私なんかすこし危いの。薬のみましたが。
「思う」のこと、ありがとう。あれはね、抑〃は、この頃の妙な感受性をさけて語調をやわらげようとしてつけたわけです。自分として何にも思うという不決定な気持でない場合でも。だから「新しい年の――」に特に多くなったりしているのね。でも、もうおやめにいたしましょう。すらっと書いたものには「思う」なんか特別どっさりはありはしないのです、生活と本にしたって。
あの省吾という叔父のことはいつかもうすこし書いてみたいと思います。私の幼女時代に一番強烈な印象を与えた人の一人ですから。このひとの死が、初めて私につよい衝動を与えた記憶もまざまざとしています。このひとの亡くなったときは私は小学の一年ぐらいだったかしら。青山まで雨の中を俥で行って長くて眠たかった覚えがあります。
本当にあっちはもう雪ね。雨と雪とが毎日降ります。そして、十二月一杯曇天つづきで(十月下旬から)一月に入ると厳寒で却って白雪はキラキラ燦(かがや)いた青空になるのよ。午後三時ごろにはもう電燈がついて。ガローシの底でキシキシいう雪の音を思い出します。馬の毛の汗がすっかり霜になって白くなっているのを思い出します。雪の街独特な一種のなつかしい生活慾をそそられる冬の匂いを思い出します。私は雪のああいう景色や気分が実にすきよ。白樺薪の煙は実に黒くて、その煙が雪につつまれた昔風な塗色の建物の並んだところから空へと勢よく立ちのぼっているところも、親愛よ。
今年の冬は忘れがたき雪景色でしょう。
まるでちがうけれども、ここにユトリロの書いた雪ばれの絵のハガキがあります。雪をよろこぶ心がいくらか出ています。刷りがわるくて台なしだけれど。
ユトリロとしては心情的な作品ね。
岡本太郎の個展の案内が来ました。シュールですね。ピカソの後塵を拝し、しかもそこから東洋の美の新しさをつくり出そうという努力をしているらしく、いかにも頭脳的です。この若い人はまだ理性的ということ、意志的ということと、頭脳的ということの根本的なちがいが分っていないと思います。
しかしこの頃深く思うのですが、この二つのものの本質の差別が出来るか出来ないかということに、芸術家の歴史的な質のちがいがかかって居りますね。過去の純文学はその尖端を頭脳的なもの止りで、しかもそこでは一面の大きい無智、偏見のため、すっかり堕落してしまった。ジイドのこしらえものの鋭さ。横光の似而非(えせ)芸術。川端康成だって心情をそこへ導いたものは頭脳的だから、心情的なものの低さではもちこたえられず。
益〃明瞭になります、次代の芸術家の資質として求められているものが。
高村さんのその表現は、それだけとしては適確ね。人間の精神の等身大の考えかたです。光太郎さんの現代の魅力はそこに在り、同時に、その魅力の故に、岸田さんなんかに引っぱり出されて、いくらか理性のくらい詩を瑞雲たなびく式に書いたりするところが、あぶないあぶないよ。こういう人の立派さに埒(らち)があって、そこからこぼれると妙な分裂がおこります。こういう人たちは総てそれをもっていますね、そして、そのことは決してその人たちの煩悶の種とはなっていないのよ。
光太郎さんという人はここのすこし先に住んでいて、お父さん光雲のうちはすぐ庭のむこうです。今そっちは弟の豊周さんという鋳金家がすんでいるの。光太郎さんはアトリエ式の家に一人住んでいます。
智恵子というおくさんは狂人となって亡くなりましたが、美しい人でした。大変やわらかい美しさ。そしてね、いつも光太郎さんのことを思って何か云っているのに、光太郎さんが見舞にゆくと、その顔が、自分の思っている光太郎さんだということは分らなくて、おとなしくお辞儀だけしてニコニコしているのですって。ひどく面白い切紙細工をのこして死にました。見舞にゆくと、あとやり切れなくて熱海へ行って、一晩お湯に入って来るのだそうでした。わかるわねえ。心のそういう苦しみ、妻のいとしさのそういう苦しみが、お湯に入らなければ何ともしのぎかねるというところ、微妙なものがあるわ。光太郎さんはああいう人で、温泉に自分の肉体をまかせたけれど、ひとによれば、人間の女をたよるでしょう。生活の破れかた、破られなさ、そういうきわどいところね。岡本かの子に死なれた一平は酒ばかりのんで泣いていたらしいわ。
そういう体で経た経験があるのだから光太郎さんが美は弱いものでないという言葉にはこもっている力があるのは尤もです。私たちはその美感に支えられているのだもの。理屈一片にこの人間の心と体とが支えられるものですか。愛情というものだって、つまりはそこまでのぼる階(きざはし)ですもの。いつも思うのよ、人間の本当の美しさの感じが分ると、その人はそれ故に世俗的道義の典型になるところもあると。堅忍とか貞潔とか、石部金吉でなくて、しかもそれはその人にとって乱れがたい自然の統一となったりしてね。そういう美の感じが、代用品でも平気ですまされるというようになることはおそろしいことですね。「美について」は代用品でないでしょう、少くとも、著者が自覚のもてる範囲では。
来年三月卒業のひとたちが十二月にくり上げ卒業になるので、いろいろと影響しています、東大は来年は夏休みなしになるそうです。
肉はすっかり減って、一週間にせめて一度という位になりました。魚は不自由です、野菜もどうやらというところよ。牛乳はうちは半分となりました。ガスも電気もずっと節減。この間目白へ行ったらば、あすこの町会の貯金が二円(毎月)になった由。私のいたときは五十銭だったのが八十銭になったのに。僅か二ヵ月よ。そして公債も買うのですって。さち子さん、つらいわと云っていました。二円というのは、この辺なみよ。あの辺はそういうことも高率だし第一、うちはなかなかそれがむずかしいという人は一軒もないのだから、やり切れないというのもわかるでしょう?ユリが、よ。
今うちの庭には山茶花が美しく咲いています。赤っぽいのはいやに上気(のぼ)せたようで苦しい色ですが、これは白いところへほんのり端々に紅がさしていて清楚可憐よ。机の上にずっとさして居ります。
十條に白い山茶花が咲いていた庭、そこでたべた味つけ御飯。花もいろいろの眺めね。
この山茶花はもう古木なのよ、絶えてしまうと惜しいと思います、何とか植木屋と相談して永もちさせたいわ。
たまによくこんなことも思うのだけれども、さてとなるとやっぱり本をよむ、かく、ほかの用事で実現せず。実現しないところがいいのかもしれないわ、それが自然かもしれないわ、ね。
空想のなかによく浮ぶのはもう一つのこんな場面。簡単な私たちらしい餉台(ちゃぶだい)。そこのこっちに坐って御飯たべていらっしゃるの。こっちに坐って見ているの。そうしてみていると、そうやってものをたべていらっしゃるその様子ごと、自分がたべてしまいたくなってゆく心持が実にまざまざよ。まるで口のなかが美味しくなってゆくようよ。全くさぞさぞおいしいことでしょうね。万葉集にはいろんなひとの面白い歌があるけれど、その人をたべたいという表現はないわ。昔のひとは私ほどくいしんぼうではなかったのかしら。もしかしたら、そんなものに匹敵するほど美味しさのあるものなんかなかったのかもしれないわね、何しろ椎の葉に盛る式の食物だったのだから。食べてしまいたい程というのがもし近代の表現なら、そこに又柳田国男のよろこびそうな要素があるわけね。ではのちほど。 
十一月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十二日第五十信
きのう、あんまり愉快そうにお笑いになったもんだからときどきあの空気が顔のまわりにかえって来て、何だかいい心持がします。時々ああいう風に笑いましょうよ、ね。心持いいわ。本当に、心持よい、日向のようにいい心持だわ。あなたも?
あなたの語彙の自在なのにはあきれるほどよ。しかも適切で。
きょうは、先ずいいおめざがあってホクホク。それに天気はいいし。勉強部屋をゆっくり自分で掃除して落付いて書きます。
本当に初冬らしくなりました。机の下にもうタドンをうずめた足あっためを使いはじめました。今年はどうやらタドンは足りそうよ。目白からもどっさりもちこみましたし。あすこの二階は足あっためだけで大体間に合っていましたが、ここではどうかしら。でもなかなか日はよくさしこんで、雨戸がぬくもっているのを閉めますから、階下よりずっといいのかもしれないわ。目白はいつも乾きすぎて上気せるようで苦しいほどでしたが、こちらにはそれがなくて、楽です。時々体によくないと感じる位だったのよ、家にはそれぞれのくせがあるものですね。
眼の本漸々!私は眼は近眼だの乱視だので、去年みたいなさわぎもいたしますから、随分大切にしています。寧ろ恐縮しているわ。毎朝ホーサンのうすいのでちゃんと洗います。その点ではいい躾よ。眼が機能的な故障をもつということは重大な、人生的なことですね。
西村真琴と云って『大毎』の宣伝部か何かに今働いている人は、昔知っていて、理博です。自然科学の面白い話なんかきいたことがあったけれど、この人が眼底剥離とか云う病になってもう顕微鏡が見られなくなりました。そこで職業がかわり、暮しが変り、そのように職業のかわれる素質の俗的発展が著しくなってしまったらしい風です。眼は大切ね。
協力の本、うれしいと思います、パラパラと頁がめくられる。仰向きになっている手にとられて、何となしあちこちがよまれる。暫く伏せられていて、又とりあげられる。これは私にとっては感覚的です。よまれるというこんな感じを感じる作者は一寸類例なしであろうと思います。そして、読むということにも、いくらか似よったものがあるかもしれないと思ったりします。
「乱菊」の中の言葉、そうね、小店員の方がふさわしいわね。フランスの本のことは、かきかたがやっぱり靴をへだててというところなのです。私は、そのことを云いたかったからこそ、あれにふれたのよ、わざわざ。民族の経験を余り常識は大ざっぱに、現実からちがった理解しかしない癖がひどくなっているから、それであれにもふれたのに。残念だったわね。「思う」の余波がそこに及んでいるのです。あなたのお手紙のようにわかりやすく書けばよかったのだけれど。自分と結びついて使う言葉について、余り選びかたがやかましいと、やっぱり瓜だか爪だかはっきりしないところも出るのね。でもやむを得ないということの方が大きくて。
友情のことも、こんどすっかり自分でかく本(プランを)では、その点明瞭にしましょうね。
前のときも同じ感想を頂いて、今度は比較的気をつけて展開はしたのですが、土台が、性別を中心にして求められているので、そういう欠点が生じるのです。性別から出発することは違っていると云いつつも、ね。
「突堤」のはじまりは、あれを私が淀橋にいた間に書いたということから、作品としては不成功な書き出しがくっついたのです。全然客観的にみれば何にもあの小品にあの前は不用であると思います。でも、とってしまう気がしなかったの。あざのようなものね、云わば。
本当に、あとでくりかえしてよまれても味も匂もあせない本、そういう本をかいて行きたいものです。
それに私にはいろいろ自分への希望もあって、最も親密によんでくださるひとの精神と情緒との隅々まで、くまなく触れるような、そういう書きかたがしたいのです。或ときは頭が快くもまれて、そのうちにあるものを再現し、或ときはなだらかに情感が表現されて、それはとりも直さず全くそのようなリズムで再現されるべき情感を語っているという風に。大したのぞみでしょう?これをこそ大望とや呼ぶ、でしょう。その希望は何割みたされていることでしょうね。六分どおりだったら上成績よ。このデュエットにおいてよくまだ録音されないのは低音の部だということになるでしょう、いつも。いかが?本当にこのことは知りたいと思います。忘れずお教え下さい。低音部の響は何割活かされているかということを。よくて?
国府津の海ではそと海らしく黒鯛なんかが釣れます。けれどもあすこはいつも沖ね。ほんの夏の一時期のようです、釣をやるのは。とても自家用なんかつらないわ。これは瀬戸内海の漁村と、ああいう太平洋に面したところとのちがいでしょうね。面白く思いました。自家用を釣ったりしてくらすところには、そういう日常のこまやかなところもあるわけでしょうから。
釣好きにもガソリンのないことは大打撃で、この頃は船頭が「手漕ぎなんか可笑しくてやれませんや」という習慣になってしまっているから、紀さんなんかもちっとも出られないらしい様子です。
北欧の気候について。雪よ雪よ北の雪よ、程よいときにどんどん降りつもれ。程よいときに、どしどしと雪崩れてとけよ。春の膝までの泥濘にとけよ。
隆治さんが、あなたの手紙なんかを、どんなに心にかみしめているかとよく思います。私の方へは一寸ここ暫く来ません、或はどこかに動いたのではないかとも思いますが。
多賀ちゃんからきょう手紙来。九日の午前二時とかに立って福岡へゆきました。病院の東門前の泉屋という旅舎です、母さんと。そして、やはり手術した方がいいと云われたそうです。旅舎にとまっているの気の毒だけれど、一寸知り人がないものだから、あの方面には。あなたもよくその辺は御存じとかいてありました、そうなわけね、野原のおじさんのときのことで。どの位入院しなければならないのか、出来たらいくらか送ってやりたいけれど、こちらは何しろ目下岩波『六法』、三笠の本がはかどらないでいるという有様で、笑止千万よ。そのうち何とか工夫をこらしましょう。それでも宿は親切とあるから、まあいくらかましでしょう。あの母斑は、やっぱりもっともっと大きくなる性質ですって。あとになると手術出来なくなると云ったそうです。きっとあなたの方へもたよりをよこしますでしょう。
光町の留守は冨美子とあの亡くなられた河村さんといた、従姉のひとというのがいるそうです。冨美子ももう四年生だから大丈夫ね、誰かがいさえすれば。
これから二人にそれぞれ手紙をかいてやりましょう。
多賀ちゃんも、世の中がこの位のうちにちゃんと安心出来るようにしておいた方がいいわ。当然もっともっとになるでしょうから。
うちでは、今までいた女中さんのうち一人かえり、今は派出さんともとからいるのと二人。それに書生さんが一人出来ました。うちのまわりを掃く人がこれで出来て、どうやら狸の穴のような落葉のしまつもつきそうです。どうしても一人男の手がいるのね、外まわりをやってくれる。
うちの連中も年をとったから、今度はうまくおけるでしょう。
S子さんがごく近々おめでたで、私が名づけ親にきめられました。うっかり忘れていて、きのうハガキ貰って些か狼狽よ。何という名がいいでしょうね。S子さんはあれでハイカラ好きで、名の面白さの分りかたが、旦那さんとはちがうでしょう。そういうことも考えなくては。一字が好きというが如しよ。
うちの風邪は大体退治が終りました。国男も一昨日から出勤。太郎も今日から御出勤。
十二月に入るといろいろの税があがるので、この頃は大変らしいわ、今のうちというので。呉服屋なんか。
魚の配給率が、家庭用70%、業務用30%となったところ、鯛、まぐろ、さわら等はみんな三十%の方へまわって、70%の方はろくでもないいわし、いか、くじらの類。売上額は同じですって、70%と30%と。ひどいものね。早くおきて働けばいいんだ、とおっしゃった馬上の人の言葉も、現実にはこうやってあらわれて来るところに、一通り二通りならぬリアリティーあり。
このごろでは勉強部屋だけよそに持つということも大変むずかしくなりました。配給のことで。
宿屋なんかもやはり新しい税の何かにかかるのでしょう。汽車賃もあがります。バスだけ据おきよ。三等は大してあがらず、二等一等はグンとあがるらしい風です。月給は停止令ですが。だからこの頃では、大経営のその制限の明瞭でないところへと却って希望するひとも少くないようです。百円で子供もちだとキューキューですものね。大学出で或年まではその位らしいわ。
きょうは曇天ね(十三日)。あしたどんな天気かしら。咲枝の買って来てくれた羽織を着てゆきたいのに。ではね。 
十一月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十五日第五十一信。
今夕方の五時でね、もう雨戸をしめ、机に向い、足はぽかぽかとしていい心持なのよ。元気のあるいい心持です。どうしてそうかしらとふっと考えたら、寿江子がカゼで、きのうもきょうもブカジャンがないのです。だからなのねえ。力のたまったいい心持です。こんなに気分ちがうかと思うと、何だかおかしい。勿論寿江子の風邪ひきは可哀そうですが。でも、ラジオと音楽とでうちは大抵の頭は散漫になってしまうわ。めいめいそれぞれの音係りは、それぞれの道からきているのですけれども。ラジオはラジオとしての波をだけ。音楽のひとは自分の専門――目下のところハーモニーの勉強などから。それらのどっちも、普通人の音の感覚できいているのは私や太郎やああちゃんよ。あわれ、あわれ。
この頃時々、目白での或ときの心持、感情を思いおこします。その感情に淋しいという名はつけなかったけれども、今になってあの時折の気持思いかえせば、それは今何となしうるおされている部分が、あのときは乾上っていたことを感じます。何かの折それを自覚していたのね。手つだいのひと、さもなければ、どんな親しくたってお客様であるにちがいないひと。そういういきさつだけで日々が運転してゆく生活。隅から隅まで自分で動かさなければ動かない生活というものの目に見えないうちに肩を張らし肩をこらしている生活というものは大したものであるとつくづく思います。
どんなことにもわるい面だけはないものね。今の私は、一方で大旱魃でありながら、思ったよりずっとずっと他の面では潤沢となっているのですもの。そして、この面のうるおされることは、私の神経の衛生上必要な時になっていたとわかって、天の配剤妙なるかな、と思っている次第です。ほんとうによかったことね。そういう衛生学は、極めて微妙で、夜中どんなに犬がほえようと平気という、そんな些細なところからさえかかわって来ているのですもの。どうやらわたしも女丈夫にならないですんで、うれしいわね。御同感でしょう?私は迚もそういうたちではないようです。
私たちのこんな時期が、計らぬ面でそんな発見を伴って営まれるということは、大なる仕合わせと云ってよいでしょうと思います。そして、一層、一生懸命になるべきところに力を注ぎ、ゆたかに成長することができたらば、ね。私たちの日常のなかに子供たちの声だの、その成長だの、おかみさんのあれこれパタパタだの、そんないろんな響が入っているのはいいわね。「朝の風」はこわい小説よ。忘られないところがあります。ああいう風な感情の集注はこわいと自分であのとき痛感して、「その年」ではああいう風に、ひとの生活へ外の世界へと目をむけたわけでした。この何年間かの生活で、私たちの生活の感情の絃の一本は、あの作品でその最頂点を顫わしているのよ、悪条件的に。あの作品について云って下すったいろいろの点はその理論的把握でした。
生活の展開というものは何とおどろくべきでしょう。生活全体で展開してゆくのですものね。決して生活のどの一筋だけをとりあげてどうと云ってかわってゆかないものであるから油断がならないわけです。
今度の文芸同人雑誌の統制で八種だけがのこりました。八十何種かのうち。日本全国では二百何種とかという話ですが、八十何種は東京だけでしょう。文学を勉強してゆく人たちの道というものは近代日本文学史で初めての転換をするわけです。どういう風になるでしょうね。これまでだって、勤めていて、そして傍ら小説をかいていた人がどっさりありました。三十歳前後のひとは殆どみなそうでしたろう。五円十円と出しあって同人雑誌をつくっていたのね。文芸の同人雑誌が、本当に新鮮な文学の土壤ではなくて、文壇の苗畑めいたものであったことは一部の実際ですし、その同人たちが云わば惰力的にくっついていて、そこで枯渇したのも実際です。けれども、そういうところに集っていた表現の欲望は、どこにこれからあらわれるでしょうか。これから文学をやりたい人は、習作時代をどう経てゆくことになるでしょうか。非常に注目されます。
一ついいことは、実生活と文学とは別なもの式に考えられていたこれまでの伝習が急速に崩れ変ってゆくことでしょう。が、さて、その崩れたあとからどう何が萌え出すでしょうか。私は、そういう端初的な表現の欲望は、文化面へ広汎に散って、あらゆる部面からのルポルタージュとして再生して来るのではないかと思って、興味深甚です。そういう形で旧来の文学は生活の中でその新しい堰をきるのではないでしょうか。
人々の裡のそういう必然な文化力は、鼓舞されなければならないものでしょう。事変が起ったとき文学の玄人(くろうと)は、玄人界の打開という面からのもさくとして、ルポルタージュを見直しましたが、今やその段階はもっと進んだと思います。ルポルタージュが、もっともっと、生活から湧き出るということは健全さです。どっさりの制約をもって書いて行くうちに、それを自分に発見してゆくこと自体が一つの大きい勉強ですから。一般の成長は、こういう経路をも通ると感服いたします。
農民文学会の連中はこのごろ、あちこちの模範村へ派遣されています。そこでお話をきき、観察をして、めでたし小説をかくのでしょう。もしこの人たちが、その村の文化的可能を集めて、その人たちの指導で、村が村として自分の物語を持つように導いたら、大したものですが、そういう風にはおそらく考えないでしょう。めいめいが流行作家なのですから。
のこる同人雑誌は『昭和文学』、『青年作家』。(それから、と書こうと思って新聞をさがしに階下へ行ったところ、見つからず)どうしてこれらはのこるのか理由は知りません。『スタイル』という宇野千代女史社長なるおしゃれ誌は、女性生活という改題で三つばかり買収し、その一つに奥むめおの職業婦人の生活を報道していた小型のものも入っていました。これから政治・思想雑誌に及ぶよしです。
新しい値上げで汽車の近距離があがります。例えば熱海迄三等一円五十五銭が二円十銭となり、大阪まで五円九十五銭が七円七銭。急行寝台を利用すれば現在より六割ぐらい高くなる由です。今デパートは大変だそうよ。十二月から白生地その他がずっと高くなるのに、お正月をひかえているというわけで女連買いこむ由。しかし今買える人ならあとだって買えるのです。例えば十円あがって絶対に買えないという人は、今五十円六十円すぐ出せる財布は持って居りませんものね。
多賀ちゃんにはたった十円ですが送りました。今年の暮、島田へなんか何あげようと昨夜も話しました。実にないわねえ。お母さんのお好きな海苔も今のところは怪しいのよ。皆いざの用意に買いためたのを、急に防止で制限が加わりましたから。せいぜい輝のおもちゃでも見つけたいものです。そう云えば来年のうちには輝の弟か妹が出来るかもしれないわ。勿論何も今わかりませんが。来年の春島田へ行こうなどと思っていますが、どうなることやら。
スタンダールのナポレオン伝は面白いと思います。スタンダールはナポレオン崇拝で、と云っていますが、決して盲信ではないわ。ナポレオンが学問がなかったために、現象の面しか分らなく、その見かたは上流社会の見かたしかなかったこと、軍を統帥は出来ても、政治的統率力はなかったこと、それは服従すべき者自身に、服従の必然を理解させるどんな考慮をも持ち得なかったことなどをあげていて、なかなか洞察力に富んでいます。スタンダールは、王政復古時代の作家が腑ぬけになった空気の中で、人々がもうナポレオンとは呼ばず、ブナパルト氏と呼ぶ、その卑俗さにムカムカしてあれを書いたのでしょう。スタンダールは一種の硬骨漢です。そして、いつの時代にでも、その時代における硬骨は、人間として理性の判断を自分に向ってごまかさないということにかかっているのは、何と面白いでしょうね。実業之日本社からスタンダールの伝記が出ます。どんなかしら。一つの大きい時代に生きた人を語るには、よくよくその時代の性格がつかまれないとうそね。「赤と黒」の主人公は、卑俗な時代の野心、功名心というものが、どんな屈辱の道を辿るかを書いたというのは面白い、暗示にとんだことです。功名心というものが抽象に存在しないことを教えています。今日の或種の人のための警告です。業績をつむつもりで業(ごう)を重ねているということを自分で知らない人が何と多いでしょう。
もしかしたら、火、金のほかにふらりと行っていいのかしら?
○隣組で大人三人につき玉子一ヶ配給になる由。
○今年の餅は一人につき一キロの由。 
十二月七日[自注8]〔巣鴨拘置所の顕治 宛駒込林町より(封書)〕
十二月六日第五十三信
四日午後のお手紙けさ。ありがとう。きょうは、この三週間前から毎土曜の午後おはなしに行っていたところが最後で、ほっとして気持ようございます。三時間から二時間、一人でお話しつづけもくたびれるけれども、大抵はそれよりながくなって、六時ごろでした。きょうは。一番おしまいだというので、だァれも立ち上らないのですもの。かえりにそこを出ると、みんな門口へかたまって、センセイサヨーナラ!! と叫ぶのよ。センセイというのはほかならぬアンポンおゆりのことです。断然すごいでしょう?おいしゃでなくてもセンセイ細君はあるものなのねえ。感服いたします。センセイの旦那様もって如何(イカン)となす?そういうときは勿論、時々旦那様に叱られるのよ、とは申しません。
本のこと。ね、どうぞこうやって元気をつけて頂戴。やっと土曜日ごとのおつとめも終りましたし、これから当分又お客をことわって、二十四五日まで大いにがんばって年内に百五十枚ほどわたして、お金いくらかとって、一月十日から又馬力かけて二月十三日までには仕上げるつもりです。
歳末まで赤字なしの御計画ありがとう。本当に案外工合よかったことね。
ほんとにたべもののこまること。私はレバーをのむようにでもしましょう、一番いいでしょうから。おりおりはBと。みかんはこの頃出ています。あんなにいろとりどりだった果物屋が、みかんばかりよ。甘いものは又近いうちいい折にいくらか心がけましょう、午前に出かけるとき。
来年の月明賦はよほど傑作でなければならないと思って居ります。みんなでお祝してくれるそうです。あなたは何がよくて?あなたのいいもの、私のいいもの、そう注文していいのよ。あなたは何が欲しくていらっしゃるでしょう、第一にあげるべきものがあげられないことは悲しい非力として。
あなたの眼が余り手のこんだものでないかもしれないということは、本当に吉報です。今机の上に珍しくバラが二本あります。三分ひらき、一輪は五分ひらき、随分きれいです。そちらからのかえり護国寺の角の花やで買いました。これからはあすこでおみやげに何かいいのがあったら買うことにしましょう、すこし高い花やよ。でもいい花があります、ではね。

[自注8]十二月七日――一九四一年十二月八日、真珠湾攻撃、太平洋戦争開始。十二月九日朝百合子、駒込署に検挙。 
 
一九四二年(昭和十七年)

 

八月七日(第一信)[自注1]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆モネー筆「断崖」(一)、コロー「ルコント夫人」(二)の絵はがき)〕
(一)七日、今朝程はお手紙呉々も有難う!ああちゃんが後手にかくして朝のお目ざめに持ってきてくれたのを、忽ち看破したまではよかったけれど、さて手にとってつくづく表紙を眺めて、封をきり、いたずら者のいない間に読もうと思ったらば、字が一つも字の格好にみえないで、すじのいり乱れで、どうみても物にならず、とうとう閉口して読んで貰う決心をつけました。目がひどくて、殆んど焦点がきまらない有様なので、いつか目を悪くした時慶応で貰った点眼薬をまた貰って、この二日程はふすまのワクが真直にみえる様になりました。自分では読めないけれど、読めないと尚手紙がほしい。この暑さをどうやら工夫して無事にしのいでいらっしゃるのは、本当に何よりのお手柄だと思います。どうぞまだこれからが大変だから、益※[二の字点]御大切に願います。
(二)今年がそんな特別の暑さと知らず、一生懸命にしのごうと思っている内に、あせもだらけになって、あせもの中から鼻の先だけ出している内、とうとうのびてしまいました。
隆治さんが丈夫になったのは嬉しゅうございます。あちら土産のタオルというのはこれから恩恵にあずかります。輝ちゃんに押して歩く玩具を送ってあげたら、丁度その頃から歩くようになったそうで、その写真というのはぜひぜひ拝見致します。冨美ちゃんのお腹ペコは他人事ならず同情します。世界中の寄宿舎でお腹の空かないというところはないようです。
この半月程の間は、寿江子も色々の思いをして役に立ってくれて、大変恩にきせられそうです。太郎が少年ぽくなって、色々と病人をいたわるという事がわかって面白うございます。

[自注1](第一信)――前年十二月九日検挙された百合子は、はっきりした理由を示さず、翌四二年三月検事拘留で巣鴨拘置所へ送られた。七月まで調べがないまますぎた。女区は全く通風のない建てかたで猛暑の夏であったため、百合子は体じゅうアセモにつつまれて、二十八日ごろ熱射病となり人事不省に陥った。予後悪し、ということで自宅へ帰された。帰宅後二日ほどして意識が恢復した。眼の水晶体がふくれて、以来完全に視力を恢復していない。 
八月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆小杉放庵筆「金剛山萬瀑洞」(一)、安井曾太郎筆「十和田湖」(二)の絵はがき)〕
昨日はお手紙ありがとう。あの雷と雨から、本当に朝夕が凌ぎよくなりました。色々の工夫をして暑さを凌いでいらっしゃる様子がこの頃はよくわかります。こちらはひどかった割に順調な恢復だそうですが、三十四時間程全く意識が無かったことは矢っ張りナカナカな打撃で、目や口や皮膚の神経が平常のようになるのは容易な事ではなさそうです。字は一寸も見えません、口も思わぬ処でひっかかって妙な事になります、こう云う障害は人間の体の植物性神経と云うもの(自分の意志のままにならない神経なのだそうです)の疲労で口のきけないのも言葉の記憶が無いのではなく、発音の筋肉をつかさどる神経の故障だそうです。顔付きは、どうやら私らしくなって来たそうです。今は痩せ始めています。レコード的すんなり工合です。眠ることと、食慾は大丈夫ですから御安心下さい。友ちゃんの父さんや弟さんがどうして暮しているか心配なことでしょう。島田へは今日、明日に帰った事をお知らせするつもりでした。輝ちゃんがお婆さんと虹ヶ浜で遊ぶ姿を考えるとナカナカ愉快です。(一)
簀子小屋が松の蔭に立っているでしょうか。メリメ全集送ります。出版年鑑は不許でしたが念のため、もう一度お送りしてみます。近いうちに寿江子さんが又お会いして細かい容態をお話します。今日はむし暑い日になりました。家の小さい連中と母さんは一時帰京して、又郡山に行きました。今度は今迄にないひどい事でしたが心臓と肝臓がやっともって命を拾いました。ゆっくり構えて芯から健康を取戻そうと思っています。皆がお医者と相談して寝椅子を考えて、それを造ってくれようとしていますが、この頃は何しろ蝶番(ちょうつがい)がちゃんとしたのが無いので、ナカナカ造れません。今ねているのは下の座敷の、家中で一番涼しい処です、夜は雨戸を開けてねます。大変息が楽です、私に栄養のある物を食べさせてくれようとする苦心が一通りでないので大いに恐縮しています、スエ子さんが命の親の権利を充分に行使して頭が上がりません、盛んに一皮むける処で痒がっています。時々吹くこの風がそちらにも通っているのでしょうか、くれぐれお大切に。(二) 
八月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆川島理一郎筆「金剛山の秋」(一)、和田三造筆「阿里山の暮色」(二)、岡田三郎助筆「高森峠より見たる阿蘇山」(三)の絵はがき)〕
(一)十五日、昨日の朝のお手紙今朝着きました、オリザビトンと一緒に送った薬は理研のビタスであったそうです。お手許には別なのが届きましたか、若しそうだったら何かの間違いでしょう。名札でも取れたのでしょうか、お調べ下さい。隆治さんの事は腸の系統ではないかと思って随分気にして居りましたが、マラリヤではやはり後へ長く残る病気で決して安心もなりませんね、帰ってから再発して体質的に影響も多いから。送る本は私も時々心に浮べていましたが、中々これぞと思うものがなくて、もう少したったら岩波文庫で『ピーター・シンプル』というのが下巻まで揃ったら送れるだろうと思っています、そちらの目が大変に治りにくいながら悪質のものでなかったのは本当に嬉しいと思います、目は随分こたえますから。私の視力は新聞の大見出しはみえるけれど他は駄目です。体の治り方がテンポが不揃いで、いくらか起きかえる事が出来るようになっても目はずっとおくれているというような工合です。何しろ普段から左右がチンバな乱視で困っていたから。今度ももう少しのところで視力が根本的に犯される危険があったようです。
(二)気をのんきにしているからどうやらこらえられますが、全くみえないというのではなくて物象は映っていて焦点が左右まちまちでコントロールがきかないというのは至って不安な状態です。然しこの頃は目をあけている事が多くなったから、それだけ平均が恢復してきたのだというお医者の説です。口の妙な感じは左のすみに残っているだけです。意識が恢復してくる過程は大変面白くて、決して通俗小説に書かれているような段々夜が明けるような調子のものではないことがわかりました。真暗な中にローソクの焔のような一、二点の明るいところが出来てその部分だけがはっきりとして後は全部暗いまんま、そういう点が少しずつ増えて行ってやがて互いに連がって一日の大部分がわかった状態として現われてくるので、意識が戻った後も始めの内はまるでわからない記憶にない事の方がどっさりです。一番始めの明るい点に映ったのはお医者様の顔で、親みのあるその顔は小さい小さいミニチュアールの様にみえました、昏睡をしている人間というものは大変人間離れがしてみえるそうです。そういう体の中で命と死とが微妙に交流していた時期の話は自分の今日の命の伝説時代で、珍らしく聞きます。看護婦を厭だと夢中で首を振ったそうです。
(三)でも今は正気だからそんなわからず屋は言わないで頼む事にしましたが、さて、人がなくて昨日は待呆けました。寿江子とこの間一寸お使いに行った娘さんが代りばんこに大奮闘ですが、まだ自分では何一つ出来ない人を世話するのだから、心ざしはいじらしい程ですが素人ではヘバリ方がひどくて気の毒です。『寡婦マルタ』は家にあった筈ですからみつけてお送りします。本が不自由でなかったのは幸せでした。北氷洋の流氷の上で科学的実験をした人達の記録などは随分面白く読みました。最近『微生物を追う人々』という世界的な名著の翻訳が出ましたからお目にかけましょう。私は今寝床の上に仰向いてこんな話しをしているところへ寿江子が足許にヘバリついて涼しくない光景です。昨日から少しずつ「ピーター・シンプル」を読んでもらっています。この話は寝て読んで貰って聞いたりするのにふさわしい話で、私は恐らくこれから先何ヵ月もこうやって本は読んで貰って、書く事は書いて貰ってやるしかないでしょう。今日は長ものがたりになりました。 
八月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆藤島武二筆「屋島山上の展望朝霧」(一)、梅原龍三郎筆「朝の仙酔島」(二)の絵はがき)〕
(一)十九日、今日は写真有難う御座いました。輝チャンの洋服姿は中々傑作です。如何にもハーティな笑顔で、若しこういう笑顔を青年になっても持っていたら大したものです。目に特徴があって、これはお母さんのお目と似ていて、叔父さん達の目とも似ています。大変愉快で有難う。隆治さんも大人らしい面持になりましたね。あごなども大きくなって。まだどの顔もおぼろおぼろでそれが心残りです。然もおぼろおぼろという時はおろろおろろに近くなるに於てをや。今日四時過ぎに開成山から親子四人が帰ります。一昨日やっと看護婦さんがきて、二人の篤志看護婦はいささか息をつきます。然し忽ち秘書に代らなければならないから楽隊屋でない方は中々放免されません。
(二)メリメ全集は古いのを集めたそうで一巻が欠本です。六巻まであるそうで、お言葉通り三、四、五とお送りしてみます。六巻はまた続けて送ります。『娘インディラへの手紙』[自注2]は大変面白く読んだものの一つでした。あの本の書かれた状況についてもさまざまの感想を持ちました。「スクタレーフスキイ」という小説はどうも本物でありませんね。「黄金の仔牛」という諷刺小説がゴーゴリの風下にたってちっ共新しくなかったように、この小説の心理主義も至って古めかしく感じられるのは不思議です。これらの事も中々興味のある問題ですが、もっと口がまわるようになってから。たった一つの自慢は一人で起き返るようになってテーブルにひじをついてウナル事が出来るようになりました。

[自注2]『娘インディラへの手紙』――ネール『娘インディーラへの手紙』インドをふくむ東南アジア史。 
八月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆青山熊治筆「ばら」の絵はがき)〕
二十日、今朝の空の色と風の肌ざわりは何と秋でしょう。目が覚めるとああ秋だと強く感じられました。そちらにもこんな風が入るでしょうか。二十日過ぎてこんなに秋になるとは目新しい感じです。病気して秋になった事が始めてだものだから、何年か前にあなたが苦しい夏を過してやっぱり今朝の様に秋を新鮮にそして亦爽やかな哀感をもってお感じになった日があったろうと云う事もしみじみと思いやりました。病気をするとおもいやりの細かくなるところもあって、つまりはあなたも損はなさいませんね。私のペンは口をきくものですから、曰く、おもいやりながら悪口を言っている。
紺絣をお送りしましょう。 
八月二十一日(消印八月二十七日)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆ミレー筆「羊飼」(一)と山本鼎筆「秋と白馬山」(二)の絵はがき)〕
十九日付のお手紙二十一日朝戴きました。ありがとう。国男さんが持って来て、私に手渡してから読んでくれました。スエ子がおききして来た半ズボンのことは、気にかけていて、今日、明日のうちに一応見当をつけたいと思って居ります。どうもお待遠サマ。この頃は前のような布地がないから、ああ云うさっぱりしたちぢみは出来ますまい。自分の手足が利かないからこんな事も気の方ばかりシャツ屋の廻りをうろつく次第です。送って下すった本は今に着くでしょう。ね椅子は私も図を見た事がありましたが、今プランしているのはもっと私の生活に即した便利さが有るもので、何とかして物にしたいと思います。この頃は事務用の廻転椅子の軸が折れて、落ちる人がよく有るそうで、私が椅子ごと平ったくならないように心配しているので、実現がノビノビになります。
(スエ子さんが、手紙を上げたいそうですが、余り筆マメでないので、この「ペン代用」をもって、いささか良心を慰めるのだそうです。)(一)
葉書に細い字をつめる技術に就て御同情下すって、書き手は光栄だと思いますが、これにも速戦即決的事情が有って、絵ハガキだとそれを突きつけて悲鳴を一寸上げて書かせることが、割合やりやすいからです。まして、只今この二枚目を書き始める時、スエコ口走って曰「細く書くのが道楽になっちゃった」と。ですから当分この細字のお習字は続くでしょう。二階の部屋は今日迄空家で私は下の太郎達のねていた処にいます。運んで来てねかすに都合の良かったことと、一番涼しい事で、ここにねています。従って、ベッドはどうなっていることやら。昨日、立上って、三・四歩位歩いてみましたが、目は役に立たないけれど、目まいはしないで、今日はこのハガキを終ったら、敷蒲団を取代えて、ついでに又少し膝のバネの訓練を致します。毎日お医者さんが見えて、注射をしています。一度一寸止めたら暑かった日とかちあって、胸が苦しかったので、又ずっと続けています。太郎は今日から学校。この頃は、自転車で相当に乗り回して居ります。アアチャンは少し長めの水瓜位の形で、大変に堂々たるものです。スエコはザンバラ髪で、ベートーヴェンが生き変った如き有さまです。あんまり、細い字を書こうとする時は、こちらから見ると、歯の間から少し舌が出そうな風です。ヤス子は、相変らず。国男サンも。今日は、爽かですが、又いくらか暑いからどうぞくれぐれもお大事に。(二) 
八月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
あんまり葉書がつづきましたから、今日は手紙に致しましょう。人の気持は面白くて、違った筆で書かれるのを封すると、何だかそぐわない気がして居ましたが、寿江子なら封しても息づまるような想いもしなそうです。今日は日曜で幾分かのんびり。太郎も休みで小鳥を眺めてたんのうしている父さんのそばにくっ付いている様子です。昨夜ねる時、太郎が父さんに「お父ちゃま、いつになったら一緒にねてくれる?」と隣りの部屋で訊いているのを聞いて、大変可愛く思いました。太郎は今、学校が始まったから、下の部屋に小ちゃい叔母ちゃんとねんねで、親達は泰子を連れて、二階へ、別々ですから。私が二階の上り下り出来るのはいつのことでしょう。太郎はそれまで待たなければならないかも知れません。中西さんと云う看護婦さんが居ます。一日の行事は、朝晩体を拭くことや、間でちょいちょい薬を飲むことや、チクリと痛い想いをすることや、スエコに命の親的クダを巻かれること、及び風向きの良い時は、こうやって親切にペン代りになって貰うこと等です。スエコは本を読むのが上手くて、この間うち「シンプル」を読んでもらって居ますが、スエコが読むのと、別の人がよむのとでは、まるきり物が違ったようで、今度初めて、読方の技術の大切さを痛感しています。あなたは、読むことがお上手かしら?上手な人は、自分を読んでいる文章の内へ決してまぎれ込ませないで、よんでいる物を独立してくっきりと浮き立たせます。(このウキタタセます、と云うようなのは、云うのにだいぶ口元が骨が折れます。何しろスエコに「この狸」と云ったら「タルキ」にきこえたそうで以来、「何だタルキのくせに」と云う流行(はや)り言葉が出来ている次第です。私がいくらかすらりとして、床の上に坐って、ロレツの怪しいタンカを切って、チラチラして物も見えない二つの目を、いやに大きく見える眼鏡の内から光らかしている姿を御想像下さい。大変見馴れないでしょう。自分にも良くなれる事の出来ない自分です。)
下手な読手は、変にぼってりとした自分の肉付けを文章のまわりにくっつけるので、意味が解りにくいばかりか、文章の味などと云うものが全く消えます。もし長く見えないと、私にとって読手と云う者が書手同様必要ですが(スエコ曰く「オオコワイ」)その人の選択と云うものは、性質の良さの他に、そう云う特別な要求点があるわけですから、なかなか見付けるのに困難しましょう。口述の簡単なのでも人の性質によっては、抵抗があってやりにくいものです。何しろ、そうそうスエコを乱用も出来ませんから。既に御らんの通り、オオコワイと云われてみればね。
「インディラへの手紙」の著者は、また現代史を書きつづけるような生活ぶりらしい様子ですが、彼の国の今日の歴史は実に紛糾していて、沢山の犠牲が行われている模様です。なかなか現代史のページは、立体的ですから。過去の歴史のどの時代にも無い内容です。
「シンプル」は、十九世紀始めのイギリス海軍が、どんなに野蛮で粗野な一面を持っていたか、フランスと対抗していたこの時代に、イギリスの軍艦の水夫が、どんな動物的な狩り立てで、強制的に強奪されたかが割合正しい率直さで語られているし、そう云う背景で理解する人には、興味がありますが、さもないといかにも十九世紀の始めらしい流れののろい描写で、退屈するようです。家の先生も上手な読手に拘わらず、むしろペン代用となる方をより興味あることとする傾向があります。(私にはよく見えないけれど、字がだんだん速記的になって来たそうですが、本当?)外交的ヒントと云うものはこう云う形で与えられ、決していきなり「もう手がだるい」とは云わないものと見えますね。(これは内緒話ですが、私はいつか、目をしかと見開いて、何枚書いても速記的にはならない字で、スエコがこっそりのたくらしている現場をつき止めたいものだと思います。)
ロマン・ロランの「魅せられた魂」は完訳され、一巻と四巻と云う風にとびとびに読みましたが、「ジャン・クリストフ」はお読みになったでしょう?あれとくらべてこのアンネットと云う女主人公をもった長篇は、女である私達には、非常に興味深い観察が促されて、ずっと読んだらば、さぞ面白い感想がまとまるだろうと思います。生活に一貫した自立性を求めて行くアンネットの理性と情緒的な物との見かたが、この作品では、一方を人間的高度の知的な物として、他の一つを意識下の血の力として見ているような点が、何か私達の生活の現実が、到達している生活の実際よりも、歴史的に一段階前のもののように思われます。そして、この事は書かれた時代が二十年程前だと云うばかりでなく、男の作家が女主人公を誠実な意図から向上的な精神の面で描き出そうとした場合、その善意によってむしろ、やや観念化された結果だとも思えます。これも面白いところで、矢張り強い思索力と云うものは何か所謂「理性」だけが分担するように思われて、それは即「男」と云う名によって現わされた人間の高い精神の働き、と云う風に映り、女の本能的なものがそれに対置されるのでしょう。この小説は大変に面白いので、なかなか声を出して読んでもらうのでは物足りなく、読手はよみたがり、目下協定なり立ちません。きりがないから、宛名の余白のあるうちに、これでおしまい。
顯治様百合子
(手さぐりの字はいかがですか?) 
八月二十七日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆ドガ筆「踊子」の絵はがき)〕
今日は、涼しいこの頃にしては暑い日でしたがいかがでしたか、御注文の半ズボン、今日手に入れて、お送り致します。大きさはたっぷりしていると思いますが出来上り品ですから、長さは普通です。この生地一色しか有りませんが洗ってクタクタにならなければ幸せです。やがて、一ヵ月になろうとしていて、今夜は、月影が珍らしいので助けてもらって、久し振りで、夜の庭を暫く眺め、よい心持でした。ひるまはキラキラして、簾ごしにも庭は見られないので。目は字が見られる迄には、よほどの時がかかる様子ですし、大体四十二度以上の熱を患った者は大抵そのままになるのが多い例なので、そう云う病気の本でも神経障碍の実例は余り記述されていないそうですから、いよいよもって、運の強かったことを有難いと思わなければならないわけでしょう。もう少し、体全体が恢復したら、目の方の検査もして、恐らく、乱視の度が進んだでしょうから、それをはっきりさせます。目の宿題は、生理的、及び精神的宿題です。庭には畠が出来ていて、お芋(これはやや可)大根(これは全く未知数)赤蕪(肥って良)などが出来ています。鳩のヒナは三羽居ます。夜のしらしら明けから鳴きます。 
八月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
八月二十七日
この三、四日なかなかきびしい残暑なのでいかがかと思って居りました。暫くお手紙がなかったから。十九日の日付のを出してみて眺めていたら、二十四日付のを持って来てくれました。夜明けは涼しくなったとお気付きになるのは、余り夜良くお眠りにならないからでしょうか。どうぞくれぐれもお大切に。
今年は私にとって、夏が年一杯つづいているような印象です。実に長い。秋らしい様子になって来て、ゆうべ等は月の光が射しているのに、雨が降る音がしたりして虫の音もしますが、庭をひるまカンカン照りつける日光には辟易です。簾を下げてマクマクしています。目は極めてのろのろと幾分ずつ恢復していて、お手紙の字なども、固い苦しい線の入り乱れたものから、昨日今日は字らしい柔かみを持った物となってうつるようになりました。用心して無理に読まないようにしています。字画はまだボヤボヤです。面白いことに、自分の手の先の爪がなかなか見にくくて鏡をやっとこの頃苦しくなく見られるようになりました。
ビタミンのことありがとう。目下私の療法はビタミンの補給と肝臓の機能の補助で、終始一貫していて、ビタミンもBを注射してA・Dを飲んでいます。目の為にもBは大変に有効だそうです。咲枝さんが身重なので、お乳が出るために矢張り同じ注射をして居ります。こちらはすぐ効力発生ですが、スエコさんが疲れて矢張り同じものを注射し始めましたが、こちらは何しろ持病の糖尿でさんざん苦労を重ねて薬に対してもいささか懐疑的なので自分からすぐに効力は認めませんが、はたから見ればいくらかききめが見えています。今も太郎が学校から帰って来て食堂でウェーウェーとやっていて、小チャイ叔母ちゃんは「お土蔵(くら)へ入れて来るから一寸待って」と云いましたが、やがて「面倒くさい」と云って中止しました。どう云うビタミンがこう云う腰抜け小僧にきくでしょうか。
日本評論社の本は承知致しました。本当にこれからはますます主婦が知って置かなければならない知識ですから必ず島田へも送ります。先達て島田からお見舞の手紙とお金とを戴きました。それでも家で養生していられるので、お母さんもいくらか御安心下さっています。
ビタスのことはすぐ取はからいます。
メリメ全集は葉書にも書いたように、第一巻が欠本ですが、第二巻は、ではお送りしましょう。バルザックは家に全集が一冊もなくて、何とかして手に入れたい心持でいた処でした。どんな都合にゆくでしょうか。私も「幻滅」は是非よみたくて居りますが、河出につとめている人にきいて、算段してもらいましょう。スタンダールは「赤と黒」は不許でした。「パルムの僧院」「恋愛論」等、ちりぢりにありますが、選集は家には有りません。サンドのものは割合に訳されているものは集っています。これから先へお送りしましょう。フランスは、あんまり有りません。昔読んで集める気がなかったものだから。「支那イソップ」が家の本棚にあるそうですが、昨今はその本棚もだいぶいろいろなことで掻き廻されているので一層見当が付きませんが、調べてもらって見ましょう。「シンプル」の下巻まで待たない方がよかろうと云う話には同感です。
それからね、栗林さんのお金のことを読んでいた人は「アラッ」と云って頭のてっぺんを押えました。「こりゃあ」と云って目玉をおおいに動かして、まだ送ってなかったと云うことでした。今日送ります。これには何でも言いわけがいるのだそうで、以下の如き次第です。(どっちみち送らなかったのですから、言いわけは止めにします。スエコ)
「マルタ」が出入り禁止とは、オールゼシュコも思いがけなかったでしょう。そちらでお読みになって興味のある小説以外の本を、こちらへ送って戴けたら、だんだん読み手を頼んでよもうと楽しんでいます。スエコも読み手志願をしていますから。けれども、この目の調子では今に一日に数時間ずつ、そのことだけしてくれる人を見付けなければなりません。目は見えなくても、世の内は矢張り面白く急速に進歩しているのですから。
今日は書き手が私の用事でもう出かけなければならないから、これでお止めにしてまたに致しましょう。ね冷えをなさらないように。こちらは大丈夫ですが。
名前だけがはみ出るとのことで一ページもうけました。この頃は気分がよほど普通になって来て、花を見たいと思ったり、音楽をききたいと思ったり致します。それに、いつの間にやら、スエコが育っていて、読んでいた色々の本の話やスエコの音楽論等と云うものを拝聴する時間が相当あって、思いのほか楽しい病臥生活です。スエコもあれではにかみやだものだから、音楽論等と云うものは門外不出ですが、こっそりもらす処をきけば、相当に目がつんでいて下等品ではありません。決して不肖ではないから一安心です。然し創造的な仕事は体力が消耗されるので、それと戦うのがこの頃の食物では一仕事で、しかも私のように死んだことがあると云うのでもないから、つい丈夫な身に扱われて折々閉口しています。 
八月三十日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆コロー筆「樹陰」(一)、柚木久太筆「八甲田の一角」(二)の絵はがき)〕
(一)二十六日附の御本の要件について。一、御注文の本はどれも品切でこれからも心掛けておいて、手に入り次第お送りします。「結核」はお医者様が持って居られるかも知れませんから、お聞きしてみます。フランスのは『昔がたり』が一冊だけありました。先、英訳で読んだ本は十年前に売った本箱に入って居ました。サンドはあるだけお送りしました(六冊)本のないのには実に閉口です。冨山房文庫は殆んど廃刊同様の有様です。手紙は又別に。
(二)本の話の続き、今朝はこういう字を書く方のペンが可愛い花模様の着物で現われたので、早速電話もかけられましたが、どれもなかったのは残念。岩波文庫に新しくジャムの散文詩と、オースティンの『説きふせられて』スタンダールの『ヴァニナ・ヴァニニ』などが出ているようですから買っておきましょう。こちらでお先へ拝見してという風に行けば誠に好都合なのですが、私の目玉の代用品は今のところどちらもミュウズの申子だから、時々創作的情熱という病気にかかって代用品の方を廃業するので、これもやはり至って焦点がきまりません。多分先へお送りする様なことになるのでしょう。隆治さんへの本願います。 
八月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
八月三十日
今は、二十九日の夜です。やっと太郎がねて泰子が母さんとお風呂に入って、あたりは静かになり、虫の声が、耳につくようになりました。二十六日と、二十八日とのお手紙二つ枕の下の蒲団の下に敷きおさめて、機会やあると、スエコの飛び交う袂を眺めていましたが、忙しかったり、へばっていたり、さもなければ何となく柳眉の辺が気遣われたりして、それをとらえたのは、只今です。もっとも寿江子の名誉のためにお断りして置かなければなりませんが、機会をあたえるとなれば、全く自ら進んで、提供してくれるのですから、私は大変安心してよろしいのです。
今日は本当に暑かったこと。九〇度を越しましたろう。今日のように暑いと、あの半ズボンが、またお役に立つわけでしょう。三・四日前は、お送りするのが遅すぎて季節はずれのように、思われましたが。
私は暑いと一層、目がマクマクして、気持がいやになります。けれども、今日ではもう氷嚢なしに過せますから、御安心下さい。矢張り神経障碍の一種で、時々「マシン」のようにポッとふくれて、痒い処が出来て困りますが、これも、追々「レバア」の利目があらわれれば、なおるものだそうです。
何しろ、この十年の間には、あれほど心臓を悪くして、やっとなおしたかと思うと、いつかの夏のように、微熱を出したり、目を悪くしたりして、考えてみれば、夏のたびにいくらかずつ健康が低下して来ていた処に、ガッタリと根本から打撃を受けましたから、何やかやと、妙な故障が続発するわけでしょう。気長な養生は只一つの恢復の道です。注射は「B」のほかに「C」も入っているそうです。その他、神経の栄養のために燐剤を飲んでいます。「レバア」は勿論。
この燐剤は、合っているらしくて、至って抵抗力の無い神経が疲れて、少しいらだって来たような時、スエコに素早く一服盛られて、案外の効果を示します。そう云っても、これは決して、眠り薬では有りませんから、御安心下さい。
二十六日付のお手紙の中で、東洋経済新報の件は、当時予約を受付けず、毎月買って入れていたので、継続の分は有りません。ベリンスキイは来ていませんでした。お金は月曜にお送りします。
目の検査のことは、もっと時がたって、体全体の栄養が恢復して、出来るだけ均衡を取戻してからでないと、目だけ切り離してみにくいものなのだそうです。こう云う目の見えなさは、脳の内膜が脳膜炎と同じような状態になって、目のぐるりの神経・血管その他に故障を起させたからだそうで、実際、先月の今頃、夢中だった時には、真赤に充血して、ふくれて飛び出した目をしていたそうです。あの目じゃ、見えっこない、と云う評判で、家の人達は、この頃、兎も角、私が、私の顔になって来た、と云うことを、珍らしそうに感服している有さまです。
昨日は、一ヵ月目であったので、自然話が出て、知らなかった我が身の上話に幾頁かを付け加えましたが、今の私と、前の私との間に、全く自分の知らなかった何日かがあって、しかもその何日かの間に、夜の目も合わさず私を生かそうと努力しつづけた人々のお蔭で、命が保たれて、今日、自覚した生活へつなぎ続けられていると云うのは、何と不思議な気持がすることでしょう。自分の知らない自分のことが、人から話されることで、初めて自分の生活の物となる、と云うことも何と奇妙でしょう。心理学的に、色々と面白いことがあります。例えば、私が、暑くなると夢中で団扇を使ったと聞いていて、それは団扇を手に持ってはいたのだろうと思っていた処、団扇はとても持つどころか、空手(からて)を団扇を持った形にして、あおいで、時には、ぐるりで皆があおいでいる、その風の動きと合ったリズムで無意識にあおぐ真似をしていたのだそうです。反射神経が、そう云う風に生きつづけ、今のように、精神の作用がある程度まで、戻ると、植物的神経などと云うものが、蒙った損害からいつ迄も恢復出来ないで居ると云うような生理のいきさつは、とても自分でも驚きます。
昨日、みんなでハァハァと笑ったことですが、あなたは愛妻の身の上にそんなとんでもないことが起ると云う虫の知らせをお感じになりましたか?昔小さかった時「虫が泣かすんじゃあ」と泣いた人は、成長して、虫は余り敏感に作用しなくなったかどうかと云うことを話して、大笑いしました。私の方はあんまり急で、云ってみれば、虫を派遣する暇が無かったのですからあしからず。お化けになる支度をするひまさえありませんでした。
二十八日付のお手紙、これは結局、国男さんに読んでもらいましたが、字がいくらか大きかったものだから、何だかよめそうな気がして、おおいに目玉を動かしました。
宛名を力作と評価して下さったことは、うれしいと思います。全く力作で、当分もうあれはくり返せません。午後中、よく目が見えなくなったから。
本に就ては、葉書で申上げました。小野寺十内の和歌は初めて知りました。昔の人は、そう云う場合の感情さえ、こう云う一見淡彩な表現の内に、語ったのですね。あなたのお手紙の内に、歌の出た始めてですから、特別な感じです。今日は、もっと歌の話、その他を、どっさりするつもりで、意気込んで机に肘をつき、耳たぼを引っ張って居りましたが、紙は、何とじき一杯になることでしょう。それに、もうスエコがお風呂に入らなければ、何人かが困ると云う場合に立ち至って、残りは、別便になってしまいました。では一と先ず、これで。 
八月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
八月三十日。
昨日丸っこい小さい小包が着きました。開けてみたらばお話の手拭とタオルで、お見舞有難く戴きました。手拭は見なれた物ですが、タオルはいかにもあちらで出来たらしい気持の良い藍色と、それより細い朱の縞が縁に付いていて珍しい可愛らしいものです。一枚位そちらでも使ってごらんになりましたか?体をふくのに上々ですが、私とすれば何だかそれも惜しくて、机の処にかけて一寸使えそうな気がします。
メリメは全部を読んだことがないので、むしろ駄作を知らないわけですが、トルストイの全集なんかでも遺稿の内には、未完成の小説で、一つのテーマを、ああ書き、こう書きしてみて、結局物にならず終っているようなものがあります。けれどもこの人の場合は、百姓女をだました地主の貴族が、妻に対する良心と、自分の行動に対する責任感との間に苦しんで、一つの習作では自殺をさせ、他の一つでは結末がつかないまま、中絶していると云うような作者の精神の足どりが窺(うかが)えるようなものです。メリメはああ云う作家だったから、そう云う形で未完成さが現れずに、ただのお話になってしまっていると云う違いが、面白く感じられました。「カルメン」はメリメの作の方がオペラより数等上ですが、あの音楽はなかなか面白いわね。覚えていらっしゃるでしょう?貧弱な機械で聴いたけれども。
「娘インディラへ」の著者に触れて、歴史家の内には、原本を持っている人もあるようだと云うことは、読みながらも深く感じたことでした。歴史家の歴史を描き出しようもさまざまですからね。百年たたねば歴史の書けない歴史家もある。また、まず人がどっさり本を書いてくれて、その内で文部省の推選図書になったものをお手本にしなければ書けない人もあり。十四、五の女の子にむかっても、真面目な精神は、真摯(しんし)な物云いをしていることは、読者に感銘深くありました。
この間うちから、スエコと話している事ですが、心の内に次から次へと湧き起る色々の心持や考えを、一旦言葉に出して、それを人の手で字に写してゆくと云うことは、何と困難な、時にはバツの悪い、しかもいつも云いたいことはとことんの処で云い残されていると云う工合の悪いことでしょう。心の声を自分の声として、自分の耳に聞くと云うことは、沈黙の内で、気持と紙と語りかける相手とだけで、差し向いな習慣のついている者には、一つの苦痛に近い感じです。文学の仕事と云うものが、どんなに心情的な過程を持っているか、と云うことを改めて感じます。小説がこう云う方法で書かれようとは一寸思えません。それにつけ、ミルトンだの馬琴だのと云う人の仕事した骨折りが、実に考えられ、特に馬琴が、あの時代の特別に学問もなかったお嫁さんにあのコチコチな漢語を一々教えながら、書き綴って行った努力は日記に書かれている以上だったでしょう。でもあの人達にはまだ書けたと思います。何故なら、ミルトンは、ああ云う観念の世界に自分を封じ込めて、其処に君臨していたし、馬琴は矢張りもっと卑俗な程度の道徳感と、支那的な荒唐性に住んでいたのだから。我々の文章そのものに対する感覚から云って、書いてもらって書く小説と云うのは、いかにも出来にくそうに思えます。スエコは、それでも、私がもしすっかり視力を取り戻さない時の用心に、だんだん馴れてゆけばそう云う物も書けるだろうと健気に申しますが、今もこの手紙のなかで、沈黙の「黙」に八つ点ポチが付いてしまったと云って、さながらペンは恐しい自動力をそなえているようなことを云う始末ですから、私として親切に対する感謝と、実際上の見透しとは、必ずしも一致しないのは無理ではないでしょう。恋文の代筆が喜劇のテーマになることは、これとは一寸違うけれど、何だか思い合わされるような処もあります。
今度は前から持っていたプランに従って、古代から近世迄の女流作家の作品を読もうと思って、万葉や王朝時代の人達の物を幾らかまとめて読んで、色々と面白く感じました。万葉の女性達は和歌の世界へユーモアさえ反映させていて、そう云う生活のあふれた力が雄大さや無邪気さや、強い情愛となってあふれていて、その時代の女性ののんびりと丈高かった心の動きが、気持よく印象されました。斎藤茂吉の『万葉秀歌』上・下が岩波新書から出ていて、それで読みましたが、御らんになる気はないかしら?紫式部と云う人は、矢っ張り立派な小説家だと思います。よく云われる悪文家だという評判はもっともで、ところどころ眠ったまま書いて行ったかと思うほど、抑揚のないダラダラ文章の処がありますけれども、それはたいてい具体的でなく、わざとぼんやり何かを仄めかそうとしている時で、例えばあのみにくい末摘花の哀れな姿を描写している場面や、玉鬘と養父の光君との感情交錯をたどった処、その他どうしてなかなか本物のリアリストでなければ書けない描写がどっさり有って、恐らく徳川時代のどんな作家も及ばなかったことは確です。そしてこの人が清少納言と対比されて大変落着いた内省的な身持の堅い女性として、常識家にも評価されているけれど、それは式部が有難やの云うような哲学者だったからではなくて、道長の最隆盛の時代に生れあわせて、その時代の現実にじかにふれ得る程度に家柄も良くて、なお自身大変年上の面白くもない夫を持ち、娘一人を残して死なれ、寡婦の生活を送っていた後、中宮につかえて、其処の気風は万事万端、道長の盛な翼のかげに持たれているような、いわば無気力なふんいきであったから、式部のリアリストとしての感情は、常に或るもの足りなさやぼんやりとした不安や、を感じていたのでしょう。そう云う境遇を知っている女でなければ書けない人物もあって、当時の女の立場と云うものを、哀れなものとして、客観する力もまたその限界の内で、そつなく身を処して行くべき心得と云うようなものをも兼ねそなえていたようです。はっきり中流の女性は自分の力で身の将来をも開いて行こうとする意識があるから、余り上流で、外から尊く飾りたてられている女性や全く無教養な下層の人にない面白さがあると云っている処も女の実際にふれていて面白く思えました。もっともこの人の中流と云うのは、大伴家持がそうであったように国守程度を指しているらしいけれども。清少とこの人との面白さの対比は、つき進んで見てゆくと、これまで面白がられていた以上に面白いらしく考えられます。この時代のずっと末になると藤原氏の力も衰え、女流文学もしたがって衰えて、たまに書いている人は、作品も貧弱だし、書くと云うことに対しての意識が変に外見的なものになって気に食いません。それに就ては、またこの次。
ついこんなに長くなってしまって、私はもうヘトヘトです。これだけ書く間に、一くぎり言っては「ね」とつける、その「ね」の数は幾百ぞ、です。スエコも疲れてきて、頭が痒くなりました。ではこれで一息ね。さようなら。
「紙って書けないもんだな」とスエコも歎声を発しています。 
八月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆吉田博筆「剣山」の絵はがき)〕
三十一日
本郷の方へ出掛ける人に頼んで思いがけず『結核』がみつけられました。早速お送りします。他にフランス『襯衣』同じく『遊歩場の楡樹』スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』とを、みつかりましたからメリメの第二巻と一緒にお送りします。これらは皆お下りを読んでもらうのが楽しみなものたちですからおすみになったらどうぞ。下すったタオルはおばあさんのくれた台の上にかけて床のわきに置いて眺めています。中々きれいで且シャレています。タオルとはみえません。上でこの葉書を書き、ひどい風が外で吹き荒れて私は気分が悪くソボリンをのんで、はいが一匹その箱にとまっています。 
九月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
九月六日夜
本当にね、仰云る通り二枚以内に致しましょう。この間、自分でもいくらか考え付いたことでした。それに面白いことは、この四、五日、全体として進歩しながら、またこれ迄にない疲れが出ていて、体中の筋肉がしこって、腕など髪をとかすさえ痛い程なので、お医者の紹介でマッサージを頼んだところ、その女の人の云うには、体中びっくりする程凝っているそうです。七回ほどでだいぶ良くなるだろうとのことです。夢中の間に筋肉が緊張していたのだそうで、それが今になって疲れとして感じられて来たのだそうです。つまりやっと其処迄病的な条件が収まって来たことの証拠だそうです。これにつけても頭の内のことが怖くなってね。自分の知らない疲れが結局は一番決定的な意味を持っているのだとしみじみ感じました。そして又この頃は落着いて来た結果、自覚される疲れと云うようなものも実際に有って、今月一杯はうんとぼんやりして暮そうときめていた処でした。
色々細いこと迄気づかって戴いて、本当にありがとう。だから、二枚以内はお躾けとしてではなく有難く合点いたします。この間うち、しきりに長く話したかったには、色々の気持の理由が有って、考えてみればいくら長く長く話したって矢張り話し切れない心持から云っていた処もあり、一方には自分の頭がどの位正常であるか自分にたしかめたい処もあったと思います。病院のことは、今の私には家での方がずっと良いらしい様子です。食餌のことも病人の特配を受けているし、卵・バタ・果物類は色々な人が心配してくれて、何とか今迄続いて来て居りますから御安心下さい。目の方も九月末にはちゃんと調べます。それ迄は体の基本的な条件を整えるためにかかるでしょう。タオルのことは大笑いだけれども、私にしてみれば、やっぱり机の上にかけて眺めるだけの値うちが、新しい意味として籠っているわけでしょう?今見れば全くきれいよ。この頃ちょいちょい療してと云うことに就て考えます。これはどんなにかあなたもお感じになったことでしょう。何年か前の夏などには。夜露は、夜草葉に落ちて、いつかそれを甦えらせます。そう云うもの。療してはそう云うものね。 
九月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書速達)〕
眼についての速達どうも有難う御座いました。あの先生のことはちっ共思い出していませんでした。大変いい御注意でしたから、早速主治医先生と相談して二人の都合のつく時に落合って頂いて相談しようと思います。今日迄待っていたのは、乱視の度を調べるような単純なことでも、眼の検査には強い光線を眼にあてなくてはならず、それだけの刺激がよくないというわけでした。だからもっと体がしっかりして、神経も安定してからでないと眼の検査の為の作業が脳を刺激して大局的には反ってマイナスになってしまうからということでした。もうそろそろいいのかも知れないけれども、昨今又違った形で神経疲労が出ていて、三四日前に夜一寸芸当を演じたりしましたから、若しかしたらもう少し鎮静してからの方がいいかも知れませんが、今日の内に両方へ電話をかけてみて、相談だけはともかくも至急してもらうことに致しましょう。でもね、この頃は大層成績が上って、上目を使っても目が廻らないし横目も出来るしすごいものです。ひと頃のように枕の上から自然にみえる範囲の伏目勝ちでどっちへも目玉が廻せないという様な有様から比べれば、たしかに人間並になりました。
『ピョートル大帝』の下巻は、もらわなかったから古本で探しましょう。眼の本はどうも有難う。誰が読んでくれるかしら?この字を書く人が二日置きずつにちゃんと来てくれることになったから、私は本当に気が楽になりました。眼のこともいずれ読んでもらいます。家の連中は私がもう死なないことがはっきりしたら、大分タガをゆるめているのよ。おかしいこと。 
九月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十四日
今日の様な風を昔の人は野分の風と呼んだのは実感からですね。木の葉の音やその中にまじる昼の虫の音を聞いていると、野分としか思えない風情です。昔の人はそこで短冊を出しかけたのだけれど、家では中耳炎になった泰子の泣声がひびいて、看病にヘバリ果てた身重のあーちゃんが次の間で横になっている次第です。人手が極端にないから、こういう突発のことは総動員になってしまいます。泰子は大して悪いのではないから御安心下さい。私だけが家中で泰子を抱かないただ一人の人間です。眼のことは来る十七日の夜、二人のお医者様が落ち合って、先ず乱視の度を調べたり、他の障害があるかどうかを調べたりして下さる予定になって居ります。私は大分用心して、本を読んでもらうことも手紙を口述することも止めて、一週間程過し熟睡するようになりました。マッサージもきいているようです。残暑の長さと凌ぎ難さがしみじみですが、お障りないでしょうか。私がおしゃべりをするとお思いになって、そちらも手紙を下さらないのかしら。歩けるのは(外出)余程先のことだから、どうぞお手紙下さい。薬は色々のがいるものです。友子さんから手紙で九月中には隆治さんが帰る由です。無事に島田の家の土間に立つ姿を考えると涙が浮ぶようですね。お母さんのお喜びどんなでしょう。会いに行けませんから残念です。あの人の胸の中にたたまれている感想の数々についても推察致します。 
九月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十六日
土曜、日曜がはさまったので十一日附のお手紙昨日午後頂きました。昨日の雨は季節の境目のようで、今日は本当に秋らしい日になりましたが、私はいかにも気がきでない一日を送りました。だって私の紺がすりは戸棚に入っているけれど、あなたのお召しになるのがどこにも見付からないという訳で、しかもそちらにあるのかどうかもわからず、ともかく袷羽織とメリヤスの合ズボン下と、銘仙紺がすりを小包にしてどうやら夕飯を食べました。何しろ冬のジャケツを八月の下旬に私とこの字を書く人とで、やっとクリーニングに出した始末ですから。ポカンとしている時間が体にどんなに大切かということは、この頃身に沁みて感じて居り、そちらでお着になるものを順序よく手入すること位が楽しみの程度に周囲が整理されていたらどんなに心持がいいでしょう。眼の検査がすんで風呂にも入れ、もう少し歩けたら、万難を排して国府津へ行き、この冬を過したいと一日千秋の思いです。寿江子が勉強を始めたらピアノの音とレコードとオルガンとで、ああちゃんのキィーキィ声がかき消される始末で、私はその音で動悸が早くなる程厭です。私がかんしゃくを起すから温和なこの人まで神経をたてて、みているとこんなに字をまちがえているでしょう!ですから万端お察し下さい。あなたが乾いた単調さとお戦いになる程度にここでは音やごちゃごちゃとの組打がひどくて、ここの生活に一寸もなれない内、いきなりこちらはヘバってうずまきに巻き込まれたから大閉口の有様です(愚痴をこぼしてごめんなさい、こういう愚痴もたまにはこぼしたいものよ)世界史瞥見の続きというのは、「娘への手紙」の続きでしょうか。それならばおあきになった時、こちらへ送って頂きたいと思います。前編はやはりお友達からのものでしょうか。やはりお返ししなければならないものでしょうか。若しそうならば続編を読んでもらってから『元禄快挙録』と他の小説と一緒にお返し致しますが。青年書房版の『世界外交史』ヴェー・ペー・ポチョームキン監修第一巻を買いました。第二巻はまだ出ませんが、第一巻は一九四一年版で十六世紀から「ジャコペン党外交の組織」までです。若し興味がおありになるようならすぐ送ります。私の方も読むのに我が眼が役にたたない為、まるで氷砂糖でも歯なしがしゃぶるように大したものでもないオースティンの小説が、シンプル君以後の読み物で、然も前途遼遠という始末ですから。三枚になったがお許し下さい。 
九月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
九月十八日
十六日附のお手紙、十七日頂きました。六日に書きとってもらった手紙が九日に投函されていたということは、如何にもここの家での私の生活の特徴と不如意の形をまざまざと示していて、中々感じが深いことでした。私は知らないのですから。ハンドバッグにでも入って三日がたったのね。マッサージはこの間の手紙で申し上げたように、私が夢中の間に体中の筋肉が痙攣のように緊張してひどい力が入って、すっかりしこりになっているのをそろそろなでてほごして、そちらの方からも神経の鎮静をしようというので色々研究して刺激が強くないように考えてやって居りますから御安心下さい。十七日の夜予定通り二人のお医者様が落合って、眼の検査をして下さいました。ビタミンBの欠乏による軸性視神経炎というもので、眼底に致命的な故障はありませんそうです。これは本当に嬉しいことです。盲目になり切ることはないというわけですから。今みえないのは、まだ眼底に充血が残っていて、細胞の間に漿液のようなものがしみ出しているのだそうで、それを吸収させるために新しくヨードカリを主にした薬を段々量を増しながら飲んでみることになりました。Bの注射は元通りです。少しよくなるまでにも数ヵ月はかかる見込みだそうです。
一昨日お医者が来て、今の私の神経の疲れ工合、恢復の調子からみて少くとも一年は静養しなければならないと始めてはっきり言われました。いきなりそういうと私が失望すると思っていらしたのでしょうね。たびたび会って私が長いのを自分でも充分わかってきていることが知れて、始めて口に出されたのでしょう。眼も全体がよくなればよいとわかれば悠々たるものです。大事な手紙が三日宙に迷ってもそれは我慢も致しましょう。何しろこの不随状態の人々の中で生活していれば。シャボン昨日お送りしました。『微生物を追う人々』と『支那イソップ物語』二三日内にお送り致します。イソップはどうもみつからないらしいのです。今も探してもらいましたけれど、二階に上れないものだから。それに引越をしてゴタついたままのところを更にゴタついたもので。
島田へ送った『栄養読本』のことは、今葉書で聞き合せました。十二日にはきっと着いていたと思いますが、いつぞやのお手紙にあった通り病気にならない人達は、「ハハアこんな本が来たわい、友子さん読んでおおき」「ハイ」という位のことで、それがどんな大きい意味を含んでいるかなどということは、あまり頓着しないのでしょう。人間の健全さと愚さとが、こういう場合にも私たちの生活にない合されていて、面白いものです。私だって丈夫ならやっぱりその口ですから。
小説の技術のことは、大変興味ある問題で、芥川龍之介はスタイルが文学を古典として残すか否かに決定的な力を持っていると言ったとか言って、野上彌生子さんは専らスタイルの完成を心がけられるようです。このことはもっとどっさりのおしゃべりを誘い出しますが、三枚以上続けるなんていうことは、あんまりこわいから。これでおやめ、改めてまた。 
九月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆田辺至筆「秋の戦場ヶ原」(一)と有島生馬筆「霧嶋連山遠望」(二)の絵はがき)〕
(一)二十日。ヨード・カリという薬は大変にまずい薬ですね。これが眼底の充血をとるならばと正直に三度三度しぶい顔をして飲んで居ります。ところでオリザビトンが製造禁止で春以来苦心して買っていたのが駄目になります。代りとして近藤薬局に相談したところ、「ユガマン」三〇〇錠十一円がB1とCとを含んでいて、オリザビトンと殆んど同じものだということです。もう一ビンはお送り出来ますが、その次がもうないからお考えおき下さい。強力メタボリン(B1)三〇〇錠七円とアスコルチン(C)三〇〇錠七円という組合せもありますが。だんだん高い薬しかなくなって閉口ね。昨日今日は大変よく眠って、恢復の感じが少しずつわかってきたようです。
今日は変にむすから風邪をお引きにならないように。
(二)前の葉書を書いて暫くしたら注射の為に水上先生が見えて、薬のことを御相談しましたら、強力メタボリンの錠剤と日本橋の日本ロッシュ会社発売のレドクソン(C)とを併用すれば一番よかろうとのことでした。オリザビトンなどは、このレドクソンを買って、それから又錠剤に作ったものだそうです。大変小ビンしかない様ですが、明日調べてみましょう。結局この二つを併用するのがよさそうですね。今日は薬屋がどこも休みだそうですから。いい代りが見付かって若しこのレドクソンがやたらに高くなければ実に好都合ですね。私の注射しているCはこのレドクソンだそうです。二十日。 
九月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
二十三日。
二十一日附のお手紙、二十二日頂きました。一枚の葉書が一週間もあったまっていたとは、少々けた外れのことで閉口しました。皆さんがあっため好きなのではなくて、一人の御婦人があっため好きなので、然もその人が私の目の代用でしたから、そんなことも起ったわけでした。この頃ちゃんと着いているのはお互い様に助かります。手紙が自分で読めると、何かの時に繰り返し繰り返しみるから、書かれていることも心に残るのですが、何かの折忙しくさっと一度だけ及び腰で読まれてそれきりだと、特にこの間内は物覚えが悪かったから、度々同じことを繰り返す始末でした。手紙を読んでもらう人もよく考えて、ねっちり読む人に頼むことにします。それでもこの頃は波の間にチラチラ岩の姿を見るように一通のお手紙のところどころ拾って自分で読み返すことも少し出来るようになりましたが、それはほんの数行のことで、しかもそういう時は勝手なもので、大変贅沢な好みがあって、用事のところなどは貴重な真珠貝のように拾い上げないのだから、あなたにはすみませんわけです。泰子の耳はいいあんばいに軽くてもう治りました。咲枝さんがもう今にも生れるばかりでお腹を重がっています。寿江子は体の調子が大変によくありません。そして国男さんは神経衰弱だというのだから、私のめくら腰ぬけから始まって、満足なものは太郎一人の有様ですから、不随の家族と言ったのは本当でしょう。国男さんは時代的な理由もあって、中々難局に面していて経済的にも底をついている状態です。事務所がその人の実力にふさわしくない負担になっていて、何(いず)れいつかゆっくりお話し致しましょうが、子供の様な大人の人達が困却している様子は気の毒でもあります。国府津行きのことはああちゃんのお産が十月下旬ですから、その頃は出掛けたいと思いますが。あなたもやっぱり私のように寝台自動車が動くものと思っていらしたのね。東京市内でもやっとで、あちらへなどは燃料がないから恐らく金をいくら出しても行かないだろうということです。そちらから林町までで二十七円だったとかです。あちらへ一緒に行く人のことも頭痛の種で、あすこだって私には目代りになってくれる人がいるのですものね。ただ御飯をたけばそれでいいという人では間に合いません。今日まで寝ている内にまた看護婦と派出婦というものをみると、こういう仕事をする人の質が半年の内にどんなに落ちたかということが驚かれます。余程足りなくて掃除がちゃんと出来ない人が、一日二円で仕事をひどく怠けるというのだから恐縮千万です。行く人のことは目下研究中です。東京へ毎日通うにはこの頃の汽車のひどさがあまり丈夫でない女の人などには無理でしょうし。空想に近い希望は、多賀ちゃんがあっちで信用のある医者に診てもらい、菌が出ないと判明したら気胸でもやって、やがて国府津に半年位も暮せたらということです。多賀ちゃんならそちらの用も極く自然にたす気持ですし、目白の経験でお互いの気持も相当わかってきていると思いますから。でもこれは又これで多賀ちゃんの婚期ということもあり、もう来年は二十七ですし、単純にも行きますまい。多賀ちゃんの心持も色々と思いやられます。
もう二通分になったからこわいこわい。
『外交史』と『微生物を追う人々』をお送り致しますが『支那イソップ』は家にないこと確実になりました。あちこち本屋を探したが、今はなく何(いず)れみ当り次第買います。本郷に一軒この文庫を持っている本屋があって、然も邪魔物扱いにしているらしくて、廃刊のようになるわけもわかるようです。友達に返す本のことわかりました。薬の葉書は着いたでしょうか。あれらを何粒ずつ飲めばよいかということは、先生からよく聞いてお知らせ致します。私は決して本も読んでもらいすぎていません。オースティンの女主人公アンさんは、日曜日に旧友のスミス夫人に会っておしゃべりをしている途中で、水曜日の今夜まで立往生なのよ。決して読み過ぎでないことはおわかりでしょう。ではお大切に。 
九月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆島崎鶏二筆「牧草」(一)と野間仁根筆「越後毛渡沢溪流」(二)の絵はがき)〕
(一)二十三日
この絵をみると悪く親父の今日の気取り方に似た息子という歯がゆい気が致しますね。以前何時か能楽趣味の女が野原に佇む絵を描いて以来、あったら才能がカンバスの上を無駄に流れています。紫の花も白い花もちっ共愛されていませんね。秋声の息子の一穂も親父程の骨組みと角とがなくて、もまれてふにゃふにゃになっているし、芸術家の二代目は恐ろしや、ね。
(二)二十三日
これはこの画家の傑作の一つでしょうね。細部は見えないけれど、何だか気に入って喜こんで眺めます。奥まで本気に描き込んでいて気持がいいこと。この頃これだけ根をつめた絵をみなかったものだから。私には手前の方の子供や花がよく見えないのよ。お金持の友達があって、私がこれだけ気に入っているのを明日あたりふっと買って、かけて眺めるように送ってくれたらさぞ嬉しいでしょうね。ディッケンズの小説は、このさぞいいでしょうというところから出発した空想ね。 
九月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
九月二十五日
タオル寝巻をやっと出来上らしてもらって、さあ、これで嬉しいと床の上へひろげてたたもうとしたらどうでしょう、私が折角下前へくるようにと思って切った筈のつぎ足しが上前へ出てしまっています。あなたもこんなに風流なタオル寝巻は今迄一度だって召したことがないでしょうと思って我ながら唖然たりです。この手紙を書いてくれる人が私の床の横にちょこなんと坐って、昨日も長い間かかって天下無双の大つぎをあててくれ、私はその側にみえない眼に力を入れて「どう?何とかなる?ありがとうね」とやっていて残りは今日にまわりましたが、忙しいところを来てくれるのだからせめて下拵えだけでも少し自分でやっておこうと大いに腕を振ったつもりのところ、どう感違いしたものか出来上ってみたらば御覧の通りの始末です。このつぎを御覧になったら、今日の世間にタオル寝巻どころかタオルそのものさえどんなにないかということがまざまざおわかりになりましょう。一枚お母さんの為に買ったのがあって余程それをお送りしようかと思いましたが、でもそれは五寸も短かいのよ、何時かやっぱりこの位短かいセルをお送りした時、気持悪がっていらしたからつぎつぎでも脛のかくれる方がいいでしょうと思って。上前のはぎのこと右の次第故どうぞ可愛がってやって頂戴。眼の御注意いろいろ有難う。遮光のことは自然に敏感で、色眼鏡こそ使っていませんが少しまぶしければ昼寝の時も眼の上に折りたたんだガーゼをのせているし、始めの間は、一日の内わずか数分だけそれをどけるという有様でした。乱視、近視の度のついたものはないのでかけずにいましたが国男さんの話ではレンズだけあって眼鏡の上にとりつけるのがあるそうですからそれならば、今でも例えばこういう白い紙をみてまくまくする時、使えるわけです。最近に買います。今私の使っているのはビタミンB1とCの注射とお手紙で理研ビタスをはじめ、ADと合せ飲んでいます、眼底に充血があったり、こんなにまだ体が疲れて背中が亀甲形にひびが入ったような気分がするようでは十月一杯程注射がいりましょう。医者も悪い影響がひどく残っていることに驚いています。こんなにすらりと恢復しつつあるのに然もこの程度であるという意味なのよ。丸く堂々と雄大になった方がいいというところは、はっきりと読めたから不思議ね、国男さんに読んでもらって、それから又床の上に坐って、しげしげと読んだら、誠に心持よく合点がいきました。この頃は肩のあたりも幾分丸味がついてきて有望ですがまだ弾力があるというところまでは残念ながら遠うございます。腕や首すじの変に張ったところも追々治ってきました。パンパンにならないでもパッチリすれば結構でしょう?口の方はあくびをかみ殺した時のような感じで面白い経験ですが少し改まると大分ぎごちなさがひどくなって(在留二十五年の日本語の上手なドイツ人の日本語)とお医者がうまく形容したような工合になります、発音しにくくなるのを、はっきり言おうとして耳にそう聞えるのでしょうし、こちらの疲れ方はひどいものです、ですからお客は生理的に御免をこうむりたく、今度ばかりはお客好きの私も願い下げです。御心配下さることもいらない程です。あなたのお薬のことは(日本ロッシュ)の方は月曜に調べてお知らせ致します。国府津は一応注射が一区切になって少くとも私の足が駅の段々をのそのそでも動けるようにでもならなければ、ガソリンなしの此頃行かれますまい。一緒に行ってくれる人のことは、私があんまり途方に暮れているものだから、この字の人が気の毒がって母さんと来てくれてもよさそうな話しが始まっていて、それなら私は実に助かるし気持も楽だし、仕合せですが然し、ここの人は性癖が強いから軽率にして折角の友達を不快にさせるのも切ないし、色々考えて相談中ですが、おそらくそういうことになりましょう。経済上の問題も、どうやら私達は私達で、自主的に一年位はやって行ける工夫をつけましたから重荷の一つは片附けたわけです、もう後は一日も早く丈夫になってゆくことで、私はどんなにその為に一生懸命な気持か申すまでもありません、そしてその為には色々気紛れなことで外から私の安静が乱される条件から離れたい気持が痛切です。頼りにされるのもいいけれどビタミンの様にA・B・Cの人がA・B・Cの訴えを持って来てくれるのは今の私の頭には少し荷がすぎる時もありますから。(これは内証よ)
島田の方はいつもちゃんと上島田と書いていますし、野原の方は西野原と書かずただ野原と書いていましたが、こちらの方はずっと着いていたようです、碌に書いたとも思わないのに、もうこんなになったから大急ぎで退却致しましょう。新聞が朝日その他月曜は二頁きりだったのが今度からは毎月二十五日定休日が出来るそうです。今夜はむし暑くなりましたから風邪お大事に。 
 

 

十月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十月一日
二十九日附のお手紙が今朝着いて、明日まで返事が書けないなといささか悲観していたらば、ペンさんが私の薬の処方を忘れたのを取りに寄ってくれて、思いがけなく直ぐ書けることになりました。この紫紺色の小さい上衣をきた若い人は薬の証明書を「ある?」と言って食堂へ入ってきました。私は起きてお昼を食べようとしていたところで、寿江子は私の向い側にとぐろをまいて居り、太郎は庭へゴザを敷き板を並べ、ままごとをして、一人で其処で御飯を食べていました。ああちゃんはお産の先生行き。そういうところへ入ってきたのですが、こんな可笑しい言い間違いに今日の市民生活の全面が実にまざまざとうつっていてどんなに色んな証明書がいるかということが現れています。十年前に『クロコディール』鰐という漫画雑誌が出ているところがあって、何でもかんでも証明書、証明書というのをからかった絵がどっさり出ていたものでした。
そちらのお薬のこと。お送りすれば受取れるような手順がつきましたろうか?「強力メタボリン」は一日に凡そ八粒、それで四ミリになり、必要量だそうです。それから「レドクソン」は六粒で三ミリでいいそうです。「レドクソン」は二百五十粒が二十五円で凡そ四十日持つでしょう。受取れるようにおなりになったらお送りしたいと思いますから教えて下さいまし、勿論錠剤です。
用事のことがユーモア調だったということはわかっているのよ。あなたの方はその調子でやっていて下さるから助かるけれども、毎日の中では私がその調子を保つことがむずかしくて中々の修養がいるという次第です。多賀ちゃんのことは、割合都合よく運ぶようですからもう少し様子をみて、それから先のことを相談しようと思って居ります。母子で一緒に行ってやろうかと言ってくれる人も人としてはこの上ないのですが、周囲の事情があって無理が通らないので断念する方が双方の為らしくなってきました。そうすれば半年後でも多賀ちゃんに来られた方が助かりますが、まだ今の状態では多賀ちゃんに国府津のことは話してありません。どうぞそのおつもりで。
栄養剤は私も「ビタス」と「レバー」をのんでいます。昨日バイエルのAというのを(油状)もらってそれを牛乳に浮かして一日に十滴のみます。眼の為に先生が下さいました。注射は十月一杯続ける予定です。今日は十月一日でどっさり若い人達が入営しました。従兄達で学校を出て五日目に入営したものが三人います。隆治さんは本当にいくらか遅れるかも知れませんね。然し正月はこちらでさせてやりたいものです。私が外を歩けるのは来年の秋頃でしょうが、その頃までにどんなに世間は変っているでしょう?去年の十二月から今日までに三段位に変ったそうですから。二年こもって暮すと仙人めいてしまいますね。でもね、世界を理解するという力は、あながちそれで苔が生えてもしまわないからいいけれど。では今日はこれでおしまい。マッサージの人が来ましたから。 
十月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆藤島武二筆「ベラデスタの池」(一)と「ベルサイユ」(二)の絵はがき)〕
(一)あーちゃんが二階上下することは、もう九ヵ月の体によくないので私が上に移りました。殆んど十一ヵ月振りでみる二階は、荒廃のあと著し、という工合です。ペンさんに手伝ってもらって、居る方の部屋だけどうやらまとめて臨時の机でこの葉書を書きます。家のように満足な体の人が居ないところは、めいめいが自分の体にかまけて、つまり一番普遍的に気のつく人間が病人になっていられないような可笑しい按ばいです。それと戦ってせいぜい安静を心掛けて居りますから。この絵に色が見えたらどんなにいいでしょう。光と音楽とが感じられますね。ドーデーの小説の中にこういう甘美というような描写がありました。小さい作品だそうだけれども、どこへ出しても大丈夫という格のものだそうです。今日寿江子さんが行って小夜着の話、わかりましたかしら?夜は綿の入ったものがなつかしいわね。
(二)この秋はこの老大家の絵が中々見物であったそうです。眼がみえなくなって手もきかなくなったこの画家が新進大家のお弟子達にかこまれて自分の仕事の並べられた室を歩いたそうです。絵画きが眼がみえないでは私と比べものにはなりませんね。光線よけの暗緑色のレンズが出来ました。それをこの眼鏡の上に取りつけるのです。バネが工合よく伸びて小さな爪がふちにかかります。曇天世界になります。あまり愉快でないので今も幾分チカツきながらつけていません。(叱られるかしらん?)この絵の左手が有名な大噴水と美しい森です。右手は石段の下がオレンジ園です。 
十月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十月五日、夜。
これをペンさんが居る内に書いてもらおうと思って、やっこらやっこら二階へ来たらば、きれいにした四角い台の上に思いもかけず菊の花が朝鮮壺に活かっていて、「まあ、きれいだ」と嬉しい声をあげました。寿江子がそちらの帰りに買ってきてくれていたのでした。この菊の花の下には、小さい徳利形の水差し(硯に水を入れるもの。水滴だわね)と一匹のひどく間抜けな顔をした水色の縞の熊が辷りそうに足をひろげています。このシャツの余り布で作られたような縞の熊は鼠が太ったような丸い耳ととんきょうな顔をしていて、私は縞の布で作った動物は好きでないからと寿江子さんが安心して袋から出したところを間抜面の故にすっかりひいきにして御愛物にしてしまいました。
オリザビトンがこれから二ヵ月もあるというのは心強い話で、その内又ペンさんに三共あたりへ行ってみつけてもらってみましょう。あとから言った薬もみな内国製ですから、そう急になくなるということはないでしょうが、オリザビトンがなくなるとすればあやしいものですね。ただ後のはBとCと独立ですから、相当続くだろうと思いますが。調べておきましょう。多賀ちゃんのことは、また勤めたということは知りませんでした。この間は家にいて退屈だという手紙をもらい、こちらからは広島の逓信病院長を紹介してもらい、調べる要点も言ってやっておそらく勤めるのと行き違いについたのではないでしょうか。辞めるのにあんなに骨を折って口論までして辞したというのに、私にはおしい気が致します。気分の動揺していることも察しられます。そういう気分だとあの単調な国府津で、単調な私との生活を穏やかな気分でして行かれるとは思えませんね。多賀ちゃんが目白にいた時代は私の大忙しの時代で、ああいう活気はこの半盲さんには望めませんから。近い内に様子を聞いてやりましょう。夜がうっすらと寒くなって、去年十七日に皆んなが菊の花を胸につけて遊んだ晩を思い起します。今年はどんなことをしましょう。寿江子は今日、お話ししたようにどこかへ行きます。私が脇でだんだん回復してくると寿江子の様な長年の持病持ちは神経を変に刺激されて反感を感じるのだそうです。自分の体の悪さばかり痛切に感じるのだそうです。疲れたことも疲れたのだし、私のとこの横に終日ついてその気分であれこれ刺激を受けるのも切ないしするから、ひと苦面をしてともかく暫らく気分を変えさせます。私のこの人の年の生活なんかを考えると、他人の世話をやかせて自分の気分を始末するということも変に思われますが、体が弱いという事実と、そこから生じている自分の習慣は一朝になおらないものでしょう。勝気な女の子が病気をすると、多賀ちゃんにしろ、自分の気持を支配して行くことが反って一苦労らしくみえますね。十七日には、私は大変珍らしいものをお目にかけようと思って、盛んにこっそりもくろんでおります。一寸想像がお出来にならないでしょう。勿論この節ですから、食べるものでも着るものでもありませんけれども。あと何行?もう三行よ。さあ何を書きましょう!今は白い紙の反射がまぶしいから、例の色レンズをかけて物々しい姿です。今日は二階がきれいになって、大分気持が楽になりました。 
十月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十月九日
もう素足がつめたいので、びっくりしてそちらにあげる小掻巻の肩当をつけたり衿をかけたり。御存じの通りこの頃は元のようなビロードがなくなっていますから、顎にふっくりとあたる着心地の為にはやりくり算段例の如し。ペンさんが手伝ってくれていたので六日附のお手紙は七日についているけれども、定例で一日置きの今日来てくれるまで、私は目なし鳥でした。
ユガマンは三〇〇錠で十一円、当分切れることはなさそうです。一日何錠かは聞き忘れましたが、凡そ八錠位でしょうがちゃんと聞いてこの次お知らせ致しましょう。ADはそちらで買っていらっしゃるのでしょう?
タオル寝巻が別にもう一枚あったというのは安心の様ながっかりの様な工合です。何故なら、あれは天にも地にもかけがえなしと思って、私の蒲団の上に伸ばしたりちぢめたり、ミシンでガチャガチャ半日やったり、おまけに私が上前と下前を取り違えたり、苦心と滑稽の交ざった誠に暖い生き物なので、それが領置でほとぼりがさめるのかと思うとがっかりの次第ですが、世間並の女房の言い草を真似れば満足なのが別にあったのは結構でした、と言うところでしょう。『微生物を追う人々』はまだ読んでもらいませんが、そのことは寿江子も言っていました、ああいう学者がコッホになって始めて学者らしい顔付になって、先駆者達はなかなか冒険者風の相貌をもっているというようなことも言っていました、先駆者達は世間学にも相当長けていたらしい風ですね、『娘への手紙』は上巻でも、おっしゃっている通りで、それは著者に資料がなかったというのとは違った原因で、あんなにポツンと切れたような章をなしてしまったのでしょうと思っていました。下巻も、恐らく理由は同じではないでしょうか。
『世界大戦』は二三日内ついでの時みてもらいます。
藤山のおばあさんは玉子と牛蒡(ごぼう)、ジャガイモ等をもってきてくれました、重いものをこの頃の込む汽車で大変でしたから、咲枝が半衿をお礼に送ると言って居ります、もう買ってあるけれど、例によって、サイドボードの上にのっかって居ます、咲枝の体も私の病気が却って幸せなきっかけとなってBの注射や心臓、腎臓の為に注射をしたりした為に、大変によくなって全身のむくみも取れ、やっとこれで普通のお産が出来そうというところまでこぎつけました。聖路加で始めいい加減なみかたをされていて、私がどうも気にくわないので水上先生に話している内に国男さんも厭がっていることがわかり、小鷹さんという曙町のお医者に紹介され、お互いに二人の医者が話し合えもするので大変いい結果になりました、家中安堵の胸をなで下しました、これで私の心配の一つは解決。この上は一日も早く寿江子が出発して、野でも山でも歩き廻っていくらか体をよくしてくれることが望ましいだけです。そして最後にはこの月中に何とか私の眼も少し改善してゆけばよいと思います。本が読めないので、片附けものでもするしかないところが、体が十分動かせないから今は苦しい時期で、三四日眠れない様な日もありました。全体とすれば勿論よくなっていて、眼もそれに従っているのでしょうが何しろ、のろいのでね、亀よりのろいわ。こちらも「急に」というのは大嫌いよ。この次若し「急に」があれば「急に」よくなるなんてことはあり得ないから「急に」死ぬというのがおちで、そんなのは如何に私が楽天的でもあんまりでしょう?ですから大事にはして居ります、ただこれまでのテンポで現在がよくなってゆかないというだけです。
岩本の娘さんが奥さんになったとは、まあ、あの人は去年女学校を出たばかりよ、東京で買物のむずかしさで吃驚(びっくり)しているでしょう、お父さんお母さんの職業から人に物をもらいつけていて、シャツなど買ったことがないそうですから人間並の職業についている御良人なら結構です。もう五枚目だからやめないと叱られるわねえ、ペンさん、と言うわけです。夜着は月曜頃どうやら運べそうです。 
十月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆小磯良平筆「バタビヤにて(人物)」(一)、宮本三郎筆「印度の女」(二)、脇田和筆「幼児」(三)の絵はがき)〕
十月九日(一)
器用な絵だことね。こういう絵をみると環境や歴史性がわからなくて不思議のようですね。描かれている女の人達は、でも皆んな真面目な自分の顔をしていて、それが取り柄です。この画家のジャワの土人の踊りをスケッチしたものは、リズムがあって面白いものだそうですが、生憎そちらは売っていません。ペンさんがこういうものを心掛けてくれるので、私は随分楽しむし、そちらへもお送り出来ます。ペンさん同情して曰く、「代筆の手紙なんて気の毒だ、きっと読んでいるような、いないような気がするだろう」こういうことを言える人なんだからすみに置けません。
十月九日(二)
この前の灰色の角封筒がそちらに無事つきましたか?この頃封筒の大きさが統制されて、十月一日から葉書の大きさがなければいけなかったのだそうです。汽車は石炭を運ぶために客車が減ります。お米は大分増収だそうで玄米食が再考究されています。今日は時雨(しぐ)れた天気で今もうそろそろ雨戸を閉める刻限ですが、五位鷺の鳴きながら飛んでゆく声が聞えます。そちらでも聞えたわね。ジャムの「夜の歌」という散文詩が面白く、カロッサの「詩集」では一つ二つ、大戦後の作品でいいのがありました。御覧になるでしょうか。
十月九日(三)
この頃は理屈ぽく物を考える根気がまだないのと、字が書けないのでかかない文句を長く心に書いたり消したりしているのとで、私もどうやら少し詩人めいてきました。カロッサの詩では「生の頌歌」「避難」「未だ生れない者に」等が立派な格調を持っています。詩の句を書きたいと思ったけれども、それはまあ一寸おやめ。カロッサが心理主義にわずらわされてはいるけれども、大戦の後には初期と大違いな作品を書いていることは注目されます。今日という日をこの詩人はどんなに経験しているでしょう。そしてその経験が一生の内に若しもこの詩のように生かされることが出来たらそれは彼の一つの大きい幸いでしょう。 
十月十三日[自注3]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
祝い日 愛するものの祝い日に 妻たるわたしは 何を贈ろう。
思えばわれらは無一物 地道に渡世するおおかたの人同然に からくりもないすっからかん。 健康も余り上々ではない。
とは云うものの ここに不思議が幾つかある。 朝夕の風は 相当軒端に強く吹いて 折々根太(ねだ)をも軋ますばかりだが つつましい屋のむねには いつからか常磐木(ときわぎ)色の小旗が一つ立っていて 荒っぽく揉まれながらも 何やら嬉々と 季節の太陽に へんぽんたるは何故だろう。
夜が来て 今は半ば目の見えない妻である私が 少し疲れを覚え 部屋の片隅の堅木(かたぎ)の卓の上に 灯をともす。 焔は暖く橙色。 憩っていると手の中に やがて夜毎に新しく 一茎の薔薇がほころび初(そ)め 濃き紅(くれない)にふくいくたるは何故だろう。
短く長いこの年月に 私たちの見てきたことはどっさりある。 歳月の歯車から ほき出されるあれや これやを。
何と度々 愛の誓いが反古になるのを 目撃したろう。 その醇朴さが 却ってばつの悪いほど 辱しめられるのをも眺めて来た。
けれども 幼い子供たちがその遊戯の天国で ぞっとするほど面白く 泣き出したいほどうれしいのは 何の魔力のゆえからか。
秘密は唯一つ それは幼な児の正直さ。 遊戯の約束は決して破らない それのたまもの。
単純きわまったこのことに 妻なるわたしは 幸福の天啓をよみとる。
そうだわたくしも 約束はやぶるまい決して。 互を大切にいとしい者と思いあう このおのずからなる約束を。
今宵もひとり私は灯のそばに坐り ひとしお輝く光の輪につつまれる。 やがて薔薇も匂いそめ 単純な希いが たかまり 凝って 光とともに燃ゆるとき 愛するひとよ 御身の命も亦溢れ われら鍾愛の花の上へ 燦然とふり注ごう。
真白き紙の上に
真白き紙をくり展(の)べて 黒い字を書くめずらしさ。
墨の香は秋の陽にしみ 一字一字は活溌な蜻蛉。
古き東洋の文字たちは 次から次へと ふき込まれる命の新しさに愕いて われと我が身をあやしみながら 七彩にきらめき いとしきひとのかたへと飛ぶ。
あしたのたのしみ
たったこれっぽっちを 幾日もかかって 紙に鼻すりつけて書く可哀そうな私 半めくらの私。
いつも一緒に暮している声が 顔の近くで斯う云う。 「ユリそんなによくばらず 上書きだけは明日のたのしみに とってお置き 疲れた証拠に 息がこちらへ触れる程だよ」と。
私はおとなしくうなずいて答える。 「そうしましょう でもね 誰が 昔から 胸の動悸をはやめずに 愛したためしがあるでしょう」
一九四二年十月一日―十三日

[自注3]十三日――十月十七日、顕治の誕生日の祝いのために、半ば手さぐりで書いたはじめての自筆のたより。 
十月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十月十五日
こんな妙な大きい紙をみつけ出しましたが、これは決して同じ二枚を大きい紙でもうけようというこんたんではありません。今手紙を書く紙がなくなってうろついていたら、ペンさんが気転をきかして自分のスケッチ帖を切って使わしてくれたというわけです。だから下のデコボコがあるのです。ここが金の綴目。こんな紙でこの頃の美術学生は勉強しているのですよ。絵具のホワイトもないのよ。木炭紙と木炭は多賀ちゃんまで動員して探してもらいました。
今日は十五日だからこれを御覧になるのはいずれ十九日頃のことでしょう。十七日に間に合うように、と出した手紙は思い通りに着いたでしょうか?
十日付のお葉書を十二日朝丁度夜具を届けようとしていた時に頂いて、とうとう催促されてしまったと悲しくなりました。出掛ける前にお葉書をみたからシャツとズボン下は届けられましたが、どてらが遅れて本当に御免なさい。縫っている人が町会で遺族案内を割合てられ、十九日まで仕事を出来ないことになったので、益〃遅れて二十日過ぎにやっとお届け出来るでしょう。
十七日の為にどてらがなくて詩があるなどというのは私の好みと全く反対で気まりの悪い程のものですが、どうぞ今年はそういう頓ちんかんを御辛棒下さい。何しろあんな大きいボタモチのような字は自分ですかしすかし書けるけれど、縫物の方はそれも出来ず人頼みの哀れさです。その上今年は秋になって私が起き出してから冬物を手入れしはじめるさわぎでしたから。
国府津行きのことは、私に関する色々の事情を考慮して行かないことに大体決めました。田舎は案外にきゅうくつな時代になっていますし。あちらはずっと管制の状態です。反(かえ)ってここでなんとか家のゴタゴタを受け流して、二階で日なたぼっこでもしていた方が、万事につけて安静の治療が続けられそうだということがわかりました。第一今のところではまだとても汽車には乗れませんし。こちらの家へ何とかして、もう少し人手があるようにして、私が呑気に二階にいられるようにすれば何とかやれるでしょう。十二日朝、寿江子は沓掛へ出かけ、家中は少しホッとしています。御本人もあちらでここの空気はいいと言っているでしょう。十六日、十七、十八日は休み続きなので、国男さんは太郎を連れ、若しかしたらば沓掛へ行きそうです。そしたら今年は休養祝日というわけで、十七日は今にも身のこぼれそうなああちゃんと二人で、のうのうとした小さい祝宴をはるつもりですが、今夜の様子ではどうなることやら、国ちゃんに何か野心が出来たらしい顔付です。
今月一杯には冬物がすっかり入るようにしたいと思います。大事な下着類はそちら、ここ、もう一ところ、と位に分けて灰にならない用心をしたいと思います。結局今は綿や木綿、毛糸が財産で、あなたのものだけはなくしたくないと思います。
「祝い日」その他は、全く私の心にある一日がきっかけとなって出来たものですが、この頃のように、ものが書けず読めずにいると、次々にわく感情が自分にとって、一番宙で覚えやすい形をとり、自然とああいうものになります。今の表現の必然のかたちで、十七八で書き始めたのなら末が心配だが、一遍死んで亦生きて、そして字がかけないから心にかかれたものとしてああいうかたちをとるなら捨てたものではないと思います。これからも出来る間は続けましょう。ですから自然作品としての一つの部分をもなすわけで、いつかお気が向いたら文学作品としての感想をお聞かせ下さい。それが聞いてみたいだけまだ馴れずおじおじとしたところがあるのですね。
もうそろそろやめなくてはね、あんまり机の上のコスモスがきれいだから二輪ほど封じ込みます。 
十月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆中西利雄筆「樹間」(一)、福沢一郎筆「道」(二)の絵はがき)〕
(一)綿入れやどてらが遅れて何と気になることでしょう。月中にはお送り出来ようと思います。夜着は今のでは冬が越せますまいから、厚いのが出来次第お知らせ致しますから、暫らく不自由をして頂いて、小夜着を下げて入れ替えましょう。ところがこれが又来月仕事でね。冨山房文庫はついでがある毎に気をつけてみていて店も調べましたがありません。忘れては居りませんから。毛糸足袋の専門家は今年赤ちゃんがいてだめだから、家で下手な繕いをしてお送りします。今日夏ブトンはまだ下って居りませんでした。これは用事ばかりの葉書ね。風邪はお治りになったでしょうか。
(二)今日はペンさんがわざわざ手紙の為に来てくれたけれども、くたびれていて少し熱っぽいから手紙の方は中止に致します。二十日に書いて下すった手紙に対して、私はよほどお礼を言うにも声に力が入ってしまいますから。今日の熱は別名を蒲団熱と申します。この二三日やっと冬の掛蒲団が出来て、今朝送り出したい為に、私は昨日一日「蒲団の様な顔」をしていたそうで、その疲れです。勿論明日は大丈夫。毛糸のジャケツ上下。手袋。お金。封緘。ビタス。等、明日発送します。くわしく又手紙で。十七日は奇想天外の一日でした。用事帳は早速こしらえることになりました。 
十月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十月二十七日(今日はああちゃんの出産予定日なり)ですけれども幸い今のところは平穏無事で丸いお腹は納っているので、私達は二階で何日ぶりかのゆっくり手紙書きを始めました。
今日はいい秋日和。空気がカラリとしてほっぺたがぽっと暖かいような日。こんなにいいお天気だと如何にもいい気持だけれども、私はまぶしくて自転車に乗って庭を廻っている太郎の顔なんかは真白な光の塊りにみえます。そこで思うには、昔の人が仏に後光がさしているとみたのは、きっとだいたい貧しい人で、少し眼が悪くて、自分たちの不運をお助けあれと願った時、きっとそれはピカピカ光ってまぶしくて白く後光がさしているようにあらたかだったのでしょうね。馬鹿な詩人は少年の顔から後光のさす浄かさを感じるかも知れないわね。ところが太郎は健全なる人間の子で泥まみれよ。
さて十六日のお手紙へ。
ビタミンBは一日の必要量は四ミリだそうで、私はメタボリンの六号を注射していて、それは五ミリです。一日置きに十ミリずつと、Cを十ミリ位ずつやっていますから、B1の服用は今のところ必要はないそうです。咲枝さんが入院してしまうと、私は奥さん代りで気が落付かないから、一日置きに先生に来てもらう事はやめて、その間はメタボリンの錠剤とレドクソン(C)を飲み、若しそれで故障がなければ、来年の二月位までそれでやって、春から夏に備えてまた注射を始めようか、と思っています。お出で下さる先生は、所謂うるさ型で細々したくだらないことが気遣いのような質の人です。例えば自分が注射してもらっているのに、お茶菓子の心配をしているというようなのはいやですから、咲枝さんの留守はおやめです。一回十円も安くないしね。(然しこれは博士とすれば割引ですから苦情は言えません)この先生は親切は親切ですが、長年開業医としてだけ暮してきた生活態度がしみついていて、勉強好きなのも一種の穿鑿(せんさく)好きのようなもので、学問と生活態度とが散り散りばらばらです。やっぱりそういう風なのね。利巧すぎます。世間智がありすぎる。うちではその点いくらかへきえきしているのですが。悪いお医者ではないけれど。
眼のことは色々本当に有難う。あなたは私が少しずつよくなっているのを御覧になれないから全くお気の毒に思います。御心配下さる点は医学的にははっきりしているのだそうで、軸性というのは眼球外という意味なのだそうで、それは眼底を調べれば明瞭にわかる特色を持っているそうです。若し今日まで一寸も進歩しなければ不安なことだそうですが、少しずつよくなっていれば、それが順調で標準は四五ヵ月から半年で、それは特に眼や頭を使わない人での話だそうですから、恐らく私は十ヵ月はかかるものと思いましょう。ペンさんがその間にお嫁に行ってしまったら一大事だけれども、それならそれでしかたがないからうんとお祝いでもしてやりましょう。今も数えればまだまだやっと三ヵ月ですもの。私はその位度胸をすえて居ります。
胚芽米、玄米のことは普通には出来ません。大体林学博士本多静六は妙な人で、自分は森林の値ぶみをしたりして、厖大なパーセントをとり、お金を作ったのに、雑誌へは一銭から貯金して今日の基礎を作ったというようなことを平気で書く人だから、色々のことが眉つばものです。この人が玄米食のことなんか言うと台所にはきっと小さいモーターの臼がありでもするのだろうと、自からカンが廻るのが自然です。今、私の受けている特配は、牛乳二合のところが一合、砂糖が〇・八斤、八百屋もの少々。バタ等ですが、八百屋が十一月から一日一人二十五匁ずつの野菜を配給することに決りました。二十五匁というのは小さいジャガイモ二個です。大きい胡瓜(きゅうり)は三十五匁もあり、お薯(いも)などは大きいと四十匁だから、こういうものは一日一本はあたらないわけです。魚は二十五匁が一日置きの予定のところ三日から五日置き。町会では八百屋が一日一人十五匁と言ったのを二十五匁に増したのだそうですが、一日置き、又は二日三日も飛ぶかも知れずなかなか台所はキチキチです。
オリザビトンは今後は発売されないということは、もう前便でおわかりになったでしょうか。代りの薬として、ユガマンと言っていたのはどうも聞きまちがえらしくて、二三日中にペンさんが近藤へ自分で行ってはっきり調べてきてくれます。三〇〇錠で十一円だと定価まで言ったのに、今度は人が行って一日の分量を聞いたらば、誰一人その薬を知らず、本までみてないというのは実に奇妙です。電話ではユガマンと聞えるし、こちらでそういうと向うにも正しい名の発音として聞えるのでしょうが、妙ねえ。自分で用事がたせないと狐につままれたようなことがあります。電話は何故だか苦しくてかけられません。
足袋カバーは修繕出来次第送ります。ジャケツは今年はごましお色のですが、灰色のは私の防空着に拝借致します。毛布のことは私としては泣きの涙よ。六月に寿江子に度々手紙でそちらの毛布を洗濯しないでよいかどうか念を押したのに、いいとおっしゃったということでした。今は世の中にシャボンが消えて、御用聞きがない時代だのに洗濯屋だけは争って二軒も三軒も入ってきて、持って行ったものは一ヵ月もかかって出来上る有様です。これからの毛布洗濯はかわかないし、きっと一ヵ月では寄越さないでしょう。寒い目を御覧になるでしょう。若しどうでもしなければならなければ、二枚続き一枚だけはいつかの虫食いを入れて下げて頂き、やりくりつくかも知れません。全くこれからの毛布洗いは苦労の種ね。
何しろ十六日からのお手紙の用事だからもうこれで一杯。十七日のことはどうしても別刷にしなければならない程珍らしい一日でしたから、ここで一休みしておやつをたべて、それから又ペンさんを酷使致しましょう。 
十月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十月二十七日
さて愈〃(いよいよ)十七日の物語り。
あの前後お休みが続いたので、父子が沓掛へ行こうと言っていたらば寒いのが厭というようなことで十七日になりました。あの日は雨でした。相当な降りで。これは私達の十七日にしては珍らしいことでした。食堂へ行ってみたら早朝にかかわらず、佐藤先生が一仕事終ったという顔でお茶をのんでいられます。「まあどうしたの?」と其処にいる御夫婦を見くらべたら、泰子が夜半からひきつけて大さわぎをしているのに、林町のかかりつけの小児科医は、医師会のピクニックで皆出払ってしまっていて、私の先生に電話したら子供は診ないということで、そこいらの医者を紹介され、その人が取りあえず注射して、佐藤先生にわざわざ来診願ったところというわけでした。
去年の十月末ひきつけた話は申しあげましたね。成長の一段階毎にこういうことが起るらしくて、咲枝はショックでお腹があやしいし、父さんは明方からの骨折りでクタクタだし、私が気をもんで動き廻るという有様でした。こういうことがあってもこの節は買出しに行かなければ何一つお菜がない。然し人手がないから行けない。御飯の心配があります。ともかく十七日なのだから、私としては少くとも何かしたくて、晩の御飯でも言いつけようとするが、うなぎ屋にうなぎがないのよ。支那料理も鯉どころか、食用蛙の天ぷらが、とりに行けば幾人前かは出来るという有様です。
泰子は体中をけいれんさせて、歯の間にお箸をたてて(舌をかまない様に)いるのに、蛙をとりに書生さんは出せないから、では菊そばへ、というわけで、やっとあやし気な天丼にありつきました。一円の天丼がいかの足を細切れにしたもの一つ位がのって居ます。
雨はざんざ降りで、皆こわい顔をして心配して動いているから、太郎はビービーで私は大変かんしゃくをおこします。そして太郎に、しっかりしろ!と言います。夕方泰子の薬を取りに船橋まで雨の中を行く書生さんについて太郎が出かけ、その時は小さいながら少年ぽくて愉快でした。
夕飯前にペンさんが電話をかけてくれ、騒動を承知でお祝いのあんこのお菓子を一寸持ってきてくれましたが、これが災難の始りで、ペンさんはその夜はとうとう帰れず、夜中の二時に泰子を負って寝かしてくれるというさわぎでした。きっちり二十四時間もかかってけいれんがやっと下火になりました。十七日の晩は、ですから皆半徹夜で、私が菊そばへ電話かけたら、気分が悪くなってはきそうになりました。天丼は無事平げましたが。
ざっとこういう一日でした。これはほんのあらましの話で、酸素吸入をするとか、それがないとか、注射をするとか、その針がないとか、バタバタで咲枝さんはよくぞ持ちこたえました。若しその時、パンクすれば生れた子はガラスの保温器に入れて育てなければならなかったのです。
幾度か色々の十七日を経験しましたが、今度のは秀逸で一寸類がありません。
今度のお産にしろ、こんな泰子を預っておまけに何時空襲があるかわからず、眼もみえないアッコおばちゃんとしては中々の大役ですが、それでも今のような私の体の調子で、若しこんなゴタゴタさえもなくて、手をつかね、どなりつけることもなく、眼のみえない自分だけを感じているのだったらば、どんなにつらく淋しく、従って回復も遅れたことでしょう。その点ではお産も結構です。泰子のひきつけは御免ですが。若し始まったら、今度はまさかピクニックもないでしょうし、空襲とかち合ったら、私がビタカンフル位注(さ)して置いて先生を呼びましょう。
ながくかかる回復の途上には、日常生活の動きが本当に大切です。「母の肖像」の例をひいていらっしゃるように。うちにびっくりする程人手がなくて、少し何かあると私の居るところの掃除は出来ない程ですが、その為に無理もあるけれど、体の調子によって細々と何かして気も紛れるし、体の力もつきます。私はそうして段々治って行く質ですが、寿江子は何だか調子が違ってそういうことはやれないのね。子供の時からの生活の調子が全然違っているからでしょう。それにああいう慢性の神経の弱る病気は、意志の力が実に弱くてだるさもはたにはわからないらしい程のようです。今居ないので留守居には困るようだが、家中の気分が単純化していて結局は休まります。
私にヒステリー気味がないことをほめて下すって有難う。でもこれはどうもうちのなかでは証人をたてなければ額面通りには受取ってくれそうもありません。まだ私はかんしゃく持ちです。気が短かくなっています。胴忘れも相当します。そういうことは皆新しい現象です。しかし自分でもこだわらずだんだん物覚えがよくなれば治るだろうし、体が丈夫になれば根気も続くだろうと皆さんには御免こうむっています。(ペンさんはいい子だから、私の短気になったことを気付いていても抵抗しないでいるでしょうが、寿江子さんたら御飯の食べっぷりまでせっかちだと言うから閉口します)
二十日のお手紙の反歌にはどういうお礼をしたらいいかと思います。どうも代筆の字では現わしにくい。実は私はこのお礼だけは自分で書いて差上げたいと思いましたが、でもそれでは折角の日頃のおっしゃりつけも無駄になるし。珍重という言葉はこういう時にこそ使われると思いました。堂々としていて率直で、すくなくとも枕言葉歌の類ではないし、私にとっては名歌だけれど、あんまりほめるのを書いてもらうのも何となし、体がポッポとするわね。
○冬シャツは調べてもう一組お送りしましょう。
○年鑑は承知しました。
これからは成るたけ色んな細い毎日のことをお知らせしようと思います。去年の十二月から十ヵ月引きこもり生活をしてわずかな時間だと思ったのに、昨今ではその間に世間がまるで変って、私は色々なことで自分の間抜けを知ります。例えば四月の第一回の空襲を特別な条件で経験したということは、何か私のなかにセンスのかけたところをこしらえていて、土蔵などについてもとかく平面的に(火事という風に)考えて、天井からぶち抜く力があることを知っていて、つい知らないようなものの考え方をします。戸台さんが三十七歳で花婿になって赤ちゃんがやがて生れます。お祝いをあげるのに茶ダンスを考えて、私達にふさわしいけちなのが三十円もしたらあるだろうと思ったところ、ああちゃんやペンさんに一笑にふされてしまいました。そういう名のつくものは五十円以上で、タンスの極く悪いのが百五十円。二十三円でタンスが買えた時以来、私はタンスというものを買ったことがないから本当に驚きました。今は銘仙夜具が一揃えで二百円もする様です。何しろあんな格子縞のが表だけ三十円で、やっとそれもそこへ落付けたという次第です。常識の補給にこんな話も致します。栄さんが鷺の宮へ家を建てて十年年賦で一万数千円だそうですが、制限内の三十坪何合で家をみるとしゃくにさわるから、外をみていると景色はいいという話です。
この間の手紙に入れたコスモスの花はどうしましたろう。御覧になりましたか?秋の花らしかったから入れたのだけれど。今日はたっぷり書いて少しまくまくですから、ではこれでさようなら、ね。 
十月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆福沢一郎筆「海(三)」の絵はがき)〕
手紙に書きもらしましたから一寸。多賀ちゃんから先程手紙で、病気は何でもなく保健所でレントゲン透視をしてもらったら、どこにも異状なしでしたそうです。柳井の組合病院でもレントゲン写真を撮ったところ、これまで病気したあともなくて大変きれいだと言われたそうで大喜びして居ります。肺尖という診たてはあやまりだそうです。本当にされないように喜んでいるし、私達も如何にも気が軽くなって嬉しゅう御座いますね。 
十月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十月三十一日
もう十一月とは何という早さでしょう。去年の十二月から今日まで、殆んど眼と鼻の間なのにもう今年が終るとは。誰でも今年はひどく早い一年だったと思うでしょうね。私にはブランクの時がはさまっているから、早さも特別に感じられます。
二十九日附のお手紙、三十一日午後頂きました。
今頃はもう後の手紙も御覧でしょう。
夏蒲団は昨日どてらを届けた時持ち帰りました。毛布、下ばきも届きました。毛布はもう洗濯に出しましたが、恐らく一ヵ月以上かかりますからどうぞそのおつもりで。下ばきは惜しいことをしましたね。あんないい薄い毛のものは、全くどこにもないものです。それが虫喰いだらけで丸でイルミネーションみたいに日光をすかすのを眺めると、さすがの私も「まあ、きれいね!」というより先に「あらアー」と情けない声を出しました。しかしとても捨てることは出来ないから、何れ一つ一つをつくろいましょうが、人に頼めるものでもなし、まあ来年のお楽しみね。あれを一つ一つつくろったのが届いたら、それは完全に豚妻の眼がよくなった証拠といえましょう。
用事帳云々のくだりは特に二人で眺めて合称しました。その帳面のこちらの名は「ジゴクノテチョウ」と赤鉛筆で書いてあって、特に赤いリボンがつけてあります。アラームの意味です。忘れるとベルでも鳴ればもっと調法でしょう。(そしたらペンさん曰く、私の三角の袋の中でビーィンなんて言ったら厭だなあ)目録のこと取計います。訳註の本のこともして置きます。この御注文は嬉しいと思います。
栗林さんの支払いは受取りがあって、こちらで少し余分に払ったものだから、お釣りを切手で寄越してくれました。
富雄さんへの本は新書を三四冊みつけます。新しいのは中々手に入りませんから、手許にあるのを。大抵『アラビアのロレンス』『今日の戦争』『北極飛行』『阿部一族』『高瀬舟』等。
お友達への本代のことは心にかけていますが、そちらからのも手をつけずにとってあって、反って厭だということなので、子供さんのものや何かを送ろうと思います。暮までに金額にしてどの位のものが送られているか知らして頂けたら、子供へ上げるものもそれで見当がついて便利ではないでしょうか。
スタンダールは、すっかり読み返してみようとしていたのに病気になってしまいました。たしかに相当の作家です。「ナポレオン伝」などをみても、それを書いた動機がやはり一つの気力で、ナポレオンの没落後、パリの社交界人が、ナポレオンとさえ言わず、ムッシュウボナパルトと言って、極く卑俗な自分達のぬくもった利害の見地からばかり批評しているのをみて、ナポレオンの歴史的な価値を再認識しようとしたものでした。けれども「パルムの僧院」で、スタンダールは一人の人間は事件の局所しか目撃出来ないという現象にとらわれて、そこに文学の写実の意味をおく一種の間違いをおかした通り、ナポレオンについても彼が帝位につくに至った勢いについての評価は決して紙背に徹してはいません。
掛蒲団は「暖かそう」とあるのでホッとしました。随分四角いでしょう!でも赤いボタンは可愛いでしょう!どうぞあんまり蹴破らないで下さい。どてらが送れたので思いがけない人が胸をなで下しています。国男さんがこの間内、暖かいどてらを着ていて、それをみると私がそばへ寄って、なでてみて「あったかそうね」というものだから、気味を悪がったり気の毒がったりで閉口していました。これから寒い晩があってももう大丈夫です。国男さんは安心してどてらをきられます、なでられないから。
今日ペンさんが、三井洋画コレクションにあるラファエリー作の「大通り」というクレパスのようなこの人の発明したもので描いた絵の写真をくれました。色がない写真だけれど、いかにも田舎の町の大通り、パリへ続く郊外の大通りの落葉した時節の明るさ、冬のやわらかい陽の明るさ、が雰囲気によく出ていて、傍に插した山茶花(さざんか)の花とよく似合います。この次もう一枚出来たらお送りします。山茶花といえば大抵ほんのり花びらが赤いものですが、真白い山茶花が咲いていた小さい庭を覚えていらっしゃるでしょうか。
パリといえば緑郎から昨日八ヵ月かかって手紙が来ました。フランス語でない切手がはられて、二つのセンサーを通って。結婚の話が要件で、あちらで知った日本の娘さんで声楽を勉強している人、カネボウの重役とかの娘で、小さい写真が入っていますが、ちっ共悪くパッとしたとこのない、やっぱりどてらの苦労もしそうな人で、皆いい点をつけました。娘さんの方では、何かの便利でもっと早く親へ手紙を書いていて、お母さんが咲枝に会いに見えました。声楽と言ってもJ学園から始め留学させられていたので、本当の芸術家ではなくてそれは体の形にも現われています。あすこは金持の少し才能のある娘を親ぐるみでおだてて、あっちこっちへ留学させ、とどのつまりは学校のスターを作る流儀だから、始めはそれで行って苦労している内に、幾分かそのわくからはみ出たのでしょう。緑郎も三十で相当に色々見聞して、ああいう地味らしい娘さんをみつけたのならまあ安心というところでしょう。十月二十八日が咲枝さんの出産予定日でしたが、本人の予感では、十一月三日の夜らしいそうです、アナオソロシ。赤ん坊は男の子らしいそうです。母親が赤いものばかり欲しがる時には男の子だそうで、咲枝さんの蒲団と枕の赤さといったら少くとも私は微熱を発する程度ですから、多分すごい男の子なのでしょう。名はまだわかりません。女の子は桃子が可愛い名だけれども、字面が悪いので二の足をふんでいます。そうしてみると私の名はいい名ね。
冨山房の本は、随分さがしているけれどもまだみつかりません。外交史の下巻はどうしたかしら?聞いてみましょう。訳は一刻を争うから雑なものが多いのですね。うけ負仕事のようにやるから。いずれ送って頂いて私も読んでもらいましょう。十月一杯は一冊も本読まず、縫直しさわぎで暮れましたから。今月からは少し落着いて本が読んでもらえるだろうと嬉しゅう御座います。 
十一月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十一月三日
三十一日附のお手紙今日(三日)頂きました。
薬のことごめんなさい。オリザビトンのことだと思ったのでした。ビトンは目下、粉末しかなくて、これから先も錠剤等は出にくいそうです。ですからこれは駄目で「ユガマン」と言っていたのは、ペンさんが近藤で口をみて発音を聞いたところ「ユバモン」というのでした。オリザビトンの代りにはこれが一番よさそうです。一回一―二錠、一日三回、三百錠十一円。オリザニンは専門家にいわせると、気やすめ程度だそうです。わけて二つのむならBはメタボリン錠の方が実効があるらしい様子です。
毛布のこともそうとわかれば、これまたお気の毒でした。十二月までには何とかなりましょう。袖のある夜着は、今のでは寒中お困りでしょう!洗濯毛布が入って毛布が二枚になったら、厚い夜着と代えることが出来るでしょうか?夜着は十二月に出来ますが、ダラダララインは、今私の舌たらずな発音では大変言いにくくて、ダアダア、アインと聞えるそうです、一層悪いわね。
大学書林は一年一回出ていて、今あるのはそちらへすぐ送るように頼みました。
ヘルマン・ヘッセは本郷辺は売切れですから神田をみましょう。こんなありふれた本でさえ増刷を制限しているものだからこの始末です。楠書店はまだはっきりしたことがわからないので、明日でもまた電話してみます。
この間手紙で申しあげたように、ああちゃんの入院を機会に注射をやめようと思ったので、目白の先生に細かく相談しましたところ、それでよいだろうし、薬も整理してメタボリンとレバーと、眼の為のヨード剤位にして、レバーにはAもCも入っているから、幾種類もただ並べて惰力のように薬をのまない方がよいということです。Bを普通よりたっぷりのめば。Bはよく説明してもらいましたが、脳炎などの後、本当に失明してしまうのは、視神経が萎縮してしまうので、眼底をみれば神経の束が眼球に入ってきているところに細い血管が集っていて、それが独特なカーブを書いてそのカーブの深さで視神経が萎縮して低くなってしまっている深さが、はっきりわかるのだそうです。
私のはもう三月にもなるのに、萎縮はちっ共起っていないそうです。そしていくらかずつよくなってきているから、悪性のものでないことは専門的に確実だそうです。ここに図を書くと尚いいのだけれど。(ペンさんがお得意のところでやるそうです)
[図1、眼底の図、二点]
咲枝さんのお腹は今もってパンクしません。でも今日明日で、私たちは始終大きなお腹に横目を使っています。今度私が病気したことは、この人にとっては案外なもうけもので、一緒にBや心臓の薬を注射したため、母体の条件が大変よくなってきているそうで何よりです。今は皆自信を持って安産を考えていますが、夏頃はひどくうっ血した顔をしているし、苦しがっているし全く心配でした。五月頃聖路加へ通っていると聞いて私は困ったことと思い、しかし自分でよりよいところを紹介できないし、さて今度はどうなることかと思っていたら、私の先生から近所のよい医者を紹介され、命拾いしました。始め羊水が多すぎると言って食物制限をして、バターを食べさせなかったところ、小鷹さんに診せたら心臓が丈夫でない為、うっ血してガスが発生し、その為お腹が人並より大きいし、全体むくんでもいるというわけで、勿論バターなどは是非たくさん食べた方がいいしという話で吃驚(びっくり)した次第です。聖ロカの医者にはそういう致命的な問題がちっ共みえていなかったのです。私の命と一緒にもう二つ拾ったので、それというのもまず私が死んだからで相当感謝されています。私は今、回復期のきわめて滑稽な状態で、自分の疲れ方が見当がつかないところがあって、どの位まで動いたら気持よく眠れる程度に疲れるのかわからないでまごついています。どうもボタンなんかをみつめて目玉をくりむくと、てき面にひどく疲れて工合悪く、昨日などの様にいくらか人足めいた品物を動かすような仕事は、細いものをみないために案外疲れません。つまり眠れるように疲れるのです。当分これでは人足ね。でもうちはそういうことをする人がなさすぎて、どこもかしこもうず高いから、ポツポツ女中さんを助手にして、ごみ片附けは細君にとっても歓迎です。気持のよい疲れ方というものを求める気持が強いにつけ、好ちゃんがいたらどんなによかろうかと思います。元気ながら持ち前のおもいやりでいたわられながら歓談したらきっと人足仕事などを心がけないでも、もっともっと詩趣豊かにほっこりするでしょうのにね。
重い病気から回復してゆく間のこういう感情は、私として始めての経験です。あなたはきっとこの数年の間に十分お感じになっていたことでしょう。でもあなたのその時期に、私はちっ共そんなことは知りませんでした。今はそれがわかります。何にも言わずにあなたはそういう時期もお暮しになりましたね。言われてもわからなかったかしら。私の爪の真中に一本横にひどい窪みが現われました。爪が伸びてきて三月前死んだ時の線が真中まで押し出されてきたのです。チブスをやってもこんなことはないそうです。「ひどかったんですなあ」と先生が感服致します。賀川豊彦でなくても死線が現われました。
あなたがひどくお悪かったあと、髪がうすく軽くなって、向い会っていると頭の地がすけてみえて本当に吃驚したことがありました。絞りの着物を着て、やっと歩いて出ていらしてお腹を落して椅子にかけていらした時分です。日本画家が幽霊をかく時には、必ず頭のぐるりをぼかして少しはなして、ポウポウとした毛を描きます。それがどんなに実際に観察にたっているかということが沁み沁みとわかって、あれを思い出す度にああよくも命が助かったと思いますが、今の私は爪に死線が出たとおり髪もピンチです。いささか亡者めいています。まるでチョロリとしたしっぽを下げているきりで、いかに私が楽天的な妻でも、頭に毛が十本というのではお目にかかりにくいわ。
来年になって眼の方がちゃんとしたら、髪の毛もせめて普通までこぎ戻るように太陽燈でもかけます。これは眼に害がある光線だから目下は御心のままに抜けているしかありません。
芸術家と日常生活の関係は全くここに言われている通りです。文学は生活感へいつも立ち戻るところがあるけれども、音楽や絵は一定の技術上の習練がいる為に、そこに足をとられて女の人などは殊に危っかしくなり勝ちですね。
この頃私は人々の向上心というものについて興味ある観察をしていますが、(ついてはページをくってみたところ、もう十枚目だからこれは次便にまわします)
富雄さんのところを光井へ聞いてやりましたが、そちらでこの次の手紙で教えて頂きたいと思います、古いのしかないから。
来年は島田のお母さんが六十一におなりでしょう?私達にとっての六十一はそれとして祝う意味もないが、お母さんはやはり還暦ということをお考えでしょう。普通は赤い座蒲団などを送りますが、そんな形式的なことは元気なお母さんに失礼ですから、何とかやりくりしてお気に入りそうな着物を一揃え上げたいものですね。御賛成でしょう?島田へ二三度行くところをやめれば何とかなるかも知れませんね。くわしいことはまた何れ。今日も秋日和です。 
十一月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆セザンヌ筆「花」の絵はがき)〕
大変に色が悪くて説明書の効能が発揮されませんね。今日は割合のんきな日で満開の山茶花の花を、二階からながめたりします。咲枝さんは正に今にも、というところで、うち中待機の姿勢です。なかなかの緊張ぶりです。
お正月になったらと楽しみなことがあります。それはまた自分で手紙をかいてもいいという許しを自分に出そうと思って。今度はどんな字を書くでしょう。少しは小さくなるかしらん。橘の本はありました。前進座が火事で焼けました。実に可哀想です、あの骨折を思えば。大東亜文学者大会というのがあります。村岡花子が日本の女流作家だそうです。 
十一月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆ボナール筆「桃」の絵はがき)〕
今日は嬉しいことがあります。オリザビトンが五つ程みつかりました。今そちらにいくつかあるでしょうから、これですくなくとも一月までは持ちますね。早速二つお送り致します。ああちゃんはまだパンクしないで、はたをハラハラさせて居ります。もっとものびただけのことはあって、オリザビトンもそのお蔭よ。つまり余程前に私の居ない時、買ってあったのを何かのはずみで霊感的に思い出して持ち出してきてくれたのですもの、うちは物の在り場所ということについてはまったく独創的で、常識がこのとなりには凡そこんなものがありそうだと判断する、その判断が全くあて外れで、かつぶしがざるに入っているその上に何がのるかということについてはのってみなくちゃわからないし、という次第です。だから私の様な新米はとかく世間並のことを考えて、片付けるはいいけれど、私は私で片付け忘れるという病気でお話しの他の有様です。でもビトンはあんまり悪口は言えないわね。あ〔数字不明〕出したんだから。 
十一月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆堀井香坡筆「ひととき」の絵はがき)〕
何となく冬めいた日です。寒いけれど風邪は大丈夫でしょうか。咲枝さんはまだうちです。大同書院という本屋から瀧川政次郎著『法律からみた支那国民性』というのが出ましたが御覧になるでしょうか。御返事下さい。
私は注射をやめました。やめ時らしくて先生から言い出されたから。何となしのんびりです。セザンヌの伝記を読んでもらい始めました。何しろ一ヵ月振りの本だから仲々面白い。でも視野が比較的狭くて歴史のモメントを深く個人の上にみないからその点は喰い足りず(改造文庫)。赤チャンの名前が男の子はまた一苦心で、食堂のテーブルが賑わいます。今、照二郎というのを思いつき、かなりいいと思います。字面も悪くないでしょう。 
十一月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十一月十一日
もう北側の障子をあけると冬の風が吹きこみます。三十一日に書いて下すって以来、御無沙汰?
風邪をお引きになったのではないでしょうね。
私は二三日来、注射をやめて飲み薬だけになりましたが、心のどかで好調です。何しろ静脈注射ですから気がはるのよ、痛い時はひどいから。
知らなかったけれどB・Cの外に砒素の薬が入っていたらしくて、それは心臓の為や体の再建の為に役立ったのでしょうが、あれの特徴で興奮性だからそういう刺激があって、レロレロのくせに働きすぎるというような傾きがありましたが、うちでの通称「ウワバミ」(ウワバニン)が切れたら、たががゆるんでお目出たくなって夜は早く眠がるし、少し動くとくたびれるし、気はのんびりしたし、つまり実力に戻って、うち中気嫌がよくなりました。今になって白状に及んだところをみると、みんな相当私のウワバミ元気にはヘコたれていたらしいのです。更に滑稽なことは咲枝さんも心臓の為にそれを注射されていて、ウワバミ元気にあてられる度も一入(ひとしお)であったのでしょうが、しかしこの人の方は腰の痛いのがましだという結果に現われて、私のように悲しき女人足にはならなくてすんだのです。
こういう薬のこともなかなかむずかしいものですね。個人個人によって、受け方が大変違う、一つの体への+(プラス)と−(マイナス)の関係が本人にもよくわからなくて。つまりやめ時だったのだろう、という衆議に一決しています。今年の冬は私は大変寒そうです。足の冷え方が格別です。夜具が重くて、フウフウで狐の子のように落葉をかけて寝てみたい。重い病気のあとはそうですね。あなたもボタンのかかるシャツは一冬お着になれませんでした。やはり胸がつまったのね、夜具の重さなども胸にかかるから不思議です。本当は足先にかかっているのに。心臓にこたえるのね。十年昔の大事大事の木綿のあの蒲団を今年は始めて蔵(しま)いそうです。大学書林のはついたでしょう。橘は現在は目録を出していないそうです。本はこちらへとっておきます。南江堂はそちらへ直かに送ります。
世界地図のことは遅れていますが、この頃は内地ののみならず学校なりなんなりの証明がなければ買えないことになっているらしくて珍らしいことです。何とかして買う様にしましょう。尚また手間取りますが、(新しいのが間に合わないこともあるでしょう)紙屋の松屋の表に紙がぶら下っていて、「大学ノートをお買いの方は制服制帽でお出で下さい」とあるそうです。こんな風景は私にとっても未知です。「美しき青春」は神田の方を調べます。(何んで早く調べないんだろう、と思っていらっしゃるでしょうね、いやんなっちゃうなあ、とペンさんの歎息)本当にさあ、と言いながらペンさんはさかんにアゴをつまみます。寿江子は今鹿沢にいます。浅間の景色は美しいそうですが、この間鬼気が迫るような手紙を寄越して、私は吃驚して小包をこしらえてちょいちょいしたものを送りました。晩年の母の厭世的な、人の善意をそのままに受けられない心理が、寿江子に現われていて、体の悪さが推察されます。困ったものですが、まあ、あちらにタンノウするだけいて、少しは恢復してもらうしかありません。インシュリンもないのだし。ああいう病気は本当に哀れです。親が無責任だなどと書いてきていました。自分を生んだということについてよ。心持がああいう状態だとそういう消極な考え方にきっと陥るのです。富雄さんには小包を送りました。うちの廊下の衣紋竿には国男さんの冬のトンビがかかっていて、いつの夜中にでもそれ!と言って出掛けられるようにしてありますが、赤ちゃんは悠々としています。お乳は出そうです。どんな骨折りをしても、今年はお乳がなければなりません。母子の為に。
ヴォラールの「セザンヌ伝」を読んでもらっていると、一八九二、三年頃「落選画家の展覧会」を開いた後でも、セザンヌがどんな扱いを受けていたか、ということがわかって驚かれます。絵具商のタンギイ爺さんというのがセザンヌ一派を熱愛して、たまにセザンヌの絵を求めてくる人があると、画室へ自分が案内して選ばせたのだそうですが、その画室には、一枚のキャンバスに小さいモティブの絵がいくつか別々に描かれていて、貧しい愛好家は一ルイ位出して林檎(りんご)三つを買ってくる、というような風だったそうです。タンギイ爺さんが鋏を持って行くのよ。そしてそれだけ切ってくれるのですって。そういう風な売手と買手のいきさつのなかには、私達を深く感動させるものがあります。一ルイでセザンヌの林檎ならばこそ三つ買って、ホクホクして帰る小さいパリーの勤人、屋根裏の住人の心持を考えると、セザンヌが何を力にあの困難も堪えたかということもわかるような暖かさがあります。はでなサロン向の画商との所謂大家的取引とは何と違うでしょう。ゴッホは自分の弟を最も信頼する画商として持っていました。ルノアールは水ぽい絵描きですが、セザンヌに対しては厚い心を持っていた様です。この伝記とチャンポンに小説を読みましょう。実に小説が読みたい。志賀直哉全集は大きい活字ですから今に読み始めるにはいいけれど、心持とはあまり遠くて。今はカロッサの「医師ギオン」を読もうと思います。一九三九年の写真では、カロッサは猫のようなものを手に抱いて、一寸下目になって額に横じわをよせています。それはそうでしょう。このお話は何れ読んでから。
この前の手紙で向上心ということの色々の観察を話しかけましたが、庶民的な環境に育って色々の重い因習と戦いながら、人間として向上しようとしてきた女の人は、向上の方向がグラグラしてくると、その向上心そのものが、一つの極めて妥協的な世俗的な立身の方へいつの間にやら流れ込んでしまう危険が実に深刻です。目安がないから積極性が方向かまわず積極積極と出て、案外なことにもなるし、そういう人の中には大抵の人に劣らない体力も意地もあるから、又利巧さもあるから、それらが皆固って妙なことになります。十分そのことについて、自省もあり、時に自嘲的にさえなっているとしても、全体としての動きはそうなって行く悲しさがある。それから又突抜けて出る新鮮な力は、このゴミっぽい過程の間で磨滅しないでしょうか。私は磨滅させたくないと思います。
本が出てそれをまず友達に送りたいと思うような、そういう本の出方はこの頃誰のところにもないらしい様子です。本屋の店頭には、割合お粗末なのがどんどん並べられているが、友達はそれをもらわないというようなのも現代風景です。
今日は一時間程本棚をいじりましたが、私達の本も文学史の勉強の為には、もう決して手離せない様なものだけになりましたね。大人の本箱になってきた。焼くのは本当に惜しいと思います。手に入らないばかりでなく、質的にもうない本ばかりですから。行き違いにお手紙が来るのでしょうね。誰も行く人がなくてごめんなさい。気にしています。 
十一月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆ピサロー筆「春」の絵はがき)〕
今、手紙の封をしたところへ六日附のお手紙頂きました。白水社の本のこと承知しました。夜具やタオル寝巻がお気に入ってその嬉しさは私一人ではありません。何しろ大した苦心をした人物がもう一人ここに控えているのだから。歯の金のことは調べます。全く、色変りの合金の歯などは歓迎でありませんから。注射について書いていて下すっているところが大分珍らしい御苦心のあとなので万々お気持がわかり全くそうよという気持です。静脈注射は看護婦では許されません。看護婦は皮下だけです。お風呂は石炭不足で一週に一度、しかも私はやっと、この頃たつ度に入るようになったばかしです。私の風呂好きがこの有様よ。シュトルムはおっしゃるとおりですから、ヘッセをみつけたいと思います。他に何があるか調べましょう。 
十一月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十一月十三日
十一日附のお手紙頂きました。先ず本の話しから。ヘッセのはとうとうありませんでした。シュミット・ボンの『老婆』というのをともかくお送りしますから、そのうしろのカタログ中から選んでいただいたら、手に入るものもあろうと思います。『現代ドイツ短篇集』は幸いありました。こちらへとって置きましょう。南山堂も郁文堂もモクロクは出していません。この頃こういうものは出せないらしい風ね、紙がなくて。『仏語より英語へ』は題が逆でしたがあったから『老婆』と一緒にお送りしました。面白そうな本ね。英語を元にして、ロシヤならばおしまいをチアと代え、フランス語ならばシオンと代えて、どうやら歩きまわっていた時のことを思い出します。
栗林氏へお金を送ったのは、九月下旬か十月上旬でしたろう。受取りを調べると五十二円二十五銭で、私は五十三円送ってお釣りをもらったと覚えています。二月分から九月分までのうつしで全部で六通です。大泉という人の公判調書二通が一番新しい分です。おや、ここに小さい字があって、九月三日に五十三円もらったと書いてありました、奥さんの字よ。
輝ちゃんの毛糸のことは本当にいい思い付きです。あなたのジャケツは私の唯一の避難用下着だから、私ので送れるのを工面致しましょう。これで誘われて、世田谷の子供達にも毛糸をやろうと思いつきました。和服で育っていても調法だから。そちらへも広島から隆治さんの葉書はきましたか。こちらへ一昨日もらいました。何んてよかったでしょう。お母さんもこれでいいお正月がお出来です。私達同胞は運のいい方ですね。お母さんもお幸せな方です、本当に嬉しいと思う。
厚い方のどてらはもう一寸らしいのよ。その代り、それより早く、綿入れ着物、羽織を差しあげます。茶色の毛のシャツ(冬)この間送ったものの外に、もう一枚そちらに行きっぱなしになっていやしないでしょうか。それと紺大島の(御秘蔵のとは別)うすく綿の入った着物を若しや春頃お送りして、それもそのままになっていはしないでしょうか。一寸お調べ下さい。この二つがどうしてもみつからなくて気にかかります。
歯のことは市内では闇で使っています。何とか方法を講じようと考え中です。
咲枝さんの出産はずっと延びそうです。子供は大変よく育っているそうで大安心です。お留守番の稽古で泰子をねかしつけます。自分が頭が苦しかったから、この小さい頭のアンバランスも察しられてなかなかいいところをなでるらしくてトロトロよ。そして私は子供達がどっさり居る夢をみました。赤ん坊に乳をのませる間、母さんが二人を置いては眠り不足で怖しいことになるから、その間は少くとも泰子は私の養女でしょう。ものも言えず、たてもせず、それでも優しさはわかって、この頃は人恋しがり、皆の声の聞えるところでないと淋しがったりするのは全くいじらしいものです。幸い美人だから邪険にされなくてまあまあです。
カロッサの小説は、極く始めですが、大戦直後のドイツの真面目な心の諸問題を扱っていて面白いし、不幸をそういう形で経験し、表現し得た二十五年前を考えます。シュミット・ボンにもこの時代の作品で一寸特色のあるのがありました。ヤーコブという人の「ジャックリーヌと日本人」という小説は、インフレーション時代のベルリンと日本の震災時分を背景として動揺する中層の精神を描いて印象深くありました。スタンダールは読む人の成長につれて読み返される価値があり、作家とすれば、そのことがすでに一つの大きい価値ですね、私も読み返したいと思います。古行李をいじっていたら、新しい健康だわしが出ましたから、あれを使って益〃風邪を引くまいと思いますが、哀れなことには、うちのお風呂がこわれたのよ。そしてもう同じかまはないのよ。銅がないから。お寒くはないでしょうね。 
十一月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆榎戸庄衛筆「秋果豊収」の絵はがき)〕
この絵は光線ばかりにとらわれている作品だそうです。ギタギタですって。こうやってみると人間の危っかしい描き方ばかりが眼について、女の人などひざを一寸押すと、それきりガクリとゆれそうね。本当の動きの為に全身の筋肉を緊張させて爪先だっている女の弓なりの体などは本当に美しいのに。こんなアトリエのうそでごまかして。ブリュウゲルの写真版のいいのがあってペンさんが貸してくれ、台紙に入れて今日出来上りました。この画家の健全な面が発揮された絵で収穫の図です。色彩も非常に新鮮です。お目にかけられないのがざんねん。 
十一月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十一月十八日
あなたの方がうちよりも風邪については早手まわしでいらっしゃいましたね。こちらは今日あたり繁昌です。私は三日目で、昨夜湯たんぽを二つあてて寝たら今日は大変によくなり、国男さんは青い総毛だった顔をして、どてらを着込んでいます。私の風邪は簡単なもので、もう大丈夫ですから御安心下さい。
ヘッセの『イリース』等を出している本屋の名が芸文書院と読めたのですが、それで当っているでしょうか。一番最後の行の良い芸術と書かれている字と照し合せてそう判断したのですが。本屋のところがおわかりでしょうか。教えて頂けますか?出来たらばどうぞ。
『現代ドイツ短篇集』は手許に来ました。いつでもお送り出来ます。(このところで何故かペンさん、莞爾としました)きたならしいニッコリね、にくまれ口だけは御自筆。書いて字をみたら大笑いをしてしまった。だってきたならしいと書きながら、その字といったら!ペンさん曰く、「全体こんな字ばかりだったらどんなでしょう!」と。多分あなたは肩がこっておしまいになるわね。あっちへよろよろ、こっちへよろよろで。
南江堂へ聞いてみたところ、目録はドイツ語の医書と科学書の原書のみで、訳註本のはやはり出していないのだそうです。
ウワバミ元気のこと[自注4]については、一同に朗読して聞かせたところ、御難という程でもなかったとのことです。あなたのトンビは、今考えれば本当に惜しいけれど、壺井さんが帰った時、勤めに行くのに着るものがなくて、あまり困ったのであげて、今でも大事に着ています。私達の通知状を世話やいてくれたし、そんなこんなでまわしたのですが、黙ってそんなことをしていけなかったかしら。夏服も同じ人に使せました。冬服は私のいない時に(九年のはじめ)だまされて誰かにとられてしまいました。四谷に国男さん達が住んでいた頃。こういう風に書いてみると、何んにもなくしたようで厭な気持ね。でも緊急になくて困っていた人があって、いくらでも買えたあの頃の私達の気持では、蔵っておいて虫に喰われるよりは、と思ってのことですからどうぞ悪しからず。
赤ん坊の名前はまだきまりません。セカンドジョンの話しを聞かせたら誰れも知りませんでした。私は勿論よ。中々しゃれたことを御存じね。お説のとおりですから国男さんが照という字を嫌っているし、また考えなおしてみましょう。
広島へはすぐ葉書出しました。お母さんはもう行っていらっしゃることでしょう。私にもあのあたりの町の景色がみえるようです。歴史が無限のエネルギーを持っているということは、人間の究極の希望と信頼の土台で、それ故に人は自分の一生というものの価値を外見上の一生の現れ以上のところへおいて考えることが出来るのですが、「多少の感慨」は時に中々痛切です。人は同時代人の種々相を感情の小さい面に反射させ易いものですね。
文芸欄のある新聞は『都』だけだったので、またとろうとしたら『国民』と合併になって、『東京新聞』という名になっていました。内幸町の新しい船のような白い『都』の建物は中身がどうなっているでしょう。それでも細かく一頁を使って、いくらか特色をとどめているから可愛ゆいと思います。十何年来買ったことのなかった色々の月刊雑誌も寄贈をやめましたから、このことも様子が違います。さて買うとなると、この頃の内容広告は一円が惜しいようなものでね。しかし悪い米も食べてみなければ、悪さも良さもわからないというところもあります。
気がついてみたら、そちらからのお手紙はもう三四通前からすっかり自分で読んでいるわ。ですからどうぞどうぞ面白い手紙を下さい。この字は不思議と読めるただ一つの字なのだから。子供の時あなたも「面白いお話しを聞かせてよ」とおっしゃったでしょう。そういう人はいつもきまっていたでしょう。子供だって、きらいなやつに面白いお話しをせがむような鈍感な間違いはしないわ。
寿江子が昨日電話を寄越してあちらは終日雪だそうです。東京は街の黄色い葉を落して強い雨降りでしたが。佐藤先生のところへ手紙を寄越して、色々気持の病的なところを訴えてきたそうです。体はみたところ肥って、陽に焼けてしっかりしたようだそうだけれど、神経がどうこう、気持がどうこうというわけで、そちらの方が難物です。私も気にしているけれど、お医者様への手紙には「うちのものには絶対に言ってくれるな」と念をおしているそうだし、一寸手の下しようがありません。年齢的にもむずかしいのだろうし、何か感情の上へショックを受けたことがあるのではないか、という気もします。率直なようだが、事実は決してそうでないから、苦悩の原因が誰れにもわからない。そういう状態の時、人はすべてを沈黙のうちに自分の力で整理するか、さもなければあけすけに感情の動機までを話して、それによって解放されるか、二つに一つしかないもので、寿江子のように波紋だけを周囲に訴えて、根源をおしかくしているのは困ると思います。東京のものがあの人ににくみをいだいていると感じているらしいが可哀想ね。にくらしいものならば、たとえば私がこうやって借金暮しの中から、どうして体を直す為の金を出してやるでしょう。私のようにどこにいても、どんな時でも自分の責任に於て、周囲の人の善意を信じて暮すものには、特に病気などした時、寿江子のような心持はどんなに蕭々(しょうしょう)としたものでしょう。治る病気も治りそうにない。この間少し元気をつけるような手紙を書いたら、気に入らなかったらしくておこってきました。普通ならあなたに一度手紙をやっていただきたいのだけれど、何だか今は一寸手がでなくて、折角あなたが書いて下すってもそれがどううつるか、わからないからまたのことにお願い致しましょう。そちらへ行けないのがそろそろ焦立たしくなってきました。庭へまだ楽に出られないのだから、若し乗物に乗ったら必ずひどくなることがわかっていて、やっと辛棒します。誰れも行かなくて全く厭です。そんなことを拘泥していらっしゃらないだろうけれども、私とすれば厭なのよ。
街の並木の黄葉がきれいだそうです。

[自注4]ウワバミ元気のこと――「ウワバニン」の注射のために百合子は亢奮状態におかれて結果がよくなかった。そこで「ウワバミ」という家庭のアダナがついた。 
十一月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆杉本健吉筆「博物館中央」の絵はがき)〕
この絵葉書をみたら、昔ここ(奈良)へ来た時のことを思い出し、空気のかわいたカランとした感じがとらえられていると思いました。
今日セルとメリンス襦袢がつきました。庭の青桐や紅葉が黄葉の最中で中々きれいです。去年の秋はこんなにゆっくり秋色をながめる心のいとまがなかったけれども、今年は東の窓や西の窓をあけ、さては北側の動坂方面を眺めたりして、動坂の家に屋根をおおうて欅の木があったことをも思い出します。夜中に落葉の音が聞えます。輝チャンに送る毛糸が殆んど揃って、近日中に送れます。私が火鉢で湯のししてなかなかいい毛糸です。十一月二十日 
十一月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十一月二十二日
今日の日曜は珍らしく穏やかな秋の小春日和です。昨夜も夕方、月ののぼる頃は東空の眺めがなかなか趣きありました。二日続きであしたも休みだから、国男さんは大変のんびりして太郎も大喜びです。昨夜は新しく買ったベートーヴェンの「第九」を三人で聴いていると、太郎は大きいテーブルの下にもぐり込んでふとんにくるまり、コーラスの声々を聞きながら半分眠ってみかんを食べていました。大きくなってこんな土曜の夜を思い出したらどんなに懐かしいでしょうね。私はひどく感興を覚え、こっち側からのぞいて「極楽極楽」とほめてやりました。
今日は色々嬉しいのよ。天気がよすぎて私の眼はまくまくで、一入ものがみえないけれど、起きたらお手紙が来ていたし、寿江子からもきていて、あの人も初雪と一緒にやっと峠を越して、同時に宿屋にオルガンのあるのをみつけてすっかり元気をとり戻し、「悪夢からさめたよう」だそうです。一日雪明りの部屋でオルガンをひいて助かった気持になっているらしくて、私にとって今日が一層心のどかな休み日となりました。どうぞあなたもお喜び下さい。あの人もこうやってゆきづまりながらトコトンで何か打開して生きて行くことを学びつつあります。体の調子にひき廻されながらも。どんなに安心したか、御想像下さい。何しろ、何を言われても総毛立つというのだから、私としては自分の食べるチーズでも分けて送ってやるしか手がありませんでした。まあ本当によかったわ。この人も泰子も成長の一段階毎にヒキツケてゆかねばならない質です。精神はいつもそういうものですが、この人達は体がそんな風になります。寿江子のは泰子のように口から舌押えの棒をたてる代りに、おそろしい呪いの言葉を発します。こう書いて今日は笑えるから嬉しいわ。これで私もまた一層のんきになって治れます。私がひっくり返って治るまでに、咲枝やおなかの赤チャン、泰子、国男さん、寿江子、みんなが揃いも揃って一つの時期を通って、私の医療につれて何かそれぞれ+(プラス)を得て、国男さんは神経衰弱が治ったりして本当に禍福あざなえる繩ですね。文法書のことは承知致しました。たちばなの本は来ていますから、一緒にお送り致しましょう。
歯のこともわかりました。市中ではみんな金冠を使っています。一定量だけ各医院に配給されるのだそうです。
今読んでいるカロッサの小説は本物で、なかなか面白く、一日置きに読んでもらうのが待遠しゅうございます。カロッサが大戦後のドイツの生活のなかから希望と精神の確乎とした人間成長の可能を見出だそうとした熱意が限界を持ちながらも真面目に伝えられています。はじめて小説らしい小説を読んだから、感銘が新鮮でいつか余程前にジャムの「夜の歌」を読んでもらって、その感銘が私のなかへ「祝い日」の出来るようなリズムをかき立てましたが、おなじようなことが小説の方でおこるようです。これも嬉しいことの一つ。この小説を読んで何となくバルザックを思い出しました。この二人の作家の間にある違いは多くの要因を持っていますが、一つは明らかに純正な人間の叡智の敗北の悲劇を自覚したものと、バルザックのようにそれは自覚しなかった作家との違いだと思います。文学の精神の相異がここに何とはっきり出ているでしょう。カロッサの少くとも過去の小説には悲劇のなかで自分の精神をとりまとめ、希望をとり失なわず生きようとする健(けな)げな心が脈うっています。日本文学との対比を考えます。「茂吉ノート」で「自然はコスモスであることを失ってはいない」と言った人は、それでも、色々殊勝な心がけがあるらしいことよ。文学は文学であることを忘られない作家の一人であるらしくみえます。ユーゴーその他の作品はずっと昔に読んだけれど、今読めばまた今の判断があるでしょう。けれども、今の私は当分現代に近い小説をドシドシ読んでもらって、小説ひでりを医(いや)したいと思っています。あなたに興味はおありにならないかしら。
今年の冬は寒そうで、そのしのぎの仕度が大変です。しかし太郎は十二月の十日の誕生日に、スキーの道具を一揃いもらいます。そして一辷りやるでしょう。父さんはちぢこまってどてらを着ていても、息子は雪の中にころべまた起き上って辷れ、と願う心は自然な健全さを持っているものですね。私もこれには満足です。 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
今日は久し振りで吉報をもたらします。昨日午後一時五十分男の子が生れ、九百五十匁でまことに見事な坊主だそうです。七時半頃起こされてみたら、もう洗面所で支度していて出たのが九時少し前、いいお天気だったし、時刻も程々でおまけにお医者にほめられるような子供を持ったから一同大満足です。特に父親は今度初めて全過程を一緒にいてやって、大変深い感銘を受けたらしくて、赤ん坊と母親への可愛ゆさと健げさで心を動かされたと言っています。こういうことも私が動けないからの反ってよい結果です。私は昨夜から泰子の養母になって横にねますが、頭のなかに不調和があるから、泰子の眠りは不安で幾度も目が覚め、泣きます。その度にこちらも起き、この数年来のああちゃんの辛苦がはっきりわかるようです。ああちゃんが心臓を悪くしているのも全くこの泰子の重さと、やっと眠りかけると、それを中断される不断の疲れだということがわかります。私は泰子に自分の心臓はやりたくないから、だんだん工夫してもっとうまく一緒にねている女中さんに手伝ってもらう方法を講じましょう。今度の赤ん坊は私の病気のために、母さんが注射したりすることになり、思わぬもうけものでした。「やっぱり百合ちゃんの病気で、気をもんだりしたのが悪かったのね」などということではたつ瀬がなかったから。
「正直の頭べに神宿る」ということわざは、現代ではこんな形に出てくるのね。しじみやが正直にざるをかついで働いているお蔭で、大金を拾ったというような昔の正直のむくいよりも、どうもこういう方が理屈にかなっていますね。ですからみんな愉快です。私は一晩で疲れて、今日はもうろうとしているけれどそれでも満足です。ペンさんが昨日は非常召集で病院へまで行ってくれ、生れた子もよく見てきてくれました。「この子は本当に、生れた時から知っているんだから」と大えばりです。この人には一家のなかの死に損ないから誕生まで、何やらかやらと厄介をかけます。今日は木枯らしが吹いているけれど、風邪お大事に。十一月二十五日 
十二月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
十二月三日
今日は珍らしい報知を致します。泰子が昨夜の十二時から今日の昼までたっぷり十二時間眠ってうち中をアッと言わせました、何年にもないことです。この間中は一時間、二時間おきに起きてないて、私は全くグロッキーになり、一昨日は病人となりました。手つだいの人達が気の毒に思って自分達の方へ寝かしてくれ、一晩でかぶとを脱ぎ、昨晩は、さてこれから一合戦と覚悟をきめていたら、思いもかけず眠り通して六時半の太郎の目覚ましで、私も起きた時には思わず床の上に坐って、しげしげと泰子の寝顔を眺めました。せめて五時間でも続けて毎晩ねられればいいのにね、と。可哀相に。泰子も出産の時、圧迫によって脳に出血したらしくて、その為こういう有様ですから小さい体のなかに正常に伸びる力とそれに伴わない神経の萎縮があるから絶えず不安で困るのでしょう。今日は私も、夜昼とり違えでないから気分もよく、かんしゃくも納っています(この風に吹き当てられるのは他ならぬペンさんで昨今は時々向い風に吹き当てられるような目付きを致します。ところがアッコオバちゃんはえらいスパルタ教育だから生活はお手柔かな日ばかりあるものかという勢いで相当抵抗力を養成しつつあります)
御注文の辞典類は木村の『和独大辞典』と白水社の『和仏辞典』とがあったので、書店から直接そちらへ送るように送金致しました。『朝日年鑑』と片山の『ドイツ文法辞典』と、『ドイツ現代短篇小説集』お送りしました。芸文書院のことはお手数すみませんでした。早速電話したところ、現在カタログはなくて、在庫品としては単語集と童話集があるだけだそうです。
『毎日年鑑』はまだ出ていませんが出次第とっておきましょう。
赤ん坊はずっと良好で三十日のお七夜には健之助という名がつきました。そちらの御意見がみんなに同感されて、次郎、三郎はお廃し、ということになりました。なかなかしっかりしたよい名で好評です、合作ですね。
今日寿江子が帰ります、そちらに行ける人が出来て私はやっとホッと致します。
隆治さんが二十五日から九日までうちへ泊ってそれからまた南へ行くということが友子さんと母上のお便りでわかりました。やっと無事帰ったと思っていたから、私の気持は苦しくて可哀相で、じっとしていられないようだし、素手でまた南へやるのはとてもしのびないから、大さわぎをして色んな人に聞き合せて南から決死隊で生還したという人の準備を聞くことが出来て、今日はどうぞこの包みが間に合うように、と願いながら緑茶を小さいカンにつめたり、かつお節をけずったり、紀(タダシ)さんに頼んで夜光磁石や、天文図やウィスキーの瓶詰などを陸軍の方から買ってもらう手筈をしたりしています、その前に南方ではビタミンBが命の親と聞いて、メタボリンを九〇〇錠送りました、が、あとから聞いたものはみんな体一つで何とかしのがなければならない時、油紙の氷ノウに入れて体につけていて、役にたてるものばかりで極く実際的に有効です。嬉しくなって、何でも揃えようと頑張っています。ジャングルへ迷い込んだっきりになるものが少くなく、それ等は磁石も天体測量も出来ず、ましてそれを食べるかつ節なんかは持ち合せない気の毒な場合が多数だそうです。隆治さんはああいういい子で、勇気もあり、忍耐も強く、責任感も大きいから、私達とすれば一層万全を期して出来るだけのことは考えもし、揃えても持たせてやりたいと思います。本当に発つ日がわからないから心配です。南のことは誰も不馴れで、何となく手がない気がして、決心ばかりするしかないのだけれど、こちらでこれだけのことがわかって包みが間に合えば、いくらか心ゆかせになるというものです。梅干布などというものもあって、これは島田で作っていただきます。さらし木綿に梅干汁をひたして天日に乾かし、それを小さく切っていざという時しゃぶるのだそうです。成程これは渇きをとめるし、腹にいいしお菜になるし、さすが経験者の考えることです。水に入ってあせって泳ぐなということも強調されていました。そんなこともみんな伝えます。
私が行けないから小包みばかりがノロノロと道中して行くのかと思うと気がもめますね、いつぞやの栄養読本が半月かかったあのでんでは隆治さんは出発してしまいます。こう書いているうち益〃不安になってきたが土曜日から日、月とかけててっちゃんに行ってもらってはいけないでしょうか。島田から達ちゃんにでも広島まで出てもらって、一緒に面会して品物も渡してもらったら、伝言も出来て、いいと思うけれども、それを頼んではあんまり勝手でしょうか。明日は寿江子がお目にかかれるだろうから、そちらの御意見を伺って、てっちゃんの都合がつくなら、旅費を出して行っていただきたいと思います。本当に小包みさえ早くつくならば。
こんな心配をして、お七夜さわぎをして、夜番をするのだからアッコオバチャンだって気もたつわ。無理ないでしょう?おまけにね、どてらの心配もあるのよ。辞書をひくなんというやさしいことではなくて田中さんという浅草の女の人がいつになったら我が御亭主の為にポンポコどてらを縫い上げてくるかという心配。何しろ、東京の人はこれまで袷で冬を越しているから綿入着物が珍らしく、縫う人はゴテてそれが恥かしくもない顔をしているから毎年私は恐慌をきたしています、九月から頼んで十一月一杯というのが今日もう三日でしょう、ですものね。
あなたの十分の一の正確さをそういう人達が持っていてくれたらあなたもどんなに楽でしょう、(何だか吹きだすわね)
達治さんが去年六月に応召の時は面会が出来なくなりましたが、今度はどうかしら。あんまり多勢動く時はそうなるのですが。
自分で行けないのは何て歯がゆいでしょう。隆治さんについてはあなたの日頃のお心持もよくわかっているから、私も心をくだきます、どうぞ無事でまた会えるように。お母さんも隆治さんの体の丈夫なことだけを頼りのようにお書きでした。
私の体は二十四日以来可成りの無理があったから、随分気をつけてマッサージもまた始め、昼間よくねるようにしておりますから御心配下さいますな、何といっても体の大きい五つの子供をだくのは骨よ、体中にしまりのない子なのだから重さは非常なもので、皆、可愛がりながらヘコたれます。毛足袋、かかとが少しゴロつくかしら。風邪をお大切に。 
十二月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
金曜日には久し振りで寿江子さんがお目にかかり、元気そうにしていらしたというので安心しました。
それに隆治さんのことについても指図していただいて有難う。今日(七日)光町と隆治さんと両方から便りがあって、私の速達や薬だけは間に合ったようですからいくらか安心です。たびたび電報して七日に面会にいらっしゃることがわかり、二度目の速達で南方帰りの人の注意してくれたものを申しあげておきましたから、こちらからの小包は七日に間に合わないが、品物だけ揃えて渡すようにお願いしました。こっちも大さわぎで、磁石を探したりウィスキーをみつけたりしましたが、それは又いくらでも用にたつ道がありますから。
隆治さんの手紙は相変らずあっさりしているけれど、今度は自分でも考えることもあるとみえて、島田のみんなが元気なので安心したということや、顕兄様のことを何卒よろしくとくり返し書かれていて、読む方はおのずから感じることも深う御座います。あとから隊宛に品物を送ることが出来れば、もうしめたもので、それが出来る時は私がやっきになって持たせてやりたいとあせったものも不用となって目出たし目出たしのわけです。忍耐強い子だから根が切れてどうこうということはありませんが、人間の貴重で精緻な体をふっ飛ばす暴力はやり切れません。
うちでは三日夜寿江子が帰り、五日午後咲枝が腕に赤ん坊を抱いて、湯上りのような顔をして帰宅しました。これで一家の顔が揃い、私は病人に戻ってよいわけですが、泰子を誰がひき受けるかということもきまらず、女中の一人が兄貴にけんかをふっかけさせて引き上げるという次第で、口の先では病人に戻ることを我れも人もやかましく言っているけれど、なかなかです。しかし眼のためだけ考えても、私は度胸をすえて、この疲れを休めなければなりません。今日中には看護婦が来るそうだから、赤ん坊の方だけは一かたつくでしょう。この頃はどこもかしこも修羅場で、多賀ちゃんの手紙に「静かな陽なたでゆっくり静養していらっしゃるでしょう」とあって、大笑いになりました。こうして悪い条件に速力を鈍らされながら荷物をひっ張るようにいくらかずつよくなってゆくのが実際なのでしょう。人手が揃って静かに陽なたぼっこが出来るような全体の世の中なら、言ってみれば私も半盲になるような途方もないことはあり得ないわけで、一事が万事ね。しかしあんまり閉口だから、二月にでもなったら、伊豆の伊東に安い宿屋を聞いたから(ペンさん曰く、「来年になったら上っちゃいそうだ」とのこと)ゆっくり温泉に入りに出かけたいと思います。私の心配するのは眼のことだけよ。こういう風にのそのそしている内に、視神経が萎縮を起したら大変だと思います。もしかしたら年内にもう一遍眼底をみてもらうかも知れません。本は本屋から着きましたろうか。
毛布のことわかりました。毛布とどてらと一緒にお送りしたいものだと思っています。
もうあれから一年たち、今年が二十日ばかりで終るとは何ということでしょう。だれしもこの一年はゆっくり息をつく間がなかったでしょうが。
今日から配給のお米は、とうもろこし入りになり、まるでいり卵をかけてかき交ぜた御飯のようで、玉子をたべることは少いから、玉子好きの私達は錯覚をおこして、おいしいものをみたような気が一寸します。そして味も案外苦にならず、人間の食べるものの範囲の広さを考えさせられます。
読んでもらっているカロッサの小説が、もう少しで終りです。いろいろと面白く、感じたことも多くありますから、それはいずれお正月に。ああ、でもお正月と言っても二十日前後にそちらへの手紙は出さなければならないから大変だわ。それまでにこの眼がもう一寸安定しなくてはね。
てっちゃんがこの間あなたの御意見を伺う前、もしいいとおっしゃったらと思って、前もって都合を聞いたらば、心よく引き受けてくれて嬉しゅう御座いました。あなたのお考えを聞いてから、はっきりしたことはきめることにしてあったから、つまり中止になりましたが、それでも忙しい中を躊躇せず行ってもよいと言ってくれたのは、いつに変らぬあの人の気持のよいところでありがたいと思います。毛糸も子供二人分なかなか手に入らず、先ず一人だけ送りました。あとはまた店に出た時みつけて送りましょう。
今日は百合ちゃん大ヘバリです。だからこれでおやめ。今、食堂に居たところ、先ず大きな大きな海苔まきのような毛布包みの泰子を抱いて寿江子が現われたと思ったら、ホゲーホゲーという声を先立てて、赤ちゃんを抱いたああちゃんが続いて御出現。泣き合せという光景です。御想像がつきますか?私は二階へ上らざるを得ないでしょう。ざっとこんな始末よ。では風邪をお大事に。
健之助は健啖(けんたん)之助とつけるべきでありました。ああちゃんをみていると、年中粉ミルクをかきまわしています。十二月七日 
十二月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆コロー筆「ナポリ」の絵はがき)〕
十二月七日、夕刻電報拝見しました。ああ本当にこういうこともある、とすぐ駒込郵便局へペンさんに電話してもらったところ、この頃ずっと小包みは受付けない由、手紙だけ。それも不定期で、その時になってみなければ、飛ぶか飛ばないかわからないということでした。折角の思いつきも右の始末ですが、今日手紙に書いたように、もし島田の人が本当に心配をするなら、二度目の速達の品を揃える時間はあったわけですから、すべてが徒労になったわけでもあるまいと思います。お母さんも薬のことはお喜びでお手紙がありましたから。電報の御返事取敢えず。風呂の釜がなおることになって大喜び。 
十二月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
ペンさんがヘントウ腺をはらしたというので来ず、うちは泰子さわぎて眠らない人ばかり。私は手紙が書きたくて気がもてず、二階へ来て、こんなかきかたをして見ます。柔かい5Bでこうやって書くのは割合楽よ。あなたもこの間うちはあちらこちらとお忙しかったのね。隆治さんと母上とからけさおてがみで、私の細かいことづてもつたわり、物も届いた様子です。七日に小包が間に合わないから、速達で申上げたものを広島で買っておわたし下さいと電報したことや、航空便のダメなこと申しあげましたね。これをかき初めていたら、太郎が九日ごろのお手紙もって来てくれました。それともこれは十日におかきになったのかしら。
あなたも永いこと御不自由ですみません。自分でいろいろ出来ず、電話かけてもまだはき気がしたりして本当に厄介ね。毛布が送れて一安心。どてら、いつ縫って来るつもりでいるのでしょう!そうそう牛込の荷物ね。あのなかにはオリーブ色、細かい格子の裏の絹の丹前があっただけでポンポコはありませんでした。あの昔のなつかしい染ガスリの夜着のようなのは。
私は国男さんの所謂じれったがらない修業が大変よ、何しろうちは何かの巣のような騒ぎで、考えておいて黙って実行されるという一つのこともないのですもの。きょうのあなたのお手紙にパニックは起さずとあり、又向い風とかきかけて消されてあって笑えました。そして、こうやって一人自分のカンシャク姿に笑えるのは、やはり一つの慰安なのよ。こんな紙にこんなにかくと、何もかかないうち何と長々と、お軽の手紙のようになることでしょう。
小曲
小さな男の児が 大きい椅子の根っこで じぶくっている
父親は遂に夕飯に帰れず となりの子供たちは みんな出払っている休日の夜。
男の児はじぶくっている 「お父ちゃまとお風呂に入りたいんだよ」ウェーンウェーン
母親はミシンを動している これから生れる子供のために 椅子の上には 赤い毛糸の足袋で 小さい女の子が笑っている
「お父ちゃまと一緒に 入りたいんだってえば」 母はなおミシンを動している。
やがて女の児がつれ去られ 泣きつかれた男の児は そのあとへ這い込む 九歳のしなやかな 日やけ色の手脚をまるめて 名もなつかしい おじいさん椅子(グランドファザーチェア)は おだやかに大きく黄ばんだ朽葉色
気持の和むなきじゃくりと ミシンの音は夢にとけ入り 時計はチクタクを刻む
となりの子供は みんな出払った休日(やすみび)の宵。十二月十一日 
十二月十四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆コロー筆「樹陰」の絵はがき速達)〕
十二日朝の速達戴きました。(十三日)
隆治さんに送る物に就て、はっきりその後の様子を申上げなかったので、気を揉ませて済みませんでした。七日に間に合うよう、電報をして、品物を揃え、母上から隆治さんに渡していただきましたが、ウィスキーや、磁石は、もしないといけないと思って、小包で島田宛送って置きました。書留小包にすると、割合早く、確に着きますから、二十五日頃もし出発が実現しても間に合うでしょうと思います。私の二通の島田宛の速達も隆治さんにお渡し下さったそうです。二十五日頃と云うのは、隆治さんの予想だそうです。お互さまに気をもみましたが、これでマアいくらか安心です。この次の面会は出来るものやら出来ないものやら不明だそうですが。小包を出したらホッとして、昨日の手紙にその事を書きませんでした。今日はうすら寒い日曜日ね。飛行機の音がします。 
十二月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
きょうもお軽の手紙ですが、紙を更えて。これなら恥しいほどズルズル長くはなりますまいから。
十七日のお手紙をありがとう。
隆治さんのことはやるだけやって見て全くようございました。あとから送った磁石(夜光)やウィスキーなどが十六日に届き十八日に最後の面会だったそうでした。ウィスキー磁石等紀さんに大骨を折って貰いました。ウィスキーはポケット用のビンではこわれるから大さわぎして水筒を買い(これも今はない)それに入れかえて送りました。隆治さんから十九日に電報が来て、
イロイロノゴハイリヨアリガタクウケマシタゲンキニシユツパツ
とありそれを見たら涙が浮びました。有難くうけと電文をかいているところにも、あの人の気質がよく出て居ります。生かしてかえしたいと切望します実にそれを願います。
ウィスキーは内国産でも現在は薬用に足りるだけ純質なのが少くて、散々人手を経て一ビン買い小売りをしないというので大枚を投じ、うちにあると、無駄にのむ奴がいるから紀さんにあずけてあります。それから水筒を又一つ入れて達治さんに送っておきましょうね、今度のように気を揉むのは辛いから。
達治さんも同じ方角でしょう、そちらに重点がおかれているらしいから。磁石は手に入るかどうか。天文の本は紀さんの意見では非実用の由です。
実に特別な年末ですね。
この家での生活は、子供が三人になったら又一つ様相変化して大変なものです。太郎は今私と一つ部屋に寝て居ります、泰子が四十度ほど熱を出しているので。赤坊についている看護婦さんは泰子が熱を出すと同時に自分も熱が出たそうで、ねて居ります。赤坊が人工栄養だし、泰子がああだし、お母さんは本当に二人の子供の間でキリキリまいをして居ります。したがって私はどうしても家のことに手を出さずにはいられなく、そのため過労してパニックも生理的におこったのですが、よくよく考えて、もう余りつかれないようにしようと決心したので、この二三日は幾分ましです。
ペンさんはこの頃は一週一度にして居ります。「自分の生活とまるで関係がないから」とはっきり云われると私は切ないからもうこういう法式で自分がかくことにしました、あなたにだけは。用足し手紙は仕方がないが。
寿江子の体いろいろありがとう。
こうやってチラチラと定まらない視線の間から、段々に少しずつ字も書いて行くのがいいのでしょう。全く視力の恢復の手間どるのは苦痛となって来ました。本はよめません。知っている字をこうやって半ば手の調子にたよって書くことの方が出来るのね、使う字もわかっているし。この頃は少し頭の疲れもしずまって来て、注意もやや集注するようになったので、眼のおくれは一層切実に感じられることとなりました。
近日うちにお金もお送り致します。森長さんや九段は例年通りでよろしいでしょう?
もう一度は年内にかけますね、或は二度?この一つ二つの手紙の中で今年出来たものをみんなおみせして新年は新しい諧調をもってはじめたいと思います。風邪はお気をつけになって。 
 
一九四三年(昭和十八年)

 

一月三日〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕
明けましておめでとう。そちらはいかがな正月でしょう。こちらは兎も角ヤス子が命拾いをしたので、どうやらお芽出度い春らしい三カ日です。国男さんが風邪をひき、その上目を悪くしてお雑煮を食べられません。太郎は十になったから頭を丸い三分刈りにしたら面ざしが変る位男の子らしくなりました。私は今年は完全にね正月、一日のうち起ているのはお雑煮を祝う前後の数時間で、夜とひる前は床の内です。ヤス子騒ぎの一段落後は私もやっと安心して、人間並の疲れかたになり、即チ何をするのもいやと云う風になりました。ポーッとしてねどこばかり恋しがっていますからどうぞ御安心下さい。今迄はこんな気のゆるんだくたびれかたの出来ない程度にしか、神経もよくなっていなかったものと見えます。タカちゃんからお菓子を造らして送ってくれました。徳山の菓子やでしょう。今日はテッちゃんが見えました。みんなからよろしく。 
一月七日〔巣鴨拘置所の宮本顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
一月七日
暮の二十六、七日はうち中、今にも泰子が駄目になるかというさわぎでしたがそれでも幸い持ち直し、二十八日には寿江子がそちらへ行けました。二十八日には色々世帯じみた必要事について寿江子が伺ってきたので私にとっては一層よい年末の贈物で大晦日や三カ日は全くのんびり致しました。
相変らずかたいお餅を上りましたか。今年はそれもなかったでしょうか。うちは菓子なしの正月のところ、多賀ちゃんのお心入れのまがいカステラで思いがけずテッちゃんにもお裾分けしました。
去年は咲枝のお産をひかえ、何しろ弱い人だから夏頃の工合の悪さから見て無事にすむかどうか誰しも不安だったので丁度私が回復し始めるころから十一月にかけどうしても気が張っていて私は力以上の緊張が続きました。咲枝が留守のこともあなたがお考えになるように我から買って出た役でもなかったのです。ここの父親は子煩悩だけれども遊び仲間で、死に騒ぎにならなければ夜子供をみるというような世間並みの習慣はなく、亭主教育されているから咲枝としては私にでも頼むしかなかったのでしょう。全責任を一人で負う女中さんというものはあり得ませんし。
どうやらやっとそのお産のゴタゴタもすみ咲枝の体も順調で全く一安心です。泰子が生きると決ってから私は全く体中の力みをゆるめて夏以来始めてクタクタになり十三四時間も眠ります。相当なものでしょう。うちの人達も私に無理をさせていたことが必要がすんでみればはっきりわかってきて今は休むことを頼まれ私はいい身分よ。何しろ呑気にしてさえいれば安心だというのですからね。
今の調子で春までのんびりしたら眼もよほどいいでしょう。伊東へ行くことなども考えていたけれどもあすこは防空地帯の甲で、これからは東から西への気流がよくなる折からだし、地方の常識外れも怖ろしいし、やっぱり信州辺の温泉へでも行けるまではこの二階でずくんでいようと思います。軽挙妄動は怖るべしですから。
薬のことを有難う、でもねオリザビトンは買ってあるだけは飲んでいただきたいと思います。効く薬なら尚のこと、何しろ、そちらの食事は手にとるようにわかっているのですし。こちらはメタボリンとレバーとでいいと思います。薬はこの程度で充分な休みと一日の間の適当な用事の配分とできっといいでしょう。片附け熱病がすっかり消えてこの頃はどうやら何時もの百合ちゃんの緩慢状態になりました。今日になってみるとああゆう頭の打撃は本当に自然になるまでに極く小きざみで複雑な神経状態を経るものなのね。考えるすじ道はまともでも動作やその考えのスピードなどに色々なニュアンスで普段でないところがついていて、気質の少しどうかした人ならそして人間に対する根本の信頼がない人なら、その妙なところが固定してしまって所謂大病のあとの人変りということになるのでしょう。考えの道はまともで何だかその人らしくないなどというのはこわいわね、そういうことが自分にわかってきただけ丈夫になったのでしょう。手紙は何といってもすじばかりのところがあって、目でみ、感じるその人らしくなさ、は手紙には若しかすると少ししか現われないのかも知れないわね。
私の方はざっとこうゆう工合です。
富雄さんから写真が届きましたか。裏に最近の勇姿、と書いてありましたか?やっぱりあの人ね、二百枚もうちへ写真を送っているんですって。隆治さんはどこで正月をしたでしょう。船の上ね、お餅があったでしょうか。
今日はこれだけでまたね。机の上に実のなった豌豆の花があってそれは大変生き生きとしてきれいです。お豆腐の味噌汁は近頃珍物よ。さや豌豆(えんどう)で思い出しましたが。 
一月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
一月十一日
一月八日のお手紙有難う。
泰子はいいあんばいに順調でこの頃は私が「やっこちゃん遊びましょう、ジュクジュクジュク」(これは歯と唇の間からたてる妙な音で泰子のお気に入り)というといかにも美しい顔で笑うようになりました。丈夫な子でも肺炎をすると数年遅れるというから泰子などはさぞひどいことでしょう。
すっかり髪が脱けました。病後のやつれたしかしほっぺたなんかの赤い顔をして目はキラキラ全く星のかけらのように見事に輝いています。この輝きがもっと天上的でなくなって人間の子の喜んでいる目付に戻らなければすっかり回復したとは言えますまい、大変可愛いことよ。手がまたなくなっていますが、私はもうああちゃんが丈夫だから下のさわぎにはかかわりなく今日のように気持よい雨がどっしり降って、ぬれた冬の木立がきれいにみえるとこの間に一本大島椿の真赤な花の咲くのを植えてみようなどと考えています。昨夜珍らしく夜中に眼が覚めたらあたりの暗闇と自分の安まった気持の深さとがいかにも工合よく調和していて、病気以来暗闇が圧迫的で苦しかったことがすっかりなくなっていたので嬉しゅうございました。こんな風にして私の安まりも段々本物になってゆく様子です。みんなの話では私らしい動作や感情の柔軟さが戻ってきて殆んど前と変らなくなったそうです、ただまだ疲れが早いし、疲れると注意を集中しているのが面倒臭くなるけれども。問題はこの眼ばかりよ。
たちばなへ電話したらチェホフはあるそうですからそちらへ直接送るようにいたします。前の注文の分は発送ずみだそうです。「ギオン」と「パルム」は別々になりますがお送りします。
小説のいいものというのはちょっと返答に困る有様でいつかお送りしてそのまま戻ってしまった「チボー家の人々」も作品の頂点をなす(一九一四年)は訳出不能です。スタインベックの「持てるもの持たざるもの」は、「誰がために」への一過程としてみた場合色々専門的な意味で興味ある作品です。アメリカ作家のキャパシティーのタイプの見本として。この頃は世界文学の流れも不自由で身の廻りの作家の書くものではまだ一つもこれぞというものを知りません。なにしろ、私の本を聞く速力ときたら亀の子以下ですからね。一ヵ月に一冊読めないから。もう少し身体が丈夫になったら、もう一人人を探して読む方と書く方を分けたいと思っています。
手袋やその外のことわかりました。寿江子の体についていつも配慮していただいてすまないと思います。私の留守中あの人は全く生れて始て位、本気で親切に努力してくれて、それは重々わかっていますが、一つ二つその誠意に比べてどうしても私に納得出来ないことがあって、それは事柄は些細なものですがそのルーズさが質的によくないと思われ秋頃も一度話し出しましたがその時は自分の精一杯さと善意だけをとりたてて主張して手がつけられなかったが、今は両方の体がましになったせいか二三日前にそれを話し出したら今度は私の真意がよくわかってちゃんとつぼにはまって自分を批評する点をわかりましたから、それは今年の喜ばしい獲物でした。私達姉妹はすじの通った深い情愛に立っているのだからそうやって話しがまともに通じなければなりません。ああいう点はああいう人間なのだから、と、甘やかすことは出来ない。芸術をやろうとする人はましてや「笛師の群」のお話し通り、気立てが大事ですから。低い周囲を批評する力が自分にあるということは自分の高さを意味しはしませんからね。
このことが長く心にひっかかっていたところ、釈然としてお互いに愉快だし、一層しっかりとした大人らしい親愛を深めました。
今日、島田から赤ん坊のお祝いを頂きました。隆治さんを入れた写真はそちらにも行きましたろう。隆治さんは私のおぼろな眼でみると、どこやらあなたに似た風になってきているように見えます。達ちゃんはあの年ではもっと腹にも肩にも生気が張っていなければならないように見えます。やっぱり色々ああゆう表情の気分で動揺しているのね。私の取越し苦労でしょうか。
この頃のお手紙には夜気分がよいとあり、あの長い昼間は気持よくないということを心配します。夕方から少し熱が出て気分がいいのでしょうか。明け放しで頭が冷たすぎて何か気分がよくないのではないでしょうか、タオルなんかかけたらましではないでしょうか。営養が何処にいても悪くなる一方だから私は夜の気分のよさも油断は無用と思えます。呉々お大切に。 
一月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
一月十三日
昨日は面白いことがあったのよ。ペンさん[自注1]に一通書いてもらって下へ降りたら、食堂のテーブルに御秘蔵物が置いてあるので、ヒョイと感違いして、さっき見て書いていたのをいつの間に持って来たのか、サテぼけかたも甚しいとひそかにびっくりしたら、それはまた別ので、しかも十二月二十八日朝と書いてあります。何処かに引掛っていたらしい皺があってそれでも着いたのは感心でした。年の暮にあたってこの手紙には、色々のねぎらいや親切な贈物が籠っていたのに、私は、二十四日のパニックに就ての修養談が一番お終いで、年を越したのは残念でした。勿論、謹聴致しましたが、ああ云う年の暮には、やっぱり、二十八日に書いて下すったような心持もほしいわね。くれぐれもありがとう。
オリザビトンは飲むことにしました。そんなに効くのなら、服んで一日も早くこの眼のマクマクがなおしたいから。今、うちに二三ヵ月分は有りますから、間にこれを当分続けてみましょう。
和独は箱付きかどうか判りませんが、スエコの伺ったのではそのまま間に合せて下さることになったのでしょう。(スエコは意地悪で「ソノママ、マニアワセテ」と早口に続けて云ってみろと云います、ひどいわね。「隣の客は良く柿食う客だ」ではあるまいし。)
この頃は養生訓三ヵ条が実によく守れています。それと云うのも三、四月になって東から西への気流が良くなるにつれて、望みもしないものが天から降って来て、火事場騒ぎなど起らないうちに、一度是非そちらへ行きたいと思い、そのためには、もっと良くなって乗り物に乗れるようにならなければならないから。
私の健康上のプロンプターはスエコで、何しろ永年持病と戦っているから案外疲労の測定が正確で、私より先に私の疲労が見透せるらしいから、口やかましい忠告に従わなければなりません。歯っかけのくせに何て姉さんぶるでしょう!手紙を書いてもらう時の私の待遇はたいしたもので、二階の机の横に行火(あんか)を造り灰皿を揃え、くしゃみをすれば大事な胴着を頭からかけてやって、そして一筆願うありさまです。
でもね、この頃は手紙を書くことに就ても呑気に構えてしまったの。あくせくして一通余計に面白くもない手紙を書いてやきもきしてみたところで、私達の生活の本筋に大した関係はないのだし、結果として、あなたが心配して下さることを、無にするようでは意味ないと思ってね。こう心を決めたら気が楽になって、あなたもそれでよしよしと云っていらっしゃるような気がしているけれど、それでいいの?
私はどうかしてこう云う気質に生れていて、御難つづきの人生などを予想しないし、有難いことに、そんな考えを可能にしないような光があるから、その点は大丈夫です。実際問題としては、目下の吾々の生活は銀行相手の赤字生活ですから、今年の末頃にはポチポチ仕事が出来ないと、閉口です。書き始めるに就ては云々、というようなこともきっとあるでしょうし、なかなかすらりとは参りません。ペンさんのことに就ては、スエコから申した通り充分以上のことがしてあります。もう四年ばかり出入りしている子だけれども、この春には結婚するらしく、そしたらあんまりつき合うこともなくなるでしょう。
ロビンソンは漱石が文学論のなかで、十八世紀文学の常識と無風流と、日常性の見本として、何処にも壮美がないと、あの人らしい美学を論じていますが、成る程、仰云るような古くささが、作品の低さの眼目なのね。漱石の型式美のカテゴリイの問題ではなかったのね。面白いことは、漱石が作家的、また人間らしい稟質の高さから、この作品の意に満たないところを直感しながら、その不満の拠りどころを型式美学に持って行ったところが、いかにもあの時代ですね。ロビンソンのことは漱石の文学論を読んだ時、フリイチェの文学史的な解釈と対比して印象深かったので、短いお手紙の文句だったけれども色々考えを動かされました。あとの文学史先生は、ああ云う作品の発生の起源をちゃんと説明はしているけれど、それに対して今日の読者である私達が、つまらないと思う直感の正当さとその理由に就て、触れてゆくだけの力は持っていませんでした。文学に於ても史家は、そう云う静的な立場から、極く少数の傑出した人々が踏み出すばかりなのね。
この間、始めていかにも気持よく臥(ね)た晩に(父、子が下へ降りて、私一人で眠れるようになった晩)大変綺麗な面白い夢を見て、またの時、スエコを掴え、その話を書いてもらうのが楽しみです。その夢の話をきけば、私がやっとこの頃ゆるやかな神経で横にもなっていることが判っていただけるでしょう。
風邪をおひきにならないように。ほんとうに頭から一寸物をかぶると暖いらしいことよ、かつぎのように。

[自注1]ペンさん――百合子の眼のわるい期間、代筆等を手伝ってくれた娘さん。 
一月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月十六日
十二日づけのお手紙をありがとう。その御返事というわけでもないのよ。約束を守らないとお思いになるかもしれないけれども、この間うちから我慢をつづけて、代筆で。でも、明月詩集[自注2]の物語ばかりは誰に書かせたら私がたんのう出来るものでしょう。しかも、「しきりに寒夜月明の詩を思う」と書かれているときに。そうかいたのは誰でしょう。
去年よりは小さい字が書けるようになったでしょう、依然としてぎごちなくリズムが欠けていて妙ですが。
きょうから毎日一二枚ずつ書いて出したら二十三日前に着くでしょうか。気をつけて少しずつしか書かないから大丈夫です。丁度日向に長くいて日かげの部屋へ入り、そこでものを見ようとするとマクマクでしょう。あんな工合にこの紙や字が自分に見えます。
今のところでは今年も割合暖いようですね、昔の冬は春のようだと思えるほどの時もあったりしたけれど。
この頃、私はもととは流儀をかえて、夜眠る前にいろいろ考えるよりは寧ろ朝めをさまし雨戸をあけて床に永くいるときに、静かで暖かで新鮮になってどっさりのことを考えます。明るい月の流れ入る窓の詩は夜のうたではあるけれども、あれはうたの心の天真さやまじりけのないつよい歓びの情などから朝の光のすがすがしさとも実によく似合います。一層美しさが浮き立つようよ。そしてそのような熱くてすき透ったような詩趣は朝のうたの諧調をも同じように貫いて響いて居ます。なじみ深い愛誦の詩をまた再び声を合わせ格調を揃えて読もうとする気持は何にたとえたらいいでしょう。
残念なことに私の物をかく力はまだあの詩ものがたりの旺盛なやさしい諸情景をこまかく散文にかきなおしておなぐさみとして送るまで達者になっていません。それでもやっぱりこうして私は書きます。
芳しくあたたかく 夢にあなたが舞い下りた
恢復期の寝床は白く その純白さは 朝日にかぎろい燃ゆるばかり。
昔天使が 信心ぶかい乙女を訪れてとび去った 跡は 金色羽毛の一ひらで それと知れたと いうはなし
翔び去ったあとはどこにもなくて そこに もう いないあなた
虹たつばかり真白き床に 醒めてのこれる冬の薔薇。

[自注2]明月詩集――ながい年月の間には、いくつもこういう詩集がやりとりされた。書いたものと書かれたものとの間にだけ発行された詩集。 
一月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
今日は寿江子さんが用足しに出かける処を急に取やめとなったので、二階に来て、私は思わぬ幸にめぐりあったと云うわけです。
十三日から十五、十八と、なかなかたっぷりした戴物で本当にありがとう。まず十三日のから。そちらに飴玉とユタンポが有ってまあまあでした。成る程昨今では袋へ入れる鉄くずがないわけですものね。然し、ユタンポは二十四時間持たせるのには大骨だし、殆ど不可能でしょう。手間が大変ですね。それでもよほど助かるでしょうからいいけれども。防寒の為にタオルでも頭におかけになったらと云うのはフワリと上からただ掛けておくだけのことで、顔までかぶると云うわけでもなかったのです。年始に目白の先生が来た時その話をしたら、寒すぎて頭がジンとして苦しいよりはその方がよかろうと云うことでした。芝居の道行で、女や男が頭に手拭を吹流しにかけて行きつ戻りつするでしょう、あの調子よ。ユタンポでその必要もないかも知れないけれど。
島田の生活のことは、全く色々大変だろうと思います。新設の工場が不向きだと云うことも確ですし。お母さんは、でも、体を丈夫に気を楽にもつと云うことを、心掛けて暮すと云っていらっしゃるから助るけれども。トラックを二台売ったりすれば、今のことだから、一寸まとまった金が入り、それを土台に何とか地道な方法が立てば良いと思います。
色々な処で、色々な形で堅気な人間は、生活の方法に就て苦心をして居りますね。あなたから折にふれ慰めたり、励したりして戴くことは、あっちのみんなも心強いことでしょう。本はこちらでも心がけましょう。『インディラへの手紙』は私達の物ではないのでしょう?「笛師の群」がおやめになって安心しました。ああ云うものはもう重版がないから、私達としては勉強上大切です。今度の新税法で煙草がうんと値上りになり、印刷税と云うのも出来て、二円の本に二割の税が付くようになりました。単行本の用紙がこれまでの半分に制限されました。本はいよいよ手に入りがたい物となって、この暮にひどい古い本を整理したら、およそ百円一寸と玄人がみたのが、市場では、三倍ほどになって、助ったようなものですが、本はお売りにならないようにと、くれぐれ忠告されました。そんな有さまです。本で苦心しない人は五十銭の文庫本一冊のために、どんなに苦労するか判らず、しかもそう云う世間の事情なら、なおさら本をよく供給しなければならず。
病気のことに就て色々の御注意をありがとう。素人考えだと、とかく片づけることばかり急いで、副作用の有害な処置を取りがちです。つい早くなおしたくなるのね。病気にあきて。自然の時期まで根気よく持って行く力がとかく欠けがちです。私としては、病気のさけがたさの条件も判っているし、病菌の蔓延するわけも判るし、災難ながらやたらに手っとり早いことを願ってばかりも居りません。
そちらに行くことも、では、仰せを畏み、あせらずに居りましょう。(ここで溜息をつきましたよ〈筆者註〉)家のみんなも心配しているし、なかんずく、目前の筆者は、行くなとは云えず、安心もせず、私が出かけると云う日には、旅行に出ようかなどと云う有さまだから、本当に急がない方がいいのかも知れないわ。ただ、あっちに火柱が立ったり、こっちに煙が出たりする時のことを考えると、あなたがそのお守りと云うわけではないけれど、何だか一目見ておく方が惶(あわ)てかたが少なそうに思えるのよ。ゆっくりと云えば秋位になってしまうかも知れないわね。今年の夏ばかりは東京にいる勇気がありません。あなたもおおめに見て下さるでしょう。いずれにせよ決して突然現われると云うような趣味的なことは致しませんからそれは御安心下さい。
『人間の歴史』、目白から貰ったけれどまだよみません。「私」と云うものを知らないと云う点、古代人と現代の良識との間には何と云う本質の大きい相違があるでしょう。ルネサンスから二十世紀迄の「私」の歴史が蓄積して来た人間の宝としての大きさ、それから更に拡大した自分としての「私」の無さ、それは漱石が「明暗」の時代にリアリズムに足を取られて「無私」と云ったものとは全く違って、なかなか面白いものです。ヘミングウェイが彼流の道を通って好き嫌いなしに、どんなことにでもぶつかれて、その時の理性の判断に従って行動して行く行動性のなかにも、せまい個人からぬけ出る一つの道が示されています。現代のゴタゴタをくぐりながら、意志と、はっきりした強い頭とで一つの道を徐々に切開いて行く強い人間のタイプが彼で、興味があります。
ひどいスピードにたえる現代人の神経や、酒を飲んでも正気を失わない頭の強さや、パンチの強さまでこの作家のなかでは一つの方向にまとまって神経質なのが作家だというようなけちくさいマンネリズムがふっとんでいるだけ気持がよい。感受性の鋭さや、清潔さは、中学生くさいモラリゼーションより確なもので、後者に永久に止る見本は島木健作です。
この紙は行が大きくて打撃ね。スエ子さんが怒るけれど細い行のを見付けてくれないくせに。ひどいわね。布団襟に付ける布、お送りします。小包を開けた時、ああ代りが要るな、と思ったのよ。
どてらの巾がせまくて着にくくはないでしょうか。今年の春は私の生きかえったお祝いに御秘蔵の紺大島を着ましょうね。足袋はまだそちらに有るでしょうか。
私は風邪をひきません。そちらもくれぐれお大事に。 
一月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆ミレー筆「編物をする女」の絵はがき)〕
二十五日のお手紙有難う。
二十六日に寿江子さんと御返事を書き始めたのに今日もまだ未完成という始末。それほど長いのではなく、代筆係りがつかまらないというわけよ。一、教材社へは手紙出しました。二、たちばなのチェホフはありました。三、高山書院の本は二冊ともあって各一円五十銭、四、平凡社のもあって一円八十銭、五、毎日年鑑は附録はどうだったか覚えていません、朝日には附録がついているから同様ではないでしょうか、六、衛生学はまだ調べがつきません、七、足袋は製作にとりかかります、八、カロッサは三笠と河出から出してるらしいけど本がなくてうちにはバラバラに四冊あるだけです。「幼年時代」は何しろゴーリキイやトルストイがあるからお手柔らかに思われますが。 
一月二十九日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆パリ・ノートルダムの写真絵はがき)〕
これがせむし男のノートルダムです。右のはずれにみえる広告塔のようなものはパリーの共同便所でブドー酒くさいおしっこが流れ出ていることがよくありました。春のはじめらしい景色ですね。
『世界外交史』の第二巻買ってお送りします。岩波から野尻重雄という人の『農民離村の実証的研究』という本が出ていて買いましたが、統計が多くて今の私にはこなしてもらえないので、もしよかったらお送りします。面白そうな本です。なかなか細かく真面目にあつかっているようです。
今日も寒い日ね、私は綿入羽織をきて針差しのように丸くなっています。 
一月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
一月二十六日
今日は、今年始めての時雨た天気ですね。私は天降って食堂の炬燵(こたつ)に仲間入りしています。アアチャンの処へお客様で、スエコと二人切りになったから、好機逸すべからずと云うわけよ。
今日は火なしだと河鹿簑之助だから、スエコは此処を離れては、字なんか書けないそうです。(意地悪でしょ)
昨日はギリギリの時間でお目にかかれ、色々の様子を伺えて、何となく安心しました。心配していると思ってもいないのに、こうやって安心するところを見ると、やっぱり安心の程度が極めて微妙にあると思います。そちらでも同様の気がなさるでしょうか、そんな工合に家のポワポワ前髪は姉さんの様子を伝える事が出来るのでしょうか。
お体がいくらか確りしたように見えたそうで、本当におめでとう。そして、遠大な計画で語学をやっていらっしゃるらしく、結構ですが、叱言はきっと日本語以外では仰言らないでしょうね。外国語が達者な人でもフッと腹がたって悪態をつく時は、思わず「バカヤロウ」と云うわよ。
足袋のこと承知しました。何とか工夫して裏をつけお送りします。本のことも判りました。
今日、お手紙を戴いたから、昨日のこと以外の用事も判りました。島田への本はその通りで結構です。前知らせなしに送った本は、家からではなくて、『ギオン』を貸してあった人が、いい本だと思って送ってくれたのだそうです。カロッサ全集は、二つの本屋から出ていたらしいけれど、どちらも纏まって家にはなく、一冊ずつ集めています。
間二日飛んだので、この辺は昨日の絵葉書と重複してしまいました。
今日も曇った時雨空ですね。月がもう下弦になりました。二十日から二十三四日迄毎晩明月で二階の東の窓から高いさいかちの黒い梢と屋根屋根がその光に照されていました。私は窓を開け、月光を一杯に差込ませて、然し寒いから境の襖を閉めておくと、注ぎ込む月の光は、音にたつような感じでした。
そう感じながら、こちらで坐っていると、光の音と心の内にある声とが互に溶けあって私はもう黙っていることが出来ず、電気の下でザラ紙の帳面と軟い鉛筆とを持出します。5Bの鉛筆はだいぶもう短くなったわ。大事にすっかり短くなっても、それを捨てずに持っているのは、楽しい処のあるものです。二十三日の晩は風がありましたね。夕方から夜になりかける頃、ガラス戸がなる位だったけれども、十時頃になったらば、風は落ちて、さえた月の下に、枯れた木の枝々が美しく見えました。
そちらでは高いガラス窓から月の光が差す時分、どんな景色が見えるでしょう。私は杉の木や、ひよっ子や、芝を見ました。
二、三日前、古い反古(ほご)を整理したら、(抽出しの棚を又出して机の横に置こうと思って。)シャバンヌの女を描いた絵の葉書が出て来てよくみると、なかなか面白いものでした。背の高い肘掛椅子に裸の女が、その高い背にのんびり二つの脚をのばしてかけ、片方の肘掛に頭をのせ、片手を自然もう一方の肘掛にのせてくつろいでいる構図のデッサンですが、いかにもシャバンヌらしく、清楚で、よけいな男の感覚が付きまとっていなくて心持がいいものです。
国男さんがお歳暮をくれたので、到ってわずかな物ながら何か残る物をと思って、心がけていて、日頃ごひいきのドガの踊子のデッサンと額ぶちを買い、今それが一間の壁にかかっています。いかにも創作的な活力と、眼光とが漲っている作品で、部屋中が確りと落着いて来ました。私は本当にドガが好きよ。すえ子も。この部屋が初めは全く病室風で、それがだんだん居間らしくなり、さてこの頃は居間であるが、ただの居間ではないと云う処が出来てきて、この変化を興味あることに思います。
近頃、本が読みたくなって、それを読まずに来月一杯は暮そうと思うから、何とか気紛しが必要で、いくらか集注する必要もあり、将棋でもやろうかと思いますが、生憎なことにお師匠さんがそちらにいらっしゃるから困ったものです。幾何をやろうかと思ったら国男さん曰く、「姉さん、そりゃあ頭を使い過ぎるよ。」おまけに唯一の相手のスエコは、何の虫のかげんか「駒」の字が好きでないんですって。意味が判らないのよ、何故だか。(筆者註、アッコオバチャンは口だけ達者で困りますヨ!)まさか前の通りに床几を持出すわけにも行かないからこれはお流れね。
碁なら、女の人で哲学者の奥さんで先生がありますが、いかに暇潰しに困っても白と黒の石をパチリとやる趣味はまだ無くてね。ピアノを弾けばいいようなものの、音がまだ強過ぎるし第一、ああしてガンと黒く光って構えているものと向い合うのも気おっくうだし、私が全く子供のピアノでも今の譜を見る速力よりは指の方がまだ早いから、これもだめ。おかしいでしょう。色々な時期に、色々困ったことが起って来て。疲れ工合に注意してみると、私はまだ1/3人前です。一人前になる迄にはたっぷり今年一杯はかかりますね。ポチポチと短い文章を書き、詩のような物も書き、それがやがて一冊の本にでもなるだけの収穫があれば、こんな時期も私は怠惰ではなかったと云うものでしょう。それに就てはあなたに云いたいお礼も沢山あります。すえ子もそんなものを読むときには一廉(ひとかど)のつら構えで、これはいいとか、左程でないとか、これはちゃんとした音楽の伴奏で朗読されるべきものだとか、その位の音楽を作りたいものだとか云って、これもやっぱりなかなか私にとっての清涼剤です。夜眠らなくて、とんだ時にマッチをすり、人を起したりして、そう云うスエ子は本当にいやだけれど、この癇癪の種が案外な処で薬用と変じるので、なかなか扱いは微妙を極めます。まして況んや万年筆を手に取らせなければならない仕儀に至っては。
泰子の病気のためアアチャンが疲れて何年もないことに、温泉に行きたがっています。伊東辺を御存知?私は知りませんが、この頃は大抵の処が軍人さんのための療養所となり、鵠沼辺では普段人の住んでいない別荘をどんどん徴用しているそうです。開成山の奥に兵営が出来、家の前の池の辺で伏せ、撃て、とやっているのを、太郎達は一日付いてまわっているらしい様子です。それは去年のことでしたが。私が何処に行くかと云うこともそんなこんなで軽率に決まらず、山のなかの温泉の静かな処を探し出さなければなりません。そして野菜の食べられる処をね。スエ子はろくに青い葉っぱを食べられなかったのよ。
弘文堂から原著者は判りませんが除村吉太郎訳で『ロシア年代記』と云う中世の歴史が出るらしく、あなたも興味がおありになったら買いましょうか。世界の中世史として高く評価されるものだと云う広告です。
今年はこれからが寒そうだから、くれぐれも御大切に。風呂のボイラーがやっとなおって、明日は大楽しみです。(手がかじかんで妙な字が書けました、あしからず) 
二月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆セイロンの風俗の写真絵はがき)〕
只今一日のお手紙拝見、初雪が降ったと思ったら今日は氷雨で初春というより十二月頃の屋根のぬれ方ですね。第一書房は手紙出しました。杏村さんがおかみさんにどんな手紙を書いたんでしょう、第一書房のおやじは麦僊と知り合いで弟の杏村をかついで店を初め、岩波と漱石のような因縁ですね。『ピョートル大帝』の上巻はうちにあります。『谷間の百合』もあります、お送りしていいでしょうか。二月三日 
二月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆山下新太郎筆「少女立像」の絵はがき)〕
三笠の『風に散る』、『廿日ねずみと人間』などは新本はないでしょう、念のためききますが。古ででも心がけます、私も読みたかったから。
ふとん衿承知しました、せますぎて?足袋底を丈夫にする作業もどうもうまくゆかず割合ましなのがあってネルが内側についていないからいけないけれど、それでお間に合せいただきます。来年は一工夫してうちで暖かいのを縫いましょうね。男足袋を第一今売り切れだし。玄米はガスが制限で大弱りです、たくのにずっと時間がかかるから。隆治さんのことはまったくそうで、私はだから尚更あの人の素面で経た辛苦を尊敬いたします。写真送ります。 
二月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
二月五日
今日は旧の元日だそうです。小春日和でしたね。三日のお手紙ありがとう。タチバナの本はまだ注文してありません。そちらでやって下さいますか、ありがとう。
開成山から佐藤と云う当年四十二歳のとっさまが来て、これは祖母の時代に一郎爺さんと云うのがいて、別名目玉の爺やと申しました。その娘がおけさ、と云って、たいした働き者で、身上をこしらえましたが、或時亭主の留蔵が浮気をして、猛烈な喧嘩が始ったとき、亭主は建てたばかりの家をぼっこしちゃうと云ってぶちこわし始めました。そしたらおけさも、ふんだら俺も手伝うと云って障子を持出して、蹴こわして、火をつけました。往来の真中でやったのよ。そしたら留蔵がかえって毒気をぬかれて、もうよかっぺと云って、仲なおりした逸話があります。その婿で今日では翼賛会の青壮年団長、促進員、隣組長と云う、流行男ですが、相当なもので、炬燵にあたりながら、一夕気焔を拝聴して大変ためになりました。面白かったし。開成山辺が工業都市に成って行く勢のひどさは野原が工場町となった変化に勝るとも劣らないらしく、家などは宅地は残るが、ぐるりはみんな中島製作所、三万人の従業員のための住宅地と指定されているそうです。現在でも、もう射撃の音や、飛行機の音が一杯で、その男の隣組、十何戸かのなかで、お百姓さんはその男の他一人だそうです。あとは小勤人、商人、軍人だそうです。この夏は、まだ一人で読み書きが無理らしいから、開成山など、みんなで暮すためにはいいのだけれども、島田や光井での経験を思い出すと気が渋ります。呑気に、招かざる客の来訪なしに保養したくてね。昔の桑野村と何と云う違いでしょう。その変りかたは興味深く、例えばこの佐藤などを活き活き書けたら、全くたいしたものだと思います。そして、それは私の第一作の歴史に従った展開なのだけれども。とつ追いつです。長く滞在するには良い折ではあるけれども。
語学のことで、橋のない川と云うお話をきき、私は些かあわてます。何故なら私は橋ばかり頼っていたし、時にはひどい丸木橋を危く渡って用達しして居たようなものだから。あなたが川を泳いだら私は土堤を馳廻って、それでは困るわね。あなたの泳ぎは私を溺らさないで引張って行って下さるだけ、上達の見込がありますか。私のは気合語学だから、顔を見てエイヤッとやれば用は足りていたけれど、困ったものね。これは真面目な話よ。お考えおき下さい。小説を書くのには語学はたいして必要でもないように思えたが、評論の仕事ではもうその必要が判って来ます。他の専門なら大人らしい仕事に入るやいなや、必要の差迫ることでしょう。日本の文学者が少し語学が出来ると、すぐ種本漁(あさ)りをするのを軽蔑したりする気持もあってね。然し、私は語学向きのたちではないから弱ります。サンドの作品は訳されているのはあれだけです。ところがこれからは岩波文庫で増刷するのは、『古事記』や何かの他は『即興詩人』と『ファウスト』、位なものだそうです。ほかの文庫類もその標準で無くなって行く様子です。想像出来ないようでしょう?
文庫が数冊あれば食べてゆけたと云った時代、M・Yのように金持にまで成った男は呆然として消え去る財源を見守るでしょう。作家がちゃんとした仕事をして、ちゃんと暮せると云うのは理の当然だけれども、作家になって成り上ると云うのも何だか少し変な気がするわね。作家となれば金の使いかたもいくらか普通とは違った道がありそうに思えるけれども、いざ持ってみると誰でも買うようなものを買って、しまいには家や地べたでも買っておさまるのは奇妙なものね。どうせそうなるなら、始めから金を目当てに何かやった方が良さそうにさえ思えます。そうゆかない所が人間の面白さ、くだらなさ、気の毒さなのかもしれないけれど。人間の新陳代謝の速力は意外にも早いのね。役に立つのは、十年前後と云うような人々の生涯もあるのですね。そんな風に、色々なものから消耗されるのですね。消耗なしに樹木でさえも育てないと云うのは、自然のきびしい姿です。
今日これに追かけて、一寸した送りものを差上げます。
どの部屋も同じような寒さだから、かえって今年は風邪をひく者が少なくて笑って居ります。 
二月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
月明のうた。
月がのぼった。 金星を美しくしたがえて 梍(さいかち)の梢を高く 屋根屋根を低く照しつつ。
どの家もおとなしく雨戸をしめ ひっそり 甍(いらか)に月光をうけている。
なかにただ一つ 我が窓ばかりは つたえたい何の思いがあるからか 月に向って精一杯 小さな障子をあけている。
いよいよ蒼み耀きまさり 月も得堪えぬ如く そそぐそそぐわたしの窓へ 満々として抑えかねたその光を
ああ今宵 月は何たる生きものだろう
わたしは燦(きらめ)きの流れから やっとわが身をひき離し 部屋へ逃げこみ襖をしめる こんないのちの氾濫は 見も知らないという振りで。
けれど 閉めた襖の面をうって なお燦々とふりそそぐ光の音は 声ともなって私をとらえる
月の隈なさを はじめてわたしにおしえたその声が 今またそこにあるかのよう。一月二十三日 
十一月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十五日第五十一信。
今夕方の五時でね、もう雨戸をしめ、机に向い、足はぽかぽかとしていい心持なのよ。元気のあるいい心持です。どうしてそうかしらとふっと考えたら、寿江子がカゼで、きのうもきょうもブカジャンがないのです。だからなのねえ。力のたまったいい心持です。こんなに気分ちがうかと思うと、何だかおかしい。勿論寿江子の風邪ひきは可哀そうですが。でも、ラジオと音楽とでうちは大抵の頭は散漫になってしまうわ。めいめいそれぞれの音係りは、それぞれの道からきているのですけれども。ラジオはラジオとしての波をだけ。音楽のひとは自分の専門――目下のところハーモニーの勉強などから。それらのどっちも、普通人の音の感覚できいているのは私や太郎やああちゃんよ。あわれ、あわれ。
この頃時々、目白での或ときの心持、感情を思いおこします。その感情に淋しいという名はつけなかったけれども、今になってあの時折の気持思いかえせば、それは今何となしうるおされている部分が、あのときは乾上っていたことを感じます。何かの折それを自覚していたのね。手つだいのひと、さもなければ、どんな親しくたってお客様であるにちがいないひと。そういういきさつだけで日々が運転してゆく生活。隅から隅まで自分で動かさなければ動かない生活というものの目に見えないうちに肩を張らし肩をこらしている生活というものは大したものであるとつくづく思います。
どんなことにもわるい面だけはないものね。今の私は、一方で大旱魃でありながら、思ったよりずっとずっと他の面では潤沢となっているのですもの。そして、この面のうるおされることは、私の神経の衛生上必要な時になっていたとわかって、天の配剤妙なるかな、と思っている次第です。ほんとうによかったことね。そういう衛生学は、極めて微妙で、夜中どんなに犬がほえようと平気という、そんな些細なところからさえかかわって来ているのですもの。どうやらわたしも女丈夫にならないですんで、うれしいわね。御同感でしょう?私は迚もそういうたちではないようです。
私たちのこんな時期が、計らぬ面でそんな発見を伴って営まれるということは、大なる仕合わせと云ってよいでしょうと思います。そして、一層、一生懸命になるべきところに力を注ぎ、ゆたかに成長することができたらば、ね。私たちの日常のなかに子供たちの声だの、その成長だの、おかみさんのあれこれパタパタだの、そんないろんな響が入っているのはいいわね。「朝の風」はこわい小説よ。忘られないところがあります。ああいう風な感情の集注はこわいと自分であのとき痛感して、「その年」ではああいう風に、ひとの生活へ外の世界へと目をむけたわけでした。この何年間かの生活で、私たちの生活の感情の絃の一本は、あの作品でその最頂点を顫わしているのよ、悪条件的に。あの作品について云って下すったいろいろの点はその理論的把握でした。
生活の展開というものは何とおどろくべきでしょう。生活全体で展開してゆくのですものね。決して生活のどの一筋だけをとりあげてどうと云ってかわってゆかないものであるから油断がならないわけです。
今度の文芸同人雑誌の統制で八種だけがのこりました。八十何種かのうち。日本全国では二百何種とかという話ですが、八十何種は東京だけでしょう。文学を勉強してゆく人たちの道というものは近代日本文学史で初めての転換をするわけです。どういう風になるでしょうね。これまでだって、勤めていて、そして傍ら小説をかいていた人がどっさりありました。三十歳前後のひとは殆どみなそうでしたろう。五円十円と出しあって同人雑誌をつくっていたのね。文芸の同人雑誌が、本当に新鮮な文学の土壤ではなくて、文壇の苗畑めいたものであったことは一部の実際ですし、その同人たちが云わば惰力的にくっついていて、そこで枯渇したのも実際です。けれども、そういうところに集っていた表現の欲望は、どこにこれからあらわれるでしょうか。これから文学をやりたい人は、習作時代をどう経てゆくことになるでしょうか。非常に注目されます。
十日のお手紙への返事、おっしゃった人にはすぐお礼を出しておきました。やがて夫婦で南へ赴任するでしょう。色々の用事はペンさんに頼んだりして居りますから大丈夫です。『廿日ねずみと人間』は、近いうちに見付かりそうです。富雄さんの本が着いて、ようございました。今、杭州の師団司令部の経理部にいるそうで、危いことがなくて結構だけれども、戦地に於けるこう云う部門は、金持の息子と要領のよい人間の溜り場所だそうだから、その意味では決していい場所と云えないのでしょう。前方で多くの人が生死の間を往来しているとき、こういう所では色々なことを見ききしていて、それを正しい判断に照して全体から真面目にみるだけの人物は、十人のうち何人でしょう。隆治さんのことを思いやります。
チェホフは、病気のためクリミヤのヤルタに暮していなければならず、クニッペルは芝居でモスクヴァ、レーニングラード暮しで、厳冬の時期になると、チェホフはモスクワに出て一緒にくらした様子です。
チェホフは、クニッペルのいい素質と、同時に身に付けている所謂女優らしさをはっきり見ていて、大向うの喝采や、新聞の批評や、花たばの数などに敏感なのをはっきりたしなめて、いつも彼女が自分を掴んでいるように、自分の演技を持つようにと励ましているのを読んだことがあります。チェホフはクニッペルをいつも「私の可愛い馬さん」と呼んで手紙に書いているけれど、その本にもそんな風に書かれて居りますか。チェホフは、人間の程度の差からクニッペルに対して随分甘やかした表現もしているけれども、芝居のこととなればなかなか厳しくて、よしんばクニッペルが内心おだやかならず、人の花輪を横目でみたとしても、旦那さんに手紙を書くときは、流石(さすが)に真先きにそのことは書けず、自分として何処まで突込んで演じられたかと云う点から自省しなければならなかったでしょう。それは彼女に大変ためになっていました。チェホフが亡くなって後、彼女はどんなにその教訓を生かして自分を高めてゆけたかと云うことに就ては知りません。芸術座で見た頃の彼女はひどく平凡でした。
ヤルタのチェホフの家は、南欧風の窓があって、庭もひろく、机の上には、象牙の象が幾つも並んでいました。いろんな写真がどっさりあって、細々とした感じの書斎でした。彼の生れたタガンローグの町は、アゾフ海のそばで、ロストフのそばで、其処にある家はいかにも小さな屋台店の持主らしい、つつましい四角い小家でした。黒海をゆっくり渡って、ヤルタへ上陸して、耳にネムの花を差して、赤いトルコ帽をかぶったダッタンの少年がロバを追って行く景色などを見ると、この辺が古い文化の土地でギリシャや、ルーマニアの影響をもっていることを感じました。山の方に行くとダッタン人の部落があって、せまい石の段のある坂道の左右に、清水の湧く、葡萄棚の茂ったダッタン人の家があります。日焼けした体に、桃色のシャツを着た若い者などは、いかにも絵画的です。ヤルタから、セバストーポリまでは、黒海の海岸ぞいのドライヴ・ウエイで、その眺望は極めて印象に強く残ります。黒海という名のあるだけ、この海は紺碧で、古い岩は日光に色々に光って松が茂り、そのかげには中世の古城が博物館となっていました。セバストーポリの町に入る手前に街道が急カーヴしている処があって、其処に一つ大理石のアーチが立っています。ヤルタの方から来るとそのアーチは、まるで天の門のように青空をくぎって立って居り、其処をくぐってセバストーポリの古戦場の曠野の方からそっちをふり返ると、同じように道は見えず、四角いアーチが空に立っていて、その感じは実に独特でした。不思議な哀愁を誘います。セバストーポリもヴェルダンも遠い彼方に山々が連って、まわりは広茫とした平野で、新市街はずっとその先にあります。ヴェルダンなどは全く「白い町」で、今日生きている人の住んでいる処と云えば、小さい川っぷちや、停車場前のほんの一つかみのものです。あとは無限に広く、暗く、寂寞のうちにあります。バクーから黒海岸へ出る夜汽車の中で頭に羊皮帽をのせた人達が手ばたきをして歌を唱い、一人が車室のランプの下で踊っていたのも思い出します。スターリングラードのホテルも思い出します。その道も。波止場も。ハリコフの賑かな小ロシア風な町の様子も。
日に直接あたらないようにと云う御注意、ありがとう。樹木の少ない高原や、眺望の広すぎる処は、目に悪いと考えていましたけれど、本当に春さきの日に、呑気に照されて、またひっくりかえったら大変ね。人より早く「吾は傘をさそうぞ」と云うわけね。たかちゃんのことに就ても色々考えます。そのことも御相談しようと思ったけれど、今日は予定外の話になって長くなったから、またこの次ね。風邪をひくなと云って下さったけれど、もうひいてしまったわ。あなたはどうぞ御大切に。 
二月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二十日づけのお手紙ありがとう。十三日にはやっぱり好物ボンボンのこと思い出していて下さいましたね、ありがとう。
冴えかえった春寒でペンさんが病気になり、とりあえずこんな手紙さしあげます。衛生学のこと、きけずにいるので御返事出来ず御免なさい。
今お目にかけたいものがあって例の如くポツリポツリと書いて居ります。この節は少し外があるきたくて、この寒さがすぎたら先ず手はじめに動坂のばら新でも見に行こうとたのしみにして居ります。電車にのる稽古もいたします。のりものへは一人でのることはしませんから御心配ないように。
隆治さんからハガキが来てうれしゅうございます。マライです。マライ語の本注文しましたから、来たら又お茶や薬やと一緒に送りましょうね。消しだらけのハガキですけれども、無事でともかく着いたとわかって本当にうれしいと思います。写真立派な顔でしょう?
何ごとかを生きて来た人間の立派なところが現れてたのもしく感じ、又いとしいと感じます。そして私たちが一番そのことを明瞭に感じ評価もするのだと感じます。
では又かきてのつかまったとき細かく。
これはいい紙で心もちがよいことね。かぜを召さぬように。二十四日 
二月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
二十日の御手紙にすっかり返事を書切らない内に二十五日の拝見しました。十三日が腹ペコの絶頂とは何と云うことでしたろう。想像力に限りがあると云うことは、後で事実を知ると痛切に感じます。何んにもお芽出度いことばかりその日に限って考えていると云うのではないけれども、まさかにそう云うことは思いもつきませんでした。それでも方法がついて何よりです。こちらはお医者の証明でパンを半斤もらい、それと引換えにお米がへっています。そちらより早くこちらが無くなると云うことはマア当然でしょう。果物、野菜についてもそうでしたから。パンに付ける何かのジャムがあるでしょうか。私は随分高いリンゴジャムか何かを買った覚えがあるけれども。全くこの頃はお腹をたっぷりさせることが一仕事ね。うちでは二分づきの米に大根や蕪をきざんで入れて、東北の貧しい農夫と同じような御飯を食べます。それでも家は良い方でしょう。したがって女の人の衛生学の知識はますます必要で、快適に生活するどころか、生存を最大の可能で保ってゆくために緊急事だと云うことになって来ています。私はその点乙位のところよ。なかなか知っているのよ。去年体中小豆のなかに落ちたようになった時も、これは危いと思って血液の酸化を少しでもふせごうと飲めるだけ塩水をのんだけれど結局、口から飲める濃さの塩水なんかでは中和出来ないわけでした。今のような条件のなかでは、至る処で度外れなことが始るから、衛生の知識もその応用も全くダイナミックでなければなりません。例えばね、うちの健啖之助は、哀れなことに近頃の牛乳が半分水なもので倍ものんだと云うことが判りました。こんな始末です。
隆治さんからハガキが来たことは申上げた通り。早速『マライ語会話』(軍用)と有光社の『マライの歴史・自然・文化』という本を注文しました。来たらば他にのんびりと慰めになるものと一緒に送りましょう。兵タンらしいわね。
富雄さんの友達が一ヵ月ほど帰って来て、又行くにつき、何か変った物を持たせてやりたいと、色々物色して歩いてもらいましたが、布ではった煙草入れと云うものさえ無くて、途方にくれ、昔から私が持っていた浮世絵の本から北斎の「冨士」と、歌麿の少女がラッパを吹いているあどけない傑作とを切って、経師屋でふちどりをさせ、壁にはれるようにして送りました。もう何年もあちらにいれば、浴衣の紺と白とがなつかしいように、日本の色調が気持よいだろうと思って。今にまた何か考えて隆治さんにも送りたいと思います。でもあの人は食物をはこんでみなの為に島からしまへと動いているのではないでしょうか。そう云う間にも一寸出してみれば気も慰むと云うものは何でしょう。今の処、知慧はまだ出ません。締切りなしの執筆と云うこと。この頃のような時間の使いかたを私は命がけで吾が物にしているのだから、底のそこまで味い、役に立て、自分の成長をとげなければならないと思っています。これ迄も小説は一日七枚以上書けたことがなく、一夜で書きとばすと云う芸当はやったことが有りませんでした。然し、矢張り時間にはせかれていて、書く迄のこねかたが不充分だったり、書きつつある間の集注が妨げられたりしたことはあったと思います。この数年、それ迄は知らなかった時間的な緊張のなかに置かれて(心理的にも)今、こうやって体のために仕事を中絶までしていると云うことは、決して単なるめぐりあわせではありません。
スエコが目下開催中の明治名作展を見て来て、其処にあるものは、絵にしろ、彫刻にしろ、この頃出来のものとはまるで違って、観ても見あきず、時間をかけてみればみる程値うちが迫って来ると云う話をきき、初めて自分の外出出来ないことや、物のみられないことが口惜しく思えました。そこの事よ、ね。その奥行きとこくとは何から出るでしょう。作者が自身のテーマに全幅の力を傾け尽し、何処にもはしょらずテーマの要求する時間の一杯を余さず注ぎこんでいるからこそで、一寸した絵ハガキを見ても当時の人がテーマと題材に就てどんなに真面目に考えて居たか、一つも思いつきではなくて追求の結果であると云うことを明瞭に感じます。スエコが日参するねうちがあると云ったが、それは本当でしょう。性根に水を浴せられる処があるに違いない。二十八日で終ってしまいました。
絵描きでも作家でも注文としめ切りがなくて、チャンチャン毎日何かを造り出してゆくようになれば、恐るべきです。名作展をみても今日の大家の初期の作品が良くて、現在どんなに芸術家としては生き恥をさらしているかと云うことを感じさせるものが少くなかった由、人間が一人前になる迄には実際、水をくぐり、火をくぐりですね。
昨日、私はアアチャンにつかまって二三丁の処を出初め致しました。みんなが梯子がなくってお気の毒とからかいました。足どりはノロノロながら確実ですが、道路や家や、人のかおの反射がひどくて、どうも色目鏡がいりそうです。早速、衛生学を振りまわし、午後四時過ぎ、通る処は日陰になってから出かけましたが。もう一つ可笑しいことがあります。一週間ほど背中の肝臓の裏の処が筋肉的に痛くて、フトもと肝臓をやったときのことを思い起し、だいぶえらいめに合わせたから、と神経をたてていたところ、今夜、例によってみんなの御飯をつけてやろうとしていたら、その時、椅子の上で体をねじり丁度其処の処がねじれるのが判りました。体が弱い時には何と云う小さいことがおかしな結果を起すのでしょう。スエコさんと場所を代り、それで私の肝臓病も病源をあきらかにしたと云うわけです。ずっと私は其処に坐って、アッコオバチャンらしく、例えまざった御飯にしろ美味しいようにみんなによそってやっていたのよ。私は御飯をよそうのが好きなの。お風呂の火をたくことも。
今日あたりは空気もやわらいで、もうこの調子でしょう。お金、とりあえずちょんびり送り、明日少しまとめてお送りします。薬、まだよいでしょうか。又少しためてお送りしておいた方が安全ね。 
三月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆都鳥英喜筆「戦傷士の俤」の絵はがき)〕
『衛生学』はもう十一月頃出版されていてそれを只今本屋に注文中です。教材社からは二月中旬にお金を返してきました。第一書房の方はおっしゃるとおりに申してやりましょう。手紙の方へ落したので追加の返事いたします。これも名作展に出ていた一つ。近頃のガタガタの画になれた眼でみると日本人が描いたものかと驚く位です。気候がゆるみましたがお風邪は大丈夫ですか。今年はいつもと違って最近のうちに敷布団の取り変えなどはしておいた方がよさそうです、そのお心づもり下さい。 
三月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆川村清雄筆「画室」の絵はがき)〕
三月九日(2)
この画家の大きな絵が食堂にかかっていて、もし爆風をくらえば額の重さとガラスの破片だけで子供の一人や二人は結構片附くから危いことのないうちに処分しようと言っています。もう暫らくすると自分で書けるようになるから、そしたらこの三つのお手紙にたまっている家事的な御返事を致しましょう。かなり細かく知っていただきたいこともありますから。平ったく押してくる火事で、こげはしないが天から直通ではどこへ飛ぶかわからないから、百合子飛散の後でも現実の用事だけは残りますからね。島田行きのこと、私も行きたいけれども秋以後のことと考えて置いた方がよさそうでまだ充分丈夫でないことの他もっと理由がありますが、それは何(いず)れ手紙で書きます。わけはお母さんにも申せばすぐおわかりで私の考えに御賛成下さることです。 
三月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書書留)〕
十三日
十二日づけのお手紙をありがとう。
体の工合は大分ましになりました。まだ疲れがのこっているけれども。床はしいてありますが、夕飯などは下へ行って皆とたべて居ります。この間一寸歩いたというようなことは直接さわってはいず、寧ろ、この間うちから、何しろ未曾有の春ですから、あれこれと頭をひねって心労もしたりしたのが幾分こたえたのでしょう。何しろあんまり馴れていないことですから。それこれも順調にはかどったから安心で、もうのんきになれます。自分だけのことで、あせったりはしないのよ、何を早くどうしようなどという点では御心配無用です。
きょうは、一寸代筆では困ることだけ、こんならんぼうな手さぐり字で申上げます。
あちらへ行くことは御親切もわかり、いいこともわかりますが、私としては空からの不安のなくなった(大体)季節でないと困ります。そのわけは、徳山、光は全く特殊な性質の都市ですから、そういうことになれば直ちに戒厳状態に入ります。今でさえも半分はそうで、親の御機嫌伺いにゆくのにもう次の日はオートバイで室積からわざわざ来てスケジュールをきいて何日にどこへ行くかという次第です。達ちゃんの御祝儀で何とかいう町の料亭へ行ったときは、制服のひとが敬意を表するために来てくれて、別室へあがって面会をしなければなりませんでした。何時にどのバスでどこへ誰と行ったということ迄一々で大した名士なのよ。だから私はいつも全くうんざりです。土地の風で女が昼間散歩するということはないからとお母さんも気をおつかいになるから、あちらにいるときは殆どお墓へ行ったりするだけです。
丈夫な時ならだけれども、今のようなとき、私はそういう名士は実に願い下げですし、東京では、ともかく命がけの形で、身元もわかった人間になっているのに、あちらでは文化関係もその他のことも見境なしで、あわてた時には、何はともあれ落度なからんこと専一で、どんな待遇になるか、それこそ見とおし不可能です。憲兵の方と二つが錯交して、そこいらのことも甚だ微妙です。これ迄余りはっきりはかきませんでしたが、あちらへ行ったときは、いつもそれが苦痛でした。今度のような時期にはいやだ位ですまないと閉口だから、伺うにしろ冬になって少くとも、現在のように益〃緊張に向う時はさけるつもりです。
おかあさんも、私たちのことだけお思召しなるときには、そのことをつい念頭からはなしていらっしゃるけれど、あすこにいれば随分度々困った顔もなさらなければならず、私が外へ出ることを不安にもお感じになります。もう二三日したらこういうことをはっきり申上げ、私がこれからあちらにゆくのは大体春夏から秋まではさけるよう申上げておきましょう。あなたからは、ユリコからこまかく申上るが、尤もな理由だから秋以後がよかろうと思うと申上げてお置き下さい。
それから、これは、私たちの家事的処置について。
ここは市内としては割合安全な方ですが、類焼はさけ難いものとして万事備えておくのが妥当です。去年の四月の十倍二十倍のものが降って来ることはたしからしいから。
(一)書籍は金に代えることの出来ないものですが、ともかく動産保険にかけ、その幾割かをかえす空襲保険をかけました。島田へお送りした四倍ほどの額です。
(二)もし最悪の場合、私がふっとんでしまったら大変困りますから、そのためには四月一日から受付る戦時生命傷害保険に入ります。
これはディテールまだわからず、手続きは全く簡単です。最高五千円までを恐らく非常に条件つきで小切るのではないかと思います。年齢、職業、男女別等。しかし私はいずれにしろ自分の条件の最高までをかけておきましょう。これは動産に対する保険とちがい、生命保険にあらかじめ入っていないでよいから私にも出来ようというわけです。
(三)右のことは現在私たちのやりくりが赤字で銀行からの負債になっていますから、私が万一ふっとんだらその賠償(バイショー)で負債を返し、同時にそちらの生活費も運行してゆくよう計画しなければなりません。
(四)東京貯蓄銀行丸の内支店から、タンポで、島田へお送りした額の十倍までゆーづーするようにしてあります。そのうち本年一杯でおそらく三分の二は消費するでしょう。消費した額だけ返済すればよいわけです。私のねだんはいくらか知らないが、少くともそちらの一年分は余るだろうと思います。
(五)返却後は、そちらに現在の凡そ一年分に少し足りないだけの定期収入があるでしょう。(現在の経済の組立てのままと仮定して)
(六)それだけそちらで入用でない時には、みんな積立てておいて、その後の生活の足場とした方がよさそうに考えられます。島田の方もその時にどんな風かは知れず、たとえどんな仲よい同胞にしろ自分の妻子をかかえ経済的波瀾の激しいとき、共力するにしろ種(タネ)なしでいられては大分僻易らしいから。よい生活のためのプラクティカルな方法として。私の身にしみての実験です。
(七)こちらの家では、国男が私のそういう事務をみんなやってくれています。万一の場合のためにいろんな書類は第一銀行の保護金庫に入れておく筈です。それは国男のかりているものですが。
(八)私がいないときのこれ迄の事務能力を見ると、私は安心してわが身一つはどうでもよいと思えません。国男さんが健在だとしても。話し合いの結果、迚もそちらの事務まで責任が負えないから誰か信用の出来る人が対手に欲しいというので、てっちゃんにこまかく話し、国男さんも満足で万一の場合には事務をやって貰います。てっちゃんの承認も得ました。私たちの委任した人として法律上の手続きがある方がやりよいようなら公証人にかかせてそれもやって置くつもりです。
(九)月末ごろともかく一度そちらへ伺います。そしてそのとき、銀行にタンポになっているものについてお話しいたしましょう。
(十)そのものは母のかたみですから、あなたと私の用に立てて、よく役立てて不用になった時は寿江子にわたします。あれはピーピーの音楽修業で、どうせ一生ピースコなのですから、寿江子は自分が不用になれば甥たちのために考えるでしょうから。
こういう扱いかたは御異存があるでしょうとも思いますけれど、船がひっくりかえって波間を漂うときは小桶一つ板一枚が案外の役に立つようなものでね、その点むしろあわれに、笑える位のものだわ。あなたは笑ってききおいて下さればいいのよ。
(十一)こちらでは今のところ万事ひどい有様だから黙っているのも気の毒故、そちらの一ヵ月分ほどずつ払っています。それはごくの基本で雇人の心づけやいろいろ薬代その他は又別です。
字が妙なのに面白くもない手紙で相すみません。でもね、これだけきめて人にもたのみ、あなたも知っていて下さると私は安心してよく眠れるようになるのよ。
いろいろの場合に暮してみると、人々の生活は、どんなに自分のことにばかり追われているか、賢いにしろ愚かにせよそういうのが十人のうち九人以上で、親切な心は誰にでもあるものながらそれは実現する力は誰でも何と小さいでしょう。少し世の中を知ったものはその事情をよくわかって、親切の出来るような条件をこしらえておいて人々の親切も待ってやらなければ、と思うわね。自分たちの生活の日々が二六時中バランスを失いがちで重心が移動するのをやっと保つ玉のり生活をしているのが大部分の人だから、私たちは出来るだけ事務的な手かずで、ことが進んでゆくよう処置をしておいてやらなければ、弟妹たちに何の工夫や積極の考慮がつくでしょう。
こんなこと、毎晩よくよく考えて一つ一つと思いついて計画して、国男さんに云って事務処理をして貰いました。
私は衛生学よりももっとこういうことは知らないから、よく考えないと何も思いつかないで、考えつくためにはよほど頭もしぼるのよ。だから哀れな肝臓が、ヤーこれは珍しい疲れかただ、と音(ネ)をあげたのでしょう。
あれこれをすっかりすましたら私は、四月早々多分いつか行った上林のせきやあたりへ行きます。夏の間は東京に居ない方がよいと思いますから。
こちらだって戒厳的混乱は生じ得ますから。もう私は東京をはなれるのに所轄へことわって行けばそれだけでいいのだそうですし、山の中の温泉などはいろいろの点でよさそうです。
今まだこまかく予定が立ちませんが、四月から一ヵ月半ほど信州へ行って一寸かえって、改めて東北の方の東京人の入りこまない地方の人が鍋(ナベ)釜もって行くようなところへ行って九月一杯までいて、その間にすこしものも書きためようと思います。岩手の方に今しらべている温泉があり、そっちだと都合して手つだってもらえる十九ほどの娘さんが青森在から来てくれられるかもしれないので。
うちの連中は私一人でゆくことを大変不安がるし、自分も誰かいた方が無理しないから。伊豆なんかはお米をかついで行ってひるめしだけ三円、凡そ一日には十二三円以上かかることになって来ました。上林は米をまだもってゆかずといいし、あすこは樹木が多い道があっちこっち散歩するに目のためにいいと思って。カラリとした高原は今年は駄目です。肝臓のためには石見の三朝(みささ)が随一で、この次島田へ行くのは、そこをまわって小郡へ出て見たいものです。京都からのりかえて山陰本線土井までですから、今すぐでは無理でしょう。物資は大体西の方はゆとりないそうですが。
さあ、もうおやめね。
あなたの衣類はうちの連中のほかに栄さんにわかって貰うようにしました。いろいろと思慮の不足した処置があるかもしれないけれども、どうぞあしからず。これだけ手くばりしておいて万々カ一やけず、ふっとばずであったらそれはおめでたいというわけです。
では又近いうちに、別に。 
三月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆田舎の風景の写真絵はがき)〕
この写真は春の日射しよりも秋らしいあざやかさですね、昔、『文新』から行った千葉の開墾部落もこうゆう家が並んでいました。あの時は南京豆がうんと作ってあって、おいしい山の芋の御馳走になりました。ああゆうじいさん、ばあさん達は畠に今何を植えているでしょう。腹の皮がくすぐったくなる程低空を飛行機が飛んでいました。こんな葉書はほんとに珍らしい。今日、明日に隆治さんに小包みを送ります。文庫では「マノン・レスコウ」と露伴の「為朝」でも入れましょう。今日もあたたかいこと。体の調子はようございますから御安心を。 
三月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
きのうの手紙で一つおとしたことを思い出し申上げます。
島田の方へお願いするということね、前便で御承知下すったとおりの有様で私たちとしては何とかまだやって見たいと思います。
あちらは、それはひところのことを思えばよほど様子はのんびりしていらっしゃいますが、達ちゃんはいつ留守になるかしれず、隆ちゃんはいず、トラックの方も変化するというきょうの様では、お母さんも友ちゃんや輝をひかえ、決してお気持にゆとりはありますまい。生活をこれ迄たたかって来てやっと少しはのんびり出来るかと思うと、というのがお年を召した方のお気持であろうと深くお察し申します。
さもなければ昨年から今までにあなたの方へ何とか実際的なこともあったかもしれず、私たちとしては、私たちが二十代でもなくなったのにと、やはり悲しいお気がするでしょう。だから、私が埃立てていて可哀そうとお思いにならなくていいわ。誰だって今日、埃っぽいのよ。借金暮しよ。そんなこともキューキューやりくって見て、智慧もしぼって、しかし人生はやっぱりそのほかのところに人一人生きたというねうちが在るのだと、益〃しみじみわかって、人間にうま味もユーモアもついて来るのでしょう。下らない苦労だと云ってしないですむものなら、代々の人間が何のために生きたのか分らないような苦労をつづけて生涯をこんなに綿々とつづけて来てもいないでしょうものね。私は、自分が子供のときのんびり育って、やがて少しは苦労をしのぐ能力も出来、苦労というものについての態度もややましになってから、あれこれのことの起ったのを仕合わせと思って居ります。もし私が子供時代のなりで年だけとったら、どんな半端なものになっていたでしょう。婆ちゃん嬢さんなんていうものは現代では悲喜劇よ。芸術家になんぞなれるものではない。極めて多くの人間が生活のどんなポイントでそれてゆくものか、そのポイントに自分が立ってみなければ分らない、人間の高貴さは観念でもわかるが、弱さは生活のなかをくぐって自分とひととを見なければ分らず、そんなあれこれが生活を知っているかいないかのわかれめとなるのでしょう。
自分で字をかくと一字一字は見えないから心と手との流れにのってかき、字はノラノラと、ちっとも自分の好きにはかけません。
お読みになるのも何だかいやでしょうと思うわ。もうこれで又当分代筆よ。
今日は十五日の夕方ですが、春めいた晩ですっかりくらくなったけれど、廊下をあけています。どこかで花の匂いがします。紅梅にちがいないと思い、あなたがいつかの早春にも桃とおまちがえになったこと思い出しました。香がきつすぎないこと? 
三月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆絵はがき)〕
今日はあんまりよくないお知らせです。
山崎の小父様が十四日急逝なされました。多賀子から知らせてきました。島田のお母さんが珍らしく京都見物と奈良見物を思いたたれ多賀子を連れ、大阪の岡本のうち(かつ子のところ)へついたら電報がきて、十五日に早々母上だけお戻りになったそうです。二年程前、お目にかかったのが終りになりました。あなたからのお悔みの言葉として、手紙とお供早速送りました。母上へは別に手紙差しあげます。さぞさぞお力落しでしょう。あの小父様は私達の心持に暖かい面影を持ったかたでした。そして、淋しそうな方でした。 
三月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆絵はがき)〕
御注文の本寺田と茂吉は岩波新書ですが、何しろこの頃の本のなさといったら猛烈だからおそらくは入手難でしょう。世田谷のお友達が寺田の方はお持ちかも知れません、『自動車部隊』は佐藤観次郎という人のでしょう?今また行っています。どの人の手紙も断りなく出したからあんまりジャーナリスティックなやり方で誰しも大して好感を持てませんでした。いろんな人があるものね、はじめ手紙よこしたから戦地に居る人と思い、志賀さんなんかも返事したのね。
肝臓はすっかりおさまって居ります。
風邪をどうぞこれからもおひきにならない様に。 
三月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆絵はがき)〕
六日付のお手紙、今日(二十二日)いただきました。珍らしく手間どりました。私が先週の日曜頃出した書留の手紙はごらんいただいたでしょうか。本のこととりはからいます。隆治さんの方へはまだ小包を受付けないので語学の本だけ巻いて送りました。それさえ書留は受けませんでした。袷着物、羽織、合シャツ上下、お送りします。『〓世界地図』やっと買えました。『世界大戦とその戦略』古本でみつけていれました。『農民離村の実証的研究』と三冊お送りします。いずれ別便で。 
三月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆封書)〕
ゆっくりほかのこととまぜて申しあげようと思っていたけれど、ペンさんが来てくれているので一筆。
空からの御光来については、どこでもまるで合理的な準備は出来ず、それは個人達の怠慢というよりも、資材関係その他ですが、そちらも御自分用の防毒面はおありになろうとも思えません。うちにもありません。子供用のものは土台ないそうです。黄燐焼夷弾の煙は、十分位は人体に害なし、だそうですが、重曹のとかした液を浸した手拭いを口にあてておくと、幾分粘膜の傷つくことを防げるそうですが、その重曹が手に入りにくうございます。塩の濃い溶液にタオルのようなものを浸し、それをよくしませて、口、鼻にあて、眼をよくつぶっていれば何もしないよりはましでしょう。燐の煙は猫いらず的作用ですから、困るわね。
今年は夏になっても、冬用の夜具類を手許に置いていただきましょう。ガラスの飛び散るのやいろいろは厚い夜具をかぶればいくらかいいし、煙も掛布団の裾がたたみに密着するように、しかも空気がなるたけあるように、ふところを大きくしてかぶれば、むきだしよりもいいでしょう。
冬のかかりになって、あまり寒くならないうちとり変えるものは変えましょう。
シーツはそちらに代りがあるでしょうか。いずれ、一枚お送りいたします。シーツが大変なのよ、なくて。
取越し苦労とお笑いになるかも知れないけれども、備えあれば憂なし、と、あなたが教えて下さいました。三月二十二日 
三月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二十九日
二十七日づけのお手紙頂きました。ポツポツと又つづけてかかなくてはならないから今日から始めましょう。
隆治さんの語学の本は、『馬来(マライ)語四週間』と文京社、大学書林のとがなかったので、前に買えた会話手引と日泰馬来英対照の字引だけさし当り送りました。初めこしらえた小包には、文庫の『マノン・レスコオ』、『カルメン』と徳川時代にカムチャツカまで漂流しておどろくべき沈勇で善処して来た船頭重吉の太平洋漂流記というのが非常に面白く立派だったので、それを入れ、お茶、薬なども入れました。本だけを、ではすぐ送ります。重吉の話はやはりあちらでもどんなにか面白いでしょうと思います。まるで幼稚な方法で航海していなければならなかった時代にでも、重吉のような人物がいたということは愉快ですから。
第一書房の『プルターク』のこと承知しました。この頃は古本をみんなが大事にして、すこしましなのは出ないから、『風と共に去りぬ』のような、一時はいやな程溢れていた本が、今ではあんなにあちこちにたのんでさえ、やっと一冊手に入るという次第で心細いものです。改造の営養読本、この前ガタガタ本を整理したとき、まざり込んでなくなっているのだと思います。私のいない間に二百冊ほど手放したし。あとから昨年買った日本評論社版のはあります。改造のは薄黄色の表紙でしたが。ほかのひとの本を一緒になくしては居りませんから、それは大丈夫です。
私の体も段々癒って来るにつけ、癒る過程に起って来るいろいろな様子をみて、我ながらひどかったことを感じなおしている風です。字はかく方は、どうしても自分で書かなければならないとなると、この位はかけるようになりました。チラチラマクマクをとおしてですが。春になって変化が激しい故かちょいちょい故障が出て居りますし、実際眩しくて外を歩きにくいけれどもしずかな気まかせに歩ける田舎の木下道でも、のんきに歩けたら、体全体の調子がぐっとましになって、秋までには眼もいくらかよくなるのではなかろうかと思います。ペーヴしてある道は真白くハレーションして閉口だし、混雑はこの頃言語道断だし、空からの到来物のことだけでなしに、田舎へゆきたい心持です。後者のことは物を書く人間に生れて来て、東京がそういう経験をするとき、そこから静安だけを求めて、どこへか行きたいという気はありません。まして動けるのは一人だという場合。自分だけがどこかに行くということを考えると寧ろ渋ってしまうのよ。しかし、ここでの生活は、なかなか複雑で、私の神経が相当いためられます。寿江子という人は大変特別だから、私がこの二三日のように工合わるくして床にいたりするときは優しく親切だが、すこし元気よくなっているときは実に鋭い反撥を示し、癒ってゆくもの、そして着々仕事も進みそうな者への反感をきわめて意地わるく示します、自分は決して快癒はしない病をもって生きているのが重荷なのだ、ということで。こんなに大筋をかいても一寸おわかりになりにくいでしょうし、又いい気持もなさらないでしょうが、それは冷熱こもごもの感じで、まだすっかり丈夫になっていない私には苦しいことなの。咲枝が腎臓をわるくしていて(泰子の過労から)先日も伊豆の温泉にゆき、明後日ごろから国府津へ子供づれでゆきます。自然太郎の責任は私が負うこととなり、お産の留守番以来かなりもう沢山にもなっています。私は今迄は動きたくても駄目だったから。こうしていて月々にかかっている費用にいくらか足して山へゆけたらと考えている次第です。一日五六円のところを物色していて、十三年に行った信州の上林のせきやを問い合わせ中です。これとてもあなたが東京をはなれたって意味ないとお考えなら、ひとりできめて意気ごんでいるわけでもないのです。七時間位の汽車は外景を余り見ないようにしていたら大丈夫そうに思えているのだけれど。誰か送ってだけ来てくれたらば。
今度のことは、大東亜戦になったらばとリストがあって、それにより二千人近くだった由です。元のときすぐ保護観察というのに附せられ、最初の係が毛利という警視庁から行った人でした。いろいろのいきさつから私への点はからいと見えて、私の態度が私にはよくわからない理由でよろしくないという書きつけが出来上り、書類はひきつぐし一昨年七月頃一寸別のかかりの検事のひとと論判めいたことがあり、リストは消されず十二月となったわけです。検束で二ヵ月いて、この頃は検事拘留で一月三十日に拘留がつき、三月まで『明日への精神』のなかにある山本有三論の字句、スメドレイのことをかいた文章のことなどでぐるぐるまわりの話があって三月に入り、うちのものが私の健康のことを心配して出かけたりしたことがありました。そしたらすぐそちらに廻り、一ヵ月余音沙汰なしで、話は又同じ題目で、どうしても私は一定の主義に立って物をかいていると云われ、そういうわけでないという常識論は通じませんでした。そのうちかかりの検事が見えましたから、私は自分に要求されている返答がどうもしっくりしないで困ること、しかしそれをそうでないということが即ちとがむべきことというのでは当惑すること、書いたものの実際についてよめばひろい観点でかいていることがわかる筈と話しました。検事はおだやかな判断で、私が書いたというために色眼鏡で見ているところもあり、私という人間を特別な先入観で名から見ているところもあり、気の毒だと思うところもあるが、作品はところどころ難点がある、という話でした。しかしグループをもって活動しているわけでも組織をもってそれに属しているのでもない人間が治維法にふれることはないという話でした。
それから暫くして聴取書がこしらえられはじめ、手記にかいたような経歴などのところで私がひっくりかえってしまったのでした。手記にかくこともないから手記もありませんでした。聴きとりが終れば病気にならなくてもそれで帰れるわけでしたと思います。「カテキズム」ですから話にのぼった作品の箇所へでもゆけば誰のかいたどういうものかと思うような字句であったろうと思います。検事が私の病気を知ったときすぐ執行停止にするからもうゆっくり静養しろということだったそうです。この検事はどこかの軍政官に転じ、本庁の係だった河野という人も南方へ行ったとかいうことです。それきりでずっと何の沙汰もなく、臨床の訊問もなく、検事拘留一ヵ年の一月が過ぎ、二月下旬に駒込の特高の人が来た時、私は自分がどうなっているのか判らないけれどもと質(たず)ねたら、もうこのままでいいんでしょうということでした。旅行に出るなら自分の方へ一寸知らせてくれればそれでよろしいとのことでした。検事局へ届けたり何かは不要とのことでしたから、これで一応落着し手を切れたものと理解しているわけです。
忌憚にふれるものを強いてかこうともしているわけでなし、私がものを書いてゆくことは原則としていけないというわけではないのです。『茂吉ノート』は著者が同じ頃からいろいろとごたついた最中に出版されたのですし、本年に入って新版を出しました。自分としては社会時評や女性生活問題はむずかしいから、古典作品の研究、たとえば明治以来の婦人作家研究をもっとさかのぼり、それをまとめたりする仕事はよいだろうし、文学美術に関する随想はいいのでしょうし、小説は今度も一つも問題になったのはないのですから、小説も段々かきたいし、と考えているわけです。経済的な点で、勿論書くもので儲かろうとは思えず、出版部数も多くはなく不便はつづくでしょうが、全く可能のないものとしなくてもいいのではないでしょうか。隆々と活動するというアブノーマルなことを考えず、芸術の領野で地味に手がたく勉強して、それがいくらかの収入にもなるということはあり得るでしょうと考えますがどうでしょう。そういう風に考えて行って作家としては自然でないでしょうか。ろれつがよくまわらないから大勢の人前で喋ったり坐談会などは本当に不可能ですし、あれこれの旅行も不可能なのですし。もっとも、そろそろ書けるようになったとき、又何がどうなって来るか、それによってどんなに状況が変るかはそのときのことですが。
私の養生ぶりがしゃんとしていなかったということ、そして話とちがったというところ、悲しく、何度もくり返し拝見しました。私はそのちがいの間にこめられている事情を察していただけると思い、よかったと思っていたのでした。ちがいを説明しにくく、自分の気持だけ言い、二つを並べて客観的にお話出来なかったのは悪うございました。客観的な事情というものはわかっているのだから、二つをはっきり並べて話せなかったのが私のしゃんとしなかったところであったと考えます。
自分の健康にほんとうに自信があるならば、病状についても平静に、さけがたい腫物はどう出来ているか、を話した筈ですから。御免なさい。私は骨髄癆になっていない自分をつたえたくて一方の事実を糊塗したようになり、そういう作家としても強靭さの不足したような、眼光の透らないようなところ不快にお思いになったのは当然であり、すまないことでした。私は子供らしかったと思います。自分の告げたいことだけを息せききって喋るように。話したい方からだけ、話しいい方からだけ話すというのも、態度としてはなっていないことだし、リアリスティックでなくて。本当に私たちの生活で、私はいつも平静な現実的な勇気をもっていなければならないと思います。余り長くなるといけないからここまでで一区切。今寿江子はコウヅ。ペンさんは旅行で、一切書きかたは中止中です。 
 

 

四月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
次の日かきつづけるつもりであすこ迄かいたら、三日休業になってしまいました。きょうはすっかり春めいて太郎は庭で土いじり。白木蓮の花がさき丁字の花がにおって私は久しぶりに外へ出て柔かい庭の土を歩きました。昔秋、田町の道の上でかぶっていた白いパナマの古帽子を日よけにかぶって。この頃は、でも、疲れると何も出来なくなり、おとなしく床にころがっていられるようになったから自分でも安心です。
横になってゆっくりとあれやこれやお手紙について考えて、臥たのも大変よかったと思って居ります。あなたがああ云って下さることのうれしさがしんから湧いて来て、段々仕合せを感じ、すがすがしいような健やかな流れを身のまわりに感じます。この節はどこもバタバタ暮しです。そして人と人とのいきさつは、互の好都合というところで廻転して、その点ではいつかいやにわかりがよからざるを得ないようになって、夫も妻も、一寸山内一豊の妻めいた才覚が働くと、一も二もなくそれに兜をぬいでしまうし、ひどいのは猿まわしの猿つかいのようになり、小さい黒い手で猿に借金もかき集めさせるという有様です。そうして人間らしさはいつしか急降下しつつあります。あなたが、どんなときにも、私に人間のまともさだけを求め、便宜や好都合のために私の動くことをちっとも予想もしていらっしゃらないということは、こういう時勢の中で、全くおどろくべきことであると深く思います。自分がそういう醇厚なこころのうちにおかれてあるということについて、私は謙遜になります。そして、それがわかっているようでわかっていなかったようなところをさとります。そのために、下らないことでさっぱりしない気持におさせし、話の底がわからないという感じをもたせ、すみませんでした。これは、私の安手なところから起っていることで、私にそういうところがあるということについて悲しく思います。自分が、あんこで云えば飛切り上等というところまで火が入ってねりがきいていず、ざらついたり水っぽかったりして、それを味わうとき、あなたの胸の内側はいやな思いでしょう。人間の資質は何というおどろくべき等差をもっているでしょう。人間の立派さというものの立派さは、それを理解する能力はもって生れたものでも、その能力が直ちにその立派さと等しいものではないという厳然とした堰があります。杉は愛すべき樹ですが檜ではありません。杉が自身の杉のねうちと分限を学び、檜の美しさ、まじりけない立派さを知ったとき、杉はこの地上のゆたかさにどんなに心をうたれるでしょう。その立派さを見あげ感動することの出来たよろこびを感じましょう。だがその身内を流れる涙があるでしょう。檜に生れて見たかったとは思わないでしょうか。傲慢な希望ではなく、生れるならよりよきものと存在したいという希いから。深い幸福感と感謝と悲しみとが一つ心の中にあります。
十三年に、生活に対する態度のこととして、こまこましたものを処分するようにということでした。そして一部そうしました。当時の生活の必要もあって。そのとき自分たちの生活の条件の不安定なことを考え、私がいないときどうであったかを考え合わせ、私がいなくてもいくらかでもゆうづうするものがありさえしたら、それを送ったりするだけの親切はうちのものも持っているだろうと思いました。十三年には書けなくて困却した年です。当時国男は今日ほど物がわからなくて、私たちの生活を一つのものとして考えることが出来ず、私のためは即ちあなたのためとは思えず、数々不快な問答がくりかえされました。あの節建築の方は今日のような統制による窮迫をうけていなかったから、私の不自由も我が身からの酔狂と見ていました。私はつくづく不安心で、自分がいなくなりでもしたら、二人はどんな思いをすることかと思い、そのために全く些少の足場だが一方だけ即刻処分は出来ませんでした。そのことをすっかりあなたにお話しすべきでした。ところが、あのときは、生活の態度という点で、一つもあまさずというお話で、それは私にあなたがこまかいいやな事情を御存知ないからだと思えました。一々そんなことを話しても、私が感情的になっているか、さもなければ自分の何かつかまるものがないと心細いという習慣風な気分の理屈づけとおききになるだろうと思えました。おそらくそんな印象をおうけになり、そんな風にとれるようにおっしゃったことがあったのは、寧ろ私が簡明に生活の条件をお話ししなかったからのことであったでしょう。
私たちは家事的な話しなどをゆっくり永年相談しあって暮して来たというのではなくて、そういう話があなたから出たときは、私にとって何か絶対のこととうけただけの癖で、それが変った事情のなかに移っても私にのこって、あなたにとって笑止な遠慮、卑屈さになったと思います。平常はそれをそちらの分の土台としてやっていて、一昨年の十二月から昨年八月までは、実業之日本、筑摩書店から印税の前借をしたのと、十三年に翻訳したその収入と合わせ、やりくりました。もう何ヵ月ぶんしかないというのは事実であったわけです。寿江子はそういうやりかたに馴れないものだから、私もかなり語調でおどかされたりしましたが。
八月末医者の払いをしたら、それこれがおてっぱらいとなり、国男さんの方の事情としては月々医療費を立て替えることも困難だというから、いろいろ考えた末、百ヶだけ担保として、それで流通をつけてゆくうちに、私の体もいくらかましとなって、少しの収入があればよしということにしました。
あなたにもすっかりわかっていることでなかったのは悪うございました。しかし、ともかくもこうやって最も体も弱った時期を何とかきりまわして行けたのはよかったと思って居ります。
ここまで書いたら一日づけのお手紙が来ました。そしてこの前、あなたの不自由なさった前後のことがあるので補足いたします。あの時分は父が生きていて、私は母ののこしたものを自分で自由に出来ず、又どの位あるものかも知りませんでした。母の亡くなったとき父が三人を呼んで、母ののこしたものは子供たちに等分するが、一番能力のない寿江子と、いろいろ責任もある国男にやや多くして、自分の存命中は自分が保管してその収入も自分で自由にするから承知しているように、とのことでした。だから私が牛込居住のころは、私の方も全くお仕きせで、私は二人分だからと自分も随分きりつめて暮したものでした。十月に栄さんから行ってそれきりだったということは、はばかるとかはばからないとかいうことより、私にも分らないけれど、単純にあなたがまあいいとおっしゃればいいんだろうぐらいのことでいたのではなかったでしょうか。あの時分は考えるとひどかったことね。一ヵ月に一度ぐらい咲枝が一寸来てウワウワと何かきいて、あなたの方大丈夫かと念を押すといつも大丈夫よちゃんとしている、と云って、それで帰ってみればそういうことだったのですものね。あの頃は咲枝夫婦は部屋住みの無責任さがあり、寿江子はこちらのことなどかまっていず、今度とは本当に比較になりませんでした。
父が急逝し、国男は俄に家と事務所を背負ってすっかり神経質になり、寿江子も境遇の激変から妙になって、兄を不信し、そんなこんなで私は帰ってからも相当でした。あなたとしては、うちのものに対しては、まあ何とかするからと仰言るのは分っているが、しかしというとこまでは決して心の歩み出さない人々だということを痛感し、それで、父の死後私の名儀のものが自分のものとなったとき、全部手ばなして又あのあいまいな、わけのわからないいやな思いをしたくないと思ったわけでした。
必要な場合役にも立てないで、つくねておくようなら持たないにしくはないと、あなたはお思いにもなったのでしょうね。私は自分があんなにつめて心配していたのに、うちの連中は何ていう底ぬけかと思う心がつよくて、時期のくいちがいを御承知なかったあなたの方で、そんなものがあったのならとお思いにもなっただろう事情を心持として分らず、黙ってのこしておくこととなって、行きちがいをおこしたのでした。
考えてみると、暮しのやりかたが本当に拙劣であったと思います。しかし前の時は私はやっと原稿料で生活していただけで、その日ぐらしで、自分のいなくなったときの考慮まで出来ていなくて残念なことでした。今度は、招かざるお迎えが来たとき、すぐ寿江子にどこからどういうものをとってどうしてとたのみ、それがすぐ分るだけ大人になっていてくれてましでした。
こちらの生活はなかなか入費がかかります。四倍の入費ということはここにいても同じにひびいて、家へわたす分、雇人の心づけ。ペンさんの月給、本代、薬代、吉凶その他の臨時で、お送りする三倍四倍になります。自分が病気のため知人が心配していろいろ送ってくれれば、やはりそのままにはすまずですし。それもやや一段落の形ですから、その範囲で暮せる温泉へゆきもう一息、この眼のチラチラも直し、疲れやすさも直したく思います。やっとこの位の字がかけてみると、眼のチラチラは却って一層苦痛です、スーッと楽にはっきりすきとおって見えたらどんなにさっぱりするでしょうと思って。一日に二時間でもいいからね。もし温泉にゆくとしてペンさんにはやはり一週一度来てもらって二人の本さがしの用事、送る用事、その他事務上のことをして貰います。現在、うちの人たちは皆半病人で、寿江子はこの間私の為に自分の健康までそこね、それで今も苦しむのは自分だけだという心持があって、そちらにお目にかかりにゆくだけで精々ですから。柄にないことはするもんじゃないと思ったそうです。そんな気持も亦時がたてば自然に戻るのでしょうが。こんな体で自分の勉強さえ出来ないのにと云っていて、私も気の毒だし心苦しいし、それで万一の場合私に代って事務的なことを計らってもらう人として、てっちゃんにたのんだのでした。家族的にももう知りあっていますし、順序がついていて、それを取計らうだけならいいと思って。五日ごろ寿江子が上ります。私はその二三日後に上りたく思って居りましたが、この手紙すっかりよんで頂いて、いろいろのことが分明して、私のわるかったことは悪かったとして、ともかくさっぱりして頂き、まあ来たらよかろうというお気持の向いた上で行きたいと思います。一心に、おぼろおぼろの眼を張って、私はおめにかかりたくて行くのだから、そして、あのほんの短い時間のうちに、ゴタゴタしたことは何も話せず、話せば中途半端でいかにも苦しいのだから、この一まとめの話がすんでからにいたしましょう。これは何日ごろ着くでしょう、長くてさぞ手間がかかることでしょう。早く来てよいと云っていただきたいと思います。 
四月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ゴッホ筆「アルプスへの道」3ノ一、三岸節子筆「室内」3ノ二、土本ふみ筆「垣」3の三の絵はがき)〕
(3ノ一)隆治さんがジャワへうつりました。そのハガキ貰って、大事にしてしまったら、仕舞いなくしてへこたれです。どうも見当りません。そちらへ来たらどうぞお教え下さいまし。送ったものはみんな行きちがいね。果して届くものかどうか。岩波の小辞典をお送りしました。『秀歌』は田舎へもってゆく分として一括したものの中にあり、そのうちとり出してお送りしましょう。なくしてハ居りませんから。少し勉強しようと思って大事にしてあります。
(この空の色はもっと濃く深く、糸杉はもっと厚い黒っぽいいい色だそうです)
(3ノ二)この人の絵をほかにおめにかけましたろうか。いつも大作を描き、いつもこういう更紗ばりのような展覧会エフェクトの多い画面です。絵のどういう面白さをここに出そうとするのかといつも思われます。婦人画家中の才人です。マチスまがいから段々堕しています。文学では模倣はたやすく見破られるが日本の洋画というものは音楽同様にまだ模倣に寛大な時代なのでしょうか。
(3ノ三)浅春の雪のすがすがしさと柔らかさを描こうとしたらしい絵で版がわるいから垣のむこうがゴタゴタして残念です。今まで知らなかった女性の絵です。この雪の下には砂地がありそうな感じですね。ぬかるまないような。ペンさんが奈良の旅行からかえり、寿江子国男国府津からかえり又ガヤガヤになりました。戸塚のおばあさんが死にました。手紙一つお見舞一つもらわなくて、そちらの事だけ「あらかじめ知らせ」られたりして、少しおどろきました。 
四月八日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕
あしたの金曜日に出かけられると思って居りましたが、雨つづきで下稽古が出来なかったから、火曜日になります。どうぞそのおつもりで。 
四月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(木下克巳筆「夏の夜」の絵はがき)〕
四月九日
この頃いろいろと書きたくなって来ました。口で云ってかいて貰うというのではなくて。そうすると体力がまだそこまで行っていないことを沁々と感じ、ああまだ辛棒しなければと思います。結局口に出して書いてもらうということには随分限度があるものね。去年の秋から今日までの私たちの経験でも一見下らなそうな家事のことも本気にかけばやはり自分でしたいの。 
四月十日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(絵はがき)〕
四月〓日でも片はじから書いてしま〔数字不明〕小説のテーマなんかずっと心に〔数字不明〕毎日それについて考えているのはたのしみです。
〔二、三字不明〕云ったことは何か新鮮なものを自分のなかに生んでいて、それは生活環境が目白とちがうことと結びついて、やっぱり一つの新しい面を自分のうちにひらきつつあるのを感じます。 
四月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(京都三千院の写真絵はがき)〕
ふと思い出してかきます。着物のこと栄さんでわかるようにしておくというのは、もしここが灰になって私は役に立たなくなったとき、当座たのめるようにしておくということで、今から日常的に助けて貰うというのではありませんからお送りかえしのものはここへ願います。念のために。寿江子が何だか混同したように云っていたから。 
四月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(中村彝筆「エロシェンコ像」の絵はがき)〕
今朝は何とこころもちのよい目ざめだったでしょう。湯上りのようでした。思っていたあなたのお顔と一寸見ちがえるようにかっちりと厚みが出ていらして本当にうれしゅうございました、よかったわね。うちのひとは夕飯に赤飯をたいて私のよろこびを祝ってくれました。
お手紙けさ着。大して疲れないらしいけれど昨夜は一寸苦しい位こたえたから今日は自重して、ほんの一筆。 
四月二十四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月二十三日
十九日のお手紙二十一日に頂きました。細々とありがとう。よくその気持でいそがず、着実に、永くなってもいらつかないでやってゆきます。どうぞ御安心下さい。これがこの頃の原稿用紙よ。私のこれ迄のは赤いケイで、それはひどく目にチラつくからこの色のをさがしたら松やで、こうです。一番細い万年筆で軽く書いてそれでこれ丈しみるのよ。毛筆の方がよいのでしょうが。
今週は昨木曜日に出かけ来週は水曜日です。こんどはやや人並の話対手で、余程ましです。疲れかたが単純なのは大助りです。それに、そちらへ行くこともかまわないのだそうで、只私の体の疲労とにらみ合わせ、初めは大事をとってあしたもがまんして家に居ります。来週は或は金曜ごろ出かけられるかもしれません。きょうは疲れてマクマクのレロレロよ。家中にいるのは寿江子と私と台所の一人と書生。国男、太郎はみんなかあさんのところへ。実に久しぶりのしずけさで若葉の色をしんから眺めるような気持です。たのしみなことも出来たし、きょうはいい心持で、どうぞおよろこび下さい。一ヵ月に一度でも私がゆければ寿江子は上りません。あのひとはこの頃体の工合がわるく、やせて閉口して居ります。糖は営養がすこしあやしくなると因果と糖が出るようになり、それで益〃営養は不良となるという堂々めぐりです。来週あたり国府津へゆくでしょう。
ああちゃんと子供は月曜の雨の中を出てゆきました。よほど重荷が整理された感じです。咲枝がサービス疲れのようなのもあちらならなんと云ってもやすまりましょうから。国もドメスティックな人なので細君がいないと何となく悄気(しょげ)ていて気の毒よ。自分の考えたことで安心はしながらも。この間二度つづけて永い力作をさしあげたら、何だか当分ぎっしりとつまった手紙かく根気がぬけて居ります。でも、あの手紙をかいたおかげで今私の気分はいろいろさっぱりと落付き、一層深い信頼に充たされていていい状態でうれしゅうございます、本当にありがとう。では、大抵来週の金曜頃に。こんなに力をぬいてサラリと書いてさえこんなにしみる紙にGは迚も使えず。ほり込むように一字一字を書いてゆく愉快さもないというわけです。一工夫しなければなりますまい。 
五月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
きのうきょうの風のつよいことどうでしょう。けさまだすがすがしい朝の庭に、赤いつつじが咲いて楓の葉が青々とした下へ、三羽のつぐみが遊びに来ているのを見て大変奇麗だと思いました。少年時代に小鳥とりなどなさらなかって?裏日本の方ではみんなやるようですね、つぐみはやや大きい黒っぽい鳥で、その色は単調に赤いつつじの色とよく似合って、ああこんな景色もあるかと感じました。
三十日のお手紙日曜日に頂きました。早速返事書きたかったけれども先週は疲れ月曜の疲労を予算に入れてのばしていたら、その日が一日ずって昨日となり、又明日があり結局きょうとなってやっぱりいくらかへばりの日にかくことになりました。
もう私の心持では、大きい字を巻紙につらねたような手紙ではたんのうせず、しかもこの位の字は相当の事業故、板ばさみで些か閉口です。本当に眼も永いことね、こんな字にしろ半分はカンで、長年の馴れでかくようなもので白い紙にゴミが散らばったような感じね。
すっかり初夏となりました。夜のかけものがいつの間にかあつすぎて、すこし汗ばむような工合になるのも五月という気候の風情です。段々病気もゆるやかになって体のまるみもついて来て、自分で新しくそれを感覚するようなときの初夏には、云うに云えない若やかなものがあって面白い感情です。自然のうつりかわりが実に生々と新鮮によろこばしく映って。
でも、二三度外へ出てみると、このあしかけ二年ほどの間にいろいろ世の中の様子が変化したのを感じます。それも沁々と感じます。日本の人は万事にゆきとどくという美点をもっているのでしょうね、しかし大まかさにも自然のゆとりがあって人間らしいふくらみがある筈です。ゆき届きすぎて非人間めくのは、利口馬鹿のやりてな女ばかりでもない様子です。
こないだうち珍しいから目をみはって歩いたけれど、もとのように思い設けぬ飾窓に、びっくりするほど美事な蘭の蕾の飾られてあるのや、それが珠のように輝いたりする眺めは見当りませんでした。そちらへ差入れの花も払底な時だから、きっとそういうどちらかと云うと贅沢な美観は街からもかくれているのでしょう。
でも、どこかでそれはやはり美しく立派で、蕾から花と開き又新らしく萌えたつ豊かな循環を営んでいるにちがいありません。私は全く花や木がすきよ。本当にすきよ。瀟洒(しょうしゃ)としてしかもつきぬしおりのある若木の姿など、新緑など、その茂みの中に顔を埋めたいと思います。今うちの門から玄関にゆく間のあの細い道は溢れる緑と白い花です。どうだんという木は今頃若葉と白い鈴のような花をいっぱいにつけます。樹の美しさを話すのも久しぶりのように思われます。
本と足袋明日お送りします。
昨夜ふと気になったらえらく心配になりましたが、あなたの冬羽織、下着、どてら、毛のジャケツ一組等はどこにあるでしょう。まだお下げにならなかったの?この間はボーとしていて冬の着物一つもらってかえったけれども、考えてみると羽織その他大事なものどもは、どうなっているかと、女房らしく気が揉めはじめました。どうぞ御返事下さい。『廿日鼠』は私も面白いと思いました。あの小さい方の男が、気やすめとはっきり知って気休めを云っているところ、しかし大男や黒坊や掃除夫は、シニカルな気持の半面で真実それにひかれているところなど、ヒューメンな味が感傷でなく在って、あの一束の人たちの作品の特質は主としてそのところに在ると思われます。彼は物理と生物学の勉強をしているそうです。文学からそちらにゆくのは、そちらから文学に来るのと全然違うというのは本当で面白いことです。科学と法則を、彼のような作家が学びたいと感じるのも分るし、『廿日鼠』の大男のような自然力を感じる作者が生物学というところに立ちよるのも判ります。それが過程になるか終点になるかということで、彼の文学の可能も亦かわって来るわけでしょう。
オニールのようにあっちにはああいう自然力を人間の運命のうちにつよく感じる作家が出るのね。ロンドンやホイットマンもそうですし。新しい生活力が、或ときは悲劇的に横溢するからでしょうか。
『文芸』は六十数頁の小冊子となりました。苦心して編輯していますが、作家は二十枚とまとまったものをのせ得ていません。多くの課題がこの一つの現象のうちに語られていて、作家がジャーナリズムの刺戟で仕事して来た習慣への痛烈な報復がひそんでいます。
どんな人も従来の1/6ぐらいの収入でしょう。プルタークはもう忘れています。クレオパトラの引力史という表現は笑えました。ショウは利口なようで浅薄な爺さんね。クレオパトラの鼻がもうどれだけ低かったら世界史は変ったと云って、どんな猪口才にも記憶されましたが、クレオパトラがそれをきいたら、ジロリとショウに流眄をくれてニヤリとして黙っているでしょう。鼻の高さひくさぐらいクレオパトラの本体に何のかかわりがあるでしょう。彼女はおそらく女性中の女性だったのです。ナイルをみなぎらす太陽にはぐくまれ、あたためられ、そしてそれを装飾して表現する立場をもっていたのです。装飾に眩惑されるぐらい英雄たちは或面魯鈍であり、自然の魅力に抵抗しかねたほど素朴でもあったわけでしょう。それにあの連中はみんな派手ずきな連中だったからね。どんな時代にも派手好きな人間というものの共通に担うめぐり合せはあるものです、プルターク先生はそこ迄見とおしたでしょうか。随分変転を重ねて其は現われる、例えばレオン先生の晩年のなりゆきの如く。
私は目下のところは余力なしで、ここに居すわりです。寿江子は来週海岸にゆきます。彼女は大変緊張して暮しているから却って私ものんびりするかもしれません、では又ね。 
五月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(西芳寺の写真絵はがき)〕
きょうは七十九度ありました。暑くて苦しいほどだから、セルが未着でおこまりでしょうと思います。何とガタガタな一日だったでしょう。咲枝が出京して午後の短い時間に思いもかけず見つかった乳母をきめたりして四時すぎ嵐のひくように太郎をつれて行きました。私は半分ボーとして机のところで息を入れているところ。この細かい字は何とかいてあるのでしょうね。 
五月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(庫田※[「綴−糸」]「松林」の絵はがき)〕
きょうは八十一度になりました。五月初旬にこんな暑さということがあったでしょうか。明日は月曜日で出かけるから、せめて少しは涼しくなれと思って居ります、いそぎ紺ガスリお送りします。
この松は不自然と皆が云うが、私には昔の野原の海辺へ出る手前の道が思い出されます、きっとあなたもそうでしょう?木の枝に蛇を下げた男の子がこんな松の間の道を歩いていました。 
五月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(石井柏亭筆「佐野瀑図」の絵はがき)〕
五月九日
『万葉秀歌』はもう夙(とっく)についていなければならないのに、うちにゴロゴロしていて本当に御免下さい。上巻はいいのだが下巻にしるししてしまって消してからでなくては駄目でついのびてしまいました。やっと人手がすこし出来、これからは何となし少し楽になるでしょう。この頃の生活から、私は又先頃は知らなかった修業をして面白く感じることが多くあります。働いたことのない人々の人生とは何と嵩ばっているのでしょうね。 
五月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月十五日
十日づけのお手紙十三日(木)頂きました。くたびれて、クタクタになってかえって来てお茶を呑もうとしてサイドボードのところを見たら、ちゃんとたてかけてありました。思わずこれはいい、これはいい、と申しました。いつもかえって来るときはペンさんの腕に半分ぶら下りよ。そしてお茶をのみパンをがつがつとたべて、二階へ上り坐布団の上に毛布をかけてゴロリとして夕飯までうとうととします。そうするとすっかり元気になります。気は楽なのにちゃんと何時間か坐って居るというだけでも、やはり疲れるのね。おっしゃるとおり自分の気持だけで区切りをつけていたってはじまらないわけですから、もし七月につづけばはっきり夏休みにします、九月下旬までは。体の調子は決してわるくないと思います。それに目下は一寸人手もあり、従って寿江子のとばっちりもおさまっていて。私はこの頃バカになっている修業というものが必要で、成程と感服いたします。そんなにシブキ上げるなら放っておいて私にさせればいいのに、それは可哀想、させる人たちがひどいという公憤も加って、寿は自分でひきうけて、馴れないから大鳴動を起すのね、親切のうけかたもむずかしいものと苦笑いたしますし、妹もあの位になると、バカになっておかないといけないという時もあるものなのね、あちらは性格から云って頭が迅くまわるのを制すたちではないのだし、気づくことは万事気づいてのんびりしているというところ迄の修業の出来ていないのは当然でもあるし。ですから私の姉さん修業も相当の段階にたち到ったと申せます。きっと旦那さん修業にもいくらかこんなところがありそうに思われます。いかがなものかしら?
花屋の眺めについて御同感でしょう?それでも自然に茂っている樹は美しく、枝ぶりも好もしいし、葉も美しいし、やはりうち眺め、うち眺めして飽きることを知らない心のよろこびです。私はこうやって部屋が二階にあってしっとりとした心持で見ているのはいつもいろいろ様々の若葉を重なり合わせている木々の梢ですから、なかなか鑑賞の力はみがかれて来て居ります。泉物語の詩の話も久しいことしませんでした。自分のしんから気に入っている詩の話などというものは自分で書くしか仕様のないものね、しかも、やっぱりせめてはこの位の字もどうやらかけるようになって来なくては、ね。つい先頃までかいていたあの大きい粗末な荒い字を思い出すと、声のとぎれがちな叫びのようで大変苦しい気がします。まだまだ苦しかった(頭が)と思うの。じっと字をかいていられなかったのよ。丁寧にかいていられず、何かにせき立てられているようでした。その上今思うと、体じゅうの筋肉が変だったのね。全くギクシャクしていたのだわ。ですから大事に大事にすっかり癒らなければなりません。瑞々しく柔軟に丸く心も体も恢復しなくてはなりません。この頃は、字にしろ落付いてこまかくかいて行くたのしさが出来て来て、それに堪えるだけの神経の調子になって来たのでしょう。でも、眼はけしからんの、何というのろまでしょう。原稿紙のマス目はまだ駄目です。
きょうは六十六度ほどで、曇ってもいるし、しのぎよいが、昨日は又八十度越しました。あついと実に苦しいのよ。肩や背に日光がさすと何とも云えず不快です。もう傘をさしています。冬の衣類前へ出しておいていただきましょうか。私は今月のうちにもう一度ゆきたいのよ。いずれ水曜か金曜ですが。私にとって少しは薬になる外出があったっていいわけのものではないでしょうか、文字どおりほかへはちっとも出ないのだもの。たのしみの外出なんてないのですもの。夜具やっぱり宅下げなさいますか?私はあつくるしいのはやり切れないとは思うけれども、どれか一つだけ厚く綿の入っているのをおいておいていただきたいのだけれども。ドカンと云ったらあなたはあれをかぶっていらっしゃるという気休めがほしのだけれ共。下らないこと?小学生たちは坐布団に紐をつけたものをかぶります、親は、それでもないよりはと思っているのよ。
島田へこんどお手紙のとき、お母さんが日向に頭や肩むき出しで余りお働きにならないよう、川へ洗濯に行らっしゃるのもすこし気分が変だったら必ずおやめになるよう、よくよくおっしゃってあげて下さい。いつもいつも書くのですが、お元気だから黙殺よ。しかし多賀子の手紙などには同じことを心配して居りますし。
私が久しぶりで手紙をかけてよかったとこちらへもよろこんで下さいました。自動車のことはそのとおりです。乗用とトラックとが新しく入るというようなことが友子さんの手紙にありました。Yという人物やその間の事情も代表的なものですね、いつか島田で私一人店にいたら途方もない横柄(ヘイ)な奴がヌット入って来て頭も下げず、少額国債のことを話し(自分が買うと)私は何奴かと思ったらそれがYの由。裏の路の話は三四年前からでした。ではもう出来たのね、やっぱり高く出来たのね、人間の生活の常態というものに対して親切な心くばりの欠けた強引プランというものは、いつの時代にもどんな場合にでも人々の心に舌ざわりの荒い滓(かす)をのこすものです。或種の人々の感情には横車を押しとおす快感めいたものもあるでしょう。小人物はそういうものだから。有無を云わせぬというところに何かの感じを味っていたりして。そういう町の落付かなさを思います。裏と云っても、もとからあった裏道ね、あれよりもっと家へよったところに出来るということでした。きっとそうでしょう、トラック用道路です。島田の家も住居はもう少し山よりの方へ奥へ小ぢんまりと引こめて、こちらは仕事用の必要部分だけにして、お母さんや子供や女連は住宅の方に暮せるようにしたらいいでしょうね。通りの建物は利用する方法がどっさりありますでしょう。達治さんの健康のためにもいいのでしょうが。このことは少し考えてあげて、その方がいいとお思いになったらお話しになったらどうでしょう。軍用トラック道路と徳山、光町の線路とにはさまれているのは、静かな日々ではないのだから。きっと家賃としてもかなりのものでしょうし、お売りになって小さいのを立てれば案外やりくれるかもしれないし。蔵だって今は使用せず単独に貸していらっしゃる位だから。裏へ道が出来たのではお母さんもお考えでしょう、あいにく私たちが大キューキューで何とも出来ないのは残念ね。
お送りした草履は、かなり奮発で、今としてはいいものでしたからうれしいと思って居ります。輝ちゃんに絵本送ったのよ。
今日『防空』到着しました。『ギオン』が一緒のようにかかれていて消され一冊だけでした、私はまだ迚もああいうのはよめないの。寿江子がよんで教えてくれるそうです。それにしても朝日の『衛生学』まだ本屋から来ないので又きき合わせて居ります。スタインベックの「月落ちぬ」Moonisdownという小説が英語で持っている人があってやがてかります。活字が大きかったらいいのだけれど。お送りして見ましょうね、文章の新らしい単純さをぜひ原文でみたいと思っていました。外国語では題に自由に動詞をつかえるから面白いものね、Moonisdownにしても作者の感覚は本当にただ月が落ちた、という時刻とか光景とかのものでしょうが、生活とくっついた表現にすぎないのが日本語で月が沈んだでは何とも題になりかねます。この頃の月は夜の九時頃もう西にまわっていて早く沈みます。それを眺めて一種の風情を感じているのでなおはっきり文学的表現をくらべる気持にもなります。宵に落ちる月の風情などはせわしい心のときは気をとられないものね。きょうはこれから久しぶりで風呂に入ります。警戒警報が解かれほっとしました。では又ね。 
五月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月十六日
きょうは、五十七度ほど。これだから体がたまりませんね、けさ午前五時半の一番で太郎がコウヅへ行くというので起きて世話をやいたら風邪をひき気味になって、雨のふるしずかな私一人のうちの中で殆ど一日床に居りました。今もう夕方。おきて暖い襦袢にエリをかけて着ていたら、健之助の乳母にたのんだ人の乳が健全でのましてよいと医者からデンワで、それ知らせろということになったら、あっちのとりつぎ電話が不明でゴタついているところです。
父さんは大抵金曜日の夕方になると何か用が出来て、どうしてもあちらへ行かなければならなくなるのよ。太郎は土曜から出かけて二人が月曜日の一番で夜明けに起きてかえって来ます。
其故この頃の日曜は本当にドンタクなの、しずかで。気づかいもいらないし、ケンカする人たちはめいめいちりぢりだし。そして私は面白い、又いじらしいものだと思って、せっせとリュックを背負って母さんのところへ出かけて行く父親の心持や又それとは別に息子のことを考えたりして暮します。アメリカにシートンという動物観察者が居ましょう、いろいろな動物の生活をよく見ていて、時にはバルザックがかいた豹(ヒョー)についてのロマンティックな物語を書き直したりするところもあるが、大体はまともな記述をしています。それのリス物語を一寸よんだら(太郎のをかりて)リスの父親はどこやらリュックを背負って行く父さんの心持――自覚しないでそう動く心――に通じていて、ほほえまれます。一緒にだけ暮していると、こんな気持ははっきりそれとして生活の中に浮き上って来ないものね、彼にとって家族という感情の柱はどこに立っているかということを沁々感じ、そういう本能めいたものの暖かさと根づよさとを感じます。巣のぬくみ、その匂い、何かしらひきつけるもの。そういうものなのね、全くオカメがいないと落付けないのね、よりよく動いている部分があってもそれで落付けるというものでないというところが面白い。生活の日常性の粘りのつよさということも新しくおどろきます、自分の体温と体ぐせのうつったものがいつも恋しいというところ。
この紙は妙な形でしょう?でも書きよさそうでしょう?昔昔のタイプライターの用紙です、S.Chujoと父の事務所用で一杯いろいろ印刷してあるところを切ると丁度この大さになりました。この間、紙屑の山からほり出して来たのよ。形はどうともあれ、今にしては大した良質のものだからホクホクです、書きよいのよ、そして私は手紙につかえるいい紙が見つかると一番上機嫌です。
風邪のかげんできょうの目といったらメチャよ。大チラつき。ペンさんがやっと結婚するようになりました。秋頃の由。対手は実業家の息子で帝大の経済出。日銀に居た人。ペンさんは高等小学を出てすぐそこで女事務員になり七年つとめている間にその人を知ったのです。中途でゴタついて、男のひともグラついたのらしいが、マア決着したわけです。高輪に壮大なる邸宅があってそれは借金のカタになっているが、妹が結婚する迄はその家をもって行くという処世術を守る家風です。なかなか楽ではないでしょうが、何年来も交渉があったらしいから、ちゃんと結婚というきまりをもって、生活のよさわるさを正面に経験して見るのはよいでしょう。
私はこの頃迎えや外出のおともをして貰っていますが、秋迄にはその用も一片つきましょうからお互にようございました。きょうはいくらでもこうやって御飯後のお喋りのような話をしていたいがあんまりな目ですからもうオヤメ。かぜをおひきにならないようにね。 
五月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十三日
十九日づけのお手紙土曜(昨日)頂きました。お心くばりいろいろとありがとう。本当に、来ないようとおっしゃったらヒョコリといやに熱心な顔を差出したから苦笑ものでいらしたでしょう。
私は目下大したものもちで、十五日からつづけて三つものお手紙をためこんで眺めて、あっちこっちくりかえしてよんでいる次第です。
まず十五日の分からね。マホー瓶の件。もちかえりましたが大したこわれかたね、グザグザね、国男に話したら、キット大きな音がしたんだろうと云っていました。そう?
マホー瓶は真空装置がある瓶を入れるのだからビールビンではどうかということです。心当りのところに(専門店)きいてみます。うちにあるのは、よくアイスクリームを一寸買ってかえったりするときの、籐のザルに入って、いきなりキルクせんの、テラテラツルツルしたものなのよ。籐のザルをぬいたら立ってもいられない代物なのよ、それでもいいでしょうか、よかったらお届けいたします、御返事を、どうぞ。
『結核殊に肺結核』『文芸』と一緒に送りました。掛ぶとんカバーなしで、夏ぶとんもそれでいいのかしら。何だか夏はあったらよさそうですが。
用だけ一まとめにしてしまいましょうね。『週刊朝日』その他は来週からの分或は六月号から。それはきのうお話したとおり。
富雄へ本を送るときのことわかりました。それから物は前金でたのみ、それ以外はたのみませんから御安心下さい。これからは第一たのめません。小包不通故。それに大体私は余りこのみませんから。あちらも通貨が一本立になり物価三倍以上になったそうです。上海ではこちらで八十円のポートフォリオが百二三十円の由。十年前六円五十銭で買ったのを、昨今八十円でよろこんで買うという人があるという笑話をききました、でも本当でしょう。
隆治さんの雑誌は閉口です。自分で出歩かないのでちっともはかも行かず見当もつかず。
十九日のお手紙、本当にいつもいつもありがとう。昔の人の表現にもなかなかうまいものあり、病魔はその一例ね。
無理しないようにということは、私も決しておろそかには考えて居りません。しかし、六月一杯迄このままやって、もしそれより先にかかるのなら九月下旬まですっかり休んでどこへか行きます。「何しろまだ病人対手なのだから」ということで、いく分面倒くささも減っているところもあるのです。多分六月一杯でおしまいでしょう。おっしゃるとおりひとり合点もあるといけないから自分としては何もきめた形で考えていず、体とにらみ合わせてやってゆきましょう。そんなに気をせき立ってもいないのよ、一頃よりはずっと楽に落付いて、いらいらもしないのだけれども、ついつい足が向きたくなるという場合もおこります。でもそのついもおやめにいたしましょう、ホラ又。ユリのアンポンというのでは、自分はともかく折角気をつけて下さるあなたに相すみませんから。
うちに、代って一寸心やすく行ってくれる人でもあるといいのですけれどね。この家も全く風変りだから。寿江子もこの頃体はわるいし、咲たちが国府津へ行ってしまって、どうしてもうちのことは肩にかかるしで、恐惶謹言的状態で、お使いはたのまれないし、厄介だし、滑稽だし。うちに、あたり前の人が一人いたらどんなに気が楽でしょうね。それが目下のところは自分というのだからお話になりません。私はあながち欲ばっているのでもないのよ、お察し下さい、特に近頃は来るなとおっしゃることもわかるから、それでも私が、なんて考えてはいないのよ。当分何とかやりくって行きましょうね、六月になると、うちの女史は東京と田舎とちゃんぽんに暮すのですって。夏どこへ行くか、なかなか決定出来ません、食物のことがあり、身のまわりのことがあり。まだ自分で洗濯など出来難いから夏こむとき宿やに一人いたりしたら不自由かとも思うの。開成山は猛烈に眩しいところなのよ、開いた地平線の遠い高みに建っていますから。多分信州の上林へでも行くのでしょう、ここは樹木が多く、木下道があり、高燥で、木賃宿のようなうちの人たちは余り不親切でもありませんから。やっぱり本がよめなかったりすると、全く知った人のいない宿やへぽつんと一人でなんか行きたくないものなのね、それは追々具体的にきまって来るでしょう。
好ちゃんの話、本当にあの子を泳がせてみたいと思います。まだ私がよく抱いた時から男の児の中の男の児という精彩にみちた風で、雄渾という資質だったから追々成人し、どんな美事に波をくぐり、水にもまれ、そして快よさそうに濤に浮んで、のびのびと手足をのばすことでしょう。やはり海辺そだちは違うのね、あの子が海を好くばかりか、見ていると、海はあの子がしなやかにきめこまかな体の線を張って、いのちの箭(や)のように波間にくぐり貫いて行くのを、よろこびだきとるようで、一層嬉々と波だち光り、体を丈夫にする塩のふくまれたゆたかな水圧で、あの子の体を軽くしめつけるようでした。海と遊ぶというのはああいう泳ぎ方の出来るのを見たときの言葉ですね、ひとしきり縦横に活躍して、砂地に上って来たときの好ちゃんが濡れ燦き、美しい海のしずくのしたたる手肢で、いくらかぽーとしたように暫く砂に休んでいる様子も面白く愛らしかったでしょう?あの子はそうして休むと又一しお泳ぐ面白さにひき入れられた風で一層ふかく身をおどらして行ったことね。
一遍ああいう胸もすくような男の児ぶりになってみたいとよく思ったものでした。胸のすくような、という子は見かけないものね、この頃は特にそうね、子供のスケールが変に小さくなっていて。
小さい人という溌溂として天真で、真面目なのが少いわ。大人の小形よ。合言葉でつまっていて。大人をおどろかせる子供の新鮮さというものの価値はもっと尊重され、純粋に保たるべきです。そういう点でも好ちゃんはユニークよ。皮膚の荒い人に精神の精緻な人はない、ということを昔から云いますが、それは本当かもしれないわ、好ちゃんなんかのことを思うと。
秘蔵っこの噂を程々でやめておくには、私にとってよほどの節度が入用です。
この節、四角い紫檀の机をつかっていて、その横にあなたの側ダンスをおいて居ります。その上には、父が昔買ってくれた古瀬戸の[図1]こんな形の油つぼがあって、それに今日はこぼれた種から生えて咲いた菜の花がさしてあります、その引出しの二段目にフートウや何かを入れてあります、原稿紙もきっちりに入る奥ゆきに出来ているのね、一寸台所へ行って見たら、寿江子が何だかコネていました。きょうは日曜日で又うちは二人きりよ、しずかです、朝は六時ごろ目をさまし戸をあけ空気をとおし又横になりすっかり起きる気になる迄居ります、睡たいうちは何度でも眠るのよ。朝(あした)、夕(ゆうべ)に論語をひらくというのも、おっしゃるとおりうそでない気持で経験されたことでしょう、愛誦の詩の中から目醒めるということもあり、それは殆ど地上へ我身を落付けるに余程手間どるばかりです。まだ書きたいけれど、光線の工合が眼によくなくなったから又改めて。 
五月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(浅間山の写真絵はがき)〕
二十八日、きょうも雨になりました、もう五月雨に入ったのかしら。けさ迄二日咲と健之助が帰って居りました、種痘のために。
健之助は丈夫な児でまことに可愛うございます。秋にはお目にかけましょうね。それはそれはいい香いがするのよ、暖く眠っている床が。かぐわしき幼児というのは本当です。マホービンは、あちこち当って見ましたが、どうも望みなしです。真空瓶をつくるところでききましたが。ここにあるのに外側をつけることを研究して見ましょう。ビールビンではマホービンにならぬ由です。 
五月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十九日、
二十六日のお手紙ありがとう。用向きから。『結核』送るばかりにしていてつい忘れていてつい三四日前に出しました。これとゆき違いに到着していますでしょうが、御免なさい。紐までかけておいてつい忘れたの。週刊朝日、日曜毎日はすぐ手配いたしましたが、本月から予約ぎりぎりの部数しかなくて、どこか一軒おやめになったらまわしますという有様で閉口です。週刊の方は出版局に杉村武という記者を知って居ますから、たのんで何とかして貰おうかと考え中です。毎日の方は当がなくて困りますが。明日は日曜だから待ってみて、次の段どりをします。『日本評論』、『文芸』、『独語文化』はつづけられます。『文芸春秋』に西村茂樹のことを山田孝雄がかいていましたね、ああいう政治家国学者にとかく評されて祖父も苦笑でしょう。『衛生学』はまだ発刊されていないそうです。もう本屋に久しい前から申しこんでありますが。
森長さんのこと承知しました。火曜頃届けます。手紙をつけて。冬シャツは安積の方をこの夏しらべて貰います。私ももう一枚は無くてはならないと思ってそれで気にして居りますから。今年着ていた「袖抜け」と命名されたのは、そうなのよ。十年来のものです、そして肱がぬけましたか?実によく役に立ちいろいろとすてがたいシャツ君ですが。では大事に洗ってよく虫よけいれて、休ませてやりましょうね。辛苦を倶にしたものですもの。そういえば今年の下着、二いろの布の合わされた綿入れはどこにいましょう?前でしょうか?前へお願いいたします。私はお言葉を服膺(ふくよう)して出かけませんが、とりにだけは行って貰いますから。
ペンさんの嫁入り先の家は台湾の日糖とかいう会社につとめています。それは親父。若い人は石油の発掘専門の統制会社につとめています。姉たちは財閥の小番頭の又その番頭というようなところに嫁入っています。十三四とか部屋のある邸宅に今は若い連中だけいる由。花嫁は妹とともにその妹が嫁入る迄その家の掃除をしていなければならないから大変です。親戚に誰かかなり偉い司法関係の役人がいて(大臣級らしい。現役ではなく)、息子はそのおかげで就職万端どうやら形をつけてもらったらしい話です。若い人とつき合はありません。
今はペンさんに迎えをして貰っているだけですが、六月一杯でおやめのことにしてあります、忙しくもなるでしょうし。
女の気持は自分のことを考えてもいくらか推測がつきますから、その点はいくらか考えていたつもりです。
同じ病気とたたかうにしても、医者が自分の効能書をよく見せようと診断を重く重くともって行って、恢復する条件がないようにないようにとするようなひどい場合、患者はどうしたってその診断に服すまいという気がおこるものではないでしょうか。よほどちゃんと医書もよんで病気の条件とその養生法とを客観的に判断出来ないと、この医者にころされていられるものかという気から下らぬ売薬に目もひかれるような場合があるものではないでしょうか。
ろくでもない養生ぶりについて患者は、自分の感受性を裏づけるだけの闘病の経験も知識もかけていて、したがって意力も十分ではなかったのだと思います。自分の気もちとして、何これで死んでいられるか、という思いばかりはげしくて。信用出来ない薬をいや応なしのまされるとき、ダラダラ出来るだけ口の端から流し出さしてしまおうとするように。それは不様です。たしかに人前に出せた恰好ではありません。でも、単なる気弱さからとばかりも云えないのではないでしょうか。副作用のきついものを、そのときはいさぎよいようにのんで、あとの一生をその毒でふらふらしているのも多いし。
私の病気は本当に複合的におこって、しかもいろいろに変化しますから、どうか段々病気にかかりかたもその話しかたも、ちゃんと会得してゆきたいと願って居ります。
今マリー・アントワネットの伝記をツワイクがかいたのをよんで居ります。蟻の這うようによんでいますが、マリア・テレサという女王は、自分の位置と義務とをよく知っていた点で女傑であり、明君であったようです。彼女は娘のアントワネットにくりかえしくりかえし王后という地位がいかに負担の大きい退屈なものであり、しかもその位置にいるものはそれに対して責任をもっているかということをくりかえしくりかえし忠告しています。自分の立場をよかれあしかれ、楽しかれ苦しかれ、客観的にそれを十分に理解して処して行くことの出来る人は、ざらにはないものですね。誰でもいきなりからそれが出来るものではなく、それの可能な人は前提として誠実さ勤勉の資質がいるとツワイクは云っているが、これは本当です。テレサは歴史の鏡にてらして未来を見とおしたというより、三十何年間の女王としての経験からマリーの悲劇を予見し自国の将来にも暗さを見たのでしたが。
これは私としては面白い本です。こんな目でわずかずつしかよめないが、よまない間にどっさり考えますから。歴史の波が或る人をのせてその人がのぞむのぞまないにかかわらず、歴史の突端におしあげてゆくという点からツワイクはアントワネットをかいているのです。
自分を知って自主の人として歴史に対応しそれに働きかけたのではない人として。平凡人として。自分の義務によろこびを感じ誇を感じ、常に自分の主人である人は、人々が自身にそれを希望しているより、現実には稀有ですね。
私にしろ、自分の条件が病気にかかりやすく、なおしにくく永びき、その点楽をのぞめないものと知りながら、その病気をもってゆく術は上手でなくて、癒してしまいたがってそういう単純な生活慾は通用しないことが何だか分っているくせに分らないようなところがあります。
いつもあなたに心づかいおさせして御免なさい。ちゃんと落付いて養生しているか、どうか。気をせかして妙な頓服や注射なんかしはしないか。そういうことをちっとも案じて下さらないですんだら、私もどんなにうれしいでしょう。
けれども又一方からは、あなたがいつも真直な明るい視線を向けていて下すって、その眼を思ってみれば、自分の眼のなかに光がともるのも私としては深いよろこびです。私は子供らしい心持で、よろこびからこそ義務も責任もすらりとわかるというところがあります。偽善家ではない証拠かもしれないけれども。錬磨されるテムポは、人によってまちまちで資質の純、粗によってのろかったりするものです。
この伝記は下巻も出てからお送りして見ましょう、そして私は夏休むとき「ピョートル」をよんで見ます。私はこの頃自分のもっている仕合わせの質について、これ迄よりもずっと真面目に、厳粛に考えるようになりました。
私がこうやって病気して仕事も出来なくているとき、少くない人がこれ迄にない親切をつくしてくれます。真実に生活を思いやってくれます。その親切の源はどこにあるでしょう、決して名士好みのファンの心もちでない親切。又ある時期一つ財布で暮したなどということの全くない人たちの親切。何でもない奥さん、おばあさん、友達、その人たちが私にあたたかい思いやりをかけてくれるのは何故だろうか、と。その人たちに私は何を負うているかと。眼がわるいことの気の毒さ、は、私が只ものをかけないよめないということにだけかかってはいないのだと感じます。
私は謹だ心でそれらの親切と、そのような親切をうける自分の仕合せを考えます。
それらの心もちは一つのものにまとまって、人間はとどのつまり何によって生きるかということの考えに向い、私の心はそれは信頼であると明瞭に答えます。人としての信頼の深さこそ唯一の仕合わせの源泉ですね。それを、人はめいめい自分の最善の力をつくしてかち得てゆくのです。狡智や張りこの理屈や、そんなものはここまで持たないものです、人間関係の最深の地盤まで掘りぬく力は、まともさのみであり、それによって信頼が貫かれたとき、泉は何とつきず美しく湧き出すでしょう。しかもその深い深いところから湧く水の音はしずかで下ゆく流れであって、怠惰によって水口をふさいでしまえば、水は抵抗せず再び新鮮な機会の来る迄地層のうちにかくれます。
私は自分が命をひろって、生命をとりもどしたとともに、一層生活の真の意味にふれてゆく折ともなっていることに大きい仕合せを認めます。
妻としてもそうよ。私は意気地なしのところもあって、いつも御心配をかけすまないと思いますが、それでも様々の経験にうちこんでゆくだけには、その程度にはいくらかのとりどころもあります。まともなものにこたえるこだまは心のうちにあります。それによって、私が益〃深く感じる信頼こそ生活の柱だと思い、私に対して、私が抱くほど確固としたものをおもちになれないにしろ、やっぱり歩いてゆく姿の、その一つの姿はいつも見ていて下さるのですし。
この頃何かにつけて思っていたことなので。そして年の移るにつれて人間が仕合せと感じることや、その動機が深められ、一層謙遜に評価するようになるのも興味あることだと思います。 
六月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月一日。六月になりました。きょうは、雨つづきの間に時々晴天になるあの日よりで風もふき、家の中の湿気がいくらかとれるようでいい心持です。
二十八日のお手紙きのう朝九時十五分頃定例によって出かけたとき頂き袋に入れてもらっていて、くたびれを感じると、あれがある、とたのしみにして夕方よみました。
全く海を思い出すのはこれからですね。特別今私は自分がまぼしくて海が駄目だから、猶更です。芳しい潮の匂い(これは日本の海特殊よ。南はどうだか)色調。つよく軟いうねり。人のいない海辺の淋しさはなかなか詩情を誘います。海はそこに泳ぎ、又雄大な航行をするものがあって、はじめてこの世の美として存在しはじめることは確かだと思います。人間と自然との関係が常にそうである通り。人間が自然の創造の一つではあるが、その人間が宇宙の美も法則もこの世に在るものとして行くというのは何と面白いでしょう。そういう人間をつくる自然の力の大さゆたかさ。ね。自分というものを自分にとって存在するものと知らす人にこの世で出会えた者は、人間冥加と申すべきです。支那の人は士は己を知るものの為に死す、という表現を与えているけれども。こんな三国志的表現はもっと爽快なもっと色調あふれ、諧調ある近代の精神の中に一層複雑な内容で輝いているのでしょう。
人間が病気から徐々になおってゆくとき、生活力が少しずつ少しずつたまって来るとき、人生を又新しいもののように受とり、醇朴に近づき、謙遜にもなるのは、うれしくたのしい思いですね。私が近頃感じている仕合わせにはこういう要素もあるの。そして、自分がこんなにひどく損傷され、まだこんなひどく不自由で、それでこういうよろこばしい感情を折々、寧ろ屡〃持てるのは、どういうわけかとそのことについて真面目に熟考するのです。丁度五月頃の夕方のトワイライトは、ものの上にある光の反射をなくするので様々の色が却って細かく見えるように、私の今の程度の弱さが、自分の心やひとの心のニュアンスをしみじみと眺め、それを映すのでしょう。私の頭は不快な疲れというものをこれまで知りませんでした。柔軟で自分の活々とした働きをたのしむように根気よく、よく役に立ったが、今は疲れ易くその疲れかたは苦しくいやなものです。頭が熟したぐみの果のように充血して重く変にぼってり軟くなった感じで。これは私を悲しませます。相当に悄気させます。少年の皮膚のようにしまって艷があって、きめのこまかい感じが忘られず、いつそう戻るか、あるいはもうそうはならないのか。そう思うの。悄気て悲しい心持でそう思うけれども、又こうも気をとり直します。私のそういう生理的な丈夫さは、或は私をこれ迄能才者という範囲に止めていたかもしれないと。生来の明るい迅さで或は物ごとの表面のありようをすばやくつかみ理解したという特徴を与えていたのかもしれない、と。今私はぐみの頭になって、時々は苦しく、そのくるしさが悲しいというようなのは、ちっとも自分の生来のものの活動を我知らずたのしむ、或はそれにひきずられるということではないから却ってのろく、じっくりと物事を追って眺めて、心情的になって或は芸術家としてはやはりプラスなのかもしれない、と。私がもしかりにいつか癒って又つやのいい頭になれたとして、ぐみの頭になったこと、その時季、それを私は徒費しまいと思って居ります。
大きい石を磨くには巨大な研石がいるのだから、もし私がこんな病気やこんな永い不自由さにうちかてたら、つぶれて消えずに光れたら、それはいくらか石らしい石なのかもしれないわね。あなたが手の上にのせて退屈なときはそれを鳴らしてあそぶことも出来る位緻密な質の石のかけらかも知れないから、そう思うと一寸たのしみでしょう。自分をよく見張り、よく導き、忍耐や研究やの価値もあるというものです。それにつけても才能は義務であるという言葉は立派な言葉です。最も人間の謙遜と誇持とにみちた言葉ですね。
隆治さんへの小包のこと、よくしらべて見ます。
魔法ビンは、つまらない名をもっているわね、マホーの瓶なら、こんなにさがしてこんなに気をもんでいるぐみ頭の細君のために、手叩き三つ位で、一つはどこからか出て来たらいいじゃあないの、腰抜けねえ。時勢で通力を失ったと思えば可笑しく哀れね。国男さんまで動員してひねくっていますが、この節はああいう仕事をやって見ましょうと云うものがいなくて全く全く閉口です。むき出しのツルツルに籐のザルのついたのをそのまま使えるか、カゴをはずさなくてはいけないか、おしらべ下さい。すっかりすきとおしで見える目の大きい蛇ばらかごですから。もしよかったらそれをお送りします。大きくなくて三合せいぜいでしょうが。ビールビンは殆どのぞみなしよ。口のまとめかたその他困難の由。
家を引ぱって行くこと。規定で、その家が焼失しかけたとか、全く古くなってくずれかかっているとかいうのでないと手がつけられないのだそうです。かんとく官庁(警察の建築課)の首実検がいる由。そうしてみると島田のような事情のところは山手よりに家を買うしかなくなりますね、その家たるや法外な価です。この頃新建ての貸家は水道ガスなしですが、それで八、四半、三位で四十円以上です。大したものです。どうして暮せているかと思うほどです。
森長さんには土曜日に届けられます、支払うべきお金があるなら知らしてくれるよう申そうと思います。
動坂の方をまわってかえったときぐるっとあの家の方を歩いたら、やっぱり樹かげをガラス戸にうつして家はありました。そして、大学生(どこかの)がかえって来て、小さい子がおかえんなさいと反対の方へかけ出して行きましたが間借している様子でした。昔のわが家というものをそとから眺めるのは不思議な感じね、すっかり面変りがしていますから。目白もそうよ。 
六月十日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月八日
六月二日と四日のお手紙をありがとう。細かく、そして私の病気の状況をよく思いやって考えて下さり、本当にありがとう。どんな養生にも技術上の点があってそれに習熟しなければ、やはり十分よく病気を直したと云えないことはわかります。そして、病人が、自分を甘やかしたり医者に甘やかされたりすると、決していい癒りかたをしないことは世上の例ですから、私として、あなたのつけて下さる点が、単純に辛すぎるということはないのよ。一つ一つ異った病気をしているときは、それぞれに一番いい養生法を発見しなければならず、それには、前のときの自分の病人ぶりを研究してそこから学ぶしかないのだし、前とのちがいを見出しもしなければならないのだから、そのための助力として、自分よりももっとひどい病気ととりくんでいる人の忠言は大事です。どうもありがとう。変に意気込むようなことはないから、御安心下さい。たかをくくってもしまいませんし。この眼のダラダラした癒りかたが、万事を語って居ますから。失敗しないということは何もしないということだ、という言葉は鼓舞的ですが、逆は真ならずだから、まさかに、失敗したということは、何かしたことだとは云えないわね。大笑いね。
二日のお手紙二日おいて五日につき四日のはきのう着いたのですが、すこし御返事がおくれたについては、満更わるくもないニュースがあるの。
文芸協会から――今の文学報国会――自選作品集を出します、いろんな人が一篇ずつ小説を出して。私は「今朝の雪」というのをのせます。『婦人朝日』に「雪の後」という題でかいたものです。やっと綴じ込みをかりて来て、うつしてもらって相当手を入れ、厚みのついた作品となり、短篇としては満足です。この間の手紙で、ぐみ頭につきいくらか歎息をおきかせしましたけれども、こういう思いがけない仕事で、現在の力でどんな風に仕事出来るかわかったし、小説をかいてゆく心持も柔かく重くなっていて決してわるくないし、うれしいのよ。この間一寸お目にかけたかしら、松屋のザラザラでうすくてペンがつかえないような原稿紙。あれに鉛筆で一行おきに写してもらってそれをなおしたのですが、悪いことばかりはないものなのね、松屋のあのひどい原稿紙だと鉛筆でかけるのよ。一行おきにかくのです。するとそう気もちにひっかからないの、目も楽ですし。それを清書すればいいわけです。
その上、一度印刷してあるものをなおしてゆくという程度の仕事が大変ふさわしいのね、書き下すほど疲れず、しかも十分仕事としての緊張があり、且つ〆切りもなく又枚数もなおす範囲で自由で至極工合がようございます。もう一つ「杉子」という小説があるのよ、短篇で。『新女苑』に出したもの。これも夏の休みの間に満足ゆく迄手を入れて見ます。
却って、夜よく眠り、気分もよく食べるものも美味しいの。ぐみ頭の件は、いく分気にいらないところもあるが、決してさしつかえなく、いく分改良して居ります。目白のお医者様に寿江子からきいてもらったら、よく分らないが、あっそれは、とすぐ見当のついた風だったそうです。会って話すということでしたがやたらに忙しくて、まだ見えません。あすこでは女の子が生れました。戸台さんという家には初めて男の子が生れました。女の子の名は晴子だそうです。どっちの赤ちゃんもまだ見ませんが。あすこでは悠吉さんという二番目の、私の名づけ子が秀逸よ。
これをかいている机に坐って、みどり色の原稿紙に、製図用の五Bでかく様子が御想像になれますか。坐ってものをかくことも馴れないと、よそへ行ってチャブ台で何かするのに困るでしょう?あなたはずっと坐る机で、くたびれると、よく畳へ背中をおのばしになったことね。坐る机だと、休むときああしたくなりますね、私はふとんをのべてあるの、そして背中がつまると、そこに横になります。
いろいろの道具だてばかり云っている人の間にいると、どんなに其が一つの不便で、不幸でさえあるかと思い、自分はあなたのおっしゃる口真似ではないが、全く、机、ふとん、紙、エン筆さえあれば安心してやってゆける習慣をもちたいと思います。小説というものは、どんなところででもよまれるべきものですから、云わばどんなところででもかかれていいわけなのでしょう。又面白いことに、そういう風に作者の腹と紙とが同一水平でとけなければいい小説も出来ないところもあったりして。
ぐみ頭のことにふれ、それもわるくないと書きましたけれど、負けおしみではないようです。そして、こんな風に思うの。私はこれから主として小説だけ書き、ほかの作家とまるでどこかちがう小説をかきたいものだと。つまり小説しか書けない頭ではなくてかく小説。それには何かの面白さ、構造、規模があるでしょう、と。なお可笑しいのは、私は詩的な要素をたっぷりもっているが、詩人ではないということなの。だって、段々体が平常に近くなって来たら、御覧のとおり、私は私たち愛唱の詩を散文で話しはじめ、一ころのように眠れない頭にこりかたまった一行一行をおめにかけることはなくなってしまったのですもの。二月下旬「よろこび」と「円き盃」という二つをかいてからは一つもかきません。散文で印象がうつされます。(ここまで書いたら夕飯、そのあとへ久々で目白のお医者が見えました。私のグミ頭や顔がしびれるようなのは、体が或る程度まで癒って来たことによるリアクションの由。生理上の反動は、或る丈夫さがつかなければ生じない由。微妙なものね。実に面白く思いました。だから過労しないようにさえすれば、あれこれの些細な苦情は出たり消えたりする空の雲のとおりで降ったら傘をさそうと思っておく程度でいいらしいのよ。)
いろいろかきたいことがたまっているから又改めて一つかき、これはこれでおやめにします。「衛生学」は未刊の方が事実のようです。本を買うのは予約になる由です。本屋でカタログを出すのででもありましょう。では又あしたね。久しぶりに湯上りでいい気持。日曜の夜咲、国、子供三人その他二人の一連隊がかえって来て一週間ほどいるそうです。 
六月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月九日
きょうはむしあつい膏汗(あぶらあせ)のにじむ日です。こういう日になると苦しかった体を思いおこし閉口です。七十八度ほどです。
ペンさんはかつらの島田をのっけて、かり着の紋付きをきてお嫁さんになるのだそうです。なかなか大変と同情します、当然そういう恰好をするものとぐるりできめている由。まあ一生にいく度もないのだから、それでケンカしてもいられないわけでしょう。旦那さんになる人は、何しろ福島市というようなところの日銀支店づめであったし、通俗的ととのった方らしいから、若手名士で、田舎で名士になったとき、必ずつきもののおきまり宴会で、あながち潔癖というのでもないのでしょう、おかみさんとのことだって大して、不動の選択というのでもなかったらしいから。別の友人に、結婚したものかどうかと、もうきまった筈のとき相談したと云って大分ヒンシュクを受けているらしいようですし。
女の人の側として、絶対手ばなせないというわけでしたろう。そして、やっと形をつけるところまで漕ぎつけたのですから。私はこの一人の若いうしろだてというもののない勝気な女の人の人生への処しかたを眺め、いろいろと学ぶところがありました。しのぎを削るという言葉は、こういう人の無言のこういう場合にもあるものであると知りました。よくなろうという向上心で、本の話もする人にひかれ、その人と、処世上まとまった体面のある生活をつくるために、その過程に人としてひどい抜目ないこわい位のいやな人になるというのは何という悲惨でしょう。薄弱な男をつかんではなさず良人にしたてる若い女の骨折りはきつくて、全く世俗的な努力でちょっとまともに見かねます。それでもこの女のひとの場合、その男にふられた形になるよりは、成功ということで自分も満足するのでしょう。ですから、大変ね、ということは只家のものが大変ねという位のことではないわけよ。是が非でもスラムから這いのぼろうとするこういう努力の方向は、私に無限の感想をもたらしますから。
『週刊朝日』は、予約出来ることになりました。こちらは安心です。『毎日』の方何とかしたいものです。これは近いうちに何とかしてみます。『独語文化』まだもって来ません(本や)どうしたかしら。
マホー瓶は、弱りねえ。そういう修繕の方法はどこも対手にしないし、第一湯でビンがすぐわれて(普通のビンは、ガラスが厚く、そして不平均だからの由)全く意味ないというので、目白のお医者さんが地方へ出かけるので、そちらをしらべて見てくれるそうです。そちらでもどうぞよろしく。あれはコップがアルマイトだし、なかなかいいものなのに惜しかったことね。
きょうは、多賀ちゃんにこの冬あなたの召す着物縫うことをたのんで送りました。毎年、厚い綿入れをつくるのに苦労して来たところ、この節は国民の標準服ということで大人は冬でも袷ということになりましたから、仕立屋がごたく並べる機会がふえたわけです。まるで暖いものを着せたがる私がわるいようであんまりだから、今年は多賀ちゃんがひとのものも縫っているというから、たのむことにいたしました。お着になるのもいい心持でしょう、それは本当にあなたが心持よくと思って縫われたものですものね。うれしいと思います。
電車が十銭一循環となって四度までのりかえがきき、五銭足してバスと連絡したり定期をつかえたりしたのがなくなったこと御存じでしょうか。この間一寸した買物があって、迎えに来た書生さんつれて肴町まで二停留場か乗ったら二十銭でびっくりしました。すぐ一円はかかりますね。特急その他坐席指定もなくなりました。そして省線のように立つところのついた汽車が走るようになっているそうです。
森長さんのは木曜日に届けました。手紙つけて。しかし何とも音沙汰なしです。おっしゃった通り、例年のとおりしたのですが、よかったのかしら。物足りないのかしら。いつも手紙よこしたりしていたから何だか調子がかわって感じられますが。いかがなものでしょうね。
隆治さんの方へ雑誌や本はゆくことがわかりました。
『世界知識』というの、今出ているの?こんど自分で南天堂へでも行っていろいろ注文をまとめ、整理しなくては。そのときよさそうな本もさがしましょう。自分で見なくては何だか全く思うにまかせませんから。どうかもう少しお待ち下さい。木曜と月曜との間は、少し時間があって休まりますから、来週ごろ行って見ましょう。
夜具、前へお願いいたします。本月の末夏ぶとん届けます、そのとき冬のをもち帰ってもらいますから。夏ぶとんは縫い直してないのだけれど、今年はかんべんしていただきます。カバーはパリッとしたのつけますから、ね。毛布も、もう一枚の方、洗いましょうね。七月八月九月の中頃まで私がいないと、実に不便で、すまないと思います。寿江はもうどこへか行くのだそうですし、せめて一度ぐらい行ってもらえるといいのだけれども。
不思議なものね、生活をこまかく知って、病気の世話もあれだけしてくれたのだから、生活の必要事が会得されて、事務的にやって貰えそうなのに、全く反対というのは。気分による生きかたというところ、どうしたって抜けないで寧ろ年のせいでかたまって来る、これは殆ど腹立たしいことです。死ぬ生きるという時しか奮起しない。だから私はよく半ば苦笑していうのよ。この家ではひっくり返りでもしない限り、本気にならない、と。何という目標なしに生きることも、多くの人の人生がそうと云えばそうかも知れないが、働かなければ食えないということのない、東京にいなければならないというのでもない、戦争へ行かなければならないというのでもない、ましてや火のない冬の石室住居になんか耐える必要もない、という人々の生活には、何とも云えないチカンがあって、それこそ根本の病源であると感じます。
私は何とかして仕事しなければならない、体癒さなければならない、出かけねばならない。なければならないことがあるとないとで、人間はおどろくべき差異を生じます。自分を支配して生きるか、自分に使い倒されて生死するか、その違いが生じ、つまるところでは、生活しているか、いないか、というところに立ちいたります。沁々目を瞠ります。そういう生活を今日快適にやるには巨大な財力が入用です。それがない。ですから快適ではない。生活の輪を何とかおさまるところまで縮少して、家の中をコタコタこねまわして気をまぎらすが、時代の大きい力は不安となって漠然いつも周囲にあり、一層気分的になってゆきます。これは消極の廓大です。こういう車輪のまわりかたを一方に見、一方では、所謂積極に廻転さそうとして若い娘(ムスメ)が、何とも云えない眼を光らせるのを見ます。それは互に反撥し合うの。
私はどっちにも左袒出来ません。人間をつまらなくしてしまうモメントというものは何と毎日に溢れているでしょう。私にそういうモメントがないというのではないのですし。小説でしか書けないわけとお思いになるでしょう?小説を書こうと思うわけとお考えになるでしょう、こういう歴史の時期に、経済力をドシドシ弱化されつつある中流の生活と、土台堅気な勤労者の気風なく生活を流して来た小市民のレイ細な生活における成り上らんとする欲望の型とはごく典型的です。もの凄じく、しかも深い人生図絵の感興があります。
目白のお医者様などは子供三人、おばあさん、その他小さい家にパンパンで、坐るところのないような中に、子供をねかしつけつつなかなか根本的な研究労作をやっているようです。そういう生活ぶりの話が出ても、一向感覚ないのだから、私は生活のもたらす愚鈍さというものについてはげしく感じざるを得ないわけです。
でも私ももうもとのように素朴に我から弾け出てはしまわず、ここにある私にとって健全なもの、子供たちとの接触、何人かの家族がいるということに在る私の感情のふくらみなど、十分評価し、私がいるということで、太郎もほかのひとも、自分たち以外の生活態度も在ることを知るのは、全く意味ないことでもないだろうと思い、落付いて、快活で、かんしゃくと愛嬌とを交々にやって居ります。本当に巣とはよく云ったものですね、ツルゲーネフは貴族にだけつけて小説の題としたが。あれこれお喋りいたしましたね。でも、云わねば腹ふくるる、のよ。犬っころにしたって、時には一つの前肢を手のなかにとって貰いたがるでしょう?マアあれね。 
六月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月十一日おとといときのうはかなりの気温でしたが、きょうは七十八度ほど。七十度代だとこの位なのね、大分楽です。
八日づけのお手紙ありがとう。ぐみ頭の訴えをしたので、やっぱり御心配をかけすみませんでした。でもこの手紙とゆきちがいに又の二通がついているでしょうから、そういうちいさい苦情は大したことなく、むしろ疲労しているにしろ体はよくなって抵抗力が出来、リアクションが生じるところまで来ているのだそうですから、御安心下さい。月、木の次の日は、よく用心して休むし、この頃は歩くのもかなりしっかりになって来ましたし、字だっていく分抑揚がついて来たでしょう?
用事は、今のテンポなら七月初旬までには一片つきそうですし、さもなければどうしても休暇をとります。七月十日以後は出かけることはとりやめにして、もし出来たら田舎の温泉へ行きます。八月九月の中旬までいて、残暑の苦しさがすんでからかえります。私の体も今年のうちにしっかりさせておかないと、来年は今より薬も食物も不自由になることは明らかですから。眼も特別な場合にはこの位のものがこうしてかける(これだけよ、でも、こんなにかけるのは)し、新聞は駄目でも八ポイントぐらいの本は、五号の活字でなくてもたまによめるようになりましたし、そういう能力は、ふだんの四分ぐらい迄戻りました。こんなにして、不自由ながらいつの間にか一年もしてこの頃は楽になったと思うのかもしれないことね。段々、家康ではないが、不自由を常と思えば、のことになって来るのは生活の微妙なところです。必要にひっぱられて何とかやるようになるところ。鉛筆で小説かいたりして全くびっくりします。これもいいことよ。微熱の出るようなこともないし、根本的な心配はございません。
この前行ったときは、前日外出した翌日だったからほんとうに疲れていたの。翌日に出かけるような心持だから、動悸だってひどかったし、口をしめているのが無理ぐらいで、おそらくはれぼったい顔していましたでしょう。出かける方はやめられないし、今の組み合せでつづける方が、私として前のコンビとは比較にならない好都合です。この人は作家だということを昔から知っている人、新潮の「文芸日記」つけはじめたときから私のかいたものや、写真知っている人は、まさか一定の必要から興味もなく書いたものをひっくりかえしたり、うの目たかの目の人より常識に立ってものごとが判断されるのは自然です。自分の生涯というものについても現在いるところよりは少しひろく遠いところに着眼している人は、一つ一つ目の前のものを自分の跳び台にしようとあくせくすることもないようです。
同じ風邪をひくにしても、いやないやなひきかたと少ししのぎ易いという場合もあり。私は疲れは附随的なものでどうしたって何かすれば疲れなければならないのだから、疲れるなら、余り悪質でない疲れかたで経過したい考えです。
誰か行って体の様子その他お話するといいのですがほんとに不便ね、しかし、この頃つづけて書いた手紙は、割合よくそのこともつたえているのではないでしょうか。何時間も自分で話しつづけている必要はなく、比較的あっさり物を云う丈でやって来て居ります、それも疲れをすこし助けます。
暑くなると、やはり間にそちらに行くのは無理ね。そう感じます。一区切りつけて、旅行に出る前に参ります。それが一番いいでしょう。旅行も行ってみたい半分、気億劫半分よ、正直なところ。何しろぽつんと一人だから。おともの分を負担しにくいから。読みかきが自由でないからなのね、きっと。それにまだ外を散歩するというのも思うにまかせず。開成山は国男さんがすこし迷惑らしいし(今の駐在の人が名うての人で、村でも閉口しているそうで)私もそれでは恐縮ですし。とかく水不足でお湯に入れないのは切ないし。つまるところ上林か、鷹の巣という、頭に特効ありという温泉かどちらかへ行くでしょう。山形県と新潟の境のようなところにある鷹の巣というのは、割合まだ俗化してないらしく、物資は春頃問い合せたときは信州よりましのようでした。上林は鯉があったのに、今それがないのよ。すると全く魚なしです。野菜も豊富でないからそういう点は余りよくないのよ、米も。只こんな丈夫でない人しか思いつかないことがあるのですが、米沢まで直行だと夜寝台とって横になってゆけるのよ。それからのりかえて羽越線で二三時間らしいの。長野までは夜行では半端で、それから電車が二時間余でバスが猛烈なの。(こんなにかいて反りみるに、どうも私は上林は知ったところだからついそちらへ引かれるが、鷹の巣の方がよさそうだと自分を納得させたくて、くどくどやっているらしいわ)春から又一かわりいたしましたから又手紙を出してきいてみましょう、きめるのはその上でのこと。何もそうてんからきめてかからないでもいいけれど、夏でしょう?だから弱るのよとてもこむし。汽車はこの頃、べん当等しろうとには買えないのよ。梅干握飯持参でなくては駄目。従って途中も一人では無理ということなのよ。今年島田は行けますまい。友ちゃんが十月にお産と云えば九月以降から十一月はふさがりますし。来年はもう父上の七回忌に当ります。六月にはよほどのことのない限り上りたいと考えていますから、今年はやめて、却って来年早くから行って御法事すまして六月十日までに帰れば六月十三日の母の十年祭に間に合うことが出来ます。明日は母の九年と英男の十五年祭で神官が来て祭典をいたします。夜は初めて(私も)外で家族だけ食事をします。足かけ三年目の夜の外はどんなでしょう、それはそれは暗いって。銀座なんて初めてですからさぞおどろくでしょう。
魔法ビン火曜日ごろ届けます。けれども、もう少し待って、山梨からお医者様が帰ってからにしましょう、ましなのがあった方がよいから。森長さんへきくこと承知いたしました。『週刊朝日』もうちゃんと契約出来ましたから御安心下さい。二十日の分お送りいたします。隆治さんのこと考えていても仕方ないから、こんなものや何かでもとにかく送ろうと思います。『婦人朝日』は五月三十日で廃刊です。あの種のものはどんどんなくなります。岩波の文庫はもう殆どありません(出ないの)。
魔法ビン来年広島でさがしてみましょう。案外あるかも知れないわ。金庫屋が樺太まで行ってものを仕入れるとききましたが、私たちも魔法ビンではなかなか内地を股にかけるわけとなりました。でもマホービンだからまだ面目が立つわ。細君がこっそり指輪買いに秋田辺へ行ったりして問題を起すよりは。きょうは、きのう出かけて(一日ずって)少々へばり日ですからこれでおやめ。週刊は人々の親切でとれました。 
六月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月十五日
けさはひどい雨ふりでした。いい心地で雨の音をききながら、きょうは火曜日でくたびれ日故、朝七時半ごろおみおつけとパンと玉子を床でたべて又昼迄横になって居りました。
今は午後二時。むし暑くなりました。書いていると腕が机にはりつきます、湿度九十九パーセントよ。そちらもべたついていやなお気持でしょう。きょうのような日にお風呂の番だと嬉しいことね。
十三日には思い設けず自動車をよべたのでそれではと、何年ぶりかで青山へお参りしました。先の頃はいつも草むしり婆さんが、あの道この道と毎日まわっていて、広い道から横へ入るところにも砂利がさっぱりして居りました。もうそんなところにかける人手は足りないのね、草ボーボーで田舎の墓道のようでした。お墓そのものはきれいでしたが。いつの間にか何かの木の芽が実生から二三尺になっていて面白うございました。欅みたいな葉だったけれど。ぐるりと墓地下から青山一丁目へぬける新道が出来て、もとは墓地裏の谷間を電車が通っていたところが、カラリとした大きいカーブの一寸絵画風の新開路になりました。
その通りは一丁目の消防署の側、教会の角へ出る道と通じて居ます。そこを通って銀座へ出ました。これも何年ぶりかの銀座ですが、やっぱりいろいろとおどろきました、オリンピックで、のむものなど二種しかない、アイスクリームなんてどこにもありません。女の子たちの着物の色が染色の関係からどれも泥絵具式に混濁していて、所謂キレイな色ほどひどく濁り、それに布地の節約からおそろいの服をつけている姉妹が大変目につきました。電車へのったら人々の持ちものが元とは大変ちがっていて、大抵の人が形のまとまらない、つまりぶかっこうな風呂敷包みかかえていて、四合ビンをもっている人も大分います。省線の夜野菜のはみでていない風呂敷包はないし、という話をきいたが、これではそうでしょう。ちょいちょいした粉だの菜っぱだのというものの包みは、正直に自分たちを主張していてスマートな形にばけるという術は知りませんから。
荷物に表現される生活状態というものは生々しいものです。たとえば上野駅を出入りする荷物と東京駅とでは何というちがいだったでしょう。クールスキー停車場に出入りする樺製カバンの形と、ガール・デ・ノールのワードローブ・トランクとは何とちがったでしょう。でも、今日は東京駅も上野も互に近づきました。そして荷物として動く荷物は、世界中似ているかも知れないわ、カーキ色の被いをかけて。大したものであると、つくづく感じました。八時すぎ家へかえりましたが、月の青々とした光りに照らされた安全地帯と、月光で互の顔を見分ける銀座二丁目とをあなたに想像お出来なさいましょうか。安全地帯の端の赤い標識柱のわきに身をよせて若い女のひとがぼんやり立っているうしろからヒョッコリ男が現れると、私は何だかふつうでない――用心する瞬間の気になる、そんな銀座がわかるでしょうか。殆どすべての店は厳重に表戸をおろして居ります、夜店がマバラに、もうしまいかけの時のようにポツリポツリとあって、はだかの電球の光が低く流れています。似顔絵切りぬきが、覆いをかけた灯の下で街角にいて、たかっている人がすこしある。八時すぎ、日曜日、でももう深夜のようでフラフラしている人はない様子でした。出たらきっと驚く、と云われていたけれど、全く強い印象をうけました。銀座の表通りのような都会的消費の町は、こういうときほんとうに早く表情を変えますね。昼間は今でもやっぱりさもしきハイカラーがふらついているのでしょうが、すこしくらくなり、たのしみがなくなると、こそこそとどっかへ消えてしまう。戸塚や動坂や、ああいう、生活している人間がいる人間がある以上店も入用というところの方が、雰囲気が病的でなくて日常的でずっと健全であり人間らしさを保って居ます。銀座で何も実質的買物をする必要のない人々が東京に何十万といます、だから、銀座なんかが真先にがらんとするのは自然のなりゆきです。銀座が寂しくなったということはしばしば聞いたが、そのことで銀座の本質が示されて居ると云った人はありません。生活のしみじみとしたところを見落しがちなものね。
宗達という装飾画家のこと御存じでしょうか。俵屋宗達と云って寛永年間の人、土佐派の出で光琳、光悦の先輩の由。この人の描いた源氏物語絵巻のエハガキを偶然みて実に気に入り、光琳のように装飾のための装飾、図面の固定化、様式化しすぎた大名菓子のような死んだところがなく、力づよく清新、男らしい構成力があって、つやがあって(大したほめ方でしょう?)本当に近頃うれしいものを知ったと思う画家です。この人は十分の技倆をもった写実家です。それを土台として、伊勢や源氏の絵巻をかいていて、コムポジションの頭のよさ、牛車をひいている牛や人間の重厚さ面白い。その人の絵は何故か余りエハガキなどにされなくて伝記もないようです。造形美術という雑誌に出ていたから、とうちへ泰子の服を縫いに来る絵勉強の女の子がかしてくれました。
私は今にこの気に入った宗達について、是非何か書きます。書いてみたい画家などのことちっとも知らないが、本ものの芸術の気品というものについて云うなら、写楽をかきます。本ものの芸術の流動性、計画性、写実性、いのちのゆたかさというものについて云えば宗達をかきます。写楽って、ああいうあご長やどんぐりまなこの人顔を描いたが、犯せない気品があって堕落した後期の歌麿の、醍醐の花見の図の絵草紙的薄弱さとは比かくにならず又、偽作はどうしてもその気品を盛りこめないから面白い。あんな生き恥のような晩年の作品をのこした歌麿さえ、仕事を旺(さかん)にやった頃はやはり気品が満ちています。遊女を描いてもそこに品性がありました。芸術として。芸術が稀薄になって来るとき生じる下品さは、憫然至極救いがたいものね。才能の僅少さの問題ではありませんから。いつか宗達のエハガキを手に入れて見て頂きとうございます。きっとあなたも賛成して下さいます。歌麿は余り売れて、濫作の結果、井戸を汲みつくしてしまったように消耗涸渇して、あの位晩年下らない作をつくった大天才は絵画史にも例が少い由。文学の世界には例が少くないけれども。歌麿のカマドの前で火ふき竹でふいている女とかまのふたをとろうとしてその火の煙でしかめ顔している女との二人立の絵や、髪結いと結わせている女との絵などは、頽勢期の前のもので、大変見事です。婦女(働くという意味の言葉が入って)十態とかいうものの一部です。こういう女たちは快く描かれています、ふっくりと肉つきもゆたかで現実の愛らしさで、ヒョロヒョロと長くて細くて何ぞというと不必要に下着や脛を出したがっていなくて。あんなデカダンスの時代にもこういう女たちはこんなにすこやかで、庶民的ユーモアをたたえていたと思われます。
きょうは計らず、雑誌みせてもらい、うれしまぎれに絵のことばかり喋って御免なさい。その雑誌にセザンヌのいい素描や何かもあって、その柔らかさ確実さ。宗達の泳いでいる水鳥の水墨といずれおとらぬ風情です。セザンヌは変りものと云われてひとに体にふれられるのを実にきらったのですって。フランス人は表情的によろこびや何かあらわそうというと、すぐ手をとる、肩をだく、互にだく、接吻する。セザンヌがそういうマンネリズムの表現をきらい、男同士のそういう感情のグニャグニャしたのをきらったというのもよくわかります。表現とジェスチュアとの区別、見さかいを失った鈍感さ、として。崇拝者の一人であるレオ・ラルギエーという人は、そのさわられぎらいのセザンヌが自然にその腕をとったりして歩いた唯一の人物らしく、ラルギエーは、それは自分がごく注意して、自分がセザンヌにさわることをよけていたからだろうと云ってかいています。そしてさわられぎらいを些かシムボライズして、それはセザンヌの一生の芸術家としてのひとからさわられぎらいを示したものではなかろうかと云っています。セザンヌの偉大さというものの稚朴さを考えます(そういう態度の歴史性を。自己というものの守りかたの表現として)セザンヌは若いときゾラと親交があったのよ。ドルフュスのとき、ゾラがロンドンへ行ったりしているときセザンヌは、あいつは相変らず気ちがいだと云って田舎に引こんでいました。ドラクロアが、ロマンチック時代に生きた生きかたとは大ちがいでした。しかしながら彼は彼なりに本ものだったのね。
隆治さんにクルクル巻の雑誌三四種とりまぜ送り、手紙も出しました。南の方は手紙その他不便らしいのね、ついたらよいと思います、せめて手紙でも。あなたがもう四通ばかりお出しになったとかきもいたしました。あちらからは届きにくいらしいけれど、こちらからのも何しろ書留うけつけずですから。
いずれにせよ丈夫ならいいわ。民間の勤人も、たよりのないのは生きているしるしということになっている由です。死ねば家へ知らしてくるからというのです。
鏡を見ると私の右の眉のところに一本立てじわが見えます、眼の工合がよくなくて、いつの間にかつくのね。眉宇の間晴朗ならず、というのは、人相上大していいことではないのよ、精悍の気が漲るというのも「眉宇の間」ですもの。
折角女にしては眉と眉とがはなれてついていて、すてたものでもないのにたてしぼがついては価が下ってしまうことね。おでこの立しぼの犠牲においてこういう手紙もかくというと、まるであなたのためにだけ書くようですまないことです。 
六月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月十九日
十四日のお手紙ありがとう。あれは十六日につき八日朝というのも頂いて居ります。私の方からのが五日以内につくとはうれしいことです。先ず用事を。マホービンのこと承知いたしました。どの程度に役立つか甚だ心許ない次第ですが、おっしゃる通りにして届けます。森長さんのところへ電話したら、丁度そちらへ昨日行ったということで、いろいろおわかりになりましたでしょう?倉庫の鍵がどうやらこうやらしたのだって。笑ってしまった。寿江子もよくこういう智慧を出しますが、普遍性のあるものなのね。そのときの調子で、この前音沙汰なしをどうしたかと思っていたことも、あれでいいと分りましたから、どうぞそのおつもりで。挨拶をなまけただけでした。そう云って詫びて居ました。『文芸春秋』、『文芸』等、やっぱりまだでしょうか。『日本評論』は八日にもうとっていらっしゃるのね、前後して余り時をへだてず、『文芸』だけはすこしおくれ(自分が一寸よみたくて)みんなお送りしたのでしたが。先週、『週刊毎日』は買えなくて『朝日』だけでした。『毎日』はまだ手順がちゃんとしなくて定期的に買えず、駅のスタンドへ人をやるので一寸のことで買いはぐります。『独語文化』は妙です。全く先月末に出ているわけなのに、本やはもって来ない、きっと本やが買いおくれたのでしょう。発行所へじかに云ってやります。そして、そちらへじかにお送りするよういたします。
『日本評論』、『文芸春秋』みんなそうしましょうかと思うが、自分も一目みたく。少しずつおくれるの御辛棒下さい。
小説のこと、お心づきありがとう。お手紙を頂いて、なお考えたのですが実際上のこととして、やっぱりあなたも承知していて頂かなくてはならないのだろうと思われます。文芸家協会は一昨年だかに、ああいう名にかわり評論家協会も変って言論〃〃会というのになりました。婦人作家たちが日本女流作家の会というようなものを作ってガタガタやりはじめたが、それも文報の中の一セクションとなっています。言論〃〃会の方は文学の方より種々の働きが内部にあると見えて、評論家協会としては私のところに来ていたいろいろの会員への義務も、すっかりやめてしまいました。文学の方で、それをやらないのはめっけものというべきでしょう。一つの職能組織風になって、(この頃)そのうごきはいろいろ無駄はあるが、そして、文学の本質的なものを発展させるに夥しい錯誤もしていますが、私のようなむつかしい立場のものが、自分としてそんなものにしろ、それからはなれてしまうことは、これから最小限の仕事してゆくためにも不便だと思います。文学として作品を評価して、そこに今日の制約はあるが、落すべき作家でないとして、作品をあつめる中に加えるようなとき、私はやめます、というのは、予想するより困難な影響を生じます。編輯者が、私の作品をのせたくても、そういう集からもオミットになっているのだから、ということが、一つの躊躇の動機になり、のせさせたくない人の口実となります。ひどい作品は書きたくないし、何かの目的のために、人生を歪んだ鏡に映すこともこまるし不可能ですが、自然にかいた作品が今日らしいいろいろなものの中に伍してあつめられ、発表されてゆくということは避け難いでしょうと思われます。
多くの作家が現地へ行って来ていることは、文学の上に面白い結果を起しています。みんな(下らない文筆屋は論外として)文学への新らしい愛着、文学とビラとのちがい、文学の精神の恒久性などを感じ直している様子です。一層文学のよさ、文学の文学らしさを求めるようになっていて、これには当然心理的なリアクションがあり、それが又彼等の伝統による情緒性へよび戻して或る意味では退嬰にも近づくのですが、精神と心情の誇張ない稠密な美への憧憬がつよく起っています。ひところ、文学の仕事をするものは、彼等の神経質さと、社会的未訓練から亢奮して、心の肌目の荒びた、強引な、力(ちから)声と称する蛮声をあげ(詩人はまだその時期にいるが)ましたが、この頃はいくらか平正心に戻りかかってもいます。それに、一つああいう文学者の集団で、企画的活動をしている人というのが、何というか、つまり、体のマメなわりに頭の刻みめは浅いというのが、いずこも同じ例でしかも、総元じめの場所に制服をつけている人は、文学を方便以上に理解しなかったりして、企画に悲喜劇を生じるのです。しかし作家は、何かの形でそんな波にももまれつつ、しかも自分の船の舵はとりちがえず、帆は決して畳んでしまわず、あれをあげこれをあげしつつ、航海をつづけてゆくのだと思います。千石船が徳川時代にグリーンランド迄漂流しつつ決して壊れてしまわなかったということを面白く思います。千石船はその位の組立てをもっていたのね。昔広津柳浪が、日露戦争前後からちっとも作品をかかなくなってしまった、発表もしなくなったということの動機は何だったでしょう。或るときこの作家の作品が、不当に批評を蒙ったことから、柳浪はひっこみました。私は決して決してひっこみません。重吉(これはその雄々しい船頭の本名です、この男は三河の農夫の子で、大漂流の間、おどろくべき立派な態度で良識を発揮しました)の千石船は黒潮にも赤潮にも摧(くだ)かれずに漂う力をもっていることを願って居ります。自分が書くようなものでないものを書かなければならなければ仕方がないが、さもない限り、生活のためにも仕事の窓はあけておかなくてはなりますまい。
この当然な努力が、様々の奇妙な現象にぶつかるというのが、時代性でしょう。いろんな人がいろんな化物に出会って来ました。魔女だと云われて、単に不幸で孤独のためすこし頭の変になった老母が、宗教裁判にかけられそこなったり、地球は動くと云って命をとられそこなったり。人間て何という高貴な、何という愚劣なものでしょう。
私があんまり緻密な頭でなくて、時々スリップして、便宜主義になるときがあるから、きっといつも危かしい足どりにお見えになるのでしょうとすみません。全くその点は意気揚々としたことは云えないのだけれども、でも私は馬ではなくてよ。足はすべらしても、すべったらそれぎりの馬ではありません。牛の部よ、すべったにしろこの坂をのぼると思えば、膝をついてものぼります、牛はそうやって馬にのぼれないところをのぼり終せる動物です。私はその牛をいとしいと思うの。牛には牡ばかりでなく牝もあって、その牝にだってその健気な天質は賦(あた)えられているでしょう、私は荷牛でいいの。立派な牛舎に桃色の乳房をぽってりと垂らしてルーベンスの描いた女のように、つやつやと見事にねそべっていられず、自分のしっぽで、べたくそのすこしついたおしりの蠅を追いながらのたのたといろんな坂や谷を歩いてゆく、そういう牛でいいと思います。そして、そんな道を歩くについては、まことに比類ない牛飼いにはげまされつつ自分の勘で一つ一つの足は前へ進めてもいるのではないでしょうか。
こういう話はつまり文学なら文学に対する粘りの表現の、あの側この側の話にほかなりません。存在しつづけるということ、仏教はテクニカルになかなかぬけ目なく、仏はいつも菩薩という人間の生活と混交し説明し、示顕してゆく行動者をもっています。文学精神にしろそういうところもあるでしょう。
一身の儲けのために文学にしがみつく、その外につぶせないからしがみつく、そうとばかりでない執着もあるわけです。
これからもいろいろの場合、あしからず御承知下さい、と手紙の文句なら書くようなことが屡〃あろうと思います。そういう場合、いつもあながち最少抵抗線を辿る心持からだけ出発しているわけでもないということがわかっていただけて、私は一層平静に、従って落付いて考え乍らやってゆけるというわけになり、そのためにすこやかさを喪わないですみ、展望を失わないですみ、重吉の千石船たるを失わない結果になれると信じます。
私たちの経済のことで、春の終りに長い手紙さしあげたことがありました。あれは全く私に一つの基本的なことを学ばせました。私たちの生活のやりかたについて。あなたが、私の半病人風にせきこんで気を揉んだ処理報告に対して、自然な疑問をはっきり出して下さったので、私はこまかに何年も前のいきさつを思い出し、整理し、そして、自分が、あの頃はあなたの言葉に必要以上おどろいたり怯じたり絶対にうけとったりして、その為に現実のいりくんだ半面だけであなたに対し、あなたと自分とを迷惑させたとよくのみこめました。もう二度とああいうことをくりかえさないようにと思います。お気に入ってもいらなくても在ることは在ることとして、私の考えや、やりかたをあるとおりいつも知っておいて頂くことが何より大切です。ましてこの頃、そしてこれからのような時節には、一見すじの通らないようなあれこれの間をかいくぐり、かいくぐりですから、私はあるとき全く我流の泳ぎかたをして、どの水泳の術にもないバタバタで、渦をのりきりもするでしょうから。クロールでやるものだよと云われ、そうねと云い、しかし手足は妙ちきりんにうごかしてでもやっぱりここへ出たわ、というような可笑しいこともきっとあるでしょう。内在的なものにたよりすぎることは芸術家にとって危険であり発達を阻みますが、自分にそこがどうやったら通りぬけられるという身幅と空間の知覚のかね合いなんかやっぱりかんにもよるのでしょう。
寿江子へのおはがきありがとう。返事を上げなければ、失礼だわねとよろこんで居りました。石ケンのこと、お送りいたします。
この頃は単衣を灰水であらっている始末です。大した石ケン不足で配給は日常の用に足りません。もしかして島田の方ですこしは何とかならないでしょうか。おついでの折お母さんにおきき合わせ下さい。あなたの御用が三度に一度あちらからみたされると大いに助かりますから。『独語文化』又きき合わせます。
岩本のおばさんが、絢子さんのところへ(結婚した)来ているとかで、うちへいらっしゃりたい由です。世田ヶ谷北沢の明石方としてありますが、明石って、大阪の明石という鉄道会社の社長か何かの娘夫婦のところでしょうか。この頃はおもてなしもむずかしいし、私はまだこんなで正直のところ気がおけますが、あのお年での御上京ですから近日中いい日を見つけて一日お出で願い何とかいたしましょう。ペンさんでも手つだって貰って。(うちに人手も不足だから)闇暮しでいるうちに泊ったりしていらっしゃるお年よりを、今の普通の条件でおもてなししなければならないのは全く辛いわね。そのお年よりの気質とものの話しかたを知りぬいているから閉口頓首、千石船もチリチリです。滑稽でしょう?御亭主の顔にかかわっては一大事と、女房奮戦せざるを得ません。もしかしたら御一緒に山崎の周ちゃんもよんだらどうかしら。こまが合いますまいか。どうせ、うちの連中はこういう人たちでそういうお義理のおつき合いには役に立たないのだから。星出というひと、島田のお母さんの御上か下かでしょう?そこの息子が目黒かどこかの無電学校に来ていて、よく来たいと云って来るのですが、些か敬遠でいるから、そんなのでもこの際一緒にして親戚話を東京に移動させたらいいかもしれませんね。東京ではいいことだけを期待して来るお客様は実につらいものです、お察し下さい。こういうときは沁々一人がいやよ。せっせと働いて、あなたどうぞと、お願い致したいと思います、そしたらどんなに気が楽でしょう。細君というものは、変なところで気が弱くて可笑しいものでしょう?これが即ち細君よ。
星出さんの息子は一(ハジメ)というのです。中條を何度直してやっても中将とかいて来るのよ。そういう学校が東京にだけあるのではないでしょうし、やっぱり東京へ出しておくというところに親の情愛があるのかもしれないが、あのゴタゴタの渋谷辺うろついて、と思います。いい身分なのね、でもきっと下宿で、さぞおなかのすくことでしょう。うちは丼に盛りきりの御飯で、来月からはそれも不足で私はペンをやめなければいけないかも知れません。この頃はバターもなかなかありません。段々丈夫になってよく勉強すると、私はおなかのへるたちだから間に合わないと苦笑ものです。
さて、これからすこし横になり、休み乍ら御接待方法を思案いたします。年とった人が結核になるというのは、やはりあり得る事情ですね。疲労を蓄積させないこと、規律ある生活すること、これが今のような営養不足の時の第一で、休んで補うしかありせん。それにつけても私が今半病人なのは、不幸を幸に転じることかもしれないと思って居ります。丈夫と思えばこんな生活は出来ませんものね、では又。 
六月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(セイロンの仏教徒の写真絵はがき)〕
十八日のお手紙二十一日頂きました。『文芸春秋』まだつきませんか、先月末に送ったのに。本と別に送ること承知いたしました。『独語文化』は、直接日光書院に申しこみ、五月号と(六月号は売切れ)七月からずっとこちらへ送るよう致しました。三年前から出ているのですってね。封緘は全く苦笑ね、そちらでむつかしいとき、こちらも買えなくてさわいだのでした。もうやめましょうよ? 
六月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(佐伯祐三筆「貧しきカフェー」の絵はがき)〕
六月二十一日
栗林さんの受取りを、きょうさがしたのですが、どうもしまい忘れたらしくここぞと思うところになくて悲カンしています。しまい忘れということをやったのね、隆治さんの所書き式に。クマのように、そのときやたらに失くすまいとして、妙なところに入念にしまって、もう次の日ぐらい忘れてしまったのだわ、些か我ながら哀れです。あすこはルーズだから、その時の分と云って果してわかるかどうか気がかりですが、ともかく計らって見ます。 
六月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(石川確治筆「七面鳥」の絵はがき)〕
今薬をのんで思いつきましたが、そちらまだオリザビトンが間に合って居りましょうか、メタボリンこの頃入手むずかしくそれでもあなたが御入用でもいいようにしてあります、きのう島田からも送って頂きましたし。どうか早いめにお知らせ下さい。きょうのお手紙に交通杜絶とあり全くそれに近いわね、御免なさい。私がやきもきするの、小さな気だとお思いになっていたかもしれないけれど、実際の事情とお分り下さるでしょう? 
六月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
風邪気で床にいるうち、岩本のおば様が孫さんをつれておいでになりました。お年よりはお思い立ちになると、待ったがないのね。もう足かけ三年お会いしないのに、七十歳で全くお元気でしゃっきりして、ちっともふけていらっしゃらないのにびっくりしました。孫さんというのは、昔小さいときオルガンをひいてあなたにほめられたという娘さんよ、十九で、去年明石という応用化学出の人(鹿島高工)と結婚し、その人が応召で十條(王子)の工廠づとめなのですって。幹部候補から少尉になっている由。おばさんも孫さんも満足して暮している様子で何よりでした。十時半頃から来られ、咲枝が国府津へ行くと大騒ぎのなかを、どうやらおひるを仕度してそれでもよくあがりました。三時すこし前おかえり。いろいろ親類の話が出てめずらしい噂伺いました。岩本さんは三田尻とどことかの間の校長になられ、一家そちらに引越したのだそうです。この間の洪水のひどかったところで、壁に三尺も跡がある由。米屋に一時間もかかるところ。しかし飛行場が出来たりして、光とおなじような場所になるのだそうです。岩本さんではあと女学校四年の娘、六年生の娘、四つの男の子という順だそうです。
周ちゃんのところではお姉さんでしょうか岩本さんという人にお嫁入りした足のわるい方。その方夫婦がこの節は一緒らしいのよ。すすむさんというお兄さんは、徳山の井村さん(銀行の人)の親戚で只一人娘さんだけのこった家へ養子に行ったそうです。お金はあってなさそうじゃとのお話。
周ちゃんをよぶとか云っていて、その様子ではふさわしくもないでしょうから、おばさまいらしてようございました。
どこも御案内が出来ないが、孫さんと二人で観て下さるよう歌舞伎の一等二枚奮発して、お土産話の種にいたします。そして、七月初旬おかえりというからそれ迄に田舎へのおみやげをもって行きましょう。東京でみると、あちらの女の人たちはみんな周ちゃんに似て線が太くてかっしりね、多賀ちゃんもそうだったが、それでもほかの人たちの方が健康のせいかもっとかっしりと線太で面白く感じました。北の方の人々は地の柔かい深さを感じさせ、あちらは、石の切り出した厚みを感じさせ、そのちがいも面白く思われます。人の性格かと思ったけれどもっとひろい共通性のあるものなのね。岩本のおばさまったら、私が丁度いい位にやせたと、島田のお母さんに云っておこうとお笑いでした。でも私は、もっと円くなる予定ですし、そうでないと十分の体でないのだから、見合わせて頂きたいと笑いました。おとしよりの方は、私の円いのに心ひそかに恐縮していらっしゃるのがわかって全く可笑しい。わたしが、ハアハア笑って、一向結構という風で円くているから、苦情も仰言れなくて、何とお可哀そうなことでしょう(!)おや、雨が降り出しました。もう五時近いからおつきになったでしょう。下北沢でおりるのですって。
珍しいお客様でお話がこまごまとしているから私は疲れました。それでもいろんな噂が珍らしくてこの手紙さしあげます。大阪の明石さんでなかったから大助りよ。まともな配給で毎日暮している人でなくては話にもなりませんからね。それでも軍人さんだから世間にないカンヅメが買えるというのでおみやげに鮭のカンヅメ頂きました。この頃一般の人はこんな大きい円切りの鮭カンなど見たこともありません。
昨夜はヴェルハーレンのかいたルーベンスの伝記、活字が大きいので読んで面白うございました。ルーベンスの偉大さと美しさと無意味さが公平に見られていて、この詩人が一方でレンブラントを書き、優れたレンブラント伝とされているのも興味があります。ルーベンスの浅薄さとよろこびの横溢を理解してその対蹠的芸術家として真の大芸術家としてレンブラントを書いているのです。
白樺の人たちがレンブラントを紹介し、日本ではゴッホとレンブラントは云わば文学的に崇拝されています。しかし、レンブラントにせよゴッホにせよ、そういう崇拝は、自分たちにないものへの安易な崇敬として評価されているのでしょうか。自分たちの可能の典型として愛し尊敬しているのでしょうか。私はよくこの疑問を感じます。煩悩の少い、テクニカルなことに没頭したり、フランス亜流に彷徨したりしている人々に、どうしてこういう芸術家たちが、体と心をずっぷりと人生の激浪の底につけて、そこから年々のおそるべき鍛練によって我ものとつくり上げて来た芸術の不動な真実をしんから理解出来ましょう。ベルハーレンが、レンブラントの描く人間はいつも窮極においてのっぴきならぬ情熱のどんづまりにおいて描かれている。決定的なものだが、ルーベンスなどはそういう人間のつきつめたもの、その真実、そういう永遠性はちっともないと云っているのは本当ね。ルーベンスの画集は裸体であふれていて、それを切りとったら話の種もなくなるでしょう。ウィーンのリヒテンシュタイン伯の画廊で見た毛皮外套の若い女の裸体は今も目にのこっています。ルーベンスは妻に死なれ、後若い妻を得て、それをかいたのですが、覚えていらっしゃらないかしら。本当にスルスルとそこにみんなぬいで、それ羽織って御覧と云われ、こう?という風にちょいと体にかけて、若々しいよろこびとはにかみと自分を見る人への恥しさを忘れた親しみとを丸い子供っぽいような顔に溢らした女の像。肉づき、豊満な皮膚の色と、どっしりとして実にボリュームのある大毛皮外套が黒い柔かさ動物らしさで美事な調和を示し、ルーベンスの美のよい面を示しています。この頃私は時々絵の本を見ながら私は自分の富貴人たるをよく知らなかったと思うのよ。貧しい理解の程度にしろ少くない名画をほんもので、自分の眼で見て来ているということだけでも、私はもっともっと自分の内部のゆたかさを自覚すべきだと思うの。つまりそれだけの美の印象を十分自分のこやしとするべきだと思うわけです。私は生活的で女らしくナイーヴで、生きぬけて来てしまうように恬淡なところがあって、しかしそれは芸術家としては初歩ね。ペダンティックな教養への反撥が作用してもいるのでしょうね。もうくたびれたからさよなら。 
六月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(安芸厳島神社の写真絵はがき)〕
六月二十四日。ねまきお送りいたします。もう一枚の単衣の方はさし当り、去秋(九月中旬)お送りしてかえらず、そちらにあるメイセン絣ペナペナだけれども、今ごろジュバンの上へお着になれます、どうぞそれを着ていらして下さい。新しいのをこしらえてお送りしますから。麻のや白を着る前のは、もとから無かったのよ。一枚いい心持のがあったのを、私がいなかったとき(七年も前)消え失せてしまいました。別に手紙をゆっくりね。 
六月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二十五日づけのお手紙ありがとう。二十三日のも頂いて居ります。魔法ビンはよかったこと。不思議なこともあるものなのね。悪いことばかりはないというのは、このことでしょう。古い方は両全会へもって行って届けます。札をつけて。来月自分でゆくときに。
官報販売所は、例により電話で話が要領を得ませんから、往復ハガキを出しそちらへじかに返事するようとり計らいました。栗林さんは、へこたれますね。あんなに細かに手紙やっておいたのに、ペンが使いに行ったらそのときになって二階をチョイトゴソゴソやって云うには、何しろ古いものだから分りかねる、受とりを見せてくれれば見つけるが、という次第です。速達を出して、私が病気のため受取り仕舞いなくして困却して居るから万々よろしくと折入ってたのんであるのに、いいかげんによんで、面倒くさがって、それでも三百代言的ポイントをつかまえて使を追い返すなんて、ね。
やっぱり蔵の鍵が見つからないから、のくちね。しかし閉口します、そして、腹が立ち、何一つ役にたたないのにと思ってしまいます。職業上の義務として、そんなこと位わかるようにするだけの骨折りもいとうとは困ったものです。お使いに、森長さんからもお話がありましたが云々と云っていたそうです。どうしても私はあれをさがし出さなくてはならないことになりました。どうぞ暫くおまち下さい。そして、これからは謄写屋から来たらすぐお送りしてしまわなくては駄目ですね。これからは、代金支払ったら受取りをみんな森長さんのところへ届けておきましょう。そしたら、あの人は事務的だから、後から調べるとき有用につかうでしょう。こちらが病気だって留守だって、盆や暮には礼儀をつくしているのに、こんなとき不誠意だと、商売道から云ったって下の部と思うわね。あわれ、あわれ、受取書よ、どこからか出て来い。めをつぶり手をたたき、三遍まわるそのうちに、受取書よ、出て来い。(と行くと幸なのだけれど)
今頃岩本のおばさまは孫さんと並んで歌舞伎見物でしょう。暑くないから幸でした。多分水曜日ごろ、田舎へのおみやげをもって北沢へ行きます。おくさん、上の娘、下の娘、男の子、父さんだって一寸何かあればうれしいでしょう。この頃はおみやげ本当に苦心よ。女の身のまわりのものは点数ですし。下駄でもあげようと考えて居ります。男の子へはオモチャ。おばあさん御自身にだって東京みやげがほしいでしょう。何しろあのお年で、元気とは云ってももう二度三度出ていらっしゃれるかどうか分らないのですから。歌舞伎の切符はこの頃四円に四円四十銭から税がつきます、一枚九円四十銭よ。大したものです。食事を一寸すると、五円が晩の定額だけれど、税で七円位にすぐなります。山崎のおじさまが御上京のときはもっとお弱りだったし暑かったし、私は林町へ引越しさわぎのときで、若林の周ちゃんのところへトリをたっぷりもって行って皆でたべ、大変それでもよろこんで下すって、それぎりお目にかかれなくても、マア思いのこすところありませんでした。出来るときに出来るだけのことをしておくという私たちの生活法は、いいところがあります。こちらの事情はこちらの事情として、一生に何度という気持で遙々来ている、まして年よりの人の心持は、それとしてやはり満足させてあげた方がいい心持ですものね。骨を折れば其だけ島田のお母さんにしろお気持いいでしょうと張り合いです。島田へは、豆をおねだりしようと思います。御飯にまぜて炊くものがなくなって大弱りです。来年の六月にはよほどのことがない限り、行くつもりです。五月頃からね。六月は十三日がこちらの母の十年祭ですから、あとはゆっくり出来ないわけです。
レントゲンはとりましょう、でも秋にね。村山へでもゆくのだけれど、暑いうちは面倒ですから。この頃のようにすこし疲れれば床にいる術を覚えたからきっとこれから体のもちは上手になるでしょう。寿江子は眼も悪くなって来ていて、近く池袋の近藤という眼科の人のところへ二人で行きます。あの人は遠視ですが、糖尿からの白内障でなければ幸ですが。そうだとことね。手術の出来る迄視力を失って行かねばならないし、糖尿末期に起ることで、白秋にしろ視力を失ってからじき肺エソになりました。神経疲労位であったら大助かりです。池袋へは来週のうちに参ります。母も眼の障害と内臓の病気は全く併行的でした。
この間のハガキのお礼呉々ことづかって居ります。
小説のこと。ありがとう。あなたは余りはっきりして何とも二の句のつげない比喩でものをおっしゃるから、私もあっさり兜をぬがざるを得ません。私のような粗忽なものでも、行先違いの便船にのっても一向進んだことにはならない道理だと云われて、イヤそうでもないかもしれない。うまく漂流するかもしれなくてよ、とは申しかねます。箇人的なあせりはないのよ。その点は御安心下さい。そういう焦慮が何ものをももたらさないことは狭い見聞でもよくわかり、まして金銭的展開などは大局からみて考えられもしません。私は自分の病気を大切に思い、今のようなとき自分がこんなに死にかかりやっと生き、命を蓄えて生きて行くということに、決して徒らならぬ天の指図があり、天は私の文学を劬(いたわ)ってくれると思って居ります。その位深く感じているのよ。東洋人風に、天という位。
ですから私があれこれ考えるのは全く文学の方法としてのことです。芥川龍之介は佐藤春夫のことを、生き恥をかく男と云って当時酷評とされていました。でもそれは一つの炯眼でしたね。私は昔から所謂文壇ぎらいで、そういう常套の雰囲気なしで生きて来ているし、いい友達はこういう折に益〃いい友達として誠意を示してくれるし、それだけの面から云っても孤独の感じはありません。それは圧迫となりません。そんなものは私に遠いわ。そうなわけでしょう?どうしてわたしが孤独でしょう!その人の人生にすじさえ通っていれば過去にも未来にも、知己は、各〃の卓抜な精励の業蹟の中から相通じる人間精神の美しい呼吸を通わせます。孤独になるのは、その者が、迷子になったときだけよ。日常生活の中においてさえそうです。宇宙の法則から脱れてほしいままに自分にまけたとき、孤独は初まるのでしょう。孤独について、私がこうかくには、私として浅くない感銘をうけていることが最近あるからなの。あなたも御存じの背の高い人の初めの細君は、自分のぐざりとした気分から良人の生活とはなれ、自分にふさわしいと思った安易の道を辿りました。ところが、その道はひどい下り坂で、しかもバイブルの云うように、美しく幅ひろくもなかったの。こけつまろびつ、体をわるくして、あとから婚約した人とも破れ、今中野の療養所にいます。咽喉を犯されたって。小説をかいてよんでくれと云います。よむと、自分を哀れな孤独なものとして美化して描き、終始その孤独を甘やかし、何故に一人の人間が孤独に陥ったかということについて自身を考えて見ません。決してその点をえぐらないの。ですから小説の人間成長の点で堂々めぐりで、云ってやっても感じないの。ぐざりとして腰をねじくったポーズを今に到っても立て直せず、恐らくこの人は気の毒ながら、女の一生とか孤独とか人の情のうすさとか私の気むずかしさとかそんな思いに一生を閉じるでしょう。病人だと思って私は小説はよむことにしています。けれどもいやなの。哀れで腹立たしいの。どうして自分の初めの一歩の逸(そ)れが一生を誤らしたと真面目に思わないのかと。
昔の良人の兄弟とその妻たちは類例の少い人たちで、本当の同胞思いです。長兄の奥さんは私の身を思いやって見舞まで心配されました。そういう人たちの篤い心からはなれたのは、その女の人の自身の責任ではないでしょうか。
こんなこともあるし、又昔印刷工だった小説家が、郊外にひっこんで、瓦一枚ずつ書いてためたという家を建てたとき、周囲はそれを軽蔑しました。けれどもこの作家は自分の弱点を生活者らしさで知っていて、伏せの構えをはじめからやって、現在も肱でずるように「日本の活版」というような小説を書いています。印刷技術の発達史のようなものらしい。その時分軽蔑した人が、現在になって二百円の着物だタンスだ家だと、その人が引越したよりもっと田舎にさわいでいるという姿を思い合わせ、私としてはやはり感じるところがあります。人々の姿は、実にくっきりと浮き彫りにされる時期があるものね。そうやって、私はこうやって坐っているぐるりにすぎないが、いろいろ眺めて、学ぶところも少くなく、大切な時期の私心から出発して一歩が、どんな結果を招くかということについても軽く考えては居りません。そういう判断に当って一箇の才分とか自分の見せ場だとか対立の感情(まけた、勝った、世俗的な)だとかが、どんなに邪悪な作用をもつかも知っています。どうぞ心配なさらないで下さい。本当に私はそういう細々としたことからは自由なのですから。もうすこし文学者として欲ばりよ。妻としてこの位欲ばりなのだから作家としてよくばりだって当然というわけでしょう。仮に欲がはりきれなかったとしたら、其は私の自身への敗亡です。それに、そういうことは技術(生活の)の熟練不熟練ということにもかかっていてね、やりくり上手、或は質素の習慣、又生きるための働きに対して勇気をもっているかどうか、ということにも大いにかかわります。多くの人は、生活のための働きの必要というときすぐ手もちの仕事を下落させてそれで食おうとするが、それは間違いですね、特に芸術にあっては。レンズみがきをした哲学者なんかやっぱり歴史的人物たるにふさわしい生活力をもっていると思います、ひどい小説をかいてくうより、別の職業でくって、小説は文学として通るものだけかいている方がいいのです、そういう自分の評価のしかたには勇気がいります。だから縺(もつ)れ合ったまま奈落の底へ、ということになるのね。「娘インディラへの手紙」は、歴史として面白いばかりでなく、人間は誰でも境遇というものから脱すことは出来ず、その改善のために腐心するのですが、そればかりで人生の意味はつきていないということを考えさせる点で深い意味をもっていると思いました。よく境遇にうち克って云々というとき、何か常識ではその悪条件を廃除しきったようにうけとるけれど、現実にはそうではないのね。決してそんな生やさしいものではなく、雄々しい狼のように一つの足にはワナを引きずっても行こうとした地点へ行ったということなのね。シートンの「動物記」にロボーというメキシコの荒野の狼王の観察があります。すごく智慧が発達していて、どんな毒薬もワナもロボーをとらえません。が、シートンが見ると、いつもロボーの大きい足跡よりちょいと前へ出ている小チャナ足あとがあって、それが妻のブランカだとわかるの。白をブランカというのね、純白の非常に美しい牝で、牡狼ならロボーが命令を守らないとかみころすのに、ブランカには寛大です。
シートンは、そのブランカを先ずひっかけました。ロボーの慟哭の声が夜の野にひびきわたります。ロボーはブランカを可愛がっていたのよ。シートンの動物の知慧も私から見れば憎らしい。ブランカの体をひきずってワナに匂いをつけます。ロボーは泣きながらブランカの匂いをさがして来て終にそのワナにかかります。シートンはさすがに首を〆めてしまえないで、そのままワナからはずして縛っておいたところ、自分の君臨していた荒野を見守ったままロボーは人間を見向きもせず、王らしい終りをとげます。シートンはロボーの顔をスケッチして、その日にデューラーの版画みたいに王冠をのせ、RoBo何とかラテン語書いていますが、このシートンという男はアメリカ人らしい生活ぶりで、或地方の賞金つきの野獣狩りなんかにも出るのね、ロボーには一千ポンドの賞金がついていたのですって。
私はシートンの話はいつも面白いが、こいつはきらいで悲しいわ。ロボーのために悲しみます。そして一層ブランカのために身につまされます。こんな賢い野獣でさえ、その智慧の最上の点で牡に及ばないという自然のしわざを悲しみます。ブランカは好奇心がつよくてロボーが止れと命じて一群が皆止ってもチョコチョコロボーの先へ出たり横へ走ったりして悲劇を招くのよ。ブランカのひっかかったのはロボーがちゃんと警告する本道の上のワナではなくて、わきの草むらに何気なくころがされていた牛の頭の一つです。最もひどいワナがそこにあったのよ、ブランカはロボーが全群に止れと云って自身では一つ一つとワナを神のような技でアバイテいるとき、ひょいと好奇心をうごかして牛の頭をいじくりに行ってひっかかったのです。興味津々たる話でしょう。ユリがこの話を非常によく心に刻まれているわけもそこのモラルもお察し下さい。詩の話は別便で。雨になって来たことね。 
六月二十八日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(紀伊田辺の風景の写真絵はがき)〕
こんなエハガキ。いつか戸台さんという人がくれたものらしいと思います、紀州よ。きょうは(二十七日)うちのものは殆ど皆左腕が重いのよ。きのうチブスの予防注射いたしました。私は三回に分けてして貰います。三年ほど前そうして熱を出さずにすみましたから。隆ちゃんは赤痢をやったらしいのね、アミーバは年々おこるから心配ね。 
六月二十八日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土畑鉱山倶楽部の写真絵はがき)〕
このエハガキは光子さんという絵かきさんがもう六年ばかり前くれたものです。アメリカでどうして暮しているでしょうね、腰を据えた雨の音がして居ります。明日も降りでしょう。私は傘をさして出かけます。シートンの「動物記」をなぐさみによみます。スパルタの母のような女狐の話。黒い火のようなニューメキシコの野生鳥の話。なかなか面白く、人間の伝記のような波瀾と智慧くらべとに充ちています。あつい時読んでごらんになったらどうでしょうね。 
六月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(徳山小学校の写真絵はがき)〕
これも古いハガキね、岩本の御主人はこの小学校から転任していらしたのでしょうか。あの徳山の黒塀の家へ、あなたが小さいときいらしたの?あの家には今誰か新任地の方の人が交換で住んでいる由です。私は盲腸がまだくっついていて、歩くとそれが痛く膏汗を出しながら徳山のお花見につれて頂きあの家へもよりました。座敷のぐるりに廊下があったわね。細い石じきの入口でしたね、私はあすこは余りいらしたことないのかと思って居りました。 
 

 

七月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(紀伊田辺・奇峡巖の写真絵はがき)〕
七月二日。六月二十八日づけのお手紙ありがとう。あれへの御返事やその他書くのですが、きょうは大グロッキーで一寸一筆。三十日の夕刻、岩本のおばさまを北沢にお訪ねし、初めての遠出でクタクタになって帰ったら国男の入院さわぎで夜中バタバタやり、きのうは木曜日だったので根をつからせ、きょうは永い手紙がかけないの。国男は腸です、流行性の。血液を出したのですが、いいあんばいに大したことなく他にひろがりもしない様です。消毒は完全。こわいわね。 
七月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ルノアール筆「カーニュのテラース」の絵はがき)〕
ルノアールは水っぽい絵かきだけれども、この間見た村の水浴場の写真はおやと思うようなものでした。これはやっぱり例の赤っぽいものらしいことね。シャボンのこと、あなたの衣料切符はここへ寄留して取りました。が、シャボンは誰にも一人一ヶではないのよ、たまに九人に四つずつ浴用、洗濯が来るだけです。そこに居住していなくてはダめなのよ。これには閉口いたします。どこでもひどいやりくりで私はこの頃顔は洗粉一点張です。 
七月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月四日(日曜日)
けさ二日づけのお手紙ありがとう。この間うちいろいろの用事がたまってしまって。先ず用事から。シャボンのことはハガキで申しあげた通り。衣料切符その他のことの必要から私たちはここへ寄留いたしました。シャボンその他日用品は不在だから配給なしなのよ。
白の浴衣のことわかりました。ねまきお送りします、とハガキかいて包みかけたら何となく洗濯がさっぱりしていなくて心持よくなかったので洗っていておそくなりました。それから白地のふだん着は大分汗やけがしていてすみませんが、今年はこれで御辛棒下さい。来年はちゃんと縫い直しますから。それでも本当の木綿(モメン)がいいと思ってこれにしました。この雨があがったら送り出そうと思っているのですが、今になってよく降ることね、本梅雨ね。
栗林さんのこと、わかりましたろうか?閉口ね。私は悄気ているのよ。それから日光書院も、これ又とんちんかんね。ところが、ここ迄書いて、円い焼物の状差しをさがして受領書見たところ、トンチンカンはペンさんもあずかっていて、これには麗々しく月刊講座とあります。ダダと下へおりて行ってズーズーと日光書院呼び出したが、音沙汰なし。日曜というより電話こわれているらしいの。又あやまらなくてはならないのは何と辛いでしょう。だからペンさんはもうおやめでよかったのよ。心此処に在らず、でしたから。早速『文化』が行くようにいたします。
療養新道は、医学書の部分をみんな見ましたが、こちらにはありません。売りもしなかったと思います、体についての本はもうみんなとっておくことにしましたから。さがしましょうか?もう一冊。御返事下さい。発行所はどこだったかしら。七月から本を買うのは大したことになってね、本やは現物を並べないのよ、カタログです、それで注文して買うの。例により日限とかいろいろあって、まるで風変りなことです。日本にはいくつも世界に類例のないものがありますが、こんなのもその一つね。食うものはなくても本はドシドシ出ていたところもあるわ。紙の関係でしょうが。
さて、一寸ハガキで書いた、バタバタのことお話しいたしましょう。火曜日に(二十九日)私は始めて一人で出て肴町へゆき、岩本のおばさまへのおみやげ買いました。お孫さんには結婚のお祝いをかねて、コンパクト、母さんにも。女の子二人にブローチと花、おばさま御自身には紐とよそゆきの袖口。男の子には水遊び道具と切符遊び。そんなものを買ってくたびれてかえりました。国男さんはもう四日ほど床についていて、床の上から買ったものみて、たのしみだったと云っていました。鮮やかな出血だったので、痔だと思っていたのね。お医者も。この日はよかったのです。気分もわるくないのだったし。
三十日水曜日は疲れていたけれどほかに日はないしペンさんつれて、先ず上野松坂やへゆき、岩本御主人のネクタイを買い、初めて省線、小田急にのって北沢へゆき、一時間ほどいて、六時すぎかえって来ました。
そしたら入院するというさわぎです、駒込へ。あすこはカンづめになり何週間の規定の時日はかえれないのよ。咲それでは困るというし、さわぎがひどくなって困るし、決定したわけではないというのであすこの外科の宮川彪という先生にきいたら、今夜ぐらいは内科病室へうけとってやるというので、自動車迎えのこととり消せるかどうかと、来合わせた紀(タダシ)さんと一緒に駒込まで行ったらもう移牒してあるとのこと。咲枝はおろおろするたちなのよ。何だか一向準備がちゃんと出来ないであっちこっちしているうちに九時半ごろ自動車が来て入院しました。いい工合に一人の室があった由。そして、もうパンたべているのですって。大笑いしているの。きっと、あの天井の低い自動車にスーと入れられるとき峠越してしまったのだろうって。それでも翌日は家じゅう大消毒。まだプンプンです。この間うち、マグロが珍しく入荷して、それでああいう病人が続出しました。珍しいから刺身と云うことになり、それでやられるのね。あのひとは事務所へ出ると昼はどうしてもそとだからそれでやられたのでしょう、あとは皆健在。しかし検査はあるでしょう、それも規定だから。お医者が几帳面な人だからキマリどおりにするのです。その方が子供たちのために安全ですけれど、困ることも困ります。少くとも二週間カンヅメですから。
全く疲れてかえったらその騒ぎで亢奮して又駒込まで私としての全速力でかけつけたりしたから、ひどくつかれてね、きょう、やっとこんな手紙もかけます。もう大丈夫近くなりました。きのうも一日床をしいてふらふらしていて、昨夜からけさにかけ十二時間ほど眠りましたから。疲れてねむくて眠れればいいのよ、もう。疲れすぎると不安定で一時間二時間おいてはちょくちょく目をさますから駄目ですが。病気前は、こんな細かい違いなんか無頓着だったのにね。
シートンの面白い部は、咲がよみたがって今入院です。すこしお待ち下さい。わが哀れなブランカは是非よんで頂きたいわ。チェホフはうちのロシャートカと細君をよんでいますが、馬さんはあんまり一般的すぎます。ブランカには悲しいところがあるが、実感がありますね。少くとも私は、ほら、ブランカと云われると、すりよりながら身をひきしめて自分の生れながらの不束(ふつつか)さをきまりわるく思いながら、やはり傍からどけない(くことは出来ない)というような思いになります。大変精神的であり又生々と動物的でもある思いです。
小説のことは本当にありがとう。私としては自分個人としての焦慮というよりも、対処の方法で縺れさせたのであったと思います。
その点が自分にとってもはっきりして、根本的にどうやって行くのが一番よいかと方針がわかると、あとの処理はすべて比較的簡単になり、落付いた気分にもなり、うれしいと思います。普通の勤め人とちがうというのは全くです。大事な人を一生自分にとって大切な人としとおすには、やはり意志がいるように、大切な自分の仕事を自分にとって一生大切なものとしとおすには、やはりかくれた勇気もいるものです。おっしゃるとおり波瀾万丈ですから、それを面白いとうける力は、その波をおこしている勢についての正しい理解以外にはないわけです。魔力の無限の跳梁と思えば身の毛もよだちますが、少くとも天候というものを知ってその科学を学んでいれば、ホホウというところもあり、おのずからの笑いもあるわけね。相当荒れるわいというところもあったり。面白さというのはそこのところね。
栄さんは、きのう午前の大雨のなかを、農業試験場の田植に行きました。文学団体の農民文学委員会の主唱の由。新聞に出ています。
いろいろ眺めていると、仕事の忙しさよりも、仕事をしてゆけるようにしておく為の忙しさというようなものが非常ですね。これ迄、作家たちの大部分は恣意的に暮してごたく並べていたから、大洗濯うけるのも結構でしょうが、それでもやはりすこし教養のある人たちの使われかたと、体だけでの使われかたとあって、大変です。栄さんは御主人が二百円ほど月給があるから、先の暮しでしたらやってゆけるのでしょうが、何しろ新築した家のため、月百円以上償還してゆかなければならないそうで、これは現在大した負担でしょうと察します。悲喜劇です。同じ儲けるにしろI・Tのように出版インフレの先駆けをやって良心なんかてんでもち合わさない儲けかたをして、安気に理想たる芝生のある家を建て終せて、この頃はお髭のちり払い専門になっているというような型もあり。儲けられない筈のところまで波が打って来る時は、もう中心では別の動きがきざしているというのが現実であり、大正九年の大暴落にしろそうですものね。私が家を建てないと云うと云って吉屋信子が笑ったそうだが、私なんかには少くとも経済上のそういう持続性は信じられなかったのですし、それが本来でした。
ところでこの間送った原稿ね、あれをうまく戻すのはむずかしいらしくて困ります。もう詮衡ずみで、角だつらしくて。もうすこし考えて(方法を)何とかなればよし、さもなかったら今回だけかんべんして下さい。お願いいたします。円地という女の作家が委員の中にいるから、もう少し工夫してみます。本当に、ひょいと考えの二本の筋をこんぐらかして、おしいことをしました。
生活の方法について、御考え下すって有難う。島田の御親切は私も単純にうけてありがたく思います。しかしそれ迄に私としては、東京に生れ、そしてここに育った者としてとれる自然な方法が少しは在るでしょうと考えて居ます。家族としても、ね。いろんな面がきりつまれば、食うために生きているのでない以上、自分たちの精神生活の評価が行われにくい環境で勉強をつづけてゆくことは苦痛となるでしょう。女がものを書く、それで生活している、それなら分るようなものだけれど、それで食えもしなくて、働きもしない(やはり机に向っている)ということは、普通の生活の中ではなかなか感情がすらりと来ないものなのよ。ですから、女のものをかくということには大したむずかしさ、生活の感覚からしめつけて来るむずかしさがあって、食えるだけに書けないと女はすぐそんな位なら洗濯一つもした方が、子守りして台所した方がうちのために役に立つということになるのです。女の生活というものは百人が百人そこで立っているのだから。
ですから、個人個人の親切心や思いやりやをありがたく思ってもそれよりつよい習俗の力が時間を重ねるにつれ、日常生活の上には重い力を振うようになるのが常です。その実例は、多くの生活波瀾を経た婦人たちが、安穏に食えそうな故郷をみなはなれて、東京で埃っぽい生活ながら自分の生活を営んでゆくことをとっているのでもわかります。私は幸東京に生れた家があるのだから、その点はより便宜に円滑に処して行かれるでしょうと考えます。其故どうかその点御安心下さい。自分で本が買えないときにはいい本を買う友達のいるところというのも大した価値があるのだし、勉強によっては図書館も大切だし。私は大体これ迄島田にいる間は限られた時なのですから、仕事は殆どしないで暮したし、勉強らしいこともしなかったし、ですから私の本当の暮しぶりはどなたも御存じなく、調和的な面白いきさくなもの知りなユリ子はんに過ぎないのよ。そして、ちょいと強情らしい、ね、私が困ったらとお思い下さるとき、すぐ島田と結びつくのは本当に自然だと思いますけれど、私にすると、女としての自分をよく知っているから、環境的に或は習俗的に息苦しく恐怖するのです。妙なものね、でもこれは本能的につよいものであり、女に附随した一つの保護的警戒力みたいなもので、そのことにも生活習俗や文化の分裂が反映されているわけです、つまり婦人委員会というものが必要だった所以ね。それに、私はよく思ってほほ笑まれて来るのだけれど、あなたは御自分の心のスケールであちらをお考えになりやすいのね、私を包括していて下さるスケールと深さが大変ゆったりと大きいから、私はブランカで、全くかさばらないものなのだけれど、普通の心や精神の可能の面に立つと、女の私は嵩だかなのよ。私としては望ましくない位。大抵のところは根太がぬけるのよ。安心して自分の重みをかけると。ですから私としては底をぬかない用心を自分でやって、副木を添えて一歩一歩と自分の歩ける場所をひろげてゆくわけで、そういう工兵的生活法のためには副木として役立ついろいろなもの、私の役立ついろいろな必要が多いところほど暮しやすいということになります。この一ヵ年近くの間に私はここでもかなりそういう工事に成功して、これからの条件に備え得たと思います。骨もおしまず、必要を洞察し、経済的なことでも私は出来るときは出来るだけのことをする、やぶさかでない利己的でない人間としてはっきり理解させ、或意味では恐縮に思って貰う位で、はじめてその人柄というものの力で通してゆけるようになるのが平凡なぐるりでの順序です。うちへのことも、国は寿江子のことでよく云うから、不平があるときっとそのことにふれるから、私は特別バターや牛乳やパンやらを心配して貰ってもいたし、それを考えてしていたのですが、この頃はみんな配給がなくなったからその費用はないのですし、そうすれば当然額も減っていいのだし、そういう風に変ってゆきます。それに太郎の生活にとって私が陰に陽に大切なあっこおばちゃんであり、二人が温泉へゆく、国府津へゆく、さて又病院へゆく、そういう間、学校の勉強をみてやり、淋しいとき本をよんでやり、朝六時に一緒に起きてやる人は、私以外にありません。太郎と私との間には独特な先輩後輩の気分があって、私にとっても、これは大きい慰めであり、人間をしつける希望と責任でありたのしみです、最近大変面白いことがあって、太郎と私とは一層親密なものとなりました。その話是非したいのよ、私は実に心をうたれたのですから。そういうような細々したことの堆積で――それらは、洗ったり炊(かし)いだり縫ったりよりは種類のちがう人間の面で、しかも私に与えられたプラスのものの力による独特のことですが――私はここの家族の間に追々一つの人間的影響をもち、それを通じて私たちの生活全体をひっくるめてうけ入れられる心持がつくられて来ていると思います。永い見とおしに立って努力するところもあります。私としては、こういう性格ですからやはり自分の人間価値に立って自信をもっていろいろの境遇に生きたいのよ、単に肉親的関係という、たよりのあるような片身のせまいようなものにだけたよらないで。
まあざっとこんな工合です。太郎との物語は別に書きます。別に書かなくてはならない話や物語はまだどっさりあるわけです、第一に詩物語があります。泉の物語もあります。心持のよい、血液循環が快く速くなって、優さで心が和らげられ、生きているよろこびが無垢に面をうつようなそんな詩物語を見つけ出したいものですね。人間に歌があり、それはシューマンのようにも複雑となり精神にしみ透るものとなるというのは何と素晴らしい人間らしさでしょう、だって獣は実に微妙なニュアンスをもって生の様々の様相をつたえます、人間より直観的に。しかしそれは歌にはならないわ。人間は深く、つよく、生きる美しさを、美しさとして永遠化す力をもっているのですものね、人間が万物の霊長だというなら、それは芸術と科学をもち得ているからだと思います。 
七月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月六日
日光書院のこと先方の間違いと判明。『独語文化』五月からお送りするようにしました。
私の方の用事は、大過去から過去となりやっと現在体となりました。多分これから本についての物語となるのでしょう。例年になく涼しいので大助りして居ります、作物は心配だけれども。これは大助りというにはいろいろ理由があって、そのすこしは幅も心の平静もあるひとが高文にパスしました。私のような人間におそらく分らないほど意味あることらしくて、やがて窓口は変りもうこちゃこちゃしたところへは出て来ないようなことになるらしい風です。偶然つぎ目のようなところで私は息のつける応答をしているわけになり、終りまではこれで通したいと思います。ジリジリあつければやはり続けかねるから涼しくて仕合わせというわけなのです。こういう程度のひとは一ヵ年一つところにいるかいないかですものね。窓口の大さにふさわしい精神の窓口しか幅もひろがりも理解力も小さい頭が又そのあとに坐るのでしょう。見ていると、人間の生活というものは其々の場所で、すこしおやと思うものは、きっと何かそれだけの変化を示すから妙です。
国男はドンドンよくてスープをのみ、おかゆをたべして居ります。家中無事。私はきのうすこし骨を折り(月)きょうはおこもりです二階へ。
太郎との話。これは私にとって大変興味があります。
ここへ暮すようになった当坐、太郎は馴れずお客のように思っていたのよ。それから病気して、病人は子供が気味わるいらしく敬遠していました。それからすこし治り、一緒の御飯たべるようになり、Tが全く無規律な生活の感情の中で育っているのを見て、私はひどく不安になりました。好きなこと云ってごねるのよ。咲はああいう性格ですから愛情一本で世の中へ男として出た場合という大局は考えにくいのね。目の前なの。それで国も自分を支配する能力はちっとも発育させず成長して、やっと四十越して世間に出てすこしずつ耐忍も出て来た有様です。自分の心を自分で持てない人間を私は一番おそれます、男も、女も。一番箸にも棒にもかからないものです。
そこで暫く私はなかなか厳格なおばちゃんとなったの。国男がくってかかるのよ。可笑しいものね。
それの後にも最もいい段階が来ました。その誘因はあなたにあるのよ、それでこの話もいくらかあなたにも面白いだろうと思うのですけれど。二月末頃でしたか、私たちの経済のやりくりのことについて長い手紙かいたでしょう?あのとき私は強く強く感じたことが一つありました。それはあなたのお手紙に、一つも御自分の便利とか好都合のためとかで物事を判断したり評価したりしているところがなく、全くものごとの正当さと私という人間の正常な成長のためだけにものを云っていて下さるということ。それはあのとき私を深く、新しく動かしたと同時に、何か根源的に一層私はあなたがわかり自分たちというものがわかり、自分が分ったのです。まじり気のない人間関係というものが沁々とわかり、これまで分っていたことは、まだ皮相であったと考えるようになりました。そして私の心には、つきないよろこびと、理性に立つ従順といよいよ大きく深い信頼とがもたらされました。私たちの実質はこうして一段と純化され、そのものらしさに近づいたのでした。
いろいろこの味いつきぬいきさつを考えてね、私は自分があっこおばちゃんとして、太郎にどんな信頼を与えているだろうかと反省したのです。あの時分から私は人間関係の窮局の土台は最も強固なものは、よろこばしいものは信頼であるということを痛感していたので。
子供は謂わば道徳以前で、生物的な意味で自分本位ですから、只禁止の表現で何か云われても積極なよろこびで理解出来ないのね。それで安直に大人は甘やかしてしまって敗北の旗をあげるのでしょう。私はそのことに心づき、太郎が私にものをたのみ、私がはっきりそれを約束した以上は決して変更しないという規律を自分につけました。そのうちに、お産の留守があり、温泉ゆきの留守、国府津の留守とつづき、私が毎朝太郎と共に起きてやり食事の世話をしてやり、私は太郎を全く十歳の男の子として扱いました。ふさわしい人格を立ててやって。
段々私たちのうちには先輩と後輩の関係が出来て、それが一番自然でいい絆となりました。自動車の機械について訊くのは父親です。本のこと、星のこと、その他種々雑多なことをきくのは私です。いつの間にか私が本をかくお仕事ということも知って来ているのよ、何冊書いた?ときたりしていました。ボーっとあなたのことも知っているわ、宮本のおじちゃんとして。あっこおばちゃんの旦那様として。
ところがね、ついこの間こういうことがあったの。
問題は太郎がひっぱり出して来た一枚のゴザです。今ゴザや畳表は売っていず、家の畳はところどころ大ぼろで、女中さんの室はやっと私が見つけてやったゴザで藁をかくしている始末です。ゴザを泥にしいて遊んでわるく役に立てなくしてはいけないと云ったら何かの気分でビービーと泣きはじめました。そしたら咲が、あっこおばちゃんは何にも御存じなかったんだから、と息子に云いわけをしている。太郎は一層ビービー泣いて、あっこおばちゃんは怒りんぼだからいやだ、怒るからいやだ、とわめいている。母さん一言もなしなのよ。二階で私はきいていて、本当に怒りを感じました。そこで瀧の落ちるような勢でおりて行って、安楽椅子にはまりこんでいる太郎の泣いている腕をつかまえて云ったの。自分に都合のいいときだけ甘たれて、何でもして貰ってすこし気に入らないことを云われると、かげで怒りん坊だのというのは卑怯だ。全く男の子らしいことでない。一番ケチな人間しかしないことだ、と云ったら、ごまかしてきくまいとして、猶泣き乍ら、だって何とか彼とかわめくので、私は思わず太郎の脚をぴっしゃりと打ちました。そして、すきなだけ泣いてよく考えなさいと云って上って来てしまった。太郎は敏感な子で、その場に自分を合理化してくれるものがあると思うと、本能的にそこへ身をよせてきっちりしたところのない心持の子です。母さんは、私が息子を打ったということだけで上気(のぼ)せてプリプリしていたわ。うちの人たちは、気まぐれには太郎を叱り土蔵に入れたけれど、そういう人間のケチさのために怒るというような怒りは知らないのよ。
やや暫くしてもう夕方になり、私は何かよんでいたら、上り口でガサゴソ云うの、そこに太郎の本箱があるの。「そこにいるの誰だい?」分っていたけれど、きいてみたの。案の定、太郎なのよ「腕白小僧」と返事しました。そこの椅子に太郎にかしてやってあった掛布団が干してあった中に埋りこんで、みそ漬をしゃぶっている。「本だすの?机が邪魔ならどけるの手伝おうか」「ううん」そしてのぞいて、こっちへ来て、私のよんでいた本について何か喋って、二人で暫く話していました。そしてやがて「もう僕行く、ね」とおりて行った。
私は胸の中があったかあくなってね。本当にうれしいと思いました。大体太郎は二階へ来ません。ごくごくたまにお八つをねだりに来たりする位です。ああやって来たにはそれだけの気持の動機があり、私が打つほど怒った気持が、何か子供なりにのみこめたのね。そうやって怒られ、何かうなずけ、いい心持になり、詫びるというような大人の形式よりずっと人間らしい親密な頼れる思いが湧いたのね。そして二階へ来たのね。夕飯のとき、二人きりのとき私は「太郎も大きくなって段々ものがわかって来てうれしいよ」と云ったの。そしてね「人間はしっかりとたのもしい者にならなくては駄目だよ」と云ったら、「たのもしいって何」ときくの。私たち十ぐらいのとき、たのもしさを直感していなかったでしょうか。私は何となしわかっていたような気がするのだけれど。それからわかりやすく説明しました。やがて皆が揃い御飯をたべ、お湯をのむ段になって、太郎が私の茶わんとって「これで呑んでいい?」というのよ。自分のもなかったが、ここにも一種の心持があります。「いい」。そんなことで、もうケロリと忘れてしまったかもしれないが、それから太郎は何となく私に対して変ったの。一歩深く歩みよって、真直私のわきに立つ感じなのです。面白いでしょう?私はうちの誰ともいい加減な気持で接触してはいないけれど、太郎のことはうれしいのよ。やはり子供はいいと思うの。うけとりかたが真直です。寿は、この頃何だか索漠としたところが出来て、人生がわかったような調子で、何か話しても多くの場合、あなたはあなた、というききかたをして吸収力が大変なくなり、それは私を悲しく思わせているのですが、私の心が、そうやって木の肌をすべりおちるようないやな思いをしたとき、太郎の心の柔らかな少年らしさは私に励しとなります。寿もわるくはないのに、病人の心理というものを肯定しすぎているし、そこから自分の世界を区切りつけすぎるし、そういうことを生活力の人並より大きいところでかためるからなかなかむずかしいと思います。生活的に大したお嬢さんで、それが昨今の時勢に押され万事不如意ですから、感じとりかたが大仰で、あっさりしなくて(物の無さなど)苦しいところがあります、はたも自分も。私はしんから気の毒よ。いろいろ。女として。
感情の大きくつよい女が、愛情の目標もなく暮すのはよくないわ。寿は、ああいう押し出しで、ひよひよの男は、先ず俺の財布じゃと僻易させてしまうし、性格的に面白いと思われ、それから先になると二の足となるのよ、健康のこともあるし。寿自身臆病です。暮せるように暮して行こうというあっさりした人本位のところがなく、頭が細かすぎるのか計算が多すぎ、計算したら歩み出せる人生ではないのですしね、土台。何とかして健康とバランスとって仕事をまとめてくれるといいと思います。そうすれば、それが一定の高さとなれば又別の丘へ出て、そこでは又別の人間が生活しているでしょう。結婚生活の形態はきまったものだし、すこし別の形態にやるためには厖大な経済力がいるし、そういう人は、うちの経済力なんか問題にせず、それを突破して井上園子のように、幸福そうな不幸に陥るためには寿は花形でありません。虚栄心を満足させる令夫人よりは骨がある女ですし。私は自分が女としてもっている何よりの幸福の自覚があるから、寿のいろいろの心理に却って高びしゃに出られないのよ。姉としていつも女というもっとひろく、痛切な地盤に出てしまうものだから。丈夫で、少くとも恢復する病気で、こういう結婚生活していて、それは皮肉になりようもないでしょう、という気分が顔を打って来ますから。でも、それでは寿の不幸になるのですが。今は国が病気で留守しているので、寿の気分も状況に対してすらりとしていて、皆が国府津へ行っていたときより楽です。国府津へなんか大したこともないのに大騒ぎして行ったり来たりやって、病人の自分が家の用事で疲らされるなんて、ということから全く神経質となり、えらかったけれど。病人にとって楽でない日常になって来ていることは事実です。一つの家の屋根の下に、こんな気持が渦巻き流れ、私はその様々な音を聴き、未来の瀬のはっきりきき分けられない音を子供たちの泥んこの顔に感じているというわけです。 
七月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(広島市庁の写真絵はがき)〕
きょうはすっかり夏になりました。こんなところ覚えていらっしゃいましょうか。いつか目白のお医者さんからかりた『時計の歴史』と『ラバジエ伝』どうなりましたろうか。よそへは行っていないでしょうと思いますが。『週刊毎日』買えず『日評』も買えず、御免下さい。病院通いで書生さん寧日なく、宅下げの夜具まだとれず夏ぶとんもおくれていて御免なさい。月曜に国かえって来ます。 
七月十七日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(山の風景画の絵はがき)〕
七月十六日、本当の暑さになりました。あつい防空演習でした。今夜ゆっくり手紙をかこうと楽しみにしているところ。私の風体はね、紺のもんぺズボンにあなたのテニスシャツを着て居ります。大したものでしょう?『外交史』の下巻もうおよみになりましたろうか。アカデミーの『世界貿易論』というのを買い面白そうです。私は今ストレチーの『クイーン・ヴィクトリア』をよんで居ります。 
七月十七日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(セザンヌ筆「パイプを咥えた男」の絵はがき)〕
七月十七日、この髭の垂れ工合が三十代のゴーリキイのルバシカを着た写真を思い出させます。セザンヌはいつも片方の眉をこう描くのですね、自分のも、ひとのも。これは気持よい肖像でいくらか秘蔵の心持のあるものです。私の用事は、あと四五回でまとまる由です。マアマアというところです。まる四ヵ月かかったことになります。それきりですむのならさっぱりいたします。国男は月曜に退院して来ましたがやはり営養が不足のせいかまだ床に居て本をよんで暮して居ります。 
七月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十七日
こんどは珍しい御無沙汰になりました。いろいろの話がどっさりたまりました。御無沙汰のわけは、国男がかえって臥ていてゴタゴタ。暑くてへばる(二階が)お盆の買物に出たりしたことなど。
今日はすこし涼しいことね。雨が降りかかってすこし落付いていいと思ったら、やんで曇って、却ってむすかと心配です。
十日のお手紙をありがとう。『茂吉ノオト』と『人間の歴史』とはあります。これはいい本をお買いになったと私はホクホクもので大切にしまってしまったわ。かえすものでした由。あってよかったけれど、かえすのは辛いことね。ではそのようにいたします。かえすなら一度よんで、ね。
国男月曜日にかえりました。食事は大丈夫何でもいいのだけれど、やはり衰弱していると見てまだ床についたきりで、目ぺこです。大腸カタルの劇しいものだったらしいのね、赤痢ではなかったようです、家族の健康診断に市の衛生から来ませんでしたから。でも大体国はこの正月眼をわるくしてからブラブラで月に一杯出勤したことはないような風です。その点なかなか大した度胸よ。坊ちゃん度胸と人柄の度胸とダブッテいるように見えます。これで又ずっと秋まで休むのですって。そして、国府津へ行くとかアサカへ行くとか云って居ります。そのたんびに昔の軍隊のように大行李を運んで。こういう時代には落付かない心が、こんな形もとるのでしょうか。わたしは、せめて、本で専門の勉強でもする気になって、落付いてくれたらと思います。自分一人フワフワするのでなく、家族的なのはいいけれども、義務のためにいやなことも忍耐するという生活の緊った気風が家にないと、育って行くもののためにはわるいわ。いつもしたいことをだけして行くというのは。太郎がしたくないことをちっともしないと云って叱るが、それだけ叱ってもというところもあり。でも私はなかなかどっさりのことを学び、(生活法を)一しお自分は勤勉に躾けようと思います。こういう家族の中にいての方法ということも段々わかりました。既に河流をきめて流れて行く川について走ってその流れかたを云々したって仕方がないのですものね。批評も創造的批評でなくてはならないと沁々思います。そのためには喋っているより実行ですから。いつでも、どこでも、同じ、ね。
国男のかえる前週の金曜日に、出かけた翌日で疲れていたけれど女中さんをつれて出かけて、栗林さんへのものその他お義理の買物をして、富士見町へは16.00ほどの大きい、いい盆をとどけました。その時又手紙をかいて、御手数は万々承知ながらお願いしたのだと、改めて云ってやりました。私はいくらか忍耐を失っていて、契約の金全額支払ってかまわないから役にも立たないものを、と思うのよ。性急なかんしゃくめいては居りますが。
岩本のおばさま昨日八時頃帰国されました。いつおかえりになったか知らないでいるのは気持わるいからハガキできき、しかし昨日は防空演習もあった日で、私は一人で東京駅までゆくの困ったから電報を出して御出発の挨拶をしておきました。本当に目に見えるようよ、島田のうちの、あの裏庭の見えるところにお二人が坐って、あれこれ、話をしていらっしゃる様子、友ちゃんが台所の土間でコトコト何かして、達ちゃんがアグラの中に輝をかかえたりしている様子。お母さんには前に草履お送りいたしましたから、おことづけのおみやげはなしでした。きっと、私がすこし小ぶりになったということは忘れずお話しになるでしょう、この間明石さんに行ったときも、おばさまったら横からそれはそれは熱心に見ていらっしたわ、面白いのねえ。あれだけの実際的経験や知慧が、すべて全く常識の上をクルクル廻っているのは。だから多賀ちゃんの結婚のむずかしいことについてなどは、ただ、あの子は生意気、理想が高い、と云う一言で、決して他の事情へ頭を向けようとなさらず、多賀子が島田にいたとき、それを苦しがって手紙よこしたのもわかるようでした。ほんの一寸したこの間のお話の間でも。細く軽くて、実におまめよ。お母さんのボリュームのある活動性と比較して興味があります。お母さんの活動性は重厚で、思考力が伴われていて、おつむりももっと力があり、立派です。岩本のおばさまの方が云わば女性的であり、お母さんの方は男性的な骨格の逞しさがありますね。この頃私はこの女性的ということについて深く感じて来ているところがあるのよ。一流の学者、芸術家が、何故女性に少いかということにも通じて。女のひとで、自身の人格のうちに、自分を引っぱり発展させるデモンをもっている人は実に稀ですね。よしんば、男と同量の其をもっているにしろ、自由に切磋琢磨する機会を失っているうちに、その可能も萎縮して、境遇の範囲の形に従ってしまうのね。いい意味にも男のようにはめをはずせないのね。真の創造的野心というものは持たないのね。内在的なもののバネが小さくて弱いのはおどろくべきものです。しんから自分の動機というものをつかんで生活して行く力は、そういう生活を実現してゆく創造力は女にすくないのね。身なりをつくるのでさえ女は、大抵とり合わせ、出来ている、あれとこれとのとり合わせ、つまり趣味というところで止っているのですものね。そして其は金で買えるものに多くつきています。
私がここに暮して、段々馴れて、女の人たちが、自分を出して来て、それで痛感するのよ。素質の悪くなさなどというものは、何と其自体ではたよりのないものでしょう。日常の弛緩した生活は、目にも止らぬ、而も最も本質的なところをドンドン歳月とともに蚕食してしてゆくものなのね。若かったときの無邪気なよさ、善良さなどというものは、年を重ね、知らないことは知らないままに止って、つまり無智なまま、そこの生活にある癖に沿って厚かましさや口先だけや無関心を加えて行くのね、あなたが、折にふれてはあきず反覆して、素質はそれを展開させる努力のいることを書いて下すったわけだと思います。実にそれを思います。素質の浪費ということは音を立てないから日常心づかないが、もし其がプロペラアのような響を立てて警告してくれるものなら、目も口もあいていられぬという状態でしょうね。人は何と自然の生きもの、謂わばけものでしょう、自分の一生が二度とないという、こんないとおしい愛惜してあまりある時間の枠に規正されている命をもちながら、ほんとにのんきに、無内容に、動物としての命の動きのままに動かされて、大ボラをふいたり、大ウソをついて威張ったりして、動物のしらない穢辱と動物のしらない立派さの間に生き死にしてゆく姿は、何と滔々たるものでしょう、その滔々ぶりに、人間万歳の声を声をあげる人もあるわけでしょう。そして又、人間だけが、現実の大きな虚偽の上に、真心からの感激と献身をもって死に得る可憐なるものです。逆にいうと、人はどんな人でも、命をすてるときには、その命に、自分で納得し得る最大の価値を感じて死のうとするいじらしい、人間らしいところをもっているのね。無駄に流れて来た時間の或る瞬間、駭然として無駄であり得ない死を感じる人間の心は、非常に私たちを考えさせます。そういう瞬間に会わないと、活(カツ)の入らないような心で、作家たちさえも生きて来ていて、そういう瞬間の自覚を人間性の覚醒、生の覚醒という風に感傷するのね。昔、川端康成が、北條民雄の癩病との格闘の文学を、ヒューマニズムの文学、生の文学と云って、私は川端の甘さを不快に思った激しい心を思いおこします。命の自覚の内容も何とちがうでしょう、生物的な脅迫がないと、命はそんなに自然に、そのものとして人間を押しつつんでいるとも云えるのね、きっと。ゴーリキイの初期の「人間の誕生」という小説など、そういう点のロマンチシズムの文学ね。
島田でシボレーをお買いになった由。乗物に不自由させぬ、とは何と大したことでしょう。(このごろは、目のために、速く動くのは苦しくて電車専門ですが。)私は、でも、島田へ行っても、商売用のそれの御厄介にはあんまりなるまいと、今から考えます。それは一つの身の謹しみですからね。東京から来て、のりまわしている、という感じがしたら、そのさもしさで、私が土地のものならやっぱり反感するわ。
「金髪のエクベルト」小説でしょうか、誰が書いたのかも存じません。『外交史』下巻と一緒に、どうぞ私に下さい。楽しみです。その簡潔で、詩趣あるという語り口が。
ハガキに書いたように、もう四五回であついところを出かけることも終る由です。そうすると八月中旬になるでしょうから、汽車のこむ、宿のこむそういう時出かけずに、ここで、朝早く夜早く休む暮しをつづけ、よく湯を浴び、すこし午前中勉強らしい読書もしたいと思います。この頃は国男が病院の習慣と云って(実は床についている時の要求なのだが)朝七時すぎ、みんなで(咲と私)朝飯をすませる程度に早おきになり、夜も原則は十時で、大体やっていて、私は大変好都合です。これ迄はダラダラと夕飯が八時にもなることがありました。
暑いときの読みものとして『マリー・アントワネット』上下、お送りしましょうね。シートンは一番心持よいのは一巻ですが、もしお気が向いたらあともお送りいたします。おしらせ下さい。夏ぶとんおくれて御免なさい。人手が一杯だったものだから。
ゆうべ、初めて蚊帖をつりました。白くて裾の水色の四角い小さい蚊帳です。ゆうべは、髪を洗い、体も洗い、さっぱりして、その蚊帳に入り横になり、蚊帳にさす月の光をうけながら新しい感じで、夜を感じました。手摺の上にさしている八日ごろの月や夜風。蚊帳の裾をてらす月光。「杉垣」の中に、作者は限りないいつくしみでそれを描いて居りますね。描くになおまさるという思いもあるものでしょう。
こういう暑さになると、快い飛沫をあげる水遊び、ウォーターシュートの爽快さも思われます。好ちゃんの勇壮活溌な跳躍ぶりを。声を挙げ、なめらかさや、辷る曲線や風や水しぶきの芳しさを好ちゃんは満喫して体じゅうを燦めかせてくりかえし、くりかえしすべり下りました。私たちは何と其を喝采したことでしょう。我を忘れて、見とれたでしょう。すべって来てぱっと水の面をうち、好ちゃんの体が浮き上るようになるとき、戦慄が快く走ったことでした。夏のリズムは、夏のあつさにふさわしく旺盛で、開放的です。汗も燦きよろこびも燦めくという工合ね。私は仕合わせなことに今のところまだ夏負けしないで、去年の苦しさと全くちがう新鮮な元気で、(へばりつつも)夏のあつさを感じて居ります。まだまだレザーヴした毎日の暮しですから、一人前に暮したらすこぶる怪しいものですが。
今十五日づけのお手紙頂きました。十日のお手紙で字が大きくなっていたのに気づいたのですが、このお手紙で、最後の一くだりはやはり私を心配させます。熱が出るでしょうか、より悪くないために、でしょうか。それならばよいがと思います。私は近いうちにお目にかかりに行こうと思っていたのですが、今お動きにならない方がいいでしょうか。手紙を下さるから行ってもいいのだろうとも思えますが。下着類は、人絹シャツ三枚同ズボン下二枚、麻半ジュバン等お送りしました。人絹シャツ(薄茶)と人絹白ズボン下一枚とはセルと一緒に五月中に。あとは六月下旬の小包が栄さんのところにたのんであってすこしおくれたので、もう、そちらについていることと思います。
「動物記」のこと。ブランカの弱点は正確に云われて居ります。しかしブランカにしてもまさか猟師を見そこなって別のものだと思うほど、嘗て鉄砲の匂いをかいだこともないという牝狼でもないでしょう。ロボーを歯がゆがらす幾多の弱点はもちながらも。私が云っていたのは、ごく限られた範囲で、同じ虫でも毒のきつくない刺し方の虫の方がしのぎやすいというだけのことよ。いたちはいたちで猫でも虎でもない動きかたをするのは知っていると思います。わたしは、お喋りでなくしていて、落付いた気分で居ります。喋ることで流れの方向をどうしたいという気ももっていず、そうなると思わず、あくせく書いてたつきを立てようという※[「火+焦」]った気分も無くていれば、無用の叩頭も不必要で、そのためにはこの間の小説の経験が大いに役立ってよかったと考えている次第です。あの経験から、心のきまったところが出来ましたから。先の入院の前後の心理と今の気持とのちがいには種々まだお話していない原因があり、それはやはり何か意味があると思いますから、この次に。(価値ということではないけれども。)それにつけても、どんな工合でいらっしゃるでしょう。メタボリン送らないでいいでしょうか。隆治さんの赤痢の話は、岩本のおばさまが、赤痢だったそうな、とおっしゃってでしたから。アミーバでしょうから又ことし発病しまいかと気にかかったのです。長くなりすぎましたからこれでおやめ。 
七月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月二十一日、きのうは、本当に安心し、その前何となし眠りにくい夜を重ねていたので、半分ぽーとしてかえりました。出かける頃もうポツポツしていたのが、護国寺でのりかえるときは相当になり、団子坂で降りたらザアザアなの。もう古びたボクボクのキルク草履はいているのが水を吸って、草鞋(わらじ)に水がしみたように重いし困って、交番の裏にある電話かけて下駄もって来て貰おうとしたらボックスに人が入っています。仕方なくそこの三角になったペーブメントのところに佇んでいたら夏服着た少年がちょろりと出て来ていきなり「僕傘忘れちゃった」というのよ、太郎なの。大貫さんと映画見に行って、これもふられてかえって来たところ、というわけです。そこで、私の傘を二人にささせて、下駄をもって来て貰うことにして角の八百屋の軒下に居りました。雨は猶々ふって来て着物の裾をぬらし足をぬらし。それでものんびりした気持で濡れて待っていました。
やっと、すこしは道理に叶った養生がおできになるというのは、何とうれしいでしょう。本当に、何とうれしいでしょう。引越しなすったというのをよんで、心に栓がつめられたようでした。暑い暑いとき、傘をさし白い着物を着て、あちらの入口の鉄扉の外に立っていて、そのままかえったりしたときのことは忘れられないのよ。それに、自分がひどい病気をしたら、看病して貰うということについて感じが細かくなって来て、この前のように、漠然と心配というのではなく、もっともっとずっと細かく具体的にいろいろ思いやられ、不如意もわかりいろいろわかり、一層閉口いたしました。全く、丈夫な人が病きの人を思いやる時は、大づかみで楽天的で、何となし何とかなるやっで呑気でいいことね。私にとってそういうことは、もう二度とかえらぬギリシア時代よ。ですから、私を哀れと思い、どうぞ現状維持を最低のレベルとしてお願いいたします。おっしゃったキロね、換算したら相当のものでした。十五キロが四貫でしょう?だからね。その位ならブランカにふさわしきというところでしょう。
昨夜月が皎々と輝いているのに青桐の葉をそよがせて白く雨が降っているときがありました。お気がついたでしょうか、もう割合おそかったから眠っていらしたかしら。私は、眠れる筈だしいい心持だのに、眠れず、白い蚊帖が風に微かにゆらめくなかで、その月と雨とを眺めながら横になって居りました。風にゆらめく蚊帳というものは大変抒情的よ。心も一緒に風にゆれます。うれしいやさしいゆらめきもあるし、心配なときは、かすかにふくらんだりしぼんだりしているのを見ていると、あはれ、わが愁にも似たるかな、という風でもあります。
八月一・二日とおっしゃったとき、何だかあぶなっかしかったのを、暦みたら、土、日、よ。虫が告げたのでした。そうすると、三十一日か四日ね。三十一日になりそうです。
きのう、いろいろのことお話する間がなくなってしまったけれど、あのとき栗林氏に会ったのでした。よその人の用で来たらしく。よろしくとのことでした。用事のこと改めて云っておきました。いやにお辞儀丁寧にして。わたしはお辞儀はもっともっとお粗末でいいから事務をちゃんとして欲しゅうございます。
小説の原稿きっとかえしてよこすでしょう。旧作で、意にみたないからかえしてくれと云ってやりましたから。
寿江子はいい工合に大した悪いものではなく、もうパンたべて居ります。国男はまだ床の上。
私は八月も九月も、どこへも行かないことにきめました。そして八、九月は、外出の用もいくらか片づいたらよく本もよみ、眠り、そちらへ出かけ、大いに楽しく過す決心しました。一寸したわけがあって。もうどこへ行こうとも思いません。ドカンドカンとならないうち、私は歩ける往来は十分歩いておきたいと思いますから。そうきめたら却ってあくせくしなくていい気分です。御賛成でしょう?私たちにとって快適な暮しかたというものは、大体そう型は変らないのですね。自然そうなるというなりかたが、私たちの暮しから湧いて来るのだわ、結局。あんなひどい病気して、こんな眼になって、世間並ならマア避暑というところを、結局東京にいて、暑いわねとあなたに云っているのが、やっぱり自然だというのだから、自然のふところは大きいものです。
きのうは、ブランカが、自分のよろこびをあらわすとき、どんな身振りするのだろうと思いました。あの話にはブランカのそういう場合は観察してありませんね。あんなブランカだから、うれしさを抑えるなどということは、自分の好奇心をおさえかねると同じように抑えかねるのでしょう。白い毛をどんなに波うたせ、どんなに眼をキラキラさせ、尻尾をどんなに房々とゆすりながら、ロボーの見事さ、美しさに傾倒するでしょう。堂々としたロボーは、たてがみにふちどられた首をいくらか傾け、鋭い鼻と、智慧の深い眼差しで、ブランカを眺めるでしょう。ブランカが、美しいと感じる感じを抑えかねて我知らず唸るその気持は、人間の私にもよくわかります。立派な美しさというものは何と抵抗しがたいでしょう。
何とも云えず立派に、美しい。というような美をもっている女のひとは、大変すくないのね。女の生活が、そういう美の内容を与えにくいのでありましょう。周囲のマさつを、悠々と越してゆくだけの力が、種々な面で不足していて。ゲーテ、アポローなどと云うけれど、旧い旧い常套です。美の範疇は遙か前進して居り質をかえています。私は自然の美しさ、微妙な趣をよく感じることが出来て仕合わせだと思ったことはこれ迄度々あり、人間の美しさ肉体と精神の極めて高貴な調和もよく感じ、そのことにも深いよろこびを見出しているけれども、時にそれは又新しい力で心をうつものとなります。
折角養生していらっしゃるのだし、手紙余り長くなく度数の方で加減いたしましょう。その方が便利でしょう?私の愛好する二重唱の全曲とすれば、これはほんのほんの序曲というところですね。 
七月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(比治山公園旧御便殿(広島)の写真絵はがき)〕
七月二十三日エハガキが段々払底になり駄作連発。この間うちお送りした紀州田辺の風景のうち扇ヶ浜というのがあってそれはそれは虹ヶ浜に似て居りました。六年前の夏、お母さん、山崎のおじさまなどと砂浜の茶屋に一日休んだときのこと思い出し、その松の下を歩いた人の心持を思いやり一寸やきもちをやき、とかいたけれど、あんまり虹ヶ浜に似ていて、私の心に小説が湧くので、御免を蒙って其は私の筐底(きょうてい)ふかく蔵すことにいたしました。 
七月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土畑鉱山従業員居住地の写真絵はがき)〕
こんな山の景色は、暑い蝉の声を思いおこさせますね。富雄さんの新しいアドレス。中支派遣槍第二三四四部隊川之上隊です。隆ちゃんところは、いつぞや教えて頂いたままでよいのでしょう、新しい変りはきいて居りません。きょうは八十六度、風涼し。きのう出かけてつかれて夜九時すぎからけさいっぱい十四時間眠ってしまいました。大したものと、およろこび下さい。 
七月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月二十五日きょうは日曜日。咲枝は日本婦人会の勤労奉仕で朝から出かけました。私はきのうの午前、きょうの午前とかかって、やっともって来たあなたの夜具その他を整理いたしました。今午後二時すこし前。八十五度。でも風があってきのうよりは汗の出が楽です。大体今年は風のある夏と感じるのよ。哀れに、滑稽と申すべきでしょう。
工合はずっと同じでいらっしゃいますか。風は通しても横になっていらっしゃる背中はかなり暑いことでしょうね。片方へ横になっていて、自分では手勝手がわるいが背中のところパタパタ風を入れて、すぐそこへ臥ると、いくらか涼しい気がいたします。夏のかけものは、もしかしたらそんな綿の入ったのでなく、タオルのようなものがいいかもしれませんね、シーツいかがでしょう。大丈夫?シーツはどこでも恐慌で、大やりくりよ、あなたのおつかいになって、一部分のぬけたのをつぎ合わし、お下り頂戴しています。なかなかよく眠れて結構です。
夜具は地がきれたのに、綿はきれず、十年前のいい綿は本当に綿らしいと感服しました。いつだってあなたの夜具は、膝をお立てになるところが綿切れして閉口していたのですものね。それに、あれにはどっさりあなたの運針のお手際があって、解くのも面白く、ひとりで二階の畳廊下で、青桐の風をうけながら折々笑いました。なんてがん丈に、とめてあるでしょう。まるで、ここを止めようと思う、と糸が自分で云って縫っているようよ。そして、唐子(カラコ)の頭のようにこぶこぶだらけで何と愛嬌があるでしょう。ピョコン、ピョコンとこぶたこがあって、僅かのところがギリギリからげてあると、お気の毒と感じるばかりですけれども、この位連続してお手際が見えると、いろいろ感じ糸のこぶと話でもするような気になってほどきます。大したこともないナという首の曲げかたで縫ったところ御覧になるときの様子も見えるようですし。
しかし私は良妻ですから、そんな風に只抒情的であるばかりでなく、其にしてもほどけたり、やぶれたりするのはいいお気持でなかろうがと研究もするのよ。この次はどこを特に念を入れ、世間並の縫いかたとちがえた方がよいか、ということなど。大したものでしょう?一寸ほめてやるねうちもなくはないとお思いになるでしょう。
『インディラへの手紙』第二巻読みはじめました。夏の間に、これと『外交史』ともし出来たら『貿易論』という本よみたいと思います。『インディラへの手紙』は第三巻が九月に出ます。出たらお送りしましょうね、『外交史』第二巻どうぞ下さい。シートンいかがでしょう、二巻以下お送りしましょうか。いくらか鼻につくところもあるから、余り熱中もいたしません。しかしブランカとしてはロボーの堂々ぶりを知っておいて頂く方が話がしやすくて。ですから第一巻は、どうぞどうぞ、というわけだったのです。ブランカはいろいろに唸ったり、いたくなくかみついたり、ロボーの足もとにころがったり、すごすごと尻尾を垂れたりするのですから、ロボーのあの立ち姿は是非おなじみになって頂かなくてはならないものでした。
病気をすると国男さんもいろいろとよみます。シートンを全部病院でよんで、ストレチイの『ヴィクトーリア女皇伝』をすっかりよんで、今ヘディンの『馬仲英の逃亡』をよんでいます。筑摩で『彷徨える湖(ロブ湖)の話』(ヘディン)をくれて、それをかしたら冒頭が馬にヘディンが幽閉されたのが終ったところから始っています(一九三四)。それで、前半にあたるのをかしたわけ。ストレーチイのヴィクトリアは同じ平凡な女性の一生をかき乍らも、時代も人物もちがうせいかツワイクのマリー・アントワネットとは全くちがい、平板です。偉大な時代というのでなく、イギリスの凡俗な興隆とヴィクトリアの凡俗さが、どう一致していたかというところが面白いのでしょうし、文学でいうヴィクトリアン・エージか、テニソンを親方としてアカデミーが下らなくなった意味もうなずけました。ヴィクトリアは全く芸術は分らなかったのよ。アルバートはドイツ出でドイツの君公の文化的伝統で、文芸を庇護してやるということに興味をもっていたが、これ亦芸術は分からない。ヴィクトリア式という、偽善的なような礼儀のやかましさもヴィクトリアの女らしいがんこで狭い道徳趣味からなのね。それを、イギリスの中流人が、自分達の生活感情の偏狭、独善と融和させたものであったようです。このストレーチイはエリザベスを描き、これは大きい性格の女で大きい時代に生きたから、個性とその環境を描いても相当面白いものだがヴィクトーリアは、その後の繁栄のコースを生きつつ凡俗なイギリス社会の風潮とヴィクトーリアという女性との交互の形成を描かないと、やはり面白つまらないと云う程度に止りますね。それにつけても王侯たち、特に女性たちが、本当に聰明になろうとするのは、何と大した、殆ど不可能事だということを痛感します。普通のひとよりひとに一つでもよけい頭を下げられる立場のものが、自分をいつも生きた人間に保っておくということは何とむずかしいでしょう。紫式部は相当のおばさんで、中流の女性が、自分の生きてゆく努力のために箇性も発揮して面白い人が多いと観察して居りますが、全く世間の女より十倍も二十倍も優秀でなければ、ああいう人たちは優秀になれない条件です。愚鈍になるように出来ていますものね。
「マリー・アントワネット」のなかでつよく印象されたことは、マリーを最後迄助けようとしたスウェーデンの貴族があり、それはマリーの愛情をも蒙った人ですが、おどろくべき大胆と周到さとでルイ一家の逃亡を計画しながら、マリーに出来るだけヴェルサイユですごしていた便宜さを失わせまいとして、その男は特別製の馬車やトランクやをこしらえ、そのために、やっと逃げて行ったのにつかまってしまったことです。貴族が自分の貴族らしさを、こうもすてきれないかとおどろき賢人の愚行に打たれました。ストリンドベリーやニイチェやその他西洋のすこし辛子(カラシ)のきいた男が、女性というものに何となし、おぞけをふるったのも尤だと思います。ショーペンハーウェルにしろ。日本の女は素朴な社会での在りようそのまま、あんまりキノコみたいであるかもしれないが、それだけ自然さや醇朴さをも保ったところもあります。女でも西洋の女には、へきえきするところがあります。
さて、昔のタイプライタアの紙もいよいよこれでおしまいよ。この次からは、私が昔ロシア語のタイプをうったとき使った紙ののこりとなります。これよりわるい紙。
土蔵に、浮世絵の複製があり、その中に一つ鳥居庄兵衛作の絵があります。初期の紅絵時代、茶色の荒い紙に、上に紅葉の枝をさし交し、侘住居をあらわす一本の自然木の柱、壁のつり棚、濡れ縁があり、壁には傘が吊られ棚に香炉がくゆり、太刀がかけてある。ぬれ縁ぎわに机を出して、かっちりとした若い男(武士)が物をかいている筆をやすめ、その手で頬杖をつき一寸笑をふくんで外に立っている女に何か云っています。女は元禄姿の丸くふくらんだ立姿で、すこしあおむきかげんに、男の顔は見ず、横向きに立っている。前方へ視線を向けながら一心にきいている、その顔を見ながら男は笑をふくんで何か云い、重厚さとさっぱりさと和気とがみちていて、実に心持よい作品です。私はあかず眺めます、そして思うの、私たちの仲よさの単純さ、自然さ雑物なし、とこれは何と似ているだろう、と。お目にかけたい絵です。そして女は、外に立っているのに、履物はくのを忘れて平気でいるのよ。 
七月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ウラジロモミの写真絵はがき)〕
岩波で少国民のためにという本の中で、『地図の話』武藤勝彦著があります。大変に面白い本で、少年向というのが、丁度たのしみの程度です。イリーン『自然と人間』(中央、ともだち文庫)は訳が「あります」文章で、イリーンの持ち味をそこなって居ります。二つとも手に入りました。お送りいたしましょうか。特に『地図の話』の方。 
七月二十六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ウラジロモミの写真絵はがき)〕
『地図の話』よんでいたら尺度の標準をきめたのはフランスであり、大革命の直後であり、子午線の長さの決定のために測量班がダンケルクへ行ったそうです。ダンケルクというところはこういう不滅の記念をももった土地なのですね。フランスではすべての価値の標準が変ったので、学者(ガクシャ)は兵火にでも何でも変ることない尺度の標準を求めて活動しはじめたのだそうです。つまりは人工的にメートルをきめたのが落着だそうです。 
七月二十六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(富田溪仙筆「迅瀬の鵜」、「梢の鶯」の絵はがき)〕
『地図の話』なんかよんでもつくづくと考えます、わたしは、太郎や健之助が、少くとも科学的な技術家になってほしい、と。学者としてというほどをのぞまないでも。文学やその他の学問はまるで飴のように扱う人々の手でひねくられてしまいますが、科学には少くとも基本の原則は厳存して、それをごまかしてはうそもつけないという面白いところがありますから。 
七月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(光琳筆「群鶴図屏風」の絵はがき)〕
文学と科学についてなかなか面白いたくさんの問題がありますね。文学は、その人の感受性、表現力の特質からだけ云われて来ているけれども、実はよほど大きくつよい精神の力が入用であり、強固な人でなければ文学の伝統をその身を貫いて守ることは出来ないときがあります。科学はそれほど創造的熱量のたっぷりしない者でも個人としてのうそを少量につくだけで過せる時があったりして。同じ凡庸人なら科学の方が罪があさいと申すわけ也。 
七月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島名勝稚児ヶ淵の写真絵はがき)〕
一寸涼しい風が吹くようでもあるでしょう?もののつり合いは面白いものですね、小さく人がいるので涼味も深まって見えます。
きょうは私が発病して一週年めです。一週忌と称して居ります、トマトをたべます。そちらでトマトありましょうか。去年のトマトの今夕の味を思いおこします。そこまではわかっていたのよ。あったかいトマトでした。 
七月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
これが、タイプライター用紙です、かなりのものでしょう?今そこいらに書簡箋というものはありません。
さて、きのうは一寸気がもめました。八月一日は日曜日だし、二日はさしつかえるし、三日は疲れていてあやしいし、というわけできのう汗をふきふき出かけましたら、お目にかかれず残念でした。けれども、事情がわかり御自分の病気でおありにならないなら、これも世間のおつき合いで致しかたがあるまいと思いました。本当にあなたはお丈夫なのでしょう?
そう云えばこの前私が出かけてから十日経ちましたが、お手紙頂かなかったことね。あなたの御都合とだけ考えて居りましたが、そうでもなかったかもしれないのね。
それにつけても、これはどうでしょう、着くかしら。それともやはり二週間は禁足でしょうか。随分御退屈つづきに暮させたから、これからは少し、と思っていたところへ、早速又二週間ほどちっ居でお気の毒さまです。やはり今年の流行病のひどさですね。どうぞ、どうぞお大事に。呉々もお願いいたします。私たちは食物に非常に注意して居ります。生のものは食べないようにして。
そんな条件はないように思える人が、うちでもあんな騒ぎを演じましたから、とてもあぶないのね。けさ七時半の汽車で、父さんと太郎女中さん安積へ出発しました。うちでは今健之助が百日咳でどこへも出られず、太郎のは休みはきまっているので先発したわけです。わたしは、落付いていて本当にうれしかったと思うのよ。こんなにガタガタしてあっちこっち右往左往している連中のなかで、自分も荷を送り、どこかへ出かけるとしたら、どんなに気ぜわしく休めなかったでしょうかと思います。私はこの頃ひどく脂肪の不足を感じ(!)Aを油でといたヴォガンというのをのんで居ります。紅茶に入れて。冬の間に医者がくれたのですが、却って今の方が要求されます。冬はまだ牛乳もあったしバターもありましたから。このヴォガンというのはスイスの製品だそうだからもうないでしょうね。何か珍しく当時入手したのだそうでしたが。ハリバでものみましょうか。ふとりたくもないのよ。ふとるより体の力がほしいのです。
小説のこと、いろいろお心づかい頂きました。やっと無事、かえって来ました。御安心下さい。そして、よかった、と思って居ります。
中村ムラ夫などという人が詮衡委員で、やいやい集めた原稿を御詮衡下さりその上で収録をきめるのだそうです。私は大した識見ももたないものではあるが、ムラオ先生に点をつけてもらったり、のせるの、のせないの、と云われる作家ではありません。文学の点ではないのですもの。おっしゃるとおりでへこたれます、本当にその通りなんですもの。これも極めて、いい経験で、私もすこし会得いたしました。実際の場合として。とりかえしてすっとしました。丁寧に、意にみたないから折入っておかえし下さるように願います、と云ったのですから失礼でもございますまい。
きょうはすこし乾燥して居りますね。わたしの汗のひどさと云ったら!でもねあせはちっともかかず、苦しくて眠れないという疲れかたはいたしません。ネールの自叙伝上巻が買えました。もうすこし読み進んだらきっと面白いでしょう、全体の動きの前に自身をかいているのですが、一九〇七年頃イギリスにいた(ハーローやケインブリッジ)印度学生というものの生活その他もうすこし形象化されていると、なかなか色彩もあり、大したものでしょうが、どっちかというと一色の糸をたぐって立体的筆致でないところあり、『インディーラへの手紙』の生彩を欠いたようなところもあります。作家と歴史家との相異、ネールは歴史家の素質によりゆたかということになるかもしれません。執筆の年代は、世界史のすぐあとですね、一九三四―五ですから、前の方は三一―三三です。彼の大部な著作はみんな一定の生活条件のもとであり、これもそうでした。書けたのです。割合スピードを出してよんで、お送りしようと思って居りますが、いかがでしょう。
隆治さんのことは心にかかります。稲子さんにしろいいときかえったので、なかなかかえれない由です。どうしているでしょうね、たよりのないのは、当然というようなわけらしいし。益〃そうのようです。どうしていても無事ならば、と願います。自分の力で収拾のつかない事態に対して、冷静で、過度の責任感に負けたりしないようにとどんなに願うでしょう。小心の変じた勇気は痛ましいものですから。それよりは豪胆であることを願って居ります。本当に丈夫で、持ち越すように。
昨今なかなか面白いこともあって、はげちょろけの浴衣でフーフー云いながら爽快なところもあり。今のような時に自分の借金を左右に見てその間をかけずりまわってばかり暮している人は気の毒だと思います。地球は廻って居り、星は空にきらめき、朝日は東に美しく出ます。
二週間経ってからと云えば、八月も半分すぎます。その頃又出かけて見ます。スラスラとつくのか、たまるのかよく分らないけれど、わたしの心持とすると、云わば、大して納涼にならない団扇の風でも送ってあげようというようなわけでハガキなどちょいちょい書きましょう。いい絵はがきもないこと。てっちゃんが、この三ヵ月ほどつとめていたところをやめることになりました。先生というものは弟子が好きなのね。はッ、はッという。そんなこんなのいきさつでしょう。学者というより仕事師の下ではつづきますまい。あのひとも世間も知って来て、仕事師というような人間の型がはっきり分って来たから、無駄はありません。
『女性と文学』という本貰いましたから一寸お目にかけましょう。引出しの一つ一つに目先のちょっとちがった小布(コギレ)がつまっていて、ひょっと目をひかれるような気の利いた、柄の面白いようなスフではないものが入っている、しかし小布であり、全体は小箪笥と云った風の本です。文学談の上手なひとというのもあるものですね。そんなことも感じます、それは文学がすきな人です、そして、どんな生きかたをしてもその人として文学は好きであり得るという現実があります。
呉々もお大事に。 
八月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島の写真絵はがき)〕
八月一日。自叙伝はなかなか興味深いものとなって来ました。且つ、たくさんのモラルをももって居り又現実の知識をも与えます。世界史が書かれる時が来たら、この自叙伝は多くの真実を呈供するでしょう。規模の大きい人間が、どういう視界をもっているかということについて、考えさせます。よく語り、しかも饒舌でない著述とはどういうものかということについても教えます。ガンジに対してにしろ、皮肉を云うより前に、先ず払うべき敬意のあることを知らせます。 
八月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉由比ヶ浜海水浴場の写真絵はがき)〕
八月三日。『文芸』の「かささぎ」という小説、三年ぶりに初めて雑誌小説をよみました。ほんとに小さい作品だけれども作者の心の本当のところから書かれていて好意を感じました。そして、こういう人たちの書く小説が、平常の心でかかれはじめているという事実、嘗て島木健作が、緊張し青筋を立て義人ぶった日本人を小説にかいてきた時代から四年の月日は、これだけの変化を日本の人の心にもたらしているということを興味ふかく感じました。 
八月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(香港Flower streetの写真絵はがき)〕
八月三日。高見順の歴史小説というのは、目が疲れてよみませんでした。(『文芸』はうちへかして頂きましょうね)しかし、あの插画の木村荘八亜流をみて、歴史(明治初期)という空気が、ああいうアトモスフィアで好事的にランプ的に見られているのは不十分であり、それは変りにくいということを感じます。文学史にしろ、明治文学史研究家は裏糸を見ないで、表模様にだけ目をとられているとおり。カナカナがもう時々鳴くでしょう。 
八月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島七里ヶ浜の写真絵はがき)〕
八月三日、今午後三時半。わたしのおきまりの午睡から起きたところです。こんな時間なのに、この机の、二階の机の上の寒暖計はきっちりと九十度です。そちらもお暑いことでしょう。でも、風が通りましょうか。あなたの昔々のテニス用シャツがこんなに便利に私の役に立つとはお思いにもなれなかったでしょうね。襟をすこし小さくして、袖を短かくして、浴衣のビロビロしたのとは比較にならず楽です。木綿の単衣が段々なくなって、結局又十年前のスカートとブラウスになりそうです、少くともうちにいるときは。お元気で。 
八月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉建長寺の写真絵はがき)〕
八月四日
建長寺でしょう?葛西善蔵がいたというところは。昔、鎌倉の明月谷というところに一夏いて、小説かいていたことがあります。そのとき、建長寺も見に行ったのだけれどこんなお寺ではなかったわ。きょう、冬から早春にかけてかいた詩をよんでいて、「祝ひ歌幾日をかけて」という歌をよみかえしていたら、そこに「口紅水仙」の詩のこともかかれて居りました。四季咲きの花は、夏も爽快な驟雨のもとに、水しぶきに濡れながら、花びらにおちるしずくの粒をよろこぶように揺れ咲く様子を、思いおこしました。葉がくれの一本水仙、ほのかなる香に立ちて、という風情。 
八月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根宮之下の写真絵はがき)〕
体の工合はいかがでしょう。本当に大丈夫でいらっしゃるのでしょうね、この間は、大丈夫ときいて安心していたのですが段々気にかかり出しました。自叙伝は極めて真面目な深い本です。流水と共に生きている人が、初めてその河床の凹凸について語れる、そう感じる本です。この本をよみ、文学というものを考えると、全く文学は、文学趣味から解放されなければ恐るるに足りないものでしかないと思います。即ちこの本は一つの文学ですから。「誰が為に鐘は鳴る」の下巻が一箇のテキストであるように。 
八月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(レマン湖の写真絵はがき)〕
八月四日
きょうお金をお送りいたしました。湿度が高くて八十二度しかないのにさっぱりしない日です。レマン湖のエハガキも、これでは何となくがっかりね。スウィスは牛乳が世界一良質だそうです。北海道の雪印バタ工場が焼失したそうで又一層バタはなくなるでしょう。八月玉子は一ヵ月に一箇だそうです。この頃どちらを向いても茄子、茄子です。茄子の花の色は風流ですが。 
八月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根大涌谷の写真絵はがき)〕
この前お手紙頂いたのは十五日の日づけでした。私がお目にかかったのは二十日です。きょうは五日。もう半月以上経って居ります。行って、お会い出来なかったのは二十八日でした。二十日から二八日までの間に、状況はちがったというわけでしょうか。その間から起算して二週間(予防期間)とすれば、七八日頃になります。益〃気にかかります。その頃ともかく行って見ましょう。 
八月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根芦之湖の写真絵はがき)〕
八月五日。弁護士さんから電話で、お会いした由。御用が通じたのは何よりです、予防のため出入をしないようという期間はもう終ったのでしょうと思います。きょうも八四度だのにずっと暑く感じます、今年がどうか苦しい夏にならないようにと心から願って居ります。十一日ごろ上って見ます。 
八月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(モンブランの写真絵はがき)〕
こういう色も山々に映り刻々変化して行ってこそ美しいのでしょうが、固定されると安価でモンブランのために気の毒ね。『日本評論』、社からじかにお送り出来るようになりました。『市民の科学』(ホグベン)そちらへ一緒に行ったようです、もしおよみになればよし、さもなくばいつかお返し頂きましょう。『文芸春秋』はまだうまく運びません。シャボン又送ります。八月六日 
八月六日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月六日夕刻
さっきお手紙頂きました。このお手紙は干天の雨でした。何だかそちらの御様子がよくのみこめなくて、次第次第に心配になって来て、段々私の目つきがよくなくなりつつありました。あなたとしては熱の低くない方で、周囲に流行している関係上、様子を見る方がよいというわけであったことがはっきりいたし、安心しました。そちらへ行ったのは二十八日(金)でした。八度二分も出たという日でしたから、尤もなことでした。
森長さんはすこし熱が下ったときだったわけね。こちらから電話したのでしたが、あのひとも親切にことづけのこときいたりしてくれても、直接私が心配を話す時には、そんなこと一言も云わず、私の心配もピンとしないような物の云いかたで、そこが又あの人の好いところとも云えるのでしょうが。でも、このお手紙で、私はどんなに安心したことでしょう。いつぞやの夏のような苦しさは、二度と願い下げです。本当に状態がわかって何とよかったでしょう、ありがとう。少し早目に(体の調子を云えば)手紙かいて下さっただけのねうちは充分ございます。もうこれでいいから、どうぞ大事に熱の下るよう風邪をお引添えにならないよう願います。
私は十一日頃参りましょう(水曜日でしょうから)。その頃はもう熱もすこしは、おさまって居りましょう。
しかしもし熱の工合で御考えでしたらことわって下すっても大丈夫です。只私はわけさえわかれば納得いたしますから。
私の方はどうやら幸もって居ります。近視の度の進んでいることを発見したので近く検眼して眼鏡をかえます。もうウロプンクタールはないから、悪いレンズでは仕方あるまいと思いましたが、やはり戸外を歩く時なんかは度の合ったのでないと疲労が早くていけないそうです。ものをよみかきするには今のでもいいらしいのですけれど。
きょうは大変暑うございますね。細かい字をつめてかくことが出来にくいのよ、御免なさい。フーフーだけれど心は計画にみちていて、活気をもって居ります。辛棒の仕甲斐ということのよろこびも、折にふれて切実です。又くりかえすと、そら御覧ブランカ、ですが、呉々も小説は戻してよかったことと思います。
今年の夏は所謂丈夫な人によほどこたえる風です。私のようにまだ眼もちゃんとしないし、仕事も出来ず、万事を静養に集注している者は、却って助って居ります。いそがしさ、仕事、どれも倍で、体の力は不足故、えたいのわからない永続性の下痢をやったりして居ります。私は貧乏の量を多くして同時に休養の量も増すことにきめて居ります。小説のことよかったとこんなに云うのもつまり静養の価値について一層明瞭になったからです。
うちは百日咳のさわぎで、食堂など家庭野戦病院的光景です、吸入器と並んで食事します。咲枝も六月下旬からずっと入院、子供の百日咳とつづいて疲れて居りますが、今年の夏は私は子供係りは致しません、又、あと戻りしたらことですから。寿江子は信州辺に出かけるとソワソワです。田舎へ行けば旧習依然でも万事よくなると楽天的に考えて居るようです。私は夜なるたけあけて眠るよう気をつけて居ります。
出かける用事が終ったら、疲れもへりますから、涼風とともにすこし計画を実現し一日に少しずつものもかきたいと思って居ります。今はのんきに考えて、本もうだって読めなければ、マア其で、余り我が身を攻めません。夜ぐっすり眠りそのぐっすりさは大分もとのようです。いろいろ考えようと思って枕に頭をつけると、いつか眠ってしまうと大笑いです(尤も、そんな考えの主題はやりくりについて、というようなもので、全くよく眠気を誘うのですが。)朝目をさましたときいつも必ず心にする一つの挨拶や空想は、詩についてのもので、それはいつも新鮮で真面目で、そして淳朴です。神々の朝というようなものよ。或はいつぞやの真白き朝という詩のような。そのような朝が、そちらにもあけることでしょう。呉々も呉々もお大事にね。 
八月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(伝光茂筆「浜松図屏風」の絵はがき)〕
ゆうべ(六日夜)のむしかたはひどうございました。夏になって初めて、横向きにねている上の方だけ発汗してそれがつめたく何とも云えずいやな気持の夜でした。苦しい晩でしたから、そちらもさぞと思われます。きょうもえらかったことね、夜は幾分ましですが、湿度90%ですからしのぎにくいのは無理もないことね。今年はこんなに湿度高いのに、開成山の方は干上って井戸の底が見えているそうです。 
八月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(伝光茂筆「浜松図屏風」の絵はがき)〕
八月九日、電報を、わざわざどうもありがとうございました。様子はっきりせず段々心配になっている手紙御覧になり打って下すったとありがたく拝見しました。お目にかかったあとで、きっとこのハガキはつくのでしょう。森長さんに五日ごろ電話したのでした。あの人のこと故その日はあなたの熱が下って、他の病気の発熱でないと判明したというようなことはちっとも分らず、只、会ったというので益〃私の心配はかき立てられたのでした。でも本当によかったこと。どうぞどうぞお大切に。 
八月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十一日ひる一寸前、八十八度
ゆうべの夜なかは涼しかったのに、きょうはやはり相当の暑さになりました。お工合はいかがでしょう。熱は下ったでしょうか。
きのうはお目にかかれ大してへばってもいらっしゃらない御様子を見て安心いたしました。一時的のことでしょうね。何しろ、丈夫な人でもよほど健康というレベルは下っていて、今年の夏はしのぎ難いそうです。
幸、風はとおりそうですからどうぞゆっくり御大切に。しかし、あなたとして見れば、この位の変調は注意を要する、という程度で、もっともっとひどい思いしていらっしゃるのだから、十分の経験をおもちのわけです。きのう伺うの忘れたけれど、血をお出しになったのではなかったのでしょう?
私の暮しに、具体的な情景が加ったと申すわけです。静かそうで、バタンバタンなくて、休めるでしょう?
何となし、学生暮しの雰囲気でやっていらっしゃるのね。それを感じ、世帯じみていないのを快く存じました。きっと人によるのだろうと興味深く考えました。私もあんな風に、どこかあっさりとして、からりとした雰囲気で暮しているだろうかと思い、その点では余り点が低くもあるまいと自答いたしました。私は女ですから猶更生活のいろいろな変転を経験するごとに、つまらない意味で世帯じみていないこと――つまり些細な日常的癖に拘泥する習慣のないこと――をうれしく思って来たものです。こんなことも当然とは云いながら、やはり私たちの仕合わせの一つよ。そして私はこうもよく考えます、ずっと一緒に暮せていたら、私は自分のよい意味ではまめまめしさで、反対には俗っぽさできっともっと家庭じみていたでしょうし、あなた迄も世帯っぽさでまきこんだかもしれない、と。
あなたは「ジャン・クリストフ」をお読みになったでしょう?覚えていらっしゃるかしら。あの中にクリストフに深い信愛をよせた伯爵夫人がいたことを。娘が一人いたひとです。その人がクリストフの芸術を高く評価して、部屋へ訪ねて行きます。そのときクリストフは留守なの。クリストフの部屋は、婦人向きとはおよそ反対です。客間とは全く逆です。その様子にその女のひとは快い息をするのですが、すぐ何となし少し片づけてやりたいという気が起るのよ。それを自制して心のこもった眼差しで飽かずぐるりを眺め壁をながめ、かえるのだけれども。女の心持って可笑しいのね。そういう点になると女心に東西なしということになります。
昨夜寿江子は信州の方へ出かけました。去年行ったとき上田が気に入ったというので、もし家があったらそこへ暮そうかなどとも云って居ります。松原湖へ行くのですって。十日ほどで帰るでしょう。昨夜は珍しく門まで送ってやって一年と半ぶりで、夜の通りをしみじみ見ましたが、団子坂迄の間に残置燈が一つあるきりよ。
子供たちの百日咳は順にいい方ですが、昔の人が百日、咳が出ると云ってつけた名は実際を語っていて、マダマダ健坊はユデダコのようになって咳きます。泰子は例によりすぐ肺炎の心配で大さわぎのところ、もう疲れてろくに食べず、夜中眠らずで、母さん女中さん大へばり。咲枝は疲労のため胃が変にこわばってきょうは横になって居ります。私の眼は暑さとともに、細かいものが駄目になって居ります。近視の度も進んだらしく近いうち行って見ます。十五年の処方を見たら、七月十七日という日づけ。いつも夏わるくなっていたのですね、この二三年。体がつかれていらっしゃる時はあなたもどうぞ眼をお大切に。視力の弱るのは心持もいやなものよ。
結局どこへも行くさわぎしなくてつくづくようございました。いろいろ。汽車のこと考えただけでも。
国男と太郎は開成山で元気の由です。太郎は、二十日ほど暮して来て、その力で冬風邪もひかず過します。あすこは紫外線の多い高原風の気候ですが、それでも七十二三度の湿度です、珍しいことなのよ。それで雨は降らなくて野菜が心配というのですから、私のようなものによくわけがわかりません。
イリーンの『山と人間』ありました。今にお送りいたしましょう。シートンのあとはいかが?もうブランカのばかさ、いじらしさがわかったから、御用なし?
石鹸のこと御免なさい、そちらで都合つけて頂いたりして。しかし大いに助かります。全くナイものなのよ。只今これと一緒にシーツ、タオル、メタボリンお送りいたします。シーツもシャボンの仲間、ないものの一つです。きれたのを送りかえして下さいまし。ついで私のにして、私のをそちらにまわします。でも今に、浴衣のほぐしたのがシーツになることでしょう。
ああやって天井見て臥ていらして御退屈でしょう。一つ音楽をおきかせいたします。千代紙の中から琴を弾じる唐子(カラコ)一人つかわします。松の樹の下、涼しい石の上で、この男児は琴をならし、その音をもってあなたに一吹きの涼風をお送りするでしょう。(支那の人はこういうときうまい文句を見つけますね。) 
八月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(Fishing Village, Paslr Panjang S.S.の写真絵はがき)〕
八月十二日。沛然という勇壮なのではありませんけれども、久しぶりの夕立で、気が休まるようです。この二三日は蒸しかたが一通りでありませんでした。かなり干上ったところへ雨でいい心持です。開成山の方へも降っているかしら。去年の今夕は、国男の誕生日というので、私がやっとテーブルに向って坐ったが二くちほどでへばって臥てやしなって貰いました。 
八月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(八千代橋畔の秋色〈箱根〉の写真絵はがき)〕
八月十二日、今夜は何と涼しく、体が楽でしょう。七十八度よ。雨にぬれた屋根の瓦に、月がさして居ります。もうこんな夜も折々はあるようになったのね。立秋ということにはやはりたしかな季節のしらせがあります、朝顔の花の色が美しく目についてそれも微妙な二つの季節のしるしのようです。 
八月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島の写真絵はがき)〕
八月十三日、きょうはほんとに、ほんとに愕(おどろ)いて、安心したら骨が抜けたようになりました。お話のようにとりはからいます。ねまきお送りいたします、とりすてになってかまわない分です。
手拭も一本お送りします、スフ交りのですが。暑いところじっと臥ていらっしゃるのは御苦労さまですが、どうぞどうぞ大事にして、無理な動きかたをして出血したり絶対になさらないで下さい。近く又参ります。 
八月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉長谷観音の写真絵はがき)〕
ねまきのこと。いろいろひっぱり出して思案いたしましたが、つまるところこの間うち着て臥ていらしった白地に格子縞のねまき、あれは二分ほどスフで、あれを召して下さい。スフも三十点で、点がおしくて新しいのは、という意見です。あれならばマア辛棒してよいと思います、古くても縫い直してちゃんとなりますし、絹はねまきには着心地わるいし。お手数でしょうがどうぞそのように。 
八月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(日光五重塔の絵はがき)〕
八月十七日、お話の薬、ともかく買うことにして、〓味とヨードと一つずつ買えました。今薬がむずかしくて、一方ときめると買えない時が多いので、どちらでもよいことにしてあると便利と思います。武田長兵衛の薬よ。今低血圧が多いが、大丈夫でしょうか。普通におありでしょうか。年に90足した位。血圧のことと血液型のこと。私はAですが。きょう忘れてしまって。又帳面がいりますね。 
八月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根芦ノ湖の写真絵はがき)〕
八月十七日
栗林さんが明日又行くそうですから、改めてよく話しておきました。あの人として提案がありましたが其は御意見を伺いました上でのことです。
気分のよくないとき、遑しく用件をお話しにならなければならなくて本当に本当にお気の毒です。体をねじるような動しかたは禁物よ、平らに平らにとお気をつけ下さい。そして、ゆっくり、そっと、ね、どうぞ。 
八月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(土田麦僊筆「罰」の絵はがき)〕
八月十八日。きょうは入沢さんの本をよんだり看護婦勉強いたしました。チフスの後に視神経炎や眼精疲労が起ることがある由、そうでしょう。だから、こまかい字をお読ませしないようにいたしましょうね。熱はいかがでしょう、二週間目に入りいくらか上るのではないでしょうか。 
八月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十四日
大して高い気温でもないのに、(午前九時八十四度)むして、汗がひどくて凌ぎにくいことね。
背中がさぞむれますでしょう、熱はいかがかしら。十二日頃から数えると、きょうで十二日、二週間目がそろそろ終る頃です。その病気は二週間目の熱が頂上で、三週間目はそれが持続しつついくらか下りはじめる也と入沢達吉さんの本にあります。そして、その時期に、腸出血や穿孔が起りやすいということもかいてありました。入沢さんは体重一キロにつき35カロリーの食餌を患者に与えて常に好成績であると云って居られますね。
ジャガいもの柔かく煮たのなどは、食べるときお箸でもう一度ねるようにして十分上れそうに思います。試みて御覧になったら?トマトは種子(タネ)はよけてね。そして、乾燥玉子は、小児科のお医者はさけて居る位ですから普通の玉子煮(フワフワ煮)にしてからでないと上ってはいけまいとのことです、じかに召上ったりは大禁物よ。あれは調理する前二時間水につけておいてとくのですから。(うちでいつもやっていますが)
眼がお疲れになるといけないと思って手紙一寸ひかえて居りましたが、それはつづきそうもなくなりました。手紙は、せめて、私の行けない日について、暫くは何かとお喋りもいたしますものね、おまけに、あわただしくてついお話しのこすこともあるし。
この夏、東京にいたのは、何とよかったでしょう。十三日の電報を、もしどこかの田舎で見て、それからどんな汽車でも一番早いのをつかまえてかえって来るというようだったらその間の心配で、田舎に行っていた二十日や一ヵ月はけし飛んでしまったでしょう。ほんとにあのときの心持思い出すと、田舎なんかで、一人であのショックを堪えて何時間かひどい汽車でもまれたりしたら、きっと今頃又病人だったに違いないと思います。よかったわね、それでさえも又眼が妙になったのよ、そこで土曜に医者へ行きました。薬を注して瞳孔を開いて眼底をすっかり調べてくれました。やはり前同様で、視神経は萎縮してはいないのだそうです、ビタミンBしか薬もない由。せいぜい美味いものをたべて、休養しなさいとのことで美味いものというときはお医者も呵々大笑よ。私も大笑いいたします。ユーモアも時代的です。あなたもBが一番大事だそうですが、ずっと上っていらっしゃるでしょうか、メタボリン上って下さい。あれを一日十錠―十五錠のむと五ミリとかで、注射するのと匹敵するそうです。又島田へお金を送って願いましょう。もう補充もあやしくなってしまったから。
夜はよくお眠れになりますか、本当に本当に御苦労さまです。今週は一方が休みになりましたから、水、金とお見舞にゆきましょうね。
ちょいちょいとして上げて、小さいことでも、快適とわかっていることを何一つしないで石彫りのコマ犬のように眼ばかりキロキロさせてひかえているお見舞というのは決して決して楽なものではないことよ。少くとも良人を見舞う妻の最大の忍耐をもとめることです。
大変同感される詩を見つけましたからこの次はそのお話。(作家とテーマ)をかいた詩人の作品よ、あのひとのものならわるかろう筈もないと申せましょう。お大事にね。 
八月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十六日
さっきの雷は大きかったこと!どこへ落ちたのでしょうね、太郎が学校で粘土をこねていたら火柱が見えましたって。私は横になっていて、思わず両手で耳をおさえてしまいました。
大雷雨の後にしては湿気が多いけれど割に涼しくなりました(八十一度)。けさは咲と寿とが開成山へ立ちました。
咲は一日か二日。泰子はよくありません。百日咳が動因となって何か複雑な病気になっている様子です。結核性の。赤坊がいるから私は大いに気にしていますが母親の感情は一層微妙ですから注意をうながすにしても方法がデリケートです。いやがってやかましく云うと思いがちですから。泰子は可哀想だし咲も可哀想ね。きょうブドー糖の注射をしました。食餌がいけないからよ。
さて、私は昨夜久しぶりでほんとにいい心持となり楽になって、ひどい汗にも苦しまず眠りました。あなたはやや体の不安がすぎたようにふっくりと伸々と臥ていらしたわね、どんなにうれしかったでしょう。疲れも当然見えますが、それはこわいようなものでありません。熱がやたらに上らなかったのは、もう一つの病気のため、万々歳です。
こんどは、私も一緒に体じゅうがどうかなったようになって、昨日までは本当に妙でした。神経が緊張してしまって、その疲れで夜が苦しかったのよ。病的に汗が出たりして。きのうは、咲枝は子供の心配がとれないのだから、「現金で御免ね」と云い乍らしんからほっとして上機嫌な晩をすごしました。
この何年かの間に、あなたは随分ひどい病気を次々となさり、どうにかそれに克って来ていらっしゃるのは、考えればまことに大したことです。先ず猩紅熱からして、ね。もうこれがしまいで、段々恢復の条件がととのったら順調によくなって行らっしゃることでしょう。みんなびっくりして、呉々お大事とのことです。栄さんや何か。
けさはね、すこしのんびりとした手紙をかくのよ、いづみ子の近況などについて。いづみ子も近頃はもう全く一人前の淑女で、ぽっちりと鮮やかな顔色や柔軟でしかもいかにも弾力のこもった全身の動きや、なかなかみごとな存在となりました。あれの特徴であった何となし稚気なところもそのままながら、どこか靭さをまして豊醇です。そしたらね、つい近頃短いたよりをよこして、ごく内輪な表現ですけれども、どうしても好ちゃんのほかに旦那さんはないと心を決めたらしい風です。今時の女の子に似合わず、大変含みのある表現でそれを云って居りますが、そのために却って心の一途さがくみとれます。それはあの二人はどうせ切ってもきれない仲だけれども、いづみ子は次第に目ざめる深い女の心でひとしおそのことをつよく感じ、自分たちの結びつきの又となさについて感銘している様子です。好ちゃんは、あのこのつい近所までよく行くことがあるらしいのよ。でも御存知のとおり兵隊さんでしょう?時間があるしきまりがあるし、どんなにかああついそこと思うのでしょうが、よってゆくというわけに行かないらしいの。それが犇(ひし)といづみ子にわかるのよ、ね。ですからいづみ子にしろ並々ならぬ心持で、どこかそこを通っている好ちゃんの上を思いやるという次第でしょう、いくとおりもの家並や街筋やに遮られて、好ちゃんの歩いてゆくその道は見えないにしろ、いづみ子の胸に、あの爽やかで力にみち、よろこびにみちた姿が映らないというわけがありません。いづみ子は日本の女らしい、いじらしい表現でこんな風に云って居ります。
わたしは日高川の清姫ですから(ユーモアもあるから、大したものよ)自分のからだで海も山も越すことはいといません。けれども、あのひとのおかれている義務のことを考えると、わたしが身をもむようにしたら却ってどんな思いでしょうと思われて、ほんとに私は行儀よいこになります。あのひとは(いづみ子は一番いとしいものの名は、やはり口に出せないたちの女なのね)それがわかって居るとお思いになりますか。あやしいと思うのよ。敏感だけれども鷹揚(オーヨー)なような気なのですもの。(私が思うに、これはいづみ子の感ちがいね。あなたも私に御同感でしょう?好ちゃんという人物は相当なものですから、自分の腕のなかにゆったりといづみ子を抱括していて、一寸した彼女の身じろぎだってそれはみんなちゃんと感じとられ応えられているのだわ。いづみ子の表現は、計らず、彼女の愛くるしい慾ばりぶりを率直に示して居て面白く思われます)
いずれ好ちゃんもたよりよこしましょう。私の方へよりもあなたのところへ書くかもしれないわね、その方が自然でしょうからね。幼な馴染などというものは、世間では惰性的結合になって新鮮さを失いがちですが、あの二人は全然ちがって、二人で感情に目ざめ、育て合い、日々新なりという工合らしいから、つまりは一組の天才たちなのかもしれないわ。昔のひとが良人は天、妻は地なりと云うことを申しましたが、そういう宇宙的献身の見事さや潤沢さは、むしろディオニソス風の色彩のゆたかさで、しかも近代の精神の明るさに貫かれ、全然新種の人間歓喜の一典型でしょう。私も小説家に生れたからには、あますところなくそういう美しさ、よろこび、光について描きたいことね。そういう美は、そのものとして切りはなされて在るのではなくて、全生活行動の強大な脈うつリズムとともにはじめて生命にあふれて表現されるのですから。その純潔な輝やかしさは、露のきらめきさながらね。
露のきらめきと云えば、前の手紙で、詩を見つけたことお話しいたしましたね。「わが園は」という題の作品なのよ。どちらかというと風変りなテーマです。ほんとはそれを書こうと思ったのに、つい、いづみ子の噂を先にしてしまったらもう七枚にもなりました。つづけて、然し、別の一通として書きましょう。好ちゃんのたよりはお目にかかって伺います、今あなたは手紙をお書けになれませんものね。呉々も体の動かしかたに御用心を。 
八月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十七日
前ぶれの長かった「わが園は」の話いたします。テーマはいくらか風変りで、支那の詩にでもありそうな情趣です。
人気ない大きい屋敷の夏の午後です。しげり合った樹木の若葉は緑金色に輝やいて、午後はもう早くありません。一人の白い装をした淑女が、だれもつれず、こまかい砂利をしきつめた道にわが影だけを従えてゆるやかに歩いてゆきます。ゆく手は庭園の一隅で、こちらから見たところ糸杉がきっちり刈りこまれ夏の大気に芳しく繁っているばかりです。白い姿はその緑の芳しい牆(かきね)のかげに消えますが、そこ迄行ってみると、糸杉は独特な垣をなしていて、丁度屏風をまわした工合に、一つからもう一つへと白い影を誘い、やがて一つの唐草模様の小さい扉まで導きます。白い装いの人は、永い病気から恢復して、はじめてこの午後の斜光の中を愛する園を訪れたのですが、美しい柔かい旋律のうたは、この扉を今開こうとするときの堪えがたい期待と、あまりの美しさが、自分をうちまかしはしまいかというよろこばしいおそれとからうたいはじめられています。
扉は開こうとし、しかし未だ開かれません。何が扉の蝶番(ちょうつがい)を阻むのでしょう。園の花の息づきはつよくあたためられた大気にあふれてもう扉を押すばかりですし、唐草格子のすき間から眺められるのは、ほかならぬ愛蔵の蘭の花です。それは蘭の花の園なのでした。
金色にあたたまり溶ける光の中に花頭をもたげ、見事な花柱を立てて、わが蘭の花はいのちの盛りに燃えているのを、白いなりのひとは知っています。
扉は開くかと見えて開きません。何がその蝶番をはばむのでしょう。蘭の花は半ば開き、極めて緻密な植物の肌いっぱりに張り、しなやかにリズムをたたえて花脈を浮き立たせています。蒼空のゆるやかなカーヴを花柱の反(そ)りがうつしているようです。濃い紅玉と紫水晶のとけ合わされたような花の色どりは立派で、ぐるりに配合された白いこまかな蝶々のような同じ蘭科の花々の真中に珠と燦いて居ります。渋いやさしい眠りに誘うような香気がその高貴な花冠から放散されます。風も光も熱もその花のいのちにおのれのいのちを吸いよせられたかのように、あたりにそよふく風もありません。あるのは香気と光りとばかり。ああわが園の扉は開くかと見え。たゆたう瞬間の思いをうたっているのです。
詩は、断章です。小説ではないからその白い夏の午後のひとが、遂にその園に入り、その光の上に面を伏せ、自分のいのちの新しさと花のいのちのためによろこび泣いたかどうかということは描かれて居りません。詩をつくった人も、それは時にゆだねて描写しなかったのかもしれません。
作家とテーマのような作品をつくった詩人に、こういう隠微なたゆたいの詩があるというのも興ふかいことです。わたしはこの詩の味いを好みますが、ひどく気に入っていることは、それがきっとあるままのことなのでしょうが、詩人がその蘭の花の美しさを描くに全く気品たかくて、燦然ときらめく花冠を光のうちに解放しているだけで、ありふれた蝶や蜜蜂をそのまわりに描いていないことです。古い美味な葡萄酒のように花の姿はかっちりと充実し、舌の上に転ばす味の変化をふくみ、雄勁です。花への傾倒は感傷するには余りゆたかという風趣なのです。その味いも決してゆるんだ芸術品には見出せません。健全な大きい陶酔が花をめぐって流れ動いていて、それは自然そのままの堂々とした横溢です。
雨あがりの午後の光線は、この詩の中のとけた金色に似て樹の葉の上に散って居ります。私は自分のゆるやかながらつよめられている鼓動を感じます。
伸々と横になっていらっしゃるあなたの手脚に、こんな一篇の詩の物語はどんな諧調をつたえるでしょう、それは気持のよい掌のようであればいいと思うの。 
八月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十九日
きょうは、はじめて午後の二階が八十六度足らずです。庭で、ホラホラ鬼(オニ)(蚊のかえりかけ)とボーフラ、グロッキーになった!と太郎と咲枝の声がしています。防火用の大きい大きい桶の水が青桐の下に出来て、そこから猛烈に蚊がわくので、その戦いにいろんな薬を試み、ちっとも成功しなかったのに、やっと硫黄の薬(温泉の湯ばな)を見つけて、まいて見たというわけです。昨夜、国男一ヵ月ぶりに帰京しました。東京のじっとり暑いのに参ると云って、きょうは長い顔をしておとなしゅうございます。
その後いかがでしょう、熱はずっと落付いて居りますか。すこしは味がわかって召上れますか。眠れればよいが、と思います。体のよくないときの夜は何と明けるのが待ち遠しいでしょう。特に夏なんか。ひとの寝息をきき乍ら起きているのは苦しいことね、去年経験いたしましたが。一緒におきている人がいたらたのしかろうと思うことね。そういうとき。
私は眼の方は「異状なしで」時を待たねばならず、ということでわかりましたが、すこし尿が妙で、きょうお医者に相談いたします。疲れのせいと思っていたが、疲れが、こんなに眠っても軽快にならず、尿はまるで糠(ぬか)味噌を水にあけたような工合だから変ね。しかし悪性の腎(ジン)臓は目に出ますから眼底をあんなに検査してどうもなかったのだから、私のこんな疲れかたもやはり「不正型」かもしれないわ、新型の、ね。いずれにせよ、安静を心がけて居ります。どうか御心配にならないで下さい。私の方はいろいろやらなければならないなら、其の出来る条件なのですもの。よく調べてみますから。
詩の話いかがでしたろう?お気に入ったところもあったでしょうか。(あら、呼んでいるわ)
今お医者が来ました。やはり疲労で酸が何か変化するのだろうということです、明日検査して貰いますが。大体そんなことなのでしょう。
今ポツポツとツワイクの「ジョゼフ・フーシェ」というフランスの政治家の伝記をよんで居ります。大変面白い本です。フーシェは大革命の当時からナポレオン時代を通じて活躍した男ですが、彼の特長は全くの無節操無徳義であり白昼公然の裏切りであり、しかも実行力にとんでいて人心の帰趨を観るに敏であった男であります。ロベスピエールを裏切り、ナポレオンを思うままにいやがらせ、当時のフランスの世情の紛糾していたことが可能にした、あらゆる表裏恒ならぬ術策を弄した男です。バルザックがこの人間をその無節操の力のおどろくべき点から描いている由、それからツワイクの興味は目ざまされたのだそうです。フーシェの動きかたの背景としてナポレオン出現時代のフランスの分裂と堕落がよくわかり、ロベスピエールという偏執的潔癖家が、大なる新しい力を余り観念的に純潔に守ろうとしてギロチンにばかりたよって、逆に急速にリアクションを助成し、それに乗じてフーシェがロベスピエールの首をおっことしてしまうところ、なかなか大した歴史の景観です。ロベスピエールたちは議論議論で、しかも大した観念論でやっていたのね。フーシェはそういう弱点にうまくつけ入った男です。裏切ったが、自分のために、ツワイクの云い方ですればバクチの情熱のために冷血なので、自分が安穏にはした金で飼われるのが目的ではなく、同じ無節操の標本であるナポレオン時代の外務大臣タレイランが享楽を窮局の目的としたのとは又違う姿がよく描かれています。
そして、私に又多くのことを考えさせるのは、著者ツワイクのこういう人物の見かたです。なかなかよく客観的に見ているのですが、しかしツワイクはフーシェのような人物の存在し得た時代の本質については、決して十分把握して居りません。ロベスピエールのような男、卓抜な男が、何故当時にあっていつも大言壮語美辞を並べ、武器としてはギロチンしかなかったか、それで通用ししかも其に倦きた当時のフランスの大変動の歴史的本質。そこにこそフーシェはつけこめたのであるという、存在の可能の意味を明かにしていません。それよりもう一皮二皮上の、人間の時代的関係、めりはり、利害の上にフーシェの存在の可能をおいて居ります。これは著者にとって致命的な点です。何故なら、ツワイクは夫婦で自殺したのですから。二三年前。あれほどの歴史家、評伝家が、どうして今世紀におけるオーストリアの運命や自分に向けられる非人間的強力やについて、史的達観をもち得なかったかということは、おそらく世界中の彼の読者の遺憾とするところでしょう。その内部の原因を知りたいと思って居りました。
「アントワネット」は大戦中にかかれ、「フーシェ」は一九二九年ザルツブルグで書かれて居ます。序文にツワイクは、一九一四――一八年の大戦も「理性と責任から行われたものでなくて甚だいかがわしい性格と悟性しかもたない黒幕的人物の手によってなされたのである」そういう賭博に対し自己防衛のためにもフーシェのような歴史的黒幕人物、所謂外交家の見本を心理学的生物学として研究しておく意味があると云って居ります。バルザックが彼の小説で、英雄的情熱も陋劣と云われる情熱も、感情の化学においては等価値の原素としてみている、ということにツワイクは傾倒して居ります。しかし、これらの考えの中にはたくさんの未だ不明確なものがつめこまれていて、バルザックの所謂等価値論も、今日の理性は、やはりそこに十九世紀を見出します。ツワイクは一見客観的で、しかも十分客観的ではない観察力のために、自分たちの時代と自分の生涯というものを、真に歴史的には生きぬけなかったということが、「フーシェ」をよんでうなずけます。そして文学の世界のおそろしさ、そこにかかる霧のなかなか払いがたくて、惜しい人間の精神をも餌食にする力を感じます。文学なんかこそ、最も強健な精神の所産であるべきです。しかしツワイクは云わば、その自身の限界を極限まで書き、生き、死した文学者として、やはり十分に評価され、帽子をとって挨拶されるべき人間でした。彼は自身を箇人的に完成したものとして知りすぎていたのですね。歴史の歩幅は大きく一箇人の完成は現代において破れ得るものであり、破りかたに永い未来への命があるということは感じなかったのでしょう。彼の緻密さ動向観察、光彩、精神の高さは、ヨーロッパの昨日までの一高峰であったと思います。ツワイクが「流謫(るたく)こそは創造的天才をして、己の真の事業の視界と高さとを測らしめるものだ」という極めて感銘の深い言葉をフーシェについて書きつつも、自身の流謫的境遇を何故そのようなものとして、「眠ることを知らざる人間の意志の鍛錬されるところ」としてうけとれなかったのでしょうね。近い時代に文学者の死で、私たちに生きることを教えて人たちとしてバージニア・ウルフ。ツワイク。トルラーなどがあります。これらの人たちは自分たちをはぐくみ、自分が創造して来た昨日までのヨーロッパ文化のよかれあしかれ最良の分野の生存者でした。異様な形の入道雲を地平線にのさばらせつつ崩壊する旧文化とともに命を終った人たちです。
いつぞやの『外交史』ね。私はフーシェをよむにつれ、アントワネットをよむにつれあの本がよみたいのよ。どうか上下二冊送るようにして下さい。ロベスピエールなど、又ナポレオンの外交、タレイランの外交をあの本はどう見ているでしょうか。ツワイクがナポレオンの活動の最も人類的高貴なのは、政権を統一し不換紙幣の整理をし、いらざる流血を終息させ、生産を興隆させた執政官時代であり、コルシカ人のフランスに対する復讐的虚無心にもえた弟たち妹たちの愚行と次第につのるナポレオンの好戦慾、勝利そのものへの乱酔が、遂に悪行となって没落したと、二つに分けているのは尤もと思います。長くなってしまったことね。ではお大事に。明後日はお目にかかります。 
九月四日(封筒なし)
九月四日
きのうは何と大きい気持よい夕立だったでしょう。降りそうな雲の様子ではありましたが、あんなに堂々とふって。柔かい弾力ある雨粒が沛然と地面をうち、それは私の全身につたわり、その音や景色を眺めるうちに、段々気が遠くなってゆくようでした。つよい雨のリズムが脊髄に真直映って。私は何とも云えず快く疲れて、けさは何時間眠ったとお思いになって?又無慮十三時間よ。
知っている女の人が満州へ行くのでおせんべつの買いものに出かけなければならないのだけれども、何となしぽーとして坐っているの。八十六度ありますが、風は、さすが夕立の後で、というより二百十日のあとらしく秋の気勢です。
きのうは小さい子供がどっさりいて、かたまって遊んでいるのを待つ間見ていました。子供が自分の親愛なものを何でも手を出してつかまえ口へもってゆくの面白いことね。うちの健坊もそうです。手と一緒に顔が出て行くのよ。口をとがらして。手につかまると同時に口へ入れるの。そして満足そうにして色ざしのいい口でしゃぶります。人間の自然な表現というものは何と素朴で、生きものらしくて肉体的でしょうね。好きというこころや可愛い思いなどというものは、本当に活々としたもので、それは心の動きそのまま行動で、子供たちやその子供を可愛がる母親なんか、一つ一つをみんな肉体的なものに表現しているのに感服します。土台そういうものなのよ、ね。
火曜日は、前日に五ヵ月ぶりで用事が一段落し、それも初め考えて居たよりすらりとまとまったので、やっとのんびりした気分で、それをあなたにもおつたえしたい心持でした。ところが、それどころか、あの日は、まるで水浅黄の丸い雲の塊(かたまり)が寝台の横へおりたと思うと、エノケンの孫悟空の舞台の五色雲のつくりものではないが、忽ちスルスルと糸にひっぱられて消えてしまったというような工合でした。
今までの本なんか、そのままでいい風です。文学の仕事だけをする分にはさしつかえもないことになるようです。でもこれは事情が錯綜している上、紙なしですから、いずれにしろごく内輪なことにしかならないでしょう。しかし冬にでもなってもうすこし体がしっかりしたら一日に時間をきめ仕事をはじめたいと思って居ります。八月末に大東亜文学者大会というのが(第二回)開かれ、支那の婦人作家が一人来たのを吉屋信子の家へよんで、婦人作家たちが「小さいお友達」のように(新聞の表現)歓談したそうで、写真が出て居りました。女の作家も外交官の下っぱの細君が考えたりやったりする位のつき合いかたを学んで来たのは結構かもしれませんが、文学の話は「小さいお友達」では無理だったのでもありましょうか。支那の文学と婦人の作家のことも私は本でわかる範囲だけでも知りたいと思って居ります。そんなことも冬になって疲れが直ってからのたのしみです。小説も。今は全く夏の疲れが出て居て意気地なしのところ。今日あたりからノイザールという燐剤の静脈注射をはじめます。神経にすこし肥料をやって眼の方をよくしたいし、頭のてっぺんの疲労感をとってしまいたくて。これまで、私は余り気分よい頭でありすぎたのかもしれないことね。その爽やかさ、疲れなさを忘れられず、どうしてもそこを標準にして健康をはかるものだから。
きょうは、それでも思いかけず、愛用のボンボンが手に入り、これで当分しのげるとうれしゅうございます。あんまり久しぶりで口にふくみ、感動が深すぎて、あとからやっと味がわかるという工合よ。病気以来はじめてですもの。薬屋さんは親切に心がけ、いろいろ気を配ってくれていることはよく分って居りましたが、配給に時があるし、あの原料は貴重でなかなかなのです、御存知のとおり。私の体によくきく燐を主とした薬は全くこの頃欠乏です、どこにどう使われるのかしら。
あなたがひどく憔悴なさらないうちに熱が落付いたのはほんとに何よりでした。前に体がいくらかしっかりしていらしたのも大助りでした。
何と云っても体重も減りつかれていらっしゃるでしょうが、そろりそろりととりかえして行きましょう。これからは凌ぎよくもなりますし。
でも、よかったことね。あなたは熱病をなさりやすいかと思って全くはらはらいたしました。隆治さんの無事なのもうれしゅうございました。きっとあのひとは一ヵ月に一度は書いているのでしょうが、こちらへ着く分が間遠くなるのでしょう。送るものそろえます。
『重吉漂流記』お送りいたします。弁次郎の方はよほど以前どこかの本やから出て、今は古本でもあるかしら。いつだったか叢書のように日本の海外漂流記と外人の日本漂流記とが出版されたぎりです。今なんか面白いでしょうのにね。本屋がつぶれたのかもしれません。
おかしいこと。きょうはまだ眠いというのはどうしたわけでしょう。これを書いたらちょいと枕を出して、コロリとなり又眠りましょう、今週は月曜以来きのうまで割合出る用がつづいて疲れたのかしら。
夕立があんまり見事に雄大で、それにうたれすぎたのかしら。露の重さというわけなのかしら。
わたしのもんぺ姿は、丸さはともかくとして好評ですが、御感想いかが?これからはああいう風体のことも珍しくなくなることでしょう。帰りに靴を買いました。サメの皮よ。それで雨に弱いって可笑しいと云ったら曰く「やっぱり皮んなっちまうと駄目ですなア」 
九月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月八日
さすがに八十度を越しても二三度という涼しさになりました。でも湿気のひどいこと。この頃は湿っぽさでやり切れない方です。
先週は疲れが出てひどかったが、今週になってよほどましになり、尿もいくらか澄んで参りました。
あんな位病気をすると、二三年は夏を特別用心するべきですね、来年は事情が許せばそのつもりでかかりましょう、今年は用事をぬきにしたって、私として何ヵ月も東京を離れる心持になれないところもあったわけです。一年近く御無沙汰した揚句には、ね。
この頃は光線の工合がよくて、余り疲れていないと新聞の字もよめます。そして、これは大変私の毎日をたのしくいたします。何しろ今の世界の面白さこそかかる世に生れ合わしたる身の果報というべきところがあって、新聞は今の新聞なりに面白うございますから。本当に丈夫になり、眼もはっきりさせ、世界歴史の面白さを、面白さとしてうけとれるだけ丈夫になっていたいと思います。面白さの反面にある大した困難は明らかなことであり、あんまり自分の巣についてぬくまった人々は、そういう変化から又刺戟をうけて、本来の雄大な動きを見失うようですから。
しかしながら、其につけても思うのは、一貫した生活態度――よく現実を見て、活々とそれに対応して、しかも原則をもった生きかた――のつよさ、効力、自立性というものを痛切に感じます。
一つ一つよせてはかえす波にばかり目をとられず、潮を見られる人が船のりでありましょう。操縦されはじめると、人間も本質的には終りね。秀吉だって若いときはそうでもなかったでしょうが、老年になって螢(ホタル)が泣(鳴)く歌をよんだら、そろり新左が、螢が鳴いたということは天下にないとがんばって、すこしけんかめいて来たら、細川幽斎が、雨が降って鳴く虫は一つもいないのに螢ばかりが鳴いている、という古歌をもち出して、「されば螢も鳴くと見えます」などと云って操縦しました。それできげんを直すほどヤキがまわったから、あの始末ね。この話は、細川幽斎という人物を私たちにきらわせます。細川という殿様はこういう処世術をあの時代に珍しい学問にからめて持ち合わせていて、大大名として今も一番の金持華族です。細川といううちは政治に手を出さないのが慣わしの由。日本の美術蒐集では圧巻でしょう。春草の「落葉」は護立侯所蔵ですし。
きのう、ふと活字が大きいのにひかされて谷崎の「盲目物語」をよみました。覚えていらっしゃるでしょうか、昭和七年頃。横とじの、吉野の手すき紙で装幀して横帙に入れた本よ。小谷の方と淀君の少女時代につかえた盲目の按摩、遊芸の上手が、信長の妹お市が、浅井長政の妻となり、兄の裏切りで良人を攻めほろぼされ、息子をころされ、清洲城にこもって十年暮したあと、本能寺の変後、柴田の妻となり、恋仇の秀吉に攻められ、娘三人(お茶々を入れて)を秀吉方へつかわして、自分は一年足らずつれそった勝家と城の天守で自尽するいきさつ。お茶々の短い後日譚を、おちぶれて宿場按摩になっているその男が物語った体です。
谷崎らしく盲目の男の、美女である小谷の方とお茶々への感覚を絡めたり、当時流行の隆達節の考証をはさんだり、ともかく面白くよませました。しかしこうしてみると、谷崎の文学はもろいものですね。荷風の方が彼なりに粘っています。例えば例の「つゆのあとさき」、ね。あんなものにしろ、ともかく現代の、ああいう女給やそのひもの生活を見て、描写してかいています。「※[「さんずい+墨」]東綺譚」にしろ、冷やかで、独善で、すかないが、谷崎のように高野山あたりでのんきに納って、狐つきの話なんか、十年前に書いては居りません。
谷崎のもろさは文学的に面白いことね、彼の文学上の下らない安易さ、もろさは彼の所謂悪魔主義が、この国の文化の性質らしく、あるところで妙なボダイ心をおこし、享楽主義も中途で平凡な善悪にひっからまってしまって、あんなことになったのね。大正のネオ・ロマンチシズムの末路の一典型であると思います。春夫が奇妙な生き恥を文学上さらしているのと好一対。しかし谷崎の方がすこし上です人物が。谷崎は、春夫ほどケチな俗気にかかずらって文学をついに勘ちがえしていませんから。
藤村は「東方の門」という長篇(岡倉天心を主人公にするものの予定でした由)の第三回をかいていて、死にました。七月下旬大東亜文学者大会というのが二十五日にひらかれ、Yなどが満州代表として来たりした一二日前に。「夜明け前」のような主調を、一まわり東洋にひろげたものであったのでしょう。この作家はいやな男ですが、文学者としての計画性について、それを押しとおす実際の努力について、学ぶべきところはあると思います。人物のいやな面を十分みぬきつつも、一方のそういう力は学ぶべきですね。どういう意味と目的とからにしろ、彼ぐらい計画性にとんだ作家はいません。あの年代の人で。秋声は人聞は遙かにいいけれども、自然発生にああなのだし、正宗に到っては、旦那衆の境遇上のスタビリティーですし。
きょうは颱風模様で、ここの隣組は防空演習なのに、咲枝気の毒です。私は出ないの。あぶないから、まだ。泰子は結核の方はかかっていないで、ああいう体だから恢復がむずかしいのですって。わたしの燐の注射は利くのでしょうが、薬が四年前に製造中止で十本しかないのは哀れです。頓服でいいのがあるけれども其も入手が骨で全くの貴重薬です。
スープの味はいかがでしたか。どうか呉々もお大事に。わたしのために、どうかいいよいいよとおっしゃらないでね。東洋経済へのお金のこと間違なくいたしますから。では又、きょうのようなべとつく日、さぞあつい湯で体をおふきになりたいことでしょう。 
九月八日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(青森林檎畠の写真絵はがき)〕
九月八日
ペンさんが青森へ行って、おみやげに林檎(りんご)畑のえはがきを買って来てくれました。昔、「土」という映画があって、ウクライナの麦や果実がたわわに露にぬれているところを美しさきわまりなく芸術化したのがありました。それから見ればあまりつつましいけれども、それでもすがすがしさがあります。上林にもリンゴ畑の小さいのがありました。 
九月八日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(西沢笛畝筆「十和田湖と三羽浦秋色」の絵はがき)〕
大町桂月が十和田を有名にしてから、アパート式のホテルが出来たりしているそうです。しかし自然はやはりなかなか雄大でみごとらしく、これは気の毒な地方の人が風雅と心得た絵で、笛畝は人形絵の専門家でしょう?
何とチンマリした十和田でしょう。 
九月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月九日
なかなか又暑い日となりましたが、それでも秋らしさも濃くて面白い日です。風のふき工合など。南も北もからりとあけた二階で、ものを干したりしていると、風にカタカタと小障子の鳴る音がして、それはまぎれもない秋日和の感じです。昨夜なども面白い夜でした。
月が早く落ちて、夜の十一時頃西に傾いた月が庭木をひとしお暗く浮き立たせながら、光を失った色で梢に近くありました。星は光を消されないで小さく澄みながら窓に輝いていたり。
稲子さんの書いたものにも、ほかのひとのにも、南方に冬がなく、夏つづき、正月にひとえを着て雑煮をたべる妙な気持をしきり云っていますが、こんなこまかな日本の季節の感じに馴れたものは全く夏つづきというにはぼーっといたしましょう。隆治さんはジャワでようございました。あすこも夏ばかり、花の咲きつづけのところですって。しかし、なかでは凌ぎよい由。花が咲く、という言葉には、深い感じがあって、それこそ花のない町という裏づけがあってこそなのだのに、年がら年じゅう花が赤く黄色く開きぱなしの自然の中では、よろこびの感覚さえ眠ってしまうでしょうね。
ゴーギャンの絵の感覚は、そういう自然の中に他国の感覚で入って行って、全身をそこに浸したときの作品ですね。文学は生れますまいね。音楽が単調になることもわかります。
私は季節の変化を愛し、北方的な人間だから、のろのろぬうとした樹木を見てもこわい方です。日向に青島というのがあり。どうかして太古に漂着して日向の海岸のその小島ばかり今も南洋の椰子棕梠を茂らせているところを見に行って、蛇がからまり合って立ち上ったような樹々を見て、動物的なのに大恐縮してしまったのを思い出します。
動物的と云えば、上野に住んでいた猛獣たちは市民の平安のため処置されました。火、音響などによわいから。上野公園に昔平和博というのがあって、父は第一会場(上の方)をうけもち、いろいろ空想して自分の好きなサラセン模様の音楽堂などをこしらえました。美しいものでした。その時、紙屑入れとして場内に牧羊神(パン)の山羊の頭のついた紙屑入れをつくり、市の公園課が気に入って、ずっと最近までそれが鉄に白エナメルをかけて置かれていましたが、金だから献納になり、今は一匹も居ないそうです。国男さんが気づいて話しました。その晩床に入ったらこんな歌が出ました。
最近二十何年間にたった二つのうたと云えば先ず珍品に属しましょうか。
『文芸』のNの「混血児」。久しぶりでこのひとの書いたものをよみ、ちびた細筆で不足の絵具でカスカスにかかれているスケッチを見た感じでした。小説かいていた時の、よかれあしかれ、非常に低い素質のものながらぽってりとのびのよかった筆致は失われました。よくうれて、よくかせぐが、根に新しい境地が拓けていず、本当には文学がそのひとなりの前進をとげていないでああなのですね。文学くさいのが却っていやですね。あいまいな、鈍い、小さいそのくせ作家意識から神経を張ったような書きかたで。
尾崎士郎は「人生劇場」で浪花節のさわりめいた味を出したが、この頃、いろいろ経験したらその不用な感情の屈曲がとれて、感性が自分の脚で立つようになって、従って心情に湛える力が出来、同じながら火野のプロフェショナルにひねこびたのとは違った工合になって来ているようです。やっぱり細かいところで一人一人のちがいはあるものと感服いたします。
きのうもレンブラントの話していて、本ものを見たときどんな気がするということから、例えばベラスケスなんか何と美しい芸術だろうと思うし、ヴァン・ダイクなど実に人間も着物もうまく描いてある、成程と感心しますけれど、レンブラントの大作を見たときは何だか其が描いてあるという感じなんかしなくて、――絵の限界が分らないのね――その世界がそこに在るという気持、自分がその中に我もなく吸いよせられる感じ、逆に云えば、見た、見ているという広々として人生的にリアルな感じしかないのです。
これは何心なく話していて、自分でおどろきを新たにいたしました。レムブラントの内面のひろさふかさ、人生への誠実はそんなだったのね、不朽の大家たる全き本質です。
いきなり人生にひきこむような文学は少い。トルストイがえらい、バルザックがえらいという、そのえらさが多くは文学という人生の一局面からだけ云われるのね。特に小さい人々の側からいう時。芸術家の時代の相違のみならず、バルザックよりはレンブラントが上です。フーシェ伝(ツワイク)をよむと、バルザックの世界の渾沌雄大醜悪可憐は即ちあの時代のものであったと思います。バルザックは芸術家として根本の態度に、真似ては今日の作家が迷路に入る要素があるが、レンブラントの態度は、時代の叡智に掘りぬける本質のものです。
イタリーが盲爆で多くの古典美術を失いました。それらは世界の宝でした。惜しいことは実に惜しい。けれども明日のイタリーの人たちのためには果してどうでしょう。イタリーは過去の栄光が巨大すぎ、食いつくせない遺産の上に立って居て、ルネサンス以降現代迄が芸術上新しい宝を生む力を萎靡させていた大きな衰弱を自覚しませんでした。一九四一年に又もやレオナルド展が世界巡業を行ったことは、不滅というよりも「さまよえるダッチマン」のオペラ式で、おおレオナルドをして安らかに眠らしめよと、シェークスピアなら科白にかくべきところでした。多くのものが失われ、それを灰燼に帰した暴力は世紀の恥辱ですが、イタリーそのものについては、あんまりたっぷりした祖先の財産からすこし解放され、御家宝拝見料で食わなくなる方が将来清新な、その時代のイタリーの建設にふさわしい芸術が開花するかもしれません。少くともイタリーのひとが本当に自分の国の誇りについて考えたとき、そういう勇気にふるい立つ筈でしょう。
この手紙の一銭の切手は、なかなかいじらしいでしょう、日本の切手に女の働き姿が現れた恐らく嚆(コウ)矢ではないでしょうか。
ノイザールという私の薬、これからも買えそうでうれしゅうございます、利くから。 
九月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(史蹟開成館の写真絵はがき)〕
私が子供時分は、ここを村の人たちは「三階」と呼んでいて、村役場がありました。村役場につかったのこりの裏側の部屋部屋を人にかしていて、久米正雄母子はその松林に向ったところに暮していました。寿江子からの手紙によると、郡山の東に何里もある飛行場が出来かかっているそうです。トラックと軍靴の音が北へ北へと響くそうです。ずいぶんかわって来たとおどろかれます。九月十日 
九月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(開成山の中條阿部両氏の記念碑と銅像の写真絵はがき)〕
九月十日
こんなものも私はまだ見たことがありません。郡山市読本というものにおじいさんのことがあって、私たちの知らない旧藩時代の勉学の閲歴などかいてありました。野上さんの息子がローマ大学の助教授なので、休戦したについて父さんの談話が出ていました。あっちに立派な能面や衣裳が行ったままになっていたのね。細川や蜂須賀所蔵の。緑郎夫婦の暮しも追々大きく変化することでしょうと察しられます。 
九月十日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十日
いまは、夜の九時。涼しい風が吹きとおします、お湯をあびて来てここに坐っていたら話したくなりました。
きょうは、やや臥つかれたという御様子でしたね。無理もないと思います。いろいろと経験を重ねていらっしゃるから病気と闘う方法は会得していらっしゃるにしろ、ずっとお臥になって一ヵ月以上経ったのですものね。臥ていらっしゃる体がぎごちないというのは本当です。てのひらで撫でてほぐすべきところです、咲枝も丁度臥つかれた時分だわね、と衷心から云って居りました。
そういう疲れかたは著しいにしろ、先、腸の病気のとき恢復しかかって初めて会って下すった時の、あの忘られない憔悴は今度ありません。あのときの憔悴というものは、全くひどくて今迄申しませんでしたけれど、あなたの濃い髪の色が赤っぽく変って、生えぎわから浮いてポヤポヤに見えました。今度は毛が脱けるかもしれないけれどもあんなすさまじいやつれはありません。ただ、あの病菌はやはりこわいと思います。疲れかたがやはり深く時間をかけて恢復しなければならないのですもの。
そうやっていらして、悪い刺戟はないでしょうが、同時に、恢復のためにいい刺戟のうちに数えられる種類のことも少くてそれは不便です。私が癒るためにいい刺戟に不足していたと同じに。そのために時間をくうという点もあります。幸、今に涼しくなると、もう少し度々行くことも出来るようになり、あなたも体のもちかたが楽におなりになり、幾分はましとなりましょう。
一寸お話していたとおりノイザールという薬は利いてこれ迄ずっといつも圧巻があって悲しかった頭のてっぺんが軽やかになりました。疲れが少くてよくなったこと、涼しくなったこと、薬が合うこと、あなたが安定を得て下すったこと、みんなそれは私の頭のてっぺんを軽やかにする原因でした。
カッパの頭のてっぺんに何故人間は皿を描きはじめたでしょう。面白いしおかしいことね。どうせ架空のものでしょう。その頭の皿が乾くと力がぬけるなんていうのは感覚の問題で、人間は頭のてっぺんの工合について昔から何か無関心ではなかったというのでしょうか。この頃こんなことを云って笑うのよ。「河童の皿が内へ、凹まなくなったからいい気持!」すると、咲枝が答えます、「ほんとにそうらしいことよ、顔つきも落付いて来てよ」脳天の大切さ沁々と感じます。
御存知の鈴木氏の令嬢二人のうち長女が半沢氏へ嫁しました。三年前。結婚のときも、一寸相談をうけ、お父さんはあらゆる条件をととのえ、理想的な結婚をさせ、北京に出張していました。技師だったの。そしたらこの六月、東京へ帰任する決定で、最後の出張をして小さい村にある事務所にとまったら、その夜襲われて奮闘の後命をおとされました。兄さんとお父さんとが北京へ行って、「家財をとりまとめ」東京へ帰って来て、若い未亡人はお里と嫁家と半々に暮すことになりました。一男あり、三歳です。
私はこの人たちのつみのない幸福が、こうして破られたことにつき、又、娘の幸福を、万全つくして守ろうと努力して、より大きい力にその計画を挫かれた父親の心を深く同情して、通知を貰ったとき手紙をかき、お盆には娘さんにシートンの『動物記』をあげました。本当は、シューマンの詩人の恋というリード集のレコードがあってね、その歌曲を聴いていると、シューマンという人を通して、生粋の男の真の優しさ、情愛、愛着が身に沁みとおって感じられ、暖い暖い勇気を覚えます。その歌曲のメロディーに合わせて胸の底から鳴り出して来る女の真情が自覚されて来て、それは全く男の中の真実に相答えるものです。妻たる女が良人を愛しているという本当の意味で生きている女が、初めて感応する深みです。そのレコードをあげたら、親にも子にも話しても分らず、又言葉ではない良人のなさけ、それに浴した妻のよろこびと涙とを感じて、涙の中から最も感情として純粋に立ち上れると思ったのでした。今頃そんな高級レコードはおいそれと買えないのよ。それで生も死も純粋な形である野獣の生活、そこにある生命力情愛の様々をよんだら、何かこまごまと世情人情にからみこまれた気分から、清冽な気分を味えようと思って。
そしたら一家じゅうの愛書となり大変よかったのですが、父さんは、手紙をよこされ、小さい男の子は自分が親代りになって育てるつもりだとのことです。これは婚家の気風の何かを無語のうちに反映していますし、娘の将来の生きかたについて思いなやんでいるとありました。娘さんは何か相談があるのでしょう。私のような後輩まで娘にとっての先輩としてそんなことも話す父親の情をつよく感じます。私たちも、情の深い父親をもって居りましたから。覚えていらして?スカンジナヴィアへ行かないかと云ったこと。あんな風でしたもの。それを云ったときの父の遠慮したような、心を砕いているような表情を時々思い起します。娘さんとしては又おのずから様々の感情でしょう、だって、父があんなに万全をつくして確保してくれようとした幸福、しっかり枠をつけてそこから逃げないようにしてくれた筈の幸福は、こんなにもあっさり破れたのですもの。父さんの力をもってしても及びがたき人生を痛感しているでしょう。
そして私はこう考えるのよ。父さんの愛は常識に立ちすぎていて、幸福と世上に称する条件を、そのまま固定的に揃えて、それで幸福を確保しようとするところに悲劇があります。勇気をふるって、お前の不幸をも賭して幸福をつかまえて見よ、という境地に立っていません。勿論そこまで行くのは謂わば一つの禅機です。底を抜いたところがいります。娘さんの人柄に対してそういうのも無理かもしれません。しかし人生はそういうものよ、ね。そこに千年(ちとせ)の巖があるのです。巖に花も咲きます。つながりの工合だけで決定されてゆく人生というものは、謂わば果敢(はか)ないものですね。
現実に身のふりかたをきめるとなって数々の困難のあることもよくわかります。身をすててこそ浮ぶ瀬もあれ、というのは古今集の表現で、時代的なニュアンスが濃いが、最も勇猛的な解釈もつくわけです。それに、そこまで自分を鍛えられるほどの底深い情熱をもち得る対象にめぐり合えるか合えないかということもまことにこれこそ千に一つの兼ね合いですものね。めぐり合ったとき、どうせ自分は未熟きわまるもので、もしもその対手がそこに可能を見出さなければ、それきりのことですもの。相互的というところもあるにはありますけれども。
きょう、かえりに、あの辺はお祭りで、町の神輿(みこし)を献納するための最後の祭りでした。花笠だの揃いの法被(はっぴ)、赤い襷の鈴、男の児の白粉をつけた顔、まことに珍しく眺めて停留場へ来たら彼方に一台電車が留っていて動かないのよ。子供をひいたという声がします。子供の大群がそちらの方へ駈けてゆき、男の大人が一人シャツだけでワッショイワッショイと両手で子供の群を煽って亢奮して駈けてゆきました。きれいな祭着の女の子たちもまじってゆくの、かけて。
その子はいいあんばいに小さくて車体の下へころがりこんで命に別状なくてすんだ由。でも秋日和に照らされて電車は動かず、王子の方へゆく電車で大塚まで出て市電でかえりました。菊富士に部屋もっていた頃、目白へかえるのに大塚終点までよく来たので、独特な視線であのあたり眺めました。山海楼という大きい支那料理やが出来ていました。 
九月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十二日
きのうは大変珍しい冒険をいたしました。というのは、病気以来はじめて、三井コレクションの絵を見に行って、かえりにペンさんのところで夕飯を食べたのです。平河町の停留場の角に光ヶ丘病院というのがあるの御存じでしょうか。あすこは昔聖マリア館と云って聖公会からイギリス婦人が来て住んでいて、ミス・ボイドという人も居り、そこへ本郷からよく通ったものでした。そこが先年から光ヶ丘病院となりました。そこについて曲って一寸行った右側。三井の誰なのか、去年からコレクションを小さい展覧場をこしらえて公開いたします、各土曜の午後。僅か十数点です。その位なら大丈夫だろうと出かけ、久しぶりで心持よく亢奮しました。
いつかお送りしたモネの色彩的な「断崖」、ヴァン・ダイクの極く小さいもの。(この紙の倍ぐらい)コローの二十号(?)位。ブリューゲルの(冬)黒田清輝の先生であったコランの「草上の女」そのほか数点でした。美術学生が主として来ています。その人たちが近づいたり遠のいたり技法や(色のおきかた、コムポジション)を研究しているのを見ていて、何か私は洋画の伝統というものについて痛切に感じました。これらのクラシックのものは、どれも本物ではありますが、其々の大作家の全スケールからみれば全クフラグメントです。コローにしろ、ブリューゲル、ヴァン・ダイクみんなみんな壁を圧する大作をもっている巨匠で、その大さその精励、努力を土台として、小品もつくっているのです。しかし、こうやって将来されている作品しか見ることの出来ない人達は大家の世界的な規模、容積、気魄に打たれ、という芸術上のありがたい刺戟を感じることは少くて、何か近づきやすく詮索がましく、高揚されるより真似の出来るところをさがすという傾です。日本の金持はなかなか大きな作品は買えないということにひそめられる大きい意味を感じ、体がひきしまるようでした。
ペンさんは十月二日におよめに行くから一緒に一度御飯たべようと思い、しかしこの頃は外食券がないと御飯たべられないのですって。そこでペンさんの家へゆき、おかずを私が買って母子と三人でたべ九時、夕立の後かえりました。月夜の中を、送ってもらって。
きょうはいくらか御疲労です。けれどもいい心持よ、何しろ、ほんとうに足かけ三年来はじめて用事でなくて外出したのですもの。音楽は音の刺戟がきっと大きいでしょうからもっとあとのことです、眠れなくなるといけないから、ね。
本きょう頂きました。ホグベンの『市民の科学』を序よみましたら、この人は奥さんも経済学の統計学者なのね。四人の子もちです。奥さんは人口問題についていい仕事をしている由。すこし自分の心持を辛辣に出しすぎた序文です。しかし、「単純な真理について語ることを自分の権威にかかわることとは考えなかった」偉大な科学者たち、ファラデイ(「ローソクの科学」の著者ね)、チンダル(「アルプスの氷河」の研究)、ハクスリー(「死とは何か」)などを先輩と仰いでいるから仕事には責任を負っているでしょう。それに経済史のひとや教育学、応用数学の人たちの共働があります。そして序文にその本が出来たのは、ゴルフや宴会を系統的にことわって来たたまものだと云っています。
汽車にのっている間にかいた原稿が土台なのよ、タイプで原稿をつくるということにはこんな大きい能率上のプラスがあるのね。
果して私によめるのかどうか、何にしろひどい数学の力ですからあやしいものね。
この頃になって、自分の生活事情や性格というものに及んでも考えますが、私は十年前の旅行のとき何と筆不精だったでしょう。そして何とものを知らなかったでしょう、今は惜しいと思います、どうしてもっと細かく見聞を書いておかなかったでしょう。旅行のつれの関係もあり、ごく世俗的な興味や関心で消費していた点もあったけれど。私は筆まめに書きはしても、実質の飛躍のなかった人よりましというのがせめてもの慰めです。あとから書いた見聞の紹介はどっさりありましたけれども。
例えばバクー大学にスキタイ文化の遺跡の集められたものがあって、これは日本の天平時代の美術と全く通じます。支那を通って日本に入ったのですが。タシケントの手前の蒙古にあったというギリシア文化と支那の文化の混交した古都のことなんか何も知らず、あのバクー大学の考古学参考室なんか、今考えると惜しいの惜しくないの。お察し下さい。大東亜という言葉の本当のよりどころは、そういう大きい文化の流れをとらえなければならない筈でしょうし。
そのときは、ああ奈良朝の美術はここから来ていると漠然思ったきりで、ちっとも深く勉強しませんでした。惜しかったことね。固定して古典詮索の興味よりも、交易商業というようなことで古代の人間が不便な中を大きく動いたそこが面白いのね、ホグベンが再発見した支那から欧州への「絹の道(シルク・ロード)」のようなものです。その道に当っていたらしいのですね。そのギリシアとペルシア支那文化のとけ合った全く独特の都会というのも。三蔵の大旅行の時代には在ったそうです。
「金髪のエクベルト」早速よみました。いかにもドイツの話ね、あの白っぽいドイツの金髪の色と灰色とみどりのような配合の物語ね。
因果というようなモティーヴを兄妹の恋という形でつかまえるのは東西同じね。歌舞伎のお富と切られ与三郎の芝居で、お富は自分を救ったのが兄と知らず、どうして落城しないかと盛に手管をつくし、あんまり固いのでやけで与三といきさつを生じ、旦那たる兄から打ちあけられる場面があります。でもそこが日本の世話もので、金髪の騎士のような手のこんだ魔法は作用していないから、お富が「因果のほどもおそろしい、わたしゃあまあ穴でもあったらほんに入ってしまいたい」と袂で顔をかくすところを梅幸はうまくやりました。あの物語はドイツの空想の特徴が出て居りますね、風景の描写にしろ。面白いけれど、好きというのではないことねえ。きょうはこれからひるねをいたします。 
九月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十四日
きのうは、あんな装束で、お笑いになったけれども、帰りは大した降りで、すっかり体まで雨がしみとおり、顔を流れて、前方が見にくいほどでした。眼鏡はいろいろのとき不便ね。雨のしぶきが傘の布地をとおしてこまかくついてしまうのよ。
一般に女の装は随分かわりましたが、特にこの一ヵ月には、殆ど大抵元禄袖になりました。いい着物をぶっすりと切っているのが、一種の伊達めいて、面白いものですね。どんなところにもこういう心理があるところが、人間のおもしろい眺めかもしれず。
昔のように、袂に文をなげ入れるということはない当今だから、誰にとってもきっと便利の方が不便よりも多いのよ。
食べたいものと云えば、この頃の暮しは変ったものです。ガス節約ですから(十人で一円五十何銭)御飯は土間のへっついで炊いて、ガスは子供用に使うため、お茶さえのみません、朝夕だけ。あとは水。冬はこうは行きますまい。
電燈も凡そ半分迄。乾パン、うどん粉、うどんが半月分当ります。乾パンは小さく長方形のもの。私は好きでよくたべます。うどんは、いつも昼飯に。これはゆでたのを一寸いためてたべます。うどん粉はパンをつくるのだけれど、うちの技師(ギシ)は、いつも、原始人の粉饅頭に似たものをつくり、おかあさん出動しないとフワリとしたものにならないのだから妙です。フーワリとすると美味しいものよ。プワリプワリ鯉が麩(ふ)をたべるようにたべるのよ。
健之助は丈夫で肥って、いつの間にかおかゆをたべ、きっと、あなたの召上る位のをたべているらしいわ。そして満足なときは、頭をかっくりかっくりやって合点いたします、明るい子らしいわ。一寸不安なときは、兄貴に似た表情をいたします。そしてその表情は親父のする表情で、そのおやじの表情はおじいさん似だから可笑しいものです。
今年は何だか実に迅く時がすぎます。何しろ世界が一週間か二週間の間にあっちに廻りこっちに廻りするのだから無理ないと思いますけれど。
ホグベンという人(市民の科学)は、科学的ヒューマニズムという一派の人ですね。科学の発展は、実際生活上の発明、必要、創意によってすすめられて来たものであり、ギリシアの科学は奴隷を自由人にしなければ発展し得なかった、と云うことを云っていて、科学をつめたい概念の所産ではないという啓蒙しようとしている立場でしょう。しかしイギリス人らしい実用性の限界をもっていて、科学は「職人の技の組織的に組立てられたものである」という前提です。これはあき足りません。原始生活において、人間が一つの経験を得、次に其を応用するときは、例えば枝と石をこすり合わす合わせかたという技を応用するよりも、根本的な発展は、その摩擦は火を発するという原理の発見と確立です。人間が理性をもつ生きものという最大の特長はその悟性でしょうから、例え表現上にしろ、ホグベンの概括は十分と云えないと思います。生産と科学の関係を見ようという健全な希望は、一方に、足をとられて機械論、或は反映論に陥っていて、これは根本において科学的でありません。それに奇妙なのは、ケプラーの法則について語っているとき、自然科学がケプラー(中世の大科学者)の時代に脱しかけていた段階を、社会科学はまだ間誤間誤していると云って、ロビン教授という私共国外のものには存在の意義のない経済学者の本から引用して批判したりしているのは、何か場はずれで、そのこと自身、著者の科学の底の浅さを示していて、大いに臭気紛々です。イギリスという国は妙でショウのような人間、チェスタトーンのような人間、ホグベンのような人を生みます、伝統の重さが、理性にのしかかっていて、それを反撥するところ迄は新鮮だが、はねのけ切る力はないために皮肉になるという風で、その皮肉もやがてポーズになって、そこに落付くから、結局はくだらない無力のものです。
文学においても科学においても、つまり人生に於て、皮肉を云っている人間は牙のない虎で、しんは、綿がつまっているようなもの也。
ホグベンの本は冨美ちゃんに教材としていいかとも思い、将来太郎のためにもいいかと思ったのですが、そうでもないよう。下巻は買いますまい。
科学事象の説明は(例のひき方は)生活に即し人類社会の進歩の段階に応じてその選択はされて居りますが、何となし根本に混乱が感じられます。
藤田嗣治の絵について感想がありますが、それは又この次にね。要は、日本の画壇は藤田をうるし屋(ぬるという点)とか何とか悪口したが、勉強していて、それは決して馬鹿に出来るものでないということです。軍用画においてです。この話は又別にゆっくり。あんなに降ってもきょうはこんなにむします。どんなに今年はきの子が豊作でしょう(!) 
九月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
(同じ日)
きのこの話をしたらふと、お俊(しゅん)というひい婆さんを思い出しました。私が小さいときなくなったけれど、思い出すと炉ばたに丸く坐って、頭のてっぺんにぬれ手拭を畳んでのせていたのを思い出します。このおばあさんはしっかりもので、父は大学になっても朝風呂のために(この人が入る)手から血を出して水くみをした由です。祖父は父に早くわかれ、この母に育てられ、丁寧に仕えていたのでしょう。息子より長命して九十歳近くまでいました。あなたは北の地方の炉辺を御存じないわけね。そのぐるりの光った黒い板の間の様子なんかも、ね。このおばあさんは、或る天気のよい秋の日、午後から近所の松林にきのことりに出かけ、面白くどっさりとって来て、それを夕飯に豆腐と一緒におつゆにしてたっぷりたべて風呂にも入り、やれいい気持と横になって体をのびのびとさせたら、いびきかき出してそれなり、という大往生をとげた由です。
(前のつづき)
ロシアのきのこが、お伽話の插絵そっくりに水色、朱色のがあることお話ししましたかしら。塩づけになって居ります。大きいビア樽のようなものに入って、塩漬キューリと並び、燻製鰊(ニシン)の下にあるのが普通の光景です。オランダ派の室内風景なんかには色彩が面白いでしょうが、日本の人にはこわいのよ。朱や水色のきのこは、何となし手が出ません。すこし上等の料理には茶色の丸っこい松露のようなマッシュルームをつかい、これはもう世界共通のありふれたものです。ローマからこの頃ヴェニスへうつったという日本の人々も、こんなマッシュルームとマカロニたべているのでしょうね。咲枝たちは、直径何寸もあるようなマカロニをみたそうです。マカロニたべて葡萄酒のむのでイタリーの人の体はどちらかというとダぶつく由。マカロニが柔かいからではないのよ、ガンスイタンソのせいだそうです。
藤田嗣治の絵は、変にアジア人の特徴を出して、泥色の皮膚をした芸者なんか描いていていやでしたが、国男さんが十七年版の美術年鑑を買ったのを見たらば、そこに戦争絵がアリ、原野の戦車戦、ある山嶽の攻略戦等の絵がありました。目をひかれたのは、藤田が昔の日本人の合戦絵巻、土佐派の合戦絵図の筆法を研究して、構成を或る意味で装飾的に扱っていることです。更に気がついたのは、その構成にある大きさ、ゆとり、充実感が、こういう絵の求めるわが方の威力というものを表現する上に実に効果をあげています。山嶽攻略なんか、北斎の富士からヒントでも得たかと思うほど、むこうの山を押し出して、山の圧力が逆作用でこちらの圧力を転化する構成です。威力、圧力、勝利感というものを純絵画的に表現するということは一通りではありません。多くの画家は、低いリアリズムで、自然主義で描いて、わめく顔、ぞっくり揃った剣先とかむしろ動物的にかき、効果をクラシックに迄持続させる芸術性にかけて居ります、いやなきたない絵をかきます、しかし藤田はそういう要求でかくものに古典たらしめようと意気ごんでいるし、その努力のために芸術となっています。この事実を、同業人は何と見ているでしょうか。
文学では、やはり同じ問題があります。もっとむずかしく複雑ですが。報道班として南へ行ったのは何人もいるが、人間として文学に新たな一歩をふみ出したのは何人でしょう。
尾崎士郎は、よく経験したらしく、日記を集めたものをよむと、文学について、人物について困惑されるところが生じて来て居ります。しかし思うことは、ね、そういう成長と同時に、文学者は(現代人)深い感慨にうたれたとき、何故みんな漢文調になるのでしょうか、ということです。なるというよりもおのずからならざるを得ないのはどうしてでしょう。尾崎にしろそうです。文学論、人物論そのものは、大きくなっています。腰もすわって来ている。南まで行って女買いしたくもないだけのところがあります。だが、漢文調になるのよ。
日本の文化伝統と感情の新しさということについて考えます。まだ、何でもなく書いて実に深い感銘とスケールとを示すような感情の質が、もたらされていないというわけでしょう。したがって、文学の新しさというものも本質はそこにかかっているところがあるわけです。漢文調の人生感、且つ人物完成というものは油断なりません。これは、まだまだ私に宿題を与えて居ります。日本文学は漢文調を脱却しなければならないのですから。 
九月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十八日
大人たちは皆居なくて、庭で太郎とその弟分たる隣のミチルちゃんという子供との声がしています。私は風邪気で、妙な顔をして居りますが、面白い本を読んで亢奮を覚えているところです。
その話の前に一寸した物語があります。それは「二輪の朝顔の花について」です。この頃咲く朝顔が花輪は小さくて葉がくれがちながらも、真夏よりは一層色が濃くなりまさっているのを御存じ?そういう朝顔が一本はそのつるのよこに濃藍の花をつけ、他の一つはそれより柔かいすこし桃色がかった花をつけています。二つの鉢が並べておいてありました。ふと見るとね、濃藍の花がいつの間にか薄桃色っぽい方の花弁に自身の花弁をふれそうになっているの。さわるが如くさわらざるが如く揺れている様子は大変風情があって、何か目をひきつける魅力があります。ほどなく、ほんのかすかに、髪の毛の感じるような風が一ふき吹きわたりました。すると濃藍の朝顔の花はその繊細ならっぱ形の花びらに不思議な生気をたたえて、いかにもそっと薄桃色の花にふれました。目の加減でしたろうか、ふれられた花は何となし花の紅潮をふかめたように見え、二つの花は、花弁の一端をふれ合わせたまま、じっとしています。もうおそい午後で、葉をすかして午後の斜光がさして居ります。その花たちはたっぷりした葉をほしいまま緑金色にきらめかせたまま、それにかかわりないように、寧ろ、その美しさの凝集のように葉かげによりそっています。明るさの奥にもう夕方のかげがひろがる刻限でしたから、その仄かな眺めは大変に大変に優艷でした。
私は自分を仕合せと思うのよ。こういう美しさを味うことの出来る仕合せは、くらべるもののないゆたかさとありがたく思います。
さて、本の話です。『偉大なる夢』傍題「伝記小説ヨハネス・ケプラー」という本で、ザイレというドイツの作家のものを、黒田礼二が訳したもの、ひどい紙の二段組でよみにくいことおびただしいものです。ひとからの借りもの。よんでみて、深く感銘されました。科学のこの大天才が、人間的尊厳にみちた生涯をいかに送ったかということが、十六世紀末十七世紀ドイツの紛糾混乱殺戮にみちた闘争時代の社会の中で実によく描かれて居ります。
歴史家は、中世からルネッサンスへの推移とルネッサンスの栄光について多弁ですが、ルネッサンスという豊饒な洪水によって一応は肥沃にされた土壤に、どんなおそろしい勢で腐敗もおこり雑草もはびこったかという、謂わばルネッサンスのリアクションというような事について、ルネッサンスとの対比において、その比重の大さにふさわしい大さをもって研究し描き出したひとは少いのではないでしょうか。部分的にドイツの農民戦争などを研究はされているけれど。このケプラーという大数学者天文学者、はじめて数学に根拠をおいた近代の科学的天文学の創始者であり、地球太陽の軌道が其々の長さをもつ楕円形を描いていること、地球が自転しつつあることその他の真理を明らかにした学者は、ルッターの宗教改革の後の反動時代のドイツに生れ(一五七一―一六三〇年)、プロテスタントでしたが、ルッター派が、旧教に対して、「僧侶の敵」たる自説を強調する余り、ひどい宗派主義にかたまっていて、聖書にかいてないこと――地球は自転するという事実――を科学者が研究するなどということはひどい反対をうけ破門され故郷の大学にはうけいれられなかった。こんなことも、ルネッサンスを皮相に考えては、変な、わからない暗さでしょう。
このケプラーの時代は雄渾な才能の時代でガリレオ・ガリレイはケプラーの地動説が本になったとき、ラテン語の手紙をよこして、自分は同じ考えであったが、発表する勇気がなかった、とルネッサンス本場のイタリーから書いてよこして、ケプラーから却って、先生ほどの世界の誇りたる学者が、何でそれを御憚りになる要がありましょう、神の創造は完き調和にみちて居り、それを明らかにしてゆくことこそ神への最もうるわしき献身でありますという鼓舞を与えています。ガリレイはそれで力を得て発表して、ああいう始末になったのではなかったかしら。その点、ガリレーもケプラーも、其々の居住地の特性をすこしあやまって考えたのでしょう。ケプラーは小さいドイツの諸公国領をあちこち追われて転々としてプラーグにも住んだりした――ここで有名なデンマルク貴族天文学者ティホ・デ・ブラーエの助手として貧困な生活を送り、その死去後ドイツ皇帝づき天文学者となり、最後はカイゼルが未払いだった一万数千の俸給を請求に出た旅先でケプラーは死にました――けれども、そして絶えず、新教徒として生命をおびやかされ又正統的でないと新教から排撃されたが、しかしプロテスタントの土地に住み、その波にもまれたのでした。ガリレーはちがいますからね。ケプラーはふるえる手で、ジョルダノ・ブルノーの焚殺をよみました。後年はワレンシュタインが新教徒殺戮の只中でケプラーを庇護してワレンシュタインの没落と共にケプラーの一生も自然終ったのでした。
ケプラーの時代の大波瀾は、一年としてドイツの諸都・市を平安にしていなかったのが年表を見て分ります。何しろたった二つのときに、ネーダーランドとスペインとの間に大戦争がはじまり、フランスではバルソロミョーの大虐殺がありました。ケプラーの祖父は小さい公国の市長だったが、父は当時のドイツが傭兵市場であって、その一人となって、フランダースで旧教の兵となっていた有様です。分散して経済的にネーデルランドなどとは遙かおくれたドイツが、あぶれた若者をどっさり出していて、それらはみんな冒険を求めて――ドン・キホーテとはちがったもの――他人のために他国のために殺し合いを行い同志打ちを行っていたことは、実におどろかれる姿です。こういう分散状態はナポレオン時代もつづき、ビスマルクのとき迄つづき、従って、統一への情熱というものは、病的な伝統をもっているわけでしょう。
ケプラーは、アインシュタインよりも人間として純潔であり骨があり、其故偉大です。彼は、当時天文学と云えば占星術で、カイゼル時天文学者というのは一方では皇帝の運勢の番人であり、半分だけ科学者でありました。庇護者は庇護しているものの真価はブラーエにしろケプラーにしろ、ちっとも分ってはいなかったのでしたが、ケプラーは、星が人間を支配しないことをはっきりワレンシュタインに云っています。只ケプラーは全く活きた智力をもえたたせていた男で、当時の新旧徒の闘争の悲惨、無意味それを利する勢力の消長につき、つねに具体的観察をもっていて、占星術の予言は世人を常に瞠若たらしめる適中を示しました。(事実の諸条件からの起り得べき可能を天候と人事について語ったのですから)
こういう実証的な大才能はケプラーにおいて始めて近代が花開きそめたと思われます。お母さんは傭兵になって良人に彷徨され、それをフランダースの戦場へ迄さがしに行ってつれ戻したという剛毅な女でしたが、ほかの男の子は錫職人――当時のドイツにあって、尊敬すべき職業に従事した市民、兄より威張っていた男――一人をのぞいて、二人ほどならずものが出て、不幸のためエクセントリックな老婆となりました。そしたら当時のリアクションと小人的悪意によって(ケプラーへの)母親は魔女(ヘクセ)と云われ、裁判にかけられ、拷問され、やきころされそうになりました。この無実がはれる迄前後五年かかりました。老婆は地下の拷問室で卒倒しながらも自分は白状する何事もないと云い、ケプラーはこれは一人自分の母だけの問題でないと、実におどろかれる努力をして真に裁判の純正を求め、近代の方法――事実に立脚した法の適用――を方法として大公に示し、人文史上大貢献をしています。例が実に面白いの。魔女(ヘクセ)問題らしく、一人の農夫は、あのヘクセ奴がうちの家畜小舎の横を通ったおかげで間もなく牛が殺された、というようなことを云い、それが証言(!)なのよ。すると皇帝付天文学者ケプラーは遠路を泥だらけになってその農夫の村へゆき、小舎を検査し、家畜の飼育状態、農夫の日頃の素行などすっかり具体的にしらべ、その牛は「ヘクセ」が通る前から病気であったこと、病気になった理由迄明らかにして反対意見をのべ、それは誰しも肯かざるを得ません。其故、ヘクセにして殺し、ひいてはケプラーをも失墜させようとする連中は、ケプラーが出版の用事で留守のうちに婆さんをおどかしてころしかけ、ケプラーが大公からの書類をもって走(は)せつけて助けたというのが終末です。
天文学者と云えば星覗き、星覗きと云えばアンデルセンにしろ浮世はなれた罪のない間抜けと思っているでしょう?だのにケプラーは何と活々と、現実と偉大な夢を調和させ、偉大な夢のうるわしさに比例して活眼を具え行動的であったでしょう。
ブラーエは面白いのよ、デンマルクを学問を守るため遁げ出したのですが、ドイツ皇帝づきとなり、その迷信の面によって生活し、立派な貴族生活をしつつ孤独で気むずかしく、彼の科学は地球は自転せず、太陽が諸々の星をみんなふりまわしている(地球としては受動的)というところに止まっていました。性格的ね。こういう機微は小説家が感得するものです。(作家ザイレはしかし、ここに性格と頭脳の構成との連関はみていないのよ。)ケプラーは、風変りな魅力にみちた男性であったらしく、おどろく優しさと意志のつよさと純粋さをもって、謙遜でしかも何人もおそれることをしなかったようです。彼は、真理はよろこばしきもの、うるわしきもの、栄光あるものとして、その点では神の眼と自分の眼とがぴったり合うという体のふるえるよろこびを味ったらしいのです。乾いたところのちっともない、血そのものが瑞々しいというような男です。男の中の男がうち込んで愛し得る男であり、ワレンシュタインがケプラーの例のない真情の表現に対し、心をひらき、自分は旧教の皇帝を擁立しながらプロテスタントのケプラーに指をささせなかった所以も肯けます。
あんなにごたつき、血腥(ちなまぐさ)くても、その時代には未だ人物は人物を見出すよろこびをもち得ていたのでした。ケプラーは巨大であり、あの時代は巨大な渾沌でした。
私は自分がルネッサンスについて今まで皮相的にしか知らず、ドイツの歴史なんか全く知っていないことを痛感します。ゲーテのもちあげられる理由も、そういうドイツの歴史をかえりみれば、よくわかるのでしょうね。文化上の、ルーテル以後の旗じるしが、入用だし、心から欲求されたのでしょう。
ザイレはどういう作家でしょう。ツワイクと比較しておのずから感じるところは、ツワイクがあの敏感さをもってアントワネットやフーシェをテーマとして選んだ傾向、そのテムペラメントの本質の色調と、この作家が、万一一生にこの作一つしかないにしろ、ケプラーを捉えたということの、絶対のちがいが面白いと思います。ツワイクがオースタリーの出生であり、この作家はドイツの作家というちがいが、決定する以上の意味があります。
近頃ツワイクの仕事、このザイレの本、イギリスのストレチーの「ヴィクトリア」をよみ合わせ、伝記又は伝記小説について、学ぶところがあります。私の内面の世界は少なからず房々と重くみのった葡萄の実をとりいれ、それは今の私に多大の滋養を与えます。そしてつつしんで思うのよ。自分の日常が、こういう人間の偉大な光を、何の歪めることなく、自分で自分に云いわけせず、こんなに真直わが面を輝す光としてうけとれるように営まれていることは、どんなに感謝すべきであるかと。独力の可能の限界がわかっているからこそ。よくて。ここに小説家としての私が小さな盆からこぼれるところがあるのよ。小説は新しくならねばならず、古い小説の世界から私は彗(スイ)星となっている自分を感じます。彗星は凶兆ではなくて、ケプラーによれば、科学的に測定されるべきものであります。 
九月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月二十日
世の中には意外なこともあるものね、と申しても実例は、あなたがお笑い出しになることですが、ケプラーが生れた翌る年バルソロミウの虐殺を組織したフランスのカザリン・ド・メディチ(一五一九―一五八九)が、近代のバレー(舞踊)演技の最初の組立て人だという事実があります。謂わばあの時代の最も陰険な最も暗殺をこのんだこの女王が肉体と精神の高揚を芸術化するために一役買ったというのは不思議です。デュマはカザリン・ド・メディチという、彼らしい小説をかいていて、昔よみ、フランス宮廷というところのおそろしさを感じたものでした。メディチはルネッサンスの巨匠たちに仕事をさせた家で、その家風にしたがって、この芸術を庇護したのだそうです。大体イタリーがオペラの本場となったのは、宗教の本山がそこにあって、宗教劇、パントマイム、合唱団などの徐々の発展がルネッサンス時代に芸術的な高揚をとげて、法王だの大僧正だのが、作者となっていて、イタリー各地の貴族はその保護にあたっていて、ロレンゾ・ド・メディチは(レオナルドもいきさつがあった人)最大の人でした由。例のサヴォナロラは、そんなのは邪教だと云って獅子のように怒っていた由。タッソーね、あれもなかなか貢献して居ります。
カザリン・ド・メディチは一五八一年にパンタラジニという演出家をやとって、ジョイアス公の結婚式に夜の十時から朝の四時までぶっとおしの費用五百万フラン。女王や王女が海や河の女神として出演したのだそうです。(こういう伝統があるから、ツワイクの、マリイ・アントワネットにマリイが「フィガロの結婚」に出演したこと、そういう宮廷芝居の習慣をかいているのね。)
イギリスではエリザベス。面白いのはフランシス・ベーコンが、どっさりプロットと対話をかいたのですって。エリザベスの宮廷にいつも無駄口をきかず、陰気で、相当の陰謀家でせむしで、金も達者にためたベーコンが、ね。(だからシェクスピアはベーコンなりというような女学者も出たのでしょう)大体イギリスはバレーには冷淡だったのですって。シェクスピアのような人物は生まなかった由。フランスは歴代何かバレーのためにはやっていて、ルイ十四世は国民バレー研究所を立て、自分で二十六のバレーの主役を演じたそうです。音楽舞踊アカデミー設立が一六六一年で「人間悟性論」のロック(英)の愛人が、当時大人気者のサレーだったのだって。(こんな話はゴシップ的?そうでもないでしょう、ロックの時代の気風として、又イギリスがしかつめらしい皮をつけ乍らなかなか油断のならない通人をもっている証拠で面白いと思うの)
ミラノのスカラ座では一八四八年頃、オーストリア(ナポレオンからイタリーを奪った)とイタリー連邦との間の危機をしずめるため特別舞踊を上演して、大人気のエルスラー嬢が主役だったが、エルスラーはオーストリア人なのでその時命令された法王のメダルを頸からかけて踊ることを拒絶して、舞台の上で卒倒する迄イタリーの全観客にヒッスを浴せられたそうです。何十年か後の北部イタリーの夏も終ろうとするとき、スカラにトスカニーニよかえれとプラカートが張られたというのも感銘深いことです。現代コンダクターの王と云われるトスカニーニは、アメリカでこの報道を何とよんだことでしたろう。
余りあなたに適切でもない興味だといけないからやめにいたしましょうね。でも、あなたのブランカは御承知のとおりの欲ばりですから、こんなことを知ると、日本の封建貴族たちと能の発展を考え合わせやっぱり面白く思うのよ。野上豊一郎はギリシアの古典劇と能の構成の類似をあげて文博にもなりヨーロッパへもゆきました。しかし能は、一筋の道を辿りつづけて、ギリシアの古典祭のパントマイムのように、そこから舞踊や芝居、オペラを分岐発生させはしませんでした。テーマはやったがテクニックとしては。そこにも何か面白いことが見出されそうね。そして白状すると、わたしは自分ですこし覚えたいことは女学生時代から一遍自分で書いてみると、すっかり頭に入る癖だから、一寸あなたに我慢して頂いたのよ。しかし更に一つ我田引水をすれば、私たちの常識は広くて邪魔なことは決してなく、昨今の作家たちの広地域での活動ぶりを見ると、寧ろ常識の弱困になやむようです。多くの人は、その国の人々のもちものを、より科学的に説明してやるにつれて日本の独特性をも納得させてゆく、というような方法には全くかけているのね。肥った人という感じをくっきりさせるには、傍に瘠せた人を示すのが上分別という文化上の方法。最も自然な方法さえ手に入れていません。啓蒙される側では自分に馴染ふかいよりどころがなく来るからのみこめず感受が自然にゆきますまい。そういうことについても感じるところが多くあります。導きては導かれるものよりも常に勤勉であるべきです。
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安積から寿江、ひき上げて来ました。二十何日かいたのですが、身が小堅く肉づいて元気そうになりましたけれど、本気で二時間勉強すると夜眠れない由です。病人はやはり病人を中心とする生活を組立てないと無理なのね。病人同士かたまるというのでなく、丈夫な人間が引添って病人を中心に段々健康環に近づけてゆくという仕事を中心にした生活が必要なのでしょうが、うちでは、迚も不可能です。泰子が衰弱をとり戻せずこの数日来葡萄糖を注射していますが、食慾なく、母の目には益〃やつれを加えているらしいから。
泰子は全く苦心のかたまりです。一家の大きい犠牲に立っています。泰子は無心だし、母の愛情は情熱的ですが、人の体の力は限りがあるから、母親も五年来の負担まけで、内面の疲労――精神生活の放棄――は著しく、それだけが理由でなかなか本質的には大した落しものをしつつころがって行く日常です。幸、咲枝はああいう気質だから、よほどましですが。尖らず、鈍る形で現れるのですが。こういう子をもつ親は誇張でなく試練的ね。特に母が、ね。同情をいたします。しかし私は、やはりこういう子供が母をくい、兄弟の生活から奪い、一家から奪うものの大さと深さとを感じ、可哀そうで又恐しさを切実に感じます。しかしこの怖しさを母は見ないようです。不具の子はいじらしいが、対策もあり、生活の目標も立てられます。泰子は真空ですからね。吸収してしまうだけ。辛労も愛も。
現在三千軒ある出版業が、略(ほぼ)二百軒に整備される由です。文学、科学の各分科をみんな其々にふりわけて、専門出版店となるらしい話でもあります。文学書は『新潮』などのこるでしょう。『新潮』の出版部。
関係あるところではそろそろ大童らしい風です。出版外交史というような小冊子も資料は十分ということになるでしょう。出版年表などという単純なものでもないでしょう。
私の燐の注射はもうすこしで十本終りますが、二十本を一クルスとする由。そして何ヵ月か休んで又いたします。静脈は、やはり気重いのよ。小児科の林先生は上手だし、神経質でないし、音楽がすきだったりしていい人ですが。静脈が細くて工合わるいのは、私の弱点で、いたしかたもない次第。
風邪をおひきにならないように、どうぞね。 
九月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月二十五日
きょうは七十度よ。涼しくて体が楽なので、二階の部屋の大掃除をして働きました。ごみになった顔を洗ったところへお医者が見え、静脈を出したら、働いたばっかりだったのでふくれて見やすくて、痛くなく助かりました。
九月二十三日は、やがて『週報』で御覧になりましょうが、日本の国民が初めて経験するような生活の大切りかえの方針が公表され、昭和文化史の上に一つの記念すべき日となりました。学校は理工系統をのこして、法文科は殆ど廃止、廃校になります。音楽美術文科は伝統を今日までで一応うち切りとするわけです。
音楽学校の卒業式がこの三日間つづけてあり、それが東京の上野の音楽学校最後の卒業式となります。女子の方の学校はどうなのか、やはり文化系統はなくなるのかよくわかりませんが。夜間の学校も商業などはなくなります。学生の兵役猶予はなくなり理工が八ヵ月のばされます。十七種の職業に四十歳以下の男子がつくことを禁ぜられ、それは事務員から料理人理髪までに及びます。都役所だけで一万何千人とかの人が重要産業に向くのだそうです。
こまかいことは書ききれませんが、画期的な一歩であり、感銘も浅くなく日常生活も多く変化いたしましょう。うちでは直接関係のものが少いけれども、文学者を考えても阿部知二のように東北の講師をしたりしている人たちは、どうして暮すでしょう。純粋に語学の教師なら、理工科だってドイツ語フランス語英語は入用でしょうが、作家を半ばの魅力にして講師をしていた人などは大窮迫でしょうし、文科の教師たちもなかなかの困難にめぐり合う次第でしょう。
出版整備の見とおしも、この面から推しても略想像されます。三千軒が二百軒になるのみならず、企画は理工科出版と所謂教養に重点をおいて純文学は何パーセントを占めることが出来ましょうか。
自分の仕事との連関でも、深く考えるところがあります。そして、遂にジャーナリズムの枠をはなれて真の作家的生活を送るべき時に立ち到ったことを痛感いたします。作家の生涯に、こういう異状な時代を経験することは様々な意味で千載一遇であり、そこで立ちくされるか磨滅するか何らかの業績をのこすかおそるべき時代であり、各人の精励と覚悟だけが、決定するようなものです。生活の設計も従って一層本気に再構成されなくてはなりますまい。何となしの可能として考えられていた条件を一さいとりはらった上で組立てられなければならないわけですから。
それでも私としてはこういう時機にめぐり合う者として、どちらかと云えば仕合わせと思って居ります。私の場合では自分にかかわるいろいろの事情が、大変納得のゆく又作家として自信も失わない性質の条件で、そのことは騒然と爪先立った処置、身のふりかたとして状態をうけとらせず、もっと文学の本質に即して永い目で、日本文学の消長について自身をも含め考えさせ、それは生活の感情に浸透して居ります。いよいよ落付いて、という方向へ気を向けさせるわけですから。ただ、貧乏は一層ひどくなりますから、どうぞあしからず。そちらの最低限は(今ぐらい)何とかやりくれましょうが。マア何とかやってゆけるでしょう。こちらの方はおそらくそれよりずっと少額でしょうから。当分は国男さんの世話になるわけです。それは追々こうして暮していると、わたしという人間も暮しかたもわかりすらりと行けそうですから御心配下さらないでようございます。(いずれそういうことについてはもうすこしプランが定ってから改めてお話しいたしましょう。目下のところは、昨今の事情に応じて、去年の秋から今までのような経済のやりかたをすっかり切りかえて、ずっとずっと目前には窮屈ながらいくらか永続性のあるやりくり法を考えようというわけで、国男顧問が相当肩を入れていてくれます。現在のままですと、来年夏ごろにすっからかんで、あとは目下の印度同然餓渇地獄となりますから。)そうなっては、うちの顧問先生にしろ自分がアプアプ故迚も手のうちようがないから、という次第。
あなたにはお気の毒さまですが、こうやって無いというところに落付いて、世帯くさいいろんなものをさらりとすてて、又女学生になったような気分で、仕事考えているのも、なかなか清爽なところがあります。まあ、尤も、この冬どうしてあなたに暖いものをおきせしようかと思いなやまなくてもいいようにしてあったからそんなこともいっているのですけれど。
わたしが病気で死にそこない、そこから命をひろい、恢復期になっていて、何か新しい生きるよろこびが体にも心にもあって、仕事についてもこれまでのところはそれとして一定の段階に到達し、先の歩みはこれ迄のやりかたでは達しられないという自覚に立っているとき、いや応なしに内面集注すべき事情が発生して来ていることは、貧乏で辛くこそあれ正当にそれを生きぬけば、芸術家にとって全く祝福であると思われます。わたしが逆説的な恩寵として感じる心持、同感して下さるでしょう。巨大な樫の木が、人の目もふれない時とところで刻々のうちに巨大になるのです。そのような生命のひそかなる充実は何という微妙な歓喜でしょう。この時期の勉強如何で、一箇の能才なる者は、遂にそれ以上のものに成熟するのではないかというまざまざとした本能の予感があります。こういうニュースにふれながらこんな音楽の感じられる手紙のかける私達はつまりは幸福者であると云うわけでしょう。風邪は大丈夫?私は御覧のとおりよくなりました。 
九月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月二十六日
七八年前、三笠からツワイクの『三人の巨匠』という作家論が出ていたの、御存じでしょうか、うちにあるのはきっとあなたのもっていらしたのではないかしら。
バルザック、ディケンズ、ドストイェフスキー。バルザックをよんで面白くツワイクという人の特徴も一層明瞭になりいろいろ考えました。ツワイクはこの作家論で、それぞれの作家の作家精神の精髄をつかみ出すことを眼目として居ります。バルザックの精神を、全体を全体なりに掴もうとする熱烈、病熱的情熱。あらゆる価値の相対性、それらを型(タイプ)化せんとする偏執狂的熱中。自己陶酔、偉大なる断篇(トルソー)としてつかんで居て、特に金銭がバルザックの世界で最も変質しない普遍的な価値として(人間を支配するものとして)現れていることなどをあげて居ります。
ツワイクはこうやっていきなり作家の心臓の鼓動に手をふれる能力と果敢な精神をもっているのだけれども、バルザックが青年壮年時代をナポレオン没落後のくされ切ったフランスにブリューメルの罪過が最も悪臭を放った時代にすごされて、彼の大天才はああいう内容をとったということについては見ていないのね。その点ケプラー伝の作者ザイレの方が歴史の背景を描き出しています。
ディケンズをイギリスのヴィクトリア時代の枠にはまって伝統精神と不思議に一致した天才としてつかんでいる点も正しく鋭いと思います。この作者についてツワイクはよく歴史を見ているのだけれど。フランスのナポレオン時代後の腐敗の中からバルザックとスタンダールの出ていることは何か暗示にとんでいはしないでしょうか。
つくづく思うことはね、バルザックの偉大さはなかなか単純な若い生活経験では理解出来ず、且つ日本の今日までの文学者は自分の生活感情の内面に共感出来るだけ巨大な波瀾万丈的経験をもっていなかったと思います。今日以後の、勉強をよくして世界の事情に通じ、人間学に通じた作家なら、日本人もはじめてバルザックをかみこなす土台をもつようになるでしょう。そして、偉大さが分るということは好きとは別であり、更に未来の偉大な作家は決して再びバルザックの厖大な自己偽瞞、熱に浮かされた幻想の固定化は行わず、彼のあの薄気味わるいリアリズムとロマンティシズムの双生児(タイプを凝結させようとする――純粋な情熱(何でもそれはよい)への熱中)は生まないことを、銘記させる作家だと思います。
トルストイの方がわかりやすいということもよくわかりますね。バルザック、スタンダールというような作家はナポレオン時代以後が新たな形で経験される時、文学の世界で大いに学ばしめるところをもつ作家ですね。ドイツ文化史において宗教改革以後の時代、フランス文化においてブリューメル以後は近代を理解する上の重大な鍵でしょう。
この間も書いたように普通の文化史はルネッサンスの起首をよく描くけれども、その後につづく反動の時代の意義について十分知らせないのは何故でしょう。歴史のつかみ方の形式的なせいね。すべて一つの大きい必然の動きが、その動きそのものの裡にリアクションをふくんでいるということ、それをどう力学として処理し得たかということは興味つきぬところであり、人生のキイ・ノートのようです。
わたしなどには、まだまだ迚も端倪すべからず、のテーマですが。何故なら形式的な論理に立つ歴史の描写は、いつも等しい価値や力のように反動の発生を描いて居りますから。反動そのものが、又統一された方向への刺衝となる力をふくんでいるその生きた関係はなかなか描かないから。たとえば旧教に対する新教というものの関係は、謂わば或る力学の基礎方程式の運算を学ばせるものとしてもっと近く学ぶべきですね。いろいろの旧教と新教と。
わたしはそういう人生の力学が段々面白くて。そういう物理をはっきり把握して、しかもバルザックが自分が捉えてふりまわしたと思った対象に実はふりまわされた、あの熱情を、よく整理することが出来たら、それこそ新しい作家のタイプでしょう。七八年前、「バルザックから何を学ぶか」というものをかいて、バルザックの自己撞着と矛盾、混乱を明らかにしようとしたことがありました。それでもその当時ナポレオン時代後というフランスが、いかに独特な腐敗時期であったかを今よりもっと貧弱にしか知っていなかったから、謂わば卑小な時代に泥まみれとなった雄大な野望的精神のあらわれとしてのバルザックは描けませんでした。スタンダールは「赤と黒」の主人公に於て、卑小な時代に反覆される野心の落ちゆく先はどこかということを描き出しているのでしょう?何かが今私の内に発酵しかけているらしくて、一寸した風も精神の葉裏をひるがえすというようなところがあります。これは、生活が落付かないのではなくて、何か精神が敏感に耳ざとくなっているということですし、ヒントを感じやすくなっているという状態。
こういう落付かなさというか貪慾の状態というか、面白いのよ。この数年間こんな段々胸元に何かがせき上げて来るような気分を感じている暇なく、それだけ休む暇もなく次々にと仕事していて、こういう風に、本当に新しい諧音で自身のテーマが鳴り出そうとする前の魅力ある精神過敏の状態は、いい心持です。今の気持でおしはかると、私は断片的な感想などから書きはじめず、全く自身の文学の系列をうけつぐ小説をかきはじめるらしい模様です。
本当に腰が据れば、それが(小説をかき出すのが)おのずから本当だと思われます。そして、これは決してブランカとして悪い徴候ではないわ、ね。評論的資質をすっかり小説に自在にうちこめたら、どんなに胸もすくばかりでしょう。 
 

 

十月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月四日
きょうは、やっと晴れて、風も大してなく、あなたの袷も干して気持よくして明日もってゆけることになりました。きょうの空は青々して眩しくて一点の雲もなくて、秋らしくなりましたこと。これから少しは秋らしく爽やかになるでしょうか。
風邪はいかが?私の方はのろのろですが、きょうあたりは大分ましで、耳も鳴らず、洟が出る位で楽になりました。あんなに暑かったり寒かったりだったのですものね。
さて、本をまとめて、しまつすることも終り、これで今月は呼吸がつづくから、これであなたの夜具のことをちゃんとしまい、お義理の訪問をすこしずつすまして、やれ、と仕事に落付けるわけになりました。古本の公価がきまって、面白いのよ。来てくれた人は目白の先生の紹介で律気な人だもんだから、一冊一冊大体発行年代と定価見くらべて虎の巻を出して字引のようにして買い値をきめてゆきます。つい去年の秋ごろは、一円五六十銭の小説は大体半分で一束にかっさらって行ったのとは大ちがいで、思ったよりまとまり(二百冊ぐらい)そちらにも、すこしお送りいたしておきます。ちびちびと、点滴石を穿つ式にしておかないとね。三ヵ月毎に銀行に払うものがあるから。今月は其で。
お義理の訪問というのは、私が病気になったとき、大瀧の伯父(父の妹の良人)やその他わざわざ来てくれた人のこと、うちの連中子供らしい人で、今まではっきり話に出なかったのよ。きいてみれば、夢中の間に心配して来てくれているのだから、少ししっかりして来たらやはりお礼に行かなくてはすまないというわけなの。この伯父はもう七十でしょう、昔ベルリンで父とこの義弟とが一九〇四年代のハイカラー姿をうつした写真などもあり。一番可愛がられた伯父です。妻君運がわるくて、一番はじめのお鷹(よう)さん(父の妹)は、ヴァイオリンをやったりして一番風情のこまやかな人でしたが、二人の子をおいて死に、二度目のお菊さんは六人ほど子をおいて死に、三人目のひとは、名も覚えて居りませんが亡くなり、今四人目の妻君です。そういう工合で、総領息子とほかの子と折合いがよくない上、細君が段々下落して来て(心や頭が)何ともそこをちゃんとやれなくて、なかなかなのよ。伯父さんも家庭の内では私たちに諒解のつかないやりかたもするらしいし同時に傍でわからない寂しさもあるのでしょう。四人目の細君には会ったこともないのよ、今度行けば初対面なの。お茶の水出の人ですって。案外、マアと云われたりするのかも知れないわね。
そんなこんなで、ブランカこのところ一寸「雑事に追われ」の形です。しかし大体の傾向は大変よくてね。この間うちの精神緊張と何とも云えない震動は、案の定何となし新しいところへ私を追い出しました。うまく云い表わしにくいのだけれども、私の中で芸術家がモラリストを超克したとでもいうのかしら。或る夜私の心持がさあっと開けて、ほんとにそのときは勝った勝ったと光と音楽が溢れるように感じられました。
これにはすこし説明がいるわね。
由来、芸術家は、本ものなら、本源的にモラリストです。特に新しいタイプの作家はそうです。内面につよい人間生活に対するモラリスティックな衝動をもっていて、決して只の文学感興というものがきりはなして存在しません。ところが、様々な歴史の環境の中では、そういう本源的なモラルを求める気持が、その求めるままの形で生活されていず、従って、そのままの形で芸術化されなくなっている場合があります。人間及び作家として、これは試練の時期であって、多くの人々はその時期に自身の砦をあけわたし、モラルをすて、今の時勢には云々とその位だの金だの肩書きだのにかくれて、芸術をすてます。身すぎ世すぎをしてしまうのね。ところが、そうは出来なく生れついている一群の作家というものがいつの時代にもあるものです。昔の柳浪が一例ですが。この人なんかは明治三十七八年以後の時代に、自然主義の風潮に一致出来なかったというばかりでない理由から作家として自身のモラルに立てこもって、謂わば立ちながら往生した、天晴れなところのある人でした。今日の作家は、もっとダイナミックに考えるから、柳浪を必ずしもその形で学ぼうとはしません。そうでないのならどういう風に自身を導くか、芸術の方向で、ね。
この宿題はあなたがお気がついているとおり、もう何年間か私の宿題で、「朝の風」からあとずっとついて廻って居ります。「朝の風」は、そのモラルの中でああまで瘠せたことについて軽蔑するよりも注目すべき作品でした。全く危機を告げている作品です。
あすこからどちらへ流れ出すかということは私の生涯を決定するのだけれども、私はモラリストとしての自分が、丁度自分の音質や声量にかなった芸術的発声法をつかめなくて日夜喉をためしてその音をきいているような工合でした。ところがね、私が逆説的な福祉と云う状況になって、全く私は落付けてしまったのよ。ジャーナリズムとばつを合せる気をさらりと捨てたら、自分の声がききわけられて来たという工合です。そして、それは、うれしいうれしい工合なの。自分のモラル、人間のモラルの高さまっすぐさ美しさはいよいよ深くかたく信じつつ、謂わば、その規準があってはじめて大丈夫という工合で、生活の姿を全体としてつかんで、例えば、人間の生活の下落も、その下落の明瞭な把握において高さを描き出し得るし、自分はそういう一彫刻的作品を描いてよいと自分に許せる気になった次第です。それだけ確信が出来たのね。何年もかかり、生きかえし死にかかりしているうちに。バルザックのこと、この間一寸話していたでしょう?そして今思うのよ、バルザックなどは或意味で、今なかなかよめるのだ、と。はっとして、勝った勝ったと自分のうちに音楽をきいたのは、ツワイクの「三人の巨匠」ををよみかけているときです。私は自分の芸術家が、モラリストをしっかり自分のなかにのみこんだと感じたの。それが今までのようにわたしの横に出しゃばっていて、うるさく其でいいの?大丈夫?と啄を入れなくてもよいと安心してじっと私の感受性と瞳の中にしっかりはまりこんだことを感じたのです。
これは人を愛していたことを、はっと心付いた瞬間の心持と何と似ているでしょう。いつかしら日夜の間に心にためられていて、しかしその間には心付かず、或る瞬間俄に天と地とが初めてわかれたときのような新しい駭きで其を発見し、発見したときはもうすっかり其にとらえられている自分を見出す、その工合が。そしてブランカは経験によってこう判断するのよ。こんなに自然に、ひかれつつ抵抗するというような感じ全くなしに、ひきよせられ捉えられている自分をじかに発見した以上は、もうまがいもなしの本ものだ、と。そこを行くしかない、と。そこを行くということを、作品的に云うと、「伸子」以後をかくということです。断片としてあちこちの角度から試みられてはいましたが。
永年かきたくて、何だか足の裏にしっかりした地盤が感じられなくてかけなかった伸子の父の最後の前後を一区切りとして先ずかきます。それから、「おもかげ」の部分のかかれていない面、伸子、母、弟、時代と三つのものを、全体のかかわり合いの中でかきます。
それから書きたいテーマがいくつかあるのよ。凄い景気でしょう。ブランカが、紺絣の筒袖着て、兵児帯しめて、メリケンコのグチャグチャしたの(名もつけ難し)をたべて、財布に五十二銭もって、そして斯くも光彩陸離なのを、どうぞどうぞ扇をあげて下さい。こうやって、私は生きている、からには、私の作品をかくのは至当です。一杯の力のこもった倍音の美しい彫刻的な作品をかくのが私だとすれば、それ以外に何をかくべきでしょう。
いつぞや小説を集にのせるのせないで、私は、重吉の千石舟ですから沈みませんと力んで、すこしあなたに笑われてしまったけれど笑われてよかったのね。あすこで笑われて、ホイ、と思って、それから又ごねごねこねまわしているうちに、私の俗気を日本がふっとばしてくれたというわけでしょうか。つくづく思うけれども、私もかなりの弱虫ね。毎月毎月かかなければならないものがあり、それは其として通ってゆきマイナスばかりでないと、何か心の底に蠢きを感じつつ、やはり、かたい地盤にさわる迄身を沈められないのですもの。そして、モラリストは私の作家をくってゆくのよ。そういう場合だって、作家の生涯から見れば一つの敗北であり、悲劇であり、境遇が人を押し流す力をつよく感じさせるに止まるものです(文学史的に見て、よ)
こんないろいろの点から見て、この間うちの読書は、一生のうちでやはり特別な意味をもって回想されると思います。「マリー・アントワネット」だとか「フーシェ」だとか一見濫読めいていて、それでもずっと一本何かひっぱって、「ケプラー」をよんで、そして「三人の巨匠」で扉に向ったというのは面白いことです。読むものが、直接でない刺戟、思考の刺戟というような役に立って行って、或段階で直接なものにふれ、展開するのは興味があります。読書の神秘とはここに在るのね。
「三人の巨匠」は、ツワイクの一番緻密で芸術的で努力的な作品です。作家をその精神の核の性格においてとらえ描くということは余りやらないが、むずかしく、それ故面白いことです。今ドストエフスキーのところをよんでいます。この作家の二重性、分裂をそれなりこの作家の特質として、その明暗の間に走る稲妻を作品に見ているところは、大変魅惑的な労作です。しかし最後の「悪霊」ね。あれにはネチャーエフのことが出ているのではなかったかしら。あの大スラブ主義などは果して今よんだらどういうものかと新しい食慾を覚えました。ツワイクは、ドストイェフスキーの存在を、一九〇五年を前告した嵐と呼んでいるのよ。嵐雲のおそろしい気の狂う美しさとしているでしょう。
風邪をひいたのは気候のせいもあるけれども、数日間つきものがして(シャレタひとはデエモンと呼ぶ狐)すこし夢中になって精根をこきつかったからもあるのよ。今、小さいお産を一つしたようなところで、おとなしくなって少しくたびれて、一休みして、気をおちつけて、やがて仕事にとりかかります。
今年のお誕生日は、何をさし上げようかと思っていたのよ。去年は眼もろくに見えず、字もかけず、頭は妙で、その代り一世一代に献詩いたしました。今年は正気でしょう?詩も出来ないし。そしたら計らず、こういう扉を一つ廻転させまして、あなたならこれをもおくりものとして十分うけとって下さると存じます。本質的にはああいう詩の十篇より永もちのする値うちがこもって居ります。何故ならこういう力のいる一生に何度という扉のあけたては、気が合って、四つの手の気合いがそろって、じり押しに押した揚句くるりと展開するのですから。お祝いにわたしは小説のプランをさしあげようと思います。 
十月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月四日つづき
一人の作家のなかにある、作家とモラリストとの関係は、いろいろ興味ふかく且つ本質にふれた問題ですね。芸術の向上の歴史がそこに語られても居るようです。この間いろいろ考えているとき、芥川の「或る日の馬琴」を思い出しました。つづいて「地獄変」を。
こういう問題のチャンピオンはトルストイと考えられていて、たしかに彼はあの強壮な精神と肉体との全力をつくして立てられる限りの音をたててこのたたかいを行いましたが、考えてみると、実に不思議に自分の枠をはずせなかった人ですね。あんまり枠が大きくて、つよくて、こわれなかったのかもしれないけれど、最後の家出にしろ修道院に向ってであって、それは客観的には最も彼にとってやさしい方向でした。自分の一面の力への降伏であったと思います。更に面白いことは彼にあれだけの文学作品があって、それではじめて、あのモラリストとしての動きの意味や価値が明らかにされていることではないでしょうか。
「人はどれだけの土地がいるか」という民話ね、覚えていらっしゃる?いかにもあの時代の、地主の、良心ね。死んで葬られるだけあればよい、というの。そんな土地さえなくて、現代の人々は生き、そして死んで居ます。現代は、地球のどこにその土地を求めようというのでしょう。この間顔を洗っていて、朝何故だか其を思いおこし、トルストイの民話はつまらないと思いました。時代の制約の中でだけのモラルです。(少くとも或るものは)
馬琴の煩悶に托して芥川は、自分の疑問を追求したのね。しかしモラリスティックな欲求というものも馬琴はあの時代、もう武家の伝統が自ら推移したなかで、町人の文化の擡頭した時期に、伝統の擁護者としてリアクショナルなモティーヴからあらわれ、従って彼のモラルは前進する動きよりも類型をもって固まるしかなく、明治文学を毒した善玉悪玉式図式をつくってしまったのね。馬琴の悲劇は、モラルの本質がそういうものであったから、支那文学の影響も稗史(はいし)小説、綺談等からうけ荒唐無稽的となり文学の一面で当時の卑俗さと結びついています。春水と馬琴とのはり合いのことが、馬琴の側のふんがいとして描かれているけれども。春水はくだらなくてデカダンスであったにしろ、文学の発生として雑種でありませんからね、そういうところはあるわけです。
芥川はモラルと芸術性をあの時代らしく対立させ、それを追求はしたが、馬琴に托してしかも馬琴のモラリティーのうしろむきの工合をはっきりつかまなかったものだから、その先には「地獄変」しかなかったわけね。芸術至上主義をああいう形で押し出して、宗教的にしてしまったのね。芸術のために自分の娘をやいてもよいというのは、アブラハムが自分の息子をやこうとしたような、何と旧約風の憧憬でしょう。本をしまってしまってよめないけれども、「『敗北』の文学」の作者はこんな点をどう扱ったでしょうか、みたい気がいたします。
この問題について、私なりの回想があるのよ。小説をかくようになってしばらくして、開成山の家へ行きました。それ迄気づかなかった坐敷の欄間に一枚板に白うるしで細かい漢文が彫ったのをはめこんであります。只字と思ってよめなかったのをそのとき気がついてひろってみたら、おじいさんが開成山開発の事業、猪苗代湖水の疎水事業のためにどんなに身を砕いたかということを書いたものらしいの。私は何となくがっかりしてね、そういうおじいさんの孫として生れている自分のなかにある無風流さを考えたことがありました。
その時分は、佐藤春夫の祖父や父が詩文や絵の愛好者であるというのをうらやましいように思ったものよ。それからよくぞ自分は風流でなかったと思う時期が来ました。そしておじいさんが、自分の客をとおすところへそんなものをおきたく思った個人的な心持、個人的にむくわれなければむくわれたと思えなかった人の気持(しかも万人のためにと働きつつ)を思いやることが出来るようになりました。
それから全く新しい地盤で、文学の課題として、自分のモラリスティックな素質を考えるようになった時代。そして、この時に到ればもうこれはおじいさんの問題でも自分の問題でさえもないという次第。
一寸話がわき道に入るようですが、ふと荷風の「あめりか物語」(明治四十一年)をよんで、谷崎のロマンティシズムと対比して荷風のねばりのよいのがわかるようでした。谷崎というひとは官能的なのね、情感的デカダンスが荷風であるとすれば、谷崎はもっとずっと人間的には自然発生で、肉体の年齢のままに官能が老境に入るたちの人ですね。だからあんなにだらしない歌を紫式部にたてまつったりするのですね。荷風のあくどさはペンキ絵ではないわ、せいぜい水彩かパステルね。谷崎のはペンキ式です。春夫の生きのよかった時代がペン画に淡彩をほどこしたの。
荷風のこの「気分を味う」傾向は、年とともに傍観的となり、又薄情ともなり「※[「さんずい+墨」]東綺譚」「つゆのあとさき」等傍観そのものが文学の敗退を語っているようなものになるのだと思いました。
谷崎の方は、根が単純な官能に立っているから、年をとるとあくが抜けざるを得なく、あくがぬけたあとにのこるのは常識で、念仏っぽくなるという仕儀です。
日本の近代文学におけるデカダンスというものもこれまでの評論は、どこまでつきつめているでしょう、肉体に対してだって谷崎なんかつまりキレイなものをキレイとして見ているので、ストリンドベリーの肉体の描写の美しい動物らしさは一つもないと思われます。私はバネのゆるいおぼれかたはきらいよ、ね。
きょうは午後じゅう書いてしまったのよ。
もう暗くなって来ました。階下に干しておいたあなたの袷、誰かいれてくれたかしら。さあ見て来なくては。そして夜はその袷のとも衿をとりかえるのよ、御覧になったら下手で、きっとすぐわかるでしょう。きょう、ふとんやに坐布団縫いのこときかせました、ひきうけるかしら。
この紙はペンの先を案外に早く悪くいたします、そしてかきにくいのよ。この頃の手紙の字はきれいでありません。気ががさがさしているというのではなくて、画をちゃんとひっかけて、きっちりかくとしみて、スースーとかくでしょう?だからいやな字になるのよ。 
十月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月九日土曜日
雨の音が同じようなつよさで聴えつづけて居ます。ひさしを打つ雨の音、屋根にふる雨の音、葉から葉へしたたる雨の滴、それらがみんな一つにとけ合って、かすかにきわだついくつかの音の奥に柔らかく奥ゆきのある雨の日です。
私は机の前に居ります。紫の前かけをかけて。雨の音とともに、粒々と鳴るような気持で、この部屋に云わば巣ごもっているのよ。そして、どっさりのことを感じ、その感じを味い、考え、どうしたらあなたにうまくものを書く妻らしくつたえられるだろうとも思ったりしている次第です。
きのうの夜から、私の心も体も充電されたようになっていて、それはとても自分一人で沈黙の中に消しきることが出来ません。それらはどれも私から生れることを希っているのですもの。その希いは余り激しくてね、私を休ませないのよ、燃えたたせます。物語や断章やになって、それらは翔んでゆきたいとあせっています。
その一つの物語。
山と谿谷の景色の非常に美しい崖に一つの城がありました。山はなだらかに高く、その上にはひろい天がかかって居ますし、谿谷の襞(ひだ)は地球が熱かった時代の柔かさと豊かさを語るように幾重にも折りたたまれ、微妙な螺旋を描いて、底の川床までとどいています。景色の美しさにもかかわらず、そのあたりは自然の深さのなかにかくまわれていて、人跡が絶えています。山と谿谷を明るく又暗くするのは日毎にのぼって沈む太陽と、星と月ばかりでした。川床に流れる水は、常に清冽で、折々見えない力にうながされたようにその水量が増し岸の草をも燦くしぶきでぬらします。しかしその濡れ、きらめく草の愛らしさを見るものは、やはり人間ではありませんでした。大抵は月ばかりでした。
崖上の城はいつ建てられたのでしょう。古い城と云えば、大抵茶っぽい石でたたまれているのにその小じんまりとした城は白い石でつくられていて、円柱がどっさりあって、どうしても戦いの砦のために築かれたものとは見えません。
山と谿谷の自然の抑揚の中に、一つのアクセントとして、或はその起伏を最もたのしむよりどころとして、寛闊に、音楽的に建てられたものらしく思えます。不思議なことに、その城にも人が住んでいません。白い円柱(コロネード)の列や滑らかな曲線の床を照らすのは、やはり太陽と月とであり、そこをめぐって吹くのは風ばかりです。
とは云うもののこの城に人が住んでいないというのは本当でしょうか。何故なら、城の隅から隅まで一ところとして無住の荒廃は認められません。手入れがゆきとどいているような艷が谿谷を見おろすテラスにも、円屋根のあたりにも漂っていて、古びたおもかげはなく、たとえば、城そのものが自身の白さや滑らかさやを養う力を自分のうちにたくわえているか、さもなければ、ここにふる夜毎の露に特別な恵みがこめられていて、いつもそれを新しさで濡らすかのようです。こうして、静かな時の中を山と谿谷と白い城とは不思議な呼吸をつづけて居りました。
ある秋の日のことでした。その日は大して特別な天候というのでもありませんでしたが午(ひる)からすこし曇り出した山上の空は夕刻になるにつれて落付かなくなって、すこし葡萄色がかった紫の雲足は迅く、折々その雲のさけめから見える紺碧のより高い天の色とその葡萄色がかった雲とは、極めて熱情のこもった色彩で白い城に反射しました。川は迫って来る大気の中の予感にかすかに震えるように光って、低いところを走っています。すると突然、何か巨きい火花のようなものが、天と雲とを貫いて光ったと見るうちに、一条の稲妻が、伝説時代のめぐりかえって来たような雄渾さで、はっしと白い城の上に閃きかかりました。山も谿もその光にくらんで、城さえ瞬時は光の矢の中に霧散したと思われました。
城はしかし光に散ってはいませんでした。天にある力と地にこもる力が互にひき合って発したその唯一閃の大稲妻は、その白い城の一つの薔薇窓から直線に走り入って、薄桃色の瑪瑙(めのう)でしきつめた一つの内室の床を搏ちました。稲妻は光ではなくて、何かもっとちがった命の源ででもあったのでしょうか。薄桃色の瑪瑙の床は、稲妻に搏たれると同時に生きている女のように身を顫わせました。
天を見れば、炬火のような稲妻のかげはもう消えています。なだらかに高い山の頂きをみても、そこには空の色がてりかえし、今はしずまった灰色の雲の片がとぶばかりだのに、瑪瑙の床を搏った光ばかりは、どうしたというのでしょう。そこから消えず、燐銀の焔の流れのようにそこに止っています。その焔にゆすられるように薄桃色の床は顫えをおさえかね、果ては唇をでも音なくひらくように、こまやかなその肌理(きめ)を少しずつ少しずつ裂かせはじめました。
次の朝、太陽はいつものとおり東からのぼり次第に金色をました光の漣にのって、谿谷をすべり、山の頂をてらしつつ白い城の窓々を訪れました。が、朝日は稀有な見ものを見たように、暫く日あしをたゆたって、その薔薇窓のところから去りかねました。太陽は、数千万年地球の不思議をあまた見て来ました。それでもおどろきというものはまだのこされているのを知りました。
毎日、毎月、毎年、変りないなめらかな薄桃色の床に挨拶しつづけて来た太陽は、この朝、全く思いもかけない発見をしました。太陽が、あちら側の山河や人間の都会と村を照らしていた間に、この人跡絶えた城内で、何事がおこったというのでしょう、昨日までの瑪瑙の床は、もうそこには在りませんでした。こまかい唐草模様の浮いた四つの壁の中央に今みることの出来るのは一つの大きい花ばかりでした。しかもその花は、まだ生成の最中にあるらしく、肉のある敏感な花びらの一つ一つが、息づき乍ら揺れながら燐銀の焔の中からのび上って来ます。ああそして、どんなつよい命がふきこまれたからというのでしょう、そうやって揺れ息づきながら、花は尺度で計ることの出来ないほど微かな生成をつづけながら、名状しがたい美しい無我で花びらを呼吸とともに収縮させ、そして弛緩させます。収縮させ、弛緩させます。
太陽は、花のその息づきに、いつか自身の光波を合わせて息づいている自分に心づいて更に更に愕きました。
太陽は朝ごとに甦えり、死も老いも知りません。そういうものを知らぬ自分というものを知ってから、もうどれだけの時が経ったでしょう。今、花の収縮のなかにおちそうになった自分を感じ、太陽は、自分が今若くあるよりももっと前にあった自分の熱さを計らず思いおこしました。人間が生きていられるだけの熱さに、おだやかなるあつさにもなることを覚えてから、経た年月を太陽は思いかえさずにはいられませんでした。悲しみと歓びの不思議な波が太陽を夢中にさせました。太陽は我を忘れて、瞬間太古の熱さにかえりました。そして、灼き燃えたつ光の珠となって、その花びらの軟くきついしめつけの中におちて行きました。
異教(ペガン)の歌(ソング)というのは、どういう物語をさしていうのでしょう。ギリシア人は、太陽を決して花びらの間におちる神だとは思っていませんでした。信心ぶかく伏目がちなイエス、マリアの使徒たちは、一閃の稲妻が瑪瑙を花に変えるいのちの奇蹟を、自分たちの救いの中には数えませんでした。
さもあらばあれ。わたくしは、良人のために異教(ペガン)の歌(ソング)の美しい一節を奏でます。 
十月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(カーフ筆「静物」の絵はがき)〕
九日。隆治さんのところを申し上げます。濠(ゴー)北派遣堅第九四五〇部隊藤井隊です。堅というのはよくわからないことね、でも字はそう書いてあります。パンの上にでもつくのかしら。
お引越しはすみましたか。こういう台所はあんまり食慾をそそりませんね。 
十月十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月十一日
十七日までに着かすためには、もうきょう手紙を出さなくてはいけないことね。
ことしは実に迅く一年が経ちます。春までは半分正気でなくてすぎた為もあるだろうけれども、何よりあれこれと用も多かったからでしょう。これ迄念頭にもなかった種類の用事が例えば戦時保険一つにしても加って。私は小遣帳というものをつけて居て、それに今日は九月九月と書いていてさっきびっくりして訂正いたしました。あなたにも今年は迅かったでしょうか。
ことしは思いがけずひどい病気をなさり、やっとそこを通りぬけになってのお祝日ですから一層心に鮮やかです。何はなくても、菊の花はありますから、どの部屋も菊の芳しい香りを満々とさせましょう。天気がよい日を希います。天気が晴れると菊の匂いはひとしおすがすがしくていい心持ですから。みんなに何か食べて貰いたくてしきりに考えて居りますがどうなるやら。わたしはそういうことのためにまだまだ駈けまわれませんから困るわ。ああちゃんは泰子で一杯ですし。お祝いに、ああちゃんは丈夫な白の木綿ふろしきをくれました。これは全く素晴らしいおくりものよ。シーツになるのよ。わたしがはったとにらんだものだから、その魔力にさそわれて、おくりものに化してしまったの。
わたしはすこし恐縮に感じて居ります。それというのは、どうもわたしがお祝いにあげるよりも、たっぷりまことに心のこもったおくりものを頂いているようで。
美しき異教(ペガン)の歌(ソング)の一節は、わたしの肉体から生れたものではあるけれども。その歌のモティーヴをさずけられたとしたら、作者はやはりその啓示に感謝しないわけにはゆきません。小説の筋がきをお祝にしようと思っていたけれども、それはおやめにして、あの歌で代えます。その方がずっとふさわしいわ、ね。その上、生れてしまわない子について話しにくいと同様で、胎内にうごめいているものを早目に話し日の目に当てるのはどうも何だか変です。明日行くときに、多賀ちゃんが縫ってくれた暖かそうなどてら持ってゆきます。暖いようにと思って縫った心持を着て頂けたらと手紙にありました。何年ぶりかで、そんなどてらも召すのね。きっと暖かだろうと思います、そして、足もつめたくはおありにならないでしょう?こういう秋の季節の明暮、ほのかに足も暖いのは、ゆたかな和んだ気分です。
きょう、本棚いじっていたら小じんまりした小曲集がありました。勿論それはもうこの年月の間に幾度かくりかえして読まれたものではありますが、新しい気持でみると、又ちがった節々が目にもつきます、なかに人の心のあどけなさにふれたようなのがありました。「どうして?」という題なのよ。若い女のひとの心持として歌われているのですが、そのひとがわが小箱のなかの秘愛の珠玉をもっています。その珠玉の美しさは直接描かれていないで、しかもそれに傾けている愛着がどんなに深いかということを語るのに詩人は面白い角度からとらえているのよ。その女のひとは、余り自分の心を奪うその美しいものを、思わず見入る自分の顔を、鏡に見られるのも羞しく感じるというその心持からうたっているのです。わたしの眼差しはそれに牽かれ、珠の深い輝きが瞳に映る。やがてそれはわたしの面にまでもかがようのだけれども、自分にさえそれと心づかれるそのよろこびの空やけを、鏡よそんなに凝っと見ないで。その不思議な羞らいはどうして?そしてどこから来るのだろう、といううたなの。
単純な言葉の散文詩です。けれどもその調子には実感が流れていました。作者は男なのに、女のこころのこんなまざまざとした、一抹のきれいな雲に似た心の動きをよく捉えたものです。それは一つも嬌態ではないのよ。真率な、さっぱりとした、それでいて、いかにもなよやかな味いです。何だかこれ迄見落していたようで、こういう詩趣のふかさも面白く感じました。あなたはもしかしたらお読みになったとき却って心づいていらしたかもしれないわね。
この詩の作者は珍らしく天真で、卑俗な羞らいの感情などからは、神々のように自由です。それだけ情感はみち溢れて、溢れる水がきらめくように充実していて、高い情熱の焔のためにかげを知らない風です。でもこんな詩をよむと、本当に親愛を感じるのですが、敏感なところがあって、あんまり人並の限界を超えた美しさへの傾注の深さを、その表現を、我からはじらうところがあるのね、しかも、決してその横溢を世俗の枠におさめておくことは不可能なのです。鳴りわたろうとする楽器なのね。そして、ここにそういう資質の独得な歓喜と悲劇ともふくまれているわけでしょう。
でも、この詩人はしあわせ者です。自分の天才をうながす啓示を常にもっているらしいから。これは人間の生き甲斐というべきであろうと思います。
十七日ごろには、新しいふとんを敷いて、さっぱりとくつろいでいらっしゃれたらうれしいと思います。
十五日にゆくときは、おしゃれをしようと考えて居ります。でも果して、どんなおしゃれが出来ることでしょう。春、あんまり大気に生気が充満すると雷鳴がおこり、ゴッホのあの美しい絵のように爛漫と荒々しくなります。秋のみのりのゆたかさにもやっぱりそういう天候が伴うものでしょうか。数日来幸福な病気にかかり、きょうはおのずから快癒に向って居ります。
追伸
代筆のハガキ頂きました。あなたのところへハガキ出したあとでした。島田へも書きます。これは心づきませんでしたから。アンデルセンの本は、じかにそちらへ送るよう取計らいました。
「三人の巨匠」、終りに近づき。随分面白くテイヌの作家論などへも興味を誘われます。ドストイェフスキーの二重性格を実によく追っていながら、何か意外な軽々しさ、スリップのようにそれをレムブラントの明暗に比べています。何というちがいでしょう!レムブラントの終局の健全さ。ドストイェフスキーの窮局の不健全さ。一方の暖かさ(レンブラント)。一方の非人間さ。 
十月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月十八日
十五日には急に代理になってしまって本当に残念でした。おやとお思いになったでしょうと思って。火曜日の夕刻ひどいさむけがしました。おなかが空いたからかと思ったが食後も駄目。これは冷えたのかと入浴してよくあたたまって床に入りました。そしてすこし落付いたら又ゾーゾーなの。さては、面妖と思っていると苦しくなって眠るどころでなく、様子が妙だから体温計を出して計ってみたら八度七分。又三十分したら九度、一時間もしたら九度七分まで上って、いく分ぼんやりした気分です。予防注射していますし、あんなに気をつけてそれで頂いたのならマアいいや、だがうちの連中にはさぞオゾケをふるわれるだろうなど、考えて午前四時ごろになってふと喉のところさわったら耳の下がはれ出しています。ははあんと大いに合点して、すっかり安心いたしました。眠らず朝になり、人が起きてすぐ冷しはじめ、十五日には歩けるようになるつもりで力戦いたしましたが、氷やけで耳の下は赤くなったが、床から出られませんでした。
熱は翌々日位でとれ、もう十七日にはすっかり平熱で床に入らず暮しました。この扁桃腺のフクレでズコズコ云っていたのもすっかり解決いたしさっぱりした気分になりました。
扁桃腺が喉の外へ向ってはれたので、内へ向わなかったため食事はおかゆをたべられましたし熱もたいしたことなく助かりました。
しみじみもう病気は困ると思いました。人手がないから。自分が動けないと遠慮してつまりは氷もとけたっぱなしになりますから。本当によく気をつけ丈夫にしていなければなりません。
十七日はそんなわけで割合調子もよくなって居りました。せめて、てんぷらでもみんなに食べさせたいものと、二、三日がかりで奔走しましたが、休日と重るせいか、どこもかしこも休み。すしやさえありませんでした。
そこで、たべるものは何もなしとあきらめていたところへ、東北の友達のひとが出京して、珍らしくリンゴ七つその朝もらいました。今のリンゴはまアと歓声が上るのよ。それで何だかお祝いらしくて全くうれしくなりました。薄青いのや真赤なのや。遙々岩手から病気をしていた女のひとが癒ったともって来てくれたのですからおめでたいものなの。
雨でしたが、しずかなわるくない雨でしたでしょう?咲と寿とは緑郎のお嫁さんの実家へことわれない招待で午後から出かけ、国と私、むかい合ってのんびりしていて、いろいろ事務所の話、私の借金の話、寿の話、などしました。この頃いろいろ話すのよ、あちらから。
そして夕刻になったら留守番の良人というものは落付きのわるいものらしくて、急にゴタクタの食堂を片づけようと云い出しました。
「私はまだ働けないわ、やめようよ」
「姉さんは只みていてくれていいんだよ、時々声援してくれる位で」
「ほんと?何かひっぱり出して、姉さんそれ二階?なんていうんだろう」
「そんなこというもんか!」
セルの上にハッピ(本もののはっぴよ、大工の棟梁がくれた)をひっかけて国が着手しました。この食堂の描写をしたらオブローモフはだしですね。空いた大きい木箱をもって来ていらなくなったものは片はじからそれに入れます。わたしは鈴木文史朗のヨーロッパ旅行記をよみよみそれを見ているというわけ。そして感服するの。
「こうやってみていると、やっぱり国男さんでなくちゃ通用しない片づけかたというものがあるのねえ。ああちゃんがいない方がいいね。アラそれやっ子の薬よ。アラそれはお父ちゃまて云われないからね」
「それゃそうかもしれない」
「私はもううわばみ元気が抜けたから片づけはきらいになっちゃった」
ウワバニンとかいう砒素の薬(それをうちはウワバミというのよ、きらって)を水上さんは注射してその刺戟で亢奮していた頃私はよく女人足と自分をよんでいたでしょう?(いやね、私の神経は丈夫にするためには鎮静させなければなりませんでした、だのにね。ステュミレートする必要は、神経の弛緩した病人にいいでしょうが。私は緊張して障害をおこしたのに。あの頃はいつも苦しくいつも落付けずいつも働いていなければいられなかったのですもの)
二人が帰るすこし前まで国よく働いて、私は一寸しぼった雑巾であちこち拭いて手伝い夕飯後、寿が、大英断でこしらえたヨーカンまがいをたべました。
こんな風な一日でした。毎年ぐんぐん変りますね。白木の書類分類箱があるでしょう、あれを愛用しているので、その上へ日頃気に入っているが、余り堂々としていてどんな花も似合わないようだった古九谷の花瓶に白い菊をさして飾りました。そしたらそれの美しいこと。白い花の白の美しさ、それは生きていて、やきものの白いところのつやを引き立て、更につよい渋い赤と緑、ぐるりと黄色い線と実によく調和しました。純白の花の、しかも大輪な花が似合う花瓶なんて相当なものよ。それは虚飾のない男の美しささながらで、例えばこの色彩の濃い調和とボリュームの深さをゴッホが描いたら、どんなに心をひきつけるようだろうかと、飽きることを忘れて眺めました。安井曾太郎が来たら私はこれをかくしてしまうわ。この大家の匠気はきらいです。ゴッホは春の杏の白い花をあの独特の水色と朱で何と美しく心をかたむけて愛し描いているでしょう。
菊は十七日の朝から飾られていて、私は机の前に坐って、やや右手の下方から眺めたり、夜、スタンドの灯のややほのかな逆光に浮立つ白さを眺めたり大いにたのしみました。ことしは美味しいものもなかったし、賑やかでもなかったけれど、美しさでは一等でした。その美しさは、私の心の中に盛に流動し、胎動している仕事の欲望とよく照応いたしますし、その上、その美しさをわたしがどううけとろうとそれも私の自由。
そうそうその上、二ヵ月ぶりのお手紙午後頂きました。いよいよあげるより頂いたお誕生日ね。
久しぶりで、ホラ
とみんなに披露いたしました。それからくりかえしよみ、小説のこと賛成していただいてうれしゅうございます。段々考えていると、すぐあのあとからひきつづき腰をおろして書いて見ようという気がおこりかけて居ります。それぞれの時期にそれぞれの問題があり核心的なテーマがありますから。あの頃ではわからなかったものもわかったところもありますし。「四十年」をペシコフはソレントでかきました。「二十年」は書けるわけです。「伸子」の発端から云っての。
あれにつづくすぐの時期から出発位までは一つの区切りとなります。その先の五年が一つの区切り。その先の二三年ほどが一かたまり。少くともこの位の群像はあり得るわけです。この間の手紙で云っていた部分は、飛火した大火事の口火めいた性質のものだったのですね。伸子と作者との間には前篇になかった大きい距離があります。中篇的作品の集積とはしないで、はっきり長篇の構成をもってかいてみましょうね。
「伸子」は建てましの時を予測して柱(骨組)を建物の外側に出したまま歳月を経た建築物のようなものですから。テーマは終曲を奏していないのですもの、本質的にね。おっしゃっていたとおりです。しかしそれは分っていて、分らなかったのね。(かかなかったところを見ると)
鳥籠のあとへ来るのは、針金のかごではないがやはり一種のかごで、しかも其はまとまった形をととのえていず、歪みそのものが語っているものの多い事情です。
伸子が小さいエゴイスティックな生活防衛の生きかたに堪えないように、伸子はその空虚な女でも男でもないような事情に耐えなかったのは、追求される価値をもっています。女の歴史の青鞜時代とその後の時代との格闘でもあります。テーマはここにあるでしょう。「青鞜時代」の悲劇が描かれるというわけにもなります。その時代には属していないが、まだ自身を発見していない伸子は何とたよりなく、しかも内在するものに、ひしとすがって、彼女の道をたずねるでしょう。我々の女主人公を愛して下さい。あらゆる小作品の列が、大きい真空に吸い込まれるように次々と長く大きい作品の中に吸収されてゆく光景の雄大さ。これは私の生涯に於てはじめて感じる感動であり、芸術の大さであり、大きい芸術の大さです。大きい芸術家にとって、この大さは遙に大であると思うと、私は昔の天文学者がやっと望遠鏡をわがものとした時のようなおどろきに打たれます。これをかき通せば私もどうやら大人の叙事詩をもつことになるでしょう。
体のよわさがまだあって、自分にとってまだ十分強固と思うに足りる自制力がなさそうです、仕事をしてゆく上で、よ。制作を遂行させるに大事大事な力が。ですからポツリポツリと考えて、感じを追って行ってゆっくり準備いたします。喉元にこみ上げるようなものがあります。何年この欲望をこんなに大切に、ひっそりはぐくまなかったでしょう。
今私が病気であることの天の恵のいや深さ。あなたもブランカはブランカなりに恵おろそかならぬものと思って下さるでしょう?わたしの仕合わせは人間生活の礎の中に据えこまれていて、私が其を掘り起さなければ宝と知れない宝であるとは興味つきぬことです。
気負けがおこると一大事ですから、もうあんまり小説についてのお喋りはいたしますまい。子供をおなかにもっている女のように、私は時々あなたに、小さな声でホラ、動いてよ、と告げて笑うでしょう。時には、手をとって丸い柔かい球なりのおなかの中に動くかすかな気配に黙って触れさせるでしょう。それであなたは万事を会得なさるのよ、母子とも健在なり、と。生れる迄、母親しかその存在も生長もじかには感じないという、いじのわるいよろこびを私はブランカらしく満喫しようという魂胆です。そして大いに神秘的になります。だって生命をうむものは神秘的なわけでしょう?但、私の神秘さはヒステリーの全くの消失という、良人にとっての至福となって現れます。 
十月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月十九日
又曇天になりました。いかが?こちらはずっと調子よくなおりました。木曜日ごろ上ります。
きょうは一寸御相談です。Tの結婚について。あのひとはもう二十七八になりましたが、田舎では思わしいこともないらしくて未だにああやって居ります。田舎らしい好条件がそろっていないからでしょう。ずっと気にして居りますが、これぞという思いつきもなくていたのですが、あなたは、もしや昔、牛込区の坂の近所のきたない下宿にいた、Nという早大英文科か何か出た人のこと覚えていらっしゃるでしょうか、もう四十近いでしょう、私は全く存じませんでした。わたしが留守の間本を処分するについて戸台さんにたのんだらこの人と二人で来てくれて丁寧に世話してくれたそうで、去年の暮又一かたまり払ったとき初めて会いました。今そのひとは横浜の航空機の会社につとめました。私の見たところでは人柄がじみではあるが、或るあたたかみがあり、いろいろ苦労もしたらしいから考えかたもふわついていず、瀧井孝作と俳句をやったりしている様子です。そんなことで何かわかる人柄で、手織りの紬のようだが、孝作のようにその味だけの人でもなく近代の精神ももっているらしいが、大規模の人柄ではなくて、妻はやはりうちをキチンとしていくらかは風情あるこころも解するという程度の人がいいらしいのです。てっちゃんが知っていて、わるくない人間だということでした。人柄のよさ、風流のスケール、現実性いろいろ考え合せ、其はTの求めている程度にやや近いのではないかと感じます。日常性のうるおいになる程度の風流や正義感はTの欲しているものであり、日常の秩序を狂わす程強烈でない趣味として細君が文学的なのもわるくないのが一方の気分のようです。Tは苦労してしっかりしていて、もの分りもよいのは長所ですが、頭が早く、世俗的にもまわります。もしその面を研く結婚をしたら、かなりキメの荒いものになりそうですが、そういうところをNという人のほとぼりのある人柄がつつんで、人生には金と地位以外の目やすのあることを生活の気分としていけたらTのよさも生きそうに思います。
もしあなたが御同意でしたら私はTにこの話をきかしてやり、もし気が向いたら出て来て会って見たりするのもわるくないと思いますが、いかがなお考えでしょうか。これ迄私として可能のありそうな人を知らなかったし一方から云えば、おせっかいをして責任を負うのはいやでした。今だって責任を負わされるのは苦しいが、Tの気持思いやって何か傍観しかねます。S子の実際を身近に見ると同情をいたしますし。兄と妹とは兄が結婚するとむずかしいものよ。だからもし双方よいのなら、と考えるの。全く私たちの柄にないことのようですが、自然にゆくならそれもわるくあるまいとも思います。何もないTは、何もないのを不思議にも思わぬ人のところが楽でしょう。大阪のKは全く虚飾的結婚して、えらいさわぎしたのですから。妹のものまでタンスにつめて行くという風に。
Nという人は背の高いやせぎすの人で髪が白いのが多く見える人です。Tが黒髪つやつや頬は紅というキューピー亭主が趣味なら駄目ですが。それも云ってやって。あなたの御同意をうけたらすこしこまかくきき合わせしらべて見ます。ケイ類などのことも。一郎というのだから総領と思いますが。兄さんのことも普通はキズになってTの話もまとまらず来ていますが、その人なら扱えるでしょう。世話する限度も分ってTとして安心ではないかしら。
全くまだコントンの話ですがどうぞ御意見おきかせ下さい。それによってどちらかにいたしましょう。霧のように消してしまうか、すこしはまとまりそうにしてみるか。ではきょうはこの話だけ。
住むのは横浜の郊外の由です。 
十月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月二十四日
灯のついたところでお目にかかったりすると、何だか夜じゅうそこにいるような珍しいおもしろい心持がします。日が短くなったのね。あの日来信一束うけとりました。バルザックもありがとう。何年来かたまった手紙はかなりでした。それに封筒の紙がよいものだから新しいようにピンとしていて、今時見るとどこかよその国から来ているように印象が新鮮です。包みからはみ出した一つを待っている間によみかえしました。偶然達ちゃんの御結婚の日のことを野原から書いたものでした。妙なもので、時を経た手紙は自分で書いたものながら、やはり専門家らしく客観でよみかえしますね、そして、あんまり上々の手紙でもないナと思うのよ。こまかく書いているけれども気がせわしいところがあって。
一行一行をゆっくり辿ってみると、それがわかります、ですからきっとあなたもそれはお感じになっているのでしょうね。たのしんで書いてはいるのだけれども、いかにも迅い文字の運びで。
でも、あなたはちっともそのことについては苦情を云わず何年も辛棒して下さいました。毎日どっさり書くものがあって、その熱気のほとぼりの勢で思わず書く手紙はああいう自分としての連続したスピードがこもってしまうのかもしれないことね。
今はそれならどんなでしょう?手紙をかくのが唯一の執筆だというとき。やっぱりブランカらしくのぼせて早口でしょうか、あぶないものね、又何年か経て見たら上々でもないと、我から乙をつけるでしょうか、それが成長の証拠ともさすがに申しかねます。
手紙については面白いことを考えます、というより発見します。わたしは十六の時から、1930までずっと日記かきました。
その後かかなくなって又書こうかと折々思いながら書かないのは何故かと考えてみたら、私が日記にかきたいようなことは能う限りの率直さでつまりはみんな手紙にかいてしまうのね、だから日記はダブッテもうかかないということになってしまいます。何か心に目立つものをうけとれば、いつも手紙に書いてしまうのですものね。日常のこと、文学上のこと、そして、計らずもこれは日記をつける以上に有益なのかも知れません。何故なら日記はひとり合点承知の上。手紙は手紙ですものね。その上日記にはしない表現の上での積極が加ってもいて。だからもしかしたら手紙を私はよほど大切に思って書いてよいのかもしれないわ、心持の上での大切さと同じくらい文学上の大切さを自覚して。しかし、そんなこと忘れて書くところ書いているところに手紙のよさはあるのでもあります、只今唯一の願いはせっかちでない手紙をかくということよ。仕事に自分を馴らすために、ワアーッと勢にまかせて一度に何枚もかいてしまわず、念を入れて二日にわけてかいてみようかなどと。手紙には大抵三時間以上費します、一日分の制作として十分よ、もし緻細にかいてゆけば。
お医者の意見で、私がすこし平常の仕事に耐えるようになるのは来年の夏ごろとのことです。一人前の外出、一人前の仕事の意味で。呂律(ろれつ)もちゃんといくらかよくなって。しかしそれまであんけらかんとしていたくないから私は生活をよく整理して、一番つかれる外出とか来客とかはこれからも最少限にして仕事をすこしずつなりともしたいと思って居ります。
風邪大したことにおなりなさらないようにね、国もきのう、きょうはドテラ着てフラフラです。私のグリップというのは菌が血液に入って淋巴腺がはれて困ったのでした。
グリップというのは、二度ほどやったからお医者さんが一こと云ってくれれば注意したのに。知らず、すこし早くおきてあとよくなかったのでした。咲が私の枕もとへ来て女中がなくてとても駄目だ、いる人は病気で臥たというのだもの、臥てもいられないわけでした。
咲は神経衰弱をなおすためにこの頃自転車で一日に二時間近くのりまわし、それでやっと眠り食べられる方へ向いて来て居ります。泰子は純(ジュン)生理上の弱さですが、大人への影響のしかたは複雑で、心理的となり、遂にモラリスティックな問題にまで入って来ます。この点がもっともおそろしいところです。泰子に体をくわれるのはよいとして、心をくわれ、一家の健全性をくわれるのは許せない気がします。
こんなにむき出しに自然の暴威を目撃することは珍しい経験の一つというべきでしょう。母の本能性は尊くもあるが余り盲目でありすぎます。一家の健全性についての責任があるというようなところまでゆけば。あなたに迄とんだとばちりで御免下さい。もうやめましょうね。いろいろな心理とモラルのクリシス(母、女として、妻として)を感受するのが収穫であるというだけでおさまるには、私は少し人間ぽいのよ。そんな三文文士根性に止まれない健全な人間としての憤りがあるわけです。しかし咲として泰子にからむ自分のいろいろの動揺をたたかってゆくことはやはり一つの大きい訓練です。こういう本能的な女性の人間成熟のためにこんな自然の材料が与えられているということを考えるべきでしょう。これをも宝というほど人間のキャパシティーは巨大でしょうか(?)
其にしても人間は面白いことね。咲にしろ私にしろ泰子が可愛いとかいじらしいとかそんな一面の「いい心持」で人間成長はしなくて、むしろ逃げられない負担とたたかう心理の内でだけ豊かにされ、成熟し勝利し得るというのは。
こうして人生のテーマは深められるのね。生活的に咲の正気の側に私というおもりのついていることは大変いいことです。神経のエクセントリックな衝動とのバランスの意味で。そして大局には私をもゆたかにするのでしょう。咲枝をよく理解し同情し、いろいろの生活の障害の本源を理解しようとすれば、やはりおのずから見るべきものは見なければならずですから。
きょう手紙かき出すときにはもっとほかのいろいろのことを話そうとしていたのでしたがおのずから「うっせき」が洩れました。
「三人の巨匠」は少しずつよんでなかなか面白いテーマがひき出されます。シェクスピアが最大の人間通であるとし、彼の全作品のテーマは常に何かの「誤解」である、そこからの悲喜劇であると云っています。「オセロー」ね、あの女主人公と主人公との間の誤解、「リア王」の誤解、しかし現代の人々はああいう単純な誤解の上にあれだけの悲劇は発生させず、従ってかけません。ああいう誤解そのものが生活から減っていますから。この点が私にはひどく面白いのです。時代と文学のテーマとの関係で。シェクスピアがあんなに単純な誤解、殆どおろかしき誤解の上に、あんなに人間性を乱舞させ得たのは何故でしたろう。それは「誤解」がその時代最も人間性を解放するテーマであったからではないでしょうか。交通の不便さ、しかも拡大された地球、発達しはじめた産業、しかし中世のしっかりした身分別。最後のこのものは、リアとコーデリア、オセロとデスデモーナ、人間と人間とを型にはめた関係におきますが、誤解はそこに加った人間の心の積極な動きとして生じ、そしてそれをキッカケに人間性を溢れさせました。意志の疎通の欠けたところからだけ誤解が生じ、(しかし誤解の生じるだけ型やぶりがあり、)=コーデリアの潔癖=それがシェクスピアの文学で典型の単純さでつかまれました。それだから人間をあれだけ活かして動かせ、活人間として今日うけとれるのではないでしょうか。そうだとすれば、大きい文学は必ず、その時代の典型のテーマをもつべきであるし典型のテーマというものの深まりは今日ではもう世界史的スケールのものであり、それは単にマニラ紀行ならずという大課題が浮んで参ります。いつぞやシェクスピアの作品を分析したシルレルだかの本がありました。時代にふれて勿論いましたろうがテーマのそういう点についてそういう文学としての本質についてどうかかれていましたでしょう、大文学というものについてその骨格についてはなかなか深く、文学をそこで捕え得るか否か及びそれを作品化する力量の問題等興味つきません。日本文学の古典にしろ、国内的にそういう歴史は踏んで居ります。しかしシェクスピアのように人間爆発のモメントとして「誤解」はとらえられて居りません。近松が一番可能を示す作家ですが、作品の中ではどんなに展開しているでしょう。誤解以前の「約束」どおりの動きを人間の動きとして動かしがたくうけとって相剋する人間性だけを彼はとらえたと思いますが。そこに日本文学の根づよい特色があるわけでしょう。文芸評論というものの奥ゆきについても考えます。同時に内国的に或る統一段階に到達した国の文学の創造的衝動の消長の問題も決して見のがせません。新たな一種の困難と貧困に当面していたかのようにあるのは何故でしょうか。あなたがゆっくり横になりながら答えを見出して下すったらと思います(これは今後の文学がその国でおそろしく豊富に花咲くだろうという明かな見とおしとの対比において)。文学者の成長というものに要する長い時間、それから文学的資質というものの拡大の鈍さ(そのことは各面に云えるでしょうが。例えば技術家的資質の本当の精神性への拡大の鈍さ、としても)文学がつまりは文学的資質でだけ解決されなければならないという、或種の文学者にとっての無限のよろこびと無限の苦しさ。(どんな作家でも彼がもし本当の作家であるならば、自身いかに雄々しく幾山河をばっ渉しながらも、つまりはそれを作品に再現する静かな時間を望まざるを得ず、それを与えざるを得ず、作家は自身の限界を突破しようとするやみがたい衝動とそれを作品にする外面的孤独沈静の時をのぞむやみがたい衝動との間を絶えず揺れているもので、作家の養成と成長との助力はこの機微にふれているものであるということ)
文学的資質が拡大し脱皮するためには文学より外の刺衝が入用であり(志賀直哉の時代に美術と音楽がそうであったように)近代ではそのミディアムがもっと科学に接近してい、しかも科学の資質では文学そのものではなく、例えば「北極飛行」は全く新しくよろこばしい文化資質の典型の一つでありますが、文学作品ではなく、文学作品として「ピョートル大帝」がやはり今日までは大作として代表され、しかしあの資質は決して「北極飛行」よりも新しいものではありません。ここにも文学の資質の新しく発現する可能のむずかしい過程があります。これから後十年経てば、この問題はおのずから全く新しい答を見出すでしょう、しかし、おそく花の開く国ではあとまで考えられます。だから或時期における文芸批評の大切さというものは想像以上であると今更思われます。或意味でより若い新しい資質がそこに発芽するのは当然であり、より旧墨になじむ文学的資質はそれと摩擦し、しかし一方で魔法の杖のように新しい資質へよびかけそれを引き出すものです。新しい文芸評論は既に自身の新たな分析力による段階を脱し、分析しつつその分析の美しさ精神のリズムの綜合的な魅力でそれをおのずから綜合的な創造的な鼓舞へ向けてゆくものでなければなりませんね、その志向において愛に燃えていなければうそです、人生へ向って、ね。どんなにそういう評論をよみたいでしょう。「三人の巨匠」はややその渇をみたします。よみたい欲が自分に幼稚なものも書かせました。が、私はもう小説に限ります。あらゆる私の作家としての問題、宿題、予測をすべてあなたに訴えることにきめました。私は小説のことがこの頃又すこし分り、評論のことも又すこし分って来て、制作として二途を追いにくいことが明瞭となりました。或る成長の後二つは却って兼ねにくいもののようです。どちらもそれぞれ全力を求めます。二つの神に仕えられないと昔からいうのはうそでない。
私は自分の中の評論家にいくらか手引きされつつ刻苦して自身が呈出している課題を克服して行ってみたいと思います。我々の世紀、私たちの時代、限界のなかで、文学の資質はどの位まで更新し得るものであるか、そのすべての条件を試みてみとうございます。私に小説のことがすこし分って来たというのはまやかしではないでしょう?こうして、私は自分の問題から段々ぬけ出して、日本における一定の世紀の文学的資質というものへの答えを捧げたいと思うのですから。これは何と謙遜な、若々しい、願望そのものにおいて生新な希望でしょう。それを成就させる根気と体力とを与えたまえ。作家としての立場から云えば、卓抜な評論家にとって十分素材となり得るような作品の系列をもつということは一つのよろこびでなければなりません。作家の義務でさえあるでしょう?愛する評論家を文学の不毛な曠野にさらすことは出来ません。 
十一月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(電報)〕
リンパセンハレテユカレヌユリ 
十一月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ブーダン筆「海辺」の絵はがき)〕
十一月一日。三十日のお手紙ありがとう。きょう(月)電報打ちましたがうまく火曜日につくでしょうか。先週ふとん仕事や何かでずっと用事つづきで暮したら、グリップの再燃で、今度はいいあんばいに熱は七度五分でおさまりましたが、リンパ腺がすっかりはれて氷嚢づかりです。あの位一度血液に毒素を吸収してしまうと、更新がむずかしいものと見えます。細菌に抵抗力のよわい血液になったみたいね。今度は大事をとって、今週すっかりチッ居いたします、御免なさい、くりかえしをやったりして。大いにおとなしくして居ります。 
十一月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月五日(前略)
きょうの新聞でいよいよ出版整備のことが発表され、「実績」にこだわらず、「性格」で行くこと、今までの形をすっかり変えて、のこるのも統合して、公的な存在となるべきこと、益〃書籍も弾丸であるということをはっきりさせ、二千軒は二百軒以下となるそうです。大観堂のように白水社のように小売やが出版するのは原則としてなくする由です。東京堂、三省堂、その他どうなるわけでしょうね。大したことです。文学者はどうするでしょう、何故なら書籍は弾丸で即ち消耗品であってよいかもしれませんが、文学は消耗品でも破壊力でもありませんから、そういう意味で出る本の内容とはなりがたいというところもあるでしょう。
繁治さんの勤め先もこのためにどうなるかというわけだそうです。久米正雄が何かの会で「作家は小学教員になるということも真面目に考えている」と話したそうです。文学もこういう時代を経て文弱ならざるものに到達するのでしょう。
高見順がこの頃『東京新聞』に「東橋新誌」という小説をかいて居ります。このひとはこの頃明治初年のものをよみかえしたと見えて、題からして「柳橋新誌」ばりですし、作者というものを作品の中に登場させ、文体もその時代めいたニュアンスで内容は今日をとってかいて居ります。苦心のあともわかりますけれども、何となし今日の文学というものについて読者に感想を抱かせます。『文芸』の「まだ沈まずや定遠は」とともに。あの演説(今月号)にしろ、明治初期の文学がその未熟な向上性においてもっていた演説口調と、今日のとはまるでちがいますし。文学上の工夫というものが、体のひねりみたいなものになってしまうのは、この作家の著しい特徴ですね、「描写のうしろにねていられない」にしろ。ある敏感さがあります。神経質さがあります。それでくねりくねる。くねる運動は常に前進のみを意味しないというところに悲劇があるのね。あり体に申せば、今日、文学は工夫の域をこえてしまって居ります。工夫で何をかなさんやです。そのことを腹に入れて度胸を据えなければ、文学は文弱なるものに止ってしまうでしょう。もうすこし想像力が豊富だと強壮にもなれるのにね、この頃よくこんなエピソード思い出します。コーカサスの山越えをしようとして、丁度山脈のこちら側の終点をなすウラジカウカアズという町に夜つきました。ホテルは今時珍しい瓦斯燈で、あおい水の中に入ったようなガランとしたホールのところにいたら、フェーディンという作家が来合わせ、明日自分も越すが同行しないか、自動車は六人のりだというのよ。同意して朝玄関へ出たら四人と二人のりとが来ていて、フェーディンの女房が、四人の自分の仲間がわれるのをいやがってゴネるの。すると亭主はさすがに「だってあの人たちは女だよ」と小声でたしなめているのよ、きこえないか分らないと思って。私は大いに不愉快で、このメン鳥の横にのりました。段々山にかかってテレク河をさかのぼり、トルストイが「然しかの山々は」というリズミカルなリフレインで「コーカサス」を描き出したそのテレクをなつかしく眺めて山にさしかかりました。壮大な展望がはじまります。するとフェーディンが「素晴らしい!」と歎息しました。「トルストイ、レルモントフがコーカサスについては書いてしまった」すると女房が紅をつけた唇を動かして一言「やって御覧なさいよ」パプローヴィチェと云うの。私はフェーディンの歎息も女房のはげましもいかにも三文文士くさくて苦笑してのってゆきました。山越えはこの一行のおかげで大半の愉快を失いました。しかし今、あの山道を通るいろいろの動きをまざまざと思いやると尽きぬ感興があります。
私たちがのっている船は、あの晩夏の黒海のきらめく碧さと潮風にふかれてのどかでした。クリミヤにしろ、そこに咲く百日紅の色を知っています。ノガイの草地では、馬乳が療養上有名です。そのノガイに今日では歴史の物語がくりひろげられているわけです。ノガイと云えばトルストイの時代にはその遊牧民の天幕小舎しか考えられなかったのよ。それ以上のロマンティシズムはあり得なかったのです、エクゾチシズム以上のロマンスは。今日景観は何と雄渾でしょう。それを想って、「東橋新誌」という題みると、おのずから感懐をおさえ難うございます。古くさいがみじめです。今日では明治のランプをつけて古ぼけた写真くりひろげているよりも、土にじかにいて、星あかりに照らされる方がよりフレッシュであるようなものです。
達者な新しさ。それをどんなにのぞむでしょう。文学の上に、ね。本当にすこやかな息吹きも爽やかな力を。わたしのカン布マサツの動機もお察しつきまして?余り遠大すぎてお気の毒のようです(自分に、よ)
さっき太郎が寝ました。この頃この男は軍歌ばかりうたいます。そして航空兵はおしるこが貰えるからいいね、と話します。
つづいてみんなが国府津から帰って来ました。国男は珍らしく赤い顔して居ります。裏の近藤さんという洋画家が食堂で、ここの隣組は出席率がわるいということについて町会の小言をつたえて居ります。私は何だかどの話も面白くありません。すぐ上って来てしまいました。そしてこれを終りにいたしましょう。
もと帝大かに来ていたイギリス人が(詩人でしょう)前大戦のときの各国の短篇を集めたものを神近市子が訳し二年程前出ました、「戦線・銃後」という題。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等。それぞれにその国の人のテムペラメントがわかって面白いばかりでなく、こうして編集されたものが却って大戦の奥ゆきというようなものを綜合して感じさせます。バルビュスの暖い短篇もあります。オイゲン先生の国の作品が、大変理念的なものばかりなのは、これも注目する価値を感じました。その生硬さ、メロドラマティックな筆致においても。今に、かりにこういう篇集があり得たら其はどんな作品を示すでしょうね、昔物語のようよ、何しろ、三十何台かのタンクがはじめて前線に出て来たときの小説があるのですから。では又。 
十一月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(ユトリロ筆「雪のエグリーズ」の絵はがき)〕
十一月七日。これが手紙にかいた絵よ。考えてみると、あなたは深く積った雪なんか御存じないのではないかしら。島田の冬は肩に降った雪がすぐとける位ですものね。何年か前はじめて島田に行った一月六日には淡雪がふっていて私の髪にかかりました。東京の雪というと、いつも思い出すのは歩道の横にのけられている雪ね。
馬をさへながむる雪の朝かな
これはさすが芭蕉ね。北国の深い朝の雪景色、実に大した描写です。馬の匂いまでするようね。 
十一月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(池部鈞筆「池」の絵はがき)〕
五日づけのお手紙をありがとう。マホー瓶はようございましたこと。
「新生」はうちにありません。どこかきいて見ましょう。「新生」ぐらいが、この作家の、人間をむき出しにしている作品でしょうね。『細菌物語』はおよみになったら拝借、カンプマサツをはじめたことは前便の通りですが、Cが不足らしくてハグキが妙になり注射はじめます、其々の段階で、病気がひどかったことや、どんなに破壊されているかと切実に感じます。 
十一月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(小山敬三筆「高山雪景」の絵はがき)〕
十一月八日。どてらを着て、毛布をひざにかけて「幻滅」よみはじめて居ります。この作家の書きぶりが、七年以前よりも親しめます。そして、この作品が全く「描写のうしろに寝ていられない」筆でかかれ語られ、滔々として大河の如くあるのを理解します。ふだん着からその人の匂いが、じかに鼻に来るように、生活の匂いがします。それはいい気持です。そして、どうせ描写のうしろにねていられないなら、この位滔々たるものであってほしいと思います。 
十一月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十八日
火曜日には何だかうつけたようにしていて気持がおわるかったでしょう。御免なさい。私にとってきいたことがショックだったので、あすこへ行くまでのうちに自分の中に落付かせることが出来なかったのよ。その上、用事が足りていなかったから。重なっておいやだったろうと思います。
金曜日の夜電話で日曜に来ないか、という招待でした。両家から。どうもそのときはあちらでプランがあるらしいので、久しい前から云われていたことだし、寒くならないうちきれいな樹々の色も見たくて行く約束しました。そして、夜かえるのは道があぶないし疲れるから泊るということにして。
日曜日は七五三の日だったのね。あっちの女の子たちが五つですし。二時頃出たら四時すぎ着きました。車台が減っているのでこんなにかかったのね。降りたら、ヤーおばちゃんが来た!オバチャン!オバチャン!という声々の歓迎で、大きい母さん鶏のようにおせんさんが笑っているの。子供たちのおみやげはエホン、繩とび、リンゴ(大人へ一ヶずつきっちり)岩手から送ってくれ。包をもってくれてブラブラ辿りついて、夜まで卯女の家にいました。父さんも元気。あなたの病気を話そのほか。すこし話が経過をもっていることだと「一体いつまで知っているんだったっけか」という工合で両家の総員七人と私。泰子の二階で泊りました。ゆっくり眠って父さんは外出。母さんと子供たちとで豪徳寺の中を散歩しました。銀杏と紅葉が見盛りで、実にいい気持でした。いかにも十一月のおだやかな飽和したような天気でしたから。
夕飯後帰る予定だったら、栄さん夫妻が来るから待つということになって、そしたら雨になりました。
栄さんたちおそくよく来たと思ったら、話しがあったからだったのね。私がおどろくといけないと思って、何も云わず、雨の中暗いのに、あした真直行く方がよいということに決定。
そして、あの日出がけに、卯女の父さんからききました。だから丁度、あすこに坐ったころは、私の気持が益〃ふかくうけたショックを滲透させるときだったわけです。
ずっと友達の間も全く妙になってしまっていて、栄さんもおせんさん夫婦も不快なことばかりつづいていたのでした。私のところへは、何しろ電話一つこの何年もかけて来ないという工合でしたから。段々生活がすさんでいるのをきいて、全く心痛していたし、いつかそのままでは続かないと予想していました。しかし、こんな工合に現れようとは。田村俊子が、生活をこわしてアメリカへ行ったのは、やはり四十ぐらいのときでした。出版屋を借りるだけ借りした上。それも同じです、生活を乱脈にしてしまって、作家としての信頼を低めてしまったこと、それも同じです。悪いことには、昨今出版整備で、文筆の範囲は全く縮少してしまっていますから、「くれない」のときのように仕事をすればそれだけは物を云うという時代でなくなっていることです。
「くれない」のときは作者に信望とでもいうものが在りました。現在それはなくなりました。それらのことを悧口な人だからすっかり知っているでしょう。そして、同じ悧口さで、親しい友人に対して自分のとって来た態度もわかっているでしょう。本当に生活がこわれ崩れたというだけの下らなさと自分から認めて、友達にも心持うちあけず、いるところも知らさないというその賢こさは、世俗的な賢こさで、そこに到るまで友人たちに一言も自分たちの暮しかたについて口をきかせず突ぱって来た、その勝気さの裏側で、私たちとして何と心が痛むでしょう。特に私は十三年の下らない事件のときは御主人から全く非友人的な扱われかたをしました。その人柄の底を見せられました。あのとき細君は目白の家の二階で、何と慟哭したでしょう。そして、身をしぼるような声で「わたしは不幸になりたくない。正しいことからでも不幸にはなりたくない」と泣きながら云いました。私には、その慟哭が、今は自分がなぐさめてやれないところできこえているようです。更に更に苦く、更につめたく涙は流れるでしょう。不幸になりたくない故に、全力をつくし迎合し、自分の生涯を歪めたあげく、迚もやってゆけないことになったとして、どうでしょう。
この間の随筆集の中に十三年に書かれたもので、単純も複雑もくそくらえという気になっている。自分はこれまでひとに可愛がられて来た、それが侮蔑として思いかえされる、というようなところがあったでしょう?短いがおそろしい文章であると思ってよみました。
三十日(十月)に栄さんのところへ一寸より、原稿紙とインクかりて行った由。わけも一言「くれない」のつづきと話して。しかし「くれない」のつづきではないのです、質がちがう。馬鹿なこと(男の側)にしろ、あのときは一つ通ったものがあり、女の側に真摯な向上の欲望がありました。今は女のひとの中にもひどいすさみがあり、それを癒し立て直るのは実に大事業です。
主人は大あわてで(そうでしょう、あのひとをおとりに金を借りたおして、月小遣だけ五百円いると会う人毎にふいていたのだから)下らない出入のひとに喋りちらしているのに、卯女の父さんや私には、栄さんはもとより一言の相談もしないのよ。力をかりようとしない。そういうのです。
酸鼻という感じがいたします。中学三年になろうとしている男の子、六年の女の子、九州から来ている十九かの娘(はじめの結婚の)その人たちはどんな気がして暮しているでしょう。おばあちゃんは春亡くなっていますし、昔からしたしかった人は一人も出入りしなくなっているし。
何とかして、あるところでとりとめて、立ち直ってくれることを心から願って居ります。私にとって内面的に最も結ばれて暮したことのあるひとですから、おそらく一番ひどくこたえているのではないでしょうか。時間の上での古さでは卯女の父さんたちでしょうが。
人間の生涯の曲折というものはおそろしいと思います、親しい友達に、一言も口を利かせないという気の張り、賢こさのおそろしさを感じます、そして人生はつまり実に正直であると思います。世俗的につくろおうとしても、いざというときは、却ってその世俗の面からくずれて来て。
あなたもわたしのこの尽きない感慨をともにして下さるでしょう。立ち直るようにという願いをともにして下さいましょう。一層一層生活の大切なということを感じます。自分の一生であるが、人間としての一生という意味では、謂わば自分だけのものでない責任があります。自分の努力によって充たされてゆかねばならない人間の一生という刻々に内容をたかめている課題があるわけです。私たち芸術家はその最も人間らしく誇ある課題を充足させるために身をすてている筈です。
全く気ままに生き弱く生き、時代のめぐり合わせ自分の気質に翻弄されてしまうというのは何と悲しいでしょう。それは生きるという名にさえふさわしくありません。
何とも手の下しようがない次第ですから、自分を落付け、衷心からのよい願いをかけつつ、自分の生活をいよいよ慎重にいつくしみ責任をもってやって行くしかありません。
きょうは、大分自分に戻りましたから、どうぞ御安心下さい。
字引(松田衛)は今どこにもありません。古本をさがして見るのですが、在るかどうかのぞみうすです。絶版とのことです、東京、三省、郁文などききましたが。うちにわるい英露があります、お送りしましょうか。十年ばかり前、ナウカであちらのから翻刻した英露があって、それはよかったのですが、買いそこねました、残念ですね。心がけておきますからお待ち下さい。
『時局情報』はもうすこし待たねばなりません、こんどの整備でこれは四割減、『文芸』八割五分減、『婦人公論』七割減となりました。そのために、予約を全廃してしまいました。出たら早いものがちで買わなくてはならないわけです。何とか買えそうです。しかしこれがほしさに、その本やでエホンも買うという工合よ。
帝大から四千人の学生が出征しました。大講堂の入口に佇んでその行進を見送る総長の髪の白い、背のまるい、国民服の姿が新聞に出ました。
うちの書生さんはもう二三日でかえります。私は、この人から迷惑も蒙ったが、ひっくりかえったときは幾晩も徹夜で働いてくれその後も氷買いだけだって大した骨折りをさせましたから餞別を三十円やります。
バルザックの小説のことゆっくり書こうと思います。こんどはいろいろわかり彼の大作家であるわけもよくわかります。一番私が有益に、興ふかく思うところは、バルザックが、人間関係というものに示している執拗な描写です。もとは、その点の価値が分らなかったから、彼の描く性格の単調なところ、殆どモノトナスなところ、がひどくいやでしたが。関係をかく彼の作家的力量は巨大です。
昔、彼が現実を描くと云って妙にもち上げられた時(西鶴、バルザックという風に)、もち上げた人たちは、真に彼の大作家たる強さ、実に大きい強さは決して理解しなかったし学ぼうともしなかったようです。何故ならもし其がわかれば、当時自分たちが、何故バルザックに戻ってそれをかつぐかという心理関係がまざまざと自分に見えたわけですから。そして、ああいう風にはもち上げなかったでしょう。
人間の性格というものはそうそう新奇になりません。刻々に変り広大となるのはその関係です、現実的利害による関係です。小説は、将来、それを十分こなし得る作家を求めているのではないでしょうか。
散文というものは、タンサン水のように、その中に生活の炭酸性の泡をどっさりふくんだ強壮なものであるべきです。ヨーロッパ(フランス、イギリス、ドイツ)の散文は、十九世紀に其がもっていた剛健さを失って来ています。ブロックのつみ重りではなくて、曲線的になってしまっています。それは新しい生命力をとり戻さねばならず、其には人間の関係についての強壮さを(理解の)もたねばなりません。バルザック以後の、ね。
だから、アメリカの散文がこの国の若さを自然に反映して、ある瑞々しさをもっているのは面白く思えます。
しかしこの強壮さは、謂わば若いから丈夫だという人間の生理的な状況のようなもので、それだけではたよりのないものです、どんなにふけるか分らないのですものね。
日本の文学的伝統における散文の力とはどういうものでしょう、この見地から見直すと、漱石の散文は秋声よりも弱いと思います。寛の散文は初期だけ。芥川のもよせ木です、もろい。小さい、器用です。志賀のは、よく洗ったしき瓦でたたんだような散文ですね、建造物的巨大さはありません。「誰がために鐘はなる」などは、肉体的ぬくみと柔軟さとスポーティな確乎さをもっていて新しい一つのタイプでした。そうお思いになるでしょう?
私は今の自分として、もっているプランに添ってもバルザックが分って来たことをうれしく思って居ります。自分の散文を全く散文の力を十分発揮し得るものと鍛えたいと思います、私が詩人でないことに祝福あれ。
では又ね。 
十一月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十一日
きょうはこんな紙をつかいます。
暖かかったことね、秋の末の飽和したような黄色と紅が二階からきれいに見えます。寿江子へハガキをありがとう。いずれ御返事出しますでしょうが、私からも一寸。『風と共に散りぬ』はひところどこの本やにも胸が一杯になるほど氾濫して居りましたのに、この頃はもう全く影をひそめて居ます、この間うち本やさんにもたのんで居りましたが、望うすしの方です。田舎へ行く人にたのんで心がけましょう、本まで田舎とは。プルータークの雄弁家の巻も同じめぐり合わせです。アメリカ発達史はどこだったかの本やで見たような気がします、新書ね、これが一番早くものになるかもしれません、面白そうな本です。英国史はモロアはうるさいかきかたをしているようですが、そうではなくて?フランス人らしく、あんまり個々の人物のせんさくずくめみたいで。
この間うちよんでいたツワイクの「三人の巨匠」の中で、文学精神の伝統ということを云っている中に、ドイツとフランス、イギリスを比較して居ります。ドイツのは、「ウィルヘルム・マイスター」以来(あれを近代小説の始源と見ると見えます)発展小説の形をもっていて、これは人間が、自分の内部相剋を統一の方向に向けて行って遂には社会に有用な人物となることを辿ってゆく文学。(そういうと、ドイツ・ロマンティシズムの傾向もわかるようです。社会に有用になる、ゲーテ式自己完成への反撥として、ね。その俗気への対立として)イギリス文学は、社会で実際人々を支配しているイギリス流の道徳の説明書みたいなもの、(ツワイクは、この点なかなか穿って居ります。ゴールスワージー迄謂わばそうです。だから大戦後はロレンスやジェームス・ジョイスが出たのね)フランス文学は、社会と箇人との勝負を常に主題としている、バルザックにおける如く、と云って居ります。今、なかなか丹念に「幻滅」をよみ終りかけて居りますが、バルザックは、或るスペイン坊主の口をかりて、「フランスには、一貫した論理というものが政府にもなけりゃ個々の人間にもなかった。だから道徳というものがなくなっている。今日では成功ということが、何にもあれすべての行為の最高の理由となっている。外面を美しくせよ。生活の裏面をかくして、一ヵ所非常に華々しいところを出してみせよ」という風なことを云わせています、フランス人の暮しかたの或面がわかり、日本の画家藤田嗣治の一ヵ所押し出したやりかたもうなずけます。でもバルザックもツワイクもそれからもう一歩入って、何故そんな精神の伝統が出来たかという、真の解明は出来なかったのね、いろいろな国の文学史の面白さは発達史ととものもので、そんな点から、やはり世界の歴史にはつきない興味があります。
文学精神の伝統ということ、それなども明治文学の文献的研究では語りつくされません。明治文学史の専門の勉強をしている人にきいたら、そういうまとまった仕事は、まだ一つもない由です。日本文学史はあるのね、でも日本文学の精神史はありません。文学評論史は久松潜一かのが二冊ありますがそれは、文学論の歴史的(そうじゃない)年代記的集積配列で、もののあはれ、わび、さびと、王朝から徳川時代へ移ったあとを辿っていて、しかし、文学精神としての追求はありません。幾人ものひとが一生かかるだけの仕事が、何と未開拓のまま放置されているでしょう。近代及現代文学は勉強家をもたなすぎますね、里見※[「弓+享」]のように、小説は勉強で書くものではない、という作者気質がどんなにつよかったかがわかります。文芸史家なんて謂わば一人も居りません。将来の日本文学は克服すべき貧寒さの一つとして、そんな面ももっているわけです。どんどんと気持よくつよい歯をたてて勉強してゆくような気魄ある人物を見たいものです。
紙がつまってしまったから、又つづきは別に。 
十一月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十二日
もう手紙に白い紙を使うということは出来ないのかもしれませんね、文具やに封筒はあるけれども帖面も書簡箋も何もなしとなりました。「幻滅」に、製紙上の発明をする男が登場します。十九世紀に入ってから今日までどんどんと発展したっぷりつかわれた紙が、今又おそらく世界中で窮屈になっているのは大したことです。前大戦で紙の不自由したのはドイツ、フランスにロシアぐらいのものでしたろうね。
中央公論も『婦公』七割五分削減、『文芸』八割とか。毎日会議会議の由です。
きょうは、防空演習第一日で豊島、瀧ノ川、板橋その他、明日は林町の方。もんぺ姿でテコテコと出かけ、時間も考えたつもりでしたが、結局二時から三時すぎまで前で待避して、それで帰らなくてはなりませんでした。豊島は第一区なのね、これから防空演習のときは、そちらのときもやめましょう、つまりは待ち損となりますから。段々こんな場合が殖えますね、二十七日が金曜で総合訓練。このときは発令と同時に電車もとまり、壕へ待避しなくてはならないから、わたしは引こんでいとうございます。そうすると月曜ね、さぞこむことでしょう。
ふとん衿の白い布送りました。『幻滅』と一緒に。バルザックという作家は面白いのね。関係をとことん迄発展させ書こうとするために、登場する人物はどれも原型的ならざるを得ないのね、そこが現代の人間の生きかたにない現実なので――今の時代の人間は、よくてもわるくてもバルザックの主人公たちのように一途ではないから、もっともっとカメレオン式であるから――きらいな作家という印象を与えるのですね、そのいきさつが今度よくよんでみてはじめてわかりました。だからバルザックの限界というものもよく分ったわ。彼の作品の世界では、利害と権謀とが徹底的に跳梁しなくてはいけないから、人間は、だます人間は飽くまでだまし、だまされる人間はあく迄だまされるという可能が許されなくてはならないわけなのでしょう。そこがディケンズとのちがいね。「クリスマス・カロール」なんて、バルザックはきっと鼻の頭にしわをよせたきり黙っているでしょう。
〔欄外に〕作中人物が典型であるということと原型ということとはちがうということを感じます。大ざっぱに同じように云いならわされて来ていましたね。
そして、彼がナポレオン以後のくされ切ったフランスの膿汁を突き出しながら、やはり時代の下らなさをうけていて、「幻滅」のダヴィドとエーヴという善人たちはつまり平凡な金利生活に封鎖してしまっています。エーヴは、賢くも夫ダヴィッドを、発明というあぶない仕事から遠ざけることに成功した、のだそうです。
この作家の偉大さは、人間の関係をえぐったところにあり、限界は人間を固定して操っているところにあります、人間は進むということは分らなかったのね、利害そのものの本質が変り得るということが分らなかったのね、利害というものを、権力、名誉、金銭だけに限って見たところに、この巨人の檻のめが見えます。
それにしても彼はやはり並々の作家ではありません。卑俗な欲望にわが一生もゆだねてこづきまわされつつ、あれだけ観察し、描破しています、その力は凡庸ではないわ。
私たちのまわりには卑俗に且つ盛に小刀細工をやって暮している人間たちが少なからずいます、が、彼等は自分の卑しさの一つさえも文学にする力量をもっていません。精神の貧弱さの故の卑小さしかないというのは詰らないことね、野心さえもない卑俗さなど何と下らないでしょう。
それからね、これは可笑しなスモール・トークの一つですけれどね、フランスの社会で代議士というものがどういうものかということが、「幻滅」を見てよく分ります。第一金がある、それが第一。それから地位がたかい。永年のひどいからくりか地位によって獲得するものです。フェリシタという女のひとが中野秀人という、絵カキ詩人の細君になって、陶器人形のように白く丸くきれいで内容虚無な顔を日本にもって来たのは、そのためだったのね、兄貴は有名な代議士でしたもの。日本の代議士はそういうフランスの慣習的な解釈にあながち適合しなかったのね。
わたしが茶色の外套をきてベレーをかぶって、クラマールという郊外に下宿していたとき、フェリシタをよく見かけました。
バルザックをつづけてよみます。これ迄バルザックは私にとってのマッタアホーンのようなもので、頂上はきわめなかったのですもの。古典についていろいろ云われた九年ほど前に、私は自分の幼稚な鍬で力一杯この巨きい泥のかたまりをかっぽったけれど、それはいく分その形成の過程を明らかにしただけで、自分の文学の潜勢力として吸収するところ迄ゆけませんでした。こんどは、かんで、たべて、のみこんで、滋養にしようというのよ、この頃余り滋養分がないからね、バルザックをよみとおせば、どんなに新しい文学は新しい人間生活の領域につき出されているかということが一層明瞭となり、未踏の土地への探険が一層心づよく準備されるというものです。
先日、わたしがうつけ者のような顔つきになったニュースについても、段々別箇の観かたが出て来ました。世間では、荒い商売をして、負債のどっさり出来た人が破産して、却って自分の財政を立て直すでしょう?あれなのだ、と思いはじめました。あの位きついところのある、そして賢い人は、聰明というものの清澄な洞察はなくても、生きる力のつよい人間としての見とおしと覚悟は出来ているでしょう。内外の紛糾ときがたいから、わが身一つとなったわけでしょう。大したつよ気かもしれないわ。だから、わたしは安心して、その人のやりかたにまかせ、自分はせっせと勉強いたします。
寿江子が船橋あたりに別居します。小さい一軒をもって。今年中に何とか形をつけるよう国男との間に話があった由で、わたしがきいた家がうまくものになりそうなのです。今一軒もつことは大した仕事ですが、寿は、その方がさっぱり暮せると思っているし、うちの連中は業を煮やしていて、すこし苦労して見れば、その手前勝手は直るだろう、という考えです。
どちらも、大人子供よ。実に大人子供よ。寿の方は、大人子供のまま、ひねこびて、術策があるから、それのない側が絶えず不快がり、それを感じつつ変な押しで通して来ているから、寿の、わるい社交性みたいなもの、空々しさ、全く悲しいものです。こんなに急速に変るなんて。今は実に消耗的なのね、戦で死ぬ、負傷する、そういうのばかりか、こうして、直接には苦痛を蒙らないように見える部分が、ひどい質の変化を経過いたします。
Sの方も大した状態です。いつぞや私が思わず、あなたにまで毒気を吹きかけてしまった状態は、根本的には改善されていません。生理的の原因ばかりでなく、生活目的というか、日々の些末なつかれるいそがしさに挫かれて、反撥して、すてて逃げ出したいのね、こういう心理はこわいものだと沁々思いました。良人のため、子供のためにあったような生活の気分がガラリと底ぬけになるのね、自分の生活の根拠があるのではないのですし。ドイツが一九一四―八年の間に全くデカダンスに陥ったという小規模の心理的見本です。苦痛や困難を背中や肩で支えて来たことのない人間のまことに脆い場合です。
同情よりもよく話し合い、処置を自分で自分に見出させなければならない時期です。わたしはこまかく心持の分析を話してやります。彼女は寿よりずっと正直で、真率ですから(今)自分の気持を一つ一つ照らして理解し、考えます。そこまでやって来ているのよ。さて、もう一段厳粛にこの人生というものを感じ直し、うけとり直させねばなりません。良人というものが、この仕事に、何のスケジュールも作り得ないというのは、普通かもしれませんが、何だか夫婦の密接なようで離れている不思議な感じを与えます。良人がいる、子供がいる、でも何の重しにもならない。これは女の或ときのひどい心理ね、それで別の対象なんかないのです。しかし、もし近くにあれば妙な心理の力学みたいなもので傾いて、そっちへ行ってしまうのね、自分というものの生きる目あてのしっかりしない女のひとが、三十五になって、食うに困るところと困らないところとスレスレで、しかし目前の不安はなくて、妙に従来の生活に倦き、新しい力を求めるという気分、良人はもう初老だとか更年期だとか云っている、よく家庭教師なんかが介在して来る。陳腐な筋だが、女がしんからその陳腐さを克服しようとする丈高い趣味がないといつまでも起る条件です。
いろいろなことが起り、それを判断し、自分の生活の独自さをつかみ日々を一定の方針によって生きてゆくということを益〃私に訓練いたします。文学修業も広汎なものね、昨今そんなわけで、大変緊張した精神状態なのよ、不愉快と云えば其で充満している次第ですから。それと抵抗して自分の机のまわりだけは混乱させないでいるわけです。チェホフがあの自然さ、落付き、科学者らしい洞察(合則性への)で、新しい世代の母胎となったように、私はこの家で、ゆるがぬ石となり、太郎やほかの子やそういうのびゆくもののよりどころ、古い柱も建て代えには土台石がいる、その石となってやろうと考えて居ります。そして、何となしぐらついている柱たちが、うまく根つぎするよう助力してやりたいと思います。
でも面白いものね、そういう大仕事になると、動物的な絆、親子、夫婦の或面が大したものの役に立たなくなって、もっともっと高い人間らしさ理性による尺度のあてがいかたや処置しか、力とならないというのは。私は其を最近の何年間のうちに学んだわけです。こんなわけで、この頃私の手紙には、ゆるやかなリズムよりも、畳みこんだもの、かすかな苦渋というようなものが流れるわけです。そしてあなたにも人生のほこりをあびせ申すことになります。
〔欄外に〕二十二日(月)そちらの防空演習、二十三日(火)休日、二十四日(水)林町の防空演習、二十五日(木)になります、朝行きます。 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十五日
二十二日づけのお手紙をありがとうございました。夏以来、いろいろとこまかいことの含まれているお手紙で、うれしく拝見しました。そうね、いつも私のびっくり加減は、あなたに、途方もなく思われる程度ですね、事、あのひとに関すると。何故そうかと考えると、第一の原因は、私として非常に密接な、血肉的な生活の時期と結びついているものだからなのね。一つ一つのこまかい情景さえ、春のある冬、という詩のディテールが私の生活というよりも生存にしみついているとおり、私のこころに刻まれていて、冷静にみられないのよ、多分。そしてそれは、そうだろうと、同情的に同感されるにしろ、大局には、やはりいく分愚かなことなのね。生活の様相の推移というものの苛烈さに対して、未練がましい気持であると申せましょう。あなたが僕にはよく分らないとおっしゃるのは自然ね。そして、自分に親近なものが、程度を超えてとり乱したりするのを見るのは、いい心持でないのも自然です。
私は、しかしあのひと以前に、自分から友達と思って生活全般で近づいたというひとがなかったでしょう?それも私としては弱点となっていたのでしょうと思います。まさか、仲よしな筈なのに、ひどいわ、という女学生の気でもないのよ。こういう面でも一つの修業をいたしたわけです。すべての修業がそうであるように、一つも甘やかされずに、ね。十分に自身の好意も憎悪も反省も判断もこきつかわれて。その収穫が、友情というものからの収穫であったということを学び、もうさっぱりして居ります。その気持は、前の手紙でかきましたとおり。最後の級を卒業したようなものなのでしょう。
きのうはこちらの防空演習でした。診断書を出して、半病人としての参加でよいということになりました。が、あなたの昔のレインコートを直した上っぱりにもんぺ。靴ばきで鉄かぶとかぶって、それ空襲警報発令というと、庭の壕に入るの。そして、三回目の午後三時すぎには、隣組全部が一本の繩につらまって旗を先に立てて、類焼による仮定で、須藤公園の一寸した空き地へ避難しました。土の中というものは体にこたえますね。よく準備して冷えないよう理想的にいたしましたが、しんしんとした土のしめりと靴底の紙まがいのゴムからしみとおる冷えで、変になって、中途ですっかり着物を直して盲腸のときの腹帯をしました。
きょうはぐったりとなって、迚も朝のうち伺うという工合に行きませんでした。これで経験にもなったが頼りなさもひとしおよ。避難して来た何百人という顔ぶれを見て、殆ど女、子供です。役に立つ年齢の子供さえいません(学校だから)風向きについて落付いて考えられそうな人さえなくて。うちの組なんかつまりうちのものが主になってしまっている有様です。咲や何かが田舎に行けば、この組について誰が責任負うのでしょう。これを見るにつけ早く丈夫になりとうございます。ちっとやそっとのことにへばらないように。
林町のうらの方(動坂の通までの、あの細かいごちゃごちゃのところ)菊坂のポンプなんか入れないところ、神明町の車庫裏、団子坂下の方は勿論、火に対してはまことに消極な地域で、つまりこのあたりは、かこまれる危険が多いのです。私はいずれにせよ東京の外へ出て暮そうとは考えませんから、猶更よく準備したいと思います。必要なものはよく埋めて、体につけて逃げるものは最少限にしないと又被服廠と同じことでしょう。あの避難して来た人々を見ると、何と万事受身でしょう。薄弱な身がためでしょう、一雨で、しんまでずっぷりの姿よ。雨降への用心、これも大切だと沁々思いました。私は長いレインコートなんかないから、合羽のたためるのを一つ是非買いましょう。
大したことだと痛感いたしました。鉄カブトの少しましなのがあるだけ大したことなのだわ、この調子だと。太郎が役に立つから面白いでしょう。学校からは二分ぐらいで帰ります、中学の二年位まで警戒警報でかえすのよ。
すこし物を焼くまいとしたりするのも、初めは成たけうちのものと一緒にと考えて居りましたが、ここの連中は一寸風変りで、何だかちっとも切実でないの、又買えると思っているのか、それとも、自分が何一つ謂わば骨折って買って便利して暮しているというものがない為か、にげてゆく先に一応はととのっているというからか、何もしないのよ。すこし運ぶと、もう一杯だ一杯だと云うの。だから、私は全く別箇に、親切な友人たちの助力で、どうしてもいるものは、ともかく比較の上で安全の多いところへ移すことにして、疲れない程々にやって居ります、あなたの冬着を心配してそれ丈はどうやら一番がけにうつしましたが。私にしろやはりふとんもきものもなくては、ね。金がないのなら、日常のものは大事ですから。私は、自分たちは一単位として、最少限の生活は又やれるようにと考えて居ります。
バルザックのこと。あなたもなかなか痛烈ですね、そんなに考えてもリディキュラスという風に描き出されて、私は何と御挨拶出来ましょう、そんな愚劣さが(読者として)即ちブランカの態度だよ、という程でもないのでしょう?私は、そうだと思いかねるわ。御憫察下さい。
「あら皮」はおよみになったのね。作者の研究のために大切な一作でしょうが、作としてはつまりませんね。時代的な心理(あの人の時代の)の問題を、哲学と混同したり、人物は何だか人為的で。文章も初めのゴーチェ張りは閉口です、「幻滅」はあれとはずっとましです。一人の作家が、「時代の心理で動く」限界ということも文学発展史上の一つのテーマではないのでしょうか、ドストイェフスキー、バルザック、特にバルザックなんか最大の限界まで行っているのではないでしょうか、リアリストとロマンティシズムの奇々怪々な混乱においても。後代の、ことに、最近十年間の新しい文学の作家たちは、心理だけにモティーヴをおいて自身の生活を導いていないし、同様に自分たちの文学のモティーヴともしていません。それ故の、その大きい発展の故の苦悩、寡作というものがあるのです。新旧の文学の本質的なちがいは、こんなところにもあるのね。新しい作家たちと云えども、余り明確にこの線を自身の文学に引き得ないようなところがあって、いろんなところへずり込んだのね。これは、今かいているうちに自分にもはっきりして来たことですが、なかなか内容がある問題ですね。
新しい文学は、全く、心理描写だけで満足しないわ、ね。心理から入って、そのような心理あらしめているものを描破しようと欲しているのですから。もし高見順がその意味で、描写のうしろにねていられなかったのなら、相当なものであったわけですが。心理的に生きることを自分に許したら、あらゆる無駄なのたうちと浪費(人間性の)を許すことと同じです。きょうは健之助の満一年の祝です、わたしは茶色の熊をやりました。お祝の主人公は天真爛漫に水洟をたらしてワイワイ泣いているわ。では又ね。 
十一月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十八日
二十五日づけのお手紙ありがとう。前の宅下げのものはもうみんなもちかえりました。本はよほど前、シーツは近くに。ハラマキのことはお話したようなわけ。シャツは買いにゆけなくてまだです。『週報』へお金送ること計らいました。森長さんの電話もすみ。十一月十日以降のをお送りする仕事は明日。そのとき一緒にやっとついた石井鶴三の宮本武蔵の插画集おめにかけましょう、何となし眼の休みになりますから。絵は休まることね、読むことの多いものには。
さて、きのうの午前八時からけさ八時迄の訓練は、珍しく国もすっかり身拵えをして気を揃えました。太郎や赤坊がいるからさわぎよ。二十四日にやってみて壕が余り冷えるので、きのうは、目白でベッドに使っていた板を提供して底にしきました。大変ちがうと皆大よろこびです。
よろこぶけれど、はじめ思いついたり、物を工面したり、さがしたり運んだりということはしないのね、決して。そういうゆきかたにタイプを感じます。
きょうは朝四時十五分前に起き、みんなを起し、おじやをこしらえてやりました。食べてから、何か事が起りそうで、仕度して気をはっていたのに結局八時迄この組は何もなく、私は折角外に出ているのだから、落葉はきをいたしました。そしたら、風呂場の紙屑の下からミラノの街の写真だの、どこかの宮殿の写真だのが出て来て珍しく眺めました。ミラノの、今度空襲をうけた大ドーモの写真。美しく壮大なゴシックの寺院などです。但、通行人の服装は一九〇八年頃なのよ。古風で、何てつみがない風でしょう。宮殿の方のは、壁という壁に、ひどい壁画がいっぱいで、その絵の中に人間がウヨウヨしているの。そこの前でほんものの人間はどんな神経でいたのでしょう。自分たち活きた人間の無言のこだまのように壁上の人間どもを見たり感じたりしたのかもしれないけれども、あのうるさい無趣味さに平気になるだけでも、そこの住人はよほど魯鈍ならざるを得なかったと感じさせます。こういう様式を宮殿として見て来ているブルノー・タウトなんかが、日本へ来て桂離宮などをよい趣味とこころだけが語られている――その前には何でももって来られる空間――として驚異するのは当然であると思いました。タウトは多くの「日本の知己」に洩れず、古典のうちに丈日本があると云っていて、今日を真面目に生きている日本人を苦笑せしめます。
演習の終ったのが八時すぎ。それから又床に入りおひる迄。疲れて風邪のようにズクズクです。しかし、やはりやってみるもので、靴のしゃんとしたのがない不便さや、その反対に、お古レインコートの上っぱりが至極実際的なことや、いろいろ学びます。
環境がいろいろと変るなかで――環境そのものが、理想的だというようなことはあり得ないのですから――私がいつも自分の線を失わないようにと心づけて下さることは、ありがたいと思います。モロアの本について云っていらっしゃる最後の一行は、深い意味をもって居ります。全く人の一生と一巻の本とは最後に到って真価の歴然とするものです。
しかし、何と多くのものが、一生の半ばで、自分の一生というものをとり落してしまうでしょう。持ちつづける手の力を失ってしまうでしょう。作家で云えば、其は、仕事が蓄積された感じをもった瞬間から始るのだと思います、事実は反対です。本当の作家なら、一つの作品はもう明日の自分を支える力ではないこと、それが書かれてしまったということで、もう自分の今日の足の下にはないことを痛切に感じているわけなのですが。旅にやんで夢は枯野をかけめぐる、という句を卑俗には、超人情のように云うが、本当は、芸術というものが常に限界を突破しつつあるものだということの感性的な表現――そこに芭蕉の時代の武士出身者としてのニュアンスが濃くある表現――ではないでしょうか。芸術家として、芭蕉は勇気がありました。あの時代に、夢は枯野をかけめぐる、と表現されたものが、時をへだてては、わたしが今、この紙の横においてよみつつ書いている、そのような忠告やはげましとなっていることの意味ふかさ。後者を、芸術のそとのことのように思う、非芸術さ、或は職業によって固定された感受性の鈍磨。
もしや、もしや、私たちの貧乏は分りつつ、ユリ、とお考えになると、何だか福相がかって感じられる、という笑止な滑稽或は習慣があるのではないかしら。どうかして、私は、自分の福相が、そういう由来ではなくて、もうすこしは広い、そして形而上の理由によって、明るく、笑いと確信とを失わないものであるということを、くりかえしなく、明瞭にしたいものです。私のぐるりについてジリとなさると、いつもそれが私に向って出るというのは何だか、しょげるわ。これは真面目よ。その危険のある環境についての、いつも新しい戒心という意味では勿論十分傾聴いたしますけれど。社会事情の急な変化は多くの人々を、金銭について淡泊にするよりも、敏感にさせます。フランス人が、あの度々の政変を経て、金銭に対して敏捷になって来ている伝統は、先日緑郎からの手紙にもうかがわれます、戦時の闇生活がはじまってフランス人の富の奥ゆきの深さが分った由。バルザックをよんでいるから、実に合点出来ました。こちらでも、そういう経験の初年級がはじまっているわけでしょう、私たちの考えかたは、暮しかたは、逆です。フランスでは市民の90割が、いつも金利を考えていて、年金を失わせさえしない政府なら我慢してやる、という風だか、フランスが経験の多様さにかかわらず、足ぶみをして、観念の上でだけ多く奔放であったのでしょう。バルザックの金銭世界について、一般に十九世紀からの近代経済が云われるけれども、フランスという個性も亦加っているわけね。城(シャトー)に住んでいたバルビュス。でもつまるところ私はよろこんでいいのであると思います。躾というものは、まだ育つものにしか誰もしようとしないものですものね。わたしの旦那さまは、きっと随分上手な躾けてというわけでしょう。そして、大きないい音を立ててスパンクを与えるべき箇所と場合をよく御承知というわけでしょう。
風邪をお大切に、きのう防空待機の間にあなたの手袋を修繕し、それは全く愛国的手袋となりました。資材欠乏に全く従順という意味において。 
十二月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月五日
二日づけのお手紙ありがとう。このところ連日爆撃という形ですね。あなたの丸薬は、笑ったように、正真正銘まがいなしの良薬にちがいありません、糖衣もなければ、大きさも、これは必要、というよりどころからだけ丸められているし。
ケロリ式の子の首ねっこつかまえて、その大きくて苦い丸薬をのませる仕事をさせて相すみません。でもね、あんまり丸薬が大きいと、のどを通すのに目玉を白黒させるから、先ずのむとやれと、ぼんやりしてしまうということも起るのよ(これは、又忽ちケロリになるということではありません)後世のひとがもしこういうあなたのお手紙をよむことでもあったら、ユリは何という気の毒な、だらしなしと思うでしょうね。駑馬(どば)の尻に鞭が鳴っているようで。まあそれもいいわ。
御注文の本で、新本で買えないのは古本で見つけて貰うよう注文してあります。プルタークも、「風と共に」、も「新生」も。「新生」はこんど出る全集の中にあるでしょうからもしかしたら買えるが、ひどい売り方をするのでしょう。未亡人が物質的に大した人で総領息子と版権のとりっこをしているから、全部予約とでもいうことにするかもしれませんね。まだわかりませんけれ共。
普通の暮しかたとちがう生活では、私が事務的な正確さをもたなければ、生活全体が堪えがたいものになることはよくわかっていて気をつけているつもりでも、何年たってもあなたに云わせることは同じというのは、閉口です。お手紙よんだり、おっしゃることきいたりしてつくづく思うのよ。あなたにしろ、私がやっと一人ですこし永く電車にのれるようになって、三四年ぶりに、友達が、生きかえり祝いによんでくれたことは、やっぱり其はよかったと云って下さることにちがいありません。ところが、用事が大切だのに、徹底させなかったばっかりに、遊ぶに忙しくて、遊ぶ段どりだけはチャンチャンして、とそういう表現は、私の皮膚の上にピシリピシリと音を立てるわ。
自分があなたであったら、必ず同じように感じるでしょう。扇だって、要がなければ御承知のようなものになってしまうのだから、無理もないことです。即ち、益〃私がしゃんとしないとこうだぞと思い知る次第です。
健康な(になってゆく)人間の生きかたというものは面白いものね。私が自分の弱さを忘れて、うちのものに云われるように、あなたも私の半人前のことは何となし忘れて、全く一人前分の槌をうちおろして下さいますね。それで丈夫になってゆくのね。病気のお守りをしないで行くわけです。体が十分丈夫でないということと、ケロリとは別のものなのですから、猶々改善いたします。でも、もうハンマーは十分よ。響きがきついから、体がその響きでグサッとなってしまうようです。聖書にあるでしょう、エリコの城は長ラッパを吹き立てて落城させたのよ、城壁が崩れたのだそうです。あなたの力づよいハンマーのうちおろしでユリコの城がくずれないということがあるでしょうか。白旗をかかげます。すこしの間、耳を聾する天来の声を、凡庸な十二月の風の音に代えて下さい。そして、あなたとさし向いにして下さい。あなたの顔を、よくよく眼のなかにはめこませて下さい。そこには私の疲れをやすめ安心を与え、同時に気を確かにさせ、すべてのよい願を恒に清新にするものがあります。
追伸
レントゲンのこと、これも終ったかは恐れ入ります。
今年の冬はどこもスティームなしですから予防会へ行って、今どうもないのに、寒いところで体を出す勇気がありません。冬の間は御容赦願います。それがテキメンと叱られるのは分っているけれども。自分がズボラしたのだからお義理にも今年の冬重い風邪はひけませんからね。 
十二月八日(封筒なし)
十二月八日
四日づけのお手紙ありがとう。このお手紙には、いつかの手紙にかいた古い絵の中の男のひと、机の前にあぐらかいて坐っていて、外にはだしで立っている女のひとに、笑をふくんで、ものを云っている、そのひとの眼や口元にあった微笑が感じられます。いい気持になり、らくになり、その楽さは、日なたとともに、のんだ薬を工合よく体じゅうにしみわたらせ、苦みも、ほろ苦い暖かさとなります。どうもありがとう。いつも良薬に対しては謙遜ですが、こんどは、すこし作用がきつすぎて弱ったから大いに助かります。
葦平の感想というのは、同感されますね、その感想にあなたが同感をあらわしていらっしゃるということは、心にどっと流れこんで来るものがあります、本当に、いろいろいろいろ見せて上げたいわね。私が自分を、聖物崇拝者にならせまいと用心している工合を見せてあげたいわね、そして、何だ、ユリ、と云って笑いになるところを見たいと思います。散歩からかえったときのようないつもの机のまわりだったなんて、思えばくやしいわ。毛布にささってわたしのところに来る髪の毛を、どんな心持で一本一本ととって眺めるでしょう。葦平の妻が、いつその心を知っているでしょう。たった片方だけになってかえって来たカフスボタンを紫の小さいきれいな草編み袋にしまって何年も何年も持っていて、これから火にでも追われて逃げるときは其がマスコットと、背負袋に入れている、そんな気持も、書けば、あなたの同感なさることでしょう。語られない生活の編みめの間に、なんとたくさんの色糸が、織りこまれていることでしょう、心づくしというものが、つまりは日々の些事の中にしか表現されないというのは全く本当ね。そういうまめやかな日々のつみ重りの間に、何か突発することが生じたときは、弾力がこもっているからすぐ応急に処置も出来るというわけでしょう。些事にこめられている心、些事で知られる心いきというものは身にこたえるものね、私自身其ではひどく感じたことがあって。何年か前、母が生きていたとき、不自由に暮しているところへ足袋を送って来てくれたのはよいけれど、コハゼがすっかりとれていて、直しようのないのに、母の手で歌をかいてくれていてね、そのときどんなに感じたことでしょう、歌はなくても、コハゼを見てよこしてくれたのだったら、と。そのとき愛情というものについて沁々考えたことでした。
「みれどあかぬかも」は、これこそ歌の功徳というべきでしょうね。何とふさわしい表現でしょう、そしてブランカが土台まめなのだろうからという云いまわしは、何と又含蓄があるでしょう。一言もないわね。昔から大した外交官というものは、こういう実に一寸した云いまわしで、対手を完封したものだそうです、タレーランなんか。わたしは、やっと、小さい声で意地わる!といえるのが精々です。少し赧くなりながら。
夫婦のむつまじさとなれ合いとは全く別のものですね、でも本当のむつまじさ、謹だところのあるむつまじさで生きる一組というものは実に実に稀有です。そういう人たちは、自分たちが男に生れ、女と生れて、そこにめぐり合ったということを、自分たちの恣意の中に消耗してしまうには余り価うちのあることと心から感じる人たちです。大抵は、夫婦は自分たちが夫婦であるということで、もうそれをはかる目やすのないことのように生きてしまうのね。そして、ふだん着のように、互の癖になれているという工合よさでダラダラ生きてしまうのだし、すこし狡いのは、対手をほめることで、自分へのマイナスをぼやかして、つまり互を下落させてしまう。生活となれ合ったらもう文学なんてどこからもうまれません。だから、わたしは、おっしゃるとおり意久地なしだけれど、良薬が良薬であることはどうにも否定出来ないのよ。ポロリ、ポロリと涙だしながらも、其那薬なんか御免と云いかねて、のむのよ。マアいじらしいみたいなものね。その様子を見て、あなたも思わず口元がほころびるという次第なのでしょう。
『英国史』はいつかよんで見ましょう、あいたらかして下さるかしら。
きのうはあれから、裏の電車で神保町行きのあるのを思い出し、六法、早い方がいいと思って、初めて神田へ行きました。びっくりしてしまった、本やが変ったのには。東京堂は、ぐるりの本棚ね、あすこへよりつけないように台を並べてしまって台の上には、謂わば先方の売りたいものを並べておくという工合になって居ります。棚が遠いから私の眼では題もよめないの。六法は、ここでも冨山房でも三省堂でも神保町の方の角でももう売切れです。困ったと思います、これからは森長さんが買うとき二部買ってでもおいて貰うのね、ああいう人には専門の本やがあるのでしょうから。買いつけの本やへきいて見ましょう、丸山町のところのもとの本やは、もう出入りしないのよ、会社へ何かへまとめてゆくのですって。人手がないからと云って。もう目白にいた時分から。予約ものを中途半端にしたりしてすこしけしからぬことになりました。そこで、アメリカ発達史の下巻を見つけました。下がいきなりでは仕方がないことね、上を見つけましょう、お送りするのは其からね。
須田町辺のこみかたは全くひどく蜒々長蛇の列です。もとのように自動車でもいたら人死にですね、すっかりへこたれて、本買いも大したことになったとおどろきました。
来週は月水金とあがります。今年の迅さは、無常迅速的でした。ほんのいくらか丈夫になりほんのいくらかものを学び、しかもその間にあなたは生き死にの病気をなさり、何と多事でとぶような一年でしたろう。森長さんの電話しました。この手紙しまいをせいてしまっているのよ、いま手伝いが只一人でおかみさん外出、晩のおかずをこしらえなくてはいけないの、では明後日。 
十二月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月十八日
きょうは静かなおだやかな午後です。島田へお送りするものもすんだし、そちらの宿題も大体さし当りは足りましたし、メタボリンは来たし、久々でゆっくりした気持です。疲れが出ていて、体がすこし持ちにくいからきょうはずっと二階へとじこもりで暮しましょう。
七日、九日、十六日のお手紙。どれもありがとう。この間うちは本当に御免なさい。私の場合は、善意がないなどということはあり得ないのよ。善意があるのに云々ということになり、ないも同じことではないかというところにお小言も当然という事態があったのでした。しかし、これ迄十年の間に、へまやケロリで、三年に一度は随分猛烈に突風を食って来ているわけですが、今度は私としておのずから学ぶところが少くありませんでした。生活環境との関係で。
こんどは、大分周囲の混乱にまけたり、まきこまれたりして用事が事務的にキチンキチンと運ばなかったのみならず、心理的にごたついて、毎日不快でおこった気分で暮して、そのためにわるい影響をうけたのだと思います。その点で一つ暮しかたというものについて分ったところがあります。私たちの生活のスケジュールをみだされたのですね。だから、そんなことに関係ないあなたにはすまなかった次第です。
九月以来、一寸表現しがたい生活です。子供二人は、すて子同然よ。この二十四日から三十一日迄留守になります。寿江子はどうしても二十七日には引越します。
自分の生活の順序をこういう大ごたごたの中で狂わさずやって行くのには一つの修練がいり、その焦点は、生活の本質のちがいということを明確にすることしかありません。
何しろ二十一二から別に暮して二十年以上たって、謂わば初めて一緒に暮すことになったのだから、いろいろ分らなかったわ。一緒に暮す以上は、と親身な責任もはじめは重く感じました。しかし、何かいいこと注意しても注意してきくのはそのときだけで、生活の現実に吸収して、つまり、その新しい意見を入れた暮しかたをはじめるというのではなくて、翌日になれば、又夫婦の馴れ合ったぐずぐず方法で、ルーズに、その日暮しをつづける以上、私は、そういう生活に責任を感じて、自分がまきこまれたりするのは間違いだと思うようになりました。Sももって生れたいいところは苦労しなかったからもっていたのだが、生活がフヤフヤでがたつき出すと、もう自分をまとめて行く力もない様です。本当の建て直しはしない流儀なのね。ガタガタでもたせるだけもたすという流儀。借家ね。
だから、自分は来年はますますきちんとして、ちゃんと自分の日程は守って暮し、気持を擾(みだ)されたりして自分たちの生活の不秩序を来したりは決して致しますまい。
ごく甘えを失って観察すれば、ここの二人に対して、即効的ききめのある存在と自分をしよう、出来るように思ったりしたのが、私の自惚(うぬぼ)れです。価値の問題ではないのですからね。いらないものは、どんないいものでもいらないのだわ。いるでしょう?いる筈だわ、なんて気を揉むのは大甘ね。そして、それが全く必要のところに手がまわりかねる気分に乱されるなんて、何て愚かでしょう。こうやって、自惚れをはがされるのは笑止であり結構なことです。わるいものからも教訓があるという例だと思われます。私は謙遜に自分の力を知って、自分の一番大事なことを万遺洩なからんことを期して居ればよいのだわ。この間うちのガタガタは、本質的に、もうくりかえされないと思います。白旗を出しておいて、半兵衛をきめこむ修練はまだ幸にしてつまれて居りませんから。本当に、ガタガタにまきこまれてガタついて、わるかったと思うの、わるいというよりも弱いと思うし、見境いが足りないと思いました。見境の足りないというところは大分あるらしいわ、私に。そういう場合が善良だなどということは、悪計と看破出来なかった人が、自分の正直さを自分の気休めのために云い立てると同様意味なく、気の毒なことです。修業して、生活において、練達になりましょうね。十分思いやりもあり、世話もしてやり、しかし「世話好きな人」だったり「おせっかい」だったりしないことが大事です。いつも勤勉でね。
ここの生活では、あっこおばちゃんは御勉強、さもなければ、そちらへ御出勤。という不動の日課で一貫されていることが大切です。私のためばかりでなく。そういう一つのいつもグラつかないものがあることが大事です。太郎なんかの生活気分にも。そして、細君は、私をあてにてはならないもの、という事を一層知らなければなりません。自分が外出していて、旦那君が戻る時刻になれば、あっこおばちゃんが何とかつないでおいてくれるだろう、などと思わず、私も弱気にならず、咲のすることはブランクになればなったで国がむくれるならばむくれていればよいのです(私の辛棒もいることですが)そうして、責任ということも知り、国はいつもサービスされることを平常と思わないようになればいいのです。こんな話はもうこれでおしまいにしましょうね。今年のおしまいではなく、すっかりおしまいにしたいわ。こっちのゴタゴタはいつどう納まるかも知れませんから、自分の暮しかたをきめて、其を守って、私たちの生活へ波及はさせまいと思います。
今度の経験は目白なんかで暮していた時のケロリと又ちがって、気分の荒らされた状態で生じた粗漏さなのね。これは、連爆の価値があります、正気に戻すために、ね。荒らされかかったわが畑の土の工合を、目をおとして沁々と見なおすために。そして、思うのよ、あなたは其ことのためにいやな思いをなさるばかりでなく、いやな思いをしていらっしゃることを私の骨身にしみこませ、私の視点を定めさせ、手元を順調に戻すためには、何日も何日も根気よく追究していらっしゃらなければならないのだから、私は何たる動物か、と。
全くブランカだと思います。私には、何よりあなたの表情がよく分るのよ。へまをして、不快にお思いになるとき、又あなたの顔は何と雄弁でしょう。私は尻尾をたれて、耳を伏せてしまうわ。その反応の素早さ。けれども其では何にもならないわけです。殆ど肉体的な反響なのだから。ああ、あなたがいやにお思いになる、そのことがいやで辛い、というわけだから。それから、いやなわけが明かにされ、それが納得され、全体の生活のこととして分って、自分の心の状態もさぐって、そして、答えが出るのですもの。それは一日一緒に暮していれば、1/3は発生もしないことであり、半月以上かかる往復も数分の話ですむでしょうに。益〃練達にならずにはおけないわけです。
そういう条件がマイナスとしてあるならば私たちは其から人間修業のプラスを生まなければならないのですから。そういう価値の転換こそ芸術家の本質です。芸術家にとって、世俗の不幸が不幸としてだけの形で存在はしないように。
便、不便を眼目としない生きかたというものは、生活と人生というものの微妙な差別を知り、人生を生きようとする雄々しい人たちにだけ可能なことです。生活の道づれになることさえ大きい誠実がいります。人生の伴侶ということは、全く人生的な努力であり、伴侶たるものもやはり人生を生き得る力をもたなければなりません。そして、人生は生活されるのだわ。だから、日常のあらゆる些事が同じ些事ながら実質を異にしたものとして、人生の建設として配置され、くり返されてゆくわけです。ブランカは、本能の中にその美しさを嗅ぎつけて居り、其をのぞみ、いくらか丈夫な脚ももっているのですが、昔話の久米仙人のように、雲から片脚はずすことが間々あるのね。ロボーのように堂々として、ゆるぎなく、光のようにまじりけないわけに行かないのは悲しいことです。
金(きん)の心、ということが形容でないことを感じるのは何と大したことでしょう。わたしはこの春思わず声に出して、ああ、これこそ純金だ、と感じたことがあります、今もその感じが甦ります。
金に青銅の一定量が混った鉄びんのふたというものが昔つくられました。それは一つの芸術品で、よいふくらみをもった鉄びんに、そういうふたがのると、湯の煮えるにつれて実に実に澄んだいい音がして、気もしずまります。そういうものの一つが、ずっと質のわるいのだがユリのところにあって、冬はよくその音をききました。火鉢にかけて。金(きん)だけではそういういい音に鳴れないのよ。質の下ったしかし不可欠の青銅が入らなくなっては、其が音を冴えさせないというのは、面白いことね。「新しき合金」というオストロフスキーの小説の題は、そのことから考えても、本当に新しい題だったのですね、青銅が、ブロンズ・エイジ風の質にしろ、その質として純粋でなくては、金に混ぜることは出来ないでしょうし。自分だけではなれない青銅が金と合わされて、金をも音にたて自分も鳴るとき、うれしさはいかばかりでしょう。つよく弱く、遠いように近いように、それは鳴ります。小さな鈴をふるようなリンリンというとも鳴りを、松籟の間に響かせて。
この手紙はこれで終り。その小さい、いい音がそこにも聴えるでしょうか。 
十二月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月二十五日
いまうちにいるのは子供二人、手伝い、私だけ。寿江子はアパートさがしに出かけ、二人と太郎とは伊豆行です。ことしの暮は、珍しく三十一日までおめにかかれますね、十年ぶりに。
十六日のあとのお手紙というのは、いまだに着きませんどうしたのかしら。いつも二三日、五日で来るのに。御自分の宛名(住所)おかきになったのではなかったかしら。それでいいようなものの郵便は字面で動くので、却って不便もあるわけです。わたしはきのう南の兵隊さんにハガキ出して、切手がはっていないことを思い出したのは、二時間も経って、そちらで、ぼんやり待っていた間でした。
寿も、いよいよ期日になって、わたしも随分気をもみ、友達たちにあれこれたのみましたが、やはり家はなく、ともかくアパートをきめると云って、出かけている次第です。一人でそんなことしてさがしているのは哀れで困りますが、私がついてやるわけにもゆかず、咲は全くえりがみをつかまれているようで自分の判断で行動出来ず、するべき立場であるという道理でおす力もなく、三人づれで出かけて、明夕かえると、翌日は又三十一日迄留守いたします。わたしのこれまでの生活の中では自分がしたこともないし、ひとにされようとも思わなかった暮しぶりというものをまざまざと見てなかなか感想が浅くありません。そういうなかで何年も暮した寿が、自分一人にとじこもった傾となり、ひとを信じ切らず、その人も何か悧巧すぎて薄情という感じを与える人となったのも、云わば無理ありません。他人の中に暮すということは、こちらで気をつかうことも多いが、つかった丈の気を活きるところもあって、その人なりのねうちで暮せるのは、却ってさっぱりしていて、こじれた所がなくて、寿のためにようございます。でもね、わたしとすると、ここで生れて育った年下のものを、全く何一つしてやらず、はぐたの皿小鉢ぐらいちょこちょこ集めてやって、家さがしの話を話していても一つも助けてやらず、家から出すということを、普通のことのようにするのは、大した努力よ。寿江子のために勇気を出しておこるのをもおさえ、悲しいのもこらえ、新しい生活でのいい面を押し出してやらなければなりません。わたし達は、この家で生れたのではないのよ。私は小石川原町。国は札幌。ですから五歳以後からこの家に住んだだけです。寿はここで生れ、兄をしたって子供時代をすごしました。国はここの家を自分の家と思っているわけですが、寿にすれば、親の家ですからね。そこの感じは大変ちがいます。
寿が可哀想だから、あなたも寿江子がいいところを見つけるように、健康に愉快に勉強して暮すように、と云って下すったとつたえました。よろこんで居りました。シーンとして、早く出てゆくのだけ待っているような日々で、わたしが気をもんでいるばかりでは、寿も哀れですから。どうか、おついでのとき、寿江子にハガキかいてやって下さい。ここ宛でようございます、却って。渡しますから。そして、どうか兄さんとして、温情と道理と勇気をもった言葉を与えてやって下さいまし。寿の生活態度で私の気に入らないところをいろいろ見ると、環境から、その反射みたいなところが沢山あって、気がつよいようで弱いから、自分の暖かさがヒイヤリしたものにさわると、引こんで自分もつめたくなってしまうのね。其関係で状態は悪化するのです。わたしのように自分をむき出して、おこったり親切したりではないのね。寿が何か云うときの皮肉さ、冗談らしく云われる侮蔑は、全く針のようよ。はっと思うことがあります。それをそう感じるような人には寿は決して云うわけもない、というわけです。
こういうことを考えても、侮蔑や憎悪にさされて暮すより、一人での方がずっといいわ、自然なだけでも。家庭というものは、全くピンからキリまでありますね。気心のわかった信頼にみちた、そして人間の向上する欲望をひとりでにもっている家庭というものは多くはないものなのかもしれないわね。親切さのあるのさえ。
きょうはつづけて、もう一通かくのよ。それでは淙々としたせせらぎの鳴るのを聴きましょう。霜のおりた、松の葉のしげみの下に、伊豆は、冬でもりんどうの花が咲いて居ります。冬でも、りんどうは咲かずにいられないのね。紅く色づいたはじの木の葉が、りんどうの花の上におちます。音もなく、風が吹いたとも覚えず。西日は木立の幹々を黒く浮き立たしてその叢にさしていますが、花の上に散り重ったはじの葉の色に、あらゆる光と熱をあつめたように、一点にこって滴ります。
そして、その輝きの上にサラサラと雪が降りかかります。 
十二月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月二十五日第二部
今ふっと気がついて奇異の感にうたれました。十二月二十五日と云えばクリスマスでしょう、いろんな国々では前線でさえ何かの形でお祝いして居るわけです。ディケンズは、クリスマス・イーヴに鳴る鐘の音で、因業おやじさえ改悛すると考えましたし、人々は其をうけ入れました。わたしたちのぐるりにあるこの静寂はどうでしょう。時計のチクタクと田端の方の汽車の音だけ。それに私がこうやって話しているペンの音と。日本はキリストの誕生にも煩わされていません。ニイチェならよろこんだでしょうね。
そう云えば、この頃は紙がないのにニイチェ流行です、いく通りも本が出ます。そういう時期が昔にもあったわけでした。樗牛。この美文家はニイチェをかじって歯をかいて、日蓮へ移りました。チェホフの時代ペシコフの初期に、ニイチェが流布したという話です。樗牛が美的生活というよび名で表現したものがニイチェのよまれる生活の根底にあってのことでしょう、今日の流行も、ね。
ワグナアはニイチェと親しかったけれども、オペラをつくって、王フリードリッヒに、統御の方法として音楽による馴致は有効であると建言して、自身のオペラを隆盛ならしめるようになってからは、ニイチェを邪魔にしました。原因はニイチェが馬鹿正直で、ワグナアに忠実で、心から賞め、心から批評するのが、策略にとんだワグナアにはありがためいわくになったからだそうです。ワグナアが真面目を発揮して、秀吉に対する千利休より遙かに外交的、政治的、従って非芸術的に処世して宗教オペラなどこしらえるので、やはり段々真面目を発揮して来て、バイブルは手袋なしには読まれない、余りきたないから、と云うようになったニイチェが、お前さん正気かと心配するという有様で、ワグナーは、凡俗人の数でオペラを支えようとしているから、常識に挑むニイチェは不便になりました。そしてうんと冷やかに扱い、ニイチェが傷ついてワグナアの顔を二度と見るに耐えないようにしました。自分は冷静なのよ、ね勿論。バルザックは小説の中で云っています。非常に親しい人々の間に、全くおどろくような疎隔が生じる場合がある。人々は理解しがたいことに思う。しかし其は最も理解しやすいことだ、何故なら、親しい全く調和した互の心の交渉をもった人々は、その調和を破る一つの不誠、一つの裏切りにもたえないほど、緊密な結ばれかたをしているのだから。と。これは本当であると思います。いくつかの近頃の経験でそう思います。宝は宝として大事にしなければいけないわけです、ルビーはあのように紅く濃く、誠実のしるしだから丈夫な宝石だろうと、火にかけて代用食を焼こうとすればルビーは破(わ)れて散ってしまいましょう。
大事なものの大切さは私達に分っているよりももっとねうちの大したものね。多くの場合、心の足りなさから大事なものを失って、そのあとになって全くあれは大切だったと心づくのでしょう。大事なものは、風化作用もうけずに永もちすると勘ちがいもするのね、浅はかな貪慾心から。
おもと一本だって、やぶ柑子の土とはちがった土で育てられるのにね。小鳥さえ各〃ちがった餌で育つのですものね。
大きい智慧、ぬけめない配慮、天使の頬っぺたのような天真爛漫な率直さ。
バルザックを読んで、いろいろ考えます。そして本当のフランス文学史は少くともまだ日本文ではないと思いました。「現代史の裏面」これにはディケンズがフランスに与えた影響について考えさせます。今よんでいる「暗黒事件」は、ナポレオン時代というものの混沌さ、あの時代からあとに出来た所謂貴族のいかがわしさが、おそろしく描かれています。フランスが、亡命貴族の土地財産をこっそり或は大ぴらに買い取った二股膏薬どもを貴族として持っているからこそ、あの一方から考えると奇妙でさえある伝統の尊重、本当の貴族への評価があって、しかも貴族はいつも競売にさらされているようなわけだと分りました。
この前、ツワイクがフーシェという人物をかいている、そのもとがバルザックだということお話しいたしましたね、この「暗黒事件」にタレーランやなどとフーシェが出て来てフーシェに巻きついて血をすった最後は伯爵某が、小説の奸悪な、向背恒ないナポレオン時代のきれ者たるマランとい主人公です。
フーシェは、バルザックの方が生きた大した冷血漢、非良心な政治家の典型としてかいて居ります。ツワイクはセンチメンタルです。フーシェという冷血な裏切り者、奸策という風にしか明察も明敏も作用しない男を、裏切る情熱しか知らない、謂わばプレドミネートした力に支配される人間という、観念的なみかたをして居ります。バルザックの方が頭脳強壮ね。フーシェをひらく合鍵というようなものに拘泥しては居りません。山嶽党の失墜、火の消えかかる時代、ナポレオン、ブリューメル、イエナの勝敗と、たてつづく大動揺のフランス政情の間に、いつも内外に機をうかがっている亡命貴族、それが戻って来て、自分の掠奪物をとり戻すことをおそれている所謂共和主義者たち、恥などというものの存在しない保身術などの恐ろしい迅風の間に、いろいろの歴史的うらみや背景が一人の出世の道にたたまって来ているという風なフランスの当時で、(ギヨチンに賛成しないと命が危い、一寸たったら、その時代のその身の処しかたが物笑いになる(ナポレオン時代)更にそのはじめのことで、命があぶない(王政復古)というめまぐるしさの間で、)全く冷静な、純情など薬にしたくもない政治家のフーシェ、タレイランなどが、今日の人々の日常では想像の出来ない悪業に平気だったということは分ります。ツワイクの時代の空気は理性的です。バルザックの空気には毒素となって当時が尾をひいていて、バルザックはその中でフーシェなんかをグーッとつかんでいるのね。バルザックという作家は、フランスの鼻もちならぬ塵塚、塵芥堀の中から、のたうって芽を出した大南瓜ね。まあその蔓の太いこと、剛毛のひどいこと、青臭いこと!その実の大きくて赤くて、肉が厚くて、美味で一寸泥くさいことと云ったら!人間が喰われてしまいそうな化物南瓜ね。痛快至極の怪物です。ユーゴーの通俗性とはちがった巨大さです。ユーゴーは、とんまや道学者にも分る立派さです、ゲーテ同様。小にしては藤村の如く。バルザックは偉大さとお人よしと博大さと俗っぽさと、すべてが男らしくて、横溢していて、強壮で成熟して、物怯じしない人間だけにうけいれられるいきものです。バルザックは、手がぬるりと滑るほど膏ぎっていて、それが気味わるいということはあっても、きたないと云う人物ではありません。野卑だが劣等でないというような表現もあり得るものなのですね。そして、上品できたない人間に、野卑であっても気持のきれいな男が、唾をはきかけることも分ります。バルザックは妹に、小説の原稿をよんで貰い、文章に手を入れさせ――溢れるところに、土堤をこしらえさせました。その妹に、すごい別嬪だよ、というような語調でハンスカ夫人のことなどうちあけているのよ。
バルザックのねうちが分るためには、人間鑑識の目がよほどリアリスティックに高められなければなりませんね。羽織の紐をブラリブラリと悠々たらして、奴凧のように出現する無比の好漢は、エティケットを云々する文化女史にとって、どんなに大ざっぱで可怪しい工合に見えることでしょう。ロダンはバルザックをあの有名な仕事着(ガウン)姿で、ロダンらしく、すこし凄みすぎて甘みぬきにしすぎて居ると思います。バルザックはああいう英雄ではないわ(ロダンのバルザック記念像の形、覚えていらっしゃるでしょう?あのヌーとした。巖のような)ぼってりして肉厚な体で、テレリとしたところもある口元の、シャボテンで云えば厚肉種です、汁の多いたちよ。余りまじり気なく男で、女性の影響なしにいられなかった、そういう男です。
炬燵に入って、こんな話を次から次へしたとしたら、どうでしょう。ところが、そうなったらおそらくわたしは一ことも云わないで半日たっぷりくらすでしょう。そういう午後を知って居ります。国府津の大長椅子は。足の先だけ、一寸火の入ったアンカにのせて、却ってそういう時は、どっさり話すのね。話したことをおぼえていられなかったのは何とおもしろいでしょう。小さなあんかはきゅうくつでした。きゅうくつさは、今も愛らしく思われます。動くとそこからすべり落ちるという風に、小さい冬ごもりのけもののように、並んで小さい火の上にとまっていてね。ぬくもりはなおまざまざとあります、それは十二月のいつの日でしたろう。
「春のある冬」という題の詩がありましょう、もう古典となっているほど読まれ、年々に愛されて居りますが。
続篇に「この風は」というのが出るようです。第一章のはじまりは、飾りない素朴さで、この風はどこから吹いて来るのだろう、という句ではじまります。外景は冬枯れて、雪の凍った眺めです、灰色空がすこし黄っぽく見えるのは、西日のせい。木枯しが今途絶えています。木枯は北から吹きます。ふと、思いがけない南の方から、何か風がわたって来ます、ああでもそれは風とも云えないほどの大気のうごきです、が、そのそよめきは、雪の下の雪割草に、不思議な歓喜を覚えさせました。雪割草は今世界が創ったというように自分のめざめを感じ、期待にみちて、又その風が雪のおもてを過ぎるのを待ちます。又風は渡って来ました。この冬のさなかに、それは何の風でしょう、雪割草がこんなに瑞々しく蕾をふくらませ、薄紅い柔らかな萼をうるませ、今こそ花咲かんという風情にうるむのは、その風がどこから吹くのでしょう。蕾はふっくりとふくらみ、汗ばみ、匂い立ち、花だけの知っている音を立てて開きそうです。でも、雪は、花の上を被うて居ります。花のぬくみで雪はとけます、けれども、あたりは冬です。月の冴える夜、枯れ枝に氷の花がつきます。その氷の花は、青く燦めきます、雪割草は白い、花弁の円みをおびた花です。蕊の色はしぶい赤です。その花より雪が白いというのは、雪が生きものでないからです。又別の日風が、雪の上をわたり、雪割草が目ざめました。雪割草はじっと蕾を傾け、自分のしなやかな溜息をききました。風もその息づきをききました。そしてその溜息を自分のふところの中に抱きとって、すぎてゆきました。が、それからは、その風が渡って来る毎に、雪割草の上に、小さい人目に立たない七色の虹がかかるようになりました。虹は夏の空にだけかかるものではなかったのでした。雪割草の花咲こうとするあたたかみを、風はゆすって、滴る花しずくは、仄かな冬の虹となりました。 
 
一九四四年(昭和十九年)

 

一月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
初春景物 笹の根に霜の柱をきらめかせ うらら冬日は空にあまねし
こういう奇妙なものをお目にかけます。うたよりも封筒をさしあげたいからよ。[自注1]かいた手紙は厚すぎて入らず。
二日

[自注1]封筒をさしあげたいからよ。――この手紙は日本風の巻紙に毛筆でぱらりと書かれている。歌の行を縫って検閲の小さい赤い印がちらされている。封筒は正月らしい色どりで若松に折り鶴が刷られたもの。 
一月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月二日
あけましておめでとう。ことしの暮はめずらしい暮でした。従っていいお正月となりました。そちらも?でも、大笑いして居ります。餅のような、という言葉は、子供の頬や女のふくよかな白いなめらかさに形容されて、日本にしかない表現でした。美しくて愛くるしい表現でした。ところが、もし今年の餅になぞらえて、あなたはほんとにおもちのようよと云われたらそのひとは、どんな返事が出来るでしょう、と。こんなにブツブツでうすくろくて、愛嬌がなくて。餅もそうなっているというところに、何ともいえないいじらしさはあるにしてもね。憐憫と、うれしい愛くるしさとは別のものですもの。
ことしは、大分わたしの意気込みがあって、大晦日には二階はちゃんと煤もはき、よく拭き、御秘蔵の黒釉の朝鮮壺には独特の流儀に松竹梅をさしました。そして壁にはこれも御秘蔵のドガのデッサンの複製をかけました。赤っぽいものは机の上の飾皿だけです。なかなかさっぱりときれいです。花はこれを書いている左隅の障子際においている白木の四角い書類入箱の上にのって居ます。今坐って居りますが、七日ごろになったら久しぶりで机の高い方を出して腰かけにします。
元旦から今年の計画に着手して、なるたけわたしは自分の部屋暮しを実行いたします。日記もつけ出しました。こんな暮しの中では一日にどんな勉強したか、何をしたか、一日ずつちゃんと見てゆくのも大事です。今年本やに日記というものがありません。日本出版会は日記の統制もやって、従来の日記はつくらないのだそうです。わたしは十六年の日記を出して、つけます。曜日が三日ずっているのよ。これを当にして、とんちんかんをやって、叱られやしないかと実は苦笑している次第です。
何がどうあろうと私は何となしに元気を感じ、新しい暮しかた、勉強を期待して、きちんとした気分の正月です。どうしてだろう、と考えます。こんな瑞々とした愉しさのたたえられたお正月の気分というのは。新しい年がおとずれる、というでしょう?新年になった、というのと、年が新しくおとずれた、というのと、心持はちがうものなのね。大変ちがうものなのね。わたしのところには年が新しくおとずれたと思います。支那の昔の女の詩人のうたではないけれど、南に向うわが窓は、年久しくも閉ざされて、牡丹花咲く春の陽に、もゆるは哀れ緑なす草、という風なところへ一条の好信、春風に騎(の)って来る、というようなところがあります。そのよいたよりというのがなんだときかれたら、わたしは何と答えることが出来ましょう。見えもしない、聴えもしないところにも、いいたよりがあるものなのを知っているのは、雪の下なる福寿草。
三十一日に、二十九日づけのお手紙がつきました。それを、食堂のこたつであけてよんで、あと働き用上っぱりのポケットへ入れて働きました。バルザックのほかによむものの話、そうだと思います。
この御手紙の前半にあることね。わたしは本質的には、しわん棒なんかの反対なのよ。しわん棒が義理のつき合いに骨折るなんて例は天下にありませんしね、詩を自分から溢らす人間がしわい性根ということもあり得ません。そういう印象を得ていらっしゃるとしたら、其はわたしがそういう方面が下手で、時々こわがっているそういう瞬間が結果としてそう映るし、そういうことにもなるのね。わたしに対しては、しわいという評は当りません。実際の技量が低くて、重点を巧みにとらえゆく力量が不足で、そちらの緊要に鈍感で、世間並から見ればおどろくほど大きい気で暮しているから時々妙にこわがるという結果です。それはわたしのような気質のものが、自分で無理なやりかたをしているとき(ひとまかせで結構、という人間が足りない腕で自分で万事思案してやるから)生じる哀れな滑稽です。滑稽で終らない結果もおこすから、わたしとしてはそういう自分の未鍛錬の部分も自分にゆるしているわけではありませんけれども。でも、あなたもよくおくりかえしになることね。わたしがおどろいて笑うと、きっとあなたは、だって其はブランカがそれ丈くりかえすということだよ、とおっしゃるでしょうね。
わたしに百万遍しわん棒と云っても、私はニコついているだけよ。しかし、ブランカは自分の人生をすっかり入れこにした心で暮しているのに、そんな風に思える時があるというのは、よほど、やりかたに下手な未熟なところがあるのだね、と云われれば、其は全く一言もないわ。きっとあなたに私のそういう弱点はいくらかにくらしいのね、どうもそうのようよ。あなたのおどろくべきところは、ものの批評が深く鋭くのっぴきならなくあるにしろ、辛辣な味というものの無いところです。その立派さでひとは説得されます。わたしは、自分よりよほど立ちまさった天賦としてそれを見て居ります。魯迅が細君にやっている手紙の中で、女のひとが、辛辣以上に出る例は稀有だ、と。わたしの修業の一つに其が項目となって居ります。むき出された鋭さ、鋭さをつつみかねる人間的器量の小ささの克服。もしブランカ的素質のために、折角のあなたが、家庭的な細部から辛辣さを滲ませるというような癖になったら其こそ一大事です。わたしとして慚死に価しますから。ことしは一度もそういう苦情はお云わせしまいと思うのよ、確かにわるくないでしょう。わたしをその点で御立腹なさらないで下さい。そして何となくにくらしいみたいに思わないで、ね。
ことしは思いがけず「春のある冬」の続篇が刊行されました。ごく簡素な装釘です。でも、内容の美しさはひとしおよ。近刊の続篇は「松の露」という、実に清楚な、而も情尽きざる作品です。
文集には「珊瑚」というのもあります。めずらしいうたですから、月半ば以後におくりものといたしましょう。きょうはさむい日なのよ、雪がふったら面白いのに。では四日に。 
一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月九日
なかなか寒うございます、頭がしーんとなる位ね。
今のわたしは珍しい納り工合で、これをかいて居ります、二階でね、坐っているのは例のとおり例の机です。こう冷たくては堅い木がむき出しではたまらないから、机かけでもかけた方が落付ける。でも程いいのもない、厚くて、ものをのせたり書いたりしてずらないようなのは。ああ、昔父がロンドンでつかったオリーブ色のぼったりした野暮くさいテーブルかけがあったっけが、どうしたかしら。虫くいかしら、あれならいいが。こんなこと考え考えしているの。そして、更に更に珍しいことには、机の横に火鉢というものが出ていて、その中に火というものがあるの、びっくりなさるでしょう?どうしてこんなに自分をもてなしているかというとね、或はお客があるかもしれなかったのでした。古本やさんをやっていて河出につとめたTさんという人が、今度徴用になって立川につとめます。出征ではないけれども、字ばかりひねって四十になった人が、キカイを習うというのは、やはり改った事と思って細君と赤ちゃん一緒によびました、赤ちゃんが人工営養で、ゆっくり出来ないと云っているうちに公衆電話がきれてしまったの、五銭きりもっていないんだけれど、というところで。だからもしかしたら来るかと思ったので、炭をはずんだところ来ず、わたしが珍しい納りかたとなりました。机とかぎの手に、二月堂机をおいて。大したもので、お正月のようです、膝にも毛布かけて。その毛布たるやわたしが生れて百日目に札幌へゆくときくるまれて行ったという年功ものですが、なかなか暖いのよ、まだ。
今年は、二日の手紙にかいたように昨年と暮しかたを変えて、自分の線をはっきりさせて生活しようと考えています、そのためにたとえばきょうにしろ、こうやって二階に落付いていられるのはうれしいの、そういう気分になれている自分がうれしいのよ。国咲は国府津へ行っていません。先なら気がもめてくしゃくしゃしたのに。生活の責任というものをどう考えているのかと思ったりして。Tも赤倉まで行って甘酒しるこも食べて、雪をすべってかえって来る位なんだから、こちらでこせこせ気をもむがものはないと思って。そこで、こうして静心(しづこころ)でいる次第です。わたしもいくらか修業出来たというものでしょうか。
今年は又スペイン風邪大流行の由です。どうぞ、どうぞお大事に。わたしは経験があるから大きらいです。大いに注意して、かからずにしのごうと思います、一家総倒れになりがちで、ね。いつも、そういう大流行のときは看護婦はなし、薬はなし、というのがつきものです、規則正しく早くねて、冷えないようにしてカロリーカロリー。ね。
営養読本は、来週中にかえして貰います、かりたひとは先をうつして返すのですからすこしゆとりをつけました。
『同盟週報』は毎週土曜日発行ですね、どうかしら、半年も払っておきましょうか、毎週きっちりつい行きかねますから。
『外交時報』は又神田ででもないと駄目らしいわ。この次の火曜日かえりによりましょう、隆治さんに本を送る中に、何か一寸可愛いものを入れてやりたいから。それも買いがてら。この頃は実に何もなく閉口ですが、神田に井上という美術専門店があって、そこにはちょいと愛嬌のあるものがあります。
きょう『同盟週報』の一月一日号買えました。面白いというのもいろいろの程度ですが、これからお先に一目失礼いたすことにいたしました。
片方の読書の報告をしないで又々バルザックですみませんが、どうぞ辛棒なさって下さい。「木菟党」をよみ終り、一七九五年頃のブルターニュの状況、あの時代ナポレオン時代の紛糾を実によく理解しました。木菟党はミミズクの鳴声を真似て合図とするブルターニュの農民兵で、その首領をめぐりフーシェの派遣した女間諜をめぐり、その女の人間らしい死に方を大団円とする伝奇風の作品ではありますが、ブルターニュ地方の特色、農民の狂信と無智、其を利用する坊主、それらすべてを利用する亡命貴族、その高貴さと卑俗さ、農民の剛直さ智慧とどん慾さ、なかなか大したものです。
この時代の人々(フランス)の間にあったパリとブルターニュとの国のちがうという観念など、又ナポレオンに対する感情など、実によくわかりイギリスの狡猾さもよくわかります、モロアの「英国史」はこの一七九三年をめぐるイギリス対フランスをどう書いて居りましたろう。
バルザックの筆致は極めて簡潔です、正確に、そして血肉をもっています。ディケンズが思い合わされます。「二都物語」において、ディケンズは果して、イギリスのフランスに対した真髄をとらえ得たでしょうか、其とも寛大な紳士を描くことしか出来なかったでしょうか。そういう点から又よみ直して見たいと思います、ヨーロッパの文学は、こういう共通な一つのテーマをめぐって、おのずから対比も出来、作家の力量について考え学ぶことも出来、本当のヨーロッパ文学研究は、そういう風なコンプレックスをもって学ばるべきですね、その国々だけの一本の棒の上を這うのではなしに、ね。バルザックの農民というものに対する考えかたもこの「木菟党」でいくらかわかります、その実力のいろいろな面を知って、つまり祈祷させておくにかぎるということになったのね、それもいきり立たない念仏で。フルマーノフの小説で農民をかいたのがあったでしょう?大変よく研究されて作者の活動を反映していた傑作でした。バルザックの農民は、この小説では特に頑迷なブルターニュを扱っていて、そこにやはり見るものは見て居ります。
「誰が為に鐘は鳴る」という小説ね、第二巻もまことに面白く数々の感想をそそるものでしたが、バルザックのこの小説のように関係をもった国々の同時代を扱った作品までを考えさせるだけ統括的なものは感じさせません。そこにあの作者の規模が示されているのだということを改めて感じました。あの小説の主人公であるアメリカ人があすこでああいう動きをする、それにつれて、アメリカというものについて更に知りたいと思う心持は直接には浮びません、更にあの山人たちが、どう思って外来者をうけ入れているかというようなこと、つまりあの事件の全性格はくっきりつかまれていないのです。時間の問題その他の関係もありますが。
ユーゴーの「九十三年」という作品があり、殆どバルザックと同じ時代を扱っています、よみはじめたらユーゴーのロマンティシズムとはこうも有平糖でありスコットの亜流であるかとびっくりします。チェホフがね、ゴーリキイの若かったときこんな注意をしてやったのよ、君、君の小説では風が歌ったり波が囁いたりするね、しかし風は吹くのだよ、そして波はうちよせるのだ。自然は其で十分美しく立派なものだということを会得したまえ。ユーゴーがこう云われたら、何と返事していいでしょう、何故なら彼は美文の1/3は削ってしまわなくてはならないでしょう。おそろしい悪文ね、饒舌で冗漫です、そのくせ粗雑な描写です。このユーゴーの亜流がデュマであったというのがよく分ります。「ミゼラブル」が傑作であって、しかし家庭文庫の中に光るものであることが何と沁々わかるでしょう。こういう大家は文学の上では悲しいと思います。しかし大家よ、パルテノンに埋っています。ユーゴーのこういうロマンティシズムを見ると、絵の方がまだましのようにさえ思います。そしてフローベルの出たのが分るわ。フローベルは、ユーゴーに立腹したのね、そして、「ボバリー夫人」をかいたのですね、そして、あのつまらない「サランボー」をかいたのだと思います。ユーゴーが曲芸風に腕をふるので、フローベルはむっとして下を向いて、俺の皿は素焼だそれで人間は食って生きているのだ、と力んだのね、フランスの自然主義の根は、ロマンティシズムの大さと比例して居ります。田山花袋の間口二間ほどのナチュラリズムは何と果敢(はか)なくて、無邪気で、無伝統でしょう。フランス文学、イギリス文学が明治の初めに入って来たということについては、地元の文学的うんちくの歴史がよくよくかみこなされなければ、其の日本的風土化もつまりは分らないでしょう。バルザックの偉大さ、というより博大さ、は本当に歴史を理解する力によってでなければつかまれきれません、それはバルザックの博大さというよりも、むしろフランス史の博大さですから。バルザックの小説が私たち作家にとっての興味のポイントは、人間関係の状況と性格との関係にあらわれる特色です。これはこの前私がバルザックについて素描的勉強をしたときには分らなかった点で、同時に十九世紀文学とのちがい、スタンダールとのちがいを示すものだと思います。バルザックの小説では状況シチュエーションが性格をめざめさせ動かし、後の人々の作品は、其ほど社会に強烈なシチュエーションがかくれて、性格がものを云い、自己廻転をはじめ、大戦前後の自己分裂に来ています。バルザックが歴史小説から現代小説に入って行ったのも面白いし、ドイツの小説の道と並べたら更に面白いでしょう。私はまだドイツ小説は貧弱にしか知りません。漠然と、ウェルテルとリュシアン(幻滅)の二人の主人公の歩きかたの相違を文学的本質に通じるものとして感じますが。追々こういうようにしてすこししっかり世界文学をものにしてゆきたいものです。それにしては私の語学が全く何の足しにもなりませんが。語学の力にたよらずに、外国文学も或程度正しく本質を理解したいと思えば、しなければならない勉強というものは分っているわけで、私は自分の読書力が、もっと四通八達であったら、どんなに楽だと思うでしょう。これは教育がよくなかったのよ、私が余り体育のことに無頓着に育てられて丸く小さくなってしまったように、丸く小さいところがあるのよ、きっと。残念ね、骨の折れるだけも、ね。
こんな小さい字もかくから、大分よくなっているようですが、寧ろこの頃は眼のわるさになれて、まがったペンを使いこなすように、悪妻を扱いこなすように、こなしはじめたのではないでしょうか、チラチラはひどいままなのですもの。眼とは面白いものね、顔全体出て見える眼はこわくなくて、せまいすき間から眼だけ見える眼というものは気味わるいし、おしゃれの女がその効果をつかって、ヴェールから目元だけ出すのも何とずるい技巧でしょう。わたしは出来たらこの眼をあなたに届けて、何とか工合を直して頂いて見たいようです、
おなかぺこについて心痛いたします。もうお眠れになれたでしょうか。 
一月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
道ばたにならび居る子ら喉をはり 勢一杯にうたふ「予科練」
さむ風に総毛だちつつ片言の 女の児まで声あはせ居り
けふはなほ正月七日風空に 凧のうなりのなきが淋しき
風おちぬしづもる屋根に白白と 雪おもしろく月さしのぼる
何の虫のせいかこんなものが出来てお目にかけます、どうせ又出なくなってしまうのよね、きっと。もう一つ或人に書いてやった文句
さるの子も親にだかれて松の枝
これは可愛らしくて気に入りました。
十日
つまりお正月のなぐさみと申すべき。 
一月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月十七日
十五日づけのお手紙きょう頂きました。何よりも先ずすこしは正月らしくなったのをおよろこびいたします。本当に旧正月がいわ。暦の上では何日でしょう。わたしは今年から生活の整理のため又日記をつけはじめましたが、普通の日記というものはなくなったので、十六年のを使っているのよ。ですから何だか見当がつかないけれど。ことしは面白い年で、一月の二十三日も二月十三日も、日曜に当ります、そして二月は二十九日よ。女のひとから求婚してもよいと云われる年よ。
去年の後半は私も揉みくちゃになったところがありましたが、云わばもう其で揉みぬいたようなところが出来て、今年はもう全く心機一転よ。相変らずの、手のかかったことしてやっさもっさやっているが、もういいということにいたしました。私はやっと暮しかたも会得したと思うところも出来ました。
わたしの愉しさについて、同感して下すってありがとう。こういう風に、何となし心あたたまる心持は何と微妙でしょうね。私がここでの生活について、サラリと気持をもちかえることが全く自然に可能になったのも何かそういう内奥のモメントが作用していると明瞭に感じます、自分の生活の線、つまり私たちは本当に私たちの生活を生活しているのだ、ということを、改めて私たちのものとして、この中に感じ直したことも、やはり同じ点からだと思います。
こころに及ぼす深さは何と深いでしょう、それは、それ程のことと予想もされなかったと思います。ダイアモンドはどんなに小粒でも石炭でないということなのね。私は殆どありがたく思っているのよ。詩というものが、これでこそ人の心の宝と申せるわけです。そして詩を保つために払われるたくさんの心づかいというものの価値を実に実に感じます。
自分の得ている仕合わせについて感じることは一再でないけれども、又新しくそのよろこびをもってよく体を直し勉強もしましょう。
「九十三年」は終りまで読んで、ここに云われているとおりの感想をもちました。確に大きくて多い欠点をもってはいるが、ユーゴーは、スケールがあります、統一された自身のものとして。バルザックのスケールの大さは、事象をとり集めそこにあらわれる現象を縫う博大さですが、ユーゴーは「九十三年」というものを、一まとめに全輪廓からつかまえる力量をもって居ます。彼なりであるが。そして、大変面白かったのは、「九十三年」の主人公の若いゴーヴァンによって、「九十三年」の傑物たちが、その段階では思い到ることの出来なかった生活の正義――たとえば女性の位置などについて、前進した理想をかかげている点です。バルザックは九十五年のヴァンデーを「木菟党」に扱って居ても、勝敗の渦中に秘術をつくす人的交渉のなかに全精力と智力とを傾注していて、ユーゴーのように、人類の進歩の足どりとして其の時期を見て行く性格ではなかったのね。それに、ユーゴーは、バルザックのように、ナポレオン三世の治世に、俗衆の抱いたと同じ野心で煽られず、その頃は海峡諸島の島に暮すことをよぎなくされていたのですってね。「ミゼラブル」は、その国外生活の時代の作品の由。セルバンテスにしろ、これにしろ、そのことによって宝石となり得る優秀な人々にとって流謫(るたく)とは何たる深い意味をもっていることでしょう。ツワイクは一九一四年頃の「三人の巨匠」のドストイェフスキー論の発端にそのことを云って居ります。ワイルドがかなくそになってしまった辛酸の中で、ドストイェフスキーは宝石に自分を鍛えた、と。そう云いつつ、ツワイク自身、自分の流謫を支え切れなかったのは、何と哀れでしょう。それに、そういう芸術家にとって真に自分を見出させる流謫の形が、決してチャンネル・アイランドとか、雪の野とかきまっていないのも、何と味あることでしょうね。ただ多くの場合、その境遇の真価を理解するだけ、自分の生涯というものの意味、存在の意味について考えつめられず、目前の暮しに視点をたぶらかされるから、徒に、不遇的焦慮に費されてしまうのでしょう。
「九十三年」でもう一つ大いに面白かったのは、ユーゴーらしい自信をもって、ダントン、ロベスピエール、マラーの大議論を描き出していることです。これは勿論非常に単純化されて表現されているし、原則というものに立っての理論の通った論議ではありませんが(時代の性格として)三人の人となりと、当時の有様がよく想像されます。マラーという男は、私なんかのように浅薄な知識しかなかったものには、冷厳極る流血鬼のようにしか考えられませんでしたが、決してそういう人物ではなく、三人のうちでは清廉な人間であり、政治家であったのね。九十三年の有様が、ヴァンデーをはじめ、フランス中支離滅裂であるということを最も案じたのはマラーであり、その統一の力を求めたのもマラーであり、そのために集注的権力を一人に与えることを=即ちマラーとしては得ることを――考えたのであり、そのために、清めようとして骨までしゃぶる親鼠となってしまったのね。ロベスピエールは、ブルターニュ地方を通じてピットの力、イギリスの侵入をおそれ、ダントンはオーストリア、プロシアをおそれていたときに。マラーの、その見とおしは、今日から見て正鵠を得ていました。マラーの卓見は、一面にその時代の巨頭間の勢力争いに足をひっかけられていて、コルデールが憎んで刺し、人々はそれで吻(ほ)っとしてしまって、腰をおろしナポレオンさんによろしく願ってしまったのね。その筋に立ってみれば、ナポレオンの初めの活動は、実に愛国的意義がありフランスの救いだったのに、亡命貴族の没収財産を買っては、息のかかった成上り貴族をこしらえはじめてから、再び対立の根を与えてしまって、遂にルイ十八世というようなものを出現させ、ダラダラとナポレオン三世まで来てしまったのでしょう。ナポレオンの功罪は大変大きいのね。思われているよりも大きいのね。マリ・アントワネット、カザリン・ド・メディシスなどは、所謂歴史上の定評を訂正されていますが、マラーなんかはどう見られているのでしょうね。本場には、いろんな人のメモアールなんかがあって、ユーゴーは「九十三年」は其等をよく調べて居ります。カーライルなんかあの歴史の中でどう見たのかしら。
バルザックはナポレオンを、一七九五年の舞台にのぼせていますが(暗黒事件)深く入っては居りません。
ユーゴーが、全輪廓から見てゆき、常に人間の進歩を信じる動機で其を見ているところは、ロマンティシズムの積極の面ね。笑い出してしまうのは、進歩に伴っておこる大波瀾は歴史の必然であって、その必然は神様だけがしろしめすところだ、という文句です。雄大なものね。どっしりそう云って坐っているのですものね。
こうしてみると、ユーゴーは、非常に大きく力づよく複雑な機械をその内部に入れてどっしりかまえている建物の壮大さであり、バルザックは、内に入ってはじめておどろきを新たにする機械そのものの巨大さ、相互関連の複雑さ、人間を駆使する力と云ったような異いがありますね。
こういう人々と並べて、というか、つづけてというか、トルストイを見ると、何だかこれ迄とちがった心持がします。近代文学のテーマの推移ということを感じます。あんな大きい「戦争と平和」ですが、真のテーマの大さというものはどういうものでしょうか。性格(主体的には自己)がモティヴとなって来ている十九世紀末以降の文学は、いつぞや云っていたように、もっともっと深く勉強されるべきですね、そこから前進するために。そして、初期のリアリストたち、或は其以前にさかのぼってみることは有益です。自分達から先の世代の文学に何が求められているかということが、一層わかるために。バルザックの作品の世界では、各性格は自身の性格への自覚と存在意義の自覚をまだもっていなくて、事件の力にふりまわされます、その人なりに。そういう形でしか性格はないから、人物は単純ね。ユーゴーは理想のために人物をつくりました。ゴーヴァン対シムールダン博士。トルストイは、「戦争と平和」にしろ、事件の大さそのものを性格と等位におき、大事件にかかわるかかわりかたのモティーヴを個々の性格においている。現実はいつもこの均衡を保ちません。殿様としての生活の立場がこういうところにもあるわね。将来の作家には大した仕事がひかえています、大きい規模で事件を全輪廓においてとらえつつ、自覚ある性格の活動が統一して描かれなければならないのだから。この節の作家のように一二枚の新聞用原稿に、維新頃の壮士文学のような肩ひじ張ったポーズを示して満足していたとしたら、こういう大事業はいつ、どうしてなしとげられるでしょうね。
合点の上にも合点すべきということは全くであると思います。
この前九日にかいた手紙につづいて、又巻紙に歌かいてお送りしました。ついたかしら。
九日にかいて、きょうは十七日だから御無沙汰になりましたが、間で、初執筆をして居たので。二通りかけなかったの。
私たちに白藤をくれた古田中夫人(母のいとこ)のこと名だけも覚えていらっしゃるでしょうか、あのひとが、やはり糖尿で、十六年の十二月十何日かに死にました。こんど追想集が出るについて、私にもかいてくれと云われ、それをかきました。二十枚ばかり。「白藤」と名づけました。
本になったらどうぞきびしく読んで下さい。きびしく、というのは、わたしが、どの位ものをかく上で常態に復したか、それが知りたいからよ。神経と関係のある文章の動きのリズムが弾力にとんでいて、リズミカルであるか、感覚が緻密か粗大であるかという点を、ね。書いている間には、自然で、なだらかに展開いたしましたが。ほんとに其がしりたいの。こんなに言葉が落ちるものの話しかたがのこっている以上、気になるのよ。あなたは余りお気づきにならないようだけれど。それが分るほど長くたくさんいろいろのことを喋る時間がないからなのね。長く喋っていると、ガタガタにしか発音出来ない音の重りがあります。却って口の方がそうなのだろうが。
でもね、私は、人前で喋々出来にくいことになって、いいと思うのよ。作家はかけばいいのです。喋らずといいわ。画家は描けばいいのよ。中川一政が、字で喋り、そのお喋りは絵よりも往々にして面白い。これは一大事だわ。ですからね。では明日。さむくないように。 
一月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月二十四日
きのうは暖い日でした。きっと、ホホウ暖いねとお思いになったでしょう、前日は夕方一寸みぞれが降って、雪かと思ったのでしたが。特別暖い日になりましたね。
そして、又きのうは、何となし可笑しかった日よ。先ず朝九時半から防空演習でした。私が家中の総大将という憫然なことになってしまって、其でもどうやら無事終了。わたしは隣組の救護班です。国と。まだ働けないから。うちにはタンカもありますから。
午前中床に入るのが普通なのでへたへた。其でも暖かいし折角の二十三日がモンペで終るのも興ないし、そこでハガキに云っていた「ドン・キホーテ」「プルターク」のある叢書を買おう、こっちにある売るのとさしひきしたら、ええいいわ、たまに自分を優待したって、ねえと、珍しくコートなしという風でフラリと出かけました。いそいそしてよ。私たちで買いましょう、そう思って。神田の巖松堂の二三軒先なの。金曜日にはお話していた通り帰りによって、『外交時報』かったのよ、一月十五日発行というのを。そして家へかえって、「ヨクヨク見たらば」とまるで手毬唄のようですが、よくよく見たら其は十一月十五日なの。どっさりあるのですもの、一月と思ったわ、よく見えなかったのね。大笑いして其用もかねてです。一月号はギリギリの月末か二月に入る由。よく月おくれに女の雑誌が出て、気をもんだこと思い出し、感想多くありました。それから二三軒先へ辿りついて店へ入ったら在る、ある、ある、金曜日に見たところに積んであります。札が下っているのを、今度は何しろ買おうというのだから、念を入れて見たら、三十冊揃いで五十六円ばかりと見えたのに、どうでしょう、ここでも一がぬけていたのよ、一は百なのよ、つまり百五十六円だったという次第です。びっくり敗亡。内心苦笑してしまいました。この訳本はいいのだけれども今はそれだけ出しにくいわ。売っても惜しくない本をパチパチと弾いたがやはり一が邪魔です。バルザックがこれ丈分るようになったと思うと、「ドン・キホーテ」がよみたいのですもの。暫く佇んで首をかしげていたけれど、思いあきらめて店を出て、其でも二十三日だからと、江戸時代の文化を書物から見た研究や、女流文学の古典のありふれた資料ですが二三冊買ってかえりました。ああ、こうかいているうち又未練が出て来たこと。欲しいことね。でもと考え直すと、あの三十冊の中でオースティンの「誇と偏見」二冊、「デビッドの生立」三冊、モンテスキュー「随想」(?)、「テス」(一冊)、メレディスの「エゴイスト」二冊その他、是非これで読まなくてはというものもないわけです。そう思って帰って来て、重い袋かかえて門入ろうとしたら、往来で遊んでいた太郎が「おかえんなさい」とよって来て、「写真メン買っていい?向日葵の種買うのに五十銭もらったのをやめたから」というの。「写真メンて何なの」「メンコノ写真の。ね、いい?」「誰にお金もらったの」「台所にあずけてあるの貰ったの」「一ついくら」「一つ三銭」「五つ買っていい?」「いい」と云おうとしているところへ、「こんにちは」ひょいと帽子ぬぐ男みたら戸塚の御主人です。マア、何てきょうはおかしい日だろう、さすが防空演習でさわいだ丈あると、何となしこれも苦笑に近い気持がしました。総てのことについて私が全く局外におかれていたということは何とよかったでしょう、五時間(八時まで)縷々綿々として、些末な描写にうむことない話をききました。きいたけれども私に何一つ出来ることはない。「それはそうでしょう?何も分らないように暮したのだから、この二三年……」其は合点合点しないわけには行かなかったわけです、こういう生活の根本的破壊は、奥さんが、えらくなったから、思い上っているからだそうです。何度も何度もそういう意見でした。私は全く反対に考えていますから何とも云えない次第です。そういう考えかたからここまで崩れたと思い、私は作家の道のおそろしさを切実に感じました。不器用な足どりに満腔の感謝を覚え、謹でわれらの日を祝しました。ブランカのよたよたした四つ肢だけであったなら、果してどこ迄雪の凍った道が歩けたでしょう、その雪の下にだけかたい地面がある道を。郭沫若という作家の紀行に、夜営して第一の日、柔かい草をよろこんで眠ったら翌日体がきかないほど湿気をうけ、石の堅いところに臥た老兵は体がしゃんとしていた、とありました。ハハアと思ったことを思いおこしました。あの当時ぼっとしてあなたに叱られた位でしたが、この頃は自分の心もしゃんと自分の中にあり、自分の勉強についての確信、生活についての確信がいくらかあって、五時間きき疲れたけれども、気分は乱れませんでした。そして、やはり或る距離はちぢめられません。
わたしはね、この頃、その人たち夫婦の間で、自分がどんな調子で話されるだろうかと想像したとき、何だか索然たるものを感じるような人に対しては、もとのように渾心で向わないの、剣法がすこし分って、いつも重心は自分の内におくことにしているの。ですから。同情もいたします、でも、腑に落ちないところは腑に落ちかねて。二人のひとが保険外交員でなくて、私も作家ならやはりそういうわけでしょう。
八時すぎて夕飯たべました。ひとに出す御飯がないのよ。来たひとも気の毒ですが。
其から太郎がせがむので二階へ臥かせて、話してやって、手紙かこうとしたら、疲れすぎを感じ、きょうにまわしました。
あの叢書が買えなかったことを、私は天のお告げとうけとったのよ、凄いでしょう。お前のよむべきものを先ずよみなさい、そういうお告とうけとって、成程ねと感じ従順にうけとり、きょうは、大分歯抜けになった本棚を大体整理いたしました。
ちがった形でいいことがあったわけです。
去年の同じ日は大した月夜でした。そして、今よみかえしてみると思いあまった言葉足らずの詩をつくりました。まだ一人歩きが全く出来ず門外不出の生活で。
一年経って、一日のくらしかたを思いくらべると、丈夫になったし其にすべてが私として常態に近づき、詩をつくらないで、あれこれそういう経験をしたことを面白く感じます。
あなたも同じにお感じになりやはり一種の感興をお覚えになるでしょう?詩をかかない私の方が安心なのよ、ね。たっぷりの詩をもっていて、いわば詩の裡にあって、詩はかかないでいる、面白さ。そういう散文の中にどれだけの詩が照り栄えていることでしょう、私はそういう散文家になりたいし、其が好きです。アランは、どうかしていてね、散文のそういう高さ、精神を知らないのよ。勿体ぶって、詩は現実から立ち上って歌うが散文はその中を走り廻るにすぎないと云っています。気の毒な男!フランスの思想界がアランぐらいのひとを選手としているということについて、大いに考えさせられます。二十世紀に入ってフランスのみならず例外をのぞいた国々は、散文の精神の力を喪って、散文は神経繊維か、思索の結晶作用の過程を示すようなもの(ヴァレリーの文章)になってしまったようです。
文学が筆舌的なものと化する堕落についても新しく感じました。いつぞやのお手紙に、筆舌の徒となっては云々とあり、私はひどいなと思ったのよ。でも筆舌的なものと、文学的なものと、どっちにもポチポチつきですが、旧い文学の領内では全く背中一重なのが実際ね。大いに慎まなければならないことだ、と云われたのが、わかるようです。簡明なる美は非常な洞察、深い内省による選択、其に耐える精神の奥ゆきを求めます。官能において簡明な美が、つまりはそういう精神に立っているように。
わたしはこの頃こんなことを屡〃感じます。少年から青年に亙る時期にいろいろの体技、スポーツを身につけるということは、大したものであると。進退についての、おのずからな自信、それによる自由さいかばかりでしょう。精神や性格に加わる一つの現実の可能です。性格とそういうスポーツは結びついたところがあると云うことも出来るけれど。運動神経の敏さと明敏とは切りはなせないものですから。
太郎がスキーをはじめました。其には自転車をのりまわしていてスピードに恐怖しないこと、バランスの馴れ、などで上達著しい由です。瞬間の処置に動じない男らしさは、一つの美です、私などにとって大きい美しさです。太郎がどんな性格と人間的規模をもつ男になるか、そのような身についた力が、人間生活の仕合わせ、よろこびを与えるものと迄なるかどうかしらないけれど、でも条件だけは与えてやりたいと思います、わたしの気持お分りになるでしょう?年月を経ても抜けないものね、その鍛練された線ののびやかさは。子供のときやった泳ぎ、自転車は決してぬけないそうです。
太郎は細かく智慧の廻る、働く方よ。
寿江子のところへお手紙ありがとう。わたしは見たいのをこらえて今この机の硯屏にたてかけてあるのよ、水曜の夜来ます、そのままわたしてやろうと。炭もなくあちらの生活大変のようです、どこも大変なのを、あのひとは五年前熱川(あたがわ)にいたときの気分で、余り安易に考えすぎ、それで今困っているが、困ったわ。今いるところ引上げると云っても又さあとここの戸をあけてやる人はいないし、わたしひとりハラハラ。でもまあ何とかなりましょう。
本棚の面目一新いたしました。竹早町にあった低い方の本棚はいつも座右にあり特別の棚なのですが、こんど入れかえて、これからよむものを(文学のもの)第一段、という風にして、友達のゴタゴタした本はみんな別の棚にうつしました。さっぱりしました。
太郎が、もう暫くで(九時すぎ)二人が帰るというので落付かながって、二階へ上っていい?と何遍も声をかけます。下へ行くからとどなるの。今夜からやっと私も放免です。太郎と並んでねると、せまくるしいと思うのよ、そして其を現金と思う私の心は、まだ天国から二足ばかり出た太郎には分りません。 
一月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月二十六日
二十二日のお手紙、昨夜頂きました。ありがとう。きょうは、何となし珍しい日ね、気温が暖いというのではないけれども、大気がゆるやかで、庭土の地肌が春めいてうるおって居ります。柿の幹が雨にぬれて黒く見えるのも気が和らぎます。寒は暦の上では二月四日にあけるのですものね。昨夜は霜がふらなかったのね、しもどけの土の、人に踏まれないところは、細かく粒々立ったようでなつかしみのある眺めです。こんなに愛嬌のない東京の冬の終りにさえ、こんな「春立つけさ」の感じがあるのですもの、永い冬ごもりの雪国で春めくうれしさはどうでしょう。そんなうれしさからでも、北のひとは人なつこくなるのね。
こんな風に早春をうけとる自分の心も面白くかつ又いじらしく感じます、わたしの春陽はいずかたよりと思ってね。
二十二日のお手紙、笑う口元になりました。全くね、ブランカがバルザックわきにおいて一首ひねる姿はおなぐさみです。源氏物語をよくよんでみると、式部の小説家としての人生の見かた、描写、大したものです。しっかりしている、しかし沢山の歌はこのように小説の情景を鋭くとらえる人が、とおどろくばかり。品のよいのが只とりえ、間違いのないというところを行っていて、殆ど描写も情の流露もなく、干菓子のようにつまりません。面白いでしょう?だからわたしも余りあなたを悩ませることはいたしますまい。今月はこれで終りよ、即ち
ふるさとはみぞれ降るなり弟よ南の国につつがあらすな
二十二日の午後隆治さんの小包こしらえていたら、音を立ててみぞれがふって来ました。二十三日の前日でわたしの心はやさしくなっていたし、ああみぞれ降るなりと思って、隆治さんの本の間に紙をはさんでかいてやりました。これだって、御元気にね、というだけよりはやはり心の波がうっているでしょう、下作にしろね。
送って下さった本つきました。
幻滅は、こちらよ。こちらよ、折角貰ったのだからどうぞお間違えなく。
ユーゴーとバルザックとを並べよんで、非常に有益でした。バルザックは柱頭(キャピタル)のない大柱列のようね、しかもその柱はびっしり並んで太くて比較的柔い石の質で、彫刻の刻みめの深い彫りかたで万象の物景がうごめくように彫られています。が、ギリシャの柱列にある柱頭はなくて、従って、天はすぽぬけで青空よ。そこのところが我ながら妙な工合だと見えて、バルザックは、そこのすぽぬけのところを神秘主義でふたして居ります、人間の昇らんとする欲望、より高からんとする意欲、それはさすがにあれも男の中の男にはちがいないから、直感したのです。ユーゴーはそれを人間の社会の中にかえって来る精神において理解し得たけれども、バルザックは其はそれときりはなして精神の問題としたのね、だから人間喜劇の中に哲学的考察という銘をうった作があって、其は今日でみれば史的研究でありますが、バルザックはそこにつけ足して、何だか彼のリアリズムで包括出来ない現実の部分を、錬金術師の長広舌や降霊術やにたよっています。
カトリーヌ・ド・メディシスね、あれは三部からなっていて、彼女が王権のために我子もギセイにし、ギルドのくずれかかる時代の新興市民にたよる過程など実に堂々としているくせに、最後の部ではカトリーヌの霊というのを出してロベスピエールに政論をさせています。しかもそのカトリーヌのおばけは、気の毒にも十八世紀のヨーロッパを股にかけて世情の混乱につけ入った大山師ドン・カグリオストクロの宴会で出て来るのよ(十八世紀をもって、世界的山師は終焉いたします)。
バルザックは、自分のそういう不思議な性格的すぽぬけを、例の大上段の云いまわしで、神秘を感じずにいられない程強い精神と称しています。こじつけながら一面の真実ですね、何故なら、彼は少くともすぽぬけを直感して神秘につかまらずにはいられない高さ迄は、人間喜劇の柱をのぼりつめたのですから。
この人間喜劇ということばも、おっしゃるとおりと思います。コメディアというものの内容の性質は、時代との関係で大したものね。シェイクスピアが悲劇をああいう形でかき、喜劇をああいう風に笑劇、ファースの要素を多くかいたということは、エリザベスの時代の鏡です。モリエールが悲劇として書かず、喜劇としてあれだけのものをかいた神経はフランスです。「悲劇」でない悲劇。
コメディア、フィニタという文句は、パリアッチョ(道化師)という極めて近代風なオペラの終曲の主人公のアリアです。妻に裏切られた正直なパリアッチョが、劇中劇で妻を殺してしまうの、そして泣くように歌います。コメディア、エ、フィニタと。見物は本当に自分たちの見ているのはコメディーでそれが終ったと思ってきいているという趣向よ。直哉の「范の犯罪」は潜在した殺意からのことをかいていますが。このレコードが実に面白いのに古物で、ひどい音なの。細君をやる女の声は素晴らしい美しさ、人間ぽさ、動物らしさ、女らしさです。〔中略〕
さて、ここで忽然として家事的転換をいたします。袷の件。そちらにある銘仙の羽織を前へ出しておいて頂きます。その羽織と着物とを合わせて一枚の着物をこしらえ、羽織は別のにいたします。どうぞお忘れなくね。鏡の物語というのがありますが、それは又別に。 
二月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二月十一日
ひどい風が納って、やはり春の近づいた天気になりました。紀元節というと、この日の夜まだ道具の揃わない動坂の家で、あなたが七輪に火をおこして御自慢になったのを思い出します。でもあの頃はああやっても家がもてたのね。何一つなくて、でも炭だけはたっぷりで、わたしはあしたの朝、途方もなくからいおみおつけをこしらえましたね、そして、私の御料理の腕前については、久しいことあなたは断言をはばかる、とう状態でいらしたわね、又いつひど辛いみそ汁をたべさせられるかと。思い出の中にある季節の感じは、こうして、風に鳴るガラスの音をききながら感じている今の気候と、どうしても同じようではありません。あの季節感の中には、早咲きの梅か何かいい匂いの花の枝が揺れて居りますね。
(ここまで書いたら立たなくてはならないことになりました。島田から小包が届いたのよ。太郎があがって来て、「治(ジ)とかいてある上に達とあるよ、子供達の達」と報告いたしました、さあ行って見なくては)
とんだいい紀元節で、大人も子供もホクホクです。送って下すったもので。メタボリンもたっぷり来ました。岩本さんが買ってくれた分の由。一ヵ月も留守をするからその前に当分間に合う丈薬や何かお送りしておきましょう。この節一ヵ月留守するというと、あとに大変気が配られます。一ヵ月というものを、只三十日と考えることが出来ないから。
きょうは、これでなかなかいい日になったのよ。さっき裏の画伯が来て、川越の先の部屋[自注2]かしてくれるということになり、これも大安心です。島田へ行く前にそちらへ引越ししておいて、そしてゆっくり行けますから。こっちへ一応の単位を揃えておくつもりです、机その他本棚も。第一、あなたのふとん類おくところが出来て、何と気が楽でしょう。二十日すぎに見に行きます、そして、すぐ荷を運んでおいてね。わたしもここにともかく場所が出来、目黒の先の大岡山に寿江の室をこしらえ、まあどっちへ行ってもいいことになって気がのびます。大岡山の室[自注3]というのは大した眺望で、ゾラが巴里を高い郊外の住居から感じたように、何か東京というところを俯瞰する感じのところで一寸面白いところよ。富士が見えます、秩父の山々も。空気もよいの、川越の方は田圃の中に電車の駅が一つあって、そこからすぐですって。そこは農業の家で亡主人が絵をかき、そのためにマッチ箱的別棟アリ、その二階をかりるわけです。まわりには川と田だけ。未亡人は昔から家政のきりもりをずっとしてきた人で、しっかりした女のひとらしい風です。
若い女教師(小学の)をおいているそうです。わたしは、どうしても、ここにいさせて貰わなくてはならないとは思って居りませんから、疎開につれて、主人公がどういう計画を立てるか、それについても急に途方にくれることがなくなって大安心です。
二月五日のお手紙ありがとう。本当にこの間うちはろくでもないことでね。もうこれで終了です。むしろさっぱりいたしました。あなたにも大分ホコリ浴びせましたが、どうぞかんべん。
体を直すことについては、全くそう考えます。考えてみれば、私は病気が癒らないうちから心労が多すぎ其でよほど神経は手間どったと思います。ここで一ヵ月ほど周囲の全くちがった、そして春の早いところで暮すのは、体のためどんなにいいかと楽しみです。それにつれ、昨夜も熟考いたしましたが、この間うちからの話ね、あれは、私が行くときはもってゆかないし、手紙でかいて頂くのもすこし後にしとうございます。五年ぶりですものね、行くのは。友ちゃんには婚礼のとき以来ですし。せめて今後は、お互に気づまりなことなしに一ヵ月のんびりしてみたいと思うこと切です。もうわたしは気づまりなのや、自分が入って行くと何となし話やめるというような空気は沢山だわ。私が行っていて、私のいない折、下でよりより相談、何となし調子が改るというようなのはへこたれです。こんどは、一緒に解決するのはやめましょう、必ず結果は面白くないから。こころもちが。御機嫌伺い、お墓り、わたしも休ませて頂き、それで十分よ。そして、あとから、二ヵ月もして、手紙でお話し下さり次いで私もかきましょう、却って、ずっとその方がさっぱりしていい結果です、それは確。まして無責任に考えているのではないのですから。どうぞこの案に御賛成下さい。それについて、あなたとしてお話になりやすい条件を思いましたから。そのためにもすこしあとの方がようございます。御自分が隆治さんについて云っていらっしったと同じインシュアランスをおもちになるのです。わたしがどうかあれバ、あなたは不自由なさらないようにして考えてあるけれど、自分にとってあなたはそういう風な面で考えられませんでした。しかしお母さんのお気持に対して、あなたが御自分からの配慮として、では、誰が責任負ってくれるのだろうという場合のお母さんのお安心のために備え、其をあなたが御自分の側の一つの条件としてお話しになれば、よほど全体がすっきりいたしましょう。なかなかの妙案よ、ユリにしては。すこし良妻だと思うがどうでしょう。
手続のことは私のを扱った前からの係の人間で雑作なく出来ます、こちらで。面倒くさい調査なんかなしに。只直接の受取人が地方だとすこしうるさいかもしれず、それを研究しましょう。わたしのは、あなたになっているわけですが。
こうすれば、勿論そんなものと別に、段々責任を果してゆくにやりよいわ。心もちに与える第一印象が、ね。心づもりしていらっしゃるよりも多いめにしてね。たしかにこれはいい思いつきです。マリを放るにもむこうにうけとる人か壁かがなくては張合ないようなもので、お母さんにしろ何かああそういう工合のか、と、何だか手ごたえのあるようにお思いになりましょう。でも、考えるとすこし笑えるわね、観念的というようなことは或る特別な人間にだけ、かかわりあるようにふと思って居りますが、安心というものもすこし似たところがあるのかしら。それは勿論根拠はあるようなものだが、あんまり比較にならなくて、ともかくマアそう考えつきました。
全く、時は遅くても且つ迅い、ということを痛感いたします。生活のテンポが時間という鞘から抜けて走ります。新型ドン・キホーテとはうまい表現ですね。この春をうまく合理的にすごしたらきっと丈夫さが増しましょう、しかし眼はよほどゆっくり思っていなくては。島田へ行ったらうんと早ねして、午前中起きていとうございます。
十三日の誕生日は、鷺の宮へ行ってすごします。泊らず。あなたのお祝いは何を頂きましょうね。ビオスボン届いて?あれでもボンというからにはボンボンなのね。そう思って、とどけました。わたしのボンボンは本当にまがいなしのBon!Bon!で、あれは不思議なボンボンよ、みると。こっちの体じゅうが惹きこまれてしまって。十三日には、心祝いに、読み初めをいたします、第二巻から。又はじめに戻ると、こわれた時計みたいにグルリグルリ針があと戻りしてきりがないから。島田では文学のつづきよみます、あれこれ。冨美子が三月に卒業いたします、お祝いになる本さえなくて大弱りです、勝の初めての端午よ、子供たちも其々存在をとなえておもしろいしおばちゃん大抵でなし、では又。

[自注2]川越の先の部屋――荷物疎開のためにさがしていた部屋。
[自注3]大岡山の室――百合子の妹寿江子は大岡山に間借りした。 
二月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二月十三日
きょうの暖かかったこと!そちらもでしたろう。おだやかな日でした。わたしはきょうずっと家にいて、おかしい暮しかたしたのよ。鷺の宮で甥の婚礼で行けなくなったのが却って幸。というのは寿の大岡山の室へ明朝荷を送るについて、きのうは目白来の荷物をあけたら、すっかり鼠が紙をたべていて、せとものはそのままですが、すっかり煮沸しなくては用に立たずというわけ。疲れたからきょうは行かなくて大よろこび。大体きのうガタガタしたから、きょうはかねてたのしみにしている読書いよいよはじめようと、はりきりで心あたりを見たのに、どうしてもなし。これでは折角の十三日だって要するに無意味だと思って悄気(しょげ)て、島田から頂いたアンモをたべていたら、咲が私の古原稿入れてある行李が欲しいというので、其ではと勇気づいて二人で働いて、二人のすべての希望がみたされ、本当に、本当にいい気持となりました。これで十三日らしくなったわ、今夜はたのしみです。
それでも赤い御飯がたけ、珍しく配給の豆腐のお汁が出来、配給の魚の名は妙な名で、オマエみたいな名ですが、頭つきで大威張りの焼き魚でした。
よみはじめる本[自注4]、島田へゆくまでに三百余頁だから終りたいものです。
十日に書いて下すったお手紙ありがとう。きのう、十二日、着。お手紙の趣しみじみよく分ります。だからわたしもせめてきょうからは、と埃まびれにもなった次第でした。そうです、全く非人間的な現象が人間らしいものとなるのは、上塗りのコテ工合でゆくものではありません。孜々(しし)として勉学する、孜々として勉学する、ここに無限のものがあります。この頃はね、私がこういう生活しているせいかもしれないが、作家の誰彼が、どこでどう生活しているのか、ひところのサロン的彷徨出没がなくなったから普通の人々は全く我れ関せずのようです。宇野千代が、日露戦争秘話という本かいているようですね。そうお。あのひとはやりてなんですか。そんな工合です。所謂作家生活が崩壊したスピードは大したものね、この一年足らずの間に。特に最近の半年足らずの間に。吹きちらされたようにどこかで、どうにかして何年かすぎるのですが、さてそれからふたの開いた時が見ものというも余りありでしょう。もとのような意味や形で、作家でございと云ったところでああそうですか、でしょう、この頃は。横光利一はもう二度と大学生の神様にはなれません。作家気質がふっとばされて、銀座界隈、浅草あたり、亀戸新宿辺から消散し、さてその先はいかがでしょう。大したことです。何人の古参兵がのこるでしょう。高見順は日本の製靴業の歴史みたいなものを研究している由です。西村勝三[自注5]という先達者が西村伯翁の弟で、古田中夫人の父です。この間「白藤」かいたこと申しましたろう?そしたら良人が大変よろこんで礼をよこし、西村勝三にもふれているのが面白いし、高見順をよんで子供たちが父の話をきくことになっているとか云ってよこしました。高見順の方向は愚劣でないが、その靴と日清・日露がどうからみ、且つ今の当主西村直は大金持だが、そういう昔話の集りなどには出ても来ないし、よびもしない。おっかさんは廃嫡して谷口となっている息子の方へ暮しているというような現実の面白さまでを、どう靴からくみとるでしょうね。「白藤」へは、性質上かきませんでしたが、母が話したことがあります、「品川の伯父さんは、あれだけの人物でいながら、妙なことを云ったことがあるよ、よっちゃん、おじさんが一生御恩にきるから何とか大将のところへお嫁に行っとくれ、って。後妻だったんだよ。何のつもりであんなことをたのんだんだろう。ことわったがね」。高見順の靴物語もここに小説があるのですがね。バルザックは少くともここいら迄かけました。作家の勉強の大変さがこの一つでも分ります。プティ・クローの仕事をあすこまで学ぶということの意味。作家の資質は飛躍しなければならず、大いに空語でない努力がいります。これらすべて面白い、悠々とした希望にみたされた文学的展望でしょう?一刻千金というところね。ああ私には今ここをおよみになった瞬間に、あなたの口元に泛んだ苦笑が見えました。こうお思いになったのよ、ブランカ!わかったように云っている。もっともこのことは分った話だが、ね、と。そうね、こうやって読まざるを得ないあなたに、わたしが満々たる計画を語っていたところで、いくらそれがあなたにだと云って、やはり筆舌の徒に陥らないということはないわけだわね、こわいこと、こわいこと。では、さようなら。小さき一つの実行にとりかかりましょう。しかしね、あなたに語るということは、やかましい神様に立願したようなもので、自分を自分でしばることになって、万更無駄でもないのよ。空気に向って語られたのではなく、それは精神に向って語られているのですもの。

[自注4]よみはじめる本――マルクス・エンゲルスの原典。
[自注5]西村勝三――西村伯翁の弟。 
二月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二月二十一日
おとといはおもしろい雪でした。わたしの心もちでは、まるで咲き開いた花のあつい花びらの上にふりつもった白雪という感じで、全く春の雪でした。
そちらではいかがな風情でしたろう。こちらが花びらの上にふる雪と感じたら、そちらはゆるやかな芝山のまるみを一層まるやかに柔かく見せる雪景色ででもあったでしょうか。若木が深い土のぬくみを感じて幹を益〃力づよく真直に、葉を益〃濃やかにしている枝々に、しっとりと重くふる雪でもあったでしょうか。
木の幹の見事さや独特な魅力を思うと、自然のこまかさにおどろかれますが、木の幹は決して人間の観念の中にある真直という真直さではないのね。いろいろな天候の圧力や風の角度に対し自身の活動のリズムの複雑さをみたすのに、それは何と微妙な線で美しく変化しているでしょう、そういう美しさと雪の美しさはやはり似合うでしょう?
雪が冬の終りに降る頃は、天候も春のはじまりのひそめられた華やかさがつよくて。疲れること。
風邪はおひきにならなくても、熱が出やしなかったかと思って。わたしは何となく二三日おとなしくてぽっとして暮して居ります。用事はどっさりあってね、金曜日から土、日と出つづけでしたが。用事というものは考えると妙ね、だってこころの何分の一かで果せるようなところもありますから。
土曜はQのところへ行きました。この頃は可笑しいでしょう、本をかしてあげたらあのひとが又がしをして、かりた人がお礼にバタをくれるのですって。それが来たら知らせるからというわけで。行ったところ、バターは消しゴムほどあったわ。そして、文学の話はちょぼちょぼで、やりくり話、家の整理の話等々。今の人のこころもち生活の態度がわかって何だか感服してしまいました。そして、自分の机を思い、よむ本を思い、更に感服をふかめました。
この間のお手紙で天気予報のことね、みんなによんできかせて大笑いいたしました。皆もお説は尤もだということでした、決して日づけまでをとは申しませんそうです。でもやはり天気予報は有益です。私の身辺のことを見たって。
日曜日は寿の大岡山の室へやっと荷がはこべ八時ごろつみ出させ、ひるすぎ出かけ、夕飯を七輪の土がまでたいてやって、この三四日ぶりではじめて御飯いっぱいたべさせ大安心いたしました。ホテルでも、朝小さい円い型にはめた、(よくジェリーを丸くしていたでしょう?あれ)――のおかゆ一つ。実なしのみそ汁、いわし一尾ぐらい。晩は、用の都合でぬきになった日があった由。この節の旅館暮しはおそろしいばかりです。ですから、ともかく一ヵ月十二円で、おカマで御飯たいて、おみおつけつくってたっぷりたべたら、悲しくなったというの全くよ。おっかさんの顔みてから子供がワーと泣くと同じです。
これで寿も上京して安心してね起きするところ出来たから私も安らかとなりました。従弟が寿と食事してひどさにおどろいて話しているのをコタツでききながら、フーフーふいてあったかいものをたべているんだもの、わたしはそういうのは楽でないのですから。よかったわ、もうこの次の第三次の本引越しについてはもうわたしも御免を蒙ります、二度のことでわたしの分けてやれるものは皆わけてしまいましたしね。きのうは行きたくなくて、きょうも疲れがありますが、でも本当によかったわ。やさしさ、親切は心の活々とした、少くとも想像力のある人間でなくてはもてないわ。思いやりなんて、わが身の痛さではないのですものね。
川越の先の部屋を二十日すぎというから多分木曜頃見にゆきます。そして、又こちらへすこしうつしておいて、それからやはり余り予定狂わさずに島田へ行ってしまいましょう。五月頃東京にいないとこまることになるかもしれないから(御託宣めいているかしら)うちへ子供の洋裁や私のもんぺ縫いに来てくれる洋絵勉強の娘さんが、倉敷の大原コレクションを見たがっているし、わたしはまだ一度も見たことがないから、行きに倉敷でおりて、それを見がてら少し休み、あとは近いから娘さんはそこから戻り私はひとりでゆくということにいたしましょう、いい都合でしょう?おべん当二度分もってね、よく研究してすいた汽車を選んで。荷物を少くしてね。かえりは一人なら、山陰をまわった方がこまないからと思って居ります、東海道ではこの節はビルマから一直線だなんていう勢ですもの、こむわけよ。多賀子一緒になど思ったけれど、ここの家で気がねしたって無意味ですし、其に時期もわるく、やはりかえりはひとりでしょう。さもなければ一寸送ってもらうのだが、その一寸が一寸でなくて。マア、それはそのときのこととしてやはり三月の二十日までに立ちましょう、お手紙のついでによく云ってあげておいて下さいまし。
ものがなくて、お土産が思うようにととのわずわたしは気にしていること。見かけは大した変りないが、実力は大分まだ低いから、半病人のつもりで見ていて下さるよう、眼が十分でない[自注6]ことなど。
今度はこれまでとちがって小さい子が二人いて、どうしてもお守りが要ります。体が十分でないと子供の守は疲労ひどく、抱くという何でもないこともこたえるのよ。自分でうまく調節いたしますが、そのことに直接ふれないで、一般的に半病人ということを憶えていて下さるようお願いいたします。自分からも申しますが、わたしがいて、お母さんだけによろしくと申してもいられないというわけです。マア、お母さんわたしが、というのが自然のこころで、それでやはり参るのは参るから。どうぞね、目白の先生も、途中のゴタゴタとこの点だけよ、いく分どうかというのは。でもこれで二ヵ月のばして、わたしはいくらも丈夫になれません、ここまでになったのもマアいい方なのだもの。来年やもっと先が当にならないからきめてしまいましょうね。
ここの家を処分して郊外にうつろうという案があります。咲、私大体皆のりきです。この家の非能率性はこの頃もう殺人的パニック的よ、こころもちに甚大に及ぼして来ています。国府津へ行って、こっち留守番暮しというのがはじめの案でしたが、国府津は東海道線に沿っていて、何しろ前が本街道ですから、パンパチパチが迫って、あの街道を日夜全隊進め、伏せなんかとなったらもうもちません、そういう地点に、女子供だけ目だつ別荘にいるなどとは一つの安全性もないことです。この際この家を処分するのは、ここの人たちにとって又とない好機です。すこし荷厄介を負っているところはどこも同じ問題よ。
うちの通りの向側に市島という越後の大地主が、殿様暮ししていたのが、いつの間にやら水兵の出入りするところとなっている有様です。方丈記というのが戦国時代の文学であるのがよく分りますね、一つの家の変転だけ語っても。その市島の家は、もと松平の殿様のお休処で、一面の草原に白梅の林で、タンポポが咲くのを、小さい私たちが、からたちの間から手を入れて採ったものよ。高村光太郎は本でふところをふくらまして、小倉の袴にハンティングでその辺を逍遙していたものです。林町も変ったことね、そして今この通りでたった三軒ほどのこった古くからのこの家が又何とか変ってしまうと、全く昔日のおもかげは失われます。そして、この通りを占めるのは、何かの形に変った金の力だけというものね。
郊外へ家を見つけるについて、咲と私は、私も一緒と考えていますが、実際になるとどうなるでしょうね、タンゲイすべからずです。居る場所のない家しかないという工合かもしれないわね。それなら其のときのことと思って居ります。
すべてのものが、日々の目にもとまらないような変化の中で、何と深く大きく渦巻き変ってゆくでしょう、決して二度と戻りっこない変りかたをしつつあります。
セザンヌという画家は、人物を描くときなんか、椅子にくくりつけんばかりにして動くのをいやがったのですって、モデルが。あのひとの絵を見ると、しかし実に絵は動いているわ。ドガは描かれたものがそのものとして動いているが、セザンヌのは、画家の目、見かた、制作意慾が熾烈で、精神が音をたてて居ります。こっちからこれだけぶっつかるからには対象がひょろついていられてはたまりますまい。対象につよく、直角にぶつかっています。古典よんでいて、対象へぶつかり、きりこむこのまともさを今更痛感し、夜枕の上で考えていたら、セザンヌがはっとわかったのよ。むかしの人の禅機と名づけたところです。(思いつめよ、というのは、そこまで追いこんで、直観的に飛躍せよということなのですが、人物の内容が時とともに充実しなくては飛躍もヤユね)セザンヌの生きていた時代にはそうして対象を金しばりに出来たけれど、そして、そういう対象を描いていられたが、今どうでしょう、とくに作家として。どこで、何を、どう金しばりに出来るでしょう?おどろくほど沸りかえり流れ走るものを、その現象なりに描き出し、それが、現象であることを芸術としてうなずけるほど、一本の筋金を入れるのは何の力でしょうか、ここが実に面白いわ、ね。
十三日の手紙で、科学の精神のこと云って居りますが、ここと結びつくのよ。こちらの洞察、現象の意味、有機性、そういうものに対する芸術家の力量だけが、現実を、それがあるようにかけるのでしょう、だから面白いわね、勉強に限りなしというよろこびを覚えます。ストック品などでは役には立たないのよ。用心ぶかく、軽井沢辺で、芋でもかこうように作品をかこって繁殖させていたところで、芋は遂に芋よ。だってそれは芋が種なんですもの。家というものは、藤村が或程度かきましたが、又新たな面からのテーマです。ああいう「家」のように伝統の守りとしての継続の型ではなく、それが変り、くずれて、新たなものになってゆく過程で。では明日ね。

[自注6]眼が十分でない――一九四二年の夏、巣鴨拘置所で熱射病で倒れて以来、視力が衰え、回復しきらぬことをさす。 
三月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二日
きょうは又ひどい風が立ちます。春はこれでいやね、京都はこんな吹きかたをいたしません。島田辺もそうでしょう?風がきらいだからこう吹くといやね、外出しないですむので大仕合わせですが。
こんどは大変かりかたになってしまいました、二十一日、二十三日、そしてきのう届いた二十九日の分。
「ドン・キホーテ」のこと世田ヶ谷へきいてやってじかにそちらへ返事をたのみました。あの作品はほんとにそうでしょうね、そしてその男らしい笑いの中には、あの時代の頭をもたげた市民精神の強壮さも粗野さもあることでしょうし、罪のないひどいあけすけもあるわけです。「ドン・キホーテ」が完訳にならない部分というのはその部分なのね、昔から。大体中世から近世へかけての文学には、ボッカチオの或作品のように諷刺としてのあけすけがあり、それが後世の偽善的紳士淑女を恐れさせ、中世のドイツ詩なんか随分古語のよめない人には知られない傑作があるそうです。暗黒時代と云われ、宗教があれ丈残酷な威力をふるった半面に、そういう豪快なところがあったのは面白いと思われます。それにつけて今くやしがることがあるのよ、動坂へ家をもったときビール箱に五つも本を売ったでしょう、あのときわたしの旦那様は「惜しがる必要ないよ、いい新版がいくらだって出るんだから」と仰云いまして、愚直なる妻は二つの驢馬耳で其を承り、ああ、おしがるには及ばないのだ、と考えました。ところが、それから十三年経ちました。或る日旦那様が、「ドン・キホーテ」をほしがって、ないかないかとせめかけになりましたが、そのとき、日本には紙そのものが欠乏いたしまして、本にさえ「日本紙漉史」という本が出来、芥川賞は「和紙」という小説に与えられるという状況になりました。清少納言が「白い紙」いとめでたしとかいて、中宮から白い紙を頂くと、よろこんで、何を書こうと楽しみ眺めたことも実感で肯ける時代でありました。「ドン・キホーテ」の美しい插画入りの二巻の大部の本の姿が、驢馬耳細君の眼底に髣髴いたしました、そして思いました、今あの本さえあったらば、と。しかし、後悔先に立たずと云った古人はこの場合も正しくて、驢馬耳細君が、十三年経ってくやしがってみたところで、金文字で「ドン・キホーテ」とあった二冊の厚い本は決して決して再び現れることはありませんでした。おそらく驢馬耳の御亭主は余り慾が無さすぎたばかりに、あった方がよい本が、その中にあるかないかもしらべようとしないで売ってしまったのだと思われます。
ですからね、「ドン・キホーテ」や「プルターク」については、探すもくやしき一場の物語があるわけなのよ。「プルターク」だって全部揃ってもって居りました、カーライルの「フランス革命史」や何かと一緒に。そして、それらは震災にやけのこった本共でしたから、日本にとって決して意味ない本でもなかったのです。たしかに古い本の鬼面におびやかされすぎたのね。あわれ、その若武者も風車を怪物とや見し。
柿内さんの云っていること、全くそうね。きのう三宅正太郎さんが、「へつらい」のない世相をのぞむのが自分の悲願だ、と云う話を発表して居られ、関心を引かれました。へつらいを、すべてのひとは軽蔑し、しかも殆どすべての人々がそれに敗けます。アランが「デカルト」をかいて冒頭にこうあってよ、「それはまだ屈従というものを知らない時代だった」と。へつらいのおそろしさはへつらいの心理が根本的に非節操的なものであるから対象が変るごとに何にでもへつらうということです。へつらいの愛国心が国を破るのはこの為ばかりです。柿内さんと同じような意味で、「隠れた飢餓」ヴィタミンの欠乏状態が前大戦のドイツをどんなにひどいことにしたか書いている医者がありました。「隠れた飢餓」と云うのね専門で。ヴィタミンの欠乏を。そう云えば、メタボリンはいかがでしょうか、もうない筈と思いますが。ともかく届けておきましょうね。
二十三日のお手紙には珍しく詩話があって、大変愉しく頂きました。あの詩にはね、続篇のように、泉の歓びというのがあるのよ、あれは牧人の側からのですけれども、それはその森かげの温い泉の方からうたわれています。軟かな曲線で森にいたる丘のかげに泉はいつから湧いていたのでしょう。白いひる間の雲、色どりの美しい夏の夕方の鱗雲のかげが、泉の上に落ちました。或る大層月の美しい早春、一人の牧人がその泉に通りがかり、何ということなしそのあたりを眺めて居りましたが、渇を感じたのか、何の疑う様子もなく、その前に膝をつき、泉に口をつけました。泉は、日から夜につづいていた半ば眠たげな感覚を、その不思議に新しい触覚で目ざまされました。はじめ泉は、自分がのまれているのだとは知りませんでした。ただ、どこかから新しく自分の力をめざまさせる力の来たことを素朴におどろきました。そして思わず、さざ波立ちました。泉の上にあった月影はそのとき一層燦き立ち、やがて、くずれて泉の中に一つの美しい人影を照し出しました。それは、牧人でした。牧人は泉にずっぷりとつかってしまって、温い滑らかな水の面に、きもちよい黒い髪で覆われた頭をもたげ、水の快適な圧力に全身をゆだねました。泉のよろこびは微妙な趣で高まりうたわれて居ります、泉は、そうやって浴びられ、身をつけられて、はじめて自分を知りました。牧人の靭(しな)やかではりきった体は、泉に自分の圧力の快さを知らせました。次から次へわき出でて泡立つ渦の吸引は、そこに同じ快さによろこんで活溌に手脚を動かす体がつけられていて、はじめて泉によろこびを覚えさせます。暫く遊んだ牧人が小憩(やす)みをしに傍の叢に横わったとき、その全身に鏤(ちり)ばめられたように輝く露の珠は、何と奇麗でしょう。
牧人の自然さ、賢こさ、人間らしくよろこびを追ってそれを発見してゆく様子。
あなたはあの散文詩を、あなたらしく多弁でなく要約して書いて下さったと思います。詩にあらわされる精神と感覚のおどろくべき奥行きと複雑な統一は全く比類ないと思います。それは本当にどっちがどっちとも分けられません。精神の力がそれほど感覚を目醒ましく美しくするのであるし、感覚のすばらしさが精神にこまやかな艷やかな粘着力を与えるのであるし。私たちのところにいろいろの詩集があるということは無双の宝ね。これは形容でありません。どういう形ででも高められた生命の発露は詩であり、私たちは単に貧弱な読者にすぎないというのではないのですものね。
椅子をのりつぶしたこと、何とおかしいでしょう、そしてかわゆいでしょう。大方そういうことになりそうと思ったわ、そしてすぐバルザックが何脚かの椅子をのりつぶしたこと、思い浮べました。バルザックは誇りをもって手紙にかいているのよ、僕はもうこれで何脚目の椅子をのりつぶしたよ、と。
島田ゆきのこと、あれこれ云って御免なさい。それは、ジャーナリズムの最高形容詞に、凡俗な読者らしく支配されているところもあろうと考えます。しかし今日のジャーナリズムというものを考えると、総本山は一つですから、つまり、そういう最高形容詞をジャーナリストに使うことを要求する力と心理とが支配的なポイントをにぎっているわけです。ああこういうのは、とりも直さずそういういきりたち精神そのもののあぶなかしさが原因となっているのよ。どんな人にしろ平時で想像出来ないとんちんかんが起ることは予想して居ります。そして其は必ず、その最高形容詞の精神のとちくるった発露にきまって居ます。十二月の九日に、あれほどの勝算に充ちていてさえ、あれ丈のつけたりをしたのですものね。それに、とちくるいは、謂わば心理的擾乱で決して合理的な推論から出るものではありませんから、決してそれが局部的であるとか連続的でないとか、そういう判断に立っての上のことでもありません。だから、知識水準の低いところほどおそろしいのです。
あなたの占星術は合理的でそのものについてわたしは勿論どうこういうわけはないのよ、しかしね。それでも、もう決心しました。あなたはどうしても行った方がよいと思っていらっしゃるのだし、行けるときに行っておくべきのは明らかですし、参ります。もうこの話はやめましょう。行かなければならないから行くのに、多くいう必要はないわ。心からあなたの占星術の当ることを希望いたします。
川越の方はお話した通り。ここもつまりは引越しますまい。御主人公の考えかたは、生活一新のための絶好の機会とか、程度の差があってもよりましな方という風にゆかず、新しい方を借金して買って(きのう買った人は十三坪の家(借地)六千六百円よ)さてこちらを処分するとなっても、そういうものの売買の統制のために借金が返せないということになりそうだからやめるという風の様です。子供らを国府津にやって一先ず安心してそうなったようです。あちらへ行く迄に、平塚、横浜等、通過出来なくなるところもあり、どうせ遮断されてしまいましょうが。マアそれならそれでいいわ(引越しのことよ)ここがどうなるなどということは土台わたしにとって問題ではないのですから。わたしの留守の間にこちらが原っぱになったって、そんなことはおどろきもいたしません、勿論無事を願うのは自然ですが。島田へのおみやげ大分あつまりました、何はなくとも、ともかくめいめいに何かと思ってね。周囲の若い女のひとがどしどし挺身隊に入ることになって来て居ります。歌舞伎のような高級娯楽は一年間停止、待合芸者やも廃業、高級料理店も停止。これはさもあることです。一般人の生活とはかけはなれてしまって、百円の食事をしたと大声に喋る人間は、時局屋ですから。遊廓はのこされるらしい風です。
文学報国会で久米正雄や他の人が世話役で、作家の勤労者集団生活の舎監へのり出すことが進められて居ります。文士とやはりかかれています。二三十人先遣隊となる由。文学に全く関係のないひとが、「つまり救済事業ですね」と新聞を見て申しました。ガンジー夫人七十何歳かで獄中に生活を終りました。極めて感銘のふかいことです。どうであったにしろ、インドの人々にとって正直に生涯を捧げた典型が示されたのです。 
三月二十日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鶴ヶ岡八幡宮の写真絵はがき)〕
さきほどすぐ事務所に電話して切符のことをたのみ、どうにかして寝台も買えたら買うようたのみました。しかしあとのは全く当になりません、私人では。お話していたところ[自注7]は中野区鷺の宮二ノ七八六です。特別何もたのまず出かけます。何も彼も用意すると何だか本当に帰れることがなくなるようで気味がわるいから。あなたのお金だけはお送りしておきます、森長さんへ電話します。到頭おやりになる、いやな方。

[自注7]お話していたところ――壺井繁治の家。百合子が顕治の郷里島田へ行くことになり、その留守中のために顕治に知らせておいたもの。 
三月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二十三日
風が荒いけれどもそれも春らしいというような日になりました。今丁字の花が咲き、よく匂って居ります、目白の庭石のよこにおいて来たのも咲いているかしら。
きのうは、どうもありがとう。余りな話だったので自分では十分耐えたけれども、眠れなくなって。すぐ露見するから大したものね、露見することが大変うれしいと思いました、観破して下さるということが、ね。
けさは、国府津引上げのため、こちらにいたひとも呼出しで、国の朝飯のことしてやり乍ら、心から感じたのは、こうやって台所で働き、みそ汁をつくり香のものを切るならば、わたしはその人のためにこういうことみんなしたい人があるのに、と。まことにまことに切にそう思いました。そして又思いました。同じ親をもって生れたということは不思議だと。生活の条件の相異でこうもちがうものか、と、氏より育ちをおそろしく思いました。
今度のことは余りのことだから、わたしとして譲歩いたしません。きっとこうなるのよ、今に。Kは事務所を閉鎖してしまい、自分も開成山へゆき、ここは全然なくするから、私は東京にいるならいるで云々と。来年まで待たず、そうなるのではないかしら。国府津は貸すでしょう。段々にそういう準備もいたします。もう少し丈夫になって、神経が調子よくなれバ、わたしも何かすることが出来るでしょうし。この秋までは余り頭や気をつかうのは無理だから。でも考えてみれバ、いいかげん世間の人の倍は此までつかっているわけね。
ハガキでかいたにくまれ口は、笑いながらにらむ、という程度のものよ。(念のために)
今は丁度学生が休みになったので、駅は徹夜で行列だそうです。特に遠方は猛烈のよし。じぶくっていたうちに、こんどの話のようなことおこって、何といてよかったでしょう。国は寿の知らないうち、除籍する方法はないかと云った人だから、(この上迷惑を蒙らないための由、寿がどんな迷惑をかけたでしょう、それほどの)うっかりすると、帰って来ようとするとき手紙が来て、姉さんはとりあえず国府津へ転出しておいたから、などということになりかねませんでした。こんなことの虫の知らせとは予想もしませんでしたね。きのうばかりは、あなたもふうむ、ふうむとおうなりになったから、気の毒な蘰(かざらし)のさ百合が凋んだのもうべなりでしょう。
疲れたようなところだから、十三日のお手紙にある万葉のうた、くりかえしよみ、いい匂いをかおるようです、うたそのもののまじりけのなさ、そして、其が又書かれているということについての動かされるこころもち。いいこころもち。ね。三つとも燦々として居りますね。(後も逢はぬと思へこそ)の歌に浮ぶいくつかの情景もあります。
そこには、天から芳ばしい紺の匂いが夢のなかにふりかかって来たような朝があります。西日の光に梢のかげがゆらいでいる障子もあります。霧の濃いなかで燃(た)き火の火がボーと大きく見える夜もあります。「うるはしみすれ」というようないい表現を日本人ももっていたのだとおどろきます、心と感覚とが全く一つに発露して居ります。万葉の人々は「昼もかなしけ」と流露して、妹のことばを肯いで(でも追補は書かなかったでしょう)と思ったとき、実に笑えたわ、あの時代の人々は「紫の野ゆきしめの行き」、大してむつかしいことがなかったのね、ですから追補はいらなかったも道理です。追補のいるときは「浅川渉り」会って表現したのですもの。
あぶらの火の光に見ゆる、一首はまるでその時分の生活全幅が描かれるようです。周囲の夜の暗さの太古的な深さしずけさ。「あぶら」の火の珍しいキラキラした明るさ。しかしその光の輪はせまく、集う人々の影を大きく不確かに動かし映るなかで、蘰のさ百合の匂やかな大きい白さが、男のひとの額の上に目立つ暗暗の美しさ。うれしさが明暗のアクセントのうちに響いて居ります。蘰は女のひとがおくるものだったと思うけれども。
「笑まはしきかも」に愉悦が響いて居ります、様々のやさしい情がこめられて。
第二巻はまだよんで居りません。三つのうたは初めてで、古歌と思えぬ瑞々しさです。うたを覚えられない私でも、この三つともう一つの「幾日かけ」は忘れますまいと思います。この十三日のお手紙は十五日のと一緒に、十九日についたのでした。
体のこと、確に営養のこともありますけれども、この頃はいい方よ。(食べるもののこと)生活のプリンシプルが、いろいろためてしまっておく趣味でなく、食べものは食べられるとき食べる、というたて前でわたしはやりますから、それこそ、今のまさかにゆるがせしないから割合ようございます。わたしが知らないで、しまわれているまま腐ったりしているものがありませんから。その意味でこれからは今としては最上というところでやれそうに思って居ります。魚や肉は配給以外うちは暗いものなしですからきまっているが。小松菜でもまきます、樹のかげというけれども日向のここへ一うね、あすこへ一うねと、パラリ、パラリとうなえばいいのだわ、ねえ、何も四角いものつくらずと。わたしがいろいろやるときっとすこしは動きが出るでしょう。ものにも気分にも。小松菜も蒔こうという気になったのだから、余程丈夫になったわけでしょう、ひとりでに動くのね、そうやって。
岩波文庫の『名将言行録』は渡辺町へでもたのみましょう。文庫は殆ど市中へ出ず売切れます、ましてや今度「不急出版物一時停止」ということになりましたから。紙を最も功利的に使う本やの工夫で美術や専門技術の高い本が出たのがついこの頃の現象でしたが。この四年ほどのうちに出版もひどく波瀾いたしました。インフレーションと云われ、I・Tが財産こしらえたころから。戸塚が生活を破綻させ些か新潮に儲けさせた段階、その次の十五銭本か小説か分らない作品集の出た時代、それから美術、技術本、そして只今。
今は人々が、ひと通りの気のよさ、親切、教養などの底をどしどし抜かれていると思います。そういう一応のもののよりどころない口約束みたような本質、一定の条件の限りでの礼儀(エティケット)のようなものが、皆たががはずれて、ひどい有様ね。親切というこころがいつしか本人も知らないうちに、利用価値にのりうつっていたり。こわいことね。信義というようなもののめずらしさ。
島田へは、行かないときめたときおみやげ送っておきました、母上と友ちゃん、草履(いいのよ、なかなか)達ちゃんへはしゃれた紙入れ。子供たちに積木と本。野原へは、二人に草履。冨美子は卒業ですから、本。役に立ちそうなのを集め八冊ばかり。かなりのものよ。岩本には薬の世話になるから先生に紙入れ(いかにも年輩の校長先生向なの)奥さんに帯あげ。上の娘帯どめ、下の娘机の上の飾り、男の子切りぬいて作るグライダー、という次第です。来年どうなるか分らないし、私は益〃貧乏でしょうから、ことしは、おみやげをけちけちしないで準備いたしました。小包あけて、きっと不平な人は居りますまい。
この頃鉄道便をうけつけませんから誰彼なしに小包つくるため、ユリお得意の小包作りに紙がありません、売らないのよ。咲は紙やのかみさんに、局が受つけ個数制限していて朝でもう〆切りですよ、と云われたそうですが、さほどではないようです、但小さい局のしかしらないけれども。チッキが番号札もらうのに徹夜の由。うちの連中、あさって行くのにどうするのでしょうね、又誰か夜どおしさせられるのかもしれず、ひどいごたつきでしょう。どっちみち二十五日におめにかかります。 
 

 

四月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月七日
ああ、しばらく。本当にしばらく。先月の二十日すぎ手紙をかき、あれから毎日落付いて書きたいと思いながら時がありませんでした。こんなことは、マア私たちの生活がはじまって初めてのことね。今来客と一緒に出て、ちり紙の配給を坂下までとりに行って、かえりにフリージアの花買っていそいで二階にあがって来たところ。もう四時半まで一時間半ほどは何があってもここは動かないつもりです。(と書いたでしょう?ところがその間に八百やとトーフと二度よ。)
さて、咲枝子供たち出かけたこと(二十五日)は申しあげましたとおり。
二十六日になって、何となくしずかだし頭の上がカラリとして、ふと気がついて見たら、咲がどうしてあんなに遑(あわ)ててけとばすように、今この勢という風に行ってしまったかが忽然として会得されました。一種の逃避だったのね。
三十一日に手つだいのひとも居なくなり、わたしと国男。国は三十一日に汽車の都合で帰ったが、その晩は私が留守だったというので友人宅へとまり二日にかえり、三、四、五とよそへ泊って昨夜久しぶりで在宅。私は、丁度こちらへ引越したり病気したりした間に、配給の様子が分らなくなっていたから、急に全部一人でやって大疲れです。おとなりの人たちがよく助けて下さるのでやれますが。でもこう思っているのよ、どこで一人で暮したりするにしろ、やはり同じくパタパタで、しかも手助けしてくれる人もないのでしょうから、これが今の市民生活の実際だと思ってね。朝七時におき御飯のことして、それから国がダラリダラリと仕度して十時すぎになってやっと出かけます。今日は、そしたら手紙とたのしみにしているところへペンさんね、あれが来て、やはりきいてもらいたい愚痴。でもそう云って笑いました。この頃は二円のクリームに三円八十銭の不用な香水をつけて買わされるのだから、ひとの境遇にも同じようなことが起って、わたしだって巣鴨へ便利で市内で、電話があって、余り危険でないという住場所の必要のために、此だけの辛棒しているのだから、あなたもそう思いなさい、と。そんなものね。
余りむしゃくしゃしてたまらないと、気つけ薬をかぐように、あの万葉のうたを思い出します。それは新鮮で、いい匂いがして、生々としたそよぎを送ります。自分に向って、かざらしの小百合よ、と思うのよ、いまのまさかに、どんな顔して気持でいるのかよと思うのよ。
この三四ヵ月の間の私の手紙を並べて思いおこしてみると、世相と共にこういう難破船の崩れてゆく速力のはやさがまざまざでしょうと思います。去年の秋ごろ、先ず細君という積荷の繩がきかなくなって、甲板の上をズーズー、ズーズーと大すべりにすべり出し、寿江子というものが到頭船から落ち、最後に、私が、しっかり荷ごしらえしているために辷り出しはしない代り、船の大ゆれの最後にのこった形です。
誰も深くその経過を省みず、考えず、ただ心理的に行動して、疎開とかいろんな名目で云われ、とりつくろわれていますが、本質はこういう地盤と条件の生活の急速な消滅の途です。処置のようだが実はその域を越して居ります。
そういう空気の中ですが、けさは小さい畑にホーレン草の種子をまきました。あしたの朝は不断草というのを蒔きます、朝の落付かない時間の仕事にいいし。
この頃は省線小田急なども時間で切符制限して居り午前六―九。午後四―七は通勤人でなくては駄目。汽車も回数券はなくなり、定期も通勤証明です。千葉の往復も大変になります。
この次の手紙は程なく書き、そして生活にいくらか上手になったことのわかるのを書きたいと思って居ります。 
四月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月八日
もう梅雨のような雨でした。大笑いよ、わたしが朝飯前に畑へ種子を蒔いたりしたから忽ちだ、と。けれ共いい工合にこの位の雨であったら蒔いた種子が流れ切ってもしまいますまい。あんまり黒煙濛々たる手紙さしあげたから、すぐつづけて、マア其なりにどうやらすこしずつ手に入って、台所で煮物の番をしながら本をよむ気にもなって来たことを御報告しなければ相すまないと思いまして。
台所用の本(!)はトルストイとドストイェフスキーの細君たちのメモアールを集めたものです。やっぱり夫婦はこういうものなのね、トルストイの夫人はギクシャクなりに文章や考えの構えかたにスケールがあって、跛ながら旦那さんの風をついていますし、ドストイェフスキーの細君はひどく素直で、わたしわたしというところがなくて、書きかたは御亭主の小説の成功した部分のように一本の糸の味のあるうねり「貧しき人々」などの味に通じたところがあります。トルストイの細君はおそろしい位良人の内部を理解して居りません。こわい、熱烈な、大きいとさかの牝鶏よ、どっさりの子供を翼の下に入れている意識で牡鶏に向ってわめくところがあります、ドストイェフスキーの細君は、つつましいと表現され得る女のひとであるらしい様です。でも、今、一八七二年のこと、という章をよんで、胸うたれ、これを書きたくなりました。この年はドストイェフスキーは「悪霊」を書き終り、それによって彼のスラブ主義を完成したのですが、『市民』という月刊雑誌を或る公爵の出資で出しました。それの仲間があの有名な日曜日を仕組んだポベドノスツェフだったのですって。それを細君は、こういう人達と働くことはドストイェフスキーにとっても魅力のあることでした、と何の罪なく書いて居ります。ドストイェフスキーという人間は、人生に迷って不幸から脱却したいとき、結婚するか賭博者になるかパレスチナへゆくか三つに一つと考えたのだそうです。そして、一つを選びその細君と結婚したのだけれども、最後の「悪霊」は実に意味深長な作品であったと沁々思います、そういう点にふれての彼の伝記はホンヤクされているものではありません。トルストイは矛盾だらけにしろ、そういう仕事はきらった男でした。その一つの点だけでも彼の人間はしゃんとしていたと云えるでしょう。
きょうは、もう十日(月)です。きのうは国が家にいて、台所の天井の窓のガラスがこわれていたのを直したり、カマドの灰かきをしたりしてくれました。ガラスがこわれたところから雨がバシャバシャおちて、タライをおいても洪水でした、下駄ばきで台所やって居たから直って全くさっぱりしました。
三十一日にひとりになってから、十日経ちました。段々手順が分って来て、大体朝七時半ごろから十二時すぎ迄で一かたつけて午後は四時間ほど、自分の時間にしようとしてやって居ります。家のことを四年しなかったうちに全然様子が変ってしまいましたから、今又台所やるのは私に或はいいことでしょう。配給の様子も一つ一つはっきり分るし、不如意な中でやりかたも覚え、これから更に不便な生活をしなければならないためのケイコに有益です。台所も何となし自分の息がかかるとよくなって、今棚の上のコップには可愛い「ぼけ」の枝がさしてあります、台所をさっぱりと整った優しいところにするのは大切ね、女のひとの一生は一日少くとも十時間は台所で暮さなくてはならないのですもの、お目にかけられないところとする日本の習慣は間違っていると思います。そこへ友達も来て、何か働いていながら話もし、本でもよんでくれていいところだと、どんなにいいでしょう。そして女の馬鹿になるのが防げます、湿っぽい、面白さのないところで一人でポシャポシャやっているとき旦那は火鉢に当って談論風発で、十年経つとあわれこれが女房かとなってしまうのね。御用ききというものが来ないのは至極ようございます、今の暮しは一日に七八人のお客ということもないし、疲れすぎないコツを会得して、やれそうです。眠り工合がちがって深く深く眠ります。きのうは傘さして菜っぱをとりに湯島一丁目まで行ったら、私なんか力のないこと、一貫五百匁ほどの包みでフーフーで咳が出る位(ドキドキするから)でした。自転車にのれたらと思います、でも目が不確かで速力が不安なうちは駄目ね。
あなたが家事衛生のこと、おっしゃっていましたが、こんな実習がはじまろうとは思って居りませんでしたね、お互様に。こうやって見(いて)てつくづく自分もいろいろの生活で、こなせるようになって来ていると感じ直します、つまり苦労して来たのだな、と思いかえすようなところがあります。そしてそれは自分の実力ということで感じられるのはうれしいと思います、女中がいない、忽ち上ずってしまう、という生活力では情けないわけですから。でも心もちは意地わるいものね、こんな暮しがはじまると、何と勉強したいでしょう、じっくり腰をおちつけて物もよみたいと思う気が切々です。それが困るが、大体からいうと、人的交渉から苦しい刺戟を絶えず得ているよりも、この方が体のためには悪くないかもしれないと考えます、体がこの位くたびれると机に向って根のつめる仕事は出来ません、読書にしても、これが永続しては、やはり私として本末の顛倒した生活ということになりましょう。国の方は防衛局の仕事がなくなると同時に事務所もとじる計画らしいし、仕事のなくなるのは防火壁をこれからこしらえたってはじまらないという時期が来ればすぐなのだし、どこもかしこもそんな風な日暮しですね。
寿は長者町に落付く由。それがいいでしょう、わたしがこんな暮しかたをするようになったら、長者町に落付く決心をして、なかなかこまかく考えを運んでいると思いますが、私として、当てにしていないのだから、結局落付いてくれる方が安心です。姉のこころ妹知らず式のところもあって。わたしは一家の中で殆ど術策を弄さない唯一の人間よ、生活の運びで。私のよろこび、わたしの苦痛、わたしの貧乏、それは天下御免で大っぴらで、弄すべき術策を必要といたしません。それは今日にあって大きい幸福です、自分の性根をこの間(カン)に腐らせないでゆける道ですから。Sが人相が変り悲しゅうございます。抜けめないところばかり出ている顔して歩いていて、往来で会って、その人と思えないようでした。ダブつき条件でだけ出来ている鷹揚さ、ひろがりなどというものは、何と急速にはげてしまうでしょう。気くばりと抜け目なさだけの顔してむこうから歩いて来るSを見ると、胸がいっぱいです。あのひと鏡もってるのかしら。人は折々よくよく自分の顔を、検査しなくてはいけません、画家が自画像をかくように、他人の顔として調べなくてはいけません。自分の弱さ、下らなさをそうやって見張り、又いじらしさをいつくしんでやらなけれバいけません。
手紙いつ書いて下さったかしら。わたしも御無沙汰いたしましたが。この頃は毎朝カタカタと門まで郵便出しに出てゆくのよ、よくよくのぞいて、まだ来ていない、と思って、石じきを犬にじゃれられながら戻って参ります。あの石じきの両側には、今山吹の芽がとんがった緑でふいて居ます、いい紅色の楓の稚葉もひろがっていて、石の間には無人の家らしく樫の葉が落ちて居ります。
夕方なんか、ふっと待っているところへ入っていらっしゃるのはあなたでありそうな気がしたり致します。目白のもとの方の家の二階の灯の下で待っていたのを思い出します、アンカは小さくても足の先は暖かでしたね。
きょうは、日がさしはじめたけれどうすら寒いもので、可愛いアンカ思い出したのでしょうか。
では明日ね、風邪をお引きにならなかったでしょうか。 
四月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月十六日
きょうはいかにも若芽の育つ日の光りです。咲が帰って来て殆ど一週間わたしは公休でしたから、疲れもやっときのうあたりからぬけて、きょうはげにもよい心持です。久しい久しい間こんなに暢(のび)やかで、しずかで愉しい、気持ございませんでした。
きょうはね、一日ゆっくり二人遊びで暮せるのよ。素晴らしいでしょう。あっち二人は国府津の家を人に貸すについてとり片づけに出かけました。月曜の夜かえるでしょう。うちにはわたし達、あなたとわたし丈なの。それにわたしの疲れは休まっているのですもの。七時頃いい心持で眼がさめて、お喋りや朝のあいさつをして、なかなかあなたの御機嫌も上々のようよ。
すこし床の中にころころしていて、それから降りて来て珍しく紅茶とパンをたべました。パンがやっと配給になりましたから。但しお砂糖はこれ迄〇・六斤のところ又〇・一斤減るそうで、決して安心してサジにすくえません。でも、きょうは、こんなにうれしい日なのですもの、いいわと自分に云ってお茶をのみました。
庭へ出て、今ボケが咲いている、それを剪って来て小さな壺にさしてテーブルの上において、その花の下蔭というような工合でこれを書きはじめて居ります。
食堂にいるの。大きいテーブル、長さたっぷり一間ほどのテーブルですが、その長い方にかけていると、左右に十分翼があるので大変工合ようございます。いろいろの人がこの位の大長テーブルで仕事したのがわかります。ペシコフもこの位の机よ。この位の机をつかったのがトルストイやペシコフで、チェホフのヤルタの書斎にあった机はもっと小さかったのも、何かその人々の特徴があるようで面白うございます。白と藍の縞のテーブルかけがかけてあるので、ボケの花の薄紅やみどりの葉の細かさもよくうつります。
十日のお手紙ありがとう。あのお手紙のかきぶりを大変心にくく思いました。ああいう風に慰めるものなのね。そしてそれは本当に与える慰安であって、愚痴のつれびきでないというところを感服し、一層なぐさめられました。十日のお手紙の調子全体は、ブランカのいろいろをすっかりわかっていて、その上で、一寸こっち見て御覧という風でした。なんなの、と見て、おやと思って、眺望の窓と一緒に心の窓もあいたようになって来る、そういうききめがありました。〔中略〕わたしは二十年以上もこんな気分の、不安定な家族の中で暮したことがなかったから、出直り新参です。新しくやり直しというところね。しかも私の条件が変って居りますからね。お客に来ているのではないから、ね。
火曜日にはすこしのんびりした顔つきを御覧に入れられると思います。
わたしの畑のホーレン草は、さっき花を剪りに行ったとき見たら、ほんの毛のような青いものが見えました。あれが芽でしょうか。心細いがでも生えるでしょう、一年めは駄目の由です。肥料をよく注意しましょう。ここでも、あっちこっちにつくると結構出来そうです。うちに子供たちがいなくなりましたから犬やこんな畑や気持の転換になります。籠の小鳥はどうしても苦手よ。囀る声はこんな天気の日の外気の中にきくのはわるくありませんけれど、それよりも時々山鳩や赤腹や野鳥が来ます百舌鳥も。その方が林町らしくて面白うございます。そうそうこのお盆に南瓜の種が五粒あります。これは隣組配給よきっと。この週は南瓜週間なのですって。週間の推移様々なりと思います。わたしは南瓜をすきと云えません、けれ共ことしはちゃんと植えます、前大戦のドイツはインフレーション飢饉で二十万死亡しました、それは御免ですから。このあたりの隣組は全くわが家専一で、家の中のカラクリは垣根一つこちらからタンゲイすることは不可能です。したがって飢じい思いをしたり、ひからびたりするのはお宅の能なしということなのよ。凄いでしょう?飛び散ってしまえば其までながら、さもなければ、私はまだまだ小説を書かなくてはならないのだから、南瓜でも豆でも植える決心です。それでも、こんなものはかよわいものですね、ドシャンバタバタの下に入って、猶も青々しているなんて芸当は出来ません。そう思うと、土の中に埋めるものはノアの箱舟のようになります。ノアはあらゆる家畜一番(つが)いずつを入れたが、日本のブランカは、焦土に蒔く種も一袋という風に。やけ土はアルカリが多くなってよく出来るかもしれないことよ、但し蒔く人間がのこればの話。
天気がうららかとなって、一つなやみが出来ました。まだ眩しいのです。光線よけをかけなくてはなおりそうもないの、痛い位だから。傘もささないと苦しいし。駄目ですね、キラキラした初夏の大好きな美しさにあんな眼鏡かけるなんて、しゃくの極みです。あの眼鏡ごらんになったわね。嫌いでしょう?眼のニュアンスは眼鏡かけている丈でさえ損われている上にね。〔略〕
この間護国寺のよこの、いつも時局情報買っている店でヴェラスケスを見つけました。ヴェラスケスの自画像があってね、それはゴヤのあの畏怖を感じる慓悍な爺ぶりでもなければ、セザンヌのおそろしい意欲でもないしレンブラントの聖なる穢濁の老年でもなく、いかにもおとなしくじっと見てふっくり而もおどろくべき色調の画家らしい自画像です。
ヴェラスケスの絵はたのしい絵ですが、ウムと思うのはゴヤです。ゴヤはヴェラスケスが描いたフィリップ四世のデカダンスの後をうけて全く崩壊したスペインに、愛着と憤怒とをもって作品をのこした画家で、あの時代として男の中の男というような男ね。淋漓というようなところがあります。声の響のつよさが分るような、面白くねえという顔した胸をはだけた爺よ。それであの優婉なマヤ(覚えていらっしゃるかしら、白い着衣で長く垂れた黒い髪した顔の小さい女が、ディヴァンにのびのびとして顔をこっちに向け、賢くておきゃんで皮肉で情の深い顔しているの)を描くのですものね。ヴェラスケスはセザンヌとちがうが純絵画的な画家ね。ゴヤはちがいます。ゴヤは表現の欲望そのものが、生(なま)に人生をわしづかみにして来てしまうたちの男ね。描く女も従ってちがうわ。ゴヤの女はどれも女の肉体に衣服を着て、その肉体はいいこと、わるいこと、ずるいこと、うそさえ知っていて、しっかり大胆にタンカも切って世をわたっている人たちです。大公爵夫人にしても、よ。ゴヤの女たちが、みんなしなをしていなくて、二つの足を優美ながらすこし開いて立っているのは、何か人生への立ちかたを語って居ります。ヴェラスケスやヴァン・ダイクは衣服の華美さを、絵画的興味で扱っていて、人間が着ていて、裸になったって俺は俺というゴヤ風のところはなく、顔と衣服とは渾然一つの絵をなして居ります。小説家はゴヤに鞭を感じます。
こんなに色刷の貧弱な絵の本ももうこれからは何年か出ますまい。そう思うと十年以上前に大トランク一つ売った絵を思い出します。パリで妙ななりをしていても、これ丈は、と買ったのですが。惜しいのではなくよ、どこの誰がもっているやら、と。いずれは日本の中にあるのだから、わたしも日本の美術のために数百円は寄与したわけです。マチス素描集なんかがどこかでヘボ野郎の種本になっていたりしたら笑止ね。
ああああ、どうしても歯医者へ行かなくてはならなくなりました、上歯の妙なところに穴がポッカリあいてしまったわ。
歯医者へゆくとわたしは全くいじらしくおとなしいのよ。眼医者へゆくとしおらしく不安なのよ。歯医者は、肴町の近くのところへゆきます。メタボリンが岩本さんにも手に入らなくなっている由、「万難を排して」買って下さる由、県視学となって下関へゆくそうです、頂上の立身でしょう。下関とは、しかしこわいところね。お祝いを云ってあげなくては、ね。豚娘(!)さんが赤ちゃん生んだそうです。女の子をこう謙遜して云われると笑い出してしまいます、西郷南洲を見込んで好いた女は豚姫といったのですって。 
四月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月十六日
ね、二人遊びは面白いでしょう、きょう一日あなたは私のするいろんな細々したことのお伴で、夜床に入らなければ放免にしてあげないという工夫です。
さて、さっき始めの封をしていたら、庭の方からカーキ色服の男の子が現れて、「魚やの配給です」「ああそう、どうもありがとう」「僕とって来ましょうか」「ありがとう。でもきょうは居りますから自分で行きます。」この男の子は裏の洋画家の長男です。父なる画伯は縁側に坐っていろいろの絵をかきます。その仕事ぶりは笑えないわ、そうやって描いて一家六人をやしなっているのです。
前のポストへ手紙を入れ、これを(十七日)けさ又受けとったのよ、七銭不足の由で。三銭四銭と恥しいほど長くはりつけることになりました。前かけかけたなり目白でやっていたようにカゴを下げて犬をつれて団子坂下を一寸むこうに突切った魚やへ行きました。魚やは初めてよ。三人で冷凍のタラ三切。三十銭也。となりの文具やへよったら封筒らしいものは一つもなし。坂を又のぼって下駄やへよったら隣組配給になるのですって。九日から二十五日までにさばいて警察に届けるのですって。下駄やの斜向うに菊そばがあります。ゆうべかえりにそこ丈明るくて男や女がワヤワヤ云っていたの、何かと思ったが、見ると今晩軒という札が出ていて午前十一時より千五百人売切れとあります。ホーレン草の束を運びこんでいます、「今晩軒て何が出来たんでしょう」「雑炊です」「まあ菊そばが今晩軒になったの」「いいえ、代が変って菊そばは引こしちゃったんです」あの下の方のところには土間に板の床几が並んで居ります、ホーレン草の入った雑炊売るのね。附近の人は大助りでしょう。外食券なしで買えるし、食べさせるのですから。いずれはうちも十一時までだから十時半などと云って団子坂の上まで列に立ったりするのでしょう。
魚やから戻って、これから一寸することがあるの。小遣帳の整理です。小遣帳たるや、この私に二冊もあるのよ台所用。自分用。この頃は、出たところ勝負で買っておきたいものがありますから。そしてこれは、こんなものいるのかというようなもので。例えばね、この間、そこの帰りテープ買ったのよ、ゴムの。下着用の必需品。これが立売りしかありません。細いの一尺五十銭、やや太いの七十銭。六尺五寸ずつ(たった二組ずつのためです)それが七円八十銭かでしょう?これですもの。
立売りは面白い現象です、アホートヌイ・リャード[自注8]に一杯立売りが並んでいてね、塩づけ胡瓜、卵、キャベジ、肉、殆ど何でも売って居りました。胡瓜なんかの価をきくときはパ・チョム?の方を使って、スコーリコとはきかないのね、スコーリコはもっとまとまったもので、百グラム何銭にいくらというような食品なんかみんなパ・チョムでした。それが一九二九年の十二月、西からかえったら[自注9]、一人もいなくなっていました。全くあのときはホホーと思ったものでした。
夕方になったら冷えて来て、わたしの鼻の中が妙に痛くなって来ました。薄ら寒いのよ。これは風邪の下地です。もう五時四十五分ですからわたしも夕飯こしらえて、たべて暖くして早く横になりましょう。咲は火曜日にはどうしても帰るのですって。そしたら又わたしの司厨長よ。ですから風邪は迷惑です。
これから台所へゆきます、何をたべましょうね、有っての思案ではなくて無くての思案よ。忽然として天に声あり、エレミヤのラッパのように鳴ります、「カロリー。カロリーを忘れるな」と。笑ってしまうわね。鞠躬如として答えます「ハイハイ、油気が入ればようございましょう、油は貴重品ですから」と。よって、油で御飯でも焙めてたべましょう小松菜の切ったのでもまぜて。こんなところが上々の部ね。
御報告いたします。御飯いためにタラを入れました。いいでしょうそれなら。タラは一切れで何カロリーとは云えないけれど、いいのよ。いいことは。
さて、今湯タンポのお湯をわかしています、これがわいたら上りましょうね、あなたももう下に格別用事がおありになりもしないでしょう。きょうはふとん干してポコポコです、風邪ふせぎに丁度ようございました。天気さえよければ干すので、色がさめて気の毒よ。動坂で使っていらした茶色縞ね、あれをまだ丈夫でつかって居ります。それと、西川かどこかでお買いになってあちこち旅行した草花模様の。あれ二つです。よく永年用に立って可愛いことね。色はさめても香はのこるというわけです。
お湯の音がしはじめました、ああうがいもして臥よう、ね、このようにわたしは養生やです、それは本当よ。まだ時間が早くてあなたはまだ本でもよみたいかしら。でもどうか今晩はつき合って下さいまし。ああふいたふいたお湯が。
どうものどが渇いてしまって。仕方がない、下りて何かのみましょう。鼻の奥の痛いのはなおり、一眠りいたしましたが、これはすこし本ものね。あしたきっと喉がいたいわ。今十一時半ばかりです。島田から頂いたエーデルがほんのぽっちりのこっているのでものみます。
さっきは湯たんぽを当てて、すぐぽーっとなってしまいました。
こんな風に暮してみて分りましたが、もし万一ここがやけのこって焼けた人々と共同の生活をするようなことになれば、この食堂と客用の手洗場とをこめた一角を使うと、なかなかコンパクトにやれると思います、ここにガスの口があります(もとストーブ用のが)それに手洗場の水道をつかって、外のすのこを流しにすれば。でもほんとうにどんな生活がはじまるのでしょう、歯は早くなおさなくては、其につけても。痛まずかけました、私の歯はよくそうなのよ。
ゴビの砂漠という写真帳をかしてくれた人があります、学術探検隊が行ったとき読売の写真班がついて行ってとったのです。ヘディンの蒙古に関する記録をよんでこれを見ると面白いのでしょうが、そんな気おありにならないでしょうか。うちにヘディンはかなりあります、『馬仲英の逃亡』『さまよえる湖』(ロブ湖のこと)『熱河』など。上二冊の部分ね、ゴビは。大気のよく澄んだところの写真はきれいです。ラマの祭りの仮面踊りはアイゼンシュタインの「アジアの嵐」という映画にあの時代らしい手法で、比喩的にフラッシュで使用されていました。蒙古人の食物も不味ではない由。青いものが少いらしいのね、しかし牛乳製のものが主食だからいいのでしょうが。レーニングラードに蒙古人で日本の父をもっていると称する女がいました。全くの蒙古人の証拠に、日本語の発音の自然な適応性がちっともなくて、顔つきもこの写真帳の女のようだったわ。ふしぎな女。医者でしたが。
十七日、きょうもいい天気です。美しい光線です。けさ新聞に、林町と道灌山の間が建物疎開地域になって居ります、そうでしょう、このあたりは入りくんで人が一人やっと通れるような道で抜けていたりしますから。それからあの動坂と林町の間のゴチャゴチャ区域。あすこも危険地帯です。本郷は菊坂辺もそうの由、わかりますね。林町の裏には大きい貯水池が出来て居りますが。
喉は、夜中に湿布してきょうは快方ながら油断無用と申すところ。明日ドラ声女房で現れないためにね。二人あそび終り。

[自注8]アホートヌイ・リャード――百合子がソヴェト同盟滞在中に知った場所。
[自注9]西からかえったら――百合子が西ヨーロッパからソヴェト同盟へもどったこと。 
四月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月三十日
きょうは、又、のんびり二人遊びで暮そうと金曜日から楽しみにして、先ずその前祝いとして昨夜は九時に床につきました。全くぐっすり五時間ほど眠って一寸目がさめ、ぐっすり五時間眠ると一通りは眠ったことになるらしいのね。暫くパチクリして、ああ何と伸々していいのだろうと、床の中でうれしくのびたりちぢんだりして、雨戸すこし明け、朝の空気入れて又眠りました、すると、中條サン、中條サンと裏の画伯の妻君の声で、おきて手すりから見下すと、満開の山吹のしげみを背景に「ボークー演習」と小さい声で怒鳴ってくれました。「あら!今日になったの」「そうですって」そこで遑てて紺モンペはいてへんな布かぶって、かけ出しました。七時半から九時半まで。きのうだったのよ。きのうは国が居りましたから「たまに出た方がいいわ」「うん」というわけだったのが、七時にサーッと降って来ました、それでおやめ。十時に晴々とした天気になりました。「いいとき降ったネエ」しんから嬉しそうです、というのは十一時五十五分でカバン二つ両手にもって水筒さげて開成山へ立ったからです。すんだと思っていたのよ、ですから。でもいいあんばいに大したことはなくて終了。しかし、きょうは防空壕の検査があるといので、モンペはぬがずいると、十時半ごろ警防団員、警察官三人で来ました。「ああ、これなら安全です」よかったけれど、バクダンは、これらの人々のように物わかりが果していいでしょうか。あやしいものね。こうやって、若々しい楓の枝かげに、芽(メ)を出したばかりの春の羊歯(シダ)の葉に飾られてある壕は風雅ですが。十分深くもあるようですが。
それが終り一仕事片づいたわけです。十一時に河合の春江という従妹が来ました。咲の姉よ。一番わたしと親しくして、今つかっているペン(赤い軸の。覚えていらっしゃるかしら?モスクワ、ベルリン、ロンドンと一緒に旅したペンです、そして、様々の夜昼を共にもして)をくれたひとです。おくさんらしく用で来たのですが、わたし一人ときくと(電話)「アラマア可哀想に、じゃおひる一緒にたべましょう」と食料もって来てくれたわけです、一緒にパンたべ、玉子もたべ(大したことでしょう)ゆっくりして、いろいろ家のこと、その他(鶯谷のすぐそばで沿線五十メートルの中に入り家がチョン切れることになったので)話し、今、息子からさいそくされてかえりました。
そこでわたしはお握りを一寸たべて、早速かけこんで来たわけよ、あなたのところへ。ああ、やっとよ、というわけで。
さっき、その従妹の来ている間に配給のことで二三度立って、その一度は外へ出て、二十七日づけのお手紙頂きました。ありがとう。
体のこと心配して下さるから、きょうは、二人遊びの中にすこしこんな話も交えましょう。
疲れることは、相当つかれます。しかし、御承知の通りの家の中のゴダクサつづきで去年の夏から心持よくしっとりした日というものがなく、巣鴨へゆく時間だけが一番心理的にも健康というひどさでした。やっとこの節一段落で、自分の体のための食事についても遠慮したりしないでよくなって、公平に見て、こんな単純な体のつかれと、今の暮しかたから得ている心持の伸びやかさ、合理さ、食事の合理性と、釣りかえにならぬプラスがあると思います、この頃の日常というものは、けわしくてね。先頃のように十分働く必要もないのに、いなくてはならないという雇人の人たちに、奥さんが落付かないまぎれにおだて上げて万事まかしていた状態は、云ってみれば生活でありませんでした。
ほかの友達たちも張合のある気で親切してくれます。自分が、きりもりしていますから、今日は疲れていると思えば、そのように注意して食べ、さもないときは次の用意にまわしておくと、万事一目瞭然で、ほんとうに心持よい暮しです。夜は十時ごろ必ず眠ります、そして眠りは深淵のようです、病気しなかった頃のとおりで、夢もみないという位になり、これもわたしはうれしゅうございます。そして又うれしいことは、誰でもこの家に出入りする人は家の新しい活気をひとりでに気づいて、「一人と思えないわね、何だか賑やかな気分よ」ということです。これは千万言よりうれしいわ。こんなガラン堂のような家が、私の暮す気分で艷をもって家じゅう荒涼とはしないで、却ってしっとり艷があるなんて、どうか旦那様も扇をひろげてよろこんで下さい。その艷は、廊下にゴミがあるということとは別なのよ。廊下にゴミがあったって、其は埃よ。心もちから積んだ沈滞ではないわ。うちは垢ぬけました、それは心のあぶらがゆきわたったからよ。この間国にそのこと話して「気がついている?」と云ったら「そう云えばそうだね、不思議だ」というの。「人が住んで荒らす生活だってあるよ。つまり、姉さんは相当なものなんだという証拠だけれど、わかるだろうかね」と云いました。「そうらしいね」と云って、「うまい、うまい」と里芋(サトイモ)をたべました。この人には里芋のうまさの方から、姉さんのねうちがつたわる口ね。ともかくそういう工合で、この暮しに使い立てられては居りません、夏になる迄、これでやろうと思います、暑くなると買出しや隣組の月番の外出がこたえますから、そしたら方法を考えましょう、夏の暑さには抵抗力がないから。暑気負けは、どうしてもそうですね。その夏までに、又万事がどう代りますか。それに応じてね。
食事のことなど、御安心のためならば献立かいて上げていい位に思うけれども、わたしとしてそれは辛い心持なのよ、よう致しません。一言にして申せば、あなたの上るものよりも確実にいい食事をして居りますから。特にこの頃は。ですから、わたしのその心持を汲みとって下すって、どうかまかせて御安心下さい。ほんとうに、この一ヵ月、私が台所をやるようになってから改善され、筋も通った衛生的食事をして居りますから。無いならないように、有れば有るということをはっきり身につけ暮して居りますから。隣近所とのつき合も、この節はむずかしいが、自然に、私流に、親しみが出はじめました、それでなくては、こんなときやれるものではありません。誰も彼もが時間を浪費し骨を折って暮しているから、あの人も同じだ、というところに心の和らぐものがあるわけです。
心が和らぐと云えば、わたしはこの頃そうなのよ。ゆっくり先のように手紙かいている時間もないみたいな暮しになりはしましたが。暮しぶりにはわるくないと思って居ります、金曜日28日のことは、お目にかかって。これもすらりと行くらしい様子です。
世田ヶ谷の人から、ドイツ語の本もらいました、「緑のハインリッヒ」をかいたケルラーの「三人の律気な櫛職人」というのと、シェファーという人の「ドイツ逸話集」。アネクドーテンというのね、北の方ではアネクドートです。この人もひどいつとめらしい様ですし、「茂吉ノート」の先生も大した様子で、何だか二人とも(特に本の人は)短気になり、面白くなさそうでおこりやすいわ。細君が、すこし気を張っていて可哀そうです。子供二人は元気で、節造という三つの男の子はほんとに男の子よ、可愛くてそれには目尻を下げて居りますが。「どうもこの息子はユーモラスなところで親父まさりらしい」と云ったら、親父さんへへへとうれしそうでした。あなたにそのこと話したら、あなたはフフフフとお笑いになるだろうと云ったら、おやじさん、俄然もち前の笑い声でハッハッハと笑いました。こう笑うのが本ものよ。ね。
レントゲンのこと。こわがってなんか居りません、面倒くさいのよ。しかも、いいかげんのところのレントゲンなんてろくに映りもしないで。結核予防会へ行くのですが、それが面倒なのよ、面倒というのは通用いたしますまいが。日わりはこんなよ、月曜は歯イシャ、神田の方へ野菜とりにまわり午後じゅうつぶれます。火曜はそちら。水曜は分らないが、又桜田門かもしれないわ。面倒というのが、くせものめいて居りますかしら。こんなにしつこく日程なんか並べるのもくせもの?
疲れはそういうことからではなく、人事的紛糾の精神疲労や何かがまだぬけないところへ、生活条件が急変したからです。しかし本当に診て貰いましょう、来週桜田門がなさそうなら来週のうち、に。とにかくくりかえし御心にかけさせておくのはよくないことですもの、その方が大事だから。(恩にきせる?そうでもないのよ)
桜はもう八重になったのね、たのんだ時は一重でしたが。久しぶりね、八重桜なんて。美事だったというのはようございました。
わたしの畑は笑止千万よ。何しろ、朝飯前に種子を蒔くなんて例外をやったものだからその日の午後から沛然と雨になって、ずっと三日ふり、そのあともああでした。そのためにホーレン草の生えるべきところから、何だか分らないヒョロヒョロのものがすこし出ていて、最も元気なのは楓の二葉です、わきの枝からおちたのが二葉を出しているの。楓のつまみ菜ってあるでしょうか、あきれたものね。もう少し待ってみて工合によっては猛然耕し直して豌豆(えんどう)をまきます。やがて南瓜もまきますが。土と天候とは沈黙のうちに教えています、俄づくりやつけやきばは役立ちませんよ、と。心のうちにシャッポぬいで居ります。
この頃は生活のひどさで、人間の上塗りもはげることはげること。修繕がきかないから、みんな地を出して来ています。生地のしっかりしたものにはかなわないということをどんな平凡な人も感想としていて、これも興味あることです。あら、こうしてみると、この木目は奇麗なのね、という風にありとうございますね。少くとも桜ぐらいの木目の堅さ品位、つやをもってね。ベニヤのなまくらのはり合わせがふくれてガタガタのブヨブヨというようなのは御免です。
この間のお手紙に万葉歌人の春の湖の舟遊についてかかれて居りました。霞をわけて、一つ一つと新しい景観にふれてゆく新鮮さは、日本の春独特の美しさでしょうね。北欧には秋の霧の哀愁ある美がありますけれど。
この間、それとは別ですが、短い詩で「丘かげの泉」というのがありました。どこか連関あるような感情の詩で、それは狩人と泉の物語りでした。狩人が、獲物を追って足早く丘をのぼって来ました。ゆるやかな丘の斜面のどこかに、小さい獣はひそんでいます、やがてカサとかコソとか葉を鳴らすでしょう、待つ間に狩人は喉の渇をいやそうと、精気美しい眼をうごかしてあたりに耳を澄せつつ湧き水のありかを求めました。どこかで淙々とした水の音がするらしいのに、目にふれるかぎりの叢に泉は見当りません、狩人は若々しい額の汗を手の甲で拭い、何となし逸(はや)っている生きもののような眼つきをします。泉は泉で、出来ることなら、自分の姿を日光にキラキラ燦めかせて虹と立ちのぼり、自分のありかをしらせたいと思います。泉は、ついそこのもう一つ小さい丘のかげの草の下にゆたかに湧きあふれ、滴をもって流れているのでした。人間の視線が、丘の折りたたまれた曲線について、折れ曲って泉を見出さないということを、泉は残念に思います、そして、もう伝説の時代が人類の生活から去っていて、泉から白衣の仙女が立ちのぼり、狩人をうっとりとその泉まで誘いよせて、その縁にひざをつかせることもなくなっているのを、葉かげの泉は歎息しました。
一枝か二枝の八重桜の下で、この物語をどんなにお味わいになるでしょうか。讚美歌の中に、渇いた鹿が谷間に水を求める姿をうたった調子の高いのがあって、すきでした。シムボリックに求神を云っているのでしょうが、雅歌が極めて感覚に生々としているように、この歌もほんとうに生きるものが水を求める渇き求めを歌っているようでした。渇望という字は、人間の率直な表現ね。しかしそれを純粋に感覚する大人は少いし、それをまともに追う人も少いのは不思議です。そして、おどろくべきことは、気力を失った精神には渇望が決してないということ、ね。
今何時?マア、もう七時半よ。かき出したのは六時よ。きょうは又うんとこさ早くお眠りブー子をやります、そして、あした気持よく歯イシャを辛棒し、野菜袋をブラ下げ、そして、いいこと思いつきました。あさって、もしかしたら、朝のうちに駒込病院へ行って、外科の先生に紹介してもらって、いつか多賀ちゃんが、ラジウムかけたあの物療室でレントゲンとって貰いましょう、そして午後はそちらへ行くの。そしたらいい子ですね、この決心はもうつきました、駒込病院なら、遠いとはさかさになっても云えないし、あすこにレントゲンはないとは云えないしね。そしてすましてしまうとさっぱりするわ。一人のときが、午前は泣きなのよ。うちの国先生はダラダラ出勤で、桜田門へ出かけると云ったって、やっぱり自分のテンポは同じですから。こんや九時に眠り十一時間眠りとおしたって八時よ。御飯たべてから十二時迄に三時間はあるのね、あした行けないと云えるでしょうか、でも午後のギリギリガーガー思うとへこたれだけれど。火曜日に、もう行ったのよ、と云ってみたいという子供らしいところもあります。
この紙が十枚で二十銭よ。アテナインクは二オンスずつのはかり売りです。しみる紙に紫インクしかなかったところを思い出したりいたします。 
五月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月六日
今、夜の八時すこし過ぎたところです。いい月の夜となりました。いかにも新緑の季節の満月らしい軽やかさと清澄さで、東の風がふいているのが、それは月の光のうごきのようです。こんな時間とこんな眺めの時刻に、二人暮しがはじまったのよ、この土曜日は。例のとおり食堂の大机です。白と碧色の格子のテーブルかけや、からりと開け放された南側の石甃やそこに出してあるシャボテンの鉢のふちをきらめかして月の明るさを告げている小さい光りや。柔かく新しい葉をふく風の音は、こころもちようございます。赤いものといえば、つつじの花ばかりですが、緑、白、碧と月光との調和は絵画的です。
甃のところに下駄が一揃出て居ります。その下駄に月の光があります。私は落付いて、のんびり、一人の夕飯をたべながら、その下駄の方をちょくちょく見ました。それは男下駄です。自分の待っている人の下駄に、こうして月がさすのであったらば、どんなでしょう。それは跫音や声や視線や、一寸したしかも特徴的な身ぶりまでをいとしく思い浮ばせる不思議な力をもっています。
こんなに隅から隅までが静かで、しかもこころもちと五月の自然の充実が満ち満ちて感じられる夜は、何と面白いでしょうね。二人ともあまり喋る必要がないようね。あなたの二つの眼がそこに。そして、わたしの二つの眼がここに。それでいいという風ね。
きょうは、午後三時から、私たちきりだったのですが、六時すぎまで歯医者のところで握った掌に汗をかいて来たのよ。夕方の街を歩いて、いつもの古本や見ます、歯をがりがりやった気持があまり閉口だから。きょうは、リルケの果樹園という詩集と、レンズのツアイスね、あれのガラス工業の完成に着手したルネッサンス頃の祖先の歴史をかいた小説見つけました。お金が足りなかったから、月曜日、歯医者のときとることにしました。お読みになれそうなものです。そういえば、活字のグーテンベルクの伝はまだおよみになって居りませんね、一度よんでよいものです。
そして家へかえると、犬が躍り上って歓迎します。躍り上る犬は女の子だのにさっぱりとして快活で男の子めいていて気に入って居ります。その次の仔が出来てね、その仔ったら又真黒と真茶のコロコロの本当の犬っころです。まだ縁の下にいて、さっき北の中庭の木戸の中にいるのを呼んだら、熊がウンとかワンとかいっていそいで引こんでゆきました。その丸さったらないの、全く今時、こんな仔犬は珍しいわ。きのうだったか、さすがの主人公が小さい声して姉さん一寸、一寸と手招きするから行ったら、可愛いよって。そういう位可愛いのよ。健之助がいないからこんな仔が可愛くて。家鴨の仔を買いたいけれど、餌が大変だというから考慮中です。熊もクリ(栗)も、到って器量がわるくて、又その不器量さったらないのも大笑いです。
わたしが、本好きであるということは、畑にとっての不幸事です。やれ、と腰かけるでしょう?わたしは絵の本を見るか、何となしものを考えているの、で、一休みしたら、小シャベルもって出かけるという風にゆきません。ですからわたしの畑は大陸的になって、日本の集約耕作とは行かないわ、ちまちまちょこちょことは行かないのよ。これは家庭園芸には欠点で、マメであるか慾ばりであるかする女がいなくては駄目そうです。天地の勢に一任していたのでは、そこがせち辛くなって来ていて、うまく行かないらしいのよ。こまりです。畑いじりつつ、ものを考えるほど畑仕事に習熟していないというのも事実ね。台所はすごいことになって、一旦その気にさえなると、御飯の仕度が出来上ったときは準備でちらかっている台所が片づいているという上達ぶりです。わたしは国男さんにきょうも申しました、「国男さんが一番得しているのよこんなにゆっくりした、仕事に追われない気分で家のことをするなんて、わたしとしたらほとんど大人になってからはじめてで、そのとき国男さんが一緒だなんて。何てにくらしいんだろ。肝心の旦那さまに、わたしは一口だって、こんな気分でたいた御飯をたべさせることがなかったのよ。畏れつつしんで、しかるべしよ」と。「だから定期進呈したじゃないの。」そうなのよ、市電が一系統十銭ずつになり、往復四十銭かかることになりました。定期だと、いくらかよいのよ、それを買ってくれたというわけ、団子坂―池袋。れっきとした勤め人ですものね、わたしだって。うちでは出勤といえばそちらと合点しているのよ。
それから前の交番が廃止になって空屋となりました。前の通りはそのために夜不安心なところとなって、おそくなると一人で歩くとこわいわ。ちょいと横に入ったところにはバカが出たのだから。きっといまに大通りまでのしてくるでしょう。
うちでは門をしめておくことにしました。そしたら早速となりの万年筆工場でも門をこしらえたわ。同じことを考えるのですね。うちの門は、よごれたりと云えども白い格子の低い門ですから、今はそこを透して狭いところの左右の緑やバラのアーチが見えて、この通りでは一番人間らしい感じを湛えています。しかし竹垣が大ボロで貧乏を語っては居りますが。だから目のきく泥棒なら入るまいと思って居ります。目白とちがって、ここは戸じまりよく二階の寝るところは、廊下もちゃんと鍵がかかりますから、御安心下さい。トタンの庇がベカベカ云うと、猫なりや泥棒なりやと胸をドキつかせるにも及びませんから。あの頃はこわかったことね。一足入ったら、もう顔つき合わすしかなかった狭さだったから。ここは泥さんにとっての迷路よ。大きい家というのではなく、どこに何があるのか分らないから。そうでしょう、住んでいる人間にも分らないみたいなんですもの。昔大笑いしたことがありました。入ったのよ。戸棚片はじからあけてありました。ところが、その頃母が存命で、母の作品である風呂しき包がどの戸棚にもごたつみで、その一つ一つあけてみても、えたいの分らないボロばっかり、あいそつかしたろうし、仲間の一つ話になっただろうと笑いました。今は、もっともボロとも云えないけれど。注意いたしましょう。
犬たちは有益です。でも集金の人たち犬ぎらいね。どうして、どこでも吠えられるのだから好きになってしまわないのでしょうね、わたしは狂犬以外には自信がありますが。けさもガス屋、巻ゲートルで血相かえて、手に瓦のかけをつかんで犬を追っかけるのよ、憎らしい腹立つ気分も分ります、でも気の毒ね、沁々そう感じました。大丈夫ですよ、と云ったら、息はずまして、うちの人には大丈夫かもしれないが、くわれてからじゃ間に合わないからね、って。人生を感じました、そういう人の。嶮しいものです。
でも犬がワンワン云うのでおや、誰か来たかと思い、わるくありません。クリと熊はどうして育てましょう!〔中略〕
太郎が、十一歳頃から少年の後期を田舎の中で過すのは実にようございます。つい先日午後学校からかえって出かけ、夕刻おそくなっても戻らないので心配していたら、ドジョウ二匹獲もので揚々と引上げて来たのですって。〔中略〕
わたしの二つの肺の悪戦が、あの範囲で終ったのなんか、みんな、早ねすべし、早おきすべし、面会に来るべし、体温はかるべし、べしべしづくしで泣面しながら、大したごま化しもしなかったおかげと、今は心から御礼を申します。あなたがあの位強引にして下さらなかったら、私はきっとジャジャ馬を発揮したでしょうから。わたしのはじぶくり従順というようなところがあるのね、どうして、とかく初めじぶくるのか、可笑しなわたし。
あの写真はやはり役に立ちます。こんなことが一例で。普通、風呂のとき洗いもの一緒にやるのよ、家庭では。わたしは、それが疲れすぎて、いつも二つ洗うつもりが一つか、一つも出来ないのです。あれをみればそれがあたり前ね。ですから、わたしは風呂と洗濯とは別にするのが自然なのです。二日にわけた仕事として。そうすればちゃんとどちらもやれるのだわ。そういう自分としてのやり方が分って来るのも、働き馴れとともにああいうものが参考になります。わたしはよっぽどありがたく思っているのよ、べしべしづくしの成果に対して。謂わば、わたしの一生を救ったようなものです。 
五月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月七日
きょうもいい天気になりました。今、もうすこし暑くなりかけましたが、種蒔き終ったところ。例の楓のつまみなのところを耕し直して、少し日かげだから韮の黒い種をまきました、それからおとなりとの境のところへ、ヒマを少々、あれは大きくなるのでしょう?
一休みしていたらキューキュー仔犬の声がするので、北側あけてみたら、親子二番目の子――熊(クマ)・クリで遊んで居ります、クリは雄らしく、珍しいこと。チンは女権拡張で女ばかり生んでいましたが。クリを寿つれて行くのかしら。
きょうの宿題はすんだから、予定通り穴のあいたスリ鉢に、つる菜もまきましたから、あとは本よみでいいのよ。あ、まだ一つある。二階の大掃除。これは、疲れるから夕方にしましょう、ねえ。かまやしないわ、わたしたちはここにいて、楓の若葉眺めているのですもの、ここもテーブルの上は紙や帳面やでかなりの有様ではありますが、こういうちらかりには性格があり、生活が現れていて、却って落付けるようなものです。
こういう暮しをしてみて、段々わかり、この先、もし国が引こして、わたし一人ここのどこかの隅で暮すようになったとして、十分やって行ける自信がつきました。仕事が期限つきである生活の心持と、そうでないとは、こうも違うものでしょうか。その点わたしは例外の生活習慣をもって十八歳から暮して来たのであったと思います。
一層生活をたのしみます、この調子で見ると、私はもう少し経ったら、本気で仕事はじめて、こういう紙の上だけでない二人遊びの時を十分に、十分にしんからたのしく暮す丈仕事しておかなくてはならないと思います。そして、仕事する生活のためには、こういうのはいけません、却って一人がいいわ。朝おきぬけから、おつき合いしてはじまるのでは仕事は出来ません。生活のいろいろの形、いろいろの調子を、経験するというのは、大したことね、それは人間しかしないことです、それが自主の判断によってされるのは。
国は、ああいう人ですから、こうやってやってみて、調子がいいと、それをこちらにかまわずひっぱろうとする傾でね。国府津へ私を行かそうとして力説しますが、其は駄目。何のために私はあすこで暮す必要があるでしょう。汽車の切符は申告、途中二時間半往復、では一日仕事、こっちに泊るところもなくて、どうしてやれるでしょう。もし国が行くなら(経済上の理由、都民税が大したもので、従って公債その他瞠目的です)わたしは蔵前の六畳、四半へだって籠城いたします、そして一人で犬の仔なんかとやるわ、そして仕事して。それも亦たのしいでしょうと思います、こういう暮しが始ってから却って生活は自分のものとなり、のどかさも生じ、どんな小さい形でも不便中の便を見出してやれるようになりました、体もいくらかよくなって来ているのでしょうね、頭が動くところを見ると。こうして、そろそろと焦らないで、仕事が出来るようになるでしょう。
そう云えばこの間原稿整理していて、祝い日のためにの詩ね、あれをくりかえしよみました、びっくりいたしました。あれは本当に、半ば盲の妻の作品ですね、そのひたすらなところ、思いこんだ調子、確乎さ、立派なところがなくはないが、何と流動性がないでしょう、可哀そうな一心さがあります、健康というものをおそろしく感じました。哀れと思っておよみ下すったのが、今になって自分でわかります、あのときは精一杯でそれは分りませんでしたが。ああいう凝りかたが直ったら、現金ね、わたしはもとの散文家になってしまって、しかし、目出度しです。あの詩はレンブラントの絵のような重い明暗があり、赤い一点の色彩が添えられて居ります。それにしても、本当に何と眼が見えないという感じ、手さぐりの感じ、周囲というもののない感じでしょう。よい記念品だと思います、あんなにわたしは苦しくて、見えなくて、じっと動けなかったのね、可哀想に。
然し今は、青っぽい筒袖のセルを着て、紺の大前かけかけて、青葉の色よりすこし水色っぽい更紗の布で頭包んで、とにかく小さいシャベルふるって土も掬って居るのですもの、えらい進歩であり、生きる力は大したものだと思います。そう思うにつれ、こうして自分が生き、癒りして来た力はどこから湧いているかと考えざるを得ません、わが命の源(みなもと)は、と、おどろきを新たにいたします、アダムの肋(あばら)から生れたなんて、西洋人も想像力が足りないことね。リルケは、それを疑問の詩をかいて居ります。もし肋なら、こんなに生きて、こんなにあつくて、こんなに欲ばりの生きてとなったイヴをもう二度と横はらへしまってやることなんか出来ず、あわれイヴは、のたれ死によ、ね。横はらを枕にさせてやれるのが精々で。命の源は、一つのいのちのその中に、まるっこで在るのです。だから大変よ。どうちぎることも、便利なようにちょん切ることも出来っこありません。
もう十一時よ。寿どうしたのでしょう、あの、うらぶれ部屋で工合でもわるくしているのじゃないかしら。
ワンワン吠えるのでガラスのところから見たら白いブラウスが見えました、まあよかった、待人来るです。
久しぶりでゆっくりおひるを食べさせて、今そこの椅子で本よんでいます。過労で弱ったのですって。注射していい由。このひとも、東京千葉と、落付かないために、過労にもなるのね、台所で私の動きぶりを見て、びっくりしていました、大した上達だって。けれども、これで又仕事したくなると、例のお笑いになるおったて腰で、旋風的になって来るのです。
きょうはこれから姉と妹とで、ちょいとした罪悪を犯します、寿が自分用というひとかたならぬ砂糖をもち出して、コトコト煮るものをやって、私にふるまってくれるのですって。御免なさいね。二人遊びの日だから、わたしだけ袂でかくして、あなたに知らせ申さないということが出来ないの。おまけに、私の着ているセルは、筒袖でしかもゴムでくくれて、ニュッと腕が出ているのですもの。
そんなことをしているうちに夕方になり、夕飯をしてやって寿の里帰り(やぶ入り日)も終りとなるわけです。
私は、小使帳の整理や日記やあるのよ。二階のテスリに干しておいたネマキが風で落ちているのを見つけましたし。
きょうはすっかり夏になりました、室内で七十八度あります、あしたあたり又グッと冷えるのでしょうか。
大観音よこの交番のところを入って動坂の通りへ出たら、あの途中の右手の養源寺に都指定史蹟として、西村茂樹之墓と札が立って居りました。よく通った頃はそんなに、いつもおじいさんの前を通るような気のする札はございませんでしたね。あの通りを、あなたは早くお歩きになったことね、わたしはすこしかけるようについて歩きました。ではね。 
五月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月十五日
今週の二人暮し日は妙な日どりになって、先達てうちのように、土、日とはゆかず、月曜の少しと火曜日ということになりそうです。今週は東京にいて、日曜日の防空演習に出てくれて助りました。たまには、こうして東京にいるのがいいわ、十一日に、開成山に行っている女中さんの一人が一寸来て、今日まで居て、大きい洗濯などして行きました。十六日から月番という当番で、隣組全体に関係するから、すっぽかしがきかず時間的に私一人ではやれないので、咲が十七日頃来るのでしょう。あの組も半月ずつというようなところで、出入りが頻々ね、そして、御本人が手紙見に行くから、面白いものです。この頃はいい身分になったね。どうして?手紙がたのしみで、さ。ほんとだ。こんな問答けさいたしました。そして、けさは、私の目の前に(そのときわたしは食堂の椅子にかけて、あなたのネマキのつぎを当てていたの)ハイとお手紙出してくれました。おや。一人?うらまれそうだと云ったら、僕にも来てる、自転車がついたって、というような工合でした。わたしのつめてやる弁当をもって只今出かけたところです。
咲が来て下旬一杯居りましょうが、その間に、家の大半をあけわたすための片づけをやる由です。
達治さんが折角上京するのに、ガタついて気の毒ですが、それでも妙にせまくるしく暮すようになってからよりはいいだろうから、本月下旬だといいと思って手紙出しました。大体の方針では、今わたしの使っている二階全体と蔵の前の六・四半と、洗面所、便所、湯殿と一かたまりに仕切って、そこで台所も出来るようにして、私と国とが暮し、表側全部を開放することになりましょう。この仕切りかたですと、下の二間で、国咲がまとまれるし、上は私が、私一人で勉強もし、ねることも出来、一寸した一人の食事は出来るし、けじめがあって、ようございます。わたしは、やがては、もっと時間をとって仕事も勉強もしとうございますから。一人のときは主として二階で書生流にやれたら手間も省けてうれしいと思います。疎開の家族は、気が立っていましょうから、受入れる側が普通の家庭の形式を保っていて、夫婦、子供と揃っていたりすると、細君同士、旦那同士の感情がむずかしいでしょう。うちのように、姉弟で、あっさりやっていると、比較してこっちはこんな落付かないのに、あっちは水入らずでのんびりというようなことがなくて。十何年か前、一つ建物の中に人はどんなに暮すか、という共同生活の大典型を見ているから、その欠点も、やりかたもいく分合点していて、それは、こういう生活様式の大変動に当って、少なからず私の自信となって居ります。「井戸端の移動」式にならずにやる確信があります。ただ、電気、ガスなどのメートルが、共同だと、モン着はそこからでしょうね、困ったものね。昔、大銀行だった大建物の廊下に並んだ一つ一つの夥しいドアが、其々一つずつ木箱とケラシンカ(石油コンロ)を並べて、眼路はるか、という風に見えていた都会生活の姿を思いおこします。
国はいよいよ事務所を閉鎖いたします。それがたのしみで、上機嫌よ。やめるのもいいが、のんびりして、国府津だ、開成山だと廻って暮して、つい二年経ったというようだと人間がくさるから、と云ったらそれはそう思っているそうで、何か、電気関係の会社の何かをやるらしいようです、正直のところそれは怪しいのよ、実業方面ですから。あの人の性格では合いません、内部抵抗のつよい男ですから。それでも一昨日だったか何かの話のついでに、わたしにあやまりました、姉さんの誠意に対してすまなかった、と。あれやこれやをひっくるめての意味ですが。そうあやまって自分も明るくしているわ、私もよかったと思います。マア借金と心の負債は、そのとき出来るだけで返しておくことです、又かし借りのできるのは仕方がないわ、それはそのときのこと。
うちの畑は何というか、ひよわい子をもった母さんのような気を起させます、きのう南瓜の種を五つ蒔いたがどうなるでしょう。つるなの箱で雀が砂浴びして、掘って種をとばしてしまったらしいのよ。きのうよくよく見たらば大粒の種がむき出しになっていました。ことしは初めてで、自分のやりかたが自分で分らないし土の工合も分らず、たよりないことおびただしい始末です。それに今は、ここへ植えても、この庭の部分はひとが使うかもしれず、というところもあって。おとなりのうちは年中畑眺めていて、ちょいちょいの手入れがいいのねきっと。まめであるか、欲ばりか、どっちかでないと。二時間時間がまとまってあると、さアとこうやってテーブルへくっついてしまう細君は、畑むきではないのよ。
健坊歩き出しましたって。見とうございます。健坊は、うちの子としては明るい面の多い子です、太郎もおそらくあの暮しで、のびやかになるでしょう。御機嫌というものの影響をいつも受けるのなんか子にとってよくないわ。咲ものびやからしく、庭の花々についていつもうれしそうに書いてよこすそうです、こういう時がすこし続いて、あのひとのキョロキョロも直るかもしれません、そうすれば其は一番いい丈夫になりかたでしょう、しんから神経が休み開放されるのですから。
わたしの歯は、一本神経をぬいたところ、あとが水や湯がツーンとしみてしかめ面になるほど痛いのはどうしたわけでしょうね、妙なこと。今日よく話しますが。神経とるときに突つきすぎてしまったのかもしれないわね。
明日は火曜ですが月番第一日でいないといけまいから、今日歯医者とそちらを行こうかと思います、だとするともうやめなくては。この間うち台所用本で、深田久彌の「命短し」、矢田津世子の「鴻ノ巣女房」というのをよみました。こういう小説家たちが、みんな一種の語りて、お話し上手となってしまうのは不思議なこと。内面へ立体的にきり込まず、面白い話しぐちという風にまとまるのね。栄さんなんかも生れながらの民話の伝承家ですが。何か日本の精神伝統の関係ですね。そういう点で、矢田という人は、円地その他真杉などという人よりは、まとまり且つ自分の小さい池をどうやらもったというところで生涯を終ったと思います。小さい池に楓の若葉かげも、白雲も、雨のしずくもしたたるという意味で。このひとのは庭上小池でしたが。どこまでも。人のこしらえたもの、ほどよさでまとまったもの。だから、秋の落葉に埋めつくされる、という場合もあるわけです。そうはないようにと、箒を手ばなさなかったところがあるでしょう。
アラ、もうよさなくては。そして御飯たべて出かけるようにしなくては。きょうはネマキもって参ります。もうすこしましなのを、と思っていろいろ思案しておそくなり、やっぱりもとに納りました。これはきっと背中がやぶけてしまうでしょうね。 
五月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月十六日
今、午後一時半。この食堂いっぱいに青葉照りとでもいうような、すこし眩しい光線がさし込んで居ります。お話したように、きょうは月番の第一日ですし、米の配給日で、何しろこれはもう一粒もなくなっていたところですから、謹んで内玄関をあけて、居ますヨと表示して待って居りました。来て、九キロ(半月分)おいてゆきました。三円八銭也。
昨夜は国、横浜の友達のところに泊ったので、わたしは九時半ごろ床に入り、のんびりしていたらいつか眠りかけ、びっくりして雨戸しめて本当に寝て、今朝起きたのは九時。十分眠りました。そのわけなのよ。きのう、あれから家へついたのが六時すぎでした。御飯がきれていて、それから炊いたから食べたのは八時すぎ。大ペコのペコでね。たべたら眠くなった、という犬ころの如き天真爛漫ぶりです。
きょうは、咲や国のふとんを日に干しに出して、犬ころにサービスして遊びました。茶と黒のコロコロ二匹だったのに、どうしたのでしょうか、黒しかいないのよ、きのうから。一匹のこったというのでしょうか。シートンが大層役に立ってね、その仔犬と近づきになるために、先ず、おっかさん姉さんの揃っているときすっかり指さきや着物の裾なめさせて、匂いよくつけてその仔にさわったら、すっかり安心して(家族一同)至って好成績。きょうは呼ぶと、小指ほどの黒いしっぽをふってかけつけて来ます。わたしは犬がすきね。とりあえず、コロコロと呼びます。ころころなんですもの。
おや、内玄関へ誰か来ました。中條さーん。電報よ。アス九ジタツムカエタノムサキエ。あすというのは、いつでしょう。もとのように電報のつく時間というものが、はっきりしていれバ、こんな心配いたしませんが、近頃は途方もないから、アスと云ったって、きょうかとあわてる次第です。丸の内へ電話し、駒込へ電話し、つまりあしたなのだとあきらめました、局では控えおかないんですって。
さて、きょうは仔犬遊びしてから、たまっていた手紙どっさり書きました。そしてこれも書き出しました。外へ出ないときめた日は、何といい心持でしょう、わたしは毎日出るというのがごくにがてです。
何だか、すこし日ざしがかげって、楓の樹の幹が黒ずんで見えて来ました。夕立っぽいのかしら。よく見て、ふとんとりこまなくてはいけないかもしれないわ。一寸待って。
ね、やっぱり。面妖な雲が東の空、西の空に現れました。ふとん干して降られたら眼も当てられず。いそいでとり込むなんて出来ないんですもの、重くて、大きくて、おまけに高いところにかけるから。
こうしてしまってしまえば安心よ。あなたのところへ、冨美ちゃんの可憐な二十円也と達ちゃんたちの写真をお送りするこしらえをいたしました。この写真に、お母さんが入っていらっしゃいません、私たちはお母さんも見たいことね。
咲は月一杯はいるつもりでしょう。家片づけや月番やをやり乍ら。達ちゃん上京するなら、家が余り狭く暮すようにならないうち、そして咲がいて、国のお守り出来て、わたしと達ちゃんが、すこし留守しても結構というときがいいと思って、手紙出しました。くり合わせがつくかどうでしょうか。
こうして、腕ニュッと出るキモノ着ていると、みが入って光沢もよくなって来たのが分って、うれしいと思います。きのうだったか、紀という従弟が来て音声が響きがちがって来たと云ってくれました。この間迄は、病人ぽかったって。わたしは或ところ迄丈夫になると、闊達に暮すのが療法になるたちなのね、誰にしろそうですが。仔犬めいて夕飯すますと眠たくなったりするのも暫くはいいのかもしれません。又々丸みを帯びはじめ、自分で自分の体の愛嬌を感じるとうれしいわ。何となしぱっちりしなくてグタグタしているのは腕一本眺めても感服いたしません。ころころでも閉口ですが。現今の生活で、そうなりっこありません。丸く短き腕をふり、というのが関の山でしょう。
御飯後には、小包すこし拵えるのですが、どの位やれるでしょうね、そういえば今夜の御飯のおかずは何にしましょうね。ああ、おなかが鳴って来た、では御飯、おそい昼めしとなりました。
御飯すまして一寸台所始末したら、もうあとは一時間ほどしか自分の時間がなくなりました。
ひどい音がして飛行機がとびます。出てみたら美しい形で雁行して居ります。低いところに雲があるので、見えつかくれつしながら。形の静かな優美さも、こんなに空気をかきさいて動いてゆくのね。昔の歌人は、人間の営みのいとまなさを、やすむ間もなき鴨の水かきとよみました。悠々浮いているようでも、と。
今台所用本は、ナポレオンの母の伝記です。レテッツィアというひと。いつか書きましたろう?一種の女丈夫だって。いつお前たちの必要がおこるかもしれませんよ。他人のパンを乞うよりは、私のお金の方が使いよかろう、と皇帝の見栄坊に一矢酬いたという。この伝記者は、もう少し突こんでかくべきマレンゴのことやブリューメルについて大変、おっかさんの側からだけ、彼女の知っている範囲でかいていてその点つまりませんが、コルシカという島の十八世紀末におけるむずかしい立場、島内のありさま等よく分ります。箕作元八のナポレオン伝は傑作で辛辣でもあります。ナポレオンが不肖の弟たちを王にして自身を危くした愚かさを云って居り、本当と思いましたが、そこにコルシカの伝統(族長家族)があり、大家族の首としてのナポレオンの兄貴としてのやりかたがあったのですね。支那みたいに、一人が出世するとズルズルとたぐったのね、十八世紀のイタリーもそうだったそうですが。(この時代のイタリーは私生子全盛時代であった由、(カテリーヌ・メディチの親父等)ナポレオンが失脚後ボナパルトと云われ、スタンダールが憤った扱いをフランス人がしたのは、どうしてもコルシカのというところが、フランス人の考えからぬけなかったこともあるのでしょう。このおっかさんは政治的葛藤におかれて、コルシカを脱出し、チュレリーでボナパルトが手柄を立ててフランス司令官に出世するまでマルセーユで木賃宿ぐらしいたしました。ジョセフィーンというひとについてはネゲティヴにかかれています。
ところで、わたしのこの頃は、台所用本ばかりで御免なさい。どうもそうなるのよ。根をつめなければならない本にとりつけないの。今に、家の片づけも終ったりすればいくらかましになって、一日に歩く家の中での哩数も減るから、すこし念入り読書も出来るでしょう。それ迄御辛棒下さい。そして、さもよめそうなふりをしないことを、閉口頓首の正直さとしておうけとり下さい。其でもそちらの待つ間にこの頃は本をよむようになり、細菌物語も終りました。余り結核菌についてあっさりかいてあるので目白の先生に話したら、衛生学者だからの由。弘文堂の本もそうして読もうと思います。営養読本もつまりはそちらで読んだのよ。たっぷり一時間半あるとよめますね。かなり。電車などの中では全く駄目。新聞は今も殆ど見出しよ。本文には努力がいります。
では又。木曜日にお目にかかれると思いますが。 
五月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕
隆治さんの宛名が変りました。
ジャワ派遣輝第一六三〇〇部隊(乙)
けさは、胡瓜の苗を植えました。問題の南瓜が遂に二本出て、思わず二匹出たよと申しました、そんなに生きものが出たという感じ。大きい種は孵ったという感じよ。 
五月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十七日
今、夜の九時です、きょう歯医者が手間どって、かえったのが七時。それから御飯たいて今すんだらこの時間。けさは咲が帰るのでわたしは五時半から起きて働きました。くたびれたところへ俄におなかがはって大変眠うございます。森長さんへ電話をかけて、もうねてしまうわ。あした朝早くおきてまる一日二人暮しするのをたのしみに。二十八日から三十一日まで防空訓練で、夜明け頃起きて警戒しましょう、と廻覧板にありましたから二十九日は夜明けに目のさめる位早くねなくてはなりますまい。早ね早おきは大した規模で必要な次第となりました。では電話かけましょうね、ああでも、しきりに全く独特な工合にまつ毛のところが美しい二つの眼が浮んではなれません。光線の工合で何とくっきり面白く見えたでしょう。
二十八日
こんにちは。ちっともお早うではございません、もう十二時五分前よ。勿論只今御起床というのではなくて、きのう咲が立つので大乱脈のままになっていた台所を一時間ほどまとめて働き、その前に小鳥の世話、犬の御飯、胡瓜とニラの芽の見物をしたわけです。
いつもこうなのよ、咲が来ると実にゴタつき、帰って国がいなくなると、私は長大息をついて次の朝なかなか腰があがりません。可笑しいのね、主婦が帰れば却ってよく片づいて単純になりそうなものなのに、決してそうゆきません。国はわたしとの暮しではいろいろ辛棒して書生っぽにしているから、愛妻御帰館で、気持の要求がぐっと殖えるのでしょうね、食事にしろね。それに咲の来ている気分にしろ、察しのつくところもあるわけでしょう、だから何だかごたごたになってしまうのよ。わたしだったら、と思うから、ごたつきについては敬意を表しておくの。だって、そうでしょう?眼が一つのものからはなれやしないでしょうと思います。オヤ、見なくては。おひると朝けんたいの、メリケンコの妙なものをやいているのよ、ストーヴのところのガスで。こうやって書き乍らやくと急がないから、きっとよく出来るでしょう、どれ、どれ。
成程成功よ、大いにふくらんで狐色になりました。これは、その昔ホットケークと呼ばれたものの同族ですが、牛乳ナシ、玉子ナシ、バタナシ。ナシナシづくしのふくらし粉一点ばりのやきものです、さとうナシですしね。でもふくらめばいいわ、にちゃつかないから。
鏡で見たところ、きょうの頬っぺたは、きのうより幾分ましになりました。きのうかえりに見たら、まだ洗ったり薬つけたりしなくてはならない由です。どうしようかと考え中です。抜いたところ二本ブリッジになります、そのために一番奥のいい歯の神経をぬいたりけずったりしなくてはならないの。金をかぶせたところで、又いたんで、又その歯をぬくなんてやりきれないと思います。そのギイギイ仕事の最中に、一ヵ月以上かかりますから、ドカンドカン来て、歯は放っておけない、にもかかわらず御入院なんていうのは閉口よ、十中八九までは、そうなりそうです。そうなると思って万端やることにいたしました。咲もいず、(役に立たないけれ共)寿もいず。歯まで心配の種ではやり切れないから、もしかしたら秋ぐらいまでこのまま歯かけでいようかと思います、こんなこと迄相談されては、と笑止でしょう?でも、マア。相談というのでもないけれど。
ここまで書いたら電話のベルが鳴りました。寿。長者町に、やっと永住出来そうな家がありそうになったら、別の借手が現れて怪しくなったので、九段の家主まで来た由です。お米が足りなくてキャベジたべて、気分わるい程とのことです、どこも同じね。弁当にお握りをもって来て、寿は其をたべ、わたしはパフパフをたべ。ホットケークの悲しき同族は、たべるときまことに空気が多くて、パフパフいうようだから、わたし一流の名づけ術で、パフパフと申します。名だけきくと美味しそうだと大笑いです。
四方山(よもやま)の話をして六時頃寿引上げかけたら、酒やで福神漬を売るから月番よろしくとのことで、わたしは日のかげったときゆっくり畑いじりしてみようと思っていたのに、其ではと大鍋をもって寿送りかたがた出かけました。団子坂上なのよ。行ったら各戸なのだって。組長の女中さん、時刻が時刻なのでちょいとよろしく計らったのね、それが通用せず、というわけだったのでしょう。
帰ってから、寿サービスの片づけをして、自分の夕飯たべたら、又もうこんな時間。九時です。明朝の御飯は今晩炊きましょうという二十八日ですから、今炊いて居ります。夜あけに起きて警戒しましょう、というのはどういうことをするのでしょうね 。
きのうは朝公共防空壕の修繕を隣組でやりました、国がオバーオール着て、鉢巻きして出ました。わたしは台所するとき、薄緑の布で髪をつつむのが好きで、これは灰で髪をよごさない実効がありますが、鉢巻は気分ものね、てっぺんの薄いところもまる出しだし、まさか頭の鉢が、あの手拭一本でしまるほど、それほどたががゆるんでも居りますまい。国は身なりも極端ね、この間は咲の迎に、ハッピ着てゆきました。「目黒のさんま」(落語)のくちね、殿様の御微行は、いつも下賤におなりです。実直な働く人々が、自分の身分に謙遜して、ちゃんとしてなくては失礼と思う反対ね。
きょうの二人遊びは、右のようなわけで肝心の午後が潰れてしまって、まことに残念でした。先週は国ずっといて、咲が来て大バタバタだったから、今日はほんとに待ちかねていたのに。でも、寿はよろこんで休んで帰ったから、あなたも計らぬ功徳をおほどこしになったわけです。寿も一人きりの生活は、食事の一人のことなどつまらないようです。あのひとも十二月から大変だったわけで、いろいろこまかいことで、可哀そうだと思うし、大局的に寿はそれで世間並のことを覚え、生活力も身につけるのです。よく変れる側が、人間学から云って大いなる利益を蒙って居ります。
この間うち、『スペイン文化史概観』という仏人のかいた(一九三七)ものですが、よんでいて、昨夜よみ終り、いろいろ深く感じました。これはスペインの一九三五年までの新しい希望とその実現の時代に及び、一九三五年以降の混乱によって再びその美しい向上の試みがこわされる頃までを、統一(中世の終)から書いたものです。小冊子で、不充分だけれ共、わたし達が所謂スペイン風として異国趣味で誇張して珍しがっているすべてが、スペインにとっては誇よりは寧ろ悲劇であるということを知って慙愧を感じます。日本について、大部分の外国人の評価が、赤面ものであるように、スペインにとって、世界の人々がもつ興味の角度は、心ある精神に、名状出来ない思いを抱かせるでしょう。しかし、日本文学の代表を、いつも万葉と源氏において、恥しさを感じない人があるように、レオナルドを今日もあげるしかない貧弱さを感じるイタリー人が少いように、スペインにもそういう感じの人々が十分どっさりいないために、文化のそういう無力さのために、あの国の悲劇はくりかえされるのですね。
この小冊子が面白いもう一つは、スペインのジェスイット派(ロヨラの派)が、どんな暗い情熱で専横を極めたかということ、一般にキリスト教が、スペインではスペインを興隆させず第三流国に堕すに活溌な作用を与えた点です。信長の時代日本に渡来したジェスイットは、西欧の宗教改革によって失った地盤を求めるためと、黄金探求の慾望と二つから来たのですが、スペインのキリスト教は、スペインがムーア人に支配され、それを奪いかえすために一役買ったキリスト教徒のおかげで、僧院だらけ、坊主政治おそろしい始末になって、今日の貧乏と無智と当途ない情熱のために、短刀さわぎをおこす情熱的民族となってしまったのであったのね。
わたしはふるくから日本における切支丹文化に興味をもち、芥川の「きりしとほろ」とはちがったものを直覚していたのですが、当がなくて来ました。この小冊子は何かどっさりのヒントを与えるようです。キリシタン文化については、いつも新村出や幸田成友や、考証家歴史家さもなければ信者によって語られて来ましたが、それでは決して十分でないわ。
ムーア人の回教徒との接触を経験したジェスイットが、日本も東洋であるからと思ってふれて来たとき、そこには随分ムーアの回教徒とちがった要素があったでしょう、信長がそれを許し又禁止し、秀吉がゆるし又禁止した時代の起伏は、極めて興味があります。その頃スペインは、南米で、罪業ふかい血まみれの黄金をかき集めはじめていたのでしょう。
歴史小説というものも、現代のレベルでは、この位のテーマをもつべきですね。「ピョートル大帝」にしろ、オランダの商業を或程度勉強しなくては書けなかったでしょう。現代史が十分かける力量をもって、歴史小説もかかれる筈だと思われます。ジェスイットの坊主の中にも、本当に宗教に献身した人々があります。こういう卓越した個性と宗団の矛盾、信長の禁圧の当然さと、逆に信仰せざるを得なかった武家時代の貴婦人のこころもちなどのあやは何と人間らしい姿でしょう。面白いことね。
ピョートル大帝と云えばこの前一寸かいたかしら。レフ・トルストイが、ピョートル大帝を書こうとして遂にかけなかった、ということ。「戦争と平和」はかけてもピョートルはかけなかったのね。ピョートルは、ナポレオンの侵入というような巨大な背景の前に、あの夥しい各性格の箇人を描写するにふさわしいテーマではなくて、一面から云えばもっと単純であり、一方から云うと、もっと複雑です。だからレフにはかけなくて、才能の大小を云えばより小なるアレクセイにかけたというところ。作家にとって殆ど落涙を催させる時代というものの力があります。これは同じ名の二人のトルストイの間に横わる時代の絶対のちがいです、秀抜な作家が一時代にしか生きられないということは、何と何と云いつくせない生物的事実でしょうね。死んでも死にきれない事実だと思います。
後輩の中に能才なものを求める、慾得ぬきの心というものは、科学者にしろ芸術家にしろ、真にその仕事の悠久さと人間業蹟としての偉大さを自覚した人々だけのもちものでしょうね、そういうものがチラリと見えたらどんなに可愛いと思い望みをかけるでしょう、科学よりも文学において其は更に茫漠として居ります。科学は研究ノートをそれなり継承出来る部分があります、文学はどうでしょう、未来というものの中に、うちこめて、そこに期待するしかないようです、
こういう風にして、自分を益〃捨てて行く心もちから、芸術家や科学者の才能が更新され、若がえるというのは、不思議な面白さね。自分に執しているものは、自分より大きく成長出来なくて、つまりは世俗の成功だの不成功だのという目やすに支配され、とどのつまりは世俗の日記と一緒に歴史のつよく大きい襞の間にまぎれこんでしまいます。山本有三という作家が、主人公に芸術家も科学者も扱い得ず、教師をつかまえるのは雄弁な彼の人生のリミットですね。 
六月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月三日土曜日
きょうは、思いがけないことでわたしの時間が出来ました。国が、急に国府津の家の件で、役所の人とあっちへ出かけ、朝八時四十分で立ちました。けさは六時におきて台所へ出ました。珍しく八時すこし過にひとりになったので、この時と、早速郵便局へ出かけそちらの書留や小包送り出しました。本、一冊しか今手許になくて御免なさい。『療養新道』の方は、多賀ちゃんにきいてやったまま、ついそれなりで。多賀ちゃんも忘れてしまったのね、すぐハガキかきましょう、又。ついでにケプラーお送りしておきました。
きょうは、三時頃に太郎と咲が来ます。太郎は、農繁期休暇二週間のうち、半分だけはお父さんの顔を見て来なさいと云われた由。夏の休みなんか全く当になりませんから、いいでしょう。子供の頃一夏ハダシ暮しして、東京へ帰って来るとき、次第に上野が近づく心持、家へ入って来るときの心持、あれを太郎が味うのだと思うと、面白く、笑ましい気持です。それは非常に新鮮で、人柄や感情を豊富にするし、抑揚を与えるようです。太郎すこしは大まかにゆったりしたかしら。たのしみです。健ちゃんがウマウマと云うようになって、ヨチヨチかけ出すのですって。可愛いこと。実にみたいわ。立つ朝、小鳥のカゴにだきついて(よく見たくて)餌こぼしたって親父がにがり切って、それも忘られませんが。馬糞が草道に落ちていると、太郎がいち早く、健ちゃんこれなアに、ときくんだって。すると、たどたどしい頬っぺの赤い健坊が、ウマウマと云うって大笑いよ。食べるあのウマと馬のウマと同じにこんぐらかって、つづけてウマウマと出てしまうのね、健坊は、陽気で、人なつこくて生れながら愛嬌をもって居ります、どんな男になるでしょう!
森長さんの用向きは通じました。日曜日にゆけるでしょうとのこと。しかし妙なものですね、お疲れになるのは閉口です、何よりも。
ヴィタミン剤益〃なくて、メタボリンはもう二ヵ月ほどありません。これからは注射しかないのかもしれません、岩本さんのところには大分お金は預けてありますが、手に入りにくいと見えます、
うちは、疎開の割当、強制ではないのですって。国府津をああやって使うことになったから、国はここに居ります。国がいて、急に人が一家族入ったのでは、私が困難一手引受けでやり切れないから、咲に町会へ行ってたしかめて貰ったの。強制でなくて大助り。どういうことになるかは今のところ判明いたしません。家を移ることはないでしょう、もうこの頃になると、一般の生活の感情は、大きいさけがたい変化を、今か今かと思っているようなところがあって、あわててあっちこっちする段階を通りすぎてしまいましたね。わたしは、さしづめ、冬のどてらとふとん何とかしなくてはならないと気が気でなくて。引越車の多いこと。
美校、音楽学校、みんな先生の首のすげかえをいたしました。ゲートルの巻ける人、モンペはける人に。結城素明というような七十歳も越したような先生や小倉末先生(ピアノ)のような大先輩は引こみました。国宝はこの際すべて引こめて、しまっておくというわけでしょう。博物館でやったように。
アラ、八百やだって。一寸待って頂戴。帯をしめ直さなくては、ね。布をかぶり、筒袖を着、縞木綿の前かけしめ、カゴ下げて出かけます。
犬が母娘でついて来て、どうでしょう、気のつよい雌犬が八百屋に出現して、ムキになってチンの首ったまにかぶりつきました。小さいくせに。女の人ばかりだからアレアレなのよ。エイ、と思って、その犬の頸輪つかんでギューギュー引っぱったら喉がキュークツになってはなしました。チンたらキャベジ籠の間にはさまってぶるぶるふるえているの。可笑しいのは、雄犬だと、大きくってもいじめたりしないし、チンも「わたし女よ」という風でつんとしていて、何と滑稽でしょう。腰がぬけかけみたいになって、一寸だいてやりました。犬抱くなんて、私の大きらいなことです。でも可愛がっているのね結局。だくのだもの、腰がぬけると。
この八百やへは高村光太郎先生もザルを下げて来ます、八分の一ほどのキャベジを貰うのよ。あすこは一人ですから。うちの半分ね。うちは四分の一の小さい半分貰います。芸術の神様たちの養分としてはいかがかと思われますね。
今このテーブルから見えるところに、あなたのドテラ二枚ふらふらと日向ぼっこして居ります、余りよごれず、来年使える程度なのは本当にありがとう。これを虫よけ入れて、開成山へ送っておきましょう、覚えていらして下さい。ドテラ二枚とも、よ。きのう洗った足袋もフラフラして居ます。
この間、歯医者の帰りに、ガンサーの『アジアの内幕』を見つけよみはじめました。あなたはヨーロッパの方を、およみになりましたっけか。考えかたや観察の深さよりもインフォーメーションが面白いのね。荒木大将邸の虎の皮や鶴亀の長寿のシムボルが西欧の目にどんなに映るかなどというところも、日本人として面白く且つ参考になります。
支那の部は大分面白うございます。東洋、日本が、どんなに分りにくいかというのは、この本を見てわかるし、例えば(三井)の祖先しらべの中に、藤原の出で、道長という青年貴族が藤原をきらって宮廷生活を去り出生した村の名三井をとって姓とした、多分修養のため隠遁したのだろう、と日本人としては、著者としての信用問題にかかわりそうな間違いを犯して居ります。インド、アラビアにまでふれているから、面白い本と思います、「ヨーロッパ」の方が、ましであるという意見は本当でしょう。同時に、日本人が東洋をどの位知って居り、近似感をもっているか、ということについても反省されます。近くて、而も遠いというのが日本と他の東洋諸国とのいきさつのようね。日本人はちがうという、習慣的な考えや感じが日本人につよくあって、その程度は他の東洋人に推測がつきかねるところに、いろいろ複雑になるところもあるでしょう。
きのうここいら迄かいたら、庭にいた犬が吠えはじめ、ピー、ピーと短く区切った口笛がしました、太郎の口笛なの。マア、太郎ったら。すっかり田舎っぽい日にやけた顔色になって、落付いた少年ぽさで、田舎言葉で、見ちがえるようです。よかったこと。黙って大にこにこで。早速裏の親友ミチルちゃんと遊びはじめました。うちの連中のいいところは、田舎に対して都会風の偏見が全くないことです。子供は、だからすぐ自然田舎言葉になって、周囲とも自然にとけ合ってしまうのね、先生もいい先生ですって。何よりです。東京のこの頃の暮しの空気に追われていない先生の方が、子供を育てる、という仕事に気がまとまるらしいのね。こういう時勢の力で、却って太郎や健坊が田舎で日にやけ、生活能力がひろがって育つとすれバ、一つの大きい幸です。わたしが、こんな台所仕事で、体力は、いくらかましになったように。
太郎はどうしても九日か十日に帰らなくてはなりません。国府津の家の片づけその他で咲はもうすこしいなくてはならないので、もしお許しが出たら、わたしが太郎を送って行って、一日二日休んで、山々も眺めて、そして帰って来ようかと思います。親たちはそうすると好都合だし、トラックを利用出来るという、この際稀有な便利にあずかれます。わたしはわたしで、太郎と自分のチッキで荷物をすこしまとめてあちらに送れるということがあり、国も息子のお伴をわたしがして、おかみさんのこしてくれれば、田端まで荷運びもしてくれるでしょう、(荷運びもなかなかの問題ですから)急な思いつきですが、みんな好都合ということだし、わたしははりきりです。そちらに御不便でなければうれしいと思うけれども。いかがでしょうね、行けたら大いに能率的なのだけれど。いずれ明日御相談いたします。
この頃暑くなって、わたしは一人で万端やるのが、すこし重荷です、そちらに行くと、歯医者、お使い。その上での台所ですから。歯をわるくして今休んでいる女中さんが、もう一ヵ月もしたら来そうで、そうしたら汗の出る間大助りです。夏へばっては仕方がないから。そうすれば、仲々うまく行くということになるでしょう。
薬が買いにくくて困ったこと。全く困りです、ヴィタスなど島田へ伺って見ようかしら。
きょうは咲がいるので、わたしは床から体がはがれなくて。体じゅうはれたようにギゴチなくなって、幾度も幾度も寝つぎして十五時間ばかりねました、ひどいでしょう?ゆうべ九時に床へ入ったのよ。その代り休まってかんしゃくも起りません。熱はいかがでしょう、お大切に。やはり出ましたろうか。 
六月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月七日夜
もうすっかり夏になりました、きょうなど、暑かったこと。暑いときに歯のジージーガリガリは一層汗が出ます。きょう、お会いしたのが五時だったのね。それから歯へまわり、かえって夕飯終ったら八時です。
ことしの夏はね、自分がすこし丈夫になったら、悲観のことが出来ました。のみ問題です、ことしはうちにノミが多くて、わたしは特にたべてみて気に入られたと見え、全く赤坊のようにやられます。痛くちくりとさすノミで、其は小さい体をしていて猛烈なのです、だもんだからこの三四晩、安らかならずという仕儀です。眠くて床に入るのに、チクリと体がビクつく位やられるので、むっくり起き上り、永年愛用の水色エナメルはげかかりの円い首ふりスタンド(竹早町以来の)ふりかざして、文字どおりノミ取りまなこを見はってつかまえます、わたしの眼もその位になったとはお目出度いと、目白のお医者様は祝賀をのべて下さいました。ノミとりまなこを見はると、眠けさめてしまって過敏になって、体中チカチカあついようになってノミも食いあき、こちらも疲れると眠るのよ。何と癪でしょう。イマズふりまいてプンプン匂う中に眠るのにね。
島田の二階のノミのひどさ。でも、あすこのは、土地柄とあきらめていましたから、ここの二階の奴ほどにくらしくはありませんでした。目にも止らないノミに向って、大憤慨の形相して突貫している滑稽なかざしの花については、万葉の諧謔も思い及んで居りますまい。御主人公の御機嫌という厄介なものをあしかけ三ヵ月かかって克服したと思ったらのみ奴にせめられ、泣かまほしです、却ってこっち(のみの方)が泣けそうだから大笑いね。ノミは実にいやよ。ちょこまかして、悪達者で。旦那様に云いつけるぞと云おうが、此奴め、ユリをくう奴があるか、とにらまえても、ノミの答えは一つでしょう、ピョンピョンはねろよチクリとさせよ、今がおいらの全盛時代、とね。ノミはドイツにもいると見えるのね。「ファウスト」の中でしょう?蚤の歌。どんな神秘主義者にかかってもノミは「おいら」族ね、決して「われら」族ではないわ。南京虫はまけずおとらず穢い一族ですが、あれは徒党をくみ、集団的で会議をするようで「われら」風です。クロプイという劇をメイエルホリドが上演しました。すべての寄食的存在を表象したものでした。
きょうは、朝すこしおそく起きたので大いそぎで御飯をたべないうち、トマトの苗を植えました。千葉のです。移すのには大きくなりすぎていますが、丈夫そうだからうまくつくかもしれません。そのトマトはね、春ほうれん草をまいて出なかった畑をもう一遍こしらえ直して植えました。ほうれん草ではなく小松菜(コマツナ)だったらしいのよ、畑直すについて出ている小松菜をみんな抜いて、今夜ゆでて、お漬しにしてみました。その青々した色の鮮やかさ。それから田舎のお菜の匂いと味がしました。すこし燻りくさいような土くさいような。ああこれでこそ青い葉にはヴィタミンがあります、なのだと痛感しました。そして、殆ど生れてはじめて蒔いて、とって、ゆでたそのおひたしを、自分ひとりでたべることを千万遺憾といたしました。丁度二人前になったのですもの少いめではあるけれど。これで見ると、小松菜というものは、決して不味でありません、八百やのは、いつもこわくて水っぽくてよくないので、余り作らないけれど。
トマトがついて一つでも二つでもなるようになったら、朝や夕方、それをもいで食べようとするとき、どんな歌を思い浮べるでしょう。いろいろのうたを思い浮べ、千万残念に思い、しかしそれで涙のうちに食べるのを中止するのではなく、ちょいと頭をふって、二人分せっせと食べてしまうところが、わたし流の悲歎ぶりです。畑というものは、決して決して単に蒔いたから生えた、生えたから食う、という丈のものではないわ、生活的な多くの内容をもって居ります。
面白いことが二つあります。わたしは種をまいたり、苗を植えたりするとき、水をやたらかけて土のかたまるのが不自然に思え、泥はしめらしてもあとから水ビシャにしなかったの。姉さん駄目だよ、もっと水どっさりやらなくちゃあ。そうかしら。マアいいだろうあの位で。ところが、講座には、水をやりすぎて土を呼吸困難に陥れる害について強調していました。モラルめいた感想は、畑つくるにも野菜の身になれぬ。人間の慾ばりで、早く芽を出せという性急は駄目ですね、出さぬと鋏でチョンギルぞ、というのは、悪者の猿だとした昔の日本人はなかなかしゃれて居ります。
それから第二話。胡瓜の苗が育ちつつあります。これは、いやなの耐えて、ごみすて(台所からの)穴へ入って、そこから汲み出した泥でウネをこしらえて大いに努力したものです、八本。太郎が来て、フーム胡瓜つくってるの、これじゃ、うね幅がせまいよ、もっとひろくなくちゃ。いつの間にか倍ほどにひろげておいてくれました。子供の仕事だから浅く掘られてはありますが、「あっこおばちゃん」のよろこびをお察し下さい。三月前の太郎は、畑掘ってくれ、と云ったら、だってエ僕と、体をくにゃりとゆすってことわり、あっこおばちゃんの腹を立てさせたものです。三ヵ月田舎で暮して、こんなにやることを覚え、父親が姉さん云々駄目ばかりを出して坐っていることと対比して、この一寸の相異が、将来に太郎の人生に加える大きいプラスをこころからよろこばしく思います。太郎の疎開は皮相的な一身の安全を期す以上の意味があります、何をやらしても何だか頼りない連中の次に、すこしは物にたじろがない、ものと生活を知っている活力ある世代が、こうして田舎で育つというのは微妙な自然の法則のようです。少くとも咲はよくよくこの大きい意義を知り、責任を感じ又よろこぶべきです。フラフラ子供をつれて戻ったりしてはいけないわ、少くとも中学を出る迄ぐらいは。太郎の弱点であるくにゃりとひしゃげるところ(弱さ)が減って、小堅くかっちりとして来ました。生活があるからよ、あちらには。ここで、街上でのらくら遊んでいる空虚は害があるのです。東京にいると、生活がありません。何もさせない、親でさえ、十分はしないのですものね。田舎でそういう実行的な育ちかたをして、うちの、というのは、わたしたちの、よ、文化水準で教養を加えれば殆ど申し分ないわけです。太郎の将来の図書目録は、寧ろ太郎の素質が果してそれらをこなし得るやと思うくらい充実して居り、多方面であり、面白く且つ真面目ですから。去年スキーに行った結果は、要するにああいうスポーツのやりかたは、有暇青年風だという警戒でした、太郎はマせているから宿やに平気で、それはよしわるしでした。下駄の下へ竹つけて雪をすべったり氷をすべったり、来年の冬は、赤倉なんかへ行かなくていいから、これも安心です。面白いこと思い出しました。わたしの足は、小さいけれど、子供時分ハダシにばかりなっていたし下駄はいたし、幅はひろいの。パリで靴買いに行って英語でものを云っているので、気を許して女売子が大きい声でわる口を云うのよ、ひろがった足してる、って。つまり下品な足だって。それは鞘に入れて育てたのじゃないものね、とわたしはつれに申しました、これは日本語よ、わたしの頭はみがつまっているから、台がひろくなくちゃもたないのさ、と。まけ惜しみでもあるが本当でもあります。日本人て、こんなところがあるのね、漱石なんかこれでカンカンになって、ロンドンで神経衰弱になったし、あれ丈の文学論もかきました。日本人はおもしろいわ、大抵の人が一番気の利いたことは自国語でしか云えないところに、お気の毒さまというところがあります、そしてくやしさが内攻して、見当ちがいの愛国熱でゲンコふりまわしたりします。(よくベルリンで博士の玉子たちがやったように)
日本人と云えばパリで緑郎どうして居りましょう、ルアーブルからセーヌづたいにパリは五時間以内ではないでしょうか、英語が通じるようになって便利するのでしょうか、そうまで呑気ではないでしょうね、いくらヨーロッパの中だと云っても。フランスの中だと云っても。あの若い二人の生活もここで歴史的一転をいたしましょう。丈夫でいてくれと思います。
ついでに、一寸家事的ノートつけ加えます。冬のジャケツ上下、シャツ、ズボン下、どてら二枚、今ごろ着る外出用の単衣(これは新しいもので御存じありません、大島の紺がすり)、先へよって、真夏着る麻など、開成山におきます。咲に、いつもお送りしている約十倍、保管たのんでおきました。現金です。いつでも、すぐ用に立つようにしてあります。これは咲がまさか絶対責任をもつそうですから。どうぞそのおつもりで。そのあと、工合よく行けば、もう其と同じ位か、すこし多く、やはりあずけておきます、(今のところ、こっちは出来ていませんが)これは、わたし一人のまかない分とは別にしておいてのことですから御安心下さい。わたしの方は、自分にくっつけておきます。場所がちがえば、ちがったですぐ役に立つように。何しろ人だのみは出来ない場合もありましょうし、又そんなひとも居合せず。
薬は、オリザニンみつけました土曜日に届けます。ワカモトで出しているワカフラビンというのは、もっとよい(メタボリンよりも)そうですが、今どこにもないので。ヴィタミン剤も精製されすぎていなくて、コンプレックスの多いものの方がいいということになって来ている由。よくわかりませんが、そんな風な話しでした。では又。
お大事に。疲れを。 
六月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月十一日
さて、こんにちは。きょうは十一日で日曜日よ。いま午前十一時半。さっき国、咲、太郎一連隊が出発したところです。あと、ざっと掃除して顔を洗って、髪結って、出来たてのところで一服というところを、こうして書きだしました。全く、いまこそ煙草のむべきところよ。三日に来て例のとおり大騒動いたしましたが、今度はね、その眼の下で芸当を演じたことが計らず曝露して、しんからいやになりはてながら、慎重にかまえ、例の身勝手鈍感の方はそれと気づかず、つまらなく文句云ったり、亭主風をふかせ、それをきいているあいての心は百里もあっちにあって、大したことでした。寿の引越しのときもわたしはここに居りません。実の妹が皆と一緒に食事もしないで、引越しさわぎをしなければならないのを私が見て黙って居られません。しかし、もし七月に入り咲が来られなければ、国に開成山へでも行って貰ってわたしが手つだいましょう。
おっしゃっていた本、宮川何とかいう人のは、厖大なばかりでインチキ本の由、間違いも少くない由です。『結核の本質』という病理と細菌の専門家の書いた本でよむべきのがあるそうで、入手次第お送りいたしましょう。あの御愛読の『結核』教養文庫、あれは名著だそうです。あんな姿をしていて名著だというところに、何とも云えないいいところがありますね。
きょうは、今迷っているところなの。きょうのうちに外出して、果しておいた方がよい用事が二つばかりあります、あした午後はお客でつぶれてしまうから。だが、朝早くから大さわぎして、お握りこしらえて出してほっとしたところだもんで、あついし、出かけるのも何となし進みません。もとだと、夜平気だったし、心持よかったけれども、今、夜はこわいし。どうしましょうね。行った方がいい?なまけてしまって、あした?でも困るわね、あしたなんて。くさってしまうものがあるのだから。くさらないうちに届けなけりゃいけないのよ。あああ、チン(犬)がもうすこし馬琴風の神通力をもっていて、首からザルでも下げて用足ししてくれるといいのだけれど。八犬伝とまでは行かなくて結構ですから。
きのうは、毛のものと、どてら荷作りしてどうやら出しました。先ず一安心。もう二つほど送れるといいのです。この間、一日のうちに大体毛のものの洗濯終ったら本当に疲れました。お湯をマキでわかして、運んでは足し、洗っては運び、黙ってウムウムと働いて、きのうあたり本当にグロッキーでした。きょうもまだ十分と行かず。ここいらで一日二日ゆっくり横になりたくなって来て居ります。
横になりたいといえば、ノミ騒動。いいあんばいにやっと退治に成功したらしくて、昨夜あたりのうのうでした。ノミのいない床によこになる心地よさ。騒ぎという字をよくみると、馬に蚤がたかったところね。これじゃわたしもいやなわけだと、ひとり笑いいたします。私のよこに蚤をたからしたら、字にもならないほどのさわぎのわけよ、ね。お察し下さい。
この原因がチンなのよ。この間、吠えつかれてチンが八百やのキャベジ籠の間で腰ぬけになって、思わず抱き上げたと話したでしょう?そもそもあれが原因でした。ノミの方は、そんなこころなんか我不関で、得たりとたかって来たのでした。ひどかったこと!以来、チンの可愛さとノミのこわさはきびしく別で、めったに体をすりつけてもらいません。チンは訝しそうよ。どういう工合なのかナという風です。
ガンサーの本、ガンジーの伝のところ、面白くガンジーの自伝というものをよみたいと思います。聖書的率直さと天真爛漫さだそうです。ガンジーが、肉体の欲望を支配する力を得ようとしていろいろ努力して、四十年来成功しているそうですが、このひとはトルストイのように、自分の目的達成の困難さを、女のせいにしていかめしくかまえもしないし、ストリンドベリーのように、妙に精神的にひねくれもしないし、キリスト教徒でない、自然さがあるらしくて、そんなことも面白いと思います。十五歳で十歳の妻と結婚したのだそうです。北の生活の中では、わからない人間成長と性の問題のくいちがった様相があるわけです。インドでは体が、果物のように熟してしまうのね。精神は生活経験の蓄積の時間が入用ですから、体にまけて、萎えて、未成長のまま早老してしまうのでしょう。インドの聖人たちが、みんな肉体の支配について巨大な意力を動員しなければならないのは、実際の風土に対する人間的プロテストなのね。自然におけるそういう条件への抵抗と、イギリスというああいうガンコな壁への抵抗で、インドの人々の生活は、意力あるものは極めて強靭な意力を要するのでしょう。ガンジーは、ゴムのような男の由、堂々たるヨーロッパ人が大汗でおっつけない程迅く、やせて軽い体を一本の長い杖をついて運ぶ由。ガンジーの矛盾だらけ、不思議な素朴さ(経済問題について)は、即ちインドの一般生活のおそるべき低さと比例する困難さに応じたものであるというのは、興味をうごかされました。糸車も漫画に描くよりはインドとして意味があるのですね、いろいろ感じました。ガンジーのつよさ、力の諸源泉、そのコムビネーションについて。キリスト以来というのは或は当っているかもしれません。インドには、全く、「いわれなくしていやしめられたる者」が充満しているのですものね。ガンジーの秘書をしているのはミス何とか云ってイギリスの海軍大将の娘の由。ミス一人の良心で、イギリスの歴史を償おうというのは、荷が重すぎるでしょうね。
ああ、本当にどうしよう、思い切って一寸出かけましょう、かげって来たし。雨だと(あした)又こまるから。では、これで一寸おやめに。 
六月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月二十六日
この頃は本当に御苦労さまね。心からそう思います。熱はあまり出なかったでしょうか。生憎むし暑くて体がもちにくいし。おなかをわるくしていて、この時候では大儀なことです。丈夫なひとでも、あれでは大抵やられるのよ。疲れのため安眠出来ないのではないかと思います。わたしはもとそういうことがあるとは知らなかったけれど、ひどく病気してから夜風呂に入ってさえ、眠れなくなることがあるようになって、そういうときの工合わるさ、御同情いたします。どうぞ、どうぞ御大切にね。
咲ひさしぶりでしたろう?二十三日に出て来たのよ。六時すぎてしまって、さてこれからもし御飯炊くのだったら閉口だとふらふらになって入って来たら、台所の外のカマドで火をたいているのが咲だったので、わたしはうれしくて、ウームああちゃん!よく来てくれたとうなってしまいました。あっこおばちゃん!どぉうした?二人が抱き合うような「感激的場面」を展開しました。〔中略〕二十四日にはどうしてもと思って来たのですって。こういう思いやりのあることを咲がやってくれるからどうやらやってゆかれます。あなたも咲を御覧になって、やはり似たようなことお感じになりましたでしょう。咲と話したのよ。あなたは輪廓だけにしろ、私の暮しのあれこれを御存じなのだから、ああやって咲がいるの御覧になれば、マア、その調子ならユリもやれるところもあるだろうとお思いになるでしょうって。そして、それは只何年ぶりかでお会いしたというだけのことではない、生活のこころもちをあなたに感じさせ、どんなにいいきもちか分らないから、私もうれしい、と。咲は、きっとわたしも変ったとお思いになったでしょうね、と云って居りました。いかがでした?この前泰子をだっこしてお会いしたきりでしょう?四五年は少くとも経って居ります。咲は一つ年下よ。月末までいて帰ります。
岩本の娘さんの一人が戸畑へお嫁に行っていたのではなかったでしょうか。あすこは鋳鉄で日本一なのですってね。どうしているでしょうね、小さい町は五機ぐらいで十分なものらしいのね。野原へハガキ出して見ましょう。
六月十三日は母の十年でした。十二日に寿が出て、十三日は何年ぶりかで落付いて二人で墓詣りいたしました。寿と二人で、せめて墓参ぐらいしてやらなくては、全く親に申しわけないと思ったわ。それから、はじめて根岸の春江(咲の姉)のところへ廻って、明治初年の浅井忠の画室を外から見て(構えうちにあるの、初期の洋画家はああいう茶室風の画室に住んだのね、いかにも天心がああいう道服を着ていた時代らしい作りです。杉皮ばりだったりして、羽目が)ゆっくりして家へかえり、今日はよかったと話していたら、森長さんの電話で、わたしは眼光忽ち変ってしまいました。
寿は国のかえる日までいて、実によく手伝ってくれました。寿もその間には、ふっくりした表情になって、この三四年来になかった心持のよい日を送り、あとどんな嵐が来ようと、つまりようございました。わたしは寿がつくづく可哀想よ。わたしは弱いものいじめをする人間は大嫌いよ。互格でないけんかを売るような根性は、ふつふついやです。そしてこの腹立ちは清潔よ。人間が人間らしくあるよりどころです。寿は鍛練が不足だし、性格のよわさもあって、自主的な善意。何しろ寿は心にかかることです。〔中略〕
国は退去命令が出そうな事態になったらそれ前に田舎へ行くそうです。何も彼も放ぽり出して。話しだけにしろそうなの。わたしはそういう風に行動する気になれないから、家をもっとしゃんと腰の据った態勢に整理して、小堅く確信をもってやりとうございます。
この間、咲が台所で鍋を洗いながらね、「ねえ、あっこおばちゃん、どうしたらいいんだろう。一生が又もう一遍やり直せるものならいいんだけれど、そうでないんだもの、ねえ」と述懐してわたしを言葉なからしめました。国は咲が一面大事なのに嘘いつわりはないのよ。
世界はこんなに大きく歴史が轟いて推移して居り、その波は日夜この生活にさしているのに、意識した関心事といったら、けちなけちな一身の欲望、どんなにして尻尾を出すまいとか、口実をみつけようとかいうのだというのは、何と不思議でしょう。世相にけずられ、追いこまれて、小さく小さく、下らなく下らなくとなります。
さて、そちらで待ち待ちガンサーよみ終りました。パレスチナのユダヤ殖民地をめぐって、アラビア人とユダヤ人とのいきさつなど今まで知らなかったことも学びました。「アラビアのローレンス」を思い出して、イギリスがアラビア人をおだてて独立をさせ、ユダヤ人の科学発明がうれしくてパレスチナの殖民案を通し、しかし伝統的なアラビア人とユダヤ人との流血的対立を排除するどんな実力ももたない点、両刃の剣風に双方をかみ合わせる点、ローレンスが自分の国の政策を見とおさず、アラビア人のため努力して幻滅したりするところ、興味をもちました。伝記などというものは、その関係からかかれなくては、一尾の魚の丸の姿は出ませんね。そして自叙伝などというものの新しい価値は、そういう時代と個人との千変万化なるからみ合いの角度を明瞭にしてかかれなくては仕方のないものなのね。自伝をかくとき、ひとは少くとも自分の生涯の世俗からみれば愚かしい迄の高貴さ、或は聰明とかぬけ目ないとか評価されとおしたことのかげにある穴あらば入りもしたい通俗さを、自分で知っていなければなりますまい。さもなければ、古い型の自伝なんかもうゲーテとルソウとオウガスチヌスとで十分ですもの。
太郎の少年らしいよさ、満々です。来ていたときに、朝顔の種蒔こうというのよ、どこへ蒔こうというの。だから、あすことあすこがいいねと云っていて、忘れてしまい、この間警報解除の後、庭へ出て菜をとろうとしたら、マア、出ているのよ、芽が。云ったところに。じゃああっちにも出たかしらとみると出ているの。蒔いたよとも云わず、ちゃんと云ったところに蒔いて行ったのね。何と爽やかなやりかたでしょう、いいわねえ。うれしくてまわりの雑草をむしりました。雑草の中へ平気でかためて蒔いて行ったのよ。そういう自然を信じたやりかたもいい気もちです。鳥のようで。
では明日ね。おなかがましであるように。今にさっぱりした浴衣おきせ出来ます。 
 

 

七月五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月五日
七月と日づけを書き、ぼんやりした愕きを感じます、もう七月とは、と。今年の早さは、早さというよりも遽しさであると思われます。時の迅さに、人間の足幅が追いつかず、工合わるくエスカレーターに乗りでもしたように、とかく重心がのこって、足をさらわれ勝の生活ね。去年の七月初旬は、まだやっとのろのろ歩き、妙な出勤をやっていて疲労し切って居りました。ことしは、其でもこうやってモンペはいて、警報の準備もし、にしんを煮ている間に手紙もかきます。
おなか、いかがでしょうか。なかなかどこでも困ります。今鳩ぽっぽと共同食料のように豆入り飯ですが、こまるのは、消化がよくないという外に、くされやすく、今のように一晩経なければならないと、涼しくしておいても「ひる」はピンチになってしまいます。堅固なパンでも欲しいことね、近代武器に対処するにふさわしいような。呉々お大事に。シャボン、使いかけですが御免なさい。唯一の貴重品でした。夏のあつさ考え、なしでおすましになることはよくないと思って居りました。これからも仰云って下さい。何とかします。あなたを、丈夫な大事ないい布地と思いなして、浴用がなければ洗濯シャボンさし上げましょう。まなじっかの化粧用より万一、もとのがあれば、その方が本来の性質と用途に添ったものですから。シャボンよ、シャボン、こまかい泡をきれいに立てて疲れをそっくりもって行け、よ。
きのうお話した森長さんからのことづて。全く全く、というところですね。あの人がああというのではなく、誰も彼も。そして、こうも思いました。わたしが小説をかくということは、これでどうして大したことなのだ、と。テーマのない小説というものはないでしょう(かりにも小説と云えるものであるなら)テーマはいつも核をもっています。其こそ大事で、万事のうちにテーマとその核とを把握するということ、直感的に把握するということ、更に其を科学的探究で整理し、核がもつ本質を明瞭にしてゆこうとする情熱をもっていること、これは芸術的と云うべきなのね。人生そのものへのくい入りかたの意味で、まさに芸術的なのね。
一本人生のテーマが通っていて、それを生涯を通じて完成してゆこうとする人生態度の芸術性こそ、トルストイの知らなかった人生派の芸術だと面白く思います。芸術のきわまるところ、即ち生活そのものの創造的意義だということは実に面白いわ。シーザーは、いろんな占いをやって、おっしゃるように勇邁に其を解釈したのでしょうが、そういう占は見えなかったのかしら。シーザーなんかについて余り存じませず、しかしこれ丈は記憶にのこっています。シーザーは細君をいましめて、「シーザーの妻は、あらゆるときにシーザーの妻として振舞わなければならない」と申しました由。これは当時横行したワイロについて、それを受領するな、ということだったのよ。プルタークはかいて居りませんか?ナポレオンは気の毒な良人で、ジョセフィーヌには、えらい思いさせられつづけたのですって。例のフーシェね、ああいう奴やナポレオンの弟の不平組と徒党をくんで、偉大な人の苦痛や面目の傷けられることばかりやったのですって。人間の心の中に、そういう試みる悪意があるのね。神を試みる勿れ、とは苦労人の言葉です。ユダだって、人類的恥辱の裡にありますが、裏切りが面白いより、ひっくりかえしてみて、猶イエスは本当に死なない命をもっているのか、それを見たかった悪魔ね。近代人が、フーシェはじめポベドノスツェフの流の破廉恥を常習とするのは、いくらか違って、悲劇とすれば、アーサー王伝説中のゴネリアの物語みたいなものね。シェクスピアはそれからリア王をかき、コルデリアを描いたようなもので。もとね。プルタークについてはほんとうにそうだと思いました。人生経験というものは大したものね。そして、そういうものが読者に加るにつれて、一層味い深く読まれるというところに、作家というものの意味のふかさがあり、勉強のしどころがあります。大人の文学、というものは、房雄先生の定義するところより遙か遠い、質のちがったものです。俗人らしい厚顔さをますことではないわ。俗説をあれこれかき集めるのでもないわ。こうやって、暮していて、猶々仕事とは何か、ということについて会得いたします、そして、新鮮な情熱を覚えます。自分の人生が要約されてあることに歓喜を覚えます。仕事と妻の心と、主流は綯い合わされた只一筋のそれだけだというところは何と愉快でしょうね。この要約の豊富性については、よく表現しつくせない位のものね。芭蕉は一笠の境界ということを理想にしましたが、現代史の波瀾重畳の間で、よく要約された人生の道具をもって生きられるとしたらそれこそ人間万歳です。
その至宝のような単純さ、明瞭さの殆ど古典的な美しさの中に、鏤ばめられて燦く明月の詩や泉の二重唱の雄渾なリズムは、どう云ったら、それを語りつくしたい自分が堪能するでしょう。こういうおどろくべき単純さと複雑さとの調和が、可能なのが、何かの意味で日本的だというのならば、日本の世界的な水準というものも納得されるようです。
すこしきりつめた云いかたをすれば、現在のように今夜の自分の生命について信じず、ましてや数ヵ月後の其について信じず、しかも人間の未来の輝やかしさについて益〃深く信じるこころをもって、こうやって書いていると、いのちへの愛が凝集して叫びたくなるようね。
こういう感動の鮮やかな深さは、もしかしたら、今度は神経の負担が少いからかもしれません。珍しく国が居ります、そして珍しく本気で協力して居ります。わたしはうれしいの。わたしが余りよろこぶものだから国もうれしいところがあるらしくて、さきほど事務所へ出かけるとき「じゃ、なるたけ早くかえりますから。我慢していてね」と云って出て行きました。こんな言葉は、やさしい言葉よ。ね、だのに、この人ったら、浴衣の汗の口なんですもの、風向き一転するや、忽ち端倪すべからざる変化を示します。
わたしのような人間には、信じないで信じている、というような芸当はむずかしいのに。姉弟ですからどうにかもってはゆくけれども。
暗くならないうちに御飯たいておかないといけないのよ。ですからここまで。あしたもきっと書けそうね、今夜無事ならば。ゆうべ安眠出来たということのかげに、犠牲の大さを感じて粛然たるものがあります。ではね。 
七月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月五日つづき
夕飯を一人ですますことになったので、それに警報も解除となり明るくしてもいいのでお話をつづけます。
先ず、「鰊のやきもち」という話をいたします。さっき七輪に鍋をかけて、にしんを煮かけつつあっちの手紙をかいて居りました。間で決して放念していたわけではなく、この北の海でとられて、身をかかれて、かためられたのを又ぬか水に漬けられ、甘く辛くと煮られる魚の身の上を思い、折々みてやっていたのに、どうでしょう。いつの間にかわたしが書く方に熱中したとみる間に、じりじりに身をこがして、行ってみたときには、おつゆがからからであやうく苦くひりついてしまうところでした。マアどうでしょう、とひとり言を云い乍らいそいでそこにあったダシをついで、こげつかないところだけとって、一寸煮直して小癪だから夕飯のとき半分たべてしまいました。わたしが小走りに七輪へかけつけ、唖然として且つあわてる様子御想像下さい。鰊は北の白熊に獲られるのね、きっと。やきもちやいて、東京へ出たら逆をやれと思って、自爆して、わたしという白熊を釣って駈け出させたのは手際とや申すべき。
もう一話があります。なかなか多事だったのがお分りでしょう。「鑵今昔物語」というものです。砂糖の配給は、この頃〇・六斤が〇・五斤(一人)となって、月の中旬以後になりました。もと重治さんが「砂糖の話」という小説をかきました。さとうの話は、充満しているわけですが、うちの砂糖ののこりが、大事にカンにしまってありました。間違えてそのカンをあけたら(つまり間違えるぐらい、タマにしかあけないというわけ)これも亦どうでしょう。カンの中が蟻だらけなの。へえと思って、それをおはしでかきまわして、先ず蟻陣を混乱させ、カンだから小鉢に水を入れた真中に立てて、行くたんびに、カンカンとたたいて蟻を追い出していたつもりのところ、さっき落付いて中をよくのぞいたら変なことになって居ります、水があるのよ、わたしの入れたのはさとうなのに、うすよごれた水がカンの中にあるのよ。ちょんびり。さんざん眺めて、ああそうかと合点したって、もう手おくれです。当今の鑵を信じるうつけものと川柳にでもなりそうです。かんは底のつぎ目がわるくて水を吸いこんでしまったのよ。水の中でどうして砂糖がとけずにいられましょう。とけて水となれば、砂糖包のアンペラの底からハタキ出された身の素姓をあからさまにして、うすきたならしい水になるしか仕方がなかった次第でしょう。そのうすよごれた水を、いさぎよくすてるなどとは、今日の神経のよくなす業でありませんから、わたくしは口で悪態をとなえつつ、丁寧にガラスの瓶へうつしました。
さて、三十日のお手紙にあった、野原へお母さんがいらっしゃったりするの、本当に結構です。お母さんが暫く家にいらっしゃらなかった間、お父さんが、外道奴、外道奴とお怒りになり乍ら活躍していらした、というような笑いと涙を誘う面白い話にしろ、野原の小母さんが話してですものね。それから、お祖母さんというお方は、大層姿のよい方で、十分それを御承知でなかなかおしゃれで、びんをこう出して、帯をしゃっとしめて、「後姿は、人も出て見るような」という話や、ね。おしゃれというのに二いろあって、表現的な精神の抑揚からのおしゃれはおもしろいことね。そして、わたしは、そういうおしゃれなら人後におちたくないと思います。おばあさんの御秘蔵であった小さいあなたに、おばあさんのそういう弾みのある人柄が何と感じられていたでしょうね。そういう姿美人の子だから、お父さんはお踊りになると、案外なしおがあったのでしょうかしら。お母さんはお父さんの踊上手がお自慢なのよ。御存じ?お父さんのお人柄のよさがそこに出ていると思って伺いました、どうしてあの武骨そうな人が、というようだったのですってね。
鷺の宮は空気の気もちよい、林の畑の中の小さい町です。この間、着物とりに行ったらとうもろこし、きゅうり、なす、いんげん、じゃがいも等、家のぐるり一杯大きくなっていて、わたしの畑(!)がそぞろ哀れになりました。畑一つみても、力を合わせる者のあるところと、そうでないところの違いはおどろくばかり露骨です。この頃、どの家でも畑つくりをやっていて、気風がわかるようでしょうね。わたしが一人で、畑が貧弱なのもやむを得ません。その一人がともかく畑作りを着手した丈プラスです。一人だと、こんな風に畑は不便よ。朝おき、御飯がたべられる迄に一時間はかかります。いくら丸くても、半分でカマドの世話をし、半分で畑の草とりは出来かねます。夕飯頃日がかげって丁度水をやり、手をこしらえてやったり、草むしりによい時刻一人は、一人で七輪の前で大汗です。鷺の宮なんかの風景は、ね、細君が台所にいるのよ。あなた、あの胡瓜一寸とって来て下さいよ、うんよし。或は、一寸旦那さん見えないナと思うと、草むしり。こうして畑は繁昌です。
緑郎の暮しも目下は食糧が大問題でしょう。包囲の頃(普仏戦争)ゴンクールの日記に、やっぱり妙な貝を歩道で売っている、などと書いてありますが、その比でないようね。その時分は、牧場の牛や羊や畑を、空から見下してはブチこわして飛びまわる罪な化物は居りませんでしたからね。今それやっているそうです。大いに参考とすべき事実です。近郊というものの立場について、ね。袋の中のようなものになって大したことです。二人だからいいところもあり、又反対に、緑郎とすれば、いろいろの場合、妻の処置について心がなやむでしょう。
ゴンクールの日記をよんだシチュエーションも面白うございました。わたしが風呂たきをしていたの、ひとりで。たきつけに古雑誌をすこし使います。そういう中からふと目にとまって立ちよみしたのでした、何処かの一寸した雑誌。パリの市役所に、義勇兵――国民軍募集のイルミネーションがつけられ、そこにぎっしりと男たちがつめよせて来ている情景などを、ゴンクールは鮮やかに、しかし同情なくその日記にかいて居ります。ゴーチェがこの敗戦で財産をすったとあわてて愚痴タラタラな姿もあります。政治上のことというつきはなした見かたです。
政治家というものの職業化それに伴う腐敗のために、政治を寧ろ清純な人物の近づかないものとして見る見かたは、現代にも多くの作家を支配していますね。たまに政治的であった男は、又人物の浮薄さを、後々に到って露呈したりして、なおその経験主義の偏見をかためてしまっています。
ここいらのこともいろいろ将来の興味ある課題ですね。「孫子の代」には、そういう偏見がためられ、常識がひろくつよく健やかになったとき、大きい変化が見られることでしょう。日本でも、あああの男は政治家だ、という場合、それは決して信頼すべき人物だ、という同義語ではないところに、いろいろのことがあるわけでしょう。人間学通暁者、歴史推進者が政治家である、という観念がゆきわたり、そういう実在が見られるには時間がかかることです。
フランス人は政治家ずれしているところがありますね、精神史的に。又、政治くずれの面もあるようです。偉大な出来ごとの、真の偉大さを把握しないで、フランス人の皮肉・辛辣さでかたづけてしまうところもあります。フランス人のこの特色を、バルザックは立腹して居ります、立腹するバルザックを好しいと感じます。しかも彼は、その人間らしい立腹に足をとられて、自分を、折角怒ったのに、その甲斐のないようなところへもって行ってしまいましたが。
この手紙はここで終りにいたしましょう、もう九日の午後よ。六、七、八と経ちました。たった一行の間に。今も亦一人です。アイロンがピシリピシリと微かに音をたてながら熱しています。わたしは、暑い日ざしを見ながら、あなたの血便はどうなっただろうと考えて居ります。アドソルビンという腸内の殺菌吸着剤が三共にあるかしらとも考えて居ります。こうやっていてさえも、だるいのに、と思って居ります。 
七月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十五日
暑い日でした。きのうも、ね。おなかの工合わるく、食事がちゃんとしないときにこの暑気では、さぞさぞお疲れのことでしょうと思います。わたしなんかメタボリンの注射していて、この位だのに。やっともっているという程度ですから。ことしの夏は誰にとってもしのぎがたいでしょうが、おなかのわるいのは実にいけません。苦しさが夏向きでないのに、大体いつも夏ね、何と残念でしょう。どうか呉々お大事に。いろんなことをおまかせして安心していられる細君は仕合せな者と云うべきでしょうが、病気まで病気している人におまかせしなければならないとなると妙な工合よ、ひどく妙な工合よ。奇妙な疲れかたをいたします。
十二日づけのお手紙、金曜日頂きました。家のこと、一寸申しあげたように、気がねなんかする理由はありません。ただわたしとすると、いかにもそちらが御苦労さまで、はい、と自分だけ腰が上らないわけだったのです。田舎へなんかは、ね。国男さんは、東京の郊外なんか意味ない、自分は開成山へ行っちゃう、と云って居りましたから。これからの生活は大したものですから、新しくわたし一人でどこかで生活こしらえることなんか迚も無理です。疎開者向ねだんが発生するのは世界共通らしくて。食糧の問題も極めて深刻です。〔中略〕「風に散りぬ」の中の一八六三年頃、あれね。
国も家のことについての考えは、グラグラして居ります。フランクに話さない自分の都合があったり、心ひそかに描く計画があったりなのでしょうね。ですからアイマイです。わたしがいなくては、自分も困るような話してみたり、わたしはさっさと自分で疎開すべきで、僕はどうにでもやるサ、と云うことになったり。そのどうにでもやるサの内容がタンゲイすべからずでね。だからああそうかと安心しきらないのよ。〔中略〕
きょうは十八日になりました。暑いことね、しかし風がいくらか通るのでしのげます。そちらいかがでしょうか。おなかの工合はすこしいいでしょうかしら。この間珍しくカンカンにかかって計ってみたら十七貫八百(きもの、下駄ごと)ありました。一九三二年に十九貫あったのよ。わたしとすればレコードですがそれでもやっぱり太く丸いというわけでしょう。
きょうの新聞でみると、学童が四十万人(六都府県)から各地へ集団疎開いたします、本月中に。千駄木でも三年以上は、その級がいなくなるのですって。学校のそばの疎開も、こわしの方は完成して、すっかり建ったばかりの家々(分譲地でしたから)もこわれ、材木の山と化しました。目白も沿線はこわれて陸橋の左右、角の果物屋も交番側のマーケットもなくなりました。池袋の武蔵野デパートね、あすこもありませんし、こっちの角の森永だったかしら?三角のところ、あすこもすっかりありません。省線にのって行くと、おどろくばかりです、沿線はこわされて。ともかく家々には生活がつまっていたのですものね。方丈記の、人と住居とまた止ることなしと云ったのは、戦国時代の京都をよく表現しているということを実感いたします。東京も表情が随分変化したものです。
御注文の本は「消化機疾患の診断と治療」というのでしょうか、御送りしてみます、腸疾患というのはないようです。ひょいひょいと高く熱が出たりなさらないことは、あなどりがたいプラスの由。封緘一緒に送ります。
今午後二時、九十九度です。大きい大きい埃及(エジプト)人のウチワで煽いで上げたいと思います。 
七月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月二十三日日曜日
今午後の二時すぎ。わたしは珍しくのんびりして食堂のテーブルでこれをかきはじめました。こうやって手紙かくときは、いつもガタガタ連隊は出かけて居りません。その上、きのうから手伝いが来ました。樋熊さんという名よ。どこかの樋のところに熊が出て、その樋のそばに住んでいた祖先の末ででもあるのでしょう。トーテムのような名ね。台所のあれこれのひきうけ手があると、こうもちがうかとおどろきます。わたしはもうピンチだったの。十四日以後十六七日ひどく暑うございましたろう?あれでピンチになったところへ先ず咲が来て、その人が来て、わたしは昨夜は八時すぎ、就床いたしました。そして例により十二時間眠りました。それに昨夜は涼しくて、汗かかず眠れ、きょうは大分もりかえしました。
そちらいかがな工合でしょう、おなかの方は。暑いところ、不如意一層で御苦労さまです。うまく納った状況でつづいて居りましょうか。あっちこっちの薬やを歩きますが、薬がありません。ヴィタミン剤はいかがわしいのまで、おそろしく氾濫いたしましたが、三四種に統合され、三共が一手でこしらえ、そして其は主として軍納品となる由。咲があっちで何か手に入るらしく申しますからたのみましょう。それまでに、何かほしいと思います。すこしおまち下さい。
おなかも、突然高くのぼる発熱がなければ、随分ましとのことです。けれ共、実に型が多様のものだそうで臨床家には、試験(テスト)ものですって。どうぞどうぞお大事に。お願いいたします。
寿は、やっと千葉に家をきめ、二十八日にトラックの手配まで、全部一人でやりました。あのひとも去年十二月からは一転して一人で万端とり計らう生活となり、苦労もいたしました。その家がね、つい近くに飛行場が出来るので、やがてはとりこわしとなるそうで、又別の家の話をまとめに上京の由、さきほど電話でした。こういう風ね、そこと思って、苦心の末見つけると一、二ヵ月で周囲の状況一変いたします。苦心の目的がふいとなります。すこし遠いところの家というのもそれでね。
八月に入ると、ここに本式のコンクリートの防空壕に着手いたします。それはいいわ。おそすぎました。間に合うかどうかの境です。しかし問題は寧ろ、口の方です。前便で申しあげました通り。一日一日とこのことが痛切となり、体力と経済力とのかけっこの露骨さが感じられて来て居ります。殆ど自然状態の生存競争に、最も高度な経済事情が人為的に加っていて、おそるべきものです。明白に恐怖という字がつかえます。ですから、家のこと=住むところの問題は、全く遊牧民的条件で決しなくてはならなくて、決して、近代的の交通問題によりません。面白いというか、すばらしいというか。大したものね。家畜は牧草のあるところへと目ざさなくてはなりません。人間の踏破の様々の形態を思いやります。世界中が現在は、最も近代的な速力によっての踏破と並行に、最も原始的踏破を行っているというわけね。めいめいの足の寸法での。実に様々の流れがあるわけです。鉄の流れ(セラフィモヴィッチの詩小説)のみならず。騒然と、しかし着実に歴史が移りつつあるというのは実感です。
前の手紙に申しあげたようなわけで、わたし一人だけでどこかに家をもつ――部屋をかりるということは殆ど不可能です。今はどこも、いいツルをもっている人に一室でもかしたがります。工場へつとめていて、カンづめをもって来るとか、布地が来るとか。ね。気風わかるでしょう?そういう慾ぬきで、わたしと一緒に暮してよいと思うひとのところへは、ほかの事情で暮せないのよ。笑えぬ滑稽ですね。だからわたしはいや応なし姉さんとしてくっついていなければ不便です。永続的持久法として。国が九月にはすっかり事務所を閉じて開成山へ行くと申して居ます。こっち誰か留守番を置いて。わたしはその人たちと暮すようになるのでしょうか、それとも開成山に行って、そこからこっちへ十日に一度ずつも出て来るようになるのでしょうか。今のところ自分で見当がつきません。そういう目安を自分で見つける為にも、今のうち一寸行って見るのはいいと思います。七月三十日か三十一日に立つつもりで居りましたら、何だか急に二十五日にでもなりそうよ。それというのは、寿が荷物をとりまとめのために、二十五日からトラックの来る二十八日迄ここの家にいて働きます。それはそうでしょう。国は、一つ家にどうやっていられるか分らない由、いやで。声をきき、顔を見、働く気配が。咲は、予定では二十六日にかえる筈でした。咲に云うのよ。わたしは、いい加減がまんするけれ共、寿と国とが、そういう状態でいる間にはさまって、両方へ気をつかって、寿は寿、国は国で食事するなんていうのに奉仕は出来ない、と。国が二十五日にくり合わされれば、わたしは国と開成山へ行き、寿の引越しは咲がいてやればいいでしょう。国は、わたしが寿に何でももたしてやってしまうと心配かもしれないから。わたしと咲が東京にいたのでは国、ぞっとしないし、開成山へ行けない由。あっちで女中と子供のところへとびこんで、どうしていいか分らない由。大人の男にもこんなのがあるのよ。きのうから国府津へ二人で行っていて、家の最後的片づけをやって居ります。その合間に、グテグテ相談して、きめるのです。今夜かえると決定がわかるという次第です。それによっては、二十五日に行くということになりかねないのですが、どうなることか。結局咲をつれて行ってしまうのかもしれないわ。さもなければ、急にあしたお目にかかりに行ってバタつき開始ということになってしまいます。自分が行くなら、もって行きたい荷物だってあるわ、いやね。歯の治療は今日が最終で、四月下旬以来の行事が終り、一安心いたしました。下の方の古いブリッジを直し、上のむし食いを直し、外からは一向どこをそれ丈苦心したのか分りません。金のどうやらやりくれる最後の由でした。
この歯の先生が、元は絵をやろうとして(日本画)美校に入ったのですって。絵で食えるかと親父憤って金をよこさないので、一番血なまぐさくない、家にいられる歯をやりはじめたとのことです。平和を愛し、野心をもたない人です。この間、北九州のとき、丁度約束の日で行ったら、すこし顔つきと身ごなしがちがっているの。亢奮があらわれています、白髪の顔に。こちらはもんぺの膝をそろえて椅子にのり、先生はいつもとちがったテキパキさで道具をとって治療にかかりました。そのときちょっと口のところに指がふれました。その指が非常に冷たくなっていました。いつもは暖い、顔にちょっとふれて感じない老齢の指先なのに。国民にとっての歴史的な局面感が、こういう鋭い、小さい、活々とした感覚に集約されて表現された、ということは何と印象深かったでしょう。小説はここに在る、と思ったことです。おそらく一生忘れられないわね。思い出というものは、こんなちいさいしかも決して忘れることのない粒々によって貫かれたイルミネーションのようなものなのね。いろいろな色どりがあります。そして、一つがふっと光ると、次から次へと、灯がのびてゆくのね。
きのうは、あの夕立と雹の嵐を見ながら十年の夏を思い出して居りました。ゴミゴミしてくさいところにいて、疲れのため、遠い夏空に立っている梧桐の青い筈の葉が黒く見えていました。同じような夕立のふった午後、わたしは打たれて膨れた頬っぺたを抑えて、雨と雹との眺めを見て居りました。それからとんで、わたしは何を思い出したとお思いになって?可愛い仕合わせな汗もたちのことを思い出しました。
みんな薄赤いその汗もは、仕合わせものたちで、パフに白い粉をつけたのを、不器用らしい器用さで、パタパタとつけられました。
そして次には、水遊びを思い出しました。爽快きわまりないウォータ・シュート遊びを。玉なす汗を流しながら、好ちゃんは、何と強靭に、優雅に、飛躍したでしょう。夏の音楽は酔うように響いて居りました。よろこびの旗はひらめいて。
段々雨がおさまって樹のしずくの音が聴えるようになったとき、一つの詩の断片が思い浮びました。われは一はりの弓、というのよ。われは一はりの弓。草かげにありて幾とき。猟人よ、雄々しい猟人よ、矢をつがへよ。われはひとはりのあづさ弓、矢をつがへよ。斑紋(ふもん)美しき鷹の羽の箭(そや)をつがへば、よろこびにわが弦は鳴らん、猟人よ。
白い藤をくれた古田中さんの孝子の俤というのが出来上りました。お目にかけます。あなたは孝子夫人にお会いになる折がありませんでしたが、写真を御覧になったら、きっと西村の系統のふっくりさをお見出しになるでしょう。母の若かった頃お孝さんに似て居りました。白藤の感想おきかせ下さい。今よみかえしてみると、体のまだ弱いところが分る筆致なように思われますが。このお孝さんの思い出と、母の『葭の蔭』の中の幼時の思い出と、くみ合わして編輯すると、明治というものの香が高く面白いでしょう。西村の向島の「靴場」[自注10]が、母の方の西村のそばで、この靴場の炊事場で小さい女の子の母が、沢庵のしっぽをしゃぶって遊んだりしたのですって。高見さんの文章の銅像は、こわして先頃献奉になりました。では又ね。これからは今までより手紙かく時間が出来てうれしゅうございます。

[自注10]西村の向島の「靴場」――百合子の母の叔父にあたる人が靴工場を経営していた。 
七月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月二十四日
十九日出のお手紙けさ頂きました。ありがとうね。このお手紙は、もう一二度ありがとうね、をくり返したいように、いろいろなたのしさ、面白さ、明るさの響がこもって居ります。手にもって振ると、そこから心のなぐさめられる音が珊々として来そうね。そして、大人にも、ときにはお握り(赤ちゃんが握って振って音であそぶおもちゃ)が、何とうれしいだろうと感じました。ましてやその響は天と地と星々に及ぶ詩の予告なのですものね。万葉の詩人たちは、素朴さと偽りなさにおいて匹敵いたしましょうが、叡智的観照については、時代のあらそわれない光彩が加って居ります。藤村の詩の中に、こんな句がなかったかしら「何にたとへんこの思ひ。生けるいのちのいとしさよ」と。
きょうは珍しいことでしょう、こうやって手紙を拝見してすぐそこで返事書き出せるというのは。幾ヵ月ぶりかのことね。そして、これは私の生活のリズムの自然さですから、うれしいわ。クマさんもありがたいことです。今あっちの縁側で鋏鳴らして掛布団のほごしをやっているから、なおのこと空気が調和していて。
ふとん類についてわたしがどんなにクヨクヨ思いなやんでいるかお察しがつくでしょうか。只今世間に綿はないのよ。ふとん側の布地も買えません。今のを大切に使うので、それはいいが、どこへないないちゃんちゃん、としておいたら、無事に秋あなたをくるむことが出来るのかと、それについての思案でとつおいつです。何しろ八月と九月殆ど一杯という時間にはさまっていて、それは只ものでない時間ですもの。縫うことは早くしておかなければだめよ。だってクマさん、ちょいと自信ありげに口を尖らして、ああやって鋏鳴らしているのも、つまりは天から降って来るのが雹どまりのうちですからね。熱いこわいものが一度落ちたら、さっさとトランクもって桐生へかえってしまうでしょう。ですから早く縫う必要があるのよ。そして出来たらどこにおきましょうね。せめて鷺の宮?ここは駄目よ。都外へ出しては、輸送が全く大したことになってしまうでしょうしね。開成山へ送ろうかと思って居りましたがどうかしら。御考えおしらせ下さい。
それから草履の件。何となく笑ってしまいました。だって。そちらへ送ってよい、という場合は、いつも、何によらず入手困難の結果でしょう。もう大体世間にそんなものはない、という時なのよ。すべてがそうよ。草履というもの、男の草履、麻うらという風なものは、既に辞典ものです。カステーラとともに。たまにあるのは、ひどい、すぐ緒の切れる代用品です、それも参考のためよいかもしれないけれど、お気の毒です。わたしが、そちら用に買ってもっているのはどうでしょうね。緒に一本細い赤が入っているが。さもなければ昔、あなたが足をお挫きになったとき一寸はいていらしたのは?ああいうのは、本当の草履は、勿体ないかしら?素足でじき黒くなってしまうしね。又キョロキョロして歩いて見ましょう。犬も歩けば、かもしれないから。女の下駄というものもないのよ。田舎にたのんでもないものとなりました。名将言行録はもう、腸の本と一緒にお送りいたしました。風に散りぬ、は手に入ったらお送りいたしましょう。怒りの葡萄下巻も、もしかしたらあるのよ。たのしみです。借りものですが。
隆ちゃんからのたよりよかったことね。あの言い表しかた「天地の回転は」というの、よく兄さんに似たところがあります。何というか、その回転の大きやかなテンポというか、味というか。富ちゃんはきっとこう書いてよ、「光陰矢の如しと云うとおり」と。隆ちゃんのよさ満々ですね。天性の規模は面白いものです。短い何気ない表現の中に一種の大さがあります。隆ちゃんにわたしのやる手紙、本、ついているのでしょうか、ついたという文句は一つもありませんでしたが、この半年ほど。こちらへは航空便来ません。そして、来ても、あの人らしく控えめで、気候のこと、元気に御奉公のことばかりしかかかないのよ。それはやはりあのひとらしい味に溢れて居りますが。
達ちゃんも落付かないことでしょう。忙しく働いているでしょうね。
週報のこと分りました。お金一年送ってあって、それは来年までよ、多分。
この間古本屋でシンクレアの「石炭王」という小説を見つけました。大正の終りに枯川が訳したものです。金持の大学生が見学のため炭坑に入り、そこのひどい生活におどろいて良心を目ざまされ、不幸な人々のために一骨折るところですが、最後は妙なハッピエンドです。丁度水戸黄門道中記みたいに、どたん場で、大金持の息子という身分を明らかにして、暴力団のピストルを下げさせてしまいます。そして、働く人たちには、君たちの友達だよ、いざというときはきっと味方する、と金持世界に帰ってしまうのよ。
この小説を読んで感じること、学ぶことは、ああいう国の個人が自分の生活を自分で持ち運んで動きまわれる範囲の縦横のひろさ、ということです。何でもない人が、何でもなく、何でもある経験をなし得るのだし、その何でもある経験から、自然に何でもない生活人にすらりと入れるという、そのひろさ、深さです。わたしたちの周囲では、何か一つの際立った経験があると、周囲はすぐその人を何でもない人にはしておかないし、御当人も何でもない者になり切れず小さくかたまってしまう傾向です。一粒一粒の個人の内容の大小がこうして異って来るのね。風に散りぬの作者だって、あの小説かいたきりもう書きませんと何でもない人になるのですものね。日本の女で、あの位の小説かいて、何でもなくているでしょうか。
きょうは、もう手紙かきをこれでやめて働き出します。寿の引越しにもたせてやるもの、たのむもの、まとめなくてはならないから。咲、国、まだ帰らないのよ。明日どうするのでしょう、いずれにせよ私は行けません。
夕方ごろ帰って来て、じゃあ行く、と云ったってお伴に立てるわけはないのですものね。桃太郎のお伴の猿や雉ではあるまいし。
一昨日の雹でうちの南瓜の葉っぱ穴だらけよ。胡瓜が小さく実をつけました。トマトも夏の終りになるかもしれません。
きょうも涼しいこと。おなかを大切にね、冷えないようにね。東北は水害相当の由、麦も雹で大分やられました。 
七月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
さて、やっと一騒動終りました。くたびれて、眠たあいけれども眠る気もせず。これをかきはじめました。このインクは、風変り、当節のものです。何と云う名かしりませんが、アテナなんかないらしいのよ。小ビンをもって行くとそこにあけてくれます。普通では学生でないとインク売らぬ由、そこのおばさんは――動坂の家へ曲る角の交番(大観音の)あの角の店――わたしが小学生、女学生となってゆく姿をよく覚えているそうで、マアお珍しいと売ってくれました。インク一つに、これ丈の因縁がもの申すとはおどろきます。大分うっすりしたものね、でもおばアさん自慢して、これだって、うちのは水と粉と分れたりはまさかしませんよとのことでした。手帖のなさ、書く紙のなさ、インクのなさ、雪深いところでの生活を思い起します。
昨日二人かえって来て、やはり二人で又開成山という決定でした。その方がいいわ、わたしは迚も駄目でしたから。これから寿が参ります。そして二十八日にトラックが来れば引越します。随分ピンチのところあぶない芸当ですが、親切な人があって、自分が応召になったら、あとで困るだろうと、その急な間にトラックを心配して、そして出て行った由、奥さんが寿の友達です。
咲が大鳴動をしてさっき出発いたしました。国府津で大働きして来て、又ワヤワヤと荷物こしらえてワーと立ったのですから、一通りの鳴動ではないの。妙なものね、去年の春からあんなにちゃんとしろと云っていたのに病気のせいで気にすると云って、今さわいだって夜具も送れなくて。
咲はもう当分来ないでしょう、国は来月初旬かえるでしょう、何かあったらどうするの?そうしたらいつまでだって帰らないよ。いい返事ね。大抵の気では暮しかねるあいさつね。
明日から二十七、二十八、と、こんどは一層根深いさわぎをしなくてはなりません。でも寿も焼けないうちピアノを持ち出せれば幸運だったことになります。三四日のところ、無事ですましてやりとうございます。これからの益〃すさまじい時に、たった一人ああいうところにはなれていて、随分気のはることでしょう。食物のことなんかにしろカツカツ食べられるという程度だろうと云って居ります。釣り上りようが激しくてそういう予想を導くのでしょう。事実そうであろうと思われる全体の勢です。
きょうは火曜で、木曜とおっしゃったけれども、明日出かけてしまいそうです。くすりが欲しくて欲しくて。このかわきはどうしたのでしょう、外の光が午後四時で、余り緑と金とに溢れているせいでしょうか。そして、静かだからでしょうか。静けさの底にいのちの流れが感じられるほど、そんなにしずかな午後だからでしょうか。人気ない公園の樹蔭の白い像が、ひとりで生き出して、すきなひとのところへ歩きそうなのは、こういう緑と金との光に充実した午後の静寂の中でしょう、ありふれた詩人たちは、とかく月光に誘われてと申しますが。月の光は、白い皮膚にひやりとし、わが身の白さに像をおどろかせます。こんなしずけさ、こんな光、万物が成熟する夏の気温。その中で像は、いつか自分の姿を忘れ、すきなひとと自分との境さえも分らなくなってしまうのでしょう。きめの緻密な大理石が、とけて、軟くなり、重く芳ばしくなってゆくのはどんなに面白いでしょうね。
散歩に来る人間たちは、決してこの不思議を知りません。台座にこう彫られてあるのを読むばかりです。「いのちをかけてめでにき」と。実に微妙な光線の彩(あや)で、それらの綴りが、こうもよめる不思議を見出すものはありません「その胸によろこびのしるしをつけんまたの日」。
活々とした人間の世界には、数々の不思議があります。そして、それはみんな、人間らしさの骨頂の人間たちがつくるいとしいいとしい奇蹟です。奇蹟の発端は、純潔なこころの虹であったのでしょう。坊主が永劫地獄におちるのは、それを方便にしたという丈で充分ね。
「石炭王」をよんだつづきでゼルミナールよみはじめました。お読みになっているでしょう?わたしは初めてです。ゾラの小説の肌合いがなじみにくいところがあるけれども、描写の根気づよさにはおどろきます。あの時代の作家たちは、腰をぐっとおろしたら、なかなかのものね。シンクレアなんかは、ほんとに観察しているのかしら、と思うほど粗末で、素描的です。
炭坑の黒さ、重さ、やかましさ、実に浮き出していて、ドンバスで、長靴はいて坑内を歩いたときをまざまざ思い出します。十九世紀のフランスの坑はカンテラ灯でてらされていたのね、そしてトロ押しを坑夫の娘たちが男装でやっていたのね。石炭を燃した動力で、ケージを何ヤードも上下させていたのね。
ゾラとセザンヌと若いときは大いに親しかったのに、後年セザンヌはゾラを、気ちがいのように呼びました。ゾラが小説の中で、セザンヌをモデルにして、生成し得ない天才として描いたのがセザンヌをおこらせたからの由。ゾラを俗物という気持も(セザンヌとして)分るけれども、その俗物性(現世的事件にかかわる点。ドルフュスの時など)が歴史との関係でマイナスばかりではなかったことをわからなかったセザンヌは、やはり同時代人としての眼かくしをかけていたのですね。
同時代人というものの切磋琢磨的相互関係は残酷というくらいですね、同時代人は容易に自分たちの同時代の才能を承認しません、試しに試すのね。そして遂にそのものを天才に仕上げてしまうのよ。賞揚によってというよりも寧ろ抵抗を養わせて。寿まだ参りません。今夜早くねるのがたのしみです。はれぼったいのですもの、夏の真昼の公園のイメージのときはぱっちりでしたが又ねむたいわ。ではね。お大事に、呉々も。 
八月一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月一日、
さあ、これで一先ず落付きました。ゆっくり、あれこれのことをお話しいたさなければなりません。
今夕方の六時で、わたしは第一次夕飯を終りました。というと、第二次第三次とありそうで、支那の長夜の宴めいてきこえますが、実際はね、一度分に御飯が足りなくしかのこっていなくて、迚もこれでは駄目なのよ、しかし、ひるはパフパフですましたから、チャンともう一度たべる必要あり、午後からよく働いておちおち手紙かけない位ペコでしたから、豆入り飯にトロロコブのつゆをたべたところ。こんな話しぶりで、もうおわかりでしょう、うちには私一人だということが。そして、欣然として二人遊びにとりかかったということが。
二十五日の午前十一時何分かの汽車で、咲国二人旋風の如く出立。夕刻、寿が来ました。(その間に手紙かいたわね)次の日から荷物のかき集め、生れた家から出るというので、何となし喋りたく美味しいものがたべたく、そういう寿のこころと口とを満すために相当困憊いたしました。二十八日に、トラックが来るというので二十七日に男雇って荒準備しましたが、二十八日は遂に来ず。今のトラックなんて、来るのが奇蹟故、つまり来るならいいがと大気をもみよ。国は電報をよこして、トラックキタカ、イツクルカ、ヘン、というわけです。次のイツクルカは、わたしのことなの。申していたでしょう?もしかしたら月末から一寸行こうなんて。そのことなのよ。トラックは三十一日に来るということになったし寿一人のこして行くなんて不可能ですし、クマさんが大した成長ぶりで食慾のかたまりみたいに一日わたしを煽ります。何にいたしましょう、何にいたしましょう。
三十一日には其でも奇蹟が実現して、トラックが来ました。十時すぎ。それからすっかり積んで、十二時迄出発。寿一時何分かの汽車にのって、あっちで荷物うけとるの、それは考えても気の毒です。何しろ寿の荷物と云ったら、大きい一身上のうえにピアノだ机だ、ワードローブだと、男が三人でもやっとこのもの(ピアノ)などだから実に大したことでした。木戸をこわして運び出して行ってしまったのを、あとから直させたり。
寿の荷物のあったのは食堂の向いの板じき室、あの元の食堂、あの頃畳で、壁に深紅の唐草の紙が張ってあり、なべやき召上ったあの室。夏のこと故、こっちとすっかりあけ放したら、ガランと床がむき出しになって、行ってしまった感が沁々として寂しゅうございました。本当に、行ってしまった、と思って、さっぱりと何一つない大きい室を眺めます。風通りは、全くよくなりましたけれ共。普通の引越しとちがってあのひとの場合は、去り行いたのですものね。めでたく一世帯もつのならどんなに安心でしょう。それでもうちにわたし一人で、隣家の夫妻だのに手つだわれて、大さわぎで出してやれて却ってよかったわ。遠慮なくごった返せて、寿のためにうれしかったと思います、いる者は少くとも全員心を合わせ働いたのですから。しかし、かざらしのへばりかたは猛烈よ。気をつけて湯も浴びて埃をおとす丈にして入らず、自重しておりましたが、昨夜もよく眠らず。疲れすぎたのよ。手伝いがなくてへばったところへ来て、ヤレヤレとよろこび、ああやって、幾ヵ月ぶりかで割合繁く手紙もかけましたが、直ちに引越しさわぎと食い騒動で、又もや窮地です。
ところがね、天に神が在って、助けが下りました。成城に室をかりられるらしいのです。それが又一風変っていて、よさそうなこと丈並べましょうか、先ずわたしの駑馬的事務能力に欠くべからざる電話があります。主人が居りません。主人は女のひとで物もちの令嬢の由、五泉(ゴセン)と申す人。大連で実父が没し、そちらへ行って三年帰らず。留守を、おうた、という女が(四十位)して居ります。おうたはそれ以前日暮里夫人のところにいてこちらをよく知って居り、いらっしゃるお客様方の中では一番好きでございますわ、という人。主人は留守番費を出していますがやり切れないので諒解の上、おうたの選択で人をおくことにしました、その話は二三ヵ月前にききましたが、わたしの気分がグラグラでしたからそのままにしていたところ、この間のお手紙やお目にかかったときのことで、やはり郊外で暮した方がよいときめ、其ならと、おうたのところきき合わせたら、マアどういたしましょう二日前に若い女の姉妹が来てしまって。よくない部屋なら、というのです。わたしは、却って二人の若い女の勤め人たちがいる方が気が楽です。おうたという人は稼ぎもので自主的に動いてはいるけれ共、さし向いでは、経済能力の関係上重荷です。他に二人いて、その人も室代を出し、そしてわたしがいて、その代りわたしは、力仕事はおうたさんにして貰うという方が、遙にようございます。大体余り高くなくいられそうですし、おうたさんの生活力が旺で、ここでクマを養うような負担は全然ないらしいから、ごく単純な書生暮しにやれそうです。成城のあたりを御存じでしょうか。駅から近くだって。学園の方の側で。あっちは、奥がひらいて居りますしいくらかましでしょう。附近に畑もあるし。
三日に行って細部をきめて、すぐ荷をすこし送ります。室代食費おうたの礼が基本です。五六十円でこの分は納りましょう。つけ足りがこの頃はひどくてね。副食物などのね。しかし其とても合理的にやれないこともないから何とか参りましょう。そういう風に、めいめいが自分の暮しは自分でまわしてゆく人たちの中で、あっさりやって、時間が出来て、仕事して行けたらもう願うことなしの条件です。おうたさんが、主食はやってくれるのよ飯たき汁ごしらえなど。配給ものの料理は。自分は一度パンですから、そのときコトコトすればいいの。大した身分でしょう?配給もとってくれるのよ、これこそ素晴らしいわ、今だって二頁前の真中ごろ、魚やへ行って来ました。ザル下げて月の光にてらされて、地べたに丸き影うつし。サバ二切(二人)。第二次夕飯のおかずが出来てよかったけれど。この間うち曇ってさむかったのが久しぶりで夏めいて月もいいので、白い浴衣の人かげが一杯出ていて、賑やかで、子供ははしゃいでサバとりの行進と思えない賑やかさでした。面白うございました。
こっちのうちはどうするか分りません。けれどもわたしは行ききりにならないとしても早く動きます。そちら迄二時間かかるでしょう。新宿をどうしても通るのが、いやですが、どこからだって、何か門があるのですものね。
あっちは紀という従弟が、いいよと云っていましたが迚もないと思っていたの、家なんか勿論ないのよ、ね。でもわたしは、あっさり食べ、勉強出来る生活ならその上のことは申しません、この時代の中で。
経済的には忽ち大口くい込みとなりますが、そのときは又そのときのこととして、ともかく仕事出来なくてはその点も私としての本来的解決の方法が立ちません、自分として握っていてかけ合うものがなくては、ね。ですから先ず仕事をはじめる次第です。一冊ずつの計画でかいて行きます、作家論にしろ、文学史にしろ小説にしろ、ね。一冊ずつを一まとめとしてのプランで。仕事が出来ればおのずと途も拓けると信じます、出版者も近視ばかりでないでしょうし。出版不能が、個々人の事情でなくなって来ているのが、却って面白い点です。人間もおもしろい気があって、どんなに低下したって出ないとなれば、それならと反転して、視点を高めるところもあったりしてね。世田谷区成城町四二三五泉方というのよ。電話はキヌタ、四〇八。豪徳寺から三つ目ぐらい?おうたというのは大畑うたというので、何でも毛利家のどの分家かに八九年いて、老女が辛くて出た女です、縫物もしてくれるから大助り。どうして御亭主もたなかったのかしら。所謂婚期を逸したのかしら。ごく一般的な働きもので、早口のひとよ、丸めの小柄で。
室の都合は何しろ先客が、貸す室(一番いい座敷)つかっているので、わたしはあっちこっちとなりそうですが、その方が、とじこもりでなくて楽です。昼間殆ど一人よきっと。二人は出るし、そのおうた女史が、附近の家庭の手伝に出て稼いでいるのだって。そういうの、さっぱりしていていっそいいでしょう。へんにからみつかれてさしむかいでは息をついてしまいますものね。洋風の応接間とかがあってそこにいて、眠るのは二階らしいの。食事は食堂だって、腰かけの。うちのような工合ね、同じことして居りますもの、食堂で今はこれさえ書くのだもの。やれそうでしょう?運がよかったと思い贅沢は申しません。これで一区切りね。そして第二次夕飯よ。今夜はよく眠れそうです、月夜でしゃれているし、こうやってすこし話せたし。 
八月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山南町一八六中條内(封書)〕
八月十一日
きょうは、十七八年ぶりで、ここの家の奥の机でこれを書きはじめました。こんどは急に来て御免なさいね。二十五日に国、咲がこっちへ来て、国の帰って来たのが四日。その晩に、こんどは姉さんも是非つれて行くよ、という話で、わたしもホトホトグロッキーだったから、それは行きたいけれど留守をどうするのさ、と云ったら、それについちゃあ相談して来た、と事務所に十何年勤めている女の子とその親友の子供づれの女のひとに来てもらうようにしたのですって。何しろ九日にはどうしたって立つというのに、それ迄に果して留守の人が来るものやらどうやら何だか分らなかったので、お話しするのも火曜日になってしまったわけでした。
火曜日の夜留守が確定して、水曜日の立つ朝その人たちが来たのよ。三十一日の寿の引越し、四日の大掃除、手伝いに来たクマさんは一日に帰ってしまったので、全くえらい疲れでした。
途中腰かけられ、五時間ほどして黒磯辺からは空気も高燥になり汽車もすき七時五十何分かにこちらへついたときは、田野の香いが芳しい涼夜でした。
それにしても、今の旅行は一人で出来かねることね。何しろ十六年に島田行ったきりで病気以来はじめてだから、切符買う証明、駅へ前日行って買うさわぎ、上野駅の列、座席の争い、そのためのマラソン、一人では気負けしてしまうようでした。わたし一人では温泉へもやれないと云っていたのは本当ね。制限になっていてこれですもの。特に今は学童疎開で、その制限が一層なのに。
こちらは何と云ったらいいかしら。変ったと云えば実に変りましたが、ここの芝生の庭からの眺望は大して損われていず、広闊な耕地と、彼方の山並とが見晴らせ、人が住みついているので、却ってわたしが元来た頃よりは荒廃の美が現実生活で活気づけられて居ります。客間の、ひーやりする籐の敷物、古風なオールゴール、白いクマの皮などが一年に何度あけられるかしれない乾いた動かない空気の中で樟脳の香をたてていたのが、今はフーフーと風吹きとおしにあけはなされ、書院の「磐山書院」という額の下には、健坊の昼臥のフトンがしかれていて、おむつがちらばっているという光景です。自然的というか、本能的というか、人間のそういう生活が溢れています。書院に、小包がワンサとつんであってね、その左右に、こんな文句の聯がかかって居ります。
天君泰然百體從令 心爲形役乃獸乃禽
そして、ランマにお祖父さんの明治初年の写真の引きのばしがかかって居り、空では練習機が朝六時から飛びづめです。
健坊のパタパタいう小さい跫音は実に可愛うございます。のびのびと育っているわ。茶の間の前の敷石のところに、三匹の仔犬がいて、それは健坊の愛物です。野良犬の仔だのに大きくて、コロコロで黒い体に白タビをつけたように四つの脚の先丈白いのよ。
こんなにここの空気がいいと感じたのは初めてです。こんなに疲れて来たようなこともこれまでの生活ではなかったのね、おそらく。最後には、外国へゆく前の夏一寸母にその報告がてら来た丈でしたから。紫外線がつよくかわいているので、顔を洗ったあと、何かつけないと皮膚がパリつきます。尤も水もわるいけれども。東京では洗ったあとから汗がわくみたいで、何もつけられませんが。
こちらの食物も極めて単調で、トーフなんか二ヵ月もたべられず、魚もないそうです、玉子もトリも。しかし、ジャガイモは、米とさし引ながらたっぷりあって煮ころがしをたべ、消耗の少いところからガツガツが少いようよ。畑からキューリもいできて、トーモロコシ折ってきて、其だけでもちがうわね、きもちが。子供ががつがつしていないのはうれしいと思います。
着いた九日の夜は夢中で臥てしまって(一時四十分発、七時五十分着)きのうは一日体がギシギシして茶の間にみこしを据えたまま動けず。夕方畑まわりをして健坊が、葉かげの南瓜に挨拶するのをうれしく眺めました。
きょうは、よほど体も楽になったのよ、こうやって手紙かく位。今にアンマさんが来るかもしれません、肩をもんで貰います。体のあちこちしこりがとれかけているのに、肩だけ怒らしているみたいにつまっているから、もんだ方が早く楽になるからって。
こうやって林町での生活を遠くから見直してみると、三月から実によくもやって来たと思いますね。全くトレンチ生活だったわ。捨てた城に一人いるようなものなのだもの。そういって笑ったのよ、わたしが今度こっちへ来たのはエポックになってしまったよ、もう林町の番をする気は沁々なくなった、と。林町へは国が一寸帰っても落付けず、ソワソワしているのも尤だと思います、こっちをみると。わたしは、当然こっちにいて国のように落付けず、たかだか休養の安らかさを感じ、こっちに落付くことには本然の抵抗があって不可能ですが、成城をきめておいて何とよかったでしょうと思います。
月曜日にここから帰り、あれこれ用をすまして、成城へ行きます。ここへ来るのはわたしにとって、いつも何か意味のある時であるのも面白うございます。自然描写たっぷりよりも、こんな手紙になるのだから、今の時勢ね。又、来てからまだ門の外へ出ないのですもの、裏山の方やおけさ婆さんの方の景色のお話ししようもないのだけれど。
おみやげに草履がありそうよ。但、ありそうというところに御留意を。夕方、咲が自転車で町の入口のその店まで行ってくれますって。あればうれしいことね。さし当って何よりのおみやげね、わたしの休めたことの次には。
きょう位工合よくここの空気がきけば、明日明後日とよほど休めるでしょう。そして、その下地をなくさないうちに、成城ですこし丈夫さをためこもうと思います。かえる迄にはもう一度かくでしょう。暑いけれど、ここはカラリとして凌ぎようございます。
どうぞお大切に。一人でこの空気を、と思うと。だからいやよ、ね。 
八月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(郡山市街全景の写真絵はがき)〕
こういう風な街の上に、朝からブンブンです。どこへ行っても、ね。
荷風はラジオを逃げて引越ししたそうですが、雲のみの空ぞ恋しき安積山。よ。安積山は万葉にも出て居ります、その山が、こうして書いている茶の間の北手に見えます。今はボーとしていますが。汗と埃と心労でかたまった面(メン)が一重顔からはがれて、生地が出て来たようです。 
八月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
八月十三日
きょうは、こちらの盆の入りです。田舎のお盆ということをすっかり忘れて、急だったので土産ももたずに来て、ハア、百合子さん来なすったけエで、些か閉口して居ります、帰ると小包作りだわ。ハア何年ぶりだっぺなア、うちの嫁っ子がまだ来(キ)ねえうちだったない、というようなわけなの。
飛行練習にお盆休みのあるということはうれしゅうございます。きょうはこの眩ゆい空に浮ぶのは夏の白雲ばかりよ。遑しい世紀の羽音はしずまって、村人はお花をもって墓詣りをします。盆踊りも三日間はするそうです。ここの村では太鼓をのせる櫓がこわれたから駄目なんだそうです。きのうの夕方、何里か先の村の太鼓の音が、ちょっときこえました。じいさんの市郎という爺の代から三代目のつき合をしている正一という鉱夫出の農夫が、いかにも都市周辺の現代農民の諸性格をそなえていて、特徴的です。日露戦争のとき捕虜になったことのある別の爺さんも、わたしを夕立のときおぶってかけて帰ったというような縁で、この男と女房と養子との守勢的打算生活の態度も特徴的です。時代に揉まれる農家の人々が、そこを棹さしてゆく、おどろくべき頭の働かせかた、二十年昔の開墾村は、今日全く抜目ない市外農村です。配給野菜で都市生活のものが、どういうものを食わされるかということが沁々とわかりました。リンゴ一貫目十二円五十銭の公定だそうです。三四十粒かかるのだそうです。しかし食べられるものにするためには、三度消毒して、十八円かかるそうです、消毒剤の払底がひどい由。白菜を蒔きまき市次郎曰ク「ハア薬がなくて心配なこった」、わたしは、こっちの生垣の中から立ってそれを見ているのよ。そして、こんな話をするの「こっちじゃ立鍬を使わないんだね。それじゃいかにもハア腰が痛そうだ。」臥鍬の、ずっと柄のひくいので、二重(フタエ)になってやるのよ。「この辺の地質じゃ立鍬は、ハア駄目だね。みんなこれだね。立鍬なんか使ってると、のんきだって云われやす」
けれども、来るとき感じたのは、東北の文化的向上とでもいうか、昔は宇都宮からは、乗客の空気も言葉も服装も全く違って一段と暗くなりました。こんど来てみると、全くそのちがいは消えていて、女の子の服装だって髪だって東京とちがいありません。ちがいは健康そうだ、という丈よ。駅の女の子にしろ同じ制服で。違うといえばアクセントぐらいのものよ。宇都宮から隣りにのった女の子はタイピスト学校に行っているのですって。宇都宮に二つあるのですって。うしろの座席には、芝浦の工場に徴用に行っている福島からの人が何人かいて、盛に配給食の比較をやっていました。こうして、人々の動きは大きくなって、攪拌されているのだと痛感しました。熟練工らしい人々は、学徒勤労を批評的に見ますね。学生は労作も能率も浮かす分を念頭に入れず、純奉仕的だからうるさいのよ、きっと。
こうして坐っているところへ風が吹きわたると、松の匂いがします。一帯の平地だのに、ここは本当に高燥で、この空気といったら。暑くて、軽くて、松やにの芳ばしさがあって、体じゅうの皮膚がよろこびを感じます。様々の空想をいたします。わたしはこんなに思うけれども、あなたにとってはやっぱり虹ヶ浜あたりの空気の方が、体に快く吸収されるのだろうかしら、などと。こちらの地方の自然には、北方の荒いやさしさ、情熱というようなものがあって、西の方の明媚さとちがって居ります。こんなこともふと思います。ああいうなめらかさ、明媚さは、もしかしたら男らしい人の感覚を柔かく休めるものかもしれないと。こちらは、云わば炭酸水の泡のような刺戟があって、それは却って、私のような性質の女に快いのかもしれない、などと。又ちがった表現をすると、あっちの自然は、通俗的なまでに文学的完成してしまっていますが、こちらは文学以前の自然だとも思えます。精神を型にはめる安定な自然でなくて、どこかで常に破調があって、先へ先へとひかれてゆくような自然ね。
さあ、おけさ婆さんが、お墓参りの花をもって来たわ。これから一寸お盆着に着かえて(!)お墓詣りいたします、家じゅうそろって。健坊も歩いてついて来るのよ、きっと。健坊は、ワンワ、ニヤニヤ、山羊はミューと分ります。牛は何てなくの?モー。健ちゃんは何てなくの?モーオ。だって。大笑いね。
夕立がそれて大分むします。むす、といっても比較にならない程度ですが。
十八、九年ぶりで歩く草道は、どんなになっていることでしょうね。ここいらの樹間の草道には、特殊な趣があります。桔梗が野生に鮮やかに咲いて居ります。では明後日には。 
八月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
八月十四日
いま午後五時です。少くとももう東京に向ってかなり走っている筈のところ、わたしはこうやって机に向っている始末です。この頃の旅行はまるでどこかの探険旅行のようね、思いがけない支障で中途で腰ぬけになったりして。今日のさしつかえは、切符が買えないということです。けさ咲が行って買えず、午後一時の列に女中さんが行って買えず。この女中さんは目がまわるようなグリーンのブラウズを着て、おまけに桃色のハンカチーフを黒のモンペのところにひらひらさせて行ったのですが、何のききめもなく、五枚の制限切符は、とうに列の先でなくなってしまったのだそうです。
咲が自転車で或る知り合のひとにたのみに行きました。駄目という返事が今来たところです。もう一軒知り合いの手づるをたのみに行きます。もし其が駄目だったらどうしたらいいでしょう。わたしはカンシャクをやっとこらえて、折角休養したのをフイにしまいと我慢して居ります。明朝七時何分かのに乗ると上野一時十五分。それからすぐそちらへ廻るしかありません。
きのうから大丈夫か大丈夫かと云っていたのに。いつもは、何のこともなく買えていたのですって。
もしギリギリ明日の切符が買えなければ、九日から今日まで休んだことも、つまりは腹立たしいことになってしまって、全くつまらないことです。そうなればどんなにわたしはいやで、あなたもいやなお気持か、はたの想像以上ですものね。わたし達の家風は全くちがうのだから、こんな小さいことも他の家風にたよったバチでしょうか。でも、つい、何ヵ月かくらした人のいうことにたよってしまったのよ。気が気でないこと、おびただしいものです。
来るとき急にきまったので、あなたも不便そうにしていらして、いいかげんへこたれたのに、帰るに又すらりと行かなくては、もっと早くすればよかった以上ね。御免なさいね。
今夜九時から売り出すのにどうにかして買うようにし、もし駄目だったら、夜明ししてもあした七時のにのれるようにします。咲も気をもんで、あっちこっちしてくれているけれ共。
あした午後お目にかかれたら、其にはこんなゴタゴタ騒動が裏うちされているのよ。然し、大体昨今の旅行というものの工合が分っていい修業です、旅行はただの旅行でないのね、「パンの町」という小説のようなのね。そこへ目ざして一つでも多くの口、一本でも多くの手が殺到しようというわけなのですね。こちらの百姓さんが云っているわ。一人で来たものが、ハア今じゃ三人五人と来るんだからハアきけます。きけるというのは参るという意味よ。七八年昔の縁故までたどって来(く)っからない、と。本当に切符はどうかしら。こんな手紙、何年にもかいたことございませんね。 
八月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十七日
きのうの夜、七月二十四日のお手紙到着しました。長い旅行を迷わずに来て、なかなかいじらしく思いました。安心いたしました。どんなに手間どっても来たのならよかったわ、ね。
雹のあとおかきになったのね、ガラスも面くらっただろうとあり、あれがいきなりガラスに当る音思いおこしました。全くね、あれでうちは、トマトがすっかり花をおとされて駄目となり、南瓜の葉は穴だらけ。わたしは喉風邪をひきました。犬を丁度つないでおく時季でした、キャンキャン鳴くのよ、こわいのと、雹にうたれるのとで。台所の古レインコートをかぶって、三和土(たたき)の中へ入れようとして二匹いじっている間に、すっかり雨がとおって、背中がぬれました。そのとき古田中さんがあの孝子の俤をもって来ていて、そのままお相手をしていたら、ぬれたのは乾いたけれど、夜中ドラ声になってしまいました。じき治ったけれども。白藤およみになって?まだでしょうか。
おなかの調子、ぶりかえしは閉口ですね。あなたの御努力にたよって安心しているしかないというのは、何度くりかえし考えてみても妙な工合です。馴染みにくいことです。でもおかゆになれて大分ましでしょうが、副食物がそれだとなしでしょうから、これ又困ること。どうか早く涼しくなり、おなかもましになり体重も恢復して下さるように。あなたに比べれば、わたしは相すまない位のものだと思います。自分の近年のレコードではあってもね。丁度ジャガイモ一俵分よ、わたしは。
家のことは開成山からの手紙にも申上げたとおり、成城をきめておいてようございました。学童の次には女、子供らしいから、そのときになっては、もうあすこも駄目だったかもしれません。早速一ヵ月分送っておきました。約束ちがいが生じないために。やっぱりちゃんと移動申告もしてうつります。非常配給のこともありますから。感情上も、あいまいのような印象を与えるのはよくないから。
八月に入り(七月下旬から)若い友達の良人たち殆ど次々に出征しました。奥さんは大抵一人から三人の子もちでね、大汗をかいてその仕度見送りと働くのよ。なかなかこたえる光景です、三十六七歳の良人たちです。なかには丁度企業整備にあたって失職中の人もあります。収入がないまま出てゆくのですからその気持たるや。文芸のひとね雑誌送ってくれていた、あの人もゆき、改造が閉鎖ですから(命令で)その苦しい方の組でした。細君がこれからやってゆくの。日本評論の人もゆきました。もう一年分継続するよう計らっておいたとはがきくれて、もうそのときはいなくなったのよ。戦争の後段に入って出てゆく人々の見送りは何と申しましょう。「歓呼の声に送られて」と旗を振って出た初め頃より沈痛であり、国民軍という感がひとしおです。では又、お大切に願います。 
八月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十八日
夕立でも来そうな工合になって来ました、おなかの工合いかがでしょう。きょうは久しぶりの二人遊びでうれしいけれども、どことなくおとなしい遊びぶりよ、あなたのおなかが何しろそんなあんばいですし、わたしもトーモロコシで底ぬけ気味で、朝おかゆたべ、今パンたべ、砂糖なしの紅茶のんだところですから。あんまり声も大きくなく、けれども飽きることを知らないで、あれこれと話すそんな二人遊び。
さて、ここに、七月二十四日、二十七日、八月七日、十一日と四通のお手紙があります。二十四日について、この前の手紙でかいたように思いますが。二十七日の分には、『名将言行録』についてお話しがあります。この本も一―三、又なかなか手に入らないのでしょうね、あちこち訊いては居りますが。誰でもがもっているという種類でないので。岩波にすこしひっぱりのある人にたのんであります。この間一寸あの本がここにあったときよんで、如水は、やっぱりおっしゃるとおりに感じました。そして、勝ちすぎは云々というところ、文武両道について、又自分の息子は先陣に出張って戦うのに如水は背後にあってそれを止めないのを家臣が注意すると、あれの力量では先陣に出ないで勝つというところ迄は行っていないから、あれでいいのだ、と云ったあたり、なかなかの爺さんと思わせます、たしかに文章もいいわね。漢文の素養があって、どこまでも日本文の文脈で、ああいう簡潔な文章をかいた古人は賞讚に価します。徳川後代の文章は低下してしまっています。やたらと蒔絵のようでね。馬琴なんか、うざっこいわ。プルタークは昔一寸よんで敬遠してしまって。シーザーの妻の話は、そういうのだったの、ナポレオンの母という本には、はっきり出ていず、贈賂のように見えました。
「一はりの弓」の詩、お気に入ってうれしうございます。文武両道に達してこそ真の人間ね、男というにふさわしいと思います。しかし何と其が少いでしょう。そういう人物のつきぬ味いというものは、全く名器をもっている音楽家と同じで、その音をかき鳴らし微妙なニュアンスと靭やかなつよさを味ったものは、どうにもその味を忘れかね、代えるものを見出すことは出来ません。石で云えばオパールのごくいいのね。オパールという宝石は、ダイヤモンドよりやすいものですが、光線の工合で、焔色を射出し、溶けるような緑青色を放ち、こまかい乳色と銀と紫のまだらを示し、夕やけのような桃色を示す実に飽きない石です、それはダイヤモンドのように一定の権柄を意味しないし、真珠のように女の飾りっぽくないし、うれしい石というところがあります。わたしの一つの指環にそれが三つ小さく並んでほんとに可愛くきれいなのがあります、(ああ。「白藤」でおよみになった、あの父のくれたというのがそれです)複雑な調和の変化があって、この音とその音を合わせて面白く、さて、その響とこの響の和音の恍惚とさせるよさ、とつきるところがないようです。人間の精神と感覚の至上の幸福というものがあるなら、それはそういう諧調の感じられる対象をこの世にもっているということにつきますね。こういうよろこびは天上的よ。その天上的なる愉悦のためには下界の波瀾は、波瀾に止るというところがあります。波は砂と岩とを洗います、怒濤ともなり私たちを溺らしもします、しかし波だわ。
八月七日十一日のお手紙による軽い本のこと。只今ここにあるのは、『アロウスミスの生涯』(アメリカの医者が、医療企業の悪辣さと争いつつ科学者として生きる努力)、それでも地球は動く(ガリレー伝)、『飢と闘う人々』(クライフ著)小麦、食肉、玉蜀黍(とうもろこし)、見えざる飢(ヴィタミン)等の改良、発見に献身した人々の伝。このクライフという人は、『細菌を追う人々』パストゥールや何かの伝をかき世界的な著者です、『細菌』の方もあります。
メレジェコフスキー『神々の復活』、旅行記では『トルキスタンの旅』、カスリン・マンスフィールドの手紙と日記。この一時代前のイギリスの婦人作家の手紙は、繊細さで或る味がございます。『飢と闘う人々』は面白いが訳文がわるくてね。どれをお送りしましょうか。『風と共に』はもっていると思った人がもって居ず目下さがし中。『怒りのブドー』は引越しさわぎ中ですこし遠慮して居ります。ツワイクの『マリ・アントワネット』二巻、もしかおよみにならないでしょうか、彼女の一人のみならず周囲も分って面白うございますが。それと、『エリザヴェスとエセックス』お送りして見ましょう、エリザベスの時代がよく分って、あなたのイギリス史の土台で面白いかもしれませんから。伝記というものはこういう仮面のはがされてゆく時代には小説より面白いわね、とどのつまり、いかに生きたかという事実は興味ふこうございます、そして歴史の基石をなします。
今借りた本でアナトール・フランスの『フランスの天才達』というのをよんでいて、これはアナトール流に瀟洒すぎもしますがなかなか面白うございます。「マノン・レスコオ」をかいたアヴェ・プレボウ、「ポオルとヴェルジイニ」のサン・ピエール、シャトウブリアン。等、大革命前後、アンチクロペディスト、ルソー等の影響が歪曲されて現れたロマンティスト達のことをかいて居ります。アナトールという人は野暮ぎらいで、そのために突こみの足りないものをかくことになったのではなかったでしょうか。フランス流の明察はありますが。野暮をおそれぬ大風流もあり得るのにね。アナトールと云えば緑郎は伯林へ行きました。エトワール、コンコード、よく散歩したリュクサンブルグ公園、オペラやマデレーヌ寺院のある大ヴルヴァールが、激戦の巷となって居る由です、わたしのいたホテルから近いモンパルナッスも。ロダンの家のあったムードンの森というのはね、ヴェルサイユ門の外のクラマールという町の外で、いい面白い森でした。そこも大激戦の由。あのポート・ド・ヴェルサイユをはさんで砲火が漲っていると思うと感慨深うございます。郊外は廃墟の由、わたしのいたクラマールのちょいとした家はどうなったでしょうね、緑郎夫妻はいずれはシベリア経由で戻るのでしょうが、それは果していつのことでしょう、さし当ってはどこか山の奥へでもゆくのでしょう。
スターリングラードもああやって歩いた広い通りなんか今どこにもなくなったでしょうし。自分で創り自分でこわしてゆく胆っ玉の太さいかがでしょう、この頃わたしはその点でああ人間よ人間よとうなります。決して哲人のように人間は永遠に愚者也などと思いません。但、こういう胆っ玉の太い、憎々しいほど生きる力のあるものだからこそ、一人の人間の生命が六七十年以上あったらたまらないし、なくて自然と思います。自分は希わくば、そこいらで一遍死んで又生れかわりとうございますが。そして、この創造と破壊の猛烈なテムポにつれて、いつの時代も必ず人々の一生は短縮され、そのテムポにふさわしい、過去を知らぬ世代の大量的代謝が行われます、これも意味ふかいことです。こういう代謝によって、歴史は流血の腥さに痛まないで(其を経験しない人々によって)歴史的業績の純理的継承をして、そして、より高まるのです。もしすべて経験した人々がすべて不死であり、彼等の肉体的惨苦をくりかえし物語るのであったら、よしや其は最も光栄ある事業であるとしても、人間は動物的本能からそれにおびえるでしょう。怯懦となるでしょう、度々ストライキして遂にダラ幹となる市電の古い連中のように。人類の歴史の豊かさは、どこも一人の人間が二百五十年生きつづけないところに却って在りそうですね。短かさを知って精一杯にそれを生きるよさに在りそうね。デモ、自分の原子ガ別ノモノニナッタトキ、自覚シナイカラツマラナイ。生れかわりたい欲望は人間につよいものなのね。輪廻の思想が生れたりして。
ぐっすりお眠りになれるのは本当に助けの神です。それ丈お疲れになるということですが、それにしろ眠れるのは助かります。もうすこしの辛棒で秋涼になります、かけぶとんの綿の柔かい暖かさが可愛ゆく感じられるように。今年の夏わたしは万端一人でしたから疲れも去年よりひどかったのよ、去年はうちのことちっともかまわないでよかったから。では又、呉々お大切に。 
九月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月一日
きょうは二百十日です。涼しい朝でした。十時頃ですが、まだ日よけの葭簀の下に朝顔が開いていて美しゅうございます、ひどい蓬生(よもぎう)の宿になってね、その雑草の中に、這い次第に咲く朝顔は風情深うございます。春休みに太郎が来たとき蒔いたのが今咲いているのよ。秋の朝顔という字もきれいです、早い夏のは凡俗ですが。咲きのこったように花が小さく色が濃くなって、秋の朝さいている花はきれいね。目白の上り屋敷の駅の外のごたごたに、秋咲く朝顔があって、いつも目にとめてはあすこから池袋へ電車にのりました。
涼しくて体が苦しくないとうれしいうれしい気がします。今年は秋が待たれます、早く残暑がすぎて小堅く涼しくなり、あなたのおなかも、落付くように。今年は、人々がみんな秋を待っているでしょう。みんな、力がない体に暑気はこたえたのよ。わたしは、明日あたりから又暫く注射をし、暑さまけで秋患わないようにします、そして又早寝励行はじめます、ほかの連中はどうあろうとも。わたしの体に早ねは有効ですから。
文武両道ということを思うにつけ、心の勉強と健康増進は切りはなせません。しみじみ思うのよ、弱くなってはいられないと。世界の潮ざいに耳を傾けると、それは丈夫でいなさい、丈夫でいなさいと波の音がいたします。そして、一貫した意志がいるということを語ります、小にしては、二つの身が丈夫でいるにも、ね。だからわたしは意志をつよくしてね、たべるものの不足な分は眠りで補うという原則にします。その日暮しに抵抗いたします。
しかしものごとの面白さは不思議です。昨今(この四日から)わたしの毎日は、全く落付いて手紙こうして書く時間が何日おきかにあって、あとはバタバタの連続です。そちらに行くには一時頃家を出て、大体帰ると五時―六時です。何時間か待つ間に本を読みます。この頃まとまって本をよむと云ったらその時間よ。そちらに行くときがわたしの一番インテレクチュアルな時間だというのは、余り当りすぎて笑止ですね。そして、わたしの「十年一日」は近所でも通っているから「また出勤の日ですから、すみませんが」と配給うけとりをたのんでも「御苦労さまですね」とひきうけてくれます、よくお出になりますね、なんてちくりとしたことは云う人がありません。そうして軸(ジク)が一つあるために、すべてが比較的まとまるのよ、家のものだって、わたしが、あしたは出勤よと云えば、それは絶対不変更となって居りますから。いい習慣がついたものね。わたしの健康だってこの軸にうけとめられて規律立つし、辛くても出かけますしね。鍛錬というのはちっと辛くてもやらなくては駄目の由(体操なんかでも)
きのうは暑い日でしたね、わたしは活躍して、きょう一日在宅なのを、どんなにうれしくたのしんでいるでしょう。
きのうは朝早く九段へ行きました。用談すまして十時すこし前からてっちゃんのところへまわりました。大人のジフテリーをやったのよ、入院しました。栄さんから電話のついでに其をきいて、早く見舞いたかったのに、丁度こちらの用が重っていて、そのすきに、というまでは体が動かせなかったの。もう退院しました。自分が病気の間、あれほど心にかけて貰って、こんどあちらがという時放っておくのは何とも心苦しいので、エイと気合かけてきのうまわってしまいました。
大人のジフテリーは予後が心臓衰弱してこわいのです。あぶないと心配していたら、てっちゃんもやったのですって。歩いて帰った翌日、葡萄糖を注射して直った由、すこしやせていました、が、勤めがひどく疲労させるらしいので、却って神経は休まっているようでした。カンシャクもちになったのよ、可哀想に。あの人が、勤め先では決しておこらない人、面白い人になっているって、そうなるための疲れはどれほどでしょう。うちへ帰って敷居を跨いで子供がギャーギャーやっていると、四隣に鳴りひびく声でコラッとやるって、澄子さんが苦笑していました。てっちゃんはいい奥さんをもちましたね、澄子さんはそういうかんしゃくでもちゃんとおとなしくうけてあげる気質ですから。平らかで明るいから。賢い人です。感情的な女だと不幸になってしまいましょう、その原因がただ疲れだというのに、ね。それほど疲れる、というところに世相と性格とのからみ合いがあります。
卯女は、頭クリクリ坊主で男の子のようになって、でもやせすぎです、微熱出している由。母さん父さんかけ合いで馬糞物語をきかせてくれました、畑のこやしに馬糞をみんなが拾います、芝居のひとはちがうわね、身ぶり声音、興がのると舞台風よ、余り賑やかで舞台裏にいるようでした、その中で父さんは破れシャツ、破れズボン、ザン切り頭で、すこしやせて、南方土民風にしゃがんで、鴎外を論じ『日本戦記』を見せてくれました。馬糞物語では余り現代コントだから「あなた方ったら、二人がかりで、只喋っちまって。栄さんなら立ちどころにこれで六七十円は稼ぎますよ」と云ったらば、台所でわたしにコーヒーというものをこしらえていた父さんが大よろこびで、「いや、全くそうだ!いかんね」と真黒い足をバタンコと鳴らしました。情景些か髣髴でしょう?四時一寸すぎに引き上げました。
そして帰って、夕飯は目白の先生とみんなでしました。みんなから呉々体をお大事に、と。
『日本戦記』という本は何冊もあって元亀、天正から封建時代の戦争を軍事科学として研究したもので、参謀本部が十数年かかって大成した仕事です。朝鮮戦史(秀吉の唐入(カライ)り)三冊。これは兵タン、衛生、風紀まで、当時の諸原典を引用してしらべてあり、全体として真面目な研究です。もし興味がおありになるなら、おかしいたします由。御返事下さい。
どこの家も大ごたごたでボロを着てヤッコラヤッコラ暮していますが、そんな本がつみ重ってゴタついているとわるくありませんね、大工のかんなが光っているようなものでね。ちらかりかたにもいろいろあります。
そうかと思うと目白の先生は、カボチャのみそ汁をたべ乍ら面白いこと話してくれました。カビのことよ。青カビの一種から肺炎の薬をとることに成功したソヴェート医学の業績は先頃報告されましたが、結核菌培養を早くするためのカビの研究をやっていて、となりの因業なおくさんがくされトマトをくれたのですって。ひどいものをくれやがったと切って台所のゴミすてにすてておいて一夜あけ、その間(五時間)すっかりひどい青カビで、こんな短い時間にこんなに生えたカビ見たことない由で、それを大切に、田舎から見つけて来た滅菌器へ入れて研究所へはこんで目下しらべ中の由。面白いことには、ね、先生の家族は細君の実家の田舎へ疎開して行って、今たった一人のやもめ暮しです。グロッキーで、御飯の仕度もしているので、このカビも見つけ出したというわけです。台所もブーブー云い乍らやったが、バカにならないですよとニコニコでした。
きょうのわたしのお喋りは、何となく炭酸水の小さい泡のようでしょう?わるくない御機嫌というところでしょう?いろいろわけがあるのよ、一つは涼しいこと。そのほかはひろき波音のあの音この音。
八月二十八日のお手紙三十一日につきました、大変早かったこと。周防の麻里布の海のうた、思い出すようです、あの頃の官船、赤船が麻里布のさきを通ったのではなかったかしら、何だか遠くに赤船がゆく、余り遠くて、たよりもことづけられない、という意味のうたがあったように思います。このあたりにしろ、虹ヶ浜にしろ、あなたの想像なさるよりも倍も倍も変ってしまっているでしょう。麻里布というような地名からの感じは、遙かで、赤船の色彩的な迅い感じと美しく調和します、あの辺の(中国・四国辺の)美しさは、そういう連想からも生れるのね、東北のは人間生活の歴史の絢(あや)がなくて、自然のままの優しい荒っぽさの情感です。日本人がああやりこうやりして生きて来たことを中国はなつかしく思いおこし、東北は、めいめいが生きんとする原始生活力を森や丘から吸い込みます。富雄さんはどうしてこんなに仕合わせ者でしょう。くりかえしこの貴重な小さい紙面で、本のこと思いおこされて。わたしがずぼらというばかりでもなさそうです。隆ちゃんにも送りましょう。もうおかきにならなくても大丈夫よ。ちゃんと発送いたしますから。
『風に散りぬ』の第二巻だけが、ポツンとかりられました。送ってくれるのが、やがてついたらおとどけいたします。あの本は妙なめぐり合わせの本ね、全く、ありすぎてない本となりました。
うちの南瓜は蔬菜の雑草化の見本だと思って放っておいたら、小さい実が一つついて居りました、大うら成りのうらなり乍ら。蝉の声がしきりに赤松の林を思いおこさせます、そのくらい秋っぽいのね。 
九月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月三日
きのうは御苦労さまでした。[自注11]本当に、御苦労さまでした。さぞお疲れでしたろう、蒼い色になっていらしたから、帰りに脳貧血気味におなりになったろうと思い、気にして居ります。気持はわるくないお疲れでしたろうが、体の気持はおこたえになったことでしょう。かえって食事あがれましたか?全く、美味いおつゆをたっぷりのませて上げとうございました。そして、お湯をあびせて上げてね。きのうの御苦労さまという感じの中には、たったきのう一日だけではない、その当時の様々が御苦労さまでした、にひきつづき今日から明日への御苦労さまがみんなこもった感じでした。云いつくせない御苦労さま、よ。しかもその御苦労さまが磐石のようにしずかで、もちこたえよくて柔軟であるとき、こころのおどろきはどんなでしょう。
字面にすべてがこもるものでないと痛感いたします。わたしが、見たりきいたりしたものはすべて生きていて、与えるものは筋ではないのね。人間を感銘せしめるのは筋ではないのですものね。ありがとう。
わたしというものがめぐり合っている人間的仕合わせの全延長について、昨夜はくりかえしくりかえし思い及び、人間の質について沈思し、感動をとどめ得ませんでした。
生活の真面目さと、浅薄さとの相異がどんなに大きいものかということは、平常人が考えているより遙かに巨大ですね。
この手紙ぐらい、思うままに表現出来ない感じの手紙はこれ迄書いたことがないようです。わたしは、もとから、余り気もち一杯だと言葉に出せなくなるの、御存じでしょう?あれらしいわ。そして、そういうときは、せっぱつまって、いきなり何か小さい行動で表現してしまうこと、覚えていらっしゃるでしょう?あなたはそういうわたしのやりかたを、快くうけとって下さいました。この手紙もそれよ。よくって?ここにあるものは、字ではないのよ、わたしよ。よくて?
堂々として、一つのこまのぬきさしならぬ、渋い美しい壮麗な大モザイックの円天井を見ます。その美しさのもとに生きることの歓喜のふかさは、それが大理石の円柱であったとしても耀き出さずにはいられないと思います。
喝采というものは、芸術のテーマとして最もむずかしいものだと思います。讚歎に負けてしまわず、その内容と意義を掌握することはむずかしく、もしそれが十分出来たらその芸術家そのものが、既に喝采に価するわけでしょう。
わたしは駄目ね。ここにいるのは、わたしよ、と、犬がうれしがってワンというようなことをするから。でも自分がワンといってかみつきたいようになるのは、何と満足でしょう。最上の理性と智慧とが、人間の最も本然な、素朴な、愛すべき表現をとるしかないということは、ほむべきかな、と云うしかありません。

[自注11]きのうは御苦労さまでした。――顕治の第四回公判の陳述。 
九月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月六日
風があらくて、空では雲がきっとはげしく流れているのでしょう、初秋らしくかーっと日がさすかと思うと急にかげります。
食堂のテーブルで、食べながら、これをかいて居ります、珍しいことでしょう、くいしん棒のわたしが、どういうわけで食べ乍らなんか、とお思いになるでしょう?
わたしもどうしてか分らないが、どうも書き乍らでないと、今はゆっくり食べられないのよ、カチカチのやいたパンは、かむのに時間がかかります、つまり早く話したいのね。朝おそくから今まで、成城へやる荷ごしらえをして居りました。去年の春から荷ごしらえ一般は随分やって、力に叶うものならば技術もたしかになりました、けれどこんどのこの荷作りは、特別な思いがわたしに湧いて、一服したとき、あなたに黙っていられないところがあるようになりました。
成城への荷物なんかはじめは只ありふれた意味で分散させて置こうとしたのよ。原稿紙や古布類を。段々ときが経つうちに、気持がちがって来て、わたしが一緒に疎開して暮すとき必要なものを、と思うようになって来ました。そういうとき、どんな形で暮すのか、全く今は判らないけれども、何処ということさえ茫漠として居りますが、たった一つ極めて明瞭で、こころを動かすことがあります、それは「一緒に(ス・トボーユ)」という短い言葉です。これは詩の題として恥しからぬ表現です。一巻の美しい物語の題であり得ます。この言葉をくりかえしくりかえし考えていると、つまりはこうして話し出さずにはいられなくなって参ります、わかるでしょう?
動坂以来、いくたびか引越しをいたしました。けれどもこの言葉が、こんなに生々として中核にある移りかたというものは知りませんでした。これは何と瑞々しい気もちでしょう。何か愉しげなような感じでわたしを揺ぶります。自分で自分に訊きただします、(何だかいぶかしくもあるのですもの)果して愉しいことなのかね、と。さすがに、すぐは返答しかねるのね。まさか、そう単純でもないわけですもの、全く。でも、やっぱりわたしがそのために自分の用意を心がけることのうちには不思議な感動があり、詩の新しいヴァリエーションの響があり、その展開の期待と、そこでも詩はそのときなりの充実をもつに違いない信頼とがあります。一緒に、新しい頁にうつってゆくときめきがあります。
いろいろと空想し、それを自分で空想と思って空想するのですが、一等の魅力は、そういうところで少くとも半年は落付いて暮して、その間に今の渇きがしんから治るまで、勉強することです。人とつき合うことは殆どないでしょうし、一度から一度へと御褒美をたのしんで、一心に勉強するのは、どんなにいいでしょう。あとの半分位は、ゴタゴタした東京で、もまれて、埃をあびせられて、よかれあしかれ、今日につよく接触して、又次の半年は、巣ごもりで暮すの。うんとうんと仕事をしたいのよ。ある日に、わたしが、しんからあんぽんブランカとなり終せ、気持いいこと、美味しいことしか思わないでどれ丈か暮しても、それは十分これ迄の勤勉の御褒美として天地に愧じるところない丈、うんと仕事しておきたいと思う次第です。賛成でしょう?
二日の帰りみち、わたしは疲れたのと感銘に打たれたため、よそめにはすこしぼんやりした風で、しきりに考えました。人間が幸福を感じる奥ゆきは、いかに深いものか、云いかえれば、ある人を幸福にしてやる、ということには、いかに、ピンからキリまで、その方法があるか、ということについて。自分はすこし大きくなって以来、いつも生きるに甲斐ある生きかたをしたいと思いつづけていました。それは野心その他とまるきり違ったもので、感覚として内在するようなものだったのね。それにつき動かされて、より新鮮な空気を求め求めて来たわけですが、二日のかえり、プラタナスの下をゆっくり歩いて来ながら、わたしはその自分の願望が、勿体ないように叶えられているのを感じました、自分自身の力には叶わない望みが、叶えられて与えられてあるということに驚愕しました。自分というものは、ごく厳密に云って、願う丈の生き甲斐を創り出してゆくには、ちいと力が不足して生れついていると思います。勇気が足りないのか、頭の堅木(カタギ)のように美しい木目が荒いのか、ともかく残念ながら、私に出来ることは、非常によく感じ、理解し、それによって、そこから何か人間的集果を生み出してゆくことだと思われます。女というものが、そうなのかしら。文学的な素質というものが、そういう特長をもっているのかしら。いずれにせよ、わたしは、創られた新しい頁の価値にうたれ、それに導かれ、その価値と美を語ることによって、自分も一つの何か醜からぬものをこの人生に寄与してゆくもののようです。
生きるに甲斐ある人生を求めることが、人間として健気であるというにしろ、それは怠慢を許さないと云え、それにしろ、わたしはやっぱりおどろきを抑え得ません。年々深まるおどろきを。そして、それは、まぎれもなくこの秋空に、燦く頂きを見せました。
そこには全く時代として新しいものがありました。ずーっと昔、十年ほど前、華々しい論説というような前期的空気にはふれましたが、世代の進展の大さ、着実さ、高さ、尤も注目すべき現実性に於て、極めて感歎に価しました。それの堂々さは、自然現象の壮麗さと同じように公明正大であり、企らみなく、自然です、自然現象のおどろくべき仕組みを見て、人の感じるおどろきは素直であって、おそらくはその人の一生に影響するものよ。虹でさえ、人は美しいと思って見れば一生忘れることは出来ません。
わたしの中に、オルゴールのついた一つの引出しがあったのね。それが杖で触れられて開くようになって、ああああ何とそれは鳴るでしょう。全く謙遜に、抑えかねるよろこびと献身で、小さいオルゴールは何と鳴るでしょう。よろこばしさの中にエゴイスティックなもののないかということを気にするくらい、へり下って。
荷づくりしている手や膝は、おきまりどおりによごれて珍しい何一つもありませんが、このお古のテニスシャツの下にうっているのは、余り丈夫とも云えない女の心臓一つではないわ。
あなたには、これらの感動が文学的すぎて聴えるでしょうか、もしかしたらそうね、少くとも「いく分そういうところもなくはないね」?そういうものよ。自然なものはいつも自分でそれを知っては居りません。チェホフが、若いゴーリキイに云ったようにね、君は風が囁く、とかくが、風は軽く吹いているだけですよ、と。そうよ、でもその風があんまり爽やかで活々としていれば、土方(ドカタ)だって御覧下さい、ああやって胸をあけ、皮膚にじかにそれをふれさせようといたします。 
九月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十一日
雨が降り足りないせいか、むしむしして来ました。きょうは、隣組の当番です。八百や魚やなどが、当番の一括購入となり、うちの組は十軒三十二人。十ヶの八百やザル、十ヶの魚入れなどを、もう一人の当番と各戸から集めました、朝九時頃。モンペはいて仔熊よろしくの姿で。
それからフーと水のんでいたら、国男さんがお手紙もって来てくれました、自分のが待たれるから、いつも自分でとりにゆきます、出すのも自分よ。面白いものね。
読んで、国男さんがフラフラしている間に、乞食の洗濯をいたしました、すごいでしょう。わたしはこの夏、お下りのテニスシャツ一つにスカート一つですごしてしまったのよ。従って寝る前に洗って朝干いたのをきるという乞食の洗濯でやって来たところ、この間うち雨がふった上に、きのうは急に運送やが来て成城へ行くというものだから、大バタバタで荷作りさわぎいたしました。前晩は咲のを十キロずつ七ヶも作ったのよ、国と二人で。ですから、あわれいとしきテニスシャツも黒くなってしまって、きょうはあたりまえのキモノ着て居ります、働く人に何と不便でしょう。靴というものがないから外出はこまるけれども、働いて、それ八百やだ、それ何だと、ことしは冬になっても工夫してこの西洋乞食でやるつもりです。ずっと楽で疲れませんもの。尻尾のきれた丸い牝鶏姿は十年昔でお廃しと思っていたら、又々そうなってしまったと苦笑いたします。動坂の家へ、小さい風呂敷へつつんで、浅青のスウェターもって行って、チョコンと着て、浅緑の毬のようになっていたのを思い出します。あの緑の色は大変きれいだと思って着ていたのよ、尤もすこしよごれては居りましたが。
さて、洗濯ものを乾してから、あなたの冬の羽織を、今年も多賀ちゃんに縫って貰うため、綿を出して用意いたしました。真綿なんて、何と無いものになってしまったことでしょう、これは即ち、去年のを又今年も使いますということなの。ことしは、御平常着と、外出用と綿の入ったものが二通りいるでしょう、それとも、そとのは、袷でどてらの上にお重ねになりますか?枚数の点などでどちらが便利でしょうね、明日でも伺いましょう。折角風邪をひかさないように掛布団は出来ましたから、着物も間に合わないというようなことのないようにしたいと思います。
小包作り終り、やっとやっと、という気もちで此をかきはじめた次第です。書くこと、読むこと、あれこれのこと、わたしはどうしてもつい、あれこれ時間が惜しくて閉口の時があります。だもんだから、何となし仙人くさい状態になってしまって、それを世帯もちの眼から見ると、アラ、でも仕方がございませんわ、外になさることがおありなんですものホヽヽヽヽということになるのね。それでもまだまだわたしには比例がとれません、オホホホ式であってなお此だけ時間がかかるなんて、ね。うちの隣組をあっちこっち歩いて、全くびっくりいたします、どこのうちも、どうしてああなめたようなんでしょう。そのために一生を費している人々には叶いっこないと、率直簡明に、うちのオホホホを承認いたします、情熱がちがいますから。こうかいていて、はた、と思い当ったことがあります。思い当って、これは大変と思ったの。あなたは、もしや万カ一にも、ユリが、文章を、だ、だ、で終らなくなったのだから、きっと家もちも何となしあかぬけたろうなどと思いちがいしてはいらっしゃらないわね、大丈夫ね。わたしは、その前に坐って眺めて眺めて、眺めあかざるものがあったら、迚も台所をテカリとさせるために、立ち上るというような芸当は出来ないのよ。すると、そのうちにいつしか風は埃を運んで、遺憾ながら草履なしでは歩くに難き板の間よ、となってしまいます、風のつみよ、ね。わるいのは。
この手紙終る迄甲高いあのチュウジョウサン!がきこえないといいと思います、八百や魚やの品わけが、午後というわけだったから。
九月六日のお手紙。先ず本の予告の勘ちがいのこと、お詫びいたします。仰云ることよく分ります、わたしは、これでも追風に背中をもたせて足をすくわれない用心はして居るつもりなのですが、あの本のことは、すみませんでした。尤も、出版計画のなかったことを真さか、空耳できいたのでもなかったのでした。出版所の顔ぶれが急に変ったにつれて既往の出版プランは殆ど大半変更になった中の一つであったようです。ジグザグの幅で見てゆくことの肝要さは、これから益〃適切であり、さもないと帰趨を失うことになりましょう、咄嗟のいろいろのときね。よく気をつけます、つまり、勉強してよく万事を考えます、リアリスティックに。学ぶべき経験であったと思います。くりかえしますが、わたしの気分に立っていたのでなかったのは事実です。そうでなかった、ということには、よしんば出版されなかったにしろ、プランとしてもたれたところに意味があり、又中止されたところにも亦意味があるわけと申すのでしょう。紙の配給は又々縮少となります。『文学界』、『文芸春秋』、まだうまく手に入りません、六月号(『文秋』)があるきりで。気をつけておきましょう。『週刊朝日』送金いたしました。『風に散りぬ』どうしたというのでしょう、まだつきません、まさか途中で迷っているのではあるまいし。
マンスフィールドの手紙は主として良人のマリに当てたものらしいようです。ちょいちょいした時間に、このひとの日記をよんで居ります。ごく内面的な、そして仕事と連関をもった日記で、今のわたしには、調子(本のたち)の合った読みものと感じます。自分の中に徐々展開するものが感じられているものだから、キャスリンの内部世界と全く違ったもの乍ら、小さい蕾が一つ一つ枝の上で開いて行くようなこまやかな、真面目な、地味なそのくせ、胸の切ないように活々した感覚のリズムが、このひとの日記のこくのあるところと調和して、いいこころもちです。たまにこういう読書があるのね、逆に見ればその本をよむより、自分をよんでいるという風な。「伸子」のとき「暗夜行路」がそうでした。三四年の間、机の上にある本と云えばあれきりで、やっぱりリズムが合ったのね、それによって自分がよめたのでしたろう。旦那さんの批評家ジョン・ミドルトン・マリは、善良な男らしいけれども、キャスリンは、自分と全く似ていると云っています。これはつまりキャスリンが作家なのに、作家に似た批評家というのはどうかしら、ということになるのね。キャスリンは感受性が柔軟で繊細で、心情の作家だったようです。彼女が永い間、内へ内へ感じためるだけでまとまって表現しかねていたものが、愛弟の戦死によって、一つの焦点を与えられ、ニュージーランドで暮した生活の再現に集中してから、いい作家になったということには深い示唆があると思いました。前大戦前後の動揺の中で、キャスリンは、安易に作家になり上るためには、本もののテムペラメントをもっていたのでしょう、頽廃にも赴けず、空粗なヒロイズムのうそも直感し、人間悲劇を感じ、何か真実なもの、心のよれるものを求めて、感受性の内壁ばかりさわって苦しがっていたと思います。マリは、その点でのキャスリンの云わば健気な弱気とでもいうようなものの性質を明かにして居りません、伝記の中で。(マリは、キャスリンの伝記で凡庸さを覆えませんが)ヴァージニア・ウルフが、知脳的な女の作家で、同じ時代にシュールリアリズムに入り、ああいう作品をこしらえ(ウルフのは全く頭でこしらえたのね)この第二次大戦のはじまりで、シュールでもちこたえられないリアルに負けて自殺したことと対比して、ともかくあの地の婦人作家たちが、一通りならぬ苦労をもって、どの道にせよ拓いたということを考えます。今次の大戦後、イギリスはどんな婦人作家を送り出すでしょう。分裂の方向でない新しさ、健やかなリアリズムが、どの程度甦るでしょうね、サッカレーが出たこと丈考えてみても、その素質がないとは云えますまい。でもイギリスにはディケンズ病みたいなものが流れていて、心情的傾向は、とかく炉辺を恋うて、剛健な大気のそよぎそのものの中に心情を嗅ごうとしない危険があります。キャスリンにしてもそうよ。文学におけるヴィタミン欠乏症です。「風に散りぬ」などと肌合いのちがうことどうでしょう。キャスリンの文章は、殆どメロディアスです、文章そのものが或る慰安です。甘くはなくても。彼女は人生を愛しました。
愛した、と云えば、イギリス人が、あんなに自然のままということを大切に珍重する公園、所謂イギリス式庭園を愛するのは、アメリカ人みたいに、家の中も外もなく、森から湖から土足で愉快に出入りして暮す気分からではなくて、要するにコントラストなのね、生活感情の。一面で、社会生活がヨーロッパでは亢進してやかましくて、ぬけ目なくて、しきたりで、大きい声でものを云うと失礼で、ウーとなってしまうから、太古ながらの樫の木が生えて、鹿がいて、むかし祖先たちが、裸で炙肉の骨をつかんでケンカした風物がなつかしいのね。風景画となると、もう絵はうちで見るものだから、あのイギリス独特の、面白くてつまらない風景画となってしまうのでしょうか。全くイギリスの風景画は、愉しんで紊(みだ)れず、と云いつたえに立って身を守っているようね。ゴッホが、燃える外光の中に見たあのポプラや糸杉や麦畑。気の遠くなるように白く美しくて、その白さは朱でふちどらなくてはくっきりあらわせない程白く美しい梨の花と思って見たものなんか、イギリスでは、白いものの上の陰翳は紫がかった藍色ときまってしまうのね。イギリスの中流の女たちが誰でも、しなびて水っぽいスケッチしたり、ピアノをお客にひいてきかせるのは、何といやでしょう。わたしは、それを辛棒しているうちにコワイコワイ顔になってゆく自分を屡〃感じました。空襲で、そんな暇のない時代に育つ若い女たちは、不幸中の幸です、一つのマンネリズムからは少くとも解放されるでしょうから。
空襲と云えば、国男さんが建築家である功徳が一つあらわれました。かなり本式の待避壕が(ここで一時間半八百や魚や米炊きさわぎ)出来かかって居ります。間に合えば、すこしはましな壕でコンクリートで屋根もついて泥が三尺ほどのります、なかで眠れるように出来そうです、スノコをでもしいて。火がぐるりをかこんでも大丈夫と主人公は申しますが、さてそれはどうでしょう、わたしはまだローステッド・ブランカになるには早すぎますから、火事が本式となったら、その穴からは這い出すつもりで居ります。今はまだ七尺五寸の地底にコンクリートの柱が何本か立っている丈よ。トラックがなくて材料が来ないのですって。では明日。明日は砂糖配給日です。 
九月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十三日
きょうは、もうすっかり秋らしくなりました。ブランカは繁忙をきわめて居ります、わけは、けさ八日づけのお手紙頂きました、この封緘一つから、何と音楽がきこえているでしょう、わたしのこころに絃がある限り、先ずこれはこたえて鳴らずに居られません。昨夜「風に散りぬ」の第二巻だけが、やっと来ました、わるいブランカでしょう、お先に失礼してよみたいと思っているのよ。さて、きょうは、もう一つ、先日来の日記をすっかり整理したいと思います、こういう日頃、日記がブランクになるというところに必然があり、又そうさせまいと努力するところにも必然があります。そしてこの三つのうち、いつかひとりでに、最も適切な選択が行われて、これを書き出しました。
八日づけのお手紙呉々もありがとうね。人間のこころに張られている絃の数というものは凡そどの位でしょう、考えると、おどろかれます。だって十三絃というものを考え、ピアノのあのいくつものオクターヴを考え、それでもまだ人間のこころの諧音は満たされなくて、あれだけの管と絃とのオーケストラを考えるのですものね。
自分たちのこころにいく条の絃があるか知らないけれども、それが緊張し鳴らんとするとき、高い音から低いなつかしい低音までを、すっかり、一条のこさず、ふさわしいテムポでかき鳴らされるよろこびというものは、本当に、どんなにつつましく表現しても愉悦という、むせぶようなよろこびがあります。理性のいくすじもの絃、感覚のいくすじもの糸。それは互から互へ鳴りわたって、気も遠くなるばかりです。吹く風にさえ鳴るようなときがあるのですものね。互が互にとって手ばなすことの出来ない名器だということが、仕合わせの絶頂であると思います、それは全く調和の問題であり、しかもそれが可能にされる条件の複雑さといったら。めぐり合わせとか、天の配剤とか人力以上のもののように考え、ギリシア人が分身(一つのものが二つに分れている)と思ったりしたのも、素朴な感歎の限りなさから出発して居ります。
お手紙にある「峠」のうた、それが「どこらの峠かときかれるなら」という一連の詩趣は、わたしの好きなセロの深い響をもって伝わります。くりかえしくりかえしその一連を読んで、峠をうたった古典を思い出しました。あの有名なヘッセ(?)の「山の彼方には幸住むと人のいう」というのがあるでしょう、ゲーテの「山の頂に休息(いこい)あり」というのがあるでしょう。どっちもその人たちの人生のあり場所を示して居りますが、「どこらの峠かときかれるなら」の溌溂とした動きと多彩と変転に耐える強靭な展望はありません。情感の美しい流露が、言葉のリズムを支配しているばかりでなく、これも亦文学の本質的な新種です。わたしはこういうものは、読むというよりのみこむのよ、たべてしまうのよ。たべてもたべても、そこに消えず香高くあるというすばらしい果物のようね。
こんな風の爽やかな初秋の日、こういうおくりものをもって、よしやそれののっている緑と白の縞のテーブル掛はかなりよごれているにしろ、やっぱり幸福者たることにかわりはありません。
ジクザク電光形というのが、そのままね。何と激甚な閃光でしょう、破壊と創造との何という物凄い錯綜でしょう、創世記というものを、人類は其々の民族によって、雄渾な伝承にして来ましたけれども、現世紀における畏怖すべき雷鳴と、爆発と、噴出する新元素新生命の偉観とは、予想もされていなかったと思います。そして、現世紀の民族叙事詩は、極めて高度な散文でかかれつつあります。詩と散文の過去の区分は或意味では消失していると思ったのは、もう何年か前ですが、この秋に、わたしは散文というものの実質がどのように充実し高められ、生命そのものが粉飾的でない通りに、飾りない美に充ち得るかということを身をもって知って、一層切実にそう思います。散文をかく人間に生れ合わせたうれしさを感じます。文学的ということも、進歩いたしますね。ああいう小説がかきたいことね、沁々そう思います、不言実行的小説が、ね。
さて、これから、わたしは犬の仔の話をかくのをたのしみにして居たのに、電話が鳴って、ひとが来るのですって。仔が五匹チビから生れました。ある朝おきたら、外のカマドのわきの空箱の中に、さっき生れたというようなのが五つ入っていて、チビは大亢奮で、しきりに報告にとびつきました、一つは圧死していました。そこで、早速もっとひろくてふちの低い箱を見つけ出して、ワラをしきこんで、そっちを御新居にしてやって、死んだ仔を埋めました。犬の世話をしていると、こういう事業もわたしの仕事になって、それは苦痛です、閉口なの、全く。しかしそこが又面白いもので、可愛がる世話するということの反面には、そのものの生死にかかわる一切が関係して来るということなのね。そう思って、成程とも思います。
四匹は白黒、チョンビリ茶。丈夫に育つけれども又この間、妙なことがありました。わたしがそちらへ行っていた間、茶色の野良犬が来て若い母なるチビと大噛合いをやったのですって。それは雄だったのだって。狂犬ではなかったかと心配していたら、次の朝、チビは全くソワソワして遠吠えをしては縁の下に入るのよ。丁度ふとんの用意していて、使わない綿を、奥の室のテーブルの下へ入れたら、チビはいつの間にか、その綿の奥へかがまりこんで、呼ぶと、尻尾をふる音ばかりパタリパタリしてどうしても出て来ません。わたしの家畜衛生学によると、これは狂犬のはじまりの動作なのよ。不安になる、遠吠えをする、暗いところに入って出て来ない。さてさて困ったよ、とチビに向って申しました。到頭はじまったかい。仕方がないから、まだ、わたしの声が分って尾をふるうちに、ともかくつないでしまおうと、首わをつかまえて綿のうしろからひっぱり出して(腰を、おとしてズルズル出て来るのですもの、誰か来て!と呼びたくなったわ)北側の光線のしずかな側の柱につなぎました。仔入りの箱もそっちへ、えっちらおっちらもって行ったの。そうしたら、段々鳴かなくなって、やがて眠りました、夜になってからは大分普通になって、もう今は無事です。人間の脳膜炎と同じと思って光線の少い側にやって、大成功でした。お産して間もないのに大活躍して、逆上してしまったのでしょうね。神経がおそろしく亢奮して、光線もよその犬も人間の子供も、すべて癪にさわったのね、綿のうしろの暗闇で、チビの眼は、豹(ヒョー)のように炯々たる緑色に燃えて見えました、こわくて同時に素晴らしい見ものでした。ただの雌犬とは迚も思えない燃え立ちかたでした。わたしの眼もソンナニ光ッタラ面白イケレド。燐光のようよ。
わたしの悲しみは、育ちつつある四匹の仔犬の将来です。犬を飼うということは、それ丈人間が食べかたをへらしていなければならない、ということなのですから、困って居ります。
おひるを食べないうちに、きっとお客が来てしまうのでしょう、歓迎でもないわ、率直に。「お話中」なのに、ね。ああでもいいことがある、その女の人に、きいて見ましょう、あなたのところで仔犬ほしくないかしら、と。郊外住居だからもしかしたらいいかもしれません。寿が一つつれてゆくそうですが。では一寸御免なさい。玉ネギをジリジリとやっておひるにします。
大した長ひるで、ここの間に一日半経ちました。仔犬は一匹貰ってくれるそうです、昨夜はおつかれでしたろう。どうもいろいろありがとう。(つまりもうけさは十五日なのよ)詳細な準備でおつかれになったことと思います。又すぐ書きますから、この前便はここまででおしまいね、お疲れをお大切に。ニンニクをよく召上れ、食事の間にのみこむと楽ですが、どうかしら。ニンニクは本当によいから。 
九月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十八日(月)
おひるを、いつかお話したパフパフ(覚えていらっしゃる?)ですまして、『風に散りぬ』第二巻をよんで居りました。二時までそうしていて、あと二階で荷物ごしらえに働くプランで。ところが一寸かきたくなりました。
けさ運送やが来て、成城への荷物出しました。こんどのには、竹早町のおばあさん[自注12]のくれた机、白木の座右においていた書類入箱、低い茶色の折りたためる本棚、字引台、チャブ台、等。これでもう三回目なの。はじめリヤカー一台、二度目三台、今回、きょうあす。明日は、タンス(引出しの一つこわれたの)をやります。それと台所用品と。このきょう明日の荷物は、前には考えていなかった分ですが、こんどはともかくここからどけておいて見る気になったものたちです。長火鉢はやめます。ごく実用的でもないし。今は成城まで四十円平均よ、リヤカー一台が。
東京周辺の街道をゆく荷物車はどの位夥しいでしょう、都電の停留場に待っている間だけでも、三四台荷物をつんだ車を見ます。わたしの一見貧弱な何の奇もない荷物もその埃っぽい列の一つに加って、カタカタと行くのですが、その荷物たちは、自分に負わされている不思議に建設的な光りを知っているでしょうか、荷物が繩でくくられゆられてゆくとき其々の荷主のこころをつたえて鳴るものとしたら、今の東京のぐるりの街道ばたの人々はああして暮していられないでしょうね、そして、わたしの荷物はどんなに鳴るだろうと考えると、笑えて来ます。アンポン、ブランカ[自注13]ブランカアンポン。ウレシイアンポンと鳴ることよきっと。
きょう、これから二階で、二通りのこまごました荷のよりわけをするわけです、自分と一緒に田舎へゆく分、のこって役に立つ分。働く手が折々止ります、荷をつくるこころもちに我から打たれて。
ところでね、一つこころからのお願いがあります。
それは、ブランカのアンポンが余り早めにはじまるとわたしは、途方にくれてしまうから、当分、余りきれいな星空のことや月明りのことや花の蕊のいい匂いのことやは想わないで、おかなければいけないということです。
空想というものは、どんなに其が光彩陸離としていようとも、それは在りはしないこと、本当に知ってはいないこと、そういうことの蜃気楼です、薄弱なものです。しかし在ること、まざまざと在ること、そして知っていること、今すぐにでもくりかえし其のリフレインをききたいこと、そういうことの心の上での再現は、愉しさの限度に止らず、病気のようにさせる位つよい作用をもって居ります。
しかも、そういう自然の開花と、今との間には、まだ一つの生涯と呼ぶにふさわしい丈緊張と努力の予想される時間が横わって居ります。ユリが不束ながらもっているはっきりした眼、実際性を、極度に必要とするときが。季節より早く咲いてしまう花は、風にもろうございます。だから、わたしは一生懸命、意志をつよくして、必要にこたえる準備に力を注ごうと思います。時間を忘れて木の葉の音をきいていないで、少くとも十時には眠る、という風にしててね。
これは、むずかしいようです、お願いというのは、わたしが又候ぽーとしたら、軽く背中をたたいて正気づかせて頂きたいということです。どうぞ、ね。
このごろは何だか、こわい、と思うことが減って、殆どないようになってしまったわ、新聞でフィリッピン中部に云々とよんでも。これは大変結構なことですが(こわくなくなったのは)それだからと云ってリアリズムを失ってはならないでしょう。〔中略〕
創造という丈の文学でないものは、或る特定の文化層の分解過程の醗酵物なのね。器用に其が飾られ組立てられ心にふれられるが、それは要するに創作ではないのだわ。再現物なのね。文学に創作と、再現物とあり、作家と再現工人とがあるわけです。再現工人そのものに対して何と申しましょうねえ。読者がふさわしい時期に、それが醗酵物であるにすぎないことを知ることが出来ればいいのだし、そのためには、読者に文化的に親切であればいいのです。文芸批評の新しい根本の任務はそこではないでしょうか。
このことでもわたしはお礼を申しとうございます。その気持の湧くところおわかり下さるでしょう?作家としての確信や自信というものが、「私」の枠からぬけ出るということ、漱石は則天去私と云ったが、そのもっと客観的なそして合理的な飛躍は何と爽快でしょう。「私」小説からの発展の可能が、最近の一つの契機として、事実の叙述はいかにするべきものかという実例で示されたとすれば、あなたにとっても其はわるいこころもちのなさらないことではないでしょうか。
刻々の現実の呈出しているテーマは何と大きく複雑で多彩でしょう。そのテーマの根本的意義を感覚のうちにうけとるところまで成長したとき、「私」はその個的成長に必要だった枠としての任務を遂げて腐朽いたします。現代文学史の中では、「私」がこういう自然の脱皮を待たず、或は、自然に脱皮するとき迄保たないほど弱くて、風雲にひっぺがされて、赤むけの脆弱な心情が、こわさの余りえらく強げになってみたり、感情に堪えず神経を太くしたりいたしました。
これらのことは、わたしたちの話題としても一つも新奇でありません。けれども、今又このことが新しく会得されるというのは無意味ではないと思います、立派さというものの中には古びることのない感動があります。飽きない摂取があります。立派さにてらし合わされると、わかっていた筈のことの本質が更に又わかって来るという不思議がおこります。山にのぼるにつれ視野のひらけるように。わたしにとってその立派さは美味しさに通じているのよ。何と何とそれは美味しいでしょう。ああ、あなかしこ。

[自注12]竹早町のおばあさん――顕治が大学時代下宿していた家。
[自注13]アンポン、ブランカ――「アンポン」も「ブランカ」もともに百合子のこと。 
九月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月二十四日
今、うちの防空壕が九分九厘まで出来上って、職人がかえるので、お茶をのませようとして居ります。
いつ何をどうするのかと思って居たけれども、どうやら間に合いました、時間の上では、ね。このコンクリートの薄い枠が地下で(三四尺の泥の下)どれ丈の役に立つかは=実質上、どの位間に合うか、は未知数ですが。それがためされるのは遠いことではないでしょう。
十八日のお手紙ありがとう。金曜日に頂いて居りました。クライフはすぐ送りました、訳が下手で、座談的筆致の味が、一種ごたついた印象を与える傾きです。『風と共に』第二巻、『結核の本質』という本一緒にお送りいたします、第三巻もどうやら手に入りそうです、二、三とも借りものよ。『結核の本質』は弘文堂の本より更に初歩向きで本としてお役に立とうと思えませんが、著者のものの話しかた従って気質がいくらか御推察になれるだろうと思って。著者については明日お話しいたします。
『時局情報』がそちらへ直接だといいこと。それのために、わたしは顔も見たくないようないやな本屋の店へよります。その本屋は全く本やにあるまじき根性で、その水っぽい薄情ぶりはホトホトです。本を買う、という人間の扱いかたを知らないのよ、豊山中学の子供ばっかり対手にしているせいでしょうか。どうかお願いいたします。
市民文学について、全くそう思います、そして、こまかく見ると、その細目の追加においてさえも、其の限界内での豊富さを十分もち得ないまま、萎縮の一路を辿っているようです。鴎外だの一葉だののありがたがりぶりにそれがよく示されています。
トルストイ、バルザックに連関して「風と共に」のことで、興味ある感想を与えられました、第二巻をよんでいるうちに。でも、それは、あなたもお読みになってから、ね。その方が面白いから。文学作品の雄大さの意味とか、作家の力量とか、いろいろそういうようなことの類ですが。
お砂糖のこと、どうも呉々もありがとう。釘のことは知りませんでした。わたしだってまさかカンに水を入れはしなかったのよ。カンを水につけたら、つぎめから水が入って来たのよ。一寸したちがいですが、女一人が白痴かそうでないかの境めに立つわけになりますから、御良人としても明瞭に御承知なさりたいでしょうと思って。これをよんでつくづく感服いたしました。人間の頭脳というものは、何と大したものでしょう、このお砂糖と釘の注意と、壮大な構築の論文作制とを、一つの黒い髪の下の生命が行うということを見くらべて、驚歎しよろこばずにいられません。お砂糖の手当法をもうこれで一生忘れっこはないでしょう。
ニンニク球は、おなかの為丈でも是非召上るねうちがあります。思うよりきくものよ。冬は是非ともね。夏は汗にまじって匂がいやかもしれませんが、でもニンニク位プンプンしても結構よ、いくらプンプンしても結構よ。
ニンニク人種は、粘りつよさで大したものなのですものね。フランス料理には殆ど大抵小量のニンニクが入ります。味の奥行きが出て美味しくなりますから。野菜や獣肉が。あの素晴らしい支那人の料理法は勿論のこと。
すっかり涼しくなって、夜は蚊帖をなくいたしました。夜、床をのべて、季節のうつり変りの風情のふかいとき。それは感じふかい一ときです。わたしは、くっきりとその風情を感じとり、そういうときわたしたちがその感じを表現するしかたを思います。それは、いつもたっぷり真率に表現され、自然の愛嬌と優美にみちて居ます。初めてほのぼのと灯かげの上に蚊帖をつったとき。それから一昨夜のように、どこか澄んだ秋の灯の下で、初めて蚊帳のない床をのべるとき。声のきこえない、影の一つしかない部屋の中に、物語は多うございます。深く深く重った影は一つにしか映らないということを、この壁は知っているだろうか。壁は元来何となしそれほど賢そうには見えないものなのね。
きょう、朝五時から七時まで防空演習がありました。午後からは、近所の防空壕の泥運びです。わたしはそういう働きはすこし無理だから、泊っている事務所の若い人に出てもらいました。もう九年ほどつとめている女の子です、営養士の資格をとってね、それで就職したい考えです。あっさりした気質のいい子です。
一昨年わたしがひっくるかえったときいたたけ、という女が、今熊谷在で産業組合の事務員をして居ります、それがきのう仲間三人もつれて来て、よっての話に、女の技術員になれとすすめられていますが、どうしましょう、というわけなの。農業技術員なのです、肥料配合や何かを指導する。女学校を出たりこういう程度の若い女が一ヵ月講習をうけて、技術員となり、農業指導が出来るものなのでしょうか。それほど、日本の農民は知らないことばっかりなのでしょうか。曰く、「肥料なんか今まで無駄にまいて居たんですね、今のだけでちゃんと出来て、増産して居りますもの」わたしが、集約農業の特徴を話したり質のことを話したりしていると、もうちゃんと聴いてはいなくて文鳥を眺めているのよ。所謂生活力と粗雑さ、粗雑なまま通ることからの自信にうたれました。
国府津の家が、ああいう役所になって留守番がいるということになり、急に、これ迄あなたのものをたのんでいた村田という洗濯やの父子をすすめて、そちらへ行きました。団子坂上の細い道へ曲った角の三角地帯にとりついた小さい家にカンバンもかけずやっていました。息子が若くて腕がよかったのが今年春死に、六月に女房も死んだのですって。すっかりつんぼの六十ほどの爺さんと十四の末息子がいて、いかにも気の毒だし整備で廃業し、何か転業したいというし思いついてあっちへ行けてようございました。この間雨の日、この祖父と孫ほどに見える父子が、さすがキチンとアイロンを当てた服を着、爺さんゲートル巻き下駄ばき、白い風呂敷包みを背負って(炊事用品)息子、カバンをかけ、小さい包み二つもって、つれ立って玄関に立っているのを見て、哀れを感じました。女房を失った老年、女親を失った少年、どっちも気の毒ですね。
その爺さんは大柄で、四角い顎をしていてわたしは奇妙に親しみを感じます。住心地がよくてありがたいと、きのう礼に来ました、安心しました。骨ぐみが、がっしりしていて、それはどこやら島田の父上のお体つきを思いおこさせるようでもあったりします。こころもちの近づきかたのモメントは微妙ね。「風と共に」に教えられたのでもないが。もう紙の表と裏に書かなくてはうそです、少くともペンでかける紙を使いたいと思うならば、ね、我まんしてよんで下さいまし。
〔欄外に〕こういう紙の使いかたは、もう昨今では玄人(書くということについてのよ)しかしない贅沢に近づいて来ました。 
 

 

十月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月三十日
いま夕方の五時。うちにとって、極めて興味ある歴史的アントラクトの時間です。というのは、きょう、博物館から国宝鑑定専門の人が来て、うちの陶器の蒐集の鑑定をして居ります。そちらにかかり、わたしは、さっきまで限りない古い箱の整理に埃まびれとなり、一寸腰かけておイモたべ休んでいるところです。
わたしの荷物を運んだ男が、すこしまとめて荷を動かす方法を見つけそうなので、咲が上京し、家具の必要品を送るについて、その費用の捩出かたがた、この際大整理を敢行しようということになりました。日頃云って居たことがやっと実現した次第です。きょうは1/3ばかりのものを並べました。が、わたしは並べられたものを見て、一種云うに云えない感想にうたれました、それは自分の父親の人柄についての好意と満足です。
父の蒐集は決して茶人の渋さでもないし、所謂蒐集家の市価を念頭においての財産でもなく、本当に趣味なのね。陶器のサンプルとして純粋なものを、所謂ヒビ(にゅう)の入っているにかかわらず買っていて、通人達の標準から見れば筋の通ったやすものを、平気でもっています、そしてね、鍋島とか柿エ門、古九谷など、どれもみんな活々とした色調の愛くるしさのこもったものを選んで居ります。骨董くさいところは一つもなくて、マア人間て、こんな模様を考えて皿に描くのね、と想像力というものをいとしく思うようなものが多うございます。はじめて見るようなものもあります、これらはうちの蔵を出て、どこかに散らばり、中のいくつかは空襲もまぬかれることが出来るでしょう。うちの蔵払いというよりも、何か出発のような晴々としたうれしささえあります、父という人はそういう人だったと、深く思います。一月三十日に亡くなって、二月のあの大雪の第一日、粉雪が市ヶ谷へ戻る私の髪にふりかかりました。幅のせまい着物に代って、寒いのと甚しい疲労とで夢現に坐っていたとき、二月の雪の霏々(ひひ)とふる旺な春の寒さは、やっぱり私に不思議な感動を与えました。悲しさの中から一つのはっきりしたよろこびの声が立ちのぼってゆくようでした。雪の面白さ、元気さ、陽気さ、それはそのさっぱりしたところと共に、父のもの、と思われて。
こうしてあぶないところを、うちで灰になるところをまぬかれて、どこかに出立してゆく皿や花瓶やなつめたちは、自ら身にそなえた趣にしたがって、ふさわしいどこかに落付くことでしょう。おとなしいものたちよ、愛らしい人間の精神の産物たちよ。人々が落付いて、自分たちの愛らしさを感じ直せる時まで無事でいなさい。それは鏡のようなもので、人間のこしらえたものであり乍ら、或時、人間に人間というものを考え直させるはたらきをもって居ります。
こういう晴々としたよろこびをもって、こんな整理も出来るのは、うれしいことね。自分が、こうやって、祖先たちの優雅を十分愛掬することが出来つつ、自身は全くありふれたやすもの瀬戸もので、こんなにうまくものをたべ、愉快に茶ののめるのを仕合わせに思います。
そしてね、今のこの寸刻のアントラクトに、わたしにこんな手紙かかせる気もちには一寸した基礎があります。
火曜日の帰りにあなたのセルをとる必要があり、中野の方へゆきました。それから、自分の荷もつのことでもう一ヵ所、友達のところを訪ねました。どこでも、わたしは珍客でたのしくすごしたのですが、帰って来てひとりになって考えていると、何と云っていいかしら、自分が一艘の船であって、波の立つ水の中を、気もちよくずっぷり船足を沈めて通って来たというような感じになりました。通って来た、というより通りつつある毎日という感じを深めました。これはどういうことでしょう、思うに、周囲は非常にざわめき揺れ漂っているのね、生活感情において。歴史はジグザグして幅ひろい線で進行して居るわけでしょうが、箇々の人々の生活というものは、その進行とともにその方向へ適確な動きをしているのではなくて、波間に浮く樽のように、自からの大局からはその方へ動きつつ自覚としては旋回的なのではないでしょうか。動きに対して受動で。どっちを向いても何しら流れ漂っている感じです。そういう中に、積荷がしっかり荷綱によってくくられていて、かなりひどく揺れながら船体の安定は保たれている確信があり、スクリューはともかく廻って、潮にしっかりと乗っている一艘の船のように自分を感じるということは、少くとも大した仕合わせではないでしょうか。わたしはこういう感じこそを窮極の幸福としてうけとります、そして自分に願うのよ、舳よ舳よ、しっかり波を突切れ、濤にくだかれるな、もちこたえてのりこえよ、と。何故なら舳のところから親綱がひかれていて、先に親船が進行して居ります。切れることのないそれはひきつなです。舳がつなをもっていられる限り。舳もはっきり知って居ます。自分というものが存る限り、このつなは切れないと。
親船は、自身のひき船の能力をよく知っているようです。劬(いたわ)り、しかし甘やかさず、水先案内に導かれて、沖ではラシン盤によって波濤重畳の大洋を雄々しく進行し、適当な時期には、ひき船をひき上げ自身の船体に搭載して、更に進行をつづけます。ひき船のうれしい気持は察するにあまりあり、ではないでしょうか。精一杯ひかれて進行してさえゆけば、沈没するほどのときには、大きいひろい船体にたぐりあげられて、安心してその舷側に吊られるというのは、どんなに仕合わせでしょう。親船もきっと可笑しく可愛いでしょうね、相当上ったり下ったり右や左へ揺まれながら、どこか陽気さを失わず、よろこんでひっぱられて来る子船を眺めて。裏表にかく方法はいかが?確に不景気ですが、紙の貯蔵は少いから御辛棒下さい。
二十七日のお手紙をありがとう(きょうは十月一日)生存上の潤滑油というのは全くです、総てのいいことはそこからというところもあります、わたしは、そういう油のたっぷりさのために、香油づけのオリーヴの実のようなのね、くさりもせず干からびもせず。原始キリスト時代の人たちが、香油というものを特別に尊重したことをこの頃思って、その人たちの生活が、どんなにひどくて疲れるものであったかと思いやります。わたしも踵がズキズキするほど疲れたとき、ああ今もしこの足を哀れに思って暖い湯で洗い油でも塗ってもらったらどんなに休まるだろうと思うときがあります。あの時代の人々の生活、キリストという人の生活のひどさは、そんなどころでなかったのね、だから生活の苦労を知っているマグダラのマリアが、実に沁々と愛情をこめてその足を油ぬり、いとしさにたえなくて自分の金色の髪でそれを拭いてやったのね。キリストという一人の男の心情にみたされた思いはいかばかりでしょう。マリアの油はキリストにとって無限の意味と鼓舞とをもっていたと思います、だから、誰かが、そんなことをさせて、と非難がましく云ったとき、キリストは、マリアは自分(キリスト)に迫っている危機を感じてしているのだから放っておけ、と云ったのでしょう。マリアが、自分の非力を痛感しつつ(本能的に)こころをこめてキリストの足を油で洗ったとき、その顔にあった表情は描けも刻めもし得ないものだったのでしょうね、ピエタのマリア(母)の方はミケランジェロの未完成のものもあるけれど、このマリアはロセティかがあの人のシンボリズムで描いたぐらいではないかしら。マリアの顔が描けるぐらい、一個の男子として女性の献身をうけた絵かきや彫刻家は、ざらになかったという証拠でしょう。母と子のいきさつは人情の常道を辿って到達出来ます、そして云ってみればどんな凡々男も父たり得るし父としての親としての感情は味うでしょう。男と女との特殊な間柄は、いつも情熱に足場をもたなくては成立し得ないし、其だけの情熱は或意味では普通考えられている恋愛以上のものですから、誰の生活の内でも経験されることではないでしょう。そして芸術のジャンルについて考えればキリストとマグダラのマリアとのいきさつは全く文学の領域で絵でも彫刻でも局部的な表現しか出来ないでしょうね。この手紙は立ったり居たり、わきへ人が来たりの間に書いたもので、きっといくらか落付かないかもしれませんが。 
十月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月九日
今、夜の十時です。何と珍しいことでしょう、この手紙は、いつものように食堂のテーブルの上でかかれているのではなくて、二階の、わたしの大きい勉強机の上でかかれて居ります。
先々週の月曜以来(咲枝上京の日から)うちは大ゴタゴタになって、疎開手続をして二十ヶの大荷物を作るかたわら、陶器の蒐集したのやたまったのやらの処分をはじめ、わたしは連日台所に立ちづめです。荷作りはコモ包みを専門家が来てこしらえて、発送するばかりとなり、あのガランとした玄関の土間に人の通るせきもなくつみ上げられました。仁王のような男が来てやりました、それはきのうのこと。一昨日は陶器の商売人が来て、七十歳の体を小まめにかがめて午後一杯価づけをいたしました。陶器の方もこの二三日で処分するものは処分し、のこしておきたいものは、のこすでしょう。
そのさわぎで、家じゅう一(ヒト)ところも常態でいるところはなくなってしまいました。食堂の大テーブルは、陶器陳列用につかわれて、小さいテーブルで食事だけはしているし。台所が一番いつも通りなので、わたしは食事係をひきうけている関係から、台所で働きつつ小説をよむという暮しでした。小説はよめても、書けないわ、職人の出入りするところでは、ね。
きょうになったらもう辛棒しきれなくなって、二階に大車輪で自分のものを書くところこしらえた次第です。目白の頃のようにね、八畳の室の入った左手に机、その奥にベッド、つき当りに小さい本棚。ここへ来れば、わたし達の雰囲気があるようにしました。そして、やっとさっき顔を洗い、足を洗い、着物をかえて、書きはじめました。こうやってこの机使うのは、十六年の十二月八日の晩以来のことです。その時分は、次の室のずっと広い方に机おいて居りました。でも可笑しいものね。余り家じゅうどこへ行っても大ガタガタだと、ひろい室はいやになってしまうのね、ここへ、ベッドとくっついて置かれてあるの、なかなかわるくありません。わたしは妙ね、こういう風に特別な区切りや色彩のない簡素な室で、ゆったりした机の上にだけいくつかの愛物ののっているのがすきです。相変らず支那焼の藍色の硯屏とうす黄(キイロ)い髯の長い山羊のやきものの文鎮がひかえて居ります。この形で当分暮すのでしょう。
さて、やっとお天気になりました、きょうは暖くもあったことね。きのう、掛布団届けましたから、あす明後日にはおかけになれましょう。雨の夜こそ綿の厚いのが欲しい気もちがするのにね、今年こそ、と思ってあんなに早く出来しておいたのに、差入れられる日限が来たら雨つづきになってしまって。あの雨つづきは、暖流異変というのだったのよ、御存じ?いつまでも暖流が流れて来て寒流が来られないでいたんですって。だもんだから秋刀魚も、乗って来る潮が停頓してしまって、どっかで停電してしまったのですって。黒点との関係だそうです。いろいろ変ったことが起るのね。
きょう、あなたのねまきをほして、自分の体が痒くなるようでした。マアマア、よくもよくもくったこと!痒い痒い、おなかのまわりね。あれ丈になるのには、全く夥しい数の輩が、一匹ずつたんまり頂いたことを物語って居ります。
自分がノミには弱くて、くわれはじめは半狂乱となったからしみじみとお察しいたします、ところによるのではないでしょうか。運わるく、繁殖著しき場所に当っていらっしゃるのかもしれないわね、何年もの夏でしたが、あれほどの戦蹟をのこした夏ものははじめてですもの。どこの家にも今年は多く出たのよ、何かノミにとっては仕合せ多き年なりきということがあったのでしょうか。
三日づけのお手紙頂いたこと申しましたね。クライフのあの本なんか、良書です。しかしクライフが生れた国柄のおかげか、良書としてスイセンはされて居りません。青年たちがよむべき本の一つなのにね。クライフという人自身、人間というものをよく知って居りますね。人間の情熱というものを自身知って居りますね、あの抑揚は、それを知らない人にはもてない精神のリズムと迫力です。プルタークについても、いつか云っていらしたことは真実ね、多くの場合プルタークはそれを本当に理解する丈生活経験を積まないうちによまれたぎりのことが多い、と。プルタークはあれを、いくつの時分に書いたのでしょうか。プルタークの尨大な頁の中に鏤められている珠玉が、生々しい感動としてわたしの日々の中へまで反映されるようなときがあろうとは、実に予想いたしませんでした。昔トルストイの「戦争と平和」を菊版の四冊かにして出したりした国民文庫の中にプルタークがありました、それがわたしの見た初めでした。それから、まるで字引よりこまかい字で二側にキッシリ印刷した英文のプルタークが、今も埃をかぶって棚にあります、建築字典などと一緒に。どうもあの本をよんだ人がいたと思えないわ、あの字のこまかさでは。買ったのは父か省吾という弟の人かもしれませんが。プルタークは、詳雑でありながらも、キラリとしたところは感じた人間なのね、キラリとするところがうれしくて荒鉱(アラガネ)のところもとりすてかねたのねきっと。
わたしはあなたが『風に散る』の第二、第三、とおよみになるのをたのしみにして待って居ります。これについては大変話したいことが一つ二つあるのよ、ムズムズして待って居ります。だって失敬でしょう、これからおよみになるのに、前からあれこれ喋ったりしたら。我慢して待っているの、ですから。
ヘミイングウェイというひとを、再び見直すことにも関係をもって来るのですが。あの第二巻をおよみにならなかったのは、小さい残念の一つね。「誰が為に」、の。
あなたもやっぱり『食』は御覧になったのね、何万人の人があれをあすこでよむでしょう。わたしもよみました、そして、同様に感じ、又こんなことも感じました、こういう本のかける人の神経は、何とのびやかだろうと。或意味では御馳走と一緒に人もくっているわ、ね。所謂嗜好を、支那古代人は、事実そこまで徹底させました。この和尚さんのは抽象的ですが。もう疲れたからあとは明日ね。このベッドの足の方のネジクギが一本ぬけてガタクリしているのよ、三本足の驢馬にのって山坂を下りる夢でも見なければいいけれど。キーキー云ったら、それはわたしがあぶながって叫んでいるのよ、そしたら、いつかのように、つかまってもいいよ、と云って頂戴。それは暖い初冬の夜の崖の上で、街の灯は遙か下にキラキラして居りました、その腕に遠慮がちにつかまったとき、わたしは体がそのまま夜空を翔んでその灯を踰(こ)えて軽く軽く飛べそうに感じました。シャガールは、ロマンティシズムにへばりついていて下らないけれど、彼の人生の一つの真実として、そういう感じに似て感銘だけはもっているのね、覚えていらっしゃるかしら、彼の誕生日という絵。しかしあれも、その初冬の夜の何の奇抜さもない奇蹟の美しさにくらべれば、つまりはこしらえものね、天井から翔んでふって来るのですものね、そのひとのところへ、花をもった女のひとが。
ああ、でも、どうして、あの崖のつるりとした坂道で、わたしがふと、こわがったのが、おわかりになったのでしょうね、どうして、あんなにすぐわかったのでしょうね。今年もやがて冬になり、あの坂道はやっぱり、すべりそうに違いないと思います。
十二日、くたびれて、こんなに間が途切れてしまいました。きのうの朝咲枝とび立って帰りました。子供のことは勿論ですが、あのひとにとってもうこっちの生活は、全くこしかけよ、まして今度はタンスも机も荷作りしてしまったのですから。あっちにある、自分が主人の机、餉台、家じゅう――つまり自分の生活へ、とび立って帰り、そのうれしさかくせず、わたしもどっかへ帰ってしまいたいわ、と、咲枝に台所で申しました。
きのうも陶器関係の用事で人出入り多く、今日も又大ガタガタつづきですが、さっき※[丸付き通]が来て、土間の荷物をみんな運び出したからこれで一安心でした。いいアンバイに国男がまだいて、防空壕の左官もいて、わたしは手をかけずすみましたから、よかったわ。
十日のお手紙けさ頂きました。早くついてうれしいこと。早くついたばかりでなく、うれしいお手紙でした。これへの御返事はゆっくりしたときこころもちよく書きたいわ、今は、あっちこっちで人声がガヤガヤして、まるで新聞社のどこかで書いているようなんですもの。しかしこんなに疲れているのに、わたしはこの頃誰にでも元気そうだ、と云われるのよ。何が原因でしょう、あなたのお手紙に、夏の頃より元気らしいとあるので、又思いめぐらすこころもちです。それは夏に負けた体だから涼しいのがいいに相異ないけれど、ひとの元気というものは根源の深いものではないでしょうか、わたしはそう思うわ、血気の元気は自然の年齢で鎮められてしまいますが、年を越え、肉体の疲れにかかわらず、猶、焔のようにその人を輝す元気があるなら、それは、内なる灯で、その灯の油こそ実に実に、ただごとで、そこに充たされてあるのではないのです。わたしはこの頃、自分の内心の幸福感に自分でおどろき、そのそよぎの活々した波だちに殆ど含羞(はにかみ)を覚えるばかりです。それはわたしたちのいとしい、いとしい燈明よね、改めてゆっくり、では。 
十月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
昭和十九年十月十七日
きょうは年に一度の十七日[自注14]ですから、紙も奮発していいのにいたしましょうね。いま午前十時すこし過ぎたところで、国が、用の電報を出しかたがた肴町の花やで菊の花を買って帰ることになって居ります。あいにくはっきりしないお天気になりました。でもゆうべは十時頃床につき、よく眠りましたから体も楽よ。
けさの新聞は、台湾の東方洋上とマニラの近海における戦果を公表して、戦史まれにみるところとして居ります。十七日に、こうしてしずかに暮せることは一つのたまものです。幾匹も頸輪をはずされて野犬となった犬どもが、一列になって、すがれた夏草の庭や落葉のたまった破れ竹垣のところをかけて通る様子は、これまでなかった今年の東京の秋さびですが、でも空のしずかなのはうれしいわ。たとえ曇っていようとも、ね。
国が帰って一束の菊をもって来ました。花やの店は大部分しめているのでたのんだのでしたが、肴町のも閉めていて、白山よりの左側の花やで買った由。白い菊、えんじの小菊、黄がかった中菊。この机の上にはえんじのをさしました。こんなに花のつつましい十七日は十何年来はじめてね。いつも花は困るぐらい溢れましたが。この花松という店、白山のわたしがはじめてポートラップというものをおそわった小さい喫茶店、覚えていらっしゃるかしら。あのすこし手前よ。ポートラップの店は今何を売るかしらないが形はあるようです。あの向いの南天堂のひどさ(本の)、それはどこも同じです。あの通りの中央に、大きい貯水池ができかかっていてほじくり返しのゴタゴタです。もう何ヵ月もよ、働いている人の姿もないままです。
ことしのきょうは、わたしとして特別に心からのお祝いをのべたい心もちです。わたしの胸にいっぱいのほめ歌があって、それをどういう表現で伝えたらいちばんふさわしいだろうかと思案いたします。くりかえし、くりかえし考えます。非個人的な感動やよろこびを、最も個人的なような立場のものがひとに話すことは殆んど不可能であると。しかも、そのように規模ゆたかなるよろこびを、個人として近いからこそ、ひとしお深くつよく感じて、一層非個人的なひろがりに到るということは、何と微妙なあやであろうかと。そして人のこころというものは、おろそかに外に洩らされない感動のそよぎに充たされるとき、それは響きにみちて鳴らずにいられません。きょうのおよろこびに一つのタンボリン(羯鼓)をさしあげます。それはわたしよ。手にとってつよくうてば、その羯鼓はよろこびに高鳴るでしょう。指にとってやさしくうてば、羯鼓は懐のなかで鳴くように、肌にそって長く鳴るでしょう。膝の前において見ていらっしゃれば、羯鼓は見られることをうれしく思って自分も飽きずみられているわ。決して退屈しない羯鼓をさしあげます。おまけにその羯鼓はおてんばもすきで、もしあなたが機嫌よさにちょいとえりをつかんでもち上げたり、ころがしたりなされば、毬にもなってお相手いたします。枕につけて寝れば、それは夢の中にうたうでしょう。
わたしのほめ歌の主題は、一本の樫の樹です。一本のすこやかな樫の若木が、草萌ゆる丘の辺に生い出でました。春の淡雪は若枝につもり、やがて根に消えて、その養いとなりました。夏の白雨は、靭(しな)やかな梢にふりそそぎ、一葉一葉に玉のしずくを綴って、幹を太らす助けとなりました。春秋いく度か去来して、今仰ぎみるその樹の雄々しさはどうでしょう。枝々は逞しく左右に張って、朝の日と夕べの月とに向って居り、梢は空にひいって、星を掃きます。鬱蒼とした枝々に鳥どもは塒を見出し、根の下草には、決してこの樹をはなれない一本のすいかつらも茂って居ります。樫は壮年の美に溢れるばかりです。すこやかな若木であったその樫は、この地上の誇として堂々たる壮年に達し、自然と人間をよろこばせます。ジュピターという神を、ギリシア人は意地わるもする神として考えました。自然力は横溢して、人間の都合をふみにじりもするからなのでしょう。
ところでこの樫を、天なる神は非常にいつくしみよみしているにかかわらず、折々霹靂(へきれき)とともに、おそろしい焔の閃光がその梢や枝におちかかります。その光景のすさまじさは、あわやその火の中に樫も根元からやかれたかと思うばかりです。しかし、雲が去り、風がやわらかく流れて煙を払ったとき、見れば樫は見事にその枝々をひろげてやっぱり堂々と立って居ります。只よくみると、一つの霹靂を耐え経るごとに、樫の枝と幹とは次第次第に勁さを増し、樹皮の創さえその成熟の美観を加えるばかりです。自然神は、その天性によって、いつくしみ、抱擁しようと欲するときにも、ありあまる力によって霹靂となってふりかからずにいられないし、火焔となって落ちかからないわけには行かないらしいのです。大樹とならざるを得なく生れついたその樫の樹は、この震撼的愛撫の必然をよくのみこんでいるらしく、おどろくばかりの自然さでその負担に耐えて居ります。そして年を重ねるにつれて重厚さと余裕と洞察の鋭さから生じる愛嬌さえも加えて来ているというのは、何たる壮観でしょう。樫の樹も人も知って居ります。雷によって枝を裂かれていない大樹は、一本もあり得ないということを。枝を裂かれつつ繁栄するそこにこそ大樹の大樹たる栄えがあるのだということを。そしてね、ここに一寸、おもしろの眺めや、というところは、例の樫の根元のすいかつらです。
樫が若木であったとき、奇しき風に運ばれてその根元の柔かい土の間に生えたこの草は、不思議な居心地よさに夜の間にものびて、いつか花もつけ蔓ものばし、樫の幹へ絡みはじめました。やがて蔓はのびひろがって枝にも及び、花の咲く季節には、緑こまやかな葉がくれに香りで、そこと知られぬ深みにも花咲くようになりました。
すいかつらというような草は、元来勁い草とは申せません。もしもひよわい枝にまつわれば、その枝の折れるにつれて泥にまみれもしたかもしれません。この樫の根に運ばれた不思議によってこの蔓草は、今やその草とも思われなく房々と大きやかに成長して、蔓の力もあなどりがたくなりました。
雲脚が迅くなって、黒い雲が地平線に現れるとき、樫は迫った自然の恐怖的愛撫を予感して、枝々をふるい、幾百千の葉をさやがせて、嵐に向う身づくろいをいたします。そのときすいかつらも自身の葉をそよがせ、一層しっかりと蔓をからみ、樫と自分がもとは二もとの根から生れたものであったことをも忘れ、もしも雷霆が一つの枝を折るならば、蔓のからみでそれを支えようと向い立ちます。その気負い立ちを、樫は自身の皮膚に感じます。そして太い枝の撓みのかげにすいかつらをかばって、むしろかよわいその恋着の草を庇護いたしますが、気の立ったすいかつらは、自分こそ、その樫があるからこそそうやっていられるのだということを気づかないのよ。しきりに葉をそよがせて力みます。樫にはそれが気持よく、すこしこそばゆくもあるのです。ですから、よくよく気をつけて嵐の前の樫をみると、風につれてリズミカルに葉うらをかえす合間に、時々急にむせるように、瞬くように、全身を小波立たせることがあるでしょう。あれは樫の笑いよ。するとね、すいかつらはいかにもうれしくてたまらないように、わきにいる小さい苔に囁きます。ほら、笑ったでしょう、樫が。あれで結構よ。樫の勇気はあのひと笑いで、すっかり定着して、ゆとりが出来て、益〃立派に発揮されるのよ。さあ、もう私たちはおとなしくね。そして、蔓に力をこめて絡みつつしずまります。どんな嵐にもふきはがされないだけぴったりと。すいかつらが、分相応の智慧にもめぐまれているというのは自然の恩恵と申すべきでしょうと思います。
わたしのほめ歌は、ざっと以上の通りよ。さて、これをどんな長歌につくれるでしょう。なかなかむずかしい芸当です。こうして話すしかわたしは能なしらしゅうございます。樫とすいかつらの万歳を祝してこのおはなしはこれでおしまい。
きょう(十八日)夜着届けました。きのうは咲枝も多賀ちゃんも十七日に届くように、と小包を送ってくれて、咲からはあなたへ草履、多賀ちゃんからは冬の羽織の縫い上ったのに、こまごまといりこや橙の青々ときれいなのや、お母さんからの豆などよこしてくれました。繁治さんと夕飯をたべ、夜も愉快にすごしました。栄さんは移動劇団と一緒に四国旅行ですって。世田ヶ谷はおつとめ。こっち方面は月末か来月に一たて別にゆっくりいたします。光から郵便小包出ないらしいのよ。鉄道便でくれました。こちらからは小包行きますが、島田と多賀ちゃんにおついでの折お礼を、ね。栄さんたちもおよろこびに草履くれました。うれしいわ。二足のうち、どちらかは役に立ちましょうから。もう、もとのは半分こわれたでしょう?はじめっからあやし気だったのですものね。
十月十日のお手紙ありがとう。風に散る第二巻の、あの荒廃時代の描写は本当におっしゃる通りです。時間をとびこしたリアリティーを感じつつよみました。そういう意味では随分参考にもなりましたし、ああいう南部の女性たちが、ともかくああいうひどい立場に陥ったとき馬一匹をも御せるということについて新たに考えました。わたしたちのところには馬もいないわ。従って御せもしないわ。第二巻は、描写もひきしまっているし、作者のテンペラメントとよくつり合ったところと見えて、なかなか大したものです。第三巻と言行録の七、八、お送りいたします。第三巻をおよみになったら、あのわたしのたのしみにしているお喋りをくり出しましょうね。
言行録、ちょいちょいお先に拝見して思いましたが、家光の時代というのは、丁度いってみると明治興隆期(四十年ころ)のようなもので、実に卓出した人材が多かったのね。松平信綱なんか大した智慧者のように教わっていましたが、人物としてはもっと上品(じょうぼん)なる士が一人ならずいたようです。伊豆守は巧者なものなのね、智にさといというような男で、強く表現すれば極めて抜目ない秘書よ。剛直とか、深義に徹した判断とかいうことより、抜目なく世情に通じていてそれで馬鹿殿様や押し絵のように、ゆーづーのきかない役人を動かしたのね、常識家の下らなさがあります。大久保彦左衛門は、明治でいえば、何ぞというと御一新をかつぎ出す爺さんで直言が身上、但あの男だからと通用するというカッコつき人物ね。
本当の人物らしい人物たちは、昔風の忠義ということ(範囲)においてもつまるところは「事理に明白である」ということが基調となっているのは面白うございました。だからこそ時代をへだてた私たちに感興を抱かせるのね。同時に、そんなにきょうの日常は、事理明白ならざる混沌のうちに酔生しているのかともおどろかれます。
渾沌についてはきょうはすこし感想があるのよ。勉強をしている人間としていない人間とのたのしみかたの相異ということです。一人の人についてみても、その相異はあらわれるという事実についてです。何も本をよむばかりが勉強ではないが、本を読もうとする身がためには勉強の精神と通じたものがあります。生活の中心から勉強心がぼけると、遊びかたがちがって来るのね。只話していて面白さがつきないという風なところ、或は黙ってそこにいて何か面白いという風な精神の流動がなくなって、何か所謂遊びをしないとたのしみにならないような空虚さが出来るのね。丁度精神の低いものは、くすぐりやわざわざ茶利を云わなければ笑うことも出来ないようなのと同じね。人というものが、対手によって自分というものを表出する方法をかえるということは面白いものね。自分がもしそれぞれの人の高い面でしかつき合われていないとすれば、それは遺憾めいては居りますが、そちらの低さについてゆくにも及ばないことだわ、ね。同じ人に玄関と裏口があるのね、そうしてみると、わたしはやすホテルの室かしら。入口も出口も一つきり。あとは窓きり。可笑しいわねえ。わたしは、所謂遊びにはまりこめないわ。女が自覚しはじめたとき(十八世紀)そういう人たちが申し合わせて先ずカルタをやめた、というのは、素朴なようでなかなか意味のあることですね。昨夜いろんな話をふとしている間に、そんなことを痛感いたしました。ブランカのかくし芸なしに祝福あれ、と。
風に散るの中からの引用。わたしも感じをもって読みとった行でした。それはこの手紙のはじめに感じている非個人的、そして個人的、更に非個人的な高揚の感覚と等しいものです。アシュレが、誰かの句を引いたのね、スカーレットには一生かかっても分りっこない文句の一つとして。世田谷へかえす本もって参りました。間違わずいたしましょう。あのプルタークなつかしい本の形ね。(以下、この頃の郵便局のむずかしさを書いていて、墨で消されている。)

[自注14]十七日――顕治の誕生日。 
十月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十月三十日
きょうも亦雨になりました。よく降る秋ね。まだ秋空晴れて、という印象のつづくときがありません。日本の秋も北方大陸の秋のように、先ず毎日の雨で示されるようになって来たとでもいうのでしょうか。今頃ヴルヴァールの枯葉が雨の水たまりに散っていて、急に雲のきれめから碧い空の一片がのぞき、その水たまりに映ったりしていた光景を思い出します。夏の夜は白い服の人々やガルモシュカの音楽や声々の満ちていたベンチが、人気なくぬれて並んでいてね。公園や並木道の秋、雨の日などの風情は、このぬれて空なベンチで特徴づけられます。リュクサンブール公園は今度の巴里の戦いでは主戦場になったそうでしたから、この秋あすこの美しい樹木や彫像や其こそベンチはどういう姿で秋日和の中にあるでしょう。十月下旬は驟雨が多いわ。その中にふとコーヒーの匂がするという工合で。ムードンの森も、きのこを生やして、しずかでゆたかな森と云えない秋ですね。リュクサンブールのぐるりには中国の留学生が多くて、あの人々のフランス語は自分の国の喉音や鼻音と共通なところがあるせいか、きわめて自在です。互に自分のことばで話さないのよ。でも、やはりこの附近のやすい支那飯やへ行くとそこは国の人ばっかりで(ああ。そうそう。裏へ返さなくては。つい忘れて)お国言葉で談論風発です。国事を談ずる、という風にやっていてね、独特な野性味があって、つまり地声でやっているのね。外国人の話す外国語で、この自然な地声で喋れるようになるにはよほどであると思います。語学の道から云うとなかなかなのでしょうが、一寸別の道、人間の出来、というところから云うと、いつもそう話す、という程度の人間も少しは在るわけです。ひどいのになると、自分の流暢な語学にひっぱりまわされて、本心が我ながら分らないような人間もありますが。
さて、きょう、あなたの御気分はいかが?やはり忙しくてお疲れ?わたしもきょうはすこしおつかれでおとなしくなっているのよ。きのうの日曜は、風呂を立てた翌朝なので、朝の台所を終ると、洗濯をしました。あなたの白麻の長襦袢やなにかを。国も在宅で、労働服着て、バキュームを動かして、カーペットの塵をすっかりとって、食堂に敷きました。真中に継の大きいのがあるけれども、冬仕度の出来た気分で――あなたにすれば、綿の入ったものがお手元にある気分で――よくなりました。夏じゅう板をむき出していたの。
おひるをパンにしようとしていたら(国、自転車でとりに行きました)燃料がなくてパンやに配給なしだというので駄目。何とかおひるをすましたら、倉知の樺太にいる従弟が上京しているのが、息子同伴で夕飯に来るとの電話でした。ブランカ一時に緊張し、前かけの紐しめ直して台所へこそ、いでにけり。だってね、この人の健啖は勇名轟いていて、わが家の剛の者が束になってかかったってかなわないのよ。紀の兄で十八の息子が紀のところから専門学校の機械に通って居ります。この豊寿という人は、十七年の七月末にわたしがひっくりかえった晩林町へ上京して来て、家じゅう空っぽにしてかけ廻る番人をしてくれたのですって。三日目に気がついて何かお礼云ったのを覚えて居ります、ですから、わたしとしては三年目の上京には、ひもじい思いをさせられないのよ。台所の戸棚あけてつらつらと眺めますが、あるものと云えば、さつまいも、かぼちゃ。どっちも自分として、とびつく気にならず。パタパタ火をおこしていながら思案して、ないにはまさる、とカボチャうんと切って味丈は美味しく煮て、火なしコンロ(おはち入れの応用)へしまって、さて考え考え足し足ししてお米をとぎ、汁のためのダシをとり、その間、腰かけへかけてアン・リンドバーグの「北方への旅」のつづきをよみました。アンは利口な女性です、本をかくにも、話術を忘れません。女らしくきのきいた(機智のある)ものの云いかたの中に批評も反駁も主張もふくませる、という調子で、アメリカの所謂上流文化人の社交性の文字化されたような味があります。スカーレットの、何ぞというと男の眼ざしなんか丈気にしていた時代の女の利口さが、どの位前進して来たかを感じさせます。そしてアンは御亭主自慢を実に上手にいたします。一つだって直接に称讚なんかしないわ、もっともっとタクトがあって、リンドバーグと他の飛行家の談笑ぶりの間にリンディーの頸首のしっかりさのわかる好もしさのわかる会話を入れたり、北千島の濃霧にとざされたときのリンドバーグの勇戦ぶりを、全く飛行の側から、自分の恐怖の側から書いたりね。首ったけ、というところをいかにも器用に、読むものにもリンディーの好ましさと思わせるように話していて、一寸あれ丈のコツのわかっている女は、女流作家の会、あたりには見当りません。アンの精神はなかなか強靭ですし生活の幅もあります、こういう人が、ギャングに自分の子をさらわれて殺されたことを、自分の国の現代というものの実情としてどんなに感じたでしょうね。アンの心の底には、アメリカという社会について、解答のたやすくない疑問、或は質疑があるわけです。
アンのこの本をよんでも、アメリカの愚劣な宣伝マニアが分り、アンがへこたれて居ります。例えばね、アンが飛行機にのろうとして到着すると、婦人記者がつめかけて来て、「お二人のお弁当に何をお入れになりまして?奥様全アメリカの婦人が知りたがっていることでございますわ」という風にやるのよ。日本の記者の愚問も相当ですが、幸なる哉、まだ家庭欄は、こんなおそろしさで全日本女性の好奇心を発揮いたしません。その上、一人の記者がデンワかけているのがアンにきこえます、「彼女は皮の旅行帽をかぶり、なめし皮のジャケットを着て厚底の靴をつけている」ところがどうでしょう、つい鼻の先にいる当のアンは木綿のブラウズをつけてズボンつけて、汗かいて、マアこの暑さに皮ジャケットなんか生きている者がどうして着られよう!と思って、びっくりしているのよ。
アメリカのそういう愚劣な宣伝病と暴力沙汰――すぐピストルを出す――は、アメリカという国柄の特徴のマイナスの半面ですね。勝ったものが勝ったもの、という神経の太いより合い世帯の社会で、個人というものの価値の目やすが、現代に近づくにつれて低下して来て、世に勝つための機会均等が、アナーキスティックだから、ギャングまで発育よくなって来てしまうのですね。日本の徳川末期の侠客、ばくちうちには、発生にモラルがあって徐々に堕落して町の顔役になったのでしょうが、ギャングの発生にモラルがあったでしょうか、ギャングについて私たちは本当を知りません、映画で妙に色づけられて居るに過ぎません。金力による腐敗のアナーキスティックな所産たる腕力、武力がギャングと化し、精神的暴力が宣伝病です。アメリカ気質はあって、個性はありません(この宣伝病の中に生れ育って免疫が出来なくてはならないため)ここがヨーロッパに比べて実に興味があるのね、ヨーロッパ諸国の知識人は過去の重しと争って個性というものをわがものとしました、そのままそこの国に定着しているから、歴史的圧力としての伝統のよさわるさと自我のマサツが今だに絶えなくて、よりひろい社会的自覚への道も個性の道を通ります。アメリカは何と表現していいかしら、物心づいたと一緒に自分たちを新社会の建設の中に移して行ったから、個人の権利の主張が直ちに開拓者的自在性、自信、腕で来い、適者生存ということのむき出しの現実とつながって、ドイツ風な教養小説の精神、個性の完成というような問題が、その日々の現実の中で、解消されてしまったようです。アンの本を見ても其を感じます。歴史的過程として自身を感じるというより、この瞬間の感情的生活が最も多様な要素を集約している、という風ね。
だから、アメリカ文学の波の動きも独特で、個性というようなのはポーぐらいではないの?ホイットマンはもうそういう生成過程のアメリカがマーク・トゥエンの時代からそこまで動いたことを示す社会的精神であったしシンクレアにしろ更にヘミングウェイにしろ、個性に加うる社会性――芥川と彼の時代への感応――という風ではなくて、もっと大づかみなアメリカ気質と呼ばれるべきものに時代性がくっきり刻まれているように思われます。彼等の進歩のしかた、新しくなりかたはそういう風で、一本の樹の梢があれ丈ゆれるから、さてはあの山は風が当るな、と思って見られるのではなくて、山じゅうが揺れるみたいで、その中で、特に目立つ樹が目につく、という風ね。封建的なものを知らない、そのじめじめ神経の張った黒い力は知らないが、真夜中にギラギラ白昼燈をつけてオートバイの競走をやって血を流す、明るすぎての暗黒力があり、其に対して芸術家は反応するのね、世界文学という見地からアメリカ文学のこの特徴は極めて興味があります。民主的な国柄の文学は所謂個性的なものに神経質に把われないところから、その一歩先から発足することは共通であり、直接社会にふれた文学にならざるを得ない本質も同じようですが、さて近づいて見ると、そこには興味つきぬ差別があってね。「怒りの葡萄」のスタインベックでしたか、生理学と物理学の勉強しているというの。アメリカ的渾沌にあきて、彼は法則の世界を求めているのでしょうね、法則を知りたいのよきっと、ね。人間の理性にたよるべきものを見出したいのよ、ね。しかし彼に誰か人あって、人間の文学は、パブロフ以後の生理学の示す第二命令系統(セコンドオーダーシステム)の問題であること、単なる生理的(物的)反応が人間精神でない、ということを示してやらないでしょうか。科学の貧困が哲学へのめりこみ、文学の貧困が自然科学へのめりこむ工合は複雑ね。
そう云えばフランスでは最近シュバリエがマーキによって命を失いました。ピアノのコルトだの所謂名人が同じフランス人によってとらえられました。シャトウブリアンの孫の作家がどっかへ亡命し、NRFの或編輯は自分の頭に玉を射ちこみました。街の歌手、あんなにフランスの民衆が彼の粋さを愛していたシュバリエですが、悲しいかなその粋(イキ)は商品であって、巴里っ子魂ではなかったらしいのね。芸術的技能が商品化した連中は、国際市場の変動につれて、価格暴落でね。
さて、話は家事茶飯に戻ります。樺太で電気技師をやっていると、ちがうわね、こまかい当節の波にもまれていなくて、若々しい専門的興味があって疲れたが面白うございました。この人が息子をつれて神田で見つけた大得意の本は、十九世紀の水力モーター(水車)について書いた本です。英語の。今の文献に、そんな大時代のものの説明はないから閉口ですって、そういうキカイを実際に使わなくてはならないからね。電気の人はなまけていたら飯のくいはぐれになってしまう由。この人の弟は東京暮しで、会社の拡張係か何かやっていて、もまれていることねえ。もまれて(スフの布のように)ついたしわがそれなり消えずにいく分人間的固定の感があって。気のこまかい人、それを自分のプラスの面と心得ているような人は、我からもまれるのね。秀吉が大気ということを人間鑑定の中に入れたことは当って居りますね。才人が才に堕さない唯一の道は鈍になり得る力があるかないかのところね。対人関係の中に終始しないで、電気一本しっかりつかまえている丈で、人間も違いが出て(四十代でめっきり)大したものね。きょうはこれからそちらよ、では。 
十一月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月四日
きょうは雨も上ったし風もないし暖いし、いい日になりました。ブランカは、今、洗濯ものをして来て、キモノをきかえて、食堂のテーブルに向ったところです、煙草が吸えるなら正に一服というところです。十時すぎに、国と、手伝っている事務所の女の子が開成山へ行きました。一人よ。ですから全く二人きりなの。
三十一日の次の一日が空襲警報だったし、二日はそちらへ行って、夜、どうかして疲れすぎて心悸亢進したりし、三日はきょう立つというのでソワソワで一日中落付きませんでした、雨がひどかったしね。こうやってしずかで、二人きりなのは大変休まります。ゆっくり一日休めるような日は、あなたはほんとに少ししか口をお利きにならないことね、殆ど一日用のほかはものを仰云らず、体を楽にして軽いものをよみながら、そういうしずけさの中に充実している心もちよさを吸収なさいます。きょうなんかは、確にそういう日よ。わたしも同じ沈黙の賑わいを感じ乍ら、ゆっくり台所をしたり本をよんだり、心から愉しいでしょう。
国男の事務所は、十一月一日からボカシのような工合で、内容が入れ代り、事務所のカンバンは出ているそうですが、所員は国一人で、協電社という小さな電器会社の本社となりました。国は十年ほどそこにひっかかりがあって、今度は何をするのでしょうか、ともかく、そっちへのびるようすです。あの人とすれば、不鮮明な外観をとりながら、父の没後負担至極であったものを閉じてさぞ気が楽になったでしょう、半日ばかり開成山へ行くと出かけました。
さて、十月二十日のお手紙、二十七日のお手紙、そして、十一月一日の分、どうもありがとう。十七日のための歌謡やタンボリンが、お気に召してうれしゅうございます。「多少ユーモラスな」すいかずらは、自然のめぐりは健やかであって、冬来りなば春遠からじ、ということを大分会得しているらしいから、ユーモラス乍らすてたものでもございませんね。そして、程々ならユーモラスなのもわるくもないと思うのよ、賛成なさいませんか。堂々とした樹と同じ丈堂々と出来っこないのだし、しゃっちこばって堂々めかして勘ちがいしているよりも、分相当に枝もそよがぬ風にこちらの草はちょいとはためいて見たりするのも愛嬌ではないの?ですから、あの歌謡にもあったでしょう?嵐のさきぶれが大気の中に迫るとき樫の木が笑うと。それはすいかずらがそわついて樫が擽ったいからだ、と。あの通りよ。すいかずらにしてみれば、パタついて、ほれほれと樹に笑われて、一層安堵するかもしれないのね、草にだって神経があるから、神経の鎮撫として、ね。すこしこそばゆくないすいかずらなんか天下にないのよ。耳の短い兎がどこにもいないように、ね。
クライフは近頃でのいい本でした、太郎が成長してああいう本をよろこんでよむようになればいいと思います、きょう、イーリンの『時計の歴史』をもたせてやりましたが、まだすこし早いかもしれないわね、ふりがながないし。太郎のためにと思って、いい本みんな国府津へ送ってやってしまって、あすこもどうなることやら。地下室にしまいこまれているらしいようです。開成山の疎開荷物に、本の木箱二つが仲間入りいたしました。本をいじっていて感じましたが、本の大事にしかたというか重点のおきかたも、その人の成長の段々をきまりわるいばかり反映いたしますね。蔵書というものは大切なものね、その人の内部があらわれていて。文学者はとかく雑書が多いというのは、特長的で、しかもマイナス的特徴ではないでしょうか。
本のよみかたについては先般来、一冊の医者の本も、どのように読まれるか、ということを痛感していたので、クラウゼヴィッツのことも身にしみました。或る優れた人は、一冊の本も、其だけの事実というか、リアリティーとして自分に獲得して、その地点では、読んだところまではっきり前進しその点は確保するのね。平凡な読みては、自分とその対象を相(あ)い対(たい)にしておいたままで、ちょいちょい本へ出入りして、わずかのものを運び出して来て自分の袋へつめこんで自分は元のところにいるのね。この相異は、結果として、一冊のよい本についてみても、よんだ丈のことはあるようになった人間と、「それはよんだ」人間と、おそろしい違いのあるものを生み出します。クラウゼヴィッツを、あれ丈のものを、もう一遍よみ直すお約束は出来かねますけれども、本を読むということについてのわたしの反省も、おかげさまですこし深められました。本を理解する力というようなものはまだ皮相なものですね、人生を理解したって文学は書けないようにね。読みかたに創造的読みかたと反映的よみかたとあります、後者は幻燈とその種板よ、こわいことね、種子板がどくと、白いカーテンばかりがのこります。何と多くの作家が、うすよごれたカーテンだけとなってしまっていることでしょう。表現派、新感覚派、シェストフ、知性、能動精神、人間性、歴史文学等。そこを生き経た人は何人で、種子板のいれ入り〓し、かわりに視点をうつして来た人は何人でしょう。思ってみれば、一人の人間が、もし真実其を生き通るならば、其はそんなに急にいくつも通過し得ないでしょうね、人間精神の変ってゆくキメは緻密で年輪はかたいものですものね、本来は。自然は人間が、持続しそこから発展し得るように、自然合理のテムポと理性を賦与しているのですもの。
本のよみかたについては、ひどく感じつつあったところでした。一つの本をよんだ、ということは、泳ぎにおける腕の一かきと全く同じで、一かきした丈は、体がそこへ出ている、ということを感じて、驚きをもって自分を考えました。そうあるべきだわ、それ丈の価値ある本は、そういう風によまれるべきです。ありがとうね。
二十七日のお手紙。おっしゃる通り親戚も世界にまたがって存在するようになりました。六月頃出した緑郎の手紙が一日に来ました。ノルマンディーに侵入がはじまった頃のパリで、まだそこにいた時分の手紙です。ざっとよんだだけだけれども、環境の関係か、急所でピンボケのようで、すこし残念でした。同盟通信に働いたり、夫婦で交歓宣伝放送に出たり細君のリサイタルをやったりしている様子です。僕等の活動についてお知らせしますとあり、いろいろそういうことが書いてあるようです。空襲警報のとき来ておちおちよめなかったけれども。パリを去るようなことは無かろうと云って居ります。その後の経過で限界もひろげられ愚かな人たちではないから成長もするでしょう。但し「選良(エリット)」すぎるのよ、大使館、正金云々とね、細君のひっぱりや緑郎の親の七光りで。外国でこれは用心がいります、出先の大使館のぐるりの生活は、土地ものの生活とのちがいがひどくてね。
多賀ちゃんのことは、現にもうこうやって一人になってしまって居りますし、今度は一人も亦よしらしいからどうか御心配なく。
十七日がしずかだったのをたまものと表現したからと云って、あながち、タマモノと思っているのでもないのよ、ハハンと笑って、わたしも一本参ったと申しましょう。でも、あなたねえ、何て、あなたでしょう、その点では痛快のようなものですけれど。
クラウゼヴィッツは市ヶ谷の頃よみました、面白く、感服もして。そして、忘れもしたというのは、きまりがわるいわね。
十一月一日のお手紙大変早く二日に頂きました。
今年はたしかに寒さが早うございます、この秋は秋刀魚も焼かず冬となる、よ。秋刀魚なんて、ほんとにどこへ行ったでしょう、うちの柿はもげましたが。
このお手紙にはブランカのバタツキ占星術克服のために、よめとおさしずがあり、一般的に、勉強を怠らない精神がどんなに大切なものかということは、十七日のあとの手紙に書いたとおりの実感です。あわただしければ遑しいほど着実な勉強が必要です。そしてそのことについてブランカは現時代人として最も貴重な教育を受けつつあると感じて居ります。これらのことについては、一まとめにして、別にかきます、あれこれの間に書くにしては余り貴いことだから。抒情的に云えば、わたしのこころに鳴るほめ歌の物語ですが、それは天上天下にひろがっていて、最も骨格的なものに通じるのよ(ブランカ流にしろ)ですから別に。
『名将言行録』について何か筋の通ったことをかくことは、容易でないでしょう、そういうのではないのです、あの中に語られている人、その逸話にあらわれている人間としての質量などについて一寸かきたいのよ、そういうものならばそういい加減な饒舌にもなるまいと思います。作家論の延長として、作家以外の人物について語ることもすこしは私の可能のうちに入って来ているだろうと思います(自分の成長との関係から見て)
「綿入れ」とかっこつきでほめて下さるからうれしさひとしおね。笑い話です。そちらからの帰り、ハタト当惑してね、送った荷物は着かないしいかにせんとしおしお日の出町の停留場へ辿っていたら天来の霊感で、ホラあのこと!と思い当り、それから大童でもんぺはいて熊の子のように着物と綿とのぐるりを這いまわって、やがて仕上げた「綿入れ」には、一家をあげて驚歎いたしました。「マア、先生、おえらいこと!! 」凄いでしょう?女医でなくて先生になっちゃったのよ昨今。ほかによびようがないのですって。致し方もなし。これというのも、この節は夜具屋が縫わなくなって、うちで人に手伝ってもらって夜具の綿入れをいたしましたから、それで、おそろしながら「綿入れ」と称するものが出来上ったのよ、あれこそブランカ特製品ですものね、アタタカナラザルヲエンヤ。 
十一月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月七日、これは、秋晴れの空からひらりと散って来た一枚のもみじの葉のような手紙。
さて、只今午後三時半。五日以来日に一度の行事も、本日分は終ったというわけでしょうか。さっき、もう一寸で出かけるところで、おべん当もこしらえて、まさに着物を着かえようとしていたら始りました。そのおべん当を今たべて一服というところです。
何年も、「一服」の手紙をかいて参りましたが昨今の「一服」は極めて時代的です。一日のときは、みんないましたが、壕の準備がしてなかったので大いにせわしない思いをいたしました。次の日にこたえる位。五日、六日、きょうと馴れて来て、次第に準備も出来て来て、きょうなどの成績は上の部でした。九時すぎに「定期」が来るから、けさは早くおきて御飯もゆっくりすませ、あおりで飛散したため、傷をうけることがあってはいけないと台所のガラスの空びん空カンなかみのあるビン類すべてを始末してあげ板の下にしまいこみ(只今ラジオのブザが鳴り。動坂の家のようなのよ、警戒警報解除)窓と水平の棚の上のものをすっかり空にして、引越し前の台所のようにしました。積年の弊がえらい状態のところへ、この頃は空カン空ビンみんな入用なのよ。ですから私はじめ保存病にかかっていて、役にたちかねるの迄すてないのね。(思い出してひとり笑いいたします。ブランカ、かんだけの保存病だと思っているネと笑われそうで、そっちの保存病は数年前に大分治癒いたしました。)午前中其をやって、ホホウ、きょうは「定期」が休業ならと支度していたら、千駄木学校のサイレンが唸り出しました。近いからその点いいこと。本当に鳴り出す前の唸りの間に大ヤカン一杯の水は汲めます。
うちは、まだまだ整備どころではないのよ。国の性質は物臭さの屁理屈でallornothingと、イプセン流なの。ですから、いろいろ放ぽりぱなしで「姉さん、いざとなったら同じことだよ」と、この間うち土蔵から出した陶器類ね、ズラリと並べたまま自分は開成山なの。いい度胸です。ですから、わたしは女心の小心でね、昨夜は日本でも珍重すべき参考品をあまり芸術家として心ないと惜しくて大事につつんで、ガラスの棚から大きい古米櫃にうつし、蚊帳でくるみました。気休めね、埋めなくちゃ何もならないのよね、本当は。いざとなって同じというのもいいが、ものはすべて一挙に行きませんから、家じゅうのガラスがみんなこわれて雨が入り、室じゅうガラスの破片だらけで、腰かけるところもないようになって、しかもまだ家だけのこる場合だってあるのですもの。わたしはガラスの生えた席というものに大した嗜好をもたない以上、自分の安眠のためにもね、働かざるを得ません。
こうしてポツリポツリと働いて怪我の要素を減じてゆくというわけでしょう。でも昨夜はわたしもなかなかよ。午後になってから、思いたって、この間にとお風呂をわかしました。疲れたし働いてよごれたしかたがた。たしなみがいいでしょう?一人だと却ってそういう早業がききます、気が揃うから。然し、一人きりなのは神経の緊張が自分で心づかずにゆるまなくていけませんね。こわいというのではないわ。緊張のゆるまなさ。昨夜もそれについて思いました。自分なんかこんなことでさえそれを思うのだが、と。自分で自分をくつろがせてやる術も入用ね。神経の緊張をゆるめる術を会得することは、私に特に必要でしょうと思います。やった病気の性質からね。
ブランカのくつろぎかたは一風あってね、かたくなったような頭を、一つのしっかりとした胸のところへもってゆきます。それは爽やかに、春の紺の染色が匂っています。その紺の匂いと胸の厚さには限りないあたたかみがこもっていてね。黙ってじっとそうやっているうちに、息がやさしくなって、次第にすやすやした自分を感じます。紺の匂う胸は、格別その間に一こともいうわけではないのよ。ただ頭をもってゆくと、すこし動いて、おさまりのいいように、羽づくろいをするような丈です。その微かな身じろぎに何と深い深い受け入れが溢れているでしょう。タンボリンはしずかに鳴りはじめます。冬でさえもそこには春のあった風が渡ったせいでしょうか、それとも二つの息があまり美しく諧調を合わせたせいでしょうか。
きょうは十日です。鴎外の翻訳だと、「楽(がく)の音はたとやみぬ」とでも云いそうに、旋律は途絶えました。あすこ迄書いていたら寒気がして来てたまらなくなったので、早速熱いものをのんで、ゆたんぽをこしらえて床へ入ってしまいました。夜の九時頃まで眠って目がさめたら、寒気はとまって、おなかがすいたのが分ったので、おきて御飯こしらえてたべました。働きすぎや何かで疲れたのね。八日のひる頃、そちらへ行こうとしていたら、寿江から電話で見舞いに来てくれました。八日の晩と九日の晩は、数日来になくよく眠って、大分きょうはましです。眼がすこしマクマクぐらいのことで。寿はきょう一寸千葉へかえり、明日又来てくれる由。「いくら壕があったって、たった一人おいておくなんて」それが本当よ。心もちの上では、ね。壕が丈夫だから一人でいいというのなら簡単ですけれど、もし万事それですめば。
この間うちから落付いて書きたいと思っていたことも、間奏曲が入って来てしまいましたから、これはこれでまとめてしまいましょうね。こんなに凸凹したような手紙、珍しいし、へばり工合が、おのずから窺われもいたします。本もののときなんか、たった一人というのは、あとの疲労の重さの点からもよくないと思います。段々こんな風に修業してゆくうちに抵抗力もますのでしょうが。
多賀ちゃんから手紙が来て、いつでも行くと云って来ました。どちらにいてもめぐり合わせだからと小母さんがおっしゃるしって。けれどもやっぱり来て貰うのは先のことにいたしましょう。第一国男がこれから先どの位田舎暮しをするのかそれも分りませんから。あのひとは、多賀ちゃんがいくらか気づまりなのですって、「馴れていないからね」。きょうは、いいものが島田から参りました。栗よ。いつもあすこのは見事ですが、もう今月から一切こういうものの荷物は送れないことになりましたから大打撃です。とくに開成山から全く野菜が来なくなるのは厨房係には涙ものです。では別に。 
十一月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十九日
きょうは少し嬉しいこと。雨が上ったばかりでなく、久しぶりで一人の時間が出来、家にいることも出来、ゆっくり書くひまが出来ましたから。金曜日に、風邪がうつって、と云って居りましたろう?あれが少々本物になりかかって、きのうは体じゅうこわれたセンベのようになって床について居りました。今日は眼の工合がわるくて、その点では書きにくいけれども、ぶくぶくに着て起きて居ります。出る用が多かったところへ寿が先ず床についてしまって(十六・十七)その上、久々でわたしと十日も暮したので、甘ったれてくっついてはなれないので、十六日に一頁かきかけて、珍しく中断してしまいました。六日、十一日、十四日とお手紙頂いていて、随分たくさんのお返しがたまった次第です。先ず、ブランカのばたくり占星について。
七日のあとに書いた手紙なんかは、典型的ばたくりを反映していて、あれは自分でそれを知らずさし上げたのではなくて、寧ろ、まア御一笑を、というところもあり、仔犬のフコフコもあり、かたがただったのよ。そんな気持がなければ、もっともっと烈婦らしい書きぶりの手紙さし上げたことでしょう。わたしは、家のものたちから余程万能薬と思われているらしくて、わたしの淋しさとか不便とかこわさというものは、全然無視したスパルタ的扱いをうけ、その点ではいや応なしの荒修業です。愚痴をこぼしたってはじまらないから、偉くなって居りますからね。だから、そちらへは、つい、もたれよって、フコフコになるところが少からず、というわけです。だってあなたは、わたしが疲れるとかこわいとか云ったって、少し苦笑して、せいぜい勉強することだね、とおっしゃることは分っていますもの、こうして姉さんやって行けないんなら、田舎へ行って貰うしかないね、なんておっしゃいませんからね。そしてわたしは東京にいなくてはならないのですもの、ねえ。
土台、わたしのばたくりは、春頃と今と本質的にちがって来て居ります。春ごろのは、本当のばたくりでね、ああいうことがあろうか、こういう風になっては困ると、いろいろの情況を予想して気をもんだ形でした。まだ体がしゃんとしなかったし、急に家じゅうすっからかんになってしまって、もし自分がどうかあったら、あれもこれも、どうなさるだろう、と後脚で突っぱった驢馬になってしまったのね。「あなたはそうおっしゃるけれども」は、私の一代の傑作と見え、大変きつく印象されて、今だに再出現するのは恐縮の至りです。
今のばたくりの本質は、どんなことになるだろうという風な恐慌的のものではございません。あとで、きょうこそ書けますけれども、生活について、この夏から徐々にわたしの心持は変化して来ていて、どうなるにしろ、という大局の落着きが根底に与えられて居ります。従ってこわさにしろ、首をすくめて浅い息をしているという形ではないのよ。遠くのボーをサイレンかと思ってハッとするという風なものではありません。わたしは、のろのろしているが、割合突嗟の判断はたしかですから、そういう場合の自信もあります。今ひどく疲れたり、へばったりするのは、具体的に、急な時間のとき処理しなくてはならないものが、あなたとわたしの事物ばかりでない、ということから来て居ります。五分間に二本の手が出来ることは大体きまったものです。リュック一つにしろ自分の分だけなら何でもないのよ。しかし先日のようなときは、一人で三つ始末しなくてはならず、その上、食糧のことも何もかも集約的にどっと来るから、一人ではあと大へばりするのよ。もしかしたら、わたしのやりかたは、少々ピントはずれかしら、とお手紙よんで考えました。一人の人間しかいない以上、一人だけの用を先ずしておいてあとはそのときという工合で、当然なのかしら。腹も立つわね、日頃何一つ心がけず放っておく人は其から来る不自由をしてみればいいとかんしゃくも起したいことね。バカ正直で、自分がいるのにと、つい柄にもなく意気ごんでクタクタになって、あなたから信用失墜ではユリちゃんも形なしね。わたし一身のことは(ばたつきの一形態かもしれないけれ共)日頃心がけて、ブーとなってからそれというほどでもないのよ。高射砲の音をきいたからと云って、まさか足どりがあやしくもなりません。今が今、いつ来るかと兢々ともしていないわ。
余りわたしが意久地なしのようで相すみませんから、一通り弁明いたします。こんどは、例えば自分で気をつけもしない外套をわたしが何とかすると期待したりして貰わないようにするわ。先ず一人単位ということにするわ、ね。そうしたらあれこれの配慮がずっと簡単化します、ガラスだらけの家になったら靴ばきで歩いて暮すわ、ね。十何年も前の冬、本場でスケートの稽古をしようとして金(カネ)のうってあるスケート靴を買いました。そしたら、肝臓の病気になって三ヵ月も入院しているうち春が来てしまって、その靴は、籠に入れられて帰国したまま先達ってまで、新聞にくるまれて居りました。もう無いと思っていたのよ、それが出て何とうれしいでしょう。本場で寒中用、スポート用ですから内側が暖く出来ていて、編上げだから丈夫ですし。底が、釘のあとの(金をとってしまったあと)小さい穴があって、本当は、ワックスでもぬった方がいいのでしょうが、この間、そちらへ一度はいて行ったら、小さい穴もいい工合に泥でつまったみたいです。
体つきから云っても、わたしは烈婦ではないかもしれないけれども、少くとも勇婦ではあり得そうです。烈婦というものはね、やせ型で、眉根キリリと、つり上り唇薄くやや三白眼なのよ。御亭主にも魂をとばしたりはしないものなのよ。勇婦というのは肥って丸くてよく笑って、甘えたいところもあって、でも腰ぬけではないものです。「一旦ことおこれば、ともに岩きにこもらまし思ひね、わが背」というところがあってなかなかいい筈のものだと思って居りますがどうでしょう。わたしは、ぬけ上った額が黒赤く光って、肩の骨の張った烈婦よりも、桃太郎風の勇婦が気に入ります。勇婦は一本の花を手にもっているゆとりがあって。天日微笑という日光ゆたかな情景には鉢巻しても頬のふっくりした勇婦がふさわしい図柄ではないでしょうか。
わたしのフコフコも「整理の必要アリ」になってしまって、これからは、少くとも勇婦類似的にかかなくてはならないのは一大事ね。自分に、漠然と、云わずかたらずかぶせられる負担を、明瞭に整理しなければいけない、ということがよく分り、いろいろの御注意をありがたいと思います。
『名将言行録』のこと、あれは、お手紙にもあるように人物の価値というものについて書いてみたかったのでした。松平信綱は智慧伊豆とよばれ、十分自他とも其を許した男のようです、それは、通俗の耳に今日も伝わって居ります。けれども、あれは、家康から三代経って家光という、封建確立時代の代表的智慧で、その下情に通じ、下世話にくだけた機智で、大名に対する商人の苦情を封じるところなど、むしろ憫然たるものがあります、智慧の気の毒さみたいな。それに、天草の乱のときの原城攻撃の態度、ぬけがけ手柄をしようとする、その他、属僚的機敏さはあっても、井伊や北條その他の気骨、大義、骨格を欠いています。人間の大事な礎をかいています、それらのいろいろの逸話を対比して、即効散的人物、重宝人物、何かにつけて「あの男を出せ」的人物が必ずしも人物の優秀を語らないことを書きたかったのです。今の人は、謂わば上の石は右へまわり、下の石は左へまわる間に、はさまれているような暮しが多く、今日の内容づけによる範囲でも常に大義と日常やりくり、うまくやることとの間にすりへらされて妙なキョロキョロした人間が出来つつあります。だから書きたかったのです。けれどもおっしゃる通りかもしれません。小さい書きものに終っては、はじまりませんからね。書いた内容さえ言葉足らずで。読書余録として、いろいろそういう読書の感想がのこされるのとはおのずから別ですから。
バルザック読みのこした分を又ノートとり乍らよみましょう。
この夏を通し、それから秋へかかり、この頃になるまでに、わたしの一生にとって二度とない収穫と成長の一時期が経過いたしました。この期間に、私が学びとりいれたことは、あらゆる読書執筆で代えられないものだと思って居ります。
病気になるまでに(十六年の末)十年間ほどの、わたしの成熟が一段階に到達して、あの頃、わたしが、くりかえし、それから先へ育つこと、「作家」を突破したいこと、を云っていたの覚えていらっしゃいましょう?自分のその希いのために、わたしは自分の病気も、原稿生活のないことも天祐と思って居りました。チェホフが沖へ出る、と表現したそれを自分に宿題として感じていたのでした。あの時分は、わたしにその要求がめざめていても、いろいろの潮加減で、水脈はとかく岸沿いにゆきやすく、執筆という櫂だけの力では、そこを横に切ることが容易でありませんでした。重宝者になることを、あの頃はあなたも注意して下さいました。生活の事情が停頓的なとき、(複雑な組合せと内容において)芸術家が発育の欲望をもつとき、其は屡〃悲劇をさえおこします。その人の情熱の勘ちがいから。トルストイが宗教へゆき、ドストイェフスキーが「悪霊」以後に陥った泥。弱少なる其々が、積極を求めて消耗的恋愛に入ったり、所謂経験渉りに焦って消磨したり。
わたしに、そのどれもが入用でないことはよくわかっていても、さて、自分の櫂一本では沖へ沖へとゆけませんでした。わたしの自力の不足もあるでしょうし、生活というものの現実のてりかえしもあって。ところが、この夏以来、一度一度とわたしは自分の無意識のうちに求めていた櫂の突っぱりの手答えがついて来て、この頃自分の内心深く眺めやると、何とありがたいことでしょう、岸はいつしか遠い彼方となって自分は沖に出ていることを発見いたします。先頃、波に漂う自分ではなくて航行しつつある自分を感じるよろこび、そういう感じに導かれる比類ないうれしさをお話したでしょう?勿論覚えていらっしゃるわね、それが更に継続し発展した自覚です。親船、子船にたとえて話していたのも覚えていらっしゃるでしょう?今になって感じをたしかめてみると、もう二つのものとして、曳かれている子船はなくなっているわ、面白いこと。子船はもう、親船と別のもの、附属もの、ではなくなって、きっちり工合よく親船の舷におさまって、親船のスピード、波をける力を自分のものとして納っているのが分ります。親船がどう向きをかえようと、スピードを変化させようと、もう曳綱がゆるみすぎるとか張りすぎるとかそういう心配は全く不用になって、小船は、身の程は忘れないながら、サアどのようにも、とよろこび確信しているのです。この、きっちりと入れこになって、沖へ出た感じ、何に譬えたら表現されるでしょう。いやで目ざわりで、そら又近づいたときらっていたごたごたした岸はいつかはなれて、潮先が、地球の規律にしたがってさしひきしているその沖に、今や航行中という感じは、どんな模様の旗をかかげたらば語られる歓喜でしょう。
精神の船は、赤道を通過しました。小さい櫂でエッチラおっちら、やっていた骨折りも決して無駄ではなくて、其は曳き船となり、更にもっと本式の航行形態となりました。
人間の内容が単純である時期は、一冊の本をよんでさえも、知らなかった一つの扉をひらかれます。時を経て、仕事もすこし重って来たとき、いざ沖へ更に、ということはどんな者にとっても一つの難業です。芸術家は、自身に破産を宣告しなくてはならず、仮にその勇気はあったにしろ、条件が不均衡だと破船いたします。その例が、どんなに多いでしょう。その芸術家の誠実さと難破の危険とは正比例するようにさえ見えます。「伸子」からその後の切りかえのとき、難破必至と観察されましたが、幸に乗り切ることが出来、それから先の、もっと内部的な、もっと切実な、成長は、かくも身もこころも犇(ひし)と美しさの感動の裡に可能にされたことは稀有なことです。婦人作家の歴史は、ここに到って、真に新鮮な、メロディーをもって高鳴ると思います。個人のよろこびを超えて居ります。沖へ出た感覚のまざまざしさ、おわかり下さるでしょう。
わたしの痛感することは、そのような可能を現実にもたらした一つの生活力の深さ厚さ活々さへの感歎です。人は何とやすやす偕に生きるというでしょう。ともに生きるということは、然しながら、どれほど大したことでしょう。真に生ききれる力量が、その無言の規模によって他をも生かすその生かせかたは、壮麗というべきだと思います。自身の生きる力の溢れによって、生きるべきものは、おのずからそれによって活かされてゆく、その創造の微妙さ。古代の埃及人は、肉体の創造されてゆく力、自然力を極めて率直に感歎して、視覚化された人体の形でその泉の下に生成する小人間を彫刻しました、彼等の壁に。その真面目な、原始の精神は、自然力の崇高な浄らかさを感じさせますが、今わたしの話しているような、こういう風な人間精神の生成の過程は、どういう表現であらわされるでしょう。文学と、そして音楽と。それしかないようです、そういう展開そのものが生粋の詩情と理性との全くすこやかな諧調からしか期待されないとおりに。人間の最も鋭い感性と雄渾な知慧との実のりです。
このようにして、わたしたちの愛する詩集の頁は、おもむろにひるがえされ、ひとしお溶けるように甘美であり、泣かしめるばかり調子高く、そして晴れやかにたのしい休息にみたされた新局面をくりひろげます。
大きく育つ樹はそれが天然だから、その育ちの大さを自分で知らないものかもしれません。しかし、その天真爛漫な樹も時には、自分の梢が、余り遙々と地平線を見はるかし、太陽がのぼりそして沈むのを見守っていることに心ひそかなおどろきを感じないでしょうか。
或る晴ればれした早朝、ふと目がさめて傍にすやすやとしているものを見たとき、それが自然である故にしみじみと新しくそのことを感じ直す、それに似たよろこばしき確認というものも、人生にはあります。そうでしょう?
一組のものが、どれ程の過程を経て真の一組となりゆくか、それを思うと、結婚などという字は、かよわい一画一画がくずれて、今は不用となった或時期までが足場の木のように思えます。 
十二月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月三日
もう十二月ね、今年があと二十八日で終ると思うと愕ろかれる心もちです。時間的に外からだけ見ると、時が経つのも分らないという位の遑しさであったとも云えますが、一歩深みを眺めやると、時間に詰めこまれた人間生活の歴史の立体的容積と動きとに又新しく愕ろかれるようです。実に忙しかったけれども、決して決してかけ足で通って左右のものが目にも映らなかった年ではありませんでした。その点では寧ろ歩武堂々たるものがありました。そしてわたしも、去年はもたなかった道を歩きその豊富な展望をたのしむことが出来、それはしんからうれしいことね。しんからしんからうれしいことです。二十二日のお手紙ありがたくくりかえしよみました。
疲れていらっしゃる夜、待っていたというのは、偶然ながら可愛いところがあります。横へおいてついうとうとなさったのね、気がついて目がおさめになったとき、其はやっぱりそこにいたことでしょう。そして、御苦労さまね、少しは楽におなりになって?と云う声の出ないのを、きっと残念に思ったでしょうと思います、自分の着ている上皮が、ちっともきれいな目に気もちいい色合でないことも、気をひけているのよおそらく。この頃本当にすこしましな封筒なんかなくていつも素気ない紙ばかりで。封筒については永年随分気を配って居りましたのにね。でもマアいいわ。わたしがつぎだらけの標準服をきていると同然で、なかみのたのしささえたしかならば、ね。
十二月十五日
さあ、やっと私たちの時間が出来ました。三日からきょうまでに、折を見てはちょいと書き、ブーとなってやめたり、用事で中断されてやめたりした七八枚分を、今やぶいてしまいました。原稿さえ、やぶいてすてることのないブランカにしては未曾有のことです。やっと今、ここは私一人。何とうれしいでしょう。
家に住む人をさがしていて、国は、日頃封鎖的生活ですから僕は思いつかないねエというばかりで、私がやっと見当をつけては連絡をし、ブーの間にあわてて来る人に会い、数日気をもみましたが、結局ないわ、今のところ。暮しがむずかしいから、みんな従来の自分の環境を大切にして、これまでいろいろもとでをかけて便宜をこしらえて来た周囲をはなれるのを不安がって居ります。来てもよいという人は夫婦とも病人で、これからの生活の荒さで悪化するのが分っているという工合ですし。今急に気をもむことはやめました。もっと先へよって来ると、来たいと先方からいう人も出来るでしょうし。国は二十日ごろ帰ってこの次はいつ出て参りますやら。年越しは、寿と相談して、来て貰って一緒にでもいたしましょう。一人も随分ひどいけれ共、国がこういう調子でいて、一日のうちほんの僅か何かして、あとは何となしサービスをしなくてはならなくていられるのもわたしとしては切ないところもあります。ブランカの気もちは、スパルタ人の方形陣に似ていてね、かっちりと必要と目的に適した日常形態にととのえて、キチンと出かけ、手紙をかき、すこしは本もよみ、そういう風にやりたいの。ところが目下のところ、何と云うか不決断で無方策な引越し最中とでもいうのか、国は服装だけは夜昼ともにいかめしく、そしてコタツに入って居ねむりしたり、急に働いたり。めいめい癖があります。
日本人は神経質だし、建築が一つの火の玉にも落付かせておかなく出来ているし、なかなかもってビジネス・アズ・ユージュアルとは行きそうもないことね。伯林(ベルリン)の各家は地下室を居間として六七時間平気でガンばりつづけて来ているそうですが、こちらでは火消仕事が各人の責任ですから、消耗は大でしょう。うちの壕が、雨の日もなかでは濡れなく出来ているという丈もよほどの見つけものと申す水準ですから。この頃は段々寝起きが上手になって、用がなければすぐ寝てしまいますから、よほど大丈夫よ、御安心下さい。夜も早ね。大抵九時ごろ(わたし一人)もうすこし早くてもいいのです。その代り手紙さえ書く時間がなくなります。そちらへ出かける朝、暁に起されると、帰ってから眠らなくてはもたなくて、眠っている間に午後の大半はすぎてしまったり。わたしの器用な眠り術は、次第に効力を発揮して来るらしうございます。
ビジネス・アズ・ユージュアルということをもうすこし違った云い方で表現すると、段々毎日の生活が、アンユージュアル・イズ・ユージュアル(非常が常住)ということになって来て、そこではじめて悠々さが出来るのね。戦場的ゆとりと申しましょうか。思えばブランカも、そういう状況で生活することには既に幾分鍛練があるわけです。でも、わたしのたちは、腕力的肉体運動的非常には不向きで、精神的な同様事情に耐えるよりも不手であるのは欠点ね。スポーツの訓練がないからよ。静坐的な成長をして。スポーツ精神はあるけれ共、筋だの腱だのが至って大したことなくて残念ね。
八日のお手紙、心からありがとう。あすこには高い空と爽やかな風と、すこやかな人間の息ぶきが流れて居ります。清明な光が透徹して居ります。ああ、実に、云うに任せよ。詩人に生れたものは、おのれの生涯をもって至醇なる芸術とすることしか出来ないのですものね。ダンテにああいう詩を書かせたメジィチ一家は一つのソネットさえつくりませんでした。
人は、極度の侮蔑を感じたとき物を申しません。人は極度のコンパッションを感じたときやはり物を申しません。そして、人間の自然さが流露して、そういうときには、対手をこころから抱擁し、言葉のない情無尽の思いをつたえます。そういうおのずからの表現が不可能のとき、どうしたらいいでしょう。しかも、その一種類の感情ばかりでなく、二つが交り合って打つ場合、人はどういう身ぶりをしたらいいでしょう。
口がきけないという形で一定の時間がすぎます。そして、そのうちに、時間的時間観が、歴史的時間感にすっかり移り、すべてのものが在るべき場所に再び安定し、万象が奇妙に透明になってしまったようなのが癒って、やがて人は口をききはじめます。そのとき、人は、もう決してもとの人ではないわ。
鉄に一定の電流を通すと、組織に変化が生じます。日本の宝本多光太郎博士はそのことをよく知っていらっしゃるのでしょうね。それらの電流が、鉄を、どんなに人類の役に立つものにするかそのことをよく御承知なのでしょうね。
きょうあたりの寒いこと。こうして書いていて手がかじかみます。アンポン式足袋はいかがでしょうか、あれでも純毛よ。出来上りがいかにもおそるべき手工品ですけれども、作りかたには叶っているのよ。悪料理人の手さき仕事ではないのよ。おとなりの細君に教えて貰って、そこの縁側で縫いました。離れの家、あなたもお当りになったコタツのある方の。底がぬけたら又一足こしらえましょう、二足ぐらいは入用でしょう、きっと。自分にもこしらえます、さむいわ、こうしてかけていても。
ことしのお歳暮には、こころをこめて、かざらしを一つさし上げます。よくよくお似合いになるのを、ね。万葉の詩人は、あぶらの火に見ゆるわがかざらし、と、素朴な全生活の明暗を髣髴させてうたいました。でも、現代では、かざらしの花のえましさの見えるのも、複雑多彩な光照によってであるし、ひと花ひと花とつみ集めて編まれるかざらしも、野(ぬ)ゆき山ゆきというより遙に深い含蓄をこめたものです。あなたの額に、どんなかざらしが似合うでしょう。その眉と髪にはどんな花がふさわしいことでしょうね。少くともそれは、昼もかなしけ、というほどのいとしさのこもった花でなくてはなりますまい。さゆりのゆどこかぐわしい一つ一つのゆたかな花でなくては、お似合いにはならないわ。
そして、眼のなかに、花かげがさしたとき、それはどんなに風情ふかいでしょう。己れであって己れでないそのかげに魅せられて、花は益〃香い高く益〃いのちをつくして咲きつくすでしょうね。
二十日にあの手紙さしあげて、よかったことね。二十二日のも頂き、そしてから熱を出すようになったのは、幸と申すべきです。発熱の癒りも早いし、あなたが案じて下さる下さりかたも心配というような要素は不用ですもの。参ったらしいね。そうなの。そして、笑うでしょう。これは相当得難いことですものね、考えてみれば。日ごろの養生のねうちが知れたと思ってわるい気もちはいたしません。あなたにしても、やかましく養生のしかたをお云いきかせになって来た甲斐がなくなかったことには御満足でしょうと存じます。子にとって親ほど良医はないし、わたしにとっての名医があるというのはありがたいありがたいことです。
やっぱり終りまで書きつづけられませんでした。きょうは日当番で、ヒマの種集めをして町会へ届ける用が出来て、其をやって戻り、この机に向ったら犬が吠え、庭木戸から女の人が入って来て、見れば犬を抱いて居ります。先月の六日頃、手術をしに医者へあずけたところ、工合がわるくて二度目にあずけてあったのを、お医者の家で疎開するので返しに来てくれたのでした。元気のいい雌犬だったのに、可愛想にすっかり衰えてしまいました。犬なんて、人工的に断種したりして、気の毒ね、全く。
うちの主人は仔犬をきらいなの、実際困りもするけれ共。それでそんなことにしたのですが、失敗よ。果して冬が越せるでしょうか。わたしのように、自然なのがすきな者にとって、辛いことです。人間のおかげで、こんなに貧弱にされ、寿命も短くなってしまった犬を見るのは。
きょうは、一つチャンスをつかんで、夕方迄に風呂をたこうと決心して居ります。この間うちから思いつづけて居りますが、折がなくて。余り風呂に入れないと却って風邪がぬけません。そして、手が痛い痛いし。水仕事で荒れ切ってしまって。
あなたのおなか呉々もお大事に。国はどういう加減か、ずっと腹工合がまともでない由です。食物のせいでしょうか。熱がお出にならないのは何よりだと思います。すこし暇になり、おっしゃるように読みたいものもお読みになり、お休めにならなくてはいけません。あいにく夜目をさますことが殖えてしまっていけないけれども。きのうあたりは、少し休めたようなお顔に見えましたが、いかがでしたろう。ブランカは、あれからおひるをすまして四時ごろまで眠ってしまいました。
『風に散る』第三巻はまだでしょうか。最後の一行を読終りになったとき、わきにいたら、きっと、ホラ、ね?というでしょう、あれは不思議な小説ですね。ミッチェルさんが、もうあのあと作品は書きません、と云ったのは正直に心持を現した言葉だと思います。あれだけ大規模で、あれだけディテールに充ちた小説の最後の一行が、あんなに力なく云いわけめいているというのは一つの特色です。作者の人生一杯のところへ、あの作品が行きついてしまっていて、抜けちまった感じ。もう、これっきりという感じ。文句の上では明日という日を期待していますが、気魄において、内部世界の現実において、もうこれっきり、というところがむき出されています。だから、何とも云えず空虚です。その、もう、おしまいという感じの空虚さは読者のこころを一種の恐怖でうちます。バトラーという男を第二巻まで作者は力一杯に活躍させましたが、第三巻に至るとバトラーは極めて気の毒なことになって、あれ丈の人間熱量――情熱は、全体として全く浪費されたということになって、スカーレットの本能的な生存力の無意味な波うちとともに、本当に風とともに散り去ってしまった、という形です。作者の人生展望の大さがあの作品と共にギリギリのところまで消費されて、もう次の作品を生むだけの懐疑も理想も現実探求も、あの作者にはあのままではのこされていないようです。もし第二作をかくとすれば、真実の作品たるためには、作者その人の人生が一進展しなければなりません。新たな精神的蓄積がなくてはならず、それは作者自身の人生の見直しでなければならず、しかもバトラーをああ描けた作者、スカーレットをああ描けた作者は、女に珍しいリアリストだけに、逆に自分の人生に対してバトラー流の目をもっているでしょうから、少くとも当分自分の周囲をどう変えるという人柄ではなさそうです。
大きい作品であって、そういう意味では小さい作品だと思われるところが、あれの独得な点ではないでしょうか。読者があの作品を興味をもって読むにはよむが、よみ終ったあと、自分にのこされた問題、人生課題というものを感じない。これはあれ丈細部が描写され力づよく彩られているにかかわらず、顕著です。「二十日鼠と人間」、又は、「誰がために鐘は鳴る」、などは、描かれている世界にリアルに案内されるばかりでなく、読者は更に現実の人間悲喜の裡にあって、まだ描かれていない人生の諸局面について、真実の存在について、感覚をよびさまされ、それらについて思いをやるだけの想像力の刺戟をうけます。結局大きい作品というのは、読者に、どれ丈人生の諸真実への関心をさまさせるか、という点にかかっていると思います。大作というものの真の価値は、そこね。
人間情熱の悲しい浪費(バトラー、スカーレット)を描くところで現代文学の限界はつきているでしょうか。そうではないと思います。ヘミングウェイの例をとってみると、彼は「持てるもの持たざるもの」、という漂流的人間誠意――生きる努力の悲劇を描いた後、「誰がため」まで、ともかく漕ぎ出て居ります。点を甘くしても、現代文学の発足点、ドンと鳴ってかけ出す線はそこまでは来ているわ、ね。
そういうところから云うと、「風に散りぬ」は古い作品です。題材が一八〇〇年代であるばかりでなく、作者の人生への角度が、気強い悧発な強情女らしい古さをもって居ります。
この頃、そちらに待つ間に「アメリカ発達史」をよみ、南北戦争の時代のところなど大いに面白うございました。所謂再建時代の悲惨の根底も分り、あの作品がその具体的なところをよく描いていることも一層よく分りましたが、しかし、というところが、芸術というものの急所なのね。あの歴史の方が、本質的には芸術的です、何故なら、そのときどきの具象性を一貫した人間の発達の道程というものをとらえて居りますから。題材は雄大ですが、やかましく云ってあの作品に本当のテーマはないのよ、あの作者は、その時代の波瀾推移に興をもったでしょうが、其の波瀾が何に向っているか、という一本の生命はつかみませんでした。
「アメリカ発達史」は、うまく整理されているいいテクストですね、もしあの参考書がよめたらさぞ面白うございましょう、そしてね、あれをよんでいるうちに、アメリカが「新世界」であったわけがまざまざと分り、同時に憲法というものについて新しい興味を誘われました。生活意欲の表現として理性の代弁者として、憲法というものは、きわめて血の通ったものなのね、決して法律学生の端のメクレ上ったノートに丈ちぢこめられるものではないのね。今頃、とお笑いになるかもしれませんが、理性のありようのあれこれについて、痛切に感じるところがあるだけにあの歴史は面白いわ。生成過程が意識されて築かれたというところは印象につよく刻まれます、子供から発足したのでなくて成人からはじまったというところに。若い大人からはじまったというところに。長くなりましたからこれで。発声練習がすみましたから、又スタスタと暇々に書けます、では、ね。 
十二月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月十九日
さあ、きょうから又一人よ。その点はまことに閉口いたしますが、こうして、すきな時に書いていることが出来たりするのは、これ又かけがえなきよろこびです。二十九日に帰って来て二十日いたわけね。昨夜は、徹夜してけさ四時頃出かけました。ずっと平均して働いておけばいいのに、のんべんとして(あのひとのことだから、きっと内心ではちっとも暇はなかったのかもしれませんが)いて、昨夜陶器の始末などやって五時十分かで出かけました。定期便をさけたわけでしょう。もう今頃は、開成山の茶の間で、大チヤホヤの最中よ、きっと。わたしは、昨夜の警報でたださえ眠る時間が狂いましたから、大丈夫となると、先へ床へ入ってしまいました。けさ一寸出る前に起きましたけれど。あの二人はおかしいやりかたの人たちね、四日のときも女中のこと放っぽり出して行ってしまって、泣いてさわいだりするのをわたしが始末しましたし、今度だって留守居のこと、決まらないうちにパーと立って行ってしまって。行ってしまえば其っきりという風に二人ともやるのは、やっぱり似たもの夫婦というのでしょうね、苦笑してしまうわ。
今話のある留守居の人は、肴町の通りにスミレヤという電気やがあるの、気がついていらしたかしら。国が昔から出入りさせていた店です。そこに菅谷君という小僧さんがいてね、一種のペットネームのようにうちでは伝八さんと云っていたの、わたしはそういう名だと思っていたら、本名ではなかったのですって。その伝八さんなる菅谷君が年経るままに中僧となり、片腕となり、徴用となり、今は技術徴用でよそに居ります。伝八さんは、なかなか気風のいいところを見込まれると見えて、スミレヤの店からもっと大観音よりの方に春木屋という鳥やがあります、そこの娘さんを獲得して、尾久の近くに世帯をもって居ります。ごたごたしたところだし、実家に遠いし、来てもいい気があるらしいのです。きのう午後細君をよこすということにしておいたのにウーでおじゃんになってしまいました。きょう来るかしら。若い夫婦きりです、伝八さんは電気やさんで放送局の技術試験にパスし、小僧さんから仕上げたにしてはしっかりものでしょう、さらりとした気質です。わたしは、これで案外遠慮をする方だから、他人が一緒に暮すのも、というところもありますけれども、昨今は不用心と義理(隣組)とで、一人ではやれません。このあたりにさえ小供を手先に使うドロがいるのよ、三段構え位で、やるのですって。子供、不良夫婦、ドロと。うちはいざと云うとき迚も壕へもちこめないから日頃から何かしまっておきますし、私一人で、出かけるときは暖い用意のキモノだの、こうして書く道具の入った袋だの皆壕へしまって出かけるのよ、そしておばあさん、娘、孫息子と三匹の犬に、タノンダゾヨ、と出かけます。心元ない仕儀と申すべきです。ですから、誰か一人はいるものがないと、ね。このあたりは家との比較でみんな無人です、うちは極端ですけれど。これから加速的に不用心になりますものね。錠をきっしりかけて寝ることは危いし、サアのとき。その上このいじらしき三匹のタノンダゾヨが三月までにはいなくならなくてはならないのです、可哀想に。皮がいる由。
今この組長が一寸よっての話に、追っては、ここのうちも強制疎開ということになりそうです、うちの前に坂がありますでしょう?あすこから大幅の道をつけるのですって。動坂から肴町へ出た道と合するのでしょうか。そうすると、うちは坂の真正面という位ですから家から動坂の方へ何間かの幅にひろくなり、その間の何軒かは、影も形も思い出のよすがさえもなくなってしまおうというわけです。来年の半ばごろ迄に生活はどの位変ることでしょう。大したものね。焼けなくてすめば、そういう次第で、どの道、ここは消えるのでしょう、そう思えば哀れもまさる庭木立です。うちなんかは、もう既に荷厄介にしているのですからあきらめいいとして、先の方についこの間買って移って来たばかりの家があり、そこは国宝の美術品をもっていた人の由で、そのために、地下室のいいのがあって、この節はボーと云っても子供や年よりは知らずに眠っているのですって、その中で。そこもかかるらしいのよ。その先住人は、牛車馬車をつらねて故郷なる岐阜へ引あげたところ、本郷にはまだ一発も着弾いたしませんが、あちらにはもうパラパラ。おどろいて居りますって。そうでしょう。この頃の人と住居とかくの如し、ね。寿江子の方もやや同じわけで、どこかへと思いますが、あのひとはもう当分あすこを動かないつもりのようです。今あの年ごろの女のひとは挺身隊召集をうけ、寿は、あちらならば、女学校の音楽の教師をすることが出来、生活的にも基礎が出来ていいらしいのです。どこにいたって、と目下のところ確く心をきめて居ります。経済事情も安定していないから、女学校にでもつとめて月給をとり、勤労報国隊の方も兼ねるというのが、あのひととしてはいい方法でしょう。
東京その他、そういう便宜のないところで工場働きはあの健康がもちますまい。大分丈夫にはなって居りますが。寿のこの頃の雰囲気は、何となし寂しい人(本人がそう感じているいないは別として、よそめにうける感じとして)のところがあって気になります。光沢がうせて。あのひとの光沢は、何と云ったってゆとりから丈のところがありましたから。今の家は電燈もないのよ、都会風の意味では障子もないのだって。寂しいようにもなるわね、東京へ出て来たって昨今のように夜がこわいと、自分の生れた家へは泊れず、つい坂一つあっちの春江のところにとめて貰ったりして。本当に本当に気の毒です。
きょう帰りに、正月号の雑誌をしらべに本やによりましたら、十二月の『文芸春秋』はまだ出て居りませんでした。未曾有のおくれかたです、お正月に十二月号、正月下旬に正月号となりそうです。紙の都合その他ね、すべてこの順で、年鑑もいつ頃出るでしょう。本は殆ど全く新刊はありません。
隣組の用事で、ちょいちょい立ったりしてこれをかいているうちに、もうすこし薄ぐれて参りました、寒いことね、今眠さむなのです、眠い眠いの。そして伝八さんの細君は参りません。三時すぎてはもう来ますまい、夕方の用があるから。
今夜ユリはホクホクよ、早く御飯たべて、さっさと七時になるやならずにねてしまう計画です。夜中におきたって、其なら幾分寒さもしのぎよいでしょう。
今時分横になって何をしていらっしゃるでしょう、もう書きものはおやめでしょうし。手がつめたくて書きにくいでしょう?森長さんのところへ電話したら、二年生(?)の男の子が出て、ア、ア、モシ、と云いました、笑えました。のちに又かけましょう、ねる前によ、勿論、御安心下さい。
今年の正月には恒例の寄植の鉢もございません。何か、花と云えないようなカサカサのものがちょぼっとありますが。
だからことしはいい花を上げようと考案中です。題だけはもう読みました。指頭花というのよ、ちょっと珍しい題でしょう、われら愛誦詩の作者のものですから、よく読んだら、きっと素晴らしい迫力があって、年頭のうたにふさわしいものでしょうと思います。いずれ御披露いたします。この詩の連作に、雪は花びらに溶けて、というのもございます、御存じでしょう。再び冬はめぐり来ぬ、あはれ、わが春ある冬ぞめぐり来ぬ、といううたい出しです。薄くれなゐの花びらに、ふる初雪のさやけさよ、とつづいていたの、ね、では又。 
十二月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月二十六日
まだ午後二時だのに、日ざしは少し赤っぽくなって斜光の工合がいかにも真冬らしゅうございます。きょうはそれでもいくらか寒気がゆるやかです、きのうも、ね。三四日前何と冷えたでしょう。風邪をお引きにならなくて何よりです。わたしの風邪も、とつおいつ式ね、わるくはなりませんが。夜中おきますからいけないのでしょう。おまけにすぐおきていいように着物を大体着たままでしょう、なおいけないのよ。大いに心がけて、日光によくほした下着によく着換え、なろうことなら体も日光浴させなくてはいけまいと思って居りますが、ヤレやっと、二階へ上って、キモノぬいで、おひさまこんにちは、になると庭の方でチウジョさんと独特なせかせか呼声が起って、それは、何や彼やの配給ですよというわけです。ハイ、とそれから又ヤレコレと着て、かけ出して一度でこりてしまったわ。何しろ此頃睡眠不足がちですから女の人のチユジョさんも益〃鋭角の方向を辿る次第です。自分は出来るだけのびやかさを失わず、ユーモアを失わず柔かくやりたいと思います。余りどこへ行ってもひどいので、ユーモアもいいけれども、こちらがユーモラスに感じても相手はそれどころかと力んでいると、折角の罪ない高笑いも云いわけをする必要を生じたりしてね、自分のガタクリぶりを自分から爆笑する能力のない人は昨今全く大ささくれね。無理もありません。電車の中なんかで、全く女のとおりの睨(にら)みかたをする男をこの頃見かけます。そして何となし愕然とします、怨みがましい睨みようなんてあまり男はやらなかったわ。もとは、もっと自分の力で何事も解決してゆくことができるということを自分で知っていて、そういう睨みかたをしていたと思います。こうしてみると、女くさいあれこれは、自力喪失から生来しているのと見えます。
今、ひとりなのよ。いい心持で、然し眼のまくまくは感じつつ、これを書いて居ります。さっきはあれから護国寺前の本やによりまして、やっと『文春』の十二月号を買い、三浦周行の『法制史下巻』をかい、外山卯三郎の切支丹文化史という本を買いました。三浦さんの本は、上巻は十八年に出ていたらしいのですが、買いそこね。外山さんのものは初期渡来のジェスイストのアカデミー史で、彼等の日本においての様々の経営について知ることが出来るらしい本です。すこしずつ目につくときこっちの本を集めて居ります。何年も前からもっている興味がやはり消えないの、益〃ひろまり深まるようです。封建の確立前夜、まだ群雄割拠が納まらない時(信長)、ジェスイストが来て、その時代の人々の心にあれだけ浸透したのは、何故であったでしょう。貴婦人の傾倒の理由は何であったでしょう。天主教の全にして一なる神の観念が、その時代の人々の精神に響いて行った行きかたは面白いことね、封建のかたまりかかりの時代の底流との照応で。信長は種子島を国内統一に利用し、坊主の勢力削減法としてジェスイストを扱いました。家光の時の島原の乱も、名将言行録の側からみると、又一種の興味がございますね。鼎の重みを問われるテストであったのね徳川にとっては。天草のくずれが日本の陶器の発達に一役買って居ります、生業として刀をすてて陶工となり平戸焼などはじめたのね。ザビエーやその他日本へ渡来した人々の個人としての宗教的情熱、ジェスイスト的激しさ、荒々しさ、そういうものは武家の何ぞというと生死にかかわった生活感情に不似合と思えなかったでしょうし、様式の華やかさ、やかましさも時代の形式尊重に合ったのでしょう。スペインをアラブから解放しつつ、その宗教即政治という堕落でスペインを疲弊させてしまったスペインのキリスト教団の功罪と、日本などへ来た個々人の偉さとのくいちがいも面白いことね。その人々が遙々東洋へ来たのはどんな心理の動機でしたろう。十九世紀におけるアメリカの宗教復活の波とはちがったうちかたをしているように思えます。こういう時代の日本の科学性の一歩の目ざめ。それから、封建崩壊期にオランダ渡来の新教の形式尊重を脱した十九世紀の近代科学の摂取、このうつりかわりがいかにも面白うございます、日本の理性の覚醒の過程として。大化時代には、内在的であった日本の精神の可能が、思考の様式を学んだように思えるのは違っているかしら。わたしはせまいマスの間に、しねりくねりと身ぶりをした文士的小説はほとほと書く気が失せました。小説を愛する(文学というべきね)こころの本源は、人生へのつきない愛であり、其は、つきつめたところ、いかに生きるか、そして生きたかという厳粛な事実に帰着いたします。そこにこそ、尽きないテーマがあり、つまり人類のテーマがあります。テーマの本流に、作家は可能なかぎり、力をつくして近接すべきです。日光は潤沢ですから泡沫にもプリズムの作用から七色の彩を与えるけれども、それは泡沫が美しいのではなくて、光線はどんなに公平かということの美しさですものね。わたしは、テーマの本流に身を浴したいのよ。切に切に其を希います。文学においてだけ、どうしてポシャリポシャリと浅い水をはねかしていなくてはいけないのでしょう。そんなことはない筈よ、ね。わたしたちの生活において。特にわたしたちの人生において。
いつぞやの手紙に、わたしはおかげさまで沖へ出ましたといったでしょう?あれはここのところだと思います。先の頃、わたしは勇気と臆病さと七分三分で、ひょいとしたとき、岸が恋しくなったのね、人声やジャーナリズムのざわめきや、そういうものがききたくなったのでしたと思います。
来年の日記を何につけようかしらと思ってね、あちこちひっくり返して十三年の日記見つけました、一月丈かいてあるの、いい綴(トジ)だし、これにしようときめて、書いてあるところよんでみたらば、丁度十三年の封鎖[自注15]の当初だったのは面白うございました。そして同時に、すこし自分に愧しいの、あわてています。遑てるのは当然だけれども、あわてかたがね。堂々とあわてているというのも妙だけれどもマアそういうあわてかただといいけれど、上気せあわて気味で。そうしてみると、と自分に思うのよ。この六年来、世の中の違ったこと、それにつれて自分の成長したことと思われました。十三年の頃にはわが身一つに霜のきびしきという感じがあるのね、霜がおりはじめると、高い木の、その木の更に上の梢から色づきはじめるものなりという自然観察に立った会得が乏しい感受のしかたでした。一葉の紅葉に秋がわかるという大きいうけかたではないようなところがあって。其というのが、あの時分は、丁度、やっとレールにのって、汽車が動き出して、まだ幾丁場も進行していず、せめてあすこ迄はと行きたいところがあったから、その痛切さがああ映っても居りましょう。何だあの汽車は六七年前に車輪をとりかえて元のがつかえるのに新式改良だなんかと熱中して、みなさい、走らないじゃないか、格納庫にいるきりじゃないか[自注16]というのはくやしかったし、更に更に何、あの汽車を扱って車輪の入れかえなんかさせた人間の腕がよくなかったのさなんかというのはどうにも我慢がなりませんでしたからね。いろいろの時代のいろいろのこと面白いことね。
十九日のお手紙、羽織今日着いた以下数行何となし汗ばむような気もちで拝見しました。わたし今風邪気味ですから、どうかあまり汗ばませないでね。くしゃみになって風邪がこうじます。涙もすこし出たいようになるし。おだやかな慨歎というものは身に沁みるものねえ。わたしは一生折々この種の慨歎をあなたにさせて、もしいなくなったら、一番なつかしいその人の特徴として、ああ俺は何度ブランカには追かけ式家政学のことを云っただろうとお思いになるかもしれないわね。或人が書いています、愛するということは欠点をさえいとしく思うことだ、と。何とかしてこれを牽強附会出来ないものでしょうか。御免なさいね。
護国寺の本やから駒込郵便局へまわりました。郵便事務というものは実に大したものね、従業員はもっともっと大切にされていいと思いました。それに印(ハン)というものはこの種の仕事をどれ丈煩雑にしているでしょう、署名にもちがった煩しさがあるかもしれませんが、十人足らずの人間が些少の金銭を出して貰うのに四人ほどよ、印のことで用の足りないのが。自分もその一人でしたが。中條の印も持って歩かなくては駄目ね。ここの家の経営は日常費は、国府津を貸したものでやって行くことに相談をきめて、其は私がとることにしたら第一回に印です。ここの家の仕来りとしてこれ丈独立性をもたせたのは/はっきりさせたのは、姉さんの名案と四月来の勤勉の結果です。後者がより多くものを云って居りますね、公私混同せずという信用が大したものでしてね。姉たる又難いかな、ね。それから重い緑色の風呂敷包み抱えてエッチラオッチラ家まで歩きました。その中にはポリタミンと同じようなものが入っています。これももう無くなるというので三本もっているから重かったのです。そして庭から廻って食堂へ入ったら、今すぐ出て来そうにそこいら中とりちらかして寿が千葉へ帰っています、年末で配給が困るのだって。近々又参ります。あの人のいるまわりはタバコの粉でへこたれです。わたしはどうもタバコ好きになれないの。
すっかり(ざっと)掃除してパンをむして御飯たべ、これをかき出しました。もう四時ね、そろそろ馬崎が来ます、これは開成山へ送る荷のことで相談に来るのよ、家具を送りたいのですって。それがいいわ、ここがもし疎開にでもなれば、来年迚も今ほど運べますまいから。
六時十五分迄に電球もって日暮里駅へ行きます、凄いでしょう、先生、書生の暮しはこういう風よ、卯女の家で電球がなくて百燭つけてハラハラしているのよ(電球隣組配給、今切りかえで市中で買えないものだから)灯が洩れるところへ丈盲爆がきますから冗談でないでしょう。だから二つの補充球を寄附しようというわけです。母さんが放送して帰りに日暮里まで廻るのよ。こうですものね、女性お気の毒です。
きょうこそ又七時に床へ入りたいと思っていたのに、今夕飯終り九時五分前です。三行前のところで八百やの配給があり、一時間十五分立ちん坊いたしました、そして暗くなりきらぬうちと大いそぎで御飯たいて、日暮里へ行きました。靄のふかい月夜で、感情を動かされながら歩きました。十一月下旬でもこんな靄のこい夜がありますね。九時すぎ、ボーが鳴りそうだから出してしまうわ、ね。これで。

[自注15]十三年の封鎖――昭和十三年頃、中野重治や百合子等に対する執筆禁止の措置。
[自注16]格納庫にいるきりじゃないか――この手紙を書いた頃、百合子は二度めの執筆禁止の状態におかれていた。そのことをさす。 
 
一九四五年(昭和二十年)

 

一月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一九四五年一月二日
明けましておめでとう。爆竹入りの越年でしたが、余り近い所へ落ちもせず、しずかな元日でした。その上昨晩は思いのほか通して眠れたのでけさは特別よい二日です。寿江子が帰って来ていて、大晦日は、わたしが床に入ってしまってからブーの間にすっかりテーブルに白布をかけ、飾り、お正月にしてくれました。三十一日によそから届いたリンゴもあり。いまは、おそい御雑煮をたべて、炬燵のところに小机をもちこみ、足先を温くしてこれを書いて居ります。書いている紙の右端に風にゆれる陽かげがおどって居ります。
この春はよき春なりとのらすれば妻も勇みて若水を汲む
このなますたうべさせたき人ぞあり俎の音冴ゆる厨べ
三十一日の五時に壕に入ったとき、暁方の風情を大変面白く思いました。月がまだ西空に高くて、空気は澄み、しかしもうどこやらに朝の気配があって、暁の月と昔の人が風流を感じた気分がよく分りました。この節は何年ぶりかで早朝の景気のいい冬靄と、草履の下にくだける霜と朝日に光る小石の粒などを眺めて歩きますが、こういう冬の刻限の戸外の景色などというものは滅多に見ません。自然の景物の観賞というのも様々の時代の特色があることね。この頃のわたし達は壕に入るとこの風流で。それにしても三十一日の暁の景色は優美でした。
そちらはいかがな元日でしたろうか。大局的嘉日でしたというわけでもありましょうか。それが窮極のおめでたさね。
今年はわたしも今月中に家に来る人のしまつをつけて仕事にとりかかります。セバストーポリの塹壕の中でトルストイは幼年時代を書いたし、カロッサにしろアランにしろ塹壕生活の時期を泥にまびれただけではすごして居りません。わたしも、わたしたちの壕生活期に収穫あらしめようと思ってね。それにはどうしても今までの生活ではやれません。チジョサン[自注1]によび立てられてかけ出していたのでは、ね。サイレン丈で結構です。一日に一貫した心もちで過せる時間がなくては何をかくどころではないわ。あんなに手紙さえおちおち書く間がなかったりして、ねえ。四月から去年一杯相当骨を折ってわたしの手は勲章ものにひどくなったのだから、今年はもう本職に戻ってもよろしいでしょう。
留守に来て貰う人のことはなかなかむずかしゅうございます。この前の手紙で申しあげた伝八さんなる夫婦は、二人の生活費をこちらもちという条件なら承知するのです。しかし生活費は刻々上騰ですし、わたしはそれこそ大局的に可及的営養をとらなくてはならないしすると、生活費の負担は案外でしょうと思われます。ここの生活はどうやるにしろ、国府津の280の内からですから、雑支出を加えて容易でないでしょう。机に向っている時間、何か彼か考えを辿っていられる時間をとろうという計画なのです。国がハガキよこしてね、僕があっちへ行ったら敵機も追っかけてきて初空襲ありとありました。こっちへ暮す期間は益〃少いでしょう。あちらはもう雪だそうです。壕が庭でさむいし、子供づれだし、大変でしょう。手伝いがみんないなくなるらしいし。国も良人、父として苦労しているのも薬です。あの健康であの年であの知慧で、ひとからサービスだけされて暮すというのは法外ですものね。おのずから成立いたしません、今の時代には。
きのうの元日はうれしい元日で友達が三人来ました。一組の夫妻、この人は旦那さんが青森へ行くために。もう一人は先日山西省の学術探検から戻った人。いろいろの経験をして来たのですが、一米の間に二発ずつという風な機銃の集注をうけない限り、なかなかゆとりなきゆとりというものもあるものなのね。人間が、そんな風な危険に善処して、勉強もするだけして来ると、颯爽としたところが出来て、こころよいものですね。人は、その人なりの道によって、何か鍛えられる道を通ることが大切ね。そして、鍛えられるということを招く先ず第一の生活態度のまともさが大切ね。まともに生きない人には、天は決して人間鍛錬というような貴重な門を開きません。
年末に、おせいぼ、お年玉として書いて下すったお手紙。さっきお正月らしく元禄袖を胸の前にかき合わせて、もんぺの足どりも可愛ゆく門まで見に行きましたが、まだ来ていなかったわ。
この間の晩、一時間半おきには起されて、外へ出たとき、床に入っていてすぐ眠れず、うっとりしていて、昔の人の素朴さということを思いました。昔の人は、一筋のえにしの糸、と云いならわしました。そしてそれは紅色と思っていたのよ。だから妹背山のお三輪は采女(うねめ)の背に赤い糸を縫いとめて、それを辿って鹿の子の髪かけをふり乱しました。何となしほほ笑みます。えにしの糸が一筋なら、それはどんなに単純でしょう。一途というのも、とり乱しに高まるのが昔の情の姿だったのでしょうか。えにしの糸の色は無色透明よ、それはとりも直さずあらゆる天地の色をこめているということです。七色八色虹の如く多彩であって、それはあらゆるよろこびと感動とのニュアンスに照り輝きます。或るときは渡る風にも鳴ります。そのそよぎは伝わって光か風かという風に色のすべてをきらめかせ、人の力でとどめることも出来ません。色と色とは云いようなく快い互の諧調を知っていて、ちがった色どりをもってくることは不可能です。その色がそこにあるのでなければ、この色はそこに生じないという、そういう工合の調和です。えにしの糸は、天のかけ橋、虹の色という調子のものよ、ね。しかし、ちっともそれは芝居にはならないわ、壮厳微妙ですから。大らかすぎ、精神において演劇発生史以前ですからね。芝居と講談にならないということは大変慶賀すべきことなのね。西郷南洲はあらゆる芝居と講談と小説のたねにつかわれるが、日本の建設のためにあれだけの仕事をした大久保利通は講談にならない、木戸も講談にならない、これは何事かを語っていますね、と、鷺の宮の小父ちゃん[自注2]の言にしては犀利なり。きょう、ずくんでいられていいお年玉頂いたと思います、ありがとうね。

[自注1]チジョサン――「中條さん」のこと。
[自注2]鷺の宮の小父ちゃん――壺井繁治。 
一月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月十日
さて、例の小机を膝の上にのせ、ああもう三時になってしまった、と思い乍らこれをかきはじめます。けさ、ふと気になってポストを見に行きましたら、入っていました。見ると、一月八日のなのよ。去年のおせいぼ、待ちかねているのにどうしたのでしょうね、未着です。お歳暮のしるしとしてすこしほめて下すったと伺ったからもしかすると、着かないのは余り珍しいなかみで、わたしのところへ来る筈のとは一寸様子がちがう、というわけではないのかしら。(勿論これはふざけ)
昨夜はちょくちょく起きましたが、大スピードで八時に床につきましたから第一回のまでに五時間ばかり眠っていて、あと途切れ途切れでもどうやら、きょうはよく働きました。けさ早く衣料疎開五十キロ五ヶというのを発送しに男が来ます。五時に起きてつらかったけれ共七時すこし過にモンペの紐を結び乍ら二階から下りて来たら、なかの口がパッと開いて朝日がさし込んで、そこを「お早うございます」といい乍ら、その男が這っているの。笑ってしまった。玄関のタタキに荷作りした菰包みがおいてございます。それを中から錠をあけなくてはならないから。
この男は小柄で黒いリスのような眼をしたヒシの実のような形の顔をした男で実に重宝男です。元来は煙突掃除だったのが生来の器用が時勢につれて「世に出て」(その男の表現)今では主として、荷物の世話をして「金に不自由はしなくなりました」荷作り、リアカーの運搬、いかけ、大工の真似、出来ないのはドロの方と植木屋の由。生きたものと、他人のものとには手が出ない由です。器用らしく小さい男で、いいとっさまで、昨今の苦労は、いくらかたまる金をどうしてもちのいいものに代えるか、という問題です。家作も買ったそうですが、これには自信もないのよ、やければ其っきりだから。なかなか面白い話しかたで、八日に荷作しながら「お宅の旦那さまは、いい方ですが、どうして印ばんてんなんか召すんです?」というの。成程ねえ。わたしは台所で洗いものをし乍ら「動きいいんだとさ。あの人は美術学校なんか出ていて、昔あすこの生徒は豚にのって学校へ行ったっていう位だから、印バンテンなんかちょいと着たいんだろう。」「そう云えば絵をかく方なんか、みんなちょいと風が変っていますね。わたしの知っているおとくいの旦那で、社長さんなんですが、うちへ帰ると、きっと酒屋のしめる前かけね、あつしの、あれをかけるんです。旦那又酒屋さんですかっていうと、ああ、これをしめたら暖くてやめられないよ、という話でしてね」そこでわたしが又云うの「下町のひとは、着るもののしきたりなんか堅いけれども、山の手のものは平気だね、めちゃめちゃで」「マァそうですな、かまいませんね」つまり馬崎というその男は、ひどい風をしてのんきなのは私一人だけでないことを知っているというわけです。
三カ日だったかの新聞に衣料疎開七日迄受つけとよんで、開成山へふとん類を送ってやったのです。一人ですっかり菰をかけるだけにしたから、へばりよ。荷作りも随分やって上達いたしました。姉なんかというものは妙なものね。こんなに骨を折って、やっぱり皆が助かるだろうとそんなものを送ったりして。別にたのまれもしないのに。
八日のお手紙、あんなに寒そうにしていらっしゃるのに、こうしてお手紙よむと、ちっともそんな風に思えず、一層沁々と拝見いたします。健気であればある丈いじらしくいとしいという心もちは、母だけがもつ心もちではないと思います。今年の正月は、全くわたしもすがすがしい気分が主潮をなしていて、清朗であり、そこに光りもとおして居りますけれど、思えば思えば御苦労さま、というところもひとしおで、そのすがすがしい清朗さに、云うに云えないニュアンスを優しく愁わしく添えて居ります。こんな風にして、わたしたちの清朗さも、単に穢れなき浄潔から益〃人間的滋味を加え、わたしたちの人生から滴るつゆは、益〃人間生活の養いとなりまさるのでしょう。その肌に立つ一つ一つの鳥肌が、アナトール・フランスならば、真珠というでしょう。わたしの手や腕が、こんなにひびだらけになり、踵の赤ぎれが痛くてびっこ引いて居りますが、それも生活の赤き縫いとり飾りだと思ってね。赤い糸の、こまかいびっちりの十字繍(ぬ)いなんかそうざらにはないわ。ほめて頂戴。でも、原始の人たちの生活のように春を待ちますね。動物はどんな気もちで春を待つのでしょう。
昨日、いつもお正月にお目にかける寄植の鉢をたのめました。すこし時おくれですが、其でもやがて小さい梅の花も咲き福寿草も開くでしょうと思って。ささやかな眺めとして、ね。凍らないもののあるのはたのしいから。留守番の人は一寸申上たように始めの若い夫婦にきまりました。生活費と云っても配給もの丈でしたら、この節として仕方ないでしょう。それに一方の人は、余り大勢で壕に入りきれないし、この数年のうちに揉まれてすこしルンペン性が出来ていて、万カ一失業したりしたとき、うちがやけずにいたりしたら、いつか一つ一つと何か見えなくなって行くような可能もあり、実は一番そこを気にして居りました。だから自分の腕で働き、小僧さんから叩き上げ、人物を見こまれて肴町の春木屋という鳥やの娘をもらっているその男の方が、小堅くていいでしょう。細君が来ましてね、厚みのあるきもちのいい人よ。ざっくばらんに何でも話してあっさりやろうということにし、そのひとは良人のために好きなものをこしらえて食べさせたいだろうから台所はその人がして、わたし掃除ということにしました。うれしいわ。少くともこれ迄よりよほど楽になります。この夏時分はひどうございましたもの。日比谷から帰ると六時、それから台所をして夕飯八時でした。
そちらが早朝なのは辛いけれども、夜は何にもしないで臥ることを専門に考えて、在宅日の午前、そういう日の午後と活用すれば本当にようございます。ともかく主軸となって台所やってくれる人が出来るのはうれしいわ。マンスフィールドの日記なんかよんでも、本腰で仕事しようとすると先ず家事担当者をいろいろ苦心していて、どこも女は同じと思いました。その夫婦は大体七月頃までこちらにいて、あとはどこかへ勤めが変るのだそうです。ラジオやさんです、技術徴用で会社の電機具の方に働いているのですって。国男がその人の少年時代から知って居りまして、その方がいいでしょう。国は感情的だから、そういう人のことなら忍耐出来ることも、わたしの方から来た人の場合辛棒しにくいでしょうし、又おのずからコマの会う面があるのでしょうから。
「ボンボンの歌」について。歳月の風雪に耐えるとあり、本当に詩の力は不思議と思うの。詩は風化作用を受けないものと見えるのね、それが本ものでさえあれば。うたの力が人間をして風雪に耐えしめる、とさえ思われるでしょう?ところが、そのような古びない魅力を創ったのは、外ならぬ人間なのだと思うと、その人間の大切さ。いかばかりでしょう。お約束の指頭花も御披露いたしましょうね、幾度自分でお読みになったものにしろ、愛誦歌であればあるほど、読ませて聴く趣も深いでしょう。読まれる一つの節は、こころのうちにあるもう一つの節を、次から次へと呼びさまして、ね。
東海道線は、公用軍用鉄道のようで、なかなか普通で切符は買えません。何とか考えましょう。あちらへ行ったらちょいとでは帰れないかもしれないわ。だって、あっちなら、夜も、すっかり寝間着に換えて眠れるのでしょう?食べるものよりもわたしは其が欲しゅうございます。とび起きて、モンペはく丈にして眠るのには馴れてもいやです、もし行けるとして月末でしょうね、さもなければ二月初旬。(こっちの方でしょう)実におみやげがなくて閉口ね。おみやげを当にしていらっしゃらないにしろ、自分のこころもちとして、何年ぶりかで、はいこんにちわ、ケロン。としているのは気が弾まないわねえ。下駄はないし。あなたの衣料切符の点がすこしのこっていて、一月二十日までですから、羽織の紐でも買っておきましょう、行くにしろ行かないにしろ。(行かないというより、行けないかもしれないにしろ)そういうものはみんな送っておいて、自分は例のノラクロ姿にヘルメット背負って弁当二度分もって、或は何里も徒歩連絡の決心で行かなくてはならないのだからかなりの仕事となりました。罹災者として以外の旅行は益〃困難ね。
寿江子は一昨々日千葉へ一寸帰り、今又来て居ります。あのひとも千葉を動く気になって居ります。主として経済上の理由から。あっちはちゃんとした野菜や何かの配給がないから物価の高騰が菜っぱ一本に響いて迚もやれないらしいの。二人家内で四銭の野菜などというものは、大きい蕪1/4に小カブ一つよ。葱ですと、二本です。やって行けなくはあるが、其しもやはり土台で、天井知らずのものしかないというのは生活の安定性がなくてやり切れないらしく、北多摩の辺に見つけたがって居ります。せいぜい見つけて頂戴と云っているのよ。ここがやけたら目下ユリちゃんは行くところがないのですから。
国男たちきっと新年のハガキもあげないのでしょう、御免なさいね寿江子だって。云っているくせに。うちの連中ってひどくナイーヴで眼玉に映っていないとケロリとしてしまうのね、わたしだって同じ扱いうけたのだわ、但、そのときは寿が熱心で助りましたが。では又寒さを呉々も御大事に。
〔欄外に〕「風に散りぬ」について一寸おもしろい話ききました、次の手紙で。 
一月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月十三日
けさ、二十九日(十二月)のお手紙到着しました。ありがとう。
まず昨夜の話からいたしましょう。ゆうべは、一昨夜眠り不足のままでしたから九時頃大いそぎで湯たんぷをかかえて二階へ上りました。寿江子はいやがらせに「いいの、床へ入るとどうせすぐよ」と申します、「いいとも。五分だっていいよ」と床へ入って、さて一眠りして気がつくと鳴らないじゃないの。まあ、と枕の下から時計出してみたら十二時。じゃあ三時頃かな、と又いいこころもちに眠って、又目がさめたら、まだ鳴らない。おはなしのようでしょう?時計を出したら五時すぎなのよ。さてさてきょうはめっけものだ、これなら朝も大丈夫と、又もや一つね返りを打って、一息に九時半まで眠りました。凄いわねえ。ずっと眠る心持よさ。いつもこうして眠っていたのね、そちらもおらくでしたろう?よかったわねえ。そんな風に臥ましたからきょうは元気だし、天気もよかったし、寿江子が台所に働いている間、ポストへ行きました。そして二十九日のに、やっとめぐり合ったという次第です。
いかにもいいおせいぼだったのにおくれておしかったこと。其でも結構なお年玉であることに変りはございません。
本当に去年はなかなかの年でした。精一杯にやってその日その日を送ったので、回想というところまで時間のへだたりがまだ生じて居りませんが、わたしたちの生活の中で、色調つよき年であったことは疑いありません、四月以降相当でした。でも、おかげさまで病気に戻りもしなかったからようございました、それというのもブランカとしてはここでどうしても暮す、という不動の目的があるからやれたので、さもなければ一寸辛棒しませんでしたろう。腹を立てたりしてね。特にわたしとして内部の収穫多き一年でした。船酔いでもありそうな日は、とあり、あんまり適切なので笑えました。あなたお酔いになる?わたしは、船と飛行機は駄目です、普通の酔いかたで、みっともないが単純なのではないのよ、到って行儀よくて何一つ胃から逆流させませんが、血液循環がどうにかなって、脳の貧血、全体の貧血が起り、眼をあけたまま夢中になってしまって、飛行機なんか下りて半日は病人です。それが一定の時間を超すと、そのまま死ぬのですって。閉口ねえ。ですから、船酔いのありそうなとき、良質の空気が助けとなるということの適切さは、それこそ命の素というわけです。あなたも、余り気持よくなさそうに船酔いでも、と書いていらして面白いこと。泳ぎの上手い人は酔わないのじゃないの?やっぱり酔うの?尤も船酔い、人当りいろいろ毒素は放散されますものね。
親舟子舟のいきさつは、相当もう保証つきと思われます。子船としての便宜、というようなこせついたことを考慮する段階は主体的にも客観的にももう通過してしまったと思われます。子船が丈夫に役立つようになったというばかりではなく、ね。あの船たちは、綱を切られてしまうか、それとも、親船にきっちりとうまくはめこになって更に遠洋の航海に耐えるか、二つに一つという時をいつか経たと思います。そして、幸組合わせうまく造られていて、工合よく堅牢にきっちり航行態勢が整えられたのであると見えます。見た眼にさえその姿はすがすがしいでしょうと思うのよ。そして、人間の生活ということについて、すこし心ある人ならば、新しく思いを誘われるところもあるでしょうと思うの。そこに人生詩のかくれた力、芸術家たる所以、作品をして永生させる根源の力がひそんでいると信じます。人生は森厳であり、そこ迄行ったとき、初めて萎靡(イビ)することのない美しさ、平凡になり下ることのない高邁さが生じるので、もしそんなところに行けるとしたら、肺活量のゆたかさについて感謝しなくてはならないと思います。それにね、「空気」ということを、わたしは幾重にも興深く感じます。空気は恐怖を感じさせない不思議な力をもって居ります。いい空気ほどそうよ、それは美味であるし快適であるし、益〃こころよく其の裡に心も身も浸そうと欲するものです。わたしに、そういう空気があり、混濁した瓦斯っぽい中で息苦しくなると、その空気を心から吸い、そして元気をとり戻します。その空気の流れるとおりいつかついて行って、そこには特別な躊躇だとか狐疑だとかいうものはちっとも起りません。これは考えれば考えるほどびっくりして、マア何と性に合っているのだろう!と満悦と恐縮を感じます。だってそうだと思うのよ、すこし謙遜な人間なら、自分に、それ程性の合う天のおくりものをさずかったら、ありがたさに恐縮せざるを得ないと思います。しかも、その空気は、本質の良質さを明瞭にするために、実におどろくべきテストを経るのですものね。実に恐縮です。そして、そのような滴々是珠玉のような空気によって、わたしが健やかにされ、天質のプラスの面を引き出されてゆくのかと思えば、殆ど空おそろしい位です。自分に果して十分の消化力があるかどうかと、畏れます。あに、精励ならざるを得んや、というのは真実であるとお察し下さい。
お手紙がうれしかったせいもあって、きょうは二階へ水を運び上げ火の用心をし、さてそれからチャンスと思って風呂をたきつけました。いい工合によく燃えついていい気分で、台所の裏で石炭集めしていたら、どこかでザアザア水が流れる音がきこえ出しました。又どっかで水道パイプが破裂したのかと思って燃(た)き口へ来て見たら、どうでしょう、いい焔を上げていたカマの口から、地獄の洪水みたいに黒い水がザアザア流れ出して居ります。循環パイプのカマなのよ。上り湯のパイプがわるくなっているのを思い出しすぐ上り湯をあけました。それが原因だと思っていたら、さっき、みかんの皮(ミカンの少々の皮、ふろに入れると手のアレ直し)を出しに浴槽をあけたら、湯槽の方の太いパイプがそこ抜けになってしまってすっかり減っているの。ああやれやれと歎息してしまいました。これで哀れなブランカは何日かヒビだらけの手でお湯に入れなくなりました。今こんなパイプの直しなんかおいそれと引受けるところはありませんし、どうなることでしょう。もしかすると、これで当分フロおじゃんということかもしれません。そしたら目白の家でつかっていた丸形のをお医者様のところから引上げてでも来るしかないでしょう。一休みして、二階へ干したふとん始末に上ったら又ここでも水騒動。太郎が生れたときこしらえた大ダライに水を満々と張ったはいいが、いつも風呂場のタタキにあってわからなかったスキがあって畳がすっかり水を吸っているというさわぎです。バケツでかい出して屋根からすててね。漸々(ようよう)其でコメディア・フィニタ。ブランカも多忙でしょう?この頃は何でも老朽で、其を直せませんから、こうやって用が二重になったりいたします。
老朽と云えば毛糸足袋下。はいてみたら、何と云ってもこっちが暖いわ。いくら私がこしらえたって薄いものは薄いのですもの、あなたがおやせになったせいばかりとは申せません。今年はじめて別のをおはきになったのですものね、鷺の宮であなたの足袋を縫ってくれるというので、ネルや帯芯をもってゆき、もう出来ましたって。近々足元がいくらかましにおなりでしょう。鷺の宮やてっちゃんは、歳月で褪せない暖いこころがあって、うれしゅうございます。
「風に散りぬ」の話というのはね、この間偶然、あちらに永年いた婦人に会い、その人はよく様子を知って居り「今昔物語」の紹介なんかしている人ですが、その人にどうしてあの作品は大作なのに終りがああ弱くて、展望的でないのだろうと話したら曰く、「そこが南部の伝統ですね、ヴェラ・キャーサの作品なんかとその点全くちがいます。南部は今でも南北戦争を争っていますよ、経済的にすっかり駄目になっていて回復出来ないでいましたからね。尤も今度の戦争のあとは異って来るでしょうが。今度のルーズヴェルトの選挙でも半分は南部の投票でした」今までは棄権ばかりしていた由、北部の重工業がドシドシ南部に移動したのだそうです、人的資源と労働力の低廉を求めて。そしたら黒人の大量的北部移動が起ったそうです。今はメキシコから労働力を入れるに大童の由。そしてこのことはメキシコのメキシコ的主張のバックとなるわけでしょう。アメリカ発達史以後の話でわたしには面白うございました。殆どこれで全部ぐらいの話でしたが。
今夜又ずっと眠りたいことね。何かおまじないをしましょうか。昔岡本一平がフーオンコロコロという占いを漫画で描いたことがあります。それで占ったらわたしは、勲章下げて空のおはちをかきまわしている図というのに当り、今だに苦笑いたします、おまじないの方は一寸思い当る方法ございませんね。わが身を小さき珠となし、その懐に眠らばや。 
一月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月二十九日
きょうは、大御無沙汰のあとで久々にゆっくり書きはじめました。しかもきょうの手紙はね、百合子というだけのさし出し書きではすこし不足で、危くふっとぶことを免れたブランカより、という風な書きかたが入用です、昨夜九時すぎに来た一機が照空燈(サーチライトをこういうのよこの頃は。)に捕えられて上空に来かかり、きっと割合腰抜けだったと見えて周章していきなり、ポタンコポタンコとやりました。京浜地区警戒を要すというラジオでいつも壕へ入る仕度いたします。菅谷夫妻は、いつも泰然ですが、昨夜はいち早く来て主人公外へ出て、壕のふちに立っていたら、来ましたよ、来ましたよ、ホラそこ、真上でいやがる、というの、わたしには全然見えません。入りましょうよ、と細君と壕に入ったらとたんに何と云ったらあの音響と地響が表現出来るでしょう。つまり夢中になってしまうような音がして叫ぶようにキューンという鋭い音がいたしました。思わずかたまってちぢみこみました。又、キューンというの。焼夷弾よ、見なくちゃ、さア、ととび出して見ても分らない、うちに、パン、パーンとごく近くで落ちたのが爆発する音がいたします。近いわ、そのつもりで。とわたしは二階へかけ上り、あっちこっちあけて様子を見たら南の高村さんの屋根の裏がもう火の手です。やっぱり電話局よ、白いからね、と見ているうちに火はひろがり外へ様子見に行った菅谷君の話では電話局の前の通りで林さんというお医者もやけてしまったらしいとのこと。細君は、肴町の通りの春木屋という鳥やね、あすこが生家ですから、そっちを心配し御亭主はかけて見にゆきそこらの状況が分りました。細君も実家を見にゆきたいというのよ。風が北だからこっちは安心だから行くといいわと云ったら息せき切って戻って来て、奥さんそれどころじゃありません、団子坂の角がやけていて門の前から非常線で通れません、というの。じゃ一寸見て来るから、と門へ出たら門から非常線で団子坂の角の米やがあったの御承知でしょうか、あすこから鴎外の家のあったところ、そのずーっと先まで火の由。いろいろの情報を綜合してこちらは丁度巨人の歩幅の間に入った小人のような位置だったと分りました。うしろと斜前、横、爆弾でした。それぞれ小一丁もはなれて居りましょうか。
第二次、第三次と来たときまだ火が見えて心配し、電燈もとまり警報もきこえず月明りをたよりに土足で家じゅう歩きました。日大病院もやけました。相当の範囲ね。こちらの側は、団子坂の角あたりと、その線をのばしてすこし上へ上ったところで星野という家につき当る角がありました、あの一寸入ったところ位で止りました。
けさは疲れて八時前御見舞に来てくれた国男の友人に会ってから又、湯タンプをあつくして眠り十一時までぐっすり眠りました。千駄木小学校・駒中・郁文へ避難した人々が一時集っていて、こちらの前の通りの人通りは遑しゅうございます。
水が不足ね、何しろ乾いて居りますし。凍って居りますし。大体どういう風と分ったのはいいが、あんまり瞬間の判断も出来ない程の突嗟のことで、其には閉口ね。本当の塹壕生活ならいいが、こうして日常性とそういう異常性とが交錯した生活はこれから益〃大変でしょう。こちらの組の米、味噌、マッチ類の配給所もやけてしまいました。今度の月番は大変でしょう、こちらは丁度昨日で終りました。マアこんな風で、ブランカも恙(つつが)(妙ねすこし)なかったことをおよろこび下さい。机の上に、内科読本など揃えてそのままとんでは哀れを止めてしまいます。
二十五日のお手紙、ありがとう。一昨日頂きました。あなたのお手にも紅糸綴りが出来ましたって?まあ。ねえ。ことしはあなたが瘠せていらっしゃるばかりでなく三十年来の寒気の由です。そのために、どこもここも凍りついて水道のパイプはこわれるし、直す資材はないしこちらなんか大不自由して居ります。十年ぶりに起きておすごしになるにしては愛嬌のなさすぎる寒中です。残念なことです。こう凍りついてキンキンかたいと、春ある冬の詩趣だけでお暖り下さい、と思うには、ブランカもすこし人間くさくて空々しいほどの詩情は披露いたしかねます。そのくせ、つくろい物はのろのろおっかけというのではどうも器量が上らないこと夥しい次第であると思います。手袋もそんなでは何とかいたしましょうね。変に指をひっぱってはめたようなずらしたような工合にしていらっしゃると目につきましたが、おそらくあれはつまり指先は持って生れた皮ばかりという手袋になっていたのだったのね。
さて、こちらの留守番の人夫婦。他人と棲むとしては申し分ないとすべきと思います。〔中略〕面白いことにね、この節の暮しというものは、元はよく、ホラ、御飯だけ炊いて貰っておかずは各自という共同生活がありましたろう、あれがこの節は、おかずは一緒で御飯は別なのよ。この間うち、朝起きて顔をみるやどうしてこう御飯が足りないんでしょう!と頬っぺたの赤い、がっしりした細君が訴えるの、そちらへ行くというその朝の忙しさの中でさえ。寿が、十五日にこの二人が来ても帰らずずっといて、あの人が又お飯好きです、それでぐっと食いこむのね、そこで、御飯は別々ということにして面倒でもこちらとあちらと炊くのよ。そしたらすっかりそういう煩悶も解消で工合よくなりました。〔中略〕しかしこうして他人が来ても、前もって居るという話になっていないあの人がいるという点なんか、ぐーっと押しで無視して、こんどは用のない人の粘りで粘られるから、わたしのような人間は業(ゴー)が煮えます、キモがいれます、島田の言葉で申すと。わたしは自分のしたいこと、手紙かくことさえ時間がない暮しだのに、〔中略〕
さて、きょうは三十一日になりました。朝八時すぎにこうした手紙をかきはじめるというようなことは珍しゅうございます。けさ八時に国が富士というところへゆくために出発したのでこんな時間が出来ました。
きのう(三十日)帰りに三丁目から南江堂へまわりました。あのひろい間口の店が半分だけになっていて、本と云えば全くあの棚にチョビリこの棚にチョビリで埃だらけの台に雑誌が並んで居ります。衛生の部には工場能率増進についての本が二三冊、営養関係の本と申せば乳幼児に関するものだけ。お話の外です。国民服を着て奥で喋っている男に訊いたら曰く「さアわかりませんな、この頃ちっとも扱いませんから」そこで別送の雑誌一つ買って一円七銭のところを五十銭出したら突かえして「こまかいのありませんか。雑誌なんかおことわりしたいんですから」という挨拶です。びっくりしてしまいました。自信がないのね。医者の本を扱っているくせに学問の恒久性というものがちっとも分っていず、商売のつまらなさでくさっているのね、こんな代表的な本やでこんな人間が今の時期店番をしているということは一つの恥辱の感じがしました。本を買いたい人は、呉服屋へ行くのじゃあるまいし、熱心に探求心をもっているのですから。そのくせ、その男は奥じゃ変に亢奮して飛行機のおっこちたときの話かなんかやっています「映画にある通りそっくりですな、こう」と手真似してね。実に今の下らないタイプをまざまざと見学いたしました。仕方がないから向い側のやっと開いている一軒古本やへまわって見ました。やはりありません。金原の、あの叢書ね、あれの腸間膜の病気についてのが売れのこり、小児の梅毒か何かの本があり、歯科の本があり医事年鑑などばかりです。何とも手のつけようのない有様です。さがしても見ましょうが(神田辺を)目白の先生にたのんで見ましょう、何かあるかもしれません。そしてこちらの営養の本を見つけましょう、仰云っていたのを、ね。本のないこと、本のないこと!一寸通って御覧になってもあの通り街の店の八分通りはしまって居りますものね。
それから肴町へ出て、非常線を通して貰って焼あとを通りました。相当なものです。東京からみればそれは一部に軽微な被害ですが、界隈に住むものとしてはつよい印象です。鴎外のいたところもどこも分らなくなっていて、煙の彼方に根津かどこかの樹立がぼんやり見えて居ります。団子坂のすぐ角まで、左側――そちらの方の側は、表からひとかわで止りましたが。林さんという医者の低い煉瓦の門が四角くのこっていて、そこに瀬戸ものの表札がわれもせずきれいにのこって居りました。面白いものね。そういう風にしゃんときれいに表札がのこっていたりすると焼けてもその人の命はつつがないという晴々した感じでした。このお医者はこちらの古馴染でわたしも世話になり、日頃電話局の前だからあぶないものだと云っていましたから気にして居りました、見舞ったら一家無事で何よりでした。
十二時頃帰ったら昨日はこちらもお見舞の人が多く、国は三十一日までという所得税の申告書きでねばっていて、到頭わたしは手紙もかけず。ですから今日はうれしいのよ。
「指頭花」が氷結したような工合になって居ります。しかし、氷花の中につつまれて、咲いている不思議な可愛い花の姿は又格別の眺めです。忙しくて、びっくりして、火がボーボーで、でもちらりちらりと燦く霜柱の宮のなかに、ちんまりと暖かそうに、浄らかにおさまっている花を髣髴して、いい心持です。詩の御披露までに氷はとけませんけれど。
二十五日のお手紙に、氷の裡で詩も作れないのが現実とありましたけれども詩の功徳は不思議なものよ。凍っても生きている花の美しさがあるし、詩の生れ難いほどの凍結のきびしさを縫って、猶点綴する花飾りが想われますし。ことしの冬は、氷垂(つらら)のなかにこめられた指頭花ですね。そこに独特の可憐さもございます。 
二月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二月三日
氷のとける雪というものもありますね、初春らしいこと。氷ってしまって困っていた水道が雪で出るようになりました。これで喉をわるくしていた人もましになりましょう。でもきょうの風はさむいこと!真北で。二十八日以来、風向きに気がつくようになりました、西北だったからこそ助ったのでしたから。焼跡の雪景というものは独得な眺めです。
きょうの帰り、北風特に身にしみたのは、あなたの「もう駄目だね」が相当きいていたのだろうと思われます。駄目だね、はこれ迄も頻りに伺いましたが、もう、というのは耳新しいわ。たった二字ですが。御自分で気づかず仰云ったのでしょうね、気づかずおっしゃった二言に、どんな真実があるのでしょうね。でもマア気にいたしますまい。自分で自分をはげまして、もう、でも、そろそろでも到頭でもいいことにしておきましょう。駄目だね、が実際である以上、自分で其を承認している以上、上につくものへ注文してもはじまらないわけですものねえ。更に明瞭なことは、何がつく駄目であるにしろ、ブランカはやっぱり駄目だねと云われに(るべく)あくせくするのですから。
さて、南江堂の目録は、幸にもちゃんとありました。これを見ると、全くこういう本も出した、という記録品の感じがいたしますね、南江堂のがらん堂については前便で書きました通り、二十九日のお手紙で列挙されている本たちもその影だになしよ。しかし手帖に書いておいて(!)古本やをすこし見ましょう。古本やが用をなさなく成って居りますけれども。目白の先生にたのむときこれらを書いて見ましょう。一冊でもあればいいけれども。それから『営養食と治病食』。見つかりません。病気関係の本は一まとめにして一つの本棚に入れておいたのですが、どうしたかしら。自分で売ったりはいたしませんから、いなかった間にまぎれて行ってしまったかしらと思います。
もう一度さがして見ましょうが。御免なさい。
ブレブロールはそちらへ一ビン行っています。二度目と思ったのはポリタミンとごっちゃにした記憶でした。肝油は一ビンとってあります、大切にして。あとは目下品切れの由、きょうききましたら。品切れで閉口いたします、何も彼もだから、やりくりも遂につまってしまいます。
エビオスの定量。あれは酵母剤で、そんなにむずかしいものではないらしいのですが、今もしもと思って買ってある粉末のは一日三グラム以上とあり、粒にして六粒―十粒ぐらいのものではないでしょうか。栄さんは愛用者で十粒ぐらいずつのんでいるようです。腹工合のさっぱりしないときは、すこしよけい、という風にしているようです。ビンに書いてなかったでしょうか。大体ああいう薬は、早くなくなるといけないという商売的用心から一度に二粒とよく書きますが、そういうときは、あんな性質のものは十粒(一日)ぐらいでいいのではないかしら。御自分の工合でいいのではなくって?のぼせるものでもないのだし。
「動かぬ旅行者」というのは適切だと感服いたしました、そして熱帯と寒帯とを通るということも。「絹の道」「北極への道」人類が雄々しく踏破した道は幾多ありますが、歴史は動かぬ旅行者の歴史から歴史への道というものを出現させました。本当に熱帯と寒帯と、思えば整備員の不熟練、質の低さは決定的なものです。
今年は、お着になるものなど、怪腕をふるって、われ乍らびっくりものです。わたしは地道な人間で怪腕はよかれあしかれもち合わせないのですが、事一度裁縫に関すると、振う腕ごとに怪腕になるのだから凄じいわね。技術を習得しても怪腕に変化はいたしますまい、それはどうぞ御含み下さい。そういうことの器用人は又別でね、わたしのは、必要を極めてがんばって主張したという風な裁縫なのよ、あなたの針仕事を女性化したという程度ね、おそらく。でも、幸、わたしは、台所はしませんでした、何はしませんでしたというような消極人でないから、おそろしい綿入れだって何とか征服いたします、あなたとしては、時おくれやとんまや、その面だけがお気づきでしょうし、其は実もって尤もですが、わたしの昨今の諸事業征服は、そうそうすてたものでもないのよ、公平にみれば。気力でやりとげる的縫物でさえするのですもの(!)
最近材料をそろえて、鷺の宮へ行って足袋縫いをいたします、ついでにお風呂に入って、国男がいるから泊って来ます。昼間風呂をわかさせてはすまないし、夕方入れば帰るのが困るし。今市電十時で終りですから。
国男たちがゆっくり眠って休むように、と開成山へ誘います。たしかにねまきになって髪もほどいて眠って見たいわ、けれども、この一ヵ月ゴタゴタつづきで、やっと寿が帰ったと思うと国で、わたしはおちおちした自分の時間がありませんでした。一人でいたいの、実に一人でいたいのよ。本をよみ、手紙もかき、そちらでは覚えていたことをいつか忘れるような毎日でない毎日が送りたいのです。一週間、仮にのんびり眠ったとしても、食べて眠るだけに、安らかさはあるのでないから、わたしは矢張り参りません。子供たちは見たいけれども、キャーキャーワーワーで、気が安らかでないと思います。本やとの話が気にかかって居りますからね。わたし一人ならここで何とかして昼間休むことも出来るのだし。「わたしども」の暮しぶりをチャンとやれるのが、一番いいし結果的には其が休養となります、あっちこっするのは少くとも私には却って不安をまします。
やっと人が来たのに、自分がガタクリ動いては何の甲斐もありませんものね。国は十日かおそくとも十五日いて帰る由です。あのひとも、そうやっていますが、徴用のことがあるから、どうするでしょうね、そうしたら東京にいなくてはならないでしょうが。そうなればブランカ恐慌です、御察し下さい。
段々汽車の旅行が困難になりつつあり、其は加速度的傾向です。ブランカにとって長途の旅行はあらゆる事情から困難となります、疎開先についてあれこれと考えて居ります。好都合に近く運びたいと思います、地方半定住のことも、想像していたようにゆきそうもありません。地方的偏見がつよいから、そして混乱期のそういう偏見の結果は計らざる不幸さえ招きますから、東京にいてさえわけの分らない目に遭うものを、そういうあぶなっかしさにあうのは愚劣ですから。暮しかたはむずかしくなりまさりますね。よくよく練って研究の必要があります。それに、本が一層不便になる場合、生きた雰囲気が活溌に送りこまれることは最も必要なことでしょうと思います、そして、そういう生活雰囲気は、同じ小さい空の下で、ましてや歩くのは一本の道と限定されて会う人もとやかくという環境では、極めて流動をかきます、動いてしかも動かない旅行者に近い事情に生活することは大局からよくないでしょう?補給の上からよくないでしょう?この頃そう考えて来て、しかし乍らここの家もいつまで無事か分らず。さてさてと思って居ります。いずれにせよ、船のいらない疎開先でなくては困ります、船はタヌキの舟でなくても沈むのよ、ユリは酔うのよ、空気は性にごく合っていても、袋に入れて吸入用にならないし、クラウゼさんの云い草ではないが、長い補給路ほど辛いのですからね。半年後に日本の旅行は全く異った相を呈するでしょう。汽車は去年の種から生えないのが不便です。電車にしてもね。人間の足幅だけで、地べたを刻んでゆく旅行が再出現したとき、どのような「奥の細道」が創られるでしょう。「十六日夜日記」が出来るでしょう。ブランカの足が刻める距離ということも冗談でない或時期の考慮にのぼって参ります。条件がいかにも複雑ね、そして反面には残酷に単純です、ふっとばされなければ、という仮定について考えてみれば、ね。この二つの面を縫って、何が先ず大切か、という判断だけが正しく進退せしめるというわけでしょう。手がかじかみます、本当にさむいのね。 
二月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二月十八日
きょうの静かさ、陽の暖かさ、身にしみるばかりです。一昨日は、相当でしたね、ヨーロッパ的規模に近づいて参りました。朝、小型数十機という情報をきいた瞬間、段階が一飛躍したと感じました。一昨日は夕飯前まで戸外(壕)と台所の板の間とで暮し、夜は国が食堂に臥てラジオの番をいたしました。わたしは、又次の日どんなにして暮さなければならないかしれないから二階でふだんのように眠りました。きのうはましでしたね。しかし遠からず、あの時はまだ延千ぐらいだったのだものと云うことでしょう。益〃よく暮し度胸もよく暮したいと思います。
国、昨夜十一時に開成山へかえりました。咲の方が手つだいいなくなって、手紙かく間もない生活となり、何かあったら全く太郎一人が対手なので、切符入手出来たのを幸、一番安全そうな時間を見計らって急に立ちました。菅谷君出張、細君田舎行。昨夜又候(またぞろ)たった一人で、田舎から帰れるかどうか分らないから三四日は一人とあきらめていたら、けさ其でも細君帰れました。これでよかったわ。女だって二人ならば、ね。いよいよ地下生活の時期になった、と新聞で書いて居ります。これ迄も壕で昼飯をたべたことは一昨日までに一二度はありました。うちの壕は入口のフタの傾斜がゆるやかでカンノン開きで見てくれの薄板で、それが弱点ね、機銃の玉なんかいくらでも通ります。其に、生活万端やるとすると狭いわ、一人で一杯です、電燈もないし。
国は荷物もってゆくつもりで例によってどたん場まで愚図愚図して居たら、一昨日以来一般小荷物受付中止で、家じゅうひっちらかしたまま、自分のふとんさえしまわず行ってしまいました。〔中略〕まあ今時の往来ならそんなものかもしれませんけれど。当分小包も受付中止よ。田舎からは来るのでしょうね、さもなければ、わたしたち干物よ。
この間の火曜日、ね、お目にかかって帰って来て、午後から友達が来ました。何だか四角いものをふろしきに包んで、はいとくれました。近頃は勘がよくなっていてね、其はすぐお重とわかりました、が、どうして又こんなおみやげがあるの?と訊いたら、いやあね、お誕生日じゃありませんか、とぶたれてしまいました。本当にそうだった!マア、マアとびっくりして、よろこんで又呆れられてしまいましたが、わたしはしんから可笑しゅうございました。だって、火曜日にお会いして、十三日なのをわたしは勿論忘れていたし、あなただって決して特別に意味のありそうな顔つきをしていらっしゃいませんでした。こうしてみると、誕生日そのものよりも、日々をどう生きているかということが切実なのだと改めて思い又、いかにもいそがしいのだと痛感いたします。忙しがって生きて、誕生日を忘れているのも今時のお目出度さなのかもしれません。十二月二十日に国が開成山に発ち、その午後寿が来て、一月二十九日、国の帰る日まで居りました。それからきのう迄、国がひとを使う使いかたと云ったら。使っているようでは一つもないけれど。〔中略〕
わたしはきょうは、本当にお風呂にでも入って髪でも洗ってさて、と自分の暮しをとり戻したさっぱりしたよろこびをあらわしとうございます。残念なことにどっちも出来ないわ。お風呂はボイラーの底抜けが直らず、目白からもって来た桶はまだ煙突がないの、おまけにすこし底があやしいのよ。髪を洗うことは、疲れすぎて昨夜風邪ぎみでしたから、やめなければなりません。
きょうは、どこの家でもくつろいでいるのね。こうやっていると、カナリアの囀る声に混って、うれしそうにさわいでいる隣の子供の丸い足音、人の声がいたします。さっき台所の裏の氷った道を、組長さんの近藤さん(うらのはなれに住んでいる画家)が鼻歌をうたい乍ら通りました、そんな気分なのよね、だれもが。国が来たらお米の不足の騒ぎまでひとりで才覚しなくてはならぬ始末でした。国という人は永生き性よ。留守の間に二人分配給のあった米が、不足な訳はない、という根拠で、わたしが気をもんで苦心していても感じないか或は一言もふれないのよ。凄いわ。そして、自分は「田舎のおなか」で東京暮しをいたします。寿が逗留していたにしろ、寿は米をもって来るべきであり、従って来た筈であり、わたしが寿にお米なしでは駄目だと云えないということはあり得ないこと、なのね。そういう生活態度は何か憎悪を起こさせます。そして、こうやってあなたに毒気を吹きかけたくなるのよ、御免なさい。わたしは、私たちの生活上必要な一つの〔検閲で削除され不明〕だと考えてこういう生活もちゃんちゃんやって行こうと決心していて、それで大分辛棒いいのですけれど、まだまだね。どうしても毒捨袋の口がゆるんで、ついあなたに何か訴えてしまうから。
図書館ゆきのこと、金・土と実現不能で気にして居りましたら、目白の先生が昨夜見舞によってくれました。早速お手紙を引きくらべて顧問になって貰ったところ、今の雑誌は百害あって一利なし「医者さえ騙かされるんだから」読まないに如かざるものの由です。『戦争と結核』という本はおよみになった方がいいから探してくれる由。営養の本の中では桜井『栄養科学』マッカラム『栄養新説』がよむべきものだそうです、両方とも誰かから都合してもらってくれる由。
『絹の道』はまだよんで居りません、〔検閲で削除〕親しく響きます、そして、クラブに大書されていた言葉の美しさその意味の深さ実現されたらばその勝利の人間らしい見事さにうたれます、それは、おそらくクラブの白い壁に横長く貼られた〔検閲で削除〕の赤地に白くぬき出した字で書かれていたのでしょう。〔検閲で削除〕に、そういう一ヶのクラブが立ったというそのことが既に、沙漠における人間叡智のかちどきだったのでしょうね。あっちの女のひとは髪を編み下げにしているのよ。顴骨(カンコツ)が高い角丸の、眼の大きくない顔で、よく往来を歩いていました。沙漠に生える蕁草(いらくさ)のように背の低いがっちりさです、かたくて。
この頃わたしは屡〃思います。鴨長明でなくても東西の賢人たちは、人間があかずくり返す破壊と建設を、ただその反覆において一つの愚行だと見て来ました。結果人間は愚かなものだ、という風にね。でも、果してそうなのだろうかと思う方は大したものだと思って。
きょうはもう二十日となりました。早さおどろくばかりね、壕生活を、わたしはすこし張り切って居ります、というのはもとより望むところではありませんし決して永もち出来る風土的条件ではありませんが、それでもそうなったらわたしは自分のこれまでの諸生活の形態から学んだやりかたを十分活かして、最大に快活に健康に堂々とやって見ようと思って。そのときこそわたしは人間はいかに生きるかというキリキリのねうちが知られると思います、厖大な家を、ゴミだらけにしているユリちゃんばかりが、わたしではないのですもの、ねえ。 
二月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二月二十三日
二十四日
二十五日
きのうの吹雪は東京に珍しい光景でした、本当の吹雪で。一尺近い積りかたで庭の雪景は眺めてあきません、二階の庇が重くなったらしくて雨戸が動かなくなったり。
父の亡くなった十一年は二月に入ると大雪つづきでした。いかめしい建物の庇合わい[自注3]にうずたかく凍って、いつまでも白く見えていた残雪の風景を思い出します。楓という樹は若葉が美しいばかりでなく、秋が見事なばかりでなく、雪を枝々につけたとき大層優美なのね、末梢が細かいから、そこに繊細に雪がついて。きのう沁々とながめました。雪景色の面白さは、こまかい処にまで雪が吹きつもって、一つの竹垣にもなかなかの明暗をつくる、そこが目に新しく面白いのね。雪は本当に面白いわ。そして、薪を雪の下から出して、サラサラとはいたらちっとも濡れていなくてすぐ燃えました、雪の下の地面は、降ったばかりのときは全く干いているのね。ほんとにこれなら雪を掘って人が寒さよけにするわけと感服いたしました。これまでも見ていたのでしょうのにね。もしこんな雪の下に芽ぐむ蕗の薹(とう)でもあったらどんなに春雪はやさしさに満ちるでしょう。昔は、わたしがたどたどと小説のけいこをしていた部屋の小庭の松の下に蕗があって、丸っこくて美味しい芽を出しました。わたしには、家のぐるりに、ちょいちょいと茗荷だの蕗だのというものがとれたらうれしいという趣味がるのよ。そして楓の多い庭がすきなのよ。季節の抑揚ある樹木が庭らしいわね。紅梅の濃いのがほしゅうございます、よせ植えはいかがな様子でしょう、それでも梅は梅なりき、という風?蕾がそだって居りましょうか。一本の濃い紅梅の下に、蕗の薹(とう)がめぐんでいて、雪の上に陽炎(かげろう)が立ち、しめた障子のなかにわたしの一番仕合せな団欒があるとしたら、そんな図柄は金地の扇面にこそ描かれると思います。雪はそんなに日本らしいのね。五月の新緑のときの、灰色空の嵐、驟雨、ぬれた街路樹の青々した行列、稲妻、そんな風情はこってりとした濃い感覚からどうしても油絵でしかあらわせません。日本の美術は春嵐という六月は描けたが、人を夢中にする五月の嵐は余り表現いたしませんね、そういう自然の横溢が美しくてこわいような裡を、わきにいる人からうける安全感に護られ乍ら、顔を雨粒にうたせつつとっとと歩いたらどんなに爽快なことでしょう。こんなに書いて来たら、到頭とっておきの白状をしたくなりました。云ってもよくて?それはね、わたしは自然のいろいろの様子がごく好きです。霜のある夜や月明の夜、野原を歩いて見たいと何度思うでしょう、市街の夜更けや明け方も面白いわ。そういう心からの歩きをしたいとき、わたしは傍に自分の影しかないことを痛切に思います。わたしは、臆病というより自分の身に責任を感じるから、所謂物好きは決してしないたちでしょう?危険においても人的組合わせにしても。そういう歩きに、つれだって歩いてほしい人がほかにどこをさがして在るでしょう?
ブランカの慾ばりは、大より小に至る千変万化ですから、御苦労さまね。しかし、それらのまことに些細な慾をもみたしてやったらさぞ愉快だとお思いになることでしょうね。
きょうは、何となしなめらかな感情の肌の上に、ほの明るく雪明りがさしているような工合です。どうも久しぶりであざらしのようにお風呂に入って、そのさっぱりした皮膚に、雪の白さや雪明りの空気の快よさが作用し、おまけに夜中起きずに十二時間眠った休息が及ぼしているらしいと思います。
やっと一人になってのうのうして、おまけに雪でしょう?人も来ず。ね、それに、一緒の細君がやっと居馴染んで来て、私の気風も分って、安心しはじめ、日常的な用心をゆるめて来たので、何となし平滑な日暮しになって参りました。これから、わたしが仕事する、ということに馴れて貰うと、万事好都合ですし、御主人が在宅なら夕飯後は自分たちのところへ引こもるから、わたしは一人で呑気。でもね、ごくなみの意味で、いい方という一括的結論に到達させるまでには、こまごました朝夕の心くばりが多いものね。そして喋るということさえ何と一つのおつとめでしょう。安心して云わないでいいことを云わないで暮せるようになる迄には。特に女のひと対手の場合。少し黙っていて暮したいようよ。
さて、きょうはあれから南江堂や南山堂めぐりをして、いくらかの収穫がありました。金原商店で、横手社会衛生叢書というのを出して居るのですね、それが幾冊か出ていて、芥川信著行刑衛生。佐藤秀三『社会と医療機関』竹内『公衆衛生』などあり、『海軍衛生』というのも買ってみました。特殊な生活における保健状態が興味あると思って。何かの御参考になるでしょうかしら。江古田療養所から出ている『結核』これは病理的?らしい雑誌です。南山堂で『治療』というのを出していて、これは体質の治療的関係を扱った記事がどうかと思います。一寸見たところわたしには要領の説明が出来かねますが。『医学中央雑誌』というのを見つけました、各科の文献集録ですが、この号は「内科」で呼吸器を扱って居りますから。『日本臨床結核』というのも、どのようなものかしら。『結核研究』は出て居りません。
きょうは、(二十五日)警報で一日がはじまり。又雪になって来ました。積もりそうね。こんな天気にB29で壕入りは閉口と思って居ります。大挙来襲しそうに見えたのは、詳報なしの由、よこへそれたというより、手前で稼いだというわけでしょうか。Bでヘキエキするもう一つの理由は、急に食堂の大ガラス戸が二枚動かなくなりました。Bときくと全家開放なのよ。小型機ときくと雨戸をしめなくてはならず。〔検閲削除〕マア二十分後に到着ですって。〔検閲削除〕
二十六日。きれいに積った雪が庭では一尺五寸もありそうです、ところで、昨日、手紙あすこまで書いたのが殆ど午後二時。三時すこし過には、このあたり大修羅場を現出して、一月二十八日の夜の数倍の轟音と、すぐうしろの藤堂子爵の火の子で大奮戦をして五時すぎやっと安全となりました。夜中のブザではもう体が動かず、三つ四つの轟音をふとんかぶって失敬しました。日暮里の方に向って、うちから半丁ばかりのところに大疎開道が出来たということには何かの理由があるでしょうね。一ヵ月に一度ずつ、こうしてつい十四五間先にバクダンがいくつか落ち、火と闘っていると、いやでも度胸が出来ますね。どういう線があるのかしらないけれども、うちはその線の下で、いつもほんの指のかげん(ボタンを押す)みたいなところでタマはまぬかれて居ります。しかし保たないでしょうね、ここの線はB29線らしいわ、そっちの受持ちらしいのね。寿が、いい工合に前日(二十五日)来ていたので昨日は火の見張り、水くみ、けさは雪かき、情報ききと親身に活躍してくれて、大いに助かりました。いる女の人は火が近い、となると、自分のものをもってうろうろして、私が云ってやっとバケツもって出てゆく程度ですし、最後まで安全と思っていたところが案に相違して、ひるも夜も同一線に落してゆくというようなことで浮腰たって居りますし。今にきっと何とか云い出すわ。そのときわたしは是非いてくれ、とは云いたくないのよ。寿が来てもいいと云ってくれるから、そういう時は寿がここに暮してくれるよう、開成山に談判しましょう。国が用事で上京する、そのとき寿がいては困るというのは余りひとを馬鹿にした話だしするから。でもね、国に云わせれば姉さんがいるからそういうことになる、というかもしれないわ。
けさは七時すぎサイレンで起きましたが、ありがたいことに来ず。又午後かしら。午後はBだからいやね。動坂の家の先に富士神社があったでしょう、きのう以来、あのあたりもあったところということになりました。うちのすぐ前の交番の横通り。こんどはあすこよ。なかなかでしょう?昨夜は、ローソク生活でした。今夜つくかしら。水道・ガスなしです。そちらは灯つきましたろうか。日暮里駅のところでえらい目を見た目白の先生が後へも先へも行けずこちらへ逃げて来たら、火の手が余りなのでわたしが果してどうかしらと思っていたら大きい声が聞えたので安心した由、タンカの上で全く意識を失っていたときの様子[自注4]が(夏の病気のとき)すぐ思い浮んだそうでした、勿論そちらはお変りなし、ね、そう思って書いていて、急に何だか自分の安心に愕きました。あなたの御気分とこういうことの安全とは別なのにね、何と永年わたしは大丈夫と思って暮して来たことかと思います。自分も何だか大丈夫と思っているのよ。可笑しいわね。では明日。

[自注3]いかめしい建物の庇合わい――市ヶ谷刑務所の建物――父の死んだ時、百合子はこの建物の中にいた。
[自注4]タンカの上で全く意識を失っていたときの様子―― 一九四二年七月、巣鴨拘置所で百合子が熱射病でたおれたときのこと。 
三月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(和田三造筆「戸穏神楽舞」の絵はがき)〕
三月七日余り手紙のつきがおそいからこんなハガキさしあげて見ます。きのうの帰途きょう、どちらもすぐ解除で安心いたしました。雪と雨とで壕がしめって大事にしまっておいた封緘の糊がくっついてしまったので、今コタツに入れて干して居ります。これから雨が多いとしめって困ることね。パール・バックの支那の空という小説があります、お読みになる気があるかしら。近作です。「大地」などとタッチが違い、書いている場所の相異を思わせます。 
三月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月十一日ウラに書くの、やめましょうね。裏と表とがぬけてしまうとつまらないから、ね。
二月二十三日のお手紙頂きました。ありがとう。今年のおそい大雪は、路をゴタくりにいたしましたが、おかげでうちの屋根は火の粉から守られました。きょうは、食堂の南側の陽向に背を向け、例の小机をおいてこれを書いて居ります。カナリアが風の中に囀って居り、ラジオの横に柔かい桃色と白との春らしい花があります。この花は丁度二十四日だったかいかにも春雪という感じの日に団子坂下の花やで買って帰ったのでしたが、その花屋はもうありません。カナリアの餌もどこで買ったらこれからいいのかしら。家の様子も十日の明方からすっかり変って、春木屋といううちにいる細君の実家の一家が五人ぞっくりと若い男の子女の子、母親が来て居ります。この一家は、いろいろのものを疎開し、御宿(オンジュク)に住居をもって居り父親は仙台の方に鉱山をやってそちらに疎開する決心して居たので、比較的元気ですしあわててもいず、ようございます。田舎行までいるでしょう。
十日の明方には、もうバカンバンバンには辟易しているので恐縮していたら、そうでない方だったので勇気百倍、まして北風で向きがよかった上、北方上手に投弾されなかったので大助りいたしました。烈風でしたからよほど弾は流れ見ていると、殆ど横に吹き流されていました。主人公もいて(菅谷)屋根にのぼり見はりをして、ああいうとき屋根の上に男がのぼっているというのはいい心持です。となりの家では十三四の男の子がのぼり其でも一々下の母親に大体の方向を叫んでいました。男の子っていいことね。
うちでは非常措置として土蔵の地下室に菅谷のもちものうちのものなどしまい、すっかり入ったら二階の畳をはいで、グランドフロアにしきつめ二階が燃えても地下はいくらか助かるようにしました。他人がいると、その人のこころもちを考え、こうしてここを守ることはとりも直さず自分を守ることにしてやらなければ、ね。その仕事したら手伝に来ていた荷作りの男が、自分のものも入れてくれ、ときのう荷車一台ひっぱって来て自分でしまってゆきました。
この地下室は因縁があって、英男という弟が高等学校上級の年この中でガスを発生させて死にました。昭和二年頃。国男たちはそれでここがこわいのよ。わたしは遠方にいて[自注5]、自分の目で見て居りませんから、その弟の善魂がそこに在るならあると思うし、おバケが出るなら火消しに出てくれると信じていますからそこを十分に活用する決心いたしました。そしてわたしはベッドを食堂へ持っておりて暮す予定にして居りましたが、目下のところ人員増加で、ここで一緒に食事しているし、すこしそれはあとになりましょう。ラジオがここにありますから、ここに臥る方がいいのよ、一々二階からおりて来るよりは。
きのう(十日)は一時間半ほどしか眠らないで体がくにゃくにゃだったけれども、御心配だといけないと思って大苦心をして、田端まで歩いて行きましたところそちらもお休みでした。帰りは、池袋が余りの人で危険ですから大塚まで歩き又田端へ下りたら丁度一機来て、あすこの辺からうちの辺鬼門故首をすくめて歩いていたら何事もなく帰りました、そしたら解除。
きょうは、久しぶりにしずかな日曜日で(二十五日も四日も日曜よ)今、その連中も焼跡片づけに出て居りますしうちは一人でこれを書いて居ります。あの足袋は、たしかに傑作の一つね。材料が全く優秀なのですもの。あれが出来たときには全くうれしく何しろ生れてはじめての作品ですから、我ながらほれぼれと眺めました。同じ色の布で自分の分も裁ってございます。が、まだ縫わず、よ。足袋と下駄の鼻緒とはどうしても自分で縫う必要がおこって居ります。しかしこうして男のやる仕事(家具や荷物)も自分でやらなくてはならないから、ほっと一休みしたとき、わたしはどうしても足袋をとりあげにくいわ。本をよみたい心が押えられないし其があたり前と思うのよ。ですから、自分で縫ったものの必要切迫ながら、只今までのところあなた丈です、ああいう足袋はいていらっしゃるのは。反対にわたしはあなたのお下りよ。大量の生産品が、自家製より優秀になってこそ、です、本当におっしゃるとおりと思います、それと同時に通信販売の信用が増すということも、ね。カジョンヌイ[自注6]という言葉が、笑い話の種になっている段階は克服されなくてはなりません。
『国民食糧』お役に立ってようございました。言っていらした雑誌ね、あんなに苦心して(ここまで書いたら、静からしかった空にサイレンが鳴り出しました。)集めましたが古すぎて駄目でしたって。[自注7]残念ね。
きょうは十二日(月)ひどい風が納って安心です。風は大きらいよ、昔から嫌だったのが、この頃は猶更。
昨夜目白の先生が見舞に見えて、もしここが駄目になったら、目白へ行くということにきめました、何しろ焼け出されの人々を、御勝手に、とも云えませんし。そして清瀬の方に、もしかしたら部屋を見つけて貰えるかもしれない話でした。開成山開成山と思っていたってどういう風になるかしれませんから、やはり歩いて行けるところに一つ予備のある方がようございましょう。
やけて来ている人の中に中学一年生がいてね、犬や小鳥がすきで、焼跡の始末から帰って来ると仔犬を抱いたりカナリアを見たりしているの。太郎は田舎で御飯たきをいたしますって。太郎の一生のために何にも代えられない仕合せです。犬好きの少年も太郎も可愛いと思います。十日に行ったときパール・バックの支那の空と支那短篇集『春桃』をおいて参りました。『春桃』は面白い集でした。氷瑩女史の「うつしゑ」という作品なんかも、パール・バックが描いている現実のこっち側から書いているという風なところがあって、やっぱり本国人の作品というあらそわれない味があります。アンデルセン風の話を書いている作家は大変心情的ねガルシンが思い出されるように。日本のああいう種類の作品にあの程度のものはないと思いました。「菊の花」「根」[自注8]などはましな作品でしたが小規模であったしモティーヴが、独語的(よい意味にも)でした、中国文学研究会の仕事としては有意義であったのにああいうのが続けて出なかったのは残念です。きっと興味ふかくお思いになりましょう。近頃心ひかれた作品集です。目白の先生にたのんであった本も、もち主が東京にいなくなっていたりしてなかなか手に入らぬ由、あのお手紙にあった以外の本でもよかったらとにかく貸してもらうとのことでそのようにたのんでおきました。辛い点なんかといつも思っているのではないのよ。時々丁度腕がくたびれたとき急に持ちものの持ち重りがするように、あれこれのことが畳って自分が疲れたりその結果ダラダラになったりつまりこっちが弱いモメントに御註文のテンポの重みがこたえるというわけでしょう。しかし実際問題として南江堂もなくなったし本を見つける困難は言葉につくせなくなりました。『春桃』も金沢市の古本屋から上京した本でした、そういう紙が貼ってあったのよ。昨夜瀧川という夏頃手伝っていた娘が、会いたくて思い切って福島から来ました。わたしは大助りよ、いろいろ手伝って貰えるから。きょうもあっちこっちの見舞に一緒に歩いて貰いました、何だか別のようになってしまった街々のやけたところを一人で歩く気がしなくて。この春は眼をよほど大切にしないと焼け埃で大変です。ホーサンでかえると洗います、ゴロゴロになってしまうのよひどくて。頭巾をこしらえようと思いますフードを。一陣の風がふけばその風のまきおこすホコリは髪と皮膚を滅茶滅茶にいたしますから。普通の服装では駄目です目下ゴム長を見つけ中です。わたしがフードをかぶりジャンパーを着(いつもきているの)ゴム長をはいたら、それこそ何かのマスコットのような姿になりますが、ゴム長でもなくてどうしてあの道をそちらへ行けるでしょう。わたしがマスコット姿でそちらへ通うということこそマスコットなのだわ私たちの暮しの、ね。呉々もお大切に、そちらが、狐火のようなものには丈夫なのは安心です。明日おめにかかれるかしら。くすぶってもいない顔を見て頂きましょう。
では

[自注5]遠方にいて――当時百合子はソヴェト同盟に滞在していた。
[自注6]カジョンヌイ――「役所の」の意。
[自注7]古すぎて駄目でしたって。――監獄で雑誌は一定の時期がすぎると差入れを許さなかった。
[自注8]「菊の花」「根」――中野重治の作品。 
三月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月十五日
けさは出かけようとして御飯を終ったとたんボーとなってしまいました、森長さんの返事をお待ち兼ねと思いウナで電報出しました、早く御手許に届くでしょうと思って。
きょうは又曇りました、そして少し寒いこと。警報がこうして出っぱなしだと、用足しも遠方には行けないから、午後からもし平安だったら、すこし珍しいひるねということをしようと大いにたのしみです。
七八人もの茨城屋の足音のきつい人々が、夜おそく朝早くとどろとどろとふみ歩いて、もちを焼く匂いを二階までよこして出つ入りつしていると、やはり疲れます、それに、二十五日、四日、十日、とつづけてでしたし、ね、きょうの工合はどうでしょうと思って居ります。きのうは、大洗濯いたしました。焼け出されの躾みとして、ね、洗った襦袢をもっていなくては余りですものね、いろいろ見ているとたしかに、非常の躾というものはあるのよ、女の人なんかは。着たきり雀になる以上、それは堅牢な着るもの、はくものでなくてはいけません。今、来ている瀧川さんという娘が、上っぱりを一枚縫っていてくれます。もんぺも一つこしらえました、それがとりに行きたいのにきょう、これでしょう?成城というようなところが、こんなにも遠方になります。
三月十八日
けさは、目がさめてから暫く床の中にいて、いかにも土が黒く柔かくなってゆく朝のこころもちでした「春らしい朝ねえ」わたしがそう声をかけると、となりから答えがあります「本当にそうですわねえ」これは瀧川という娘よ。このひとの兄は蔵前で到頭義母(妻の母)と焼死しました。
起きて、朝飯たべて、それから二人で畑ごしらえをしました。この娘さんは畑の畦を切り、わたしは去年の秋からこしらえてあった肥料をかけ、又土をかけ、小松菜やふだん草やを蒔きました。種が余りよくなくて自信ないけれども買いに行っていると、きょうのことにならないから、蒔いてしまいました。この節の野菜なしと来たらお話の外ですから。「この頃のような暮しだと、こわくない半日だの不安のない一時間が実にうれしいわね、玉のようね、だから、そういうとき、本当にたのしいことをしたいと思うのに、ダラダラ儲けた話でつぶれるとくやしいのよ」そんなことを云い乍ら、桜の鉢をいれかえたり、水仙の球根を植えたり、シャボテンに土をかけたりして、殆ど終ったら警報が出ました。
今、午後三時頃。二度目の解除。わたしは、そのたのしい数刻を尊重して小机をかかえこみ、瀧川という子は、わたしの上っぱりを縫いはじめました。風が出て来て、カナリアのチイチイチイ、チチチチチというメロディアスな声を吹きちぎります。
きのうは、朝六時にトラックが来て、春木屋の荷と人とをつんで茨城の田舎へ運びました。ここの家には今おやじと中学二年の弟とがいます。弟はずっとここから京華に通うでしょう、おやじは、東京にうちがなくなったから上京すればここに泊ります。「その代りあっちからお米や何かは運びますから」「その代りと云わなくたっていいさ、もって来てお貰いしなくちゃどうせならないにきまってはいても、ね」
わたしたちが畑をしているとき、細君は椽にかけてつくろいものをしています、息子はムツという犬を抱いてムツが何か食当りしてくにゃくにゃだと云ってしらべています。都会の人って面白いのね、わたしたちは誰かが土いじりしていると、つい誘われて何かしたくなるのに、町の人ってものは、そういう気分が全くないものと見えるのね。
きのうは、六時頃起きて荷出しにガタガタしたから、何となしうんざりして思い切って成城までモンペとりに出かけました。行ってよかったとくりかえしました。この頃は、わたしの歩く道はどこも焼けっ原で、はげしい人々ばかりで、風呂しきで頬かぶりして歩きます、成城には、まだこわいことが一度もないもんだから、まだ生活を味っている、という空気が往来にも漂っていて、家々の垣根もちゃんと手入れされ、芝生は芝生で日光を吸い、紅梅が咲いたりして居りました、風がなかったので、長い道ものびやかに歩き、親切に友達が縫ってくれたモンペをもらって、夜八時頃はらはらでかえりました、瀧川さんと。
そして、こういうことを思いつきました、近いうちに、ここへ行って、二日ほど泊って、すっかり休んで来よう、と。考えて見ると、この新年以来、わたしの生活もなかなか大したもので、よく風邪もひかず、病気もしずしのいだものだと思われます、もっとひどくなるに当って、このガタガタな空気をすこしはなれて違った家で、ちがった話して、神経を休めることは大切な養生と思いました。来週のうちに、あなたの御都合のつくときそういたしましょう。土、日、は、東京がこの間うち、いつもやられたのでわたしがいないのは逃げた感じになっていけないと思って、きのうもはらはらし乍らかえった次第でした。時々そうして友人のところへ泊ったりして、段々わたしがいないことにならそうとも思います。一ヵ月に一度ぜひという用事があるという丈になれば、東京暮しにしろ場所は変り得るかもしれませんから。然しわたしの経済事情では、わたし丈別箇の生活というものを殆ど不可能にしています、そのことは、それから先の生活形態のことにも関係するので何かいい方法はないかと考え中です。生活費などというものは、この頃、予算でやれるものでなくなりましたし、或意味では、金で駄目ですから、生活の場所というものは極めてむずかしいことになって来ました。このことは、頻りに考えているのよ、疎開の先をきめる上にも。開成山へ行くのは一番すらりとした道です。しかし、あすこには行きしぶります、わたしまであっちにかたまってしまうというのは、いいこころもちがいたしません。汽車が通じないものとして考えなければなりませんものね。あすこから往復も出来ないと見るべきです、現在もう、そうなのですから。ずっとずっと遠方だって、事情が何とかなれば、行ききりだっていいと思うわ。そちらでの生活が何とかなる見とおしさえつけば。東京との連絡は絶えますし振替とか為替はきかなくなりますし金銭そのものが大いに変化いたしましょうし。どうかいい智慧を拝借。あらゆる面で旅行はむずかしくなり停滞してしまうのではないかと気にかかって居ります。疎開荷物でさえ、今たのんだら倉庫で二三ヵ月の由です。人を運ぶのも、なかなかのようよ。人には人がいります。その人が不足していて。だからわたしも案外東京ぐるりでの生活が継続するのではないかと思います。先ず第一段として、旧市内より外に暮すところを見つけようと思いますが、それもつまるところ、ここがやけてからのことでしょうね。ここがなくなれば菅谷夫婦は、自分たちの便宜によって別になるだろうと想像されます、但菅谷が徴用ですから田舎へ行くことはないでしょうが、縁辺を辿って。「タシュケント。パンの市」という昔の小説のように、食物の確保されるところへ、と向って。わたしはそういうときついてゆく気にはなれません。
この頃又バルザックよみはじめました。「ウージェニ・グランデ」。そして、何となし思います、文学の本質は何と善良であろうか、と。大作家たる人々は共通の善良さ、善良を愛さずにいられない心の衝動を生涯もって居りますね。俗人は、善良におどろかなくなるし、感じなくなるし発見しなくなるし自分で善良でなくなることをもって大人になったと思います。そして老いさらばうのです。芸術家や政治家の偉大な人々は、人間の善良を信じ、発見し、それに動かされる衝動を枯死させない精神力をもっていて、それ故に不思議な若々しさと単純である故の高貴さをもっています。
わたしはバルザックを生き返らして、一枚の写真を見せてやりたいと思いました。それは数日前の新聞に出ていたものです、三人の人間が並んで写っていたの、チャーチルは厚外套にくるまって、ずんぐりで、髪がうすく、眼の碧さが写真でも分る眼つきで口が大きいの、あくまで、ゆるぎなきリアリストという風※[「蚌−虫」](ふうぼう)です。
となりに笑い乍ら話しているセオドアは、めっきりふけました。この何年かの生活のはげしさがまざまざと見えます、彼の大テーブルの上の象牙の大小の象の列は昔のままかもしれませんが。やつれて、脚の不自由なこの男は、快活だのに、雰囲気にハムレット的な優柔さ動揺があるのは何と面白いでしょう、この人の輪廓は震動して居ります。彼の精神力の限度に達しているという感じです、まさに溢れんとしているようです、矛盾が。ハムレット的雰囲気というのは、実に実に面白い、こんな写真はじめてです。右の端に元帥服を着た人は、英語で交わされる二人の話に、笑顔で向いています、アゼルバイジャンの髭はなくなって格幅よくどっしりと若々しく手を何と上品にくみ合わせて、首を二人に向けているでしょう。気品というものは、かかるもの也という風よ。チャーチルは荒海で古びた指導のあざらしのように巨大ですが、あまりのリアリズムのために美を失っています。ハムレット風の顫動は、思いやれる様々の点での興味をひくとは云え、そこに感じられるのはよろこびではないと思います。アンの「北方への旅」にあるああいう揺れ(彼女のスケールでは、気の利いたようでもあり機智的であるようにもあらわれる、あの聰明さとそうでないものとの間の微妙なニュアンス)気品人間的尊貴の美しさというものは大した大したものね。わたしははいバルザックさんと見せてやりたいのよ。人類の、こういういくつかの典型を、あなたはどこまで描けますか、と。わたしは、バルザックが困惑するだろうと思って大いに笑えるのよ。彼も大きい心情により、その強壮な心臓によって、気品にうたれるでしょうと思います。しかし彼にその気品の再現は出来ないわ。彼が生涯をその間に投じた利害の波瀾、地位の争奪、奸計のどこの糸をひっぱっても、その品位に到達する筋はないから。品位の解説をするものは、一見それと全く違った文飾ない現実でありますから。面白いわねえ。わたしは、その一葉の写真が、これこそ現代史と呼ばれるべきと思いました。
こういう写真が、こんな粗末な、刷のわるい新聞に出る、現代は正にそういうときなのです。
そして、わたしは、十八の少女のように、自分もどうか気品ある人間になりたいと渇望を感じます。十八の娘は、そう感じる丈です。が、今のわたしは生活によって、そういう気品の価値はいかに高いものであるかを学んで居りますから、その渇望はひとしお切実であり、謙遜であり、且つ執拗です。ねえ、ほんとうに精神の輝は何と覆えないでしょう、才能だの、賢こさだの、というものでは到底輝き出せないつやと品位がとりかこんでいるような、その立派さの極単純になっているそういう複雑さ。ああ、ああ。わたしのリズムは高くなって、わたしのささやかなオーデをうたいたくなります。「わたしは知っている」という題で。わたしは知っている、その箱は出来のわるいみにくいものだけれども裡には一かたまりの純金。無垢なる黄金、よろこびの源。世故にたけた年よりは、きっとわざとその箱をこしらえておくのだろう。余り無垢なるものが、時より早く歳月に消耗されてしまわないように、と。無垢なる黄金が、小銭に鋳られてあっちに、こっちに、散ばってしまわないように、と。生き古りて来た年より、人類の、思慮ふかい吝嗇さ、いじわるさ。それらを、わたしは知っている。こういう詩の断片もあるのよ。明日は月曜日ですが森長さんの返事をもって参ります。 
三月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二十二日夜
今、十時十五分前です。そして珍らしい状況で、この手紙をかいて居ります、鷺の宮なの。そこまではきょう申しあげていたから平凡ですが、ここへ来て二十分もしないうちにわたし一人留守番をすることになって細君とまあちゃんが出かけ、七時頃帰るのが、まだ戻りません、ひどい風ね、ここの廊下に立ってガラス戸越しに見ると、南東の方が濛々と茶色にけむって居りました。そっちが市内なのね、日の出あたりの埃のひどさお話にならず、市中塵埃全く目も口も開きかねました。細君と娘とは、野菜のために出かけました。大した骨折りよ、ね。この風、あの混む電車、距離。でも、ここの台所を見ると、あるのは、くされかかったゴボー1/3本だけです。正直な窮乏の姿よ、行かざるを得ません。
わたしは、前の手紙でお話したように、家じゅうとどろとどろで、おまけに寿江が来、まだ開成山からの娘も居り、寿江が例のとおり気づまりないかめしい在りようをしているので気が疲れて、迚も、出かけるからと云われて一緒に出てあのひどい駅で揉み通す元気がありませんでした。それで留守番をひきうけました。七輪に火をおこし、湯をわかし、ジャリジャリの顔を洗い、髪をとかし、おむすびをたべ、そして床に入って五時まで、ゆっくりと横になって居りました。
同じ東京でも、目下のところ第一線的地域にいる人間、やけ出された人しかいないような地域にいる者と、こうしてまだ傷かない土、春の樹木のある地域とでは、こんなにして横になっていても何とのびやかさが違うんだろうと、どこかの窓のカーテンが展かれたようないい心地です。同時に、こう考えるの。この風に、そして、旦那さんの安否が不明なのに、電話がかかれば其をのがせなくて出かけて行く生活も大抵でない、と。今は、平常ののびやかさというものは、どこにもないのがあたり前となりました。例えば、わたしの行く家で一ヵ所として室内がちゃんとしているところはないわ。いざという時外へ出すものそういうものが椽側に出ています。壕代りに戸棚が開いていて、いろいろのものが出され積み重ねられています。うちだって、先ずあの風情ゆたかな玄関が、出そこねたコモ包みで荷揚場のようです。そして内玄関へまわると、すこし広いところに焼けぼっくいの材木やトタンがきな臭くつまれて居ります。
七時に帰るのが十時とは可哀そうね。どんなに疲れるでしょう、帰ったら顔洗うように、とお湯わかしてあったのに、もう火がないわ、きっと。でも勝手に炭をつかうとわるいし。炭どこでもないないよ。お湯を、フトンの中に入れて来ましょうヤカンを。そしたらいいわ、帰ってお茶をのむにも、ね。
留守番の間に、厚生閣から十五年に出た『短篇四十人集』というのを見ました。十五年頃の作品の内容は、ひどいものねえ。作家と云えないような、習作が作家いって並んでいます。なかでは、尾崎一雄のが作家らしいし大人の作品です。そして、読み乍ら、どうしてどの作品も文学らしい題だけもつけないのかと作家のカンについて奇妙に思いました。最後に集めてある室生犀星の古もの(庭におく石の手洗の話)の作なんか鬼ヶ島という題だったら一寸面白いと思える文章が作品のなかにそのままちゃんとあるのに「宝」です。川端康成でさえ別の作品集の中で「母の初恋」というつまらない題を平気でつけているんですもの、これなんかはもっともっといい題をつけていい作品なのよ文学的に。だのに。やっぱりこれも作中に「愛の稲妻」という言葉があって、それの上を切って稲妻としたらずっと文学なのにね。ホンヤクして見て母の初恋なんて、文学作品の題でしょうか。婦人雑誌のよみ切り小説だって、ましな題をつけます。惜しいし奇妙ね、全く。
日本の人は、大体一定の様式をもちません。ナイーヴね、題を見てもそれを思います。短篇が断片に通じます。それにつけても『春桃』の中の「かかし」や「記念像」を思い出します。およみになりましたかしら。いい作品でしょう、きょうは久しぶりで十五年度の作品をいくつもよんで、様々の感想にうたれます。こういう程度の作品と作家とで、出版インフレは通過したのであった、と。『ヨーロッパの七つの謎』を土曜日までに読もうとしてけさも熱心によみ、且つ考えていたので、その対比を一層つよく感じます。人間的善意というものの質量についても。
『七つの謎』は、やはり面白い本であるし真面目な教訓にみちた一巻であると思います。人間の善意というものの成長について一つの時代を画したものであり、欧州というものの連関を知らせるものでもあり、善意が、ある段階において現実の推進にとりのこされ得るものであること、そういう場合、それはその個人の悲劇にとどまらず善意の悲劇であることなどを感じさせます。
愛というものは、いつも淳樸であり、若々しく善良でその意味では稚いけれども、愛によって賢しと云うこともあり、愛によって勁しということもあります。善意というものはやっぱり若々しく永遠に若いものだけれども歴史の段階に即して成長するということは或種の人々にとって不可能なものなのね、つまりその結果は、善意が実功をあらわさず奸悪を凌駕する雄々しい美しい決断と智謀とをもたず善意はお人よしに通じてしまい、高貴な精神も萎えてしまうのね、現実の前に。
この『七つの謎』をよむと、欧州の或る種の良質な精神が、第一次大戦から今次の大戦までの間に経て来た苦悩と努力と混乱(現実の見かたの小ささ。代表的個人――政治家で世界の平和が支配されているように考える誤り)とがまざまざと理解されます。
本国の運動に対してさえ良識ある者は有害としたローゼンベルグの「神話」がこちらで売れたのは、悲劇の一つです。その亜流を輩出させたのは更に。一般に他国の文化その他を摂取するとき、素地との磁力関係で、精煉された面より、より粗な面が吸着するということは注目に価すると思います。どの国でもそういう危険をもっているのね。何故でしょう、歴史の喰いちがいの大きい二者の間で特にこのことは顕著です、文学者は、飽くまでも善良で、賢くつよくなければなりません。自身の善意を、悲劇たらしめてはなりません。ジュール・ロマンは、さすがに平静を失わず七つの謎を解明しようとして居りますが、善意が悲劇に到達したそのことについての反省はされていません。善意のボン・ノム加減で赤面していません。従って彼はこの本を書くことで崩れた善意像の破片の整理をしたでしょうが、果して、次の段階で新しい善意で羽搏き得る発展をしたでしょうか。生物として六十歳という年齢は成長期でないけれど、その人間が善意を貫徹して生きようとするならば、善意そのものの永遠の若さに従順となってその成長に応じて生物的限界を飛躍しなければならないでしょう。しかしこれをなしとげたものは歴史上ごく稀です。(まあ、もう十一時すぎよ。どうしたのでしょう。すこし心配になって来ました。最後の電車で帰るのでしょうか、一人でいるのはいいけれども。どうしたのでしょうね、本当に)
十二時すこし前になって、ヤアヤアとかえって来ました。それでもよかったわ、何事もなくて。
けさはゆっくり目をさまして今、朝のおかゆをたべたところです、曇天ね、曇天の土、日、はいやね、あしたの朝こちらからじかに行くのは混雑するから、今夜のうちに帰らなくてはいけないわね。
開成山へ行くのはうれしいけれども帰れないだろうと心配です。切符があっても通交証がなくて。女の軍需会社重役はないから不便此上なしです。ではこれで、おやめ。 
三月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二十八日
三月十四日づけのお手紙、さっき頂きました(午後)。三月二日づけのは、つい三四日前に着き、これは二つへの御返事となります。
きょうは、暖い一日でした。今、夜の八時前。食堂のテーブルに久しぶりでわたし一人。ホーサンを一杯といたビンと、黄色いガラスの瓶に二本の半開のチューリップ。南の庭に向うガラス戸はまだ雨戸をたてられず、月のある柔かい夜気が黒く見えます。廊下の方から室内をみると、夜に向ってしっとりしている大きいガラスの面やテーブルの上の花が、いかにも春宵という風情です。そういう空気を何とも云えずよろこばしいと感じながらこれをかきはじめました。どっさり、どっさりの話があります。先ず二つのお手紙について。
そうね、こうしてお手紙をよむと三月二日ごろはまだ毎晩のように雪が降っていたのでした。お彼岸の日からすっかり春めき、ことしは珍しく明瞭に春の彼岸というものを心にとどめ、わが肌にとどめました。冬はきびしかったわねえ。このお手紙と次のお手紙との間に、梅は咲き出しているのも季節のおとずれです。そして、あなたの赤ぎれもいつか消えてすべっこくなりましたろう?わたしの手もわたしの手に戻りました。アロウスミスわたしはまだです。「風に散る」との相違は、たしかにおっしゃるとおりであろうと思います。そして、ルイスがジャーナリストとしての弱点に煩わされながらも、科学精神追求を主題としている点は、確に展望的です。文学の或る段階では、そういう主題にこころを誘われる作家が生れる程度に文学は前進しているが、そういう前進的テーマに着眼する作家の敏捷さがジャーナリスティックな迅さと相通じ、それが同時に強味で又弱点であるという興味ある現象を示すものと見えます。面白いことね、日本ではまだ科学に到着して居らず、せいぜい名人気質どまりね。横光の発明家みたいに、風格愛玩で。この間、鷺の宮で書いた手紙にも出た話と思いますけれど、川端康成の作品など、或る意味で清澄でもあり純一でありますが、何とそのテーマ、芸術の世界全体が主情的でしょう。感情のかげりひなたにとどまって、人間性格というところ迄も切りこんでいないのはおどろかれます。浅薄ではありません、末梢なのね。冬の日向に鮮やかな楓の梢の繊細なつよさの美しさめいたものがあり、植物性ねえ。ほかの同時代人のあれこれの作には、そのような楓の梢の細かい趣、そこにこめられている生命感さえないのですが。康成が一流作家であると考えられるのは、少くとも命をひそめたる楓の梢であるからでしょうが。しかし、日本の文学が、科学精神追求のテーマをジャーナリスティックにでも、文学的にでも、哲学的にでもなく、科学者生活の勇気にみちた現実に立って描ける日を待ち侘びます。わたしが自身の興味をそういうテーマにもっているから猶更ね。一歩踏み出た文学の形態は、小説という過去の枠もあふれ散文の美しさの各面を活かし(評論的にも)しかも一貫した人生に響きわたっているようなものでしょうと思います。科学精神追求のテーマも面白いが、又「米」というような主題を、多角的に描けたら(そのことで即ち科学的に)実に素敵よ。日本の作家として、ね。わたしが小説でこころに描いている二つの仕事の一つは、科学的労働の人とその研究テーマとの人間的いきさつ、結核研究者が書いてみたいの。こういう時代の困難をもしのぎつつある、ね。研究所にガスが出なくなって薪で指をくすぶらせつつサッカリンを作り、それで必要な実験器具を手に入れたりしつつ努力している人物を。それが描けたら、米のような主題の扱いそのもので新しい線を描き得るような作品を。こういう小さからぬ希望のためには、本当に丈夫で、暮し上手でなければならないと思います。二十五日のような(火)しかられかたをしたり、声も出ないようにべそかき面になったりするようでは、まだまだであると謙遜しなくてはなりません。ユリの不揃いな成長、アンポンぶりは、時にあなたを苦笑させ、時におこらせ、奈良の薬師寺の国宝の四天王の眼のように四角い四角い眼で見られるとき、ブランカは、どんなにちぢみ上るでしょう。口答えも出来ないほどちぢみます。そして、小さな丸いきんちゃくのようにちぢみ乍ら、心の底でびっくりしてあなたのシ、カ、ク、イ二つの眼を見ます。ああ昔の芸術家は、何と立派なモデルをもっていたものだろう、これは四天王にそっくりだわ。本当にそのままの、可怖い四角い眼だわ。四角い眼のまわりに睫毛があんなに生えていて、そう思って息もつかず見つめます。
あの本のことはごめん下さい。お母さんのお手紙の調子で出しにくいようになってしまって。出しにもって行った人が、不受理で戻ったりしてそのままになってしまったから、あなたに出しましたといったことになってしまいました。
島田行は、こんどはわたしとして大乗気です、もうもってゆく包みもこしらえ、もし途中の夜歩くといけないからカンテラまで用意しました。ほんのべん当、肩からいつもかけているカバン、風呂しき包み(いざと云えば背負えるだけの)で行きます。おみやげは、かさばらない布類でかんべんして頂くこととして。一昨日から、もう切符買いに着手しましたが、本月一杯は強制疎開が急テンポ、大量なので迚も手に入らず。どうしても来月四日以後でなければ不可能です。却って丁度いいと思います。やっぱり八日後に出かけます、寿は、こちらへ来るにしても持ってくる米がないからその配給の都合で八日に来られるかどうか分らないそうだし、てっちゃんも果してどうか分らないし。やっぱり八日まで居りましょう、その方がいいわ。そして出かけます、ゆっくりと。それまでにひまのときは、郊外へ泊りに行ってもいいでしょう?例えば鷺の宮や成城の友達のところなど。
ここのうちは、戦災、疎開受入れ家屋の実を果していて、次のような構成となりました。わたし、G夫妻、細君の両親、兄弟が出たり入ったり、一人の弟はこっちへ転出(配給をここでうける)Gの父(鉄道につとめ、家族赤羽で強制疎開となり)合宿暮しではやり切れないから、こちらで配給をとって一週一度ぐらい休みに来る。細君の従弟、親は疎開、一人でよそにいたらそこが強制疎開、こちらへお願い出来ましょうか。こういう組立です。だからあっちこっちから寄って来ると、八九人にもなり、さもないとG夫妻と三人となり。極めて、波のさしひきがきつく、従ってわたしは安心して、すこし風よけをいたせます。十日の払暁以来、前々便にかいた有様で、わたしとして開放的であることと、のさばることとは別であるという線をはっきり出すに、幾人いようとも数をたのむべからざることをいつとなしにしみ込ませるまでにはやはり半月はかかりました。それに裏にいた近藤さんが、妻子も自分も疎開することにきめたので裏の家もやがて空きますし。「女の、体のよわい宮本さんが、ちゃんとがんばって居られるのにどうも」という話です。「そんなことはあるものですか、わたしはここにいた方がいいからいる丈で、危険はよく分っているんですもの、どうぞ一日も早く疎開して下さい、わたしもその方がどんなにか安心よ」というのは、ね。近藤氏夫人かつて曰く「ええええ、この辺の人なんかサーッサと逃げて行きますよ、そんな人達ですよ、見ていてごらんなさい」そしてわたしたった一人の時、よく申しました、「これでお宅へ火がついたらうちはおしまいですよ。いくら消そうたって、叶うもんですか」だからね、わたしがおとなりの疎開をよろこぶわけ、おわかりでしょう。もうここの隣組でその家の人がいるところは殆どなくマヒ状態です。ひどいのは家財道具おきっぱなしで人はいません。全く焼けて下さい、という有様です。その間にはさまってブランカ火消しで落命したくはありません。
ここが焼けて、いきなり行くところがなくてはいけないので、中野区鷺の宮三ノ三六近藤方にきめました。うらの近藤さんの老母がそこを退くのです。つい近くにもう一軒疎開手続をした家があって、そこがひろいから近藤さん一家が移る計画ですが、とっちもまだ空いてはいないので(次のドカンボーまでのことでしょうおそらく)一先ず老母の家へ近藤さんが移り、わたし達がやけ出されていったら二つの家の間で割当てて暮すという約束にしました、火にまかれるのが一番こわいわ。荷物をもった人波で動けないうちに、火に囲まれたら最後です。決して決して国民学校の地下へなんかかたまるものではないことね。麦が成熟する時期は郊外も油断なりますまい。
十四日のお手紙、塩の物語[自注9]、感銘深くよみました。この頃の生活ではいく分その大切さが切実となって居りますし、わたしは肝臓の病気してから、ショーユより塩がすきな時があって、塩愛好です。しかし、そちらの「発見」は。塩の美味さは料理法の上から言うと、極限を意味します。最も優秀な原料を最も優秀に味わせるに料理人は苦心して塩でその持味を活かします、そして又、人間が最低の味の単位として使うものは塩です。一つまみの塩、ね。大したコンプレックスであると思います。
調理の知識、料理法を活用せずんば、とは同感です、本当に。人間は、知能の複雑さにふさわしい食物をとるべきものです、一時間ものを書くということは、一時間歩くと同じ労作であるということがはっきりわかった食べもので生活するのが道理です。でも考えると一人の人間のもち前というものは大したものね。わたしに二時間つづけて歩けといわれたらどんなに困るでしょう。しかし二時間書きつづけることは、平常事です、もう、今日だって二時間は経ちました。快き二時間として感じます、疲れるとしても、ね。今日は友達が荷物あずかってくれるというので、午後中島田の荷と一緒に整理して夕飯まで、ひどく働きました、風邪気味の中を。だから大疲れのわけね。しかし書いていて、いいこころもちよ、やっと、やっと自分に返ったように。
きょうも一時ごろ思いました、のどかだったでしょう?いかにも春らしくて、ね。畑の種が芽生えました。そんなこと思ってゆったりしていたら警報で、あののどかさから遑しさへの急転直下、何かきょうは面白く、新しく感じました。何たるどうでん返しでしょうね。ああいう明るい、のどかな、春の陽の下で生活はいきなりでんぐり返り、家がなくなったり死んだり、一大事が通過するのです。あきれたものね。でも人間はやはり生きて行くわ。正気を失いもしないで生きて行くわ。わたしは今のような時に、いち早く奥山に逃げこんでしまえないことを寧ろよろこんで居ります。これで、もっともっと丈夫だったらどんなに愉快でしょうね。
あなたのお手紙を二つ並べてくりかえし読み、こんなことを感じて居ります。こうしてお手紙よむと、そこにはいつも変らぬあなたのテンポがあり、それは弾力にとみつつアンダンテで快調です。十日以後、あなたの話しぶりがいくらかお忙しそうね、プレストです。そんなにぺこなのだろうと思います、時間のないということはこの頃いつもだけれども。とかくプレスト時代ですからこうしてアンダンテのリズムをきき、ところどころカンタビーレの交っている諧調は耳ばかりか心を休め、養います。では明日ね。

[自注9]塩の物語――塩分が身体に不足していて塩の美味さを痛感した話。 
 

 

四月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月六日
けさ、畦をこしらえた畑の土の上に雨がおとなしく降りはじめました。すこし足の先がつめたい位ね。庭の白い木蓮とコブシの薄紫色の花がいかにもきれいです、楓や山吹の芽立ちとともに。
きのうは、暑くなかったので、昼飯後、日本橋と新宿へ参りました。この頃久しぶりで地下鉄にのりました、去年の六月、青山へ墓参にゆくとき乗った頃には、まだ地下フォームも明るかったのに、今は暗く、車内もくらく、乗車券にペンチを入れず、映画館の入口でモギリの女がやっていた通り、あいまいな顔つきの女が、手先だけ動かして切符をもぎります。
三越のところまで乗り、何年ぶりかで内部をぬけ、ここでもびっくりしました。当然のことながら。ああいう場所に漲っていた消費的な光彩というものが根底から消滅して、それに代るものはなく、がらん堂な赤いカーペットの中二階にグランドピアノがありました。なかなか一種の感じよ。
日本橋まで歩いて行ったら、白木屋も使えるのは一、二階だけらしく上部はくすぶった焼籠のようです。あの辺すっかり平ったくなっていて、「講演会」のあった国分ビルの横通りで、立のき先出ているのは、栄太楼のほか唯一つ。それは何とかいう人が富山県へ疎開したということです。タバコやもその横の露路も、焼けぼっくいの下に消え果てて、裏の大通りまでつつぬけになって居りました、この辺は小さい小さい店舗がぎっしり詰っていて、一間の間口で都会の生活を営んでいたのですからこうなると、もう一望の焼跡で、生活の跡はどんな個性ものこしません。日の出[自注10]あたりだと、猫の額ほどの跡にでも立退先と書いてあったりしますが、この辺の小さいところのはかなさは凄じいものね。火の粉と一緒に、生活の根がふっとんで、もう跡もなしという形です。タバコやがマッチの箱ほどの店をはっていて、その露路の、わたしの身幅ぐらいのところの左手にガラス戸があって、「東京講演会」と書いてあったのにね。講演の速記と、その原稿を再生させて、駅売りパンフレットをこしらえて、幾人かの男が生計を営んでいたのでした。森長さんに、もし分ったらば教えていただくようたのみました。駅売りパンフレットも紙なしでもう駄目でしょう。しかし速記者はやはり其で生活してゆくのでしょうから。
銀座がやけてはじめて通りました。実に変りました。御木本もなくなったし、われらのエンプレスが支那料理やになっていたのもないし、めがねやの金田も、焼けて居ります、尾張町から日比谷へ(新宿行で)向うところ、強制疎開の家屋破壊で大変だし、麹町の通りも、新宿も。こわされている家屋を見ると、本当にこわすべきと思います。もろくて、燃(た)きつけ以外ではないのですもの。そして、団子坂下あたりの店のこわされているのと、日比谷あたり麹町あたり、同じ細くやにっこい内部の組立てを露出しているのには、つよく感じを動かされます。近代都市ということは不可能な建造物です、この前の震災の後、都市計画というものを立て直し、何本かのひろい道は出来ましたが、しかし家屋については、実に惰力的態度だったのねえ。近代生活の感覚が市民の日常に入っていないし、経済力も近代都市化し得なかったわけでしょう。
新宿のこちら側(池袋より)は被害なく用を足しました。そして、又ぐるりと電車で帰って参りましたが、初めて瞥見したところが多く、蒙っている損傷の観念もいくらか具体的になりました、そして、この傷だらけの東京に愛着を覚えます。赤坂あたりに桜が咲きはじめていてね、疎開の砂塵の間に、薄紅の花を見せて居ります。さくらは、ぐるりの景物と似合わなくて、哀れです。花を見てふと忘れていた春を感じるというだけの影響もことしの桜はもっていないようです。まあ、桜が咲いている!言外に、さくらの間抜けさを語っているようでさえあります。ふとん包みを背負った女が電車にのって右往左往して居ります。
島田行の切符は、二十日すぎからたのんで幾度も骨を折ってもらいましたが、駄目でした。今の切符は実に大したもので、誰も「買う」とは申しません。「手に入る」「手に入らない」と申します。「手に入れる」ことは容易でなく軍関係、強制疎開、罹災者で一杯のようです。わたしとしてはもう一つ最後の方法がありますから其を試みましょう。其が駄目だったら本当にもう駄目よ、わたしが罹災するか疎開するかしない限り。疎開は先へゆく丈で帰りは買えません。
持ってゆく荷物をこしらえて、土蔵にしまってあります。きのうは三越へ降りたついでに、輝(あきら)と勝(まさる)のためおもちゃを買いました、其は色も何もついていない、ちょいとした積木ですが、二つで十一円何十銭かでした。ほんの小さいものなの。わたしのわきで、子供をおんぶしたおかみさんが、三十何円かおもちゃを買いました。どんなのかと思ったら、三つほど小さい箱が重って渡されました、ズック製の犬と何かのゲームよ。しかし考えてみると、木とか布とか、今は貴重な品なのだから高価なのは尤もね。でも、苦笑いたしました、島田の田舎の、ものがまだゆとりあるところで、こんな木片のおもちゃが五円も六円もすると誰が思ってみるだろうか、と。
もし切符が買えて、行けたらば、ゆっくりしていろいろ御役に立って来ましょう、どうかその点は御安心下さい。何しろ行ったらばなかなか帰れないだろうと(又切符や制限で)それを心配している位ですから。島田も状況によっては、もっと山の方へ子供やお母さんはお住みになる方がいいかもしれませんね、線路に近いし、すぐうしろは光への大道路だから。あっちも決して油断はなりません。特に今後は。光井から島田へ来るようになるかもしれないわね。〔中略〕
わたしが、こんな気持でこの年月暮して来ているのに、安心してあなたに叱られようとしない、ということは妙なことね。云いかえると、何もあなたが、自分の仰云る原型のままをさせようと思いなさるのでもないということを、ふっと忘れて惶てたりするのは、妙なことです。人間の卑屈さというのは妙な形で妙な部分にあるものなのね、安心して叱られないのも卑屈さの一種のようです。自分の意見に自信のないのも卑屈であるが、何というかわたしの場合は、対あなたでなく、第三者に対したとき、自分の意見には常に十分自信をもって居ります、対手につよく其を主張もいたします。ここにも一つの矛盾があるのでしょう。状況から来ている点もあるのね。わたしたちは一つ家に久しく一緒に暮していろいろなことについて自分の意見ももちよって処理する夫婦の暮しかたをちっともして行かれず、いつも、短い、ゆとりのない話の間に事を運んでゆくのだし、あなたのお暮しから云って、わたしとしては、せめて自分へおっしゃることは抵抗なく流通させようという先入的なゆずりがあって、そういうものが、場合によって、却って、わたしの、ほかの誰にも示すことのない混乱や卑屈さとなるのでしょう。心理のこんぐらかりというのは、変な思わぬ結果を生じるものであると思います、わたしは心理的に生活することはさけている人間だのに、ね。そんな心理にひっかかる丈、つまりわたしは十分自身として強固でないといえます。書いて、分析して見ればこういうことと自分にも分りますが、はっとして赤面するときの気持は愧しいばかりです。妻がそんなに赤面するのを見るのは夫としてさぞ面映いことでしょう御免なさい。

[自注10]日の出――巣鴨拘置所附近の日の出町。 
四月十八日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
四月九日
きょうの雨は、しずかで春らしくていい心持です。わたしのすきな雨のふりぶりです。珍しい珍しいことがあるのよ、久しぶりに本当に落付いた気になれて、自分の部屋をこしらえました、寿にてつだって貰って。
病気してから目がわるくて、光線の工合が実にむずかしくなりました。これまで、二階の奥のひろい室に机を置いて居りましたが、廊下がふかいので光が不足している上、だだ広くて、ちっとも落付かず食堂でばかり暮しました。コタツがある故もあって。冬の中は、ね。
ところが、この節のうちの暮しは、雑多な人々が出入りして、食堂で食事いたします。小机一つひかえていても、室の空気というか、床(ゆか)というか、人々の気配で揉まれていて、そこにいることは疲れます。
暖くなって来たし、光線の工合もいいので、同じ二階ながら、北向きの長四帖に机と椅子と紫檀の飾棚だけをもちこんで、きょうは部屋つくりいたしました。
この、よく働いた大テーブルに向って物を書くのは、もう三四年ぶりです、十六年の十二月九日以来よ。病気あがりの時は体の力がとぼしくて、こんな大きい机にとりつく元気がなかったし、去年の四月以来は、家政婦暮しで寸暇なく、やっとこの頃すこし自分のひまが出来はじめ、体も丈夫さが増して来て、この机がうれしくなつかしくなって来たわけです。
この頃は、実に早寝です、十時までには床につきます。そのためか、よほど疲れが直り、又いくらか平穏なので、大助り。この北の小部屋は、短い手すりのついた(あなたが、夏、長椅子代りになさったような)はり出しがついていていきなり外が眺められます。腰かけて勉強するには、こういう工合が室の方がいいこころもちです。青い小さい柿の芽、紅い楓の芽、古びたタンク、そして垣根越しに隣りの庭の柔かい楓の芽立ち、乙女椿、常盤樹が見え、雨戸のしまった大きい家の一部が見えます。
こうして自分の巣をこしらえられて(それ丈の人手があって)何とうれしいでしょう。去年の四月から、相当の辛棒いたしましたが、その甲斐があり、落付く一刻が千金です、島田へ行く切符が買えるか買えないか、判るまでたっぷりこの室の愉しさをたんのうしようといたします、右手のしまった襖をあけて入っていらっしゃったら、きっと、なかなかいいじゃないか、と仰云るでしょう、この室は砂壁でね、もう古いもんだから糊がぼけて、一寸さわってもザラザラ落ちるのよ、其がいやだけれども今度は智慧を出して、机椅子のほかには何ももちこまず、正面の壁が寂しいからそこへ飾棚をおいて、美しい古壺を一つ飾ってあります、すぐ傍で自然はきわめて動的ですから室内は全く静かでよく調和いたします。
一年ばかり大ガタガタで暮し、外へ出れば傷だらけなのでこんなに落付いた味が恋しくなったのね。すてられて、雨戸を閉されている雨の庭を見下して、小さいこの室が活々と音のない活動に充ちているのは面白い光景ね、生活というものの云うに云えない趣です。
島田から、きょうお手紙が来ました。みんなで待っていて下さいますって。ありがたいと思います。冨美子が上島田へつとめるようになって、島田へ来ていますって。あの子がいれば、随分うれしいわ。いい子です、そしてもう立派な大人で、さぞいい話し対手でしょう。ゆっくりいろ、と云って下さいます。移動申告をして来るように、とのことです。あっちもそうなったのね。しかし今こちらはすぐ移動出来かねるのよ、国男が移動して(先月末)米の精算の関係からわたしの米の配給が月初めオミットになりました。(先渡しがいつもあるのを、こういう機会に精算するから、一人きりのこされる人は、えらい目に会うの)菅谷の方へくいこんで暮しているの。ですから、せめて二十日ぐらいはこちらへ米を返さなくてはわるいから、行くとき移動はもって行けないわ、そのことを申して又手紙あげましょう。
どうしてもしなくてはならない外出が、月一度となったらば、わたしは何年ぶりかで、満足するほど家居し、畑の世話をして、勉強して暮そうと、そのたのしみはつくせません。
わたしは出嫌いな性分なのね、それは御想像以上だと思います、ですから、必要がすぎると忽ちじっとしてしまって、その代り、気持よい点滴のように書きたくなって来るのです。どこで暮すにしろ、天気晴朗の朝、俄然婦徳を発揮するまで、わたしは土いじりと勉強とで過したいと思います。よく
四月十七日
さて、さて。――
この一行の間に、何という変りがあったでしょう。十一日の午後、てっちゃんに会ってから、袋一つもって鷺の宮へゆき十三日は潰されるばかりの電車にのって、あちらからお目にかかりに出ました。
帰って、その晩、あの空襲[自注11]でした。幸その夜うちには、菅谷とその父、よし子の弟、従弟、妹、よし子、わたしという顔ぶれで、この附近の家としては珍しい働き手ぞろいでした。はじめ遠かったのに、いつもここは終りの一時間がピンチね。物見に出ていた男達が壕へかけこんで来て、ソラと出たときはもう裏隣りの有尾さんというところから火の手が出て、次々とうちの左手(門からは右)の一画がやられ、うちはポンプを出しホースの水を物置にジャージャーかけて働きました。いい工合に風がなくて火はおとなしくやがて吹き出した風は東南風で却って団子坂辺の火の粉をけすに気をはりました、不発が落ちました、この手紙のはじめに、雨戸の閉された家々と書いてある、それらの家々はほんの数分間で消え失せました。もうずっと久しく生活の物音はきこえなくなって居りましたが、二階の机をおいて障子をあけると一望千駄木学校が見え、きなくさい春風が、楓の若葉をゆるがせて居ります。
一応しずまって食堂へ来て、その日の午後川崎から来た女の呉れたチューリップが紅と黄に美しく朝鮮の黒い壺にさされているのを見たら、けげんな感じでした。家をやかれた人はその感じがさぞ鮮かでしょう。
千駄木の裏のわたしたちの愛すべき小さい家も遂になくなりました。目白のもとの家二つは、どうでしょうね、ありそうでもあり、無さそうでもあり。目白の先生は旅行中でしたろうと思います。火の見櫓が見えた二階の家もなくなってしまったわ。
十四日に菅谷が、そちらの安否をしらべに自転車で一廻りしてくれました。それでやっと気が落ち付きました、十六日には、往復二里ほど歩いて行きました、話よりも目で見た印象は何ときついでしょう。どんなにぐるりが熱く、赤く焔の音がひどかったことでしょう。本当にどんなにあつかったでしょう、うちの火でさえ風はあつくなりましたもの。
十八日には面会が出来るという張り出しを七八人のみんな歩いて来た連中が眺めました。体が乾きあがる感じにおあつかったのだろうと思います。
こういう場合を予想しなくはなくて、それでも、無事にしのげて、うれしく、うれしく思えます。まだこれから先のことがどっさり在るにしろわたしたちはやっぱり距離にかかわらず、手をつないで火でも水でもかきくぐり、そして清風を面にうけるのであるという確信をつよめます。うちの方は、団子坂からこちらまでがのこって居ります、その前側も。学校側は竹垣一つです。あと焼跡。ですからこんどは逃げる場所は到ってひろくなりました、広いわ、実に実にひろうございます。
縦の第一列になりましたから、こんどはこちらへ落ちるでしょう。その点いよいよ油断出来ませんが、同時に安全度もまして、面白いものです。

[自注11]あの空襲――四月十三日百合子が一人留守番していた駒込林町の弟の家の周辺が空襲をうけた。竹垣の外の細い道の隣までやけて家は残った。この前後に巣鴨、大塚、池袋にかけて大空襲をうけ、拘置所のぐるり一帯は焼野原となった。拘置所の高い塀の外にならんでいた官舎はすべて焼けた。幸い、舎房には被害がなかった。 
四月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(近江八景・粟津の青嵐(1―3)、京都平安神宮(2―3)、近江八景・堅田浮見堂(3―3)の写真絵はがき)〕
(1―3) 二十三日づけのお手紙をきょう二十八日頂きました、この頃あんなにあつかったり煙かったりしたのに爽やかそうにしていらっしゃると思ったら、やっぱりそういうお気持よいことがあったのね、およろこび申します。こんな手紙がどこから来るのかとスタンプしげしげ見ましたがうすくて見えず。平常の時よりひとしおと眺められます、こんなエハガキ面白いでしょう?有楽町駅のスタンドで買いました、大正頃こういう輪の人力車がありました。
(2―3) 四月二十八日の夜。こんな飾り菓子のようなエハガキを御覧下さい。現実の色調は、まさかこれよりは遙かに典雅です。風雪という風流な力が人間と同じように其に耐える建物は淳化させて行きますから。でも、あなたは山を見てお育ちになったから空の下で視線にこたえる山の姿はおなじみ深いわけね。いつかお母さんがコンピラ詣りをなさったお伴をしたとき、内海の山々の遠景を大変興ふかく見ました、山陽道の面白味はああいうところね。
(3―3) こういう美しさを愛すのは、日本人独特のように思えます。月の動きに時間の推移を感じながら昔の人は光りの中に溺れて夜をあかしたのでしょうね。上等の人は、我を忘れて光を浴びていたろうし中級の人間は、風流たらんとして気をもんだでしょうね、一寸笑えますね、こういう水の上では絃の響がよいから、琵琶なんかよく聴けたかもしれません。実際は古ぼけた名所でしょうが、人間がこうして自然を生活にとり入れた形として好意を覚えます。 
五月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町江場土中條内より(封緘はがき)〕
五月十日。
きょうはこういう手紙です。この鉛筆書でどこから書いているか見当がおつきになりましょう。昨日寿江子と長者町へ参りました。三時十八分の汽車で。雨がさっと降って来たりしましたが、長者町の駅へ着いた時には雨上りで、その気持のよさと云ったら。焼跡を歩き焼跡の間を汽車が走り、その揚句、柔かい雨上りの海辺の土と空との夕暮で申しようありませんでした。汽車も例外に混みようが少い由。長者町の駅へついたらピシャピシャ国民車(人力車の変形)が来て、寿のリュックやわたしの袋をのせ、草道を先へゆき、わたしたちは歩いて二十丁ほどゆき雑木道を抜けるといきなり目路がひらけて夷隅川が海へ入る眺望があります。狭いこんもりした樹かげ路からちらりと光る水で快くおどろき、そのおどろきが一歩一歩とひろげられて大きやかな河口の眺めとなる変化は、千葉にしては大出来です。
寿の家はすばらしいものよ。わたしは物置小舎と思って通りすぎました。そんな家、豆ランプです。八、六、二。障子が六枚しかなく、六枚分は文字どおりのコモ垂れです。障子に新聞がはってあります。その二畳も畳なしのゴザ。畳一枚もなし、床にカーペットをしいています。テーブル、ピアノ本棚。テーブルの上では寿が靴下つくろいをはじめ(今よ)わたしがこれをかき、マジョリカの灰皿、九谷の皿という組合わせ。趣味において貴族、形はコモ垂れ。それでも一晩で休まったことはおどろくべき位です。この間うちから過労で右腕が変になって苦しかったのにきょうはさして苦になりません。よしきりが頻りに鳴いて居ります。麦畑の中にまだら牛が二匹います。妙な牛っぽくない鳴きようをいたします。豆の花がこの破屋のぐるりに蝶のような花を開いて居ります。 
五月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封緘はがき)〕
五月十日
ここでも警報はあります。遠い半鐘の二点鐘です。チジョチャンと呼んで、小さい頬ぺたの丸い男の子がよちよちと訪問して来ます。チイ公というダックハウンドの雑種のような大きい耳の茶色の犬も居ります、久しぶりでのんびりしてこんなものをおめにかけます。
ひろびろと夷隅の川の海に入る岬のかなたに虹立ちて居り
よしきりのここだ来啼ける河口にかかる木橋は年古りにけり
虹かゝる岬のはての叢(むら)松は小さく群れて目にさやかなり
(こういう景色の雄大な優美さは、なかなかブランカ歌人の力量に及びません。虹の大きい切れはし、その下の岬に松むらが小さくくっきり並んで見えるのは面白い眺めでしたのにね)人麻呂はこういうスケールが得意。
青葉風肌爽やかに吹く日なりわれは若葦笛ならましを
(うたのこころはあなたにこそ、けれども玄人はこれを腰折れと申しましょう、平気よ)
ここには大体一週間ばかりの予定で居ります、そして帰ったら又人足仕事をして荷物を何とかして田舎行の仕度いたします。すこし永く落付くために財務整理(!)がいるので本月一杯はどうしても東京にいなくてはなりません。来月おめにかかるときどちらでしょうね。煙と焼棒杙の間からお顔を見るような感じでしたから、田舎でゆっくりと出来たらさぞうれしいことでしょう。どこにしろわたしもそこで暮すのよ。そのつもりで居ります。汽車どころではなくなりましょうから。東京も外へ出て、あの焼原のどこかにぽっちり樹も青くているところがあり、そこに住んでいること思うと(焼あとを疾走する汽車の中で)殆どふしぎです。 
五月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封書)〕
五月十日(ムッちゃんという子が来ていてやかましいの)
三日づけのお手紙、丁度きのう出がけに頂いて、袋に入れ、こちらへくる汽車の中でたのしいおやつとなりました。これが一週に一、二度書いて頂けた時期の一番終りの分となりましたね。[自注12]虱の話。大丈夫よ。おどろきも心配もいたしません。太郎なんか田舎でゾロゾロよ。よく処置しておきましょう。水道は林町辺は十三日以来全く駄目となりポンプを使って暮して居ります。ガスも出ず、です。宅下げの本のこと、このお手紙の分もお話のあったことも承知いたしました。いろいろの古典をすっかりおよみになったのはさぞいいお気もちでしょう。
今メレジュコフスキーの『ミケランジェロ』を読んでいて、ルネッサンスという人間万歳の時代においても、法王やメジィチや我ままな権力に仕えなければならなかった偉大な人々の苦悩に同情を禁じ得ません。ミケランジェロの憂鬱は、彼の大いさに準じて巨大に反映したルネッサンスの暗さね、明け切れぬ夜の影です。この頃沁々思うの。未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と。[自注13]トルストイはアンナ・カレーニナの第一章で、不幸は様々で一つ一つ違うが幸福なんてものは一つだというようなことを云って居ります。どうして現代の歓喜がそんな単調なものでしょう。ミケランジェロが彼の雄大さで表現し得なかった歓喜が現代にあるということは、神さえも無垢な心におどろくでしょう。丁度息子のおかげで生甲斐を知った親のように、面白いわね。

[自注12]これが一週に一、二度書いて頂けた時期の一番終りの分となりましたね。――顕治からの三日づけの手紙が未決生活最後の手紙となった。大審院の判決で顕治の無期懲役に対する控訴が却下されて未決から既決の受刑者としての生活に入った。面会は一ヵ月一回となり、顕治からの発信も一ヵ月一遍となった。顕治が六月十六日網走刑務所へ送られるまでに、百合子は一度(六月一日)煉瓦色の獄衣に変って、頭も丸刈にされた顕治に面会した。彼は作業として荷札つくりをはじめていた。
[自注13]未来の大芸術家は、記念すべき時代の実に高貴な人間歓喜をどう表現するだろうか、と。――五月六日にソ連軍を先頭とするベルリン入城が公式に発表された。五月一日のメーデーにこの世界史的事実を速報せず、六日まで待って、確実ゆるぎない勝利の事実に立ってはじめて公表したソ同盟の指導者たちの態度は立派だった。この時のよろこびは百合子に新しい世界史とその文学の情熱の創造を感じさせた。新しいよろこびと笑いが人類にもたらされたと感じた。 
五月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十日
青葉雨というような天気になりました、薄ら寒いことね。袂がなかったりシャツがなかったりで、こういう冷気に一寸ぬくもりどころないようにお感じになっていることでしょう。人間の衣類には手と足との岐れのほかにゆとりのいるものだと思います。小鳥の羽根がこんな日にはふくらんでいるようにね。
昨日の朝三時半に起きて、黎明の樹の下道を長者町の駅へ出て、九時前帰宅いたしました。一昨日申告して、昨日切符買えるようにしておいて。こんな一番で帰ったのは、空の安全のためと一昨夕電報がうちから来て、もう一刻もゆっくりした気でいられなかったからでした。キューヨーアリイソギカエレ、とよむと、わたしにとって本当の急用は限られて居りますからはっとして十日間の休養一ふきでした、その前日空襲がありましたから。家の焼けるのなんかはものの数でもないけれども、ね。帰って、日暮里の道を下駄をわらないように重いものもってヨタヨタ来たらむこうから笑って来る男あり、其は菅谷君でした。何だったの?電報、といきなり訊いたら、奥さんじゃ分らないかもしれないんですが、と、防火改修の支払受取の件なの。何だと思ったが安心いたしました。
こんどの十日間は、わたしにとって実に名状出来ない効力がありました、先ず、という心持で、すっかりのんびりしたし、永年の生活が形の上で一変化する切かえを大変いい工合になだらかに切替えることになりましたし、それにもまして心に刻まれるのは、ああやって江場土で暮してみて、はじめて寿のいじらしさが何の障害もなく感じられて、謂わば妹一人とりかえしたようなしんみりしたよろこびがあります。東京に来ているときは、遑しいし第一、ここの家に対する苦しい反撥した気分(無限の親しさを拒絶されたところから来る)とわたしへの親愛、寿の目からみればのさばっていると写る菅谷一族への感情なんかが絡み合って、あのひとのこじれ皮肉になっている気分は、いつもわたしを焦立たせ彼女の下らなさを切なく思わせます。結局こんな人なのかと思いすてるようなところさえ出来ていたの。江場土のあの小さい葭簀を垂れ下げた家のゴタゴタの中で、寿は自分の生活としているから、そして今度わたしが行ったのは、寿にしてもそう度々くりかえされようとは思わない逗留でしたから、心からたのしく働いて暮して、わたしをのんびりさせて休ませ、能う限り営養を与えようとまじり気なくやってくれました。わたしにしろ、あの生活を見、一人でどんなにやっているかという骨折をみては、皿小鉢がきたないまんまつくねてあるのを見ても、やっぱり黙って井戸端へもち出して、きれいに洗っておいてやる気にしかならず、全く寿の存在が、ここへ帰っても、遠い江場土に小さい糸芯ランプの灯がぽつりとついていてそこに浮んでいるちょいと煤のくっついたあのひとの若い顔が見えるようになりました。いろいろの原因で動揺していて苦しい寿への愛情が落付く地盤を見出して、わたしはどんなにうれしいでしょう。わたしの生活へ関心をもつものは妹しかなく其とてもグラグラして、御都合主義で目先三寸の智慧で情けないことだと思って居りましたが、寿の暮しの実際をみると、つまり一人でまわりきれないところから来るいろいろの欠点であると思います。御都合主義と同じことになってしまうのも謂わば洗いきれずにつくねてしまった皿の類なのね。すこし落付いてピアノでも弾くためには一人であらゆることを延(ノベ)時間でやらなくてはならない生活ではどこかがきっと廻りきれません。生活上の配慮を一人で万端やって、それも不馴れだから対人的にも十分しっとりと落付き切れないようになってしまうのでしょう。菰垂れの姫よ。現代の。それをあのひとは向う意気のつよい人だから頼りなさをそのままに表現しないで、こわいものなしという風に体でも言葉でも表すから(つまりの弱気)あのひとのいじらしさがしんから分るまでには時間のみか、情況の適当なめぐり合わせが入用という手のこんだことになってしまうのね。菰垂れの家は、ぐるりに豌豆の花を咲かせながら、清純な江場土の空と柔かく深く大きい夜の中に何と小さくあることでしょう。あんなところに、ああして、あのひとがいる、ということは普通のことではないわ。ローソクの光で、夜、一人きりのとき何年ぶりかで心から弾いたピアノの響も忘れかねます。わたしの生涯のうちでも独特な意味をもった十日でした。時期といい内容と云い。たった十日がこんなに充実ししかも永続する意味をもって過されたことをよろこんで下さるでしょうと思います。わたしがいた間、もし寿に気の毒なことをしたと云えば、其は、一度ならず、あなたのお好きなものを、ついあなたに結びつけて噂してしまったことだと思います。玉子を見たりしたとき、ね。その人をその人の生活の場処でみるということは極めて大切なことね。
さて、きのう帰って、十日朝のお手紙頂きました。これも一つの記念的おたよりと思います。
季節としては先ず先ずね。梅雨前ということも。ことし、のみはやはり少なくないことでしょう。ことしのノミは余り皮膚とその上のものとの間が単純なのでびっくりするかもしれないわね、そして却ってとりよいかもしれません。
きのうは帰ったばかりでしたが午後から一寸丸の内まで用で出かけました。御旅行先はまだきまっていないでしょう?二銭、一銭のこと承知いたしました。が、これは多分江場土ででも買って貰わなくては。本郷と駒込の郵便局が一つになって駒込中学にやどかりして居ります、切手類一切なしよ。こんど中央できいてみましょう。いずれにせよ調べて送れるようにしておきます。
本のことエハガキのこと、衣類のことわかりました、来週(きょうは日)水曜か木曜にそちらへ行き一まとめに運べる方法を講じ、すっかり自分で整理いたします。ナフタリンのことなども分りました。
予約ものの送先変更のこと承知いたしました。そういたしましょう、田舎暮しでは雑誌がなくなったのだからこういうものも大切です。
隆ちゃんへのたより島田へのたよりのことも定期用件のうちに加えてちゃんといたしましょう。時間がないとは決して云えなくなりましたから。
この手紙は、同じ食堂ですが、いい工夫してかきはじめました。長原孝太郎という古い洋画家の家から低く脚を切った椅子を二つもらいました。まるでまるで低いのよ。かけいいの。そこでふと思いついて、廊下で塵に埋れている太郎が一年生になったときの学童机をもち出して、ガラスに近くおきました。今のここのメムバーでは腰かけて食事すると、公衆食堂のようだと思う人々ですから。適当な大さのテーブルなく、一方で坐っているのに聳えたつのはこまるし居心地わるく坐っていたのよ、いかにも主婦机となりました。赤いつばきのおくれ咲き一輪をさして。しかし主婦机というものは、どんなに小さくてよいかということにびっくりいたします。半ペラならこれで十分だし手紙だけならこれで十分よ。しかし小さい卓は卓面のひろがりが人に与える落付きというものをもって居りませんね。一つきりの引出しに手紙道具、右横の物入れになっているところにはノリやメモや本や名簿や家計簿や。
こうしていささか心にいとまを生じ、部屋の模様更えなどをしていると、この夏どこですごすことになるのかしらと興を覚えます。もし急に北へ行かないならば、又一ヵ月ばかりも江場土へ行って見ようかと思います、そして、江場土という小説がかきたいのよ。北へ行くための荷もつのことや何かを一応きまりつけ、ここの人たちにもちゃんと話をつけて。わたしが北へ行っても菅谷夫婦はいるつもりらしいから結構だとよろこんで居ります。二人きりで困るならあの人たちのいい人を置けばいいわ。小樽のおばあさんにたのんで、秋田の大館というところから花岡へ行く途中釈迦内村というところに甥子の出征留守の家を紹介して貰いました。細君に子供二人。地図を見たらもうすこしで北の端れなの。余り田舎では女が勉強するのさえ驚異ですから、これはいざのとき困らないための候補地という程度に考えて居ります。では又。ペコをお大事に。風邪大丈夫でしょうか。 
五月二十一日[自注14]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(野口謙次郎筆「十和田湖之春」の絵はがき)〕
五月二十一日
妹は煤をつけたる顔のまゝわれ送るとて汽車にのり来る
おみやげの玉菜三つをもち重り十日目にまた焼跡に帰る
帰り来て雨戸あくれば焼跡をふかく覆ひて若葉しげれる
この年の五月若葉はこと更に眼にも胸にも濃く映るなり

[自注14]五月二十一日――千葉県長者町に暮している妹寿江のところに行ったときの手紙。 
五月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月二十四日
昨夜は、そちらの方角はおさわりなかったと存じます。それでもおやすみになれなかったことは同様でしょう。
きのう、うちは、こんな工合だったのよ。先ず話は十九日に逆ります。わたしが帰って来て食堂に坐るや否やO子が、食事がたべられない、体がだるくて臥ていたと立てつづけに訴えます。細君である女が、そういう調子になれば、大体どんなことか想像されるというものですが、わたしはあなたも一つ田舎へ行って来なさい、と云いました。御目出度でないというのなら空襲神経衰弱なのかもしれないから行って来て気分をかえてさっぱりしなさい、と。台所も何も放ったらかしでやり切れなくなっていたし食物のことも変に神経質になっていたからそう申しました。御主人は二十二日に出張し、O子は昨日茨城の実家へ行き一週間は、わたし一人となりました。〔中略〕
ひとりきりは月当番ですし何かのとき危険ですからペンさんが又ひとりもの同様な生活なので用の合間に来るということになり、昨日は二人とも喜んで一緒に過し、田舎行準備の本の小包を十三ヶ発送し、ああなんて御ハンなんだろう!と夕食もすませました。一服してさて入浴と思っていたら、なかの口に誰か来て、それは目白の先生でした。六時頃来られる筈だったのに、〔中略〕電話で伺いを立ててから来ようとしたら池袋のぐるりに公衆がなくて歩き歩き千川の避難先のうち迄帰ってしまって出て来たのだそうです。声を揃えて笑いました。〔中略〕其でもペンさんは三、四年ぶりでこの先生に会ったのだしあれこれ話しているうちに省線が間に合わなくなり、こういう顔ぶれは珍しいというわけで泊ることに一決し、客間に用意をしたわたし達は二階へひき上げようとしていたらブーがはじまりました。
この先生はこれ迄二度ひどいときに来合わせて大いに助けて貰ったので、さて又今夜は小さくあるまいと冗談云ったらあの調子で、団子坂と肴町の間のやけのこり区域が又苅りとられました。幸うちの極近くへは落ちず。しかしシャーを三度ききました。二度目のシャーが終ったら、男が一人スタスタ入って来て御苦労さまと先生に挨拶しています。誰かと思ったら菅谷さんの父親でした。当直で田端駅に泊っていました。「奴等」が(そういうの)田舎へ行って私一人だから心配して、段々こっちなので駈けつけてくれたの。このひとはこういうこころもちの男です。〔中略〕「先生がいてよかった。おくさん一人かと思ったんで」と汗ふいていました。大変うれしゅうございました。
六時になって朝飯炊いてみんなにたべさせ、出かけるものは出てしまい、わたしとペンと其から一寸眠りました。久しぶりだったせいでひどく疲れました。午後は眠りたいけれ共夜目がさめると困るので床につかず。〔中略〕台所の手入れをし、それからこれを書きはじめました。ボーとなっていても台所は出来るという発見をして、台所やるようになったのだからわたしも練達したものです。人造石の流し、斜に光のさす窓でものを洗っていると、ああ江場土の井戸端が恋しいと思われました。あの空気、あの青天井、水の燦くしぶきのこころもちよさ。雨の日は大困却だったのですが、それは思い出さず。くたびれて猶あの美味な空気を恋いわたります。
江場土での暮しをこの間申しあげましたが、あの間にね、ハアディーの「緑の樹蔭」という小説をよみました。無名時代に書いたものでハアディーが半分はまだ建築家だった頃、しんから時間をおしまず村の聖歌隊の老若の男女の生活を描いたものでした。江場土での生活には時間の制限がなかったから、この時間をおしまず入念にかかれた作品の味が実にぴったりして、大作家の力量がまだ有名と、専門化によってちっともわる光りしない時代のよさ、ふっくりさ、人生への控え目な凝視というようなものを実に快く理解いたしました。それにつれてね、十五年頃あなたが屡〃わたしの仕事がジャーナリズムに近すぎる、ということを警告して下さったほんとの工合(何故なら其は言葉の意味ではないのですもの、意味という点では一応は分っているのですから)が、ああ此処、こういう違い。とわかりました。何年越しに分って、余りゆっくりしたお礼ですみませんが、あなたの生活にてらしてみると、あの頃わたしに分るようで分っていなかったジャーナリスティックなわる光りになりかねない艷、空気がわたしにくっついていたのであったと、明瞭に分りました。それは現在のわたしの生活は、そういう鉛くさい、せっかちな輪転機の動きから絶縁されて居り、それでそこから解放されているからです。
江場土での収穫の一つとして、これは小さくない獲ものと思います。
よく、作家自身の主題とその展開の独自なテムポとおっしゃったわね。それは、普通に分るより以上のことね。丁度独自な外交術をもつということは、チャーチルには決して本当に分らないように、一人の作家が独自なテーマを独自に展開させるということは、なみなみでは私たち程度のものには会得されないのだと思います。自分に教える多くのものをもっているような生活に身を挺し得るか得ないか、それ丈の馬鹿正直さがあるかないかが第一着の問題であるし。(このすこし手前まで書いたら開成山からおけさ婆さんの婿が来ました。)
二十六日、きのう一日そのマサカズの出入りや注文(国の、よ)で大ごたつきをして、前晩空襲だった疲れがぬけきらなかったら、昨夜又候。昨夜はわたし一人にペンぎり。しかし二人きりで気が揃っているので割合楽でしたが、昨夜は壕に土をかけて小学校の前の疎開地へ出かけました。バケツ一つずつに水を入れたのもってフトンもって。あとは何一つもたず。今か今かと見ているうちに東方の烈風が起って来て火はくいとまり、うちのあたりは黒いままのこり、二時半ごろ再び白いつるバラの咲いている門の中へ戻りました。三月四日にバク弾のおちた前通りの家が三四軒焼け、肴町の通りから団子坂の手前左へ折れて細い道にかかった、あの右側がやけ、(団子坂の手前のやけのこりだった小部分)うちの裏は二側あっちまで、やけました。一時前に停電になってしまいラジオも電燈も水道もなしよ。こうして確実にやけのこりの部分を掃かれて行くのを見ると、もうもう居るべき時でないと思います。
わたしの田舎ぐらしの用意として、財務整理(!)のため来月初旬まではどうしても東京にいなくてはなりませんが、それ迄ここ数日大活動をして、ペンをつれて一応どこか山形辺の温泉に一先ず行き、そこで一ヵ月もいるうちに、きまればそこへ行くということにいたしましょう。温泉というのはね、マサカズの話で国の生活があの土地の生産者に寄食的にだけあって公共奉仕をしないので、不人気なのよ。「一人よけいに人をよびよせるのは、ハア其だけ自分の食い量が減るこんだから考えなさるがいいと云っているんです」作物を守っている人のこころもちはそうでしょう。わたしはそういう口にくるしい餌では生き難いし、わるい亭主をもったのと似ていて、中條さんと云えば旦那とわたしは別ですという生活はなりたちませんものね。こんなひどい東京にいて、私がこうしていられるのは、わたしの与える無形なよろこびやたよりに対してわたしに便利なように便利なようにと考えて、ナッパの一かたまりもくれる人が多いからよ。わたしたちにはわたしたちの存在の方法がおのずからございます。
それにわたしはこの頃右の腕が過労のため(人足仕事の)痛くて髪をとかすのもやっとです。こうしてものを書くこまかい運動は割にましですが。炎症をおこすのだって。ロイマというリョーマチのモトの仕業の由。ところが現代ではそのロイマ奴の正体が不明なのよ。おイシャにきいたら、サンショの皮を入れた風呂に入ってみなさいというの。サンショの皮をペンがさがしたら、見えていた道ばたの山椒の樹が若葉がくれしてしまって、駄目なの。その腕でゆうべはシャベルもって土かけしたから、きょうの工合は物凄うございます。〔中略〕
千葉で休んで来た力で移動の仕事やってしまって、なるたけ早くここを動きます。東京にいなくてはならないということと、ここにいるということとは別ですから。今一寸何をするにも只金を払う丈ではとてもだけれども、マサカズが来た結果すこし便宜な条件が出来ましたから、それを活用して動きます。ペンも岩手の水沢というところに母を疎開させ、自分はどこかその辺で職業をもつことにします。方向が同じで、一人で困るからいろんなこと一緒にして、わたしは一人では困る道伴れになって貰うというわけです。(五反田に近い上大崎に知った家がありましたが、やけたらしいことよ。猿町がないそうですから。)
焼あとが多いことは大したことね。昨夜そう思いました。しかし、あとで焼ければやけるほど万事が骨折りです。いろんなものが無くなるし(乗物など)。来月そちらでお目にかかり、次の月はどうなるでしょうねえ。
七月には、ね。いつまでもおいてきぼりにしてしまったらこまると思います。移動して出たら、もう東京へは戻れないし。でもまア、万一そういうときには又その時の策もあるかもしれません。せめて夜具フトンを、と頭を大ひねりです。〔中略〕
チリヨケ目がねで大分注意いたしましたがきょうは目がすこしパシパシ。おや、今とんでいるのは29の音よ。ラジオがないとこういうことになるのね。ではどうかお大切に。今は省線が不通です。 
六月十六日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
一九四五年六月十六日
きょうは開成山からの手紙です。これは、いつ着くでしょうね、勿論明日わたしがここを立ってひどく混む汽車にもまれて東京へついて、それからそちらへシャツを届けに行ってそれでもまだ着かないことでしょう。もしかしたらこの次引上げの意味でこっちへ来る時分にやっと読んで頂けるのかもしれないと思います。
こちらには、十四日に来たのよ。十日に来る予定でいたところ、うちの菅谷には切符なんか買えない由で駄目。閉口してあきらめかけていたとき一馬という咲の兄が来て自分の切符をくれる話となりました。全く望外のことで大よろこびしたけれ共十二日に来るのが来なくて、やっと十三日の午後もって来てくれました。そこで急に支度して、ペンに久喜まで送られて来ました。国の迎えが主眼で。上野では(一時二十五分)福島行きでどうやら座席をとりましたが赤羽からひどいこみかたで久喜でペンがおりるときは窓から出ました。窓からというとこわいけれども案外なのね。大いに意を強うして郡山でも其をやらなければなるまいと思っていたところ、ともかく体は普通に降りました。大風呂敷の背負袋、国府津へなんか持って行った茶色のスーツケース(覚えていらっしゃる?)それにベン当なんか入れた袋。モンペ、くつばき。凄いでしょう。背負袋からは雨傘が突き立って居ります。
引上げ準備のため忙殺され疲れきっていて、汽車にのったらゆっくりしたかったのに、何しろ座席の(向い合う)間に腰かけているものがあるほどの上に、あいにく向いにこしかけた男女とも罹災して大いに気合がかかりっぱなしの人物なので到頭着くまで何となししず心なし。段々夕暮れになって山際の西日が美しく日光連山から福島の嶽(ダケ)の山並が見えて来て、短い満載列車はたった一つの灯を車室につけたまま暗く一生懸命にせっせ、せっせと煙を吐いて進みます。郡山につく一つ二つ前の汽車の情景はドーミエ風でした。
何しろ電報は都内で丸一日がかりですからいきなり来た次第です。郡山駅がやられたというから国民車というものもないという覚悟で靴をはいて来たわけでした。駅に下りたら攻撃を受けたとは云ってもちゃんと屋根もあれば水のみ所の鏡もあり、駅全体の空気は東京で忘れられたおだやかさです。一時預りもやっていたのよ。それはほんとうに平常の生活というものを思い出させます。人の住んでいる街道、家並のある道、それは何と賑やかなものでしょう。たのしいものでしょう。月が五日で丁度八時すぎの田舎道に照して居ります。ベン当袋だけ背負ってゆっくりと歩き出し一時間すこし歩きました。殆ど人通りのない街道が畑と田との間にさしかかり、やがて子供時代から見馴れた山の神の松林。そこのあたりに大きい池が三つあって桜の繁った葉が黒々と厚くつらなっている遙か彼方に山が見えます。月は明るく蛙が鳴いているの。そこを、わたしは一人で歩きつつ、東京をどんなこころもちで思いやったことでしょう。いとしきものをのこし来にけり。焼原の真暗ななかにすこしずつ点々と灯かげが見えるような東京。いとしいものはその灯の小さい影の下に生活をしている。切ないまざまざとした光景。そこから離れてこうやって月明りの昔ながらの道を歩いている自分。全く異様で、納得しにくい感じでした。涙がこぼれかかるような思いでした。東京は可愛いわ。あんな東京で必死に生きている人々は、いじらしいいとしいと思います。東京のいじらしさには、特定の個人が中心となっているというばかりでなく、私の知っている、そして経験した様々の善意と努力とがそこにあるのですものね、ある特別な人にしても云わばその凝結のようなものだから、こういう痛烈な時期に、それがまだそこにのこっているときに自分だけ離れて来るということは本当に、出来にくいことです。あんな悲しいこころもちは初めてよ。あんな夜道は忘れ得ません。全く新しい一つの責任と義務として理解しなくては、月のうちにこちらに引上げて来るなどということは不可能そうです。そして、こうやって不意に来たここの家の生活は、わたしのそういうこころの中と不調和な日暮しです。新しい場所で新しく生活しはじめるために、暫くここで休む。そういうためにはいいのですけれども。
今この手紙は家の東に面したからりとした客室の書院の低い棚板の上で書いて居ります。わきにミシンがのっています。客用卓が立てられています。座布団がつみ上げてあります。ふとんが出ています。それらの様子は、手の足りない旅舎の団体室の閑散な一時めいて居ります。どこにも中心のない大きい室。寝て、食べて、そして又寝に来る室。そういう風です。だが、床の間には祖父が書いて貰って昔からかかっていた安積事業詩史という字一杯の双幅がかかって居り、書院の柱には天君泰然百體從令、心爲形役乃獸乃禽という二本の聯がかかって居り、書院のランマには菊水の彫があります。いつかここへ来たときこの室のことを書いたと思います。が今は、又一つの感想がございます。この前、何と感じたか覚えて居りません。が、今のわたしの気持では、祖父の一生に貫徹した骨が一本在ったということに同感を覚えます。その骨は、時代の性格、祖父の性格などによって進歩性に立ったものでありながら主観性に煩わされ、狭いものとなり、事業の結果に対して、満足よりも人事的煩わしさをうけとったようになったらしいけれども。その菊水の彫りにしろ事業詩史にしろ聯の文句にしろ祖父はそれを自分の人生への態度から照り返したものによって自分で選び、自分でかけ、つまり自分でこしらえました。その室に今つまれているふとんざぶとん家財類。それは全然無性格よ。生活がそこに語られているとすれば、それは生存せんとする姿として在るので、生活意欲とは云いかねます。ふとんは誰でもねるし謂わば誰のでもよくて、この室に其がこうやって出し放されてあるという状況には、今日という時代、その間にこうして生存しつづける本能的な人たちが反映しているばかりです。わたしは、そこのタンスによりかかって「アンリ・ブリュラールの生涯」をすこし読み、本をおいて感じを新しくいたしました。わたしの気分には、この読み下せもしない詩史や聯にあらわされている生活意志というものに対する同感があり、その間にころがっている家財、ふとん類とが、その同感の邪魔として、又はギャップとしてうけとられると。わたしは、ここに納れない自分をむしろ祝福いたします。新しい環境は努力を求められますが、それは其なりに甲斐があって、ここのように家の在るところが村の特別場所だと同じような一種の特別的な隔離がありません。二ヵ月位すっかり休んで事情が許せば先へ移ります。もし早くなればもとより其が結構よ。ねえ。江場土に行って見て来た生活ぶりと何たる異いでしょう。ここで人間は成長出来ないわ。祖父が、謂ってみれば功成り名遂げて村からおくられた土地というようなものは、その位置が景勝であればある丈隠居ですね。でも凄じい時代の推移でこの東に向って地平線まで開いた廊下は、機銃に対してこわいところとなりました。角度がうんと大きいのですもの。あっちの方からだって、空から人が動くのが見えるのでしょうから。
「伸子」の中にかかれたこの庭は、今芝生の隅に壕がほられて、白いマーガレットが野生に咲いて居ります。きょう、わたしは杏の葉の美しい井戸端でもんぺと肌襦袢とを洗いました。あした着て帰るのに。又大汗をかくでしょう。戦闘準備よ。やっと国男が動き出します。切符の都合でどうなることか、わたしが一人先になるか、国と一緒に行けるか。一緒に行きたいと思います。帰るのは、こわく、しかしうれしいわ。心が休まるわ。でも、帰った時家がなかったらどこへ泊ろうねというような話です。親類たちも皆やけてしまったのよ。咲の兄、姉、従弟。本当に、どこに泊るのかしら。やけのこりの近所のどこかよ。今の東京を見たら国もすこしは活が入るでしょう。そして、自分の将来ということについてもいくらか真面目に考えるでしょう。
昼飯のとき太郎が(もう五年よ。すっかりこっちの言葉になり、東京の子に見られないふっくりした少年となりました、)お父さまア(と、こっちのアクセントで)こっちさ来て商売は何なの?商売はないよ、お前の学校の先生になろうか。先生になんだら田植しなくちゃあ。お父様だったら作業みんな良上にすんだべ、からいから。わたしがきいていておやじの点のからいというのが分らないのよ。何故さ、そんなに耕作が上手なの?そうじゃねえけんどさ、子供だから其以上説明出来ないのね。含蓄多き会話です。
四つの健之助はまだ幼児で丸い頬をしてすこし泣きむしでおやじに大いに差別待遇をうけゲンコも貰います。妙ね、くちやかましいし閑居して不善をなすの口で、ひる太郎が神経バカ誰?と云っているのよ。こっちでは気狂いのことを神経って申します。そんなものいないよと私が云ったら、太郎が居んだと笑うの。誰なの?するとなお笑って健坊がそうきくと、健ちゃんと返事するのですって。それを親父が教えたのですって。咲が、そういう点じゃ問題になりゃしないのとひんしゅくします。止めさせる威厳がないのね。そしてそういう威厳があっては妻となっていられないのでしょう。わたしは健坊をつれて客室の方へ来て掃除をしながらおどります、手をふって。健坊も大よろこびでおどるのよ。気がからーりとするらしくて健坊はすっかりいい眼つきになります。おばちゃんよウと呼ぶのよ。ああちゃんよウ、兄ちゃんようと。泰子は全く泰然よ、仰臥したまま七歳となりました。そして健ちゃんは赤ちゃんだと思って、泣くとあやしに行きます、しかし連れられて自分も泣き出すの。話がわかるのよ。お名前は?というと、ナカジョウケンノスケと片言で申します。みんなナカジョウよ、こちらでは。
この九日頃、おみやさんという七十何歳かの老女がここで死にました。この女のひとの一生もきのどくなものよ。でもね、従妹ベットにしろ生活力の明瞭な意力の通った女の生涯は同じ孤独にしろ親類のかかりうどにしろ物語りになるけれど、このおみやさんというように意志がないようで一生気の毒に過した女の生涯は小説にさえならないのね、植木の成長と枯死のようで。日本の女のみじめさの大部分は、少くともこれ迄はこういう工合だったのね。自然主義時代の小説がひととおり書いたらもうおしまいという位の内容のおくれかただったのね。これからの女の暮しはそうは行きません。ペンにしろ、良人はルソンです。この何年か散々要領で立ちまわった揚句、要領果てと申せます。ペンはその惨憺の意味を感じるにしては小さい人間ですが、其でもこの頃は、もっともっと大きい淋しさのためにうんと準備しなけりゃならないと思うわと申しました、今の淋しさに比べてね、絶対の喪失に対してです。そうでしょうと思います。この人たちの場合は。だって、要領よく立ちまわったつもりで、余り目前で細かく立ちまわって一まわりしてあっちへぬけてしまったのですものね。もともこもなしだわ。要領なんて何ときびしい返報をするでしょう、人生は嘘を許さないと思います。
明日帰って一週間か十日猛烈に忙しく、又手紙もさし上げられまいと思います。
わたしは毎日少しずつ手紙かこうと思っていたのよ。日記として。そうしなくては一ヵ月が長すぎて。ところが昨今の暮しは一ヵ月の長い感じはそのままのくせに、一日がやたらに疾走して、朝から夜まで事、事、事、でつまってしかも其は、田舎から人が突然来た、荷物をたのむ。急に切符が来た、じゃあ荷物をとって来なくちゃ。そういうことで。こっちへ一応来たらばこれはすむでしょう。わたしは予約したのよ、もうこれ丈うちのために骨を折ったんだから二ヵ月はバカにならせて貰うからって。寿は信州追分の方へ行くかさもなければ青森の方へ行くかするそうです、わたしと一緒に暮したらいいのに。或はそうなるでしょう。七月十日頃までには、いずれにせよ必ず動く由。こちらへ来る前電報して会ってきめさせました。たった四十円しか全財産もっていなかったのに切符と一緒に新橋の駅のスタンドで本を買っていて財布を下へおいてとられちまったのよ。そういう気分でいるから行くところも手おくれになるのだと例のわたしの小言が出ました。
本気になっていず、何となし斜にかまえているからなのよ。其だけが一応全部であるけれどもあとにはまだ、という気があるから其が隙になってとられます。小事の如きだけれど、寿の半生は、其でいつでも後手ばかり打って来たのですものね。怒濤時代にあんなささやかな者が自分だけポーズして其が何であり得ましょう。ことしはノミ、蚊、蠅ひどくてあわれブランカはボツボツよ。 
六月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
六月十七日開成山。
ここでは、夜のしらしらあけから盛に飛行機がとびます。子供飛行機――つまり練習なの。しかし夢の中でその音が刺戟となり朝はいつも何か空襲の夢を見るから閉口です。けさは、あなたが何だか助けに来て下すって、門の樹蔭のようなところにかがまって、甚だそういう場合であることを残念に感じながら目をさましました。実にひどい音なのよ。今丁度昼飯時で、空のブンブンも御飯に下りていて、しずかに鳥の声がきこえて居ります。
わたしは、梅干の種が一つ入っているお茶わんをわきにおいて又書院の棚のところに居ります。ブリュラールと。梅干は、ゆっくり横になっていて、御飯ぬかしたから(朝)お握りを一つもらってたべたからなのよ。梅干を入れて貰えるのは凄いでしょう?
ブリュラールは、ほんとに話すように書かれているので、これをよむと心が流れ出します。こういう珍しい休みの中にいて、こういう本をよむとわたしの全心が音を立てるように一つの方向にほとばしりはじめます。そして、書き出さずにはいられないの。
きょうほんとうは、もうここを立つ筈でした。ところが、東京へ国が来るための切符が又候出来ず、座席もない汽車にわたし一人乗って行くのもへこたれるので待ち合わせ、明日一緒にということになりました。咲は、焼けたところを見ていないから、荷物の整理なんて、自分がしたときのように出来そうに思って、欲ばりよ迚も。ああいう火と爆弾の間を縫って何かしているような気分は、もう絶対に分らなくなっているようです。疎開なんて、その点いやねえ。作家なんかがいち早く疎開したら、一生のうちにとりかえしつかないピンぼけの一区切りが出来ます。昨夜その話が出て自認しているからはたが迷惑だよ、と笑いましたが。
ここにもよし切りが鳴いて居ります。カッコーカッコーカカカと閑古鳥もないて居ります。でも、ここでは不思議とうたが一つも浮んで来ません。ごたごた生活のせいもあるし、まだ用の途中でそれどころか、ここへ来ているのさえ用のうちだからでしょう。国も、全く、ね。わたしがわざわざ来なけりゃ動かないなんて実に、ねえ。
こちらでは、朝日新聞が東京から来なくなって福島民報一本立てとなり地方独立単位にはじまりました。毎日、読売、朝日と併合となっていますが、地方新聞の型を脱せず、国際情報なんかありません。記事の扱いかたもバランスが妙です。こういう新聞しかよめないのは弱ったことだと思います。視野の点で非常にちがいますから。
こちらへ来る二日前に、本類そちらからつきました。相当ありました。いろいろ。おっしゃっていらした日本地図、中華語の本、衛生の本みんな出て来て別にしておきました。東京からは第四種も駄目となり本を送るのは一層不便となりました。しかし何とかして田舎へ送っておきましょうね。
そちら、どうしていらっしゃる?気候不順ですから調節範囲のせまい身のまわりで御不便でしょうと思います。一寸一枚下に重ねたかったり、一つかけたかったりいたしますものね。薬はまだありましょうか。この辺の薬やはね、薬を疎開させていて何一つないのよ。焼くよりは、と東京では売り出しましたから対照が面白いこと。三越なんか売っているのは薬のみというようですって。
わたしは江場土であんなに休んだのに、あれから一ヵ月の間にめっきりやせて、この頃は相当のものよ(やせが)病気でなくて、こんなになったのは、初めてではないかしら。あなたもいろいろでいくらか細くおなりになったと思いました。お互さまね。わたしは忠実な妻ですから、あなたが細くおなりになるにかかわらず自分は益〃丸くなるという工合には行かないのよ。天の配剤(ザイ)はよろしきを得て居ります。輪はそろってまわります。
きょうは、初夏めいた風のややきつい空の美しい日です。庭の芝の先に楓の低い生垣があって、その下は低く、ゆるい起伏ある耕地、森、町の方の煙突、そして三春方面の山並が日光にとけて見えて居ります。(これは東)北側に大きい池があって桜並木越しに嶽(ダケ)の山々が見えて居ります。(アラ、もうお昼休みがすんだのよ。バタバタガーガーがはじまりよ)
今年は天候不順で田も畑も困難が多いようです。きのう、国がジャガイモの花つみをしていました。林町のジャガイモは芽をつんでしまってるのよ、花は咲かないわけでしょう?淋しいわね、それでもああいうヒヨヒヨのに実をつけるためには芽をつんでしんをとめるのですって。わたしが来る前胡瓜に手をやらなければならなかったのですが時間がなく、うちの連中はおよそそういう人達でないから、胡瓜は困ったことだと思って居りましょう。島田のおいしいうずら豆ね赤っぽいところに斑の入った、あれを蒔いたらよくのびて、これはわたしが手をやって来たから安心です。ここの畑のさやえんどうは樹がのびすぎて豆少々という姿よ。うっそうとして茂っては居りますが。キャベツが西洋の子供の絵本にあるように見事に大きく葉をひろげしんが巻きかかって居ります。林町のはどうしたかしら。虫くいになりかかっていましたが。こんな話題も入って来るとおりこういうところで暮していると、咲なんか話しかた話題実に変りますね。話しかたが変に誇張的です。どういうわけかしら。人の好意に対して誇張も加る感謝したりしているうちにああなるのかしら。そして小さい小さい話題をくどく話します。それは事が少いからね。こんな世界の大波濤の時代でも、その煽りをだけくって、狭い無智な生活にかかんでいると、そういう工合になるのね。田舎生活のもっているこわさというものを感じます。人間生活として、果してどっちがましかしらなどと思います。しかし考えれば、どちらが、と対比さすべきではなくて、犬死にをせず退嬰しない、ということがなすべき生活ですね、わたしがこう感じるのもここのこの人達のせいね。
きょうはあとで、島田へも手紙さし上げましょう。そして、「北町のばっぱ」のところへ行きましょう。これは一郎爺という祖父の代からの知合いの娘でもう七十何歳かです。わたしの子供時代を通り太郎や健坊を孫扱いにして家の世話もよくやいてくれるばさまです。
健坊がおきたら参りましょう、今二時、昼ねよ、健坊はね、さっきわたしに抱かれて体をじかに撫でられているうちにトロンコになって眠ってしまったのよ、笑い乍ら。撫でるということは何と動物らしいそして人間らしいやさしさでしょう、わたしの掌は愛するものを撫でそれを休ませ眠らせたいとどんなに希っていることでしょう。この頃は荒っぽい仕事をどっさりしなくてはならないから、この掌もいくらかは硬くなりましたけれども、愛するものを撫でるに硬すぎる掌というものはこの世にないと思うわ。ふと思いました、感覚から人間を聰明にすることは出来ないものかしら、と。聰明な人間でなくてはいい健全な感覚の鋭さもない、しかしその逆は利かないものかしら。こんなことを思ったことがあります。ここに深く結び合った二人があって一方が何かの障害で知覚を失ったとき、二人だけの最もインティームな感覚の表現が、そのものにとって正気に戻れる刺戟となり得るのではないだろうか、と。どんな精神科の医者も試みない実験でしょうと思います。しかし烈しい愛情はそれを試みさせるのではないでしょうか。ところがね、この崇高な熱狂もすこしあやしいのよ、高村光太郎氏の智恵子夫人が精神病になったときは良人が分らなかったのよ、そしておじぎばかりしたのよ。同時に又光太郎さんは、私のようなインスピレーションは抱かなかったらしいの、おじぎで心の髄をしぼられて泣き泣きそこをぞ去りにけるという風だったらしいのよ。人間は常に思いがけない奇蹟を思いつき行うものね。健坊が、余り人間らしく可愛いので(愛撫のうけかたが)わたしの掌には電気がおこりました、そして愛の独創性ということに思いが到ります。このテーマは素敵ねえ。全く万葉の詩人たちでさえも自在性に瞠目するにちがいありません。そういう自在性流露性と、知性の最高度なものとがとけ合っている味いというものは、神様をして恐縮せしめるものだと思います。「神々の笑い」というようなオリンパス的表現をヨーロッパ文学はもって来たけれども一九四五年五月は、それにまさる人間の笑いがあり得ることを文学の上に実証いたしました。神々は嘗てエデンから追放した人間が、エデンなんかいつの間にか無視して、こんな橄欖(かんらん)の園を建設し終せたことに、どんなにおどろくでしょう、自分たちが、人間に創られたものであったという身の程を、どんなに犇(ひし)と感じたことでしょう。その哄笑には、飲まず食わずで雲の上にばかりいた神々の理解することの出来ない歓喜、苦悩の克服のよろこびがこめられて居ります。今世紀のユーモアは此の図絵よ。そして、この一巻のユーモアは、人類史におけるユーモアの質を変えました。ミケランジェロの描いた人間の宇宙的な姿、しかしそこを一貫する哀愁を、今理解すると思います。ミケランジェロは高度な人間性で人類の宇宙的質を直感したのだけれども、それは未だ少なからず渾沌の裡にぼやかされ眠らされつながれていて、どこがどうつながれていると解明出来ないままにあの哀愁をこめて巨大さであったのではないでしょうか。今、そろそろとあの巨人たちはヴァチカンの天井からぬけ出してきもちよさそうにのびをし、四肢を動かし、あの眼の玉をくるりとまわすのだと思います。宇宙的なものは真の誕生を与えられるのです。
シェクスピアは何ぞというと申しました「神々も照覧あれ」これはロミオも叫んだし、マクベスの悪妻もうなりました。現代のブランカは、神々がどこかでかさこそさせているのを感じるなら、こう云うと思います「あなたがたも見たいの、じゃあ、さアどうぞ。余りそばへよらないでね」だって神々なんてひどい未発育よ。何万年も無邪気のままいるというんですもの。人間のすることではきっとけがをしてよ、うっかり好奇心をおこしたりすると、ね。わたしは親切ものなんですもの。
こういう風なブランカのひとり笑いに交ってカッコーは盛に鳴いて居り、咲がおみやさんの遺品わけをして話している声がきこえます。あなたもこの冗談はお気に召すでしょう?明日は本当に帰れましょう、おそろしいがらくたきゃらばんで帰るのよ。わたし、国、そのおみやの親類の物すごい婆さん、瀧川。(わたしの手伝いに)ではね、一日に行きそうであぶなかしくって。 
六月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
六月十八日
きょうもまたこの棚のところへ坐りました。どうでしょう!切符が(国のよ)夕刻までにしか手に入らず、しかも駅は何とか山のムカデのように七巻半のとぐろで、明日立つということになりました。
わたしは腹が立ってやり切れなくなって、引こんで、ブリュラールをよみはじめました。それからすこし気がしずまってからモンペの紐に芯を入れてしまいました。そして、おべん当にする筈の握り飯を生蕃袋からとり出してたべました、その握り飯は、柏の葉にくるんであります(なかは平凡だけれど)
それから健坊と遊び、又ブリュラールにかえり、さて又帰るべきところへと帰って来てしまった次第です。この頃の旅行って、まるで昔の旅ね、汽車にのる迄は分らないのね、そして、ここの人たちみたいに人まかせな人は、実にたよりないこと夥しいものです。今日の一日がどういう意味をもっているかということをちっとも実感として感じていません。〔中略〕
けさは珍しく八時すぎまでしずかでした、ブンブンが。だもんだからわたしはわざわざ廊下まで出て行って「何か情報が入っていないかしら、飛んでないから」と云ったら「アラ先生大丈夫、こういうこともありますのよ」と瀧川さんが申しました。
ブリュラールはどんな印象でしたろう。一種の書き方ね。自伝を書こうとすると、全く私自分というものにひっかかります。スタンダールが其を気にしているのが同感されます。自分の場合だったらどうかしら。おなじみの伸子をつれて来る方が話しよさそうね。時代の相異も自分というものの観かたの角度もあって、わたしは自分を、時代の一人の女、それによって語られるその時代の生活という風にしか或モティーヴをもち得ません。スタンダールのナポレオン観のポイントは、いつもよく分らないのですが、これをよんでもまだ(第五章)よく分らないわ、何と判断しているのか。この中でも特長をなしている彼の考察は、静的ね。そして、精密であるが情感を貫いて考察されず「感情生活を考察する」、という風な性質のもので、それが彼の小説をパルムの僧院のようなものにするのだろうと思いました。情熱的でしかもその情熱をいつも不安に皮肉に監視しているのね。ナポレオン後の聰明さはそういう特長だったかもしれませんね。わかるようにも思えるわ。
才智の萌芽の信じがたいこと、「何物も天才の予告とはならない多分執着力が一つの徴候であるだろう」というのは面白く思いました。最近こういうエピソードがあったのよ。わたしのところへ女の子で舞台監督になりたいひとが来ます。日本で、女で、この仕事をしたいというのは、丁度寿が、指揮者になりたいと思っているのと同じに実現のむずかしい願望です。山本安英に相談したりしてもやはりわたしが見当つけられる範囲しか見当がつかずとどのつまり戯曲をかきました。自分で一年ほど芝居をやって。はじめ書いたのは、対話でした。次のは少女歌劇じみていました。この間もって来たのは、チエホフ風の味で、しかも十分芝居になっていて、情感もゆたかでなるほど芝居のかける人はこういうものか、と素質のちがいにおどろき、よろこびを感じました、その娘さんは戯曲のかける人なのよ。そしてそれはやはりザラにはないことです。まだ二十三四なのよ。近代文学の中で婦人のドラマティストは殆どありません。岡田禎子なんか、会話や人の出し入れの細工が面白いという程度の作家だし。
いろんなそんな話していたらばね、そのアキ子[自注15]さんがいうのよ、「わたしが(その人)芝居やめたいと思っていたら何とかさんがふっと女の人は逃げ道があるもんだからじきやめたがったりする。いつか先生が(これはブランカよあなかしこ)芝居の人たちにお話をなすったとき、よく世間には自分にこういう才能があるかしら、わたしにやれる丈才能があるかしらと心配したり調べたりしてばかりいる人があるけれども、才能なんて、決してそういうものではない。どんな目に会っても決してやめないでやってゆく勇気が才能だっておっしゃった。本当にそう思うって申しました」というの。成程と思ってね、わたしはいつ、どこでどんな人にどういう話をしたか全然覚えて居りません。しかしそうして覚えていて何かの鼓舞としている人があるということは感動的です。
「でも、その人は自分流に解釈しているのね」とわたしは補足しました。「勇気が即ち才能という風には云えないわ、わたしは多分どんなに苦しくてもその事をやらずにいられなくてついやって行く、そういう内からの力みたいな押えられない力がもしいうならば才能だと思う」と云ったのでしょう。だってね、そうでしょう、勇気とそういう願望とは別よ。願望があるからこそ勇気があるという結果にはなるだろうが「ああそう、そうおっしゃったの、わかるようだわ」「才能なんか本人がとやかく心配しなくていいのよ、あるものならば必ず在って何とか動き出すものだから。知らず知らずよ。その位のものでなければ謂わば育ちませんよ」つけ加えて「その方、誰かしらないけれども、個人的にでなく芸術の理解という点から云うと、お気の毒ね、才能は勇気なりと要約して覚えているのだけのところという点があるわけでしょう?だからね」「全くねえ」その娘さんがお母さんと暮していて、亡父の財産が、満州にあって、あっちで後見役をしている三十何歳かの叔父さんが、満州こそ安全と主張するため、新京へ帰ったのは残念至極です。そういう話、そんな事があったので、ブリュラールのこの文句はああやっぱりこう思うのねと面白く思えました。
男の人たちは自分の才能について、大抵の人が一とおり考えるらしいのね、人生というものを見わたしかかった年になると。それに比べて多くの女のひとたちはその問題以前のままで人生に送りこまれてしまいます。しかし、一応考える男の人たちにしろ、才能というものと処世ということとを何と顛倒し混同して考えているでしょう。真の才能というものは、こわいものだわ。持ち主をして其に服従せしめる一つの力であり、一つの人生をグイグイと引っぱってゆく強力な人間磁気です。この磁力の歴史的興味を知らなかった過去の天才たちは多く「不遇な」天才として自分自身を感じたりしたのね。ピエール・キュリーとマリとはその磁力にみちた人々であり互にひき合う魅力を満喫した人々でありそれは普通に云われる男女の間の魅力をはるかにしのぐ魅力、かけがえなきもの天と地とのようなものだったと思います。だからマリはピエールが馬車に轢かれた後は義務の感じだけで努力したというのもよくわかります、ね。
ああ、わたしはこんなに話し対手がないのよ。こうして、何ぞというと、この隅っこへひっついてしまうぐらい。炉ばたでいろいろ喋っていますが、いつも買物の話、荷物の話、汽車の話。わたしは一人で、もう何ヵ月もそんなことばかり考えて来たのだからもう結構よ。本当に人間の話題が菰包みばかりになってしまうというのは、何たることでしょう。この状態はもう今月一杯で終られなければなりません。ここの人々は百喋って一つのコモ包を始末するという風だから猶更わたしは飽きたのね。一人でいれば退屈しないのに。
わたしはここへ来たら極めてストイックに自分の生活プランを立て其を実行しなければなりません、どれ丈手伝い、どれ丈勉強するかということをはっきりさせて。わたしはこういうリズムのない万年休日のダラダラ繁忙は辛棒し得ません。大の男が、何を考えているか分らない眼をして炉辺に一日いるのを見てもいられません。
わたしの人生はゴクゴクむせんで流れて居ります。胸のしめられるような思いで。ですからね、大いに智力を揮って、その熱い流れを、生産的な水源、発電所に作らなければね。
こんな生活の中で折角のわたしが何となく気むずかしく鬱屈したユリに化してはたまりませんものね。
ブリュラールはね、今五七頁のところです。お祖父さんが布地屋の倅に本をかしてやりこの利溌でない本ずきが、あとで継母になったマダム・ボレルという女に「マダム正直者の言値は一つしかありません」と云って、かけ引をする女の前から布をしまってしまったというところよ。可哀そうなムーニエね、きっとこのマダムは継母になったあと度々これを父親に話したにきまっていてよ「ムーニエったら」と。そして親父の遺言から何フランかをへずらしたのよ。(バルザックによれば)

[自注15]アキ子――寺島あき子。 
六月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(国立公園小豆島の坂手港棧橋及洞雲山全景(1/3)、碁石山全景(2/3)、雪の志賀高原(3/3)の写真絵はがき)〕
六月二十三日1/3 十九日に開成山を三人づれで立ち(国、わたし、瀧川)わたしは久喜の友人のところへまわりました。十五日にそこまで成城から行った荷物は、もう発送されていて、余り調子よく運んだのでびっくりいたしました。二十一日にかえって来ました。そしたらそちらからの世帯一切がついていて、水色花瓶も無事頂きました。わたしのは一まわり小さくて花がひわ色でした。あれは白バラのつもりですって。
六月二十三日(2/3) お手紙をありがとう。この頃のお手紙一通は妙なよみかたをするのよ、算術をやって。全体で何字あるのかしら。先ずそう思うの。それからそれを三十でわります。すると一日にどの位宛たより頂いている割かしらと。配給も徹底するとそうなります。きのうから右腕が痛み、メリケンコを酢でこねた名倉の薬をはりつけてどうやらこれが書けます。国は丸の内です。
六月二十三日(3/3) こんなエハガキはみんなそちらからの頂戴ものよ。もう忘れていらっしゃる位古いストック品でしょう。来月一日は日曜日ですね。二日におめにかかって三日に立ちますからカンベンね。
多分そうなるでしょう。寿は追分に行く由です。本月中に何とかするつもりのようです。わたしは仰せかしこみともかく開成山へ参ります。そして東北巡行をやっていろいろ研究して見ましょう。どこもなかなか人ごみらしい風です。 
 

 

七月七日〔北海道網走町網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(開成山大神宮(1)、開成山大神宮北参道(2)の写真絵はがき)〕
(1)七月七日、きょうは又開成山から書いて居ります。六月十六日にここから巣鴨へ書いたのが戻って来てそちらのことがわかりました。急にお立ちになりましたね。道中は汽車もあの通りだしさぞお疲れになったろうとお察しいたします。シャツが一寸のことでゆきちがってしまって御免なさい。わたしもやっと安心して林町を引上げました。十二三日ごろもう一度行って最後の片づけをいたし、二十日ごろ立ってそちらに参ります。割合準備して落付くつもりでゆきます。
(2)七月七日、六月十六日のは戻りましたが、そのあと書いた手紙やエハガキはどうやらそちらへ行ったようね、着きましたろうか。久々ぶりの旅行でさぞお疲れでしょう。夜の汽車のさわぎ、あつい汽車の中、夜が明けかかって青々とした山野が見えるときの御気分、いろいろ思いやりながら五日の夜汽車にのって戻りました。青森行は大変ね、北の方ははじめてでいらっしゃるから風景も印象的でしたろう。まだアカシヤの花は咲いて居りますか。海も久しぶりの眺めでしたろう。そちらの景色はパセティックなところがあるでしょう? 
七月八日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
ここ二三日こちらはいくらか秋めいた空気です。空に雲が多く複雑に重っているのに山はくっきりと藍色に浮び、空の色は実にいいゴスです。ここでこの位ならば、その辺はもう秋が来ているのかしらと思います。尤も北海道は八月で夏は終りましょうけれど。わたしは、今、一寸した気候の変化についても、気(け)ざやなりけりという風に敏感よ。そして、秋の来ないうちに、そちらに落付こうとしきりに思って居ります。
この前(六月十五日ごろだったかしら。それから十九日迄)こちらに来たときは、心痛一杯で気をもんでいて、ここの生活の空気にもなじめず気持が切のうございました。早く片づけなくては私の今後一二年間の生活に影響するような用が国のズルズルのためたまっていたので。そういうとき書いた手紙が、丁度そちらへの初便りとなってしまったのねえ。様々に印象ぶかい旅をなすって、やれとおちついて今のわたしのように風のたたずまいにも感じが動かされるようなとき、あんな詰らないくしゃくしゃ手紙御目にかけてわるかったことね。御免下さい。あの時は、ああやって書かなくては気が持たなかったのよ。
国は十九日から七月三日迄滞京。いろいろの重要な用事を順調に果すことが出来ました。いい工合に、その間は東京がすこしひまで壕へ入ることもなかったので、本当に助りました。これでわたしの生活の事務的面が整理され、もうそちらへ行けるようになった次第です。一年か一年半は、気をもまないで休養と勉強とで暮せそうです。往復は不可能ですしここに暮すことはあながちよくもないから、そちらのどこかで暮します、その町か、すこし奥へ入ったところかどこか。面倒でないところで。保護観察所が、札幌の同じ役所へ紹介をくれました。先ずそこへ行って相談してからそちらに行く方がいいのですって。つまらない紛糾をさけるために。地方は人が尠いから目に立つからそうしないといけない由、その通りにいたしましょう。今は特別なときですから。そしてわたしは誰にも触られずに単純に暮したいから。そちらの様子は皆目存じませんからね。わたしとしても参考が必要です。鈴木義男弁護士に札幌の斎藤忠雄という弁護士に紹介を貰いました。この人は土着の人で信望のあつい物わかりよい人の由、相談にのって貰える人のあるのは心づようございます。わたしは、三つ迄札幌の農大の中で育ったし二十代には永く逗留してあちこち旅行もし宮部金吾さんや総長だった佐藤さんとおなじみでしたが、この頃の様子はすっかり変ったし自分の条件も変化して居りますから、やっぱり話のわかりいい筋の紹介が入用でしょう。
どこに暮すのか、珍しく又茫漠とした感じです。でも北海道は、いいわ。結局は一番ようございましょう。暮しいいでしょう。スケールの大きい生活だけに暮しいいと思います。
そちらはわたしの覚えではからりとして虫の少いところですが、いかが?痒いことの少い夏をお過しになれたらと思います。皮膚もサラリとした感じでしょう?そして、又今は白夜でしょうか、もう過ぎましたろうか、それともその辺は違うかしら。わたしたちの生活図譜も時様々ところ様々にくりひろげられて、風景の多様さから云ってもなかなか大したものねえ。大きい歴史の時期に殆ど壮大な風景の中で過すということは。何か内部的な調和さえあります。
わたしたちの眉宇はかくていよいよ晴れやかなりと申せます。
実際今年に入ってはじめて安心とはこういうものか、と思うようなこころもちよ。どんなに安心したでしょう。
七月二日には巣鴨へ行こうと計画して居りました。二十八日かに、開成山から使のついでに返送されて来た手紙(十六日に出した方)が来ました。はじめ切手不足だったのかしらと何心なく見ていたらそちらに移送とあるでしょう。まアとぽけんといたしました。二日に、二日にと思って心の首をのばしていたでしょう、ですからのめるような風で。気がぬけたようになりましたが一晩経ったら、よかったという心もちがはっきりして来ました。中途半端でないのがいいのでしょうと思ってね。さて、それなら自分も行くのだが、北海道、北海道、いくら考えても目に浮ぶのは札幌のアカシヤの並木や美しい植物園の緑の風景、父の建てた道庁や大学の姿です。そちらの方はブランクなのよ。本当に変な遠い遠い気もちがいたしました。それから地図を出してよくよく眺め、人にきき、紹介貰いに歩いているうちに、そちらの町もリアリティーをもって来たし自分のゆくこともたしかに納得されて来て、もう大丈夫よ。一人でゆくのが大変ですが、さりとて適当なおともも見つかりませんでしょう。ごく簡単な荷物で、能率的に組合わせて身軽に参りましょう。そう云っても寒いところに行くのだからかさばるわねえ。何年ぶりかで零下何度の冬を迎えるのはたのしみです、そちらのマローズはどんなでしょう、あんなに太陽が照ってキラキラかしら。
自分のいるところに自分のこころもあるというのはいいこころもちよ。わたしはもう十何年か、東京を体がはなれているときはいつも心ばかりそちらにのこっていて、しんから楽しい旅行などしたことがなかったわ。これからは、そういうことがなくなりましょうし、そこの辺を旅行したにしろ、丁度子供が外を歩いて来てああちゃん牛がいたのよと報告するという工合に、ここはこんななのよ、マアこっちはこうよという風に話せるでしょう、そしてそういう話もふむそうかとおわかりになりましょうしね。いいわ。そちらは、暗く重い東北よりもわたしの性に合います、わたしのジャガイモ好きから丈でも。わたしを育てたのはゲルンジーの乳牛ですが、ゲルンジーは今も居りましょうし。あなたが全く新鮮にそこの環境を吸収していらっしゃる様子を想像いたします。そしてさぞ感想は多くその共感を求め表現を欲していらっしゃることでしょうと思います。万葉の歌人たちは「古今」の歌人と比較にならないほど旅を大きくして居ります。しかし陸奥どまりでしょう、津軽の海は未知の境でしたと思えます。ましてやその辺は。日本のうたはそのあたりにも拡げられました。そこに美しい詩もうたも在るようになりました。面白いわね。関先生の折紙によって、一かどの歌人でもある由のわたしは、今にそこで、いくつかの秀歌をつくるかもしれないわ。そして一生に一冊だけは歌集も作ろうという空想も実現するかもしれません。ちっとも淋しくない寂しさ。ゆたかなる寂寥というものは生産的よ少くとも文学にとっては。そちらでの生活をたのしく想像いたします。人口がまばらだということもいいわ。
こうしてわたしはもうそちらの生活に半ば入って話して居りますが、あなたのお疲れは、さて、いかがでしょう、どんなにかこたえていらっしゃるとは思いますが、同時に、どんなにか、ほっとなすったところがあろうかとも思います。巣鴨は焼けてからは実にでしたものねえ。こんどは、わたしもここへ来て、夜の眠りの深いのにおどろきます。房総南端より、という情報が、どんなに距離をもっているかとおどろきます。十四五日までのうちにもう一度帰京して、二十日ごろそちらに立つ予定です。本月中にはお目にかかりましょうね。呉々もお大事に。 
七月九日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
七月九日
おひるごろ炉辺に坐っていたら「郵便が来ました」「はい、どうも御苦労さま」というのが、うしろできこえました、わたしは、「遊歩場の楡樹」をよみかけて居りました。すると、咲が、はい、はい、はいとヒラヒラさせてもって来てくれたのが、七月三日づけのお手紙でした。本当にありがとうね。
新しいようなさきの堅そうなペンで書かれた字を、うちかえしうちかえし拝見いたしました。そちらが番外地というのは愉快ね、その上は何と読むのでしょう、三眺ミナガメというの?それともサンチョウ?三眺めらしいわね、一度で足りず三度も眺め、しかも飽きないというわけでしょうか。いよいよ愉快ですね、三眺めの番外なんて、健之助に云わせると全くシュテキ(素敵)だネエだと大笑いです。健之助はイイネエ!という、いかにもよさそうな感歎の表現とこのシュテキだネエを知って居ります。
夜八時頃の上野、ひどかったでしょう?あの広いところに一杯の人々とその気分。成程とお思いになったでしょうと思います。こちらへ来る日(五日)は十時の仙台行臨時でしたが、八時から列に立ったのよ。まる二昼夜おかかりになったのね、しかし順調の方でしょう。ずーっとぶっ通しでしたろうからお弁当や何かのことも不便だし、さぞ、お疲れでしょう、おなかは揉まれたせいね。どうぞお大事に。東北の美しさには、独特な原始生命が感じられるの、御同感でしょう?西のように人馴れしていないわ、まだ歴史に織り込まれず、自然は自然のままその営みを営んでいるようで、一種情趣がございましょう?
木造の室にお暮しなるというのは気が楽のようです。空からのことは閉口だけれども、そこの流氷とコンクリートと結びつけて考えると、凍えるようですから。やっぱり虫が少いのね、痒いことが少い夏はどんなに快いでしょう。東京から来ると、ここでさえ、こんなに蠅が少いところではなかった筈だのに、と思い、まア何と蚊がいないのだろうと、清潔さにびっくりいたします。猶更でしょうそちらは。
この頃すこし冷えるのね、きょうも紺がすりの下に肌襦袢を着て居ります。
隆治さんとお母さんへのたよりは、これのあとすぐ書き御近況もおしらせいたしますから御安心下さい。
速達はおくれたところへこちらへ廻送の分となったのでしょう。このお手紙は三日にかかれ、六日目について居ります。市内では半月以上かかりましたものね。この間多賀ちゃんから手紙が来てわたしが去年から多賀ちゃんに手紙書かない、と云って歎いて来て居りました、そうだったのかしら、と信じ難く、生活の遑しさを省みました。本当にひどかったのねえ。多賀ちゃんにもゆっくり書き、お母様もこれから御心配いただかないように書きましょう。殆ど毎日書いていたそちらへの手紙が、本年になっては、この間うちあんなにまばらになってしまったのですものね。それで十分がたがたぶりがわかるというものです。ああいう風なガタガタ暮しは、もうおしまいよ、うれしいと思います。今のうち潮が高くなって来ないうち、大急ぎで、手につらまって飛石づたいにそちらへ移ってしまえば、もうそれで落付きです。この頃のことだから、どこへ行ったにしろ其々今らしいことはつきものでしょうが、其にしてもね。内地はもう2/3ばかりわたしの背後の景色となって居ります。こういう場合になったとき、経済上の理由でわたしが動けなかったりしたら、余り情けないと思って、一豊の妻を心がけていて、ようございました。つつましく暮せば一年や一年半何とかやれましょうし、そのうちには又いくらかの収入の途もつきましょう。筑摩の方からは、予約の1/3しかうけとって居ず、この間会って、あとをダラダラ借りせず、今にいくらでも入用のとき、そのときは又、片はじから返せるわけでもあるから、そのとき予約の倍も三倍も出して貰うから、と話しておきました。
六月一日に御注文の衣類。忘れたのでなく手おくれになってしまったのでした、御免なさい。合いから夏ものみんな田舎でとりよせるのが、間に合わなかった次第です。シャツは壕の中で時機を失った到着を歎いて居ります、小包がきかないからうけとる方法もややこしくておくれました。本は、行先へ送っておいて、とおっしゃったけれど、ここまで来ていて、本人がいらっしゃらないうちそれが理由で紛失しては残念と思い送りませんでした。明日小包こしらえて送ります。ここからならすぐ出ますから。こんなところにしては珍しいでしょう、うちの門を出て草道を半丁ほどゆくと、赤いポストが立って居ります。これもそこまで入れにゆけばいいのよ。バルザックの「農民」は世田ヶ谷からかりて自分が読もうとしてもうここに来て居りますが「木菟党」はわたしのは千葉で寿に云ってやってお送りさせます。
あっちからも小包はききますから。三冊ずつ本がおよめになるというのは本当にうれしゅうございます。わたしもそちら暮しとなり、本を一ヵ月に三冊ずつ補給するのは、どういう風に行くんでしょう。便利と不便と交〃ね。本がないのが何よりの不便。かりる人もろくにありませんから。今のうち(十二三日に帰ったとき)何とか打ち合わせしておきましょう。本そのものは、やけない北海道にたくさんあるわけだけれど、人間を通して出現するわけだからそこがどう行くかしら。今度帰ったらそのことすこし本気で考えましょう。疎開のつもりで、かしてくれればいいのだわ、ねえ。ヴィタミン剤のこと承知いたしました。ほかの「かんづめ」などはいかがな都合でしょう?江井(覚えていらっしゃる?あの律気なもとの運転手)がお見舞と云って二つくれたのがあって大切に大切にリュックに入れてここまで背負って来て居ります。安着の御祝にさし上げたいこと。
切手のことわかりました。本と一緒に送りましょう。封緘はどうでしょう、このお手紙は何だか切手のはりようのトンマさに覚えがあるようですが。十枚も送っておきましょうね。
連絡船についての御注意特別ありがたく頂きました。自分でも一番気になって居りました。御承知の通り、わがこゝろ雲のごと天かけれども身はあはれ金槌。ですものね。必ず昼間にいたしましょう。万一ユリがゆくときではなく。きっと。この海をわたるときユリは大蛇(おろち)よ、こわいでしょう。太ったゆっくりした大蛇を思うと、凄味がなくて笑えるばかりね。あなたも、ちがったところで、そんなおろちを御覧になるのもわるくないでしょう?おろちのうれし涙ってあるでしょうか。「古事記」の語りてはそういう愛すべきおろちは存じませんでした。 
七月十日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(レスリー筆「黙想」の絵はがき)〕
きょうは壕入りがいそがしい日です。こちらは小さい子や動けない子がいるので鳴動的ですが、全体から見ると、こわさは林町とくらべものになりません。小包をその合間にこしらえます。中華国語、三省堂日本地図・農民それに封緘十、一銭二十枚、二銭十九枚(これしかなかったのよ)村の司祭[自注16]はかりたと思ったのにありません。それにこうして見ると何と僅かの本でしょう。ほんとに何と少しばかりの本でしょう。ここでも感じますが、大きい自然の中では人間が押し出されたものが見たくて、たとえばセザンヌのような(人物)絵がほしいとお思いになるでしょう?面白いことだと思います。

[自注16]村の司祭――バルザックの「村の司祭」。 
七月十四日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(湯島小学校六年デジママサコ筆の絵はがき)〕
そこは三つ眺めとよむのね。きっと美しい三つの眺めのあるところなのでしょうね、そちらも地区によって名の系統に変化があるらしいようです。
体の痛いのと、ガタガタで、東京へゆくのもすこしおくれますが、大奮発をしてそちらまで辿りつきましょう。その上でのんびりすることにしてね。ここに風呂がないのよ。わたしは東京であれ丈疲れて来たから痛みがおこって来たのでしょう。近所の爺さまの家の渋湯に入って、大いに一がんばりいたします。 
七月二十七日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書速達)〕
七月十四日
このところ、払暁から、紙やペンを、お見覚えのあの袋につめこんで空をにらむ日がつづきます。こちらは子供がいるし、全体としてぼんやり安全感があるせいか(うちのものは、よ。東京に比べたら、というところがあって)緊張も準備もぼやんとして肉厚で、妙です。このゆっくり緊張でも只今のわたしは辟易よ。脚のうしろがつれたり腕がつれたりして大分、ブリューゲルの何とか聖泉の病婦人めいた形で歩いているのに、やっぱりもんぺはくし、号令をついかけるし。きょうも、今まで横になっていて(午後五時)北方の空もおだやかになりましたからこれをかき出しました。
ここの風呂の底がダメになりました。風呂材として杉の木を截りました。それを乾して風呂やにわたしました。風呂の釜はヤキいもの釜ですって。さかさにしてふくらんだ方を底にして、平和になったらひっくりかえしてイモをやく由(!)そこまで話をきいたのは去年でした。今もってフロのFの字もありません。林町にはボロ石炭があって、幸、風呂にはちょいちょい入り、それでもって居りました。こっちはその有様でうちの男女豪傑は、風呂はこの世にまれなりけり、という貌で笑っているわ。
この風呂については島田のお母さんも仰天なさったことがあるらしいのよ、昔、信濃町[自注17]へ十日ほどおとまりになったとき。あの優しい咲枝さんがどうして風呂ばかりは立てないかと。ひどい丈夫の皮膚に特別ポンプがついているのかもしれないわ。
余り体が痛く湯たんぷはないし、ふと考えてさっき太郎に井戸の水を運んでもらってタライに湯をとって脚湯いたしました。すこし循環が整うだろうと思って、案の定、その手当の程度にふさわしい効果はありました。脚はいくらか爽やかとなり、頭脳も活溌になったので、忽然として、この開成山南町なる溜池のガスについて反省いたしました。「やってみること」何でも。そこで思いついて市次郎という先代からの爺さまの家の渋湯に明日から入れてもらうことにし、三四日うちに元気になって東京へはせ戻り、さて網走りまで出発いたします。わたしは臂力が足りないし疲れているから、つい男をたのんで国男にいくらかは動いてほしいと思うのですが、この人はいつか申し上げたかしら、イギリスの紳士よ。実に泰然たるものです。腹が分らない。ぐるりが動いて来てそこに出た状況で最も自分に有利な方に動くという、粘着力百パーセントの人物です。面白いわね。その国男に、この二月――七月間は私はこまかい収支帳をつくらないでおしとおし「さぞ辛棒だろうけれど御免ね。入金はしれきっているのだしわたしの努力でとにかくもち出した必要品はその幾百倍なんだから」と真平御免を蒙りました。
さて、明日から入る渋湯はたのしみです。「なじょった湯だべ」。どんな湯かしら。「きいたらうれしいけんじょ」きいたらうれしいけれど。けんじょう、という風な力点よ。
太郎は空スーケーホーと申します。それでもこちら生れでないから発音が軽く澄んでいて、土着の人がきくと「ハイカラ」なんですって。そちらは却って標準語でしょう。女が暮すにも伝統がないから助かると思います。しかし離れやというような建築法は用いないでしょうから(防寒上)どんなところに住むのでしょうね。そちらのある入江から北西に二つほど入江を先へ行ったところに紋別下湧別というところがあって、そこに字何とかいうアイヌ語の部落があって、そこによにげの久一が、今は出世して居りますって。この久一という人は祖母の頃、前の畑を耕していた人です。納れなかったのね狭いカンプラ畑では。そこであっさり海をわたり、どんどん行ってそこの岸でとまったのね、そして今では「馬も立てているだべ」ということです。開成山から行っている人が多いのですって。思いがけないことねえ。わたしはその久一のところへ梅干をおみやげにもって行きます。北海道に梅干はないのですって。農家では生活出来ませんが、その辺に常呂とかいうところがあって、そこいらからゆく温泉があるらしいのよ。大変好奇心があります。九月中旬まではすこし山の中でもいられるでしょう。わたしの湯恋いをお察し下さいませ。
よほど久しい前、室蘭や虻田辺からずっと新冠まで行ったりした頃、わたしはアイヌ語がすこしわかりました。今でもおそろしく細かい断片がのこって居ります。札幌のバチラー博士[自注18]がアイヌ語字典をつくりました。パール・バックの「戦える使徒」の父とはすこしちがったのね、対象も全然ちがうから当然ですけれども。ロンドンに戻れば気の毒な浦島の子であったこの老人はどうしたでしょう。
袋のような口をして黒い髭(ひげ)が二本黒子から生えていた夫人はその頃もう大変な年で、何でも銀でこしらえたものが大好きでした。父が博覧会の用事で行く毎にボンボン入れや小箱をあげていつもホクホクしていました。このお婆さんが、博士夫人になる前、何とかシャイアの淑女だったとき描いたという水彩画がありました。新しい何かのものをもって札幌に来た二人は尊敬され乍ら、お祈りをしてイギリス生粋の酸っぱいルーバープに牛乳かけてたべているうちに、日本はこの人々を消耗して、からをイギリスに戻したのでしょう。支那と日本とは西欧に対して独特ね。
ふと気づいて書くのをやめ検温しました。疲労熱が出ていたわ。きのうもでした、(大丈夫、じき直りますから)すこし熱っぽいと連想が飛躍して、雑談以外には面白さもない文章が出来ますね、滑走風スピードになって。滑走はやめて夕飯迄横になります。又あしたね。
七月二十七日十四日に中絶してからきょうまでにもう十三日経ちました。
十四日から十七八日頃まですっかりへたばって殆ど床について居りました。去年二月からの疲れが出たのです。体じゅうの筋肉が痛んで寝床に横になっているのも苦しいというのは生れてはじめての経験でした。松山[自注19]にいらした頃、体がひどく痛むことがおありになったのじゃなかったの?お母さんからそんなお話を伺ったように思います。臥て、転々反側しながら、こんな風に痛かったのだろうと思いました。なかなか楽でないものねえ。さて、市次郎の渋湯には一度入ったきり。たしかにあたたまってようございます。ここの家は、何しろ開成山の家の留守番をしていた間にセイロウまで自分の家へ運んだという連中だもんだから封鎖的で風呂も入りに行きにくいわ妙なものね、脛にきずで妙にするのね、自分から。
十九日に急に切符が手に入ったので無理でしたが、帰京、二十四日の夜行で戻りました。もう生活の根拠のないところへ戻るのはこの頃何と不便で且つ悲しいでしょう。自分の米を背負って行くのだけれども、わたしはたっぷり背負えないから、つまりは米に追い立てられてしまうのよ。全く一人では能率も上らないし、私の健康程度では一人で東京へ往復したりする位なら田舎へ行かないがまし位よ、すこし極言すれば。十九日に行くとき郡山にはり出しが出ていて、北海道は売らないしいつとも分らないと出て居りました。二十四日に東京では駄目でしたが、二十五日の朝ついて訊いたら一日三枚だけ統制官の許可で売る由。至急手配いたしました。来月早々にこちらを立ちます。この隙にね、すこし西へ行って居りますから。この間、駄目になったとき、わたしは大変苦しい気持でした。宙に浮いてしまったような気もちで。どうぞどうぞわかって頂戴。わたしはそこから島田かどちらかにしか自分の暮すところを感じられないのよ。ここはわたしに落付けない生活ぶりです。早く行ってしまいたいわ。そして、普通の場合とこういう時節とは何とおそろしい異いでしょう。わたしはこれ迄随分旅行したし、その度にいろんな荷物を林町にあずけました。その間に失ったものはありましたが大体保管されて居りました。こんどはまるで異うのよ、わたしがまとめ切れず、運び切れず、おいて来たものはすべて失われるものとなりました。自分の体力が足りなくておしいものも置いて来る気持は独特ね、わたしの子供の時代からの原稿なんかもそのままよ、灰になってしまうのよ。大事な去年頃の書類[自注20]だけはどうやら移動可能にいたしましたが、其とても全部は全く不可能でした。世界中の人々が、こういう思いをして居るわけです、国外へ急に出なければならなかった作家たちは、自分の蔵書を失う丈でも苦痛でしたろう。この頃生活上の訓練について一層思います。わたし位のものでも普通の婦人よりは遙に生活の突変になれ、突然の無一物に馴れているわけですが、どこかに在る、というのと灰になるというのとではちがうものねえ。人間がいよいよ精髄的骨格をつよめないと、失ったものが、其人にとってプラスとならずマイナスとなってしまうのね。物の不確さがまざまざとすると、わたしたちは、これから書くもの丈がリアルな存在という気がして、猶更真面目になります。
きょうは、こちらも夏らしくなりました。そちらはどうでしょう。夏のないような夏を過していらっしゃるのではないかしらと思って居ります。緑郎はカンサスの何とか湖のキャンプへドイツにいた大使たち、近衛秀麿、スワネジ子たちと行ったようです。従弟で、フランスへ交換学生になって行っていたのはグルノーブル(スタンダールの生れた町)にいてシベリアを経て帰りました。緑郎について、生活ぶりについて、いつか私が心配して居りましたろう?やはり其処がピンぼけで、くっついてろくなことはなかったわけです。そういう気分でそういう目に遭うと、人間はなかなかましなものになっては抜け出ませんからね、惜しいことだわ。それにつけ、緑郎の細君が、ああいう生れの人だったことを残念に思います。社交的な一種の環境を外側から見る力はないでしょうからね。揉まれて妙なコスモポリタンが出来上っては人間としてローズものです。残留したということはマイナスに転じました。どうなって帰るかということには心がかりがあります。
卯女の父さんは応召して長野の方へ行きました。卯女と母さんとは一本田[自注21]の田舎の家へ行くそうです。直さん[自注22]の細君が久しい病気の後死なれました。柳瀬さん[自注23]という画家が甲府へ疎開準備中新宿との往復の間、駅で戦災死されました。実に気の毒です。鷺の宮は相変らず。近所へ戸塚の母[自注24]と子が越して来ています。どちらも昨今は収入がないから大変でしょう。戸塚の母さんは子供たちと丈生活するようになって大分さっぱりしましたが、この七年ほどの間、生活の裏面を黙って呑みこんで作家的押し出し丈を俗的に押して来ているということのため、人間が平俗にしっかりしてキツくなって何とも云えない美しい天真さを失ってしまったことは見ていて苦しゅうございます。そしてこのことは、芸術家として代うるもののない大切な何かを失ってしまったことです。芸術が天寵であり人間の誇りである以上、芸術家は天のよみする間抜けさ、一途さをもって、正直頓馬に美しく生きなければなりません。それは叡智に充ちるということとは矛盾いたしませんものね。

[自注17]信濃町――一九三三年頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区信濃町の家。
[自注18]バチラー博士――一九一八年、百合子十九歳のとき、アイヌ人に取材した小説「風に乗って来るコロポックル」を執筆した時、滞在したことのある英国人宣教師。
[自注19]松山――顕治は松山高等学校に学んだ。
[自注20]大事な去年頃の書類――顕治公判関係の書類。
[自注21]一本田――中野重治の故郷、福井県一本田。
[自注22]直さん――徳永直。
[自注23]柳瀬さん――柳瀬正夢。
[自注24]戸塚の母――佐多稲子。 
七月三十日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
七月二十八日晴爽やかな日、縁側に、荷づくりする物を干しています。昨夜は九時すぎから、二時間おき位にボーで起きました。南の山の方に光りも見ました。
きょうは爽やかな日となりました、暑いけれどもここらしくからりとした風が吹わたって。
上段の卓の一方に私がこれをかいて居り、左手に太郎が頭をかいたり唸ったりし乍ら、宿題をやって居ります。空の模様のため学校は休みで、宿題が出ていたのを、急にやるので、大さわぎなのよ。うちには、机一つ勉強出来るようにはなっていないのだから、太郎のフラフラも無理なしですが。この子は数学の方が国語よりすきだって。本を並べて見ると、成程と思います、わたしだって健全な頭をもつ子供だったらやはり数学の方が面白いわ。
この頃の子は五年で、立体なんかもやるのね。もし欠点をいうと、原理を知らなくて、キカイ的に計算法だけ(形式として)うのみにしているから、本式の数学勉強をはじめると、先ず円周率ということから、やり直しね。
只、いくらをかけるとして学んで居りますから。しかし、太郎も、こうして勉強するのが、自然と地になっている人間がいると、落付けるらしくて何よりです。勉強なんて、つまるところ、頭の体操ですものね、大切なことです発育には。
アナトール・フランスの遊歩場の楡の木を読みました、いろいろ感じ、アナトール・フランスという作家と自分とは、肌(ハダ)の合わない感じを、新たにいたします。アナトールの文章は体温が低いのね、知力で体温が下って居るようです。現代物語なんか素材としては忌憚なく作家としてまともな突こみで、大人らしくぶつかっているのに、わきから、書きすぎていて(作家自身のインテリジェンスの平静は乱されず)というところがありすぎて、文章がやせていて(磨かれすぎていて)迫力よほど低うございますのね、バルザックは、彼のめちゃくちゃさ(人くさくて)、面白いとしみじみ思います。文学の歴史ということを思いかえします。いろいろな素質の(秀抜な)集積として現代は、より凡庸な(彼等と比較して)作家にも、ずっと前進した地盤を示して居るのですものね、問題は、作家がどこ迄其を自覚し、どこまで自分をそこできたえ得るかというところでしょう。
バルザックは本当に面白いわ。昔トルストイに深く傾倒いたしました、そのころの年齢や何かから、トルストイのモラルが、その強壮な呼吸で、わかりやすい推論で、大いに、プラスになったのでした。けれども、明日の可能はトルストイの中にはないことねえ。妙な表現ですが、トルストイは或意味で、世界に対する声であったでしょう、バルザックは世界に対して一つの存在です。声は、整理され、或る発声により響きます、存在はそのものの存在自身で、その矛盾においてさえ、主張する生活力を示して居ります。わたしは、この頃、この、それが在るということの微妙さというか、意味ふかさを痛切に感じます。或るものが、或る在りようをするということ、そこには何より強いものがあります。ぬくべからざるものがあるわ。そしてそれが人生の底です。歴史の礎です。いかに在るか在ろうとしつつあるか、ありつつあるか。ほかに文句はいらないわ。小説もここのところがギリギリね。小説の文章というものはその意味から云って、一行も「叙述」というような平板なものがあるべきでありません。人間が考え動きしている必ず人間がついている、その脈搏、その必然で充たされていなくてはならず、そういう、きびしいリアリズムの点つけから云うと、志賀直哉は、やはり偉いわ、セザンヌと同じ意味で。似た限界において。漱石が大衆性をもっているのは、或意味で、あのダラダラ文章イージーな寄席話術の流れがある故です。小説らしくない文章の人――山本有三、島木健作が、文学的でない人にもよまれるというのは、面白い点です。文化の水準の問題としてね。すこし年をとって、一方にちょいとした人生論が出来上ったりしている人物が露伴や何かの随筆をすくのも、程よい酒の味というところね。随筆とくに(日本のは)人間良心の日当ぼっこですから。ああ、わたしは、又わきめをふらず、一意専心に、このセザンヌ風プラス明日という文章をかきたいわ。のっぴきならざる小説が書きたいわ。文士ならざる芸術品がつくりたいわ。堂々と落付いていて、本質にあつい作品が書きとうございます。ブランカの精髄を濺(そそ)いでね。
今はもう夕方よ。台所から煙の匂いがして太郎は書取中です。
ところで、生活の中にはほんの一寸したことで、実に意味ふかい徴候という風なものがあるものだと思います。この間、六七年ぶりで、戸塚の母さんに会って、暫く話しました、五月初旬の詩の話も出たりしてね、そしたら、その頃、リベディンスキーの「一週間」を又よみ出したのですって。「わたしは泣きながらよんだんですがね」というの。ほんの小さい一句です、しかしこの表現は何と報導班員らしさにみちているでしょう、そういう表現はきまりわるく思った筈の人なのにねえ。そして、又暫くしたら、又何か読んだ話が出て又同じことがくりかえされました、「泣きながらよんだんですがね」私にはどうしても忘られないの、そして、忘れないこころもちをお話しずにいられないの、大切な大切な言葉の感覚、感じかたの吟味というも、生活のやりようで、どんなにでも変るものであるということの痛烈な教訓です。そしてこういうことも、考えます、ものは――人の心は充実していれば、感傷は生じません、愛に充実したとき、一心さに充実したとき、泣きながら、という風の感傷の形は生じず、思わず、涙あふるるという形です、これは本質にちがいます。泣きながら云々という表現は、卑俗で皮厚性であるばかりでなく、感動すべき事実と自分の生活内容の自覚との間に或る、あき間が生じた心理なのね。
そう思えば、云った人自身、その言葉の心理に、ほんとに泣ける位のものだと思います。
でも、泣きながら、ということを寧ろあるよい感じやすさのように自分から評価して云っているようでした。わたしは、自分のこころが一箇の杏か何かであって、荒々しい指で、ピッピッと、皮をむかれるように、苦痛でした。しかし其を其ままに云うような友情はもう存在していないのねえ。友情というものが経験する最も深い苦痛の一つを経験したと思います。静(シヅカ)が、昔を今になすよしもがなと朗詠したのは、現実がいかに、きびしいものであるかという事実への歎息ね。
或る人に対して、寛大になり遂に、内的な要求を敢てしなくなるということは人間の絶望の一方の形ね。ある見限りをしたとき、その人に対してわたしたちの心は何と平静でしょう、よしんば苦痛一杯でも、怒りはないのね。それは寂しいこころもちね、生きている間は、真に生きていたいと、どんなに、思うでしょう、わたし共、平凡な力量のものは、全く傷つかずに、生きとおす無垢な強さをもち得ないにしろ傷痕を償う立派さはどうしても身につけなければなりません。下らぬ、あくせくと苦労で自分をひっかいては勿体ないわ、でもねえ、惜しいわ。本当に惜しいわ。悧巧さなんて、其丈では何と頼りないものでしょう。
七月二十九日
太郎の勉強がやっとすんで、この机は又わたし一人になりました。今は「柳の衣桁」にとりかかって居ります。アナトール・フランスの鋭い洞察は、いつも手ぎれいな機智めいた表現をとるために、その意義の重さをそのままに示さないと思ったりし乍ら、しかし、眼は折々南側にくっきり浮び出て来た山並を眺め、心の底では物思いにしずんで居ります。きのう書いた手紙はまだ机の上にありますが、この封筒がそちらに届くのはいつかしら、と先ず思います。わたしたちの間の玄関や通路は又昨夜いたずら鼠にちらかされました。今朝はわたしは経験者ですから、音響で、そら落すよと叱呼したのに国ポケント突立っていて煽りでヨタついたのよ。
あなたの御旅行は困難なうちにもいい折に当りました。わたしが其を知ったのは二十六七日頃で十日足らずのうちに大体まとめてここまでは来たのに、夕立雲にかち合ってしまって。来月五日頃に切符を入手する予定で居ります。ああ、神よ、その海渡さえ給えよ。
きょうは夏らしい日光になって、芝庭や松が芳しい匂いを立てて居りました。その日光と大気の中にあなたの毛布をよくひろげて乾します。今年は東京でも、ここでも洗濯に出せませんので。東京には毛布うけ合う洗濯やはないし、ここは、その店の辺がけさも、で迚も大切な毛布はあずけられませんから。檜葉(ひば)の枝と松の枝との間に竹竿をわたして、あなたの毛布が空気を吸っている彼方には安積山の山並がございます。雑草の花が毛布の下に咲いて居ります、山百合が自然に生えて、けさ二輪大きい白い花を開きました、暑い昼間の空気にその花は高く匂います、そちらにも百合の花は咲いて居りましょうか。匂いたかく、咲いて居るでしょうか、昼もかなしけと今年も咲くときがあるでしょうか。桔梗もこの庭の野生のは色も濃く姿も大きく美しいと思います、百合も精気にみちて開いて居ります、花やの花と何という違いでしょう。
そちらの風景の大さは想像されますが、何だか眺めていらっしゃる景色の細部がちっとも分らないこと。あたり前だけれど。そこいらの空気はどんな匂いがいたしますか?東京から行くと、ここでさえ大気は生きている草木の芳しさでいっぱいです。松柏が多いのでなかなかいい匂いの土地です。そちらの窓から流れ込む空気には、きっと海と山との交り合った調子があるのでしょうね。清涼とおっしゃるような空気で、いやな虫もいなければ、しのぎいいことね。海に近い柔らかさは、千葉の江場土でおどろくように甘美でした。そちらの海はもっと雄大で勁いから、きっと空気の工合もちがうでしょう。流氷が大したものだそうですね。高い崖の下でうち合う流氷の音が、もし深夜にきこえたとしたら、夢も北極までひろがると申すものでしょう、北極でさえも現代では只恐ろしい白い土地ではないのですものね。
そう思うと、まだまだわたし達の旅行の方式は古風きわまるものだと痛感いたします。そして、何と一寸した障害に困難するでしょう。まだまだやっと自然条件をいくらか克服したという程度ねえ。
其でも余り悪口は云えないのよ、わたしの体質は航空上非常に不出来で、上空では悪性の脳貧血をおこします、五時間以上は駄目だし、其でさえピンチなのよ、貧血で死ぬのですって。だから、もし空の道が自在になったときどうしようと全くふざけでなく心配よ。しかしそうなれば又何とか対策も出来ると申すものでしょう。船と航空機は苦手です、地の生物キノコ風ね。
七月十日に出した地図や中華国語はつきましたろうか。それとも津軽の海へのおくりものとなったかしら。それに、わたしが書くいろんな話もどういう風に届くのでしょうね、魚どもには、こういう字はきっと余り美味ではないでしょうのにね。普通に出すより書留の方が何だかましのように思えますから、これはそうするわ。この辺ですと危険な音響の方向もはっきりしているし、空気の震動も単純で林町の壕で聴く地獄の中のようなこわさはありません。対策ありという危険感よ。十分気をつけますから、呉々もお大切に。涼しすぎますまいか、おなかは大丈夫?ペコの方は?では又。
七月三十日
きょうも汗の出る位の日になりました、午前中、爆風で塵のおちた部屋部屋の掃除して午食まで一寸一休みのところ。気もちよく南北の風が通って、机の上の螢草の葉をそよがせて居ります。正午のニュースが、声というよりも大空の皺めいた感じできこえています。
そちらのお天気も快晴?そして快く風が通って居りましょうか?数行「柳の衣桁」をよみました。ローマ人は誇張の多い凡庸な国民であったということや、実利的で戦争もその点から行ったということや、ベルジュレ先生が、哀れな彼の室で弟子のルー君やナポリ学者と話す見解も極めて肯けます。そしてこれらの部分においては、バルザックよりも時代と頭とが進んで居り、洞察も正確です。アナトールの作品としてこの現代物語は大切なものだし、注意ぶかく読まるべきものなのね、それだのに、こんな半端な翻訳しか出なくて。さわがれるには智的すぎるという風な作品よ。スタンダールの態度は同じ超俗であっても趣味のきびしさ出たらめぎらい甘さぎらいだったと思います。アナトールのは趣味のよさにしろ洗煉(リファインメント)ね。洗煉というものはむずかしくて洗煉ずきの俗っぽさがいやというもう一段上の趣味の高さがあるから面白うございます。スタンダールには、この瀟洒排斥の勇魂がありました。芥川がアナトール好きでした、何か感じるわねえ。そして作品というものは面白いと思います。思索の上での同感は必ずしも作家への愛情とならず作品への愛着となりません。同感するということと愛好するということの違いは微妙ね、人間関係におけると同じに微妙です。ロマン・ローランの「魅せられた魂」はベルジュレ先生がルー君に話したような愚劣さへの抗議をアンネットという女主人が行動として示す点は歴史的に面白いが、あれは失敗の部分のある作品です、其にもかかわらず、あれは愛好するわ。そういうものなのねえ。作家としてはその点がひどく自省されます。愛される作品とはどういうのでしょう、ただ賢い作品ではないし、只鋭い作品ではないし。ベルジュレ先生に対してナポリ学者が云って居ります。「人の心をなぐさめ聖なる言葉」を発する「正義と博愛の使徒たらんことは欲しなくなった時」フランスの魂は人々の心を打たなくなった、と。作品も同じだと思います。そしてそういう作品は作家が、生命の滴々をそそぎこまなくては創れません。滴々とそそぎ込み得る生命の内容を、生活の時々刻々によって蓄積して行かなければ。この千古の真理は、何と恒に新鮮でしょう。人間が生きる限り、老いこむこと、お楽(ラク)になることを決して許さない鉄則の一つです。
この頃一寸した事から面白いことを発見いたしました。祖父は大久保利通と共鳴してここの開墾事業に着手したのですが、当時国庫から全部の支出をしかねて、郡山の金もち連を勧誘して開成社という出資後援団体をこしらえざるを得なかったのね。開墾が出来上ると、出資者たちはおそらくその額にふさわしく農地を所有したようです。そして、小作させました。そのために現在でもここは大地主が多くて、土地に自作農が少い場所です。純真な気持で福祉を考えて開墾した祖父が完成後に心に鬱するところ多かったのも、一つにはこういうことが原因だったのでしょう。祖父は、村から住む丈の土地、野菜をつくる丈の畑を貰って終ったのですが、猪苗代疎水事業の組合があって、そこに巣喰う古狸がいてね、横領で二十年間に資産をつくり現在強制疎開を口実にうちの地面にわり込もうとして小作に拒絶されつつあります。昨夜その男が来てね「わたしはハアああいう信用ねえ人間とはつっかわねえことにしています」と意気ごんで云って居りました。何かコンタンがあると誰しも云っています。この男は、いい畑をつぶして田にして(「農業営団」にうりこんで)疎水の水をまわすとうまいことを云い今もってそこは田でも畑でもないものになってしまって水はカラカラ。今までの田から水を引くと云ってみんなに反対されているようです。うちの畑もあやうく失くなるところでした、そしたら今たべているジャガイモもキャベジもなかったわけです。大した大した恐慌でしたろう。雨が多かったのに急に暑くて湿気の多い畑のジャガイモは煮えたようになって腐りはじめました。 
八月八日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書書留)〕
八月八日
この二三日急に暑さが加りました。こんなに風の通る南北の開いた室内で、きのう、きょうは午後二時頃九十度近うございます。そちらはいかが?今年は不順で、ひどく涼しすぎたところへ急に暑くなったので、体の調子妙で、脚気にでもなったような工合です(勿論そうではないのよ。然し暑熱に対していい脂肪絶無の食事ですから疲れやすいのでしょう)
そちらいかがお暮しでしょう。わたしは気の毒な昔の女旅人のようにここに止って、一日一日を待ち乍ら、遙かなところばかり思いやって居ります。昭和九年の夏(六月以後)こんな気持のときが続きました。母の亡くなった年の夏で、父が居りました。夕方なんかわたしが、ついそういう顔付していたと見えて、そんなときは夕飯後、父がよく「又一まわりして来ようか」と発案しました。すると国が車庫の戸をあけて、わたしや父は浴衣がけでのり、ゆっくり涼風にふかれ乍ら、ずーっと気象台の下から濠端に出て、ひろい凱旋道路のところから桜田門の方へ出ました。そして、そこらの濠端で降りて、団扇などつかい乍ら柳の下からわたしの気になる方角を暫く眺めます、まとまりない話をし乍ら。「そろそろ動くか?」「そうね」そして又のって、ぐるりと廻って銀座の方へ出たりしてかえりました。ちょいちょいそういうことがありました。
ここの夕暮は美しいのよ、西山に日が落ちかかると、庭の松や芝や荒れた梅やすべてが斜光をうけて透明な緑色にかがやき、芳しい草の匂いがあたりに漲ります。わたしはそういう夕方の中に椅子をもち出し、小さい本をよみ乍ら、涼み、休み、一日のガタガタのやっととりかえしをいたします。そちらの夕頃はどんな景色なのでしょう、先ずそう思います。あなたの御顔はまぎれもなくさやかですが、背景が全くないのは変に切ない気分よ。だって、一定の背景があるからこそ、それはそこにおいて描かれるのですが、何にもぐるりの景色がないのなら、その顔はどこにでも動きます。ついそこ、ついここにだって来るわ、何と其は近くに在るのでしょう、本当に、つい、ここにあるわ。ですから困るのよ、そして、わたしは屡〃話しかけたいのに。
七月のうちに行ってしまえたらと思っていたのに、いまだにいつ切符が出来るかしらと思って居る有様です。
考えると、父は思いやりが深うございました、わたしのこころもちの内の姿も或程度は見ていたのでした。その思いやりと正直な廉恥心のようなものから父は自身の晩年に少なからぬ不如意を忍んだのでした、しかし其は気の毒のようですが、父のために慶賀いたします。もし仮に父がそういう感覚のない処置をして僅か二三年の晩年を過したとしたら、父の生涯は極めて平凡な、ありふれた老人の世俗的処置で終り、少くとも、わたし達が、其をよろこびにも誇りにも思うような初々しい、老いて猶若々しい人間らしさを感銘させることはなかったでしょう。
今のわたしのような待ちかねたこころもちで、何一つ待つということのないような、日々の混雑と国とすれば「快い無為」(咲ばかり忙しい)生活の中にまじっているのは一修業です。本当にそちらのお暮しはいかが?山は近くに見えるのでしょうか。
わたし一人が遠く旅行するのは心許ないという意見があっていろいろ話が出て居りましたが、寿が、ね、一緒にそちらで暮す気になって来ました。はじめは只一人でやれない、と云っていたのですが、千葉の今いるところは、この節「雨霰れ」となって来ましたし、信州の追分なんてところは、食物の問題で到底いられるところでありません。寿の居どころについては心痛して居りましたが、自分もよくよく感じたと見えて、つまりこの際生活をすっかり切り換えて、人生の新発足をする機会を見出そうと決心したらしいのです。北海道へ行き、私はどちらかというと特殊な条件で制約されなければならないから寿はどこかすこし離れた町で、もし出来たら専門の仕事もいくらかして結婚の機会も見出そうと思う風です。
寿が三十一歳になる迄、この十何年を病気の故ばかりでない、どうにでもなるということのために却って浪費した傾だったのを、残念に思って居りました。今になってそう思いきめたとすれば、昨今の生活が教えたところが甚大であり或意味では敗北もし、そして或は却って地道になるのではないかと思います。そういう打合わせのために、八月一日に突然参りました。開成山へ来たと云ってもここへは来ず、よそに行ってわたしを呼び、咲が宿をこしらえ、そこへ弁当なんか届けるという気の毒な始末です。
そのときはっきりそういう話が出て、一緒に立とうかどうしようかということになり、わたしは先便で申上げたような順序で行くわけだから、先ずわたしがせめて一遍あなたにもお目にかかり、改めて寿は寿のこととして人に世話も頼んだ方がよいということになり、青森まで船にのる迄が大変だからそこまで送ってくれて、七八時間青森にいて水煙も立たないようなら其で安心して一旦かえり出直すと、いうことに決着いたしました。
わたしとして、それは寿がどこかに来ているというのはどんなに心丈夫かしれません。そして、あの鼻ぱしのつよいいつもわたしが大事として考えることを、どうにかなると軽くあしらって来た寿が、ここで一つ考えを変える丈、様々の思いを人知れずして来たかと思うといじらしくなります。わたしは沁々思うのよ。人間は人にも云えない、というような苦労はするものじゃないわ、それは余り人間をよくしません。人間の苦労や困難は、筋さえ通っていれば、其がよしんば沈黙のうちに堅忍されていようとも天下公然のことで一つも、人に云えないことではなく、云わない丈のことです。戸塚の母さんを見てどんなに強くそう思うかしれません。芸術家は、人間中の人間なのだから、苦労は最も人間らしい苦労を公然とやるべきで、其の生活そのものは作品です。作品を半分丈かくしておけるものでないと同様にその生活も、人目にかくすところがあろうわけはありません、失敗だって何をかくす必要があるでしょう、もし当然な心の動きに立ったのなら。動機が純一ならば。ねえ。寿が、北海道へ行って暮そうと決心したことで、これまでのいらざる頭のよさ、先くぐり(すべて俗っぽさ)をすてて、あの人の本性にある粘りつよい質朴な、芸術を生むまでに到らなくても理解するこころ丈を正面に出すようになったら一寸見ものと思われます。あの人は誰からも、わたしより「大人っぽい」と思われます、それは悲しむべき点よ。寿に云わせれば、「末世に生れた」からだそうですが。そういう肯定のモメントを見出すのもバカニハデキヌことでしょう、そしてそれがあの人のマイナスだったのですが。
九族救わる、という言葉のあるのを御存じ?坊さんの言葉よ。一人出家するとその功徳によって九族が済度されるということがあります。
善良なるものの影響ということを深く考えます。父の場合にしても一つの例です。その善さは、卑俗になりかかる心に一つの善さを呼びさまし、終にその生涯を美くしくあらしめましたし、寿の場合にしろ、やはりこれが成功すれば彼女の生涯も亦浪費から救われたということになります。よさをよさとしてまともに反映する、ということはうれしいことね。本当に快いことね、年月を経るにつれて、其の味の尽きないこと。人生の妙味というような表現は、大家連が月並に堕さしめましたが、その真の生きのいいところこそ、生けるしるしありと申すべき味です。そして、よさをおのずからよさとして滲透させるまでに反映するためには、鏡は恒に一点曇りなく正しい位置におかれ、そして私心あってはなりません。小さい鏡でも天日をうつし得るというのは面白いと思います。
こうして、不規則な形にこわされたものの間で営んでいるような日常生活の中で、実にくりかえし、くりかえし人間の小ささと偉大さとの不思議な関係について考えます。人間のしなければならない下らない、下らない小さいどっさりのこと。そんな事をしなくてはならない人間が、一面になしとげて行く偉大な輝やかしい業績。その関係は、何とおどろくべきでしょう。ノミにくわれてかゆがって追いかける、そういう事。それが一つの現実だけれども人間は其だけではないわ、ノミの研究をいたしますものね、ノミの社会発生の源(ミナモト)を理解します。そして遂にノミを(くわれつつ)剋伏させます。ここが面白いのよ、そう思うと、よくくりかえしおっしゃった事務的能力が、どんなに大切かということも分ります、だって生活が混乱すればするほど些末な用が増大して労力は益〃大になり、其を益〃精力的に処理しなくては、人間らしいところ迄辿りつけないのですもの。わたしが、一日の間におどろくべき断続で本をよみ、一冊の本をよみ終せ、まとまった印象を得、批評し得る、という能力だって、人によれば刮目して其可能におどろきます。しかしこれはわたしの少女時代からのもちものよ、ありがたいことだと思います。そういう能力が、あらゆる面に入用だと思います。
本と云えば、そちらの本どういう風に御入用でしょう、今月の一枚の封緘は、きっと島田へ行きましたことでしょう。何をお送りいたしましょうね、〔約百五十字抹消〕
メリメはナポレオン三世の側近者だったって?そう?つまり彼のあわれな木偶としての境遇の目撃者であったというのは本当かしら。「柳の衣桁」の教授が書いたものの中に出ますが。アナトール・フランスは、この部分で「人間に対する好意ある軽蔑」というような言葉(要約)をして居ります、ここのところが、この作家の臍ね。ゴーリキイはあんなに(「幼年時代」その他)おそるべき無智、惨酷、苦悩を描きましたが、そこには一つも好意ある軽蔑というような冷やかなものはありません。ひたむきに対象に当って居ります、描いて居ります。一歩どいてじっと見ている、と云う風はありません。アナトールという作家は明るい頭によって洞察は鋭く正しいが、荒い風に当らず育った子供らしく、ちょいとどいているのね、目ではよくよく見ているのだけれども。謂わば、人生を実によく見るが、其は窓からである、というような物足りない賢さがあります。アナトール自身はこの「好意ある軽蔑」をもって中世紀末頃のフランスやイタリーの作家のかいた「ディカメロン」その他を、人間らしい健全なものとして評価するために使った要約ですけれ共。やっぱり終りまでよんで見たい作品ですね。
きょう、わたしのこころもちは面白いわ。何と申しましょう。夏の日谷間を流れてゆく溪流のような、とでも申せましょうか。こうして、しっかりしたやや狭い峡(はざま)を平均された水勢で流れて来た気持が、今ふっと一つの巖をめぐって広いところへ出たはずみに、くるりくるりと渦をまいて居ります。波紋はひろがって、抑える力がないようです。流れの上に、美しい幹のしっかりした樫がさしかかっています。波紋は巖をめぐって出た勢で、大きく大きくとひろがり、渦巻く水の面に梢の濃い緑を映します。やがてその見る目にさえすがすがしい健やかな幹を波紋の中にだきこみました。この底にどんな岩が沈んでいるというのでしょうか、波紋は流れすすむのを忘れたように、その美しい樫の影をめぐって、いつまでもいつまでも渦巻きます。渦は非常に滑らかで、底ふかく、巻きはかたくて中心は燦く一つの点のように見えます。樫の樹は、波紋にまかれるのが面白そうです。時々渡る風で、梢をさやがせ波紋の面も小波立ちますが、樫はやっぱり風にまぎれて波の照りからはなれてしまおうとはせず、却って、一ふきすると、枝を動かし新しい投影を愉しむようです。樫は巧妙です。それとも知れず、しかも波紋のあれやこれやの波だちに微妙にこたえて、夏の金色の光線にしずかにとけて居ります。そこには生命の充実した静謐があります。 
八月十四日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書書留)〕
八月十三日
きょうは盆の入りだというので、小さい子供がすこしきれいな浴衣をきたり、花を剪ったりしてざわめいて居ります。今朝五時半にサイレンが鳴りましたが事なく目下は警戒中。小型は早朝から日没までかせぎます。
さて、こんな漫画覚えていらっしゃいますか。サラリーマンが珍しい夏休みをもらったが、どこへか行きたい、行くには金がかかる。夫婦で地図を眺めて休み中暮している図。これは苦笑が伴うにしろ笑い草ですけれども、わたしがこうして日に一度は地図を眺め、研究して日を暮しているのは、やや惨憺ものです。いろいろな地図をみます。札幌鉄道局が十四年に出した北海道旅の栞というのは、旅行者に便利に出来ていて、網走町というところを見ると、山積された木材をつみこむ貨車の絵の上に、簡単に物産の説明があり、名所(景勝)もかいてあります。これでみると、網走の町から程よくはなれた駅から二三里入ったところに温根湯温泉というのがあって、神経系の病気にいい湯のあることもわかります。それから父が旅行に使ったポケット地図。三省堂の世界地図附図。更におどろくべきはここの家の戸棚から徳川時代に作られた内浦湾附近の地図があります。そしてわたしは安積山の風にふかれ乍ら、明治十二年発行内務省地理局の印のおしてある日本地誌提要という本をひらいて、北見というところをあけます。当時は総てで八郡あり、戸数は五百十一戸、人口二千七百七十人(女七百七十八人)あり、網走は駅路の一つの町であったと書いてあります。北海道志廿五巻という本もあります。明治十七年頃そこには病院しかなかったとかいてあります。大番屋があったと。
祖父は若年の時、貧乏な上杉藩の将来を思って北海道開発の建議をして、年寄から気違い扱いをされました。その志が小規模にあらわれてこの開成山の事業となったわけでしょう。うちでは代々地図をみる血統よ。父は若い時イギリスに行きたくてベデカーでロンドンをすっかり勉強していたために、父親が洋行帰りという詐欺にかかったのを神田の宿屋まで追っかけて行って金五十円なりをとりかえして来たという武勇伝があります。ベデカーのロンドンとその男の話すロンドンとでは違ったのですって。(一高時代のこと)
おじいさんは、孫娘が、こうして北海道志まで計らぬ虫干しをして眺めたりすることのあるのを予想したでしょうか。札幌鉄道局の地図をみると、旅行者がいろいろ思いがけない間違いをしないように、必要な色どりが特殊区域にほどこしてあります。それをみると、わたしの切符のむずかしさが身にしみます。特に本月に入ってからはね、九日以降は。
わたしはこうしているうちに段々一途な気になって来ます。どうしても行かなくてはすまない気がつのって来ます。その気分は、段々自分の身が細まって矢になるようなこころもちよ。雲になり風になりたいというのではなく、一本の矢となるようです。それは一条の路を、一つの方向に駛ります。そうしか行けないのよ、矢というものは。只一点に向って矢は弦をはなれます。狩人よ矢をつがえよといういつかの詩を覚えていらして?われは一はりのあずさ弓というの。弦が徒に風に鳴る弓のこころもですけれども。
わがこころひともとの矢まだら美しき鷹の羽のそや風を截り雲をさきてとばんと欲つすかのもとにいづかしの樫の小枝にいざとばんわがこころそやの一もと。
その矢が放ってくれる弓をもたない歎きの深さも矢のない弓の歎きに劣りません。或はもっともっと切々たるかもしれないわ。あとで、昼飯をたべたら、郵便局へ行って小包が出るかどうかきいて来ましょう。そして、もし出るようならわたしの代りに本と薬とをお送りいたしましょう。本は、本当に何がよいかわからなくて困ります。すこし支那関係のものがありますがどうかしら。御参考までに。『日本・支那・西洋』後藤末雄。『印度支那と日本との関係』金永鍵(この人は仏印の河内(ハノイ)、仏国東洋学院同本部の図書主任)。『支那家族研究』牧野巽生活社版。この人は私は存じませんけれども、どういう人なのかしら。『海南島民族誌』(南支那民族研究への一寄与)スチューベル(独。民族学者)平野義太郎編。『十三世紀東西交渉史序説』岩村忍。三省堂。これは主として中世のヨーロッパ人がどんな風に東洋を知っていたかという側から書かれていてマルコ・ポーロがとまりです。創元で『河竹黙阿彌』河村繁俊。石井柏亭の『日本絵画三代志』明治からのです。著者が著者だから常識的ではありますが、気がお変りになるかもしれません。一ヵ月に一度の封緘故、本のことはよほど前もって分っていないときっとさぞ御不便でしょうと気になります。それにしてもこの前のバルザックや語学の本はついたのでしょうか。ついているのね。きっとついているのでしょう。
目録追加。
日本美術の知識改造文庫上下中村亮平 / トルキスタンへの旅タイクマン神近岩波新書 / マリアットピーター・シンプル岩波文庫上中下、
これはいつか私がまだ病気だった頃よんで貰ってお話していたイギリス海軍生成時代のことをかいた十九世紀はじめの小説で、ユーモアにみちていますがなかなか内容あり。これをよむとサッカレーの「虚栄の市」を思いおこします。インドで儲けはじめた時代のイギリスと、シンプル坊主活躍のイギリス海軍の時代とおのずから連関して。
浮生六記沈復(岩波文庫)これは沈の自叙伝。支那文学中最も愛すべき女とされている妻、芸の追想に、彼の芸術家としての諸芸術への識見が洩らされていて、文学として大なばかりでなく支那の大家族の風習や民法に対する一つのプロテストであるそうです。
『中世モルッカ諸島の香料』岡本良知。これは十五、六世紀のヨーロッパ人の発見航海時代と、香料の役割=モルッカの役割を辿ったもの。モルッカ民族の生活研究もついています。岡本という人は香料史を三田史学に発表していた由。
雑然とした目次ですけれども、丁度東京を去る前にあちこちやけのこりの本やから見つけたものです。
もし国訳(原文対照)支那文学古典をお読みになるのでしたら、国訳漢文大成の文学部が殆ど揃って居ります。鷺の宮にあります。少し送って見ましょうか。
小説ではグスターフ・フライタークの『アントン物語』(これは一八五五、フライタークが「三ダースの弱小国の寄合世帯」から強力な統一ドイツとなった時代のプロシアの市民を描きドイツ文学のリアリズムの始祖としての作の由)。『借と貸』SollundHabenという原名だそうです。有名な古典だそうですね。わたしは買ってもっているだけで未読ですが。シングの『アラン島』という文庫(岩波)。いつかアランという評判の映画がありました。アラン島に滞在して得た素材がシングの戯曲となったばかりでなく、珍しく伝統的な原始生活が観察されているらしいようです。イエーツがシングにアランへゆけとすすめたのだってね。ラシーヌのお化けを追っぱらいにアランへゆけと云ったのですって。チェホフのサガレン紀行とは又異って、しかし其の作家の生涯に影響したという点で同じように興味あるものではないでしょうか。
神々の復活レオナルド・ダ・ヴィンチメレジュコフスキーこれは面白いと思っていまだに覚えている小説です。岩波文庫の四冊です。
北方の流星王箕作元八スウェーデン史を読物風にかいたので、これは彼のナポレオン時代史を官本でよんで面白かったので買ったままよまなかったもの。
老妻物語アーノルド・ベネット(岩波文庫、二冊)一九〇八の作で代表的なものの由。わたしは余り知らないので読もうと思って。オールドワイブステールズだから、妻というより女連という感じですね。しかしむずかしいから妻にしてしまったのでしょう。
大帝康煕長与善郎岩波新書近代の明君と「支那統治の要道」をかいた本らしいけれど、近頃の長与善郎は文章に流動性が欠けて。
移動させてもって来た本たちは少くて、大した優秀なコレクションでもありません。ほかにセザンヌ、コロー、ゴヤ、ドガなどの本。
さて、島田からおたよりがあったでしょうと思いますが、達治さんが応召しました。七月の中旬に。もと入隊したところの由ですが、八月十日頃こちら辺と同時に相当だったから心配です。のみならず、島田のことが気にかかります。お母さんのことを思うとわたしは切ない気がいたします。速達をおくれて拝見して、すぐ速達の手紙さしあげました。又昨日もかきました。ここからあすこまで何日かかるのでしょうね。以前のときと違いますから、達ちゃんの仕事のあとを人におさせになるということも出来ますまい。
わたしがどれ丈たよりになるのではないけれども、お母さんを思うと黙っていられず、ともかく網走へ行ってお目にかかって相談して、その上で何とか方法を考えたいと申しあげました。こんなに北の果、西の果と心が二つに分れて苦しいことは初めてです。あなたのお気持ではユリが行って、何が出来なくてもいいから御一緒に暮すことをおのぞみでしょう。お母さんのお手紙をよんだとき閃くようにそう思いました。それがあなたのお気もちでしょうと。けれどもブランカとしては、どうしてもこのままあちらへ行ってしまって、どうなるか先の分らない生活へ入るのは余り切ないのです。そちらへ一度でも行って、お目にかかって、あなたがそうしろと仰云れば、ブランカは自分に与えられた義務だと思って、或はもう二度とお目にかかれなくなってしまうかもしれない場所へも行くだろうと思います。ここや東京やそちらと全く雰囲気の違う(家ではなくてよ、地方としてよ)あすこのことを考えると、あなたは誇張とお思いになるかもしれないけれども、わたしは涙を落さずに行く決心が出来ません。どうしても一度おめにかからないうちはいのちを惜しいと思います。
わたしの二ツに挾まれた切ない心もちを御憐憫下さい。そして何かよい智慧をかして頂けたらと思います。多賀ちゃんに何かとお力になるように手紙出しました。
今までとちがってあれこれの事情を綜合して考えると、お母さんのおこころのうちを思いやらずに居られません。余りまざまざと映るので、わたしは本当に切ないのです。そしてあなたも、ね。もし当分どうしてもそちらへ行けないと決定したら仕方がないから、わたしはともかく、お見舞に島田へ行って来ましょう。其も出来るかどうか分らないけれども。そしたらきっとわたしの切なさも幾分晴れるでしょう。わたしとしては、どうしてそうしてくれなかったかと、あなたが遺憾にお思いになるだろうと思うことを、そのまま放っておくことはやはり出来かねます。
つまりはしなければならないと自分の心の命じる通りにしてみるしかしかたがないわ。ね、そして私たちの生活の一点の曇りなさを確保しなくてはなりません。しかし、先ずそちらへ行きたく熱中しているこころもちを許して下さい。 
八月十八日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書書留)〕
八月十六日
昨十五日正午詔書渙発によってすべての事情が一変いたしました。
十日以来、空襲がなかなか盛で(結局通過した丈に終りましたが)十四日夜は九時すぎから三時近くまで国男と二人で当直いたしました。田舎暮しで何にも分らず、十五日のことは突然ラジオで承った次第でした。昭和十六年十二月からあしかけ五年でした。前大戦の時(十一月)丁度ニューヨークにいて、休戦の実に底ぬけな祝いを目撃しました。十五日正午から二時間ほど日本全土寂として声莫しという感じでした。あの静けさはきわめて感銘ふこうございます。生涯忘れることはないでしょう。この辺は町の住民の構成が単純ですから、そして大きくないから到って平らかです。ただ新しい未知の条件がどういう形をとって実現してくるかということについて主婦たちも心をはりつめているようです。
昨夜、もう空襲がないということが信じられないようでした。きょう、八ヵ月ぶりで、わたしのあのおなじみのお古の防空着を洗いました。一月二十八日に肴町附近がやけたのをはじめに十四日の夜も着て居りました。汗や埃まびれだのに洗うひまがなかったのよ。
けふこの日汗にしみたる防空着を洗ふ井戸辺に露草あをし
あっちこっちに行っている人々のことを思いやります。原子爆弾というのは一発一万トンの効果ですって。達ちゃんどうだったでしょう。隆ちゃんはどうしているでしょう、富ちゃんは。林町の家がのこったのは不思議きわまる感じです。(多分のこっているでしょう)あんなに焼けているのにあすこがのこり従ってわたしの机も在る、椅子もある、本もある、何と信じにくいことでしょう。ああ原稿紙もやけなかったのだわ。それら仕事の道具を両腕にかき抱くようです。
経済事情が様々に変化をうけることでしょう。林町もここも国府津もやけこそしなかったけれども、一人の人間がそれ丈の家の税は払い切れなくなるのではなかろうかと思います。わたしの事情も(経済)変りましょうし、わたしの小さい小さい財布ではすべてがいきなり底の底までつき抜けてしまうけれども、今のところ既定の方針を格別変えず、網走へ行くことを中心に考えて居ります。こちらは何の話もする人なしきく人なし、山の風雨だけでしたが、東京はいろいろもっとで切符のこともなかなかはかどらないのではないでしょうか。待ち遠しさはひとしおです。ここの周囲が農民や教師が主で、急に生活事情の激変する人がないため、太郎なんかのためにはいい場所と云えると思います。食糧事情があるし、咲や子供たちは当分(何年か)ここに暮しつづけるでしょう。国は生計の必要から少くとも何かしなくてはいけないでしょう。こうやって寝ころがってはいられますまいから、これはいずれ上京するでしょう。わたしのことは、ともかくお目にかかった上でのことで、今のわたしにそれ以外のプランはありません。
親しい友人たちに大した被害のなかったのは幸です。てっちゃんのところも家族を仙台にやって、さてあすこがあれ丈蒙ってどうかしらと思ったところ無事、世田ヶ谷の家も無事。鷺の宮も家としては無事でしょう。卯女の父さんが信州に居ることは申しあげました。たよりが来て、オホーツク海で泳いだことがあるのですって。「網走へは一度行ったことがあります。たしか網走湖というのがあって、汽車が網走へ行く前四五十分程の間軌道の両側一面にオミナエシが咲いていました。僕はまだ殆ど少年と云ってよかったが一人でつめたいオホーツク海で泳ぎました。」「僕の四十四歳の肉体は肉体としても十分使用にたえること、毎日六時半に出発して四時半にかえる迄、その間10分,10分,20分,10分,2時半、10分の休みあり――円匙十字鍬をふるい、モッコをかつぎ、トロッコを押して決して他の兵隊に劣らない。」「文庫本一頁読むヒマもないが不断に勉強していること。境遇は僕を奴隷とし能わぬ如くであります。」そして、きょうは網走で馬車馬の競争を見た話のハガキがありました。橇をつけて走るのですって。砂地の上を。わたしは雪皚々たる一月の晴天に、橇をつけた競馬を見ました、馬種改良のためにはその方がいいのですってね。信州での生活も変りましょう。あらゆる境遇に処することを修得したものがいよいよ日本のために役立つわけでしょう。そして殆ど全人口が、それぞれの形でそれぞれの修業をしたわけです。
庭は桔梗の花盛りです。青草が荒れた姿で背高く繁っているところに点々と澄んだ紫の花を浮上らせて居ります。きょうも練習機はとんで居ります。のっているのは若者たちでしょう。気分がわかるようね。歴史の景観の一曲一折は深刻であり、瞠目的であり、畏るべき迫力をもって居ります。悲喜を徹してそこに人類と諸民族の美と真と善とを確信するようなこころの勁さ、ゆたかさ、不抜さがいよいよ輝く時代です。いかにも心をやるように、自分の体を大空の中でくるり、くるりとひるがえすように飛ぶ音をきき乍ら、ああいう若い人に一粒ずつ不老の秘薬のようにこの「恒ある心」の丸薬をわけてやりたいようです。この波濤に処するのに素朴な純真さだけがあながち万能ではないでしょう。ラジオでくりかえされるとおり沈着であっても猶聰明でなくてはなりませんから。
まだ覆いははずしませんが、昨夜庭へいくらか光がさす位の灯かげのまま十時ごろまで坐っていて、明るくてもいいのだという新しい現実を奇異のように感じました。よく深夜都会の裏の大通りなんかで皎々としたアーク燈のゆれているのを大変寂しく見ることがありましょう?明るい寂しさというものを真新しく感じました。いかに視野をひろく、視線を遠く歴史の彼方を眺めやっているにしろ、不屈なその胸に、やはり八月十五日の夜、覆わないでよくなった電燈の明るさは、一つの歴史の感情としてしみ入ります。東京にいたらどんなだったでしょう。焼けのこったあちらこちらの人家のかたまりは、やはり一つの銘記すべき歴史の感情として灯の明るさを溢れ出させたでしょうか。三好達治の商売的古今調もこの粛然として深い情感に対しては、さすがよく筆を舞わすことが出来ますまい。こういう感情のまじり気なさに対して彼に云われる言葉は一つしかないわ。「極りのわるいということが分っていい頃ですよ。黙りなさい。」
この五年の間、わたしはこんなに健康を失ったし、十分その健康にふさわしい形で勉強もしかねる遑しい日々を送りましたが、それでも作家として一点愧じざる生活を過したことを感謝いたします。わたしの内部に、何よりも大切なそういう安定の礎が与えられるほど無垢な生活が傍らに在ったことをありがたいと思います。これから又違った困難も次々に来るでしょうが、わたしが真面目である限り其は正当に経験されて行くでしょうと思います。
五月中の手紙でテーマの積極性ということについてお話しいたしましたろうか?多分したと思うけれども又くりかえし思うので又云うわ。くりかえしたら御免なさい。
文学におけるテーマの積極性ということは文学上の問題として久しい前に云われました。随分いろいろにこねたわけでした。わたしは五月頃、忽然として胸を叩いて感歎したのよ。「ああテーマの積極性ということはこういうことであるのだ」と。五月の詩「五月の楡のふかみどり」のうたに連関して。云わば、はじめて鼓動としてわが胸にうったのね。一作家のテムペラメントとして内在的傾向として其は理解はしていたのですが。わかるということの段階は何と幾とおりもあることでしょう。そこで又改めて感じたのですが、文学のテーマの積極性というようなことは、よほど生活経験がいることなのね。説明してやるに骨惜しみをしては迚も分らないことなのね。文学感情=生活感情として、よ。まだまだすぐ、うんそうだというところまで日本の作家の歴史経験はつまれていません。或は最近数年間の諸経験の理性に立つ整理がされていないのではないでしょうか。この点大いに興味があります。これからは一方に輸出向日本的文学なんかが出るかもしれません。
このことにいくらか連関があることですが、今年のはじめになって、一つの極めて有益な発見を(自分について)したことについて申上げましたろうか。別の面からはお話したように思うけれど。それは、目白にいた時分(十四年頃でしたろうか)あなたが私の仕事がジャーナリスティックな影響をうけすぎているとくりかえしおっしゃったことがありました。当時私はその警告がわかっていて、やっぱり分らなかったと思います。昨年の秋以来の見聞でわたしはどの位成長したか知れないと思います。自分の俗人的面が事にふれて痛感されたし、生活や文学について、私としては最大に(これまでと比較して)沖へ出て、明日への精神をよみかえしてみたら(この春頃)そこには根本に誤った理解はないけれども、話しかたに全くあなたのおっしゃった点が自覚されました。文章に曲線が多すぎ、其には二つの原因があります。一つは、高貴なる単純さを可能にしない理由によります。他の一つは、そのジャーナリスティックな影響であると思いました。よほど前の手紙に書いたように、あの時分わたしは面をひろくすること、接近することに熱心になっていて、その半面で足を掬われるところが生じていたのであると思います。
自分の仕事のしぶりを時々吟味してみることは何と大切でしょう。しかしなかなかそういう機会にめぐり会えないものです。只時間として仕事と仕事との間にブランクが生じる休止はおこり得るし、わたしが例えば病気で何年も仕事出来なかったという丈のことは誰の上にもおこります。でも、その休止の機会に自分が本質的に一歩なり二歩なり前進し得るということは本当に稀有なことです。大抵は「見識が高くなる」丈なのよ。この数年の間作家として一点の愧なきと申しましたが、一つ誤りをあげるなら、それは仕事のあるもの――婦人のためのものです――が当時のジャーナリズムに影響されなかったとは云えないことです。この点は作家としての回想の中にも書き洩せないことだと思って居ります。その発見の価値よりも、寧ろそれを自覚させるに到った諸事情の価値によって。
これを思うから、わたしは文学の進歩がどんなに大したことかと痛切に感じないわけに行かないのです。御同感でしょう?その時期でも文学史についての勉強などそして小説などは、同じ危険に同じ程度にさらされては居りません。これからわたしは文学の仕事しかしようと思わないというのは、そういう危険をおそれるからではなくて、自分のような諸条件を得て、一歩ずつ歩けるものは、たとえどんなにたどたどしくても、その最もエッセンシャルな部分に全力を注ぐべきだと思うのです。そうしなくては勿体ないと思うからよ。まして健康を損われて、あの時分のように、一日に十何時間も仕事が出来た頃とすっかり違う条件[自注25]においては、ね。
先月の五日にこちらへ来て一ヵ月と十日ばかり(間で東京へ一週間)経ちました。そちらへ行くのがおくれてへこたれです。ただ生物的日々を過す生活というものはおそろしいものねえ。こんなに紛然、騒然として朝から夜までつづき乍ら、しかも何一つ、本当に何一つ形成され、造られ、のこされて行かない家庭生活は何と怖ろしいでしょう。自然子供が大きくなるの丈が何かだという生活は何とおそろしいでしょう。こうして手紙かいているということは、一縷のわたしたちの人生的糸です。
〔欄外に〕小包は何も出ません。従って本の目録も只御覧になった丈。しかし注文は頂いておきましょう。いつまでも閉っても居りますまいから。

[自注25]すっかり違う条件―― 一九四二年、巣鴨拘置所で倒れて以来の回復しきらぬ健康状態。 
八月二十三日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(京都三十三間堂の写真絵はがき)〕
八月二十三日
寿江子の安否気づかって、あちらこちらへきき合わせていたら昨夕ふらりと来ました。そして、物のはずみで国と出会って国もこっちの家へ来るようにと云い、何年ぶりかで、ここで夕飯を一緒にたべ、わたしはうれし涙をこぼしました。うれし涙をこぼしつつ、こういう生活の愚劣さに歎息いたしました。これほどの思いをしなくては、兄と妹とがマア一つ屋根に数日くらす修業も出来ないのかと思って。近日中に出発します、つまり私一人で。途中安全となりましたし、寿の方針も未定だしわたしは一日も早く行きたいし。四種がゆくのできょう、メレジェコフスキーの『神々の復活』、レオナルド・ダ・ヴィンチを描いたもの四冊(文庫)ブルックハルトのイタリー・ルネッサンスを(全部で五冊)二包として送りました。ブルックハルトのは上巻一冊だけで相すみませんが、下巻は入手出来なかったものです、或は出版しなかったのかもしれません。四種で順ぐり送っておきます。そちらであなたに御不用のものを下げて頂くことが出来ましょうと思って。それがお互様に便宜でしょう、明日郡山駅で切符は申告いたします。成功することを心から願います。 
八月二十六日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書書留)〕
八月二十四日
夏の終りの荒っぽい天候になりました、北側の山々(安積山の山並)が、深い藍紫色に浮上って見えるようになりました。盛夏の間こちら側の北はぼんやりしているのよ。朝起きてその濃い山並を眺めやり、もう秋のこんなに近いこと、そちらのことを思います。そちらの山々はきっともっと秋めいた色をしているのだろうと思い乍ら。そして、縁側においてあるわたしの小さな行李の中みは、入れかえなければならないと。もう麻の着るものは来年まではいらないし、秋のものはもっと入用だし、戦争がすんだからにはもんぺばかりでも困るのだろう、帯も一本は入れなければなどと。
昨日ハガキに一寸書いたとおり、十日までには必ず切符を持って来ると云っていた寿江が余り音沙汰ないのですっかり心配していたら、一昨日の夕方ひょっこり来ました。八月一日に来たとき寿は心配で一人でやれないからせめて船にのる迄送って行く。そして後から北海道へ行って暮したい、そう計画したのでした。事情が変りましたからわたし一人で結構ですし、寿が北海道へ来ない方が大局としていいでしょう。しかし寿とすれば、事情が変ったから送るのもやめたし北海道もやめた、待たしてすまなかった、というべきです。あんなに縋るように自分の身のふりかたに困ったことなどケロリとしているのよ。
波瀾の中で一人で気をもんだのだから仕方もないと咎(トガ)めませんけれども、得手勝手ねえ。そして自分の得手勝手を対手の側に理由づけるところが気に入りません。切符は駄目だったのよ、どうする?困ったというところを、「まさか行こうと思ってるなんて思いもしなかったから」というのよ。可愛気のない心の動きね。つまりわたしの心もちも自分の都合で軽重変化するのです。決して当てに出来ないわ、それが寿の直接問題でない場合。国と寿とは、互に同じこういう点でいつもぶつかり合い、互に其を共通の欠点だと思わず対手をせめるのです。小人の必然として主我的なのねえ。その主我もリップスのところ迄も行っていないのよ。即ち自我の発展としての信義、愛の恒久性の確保というところまでさえも。些細なことですけれども、わたしが寿の身の上安否について抱いている関心の誠実さ、そちらへ一日も早く行きたいと思いつつ寿の好意を信じて待っていたこころもち。其はどちらも尊重されなくてはならないものです。寿は国と全く同じね、自分の側がそういう目に会うと棒大に感じ、自分の勝手で対手をそう傷けても威張っているのよ。
きょう、午後から郡山へ行きます。そしてビューローで切符について相談いたします。今そういうことをする位なら何のために待ったでしょう。でも、もしかすればよかったとも云えるかもしれません。海の上が安心だし汽車もこわくはなくなったわけですから。そうとでも思いましょう。
いろいろの条件から、わたしはどうでも動けるようにして、その気もちで参ります。短くも長くもいられるような気もちで。
ここの生活は丁度おそろしい不揃の馬におそろしくぶぞろいな手綱をつけたチャリオットがころがって行くような生活よ。一頭の馬はじれたがって頭ばかりふり手綱をビンビンひっぱり荒びています、この馬にとっては手綱が短かすぎるのよ、
もう一頭は重い鈍いしかしおどろくべき度胸で自分のテンポを変化させようとせず、のたりのたりゆるい手綱をたるませてダクっています。小さい仔馬まで間にからんで、わたしは総合して生活というものを感じているから、まるで何というか肱がビンとなるほど一方の手綱が張ったかと思うと、たるんだ方の手綱が其にやたらとからみつき仔馬のたづなは間で、どっちがどうか分らなくなってしまうという風に感じます。その混乱の根本解決って何もないのよ。わたしは、家庭生活のこういう面には、実に疑問を感じます、十六年の末から四年、わたしも全くよく辛棒いたしました。北の国のお百姓は、お客に行って、十分御馳走にあずかってもう結構というとき、顎の下まで一杯に手を横にしてド・シュダーというのよ。わたしもド・シュダーね。こんど事情が変って生活を変ったら、そちらへ行くにしろどうにしろもうこういう生活へは、「お客」以外になりたくないわ。反対の面から国もそうなのよ。家内に、精神のつよい活動がおこるのが負担なのです「永い間は無理だね、マア静養する間がいいんじゃないか」そうだわたしかに。わたしにとって苦痛は実直なる人、勤勉なる人、何かせんとする人が、家内に一人もいないことです。
さて、午後の首尾はどうでしょうか、うまく行けば本当にうれしいけれども。もしうまく行けば三四日のうちに行ってしまえるでしょう、更に待つようなら、私は何とかします、勉強できるように。幸このあたりは比較的平穏で居りますから。わたしの苦手のうるささもありません、思ったよりずっと。尤もそちらへゆくのが分っているからでしょうが。いいときに東京を去ったと思います。
今はここまでにしておいて、あとは郡山から帰ってからね。
二十五日半ぱな紙でごめんなさい。八行分きってあります。
きのう、はじめて明るい電燈になりました。何と晴やかでしょう。昨夜雨がふりました。雨がふるのに外が明るいのよ、庭のいろいろのものが見えるのよ。びっくりしました。井戸のところに何年ぶりかで灯がついたの、雨がふってそれでも外が明るいのにこんなにびっくり珍しく眺めるのですものねえ。東京に街燈のつくところはどこいらでしょう。本郷では西片町と大学前通り、うちの前の通りすこし丈です。あとは街燈そのものがないのですものね。
島木健作が鎌倉で病気により死去しました、ペンの手紙に「書いて、死んで、あとに何がのこったでしょう」と。
二十六日に第一次進駐が開始されます。東京湾から厚木(神奈川)の方へ。厚木というところには、農民作家なる和田伝が居りましたね地主として。
二十六日
昨二十五日は、こちらへも監視飛行が来ました。ついこの間はああいう音がすると忽ちバリバリと猛烈だったのが、きのうは旋回いくつかしてそのまま去りました。でも頭の上にああいう音がしている音、みんなやっぱり一種の感情です。
さて、この第一次進駐のために全国、全海域百トン以上の船の航行制限が出て居りますので、青森までの切符は列に立てば手に入りますが、海が一寸不便です。これが解ければ今度こそ行けます。二十八日にマッカーサアが入京する由、大体それ前後に解けますのでしょう。
外人の旅行自由、信書検閲制廃止こまかいことで日々変化があるようです。
この頃は夜、本当にぐっすり眠るので、空気もいいし、又そろそろと丸くなり、大いに満足を感じて居ります。
あなたの方はいかが?やはり空気はいいでしょう?あがるものに幾分地方的な変化があるようになりましたろうか。すこしはおふとりになれそうでしょうか。わたしのように生来丸いものはぴしょりとしていると、自分で力が足りない(充実感の不足)ことばかり感じられて、迚もエイヤと机に向って、おしりをちょいと出してがんばれないわ。時候は段々しのぎよくなるし、明るくなったし、丸くなって来たし、早くそちらへ行ってゆっくりものも書きとうございます。わるくすると来月に入りますね、切符の買えるのが。
広島の原子バクダンは護国神社附近を中心に落ちた由です(ラジオ)、護国神社ってあの河の堤から入って行く公園のところでしょう?達ちゃんいかがでしょう、本当にどうしたでしょう。四里四方瓦がとび、地中のウラニウムの放散する毒で中心地帯は人間その他の生物が棲息出来ないのですって。七十年間不毛(生物生棲不適)の地の由。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンが社説で、この秘密を世界に公表すべきこと、一国が其を使用して権力を得るには余り恐るべき武器である。建設的提案と同じに世界に公表して新世界秩序の建設に役立たせるべきであるということはすべてのアメリカの理性ある人々の意見であると、書いた由ラジオでききました。アメリカはどうするでしょう。外電でいろいろの職業軍人の断片的言葉などから見て、アメリカは自身の内に戦争犯人を生みつつある感じです。(かりに、第二次大戦には、そういう人がアメリカとイギリスとに丈はなくて、天のキカン銃製造業、天使ガブリエルの航行機会社があったものとして)循環的不安があるのね、彼等にとって。原因に変化をもたらさない以上、不安は益〃増大し尨大して循環するでしょう、その点が分らず、ぐるぐる廻るほど、今回の教訓は彼等にとって軽微なものであったでしょうか。もし彼等が猶そのように愚劣であり得るなら、其は意識して人間的理性の判断を拒否しているからです、何かの主観的理由によって。
百トン以上の船が動かないため四種が一時停止となりレオナルドもブルックハルトもどこかで眠って居ります。すこしお待ち下さい。
きょうは颱風気味でつよい南風が吹き、空は嵐模様、北山は雲に隠見して紫色に美しゅうございます。桔梗が高い茎の上で劇しく揺れて居ります。桔梗のそばに萱と実生の松の若木があって、嵐は山中の小径の眺めのような庭にふきまわって居ります。 
九月三日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書書留)〕
九月三日
やっと進駐による航行禁止が解けたら、余り殺到のため又切符の発売は停止中となりました。何度調べるでしょう。そして何度駄目でしょう。六月から八月と、諸事プレストで進み、変化して、きょうは胸にしみるほど山並のくっきりとした秋の晴天の下に、男の子たちが一日ベニヤ板製の補助タンクの払下になったものを燃料にするためにこわして居ります。樫の枝が風にさやさやと鳴っている下で、彼等は、声を限りに叫び、合図をし号令をかけて、独木船のようにしてころがしたり、斧で※[「斬/手」]ったりして居ります。原始人の感じが分ります。一つこわして一つ形が変化するにつれて其にふさわしい応用を発見して遊び実に飽きず、小さい小さい健坊まで尻の上へ兵児帯を下げて、ハダシでかけまわって居ります。子供たちの此頃の遊びに安心して没頭する様子は見ものです。此まではいつも見えない緊張があって、心も身も傾けてという風ではなかったわ。遊びでも打ちこむということは大切です。子供にとっては。
さて、この頃の毎日はラジオをきくことを欠かされません。昨二日は、宣言受諾に関する書類の正式調印で、重光、梅津両全権が東京湾のミズーリー号の上でマッカーサーやウェーンライト、パーシブルという人々、その他中国、ソ、オーストラリア、オランダ、カナダ、ニュージランドなどの代表が調印したそうです。日本人記者二名が陪観し、その艦上にペルリが下田へ来たときたてていた星条旗と真珠湾に翻っていた旗とを二つ貼ってあったということを報道しました。
それからね、マッカーサーは、「ガラスのペン軸をとって」署名し云々と、その記者は申しました。わたしは何だかこの小さい一つの不確かな観察の中になかなか意味があるように思うのよ。物を書く人間の感覚として、昨日マッカーサーが記念的署名をするときに、貧乏謄写屋のようにガラスのペン軸を使うなどということは信じられません。きっと其は最新流行の合成樹脂の透明なのでこしらえたペン軸だったのだろうと思います。昔なら銀をつかったところでしょう。日本では、以前贅沢品ばかり売っていた店に、贈物用の櫛、シガレットケース、傘の握りなどとして並べられていて、一般の日常生活には入っていません。その記者も一瞥で、それをガラスとあやまったのではないでしょうか。こういう点に何か不確さを感じさせるような常識の差異があるわけです。そして其は、最高の科学にも通じている道です。
昨夜、スウィスの新聞が「日本のような大国が、事態変化に応じて直ちに連合国に協力し得るということは一つの驚くべきことだ」と云っている由放送しました。ロイテル通信によれば「外交問題専門家の見解はドイツと日本とは全く違っていた、日本はバルカンの事情により近似している」と云ったと放送がありました。そういう世界の声、眼がまぢかに伝えられるのが、一区切りすると、近松門左衛門作忠臣蔵の舞台中継、さもなければ講談などというものがあります。
それらの間に挾って、わたしはそちらへの切符のことを思い、仕事を考えて居ります。
わたしは、ともかくどうしてもそちらへ一度行かなくてはなりません。いろいろの用事や相談にのって頂きたいこともあって。
いろいろの人が身のふりかた――身の上相談もあって。例えば、うちの知合で、芝のおじいさんがいたの御覚えでしょうか。その人の息子がわたしに会いたいのですって。これも身の上相談よきっと。就職についてでしょう。てっちゃんもあの勤めはなくなりましょう。わたしは、しかしいそいで上京し、たよりにならない相談対手を買って出ようとはして居りません。ともかく、そちらに行き、わたしは、勉強し書いてゆくことを益〃旺盛にしたく、身の上相談の先生になろうと希望していないこともお話したいと思います。
仕事としてのスケジュールは又おのずから別です。仕事の点では十分計画をもってやって行きたいと思って居ります。当面、「昭和の十四年間」の後半二十年中旬までをまとめようときめました。これは不可欠な仕事です、日本文学が前進するためには、歩いて来た道を真面目に見直さなければならないのですから。
中国文学研究会の仕事は消極的ではあったけれども『春桃』を出したりしていたのだし今後益〃有益な活動をしなくてはなりますまい。
アメリカ文学の高い水準での紹介(ジャーナリズムは翻訳を氾濫(ハンラン)させましたから、或はそういう出版インフレ時代のホンヤク丈についてさえも玉と石とをふるいわけることも必要でしょう)批評も必要です。
これまでの外務省式のやりかたは「紹介」に止って、それに伴った歴史的展望を欠いていて、いつも卑屈な商品見本のようでした。輸出文学をアメリカに送ろうとして失敗した例が現実にあるのですものね。十六年より前の「親善」期に。
今日では、日本の文学の到達している世界的水準を明瞭に押し出して、日本文学と同じにアメリカ、中国、ソの文学、イギリス、フランスの文学を観察し得るという能力を示さなくてはならないと思います。そういう機能を高めることは、日本の発展のために重要です。アメリカは「日本がデモクラシーを理解する迄」と事毎に申します。これは興味あることね、即ち日本はアメリカが今日包蔵しているデモクラシーのキリキリ迄民主的であっていいわけなのだし、そうしなければ日本の屈伏は無制限だし。
文学に専心するいい雑誌をどこが出すでしょうね。金儲けでない。そして執筆する人々もジャーナリスティックでない勉強家であるというような。しかし内容も執筆範囲もひろく、執筆者の経済面も市価を保つことが、只今のような生活事情のときは必要ね。C社、Iなんかという人のぐるりは、ああいう「食いたい連」がワヤワヤだからきっとあれこれ「文化的計画」があるのでしょう。「文化」という言葉が再登場しはじめました。其は厳密に扱われて、再登場の喜劇を演じてはならない立場に置かれていると思います。
日本文学史が世界的見地から書かれ、其ままホンヤクされれば、世界の知識人に会得され得るようなものの出ることも大切です。フランス文学にしろ堀口大学のような「専門家」は不用です。追随者は必要でありません。すべて前進させ得る見識が必要です。
わたしは本当に勉強したいのよ。眼がこんなに弱ってしまったのが何と残念でしょう。しかし夜早くねて早くおき仕事せざるを得ないのは却っていいかもしれないわね。てっちゃんにも文学上のあれこれの希望ははなしました。わたしの書きたい小説はまあそろそろと、ね。
旅行は、どっちを向いても極端に困難です。けれども、もしこの月半ばまで待ってみて、どうしてもそちらへ行く手筈がつかなければ(青函連絡は一艘でやっている由)忙しくなる前に、こちらから島田へ一寸でもお見舞に行って来てしまおうかと思いはじめました。
達ちゃんの安否についてまだ御返事頂きません。丸山定夫一行十七名の移動劇団が広島の福やデパートに泊っていて、全滅いたしました。福やはわたしも知って居ります、あすこから電車で護国神社まで行った覚もあります。目下のところ一番気になるのは達ちゃんのことですから、どういう形にしろ忙しくなる迄に島田へ行くのも一つの方法と考えます。あちらに住むのは不便でしょう。子供二人にお母さん友ちゃんとわたしという組合わせでは、女である私はここにいると同様になってしまうでしょう。最悪の場合を考えても、やはり私はあちらに住まず、仕事を自由にたっぷりして、その結果で出来る丈お力になるのが一番よい方法と思います。岩本さんの娘が来ているらしいのね、文子というのはその娘さんのことなのね。そういう人がいれば猶更わたしは、あちらにいる間は若い女教師の常識で納得出来る暮しぶりでなくてはならず、それは定評をつくり、つまりお母さんのお気持に及ぼしますから(それに岩本家というところの風があなかしこだから)。途中東京へ一寸よって見てもいいかと思います。てっちゃんなんかに。(仙台からおくさん子供よびもどしたい由)そうするともう十月ね。わたしの心配は、郡山、青森、函館というようなところはいずれ進駐地でしょうから、その時はまた交通途絶いたします、よほどうまく取計らわないと今年一杯、それ又ふさがったで過してしまいそうで、あぶなかしくてたまりません。だから、どうぞして本月半ばまでにそちらに行けるようにしたいの。それにしても、あなたは何と僅かの間をお動きになったことでしょうね。
そして、郡山が進駐地となり、その場所はどこだか、其によっては出入りがずっと面倒くさくなりましょう。双方で馴れる迄ひどく慎重らしいから、一定の地域の通交人の身体ケンサしているらしい風です(ラジオでの話)(横浜など)わたしはどうしても忙しくなり、動きも多くなりましょうから、そういう場合は不便でしょうと思います。東京なら広うございますけれどもね。
七月には三日に手紙かいて下さいました。きょうは三日ね。やはりそちらもこんな秋晴れでしょうか。そして手紙書いて下さったのかしら?こちらもこの一週間ほどは夜冷えてすこし厚いかけものを出しました。今、もって行く薄どてらを縫って貰って居ります、夕方なんか羽織がいるのではないでしょうか。海はどんな色でしょう。二、八月というから九月の海は荒いのでしょうね、濤の音が聴えるでしょうか。風の音が二百十日後は変りました、乾いた音がきこえはじめました。
竹越三叉の『二千五百年史』の四十二年版が焼けのこりの古本やにあってもって来ました。箕作元八が西洋史を扱ったのに似た方法ですね。文章が文語ですが弾力にとんでいて、やはり箕作の談論に似て居ります。三叉という人は一種の人物でしょうと思いますが、年代がずっている故か、環境がずっている故か(慶大関係)すっかり歴史の中にしかきこえない名のようです。三浦周行の『法制史研究』は面白そうなのに下だけしか買えませんでした。風邪をおひきにならないようにね。
〔欄外に〕○郡山の市は本やがありません。 
九月四日〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書書留)〕
九月四日(一九四五年)
只今お母さんから速達が来ました。達治さんの安否について心配して居りましたところ、やはり最も悲しいことになったようです。形は行方不明ですが、生存は万カ一にも期しがたい前後の事情です。お手紙の要点を申上げます。
七月十七日召集をうけ広島に入隊。八月二日に休暇が出て、四日に又戻り、「六日の朝八時原子爆弾にあいました。当地も日々空襲で汽車不通」十二日に友人が広島へゆき調べてくれましたが、原隊では本人当日軽傷なるも行方不明とのこと。いろいろ調べたが不明。四五日したら患者を集合させるからとのことで又十七日の調べで生死不明、行方不明ということになったままです。
ところが十六日に周防村の新谷という一等兵が来て、負傷後宮本と三日一つトラックにいた。傷は後頭に一寸位の破片による傷二ヶ所、顔に薄い火傷。出血は六日午後に止った。帰っているかと思って来たとのことです。十三日に帰宅命令で戻った由です。お母さんがその人の宅へ行き、いろいろ細かにおききになったそうです。達ちゃんは、手当をうけられないからと三日目にトラックへ乗ってどこかへ行ったというので、病院などもお調べになったが不明。二十四日、友ちゃんが友人の西山と同道本部へ行き、いろいろ調べたが、隊では三日いたことさえ不明の由。負傷者は十里二十里先、島へまで運んで迚も調査ができない由、兵営は全滅。何万という人だそうです。原簿がやけてしまったそうです。広島全部焦土の由。その上生きている人々は解除で四散し、全く手のつけようもないようです。「原子爆弾は一寸の傷でも受けたら毒素が体内に入り、負傷後死する人が沢山あるとのことで、新谷兵も宅へ帰って大変の熱が出て、なお生死の程も気づかわれて居ます。今だに達治の死体が分らないというのは不思議です。たとえ広島は焦土と化しても三日も生きていたのなら、どこで死んでいても様子は知れぬこともあるまいとそれが残念でなりません。」十四日に光工廠大爆撃をうけ工廠は全滅、野原に火災が起ったけれども、宮本の家は屋根を痛めたすかった由です。一同無事。岩本全焼、明石絢子宅全焼。(世田ヶ谷にいた人ね)「顕治は東京より北海道の方が無事と申しますので安心致して居ります」「何も彼も懸念の事ばかりです。」
〔欄外に〕八月五日のお手紙御覧です。
本当にトラックに三日ものっていて、(ねるところが無かったわけでしょう)それをどこへ運ばせたのでしょう。どこかへ行こうとして(治療に)途中で容子が変ったのでしょうか、たった一人でゆく筈もなし、実に奇妙です。たった一人なら被服も滅茶滅茶で名も分らずでしょうが。原子爆弾の負傷はどんな微細なものでもそこから腐蝕して生命を奪うそうです。東大のツヅキ外科へ入って死んだ人は指の先のかすり傷でそれが全身に及ぶ由、強烈なレントゲン照射にあったと同様で細胞を破壊し、白血球の激減がおこり、輸血するとそこから腐蝕し、毛髪脱落するそうです。
今郵便局へゆき、切符買えたらすぐ行くと打電しました。同時にそちらへも御覧の通りに打ちました。そちらの切符がまだ見とおしも立たなかったのが不幸中の幸でした。明早朝買いにゆき、買えたら最も早い機会で立ちます。多分新潟まわりでしょう。
友ちゃんのこと、子供らのこと、お母様のお心のうち万々お察しいたすにあまりあります。健気にぐちも書いていらっしゃいませんが、どんなお気もちでしょう。申しあげようもありません。此の上は、隆治さんの無事に還る日が一日千秋です。(在外邦人はみんな帰すそうです。八十万内地に戻るそうです。)
ともかく行って出来るだけおなぐさめもし善後策を講じ、行方をさがしましょう。心のこりというのはこのことです。三日も命があったというのにね。トラックにのって行ったらその番号の車がどこでどうなっていたかさえ分らないというのは。混乱の程思いやられます。二十六日づけのお手紙です。きょうはもう四日、九日経過しています。新谷という人は多分死去してしまったでしょう。トラック番号をきくことさえ手がかりを失ったかもしれません。隊の解散がひきつづきましたから責任不明となり、本当にわるいめぐり合わせでした。わたし達も其だけの負傷をして、相手が原子である以上、覚悟して処置しなければなりますまい。其にしても行方不明というのは。実に解せません。しかし、東京で現に五分前まで一緒の家の壕にいた我娘が遂に行方不明となった人があったりします。いろいろの場合を思いやり、生きるために努力したことを考えると涙が出ます。友ちゃんと子供らの顔にはげまされて、力をふるって自分を救おうとしたのでしょうのに。可哀想に。可哀想に。
島田までゆけば一週間や十日で戻ることは不可能です。少くとも、暮しの見通しがつき、気持の落付きがいくらかできる迄はいてあげなくてはなるまいと思います。経済上の問題も深刻でしょうと思います。トラックを処分したりして目前にはいくらかのゆとりをおもちでしょうが、タバコと米配給の手伝い丈ではなかなかやれますまい。合同の方の仕事の権利を応召のときどういう契約にしていったか、それによっては代理として人を雇い、そのものにうちから月給を払って働いてもらうということも、これから先、人の余るときには可能でしょう、反面に不可能の条件もましますが。
こういう事情になって、そちらへは本当にいつ行けるのでしょう。しかし、今島田へゆくことに論議の余地はないと思い、そのようにいたします。私の判断で最善をつくしますから御心痛ないように。次々と様子をお知らせいたします。 
九月十五日[自注26]〔網走刑務所の顕治宛 山口県光市上島田より(封書書留)〕
九月十四日
さて、この手紙は島田で書いて居ります。あの二階で。
五日に、切符が買えたとき埼玉県へ打った電報が六日にわたしの行ったときまだ着いて居ませんでした。七日に、てっちゃんとうち合わせの電報もつきませんでした。こちらへは、手紙を頂き、来る決心をしたときすぐ(四日)電報うちましたが、そのウナは、十三日(きのう)わたしが来ても着いて居りませんでした。妙ね。手紙の方はどうやらこの頃よく着きますが。従って、おかあさん達にとって、きのうの午ごろ、わたしは突然現われたわけでした。
大分苦心して郡山から島田迄の切符を買いました。それが五日。六日に出発して、その日の午後埼玉県の久喜に途中下車。荷物のことや何かいろいろ世話になった友人のところへよりました。七日はそこにいて、八日てっちゃんのところへ行く予定のところ、八日マッカーサアの東京進駐で、いくらか普段と違うというので用心して九日てっちゃんのところへ行きました。どこでもいろいろ新しい用事が出来ていて、いろいろ話し、十日に鷺の宮へ行きました。文報のことやその他あるので。十一日早朝八重洲口の列に立って急行券を買い、十二日朝五時に家を出六時半から立って、八時半の急行に乗りました。この時間にゆくと坐れました。そして、島田へ着いたのは、十三日の殆ど午頃。十二日に四時に起きたときから算えると、三十二時間かかっているわけです。汽車丈二十六時間ね。横浜辺からもう立つ人が出来はじめ名古屋で通路がふさがり大阪以西は謂わば二等も三等もないという有様でした。久喜で降りるときには窓から降りました。岩国では昇降口から出ましたが。半島へかえる人々解除の人々、それがみんな体のもてる限りの荷物をもつのだからえらいことです。托送が無事に着くためしなしというような不信用が漲っているし、解除の人々は大体自分の荷物の内容について神経過敏ですから。
三時三十五分位に広島へ着く筈のところ七時半頃に着。いつものようにのりかえようと思って一旦降りましたが、駅は全く旧態なく地下道丈もとのままです。島田へ行くのは何時に出ますかときいたら、片腕のない少年駅手が、四時二十分!と申します。四時二十分って――午後?と訊いたら四時二十分て云ったら午前だぐらい分ってるだろう!こういうあいさつです。次は何時です?分らん。さては、と思って又大急ぎでかけ戻り、幸停車していたもとの車にのって岩国まで来ました。ここで三十分ほどで海岸まわりの本線にのって無事つきました。
東海道と山陽本線は、東北本線と何たる異いでしょう。いままでよりもずっと時間がかかりここまで来たのに、まるで東京からぬけきらないままのような気がします。焼跡つづきだから。急行ですからすこし大きいところにしか止らず、止ったところは皆実にひどくやられて居ります。東京も実にひどいが面積がひろく、その中にいるから、汽車で森や畑を抜け出たと思う都会毎に原形をとどめずという風になっているのを見るのとは、おのずからちがった感じです。
広島はひどいわ。己斐は勿論のこと、五日市でしたか、あの辺までやけて居ります。爆風か爆弾かにやられたところもどっさりです、近郊で。岩国もひどいわ。光井に行ったら又おどろくのでしょう。島田では、そういう被害は一つもありませんが、駅は雑沓して、且つ気分が亢ぶって居ります。
達治さんのことは、本当に何と云ってよいか分らず、まだ不明のままですが、一ヵ月経った今は、覚悟していらっしゃいます。それにしても不明というのは腑に落ちません。わたしとしても、ここまで来て不明だということです、ではどうも気がすまないので、二三日してすこし疲れが直ったら本部へ行ってよく調べて来ようと思います。そして、分散療養させてある各所の責任部を調べ、その各所宛返事を求めて見ましょう。帳簿には軽傷とあり又別のには行方不明とあり双方に記載されて居ますのだそうです。大混乱だったのでしょう。
友ちゃんも可哀想に寂しそうです。子供たち二人は元気です。輝の方は勝より疳の高ぶったなかなかがむしゃらな子です。割合この辺の子供は粗暴ね、東北の子供たちと一寸又違います。おかあさんはおじちゃんをたよっておいでです。子供たちにとってこわい人がいるから、と。輝にはたしかにそうね。この子は、よく導かれ、程よい重しがつかないと自分の廻転を止めかねるような男らしく見えます。父ちゃんのビールや酒を、ちょいと目がはなれると、のんでしまうんだって。
前の河村さんのところでは、下の写真をやる方の息子が、千葉から解除になって戻り、もう一人は隆ちゃんと同じように濠北の由です。帰った人はいろいろおみやげをどっさりもって来て、あの夫婦は自足しているようです。達ちゃんのこと、あきらめにゃいけませんと二言目には云うと友ちゃんが述懐しています。その気持はよく分るわねえ。燈を明るくし、ラジオは天気予報まで云うようになったとき、あっちこっちで帰って来るとき、もう帰る希望のなくなった友ちゃんやお母さんのお気もちは想像にかたくありません。友ちゃんは臥ることもなくて暮して居りますが。
経済の面では、自動車を処分したり、又達ちゃんが出る前に部分品の整理をしたりしてちんまりしてゆけば輝が成人する迄はやって行けようというお話です。わたし達の出来ることはいつも乍ら些少です。基本をそうして何とかやれて行ければ大いに助かります。お母さんは「わたしのいるうちは何とかやっちゃいこうが先は長いから」とおっしゃいます。「それは全くそうですが、兄や弟が子供の二人ぐらいは何とかいたしますよ」「ほんにの、うちの兄弟は仕合せと思いやりが深いからどうにかなろうと云っちょるの」友ちゃんは自分の健康が十分でないことで消極になっているようです。「これ迄あんまりふがよかったからこんなことになったやしれん」と云っているそうです。余り、というほど仕合せを感じていたのなら、せめてもです。
卯女の父さん、てっちゃん、鷺の宮、開成山からお見舞をもって来ました。わたし達からは百円ともかくさしあげました。わたしが帰るときには、この前野原やこっちへお送りした分ぐらいおいておこうと思って居ります。必要はないと云ったって心もちのことですから。それにつけ、こういう不幸が、いくらかわたしの収入のひらけた時に起ったのは不幸中の幸と思われます。過渡的な状況ですしあれこれと妥協点が求められているし、或線で彼我一致の利害もあり複雑ですから、決して前のめりはいけないけれども、昨今の事情にふさわしい範囲で相当いそがしくなります。
いつぞや筑摩から金を前に借りることはしない、つまり原稿をわたすことはしないと云って居りましたろう?あれはよかったわ、筑摩は、あの頃の気分で本の内容に希望をもっていました。わたしも殆ど同じ一般の空気の中にいたから自分から云い出した題目でしたが、(それは昨年の暮近く)段々こころもちが変って、書かないでよかったわ。今のこころもちで、この状況の中で、第一番に宮本百合子の出したのは、子供時代の思い出だというのではわたしも情けなさすぎます。何も可能の第一日目に出なくたって、必要なものが出されなければならず、その必要なものというのは、昭和十五年から二十年前半までの文芸批評であり、それを極めて立体的に扱ったものであり、「十四年間」と一括されたものでなければなりません。前途に展望と希望とを与え、新しい文学の働きてを招き出す息吹きにみちたものでなくてはなりません。それは、ほかの誰にでも出来るとも云えますまい。鎌倉住いの作家連は出版事業を計画中の由。所謂職業作家が、彼等の波に漂う精神をもって、新しい日本に何をもたらそうというのでしょう。
こちらには、読まなくてはならない本をすこし持って来て居ります。
お母さんが、そちらからのお手紙見せて下さいました。八月二十六日の分も。そして、その中に、わたしがそちらに行く計画も変化したかもしれずとあり、その通り御洞察と思いました。
いろいろの点から、これからそちらへ行くことはやめます。網走を知らないことは残念ですが、少くとも来年の春迄の間に、わたしがそちらへ行くことはおやめにいたします。書く仕事の点から丈云っても、資料の関係や何かで東京にいないと困りますが、食物が余り閉口で、仕事出来る丈の食物がなく、其を獲得する努力をしては勉強どころではありません。こういう風に衆議一決いたしました。わたしは当分開成山にいて、仕事の出来る室か家を見つけ、一番近い足休めの場所として暮すこと。一ヵ月に一度ぐらい、上京すればいいこと。どうせ仕事をもって来たり、本やとの打合わせがありますから。そして、林町がやけていないのだからそこへは優先的に戻れますし。
来年の春までのうちに随分あれこれと変化いたしましょう。このごろちょいちょい泉子が来てね、うれしそうに、たのしそうに、賢そうなことや手ばなしの話をいたします。何よりも心配なのは好ちゃんに御馳走するのにものがないことだそうです。わたしも其には心から同情いたします。本当にそうでしょう。好ちゃんは本当に見事に義務を守った勇士ですから泉子のこころとすれば世界の珍味もまだ足りぬ位でしょう。それだのに「ねえ察して頂きたいのよ」と申します「わたしは、これっぽっちのかんにお砂糖をためたのがあるきりよ」と二つの手で小さな丸をこしらえて見せます、「ほんのちょんびりの油があるきりだし玉子なんてどうしたら買えるでしょうね。田舎でも一ヶ二円よ」と申します。聞いている私は笑い笑い恐縮いたします。私にしろ何に一つそういう方面で顔はきかないのですもの。しかも今のようなとき泉子に「そんな心配は二の次よ」とは常識がある以上決して決して云えませんからね。好ちゃんは少くとも半年は休養して(しかも十二分の条件で)万事はそれからにしなければなりません。泉子曰く「その期間はわたしが出来る丈何でもするわ、つまり安心してのんびりしていられるようにね」泉子の計画は健気ですが、好ちゃんは御存知の通の人柄ですから、果して悠々休養するでしょうか。ねがわくば、あなたからよくよくお申しきけ下すって、それこそ展望的に悠々とするよう、泉子の出来ることは実に限りがあり且つ歯痒いでしょうが、そこが辛棒のしどころと、よくお教え下さい。泉子は言葉すくなく、しかし眼にも頬にも燿きをてりかえして居ります。わたしはちょいとひやかします「あなた案外落付いた風ね。無理しない方がよくてよ」すると泉子曰く「ええ。ありがとう。」そして笑うと、真面目になって申します「私は却って心配な位よ。だって私には私の分としてしなけりゃならないことがまだどっさりあるのよ。アンポンになる迄に。だからね今からボーッとしては大変なの。大いに奮励しておかないと安心してアンポンになれないでしょう、間に合うかしらと寧ろ心配よ」好ちゃんは幸海外にいたのではないからまさか三年はかかりますまい。緑郎なんかどういうことになるでしょう。只交戦国人として抑留されたのではないから。ベルリンなんかにいた日本人の中で動きかたが目立ったということは、単純ではありませんから。
今ここには岩本の文子さんというのが(先生)来て居ります。子供の世話を見たり台所手伝ったりして、前坐の方の部屋に居ります。二階はあいているのよ、お母さんが昼寝におあがりになる位。二階は大変むし暑いのね。開成山では秋でしたからこんなに汗が出ると逆戻りでおどろきます。しかし、幸蚤(ノミ)が居りません。ついこの間畳干して大掃除なさいました由。裏に出来た道路は丁度お寺の崖をこそげとってうちの裏の細い溝のすぐ上を通って居て、そちらの道の通交人は自転車やオートバイで、すこし目より高いところを通り、外から内が丸見えです。竹垣を結ってあります。それでもこの間は二階に夕闇まぎれに人が入っていたとかいうことがあります。少くとも本月一杯は居ようと思います。一日に二階にいて、何か出来る時間はかなりあると思います。五つと三つというと、割合にこまかい手がいらないのね、それにおばあちゃんにしろ母ちゃんにしろ、子供たちのおかげで気のまぎれるところもあるのですから。
そちらの夏は大変涼しかったのね。お体のために楽でしたろう?却ってあつい光線が恋しい位でしたろう。食事のこともましなのは何よりです。長野にいた戸坂さん[自注27]という人は営養失調で死去されました。卯女のお父さんは七日に一本田の卯女のところへ行き、出来る丈早く東京へ帰ると云うハガキを開成山で貰いました。もうきっと帰って居りましょう。芝のおじいちゃんのところのひとも、此際急に就職しようとか家内工業をはじめようとかいう気でもないらしい話です。どういう職業が、ふさわしいだろうかという意味のようです。(きょうの新聞、失業、一千三百万人位の由)一ドルは十五円にきまったそうです。ラジオは建設日本の声、というのを募集して居ります。四百字詰三枚ぐらいのものです。市川房枝、赤松などという婦人たちが、婦人問題の部面に活動をはじめるようです。
こちらも早寝になっていらっしゃいます。昨夜八時半ごろよ。わたしは一息に五時頃まで眠りました。子供たちや友ちゃんのような体の人のためには何よりです。友ちゃんと云えば今度おっしゃっていた本をもって来るのを忘れました、余り急だったので。御免なさい。林町へもよらなかったので。鷺の宮でお握りをこしらえやいてもらって来ました。林町の三組の人々の顔をズラリと並べて考えると、迚も米だけもってあの中に入って行く気になれませんでした。ジャガイモでも持って行かなくては。用もあって鷺の宮やてっちゃんのところ、埼玉で厄介になりました。では又二三日うちに。下で水の音がするわ、風呂らしいから行って見ます。ではね。

[自注26]九月十五日――十月九日の昼頃、顕治は『デタラスグカエレ、シユクシヤノヨウイアリ』という電報を東京からうけとった。発信人は東京の予防拘禁所にいた同志の一人と、弁護士の連名であった。返電を打つ手続をすると間もなく署長室によびだされた。署長は『君について命令がきた。健康の点もあるし執行停止することになった。』とつげた。そして顕治はその日の午後四時、十二年ぶりで手錠なしではじめて監獄の外に立った。顕治は無期囚として網走へゆくとき、同行の看守が不思議がるほど冬の衣類一切と本をつめた重いトランクを背負って行った。手錠をはめられている背中に。それらの着物が役に立った。顕治の天気予報は当った。
九月初旬、山口県光市の顕治の生家へ行った百合子は、十月十日までに治安維持法の政治犯人が解放されるという新聞記事をよみ、その中に宮本顕治の名があることを見出した。十月八日に百合子は島田を立って山陽東海道線の故障のため、五日かかって東京へ着いた。当時の混乱状態で顕治からの電報も葉書も着いていなかった。顕治が十月十四日に東京の家(百合子が暮していた義弟の家)へ帰ってきてから、あと四五日経って、網走から百合子宛に打った電報と函館の宿で書いた葉書とが届いた。その葉書には『海よ早く静まれ』という一句もあった。
[自注27]戸坂さん――戸坂潤。 
 
宮本百合子と顕治

 

宮本百合子1
(明治32年-昭和26年 / 1899-1951)は昭和期の小説家、評論家。旧姓は中條(ちゅうじょう)、本名はユリ。日本女子大学英文科中退。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集め、その後もプロレタリア文学の作家、民主主義文学のリーダー、左翼運動家として活動した。日本共産党元委員長宮本顕治の妻で、宮本と共に投獄、執筆禁止などを繰り返した。
生い立ち
中條ユリは、大正時代の著名な建築家中條精一郎と妻・葭江の長女として、東京市小石川区(現・文京区 )に生まれた。父・精一郎は山形県米沢に生まれ、東京帝国大学工科大学建築科を卒業後、文部省の技師を経て札幌農学校土木工学科講師嘱託となった。母・葭江は明治初期に思想家として活躍した西村茂樹の長女。祖父・中條政恒は元米沢藩士で、明治には福島県典事を勤め、安積疏水の開鑿に尽力した。
少女時代
百合子は東京女子師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)在学中から小説を書き始める。1916年、日本女子大学英文科予科に入学早々、中条百合子の名で白樺派風の人道主義的な中編『貧しき人々の群』を『中央公論』9月号に発表し、天才少女として注目を集めた。なお日本女子大学予科はほどなく中退した。
結婚と離婚
1918年、父と共にアメリカに遊学、翌年コロンビア大学聴講生となり、そこで知り合った15歳年上の古代東洋語研究者荒木茂と結婚、12月に帰国した。しかし、夫婦の間には生活の面での食い違いが生じて、1924年に離婚。野上弥生子を介して知り合ったロシア文学者湯浅芳子と共同生活をおくりながら、破綻した不幸な結婚生活を長編『伸子』にまとめ、近代日本文学の第一級作品といわれた。この時期の湯浅との往復書簡の全貌が、2008年に翰林書房より刊行(ISBN 978-4-87737-261-3)された。2011年には、この時期の湯浅との共同生活を描いた映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』(浜野佐知監督)が公開された。
プロレタリア作家として
1927年12月から湯浅と共にソ連へ外遊。共産主義への傾倒をますます深めた。映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインらと親交をもった。この時期にソ連やヨーロッパを訪れていた映画監督の衣笠貞之助や帰国後前進座を旗揚げする四代目河原崎長十郎らとも親交をもつ。西欧旅行などを経て1930年11月帰国。翌月日本プロレタリア作家同盟に加入、プロレタリア文学運動に参加し、1931年、日本共産党に入党。翌年、文芸評論家で共産党員でもあった9歳年下の宮本顕治と結婚したが、まもなくプロレタリア文化運動に加えられた弾圧のために顕治は非合法活動に従事することとなり、夫婦での生活期間は短かった。1933年、顕治が検挙され、スパイ査問事件の主犯であるとして裁判にかかることになった。百合子は翌年正式に顕治と入籍して、中條から宮本へ改姓。1937年、獄中の顕治から筆名も宮本姓に変えるよう提案され、自身の証を奪われるようなものだと、一度は反対したが、数ヵ月後、日中全面戦争開始後に獄中との連帯の意味もこめて宮本百合子に筆名を変えた。
戦時中の苦難
百合子は獄中の顕治を獄外から支えたが、自らもたびたび検挙され、1936年には懲役2年・執行猶予4年の判決を受けた。その後も検挙や執筆禁止などを繰り返し経験し、体調を害する事もあったが、粘り強く文学活動を続けた。顕治は1944年に無期懲役の判決を受け、網走刑務所で服役することになったが、日本の敗戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が国内全政治犯の即時釈放を指令した事で、1945年10月に顕治も12年ぶりに出獄した。夫とかわした約900通の書簡はのちに二人の選択をへて、百合子の没後『十二年の手紙』として刊行された。
戦後の活躍
戦後に共産党の活動が再開されると、百合子は社会運動や執筆活動を精力的に取り組んだ。戦時中の執筆禁止からも解放され『風知草』、『播州平野』、『道標』など多くの作品を残した。波乱に満ちた生涯のうちの大部分が小説として自身の手で描き出されている。また、共産党員としては新日本文学会中央委員や婦人民主クラブ幹事を務め、共産党の指導による文芸運動や婦人運動の推進に努めた。
死去とその後
1950年、占領下の政治活動方針を巡る党内の混乱とレッドパージにより共産党の活動が大きく制限され、共産党中央委員であった顕治も公職追放対象者となり、国際派のリーダーとして党の分裂に直面した。百合子は新たな苦境の中でも執筆活動と党の宣伝活動を続け、同年には『道標』の全三部を完結させた。しかし、翌1951年1月に電撃性髄膜炎菌敗血症により急死。51歳だった。
百合子の死後、顕治は混乱を収拾して勢力を回復した共産党の書記長となり、百合子はその妻として、またプロレタリア文学の第一人者として、さらに高い評価を与えられるようになった。没後50年の2001年からは新日本出版社から宮本百合子全集の刊行が始まり、2004年に全33巻として完結された。この全集への推薦のことばには加藤周一に加え刊行当時の共産党議長の不破哲三や、かつて共産党員だった辻井喬(堤清二)も名を連ねている。 
宮本百合子2
宮本(中條)百合子は、1899年、建築家の父、中條精一郎と倫理学者西村茂樹の次女霞江の娘として生まれた。幼いころから才気煥発な娘だった百合子は、17才で初の小説『貧しき人々の群』を書き、坪内逍遥の推薦で中央公論に掲載される。本作は、幼いころから訪れていた祖父の家のある福島県の郡山で、目にした貧しい小作人たちの生活を描いたもので、発表時は「天才少女」として大きな注目を集めた。同年、日本女子大学英文予科に入学するが退学。19歳で父親と共に渡米、ニューヨークに一人残り留学生活を続ける。1919年現地で出会った15歳年上の古代東洋語研究家荒木茂と結婚。帰国する。その5年後の1924年、湯浅芳子と出会い『伸子』を書き始める。翌年、荒木と離婚。芳子と共同生活を始める。1927年から3年間、芳子と共にソビエト・ロシアに留学。ヨーロッパ旅行を経て帰国する。
1930年、百合子は日本プロレタリア作家同盟に加入。プロレタリア文学運動に参加し、その過程で、文芸評論家で後に日本共産党書記長になる9歳年下の宮本顕治と出会う。1931年に日本共産党入党。1932年に芳子と別れ、宮本顕治と結婚する。その後まもなく、プロレタリア文化運動に加えられた弾圧のため、顕治は非合法活動を余儀なくされ、まもなくスパイ査問事件の主犯の疑いをかけられ検挙。二人の結婚は12年に及ぶ別居生活となる。
百合子は作家として獄中の顕治を支え続け、自身も4回にわたり検挙、投獄、執筆禁止などの弾圧を受けるが、転向せず作品を書き続けた。その間二人が交わした約900通の書簡は、百合子の没後『十二年の手紙』として出版されている。
戦後、顕治が釈放され、共産党の活動が再開されると、百合子はプロレタリア文学の第一人者として社会運動や執筆活動に精力的に取り組む。また、新日本文学会、婦人民主クラブ創立のために働き、戦後のオピニオンリーダーとして多数の講演を行い、評論、執筆活動を行った。
1947 年『伸子』の続編にあたる『二つの庭』を執筆、連載。引き続き、『道標』を書くが、体調を崩し療養。1951年『道標』第3部執筆後、髄膜炎菌敗血症により51歳で急死する。自伝的小説としては、『伸子』『二つの庭』『道標』のほかに『播州平野』『風知草』など。何度も全集が組まれ、最近のものは全33巻。小説8巻、評論、感想、小品等で11巻。その他、書簡、日記、秀作、覚書が網羅されている。その他、書簡集に『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』(黒沢亜里子編)があり、二人の生活を辿りながら、生の声を聞くことができる。 
宮本百合子3
(1899〜1951) ー人道主義から人間解放の文学を目指してー
宮本(中條)百合子は東京生まれの東京育ちであるが、本籍地は福島県郡山市南町百八拾六番地であった。戸主は中條精一郎で、百合子はその長女である。宮本顕治との婚姻届が、1934(昭和9)年12月28日に提出されて山口県の宮本家戸籍に同日入籍している。一般に本籍地といっても東京に居住している人物にとっては書類上の籍であり、親や先祖の出身地でしかない場合が多い。しかし、百合子の場合は単なる書類上の本籍地ではなく、彼女自身の人間形成に大きく影響を与えた土地であった。この点で彼女にとって郡山市南町−開成山−は書類上での本籍地ではなく本当の故郷としての意味を持ったといってよいだろう。宮本百合子にとって開成山は真の故郷であった。
百合子は父中條精一郎よりは祖父中條政恒に最も近い存在であった。精一郎は山形県米沢に生まれ政恒の任地福島市で小学校を卒業して上京、東京での生活が多く東京帝大工科大学建築科卒業後、文部省の技師を経て札幌農学校土木工学科講師嘱託となった。この頃、百合子は東京市小石川区で生まれた。1899(明治32)年2月13日であった。母葭江は明治初期に思想家として活躍した西村茂樹の長女であった。
祖父中條政恒は米沢藩士であったが、1872(明治5)年に福島県典事として来県した。政恒は若い頃より北方開拓に関心を持ち殖産開墾を主張して来たが、福島県典事に就任したのを機会にして安積郡大槻原(現 郡山市開成山を中心にした)の荒野開拓を立案して、積極的にこの事業に心血を注ぎ、猪苗代湖の水を引く安積疏水の計画を大久保利通に説き、この大工事を実現させた。現在の郡山市発展の基礎を築く大きな役割を果たした。
この祖父の実行した安積開拓によって生まれた桑野村開成山を舞台にした様々の作品を残した作家が孫の宮本百合子である。百合子の文壇的処女作となった小説『貧しき人々の群』(『中央公論』発表後、1917年玄文社刊)は、17歳の作品であった。この作品に描かれた世界は祖父政恒が、その生涯をかけて心血を注いだ開拓地で起こった事柄で、それを鋭い少女の観察眼と優れた描写によって文学化した。大正初期の人道主義の作品として日本文学史に不動の位置を占めることになった。百合子は祖母のお運の住む開成山に滞在して、没落した農民の姿に心を痛め、社会の矛盾の中で人間として虐げられている人を救うのには「所謂慈善だとか見栄の親切だとかいう」もので解決できないという考えに至ったのであった。「どうぞ憎まないでおくれ。私はきっと今に何か捕える。どんな小さいものでもお互いに喜ぶことの出来るものを見つける。どうぞそれまで待っておくれ。達者で働いておくれ!私の悲しい親友よ!私は泣きながらでも勉強する。一生懸命に励む。」という強い願望と探究心は百合子文学の生涯一貫した思想となったのであった。
福島の飯坂を舞台に描いた『禰宜[ねぎ]様宮田』も開成山の没落農民をモデルにした作品である。禰宜様宮田と綽名[あだな]された一家の不幸を美しい自然を背景として、架空索道から転落して死ぬ六という息子の姿を結びとして浪漫的に表現した。また、祖父政恒に従って忠実に生きた一農民をモデルにして、人間の哀感を描いた『三郎爺』など、日本近代化の根底にあった人間性の疎外を人道主義的立場から小説化した。
その後、父に同伴して渡米したニューヨークで、第一次世界大戦の終結の光景を見て感動して現代史に関心を持った。この地で古代東洋語学者の荒木茂と恋におち結婚した。しかし、この結婚は百合子の理想とした人間に自由を与えるものではなく「足かけ4年ばかりは泥沼時代」と呼ぶ不幸なものとなった。この経験を背景にして小説『伸子』を描いた。これは愛情によって結びついた結婚生活も実は人間として女性として成長しようという願望を押し潰[つぶ]す狭い小市民的世界でしかなかったのを痛感させた。この様な現実の中で苦闘する若い女性の姿を描いたのが『伸子』であった。この作品の主人公伸子にとって人間的活力と再生を感じる土地として、郡山の開成山は描かれている。
小説『伸子』(1928年改造社刊)の印税を基金にして百合子は革命後のソビエトに旅行した。この新しい国の農民と労働者の生活に感激し、百合子が若い日に抱いた理想の一端を発見したのであった。そして第一次世界大戦後のヨーロッパ社会を旅行した体験が、大長編『道標』(筑摩書房刊)を晩年の1951(昭和26)年に完成させたのであった。
作品『道標』で述べている様に「百万人の失業者があり、権力に抵抗して根気づよくたたかっている人々の集団のある日本へ」新参者として参加しようと百合子は、1930(昭和5)年11月に帰国して、日本のプロレタリア文学運動に入り、運動の代表的作家として活躍した。作品「小祝の一家」「乳房」「刻々」等がある。文学運動の中で新進気鋭の文芸評論家宮本顕治を知り、1933(昭和8)年2月結婚した。この頃秘密裡に日本共産党に入党した。プロレタリア文学への参加は『貧しき人々の群』以来の百合子自身の理想を求める道であった。1930年代の国家権力による文学運動への弾圧は激烈で、夫顕治は非合法生活に入り、結婚2ヶ月で二人の生活は引き裂かれた。顕治は共産主義者として逮捕拘禁された。百合子は顕治との愛を貫くために山口県の宮本家に入籍した。百合子自身も度々検束され文学者としての生命である執筆を禁じられた。1941(昭和16)年に巣鴨拘置所で熱射病で倒れ人事不省で釈放。これが戦後、1951(昭和26)年に百合子の死を早める原因となった。獄につながれた夫顕治との愛の往復書簡『十二年の手紙』(筑摩書房刊)は日本における通信文学の傑作である。『播州平野』は網走に囚われている夫を追って、郡山開成山に来て終戦を迎えた様子や郡山空襲が描写された歴史的作品として高い評価を受けている。 
宮本顕治1
(明治41年-平成19年 / 1908-2007)は日本の政治家、文芸評論家。通称ミヤケン。戦前の非合法政党時代からの日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。参議院議員(2期)を務め、日本共産党書記長、同委員長、同議長を歴任。
学生時代から入党まで
山口県現在の光市上島田出身。
旧制徳山中学校から松山高等学校に進学、社会科学研究会を創立し、文芸誌『白亜紀』を発行するなどの活動をおこなった。
東大在学中の1929年(昭和4年)8月、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」で雑誌『改造』の懸賞論文に当選し、文壇にデビュー(次席は小林秀雄の『様々なる意匠』)。1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学経済学部卒業。
1931年(昭和6年)5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。 その後、党の中央アジテーション・プロパガンダ部員に就任。 1932年(昭和7年)2月、作家・中條百合子と結婚(ただし事実婚)。 1932年3月から4月にかけてのプロレタリア文学運動への弾圧をきっかけに、地下活動に入る。その中で1933年(昭和8年)1月、中央アジ・プロ部長に就任。 4月、中央委員候補になり、5月、野呂栄太郎の最高指導者就任に伴い中央委員に昇格。また、野沢徹などの名前でプロレタリア文学運動の理論問題の論文を発表した。
スパイ査問事件
1933年(昭和8年)12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いた。その間に、逮捕されたほかの人間への取調べから警察が突き止めたアジトが捜索され、床下より小畑達夫の死体が発見された。宮本らに「査問」の最中に暴行を受けた末に外傷性ショックで死亡したと、裁判で認定された。これがいわゆる日本共産党スパイ査問事件である。宮本は治安維持法違反だけでなく、この事件の加害者としても裁判で裁かれることになる。
収監
1934年(昭和9年)12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。 同月、百合子との結婚を届け出た。これは、事実婚では面会などに制限が加えられていたので、それを避けるという意味合いもあった。これによって、百合子との往復書簡のやりとりが可能になった。このやりとりを通じて、顕治は百合子に文学や生活についての意見を表明して、弾圧(百合子はこの時期に2度の執筆禁止の時期を経験している)や戦争の時代に、百合子の作家としての出処進退を一貫したものとするために助力した。また、百合子も、顕治に対して公判の維持のための資料の入手や作成に力を注ぎ、獄中での顕治を支えた。その点で、この夫婦は思想的に大きなぶれもなく戦後の時代を迎えた。
宮本の病気のため裁判の開始は遅れ、逮捕から7年後の1940年(昭和15年)に公判が開始された。第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)12月5日に、東京地方裁判所は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、治安維持法違反、不法監禁、傷害致死、死体遺棄などにより無期懲役の有罪判決を下した。1945年(昭和20年)5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に移され、8月に終戦となった。
復権
1945年(昭和20年)10月4日、GHQの指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」が出され、これを受けて10月5日に司法省は政治犯の釈放を命じる。 政治犯釈放を翌日に控えた10月9日に出獄。 10月17日、勅令第580号勅令第580号(減刑令)により懲役20年に減刑。 1945年(昭和20年)、刑の執行停止状態に気づいた東京検事局が出頭を要求した。5月15日にはGHQ民政局より、日本政府に対して二人の復権を求める覚え書きが発給された。5月29日、昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)に基づく復権証明書が発行され、二人の復権が決まった。共産党側は、この復権により一般刑法犯の有罪判決も治安維持法違反の一環としてなされた不当判決であり、無実であることが証明されたとしている。
上記GHQ指令とそれを受けた司法省の政治犯釈放命令および復権は、純粋な政治犯に適用されるものであって、治安維持法違反とともに監禁致死罪など一般刑法犯でも有罪とされた宮本は本来は対象外であった。そのため、その両者に復権を要求したGHQの手続きが問題となった。これはいわゆる復権問題として、スパイリンチ査問事件の存否とともに、1975年末に『文藝春秋』誌上で連載が開始された立花隆の『日本共産党の研究』で指摘があり、1976年には国会でも取り上げられた。(復権問題。後述)
国際派リーダー、幹部会委員長へ
1951年(昭和26年)1月21日、百合子が死去(51歳)。没後岩崎書店から刊行された『宮本百合子全集』の解説を書き、それをその後、単行本『宮本百合子の世界』にまとめた。この本は、現在でも百合子研究史上重要な位置を占めるものとされている。
また、獄中にいたころの百合子との往復書簡を編集して『十二年の手紙』として刊行した。後に作家の渡辺淳一が、この書簡集を、愛の記録として高く評価している。往復書簡の全体像は、2001年(平成13年)からの『宮本百合子全集』と、2002年(平成14年)に刊行された『宮本顕治獄中からの手紙』(全2巻、ISBN 4-406-02948-6,ISBN 4-406-02949-4)によって明らかにされた。
1954年には、『新日本文学』誌上で大西巨人と、野間宏の作品『真空地帯』の評価や新日本文学会の組織問題をめぐって論争するなど、1950年代前半は文芸評論家としての活躍が目立っていた。なお、宮本は百合子の死去後、百合子の秘書だった大森寿恵子(評論家・翻訳家の高杉一郎の義妹)と再婚している。寿恵子はその後、『若き日の宮本百合子』を著している。 1950年(昭和25年)コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派と国際派とに分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その所感派の武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、第25回衆議院議員総選挙、さらには翌年の第3回参議院議員通常選挙で党公認候補者が全員落選、国会議席が参議院の1人(須藤五郎)だけになるという最悪の結果につながる。
1955年(昭和30年)3月、中央指導部員に就任。7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命。8月、常任幹部会で責任者に就任。1958年(昭和33年)8月、第7回党大会1中総で、党書記長に選出された。この国際派の勝利により、党史の上では、所感派が分派となる。1970年(昭和45年)7月、第11回党大会1中総で中央委員会幹部会委員長に選出、書記長のポストを廃止した。
自主独立への道
宮本が書記長を務めていた1950年代から60年代にかけての時期、日本共産党は朝鮮労働党と友好関係を結んでいた。戦前のコミンテルン時代には「一国一共産党」の原則があり、当時日本の統治下であった朝鮮半島や台湾も日本共産党の活動範囲とされた。
この時の名残もあり、戦後朝鮮民主主義人民共和国が建国された後も日本に残った在日朝鮮人の中には、日本共産党員となる者が多数いた。彼らは1955年の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)結成と同時に事実上移籍する形で共産党を離れるが、その後も共産党と朝鮮労働党の間には朝鮮総聯を通じた交流関係があった。
宮本は1966年(昭和41年)、北ベトナムと中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国の三国を訪問する。2番目の訪問先となった中国・上海で中国共産党主席毛沢東との会談に臨むが、この席上毛は日本共産党の活動を「修正主義だ」と批判、当時始まったばかりだった文化大革命の路線に日本共産党も従うよう求めた。宮本は毛の発言を六全協、さらに第7回党大会で自身の手によって完全否定していた所感派を中心とする武装闘争路線の復活につながると受け取った。そして毛の意見を受け入れることはできないどころか、中国、ソ連への追従によって一度は壊滅的打撃を受けた過去の反省からも党としての関係を断つべきと宮本は判断する。日中両党関係は完全に決裂、宮本が議長を引退した翌年の1998年(平成10年)、後を継いだ不破哲三が「中国共産党側が過去の誤りを認めた」と述べて和解するまで30年以上も交流が断たれた。
翌々年の1968年(昭和43年)に北朝鮮を再訪問して当時首相だった金日成と会談。宮本は金日成が考えていた武装南進政策に対して批判をした。
1970年代初頭に、金日成の誕生日を祝うという『事業』が行われる頃から、両党の関係は冷却し、1983年(昭和58年)のラングーン事件において、日本共産党が朝鮮民主主義人民共和国当局の犯行であると表明して両党の関係は断絶した。1987年(昭和62年)の大韓航空機爆破事件のとき、宮本は即座に朝鮮民主主義人民共和国当局の犯行であると認識したと萩原遼は回想している。
査問問題の再燃
1974年(昭和49年)6月26日、民社党中央執行委員長春日一幸は『毎日新聞』の参議院選挙取材で、「スパイ査問」事件を取り上げ、「宮本は小畑をリンチで殺した」と主張。選挙での日本共産党批判に使った。日本共産党は「小畑は特異体質により死亡したもの」と抗議した。1975年12月10日発売の『文藝春秋』1976年1月号に掲載された立花隆の連載「日本共産党の研究」において裁判の公判記録が公開された。この記事を発端として、宮本の復権に関する問題と、リンチ事件の詳細が国会でも論議された。この影響か、同年の第34回衆議院議員総選挙では、共産党は議席を大きく減らした。
参議院議員
1977年(昭和52年)7月、第11回参議院議員通常選挙で全国区から初当選し、1989年(平成元年)まで2期12年務める。 1982年(昭和57年)7月から8月にかけて開催された第16回大会1中総で中央委員会議長に選出された。
晩年
1990年(平成2年)、日本共産党第19回大会では、ルーマニア問題や官僚的党運営を批判する意見が「赤旗評論特集版」に掲載されたが、反対意見の持ち主は党大会代議員に選出されることはなく、「宮本議長の冒頭発言」を含むすべての議案が満場一致で採択された。だが、この大会ではじめて、中央委員・准中央委員選挙の得票数を公表し、宮本顕治の不信任票は14票であり、当選順位は下から6番目であった。
1994年(平成6年)、日本共産党第20回大会では、病気欠席し、大会へのメッセージを立木洋が代読した。宮本顕治の去就が注目されたが、「余人をもって代えがたい」として引き続き党中央委員に選出され、第1回中央委員会総会でも中央委員会議長・幹部会委員・常任幹部会委員に選出された。
1997年(平成9年)9月、第21回大会で欠席のまま「引退」し、「名誉議長」に退いた。この「引退」について筆坂秀世は著書『日本共産党』の中でこの大会の際にも宮本には議長を退任する意思がなく、不破哲三が大会期間中に東京都多摩市の宮本邸を訪問し、高齢であるから退任するよう要求し、宮本が渋々それを受け入れたと主張するが、不破哲三はそれに対する反論文の中で大会開催前から宮本の説得は完了しており(ただその説得の際に宮本が渋ったことは不破も触れている)、自分が大会中に東京へ戻って説得にあたったなどという事実はないと主張しており、意見が食い違っている。
2000年(平成12年)11月、第22回大会で「名誉役員」に選ばれる(「名誉議長」のポストは廃止された)。
晩年は多摩市の自宅で療養生活を送った。2007年(平成19年)7月18日、老衰のため渋谷区の病院で死去。享年98。
宮本の死去について自民党の元内閣総理大臣中曽根康弘は、宮本に対し一定の評価をしたコメントを発表した。
[ 戦争が終わってから、いろいろな困難や妨害にも遭遇しながら共産党の骨組みを作り、力を伸ばしていった。国会では野党として自民党内閣に一番厳しい態度を取ってこられた。考え方、政策は違うが、信念を貫いて堂々とおやりになる姿を見て敬意を表していた。私が首相になって間もなく国会で質問を受けたが、かなりよく準備された質問で論理的に攻めてきた。敵ながらあっぱれだと感じていた。]
この他衆参の議長やほぼ敵対的立場にある創価学会の池田大作からも弔電が寄せられた。葬儀は近親者による密葬で行われた。これとは別に党葬が行われた。
人物像・その他
前妻は宮本百合子、後妻は大森寿恵子(宮本百合子の元秘書)。元北海道大学大学院教授、現中央大学法学部教授の宮本太郎は、寿恵子との間にできた長男である。
現在の日本共産党幹部会委員長志位和夫は宮本の家族の家庭教師であった。その教え子は長男・太郎である。
政治以外の話題としては「ポルノ番組批判」をしたことが挙げられる。1975年、「11PM」(日本テレビ系列)「独占!男の時間」(東京12チャンネル)に代表される女性の裸体を売りにした番組が多いという現状に憤り「今の商業テレビ界には女性を軽視した番組、ポルノ番組が満ち溢れている」と批判した。この発言をきっかけにポルノ番組追放キャンペーンが展開された。ただしにっかつロマンポルノに関しては批判を行わなかった。この背景にはポルノ移行を主導したにっかつ労組が共産党系であった事も背景にあるとされている。
1988年(昭和63年)2月6日の衆議院予算委員会で、正森成二の質問中に、予算委員長浜田幸一が「共産党査問リンチ事件」に関する発言が問題となり、予算委員長を辞任した事件が起きた。
81歳を迎えた際に日本将棋連盟から将棋盤の升目数81にちなんで盤寿祝いとして名誉段位を受け取った。
引退時の詳細については、離党した筆坂秀世が、著書で自身の見解を明らかにしているが、名前を出された不破哲三は、筆坂の見解は妄想に類するものだと反論している。
2007年(平成19年)7月20日付けの日本共産党中央委員会の機関紙『しんぶん赤旗』における宮本の死についての記事は新潟県中越沖地震に於ける党活動に関する記事に次いで一面二次扱いであった。この事について赤旗編集部は「意図的に出来事を小さく書いたつもりは無い」とコメントしている。
1970年代には、宮本顕治宅の電話が創価学会の学生幹部により盗聴されるという事件が起こっている。1980年には創価学会の元顧問弁護士であった山崎正友が、自らと創価学会幹部数人が盗聴したと、週刊誌に発表した。同年、宮本は民事訴訟を起こし、創価学会に損害賠償を求めた。東京高裁で創価学会に賠償を命ずる判決が下り、判決が確定した。判決では創価学会幹部の関与が認定されている。
宮本顕治宅盗聴事件で犬猿の仲と見られている創価学会であるが、宮本の死に対し、学会名誉会長池田大作は弔電を送っており、その件は『しんぶん赤旗』でも事実のみを報じた。
好物はお気に入りの店から取り寄せたうな重と日本酒の『菊水』であった、と『週刊文春』の記事にて、筆坂秀世が証言している。
好きな音楽はモーツァルト、フォークソングである。
趣味は卓球と将棋である。将棋については、『しんぶん赤旗』主催の新人王戦決勝三番勝負を将棋会館にて観戦、対局者と夕食をともにすることもあったという。
SF作家小松左京の代表作の一つ『日本沈没』の中で、危機に直面した内閣総理大臣が「自らが行わなければならない決断を代行できるかもしれない人物」として、宮本をモデルにしていると思われる政治家に一瞬想いを馳せるというくだりがある。 
宮本顕治2
共産党のエライ人だったという「宮本顕治」さんって、どんな人だったの?
拷問に屈しない伝説の闘士でしたが、現在の硬直化した党の体質を作った人でもあります。
2007年7月18日、98歳で亡くなった宮本顕治さんは、戦後の日本共産党を担ってきた代表的幹部で、レッド・パージの弾圧と路線対立で分裂した党を再建した立役者でした。80年代いっぱいまでは絶大な権勢を誇っていました。
しかし、実際のところ共産党に関わった人、特に党を去っていった人からは毀誉褒貶がさまざまに論じられる人物でもあります。党内運営がとても強権的だったのですね。自分の意に沿わない幹部や党員には、屈辱的な”自己批判”をもとめ、それに従わなければ追放もいとわなかったのです。
まあ、宮本さんについては70年代半ばから「スパイリンチ殺人疑惑1」などが取りざたされ、「真相はどうなんだ」といまだに言われているのですが、こうした問題の真偽を語るには、私の見聞は足りません。立花隆さんによる『日本共産党の研究』のような立派な研究書がありますので、興味ある方はそちらをお読みいただきたいと思います(私がこれをお勧めすることで、心中を察してくださいね。)
まあ、そんなことより専従生活の中でかいま見た宮本さんの君臨ぶりや、人となり何かを紹介するほうが、私からの材料提供としては相応しいと思います。
宮本議長の言葉は特別の重みがあるとされた
ともかく、党内では宮本顕治という名が出ると、上は中央委員会から下は地区委員会まで、まるで”神”のような扱いだったことがありました。80年代中ごろの話です。
また、このころまでの日本共産党の「中央委員会決定」の文書というものは、『赤旗』に掲載されると全体紙面の半分を占めるほど長かったです。それは、宮本議長の冒頭発言、不破哲三委員会の幹部会報告、金子満広書記局長の専門分野についての捕捉報告、宮本議長の中間発言、不破委員長の討論のまとめ(結語)といった具合に長文の文章が続いたからです(肩書はいずれも80年代半ば頃の代表的なもの)。
党の地方組織である地区委員会の専従職員は、各地にある党支部で党員に「決定」を読んでもらったり討議してもらったりするために、手分けして指導援助に入るのですが、時には新聞で15ページ前後にもなる長くて何回な中央委員会決定の全文を、党員すべてに呼んでもらうのは困難でしたね。
だから、内容をかいつまんで説明することになるんですが、その際、他のどの部分よりも重要視してはならないと考えられていたのが、宮本議長が述べている部分です。
失敗しても、失敗の責任は”理解不足”の末端にある
支部へ始動に入る前に専従職員は自分たちが党員の誰よりもよく理解していなくてはならない建前です。だから、次善によく読み込んだ上で機関としては一級上の委員会(地区委員会の上なら都道府県委員会)の会議で説明を受け、討議してきた地区委員長からよく説明を受け、時間をかけて討議しました。
もちろん、討議といっても「不破さんの言っているところの、ここは^違うと思います」「自分はこう思います」なんて自由に報告や発言を批判したり、自分の考えを対比したりする、世間一般で行われているような「討議」ではありません。
「ここの部分は、こうこうの意味が込められて述べられている」とか、「不破さんは、ここでこういう意味のことを言っているのだと思う」みたいな、中央委員会決定はすべて正しいという前提での解釈論議をするに過ぎません。だから、その後の活動でなにか失敗が起きると、これらの中央委員会決定を振り返りながらもそれを批判することはなく、「われわれの中央委員会決定に対する理解が〇〇の点で足りなかった」「地区委員会がよく理解しなかったから、支部の認識にすることもできなかった」というような”自己批判”と呼ばれる、もっぱら自分を責める、中身のない反省ばかりすることになります。
「ミヤケン」と聞いたら直立不動になる雰囲気
そんな批判の対象や失敗の原因になることはあり得ない「決定」の中でも、宮本さんの発言を取り上げるときは、他よりさらに特別扱いといった感じでしたね。いまでも私は、地区委員会が一瞬、全身を緊張させるように「(宮本)議長が・・・」といった言い出しで宮本さんの発言について説明を始める場面が何度もあったこと思い出します。
若い読者の方にわかるかなァ、日本の戦争映画なんかで軍人を演じている俳優が「畏れ多くも(天皇)陛下が・・・」というと画面の中の登場人物が突然、直立不動の姿勢となる、あの感じに似ています。「神聖にして冒すべからず」というような。
また、50年代くらいから入党し、党分裂の苦難期を超えてきたようなベテラン党員たち(専従ではないか、専従は退職していまったOBたち)には、公然と「風雪に耐えたミヤケンさん(宮本さんの愛称)に比べれば、不破なんかまだ青い」「不破は頭でっかちなことばかり言う」と宮本さんを天まで持ち上げながら、不破さんについてはケチョンケチョンといった発言をする人もいました。最近の不破さんの君臨ぶりからは考えられない状況ですね。
共産党史の生き証人だから特別の重みがある
ともかく、宮本さんが党内で絶大な権威を誇った背景には、戦前期からプロレタリア文学の立場から文芸評論で優れた業績を残した著名な女流作家、宮本百合子さんと結婚し2、そしてなにより獄中でも非転向を貫いたことが挙げられます。
「非転向」とは権力側に屈服して懺悔したり、思想の放棄を表明せず、党員としての初志を取り調べや圧力、拷問などに負けずに貫くことです。言うはたやすいですが、戦前期に逮捕・入獄3した共産党員で非転向を貫けた党員はほとんどいなかったんです。
そして獄中から百合子さんと心のこもった書簡のやりとりをして、戦争や日本の行く末をゆるぎない信念で語り合ったというエピソードがあります。宮本夫妻のこのやりとりは、『十二年の手紙』として当初は青木書店、後に共産党直系書店の新日本出版社から刊行されています。
実際、スパイリンチ事件で逮捕された後の宮本さんは凄まじい拷問を特高警察によって加えられたんです。学生時代、柔道で体を鍛えられていたので耐えられたそうですが、『蟹工船』の作家、小林多喜二なんて捕まって数時間でショック死してしまったほどの凄まじい拷問です。
手を縛って天井からつるしあげ、太ももを木刀でガンガン叩きのめしたり、柔道の締め技をかけて何度も仮死状態にさせたりし、その都度蘇生させるというようなひどい拷問です。
宮本さんはこれに耐え抜いたんですが、拷問の後遺症で両腕は肩までしか上がらなくなっていましたし、足の筋肉細胞が壊されてしまって、戦後もずっとリハビリが欠かせなかったそうです。これらは、宮本さんのヒミツや側近だった人から直接、聞いた話です。
これほどの過酷な体験をした、まさに共産党史の生き証人の口から出る言葉は特別の重みがあるように感じられましたね。
だから「あんなこと、自分は耐えられないなあ。でも信念を守るために頑張った宮本さんはスゴイ」なんて、たいていの党員はこうしたエピソードに感じ入っていたわけです。
猜疑心や人間不信は強い。不破・上田兄弟への仕打ち
でも、こうした凄まじい体験は、宮本さんの心中にふの遺産を残していたんじゃないでしょうか。私は、数度した傍に近寄ったことがなく(一種の臨時ボディガードをやったんです)、会話なんか交わしたことはありませんが、目つきが異様に鋭く、猜疑心がつよそうでした。極度の人間不信というか・・・・。
実際、宮本さんと数十年にわたって一緒に活動してきた老党幹部(今は故人です)から詳しく聞きましたが、宮本さんは常に、身近な党員でも「いつか裏切るんじゃないか」という目で見ていて、少しでも自分と違う意見を述べたり、まして批判めいたことを述べたりしたら近くから遠ざけたり、ひどい時は左遷・更迭したそうです。
それは不破哲三さんに対する態度にも如実で、しょっちゅう頭から批判を加え、70年代はじめには不破さんと兄の上田耕一郎さんが十数年前に書いた著作の”誤り”を自己批判させ、それを党の理論政治誌である『前衛』に発表させるような異常な措置をとりました。 
宮本顕治3 宮本論
「宮本の場合、政治方針にしても、組織方針にしても、一切総てが借り物なんです。これといって独創的なものはありません。それは学校の頃からそうだと思いますね。私は、松山高校で、彼の3年後輩に当たるんですが、その頃だって、彼よりも共産主義の運動で、もっと選れていたという人物はいたんですからね。彼の取り柄は、なかなかシッポを出さない粘り強さです。だから政治家だと云う評判になるのです。下手に動かないから、偉い人物のように見える点はありますね。しかし、借り物では結局は駄目です。理論だって、政策だって、全部借り物で、徳田球一もそうだったけど、徳田には政治的な直感はありました。宮本の場合は政治的直感は借り物です。あの人の本質は、待機主義です」(日本出版センター編「日本共産党史−私の証言」)。
「日本共産党においてもっともスターリンの性格に酷似しているのは、徳田球一ではなくて、宮本顕治であるということも非常に興味深いところである。徳田球一も同じような独善的性格、対立者への異常な憎悪を多分に持っていたが、彼はスターリンのように陰性ではなかった。極めてあけっぴろげで陽性であり、本当に自己批判しなければどうにもこうにも突破できないときにはあっさりそれを表明した。‐‐‐宮本は陰性な性格ばかりでなく多少の理論的扮装をこらし、また形式犯を犯さない点でもスターリンによく似ているし、反対派を叩く時には冷酷無残な方法を辞さない点でもスターリンに酷似している。自分に不利とみれば既に歴史的事実となった徳田や自分の自己批判さえも隠蔽し切る。そういう点では、スターリンがレーニンの遺言を隠蔽しきったのと瓜二つである。偽りの党史をつくる点でも、またその中で平然と自己美化する点でも同じである」(「代々木は歴史を偽造する」)。  
宮本顕治4 宮本論
「宮本の思考方法の特徴は、個々の事物や事件を切り離し、自己運動の発展として、また全体との関連においてみるのではなく、個別的.孤立的にみ、しかも形式論理と詭弁ですり抜けるところにある」  
宮本顕治5 宮本論
哲学者・古在由重氏は晩年、宮顕に対し、「この天皇制共産主義者め!」と罵倒しながら、「この党が崩れ行くのが自分の眼にはみえる」と云いつづけ、宮本宛の手紙を何通も宮本宅や党本部に叩きつけて死んでいった。 
 
雑話

 

死去前の百合子と宮顕との不仲考  
「プロレタリア・ヒューマニズムとは何か−宮本顕治氏の所説について−志保田行」と「不実の文学 −宮本顕治氏の文学について 志保田行」は、「死去前の百合子と宮顕との不仲」に言及している。
「死去前の百合子と宮顕との不仲」につき、志保田氏が初めてこの事実を具体的に明記した。それは、「宮本顕治が言ったことと、やってきたたことは違う。それを証明する具体的な行為の一つとして書いた」との思いから為したとのことである。
これに対し、下半身行状指摘批判論は卑怯なりとの立場から逆批判する向きもあったようであるが、思うに一概には言えない。「小泉首相の人格と資質を問う」問題にも通底しているが、これを為さねばならないこともある。なぜなら、一般に、組織の長たる者はその責任の重さ故に、あらゆる角度からその長の指導能力あるいは指導傾向が検証されるべきであろう。この場合、政治的能力及び指導がその長の人格識見、下半身行状に密接な関係が有ると認められる以上、検証を客観化させるためにも長の人格識見論、下半身行状探査は必要と云えよう。
ましてや宮顕の場合、百合子死後に「多喜二・百合子賞」を創設し、あたかもプロレタリア作家としての百合子の地位を持ち上げているかのように装いつつ、その実は徹頭徹尾「百合子死して後までの政治利用」に過ぎない行為を権力的に為しているからである。我々は、「百合子死して後までの政治利用」を許さないためにも、「死去前の百合子と宮顕との不仲」を検討し、「百合子自身が著作権印税の党への寄付」を申し出ており、「宮顕に死後まで政治利用されることを嫌悪していた」史実を明らかにし、宮顕の暴挙に掣肘を加えねばならないと思うからである。「死去前の百合子と宮顕との不仲考」、「百合子の著作権収入考」はそのことを判明させる意味で価値が高い。ここでは「死去前の百合子と宮顕との不仲」を考察する。 
宮顕と百合子秘書との親密考
志保田氏の労作により「宮顕と百合子の秘書との親密さ」が明らかになった。この二人の親密ぶりは、百合子臨終の際に、宮顕は百合子の秘書大森寿恵子宅へ行っており、当然臨終の立ち会いができていないほど非礼のものとなっていたことも明らかになった。その百合子の死因をめぐって死亡診断書が書き換えられていることも明らかとなった。ここでは、「宮顕と百合子秘書との親密」を検証する。
大森寿恵子氏は当時30才にして、「百合子の内弟子として秘書兼お手伝いとして同居」とある。しかし、「百合子の内弟子として秘書兼お手伝い」までは認められるとしても、「同居」とあるのは如何なものだろうか。日共党中央系の記述には、こういうところに用意周到に練られたイカガワシサがある。
寺尾五郎氏は、百合子と大森寿恵子氏の初期の関係を次のように述べている。
「大森寿恵子さんはお百合さんの秘書で、じつはSという若者と一緒になる話になっていて、私はいいことだと思っていた。Sは私の早稲田の後輩の早稲田細胞の一員だった。寿恵子さんは才媛であり、感性の豊かな、感じのよい人だった。寿恵子さんは、お百合さんの文学関係の秘書で、資料集めや、出版社との連絡で、一日おきくらいに中条邸を訪ね、お百合さんと打合せをしていた。お百合さんも寿恵子さんのことを『いい子ねえ』と賞めていた」。
寺尾五郎氏は、宮顕と大森の仲について次のように述べている。
「私は一九四七年の二・一ストの前に、四国地方に派遣され、東京から離れたのだが、私の感じでは宮顕と寿恵子はその頃から関係があったように思う」、「宮顕、お百合、寿恵子の関係を私たちがうすうす知ったときも、そのままうまくきりぬけることが望ましいと思っていた。宮顕が寿恵子にグラグラッとなびいたのも、寿恵子が宮顕に飛びついたのも自然のことだ。そのことに私は大した反感を覚えなかった。仕方がないと思っていた。当時は、私も宮君も、まだ宮顕を大いに尊敬していた。しかし、いまさらお百合さんを袖にすることは断じてまかりならぬ、と私たちは考えていた」。
百合子の大森寿恵子氏への好意はその後、大森寿恵子氏が宮顕と親密になることで嫌悪へと転換している。米沢鐵志氏(当時62歳、宮本顕治秘書K氏の友人)は次のように証言している。
概要「いま日本共産党幹部会員のK氏と私とは、彼が広島高等師範学校に在学し、私が中学一年生くらいの時からの知り合いだ。K氏は一九五〇年の末ころ、共産党中国地方委員会から派遣されて、宮本氏の秘書になった。(後になって)K氏は他に訴えるところがないためか、東京時代の思い出を語るなかで、折にふれて、昔からの知り合いである私にもらしたことがある。それは百合子さんが死ぬ前に大森寿恵子さんを嫌っていた、ということだ。宮本顕治氏を含めたこの三人の複雑な関係が、当時一七、八歳の私にも感じとれた」。
次の証言も有る。
ちなみに、今宮本顕治氏夫人になっている大森寿恵子氏の人柄を物語るエピソードがある。寿恵子氏は党員の娘ということで、戦後、百合子氏の秘書になったが、百合子氏は非常に嫌っていたという。顕治氏が公職を追放され、非公然活動に入らねばならぬ頃、「もし何かのことで捕まって、警察に連れていかれて、顕治さんに引会わされたとき、あなたは最後までこの人を知らないといいなさいよ」、百合子氏がまさかの折りに備えて教えたところ、寿恵子氏は「おほゝ」と笑い、「まあ、そんな馬鹿なこと」と答えたという。 
宮顕の不義密通批判言説について
百合子氏死去よりわずか三、四年前の1947年、顕治氏は「共産主義とモラル」という評論を発表しているが、映画「シベリア物語」をあげ、文中で次のように書いている。
「こうゆう作品がスターリン賞をうけ、国際コンクールで一等になっているのです。そこで出てくる恋愛のモラルは、三角関係とか姦通を当然とは考えていない。ブルジョワ社会では古典的なともいえる貞節の感情。これは恋愛にあらわれるソビエト社会の一つの相であります。ソビエトの人がすべてこういう健康な恋愛をしているのだとはいえませんが、しかし、そういうものが基調的に肯定されて、それが一つの美しい物語として展開されるのであります」。
「ソヴェトで、コロンタイの恋愛論が一時問題になりました。それによると、たとえばここに夫婦がいる。夫は任務を帯びて、一人でひじょうに遠い地方で働いている、もしその場合、性的衝動があれば抑制する必要はない、ということをいうわけです。これはやはり、そうではなくて、夫婦が互いに相手に対して貞潔を守りあう感情で貫くべきです。そういう問題に対しては、自分は動物ではなく、人間社会におけるいろいろな規準のなかで生きているという立場から、そういった衝動的な感情を抑制する必要があります」。
宮顕は、1992年の赤旗まつりでも次のように述べている。
「仲間の人が困っているときにこそ世話するのが、人間を大切にする第一歩であり、同志愛のある党生活であります。プロレタリア・ヒューマニズムが大事だといわれているのもそのことです」。
宮顕のかような言説は断続的に説き継がれてきており、枚挙にいとまないので割愛する。  
死去前の百合子と宮顕との不仲考
百合子の「風知草」は既に、宮顕を重吉の名で登場させながらその非共産主義的、家父長的権威主義の実態を暴露していた。抑制された筆致ではあるが、顕治氏との確執をも記している。この振幅はその後強まりこそすれ逆にはならなかった。 
岩田英一氏は次のように証言している。
「それは、一九五〇年一月のコミンフォルムによる日本共産党批判の後、同年六月のマッカーサーによる共産党中央委員全員に対する公職追放の前だと思うので、たしか同年四、五月ごろだったのではないか、共産党本部での立ち話だった。当時、私は党本部内で選挙闘争関係の仕事をしており、宮本百合子はまだたしか党の婦人部長をしていて、党本部内で顔を合わせる機会はおおかった。
そのとき、宮本百合子は私にこういう趣旨のことを言った。『顕治さんは困ったものです。うちの秘書とできているみたいです。未決拘留の一〇年間は毎月のように面会に行き、食べ物や本の差し入れをし、汚れた衣類の交換をして尽くしてきたのに、それがこのように冷たくされるとは予想もしなかった』。涙を目に溜め、溢れんばかりだった。
私は同情して、『百合子さんも大変だなあ。今になってそういう仕打ちをするのはひどい。しかし、あんたの方が一〇歳も年上だから無理もないなあ。生理的にいっても難しいんじゃないの』と意見をいい、『考えた方がいいですよ』と暗に離婚も考慮のうちに入ることを示唆した。
藤本功氏も次のように証言している。
「百合子さんが亡くなる直前、神山茂夫氏が訪ねたとき、彼女は髪の毛を振り乱し、むしった髪の毛がテーブルの上に落ちていた。怒って気が動転していた。それは顕治氏と意見が合わぬことのようだった。私は神山氏に多くは聞かなかったが、女の問題だけでなく、政治方針にも反対だったのではないだろうか。これは百合子さんが死んだ後、神山茂夫氏と東京のどこかで会ったとき聞いた。神山氏は百合子さんと親しく、人間に思いやりがあったから、ちょいちょい彼女を家に訪ねたらしい」。
が、宮顕にはこの種の逸話が皆無であることも解せない。百合子との間のやり取りにもかような部分が皆無であることに気づかされる。検閲がそうさせたというのであろうが、文芸作家ともなればいかようにも工夫はなしえたのでなかろうか、と思うけど。二人が語り合うのは、専ら宮顕の歴史法則的世界観における確固不動の信念の披瀝と相互の古今東西の文芸論の知識のひけらかしばかりである。残りの部分は、 それぞれの家族の現況と専ら宮顕からする山口の実家に対して百合子が嫁としての孝行を尽くすようにという下りである。
なお、この往復書簡集につき、それ以前の問題としてこのような書簡やり取りが他の政治犯に許容されていたかどうかの疑問もある。袴田「獄中日記1945年.232Pほか」によると、市川.袴田らの「ノートを使わせない、ペンを持たせない」ことに対する獄中闘争の様子が明かされている。あるいはそういう人権無視が常態ではなかったか、にも関わらず宮顕夫婦合作の書簡集とは一体どういう規制の下で往復を為しえたのであろうか、という疑問を禁じ得ない。
これについて、除名後の袴田は、「昨日の友宮本顕治へ」の中で次のように云っている。「私も獄中生活中、百合子から四季の草花を3回、寺田寅彦の本と法医学の書物を差し入れてもらっているので、その好意については多とする。しかし私の場合、妻はもとより、友人知人も二度差し入れにくると、必ず警察に引っ張られた。私の体験からすれば、百合子がどうやって宮本にあれほどの差し入れをすることができたのか、その謎はいまもって解けない」。
もう一つ気になることがある。 「査問事件」の真相をめぐって二人の間には箝口令が敷かれていたのかと思うほど触れられていない。二人とも時事社会問題に関心の強い文芸作家である。当然の事ながら宮顕が関与した事件の真相をお互いに伝え合うことに何のためらいがいるであろうか。なぜ百合子は尋ねていないのだろう。百合子は法廷にも出ているわけだから確かめることは多々あったと思われるのに。これも検閲のなせる制限であったのだろうか。
宮顕と百合子が唯一衝突した場面が記されている。宮顕は、百合子38才記念の贈り物として、第一の贈り物は堅固な耐久力ある万年筆、第二の贈り物はマルクス・エンゲルス二巻全集、獄中の身でこれらをどうやって送り得たのかは判らない!が贈呈している。この時併せて中条の名前で小説を発表するのを止め、今後は宮本姓にしてはどうかと最大のプレゼントをしたようである。宮顕の大変な自信家というかいやはや何とも言えないものがあるが、この時初めて百合子は抵抗を見せている。百合子は「中条百合子」に愛着を示したのである。「名のこと、私は昨夜もいろいろ考えたけど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか?---そのことでは率直に言って大変悔しかった。そして何だか腹立たしかった。私の生活の土台!」、 「あなたはご自分の姓名を愛し、誇りを持っていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ言えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自確固としていてこそはじめて比類無き妻であり得ると信じます」と反発したのである。
結局、宮顕は、百合子の反対の前にこの提案を取り下げた。が、8ヶ月後に百合子は自分から宮本姓を名乗ることを公にした。既述したように戸籍上だけの姓の変更はすでになしていたが、この度ペンネームもまた中条から宮本へと改めることにしたということである。百合子の無期囚の夫に対する思いやりであった。10.17日始めて宮本百合子名で作品発表する。
以降彼女の身辺も忙しく、検挙・拘留を繰り返す。最終的に保護観察処分に附されるが、担当主事は特高課長毛利基であったようである。偶然かも知れぬが、こうして宮顕も百合子も毛利氏の掌中に入れられることになった。ここでも不思議なことが明らかにされている。前掲の平林たい子「宮本百合子236P」によれば、宮顕は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮顕は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。
なお、百合子に関しての疑惑もここに書いておくことにする。女流作家平林たい子も検挙されたあと病床にあったが、その病床を見舞った知人が、百合子が満州国大使館の招待した婦人作家の集まりに出席していたことを知らせている。「私には信じられなかった。が、その人は自分の目で見たことを力説した」とある(平林たいこ「宮本百合子」238P)。これが事実とすると、百合子も転向していたことになる。確かに、著作「風知草」には、文学報告会の作品集に小説を出そうとしたことについて、ひろ子(百合子)と重吉(顕治)との会話が綴られている。「いわゆる『時局に目覚めた』転向はごく彼女の身辺近くまで及んでいたのである」と平林は控えめに書いている。
この間百合子は可能な限り面会に出向きまたは手紙を書き上げており、宮顕の健康を案じて言われるまでもなく差し入れ弁当を業者手配で届けており、冬着・夏着・布団と時期に応じて届けている様もうかがえる。言われるままに幾百冊の本と薬と栄養剤を届けてもいる。家計の心配をほとんどすることなく、 百合子に注文することができたということであったように思われる。
宮顕の読書量については、自身が次のように述べている。「(刑務所生活では、)基礎的勉強に眼目を置き、自分で読書部門を六部門(一)現代についての具体的知識、(二)社会経済史、(三)マルクス主義の三つの源泉と云われる近代部門、(四)文学.芸術、(五)語学、(六)軍事科学等に分けて始めたコースで、初年度は約170冊読んだ」(「私の読書遍歴」)。その具体的著作は「十二年の手紙(1934.12.13日、市ヶ谷刑務所)」に記されている。
この宮顕の読書の認可について疑問がある。他の共産党員被告の場合、「囚人に許される読書は、その種類も冊数も、極めて限られたものであった。その頃の規定では、一ヶ月に雑居房では3冊、独居房では4冊しか読むことが出来なかったし、内容も、政治経済や時事問題にわたるものは禁じられていた。結局、許されるものは、古典や宗教書や、独にも薬にもならない修養書や、自然科学書などに過ぎなかった」(杉森久英「徳田球一」)のが通り相場なのではなかったか。こう云う面から宮顕についてはおかしなところがあり過ぎる。
実家の面倒を見ろ云々も半端なものではない。病める体を無理して顕治の要求するままに顕治の実家へ何度も出向かせ、親孝行させるのみならず親戚中にも金払いを良くさせてもいる。こうした百合子が宮顕の実家で見せる心配りは封建的賢婦の鏡を彷彿とさせるものがある。書籍に対してあれを探せ、これを送れも次から次ぎの注文であり「甘え」というレベルのものではない。実際に確かめられたら良いかと思う。どうやら百合子の父の財源が頼りにされていた節がある。時に躊躇を見せた百合子に送った手紙の文面は、「金の具合はどうなのか。ユリのゼスチュアはいつもピーピーらしいから−今月はないとか、不定期にしたり、少なくしたり−無理は頼みたくないから本当のところを知らして欲しい云々」というものであった。嫌らしい婉曲話法で百合子の躊躇を叱咤しているように窺うのは穿ちすぎだろうか。 
こうした獄中生活は、他の同志のそれと比較してみた場合いかほど奇異な 豪奢な生活であったか、と私は思う。他の共産主義者たちは検挙されたその日から我が身に仮借無い拷問が浴びせられ、残った家族の生活を苦慮していたのではないのか。面会人が訪れることもなくあったとしても世間体を憚りながらの僅かにあるかなしかの身の者が通常であったことを思えば、宮顕はいかほど幸せ者であったことであろうか。
ちなみに、宮顕は百合子の差し入れる弁当により、同じ獄中にある共産主義者もうらやむ上等な食事をとることができたとも、「他方で、宮本は、11年間過ごした巣鴨について、そこでは収容者を殴ることを日課のようにしていた看守たちから、彼自身は殴られたことはなかったと書いている。宮本が巣鴨刑務所に服役中、隣の房に入れられていた運動家が証言しているところによると、宮本はいつも上等の差し入れ弁当を食っていた、という。官給のモッソオメシと云われた臭い飯しか食ったことのない者からすれば羨ましい限りであったとも云われている」(中村勝範「宮本顕治論」217P)とも書かれている。
この宮顕に関する飯談議では次のような話もある。「寺尾と何処で結びついたか確かな記憶はないが、彼(寺尾五郎のこと−注)は戦争中、神山茂夫の獄中闘争を間近に見て痛く敬意の念を持ち深く傾倒していた。そんなことが底流にあって、少年の頃から神山に指導され戦後も身近にいた私と党本部で出会って直ぐに心置きなく話し合える仲になったのだと思う。当時、彼は宮本顕治の秘書のようなことをしていた。私は党の都委員会のオルグで城南地区の主に国鉄を担当していた。当時は戦後の食糧難で外食などする所は無く、党本部で働く人達は皆貧しい弁当を持ってきた。弁当を持ってこない者もいて、その連中が昼になると『昼めしにしよう』と呼びかけて他人の弁当箱の蓋を持ち上げて少しずつ分けてもらって食べていた。まさに共産党らしい頬笑ましい雰囲気であった。そんな時、私が幹部室に入っていくと、真白いご飯が目一杯つまったアルミの弁当を周囲に関係なく悠々と食べている男がいた。宮本顕治だった。そのことを寺尾に尋ねると、『いやーあ、あの弁当を毎日持たせるのに苦労しているのだ』と言っていた。宮本と同じ刑務所に入っていた労働者出身の活動家が、戦後『宮本の方には絶えず差し入れがあるのに自分の方は女房が生活に困るから離婚してくれと面会にきている。同じ運動に参加しているのにこれ程の差があるのか』という話をきいていたので、周囲におかまいなく一人弁当を食べている宮本の姿を複雑な思いで眺めたものだ」(新井吉生「若き日の寺尾五郎」1999.9.19)。
ここに貴重な証言がある。前掲の「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282 P)によると、「尾崎と4、5房先に神山茂夫がいた。この二人は顔が利くので、めったに買えない獄内売りのあめだまを手に入れられた。神山は時折房を出て勝手に廊下をよぎり、私の房の扉を開け、『おい、伊藤律がんばれ』とあめだまをくれたりした。その丁度真上に当たる二階の独房に宮本顕治がいた。三度とも差し入れの弁当を食べ、牛乳を飲み、尾崎の薄着とは違いラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていた」とある。
屋外運動の時には党員同志顔をあわすこともあったものと思われるが、この辺りの回想も伝えられていない。奇妙なことである。なお、この当時の神山の奇妙な言い回しが伝えられている。参考までに以下記す。「拘置所の幹部に、ここに宮本とおれが居るかぎり絶対に空襲は受けないよ、といってあったので、焼け残った後、獄中におけるぼくの威信はますます上がった」(「現代の理論」71.6月号、「一共産主義者の半世紀」)。
この神山の物言いに対して、高知聡氏は著者「日本共産党粛清史」の中で、「夜郎自大な狂気の言」と嘲笑している。が、私はそうは受け取らない。不思議なことに当時の獄中下党員で宮顕と神山は別好待遇を受けている形跡がある。神山のこの言い回しには何らかの背景が有るのではないかと私は見なしている。ついでに記しておけば西沢隆二も何か変な気がしている。
いわゆる宮顕の「網走ご苦労説」も正確に理解する必要があろう。宮顕が網走刑務所に服役したのは、6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間である。この頃の様子については、宮顕自身の「網走はそう長くないんです。戦争が終わる年の6月に行って、10月に出ましたから、一番気候がいい時期にいた訳です」(「宮本顕治対談集」116P)、「(網走には春、夏、秋と一番いい気候のときにおった)網走というのは農園刑務所と云いましてね。農作物を作る刑務所なんですよ。ここでジャガイモがうんととれる。東京の刑務所ではおみおつけの実が何もない、薄いおつゆでしたが、網走ではジャガイモがゴ ロゴロしていて、ジャガイモの上に汁をかけるようで、食料条件がよかった訳です。(中略)それで体重が60キロぐらいになったんですよ。60キロというのが 私の若い頃の標準でね。(中略)そういう訳でむしろ健康を回復したんですね」 (「宮本顕治対談集」376P)という回想録がある。なお、宮顕は次のようにも述べている。概要「網走の方が巣鴨よりまだはるかに衛生的だった。第一、入浴はまだ週2回あったし、しらみや南京虫も衣類や房にいなかった。こちらは、食事がほぼ定量つめられていて、ひどい空腹感はなかった。」(「網走の覚書」)。
「網走の覚書」には、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」と次のように記されている。「“捜検”といって、毎日、監房の検査を係りの看守がやって回るが、何か部屋の整頓が悪いとか掃除が不十分ということでも気まぐれにパンパンという高い音のする殴打を加えた。私が入って間もなく、私の房の番号を呼んでこの“捜検”の看守が扉を開けた。私は返事して立ち上がって房外に出たが、いきなりピシャリと平手が飛んできた。『殴るとは何だ---』と私が詰問すると、『その返事は何か』とどなりつけてきた。房から出る時私が『ハイ』とはっきり答えず、オイという風に聞こえたのがけしからぬというのである。そして私の名札を見てそれ以上は言わず行ってしまった。私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問したが、『それは悪かった。よく注意しておく』という回答だった」。
当人はかくも威風堂々さ、看守のみならずその長まで詫びさせる獄中闘争の様子を得々と語っているつもりのようである。わたしは、公判陳述の大嘘からしてこのあたりのそれも信用しない。信用したとしても、この程度のことに対して「看守のテロ」とは何と大袈裟なことかと思う。それと、「私は早速看守長に面会を申し出て、その暴行を詰問した」もおかしな記述である。宮顕の抗議を看守が聞き分け、看守長に伝わり、面会が出来て、暴行を詰問し得たということになるが、何と聞き分けの良い網走刑務所であることよ。時期は異なるが、徳球、市川正一元委員長らも厳寒の網走刑務所に居た筈であるが、その時の様子といずれ比較させて見たい。
私は、宮顕に対する「看守のテロ」は当初よりなかったとみなしている。その裏づけは、宮顕自身が、「(1933.12月の検挙間もなく)麹町の留置場でも看守から真冬に寝具もくれず、手枷足枷をかけて持久戦的拷問をやられた。しかし拷問の効き目がないと考えたのか、その後は警察の一年間、そうした肉体的拷問は受けなかった。市ヶ谷.巣鴨の11年間でも、収容者をなぐる蹴ることを何とも思っていず、日課のように繰り返している看守たちからは、直接なぐられたことはなかった」(「網走の覚書」)と記していることが貴重である。
当人はこの後に続けて獄内待遇改善闘争の「札付き」になっていたが、「それらの闘争の中でも、正規懲罰を加える口実と隙はつかまれなかった」(「網走の覚書」)からであるとしているが、うそ臭い。どういう理由付けしようとも、殴られることが無かったことは確かなようである。とすれば、「網走刑務所は、看守のテロの点では、巣鴨よりもっと野蛮だった」も、宮顕自身に対しては嘘になるし、真実とすれば逆に巣鴨生活がいかに大甘なものであったかを逆証左することになろう。
45年(昭和20年)10.9日午後4時網走刑務所を出所した。宮顕37才、百合子46才の時であった。ところで、この9日出所も謎である。政治犯の一斉釈放は10.10日であり、宮顕の場合は袴田同様に「治安維持法は撤廃されたけども、一般刑事犯罪との併合で起訴されているので、その取り扱いが微妙であった時期」の一足早い出所ということになる。この一日早い出所というのも問題にされていないが、考えてみれば不自然ではある。
これについては、袴田の貴重な証言が為されている。「朝早くに所長がきて、『僕の責任で出すから出ていってくれ、『司法省に使いを出したけれども、その返事は待っておられない、君はハンストなんか宣言して、その体でどうするのだ。その責任まで負わされたらたまらない』と云って、これは彼の英断だったかも知れませんけどもね。宮本顕治同志が既に網走の刑務所から出所していたので、僕はそのことも云ったのです。『同じ罪名で無期懲役の宮本君が出ているのに、なぜ僕がここに閉じこめられていなければならないのか、君たち所長の責任だ』というものですから、彼は板挟みになって、『確かに治安維持法は撤廃されたけれども、その他の罪名は取り消しになっていない。従って併合罪があるので出せない』という通達が司法省からきているわけです。それで残していたんですね」とある。暫し黙して考えてみるに値するであろう。
百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。この十日間の宮顕の消息も闇に包まれている。同時期にあちこちの刑務所から開放された徳球、志賀ら指導者の面々は例外なく幾度にもわたって「GHQ」の調査を受けているが、宮顕にはその痕跡さえ明かされていない。これも不思議なことである。宮顕については「潔癖神話」ができるようにできるように作為されていると思う私は穿ち過ぎだろうか。
こうして宮顕は百合子の元へ帰ってきた。国分寺の自立会を訪れたのは10.21日と言われている。すでに全国から党員が参集し始めており、再刊赤旗の一号を背負って全国に飛び立っていたあわただしい頃であった。百合子はこの頃、宮顕に「後家の頑張りみたいなところができているんじゃないか」と言われたようである。これが百合子の12年にわたる心労に報いた宮顕の言葉であったらしい。
貴方は御自分の姓名を愛し、誇りをもっていらっしゃるでしょう。業績との結合で。女にそれがないとだけいえるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自立力をもち、確固としてこそはじめて、比類なく妻であり得ると信じます。良人にしても。私たちは、少なくともそういう一対として生きているのではないでしょうか。同じ一人の良人、一人の妻という結合にしろ、私は新しいその質でエポックをつくる、一つの新しい充実した美をこの世の歴史に加えようと暮らしております。 (宮本百合子「十二年の手紙の時代」)  
これは、中條百合子に宮本への改姓を獄中から要求してきた顕治に、百合子 が答えている手紙の一つの一節です。あのときに、こうしたことに執拗になっ ている宮顕に驚いてしまします。日共の運動はほぼ壊滅状態になり、日本全体 は戦争で呻吟している時期ですよ。百合子はこんな男と一緒にならなきゃ良かったのに。「伸子」の伸子がこれじゃ怒りますよ。
 
不実の文学 / 宮本顕治氏の文学について

 

宮地コメント
この評論は、労働者文学会議における、労働者文学賞入選作品である。文学会議は、機関誌『労働者文学』を年2回発行している。志保田氏は、1923年生れ、1949年から30年間、国鉄労働組合本部書記をやり、国鉄作家集団の会員である。そして、松川事件には、国鉄労働者として取り組み、仙台裁判に立会い、無罪要求大行進に参加し、被告とも交流してきた。このHPに全文を転載することについては、志保田氏の了解をいただいてある。文中の各色太字は、私(宮地)の判断で付けた。
このファイル〔目次〕2「松川運動と日本共産党」は、1961年から66年にかけての愛知県国民救援会問題を詳しく分析している。それは、松川運動を含めて、国民救援会運動の路線・方針をめぐる国民救援会本部=共産党中央宮本顕治らと愛知県国民救援会との対立だった。愛知県の事務局次長は、大須事件被告人・事件当時の共産党名古屋市委員長永田末男だった。宮本顕治は、この運動方針対立も真因の一つとして、1965年6月8日、永田末男と大須事件被告人・共産党愛日地区委員長酒井博を除名した。
宮本顕治は、「宮本は分派」という1951年4月のスターリン裁定に屈服し、1951年10月初旬五全協直前に、宮本分派=全国統一会議を解散し、志田重男宛の自己批判書提出で主流派に復帰した。よって、大須事件という火炎ビン武装デモ決行を命令したのは、1951年10月16日五全協で統一を回復していた共産党中央委員会・軍事委員会である。永田末男は、『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』において、宮本顕治が「党は当時分裂していて、当時の方針は党の方針とはいえないから、現在の党には責任もないし、関係もない」と、うそぶいて、恬として恥じない姿勢を、敵前逃亡犯罪者以外の何者でもないという怒りから強烈に批判した。永田末男は、宮本・野坂らの大ウソ、および、火炎ビン武装デモ実行者を「党再建上の邪魔者」と見なし、見殺しにする自己保身姿勢を「人間性の欠如」「知的・道徳的退廃」と規定し、批判している。
次に〔目次〕3「宮本百合子と宮本顕治」における、晩年の百合子と、顕治・大森寿恵子との関係の事実は、多くの共産党員、文学者たちが直接・間接に知っていたのに、全員が口を閉ざして沈黙してきた問題である。志保田氏が初めてこの事実を具体的に明記したことにたいして、「宮本顕治批判に当たって、女のことを持ち出すなんて」という批判も一部に出た。しかし、彼は「宮本顕治が言ったことと、やってきたたことは違う。それを証明する具体的な行為の一つとして書いた」と反論している。宮本顕治は、百合子死後、「多喜二・百合子賞」を創設し、その大宣伝をすることによって、彼が自ら創り出した百合子晩年の悲劇を日本共産党史のタブーの一つにし、党内外からも完璧に隠蔽することに成功した。よって、直接の証言者が居なくなって行く前に、誰かが「宮本顕治の不実さ」の証明となる事実を書き残す意義があると言えよう。
『異国の丘』ファイルにおいて、私は、宮本顕治の抑留記批判発言と百合子発言の違いを書いた。シベリア抑留記『極光のかげに』著者高杉一郎は、百合子の旧友であるとともに、百合子秘書大森寿恵子の義兄である。彼女は、高杉夫人の妹である。彼が、シベリア抑留からの帰国後、百合子を訪問し、事前に贈ってあった抑留記内容について話し合っていたのは、1950年12月末だった。その最中に、宮本顕治が突然2階から降りて来て、高杉一郎を批判した。「すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり『あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ』と言い、間をおいて『こんどだけは見のがしてやるが』とつけ加えた。私は唖然とした。返すことばを知らなかった。やがて彼は戸を閉めると、立ち去ってゆき、壁の向うの階段を上ってゆく足音が聞こえた。私は宮本百合子の方へ向きなおったが、あのせりふを聞いたときの彼女の表情はもうたしかめることができなかった」(高杉一郎『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年、P.188)。それは、百合子が51歳の若さで急死した1951年1月21日の1カ月前だった。 
まえがき
一九八九年一一月、ベルリンの壁崩壊に始まる自称社会主義諸国の解体は、これまでにおける闘争経験と理論のすべての見直しを迫る。その見直しの中で、かえって一層の光芒を放つのは松川裁判闘争である。この運動に大きな貢献をした広津和郎氏と、歴史の見直しに関心を示さない現日本共産党議長・宮本顕治氏の対比は興味あるテーマだ。
宮本氏は戦前、文芸評論家として広津和郎氏をとりあげ、「同伴者作家」論を展開した。書かれてから六〇有余年後にこの論文を検討してみたい。「同伴者作家」を動揺常ならぬものとし、その車軸を転回するよう求めたこの論文は現在、検証に耐えられるか。批評したものが卑少で、批判されたものの方が偉大であることにならないか。
『日本共産党の七十年』は松川裁判の勝利にほんの数行しか紙面を割いていない。同党はこの偉大な運動をどう評価しているのか。この党はむしろこの運動の内実をゆがめ、その経験を局限し、自党の栄光を飾る道具にしていないか。この傾向は宮本顕治氏が共産党内で実験を握るにつれて強化されていないか。
宮本氏は階級的世界観をヒューマニズムに対立させた。その世界観は宮本氏の行動にどのように現われているか。宮本百合子氏が急逝した際における顕治氏の行動がそれを示していないか。これらの検証を通じて、宮本顕治氏の文学が不実の文学であることが分かるのではないか。 
1、広津和郎と宮本顕治
東欧とソ連における自称社会主義諸国の崩壊は、われわれのこれまでの闘争経験のすべての見直しを迫る。私は一九四九年六月から一九八四年六月まで三〇余年を国鉄労働組合の書記として働いたが、あらゆる闘いの見直しのなかで、その価値を失わず、かえって、光芒を増やすのは松川裁判の闘争ただ一つのように思われる。
黒沢明の作品『隠し砦の三悪人』で、包囲された城から姫を脱出させる際、考えられる限りの困難な条件をシナリオに設定したと読んだ記憶がある。松川事件の被告たちはおよそ考えられる最悪の条件下に置かれた。
事件の発生は、一九四九年八月一七日、東北本線松川駅付近で列車が脱線転覆、乗務員三名が死亡した。この事件の犯人として国鉄労働者一〇名、東芝労働者一〇名の計二〇名が、九月一〇日から一〇月二一日までの間に、逮捕された。
第一審の裁判は同年一二月五日に福島地裁で始まり、判決は翌五〇年一二月六日で、死刑五名を含む全員有罪。
第二審判決は五三年一二月二二日、仙台高裁、死刑三名を含む有罪一七名、無罪三名。
第三審判決は五九年八月一〇日、最高裁大法廷、原審破棄、仙台高裁へ差戻し。
第四審判決は六一年八月八日、仙台高裁、全員無罪。
第五審判決は六三年九月一二日、最高裁小法廷、全員無罪確定。
事件発生のすぐ後に共産党東北地方委員会から福島へ派遣された松川運動の比類なき先達であるとともに、人に威張ることがなく、普通の人として通した小沢三千雄氏(84)に自伝『万骨のつめあと』(自家本、一九七四年刊)がある。
この本に第一審公判当時のマスコミの様子が次のように書かれている。
「当時の新聞は殊の外、捜査当局に密着協力し、デマ宣伝の最大の武器となっていた。それは、無罪が確定した後で、事件当時の福島民報永沢編集局長が『事件がおきると共産党がやったように書けと米軍から圧力がかかっていた』と弁護団に話したことからしても、占領軍−捜査当局−商業新聞が一体となって捜査方針即デマ宣伝がくりひろげられたことが裏付けできる。」
小沢氏がその大半を執筆した『松川運動全史』(労働旬報社、一九六五年刊)にはまた、第一審判決直前の様子が次のように書かれている。判決をまえにして、「あまりにもはっきり七法廷で被告の無実が証明されたことや、三鷹の勝利のこともあって、被告、家族も弁護団や活動家も、本当に有罪判決が行われようとは、実感として信じられなかった。」
判決はこの期待を真っ向から裏切った。
この頃、共産党はどうゆう状況にあったか。一九五〇年六月、中央委員会全員に公職追放指令がマッカーサーから出され、同党は主流派と国際派に分裂、翌年は武装闘争に突入、五二年一〇月の衆議院総選挙ではそれまでの三五議席が一挙にゼロに転落、松川裁判にかかわるどころではなかった。第六回全国協議会で一応、統一が回復されるのは五五年七月になってからである。
被告たちが所属していた国鉄労組、東芝労組も、一九四九年の首切り反対闘争に敗北、新しい指導部は被告たちをむしろ敵視した。被告たちはいったい誰に、どこに頼ったらよいのか。これこそ、考えられる最悪の条件であった。一九五三年の第二審判決が近づく時期の模様を、『万骨のつめあと』は次のように伝える。「さて、判決をまえにして公正裁判要請の運動がたかまるにつれ、ジャーナリズムは、また松川事件を報道しだした。なかでも『週刊朝日』は松川事件特集号をだし、決定的に無罪であるという証拠はないのであるから、無実であり、無罪であるという運動は事実に反している。広津、宇野などがどのような調査と確信にもとづいて被告の無罪を叫ぶのであろうか。国民はおとなしく判決を信用しているにかぎる、と運動に水をかけてきた。」
この記述は続く。『読売新聞』の山本昇記者はよく事実を調べ、彼自身は無実の立場をとっていたが、判決がどうでるかを探って執拗に取材していた。彼は鈴木裁判長と対談して判決文が有罪の立場から書かれているにちがいないと判断した。そのことを小沢氏たちは二審判決の半月ほど前に知る。「吾々は一審判決まえのジャーナリズムをも思いあわせ、また諸般のうごきをみて判決は有罪の立場でかかれていることを確信するにいたった。」
そこで国民救援会本部に有罪判決の場合の準備と指示をあおいだところ、同本部の共産党グループから「松川被告団の一部、ならびに国救宮城県にあらわれた右翼的偏向について」という書簡が送られてきた。
「それにしても『動揺せず勝利の確信をもって対処せよ』だけのこの書簡は、ものごとを具体的に把握し対処しようとせず、ただ『右翼的偏向』というレッテルをはりつけ……ているものだった。これは私どもの組織の中に以前からへばりついておる抽象的『レッテル屋』の病気だった。」
この二審判決の六カ月前、国労は鬼怒川大会で初めて公正裁判要請と調査団派遣を決定した。私は大会決定にそい、国労から派遣されて第二審の判決に立合い、その夜はぼたん雪が舞うなか仙台市公会堂までのデモと抗議集会にも参加した。しかし、東京に帰ってからつくづく、どれほど法廷外の運動が高まろうと、権力に守られた裁判官にはとどかず、その判断を変えることはできないと、権力の壁の厚さに一時絶望した。そのようなどん底のなかから、茨の道を切り開き、被告たちを勝利させる大きな力になったのは、広津和郎氏である。
第五審の最高裁判決で全員無罪の判決を勝ち取ってから満一年後の一九六四年九月、事件現場近くに建てられた松川記念塔には広津氏起草の碑文が次のよう刻まれている。
「……人民は……階層を超え、思想を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立ち上がったのである。この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史にも味曾有のことであった。……人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である」。
「人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史にも未曾有のことであった」と広津氏は記した。それは例えば、昨九四年、事件発生一〇〇周年が世界で記念されたフランスのドレヒュス事件の救援運動さえも上回っていたことを意味する。
これほど大きな日本人民の成果を、昨年に発行された『日本共産党の七十年』は「第七章 第八回党大会後、一九六〇年代の闘争」のなかで、数行しか記述していない。日本共産党はときに松川闘争を評価するが、それは共産党に指導された運動としての功績である。もし松川運動の経験に共産党が学べきことを提起し、これを固執すれば、党員の場合には除名、党外のものは反党修正主義の烙印を押されることを覚悟しなければならない。松川運動の栄光が共産党の権威を上回ることは、このわがままな組織には耐えられない。その逆鱗に触れるのである。
自称社会主義諸国崩壊の後、松川運動の光芒が私の心中で大きくなるにしたがい、この闘争の勝利に大きく貢献した広津和郎氏を、現共産党の指導者宮本顕治氏がどのように評価しているかに興味を覚えた。『宮本顕治文芸評論集』(第一巻)をみると、「同伴者作家」が、広津和郎氏を扱っている。そこには次のように書かれている。
「しかし、いずれにせよ、前記広津和郎には何等生活情熱が一定の方向に蓄積されることもなく……淡い絶望か憂愁か感激……自由主義者の幾種類かの触覚を転回しながらも、生活の根軸は堂々巡りから出なかった。これらの平凡な悲劇喜劇の繰り返しから出て、真の出窓を打ち開くためには、まずこの世界観の階級性の批判から出発しなければならなかったのだ。」
「ブルジョワ・イデオローグのうち少数の者は……旧ブルジョワ文学の伝統に生きて来たのではあったが、彼らは資本主義最後の現実を、史的必然の方向に容認することをなし得たのである。」
「広津和郎の新しい作品は、彼が感想において示した同伴者的過渡性を十分に裏付けている。自由主義世界観への決別の方向を意図していること、しかしながら、その進歩性が明確な階級的形貌を帯びるに至らないこと、この二つにおいてそうである。」
「ブルジョワ生活・観念形態の自己批判から出発した新しい転向は、すべて直ちに、未来階級の戦士たり得るのではない。むしろ、これらインテリゲンチアの多くは、理論上プロレタリア階級の勝利の必然性を漠然と信じながらも、彼らを取り巻く旧時代の環境や、昨日の心理イデオロギーのために、実践においては不安な動揺を繰り返している。かくて彼らは、プロレタリアートの戦闘的同盟者ではないが、反動的なブルジョワ・イデオローグと自己を区別する意味において、プロレタリアートの同伴者である。」
「批評は、同伴者作家の進歩性の限度や、誤謬を指摘しても、そのことによって直ちに、彼らに埋葬の十字架を立てるのではなく、彼らのために成長の道標を打ち立てるものでなくてはならぬ。『これはプロレタリア文学ではない、断じて。だからブルジョワ文学だ……』硬化したこの掛け声に、批評家があらゆる場合に終始するならば、彼らは全く過渡時代の問題の複雑性を安易に単純化することによって、結局批判を破棄しているのである。」
「しかし同伴者地点は、そのままが安住を許さるべき屯所ではない。それは、進歩と保守性の間を反転する動揺そのものを合理化すべき地点となってはいけない。同伴者作家は、彼が更に、揺るがない進歩の担い手となるためには、当然に、より苛烈な道程を踏まねばならないだろう。……彼が新しい転向を遂げようとするならば、それは車軸そのものを転回すること以外にはない。」
「同伴者作家」は、一九二九年に宮本氏が「『敗北』の文学」を発表した後、岩波書店『思想』の求めで書かれ、一九三一年三月に同誌に発表された。
当時としては、マルクス主義理論を応用した整然とした展開で、「過渡時代の問題の複雑性を、安易に単純化することによって」批判を破棄してはならないと、同伴者への寛容を説いて、おそらく口をはさむところがないほどであったろう。
宮本氏は前記『選集』(第一巻)の「あとがき」(一九八〇年発表)で、「広津和郎氏とは、……戦後面識を得て、その死にあたって、熱海のお宅にうかがっておくやみをした」とさらりと書き流し、その時点で「同伴者作家」論への自信を示している。
しかし時代は変った。「同伴者作家」発表当時、マルクス主義は旭日の勢いによって人々の目を暗ました。しかし昔時の力を失った今、その後光を消し、自然の平明さのなかで宮本氏の所論を見直すのは当然の成行きである。
宮本氏は、進歩と反動との間で同伴者作家は動揺しているとして、「そこには安住すべき屯所はない」「同伴者作家は……更に、揺るがない進歩の担い手になる」必要を説いている。もし広津和郎氏をはじめとする「同伴者作家」が、宮本氏の説くところの「揺るがない進歩の担い手」に移っていたら、どうなったろう。宮本氏は当時、史上最も残虐な独裁者スターリンに心酔し、多くの論文に彼の言葉を引用している。「同伴者作家」がスターリンの熱狂的ファンに一度なっていたら、そこから回帰するためにどれほどの徒労が必要とされただろう。
皮肉なことに、宮本氏が、その所論をこの論文の支柱にしているブハーリンとトロツキーが、その後、ソ連共産党から除名され、反党分子にされた。「念のために『同伴者』という名称……を最初に文芸批評の領域に播布したのは、レオン・トロツキーである」と、文中で高らかにうたわれている。一国一前衛党の強固な支持者である宮本氏が、トロツキー所論の引用をどう考えているか、「あとがき」に何の言及もない。
「あとがき」を書く前の一九七一年と七八年に、宮本氏はルーマニアを訪れ、チャウシェスク大統領と共同声明を発表した。七一年の共同コミュニケには「日本共産党代表団は、ルーマニア共産党がその自主路線のまわりにルーマニア人民をかたく団結させていること、多面的に発展した社会主義を建設するうえで注目すべき成果をあげていること、人民を国の政治生活に広範に参加させる社会主義的民主主義を拡大していることを……心から喜んだ」と記され、七八年の共同宣言には「宮本顕治委員長は、ルーマニアの社会主義建設においてかちとられた大きな成果、社会主義の魅力の高まりに対して……心のこもった祝意を伝えた」と書かれている。
「あとがき」を書いた七年後の一九八七年、宮本氏はチャウシェスク大統領と共同宣言を発表し、「事態の推移は、……一九七一年九月三日の共同コミュニケと一九七八年七月十日の共同宣言で提起された分析と評価の正しいさ、諸命題の完全な有効性と今日的意義を証明した」と明記している。
ところが、昨年発行された『日本共産党の七十年』は、八七年の宣言が「ルーマニアの路線全体への支持や内政問題への肯定を意味するものでないことは当然であった」とわざわざ断っている。党路線のまわりへのかたい団結、多面的に発展した社会主義建設、人民の広範な政治参加を喜ぶことが、内政への肯定的評価でないのか。「心から喜」び、「心のこもった祝意を伝えた」のは、チャウシェスクによる一党独裁路線へのほとんど全面的賛美である。
宮本氏は「進歩の担い手」になることを求め、車軸をその方向に転回せよという。そして今、嘘までついて体裁を整える。これが彼のいう進歩の行く先だ。
彼の主張に安易に従わなかった「同伴者作家」は、自分の判断を喜ぶべきだ。広津和郎氏は、「情熱が一定の方向に蓄積されることもなく」といわれ、「不安と動揺の繰り返し」といわれ、「安住の屯所はない」といわれようと、そのような生半可な批判を受け入れず、慎重に忍耐強く真偽を判別することによって、松川裁判に対する批判を展開し、世界の歴史に未曾有の勝利に貢献した。文学者として人間として、この両者のどちらが優れているかは明らかではないか。
ちなみに、当時のプロレタリアート文学運動の作家と広津和郎氏との見識の相違を示す興味ある資料がある。宮本顕治氏の夫人百合子氏は一九五一年一月二一日に急逝した。同年五月に、彼女を追悼する『宮本百合子』という本が岩崎書店から刊行され、そのなかに広津和郎氏が「菊富士時代」という題で、本郷の菊富士ホテルに同じ時期に寄宿した思い出を次のように書いている。
「時々食事の後で食堂で話し合った事があった。一度などは他の客が食事が済んでみんな立去ってしまった後、百合子さんから左翼の理論を聞かされた事があった。論理は明晰であり、表現は直接法で端的であり、そしてこっちが迂闊な事でも云はうものなら、容赦なくぴしぴし急所を突っ込んで来る。ちょいとタジタジとさせられる感じである。
その頃私は左翼的な思想に相当の関心を持っていた。つまり、それがわれわれのヒューマニズムを刺激して来る点で、それの魅力を感じ、且つ多少の影響を受けたのである。併し実行的な政治運動になると、私は幾多の疑惑を感じていた。それはわれわれのヒューマニズムでは割切れないものであり、或場合にはわれわれのヒューマニズムを圧殺し兼ねないものであるようにさへ感じられたからである。当時はトハチェフスキーの粛清などという出来事もあった。そういふ事が当然是認されるべきであるといふ考え方(それを当然と明らかに云ったのは、或は百合子さんではなく、湯浅芳子さんであったかも知れない)が納得が行かなかったし、それは今日になっても尚納得が行かない。
そんなこんなで、百合子さんの鋭鋒を右に避け左に避けしていると、百合子さんは最後に、『あなたは脈がないわね。どうぞ好い文芸評論をせいぜいお書き下さい』と云って立上り、笑ひながら階段を上って行ってしまった。食堂は一階から階段で下りるやうな位置にあったのである。
その『あなたには脈がないわね』をその後もよく私は思い出した。」
広津氏は百合子氏をけなす意味で書いたのではない。追悼号であればなおさら、彼女によかれと思って記したに相違ないが、今になれば、広津氏と百合子氏のどちらが政治を深く見ていたかは明かだ。もちろんこれは結果論だし、実践に参加した人と参加しなかった人とを同一視しているとの苦情もあるだろう。しかし文学者として、人間として、どちらに洞察力があるかは明かだ。プロレタリア文学運動のなかで知性と感性に秀でた百合子氏にしてこうである。
歴史が証明する皮肉は、この追悼号にさらにみられる。尾崎ふさという女性が「百合子さん」という題で次のように書いている。
「百合子さんが疲れた時の甘い一切のお菓子に歓声をあげおいしくでたお茶に『あゝおいしッ!』とまゆと眼をッーと離し口をとんがらかして吸う表情は、無邪気で可愛いい顔だった。年とった殊に女の人の顔に無邪気な表情を見つけるのは何によりもむづかしいことなのに、たくさんの波乱の多い人生を突き抜けて来た百合子さんの顔は世界一無邪気な顔だ。いつかガンヂーが暗殺された時百合子さんが、『ガンヂーとスターリンの笑い顔は実に実に無邪気な笑い顔だそうだよ』と言ったがガンヂーやスターリンの笑い顔を知らない私には世界一の無邪気な笑い顔は百合子さんの顔だ」
これも百合子氏を讃えるための文だったが、スターリン批判が公になれば別の意味をもつ。前記『選集』(第一巻)の「あとがき」で宮本顕治氏は、一九三二年に発表した「政治と芸術・政治の優位性に関する問題」という一三〇ページを超える大論文の要約として、「政治の優位性ということの根本の内容は、…社会の先進部隊である労働者階級の前衛党がなし得る、客観的真理の能動的把握としての正しい展望と実践が、社会発展の中で先進的役割をもち得るということを意味するものである」と書いているが、スターリンの笑顔にだまされた百合子さんのエピソード一つが、顕治氏の長い論文の空疎を明かす。 
2、松川運動と日本共産党
第二審公判中の一九五一年一一月、仙台で労農救援会の第六回全国大会が開かれ、無罪釈放署名の運動にかえて、正しい裁判を求めるという形式の署名運動にしたらどうかという意見がだされたが、「公正裁判要請」の署名は階級裁判の本質をぼかし、裁判は公正なものという幻想を助長するおそれがあるとして、この提案はとりあげられなかった。
たしかに、資本主義社会が階級に分裂していること、裁判が支配階級をまもる手段の一つであることはマルクス主義のイロハだ。公正裁判の要請は、階級裁判の本質をごまかすという意見に一理ある。ところが現実には、福島県職の執行委員会や日教組東北ブロック会議などがこの時期、公正裁判要請の決議を行い、これはやがて全国の労働組合に波及した。この評価について小沢三千雄氏は『松川運動全史』に次のように書いている。
「このように現実の運動は、公正裁判要請と無罪釈放の署名が並行してすすめられた。裁判の内容を十分に知らないから、無罪釈放の決議はむつかしいという労働組合でも、また、すこしでも裁判に関心なり疑問をもつ人びとにも、運動に参加してもらえば、運動のはばがひろがる、そのなかで無罪の内容を十分に訴えもし、知ってもらうことができる。……こうして、公正裁判か、無罪要求かの二者択一ではなく、また、対立するものでもなく、相補って運動が発展するものだということが、次第に理解されるようになった。」
この経過は私にとって松川運動における最大の教訓であった。机上の空論では絶対に踏み込んではならない「公正裁判要請」の運動が、実際には広がって行くなかで被告たちの無実は明かになっていった。私たちは、先頃の言葉でいえば「マルクスにおける生けるものと死せるもの」の検討に、もっと早期に取り組むべきであった。今では、マルクス主義崩壊の予震をもっと敏感に感じるべきであった、といえるかもしれない。
松川裁判勝利の感動は、一九五九年八月の仙台高裁差戻し、六一年八月の仙台高裁における無罪判決、六三年九月の最高裁における無罪確定があって、そのいずれかはっきりしないが、これで本当に終ったという気持が強かったし、秋の明るい日差しがあったから、六三年九月の最高裁における全員無罪確定の直後かもしれない。東京の共産党千代田地区委員会が、松川活動家の党員を集めた。
招集者はそれまで平凡社の社員で、共産党の専従者に変ったばかりのペンネーム青山という人で、共産党専従者よりも出版社の社員の方がはるかに似合う大人しい繊細な人だった。数人集まったこの会議の内容が何であったか忘れたが、変な気がしたのは、松川闘争が勝利した直後のこの時期、これから取り組む革命は松川闘争よりも百倍も千倍も困難な仕事だと、これも松川活動家だった青山氏が述べたことだった。
私は松川運動の経験を共産党は学ばなければならないと考えていたから、変なことを言うものだと思って聞いた。ところがこの二、三年来、ついでがあって名古屋に寄り、当時の松川活動家に次のことを聞いて驚いた。
名古屋で当時、ヒューマニズムを乗り越えよ、と共産党が盛んにいっていたという。その資料を見せてもらった。『あいち松川通信』(一九六一年一〇月二〇日付)に当時愛知県松川事件対策協議会の事務局長であった藤本功氏が「いくつかの問題について―総括の一視点―」を書いており、その中に次の一節がある。
「いままでは『ヒューマニズム論者』にやむなく同調してきたが、これからの段階では絶対に階級闘争に移らなければならない―こういう主張があると同時に、愛知の運動は階級闘争としてやらないから弱いのだ―という声もあります。ところで、『(松川)守る会』の報告では『松川を階級闘争だと主張していた活動家が守る会の活動から去っており、ヒューマニズムを主張していた人がずっと地道な活動をつづけているという傾向がみられ』、松川の運動を一種の手段として見る活動(政党の活動の手段化、職場活動のテコ化)について『考えてみるべき課題』とされています。どちらがどうなのでしょうか。」
発行が一九六一年一〇月ということは、仙台高裁差戻し審勝利の直後である。この頃から共産党はヒューマニズム批判を始めていたのだ。東京でも愛知でも、ということは全国的に。青山氏の発言はその活動の一環でしかなかった。私は三〇年後に始めてそのことを知り、大きく納得するところがあった。
共産党の干渉は生半可なことでは済まなかった。仙台の差戻し審で全員無罪の判決がくだされた一九六一年八月から一年後の六二年七月に、日本国民救援会は第一七回総会を開いた。この総会に提案された運動方針は「労働運動、大衆運動の中で弾圧された犠牲者とその家族を……救援することを中心目的とする。……えん罪事件や人権じゅうりん等の問題は、日本国民救援会の運動としては中心的な任務ではないが、われわれの経験や教訓を生かして必要な援助を行う。」と弾圧事件とえん罪をはっきり区別していた。それまでそのような区別にほとんど関心なく活動していた参加者に、この方針は違和感を与え、愛知や東京の代議員から強い異論が出された。
私は当時、東京・国鉄労働会館救援会支部の代議員としてこの総会に参加していたが、「無実の人が一人死刑にされれば、それだけ民主主義と人権は狭められる。中心目的から外された活動は、しないままでも済まされる。弾圧犠牲者かえん罪犠牲者かの区別をせず、事件の軽重緩急に応じて救援すべきだ」の旨を述べた記憶がある。この総会では異論が相次ぎ、方針は一部修正されたが、二年後の六四年六月における第一九回総会では、提案どおり弾圧事件と冤罪事件を区別する綱領が決められた。
つづいて六四年一一月に開催された国民救援会・愛知県本部第八回総会では、「愛知県本部は、政治的なデッチ上げ事件である松川事件や白鳥事件と、いわゆる誤判事件ともいうべき冤罪事件『松山』『牟礼』事件を同一視して取組んでいるだけではありません」と、新しい綱領に基づいた強い批判が救援会中央本部から行われ、地元愛知の共産党系代議員がこれに同調し、この総会は混乱のあげく休会となった。
休会総会は六六年三月に再開され、共産党系の四団体と個人二名の除名を確認した。被除名者はその直後、それまで公然と準備を進めていた別組織、愛知県本部「再建総会」を開催した。この実態の真意を最近に至るまで私は十分に理解していなかった。しかし、この二、三年来、愛知の経験と私のそれとをつき合わせてみたとき、これがヒューマニズムと階級闘争の相克、つまり松川運動の経験の総括をめぐっての対立であることを理解した。
国民救援会・愛知県本部に対する共産党からの攻撃のすさまじさは並大抵ではなかった。『世界』一九六六年六月号に、新村猛氏による論文「人権と平和」が掲載されている。これは愛知県における同党からの攻撃を目の当たりにした新村氏が、直接の名指しを避けながら、自らの見解を述べたものである。文中の次の一節を読めばおおよその見当はつこう。「かつて松川事件対策協議会の有力な役員であり働き手であった最左翼の人びとが…人権連合に支持の方針を採らず、…なぜ、…支持しないのか、…くわしくは承知していないけれども、人権思想の理解、人権という概念の把握について聞き捨てにすることのできない、ゆゆしい挿話を伝え聞いたので、その挿話にはしなくもあらわれた考え方を……問題にしないわけにはゆかないのである。
聞き捨てならない挿話というのは、上記の最左翼の人びとの誰かが、ふと、<人権などという思想は気に喰わぬ、それはブルジョワ思想なのだ>という言葉を或る大学人に洩した事実なのである。」
人権連合というのは、松川闘争勝利の後に、愛知県松川対策協議会を改組して作った組織である。松川闘争を最もよく闘い、またその教訓を学ぼうとした国民救援会・愛知県本部がこの改組をリードした。
新村氏の論文よりも一年前、一九六五年九月九日の「アカハタ』に、「弾圧犠牲者救援運動を破壊する反党修正主義者との闘争について」という題で、日本共産党愛知県委員会常任委員の田中邦雄氏が、はっきりと攻撃の狙いを示している。すなわち、
「かれらの路線の特徴は、
(1)、米日反動の人民にたいする弾圧からその犠牲者を救うという救援会の中心任務を、超階級的ブルジョア的『人権運動』にすりかえるところにあります。
(2)、こうしてかれらは、ブルジョア的人権運動の立場から、……階級的政治的弾圧事件の救援を妨害させています。」
田中邦雄氏は階級闘争をヒューマニズムの上におくことで、宮本顕治氏をよく代弁している。では、彼らが「ブルジョア的人権運動」を批判するとき、対極としてあるプロレタリア・ヒューマニズムとは何なのだろう。ベルリンの壁が崩壊した今ではすべてが明らかだ。プロレタリア・ヒューマニズムは自称社会主義国最大の欠陥の一つ、人権抑圧をかくす衝立に他ならなかった。オーウェルの名著『一九八四年』がよく自称社会主義国のこうした特徴をとらえている。
日本共産党愛知県委員会は藤本功氏が事務局長をつとめる愛知県松川事件対策協議会あて書簡「『人権連合』討議資料についての意見」(一九六四年八月一二日付)のなかで次のようにも言う。
「松川事件は単なるえん罪事件・人権侵害事件ではありません。権力が犯罪をおかし、或いはたすけ、或いはかくして、労働運動・民主運動とその組織の指導者・活動家を逮捕したこの事件は、労働運動と民主運動の破壊をねらったものでした。」「松川事件・松川裁判はそもそものはじめから政治的階級的な弾圧事件であり弾圧裁判でした。これが松川の真実の核心でした。」
たしかに、小沢三千雄氏もその著書『勝利のための統一の心―松川運動から学ぶ―』というパンフ(自家本、一九七九年刊)の巻頭で「今年は松川事件から三〇年目にあたる。この事件は明かに捜査官憲が無実と知りつつ、悪意をもって仕組んだ政治的弾圧事件であった」と述べている。
しかし、同時にこのパンフに次の一節がある。「無実の者が殺されようとしているとすれば、誰でも、どうにかしてそれを救う方法はなかろうかと考えるのが人の常であると思う。その考えからいろいろな行動が経験によって生まれてくると思う。これは、お互いに人間の心の中には、ヒューマニズムから発する怒りと悲しみ、助け合いの心があるからだと思う。これから行動がはじまるのだ。何も松川のことだけでなく、共産党員は広い意味の素直な理屈なしの救援運動から始め、それが慣性とならなければ、共産党は大衆のものにならないのではなかろうか。」
このパンフは「松川運動は、日本人民の偉大な民主主義運動であった。」と本文を締めくくっている。
松川事件が政治的弾圧事件であったのは事実だったが共産党にとって、その運動がなぜヒューマニズムの運動であり、民主主義運動であってはならないのか。事実、松川運動家たちは冤罪事件の関係者に対して、「一緒に闘ってください。松川が勝てば、次はあなた方の番です」と訴えてきた。人権と民主主義の立場に立てば、弾圧事件と冤罪事件の区別はほとんどない。階級闘争になるとその間に冷酷な区別が必要なのか。
ちなみに、前期パンフ『勝利のための統一の心』を発行した小沢三千雄氏は、このパンフの配布などを理由に、共産党から除名された。夜郎国に住む小竜の逆鱗に触れたのだ。このパンフの「あとがき」は、共産党の統一原則である対等・平等を次のように批判している。
「松川運動では『守る会』は中核部隊であり、前衛部隊であったが、陣営の中で自らの『対等・平等』や地位を主張せず、常に『縁の下の力もち』をひきうけていた。なぜなれば、それは陣営を拡大し強固にし進軍するうえに必要だったからだ。
『対等・平等』などあえて主張せず、つねに『縁の下の力もち』になってはたらき、家の中をまとめている嫁を、私の田舎では、みんなが、『あの嫁はかしこい嫁だ』とよんでいる。(中略)
敵にうちかつため、あらゆる力を結集せねばならぬ。そのためには『核』となる『集団』は『縁の下の力もち』とならねばならぬ。そして、たたかいの中で人民は誰が最も信頼できる指導者であるかを判断することであろう。」
これを私は日本語で書かれた最も美しい文章の一つであると思う。ことある度に何度「かしこい嫁」のあり方をわが胸に問うただろう。日本の「かしこい嫁」に見習うべきことを何度心のうちに誓っただろう。
小沢氏には他にも美しい文章がある。最高裁で披告全員の無罪が確定した日のことを、小沢氏は次のように『松川運動全史』に書いている。
「こうして、一九六三年(昭三八)九月一二日、勝利の日は暮れて行ったが、この勝利の日をみることなく、たたかいの中で、たおれていった多くの人びとがいたことを忘れることはできない。その中には、病める者も、賢い人も、貧しい人も、富める人も、勇気ある人も、臆病な者もいた。しかしこの人びとは、みな善意をつくし、いきどおり、悲しみ、たたかいでたおれていった人たちである。この人びとは正義と人道と真実を求める日本人民の宝であった。松川のたたかいはこれらの人びとをはじめとして、国内外の多くの人びとの思想、信条をこえた統一と団結に支えられ、ついに勝利をかちとったのであった。」
日本人民は、国際的な支援も受けつつ、「正義と人道と真実」を求めて闘った。それも共産党にとっては動揺常ないブルジョア思想に過ぎないのだろうか。ユーゴ映画で、故チトー大統領のネレトバの闘いを描いたものがある。邦題は『風雪の太陽』だったか。左手を包帯で巻いたチトーがナチスの包囲を突破したパルチザン部隊の先頭を歩いているとき、畑の農夫が彼に祝意をささげる。感動の場面だ。
それに似た情景を小沢氏は『松川運動全史』に描写している。一九五八年一〇月、最高裁公判の勝利をめざして行われた仙台―東京間四四三キロの大行進についてだ。
「いままで運動のあまりおよばなかった農村の人びとにも事件への関心を呼びおこし、かつ、激励をうけた。田畑の中で鍬を捨てて行進団めがけて走り寄ってきて頑張ってくださいと手をしっかりにぎりしめ、部落のビラ配布を心よくひきうけてくれる人、手を合わせておがみながら、涙だらけで『しっかりやってきなさい』といって送ってくれる老婆! 野良で仕事中の農民が、腰をのばして手をふって送ってくれる、など、沿道における数かぎりない激励が全コース踏破の代表団を支え、雨にぬれ風にうたれ、足にマメをつくりながら、一人の落伍者もなく一一月五日、東京にはいった。」
これらの老婆、これらの農夫は無実を明らかにするために闘っている人々に人間として共感した。それらの人々の心を合わせることによって、死刑を宣告された被告たちは絞首台から救われた。かつてはサッコ・ヴァンセッチ、大逆事件、近くは松川第二審公判中の五三年六月に処刑されたローゼンバーク夫妻、権力によって死刑を宣告され、生きて帰ったものはそれまで先ずなかった。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。死刑台から被告が救い出され始めた途端に、ヒューマニズムを軽蔑し、階級闘争をもちだす共産党に運動の評価を語る資格があるだろうか。 
3、宮本百合子と宮本顕治
宮本百合子氏は一九五一年一月二一日午前一時五五分に急死した。臨終の場に宮本顕治氏がいなかったことは確かだ。これには証言がある。一九二一年からの共産党員で、かつて党中央選挙対策の責任者を務めていた岩田英一氏(90歳)は私に昨年七月、こう語った。
「宮本百合子さんが死んだ日は、いつも本部へ朝九時には出勤していたので、この日も同時刻に出勤してすぐにそのことを聞いた。
細川嘉六が一〇時ころ出勤してきたので、彼と相談して弔問に行くことにした。指導部から、『分派に対してそんなことをする必要はない』という抗議がきたが、『何をいうんだ、ついこの間までの同志じゃないか』といい返して、代々木を出て、途中で花を買い、お午までに文京区駒込林町の宮本宅へ着いた。
そこには、蔵原惟人、神山茂夫、亀山幸三などがいた。宮本顕治の姿はなく、『また例のところに行っているんだろう』と、この三人が話し合っていた。例のところというのは、宮本と関係のある女のところという意味だった。それ以上に聞きだす興味は私にはなく、しばらくして、宮本宅を辞したが、その間に宮本は帰ってこなかった。
私と細川が帰ったあと、宮本顕治が帰宅したことを、後に党本部で亀山幸三から聞いた。」
これについては他にも証言がある。愛知人権連合事務局長の藤本功氏(78歳)は、昨年九月、私にこう語った。
「百合子さんが死んだとき、その場に宮本顕治がいなかったことは誰でも知っている。死んだあと、大森寿恵子の家から駆けつけてきたのだ。百合子の近辺にいる文学者たち、中野重治、佐多稲子など皆このことを知っているんじゃないか。誰から聞いたというんではなく、何となく耳に入っている。」
百合子氏の死んだ一月二一日の正午まえ、東京山手線の目黒駅で顕治氏のいとこの宮本多賀子氏にばったり出会った人がいる。多賀子氏は不在の顕治氏を探して、目黒にある統一委員会のアジトに行く途中ということだった。この人はその正午過ぎにラジオで百合子氏の死亡を聞き驚いてすぐに宮本宅に弔問に行ったと言っているから、日付に間違いはない。
顕治氏は一月二〇日の夜から二一日の朝にかけて、どこに居たのか。岩田英一氏はこう述べている。「例のところというのは、百合子さんの秘書の大森寿恵子さんのところという意味だった。そのことについては当時の私の周辺では噂になっていたし、百合子さん自身から直接聞いてもいた。」
『宮本顕治の半世紀譜』(新日本出版社、一九八三年刊)を見ると、この一月一九、二〇日は空白、二一日は「百合子突然の死去。」とだけある。この前後には、「全国統一委員会」活動が逐一記されているから、もしその仕事で目黒の事務所にその夜を過していれば、記録されているはずだ。行く先が書けないとすれば、大森寿恵子氏のところにいた確率は極めて高い。
『宮本顕治文芸評論選集』(第二巻)に「百合子追想」がある。これは百合子氏死去の一〇日後に発表され、次のように始まっている。
「百合子が死んだ翌日、一月二二日の午後、私は伝染病研究所の片隅の病理解剖教室の入り口の前の石ころまじりの雑草のあき地をぶらつきながら『自然の不意打ち』について思いめぐらしていた。百合子は生前から、死んだら解剖してほしいといっていたし、ことに私も今度の急病死についてもっとはっきり科学的にたしかめたい思いで…解剖の終わるのを待つことにしていた。…午後四時ごろ…三時間にわたる解剖の報告を、ぬいあわされた遺骸を前にして聞いた。…この病気に似た症状は、外国の報告例では『脳脊髄膜炎菌』が血液にはいって最急性の敗血症状をおこし、副腎を襲うものとされているそうだった。そして、副腎が出血したら、もう現代の医学では救いようがないことも説明された。
…閉じた瞳と語らぬ唇、内出血を語る紫のまじる光沢を失った頬の色―数十時間前まで、あの活力にみちた精神を宿していた肉体の急激な死への変貌に、私は人びとを前にしてなお、涙のあふれるのを禁じることができなかった」。一九ページにわたるこの追想のなかで、二〇日の病状急変から死亡までの記述はわずかに三行半、そこに「午後一時ごろ呼吸がとまる」とある以外に臨終の描写はない。前記『半世紀譜』には五〇年三月一一日に「百合子宛に帰京を知らせる電報を打つ。」、同年五月七日には「上島田から百合子宛にハガキを送る。」とまで書かれているのに、なぜ臨終の席にいたか、いなかったか、どこにいたかを書けないのか。明らかになにかを隠している。
岩田英一氏は昨年六月、私に次のように述べた。
「それは、一九五〇年一月のコミンフォルムによる日本共産党批判の後、同年六月のマッカーサーによる共産党中央委員全員に対する公職追放の前だと思うので、たしか同年四、五月ごろだったのではないか、共産党本部での立ち話だった。
当時、私は党本部内で選挙闘争関係の仕事をしており、宮本百合子はまだたしか党の婦人部長をしていて、党本部内で顔を合わせる機会はおおかった。
そのとき、宮本百合子は私にこういう趣旨のことを言った。
『顕治さんは困ったものです。うちの秘書とできているみたいです。未決拘留の一〇年間は毎月のように面会に行き、食べ物や本の差し入れをし、汚れた衣類の交換をして尽くしてきたのに、それがこのように冷たくされるとは予想もしなかった』。涙を目に溜め、溢れんばかりだった。
私は同情して、『百合子さんも大変だなあ。今になってそういう仕打ちをするのはひどい。しかし、あんたの方が一〇歳も年上だから無理もないなあ。生理的にいっても難しいんじゃないの』と意見をいい、『考えた方がいいですよ』と暗に離婚も考慮のうちに入ることを示唆した。
そのとき彼女は私に、『岩田さんはこの本部の敷地建物全部を無償で寄付したんでしょう。えらいわ。私も全集の著作権を党本部に寄付するつもりです』とも言っていた。」
これと同趣旨のことを藤本功氏も昨年九月、私に語った。
「百合子さんが亡くなる直前、神山茂夫氏が訪ねたとき、彼女は髪の毛を振り乱し、むしった髪の毛がテーブルの上に落ちていた。怒って気が動転していた。それは顕治氏と意見が合わぬことのようだった。私は神山氏に多くは聞かなかったが、女の問題だけでなく、政治方針にも反対だったのではないだろうか。これは百合子さんが死んだ後、神山茂夫氏と東京のどこかで会ったとき聞いた。神山氏は百合子さんと親しく、人間に思いやりがあったから、ちょいちょい彼女を家に訪ねたらしい。」
百合子氏の佳品『風知草』には、抑制された筆致で顕治氏との対立が反映されている。あらためてこの小説を読み直して、亀裂の拡大を予感しない読者はいないだろう。
前記『選集』(第二巻)に「共産主義とモラル」(一九四七年発表)がある。ここで宮本顕治氏は映画「シベリア物語」をあげ、「こうゆう作品がスターリン賞をうけ、国際コンクールで一等になっているのです。そこで出てくる恋愛のモラルは、三角関係とか姦通を当然とは考えていない。ブルジョワ社会では古典的なともいえる貞節の感情。これは恋愛にあらわれるソビエト社会の一つの相であります。ソビエトの人がすべてこういう健康な恋愛をしているのだとはいえませんが、しかし、そういうものが基調的に肯定されて、それが一つの美しい物語として展開されるのであります。」と書いている。
厳しい批評家である宮本氏の推賞するものが「シベリア物語」では底が割れるが、宮本氏はその後で次のようにも書いている。
「ソビエトで、コロンタイの恋愛論が一時問題になりました。それによると、たとえばここに夫婦がいる、夫は任務を帯びて、一人でひじょうに遠い地方で働いている、もしその場合、性的衝動があれば抑制する必要はない、ということをいうわけです。これはやはり、そうではなくて、夫婦が互いに自分の相手に対して貞潔を守りあう感情で貫くべきです。そういう問題に対しては、自分は動物ではなく、人間社会におけるいろいろな基準のなかで生きているという立場から、そういった衝動的な感情を抑制する必要があります。」
「生理的」な問題もあり、綺麗ごとだけで済まぬこともあるだろうが、宮本氏がこう書いている以上、百合子氏臨終の夜、宮本氏がどこにいたか明らかにすべきだろう。大森寿恵子氏のところにいたかどうかはまだ確認されていないが、その確率は非常に高い。宮本氏は小畑達夫氏殺害の場合のように、意味の分からない弁解をしてはならないだろう。
ちなみに、今宮本顕治氏夫人になっている大森寿恵子氏の人柄を物語るエピソードがある。寿恵子氏は党員の娘ということで、戦後、百合子氏の秘書になったが、百合子氏は非常に嫌っていたという。顕治氏が公職を追放され、非公然活動に入らねばならぬ頃、「もし何かのことで捕まって、警察に連れていかれて、顕治さんに引会わされたとき、あなたは最後までこの人を知らないといいなさいよ」、百合子氏がまさかの折りに備えて教えたところ、寿恵子氏は「おほゝ」と笑い、「まあ、そんな馬鹿なこと」と答えたという。
フランスでは政治家の私生活は問われないそうだ。しかし、身近な人の臨終は大きな衝撃であり、何年経ってもそのときの様子は忘れられない。その様子がなぜ一言も語れないのか。文学者として人間としてそれは問われるだろう。
宮本顕治氏は「百合子追想」の最後に「何が彼女をこの世から奪い去った根底的条件をなしているかを考えざるをえなかった。」と問い、「この刑務所に象徴された日本の野蛮な軍国主義と専制主義が百合子の死を早めた。」と書いている。彼は「石ころまじりの雑草のあき地をぶらつきながら」、あれほど世話になった人の臨終に立合えなかったことについて何も考えなかったのか。おそらくさまざまに考えたろう。しかし、それを何も書かなかった。そして「軍国主義と専制主義」でごまかしている。これがプロレタリア・ヒューマニズムの実例だ。 
むすび
宮本顕治氏は一九九二年の赤旗まつりで「仲間の人が困っているときにこそ世話するのが、人間を大切にする第一歩であり、同志愛のある党生活であります。プロレタリア・ヒューマニズムが大事だといわれているのもそのことです。」とあいさつしている。
以上述べてきた数々の宮本顕治氏の言動はヒューマニズムでは許されない。しかし、プロレタリア・ヒューマニズムでは許される。党の権威を守るため、党幹部を擁護する口実で平然と虚偽、ごまかし、人権無視が可能だ。九二年になってなお宮本氏がこの言葉をつかうゆえんである。その栄光を守るためにドレヒュス大尉に罪を負わせたフランス陸軍と選ぶところがあろうか。
以上見てきたように、宮本顕治氏の文学には誠意がなく、内容がない。これは不実の文学といえる。文学の大地であるヒューマニズムに歯向かうことで、その野蛮な情熱は、意図において不毛、結果において自滅した。この敗北した文学の土壌のうえに犠牲者の恥はそそがれるだろう。 
 
悪妻論 坂口安吾

 

悪妻には一般的な型はない。女房と亭主の個性の相対的なものであるから、わが平野謙の如く(彼は僕らの仲間では大愛妻家といふ定説だ)先日両手をホータイでまき、日本が木綿不足で困つてゐるなどゝは想像もできない物々しいホータイだ。肉がゑぐられる深傷だといふ無慙な話であるけれども、彼の方が女房の横ッ面をヒッパたいたことすらもないといふ沈着なる性格、深遠なる心境、まさしく愛猫家や愛妻家の心境といふものは凡俗には理解のできないものだ。
思ふに多情淫奔な細君は言ふまでもなく亭主を困らせる。困らせられるけれども、困らせられる部分で魅力を感じてゐる亭主の方が多いので、浮気な細君と別れた亭主は、浮気な亭主と別れた女房同様に、概ね別れた人にミレンを残してゐるものだ。
ミレンを残すぐらゐなら別れなければ良からうものを、つまり、彼、彼女らは悪妻とか悪亭主といふ世の一般の通念や型をまもつて、個性的な省察を忘れたのだ。悪妻に一般的な型などあるべきものではなく、否、男女関係のすべてに於て型はない。個性と個性の相対的な加減乗除があるだけだ。わが平野謙の如く、戦争をその残酷なる流血の故に呪ひ憎んでゐても、その女房を戦争犯罪人などゝは言はず惜しみなくホータイをまいて満足してゐるから、さすがに文学者、沈着深遠、深く物の実体を究め、かりそめにも世の型の如きもので省察をにぶらせることがない。偉大! かくあるべし。
然し、日本の亭主は不幸であつた。なぜなら、日本の女は愛妻となる教育を受けないから。彼女らは、姑に仕へ、子を育て、主として、男の親に孝に、わが子に忠に、亭主そのものへの愛情に就てはハレモノにさはるやうに遠慮深く教育訓練されてゐる。日本の女を女房に、パリジャンヌを妾に、といふ世界的な説がある由、然し、悲しい日本の女よ、彼女らは世界一の女房であつても、まさしく男がパリジャンヌを必要とする女房だ。日本人の蓄妾癖は野蛮人の証拠だなどゝはマッカな偽り、日本の女房の型、女大学の猛訓練は要するに亭主をして女房に満足させず、妾をつくらずにゐられなくなる性格を与へるためにシシとして勉強してゐるやうなものだ。
武家政治このかた、日本には恋愛といふものが封じられ、恋愛は不義で、若気のアヤマチなどゝ云つて、恋愛の心情に対する省察も、若気のアヤマチ以上に深入りして個別的に考へられたこともない。恋愛に対する訓練がミヂンもないから、お手々をつないで街を歩くこともできず、それでいきなり夫婦、同衾とくるから、男女関係は同衾だけで、まるでもう動物の訓練を受けてゐるやうなもの、日本の女房は、わびしい。暗い。悲しい。
女大学の訓練を受けたモハンの女房が良妻であるか、そして、左様な良妻に対比して、日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻也と断ずる。
センタクしたり、掃除をしたり、着物をぬつたり、飯を炊いたり、労働こそ神聖也とアッパレ丈夫の心掛け。けれども、遊ぶことの好きな女は、魅力があるにきまつてる。多情淫奔ではいさゝか迷惑するけれども、迷惑、不安、懊悩、大いに苦しめられても、それでも良妻よりはいゝ。
人はなんでも平和を愛せばいゝと思ふなら大間違ひ、平和、平静、平安、私は然し、そんなものは好きではない。不安、苦しみ、悲しみ、さういふものゝ方が私は好きだ。
私は逆説を弄してゐるわけではない。人生の不幸、悲しみ、苦しみといふものは厭悪、厭離すべきものときめこんで疑ることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、これをあるひは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。
恋愛といふと得恋、メデタシ/\と考へて、なんでもさうでなければならないものだときめてゐるが、失恋などゝいふものも大いに趣味のあるもので、第一、得恋メデタシ/\よりも、よつぽど退屈しない。ほんとだ。
先日、本の広告を見てゐたら、人妻とある詩人の恋文を、二人が恋しながら、肉体の関係のなかつた故に神聖な恋だと書かれてゐた。をかしな神聖があるものだ。精神の恋が清らかだなどゝはインチキで、ゼスス様も仰有おつしやる通り行きすぎの人妻に目をくれても姦淫に変りはない。人間はみんな姦淫を犯してをり、みんなインヘルノへ落ちるものにきまつてゐる。地獄の発見といふものもこれ又ひとつの近代の発見、地獄の火を花さかしめよ、地獄に於て人生を生きよ、こゝに於て必要なものは、本能よりも知性だ。いはゆる良妻といふものは、知性なき存在で、知性あるところ、女は必ず悪妻となる。知性はいはゞ人間性への省察であるが、かゝる省察のあるところ、思ひやり、いたはりも大きく又深くなるかも知れぬが、同時に衝突の深度が人間性の底に於て行はれ、ぬきさしならぬものとなる。
人間性の省察は、夫婦の関係に於ては、いはゞ鬼の目の如きもので、夫婦はいはゞ、弱点、欠点を知りあひ、むしろ欠点に於て関係や対立を深めるやうなものでもある。その対立はぬきさしならぬものとなり、憎しみは深かまり、安き心もない。知性あるところ、夫婦のつながりは、むしろ苦痛が多く、平和は少いものである。然し、かゝる苦痛こそ、まことの人生なのである。苦痛をさけるべきではなく、むしろ、苦痛のより大いなる、より鋭くより深いものを求める方が正しい。夫婦は愛し合ふと共に憎み合ふのが当然であり、かゝる憎しみを怖れてはならぬ。正しく憎み合ふがよく、鋭く対立するがよい。
いはゆる良妻の如く、知性なく、眠れる魂の、良犬の如くに訓練されたドレイのやうな従順な女が、真実の意味に於て良妻である筈はない。そしてかゝる良妻の附属品たる平和な家庭が、尊ばれるべきものでないのは言ふまでもない。男女の関係に平和はない。人間関係には平和は少い。平和をもとめるなら孤独をもとめるに限る。そして坊主になるがよい。出家遁世といふ奴は平安への唯一の道だ。
だいたい恋愛などゝいふものは、偶然なもので、たまたま知り合つたがために恋し合ふにすぎず、知らなければそれまで、又、あらゆる人間を知つての上での選択ではなく、少数の周囲の人からの選択であるから、絶対などといふものとは違ふ。その心情の基盤はきはめて薄弱なものだ。年月がすぎれば退屈もするし、欠点が分れば、いやにもなり、外に心を惹かれる人があれば、顔を見るのもイヤになる。それを押しての夫妻であり、矛盾をはらんでの人間関係であるから、平安よりも、苦痛が多く、愛情よりも憎しみや呪ひが多くなり、関係の深かまるにつれて、むしろ、対立がはげしくなり、ぬきさしならぬものとなるのが当然なのである。
夫婦は苦しめ合ひ、苦しみ合ふのが当然だ。慰め、いたはるよりも、むしろ苦しめ合ふのがよい。私はさう思ふ。人間関係は苦痛をもたらす方が当然なのだから。
ゼスス様は姦淫するなかれと仰有るけれども、それは無理ですよ。神様。人の心は姦淫を犯すのが自然で、人の心が思ひあたはぬ何物もない。人の心には翼があるのだ。けれども、からだには翼がないから、天を翔かけるわけにも行かず、地上に於て巣をいとなみ、夫婦となり、姦淫するなかれ、とくる。それは無理だ。無理だから、苦しむ。あたりまへだ。かういふ無理を重ねながら、平安だつたら、その平安はニセモノで、間に合はせの安物にきまつてゐるのだ。だから、良妻などゝいふのは、ニセモノ、安物にすぎないのである。
然し、しからば悪妻は良妻なりやといへば、必ずしもさうではない。知性なき悪妻は、これはほんとの悪妻だ。多情淫奔、たゞ動物の本能だけの悪妻は始末におへない。然し、それですら、その多情淫奔の性によつて魅力でもありうるので、そしてその故にミレンにひかれる人もあり、つまり悪妻といふものには一般的な型はない。もしも魅力によつて人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ。いかに亭主を苦しめても、魅力によつて亭主の心を惹くうちは、良妻なのだらう。
魅力のない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである、男女といふ性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしてゐるのに、異性に与へる魅力といふものを考へること、創案することを知らない女は、もしもそれが頭の悪さのせゐとすれば、この頭の悪さは問題の外だ。
才媛といふタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理学ができるのだか知らないが、人間性といふものへの省察に就てはゼロなのだ。つまり学問はあるかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ。
まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めつたに平安などは与へることがないだらう。
苦しめ、そして、苦しむのだ。それが人間の当然な生活なのだから。然し、流血の惨は、どうかな? 平野君! あゝ、戦争は野蛮だ! 戦争犯罪人を検索しようよ。平野君!  
 
歴史の落穂 宮本百合子

 

――鴎外・漱石・荷風の婦人観にふれて――
森鴎外には、何人かの子供さんたちのうちに二人のお嬢さんがあった。茉莉と杏奴というそれぞれ独特の女らしい美しい名を父上から貰っておられる。杏奴さんは小堀杏奴として、いわば自分の咲き出ている庭の垣の彼方を知らないことに何の不安も感じない、自然な嬉々とした様子で身辺の随筆などをこの頃折々発表しておられる。
お姉さんの茉莉さんがまだ幼くておさげの時分、私は何かの雑誌でその写真を見たことがあった。写真であるから色はもとより分らないが、感じで赤いちりめんと思われる衿をきちんとかさねた友禅の日本服の胸へ、頸飾のようなものがかかっていた。おさげに結ばれている白い大きいリボンとその和服の襟元を飾っている西洋風の頸飾とは、茉莉という名前の字がもっている古風にして新鮮な味いとともにたいへん私の記憶にのこった。年月のたった今あの写真の印象を思いおこして見るとあの一葉の少女の像には当時の日本の知識階級人の一般の趣向を遙にぬいた御両親の和洋趣味の優雅な花が咲いていたのだと思われる。
森さんの旧邸は今元の裏が表口になっていて、古めかしい四角なランプを入れた時代のように四角い門燈が立っている竹垣の中にアトリエが見えて、竹垣の外には団子坂を登って一息入れる人夫のために公共水飲場がある。傍にバスの停留場がある。ある日、私がその赤い円い標識のところにぼんやりたたずんでいたら、森さんの門があいて、一人の若い女のひとが出て来た。そして小走りに往来をつっきってはす向いの炭屋へゆき、用事がすんだと見えてすぐまた往来を森さんの門に戻って来て戸がしめられた。それは昔の写真の少女の面影をもっていた。美しい人で同時に寂しそうであった。それからまた別の日に、私は団子坂のところで流しの円タクをひろった。ドアをしめて、腰をおろし、車が動き出したと思ったら、左手の窓のすぐ横のところには一人の若い女のひとの顔が見えた。かすかな笑いの影が眼のなかにあって、静かにこっちを見ている。再び私はその顔を、ああと写真の少女の面影に重ねて思い、そちこちに向って流れる感情を覚えた。だがそれなりに走りすぎてしまった。
本年の夏は、例年東京の炎天をしのぎ易くする夕立がまるきりなかった。屋根も土も木も乾きあがって息づまるような熱気の中を、日夜軍歌の太鼓がなり響き、千人針の汗と涙とが流れ、苦しい夏であった。長谷川時雨さんの出しておられるリーフレットで、『輝ク』というものがある。毎月十七日に発行されているのであるが、八月十七日の分に、「銃後」というきわめて短い感想を森茉莉氏が書いておられた。それは僅か、二三枚の長さの文章である。「私達はいつの間にかただの女ではなく『銃後の女性』になってしまっていた。一朝事があれば私も『銃後の女性』という名にぴったりした行動は取れなくても、避難の時までものを見、感じ、書く、という形で銃後を守る心持はあるが」と、後半では物質に不自由がなくて生きる苦しみなぞと言うことは申訳のない事のようだが、「生きている事の苦しさがますますひどくなる」その苦しみに疲れてかえって苦しみを忘れたように感じられる瞬間の心持、また苦しさの中にあっても「少女のように新鮮に楽しく生きて行くという理想に少しでも近づきたい」それは書くことを機会としてゆきたいという気持が語られてあるのであった。
森さんのこの文章をよんで、私はあの日、門をあけて出て来た女のひとが、やっぱり森さんであったろうという確信をたかめた。それから、あの日、車の中の私に向って目にとまるかとまらないかの笑みをふくんだ視線を向けていた女のひとも。あの女のひとの趣味や華やかさを寂しさに沈めて、それなのに素直でいるような風情は、森さんの短いうちに複雑な心のたたみこまれている文章をよんで、はっきりとうなずける。現代の女は、社会のさまざまの姿に揉まれ、生きるためにたたかっているのであるが、森さんの現実の姿と文章の姿とは偽りない率直さで、今日の女の苦悩の一つの姿を語っている。
森茉莉氏のふぜいある苦しみの姿とでもいうようなものの中には、よい意味での人間らしい教養、落付き、ゆとりというようなものがあって、それらは生活の上にある余裕からも生じているが同時に性格的なもので、しかも一応は性格的といわれ得るものに濃くさしているかげがあるように思われる。明治の末から大正にかけての社会・思想史的な余韻とでもいえようか。
私たちは実に痛烈に露出されている今日の矛盾の中に生き明日へよりよく生き抜かんとしているのであるけれども、日本では今日の女の上にただ今日の陰翳がさしかかっているばかりでない。非常にのろのろと傾きかかり、目前だけを見ればますますその投影がたけを伸ばして来つつあるかのようにさえ感じられる昔の西日の落す陰を身に受けていない者はないのである。
森鴎外という人は、子供を深く愛し、特に教養のことについては無関心でいられなかったらしい。真理と美との人類的遺産を十分理解し、それをよろこび、それに励まされて人間らしく生きる力を、子供らが持つことを希望していたらしい。
鴎外の女性観というものは、従って当時の現実生活にある日本の女の生活諸相に対して決してあきたりていなかったであろう。未来の女の生活ということについて、どのような拡大と波瀾と活溌な女らしい活力の流露とを期待されていただろうか。茉莉や杏奴という日本語として字の伝統的感覚においても美しくしかもそのままローマ綴にしたとき、やはり世界の男が、この日本名の姓を彼らの感情に立って識別できるように扱われているところにも、私は鴎外の内部に融合していた西と東との文化的精髄の豊饒さを思う。この豊饒さは、ある意味で日本文化の歴史の中に再び同じ内容ではかえり来ることのないものである。いわば明治という日本の時代の燦光であった。けれども、この豊饒さの中に、どのように深く、どのようにつよく、日本的な矛盾が埋められていたかということは、娘である茉莉氏が、今日、ますます多難な女の道を行きつつある感情の底で、おのずからうなずかれていることではなかろうか。
森鴎外のこと、また茉莉氏の内部発展のことについてはしばらくふれず、近頃、永井荷風の古く書いたものをちょいちょい読んで私は明治四十年前後の日本の知識人の感情というものの組立てを女として実に興味ぶかく感じた。
荷風は、ロマンティックな蕩児として大学を追われ、アメリカに行き、フランスに着し、帰朝後は実業家にしようとする家父との意見対立で、俗的には世をすね、文学に生涯を没頭している。
日露戦争前後の日本の社会、文化の水準とヨーロッパのそれとは驚くべきへだたりがあったから、この時代、相当の年齢と感受性とをもって、現実生活の各面に、自分の呼吸して来た潤沢多彩なヨーロッパ文化とにわか普請の日本のせわしない姿とを対照して感じなければならなかった人々の苦しい、嫌悪に満ちた心持は、荷風の帰朝当時の辛辣な作品「監獄署の裏」「冷笑について」「二方面」「夜の三味線」などにまざまざとあらわれている。
時代はすこし前であるが、漱石もロンドンから帰った当時は、同じような苦しみを深刻に経験している。漱石は、だが一身上の必要から、やっぱりいやな大学にも出かけなければならず、そのいやな大学の講義に当時の胸中の懊悩をきわめて意力的にたたきこんで、彼の最大不機嫌中に卓抜な英文学史と文学評論とを生み出した。
荷風の方は、家父もみっともないことをせずひっこんでおれといわれ、衣食の苦労もないところから、その内面の苦痛に沈酔した結果、ヨーロッパの真の美を、その伝統のない日本、風土からして異る日本に求めたとしてもそれは無理である、ヨーロッパ文学の真価も、実にきわめて少数のもののみが理解し得るのであるとして、自分は、ひとりローマをみて来たものの苦しくよろこばしい回顧、高踏的な孤独感を抱きつつ、真直に日本の全く伝統的なものの中に、再び新たに自ら傷きずつくロマンティシズムで江戸の人情本の世界に没入して行ってしまったのである。
日本の文化と西欧の文化の接触の角度に、いつも何かの形であらわれて来ているというリアクションは、日本文学史の一つの特徴となる相貌である明治、大正の期間に、これが微妙に相関しているのみならず、現代に到って、この点はいっそう複雑化されている。そのあらわれがたとえば一人の作家横光利一氏の個人的な芸術の消長に作用しているばかりでなく、昨今では文化統制の傾向において強められ、さらにその傾向が一般の文化人が世界の文化に対して抱いている感情とは必ずしも一致していない状態にまでおかれている。
荷風のロマンティックな、芸術至上主義風なリアクションは、ヨーロッパ文化の伝統はそのまじりもののない味いにおいて、日本の文化の伝統はまたヨーロッパとは別個なるものとして、あくまでペンキで塗られざる以前の姿において耽美したいという執着によっている。
いわゆる世にそむき、常識による生活の平凡な規律を我から破ったものとして来ている荷風が、女というものを眺める眼も特定の調子をもっていて、良家の婦女という女の内容にあきたりないのはうなずけることであると思う。荷風の年代で周囲にあった良家の婦女子というのは、恐らく若ければただの人形が多かったであろう。やや世故にたけたといわれる年頃では、そういう階級の狭い生活が多くの女の心に偏見と形式と家常茶飯への没頭、良人の世間並な立身出世に対する関心をだけを一杯にしていたであろう。荷風が、弱々しき気むずかしさでそれらの女の生活と内容に自身を無縁なものと感じ、恋愛の対象としての女を花柳界の人々に求めたことも理解される。荷風は花柳界が時代にとりのこされているものであることも十分承知の上で、ただこのマンネリズムの中にだけ彼の無上に評価する日本の伝統の美が保たれている、女の身ごなし一つにさえその歴史の、みがきがあらわれていると見て、自身を忘られようとする美の騎士になぞらえたのであった。
外遊時代に書いた「支那街の記」「西遊日誌抄」などをみると、荷風はしきりにボードレェルなどをひいて自傷の状をかなでているのであるが、荷風の本質は決して徹底したデカダンでないし、きっすいの意味でのロマンティストでもないことが感じられる。荷風の本質は多分にお屋敷の規準、世間のおきてに照応するものを蔵していて、しかもその他面にあるものが、自身の内部にあるその常識に抵抗し、常識に納まることを罵倒叱咤し、常識の外に侘び住まんことを憧れ誘っている。ロマンティストであるとして荷風のロマン主義の実質はいわば憧れる心そのことに憧れる風なものである。受動的なロマンティストとでもいえようか。このロマン主義にあらわれている彼の受動性は、ヨーロッパ文化の伝統に対して、日本文化の伝統というものをいきなり在るがままの常套、約束、陳腐ごと受けいれ得る性格にあらわれている。また、作品の到るところに散在する敗残の美の描写も、一方にきわめて常識的な通念が人生における敗残の姿としている。それなりの形、動き、色調を、荷風もそのまま敗残の内容として自身の芸術の上に認めている。荷風にあっては、それに侮蔑の代りに歌を添えるところが異っている。身は偏奇館、あるいは葷斎堂に住して、病を愛撫し、「身を落す」自傷を愛撫し、しかしそれらを愛撫するわが芸術家魂というものをひたすらに愛撫する荷風は、ある意味では人生に対する最もエゴイスティックな趣味家ではあるまいか。
ヨーロッパの婦人の社会生活を見ている荷風は、ヨーロッパ婦人の美しさの讚美者であり、その頽廃の歌手であった。従って、婦人の社会的な自由や生活範囲の拡大ということに反対は唱えない。「英吉利の婦人が選挙権を得ようとする運動にも同情するくらい女権論者である。」男のやることなら女がやってもかまわないとする人である。ヘッダ・ガブラーや人形の家の芝居を眺め「日本にもかかる思想がなくてはならぬと思ったくらいだ」。しかし、彼の現実感情の要素は遙に錯綜した影をもっている。第一、荷風がその美にふける花柳の女たちの生きている世界はどういうものであろうか。彼女たちの身ごなしの美をあるがままに肯定するのであれば、その身ごなしのよって来る心のしなをも肯定しなければ、荷風の求める美の統一は破れてしまわなければならない。さらに荷風は男女の恋愛をも、その忍び泣き、憂悶、不如意とくみ合わせた諧調で愛好するのであるから、元より女が、私は愛する権利がありますと叫んで、公然闘う姿を想像し得ない。これらの事情が、荷風の現実としては「婦人参政権の問題なぞもむしろ当然のこととしているくらいである」が、「然し人間は総じて男女の別なく、いかほど正しい当然な事でも、それをば正当なりと自分からは主張せず出しゃばらずに、どこまでも遠慮深くおとなしくしている風がかえって奥床しく美しくはあるまいか」「もし浮む瀬なく、強い者のために沈められ、滅されてしまうものであったならば、それはいわゆる月にむらくも、花に嵐の風情。弱きを滅す強者の下賤にして無礼野蛮なる事を証明するとともに、滅さるる弱きもののいかほど上品で美麗であるかを証明するのみである」という考えかたに到達している。「日本女性の動かすことのできない美は、争ったり主張したりするのではなくて、苦しんだり悩んだりする哀れはかない処にある」と断言している。悋気も女はつつしむべし、と荷風には考えられており、女に悋気せしめる男の側のことは触れられない。その荷風の見かたに適合した何人かの「婦女」がかつて彼の「後堂に蓄え」られたこともあったのである。
私が、荷風のロマンティシズムを常識的な本質であるとするのは、女のロマンティックな見かたそのものに現れている以上のようなあり来りの特徴にもよるのである。森鴎外は、漱石よりも早く、その青春の開花の時期をドイツで送った。鴎外の婦人に対する感情は、「舞姫」、和歌百首や他の作品の上にもうかがわれるのであるが、鴎外の婦人に対するロマンティシズムは、荷風の受動性とは全く異っている。鴎外は、女がさまざまの社会の波瀾に処し、苦しみ涙をおとしながらなおどこにか凜然とした眼差しを持って立って、周囲を眺めやっている姿に、ロマンティックな美を見出している。静的ではあるが、人生を何か内部的な緊張をもった光でつらぬこうとする姿が描かれている。「安井夫人」を読む者は鴎外が女に求めていた光りがどういう種類のものであったかをいささか知り得るのである。
荷風は、ヨーロッパにあってはその婦人観も彼地の常識に従って郷に従い、日本にあってはその婦人観も郷に従い、長いものにまかれる伝統に屈している如くなのである。
夏目漱石が、その恋愛や行動において積極的自発的、不羈ふきな女を描くとき、それは「夢十夜」などのようなヨーロッパを背景とするロマンティックな空想の世界であったというのは、何と興味ある事実であろう。また、「虞美人草」「三四郎」などの中に、いわゆる才気煥発で、美しくもあり、当時にあって外国語の小説などを読む女を、それとは反対に自然に咲いている草花のような従来の娘と対置して描いているのは、注目をひくところである。今日の私たちの心持から見ると、漱石が描いた藤尾にしろ、迷羊ストレイ・シイプの女にしろ、どちらかというと厭味が甚しく感じられる。あの時代の現実は、青鞜社の時代で新しい歴史の頁をひらこうとした勇敢な若い婦人たちは、衒気を自覚しないで行動した頃であった。それにしろ、何か当時の漱石の文体が語っているようなある趣味で藤尾その他は描かれている部分が少くないように思える。最も面白いのは、漱石自身が、たとえば「虞美人草」の中で藤尾と糸子とを対比しつつ、自身の愛好は、友禅の帯をしめて日当りよい中二階で何の自主的な意識もなく、兄と父とに一身を托して縫いものをしている糸子により多く傾けている点である。
十年間の多産豊饒な漱石の文学作品を見渡すと、ごく大づかみないいかたではあるが、藤尾風な趣味的・衒学的女は初期の作品に現れただけで姿を消し、藤尾の性格の中から、ゴーチェの「アントニイとクレオパトラ」を愛読するロマンティックな色彩をぬき去った女の面が、次第に現実的に発展させられて来ている。
鴎外の作品が日本の近代文学として不動に保っている意義の一つは男と女と、その自我の量とねばりとにおいて同等のものを認めたところである。しかしながら漱石は当時の社会的・個人的な環境によって女のもつ自我の内容、発露の質と、男のもつ自我の本質・形態との間に、裂けて再び合することないかのように思わせる分裂、離反、相剋を見出している。作品のテーマをなす知識人の人間苦として、深刻な凝視でこの一点をさまざまな局面の組合せの変化において描いているのである。
女の卑俗な意味での打算、散文性、日常主義の姿を、いきいきと描いた人には紅葉もある。荷風も描く。だがこれらの人々は浮世風俗の一つとして傍観的に描くのであるが、漱石の世界にあっては、女、とくに結婚している女のこういう性格が、良人である男を、死の際へまで追いやる精神的苦悩の原因として出て来ているのである。
荷風は、女を、くじかれたものとして眺め下す好みにいる。その好みの通る世界にとじこもっている。漱石は女を恐るべき生きもの、男を少くとも精神的に殺す力をもつものとして描いているのである。女の心を捕えようと欲する男の心持、その人間的な欲求が、女の敏感さの欠乏、精神的無反応、日常事の中での恐るべく根づよい居坐りかたなどによって、手も足も出ないような工合になる。その焦慮の苦悩は「行人」の「兄」が妻直子に対して「女のスピリットをつかまなければ満足できない」心持に執拗に描かれているのである。
最後の「明暗」に到って、女の俗的才覚、葛藤は複雑な女同士の心理的な交錯に達して、妻のお延と吉川夫人が津田をめぐって、跳梁している。箱根の温泉宿で、これら二人の女に対蹠する気質の清子が現れたところで、私たちは作者の死とともに作品の発展と完結とを奪われたのである。
「明暗」においても、漱石は女が結婚すると人間として悪くなる、少くとも素直でなくなり、品性がよくなくなるという彼の支配的な女性観、すでに「虞美人草」に現れている考えを反覆している。延子とその従妹との対照、お延が伯父から小切手を貰うところの情景などで、漱石は生彩をもってそのことを描いているのである。
結婚すれば女が人間としてわるくなる、という漱石の悲痛な洞察は、だが、漱石の生涯ではついにその本来の理由を見出されなかったし、従って果敢な解決への方向をも示されなかった。
トルストイは、「クロイツェル・ソナタ」を頂上として、結婚生活における人間の堕落を肉体的欲求への堕落に見て、人間性の高揚のために、家庭生活や結婚というものの従来の考えかたを、根本から懐疑し、否定した。漱石は、結婚が女を人間的に低め、そのために男も苦しみ、相互の悲劇であることを見ながら、やはり、結婚や家庭の日暮しというものの旧来のしきたりに対しては反抗しきっていない。女が結婚するとわるくなるという例から見て、何が女の人間性を結婚において害そこなうのであろうか。結婚、家庭生活の中にある何のバチルスが、その結合に入った男女を傷けるかという拡大された視野へ、この意味深い懐疑を展開させてはいないのである。
女が結婚するとわるくなるということが一面の事実であるとして、その理由となる諸事情は微妙であるが、日本の社会のしきたりが女により多く課しているもの、結婚についての男の我知らずの便宜的な考えかた、日常的な家内安全の運行がせちがらい世に女のやりくりに中心をおいていることなど、いずれも家庭にある女の精神に強いさわやかな羽搏きは与えないのである。漱石は家庭の考えかた形づくられかたに対しては根本的な疑問は表面に出さず、その枠内でいつも人間性、智性と俗物性の葛藤、自我の相剋をとりあげている。これは漱石の芸術と生活態度との歴史的な特色の一つである。荷風が今日においてもそれと正面にとりくむことはせず、自身の好みとポーズにしたがって避けて生きている人間の社会的結合の形としての結婚や家庭内の問題を、漱石は正面から時代の良識の前に押し出しつつ、彼の生きた歴史と文学の性質は、社会の鏡としての結婚、家庭そのものの在りようを痛烈な疑問として提出せず、苦痛の間を低徊する精神の姿で描写したのであった。
今日、私たちの周囲にある文学作品が、こののこされた意味深い矛盾、テーマを、どのように発展させているであろうか。日本の女の生活の現実が、どのように自らこのテーマを押しすすめて来ているであろうか。
風俗画としての面から今日の文学を見れば、たとえば丹羽文雄氏によって描かれている女の姿も一箇の絵図であろうし、菊池寛氏の家庭、恋愛観も常識というものの動きを除外していえば最もひろい底辺を示しているであろう。
だが、明治の初頭、『女学雑誌』を発行した人々が胸に抱いていた情熱、日本では半開のままで次の波をかぶってしまった男女の人間的平等への希望は今日どのような変貌をとげて、どこに生きつづけているであろうか。今日のロマンティシズムさえ日本では女を封建の姿にポーズせしめようとするところに、一言にして尽すことのできない重いせつない未来へ向っての努力への呼び出しがかくされているのである。 〔一九三八年一月〕 
 
若き世代への恋愛論 宮本百合子

 

昨年の後半期から、非常に恋愛論がとりあげられ、いろいろの雑誌・新聞の紙面がにぎわった。一方に社会の有様を考えて見ると、二・二六事件の後、尨大な増税案がきめられて、実際に市民生活は秋ごろからその影響をうけはじめている。煙草・砂糖・織物すべてが高価になり、若いサラリーマンの日常は些細なところまで逼迫してきている。軍需インフレーションは一部をうるおしているであろうが、その恩沢にあずからぬ者の方が多いことは明らかである。この数年来、若い男女の経済生活は、中流層の崩壊につれて困難の度を加えてきている。結婚難も増し、従って、若い人々の間の恋愛の感情も複雑な影響をうけている。その困難を打ちひらいて、若い時代にふさわしい希望と生活にうち向う気力を鼓舞しようとする意気組から、これらのおびただしい恋愛論は簇出そうしゅつしたのであったろうか。
前後して、日本のインテリゲンツィアの間には青年論がとりあげられていた。青年が、現代の日本における社会情勢の中では、数年前マルクス主義が自由に検討された時代のような若い時代の歴史性の自覚、確信、それを可能ならしめる客観的事情もかけているし、さりとて、若い精神と肉体とをある一部の特殊世界の人々の人生観でしばりつけられ、一面茶色の叢のような存在におかれ切ることにも満足できず、その中間の苦痛深い現代青年の問題をとりあげたのであった。
青年論に連関するものとしてのはっきりした見とおしで恋愛論がおこったともいえない状態であった。むしろ、偶然に社会の耳目をひいた恋愛事件、恋愛による殺傷事件などの刺戟が、昨年から今年にかけてこの恋愛論を生んでいるのではないだろうか。
そして、現在私たちの周囲にある恋愛論の多くは恋愛論の論というとおかしいが、そういう恋愛論は正しいとか間違っているとか、そういう論の論議にかたよっているように思える。さらに特徴的なのは、恋愛について物をいい、書きしている論客の大部分がほとんど中年の人々であることおよび、それらの恋愛論と読者との関係では、それぞれの論が読まれはしていても現実に若い人々の生活における行動の規準となるものをもっていないことなどが感じられる。
現代の若い男女のおかれている時代的な境遇というものを洞察して、その脈管にふれて多難な人生行路の上に力づけ、豊富にされた経験と分析とで、若い時代の生活建設に助力しようとする熱意からの恋愛論は、残念ながら少なすぎる。ある主観的な点の強調からの恋愛論やその反駁、さもなければ、筆者自身が大いに自身の趣好にしたがって恋愛的雰囲気のうちに心愉しく漫歩して、あの小路、この細道をもと、煙草をくゆらすように連綿とみずから味っている恋愛論である。
私は一人の読者として、心に消すことのできない一つの疑問を抱いている。今日、本当に自分たちの生活を現実に即して考え、さまざまの困難に向いあっていて、しかも勇気を振ってそれを突破してゆかなければ結局生きようはない境遇におかれている若い男女が、はたして、これらの恋愛についての議論や講義の中に、自分たちの生涯の問題がとりあげられ語られているという切実なものを感じ得るであろうか。恋愛論という見出しを見て私の心にすぐくるのは深いこの疑問である。

恋愛とか結婚とかの問題は、きわめて人生的な性質のものである。それぞれの個人の性格、境遇が綜合的にほんの小さく見える偶然にまで作用して来るのだが、やはり時代というものが押し出している強い一つの共通性というものがある。
同じ恋愛についての新しい認識、方向が求められるにしろ、時代は過去においてそれぞれの性格を示した。明治初年の開化期の男女は、政治において男女同等の自由民権を主張したとおり、急進的に男女の自由な相互の選択を主張した。自由結婚という言葉が、この時代の人々の行動を通して今日までつたわって来ている。
日本におけるこの時代は非常に短く、それは近代資本主義日本の特性を語るのであるが、憲法発布頃から、恋愛や結婚についての一般の考えかたが、ある点逆もどりした。婦人の進歩性というのは、当時の社会の指導力が進んでゆこうとしていた方向を理解し、それをたすけ、ついて来るだけの能力を女も持たなければ不便であるというところに限界をおかれた。恋愛や結婚についても、それに準じて、親の利害に反対しない範囲で、ひとに選んで貰った対手と、婚約時代には交際もするという程度のところが穏当とされたのであった。
藤村や晶子が盛にロマンティックな詩で愛の美しさ、愛し合う男女の結合の美しさ、価値をうたった時代、現実の社会生活の中では決してそのような誰にものぞましい結合がざらにあった訳ではなかった。進歩的な若い文学者など(例えば透谷・藤村・独歩・啄木その他)が、新しい生活への翹望とその実現の一端として、自分たちの恋愛を主張し、封建的な男女の色恋の観念を破って、人間的な立場と文化の新生面の展開の立場で、男女の人格的結合からの恋愛と結婚とをいったのであった。
ヨーロッパで、自然主義の持った役割は非常に大きく、過去のヨーロッパ文化がその宗教的な伝統、騎士道の遺風、植民地政策の結果から生じた女性尊重と精神的愛の誇張から生まれている男女の性生活の偽善を打ち破る力があった。文芸思潮として日本へ入って来たこの自然主義は、当時の日本の社会事情、伝統的習俗の上へ蒔かれて、男女の結合とその生活の内容を観ることでは、ロマンティシズムの詩人たちが、心と姿とを審美的に輝やかしく描いたに反して、肉体的な面、いわゆる獣的な結びつきだけを拡大した。人間の恋愛をとりあげるのに、精神と肉体とをそういう素朴さで二元的なものに観、肉体の欲求を獣的と見たことも今日の私たちの心持から推せば何か奇怪であり、滑稽でもある。愛を表現しようとする心の望みが高まったとき、私たちはどうしてその熱情に応じて花咲き、匂う自身の肉体を否定したり、そこに獣を見たりしよう。人間の感能がこのように微妙に組織されており、機能がしかく精密であるということには、それにふさわしく複雑で、多彩で、弾力にとんだ精神の活動の可能が示されているのである。恋愛のように人間の総和的な力の発動を刺戟する場合、今日の私たちは自分たちの全人間が、その精神と肉体とが互に互のけじめもつけかねる渾然一体で活躍し、互が互の語りてとなって、愛する者に結合することを知っているのである。
ところで、日本の自然主義者たちは、そのように現実曝露として性的結合の獣的と見られた面をだけ抉出して芸術化したのであったが、このことの中にも、日本の社会において男が女を下に見る封建的なものは微妙に反映した。男女関係で、獣の牡牝にひとしい挙止を見た日本の自然主義の作家たちは、我知らずこれまでの日本の男らしい立場で、そのような牡である自身を人間的な悲愴さで眺め解剖しつつ、そういう牡である男に対手となる女が、はたして男が牡であると同量にあるいはその自発的な欲望において牝であるかどうかという点についての観察は深めなかった。当時の考えかたに従って男を牡と見きわめて、自身の牝を自覚し、強請する女は、日本の自然主義文学の中には描かれていない。男に岩野泡鳴はいたが、女にはそういう作家も出ず、自然主義の後期にそれが文学の上では日常茶飯の、やや瑣末主義的描写に陥った頃、リアリスティックな筆致で日常を描く一二の婦人作家(故水野仙子氏など)を出したにすぎない。このことにも、日本の社会の特徴が、男と女とにどう作用しているかということの面白い、具体的な現われが見られるのである。
漱石がこの明治四十年から大正初期にかけて、婦人の自我というものと男性の自我とが現実生活の中で行う猛烈な噛み合いを芸術の中に描いたのは注目に価する。牡に対する牝としてではなく、人間女として婦人がこの社会生活に関っている心理的な面を漱石はとらえ、このことでは、両性の関係のみかたが一歩進んだのであったが、漱石は、日本の結婚生活というものが一般に女の自然的性格の発展を害するものとして見ている。彼の思想は、当時の知識人の立場を代表して自我の発見に集注していたので、日本の女がたいてい結婚してわるくなるということの重点も、男の自我と女の自我との相剋に、原因をおかれた。そして、その相剋を積極的な主張的なものとして出す力も社会的習慣をも持たない女が内攻的になり、嘘をつくようになり、本心を披瀝しないものとなって、ただ男を社会経済生活に必要なものとだけ見てゆくようになる、その卑俗性がまた男に反射して摩擦を激しくする、その苦しい過程を描いたのであった。漱石が結婚しないうちの若い婦人に対して抱いていたどちらかというとロマンティックな、趣味的な気分と、結婚している女の良人に対する心理に辛辣な観察を向けている。その対照は細かくそれを眺めて行くと、明治初年に青年期を送ったこの大作家の心持に秘められているさまざまの時代的なものが実に面白く眺められるのである。漱石は、日本の社会にある結婚生活が、女を損い、そのことによって男の幸福もそこなわれていること、結婚生活の外面的な平和や円滑さに対する懐疑をつよくいいながら、それならば、と新しい生活の方向、結婚や恋愛の道をその作品の中で示し得なかったこともまた大いに注目すべき点であると思う。若い娘に対して、この作家はやっぱり従来の日本の家庭の雰囲気が生んだ内気なもの、淑やかなもの、人生に対して受動的な純潔、無邪気に満ちている美を美として認めている。漱石が、自分の恋愛に対して自主的であり、捨身である女を描くことができたのは、きわめて幻想的なヨーロッパの伝説を主とした「幻の盾」や「薤露行」やの中の女性だけであったことも興味ふかい。漱石は、彼が生きた時代と自身の閲歴によって、日本の知識人の日常生活の桎梏となっている封建的なものに、最も切り込んだ懐疑を示した作家であった。けれども、一面では、自分の闘おうとしているものに妥協せざるを得ない歴史の遺産が彼の心の中にあって生きていた。
当時、まだ若かった平塚らいてう氏と森田草平氏とが、ダヌンツィオの影響で、恋愛は死を超えるものか、死が恋愛を負かすものであるか、という、今日から見ると稚げとも思える一つの観念的な試みのために伊香保の雪の山中に行ったりした事件に対し、漱石は、どちらかというと、先輩、指導者としての責任感という面からの感情で見ていることも、興味がある。
平塚らいてう氏たちによってされた青鞜社の運動は、沢山の幼稚さやディレッタンティズムをもっていたにしろ、この社会へ女というものの存在を主張しようとする欲望の爆発として、歴史的なものであった。原始の女性は太陽であった。婦人の自由は社会生活の全面に確保されなければならないという主張であったけれども、当時の社会、経済生活は婦人にその主張の土台となる経済力を与えていなかった。いわば親がかりで気焔をあげているところがあった。母権時代は、現実の上には遠く遙かに過ぎ去っているのであったから、そういう主張をした婦人たち自身の恋愛や結婚にしろ、わずかに当事者たちの選択の自由、自主性、を示し得たに止った。そしてその女性たちの選択の自主性が、はたしてどれだけ人間的に社会的に高められ、進んだものであったかということについては、若い世代は、彼女たちの時代的経験に敬意を払うとともに、大なる疑問をのこしているのである。
白樺派を主とする人道主義の人々は、出生した環境、階級の関係から、旧来の男尊女卑に反撥して、男と女との結合につよく人間性を求めた。殿様の切りすて御免風な女に対する関係を否定したのであった。恋愛において、結婚生活において、形式から縛られた貞潔ではなしに、自発的な自身の愛情に対する責任としての貞潔を、自身にも婦人にも求めた。人間として完成する伴侶としての男と女との結合ということがこの時代には眼目とされたのであった。
確かに白樺派に属する若い人々は、まじめに、軽蔑など感ぜず女に対し、たとえば小間使いの女との間に生じた関係をも全心的に経験したであろう。女を一人の女として、階級のゆえんで蹂躙したりは決してしなかったであろうが、概して、これらの若い人道主義者たちの人間性とそれに対する善意とは抽象的なものであった。これらの人々は、どんなに自分は善意をもっており、誠実な心であっても、客観的にそれが現実の社会関係の内に行動されたときどういう作用を起すかということについては比較的知っていない。その点での社会性はいたくおくれている。これは直接恋愛についてではないが、たとえば武者小路実篤氏が今日の時代の農村の実状からとびはなれて、二宮尊徳をその誠意や精励、慧智の故にだけ、その美徳を抽象して賛歎しているような悲しき滑稽が出現するのである。
欧州の大戦と婦人の職業戦線の拡大、労資の問題の擡頭、民衆の階級としての自覚、その解放のための運動は、日本でも恋愛と結婚との実際に大きい影響と変化とを与えた。ソヴェト連邦は新しい社会の機構によって、婦人の性を妻、母として保護しつつ、社会的にますます人間性の高められた複合単位として経済的、政治的、文化的に男女一対の内容を育てつつある事実は、世界の進歩的な男女に、男と女との恋愛や結婚の幸福の土台となっている社会事情についての理解やその歴史的発展に対する認識に一定の方向を与えた。マルクス主義の理解は、恋愛、結婚問題についての態度を従来の女性解放論的なもの、あるいは男女平等論風なものとはその本質において異ったものとした。抽象的に恋愛における人格の価値や自由をとりあげていた過去の態度に対して、新しい常識は、われわれの恋愛の根底において支配している経済力と個人との関係、そこから生じる恋愛の階級的質の相違、恋愛の自然な開花の可能と社会事情の進展との相互関係などについて、積極的に会得するようになったのであった。
当時、おびただしい困難と歴史性からの制約と闘いながら、社会進歩のために献身した若いマルクス主義者たちの実践は、方向としては健全で遠大な目標を目ざしつつ、日常の錯雑した現実関係のうちで、実にさまざまの価値ある経験の蓄積をのこしている。どんな思想も抽象的に在ることはないのであるから、当時の最も進歩的なものも、日本の社会生活が過去からもち来している古い重荷のために微妙な曲線を描かざるを得なかった。とくに男女の性生活の新しい社会的認識の面では。
新しい世界観によって導かれたこれらの若き一団の前進隊は、過去からの家族制度に強制された形式的な夫婦関係、小市民風な、恋愛は絶対であるというロマンティックな考えに抗して、唯物論者の立場から、広汎、多岐な人間生活の一部門である性問題として恋愛の科学的、社会的処理を志した。健康で、自主的で社会的責任によって相互に行動する両性関係とその論理の確立を求めたのであったが、一部の人々は、両性の問題だけを切り離して当時の社会の歴史的、階級的制約の外で急進的に解決し得るものではないという事実を過小評価する結果に陥った。
日本における過去の左翼運動の若さは、いろいろの深刻な教訓を我々の発展のために与えているのであるが、性問題の実践にあたっても、若い前進部隊のこうむった被害の最大なものは、いりくんだ作用で彼らの脚にからみついて来ていた封建的なものとの格闘によるものであった。たとえば、女を生活の便宜な道具のように見た古い両性関係の伝統に対して、正当な抗議をしながらも、一部の活動家の間には、性的な交渉をもふくめて女を一時便宜上のハウスキイパアとして使うことの合理化が行われた。女は、ある場合それに対して本能的に反撥を感じながら、組織内の規律という言葉で表現されたそういう男の強制を、自主的に判断する能力を十分持たず、男に服従するのではなく、その運動に献身するのだという憐れに健気けなげな決心で、この歴史的な波濤に身を委せた。性関係における自主的選択が女に許されていなかった過去の羈絆きはんは、そういう相互のいきさつの間に形を変えて生きのこり、現れたのであった。
大衆の組織が、短時間の活動経験を持ったばかりで、私たちの日常の耳目の表面から退潮を余儀なくされて後、その干潟にはさまざまの残滓や悪気流やが発生した。いかにも若い、しかしながらその価値は滅すべくもない経験の慎重な発展的吟味のかわりに、敗北と誤謬とを単純に同一視し、ある人々は自分自身が辛苦した経験であるにかかわらず、男女の問題、家庭についての認識など、全く陣地を放棄して、旧い館へ、今度は紛うかたなき奴となり下って身をよせた。
しかし、若い世代は一般的に年齢が若いだけの必然によって、そういう歴史の上での逆行は本然的に不可能であると感じており、しかも一方にはますます逼迫する経済事情、自由な空気の欠乏などが顕著であり、生活態度全般にわたって帰趨に迷うとともに、恋愛、結婚の問題についても、決して、簡単明瞭な一本の道には立っていないのが今日の現実であろうと思う。優秀な、着実な今日の若い人々は、決して、反動家のように野蛮な楽天家でもなく、卑屈な脱落者のように卑屈でもあり得ないのである。

私たちは、自分たちが生活している環境も無視して恋愛も結婚も語ることができない以上、農村の若い男女の実際と、都会の若い勤労者の間でのこととでは、いろいろ違ってくると思う。
現代の社会の機構が、都会と農村との生活的距離を大にしており、文化の面で、地方は常に都会からおくれなければならない関係におかれている。哲学者三木清氏は、この原因を地方的文化の確立がないから、都会の文化がおくれて、しかも低い形で真似られているにがにがしさと見ていられるが、近代の農村と都会とをつないでいる経済関係を知っているものは、文化の根底をもおのずから、経済的なものと観ざるを得ない。地方の小都会や農村の若い人々の恋愛や結婚の実際は、その人たちが進歩的であればあるほど、多くの困難にであわなければなるまいと思う。とくに、総領の息子、あるいは家督をとる一人の娘というような場合、これらの誕生の不幸な偶然にめぐり合った人々は、今もって家のために、親を養い、その満足のために、結婚がとりきめられ、そこでは家の格式だの村々での習慣だの親類の絆だのというものが、二重三重に若い男女の心の上に折り重ってかかってくる。
農村での生活がたち行く家庭で若い人々の負う荷はそのような形だが、貧農の娘や息子の青春は、どんな目にふみにじられていることであろう。政府は東北局というものを新しくつくらなければならない程度に、日本の農村は貧困化している。売られて都会に来る娘の数は年を追うて増加して来ている。矯風会の廃娼運動は、娘が娼妓に売られて来る根源の社会悪を殲滅し得ない。
小さい自作農の息子が分家をするだけの経済力がないために結婚難に陥っていること、またそういうところの若い娘たちが、また別の同じような農家へいわば一個の労働力として嫁にもらわれ、生涯つらい野良仕事をしなければならないことを厭って、なるたけ附近の町かたに嫁ぎたがる心持。ある座談会で杉山平助氏は、中農の娘が巡査、小学校の教員、村役場の役員その他現金で月給をとる人のところへ嫁にゆきたがるのは、農村に現金が欠乏しているからと、語っておられる。それも確に一つの原因ではあろうが、今日、婦人雑誌の一つもよむ若い農村の娘は、耕作の激しい労働に対する嫌悪と文化の欠乏を痛感している。私の知っているある娘はこういった。「私は東京で嫁に行きたいと思っていたんですけれど。――田舎は煙ったくて、煙ったくて。」その娘の煙ったいというのは本当に煙のことで、田舎では毎朝毎夕炉で粗朶そだをいぶし、煮たきをする、その煙が辛い。ガスのある東京で世帯をもちたいというのである。
巡査にしろ、小学校教員にしろ、その妻は畑仕事が主な仕事ではなくて生計が営める。婦人雑誌をよむひまも、そこに出ている毛糸編物をやるひまもあり、最低ながら文化的なものを日常の生活の中にとり入れることができるであろうという若い女の希望も、この事実の裏にあると思う。
ブルジョア文化というものは、何と奇体に不具であるだろう。たとえば近頃の婦人雑誌を開いて見れば、女がいつまでも若く美しくている方法から、すっきりとした着付法、恋愛百態、輝やかしい御幸福な新家庭の写真など、素朴な若い女の目をみはらせる写真と記事とのとなりに、最近とりわけて農村生活の幸福を再認識させようとして絵画化され、空想化された構図で、田舎の生活スナップや労働の姿などが撮られて並んでいる。農村の現実の中で明け暮れしている者の胸に、それらの農村写真の非真実性は自然映ってくるであろう。こんな綺麗ごとではないと思わずにいられまい。その感情で、都会の姿もここに見られるばかりではあるまいと鋭く思いいたる若い女は、数にしたらごく少数の怜悧な人々だけであろうと思う。田舎での女の暮しの楽しみ少なさばかりが際立って顧みられ、都ぶりに好奇心や空想を刺戟され、カフェーの女給の生活でさえ、何かひろい天地に向って開いている窓ででもあるかのように魅力をもって見られるのであると思う。
処女会の訓練法は、はたして若い女の進歩性をのばしているであろうか。進歩的な農村の青年らが希望する女としての内容を与えているであろうか。このことには再び多くの疑問がある。封建的な家というものの重さ、近代的高利貸の重さ、昔ながらの少なからぬ風習の重さ。これらに立ち向って農村の進歩的な青年男女は、彼らの若い人生の路を推し進まなければならないのである。それは行手の長い、実につよい根気の求められる路である。どうせ、といってなげ捨ててしまえば、たちまちまわりの重さに息をとめられてしまう。何とかしてその重さをはねのけようとする欲求、その生々しい力、そのようなものを互にもっていることがわかりあって、その力をも合わせ集めるつもりで若い一組が結びつくことができたら、現在の農村の生活の中ではすでに大きいプラスの意味をもつことであると思う。男も女も家庭をもったらもう駄目ですね、とよくいわれる言葉ほど昔風で、悲しく屈伏的なものはないと思う。私たちは人間性を埋められる場所として家庭をあらしめることは許さない。この社会で、家庭というものが、そういう青春や恋愛の埋めどころでないものとなるために、人間らしい、共同的な小社会としての家庭を来らしめるために、私たちは自分の家庭生活そのものをもって闘って行かなければならないのだと思う。

ある人が、こういうことを話した。日本では恋愛論とさえいえばよく売れる。婦人雑誌を売るには恋愛論なしでは駄目だ。ところが、イギリスでは、恋愛論では売れず結婚論ならば売れるそうだ、と。
私は、深い印象をこの言葉からうけた。イギリスは、フランスなどと違って、結婚は男と女との相互的な選択、友情、恋愛の過程を経て結婚に到る習慣をもってきている。彼らのところで結婚というものは愛し合っている一組の男女が、さらに深く結ばれ、豊かに溶け合い、いわば恋愛をその生涯で完成させる道として考えられている。浅く軽い恋愛、または情痴的な破局的な恋愛、あるいは恋愛期だけで消滅して永年の結婚生活にたえぬ要素の上に立つ恋愛は、研究するまでもなく数も多いであろう。恋愛を夫婦愛の中核として見て、その発展と成熟との間におこる種々の問題こそ研究さるべきであるという常識は、日本の、現在でもなお結婚と恋愛とを切りはなして考える慣習と対蹠をなしている。
昔の日本人は、封建の柵にはばまれて、心に思う人と、親のきめた配偶者とはほとんど常に一致しなかった。現在は、菊池寛氏のように恋愛を広義の遊蕩、彼のいわゆる男の生物的多妻主義の実行場面と見、結婚を市民的常識にうけいれられた生殖の場面、育児の巣と二元的に考える中年の重役的認識と、恋愛は楽しくロマンティックで奔放で、結婚は人生の事務であると打算的に片づけている資本主義末期の若い男女の一群とがある。
批判的で建設的にこの二度とない人生を生きようとしている男女が、その心持を恋愛論にひかされるのは、今日の恋愛と結婚のありように対する真摯な疑問と、その解決の要求からであると思う。
一口に男といっても、今四十前後の男と青年とは気質にも慣習にも非常に多くの相異をもっている。青年のうちにまたなかなか複雑な型タイプの類別が生じている。男の貞操とか女の貞操とか対比的によく問題となってきている。これまで、男といえば菊池氏流に、貞操というようなものはないもの、多妻的本性によって行動するものと単純に自覚されてきているが、現代の青年ははたしてすべてが、そういう単純な生物的な一機能に全人間性を帰納させた生きかたを自分の生きかたとしているであろうか。私は、現代の青年のある部分は、性的なものを多様な人間の生活要素の一つとして、綜合的に自覚しているもののあることを現実に知っている。抽象的に未来の妻となる女に対する貞操とか、何か宗教的なあるいは生理的な潔癖性からでなしに、人間としての自分が肉体で結びつくまでには、やはり人間的に愛し得る婦人を必要とするたちの青年が決してなくはない。
ある唯物論者といわれている人が、某大学の学生の座談会によばれ、その学者は、青年たちに、性的な欲求は現代の社会で、その自然な解決が閉されているのだから売笑婦によってドシドシ処理して行ったらよい、病気にさえならなければよい、という意味のことを語ったそうである。ある人たちはその見解に納得したであろう。ところが、ある納得せぬ人々の一団があった。そしてその納得できなかった青年たちはある人のところへ来て訴えた。自分たちは道学者流に考えているのでもないし、性的経験に対して臆病であるとも思わないが、性的衝動を感じて、その解決をねがっても売笑婦のところへはどうしても行けない。いいとかわるいとかではなく、行く気になれない。あるいは不便で不幸かもしれないが行けない、といっているのである。
一方に、同じ年頃の青年でも、そういう面での欲求は至って何でもなく売笑婦のところで放散させ、若い女とはそういう要求からでもなく、結婚しようというわけでもなく遊ぶという青年の型が生じている。そういう型を知識人のある人は何の疑問もなく、現代の賢い青年と呼んでいるのである。
同じような型で、賢い若い女といわれる人々がある。恋愛は恋愛、結婚は結婚。そして、結婚には、対手の経済的な力を第一の条件とする娘。そういう若い女は、現代社会の富の分布の関係から、当然、自分よりずっと年長の男を良人とし、やがて良人は良人として、妻は妻としてそれぞれの形の裏切りを重ねてゆくわけである。
地道な若い下級サラリーマンや、職業婦人の間に、今日はこんな世の中だからよい恋愛や結婚は望んでも駄目だという一種の絶望に似た気分があるのも事実だと思う。青年たちは、自分たちの薄給を身にこたえて知り、かつ自分の上役たちにさらわれてゆく若い女の姿を見せつけられすぎている。職業婦人たちは、それぞれの形で、いわゆる男の裏面をも知らざるを得ない立場におかれている。私たちの新しい常識は、職場での結合をのぞましいものと告げているのだが、日本の社会の現実で、愛情の対象を同じ職場で見出すことはほとんど絶対に不可能に近い。大経営の銀行、百貨店、会社はどこでも、そこに働いている男女の間の恋愛や結婚を禁じている。もし、そういう場合には、どちらかが、多くの場合女が職業をすてなければならない。けれども、今日多くの若い職業婦人が大衆の貧困化から強いられて来ているように、家計の支持者であるとしたら、困難は実に大きい。若いサラリーマンの給料は妻を扶養するのもむずかしく思われるほどだのに、ましてその家族の負担などは考えることもできまい。男にも経済的に助けなければならない家族がある場合がむしろ多いであろう。下級勤人ほど、この家庭の経済的羈絆はその肩に重からざるを得ないのである。
それに、一つの職場中でも、伝統的な男尊女卑はのこって作用している。職業婦人の感情には、集団としてそのしきたりに反撥する感情の潜んでいることは自然であり、男の同僚たちも、男尊の一般的傾向にしばられ女に親切な男として仲間からある笑いをもって見られることを厭う。馘首の心配に到る前に、これらの重複した原因から、男と女とは、一つテーブルのあちらとこちらとでも、まともに対手を眺めようとしなく成っている。人間の心理は微妙であるから、自然な状態におかれればおのずから親密さや選択の生じる若い男女が、はじめからある禁圧を意識して日々対していることから、牽引が変形して一種不自然な反撥となって感情の中には映って来ることさえあるのである。
さいわい、互に働いている男女が愛し合うとして共稼ぎということが問題となって来る。医学博士の安田徳太郎氏は六七十円の共稼ぎで、女が呼吸器を傷う率が高いことをいっていられた。今日の社会では女が働いてかえってきて、やっぱり一人前に炊事、洗濯をやらなければならない。経済的にもそうしなければやってゆけない。それでも困るし、と共稼ぎの生活を女が躊躇すると同時に、せめて家庭をもったら女房は女房らしくしておかなければ、と共稼ぎをきらうために結婚しない男もある。
だが、このように錯雑した恋愛や結婚の困難性に対して、はたして打開の路はないのであろうか。
私は、今日一般にいわれている困難性そのものがもう一歩つき入って観察され、批判的にとりあげられなければならないと思う。なぜなら、今日の若い勤労生活をしている人々の間でさえ、まだ恋愛や結婚はどこか現実から浮きはなれたところをもって感情の中に受けとられていると思う。世の中のせち辛さはしみじみわかっている反面で、恋愛や結婚についてはブルジョア的な幻想、そういう色彩で塗られて伝えられている安逸さ、華やかさを常にともなって考えられていないと、いい切られるであろうか。男の人々も自分の愛する女、妻、家庭と考えると、そういう名詞につれて従来考えられ描かれて来ている道具立てを一通り揃えて考え、職業をもっている婦人だって妻は妻と、その場合自分の妻としてのある一人の女を見ず、妻という世俗の概念で輪廓づけられているある境遇の女の姿態を描く傾が、決して弱くはないと思う。
女のひとの側から、男を見る場合そういうことがないといえない。あのひともいいけれど、結婚する対手となるとまたちがう、という標準は何から生じるのであろう。そこまで深く調和が感じられないという意味のときもあろう。だが、良人としてはもっと何か、というとき、やっぱり妻を養う経済力とか地位の将来における発展の見とおしとか、そういう条件がつけ足されて選択の心が働くことが多いと思う。
若い女が素朴に恋に身を投げ入れず、そういう点を観察することが小市民の世わたりの上で賢いとされた時代もあった。いわゆる人物本位ということと将来の立身出世が同じ内容で、選択の標準となり得た時代も遠い過去にはあった。けれども今日の大多数の青年の苦しみは、明治時代の人物本位という目やすが自身の社会生活の生涯に当てはまらなくなっていることから湧いている。精励な会社員はあくまで社員で、人物がどうであろうと、重役には重役の息子がなるのが今日の経済機構である。
私は誠意をもって生きようとするすべての若い男女たちに心から一つのことを伝えたい。それは、好きになれる相手にであえたならば、いろいろのつけたりなしで、そのひとを好きとおし、結婚するなら二人が実際にやってゆける形での結婚をし、勇敢に家庭というものの実質を、生きるに価するように多様なものに変えてゆくだけの勇気と努力とを惜しむなということである。そういう意味で、今日の若い男女のひとびとは、自分たちの人間性の主張をもっと強く、現実的に、自分たちのおかれている境遇の内部から発揮させなければならない。そうして行かなければ一つの恋もものにならないような世の中である。
私は君を愛している、というだけでは今日の社会で恋愛や結婚の幸福はなりたたず、金も時間もいるというブルジョア風な恋愛の見解に対して、ある青年はこういう抗議をしている。現代には新しい男が発生している。その男たちは生活の資本として労働力をもつばかりであると同時に、愛する相手の女に与えるものとしては、私は君を愛する、という言葉しか持たない場合、この言葉が何事をも意味しないといえるであろうか、と。
若き世代は、生活の達人でなければならない。世わたり上手が洞察のできない歴史性の上で、生活の練達者とならなければならない。恋愛や結婚が人間の人格完成のためにある、といえばそれは一面の誇大であるが、真の愛の情熱は驚くばかりに具体的なものである。必要を鋭くかぎわける。理論的には進歩的に見える男が家庭では封建的な良人であるというようなことも、良人と妻という住み古した伝来の形態の上に腰をおとして怠惰であるからこそのことで、もし愛がいきいきと目をくばって現実の自分の相手を見ているのであったら、たとえば、若い人々の家庭の持ちようというものにも、単にアメリカ化したエティケットの追随で男も皿を運ぶのがよき躾という以上の共同がもたらされると思う。共同に経験される歓び、そして現代では共同に忍耐され、さらにそれを積極的なものに転化してゆくつよい共同の意志と努力とが必要である。
私たちが生きているこの現実の中で、愛し合う可能の下におかれ、めぐりあった相手しか、現実に私たちの愛せるものは存在し得ないのである。その相手と共にこの人生に築きあげてゆく愛の形、最もよく発揮される社会的な発展進歩への価値こそ現実のものである。ふわりふわりと地上から二三尺のところを漂い流れているものがあって、それを何かのはずみで指先にかけつかまえたものが、いうところの幸福な恋愛と結婚との獲得者になるのではない。
近頃唱えられているヒューマニズムの論は、性生活においても、その自由な発露と豊饒さを主張しているのであるが、現実の事情をはなれて、自由や豊饒さを語っても、結局はロマンティシズムに堕ちる。十九世紀の近代社会の勃興期におけるロマンティシズムのような、現実へ働きかける情熱としてではなく、今日の分裂的な恋愛、とくに日本においては、逞しい生活意欲という仮装面の下に、危うく過去のあり来りの男の凡俗な漁色の姿をおおいかくしている結果になる。
ヒューマニズムとは、勇気と沈着さとで我々がおかれている現実の環境とその推移の本質を見とおし、恋愛においても、偸安に便利な条件を左顧右眄さこうべんして探すのではなく、愛しうるひとを愛し抜こうとしてゆく人間の意志とその実践と、その過程に生まれてゆく新しい社会的価値の発見であると思う。現代の苦しい社会的矛盾の間に生きて、ゆがむまいと欲する人間の努力を全面的に支持し、発展させる熱意こそ、今日のヒューマニズムの精髄であらねばならないと思うのである。 〔一九三七年四月〕  
 

 

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