「獄中への手紙」 前半  宮本百合子

「獄中への手紙」 昭和九年〜昭和二十年
前半 / 昭和九年十年十一年十二年十三年十四年十五年
後半 / 昭和十六年・十七年・十八年・十九年・二十年・宮本百合子と顕治・雑話
 

雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
 前半 昭和九年〜昭和十五年

一九三四年(昭和九年)
十二月八日 〔牛込区富久町一一二市ヶ谷刑務所の宮本顕治宛 淀橋区上落合二ノ七四〇より(封書)〕
第一信。(不許)[自注1]
これは何と不思議な心持でしょう。ずっと前から手紙をかくときのことをいろいろ考えていたのに、いざ書くとなると、大変心が先に一杯になって、字を書くのが窮屈のような感じです。
先ず、心からの挨拶を、改めて、ゆっくりと。――
三日におめにかかれた時、自分で丈夫だと云っていらしったけれども、本当は余り信用出来なかったのです。叔父上[自注2]が、顔から脚から押して見てむくんでいないと仰云ったので、それでは本当かと、却ってびっくりしたほどです。それにしても体がしっかりしていらっしゃるのは何よりです。私とは勿論くらべものにはならないけれども、私は一月から六月中旬までの間に相当妙な調子になって、やっとこの頃普通にかえりましたから信用しなかったのも全く根拠のないことではないわけです。
叔父上は十二月六日に林町[自注3]にお出でになり父[自注4]にも会われ、いろいろのお話を伺いました。さしいれのこと、弁護士のこと、毛糸であんだ足袋のこと、いろいろ承知いたしました。お弁当のこと、弁護士のことは、大体私もそのように考えて居りましたから御安心下さい。籍のこと[自注5]ももう余程前からの話なのですが、やっと今度お話になられ、私も非常に満足です。あなたも其を当然のことと感じて、御返事下すったということはこれも亦私にとっては様々の意味で愉快なことです。そういう私の心持はおわかりになるでしょう?
五日に叔父上のお会いになったときは、もうあの百日カズラに髯ボーボーではなかったってね。着物は先のままであったそうですが、今日あたりは差しいれたのが届いただろうと思って居ります。帯をしていらしったというけれど、それはどんな帯だったのか、私の入れたやすもののヘコ帯かしら。それとも違うのかしら、と叔父上に伺ったら「ヤアそれは気が付かざった!」と首をちぢめておいででした。
六日の日は、お昼を竹葉の本店へお伴して、座敷が大変お気に入り、今日七日はおひる父と三人で、銀座の星ヶ丘茶寮の出店。かえりにずっと上落合の家へおいでになり、ねころがったり起きたりよもやまのお話ですっかりくつろがれました。夕飯を壺井さん[自注6]と三人でスキヤキをたべて、それから東京駅へお送りして行って、九時ので大阪までお立ちになりました。もう五分くらいしかないので、私が寝台から出て来ようとすると、どっかで林町の父のお得意の口笛の音がするので、キョロキョロしたら、急いであつそうな顔をしながら片手に浅漬の樽を下げてお見送りに来たのでした。
私は島田の父上[自注7]の御好物の海苔(のり)をおことづけ願いましたし、べったら漬もあるし、まあ東京からおかえりらしいお土産が揃って結構でした。
お立ちになってから林町へ一緒にまわってお風呂に入って、十二時一寸前家へかえりました。栄さんがあなたのシャツ類を編んでいてくれたのが待っていて、お茶をのんであのひとはかえり、私は島田の母様[自注8]が私へ下さったお手染のチリメンの半襟を又眺めなおして、いただいたコーセンをしまって、手伝いに来ているお婆さんをやすまして、それからドテラを着てね、さて、と机に向ったわけなのです。
机はやっぱり昔ながらのテーブルで上には馬のついた紙おさえや、ガラスのペン皿やをおいてこれを書きはじめているのですが、あなたは、上落合のこの辺を御存知かしら。
中井駅という下落合の駅の次でおりて、小学校のつき当りの坂をのぼったすぐの角家です。小さい門があって、わり合落付いた苔など生えた敷石のところを一寸歩いて、格子がある。そこをあけると、玄関が二畳でそこにはまだ一部分がこわれたので、組立てられずに白木の大本棚が置いてあり、右手の唐紙をあけると、そこは四畳半で、箪笥(たんす)と衣桁(いこう)とがおいてあり、アイロンが小さい地袋の上に光っている。そこの左手の襖をあけると、八畳の部屋で、そこには床の間もあるの。なかなか一通りなものでしょう?そこへ私は茶箪笥をおき、長火鉢をおき、長火鉢と直角にチャブ台をひかえて、上で仕事しないときは、そこに構えているわけです。八畳からすぐ台所だというのが私どもの暮しかたには大変いい工合なのですが、生憎井戸でね。朝まだ眠いのに家でガッチャンガッチャン、裏の長屋でガッチャンガッチャン。はじめのうちは馴れないので閉口でした。アラー、チブスになるわよ、とスエ子[自注9]等は恐慌的な顔付をしたが、まさかそれは大丈夫でしょうから、どうぞ御心配なさらないで下さい。水道をひく相談をはじめたら、なかなかはかどりません。井戸の水はただ。水道は最低九十三銭。だからいらないと裏の意見だそうです。尤もだと思い大多数の便宜に従います。
台所へ出てから、二階への梯子があり(これは玄関から障子をあけても行けるのです)、二階も縁側があり、入ってすぐが六畳、奥が四畳半。六畳の方に山田のおばあちゃん[自注10]のくれた机をおいて、四畳半へテーブルと、あなたのつかっていらした本棚をおきおさまっている次第です。二階の景色はよくてテーブルの右手の小窓をあけると、小学校の庭と建物越しに下落合の高台が見え、六畳の方の小窓からもそれにつづいての景色が一望されます。小学校だからチーチーパッパで、ときどきはやかましいが、清澄なやかましさで、神経には一向にさわりません。カンカンとよく響いて鐘がなったりしてね。窓から見ていると、友達にトタン塀の隅っこへおしつけられた二年生ぐらいの男の子がベソをかいて、何か喋っていることなどがあります。下の八畳も二階も、それはよく日が当って、実にからりとした私たちに似合った家です。家賃三十円也。井戸だし、少し不便だし、だからその位なのであろうという定評です。
達治さん[自注11]がこの一月二十日頃に入営することを叔父上がお話しになりましたか?その前に出来たらあなたに会われたらいいと思ったし(そちらにいつ頃まわるか私には見当もつかなかったから)母様の御出京の話もあったので、とりいそいで家をもったわけでした。あなたは御存知ないことだけれども、一昨年の十月末から国男夫婦[自注12]がケイオー病院のそばに家をもち、私はずっとその二階で暮して居りました。その家は、林町の母[自注13]が本年六月十三日に肺のエソでなくなり、(私が臨終の僅か五分前に辛うじて淀橋[自注14]からかえって会う事が出来た後、)引はらって、国男夫婦は林町にかえりました。私は夏ごろはずっと歩けなかったし、心臓衰弱で毎日注射していたし、すぐに家をもつことは出来ず林町の二階の長四畳へテーブルを持ちこんで、十月以後は、文学的な感想や評論のようなものを相当沢山かき半年前よりは発展をとげたということで一般に好評でした。現代文化社というところで私の最近の評論感想集[自注15]を出すそうで、多分一月頃出版の運びになるだろうと思って居ります。本年一月の『文芸』にかいた「小祝の一家」という小説は三一書房という本屋から出たいろいろな人十七人の『われらの成果』という小説集の中に集録されました。その小説集には島木健作「癩」、平田小六という「囚われた大地」という長篇小説をかいた元隆章閣の人などもはいっているし、婦人作家では私のほかにいね子[自注16]、松田さん[自注17]なども居ります。藤島まきという作家も出ました。文学におけるリアリズムの問題が、はじめ妙な傾向をもってトリビアリズムと混同して出されたし「ナルプ」は二月解散になったし、今もってその点では問題がのこされている有様です。私はそういうことについても、其だけ切りはなして云々せず、例えば窪川鶴次郎の「風雲」という小説の批評や、横光利一の大評判になった「紋章」などにふれつつ作家としての仕事ぶり生活ぶりにふれた感想そのものの書きかた、現実の生活的な問題としての文学理論上の問題の捉え方そのもので、正常なリアリズムの発展的な方法を示してゆくよう努力しているし、そのために好評でもあると思われます。小説について一九三二年の春ごろよりは又一段腰がすわったから、これからはいくらか書けます。何か、ここ一年の間に、私は作家として大分様々のものを見ききし、感情を鍛錬され、一層深く強い確信の上に立って生活するようになったから、どうぞ悠々とたのしみに私の仕事ぶりを見て下さい。十一月二十日に朝日講堂で神近さんの婦人文芸主催の文芸講演会では私の話がよろこばれ、私としても、あんなに身をいれて、わかりやすく、文学といっても一般化して云うことは出来ぬこと、文学を作るものの社会生活が反映して来ることを様々の作品の例をとって話せたことはなかったと思います。そのときの漫画はね、まるでバルザックみたいな(これは今井邦子の評)上半身の横に、一つ土瓶が描いてあるのでした。私が土瓶一つからだって、見るその人の生活によって、どんなに連想の内容がちがうかということを云ったからでしょう。文学における表現の形象性と云えば、重ね引出しを整理したら、そのことについて、あなたが中途でやめておおきになった古い、多分三四年昔の原稿が出て、その一枚を私は黒い細い枠に入れ、こうやってかいている机の横の壁にかけて居ります。わきの小窓にかかっている紫っぽいところに茶の細い格子のある毛織地のカーテンと原稿紙の字とは大変美しく釣合って、稲子にさすがだといってほめられました。まるでお話ししながら、そこに全体の仕事を感じながら、自分も仕事をしているような居心地よさです。美しさというものは何と活々したものでしょうね。何一つめずらしいものではなくて、しかもこれらのものは本当に堅実で、雄々しく美しくて鼓舞的な輝きを含んでいるのです。その枠の下の本棚は私の御秘蔵本棚とも云うべきもので、いろいろ愛する本を並べて居ります。
この家へ越したのが十一月二十日です。引越し通知のハガキはもう御覧になって居るでしょう?あれも壺井さん夫婦が世話をやいてくれたのです。お正月のハガキもやってくれるそうです。私たちの結婚通知の印刷物以来の恒例だからやってくれたのですって。――原泉夫妻[自注18]は四谷の大木戸ハウスというアパートで細君はトムさん[自注19]の新協劇団第一回公演では「夜明け前」に巡礼をやり、今やっているゴーゴリの芝居では何をやっているか、旦那さんの方はきっと徹夜して小説かいてるでしょう。今夜見物する予定でしたが叔父様をお送りしたからやめになりました。
この近所には千葉で三年ばかり暮すことになった山田さんの奥さん[自注20]もいるし、河野さくらさん[自注21]が留守中のひとり暮しをして居ります。
ところでお読みになる本について、私ははっきりしたお手紙を見るまで自分の考えで入れるしかないのですが、文学に関する本では少し古典と現代の諸潮流の作品とを系統たてて読んで御覧になりませんか。あなたが三日にまだプランをもっていらっしゃらなかったのは私には自然に感じられたし決して意外ではありませんでした。私の文学的ウンチクを示すようにいい順で一つよませて上げたいと考えて居ります。文学・美術・音楽等についての本は大体並行して一冊ずつよめるようにいれてゆきましょう。その他の種類で、あなたが実際的知識を主張していらっしゃるのは当然ではあるが私は深く満足したし、自分の考えと同じ考えを知って嬉しゅうございました。哲学についても、私はきっと同じように、今の哲学の動きに興味をお持ちになっているであろうと思うのですがどうかしら。当っていますか?もし御同意ならやはりそのようなものを心がけましょう。それを手当りばったりでなく、様々の点で順をふんで入れます。だからその順にあなたは注意をなすって下さい。よまない本があってもかまわないから。読んでしまって返す本はそちらで郵送宅下げの手続きをして下さると、一等便利でしょうと思います。これは三日に云うのを忘れました。
この手紙はいつ頃あなたのお手許に届くでしょうね。そして、あなたのお手紙はいつ頃私のところへ来るのでしょう。私はこうやってかいていて、六つばかりのとき母がランプの灯を大きくしてロンドンにいる父のところに手紙をかいていた時の若々しい情熱に傾いた姿をまざまざと思い出します。私の手紙はきっとアメリカへ行く位かかってあなたのところへ届くのでしょうね。
私は体によく気をつけ、健康ブラシをつかっているし、よく眠るし、美味(おい)しがってたべるし、いい状態です。家のことをしてくれる者が落付いたらそれから小説をかきはじめます。私は胸にたまったものを一通り吐き出してしまわなければ小説はかけないので、この月はたくさんほかのものを『文芸』や『行動』や『文学評論』やらに書いたがこんどは小説です。私は来年にはうんと長い大きい小説にとりかかります。それのかける内容が私の体について来た感じです。その身について来たものの一つの例であるが、大きい文学に必要な豊富でリアリスティックな想像力というものは、現実をよくつかんで、しって、噛みくだいていなければ生じぬものですね。そして、そういう力なしに大きい作品は書けないのだが、私は自分が過去二三年の間、そのひろくて、熱のある想像力の土台の蓄積のために随分身を粉にしたし、そのおかげで今日自身が仮令(たとい)僅かなりともそういう文学上の力を再び我ものにしたことを実感しているのです。私はやっと生活の上で闊達(かったつ)であるばかりでなく文学の上でも闊達ならんとしているらしいから一層慎重に勉強をすすめるつもりです。
あなたに叔父様は目のことを注意なすった様子ですが、呉々も読みすぎぬよう願います。それから風呂へ入るとき、風呂桶のフチや洗桶やをよくよく気をつけ、穢(きたな)らしいバチルスを目になど入れぬよう、本当に気をおつけになって下さい。私はあなたについては下らぬ心配を一つもせず安心しているのですが、そして、私はよく仕事をして丈夫で、私の周囲の人のよろこびと希望の源泉となって丸々していれればよいと信じているのだが。そういうことを考えると非常に心痛します。用心を忘れないで下さい。鼻はいかがかしら?便通は?そう、こんなことも今に追々わかるでしょう。もう夜が明けてしまうかしら、ではおやすみなさい。よく眠るおまじないをどうぞ。 
第一信の附録二枚。
これを書いているのは次の日のつまり土曜日の夕方です。今日は曇ってなかなかひえます。うちの近所に美味しい餅屋があるので、林町の父のために、さっきお餅を注文したところ。庭が五坪ばかりあって、椿の蕾がふくらんで、赤い山茶花(さざんか)が今咲いています。その一枝をとって来て、例によって机の上におき、それを眺めて眼をやすませながら、これからバルザックについての感想をかくところです。
ゴーゴリ全集やバルザック全集からこの頃はモリエールの全集まで出るの。バルザック協会がゲーテ協会に対するものとして出来て、なかなか古典は出版されます。出版されるのであって、真に研究されるのでないところに、文学の窮乏があるのでしょう。ドストイエフスキーなどがよみ直されるのみならず、人間の神性とか獣性とかいう問題にからんで云々され、不安の問題が上程され、その深めるための文学的努力はされずに舟橋聖一氏は文学における行動性ということを主張しているし、なかなか壮観です。その行動性のモデルのようにゴンクール賞をとった『勝利者』という小説の翻訳が出ました。小松清氏というフランスにいたことのある人がホン訳したので、まだ二三頁をよんだにすぎませんがジャーナリスティックなものだし、又エキゾチシズムがつよい。フランスでエレンブルグが書いたものを思いおこさせました。私のバルザックについてかきたいところは、ある人々によって云われているようにバルザックが何でもかでも書きたいことを書いたのだがそれは歴史を正しく反映したから、我々もそうやろうということについての不用意の点です。バルザックが、今日いう意味ではリアリストでなかったのだし、彼のロマンチシズムがその時代の必然によって、リアリズムを既に内包していたこと、その二つの矛盾が作品のすべてに実に顕著に顕(あらわ)れていること、従って、林氏亀井氏保田与重郎氏の云う日本ロマン派がそのうちに内包し得るものは何であるかということなどなのです。十月にトゥルゲーニエフの研究を三十枚ばかり書いて、面白くよまれました。しかしバルザックはどういう風に出来るか。月曜日に毛糸の足袋と下着類と戦争論その他を入れます。私はこの頃になって、もう一遍一寸メーテルリンクをみて、何か発見して見たいと思うことがあります。それは、これまでの作家が運命というものについて、実に多く書いているが、メーテルリンクは彼の神秘主義で、青い鳥でそれをのりこえることを語ったと思う。賢こさというような力で、賢者がよく出たでしょう?彼の作品には。悲劇というものも、私は又考え直して見たく思っている。メーテルリンクとは違うが(云うに及ばないとニヤリとされそうですね)私は過去の文学に規定されている悲劇というものの理解について疑問が出て来た。或る生活の中に生じる波瀾かっとうは非常に苛烈であって、異常であるが、それに対する理解が驚くべき見とおしによって貫かれていて、当事者がそれを悲劇以上の把握で捉えて生きぬく場合、それは文学に描かれて悲劇の程度に止っているであろうか。リヤ王なんかは悲劇だし、オイデプスなども悲劇に違いないわね。だが文学は内容を新たにして今日に至り、現実を、現象的につかんでだけ書き得る所謂(いわゆる)悲劇は、高められている、否、高められる可能性に立っていると少なくとも私は自身の文学の前面にそのようなものを感じているのだけれど。
これはこうかくと平凡のようだが、小説をかく心持の上ではなかなか平凡ではないのよ。
バルザックが或時代の或タイプを描いたという評言を後生大事にかついでおまもりのように云っている人があるが、或タイプといってもそれは社会的活動の関係の中で立体的に描かれなければならないので、型として、内的外的活動を規定の枠内で行為させているのは一種の善玉悪玉式で、厖大なロマンチシズムではありますまいか。人道主義的ロマンチシズムをかかげて若いゴーリキイに影響したディケンスなど、こんどよんで御覧なさいまし。クリスマスカロルなど、スエ子がきのうよんで、何だかいやな気がしたと、ひどく気分的に表現していたが主人公がここでも、全くあり得ぬようにセンチメンタルに架空的にとらえられているのです。
ねえ、私は用心しなければいけませんね。こうやってかいていればいくらだって書いて、随筆幾つか分の手紙をかいてしまいそうです。私たちが暮して間もなくあなたは、私がどんな手紙をかくかしらと云っていらしったことがあったが、いかが?私の手紙は。私の手紙には私の声が聞こえますか?私のころころした恰好が髣髴(ほうふつ)いたしますか。その他さまざまの時に見える私が見えますか?三日に余り久しぶりであなたの声を聞いて、私は今だに耳に感じがついて居ます。ここでさえペンをもっていると手がつめたい。(附録終り)

[自注1](不許)――この第一信は「不許可」で顕治にわたされなかった。万一のために保存されていたコピイによる。
[自注2]叔父上――顕治の父の実弟、山口県熊毛郡光井村にすんでいた。幼時から顕治を非常に愛し、小学校へはこの叔父の家から通った。
[自注3]林町――本郷区駒込林町二一百合子の実家。
[自注4]父――百合子の実父、中條精一郎。一八六八年―一九三六年。建築家。
[自注5]籍のこと――百合子入籍の件、顕治と百合子は一九三二年二月本郷駒込動坂町に新居をもった。一ヵ月あまりののち、プロレタリア文化団体に対する全面的弾圧がはじまって、四月七日、顕治は非合法生活に入り、百合子は検挙された。そういう事情のために百合子の入籍手続がおくれていた。
[自注6]壺井さん、栄さん――壺井栄。
[自注7]島田の父上――顕治の実父、宮本捨吉。一八七三年―一九三八年。山口県熊毛郡島田村居住。
[自注8]島田の母様――顕治の実母、美代。
[自注9]スエ子――百合子の妹。
[自注10]山田のおばあちゃん――顕治の下宿の女主人。
[自注11]達治さん――顕治の長弟。顕治に代って家事経営の中心になっていた。一九四五年八月六日広島の原爆当日、三度目の応召で入隊中行方不明となった。同年十二月死去の公報によって葬儀を営んだ。十月十日に網走刑務所から解放されて十二年ぶりで東京にかえった顕治と百合子が式に列した。
[自注12]国男夫婦――百合子の弟夫婦。
[自注13]林町の母――百合子の実母。葭江(よしえ)。一八七六年―一九三四年。
[自注14]淀橋――淀橋警察署。
[自注15]私の最近の評論感想集――『冬を越す蕾』。
[自注16]いね子――佐多稲子。
[自注17]松田さん――松田解子。
[自注18]原泉夫妻――中野重治と原泉子。
[自注19]トムさん――村山知義。
[自注20]山田さんの奥さん――山田清三郎の妻。
[自注21]河野さくらさん――鹿地亘の妻だった人。 
十二月二十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第三信十二月二十四日。午後。(月曜日)
今日は。いかがですか。お体の工合、本の工合、その他いかがですか。きょうは、曇天ではあるが気候は暖かで、私は毛糸のむくむくした下へ着るものは我知らずぬいでいるくらいです。今年はこれから一月一杯オーバーなしですごせる程の暖い正月だとあったけれども、どうかしら。そちらはこの暖かさがどの位おわかりになるのでしょうね。
十八日には思っていたよりずっと早くお手紙がついたので大変うれしゅうございました。その晩例によっておそくまで仕事をしていて、十八日の朝おきて、下の長火鉢のよこへ降りて行ったら、いろんな手紙、古本屋の引札や温泉宿の広告や、そんなものの間に、さも何でもなさそうに挾んで置かれてあった。それをとりあげ、そのまま又二階へまい戻りました。よんで、枕の横において、しばらく眠って又読みました。
私はひとり明るい日の光を夜具にうけながら天井を眺めて、笑った。あなたがやっぱり小さい字をお書きになったから。――しかも大変よくわかるように書けるから。
ありがとう。林町の人たちには、おことづてを一人一人につたえました。皆よろしくと申しました。島田の父上には、こちらからわかもとをお送りいたしますから上るようにと手紙をさしあげました。光井の叔父様がおかえりになってからは、あちらの皆さんのお心持も大変健康になったから何よりです。お母上のお手紙は、この間はじめてどことなく暢(のん)びりした調子でかかれてあったので、よかったと思いました。お話のあった手続のこと、私の分だけはもうすみました。御安心下さい。
初めてのお手紙で、あなたの体に注意していらっしゃること、その他、はっきりわかりました。もちろんそれらのことは、はじめから私にわかっていることであり、あなたが懸念なくいらっしゃる如く、私も全く懸念ないのですが、あなたから響ある言葉をきけば一層のことです。この間書いた手紙をよんでいらっしゃれば、私のかくもののこと、もうあらましのことは申上げたと思いますが、「小祝の一家」はいいところもあるが、今日読んでみると、全体のつかみかたが決して不正確ではないし、とり落してもいないが、まだもう一息つよくてよいところが感じられます。新鮮ではあるが、強烈さが足りないと自身に物足りないのです。部分的な力の入れかたではなく、内容にもっとぴったり迫ったところ、ね、膝づめのところ、それが不足している。おわかりになるでしょう?この感じは。「鏡餅」は去年の大晦日の或る女の感情を描いたもので、二十何枚か二晩にかいてしまった。そのような熱と、又そのような欠点をもっていたものです。それを書きあげて、『新潮』へ送ってほとんど間もなく、すっかり仕事が中断されたわけです。府中へは私もひどい風をひいたとき行きそうになって、おやめになったそうです。
私が伺ってあげた読書のプランについてのお考えはいかがですか。少くとも文学についての順立てはどうかしら。お手紙にあった本の中その大部分は私も既に考え、或るものは買うために注文していたものであったので、自らうなずくところもありました。従って猶文学書などについて自分の立てた見とおしのそう的はずれでないことを感じた次第です。百鬼園はあなたにファブルより面白くないことは私の経験からもわかって居りました。しかし、私はあなたに面白くないものでも時には読んでいただきますから、どうぞあしからず。そして、あなたは面白かったものについてのみおかきになったのでは、何か不足しているとお思いになるでしょう?二葉亭は古いノートを見たので入れました。又つづきを入れましょう。その他、ジイドのドストエフスキー研究とカラマゾフという風に組み合わせましょうね。一かたまりずつ印象はまとめられねばなりませんから。ダラダラと、とびとびでは、御不便でしょうと思います。しっかりかかってよむものと、おやつのようによむものとも組合わせているつもりです。それから近く、ドウデエを入れますが、その作品との連関でよまれるディケンスを入れるという風にね。テエヌ、ブランデスという順に入れましょう。バルザックもなるたけ初期から順に。私はバルザックがどちらかと云えばきらいであり、バルザックがフランスの全歴史を描いている、典型的な時代における典型的人物を描いたリアリストであるというような手紙をドイツからイギリスの或る女作家に書いた人の手紙が出たからと云って急に瑣末描写と受動性のお守りにつかおうとするようなのがいやで、腰をすえて、そのバルザックの矛盾の研究をかいているのですが、書いているうちに、やはりバルザックは巨大な、生々しい大作家であることを痛感して居ります。作家の仕事をする度胸の据え方という点で学ぶところが多くあります。テエヌはバルザックをサント・ブウヴなどとちがって社会的なひろい土台で肯定して居るところは、さすがであり、そのさすがのテエヌにしろ、今日の歴史の到達点から見ると、未だ現実の真のスプリングにふれていないところが又興味津々です。テエヌはやはり受身の考えかたですものね。バルザックの矛盾を闡明(せんめい)し得ぬ同時代的矛盾を自身のうちにもっている。ブランデスは品がいい天質のひとですね(彼の云いまわしを真似ると)、私はやはり同じ作家の研究について、そういう感じをうけました。そして、ところどころで思わずにやついた。ブランデスはあんなに鋭く背景となった十八世紀時代の動きを分析していながら『人間喜劇』の作者が、上品な詩的な情感をもっていたから、復古時代にテンメンとしたといっているのですもの(ブランデスの本はなかなかないので弱ります)。
又今これをかきつづけます。今はもう夜の十二時近く。前の行まで書いて、中井から電車にのって、神田へ出かけました。さし入れの本を買うためです。本当は今朝ごく早くおきて、裁判所へ行き出来たらお目にかかるつもりだったのですが、ゆうべは、夜中になってから熱中しはじめて、いつしか夜があけ、くたびれて動けなかったので私は寝ていて、栄さんやいねちゃんが出かけ、その人々は中野の方へ用事で行き、かえりに栄さんがよって、とてもひどい順番で、年内は無駄だろうと知らせてくれました。明朝行こうとしたのをやめる代り、本は速達でお送りすることにして、それを揃えに行ったのです。
三省堂で語学の本など買ったのですが、どうかしら。すこしそれでやって御覧になってもし工合がわるいようでしたら、どうぞすぐおっしゃって下さい。別なのをさがします。どこもかしこも歳暮売出しの飾りで賑やかです。色彩は、はでであるが、何か通行人の影は黒い、今夜はクリスマス・イーヴなのだけれども、学生の街である神田でさえ、そのような楽しげな雰囲気はなく、うちへかえって夕刊を見て、ああ本当にと思ったほどです。中井から家へ来るまでの、ほんの一二丁の町並も、もう松飾りをしたりして、福引をやっている。うちの瀬戸さん(国府津[自注22]にいたのがお嫁に行くまで来ているのです。あなたの御存じない人)は、そこでモチアミをあてました。
神田では三省堂を出てから夜店の古本を見て十銭でエジソン伝など掘出し、あすこの不二家へよってコーヒーとお菓子をたべ、バスで高田の馬場までかえりました。おなかをすかして、とろろで御飯をたべ、それからお風呂に入って、二階へ上ったという順序です。林町の父が私のお風呂好きはいたく評価してくれて、それはそれはたっぷりいいのをくれました。フロはあるし、こせこせした心配はないし、その上、この土曜日から小学校は正月休みでしずかだし、仕事は面白いし、私もやはり些(いささか)の懸念もない有様です。
小学校について、この前の手紙には大してやかましさが苦にならぬとかきましたが、その後、あなたにアンポンと云われそうなことになったのです。やっぱり喧(やかま)しいの。初めはなぜやかましくなかったかと云うと、それは運動場をコンクリート?か何かで修理するために子供らは皆教室につまっていたのです。運動場ができたら、まるで雀の巣が百千あるようです。しかし、そのワヤワヤワヤはまだいいので、こまるのは体操。ここの体操の先生はいやにリズミカルで、机に向っていると勢よく、「さーア手をあげて!ハッハッハッハッ」とそういう風なのです。「そら!ホイ、ハッ」そういうの。何だか少し野師のようでしょう?でもこの小学校のせいで、私は何年ぶりかで土曜日の午後、日曜日、そして休みのつづくのをしんからたのしんで仕事する味を味わって居ります。
一昨日は、この十日に生れた太郎[自注23]が、産院から林町へかえるので夕方から出かけました。お祖父さんのうれしがりようは全くお目にかけたいほどです。国男も伜(せがれ)の顔を一日に一度見ないと気がすまないと云って、そわそわしていますし、スエ子もうれしそうだし、私は皆がそうやってよろこんでいるのが又大変愉快です。私はこれまで父が気の毒であったのが、ほっとしたようです。父は深く母を愛していた。そのことは私の想像以上のことでした。だんだんそれが分って、しかもしんからそれのわかるのは様々の意味で私一人であり、けれども父のおもりをして国府津にくらすことは不可能ですし、大乗的に行動して家も別にしたのでしたが、太郎はよい折に生れました。この太郎という名、ヌーとしていて男の児らしくていいでしょう?姓と一緒によぶと相当なものになりそうでしょう?これは家族会議(?)できめた名で、主として私の案です。女の児なら泰子というはずでした。この頃、仕事に興じて大体机に向って一日を暮しているのですが、この間いねちゃんがきて、もう日没近くであったが中井の先の下落合の方の野っぱらを散歩して、いい気持でした。その丘の雑木林の裾をめぐる長い道は東長崎の方へまでつづいているのだそうです。夕靄(ゆうもや)がこめている。その方をしばらく眺めました。その野原の端を道路に沿って小川が流れていた。その小川も東長崎の方へまでつづいているのでした。その夕方はいねちゃんも久しぶりで元気で軽々と歩いたし、よかった。女が文学の仕事をする。――芸術家その他として真に発展するためには様々の困難が家庭生活の中にもある。それが現在のような時にはのしかかってくる。気分的にそれにまけてはくちおしいからねと私はつよく云い、あのひともそれはもちろんそう思うのですから、今はもう自分から坐り直して元気になったのです。
ことしの大晦日は、どの友達のところもほとんど皆夫婦そろっているから、私は私のいないことで誰も寂しがらせないから、何年ぶりかで父とお年越しをしようかと云っているところです。お正月七日がすぎたらお目にかかりにでかけます。この頃、もうお弁当はないでしょう。そのままでようございますか?冬のうちだけ牛乳と卵だけは召上って下さい。それからそちらでリンゴと南京豆を買って、南京豆は少ない数をよくよくかんで食べて下さい。そうしてたべると大変体によいそうです。ぜひ忘れないように。
文芸家協会の年鑑は、今年私の「文学における古いもの、新しいもの」という評論をのせました。三五年度の人々の漫画を一平が描き私をも描いている。人間としての本質を把えることができず、あいまいに描いているところはかえって面白く思われました。子供の劇団がイソップ物語をやっております。切符をもらった。観にゆくつもりです。ではおやすみなさい。今はもうあなたがお寝になってから六、七時間も経っている時間です。夜番の拍子木の音が響いている。

[自注22]国府津――百合子の実父たちの海岸の家。
[自注23]太郎――百合子の甥。 
十二月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第四信。
十二月二十六日からはじまる。今夜は火曜日の夜で、今の家に移ってから火曜日と金曜日の午後を人に会う日にきめているので、三四人来て、かえったところです。林町の父にお歳暮に母のかたみの着物でどてらを縫って貰っていたのが出来上り。
私がこれをかくのは、ゆうべも考えてね、一時に=一晩にかいてしまおうとすると、一晩まるでつぶし、而も何だかかきたいことを落すので、時々ぽつぽつと書きためたのを、こんどはお目にかけようかと考えたのです。さっき古本やの話に、この頃ショーロホフの小説などなかなか出るようになった由。スエ子は母がなくなってから糖尿病がひどくなって来て、この頃はアコウディオンを中止で、食餌養生をして居ります。相当意志をつよくやっているのは感心ですが、可哀そうに。私は彼女の音楽について大した幻想は抱いて居りません。
これまでの手紙で忘れていたこと=(手紙拾遺集のようになるけれども)去年の九月から、母が生前書いたものを、主として日記ですが、すっかり栄さんに読めるように書き写して貰い、一周忌までに本にして記念にする手順で居ります。実によく書いて居る。父と結婚――私もまだ生れなかった頃の日記には二人で散歩した事や毎日毎日じゃがいもを食べていたことなど、ちゃんと鵞堂流の筆蹟で書いてあって、私はその頃の生活状態、母のもっていた教養いろいろなものをおもしろく感じます。後年に至ると、もっと歴史的に興味があります。今更そのようなことがあったのかと一九三二年以後、思わず呻(うな)るようなこともある。それはいつも滑稽さと悲痛さとの混ったものです。
そういう仕事のために栄さんは私より私の家族の心持に通暁してしまったのも亦面白いでしょう。栄さんには伝記者としての資格がついてしまったと笑うことがあります。私の机の上には、クロームの腕時計[自注24]に小さい金の留金のついたのが、イタリー風の彫刻をした時計掛にかかってのっている。この時計は不正確なような正確なような愛嬌のある奴です。この頃は大体正確でね。日に幾度か私に挨拶をされています。夏になったらこれで又三十分もおくれる気なのかしら。――
この家、何という可笑(おか)しな家だろう!二階の廊下を暗い中で歩いていたら台所の灯が足の下に透いて一条に見える。何てひどい建てかた!この話を林町の父にしたら、地震につぶれぬよう羽目にかすがいというか斜木を打ってやろうと申しました。そう云ったけれど、それなり忘れているのです。相変らずいそがしいから。この頃は国府津へ準急もとまらないから不便になりました。丹那が開通したからです。
○鼠に顔の上を飛ばれた話。ゴトゴトいう。おや?耳をたてていると机のある方からやって来てカサコソ枕元をかけている。シーッ!力をこめておどかしたら、鼠はあんまりあわてて、おそらく鼻面を向けていた方へいきなり飛んだらそこには私の顔があり、こんどは鼠より私がびっくりしてしまった。鼠は夜目が見えるだろうのに!
○ああそれから、天気の曇った日には、私がよろこんで仕事をしている恰好を御想像下さい。この家はそんなに日が当るのです。天気がいいと私の眼がつかれる位。いねちゃんのところもそうです。先の家の近所へ越して。曇。烈風、障子の鳴る音にまじり凧(たこ)のうなりの響がする。二階のゆれるような感じ。大変寒く、手が赤くて、きたない。

[自注24]クロームの腕時計――一九三二年の春、あのとき宮本は自分の時計が粗末で不正確でこまると言って、わたしの時計と交換した。手くびにつける紐だけはそのままで。わたしの時計であって宮本に使われていた時計は、宮本の検挙されたとき無くなった。 
 
一九三五年(昭和十年)

 

一月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
あけましてお目出度う。私たちの三度目の正月です。元日は、大変暖かで雨も朝はやみ、うららかでしたが、そちらであの空をご覧になりましたろうか。去年の二十八日には、私が家をもったおよろこびをしてくれるといって、健坊の両親、栄さん夫婦、徳ちゃん夫婦があつまり、一つお鍋をかこんで大変愉快に大笑いをしました。その晩は安心してのんびり出来るよう、朝六時までかかって私は到頭バルザックを六十八枚書き上げ、一層心持ちがよかったわけです。バルザックが卑俗であり、悪文であるということを同時代人からひどく云われたし、現代でも其は其として認めざるを得まいが、そのようになった矛盾をつきつめて行ったので、例により扱いかたは生活的であり、私は大して不満ではない心持です。これでそういう種類のかきたいものは書いたから小説です。スーさん[自注1]の兄さんが「第一章」をかいて、健坊の父さんとは又違った意気ごみを示して居るのも面白うございます。文章を簡明――直截にしようということをこころみていて、そのことのなかには又いろいろの気持がこめられているのでしょうと思われます。
三十一日には、近年にない大雨で、私は、こんな大晦日ってあるものかと思い目をさましました。あなたも雨ふりの東京の大晦日は何かふさわしくなくお感じになったでしょう。雪ならわかるけど、ね。
夕方四時頃からいねちゃんのとこへ出かけようとしたら島田の母上からの書留。何かとびっくりしたらお手紙と戸籍抄本とが入って居りました。安心したといっておよろこびでした。又あなたからのお手紙もついた由。今度のお手紙には、初めて「母より」と書いてあって、私は様々の感慨に打たれました。そして、又、島田へ行ってお手紙というのをも大変見たく感じました。
話はあとへ戻るが、今年は父ひとりになって初めての正月迎え云々ということはこの前の手紙で申しあげましたとおり。それで様子を見に、二十九日でしたか、雪の中を林町へ行く前、グレタ・ガルボがクリスチナ女王という写真をとり、大変立派だという評判はもうずっときいていたが、机にかじりついていて、もう昭和館とかでいねちゃんが見たときいたので、私はバカネ、それが戸塚にあるキネマだと思って高田の馬場で降りたら、あるのは戸塚でチャンバラ。しかし、何か見たいので本郷座へ行って、下らぬ漫画を見て、下らぬ映画はかくも下らぬ。駄作小説の如しと感じて林町へ行きました。父はしっかりしているし、がんばりなのに、そして若々しいのにびっくりし、私は自分の思いやりが常識的であるのを感じた次第ですが、父はちゃんと自分でのんきに、正月をおくるプログラムを立てていて、私の心配はそれはありがたかった、というところで終りました。どこへか古い友だち二三人と小旅行に行く由。これで私ものんきに大晦日を迎えたわけでした。(ただあなたのところへ味の素その他もうないに違いない日用品を入れてさし上げるのが間にあわなかったので相すまなく存じましたが)大晦日は大層賑やかでした。
元日、急に夕刻になって思い立って、健坊づれ私といねちゃんと三人で国府津へ出かけました。汽車の都合がわるくてあちらについたのは一時頃でした。今あの往還は海浜のプロムナード国道になるので幅をひろくし、コンクリートにする下拵えですっかり掘りかえされて居ます。もし門がしまっていたら、私が押すからいねちゃん崖をのぼって下さいと云い云い行ったらいい塩梅(あんばい)に門はあいていて、白く浮んだ建物の上に、松のかげの上に空一杯の星。
マア何て沢山の星なんだろ。気味がわるいくらいだね、そういいながら仰ぎ見ました。東京とちがうねえ。それからその晩はすぐ眠って、次の二日の日は、三人で海岸ではなく山の間を散歩しました。そして私は美しい梅もどきの枝を見つけて折ったり、紅葉した木苺の葉を見つけたり、いね子は「いいねエ、何ていいんだろ」、あなたこなた眺めつつ二時間も歩き、健坊は臆病もので、いかにも町育ちらしく、山の小路が坂になっていたり、崖だったりすると尻ごみして「かアちゃん、あぶないよ!」と後を振りかえって云うの。「何だ健坊よわむしだね、百合ちゃんはこわくないよ、ホラ、何でもないじゃないか!」そういう工合。帰って、その晩はストーヴの前でいろいろ夜ふけまで二人の話せるあらゆる話題について話し、少しくたびれると、いねちゃんがタバコをのみながら(この頃のむようになった)詩集『月下の一群』を棚からおろしてよんだりし、又いろいろ話した。
今日になれば去年になったが、夏四日ばかりその時はター坊から父さんから一家づれで、毎日潮浴びをやって暮したことはまだお話ししませんでしたね。私はあのストーヴの前へ坐ったり、ソファへ横(よこた)わったりする毎に、常に一定の内容をもった思い出にだけとらわれるのは苦痛であるし、一方から考えれば決して健康と云えぬし、又其のような状態をおよろこびにならないこともわかるので、新しい、今日の生活としての内容をつけ加えてゆこうと思い、それもあってあの一家に大いに活躍して貰ったのでした。二日の晩は、随分二人の女房がいろいろ話し合いました。やっぱり車の両輪です。細君というものはなかなかむずかしいという話が彌生子さんの「小鬼の歌」につれて出て話し合いました。
知識人の生活のことについて舟橋は何もしないのはわるい、何でもやれという気になって来て、あっちこっちで云われているが、そのことにしろ、やはり女の利口さというものが抽象的に云われないように、宙では内みが何になるか、やはり手ばなしには云えないことです。三日は午後から外が明るい中にかえろうといいつつ、いね公がグーグーひるねをしてしまっておくれて八時すぎに汽車にのり、かえったのは十一時頃。私は自分の二階に横になって吻(ほ)っとしたような心持ちをつよく感じ、自分がこのわれらの家をどんなに愛しているかということをはっきり自覚しました。
あなたは勿論一度に手紙を二通おかけになることは御存知でしょうね。
きょうは本当に寒い。栄さんが、かけていらっしゃる布団と同じ布の坐布団を縫ってくれたのできょうはそれの敷き初めをしました。これを書いているのは五日の午後四時前。障子を新しく張り代えたので、室内は明るくテーブルの上には赤い梅もどきの一枝がさしてある。火鉢のやかんからは湯気を立て。――かぜがはやって居りますが大丈夫ですか?しもやけなどは出来ませんか。栄さんは早々と耳朶(みみたぶ)をかゆがって居ります。七日に、本は『世界文学総論』、カーライルの『クロムウェル伝』、『日本書紀』上・中、ポアンカレの『科学者と詩人』、『国富論』上を入れます。私によくわからないので伺いますが、例えば三冊もつづく本を、一時に三冊入れた方が御便利ですか、或は一冊ずつ三度に分けて他のものをいれた方が御便利ですか、このこと、忘れず御返事下さい。地図この次までお待ち下さい。すみませんが。岩波の『哲学辞典』を入れたいと思って居ます。いねちゃんが何かいい本を買ってくれるそうです。
私のかいた第一信は何日かかってお手に入りましたか。キカイ体操はそちらにありますか?レンブラントのエッチングの絵はがきは届きましたか。ロンドンで買ったのが出たのでお目にかけたのでした。亀やの包みは先方であなたからの手紙を見せてくれなければなどと普通でない面倒なことを云ったので手間どり、年末にやっととりました。封印がしてあって、靴、書類カバン、セル下着類が出ました。中に裏だけの着物が一枚あり。表をはがして着ていらしったのであろうと理解しました。失われた時計については光井叔父上がたのんだ人からいろいろ手続中の模様ですが、役所ではその品物について一々詳細のことを私に訊くよう申すらしいのですが、どうして知って居りましょう77 まして、帽子などまで!ねえ。困ったことです。この次こまかいことは伺います。
私の健康のことについていつもあまり細々(こまごま)とは書きませんが、それは大体工合よいからのことであると御承知下さい。大変よく気をつけて居ります。清らかなる肉体と精神とです。どんな余計なくせもついて居りません。寝床で本をよむということさえ、やっぱり元の通り致しません。
ところで、私の本が三月頃出たら、その印税で楽しみなことが二つあります。その一つは林町の父の親友たち爺さん達を招待して父をよろこばせること。もう一つは島田の父上の御隠居部屋をつくる資金の一部をお送りすることです。この計画は非常に楽しみで、そのために早く本を出したいとさえ思う位です。虹ヶ浜へ小さい家をかりてあげましょうかとも思ったが父上が家を離れなさることは不可能だから、お離れをこしらえて、そこでは埃をかぶらないようにしていらっしゃったらいいと、そう光井叔父上とも御相談したのです。これはいいプランでしょう?私は娘であり同時に息子であるわけですからね、こういうことの実際に当っては。金のなかなかもうからぬことは閉口であるが。私はいい思い付はどんどんやることにきめて居ります。賛成でしょう?余り細かい字でお目にわるいか知ら?
第四信の附録。
一九三五・一・五日夜(手がつめたくてきれいな字でなくなって御免下さい。)
今夜はあまり風が烈しくガワガワバタバタと庇(ひさし)のトタンが鳴り、且つ手がつめたく新しい仕事にかかる気がないので、又一寸かきつづけます。
さっき、『クロムウェル伝』を入れるようにかきましたが、これはあっちこちをよんで見て今おやめに決定いたしました。カーライルの例の文章でクロムウェル書簡の間に生涯を研究したもので且つ第一巻きりでは大したことがない。それだからおやめにしてランゲを入れましょう。
『科学者と詩人』とは訳者の調子がわざわいしてやや甘たるいところが過重せられていると信じるが面白うございます。序論を一二頁よんだだけであるけれども。この次この人の『科学と仮説』を入れましょう。こちらの訳をしたひとは平林氏ではないから文体も違っているでしょう。私はこの偉い人の『科学の価値』という本の手ずれた表紙を常に親愛をもって眺めていたが、それはその手垢に対する主観的親愛に止っていたのだからこれを瞥見して苦笑して居ります。

[自注1]スーさん――中野鈴子。 
二月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第六信。二月四日晴月曜日
こんにちは!きのうの雪はいかがでしたか。おとといお目にかかった時は曇ってはいたがこんなに積ろうとは思いもかけませんでした。きょうは朝のうち『文芸』の随筆をかいて送って、それから雪どけの外気を家一ぱいに流しこんで掃除をして、フロをわかして、すっかり独りでやったのでくたびれてしまった。屋根から雪がすべるひどい音が時々しました。もう今は夜も十一時すぎですが、不図ねる前にすこしこれをかきはじめました。私の手紙はあまりいつも長篇故これは短篇にしようと思っているのだけれど、果してうまく行くや否や?そして字も少しぱらりと書こうと思うのです。
夜の八時頃実にいい気持でお風呂につかってポーとしていたら、あっちこっちのラジオが急におぞましき音でオニワー何とか、何とか何とかワーッと鳴りたてたのでびっくりして耳を立てたら、それは、どこかで年男が節分の豆まきをしているのを中継しているのでした。何だか馬鹿らしく滑稽で私はお湯の中で笑い出したけれど、今年の豆撒きにはイギリスとかアメリカの領事館か何かの人が裃(かみしも)を着て豆をまきに護国寺へ出かけたのだそうです。私はおふろの中で赤毛碧眼の若いひとが裃をつけてどんな発音でフクワうちと叫ぶであろうか。もしかしたらフキュワーウチというであろうと可笑しく、そのラジオならきいてもよいと思いました。
二月の十三日は私の誕生日と母の命日とが重なるので何か特別よいことはないかしらと今からたのしみにして居ります。あなたはそれを覚えておいでになるかしら、忘れていらっしゃるかしらなど、中川でおべん当を注文する折考えました。
ところで、二日にお目にかかって、私は本当に安心いたしました。三十一日に電報をいただき、一日都合よく行かなかった間はいろいろ心配――単純にそうでもないが、心労いたしました。二日には、あなたがそれまで二度お目にかかっていた時よりずっと馴れて、顔つきにも体つきにもあなたらしい流動性が出ていて、大変うれしく、本当にうれしかった。晴れやかな心持でかえりにいねちゃんのところへよったら、やっぱりよかったねとよろこんで、鶴さん[自注2]が何とかいったら、いい機嫌なのによしなさいよと云うから、私は平気さ、何と云おうと鶴さんのいうことなら自分の手足で自分をぶつようにしか感じやしないと笑いました。
本がどうして順よく届かないか私には想像も出来ない。どうか都合よくゆくように。二日にお話のあった事については島田へ申上げて伺いましたから御安心下さい。弁護士の事も心当りを調べましょう。弁護士については御意見を直接におきき出来て大変よかったと思います。信吉叔父上は少し考えちがいをして私にお話しになっていました。
二月は短い月だのに小説を『中央公論』にかかねばなりません。お正月の間は格子の上のはり紙をはがしておいたけれども又明日あたりから「まことに勝手ながらこの次お出で下さる時は火金曜日の午後にお願いいたします」を貼りましょう。実にいろいろなひとが来るものだと感心する位ですから。――
一月の二十三日に行ったとき、売店から梅の鉢を入れるよう頼んだのですが、どんな梅がはいりましたろう。この家の庭に山茶花はあるが梅はありません。門を入ったところには、それでも赤松が一本あるの。私は、ホラ先(せん)動坂の家へ咲枝[自注3]が持って来てたべた虎やの赤い色のお菓子、ああいう系統の色の紅梅がすきです。ほんとにどんな梅が入ったかしら。白いにしろ紅いにしろともかく梅が入ったかしら。――どうも漠然たるものですね。
運動の時間、あなたはどんなことをしていらっしゃいますか。心臓の抵抗力を弱めないよう、例えば朝体操をする時など柱でも壁でも爪先で体を突っぱってうんと押して力を出す事もよいらしゅうございます。私の心臓がひどくなったのも運動不足による衰弱です。どうかお気をつけになって下さい。それからお風呂の時桶や湯槽(ゆぶね)の縁をよく注意して、眼へバイキンなど入れぬよう、呉々お願いいたします。私の心配と云うのも謂わばそのようなことが主なのですから。――
今夜本当は帝劇へベルクナーという女優が主演している女の心という映画を見に行こうかと思っていたのでしたが、家の中をコトコト動いていたので駄目。新交響楽団のベートウベンをずっときいているのですが、今度はパスをくれそうです。そうしたらうれしい。うちにピアノがほしいけれどもピアノがあったらよしあしだろうからそれよりレコードをきけるようにしたいと思っています。国府津へ国男が父親になった記念に大変いいラジオをすえつけて上げたので親父さんはもう、東京だと思って聞いていたらそれは上海であったというようなことがなくてすみます。箱根山の関係で、これまでのでは調子がわるく、うまくきこえるのは却って遠いそっちの方なのでした。いつか二人で聞いていて、私がそれを発見し大笑いをいたしました。
近々に太郎が、生後まだ六十日ばかりのヒヨヒヨながら伯父様、即ちあなたに誕生最初の敬意を表して何か本をさし上げるそうです。湯ざめがして来たから一旦これでおやすみ。本当に床に入るのです。
次の日の午後四時頃。(五日)雪どけの雨だれの音がしとしととしている。下の、北向きの部屋の濡椽には雨だれのしぶきがかかって下駄がぬれてしまった。
きょうは久しぶりで髪を洗い、さっぱりしたと同時にクタクタになってしまいました。昼湯というのへ実に久しぶりにはいりました。私はどういう性か、子供の時分から髪を洗うととてもくたびれて、元は病気のようになったものです。さっき髪を洗って長火鉢のところでお茶をのんでいたら、トルストイの結婚の幸福の中に、女主人公である娘が、領地のテラスで湯上りで、ぬれている髪に白いきれをかぶってくつろいでお茶をのんでいるところへ、後良人となる男の人がゆくところが描かれていたのを思い出しました。
ああいうとこの描写でも上手(うま)いわね。とことんのところまで色も彫りも薄めず描写して行く力は大きいものですね。谷崎は大谷崎であるけれども、文章の美は古典文学=国文に戻るしかないと主張し、佐藤春夫が文章は生活だから生活が変らねば文章の新しい美はないと云っているの面白いと思います。しかし又面白いことは佐藤さんの方が生活的には谷崎さんのように脂(あぶら)こくはないのですからね。
(アラ、どうしたのでしょう、小学校のラジオが大きい声で、株の相場を喋り出した。三十八円十(とお)銭ヤスだなどと喋っている。このラジオで朝子供らが体操をやります。徹夜したり、早起きしたりした朝私は二階の窓からその校庭の様子を目の下に眺めます。)
この間の音楽会で広津さんにあいました。いつも元気ですねと云っていた。私が『日日』にかいた随筆のことをいっていたのです。さっきその原稿料が来た。短いもの故わずかではあるが、ないには増しです。
あなたの召物や何か、これからは本のようになるたけお送りします。いろんな意味で流行(はや)っている本もお目にかけますから、どうぞそのおつもりで。きょうはこれでおやめにいたします。私は毎日、特別な心持でポストをあけて居ります。
追伸。お下げになった夏の着物は三日ばかり前につきました。

[自注2]鶴さん――窪川鶴次郎。
[自注3]咲枝――百合子の弟の妻。 
二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第七信二月七日の夜からはじまる。木曜日。下弦の月。さむし。
こんばんは。今、女の生活のことについての二十枚近いものを書き終り、タバコを一服というような、しかし心の中にはまださまざまの感想が動いているという状態で此を書きます。すこしくたびれた。今、口をきく対手がない。だから、これを書きます。昨日は今年の中で一番寒い日でしたそうです。品川沖へ海苔とりに出たお爺さん漁師がモーターが凍ったところへいろいろ網にひっかかったりして不幸にも凍死したという話があります。私はゆうべも仕事をしていたがあまり寒いので寝てしまいました。寝ながら、さむいといってもここには火鉢があるということを非常にはっきり感じました。あなたは霜やけにおなりになりませんか?足の指に出来ていませんかしら。よくこすることです。塩をつけてこするといいという話をきいた覚えがあるがどういうものかしら。こんな紙に書いたのを御覧になるのは実に久しぶりでしょう。しかし不思議なもので、字はこれで手紙の字が書けていたのお分りですか?原稿の字ではない。心持がちがうから、原稿のとおりには書けない。面白いものね。
さて、おとといの晩、栄さん夫婦とシネマを見たことをすこしお喋りいたしましょう。グレタ・ガルボというスカンジナビア生れの女優が(特色のある顔つきの名女優です)クリスチナ女王というのをやった。何しろ早稲田の全線座というので、特等三十五銭で見るのだから、少し気のきいたところはすっかり廻っての果です。スウェーデンの若い女王クリスチナがスペインから王の求婚使節になって来たある公爵だかと、計らず雪の狩猟の山小舎で落ち合い、クリスチナが男の服装なのではじめ青年と思い一部屋に泊り、三日三晩くらすうち(ここはすっかり切ってあって不明)クリスチナが女であることがわかり互に心をひきつけられて別れる。御殿へ出て、はじめてクリスチナの身分がわかり、結婚をする気でいた野心家の貴族との張り合い、その他所謂映画らしい、いきさつがあって、クリスチナが到頭退位してそのスペインの男が帰国する船へかけつけると、当の対手は敵役に決闘をしかけられ既に瀕死。クリスチナに介抱されつつ死ぬ。クリスチナは夫が二人で住もうと云った崖の上の家へ住むために船出するところで終り。ガルボは、いい女優の特長として幅があるし、流動的だし、含蓄があるし、私は好きな女ですが、この平凡で謂わばセンチメンタルな映画を見て、私はどっち道不幸なめぐり合わせを描写して涙をこぼさせるようなのは、すきでないと感じました。この私の心持から或一つの話を思い出します。大変裕福に、大変愛され、何不自由なく育って多分高等学校にいるある家の息子が、そのおかあさんに、母様何故活動なんかが好きなんだろう。ひとの不幸や悲劇や、そんないやなものをわざわざ見てどこが面白いの、と云ったのだって。
お母さんは私閉口しちゃったけれど、やっぱり観に行くわ、と楽しそうに忍び笑いをして、デモ、もうあの先生は誘わないの、と私に云いました。その話を思い出した。これは私がいやだというのとはちがうのですけれどもね。今の世の中に、そういう心持の青年も生きているというのが私に印象つよいわけです。
そう云えば『白堊紀』がそろって手に入りました。芝のおじさんが今月中にひっこすのですが書画骨董が多いのでその始末に閉口中。林町の父は、この頃ちょくちょく旅行に出かけ用事なのですが、正月には御木本真珠を見に山田へ行った話、まだ申しませんでしたね。御木本さんは元ウドンやだったそうで、その頃使った臼が故郷の山にしめを張って飾ってある由。そして先頃赤しおで真珠をやられたとき東京の支配人に打った電文は「アスカラテンコウツカエ」でした由。テンコウは砂糖のうちでやすい、赤っぽいてんこ砂糖です。一風あるでしょう。息子さんはラスキンの研究家で、元オーキという婦人服やのあったところへ茶をのませる博物館めいたものをこしらえています。ローザというのがラスキンの愛した女のひとであったそうで、ストーブのれん瓦にも、盛花にもバラ、バラ、バラ。よく私が服のかり縫いに行ったところが、どこやら面影をとどめながらそのラスキンハウスになっているから、この間父、スエ子づれで行ったら何だか可笑しかった。父がそのバラずくめを見て、例のふりかたで頭をふって曰ク「まだ子供だ」。でもミキモトさんはもうお父ちゃんなの。私は余技アマチュアというものの主観的な特長を一席実物について父に話してきかせました。
おや、耳の中がキーンと云う。変ね。そろそろ寝ろとの知らせでしょう。馬のついた文鎮をのせて又この次。
今は八日の午後三時。ひどい風の音にまじって、隣家の庭で炭やが炭をひいている音がきこえます。小学校の校庭の騒ぎはまさに絶頂。風でがたつく障子を眺めながら私は考えている、この家は仕様がないな。斯うすき間だらけでは、と。
私は大変風がきらいなことを御存じだったかしら。このことと、むき出しの火を見ることが好きでない点は父方の祖母のおき土産です。おばあさんは、貴方御存じないけれども南風の吹く日はやたらに忙しがって用もないのにお離れでコトコト動いて、私が「おばあさま、どうなすったの」ときくと、「きょうは、はア、南風が吹くごんだ」と云って、あわてているの。春になって南風が吹くと私も閉口いたします。きょうは、夕飯を林町でたべて夜下町へ用事で出かけます。街燈のない広い大通りは宵のうちから淋しいものね(ではまた)
もうきょうは十一日。何という日の経つことは速いのでしょう。きのうは雨のふる中を田圃道をこいで歩いてすっかりくたびれてしまいました。
あなたに申し上げるのを忘れましたが、この間達治さんが広島へ入営したとき、私がお送りした御餞別の僅かな金で、黄色いメリンスの幟(のぼり)をおつくりになりました由。その手紙をお母様からいただき、私はいろいろ感服いたしました。
私の机の上に一寸想像おできにならない物品がふえました。寒暖計。今五十度です。林町の母の臨終の枕元にあったものの由です。というのは私はその時、迚(とて)も寒暖計などは目に入れる余裕がなかったから。この頃の朝六時前後は何度かしら。○下何度かしら。尤もここのでは分らないようなものであるが。大体風の天気がつづいて感心しませんね。
きょうは二月十七日の日曜です。きのう一昨日はすっかり春めいて暖かであったがきょうは又時雨(しぐ)れている。そして寒い。この部屋はよく日の当る時で五十三四度。今のように寒いと四十六度ばかりです。四十六度は華氏で摂氏だと八度です。五十五度が十度よ。
十三日の誕生日にはスエ子からインクスタンドと父から柱時計を貰いました。インクスタンドは黒い円い台の上にガラスの六角のがのっていて、黒いフタのついたもので、しっかりとした感じです。柱時計は皆の意見によると私に似ているんですって。つまりずんぐりなのです。父もお前に似たのをさがしたと申しました。どちらかというと粗末なものなのだけれども、これで私は時計はどれもそれぞれ因縁のあるものをもっていることになったし、寒暖計もあり馬のついた文鎮、ガラスのペン皿もあり、それぞれのものが皆私の机のまわりで様々の物語りをして生きているようです。下には長火鉢も茶だんすもあるし。
スーさんがなかなかいい詩をかいたし、栄さんが面白い短篇をかいたし、活溌です。私は一昨年書きかけていた小説を今の心持で書き直して完成させるつもりです。
この頃は、寒いといっても気温がゆるみました。私はどうかして夜更かしをせず早起きをして、仕事をして行きたいと思います。長いものを書くためには徹夜などもってのほかですからね。このためには大分がん張らないとどうしても夜更かしになるから困ります。稲ちゃん一家は、徹夜が日常です。こまったものね。今度の手紙はこれで一まずおしまいにいたします。リンゴをあがって下さい。きっときっと。 
二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(国枝金三筆「麗日」の絵はがき)〕
二月十七日日曜日。
外で鶯の声がきこえますけれども又曇って寒いこと。用事を申しあげます。島田父上からお手紙にて、松山の学校の頃のお金は八円何銭とかであったが、それはもう当時に支払ってあるから安心するようにとのことでした。島田では達治さん御入営後、いい運転手が来て車を大切にするので母上およろこびです。リンゴをお忘れなく召上って下さい。 
三月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第九信二月二十日の夜。かき始める。風が強い。遠くに犬の吠える声がする。
きょう島田から達治さん入営の時の写真が届きました。島田のお家の前の往来に一杯御父上、母上、軍服を着た達治さん、むっつりした隆治さん、国旗を手にした信吉叔父上その他を中心に見送りの男の人達が円く溢れたところをとったものです。あの狭い往来のこちら側からむかい側の軒下まで人でつまっていて、もしバスがあのときやって来たら、きっとバスの方で待たなければならなかったであろうと思われるほどの盛況です。御母上様が丸髷でお手をちゃんとそろえ、いかにも「……ちょります」という風におうつりです。達治さんはすこし人に当てられ気味の表情です。幟がいく本も立っている。私の分としてこしらえて下さったという黄色いメリンスのというのはどれだろう、これがすこしダラリとして重みがあるようだからこれかしらなどと栄さんと話しました。きょうはもう一つ写真が出来て来た。それはいねちゃんと私とが大きいアルミの薬(や)カンをかけた私のうちの茶の間の火鉢をさしはさんでとったもので文学雑誌のひとがとったのです。いつかやはり別の文学雑誌が私の机の前にいるところを横からとったのがあった、それに似ているという話です。
きょうは二月二十日で、いろいろの感想をもって暮しましたが二十三日におめにかかりに出かけますから、この手紙よりどっち道私が先にお会いすることになりますね。
何とおかしいのでしょう。今これを書いていて、あなたのお体はどうかしらと考え、それを伺うと、実際は私がお会いした後の御様子をきくことになるのですものね。
着物のことも、そのほか本のことも、おめにかかって伺いましょう。きょうは久しぶりで机の上に赤いバラの花を一輪買いました。きょうまでは、正月の二日に国府津の山で採った梅もどきの実をさして居りました。よくもちました。
私は今、どういっていいかしら、一寸面白い心持でこの手紙を書いて居るのです。心のしんでは、そして頭では、ひどくこれから書く小説のことについて集注的になりながら、何かそのための媒介物のようにこうやってこの手紙を書き、段々心持の落付きを深く感じつつあるの。
私の机の上には又、レビタンというチェホフ時代の風景画家の描いた「雨後」という絵をハガキにしたのが一枚ある。非常にうるおいあり情趣あるリアリズムの画で、北の海フィンランド辺の海の入江の雨後の感じが活きて居ります。フィンランド辺の海は真夏でもキラキラする海面の碧(あお)い反射はなくて、どちらかというと灰色っぽく浅瀬が遠く、低く松などあって、寂しさがある。波もひたひたなの。濤の轟きなどという壮快なのはない。虹ヶ浜へは去年のお正月行って海上の島の美しい景色を眺めました。でも大変風がきつかった。そして、さむくあった。
黒海は実に目醒めるばかり碧紺の海の色だのに、潮の匂いというものはちっともしないので、私は、あらこの海、香いのない花!と云ったことを覚えて居ります。日本の海はそういう点だけから見ればやはり相当ようございますね。
湯ざめがして来てさむいのに、海のことを書いていて猶寒い。あなたはもう六時間ばかりするとお起きになるでしょう。よくお眠り下さい。たのしい夢ならば見るように。
中絶してきょうはもう三月の十七日です。一つの手紙でこんなに永くかかるのは珍しいでしょうね。
きょうも風がつよい。日曜日です。そしてあなたのお誕生日の十七日。九日から毎日ボーイがお使いに来て書けた丈の原稿をもってゆくという風で十三日の朝七時頃すっかり七十二枚かき上げました。小説としてよいかわるいかとにかく全力的に書いたことだけ自分にわかって居ると申す工合です。いずれにせよ、「小祝の一家」よりはよいのだから、私はあなたにあれしかよんでいただけないのが大変残念なわけです。
ところで、十三日は母の命日故、一睡もしないうち林町へ法事に出かけ前後一週間、眠ったのかおきたのか分らぬ勢で仕事をしたためすっかり疲れ、未だに体がすこし参って居ります。
手紙は大変御無沙汰になって日づけを見ると、殆ど一ヵ月近くかかなかったことになりました。御免下さい。御注文の本のことはきっとはかばかしくゆかないのでいろいろ御不自由と思いすみませんが、段々うまく致します。この間うち私は血眼だし、ほかのひとに書きつけを書いて貰ったら、もしや私が病気ではないかと心配なさりはしまいかと思ったりして本まで少しおくれました。間をおかず昨日と一昨々日送り出しましたが、どうかしら。
ともかくこの手紙は何か遑(あわただ)しく半端ですが、これだけにして送り出します。『辞苑』辞書としていいであろうと思うがいかがでしょうか。すぐ又書きます。林町の皆からもよろしく。 
三月二十五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第十信三月二十日水曜日
今この手紙の中には太郎の泣き声が混って居ります。林町の食堂の真中のテーブルで、太郎がねむがって泣き立てているところで書きはじめました。きょうはいろいろ賑やかな日でした。
先ず昨夜久しぶりでいねちゃんがやって来た。春めいた日だったので、私は家じゅうをあけ放し、来ていた女の客としゃべっていたら門の中の板塀の下から見馴れた羽織が見え、いね公やって来たら、長火鉢の前にぺたぺたとなってニヤリニヤリ笑うだけでろくに声も出さないの。大腸カタルのひどいのをやって、もう殆ど三週間経ちますがまだやっとおもゆの親方をたべているところ。春の風にふらふらやって来て、おまけに近所の原っぱへ私を散歩につれ出そうとしたのですって。それどころでなく、夜はお魚のスープをこしらえて御飯をスーさん、栄さんとりまぜ四人でたべ、丁度送って来た『文学評論』などよみ、いろいろ話し、十二時頃になった。
行って送ってあげようと云っているうち、私はきょうの用事を思い出しついでに一つふろ敷包みをこしらえてそのまま林町へ来ました。配膳室のドアをわざとコトコト叩いたら、内の連中は時間が時間だし何が来たのかと一どきにこっちを見ている。そこへ私が現れたというわけ。
けさは、二階に眠っていた父(私の来たのを知らないから)がおきたのをききつけて、洗面所でバシャバシャやっているうしろからいきなりびっくりさせ、それから電話を一つたのんで、又こんどは二階のおやじさんの空巣へもぐり込んで例によってお眠りブー子をやって、おきて来たら、すぐ私のいつも坐るところのテーブルに、あなたからのお手紙(父宛に、三月十四日にお書きになった分)がのっていた。封が切ってある。父が読んで私の目につくところにわざと置いて出かけたのでした。家じゅうのものがよみ、特に咲枝は太郎の生後百日目の食い初めのお祝い日であったのでうれしかったらしく、夕方、ハガキであなたへのお礼を書いて居りました。父は、深く心を動かされたらしく却って私に向っては何も云えない風で、しきりに島田のお父さんのこと、あなたは何か不自由なものはないか、金はあるのだろうかなどきき、朝は、私が電話をかけておいて下さいとたのんだ法律事務所へ自身出かけて行ってくれました。
私へ下さる通信の書籍の名で占められている部分、また非常に要約された文章、またはあるときは全く言葉としては書かれていないことがあっても、私に感じられているものが、父へのお手紙の中には横溢されて居るのを感じました。くりかえしくりかえしよみました。私はこの頃非常に小説を書きたい心持になっているのでお手紙から受ける感情はすべて、その方向に私の心の中であつめられ、鼓舞となります。ありがとう。
(今日は前半を書いた日から五日経った三月二十五日です。ひどいひどい風。空にはキラキラ白く光る雲の片が漂って、風はガラス戸を鳴らしトタンを鳴らし、ましてや椿(つばき)、青木などの闊葉を眩ゆく攪乱(かくらん)するので、まったく動乱的荒っぽさです。春の空気の擾乱です。二階には落付いていられない。机の前は西向の窓でいたって風当りがつよく、下落合の丘陵から吹きつける風で、いつかは障子がふっ飛んで手摺を越し下の往来へ落ちた。今は下で、茶ダンスの横に、坐る大きい三つ引出しの机がある。そこでこれを書いて居ります)
『中央公論』の「乳房」は伏字がなくてうれしゅうございます。出来、不出来は当人には今のところ不明です。一生懸命にとにかく体当りでやったから却ってそんな風なのでしょう。重吉という男の細君のひろ子という女の活動の間での心持を主として描いたのです。一昨年の秋百枚近く書いてあった、あれをすっかり書き直し、いわば全く別ものがそこから生れ出したという工合です。
これを書いて、いいことをしたと思います。これを書き直し、ものにしないうちは外のものにとりかかれぬ気持の順序でしたから。――
この小説をかいたので、『社会評論』に半年契約で書いている女の生活についての感想は四月やすみました。きょうこの手紙を終ってからその支度。
ところで、きょうは風のひどいほかに、私は落付かない心持がして居ります。ほかでもない、あなたに御入用の本のことについて裁判長にやっと明日面会できる始末だから。先週は祝日があって、一日おきのところがすっかり飛び、土曜日は、『文学評論』の用でだめでした。どうぞあしからず御察し下さい。
差入れの本は、いたって無秩序にしか入れられないですみませんが、こちらもこの頃段々様子がわかって来ましたから次第に工合よくなると思います。
この間の世界地図は、ひどいのでしたが、無きには増しと存じ、いまにもっとましなのを買ったらとりかえましょう。語学の本はもうつかっていらっしゃいますか?
坪内先生が死なれて、私はあちらこちらから感想をもとめられましたが、先生と私との間には所謂師弟としての絆(きずな)は浅くあったし、年の差以上の差が互の歴史性の上にあり、『文芸』にそのような短いものを書いたきりです。坪内先生の生涯を考えるにつけ、様々の教訓があるが、後進に対する包括力のひろさということ、客観性ということの重大さを深く教えられる。抱月が坪内先生の常識的モラルにあっては包括され得なかった点など、ね。面白いと思います。早稲田出の代議士が勲一等を貰ってあげようとしたがことわったことは、又先生の賢さの一面でしょう。白鳥が坪内先生によって文学の道を学んだのみならず、生死に処する道をも学んだと云っているのも興味がある。財産を大学に寄付し、しかも生活は安定であり得る方法において生死に処する道が見出されている。そこを白鳥が教えられたと感じているところ。
私は、相変らずいろいろのことを面白く観察し不自由な毎日の生活をもやはりそのように自分ながらあちらこちらから観察し暮して居ります。私はますます物事に深くそして広い感興をもち得る人間になりたいと思って居ります。体を丈夫にして、ね。それにしても、この風はマア、何だろう!
作家の感性のことについて。感性のことはやはり究極は見かたの問題だし、人を動かす作品の力がただ写実では足りなく、ロマンチックな要素がいるというAさんの見解もロマンチックというだけではずっているし、時間があったら一寸した作家としての経験を土台としてこのことをも書いて見たい。いろいろやりたいことが多く、私は自分が余り精力的でないナなど思います。今、私のところは女中兼作家の生活故、マア、ごみをためてもかくつもりです。
島田の父上のお体は相変らず。わかもとが大変お気に入って居ります。気は心だから、こちらからお送り致して居ります。達治さんは自動車隊ですってね。お母様のおたよりにありました。
てっちゃんも相変らずねんばりとかまえて悠々して居る模様です。弟がお母さんと上京してどこかにつとめている由。てっちゃんのおくさんの体がよくなくてね。光井の叔父上も相変らず、かっちゃん[自注4]のお嫁入りはもう二三年のばす由です。このかっちゃんと、私は虹ヶ浜へ昨年の一月行きました。それは冬の海で松林が私に多くの想像を刺戟しました。あの松林に月がさしたらどうであろうかと。そして、あなたのかりていらしたという家[自注5]を眺め。
そちらで着物はもう冬着ではむさくるしいでしょうか、まだ袷(あわせ)は早いかしら、夜具も、うすいのをこしらえてお送りいたしましょう、夜具は五月に入ってからでもよかろうと思います。スエ子のハガキ御覧になりましたか?では又。御元気で。

[自注4]かっちゃん――顕治の従妹。
[自注5]あなたのかりていらしたという家――顕治が大学一年の夏そこで暮した。 
 

 

四月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第十一信四月十一日の夜。
きょうは、何と暖だったでしょう!きのうあなたの四月五日づけの手紙をいただき、元気になって仕事をして、ゆうべは十二時頃一旦ねて又おき、その「花のたより」と題する感想を終ろうとしたら、もうベッドに入ってからつる公がやって来て、詩の話や秋声の話やらをしてすっかり予定が変更。けさは十時頃おき、書きあげた原稿をナウカへ届けて、それからスエ子が三四日前から入院したケイオーへまわろうとしましたが、本屋を歩いたのでくたびれ、雨も降って来たのでそのままかえり、栄さんのところで新鮮な野菜をいっぱいたべ、家へかえりました。今は夜の十一時すぎであるが机の上の寒暖計は六十三度です。冬中この二階は隙間風がひどく四十度前後であった。でも私も今年は風邪をひかず、その事ではあなたの御自慢にまけません。私の方は健康だわしの励行が大分によい結果を示しているらしい様子です。この頃は、毎年のことであるが、どちらかというと疲れ易く、しかも眠い事と云ったら!それはそれは眠くて春眠暁を覚えずという文句を、実に身を以て経験中です。バカらしく眠いが、これは何か必要があるのであろうと思い、ゲンコを握ってグースーです。グースーと云えば、今度の稿料で私は自分のためには、辛うじてベッドを一つ買うことが出来ました。二階のこの間まで机を置いた方がこの頃は西日で眩ゆいので机は六畳へひっぱって来て、そちらにはベッドを置いております。ピアレスのベッドで三つに折れるの。低くてスプリングもよいから、仕事してくたびれるとそのまま体をよこにする事が出来て大いに能率的であるわけです。つる公も椅子テーブルの方が疲労が少ないから大いにそれでやると云っているが、いつその道具立ては出来ることやら。
私のベッドというと人聞きがよいけれど実は、そのベッドには本式のマトレスはまだついていないのです。普通の敷布団がのっかっているの。この次の小説でマトレスは出来るだろうという次第です。
ドーデエの小さいものが面白かったそうで私はそのお下りをきょうからよみはじめます。私のよんだのは「サフォ」やグリグリというお守りを崇拝しつつひどい寄宿舎で死ぬ哀れな黒坊の小王子の話などです。ドーデエがパリの二十五年間の思い出を書いたのは忘れられず面白い本でした。南フランスから出て来て第一の朝オペラ座の裏の焼鳥屋のようなところで飯をたべる、作家志望の若い貧乏な自分を描いていて、実に情趣ゆたかであった。ドーデエは妻と大変むつまじく暮して、部屋のこちらの端のテーブルについてドウデエが一枚小説をかくと小さい息子がヨチヨチそれをむこうの端にいる母さんのところへもって行って、そうやって仕事をした。そのような思い出が書かれていた。私はよっぽど前によんで、トルストイと妻とのいきさつの正反対の例として、強く印象にのこされました。計らず昨今は、つる公といねちゃんとが、二台連結で、どっちが書いているのか分らないみたいにある時は仕事をしている、その様子を見る光栄を有するけれども。
小説「乳房」の出来については、読んでいただけなくてまことに残念ですが、一寸一口に云えないらしい。鉄兵さんは完璧であるが退屈であるといい、しかし退屈という表現が当っていないと見え、友達たちは退屈とは云わぬ。「進路」でも作者と主人公がくっついていたが、そういうところがあるといね公が云って居ました。直子さんにきょう郵便局のところで会ったら感心しましたと云われ、私は、いろいろ問題があるでしょうがと挨拶せざるを得なかったわけです。季吉さんたちから左向けで突走っているというようなことは半句も云わせなかった点をどうぞ買って下さい。戸坂さんは作品を、生活態度として買ってしまって百パーセント信頼してくれるけれど、作品批評としてはそれを承服しない人もあるでしょう。
重治は現実につめよっているが丸彫りにしていないと云ったが、そういうところか。
いずれにしろ、前へ、前へで、今は、次の小説のことと、冬を越す蕾と題する随筆集出版の仕度中です。
詩の事につき、又他の書くものにつきゆうべも話したが、私たちはまだ縦横自在ではないことを痛感し、もっとオク面なくなって、しかも正当な焦点をもつようになりたいと頻りに話したことです。小説を書くについても新しい現実の内容が豊富複雑錯雑して居て、直さんは小説勉強というものを『文学評論』にのせて、現実をいかにつかまえんかと苦慮して居ます。
ところで、今住んでいるこの家は、小学校のやかましさと風当りのつよさで閉口し、且つ水道のないことで参って、どっか近所にいい家があったら引越したいと思って居ります。いい家はあかない。困ったものです。「乳房」を書いた時は、切っぱつまってからは、前の同じ大家の長屋が一軒あいた。そこへ机と椅子を持ちこんで昼間居りましたが、それでは落ち付かないのです。
夜はこの二階はいい心持ちです。全くしずかで、この頃は居ながら桜をあなたこなたに眺め、寂とした校庭のむこうに当直室の灯が見えたりして。私は他の作家たちのように夜だけ書くのが好きではないでしょう。私は昼間が好き。しずかな昼間の部屋でものを書くのは何と健康で、ゆったりとしていいでしょう。丁度午後のそういう時間が体操とかち合って、ここの学校の先生はさながら自分の肉体の柔軟さと力感と肺カツ量とをたのしむように空まで声をひびかせて、ソラソラソラ手をあげてハッ、ハッもう一ついきましょう、シッシッと。それは(アラアラ地震です、ゆれる、ゆれる。眠っていらしって知らないのでしょう?)活溌です。女の子が声を揃えて一(イー)、二(ニー)とかけ声をかけたり、女の子が力をかっきりこめず、イー、ニー、と澄んだ声をそろえて〔後欠〕 
四月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(はがき)〕
第十一信の(二)太郎はこの頃それはチューチューとひどい音をさせて自分のゲンコを吸います。ちび公(プチショーズ)を今よんでいて、あなたが何となく少年時代をいろいろお思い出しになっただろうと感じました。『白堊紀』の小説はそれより後のことが書かれているわけですね、面白かった。楓(かえで)の若芽の下に朱の房のような花が咲いている、楓の花というものは四月の今ごろ咲くのですね、私はさっき林町の庭を歩いて青い芽の美しさでボーとなるようでした。一九三五・四・十四日、これで終り
四月十八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛上落合より(封書まき紙に毛筆書表に「戸籍謄本壱通領置」とある)〕
きょうは又寒い雨がふります。庭の紅椿花がぬれて、雨だれの音がしきりである。今島田のお母様に手紙をさしあげました。そのついでに私の斯ういう手紙を御覧にいれます。
いつぞやお話のございました配偶の改姓に御いりになる戸籍謄本を同封いたしました。
近日中おめにかかりたいと思って居りますが、とりあえず謄本をお送りいたします。四月十七日 
四月二十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(赤城泰舒筆「雨海を渡る」の絵はがき)〕
第十二信の別。四、二十一日
きょうはもう初夏のような気温で、八重桜の花びらが庭へ一杯ふきこみます。冬の間に枯れてしまっていると思っていたバラの幹から、さっき庭へ下りて見たらサンショの芽のような芽生えが出て来ている。弁護士は面会にゆきましたでしょうか。どうかリンゴをよく召上れ。袷おそくなってすみません。 
五月九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(はがき(1)(2)
五月九日午後、林町にて。(1)
きょうは何と暑いでしょう。私はもうひとえを着て居ります。そちらもきょうのような日はお困りでしょう。三日におめにかかって帰りましたら倉知の叔父[自注6]が(六十九歳で)午後四時に亡くなり、三四日そのために忙しく、私はカゼをひいてひどく咳が出ましたがもう大丈夫です。咲枝は後のことをいろいろ心痛して居りますが、太郎のお乳のことを考え、気をしっかりもって居りますから感心です。きょうは父がおなかをわるくして二階で臥床中。私は食堂でこれを書きます。風の音がストーブの中でボーボーいっている。
(2)先日腹巻はもうお送りしてあるように申ましたが、やっぱりこちらにありましたからすぐお送りいたしました。もう召していますか?急にこう暑いので、私は少しあわてて居ります。いそいでセル、単衣羽織その他さしあげましょうね。御注文の本、一冊だけ品切ですが、二十日ほどたつと改版ができますからそれを入れましょう。
小学校のラジオで私はこの好季節をヒステリーになったから、目下しきりに家さがし中です、近所で。近々又おめにかかります。

[自注6]倉知の叔父――偶然同じ日に書いたこの二枚つづきのハガキが、この家から百合子が書いた最終のたよりになった。[実際は五月十日付が最終のたより]倉知の叔父――咲枝の父。 
五月十日朝〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(山下新太郎筆「海棠」の絵はがき)〕
五月十日、第十三信の副。
五月三日におめにかかってかえりましたら、午後四時すぎに倉知の叔父が六十九歳で死去いたしました。私はいそがしいので儀式だけですまそうとしたが、親身なため心持もすまず三日ばかりすっかりそのために時をつぶしました。緑郎が一番可哀想です。咲枝は太郎の乳がとまるといけないと思ってしっかりしていたから感心でした。
腹まきはやはり家にあってまだお送りしてなかったので至急送り出しました。私はひどいセキで吸入をしたりキンカンの汁をのんで居ります。 
 
一九三六年(昭和十一年)

 

四月十五日
今晩は。
いま、夜の八時十分前。一九三六年四月十五日。慶応の病室。スエ子は緑郎の作曲が演奏される音楽会へ出かけてゆき、私ひとり室の隅の机に向って、これを書いて居ます。
ゆうべから、私はこの風変りな手紙を、これ迄いつも貴方へあげる手紙を書いていた時のような楽しんだ心持で書きはじめる仕事に着手しました。三月二十四日に予審が終った時、私は外に出たら何よりも先にあなたのところへ出かけてゆき、過去一年間の様々の経験の中から積み重ねた成長の花束を見せて上げたい、見て欲しいと思っていたのですが、公判がすまないうちは面会も手紙も許可されぬ由。其で、この何時お手元に届くか今のところ未だ見当のつかない手紙をこのようにポツポツと書きためることを思いついたのです。三月二十七日の夕方出て、すぐ慶応に入り、今日で十八日目。この二十五日に退院して林町に住みます。
――何から書こうかしら。二月二日、五日間帰宅を許されて帰っていた私が、黒い紋付を着て坐っている食堂の例のテーブルの傍で、咲枝が書いたハガキにより、貴方が私の健康につき最悪の場合さえ起り兼ねまじく御思いになったこと、後から林町のものたちへ下すったお手紙を見せて貰って承知いたしました。初めてお目にかかれる時、私はきっと「死にもしなかった!」と云って笑って貴方を眺めることであろう。そう思って居りました。今、私は決して急な危険など迫った状態ではありません。然し、これまで、考えて見ると、私はちっとも曰(いわ)く付(つき)の心臓について、具体的なことを申上げて居ませんでしたね。それは、なげやりに暮していると云うより、普通の生活条件の中では私はどちらかというと御存知の通り用心深く体を扱う方ですし、心持の方から云えば、いつだって元気で、外に云いようがないし、つい細々したことをお喋りしなかったのです。でも、きょうはこの風変りな手紙の書き出しに、私は少し自分の心臓について書きましょう。そして、貴方に安心して頂き、これから余りそんなことを繰返し書かないですむように。
(一)私が丸まっちい体をしているので心臓が疲れ易いということ。これは最も見易い常識。
(二)一昨年の一月から六月十三日に母の危篤により帰る迄の間に私は猛烈な心臓脚気にかかっていて、胸まで痺れ、氷嚢(ひょうのう)を当て、坐っていた。
私の心臓が慢性的に弱ったのは、この第二のことからです。その時は、オリザニンの注射その他の治療で直そうとし、大して苦情なく暮すようになって、貴方に初めてお目にかかれた十二月初旬には、もう自分の体のことなどお話する必要なく感じて居たのでした。今度は淀橋にいた時から注意をそこに集めていましたが徐々に弱り、父の亡くなった前後、非常に不安定な状態になりました。本来はその時最も入院が必要でした。けれどもその都合にゆかず、予審が終ってから即ち目下養生をしているという次第です。お医者様は私の心臓について、極めて公平で自然な説明をされます。「これで持っている間持つでしょうとしか申上られませんね」と。至極尤もなので、私は笑い出し、心の中で、これでは貴方だってふーむと仰云るしか返事があるまいと、或ユーモアを感じるのです。全くそうらしいの。持つ迄持つということは、つまり私は生きていられるだけ生きていられるということで、私が持ち前のたっぷりや的生存を自信をもって或期間つづけ得ると云うことです。私の知識と意志で出来るだけ衛生に叶った生活法をやって行って、さて、主観的に自覚されない微妙な均衡の破れで、不意と私が生きつづけられなくなったとしたら、其はどうも困るわ、貴方には、御免下さい、と云うしかない。父と私との実に充実した情愛を包む各瞬間をして益〃光彩あり透明不壊であるように生きましょう。私は父との永訣によって心に与えられた悲しみを貫く歓喜の響の複雑さ、美しさに就て、文字で書きつくされないものを感じて居ります。其は音楽です。パセティークな、優しい、歴史性を確固としたがえた交響楽です。私は、本当に自分が芸術家として又一つ力強く人生に向いて背中を押し出されたような、新しい現実の面を我ものとしつつあることを感じて居るのです。このように私の経験。悲劇の発生を不可能ならしめる程充実した愛の高められた本質の美しさ。そういう人生の最も耀(かがや)いた、強烈な経験を経て、私は自分が愛する者たち(父ばかりでなく)に対して持って来た愛し方が微塵(みじん)遺憾な点のないことに、深いよろこびと確信とを新しくしました。私が一番いい方法で丈夫になるための努力をすることを信じて御安心下さい。そして、一層磨かれ、深められ豊かにされた情熱で、自身を貴方にとって遺憾ないものであるように仕事し、我々の心は充ち満ちて、どうしてうたわずに居られよう。ねえ。貴方はそこで可能な最上の生活を営んでいらっしゃる。今は私もそのディテールを知って居るわけです。私はこっちで段々健康をとり戻し、好い小説を書きはじめる。 
五月二十五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 本郷区駒込林町二一中條咲枝より[自注1](正宗得三郎筆「四国風景」の絵はがき)〕
きょうは御病気の様子が少しはっきりわかったのでいくらか安心いたしました。
面会の節、つい申すのを忘れましたが生玉子は白味をのぞいて黄味だけ召上れ。それから夏ミカンをよくあがるように。トマトはまだでしょうか。おかゆのお弁当を一ヵ月つづけておきました。朝牛乳、玉子二つ、一つはナマ一つは半ジュク、御注文のとおりいたしました。本のこともすぐ計らいます。どうかくれぐれもお大切に。お元気なのは分って居りますが家のもの、友人たちは本当に心配して居ります。全体として体力を蓄積なさることが大切ですから、読書なども平常よりは用心してなさいますように。
皆からよろしく。きょうの太郎は眠くって失礼。でも思いがけなかったでしょう。

[自注1]中條咲枝より――発信人は咲枝となっているが、百合子が書いている。前年五月中旬検挙された百合子は、十月下旬治安維持法によって起訴され、市ヶ谷刑務所未決に収容された。一九三六年一月三十日、父中條精一郎が死去した。百合子は五日間仮出獄した。ふたたび市ヶ谷にかえり予審中、二・二六事件が起った。三月下旬、保釈となった。百合子は慶応病院に入院した。保釈の際、判事は二・二六による戒厳令下の事情によって百合子の公判が終了するまで顕治への面会通信は控えるようにといった。 
六月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二十六日の夜。九時第一信[自注2]
今、二階の北の長四畳の勉強部屋でこれを書きはじめようとしていたら、太郎がアァアァアとかけ声をかけながら、一段ずつ階段を登って来て私の膝にのり、しばらく色鉛筆でモジャモジャとやってから、となりの広間の大きい写真の前へゆき、さかんに「おじいちゃまにこーんちヮ」をやっているところです。
二十四日には、本当に本当に久しぶりでした。あまりいろいろ激しい生活の変化がこの一ヵ年間に生じたので、かえって何も申せませんでした。私は慶応病院に三月下旬から一ヵ月入院していた間に、あとになってお目にかけようと思って、毎日暇なときにポツポツ手紙のようなものを書いたのですが、時がたつとそれもやっぱり手紙としての役に立たないことがわかりました。
とにかく、私の顔と声と眼の艶を御覧になり、あなたはきっと安心して下すっただろうと信じます。そしてわたし自身も深い安心を感じます。私は昔、あなたにユリはお嬢さんだから云々という言葉をいただいて以来、私のあらゆることであなたが心配して下さるということ――心配をあなたにかけなければならないものとしての自分を感じる必要のないものとして生きようとする習慣で暮していたし、あなたについても下らない心配は一切しない覚悟をきめていたので、私の体についても私が安心している間はあなたも安心していらっしゃるという風な感じかたでこの一ヵ年は暮したわけでした。でも私は変に気を揉(も)まないのはよいが、あなたに思ったよりずっとひどい不自由をもさせていたことがお会いしてわかり、心苦しく思います[自注3]。これからお互に一生懸命にその時分の不如意から生じた病気を癒(なお)しましょう。きっと癒ります。ある安定を見出せば、そこで全身の調和が生じ、あなたの一等の健康水準ではないまでも、低下したら、したなりに安定しましょう。
気分はやっぱりあなたらしくゆったりしていらっしゃるからほんとうにうれしく存じます。大事にして下さい。ごたごたいうに及ばないことは実によく分っているのですけれども。文学の仕事についても、生活法についても御安心下さい。私が最近に経た鍛錬は、一人の私のような生き方をしてきた作家には、十分の価値をもって摂取されるものですし、ずいぶん無駄なく勉強もしたし、着々と作品の計画もたてはじめて居ります。私はやっぱり生活を愛し、たくさん笑い、心の底に音楽を感じながら、例えば、きょうは暑くて苦しいから、勉強部屋の掃除をさっぱりして、裏庭から草花をとって来てそれをさし、フロをたきつけ、それを浴び、きのう下げてきたフトンの日によく乾したのをベッドに入れ、夕立が来た頃は爽やかな、うるおいのある心持で横になってちょっと休みました。それからついこの間六十八歳で立派な生涯を終ったクリムサムギンのおじいさん[自注4]のことについて少し勉強し、あしたの朝早起きするのを楽しみに、このお喋りを終ったら寝ます。だいたい健全なプログラムで毎日がすぎ、出来るだけ夜ふかしはしません。でもこの間、「わが父」を『中央公論』に書いたときは徹夜してしまいましたが。
きのう速達で手拭(一)、タオル(二)、下へはくもの(二)、単衣(一)、フロ敷(一)等お送りし、フトンは敷布を添えました。タオル二本のうち、私は薄手の方がさっぱりした使い心地だろうと思いますが、実際はどうかしら。薄いのがよかったらこの次はそれだけにいたしましょう。本は比較的軽いもの、だが面白そうなものを『日本経済年報21』とともに送りました。あなたの帯はもうぼろぼろになりましたろう?はじめからあれはやすものだったですものね。この次の手紙のとき、そのしおたれに傍点]工合をお知らせ下さい。今年の夏、私はやはり東京を離れない予定です。何とかして、すこしはさっぱりした一夏を送らせてあげたいと思います。去年も一昨年もひどい夏でした[自注5]から。
父のことについて私は特別あなたにどう書いてよいかわからない。短い言葉で表現すれば父は父として最もよい生きかたをしたし、なくなりかたをしました。父と私との心持の相通じていた程度の濃やかさは御存知ですが、父は自分の死によってまで、かえって私たちに生活力をおこさせ、人生の正道を愛す心を深くさせる、そういう生活を営みました。よく世間では急な永訣のとき、虫が知らせるとか、或る徴候があるとかいうが、父と私との場合、ちっともそんなことはなかった。それはまことに愉快です。そんなこみ入った心霊的技巧がいらないほど、生命が終る途端まで互の結びつきは充実していて、云わば死んでも死なぬ有様なのだから。すべて充実したもの、生粋なるもの、自然力でもそういう発現をする場合、常にどっちかというと単純なような形であらわれ、しかも云いつくされぬ美にみちている。人間も、この美に精神を鼓舞されるには、出来あいの生きかたでは駄目であるから、私はつい自分を幸福な者の一人に数える次第です。こちらはまだ蚊帳はつりません。そちらは?太郎はこの頃ニャーニャという言葉を覚えました。ではおやすみなさい。又書きます。

[自注2]第一信――公判後、百合子からの第一信。
[自注3]心苦しく思います――一年二ヵ月ぶりに面会して、宮本への差入れ状態が非常にわるかったことがわかった。一月三十日に中條の父が死去したとき、顕治は弔電をうつ金さえもっていなかった。百合子が市ヶ谷の女囚の面会所で家のものに会うたびに、あっちは大丈夫かしら。ちゃんとしている?ときいたとき、百合子のきいた返事は、いつも、ええ大丈夫。御安心なさい。ちゃんとしていてよ、という返事と笑顔だった。
しかし現実では、顕治は不如意のために疲労していた体の栄養補給ができず、結核を発病した。
[自注4]クリムサムギンのおじいさん――百合子はマクシム・ゴーリキーの伝記を書こうとしていた。
[自注5]去年も一昨年もひどい夏でした――一九三四年の夏は二人とも留置場生活中であった。一九三五年の夏はまた百合子が留置場生活であった。 
 

 

七月九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(陳清※[「汾」の「刀」に代えて「一/刀」]筆「榕園」の絵はがき)〕
七月九日。きょうのおかゆはどうでしたろう?かたくなかったかしら。どうか食欲をうまく保つよう御工夫下さい。スープは栄養よりもアッペタイトを刺戟するのでよいのだそうだけれども。ゆっくり手紙が書きたいけれども、私はまだ仕事が一しきり片づいていないので、このハガキで間に合わせます。テッちゃんが会いたがって、きょうも手紙をくれました。近々出かけます。お父さんの椅子も買いに出かけますが、一度島田へきいてあげましょう。坐椅子をかってあげたのでもしかしたら其によりかかっていらっしゃるのかもしれないから。この支那の人の絵の色彩、生活感、面白いでしょう。今の時候で見ると大変暑苦しいようであるがなかなか濃厚で面白い、但この作品で画家は極めて自然発生的に自身のもちものを出しているだけですが。今私はゴーリキイと知識人とのこと、又女のこと等面白い研究をかいています。 
七月十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十五日の夜。第二信。
毎日よく降りました。お体はいかがでしょうか。しめっぽくて、皮膚もさっぱりせず、心持おわるかったでしょう?お風呂に入れないとその点こまります。アルコールを貰って水にわって体を拭くことは出来ないものでしょうか。
私は今月の初めからずっときのうまで非常に忙しく沢山勉強もしたし、自身で堪能するだけ書くものにしろ深めたものを書いたので、読んでいただけないのがまことに残念です。そのためについ手紙がおそくなった次第です。体も疲れると心臓が苦しいので氷嚢を当てますが、それ程疲れなければ平気であるし大体私は夏は精神活動も活溌だから、近々に又小さい家をもって、今度は誰か家のことをしてくれるひとを見つけて、単純に、しかも充実した美しい生活をやるつもりです。
今、国男たちが、階下の食堂で盛に家のプランについて喋っている声がする。この家は御承知の通りダラダラと大きくて生活に不便であるので、この連中は小ぢんまりとしたものをこしらえ直して暮そうという計画なのです。
私が病院から帰って来た時分、スエ子は是非私と住みたい心持で、私もそれはやむを得まいと思って居りましたが、この頃ではスエ子が自身の職業をもつ条件や何かでやっぱり国男たちと暮し、後には一本立ちになるプランに変更です。だから私は私で自分の一番よいと思う暮しかたをすればよくなったので大変楽です。去年の六月頃詩人[自注6]である良人に死別した女のひとで、おひささんというおとなしい人がいるのでもしかしたらそのひとに家のことを見て貰うかもしれません、それが好都合にゆけば私は殆ど幸福というに近い暮しが出来るのですが――私の条件としてはね。この頃私は仕事というか文学についての勉強心というか猛烈であって、女学生のようです。愈〃(いよいよ)日常を単純にしようと思うの。生活の様々な経験はそういうためにいつしか大変私のためになっているのが愉快です。そのために時間や精力を費すべきものとそうでないものとの区別がはっきり感情の上でしていて。田村俊子さんがアメリカからかえって来て、この間の雨の日、浦和の田舎の名物の鯉こくをいろんなひとと食べにゆき、いろいろ話し、大変面白く感じました。ゴーリキイの小説の中に「アアあの奥さんは、蚊に生きることを邪魔されている」という文句があったが、本当にそういうひともあるのですね、そのことを面白く思いました。「私蚊なんかいたら死んじゃうよ」そういうの。二十年アメリカの移民の間に暮しても尚そういう感情であるというのは、他の一面の熱っぽいところ、ものに正面から当って行こうとするところとひどい矛盾であって、その矛盾は滑稽に近いものとなっていることが分っていない。――大変面白いのです。人間観察としてね。
さっき良吉さんが芝居につかうアコーディオン(手風琴の進化したもの)のことで急に来て、いろいろ話しました。面白い本を翻訳しました。小説ですが、活動の結果手も足も失い目さえ見えなくなった二十四歳の青年が、自分の文学でまだ役に立とうとして書いたものです。感動的なものです。その前にはスエ子の誕生祝に三越へ行って硝子(ガラス)製の奇麗(きれい)な丸いボンボンいれを買ってやりました。やすいもの、だがいい趣味のもの。この頃の硝子製造が発達して芸術的なものの出来ているには驚きます。その前日には、疲れているのに無理であったが北極探険隊の遭難とその救助とモスクワの歓迎との実写映画を見てまだ生きていたゴーリキイがスタンドで感動し涙をハンケチで拭いている情景を見ました。五十銭です。何というやすいことでしょう。きょう『日本経済年報24』を送ります。それから今にアルプスの雪景のドイツ版の写真帳を送ります。チンダルの『アルプス紀行』はもうおよみになりましたか。お気に入りましたか?私は写真で涼ましてあげたいと思うのです。この花の匂いは庭の白いくちなし。匂います?今晩封じこめておいてあしたの朝とり出して送るのですが。
第二信のうち。七月十六日の夜
きょうは何と暑かったでしょう。この頃熱はいかがな工合でしょうかしら。却って暑ければ暑いなりに気候が定った方がしのぎよいでしょう。今九時半頃。庭の樹の間に灯をつけ、提灯を下げ、スエ子が歌をうたっている。私は二階でこれを書いているのですが、きょうは珍しいことが二つあったのでこの付録を足すことになりました。太郎が生れてはじめて動物園にゆきました。そしてあざらしが大層気に入って、かわゆがったそうです。熊は遠いところから見るのだし、お猿はチョコマカしていやで、象は、こっちを向くと少しこわいのですって。あっちを向いていると安心でうれしがった由。私は太郎親子と一つ車で上野まで廻って其から、あなたのところへ出かけ、久しぶりでテッちゃんに会いました。髪がすっかりぬけて薄くなっているの。でも丈夫そうで澄んで大きいいい眼付をしていて、やっぱり何だか要領を得ずニコニコしている顔は雄弁に感情を語るのだが、口の方は一向駄目で、変に隅によっかかったような恰好をして、本当にあの人らしいと云ったら!大笑いです。私は二十三日にお目にかかりにゆきます。何か特別な支障のない限り。

[自注6]詩人――プロレタリア詩人、今野大力。『戦旗』とプロレタリア文化連盟関係の出版物編輯発行のために献身的な努力をした。共産党員。一九三二年の文化団体に対する弾圧当時、駒込署に検挙され、拷問のビンタのために中耳炎を起し危篤におちいった。のち、地下活動中過労のため結核になって中野療養所で死去した。百合子の「小祝の一家」壺井栄「廊下」等は今野大力の一家の生活から取材されている。 
七月十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十九日日曜日午後四時第三信
蝉(せみ)の声がしている。ピアノの音がしている。
二階に上って来て手摺から見下したら大きい青桐の木の下に数年前父が夕涼みのために買った竹の床机が出ていて、そこに太郎がおやつのビスケットをたべている。わきに国男が白い浴衣姿でしゃがんで、黒豆という名の黒い善良な犬が尻尾をふっている。太郎に私が上から「太郎ちゃん、ワンワンにおかし、はいって!」と云ったら、Sさんというスエ子の注射のために来ている看護婦が「おやりになってるもんだから味をしめて動かないんです」と笑っている。太郎は自分の手からビスケットをやってなめられて、アウとうなっている。「犬のよだれはきたなくないことよ、お兄様」「そうかい」そんな会話。日曜日らしいでしょう?
私はきょう下の食堂へ来ていたあなたからのお手紙を声を出して家じゅうのものによんできかせました。そして、どう?〓〓〓何て云いわけをして上げる?ときつ問しました。というのは、私は家であなたが御心配下すったとは全く逆の位置にあるからです。真面目な話。私は大切にされているが、其はいろんな心配を相談出来るからというとり得のためなのです。そして私はもうこういう種類の心労は大変疲れたから、早く自分の単純で書生らしい生活に戻りたいと願っているところなの。
この前の手紙で申し上たような有様、更に現実はあれより複雑故、一番広い視野で先を見通すものが、こういう中では疲れ、そしてあるところでそのものとしての限度を見出し、それ以上の力こぶは入れても事情は改善されぬと見きわめないと徒らな精力を消耗するのです。叱れるうちはまだよいというのは本当の言葉よ。叱ったって仕方がない、わるいと云うのではないがどうも何とも仕様がない、そういうのは大変困るものです。そういう生活に対して或レン憫(びん)が感じられる場合こちらの心持は楽でないところがある。家じゅうで今は私が一番年上なのですもの。いろいろこれまでと違う経験をして居ります。大事にしすぎて昔風のお嬢さん風邪を引くことがないとも限らない等と!温室の空気などと!おお。私は重い睡い空気と何とか新鮮な人間の生きるにふさわしいオゾーンを発生させようと夜もひるも動いている小さい丸いダイナモなのに!! あなたの手紙は私を笑わせ、そして愛情のふかい怒った心持も起させ、ゲンコをその鼻先にこすりつけて上げたいと思わせます。おお。本当にぶって上げたい。
坐布団は見つかりました。半ズボンは急に一つともかくお送りしました。きょうの夜夏のかけぶとんが出来るからお送りいたします。私はゴーリキイ研究を一冊にして出版することになったので八月中旬までそのために大勉強です。この仕事は一昨年の冬書いたバルザック研究等とまた違った意味でいかにも私らしいものであり、自身のためにも――作家的発展のためにも大変よいものです。『改造』八月に四十余枚書いたのはこれまでの研究――国際的な範囲で――が特にとりあげてはいない面――ああいう出身の一作家の発展とインテリゲンツィアとの相関関係を見きわめようとしたものであり、十分の自信があります。トルストイ、チェホフ、ツルゲーネフ等と婦人を描く点において彼はどう違ったかという点、それは『文学評論』に書き、彼の初期のロマンチシズムがもっていた歴史的意味については『文学案内』に。
私はゴーリキイをこのように愛し、食べ、学び、そして、アメリカ流に云えばthroughになってしまおうとしています。トルストイとも比べ、この二人からは何という滋養の吸いとれることでしょう。トルストイが若かったゴーリキイのことを、「頭はわからない。ひどく混雑している、が人間として非常に知慧がある、フム」と云ったことは興味あります。二人はなかなか噛みでがあります。
ゆうべは良さん、ター坊の親たち、重治さん、栄さん夫婦などと、どじょうのおつゆをたべて大変面白くいろいろ――アンデルセンの自伝のことその他を話しました。
きょうは、手紙をいただいて、笑い出しつつ握って振ったゲンコをこのような形にかえて御目にかけます。 
七月二十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(有島生馬筆「ある種の肖像画」の絵はがき)〕
七月二十三日。きょうはお目にかかるつもりで出かけたところが、生憎加藤氏がお休みをおとりになっているので都合がつかず残念をいたしました。なかなか暑気が厳しいがいかがですか。盗汗(ねあせ)は出ませんか。熱は?きょう中川によって昨今のまま一ヵ月お弁当をつづけておきました。夜具も持ってかえりましたが、あれではこの冬お寒かったのではなかったかと思いました。やっぱり細かいところが御不自由であったと考えられます。毛布のカヴァーは駄目です。夏向のカケ布団は昨年のがそちらにあると思いますがいかがでしょう?白地の麻単衣をお送りいたします。来月十日過にはお目にかかれ〔約四字抹消〕
トマトはまだですか。 
七月三十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
午後の六時前。食堂で。第四信
この数日来の暑気の烈しさはどうでしょう!栄さんのところへのお手紙を見せて貰ったら、夏らしい気候になり、と書いてあったが、私はそういう余裕ある気分でこの暑さを感じることのできない心持でした。八年来の暑さだそうです。熱の工合はいかがですか。汗と盗汗との区別がおわかりになりますか?食欲はあるでしょうか。今年の夏は久しぶりで私が家にいるから何とかしてすこしあなたも凌(しの)ぎよくしてあげたいと思っていたところ、休暇で工合わるくなり本当に残念です。
これは暑い、そう思い、そちらの様子を考えると暑さは又更に独特の汗を私にしぼらせます。この頃は暑さで夜中に目をさまし、又あまりよく眠れないくらいです。そちらではよくお眠れになりますか。少しは風通りはありますか。
うちの連中は暑さで閉口しながら元気で、太郎はこの頃小さい黒ん坊のように半裸で暮して居ります。大きい青桐の下に大タライを出してそこへゴムの魚(オトト)や軍艦を浮べ、さかんに活躍です。スエ子の糖尿がいい塩梅にこの頃は少しましです。でもずっと注射して居ります。私はオリザニンの注射カムフルの注射で飽きあきしてスエ子の一日に二度の注射を傍目(はため)にも重荷のように眺めます。スエ子は目下職業をさがしています。
きのうは、繁治さん、栄さんや徳さんの奥さんなど皆で夕飯をたべました。徳さんもこの暑いのに可哀そうに[自注7]。
その前晩は、健坊[自注8]のところで珍しく夕飯をたべ、九時半頃になってそこらへ涼みに出ようと、これも栄さんを加え四人でぶらりと出たらどうも水の流れるのを見たくてたまらず、どっかへ行ってみようと私が云い出し、両国の河岸までのしてしまいました。何年ぶりかで夜の大河を眺め、なかなかいい気分でした。惜しいことに河岸でゆっくり腰かけやすむところがなくてね。どこかお台場かどこかへ小さい船の出る浮棧橋まで出てみたら、モーターボートが通ると波のうねりでその小さい四角な棧橋がプワープワーと揺れてね。丸まっちい私は平気なようなこわいようなの。鶴さんは例の「百日かずら」の頭を風にふかせ、竹の御愛用ステッキ(これは文壇漫画にもかかれます。体は細い、だがステッキの太さよ。という工合で)を顎の下に突いてしゃがんでいたが、やがてホラどうだねと立って左、右、左、右と脚をひろげて力を入れ、小さいフワフワ棧橋をなおゆすろうとするのです。ところが不覚にも、その棧橋の陸につないであるところに私と栄さんと合計三十何貫の重みがずっしりとかかっていることに心付かず、私が「十二貫じゃ無理よ、こっちはこの通りなんだからね、」と云ったのでナアーンダとあきらめ、いねちゃん、大笑い、帰りに盲滅法に歩いたら明治座の横のプラタナスの大変綺麗な並木のある新しい公園へ出て、震災後のこの辺の新鮮な風景を味いました。明治座八月興行の立看板が出ていて「彦六大いに笑う」三好十郎作、杉本良吉演出、井上正夫、水谷八重子、岡田嘉子などと出ていて、これも面白くみました。私は先日来、ゴーリキイの研究を本にするために大変勉強したので、一息いれるのと暑さにうだったのとで、この数日一寸のびました。(中休みです。書くのはこれから)
この前のお手紙で国府津へでもおいでと云って下さったけれども、あすこは夏はムンムンです。それに海へ入らないしね。去年、重治さん夫婦は富士見の高原へゆき、健坊たちは千葉の海岸へ行ったが、今年はどこもまだ釘づけです。資金思わしからずでね。
島田へは椅子をお送り申しました。お気に入って東京からよこしたといってはお見せになっている由。私も大変うれしい。それは折たたみ椅子でのばすと長椅子にして寝られ背の勾配も加減できるのです。籐(とう)でしっかりしていて、お父さんの大きいお体でも平気です。近く山崎さんの伯父上[自注9]が御出京になり、あなたにもお会いになりたいそうです。
ところで、この手紙はきっと私がお目にかかる時分にやっと着くのでしょうが、シャツその他の衣類、フトンなどの工合はいかがでしょうかしら。間に合って居りましょうか。あなたはまだお湯をおつかいになれませんか?浴びるだけならいいのではないでしょうか。虫にくわれませんか。おや、今涼しい風が入って来た。こういう風をこの封筒に入れてちょっと吹かせてあげとうございます。二階は蒸風呂です。だもんで下にいて、些(いささ)か能率低下なの。家で夏をすごすのは四年目です。ではどうか御機嫌よく。

[自注7]徳さんもこの暑いのに可哀そうに――坂井徳三がプロレタリア文化運動のため検挙されて未決にいた。
[自注8]健坊――佐多稲子の長男健造。
[自注9]山崎さんの伯父上――顕治の母の兄。 
八月九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月三日、午後十一時頃、第五信
きょうは久しぶりの涼しい日でした。この二階はひどく西日がさして眩しいので、疲れてこまっているので、たまにこうして雨が降ると私はホッとして、ああたすかったと思います。同時にこの点でだけはすこしあなたの利害とちがっていると苦笑するの。きょうは眼鏡をとりかえることをやりました。慶応に入院していた間に眼の検査をしてもらったところ、私の眼は右と左とで大変度がちがっているので、今かけている眼鏡より度はちがえられないが、瞳孔距離がちがうというので処方を書いて貰っていた、それをやっとこのごろ、今日、なおしに出かけたのです。今までのフチを一まわり大きくして、レンズはツァイスのウロ・プンクタールというの。これは赤外線、紫外線を吸収して人工光線の下で仕事をするのに大変疲れないのだそうです。大奮発です。でも眼玉ですものね。そう云えば、私のこれを書いているテーブルの上には、馬の首のついた中学生じみた文鎮のわきに明視スタンドが立っているのです。そのことをまだ書きませんでしたね。そっちで『科学知識』をよんだらスタンドの科学的光度のことが書いてあって、明るく視るスタンドが科学的な計算によってつくられたというのを知りました。あの暗いところで、そういう知識を得ました。家へ帰って真先に買ったのはそれ。三段に光度が変えられ、柔かい光がいい心持です。こんどはそこへレンズがとび切りとなって、おお、おお、ね。私どんなに勉強しなければならないか!ですね。この次お目にかかるとき、私は今日の世界の科学の最も新しい成果であるレンズをとおしてあなたを見るのですが、あなたはこの手紙をおよみになる迄気がおつきにならないでしょうね。あのところで、私たちには眼鏡のことまでを話しているひまがないもの。あなたは近眼におなりになりませんか。大切にして下さい。無理をなさらないように。スエ子も眼鏡をもっています。これは遠視。国男も。緑郎も近視。全くこれではベルリンの小学生ではないが、支那人と日本人の違いはどこで判るか?ハイ日本人というものは眼鏡と写真機をもっています、ですね。
四日。火曜日、夜中の二時。
早寝をしているはずなのに、こんな時間に手紙を書いたのではすっかり馬脚をあらわしてしまいますね。しかし、今夜は眠る前ぜひ一筆かきたい。けさついた七月二十五日づけのお手紙のお礼を。
あれはまるであなたのごく近くに坐って話をしているような心持を私に起させました。あなたが健康について云っていらっしゃること、又差入れについて云っていらっしゃること、みんな私が心にもっていると全く同じ心持です。単にそう考えるのではなく、全身でそう感じているために、私たちの生活全面にわたっての明るさ、平静さ、確信がヴォルガのように豊かな力で張り切りながら流れてゆく、そういう工合です。私はよくわかっている。私たちの生活で何が大切か、私の勉強について差入れがその差しつかえとなるようなことを、あなたはちっとも希望していらっしゃらないのだし、そんなことを又私もするような小乗的態度ではない、なくてよいのであるということを。
詩人だったひとは、持病があったところへ肺病がだんだんわるくなって遂に生きられなかったのですが、動坂のおばさんだったひとやそのほかの友達たちが最後まで想像されないほどの親切をつくしました。死ぬ二、三日前に撮った写真では、タオル寝間着――黒の縞のところに赤っぽい縞が並んでついたの――を着て、『冬を越す蕾』を手にもっているところがとられていました。
国男連中は、まだラジオです。今頃がベルリンの午後三時四時です。オリムピックのドイツ語の放送が聞えてきています。一九四〇年に東京オリムピックが催される由、その賑やかさが今から思いやられます。武者小路、西條八十などスタディアムにいての通信をおくってよこしています。白鳥は夫婦で行っている。藤村は国際文化協会という役所から後援され、ペンクラブの大会へ(ヴェノスアイレス)出かけて居ります。昔、フランスへ茶の実をもって行ったように今度のおみやげも日本の植物の実と柿本人麿の和歌です。横光利一はパリにいて、一九二九年以来の花の散ったパリ[自注10]を見てつまらないと感じている由、面白いものね。見る人のこころごころの秋の月かなの感ありです。藤村と云えば、私は読書生活中に漱石をよみ直し、いろいろ興味ある発見をして居ります。小説を書いたら、次には漱石、鴎外、藤村の極めて作家的、人間的突こみをやってみたいと虎視タンタンよ。鴎外のロマンチシズム、その中挫、ゲーテ的なものの空想と現実との齟齬(そご)、大変面白いのです。いつになったら書けるか、今、ゴーリキイをやっていて、九月初旬本になり、築地の記念上演と同時に出るでしょう。それから腰を据えて小説を書いて(これは二年間位の仕事[自注11])、それからこの三老人にとりかかるのだから。私はこの間うちの経験で本をよむ術というか、本から必要なところをとって来る術とでもいうかを一層高めたので、三老人相手の仕事もいきいきと今日の生活の面に結びついて出来るつもりで楽しみです。そういうものは、この三、四年間の成長で自覚されて来たものです。こう欲ばりでは本当にアメリカ的事務処理法がますます必要ね。そして精神の永久の若さと休息のために、私は一方でますます子供らしくなってゆきそうです。では今晩はこれで、おやすみなさい。
五日、午後三時。
食堂の湿度計をみると、針はずっと中心によっている。やっぱり暑くてもさっぱりしている日は違うね、そんなことを話しながら、さて机をどっちにうつしたものかと考え、とうとうベッドを置いた八畳の方へ長四畳から出て来てしまいました。二階は概してあつい。特に四畳は西日がさすので。ここは庭を見下し、青桐の梢に向い、いくらか増しです。ピアノの音がしている。緑郎はゴーゴリの「検察官」を組曲に(パロディー風に)つくるプランをたて、しきりに思案中です。私はきのう、おとといでシャパロフ[自注12]をよみかえしたのですが、ゴーリキイより三つ年下のこのひとの経験はいろいろ比べて面白い。なかに、シベリアにはチェレムーシャという韮(にら)に似た草があって、それをたべると壊血病の癒るということがあります。何なのでしょうね。
一つの家でも食堂九〇度、この机のところは九四度。
昨夜は若い友人を渋谷の第一高等学校の近くへ訪ねてゆき、珍しいものを見ました。Y・Sの家ですが、昔の土蔵づくりの武者窓つきの全く大名門です。その門の翼がパァラーで主人Sの話し声がし、右手ではK女史のア、ア、ア、ア、という発声練習が響いているという工合。家全体は異様に大時代で、目を瞠(みは)らせる。そして道を距てた前に民芸館と称する、同スタイルの大建築がまるで戦国時代の城のように建ちかけている。木食(もくじき)上人、ブレーク、アルトの歌手。それとこの家!実にびっくりして凄いような気がしました。Yの父は三井の大したところの由。私はブリティシュ・ミューゼアムで、ブレークの絵を見たときの印象を思い出し、ああいう特殊な世界にあってもとにかく清澄きわまる水色や焔のような紅色やで主観的な美に於ては完成していたブレークを、あんなに心酔しているY氏が、こういう重い、建築史からもリアクショナルな建築の家、わが家に住むとはびっくりした。芸術的感覚というものがいかに彼にあってはよりどころよわいかということにおどろいたのです。強さ、重さ、鈍重さの美を素朴な美しい木造の柱や何かにいかさず、ああいう土蔵づくりに間違えてしまったところ、実に微妙で複雑な歴史性の反映です。建築上の民族的特質というものについての勘ちがいがある。Y氏の愛する木食上人の木像は、ああいう家に住む土豪にあって彫(きざ)まれたものではなかったのですからね。
SUが新交響楽団のキカン誌『フィルハーモニー』の編輯の仕事に入りたい希望でいることは、この前の手紙で申しあげましたね。今月の二十日頃採否がきまります。いずれにせよ、この家には住まないことになりました。KUが私がいないではSUと住むことを我慢しきれないというの。SUの方でも。――ケンカ別れをしてしまうより別々に暮そうということになったのです。二人ながら生活においては未熟練で、感情的で、互に「他人よりわるい」場合が頻出するのですね。私は太郎の遊んでいる姿を眺め、この可愛い小僧の精神の中に、どれ丈この生温い、受身な、姑息な生活気分を打開する力がこもっているかと思います。そしてどうかこの小僧が成長する時代が活溌であって、おのずからいきいきとした雰囲気に呼吸して育つようであったらと希望します。私たちの家の三代の間の歴史は実に興味があります。この面白さは文字でしか描写できぬものです。
私の家はそろそろさがして貰うことにしました。どこに住んでよいかよく分らないけれど早稲田南町辺はどうかしらなど考えて居ります。戸塚へも近いし。市外はおやめです。夜などの出入りに淋しくて困るから。
この手紙はいろいろ盛り合わせになりました。
お体の様子は又くわしくお知らせ下さい。
附録、千葉県の保田に一ヵ年契約で月六円の家があり、いねちゃんの子供らのために共同でかりました。学校の休のうちに子供らは出かけます。私は毎日大勉強で、本を運ぶのが面倒故、一かた今の仕事が片づいてから。七十銭位の本になります[自注13]。大変面白い文化年表をつけます。前例のない試みですが、有益です。

[自注10]花の散ったパリ――一九二九年のアメリカの恐慌の影響をうけたパリの生活。
[自注11]二年間位の仕事――「伸子」の続篇が計画されていたが実現しなかった。
[自注12]シャパロフ――シャパロフ著『マルクス主義への道』。
[自注13]七十銭位の本になります――ゴーリキー伝のこと。健康悪化してこの伝記は未完のまま終っている。 
八月十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(正宗得三郎筆「干潮」の絵はがき)〕
八月十日午後五時半。夕立があがって心持よい夕方。蝉がオーシイツクツク、オシオスと鳴いています。御気分はいかがですか。私は毎日十枚位ずつ書いて居ります。二日ばかり前、十二銭貼った手紙を出しましたが御覧になりましたかしら。きょう此をかくのは、さっき雨上りの庭へ出て見たら離れの庭に白藤の花が今頃咲き出したのを見つけうれしさに興奮しました。貴方は、私達の祝いに貰った大きい白藤の花の鉢を、二階の廊下においていたことを覚えていらっしゃいますか?その白藤が今年はじめて時おくれの花をつけたのです。私はうれしくてこのハガキをかきます。 
八月十八日夕〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十六日(第六信)
夜中。時間がよく分らない。
私の例の時計は、このごろよく居睡りをしますので。――
こんなにおそく話をするのは、この頃私は実に実に勉強をしていて、今五十枚ばかりペシコフ爺さん[自注14]の少年時代について書き終り、まだ興奮がさめず、何か書きたいからです。
たあ坊・健造たちは保田の月六円の家へ両親とゆきました。太郎は咲枝ちゃんと安積。スエ子はこの三日間ばかり信州八ヶ嶽の麓の小海線という高原列車の沿線へ行き美しく日にやけてかえりました。私は家でギューギュー。そして、貴方にきょう「太陽(ゾンネ)」という題でヴォルフ博士がライカ・カメラで撮った海陸写真集をお送りいたします。
もう涼風が立ってからこのようなものを送るのを御免なさい。私も秋になってからもし事情が許したら少し休養して来るつもりだから。二人のところに、今年の夏の休暇は時おくれなのです。
お体は朝夕しのぎよくなりましたか?食欲はお出になりますか。あしたあたりお手紙が来るのではないかと思います。十八日にはお目にかかりにゆくつもりですが。――私は、今の本みたいなものは一生一冊だから本当に熱心にやって居ります。深い洞察、愛のこもった分析、公平な作家的批判、その全幅を傾けて居り愉快です。木星社から出た本[自注15]が三版目になりこの秋か冬出ます。後書を発展的な見地に立って私が自身の名でかくつもりです。私はもうその位の経験は積(かさ)ねていると信じて居りますから。歴史の或時の業績の中から積極的なものがちゃんと引出されるのは当然であり、悦びです。
十八日の午後二時。
あれからかえって来て、急に夏フトンをほして、ボタンをつけて、今江井が又のっけて中川へ届けに出かけたところです。
夏ぶとんがあの暑い最中になかったというのは実にお気の毒様でした。私は前に手紙で伺ったとき、御返事がなかったからそちらにあるものと考え、栄さんも在ると云ったので、わざわざ縫ったのに入れなかったのです。本当にこういうゆき違いは些細なことであるが私としては大変あとの心持にのこります。暑いね、今日は。そう云う、そして、お湯がもうお浴びになれるのかしらんと考える。そういう風に心持が動いている。暑い。暑い。だが自分としてはさっぱりした花でも机の上に置いてウンウンとやっているのが結局一等心持がよい。そういう感情の状態だから夏ぶどんの行違いには閉口してしまいました。マア、でもいいわ。それに、今年の冬こそあんな足の先の出るようなのではない夜具をさしあげます。あなたの体に、あの変に小さいおしるしのような被物がのっかっていたのかと考えると滑稽で腹立たしい。
家の者のいろいろの近況を申しましょう。スエ子はこの十九日頃職業がきまるか駄目になるかの境で、気を張って居ります。どうもあやしいらしい。慶応を出た人で、編集事ムをやっている人のスイセンしている者があるので。
江井は御承知のとおり永年働いていて家族八人故このひとの身の振方については随分心配いたしました。国男には父のような月給が払えぬから。それで江井も大いに頭をしぼり、向島の西村の土地のがら空きのところへアパートを建てることになり、それで江井の安定の手段とすることになりました。私はやっと肩の重荷をおろしました。何しろ、こういう話、スエ子の話、皆、百合子様、お姉様なのです。この数ヵ月は珍しい方面での心労をいたしました。俊造はこの秋学校をどうやら出てどこかの製作所に入ります。家も冬までには建て直して小ぢんまり、文化的にする由[自注16]。国男夫婦は家が直ると心持(生活の)まで変ることを大変たのみにして、何でもすべていいことは家が直ってからという期待につながれて居ります。この心理は面白いのです。私も激励して笑い乍ら「居は心をうつすそうだからね」と云って居ります。そしたら国男もしっかり勉強するのだそうです。
私の弟妹たちは一風も二風も其々(それぞれ)に変って居ります。実に変っている。
太郎は今安積で、日にやけ、田舎の子と遊んで居る由、結構です。土のこわいようなものが出来上っては仕方がありませんから。少しはよその子とケンカして泣くのもよいでしょう。「ああお坊ちゃま危(あぶの)おございます」では見ていても切ないもの。
島田の方では、達治さんの除隊が一番たのしみでいらっしゃいます。
これは、私達二人の楽しみで、まだ島田へは申さないのですが(実現しないとすまないから)達治さんがお嫁を貰うとあのお家では狭いの。お風呂場のところをね、改造してお父上のゆっくり寝ていらっしゃる小部屋にし、風呂は台所の左手(井戸の奥)へもって行ったらどうでしょう?
六畳か八畳のさっぱりした部屋をこしらえて上げたいと思います。私はそのことを、なかにいて考えたのでした。あんまり早く達治さんが御婚礼してしまうと困るが、来年の中頃以後であったら何とかなりそうで楽しみです。家のプラン想像なさることが出来るでしょう?
二階は達治さん達。今の下の部屋が隆治さん。その奥へお二人というわけなのです。ずっと戸外が見えるよう冬でも外景の見えるようガラスをよく利用してね。楽しい想像でしょう?私は私式の粘りでこの小さいが愉快な空想を実現するつもりです。どんなにおよろこびになって下さるでしょうか。大変嬉しい計画[自注17]です。木星社の本のこと、このこと、二つの楽しいことです。秋になれば、あなたのお体も少しはよくなるでしょうし。
九月十日に「どん底」や「エゴール・ブルィチョフ」の記念の講演会の予定があり、私の校正も一通り終ったら或は安積へゆくかもしれません。只景色のいいところにいるだけなら二三日でよいが、安積は久しぶりでいろいろ面白いかとも思うので。
きょうは暑いが乾いている。机の上にコスモスの花があって非常に初秋めいた美しさです。スエ子の注射のための看護婦のひと(私も慶応で世話になり、父の最後も世話してくれたひと)が、私がよく仕事をするからと御褒美によく花をいけかえてくれるのです。あなたのところの蘭はまだ活々として居りましょうか。白藤の花は三房あります。ではまた。
付録(一枚)
きょうもお話の間にいろいろ私の生活について心配して頂いていることをありがたく存じました。でも、普通な意味で心配していただくには及ばないのです。その点私達は大層幸福者であります。私はやっぱりどこまでも私ですから。あなたは百合はお嬢さんだが、云々と云って安心していらしったその安心をずっともっていて下さってちっとも間違いでないし見当ちがいでもないのです。私は自分がそういう点安心しているのにあなたが心にかけていらっしゃるのかと思うと、逆に何だかこうして説明しなければならないような気になります。
これはおかしいことです。

[自注14]ペシコフ爺さん――マクシム・ゴーリキーのこと。ゴーリキーと書くと消された。
[自注15]木星社から出た本――宮本顕治『文芸評論』。
[自注16]家も冬までには建て直して小ぢんまり、文化的にする由――住宅の改造その他すべては空想におわった。
[自注17]大変嬉しい計画――親孝行の計画も財政不如意で今日まで実現していない。 
八月二十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(スキーの絵はがき)〕
八月二十日。今日「夜明け前」の後篇とロンドンの「ホワイト・フアング」の訳とドーデエの「ジャック」を入れます。「白い牙」は昔枯川の訳があったが、お読みになりましたろうか。しかし心持のよいものだからもう一度でもよいでしょう。ヴォルフの写真集はお手に入りましたか。ヴォルフが細君などの入ったものをとり、集団の美を把えぬところは一つの特長ですね。しかしライカカメラの技術としては最高の由。今夜は鈴子さんが国へかえるので戸塚の夜店を歩き鈴虫を買ってかえったところ、今もって鳴かぬ、雄ではないのだろう雌だろう。そういうことなら口惜しいけれど可哀そうだから捨てない。そんな話をして、私がこれは随筆になると云ったらスエ子曰ク「吉屋さんものね」。お体をお大切に。夜具はいかがでしょうか。
今やっと鈴虫が鳴きはじめました。野生な声でケチくさくて可愛らしい。今、私が机に向って坐っている。スエ子がわきへ小さい椅子をもって来ていろいろ話して居ります。 
八月二十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十八日夕方から。第七信。
この紙は、型が小さくてぽっこり四角くなって何だか窮屈めいて居りますね。大きい紙にたっぷり大きく書いた字。それはきっと御覧になって心持がよいだろうと思いますが、書くとついこまかくなる、段々こまかく粒々になってとけ込んで行くような工合になる、面白いものです。時々は字をかかないで音でたよりをあげたい位です。貴方が音譜をおよみにならないのは、何と残念でしょう。
あなたの窓から見えるものは何でしょう、空、電信柱、雀、樹の梢、それから何でしょう?花はあるかしら。この頃きっと随分空を御覧になるでしょう。空は時々海に似て、よく眺め入ると体が浮いてしまうでしょう?流れてゆくでしょう?私はこの感じはよく知って居ります。だが果してそれだけの面積が見えるか?安積の夕焼空の色彩の燃える美しさは驚くばかりです。太郎はどんな風にあの夕焼空の下をヨタヨタ歩いているでしょうか。
十九日の昼。
机に向っている。うしろから涼風が入って来る。仕事にとりかかる一寸前。昨夜鶴さんが保田からかえって来て、すっかり皮膚をやいて皮をはがしてかえって来ました。「己(おれ)は顔が貧弱だから黒い方がいいね。どうもそうらしい。」そういう意見で、得意そうでした。一昨日は重治さんのところで午後を暮しました。栄さん夫婦が保田へゆく。旅費はある。でもあっちでね、というのでお米一俵送りました。面白いでしょう?徳さんがかえって来たらあすこの夫婦も行くことになっているのですが、どうもまだいつかえるか分らないので――そのうち、秋になってしまう。
緑郎が今軽井沢の演奏会からかえって来ました。外国のひとが主に聴いたが、リズムのはっきりしたものが外国人には分ると云っていた、これは面白い点ですね。机の上には寒暖計があり。只今八十度強です。私は仕事部屋に、寒暖計だの湿度計だの磁石だのよく切れるハサミ、ナイフだの欲しい。今は寒暖計だけ。こういう程度に直接生活的な器は何だか生活慾を刺戟していい心持です。ところが時計はチクタクの大きく聴えるのなど大きらいです。あの夏になると眠りがちな時計を目立たぬところへ置いて安心しているから可笑しい。でも(エジソンでも時計はきらいでしたそうですからね)仕事の速度というか、進み工合というか、そういうものが結局二十四時間を計っているのだから。
コスモスの花瓶(かびん)にホンのすこしアスピリンをいれました。ぐったりしたから。利くかしら?もとスウィートピーにアスピリンをやったら、すっかり花が上を向いて紙細工のようになってうんざりしたことがあった。
この頃の小説の題は皆一凝りも二凝りもこって居ます。高見順の「起承転々」「見たざま」村山知義の「獣神」、高見順は説話体というものの親玉なり。それから「物慾」とか「情慾」とかそういう傾向の。高見順という作家は「毅然たる荒廃」を主張しているそうですが、バーや女給やデカダンスの中では毅然たるものが発生しにくいし他に生活はないし、背骨が立たぬから説話体をこね上げたらし。解子さんなどこういう才能の跳梁(ちょうりょう)に「私は小説を書いてゆけるかしら」とききに来られました。作家の生活の張りの難しさを深く感じました。書いていると限りなし。ではこれで、この紙をどけ下から原稿紙を現してはじめます。「私の大学」の部を。シャパロフと並行に。面白い仕事です。ガスケル夫人は、シャロッテ・ブロンテの伝記を書いたが、其はイギリスの(十九世紀)文学的業績中伝記文学の傑作だそうです。
二十二日の夜中。
雨が降っている。疲れて、しかし十分働いた満足の感じ。汗が体に滲(にじ)み出している。鈴虫のことについて書いたエハガキは到着いたしましたか?その鈴虫が今しきりに声を張って鳴いて居ります。おお、何とくたびれたことでしょう。そして、心が微笑している。一種の幸福さ。――
これを書いて感じたことですが、私はこれまでの――昨年五月十日迄の手紙では、こういう風に私の生活、仕事の中からの直接の響きのままの手紙を書きませんでしたね。手紙として整理して書いて居りましたね。おや、どこかでボーが鳴っている。
――○――
二十三日、日曜日です。
ロンドンのローヤル・ソサエティー・オヴ・ブリティッシュ・アカデミーから、父の閲歴について問い合わせが来て、それに答える下書を国男が書き二階の私のところへ持って来た。父の生れた年は明治元年(一八六八)でペシコフと同年でした。只一八六八でいいか、A・Dと加えるかというので大笑いをやって父の仕事のリストのところへ来ると、私は何か一種の興奮を感じました。父は沢山の仕事をして居ります。いろいろ。実に沢山の建物をのこしている。子供達に対して御承知の通りのひとであった父がこれ丈の業績を蓄積している。そのことが私を深く感動させます。父は仕事を愛していた。よく食堂のテーブルのところで方眼紙(?)のノートを出していろいろプランを描いて居りました。尤も父の持っていたスタイルは私の好みとは大変異っていましたが。そして、私にのこされた愛情のこもった遺物[自注18]は、私の家を建ててくれると云ってよろこんで楽しそうに十ばかりのいろんな小さい家のプランを書いた二枚のホーガン紙です。一番気に入っていたのに赤インクで(1)とノートがあり、そこには私の部屋のほかにもう一つの部屋があって、スペーア・ルームor・mと書いてあります。私は自分があすこにいた時又父がなくなったとき、そういう家が実際に建ったりしないで何とよかったろうかと思いました。(プランは昨年五月より少し前に描いたのです)私は自分の体を入れておく場所については、最も単純なのを好くようになりました。元からそうであったが猶そうなったから。いろいろの思い出、伝記、保存しなければならぬ責任、そういうものを欲しません。
(同じ夜)
私は或一人の作家の生涯について二百五十枚ばかりの勉強をするのだと思っていたところ、単に伝記を書く以上の収穫が、現在あることをつよくはっきり感じ出しました。何かが私の内部で芽をふくらしい。そういう予感。
二十七日の午後。
さあ、きょうはこれを書いてこの手紙は出すことに致しましょう。きのうはゴーゴリの「タラスブリバ」の試写を見て面白かったし又いろいろの感想もありました。国男は安積へゆき、家は至ってしずかになりました。家へかえってからはじめて音のない生活です。大変楽です。頭がよく働く。(今短い感想を書いたところ)鶴さん夫婦は日にやけていずれもまっくろです。私はその傍にゆくと心持がわるいほど白い。きょうも毛布のことが電話で通じられました。すぐ送ります。私は大変お手紙を楽しみにして、着くのを待って居ります。

[自注18]愛情のこもった遺物――建築家であった百合子の父は一九三五年ごろ、百合子の住む家の設計図をいくとおりも作った。百合子にも住む家ぐらい何とかしてやりたい、と。百合子は、それが実現するとは思わず、またそれを維持してゆく経済条件がないから、家をつくることを希望していなかった。しかし、そのプランのどれにも、父は顕治が使うための室を割りあてていた。いつも、二人が住む家として考えていた。家は、実現しなかった。 
八月二十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(十国峠(1)、熱海峠(2)の絵はがき)〕
八月二十九日土曜日。
きょうはスエ子、緑郎、紀(ただし)(従弟の一人)と江井という顔ぶれで、熱海をまわって十国峠を通り、つい最近出来た強羅公園のドライブウエーを宮の下へ出て夜十時すぎにかえりました。十国峠も強羅も私には初めてで、大変愉快でした。峠の上の濃い霧、すっかり道路が変っている国府津の家の前。〔以下絵はがき(2)などいろいろ大変印象づよかった。かえりには大森の沢田屋でカニをたべ、賑やかなのにびっくり致しました。十国峠の入口はこのエハガキのようになっていて、八十銭とります。ゴーラの方は一円五十銭を橋銭のようにとる。そこでこのハガキを買い、スタンプを押させました。芝居がかって可笑しい写真!右手の方へ行くのです。この夏はじめての遊楽でした。又こまかくは手紙で。 
八月三十日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第九信。八月二十七日の夜から。
きょうは体によくない天候でしたが御気分はいかがだったでしょう。皮膚がひやっとしていて汗がじっとり出る。今も出ている。八十度一寸出ています。月夜だったが今は霧が漂っている。湿気が多いのですね。『二葉亭全集』をよんだら扉に「ロシア文学は意識的に人生を描いている。それが日本の文学と違う」と書いてあった、鉛筆で。昔あの本をあなたは古本でお買いになったのかしら。十九世紀のシムボリストのところ(別な本)を見たらカントの哲学との関係についてノートがあって面白い。いろいろ面白い。万年筆でひかれてある条の傍に更に点をうってゆくようなこともあります。そういうときは大変に又面白い。(もう眠ろうとしてメガネをはずしたのに、フトこの紙が目に入ったので一言お喋(しゃべ)りを)
二十九日の午後。
暑い日光が青葉青葉にさしてすこし錆びた緑金色の輝が庭に一杯になっている。アルプスの山の中の羊飼の男のヨーデルの合唱が聴え、日本の豆腐屋のラッパの声がそれに混っている。私は何を別に話すというのではなく、貴方に呼びかけている。それは、呼びかけるということが、実に沢山の、云いつくされない沢山の感情と感覚との圧縮的表現だから。感覚的な、感覚が話す話はなかなか字に出来にくいものですね。――芸術家というものがこの感覚的なものによって生き、人生をさぐり、そのものの内容をより豊富にしてゆく過程は面白い。
本当に打ちこんで勉強し、ものを書いてゆく快よさを、本当に感覚的に知っているものこそ、真の作家になり得る可能性をもっていると思います。ジイドは、ロマン・ロランとともに外国の作家としてはいつか勉強したいが「贋金つくりの日記」の中に感情と情熱との相異について書いている。その相異を知らぬものが、人生から感得するものは、いかに貧弱であるかということを云っている。私はこの三四年作家として猛烈にそのことを感じ、二三の場合、話したこともあったがわかるものがなかった。さすがジイドである。そうでしょう?あなたはこのことは分っていらっしゃる。けれども、私がハッとそのことを思う折々にすぐ、傍を向いて、「ね、こうでしょう?だから!」ということは出来ない、残念であるが。二人分を感じて、私の心は撓(しな)うようです。撓いつつ甘美な苦痛を感じて、折れないという自覚のよろこび。
抽象的なことを喋って御免なさい。でも時々はこれもいるのです。私の精神衛生の見地からね。(笑い声は小説家が苦心するところです、今も困ったわ。私は笑っているのだが――)ああ、私共は、沢山沢山感じて生きているのだからね。
――○――
この頃沢山読む本は、いつか前に書いたときつかったもので紙がはさんである。もう古びて。こんどは、又この次の便利のために、必要なところには昔の人のはり紙のように紙を貼って見出しを書いて居ります。一目瞭然で大変によろしい。その紙の切ったのを沢山こしらえて、一つの小さい箱に入れておいてある。その箱はパリで、母が誰かのおみやげにやると云って買ったのの残りで、本当はマッチの飾箱なのです。金色のレースが張ってあって、細い色リボンの花飾りがついていて、ローマッチをこするザラザラがある。ロココまがいのけちくさいもの。その中から紙片を出して本に貼る。
ガラスの角ばったペン皿のとなりに置いて。ペン皿には御存知の赤い丸い球のクリーム入れがあって、太郎が二階へ来ると、私はいそいでそれをかくすの。握ったら可愛がってはなさないのです。ところがおばちゃんにしろ、これをどっかへころがされては一大事とばかり、太郎と同じように眼玉をギラギラさせるの。可笑しいでしょう?きょう千田さんから電話、うちの小さい子供が話をするというので私の話、「ああもしもし、きこえる?私はね、まだあなたにあったことはないけれどね、あなたが生れるときリンゴの煮たのを母さんにあげたことがあるのよ。こんど会いましょうね」
太郎はまだ後輩故卓上を握ってア、ア、というだけ。
きのう二百哩ばかりドライヴをした、いろいろの話を書くのが順のようだけれども、きょうはあなたが八月二十二日に書いて下すった手紙が朝食堂のテーブルの上にのっていたので、先ずそのお礼を申します。
きょういただいたお手紙はいろいろの意味で、美しさに満ちて感じられました。だからこうしてこの日のまわりには花飾りがつけられたのです。ヘーゲルの話は大変面白く思いました。何故なら私はこの手紙の二十九日の分で書いているように、ヘーゲルが筋の立った理屈にまとめて考えていることを全身全心で感覚し、その中心情熱によって、さまざまの感情を高き低き生活の峰々として統一して押しすすめているのだから。
私は本当に他出という表現で云われている、それよりもっと生々しい緊密さ、謂わばこっちが風邪をひけばそっちも風邪をひく位の肉体的な感じで感覚している。何のために生きているかということが、はっきりしているからこそ、私は主観的には迅(とう)に悲劇を脱却しているわけです。只人間生活の歓び確信というものの、最も鋭い、最もニュアンスに富んだ、最も出来合いでないものの感じ得る陰翳(いんえい)――それによって明暗が益〃生彩を放つところの、動く生命力の発露として、苦痛をも亦愛し得るだけ生活的です。私があなたにあげる手紙の中で、我々の生活には何が一番大切かということに触れて書くとき私はその答えが分らなくて書くのではないのですよ、答えはわかって居て、心に響となって鳴っていて、何とも黙しかねて、字にまで溢れるという工合なの。あなたが、そういうことにもふれて、きょうのような手紙を下さるのも私には大変にうれしい。私の生活について書いて下さることは勿論必要なものとして摂取されずにいるわけはないのですものね。
私は愚劣なものの中からさえ役に立つものがあれば何か役に立つものを見出そうとする位、よくばりなのだから。まして。まして。恐らくあなたは御自分の字、字そのものよ、までが私にどの位必要なものであるかきっと御存知ないでしょう。
恐ろしい、動きのとれない現実はないと仰云るのは本当です。私だって、それは知るようになったし、云わば一人の人間が自分だけ動きがとれない心持でいるのに、客観的な現実はどしどし推移してゆくところに、現実――生活の力強い波動があるとさえ云えるのだから。只どうぞ、「失うものは借金ばかり」とおえばりにならないで下さい(ホホー。)
私は今特にどの点について「事情を改善することにつかれた」心持を書いたか覚えて居りませんが、経済的なことではないのよ。私自身にしろあなたひとりは威張らしておいてあげられない位「失うものは借金」の組ですからね。何がこの人生において合理的な生きかたであるかというようなことを心持の上でわからせて戸主気質から少しでも解放してやりたいこと。妹に真の自立性というものを教えて、勝気のために却って歪む自尊心の負傷を少くしてやりたいこと。咲が自分の亭主に対してもう少し正しい健康な意味での影響をもつように、そうしてよいものだと確信するように。それらのことは、私が家を別にして生活すると出来難いからいるうちに改善してやりたいと考えた、そのことであったろうと思います。疲れたというのは、自分たちが腹からそういう要求をもっていないから、皆敬意と一つのチェホフ的翔望をもって、
ほんとねえ、そうしたらどんなにいいだろう!
と深く呼吸をするが、実際の生活はその古い道を流れている。食うに困らぬこと、即ち生活にこまらぬことと思っている。そんなような気がしているらしい。その中で改良に疲れたと云ったのでしょうと思います。
国など「姉さんがいなくなったら僕も大変だ、よっぽどしっかりしないとダラクするね」と云ってはいるが。何か反歴史的な執着などから経済的にもその他にもごたついてはいないのです。どうかそのことは御安心下さい。悪いものではない。だがどうも困る。そういう存在を今のような歴史は沢山に包括して居りますからね。
私の手紙が第五信までついて居る由。ところで私の今書いているのには第九信と番号が打ってある。十二銭の切手を貼ったのを御覧になりましたか?すると私は一つ自分の番号をとばしてしまったのかしら。或は今のが第八信に当るのかしら。とにかくこの頃はウンウンでね。偉大な価値の評価が正当にされるようにされないということ、それが私の努力の動因です。単にまつり上げるのでなくて、一箇の芸術家は自分の才能をどのように生かして来たかどんな力ととり組み自身の矛盾ととりくんで来たかというその突き入るような分析、綜合、生きた人その人がそれをよんでああ自分は斯うであったかと三歎するようなもの、そういうものをつくる決心で私はとりかかって居ります。半分ばかり終りました。書きながら私自身の生長も自覚されるような、そういうものを書いて居ります。よろこんでいただけるだろうとたのしみです。
きのう十国峠で採って来た秋の花をお目にかけたいけれど、せっかく花を入れてあげてそれがなくなってしまって居たりすると惜しいからおやめにいたします。押して色をうつしてあげるにはあまり鮮やかに咲いていて可哀そうなの。女郎花(おみなえし)、撫子(なでしこ)それから何というか紫のまるい花と白とエンジ色のまことにしゃれた花と。それがコップにさして机の上にあります。
私はこれから髪を洗います。そしてさっぱりして仕事をします。きのうはお暑かったでしょう。きょうはからりとしていて凌(しの)ぎよいが。――この手紙を御覧になる頃にはお目にかかります。 
九月七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第十信八月三十日から。
この頃私はこの手紙が日記のようなものですね。又くつろいだお喋り。親密な会話。頭の中でつきつめたことの独白――もう一人の自分に向っての。そういう風ね。私は自分の全生活の波、色、響をあなたのところへ一つものこさずつたえて、それでくるんであげたい。むきになって仕事をしているときのつめよせた調子までも。一貫した生活のトーンで、私の生活の波長をはっきりお感じになるというのは、私にもわかる。そして、私は、はっきりそのことを感じてもいるのです。私の生活の響が応えられていることを。
さあ、本当にこうしていないで髪を洗わなければ。さっきの手紙を封をしてまだテーブルの上におき、私はもう次のたよりの冒頭をかいているのです。
九月七日
一週間とんでしまいました。あなたは二十九日には手紙を書いて下さいませんでしたか?日曜日(六日)には大変待っていたのだが。――私は今病気なの、珍しく。変に黒い突出たような眼玉をして。三十一日の朝(この前の手紙をあげた翌日)起きるのが苦しかった。無理をして約束の築地の稽古場へゆき一時間半ほど熱心に話をしてくたびれてかえったら悪寒がして熱が四十度ばかり出ました。夜中だったがお医者を呼んだら喉が少し赤いというのでルゴールでやいてね、冷やしたり、おなかをあっためたりそんなことをして、どう原因があるということもはっきりせず今日やっと平熱になりました。
眠って、眠って、眠って、まるでそういう病気のようでした。きょうは眠くないの。皆心配してくれ、稲ちゃんは私が仕事をしすぎているから断然当分呑気に休まなければいけないという主張です。本当にそうするかもしれません。これがなおって起きて歩けるようになったら全く仕事をしないなどということは出来ないから、仕事を持ってでも栄さんとどっかの温泉へでもゆきたいと思って居ります。こんなにへばったのは何年にもないことでした。四月に慶応に入院していた時より弱った。まだ臥床。おカユ。食欲が出ないでいけません。私はどんなに参ってもすぐ食欲は恢復したのに、癪(しゃく)ね。今日は私は癒る確信がつきました。御安心下さい。本当はね。笑い草ですが、余り頭が苦しくて昏々(こんこん)と眠るからね、もしかしたらこの頃流行の嗜眠性脳炎ではないかと思って、もしそういう疑いがあれば正気なうちにあなたに手紙を書いて置こうと思ったの。書くと云ったって結局今の私の心持で何も特別なことはないわけですが。どこを区切りにしたって違った色の血は私の体の中を流れて居はしないのだから、ね。
あなたの方の御工合はいかがですか。すこしはましになりましたか?私は病気になったりしたのを恥しく思う心持があります。勿論過労からであったにしろ。やっぱり自分の健康の事情を十分理解しないで熱中したりした思慮の不足がある。
久しく途切れたからこれを書き今日はこの位でもう出します。この頃は時候がわるいらしいから呉々お大事に。こんな空を見て臥(ね)ているのは残念ですね。 
九月七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(山下新太郎筆「東山と萩」の絵はがき)〕
九月七日夜。今夜八日ぶりでお湯をつかい、お茶をのみに食堂へ来てこれを書きます。私の体、御心配をかけましたが、単純な疲労が重ってひどくこの残暑でやられたらしいのです。ひどく汗が出て出て、皆に、お前がたこんなに汗が出るかと訊いていたうちに疲れを重ねて居たのだったらしい様子です。御飯もきょうからたべます。背中の痛いのもすこしましになりました。栄さんがよく来て電気をかけてくれます。きょうは稲ちゃんも見舞いに来てくれ、ゆっくり休むよう呉々も云ってくれました。どうかそちらでもお大切に。
このエハガキはもう四、五年以前のもののようです。二科や院展がはじまったから新しいエハガキを御覧にいれましょう。南画会が小室翠雲と関西派との衝突で解散した由。残暑をお大切に。本当にお大切に。 
九月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(青鉛筆書き封書)〕
九月十一日第十一信
きょうはひどく風が吹くので暑さが乾いて吹きとばされて居りますね。ペンで書くと抵抗があってくたびれるので一寸このような鉛筆。
私の体は七日の夜(ハガキを書いた晩)から二三日又一寸後戻りをして熱は出ませんが食事がちゃんとゆかず、まだブラブラです。自分の思っていたより疲れていたと見えます。しかし、もうこの順で段々よくなりますからどうぞ御安心下さい。ことしはあなたにもなかなか大変な夏でしたでしょう。残暑になってから却ってよくないのね。弱っていらっしゃいませんか。
私は努力して頭の中をカラにしてボンヤリしようとして居ります。
二階で臥ている。時々下へ降りる。そして、太郎とお喋りを致します。
太郎はこの頃ハッパ、アーチャン。イヤダイヤダ。その他喋り、こちらの云うことはもう物語がわかります。家はこの頃病人続出でね、スエ子は大腸カタルがひどくなりかけて目下慶応入院中です。然しずっと経過はよくて、発病後一週間ばかりですが、却って私を追いこし、もう外出出来るしすぐ退院いたします。私も、もう数日後には面会に出かけます。本当に御心配下さらないように。小さい声で白状すればね、あなたがどこかへお行きと書いて下すった時分、どこかへ行っておけば今へばらなかったのでした。でも、私は、「七、八月は東京に居りません」というマンネリズムが我まん出来なかったのでね。御心配をかけて御免下さい。
シャツ上下薄手のをお送りします。『破戒』は絶版で古本をさがします。近々シンクレアの『ジャングル』を入れます。 
九月十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第十二信九月十三日日曜日午後
ああ、あしたは日曜日であると思う。そして、今朝、起きるとすぐ食堂へ下りて行って来信のところを見る。無い。これはどういうことであろう?二週間何も書かれないということは?そう考え、顔を洗いながら私が病気をするような気候故、そちらも大変工合がわるくていらっしゃるのではないだろうか、このごろは残暑が苦しい、中川へ養生書の注文をなすったそうであるから。――いろいろと考える。或は又自動車で動くようなことがあって、それが障ったのではあるまいかなど。明日面会に行こう!そう思いつつこの手紙を書いて居ります。
私の健康はやっと起きるようになりました。もう殆ど一日中起きて居り、仕事をする気力も段々もりかえしました。熱は出ません。いろんなひとがいろいろの一身上のことについて相談に来る。それをやっぱり加減がよくなくても聞く。そしてそれぞれの意見を云う。――面白いもので、この頃のような時季には、いろんなひとが一身上のことで問題をおこして居ります。仕事を本気にやっているときは勿体ないからね、時間が。――でも勿論疲れるようなことは致しませんから御安心下さい。
きのうは、思いがけずてっちゃんがやって来てね、夕方まで愉快にいろいろ喋りました。話していたとおり帰ってあけの日に来たのです。お土産に『柿本人麿』という本と、森杏奴(あんぬ)が書いた『父の思い出』の本をくれました。十七貫だそうです。あのひとらしく楽しそうに正直にいろんな話をして、私も久しぶりで珍しく愉快でした。嫁さんを見つけてくれとたのまれました。私は若い女のひとは沢山知っているけれども、夫婦の生活が複雑微妙であることを知りぬいているので――最もよい場合を知り、わるい場合を目撃しつつあるので――仲人(なこうど)をやることは大役すぎます。寧ろいやね。紹介をしてあげるのがせきの山です。そう話した。そしたら「そりゃそうだね」と高笑いをして居た。嬉しいときの高笑いは本当に高笑いね。勉強のことなど話しました。
今、スエ子が慶応から退院してかえって来ました。赤痢の疑いとイ者は云ったが、実はそうでなかったのですって。糖尿が悪化すると下痢をつづけてそのまま昏睡してしまいになることがあり、万一スエ子がその初りでは大変ということであったのだそうです。いい塩梅に糖も減っている由です。つやつやして、よく眠った顔をして「お姉様どうした?」と入って来た。これで一〔中欠〕
この間あなたが書いていらしたように全く生活のための健康であるということを深く会得しているから、自分のことについても、あなたのことについても、出来得る最上をつくしつつ心痛はしないでいるのですが、気になる。気にかかる。これはやむを得ないことです。そして、ああ私は決して病気などするようであってはならないと思うのです。一層つよく。生活のための健康なのだからね。二人の生活のための。私は目下温泉保養の決心をして、やすくて閑静なところを調査中です。栄さんとゆくために。私が書いている評伝の後に興味ある文化年表をつけます。そちらの方を受持っていてくれるので、共通の仕事もあるから。三週間位の予定です。多分信州の上林(かんばやし)へゆきます。大変やすくて、閑静でよさそうなところだから。芝のおじいさんたちのゆくところらしい様子です。机をもって本をもってゆきます。早寝をして、散歩をして、母さん役からはなれて、少しのんきになるつもりで。この手紙を御覧になるのは又私がお目にかかってからのことになりますね。どうか呉々もお大切に。安眠なさるよう切望いたします。 
九月十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕
今日の午後手紙を書いて、夜テーブルの横を見たら一枚私の字の書いてある紙がおっこちている、何だろうと思って見ると、手紙の中の一枚が何のはずみか落ちていたのに心づかなかったのでした。変な手紙をおうけとりになることになるでしょう。その頁で私はあなたのお体のことを主として伺っていたのだのに。――どうぞ右の次第御承知下さい。注意が散漫になっているのではないから。 
九月二十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(鍋井克之筆「榛名湖」の絵はがき)〕
九月二十四日夕方五時。
今、『東日』の月評をかき終り「地獄のカマのふたがあいた、あいた」と御機嫌のところです。私は短い時間に、沢山の雑誌をよむこと、つまらない小説をよむことがきらいでしかたがないが、とにかくがんばってまとめてうれしい。明日お目にかかりにゆくのですが、一筆。これは今の二科に出て居る絵です。 
 

 

十月三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県下高井郡上林温泉せきや方より(地獄谷の写真の絵はがき)〕
十月三日。一日に仕事が終らず、二日に出発。上野から長野まで汽車。長野から湯田中まで電鉄。その後自動車でのぼり二十分ばかり来ると、桜並木のところに、店頭にお菓子を並べてタバコの赤いかんばんが出ている、そこがせきやです。部屋からは、その桜並木、むこうの杉山、目の前には杉、桜、楓など。お湯はおだやかな性質で、よくあたたまります。ウスイのとんねるを知らないほど眠って来てしまいました。空気がよくて鼻の穴がひろがるよう。二つの部屋に栄さん、私とかまえて居ります。今日も雨です。
栄さんがお湯で、アラ、と云って立ってゆくから、ナニときいたら青い雨蛙が青い葉の上で動いたのでびっくりした由。二人ともあんまり口もきかず、のびるだけ神経をのばして居ります。
いねちゃんが上野まで送ってくれました。汽車がカーブにかかるまで赤いジャケツが見えました。
昨夜は何時に眠ったとお思いになりますか?六時半よ。そしてけさ、六時半。納豆、野菜など、なかなか美味です。きょうテーブルをこしらえて貰います。 
十月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(せきや旅館前の桜花の絵はがき)〕
十月十一日、日曜日、晴。
十月三日づけのお手紙を昨日いただきました。私の生活のうまいやりかたについて考えて下さり、本当にありがとう。この頃私は痛切に考えていたことでしたから。ゆっくり手紙を書きますが、とりあえず。林町では国男が盲腸でケイオウに入院し、一時間半かかる手術をしましたそうです。イマそのハガキを見ました。そのゴタゴタもあって、咲枝はあなたにさし上げる夜具をまちがえて送ってしまいましたが、あとでとりかえますから、何卒(なにとぞ)あしからず。
シャツ、薄いもの上下、まだ届きませんかしら。冬のはまだ早いと思い、毛の薄いのを入れましたが。
これが私のいるせきやさんの一家です。左手の障子がその家。もっとも十年ほど前の様子ですが。この桜並木はよく、皆の顔の向きに山々の眺望があります。お大切に。
〔欄外に〕本のことはよく分りました。こんどは忘れっこなし。 
十月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(上林温泉から渋温泉を望む風景の絵はがき)〕
十月十一日、日曜日、きょうの午後、この宿の裏の方に新しく建った二階の方へ移り、やっと落付きました。十日ばかり、ほとんど毎日野天で昼間は暮らし、大分日にやけ、足が達者になりました。スキーで有名な志賀高原へ一昨日行きました。新しいドライヴ・ウエイを二十分ばかりのぼると杉、松、栗、柏などの見事な喬木の森がつきて白樺、つつじ、笹などの高原植物になります。石ころ道の旧道を、冬ごもりの仕度に竹、木材、柴など背負い、馬につんだ農夫がうちつれだって下ってゆきます。高原の頂に国際観光ホテル建造中です。
この川が流れて千曲川に合します。この手前にやや濃い山の左手に長野がある。更に左手のこのハガキからはずれたところに雪をいただいた日本アルプス(北)が見えます。落日を受けて美しいのはこの遠くかすんだ山々です。田は収穫時です。お湯は一日一度です。どうぞ御安心下さい。
〔欄外に〕夜も早ねをして居ります。 
十月十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(川中島方面の写真の絵はがき)〕
十月十二日、小雨ふったり、やんだり。きょうは山の中から出かけて、二人は毛襦子の大コウモリをつき、善光寺見物です。善光寺下という電鉄の駅でおりたら陸続として黄色の花飾りを胸につけた善男善女が参詣を終ってやって来る。四十以上の善女が多い。今は付近の小管という家で名物のおそばをたべようというところです。寺はつまらぬ。長野という町は山々を背に何となく明るい雰囲気をもって居ます。山々の中腹に白く靄(もや)がたなびいて雨中山景です。
ソバは変にニチャニチャして、ちっともおいしくありませんでした。手打ちソバなどたべさせぬひどいもの也。 
十月十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(封書)〕
十月十二日(月)第十六信
九月三日に下さったお手紙は十日につきました。あなたが、私について、一層生活の達人になるようはげまして下さること、本当にありがとう。そのことは、近来自分でも益〃はっきり感じて居ることでした。何故なら一昨年の六月以後去年の五月までの間に一昨年の九月頃まで体が悪くていたにもかかわらず、一冊の『冬を越す蕾』がまとまるだけの仕事をしました。今年にして見ても四月以後今日までに私の体の事情に合わせれば、相当の勤勉さです。時間のつかいかたをもっと巧みにすることと、それは私を徹夜から防ぐためにどうしても必要です。全く私は変なウシミツ時にあなたに喋りかけては、計らずしっぽを出してしまいますものね。(でも私は小さいしっぽであろうが、大きいしっぽであろうが、あなたにはお目にかけずにいられないのだから、どうぞあしからず)
私は年に一つは本の出来るだけに働くプランです。今年は或は暮れに近づいて二冊出るかもしれません。評伝と別に白揚社が感想集を出すと云っているから。――
ところで、ここでの生活ぶりについて何と書きましょう。――私としては珍しい表現でしょう?つまりこれは、落付こうと努力しつつ落付けずにいるということになると思います。
ここの自然は実によくて、或はそのために落付けないのかしらとも考えます。きのう迄は部屋の都合で落付けなかった。丁度山々では紅葉(もみじ)が赤らむのでね、善光寺詣りの団体くずれが、大群をなして温泉めぐりをやり、渋(しぶ)からこの上林へとくり上って来る。それらの連中はこの家から少し上の上林ホテルというのにつめこまれるが、この家では二晩おきに、二晩つづいて、奇声を発する変なチビ芸者をあげてさわぎがあり。小学校の先生が集団的にさわぐのです。ドタンドタン殺気と田舎らしい荒っぽさのこもった遊びぶりで、二階じゅうがゆれる。あげくに、廊下ですすり泣く声がして「よし、わかった、ナ?ええ、ええ」などと同僚になぐさめられている先生がいる。そういう有様。海抜二千八百尺のところでも、おお自動車の便利さよで、こういう光景が展開される。その自動車があるので、私は胸も苦しくせずに五千何尺(海抜)という志賀高原へのぼることも出来るのですが。戸外で山をながめ、引しまって新鮮で濃いような空気を吸っていると私は大変いい心持で休まって、さて、家へ入り仕事をせねばならないと思うと落付かぬ。これは妙な心持です。その原因についていろいろ考える。結局ユリは東京で徹夜しないようにして働いているのが一番「うれしがって、仕事をしている」状態らしい、そして、時々四五日、山の空気を吸いにでも来る方が。この心持はどういうのだろう。外部的な事情からではない、東京には私たちの生活があり、ここなどでは半分きりですからね、何だかダメだ。半分と半分との間で無理に延ばされ、ひっぱられているものがあって、だから駄目です。尤もこれは一方的な感じかたかもしれないのだけれども。
十六日にお目にかかったら、途端にああ、休まったと感じるだろうと思っておかしい。ホウ、ユリのバカ。
でも、日にやけたし、体がしまったし、脚は丈夫になったし、決して効果なしではありません。その点は御安心下さい。おかしいでしょう?だから主観的な私の心持の複雑な交錯にかかわらず、生理的な条件はよくなっていること確かです。きょうの手紙は永く書いても同じ。これでおしまい。 
十月十四日夜〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(中沢弘光筆「北信濃風景」の絵はがき)〕
このエハガキに描かれているところは今は一面の段々の田で、稲が実り、背景の濃い杉山とつよい色調のコントラストです。多分この左手の方に一米十円をかけたという一万メートルの志賀高原へのドライヴ・ウエイが通って居ると思います。雪は上林で三四尺の由。志賀の上では七尺だそうです。冬の健康法を私は、雪の中で頬っぺたを赤くしてやりたいと思う。ポコポコしたところへ逃げずに、ね。
中沢さんの絵では雪のブリリアントなところが出て居ません。ここに水上泰生(水彩画家)の別荘あり。
東京からスキーヤーが来るとき、土地の農民は山案内をしたり、千本で一円の箸を内職したりします。竹カゴもあむ。 
十月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(長野市風景の絵はがき)〕
十月十四日の夜。あした一寸東京へかえるために栄さんとカバンつめを終ったところです。この間書いた手紙で、私はここに落付けず閉口しているところを書きました。けれども健康のためにもう少し居る方がよいし、きょうは十日間の収穫として短いこの生活のスケッチなど『サンデー毎日』に書き、段々調子がついて来るらしい。二十日頃にかえってずっと仕事をします。いかにもここの空気が気に入っていて(本当の空気です)、何だかまだしんにのこったかすまでがさっぱりしない心持ですから。これは変な字ですね。スエ子の万年ペンが出て来たので、それでかいている。長野市は中央がずっと傾斜をもった町で、横通りを見るといつも山が見え一種の情趣はもって居ます。 
十月二十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(中村不折筆「芦の湖」の絵はがき)〕
十月二十一日。
きょうは雨つづきの後の晴天で、珍しく川口さん夫妻が小さい娘の南枝(ミナエ)子をつれてきて、うちの太郎と動物園へ今出かけたところ。私はカゼで門のところに佇み、黄色いずくめの太郎が初めて会った南枝子の手をとって歩いてゆくのを遠くなるまで眺めました。きょう布団カヴァー、シャツ下へきるもの等送りました。四五日うちに新しい夜着もお届け出来ます。この絵は文学的ではあるが、不折が描くところ面白いでしょう?私は気に入って居ります。
おなかの工合はいかがですか。一口にたっぷり口に入れてゆっくりかむことは大変よいそうです。〔約五字抹消〕もそのようにかむ。ゆっくり昨夜話し、いろいろ愉快でした。「批評は現在体で書かれた歴史である」という言葉をキイノートとしている由。 
十月二十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第十七信。十月二十七日(火)ひどい風。
きょうあたりお手紙が着くかと思っていたがまだ着かない。待っていず、書いて、出してしまいましょう。先週の火曜日には、いろいろのエハガキをなるたけ沢山御覧になったらと思い、わざと私の手紙は書かなかったから。――
お体はいかがでしょう。中川へ夜着のことで電話をかけたら、まだやっぱりそちらのおカユのようですね。あなたはリンゴをたべていらっしゃるでしょうか。生(なま)の果物でもあれは赤痢の新療法に使用される位有益です。よくかんで一日に二箇ぐらい召上れ。胃腸がよわっていてもリンゴは特別です。それに、もし胃腸がうけつけたら鉄とカルシューム補給のため、バタと鰯(いわし)、鮭(さけ)の類、カン油なども是非あがった方がよい。私はいろいろ考えてね。あなたの胃腸のわるい原因がやっぱり胃腸から吸収されるものによって癒されるしかないことを思い、まことに隔靴掻痒(かっかそうよう)の感です。鉄分とカルシウム分の減退は著しいのだから、どうかどうかその点を御注意下さい。バタ(北海道と指定して)をつけたパンは駄目ですか?何とかしてバタをあがるとよいと思うのだが。
私の体はこの間又ケイオーで診て貰いました。ラッセルはもうすっかりなくなっています。御安心下さい。オリザニンをのみ、過労せねばよい由。過労をしないということは、仕事をよく配分することであるから、私はそのことを心がけて、仕事は十分、多量にして居ります。一月号の『中央公論』に小説をかくので、上林へかえることは中止しました。本をよんでする仕事と小説とは全く違った雰囲気を要求するのでね。然し、上林へ行ったことは、あれだけ外気の中で山を歩いたことは実にきき目があり、体にも気分にも大変のプラスでした。ちがった場所での生活の観察もよく、私は「上林からの手紙」というのと「山漆(やまうるし)」というのと二つ随筆をかき、猶書きたい。これは小説を書く気分とごく近いものなので、そのためにもようございます。作家評伝の間に小説をはさみ、その小説のプランは長篇として立て、一部分ずつ「伸子」のように書いてゆくのです。いいでしょう?なかなか。評伝は十二月初旬小説が終ってから再びつづけて、前半のように緻密にして生活的であり、生活と芸術とその歴史性の掘下げでユニークなものを完結します。小説もそのように生活のディテールと活力の横溢したものにしたいと思います。「乳房」を書いているから、きっとよいと思う。あれからもう育ってきているから。まだ、だがプランの詳細は出来ていない。毎日もうそのことに、心がつかまえられています。
林町の例の二階の机に向って、計画中です。
国男の体は大分回復して来ました。でもまだ疲労熱を出す。十一月の初旬には退院しますでしょう。スエ子の盲腸は糖尿で切開が望ましくないから、何だかまだおなかが堅いと蒼い顔してフラフラです。太郎は益〃愛らしい。可愛い可愛い小僧です。
私の住むところ、国府津を思いついて下さいましたが、私はもうあすこには住めないと思う。父と最後に行って、父のかけた椅子を見ると苦しい。寝室も陰気さの方が勝っている。勉強机など父の趣味で買ってくれたのが置いてあり、やはりそれも苦しい。私は感覚的に肉体的に父を感じているのに、物があってしかも父はいないという感じばかりはっきり迫って来るところは、さすがのおユリも閉口よ。面白いでしょう。これはスエ子も全く同じ心持です。国、咲はちがうの。平気です。彼等はあすこで自分達の生活をやったからでしょう。それに家の前は八間のコンクリートの国道であり、後方には東海道本線が走り、クラウゼ的な丘陵で、落付けません。道ばたのあの土堤(どて)や松はもうない。つまり、あったとさえ想像出来ぬように無いのです。ですから私はやっぱり市内に家をさがしましょう。十二月中旬に。ああ私には〔約十五字抹消〕
では又。あしたあたりお手紙が来るかしら。 
十一月四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月四日ひどい南風。第十八信。
その後盲腸の工合はいかがでしょう。夜眠れないほどお痛みになったとは想像も出来ませんでした。ひやした丈でどうやら納まったのならまアよいが。
十月は大体盲腸やチブスの季節である由。しかし、若し手術がいる場合、そちらではどうなさるのでしょう?どうかお大切に。この間のお手紙をよんで、面会のとき、それでは苦しくていらしたろうし、又却って歩いたり立っていたりなすった丈本当の意味ではマイナスになったのだったと残念でした。国男はやっときのう退院してかえりました。まだつとめには出ません。晒木綿(さらしもめん)の腹帯を巻いて居ります。
この前の私の手紙もう御覧になりましたろうか。もう上林へは戻らぬことお分りでしょうか。『中央公論』の一月に小説をかきます。だから、山の中にいたのでは駄目故ずっとこちらに居り、仕事がすんだら又一寸空気を吸いにゆくかもしれません。今頃ポツポツ私たちが上林や善光寺から書いたエハガキなど届き、私が上林へ又かえろうなどと云っている手紙がお手に入っているのでしょうね。可笑しいこと。
きのう鶴さんのところでお手紙拝見しました。稲ちゃんが、「あの着物を私達が入れたと思ってお礼を云われて、わるくってしようがない!」とくりかえし笑いながら云っていた。縫うことと小包にすることを私が留守なのでたのんだのでした。「でも、好意ということでは同じだからいいさ」と私も笑ったの。本(蘭学事始)は、たしかに二人からの御誕生の祝です。鶴さんは大変体が参って居ります。そしてこの人は科学的には治療出来ないの、私は心配して居ます。彼は生きなければなりません。その重要さがはたしてどの位わかっているかしら、よくそう思う。
この間島田へ上林からお送りしたのは松葉の茶です。今度は少し沢山、野原の方と両方へお送りいたしました。いつぞやお話のあった毛布ね。あれはことしのお歳暮にさし上げましょう。私も少しは稿料も入るし。「阿Q正伝」の作者魯迅が没しました。写真の顔は芸術家らしくなかなか立派なところがあります。支那のゴーリキイといわれた由。この頃、パアル・バックというアメリカ人の女作家(支那生れ)のひとの「母」「大地」など支那を描いた作品をよみました。芸術の現実によって中国のしんの姿をつかむことの困難さが其々に感じられます。
作家としての発展の段階は生涯のうちに幾つ自覚されるものであるか、それは人によって、又その人の稟質(ひんしつ)の豊富さによるのであろうが、私などはこの頃になって小説というものにつき、そのこしらえものと、そうでないものとの差別がはっきりして来たようです。小説家としての発育は、小説を書くことでなされるという特殊な面が、人物の完成ということと微妙に相関している。人物が出来ている、だから直ぐいい小説がかけるとだけは云えず。芸術上の実践ということについては、まことに興味津々たるものがあります。英樹さんの評論の原稿を、私は興味と責任とをもってよみます。小説家と理論家とのちがい、そして理論家の素質というものについて、そのむずかしさについて感じます。何と、人生さながらの小説が欲しいでしょう!科学者の随筆が小説よりも面白いと思われるという傾向が昨今あります。それは小林秀雄が、わけの分らぬ言葉の手品をしていたり、妙な下らぬ小説や賞がはやって、常識がそれにプロテストするからなのだが。
そのプロテストが又いろいろの事情によって三四年前とは全く異り、手がこんでいてひねくれていて、はっきり自明なことではイヤイヤをするというのだから、相当なものです。いろいろ勉強と努力と成長とがいります。
近日中に又面会に参ります。今夜はピヤチゴルスキーというセロの名手をききます。久しぶりで。パストゥル(科学者)の一生が映画化されて来て居ります。これも見たいと思う。お体のことは本当にあなたの御用心を願うことしかありません。

私の体のことをこの前の手紙に比較的くわしく申しましたから、きっともう安心していて下さることと存じます。
改めて、もう一度。ラッセルはもうすっかり消えました。過労のための一時的なことでした。心臓は特別の新しい徴候なし。過労するな、過労するなが信条ですが、過労せぬということは仕事をよく塩梅することなのだから着々とやるだけはやって居ります。
今は風邪でズコズコですが、これは大したものではありません。どうか御安心下さい。 
十一月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十一日水第十九信曇天
午後二時外苑で三万人の学生や青年団が音楽祭をやって君ガ代をうたっているラジオ。
きのうは、先月のときから見ると、やっとあなたらしいお顔つきでした。窓があいて、一寸のり出すようになさったとき、少しよくなっていらっしゃるのを感じました。それにしても、先月は苦しかったのですね。よっぽど立っているのが無理であったに違いない。どうか、これからは、きのうお話のように少し無理そうなときはわざわざ出て来ないで会えるようにして下さい。その方が私はずっとずっと安心なのだから。
けさ十一月二日づけのお手紙をありがとう。書く日がずっていることを知らず、二三日随分待って居りました。私の仕事のこと、又療養のこと。こまごまとありがとう。具体的にたのまれなければインスピレーションを実現しないとお笑いになったって?なかなか辛辣ね。ひどい!と思いながら思わず私もニヤリとしてしまいましたが。作品によって過去の作品を克服してゆくということは、全くです。私は、評伝風なものとしては夏からかかっているのをすっかり完成させたら、漱石その他にはすぐかからず、来年は主としてずっと長篇にかかります。作品そのもので、題材と主題との関係で今私がとりあげたく思っている諸点、芸術化されるべきであると思っている諸世相を書いてゆくつもりです。大変たのしみであるし、きっとあなたによろこんでいただけるものがかけそうです。丁度お産をする母が肉体的に出産を予感するようなもので、私の内部的カラクリは丁度もう作品をかくとき、或ゆとりと或客観力と経験の蓄積をもって来ている。この感じは、何と説明しましょう。実に何か内部的な一つの世界の前に扉があきかかっているのを見ているような、独得の感じです。へとへとにならず着実にやってゆきます。少し力をこめた作品をかく心持は本当に自分が生むもので又同時にうまれるもののような快い苦痛がある。只今は構成です。一月にはほんの六七十枚ですが、コンポジションは全篇の大体をこしらえておく必要があるので。
本を(医療の)そちらで買って下すったのは結構でした。お金がもうあんまりおありにならないでしょうね。でも来月までは辛棒(しんぼう)していただかねばなりません。島田の河村さんの御夫婦には一寸往来でアイサツしたきりでよく存じませんが、お父さんが朝のうち行っていらっしゃるなんて、何といい光景でしょう。そして、お父さんは東京から来た坐椅子だとか何だとか、たのしんで自慢したり、又心配したりしていらっしゃるのでしょうね。目に見えるようです。河村さんにも、この暮には何かお送りしましょう。
国男の体のことよろしくお礼を云ってくれとのことです。例によって筆不精ですからね。五日に退院し、まだ家にブラブラしている。国府津へでも行こうかなど云っている。盲腸は普通の三倍の大さがあった由。又、とったあとから生えるかもしれぬ由。そういう体質があるのですって。咲枝は疲れが出て、背中をいたがり、おふろのとき、私がサロメチールを背中じゅうにフーフーいってぬってやります。太郎はこの頃はダッチャン(父さん)、アアチャン、オバチャン、みんないるので大満悦です。かぜもひかず、くるくるして片言を云っている。汽車の絵をかかせるのですが、何故だか、チッチャポッポが大好きです。スエ子は盲腸がどうやらおさまり。鵠沼の方にさむしくないところを一部屋かりて、当分暮すでしょう。この家も一月末にはとりこわしがはじまりますから。私は十二月中旬に引越しの予定です。年の暮は、私たちの家でお客をよんでやります。私は私たちの家なしでは暮せぬ。来年はうんと能率的でしょう、それがたのしみ。
昨日御注文のアンダアシャツ早速はからいます。毛糸の寒中用のももひきジャケツは、今年御新調です。柔く軽いが、これまでのものより上等です。今栄さんが編んでいます。夜着はお気に入りましたか?割合心持よい色の工合でしょう。
この間は田村俊子さん、重治さん、間宮さんたちと、稲ちゃんのところで御馳走になり、愉快に一夜を過しました。池田さんは今苦しいの、わかれ話が起って、もつれていて。勉強はそれでもやっている。お体全体どうかお大切に。歯も。然し、もしかすると、一番わるい峠はお越しになったのではないでしょうか。来年には或安定が生じるのだろうという気がします。よい仕事が出来るようにおまじないをして下さい。では又。 
十一月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(朝井閑右衛門筆「丘の上」の絵はがき)〕
十一月十四日。毎日仕事の下拵えのために没頭して居ります。この頃健康改造のために注射をはじめ、すこしよいようです。今年の冬は、なるたけ火鉢を入れず、よく日に当りという方向で注意するつもりです。道具立てなかなか面白し(仕事の)いろいろの絵の展覧会がありますが、ひまがなくて。つい時間がおしくて。今竹内栖鳳やその他無カンサ組の文展招待展というのも別コにあって、殆どどれがどれやら素人に分らない位です。招待展評に曰く「文展の瘤展」「愚作堂に満つ」云々。この絵が大臣賞を貰っているのは大変面白いことです。これは普通の落選もある文展の方です。又散歩に出たらエハガキを買って来てお目にかけましょう。 
十一月二十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十二日第二十信。
そちらからのお手紙を待っていたことや、小野さんが急逝されたこと[自注19]やで、この手紙はいつも書く筈の時より大変におくれました。
その後、お体はいかがですか。ずっと順に恢復をつづけていらっしゃいますか。この間面会のときお話のあった毛糸の足袋下をお送りしたら、もうかえって来ました。領置には出来なかったのでしたろうか。十二月に入ってから又お送りして見ましょう。それからかけ蒲団のあつさはいかがです?やっぱり薄いとお感じでしょうか。夜着の上からでしたらあれでよいのではないかとも思うが。――
本は注文なすった分がありましたろうか。
鑑子さんの旦那さまは一昨二十日払暁没しました。足かけ三年の病臥の後です。二十日に重治さんから教えられて、咲枝、稲ちゃんと三人で出かけ(大森)夜十二時頃かえるつもりで行ったのですが、いかにもかえりかねてお通夜をしました。知義さん、須山さん[自注20]、大月さん[自注21]等肖像をかきました。二十五日に築地で劇団葬[自注22]にきまりました。小山内薫以来のことです。鑑子さんは実にこれ迄努力をして来て、これからもしっかりやってゆくでしょうが、私はこの二三年の間に両親をそれぞれ特別な事情の下で失って、感銘深いものがありますが、しかし、良人を失ったということは、その悲しみの性質において全く別のものであることを痛感しました。全く別のもの、全くその感覚においてちがうことである。死んで貰っては困る。実にそう思う。心と体とが、そう叫ぶようでした。暮している場所や事情やそれはどうでも、生きていること、そのことは絶対の価値をもっている。元より複雑ないろいろのことをふくめてのことですが。
もうじき父の一周年になります(一月三十日)。母の本はあのようにしてつくられたので、父の記念出版をしたいが、それには様々の困難があり、こまっていたら国民美術協会で大河内正敏氏や石井柏亭その他の人が一冊の『中條精一郎』という本を出して下さる由。私は大変うれしゅうございます。家族で出すよりずっとうれしい。それで一昨日、一昨々日は、「父の手帖」という文章を一寸かき、その前には又もう一つの別のをかき、更に十二月十日頃までにもう一つ二つ短い文章をかく予定です。スエ子も咲も国もそれぞれに書きます。御目にかけられるのが楽しみです。
スエ子は昨日から鵠沼へ住みました。小さい離れが小料理やの裏にあり、私がもと(四五年前)仕事部屋にしていたところ。半年ほど東京と半々に暮すそうです。太郎は相変らず。
私の仕事はプランが大きいので手間がかかりました。そろそろかきはじめます。自分で何だかこれまでとは違う心持が内部にしているのは興味があります。思いがけず助けてくれることが出来るひとがあって、第一部の下拵えはまことに好都合でした。体もお通夜できょうは背中が痛いが、大体は順調ですから御安心下さい。この二階から紅葉した楓の梢が見られます。上林辺はきっともう雪でしょう。きょう毛のシャツ、下シャツ等をお送りいたします。呉々もお大切に。十二月の十日頃にお目にかかります。かぜをお引きにならないように。では又ね。

[自注19]小野さんが急逝されたこと――音楽家関鑑子の良人、新協劇団演出家小野宮吉、数年来の腎臓結核によって死去した。
[自注20]須山さん――須山計一。
[自注21]大月さん――大月源二。
[自注22]劇団葬――新協劇団葬。 
十一月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十六日第二十一信
けさ、十一月十六日づけのお手紙が届きました。その前のは二日の日付けであるから、間の週にはよそへおかきになったわけでした。大体そのことは分っているのに、何だか毎週待つから可笑しい。あなたのお体のことは、勿論絶えず念頭にありますが、私は決してくよくよ案じては居りません。そのことは、呉々御安心下さい。自然の治癒力について私は自分の経験から或理解をもって居りますし、あなたという方をも亦更によく理解して居りますから。根本的には安心立命して居ります。それから私の体のことを、この間うちはとやかく御心配かけ、すみませんでした。目下好調子です。小説も、今回分は僅かでも大体の通ったプランを立てなければならず、そのために時間を多く費しましたが、やっとそれが終り、書きはじめました。「乳房」のときより進んだ心の状態にあります。大変すなおに、描く対象を浮彫りにしてゆけそうな心持です。或自然な、柔軟な突こみがされそうな感じで、大変、大変うれしい。満を持し、いそがず迫ってゆく、この感じ。今度の仕事の準備中ふと「戦争と平和」をよみかえしました。もと一度、或ところは二度三度よんでいるが、今度よんで見て、ずっと異った専門的技術上の発見があって、これもためになります。描く対象は元より全く違っても、小説というものを書く上では学ぶべき点あり。「夜明け前」で学ぶべきは、仰云るように、作者の根気、努力、であるが、こちらの作者のスケールと現実洞察の、彼なりの鋭さ、リアリティーは実に光彩陸離たるものがあります。若い時代が、その技術をくみとりつつ、内容に於て新たな世界を芸術化し得るというよろこび、我から我に与える鼓舞には一寸云いつくせぬものがあります。描こうとする世界への没頭というか献身というか。しかも最も冷静な見とおしと統制。芸術的感興というものがこのように全心的な燃焼を要求するからこそ、芸術家にとっては、いかに生きるかというところまでが問題になって来る。興味あることです。私は決して夜更けの仕事がすきではないから、この点も改めて御安心いただきます。きっと眼が丈夫でないからだろうが、私はひる間の書きものが一番好きであるし、そのように整理してやって居ます。ほんとに、時間は悠久であるが、ですね。でも、私のように欲ばると、いろいろへまをやって、どうやらこの頃は、時間というもののほとんど驚くべき性質=同じ三時間のつかいようで、生涯の仕事としての何かが加えられたり、全く空に消えたりすることの驚くべき性質を実感してつかむことが出来るようになりましたから、きっと追々あなたもマアよいとお思いになるようになるでしょう。でも、仕事の上での欲ばりというものはよいものです。欲ばってのことなら、たとえへまをやってもきっと、何か得て立ち直りますからね。ほんの一寸した経験でも。時間を充実させる術をしっかり身につけたら、もうその人は人生の達人と云うべきでしょう。私なんか、まだ、どっちかというと、平凡に忙しがっている平凡な欲ばりやの程度かもしれません。島田のこと。あなたのお考えになるその通りを私も考えて居ります。私は自分の両親に対して今日、ああしておけばよかったと思うようなことは一つもありません。島田のお二人に対しても私の希望していることはそのことですから。古典について評論家がなくて、辛うじての時評家が多いことについての感想。同感です。英樹さんに対して私が点がカライのはその所以(ゆえん)です。私の机の上には中学生じみた馬の首のついた文鎮と庭の山茶花の花とあり。来年一杯以上かかる長い旅に踏み出したような宏(ヒロ)子という若い女(作品の中の)に勇気とよきタイプを祝って下さい。では又。
〔欄外に〕○毛糸の足袋下はハイラないのでしょうか。去年はそっちではいていらしたのでしたが、いらないのではないのでしょう?
○毛糸のシャツ、白メリヤスの下シャツをお送りいたしました。
〔「戦争と平和」を読んだという項の上欄に〕○これは特別な勉強よみで、作品のコンストラクションの解剖を、ノートしつつよんでゆく方法です。
漱石でさえ、交響楽は書けなかった、交響楽を書きたいと思う。 
十二月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月五日午後第二十二信
あなたはベッドの上で手紙をおかきになる[自注23]とき、どんな恰好をしておかきになりますか。あまり工合がよくないものですね。今私はこの手紙を、二階の部屋のベッドに仰向きになって背中の方へクッションをつめて、板に紙をのっけてかいているのですが。そして、こんな形で手紙をかかなければならないことについて、小さくなっています。二日の夜、夕飯後、急におなかが苦しくなって、咲枝は経験者だもので、早速盲腸と診断し、お医者を呼び、冷やし、それでも盲腸としては大分軽い方です。この頃ずっと仕事に熱中しているから養生生活であったのに、何と可笑しいでしょう。一身同体という証拠ででもあるのでしょうか。手術はせず、内科的になおしますが、いろいろ面倒くさい。流動物ばかりです。私の位でも苦しいことは相当であったから、あなたはさぞお辛(つら)かったでしょう。歩くなどということは実に苦しい。どうかお大切に。私の方はいろいろ揃っているのですから。きょう板上執筆の試みとしてこれを書いて見ているのです。が、気を入れては少し無理かしらとも思う。何とかしてとにかく仕事だけはやります。どうか御安心下さい。全く今年は盲腸の当り年です。びっくりしてしまう。熱ははじめ八度出たきり。ずっと平熱です。
この間丸善で毛布の二枚つづきのをそれぞれ光井と島田とにお送りしておきました。達治さんも十一月三十日には除隊になったでしょうから、島田もさぞおよろこびでしょう。
あなたの冬用の厚ぼったいドテラが今縫いあがりました。フランネルじゅばんと入れます。どうかそのおつもりで、不用の袷(あわせ)類を下げてお置き下さい。
さむくなりましたが、今年は去年より概して暖いのではないかしら。きょうなどなかなかおだやかな日です。
盲腸など大変きらいです。少しひまなとき、そして健康状態のいいとき、切ってとってしまって置こうかと思います。こんなアナーキーな突発的な虫を体に入れておくことは何とも承知出来ない。いろいろ条件がわるく重なったとき、又きっとやるのだから。近日又ゆっくり常態で書きますが、今日は文字通り同病の誼(よしみ)による御機嫌伺いを申します。

[自注23]ベッドの上で手紙をおかきになる――病監には机がなく、ベッドの蒲団の上で手紙を書いていた。 
十二月十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月十二日第二十二信
十一月三十日づけのお手紙を十日の朝いただきました。このお手紙ではまだ私の盲腸のことを御存知ない。お体の方は順でしょうか。第一に、私は六日頃からベッドとデスクと四尺ばかりのところを動いて仕事をはじめ、十一日の朝終りました。あなたが手紙で、もう今頃は一区切りがついてよろこんでいるだろうと仰云ったのは一日だけ早かったわけでした。盲腸は軽くて今もうおかゆですが、冷やした結果、肝臓が痛み出して、只今では盲腸はケロリとしてむしろ肝ゾーが痛い。短い上下の間に、全然反対の療法のいるものがかち合って可笑しいことになりました。いよいよ、盲腸をとってしまう必要あり。これは来年の仕事です。
ともかく仕事がやれる程度であったことは大助りでした。仕事の結果は、何しろうんと長いものの登場ですから、ヨーロッパ旅行の途中神戸へついたようなものです。その部分としては満足です。じっと先の方を見てゆっくり歩いている、そんな風。そしてこの仕事では一晩も徹夜をしませんでした。これはどうかほめて下さい。今度の経験で、いわゆる病弱なものの時間上の得というようなことを感じ、苦笑ものです。私の希望しているような生活的な、表現の健康なシムフォニックなものがつくられそうです。発端にその可能があらわれていると信じます。
旧(ふる)い小説集というか、短編集、その他あります。入れて見ましょうか?あなたのおっしゃる前期的作品ですが。前期といえば「小祝の一家」も或意味で前期です。「乳房」は一つの過渡でした。「雑沓」に至るまでの。
全集目録は明日お送りいたします。「どてら」はおうけとりになったでしょう?中野さんが大島へ行ったとは知らなかった。只今鑑子さんから電報とお手紙のお礼が来ました。池田さん、あのお手紙の言葉を見たらきっとうれしいでしょう。
作家生活というものの複雑であり興味ある点は、或種の作家、そしてその作家が一定の到達点にあってそのレベル内で十分活動する社会の事情があると十年の間に漱石、芥川のように相当の仕事をするものですね。そのことはなかなか観察すべきです。彼等は、其々、自分の持っているものの中で働いて、生涯を終った。旧いもちものを脱ぎすてて新しいみのりへまで動く必然を感じず(漱石)感じてもそれを放棄の形で肯定した(芥川)。
作家が永い生涯の間で何度発展をとげるか、そしてその時にどの位作品をのこしてゆくか、これは大なる研究に値し、作家必死の事柄です。「四十年」の大作でクリムの性格は発展的に描かれていなかった。発展しない時期の作者はそれを描き得たが、一躍した後、それが書きつづけられなかった。これも深甚な興味があります。自分のこととして、今これから大長篇を書くことの出来るのをうれしく思います。それは必ず貫徹し得るから。まことに生活の結晶であるから。――
林町の生活について以前二十枚近く書いたことがありました。ではこの次の手紙(近々かきます)はその分だけにいたしましょう。
私へのおまじないをありがとう。むしがれいはそろそろたべられるけれど、チーズどうかしら。私は咲枝に「ホラ、こうかいてある御馳走をし……」と笑いました。今日島田へ達治さんのかえったお祝いをかきました。きょうは柔かく暖い日。何ともっともっと喋りたいでしょう。では又。お体をお大切に。呉々もお大切に。
附録一枚
国民美術協会から『中條精一郎』が出版されます。そのことは申しましたが。――
この十五日が締切りで、私は「父の手帖」「写真に添えて」「家族抄」など四十枚ばかり書き、寿江は「父」三十枚ばかり、咲「お祖父様」を少々、国男も何か書きます。来年一月三十日は一年祭です。その折までに出来るのだそうです。これは御覧になれるから大変楽しみです。咲きょうけんそんして「いらない原稿紙があったら下さい」だって。もちろん私はよろこんで、半ペラの新しいのを一綴進呈いたしました。 
十二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月十二日第二十三信
この手紙では林町の生活のことを主として書きましょう。
事務所は依然八重洲ビルにあり。名称も元のままですが、主体は曾禰氏が主です。ところがこの老博士は今年八十四五歳であり、君子であり品格をもった国宝的建築家でありますが、現実の社会事情からは些か霞(かすみ)の奥に在る。ために国男はじめ所員一同具体的な生活的な面で安心して居られず、という有様です。せちがらさを、この老大家は道徳的見地でだけ批判して居られるのですから。もっとも御自身の経済はせちがらさに動かされないからそうなるのでしょうけれども。
江井のことについて心配して居ましたが、向島の西村(母の実家)の土地が空であったので、そこへ四十室ばかりのアパートが落成し、江井はその管理人兼十何年か後の所有者として生活しはじめました。
車はプリムスをドイツ製オープンのアドラーに代え、国男自身運転して事務所にかよって居ります。
この古い家をこわして、小さい、単純な(設備はうんとよくしたい由)ものを建てるそうで、二月頃着手するでしょう。裏の土地が沢山あきます。小さい家を二つ建てるのだそうです。「姉さん、平ったく考えて、姉さんが住むのが一番いいと思うね」と云います。
私としては目下考慮中です。深甚に考慮して居る。おひささんというひとは、いろいろ自分の心持から、金の点から、私と一緒に暮すことはことわって居りますから。作家にとって実に大切である生活の日常的アトモスフォールの点から、考慮中なのです。こまかい便利は勿論便利にちがいないし、用心もよいにはよいが。――
続十二月十七日。
十五日に寿江子がお目にかかれて大変安心しました。無理をしないようと繰返しおっしゃった由。御心配をかけました。ずっと順調ですが、やっぱり、痛わらなければならないものを体の中にもっていることは、面倒だから、若し医者がよいと云ったら、この暮から正月にかけ、どうせガタガタしがちな時であるから、入院して、とってしまおうかとも考えて居ります。どうもそれが時間の一番の利用法らしい。但未定です。決定すればその前にお目にかかりに行ったとき、いろいろお話しいたしましょう。父の記念出版のための原稿を十五日の午後にすっかりわたしました。私はなかなか活動ですよ、「雑沓」七十枚、『婦公』「未開の花」七枚半、『ペン』に「時計」という随筆十枚昨日書いて、略(ほぼ)九十枚近い父のための原稿を整理して、四五十枚は執筆しています。
――○――
寿江子この頃鵠沼で、体も糖尿の方は大分よくなって居ります。だが、器楽を専門にはやれないので、音楽に関する文筆の仕事に向いつつあり。ドイツ語なども一人でいつの間にかはじめている。ところが音楽の方はおくれていて、まともな音楽史一冊出ていず、芸術史にしろ、今日の到達点において書かれたのはないから教育上閉口です。
音楽家は、素質的に少しでもましなひとは、主観的にそれに自負してしまう、そこで危険です。緑郎は今年既に作曲を三つやっているし、評論活動その他落付いて若いものらしくやっている。これは土台がいくらかあってのことだから、教育上の心配というものはないのです。本のよみ方も知っている。
太郎はこの頃、自分をアーボチャンと云い、いろいろの単語を喋り、なかなか可愛くよく発育しています。今度お目にかけます。大きいということが云えず、アッコオバチャンと云い、コの音の出しようをクの間のように喉音で出します。
今年のうちに青山の墓地の始末をして父の墓標も立てなければならないので、そのデザインが出来上りました。なかなかいいデザインです。早いものでもう間もなく一年です。
先日、島田からのお手紙で、達治さんがかえられて皆およろこびの御様子でした。光井からもお手紙いただきました。あちらにも上林の松葉茶をお送りしてあります。召上っているらしい。今年のうちに着く手紙としてはこれが終りかもしれませんね。私は体も大切によく勉強もしているから本年は本年として心のこりなく送ります。お体を重ね重ねお大切に。くりかえしそのことを願います。 
十二月二十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月二十日雨第二十四信
この手紙は来年になって御覧になるでしょうか。それとも今年かしら。きょう、十二日付のお手紙をいただきました。小包で厚いシャツ、袷せが届きました。きょうは日曜故、明日夜具のエリをお送りいたします。あの小包を見て、こちらからのシャツの入れようがおくれたことをさとりました。御免んなさい。
小野さんの没されたことについて計らず同様に感じたのは当然ではあるが、やはり何か心に微笑がわきます。生を貫徹するために死をも貫くのであるが、そういう実質において価値ある生命のねうちは実に高く、手前の勝手で粗略には出来ない。この頃、連続的な仕事をもっていて、盲腸などやったから、かえって体のもちかたについて真面目になりました。よかったようなものです。それにいろいろな雑誌の切抜きなどの整理(評論のための)新聞のせいり等、はっきりその必要とやりかたが分った折から、M子さんが小遣いも入用なので、一週定期的にセクレタリーをやってくれることになり、あなたからの本の御注文も古今未曾有のカード式整理方法によって整理されました。やっと御安心下さいと申せるようになりました。私も本当にホッとした。一人では全くまわりきれなかったのだから。M子さんは詩人的なテムペラメントでたのしみ愛しながらそういう仕事をもやってくれます。新しい生活の希望をもってやって居ります。
宏子の出発を祝って下すってありがとう。今度の小説では、社会の各層の縦断です。ゆっくり、根気よく、仕事に要される持続力の全幅を傾けてやりましょう。
M子のために買ってやったフランス語の第一課を見たら〔欧文約十八語抹消〕「忍耐は日常不断の勇気である」又〔欧文約十二語抹消〕「天才とは永き忍耐である」等、一寸洒落た文句があって、これはあなたも目をおとめになりそうであるから、お互のクリスマスプレゼントマガイにいたしましょうか。本年末は島田、光井の方へ毛布二枚つづきお送りしたのみならず、自身のために『ロンドン・タイムス』の文芸付録とアメリカの『THENATION』誌を一年予約しました。いいでしょう?英語、ドイツ語は寿江子、フランス語はM子と分担してヨチヨチやって貰って、自分は日本語専門でやります。ところが寿江子の英語もまだまだでね。努力だけは買ってやります。父の本のために三十枚ほど彼女もかきました。
私は何だか、あけましてお目出とうという気もせず、ただお互に来年は体をましにしてそれぞれのやりかたでの勉強をやりましょうという心持だけです。三六年は全く体というものについて新しい経験を重ねましたから。『新潮』は新年号に十五枚ぐらいの小説を十五人ぐらいにかかせているが、批評によると、短篇アンサンブルとしての効果なし。稲ちゃんも大変スタイルに留意して試みている。矢田津世子が書き、たい子がかいている。俊子さんの第三部は(第二世の小説)『改造』二月に出るでしょう。俊子さんにしろ彌生子さんにしろ、女の作家が年齢に比べて若いということ(作品において、主題において)、このことは、よしあしがあるが、一面には永久に求めざるを得ないものを女が正直に追求していることによって若いとも考えられ、なかなか興味があります。一昨日「含蓄ある歳月」という七枚ばかりの彌生子感想を『帝大新聞』にかきました。私は一月中に評伝を完結して、四月頃つづきを発表します。盲腸は切りません。きらぬ方がよい由。私、もしかしたら盲腸ぐらいもっていてアラームベルの役をさせた方がいいかもしれない、夜更しをするとジリジリ!たべすぎそうになるとジリジリ!仕事のときは、但シベルがなり出したら、あなたの目ざましのように足の方へ蹴込んでしまう?まさかね。
明後日ごろお目にかかりにゆきたいと思って居ります。『プーシュキン全集』はまだ出て居りません。文芸時評的なものを年内に二つかきます(『文芸』『文芸春秋』)。
本当にこの手紙は、去年(こぞ)とやいわん、今年とやいわん。 
 
一九三七年(昭和十二年)

 

一月八日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月八日第二十六信
晴れ。五十一度。緑郎のピアノの音頻り。
今年の正月は去年とくらべて大変寒さがゆるんで居りますね。そちらいかがですか。お体の工合はずっと順調ですか。畳の上で体が休まるということを伺って、きわめて具体的にいろいろ理解いたしました。何でも、世界を珍しい暖流が一廻りしたそうで、大変あったかい。それで却って健康にわるく、世界に一種の悪質の風邪が流行している由、称して、ヒットラー風。
私は、今年の正月は余り自動車にものれず、餅もたべられず、おとなしい正月をいたしました。盲腸の方も大体障害なく、きのう野上さん[自注1]のところへ行ったら薏苡仁(ヨクイニン)(何とよむのか忘れてしまった、田舎にも生える数珠子玉(ジュズコダマ)という草の支那産のものの由)という薬を教わって来ました。彌生子さんの盲腸もそれでなおした由。二月の『文芸』に横光の「厨房日記評」を二十枚ほどかき『文芸春秋』の文芸評を今準備中です。文芸懇話会賞の室生犀星は「雑沓」などは題材的に歯に合わず活字面を見ただけでうんざりの由です。横光、小林秀雄、犀星等、芸術上の高邁(こうまい)イストが、現実において一九三七年度には急速に自分達のポーズと反対のものに落下しつつあるところ。日本文学の上に一つの新しい歴史の生れたことを、感じ、興味津々です。一月中旬に白揚社から本が出るのだが、まだ題名がきまらず。何かいいのはないかと考え中です。生活的でうるおいがあって、音楽的色彩的であるようなの。
いつぞやから、私の家について云っていたのを覚えていらっしゃるかしら。あなたが皆とかたまりすぎて夜更しばかりしないようにと注意して下すったし、そのことをも考え、一緒に住む人のことをも考え、なかなか決定いたしませんでしたが、この正月三日に、目白のもとの家[自注2](上り屋敷の家です。覚えていらっしゃるでしょう?)のそばで、小さい、だがしっかりした家を見つけ、そこを借り、Xと一緒に暮すことにいたしました。家賃三十四円也。上が六畳で下が六・四半・三・玄・湯殿というの。部屋が一つ不足です。だが家賃との相談故これで我まんします。一つ一つの部屋が廊下で区切られていて南向きです。二階は一日陽がさし、どちらかというと直射的だから勉強するために刺戟がありすぎます。陽よけの工夫がいるほどです。五尺四方というフロ場!用心はよさそうで、省線に近いが静かです。Xか、Dさんから手紙が届きました?XとDさんとは結婚することになりましたが、Dさんの家庭の事情、経済事情がまだXと同棲するに至っていないので、Xは当分私と暮します。Xは詩を書いてゆくのですが、家から一銭も来なくなってしまった。十二月には私が下宿代を出しましたが、毎月そのようには行かないから一つは家を持つことを急いだのです。この二人は、勿論多幸ならんことを切望いたしますが、今のところX自身、愛情と一緒に一種の不調和を感じて居るらしい。このような直観的なものはゆだん出来ませんからね。Dさんは確かに人の注意をひくに足りる人ですが、あらゆる過去の経験で人に愛され、便利で信頼し得る友人をもち、いつも出来る人物と見なされ、自身それを知って、家の中では唯一人の男の子として生活して来た人にありがちな一つの特長をもっている。素直な人でしょうが、そういうものは強くある。よい意味でも、まだペダンティシズムをもっている。Xにはスーさんとは違うが、似た気質あり。すっかり納得ゆかないうちに一方では衝動的に行動する。人と人とのことはむずかしいものね。私はXと暮す以上は大いにXをふっくりしたものにしてやりたいと思って居ります。でも、私とXとは持っている感情の曲線が何という違いでしょう。Xは細いマッチの棒ぐらいのものをつぎつぎにもっている、そして詩も三四行のをかくの。こういう芸術の有機的つながりは実に微妙です。
健康のためにも、仕事のためにも生活を統一する便利が殖(ふ)えるから、家をもったら能率的且つ書生的に暮します。楽しみであり、一寸うるさいナと思うのはXのこと。でも決してわるいというのではないのです。
一昨日の晩であったかKさんが始めて家へ来てしみじみ話して行った。人間が孤立的になる場合、その原因は人間としてのプラスの面からだけでは決してない。私はそのことを率直に話しました。そのように話したのは恐らく知りあってからはじめてです。稲ちゃん達はなかなか悪戦的日常(経済的に)ですがよくやって居り、静岡から妹夫婦が東京へ転任になって来ました。私の引越しは十二日頃です。番地がまだ不明。おしらせします。引越したらお目にかかりに行きます。お体を呉々もお大事に。変な気候をうまく調節してお暮し下さい。

[自注1]野上さん――野上彌生子。
[自注2]目白のもとの家――一九三一年初夏から三二年一月下旬まで百合子が生活した家。 
一月十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕
一月十六日午後四時今柱時計が四つ打つ。
今年になって二つめのこの手紙を、私が何処で書いているとお思いになりますか。きっと、前の手紙を見ていらっしゃるだろうけれども、これは私たちの新しい家の二階の六畳のテーブルの前。やかましくない程度に省線の音をききながら、そして、この紙の横にあなたからいただいた二通の手紙、十二月二十六日のと一月六日のとを重ねておき、くりかえしくりかえしよみながら。丁度くたびれているひとが煙草を腹の中まで吸ってつかれをやすめ心愉(こころたの)しくしているような工合に。――十三日にこっちへ引越し、Xさんが家の仕事に馴れないし、いろいろ揃える仕事、本を片づける仕事その他できのうまでゴタゴタ。やっとさっき風呂に入り、さっぱりと髪を洗い、十三日の朝引越しさわぎの間で遑(あわただ)しく立ちよみして来た二つの手紙をよみなおし、この家ではじめて書くものとしてこの手紙を書いているわけです。十三日は、十一日までアンドレ・ジイドについての感想的評論をかいていてつかれ、(ジイドがURSSへ旅行したその旅行記に対して『プラウダ』や『文学新聞』が批判している。だが作家の内的矛盾の過程はその内部へ入って作家の独特な足つきに従って追求してゆかなければ、文学愛好者には納得ゆかぬのですから)十三日の引越しはどうかと、あぶながっていたところ、スエ子がなかなかのプロムプタア役で到遂引越しはスみました。十三日の晩は良ちゃん、てっちゃん、池田さん、詩の金さん、戸台さん[自注3]、栄さん、手つだいやら様子見やらに来て、十一人位で夕飯をたべました。
上落合の家にいたときは、大体独りっきりで、栄さんが近所に住んでいたから暮せたようなものの、ひどかった。その点今度はいいでしょう。但物価は最近五割近く高騰したものもあり、その方は閉口です。民間のサラリーマンの月給も上げてほしいという声たかく、偉い人々例えば(陸相)など民間も協力せよと云っていて下さるが、文筆家の稿料はどなたも上げよと仰云らぬ。いろいろ活きた浮世は面白の眺望です。お鍋を一つ買ったら、その商人曰く、これだけは昨日のねだんでお売り申上げますと。
ところで、この二つのお手紙は、いろいろの意味で私には大変うれしゅうございました。いつもながらありがとう。記念の心を送ってやりたいと思っていて下さるということ。どうかよく考えて、素敵な言葉でも下さい。そう書かれていることが既に私にとっては、香馥郁(ふくいく)たる悦びの花束なのだけれど。こういうおくりものに対しては私は寡慾ではいられないわ。手紙を毎週待ったことは、私の申上げたことは覚えていたのです。もしか毎週書いていて下さるのに届かず、しかもそうと知らずにいるのなどつまらないから、それで一週間おきにと云ったのでした。しかし、ほしいという面から云えば毎日をもいとわず。今年は、お気の向くとおりに下さい。自分だけの心持を押し立てて云えば、あなたの手紙を血の中にまで吸収するのは誰よりもここにいる一人だと思っているのだから、云わば一行だって、ほかにこぼすのはいやな位、その位の貪婪(どんらん)さがあるのだが、そこは市民の礼譲で、どうぞほかへも、と云っている次第なのです。この正月は『文芸』へ横光の「厨房日記」の評を二十三枚、ジイドのを二十四枚かき。どれも最近の文集に入ります。きのうの晩も題を考え、なかなかうまいのがなくこまります。「昼夜」というのにしてスエ子の装幀にしようと思うのです。活きて動いた絵をかいて。これはもう原稿をわたす必要あり。木星社の本は二十五日です。私はその後書きを、心を傾けたおくりものとして一月の二十三日に書きます。よいものを書きます。そして、間に合えば、私の本やもう一つの本の印[自注4]は、あなたの書いて下さった私の名をそのまま印にしたのをつかいたいと思って居ります。これは大変好いでしょう?思いつき以上でしょう。ねえ。この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。本のことAさんにつたえましょう。やっぱり林町からこっちにうつってよかったと思います。時間を十分活用出来るという点からだけでも。あっちでは、今太郎が風邪、母さんも風邪。丁度私が引越した日から臥(ね)て居ます。食堂でストウブをあったかくして、廊下や何かはさむい。そういうのが非衛生なのでしょう。
きょう思いがけなく山崎の伯父さん(島田の母上のお兄さん)が見えました。この八月頃から東京暮しで高橋というひとのボロの会社(ほんもののボロです)につとめて居られる由。娘さんの一人が阪神につとめていたのが小林一三に見出されて今は映画女優の由。そのお姉さん(虹ヶ浜へ行ったひと)が岩本さんの奥さんの由。いろいろお話を伺いました。山崎さんは下の娘さんと松原(小田急の沿線)に住居です。この頃、私の最近の学習語は本が入らず役に立てたいにも立てられません。又ごく近々ゆっくり書きます。この二つのお手紙に対してのこった返事を。私の鉢のは南天の葉よ、紅葉ではないの。お正月の南天。ではどうぞお大事に。
〔欄外に〕
○父がああいう生活力の豊富さからかもし出していた家風というようなものは、父なしには保ちません。その点大変微妙である。私がその継承者で発展者であるわけですが、日本の家というものは主人が主人ですから。私も小さい家で、私たちの家のここでの主人とならねばならぬ訳。

[自注3]戸台さん――戸台俊一。戸台俊一は日本プロレタリア文化連盟の出版部・書記局などに活動して、一九三二年の春からのち、三三年、三四年と日本プロレタリア文化連盟「コップ」が解散するまで実にしつこい弾圧と検挙を集中的にうけた。三三年ごろは、二ヵ月も三ヵ月も留置場生活をしたあげくに、やっと釈放されて五日目に往来を歩いていたら警視庁の特高が「なんだ、君は外にいたのか」とそのままつれて行ってぶちこまれたというようなことさえあった。未決生活も経験している。「コップ」の最後の時期のもっとも忠実な同志である。
[自注4]本の印――顕治の手紙にあるあて名の百合子という字をそのまま木版にして検印用の印をつくった。 
一月十八日(消印)〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕
此度左記へ転居致しましたから御通知申上げます。
一九三七年一月
東京市豊島区目白三丁目三五七〇
中條百合子 
一月二十八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十八日。第二十八信。薄晴れ。火鉢のない正午四十二度。
一月の二十三日に是非お目にかかりたいと思っていたところ、その日は土曜日で時間が間に合わず残念をいたしました。二十五日のときは、大変いろいろもっと伺いたいことがあったのに、話している心持が中断されたままであったので、今日でもまだ何だか、いつものこれ迄のようにいい心持でない。きっと貴方の方もそうでいらっしゃるでしょう。とにかくお風呂に入れるようにおなりになったことはうれしい。さぞ久しぶりのときはいい心持だったでしょう。湯上りに、水でかたくしぼった手拭(てぬぐい)で、きつく体を拭くこと。風邪よけに。
ところで。私の本年に入ってからの手紙は一月八日に林町から第二十六信を出し、十五日頃この家に引越した印刷のハガキをさしあげ、十六日には、あなたの一月六日のお手紙と十二月二十六日のお手紙に答える手紙を目白の家から出して居ります。そのうち、どの分が届いているのでしょう。八日のは御覧になったでしょう?十六日のは?この手紙がつく頃はもちろんおよみになっていると思います。
◎差入れのこと。忙しくて手がまわりかねていることはありません。申したように、その手紙をかいた時、何かいそいで書くものとかち合っていそがしい気がしたのできっとそう書いたのでしょう。どうか御心配はなさらないで。それに、私は貴方への手紙をそのときのいろんな心持を率直に書いているから、そんなこともかいたのでしょう。貴方は、又こんなことを云っていると、笑っていらっしゃればいいのよ。
◎夜具の白いキャラコ衿(えり)は寿江が伺って来たので、歳末にタオル二本と一緒に中川から入れさせるようにしておいたのでしたが、まだ届かなかった由。とりまぎれたのでしょう。調べて居ります。
◎本は、『リカアド』などと一緒に御注文のは、私が上林へいたときあっちへ下すった手紙の分です。小説に気をとられて、失礼。早速お送りします。戸台さんにきのうたのみ、四、五日で来ましょう。
そろそろ本をおよみになるのだから、この次のたよりには、すっかり本の整理をして、お送りしましょう、書いてよこして下すった分、入れた分と、私はどっちかというと事務的にゆかず、すみませんが、然し、私がそちらに必要なものについて抱いている気持など、云うまでもないことなのだし、よろこびをもってしていることも云えば滑稽(こっけい)な位のことなのだし、マア折々御辛抱下さい。ああ、私は、ユリは間抜けだね、と云われることも時と場合では本当に大歓迎なのだから。非常に快適な雨の粒のようなのだから。
◎玉子のこと、サンドウィッチのこと、申しておきました。すみません、すみませんと云っていました。
それから、一番もっと伺いたくて中途半端になっていたXのこと。貴方のお手紙で、きっといろいろ私によく分るだろうと楽しみにして居りますが、お話しの要点は、私にも分りました。Xの生活を助けてやるのはよいが、一つ家にいて、そこへDさんが良人としての資格で来ることについてあなたのお感じになる心持。
簡単にいきさつを辿ると、XとDさんとの間にそういう感情のいきさつのあったことも、まして、結婚の意志があることも、私には全く告げられず、只歳末に近づいて、Xへの送金が農村の大不況のため途絶した、困った、どうしたらいいでしょうと云うことでした。一方、林町の家は改築する[自注5]のでいずれ私はどこかへ移る必要がある、では、私と一緒に暮して見るか?それに越したことはない。そういう話で、その話がきまっても、まだ彼女は私に自身の事情については黙って居りました。殆んど家がきまってからRさんが稲ちゃんに困ったと云って話し、稲ちゃんがXに、私に話すべきであると教え、Xはやっと話した。それで私はその時少し腹を立てたのでした、当然。
ところが、Dさんの方は、家庭がああいう事情でおっかさん達はこのことをよろこんでいない。CちゃんがよくなってRさんと暮せるまで、Xは一緒に暮せない。皆弱くて、働けないのだから。
DさんとXの心持については、私達周囲のものの腹の底は、あまり周囲から刺戟せず、時の自然な力で発展するものならさせ、さもないものならそれもよしという気持です。そういう印象を与えるのです、二人という人々が。性格や何かの点。
Dさんは頻繁(ひんぱん)にここへ来ることはない。普通の友人として一週一度ぐらい来て、かえった、少くともこれまでは。Zさんの心持を、この間、それとは別に一寸訊いたのですが、あのひとはXに対して、別にどう思っていず、適当な結婚をしたらよいと思う、又対手のひとが、自分とのことに拘泥したりする必要のない程自分たちの結合は時間的に短かかったし、内容がない、という事です。
こういうことは私とすれば何だか変なところがある。そんなものであるのか、あってよいのだろうか。そういう気がする。だが、あのひとはそれでよいらしい。私が改めてそういうことについてキッチリしようとするのが寧(むし)ろ分らなかった。二十五日に、貴方のおっしゃったのは深い友情の言葉でした。
私としては、彼(あ)のひとが、貴方の友情のねうちを深くかみしめることが出来るか出来ないかが問題でなく、対手はどうであろうと、貴方のお気持を私たちの家庭生活の裡では貫徹しなければいやです。
あなたが快くなく思いになるような風に私たちの家があってはならないし、又そんな家のある意味もない。私の心持お分りになるでしょう。
今丁度別に手つだいをさがしかけていたところであったから、それが見つかったら、Xは別に住むように考えましょう。何か少しでも収入のある仕事を見つけて。そして、別に一つ部屋をもたそう。ちょいちょいしたことで手伝って貰うとしても。それから、私たちのところにいるうちは、Dさんは従前どおり普通の友人として来て、かえって貰いましょう。そういうやりかたはどうかしら。二十五日に、私はどちらかと云うと、何だか苦しい心持で帰ったの。途々(みちみち)いろいろ考えて。こんなに、貴方の心持を重く見て、自分の心持の中に入れて暮して居るのに、そういうことで貴方を不快にさせたのは実に実に残念であるから。そして、貴方が、自分の家が、変にもつれの間に入っているようにお思いになったらさぞいやだろうと。そういうことを考える必要の起ったのは何しろ、五年の間に初めてでしたからね。参ってしまった。
私が自分たちの家をもつのは、林町の生活に対して図式的に考えているからではなく、実際の必要です。一つの家に、二人の主人が居ては主婦が困るのだから。Xのことは別としても、私たちの家はここに持ちつづけます。私は、貴方の心持を考えたら、あの夜でもXに部屋借りさせようかと思ったが、それも激しすぎるから、と、新しいプランを話しただけにしておきました。けれども、貴方のお心持によっては、すぐそのように計らってもようございます。私が生活費をもってやる覚悟なら今すぐにでも出来ることなのだから。どうか御返事を下さい。私の生活なんか、そこで貴方がいやだと思っていらっしゃると思うと全く光彩を失ってしまうのだから。
子供らしい人々は、貴方に対して書く手紙のなかで甘えているのね。そして、あなたへの親密さの一層の表現として、私がどうしたというようなことを誇張的に表現するのね。そう書くことで、あなたへの親愛を更に内容づけるように感じて。大人の年をして、子供っぽい感情のふるまいをすることは、はたの迷惑ですね。ともかく、この手紙は話さねばならない事柄の性質上、大して愉快でないのはくちおしいことです。でも、大体のこと分っていただけるでしょうか。この手紙の任務は其なのですが。只今ネルのお腰を速達で出します。呉々もお大切に、寒中だから。

[自注5]林町の家は改築する――林町の家の改築は実現しなかった。 
一月三十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月三十一日。第二十九信
二十八日に第二十八信を書き、引つづきこれをかきます。先便の主な内容であったことが変って来たので。XとDさんとのことは、初めから、私共はたで何だか合点ゆかぬものあり、又、あっちの家庭関係では、どうしても折合ず、困難であったが、Dさんが昨日Xに自分が軽率であったこと、阿母さんのXがどうしても嫌な心持は彼にも反映すること、一緒に生活しようとする計画は絶望であること、XはXとしての生活を立てるようにとなど話した由。
Dさんの家庭とXは久しい以前から知っていて、その私の知らなかった時代にXは、善意からであろうが、智恵ちゃんや阿母さんとして忘られぬ深刻な打撃を与えていて(療病に関し)迚(とて)も妥協の見込みないわけなのだそうです。
僅か一二ヵ月の間に自分達のみならず周囲にも浅からぬ波を立て。軽率であったという言葉以上のようなものです。
私の心持では、斯様のこと、分るようで分りかねるところがある。どんな気持で人生を見て、自分の一生を見ているのか。生活をよくして行こうとする意志とか努力とか知っていて、云っている人でも、何だか釘のない組立てもののような工合で。実に変な気がします。私としては其那ことで貴方のところへまで或心持を波及させられ、腹立たしい気がします。
然し、おかしいことには、私のそういう腹立たしさの深さなどは又一向通じて居らぬのだから。親切な心をもっている人間をも、その親切に限界をつくらせ、親身にさせる度合いをうすくする人というものがある。
とにかく、そういう工合で、彼の人達の交渉の内容はすっかり変った次第です。従って貴方が不快にお思いになる点は自然消滅してしまった。勿論、このこと全体が、浅はかな、衝動的な、愉快ではないことですが。
Xが、何かちゃんとした職業をもつようにすることは同じです。人間として拵え上げる上にももっと人間を知り、その中にいるのが必要です。
親がないとか、体がよわいとか、そういうことを特殊な条件として、時代的関係もあって、不運から却って依存的に生きて来たという人間は、女になど多いのですね。Xはもっと一人前の女、人間になる必要がある。今度のことについては五分五分ですが。
もう私たちの間に、こういうことについてこういう種類の手紙を書くことは終りです。
――○――
二月の『文芸』や『文芸春秋』に書いた評論「迷いの末は」(横光の「厨房日記」の評)「ジイドとプラウダの批評」等、私として云うべきことを納得ゆくように云うことが出来て近来での成功でした。随筆集の題は「昼夜随筆」です。
竹村から別に小説集が出て、これは「乳房」を表題にします。「昼夜随筆」の方は寿江子が表紙を描きました。雨の日、女が子供をおぶって傘をさし乍らもう一本手に黒い毛襦子のコウモリをもって待っているところ。スケッチです。「乳房」の方は竹村の主人が装幀して名の字をかくだけです。
文学の領域にもこの頃は人情ごのみでね。横光氏曰ク「義理人情の前に無になる覚悟が必要云々」と。こういう作家は「人情としては実に忍び難いが云々」と云って人情を轢殺(れきさつ)して過ぎる人生の現実に芸術のインスピレーションを感ぜぬものと見える。小林秀雄、保田与重郎、等の日本ロマンチストたち。私はこの次からもっと心持のよい、いいもの私たちの便りらしい手紙を書くことが出来るのを非常に楽しみにして居ります。今のこのXらのやりかた、人間のそういう面について腹の立っている心持も直って。では又。風が出て来ました。 
二月六日朝〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月五日立春の後といってもびっくりするような暖かさ。夜。
けさ、まだ本当は、はっきり起きたわけでもなく二階から下りて来たらXが
「お手紙が来て居ますよ」と云うので、茶の間に行ったら、ウラウラと朝日のさし込むテーブルの上にお盆があって、その上に手紙がちゃんとのせてあった。「うれしい」と云って、あけて、よんで、一つアアと安心して、顔を洗おうとして台所へ行ったけれど、眼がしぱつくので、ホーサンどこ?と大声を出したら、「そこの棚にあります」見るとアルのでそれを洗眼コップに入れて目を洗ったら、ピリッとする。ああ、こんなに充血していたのかともう片方洗ったら、何だかピリッとする工合が変なので目からはなした途端プーンとアルコールが匂った。「アラ!Xさーんアルコールで目を洗っちゃった」それから、ホーサンで洗い、水で洗い、まっかな目を鏡にうつして眺めていたら、Xがわきから「聞いたことないねェ」というので大笑いしてしまった。誰だって聞いたことなんかあるでしょうか!アルコールで目を洗ったなんて。
でも、気が抜けていて笑い話にすんだから御笑い下さい。(一封の手紙ユリをして動顛(どうてん)せしむることかくのごとし)きのう手紙を書いて一月六日づけの手紙を眺めて、いつ次のが来るのかしらと思ってそのことを書いた、それをやめて、これに改めました。家の生活のやりかたについて二重に考えて下すって、本当にありがとう。
私の手紙ですこし様子はお分りになったでしょう。自分でいやに腹を立てているところがあったので、あなたもいやと仰云った点、全身的に感じたのでした。でも、又次の手紙に書いた通りだし、今夜栄さんの話で、或はXに職業が見つかるし、そしたら私はずっとよくなるでしょう。生活の感情の微妙さ。目前の便利でまぎらすことの出来ない人間間の心持というものは何と活々と力のつよいものでしょう。それが逆に作用した場合には、目前の障害を踰(こ)ゆる人間感情の結合と隔全とがなり立つのであるから、面白い。
私は一つ家に住むものがどんな対人関係をもっても、どんな生き方をしてもよいという風には思えず、蕊(ずい)まで見えるし触れてゆくので、Xなど今まで心づきもせず、思いもしなかった自分を発見している有様です。
ともかく、私はただしょげもしないし、御安心下さい。おくりものの第一、ありがとう。私は私で、あなたがどんなに僅かでもいい心持で本をお買いになるだろうと随分楽しみにしていたのでした。では頂きます。そして極めて高雅な図案でイニシアルを組合わせ、あの文句を刻(ほ)らせましょう。私は万年筆は余りつかわず特に仕事には。だからよく考えて或はペン軸にするかもしれません。よく考えましょう。毎日つかいたい。気を入れて書くものを其で書きたい。ね、そうでしょう?
私達の生涯を托するところのペンなのだから。只順に行っても其は三月の五日以後になります。或は全然、そういう都合にはゆかなくなるかもしれない。然し、もしそうであるなら、そうで、又私は、それをよいおくりものとして、記憶し得るわけです。そういうことが今日実現し得ないということで語られている作物の価値の意味に於て。
『リカアド』、繁治さん宛のお手紙も見せて貰いました。きょう小泉信三の正統派三人の研究を先に入れ、近日中に『リカアド』が見つかるでしょう。繁さんのところにもないのですから。戸台さんにたのんで居ります。プーシュキンもきょう入れ。
夜具衿とタオル二本。暮に中川へやってあった、訊いたら、「あちらで廃業になって居りませんから」とケロリとしている。別の方法をとりますから少しお待ち下さい。食慾がお出になったのは何よりです。私の方も、いろいろ家の落付く前のゴタゴタで気がつかれているが御安心下さい。然し、真面目に私は、生活の形態というものについて考えます。もっと下らぬ労力をはぶいた、しかも「お姉様」的でない生活はないものかと。あなたは御自分の家として、どのような形をお考えですか。どういうのがいいとお思いになる?私は勉強、休養、を主眼にした極めて便利な家に、一人でやってゆけるような形で住むのがどうも一等らしく思えます。日本の家では、出かける前に雨戸をしめる、そのことだけでも大変です。一つ大きな勉強部屋、あと、八畳(客間、食堂)に四畳半位、台所(ごく能率的にする)湯殿。そして入口のドア一つピシとしめれば全部よろしいという工合なの。そして、手伝いの人に時間制で来て貰うというようなの。何か一つ大いに考える必要があります。この頃私は前よりも一層勉強が主の生活の心持なのだもの。日本建の家は家を守るための人手を余り要求しすぎます。生活も、その時代のいろいろの必要からかわるものですね。
きょう、咲枝が太郎を初めてこの家につれて来ました。この間大雪の折、『婦人公論』から写真をとりに来て、私は太郎と雪の中に傘をさして立ってとって貰いました。そして、けさついたお手紙の私への宛名を切って、そのとおりの字を写真にとって印にこしらえます。これは国男夫婦が印屋へやって私の誕生日のお祝いにくれます。たのしみです。それで検印するの。
山崎の伯父様のいかめし型は適評です。柔道の先生のことは勿論よく承知して居ります。いろいろ考えちがいをすることはありませんです。きのう、こちらの家へはじめての本の小包着。きょうもう一つ(衣類の方)着。
早く散歩に出られるようにおなりになるといい。久しいことですものね、もう。本当に日当でポカポカさせてあげたい。今年は一月の二十七日が満月でした。ここからも月がよく見えます。窓から私を訪ねて来ました。一月八日と十六日に書いた分が届いたのでしたね。これは第五信です。ではお大事に 
二月八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(男の人がスキーをしている写真の絵はがき)〕
二月八日。きのうの夜小雨の中を神田へ本を買いに行ったらこのエハガキが目についたのでお送りいたします。栄さんがきょう上林へのこした荷物をとりに行きました。
これは何処の景色か分らない。中野夫妻はスキーに那須へ行ったそうです。ハイカラーね。上林の上の方もきっとこんな眺めでしょう。あの辺はもっと起伏が多いが。もう一枚同時にかきます。 
二月八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(男の人がスキーをしている写真の絵はがき)〕
このエハガキを見ると、日光にキラキラ光る雪の匂いと頬ぺたに来る爽(さわ)やかな冷気が感じられるようですね。私は風より雨がすき。雨より雪がすき。雨が降ったりすると傘をさして出かけたくなります。スキーをして見たい、もし私の丸い短い体ののっかれるのがあるならば。但これは夢物語。モンペをはいて、赤い毛糸のエリ巻をして。スースーと、誰のところへ。 
二月十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(中西利雄筆「優駿出場」の絵はがき)〕
二月十日。これは古いエハガキ。今からもう足かけ三年前の帝展に出ていた水彩です。その時の招待日に父と見に行って、父がこの絵は動いている一寸いい。と立ちどまった絵。この刷(すり)は色がよくないが、陳列されていた薄暗い隅では騎手の体の線まで活々と見えて私も一寸面白く思いました。偶然手に入ったからお目にかけます。あなたのところでは、夕方エハガキの色など特別鮮(あざやか)に見えるでしょう? 
二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日午後一時ごろ。
南のガラス戸をすっかりあけていると、ベッドの上まで一杯の日光。ものを書くには落付かぬ位です。(私は、春の日光には耐えられないから、眼の弱い故(せい)。床の間をつぶして北に窓をあけようかと思って居ります。)あなたのところにも、体のどこかにこういう日光が当っているのかしら。畳の上だけかしら。日当りのあるところにお移れになったというのは何とうれしいでしょう。何だか私もほっとして楽な気持です。幸福な心持が微かにする位です。
十五日には、ゆっくりお目にかかれてよかった。実によかった。話す言葉や何かのほかに、いろいろうれしかった。何しろ私ははりつめた心でいたのですもの。
お話で、私の生活の雰囲気について一層何かお感じになった理由も察せられました。フランス語の件。私はものを書くのが仕事で、責任をもって書く習慣をもっていても、あなたへものを書くときには、くつろいでいるのかしら。例えば、私が林町のうちでフランス語の稽古などはじめているのではなくて、Xがよそで稽古をDさんにして貰っていて、私はその教科書を買ってやり、その本がテーブルの上にあったもんで、あんな格言なども引き出したということが、はっきりあなたにはのみこめないようにしか、書かなかったのかしら。可笑しいような、腹の立つような気がしました。そして、実は、貴方の方に読みちがえというようなことは絶対にないもののように、ひた向きに考えこんでいる自分も一寸おかしかった。だって貴方だって――南天を御存知ないみたいなところがあるんだもの。
林町の家の建直し(建築)は目下材料高騰で一寸見合わせですが数ヵ月うちには着手されます。正月早く、あなたには突然のように私が引越したのは、Nが正月頃傾向がわるく家をあけ(飲んで)そういうときは私が煙ったく、煙ったいと猶グレるので、Kのやりかたがむずかしいこともありありと分って一層早くうつったのでした。この目白の家が割合よかったこともあって。ここは、先の家の一つ先の横丁を右に入った右の角のところで、小さい家です。でも、夕刻晴天だと富士が見えます。交通費がやすくすむので何より助かります。バスで裁判所や市ヶ谷へゆけるの。
木星社の印税は第一回分は三月五日によこすことになって居ります。それで、ではやっぱり万年筆を買いましょう。あなたの顔を見たらそれを買おうと仰云る思いつきの心持がよく分りました。そして、ダイヤモンド社でやらせましょう。装幀は小堀鞆音の息子で、ツルゲーネフ全集をやった人。古九谷のような赭地(あかじ)に緑のこんな形の飾、[図1、縦書き手書きで「文芸評論集」。その周りに2重に雲形の線]その中に文学評論集と墨でかいて右肩に著者の名。刷ることは千部刷りました。
もう一つのおくりものフリードリッヒ『二巻選集』[自注6]も私は少し得意です。もうとうに買って大切にしてもっているのだから。古典に対する私の理解力については御懸念は決して決していりません。私はここで又ここらしい激しい波浪の間に在るのです。船は小さいと云っても、近代科学の設備を怠っては居りません。私は小さい造作がいかに科学的かということが、今日の価値であると信じているのですから。
ジイドは、その作家的矛盾を自分から合理化すべきではなくて、ジイドが真に誠実であらんと欲するなら自分の観念的な誠実ぶりのポーズをきびしく自己批判すべきであり、その点で与えられる批判を摂取すべきであることを書いたのです。無電で小松清とジイドが喋ったとき批判はあっても愛する心にかわりはないと云った由。まだこの作家には本当のところが会得されていない。人間は自己満足や陶酔やのために自分の愛を云々するのではない、新しい、より高い価値を現実のうちに齎(もたら)すことこそ愛の実証だのに。
ところで、この印(いん)はお気に入るでしょう。
一月二十六日のお手紙で、あなたが万年筆のおくりものについて書いて下すったその手紙の宛名の字です。検印用です。残念なことに竹村書房から出る小説集には間に合いませんでしたが「昼夜随筆」の方には間に合うでしょう。木星社のにも二日違いで間に合いませんでした。私は大変うまく字が出ていてうれしい。ツゲの木です。数を多く捺(お)すのには一番よい由。
百合子
第三のおくりもの。名のこと[自注7]。私は昨夜もいろいろ考えたけれど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか?果して。もしそうだとすれば、何故私はこうして考え、よくよく考えずには返事出来ないものが内的の必然としてあるのでしょう。それに、お話を伺ったとき、私はこのことと私の生活の土台云々のことが、ああいう下らぬ混雑につれて結びついて出ている、思いつかれている、そのことでは、率直に云って大変くやしかった。そして、何だか腹立たしかった。私の生活の土台!勿論それは常によく手入れされ、見廻られ、より堅固にされるための種々の配慮が必要であることは自明なのですけれども、そのためのいろいろの忠言というものを、私は実に評価して、一箇の私事ならずとしてきいて居ります。けれども、もし、私の生活の土台が二元的な危険をもっているならば、どうして今日まで私の人及び芸術家としての努力を統一的に高めて来ることが出来たでしょう。(この二三年間の作品が皆よんで頂けないことが本当におしい。)私は、あなたのお心持を細かく立ち入って感じて、そういうことの思いつかれたことも分らなくはないのです。決して。いえ、非常によく分る。それだけ、それが、私としてくやしい雑(まざ)りものをもっているらしいことが私の直感としてどかないのです。今私の感じているままを細かく書くと非常に面白いが、又長くなりそうで心配。簡単に云うと、私たちの生活は、貴方と私とが互に深く豊富な自主的生存の自覚、情熱に対する自主的な責任をもっているからこそ、特別な事情の中でも発育し、ゆたかに美しく花咲いているのだと思います。私があなたの妻であるからというだけで、私は貴方に対してこのような私の心を傾けているのではないのです。私が私で、そして貴方をしかく愛するからこそ外部的な力で破られぬ結びつきをもち得ている。そして、そのことが、現代の日本の法律の上で、特に我々の場合、別々では不便を来しているから、習慣に従って姓名を貴方の方のと一つにしている。そうでしょう?その方が本当というのは、特に私たちの場合、何だか私の感情の、これまで生き貫いて来た、これから生き貫こうとしている感情の全面の張りにぴったりしない。私は、可笑しい表現だけれども、中條百合子で、その核心に宮本ユリをもっていて、携えていて、その微妙、活溌な有機的関係によって相互的に各面が豊饒(ほうじょう)になりつつあること、強靱(きょうじん)になりつつあることの自覚を高めているのです。私たちの生活の波瀾を凌がせ、揺がせず、前進させている私の内部の力は、こういう力で、大局的に貴方の生活と自分の生活との充実を歴史の上に照らし出して見通して、建設して行くところから湧くのです。貴方は御自分の姓名を愛し、誇りをもっていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ云えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自立力をもち、確固としていてこそはじめて、比類なき妻であり得ると信じています、良人にしても。私たちは、少くともそういう一対として生きているのではないでしょうか。同じ一人の良人一人の妻という結合にしろ私は新しいその質でエポックをつくる、一つの新しい充実した美をこの世の歴史に加えようとして暮して居ります。こういう私の心持は勿論分って下さるでしょう?私としては、特に、私として自分が意企しなかったキッカケから、そういうことが貴方に思いつかれたことが、何だか遺憾です。だからこのことは、私たちのおくりものとは別にしましょう。別箇の問題としましょう。ね。
隆治さんにきょう、これと同時に手紙を出します。それから買物に出かけて、御注文の品を小包に出します。
島田へは私も思っていたから行きますが、いつ頃になるかしら。三月のうちに行きたいと思います。三月のうちに仕事と仕事との間を見計らって。一週間か十日ぐらい。
いろいろ書いて一杯になってしまったけれど、十三日には窪川、壺井夫妻、徳さんの細君、雅子、林町の連中太郎まで来て十三人。六畳にギューギュー。皆がきれいな花をくれ、稲ちゃんのシクラメンがここの机の上にあります。木星社の本の表紙の見本刷を額にして飾った。皆よろこんで居りました。日本画風なところがあるが安手ではありません。桜草はいかがですか。日があたればきっと長く咲きつづけるでしょう。私はこの手紙を、あなたの膝の前にいる近さで書いている、襟元のところや顔を眺めつつ。では又、御機嫌よく。おお何とあなたの目は近いところにあるのでしょう。では又。

[自注6]フリードリッヒ『二巻選集』――フリードリッヒ・エンゲルス二巻選集。
[自注7]名のこと――百合子は当時作品を中條百合子の署名で発表していた。 
二月十九日夜〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき(1)(2))〕
エハガキが切れているのでこんなので御免なさい。
きょう午後に小説集『乳房』が出来て来ました。くすんだ藤色の表紙に黒い題字。早速速達で御覧にいれます。「この一冊に集められている作品の中には『一太と母』のように随分古く書かれたものもあり本年の一月に発表した『雑沓』のようなのもある。旅行記は小説ではないわけであるが私の作家としての生涯にこのような旅行記を書いた時代の生活は忘られないものであるし、今日では、五六年前に書かれた旅行記も却って或味いをもって読まれるので収録することにした。私たち一部の作家がこの数年間に経験した生活の道は実に曲折に富でいた。一つの作品から一つの作品への〔以下はがき(2)〕間には、語りつくされぬ人間生活の汗が流された。そして、直接その汗について物語ることは困難である。私は益〃誰にでも読まれ得る小説として『雑沓』の続篇をかきつづけ、そのことによって私たちの芸術の到達点をも示し、自身の芸術を高め得るような仕事をしてゆきたいと願っている、一九三七年一月二十三日。」序です。今夜はこの家へはじめて佐藤俊子さん[自注8]が来て夕飯をたべ、手紙に押してあげた印を見て字の感じを大層ほめていました。あれは暖い字ですもの、本当に。とりあえず床に入る前。

[自注8]佐藤俊子さん――前年の秋、十八年ぶりにアメリカからかえってきた佐藤(田村)俊子。 
二月二十八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十八日日曜日晴
きょうは何だか久しぶりで心持のよい晴天。きのうの晩は座談会で銀座へ出かけたら、かえりはひどい雨で、上落合の神近さんの家の先で、送ってくれた自動車が泥濘(ぬかるみ)にはまりこんでしまって荒ナワを車輪にからみつけても、砂利をおいても動かず。どうどうと降る雨の中でポツネンと待っていて、運転手が空車をつれて来て、それでうちへかえりました。その夜の雨の中でルームランプの明るい車の中にぽっつりといて、もうあなたはきっと眠っていらっしゃると、その刻限(十時すぎ)について考え何だか妙な気がしました。
きょうは昨夜の雨で晴れた空気の工合が一層心持よいのだが、あなたのところではどうかしら。それに私は今日うれしいのは、一日お客をことわって、『昼夜随筆』のためにかいている感想を書いてしまおうとしているからもあるのです。駅のすぐそばにいろんなものを売っている市場があるのを覚えていらっしゃるでしょうか。あすこへ行って、内側が紅で外が黄色っぽいバラを買って来て、三輪ばかりテーブルの上にさしています。
二月九日に書いて下すったお手紙の後の分をこの数日の間大変待っていました。島田へでもおかきになりましたか?隆治さんのことは伺ったら、隆治さん自身は希望していないのだそうです。ひとの話で、いいようなことをきいて寧ろ達治さんの心持から一寸そんなことにもふれたらしい様子です。隆治さんはやはりお家の仕事の手助けをしていらっしゃるのだそうです。そちらへもお手紙がありました?お父上が、二月十七日頃工合をわるくなすったということ。一時はお驚きになったそうですが、よい塩梅に恢復なすったそうです。しかし、元通りということは出来ず、どっちかというと病症は前進している傾の御様子です。あなたが御心痛になるといけないとお母様は御心配ですが、私としてはあなたのお心持は十分わかっているつもりですから、御病状のこともこれからずっとあるとおりにお知らせいたします。その方をあなたもよいとお思いでしょう。意識など少し混濁していらっしゃる御様子です。三月の十五日迄に私はやむを得ぬ仕事を一応かたづけ、それから島田へ御見舞に行くつもりです。それより早くは仕事の都合上絶対に無理なので、幸(さいわい)御様子も落付いているし、それまで私は大車輪に働いて出かけます。どの位あちらにいるか、それは御様子を見なければ申せず、私はお母様のお邪魔にさえならなければ、少し長くあちらにいようかとも考えて居ります。私は島田で、お客でなくなりたいから。こちらの家の留守番を見つけ、予定を別に立てずあちらへ行って見て、きめようと思います。ただ、あなたも御存知のとおりお店だから生活の様子がああいう調子の中で、私が落付いてまとまった仕事をすることはどっちかと云えば困難でしょう。そういう無理で、空気をこわしたくもないから、その点では半月ぐらいの期間を考えても居ります。
いずれにせよ、私は出来るだけのことをいたしますからどうか御安心下さい。あなたがおやりになるだろうと思うことは皆やりましょう。そういう心付で、私は決して、あなたが残念であったとお思いになるようなことはしません。どうか深く私を信じて安心しておまかせ下さい。この手紙は十日も経って御覧になるのですね、その前に私はお目にかかるわけですが。――
ずっと運動にはお出られになりますか?入浴は?今年は冬が大体暖く、春がもう来たようです。寿江子が鵠沼から来ると大抵私の方にいる。今も居ります。段々私の生活ぶりもわかって来て、ちょいちょいしたことでは手助けをするつもりで居ります。実際にどの位出来るかということは、おのずから別ですが。二月、三月(四月も)と『文芸春秋』に時評をかき、杉山平助氏から近頃の正論をはく批評家というようなことをきわめつけられ、ホーホーと我ながら批評家ということばに笑います。六芸社の本は序も簡単にしかしよくかけた方だし、好評です、全体としてそうなのは勿論当然であるが。ああいうものが売れる、それは実に興味ある現実です。私の楽天性の根拠いかに堅くリアルであるかと、努力を鼓舞されます。この前の手紙で書いたおくりもの第三についての私の心持はおわかりになっていただけたかしら。議論めかしくて可笑しいやですが、書くとやっぱりあのようにしか書きようがない。そして、私は心でひとりで思っているの、貴方は、御自分が本当に安心して大らかな心持でいらっしゃれるのは、ああいう風なところが私にあって初めて可能なのだがナ、と。己惚(うぬぼ)れではありません、決して決して。現実は錯綜して、困難で、もし私が自主的に生活に責任をもってゆけないのであったら、あなたは迚も心付きを云って下さるに暇(いとま)ないどころか、実際には常に万事手おくれであることになるのだから。でも、私は大体に、まだまだ貴方に勘でお心遣いをうけるようなアンポンがあるのね、そのことでは本当にすまないし、一方から云うと勘が本質的には的を外れないということが有難くうれしくもあります。
これは大変微妙な心持。このような歓びというのは。私は評論を、作家、人間としての洞察から現実に即して自由にかいて、或ことを云い得ている。小説でも、今どうやら一歩前進の過程にあるらしく、努力のコツとでもいうか、そういうものが会得されかかった感じです。現実を、その全体が立体的に活きて働くように書いてゆく、描写してゆく、何とそれはむずかしいでしょう。私は評論をかく上で体得したものを、小説で更に高く形象的に身につけようと意気ごんでいる次第です。私は、生れつきが小さい持味でまとめて、その人らしさだけで立ちゆくタイプではない、もっと違った何かがあって、それを全面的に発展させるためには自分の人一倍の努力がいる。より大きい美のためには。私たちはそういうたちですね。ああ、こういう話をしはじめると限りがなくなってこまる。保田与重郎は『コギト』を出し(雑誌)日本ロマン派の理論家であるが、この頃は王朝時代の精神、万葉の精神ということを今日の文学に日本的なものとして提唱し、そのことでは林、小林、河上、佐藤春夫、室生犀星等同じです。現代には抽象的な情熱が入用なのだそうです。三木さんは青年の本質は抽象的な情熱をもちうるところにある云々と。そのような哀れな空虚な青年時代しかこれらの人々は持たなかったのでしょうか。二十五日に文芸春秋社の十五年記念の祭があり、稲ちゃん、俊子さん等と行きましたら、小林秀雄というひとがお婆さんのような顔つきで、私に妙なお土砂をかけました。フウー。では又。これから仕事をします。どうかよくおやすみになるように。 
三月一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(五色温泉の山の写真の絵はがき)〕
三月一日、小雨。白揚社へ最後の原稿をもって行って、神田で寿江子と支那飯をたべるために歩いていてこれを見つけました。これは奥羽の五色温泉の山の上の高原の雪景です。私は九つ位のとき父と祖母と一緒に五色に一夏くらしました。温泉宿は一軒で、そこの窓からは山の中腹で草を食べている牛も見え、この原はサイ河原と云ったと思います。
夏も大変うつくしい景色です。夜はこれも寿江子と帝劇で二都物語を観ました。当時のフランスの人民がよく描かれていませんね。 
三月四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月四日快晴、些か風。第八信
きょうは水曜日です。私はいつも水曜日木曜日などという日は特別な感情で朝テーブルの上を見る。けさ、眼鏡をまだかけないで下へ降りてテーブルを一寸見たら、心待ちにしている例の封緘がなくてハトロン封筒が一枚あり。何だろうと思って手にとって見て、ハア、とうれしく、それでも実に実に珍しくて丁寧に鋏で封を切ってそのまま一通りよんで、又よんで、食事の間じゅうくりかえして出したりしまったりしました。可笑しいのね、何と可笑しいのだろう、一通の手紙でも見る毎に何かいいものが出て来そうな、何かよみ落しているような、もっと何かあるような気がして、まるで宝の魔法箱でも眺めるように飽きないのだから。この分量だけ手紙を下さるのにあなたがとって下すったいろいろの手数はよく分るので一層うれしゅうございます。
二月十七日に六信をかき、二十日すぎに七信をかきました。もうそろそろ二つとも届く頃でしょう。
このお手紙に書かれているすべてのことは皆よくわかりました。或はもう分っていたこと(お目にかかって)もあり。(差入島田の要点等)
いまうちには信州の方の知人へ稲ちゃんが世話をたのんで呉れ、よい人が見つかりそうですから御安心下さい。ヤスのような人物だったらどんなにいいでしょう、あの半分位でも。
いずれにせよ、私は私たちの生活全面を非常に愛しているのです。そして辛いなどと、きりはなして考え、又感じたことは殆ど一度もない、これこそ、私は私たちの無上の幸福だと思って居ります。私が身に引き添えて思うことは、私たちの文学の上にでも、しなければならないことに比べて、生活術が未熟だったり、人間としての鍛練が足りなかったりすることを自覚したとき、ああもっともっと豊富になりたい、とそれさえも私の場合では希望の光の裡で欲求されるのです。私は御承知の通り滅入らないたちの女です。私の方にあらわれる生活上のいろいろのこと=次善的な方法で家をもたなければならぬこと=それさえ私は私たちの生活として決して半端とかあり得べからざるとかいう俗的規準で感じていず、全的なもの、全く充実したもの、私たちの現実の中でもち得る唯一のものとして生きているのです。どうぞ御安心下さい。私にもし例外的に己惚れが許されるとしたら、この点だけです。貴方という存在は、朝夕まわりに姿を立ち動かしていないでも十分私をたっぷりと場所に坐らせ、豊かにさせていらっしゃるのだから。私たちはその点では本当の自信に満ちています。ただ、私はね、些かアンポンであるし、その自信を現実の歴史的な価値に具体化してゆくために、えっさえっさであるというわけです。それもなかなかよろしいのですよ。疲れすぎない程度に腰を据えて仕事を押してゆく心持は。
『文学評論』が(六芸社の方)いろんな本屋の店頭に積まれている。となりの方に小説集も落付いた藤色の表紙で並んでいる。何というよい眺めでしょう。評論感想集の方の名は「昼夜随筆」というのにしました。わるくはないでしょう。「わが視野」というのはよい題です。この次のにつけます。
私の感想評論はこの頃少し内容がましになって、この次の分には「わが視野」とつけてもよいらしい。この頃のは評論に力点があるの。
私の誕生日は謄本には二月十一日でしょう?十三日なのです。何を間違えたのか。ずっと間違いっぱなしです。私はこの頃益〃夜仕事をするのがいやなので、なるたけ午後一日じゅうの仕事をするようにします。夜ちゃんと寝て、朝起きる、そういうのでないと私にはつづかないから。
中野さんが三四日前、銭湯の洗場で滑って左腕の肱の内側をガラス戸へ突込んで深く切り、小さい動脈を切ってしまって、手術をうけ目下臥床中です。あのひとは今年の正月はスキーに行って右肩を雪につき込んでくじいてしまったし、怪我がつづきます、もう然し心配はいらないのです。
島田の方ではお父様ずっと平調でいらっしゃるらしく何よりです。前の手紙でお話ししたように私はもしかくり合わせたら三月二十日頃から出かけます。四月十日頃までの仕事沢山ありそれを全然しないことは出来ず、その点をも考えて。おくりものは、やはり万年筆にします。ペン軸でもし非常に恒久的なのがあればよいが。今つかっているのはもう十四五年になるが、それでこわれたりしてはいやだから。私はこわれないの、折れないのが欲しいから。古典も、大抵揃って居りますが、書簡の部分を、うごかして、それきりどうかなってしまっているから補充しましょう。
『学鐙』、『アナウンスメント』等現在のはお送りしあとは丸善に注文しました。貴方の方から御注文であった本の目録は別封でお送りいたしましょう。これはこれとして。今年の春は、本が三冊も出て、傍らものも沢山かき、賑やかな時です。しかし、執筆のレベルは一つよりは一つへと高まらなければ意味ない。昔よりずっとずっと勉強です。又自らちがった形で。
私は今年の記念にそしてあなたが三十歳におなりになったお祝いに、私たちの蔵書印をつくるつもりです。もう自分から本を売るようなことはしないから。お体をお大切に。皮膚がゆるんでカゼを引き易いからお大事に。 
三月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(梅の花の写真の絵はがき)〕
三月五日金、春の北風。
きのうは半紙のお手紙をいただきうれしく早速返事をさしあげました。昨夜は国際ペンクラブの大会でアルゼンチンへ行った藤村の歓迎会へよばれ、芝公園の三縁亭という珍しいところへゆきました。
上野の精養軒のようなガラリとした、もっとオフィシャルな感じの店で、会にも文芸コンワ会の代表、国際文化振興会の代表等出席。藤村の挨拶は世界の大きい波に一寸でもふれて来ただけ、作家らしいものをよい意味でもっていました。きょうは下の四畳半へ勉強部屋をうつし、夕方太郎が汽車ポッポ見物に来。 
三月七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
注文書のリスト上に*をつけたのはもう送った分です。
(一)一九三五・六・一咲枝宛
改造日本文学全集中「独歩」「漱石」「藤村」 春陽堂明治大正文学全集『長塚節集』 アンドレ・ジイド*『一粒の麦もし死なずば』 『ドストエフスキー論』 『日本経済統計図表』 『近世日本農村経済史論』 *『憲政篇』*『正史篇』『軍事篇』 章萃社『日本社会経済史』 *『日本経済年報』第二十輯 『日本歴史地図』
(二)一九三五・七・二七咲枝宛
改造社文学全集中*「漱石」「独歩」「藤村」「長塚節」 改造名作選集中「藤村」「漱石」 『開化期文学集』*『戦争文学集』 新潮社全集「ディケンズ」「スタンダール」「ドライザア」*「トーマス・マン」 英書 The Works of W.Shakespeare, gatherd into one Volume 中央公論『シェークスピア研究』の栞
(三)一九三五・一〇・二六咲枝宛
図書月報・全集内容見本、普通目録丸善の洋書目録中政治経済芸術哲学ノ分類目録 *?『日本歴史地図』『東洋歴史地図』『兵法全集』
(四)一九三五・十一・二咲枝宛
佐々木惣一『憲法』*上杉『憲法読本』アモン『正統派経済学』小泉信三*『アダム・スミス、マルサス、リカアドオ』クーノー『ヘーゲル伝』安倍『近世哲学史』
(五)一九三六・三・一四寿江宛
*『日本経済年報』第二十一、二十三輯
(六)一九三六・五・二六
*ブランデス『ゲーテ』
(七)一九三六・一〇・三日上林の百合子へ
『リカアドウ』林権助『わが七十年を語る』*『猟人日記』*小宮『漱石襍記』木村『旅順攻囲軍』ツルゲエネフの*『散文詩』
(八)一九三六・一〇・二一百合子へ
*『療養新道』*『栄養食と治病食』*『内科読本』*『国民保健読本』
(九)一九三六・十一・二百合子へ
プーシュキン*ツルゲーネフ*フローベル*ゲエテ全集目録
(十)一九三六・十二・二六百合子へ
プーシュキン全集目録
――○――
以上の中、林の『わが七十年を語る』『リカアドウ』は目下本屋にたのんであります。『ヘーゲル伝』は近日お送りいたします。ブランデスの『ゲーテ』はよんでおかえしになったのではなく、数が多すぎたので一旦送りかえした本の中に入って来たのではなかったでしょうか。もしおよみになるのだったら又入れましょう。
――○――
三月二日づけのお手紙をありがとう。一通りよんだときいろいろの感情を経験し、それからずっとその感情を感じつめて、結局私が貴方に向っていうことは心からのありがとうであるとはっきりしました。ありがとう。
あなたが私の生活について考えて下さるだけ考えてくれている人はない、本質的に。ディテールについては又別にかきましょう、特に父について。それはそれとして、又おのずからお話しもあり。それから私は随筆的存在ではないし、本もそうではないし、そういう生きかたをし得るものでもないでしょう?元来。一人の女としての愛情から云ってさえも――
今『都』へ「文学における復古的提唱に対して」書いています、四回。
附録一枚
「わが視野」の内容の概略を一筆。
社会時評、文芸時評、作家研究、随筆で、社会時評はいろいろ。文芸時評は「迷いの末は」25枚、横光厨房日記の批評、「ジイドとそのソヴェト旅行記」「文学における今日の日本的なるもの」24枚、「パアル・バックの作風その他」10枚、「子供のために書く母たち」15枚、「『大人の文学』論について」(林房雄、小林秀雄らの提唱に関して)10枚、「十月の作品評」12枚、「自然描写における社会性について」15枚、「『或女』についてのノート」15枚、「今日の文化における諸問題」23枚、「一九三四年度における文学の動向」30枚、
作家研究
(一)マクシム・ゴーリキイの人及び芸術(四十枚)
(二)同その発展の特殊性にふれて(四十枚)
(三)同によって描かれた婦人(二十三枚)
(四)ツルゲーネフの生きかた(四十枚)
(五)バルザックから何を学ぶか(七十枚)
(六)藤村、鴎外、漱石(九枚)
随筆
最も長いので二十枚位(わが父)を入れて五六篇ぐらい。(終) 
三月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕
三、十七日。十五日にはいろいろ御相談が出来て私は大変うれしく、いい心持になりました。貴方から私は多くのことについて教わるけれども、しかられる自分というものは考えて居りませんから、そういうものとして互を見てはいないから。とにかく本当にゆったりした心持になれました。きょうは「今日の文学の鳥瞰図」を唯研に送り、栄さんと風の吹く街へ出て、島田へのおみやげを買いました。父様へは夜具。母様、野原の小母さん、向いの家の人には裾よけ。達ちゃん隆ちゃん富ちゃんにはバンド。克子さんにはきれいな腰紐とカッポー着。あとは子供らのための小さいお菓子入りのいろんな袋。今夜はそちらもお寒いでしょう。きょうお母さんからお手紙で、待って下すって居ます。『リカアドウ』を入れました。『日本経済年報』も。 
三月十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(佐伯祐三遺作「レ・ジュ・ド・ノエル」の絵はがき)〕
三月十九日明日立つ予定のところ、仕事、旅費、そのほかの都合で、二十三日頃になります。これを出してもきっとあっちから出す電報と、おつかつに御覧になるのでしょうね。さむいことさむいこと、父上のお布団はいいのを西川で買いました。稲ちゃんと。 
三月二十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕
三月二十三日。今夜立つところ汽車に寝台がなくて、くたびれているので明日の午後三時に立ちます。いよいよお立ちです。窪川さん夫妻はうずらの玉子を、壺井さんたちは体によいというお茶を、M子はのりのつくだにとおたふく豆を。それぞれお見舞にくださいました。お父さんはこういうお見舞を考えていらっしゃらないでしょうから、さぞおよろこびであろうとうれしゅうございます。私は今二十枚ばかりの評論を終り、もう一つ夜終ります。 
三月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(厳島紅葉公園と広島駅の絵はがき二枚)〕
二十四日の午後三時のふじで東京をたち、ひろしま午前五時四十分、島田九時前でした。ひろしまから柳井線に入ったら、海と対岸の景色が珍しくて、目が大きくなったようでした。お家へ入って行ったら、中の間にお父さんが起きかえっていらっしゃるので、びっくりしたり、大安心したりでした。思ったよりずっとよくなっていらっしゃいます。ひる間、どっちかというとよくお眠りになるので、夜は御退屈のようです。気分も平静でいらっしゃるし、食事もあがれます。お母さんは相変らず御活動です。井戸がすっかりポンプになり、お店もさっぱりきれいです。
晴、島田の茶の間。
きょうは晴天、おだやかな日です。お父様は障子のそばへ床をうつし、今は座椅子によって上半身起き上っていらっしゃいます。上御機嫌。お母さんは、稲ちゃんがくれたウズラの玉子をわっていらっしゃる。隆ちゃんは丁度仕事からかえったところ。前の麦畑の麦は一尺ばかりのびて居ます。
家じゅうがいろいろと手入れをされていて、大変明るい感じです。うれしいと思う。達ちゃんはまだかえらず。野原から多賀子さん[自注9]が手つだいに来て居ります。

[自注9]多賀子さん――顕治の従妹。 
三月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(浅野泉邸の絵はがき)〕
三月二十六日今丁度正午の時報。ラジオは株式をやっています。
きのうは野原の御父上も見え、お向いの御夫婦も見え、兼重さん(山田の)も見え、なかなか賑やかでした。今は野口さんのお父さんが見えています。私のために大変キレイな座布団をこしらえて下すってあり、テーブルも出来ている、何でもあなたが野原でつかっていらっしゃったのというの。そのザブトンは大きいのに達ちゃんか誰かもっと大きいのがよかろうと云ったと大笑いです。毛布も布団もお気に入り、かけていらっしゃいます。いずれゆっくり手紙をさしあげます。 
三月二十七日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
三月二十七日晴天の午後三時前。
二階の部屋。父上は今おやすみ中。さっき隆治さんが一寸かえって来て御昼を土間で食べて、又仕事に出て行ったところ。すこし風はあるがいい天気の日です。裏に面した窓をあけ放して、山や農家の様子を眺めながら、私はさっきからあなたのこちらにおよこしになってある手紙を整理して、さて、いろいろとうちのことを申しあげようと思って。――
お父さんの御容態は電報やハガキで一寸申上げたように大変平静です。食慾もおありになり、朝二膳ひる三膳夕三膳ぐらい、おかゆと御飯とをあがります。おさしみや野菜をあがる。カステラ、ういろう等もあがります。いい舌をしていらっしゃり、通じも一日置き自然についていて、この四五日は用便も御自分でおわかりになるようになり、皆々大よろこびです。皆夜中の間のコタツのまわりに集り、お父さんのまわりを囲むと、いかにもうれしそうな御機嫌で、ニコニコなりづめです。御飯を私がサジでたべさせてあげ、臥たり起きたりのお手伝いもしてあげますが、お母さんのお上手なのにはかなわない。何かやっていらっしゃるのを此方でよくよく観ていると、やはり急所があるのです。そこをエイヤッと私も真似をするの。「お后(ゴー)[自注10]や、一寸来て」お父さんはお后(ゴー)様なしでは立ちゆかぬ有様で、又お母さんが、明るく、てきぱきと、優しくしてあげていらっしゃる様子というものは実に見ものです。美しいというべき眺めです。達ちゃんにしろ隆ちゃんにしろ、病人として片づけず、生活の中心において実によくやっている。何とも云えない親しさ、睦(むつま)しさ。私は、林町のうちの睦しかった、その性質とここの人たちの睦しさの性質とを考え比べて見て、斯ういう一家の仲間に加われる自分を仕合わせな者だと深く感じます。そのことは、深く、深く感じます。あなたは、本当に立派な御両親や弟たちをもっていらっしゃる。心からおよろこびを申します。こういう心持の暮しというものは、人工的にこしらえようと云ったって出来ぬことです。全体の気分がね。私は、お父さんの扱われていらっしゃる様子を見て、親切とはかくの如きものと感服している次第です。単なる丁寧ではありません。いろいろ私は感動いたします。
家の財政のことは、お母さんから詳しく伺いました。丁度二月の七日に講の整理がついて、お祝をなすった由。十日ばかり経ってお父上がおたおれになったのですが、やはりよっぽどの御安心でしたのです。こちらの家は、今はすっかりこちらの所有になったわけで、二階などすっかり畳がえが出来、雨樋も壁もさっぱり白く手入れされ、家の中は、一つの清潔で静かな活気に充ちています。お店の方も、明るくなって居る。野原の方はこちらのように手堅く行かず、あすこは全部売却して、Tさんのいる、広島の方へ行こうと云っていられる由です。二千百円ぐらいの整理をし、あと千四五百をあまして、出かけようとして居られる由ですが、その価では買手が見つからぬ由です。きのうもゆっくりお母さんとお話し、野原は、あなたも思い出をもって愛していらっしゃるが、将来、若い二人が仕事をしてゆくには、どうしても、今の場所の方がよいから、ここは年の地代\60でやはり持っていて、向い側に九十坪ほどの横長い地面が\1200ほどで手に入るから、達ちゃんの結婚のための必要もあり、出来るだけ早くそこを手に入れておいて、貸家にしてもよいということに大体御相談がまとまりました。この家を達ちゃんのものにしても土地がないので、この辺では結婚の話にもなり難い、まア土地も一寸あるというところで嫁に来させても、となる由。それで私は、私たちで、その半分でも出来るだけ早く都合して、そっちを解決して、出来ることならお父さんに達ちゃんのお目出度(めでた)を見せてあげたいと思います。私たちのお目出度はあんまり本質的すぎて、世間のお祝儀は高とびした形だったから。ああやって、お父さんがニコニコ楽しそうにしていらっしゃるとほんとうに、そういうよろこびもさせてあげたいと思うし、お母さんのそばにいる、若い女のひとの手も実に入用なのがわかります。これはいい案でしょう?あなたもきっと賛成でいらっしゃるでしょう。講の方が片づいている以上、それがよいと思います。
隆ちゃんは、目下の考えでは運転の方でやってゆきたい由で、兵隊まで(一年予)うちを手つだい、あとはよそにつとめて、という気らしいが、お母さんは、達ちゃん一人では無理だから、月給制にしてずっと協力してやらせたいという御意見です。そして、ここのお店も会社組織を改めて、達ちゃんの名儀になさる由。お母さんは今まで女の社長でいらしったのよ、御存知?うちには、なかなかアマゾンが出ますね。きのう、お母さんと二人で大笑いしてしまった。だって女の社長なら、婦人雑誌に出さなけりゃならないでしょう?これは冗談だが。――野原の方の土地家屋は講をつくるときに、信吉さんが父上の御承知ない間に、自分の名儀にしてしまっていらっしゃる由です。その他お二人としてはいろいろのことで、この際、あちらはあちらとして生活の責任をもってゆくようになることを御希望です。あなたは御存知ないかもしれなかったが。――お父さんの昔仲間の野田さんはこの頃の激しい時期に株にひっかかって、皆々心配して居ります。
お母さんは、近いうちに、私を宮島見物につれて行って下さるそうです。こちらへ来る迄、私は父上のことも心配だったし忙しくて忙しくてひどかったし、着いて、お父さんのお笑いなさる顔を見て安心したら、何だかポーとなって、久しぶりで、まるでのんきな休まる気分です。お母さんの娘になって、少し遠慮しながら甘ったれて、冗談を云って笑って、真面目な相談もして、そして夜は十時すぎにもう寝て、それでも朝九時頃まで眠ります。どうも、眠くて眠くて。それは眠いの。あなたに、これだけ書いて、家の中の空気おわかりになるでしょう?林町がああ腰をぬいて暮して居るし、私はキリキリまいをしているし、ここでは、お母さんを中心に活々(いきいき)と軸がまわっていて、又別な楽しさ、安らかさです。
今度来て本当によかった。
お医者も特別に誰というお好みはありません。しかし、お父さんは昼間お眠りになりすぎます。これは、やはり全体の御衰弱ですから、余り油断はならないと思います。あなたの方はずっとおよろしい方ですか?食慾も出て居りますか。どうか、どうか、お大切に。ここにいると何だか遠いようです。私はこちらですっかり疲れをなおします。では又

[自注10]お后(ゴー)――顕治の故郷の地方では、おくさん、おかみさんをお后(ごう)はんとよぶ。 
三月二十九日(消印)〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 厳島より(安芸の宮島廻廊より千畳閣を望む絵はがき)〕
ここは大変に明るい美しいところでびっくりしました。清盛という人物が只ものでなかったのがよくわかります。よい天気。お母さんと、砂と松の間をふらりふらりと歩いて、よい散歩です。あなたもここは御存じでしょう? 
三月三十一日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
三月三十一日ひる少し前曇天。
下でお父さんが「お后(ゴー)、お后(ゴー)」と呼んでいらっしゃる。私は「ハイ、ハイ」と降りかけ「お后(ゴー)さまは今御用ですよ」御小水?合点をなさる。用意してあげると「手をかせ」、私の手につかまって体を横になさるが、今度は勘ちがえ。それから起き上らせてあげて、背中のうしろにつめをかって、ラジオをかけてあげる。今甲子園のゲームです。あたりが静かなので「投げました投げました!」いう声が、窓の軒の下からきこえて来る。蛙が円い声で鳴いている。今日は勘定日でお母様はきのうからその準備で御多用。達、隆二人は、虹ヶ浜とかへお嫁の荷をつんで出かけました。きょうはそっちもいそがしい由。
一昨日は今度病気をなすってからはじめて腰湯をつかわせ申しました。丁度二人が午後あいたので、家じゅう総がかりですっかり洗ってあげ、さぞさっぱりなさいましたでしょう。言葉が自分ではよくおっしゃれないが、話はよくおわかりです。この間お母さんと宮島へ行った留守など、店の番をするからそこの襖をあけておけと、来る人にちょいちょい応待なすった由。段々元に近く快復なさる。夜、御飯がすむと、こたつのまわりに皆あつまって賑やかです。外へ出て見て、外が暗くてしんとしているのにびっくりする位家の中は生々としています。お母さんを見て、家の中心になる女のひとの気質というものがどんなに大切かということを感歎します。お母さんは家宝ですね。私は女の先輩として、なかなか敬服措くあたわざるところがある。理解力にしろ、生活の地力であすこ迄高めていらっしゃるのですから、実にフレキシブルです。そして労苦の中からよろこぶことを学び、その感情をなみなみと持っていらっしゃる。本当に傑作です。お父さんは、今、わきから見ていると、もう全くお后(ゴウ)さまに依っていらっしゃる。一種の美しさがある。勿論今でも時々かんしゃくは起しなさるらしいが。ずっと床についていらしても大きい骨格で、広い厚い肩で、その肩を私が自分の胸いっぱいに受けて抱えてあげたりしていると、何だか錯雑した二重うつしのような優しい感動を覚えます。骨格は、あなたはお父さん似でいらっしゃるのね。
明日あたり、多賀子さんと野原へゆきます。この次来るときにはどうなっているか分らないから。海岸へも行って見ましょう。
海岸といえば、ゆうべ虹ヶ浜の話が出て、何とか家のくり合わせがつき、お父さんの御様子が順調だったら、夏は虹ヶ浜のあなたのいらした家でもかりておつれしたら等話しました。これはまだ全く未定です。お父さんはお后(ゴー)さまなしでは日が越せないし、お后さまは家がなかなか手ばなせないし。
隆ちゃんに私たちとして『早稲田商業講義録』を一年分申しこんであげました\15、広島の簿記学校へという話も出たが、そこはボキ専門で、それほどの偏(かた)よった勉強は必要ないので、マアボツボツやって行ったらいいでしょう。隆ちゃんもこの頃は段々遠慮が減って、すこしは喋るようになりました。なかなかいい子です。達ちゃんは、かえって来た当座は、自分が二年兵で初年兵を命令にしたがえていたその癖で弟と一緒が却ってうるさいようだったのだそうです。それでも、お母さんの舵とりよろしく、今日では互に扶けあうが、やはり兄弟は面白いものね。兄さんの方が全責任を負う(雇人対手のように)気にならず、隆がこう云ったからなど云い、ごたつくこともある由。でもいいのですよ、結局は。
あなたは何日頃こっち宛の手紙を下すったかしら。お目にかかったのは三月の十五日でしたが。――
私は二階の、裏山の見える方の窓の下に机をおき、本をよんだりこうして手紙をかいたり。きのうあたりから一日に三四時間ここで暮します。私は四日にお父さんのために臥ていて外が見えるように、茶の間の障子を作りなおしたのが出来て来るから、それを見たら五日頃かえることになりましょう。私は令名サクサクな東京の奥さんなのですが、仕事をエイヤッとするにはやはり東京がよろしい。そして、もしお父さんの工合がよかったら夏、虹ヶ浜でお暮しになるようにしてもよいと考えて居ります。御機嫌はいいことと思って別に伺いませんでした。きのうあたりから又寒い。猫の仔が五匹います。では又 
 

 

四月二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月二日。晴島田からの第三信
待ちかねるようであったお手紙がやっと来ました。あなたは三月十八日に書いていて下すったのね。それが着いたのは今朝です。
このお手紙に一つ一つ答えて参りましょう。お父さんの御容態についてはこれまでの手紙で書いた通りです。今後の御発病の原因は、危険なことであったが、岩本氏(東京の)が結婚してはじめて見え、お酒が出て、お父さん、こっそりそれをおやりになったのですって。夕方、若い連中がかえって来て、それとは知らずお風呂へ入れ申したから、ショックの起るすべての条件は完備してしまったわけでした。この位でお止りになったのはふしぎな位。
御様子は段々私が来てから一週間であるが、その間にも気付かぬ位ずつ語彙(ごい)も殖えて来られ、長い文句を仰云るようになりました。しかし、うとうとしていらっしゃるときのイビキは病的ですから決して安心ではない。実に平安に、ソッとして保たなければならないでしょう。私が来たことは大変大変御満足で、お母さんが「もう思いのこすことはありますまい、顕治に会うたも一つことじゃから、のうお父さん」と仰云ると、首をうなずけて、「ない」と仰云る。そんな状態。お言葉は子供の片言です。障子を直したことはこの前の手紙で書きました。この位いるとほんとに家のものになれて私もうれしい。
今も、あなたの手紙を懐(ふところ)に入れて、お母さんと背戸の鶏小屋のところ(十羽いる。七つ八つ九つと卵を生みます)に日向ぼっこしていろいろ台所を直すことや、とりこわした物置を又建てることやあれやこれやを話しました。あなたは蔵つづきの物置を御存じでしょう?あれをこの間とりこわした由。古くなってこけかかったから。今度はその古材木で九尺に三間ほどのものを建てようというのです。
負債のことは、講の片がついて、只今はもう何もタンポに入っているものなし。この決算のことについては三年かかっているそうです。飛田の山崎氏が保証人であったのが、山崎氏もああいう事情で東京へ出てしまわれたので、却って簡単に運ぶようになり、お父さんの旧友で、兼重という七十余の老人が親方の肩入れで、二月七日に万事落着し、五十円ほどのお祝いの宴まですんだのだそうです。お父さんの年金もこちらに戻っています。他にこまかいものが少々あるがそれは五百円ばかりで片がつき、十分ポチポチやってゆく自信がおありの由です。だから、第一の手紙に申しあげたように、私達は達ちゃんの嫁とり条件を少しましにする方向へお手伝いしようとお母さんにお約束したわけでした。
三年前島田へ来たときは、ほんの五六日でした。お母さんをつれてあなたに会わせ申すのが眼目でしたから。その時野原へは夜一寸おじぎに行ったきり。だからきのうは昼からすっかり屋敷の中を見せていただき、私ははじめて真に荒廃したという家の有様に接し、いろいろ深く感じました。あなたは今の野原の家の建ったのを御存じないのですって?離れのあったところに便所が出来、そこからつづいて八畳六畳の両椽の座敷があり、鶏舎との間に昔からのザクロや大名竹を植えた小庭があり、元の表の間との間の中庭には岩を入れ、池をつくり、そこに金魚がおよぎ、桜が小さい実をつけている。あなたが勉強なすったという二階(台所の先の方から上る)は人が住まぬままになって居り、となりの室のハタ台や糸をかけたままのワクに積年の塵があった。それから鍵の手につづいている風呂の方、又昔油をしぼった小舎の辺、更に奥へ二棟立ち並んでいる大鶏舎。いずれも、春の明るい陽をうけつつ雑草の間に建っている。今あの家には叔父上夫妻、冨美子(十二)で、私はこの小柄な美しくて堅い小娘とあっちこっち廻って歩きながら一種の桜の園を感じました。あなたが、お母さんへのお手紙で、うちのことを知らすのはユリのためになることでもあるし云々と云っていらっしゃる、そのことを思い出しつつあなたの少年時代をも深くその感情に入って感じつつ歩きました。あなたは林町の生活を御存じないから割によいことを多くお考えだけれど、それにしても、こういう時代の推移の姿を見ることは又私には刻みつけられるものがありました。そういう荒廃の中で、中庭の苔は美しく日光をすかして見える。そこに坐って叔父さんは「駅」の父さんが楽しむということを知らないなど仰云っている。母さんがこの頃は金の話ほかせんようになったなど。私は「そうではありませんよ。お母さんは生活の事情によって、ゆとりが出来ればなかなか趣のわかる方ですよ」など喋る。あなたのことも。写真を見たりして。然し、野原は断然整理しなければ駄目です。こちらは島田のように単純にゆかず、(負債について島田の母上も御存じなし、私も何だか伺えない)マアボチボチ片づけていらっしゃるほかないでしょう。Tさんはあなたの御心付をありがとうということです。そして自分でもこの頃は段々考えて着実にやる方針らしい。やはり子供の時からの環境で、体を労して稼ぐことは思い得ないのですね。何か「まとまった金」ということが念頭についてしまっている。けれども、これとても、もうこの道でゆくしかないでしょう。
ジイドは、あなたの御覧のように私も見て居ます。この二月の評論では、ジイドが自分の抽象的な誠実性の故に誤られて現実を見る力を失っている。そういう作家の矛盾の点をとりあげていたのです。作家が、自分の存在の客観的な意義を理解しない、理解する力をもたぬことは実に恐しい誤りを引起すものです。ジイドにしろ。だから、あなたが私の客観的理解力、進退等についていろいろ注意して下さることの価値は十分わかるつもりです。断乎とした忠言者のないこと。そしてその忠言には常に正当な私の仕事に対する努力の評価がふくまれ、更によりよいものを求めてなされるものである、そういうものが乏しいことは、たしかに私の可哀想と云えば云えることです。谷川などはまだまだいい方よ。私たちの作家としての存在そのものが、現在にあっては抗議的存在です。作家として粘ること自体がいかがわしい文学の潮流に対してのプロテストであり、今日もし私たちが阿諛(あゆ)的な賞讃など得られるとしたら、それこそ!それこそ!謂わば、もし賞(ほ)められたら、それこそ目玉をくりむいて、賞めた人と賞められた点とを見きわめなければならない。そういう状態です。今日賞讃の性質は、従前のいつの時期より恐ろしい毒素をふくんで居るのです。私は賞められないことには、既に馴れています。賞められたくなんかないが、私たちが褒められないことの意義と、その健全性を、ヨシヨシと云って欲しい。実に、実に。抽象的に云ってはおわかりにならないかもしれないが。でもわかるでしょう?
今日作家としてまともであるには、単なる自分の才能の自負とか閲歴とか、何の足しにもならず。却って才能云々はその人の道をいつしかあらぬ方へ導く百パーセントの危険をもっている。私の人生派的傾向が、思わぬ力で今日の波瀾の間に私を落付かせているのです。この頃の室生、小林、林、河上、佐藤春夫、その他を作家というのであれば、私や稲公は作家の埒から夙(つと)にはずれているようなものです。或意味で、今日は文壇が自解しつつあるばかりでなく従来の概念での文学が揺れている。逆な力で優位性の問題が出ていますからね。
私はここで活々として暮して、台所を手つだったり、風呂燃きしたり、全くわが家と暮しています。私はこっちへ来て、非常にこれまでの話と種類の違った稼ぎのいろいろの話をきいて、どうも思わぬ収穫を得つつあるらしい。この次の分はこちらで拝見出来るかしら。お大切に。花を入れました。 
四月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(徳山・幸町通りの写真の絵はがき)〕
四月五日。ひどい風ですが、野原の叔母さん、冨美ちゃん、多賀子、こちらはお母さんと私という同勢で徳山公園のお花見にゆき、かたがた二番町の岩本さんと井村さんのお宅により、私はお母さんの後からよろしくと申して来ました。徳山中学校の屋根が見えました。徳山銀座で私がころびました。徳山駅は目下改造中で大ゴタゴタです。きょうは日がいいと見えてお嫁さん二組に会いました。 
四月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月五日曇天、島田からの第四信。
こちらへ来てから十日経ち、家にもおちつき、いろいろこれまでの手紙で書いてあげ落したことを思い浮べます。今父上は眠っていらっしゃる。この頃はお母さん午後ほんの一寸体を横になさいます。夜、ゆうべ三度もお起きになりました。夜の世話が母さんには一番健康的にもこたえるのですが、どうもお后(ゴー)さんでなくてはお父さんのお気がすまない。あなたはきっと、こんなに気の折れて「お后(ゴー)ここへ来(キ)」と炬燵(こたつ)に自分のそばにおきたがっていらっしゃるお父さんを想像お出来にならないかもしれませんね。おや、下でガタガタいっている。きっとお父さんの御用便ですよ。(中止)何て重いお父さん!しんが非常に御丈夫なのね。一日おき二日おきに自然便がおありになります。木の腰かけ便器ができていて、そこへ、かけ声をかけて動かし申すのですが、女三人ではほんとにやっと、やっと。
この間、宮島へ行ったとき夕方からあすこの岩惣(いわそう)という家の、川の中にある離れに休んでお母さんといろいろ話しました。そして、達ちゃんの結婚式のとき、ハイこれは顕治の嫁でございますというのもおかしいから、こんどかえり間際にでも、一寸ものを持って組合[自注11]と近所にお母さんがつれて挨拶をして下さることになりました。三十一日に急にタオルを三本一箱づめにしたものを東京へ注文したところ(十七軒分)。私は「ここのもの」になりました。これはいろいろ面白いの。きのう徳山にいられる甥(銀行員)が娘さんのお嫁のことで見え、私が初めて紹介された。前かけをかけていたら、お母さんそれをおとらせになって、髪をかきつけてきた私を一寸しらべるようにみて、そしてお引合せになるの。私がお母さんのわきでお茶をいれたり何かする。それを、お父さんまで至極満足そうにして眺めていらっしゃる。こういうときの私の心持、おわかりになるでしょう?もし貴方がわきにいらしたらどんな顔をなさるだろうと、あなたの独特な一種の表情を思い浮べ、微笑も禁じ得ず。但しこれはひとりになってのとき。
私はこっちの地方と東北の田舎とを比べ、事毎におどろきます経済的な点で。みんな女のひとなど都会風の装(なり)。一寸出かけるにもよいなりをして、私なんか質素です。そういうこともおどろきます。中学生は在郷軍人の服と同じ色の服、キショウだけちがう。女学生は大抵東京と同じセイラアです。野原にゆくとき虹ヶ浜にまわりました。春陽駘蕩(しゅんようたいとう)たりという景色で、あの家[自注12]には人が住んでいました。下松(くだまつ)には日本石油、その他工場が近頃の景気で活動して居り、江の浦のドックにはウラジオからも船が入ります。そこの職工さんたちの住居払底で、虹ヶ浜の小さい家はこの頃よくふさがっているのだそうです。島田の高山(呉服屋の隣り)は石油とギャソリン専売権をもって居り、うちは多くそこの仕事をする模様です。今度ガソリン一ガロンにつき五銭価上り、一カン二十五銭高。うちの車は一日に一カン位入用の由です。運賃を今のままでは引合わないという話がでています。うちの車庫は、店のとなりの方。もと製材のあったところを車庫にして、となりを木炭倉にしてある。きのうその辺をみていたら、店の前で近所の女の人たちがお母さんと私をつかまえ、かどぐち社交がはじまって、くすぐったかった。ここは全く小さい町気質ですね。言葉にしろ。河村さんの娘が高森の写真屋に嫁(かた)づいたのでその写真やに六日に来て貰って、ここの一族、野原の皆が写真をとります。そしたらお目にかけましょうね。
汽車の音は賑やかなものと思っていたら、この辺は小駅であるから一種寂しい心持を与える。汽笛が山々に谺(こだま)する。ギギー・ゴトン貨車の音など特に。少年のあなたはその響をどんな心持でおききになったろうと思います。きりなしだからこれでおやめ。
〔原稿用紙に書いてある手紙の欄外に〕
ここに暮していると小説的な風に感情が押される。
こっちの風景は明媚(めいび)であるけれども、景色そのものが自身で飽和している。そこから或るつまらなさ。北方の荒涼として情熱的なところがない。それでいてこの辺は乾いている。

[自注11]組合――隣組のような町内の組合。
[自注12]あの家――顕治が学生時代夏をすごした家。 
四月十日夕〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十日午後暖い晴天。島田からの一番終りの手紙(第五)
私は五日頃かえるように云っていたからもうこちらへは手紙を下さらないのかもしれない。店で、お母さんがあなたに上げるとおっしゃる肌襦袢を縫っていると、「ユービン」と云って河村さんへ自転車にのった若者が何か入れてゆくのが見えました。河村さんに郵便が来てこっちに来ないのは大変不思議に思えた。そして、又縫っていたら河村さんの細君がキビの餅をもって来てくれ、達・隆はそれを頬ばって仕事に出てゆきました。
この河村さんの娘が結婚している写真屋さんに来て貰って、二三日後一家全員で写真をとり、大さわぎでした。あなたにお目にかけるために。七日に、背戸(せど)を見晴すガラス戸が出来上り、大満足です。二尺三寸の一枚ガラスをはめたから雨の日も外が床の中から見えます。きのうは、金物屋のおくさんが字を書いて呉れということでした。夜は、おかあさんが、私をつれ、三越から届けさせたタオル三枚入りの小箱をもって、近所にあいさつにまわりました。「よいお日和(ひより)でございます。あの、これが顕治の嫁でござります、どうかよろしく。日頃御厄介になっちょりますから今度見舞いに参りましたについて、一寸お物申したいと云って居りますから」云々。そうすると、私が「どうぞよろしく」とおじぎするの、お母さん大安心の御様子でお店の敷居を跨(また)ぎつつ「サア、こうしておけばもうおおっぴらにお歩きさんし」
おじぎをするとき私は大変お嫁のような気が致しました。
きょうは蓬(よもぎ)つみに島田川のせまい川辺へ行きました。橋(フミ切りのところ)で達ちゃん達がそのときはトラックを洗っていました。その道で荒神さんの高いところにものぼりました。その石の段のところに野生のわすれな草が咲いて居た。勿忘草(わすれなぐさ)など通俗めいているけれどもああいうところであなたは子供の時お遊びになったのでしょう?何だかそれこれ思ったら子供らしい愛らしさがあって、その花をつまみました。今押してあるから出来たら又お目にかけましょう。島田川の白菫(しろすみれ)も。皆、実に自然主義文学以前の、日本的ロマンティシズムの素材で面白くて仕方がない。藤村の詩など考え合わせると、日本のその時代の文学の地方性=フランス・ロマンティシズムの都会性に対する=が感じられます。私は十二日の朝ここを立ちます。来るのはよいがかえすのはいやだとしきりにお母さんがおっしゃり私もその心持です。いろいろ、お味噌だの、かきもちだの草餅だの外郎(ういろう)だの小さいすりこぎだの頂いてかえるの。私を可愛がってくれた祖母が田舎から私にくれたものを思い出して、私は大層うれしがって居る次第です。
お父さんは腎臓に障害が起って居ります。やはり順々にそういう新陳代謝には故障が起るのですね。この手紙がここでかく手紙のおしまい。私が、こんな島田川の手紙をかくなんて、なかなかいいわね。では又。お目にかかる方が早いのだから、そのとき他のことはいろいろと。
〔欄外に〕この桜は室積の桜。潮風に匂う桜は大変ここら辺のより豊かに美しいと思いました。 
四月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
四月十一日。昨夕七時頃野原から電話で、叔父上急に右が痺れて口が利けなくおなりになった由。達治さん多賀子私うちのトラックにのってゆきました。既に昏睡(こんすい)です。瞳孔反応なし。今朝十時富雄さん帰り。三時(午後)克子大阪より。私は明日の出発をのばして御様子を見、且(かつ)お世話をいたします。血圧二百二十。この前の発病は百八十であったとのことです。第一信 
四月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
野原伯父上今度の原因は、日頃やはりお酒を相当あがっていたところへ、昨日は好天気だったので、ひなたで植木いじりをしていらっしゃり、夕方大変いい心持で、風呂に入ろうなどいって居られたところでした由です。「おせん、右へ来たぞよ。おれは奥でよこになるから駅へ電話かけえ」とおっしゃったきりになった。あなたのお手紙のことを改めて申上げたら、もうこれから絶対やめるといっていらしたというのに。 
四月十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十三日島田。晴天、暖し。
野原伯父上の御急逝には実におどろき入りました。さぞびっくりなさり御残念でしたろう。前後の御様子をかきます。
この前の手紙で書いたように、私が着いた日、光井からお出かけになり、いろいろの話をし、愉快そうに夕刻までいておかえりになりました。それから三四日して、私が午後から伺い、おそいお昼をメバルで御馳走になり、お母さんのお云いつけで、お墓詣りをすると云ったら伯父さんも一緒に出られました。村会議員の選挙などの話があってひとが来たりし、夕方私がおいとまする迄、やはり面白そうにお話しでした。「自分はいろいろ悲観するようなときは百合子さんの笑い顔を思い出して元気を出す」そんなことを云っていらしった。家の整理についてのお話も出ました。土地六百坪一括しては買い手がつきにくいから区画して手ばなしたいとか、鶏舎はよそへほぐして売るとか。
そのときも、私が着いた日も、伯父さんは私の前ではお酒召上らないが、やっぱり上っているらしい様子なので、よくよくそのことを申上げたら、タバコはやめにくいが酒はなくても平気と云っていらしった。あなたのお手紙にあったことを私は自分の出発の時刻をお知らせするハガキにわざわざ改めて書いて上げました。
九日の夜、私は十二日の上(のぼ)りの寝台券を買った。十日の午後七時頃、夕飯をたべようとしていたら、野原から電話。伯父さん口が利けんようになったから、多賀子をかえしてくれ云々。氷と氷枕を買って戻れ。
達治さんが丁度いて、私は心配だから一寸様子を見て来て注意することがあればして上げたいと、トラックで三人でかけました。冨美子をたった一人の対手で伯母さんはあわてていらっしゃる。中庭を隔てた日頃のお寝間に行って見ると、一目で昏睡であることが分りました。やがて医者が来て、瀉血(しゃけつ)を五勺ほどし、尿をとり、血圧を低めるための注射をしました。そして小一時間の後かえったら、激しいケイレンと逆吐(しゃっくり)が起りました。その時からずっとお顔の様子がわるくなった。私は富雄を呼ぶこと克子を呼ぶこと等一時頃までいろいろお世話しましたが、どうも御容態が思わしくないので、次の日の朝、貴方に電報した次第です。十日の日は暖かった。伯父さんは上機嫌でひなたで竹の鉢植をこしらえるためにお働きになった。そして、夕方珍らしく飯がうまいと、五杯もあがり、あと、よそから来た餅を二つあがった由。そして、そろそろ湯に入ろうかというとき、急に右がしびれ出し、こっちへ電話をかけるよう指図をして自分で床へお入りになった。冨美子が枕元についていたら「おや、目が見えんようになった」と仰云った由。それ限りでした。
翌十一日は母上がお見舞にゆかれ、私が家でお父さんの守(もり)をしていた。午後三時すぎ母上おかえり。やはり時間の問題と思うとのことでした。医者も今明日が危期という。お父さんは丁度九日位に血尿があって、それが鎮静していらっしゃるが、これらのことで興奮なさり、食欲不振でした。カンシャクも起った。それやこれやを話して、私は本をよみながら裏で風呂を焚(た)いていたら、様子がわるいからすぐ来てくれという電話です。母上、今おかえりになったばかり。すぐ達・隆がトラックでゆきましたら隆がとってかえして来て、もうおなくなりになったとの報知です。呆然としました。それから母上、私、隆と野原へ出かけました。出かけようとしたら、父上、母さんを呼び止め、「俺がゆかれんから二人分してやってくれ」とおっしゃったそうです。隆治さんは初めて近親の死に会って非常にショックをうけました。激しく泣いた、私は、涙が胸の内側に流れるようで。(もっと複雑な感じ。時代的にも人生的にも様々の思いの輻湊(ふくそう)した)
富雄さんは十一日の朝、克子は御臨終の直前にかえりました。講中の人々が来ている。あわただしい人の出入り。母上と私とは二時すぎまでお通夜をしてかえりました。私は私たちにとって一方ならない御縁の方であるからずっとお通夜したいと思ったけれども、お母さんが私の盲腸がわるいのでお許し出ませんでした。十一日に隆に託してお見舞を十円。御香典には貴方のお名前で二十円。
私が来ていたうちに全く急にこういうことになったことを、皆と単なる偶然ではないように話し合っていました。百合子はん会うたのは顕ちゃんに会ったもホンついじゃから、因縁(いんねん)じゃのう、しきりに伯母さんも云っていられます。伯父上としては御苦痛なく、あの家でおしまいになり、あの家から葬儀の出たことはマアよろしかった、お母さんのそういうお言葉には私も同感です。
御年五十四歳、母上より一つお若いのです。
十二日のお葬式には最後のお寺詣りまでずっとお伴しました。今十三日はお骨上げです。うちからは達ちゃんが行って居ります。野原の家、屋敷は只今は兼重萬次郎という人の手に入っていることになっています。しかしこの人はお母さんのよく御承知の人物で、自身の権利として二千円ばかりのものを回収すれば、あとは若し余分が出れば遺族に上げると申して居り、それは信用し得るそうです。
富雄さんは広島へ帰るのをいそいでいるが、伯母さんや冨美子はこっちの整理つき次第広島にうつるでしょう。克子は大阪の、こっちのお母さんの従弟とかの家にここ三四年行って働いて居り、又そこにかえりそこから結婚の心配もして貰う方針です。多賀子は未定ですがここに手つだってやはり身の振方をつけていただく方がよいかと考えます。お母さんもそのお考えで、冨美子は出来るから師範に入れるプランであった。それはその方がよい。富雄の生活は確実性がないから。未だ申しませんが、伯父さんの御厚情を考えて、私たちは冨美子の学資を何とか助けてやりたいと思って居ります。たとえ少々でも。貴方も御賛成でしょう。十四日にあっちの若い人々が来ます。又いろいろ話しましょう。そして、私は十五日に立ちたいと思って居ります。
父上はずっと平静でいらっしゃるから御安心下さい。尿も血がなくなり量も殖えましたから。 
四月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十三日島田。
さっき書いた手紙を出して貰い、寝台券をとって貰いました。十五日に立つことに決定しました。
昨夕は御葬式がすんでから(こっちの家でそれは負担なさいました)克子、多賀子、達治、私、座敷でいろいろ話した。玄関から台所の方はずっと襖をとり払って大広間とされて居り、近所の人々が酒もりをしている。その声が中庭越しにきこえる。裏へは急造りのカマドが二つ出来ていて、湯殿の前のところへ台を出し、附近の子供が二十人近く石ころ、レンガ、薪をこしかけにして御飯をよばれている。おっかさんたちが手伝いに来ているからでしょう。
話しているところへ伯母さんも来られ、私がつくという話がわかったら、伯父さん一方ならないおよろこびで、島田の二階の方はさむいが、炭とりがないから一つこれをかしてやろう。花も好きだが、あっちにはないからこれを、と、わざわざ炭とりと花瓶とを運んで下さったのだそうです。私はそうとは知らなかったが、この炭とりには重宝して、本当に伯父さんがおっしゃった通り、そこから炭をついで一寸した書きものをしたりいたしました。花瓶も、お母さんがただ野原からくりゃりましたとおっしゃったが、私を歓迎のためとは知りませんでした。どこまでも伯父さまのやりかたですね。
それからあっちへ遊びに行ったとき、私はあなたがおっしゃったことをもつたえ実際的の話を伺いたいと思ったが、簡単におっしゃり、楽観的におっしゃるぎりで、それ以上つっこめませんでした。こっちのお母さんのお話で、講以外に負債がおありになり、あの土地を処分するしかないことは分って居りましたが。
野原は今の交通関係では昔とちがって全くの閑地ですね。あすこは隠居地です。
お葬式は御承知のとおりこっちの真宗(西本願寺なむあみだぶつ)の式で万事やられました。様々の習慣がちがうから、私はお母さんのあとについて、白いカツギをかぶって、白と緑の造花をもってお墓へおともしました。達ちゃんと富ちゃんが組んでいろいろのことをしました。隆ちゃんが真先に道あけあんどうというものをもち、母上、私、女の子たち、僧侶、富ちゃん、お棺、達ちゃん、それから伴の人という行列で、豌豆(えんどう)が花咲き、夏みかんがみのり、れんげの花の咲いている暑いような陽の道をお墓へとねってゆきました。そこで式があり御焼香があり、それから火葬場へおゆきになり、私たちはかえったわけでした。
又うちで読経、焼香、御膳がでて、親族のものだけお寺二つへまいりました。町の中のと、山の高いところのと。その山のお寺には白と紅の芍薬(しゃくやく)が花盛りで、裏を降りてくると松林の匂いがしました。海はすっかりかすんでいた。そこで紫のスミレを二つつみました。今にお目にかけましょう。伯父さんのような方にふさわしい晴れて花のあちこちに咲いた日でした。 
四月二十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(はがき)〕
四月二十日夜。きょうの午後慶応大学病院へ行って、盲腸の手術のことについて、以前から私の体を診て貰っている医者に相談したところ、切開することは中止するようにとのことで、手術はおやめです。目下盲腸は癒着(ゆちゃく)しているからつれたり何か無理がゆくと工合わるい程度であるのに、余り丈夫でないのに切るのはというわけです。御心配なさっているといけないから、とりあえず。 
四月二十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十一日、荒っぽい風の日、こういう風は大きらい。
むしむしとして、埃いっぱいで。落付かぬ天気ですね。きのう夜ハガキを書いた通り、私の盲腸は手術しないことになりました。自分では弱い体という風に考えずにいるのに、もし万一という条件がつくとは何だか可笑しいようです。盲腸もこう癒着して居れば、急に腹膜をおこすこともそうないだろうということだから、マアいいにしておきます。今、ベラ・ドンナという鎮痛のための薬を少しのんで居ります。あなたの盲腸はずっと納って居りますか?私はどうしても貴方の生きていらっしゃるうちは生きていたいから、荒療治はおやめです。島田で苦しいのを我慢しながら、お父さんの診察に来る裏の何とかいう髭を眺めていたら、心細くなって、一そ切って置こうと思ったのでしたが。
そういえば、お目にかかったとき、厚着していらっしゃるように見えたのですが、ちがうかしら。今年、もしお体の事情がすこしましであったら、そろそろ皮膚の抵抗力をつよめるようにしましょうね。
島田が、私の故郷のような感じになって、ときどきチサの和えものだの、新鮮な魚だのを思い出します。島田川の岸の景色も心にのこっている。お父さんは、私がのませると薬をあがり、ほかの人だと、ぶってこぼしてしまったりなさる。安着の電報に添えてチチウエ、オクスリヲヨクメシアガレとうったら、この頃お母さんや達ちゃんたち、閉口するとそれを護符のようにもち出す由。あなたからも、この薬をのむことと、お小便をとるための袋をおつけになることの必要をよく云ってあげて下さい。今日、この袋はお送りするのですが、おむつではどうしても不潔で細菌が犯し、膀胱(ぼうこう)カタルを猶悪化させますから。きのう慶応でいろいろ訊いて来たことの一つです。すっかり腰が立たなくおなりになったことが膀胱の活動をも鈍らせるのだそうです麻痺によって。お父さんは、そういうものを五月蠅(うるさ)がりになるのです。
お父さんは何という直情径行の、そして一面弱い方でしょう!何と弱い方でしょう!貴方が少年時代から恐らく感じていらしったろうと思う種々の感情の明暗が、今度三週間暮してかなり推察されました。達ちゃんと隆ちゃんとでは情感の動きかたのタイプが違います。達ちゃんは常識の平面を横に動く。隆ちゃんの天性は縦(たて)の方です。生活が体をつかって、かえれば食べて眠くなる生活だから素朴な表現をもっているが。隆ちゃんはどこか貴方に似て来ている。
島田は確に昔より楽になって来て居ります。そのためには実に尽大な努力が払われ、やや小康を得て、すこしは家の気分にくつろぎが出ている。父上も寧ろ今は仕合わせな病人でいらっしゃいます。この半面には、この調子を保って行こうと欲する、極めて自然な要求が心のどこかにあって、それは、結果としては万事事なかれ風なものになっている。人間の心持というのは何と微妙でしょう。休息が今肉体的にも入用なのであるから、或意味で神経を鎮める上にも、自然の作用なのではあろうけれども。――私のしてあげる一寸したことでも実によろこんで下さる。すまないように悦んで下さる。よろこぶのを待ちかねていたようによろこんで下さる。そして、そんなによろこばれながら、そのよろこびは、全く日常性の範囲にだけガン強に限られていることを強く強く感じるのは何という悲しいよろこびでしょう。私はこれまでこんな感情は知らなかった。理屈に合わぬことは合理的なものの考えかたというところから話してやって来た、自分の親などにはずっとそうしてやって来た。
いろいろの点から、実にためになりました。本当に行ってよかった。これまでの私の生活の中にはなかったものが見られたし、接触出来たし。
一つ傑作のエピソードを。
或日、タバコ屋の方で人の声がする。前掛をかけた丸いユリが出てゆく。「バット一つ下さい」それが爺さんで、ユリの顔を見てはにかんだようにする。「ハイ、どうもありがとう、二銭のおつり」爺さんやっこらと腰をかけ、バットをぬいたがマッチをもっていない。「マッチがいりますね」わきの棚を見ると、マッチが沢山ボール箱に入っている。「ハイマッチ」「いくらです」見ると一銭とある。ユリ何心なく「一銭だが、マアいいその位のもんだからつけときましょう」「ハア、それはどうもありがとう」爺さん満足してかえる。ユリ、のこのこ中の間の方へ来かかりながら、オヤ、アラ、と気がついて、あああのマッチは売りものだったんだ、一銭だってとらなければいけなかったんだ、と気がついたときは、もうおそい。バット一ヶは利益八厘でしょう、一銭のマッチをつけては二厘損したわけになる。ユリ、ひとりで襖のかげで口をあいて笑ったが、お父さんにも母さんにも云う勇気なし。以上、傑作お嫁の商売往来、秘密の巻一巻の終り。
一巻の終りと云えば、島田へ野天のシネマが来て、二人と多賀子と野原から来ていた冨美子をつれて宮本武蔵を見にゆきました。島田では『大阪朝日』をとっています。そこに学芸欄というものは殆どないの。武蔵や連載小説が、関心の中心です。地方文化ということについて非常に考えた、又私はあっちで作家ではなく嫁のみであるという在りようについても。やはり文化のことを考えました。実にいろいろ面白い。活きた圧力です。では又。どうか風邪をお大切に。あっちから廻送されるお手紙が大変に待ちどおしく思われます。 
四月二十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(クロード・モネの絵はがき)〕
二日ばかり前の細かい雨の降った日、新緑の濡れている色が美しくてうちに居られなくなりずっと歩いて土管の沢山ころがっているところの方を散歩しました。カラタチの花が高いところに白く咲いていた。小さい家が樹のかげにあった。入れた袷(あわせ)は鶴さんとお揃いです。ネマキは母上から。襦袢は島田で私がそうやっているのもよく似合うと云われつつ縫ったもの。 
四月二十九日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
〔欄外に〕今日は休日で隣家に子供と遊ぶ父親の声がする。
島田のをぬかして第何信になるかしら。教えて下さいまし。
『文芸』に山本有三論のようなものを書くために、この間うちから殆ど全作品をよんでいて、昨夜それが終り、今日から書こうかと思っていたがどうもつまらない。有三の正義感というものの根源を明らかにすることが私の眼目なのだが、その根源がまことに云わば日常的で。――
四月十七日にあなたが島田宛に下すったお手紙うれしく、あなたがよろこんで下さることがうれしく、くりかえしくりかえし拝見しました。私に与えられたヨシヨシについても。ありがとう。私は島田からは多分第五信ぐらいしか書いていないと思います。殆どもう皆御覧になったわけね。その後お母さんのところからは頻りにお手紙下さいます。大阪からかえって来ている克子さんがお嫁の話があるのでこちらにいて島田の方をお手伝いしている由。富雄さんは広島へ戻って居り、土地の処分は、比較的有利に行きそうな由。
お父さんも、野原のことでは突然であったし、大分ショックをおうけになりましたが、それが鎮り、この頃は熱もおありにならないそうで、これは何よりです。熱がつづくと疲労するから。その点で私はひそかに心を痛めていたのだったから。送ってあげたゴムの袋は大していやがらずにつけていらっしゃいますって。あなたもよくお使いになるようおすすめ下さい。お母さんが大きな洗濯物のために川にゆき、まして梅雨にでもなれば本当にお困りなのです。でもよかったわ、お気にかなって。
貴方は、蔵の前の漬物小舎をこわした話、前の手紙で書いたこと覚えていらっしゃるでしょう。あれが新しく建ったそうです。台所口から庭へ出たところにイチハツの花があるのを覚えていらっしゃるかしら。その花が白く咲いたそうです。その花や、大きな茂みになっている赤いバラの花が、今年は広々としたガラス障子越しに見えるわけですが、その障子にガラスをはめた人は、ほかならぬあの縁側のところから、往年泥棒と間違えられて貴方におっかけられた人です。何という罪のない可笑しさでしょう。何と思ってあすこのガラス入れたかしらと思って。その夕方(何年か前の)中気になったお婆さんがあったでしょう?そのお嫁さんが今病気全快して店にいて、帰りに柳井まで一緒に話しながら来ました。
顕さん顕さんと云って皆が私に話します。(タオルもってお辞儀して後は)そして、私は東京のお后(ゴー)さんよ。いつか達ちゃんがお父さんに私をさして「あれだれで」ときいたら、お父さん何とも云えない笑顔で、「ユリちゃん」と仰云った。でも私をお呼びになるときは「東京の、ちょっと来て」です。「お父さん、面倒だからお后のかわりにおユーとおっしゃいましよ」そう云っても今度はまだよ。いつかおユーとおっしゃるかしら。
寿江子が今度はすっかり留守番をしてくれました。昨夜鵠沼へかえりました。一ヵ月以上ここにいたわけ。それから二日ばかり前に伊那からお久さん[自注13]という女中さんが来ました。いろんな友達が心配してくれて。三十日一杯でこれまでいたのがかえります。おひささんに縁があること。眼鏡をかけ、うたをうたうのがすきな十九の娘です。女学校を出ている。稲子さんの心配です。
私の盲腸は切らないことに決定したので、野上さんが盲腸の余後にのんだ薏苡仁(ヨクイニン)湯という漢方の薬をのみはじめました。ききそうです。のみ難(にく)いもの。さし当りの仕事としてその有三をかき、『改造』へ四五十枚の小説をかきます。今月は、それでも白揚社の本が出たので何とかやりくれましたから御心配ないように。本当に今度は六芸社の本にしろ思いがけない役に立ちました。待望の書として六芸社のはレビューされています。
『冬を越す蕾』と今度のとの間には大きい成長が認められている。そのことも当然ではあるが、私としてはやっぱり少しは安心してもいただきたいと思って。
林町の連中には、私がかえってからまだ会いません。あっちが国府津へ行って居たので。太郎にお母さんが下さった大きなコマをもって近々出かけます。栄さんは「大根(ダイコ)っ菜(パア)」という子供を主題した独得の小説をかきました。これは面白い。稲ちゃんは地方新聞に長篇をかいています。これもよい修業です。M子は毎日よく働いて月給四十円になりました。うちで御飯をたべている。
この頃、二階の北の小窓から見ると欅(けやき)の若葉が美しくて、美しくて。新緑の美しさは花以上です。お体は大丈夫なのでしょう?近いうち、活々とした初夏の模様の手拭とすがすがしいシャボンをさしあげます。それらのものはここで新緑をうつしている皮膚の上にも。
仕事をすましたらお目にかかりに行きます。

[自注13]お久さん――埋橋久子。信州の人、目白の家で三年間位百合子とともに暮した。 
五月六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(外国風景の絵はがき)〕
五月六日。何というひどい風が吹いたことでしょう。きのう「山本有三氏の境地」三十九枚ばかり終り。本気で書いた。お体はいかがですか。私はこの二日ばかり前から一日二ヶのリンゴを励行しはじめました。一日に二つリンゴをたべて二年経つと体が変る。それほどよい。私はそれをやる決心をしたのです。努力して継続するつもりです。貴方もおやりになってはどうかしら。 
五月十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月十六日日曜日第十四信
きのうの朝九時頃目がさめて下へ来て長火鉢の前のテーブルへ来ている手紙を見て行ったら、ハトロン封筒があり。おとといのお話で少くとももう二三日は先と思っていたのでうれしく、何だか案外早かったように感じられたが、落付いて見れば、書かれたのは七日なのですものね。
あの日、お目にかかって外へ出たら雨になっていました。そこで私は傘と一緒に持っていた黒いフクサ包から別の下駄を出して、草履をしまって、玉子のことや何か云いつけて、珍しく戸塚へゆきました。二階の大掃除をやって古雑誌が出た、面白いものが出ている。長椅子の上にのっかっていろいろ話し、御飯を食べ、それからフラフラ散歩して新宿へ出たら、丁度時間があったので「裸の町」という文芸映画を2/3見て、高野へよってかえりました。日本の映画も追々心理的なものを捕えて表現しようとしているところへ迄来ている。だが、まだまだ不十分。女の内的なものの表現が弱いのでこの作は大分弱くなっている。チャンバラでないものを作ろうとする努力に対してはこういう試みも支持されている訳です。文芸映画の陥る危険は散文的なものと映画的なものとの区分の不鮮明さですね。
タカノの店がすっかりひろがって派手になりレビュー的セットになってから私ははじめて――だから去年以来はじめて。美しい果物は万惣をも思い出させ野菜サラダの味なども思い出させました。
一昨日は、島田からかえって一仕事マア終ったしお目にもかかったし、いね公曰く「きょうはやっとホッとしたでしょう」きのうは何とあつかったでしょう。土曜日で昼迄働いた若い女の人たち数人遊びに来ているところに手塚さん市川苺(いちご)をもって来てくれ、暫く皆と話し、運動ズボンを買うとか云って新宿へ出てゆきました。戸塚の二人は別々に勉強部屋をもっていることをお話ししましたかしら。妹さん夫婦が転任になって来たので近くに一軒もってその二階に鶴さんがいます。御飯はこっちの家。細君の方は二階に大体ひとり仕事するようになった。でも出入りで、やっぱり昼間はザワザワしているが。――
きょうは又斯うして霧雨で、しずかで、私にはいい日曜だが、体には全くよくない。どうか呉々お大切に。実はなどと、汗をとっていらしたところを歩いて来たりして。――夜はよくおやすみになりますか。おかゆは十日分。パン一日おきは本月中云いつけておきました。本も注文してお送りいたします。私の方は薏苡仁(ヨクイニン)湯という漢方の煎薬をのんで、徹夜廃止で、早いときは十一時頃床に入って大いに自重して居ります。何となし少しずつましになって来る感じです。この前の手紙に申しあげたように今来ているお久さんという十九歳の信州の娘は淡白快活で常識もあり大変気が合い、私はお安さん以来の落付きです。そして兄の感化もあるのか、さっぱりして、安より明るい。私はこの好条件を十分活用して仕事をよくし、体を直すつもりです。どうか御安心下さい。
島田の家の事情が却って私たちについて物わかりよくしているとお手紙にあることは全く同感です。それは本当です。私は島田の家に深い情愛を感じて居ります。あすこには林町になど全くなかった生活の空気がある。
あなたが少年の時代から御自分の周囲に感じていらしったものと、私の周囲にあるものとは、社会での場処がちがうとおり質がちがっている。あなたの経験していらっしゃるものの中には(家族的に)皆察しのつく、そしてその条件ではやむを得ないと理解され得る質のものです。
私はあなたが周囲に対してもっていらっしゃる思いやり深さやさしさを殆ど驚く程ですが、あなたにはそれが可能な根拠がある。
虹ヶ浜へおつれしようという話も、かえる頃には不可能らしいとわかりました。お后さまは家をお離れになれないし、お父さんにはお后さまは不可欠である。そして店も。やはり活動の圏外にいることはおいやなのです。動かし申すだけ疲れるだろうというようなことで。――夏は葭戸でもこしらえ、新しいきれいな蚊帖(かや)でもあげようと思います。そして秋またゆきましょう。これは親愛な笑話ですがよくよく覚えていらして下さい。私が島田へゆくときあなたのお手紙で、ユリも暫く滞在したいと云っている云々とおかきになった、お母さん方の時間の標準で暫くと云いゆっくりと云うのは最少限一ヵ月なのよ。一ヵ月以上なのよ。私は笑い出したが何だか困ってしまった。わるくて。早くかえらなければならないと云うのが。長くいるように云って下さるの、うれしい。でも島田で仕事することは不可能です。だから秋に又ユリもゆっくりということは何卒保留しておいて下さい。ほんとうにわるいから。がっかりさせ申すのは。――野原にはよっぽど前、長いお見舞をかきました。仏壇の話も添えて。
あなたがこの手紙で本旨だけと書いて下すっていること、私の妙てこ理屈についてあなたが書いて下さるのは大変にいい。楽しみにして待って居ります。私はあれを書いたときの心持で今日は居ないから。しかし、ああいう妙な押し出しをしたことの根底には、私のバカなむきがあったのですよ、分っていらっしゃるでしょう?
あのとき貴方は、ユリが作家としての生活、その名の中では幾分安易な気分もあるだろう二つに足をかけている生活云々と仰云った、その言葉を、云われていない言葉の内容にまで入らず、そこに出ている角度でだけ、しかも全身的にうけて、私はあの当時の不快な条件もあったから、まるで一匹の山あらしのように苦しくなってしまったのでした。ああ、貴方が私にこういうことを云い得るのだろうか。今日良心をもって生きていようとする作家の努力を作家だから安易であるという風に概括出来るのだろうか。偸安(とうあん)的でない作家が、そして私のような愛情で生きている女が二つのもの(態度)に足をかけて、ふりわけで生活してゆかれるなどと思うということはあり得るのだろうか。等々
今になると、私にも自分の心持の観かたの主観的だったところは分って居ります。貴方が仰云ろうとしたことも分るわ。貴方にそれを云わした感情の本質も。私たちは、或ことを話し合うに一番適した場合=心持に=を選ぶことが出来ない、又表現を細かく行届かせて話すひまのないということのために、何という思いをしたことでしょうね。けれどもあのことは私にいろいろ教訓を与えました。
文学の仕事の上で、実質的な評価と他のものとの関係は丁度シーソーです。そういう時代である。私はそういうものに対して乱さず生活を押してゆくのだが、貴方に向うと私はどうもナムアミダブツ宗のようね。時々お数珠におデコを撫でて貰っていい気持になりたがるところがあった、アナ恐ろし。私の理屈がおくれていると仰云ることはよく分る、だが、私のような女でさえ、一番苦しいこと、一番我慢ならないと思う(主観的に)ことでムクレると、ああいう墨を吐くところ、(リクツのようなのは外の形だけよ)私は自分の日本婦人的事情を感じます。正体云々とお笑いになったが、私のみの正体でない。大変そのことを感じます。お手紙を楽しみにして待ちます。では又 
五月二十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(ゴッホの絵の絵はがき)〕
五月二十四日、雨が降りますね、きょう、やっと合シャツやセルをお送りいたしました。おそくなって御免なさい。『改造』の小説42マイは「猫車」という題。もう一ヵ月ばかり前のやはり雨の日、ぬれた青葉の美しさにひかれて歩きに出て雑司ヶ谷の土管などつんである辺を歩き木の下の小さい家を眺めたりしたことを書いたエハガキ御覧になりましたか。こういう大さのは手紙並なのを知らなかったから或は駄目だったかしらと思います。キレイな絵だったのに。―― 
五月二十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十九日小雨第十五信
きのう、二十五枚ほど「マリア・バシュキルツェフの日記」について書き終って、それを届けて、国男寿江と落合って、市ヶ谷へ行って夜具をとって来ました。ひどくなりましたね。あなたの御病気との悪戦苦闘を何だか感じるようでした。この次は、ああいう厚ぼったいのでない方が却っていいのではないかしら、綿が切れないで。いずれ又それは御相談いたしますが。
そちらはきっと当分いろいろ落付かないでしょうね。中川にははり出しが出て居りました。それでも何だかどんなところかしらという気がして居ります。今の予定では十日頃まで大変いそがしいからそれがすんで、そちらもお落付になった頃――二十日頃お目にかかりに出るつもりです。この間は、おそくなって差いれが出来ませんでしたから明後日ごろさし入れだけにでもゆくつもりです。もし都合がついたらお目にもかかりますが。――
お体はいかがですか。今年の梅雨は早い。私は徹夜廃止の励行で大分よいらしい様子です。薏苡仁(ヨクイニン)もききます。二日ばかり前お母様からお手紙で、お父上の御様子がましになったお話しです。何よりです。食事もお進みになる由。野原の家は整理までずっと住んでいらっしゃることになり、おせむさんの弟さんが同居なさる由。お葬式のときお目にかかっているだろうけれどもよく分りません。
今日、私は少しポケンなの。くたびれていて。今月は仕事がつまっていて、きのうまでに百四〇枚ばかり、一つも口述なしで書いた。このうち相当勉強したものが百二十枚ばかり。マリアの日記は千五百頁あるのを二日でざっと目をとおし。――
それでも、これだけ仕事の出来るのは、私の毎日が珍しく順よく運ばれていることのしるし故、その点本当に安心していただけてうれしい。(そして、テツヤしないのですよ!! )
おひささんという娘はいい子です。自然ですなおで日常に必要なだけ頭もよい。徹夜しないでやるのがうれしくて。うれしくて。その代り、今月は戸塚へ二度、壺井さんへ一度、林町へ一寸一度、座談会一、映画(3)、音楽(1)という位です。音楽のいいのがききたくて。私はどうもラジオや蓄音器の電化音が耳につらい。どういうのでしょう。下手でも生(なま)を欲する。ゆうべは本当に生(なま)がききたかった。ゆうべは珍しく非常に物語のあるしかも痛切な私たちの夢を見ました。その夢をそのまま書いたら、ひとはこしらえた物語というでしょう。本質が、その筋を貫いている。非常に美しい行為と涙とがあるのです。私の体を貫いたために、あなたは死んだようで死んでいないという風な。面白い。ああ、本当にそれが夢だということを、きいたら人は信じられないでしょう。私は滅多に夢を見ず、たまにこういう夢を見る。面白いわね。こまかい部分をきかせて上げたいと思います。では又。 
六月二十日〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所[自注14]の宮本顕治宛 目白より(封書)〕
六月十三日日曜日曇。第十六信
きょうは母の三年祭の日です。一九三四年の六月十三日は大変にカッと陽のてりつける暑い日で、父が迎えに来て杉並から胸に氷嚢を当てて順天堂に行ったら、十五分ばかりで母は亡くなった。あの日の暑さや光線や父の顔や、まざまざとして居ります。お祭りはきのうにくり上げてやりました。
ところで、あなたのお体はいかが?お暮しはどんな工合ですか。この手紙はまだ出しません。でもどうも書きたい。又連作にしてお目にかけましょう。
私はこの一月頃から半年ばかりの間に随分沢山評論風な仕事をしました。その結果、自分の仕事というものについて一層いろいろの理解がふかまって来た感じです。つまり、私は評論風な仕事における自分の特質というもののプラスとマイナスの点がはっきり分り、現在の自分として、どの位までのことが出来るかということも分ったのだと申せます。そして、まことに面白いことには、この間の手紙でも一寸申したように、自分の評論が先へ先へと押してすすめてゆく線を、今は作家としての半面がついて行っている(両方一足ずつチャンポンに前進する)ことが分った。こういう云いかたは私らしすぎるが――お分りになるでしょう?書いて行くということについても、何か一つ目がひらけたようなところがある。普通、芸術家たちは書くと云い、私もこの永い年月書いて来ているのだが、書くということは存在させることであるというのを、感覚としてまで感じているのはこの頃です。それが文字によって存在させられなければ、どんな作家の善意も努力も生活内容も存在として実在しないという事実は何とおそろしいことでしょう。書かれてはじめて、それが存在し、自分やひとに働きかけて来るものとなる。在らしめること。そのためには碎心(さいしん)しなければならないこと。何と面白いでしょう。この感じは評論のような仕事で、私が最近経験した一定の段階までの成長で、却って小説とのちがいとして自覚されて来たものです。私はこの点がわかって、何だか作家として底がもう一つ深くなったようなよろこばしさです。評論のようなものでは私は疑問をつらまえて最後まで手を放さずその矛盾や疑問の発生点をつきつめてゆくたちです。そしてそれは、研究というか、語るというか、とにかく小説の在らしめてゆく感じとはちがうものであり、小説が何とそのようなものであるかを痛感させるのです。
評論風な勉強は、自然の結果私自身に向っても小説の水準の引上げを課すのも面白い。私は当分小説にかかりきって、在らしめる術を行います。これから私は事情のゆるす限り自然発生的にあれこれの仕事に手をかけず、一年の或期間小説をかき、その汽罐車のように評論をかくという風にやってゆきたい。カマだけ一つで先へ行きすぎてしまうと一大事ですからね。大きい重い荷物をひっぱってゆかなければならないのだから。(こんな色の紙は珍しいでしょう?たまには目に変っていいかと思って。)寿江子は線路のむこう側に新築されたアパートに部屋をかりて鵠沼を引上げました。夏で家賃が上るから。うちで夕飯をたべさせます。
太郎はナカナカなものになりました。遊びに来て玄関をガラリとあけると「アッコおばチャン」とアーッコに独得のアクセントをつけて呼ぶ。アーッコは大きいの意味です。いろいろしゃべります。寿江子は糖尿の消耗から或はすこし呼吸器を犯されているかもしれませんがまだ不明(但、寿江へのお手紙にこれを書いて下さらないように)今月のうちに調べると云っている。私は徹夜しないしどうか御安心下さい。今日は日曜でラジオその他が寧ろやかましい。
十五日夕方。
六月五日づけのお手紙がけさつきました。このお手紙で見ると、私が五月下旬に書いた手紙はまだ見ていらっしゃらないのですね。お久さんが呉々も御親切にとよろこんで居ります。お久さんは三度たべます。私は二度だが。島田の方へは今日お母さんのお気に入りのハブ茶と中村屋の柔かい甘納豆とをお送りいたします。ハブ茶は野原の方へも。中村屋のザクスカはこの頃ちっとも食べず。寿江子はきのうアパートへ荷物をもって来て、さっき見に行って来たところ。東と南が開いていて落付きます六畳で19円。夕飯をすましたら銀座の三越へカーテンを買ってやりにゆく。目下小説についてコネ中。可笑しいことにはこの三日ばかり前から一匹の猫がどこからか家へ来るようになりました。おとなしい灰色と白。夜は皆猫を大して好かないから閉めます。すると、朝私が茶の間に坐ると出て来て決してよそにゆかない。この猫は随分間抜けです。猫なんて好かない人にこんなになつくものでないのに、可笑しい奴!今これを書いている足のところに丸まっています。そしてニャーゴォなんかと鳴けず、変な声でギューギュー鳴いている。
M子は近所のアパートへ四、半の部屋をかりて暮すことになりました。四十円の月給とりです。自分でとる金で自分の生活をやって見ることが必要だから。
十六日の午後曇。よそでピアノの音。仕事をこねている。大体まとまる。そして、気持がのって来る。
二十日の夕方六時。
今日は日曜日で、うちはワルプルギスの夜ですよ。寿江、M子、その他の連中が集って来ている。いよいよ仕事にとりかかる。昨日はそちらへ徳三さんの細君が初めてゆくので案内がてら様子を知るためにゆきました。この手紙いつ頃御覧になれるのかしら。
暑くなりましたからお体を猶々御大事に。単衣(ひとえ)をお送りいたします手拭シャボンと。では又。

[自注14]巣鴨拘置所――一九三七年六月十一日、顕治は市ヶ谷刑務所未決から新築落成した巣鴨拘置所へ移転した。 
六月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月三十日雨第十七信
私たちは同じ区内に住んでいるのに、お手紙はやはり半月かかってくる。何と不思議のようなことでしょう。十六日づけのお手紙ありがとう。蒲団の綿が切れていた原因についてはまことに何とも申しようなし[自注15]。私は心からあなたの膝小僧を撫でてさしあげます。
十九日には徳さんの細君についてそちらへゆきました。そして一寸差し入れをしておいたが、あとはそちらでもうおやれになっているでしょうか。合シャツは去年のよ。昔のはもう使って居りません。ギューギューというのは洗ってちぢんだのかしら。中野さんはあの字典を『中央公論』に書いた小説のお金で入れてくれたのです。鶴さんは大変まじめによい仕事をして居ります。あのひとは私が徹夜がいけないとかいろいろいうと、常識を笑っていたが、この頃私のいうことも本当と身にこたえて来ているらしい。熱は出して居ります。稲ちゃんずっと書いています。すらりとしてあの人らしいもの。とにかく私は、この夫婦を実に大切に思います。私にみになるような気付を云ってくれるひとは外にない。六芸社の本[自注16]などについて批評を書いた鶴さんの文章は、友愛の珠玉です。
私は二十日頃から仕事をはじめ、小説だけにかかってずっとやっている。毎日いくらかずつ書いて。沢山の時間を考えて。本質的に勉強しながら、自分を発育させつつ学びつつ書いて居ります。徹夜はしてはいないけれども、小説を熱中して書いていると、そこの世界が二六時中私によびかけて招くから、気が立って、頭が燃えて、床の中でやはり長く眠らない。しかしそれはお察しのように愉しいし、その時間は有益なのです。あなたに喋りかけて、そうでしょうといったり、ひとりあなたのこわいろをつかったり、いろいろ芸当があるのです。そして、猫と遊ぶ。この猫は前便に書いた猫、ひどい好人物的猫で、猫を好かないものの家にいついてしまいました。仕方がないから戸に切穴をつくった。仕事をしていると別の椅子の上で丸まって他愛なく眠っている。夜中になると黒い真丸い、美しい表情になって、私が下へおりるとついて二階にあがって来る。犬の子のように先へハシゴをかけ登って。ところが私は何としてもニャーを寝るところへは入れられない。いやなの。下へおろすに、一寸遊ばしてホーラ、ニャーと足袋を片方下へ投げると、この猫はいそいでおっかけて降りる。その間に私はかけてスイッチをねじって障子をしめてしまう。このような余興。
島田がおよろしいのは何よりです。この時候のわるいことは、だが、何ということでしょう。
六月に『文芸』へ「山本有三氏の境地」という作家論をかきました。勉強して書いたの。
それから今、ウィーンのワインガルトナーというオーケストラのコンダクタァが夫人と来ています。二十八日にききに行った。いろいろ芸というものについて、こういう出来上った大家の持ちものを観察したわけですが。ベートーヴェンの第六シムフォニイ、田園交響楽というの、あれはやっぱりその理解の点でききものでした。貴方も覚えていらっしゃるでしょう?あの曲。静かな小川のほとりの部分もよく、特に楽しい農夫のつどいの部分(雷雨になる前の)、あすこはヨーロッパの村の祭、そこの音楽、雰囲気、ビール、踊、その気分が絵画的なまでにつかまれていて、私はききながらドイツの十七八世紀の風俗画を見るようでした。日本の楽人はこういう生活感情がないから、いわゆるベートーヴェン式に把握して、ロマンティックな自然感だけを描き出します。面白かったのは、その細君のカルメン・ワインガルトナー夫人の指揮です。ヨーロッパにも女のコンダクターは一人か二人です。いかにも細君風なの。バトンをもって立ったところが。ドメスティックなの。そして手法は非常に年長で大家である先生・良人に従っているので、何だか生粋でもないし、その人は感覚もないし、刻み目、つっこみが浅く、いい人であることと、いい芸術家であることとは必しも一致しないという実例でした。暖い感じの人なのだけれど。なかなか暗示の多いところです。一つもピリッとしたところがない。女であるだけ私は残念でした。主観的にはまじめなのです。もちろん。こういうことも私は、前便で書いた、芸術は在らしめること、客観的に在らしめなければ、どんなよい意図もないに等しい、というあのことを感じ直させました。カルメンさんはあんな偉い人の細君だから、一つ背中をぶってハッとさせて、帯をしめなおさせてくれるような人はいないかもしれないから気の毒です。私は云ってやりたいが、素人だと思って、やっぱりきかないにきまっている(これは冗談)。
私はこの頃、あなたにかぶれて、或は刺戟されて、時間というものを実に内容豊富につかいたくてたまらない。仕事というものがわかってきた。時間がすぎてゆくその感覚なしに、のんべんだらりとしていられると、SUでもジリジリしてきます。私はよく仕事して、休むとき音楽がやれたら本当にうれしいのだけれど。私には文学・音楽・絵の順ですね。今仕事五十枚。半分。十日までにもうそれぐらい。チェホフは仕事にぴったりする気持を、紙と平らになるという表現でいっている。落付き工合を現わしてはいるが。私どもはもっと角度をもっているな。ただ平らではない。心の角度があって、いわば彫り出し、築き、現わしてゆくので、彫刻的な精神労作だから。平面をかいてゆくのではないから。ペシコフは単純に、夜灯の下でやるこの苦しいそして楽しい仕事といっている。何とそれぞれその人でしょう。私は何というでしょう。昼間の平均した光の裡で、刻々に人生を再現してゆく、そのむずかしさ、楽しさ。私は本当にまぶしくなく、さわがしくない昼間、誰にも邪魔される心配がなくて、せかずに書いてゆく心持は名状しがたい。時々改正通りが一筋ひろくそっちへつづいている様子など思いながら。
あなたもお忙しいでしょうが、どうか時々は私を夢で訪ねて下さい。シャガールの絵ではないが、いきなり天井をぬいて、こぼれていらしってもびっくりはしませんから。林町の連中にはよろしく申します。アヤメとツバメの手拭はうちにもつかっています。あのシャボンの匂いはさっぱりしていると思いますが、どうだったかしら。

[自注15]何とも申しようなし――拘置所の監房がせまいので、足がつかえ、顕治は膝をのばして寝たことはなかった。
[自注16]六芸社の本――宮本顕治『文芸評論』。 
 

 

七月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十一日日曜日曇、小雨第十七信
さて、きょうは私たち、この小さい仕事部屋で久しぶりに二人っきりです。おととい仕事をすまして、きのうはくたびれていたが三越へ行って野原へあげるものを見て来て、きょうはのびのびとして貴方とさし向い。
一昨夜の晩は豪雨がありました。割合におそくなってから。林町から自動車でかえって来たら、豪雨沛然(はいぜん)たる夜のなかに、連って光っているあなたのところの電燈が眺められました。きのうは可笑しい日でね。くたびれてポケンとしていたものだから健坊とタア坊のお土産に買ったマリと、あなたのために涼しい下ばきを買ったのをタクシーの中に忘れてしまって、いねちゃんのところの玄関でター坊に歓迎の声をあげられて、ア、忘れたと又戸外へ出たがもとより後かたなし。でもマアどこかの子供とあの男がよその知らぬ人の計らざる御中元を貰ったのだからいいと思いなおしました。まして、その自動車はボロでしたから。
健造とター坊は私が仕事にくいついていて二十日ばかり現れなかったら、この頃来ないね、と云い、二銭ずつ二人でためて私のところへ来ると云ったのだって。私はそれに心を動かされて、先ずマリを買って出かけたのに。――そのうめ合せにきのうは其から二人の子供をうちへつれて来て御飯をたべさせて、おひささんに送らせようとしたら、たよりなさそうにしているんで又私が送って行ってやって。健造たちはさしみがすきなので御馳走してやったら、その一切を特別なお志をもって猫にやりました。この猫何ていう名なのかい?名はないよ、オイオイニャーと呼んだり、わるさをするとネコ!と叱るよ、と云ったらフームという。名をつけてやっておくれ、そしたらその名を呼ぶからと云ったら、健造考えていて、きまりわるそうにしていてミミと縁側に書いた。何かの話に出て来る猫の名でしょう。ター坊に、兄ちゃんが猫にミミって名をつけたから、家へかえってお話し、と云ったらター坊、あたしが話してやる健ちゃんきまりがわるいから、だって。六つと九つの兄妹。大変に面白く、そして林町の太郎のようにスポイルされていないから、いかにも「小さい人々」で心持よい。子供たちの母さんは『婦人之友』への小説できのうは大忙し。私のは『文芸春秋』。新聞の方も母さんはつづけていて、前月は先方が金を渋ったのでねじこんだが、今日は一ヵ月先どりしたから、とキューキュー云っている。まあこんな工合ですね。
あしたお目にかかるのだけれどもお体はどうでしょうか。この間の暑さ!六十年ぶりの由。私は腕の汗が机にきしむので手拭を当てて仕事しました。苦しくおありになりませんでしたか?氷の柱をあげたいと思った。それからフーフーあつい番茶を。夏ぶとんは不用のように仰云ったけれども、心持のものですし色彩のものだから二日ばかりのうちにタオルのを入れます。しぼりの浴衣はいいでしょう?きょう袷せ類が着きました。
先月から今日までにかけての私の仕事は、いくつかの新聞に短いもの三つ、映画批評三つ、中国における二人のアメリカ婦人=スメドレイとバックのこと、社会時評のようなもの一つ、小説。すべてで枚数にすると百五十枚以上。これから二十日すぎまでに短い小説を一つに文芸時評一文化時評二つだけはいや応なしです。なまけて居ないでしょう?それに小説について、私は、「雑沓」、「猫車」から今度のにかけて、少し発見したところがあります。いつぞやあなたが作品の実質で漱石や鴎外ならざる時代を語ることについて書いて下さったことがあった、ああいうことも原論としてはわかっているのだけれども、書いてゆくそのことで新しい世界をひらいてゆくこととは、考えて分っていることとやって見てわかっていることとの間に在る微妙なちがいのようなところがあって、そのやって見てわかるところが漸々(ようよう)身について来たようなところがあるのです。本当に今年は沢山小説を書こう。作品の中に作者の肌と体温と現実の社会的血行がうずいているような作品こそ書きたい。書いてゆくに際して、そこまで出し切れる迄修練したいと思う。私の持っている作家的水準は決して単純に低いとは云えないものであるが、私が自分に求めているだけの闊達(かったつ)さ、強靭(きょうじん)さ、雄大さはまだわがものとしていません、まだその手前での上手(うま)さであり、確(しっか)りさである。
昔の小説家が主観的な力(りき)みで、そういう箇性の範囲での闊達さに到達した、そういうのではない内容での闊達さ、美、簡素な力、そういうものが本当に欲しい。そしてそれは作者の生きかたからだけ求められるものですからね。こんどの小説を書いて行くうちに何だか私は自分のリアリズムの扱いかたが高め得る方向を見出したようでうれしい。どうかこの方向がのびるように!
一生懸命に努力し、自分に与えられる賞讚や批判の中からむだなく養分を吸って育ってゆく、その生活感は何とよいでしょう。自分の努力、自分の熱心、そういうものが、とりも直さず真心からの愛と一致し、その具体的な表現であるとさえ感じて(その経験と摂取において、自分の目に入れこになっている眼を感じて)、信じて生活してゆけることは、何と貴重なよろこびでしょう。私を努力させる力、私を生かしている力、それは何という根づよい強健なものでしょう。抽象的に書いて何だか妙だが、おわかりになるわね勿論。私が絶えず探し求めていて、自分を一層ひろげたり強めたり本ものに近づけたりする小さいキッカケでもピンと来たときどんなに私はあなたと共に其をうれしく思うでしょう。ありがたいとさえ思う。つまりこれらすべてのことは、私が比較的健康の工合もよくて、心が情愛に満ちていて、仕事にはり切っていて、その仕事を一つ一つあなたに、全く、実に、ほかならぬあなたに見て貰いたく思っているということなのです。こう書くと何だか暑い盛りに一層あつっぽい息をかけるようですみませんが、でもこれはあなたの不幸にして幸福な良人としての義務だから、生かしているものの義務だから、あしからず。
本のこと、差し入れのこと、皆お目にかかって申します。鶴さんたちの生活はいろいろむずかしさをもっている、しかしもし鶴さんが、どんな形になろうと、二人の生活を完成させて見せるというところに腹が据わればほんとにいいのだけれど。長くなりすぎるからこの手紙はこれで。 
七月十三日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十三日
様子がわからないということは、本当に苦しいときがある。きのうお目にかかる前の日私は割合自分の仕事を一区切りした気分その他でのんきらしい手紙を書いたりして。
きのうは、あの位立っていらっしゃるのが骨折りではなかったでしょうか、あとから熱が出ませんでしたか。あすこは明るいので顔色のわるいのが目立ったかもしれないのに、いきなりびっくりして、わるかったと思います。でも、余り、これまでより冴えなく見えたものだから。
ところで、先ず弁当のことはかえりによって調べたところ、私が六月十九日に行ってとりあえず五日とたのんでおいたのを二十五日から五日間入れてしかも一本しかカユでなく四本普通になっていたのでした。四本分は責任を負って何とかするとのことです。何しろあの時分はひどかったそうで、あやまっていました。さぞいろいろ不自由なさったでしょう。そういうことがやっぱりさわって来ているのですね。きのうは二十日までおカユその他を入れました。
毛布カバーつき、座布団カワーをお送りします。お金を四十円送ります。野原のことはこまかく様子をききますが、私として、あなたの体が工合わるいときそういうことまで心を労させるのがいかにも本意ないから、私に何でも云って貰うようにしようと思う。もとより貴方が必要以上に心配をなさるとは思っていないけれども、それでも、という気が私に起るのもお分りになるでしょう?
私たちの条件で可能の最大をつくしてあなたの体を恢復させましょう。その目的のために、私は至急処分するものはしますから、どうか体のために必要なことはちっとも節約せずにおやり下さい。
当分私たちの全力をあつめて丈夫になりましょう。肉体の性質が或点強靭であるし、精神は十分の支える力をもっているのだから、気候が定り、もう少し暑いなら暑いでカラリとすればきっとましにおなりになります。
医学的な健康体に私たちはどうせなれないが、平衡を保つことは可能です。それを目ざすことは絶対に不可能ではないのだから。気をそろえてやりましょう。私の知識、私のマメさ、私のもつその他すべての資質が、そのために最小限にしか活用されないのは何と残念でしょう。自分の体の内が苦しいように苦しいのに、それを直接には最小限にしか表現しないで、仕事をしてゆく心持というものを、きのうきょう味っています。これは或る意味で新しい経験ですが、私は決して悄気(しょげ)はしないから御安心下さい。只まだ非常に生々しくてそれに馴れない。
さて、野原には黒檀(こくたん)の五十円の仏壇を送りました。本当は金ピカなのだろうが、記念の品を納める心持にふさわしいような、但シ格に従ったよい品です。冨美ちゃんには浴衣(ゆかた)と思ったがやめてお金にします。島田を手伝っている多賀ちゃんに浴衣。父上にはいろいろの食料のカンづめと果物のカンづめ。
私はこの手紙が着かないうちにお目にかかりにゆくでしょう。あんな苦しそうに立っていないでよい方法はないでしょうか。いろいろのことが、もっともっと体の細かいことが気になるから。きょう稲ちゃんと一緒にあなたの夏のかけ布団を注文にゆきました。きっとこれはたけがたっぷりだろうと思います。どうか呉々お大事に。元気に。よくお眠りになって下さい。本を、どんなのをお買いになったか、つい訊かないでこまったと思います。どんなのを送ってよいか分らないから。重複しやしないかと思って。では又近々に 
七月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十日火曜日晴天第十九信
けさは、お手紙がもう着いているだろうと楽しんで下に降りて来たら、来ていない。武田長兵衛から新薬の試用が来ている。御職掌がら先生がたには御頭痛も多いことでございましょうから云々。私は頭なんか痛みゃしない(!)
今茶の間の机で珍しくこれを書いて居ります。この部屋は六畳で、となりの三畳の境をあけておくと北南風が通って案外に涼しいのです。
きのう今日は暑いが乾燥して居ますが、御気分はいかが?御気分は元気でしょうがおなかの虫はいかがな工合ですか。掛布団を送り、只今筒袖のねまきになさる麻の着物とちゃんと袂のついた御新調とを送りました。
島田のお母さんからお手紙で腎ウ炎をなすったのですって。二週間おやすみになったって。生れてはじめて医者にかかって病気のつらさが分ったと仰云っていらっしゃいます。今私が盲腸のために飲んでいる漢薬の医者へハガキをかいて、腎ウ炎の余後のためによい薬を送って貰うことにしました。それをすぐお送りしましょう。
達治さんが召集されるかもしれないと御心配です。無理ないと思います。隆ちゃんはもう六ヵ月で入営ですからね。もし達ちゃんがいなくなれば、うちは運転手をやとわねばなりますまい。経済的にそれではキャンセルしかないのですが。一般的な困難がきわめて具体的に一つのわれわれの家庭に反映して来ているわけです。万一そういうことになれば、私たちとして何か些かでも考えることはありますからよいけれども、ねえ。
林町では国男が盲腸手術後の脱腸(ヘルニア)になって又手術すると云っています。二三日うちにやるらしい。寿江はこの頃近所のアパートに大体落付いて、昼飯や夕飯をよく一緒にたべます。
Sさんという元からの看護婦が池袋の堀の内にいて殆ど毎日来てくれ、寿江のインシュリンの注射をしてくれる。この頃寿江子は英語の勉強をはじめ、性格にしっかりしたつよいところもあるのに結局はどっちつかずで、人生の評価の土台がない。二十三の女の子というのはこういうのかしらと昨夜も感じました。この位いい素質をもっているのに推進力としての情熱が足りない。体が弱いことに帰しているけれども、それは間違いです。もし体が丈夫でなければよい生き方が出来ないのなら、私たちなんか、年々歳々どこから生活に対するこのような愛や信を獲て来るのでしょう。今岩波文庫のスティブンソンの「若い人々のために」というのを一寸よんでいて、この人が、あんな体で海洋の孤島に生活してしかもどんな人生の見かたをしていたか分って、大変面白い。
勿論歴史的な違いはあるにしろ。いつか去年あたり私が手紙で書いた情熱と感情(センチメント)のちがいをやっぱりこの人も知っている、さすがであるとニヤリとしました。そして曰く「信は厳粛な経験をつんだ、しかし微笑んでいる大人である。油断なき信は、私達の人生と境遇の横暴とに関する経験の上に築かれる。信は必ず失敗を見込み、名誉ある敗北を一種の勝利と見做(みな)す云々」スティブンソンの「宝島」やなんかを私たちは面白がらないのだが、そういうものを書かせた――自分の条件を最大に活かして――彼の生きる気持には面白いところがあります。精神の活々とした感受性、習慣や反覆でこわばらない心をこの人は持ちのいい心と云っている。これは柔軟な含蓄ある表現ですね。この表現の中には愉しいものがあるわ。
きょうは、今月に入ってはじめての丸一日の休日です。あしたあたりから短い小説を一つ書き文芸時評をかき、一寸休んで九月初旬八月下旬までに又たっぷり小説のつづきを書きます、『新潮』。貴方の仰云るように生活をきちんとして、時間を内容ある仕事でぴっちりとはりつめたいと思う。この頃やっとそのこつがわかり、自分もそれに少し馴らされて来たし、仕事と生活との統一の水準が高まりました。覚えていらっしゃるかしら?いつかバルザックが貧乏のためにあれだけの仕事をしたということを、あなたが私へ比喩的に書いて下さったのを。歴史は幾変転して読者の要求が高まるに正比例して、バルザックのような相互的解決が或種の作家にとって外部的に不可能であるところに歴史の妙味があります。
野原の方のことについて御返事がありましたか?私の方へはまだであるが、あの地所は広いので、分割して売ると、整理して猶住宅と土地だけは残り得る計算だということは、この間のお母さんのお手紙にもありました。地所が大きいからそういう都合にゆくのでしょう。但し、活動の中心から地理的に遠いため活動的な買手がなかなかつかないらしい。それで整理が永びいているのです。講のほかに近隣からのユーヅーもあるらしい。くわしくわかったら又改めて書きます。
私はハンドバッグの中にきのう貰った面会許可をもって居ります。四五日うちにお目にかかります。その前に一寸お体のことを調べたいから――私の知識ではあやしいものだけれど。――
太陽燈あてていらっしゃいますか?慶応などでも軽い熱のひとはかけている由、時間を加減して。私の手のひらの下にはあなたのおなかの気持のわるいところの感じがはっきりつたわって居ます。そして、私は念を入れてそれらのところを撫でる。何という目の前にある感じでしょう。お大事に。呉々お大事に。 
七月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十五日第二十信
七月十日づけのお手紙を一昨日いただきました。あのお手紙は最も真面目な心持と新鮮な誠意とでよまれ、それに対しての返事は具体的にいろいろあります。けれどもこの手紙はそれとは別に野原の家のことについてお母さんに伺ったお返事が今ついたので詳しく申上げます。
お母様の書かれている順に。
二十五年前、「商売の失敗野原の信吉さんのことで」三千円の頼母子(たのもし)。年百二十円の掛金、元は去る七月十一日に全部すむ。抵当として野原の家屋敷、島田の家が入っていた。
其後十三四年前に又二号抵当で一万五千円の頼母子。一万五千円の中には野原の借金も相当あったが、「いつの間にか野原の不動産及び家屋敷が全部信吉の名儀に書きかえられていました」、父上がお怒りになったところ、立会人二人が入って、年百十五円の頼母子を二十五年間にかけてすまして呉れよと書きものを入れました。もし返掛しないときは全部不動産は兄へかえすこと。
二三年は野原でもかけたが、その後はかけず、島田で九回まで年六百円をかけ、その後父上の御病気などの事情から頼母子側で抵当を処分して整理することになったが、兼重萬次郎が心配人に入り、三千円の一時返掛で話がきまり、その負担額を、野原は五百坪もあるから一千六百円島田一千四百円ということになり、この三千円は兼重さんが出した。三号抵当に入っていたのでこれは百八十円、世話人その他の費用百五十円。島田の分は合計千八百円以上の負担となった。これは兼重へ追々かえすことにして頼母子は片づいた。
野原の頼母子の負担は一千六百円ですが、ほかに自分としての借金が利子とも三千円位あって、これも兼重にかりている。土地は時価四千五百円位。買手がつけば一千五百円ぐらい浮いて、本家の家屋敷ぐらいは保てる。兼重も熱心に買手をさがしているというわけです。
Tさんの私たちへの情愛の示しかたについてなど、私は自分の心持は別に申しませんが、この間島田へ行ったときは、お母さんもやっぱりここまで詳しくはお話し下さいませんでした。
お母さんは、事情をあなたが御存じないことを知っているTさんとして、貴方に向っていろいろ事実を歪めることについて御立腹です。そのお気持には私も自然な同感があるわけです。
島田は頼母子からは自由になっているが、兼重という爺さんにはまだ相当の責任があるわけなのですね。この点も春にはぼんやりしていた。恩給はすっかりお手元に戻っているのですが。
あなたが全体の事情に対して正当な判断をなさることはわかっているから、私はこの手紙はこれでおやめにします。
猶おばさんからのお手紙で黒檀の仏壇は、かねておじさんが欲しいと云っていらしたものだそうで、大変およろこびでよかったと思って居ります。冨美ちゃんからお礼の手紙つきましたか?お体を呉々もお大事に。だるいのに体をお動かしになるのは大変だと深く察します。私も三日ばかり工合わるくしましたから猶々。 
七月二十六日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十六日第二十一信
きょうあれからかえって、すっかり安心をして、喉がかわいてかわいて。たくさん番茶をのんでトマトとパンをたべて眠りました。私はいつも永い仕事を一つ終ると本当にのうのうして眠るのに、今度はお目にかかったとき、沢山の気にかかることがあったので、珍しくよく眠らず、疲れがぬけなかったので病気したりして。
昼ねから醒(さ)めて、体を洗って、新しい仕事を考えながら二階で風にふかれていたら、不図思いついて狭い濡縁(ぬれえん)の左の端れまで出てみたら、そこから四つばかりの屋根を越してあなたも御存じのもとの私の家の二階の裏が見えました。間に自動車の入る横通りが一つあって、それから先なのに、屋根と梢とでその道路の距離は見えず。眺めていて、あの二階にさした月の光の色をまざまざと思いおこし、ここに今自分たちの生活があること、そうやって昔の家の見えること、それらを非常に可愛らしく思いました。あの屋根とここの濡縁との間にある距離はその位だけれども、私たちの生活は何とあれから動き進み、豊富にされてきているでしょう。そのためどれほどの人間らしい誠実さと智慧と堅忍とがそそがれているでしょう。世間では、私たちをある意味でもっとも幸福な夫婦と折紙をつけています。私はもちろんそれをいやに思ってはききませんが、そういう人々の何パーセントが、何故に私たちが幸福な夫婦であり得ているかという、もっとも大切な点について考えをめぐらしているだろうか、とよく思います。
七月十日づけのお手紙を私は三度や四度でなく読んで、こういう手紙を貰える妻の幸福そしてこわさというものをしみじみと感じました。貴方は何と私を甘やかさないでしょう。(こわいのはむかしからだけれど)あの手紙の中には小さい感情でいえば、普通の意味で、私に苦しい言葉もあった。たとえば、ユリのジェスチュアは云々。――ジェスチュア!?そう思う。ああと思う。ジェスチュア。だが幾度もとり出してよみ直して、しまって、こねているうちに結局私にのこるものは、生活態度について、貴方が私の可能性を認めた上で求めていらっしゃる水準のより高いところへの健全な激励だけです。
あの手紙にたいする答えは、きょうお話したこともその一部分です。私の生活の経済的な面をこまかく書いたことはなかったけれども、一昨日、林町へ行って書類をしらべるまで、私はいろいろのことを知らなかったのです。去年の春かえってから、ことしの正月こっちへ越すまでは入院の費用やその他で、自分の分などの話も出さなかったし、こっちへ移ってからは大体四十円程、私のつかえる分としてもって来て、私はそれをあなたの分として、至って素朴な形でやっていたわけです。日常生活は稿料でやってきています。〔中略〕
目の前に電燈の色が暑いので、昼光色をつけました。水色のような電球。これだと虫が来ないというが来ている。
稲ちゃんは二十五日に子供たちをつれて、無理をして保田へゆきました。健造曰く「母チャン、どうしたって二十五日おくらしたら駄目だから。日記に、二十五日ホダへゆきましたってもう書いちゃったんだから」だって。
栄さんは、妹さんが、あやうくインチキ結婚に引かかりそうになったので、そのこわしに出かけ、かえって来ました。もしかしたら又もう一度ゆくかもしれず、そうしたら壺井さんも行って一ヵ月あっちで暮す由。あのひとこのひと皆行ってしまって、私はお喋り相手がないわ。
七月八月は映画も音楽もロクなのなし。仕事をして暮す。但し、この家は縁側がなくて、いきなり硝子戸なので、風は通るが落付かず。でも私は、あなたにたいしてこういうことは云えません。
夏、腸をこわすと実にへばりますね。私はまだしっかりしない。あなたの方もなかなか照りつけるでしょうね。木蔭がないから。お体についても、私は緊めつけられるような、息の出ないような苦しい心痛からはもう自由になりました。しかし腸なんか敏感だから、そのためにも私は一層よい女房にならなければならない。愛情なんて、実に必要を見出してゆく直覚、努力、探求のようなものですね。人にたいしても人生にたいしても、決して空なものではないし。主観的なものでもない。愛しているという自分の感情をなめまわしているなんて、何て結局はエゴイストでしょう。(これは小説の中に考えていることとくっついているが)「海流」はチョロチョロ川がすこし幅をつけて来て、いろいろの錯綜もあらわれて来て、やや調子もでて来ました。面白いそうです。「雑沓」より進歩して来ているところもある。技術ではなく、現実に向う態度で、私はこの長篇を努力して書き終るとやっと小説における自身の今日の到達点を具体化できると信じ、本気です。
きょうは何となく愉しい。私もこれで案外しおらしいのだから、どうぞ呉々もそのおつもりで。これから仕事。では又。もう九時だからねていらっしゃる刻限ですね。どの窓だろう。お大事に。 
七月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月三十一日午後90゜近いあつさ。第二十二信
二十七日づけのおはがきを二十八日に拝見しました。この二三日じゅうにとりにゆきましょう。何だか今年の暑気は体にこたえること!その後いかがですか。私はもうおなかの工合も直って汗をふきふき仕事しているから御安心下さい。
富雄さんのところから返事が来ましたから、又その内容をおつたえいたします。この間、あなたが両方が同じような気持だから云々と仰云って。まったくその通りで何だか苦しいわ。何故自分で自分の実際を私たちに語る正直さ信頼をもち得ないかと思って。島田がどうやらやれるようになったのは只管(ひたすら)野原のおかげであるのに云々。達ちゃんや隆ちゃんの献身をも青年同志の思いやりで見るべきだのに。
さて、
(一)大正十年頃光井の土地六百坪及び家、信吉名儀となる。
(二)大正十二年一万五千円の頼母子。返掛六百円の中、島田四百九十円、光井百十円。光井はあと返掛せず。
(三)本年初め頼母子を整理し二千八百円の中(母さんのお手紙には三千円とあったようですね)野原千六百四十円。島田千百六十円。頼母子は消滅して、千六百四十円は光井の負債となる。他※[「奚+隹」]舎其他を担保にして千七百十五円の負債。合計二千七百十五円也。
(四)整理方針、土地家屋の売却。価格約三千円。母屋をとりのこすためには約千円位調達の必要あり。
(五)信吉の主人格である周防村の大地主山口彦一に、千百円の負債あり。信吉と富雄の名。
(六)光井の家は本年一杯で整理。母屋をとりとめられなければ一家離散の由。
あなたがいろいろ親切にたずねて下さるのをよろこんで居ります。島田に対しての呪(のろい)には苦笑しますが。――
私の手紙は又別に書きます。混同してしまいたくないから。
お弁当を外からちっとも入れられないと何だか不自由がましたのではないかと心配しがちですが、この間のお話で何だか大変安心しました。案外の便利もあるものですね。
どうかお大事に。リンゴの液が腸のため体のためによいのを読むので、どうかして汁だけめしあがれないものかしら。噛(か)んでカスを出すというのも不便であるし。何かよい工夫はないでしょうか。では又。いろいろのお喋りを後ほど。 
八月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第二十三信けさは珍しく汗をかかないで目をさましたと思ったら、午後はやはりむして来た。今年は例年になく夕立がありません。私はおお暑いと息苦しく感じる毎に、そこの建物の上へ大きい大きい如露をもって行ってサーサァと思いきり水を注ぎかけてあげたい感じです。
工合はいかがですか。寝ていらして背中がむれるでしょう。ベッドの上で体を右へまわしておいて、体とベッドの間へ団扇(うちわ)で風を入れて又ねると、ほんのそのときぎりですが案外涼しいものです。右へかえったら又左へかえってという風に折々やると。
私はこの間、二三日少々ぐったりとしたが、おなかの方はもう大丈夫ですし、仕事もしておりますから御安心下さい。私は暑いと云っても、自分の日常的条件でどうこういう気分は全く持っていないのだから。
稲ちゃんは前便で書いたとおり保田。栄さんは妹さんが変な男にたかられてこまっているのでそのおっぱらいに小豆島。もし繁治さんが行けるようなら、二人で八月一杯滞在の由です。中野も国。戸台さんも保田。俊子さんは軽井沢。雅子さんは体の工合がわるくて八月一杯休みをとりました。何とか工夫がついたら暑いアパートにかがまっているより、田舎で暮したらよいと思って、保田の方をきき合わせちゅうです。
島田や野原へお手紙お出しになりましたか。申すまでもないことですが、何か一寸した思いちがいからでも双方が揉(も)めるという状態らしいから、どうぞそのおつもりで(経済的な問題に関して)。この間、富雄さんからの手紙の内容をおつたえしたとき、私としての手紙を別に書きましょうと云ったのは、この頃いろいろと又身にそえて分ってきたことがあって、私は心からあなたにお礼を云いたいことがあるの。あなたが、一つ一つと私たちの本質的な生長のために必要でないボートを私にやかせることが、どういうことかという真価が次第に明瞭にわかってきて――自分の生活感情に新しく加って来る推進力の新しい発見の面から分って来て、私はそのことについて心のもっとも深いまじめなところから、改まってあなたにお礼を云いたい心持なのです。私はどのボートがない方がいいかを洞察し得るものは、私をその上に泛べている広い、たっぷりして活々した愛情なのであるから、その意味でも私は何だか鞠躬如(きっきゅうじょ)とした気持になる。この頃私は自分たちの中にあるそういう貴重なものに思い及ぶ時、感動から涙をおとすことがある。自分たちの生きてきた五年の歳月というものの内容を考えて。――普通のもののけじめで五年が一区切りになるばかりでなく、今年は私の生涯にとってなかなか一通りでない意味をもつ内的な問題が発展させられた年でした。
あなたには私がこんな妙な切口上のようでお礼を云ったりするの、おかしいかもしれないが、笑いながら、ユリのばかと笑いながら、やっぱりそれでもあなたにも分る我々のよろこびというものはあると思うの。抽象的に云っているがお判りになるでしょう。いろんな、文学的なおしゃべりや何かとは一寸別にして、この手紙を出したい心持があるのです。
私は自分の誠実さによってだけ遅々としてものを理解し、本当に会得してゆくたちの人間だから、あなたは良人としてある場合は少なからぬ忍耐をも必要とされます。あなたの忍耐の結果が必ずしも無でないところに私としてのよろこびもある。暑い最中に暑くるしいお礼をのべておかしいが、お互に暑さに堪えている折からのおくりものとしてはなかなかに新鮮なものなのですから、どうぞおうけとり下さい。 
八月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
この頃ハガキが新しくなりました。見本をかねてお医者様の名前をお知らせ申します。慶応大学病院外科元木(モテギ)蔵之助氏です。この方は日本での権威です。では又手紙は別に。 
八月十五日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十五日日第二十四信
きのうは、腰をかけていらっしゃれたからすこしは疲れがましでしたか?本当におやせになったけれどもやせたことだけに別に拘泥せず、熱が高くないことの方を寧ろプラスとして見るべきなのでしょうね。あなたの御努力も、そういうところに目立たぬながらやはり決定的な価値であらわれているのだと思いました。後姿はいかにも相変らずのあなたです。ちらりと見送り、おお何と珍しいと浴衣の肩をふって歩いていらっしゃる瞬間の印象を全心にうけた。だって何年ぶりでしょう?! あなたの全身を動作の中で眺めたというのは。――
お話の本は、私は普通の図書目録だと勘ちがいしていて、それなら何かいろいろの目録でよいという風に考えていた。今日東京堂へ行って揃えてお送りします。
けさ、七月二十七日に書いて下さった手紙がテーブルの上にのっていた。きのうはいろいろくたびれて、夜は珍しく九時頃から床に横になり月を眺めながら、ひるまのいろいろのことを思ううちにうとうとと眠り、十二時頃目を一寸さまし、又暫く目をさましていてもう月は屋根のむこうに沈んだが、ベッドの中ですこし片側へよって、又いつか眠るまであなたとお喋りをした。時々撫でてあげながら。――
あなたのガクガク的調子をユリが悄気なかったかと思って下さること、ありがとう。悄気ることはなかろうという御想像は全く当っています。私はあなたに対しては私に向ってされるすべてからいつも最善の、そして、最愛の正当な理解をくみとるのをつとめてもいるし、お互の誠意の当然の結果として必ずそうあるのです。だからあなたの一つの笑顔さえ私にどんな意味をもつかお判りでしょう?ここが私たちの生活の実に基調です。
私がよく勉強している時ほど所産に対してハムブルだということ。私はあなたにハムブルでなく思わせたことがあったかと、極(きま)りわるい気がした。私たちの仕事の目標が、日常の現象的に対人的な比較の上に立てられて居らず、新しい文学的価値をもたらすために、自分の生涯の生活的芸術的全努力がどの程度までの寄与をし得るものかと考えて日々を送っているのだから、本質的に傲慢ではあり得ない。傲慢であることと、確信に充ち、自分たちの努力の方向の正当性を信じている生活態度とはおのずから別ですもの。根本的に私はゴーマン人間ではないわ。癇癪(かんしゃく)は起すが。そして軽蔑すべきものに対して軽蔑をかくし社交性を発揮することも出来ないけれども。どうか私が自分たちの希望している何分の一かでも価値のある成果をもつことが出来るよう、時々お目玉も大変にいいわ。
郵船のものや何かきのうお話した通りです。『ダイヤモンド』の何頁かをフームと眺めていらしたでしょう、可笑しい。お手紙のうち乾布と冷水をやっている、のあと、僕の石盤にも云々まで二行半真黒けよ。あなたのお手紙としては初めてです。それから、窓をあけて眠るのは、雨天や靄の濃い時はよくないそうです。シャボンはこれからずっとお送りします。匂いというものは神経を休めるから。神経の疲れたとき水でシャボンで手を丁寧に洗うのは大変よくききます。御存じかも知れないけれども。
お久さん、お久さん元気かねと来ているよと云ったら、おや、ありがとうございます大元気だとおっしゃって下さいましって。暑いので簡単な服を着て、鉢巻をして、なかなかユーモラスでやっています。あんまり足の裏を真黒にしているので熊の仔という名があります。信州の中農なので生活に対する気分が、気質的にはよいが、どこまでもしっかりしたということは望めず。雅子さんは一ヵ月体が悪いので休暇を貰って今保田にいます。稲子さん、戸台さんと皆あっちです。ユカタあと一二枚ほしいとこのお手紙にはあるけれども、きのうはもういいと云っていらしたわね。
きのう、本はおよみにならないのでしょうとおききしたのは、近頃の流行的作品なるものを少しずつ読んで頂きたいと思っていたからですが、勿論いそがず。
作品の評価の主観性の要求とはなかなか微妙な錯綜と混乱とを導き出しています。作品に社会性を求める必然は健全ですが、平凡な市民の日常的限界が作品の限界となりやすくそこに又経験主義的な危険がかくされている。婦人作家の昨今の暮しぶりもいろいろに分化して来ているし。では又。お体のことは決してくよくよはしません。でも、非常に本気なの癒そうとして。暑さをお大事に。 
八月十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき二枚)〕
さっき手紙を書いてから東京堂へ出かけて、かねて御注文の図書総目録というのを調べました。あれは栗田書店から出ているので昭和八年版新しいのなしです。昭和八年以前の本を知るのにだけ役立つわけですが、どうしましょう。『出版年鑑』の十二年版はもう御覧になったのでしたろうか六月出版ですが。もし昭和八年以前の分でよかったら総目録をお送りいたしますが。(第一)
本郷の南江堂へ行って学問的な本をしらべて、腸と太陽燈療法についての本をお送りしましょう。普通の本やではだめです。かえりにもとの砲兵工廠の横を通ったら、今あすこは後楽園スタジアム九月開場予定として工事をやって居ります。中村光夫の『二葉亭四迷論』を古本で買いました。御覧になる気はないかしら。『胃腸病の新療法』日野お送りしますが大したことなし。終(第二) 
八月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(ダマスカスの細工物「ランプ」の絵はがき)〕
八月十七日、きのうの午後太郎と一緒に本郷の南江堂へ行って、本を買いお送りしました。私は何というあんぽん!ほんとに何という。外ならぬあなたが体のために本をよむことも注意していらっしゃるということの意味が、やっと今になってはっきり判ったなどというのは。本当に御免なさい。私はこれから本をよまぬあなたのために、毎日一枚ずつ小さいお喋りをのせたハガキをかくことにしました。仕事をはじめる前の挨拶として。 
八月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(トルコの細工物「大ざら」の絵はがき)〕
八月十八日、朝。
御機嫌よう。工合はいかがですか。きのうは九三度二分ありました。濡椽の外の柱にさち子さんが蒔いた朝顔の花がこの頃咲き出し今も咲いている。きょうは、小さい小説の仕事にかかります。元フランスの首相であったブルムが「結婚の幸福」について論文があり、それは男も女も多夫、多婦的傾向をもっているのだから、或年齢までそれでやって後結婚すると幸福だと云い幸福を平凡と休安に規定しているところは彼の進歩性を語っているではありませんか。 
八月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士箱根大涌谷の絵はがき)〕
八月二十日、永井荷風の「※[「さんずい+墨」]東綺譚」ではないがラジオはほんとうにきらいだ。この頃はあっちでもこっちでも。家々が開け放しだからなおたまりません。空が皺くちゃになるような感じですね。お気分はいかがですか。私は体の工合がつかれて余りひどいから明日あたりから暫く国府津へ仕事をもって行こうと思います。疲れがたたまっていてよろしからずです。きょうは又少々暑くなりましたね。 
八月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 神奈川県国府津前羽村字前川中條内より(封書)〕
八月二十二日、晴、第二十五信、九十二度、きのうは、朝のうちそちらへ出かけてやっと夜着をとって来て、それから小さい例の茶色のスーツケースに本や着換えをつめて、四時に東京を立ちました。寿江子が横浜まで送りに来て、あとは私一人。この頃国府津は小田原にすっかり交通要点をとられてしまって、この頃は準急もとまらない。但し、街路はすっかりコンクリートになって、家の前の私たちがのぼった古松の生えた赤土の崖などはどこにもなくなってしまった。そのことは多分去年の夏、あなたに其那スポーツは体の弱っているときにするべきでない、と云われたドライブで家の前を通ったときの印象で書いてさし上げたと思います。庭は芝生になっている。母が没した後父と来たとき植えさせた合歓木(ねむのき)が風に吹き折られもせず一丈ほどに成長している。
私はこの間のハガキに書いたようにラジオのやかましさを聞いて机に向っていると、炎天の空がくしゃくしゃ皺になって感じるような神経の工合になったので、本当に本当に思い切ってこっちへ来ることにしました。相変らず仕事をもってではあるが、ラジオがガーガー云わず、来客がなく風が吹くのだけはましです。きのうはいい月夜で、窓からあまり海上が美しいので、ふらりと波打ぎわまで出てみたら、面白い発見をしました。虹ヶ浜であなたは知っていらっしゃるかしら。月の海というものは、高い遠いところから見ると銀波洋々であるが、波打際までゆくと月のさしている一筋のところだけ海上が燦(かがや)いて、あとは微妙に暗く、しかもどこか明るく海面がもり上ったように見えるものですね。大変珍しかった。箱根の山の方も、風に吹かれた砂丘の方も見えず。丸い白い浴衣に団扇をもった私一人が月の照る浜にいるだけ。犬もいない。
家の方は、S(略称「バラさん」という)父、寿江、私とお馴染(なじみ)の看護婦のお母さんが来ていてくれるので私は本当に安心していられる。
こんどはまわりがすこし心配しはじめてそういう順立てもしてくれたのです。
お工合はどうですかしら。この間の本はすこしは役に立つでしょうか。どうしても腸の疾患だけを特に一冊にとりまとめたのはありません。あの本は南江堂で買ったがその前日丸善(神田)へ行ったら医書のところに『人間は皮膚を変える』というヤセンスキーの小説、黒田辰男訳が立ててあって、笑いを押えることが出来なかった。何たる皮肉でしょう!この作者の現実と人間の進歩の関係を見ることに於ての誤りは皮膚だけかえるところにあると批評されているが、皮膚を代えるのは生理的現象であるとして丸善の小僧氏は医学書の間に入れてある。実に善哉善哉である。近来の傑作です。こちらで私は全く神経の休養とその間にゆっくり仕事をすることを眼目にしているので林町からも誰も来させない。台所の方にずっと留守番をしているおミヤさんという六十四のお婆さんひとり。父が私がここで勉強するためにテーブルを一つ買ってくれた(一九三五年の初冬)。それを今日三年ぶりであけようとしたら(引出し)狂ってしまっていてあかない。広間のテーブルが夏なので室の中にタテに置いてある。あの大ソファは炉に背を向けてTの字に。そのテーブルのところでこれを書き、又仕事もするつもりです。私は大変意気地がなくてわるいが、全くこの間うち少し病気のようになりました。例えば、ああこの風に一緒にふかれたい。そういう感情と、ああこれをたべさせて上げたい、ああこの風に吹かせてあげたい、そう思うのとでは感情のニュアンスが実に実にちがう。ああこの風に一緒に、だと私の目の中にもう一つ目ありのくちで、風よ我らを共に吹けでどこへでもスースー行って平気だが、吹かせて上げたいとなると、もう何だか涼しくても切ない、美味くても切ないでね。だから病気のようになる。そして、おお畜生、自分が病気の方が楽だと思って呻(うな)る。
でも、私は又もう一つ勇気を起して、この切ない心持もちゃんと持って身につけて、平静な明るさをとり戻しますから、どうか御安心下さい。ここに月末までいて、すこし神経を休めたらいいでしょう。よく働いたも働いたし。この次手紙を下さるときどうかユリのこの心持におまじないをして下さい。ユリよよく眠れ。よくうまがって食べろ。楽しめ、笑え。そして俺のこともよく心配しろ、と。
ほほう、私は大分アンポンの本性を露出していますね。でも、私自分ひとりで、私が元気でいればそれは貴方もよろこんで下さると納得させて居切れないのです。ホレ、しっかりして、とおしりの一つもぶって下さい。
この間うち一日一枚のエハガキをはじめたのだが、御覧になっていますか?甚だ心もとなし。ではこれから仕事(『報知』月報)の準備にとりかかります、お大切に、お大切に。 
八月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕
八月二十四日国府津第二十六信。こういう書簡箋が出て来たので。
きのうは、実に実に珍しい大雷雨でしたが東京はどうでしたろう。ああ降る!降る!と白雨煙るのを眺め、そこの屋根に沛然と雨の注ぐ気持を考えたけれど、降ったでしょうか。天と海上との間に火の柱が立った。はじめての見もので壮大、かつ恐しかった。こういうときの雷は地軸をゆるがすという形容そっくりです。裂ける如し。
時評を書いています。あと二回で終る。今度は、むくみも引いたしよく眠るし成績はようございます。
あなたはいかがでしょう。よくおよりますか。私はいろいろの意味でこういうところに十日以上暮している辛棒はないから、これからは余りへばらないうち三四日本をもって来ようというプランです。
この海岸は御承知の通り海水浴場がないからその点ではさっぱりして居ります。遊びに泳いでいる者一人もなしです。私は豆腐ばかりたべている、それから胡瓜(きゅうり)と。二十九日に緑郎がパリへ立ちます。音楽の勉強のために。福沢の孫で法律をやっている青年と一緒。緑郎は何か得て来るでしょう。どうかお大切に。国府津へ原稿を出しに出かけるのでいそいで一筆。 
八月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕
八月二十六日第二十七信
今朝十六日づけのお手紙が来ました。東京からお久さんの付箋(ふせん)がついて。
二十二日にこちらで書いた私の手紙はきっと今月の終り或は私がお会いしてから後についたりするのでしょうが、このお手紙に、ユリもどっかへ行って休めとあるので私は大変気が楽になった。去年の夏は体がしゃんとしていなかったのに馬力を出したからいけなかったし又、疲れを休める適当な方法を知らなかったのでドライブしたりしてしまいました。
今年は疲れかたのタイプも休むタイプも会得したから、ドライブなどしないし、ここでも日中は日かげでいてつよい光線に直接当らぬようにこまかく注意して居ります。きのう寿江子が太郎をつれて来て、私の顔色がましになったと云っている。二十三、二十四、二十五と、毎朝十一時に国府津へ行って原稿を送り出し、五回の時評が終って、きょうは休み。
作家が客観的に全面的に押し出されていないと作品においても萎靡(いび)するというのは真実です。今日のような社会の雰囲気の中では、この点が実に実に決定的な意義をもっています。どこかに一寸もたれ込むものをもっている人々は、暫く風をいなす気でそこにもたれて遂にえらいことになる有様です。私は幸、乱作ではない多産の時期に入って来たらしい様子です。本当に仰云る通り完成をしきった段階というものはないのだし、自分なら自分というものに現れている過渡性が、どういう歴史性を語っているかということが客観的に把握され、その意味を客観的に評価出来るところまで力をつくして生きて居れば、自身の所謂未完成をおそれる理由はないのです。
現在の私は仕事の軽重をよく見きわめて整理して、基本的勉強を怠らず、体を気をつけて、仕事と休養のバランスをつけることです。私たちの生活が段々深められ成熟して、二人をおく条件に阻害されることが益〃減って来るということは何という歓びでしょう。私たちはこうして自分たちの不動な幸福をつかんで行く。そしてつかんだものは決して手離すことなく豊饒になってゆく。ユリのそのキャパシティーを鼓舞して下さい。
おみそ汁が買えることは知らなかったからああそれはよかったと、口の中にいい味がした。沢山は発酵するがすこしずつはきっといいのではないでしょうか。私がこしらえた辛い辛いおみそ汁!
Tさんたちのことは、私もいろいろ心配して居ります。いつも互のなすり合い以上のところに原因があることを云っているのですが。――こんど又書きましょう。しかし本当に合点させることは容易ではないでしょう。
私は昨今仕事の参考に必要になっていた『日本文学全史』(東京堂)久松潜一の『日本文学評論史』(上下)等を買いました。何しろ「もののあわれ」「ますらおぶり」が一部のアプ・トゥ・デイトですからね。久松氏の仕事は箇人でだけ問題を見ている範囲ではあるが、私の欠けている知識は与えます。それから、カールの書簡集の部分などぬけたままになっているから、其を補充します。当分のうちに役立てるのが一番有効というのは切実にわかります。それから、いつか、父の記念出版に私の書いたものについてあなたの仰云ったこと覚えていらっしゃるかしら。私があれだけでも書いたというのは云々と私が云ったら、もし書けないのなら云々とあなたの仰云ったこと。思い出して下さい。そういう場合も予想されないことはない。私は自分たちの生活と文学的業績に対しては飽くまで純潔であることを望んでいるのだから。大変抽象的だがお分りになるでしょう。とにかくあらわれた形はどうあろうと我々の生活の成長のためにこそ活用されるべきなのは云わずとものことなのだから。
私の盲腸何とうるさい奴でしょう。此奴(こいつ)のために、私の休養の形は安静、床に休むことになって来る。おなかの右下四分の一にだけ邪魔ものがいる。きのうきょう、これがバッコしているのです。今月のうちに科学と文学のこと(科学ペン)婦人作家の今日(文芸復興)この間ハガキに一寸書いたブルムの結婚観の批判(婦公)をかき来月から又すこし沢山小説をかきます。ではどうかお大事に。 
八月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(絵はがき二枚小田原海岸(一)と小田原駅(二))〕
(一)八月二十八日午後二時すぎ。
国府津へこの頃通用するようになった全国速達で原稿を出しに来たついでにバスで小田原まで来ました。この駅の右手にコウズのあの茶屋が大きい店を出している、そこで今御飯をたべようとしている、赤く塗った椅子その他、箱根気分のところです。国府津からバス20銭。出征送るのでとても大混雑です。
八月二十八日(二)小田原の御幸ヶ浜に遠い親類のやっている宿屋があって子供のうちよくそこへ来ました。ある正月、チリメンの長い袂のきものを着てこの浜の波打ぎわの砂丘に腰かけていたらいきなり砂がくずれて波の中におっこちて本当に本当に死んだと思ったことがあった。大体ここも海は荒くて入れません。この食堂の隅に老夫婦居り父母を思い出します。
一九三七年八月二十九日
[「遺書」として書かれ投函されなかった。]
一九三七年八月二十九日日曜日晴 顕治様国府津。
きょうは、爽やかな風がヴェランダの方から吹いて来ている。セミの声が松の木でする。海の方から子供らが水遊びをしているさわぎの声が活々と賑やかにきこえる。――平凡な午後です。
私は今日書こうと思っていた仕事がすこし先へくりのばされたので、長テーブルの前で風に吹かれつつ、この空気を貴方に吸わして上げたいと沁々思いながら、裏から切って来たダリアの花を眺めているうち、ああ、きょう、あの手紙を書こうと思い立って、これを書きはじめました。この手紙は謂わばすこし風がわりの手紙です。何故ならこうして書いている私自身が、いつこれを貴方が御覧になるかということについては全く知らないのだから。
それにもかかわらず、私はこの手紙は必ずいつか平凡な体も心もごく平穏な一日に貴方に書いて置こうと思っていたものです。このことを思い出したのはもう随分久しいことになる。私が市ヶ谷にいた頃からです。
健康の力が、私の希望するほどつよくないということ、しかし、私たちは斯くの如く夾雑物のない心で歴史の正当な進展とそこに結びつけられている自分たちの生活を愛し、互の名状しがたい愛と共感とを愛している以上、或場合、私の生きようとする意志、生きる意味を貫徹しようとする意志と肉体の力との釣合が破れることが起るかもしれない。それでも、私はやはり人及び芸術家として、自分の希望する生きかたをもって貫こうと思っている。芸術家に余生のなきことは他の、歴史に最も積極的参加をする人々の生涯に所謂余生のないのと、全く等しい筈であると思う。私たちに余生なからんことをと寧ろ希いたい位のものです。
私はこういう点では最も動ぜず、正当な理解をもつ幸福にある。それでね、私はいつどのように、どこで自分の生涯が終るかということは分らないが、最後の挨拶とよろこびを貴方につたえないでしまうということはどうも残念なの。私は、こうして互に生きていること、而して生きたことをこのように有難く思い、よろこび、生れた甲斐あったと思っているのにその歓喜の響をつたえないでしまうのは残念だわ。このようによろこぶ我々の悦びを、何とか表現せずにしまうということは。
よしんば永い病気で生涯が終るとしても私があなたに会えたことに対する、この限りない満足とよろこびとは変らないであろうし、ボーとなってしまってポヤッと生きなくなってしまうのなんかいやですもの、ねえ。
ああ、でもこの心持を字であらわすことは大変困難です。体でしかあらわせない。私たちを貫く知慧のよろこび。意志の共力の限りない柔軟さ。横溢して新鮮な燃える感覚。愛の動作は何と単純でしかも無限に雄弁でしょう。互の忘我の中に何と多くの語りつくせぬものが語られるでしょう。
私と貴方との境の分らなくなったこのよろこびと輝きの中で、私の限りない挨拶をうけて下さい。
貴方について私は何の心配もしない。貴方は私のように不揃いな出来ではなくて、美しい強固さと優しさと知に充ちている。私はその中にすっぽりと自分を溶かしこむこと、帰一させてしまえるのがどんなにうれしく、楽しい想像だか分からないのです。もう自分というものがあなたと別になくて、間違う心配もなくて、離れている苦しさもなくて、一つの親愛な黒子(ほくろ)となってくっついているという考えは、私を狡猾なうれしさで、クスクス笑わせるのです。
そして、もう一つ白状しましょうか、私の最大の秘密を。それはね、この頃私の中につよくなりまさりつつある一つの希望。それは、私がさきに、あなたの中にとび込んで黒子になってしまいたいという動かしがたい願望です。だから、あなたがこの手紙を御覧になるときはその点でもユリ奴(め)、運のいい奴!と私をゆすぶって下すっていいのです。ホラね、と私はほくほくしてくびをちぢめて益〃きつく貴方につかまるでしょう。
涙をおとしたり、笑ったりしてこれを書いて、海上を見渡すと実によく晴れて、珍しく水平線迄が澄みきっている。
いかにも私たちの挨拶の日にふさわしい。ではこの早く書かれた手紙を終ります
わが最愛の良人に。
   ユリ 
九月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕
九月一日夜十一時半第二十八信
林町のテーブルで珍しくこれを書いて居ます。急にバラバラ雨の音がしている。明朝緑郎がフランスへ立ち、咲枝が送りがてら神戸の友達のところへゆく。倉知の俊夫(咲の兄)が召集されて出かけ、従弟の倉知紀(ただし)が又呼ばれて出かけ、春江の良人河合(咲の義兄)があぶないと云う工合で、この頃の空気がつよく反映しています。
さて、昨日は疲れていらしたところを却っていけなかったかもしれませんでしたね。口がお乾きになる様子でしたね。しかし、秋になって気候も落付いたら追々きっと調和が保てて来るでしょう。理想的に行かないにしろバランスがとれるようになるであろうと確信して居ります。
きのうはもう時間がなかったので、けさ予審判事にお会いして、体に関する条のことお話しておきました。それに関する部分だけのこととしての私の理解に立って。
本とりそろえて最近にお送りします。私は明夕又国府津へ行って六日頃まで居るつもりです。菊池、越智氏のことは島田のお母さんに伺って一番手近い機会にすっかりすましてしまいましょう。
きのうは本当につかれた様子をしていらしたし、いかにもおなかの気持がさっぱりしない風でした。其でもあなたの心持がやっぱり相変らず平らかで、笑顔も暖く励ます光をもっていることは本当に本当にうれしい。私たちはいろいろのことから健康を失ってはいるが、私たちに健康を失わせた人生の経験は、私たちに不健康の中でも、互の笑いに輝きあらしめる力を与えているというのは何と微妙であり意味ふかいことでしょう。病気であるのに猶且つ健康な人々の心のはげましになり、生きかたのよい刺戟になり得る。私も及ばずながら病気したってそういう風に病気をし、それを克服してゆこうと思います。
では又ね、ゆっくりいろいろ書きます。どうかおなかのブツブツが早くましになれ! 
九月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(御幸ヶ浜海水浴場の絵はがき)〕
九月四日、四五日いなかった間に国府津はすっかり秋めいて来ました。御気分はいかがですか。おなかのいやな心持はずっと同じですか。私は盲腸がつきものになってから、そのおなかの感じがややわかります、眉のところへ反射して来るようなあの感じ。お大事に熱は下りましたか?涼風が立ってしのぎよくなったらとたのしみです。ジョルジュ・サンドの「愛の妖精」というのをよんだ。一種のお伽話(とぎばなし)ですね。 
九月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十一日第三十信
非常に荒い天候ですね。きのうの雨のひどさ、きょうの風のきつさ。南風だから落付かぬ。お気分はどうでしょう。本当に早くカラリとして秋になればよいと思います。そしたらさっぱりとなさるでしょう、そう思う。本年の残暑のきびしさには鬼もカクランを起した位です。
さて私は八日の朝、国、咲、私と三人で国府津からかえりました。出征する若い兵士とのりあわせ、東京まで来て、一寸林町へより、南江堂へ来ている本をとり目白へかえりました。家の方はSさんのお母さんが来ていてくれたので全く安全。どうしても栄さんの顔が見たく電報を出して夜来て貰ったが、ほかにも忽ち数人のお客です。あなたに手紙をかきかけたのがそれで中絶。次の日は、いろいろな人に入れてやるものを荷造りしたり、夕飯を戸塚の夫婦栄さん夫婦とたべて夜いろいろ物語。
きのうは雅子さんが真黒に日にやけ、体のしまった形で保田からかえって来ました。勤め一ヵ月休み月給もらっていて、又つとめるのです。今度は仕事ぶりを整理してすこし疲れを減らしたいと云っていますが、うまくゆけばよいが。――
島田のお母さんから先日伺った菊池、越智氏のことについて御返事が来ました。お母さんのお話では、あなたの思いちがいでいらっしゃるようですよ。当時あなたがひとの迷惑をかけるのを大層いやがっていらしたので、ずっとお家で出していらしったとのことです。何かの覚えちがいしていらっしゃるのかしら。そのような金は一銭もないと仰云っているのですけれど。――何か其那話でもあったのではなかったでしょうか。
それから島田と野原の負債の表をつくるようにとのことで、私こまってしまっているのです。それはね、お母様が手紙はあなたへおつたえしたら置いておいてくれるなとおっしゃったので、又材料がなくなっている。そう度々きいて上げることも出来ず。どうかあしからず。
野原の方も、このお手紙によると買手が二三人ついたそうです。そして主屋(おもや)とその敷地ぐらいは十分のこる勘定になるそうです。そう例の爺さんがお母上に申した由です。大変結構です。あなたもいろいろ配慮してお上げになった甲斐があるというものです。
お父様、すこし心臓が弱くおなりになったらしい。私は十月一杯はどうしても動けないがそのうちに又折を見て、今度は短い期間お見舞に行こうかと思って居ります。お目にかかれば本当に本当によろこんで下さる。相すまない程うれしがって下さる。もうすこし近かったらねえ。でも十月以後にはどうしても一遍ゆくつもりです。そして行ったら野原と島田が負債のことで感情的になっているようなことのないように、よく大局的に話して来ようと思います。一人一人の生活態度に対して抱く批判と、家と家との心持とは一つものではないのだから。
私は一つ感想をかいて、それから又小説。国府津には、出征した従弟のことや何かで四日東京へ戻って前後七日と五日いたわけですが、それでも今度は『報知』の月評、『科学ペン』、『自由』とみんなで五十五枚ばかり仕事したからよかった。八月は体が苦しくて能率低下と思ったが、それでも八九十枚の仕事はしていました。しかし、私は様々沢山仕事をしている人の仕事の質をも考え、自分の仕事はどうかして質量ともに高めたいと切望します。同一水準で沢山かける、これでは悲しい、我々の年や業績の歴史から云って。やはりのろくても前進しなければ。よく眺めていると、作家でも、日常性というものを健全に把握せずそこへ足を漬けている人はすこし作品が調子にのってつづけて出ると忽ち下らない日常の描写になってしまうのは、実に教訓です。そして、その人々に日常性に浸ることと無条件肯定の誤りを誤ったところで、それはインテリ性という風にだけ感じるところ、何と微妙でしょう。いつかのお手紙に作家の理性をも科学的に育てることその他実に真理であって、しかもそれを自身の心臓で会得することの必要を知っている作家、又知ろうとする作家、実に尠(すくな)い。今日は複雑な理由によって作家センチメンタル時代です。芸術家としての勇気とか献身とかいうことさえ実質不明瞭の感傷でうたわれて居ります。センチメンタルでないとピッタリ来ないと云った風です。こまったものなり。読者のみがセンチメンタルでないところが今日の文学的特徴です。
壺井さんもしかしたら又失業しそうです。鶴さん相変らず。この間の晩皆が呉々よろしくとのことでした。稲ちゃんいそがしくて保田からハガキも上げなかったがわるかったとしきりに云って居ました。
ああ何と風がひどいでしょう。書いている紙の上に天井の塵がおっこちる。では又書きます。医術の本でも何だか苦笑し腹の立つような非科学的な類別をする者がありますね、南江堂の本の終りの部分[自注17]。呉々もお大切に。酸っぱい果物がよくないことは知りませんでした。

[自注17]南江堂の本の終りの部分――南江堂出版の結核に関する医書に、思想問題をおこす人間は多く結核患者だという独断が書かれてあった。 
九月十七日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十七日第三十一信
きのうは本当にいろいろと、ほんの一寸した小さな事柄まで珍しく嬉しく、そのうれしい波がきょうまでも響いて体の中に流れているようです。久しぶりであなたの身ごなしに特徴である闊達な線の動きも美しく見えてつよく印象にのこります。一昨日は非常に苦しい心持であの壁の外からひきかえしたので、どうしても真直家へ引かえす気がせず、戸塚へまわって、防空演習の暗い灯の下で白飯をたべてかえった。昨日は朝七時半から出かけていて、一昨日の気持のつづきで、すこし気の晴れる方向へ事が進んだので、どうしても一寸よって見たく雨のひどい裡を行った。でも本当にびしょぬれになった甲斐があってうれしかった。かえりに又長い長い高壁に沿って、ザッザッと傘に当る雨の音をききながら歩いていて深く一憂一喜という心の動きかたを感じました。勿論其は当然であるけれども。しんでは安心して居ると云うか、何かともかく不動の土台がある。しかしその土台に、殆ど高く鳴り響く波動を打って苦しい心配やその心配をめぐっての様々の考えやが動く。土台はそれでもわれることはないので凝(じっ)としたまま益〃激しくつよくその波動にこたえてゆく。この感情は人間に日常的な時間の観念を失わせ、日常の社交性を失わせるようなものです。
けさは、きのうのつかれが出て、九時に一度目をさましてから、又ベッドに戻って心愉しさの中で可笑しい夢を見て、その夢の中ではあなたの肩と横顔と目差しばっかりを見ました。あなたの紺絣を着た肩のまわりには、あなたを歓迎している人たちが沢山居て私はこっちから近よれない、あなたはこっちをちょいちょい御覧になる。そしてそこは田舎でね、馬蹄型の山路も遠くに見えた。可笑しい夢!
夜着は、きのう注文しておきましたから、二十日にはお届けします。
夏の間じゅう下の四畳半を勉強部屋にしていたのだが、飽き果てたので、二三日前から二日がかりで、又二階へテーブルをもち上げました。この二階は六畳きりで二間南があけっぱなし。東の方へ机を向けないと形がつかず、そうすると右手の書いている方から光線が入って紙にかげをつける。南へ向ってはのぼせ過ぎますから。――
私は勉強部屋だけはすこしゆとりがあってその部屋の中をいろいろ考えながら動きまわることの出来るところが欲しい。本気になって来ると私はひとと話もしたくないし顔も見たくなくなるから。
島田へは年内に是非ゆきます。十一月に入ってゆけるようになるだろうと思います。フタの浮いたお風呂を思うとクスクス可笑しい。全くあれは奇妙なものね。あの風呂は長湯出来ない。心持から。あなたの烏の行水も子供のときからああいうお風呂だからではないでしょうか。
高校の賄(まかない)のことその他は訊き合せて見ましょう。この二三日持って歩いて大仏次郎の「由井正雪」をよみました。前、中、と。これはこの作者の傑作の一つです。最近「雪崩」を出したが、こういう現代の性格を扱うと破綻だらけでポーズが見えて、大衆小説というものが本質にいかに非芸術性を含んでいるかということの悲劇的典型に見える。しかし、由井などは筆もこまかく心理もそれなりにふれていて、筋の説明ぬきの飛躍、あまりの好都合等を許せばなかなか面白い。一面、世間師であり、それを自覚し、しかもそこでしか生きる点がないと思っている由井の心持など、少しは歩み入って描いていて、これと「雪崩」を比べると、大家にならんとする前の作者の脂ののりかたと、大家になって年経た後の気のゆるみ、金のたまり工合、いろいろ教訓になります。大仏という人は由井の扱いかたで一直線にゆくと或は純文学に入ってしまったかも知れない。彼の賢さがそこを引しめたから今日大家であるが、同時に引しめたところで芸術的発展の線の切先を下向せしめた。自分と世間がわかりすぎる、これが大仏の弱さです、芸術家としての。彼は遂に「上品で優雅な氏」で終るか。そして、日本文学史の上に私は実に面白く思うが、山本有三にしろ大仏にしろ、昭和五年から七年までの間に彼等の最優秀作の一つを出していることです。その理由を何処に見るでしょうか。私は面白くて仕方がない。自分がこの期間に文学の上で猛烈に自分を外面的に破壊したことを思い合わせ。文学における科学性の問題の史的展望についてこの頃この方面での勉強のテーマをもっている。では又。どうかこの次もきのうのようなあなたにお目にかかれるように。お大事に、お大事に。 
九月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(演劇「アンナ・カレーニナ」の舞台写真の絵はがき)〕
九月二十一日、夜具をおいれしました。これは本月の新協のアンナ・カレーニナ。右端が原さんのドリイ。膝をついているのが細川ちか子のアンナです。カレーニンを滝沢がやっている。性格をちっともあの冷たい粘液質においてつかんでいない。演出は良吉。壺さん夫妻、いね、私、かえりには泉子さんを待ち合せて初日のお祝に新宿のむぎとろをたべました。御気分はいかが?きょうはむしあつかった。二十五日から夜更けの円タク流しがなくなるので不便です。 
九月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十四日第三十二信
こういう紙に書くと、目方が重くて不便なので、普通の紙を買うまで待とうと思って居ました。ところが、今午後三時、二階の壁に向け、南を左にして斜(はす)かいの西日をカーテンで遮るようにした部屋の机のところに、全く快適な柔かい光線がさしている。ゆうべから、夜中にもおきて書きたかった手紙を、もう迚ものばして居られない。光線も、あたりの静かさも私の心にある熱もすべてが紙に私を吸いよせる。(何だか霊感的な手紙でもあるような勿体(もったい)ぶりかた!)
さて、御気分はいかが?私の目にはこの間の御様子があざやかであるから、何だかあれからずっとあの調子でいらっしゃるように思えます。この手紙を御覧になってすこししたらまたお目にかかるわけです。私は十月の五六日までこれから死物狂いなの。小説です。文芸。『文芸』では長篇をずっと年四回ぐらいずつのせることにしました。私は云っているの、のせ切って御覧なさい、文芸は一つの功績をのこすから、そのように私もがんばってよいものにするからと。大体見とおしがついてうれしい。但金には殆どならない。今日長篇をのせ切るのは、結局文芸専門のものでしょう。仕事がまとまればよいとして考えて居ります。
この間お目にかかったとき、実は私一つ大変な秘密を抱いてひとりでホクついていたのです。自分から嬉しい一種の感動でつい口へ出しそうになったが、やっと辛抱してあなたのお誕生日の祝いまでそっとしておきました。先(せん)、お互に話していた名のことね。十月から本名に全部統一します。そのことを親しい連中にも話した。長篇が終って本にするときとも考えていたが、この長い大仕掛な仕事が終るまでと何故のばすのか、自分の心持に必然がなくなった。それでつまり十一月号の書いたものすべてから宮本百合子です。あなた又ユリバカとお笑いになるでしょう。でもこれは全く私の生活の感情のきわめて自然な流れかたなのだから、私は自分でもうれしく、特に私がこの半年の間に、いろいろの心持を歩んで、ここへ来ていることそのことがうれしい。だから今度はあなたからお断りをくっても、私はでもどうぞという工合なの。ですからどうぞ。私は結局はこれまでの年々に何かの形であなたのお誕生を記念して来た、その中で外見は一番形式的のようで、実質的なおくりものの出来たのは今年であると思います。そして、そのような可能を与えて下すったお礼を心から申します。仕事から云っても私はこういう成長に価していることの確信があります。私たちは字を書いたり、短い時間に喋ったり、そんな形で互の心持をつたえなければならないのだけれども、こう云っている私の心持のあなたへの全くの近さ、ふれ工合。それを字でかくことはお話のほかにむずかしい。おお、私はここに、こんな工合にしてものを云っているのに。
私がこんなに歓びの感情を披瀝(ひれき)するのは、あなたに唐突でしょうか。そうではない。でも、私のこの心持がわかるであろうか。このよろこびの中には何とも云えず新鮮で初々しいものがある。又新しい青い青い月の光がそこにさして来ている。私は書きながら涙をこぼすのよ。人生というものは、其を深く深く愛せば愛すほど、何と次次へと貴重なおくりものを私たちに与えるのでしょう。この私たちの獲ものが食べられるもので、あなたのおなかへ入って、すっかり体の滋養になったらさぞさぞいいだろうのに。ではこの手紙はこれでおやめ。私のおくることの出来るあらゆる挨拶であなたを包みつつ。 
九月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「二筋の川のある村」の絵はがき)〕
九月二十五日、文房堂で買った二科のエハガキ。この画は本当にこういうところがあったのでしょうか。夢でしょうか。そう思わせるところにこの画家のこの絵での狙いどころがあたったわけと云うべきか。昔このひとは遙かに精悍でありました。これは芝居のや〓〓をもったかきわりの如し。もう一つの東郷湖という風景も同じように或趣味に堕している弱さがある。 
九月二十五日の夜。〔向井潤吉筆「伐採の人々」の絵はがき〕
この絵を眺めていると、コムポジションを一寸工夫するともっと生活の雰囲気とスケールのある絵になると感じられますね。もっとも前景の一かたまりの人間と、その奥の木を引っぱる一列の人間との間隔が、雰囲気的にアイマイにしか把握されていない、だからクシャとしている。実物は果していかがや。まだ見て居りません。十月最後に見られれば見ます。御体をお大事に。 
九月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「梅雨時の東郷湖」の絵はがき)〕
九月二十八日夜。
はじめの頃の単行本を、製本しなおしてお送りいたします。すっかり古くなってこわれてしまっているから。鎌倉へゆくと頼朝公御六歳のしゃりこうべというのがある。「一つの芽生」などというのを見ると、自分の御六歳のしゃりこうべのようで、フーフー。でもその小猿のしゃりこうべのようなものもお目にかけます。何卒(なにとぞ)幸に御笑殺下さい。 
九月二十八日夜十二時。〔宮本三郎筆「牛を牽く女」の絵はがき〕
大変おそく書いて、しかられそうであるけれど、今、きょうの分だけ仕事を終って比較的満足に行って、一寸あなたとお喋りがしたい心持。お茶を一緒にのみたいとき。原稿紙の上に、こまかい例の私の字でごしゃごしゃと(一)(二)という下に書きこんであって、そこから様々の情景と人々の生活が歴史の中に浮上って来る。何とたのしいでしょう。私は『あらくれ』や、『新女苑』や『婦公』に、新しい署名のものを送って、たっぷりして仕事している。 
 

 

十月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国枝金三筆「松林」の絵はがき)〕
十月一日の夜。仕事が熱をもって進んでいる。雨だれの音。鶴さんが工合をわるくして心配しましたが、もうややよろしいらしい。あなたはいかがでしょうか。雨つづきで気分がさっぱりなさらないでしょう。
この仕事を五日の午(ひる)までに終って、六日はお目にかかりにゆくのを御褒美のようにたのしみにして、せっせとやっている。ミシェルというフランス人がモンパルノという小説をかき、今大家であるモジリアニが一枚たった六フランでパン代に売った絵が一年後一万一千フランで売られたことなどかいていて、いろいろ考えさせます。 
十月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 広島駅より(広島駅の絵はがき)〕
十月九日朝五時四十分。広島でののりかえ。このあたりでは構内のランプもすっかりくらくなっています。兵隊さんがこの食堂にも沢山。雨はやんでいます。七日の夜は仕事を片づけるために眠れなかったので、八日の三時に立ったときはフラフラ。十時頃までウトウトしていて、寝台が出来たので五時間ばかりよく眠りました。馴れたのでこの前より近いように思います。島田でびっくりなさいましょう。 
十月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(封書)〕
よく晴れたお天気。今お父さんはお休み中。多賀ちゃんがおひるの支度をしている。お母さんはどこへかお姿が見えない。私は店で新聞をよんでバットを一つ売って、今上ってきてこれを書いているところ。
きのう八時四十何分かについて、改札のところを見たら多賀ちゃんがでていました。小さいトランクと中村屋のおまんじゅうを入れた風呂敷包みとをもって出たら、きょうは防空演習だからといって、いきなり自動車にのせられてしまった。達ちゃん、消防の服装(ポンプの小屋へ)で出ていたそうです。ちっともわからなかった。
お父さんは大よろこびでいらっしゃいます。思ったよりいい顔の色をしていらっしゃるし、舌が実にきれいでびっくりするようです。夏は何しろひどい暑気だったので心臓が苦しくおなりになったそうですが、今は御飯も大きいお茶碗に二つ(おかゆ)をあがります。間食はなさらず。春のときからみると、お体は軽くおなりになったし、気分も自発的なところが大分減っていらっしゃいます。それでも昨夜私が何か云ってふざけたら皆笑い出して、お父さんも、一緒に大笑いしていらしった。気分はやはり非常におだやかです。お母さんが、顕治の知っている頃のお父さんじゃったらどんな我儘(わがまま)云うてじゃろと思っているだろうとおっしゃっています。おとなしい、いろいろ気になさらない。すこし、お母さんや内輪のものにはカンシャクをお起しになる位のことです。御気分が平らなのは何よりです。きょうこれから野原へお墓参りに行って来ます。野原の家の方は四百五十円ばかり不足しているかぎりで家と土地とが十分のこる由です。かり手がついて来るから家は小学の先生にでもかして、おばさんや冨美ちゃんたちは富雄さんの方へ引うつって世帯を一つにしようという計画とみえます。富雄さんのこれまでいた店が駄目になって(つぶれた)日米証券へ入っている様子です。
こちらもずっと平穏にやっていらっしゃいます。大していいということはない。やはり不景気だそうです。でも手堅くやっていらっしゃるから。――隆治さんは今年は二十歳なのですね。この六月かにケンサがあるのね。私は間違って一月に入営かと思って居りました。春のとき何だかそんな風に間違って覚えて来てしまったのです。六月にケンサならまだ間があります。
あなたが中学の一年生だったとき、よくつれ立って通った中村さんという人が戦死されました由。河村さん[自注18]のところでは夜業つづき。島田から四十二人一時に出て、総体では七八十人の由です。野原からかえったらこのつづきをまたかきます。おお眠い。けさは十時まで眠ったのにあたりが静かで、気がのんびりするものだから、眠い眠い。つかれがでてきてしまったのです。きっと。
きょうは十一日。小春日和。
きのう野原からは夜八時半頃かえりました。皆よろこんでいて、くれぐれあなたによろしくとのことでした。今あの家には小母さんと冨美ちゃんと河村さん(小母さんの弟さん)とその姪という方とです。河村さんは下松(くだまつ)の方につとめ口が出来て、あっちに家が見つかり次第ゆく由。下松は借家払底で、一畳一円で家がないそうです。河村さん、あなたのお体について心配していました。くれぐれもお大事にと。
野原の小母さんは家がのこるので本当におよろこびです。私たちもよかったと思います。小母さん曰く、いつか二人でかえって来てくれてもとめるところがあってうれしい、と。ハモの御馳走になったりしてお墓詣りをして、かえりに切符をかって来たら、お母さん、もし都合がついたら琴平さん[自注19]へ詣でて来たいというお話です。来年の秋でもゆっくりおともしましょうと話していたのですが、もし達ちゃんが召集されでもしたらというお気持もあるので、急にお思い立ちになったのでしょう。今時間表をしらべているところです。
お母さんも永年のお疲れで、この間腎盂炎をおやりになってから、すっかり御全快ではなく、台所の仕事などでも過労をなさるといけない御様子です。今は多賀ちゃんが手つだっているから大丈夫ですが、きのうも野原へ行って、すっかり多賀ちゃんに手伝って貰うようよくたのんでおきました。
春からみると何か全体がしずかになっている。お母さんは余りこれまで御丈夫でなかったし、御無理だったから、すこしこの際お労(いたわ)りになる方がよいのです。そちらもこんなにいい天気でしょうか。どうかお元気に。若い連中も元気にやって居りますから何よりです。では又。

[自注18]河村さん――島田の宮本の家の向いの一家で、病父がその人のリヤカーにのせてもらって相撲や芝居見物に行ったこともある。
[自注19]琴平さん――讚岐の琴平神宮。 
十月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕
十月十二日。こういう景色が山の頂上から見晴せるわけだったのですが、雨で濛々(もうもう)。平野の上にもくり、もくりと山が立っている、この地方の眺めは或特色があります。屋根を藁(わら)でふいている、その葺きかたが柔かくて特別な線をもっている。人気はよくない。善通寺というところも通りました。松山へは時間がなくてゆけず。いつか又別に参りましょう。道後にもゆきたい。ぜひ行って見たい。小母さんのお伴で琴平も見たわけです。 
十月十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十五日夜小雨。
今夜は愉しい夜の仕事。――十四日の夜八時二十一分かの上りで島田を立って十時四十分頃広島。そこで一時間余待って、夜中の〇時二分の特急ふじで十五日、きょうの午後三時二十五分東京着。寿江子と栄さんが迎に来てくれていて、その足で裁判所へまわり、島田の半紙へ書いてもって来た許可願に印を捺して貰いました。あしたお会いするために。そして目白へかえって来て、お土産の松茸(まつたけ)だのくりだのを皆にわけていたら、留守番をしていてくれた雅子さんがお手紙を出して来た。
栄さんがかえってから、二階へあがって来て、一週間ぶりに机に向い、くりかえし、くりかえし、又うち返して読んだ。本当に手紙は食べもののようです。味う。味う。
それは九月一杯はこういうリフレッシュメントがなかったから、むさぼる如き心持です。でも決して工合のわるいときを押してまで書いて下さらないでもよい――(然し、出来るだけ手紙は書こうと云っていらっしゃることの上に立って、一寸分別臭く云って見ます。)
島田で書いた手紙のように、お父さんは私の云うこともおわかりになりますし、別れの御挨拶をするといかにもお心のこりの風でこちらが困るような感情もおあらわしになるが、やはり公平に見て春よりはお弱りです。それでも実にきれいな舌をしていらっしゃる。あれでもっていらっしゃるのでしょう。行ってようございました。お母さんも琴平へ強行的小旅行をなさっても次の日腰が痛い位のことでお元気ではあるが、私は呉々お金よりも体、ということを念頭にお置きになるようおすすめしました。あなたもこの次お書きになるときには呉々もそのことを仰云って上げて下さい。
例えば私が島田へ往復二等にする。そのことが体のために必要であるということを実感としておわかりになったのは、今度の四国ゆきの御経験からです。それまではゼイタクと思っていらしったことを、御自分で云って笑っていらしった。体を大切になさることが島田の家のために重大であることをよくおっしゃってあげて下さい。こちらから又腎盂炎のための薬、暖い下着、夜具などお送りいたしますから。
私が野原へもゆき、十三日には野原からも島田へ来られ、先頃じゅうのもしゃもしゃも一応調和状態になって居りますから御心配なく。多賀ちゃんも島田で手つだってくれるつもりで居りますし。私も今度は盲腸も痛めずかえりましたから御安心下さい。この頃割合にましな方です。あなた野原の克子と冨美子ととりちがえていらっしゃるのではないかしら。一人前の手紙をかくって。克子は一番の姉娘です。この間あげた手紙の主は冨美子よ、今小学の六年生の。いつぞや私が間違えた高校時代の賄のことはよく申上げてきました。お母さんはもうすっかりお忘れだから鶴さんの返事をまちましょう。経堂辺に住んで出版屋につとめていられるらしい風です。緑郎、寿江子、友達たちへのおことづけは皆申します。稲ちゃんのところでは鶴さん又盲腸らしい由。十七日には御飯一緒にたべようとたのしんでいたのに。――
このお手紙にもある大きい平安の気持。私には非常によくわかります。日常の便宜性に関しないというその性質も。我々の生きてゆく道について考えるとき、その心持は私の心にも実に充満して来る。互を流れ交している水が噴水のように粒々となって、ひろびろとして或微妙な輝きをもって照っている水の面へ落ちてくる。その複雑な、優しさと勁(つよ)さと無限の的確さをもった粒々の音。心の耳を傾けて聴けば聴くほど美しさの底深さが迫って来るような音とひろがりの感覚。この裡には何という歓喜と苦痛とその苦痛さえも熱愛する情熱がこもっていることでしょう。私は、この名状しがたい感覚を、自分の芸術家としての成育の上にどこまで摂取出来るだろうかと思うことが屡〃(しばしば)です。何故ならこの緊張したその極点にあって鳴り出すような人生の美感はあまり強くて、それを芸術家魂で支えるには、よほど素晴らしい芸術的稟質が必要であるから。おわかりになるでしょう?
ユリがこのような人間的豊饒さへの過程と作家的成熟とを、一定の土台の上に立って極めてリアリスティックに、十分の歴史性をもって客観的に完成させようと努力していることは。そして決して其はたやすいことではないのだから。容易に完成するには余り私たちの生活に豊富なものがありすぎる。それにおしつぶされないように。おお、それは迚も猛烈な作家的自己鍛練です。感動を感動としてその中に主観的に没入することは一定の情熱の量をもったすべての過去の芸術家が生きふるして来た道です。謂わば息絶えなんばかりの心持を、新しい客観的な価値として、芸術的にこの現実の中に再現してゆくこと、其は実に実に大仕事です。
本当に、昔の芸術家の感動はその人だけの幅で流れた。今日は世界の振幅をもっている!この幅、つよさ、錯綜、それが一人一人の中に鳴り響いている、その姿を描くこと。やっとそろそろ鳴り出した私の交響楽はどこまでその響かすべき音響を奏し切るでしょうね。
十月一杯に五十枚ほど今日の文学について書くことがあり、それを終って又小説にとりかかります。長い小説というものはまことに書くべきものです。その中で作家は成長し得る。
お体について、私は最も苦痛な心配というような気持をここの峠ではのり越えたような気分です。これから無理さえなかったらやや平穏ではないでしょうか。あの暑気であったもの、たまったものではなかったのです。冬は却ってましです。風邪さえひかないようになされば。
私は今あなたからの手紙を、この紙に半ば重ねるようにして左手に並べておいて、読んでは書き、書いては読んでいるのですが、字というものは何と肉体的でしょう。ここに簡単に百合子と書かれている。三字のよびかけに無量の含蓄がある。或人によって或場合書かれるわが良人へという宛名は、良人へという一般的な代名詞にしかすぎず、而も他のあるものにとってはこのたった五つの字が存在の全幅にかかわっている。生存の根に響く内容をもっている。人間の心のちがいの面白さ。
今夜はもうこれでおやめ。今頃は何の夢?夢なし? 
十月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十五日第三十三信ぐらいでしょう?
今年は実に雨の多い秋でした。きょうは珍らしくいい天気、きのうは日曜日で私たちとしては本当に珍しい一日をすごしました。戸塚の母と子供ら二人、栄さん私、井汲さん母子という顔ぶれでピクニックしたのです。私はもう五年も前にそういう遊びに出たきりだったので、珍しく、頬っぺたは大気の中ですこし日にやけてピチピチしたような気分で、夏以来の気分のしこりがとけたよう。
行った先は池袋から東上線というので朝霞(あさか)。薯(いも)掘りです。曇っていたので、どうするか分らなかったが、大きいお握りや島田から頂いて来た玉子の茹(ゆ)でたのをもって池袋へ出かけたら、戸塚の子供二人が母さんをひっぱってピンつくやって来た。
朝霞はいかにも平凡であるが武蔵野の起伏をもった地形で、薯掘りはおどろくなかれ、そこにある寺が世話やきなのです。バスに一区のって山門の石の標(しるし)が見えるところへ来ると、左手の広い畑の面に一ヵ所こちゃこちゃ色とりどりの人間のかたまりがある。薯掘りなのです。山門を入ってゆくと、そこの亭(ちん)、そこの松の木の下に棧敷をはってフタバ幼稚園、何々小学校、特殊飲料組合とびっしり。本堂の右手に紙を下げて薯掘案内所。一坪十六銭。うねが一本の三分の二位。私たちはそういう休処へはわりこめないから、石段を下りて名ばかりの滝のあるところに丸髷の百姓小母さんの出している茶屋の床几を二つくっつけてそこで休んでお握りをたべ、実に呑気(のんき)で、間抜けピクニックなところに云いがたい味があって、神経の大保養になりました。やがて又山門の外へ出て、畑道をゆき、薯掘りにかかったが、井汲さん親子一生懸命掘るわ掘るわ。健造も面白くて二坪買ったのでは掘りたりなく、じゃあもう一坪買っておいでと云ったら、ありがてえなアと云ったのには爆笑してしまった。
広い畑の眺めの上にごちゃごちゃした狭くるしい人のかたまりを見ると、いかにも東京から来て買った畑をせせくっているようで、可笑しいが、ごそごその中に入って、はだしになって健造のもて扱っている薯を掘ってやったりしていると、やっぱり薯掘りは掘るべきものなりというようなところでした。
団体には景気のいい世話役がついているのがあったりして、庶民の秋の行楽の一つの姿がある。かえりは薯をわけ、それぞれにかついだり背負ったりして、ブラブラ十何丁かある駅まで歩いて来た。
そしたら余り駅がひどい人なので、すこしすくのを待つ間、広告でもう一つの名所としてある日本第二の大梵鐘(だいぼんしょう)というのを見物に、自動車へ満載で行った。ところが、そこは寺でも何でもないトタン屋根の大作事場で、その梵鐘の発願人根津嘉一郎。大仏もこしらえかけてある。職人が働いていて、その仏師の仮住居らしい竹垣の小家の前にはコスモスが咲いている。根津はこの梵鐘を精神凶作地の人々におくるための由。大仏もつくり、名所にして金が落ちるようにする由。根津とこの土地とはどういう関係があるのかは不明でした。
家へかえったのは六時。稲ちゃんのところで夕飯の御ちそうになり。ぶらりと時々山や野原を歩くことの必要をしみじみ感じました。少くとも稲や私には実に必要です。くたびれは大したことなかったけれども、眠ったら夢を見ました。シンプソン夫人の旦那様が三越で女の振袖を買っているところでした。
二十七日に渡す原稿を終ってお目にかかりにゆきます。M子、体がもたないので社を一週に二三度出ることにして、原稿だけ送るようにしました。月給は、きょう貰って来るのだが、二十円ならいい方。食えない。うちで食わす。食わすことに異議はないが、私の心持にはそれ以外の重みがかかってこまるから、何とかしたいと考え中です。
掛布団の工合はいかがでしょう。島田へは、もし達ちゃんが召集されると、それからでは間に合わないから、真綿でこしらえたチョッキと毛糸の靴下二つ送りました。お母さんが召すために長襦袢の布。あなたの腹巻のための毛糸、そして明日あたりお母さんに、あなたがこの冬かけていらした夜着をつくり直してお送りします。お母さんは達ちゃんに軟かい夜具をきさせて御自分は私が称して石ブトンというのをつかっていらっしゃる。この冬はお体もすこし疲れが出ていらっしゃるからすこしは軽い思いをなさる必要があります。夜中に二三回お父さんの御用でお起きになるし。隆ちゃんがとなりに寝てあげています。
名画エハガキはつきましょうか。輸入禁止になるので特別にお目にかけたくてお送りしたのですが。では又お目にかかって。きょうはまだ眠たい、大体この頃眠たくて。あなたもよくおよれますか 
十月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十九日第三十四信
きょうは暖い天気です。天気が暖いばかりでなく暖い。体の内に何とも云えない暖かさと安らかさとがある。こういう気持、何と久しぶりでしょう。
きのうはあれからかえって、お昼をたべて、それからお客に会って、眠りました。朝あの時間にゆくためには、前晩おそいといつも眠い。(前の日に『婦人公論』へ刻々の課題という女のきょうの生きかたについて書いたので)目がさめたら五時。五時半から中央公論の故瀧田樗蔭十三回忌あり。私も発起人の一人。ゆこうかゆくまいか。紋付着て帯しめて苦しい。それでも決心して出かけました。徳富蘇峰、桑木厳翼、如是閑その他という顔ぶれ、作家では秋声、白鳥、春夫、※[「弓+享」]、久米など。女の方では瀧田さん時代の人俊子、千代、私、時雨など。いかにも東京会館向なり。蘇峰、如是閑、しきりに瀧田の思い出のなかに私の名を引き合いに出し、何だかてれてしまった。何も瀧田の人物鑑定眼を裏づけるに私だけをとり立てて云うには当らないのですからね。好意からとわかっているだけてれくさかった。
かえりに俊子さんのところに一寸よって喋って、十二時になると円タクの流しがなくなりガレージから反対の方角に行くときは猛烈な価になるのであわててかえって来ました。
ところで、うちのおひさ君、きのう日向に自分のふとんを干しました。ポンポコになっているのをかついで二階から降りてゆくから、おひささん、そのふとんで今夜早くグースーねるの考えるとうれしいだろう?と云ったら、ええ、うれしくて黙って居たいようだ、と云った。何という感情表現でしょう。実にその気持端的にわかる。私は非常に感服しました。
きょうはこれから勉強して、来るべき文学について何か書く。これは一口に云えぬ題です。文学に近頃場所をとりはじめているルポルタージュというもののリアリティーが来るべき時代の目でどう見られるか、又ルポルタージュの真価とリアリスムの問題もあり、そのことをすこしつきつめて見て見たいと思います。ルポルタージュというのは若干の地方色と抽象名詞の羅列ではない筈のものですから。直さんなどこの理解に於て房雄君と全く同じである。
九月一日の『ダイヤモンド』明日お送りします松山さんの絵の本も。松山さんは満州旅行をしてスケッチをいくつか描き須山計一さんと展覧会をしました。私は月賦でチチハル辺の醤油屋の店をかいた30円の六号をとり、今机の右手の壁にかけてあります。松山さんまだ下手です。それでも好意のもてる絵で、眺めて感じる親しい未熟さ(技術上の)が何だか却って私を自分の仕事に努力させるような面白さがあります。画面に雰囲気を出すということは何とむずかしいのでしょうね。それにこの画家はそういう点では角度がまだ鋭くない。性格的にも。松山さんは人物をもっと勉強して私を描きたいのだって。私もいやではないが、私の生きている歓びと苦しさの綯(な)い交った光輝というような核心的なものが、現在の腕ではつかまるまい。単純にしっかりさなどと抽出されたらまったく降参ですから。ただしっかりものの女なんて!! 松山さんの絵が上達するのをたのしみにして待って居りましょう。
島田と野原の方のこと、二三日のうちにとりはからいます。本当にいい折でしょう。島田にしろ達ちゃんが召集をうければやはり人手を以前よりおやといにならなければならないのだし。
野原と島田とは同額にします。50ぐらい減らしたって同じこと故。まあ私たちとして一生に一度のことでしょうからね。それから、これは女房じみたお願いですが、どうか島田へ手紙をおかき下さい。今度のことは私たちが度々出来ないことだから今しておくのだということをはっきり御納得ゆかせておいて下さい。私はいろいろな気持からこの間うち島田へ出来るだけ骨を折っている。作家は雑作なく大した金をとるそうな、というお考えが何となく出来ていて、実はこの間行ったときも感じて苦しかった。私は説明したり、ありがたがって貰ったりはしたくないから笑っているだけですが。どうかお願。私のこの心持もあなたには勿論おわかりなのだから。よろしくお願いいたします。こういう形で出て来ると、同じ〔後欠〕 
十一月一日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月一日第三十五信。
この間お目にかかったときから何か心にのこっているものがあっていろいろ考え、あなたのお体のことについてですが、床に入る前この手紙を書く気になりました。
この間のときも、あなたはどっちかというと私の心持を安めよう、不安を与えまい、大局的に悠々(ゆうゆう)としてするべき勉強をしているようにと心にかけて御自分の健康のこともお話しでした。私もそのお気持はよくわかるしいろいろだが、不図考えて、私はいつもあなたの体の悪いときを過ぎてからだけそのことをきいているということについて非常にびっくりしました。例えば夏に腸出血をしたということを初めておききしたのは十月十五日頃でした。その前から永らく便に膿(のう)が混っていたことを伺ったのは先日がはじめてであったと思います。そしてそういう病状は既に年のはじまり頃からあったのでしょう。
細かい変化、熱の上下、そういうことは勿論大局的に眺め見とおしてゆかなければならないが、そういう、何か本質的な変りについて、私がそのときどきに知らなかったということは、決して今日の私をも安心せしめません。あなたとしてそれらを持って動じぬことで自然な恢復力を蓄積していらっしゃることは当然のことであるけれども、私が其を刻々に知らされないことは、考えて見れば、あまり特別です。あなたからしか謂わばあなたの体のリアリティーは知ることが出来ない。私が根もとの安心というか持久的なものはたっぷりもっているということがよくわかっていただけているなら、私は常に具体的にあなたの体の事情について知っていて、私としてするべき様々のことをしたい。この間もお話ししたように、互の間にある安らかさというものの能動的な具体性はあるのですもの。例えどんな小さいことでも。どんな一寸したことでも。私は古風なロマン主義者でも巫女(みこ)でもないから、最も大切なものをアブラハムの祭壇にただのせて主観を満足させてはいられない。
どうかこれから出血でもあったり、何か変ったことがあったらきっと電報を下さい。きっと。私が右往左往的心痛をするだろうという風な御心配は本当に無用です。私は逆から云えばあなたに安心されている証左としてもそのようにして頂く権利があると思うの。よほど前、咲枝に下すったお手紙で、ユリの体についても何についても最も悪い場合のことでも事実を知らすようにと仰云っていたでしょう?あの心持。分って下さるでしょう?劬(いた)わられ、知らされない。それは有難く、うれしい。でもくちおしいというようなことがないとどうして云えましょう。私はこれまで割合多岐な現実を見て、それを正当に理解し耐え、処する道を見出そうとする努力には次第につよめられて来ている。私たちの生活の貴重な収穫として。ですから、私がはっとばかりにとりのぼせてはしまわないことが確かなら、どうぞもっとそのときそのときあることを教えて下さい。これはあなたとして何もさしさわりはおありにならないことです。そうして下すったからと云って、あなたの何ものもよわりはしない。大変面倒くさいことでしょうか?或はそういう様々の手続きが却ってあなたの体にさわる風な事情でしょうか。もしそうならば、ですがさもなければどうかこの希望をかなえる約束をして下さい。却って私は安堵することが出来るだろうと思います。私はあんまり我ままな女房ではないでしょう?だからその承認として、こういう指きりをして下さい。もしお願いがわがままだったらそれでもかまわない、やっぱり私は私の心にあるこれほどの愛情が当然に必要とする具体性としてこのゲンマンの指を出します。ではこのこと、きっと。 
十一月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(演劇「土」の舞台写真の絵はがき)〕
十一月十日。八日の雨の中を、うちのおひささん同道「土」長塚節を見ました。演出岡倉士郎。小説「土」にはない節自身を出しているが、高志の進歩的性格は漠然としている。おつぎ山本安英。勘次薄田。平造本庄。これは勘次が平造のキビの穂を苅って見つかったところ。
大体面白く見られました。満員。壽夫さんに逢いました。呉々よろしくとのことでした。 
十一月十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十一日の夜。第三十六信
(きょうはじめて勉強部屋へ火鉢を入れました。今鉄びんの湯が煮えたっていい音を立てている、但しこの湯はのめず。咲枝がさびさせてしまったのを持って来たのだから。オ薯(いも)のシッポでも煮てアクを抜カネバナラヌ)
十一月二日のお手紙がけさつきました。この頃は先のうち、一週に一度ずつ日曜日か月曜ときめて待っていた心持はなくなって居るけれども、やはり朝第一に、ホーサンで眼を洗うより先に、テーブルの手紙束をひっくるかえすのを見ると、結局絶えず待っているということになる。慢性なり。
秋晴れのような明るさと澄んだ力のある手紙をいただいて大変大変うれしい。ありがとう。古い頃書いたものをそういう風に読んでいただいて、何と云っていいかしら。頬っぺたの両方へ、小さい灯がついたような感じです。それにつけても、『冬を越す蕾』、『乳房』、『昼夜随筆』そしてこの頃書いているものを読んでほしいと思う。あなたに読んでいただくことが出来ない、そういう事情が、私を自分の仕事に向っておろそかならざる心持にしているというのは何と面白い関係でしょう。体はこの頃よく気をつけているし、すこしゆとりをつけているので大分ましになりました。残暑頃と秋の初めはへばっていたが。長い小説は、第一が「雑沓」80枚、「海流」97枚、「道づれ」65で、私のプランの第一の部分の三分の二ばかり来ました。この正月『文芸』にのこりの部分をすっかりのせてしまいたいと思ったが、三笠から出ている『発達史日本講座』の現代に今日の文学50枚を十月一杯までにかくべきだったのをのばしているので次の部分は二月頃にするか三月にするかします。
第一、第二、第三部になる予定です。1931頃から'36位に及ぶ。私は昔云っていたようにこの小説では、外面的な事件を主とせず、社会の各層の典型的な諸事情と性格と歴史の波との関係を描き出してゆきたいのです。恐らく一遍書き終って随分手を入れなければなりますまい。しかも、室生犀星、佐藤春夫、中村武羅夫というような人々は、私の小説を見ると持病のゼン息が起ったり、はきそうになったりするのですって。お互様に辛いことです。
小説は長いもののつづきのほかに、「築地河岸」25と「鏡の中の月」18とをかいた。今年はそれでも、すこしは小説を書いた方です。段々かけてくる。来年はもっと小説に重点をおきたいのですが、短いいろいろの評論風なものも、自分の趣向からばかりでなくやはり書く方がいいと思い(金のことに非ず)閉口です。十月には多分もう書いて上げたと思いますが、『新女苑』(祭日ならざる日々)12、『婦公』20、別に15あとこまかい文芸的感想30ばかり。本月はその三笠の一仕事を片づけたらあと短い小説20〜30をかいて、あとはすっかり長い方のつづき。
「伸子」をかいた頃を考えると夢のよう。三月に一度ぐらいの割で60枚だの九十枚だのとポツリポツリ書いていた。
日本ペンクラブというのが十年から出来ていることを御存じでしょうか。会長藤村、教授翻訳家出版関係者、作家詩人という面々です。大変行儀がよくてキュークツであるところです。私がそこの会員にされました。夏頃そこと外務省とで女の作家の作品をドイツ語にするので送るのだそうで林、野上、宇野、私で、私は「心の河」。これはあなたのよく云っていらっしゃる『白い蚊帖』に収めるためにまとめた短篇の中の一つです。自分でこまかいことは記憶しない。そんなに古いもの。
あなたのお体のこと。慣れた強さの生じることもよくわかります。強靱であることもわかる。でも、この前、私が速達であげた手紙の約束は守って下さるでしょう?私がくよつく故ではありません。それも分って下さるわね。お母さん方を御安心させ申すために私がいく分心をつかっていることもわかって下さっている。
野原島田へお送りするについてのお願い、あれももうお読み下すったかしら。
いろいろの私たちの生活の悲喜をひっくるめて、とにかく私はいい仕事がしたい。とにかく私たちの仕事であって、他の何人のでもないという血と熱との通っている仕事をしたい。小説でも。評論でも。私たちが素質的にもっているものの価値というものあるとすれば、其は要するにこういう望みを忘れることが出来ないで、そのために努力しつづけてゆく気力が即その価値であるとでも云えるかもしれない。私の芸術家としての困難は、人間的生活経験の内容が複雑豊富でそれをこなす技量がカツカツであるという点です。生活内容に応じては技量があまっていた時代、今はその逆の時代。それに私は何だか持ちものが、これまでの所謂小説家とちがっているのだが、それが芸術的完成にまで到達していない、美しく素晴らしく脱皮し切っていない、そういう実に興味深い未知数が現在あるのです。稲子はいつもよい批評家であり鼓舞者で、私は注意ぶかくその言葉を考えながら、謂わば自分の発掘をしているようなところです。その点からでもこの長篇は重大な意味をもっているわけです。太郎のことはこの次、別に太郎篇をあげます。緑郎はついたということが分っただけ。あさってあたりお目にかかりに行きますが。この手紙では沢山書きのこしてしまった。本当に度々手紙を頂けるなら、実に、うれしい。 
十一月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十六日晴第三十六信
きょうは、おなかのわるい日の手紙。どうかして、おなかの工合がわるくて、今日お目にかかりに行こうとしていたのに、それが出来ず。その代りにこの短いお喋りをいたします。
『文芸首都』にこの頃の文学の一つのあらわれとしてルポルタージュのことについてかき、国文学の専門の雑誌に二十枚ばかりの鴎外、漱石、荷風の文学にあらわれている婦人観をかき、短い小説をかく前の気分できのうは珍しく文展見物をしました。戸塚の夫妻、もう一人田舎のひとと私。月曜日は鑑賞日というので一円。それを知らず私が細君と田舎のひとの分を出すつもりで行ったのであと30銭しかのこらず。大笑い。
文展ではいろいろ駄作悪作の中にやはり面白いものあり。栖鳳、木谷千種、清方など、文学に連関しての問題を我々に与え大いに愉快でした。栖鳳本年は何匹も家鴨(あひる)の子が遊んでいるところを描き、(二双屏風)金の箔が地一杯にとばしてある。久米正雄、七十歳の栖鳳が老境で若さを愛す心持流露していると、うまい批評をしたが、金箔のことについては効果上あるがよいかないがよいかと書いていた。私達三人の結論は、この画に金箔は重要な画面の一つの支え重厚な一要素となっているのであって家鴨だけであったら決して効果は出ないし、弱くなるし破綻を生じることを観破しました。栖鳳の画の価を考え、それをつりあげたからくりなど考えると虫がすかぬが、この老爺相当のものである。自身の芸術の弱い部分を賢くプラスに転化させる大なる才覚と胆力とを有している。これはやはり相当なものです。久米の芸術境が批評にあらわれ、栖鳳フフンと思ったであろう。いずれエハガキをお目にかけましょう。きのうは何しろ30銭だったので。
清方は鰯(いわし)という題の小さいものであるが、一葉の小説の情景です。溝板カタカタと踏みならして云々。長屋の水口でおかみさんが魚屋と云ってもぼてふりから鰯を買っているところ、水口の描写、[図2]と書いた札の下っている隣家の様子、なかなかリアリスティックなのですが、中心になるおかみさんがこの家のおかみとして※[「藹」の「言」に代えて「月」」](ろう)たけていすぎるのです。「一言に云えば背がすらりとしていすぎるんだよ」稲公の言。それ者あがりとしても生活が滲みついていず、「築地」の絵(知っていらっしゃったかしら。中年のいかにも粋な女が黒ちりめんの羽織で一寸しなをして立っているところ)が浮いていて、甘く且つ通俗になっている。清方の通俗性、插画性は、或マンネリスムの美の内容にある。随筆などにもこれは出ている。いつも情景を鏡花、一葉、荷風、万太郎で。これもお目にかけましょう。
荷風の「※[「さんずい+墨」]東綺譚」は本年中の傑作と云われています。それについてハイと云えるところと云えぬところとある。すこし彼の作品をよみ、いろいろ感想もあるが、私はふと里見※[「弓+享」]と比較して見て面白く思いました。※[「弓+享」]も花柳小説を昔ながらの花柳で描く恐らく最後の作者であろうが、荷風を比べると、その蕩児(とうじ)ぶりがちがう。※[「弓+享」]が花柳の中に「まごころ」を云々するところが※[「弓+享」]の持味であったのだが、この発生は何処からでしょう?こういう一つらなりの日本文学の消長を何かしら語るものがあると思う。水上瀧太郎が云っているとおり、「まごころ」も身勝手しごくであるが、粋の要求も身勝手なものですね。
洋画では、特にこれこそというものはなし。中村研一などやはりうまいことはうまい。高間惣一が「日の出に鶴」なんぞかいているし、文部大臣賞を去年貰った男が、いかにも人をくった模倣の露出したコンポジションと不快な色感で通州というのをデカく描いている。私たちのすきであった絵ハガキをお目にかけましょう。
かえりには、『日日』へよって、細君が随筆をかいた稿料をとって、三人で不二家で食事をして、私は現代ドイツ音楽の夕へまわりました。今日の作曲家たちのものです。私たちぐらいからの年頃の。何だか大して面白くなかった。演奏の技術が弱く貧しいためもあるが。――断片的でした。音楽の中の生活感情がつよく一貫していない。
そう云えば、此間、国際文化振興会主催で、輸出する映画日本の小学校、活花(いけばな)、日本画家の一日、日本の陶磁器などを見ました。この前の手紙に書いたかしら?小室翠雲が竹の席画をしてそれをうつし面白く、又陶磁器は特に秀逸でした。これまでよりずっとましになっていた、文化映画として。小学校の方も、板垣鷹穂氏らの都市生活研究会とかがこしらえたのより遙にヴィヴィッドであるし、生活が出ていてよかった。下で今げんのしょうこを煮て居ります。陽がさしている。体がすこしだるくて。
御気分はこの頃ましですか。もう冬の日ざしですね。今年は秋がなかったようです。苅った稲をしごけないのに雨がつづいたから、豊年であったのに不収穫であるよし。 
十一月十九日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十九日第三十七信
きょうは何とくたびれたでしょう。風に真正面から顔を吹かせながら歩いた。真直原っぱのはずれから家へ帰る気がしないで、あなたにあげる文展のエハガキを買いに、神田の文房堂へまわりました。思うようなのがなかった。日本画がないし。吸取紙を買っていたら、これまでの白い厚いのはなくなって同じようでも和製で吸収がわるいから薄い方がいいと教えてくれた店の男が、私を女学校のときから知っていると話しはじめました。まあ、とびっくりして感心した。私はここの原稿紙で小説をかき出したのですもの。二十五字詰で、そういうのが例外であることも知らず、「貧しき人々の群」はそれをつかった。思い出すことが、沢山あったがそのことまでは話さず。かえって新しい花をテーブルの上に飾って、ベッドに入って、まるでまるで眠った。
寿江子が来て、又一緒に一寸出て、燈火の消えている街々の風景を見学して来て、エハガキの小さいところへ字をかく気がせず、こうやって手紙をかきます。本当は、私は今頃小説をかいていなければいけないのに。字を間違えたりばかりするから、あした早くおきてはじめましょう。あしたの夜は眠れなくてもかまわない。
ひどい、永い病気とたたかったのち、次第次第に治癒力が出て来て、生活力がたかまって来る今のあなたのお気持は、本当にどんなでしょう。さしのぼる明るさや響や波動が内部に感じられるようでしょう?私はそこをあっちこっちに歩く、眼をあなたの上につけて。それらの感じは、全く私の感覚の中に目醒めるようです。私はこの夏本当に苦しかった。今になってみれば苦しかったわけであると思います。どうか、どうか益〃自重して、その大事な生活力を蓄えて下さい。小説をかいていて、熱中して書いていて、いよいよおしまいが迫って来たというときの、あの何とも云えない内からせき立てられるような感じ、それをぐっともって重く愈〃(いよいよ)慎重にと進んでゆくあの気持。快復期の微妙な感動と歓喜は非常に似ているようです。そこがさむくさえないならば、雪の美しささえ似合(ふさ)わしいというような生活感情の時期なのでしょうけれど。もしかしたらあなたは、私たちの生涯の生理的な危期をどうやらのり越えて下すったのかもしれない。私のよろこびがお分りになるでしょうか。分るでしょうか。ああ。
私は何だか何日も何日も眠りとおしたいように気の安まり、ほぐれた感じです。一寸あなたの袂の先でもつかまえて眠って眠って、眠りぬきたい。この手紙はこれでおしまい。 
十一月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(山下大五郎筆「中庭の窓」の絵はがき)〕
十一月二十一日の朝七時すぎ。
きのう午後二時頃からかかって小説を今かき終ったところ。二十五枚。「二人いるとき」という題。大変なリリシズムでしょう、お察し下さい。内容はリアリスティックですから御安心下さい。この絵は実物はもっともっと新鮮です。一枚五銭でこの物価の時代、色彩の活きたエハガキは無理なことです。これからねるところ。 
十一月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十二日曇第三十八信
若い女のひとのための読書案内をするために、最近出たフランスの或女仕立屋の書いたものをよんでいます。そして、その間の一寸したお喋りを。
この本を買うためにさっき外へ出かけ、途中で例のあなたの時計を修繕にやりました。懐中時計。もう動かなくなっているので。そしたら油がきれてゴミが入ってしまっている由。「きかいは割合よろしゅうございます」「買ったらいくら位です?」「今でしたら十円出ましょう」その位のもの?そしてこれかしら、いつかお母さんが洋服と時計を買った(『改造』の当選)といっていらしったの。とにかく又動くようになるのは大変うれしい。留金ばっかり金の可笑しい時計!
一昨日からきのうの朝にかけて、ひどく馬力をかけたので疲れが出ている。昨夜は重治さん来て夕飯をたべて、いろんな仕事の話をして愉快。
この夏からこの間までの私の切なかった心持など話しました。丁度、もろい崖から落ちかかっている人が、手の先の力に全身をかけながらじりじりと、もっと堅いしっかりした地質のところへまで体をひき上げて来ようとしている、もろい土のくずれてゆくのと、手の力の持久力と、その全くのろい而も全力的な努力が必要とする時間と、それらのかね合いがどうなるだろう。実に見ていてたまらない。しかも見ているしかないという事情。日夜背中のどこかに力が入っていて、心にゆとりがなくて、実にひどかった。今は何か本当に体をのばしてつっぷしてほーっとするような気持がしています。あなたの今の体のお工合と、そのたっぷりした心持とを感じながら、ああえらかった、と顔の汗を手のひらでぶるんとするような心持。そして、私は今はまあ一寸、こういう心持をも喋って、気をほぐしてよろこばしさと新鮮な感覚とに身をまかせたい心持。
いつかの冬、あなたは春のようだね、春のようだね、と云っていらしたことがあった。覚えていらっしゃるかしら、歩きながら。
今年の冬、私たちは冬をそういうような底流れの感情ですごすのではないでしょうか。今年私たちのまる五年目の生活は随分はりつめたものでしたね。肉体の強靱さと精神の均衡というものは何と微妙でしょう。一本橋をわたるとき、落ちやしまいか、落ちたらこわい、という恐怖が足をすべらせる。そしてそれと反対のもの。私は、扇をひらいて褒(ほ)めて上げたいと思う。もとより当然のことではあるけれども。あなたをとり戻したという感じ。そのはっきりしたあなたの姿が打って来る感じ、その感動がどんなだか本当に、本当におわかりになるだろうか。
夜なかに霜がおりて、朝とけ、夜月がさして木の葉がおちているように、そういう絶間ない営みで生活力をたかめて行きましょう。すっかり新しいしっかりした地べたのところまで出切りましょう。うれしさから涙をこぼしながら笑って、或責任と義務の自覚による意力からだけ自分がやっぱり生きて行かなければならないものかと思うことは、殆ど堪え難かったと、今話すことの出来るのは何と笑える、そして又涙の出る心持でしょう。これを云ってしまえば私のくつろぎも底をついた形ですね。では又。呉々も大切に。決して今までの周密さを御自分の体に対してゆるめないで下さい。 
十一月二十五日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十四日第三十九信、
きのう、夕飯後十枚ばかり「若い婦人のための書棚」をかいて、終ってお風呂に入ったばかりのところへ「光子さんがいらっしゃいました」「どの」「岩松さん」絵かきの光子が来た。雨が降っていて十時半頃で、さては神戸から出奔して来たかと思ったら(夫婦ゲンカをやっていたから)そうではなくて、一水会という石井柏亭や安井曾太郎のやっている会へ絵をもって来たのでした。夜、二時頃までいろいろ絵や文学や女の生活の話をして、けさおそくおきてかえった。月末までいるというので、私は自分の大好きな動坂の家のスケッチと、本郷の或高台、一方は長いコンクリート塀になっていて、ずっと遠く小石川を見晴す風変りな道のスケッチ、をして貰うことにしました。私の勉強している部屋にこういう可愛らしい都会の隅々の絵があったらどんなにうれしいでしょう。大変たのしみです。其にしても光子は、自分の絵の道具をもって来ないとはけしからぬ。かりにも十日ばかり東京に来て、しかも刺戟を与える人々の顔を期待して来ていながら。まだただのおかみさんと画家とが分裂している。渾然(こんぜん)一つになっていない。心で一生懸命で手がまだ怠けている。こういう状態を多くの女の芸術家が経ているし、男も70%まではこれで一生を終るのね。
若い女のための本をいろいろ考えていて、私に体がもう一つあったら、本当にいい味と力と鼓舞のこもった女のための本を極めて綜合的な内容で書きたいとさえ思いました。すべてが切りはなされていて婦人問題、医学の問題、法律の問題、ばらばらである。それが一人の女の日常生活のすべての部分にとけこんでいる。一人一人の女が、自分から世の中に働きかける可能をもっている。そういうことを感情から分らせてゆく本が一つもないというのは何たることでしょう。世の中に本は溢れているが、こういうクサビのような本はかかれていない。
笠間さんの随筆は面白うございましたか、第一のを数行一寸見たが、何だか目があらい。
シャルル・フィリップの「ビュビュ・ド・モンパルナス」(これはお手紙で下らなさがわかった)をふとよみかえして、ここに描かれているパリの下級勤人の生活や娼婦の生活に対する作者の心持と、荷風や武麟や丹羽のかく市井風俗との気稟のちがいを感じます。どうして後者の作家らは目先の物象しか見ないでしょう。浅はかにそれにひっぱられて喋くっているのでしょう。精神というものが低い。戯作者気質が「当世書生気質」で終っていない。そこが日本の文学の美の内容をひきずりおろしている。或壮麗な恍惚にまでたかまる悲劇。歓喜に迄貫通する悲劇というものの味いを生活の中に持して行くだけの精神力のはりつめかたをもたない。
私は音楽も絵にも文学にも実にこの強靭きわまりない高揚と、それと同量の深いブリリアントな忘我を愛するのだけれども。私の仕事が文字を突破してそこまで横溢することが出来たらどんなにうれしいでしょう。輝きわたる人間の真情のままが躍動したら。
今夜は今に寿江子がここへよって、七時から新響の定期演奏をききます。
(二十五日になってからの分)
昨夜はベルリオーズという人の(クラシック)夢幻交響楽というのがなかなか面白かった。題の如きもので、情熱的第一楽章。円舞曲(舞踏会)第二楽章。野原での風景。絞首場への行進曲。悪魔の祭日の行進曲。大体テーマは(文学的に)分るでしょう?このひとは楽器のつかいかたが面白く、太鼓のつかいかた(雷)として実に芸術的につかいヴェートウベンのパストーラルの嵐の太鼓のように説明的でない。又或場面、楽しき野原が次第にそこでのシニスタースの光景を予想させながら最後には遠雷と鳥の声とでやや「枯枝に烏とまりけり」の灰色と黒を印象づけるところ。そして、この全体の曲に、一つずつモーティブとなり得る要素が沢山あってなかなか刺戟された。私が音楽家であったらきっと今日こんなにしていられないでしょうと思う。メイエルホリドの音楽をつくったりして、二十一二歳で第一シンフォニーをつくったシュスタコヴィッチの音楽は、現物をきいたとき深い疑問を感じた。又写真にあらわれている相貌からも疑問を感じていた。音楽がフランスの後をついている外(ほか)何があるのかと疑問だったところ、この間新しいオペラのコンペティションのようなことが行われ、「ティーヒドン」(デルジンスキー作曲)、この男の「マクベス(オペラ)夫人」(明るい(バレー)小川)が並んで上演され、明るい小川、マクベス夫人は絶対的に否定された。これは題を見ても文学をやるものには内容がわかります。世界的名声にあやまられたものとしてシュスタコヴィッチもエイゼンシュタインもメイエルホリドもある。(日本にもあります)私は音楽について直感的に抱いていた評価がやはり正しいのが証明されてうれしい。絵についても音楽についても私はこういう直感の科学性を豊富にしてゆきたいと思います。私の絵や音楽の批評は大抵はいつも当っているのだが、素人だから日本的レベルというものを自分では知らずにとび越しているので玄人(クロート)は所謂エティケットを知らぬ奴と思う。文学において文壇をことわっているのに、絵や音楽やの通(ツー)に追随する必要もない。
『二葉亭全集』は買いますから、そしたら御覧になるでしょう?中村光夫、『二葉亭四迷論』あり。では又。私たちは月の美さを好きですね。この間の月夜は灯のない街と共に小説「二人いるとき」の中にかいた。お大事に。ずっとあの調子でしょう?猶々油断なさらないで下さい、お願いいたします。 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(竹内栖凰筆「若き家鴨」の絵はがき)〕
十一月二十五日、これがこの間の手紙で話した栖凰の絵の右の方です。左の方もつづけて御覧下さい。私たちの批評の当っていることをお認めになりましょう。きょう、やっとお手紙が届いたが、十二日の分は来ず、いきなり十八日の分です。十二日のを待って待っていて来なかったわけです、どうしたことであったろう。
見ぬ魚の大さ。 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(竹内栖凰筆「若き家鴨」の絵はがき)〕
十一月二十五日。この間お目にかかったときよく伺った野原島田のことは私によくよくわかって居ります。あなたのお気持の中から。島田へはこのお歳暮にさしあげましょう。私はお父さんを笑顔にして上げたいから。野原は冨美子が女学校へ入ったら。来年三月。丁度フミちゃんの教育費に十分なわけです。大変によいと思う。皆安心出来て。月謝の心配は女の子は辛いだろうから。※[丸B] 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鏑木清方筆「鰯」の絵はがき)〕
十一月二十五日、これが例の清方の鰯です。画面の奥までちゃんと描いているのだが、やはり插絵風になってしまっている。芸術家が単に情緒に止った場合この如き技術をもっていてもやはり低俗にならざるを得ないことは実に教訓ですね。日本画にも或る意味でのバーバリスムが入って来ていて(藤田嗣治の田舎芸者のモホー)其様なのも見かけたがまだ外側のものです。※[丸C] 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(中野和高筆「ひととき」の絵はがき)〕
十一月二十五日この絵は父親のイギリス風なおじいちゃんぶりが林権助伯を思い出させ、又何となく林町の父をも思い出させます。したしみのある面白い絵です。軽井沢辺と見えますね、遠景の工合。何年ぶりかで今年は絵を見て、芸術家の感興ということをいろいろに考えました。感興の色合、深さ、リアリティー。清方だって身にそった感興でこれをつくっているのですからね。※[丸E]これは※[丸E]までで終りです。 
十一月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(菊池契月筆「麦※[「てへん+臣」]」の絵はがき)〕
十一月二十九日夕方。
そこにも豆腐やの音が夕方はきこえるでしょう。きょうは、本当に久しぶりで苅られ、分けられている髪を見て何と珍らしかったでしょう。
まだ四時すぎだのにもうすっかり夕方になっている。この娘の顔は原画は非常に清潔な美しさを持っているのですがよく見えませんね。どうか猶々お大切に。今の肉のつき工合はもう一遍ひきしまらなければ本ものではありません、本当にお大事に。 
十二月一日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(新作帯地陳列会より「頴川陶象綴錦」の絵はがき)〕
光子さんが動坂の絵をかくので一緒に来ました。あのまま木小屋があるしポストがあるし。おいなりさんの赤い旗が昔より大変賑(にぎ)やかにひるがえっていて通りの広さと云ったら。
この絵はがきの帯はなかなかいいでしょう?しめたいと思う、但し空想の中で。あなたに買っていただいて。エイセンは父の好きな陶工(クラシック)の一人です。国男さんから手袋をお送りいたしました。光子さんの子供は五つ、太郎より兄さんです。 
十二月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(安井曾太郎筆「承徳の喇嘛廟」の絵はがき)〕
十二月四日。安井曾太郎の画集の面白いのを文房堂で見つけましたからお送りいたします。画集中にこの絵の水彩のようなのがある。こっちにまで発展して来ている跡もくらべるとなかなか面白い。きょうは光子さんが油の方をしあげて、二人でその額ぶちを買いにゆきました。可愛い絵です。いずれ写真をお送りいたしますが、思いがけず今年の暮はいいものが出来ました。 
十二月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月五日日晴れて風がある。第四十一信
十一月二十五日づけのお手紙をけさいただきました。お体はずっと調子を保っておりますか。きょうあたりから吹く風がいかにも師走風になりました。綿入れ類ももう届いておりましょう。このお手紙に三つよく読めない字がある。「『科学知識』は時折達治に送っている」のあとにすぐつづいて「のものは矢張りやめにした。」その上の三字がよめない。珍しいことだがよめない。何でしょう。この次お目にかかって伺います。大したことではないらしい。
あなたが、本をよめなかった間に得たものの価値について云ってらっしゃることは、大づかみではあるが私にも推しはかることが出来ないとは思いません。
私の仕事について考え希望して下さること、全く私自身が考え努力していることと等しく、それ故一層はげましとなるのですが、私は箇々の作家のおかれている箇人的な事情、歴史的諸事情がその錯綜推進の間でどのように作家を大成せしめるかということについて、実に興味というには複雑すぎるほどの感興を抱いている。わが身についても。内からの力と外からの力。その波はどのように将来の二十年ぐらいの間に一ヶの作家を押すでしょう。この考えは、一人の作家として自力で可能な範囲での努力は益〃おしみなくやって見る必要があるという結論を導き出すのです。
本年は私の文筆的生涯のうちで、決して尠い仕事をした年ではありませんでした。所謂拙速的仕事もしなければならないこともあったが、私の拙速は決して投げたものではなく、最上に最速にという工合であったから、一年経って顧ると、自分が一番能力を発揮して一つの仕事をまとめ得る時間、用意それぞれが評論ではこんな風、小説ではこんな風と、技術的に理解を深められました。
専門家としてはこういう自分の性能を知ることも必要であり、そのためにはやはり一杯にフルにやって見る必要がある。のろのろしかやれないもの、或程度のスピードを出してよいもの、ひとりでに出るもの、だがスピードの出た頭の活躍がどんな傾向を人間として作家としての私の中に蓄積してゆくか。こういう点をもやっぱり研究して見る必要がある。
私は永年極めて自然発生的に内部の熱気に押されてばかり仕事をして来たから、この頃いろいろこんなこまかいことも意識にのぼって来て、建築的に仕事を考えるようになったのを面白く思います。
一水会と言う絵の会に、昨日光子さんと寿江と三人で行って、有島生馬の絵を見てアマチュア芸術家の陥るところは恐るべきものであると感じました。絵を、ネクタイを結ぶように描いている。楽でアットホームであるというのではない、だらんと、只手になれていて、感動と洞察と追求が全く現実に対して発動していない。金のある人間が、ヴェランダで煙草をふかしてのびているようです。里見※[「弓+享」]、生馬、武郎と考えて、武郎の生死について感じました。岩松の絵、どうも見た目のエフェクトを狙うことが巧みすぎる。正直に脚(あし)までちゃんと描かない。光子さんの絵は造船所の旋盤工場だというので、実はあの人のよい意志とは云え、或堅い定式かと心配していたが、絵を見て感心しました。二十号だが、ちゃんと色彩の感覚、働いている人間への共感、皆もって明るく水気をもって描かれている。大変うれしかった。百円の絵です。買い手を欲しがっている。但し、彼女の芸術の過程を愛するものでなければ、この絵はサロン用ではないからなかなかむずかしい。柏亭先生に世話をたのんだらと云ったら、洋画家のパトロンとの関係の個人主義、極秘主義というものはひどいものらしく、自分が口をきいて売れるところをひとに紹介などはすまいとのことです。この世界は知らなかった。絵というもののかげの世界のおくれ工合、険悪工合にはびっくりしました。
きょうから、『発達史日本講座』の現代文学をかきはじめます。この頃、小説にくっささりたい。それに夏からのこの約束で、フーフー。五十枚ばかりだから、ユリよがんばれ、です。これさえすますとこの種の予約はまぬがれます。
キャベジの葉のようなのというのは葉牡丹でしょう。それは、市民的正月の恒例である葉っぱです。外側の葉の枯れるのをはがすと内へ内へとキャベジのように新しくなって行って、しまいには大変柄の長い玉になります。私たちは今年の暮は、何となし愉しい。そうではありませんか。とにかくいつなまけたということはなく生きたし、あなたは快復に向っていて下さるし、今年のために私達は何かしようとしていたところ優しい絵も二つ出来たし。年を送るという感情がこのような安心を伴って、感じられることは何年にもなかったことです。而もほのぼのと日ののぼる感じをもって。では又、かぜをひかないで下さい。 
十二月十一日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十一日第四十二信
けさ、あなたの十二月二日づけお手紙がつきました。ありがとう。いろいろな心持というものも、こうして字にかいておけばこそ一層はっきりとした存在となって確実に実現するのは、実に妙ですね。私はこのごろ、仕事にふれてこの事実を深く感じている、もし文学として書かれていなかったら、この人生の人間性、情の力や美の錯綜はどうして今日だけの蓄積として人間の歴史につたえられるでしょう。そして、私たちはまだ実に実に少ししか書いていない。そう思うと勿体ない。歴史に新しく加えるべきものは本当に多いのに。
この頃は急に空気が乾きはじめて、皆喉がカラカラして、鼻の奥がかわいて苦しいが、ずっと大丈夫でいらっしゃるでしょうか。私は夜中、急に喉がいりつくようで目をさますことがある。
昨夜は『中公』の随筆を十枚かいて(くちなし)、これから例の私の荷物である今日の文学のつづきをかきます。今、能動精神の文学の声がおこったところです。フランスのそういう時代のもっているものと、こっちのとを比べてなかなか意味深い。この仕事は十三四日に終らねばなりません。
全く今年は沢山仕事をした。最も活動したものの一人です。しかし、今年の仕事ぶりは忘れることが出来なかろうと思う。歯をくいしばってやったところがあって。
このごろは心にくつろぎが出来て、瑞々(みずみず)して、何しろ私のこれまでの一生に只一度もつけたことのない題をつける位ですから。来年はいろいろ仕事を整理して、評論風なものでは一つまとまって七八十枚のものを、あとは小説という風にやりたい。そして、いかにもそれがやれそうな気持です。芸術というものは一面刻薄であって、こっちが一生懸命でも心のゆとりなさなどは何か一つのマイナスとなって作品に出る、なかなかくやしいようなものです。オペラの唱い手曰ク、最も悲しいうたを最も悲しくうたえるときは、自分が一番丈夫で幸福な時だ、と。これは勿論そのままではないし、そうだとしたら、今日芸術の仕事を何人がやり得るかと言いたいところですが、それでも、今の心の状態の方が私としてよい。来年は質の更によい仕事をします。今年の暮、私はいそがしい仕事が終ったら出かけて行って、一組のおとその道具を買うつもりです。或暮に、私はショールを巻きつけておとその道具を買いに出かけ、いろいろ見て或ものは手に迄とって将(まさ)に買おうとしたが、どうしても心に買わせぬものがあって遂に買わず、複雑不思議な思いに深く沈んでかえったことがあった。
今年は、それを買います。そして、それを買うことが実にたのしみで、うれしい。新しいおとその道具からあなたに注ぎ、私につぎ、そして親しい大事な友達に注ぐ。
漱石の金剛草の話、私もその本はやはり面白く同様の印象でよみました。漱石の文学論、十七世紀英文学史、いずれも大事な只一つの鍵をおとしているだけ、そのことが今日明瞭に分るだけ、しっかりとしたもので面白い。英文学史なんか、ああ漱石が只もう二箇の「何故(ホワイ)?」を発してこの分析を深め得たら、と痛感した。狭いところにいて読んで。文学論にしろ、堅固周密な円形城壁のようだが、真中がスポンとぬけていて。すべての分析がそれぞれの線の上でだけ延ばされているから、簇生(そうせい)していて相互関係の動きと根本に統一がない。あなたのおっしゃるとおりの原因なことは明かです。
あなたの時計は直って来て、この机の上にあります。金時計というのは、私は全く見なかった。賄のこと、まことに残念ですがまだ分りません。きょう島田からお手紙で、お金がつき、大変よろこんで下さり、よかったと思います。達治さん達も一層本気で働く気分を励まされていると仰云っています。よかったわね。光井の方へは、この暮は、冨美ちゃんへの本(『小公子』やその他)と何かお送りして、お金は来年三月です。
あなたの腹巻きも、栄さんと新工夫したのをもうじきあめてお送り下さる由。今度のはきっとなさりよいでしょう。
本月六日に、曾禰達蔵博士が八十六歳で急逝されました。私はお祖父さんに死なれたようで、その夜お挨拶に行ってお姿を見たら大変涙がこぼれました。この方の生涯のこまかいことは知らないが、長州萩の人の由。漢詩などをやる(文学のことでしょう)のが好きであったが、家が貧しくて給費生となるには当時(明治以前)工学でなければ駄目だった。それで工学をやるようになった、と述懐された由、長男は理学博士で物理です。お前は其故好きな勉強をしろといわれた由。
事務所は十一月中に第二段の縮少をして、一月からは名儀も国男一人のものとなり、老人は隠退されることになっていました。国男もこれからは全く独力です。今の情況ですから建築は一般に困難です。
明日ごろ、可笑しい虎の絵の手拭を送ります。色のついた虎、虎年ですから。壁の比較的よい装飾になりますから、お正月には古いのとかえておつかい下さい。タオルねまき、初めは幅がひろくすぎるかもしれませんが、こんどは洗ってもちぢまりません。普通に召せるでしょう。
では猶々お大事に。この手紙は下旬につくのでしょうね。私はもう四五日のうちにお目にかかりにゆきますが、二十日すぎてから着くかと思うと何か一寸した言葉があげたい。一寸、胸のところに吊っておくような。
many many good wishesという云いかたは、謂わば暖い掌で背中や肩を親しくたたくような表情ですね。では又。 
十二月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月二十五日夕方。第四十四信
十二月十五日づけのお手紙ありがとう。それについてはかくとして、とにかくこの手紙がそちらに届くのは正月に入ってからでしょうね。そうすると正月の第一のたよりになるわけですね。新春の挨拶というものには早いけれども、でも今年は、この間のうちの手紙で私が書いていたとおり私たちに歳暮も早く、したがって新年も早く来たような心持です。だから、時間をとび越して、この手紙の中でいろいろと新しい一年に対して予想する感情でいうことは自然です。
一九三八年という年は、どのような内容で過されるでしょう。時節柄、「天気晴朗なれど」であろうと思われる。私は自分の仕事についてこの間書いたように本年よく勉強したことと、あなたの命がとりとまったらしいこととで、はっきり一つの成熟の感じがしてこの年こそゆっくりと心の満足するような書きぶりでやりたいという希望に満ちていたのです。勿論、それがそうゆけばこれにこしたことはない。でも、そうゆかなかったとして、作家としての生き方の本然性が失われるのではないから、それなら又私らしくいろいろと勤勉に収穫をもってやってゆこうとも考えて居ります。そういう点ではやはり日々是好日たらしめ得るわけです。
どっちにしろ、あなたが健康の平衡を保っていて下さることは何よりうれしい。何よりの安心。精神上の苦痛というものも様々で、私は世俗的な意味で苦労性ではないのだけれど、苦しいということは、私の場合では自分の体より寧ろそちらの体についての場合につよく感じられます。あなたの着実な健康増進のための努力には、私は全幅の信頼をもっているから、出た結果はどうであろうとも、あなたに対しての私の苦情というものはないわけです。どうか今年は熱を出したくないものですね。
おかゆの境地を脱したら実に実にしめたものです。こんなにやいやいいう体面上、私も気をつけ最上の健康を気をつけますから御安心下さい。私の盲腸も妙な奴で、曲者です、ただものでない。可笑しいわね。まア、適当にあつかって居ります。
ところで、どてらお気に入りました?今、もう押し迫って縫って貰えないので出来ているのを買って背中へだけポンポコ真綿を足したのです。エリは大変柔和でしょう?顎や頬にやさしく当るでしょう?きっとあなたはもっともっとふくらんだのを欲しくお思いだろうと察しているのですが、どうか辛抱して下さい。あれでも普通よりは厚い分なのですから。
もう一枚の綿入羽織は一月中旬にしかお送り出来ません。これもあしからず。
二十二日ごろ、光井の方へ500お送りしておきました。あなたの方のお小遣いもあれで当分間に合うし。いい正月と云うにはばかりなしですね。
きのうは、午後五時までかかってやっと夏以来の宿題であった「今日の文学の展望」96枚かき終り、夢中で終って雨の中を林町へゆきました。太郎の誕生日は十日であったが曾禰博士[自注20]の御不幸でいそがしかったのできのうにしたのです。河合の息子(咲枝の姉の子)たち、その身内の男の子四五人男の子ばかりで来ていて二階をすっかり装飾し、どったんばったんの大さわぎ。寿江がプロムプターであるが、この前からの風邪の耳がまだなおらず、繃帯(ほうたい)に日本服姿でふらふらしていました。丁度私の行ったのは六時半ごろで、程なく昼の部は終り。子供ら引上げ。忽ち太郎孤影悄然となったので、歓楽きわまって哀愁生じて、泣いてしまった。実にこの子供の心もちわかるでしょう?一人っ子なんてこれだから可哀そうです。
それから夜の部がはじまって、こっちは大人の世界。御飯一緒にたべて、寿江へ買ってやった小幡博士の音響学の本の扉に字をかいてやったりして、珍しく昨夜は林町に泊った。おひささん一人故泊ることがちっともないのです。仕事の荷が降りたところなのでフースー眠って、目をさまして、すぐには起きもせず、私にいただいてある黒子(ほくろ)のごくそばで遊んで、懐しがって、優しい感情と切ない感情と、てっぺんではどうしてこう一つなのだろうと感じ、凝っとしていた。
それから起きて、食堂で太郎がトランクへちょこんと腰かけてお箸で食べているとなりでシャケで御飯たべて、「アラ百合ちゃん奈良漬がすきだったわね、一寸きってさし上げて」「アノー、もうみんなになって居るんですが」「ほんと?! というような会話があって、締切をサイソクの速達が来ているという電話でかえって来ました。
隙間風がスースーと顔をなでる家ながら、我が家はよろしい。まして、ちゃんと一つの封緘(ふうかん)がひかえていて見れば。
二葉亭の手紙や日記類の方への興味は全くそのとおりお送りする順として考えて居りました。安井氏の画に対して利口すぎるとの評がある。尤もです。奥行きなさは、愚かさではなくて、その利口さのために生じている。この頃の絵も妙に引込む力をもっていない。画面一杯にせり出して並んで、迚(とて)も目をひき、うまいがどこまでも心を引っぱりこむというところはない。ああいう本で梅原龍三郎のがあります。又見ておきましょう。絵というものは頭のためにいい(私たちのような仕事との関係で)。音楽は聴き込んでいって、こっちの心がこっちの心の内部で啓(ひら)ける燃えもする工合ですが、絵はやっぱりその芸術の特質で、眼の前がパーッと絵に向って開いて行って、こっちから入りこんで行って、散歩をして、フムと思ったりハンと思ったり出来て、やはり楽しいものです。スケッチが出来たら、下手でもさぞいい保養だろうと思います。寿江子は上手(うま)い。それでも絵は気まぐれにしかやる気がしない由。
あなたがお礼を出したく思っていらっしゃる人々には皆よろしくつたえますから御心配なく。親しい人達と賑やかに越年しましょう。百枚近い文学のこの三四年間に亙る鳥瞰図的な推移図のかけたのは、不満もあるが、よかった。生活の中で幸福を発見する能力や仕事のそれが増してゆく諸事情というものは何と複雑でしょう。
この間、国男宛に下すったお手紙、あっちがお歳暮に来たとき呉れました。わざわざありがとう。国男は、自分が書かないのにすまないと云っていた。皆に対してあなたの配って下さるお心持をありがたく感じました。緑郎はこの間初めて手紙をよこして、パリのエトワールの近くの或一寸した作家の未亡人の家に暮すようになり、フランス語がまだよくこなせないから御飯のたびに大汗の由です。あのひとなりにいろいろ学んで来るでしょう。紀(ただし)は負傷しました。但生命に別状はない。島田の方では多賀ちゃんのたよりで、お店へ米俵をつみ上げて、トラックも休みなしの由、収入のある方らしい御様子で、父上も炬燵(こたつ)のある中の間でこの頃は御機嫌よろしいとのことです。結構だが忙しくてお母さん又腎臓をぶりかえしになるといけないと思って居ります。ではこの、今年と明年とに亙る手紙はおしまい。あさって(二十七日)お目にかかりにゆきます。寒くなって来たこと。年内に雪が降るかしら。かぜをお引きにならないように。どうぞ。

[自注20]曾禰博士――曾禰達蔵博士。百合子の父中條精一郎と協力して建築事務所を長年経営された。 
 
一九三八年(昭和十三年)

 

一月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第二信きょうは風がきついけれどもいい天気。二三日あっちこっちしていて、こうやって机に向ってゆっくりこれを書くのがいい心持です。きのうはあれから気分でもわるくなりませんでしたか?熱が出たりしなかったでしょうか。割合いい顔つきをしていらしたので安心です。
きのうお話した生活の変化のこと(自注1)について、もうすこしくわしく私のプランを申します。二日に書いた手紙には、びっくりした気持がきっとつよく出ているでしょう。フームと、びっくりしないで、びっくりしたから。
経済の方面では、大体御承知のとおりです。補充の方も何とか工夫がつくでしょう。書くものが変っても、随筆でもなんでも名を別にしても同一人であってはいけず、「情を知ってのせたものは」云々とあるから、文筆上の仕事では不可能ですが。家もおひささんも当分このままです。お話した店の方が形つくと(自注2)、それによって私も戸塚辺へうつるかもしれない。二人の子供たちと七十八のお婆さんときりで、親たちが店へかかりっきれば、店へ通うとして余り頼りないから近くにいてくれたら安心だとおっかさんが云っており、私は又精神的健康法の上からどこまでも扶(たす)けて扶けられてゆくつもりです。私はプランにしたがって一層充実した勉強をしつつ、そういういろんな点で勤労に近くいて暮します。これは今の事情の下では大変いい暮し方で、それを思いついて私たちはうれしい。その意味では張り切っております。どうか、ですから御安心下さい。生活力はいろいろの形をとって発露するものね。あなたがきのうこの話をきいて賛成していらしったし、笑っていらしったし、それもずいぶんいい気持です。私たちらしいでしょう。褒(ほ)めていただいていいと思う。資金の方はまだよくわかりませんが、知人に専門家がいて肩を入れていてくれる由故いいでしょう。私たちのところにはまだ九〇〇ありますから、そのうちから光井へお送りした位まで私は投資するのよ。大した資本家でしょう。(これはうまくやりくりますから、あなたの方の御配慮は無用)正月のはじめは、そういうプランを立てるのにつぶしたからそろそろ又落付いて勉強をはじめます。夜更しが今度こそやまるでしょう。朝から午(ひる)すこし過までにかけてみっちり毎日勉強し、基本的な勉強の本もよくよみ、やっぱりこの中にも愉しさはある。人間の生活は全く面白い。『婦人公論』の正月号にね、近角常観という坊さんが(禅)「一心正念にして直に来れ。我能(よ)く汝を護らん。衆(す)べて水火の二河に堕せんことを畏れざれ」という文句の解説をやって時局的な意味をつけていたが、洒落れた字のつかいかたを昔の人はやっております。人間が成熟してゆくいろんな段階というものを含味してみると複雑なものですね。でも本当にきのうはお目にかかってあなたの笑い顔と真直な明るく暖い眼差しとをみてスーッとした。かえり道に歩きながら、その眼で私をみて下さい、とリズミカルに、うたのように思いながら勢よく軽く歩きました。
夕方島田の方へ手紙をかきお話した件について、主としてあなたの御意見として申しあげました。その方が御諒解になりやすいでしょうから。どうかそのおつもりで。
私の机の上はこの頃あなたのまだ御存じないものが一つふえました。それは花瓶です。この頃インベやきの紅茶セットなどよく出はじめたが、その焼で水差しの形で七八寸の高さ。これは珍しいでしょう?音楽評論社で原稿料の代りにくれたの。たくさん水仙をいけてあります。私のさし当って一番おしまいの稿料がこういう形でのこされたのは興味があります。それにこの位大きい瓶がほしくていたところだからなお更気に入って大よろこびです。昔、私は小さい花を一二輪机の上におくのがすきであったが、この頃は花の蔭という風に左手の机の奥に房々とたっぷり花のあるのが好き。私の贅沢(ぜいたく)。風呂と花とたまの音楽会。二十三日にはゆくつもりだったら日曜日ですね。今年は。それなら二十日にゆこうかしら。
どうかお元気に。乾くから喉をわるくなさらないように。おなかはもう痛まないのでしょうか。では又。皆からよろしく。

(自注1)生活の変化のこと――この年一月から翌年の夏頃まで内務省検閲課の干渉によって中野重治・百合子の作品発表が禁止された。
(自注2)店の方が形つくと――窪川夫妻がコーヒーの店を出そうとしていて、百合子もその仲間に入っているつもりでいた。 
一月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(中村研一筆「朝」の絵はがき)〕
一月十二日、岩波の『六法全書』本年(昭一二)版は皆うり切れてしまい、新しい法規を入れたのはもう二三ヵ月後に出ますそうです。どうせ新しいのならその方がよいと思いお待ち願います。『二葉亭四迷全集』の一二は、創作です。待っているのは五六七八になりましょう。これもまだすこし間がある。一筆そのおしらせを。
一応うまいのは分るが、という絵が何と多いのでしょうね。うまさに於てこれも場中に光っていた方の部です。 
一月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(山と水辺と村の風景の絵はがき)〕
一月二十二日、あしたは日曜日でこの天気では雪になるでしょうか、雪は可愛いから降ってもいいことね。月のない代りに雪の夜にでもなったら、又異った眺めでうれしいと思います。あしたは防空演習だけれども午後は神田へ行って、およろこびのしるしとしていいものを買って頂きます。その中にはドンキホーテもプルタークもある国民文庫刊行会のシリーズです。夢二のこの絵はどこか瀬戸内海らしくて島田のどこかに似ているようです。 
一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
稲ちゃんのところへ、ひさが手つだいに行っていて、ひっそりとした午後三時。右手の薄青い紗のカーテンを透して午後の斜光が明るくさしている。机の上へ父の元買った小さいマジョリカの花瓶(中世には薬瓶としてつかわれたもの)をおいて、黄色いバラを二輪活けて、これを書いて居ます。きょうはすこしゼイタクをしてバラの花を二輪ぐらい買ったってよい。日曜日だけれどもラジオもやかましくなくていい。本当にこの辺はピアノもラジオもやかましくなくてその点では助ります。今の時刻、あなたもきっとこの午後の光線を仮令(たと)えば霜柱の立った土の上に眺めていらっしゃるのではないかしら。或は冬らしくすこし曇りを帯びた空を眺めていらっしゃる?
私は独りで明るさと静かさとあなたの傍にいる感情の中で、一寸した道楽をやって居ります。それは一つの算術です。日記の一番終りをあけて見る。1938年の十二月三十一日は土曜日です。本年の元旦は土曜日であった。すると来年の元旦は日曜日で来年の一月二十三日は月曜日ということになる。ハハ。これはよろしい。では二十三日に出かけられる。ここで一日ずつあとへくって見ると、六年前のきょうは月曜日だったことが思い出されます。そして来年は七年目で又月曜日。つまらない、しかし私には一寸面白い算術。
一月二十五日の午後。
きょうも又晴れている。非常におだやかな天気。おとといのバラは八分開いて微かによい匂いを放っている。本を送る包みを二ヶこしらえて上へあがってこの手紙をつづけます。きのうは体の工合のよさそうなお顔付を見て本当にうれしくいい心持でした。便通は腹の調子を告げるばかりでなく全身の工合を語るから、それが苦情すくなければ何よりです。
きのうは割合いろいろ聞いて頂けて、さっぱりした安心した気持です。あれから真直家へかえって、すっかりおなかをすかして、おそばをたべて一休みしに二階へあがろうとしたら、ひとが来て五時すぎてしまった。そのうち、ひさ、戸塚へゆく時間で出かけいよいよ二階へ上ったら到頭十時まで一息に眠ってしまいました。ひさがかえる音で下へおりて、三十分ばかりいて、又あがって、二三時間おきていて又眠りつづけました。きょう、おだやかな天気を沁々(しみじみ)感じる道理です。あああ眠ったと云う心持。この間うち体がこわばったりしていたのが大分ましになりました。
きのうも簡単にお話したとおり、私は当分このままの生活をつづけます。今家賃は33円です。がやはりこの周囲でももすこしやすい家でもあれば代ってもよい位の考えです。家賃だけを切りはなして考えても交通が不便では私の生活に全く無意味だから。この頃のタクシーの価はあなたの御存じの時分より倍は高くなりました。銀座から目白まで雨だと一円以下では来ません。夜淋しすぎるところに住んだり林町のように億劫(おっくう)なところに居ると忽ち車代がびっくりするようになる。林町には空気全体がいやです。Sの、チェホフの小説の中にでも出て来るような人生の目的なさそのもののようなピアノの断片をしかも永い間聞くだけでも辛棒出来そうもないから。この二十八日には、父の胸像を(北村西望氏作)建築学会の中條精一郎君記念事業委員会から私達への贈呈式があります。この記念事業には中條文庫も出来ます。造形美術と建築の研究を主とした文庫です。私は文庫ときくと冷淡でいられなくていつかもし可能であったら、何かいい本を父の名によるこの文庫に寄附したいと考えます。この頃私は自分の性格にこういう一種独特のたちを与えて、いろんないやなことや苦しいことを、やはり失われない快活さと希望とで堪えてゆく気質に生んでくれた父の気質というものを、心からありがたいと感じている。益〃このありがたさは痛切であって、恐らく私が年をとり生活の波浪を凌(しの)ぐこと深ければ深いほど、いやまさる感謝と思われます。そして、そのような私の気質のねうちを充分に知っていて、又その光りを暖くてりかえしはげまし、人間らしい強靭さに導いて行ってくれる人のいること。それら全体の諸関係をひっくるめて友情につつんでいてくれる決して尠(すくな)くない友人たちのいるということ。なかなか私は幸福者です。だからよく私は、これらのねうちを活かすのこそ自分の人間及び芸術家としての責任であると感じ、まことに人生というものに対して畏れつつしんだ気持になります。女の生活で、心のたよりになる二三人の女の友達をもっているということさえ、現代の現実ではなみなみならぬこととしなければならないのですものね。
明日あたりお話した籍のことについてもうすこしとりまとまったことを調べて手続をすすめましょう。そして、来月には、はっきりとした私の勉強のプランについてきいて頂きましょう。よくプランを立てて一年に五百枚ぐらい――一冊の本の分量だけの仕事は必ずやってゆく決心です。どんな時でもそのときにしておくべき仕事というものは文学の上に必ず在るのですから。断片的でない勉強をまとめます。これまでは仕事即ち職業としての外との相互関係から比較的短かったから。暮に書いた「今日の文学の展望」百枚はこの種のものとして一番長かったが、どういうことになるか。ゲラのままです、目下のところ。これももっと手を入れたい。散漫なような手紙ですが、これで。猶々お大切に。おひささんがおかかをえらい音を出してかいている。では又 
一月三十一日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
きょうはすこし気分をかえるためにこんな紙に書きます。半ペラはいつもこの色をつかうので。
ロンドンから雑誌のようなものは二十日ほどで来ます。あなたのお手紙が十七日にかかれていてもここへつくのは二十八日。何と面白いでしょう。
二十八日には建築士会の中條精一郎君記念事業会から、父の肖像(薄肉彫・ブロンズ直径三尺近いもの北村四海氏作)をおくられました。建築士会へは中條文庫資金一万二千三百円也が寄附されました。全額は一万五千円ばかり集った由です。
三十日は二年目の父の命日で、雨のなかを青山墓地へゆき、花のどっさり飾られているお墓に参りました。この前の手紙で書いたように、私はこの頃いやまして父が困難に対して快活な精神を失わなかった資質の価値を尊敬している心持なので、お墓詣りも特別な心持で行ったのですけれども、石に中條家之墓と書いてあるのを見ると、父によりそっていろいろと喋ったり、肩を叩いて笑いあったりするような気持も違ったものになってしまいます。父の墓というものが欲しい。そういう気がしました。かえりに太郎も加えて同勢五人、銀座の松喜という牛肉をたべさせる家で夕飯をたべました。この店にしたのにも曰くがあるのでね、父がここの肉を美味(おい)しがって百合子に食べさせてやりたい、いつか行こう、ね、ぜひ行こうと云っていたっきり、私はまだ一遍も行かなかったので、特にそこにきめたわけ。バタ焼にしてどっさりたべました。そしたら雪になって来て、寿江と私とだけ日比谷で車を降りて二人で雪の中の公園をあっちこっち歩き、非常にいい心持でした。鶴の青銅の噴水のある池の畔(ほとり)の亭(ちん)にかけて降る雪を眺めていたら、雪は薄く街の灯をてりかえしていて白雪紛々。紅梅の枝に柔かくつもってまるで紅梅が咲いているような匂わしい優美さでした。雪はすきだから思わず気がたかぶって犬の仔のようになる。父のなくなった一昨年の二月二日に、葬式をすませて戻るときも、私の髪に白い雪がふりかかっていた。つづいて、あの近年珍しい大雪になりました。それに父の記念日と雪とは似合います。雪のもつ豊饒な感じが美しさの大きい要素で、そういう豊饒さと活気とが父に似合わしいのですね。
あなたも雪はお好きでしょう?けさはね、雪がすっかり消えてしまわないうちにと、家を出て裏の上(あが)り屋敷の駅から所沢まで武蔵電車で行って、バスで国分寺へ出て(この間はなかなかよい、大雪だったらさぞ美しいでしょう、黄色いナラの林があって)省線で目白へかえって来ました。すこし乗物ばかりで残念ですが、やっぱりよかった。
今、パール・バックの「母の肖像」というのをよんで居ります。そしていろいろバックの心持(書いている)を考えます。心持の性質について考えます。訳者の筆致の影響もあるが、バックの表情にあってかたまっているものが、やはり作者としての感情の底にがっちり構えているという感じ。そしてしたしめないところが生じている。それにしてもこのバックやスメドレイや、アンナ・ストロングなどは其々(それぞれ)に合衆国の生んだ現代の婦人の一タイプです。マドリードの「パッショナリア」という名を得ている婦人と共に。これはラテン人であるが。
私は又伝記の仕事を継続し、語学を役に立て、小説をつづけ、段々勉強に順がついて来ましたからどうか御安心下さい。非常にいそがしくやっていたのが、急にそういういそがしさはなくなったので、神経が新しい事情のテムポに適応するために時間がかかりました。いろいろの気持も。内外ともなかなか複雑ですからね何しろ。
一月二日に第一信。八日に第二。十二日第三。十六日第四。二十五日第五、そしてきょうの第六信。一月二日には、私が錬金術師でいやなことからも、金(キン)をねり出すということを書いたのでした。二月十三日の私の誕生日には新しい人たちに何を御馳走しましょう。その前にお目にかかりますが、あなたは私に何を祝って下さいますか?何をやろうと考えていて下さるでしょう。二つばかりのものは私にもうわかって居るけれども。どうか益〃お大切に。木綿の晒(さらし)にもSFが入るので、あなたの肌襦袢(はだじゅばん)のために大なる買占めをして一反サラシを買いました(!)では又。かぜを引かないで下さい。 
二月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 伊豆熱川温泉つちやより(つちや旅館の絵はがき)〕
二月十日九日の午前九時五十二分で立ち午後の二時すぎこっちへ着きました。網代からバスで伊東まで、そこで又のりかえてバスがいかにも伊豆らしい柔かい枯草山や海やを左手に眺めて海岸の上を走り、二時間ばかりで温泉につきます。ごろた石の坂道で歩くのには工合よろしくないが部屋からすぐ海上に大島が見え温く、昨夜は十時前からけさ十時まで眠ってしまいました。大いに眠ってかえるつもりです。粉雪がちらついている。寿江子がわきでタバコをのんでいる。お大切に。
この写真はこの家のよさがわかりません。私たちのいるのは正面玄関の向って左手の二階。手拭のかかっている室の右どなりです。左の別棟がお湯。小さい仕切った室があって大助りです。山のダイダイの木に黄色い実がなっていて、光井の村の景色を思い出します。梅は末(スエ)です。紅梅も末。雪益〃。 
二月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 熱川温泉つちや別館より(封書)〕
二月十二日晴第七信
この手紙は、伊豆の東海岸のいかにも晴れた日光を受けながら、つちやという宿の八畳の室のカリンのテーブルの上で書いて居ます。
八日には、元気そうにしていらしったので安心でした。あの風邪流行の中で鼻かぜですませたのはお手柄お手柄。あのときお話の大島の着物、インバネスのこと。あなた何か混同していらっしゃるのではないかしら記憶の中で。もう一度前後のことをよく思い合わせて思い出して御覧なさいませ。ひさのお使いは無駄足だったのですから。
ところで、二月二日に書いて下すった第三信、九日の朝立つときに着いたというのは実に大出来です。昨年のうちに、やはりこの位の日数でついてうれしかったことがあったけれども。あけてよんで、国府津などにも持って行った例のベルリン製の紙トランクに入れて又こっち迄持って来、今はやはりこの紙の左において書いている。
本の御注文のこと、これはお話でも分ったからかえったらお送りいたします。二葉亭は私が特に入用でもないから、やっぱり来た毎にお送りしましょう。中村光夫も二葉亭論のときはいくらか見られたが昨今はどうも。書き下し長篇小説も実際には従来の意味での通俗小説めいたものになってしまっています。阿部さんの幸福もその一つであるが、作者は漱石を狙って「それから」や「こゝろ」を念頭において公荘(くじょう)という人物を一ヶの媒介体として現実諸相を反映させようとしているが、「心」の「先生」や「それから」の代助が文化人として、人間として習俗に対して求めて居り主張していたものが何であったかを理解しているものには、今日の公荘が只のガラスでものをあれこれうつす(判断せずに)ものとしてだけ出ているのが、つよい時代的な特色として見えます。インテリジェンスが只ものわかりよさ、あれもこれもさもありなん式の傍観性としてだけしか物の役に立たないでいるところ。文学が豊饒になるためには実に広い大きい幾多のものが必要であると痛感します。長い小説は決して安易にやっているのではないのです。「伸子」などでも本にしたときすっかり通して手を入れ、完成させた、そのような程度のことを云っているのです。すっかり書き直すなどということは実際には不可能ですもの。
こっちの暮しはきょうであしかけ四日目。九日にはね、午後〇時何分かに網代について、すぐそこからバスで伊東下田行が出かかっているのだが熱川の宿はどこがよいのか知らない。赤帽にきいたら福島屋が一番いい、電話をかけといて上げましょう、電話料二十銭。二十銭わたしてバスにのったら、伊東まで相当ある。伊東は乾いたようなあまりに風趣のない町に見えた。伊東から又下田行で熱川まで一時間余。すっかりで二時間余です。山の間の坂道の左手に熱川温泉入口とアーチが出来ているところを、ハイヤーでぽんぽんはずみ乍ら七八丁下った狭苦しいところに福島屋あり、途中番頭曰ク生憎満員でお部屋がありませんがともかくお迎えして云々。上って見ると夜具部屋のようなところしかない。そこで宿に電話で交渉させて、坂の途中にあったつちや別館の九号という室におさまったわけです。海からはすこしはなれているが、大島が目の前に見え、左右は山の岬が出ていて、畑の真中の木の櫓から下の宿の温泉が噴き出して夜も昼も白い煙を濠々(ごうごう)立てている。その煙とはるか海の彼方の三原山の噴火の煙とが同じ一直線の上に在るように、ここからは眺められます。宿の入口の垣のところに白梅紅梅が咲いていて、もう末です。伊豆椿が咲いている。しかし散歩にはごろた石が多く坂が急で不向。月は夜うしろの山からのぼります。温泉の白い湯気と海とが輝かされる。月の姿は見えないの。大島の左手の端に低いが目立つ燈台があって明滅する。
私は海の上に島を眺めていたことがないから一日のうち、時間と雲の工合によって遠くの大島が模糊と水色に横わって居たり、急に夕日で紫色に浮立って見ているうちに、右手のところに断崖があらわれ、やがて島の埠頭らしいところが一点水際でキラキラ光り出したりする光景のうつりかわりが面白い。夕刻は、今そうやって細かい家並まで目に入っていた島が、自動車を一二台見送って再びそっちを見ると、もうすっかり霞(かす)んでしまっていたりして変化きわまりない。空気がよい。塩類の湯も体に合います。一日に一遍ゆっくり入ってバラ色になって眠る。一日に何度か、ああこの空気を、とか、ああこの日光を、とか思う。おなかの右側全部(肝臓や盲腸)ぎごちなくつれたりひっぱられたりするのがましになりました。私たちは十五日ごろにかえるでしょう。一九三一年の二月ごろ湯河原に一ヵ月ばかりいたことがある。肝臓のために。大宅さんだの隆二さんだのが遊びに来て一緒に湯河原の小山にのぼったことがある。こっちの方が海気があるから一層心持がようございます。寿江子をつれて来てよかった。寿江子の体にもよいらしいけれども、それより私がぼんやりするためには独りよりずっとよかった。独りだと私の頭が休まない。すこし疲れが直ればすぐ働き出して、休んでいられない気になってしまうから。
きのうはバスで二時間ばかりかかって下田へ行って見ました。実のお吉で食っている。吉田松陰先生の住んでいた家というのは蓮台寺温泉の中の狭い小路の横です。普通の田舎家の土間のある家でごく小さい。子弟をあつめて講義したという、ベン天島というのも小さい。下田の町からはずれた柿崎というところ。ハリスのいた寺、お吉がカゴで通った玉泉寺という寺へあがる海岸です。黒船が二つの島の間に碇泊して天地を驚倒させたという二つの島のへだたりを見ると、当時の黒船の小ささがわかって実に面白かった。バスの女車掌さんが皆説明して呉れる。伊豆が金山で有名で幕府(徳川)の経済をまかなっていたとか、運上山というのが見えたりして。伊豆はなかなか幕末の舞台でしたから。曾我兄弟の父河津氏の所領がその名をもっていたりする。
寿江子は今散歩に出かけました。私はきのうごろた石坂でせっかく買った新しい下駄をわってしまって困った。きのうは相当にゆすぶられましたからきょうは一日しずかにしているつもりです。今大島の真上に一つの雲のかたまりが止っていて、三原山の煙が一寸ねじくれ乍ら真直のぼって、その雲との間に柱のように見えます。私がこうしていてもあなたがかぜも引いていらっしゃらないと思うと本当に気が楽です。 
二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日第八信
これはもう東京。ひどい風が雨を吹きつけていて、ガラスのところから眺めると、目白の表通りにある三本の大きい欅(けやき)の木が揺れる房のように見えている。ガタガタ家じゅうが鳴りわたっている。何ていろいろな音がしているのでしょう、風の唸りに混って。
私たちは十五日の午後に熱川を立って夕方東京にかえりました。十三日の私の誕生日はよい天気で、寿江子はスケッチに出かけ、私は宿でゆっくり本をよみ。次の日は矢張りひどい雨ふりで、いかにも暖い海岸での春のはじまりの雨というたっぷりした降りかたでした。寿江子は私のわきでスケッチをして居り、鼻歌まじりで一心に集注した可愛い顔つきで雨にぬれて色あざやかな外の風景を描いて居り、私はドーデエの『月曜物語』を、特別な興味と関心とで読んで居り、午後じゅう、ほんの一寸しか互に喋らず、しかも静かに充実した精神の活動が室に満ちて居り、本当に本当にいい心持でした。十三日とこの日とで私はすっかり疲れがぬけたようになり、もみくしゃな顔がしっとりとしたようになりました。其故、きょうこんな荒々しい天候でも私は休まった神経のおだやかさ、きめの濃やかさというようなものを感じ、気持よい活気を感じて居ります。
本当にありがとう。私は誕生日へのあなたからのおくりものとして、この休みを休んで来たから、その甲斐があってうれしいと思います。
お体の方はずっと順調ですか。きょう、夏ごろ南江堂の書棚を苦しい切迫した気持でさがしてお送りした本どもがかえって来たのを見て、私は思わず、ああ、これは大事にとっとかなけりゃ、と云いました。全くそうでしょう、ねえ。それから一つ私は悟りをひらいて来たことをお話ししましょう。この前熱川で書いた手紙にも其について書いたが、私はこれまでの何年かの間、自分が何かをああ美味しい!とたべた刹那(せつな)、又ああいい空気だと感じた瞬間、すぐその下から、忽ちいろいろと苦しい心持を感じて来ている。一昨年上林(かんばやし)へ行ったときだってそれがあって、勉強勉強と考え、折角行ったのに十分効果をあげられなかった。熱川の三四日もそうであったが、不図考えてね、あなたも折角行っておいでと云って下さったのに、其をたっぷり休めないなんて、何というけちさと考え、心持のよい空気も海もあなたが皆私へ下さるものという気になったらやっと安楽になりました。小乗的で滑稽だが、でも、この気持の中には私としては本当のものがあるのです。どうかお笑い下さい。
十六日には新響の定期演奏会をききました。朝吹という若い夫人(テニスの朝吹の一族)ピアノを弾き、なかなかよかった。女のひとでこの位量感があり、変化もある演奏をするのは珍しい。熱心に聴いていい心持につかれました。林町では咲枝が風邪で臥てしまっているので、きのうは午後から太郎をつれ戸塚へまわって達坊とおかあさんとを誘い、家で七時まで遊んでそれから私は音楽をききに出かけたわけ。
留守の間おひささんは戸塚へ手つだいに行っていて、一日に一遍ずつ見まわりに来て居ました。
ドウデエは昔「サフォ」がはじめで、いくつかの作品をよんだが、『月曜物語』は短篇集として様々の感想をおこさせる作品集です。短篇というものについてもメリメと比較し、モウパッサンと比較し、チェホフに比べたりすると、例えばモウパッサンの「脂肪の塊」などとドウデエの短篇とでは、同じ時期の人生の断面を其々にとらえていても捉えかたがいかにもちがう。ドウデエの思い出に、原稿が一枚かけると、小さい男の児がそれをチョコチョコととなりの部屋にいるお母さんのところへ運ぶ(浄書に)光景があり、そんな風にものを書くということを昔私はびっくりして覚えています。深刻な矛盾の中に当人が楽しそうにしている姿というものは独特の見ものですね。この小さい男の児が、今はもういい爺さんでクロア・ド・フューの仲間で活躍しているのだから面白い。父ドウデエの作品がこのように一家の歴史のすすむ酵母を既に語っている、そこが又面白く思われる。
一緒に送りかえされて来た購求の書下し長篇小説の一冊を眺め、私は胸の中に迸(ほとばし)る苦さを抑えかねました。その作者に好意をもつ義務を感じられない、そういう苦々しさです。
雨が上りかけて、空の西の方が光って来ました。それでも寒いこと。手が大層つめたくて、変な字になる。近日お目にかかりに行きますが、どうか風邪を呉々おひきにならないように。 
二月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十七日第九信
きょうは第四信をありがとう。この位こまやかな手紙を書いて下さるのであったら、体の工合もずっと順調でいらっしゃるにちがいないと安心です。
私の誕生日について本当にありがとう。十三日をどう暮したかということは熱川からの手紙或はかえってから差上げた手紙でもうおわかりになって居ますでしょう。別に何というお祝ではなかったが、十三日はたっぷりとしたそして落着きのあるいい日でした。暮から私はやはり随分揉(も)まれた、渦の真中に落ちた一つの小桶のように、ちゃんと底は下にして位置を保ってはいるのだが、随分キリキリまわされた、そういう風に十三日ごろ熱川で感じました。そう感じるだけ落着いて来たのでした。二十日に二月二十日ですし、私の誕生日をやっていつもの親密な顔ぶれで御飯をたべました。俊一さんはこの頃勤め人で朗かになっていた。鶴さんから呉れた春らしい菜の花(はタンスの上)と、桜草は机の上のこれをかいているむこうに咲いている。稲ちゃんは私が一昨年久しぶりで自分のお茶碗をつかえるようになったとき、さっぱりした藍で花を描いた茶碗とお湯呑(ゆのみ)をくれましたが、二十日もこんどは白いところに清々しくはあるが赤や金の入った蘭の花のお茶碗と、肥って丸い唐子(からこ)が子をとろ遊びをしている模様のお汁碗をくれました。そしたら栄さんがやっぱり唐子のついたお茶々わんをくれて、おまけにどうでしょう、私のふだん羽織の裏にやっぱり唐子がいっぱい遊んでいるの。尤もこの方は何年も前のではあるが。大笑いをしてしまった、何か私と連想があるのでしょう。だから来年はくりくりした這い這い人形によだれかけでも呉れるのかもしれないと笑いました。
いつかあなたが、私におくりものとしての言葉をやろうと思うが、豊富すぎて表現しにくいという意味を云っていらしたことがあった。私は私の希望するものをみんなあなたから頂くよろこびと、絶えず其等を貰っていて私がたっぷりしているというみのった感じと、事々に生活の感動をそこへ響き合わしてゆく心持とでは、充分に充分に輝やかしい迄に慾張りです。この点での私たちの慾張りは一つの人間的美にまで近づいている。こまかいものから大きく深いものに到る迄、私はあなたからとっている。この間もね、隆二さんにあなたから誕生日のおくりものとして熱川への小休みを貰ったと云ってやったら、本当にいいおくりものを貰ってよかったとよろこんでくれました。
ところできのうは本当に悲観してね。何しろ私が帰ったのは十六日で、二十日がすんだらお目にかかりに出かけようと思っていた。そうしたら二十一日に関鑑子さんのお父さんが亡くなられたことを知り、二十四日の御葬式の日までお通夜その他で暮しました。如来(ニョライ)氏は古い美術記者で、昔は林町の家の前の坂の中途に住んで居り私はユリちゃんと呼ばれている縁がある。中風に急な老衰でした。七十三歳。一葉だの紅葉だのというと明治文学史の頁の中でしか親しみのない存在であるが、如来さんと云えば鑑子さんの幸・不幸の密接な存在で、一つぐれると明日演奏会に着て出る長襦袢まで質へぶちこんで呑んでしまったりするが、又娘を愛し、誇り、娘の生き方を肯定しようとすることでも第一の人でしたからごく近くて人間ぽい。この如来さんのことを一葉が日記の中に書いている。素(す)っぽこ袷(あわせ)に袴だけはつけていて気焔万丈だとか、よい女房を世話してくれと云ったとか。又『紅葉随筆集』に如来の美術批評集(五色?の酒)の序が入っている。それらの本の頁に大きい紙を挾んで一つ一つ見せてくれ、しかし著作の方は一つもない、ということで極めてよく表象されている一生でした。父はよく如来さんのものを買ったりしたらしい。
さて、二十四日にその葬儀が終り、二十五日は疲れ休みで、丸善へジョーンズの発音辞典を買いがてら許可をとりにゆき、きのう二十六日に行くつもりだったらほんの一寸のことでおくれて、到頭あした迄のびてしまいました。ああ悲観した、フウ!と云っていたところ今朝お手紙で、随分うれしかった。
葬式が団子坂のお寺だったので、かえりに林町へよったら、国男へ本を送って下すったのが丁度届きました。テーブルのあのひとの席にちゃんと飾っておいて、わきから首をのばして開けるのを待って見たら、あれはいい本です。欲しいと思っていたし、国男の常識をひろくするによい本だから、およみなさい、きっとおよみなさいと申しました。この著者の『数学教育史』も面白いでしょう。寿江子についてもありがとう。私はこの子をすこしたすけてやって音楽史の仕事をまとめさせてやろうという計画があります。音楽史らしいものは殆どないのだから。島田へ送る本のこと、承知いたしました。
住居のことなど、なかなか動けません。栄さんと共同にやることは不可能ときまりましたし林町の裏は、私として、寿江子の家を無いようにして自分が住むということは出来ませんし。格別な智慧も出て居りません。
この頃の暮しを利用して体を丈夫にしようとしてお客でもないときは必ず十二時前に寝るようにして居ります。朝もしたがって早く徹夜は今こそ全廃です。熱川からかえってから皆元気そうになったとほめてくれます。大家(オーヤ)さんが垣根と門の腐ったのを修繕させている、大工の音。あした、ではお目にかかって、又いろいろ。よく風邪をおひきになりませんでしたね 
三月一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月一日第十信。
きのうも今日も夕方から風が出たが、いかにも春めいた日でした。うちのひさはすっかり上気(のぼ)せて、それも何だか春めいて見えました。
きのうは久しぶりでお会いして、あなたの着物の召しようがくつろいでいたのが目についた。三月に入ると火の気のないところの大気は本当にちがってきますね。やがて夕暮が美しい薄明になって来る、そしてエハガキの色どりが奇妙に鮮やかに活々(いきいき)として来る。今年は季節のうつりかわりが沁々感じられて、ああ春になったとよく思います。
きのうは、うちの話が中途でポツンときれてしまいましたから、先ずそれをつづけましょう。前便で大抵書いたと思いますが、家はなかなか簡単にかわれません。アパートなども一応考えるが、謂わば往来を区切ったようなものでね、ドアをあける。それっきりではこまります。雑多な人間のいることも種々不便です。アパートは考えられず、林町の離れは前の手紙に書いたようなわけ。夏まではともかくここに居ます。交通のことやいろいろの点を考えるとなかなか動けません。それに、この頃の生活は沈潜して勉強出来るし又するべきときだから、毎日を変に落付きのわるいものにしてしまうことは本質的に非能率ですから。それに私はやっぱりこの辺を大変愛しているのだと思います、ちっともうつりたくない。ですから家のことは当分御心配なさらないで下さい。依然として、この小さいながらもわれらの窓に灯火は輝きつづけてゆくから。
これから当分南風が吹く日が多いが、皮膚のゆるみで風邪をおひきにならないで下さい。寿江子はこの三四日風邪で臥(ふせ)って居ます。どうも大分見舞に来て欲しいらしいが私はすこしつめてやっていることがあるので、机にとりついてつい出かけない。三月三日のお雛様には達(たあ)ちゃんが女主人でうちの太郎まで御招待です。本間さんの一家がこの節は戸塚ですから子供の日で私は大いにたのしみです。この間は健造に将棋を一寸おそわりました。コマの名と動きとだけ。達坊は半年ばかり高田せい子さんのところで舞踊をやっていて、子供は語学と同じに、物まねから、いつの間にか体をリズミカルに動かすことを覚えていていかにも七歳の娘の子で面白い。健造はすっかり少年です。私もすこしはなぐさみというものがあってもいいから、健造先生に将棋でもならい、あなたから御指南いただきましょうか。偶然だの、単なる筋肉的なスピードだので競争するのはちっとも好きでないが、こういうものは面白そうに思う。十六七歳のころ私は五目をやってつよかった。何かの可能性を、これは語るものでしょうか。(笑声を書くということは小説の中でむずかしいと同様に、手紙の中でもむずかしい)
私は誕生日のおくりものに頂いた小旅行のおかげで、本当にこのごろは工合よくなり、無駄のない日を暮して居ります。だが、私はどうも一日に二つの仕事をふりわけにやってゆくことは出来ないたちだから、一二ヵ月何か生活のためにしなければならないことをやって、あと二三ヵ月は別のものにうちこむという風にやって行ったら、工合よく行きそうです。そういう風にゆけたら、そとからこまごまと切られないで、十分気を入れてやれて、随分うれしい。
きょうの手紙はどっちかというとゆったりした気持のものだからついでに書きますが、あなたは眼というものの微妙さをおどろき直すような感動でお感じになったことがあるでしょうか。私はきのう深く其を感じて来ました。こんな小さい瞳の中にあなた全体が入るのですもの。瞳から入って心にそっくり活きている。何というおどろくべき仕組みでしょう。眼ほど謂わば宇宙的な部分は人間の体のどの部分にもないと思う。眼のむさぼり、眼の食慾、眼のよろこび眼から眼へ流れるものは無辺際(むへんさい)的なニュアンスと複雑さと簡明さをもっている。私はよくよくそばによって、あなたの眼の裡(うち)にうつっている自分を見たい。私がそうやってよくよく見ているとき、その私の眼の中に近く近くあなたがすっかりうつっている。何というおもしろさでしょう。見ることのよろこびが余り大きいと、びっくりして私は見得る機能に対してまで新しい珍しさを感じます。
すこし又熱ぽいかもしれないが時候が今ですから気になさらず、どうか呉々お大事に。 
三月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月八日第十一信
この間三四日何と暖たかだったでしょう。東中野のところに在る三越の青年寮の大きい桜は、八重だのにもう七分通り咲いてしまいましたって。それが又きのうきょうの陽気で、さぞ途方にくれていることでしょう。机の上に、三日のおひな様のとき戸塚の花やで買って来た見事なアネモネがさしてあって、それは一昨日あたり今にも紫の粉を撒(ま)いて散りそうに開いていたのが、きょうあたりは花弁をすぼめておつぼの形です。ずっとお体は大丈夫でしょうか。熱はどうなったでしょう。すこしだるいようでしょう?今は誰でもそういう疲労感があります。
私はずっと工合よく保っていて、しかも相当うれしいことには、きのう歯の医者へ行ってしらべて貰ったら比較的良質の歯だそうです。いろいろ大した手当は不用で、左の下の奥が親知らずを入れて二本だめになっている、それを多分抜くでしょう。あと一つ右の上に過敏になっている箇所があって、それを手入れするぎり。お茶の水の文部省附属の方へ行きました。父もよく通っていた。そこはどんな人でも一度ずつ手当の費用を払い、すべての専門部があって安心です。世にも歯の手入れは辛いから、フーフー思っていて、きのうは大決心で行って、却って大安心しました。どうか御安心下さい。私がこんなに丸っこくて、頭脳的にやや酷使の気味で、それで糖尿的でもないし、齦(はぐき)も健康だというのは全くうれしい。益〃夜ねる前に歯をみがくことの効果を信じる次第です。
この頃は一日に八時間位の労働です。いろいろ視力をつからさないように注意をして。(春は目がつかれる)面白いことに出会いました。それはイギリスの中世の伝説の一つですが、或時、アーサ王が悪者の魔法をつかう騎士につかまってしまった。その悪者はアーサに謎を出した。すべての女が最も望むものは何か。その本当の返答が出来なければ国土を皆とってしまうという。アーサは苦労したがこれぞと思う答がないとき、或森の中で、醜さきわまりない女に出逢うと、それが答えを教えて呉れた。曰ク、すべての女の最も望むことは自分の意志を持つということですよ。
その答えでアーサは悪い騎士に勝ち、そのみっともない女は、その礼に美しい騎士を良人としてアーサから獲る。するとそれでその女にかけられていた魔法の半分がとけて、女は可愛らしい若い婦人の姿のままで一日の半分は居られる。良人である騎士に、夜美しい方がよいか、昼間うつくしい方がよいか、ときくと、騎士は初め、夜の間美しい方がいいという。でも、女としては昼間きれいで皆の間にいられる方がたのしいのだというと、男はその女の望みを叶えてやって、夜こわい方でもよいということにすると、それが最後の鍵で、女はすっかり魔法から解かれ、美しいまま生涯を暮せた、という話。
私は大変面白く思いました。七世紀から十一世紀位までの社会でつくられた物語の中で、人間力以上の人物であるアーサが解けない謎が、女の真の心持の要求しているものであるという点、しかもおそろしい魔力が、女に対する男の真の親切な思いやりでのみ、終に解けるとされているところ、大変に面白い。その頃の婦人の生活一般、男の理想と現実の両面が象徴されていて、いかにも面白く思いました。こういう物語は、今の世の中の少年少女にも教訓になるようなものですね。国男などには大いに有益です、ひとつきかしてやろうかしら。
この間うち隆二さんしきりによき結婚生活、特に芸術家の結婚生活について書いてよこします。貧乏だもので、おでことおでこをつき合わしているような夫婦が多すぎると。そして、真の夫婦というものは互により高い一人を求め合う面で結ばれているものだし、又一人で歩いてゆかねばならぬ、まじり合ってしまってはいけないとしきりに云って居る。何で感じたのでしょう。清少納言や何かひとりで暮していたことを書いて、ローマン的心持らしい。いろいろと微笑されます。勿論いい夫婦というに足りる夫婦は大変に尠い。それだけ互を人間として尊重し評価し愛して同体となっているのは尠いけれども、このひとにはまだ多くの、而も最も人間感情の微妙端巌なところが実感されていない。同時に、私はこの頃、深く深く、人間が一生のうちに、そういうところに近づき触れてゆける結び合いにめぐり合えるということの稀有さを、ひろい背景と考え合わせて感じ極まっているので、何だか無理もないようにも思えます。
それにしても生活というものは何とリズミカルで、変化するに応じてそれぞれの味い、豊富なものでしょう。あなたはいつか栄さんの良人に、いやな勤めの味を自分も知っていると云っていらっしゃいましたね。この頃私には其がわかります。いろいろ事情も条件もちがうけれども、感情においては判ります。私としては新しい境遇によって得た新しい収穫です。なかなかためになります。益〃根が深くなる。この人生に於て愛するに足るあらゆるものを愛す心がいよいよ鋭く水々しくされる。この三四年の間に、私が経て来た生活とその収穫の経緯は一本の道の上ではあるが、芸術家の生涯にとっては重大で、現在の事情も或意味ではこれまでの様々な経験が与えたと違った一つの意味ふかいものを私に与えるらしい様子です。
生活の全面的な関係だけが可能にする発育のモメントというものがある。正直に生きてそれにぶつかり得ることが既に一つの幸福であり、そこから何かましなものを学べることは、何という滋味でしょう。私は一箇の人間として、所謂(いわゆる)幸福と才能とのキラキラしたところを突破し得る何かが与えられていることを、心から謙遜になって有難いと思って居ります。俗人的でない生活力がみがき出されてゆくということは、真面目にありがたいことです。では又。これは地味な手紙だけれども、丁度この頃の土のように底に暖みを感じているよろこびの手紙なのです。翔(と)ぶような歓び、又こうやって地べたを眺めるような欣(よろこ)び。いろいろね。丁重な挨拶をもって 
三月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十一日夜第十二信
三月三日の、丁度私たちが戸塚のうちで盛(さかん)にお雛様を眺めていた時分書いて下すったお手紙、珍しく早くつきました。その返事を書こうとして机に向ったらこの近所にまあ珍しい三味線の音がして雨が降り出した。私は小さな薬局がひっくりかえったような臭いの口をして居ります。奥歯を二本抜いて来たので。どれの根にも膿の嚢(ふくろ)がついて居ました。レントゲンにうつっていた。よい工合にあとも痛まず出血もしません。ただかえり路はすこし体がフーとなったような塩梅であったが。
火曜日から三日ばかり(きのう迄)風邪になって床につきましたが、雪を見たら却ってさっぱりしてしまった。何にしろ不順ですね。ずっと同じ御工合でしょうか。
さて、私が小説について苦々しさがほとばしるといきなり書いて、本当にあれは唐突でした。何にしろ生き方のからくりの悪臭で皆相当当っているものだから。何を書くかより以前に何者であるかということ、について貴方もいつか被云(おっしゃ)っていらした。あの点です、私がああいう爆発を示したのは。相対的にましなものということは認めざるを得ない、それを十分自分から計量して、今時それ以上何がいるというのだという風に居直って、一般感覚で感じないところを、少数の人間が何と感じて居ようと平然と無視した振舞いかたで現実生活をあやつって居られると、芸術の本質から、一応ましみたいであることの悪質を痛感するわけなのです。抽象的な云いかたしか出来ないけれども。一からげは大丈夫です。私もこの頃は大分目も指もこまかく働くようになっていて、これは松茸(まつたけ)か松だけそっくりだがそうではないとか、大分わかります。
あの小説とは別のこととして、勉強ぶりについていろいろ楽しい期待をもって下さること、よくわかりますし、私も実にその点では云いようのない位、自分にもたのしみです。そのことでは私は自分の最大の貪慾と勤勉とを発露させます。そして長年の友達たちというものもありがたい、誰も皆そういうたのしみは持っていて様々の形で期待して呉れます。私にとって一番こわいのは自分が、わるい作家になるということです。窮局に於て、それよりこわいということは存在しない、と思う。私は作家としての生涯の豊饒なるべき時期にめぐりあった新しい条件を、真の豊饒さのために底の底まで活かすつもりです。充実した時間を送って居ります。きのうからきょう、きょうから明日と、長い見とおしと計画とによって充実した力のむらのない日を送り迎えることはなかなかつくし難い味です。
健ちゃんがそろそろ語学をはじめるらしいが本当にいいことです。語学の実力は小さいときからやったものにはかなわない。いざとなると私の英語がいきかえって来るのを見ても。達ちゃんの舞踊の如きも同じで、歯の手入れ、音楽、語学は子供からです。
鶴さん又盲腸で臥ている由。清三郎さん大元気です。おひさ君本当にやがて一年東京に暮すことになります。早いものね。さち子さんがお手紙をもって来て見せてくれました。桜草がきれいらしいこと。十五日にはてっちゃん御夫妻が初見参です。あなたのところへ二人で行ったかえりによってくれたのだそうですが、その日は私が留守でしたから。お手紙がついたとの話でした。地図と本つきましたか?近々『六法』その他お送りします。又月曜日位にお目にかかりにゆきますが呉々お大切に。どてらとネマキの小包はつきました。あれも歯医者のように匂いますね。では又。
歯をぬいたせいかしら、いやにふわりとした腕の工合で妙です。 
三月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十七日第十三信
十四日には元気そうな御様子でいい心持でした。庭へ出られるようにおなりになったのは何とうれしいでしょう。往来から見ると壁のあたりに樹も見えないが、花なんかやっぱりあるのでしょうね。ヨーロッパと東京にこの頃肺気腫の患者が殖えて来る傾向なのでしらべたら、アスファルトの微細な粉がいつか肺を刺戟して、そういう病にかかりやすくなるのだそうです。一日に地べたを踏むことがない人、いつもアスファルト道しか歩かない人は、一生のうちよほど体を参らすらしい。ひどいものですね。郊外に住むということが益〃贅沢の一種になるわけです。
先ずお父さんの御様子から。昨日お母さんからお手紙が来ました。実にいいあんばいに熱もすっかりなく、医者(秋本ですが)も大丈夫と云ってびっくりしている由。食事は朝牛乳一合、おひるおかゆ一杯お汁、おろし大根とさしみ。夕略(ほぼ)同じ。衰弱もお回復で「血色もまことによくなりましたから決して御心配下さいますな」そして食事の外は「いつもおとなしく休んでおります」「顕治にも心配せぬようお伝え下さい」とのことです。
島田の方はお医者様が何人か出征して、五ヵ村に秋本さん一人です。その医者で御なおりになったのですから、実に万歳ですね。私は殆どびっくりするほどであるし又しんから嬉しい。あなた方の体質はこういう型なのですね。私の方は父ゆずりで溌溂(はつらつ)としているがしんが脆(もろ)い(生理的に)。
あちらでも遠いところをと云って居らっしゃるしするから、急に行くことはやめます。そして四月になって一段落をつけて、一寸御様子を見て来るかもしれません。野原の方も冨美ちゃんが三月二十七・八日頃女学校の入学試験です。入ったら本を二三冊と万年筆をお祝いにやろうと思って居ります。あちらももう一周忌です。何かお供えの品をお送りしようと考え中です。
一昨夜やっと大観堂へ出かけました、宿題を果すために。そしたら、お金をお送りになっているのが一寸見当らず。ともかく『真実一路』と本庄氏の『日本社会史』を店からお送りします。土屋氏の本は手元になく、本庄氏の『農村社会史』という方は大観堂目録にない様子です。近日中に行ってもう一度しらべます。
丸善の方もちゃんと命じました。松山高校へも出しました。私のやりかたは可笑(おか)しくてすぐやってしまう分はいつもちゃんちゃん行って、一遍落すとなかなか落しっぱなしになってしまう。そちらでは、落された部分が却っていつも気になるのが自分の経験でわかっているのに。あなたの忍耐を、私までためさないでいいのに、御免なさい。毛布と着物と二包みにして送り出しました。着物はすこし寸法が短い目に仕立ててあります。でもあれは私たちのお気に入りの紺の方ではないから、まああれで一通り召して下さい。毛布はすこし毛のうすくなっているところもあるが。
今村さんの亡くなったことはいつか一寸お話ししたと思いますが覚えちがいであったかしら。友達たちはあのひとのために実によくつくしてやりました。それから九州の兄の家へかえってそこでも自分が思っていたよりはよく扱われていたが、遂に亡くなりました。詩は集に入っているののほか、雑誌にのったのも、大体はわかっているし、とってあるようです。今野さんの詩もやはりまとめてとってあります。あのひとは兄さんの家庭があるだけで、あのひとのあとで困っている家族はないのです。
エドガア・スノウの本(自注3)が半年かかって到着しました。見せてあげたいと思います。きょうの手紙は大変家事むきのものになりました。これから二三時間仕事をして、それからもらった切符で前進座を見ます。皆ここのひとは上手(うま)くなりました。山岸しづ江さんなども。阿部一族(鴎外)の映画は好評です。今日は江戸城明渡し(藤森)です。では又。どうかそのお元気で。

(自注3)エドガア・スノウの本――エドガー・スノウ『中国の赤い星』。 
三月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十日第十四信。
今夜は何という春めいた晩でしょう。
この頃は、昼間は落付かない風が吹いていやだが、夜になるといかにも和らいだ空気ですね。灯をうけて紙に向ってさっきから仕事をしている。紙の上にペンの音が響き、ずっと遠いところを電車の音もしているが、人声はどこにも聞えず、大変心持がよい。明るさの中に何か微粒子が動いているようで、手紙を書かずに居られません。一寸ペンをもったまま傍をふり向き、この夜とこの一種の静かさの裡で顔を見たい。見えてはいるのですけれどもね。そこに在るのだが、私が顔をもってゆくと空気が動いて、心が自分の優しさに困惑する。
これからこういう夜がつづいて、ますますいろいろ勉強したり、考えたり、書いたりしたくなることでしょう。本当に静か。きのうの晩、栄さん夫妻あてのお手紙をみせてくれました。相変らずピーピー暮しだろうとは図星故、大いに笑いました。でもあすこは栄さんがああいう生活的な人柄だし、ピーピーながらも抑揚をもって毎日をすごして居ります。
話が唐突に飛ぶけれども、しゃべりつづけていなければならないというのは、何といやでしょうね。何もしゃべらず、ただ見ていたい、見て、見て、見ていたい。そう思う。尤も昏倒(こんとう)してしまうかもしれないけれども。
明日あたり『六法全書』『国勢図会』などお送りしましょう。ああ、こんなにしてあれこれといってみて、いいたいことはこのどれでもないというようなのは、おかしい。そして、苦しい。
自分ごとみんなまるめて、一つの黒子(ほくろ)にしてそこへつけて、眺めて、さて、この下じきになっている紙に向って又仕事をつづけましょう。
きょうは三月二十三日の午すこし過です。雨上りの曇天であるが、窓をあけていると盛にどこからか雀の囀(さえず)りがきこえてきて朝のようです。昨夜は新響の定期演奏会でマーラーの第三交響楽でした。ひどい雨降りのところをあまり机にへばりついているので、意を決して出かけ面白かった、いろいろ。女声のアルト独唱や子供の(といっても若い女学生をつかった)合唱のついたもので、独唱の歌詞はニーチェの詩ですが、音楽でも神秘くさいものをほんとに幽玄にはなかなかやれないものね、すごむばかりで。それにつづく光明的な楽章に子供が合唱するのですが、それは教会のベルや神の栄光がうたわれる。ヨーロッパ人の感情の型づけが、あまり定型的に出ていて、ベートーヴェンはこういう型にしたがわず、もっと人間感情を生粋(きっすい)のまま、全く音楽的に様々の情熱を表現しているだけでもやはり偉いと思いました。人間生活の諸相につき入ること、それ以外に芸術はない。その諸相をより全体的にとらえ得るためへの努力以外に努力はないと今更の如く感じます。
きのうは又、知っている人に割引で岩波の斎藤の『中辞典』を買って届けて貰い、うれしかった。なかなかいい字引です。活字が第一やたらに小さくなくていい。そして豊富にあつめてあって、こんなのと、オックスフォードと、市河の古語があれば、まあ大抵の役には立つのでしょう。非常な勢でやっています、早くすきなことがやりたいから。
それから、かねがねの宿題の返事がやっときました。松山高校内菊池用達組販売部という紫のゴム印をおして。鉛筆をなめなめ書いた字で、先ず「お葉書正に拝見いたしました」云々と、女の字で書いている。今も菊池の由です。「以前の帳簿は保存してありますけれども本店主人及店員の主なる人は、目下戦地へ行って居ります為、金額は不分明に御座います。それで宮本顕治様のお名前はよく覚えて居ります。お払未納の分をお心にかけられお申越しでありますが」何程でもよろしいと申すわけです。いくら位だったか覚えていらっしゃらないでしょうね。よほど前には三円いくらといっていらしたが。五円位やっておきましょうか?越智という人のあとは四人目でお上(かみ)さんの住所は分りかねるそうです。松山の学校は指田町というところにあるのですかしら。あさってあたりおめにかかりにゆきます。繁治さんの詩を一つ『文芸』にやりました。
私は林町のうしろなどへ行かないでよかった。実によかった。よろこんでいます。ここにこうしていてこそ新しい事情の新しい収穫がくっきりと身につくのです。それをひしひしと感じて居ります。
沈丁花という花の薫り、そこにも匂いますか?この辺は夜など静かな往来いっぱいに漂っています。では又。春先の風邪を御用心。 
三月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十九日第十五信。
午前九時前の朝の光をうけて、あなたに手紙を書くというのは、大変珍らしいことでしょう。昨晩は十一時頃床(とこ)に入って、非常にぐっすり眠って、けさはおひさ公と一緒におきてパンをたべて上って来たところです。
あなたのところでは、今朝はどんなお目醒(めざめ)でしたか。やっぱり気分がよかったかしら。そして、永い間横になって目を開けて、朝の目醒のいろいろな情景を思い起していらしたかしら。
金曜日は、出かけにうすら寒かったので、ああやってお目にかかったときはコートを着ていたが、ずっと広っぱの水たまり道を歩いているうちにすっかり暖くなってしまって、鋪道へ出たら、街路樹の支柱へハンドバッグなどのせて、コートを脱ぎたたんで持ってかえりました。そしたら、女学校の上級生であった時分、女子大へ一寸通っていた時分のことをはっきり思い出した、朝雨がふってかえりに晴れている。すると、私共はその頃和服で袴の上にバンドをつけて通っていたから、合羽(かっぱ)をたたんで、お包みの下へもって、傘をもって、袴に靴という姿で、大いに気取って歩いたものでした。その時分は、森鴎外も、私が肴町へ出る時刻、馬にのって、立派な顔立ちでよく通りました。
土曜日は茂輔氏の『あらがね』(小山出版)の会でいろんな人の顔といろんなテーブルスピーチをききました。高見順君「テーブルスピーチというものをやります」という冒頭。
日曜日には、わが家として特筆大書すべきことがありました。子供たちが皆一年だけ進級したので(達枝は来年だが)そのお祝いをしてやることにしてあった。子供は大楽しみをするからあまり前もって云って、何かさしつかえると実に相すまないから前晩までふせておいて、日曜日は栄さん、本間さんの細君、ひさ、私もちょいちょい手伝って、お釜二つに五目ずしをつくりました。細長い台を二つタテに並べたところへ、高女四、高等二年六年三年三年と並んで、賑やかに食べること、食べること。私は前掛をかけて首をまげて見物していて、「一寸ゆっくり、沢山たべなけりゃだめだよ」とか「お腹ギューギューならバンドおゆるめ」とか云っている。「もうさっきゆるめちゃいました」健造は総代だったって。新しい服がすこし大きいので首が細く見えるのもいかにも進級風景です。健造新らしい服のせいか膝にハンカチをひろげて食べている。別に何とも私は云わなかったが、この子の性質が出ている。ハンケチなんかかけないでいいし、思いつきもしない方がいい。年よりがいるとちがうのかしらなどと思って眺めました。女の子二人はもう大きくもあるのだが、男の児等とちがっている。稲ちゃんも私も女びいきのくせに男の児の方がすきで、面白い。男の児みたいに面白い女の児がざらにいるようにならなければ嘘だと沁々思います。男の児はどれも、どんぐりでも、何かくっきりした輪廓(りんかく)をもっている。粒々がある。だから面白い。女の児は女の児という一般性の中に流れこんでいて。
夜、又あとから寿江子、さち子来てたべて、総計十五六人が出入りして、私はすっかりくたびれました。いい心持に堪能して。子供らをたべさせたりするのは実にいい気保養です。これからたまにやることにきめた。
きのうは、雨であったが一仕事してから慶応病院へ古田中という母の従妹に当る夫人の見舞いに出かけ、途中三越へまわって貴方御注文の羽織紐を買おうとしたら28日でやすみ。8の日はああいうところは休日です。近所の店で買いました春らしい色をしている、胸の前に一寸下げて下さい。私もふだんのを一つ買った。赤い縞のついているの。
きょうはこれからずーっとやって、午後は栄さんのところで例のノエ式をかけて貰おうかなど考えて居ります。背中がつかれているから。まるでトンネル掘りの土工が、そらもう一シャベルとはり合をつけてやるように、せっせせっせとかかっているので、頭より背中がくたびれる。しかし生活が与える新しい経験というようなものは実に面白い。
冨美ちゃんの試験は26,7日で終ったわけですがどうだったろうかしら。体が腺病質なので。東京の小学校では、体によって肝油をやっています(金を払ってですが)。あっちではそういうことはしない。三十日すぎたらきいてあげて見ましょう。
新協で朝鮮の伝説春香伝をやっている。「若い人」(映画)の女主人公をやって好評であった市川春代が春香にとび入り、赤木蘭子を対手の男にしてトムさんレヴューばりです。まだ見ない。近いうちに行きたいと思って居ります。原泉、病気をおして春香のおふくろさんをやって居ます。どうかお元気で。きょうもこれで余り暖くもないようですね。又近いうちにいろいろと書きます。 
 

 

四月五日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月四日第十六信
落付かない天候ですが、ずっとお体の調子はつづいて平らかですか。けさおきて、下へ行ったら、例の茶箪笥(ちゃだんす)の上に、桜の花の枝がさしてあったので、おやまあ、どうしたの、と云ったら、往来でどっかのお爺さんが太い枝をおろしていたのの、あまりを貰って来たのだそうでした。仄(ほの)かに匂う。何年も前、国府津で、四月六日の朝、長テーブルの青銅の瓶に活けられていた奇麗な山桜の房々とした枝を、忽然と思い出しました。枝の新鮮な艶を帯びた銀茶色がやはり似ている。花はずっと貧弱だけれども。それから上へあがって、物干しに上って四方(よも)の景色を眺めたら、あちらに一本、こちらに三四本と八分通りの桜が見えました。そこには桜の樹はなさそうですね。
ところで、冨美ちゃんは、室積(むろづみ)の女学校へ入ったそうです。お祝に字引きをやりましょう。室積に通うということは、つまり元の野原の家に住みつづけるということでしょう。それなら体のためにも、気分の落付きにもよろしいでしょう。広島というせわしない町の、ごみごみした一隅へ急に移ってはどうかと思って居りました。あの子は肺門淋巴腺をやりましたから。
ひさの弟も中学をうけて、一・二番だったが落ちたそうです。それに姉がお嫁に行くので、そうなると、実家に手がなくて、かえらなければなりそうもない。それで、当人も大いに悲観している。こまったよゥと悄気(しょげ)ている。世の中つ(ツー)は思うようにならんもんだ、と。私の方も彼女より少く悲観しているのではないが、そうきまったら又仕方がないから誰かおひさ公にかわりを見つけて貰ってなどと考えて居ます。誰もいないでよければ一番単純なのだが。鼠とさし向いでは永もちがむずかしいから、そろそろ対策を考えましょう。
支那の文明批評家で林語堂という人がものを書いていたのを一寸よんだら、欧州の作家を引用して気焔をあげている中に、昔からの支那の椅子は威儀を正して見せるためであって、体をくつろがす目的でない。そんなのは嘘偽であるから、自分はティーテーブルでも何でもへ足をあげて楽にすることにしていると、勇気凜々(りんりん)書いていて私は笑い出したし、同時に所謂ハイカラーというか一面的合理主義を感じて、複雑な感想をもちました。このひとは胡適と並ぶ人の由。ですから、支那の現代文学の一方の面が感じられる。魯迅が、立腹して批評している現代支那文学の性格の一部がわかって面白く感じました。
『漱石全集』の中に、初頭のロマンティックな「幻影の楯」、「カミロット行」(これはむずかしい漢字)というような作品を覚えていらっしゃるかしら。漱石は時代の面白さを反映していて、そういう外国のロマンティックな騎士物語の中では、火のような女を愛して、興味を傾けて描いている。焔の如き彼女の思いをも支持して描いている。ところが、リアリスティックな日本の女を描くと、終始一貫心驕(おご)れる悧溌な女(「虞美人草」藤尾、「明暗」おとしその他)と、自然に、兄や親のいうがままの人生を人生と眺めている娘とを対比させて、その対比でいつも後者をより高く買っている。その点実に面白い漱石の男心ですが、その初期のカミロット行の女主人公になる、ゲニヴィアという王妃の恋物語を、漱石は十八世紀の英文学の古典を土台にしているが、その書き方が(マロリー)車夫馬丁の恋の如しと云って、高雅にあでやかにと自分で書き直した。あでやかさ、高雅さが装飾的で、初期の漱石の匂いと臭気が芬々(ふんぷん)である。さて、その元となっている物語と、同じ時代のウェイルズの伝説の文章とは実にちがって面白いのです。マロリーは騎士道という観念で書いているのだが、ウェイルズの伝説は、民衆の富とか、公平とか、物の考えかたをこまかに具体的に出していて、つまり常識が日常生活の中で作用しているとおり出ていて面白い。着物だの、食物だのいろいろを、素朴で現実的な山国人らしく観察していて面白い。昔のその地方の一般人の感情がはっきり分る点が面白い。いろいろと面白いことがあるのですが、それは又いずれ。
桜が咲いて、風だの雨だのがある。花に風というと皆は今日思わず笑うが、特に関東地方では全く、花は風にもまれるために咲くようですね。フィリップという作家の祖母は乞食だったそうです。フィリップはそういう祖母をもったもう一人の大作家と余り年代がちがわなかった、ちっとも知らなかったけれども。では又。お大切に。私は七日頃に行こうと思って居ります、お目にかかりによ、島田ではなく。 
四月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十日第十七信
七日には妙なべそかき顔をお目にかけてすみませんでした。全くの愛情と正当さから云われたことだのに、あんな顔になってしまって、さぞ当惑なさり、おいやだったでしょう。御免なさい。
あの日は、前日からいろいろと何年も前の日や夜のことを思っていて、感情がそのように傾き、心持が皮膚をむき出していたところへ、本のことや何か、大変苦しく感じた上だったので、思わず、そっちの感じがこみ上って。何年めかに私のべそをかいた顔を見せて、やっぱりあの上気(のぼ)せた顔が、貴方の目にのこっているでしょうか。話が短い時間のために、一面にだけ区切られ、そうは分っていても、出た面だけがともかく一応その日からこの次お目にかかる迄目の前にちらついていて、何だか苦しいこと。私はその点では全くいくじがないと思う。あなたの目つき、顔つき、肩のありよう、そういうものが、感覚的に苦しい。貴方が不本意であるというそのことが、既に切ない。
お話のことは、その本質の深さや正しさや意味の含蓄が、非常によく分りました。
せき立てられるようにして聴いたり喋ったりしていた時とは比較にならずよくかみこなしてわかって来ました。私としては主を従にして考えたつもりではなく、確にあわてたこともあり、且、永続的な条件に対して何か備えたいと考えられたからでした。主を主とするために、と考えた。だが、そう云っていてはきりがなくなると云われ、将来の自分の時間というものを勝手に都合よく予約ずみのように考えていたことが、誤っていたと思います。私の事情として、今二つに分けて考えるのが抑〃(そもそも)という点も、その心持のぐるりを細かにしらべて見れば、やはり貴方が指し示して下すった点の重要さがわかります。本当にありがとう。あんな短い時間のうちに、これだけ大切なことを云って貰えたことを私は感謝するし、又、貴方としたら何か歯痒(はがゆ)かろうとすまなく感じます。あの足場から、この足場へと、はっきり着々と堅固にのぼってゆく途中で、次の岩の方へ手をのばしながら、頓馬に首をのばして下をのぞいているみたいであった。
登山の初心者はこれをやって、そしておっこちたのでしょう。貴方のこわい顔でそこ、そことさされ、その地点の性質もよく見きわめたし、足がかりの刻みつけかたも、分っていたところと一層ウム、成程と身に徹(こた)えた。このことについては、ここに書き切れない位の感謝があります。本当に私のありがたく感じている心をうけて下さい。このことは当座の役に立つきりのことではなくて、何か生涯の一貫性のことですから。芸術家としての。
私たちの経済については、すっかり貴方の仰云るとおりにしてやってゆきます。そしてすぐ又つづきの仕事に着手しますが、もう十日ばかりは辛棒して下さい。ひとの好意に対する私の義務というものもあり又そのひとが他に負うている責任もあり、それだけはさっぱりと果すのが本当だと思いますから。
貴方に指されて、わかり、わかろうとする誠実さをもっているというのが、せめても私のとりえであるけれども、私とすればちっとも威張れたことではない。人間の出来ということについても考える。随分身も心もしめて、いるのだけれども。そして、そう考えると涙がこぼれる。出来が粗末なところのある人間だと考えると、大変悲しい。いつでも。最も重要なことが、人生について、芸術について見とおせるような実力のあるものになりたいと思います。
この間、私は何かつべこべ云ったようで心持がわるいけれども、あの折の心持で、何だかすっかり主を従にしていると思われているのではあるまいかと、びっくりした心配な心持になったので、あれこれ並べたのです。でも、考えて見れば、それはぎりぎりのところでは、当っている観察なのですが。勿論今はそのことも分っているのです。
丸善へ行ってきいたら、分類目録はつくれないのだそうです。只今のところ。為替がどんどん代るし、本の種類のよしあしもかわるので。しかたがないから『学鐙』と一緒に『アナウンスメント』をお送りして貰うことにします。『大尉の娘』は東大久保の家で見つけ出しました。プーシュキンの全集とゴーゴリ、チェホフなどあります。順々にお使いになれます。
他の本、今明日うちに届くからお送りします。生活の細々した日常のことは、ちゃんとした筋がとおっていれば、それに準じておのずから整理され、純一されてゆくものですから、どうか御心配なく。まさか私も、小道具で舞台を見られるものにして貰ってゆく役者ではないから、その点は本当に御心がかりなく。
手紙をかきながら涙をこぼしたりして。人生の過程の様々の瞬間について考える。小さなような、而も深い深い有機性をもっている畏(おそ)るべき底広き渦紋が在る。或るほそいほそいすき間からさして来ている光線は一条であるが、その彼方に光の横溢があるというときもある。私はその渦やそのすき間を、感覚にまで浸透して感じ、目撃することの出来るのを、おどろき、うれしくありがたいと思う。これは、七日の貴方の非常に優れたおくりものに対する謙遜な妻の礼手紙です。では又ね。 
四月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十八日第十八信
さて、この間九日に手紙を書いて、きょうは九日目。手紙を、あれを終ってからさっぱりとして湯上りのようにあなたに書きたいと思って、きのうも一昨日も、ああ書きたいと食慾のように感じながら辛棒した。
この手紙はそれで、今、私への褒美(ほうび)というような工合で書いているのです。
それでも、私はやっぱりやり通してしまって、一種の満足があります。丁度家の掃除をせっせとやってやれいい心持と感じているような工合で、大して自慢するようなたちのものではないけれども、やっぱり一つのことを仕終ったという快さはあります。貴方に云われたいろいろのことを非常によく身に泌みているので、決して洒々といい心持がっているのではないから、この一寸した満足感を喋るのだけ何卒(なにとぞ)苦笑して黙ってきいていらして下さい。私とすれば、やっぱり第一に貴方に云いたいのですもの。
この次お目にかかる時は、もう私はちゃんとした勉強にかかっています。気をひかしたりしないで、貴方に喋れるのは何といい心持でしょう。
今のところ、ひさもいつかえるか(国へ)わからず、ずっと落付いて居ります。
その後お体はどうでしょう、順調ですか。ひどい風の吹く季節もすぎ、きょうは荒っぽい天候だが、東の窓を机からふりかえって見ると、濃い鼠色の嵐雲の前に西日をうけた八重桜の花が枝もたわわに揺れて美しさと激しさの混りあった光景です。欅の若芽も美しく北窓から見える。今年私たちは恒例のピクニックもしなかったら、この頃健坊たちがしきりにどっかへ行こうよと云うので、多分来週の日曜日にはどこかへ奥武蔵辺へつれて行ってやることになるでしょう。
親たちと私とは一昨日春陽展を上野で見ました。木村荘八、中川一政、石井鶴三、梅原龍三郎の諸氏の画境について、実に何とも云えぬ印象をうけて来ました。中川一政の昔の画集に巣鴨の昔のそこの附近を描いたものがあったりして独特の味をもっていたが、この数年尾崎士郎や芙美子女史の芝居絵のような插画を描きまくっているうちに、画技は衰え、しかも文筆の上で妙なポーズをかためたのが却って画家として他に語る方法を可能ならしめたこととなり、実に熱意もなければ愛もない画を出している。鶴三はレビューを油で描くのはよいとして、その見かた描きかた、「こんなのもやりますと云っているようだね」という評が適切です。これを見ても、私はそう云っていてはきりがなくなる、と云われた貴方の言葉を思い出し可怖(おそ)るべしおそるべしと毛穴から油あせを感じた。先生先生とぺこぺこされ、金になり、描くほどに金になってゆくと、こういう袋小路につまるのですね。往年の春陽会の気品というようなものは熱心と探究心とを失って、まるでお話になりません。これから見ると、国画展の方が生気があり、ましで、一枚一枚を見ようという気をおこさせた。
いつか、麦遷と溪仙(ケイセン)との遺作展があって偶然見たことを書いたでしょうか……土田麦遷という男が展覧会の大きな大原女などで試みて居たものが、そこにあった花鳥小品にはちっとも徹底していないで、全く平凡な色紙絵のようなのにおどろいたこと、書いたかしら。溪仙の方は碧紺などに独特の感覚があり、空想力もゆたかでたのしんでいるところ遙かに面白かった。
何か色の絵はがきを送って上げたいと思って、上野では暫く見たがろくなのがないからやめてしまいました。
ところで、改造の本ですが、あれは品切れで(本やは絶版と云ったが)一寸手に入らないので、改めて古本屋にたのむことにいたします。三笠のは配本を中絶したので大変おそくなってしまいましたが、古いのお送りいたします。
今六時がうつのに、まだ明るい。
この手紙はまとまりのわるいようなものになりましたが、まだすこし気が立ったところがあるので、あしからず。そちらからはなかなか来ないこと。それだのに九日間かかず、それを知っていて、却ってごたごたやっている間に又のめのめ書くということが出来なかったのです。こういう心持も貴方はよくわかって下さると信じます。では又御機嫌よく 
四月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十三日第二十信
きょうは小雨が降っている。静かな明るい雨。いろいろな緑の色が雨に映っているような雨です。
きのうは、外へ出て広い空地の方へ行ったら小さい雨粒が一つポツリと額に当って、降らないうちにと大いそぎで、黄色い鼻緒の草履で歩いた。それでも家へついても大丈夫だったけれども。
昨夜は、本当に楽々としていい心持で眠りました。そちらはいかがでした?あの小さいところが開いて、そこから溢れて私をつつんだ心持が、私の心と体とにずっと今ものこっていて、何とも云えず安らかないい心持です。私たちは互に顔を見合わせたとき、いつでもきっと、この前会ったときからのはっきりした心持のつながりの上で、合わせばすぐぴったり合う切りくちで、互に顔と顔とを合わせる。これは本当にありがたいことだと思います。きのうはうれしかった。けさ夢のなかで、私のてのひらがまざまざと頬の上を撫でて、近くある眼とその手ざわりに感動して、優しい呻り声をあげて目を醒しました。そしたら静かに雨が降っている。きょうはそういう工合の日。
さて、私はいよいよ伝記の仕事にとりかかります。大変面白いものにします。いろいろな角度をこの評伝のなかに反映させ、最も豊富な人生と文学との流れの美しさで貫こうというつもりです。
芸術の仕事は、勿論目前に読まれることが大事だが、読まれないからと云って何も変るものではないし、私は芸術の仕事にきのうきょうとりかかっているのでもないから、張り合いを失うということもそう大してないと思う。逆説的に云えば複雑な形で、大層大きい期待と張り合とがあるようなものです。だから、大変だから一層本気で暮さなければということの実質がここにあるのだと思うわけです。
ずっと昭和文学史補遺のようなものを、年々まとめて書いておくことも大事であると考えて居ります。昨年の末から書いた現代文学の展望のつづきとそれ以後の作品の現実について。これは有益なことであるから必ずやるつもりです。
文学としての諸潮流のありよう、或はあらざる有様もその変遷もなかなか面白い。
昨夜一寸『婦人公論』を見たら、ラジウムのキューリー夫人の伝をその娘の一人が書いているのをよみました。キューリー夫人が、女としてどんな幸福な妻であったかということ、その豊富な夫妻の共感共働が貧窮の灰色をさえ光らせているのを見て、感じるところが実に深かった。世の中には見事な生涯を送る夫婦というものが、いろいろの形でどっさりあるでしょうが、キューリー夫妻は、その傑作であったと思う。今のある種の若い人々にこれをよませると、ともかくそれだけ熱中出来る目的があったのだから幸福ですわ、というでしょうね。目的のないこと、才能のないこと、それを自覚しているというのが賢さの一モードであるから。同じ『婦公』に出ていて面白く感じたことは、現代の若い婦人への注文でいろんな先輩が、誰でも云うことをそれぞれ部分的に云っているが、今日の若い人々のリアリズムが、生活上負けた形でのリアリズムであることを指して居るのが一人もなかった。
その結果から生じている現象だけをとりあげていて、それがいけない、と云っている。実生活でその人々自身負けているリアリストで、ただ人間的理想というか、或る道義感というか、そんなものでだけ注文をつけている。自分が生活の経験を重ねるにつれて、現実にまける度がつよくなるにつれて、反動として青年に純粋なものを求める人々の感情をこの頃深く観察します。丁度中村武羅夫氏の純文学論のようなもので、自分が書くものはああいうもののために、芸術作品を云々するとひどく息まいて来る。人生の一波一波をその身で凌いで、いるところでものを云い、書きするということ、芸術家のとことんの力はこれできまるようなものですね。その抜き手のためには何とつよい腕と肺活量がいることでしょう。
松本正雄というひとと鉄兵とがバックの短篇を訳したのを六芸社から送ってくれました。主として、はじめのひとがやったらしい。読んだらお送りして見ましょう。茂輔さんの『あらがね』も送って見ましょうか。スノウの本はすこしお待ち下さい。
寝汗せは例外として出るのでしょうね。どうか呉々お大事に。これから夏にかけて、又十分気をつけましょうね。私の盲腸は、はと麦と玄米と黒豆とを煎(い)って挽(ひ)いたものを煮てのむことで大分つれなくなりました。では又。寿江子のことを書くのを忘れた。この次、別に何でもないけれども。 
四月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月三十日第二十一信
さあさあと水道を出して洗濯ものをゆすいでいる音がしている。風呂場では水道の栓が来ていないから流し元でやっている。風の音が裏の電車の響を運んで来る。そしてすっかり障子を閉めていても、裏の北窓から見える青い空と気の遠くなるような欅の若葉の青々とした色と重みとがこの紙の上までさして来ているような心持。本当に初夏になりました。お体はいかがですか。やはり時々は寝汗が出るようでしょうか。どうか御大切に。リンゴをよく召上れ。よくすっかり噛(か)めば腸にももう大丈夫でしょうし、腹の健康を増すためにもよいと思います。東北大で赤痢をリンゴ液で癒す実験に成功したこといつか余程前にも申しましたね。そう云い乍ら私自身は大して食べられないような工合で威張れないが。
きのうは祭日で歌子さんが休みなので、少々慰問のため、裏の武蔵野電車で二十分ばかり行った大泉の野原へ栄さんと三人で午後から歩きに出かけました。赤松とくぬぎ欅の雑木林の多い、いかにも高原風な風趣のあるところです。風致地区になっているので、やたらに家も畑もつくらせず、自然の草道が切りひらかれた雑木林の間に遠く消えている。その見とおしが心をひきつけるのであすこへ行って見たいとつい歩く。そういうところで、景色の北方めいた荒さその中に流れている優しさが、実に私の好みに合うところです。上り屋敷から22銭でそこへ行ける。よいところを見つけ出したものだと大満足です。しかしここは大人のしかも音楽を好くような人間の或種の人を魅するのであって、太郎などは駄目。第一お猿がいないし驢馬(ろば)もいないし。
太郎親子は一ヵ月余国府津で暮しました。そしてかえって来て太郎を幼稚園につれて行ったら、アアちゃんの手をぎっしりつかまえて一言もきかず。門のところで大いに泣いたそうです。幼稚園には先生がいます。ところが太郎にとって先生というのはこれまでの生涯に医者しかない、白いおべべの先生と云う言葉のために、欲しいお菓子もやめさせられたのです。幼稚園へ行って見たら先生がいてしかも白いものを着ていて、見馴れぬ小さい子供たちが口々に先生先生と云っている。太郎の満身に汗が出た心持も分る。大いに同情いたします。しかし私は大変おばちゃん根性をもっていてむっちりしていて、而も勇気のある、リズムのある少年太郎を大いに待望しているのだが、どうも。子供は子供自身のものをもって生れて来るから仕方がない。ヴェトウヴェンはオットウという甥をもっていて熱愛した。甥はぐれて、生涯伯父に厄介をかけました。が、その手紙に曰く、伯父上あなたは実に立派で実に偉大な人間の愛情をも持って私に対して下すった。けれども、私の生れつきに対してあなたは余り正しすぎ立派すぎ美しすぎ、自分に迚もその真似は出来ないと思うことから私はよけいに下らないわるいものになった。もっと下らない平凡な伯父であったら、私は平凡ではあってももうすこし世間並に暮したでしょう云々。勿論これは成り立たない弱者の逆(さか)うらみです。しかし現実の生活の中にこれはどの位あるでしょう。本当に、どの位微妙な程度と変化においてあるでしょう。そして、この人生に真理と美とをもたらそうとする人々の、其々の心くばりというものが、どんなにこまやかにまめで、うむことをしらぬ多様さ、堅忍、己を持することの高さの故の親しみ易さがいるかということも痛感します。人間を見くびらないが甘くも見ない、しかし真に人間の力を信じている人間というものはすくないが大切な存在です。
寿江子はこの間私と行った熱川に2円の家(一ヵ月)をかりました。明日あたりそちらへ行くでしょう。この頃インシュリンの注射液は輸入統制をうけて居り、重い傷のために必要で病院でも代用品です。寿江子の糖がすこし多いので、暫くあちらで暮すつもりらしい。国男はよい折に車を小さいのにしておいたと云って居ります。ガソリン券というものをわたされました。ああいう小さいのは一日つかえますが、アメリカの馬力の大きい車パッカードその他は夜になるとガソリンがなくなります。バスやタクシーの少なくなる不便を電車の長時間の運転で補われる由です。ここに住んでいてよかったと思います。省線の価値は大したものですから。達ちゃん達もこれまでのようにはトラックが動かせますまい。紙がなくなったので今日はこれだけ。私は今文学史補遺的仕事をして居ります。半期ずつまとめての通観です。では又 
五月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(封書)〕
五月九日
島田の家の表通りに近い方の二階の机でこれを書きはじめました。風が出て、曇天。鶏のコーココと云っている声や雀の囀(さえず)りが聞えるのに交って、竹の葉がカサカサと乾いた音を立てている。何だか暮のようです。この竹の葉は達治さんのためにあちこちからおくられた旗の竹の葉の触れ合う音です。きのうまでは二十何本か旗がズラリと立って、むかいの河村さんの家のとなりの小さい空地に大きい国旗が立ち、小旗がはりわたされ、こんな工合で賑やかでした。
[ポールに日の丸の絵。てっぺんから斜めに1本のロープが下がり、小旗が沢山つけられているの図入る]
お母さんは又いつ私に来て貰わなくてはならないか知れないから、今度は来ないでもよいと折かえして電報をおよこしになったけれども、やっぱり顔を見れば来て貰ってよかったと大層およろこびで何よりでした。私は六日のふじ(午後三時)で立って、七日の朝八時すぎつきました。非常にこんでいて、寝台もとれなかったので、くたびれて、広島からのりかえてすいた車にのったら眠くて眠くて柳井線は眠って通り、フト田という字が見えるので、岩田へ来たかと、逆によみ直したら島田なのでびっくりして、ふくらがしたままの空気枕をつかんでトランクを車の外へすてるように出して降りました。ふーふーとなって、それでも可笑しくて、皆に吹聴したけれども、そう皆は可笑しそうでないので、又可笑しかった。
御父さんは赤紙が来たとき、よかったと仰云った由。きのうは、出発の前、組合の人々が来て、女連は台処を手つだい、店と次の間とをぶっこ抜きにして天井へすっかり旗をクリスマスのように張りめぐらし、送別に来た人に御馳走とお酒を出します。父上を奥へお置きしては亢奮していけまいと母さんは、二階へお上げすると仰云ってでしたが、八日は朝から父上御機嫌がわるく、人々が集りはじめたら益〃怒っていらっしゃる。それで不図気付いて、「お父さんここで見ていらっしゃりたいのでしょう?」と私がきいたら合点をなさる。二階を指して手をお振りになる。それでこそと、お母さんも「ホウホウ、そいじゃここで見ていたいちうのだったか」とそこにずっとお床をおいたままで、ずっと混雑の有様をきげんよく見ていらっしゃいました。午後一時頃、土蔵の前のところで家内だけ、父上、お母さん、私、隆、達だけで小旗をもった写真をとりました。よくお父さん暫くでも椅子におかけになれました。お見うけしたところ、やはり大分御疲労です。ずっとおやせになっています。それでも、頬っぺたに薄すり血色があって、心臓のお苦しくならない限り、おとなしくて居られます。心臓の苦しいというのは、心悸亢進するらしいのです。脈が非常に速くなり、百以上。そして結滞もするらしい。そういうときは鎮静する迄お苦しみだそうです。きのうも夜あたりそういう風におなりなさるまいかと大分心配したが、いいあんばいに平静におねむりになりました。
達治さんは元気で出かけました。けれども、何も先のことが判っているわけではないから漠然としたところもあって、きのうは島田のステーションの端から端まで溢れるような見送りをうけて出て行ったら、後から私は涙がこぼれそうでたまらなかった。東京からクレオソート丸を千粒ほど、キニーネを二百粒、クリームとなっている一寸した消毒薬を三チューブ買って来て持たせました。急に腹巻をきのうこしらえて、それもおなかに巻きつけてやりました。下じめも十五ばかり新しくつくってもって行かせました。七日の朝ついたら、何もしてない風で、お母さんは、何か薬ども持たしてやりたいが、と云っていらしたところだったので、少し持って行ってようございました。私は体に気をつけるようにとしか云いようがなかった。それにどういう生活があるのか分らないから、性的な悪疾についてはよくよく注意するようにと話したら、これは大変達ちゃんも思いがけないようで、しかも後々まで重大な意味のある注意だとよろこんでいました。誰しも戦さに出ると云えば玉や劔のことしか考えず、そのことのほかに終生を毒するものがあることを一寸考えない。そのため、外見は完全で大変なものをもってかえって、子や孫までえらい目を見る。一言でもそのことを注意出来てお互によかったと思います。手紙でもかけず、又お母さんの思いつきになることでもないから。八日午後二時四十何分かの汽車で広島まで行って、昨夜は宿やにとまるのだそうです。きょう(九日)午前九時に入隊。それからのことは分りません。隆治さんがきのうは柳井まで送りました。同年兵が今度は何人も出かけるそうで達治さんの乗る汽車にも沢山のって居りました。もし私のいるうち宇品からでも出るようでしたら、お母さんのお伴をして送りにゆきましょう。
こちらのガソリンは一ヵ月千キロ平均のマイル数に対して、一日五ガロンつまり一五〇ガロンです。それでどうにかやって行ける由。バスなどは往復回数を減らして居ります。運賃ももとより高くなったが、トラックがどっさり徴発されてこちらにのこっているのは尠いので仕事は沢山あるそうです。従って、商売はやってゆける。どちらかと云えばよくやってゆける風です。けれども隆ちゃんが入営すると、一人も男手がなくなるから、自動車は休車にしておく計画だそうです。一人の日給が人夫で二円―二円五十銭で、仲士と運転手とをおけば少くとも百二十円はかかり、それではやって行けないとのお話です。又、雇人だけでは又別にいろいろお困りらしいし。こちらの物価は二三割上ってはいるが、東京程多角的に生活に迫って来ないようすで、こちらの景気はどうですか、ときくと、誰も一様にぼんやりと、大してわるいことはないと云う返事です。隆治さんの入営はまだ検査が、この二十日故未定ですが、今年は早く入営することになりそうな風です。すこしは稼げるときに、すっかり働き手をなくするので、お母さんもお辛い様子で、きのうも別に涙をおこぼしにはならなかったが、いろいろ仰云る言葉からまことに同情を禁じ得ません。そういう場合になれば、私たちも出来るだけのことは些少(さしょう)なりとも致しましょう。只、現在は私の経済力も到って小さくて残念ですが。
野原の方は、あのお墓のある地域を覚えていらっしゃるでしょう?あの辺から(すこし手前から)ずっと海辺に近くまで何か海軍の方の大工場が立つのだそうです。七円であった地価が二十円となりました。そして、あの家の裏に十二間道路が出来るそうです。従って、野原の地面も予定の略(ほぼ)三倍の金を生じたので、すっかり御安心です。あちらの方はそういう思いがけないことで心配はいらなくなりました。冨美ちゃんは室積女子師範の附属高女の由です。女学校から引つづき小学校の正教員の資格をとるようにとあちらでも考えていらっしゃる。女の子でも一人しっかりさせておかなければあの家はあとでお困りでしょう。富雄さんも、七円から二十円へ着目して、この頃は外交員仲間をかりあつめて株屋をはじめたいなどと云っているそうです。外交員では、株の社会でもまともには通用しない存在だから、しっかりした店の店員として働くなら話は分るが、株屋をはじめると云うのは。どうも、実にどうも。お母さんへの啓蒙をこの頃やっているらしく、同じ興味をもたせようとして、送金の出来ぬ月はやすい株を上げておくからよく気をつけていて価の出たとき売るようにと云ったりしている風です。今日において価の出ていない株に価の出る可能はなかなかないことを私は常識から昨日もおばさんにお話ししました。母子ぐるみで株に気をとられたら、その結果はどんなになるかということを、私は遠慮なく申したので小母さんも涙を出して傾聴していらした。商売として考えず、儲け儲けとしてあせるからどうにもなりません。富雄さんはどんなに儲けようとどんなに損をしようとも冨美ちゃんと小母さんとの生活は地道に立ってゆくように計画して、そのような野原がひらけるなら又手頃な小店でもやってきっちりなさるよう申しました。
私はこちらに十四五日頃までいるつもりです。目白はひさとその友達で留守番をして居ります。きのうは組合のひとが出発のあとで一杯やる、そのお給仕をしました。明日は恵比寿講とかがある由。どういうのかよくまだ分らず。何か組合仲間だけのもので三ヵ月に一度ずつあるらしい。お店には今様々の肥料が一杯つまっています。では又、お体はずっと順調でしょう?呉々もお大切に。 
五月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
五月十四日島田からの第二信第二十三位?
きょうは南がきつく吹いている日です。アンテナが鳴っている。隆治さんは明け方の三時三十何分かの汽車で広島にいる達治さんの面会に出かけている。野原の先に普賢様というのがあって、そのお祭が今日だそうです。貴方も覚えていらっしゃるかしら。いろいろの見世物などが来たのはこのお祭り?この間から仲仕に来ているリューさんという十八かの男は(これは朝鮮の人ではないけれども、そう呼ぶだけで字が分らない)大いにはり切りボーイとなってお祭りに出かけています。この男のおなかには切腹のあとがあります。親子げんかをして切腹したのに誰もとりあわなんだと笑っている。
父上は今うとうと中。母上と多賀ちゃんとはお店で、高山の息子が出征するために送る旗を田中さんという人に書いて貰ったのをメリンスにはりつける仕事中。私は二階ですこし妙な顔つきでこれを書いている。というのは、十二日からひどく下痢をはじめて十三日一杯えらい目を見て今日はどうやらフラフラおきている、という有様です。原因はどうも、何とかいう家から端午餅をよこした。そのとり粉がわるかったらしく前の河村さんでも三人やっている。よそでもやっている。私が臥(ね)ていると、お母さんは気をもみなさり、食べないと気をもみなさり、なかなか食べずにねかしておいて下さらないから苦笑ものです。でも、これだけお喋りが出来るのだからどうぞ呉々もお心配ないように。私は十六日の寝台を買いましたから、体の工合さえ悪くならなければ十八九日にはお目にかかりにゆきます。
この前の手紙で、十日に恵比寿講がある話をしました。あの晩は組合の人だけで、達ちゃんの世話になったお礼だと云って、十何種かの御馳走を拵え、お酒を出し、大いにもてなされました。私もお母さんのお尻にくっついていろいろやった。組合というのは十軒ずつなのですね。何とかいう理髪屋の爺さん、覚えていらっしゃるでしょうか?妙にからんだ、もののわかったようなことを云うくだまき男。それが最後までのこっていた。
十二日には、朝六時五十五分の汽車で広島にゆきました。お母さんのお伴をして。広島の第二高等小学校に駐屯していて、十五日頃には渡支するというので出かけたのです。達ちゃんは石津隊の本部付の側車です。これは、ソクシャというのだそうです。世間でサイドカーというもの。伝令づきの由。それに中隊長三人のうち二人は、同年次であった由、又伍長、軍曹などいずれも達ちゃんの教育を受けた初年兵であったそうで、いろいろ便宜の由。御二人は大安心ですし、何より結構です。十二日はその小学校の校庭で昼頃まで兵隊がいろいろやるのを見物し、連隊長の訓示というものも拝聴しました。それから分宿している箇人の家へ行って一休み。午後は六時頃までいろいろ不足の品を買いものして夕飯は軍曹殿と達ちゃんの食べるのを見物して、十一時三十五分で広島を立ち、こちらに二時ごろかえりつきました。お母さんは御自分の目で、軍装のととのった姿を御覧になったし、元気な様子を御覧になり仕度も兵としては相当手落ちなくととのえたので大分御安心でようございます。
きのうは、じっと寝たまま、多賀ちゃんといろいろ話し、野原の家のこと、こちらのことなど話し、こちらの方も二人の男がいなくなればどうしても多賀ちゃんにいて貰わねばならず、多賀ちゃんとしては富雄さんが出たらあとの暮しをどうしようという心配がある。そこで、今は又養鶏がよくなっているから(支那卵が入らぬ)鶏を五十なり百なり飼い、やがてあすこへ何か出来たら人をおいてそれであちらの暮しは自転してゆくようにし、多賀ちゃんはとにかくどちらかが還る迄ここで手伝って貰うこととし、その代り今十円の給料を十五円にして、十円野原へやるとしても五円のうちは自分のものとしてためられるよう、それは私が当分持って出すことにきめました。お母さんとしては十五円はお出しになりたくないそうですから。私としてもその方が安心でよい。貴方もこの方法には賛成して下さるでしょう。そして、こちらの家計は、お店はやって行けることだし、負債は殆ど全くないのだし、銀行へ行っても大分丁寧な挨拶をお受けになるそうですから、決して心配はいりません。このことだけは安心してよい。話のときは、永年の生活の習慣から、他の半面ばかりを出す癖になって居られますが。二人の息子を戦争に出す母の心の苦しさは深いものであるから、どうやら暮しが根拠を保っているのが、せめてものことです。私たちとしても、何とかして力に及ぶことをするだけで、志を受けていただける範囲であるのは幸です。この十数年間の努力というものがどんなであったかとお察しいたす次第です。
お父さんは、ちっとも落胆もしておられません。あなたが六日にお出しになった電報は、昨十三日の午後につきました。いつぞやからお話しの、いつか払った六円若干の金の送り先は、もう覚えてはいらっしゃらないそうです。
広島という市は、戦争で次第に繁栄して来た都市です。独特な性格をもって居ります、その町の商人たちの気分が。島田というところも潤いのないところですね。かけ引きを主として暮す生活が人間を変化させてゆく力は非常に深刻なものです。では又。島田からの手紙はこれでおしまい。 
五月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十日第二十四信
やっと晴れましたね。青葉がすっかり重みと厚みとを増して、初夏の色になりました。十八日には、どうせ濡れついでに、あれからすぐ丸善へゆきました。そしてmaoの本をきいたところ、どこの支店にもなし。いつかついでに注文をしておいて貰うことにしておきました。けれども、これは大変時間的には当にならないのです。為替の関係で。そのときフォックスという英国評論家の『小説と民衆』という本を買いました。一九三五年以後の英文学、評論の変化を示しているものです。しかし、一寸序文を見たが、小説というものの存在意義を随分初歩的なところから主張して物を云いはじめていて、英文学における批評や評論の過去の性質というものを考えさせます。英文学における評論の伝統というものをすこし知りたく思いました。テイヌがフランス人であったということだけで、その面ではフランス文学の方が昔からすこし先を行っているのではないでしょうか。
牧野さんの本はお送りいたしましたが、スノウのも、私は大いによい妻としての心を発揮してあなたに先にお見せすることにして送りました。折角御注文のがないから、その代りに。十分その代りとなります。
十八日にはかえりに林町へよりました。久しぶりで太郎と遊び、国男にも会いました。このひとは、この間どっかの二階からころがり落ちて肋骨を痛め、名倉に通っていました。そしたら偶然糖尿になっていることを発見されて、すこし悄気ている。でも私はいいことだよいいことだよと云いました。すこしはそれでこわがって酒を減らせばいいのです。この前はもうすこしで片目つぶしそうな怪我をするし。
寿江子は熱川で山羊を飼っていると手紙が来ました。二十五日ごろ又一寸かえって来る由。
十九日は戸塚へ行っていろいろ話し、新宿のムーランルージュへつれられて行った。ここはいろいろ今日の社会相を笑いの中に反映していて面白かった。
鈴木さんのところへは明日行きます。そして万端相談いたしますから、どうぞそのおつもりで。
きょうは十時すこしすぎに、徐州陥落のサイレンが街じゅうに響きわたりました。達ちゃんの船はもう支那の近くにいるのでしょうが、どこにいるのかしら。ちょくちょく思いやります。私がそんなことを思いながらこれを書いている家の門には軒並みの旗が立っていて、物干しにはあなたの冬着が、名を書いたほそい紙片をヒラヒラさせながら干されている。
私は仕事に対する欲望が潮のようにさしのぼって来ているので、すこし肝のたった馬のような調子です。眼尻(まなじり)に力がこもって、口をむすんで。文学における全体と箇との問題などが、今日新しい機械論として出て居るのなどは何と興味あることでしょう。
『タイムズ』の文芸附録が今度スコットランドの現代文学の特輯(とくしゅう)を出しました。歴史的な小説をかく婦人作家が二人いることがはじめてわかりました。スコットランドはその自然の景観から、独特なロマンティシズムをもっている由。では又。セルと単衣羽織をお送りいたします。お大事に。 
五月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十二日第二十五信
きのうの朝、下へおりて行ってテーブルの上を見ると、三月十四日とした封緘がおいてある。三月十四日、三月十四日怪訝(けげん)に思って手にとると封は開いてなくて、この間あなたが書いたよと云っていらした分でした。ひさが、「三月のがいま着くんでしょうか」と目玉をうごかしている。「そうじゃないよ、日づけを間違えていらっしゃるんだよ」と笑いました。
本当に久しぶり。そして、これを書くために私からのいくつかの手紙をよみ返して下すったということもありがとう。でも、この貴方の手紙は、或大きいことに心をとられていて、その心の一端をここへ向けて書かれているという調子があらわれていて、なかなか微妙です。そういう点も意味ふかい印象です。
私に下すった宿題は、力こぶを入れた答えをさし上げますよ、近日中に。この作品は仰云るとおり今日の生活の態度気分の上で少なからぬ意味をもっているものです。しかも純正なる批評をうけていないものです。大体この作者はその出発第一歩から、まともな批評をおそれるに及ばない、という条件から出ているので、独特な特徴をもっている。「僕の書くものが厳密に云えばなってないのを知っていますよ、しかしそれを突いて来る者はないじゃないですか」こう私に向って云った度胸のひとです。突いて来る者があっても判るものにしか判らず、その数は少いから平気なのです。まあこういう表現はこの位にしておいて、芸術上の問題としていずれ書きます。
泉子さんの体はいいあんばいにそれ程大したことはないそうですが、これまでの柏木の家は日当りわるく不健康なので世田ヶ谷へこしました。トマトの苗やなんか買って大いにやっている由。重治さんは市の失業救済の方からの口を見つけて日給一円三十銭で毎日通勤してナチの社会政策の翻訳をして居ります。世田ヶ谷から通うのは大変でしょう。
鶴さんの盲腸はおさまりました。私はあれを見ると自分の盲腸にも腹が立って、しきりにはと麦の煎薬をのみ、この頃はすこしましです。この間島田であんな無理をしたが、出なかったから。それに三共でうり出しているモクソールという注射液が大変によいそうで、これからすこしこの注射をやります、但注射なのでね。誰かにして貰わなければなりません。
栄さん夫妻、相かわらず、爽(さわ)やかに而して貧乏して居ります。手塚さんは島田へわざわざ達ちゃんの送別の手紙をくれました(前便で書いたと思いますが)
伝記が豊富な題目に溢れているのは全くです。実に豊富です。そしてそれをすっかり活かし切るようなものが書けるということの歓びは、決して単に箇人の才能とか学識とかの問題に止まらない。
御注文の本のリストの整理は、忘れずにやって置きます。
松山の方のことは島田からの手紙でもお判(わかり)になったことと思って居ります。そう云えば島田の家の井戸が改良されたことお話ししませんでしたね。風呂へ水汲みが厄介なのでコンクリートのタンクをポンプの上にこしらえて、こっちで水を入れておけばあっちは栓をあければよいようになって大した進歩です。
いずれ本人から手紙を上げるでしょうが雅子さんが近々結婚しそうです。対手のひとはまだ私の面識のない人です。細かい家庭のことも知りません。しかしそれで落付ければよいし当人はうれしそうにして自然な軟らかさを体に現しているからいいのでしょう。戸台さんも或は結婚するかもしれない。今年は結婚年のように皆が結婚するので、私はお祝いに忙しい次第です。
生活のやりかたについて私の分ったことをこのお手紙の中でも悦んでいて下すって大変うれしゅうございます。私は本来決して便宜的な人間ではない。又、食うため云々を、素朴に買いかぶるほど稚くもありません。土台、食うためになった作家なのじゃないのだから。世態と日常とは益〃各面から煩瑣(はんさ)になります。そして、私たちは健全な豊富な意味で益〃書生生活に腰を据えなければならないのです。歌舞伎座が立ちゆかず、やすい芝居をするようになるそうです。築地はハムレットを千田がやっている。ひさは姉が結婚して、農繁期になるのに田舎では雇う人手もないというので一・二ヵ月かえります。その代りにひさの友達で栄さんという子が来ます。この子とひさと二人で島田に行っていた間留守番をして居りました。ひさとか栄とかかちあう名はあるものね。但この栄はずっとしぼんで素質の小さい栄ですが。では又。この頃真白い紙はタイプライタアの紙しかない、何故かと思います。皆スジ入り。お大切に。 
六月四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
このハガキは差入についての走りがき。
一、帯は夏だけもてばよいつもりです。あの方が軽くてすこしはよいかと思います。二、二枚の単衣のうち、紺の方は、些かおしゃれの分です。もう一枚の方がいくら洗ってもよい分。二日にそのことを忘れて申しませんでしたから。紺はそちらで洗わぬこと。三、ああいう下にはくものはいかがなものでしょう、暑くるしくあるまいとも思いますが、試みに。手紙はこれとは別。 
六月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月四日(白い紙特にこの紙は書きよい、タイプライター用ですが。)第二十六信
さっき十二時のサイレンが鳴ったところ。(この辺のサイレンは、学習院前の小学校で鳴ります。防空演習のときも)テーブルの上の寒暖計は八十度。つよい風。この二階はいきなり硝子で、それをあければフーフー吹きまくって勉強出来ず、しめれば温室的な欠点がある。すだれや何かでいろいろ加工してある次第です。下で寿江子の咳払いがきこえる。ひさはきょう国へ一時かえりました。代りとして栄さんというひさの友達が来ていてくれます。栄だのひさだのって、縁があるのね、とこの間は大きい栄さんと大いに笑いました。
二日の日には、原っぱを横切って通りに出て、一寸林町へよって、上野の松坂やへ出かけて下着などを買いかえると、いねちゃんが待っていて、久しぶりに夕飯を一緒にたべ、いろいろ喋り十二時頃かえりました。あすこもずっと女中さんなしです。それでも幸、体も丈夫でやっています。私の留守にひさすっかり冬ものを乾しておいたので、昨日は貴方への小包を送り出してしまうと半日、入れかえをやりくたびれた。毛のものなど今年の冬はこれまでのようにないから虫にくわせまいとして。夕方ひさと栄、新宿に出かけ、寿江もいず、のろのろとして風呂をたいて入った。十時ごろから身の上相談のような訪問あり。今日はすっかり落付いて楽しく机に向って居ります。
ところで、私はいつぞやの(四月七日の日の)貴方の私へのおくりもののねうちをこの頃一層改めて深く理解し、本当にあれは云って貰ってよかったことであると思って居ります。何故ならば、島田からかえって来てから、私は勉強にかかって文学的覚書をかきはじめて居るのですが、こまかに本気にとりかかっていると、自分がこういう勉強をみっしりやりつづけなければ本当の現実的発育というものはおくれるという事実が、明瞭に明瞭に分りました。そして、こういう細かい周密な勉強をして見ると、ひとしお芸術というものに深く歩み入る云うに云えぬ深い味いが身にしみ、逆にそういう感覚を喪失することの致命性が分るのです。而も、喪失は、誰を見ても決して一時には起らずいつとはなしに、日常の裡にジリリジリリとどこかへめり込む如く生じて来る。三年、五年の後の相異はどのようでしょう。
この間の小説の話も一言には表現し切れぬ多くのものがあると思われます。根本的な欠点は、時代から時代の推移があらわれている自然な一人物をとらえて来て(現実の中から)その主人公の人生への善意を描こうとしているのではなくて、或意図のもとに、歴史の血脈を否定して、志村と対立するものとして創り出した駿介を、作者があらかじめ枠をつくり各コマを区切った局面と心理との間へ、無理を押し切ってつめこんでいるところに、一般の読者を満足させなかったものがあったのは当然でしょう。
駿介が志村に反撥した時代、自分のからから動き出した原因、それらは極めて曖昧であり、現実に駿介のような存在は、尠いでしょう。作者は用心ぶかく駿介が耕す畑やなんか持っている条件を、そういう条件を皆持っていやしないという批評もあろうが、と予防しているが、どうしても、駿介が近頃文学にも流行のインテリゲンツィア無用風のタイプから、どうぬき出ているのか分らない。田舎の生活のこまごましたことはしらべてある。だからそのくっきりしたところが、真実のテーマである人間の動きの拵えものとの間にギャップをつくり、あの作品の不自然な観念と現実的細部との間のギャップの見えないものには、人間の非現実性を覆う作用を営んでいると思う。人間の本当の生活というものの考えかたも変です。田舎の現実と云う点でも、例えば駿介の親父のようなのは或意味で哲人であるし、周囲の村人たちが、大学を中途でやめて来ている駿介に、皆があんなに抱擁的であるのは実際から遠い。もっと辛辣です。もっといろいろ痛くない腹をさぐる眼ざしをします。あなたもよくよく御承知のように。
人間の善意というものは、どのように形をかえてでも流れ出ずるもので、その美しさと活々とした力とは水のようです。傑(すぐ)れた芸術家ほどそういうものを豊かにもっている。人間性の様々の工夫、様々の思案を親切に評価し認めてゆくのは作家の愛です。それがなければ、土台芸術はないようなものであるが、或作品を或形で書くことで、書かれているなかみを語ろうとしているのではなくて、そう書く態度を示すのが目的であるとしたらどうでしょう。文学作品の評価は、そこへまで触れざるを得ないでしょうと思います。若い人々の現実は、どうせサラリーマンになるんだから、一つ満鉄へでも入りたいね、池貝へ入りたいね、そういう今日の形をとっている面がある。阿部知二さんの「幸福」という小説では駿介のような苦学した大学生が、卒業すると自殺してしまう人物が出て来る。駿介は方面ちがいの勉強を恩恵的にさせられることをいやがると説明されているが、観念の堂々めぐりにあきて、土をほじくることでも行動がほしいと更に心理的に分析されて居り作品ではそこに重点がある。志村がそう動いて来たのなら、筋がとおったようでもあるが、駿介という別箇のものをつくって、それを動かすにしては志村と二重うつしです。猶々微妙ないくつかの点もある。河が溢れて堰(せき)を既にちろちろ切りかかって居るとき、その堰に自分の手に鍬をもっているから、水はこちらへ流れようとする力を示しているのだからと堰の土を掘り下げる百姓があったとしたら、洪水ふせぎに出ている村人はおこるでしょう。
二日に、徳さんにも夏みかんだの何だのを御馳走した気でいたら三十一日に帰京したというハガキを貰い、きょう午後見えました。やつれてはいるが元気です。
ひさの代りに来ている栄さんという娘は、おひささんより他人の家で苦労しているので、仕事というものの事務的な処理をわきまえていて、几帳面なところがあって、よいところがあります。これは随分の見つけものです。この次お目にかかる迄に一つ考えておいて頂きたいことがあります。敷布団のことです。もうそれも相当になったでしょうが、夏のうちにとりかえてはどうでしょう、そして頭の方の角(かど)を(こんな形に)した方が、そして今よりすこし幅をせまくした方が(普通に)便利ではないのでしょうか、丈(たけ)の点で。どうか御研究下さい。ではお大切に。おなかをお大切に。夏は妙に、却っておなかの冷える感じがあるのね。 
六月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
第二十七信。
今裏の鶏舎のところでお母さんと徳山の岩本の小母さんとが、ごみを焚していらっしゃる。駅のところでブレーキをきしませながら貨車が停車しました。この頃は貨物自動車の数が著しく減ったので、家の前通りは随分しずかです。夜中に耳についた貨車の軋りなどがこんな昼間によくきこえて来る。この汽車が蒸気を吐く音やギギーときしってしずかにとまる音には一種独特の淋しさがありますね。去年四月にきたときもそう感じたが。
うちは、きょう初七日(自注4)でやっと少し落付きました。今までは全く手紙をかきに二階に上っていることが出来なかった。お葬式は喪主があなたでしたから私の用も多かったわけでした。万事とどこおりなく終りました。御父上の御経過から申しあげます。
一週間程前(六月六日の)すこし心臓が苦しくおなりになったので、医者をよび注射をしてすこし氷でひやしていらした由です。それから又よくおなりになったが、すこし熱があるから薬をというのでそれだけずっとつづけていらした。六日は朝も昼も御飯をよく召上り、午後三時頃、多賀ちゃんがうちにいて、お母さんはつい近くの川へ洗濯に出かけていらした。そしたら「ヤイ」とおっしゃるので多賀ちゃんがお菓子ですかといいながら行ったら、大変汗を出していらっしゃる。「えろうありますか」ときいたら「えらい」といわれるので、「おばさん呼んで来ますから待っちょりませ」といったら、「待っちょる、待っちょる」とおっしゃった由です。川まで御存知の距離です。二人で戻って来たら、早もう息もおありにならない風で、二つばかり大きい息をおつきになったきりで万事休したそうです。医者は、従ってそのあとで呼ばれたわけですが、もちろん手の下しようがなかった。
お母さんは、どうも食がちいと行けすぎると思うちょったと云っていらっしゃいます。おかゆなどもう一つと云って召上ったそうです。それにすこし話がおできになった由。「隆ちゃんも出征したらどうなろうかいの」とお母さんがおっしゃったら、「どうにかなる」と云っていらしたそうです。すこしの間仲なおりというような御様子だったのでしょう。私は八日の九時前にこちらに着きました。その日の午後二時に、三軒のお寺から坊さんが四人来て七条の袈裟(けさ)をかけて式をはじめ、家の横の寺へ行って又式をしてから火葬場へ運びました。この日は雨が大降りになるかと思うと又やむという空模様で、大雨の間と間とに事を運んだ形です。火葬にはこの辺ではしないのだそうですが、墓地が臨時なので、(野原の方はその大建造物(自注5)の敷地に入るので近く移らねばならず、今の場所〈家の上の寺〉は崖っぷちしかないので近くましなところへお買いになる由)火葬にしたわけでした。秋本精米の主人、富雄、隆治ともう三人ばかりの男のひとたちがおともしました。
翌日はお骨上げ。やはり降ったり照ったりでしたが、お母さんと女のひと三人がゆきました。私は留守居。おかえりになった夜、坊さんが来て読経し、その坊さんとお母さん、隆ちゃん、私とリンさんという若衆とでお墓へお納めしました。場所は新しくきりひらいたところで、普通にゆく道とは別の、家からいうと先の方の右手の急な崖をのぼって墓地へ出る小路を知っておいででしょうか。その道から頂上へ出たすぐ右手のところです。お父さんの御骨は隆ちゃんがゴム長靴はいて背負ってかえってきました。私はこういうやり方をはじめて見たし、日頃からあまり仰々しい儀式のよそよそしさを感じているので非常に心を動かされました。すべてのやりかたに愛情がこもっている。坐って、紋附を着て、雰囲気をつくっている感傷というものはない。いい心持でした。
夜は昨夜まで八時頃から十時頃まで、山本の近さんがカンカンカンカン木魚を叩いて二十人位集ってナムアミダをやって、沢山お酒をのんで、御馳走にあずかりました。あたりの田圃で今は地べたが湧き立つように蛙が鳴いています。電燈の光のあつい家の中では、ナモアミダブ、ナモアミダブといろいろな顔と声が合唱して、茶色と黒とで描いた一つの風俗画でした。御仏壇に紋附を召したお父さんのお写真が飾られているが、皆がナムアミダをやっている最中お母さんが思い出したようにナムアミダ、ナムアミダとお数珠をもんでいらっしゃる様子をみるといかにもところの慣習にしたがっていらっしゃるのがわかり、その退屈さを無意識に辛抱していらっしゃるのが分ります。落付かないで、居心地が納らないでいらっしゃる。これは結構なことです。健康ないきいきした心が動いていてナムアミから溢れているのは何よりです。
あなたのお送りになったものは九日の午後につきました。こんなに心配せんでいいのに!とおよろこびでした。お礼の印刷物をきのう七十枚ばかり発送しました。あなたのところへも御自分の名で刷られたものがやがて届きましょう。
さいわい、この四月五月でいろいろの整理がすっかりつき、家屋、自動車、煙草その他すべて達治さんとお母さんの名儀になっているそうです。名目上の相続をあなたがなさったわけです。すこし落付きになったら達治さんの分家届けをして、戸主の分だけ分けるようにしましょう。お父さんの年金は六月六日迄の分、恩給は半額(これは扶助)うけとれます。三百いくらかの簡易保険を戻します。墓地の入費などは不明ですが、今度の当座の入費と御香奠(こうでん)がえしぐらいは、よそから来た分と私たちの分とで十分にすむと考えられます。お母さんは、二人がいなくなっても商売はやっていらっしゃるおつもりですし、二三年は何をしないでも食べてゆける自信があるからくれぐれも心配するなとのお話です。
お母さんが、この数年来ずっと店をやっていらしたおかげで、いろいろ生活に変動が生じても一本の筋はずっと徹っているから、その点は実にようございます。只これからすこし暇がおできになる。その暇が、これからのお母さんに心持の上で影響することが大きいから、危険はそこにあります。よく内容づけないといろいろよくない。よくない可能は内外にみえる。何とかしてせいぜいすこしは面白い本をよむ習慣を追々につけていらっしゃるようにしたいと思って居ります。商売の性質にうるおいがない。幼い子供がいない。まわりに大したものがいない。しっかりしなければならない事情はお母さんに幾重にもかかって居りますから。
私は今日からすこし落付くのですから、やがて御香奠がえしの買物のお伴などもして三十五日までいることになるでしょう。きのうは広島のTさんが又金銭上のしくじりをやったらしく、行方不明だとかで小母さんは只今そちらです。そっちももしかしたら何か御相談がいるかもしれませんし。
達ちゃんは元気で炭鉱のある、そして有名な石仏のある大同の兵舎にいるそうです。日本人の商人も居り、茶わん一ヶ八十銭の由、カフェーもバーもある由。慰問袋をこしらえてやります。又次便でいろいろ。お金が不自由におなりにならないでしょうか。もう少しの間もたせて下さい。お体をお大切に。私は大丈夫きょうからすこし沢山眠りますから。盲腸も大丈夫です。では又。

(自注4)きょう初七日――六月六日、七年間病床にあった顕治の父親が死去した。
(自注5)大建造物――野原の海岸沿いの畑地を広大につぶして、海軍工廠が建設された。 
六月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
六月十四日
きょうはひどい雨です。二階の裏の障子をあけて見ると、段々になった石垣や田のところにいくつも滝が出来ている。うちには雨洩りうけのバケツたらいなど出しかけてある。その後お母さんもずっと御元気です。私はなるたけ三十五日が終る迄こちらに居るつもりで居ります。六月六日からかぞえると七月九日か十日です。達ちゃんから又五日づけのたよりあり、これも無事です。電報昨日着、非常におよろこびでした。 
六月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月十五日第二十八信島田からの第二信
けさ、長いお手紙が着きました。私がゆっくりおきて、下へ行ったら「顕治が手紙おこしましたで、すっかり、ように心持よう書いておこしました」と云っていらっしゃいました、私も拝見しました。家じゅうがよんで、時には、あの電報など伝さんという人(古くから出入りしていた人ですって)にまでお見せになりました。
お母さんもずっと御元気です。きのうのように大荒れに雨が降ると、ああきょうのような日でなかってよかったと云っていらっしゃる。永い間の御病気でしたし、かねて御覚悟のあったことだし、せめて隆ちゃんがいてよかったし、お苦しくなくてよかったし、お心のこりはないわけです。でも急にひまがお出来になって、今はあれこれとあとの始末でおいそがしいが、私としてはそのお暇が可哀そうです。良人というものは、他の何人によってもかえられないものを持っている、母としての面は発露されても妻としての面の心持はおのずから別であるから、私は又その点を深くお察しいたします。ましてお父さんはああいう方で、妻としてのお母さんの思い出は実に激しいものがあるのですから。
ハガキに書いたように、私は三十五日がすむまでいることにしました。お母さんがその方をお望みですから。どうせおよろこばしたくて来ているのに二週間早くかえって心のこりをおさせするにも及ばないことです。お金をお送りいたしました。
きのうはこっちはひどい大雨で、トンネルがくずれたり列車不通になったりしました。うちは、店へもし川水が上ったら大きなものを動かせないから心配しましたがそれはまぬかれた。けれども夕方下松へトラックで行った隆ちゃんがひどくビッコを引いてかえって来た。高山の石油のドラムカン(大きい円いの)をつんで行って、仲仕が荒れなのでついて来ず、雨ぐつがすべって左の足の拇指(おやゆび)のところを落ちて来たカンでぶった由、うち身になってひどくなっている。早速ヨーチンをかわせ、氷をかわせ、私と多賀ちゃんが看護婦になって手当をした。夜中三時頃おきて又氷をかえてやった。きょうは動かず臥ています、「臥ているのも辛うあります、お父さん大抵えらかったいのう」と云っている。でも大丈夫です。骨がどうということはないでしょう、五十貫近いものらしい。甲に落ちたら卒倒していたでしょうね。
壺井繁治さんからは中村やのおまんじゅうを、手塚さんからは五円お供えを送って下さいました。それぞれお礼を出しました。三十五日には、おかたみ分けをなさるそうですが、お父さんは永年臥たきりでいらして着物もないので、おかたみ分けには新しいものをお買いになります。貴方に20、私にも20、多賀ちゃんにもその位、富雄さん10、克子さん10、という予算で、何か下さるそうです。あなたにはそのほかお父さんの立派な羽二重の紋付を下すってあります、こちらにとっておいて頂きますが。あなたのは秋にセルを買うことにしてあります。
私はちゃんとした夏帯がないから買って下さるそうです。外のときでないから私もよろこんで頂きましょう。
お母さんは欠かさず毎日御墓参になります、そして烏がちゃんとまっちょると云ってお土産をもっていらっしゃる。ちょっとしたお菓子や何か。こちらでは烏がお供えを啄(ついば)むと難なく極楽へ行けたという証拠としているのだそうですね、しきりに又烏がいたと云っていらっしゃる。
達ちゃんには、近日慰問袋を送ります。広島へおかたみ分けを買いに出たときに。
私はお母さんと条約をむすんでひる間は多く二階にいて読むか書くかすることにしました。夕方は下へ来て私の仕事の風呂タキをやります。それから夜は皆と喋る。そういう習慣にします。そしてゆっくり居ります。今はスノウをよんでいる。やりかけの仕事をおいて来たから。こっちでこれをよみ終るつもりです。四六一頁あるから丁度よい。ゆうべみんなで話していたとき貴方の小さかったときの話がしきりに出ました。貴方が小さくて、何かじぶくって泣くとお母さんが、もうやめいなと云うと、虫が泣かすんじゃああーんと泣いたという話、こういう伝説を御存知ですか?お祖母様が御秘蔵で、おおええええ顕治が泣くんじゃない虫が泣かすんだ、のうと仰云るのを覚えていて云ったのですって。私たちのように可愛がられて育った子供たちは、皆それぞれ伝説がありますね。私はあなたの赤坊のときの写真や小学生のときの写真や松山へ行っていたときの写真や、松山へはじめて行くとき着て行った絣(かすり)の着物まで知って居りますよ。絣のその着物は、今お母さんが召していらっしゃる。そして産衣(うぶぎ)の黄色いちりめんの袖まで見ている、いかがです?私の赤いふりそでの産衣を見せて上げられないのは残念です。
下で隆ちゃんが体の動かせない人と思えない大声で何か喋っている。今年の麦はわやです。雨が苅入時に降り人手不足で、沢山が畑で黒くくさっています。昔裏の田をつくったことがあるのですってね。稲苅りなさいましたか?しめっぽいからお体を呉々大切に、本当にいろいろ着る物を送っておいてよかったと思って居ります。では又 
六月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月十五日第二十九信第三信(島田から)
西洋の人たちは白湯(さゆ)を飲まなかったかしら。――妙なことを考えるわけは、スノウが旅行して行って御馳走になる、鶏の丸煮、丸ムギのパン、キャベジ、ジャガイモ、粟、それを心からよろこんで食べたが、飲むものは熱い湯しかなく、死にそうにのどが干いたといいながら、それには手もふれられなかったと云っている。何と不自由なのだろうと考えて、そして思いかえしてみると、本当に白湯をのんでいるアメリカ人もイギリス人もロシア人も見たことはありませんでした。妙ね。気候の関係でしょうか。(下ではラジオが浪花節をやっている。)
一日のうち何時間、こうやって新鮮な意志の輝きや青春の真の美しさを吸いこむ読書は、何とうれしいでしょう。おりおり感動のあまり頁の上を手で思わずなでながら読んでいます。
十六日一昨日から昨日の雨は、山陽線の岡山よりすこし手前のところで土砂崩壊による列車テンプクを起し、二重衝突が起って修学旅行に出かけた小学生を多く殺しました。きょうはすっかり晴れて、うちでは満帆を張りひろげたように白い洗濯物を干し、畑ではくさりかけている麦の手入れと始末に大わらわです。
隆治さんはきょうもう仕事に出ました。私はタバコを売ったり、電話をきいたりする。こっちの電話は略語と専門語とがあるのでなかなかむつかしい。アクセントがちがうから、地名がはっきりしなくて。
今午後の二時頃。お母さんとたくさん洗濯をした多賀ちゃんとは下で昼寝。きょうは面白くて四十三頁もよみました。
十七日きょうはさわやかな上天気です。家じゅうのぼろや、ぼろでないものを出しかけて洗ったり、干したり、はたいたりしています。私も頭をプラトークで包んで、二階の掃除をし、東の日の一杯当るところへ夜具を皆ほしたところです。稲子さんから御香奠を送って下さった。明日は二七日です。早いものだと思う。前の河村さんの長男は工場に通って旋盤ですが、足の踵が三四年前から痛んで、この頃はひどくなっている由。どうもカリエスらしいのでレントゲンで見て貰うことをすすめ、きょうあたり徳山の病院へ行ったでしょう。達ちゃんの折と今度のこととで、近所の人々に顔なじみができてすこしは話をする人々もふえました。河村さんのところでは娘さんは二年ばかり前に結婚して(写真師)一人子供があり、二人目がこの間生れて程なく死にました。今、兎をたくさん飼っています。兎は湿気に弱い由。達ちゃんのとき生れた兎の仔を、うちの猫の玉がとって自分の仔に食わしたことがあります。うちの玉は七年とかいます。あなたも御存じかしら。
明日は自転車坊さんが来ます。これはお母さんの命名。野原のお寺に二十三四の役僧がいて、この人は自転車にのって来るからです。
今十二時半。エー、キャンレー、キャンレー、ああキャンレー、キャンレー、キャンレーと呼んで通る。毎日、晴天だと今頃。これはキャンデーのことです。氷菓子だそうです。この辺の子供は、東北地方のようにとうもろこしや枝豆はたべないのですってね。こういうものをたべる由。
十八日きょうも晴れて東からすこし肌寒い風が吹いてくる。きのうのラジオで東京は平年よりずっと冷える由。工合はいかがですか。冷えをお腹に引込まないようにくれぐれ願います。
きのうは夕方御飯のとき(この頃は大てい七時すぎ。日が長いので)お母さんが大助さんの生れた家(自注6)へ炭を届けさせるついでに、螢の工合をきかせ、どっさり出るという報告で、私を螢狩りにつれていって下さいました。八時に内藤のタクシーを呼んで、お母さん、多賀子、私、河村さんの細君と総領息子と金物やの娘がのり、助手台へうちの倫公が、すすはきに使いそうな笹っ葉をくくりつけた竹をもってのった。そして、うちのすぐそばのふみ切りからもう一つ大きいのを越して、その次の一寸したのを越して四ツ目のすこし手前、桜がずっと生えている手前の辺の橋のところへ降りました。その黒川さんという家が一軒ぽつんと樹かげにみえ、あの辺は大変陰気です。汽車が暗い山と山との間に火の粉を散らし、おそろしい音を立てて、いかにも「火車的」に通るのも恐ろしい。その次の踏切でつい二日ばかり前人がひかれたりしてなお更。
この辺の夜の景色など覚えていらっしゃるかしら。螢は二十日ばかりおくれているそうで、大してもいなかったが、私ははじめてあんな冴えた大きい螢の光りをみたし、数をみました。私が糸で縫った紙袋にそれでも四五匹とって、かえり路は家まで二十丁余歩いてかえりました。なかなか印象的な散歩でした。多賀ちゃんが、夜の黒い大木がこわいこわいというのが面白かった。たしかに圧迫的です。私は子供の頃、開成山の暗い夜、竹やぶのわきを通るのがこわくて、おぶさっている背中でしっかり目をつぶっていた。多賀ちゃんが田舎でありながら、狭い小さい町暮しの感覚をもって成長していることを面白く感じました。
読書はなかなか有益です。歴史の細部に亙っての特性が、実に感じられ、思索を深く長くひろい規模に刺戟される。私はこのおかげで大分ものが判りました。毎日四十頁前後きっとよんでいる。文学の問題としても種々面白いヒントがあります。下では自転車坊さんのおときのために、ステッキになりそうな筍を煮ています。
私は明日あたり野原にゆき、珍らしく泊ってくるつもりです。そしてついでに虹ヶ浜や室積やを見て来ます。高いところにあるあなたの小学校も。何とかいう小学の先生(うるさい程ほめちょる、と多賀ちゃんがいう)は今室積で代書をしていられる由。もちろん訪問のために室積にゆくのではありませんが。――
大いに熱中して読んでいる私の様子、やがておなかをかき出して、いきなり着物をぬいでノミをつかまえようとする私。ノミは多くの場合私より迅(はや)くて、とりにがし、ペコペコとイマヅをまいて又坐りこむ私。二階の部屋(東向の方)の様子と、そのかっこうとをお考え下さい。なかなかの戯画よ。非常に知的な漫画です。
この手紙は一先ずこれで終り。あとは野原その他の様子になります。今光井から電話らしかったが、何かしら。明日ゆけなくなるのかしら。
むらのある気候ですからくれぐれお大切に。この手紙は凡(およ)そ本月末か来月初めに着くのでしょうね。あなたはこちらの私へ書いて下さったろうかどうだろうかと、そう待ちかねているのでもないがちょいちょい考えます。では又。本当にお大切に。

(自注6)大助さんの生れた家――難波大助の生家。 
六月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡光井村より(封書)〕
六月二十日(一九三八年)山口県光井村にて第三十信
野原の家の奥座敷で、東の方の庭に向って障子も縁側の硝子戸もあけ、机を出してこれを書いています。
きのう十一時すこし過のバスでこちらへ来ました。途中でドラムカンの空(から)をうんと積んだ隆ちゃんのトラックとすれ違い、私は分ったがあっちは分らなかったらしい。
こちらの家は去年の春だったか、台所と風呂場をすっかり改造して便利になっています。昔からの台所のところ、御飯たべる板の間、覚えていらっしゃるでしょう。あの土間のつき当りのところを(店(みせ)から入って)区切って、すっかりコンクリートのいい風呂をこしらえ鶏舎のガラス窓を十分つかって大いに文化的!になって居ります。四角くちぢまった土間に、ちいさいがしっかりしたへっついが新しく出来て、今にポンプもこっちの内へ引き入れてすっかり濡れずにやれるようにする由です。
丁度ポンプのところから(油しぼりの小屋のこっちの端)隣りの大工さんに土地が売られて居り、油しぼり小舎も大工さんのものです。今は麦の苅ったのと板とが薪木とつみこんである。
大工さんは、表の倉のところ、あの古い二階から風呂のあった小舎をこめて百坪ばかり1100で買って子供の小さいの二人と細君とで、一寸見るとキャンプ生活みたいな暮しかたをやっています。それでも菊を大変上手につくる由。今は朝顔の鉢が沢山あります、おじさまの御秘蔵であったシャボテンのこちゃこちゃした小さい鉢はやっぱり棚の上や庭にあります。
こちらの家は静かで落付いて、本当に仕事がしたい気になること。一寸、いつかゆっくり来て、ものを書いて、折々は海辺へでも出て見たいようですが、もう間もなく例の建造物が出来、人口は五万になるそうですから、迚もそんなしずかな空気はなくなるでしょう。うちの裏の一番はずれのすぐそばに十二間道路が出来るそうです。表は三尺とかへずられて八間通りになりますそうです。そして、自動車は柳井室積間を疾走し、新都市計画が実現されるわけです。野原の土地の買上げは終結して、お寺で調印したそうです。
きょうお墓詣りをして見たら、買い上げられた土地というのは、お墓へゆくあの細い畑の間の道の中程に、右手に入るうねった枝路があったでしょう?あのすこし先からだそうです。お墓のはるか手前からです。昔は綿が植えられ、やがて田になったこのところどころにはねつるべの井戸をもった畑も、間もなく高い塀にかこまれてしまうわけです。田の中をこいでもよいという条件で、農民たちは最後の田植の準備中です。牛をつかって黒い雨合羽に笠をかぶって一生懸命雨の中を働いて居ります。売価では、新しく元の面積はとても手に入らぬそうです。
奥の間の次に(六畳)月三円で小学校の十九歳の女教師が間がりをしています。大変に若くて、きのうは、この四月同期で卒業して就職した友達が来て、いろいろ可憐なお喋りをしていたかと思うと、すぐいかにも若い娘二人の眠っている寝息がきこえて来ました。やがて一人が大きい声で「手をあげて」とねごとを云いました。こちらの蚊帖の中で私は思わず破顔いたしました。すこし話の内容がちがうだけで、ひさと栄(うちの若い人たちよ)とがかたまっているのと似た感じで、何だか可愛いの。勤めにまだ馴れず辛いことが多いらしい。「けど誰にも云えやせんやろ、だから親には何でも云うの、書くと気がすっぱりするさかい書いてしまっちょるの」と云ったりしています。この人がいるし、隣の大工さんは、二階の方をすこし直してぴったりくっついて住んでいるし、決してこちらは淋しくありません。田布施の先にオゴー?というところがありますか?そこの娘さんの由です。兵児帯(へこおび)をしめています。私は、バラの鉢を縁側のそばへもって来たり、今はマークトウェーンの小説をよんでいます。野原の方には本棚があって改造で出した『世界大衆文学全集』などもあります。昨夜は冨美ちゃんにアンクルトムスや紅(べに)はこべその他似合わしいものを見つけてやりました。よそのうちへ行って本棚があるとうれしいこと。
永くなりすぎそうだからこれでおやめ。明日はふっても照っても室積へゆきます。そしてあさっては島田へかえります。きっとあっちもすこしお淋しいでしょうから。しかしそれにお馴れなさるようにとも思ってすこしはこちらにも泊るのです。そちらでも雨が降って居りますか?こちらからのたよりにも、小さい事実というか出来事というか一杯つめられていますね。達ちゃんは無事です又便りあり。 
六月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月二十一日第三十一信光井
午後四時。やっときょうは晴天です。裏からとって来た矢車草の碧い花が机の上のコップにさしてある。この辺の花の色は実に鮮やかで、野生の月見草、小町草、その他本当に自然の濃いはっきりした日光の美しさを思わせる色をしている。この辺の家や墓地にはいろんな花がつくられている。島田には花を作っているような家は殆どない。
机の上にすこしばかり樹の青っぽい蔭がさしていて、一寸何だか夏休みの或日のようです。そして、すこし、郷愁にかかっている。原っぱのところにずっと見える塀や、工場のような建物や、そこにある一つの顔に郷愁を感じて居ます。私は七月十三日頃にかえります。近頃三十八日以上四十日も留守をしたことはありません。随分珍しい。
きょうは野原の海岸へ初めて出ました。ここは虹ヶ浜とちがって、松林が二重になっているのね。そして手前の古い松林のところはいかにもねころぶに心持よそうです。浜へ出て、舟へこしかけて、叔母さまと二人黒い洋傘をさして沖を眺めていました。浜そのものは虹ヶ浜の方が清潔であるし広いし遠浅でようございますね。この頃は浜防風のとうがたって、丸い手毬(てまり)のような実をつけている、実を覚えていらっしゃるかしら。かえり路は、葭のずっと生えている小路へ、郵便局の酒樽つくっていた建物の方から出て、郵便局の隣りの雑貨店で隣の大工さんにやる赤坊帽をかいました。この雑貨店のおっかさんはいかにもがっちり屋の顔をしているが、店に十一年とか経つ大シャボテンが二つあって、びっくりするような花を咲かしていました。
ここには小さなカニがいますね。今庭のカタ木の古い幹(みき)のところを一匹はっている。さっきは石の大手洗鉢の水の中に奇麗(きれい)に浮いていた。
六月二十二日
一時四十分のバスでかえりました。この頃はガソリンの倹約で朝十一時十何分かの室積行が一時四十分野原を通り、あとは夕方の六時すぎ。間で二度下島田へかようだけです。農繁期なのでバスは行きかえり殆ど一人。あちこちで田植最中です。野原附近の買われた土地は、島田川のそばまでで、三十万坪だそうです。都市計画はこの前柳井と書いたでしょう?あれは間違いで徳山室積間です。
二十三日
隆治さんが昨夕びっこをひきひきかえって来た。左脚の上へねぶとが出来ていて痛い。「ひとが、横根でもふみ出したのかと思いよる」とふくれていましたが夕刻秋本へ行って切って貰って来た。寝冷えもしていて、きょうは両方で休み(仕事もないので)私共三人は(母上・多賀子、私)徳山まで出かけました。三十五日のおかえしと慰問袋へ入れるもののために。十二時頃から雨になって、母様だけ下松でおり、あんパンやらマンジュウやらの手配をなさり、五時頃かえり、それから又お墓へお詣りなさいました。雨が降っても何でも四十九日までは毎日参るべきだとのことで、なかなか大変でいらっしゃいます。私は折々御一緒にゆきますが。
二十四日
達ちゃんから航空便で手紙が来ました。父上のおなくなりになったことを知らせたのへの返事です。やさしい心持やこれまで尽すべきことを皆つくして来た安心とが溢れた手紙でいい手紙でした。あなたからの電報をよんで(文句をうつして隆ちゃんがやりました)感動した心持をもつたえて居ります。こうして、皆遺憾ない心持で貫かれているのは本当に何よりです。
午前中かかって慰問袋をこしらえました。航空便でやろうとしたらそれは駄目な由。いつ着くことやら。出動準備中だそうです。
隆ちゃんまださっぱりせず床についています。疲れも出たらしい。私もすこしあやしいので、今はお母さんの羽織を拝借して着ています。午後からは久しぶりで親密な読書にかえります。
福岡に(入りぐち)おりをという寺があって中気のための名灸がある由、いつか昔、あなたがすすめてお母さんを出して上げたのに、次の朝行かずに戻っていらしたという故事のあるところ、あすこへおつれ申そうかと云っているところです。お母さんには御丈夫な上にも丈夫でいていただかねばなりませんから。おなかはこの気候でも大丈夫でしょうか、呉々お大切に。近ければ一寸かえるのに。では又ね 
六月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月二十六日第三十二信
さっきから机の上やトランクのところやあっちこっちさがして、がっかりして坐って下から持って来たこのペンで書きはじめました。ペン先を紙に少し包んで持って来たのが、この間野原へ行くとき机の上を片づけ、何かと一緒にまぎれてすててしまったらしい。御愛用の金Gがこの頃益〃大切になって来たので箱から分けて来て却ってバカをしてしまいました。
さて、十八日づけのお手紙をありがとう。お体のことについて書かれているところが消してある。あなたが何か書きかけたのを消していろいろ気をつけるとかいてだけある。それは、大変私の想像を刺戟しているのですが、どうなのかしら実際のところは?本当に大丈夫でしょうか。少しよろしくないがいろいろ気をつけているというわけでしょうか、そうとしか考えられないので気がかりな次第です。どうぞどうぞお大事に。呉々いろいろとお気をつけて下さい。
きょう野原の叔母さん富ちゃんと一緒に広島へゆかれました。金談のため。お手紙にあることは、口があきる程申しますが、もう云われて聞くという段階は一家がその気分から失っています。小父さんが株でなけりゃいけんと云われてはじまったのだそうだから。それに、ごくひくい常識というか何というか、ああいう人々には、例えば私が金を大儲けしている上で、そんなことは下らんと云えばフウムと首をかしげるが、私たちのような生きかたをしているものが云ったって、それは道理だがと現実にはききません。実験をしばしばやってそういう結論に到達しています。
隆ちゃんはおできと風邪で床に三日ばかりついていたが今日はもう働きに出て居ります。このひとは律気者でよく働いて、やさしい心をもっています。
達ちゃんへの手紙に書いてやることよく承知いたしました。出かけるとき繰返し申しましたが又云ってやりましょう。酒は既に身についているし相当遊びもする。遊びを知っているんだから心得もあるようです。しかし念には念を入れて申してやりましょう。
先刻大畑の何とか云う、富田のおじさんの娘さんの旦那さんで小学教員兼醤油屋の主人が見えました。スマ子さんの御主人です。貴方によろしくとのことでした。大いに反産(産業組合)をやったがあきまへんわいと云って笑っていました。ここいらでも八ヵ村が共同で駅の先に大きい倉をもって醤油の共同醸造をやりはじめていますそうです。肥料・米、やはり扱っています。どことかで近江商人に会って話したら近江辺ではこの子は悧溌(りはつ)だから商人にしよう、大して出来んから学校へやろうと云うそうなが、こっちは逆だと話していられました。長州というところが維新以来もっている一つの伝統、気風というようなものはいろいろ面白いと思います。この頃よくそう思う、いろんな人間のタイプを考えて。
私の読書は半分よりすこし先に進みました。実に有益です。いろいろと考えを導かれ、それを押しひろげ特色を比較し合い実にためになっています。この何日間がこのおかげで無内容でなくなります。
「生活の探求」は今日の文部省の教育映画となるそうです。
私の生活のやりかたについても種々考え、出来るだけ単純化そうと思って居ります。主観的に書生らしい気持でいても、客観的にそうでなくて、安部のおじいさんみたいに、今日は、ハイ(とアパートの戸をあけるや否や)ポカポカ。グー、ではこれも困りますからね。格式とかそのほか下らぬものはもとより問題の外だが、そういう方面の格もあってね。滑稽ならぬ滑稽が生じます。なかなかおいそれとゆきません。御賢察下さい。考慮中です。いずれにせよこの夏じゅうは今の家をかわりません。こちらでこれだけ暮し、又急にあれこれしては、余り仕事が中断されていやですから。
この頃の文学は本質の発展がとまって、心理的な身躱(みかわ)しがすこし動きのように見えているという有様です。作家の生活の生長が全般に問題にならぬような状態におかれている。
よく暮したいと思います。熱心に、人間としての確信をもって生きる生きかたをしたいと思います。そのためには、本当に下らない日常の居場所(心と身との)その他についてさえ益〃敏感と健康な清潔さが必要です。それの可能な条件を少しずつでもより多くと生きてゆくことが中心的な努力であるようです。
お体を本当にお大事に。お願い申します。私はすこし盲腸があやしいが微かなことですから気をつければ大丈夫です。御飯ばかりたべるから用心にオリザニンものんで居りますし。お風呂をたく匂いがする。さあ行ってやって来よう、では又ね 
六月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月二十七日第三十三信
昨夜野原の小母さんがおそく広島から戻って島田の方へ泊られたので、多賀ちゃんは夜番にあっちへかえりました。昨夕からきょうおひるもお母さんと二人で台所をやっています。(夕方には多賀ちゃんがかえる)二人で喋りながら、あの台所で洗いものをしたりお鍋を洗ったり雑巾がけをしたりしている。今午後一時。店へ誰か来ている。私は勉強しに二階へ。この机(低い四角い赤っぽい木の)はあなたが野原の小父さんにお貰いになったのですってね。随分私の役にも立って居ります。
お母さんは私がずっといたので大変よかったとおよろこびです。妻の心持としてのお母さんの気持の通じるのは今のところ私一人ですものね。そして、それこそお母さんとして一番切実なものであるわけですから。お二人は結局深く結びついた御夫婦であったと思います。お父さんは実にお母さんを愛していらした。カンシャクはどんなに起してもね。お母さんのお気持ではカンシャクで苦しい思いをしたのも、けんかしたのも、とび出したのも、やはりお父さんいらしてのことというつきぬ思い出があるのです。私には実に実によくわかる。お母さんも本当によい可愛い女房であると思います。若い女のひとたちが良人に死なれて殉死する気持がよくわかると云っていらっしゃる。こういう心持のキメのこまやかさというものは、決して通り一遍のおかみさんの感情ではありません。そして私はそういういろいろの瑞々しい活々とした感情の故に、おかあさんを一層一層可愛く身に近く、同じように熱い血をもっている女性として愛します。そういう心持を底にもっていながら、日常はこれまでと些も変らないように店をやり昔の世話をやき、体を畳に倒して私が可笑しいことを云うと笑っていらっしゃる。何といいでしょう!お母さんもまことに横溢的なところがあります。私はいろいろの点で仕合わせです。私の母も一通りの女ではなかったが、お母さんは全くちがったタイプで、現在の我々にふさわしい多くの美点をもって、やはり我々をよろこばせて下さる。
六月二十八日
きょうはお母さんはお店のテーブルのところで、月末のかけとりの下拵え。書き出しをこしらえていらっしゃる。外では麦のとりいれの最後でモーターの音がしきりにしてモミをとっています。
私は本が面白くて我を忘れて沢山よんだ。西北地方の回教徒についての部分は、ニュース映画でばかり見ていて、はっきりしなかった待遇ぶりをすっかり明かにして実にためになりました。回教徒のモスクが東京のどこかに新たに建てられて、その教徒のための学校が別につくられたのですものね。いろいろ面白い。
今度は、栄さん、戸塚の夫妻、てっちゃん、さち子さん、重治さん、徳さん、本橋さんそのほかからいろいろお供えをいただきました。お礼はちゃんと例の刷りものを出しておきましたから御安心下さい。
暑いこと。お体はどうですか。熱が出たりしないでしょうか。大分気にかかります。
二十九日
隆ちゃんが車庫でタイアのパンクしたのを直している。七十何円かであったものが、この頃は百三十何円とかだそうです。大切に大切につかっている。一日のトラックの賃が(一日かしきり)三十五円だそうです。柳沢(ヤナザワ)といううちでもトラックをはじめる由です。達ちゃんは出征軍人だから、休車が出来る。(さもなければ三ヵ月で権利を失う由)隆ちゃんも入営すれば休車になさるそうです。人をやとっては、割に合わぬそうです。こちらの生活も、多賀ちゃんがいればよい、いなければいないでよいと仰云っています。私はお一人では心がかりだから十五円自分が出していて貰うつもりですが、野原との感情的いきさつは紛糾していて、私のような外からの者の心持、又気持の焦点の違ったものでは収拾がつきませんから、万事お母さんのお気にまかせます。多賀ちゃんがいなければ十六七の少年を置いたら、一寸した荷は動かせるし、活気があってよかろうとも云っていらっしゃいます。私はこれから本よみ。下から「お母さんも家業にせいを出していらっしゃるから私も家業をはじめましょう」と上って来たところ。きょうはもう麦の始末も終りモーターのブーブーいう音もしません。なかなかむし暑い。二階はやはり暑いものですね、夏は。
三十日
お母さんは只今徳山へ買ものにお出かけです。この間私たちがお伴をして行ったとき御位牌(いはい)を注文なさったが、それが少々やすものすぎるので直させのためです。かえりに、おせんべのお土産があるでしょう。
昨夜のニュースで、東京が大雨だと知り、こちらは一昨日から晴天つづきで、只夜ひやっこい東風が吹くだけだったので、いかにも東京から遠くはなれていることを感じました。きょうはお母さんも汗をおかきでしょうから早く湯をわかして私は髪を洗います。椿の実をつぶしたので。昔うちで椿の油をしぼったってね。徳さんが手紙をくれました。支那語をものにして来たので、面白い翻訳をしたそうです。いいものを身につけましたね。私の有益な読書は面白さにひかれて予定以上に進み、もう今日あすで終ります。沢山の真面目な話題があります。
日本のアパートというのは、宿やのようなものね、ちっとも室即ち一軒の独立性がない。いくらでも管理人が留守にあける。同潤会でもそうらしい様子です。アパートメントとしての性質をはっきりもっているところは、一種の高級アパートメントで、これ又至って臭気がつよい。庶民的でなくて、飽きの来るセット式ハイカラーさが漲(みなぎ)っている。葱(ねぎ)をぶら下げて出入りなどすることが出来にくいように出来ている。アパートメント生活がもっと一般化して、もっとしゃんとするにはやはりそれとしての歴史が入用なのでしょうね。現在のところではとかく長屋式、お目つけ式なものが混(まぜ)こぜになっている。江井のやりかたなど見るとよく分って興味があります。営業だからね。
今月もきょうで終り。二日に四七日があり十日が五七日で御法事があります。百ヵ日まではこれで一段落ということになりましょう。今月の手紙はこれで終りにいたします。お体を呉々お大事に。誰でもこう急に暑くなると閉口ですから。隆ちゃんは午前中珍しく家にいます。では又 
 

 

七月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月四日第三十四信
毎年こんなに東海道山陽本線が梅雨期に度々不通になったでしょうか、ラジオのニュースをきいているとびっくりするほど今年はあっちこっち不通です。「雨並に水に関するニュース」という題で放送している。
六日
きょうはお父さんおかくれになってから丁度一ヵ月目になります。出征する人、送る人ぞろぞろと前の通りを通っている。隆ちゃん達は昨夜十二時すぎ室積から電話がかかって徳山から氷をつんで行ったのが、今午後三時前まだ戻らず。何でもサバが大漁で急に仕事が次々と出来ているのでしょう。夜中でも唄をうたいながら出かけて行った、二階から下りて行って、「熱いお茶でも飲まそうか?」ときいたら「イイエよろしうあります」と云って、そして歌を小声でうたい乍ら出かけて行きました。如何にも若い者らしくて云うに云えない美しさがありました。きょうも暑い。
きのうと先刻まで、私は徳山から買って来た巻紙と封筒とで三十五日の忌あけの礼手紙を書きました。もうこちらに居るのも一週間ほどになりました。あともう一通手紙を書くと島田からの分は終り。
お体はどうかしら。大丈夫ですか?凌ぎにくくむしている。余りむすので一層大汗をかこうと大童(おおわらわ)で火夫をやったり何かしています。京都神戸雨の水害あり、こっちもグズグズの天気でそれかと云って降らずにむしている。仏様のお花がいるのとすこし暇がお出来になったのとで、裏に小さい花畑が出来そうです。多賀ちゃんが好き且つ上手です。
たか子氏の「南部鉄瓶工」をよんで実に感じるところあり。文学の批評が作品の世界に十分ふれて語らなくなってから、生活そのものが何と盲目に流されて行くことでしょう。強力に流されつつ文学がフラフラついてその旗をふりつつ、歴史は更に複雑な多難な方へと内容づけられて行っている。自身の経験の裡からでなければ成長しないとしても、その経験たるや実に独特の細部をもって居り且つ深刻です。日本の文学が世界の文学の中に占める意味の深さを考えます。現実は古きもの新しきものが実に高度に結合されている。林語堂『我が国わが民族』の著者(これもかえったらお送りして見ましょう)が、自分の方の生活とこっちの生活を比べてこっちが一定の方向への一枝石だと云っているのも面白うございます。
私はこの間うちの勉強から非常に興味あるヒントを得て、大変貴方と喋って見たい。文学としては農民文学の問題ですが。現代の日本の農民文学というものは、和田伝の「沃土」などではどんな価値ある題材をとり落しているかというような点です。昔研究された条件より実に大飛躍をして居る農村の性質=大河内さんの工業化や組合化の有様、世界の有様と比べてそれを眺め渡した姿など。借金を背負っているということは、例えばTさんの暮しについておよこしになったような方向へも行き得るのでね。一代をそれで終ることが珍しくはないのです。
借金と云えば、この間うちのいろいろな借金の束を見せていただいて私たちは「これだけあれば家宝ですよ」と大笑いしました。お母さんは借金なしという生活はこの四月以来初めてだと云っていらっしゃいました。この四月以来ですって。三十何年間の話ですね。
ああ今やっと隆ちゃんたちが戻って来た。お母さんが「お父さんの命日にお前」何とか、心配したことを話していらっしゃるらしい。私も下りて見ましょう、おやこれからお昼らしい、カチャカチャ茶わんの音がする。「百合子はん一寸来て見てつかわせ」何だろうと行って見ると室積では鯖(さば)が十何万疋とれてこれから又広島へそれを運ぶ、一寸よってお昼をたべているのだが、トラックにのって来た人が二十五疋ばかり鯖をくれている。うらや前やに分け野田さんが来たのにも分ける。お父はんの命日にというあとは、よく稼いでよろこんでじゃろというのでした。御燈明がついている。昨夜からかけて70ばかり稼ぐらしい、こんなことは何年にもないとの由です。では又。隆ちゃん夕飯代二人分一円もらって又出てゆきます。 
七月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月十二日第三十五信
島田からおしまいの手紙を書きます
十日にはお父様の三十五日が無事に終りました。八日の午後から徳山の岩本のおばさんがカヅ子という六つのお婆ちゃん子をつれて来られ、九日は夜の十一時頃までかかっていろいろの仕度をしました。十日は十時から式がはじまり、井村氏、山崎のおじさま、室積の河野とかいうところの細君、野原の母娘などで十二時頃式と御膳がすみ、お墓詣り寺詣りとすませ、夜すっかりひまになりました。
三十五日がすんで本当に安心いたしましたし肩の荷が下りたようです。いてようございました。昨日は、皆が骨休めのため虹ヶ浜で一日のんびりしました。松林の間に六畳ばかりの離れの形の掛茶屋が出来て、そこを一日一円から、かす。あなたが家をかりていらした、あの前あたりのところです。その時分には、そういう設備はなかったのですってね、この二三年来のことだそうです。そこへ行くとゴザと座布団をもって来る。お茶その他も出来るのだそうですがきのうはまだ備っていなかったので、通りの方の氷店からお茶やお菓子をとって、もって行ったお握りをたべ、十一時頃から七時すぎまで海風にふかれて、松の香を吸っていい心持、様々の思いで午後を過しました。そろそろ海水浴をしている人たちもあり。午後四時頃まで実に晴れ渡って、沖を宇部へ通う曳船が重く並んで通るのが見え、水無瀬島の方もよく見え、いい景色でした。水無瀬島と野原の浜とをつなぐ工事が起されるとかいうが、あれがすっかり囲われて重油が流れ出したらこちらの海も今日のように清澄ではなくなりましょう。松も枯れるでしょう。
十五夜らしいので、一つ浜の月見をしようと思ってね、大いに愉しんでいたのに、夕刻から風が荒く曇り出し、どうかしらどうかしらと云っている間にポツリポツリ当って来たので、それやれと仕度をして駅へ出たらひどい夕立が降り出しました。
小やみに八時十二分かの汽車にのったら島田へつくと、白い埃がたまってぬれてもいない。スーと暗がりから隆ちゃんが出て来て、皆が下げて持っているお重箱の空や何かを自転車にのせて行ってくれました。そのとき私は何ともいえずいい気持がして同時に、お母さんのお気持が判りました。達ちゃん、隆ちゃん、うちは皆男の子たちで、大きくつよく立派に成人している息子たちにかこまれている母の感情の中には、微妙にたよっているところがある。愛情のうちに、母が娘に対するのとは異ったたよりがある。それに馴れていらっしゃるから、私のようにそういう便利なく生活するに馴れているものから見ると甘えるように、男でなくては、と云っていらっしゃる。だから二人ともいないときっとどんなにかお淋しいでしょう。娘二人いなくなったのとはちがってお淋しいでしょう。娘であって見れば力にしろ人間としての質量にしろ、母さんが優るとも劣りはなさらないのですから。
女だって、男の子を家庭で見るように大まかに見て育てればすこしはましになるのにね。女は女で、こせつくようにと女がするのだから可笑しい。着物や何か誰のために何のためにそうしなければならないのか一向意味が判らないのに、あれではいけない、これではいけない。うちなんかそういう点では普通よりいく分ましなのでしょうが、どうもびっくりする。他は推して知るべしです。
それでも今度は一ヵ月以上いたので、外出したと云えば野原徳山虹ヶ浜だけでお墓へちょいちょい位ですが、どこの家がどのお婆さんの家ということなどすこしは分って面白うございます。ここでは私もお客からやっと家の者らしくなり、台処へでも何でも勝手に歩きまわれるし、ものの在りどころもすこし見当がついたし塩の売りかたをも判ったし、雑巾がけもやるし、居心地よく楽になりました。
今下で兼重さんが来ている。野原のおばさんも来て、克子さんが大阪でお嫁にゆくことになり(汽車会社の設計につとめている技手か何か)その結納の百円がいるので、明晩私が大阪で二時間ほど途中下車し克子さんにわたしてやるために、相談をしていらっしゃる。山崎の小父さんも昨日は珍しく虹ヶ浜へ一緒にいらして愉快そうでした。峯雄さんが出征し、進さんというのが額の真中に玉が入っていて出せないらしい。頭が折々気分わるいという位だそうですが、妙な工合に骨をくぼませてでも入りこんでいると見え手術が危険のため全快出来ぬらしい。左の指が二本やられて指はついているが曲らぬ由。一番末の息子は十九歳の由、のんべえの由。
岩本さん(新)というひとは右腕をやられ、これも腕はついているが、水平以上にあがらぬ由です。
私は明朝九時五十何分かにここを立ち七時に大阪へおりて十時にのりつぎ、十四日朝かえります。十五日にはお目にかかりに出ます。夏布団があげてないので気にかかって居る。白揚社のカタログ十二年七月のをこちらへ送って来ているが、本年のはないらしい様子ですね。あすこで今ダーウィンの全集を出しはじめた。面白い仕事であると思います、訳さえよければ。ダーウィンとファブルとの感情的いきさつも小説的ですね、ダーウィンがゆとりのあるイギリスの医者の息子で、イギリス流の気質でああいう体系的傾向を示したのに対して、コルシカの中学の貧乏教師をやったファブルが、フランス南方人のガンコさで反撥して、一生反撥していたところ、興味がある。文章をファブルがああいう擬人法で書いたのにもダーウィンの文章への明言された反撥がある。だが、今日第三者の目から見た場合、科学的な著作或は科学者の文章としてやはりダーウィンが上であります。いつか書いたかしら、ダーウィンという人は文章がいつの間にか牛の涎(よだれ)になってダラダラダラダラのびてゆくうちに、文章のはじめと終りとが自分で判らなくなって大いに困却したと自分で書いているのが可笑しい。又、小切手(銀行の)を書くときの大騒ぎぶり、金槌や何か皆自分の仕事場においといて子供らにそれを貸すときの勿体(もったい)ぶり、いかにもイギリスの中流人気質です。日本人は宣教師がああなのかと思うが、宣教師でなくても十九世紀のイギリス人に共通なものなのだと可笑しい。このうち(島田)のあわてかた、物忘れ、非常な物見高さにしろやはり一つの特徴で、うるさくて腹が立ってその癖滑稽で可愛い。何と可笑しなものでしょう、こういう日常の暮しがそれだけで初めであり終りである生活というのは!ではこの騒々しい中からの手紙を終ります。ああ島田もすっかり私の故郷になりました。うるさくて、きらいで、だが思うとふき出すようなことが沢山出来た。では又 
七月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県徳山駅より(「徳山市毛利公邸桜の一部」の絵はがき)〕
十五日朝五時。今徳山駅でのりかえ六時十八分を待っているところ。売店があいたので一寸これをかきます。東海道が大雨で二日不通でしたからひどいこみようでした。東京駅では入場券を売らず、めいめい荷物をもって、ひどい押し合いでのります。十時にのれず、十時半に立って四時二十何分かにここよ。 
七月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
布団を受とりに参りますから又いつかのように、そちらに示すハガキをお出し下さい。そのハガキをもって受とれるように、どうぞ。   十五日 
七月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十六日第三十六信
久しぶりにテーブルに向ってこれを書き出します。南の方から涼しい夜風が入って来て、すこし雨っぽい。どこかでホホホホと高く笑っている女の声がする。よく響くその声を自分で意識していることがはっきりと感じられて、変に華やかそうで却って空虚な感じを与える。
さて、私はきょうまだ一種の揺れている心持です。あながち長い間汽車にゆすられて来たからではなく。パチンコのゴム紐をつよく遠くひっぱればひっぱるほど、ひどい勢ではね戻って来るでしょう?私の心持は、それに似た工合だったから。熱烈にとびかえり、ぴったりとよっても、まだその緊張の顫動(せんどう)はのこっているというわけなのです。顎のあたりや頬の横にひげのあるときは、これまでも二三度見ているのだけれども、そういう顔とその中に輝いている二つの眼は、しみついて迚も消えない。大事になすって下さい。本当に、本当に。凝っと横になっていらっしゃるような午後、暑い空気は単調に而もありあまる内容をもって重く流れるようでしょうが、その空気を徹して粒々となってその皮膚をとりかこみ撫で、尽きぬ物語をしているものがある。叫びさえもこもっている。呉々お元気に。
きのう一寸話の間で感じたのですが、島田の方が今日負債をもっていないという事実を、殆ど感じとして納得お出来になれない程のようですね。全くそれは無理ないかもしれません。あなたが物心おつきになってからはずっと激しい生活のつづきだったのですものね。この間島田からの手紙で書いたように、三十何年ぶりかなのだそうですもの。貴方にとって未知である条件が現在の島田の生活に生じている次第です。あの家の最悪の時期は一九三一年か二年、自動車を買う迄で、それからは二人の若い人たちが其々自分たちで車を使えることと、父上が御病気で、母さんが店を主としてやりくって手堅く内輪にやりつづけていらしたため、追々返済の時期に入り、昨年二月に大口の片が四年かかった揚句(交渉に)片づいてからは本年の四月を最後に全部かたがついたのだそうです。私たちの志もその役に些かは立ちましたそうです。今返すのは五十円ぐらいで折合うの一つだけだそうです。お父さんがそういう安心の裡で生涯をお終りになったということは、御当人のどんな安心であり又家のものの安心であるか、お母さんが、「おとうはんはフのええおひと」と仰云るわけがあるのです。ですからお母さんはお淋しいし生活も決して安心してはいられないながら、元から比べれば、これ程安気なことはなかったという現状でいらっしゃるのです。
店の肥料は田舎の経済事情の推移と、うちがかけとりの面倒さから貸をしないのとで本年などは、あの家はじまって以来の閑散さだそうです。トラックが毎日二つ一つは欠かさず仕事をしている。隆ちゃんが正月までやって、あとはお母さんのお手でやれる左官材料米塩タバコすこしの肥料という風にしていらっしゃれば、生活は少額の扶助料とともに、不安という程のことはおありなさいません。何とでもやって行くからこっちは心配しないでと仰云いますが、私たちの気持として何だかお母さんお一人放ってはおけないから多賀ちゃんの給料¥15だけもつことにしたわけです。あなたはですから本当にそう可訝(けげん)そうになさらないでよいのです。貴方を安心させるために私がそんなことについて実際とちがう、よい面だけをとり立てていうようなことはあり得ないのですから。
今度は納得ゆきましたろうか。私が十五年も開成山に行かないでいるので庭から山々の宏大な眺望の代りに、放送局の塔を眺めることになると云われてもフウムと感服するが、どうも実感として来ない。きっとそうなのですね。世間一般の時期も過去の六七年間は、今日では不可能のことを可能ならせていたのです。
私は、あなたがどうもそんなことがあるかしらといいたげな表情をなさるので、はっきり納得して、その点では安心して頂きたいと思います。あちらの経済生活はあなたの配慮を求めずにやってゆけます。お母さんのお気持も、世間並の修辞をぬきにして申せば、やはりそうです。折々貴方の表現にしたがえば時候のかわり目にいろいろお思いになり、ごたごたとなって平凡らしい綿々が生じたとしても。
毎日はあちらに現実あるものの上で経って行っているのです。そのことでも、申すまでもなく御安心下さい。私たちが弟を二人もっていたということは、偶然のうちの最も幸福の一つです。お母さんが今日安心していらっしゃる程度を、私は貴方に感じさせてあげたいと思います。今日から明日の問題をとりあげれば、それは無いことではなくて、無いのが有るようになったことから生じるのです。すべて。これも又微妙です。
こうやって書いていて蚊やりをつけていないのに気になるほどの蚊がいない。今年は蚊の尠い夏でしょうか、この間の大雨で流されてしまって減ったのでしょうか。
この間の大雨の被害四億の由。東海道阪神の被害のひどさは汽車から見て実におどろきました。舞子のところ住吉のところなど、線路のところへ山が岩と松とをのせて流れ出したようで砂土の丘が出来ている。
六甲の麓(ふもと)の金持の別荘地帯は、八畳じきぐらいの岩がたたまり落ちて家屋を埋め、地盤はその上から新しくかためなおさねばならぬ。
布引のダムに山から流れた木や岩がつまってそれがあふれ(布引貯水池が決潰した水)大惨害となったのだそうです。六甲を植林せず、ゴルフリンクや何々ガーデンと土一升金一升にやったばちの由。急行は最徐行で通り、復旧の困難さがよく分りました。ひろい範囲ですし、仕事が人の手でやるしかない種類なので。
浴衣あれを着ていらっしゃるうちに白い絣と薄いものとをのりをつけてお送りします、隆ちゃんは浴衣にのりのついたのが嫌いだそうです。貴方は召しましたね。その方がさっぱりするから。夏のかけもの月曜にお送りします、ボタンたっぷりつけました。どうかおなかを呉々大事に願います。去年から見ると然し何という好成績でしょう!では又近々に又 
七月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十三日第三十七信
やっと盛夏らしい空気と日光になりました。暑くてもカラリとして風があると爽快です。三四日前のむしあつかったこと、まるでジェラチンの膜の中に入っているように苦しかった。机の向きをかえて、エハガキに描かれているのとは正反対の方の窓に机を向けました。梧桐の繁った梢が窓の前にさし出ていて、薄い緑色のレースのカーテンが風に帆のようにふくらみます。
そちらは、いかがでしょう。暑さはこたえるでしょうね。おなかはどんな調子でしょうか。
昨年のことを思えば、今年はたすかりますけれども、なかなか気がかりです。どうか呉々もお大切に。食事の前に、薄い食塩水で、口をよくゆすぐ(うがいをする)という仕事をずっとやっていらっしゃいますか?この間、そちらからの本を見ていたら、そういうことが、腸の注意の条にありました。よんでいらっしゃることは必定ですが不図、忘れていらっしゃりはしまいかという気がした。特に大してわるくないときには。もし実行していらっしゃれば何よりですが、念のために。
こちらは、ひどく疲れが出たというのでもないが、暑いなかを用事で歩く日がつづいて、ヤレと落着こうとしたら、二十日の夜十時頃から、うちの栄さんが俄におなかが痛いと、うなって苦しみはじめ、その夜は二時頃まで医者さわぎをしました。何でもない暑気当りですが、日頃体が丈夫でないので、心配した。ずっと臥たきりで、きょうやっと床の上におきている。昨日、Sさんという、おなじみのもと慶応の看護婦をしていた人が偶然遊びに来て、すこし泊って行って呉れることになったので、大助り。寿江子も引きつづいてこっちにいて、この数日は、片方に病人、片っぽに半病人で、私もフーとなっていましたが、きょうはましです。
オリンピックも中止と決定しましたね。文展をやるとか、やらぬとか、云っていて、又これは、いかなる情勢の下においても開催すると、文部大臣の決定が語られています。加納のお爺さんがオリンピックを日本でひらくために、外国へ行って、かえりの船の中で病死し年や何か、父を思い出させるので(気分も)、新聞の写真を冷淡に眺めることは出来なかった。そのオリンピックが中止になったか、フムやむを得ぬ、とお爺さんは一寸唇の隅を引き下げていることでしょう。オリムピック準備で、三年間の契約で来ていたドイツ人など、つまり失業ね。紡績女工のみならんや、です。
八月号の『改造』に、文芸春秋の芥川賞をとった火野葦平が、三百枚ばかり、戦地の日記「麦と兵隊」をよせています。これから読むところ。楽しみと一種の情愛を感じます。林や尾崎さんのルポルタージュとは、おのずから異った期待を与える。『中央公論』は、やはり従軍している上田広の作品をのせています(きょうの広告)こちらは、支那娘と支那軍閥を描いた小説らしい。尾崎士郎まがいの線とうねりで、「糞尿譚」をかいた作者が、上官の推薦文とともに日記を発表していて、『新文学』によっていた上田広氏が、どんな仕上げで小説をかいているか、なかなか興味がある。作者それぞれがもっている、微妙な条件と心理に迄ふれての面白さがあります。暇があるから書いたのではなくて、いつ死ぬかもしれないと思ってこまかに書いているところ、なかなか人間の生活と文学との、深い、深いきずなを思わせます。読んだら感想をおきかせしましょう。日露戦争のときには田山花袋や国木田が記者として行き、鴎外には陣中の長詩や何かがあり、一方藤村が、『破戒』の自費出版のために一家離散させた。三十年後、文学の領域はひろがっている。同時に、一家離散的面も複雑になって来ている。全体ひっくるめて、文学の収穫は豊富となり、増大しているのです。文学の全線ののびていることは、逆に中間のたるみのひどさをもおのずからひき出しているわけです。自分の力でうごかず、うごかされる部分が。この、線のたるんだ部分に、しゃがんで首をうごかして空の雲の走る方向を見上げている夥(おびただ)しい作家がいる、それさえも文学の大局から見て決して無駄ではないというべきでしょう。
そちらからの本の中に、『直哉全集』の第一巻があったので、初めていくつかの短篇をよみました。「菜の花と小娘」など、ある美しさ、人間らしいつや、明瞭さをもっているし、作者が、よく女の子ののびのびとして弾力あるしなやかさを、理解していることがわかる。だが、この完成の境地は、全く高踏的で謂わば陶器的な美観ですね。過されている青年期というものも、今日の青年はどんな気持でよむでしょう!
犬が鳴いて、「ミヤモトサン、ミヤモトサン」と呼ぶ声がした。(午後二時)寿江子が、「ハイ」と云って行って電報をもって来た。電報?何だろう、あけて見て、「キンシカイジョ(自注7)」とよみ、凝っと紫インクでタイプされたその一行と名前とを見ていると、あなたの声と身ぶりとで、「さあ、おいで」と云われている心持になりました。きょうは土曜日なのが、何と残念でしょう。御苦労様、本当に御苦労さま。あしかけ五年ぶりです。このほんの短い一行にこめられている内容を考え、電報を書いていらっしゃるときの気持を考え、さっぱりした浴衣でも、うしろから着せかけて上げたいようです。よく電報をくだすったことね、ありがとう。では、この手紙も普通に近く着くことになりましたわね。はじまりの方は、半月ばかりかかるものとして書いていたのだが。
月曜日には出かけます、ここからは池袋へ出てバスで、全体二十五分ぐらいでゆけるから。今日何か一寸してあげることは出来ないかしら。仕方がないから、色鉛筆の花をさしあげます。では月曜ね

(自注7)「キンシカイジョ」――一九三四年十二月未決におくられてから四年めに、接見禁止、書信の禁止が解除された。予審終結の結果である。顕治は事実を公開の公判廷で陳述することを主張して白紙のまま予審終結をした。 
七月二十六日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十六日第三十八信
やっぱり手紙を書かないわけにはゆかない。猶書かずにはいられないようなところもありますね。ブロッターにつかうために細く截った吸取紙をこの紙の上にのせています。ブロッティッングペイパアも元のようなのはそこいらの文房具店にない様です。
いねちゃんの「くれない」という小説が中公から本になりますが、この表紙も注文通りの紙があるかないか判りませんからと、きのう話していました。小さい印刷やに紙がわたりません。鉛の字母が一本一厘だったのが八厘です。どしどし潰れている。本は益〃大切なものとなって行くわけですが。――
きょう、私が出かけようとして腰を上げかけている徳さんと話していると、隣りの大家さんから電話ですと云って来た。Sさん(看護婦であったひと)が出ると、それをかけてよこしたのは寿江子で、十五分ばかり前に出かけたのにくっついて犬が駅の前へ行ったら犬狩りにつかまってしまった、おまわりさんにたのんで命乞いをしたから連れに来てくれという由。うちの小道のつき当りに一軒家があります。そこは実にちょくちょく代って、この一年半の間にも三四人代った、その一軒が引越しのとき一匹犬をすてて行った、小さい犬ではない雄で白いところに黒いブチがあって、よく吼(ほ)えるが一向吼える意味がはっきりしないという頓狂ものです。食物をやってマア人が通ると吼えるだけいいと笑っていたところ、ちゃんと飼っていないので頸輪も札もない。それが出かけるたんびに前になり後になりして走ってついて来る。ワンワ、今につかまるよ、などと云っていてつかまったわけです。殺されるか飼うかと二つに一つとなって飼わざるを得ない。明日警察へ届けましょう、だが年もわからず名もない。ワンワと呼ぶだけ。時には犬さんお前は少し足りないよなど云っていたのだから、Sさんに名は何てしましょうねと云うと、これ又ワンワでいいじゃありませんかという始末です。
Sさんが来ていて呉れるのは二十日から栄さんが体をわるくして(胃腸)床についている。偶然来て泊って手伝っていてくれるのです。皆暑気当りの気味ですね。いね公もやったし大きい栄さんもちょいちょい熱を出す。それには原因があって、繁治さんがこの半月ばかり前から勤めになりました。大河内の科学主義工業の調査の方です。80円。京橋へ通う。朝八時ですから六時頃おきる。妻君はそれですこし参るらしい様子です。泉子さんは赤ちゃんが出来たのと呼吸器の障害とで新協が東宝で今度やる「火山灰地」には出演不能。泉子さんを休ませる会がいろんなひとの骨折りで出来そうです。芝居の方のひとの肉体的労働というものは実に大きい。安英さんの体を見たってびっくりする。どうして持つだろうかと。すこし休んで丈夫な子を生まねばなりません。これから子供を育てるのは元のひどさと又ちがう。謂わばわれわれの貧乏が貧乏としてしかうつらないようなぐるりの有様だから。子供をしゃんと育てて行くにむずかしいわけです。スフ時代の子供ですからね。豈(あに)おべべのみならんや。
重治さんもずっと通っているらしい様子です。てっちゃんはお祖父さんが明治のごく初め、浦塩へ役人として行ったその時代の日記を整理して一部八月の『中央公論』に発表しました。このお祖父さんというのが千葉の佐倉の堀田の何かひっぱりがあり、脱藩した形式で塾をひらいていて、西周だの西村の祖父だのが何か習ったらしい。西村の家は堀田ですから。いつかその話が出て、フームというようなわけでした。そう云えば、このお祖父さん(西村)の『日本道徳論』というのが昨年であったか岩波文庫として出ました。お気づきでしたろうか?面白いものね。
おひさは今夏蚕が三眠からおきたところで田舎で大働きをやっている様子です。早くかえって来たいと云っているが。
うちのことは島田からの手紙で書いたようにまだはっきりきめられません。けれども島田へ四十日近く行っていた経験で、私がそちらにつれて動くことが多くなれば家を一軒もっていることは全く無意味です。林町の離れは、ぐるりがぐるりであり、又いろいろ大局的に、教育的に影響がよろしくない。たださえ私が金持という伝説が偏見とさえなって流布しているのですから。
生活の本質の成長というための努力は、時には一見まことに些細なような点でさえ相対的には大切なことがあります。うちのことなど単に便宜上だけのことでないから、いつぞやあなたも一寸仰云ったように、よく考えてきめたいと思います。親しいひとたちは今のような風に生活して行けないかしらと云うが。いっそのことそこの塀のそとへキャンプでも張ってしまいましょうか(!!)
島田の方へわざわざあの本(文芸百科辞典の)送って下さって本当にありがとうございました。送って下すったのが着いたとき私はもう立ってしまっていて、フセンがついてこちらへ届きました。ざっと読んだことがある。けれども又読みかえそうという気になりました。しんから歴史をとらえた大きい感情、深い湧き出ずるものをもった文学をこの頃は渇き欲します。実に欲する。稀薄な空気の中で酸素が欲しいように欲しい。金子しげりというような女史たちが、男のズボンの折りかえしが無駄でありというような決議をする世相。「島崎藤村」「菊池寛」(小島政二郎)というような題で小説が出る流行。文学の歴史も、作家そのものが文学思潮的に稚くて、わからず知らなかった時代(例えば明治初期)と、作家の努力が作品と現実が引き込む必然からどうよけようかという点に払われる時代とは大変な相異ですね。
今夜は栄さんもすこしましだし。大して暑くないし、久しぶりで夜机に向っていい心持です。島田のつかれが抜けないうちごたついていたから。
本のリストはもう一度しらべてお送りいたしますが、いつか一度は、まとめてお送りしたことがあったと覚えて居りますが、どうだったかしら。これと一緒にハガキを書いてアグネスの本注文して見ます。ドイツ語のはあるが、私には駄目。だが、この頃はフランス語とドイツ語少々よめないとつまりません。すこし読みなれたら私流によめるのではないかとも思います。イルマさん(是也の細君)ならいい先生だろうが豪徳寺ではね。鶴さん外語のドイツ語の夏期講習に通っています、感心です。除村さんは親切にやると露語をうけている人が云っていた。これから火野氏の「麦と兵隊」をよむ。ではまた。あした雨でないと布団をもってゆくのだけれども。寝冷えをなさらないようにね 
八月四日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月四日第三十九信
昨夜から書きかけていた手紙があったのだが、それはやめてしまって別にはじめます。きょうのことは、本当にわるうございました。いろいろとさぞおいやだろうとすみません。ユリは、もとよりあなたの体のことは実に実に思っているのだけれども、又一方ではそれよりほかのこともわかっているつもりです。だから、時によっては、その心痛をどんなに努力してもちこたえるかということは、この一年半の経験でよくわかって頂いていると思います。体のことについて世俗的な女房風なはからいをやろうというようなこせついた魂胆はなく、単純にかんちがい納得ちがいをしたのです。そして、自分でそう合点したので却っていやに手とり早いようなことをやって、やっぱり女房並にアンポンであるようで本当に辛い。あなたとして仰云るとおり勘弁するもしないもないとしか云いようがないでしょうが。きょうはかえりに悄気てかえった。悄気て風の吹く原っぱのところをかえって来た。今も悄気がぬけない。あした顔を見たらぬけるかしら。あしたもしあなたのいやさも増していたらと閉口した心持です。ちゃんとあなたのなさる通りにと思ってわざわざ訊いて頓馬をするなんて何て頓馬でしょう。ここではこまかく申しませんが、自分の心に対して辛辣な気持をもちます。頓馬をされてあとであやまられるなどということは馬鹿らしいことであり、下らなく腹立たしいが、どうか堪えて下さい。用事についての話しかた、私としての念の押しかたの呼吸、要点が痛切にわかりましたから、これからは決してそういう混乱はいたしません。残念でたまらないところがある。
――○――
本のリストらしいものを同封します。これについても大して威張れない工合ですが。
大判の大学ノートに線をひいて、日づけ、書名、状態をかきこむようにしました。そして差入の紙や何か入れてある大箱へはり紙と一緒に入れておいて、すっかりちゃんとやります。注文の部、こちらから入れた部、かえって来た部(購求のものもそのときしるしをして)と三つに分けて書いたら、其々わかりやすいでしょう。これからはその帖面をもち出します。
――○――
いろいろとお喋りしたかったのだけれども、今夜はそんな元気がないから、又。
屋外燈管制が今夕からはじまって、電車は、ものの読めない暗さで走っているそうです。竜頭蛇尾ということには謂わば芸術的に云ってさえ美がない。だから全く全く恐れ入って小さくなっている。
一九三七年五月十四日づけ*購求
読了のもの『ゲエテとトルストイ』『大地』『外遊断想』
注文『日本統計図表』『近世日本農村経済史論』丸善目録
スタンダール・独歩(*ともに不許)
六月五日づけ
購求読了*『戦略・戦術論』*『エッケルマンとの対話』*『絵のない絵本』*『蒙古』*『軍縮読本』*『ロシア語四週間』
差入『文芸年鑑』『プーシュキン全集』
六月十六日(巣鴨へ引越しての第一信)
ドウデンの『図解字典』(中野から)
七月二十七日づけ
原博士『肺病予防療養教則―かくの如く養生すべし』不如丘『療養三百六十五日』新潮『結核征服』長崎書店『療養夜話―胃腸病の新療法』
八月十六日づけ
○この手紙に本のことはなかった ○この間に手紙なし
十月四日づけ
南江堂『結核及びその療法』読了 『ダイヤモンド』九月一日(注文)
十一月二日づけ
ユリの古い本読了(『貧しき人々の群』『一つの芽生』等) 『秋風帖』
十一月十八日づけ
『日本風俗画大成』二冊(了)
購求「フランス通信」「東西雑記帳」
十一月二十五日づけ
購求『その後に来るもの』『支那は生存し得るか』
十一月三十日づけ
「朝日」「毎日」年鑑購求
十二月二日づけ
『二葉亭全集』目録差入 ピリンガム『支那論』購求
一九三八年の分
『真実一路』(すみ、かえる)
*『科学的精神と数学』(林町へ) *『生活の探求』
差入すみ 国勢図会―地図 / ロシア語の本
注文。但品切れ、今はいいとのこと。本庄『日本社会経済史』土屋『近世日本農村経済史論』
以上のほか手帳から注文の書きぬき
『岩波六法全書』(差入ズミ) 牧野『日本刑法』上下(差入ズミ) 『監獄法概論』(差入ズミ、不許、宅下げ) 『日本経済統計図表』三巻の中の一冊(品切れ) 三笠書房『発達史日本講座』内容見本(出版中絶につきとりやめ) 『大尉の娘』(プーシュキン原文)スミ 中央公論社『支那経済と社会』(ウィットフォーゲル上巻)(売切れ、古心がけた) 学芸社『支那農業経済論』(スミ、かえり) The Marchtoward the Unity 品切れ、注文した。 『東洋歴史地図』(八月三日発送) 『牧野英一記念論文集』中鈴木義男氏論文ケイサイの分。(しらべ中) 『敗走千里』(八月五日送) 送品目録*は購求 *『支那事変実記』 『神々は渇く』(不許) *『山谿に生くる人々』 『リカアドウ』 *『冬物語』 Red star over China 不許 *『批評精神』 *『フランス、イスパニア読本』 『二葉亭四迷全集』第六巻迄 『三井王国』 『一般哲学史』 『古代日本人の世界観』 『内科的緊急処置』 『虫様突起内科的治療』 『療養新道』 『家庭療養全書』 『胃腸病の新療法』その他医療に関するもの 『デヴィッドの生立』 時局関係のもの数冊(『支那は生存し得るか』その他) 『聖女ジョウン』 『戦争』 『経済学及び課税の原理』 『支那経済地理概論』 『アメリカ読本』 『日本文学評論』二冊 *志賀直哉第一 『雪国』 *『緑の館』 『中條精一郎』 『母の肖像』 『フランクリン自伝』 *『シェクスピアその世界観と芸術』 *『リアリズム』 『出版年鑑』 『蒙古』 『軍縮読本』 『絵のない絵本』 
八月六日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第四十信私が誤って納めた金(自注8)について、貴方の意志でなかったという点を表明して頂きたいと思います。土台私が払うべきものではなかったのでしたからお手数ですが、どうぞ。
裁判ノ執行ニ対スル異議
被告人宮本顕治
右者兵役法違反被告事件ニ付
昭和年月日(ここへ地方で判決の云いわたしのあった年と月。日はなくてもよい)
御庁ニ於テ罰金弐拾円ニ処スル旨ノ言渡ヲ相受ケ候処昭和十三年八月四日東京刑事地方裁判所検事局ヨリ被告人妻ユリニ対シ右罰金ノ納付方請求有之、妻ユリハ誤ッテ之ヲ納付シタル次第ニ有之候(領収証書番号第一〇五九号)従ッテ右罰金ハ被告人ニ於テ納付シタルモノニ無之候間右執行ノ御取消相成度此段異議申立候也
昭和年月日
東京拘置所在監
右宮本顕治
東京刑事地方裁判所 御中
こういう手紙をすみませんがお出しになって下さい。事後でも貴方のお払いになったものではないのだから、被告人としてやっぱり手紙をお出しになる立場がおありの由です。私が頓馬で面倒なことをおさせして本当にすみません。
とりいそぎ、要点だけ。

(自注8)誤って納めた金――一九三五年ごろから係争中であった兵役法違反事件が一方的に決定して、百合子に罰金二十円を支払うよう通達してきた。 
八月八日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第四十一信三四日やせるような思いをして夜も余り眠れないような気持だったので、きょうはかえるとパンをたべて夕刻まですっかり眠りこんでしまった。
良人というものは妻の愚かさによっても良人としての自分を痛感させられる場合がある。一生のうちに何度かあるものなのでしょうか。親の愚かさよりつれ合いのおろかさは何倍かしのぎにくい。そう思って辛かった。それでも貴方がそうやって平らかにうけて下すったから本当に有難く思います。あなたのいやさをこちらからまざまざと察してその原因が自分であることを承認しなければならないというのはどんなに苦しいでしょう。こういう心持は貴方はきっと一度も御存じないでしょうね。私はこういう経験に際してはギリギリのところ迄自分を追いつめて見るから汗と一緒にひとりでに涙が流れました。
今年の夏は私たちの暮しには珍しい夏ですね。毎日でなくていいと仰云るけれども私は八月中は毎日行こうかと思って居ります。あなたの風入れになるばかりでなく、毎日きまった距離をきまった時間に歩くのが或は私の体にもいいのではないかという気がして居るから。その上、少くとも私には大変にくつろぎになり、たっぷりさになり、生活のめのつんだ成長の感じで、この一月からの緊張したものが健康にほぐされてゆく工合です。毎日会えるようになって私は自分が肩を楽にしているのにびっくりしました。ああやっぱりこんなに体をかたくしていたのかと思いました。十八九の頃からともかく自分の書くもので生活して来た人間が、その道をとざされたということは決して容易なことではない。神経にもつよく影響します。私は神経衰弱にならぬときめているから、それにはかからないが、知らず知らずの間に不自然な緊張があって、自分の勉強的仕事をやってゆくにも、おのずからたのしむ風のゆとりが欠けて極めて微妙な焦立ちが底に流れていた。書いていながら不図それを感じ、二重にいやでした。(島田へゆく前)思索のたのしさ、対象により深く深くとはいり込んでゆくたのしさで、体をふりながらわきめもふらず進んでゆくようなところがなく、何だか息が短くて癪(しゃく)にさわっていた。心ひそかにこういう神経の過程はどんな工合に踰(こ)えてゆかれるのかと思っていた。
そしたら、この頃そういうごく微妙な部分でらくになって、いくらか均衡をとり戻した自覚があります。だからこの調子で八月は暑さも暑いし、すこしゆったり顔を眺め、物干にほされるあなたの着物をたたんだりして滋養を摂(と)ろうという気になりました。それでいいでしょう?お互にそういう意味での養生を致しましょう。ともどもということも具体的で、貴方の白絣の袖がついここにあるような感じは大変に大変に気の休まりになります。たまだと、何だか大きい声を出して、力を入れて、私は丸っこいから精一杯爪先に力を入れて、のり出して物を云うようだけれども、この頃はふだんのようで、あなたも私もふだんで、この何でもないようでたまって来る滴々が生活にもたらす味いは又特別です。首をかしげそれを味い、体中に膏油のように手のひらまでまんべんなくのばしてゆくようなところがあります。この膏(あぶら)がもっとよく沁みこんだら、私はきっと何かこれまでとちがった豊かな元気をとり戻すだろうという予感がします。既に新しい細胞が微かな活力でうごいていることを感じます。妻として作家として今の事情から日々新しいものをすこしずつではあるが本質的に吸いとっているようです。それに、たまだったときには、その次の時までの私の生活の全内容というものを最も中心的なものに総括して、その印象を貴方につたえるしか方法がなかったから、私が自身の弛緩(しかん)を警戒する敏感さ、あなたの知ることの出来ない部分にゴミをつけまいとする心くばりは、随分神経質でした。同じことであっても、きのうからきょう、きょうから明日へと流れつづくと、その流れは自然で、その心くばりにおいても一緒の感じでくつろげる。
これらのいろいろの感じは皆新しい。こういう感じが来ようと知らなかったし格別それを期待していなかった。知らなかったわけです。
私たちが生活するようになってから、私は屡〃(しばしば)新しい歓びとおどろきにうたれてそれを百花繚乱という表現やそのほかの表現で二人の間にもって来たが、例えば今こうやって書いている私の心を流れているものは、何と云ったらよいでしょう。
これは小川かしら。きれいな水のたっぷりある、草の葉をそよがせて流れる川の音のような工合ね。息がしやすいような空気がここにはある。静かにその音をきいていると、時の経つのを忘れ飽きることがない。ああ、だがこれは決してただ単調に流れているのではない。一寸、こっちへ手を出して。ね、あすこにあんな燦(かがや)きがあるでしょう。そして、あの色は何といり組んだ光りをもって次第に高まって来るでしょう。益〃美しさと勁さとを増して高まって来る音響の裡に私たちは包みこまれ、そして、こういう感覚の中で、あなたは去年の苦しかった夏、私にあてて肉体の衰弱が強くなると逆に日常的便宜性に関しない大きな平安の心持が強く起きて来るのは面白い経験だったと書いて下すったのでしょう。(本の整理のために去年の手紙をよみかえし十月から十一月へとユリの旧作をよみ返して下すった非常に深い心持の意味を更につよく感じ、この前の手紙にもそれを書きたかったのでした。けれども、一方であんなへまをして迚(とて)もその勇気がなかった。紙がなくなってしまった。小さい字で。小さい字を書いて感じる。ずっとそばでこの位の声でものを云いたいと、非常に非常に。 
八月十日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十日第四十二信
お手紙ありがとう。今朝拝見しました。そして、読んで或おどろきを感じ、それから様々の感想を刺戟されました。私はこんな立腹の調子の微塵も感じられぬ手紙、最も深い親切だけが漲って感じられる手紙を期待しては居ませんでした。あんなことを云っていらしたから少くとも、もっと所謂こわいものを覚悟していた。十分それにふさわしいのであるから。
一通り読み、更に読みかえし、私はこの手紙の中に云われていることが、全く根本的なものにふれ又機微にふれている大切なことであるのをわかるばかりでなく、それを云っているあなたの態度から二重に感じるもの、教えられるものが非常に深い。
この間、本の整理のために去年の間にいただいたいくつかの手紙をよみかえしたときにも、私は何か自分が感情的になってせまくとりつめたような気持で受けたことも、あなたの側からは、ひろい生活的見透しに立って云われている場合であったことを再び発見して居りました。例えば去年の初めここへ家をもった前後のことなど。
きょうお手紙を読んで、私は貴方が元より天性にある資質であるが、その規模というか大きさというかを一層深め拡げていらっしゃることを痛感しました。弱点をそのままうのみにして許す寛大さと云われるようなものでない寛大さについて、私はこれまでも一度ならず身にしみて感じて来ています。それでも、この手紙には、何とも云えぬこせつかなさ、不動な正当さ、いつ読んでも、読む人間が人間としての成長を願っている者なら、尽きぬ教訓となるものが、単に言葉としてではなく、独特の温さの感銘を伴って湛えられている。私がこの感動を特にとり立てて云うのは、貴方の内にこのようにして豊富にされつつある或る力が、日常のどのようなところから蓄積されて来ているかということを考えずには居られず、それに思い到ることで、云われていることが益〃その真の価値で心にはいって来るためです。
相手を傷つけず、しかもその最も急所にふれての忠言を与え得るというのは、或る人間的達成の水準以上にあって初めて可能です。私などはこの点だけ見ても実にまだまだです。客観的な正当さと、自分が怒ったり毒汁を吐いたりする権利とをごっちゃにしたりする。
私はこの前の手紙で書いたように、本当に自分の腕にかぶりついているようなところのある気持でこの手紙をひらき、そして読むのだから、ここから射し出す明るさとあったかさとに何とも云えない気がする。
人間と人間との間に「純粋」な感情交渉があり得るなどということは全く仰云るとおり無いことです。だからこそ、価値あるものの価値と本質とを守ることが不可欠になる。愛情にしろ、最も複雑な、固有な、調和と共感と努力とが統一されているからこそ、かけ換えというもののない献身の諧調に達する。お手紙の中のその数行は、愛情について云っても、謂わば現実的相貌にふれてのこととして、意味ふかく、私の捕えられる一番複雑な内容において拝見した次第です。
私たちの生活の成長ということについて考えます。いつしか段々といくつかの段階を経て、私たちの生活も、今はよく云い現すことは出来ないが、ただ仲よいとか、睦じいとかという程度の時代を過ぎましたね。自分の生活は独特だからとこの間仰云った、私の生涯もその独特さと結びついてやはり独特なものとなって来ている。縫い合わされて、その糸はこちらに出て来、この糸はそちらに出ていて、分けられない。例えば自分の弱点についても、先は、貴方に対して恥しかったり、残念だったり、極りわるかったりした。貴方にそれにふれて云われるとき、向い合って座らされるような気になった。
段々、今はそうでなくなっている。私の弱点さえも、私があなたから離れることのないものであるごとく貴方にくっついているものだと感じている。それについてすまないと思う。どんなに手荒に貴方が療治をしようとも、貴方の一部なのだから、一生懸命に手をかし、率先して最大の努力をつくす気持です。こういう云い表しかたは不十分なのだけれども、いくらかわかって下さるでしょう?
私は貴方のBetterHalfになるということは恐らく決してないだろうが、然し仮令Weakerhalfであるにしろ、その向上と発展とのために現実に生涯が賭されているのであってみれば、私たちは少くとも腐って動かない部分をもっているのでないことだけはたしかです。「雑沓」について書いていらっしゃること、思わず笑ってしまった。あれはね、まさか私だってそれを云った人だって「カッコつき」の大傑作と思っては居りません。貴方に読んで頂けないものについて、私はいくらかでも知らせたいと思う、すこしはましということを知らせたいと思う。それで、その意味で、そういう表現で云われた言葉もつたえるわけ。達成だなんかと思っているものですか。この手紙全体の終りに近く云われていれば、細かく反覆しないでもよいと思って、これだけにします。私が日々行くことは、初めはよく分らなかったねうちをもたらしますから、私は一つの丸い吸収玉(アブゾービングボール)(そんなのあるかないかしらないが)となって行きます。深いお礼の心とよろこびとをもって。 
八月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第四十三信二百十日でも近づいたような風の吹きかただこと。栄さん宛に送っていらした手紙の本のリストもすっかり帳面にかきこんで、そちらでお買いになったものをぬいて、みると注文は凡そ
一九三五年(十年度)一八〇冊内一七〇読了。
一九三六年(十一年度)七〇冊のうち五〇冊返送。別に医療に関するもの十冊位送る。
一九三七年(十二年度)主として医療のもの一〇冊位。
一九三八年(十三年度)この年から購求が主となったので、御注文は大体古本でさがす分となりこれは凡そ一〇冊位です。
三六・七年とも雑誌はずっと見ていらしたから、それを一年に三〇―四〇冊として数えると次のようです。
一九三五―一九三七年末迄凡そ三〇〇位読了。
一九三五―一九三七年末迄注文凡そ三三〇冊位。
このほか、そちらで折々購求してお読みになった単行本を入れると、凡そ三五〇―四〇〇冊となるのではないでしょうか。一九三五年は一ヵ月凡そ十四五冊以上読まれて居ります。この密度は永年つづくものではなく、つづいたらば必ず烈しい神経衰弱になったでしょう。私の経験で、読めて読めてしかたがない、又読みたくて読みたくてしかたがなく、御飯の間も手ばなしたくないようで、ハハーンと我から肯(うなず)き、読書のスピードをおとすことと、一ヵ月に冊数をへらすことに努力した覚えがあります。そういう風に抑制して一日を、日本経済史・漱石全集、一寸したものと三つに区切って、三日四日目に大体入れ替えをするような調子でした。
どうかことしもあまり読書はつめてなさらないで下さい。読みすぎは実にわるいから。呉々おねがいいたします。今年から来年にかけてもう一息丈夫になって下さらねばなりません。読むことを制御できたその力で恢復していらしたのだから。本当に大切です。この分は本のしらべだけ。参考におなりになるかと思って咲枝宛のと栄さん宛のとの中からの抜き書を同封いたします。
日本人に近眼と乱視の多い理由を、日頃から文字のタテヨコの混乱が影響しているのではないかと思います。一日のうちにヨコをよみ(外国語)そしてタテをよむ。そういうのは果して害がないかしら。あなたは折角眼がよくっていらっしゃるから、わるくしたら惜しいと思います。中国の若者も眼鏡が殖(ふ)えているし、お会いして伺いますが、上海にいて魯迅全集の仕事をしていた内山完造の『支那漫語』(改造)、イギリスの一九三三年以後の文学批評の新しい潮流を代表するラルフフォックスの『小説と人々』TheNovel&ThePeopleおよみになる気がありますかしら。前者は手許にまだないが、後のならやっと着きましたが。では又別にいろいろと。
一九三五年十一月十六日(咲枝宛より抜書)
私の勉強の眼目は(一)現在についての具体的知識、(二)社会経済史、(三)新しい科学の三つの源泉である近代古典(スミス、リカアドオ、哲学のヘーゲル、フォイエルバッハ、ラ・メトリイ、残りではサン・シモン、オーエン等)(四)軍事科学、(五)文学、芸術、(六)語学ですが、この一年度は大体各部門の概括的展望を心がけ、不十分ながらある程度まで目標どおり進み得ました。大体総数一七〇位で、内(一)及び(二)が五〇(三)一五(四)七(五)五〇その他歴史伝記が二〇雑誌五〇位です。
十一月二十二日(壺井栄あてより抜萃)
今年の十二月で読書の第二年度に入るので次年度の予定の大要を書いておきます〔中略〕
(一)相変らず統計類を利用しながら日本産業、日本農業、法制等(法学全集等もつかいましょう)
(二)『明治維新史』および以後の軍事、憲政、経済史『明治文化全集』朝日の明治大正史等も利用しましょう。
(三)(イ)価値論を中心としてスミス、リカアド、(ロ)ヘーゲルをやってフォイエルバッハおよびフランス唯物論、(ハ)十七世紀以後の啓蒙思想家。
(四)ナポレオン以後の戦争史、クラウゼウィッツの再読、陸軍省の操典等、地図と対照してやります。
(五)文学、芸術では読み落してある近代的古典をやりましょう。
〔中略〕時間の振りあいの度合いを仮に比率で表せば、(一)(二)が四、(三)が三、(四)が二、(五)が一の割合です。 
八月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書速達)〕
八月十九日第四十三信
きのうは、出てから池袋の駅でプラットフォームを間違えて、長いこと来ない方向の電車を待っていました。やっと気がついて別の方へ行って有楽町まで行って、用をすまして伊東屋であなたからの手紙を整理するためのスクラップを買って雨の降る人ごみの中を歩いていたら、ずーっと思いつめていたいろいろの考えの波の間から、段々にわかるよ、わかるんだよ、と笑って云っていらした貴方のいかにも確信のゆるがない顔や声や眼と、自分が赤くのぼせて貴方から視線を引きはがすことが出来ない気持、もっともっと云いたいことで喉がつまったような気分でふくれて立っていた様子とが対比的に浮んで来て、独特のユーモアを感じ、思わず胸の中を一抹の微笑が流れた。そしたら大変気分がひらけて来てすこし楽になった。
昨夜は小さい蚊帳の外からさす電燈の灯を眺めながら、五時頃まで目がさめていました。さっき坂井さんがそちらに行くとよって呉れたところです。栄さんの(うちの)兄が入営が早くなり十月頃なのでいろいろ相談と云って出かけ、家じゅうに私一人。貴方に向って坐っている私一人。
きのう、私の云いたいことが後にどっさりのこされたようになったにはいくつかの原因があると思います。
根本的にあなたの示された点はわかっているつもりです。私のルーズな点と云われることについても私は弁解しようとは思いません。自分があらゆる点で統一された張りで生活したいと希望しているとき、その及ばない点がある場合、何故それがそうあるかと究明する必要はあっても、貴方に向ってああこうと説明するには及ばないことですから。
私が俄に頬っぺたがカッとしたようなのは、(一)ユリにもそういう性格が云々ということ、(二)あちらの一家族という方へユリの在り場所を力点づけてあなたが仰云った点、(三)ユリがいろいろ考えているからだが、もしそれがなければ云々。これらのことが私の心の中へ工合よくおさまらなかったわけでした。特に第二のことが。
広い意味での環境として、ああいう家庭生活があるということ。而もユリの近くにあるということ、それは事実です。私がある時期そのうちに育ったこと、今日も或面での接触があるのだから、常にそれを客観的な見とおしで洞察し、まきこまれず、積極的な歴史性として作用してゆくだけの努力が当然要求されているというのも全くのことであると思います。そういうところで私が厳しさを欠いているということ、つまりそれが自分の生活感情のうちにあるルーズさとして、あなたが云われることも、私は自分の生活の成長のため、昨今は他から殆ど一滴もない養液として、ありがたく頂きます。
元より、ユリのそういうやわな面とあちらの生活のありようとの間には、連関がないことはない。ひろく、微妙な意味で。然しながら、その点を見きわめ、又とり出して見ることで、ユリというものをあの程度に、あっちの方へ力点づけた在りようで云われることは、当っていたでしょうか。
書きはじめて、これはユリのこの十年の成果として文学史的価値を与えようと決心している長篇小説は、複雑な内容をもっていて、一口には云えませんが、ある一家族の歴史的推移を扱う場面の最も骨格をなすテーマは、父親である男がその人間的美質や技能にかかわらず、自分の属す社会の故に、極めて卑俗な生活面を持ったことを発見して、次代の者である娘が、父への愛、悲しさ、残念さの故に一層より合理的なものへの献身に進んでゆくことが、一つの歴史の性格として把えられています、そのほかいくつかの愛と呼ばれていて愛でない人間関係の究明とともに。
丁度二月の初めのひどい雪の日、霏々(ひひ)と降る雪を小さく高い窓に眺めながら、激しい疲労ですこし気が遠くなったようになって横になりながら云いつくされぬ感慨で、そのことを考えた。
ユリ子がああいう心持でああいう生活をしているのに(貴方との面です)、俺には云えないと云って詩を私にのこして亡くなった。私たちの生活そのものが、偽善的な意味でなしに、その人の人間らしい面にふれて、その良心の護(まも)りとなったということ、そういう地位や年齢に厚かましくなり切れなかった心を、私は二様の点から忘られないわけです。
我々の生活の意味の大切さ、与えるところの無形の深さを、重い責任とともに痛感しました。(このことはこれまで一度も書きませんでしたね)技術家並に経営者としての錯綜した社会性についていつかあなたも書いていらしたその通りです。だから、この上なく愛しながら一緒に生活出来なかった。
今の人は、時代の性質に応じて、質はずっと低下して居り、形式上現代の徳義を破らなければ安心していられる。或生活面のテクニックでは先行者の技術を学びとっているわけですから。
人間が真面目に成長を努力すれば、条件としてその過去の在りようを十分にはっきりさせなければならない。その場合、主観的に語られる方と客観的に評価される方とあり、例えば私が最初の小説を書く頃から、自分の環境的なものに疑いをもっていたこと、追々一方の社会的経済的生活が膨大になるにつれて、そのギャップが甚しくなり、自分は一生懸命にその中から健全な新しい要素として生育しようとして来たという主観的な自覚は、それだけで肯定され得るものではない。客観的な達成から見られて、その主観的なものも評価されなければなりません。
客観的に不十分であり、怠慢があると云われることを、決して私はこわがってもいず、又あくせくして陳弁これつとめようともしない。けれども、客観的に在るところまでは、その線をはっきり自他ともに確保した上で、更により高い進展のために一層努力されるわけでしょう。こう書けば、そんなことはわかっているよとお笑いになるかもしれず、又、それがなければ土台出ない話だとユリの頓馬ぶりをお感じになるかもしれないと思う。けれども、お前もその一族という風に焦点をおいて云われると私は辛い。堪えがたいようなところがあるのです。
いつかよっぽど前の手紙に、ユリは毎年どこかへ行って暮したのだろうから云々とあったとき、生活の細部というものはわかり難いものだと思ったことがありました。私は二十歳位から折々家族と暮したが、何年も一緒に暮したことはなかった。この三・四年ぐらいちょいちょいすこし長く暮したことはなかった。
今度のことで、私がルーズな結果になったのは、親密さの余りというより、見きっていたところがあった。あっちの生活、自分の生活、その間に本当の血脈は通っていない、それをつよくつよく感じていたために、或意味での不親切があり、それが、自分の生活感情に或点での究明追求の放棄となって作用していたと思います。ルーズさを十分認めるとして、私にはそういうように思われている。近似性や類は友を呼ぶ風なものであったとはどうしても思われない。迂(う)かつであったということには私の敬して近づけられていない或点からもある。(よいことではないが)
月曜日にお会いして話が出たとき、私はいろいろを尤もと思い、念を押して、仰云ることはすぐやることにしているが、この次までには結果はもって来られないからと云ったとき貴方はゆとりをもって、「ああそれはそうだよ、考え甲斐のあることだからよく考えてやるといい」と云って下すった。
二日の後に、そのつづきの気持で行って、あなたの方の気持のテンポと呼吸が揃わなかった上、何か私をもひきくるめて感じていやな心持らしいようでもあり、私としては云いつくせないことがどっさりのこった感じだった次第です。
あちらの家へ行くことは月に二度ぐらいです、大体。狭い言葉のつかいかたでごくそばの日常的接触としての環境というような風に云われて、ぴったりしないということもおわかりでしょう?
私はあなたに、私と家族との間にある心持の実際のありようと、私が客観的にルーズとなった内部の事情とをわかって頂きたいと思います。隆ちゃんやお母さんの御生活に、暖い近さを感じている反面には、そういう質的な不一致が一方に感じられているからでもあるのです。
私が只いろいろ考えているからというだけで或一貫性を生じ得るのではないと思う。頭だけの問題では決してない。最も複雑微妙な生活的蓄積の上での決定的な選択と評価とが心と体とを貫き流れているからこそ、好きという一言に、全生活の歴史の方向がかかっているのだと信じます。性格としては同じだが考えがあるからなどというような根の浅いものではない。考えなら或は変るかもしれないではないでしょうか。それは体質的近似があるように心理的な多くの共通性をも与えているだろうから、一般的に似たところがないとは云えません。それを警戒しなければならないということもわかる。けれども、似ているからぐずぐずになっているのでは絶対にありません。
今度その解決にとりかかっている問題は、私という人間の鍛煉のためにも多く役立つことですから、いい加減にせず、具体的に、あの子にも人間生活の正しさをわからせられるようにやりたいと思います。不毛の土地であるという先入観をすてて誠意をもって当って見ます。
どうかこの手紙をよく読んで、私がしつこく云っている点が、私の生活の感情のうちでどれ程生々しく大切に思われているかということをうけとって下さい。そして、その点について納得が行ったら笑いながらでもいいからわかったよという返事を下さい。或一定の土台以上の標準からと知っていても私のような妻としては、やはりわかったわかったと云って欲しいこともあるものです。この感情は貴方に向ってこそ全幅に求め披瀝してよいものだと信じます。では又、 
八月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一九三五年八月十日栄さん宛
※『ゴオゴリ全集』(第二巻まで入れていずれも不許) ※大観堂円本目録 古典社の『古本年鑑』 ※一誠堂目録 ※『大思想全集』カタログ 『ヘーゲル伝』 『ヘーゲル哲学解説』(岩波)
一九三五年九月十四日栄宛
『自然科学史』
一九三五年十一月九日栄さん宛
※北隆館月報 ※図書月報 ※春陽堂月報 ※春秋社月報 鉄塔書院 白水社月報 ※白揚社月報 『日本経済統計図表』(有沢) 『世界経済統計図表』 ※『日本憲政史』尾佐竹猛 『経済学史』高橋 ※?『経済学史』小泉信三 『ヘーゲル哲学体系』ローゼンクランツ 『ヘーゲル哲学解説』白揚社 『クーノーフィッシャー』白揚社 『ヘーゲル哲学概論』岩波 『ヘーゲル哲学解説』クローナー 『小論理学』 『精神現象論』岩波 ※『大論理学』 『大独日辞典』登張 ※竹越『日本経済史』十一、十二、十。
一九三五年十二月七日栄さん宛
※『日本国勢図会』十年版 ※『リカアドウ』 『ヘーゲル伝』 『日本財政論』大内 「日本財政論」阿部 『日本戦時経済論』 『トラストカルテルシンジケート』 ※『流通論』上下福田 『非常時国民全集』中陸軍篇海軍篇海外発展篇 『帝国憲法講義』佐藤丑次郎 『憲法総論』山崎又次郎 ※『帝国憲法逐条講義』上杉 ※『日本刑法』改訂版牧野 『刑法概論』島田 『刑法基礎理論』島田 『国際外交録』中央公論 ※『日本外交秘録』 ※『わが七十年を語る』林権助 『世界経済問題研究』 ※『日本資本主義発達史』(講座・不許) 早稲田『国民の日本史』中「幕末史」「維新史」 『経済学史の史的研究』渡辺 『価値学説史』第一巻「正統派経済学」波多野 『リカアドの価値論及び其の批判史』堀 『英国経済学史論』ロッシャー 『英国経済学史』プライス 『地代思想史』高畠 ハイム『「ヘーゲル」と其の時代』 改造社『経済学全集』中「欧州経済学史」「各国経済学史」 スタンダール『ナポレオン』 ※『孫子』桜井忠温 『軍事科学講座』文芸春秋社
栄さん宛の手紙からは以上全部で凡そ七十冊、チェックした分だけは送ったもので、僅か二十六冊ほどです。そのうち不許が講座を一冊として三。
――○――
市ヶ谷からの第一信から昨年一杯までの注文された本の総数は大体二百十。そのうち送られた分は凡そ百二十冊ばかりです。
――○――
これは本の調べについてだけの分。手紙は別に。 
八月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十二日月曜の夜第四十四信
光子さんが三ヵ月に亙る岩手と北海道の絵の旅からかえって来て、きのうから泊っています。今風呂に入っている。私は二階。
雨がひどく一しきり降ってやんで虫の声がしている。そこのまわりの腰ぐらいの高さある草むらの中でどんなにこういう虫の声がしているかしら。虫の声はそこへも聴えているかしら。眼をあいて横になっていらっしゃる耳にきこえているだろうかしら。
きょうは、まるで電話が途中で切れて、もうつながらないままボックスを出て来るような気持でしたね。こういうのは、又こういうのでいかにも困る。私としてこう云いたかったのだとか、或は、貴方のおっしゃる意味はこうだったのだという、考えて分ること、考えて筋の立つこと、そういうことが話しのこされたのとは又異います。何という独特な舌ざわりでしょう!
私たちの話は細かいところまでふれつつ、その細部を穿(うが)って大きいものに触れている方法なので、金や本や衣類の用向きの形はとらないから、日常必須の用件とうつらないのでしょう。
ああいう話しは、私たちにとって欠かされないものだけれども、どうしても一定の時間がいります。単な言葉数でない時間がいります。同じ土台、同じ線の中で話していることは勿論わかっているのだけれども、互の気持がぴったりするところまでゆかないうちに中絶されて、どこかくいちがった感覚でのこされる。これは私にとって感覚的に大変苦しい。そちらもそうでしょう?あれも、これもわかっている、けれども……。そこで切れる。これは謂わば健康によくない状態です。考えてわかることでのこった話は、のこった影響がこんなに体じゅう苦しいようではない。わからせようという、一つの楽しみのようなものが含まれます。気分でくいちがう、或はぴったりしきらないのは迚も其那楽なものではない。あした顔を見てこの気持がほぐされるまで持ち越し、云って見れば、そのサスペンスの永さで実に苦しい。私にはこういう苦しさは肉体的に来て、殆ど堪え難うございます。
一言に云って、私たちは新しい事情にまだよく馴れず、その条件をつかいこなしていないと云えるのではないでしょうか。
急にあれもこれもとたたまり、一つのテーマについて、そのテーマの展開法では数倍の時間が必要な話しかたを、不可能な短時間のうちにしようとしているのではないでしょうか。この話しかたの内奥には、頻繁に会い、話せるために一層細部までを結び合わそうとする互の意識しない自然な烈しい慾求が働いていて、逆にそのとき毎にのこした部分を生じ、のこされた部分は一種の苦しさ焦慮めいたものになってたまって来る。客観的には時間の不足が原因であるのに、気分の満たされないものが、何か互の気持の内に存(あ)るように感じられたりするのではないでしょうか。
私は余り苦しいから、しきりに考えます。私たちの間で話されていることについてのお互の根本的な理解で、齟齬(そご)しているところは無いと信じます。仮令それが私自身のいろいろな到らない点にふれていることであったとしても。それはわかっているのだとしか思えません。分ってはいるのだが、あの場処でああいう長篇的展開をはじめると、その過程でどっちかが一人で進んでいるような瞬間、時間的に中断され、苦しいことになるのではないでしょうか。
毎日でも会えるということの中には、斯様なものがいかにも潜んでいます。
貴方はどんなにお感じでしょう。恐らく私より大してましなことはあるまいと思われます。いつも真直に幅ひろい視線で私の上に注がれている眼を、その暖かさは失わず、然し或微かな身ぶりと共にお伏せになる表情を、私は平気で見ていられません。かえっても、その表情と身ぶりとが私につきます。いそがしい交通機関の波の間に、いろんな用向や人との応対や笑いの間にさえ、その身ぶりは私の心をひっぱりつづける。
視線が合えば、互の切りくちがすっかり合ったよろこび。そのよろこびでどんな苦しさも凌げて来ました。その確信には無限の力がある。そしてそれも感覚として来るものだから、きょうのように電話が切れた感じは、やはり感覚として全面の訴えをもつのです。小さい言葉の端々、電話の切れるすぐ前にきこえた言葉の一つ一つにこだわることは、貴方にもすまないことであるから(そこで止る意志ではなかったのだから)私も、それに執さない修業を致します。大局から、我々の把(つか)んでいるところから見とおして私の最善の善意と努力で噛みこなして滋養にしましょう。けれども、これからずっと、可能な時間と私共の話しかたとの関係は同じような条件でつづくわけですから、何か話しかたの一工夫をしてはどうでしょう。そのことで私のこういう苦しい輾転反側が解決される部分もあるのではないでしょうか。こういう状態が続くと私は、自分が病気になるだろうと思う。そんな苦しさですもの。しまいには涙がこぼれて来る。そんな苦しさを続けていることは決してよくありません。
私は思うに、やっぱり深くこまかく而して大きいことは、ああいうときに話しきれず、手紙に書き、又書いて頂くしかないのではないかと考えられます。会うときはその材料の上に立って大体の結論にふれて話し、そこで生じた次のテーマは、それとして又書いてつくしてゆくという風に。システマティックにやらなければ不便でつかれるのではないでしょうか。私はいくじないことかもしれないが、あなたを見て聴く言葉は悉(ことごと)く熱く、つめたく、あたたかく、流れ、或は刺さり、鼓舞され、又軽く肩をたたいて、どうだいと云われるものとして、生(なま)で、全感覚で受けます。だから、妙に中絶してはやり切れない。
話しかたと時間との関係であるのが大部分だとお思いになったら、どうか一工夫しましょう。
さもなくて、私に対する貴方の意に満たなさから湧いているものの諸変化、ニュアンスであるとしたなら、貴方にもそんなに感覚的な居心地わるさを与えた自分の受けるものとして、私は自分の苦しさを云いたてることは出来ないと思います。私たちは、私たちの生活における神経の生理によく通暁して、例えば私がここでこの苦しい頭を一つおまじないさえして貰えたらと思っている。そういうものの裏がえった神経の作用にあやつられないようにしなければならないとも思います。きょうはこの間からの事について書くわけだったのですが、電話の切られかたが余り苦しかったから、ほかのことが書けない。それでこの手紙となった次第です。
きょうは、いろいろをぬきにしてすこし工合がおわるそうでしたが、いかがですか?あなたの横になっていらっしゃる布団の傍に坐って、永く永く何といろいろのことを話したいでしょう!何とあなたの笑顔を見たいでしょう!何と「ユリばかばか」と云われたいでしょう!これは私の飢渇です。 
八月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十四日第四十五信
きょうは心も軽く鼻歌まじりに栄さんを督励して本箱を置換えたりベッドを直したりして、又元のエハガキのような位置におちつきました。この間うちから落付いて勉強したくなっていてそれにもかかわらずいろいろまとまらなかったが、きょうからは楽になったところがあって、そろそろはじめます。当分引越さないときまったからには、地震のとき二階の廊下が本棚の重みで抜け落ちたりするといけないから、本棚を二つ重ね(あの重ね本棚の小さい方)下の四畳半において材木屋へ行ってモミの五分板二枚一・七〇也買って来て、ベッドに入れました。「乳房」という小説の書けたときこのピアレスのベッドは買ったもので、年数でいえば、詩を書く友達が亡くなったときだからまる三年ぐらいですが、スプリングがすこし弱って来て、背骨によくないといけないので板を並べてスプリングをあてにしないことにしたわけです。追々暑さもなくなるから又この机とベッドとをよく使って勉強しましょう。
私たちの生活にあっては、勉強・仕事なしでは感情そのものの重量さえもちこたえ難いということを最近痛感しました。苦しいことがあると益〃仕事に身をうち込むということを、よく伝記や何かで割合あっさりと書く習慣があるが、人間が苦しいとき愈〃自分の仕事の価値を知り、それに深く結びつくのは、その人間がそれまでの過去において、既に相当までその道での苦労を重ねているということですね。苦しいとき自分を救うものとして自分の仕事を自覚し得るということ、救うに足るだけの技術、方向をつかんでいるということ、このことはなかなか大した生活の蓄積であると、おのずから感服するところがあります。
お話の本のリストの追加分を同封いたします。封緘の紙質がわるくなってインクがしみて書きにくがっていらっしゃいますが、この紙にしろわるくなりました。これは伊東屋の昔からあるDAWNというので同じ三十五銭でずっとよかった。原稿紙は二年ほど前三十八銭(100枚)が四十五銭にあがり(昨年)只今は六十銭で、しかも品切れ。このペン先は三倍近くなりました。では又、手紙はゆっくり別に。あなたも昨夜はどこか軽々した気持でいらしたでしょう?
一九三四年十二月百合子宛第一信から注文
※『世界国勢年鑑』 ※『世界地図』 ※『満鮮』 ※『我等若し戦わば』 ※『我等の陸海軍』 『明治維新研究』 ※『蹇蹇録』 ※スミス『国富論』 ※リカード『経済学原理』 ?『地代論』 ※『近代民主政治』 ※『将来の哲学の根本問題』 ※『史的に見たる宇宙観の変遷』 ※ランゲ『唯物論史』 『ヘーゲル哲学解釈』 ?『種の起原』 ※ブランデス『十九世紀文学主潮史』 ※『世界文学講座総論編』英・独・仏・露 ※ジイド『ドストエフスキー論』 ※テイヌ『文学史の方法』 ※『従兄ポンス』 ※『従妹ベット』 ※『知られざる傑作』 ?『二都物語』 『カラマゾフ兄弟』 『罪と罰』 ※ゴーゴリの『外套』 ?『検察官』 ?『ハイネ全集』 『ウイルヘルム・テル』 ※独歩(不許) ※藤村 ※漱石 ※有三の『波』 ※広津和郎 ※野上 ※『国定忠治』 ※『日本合戦譚』 大仏『由井正雪』 白柳の『西園寺公望伝』 ※『海舟夜話』 ※『野口英世』 『新版義士銘々伝』 ※『チャールス・ダーウィン』 ※『科学者と詩人』 ※『ゲーテとの対話』 ※『この人を見よ』 『プルターク英雄伝』 ※『ミル自伝』
――○――
一九三五年五月九日迄の百合宛の分より
『帝国農業年鑑』 『日本農業年報』 『我国近世の農村問題』 ※『経済年鑑』 『世界経済年鑑』 ※『近世日本農村経済史論』 ※『日本資本主義発達史講座』(不許) ※『世界経済図表』 『日本経済図表』 ※『日本憲政史』 ?『近世外交史』 『政治思想史』 『現代独裁政治論』 ※『法窓漫筆』 『法窓雑話』 ※『法窓夜話』(不許) 『裁判異譚』 ※『世界大戦後のヨーロッパ』 『爆弾上のヨーロッパ』 ※『世界大戦原因の研究』 ※『石油問題』 ※『列強対満工作史』 ?『日本社会経済史』 『景気論』 『日本独占産業物語』 ※『日本開化小史』 ※『日本工業史』 ※『日本商業史』 『経済学史の基礎概念』 『労働価値説の擁護』 『芸術経済論』(ラスキン) 『その後のものにも』 ※『日本外交秘録』 ※『リットン報告書』(不許) ※プーシュキン『スペードの女王』『吹雪』 ※宇野『文学の眺望』 ※谷川『文学の展望』 『ツシマ』 ※『ソーニャ・コヴァレフスカヤ』 ?『広辞林』 『漢和字典』 ※『英和』 ※?『和英』 『世界経済年報』ヴァルガ ※『日本経済批判』ヴァルガ ※『日本経済年報』第二輯 ※『軍備増税・公債』 ダニロフ『軍備と国民経済』 『世界経済年報』 ?『帝国主義論』 ※『風車小屋だより』 ※デヴィッド ※『日本陸軍史』 『明治文化全集』中 ※「自由民権篇」
百合、五月十日頃より留守。咲枝、栄宛につづく。
一九三六年五月―十二月百合子宛
※東京堂月報一ヵ年予約のこと ※堀『リカアドウ』 ※『わが七十年を語る』 ※『猟人日記』 ※『散文詩』 ※『栄養食と治病食』 ※『内科読本』 ※『国民保健読本』 
一九三七年百合宛
『プーシュキン全集』 ※丸善目録 ?『日本統計図表』 ※スタンダール『赤と黒』(不許) ※『ダイヤモンド』九月一日号 ※太陽燈療法に関する本 ※『盲腸炎の内科的処置』 ※ユリの古い作品 ※『胃腸病の新療法』 ※『結核及その療法』 ※『文芸年鑑』(一九三四・六・七) ※『出版年鑑』
一九三八年(×はさがし中)
※新版『岩波六法全書』 ※牧野『日本刑法』上下 ※『監獄法概論』(不許) ※『大尉の娘』(原文) ×ウイットフォーゲル『支那の経済と社会』 ×『支那農業経済論』 ×The Marchtoward the Unity. ※『東洋歴史地図』 鈴木氏論文(牧野記念)ナシ ×『文芸年鑑』三五年度 スノウの『ファーイースタン・フロント』 アグネス・スメドレイの話 ストロングSoviet constitution ※『英語研究』九月号 ※『支那事変実記』十二輯 ※『戦争と二人の婦人』 ×『法制上の女子』 ×『法律に於ける女子の権利と義務』 大体以上のようです。 
八月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十八日第四十七信
いろいろのことを書きましたが、もうすこし文学についてのお喋りがしたい。
賀川豊彦の作品に似た作品というあなたの批評を、この間鶴さんに話したら「フームそうか俺の狙いも相当だね」という意味を云って居ました。谷川さんは『朝日』で、説得力のある文学だとか、教養のための文学だとか云っていて、私はニヤニヤを禁じ得なかった。谷川さんの悧口さと識見の不安定さで、何だかどうもと腑(ふ)に落ちないながら、現在目前でチヤホヤされているものをそのチヤホヤのよって来るところ、並作品の現実にふれて両面から科学的に明かにしてゆく力がないから、処世的なカンを働かして、説得力のつよさなどと云うところをとりあげ、賞める声に追随しつつ、それとは心付かれぬように芸術性の問題はさけて行っている。その点を誰かがとりあげても自身の所説は対象となり得ぬように。昨今の批評精神の典型です。岡本かの子の作品その態度に対しても、谷川という人は、もうそろそろそこらへ評価が落付いた、というときになって初めて、安心したように、それを認めかねると表現する。面白い見ものです。『文芸』か何かの人物評に、「三木清は誰でも知っているように決して正面から人の顔を見て物を云うことをしない。きっと顔をそむけて云う。又阿部知二はのぼりかけた山を、これはいけないと見ると未練なくサッサと中途から引きかえして来る。行動主義文学のときもそうであり常にそうである。現代はこういう横向き型、中途引かえし型が適者なのである」と云って、「それは人間としていいことだというのとはおのずから別である」、云々と。
「探求」の作者も亦大なる横向きなので、私はそれをよんで、大笑しました。
『改造』八月に、火野葦平の「麦と兵隊」という長い報告文学日記がのりました。報道班で働いている人です、「糞尿譚」で芥川賞をとった人です。
新日本文化の会宛にその原稿が送られて来て、そこには『改造』関係のものがいるので(中山省三郎だともいう話)すぐ『改造』がのせた。『中公』であわてているのを知って情報部か何かにつとめ日本青年外交協会という(原勝が主になっている)ところで働いているのがそれならと上田広の「鮑慶郷」という小説を世話をしてのせた。
「麦と兵隊」はあくどいこしらえもののあとに出たものですから、それだけで人を引きつける本当さを買わせます。いろいろの現象の、とりあげられている範囲の現象は誇張なく熱心にこまかく記されています。所謂現地報告が昨秋の流行となって、さまざまのいい加減なものを見せた。石川達三は腕達者なところを一つ揮(ふる)って看板絵のような小説をつくったらしいが、これは発禁となり、目下編集責任者・作者・名儀人が法律問題にかかっている。久米正雄のような人は、こういう時勢になると却って石川達三のような人がたのもしくなって来る、というような時代ですが、そういう所謂玄人の通俗作家的な歎息はともかく、一般の人はやはりこしらえものは好かぬ、小説の代用品は好かぬ。スフ小説は求めていません。但現実から、どのようにとり出して来ている局面が、その範囲でうそでなく書かれているかということにまでふれて行く読書力ということはおのずから別です。
上田さんは、兵火の間にも文学を手ばなさず、いつ死ぬかもしれないからこそ小説をかくという気分で「鮑慶郷」を書いている。その気組みは本気さで人を真面目にします。しかし、文学と生活との関係で考えたとき、その場でそのときその人しか書けぬものを書かず、題材的に描写的にごくありふれたものを、そして生活から或意味で遊離したものを、その必死のなかで書くということは、文学というものの理解の点で重大な疑念を生じさせます。小説にまとめるだけが第一の文学的価値でない。更につき進んで、どういう心理的経過によって、ルポルタージュをかくべき『新文学』によっていた人が、そういう、生(なま)でない、一寸そらした文学とのとり組みかたをしているかと考えると、複雑なものが在る。火野という人は一昨日軍の命によって、報道班のチャンピオンとして上海から放送しました。
二十二人の作家が来るべき漢口陥落記録のために出発する由です。内務省情報部や何かのあっせんだそうです。女の人では吉屋、林が加ります。菊池寛から片岡、武田麟太郎、瀧井孝作も釣竿を片づけて出かける由。
私は書きかけていた文学的覚書をつづけます。一月にゲラになってそのままある百二十枚ばかりのと合わせてこの二・三年間の文学の鳥瞰図が出来ます。この位まとめると、さらに改良すべき点、勉強を深めるべき点が一層はっきり眺め渡せて有益です。私そのものを、じかに読んでいる貴方というこわく、かけがえなき読者のために、私は最善の努力をつくしますよ。では又。 
九月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月三日夜(土)第四十八信
嵐のあとがまだすっかり直らなくて、街燈がついていない。そこここの板塀が倒れたまま。樹木もかしいだままです。そこへ何日ぶりかの月が澄んだ空に出ている。葉っぱを、すっかり嵐に揉(も)みちぎられて、古いはたきのような形になった桐の梢の上に星が大きく光っている。
疲れた、あらされた地べたの上に、一片の月は輝いて、涼しい風も吹いているけれども、きょうの夕刊では、目下南洋から本ものの颱風(たいふう)が上って来ていて、五日の夜までには、この間の疑似よりもっとこわいのがやって来ると云っています。何という荒っぽい天候でしょう。この間の夜中、グラグラゆれる二階にいて、もう十分だのに。林町では土蔵の白壁が皆おちたり、裏の何間もあるトタン塀が倒れたり散々の由。板塀も竹垣も一間十円ばかり(五倍以上)。トタン板を門の屋根にふくのにも許可が入用。荒れ後の始末も一通りのことにはゆきません。この間うちの狭い風呂場の、三尺に四尺ほどのスノコを新しくしたら金四円也。流しのトタンのこわれを張りかえたら二円也。
――○――
さて、九月一日づけのお手紙をありがとう。この間、お目にかかったとき改まった心持で特にお礼を云ったように、この八月一ヵ月は、実に一重二重のねうちをもって、私のためには有益でした。段々の話のうちに、貴方が去年の正月ごろのことを細かにお訊(き)きになった意味もわかり、周囲の生活的雰囲気と自分との関係の客観的なありようというものもわかり、貴方がそのことを、私に注目させようとしていらっしゃること、そのほかそれぞれにフムフムとわかっていたのだが、この間の土曜日の経験へ私の首ねっこをつらまえて面を向けさせて下すったことは、実に実に感謝に堪えません。
あの二時間ほどの時間は、云いつくせない内容で私の皮をひんむいた。単に処置の問題でない影響を与えられました。その苦しさと憎悪とが、きびしく自分のこれまでの態度というものを顧る方向に向けられた。謂わば、何の気もなしいつの間にか張り出していた庇(ひさし)がふっとんで、俄に万事が一目で見渡せる明るみに出たと云った工合です。
貴方がおっしゃることがわかったと思っていた去年の正月あたりの事も、この情態で一層くっきりと、人間交渉の丸彫りの姿、小説にかけるだけの生々しさで(現実性で)再び浮んで来て、頭で、そういうことになると、わかったという領域から、今更ながらそれが見えていやだという感情にまで進みました。
この庇のふっとんだ感じは、私の生涯にとって、真に大切なことであったと思う。こういう、身にこたえた教訓、思い知らされた思いは、これまでに一度あります、或る春。愛情というものの確的な質と行為の本質を見失うと、死んでも死に切れぬ目に会うということを知らされた経験。これは生涯の教訓となっている。私の一生にとっては一夜のうちに死し、而して辛うじて甦ったような経験でした。質は違うが、今度私が感じた庇のふっとんだ感じは、今の段階の私にとって、やはりこれからの何年間、或は全将来への警告となったものです。
あなたは、いい気になることの危さとしてそれを云っていらっしゃる。いい気になっている、と云われたとしたら、きっと私は熱心に、いや、そうだとは思われない、どうしてそういい気になんかなっていられるか、と云うに違いない。(これまで何通かの手紙は、きっと貴方に、八分は腹に入るが、二分がどうもひっかかっている感じであったろうと思います。二分のひっかかりが、ここのことです)いい気になっていると云われて、成程ね、とそれが肯ける程、謂わば簡単明瞭な自惚れや、いい気になり得る諸条件があるなら、却ってその害悪も浅いようなものでしょう。生活の諸条件は、主観的にも客観的にも我ながらいいようなところはない。自分の気で精一杯努力しているつもりでいる。それで、一度頓悟して見れば、ふっとぶ庇があったというのは、どういうことでしょうか。私はその点をこの間うちからずっとずっと考えつづけた。そして、もしこの点に鼻をこすりつけるようにされる機会がなかったらどうだったろうと考えて、甚しい恐怖を感じた次第です。私は一応、世間の目やすで見て(文学上も)仕事の質量・日常生活、指をささせぬ生活で張りとおして来ている。努力をおしまない、という自覚がある。決してひっこまないぞという自覚がある。漱石流にこの心理を図解すると、つまり遠心的傾向こういう工合だったと思う。そういうものの一形態として内省も行われ得ます。ここから、私の云う庇というか、張り出しがいつの間にかついて来ると或は来たと思う。その張り出しの性質として、張り出しの尖端での感覚は緊張している。だが、張り出しの下に何を巣食わせているかということに周密な眼くばりがない。対外的な接触面での押しの自覚がつよいから。
貴方はいつか、私の日常生活に、どこか押し切っていないところがあるのじゃないかと、文学上の仕事に連関して云って下すったことがあります。覚えていらっしゃるでしょうか。
私は当時それを当時の心理なりに解釈して、よく会得されなかった。今は、この云われている押しというものは性質上、内向的なものであり、沈潜力の意味、自分の見きわめ方のギリギリ加減ということとしてわかり、そうすると、貴方の直感が健全なものにふれていることが、わかります。
正直に心持を云って、私は自分がただ一人の女、作家というばかりではないということを常に心におき、全く心を傾け力一杯やって来た。それが客観的に一般にうけ入れられ、正当に評価されるようになったことはよろこばしく、又社会生活の当然であるが、その間に、いつか一方では庇も出来ていたというわけになります。或性格の美点とか長所というものが、或関係の下ではマイナスの面をも示し、作用する一例であると思う。勿論、自分のお人よしを甘く買っているような、欠点としか云いようのないものも加っているのであるが。
初めはいやでギューと首をつかまえられたような工合で面を向けたことを、観るうちに、感じるうちに、凡そ一年の自分の恰好(かっこう)がまざまざと浮んで来て、思わずも呻る有様であった。
この発見では、私は貴方がこれまで書いて下すったどの言葉よりも、劬(いたわ)りなく自分を見て居ります。愛の手とその力の現れかたというものについても、真面目に感じます。
今度のことで私は四つの心をそのむき出しの姿で目撃したのであって、自身をも全くつき放して見ることが出来ました。
私は、自分たちの生活の形というものを、今あるよりほかの形で描くというようなことはしたことがなかった。これが必然なら最上に活かそうとだけ思って来た。今もそれに変りはないが、今度の経験で、自分がいつも貴方と一緒に日常を暮せたら、もうすこしはましになったろう、いつともしれず、庇なんかつかず、つよいきれいな力で洗われていただろうと思い、無限の思いに打たれました。いろんな、目にもとまらぬような細かい事々、気持、貴方というものを心の本尊にして外に対して護っている心持、そんなことからさえ、或意味では庇が育つ。それと全く反対の日々夜々を考えると、貴方が忠言者と仰云る、そういうことさえ気づかず、おのずから流れるように或ものが自分に浸透することを考えると、(ここで考えられる理想化もあって、)なかなかに堪えがたき心地ぞする次第です。日常的な打ち合わせ、そういう程度ではない。
生活の形態の問題でないこと、自分の芸術家としてのリアリズムの問題であること。いろいろわかる。そして、貴方が一応わかるが云々というように使っていらっしゃる微妙な表現――まだ一分、或は二分が、何か本質的に疎通しきっていないという感覚から出る表現の価値を、非常に感覚上の同感をもって理解するわけです。
この解毒剤のせいで、私は大変すーっとして本当の落付いた勇気に満ちて居るから、どうかおよろこび下さい。この手紙だって、そういう一種の雨あがりの明るい静かな爽やかさが漂っているだろうと思います。
これから私は毎日午後すこし早めにそちらへ行って、かえって来てゆっくり休んで、夜は孜々(しし)として勉強します。楽しい心持です。そういう心持で、きのう省線の定期(半年)を買いました。こんど見せて上げましょうね。
「傑作」云々のこと。あの作はあの作として傑作だがという程度で稲ちゃんが云ったことです。おべっかとしてだけ云う人もあった時期だからと思いついて一言。褒められるという恥辱が存在することは判って居ります。
この手紙は、決してあなたの心に、一応わかったがね、という味はのこさぬものと信じます。われわれの生活の深いよろこびと感謝とをもって。 
九月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十一日(日)第四十八信
きのう、目白で省線を下り、駅前の市場の中にある郵便局で早速中村善男(自注9)という名を電話帳で調べたが出ていない。恵風園という方でしらべたがやっぱり出ていない。では仕方がない、月曜慶応に行こう。そう思ってうちへかえって来ました。中野さんが来ると云っていたから、来ていまいかと急いだのだったが、来ない。茶の間でパンをたべ茶をのんで休んでいたが(二階のベッドで)段々じっとしていられない心持になった。自分がそんなに病気なのかしら――。どうも納得されない。一年でも二年でも会わず養生しなければならない。そんなことなんてあるもんか!そんな病気をしているなんて承知出来ない。病人の仲間入りをして、朝から晩まで病人ばっかりの中に生活するなんて、そんなことは我慢(がまん)出来ない。いやだ、いやだと声になって出るように、感情がせき上げました。
夕飯になっても中野さんが来ないので、すこし腹が立って(約束していたのだから)いるうち、あした日曜日でまる一日何だか分らない苦しい気持でいるのは下らない、安田さん(自注10)に診察して貰おうと思いついた。すぐ電話をかけたら、九時すぎにかえる由。出かけました。体の工合は、先にも診(み)て貰ったことがあるので、ホホウというわけ。だが、こんな景気のいい肺病は見たことありませんがね、まア拝見しましょう。すっかり細かに聴いて、叩(たた)いて、「何もきこえませんよ、肋膜もないし、きれいなもんですよ」念のためと云って、血圧を計りました。130。「ずっとあるかと思った」これも成績良好。次に動脈から血をとって赤沈(せきちん)をしらべ、別に何か注射して反応をしらべました。注射した薬は、もし体内に活動中の菌がいれば、二十四時間内に、ひどく膨(は)れて水腫(ば)れになる由(壺井さんのマアちゃんが、何かの試験で腕が膨れて痛くて動かせないと云っていたのは、このことでした。)赤沈(赤血球の沈澱(ちんでん)によって見る)は三〇。タイピストや事ム員の女のひとの夜の平均だそうです。医者の本では、日本の女の赤沈の平均は七―(カラ)十としてあるそうですが五十六十になると、必ず結核があり、二〇―三〇では只の疲労の由。注射の反応はありません。熱は、安田さんで計ったのが六度七分。けさ六度、ひる六度三分、夕刻七分。
全体くたびれが出ているだけだから、ゆっくり休んだらいいですよ、大丈夫とのことで、大変うれしかった。何でもないと判って、こんなにうれしいとは、これまで想像もつかなかった位です。注射の反応の程度は、都会生活をしている人の平均以下です。
御心配をかけてすみませんでしたが、どうぞ、この私のうれしさをたっぷりわけて下さい。そして、一年でも二年でもと云われて動顛した気持は私として忘られないお灸(きゅう)だから、今の生活事情を十分活かして、夜はおそくも十一時に就眠の家憲を立てて守る決心をしました。あなたはニヤニヤして、信用しないと仰云ったが、それは九時だとか十時だとか云えばウソをつくことにも実際上なるかもしれませんが、十一時なら、あなたに十分満足されないかもしれないが、うそはないところですから。
血圧の高くないこともうれしい。私は痼疾(こしつ)と云っても肝臓や盲腸で、手当や日頃の注意で癒って来ているものばかりであるし、本当に安田さんにゆく迄はいやな不安な気持でした。私の背中に音がすると云ったのは順天堂の横田さんという医博でしたが、どうしたのでしょうね。もしその当時感染していたのなら、その注射の反応がこんなに弱小ではない筈ですもの。休火山になっているにしろ。全くわからない。気管支が鳴っていたのかしら。さもなければ、おどかしたのかしら。
本当にうれしい。よろこんで、有難がって、せっせと早寝をして疲れをぬいてしまいます。
それから、これは万一の場合のために今からかたくお願いしておきますが、私がもしそういう病気になっても、どうぞサナトリアムに入れることだけは、かんべんして下さい。普通の病院は、いろんな種類の病人がいる。経過もまちまち。生死もまちまち。だが、サナトリアムというところは、或危急をもちこす必要でもあるのでない限り、同種の病人だけいて、而も一種の雰囲気をもっていて、迚もやり切れるものでない。精神的に快癒がおくれる。そう感じます。二三のところを見てのことですが。だから、どうぞお願いをしておきます。私はこれでも度胸を据えれば立派な病人になれる人間ですから、一律的なサナトリアム世界へは御免です。本当にそれを考えただけで、いくらだって早寝をし得ます。
叱られた子供のような滑稽な手紙ですが、私は本当にうれしい。よかったわねえ。安田さんは湯治にゆけというが、私は却ってこちらで早寝してキチンと食事して十分疲れをなおす自信があります。生活の日常にそういう癖をつけなければ何にもなりませんもの。では安心の御通知として

(自注9)中村善男――一九三八年の夏ころ微熱を出して、寝汗をかくようになった。夏だのに、どうしてこんなにヌルリとつめたい汗をかいて目がさめるのかと思っていたら、それが寝汗だということがわかった。顕治は面会のときその状態を知って、結核専門の中村善男氏の診察をうけ、きびしい療養をして、そのために一年や二年面会できなくなっても治療しなければならないと言った。
(自注10)安田さん――安田徳太郎医学博士。 
九月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十三日第四十九信
今かえって、お茶をのんで、二階に上って来たところ。この頃はおとなり(大家さん)で倒れた塀を直すためにずっと大工が入っていて、昼間はずっとカンナ、ノミ、丁(ちょう)ナの音が絶えません。何だかきのう大工が来て、寸法をはかって、玄関をはり出して三畳をつけ、そうすれば二階にもう一間出来るから住みよくなると云っていた由。どういうことなのかよく分らない。この頃貸家払底で家賃も上って来ているので、ここの大家さん、勘定だかく、家をすこし間数ふやして40か¥45とる魂丹かもしれず。こっちへ何と話をして来る気か、とそのときまで放っておくつもりです。家賃をこの位にしとうございますが、それでいらして下さればこれに越したことはない、もしお高すぎるなら御無人ですし云々、そんな口上を述べるつもりかとも思う。マアそのときのことです。庭の竹垣越しに並んでいる材木を見ると、塀だけではない柱材が立てかけてある。家主心理というものは面白いでしょう?家賃値上げを禁止しているが、間どりを変更するのは家主の自由、それに従って高くするのも自由、つまり方法によっていくらでも上げられるのです。他の一方では、あげられないことになりましたから、と材木高を口実に、ひっくりかえりそうな家が、あの大嵐に遭(あ)っても材木一本手入れせぬ。(壺井さんの例)景気が片よってよいのと、空襲をおそれて郊外分譲地はこの何年にもなかった売れようです。一反百円の着物(それも女もの)が大百貨店ではいくらも並んでいる。これも久しく見なかったこと。
さて、十日の午後のお手紙をありがとう。私がお会いしたあとお書きになったのらしいと思いました。
心配していただいてすみません。時あればユリが早寝早起きをするようになるだろうと、そのときがいかにも来たとしか考えられません。云われているとおり、今の条件で体を悪くしては何とも申しわけがない。これまでは、強(あなが)ち耳をふさぐのではなくても、早ねしかねたこともありました。日曜の手紙でかたくお約束したとおり、最もおそくて十一時迄、早くてはもっと早くねることにします。当分の間は、夜は出来るだけ早くねて、ひるもちょいちょい横になることにします。体のこと、漠然としか書きませんでしたから、すこし溯(さかのぼ)って申します。
盲腸が折々つれたり、左脚の痛むの(これは内からの土産)がいやだから、七月二十日頃から凡(およそ)一ヵ月ばかり、三共のモクソールという、お灸で発生する精分の薬の注射をやっていました。これは、副作用のないもので、永くつづけてよいのだが、注射をしてくれるSという看護婦のひとが旅行に出るので、八月二十日ぐらいでやめました。すこしは利いたらしい、盲腸に。
抑〃モクソールを云い出したのは、疲労感があって、それがたまる感じだったからでしたが、八月の中頃以後(下旬ね)折々熱を感じてとって見て七度二三分まで出て、つかれの故と思い、注射が直すだろうと思っていた。それがひっこみ切りにならず。疲労の感じは増して来て、胸にひろびろと力のあるいい気持が失われ、座っていると、いつか胸と腹とを落している。それは、今もそうです。それに右の肩が千金の重さという風なので、自分で気になり出して、つい貴方に訴えたという次第です。今の条件で病気―疲れをつくっているのではなくて、疲れにしろ、疲れが出た、というのでしょうね。今目前を見て、何でつかれる?と考えて、これでつかれると云い得るほどのものはないのですもの。
糖の検査は昨夜もやる必要があると思いました。これは慶応です。林町の者が浅野さんという人にかかってやっている。そのひとにたのみます。これは早速やります。もしかしたら明日やります。一日がかりの仕事故。それで何もなかったら、もうたしかに疲れだけです。
こちらが健康喪失などしたら遺憾どころではないということは全くです。何か腹立たしささえもって、早く寝ろとあなたがお思いになる気持が、まざまざとわかります。二食のこと。これもちゃんと三度にして食餌の選びかたも気をつけますから、どうぞ御安心下さい。
現実に私がすっかりしゃんと丈夫にならなければ、安心して下さいというのも礼儀のようですみませんが。
この手紙(あなたの)、しばらく無一文状態も加って、とあり。私は実に切ない切ない気がする。云っても仕方がないが、私は健康の当時の事情とそのこととの結びつきを考えると、いや、あなたの体を考えると、そのことに焦点が一度は必ず行って実にやり切れない気がします。小さい小さい一つのプラス、それがチビチビと全体をかえるときがある。そういう時だったのに、と思う。そして、私が会うたびに、「あっちお金ちゃんとしてあるだろうか、御弁当は?」ときくと、「ああ百合ちゃんの云った通り、ちゃんとしてあるわ、安心して大丈夫よ」と答えていた丸い罪のない顔を思い泛べ、今更攻められず、攻められぬこともやり切れぬ、そういう気持です。あなたにこの切なさ、おわかりですか?私があの窓から笠を指にひっかけてのび上って、そういつもいつも訊いていた、殆ど真先にきいていた。そして、そう答えられて気を休めていた、その気持。そして今その気持を思い出す気持。察して下さいますか。
手紙に時刻を書かなくなったのは、きょうお話したとおり。このインペイ法はよんでいて笑い出してしまいました。あなたは実によくない悪弊だと思っていらしたと見え、蔽うの下(代り)に弊をかいていらっしゃるから。インペイ法とは、わるいと思ってインペイするのでしょう?私はそんなにわるいと思う内容での夜ふかし(只喋るとか遊ぶとか)はしないという腹でいて(コレ迄のことよ)インペイはしなかったわ。只夜中の二時や三時に、先のように一種の楽しみに手紙かいたりしなかったからだと思います。私はそうこまごま頭をつかう質ではないわ。
早朝の出かけのこと、ありがとう。ありがとう。そのように考えて下すったのを有難く思い、あのすこしずるそうなあなたの笑い顔をなつかしみます。でもラッシュ・アワーとかちあってひどい混雑だろうとすこし心配です。木曜日に試みて又方法をきめましょう。早いのは、ようございますね。ずっと歩ける距離なら本当に申し分なしだのに、片道だけでもね。もうすこし涼しくなって汗ばまなくなったら近く行ける道の探検をして見ましょう。ラッシュ・アワアのこみかたは言語に絶しますから。
前後して、この次(つづけて書く)が、九月一日づけのお手紙への補足だのその他になりました。枚数が多すぎるから、これで一寸区切って。 
九月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十四日第五十信
前の手紙にお約束の体温をかくのを忘れたから一寸。
夜は八時半ごろ
十二日朝五・八ひる六・三夕六・七夜七・一
十三日朝五・七ひる六・二夕六・八夜七・一
十四日朝五・八ひる六・三
昨夕お客で、その若い女のひとたちを送りがてら管制の往来へ出て、駅前で林町へ電話をかけ、検尿のやりかたを国男さんにききました。管制でも月があるので助かります。闇夜だと、女は歩けませんね。
検尿は朝、昼、夕と各食前、及食後二時間をとり、更に全体一日総量を計り出してその中から試験管二本とって調べるのですって。今朝から早速着手して居りますが、殆ど無意識に処理されていることを、それだけキチリキチリやるのは、やはり一つの仕事になるから妙なものです。
私としては、そして又病気としても結核より糖の方がいやです。どうも出ていそうもない、そう思います、欲目でなく。糖の出る尿の独特なトロリとした重さがないから。勿論わかりませんけれども。
ところでこの手紙は今朝から二つ目。そのわけは、一つを書き終りかけたら不図気がついてテーブルの奥の半ペラ原稿紙をあけ第四十八信として、三十一日の夜更けに書いたまま出さずにいた手紙を見つけ出したからです。とんちんかんのようになったので、初めの分はおやめで、これを書き直しはじめたわけ。あなたが九月六日に書いて下すった返事に、二十八日の(文学のことを書いた分でしょう)二つ目と三日に書いたのとを読んで下すった感想があり、三日のは切手三つはった分で、大切なのだったと思う。それの番号はどうついていたでしょう。
三十一日の夜のあの大嵐でこわくて眠れなかったので起き出して書いたらしい、短く。あなたももしや目をさましてこの凄じい風雨をきいていらっしゃるかしらと書いています。カーテンのないガラスのひろい空白にこの稲妻や雨はどんな夜の眺めでしょうとも書いている。
あの晩は家がゆさゆさゆれて眠れなかったから出すのを忘れたのか、三日の手紙にもっとこまかに内容を書きのばしたので、これは出さなかったのか。そこがはっきり覚えていません。三日の手紙四十八信として居りましたか?こんど教えて下さい。この出さなかった分で、特に伝えたいことはないけれども。あなたが、先達(せんだって)中の手紙に、よく一応は判るが、とユリの手紙に答えていらした、その気持。一応わかるが、まだ何か底をつき切っていないという感じが、三日の手紙を私が書くまで貴方のお気持にあったことの必然を認めていること。八月が我々の生活、特に私にとって実に内容に富んだ意味ある月であったこと。それらを話して、瞼(まぶた)からウロコの落されたことのよろこびを話して居ります。
瞼からウロコの落ちたこまかな有様については三日にかき、それを貴方も肯(うべな)って下すった通り。
一般の生活の混乱が著しいときこそ、益〃自分を甘やかさず、事情を甘く見ず、自身の到達している箇所の動的性質をはっきり知って、押しをゆるめぬということ。本当にそうです。友情というもののもつニュアンスにしろ、やはりその時期の事情を反映するから、その微妙に変化しつつある現実を見ずにもたれかかっていればやはり共倒れですものね。しゃんとしたことを云う何のよりどころが貴様にある、そういう居直りが横行しているのだから。
私が、幸にして、鼓舞と叱責とに値するということは有難いことです。
この間うちからのことで深く感じたことですが、私の生涯にとって、あなたの暖く、しかも決していい加減のところでは引込めない手の力が、実にどれ程の価値をもっていることでしょう。私は正直に告白して、やっぱり自分にしぶとさがあると感じ、おそろしく思いました。あなたが私の手紙の或ものに対して執拗に、一応わかるがと、反面にまだまだと主張していらした間、ものの見かたと云いかたに、やはり私の固執(正当化)が作用して居り、それは、何かしぶとさに感じられます。愚昧さから来る頑固ではなくてね。骨節のつよいという言葉にすぐ置きかえては、やはり自惚(うぬぼ)れになると自覚されるようなものです。
私がそういうシンを知ったのは、大したことです。私はつよい人間は好きであるが、しぶといの等は大きらいですから。自分の内にそんな大きらいのものの破片を見るだけ眼を据えられたということは、これからのために並々ならぬ収穫です。しぶとさは人間の発育の蕊(ずい)を止めるものでありますから。ガリリ、ガリリとそのしぶとさを健全に愛の手で粉砕される、そのような噛みくだきを受け得るということ、それはこの世の中でまれにめぐり合えるよろこびであると思う。万一、そういうつよいいい歯とその歯が根気よく噛んで呉れる互の結び合いとがなかったら、私は或は金かもしれないが、あっちこっちに多くの無駄なもの、堅いものをもったままで終ったでしょう。そして、それは金であるとは云えない。遂に、金なるべくして成りとげなかったものというだけです。
どういう事情からにしろ、糸の切れたタコの状態があって、それが客観的に賞讚されないものであるということは、よくよく肝に銘ずべきと思う。この間の日曜も重治さんと文学談をやって、現代文学の大目付という言葉が出された。何か私にはピーンと響くものがあり、思わず力をこめ、居る、というだけが大目付ではない、どうしている、ということできまることだ、と自分に云いきかすように云ったことでした。
全く、この間、私がいやがって右や左へかわそうとする首根っこを、柔かく、而もしっかりつかまえられて、逃げも出来ず、くさいきたないものへ眼を向けさせられ、鼻面をすりつけられたこと、忘られない。涙をこぼしながら、ウムウムと、そのきたなさやなにか承認しなければならなかった、その味も忘られない。その後の爽やかなすがすがしさ、涙顔ではあるが、本当に納得行って心地よく笑い、首ねっこを抑えていた手に一層の愛着を覚える、そういうようなうれしさも忘られない。
――○――
いろいろこの頃の気持は、そういうようです。その気持で二科を見に行って、いい加減なのでいかにも詰りませんでした。この春国展、春陽会を見たりしたときより遙につまらなかった。自分の境地というものをつきつめている画家さえ、二科にはいない。鍋井などという人もボヤッとしている。つまらなそうにしている。うち興じている人さえなく、これに比べれば国展の梅原龍三郎の二つの絵など、多くの疑問は与えながら、今猶絵としてまざまざと印象をのこしています。今度の二科は出たら何一つのこらず、あなたにせめて一枚エハガキをお送りしたいと思いましたが、それさえなかった。
二科は琉球流行でね。いろんな人が藤田嗣治その他琉球の布(きれ)、人物、風景を描いている。木綿がなくなることから琉球の絣、染に人の懐古的目が向けられた。それもありましょう。
婦人画家が殖えて来ていること。婦人画家の裸婦には鑑賞によけいなものがないから非常に清純で卑俗でないこと。
――○――
芸術家が、現象的でなくなるには、何という大した修業がいることでしょう。二科の画でも火野氏の作品でも、樹の一本一本を描き、リアルに描き、だがその樹の生えている山や林の地形と土質にはふれられない。本質というものはさながら実在しないように扱われている。だからリアリティーとは云いかねること。これが芸術上一般の通念となるために歴史はえらく揉みとおされるわけなのでしょう。芸術家にとって日常生活のリアリズムの深化のかくべからざる所以はいかに深く遠いかと思う。それについて最近一つ勉強したことがあり。いずれ別にお目にかけます。志賀直哉の「暗夜行路」後篇についてです。「二人の婦人」はオハナシね。壺井さんの「大根の葉」(文芸)好評で、稲子さんも私も鼻が高うございます。 
九月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十五日第五十信
万歳!万歳!いかにもうれしくて、明日の朝お話出来るときまで待たれない。糖はちっともありません。ちっともありませんよ、と調べたのを却って不思議そうに慶応の医者が云いました。糖が出ていやしまいかということは、どんなにかいやだった。菌が活動中というのよりいやだった。糖尿というのは、いやな、こわい病気ですよ、頭がメキメキと駄目になる病です。逆に、過労(脳の)からもかかる。記憶力はなくなる、根気はなくなる、文学的な本気の仕事は殆ど不可能になる(非常によく直さないと)私はこれ迄一番いやなのは気違い、それから糖尿。そう思っていた。自覚があるので辛いのは糖尿。その位おぞけをふるっていたのだから、試験管を八本抱えて、けさお目にかかっていて、決して平然ではなかったのです。だから、うれしい。念のために、又背中、胸よく見て貰いました。「今のところ異状はあると云えませんね」
つまり、自然な警告なわけです。私は、今度はこれ迄のように、夢中で何かやっていて、いきなり病気につかまったのではなく(肝臓のとき、盲腸のとき)ジリジリおどかされて、こんな気持は生れて初めてでした。おそれろ、おそれろということなのね、きっと。図にのるな、ということでしょう。
だから、早ねをして、早おきをして、秋の朝風の吹く原っぱを歩いて、あなたにお早うをして、そして、午後はすこしずつ勉強をやって(熱が出なくなってから)夜の客はことわって、すっかり体をつくり直します。朝おきの気持は、煙草のけむの匂わない部屋の空気のようなもので、身についたら、ねボウはいやで、きっとたまらなくなるのでしょう。
うれしいから、子供のように、心の中で、朝(あさア)とくおきよ、おきいでよ、という古風な歌の節をうたう程です。
けさ、智恵子さん(自注11)について、あなたが一寸お云いになった言葉、もし良さんがあの半言表現してくれる態度の人物であったら、智恵子さんは、同じ命が持てなくても、どれ程のよろこびをもって生きることが出来たでしょう。私は妻という(しての)気持から、あなたとしては極めて自然に云われた数言を、耳へしみこませ、わが懐の奥ふかく蔵(しま)う心持です。
だから、私は自身の不注意などの原因で弱くなったりしてはすまない、一層そう思います。糖を出していなかったり、虫にくわれていないことは、せめてもの申しわけです。ああ、ああ、何とほっとしたでしょう!このしるしをつづけて雨だれみたいに並べたい位。私は病気がきらいなの。自分が病気なのは一等きらいです。臥て、動けなくているなんて。ましてこの頃。いいお灸と申すべし。ちゃんちゃんといろいろしらべて本当によかった。
御心配をかけたことをすまないしするが、今はうれしくて、手をつないでピンつくピンつく跳ねまわりたいようです。これからも益〃食事にも気をつけ、現実的に合理性を発揮します。
ああ、こんなうれしさは何と珍しいでしょう。お赤飯たいていい位だと思う。では又別の手紙でいろいろ。

(自注11)智恵子さん――杉山智恵子、杉本良吉の妻。 
九月十八日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十六日第五十二信。
きのう、きょう、朝出かけは裏の上り屋敷から池袋まで出ることにして見ました。省線駅の段々がなくて、これは大変に楽です。駅の段々が意識に上ったのは初めてでした。昔、詩人の細君(自注12)が、弱くてよくそのことを云っていて、信濃町を辛がっていたが、きのう上り下りをして見て、本当にそれがわかりました。体力というようなものはどこを標準にしてよいか分らないようなもののようだが、実に微妙にちがうものですね。びっくりする。
びっくりすると云えば、朝起きは、何と昼間がゆっくり永いでしょう!私は昼間が決してきらいでない。読むにも書くにも。静かな昼間、(お客が来る心配の絶対にないというときの)落付き心地には、飽きない愉しさがあり、充実がありうれしい。そういう静かな光の満ちたような昼間がこれから続いたら、きっと新しい力で勉強が励まれるでしょう。
目白の駅を下りたら十時すこし過で、あの野っぱらの真中できいた空襲警報のつづき。飛行機が編成で上空に来て、戸山ヶ原の方へ去ると、こっちでは、二千米ぐらいのところで、一機が一機を追うように「盛にやっている」(これは角の果物やの若い衆の表現。)私も立ち止ってそれを仰ぎ見て、その若い男に訊きました。「どっちが敵機なんでしょうね」「サア迚も見えませんね、白い布の尾をふき流して居りますそうですが」暫く立って見ていたら「あすこへバク弾を落したよ」と、呑気(のんき)そうに太った防護団のおっちゃんが云っている。別にかけ出す人もいない。やがてヘルメット帽をかぶった団員の若い一人が白い紐のついた毬(まり)を手にもって、どこが変ってるんだろうというようにして交番へ渡しました。その毬がバク弾なの。やはり駅の周囲ですね。パンとトマトを買って横丁へ曲って来たら、さっき一機うちをしていたのか別なのか相当にスピードの出ている速さで前後して追うような勢で西方へ翔(と)んでゆく。一種の緊張がその機勢にあって、私は地べたの上から樹の梢越しに見上げつつ、兵士たちが演習のとき、突撃のとき夜などつい気が入りすぎて負傷者を出すということを思い出し、地上に見物人を意識しているこれら上空の人の心理を一寸想像しました。
今夜で防空演習もすみます。
A・Kさんの小説が久しぶりに『文芸』に出た。小さい作品であり、云々するほどでないと云えるかもしれないけれども、作者も昔からの友人たちも、特別な心でこの作は見ました。△氏という△大の△△さん門下の哲学の人が、あのひとの作品をよんで、何とかしてこのひとを助けて立派な作家にしてやりたいと思って結婚を申し込んだ。私などが外国にいたとき。
A・Kさんは、自分から進んで結婚の対手をさがし出す人でもないし、間違ってでも掴(つか)んでゆく、そういうたちでもないので、この申出を考えて結婚した。
七八年結婚生活をしたわけですが、その△さんというひとは、(ここまで書いていると、玄関が勢いよくガラリとあいて、その音に合わしてはあとがしずか。あらあら健造さんがお使いに来ました。あした智恵子さんのお見舞に誘った返事をもって。丁度又空襲ケイホーの間なので、健ちゃんと物ほしにのってすこし飛行機を見て、本棚のところへ来たらそこの岩波文庫のうらの目次をくっている。「なんなの?」「南総里見八犬伝買ったんだよ」「ふーん」と私はびっくりして「わかる?」「わからないとこ母ちゃんにきく……でも余りわかんないから新八犬伝を買うんだ」そして下へ来て豆たべながら「あれ書いたひと、めくらになったんだね。でもどうしても書こうと思って、妻に話してかかすけれど、妻は小さいとき学校へ上んなかったから字を知らないのを教えて書かしたんだね」「ああ。でもそれは馬琴のつまじゃない。息子の嫁さんだよ」「ふーん」豆の小さい包みを下げて靴音たかく帰ってゆきました。健造は九歳か。十かしら。少年の面白さたっぷりです。何て男の子は面白いだろう。太郎はどんな子になるだろう。自分の子に男の子を考えると何だか笑えてくることがある。あなたにこの興味がおわかりになる?自分たちの子というものを。健造が、妻ということばを云うときその響は大層清冽(せいれつ)でありました。無色透明で。智恵子さんのところへ行くそうです。
さてつづき、良人であった人は芸術家の生活というものの急所がわからず、勉強な女大学生(受動的な)のように考えていたらしくて、この次この本よめ、この次これ、そう云われても作家になっている人なんだから、よかれあしかれ内面の必然があって、ハイハイよめないときもあり、そういうのが、女って結局しかたがないものだ、という結論を引出すことになったらしい。八九年の後、この春離婚して、そして、この作品をまとめた。フランスの婦人作家列伝ていうのを見たら、すこしましな仕事している人って皆、普通の意味での結婚生活やっていないって書いてあったんで、何だか元気がついちゃったようで、と遠慮深く云っていました。フランスでまでもそう?私はこの頃こういう話は、もとよりも切ない心でききます。ものでも書こうという女は、その性格が妙なところが一応書く力となっているのもあるが、友人たちをみれば、やはり感じること深く、愛することの深いところから書いている。そういう女が、結婚生活、家庭生活で両立せず、様々に傷つくのは、本当に辛い。まだまだ、女が人間らしい積極さから行動しても、結果は受け身にあらわれ、数え立てられる世の中だから、女の生活をいとしく思うことが深くなるにつれ、自分の娘というものを、女親には娘がようございますわ、という気分で見られなくなって来るのですね。少年を見て感ある所以です。
きょうは、かえって髪を洗いました。それでも大丈夫。十二時半に昼飯前六度三分。
何と、じき枚数が重なるのでしょう。一日のうち頭の中を通ることは果してイクバクでしょう!このごろは、貴方への手紙しかものを書かない。糖の出ない安心はこのように心を活溌にさせています。現金で極りわるい位。
〔一枚目欄外に〕
この頃、大きいたっぷりした封筒が実にない。そのために手紙出しおくれて、しかも、こんなので
〔十一枚目欄外に〕
体温表
十三日の夜九時頃七・一
十四日 朝7.30五・七 昼12.00六・三 夜9.00七・一
十五日 朝7.00五・八 昼六・四 夜9.00六・八(これは初めて六度代になった夜)
十六日 朝7.00五・七 昼六・三 夜9.00六・六
十七日 朝7.00五・六 昼は外出でとぶ 夜10.00六・七
十八日 朝7.15五・六

(自注12)詩人の細君――今野大力の妻。 
九月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十六日第五十三信
文学についての話。つづき
アンナ・ストロングがね、三年ほど前に書いた自伝があります。徳さんが貸して呉れました。IChangeWorldsという題。自分の棲(す)む世界を、古いのから新しいのへかえるという意味でしょうね、きっと。一人称をもってはじまる題をつけることから、何だかしっくりしなかったが、すこし読んで、不思議な気がして来た。これはどういうのだろう。ストロングとはこういうものの見かたをするひとか、それで、どうしてと、働きさえ不思議に思われて来た。「人間というものは行動するものである」そんな風にはじまる。
「理性とは行動を、あとから理屈づけるものである」云々。そういう調子でこの書若し諸君の人生指標となれば幸、と云った前書きがあり、さて、「自分は、アジアの奥の故郷から、西へ西へと追われた部族の出である」と云って本文に入っている。猶太(ユダヤ)人ということでしょう?スメドレイという人は、おそろしい程、むきつけに書くひとです。昔の作品では、殆どアナーキスティックと云える位のむき出しで、人生にこわいもの、見栄を知らず生きて行く女の、おそろしい率直さと、行動の真の意味を客観的につかみ得ていないところから、アナーキスティックな風になってさえいる。ストロングは正反対ですね。「我」という意識の流れは孤より衆へ通じ云々と。迚も読みつづけられない。どうして、そしてどの範囲で英語新聞の編輯などやれたのかと、計らざる感服をしました。
第一書房からバックをうけて、あの売行を保とうとして出されたミッチェル女史の『風と共に去りぬ』GonewiththeWind。『タイムズ』の文芸附録に、本やがGoing,Going!と増版を広告していますが、日本ではそれ程の売ゆきを示さず。(三冊で略六円になる本)これは面白いと思う。第一、南北戦争というものは日本の文化にヨーロッパ程感情のつながりを持っていない。第二に、現今ヨーロッパの文学は、大戦以来引つづいてジョイスの「ユリシーズ」風、ハックスレイの「双曲線」風の心理分析、潜在意識分析文学の時代から一歩動いて来て、一方ではロマンスの大復活流行、一方に新たなリアリズムへの努力が擡頭している。これは、昨今の世の中から実にわかりますね。ロマンスが特に歴史的背景をもつものに傾いているということもわかる。「風と共に」は前者の風潮にのっているものです。だからあっちで売れる。『タイムズ』の推セン書の中に今週文学ではロマンスが(名は忘れた)あり、次の週は一匹一片の男(?)と云うようなリアリスムの作品が推されている有様。『タイムズ』の文芸附録でさえ、という現実の力の面白さがある。
――○――
志賀直哉の「暗夜行路」は、昨年終りの部分が出来て、前・後、完結しました。前篇、昔の茶色の本でお読みになりはしなかったかしら。
この間後篇を読み、漠然と、わからないと思うところをもっていたのが、私自身の最近のいくつかの経験や自省によって、その点わかったところがあって、それが話したい。特に語りたい心持がするのは、私が最近経過した内部的な大掃除みたいなもの、或は嵐のようなもののおかげで、すこし古葉が落ちて、ものがはっきり見えはじめた部分があって、そのおかげで、漠然納得ゆかない気持でうけていたものを、はっきり捕え分析し得るようになった。そこが意味深長で、きいて欲しいわけなのです。
「暗夜行路」の主人公謙作が京都で鳥毛立屏風の絵にあるような女(この絵覚えていらっしゃるかしら。大どかな、素直な、気品ある若い女です。裾を左手ですこしかかげているような、元禄風の)を見そめて、そのちゃんとした娘と結婚して、生活しはじめる。その妻である女は、挙止、言葉づかいよさの諸点が現実の作者の妻である婦人を、まざまざ読者に思い浮ばすように描かれている。夫婦の生活は苦労なく、例のこの作者らしい雰囲気で、友人と花をやって遊んだりし、その間、妻が札を間違えたのを、或る狡(ずる)さかと思っていやな気がする、それが妻に反映して悄気(しょげ)るなどのニュアンス。この作者が人間の心持に潔癖と云われている定石的モメントもあり。その妻が、妻の従兄に当る男と、良人の旅行中過ちを犯す。その描写が、私に腑に落ちなかった。男青年が、花をやって徹夜して、荒れつかれた神経の反射で、我むしゃら頭からつっかかってゆくような面は描かれているが、妻である女が屈伏するモメントがわからぬ。子供時分二人で、意味は分らぬが、ある遊びをしたことなど作者はもち出しているが、リアルでない。そんな女としてでなく描かれているのに、天質のいいものをもつ女として描かれているのに、良人を愛しているのに、そこでそう脆(もろ)いのが合点ゆかぬ(女として)
良人はそれを過ちとして、女の或場合の災難として、腕力的にかなわない災難として許す。
この点もどうもわからなかった。花の札を妻が間違えることにさえ、ずるいのかと心持わるくするのなら、こういう場合災難として見るしかなくたって、そのような災難を生じるサーカムスタンスをもつことにもっともっと苦しい思いをする筈だし、根本的に云って、そういう条件での災難と云い得るだろうか、原っぱで五人に囲まれた、そういうのでもないのに。どうも腹に入らぬ。
主人公は、これで自分たちが不幸にされては余り下らぬ、そう思い、ひっかかっている気分を直しに大山へ旅行して、そこで所謂自然の療法をうけ、やがてそれにこだわらぬ気持までひろがる。そこで終り。
そういう苦しみを夫婦で凌ぐのに、景色の変った山へのぼって暮して、それで転換するのも何だか腑に落ちぬ。
谷川さんその他、夫婦愛の醍醐味として讚えているが、わからない。根本に分らない。それでこの間、菊子さんが来たとき、それを話しました(弟子だから)。すると、「暗夜行路」は自伝風な作と思われているが、実際はそうでない。架空のものの由。
「じゃ、猶変だ。だって一般に自伝的なものとしているでしょう?その作品の中に、誰がみたって奥さんそっくりと思える人が描かれ、そういうことがあれば、そうかと思う」「奥さんは再婚の方ですから、先生の心にある或気持から、考えられたんじゃないんですか」「そういうの、わるいと思う。だって、現実の気持のそれを、ああいう形で、あんな重大な、妻のああいういきさつに描いて卒業するなんて!」
作家のエゴイズム以前にある男のエゴイズム、それを感じていない作者。菊子さんもそれには異論なかった。
人間のいきさつ、心持、それを人並より潔癖であるとされている作者でも、環境とその自省の鈍磨、いい痛棒のくらわし手がないと、こういう極めて人間の真髄的な箇所で、潔癖の反対になる。そういう致命的な鈍りが生じていることを志賀さんは知っているだろうか。
この頃のチミモーリョウの跳梁(ちょうりょう)をいやがって「文士は廃業だ」と憤然としているという面だけで、一作家としての彼は語りつくせたと云えません。又こんな数になってしまった。では又
〔一枚目欄外に〕
「奥さん、そんなの読んで黙っていられるかしら」
よまないのですって。一度何かよんでコリてから。
石坂洋次郎論の「若い人」の中で江波という娘を見る評者の甘さから、ケンカをやる戸塚の夫婦の生活と、何たる相異でしょう。
〔十三枚目欄外に〕
前便のタテの封筒がいかにもいや。東京堂と丸善とへ出かけるから、そこで何か見つけて、それから出すことにします。 
九月十九日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十八日第五十四信。
〔前略〕昨日あれから戸塚へまわりました。おなかペコペコで御飯をたべ、終ったら鶴さんがやって来て、やはり御飯をたべ、そちらの噂やいろんな話。『朝日』朝刊に石坂洋次郎が長篇をかくことになって四五日前作者の言葉なども公表された。そしたら、けさ突然、坪田譲治「家に子供あり」というのに変更されている。何かあった。「若い人」がいけないということになったのだろう。この間内務省の懇談会で、またたびもの、遊蕩(ゆうとう)もの、女の生活の放縦を描いたもの(女子学生もこめて)はいけないというおふれが出たばかりです。
出かけようというとき鶴さん一寸一緒に新宿へ出ようと云い、私はおみやげのバタ、稲ちゃんは不二(ふじ)やでお菓子を買い、不二(ふじ)やでコーヒーをのむのに(鶴さん)つき合って、それから市ヶ谷へ行ったら六時ごろです。
病人さん(自注13)は、けさあなたから親切な手紙を貰ったとよろこび、私たち二つの顔を見たらいかにも嬉しそうでしたが、瘠(や)せて、弱って、ひどい。八貫位の由です。夏じゅう九度から八度の間を行っていたところへ、(発熱)この間の大嵐のとき屋根が吹きとばされて、煤水がダーダー流れ出したので階下へおりようとしたら、梯子がその水で滑って、頂上から下へ落ちた。「そのまま喀血(かっけつ)でもして死んだら余りにみじめだと思って心配しましたが、いい工合におさまって」とおっ母さんが話されました。二週間近くも大家さんの二階にいたのですって。家から食事をもってゆき、便の始末をしながら。さぞ、どちらも大変であったでしょう。今は朝九時ごろ悪寒がして発熱する由。家の中の様子、病人の顔つき、こちらも息がつまるようで、苦しく、苦しかった。療養所のおそろしい話を、黙っていられない、という風に話されました。「どんな病院よりおっ母さんのそばがいいから、ここへおいて貰います」いろいろな感情があるらしいのです。「こんなにおっかさんてありがたいものだとは知らなかった。きょうだいと云ったって、手拭一つしぼってくれませんからね。」
病気はこわい。いやだ。しんから病気はしまいと思います。この間の手紙で、私が本気で云っていたこと、サナトリアムはいやだということ、あなたはそれについて返事をまだ下さらないが、本当にはっきり覚えて承知していらして下さい。ね。盲腸で切るとかそんな或時期だけのは入院が勿論いいが。
日本の療養所(市の)は、まだ実に低いところにあり、病人の箇々体質、病状などこまかに扱わず、病気と精神力との関係など全く無視されている。そのために例えば、八度熱があればどの注射、しなければならない、いやでも。そして、智恵子さんなどのように重態になったりする。その他の療養所では南湖院その他菌のあるものは入れないのだって。何のために建ててあるのでしょう?では病気を享楽するひとのためにあるというにすぎない。ブラブラ人の社交場にすぎない。(富士見などのように)ああ丈夫でいること丈夫でいること!
息のつまったような気持で出て、空気が吸いたくて神楽坂まで歩いて田原屋で御飯をたべました。それから歩いて稲ちゃん死んだユーゼニ・ダビの「北ホテル」という作品の話を熱心にして、(その作品のよさと思われている弱さについて。弱さにとどまっているこの作者の勤労者性について)矢来下からバスにのって、かえりました。
ダビについての感想は「くれない」の作者としての感想として特に面白かった、というのは、私はこの愛する作品については、いろいろの感想があるのです。作品が十分の構成をもっていないということ、構成のないということは、この作者のどの作にも或共通したところであるが、事件、心理のいきさつを、よって来っている現実としてつかんで整理しきらず、はじから現象に即したように描いてゆくため、構成がなくなり、語りつくされない部分が出て来る、そんな気がつよくしていたので、ダビの「北ホテル」の感想は二重に心をあつめてききました。買っておよみ下さい。婦人の作家が、その生涯のうちに、皆が、いくつか、どんな形でか、この作品のようなものを書かなければならず、書いているということ。そういう点からもこの作品は或本質的な意義、価値をもっているもの故、もっと十分書きつくせない事情のあるのが、惜しゅうございます。
俊子さんの昔の作や「伸子」や「小鬼の歌」の夫婦の生活や「乳房」やそして「くれない」や同じ作者の「わかれ」という短篇などと合わせよみ、考えると、女の生活をうち貫いて流れている歴史の波濤の高さが胸にひびくようですね。きょうは久しぶりで林町へ出かけます、うちにいる栄さんは、兄が入営で一日いないから。

(自注13)病人さん――杉山智恵子。 
九月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十九日第五十五信(封筒の糊がわるくて張り直しをしました。)
きょうは、大変に珍しいところから手紙を書いて居ます。林町。食堂のテーブル。午前十一時すこし前。
きのう林町へ来て見たらお客がいて、いろいろゆっくり話したかったので泊り、けさ国男さんが出かけてから、南の縁側ですこし日向ぼっこをしながら本をよみ、食堂へ来てこれをかき出しました。
話というのはね、あのひとの生活ぶりについてこの間から考えていたこと。咲のいないときすっかり遠慮のない表現で一度話したいと思っていたので。
私が早寝早起きを励行しているというのにはすっかりびっくりして、敬意を表しました。その実、本人は(私は)まだそれが習慣として身につくところまで行っていないから、まるで早ね早おきに使われて、夕飯を終ると宵の口から眠る時間を気にして滑稽しごく。しかし私はひとが笑ってもこれはやります。どうしてもやります。このねうちの感じかたは、或は貴方がお考えになるより深いのではないでしょうか。
咲枝、太郎は二十六日ごろかえって来る由。太郎すっかり田舎言葉で「いがねえか」など尻上りに云っている由。
この間私に国府津へでも行くか?とおっしゃったとき、二日ばかりも、とお云いになった。二日、という区切りかた、二日いたから?一ヵ月もと云われず、二日もと云われた方、笑えるようなところがあって、しかも私にはいい心持でした。ゆく行かないにかかわらず。
国男さん、安積(あさか)へ誘うが、やっぱり行きません。東京の日々の暮しで、きっちり習慣をつけてしまわないうちから動くと心配ですもの。今のところそれが仕事だもの。ああ、林町へ来て、又よふかしをしたのじゃないか、と思っていらっしゃるでしょう?顔が見えますよ。例のレコードをかきましょう。
きのうの朝までは前便に書いたと思いますが
ひる十一時四十分六・四夕午後五時半六・三夜九時六・六
食事十二時半食六時半就眠九時四十分
今朝起きたの七時半。
七時四十分五・八ひる十一時十五分六・五夕六時六・六夜六・五
食八時すこし過十二時半六時半九時半
きょうはおひるをたべて目白へかえります。渡辺町へまわろうとしたら留守故。
十日間の温度表を見ると、段々頂上が下って来ると共に最低との開きも減り、面白い。十五日以来から最高が六度七八分ですね。今月の初めごろ、すこし熱っぽい生理的な理由もあったけれど。
○『プラクティカル・エンサイクロペディア』昨日丸善から送りました。英語のドウデンは中身はすっかり同じです。ドイツ語のは二冊か三冊あるのですってね。英語は一冊にまとめられていて、やっぱり初めに人間老幼男女、つんぼの女などあり。ですからおやめにしました。フィリップ・ギブスの『国境を横切りて』(アクロス・ザ・フロンティア)というのがあり、買いたいようでもあったが、おやめ。四五ヵ月前七円五十銭であった本がダラの変化で昨日は十二円八十銭です。大変なかわりかた。このような金で外国旅行をやるのは気骨が折れて彌生子さん夫妻も大変でしょう。もっとも旦那さんの方は外務省からですが。ケンブリッジとオックスフォードで能の講演をする由です。ギリシア文学の知識で、この人は欧州人にわかる方法で世阿弥を説明するのでしょう。ギリシア古典悲劇の様式と、能とはその独唱とコーラスと身振り的舞踊において非常に共通している。観念ではなく、様式で。ギリシアのは、合唱で、主人公の運命に対する哲学、客観的観察(判断)とでもいうようなものを表現している風です。
そんな、私も常識としているところをもっと広く、且つこまかに話すのでしょう。息子が交換学生として行っているイタリーにもゆき、ギリシアもまわって来て、かえりはアメリカを通る由。朝四時ごろJOAKから国際放送をしたりして活動です。
九月二十一日に、つづきをかいて出そうとしたところ、羽織紐のことについて、ちがったように書いておいたので、きょう、二十三日書き直し。
今、貴方へのフランネルねまきとおこしの小包をこしらえて、出させてやって、羽織をはおって二階へ上って来たところ。今年はじめての羽織です。秋のうつりかわりは春から夏へのときとはちがって、こちらでも心元ない。夜着のこと、先にもそういうことがあったので又さっきかえる前、確めて訊いて見たら、十月に入らなければ入れない。どういうのかくわしく判らないが、そうです。十月に入らなければ衣類のセルも夜着も入らない。肌寒い方へ向うときは、こういうことで何だか落付きませんね。早く十月になってしまえばいいと思う。フランネルや羽織で、調子をとっていらして下さい。
二十日には、そこからのかえり、雨中を渡辺町へまわり、買物に一緒に出かけ、かえりかけたら漱石の未亡人というひとに出会いました。古風なひさし髪に一糸乱れず結び上げ、りゅうとしたお召、縫いのある黒地の帯、小柄だががっちりとみが入った風采(ふうさい)。金の儲かる役人の奥君という風格で、漱石の作品にあらわれている妻君の反映や鏡子述「漱石の思い出」、松岡とのことその他思い合わせ、いかにもとうなずける様子です。長男が、中学の三四年生のとき、お出入りのいんちき音楽師に大天才とおだてられ、ヴァイオリンの修業にドイツに出かけました。いんちき士が、お伴にくっついて行こう魂丹であったらしいが、それは実現せず、若い息子だけが行った。が、行って見ると、元より上手に弾く日本少年のヴァイオリンは、天才の問題と大変遠いし、技術の到達点にしろ少年自身絶望するようなものであった。金はある、子供である。ベルリンにはヴィクトリアという日本人の税関と称するカフェーがある(西洋のカフェーは或とりひき場)。ヨーロッパ戦後である。一九二九年に私がベルリンの国立銀行の広間の人ごみの裡にいたら、ちらりといかにも見たような顔が視線にうつった。漱石そっくりの道具立てと輪廓とで、而もその内容なく、背のどちらかというと低い背広の体の上にその特徴ある顔で、じっとこちらを見て佇んでいる、言葉をかけるほど互に知っていない、だが、お互に誰かということを知りあっている、そういう眼ざしで。漱石そっくりで漱石ではない息子の顔立ちは、伯林(ベルリン)の雑踏をこえて、今も目にのこって居ります。一種異様な寂しさと哀れさとがあった。その息子が、何年か前に帰りたいと云ったとき、この剛腹なる母は、それを拒んだらしい。今になって、つれてかえることが話しに出ている由。
(ああ、いやな匂い!午後二時すぎるとお隣りで煉炭風呂に火をつける。煉炭のガスはきつくてトタンの煙突が一年でくさる程有毒で、実にいや)
二十二日には、かえりに三越へまわり、あなたの夜具のことを致しました。ステープル・ファイバアというのは何と重くて、変にプリンプリンとしていて、ひやっこいのでしょう。そういうのでなくて木綿七分、スフ三分という布地があったからよかったけれど。綿も白一号というのはなくて白二号。二流品だけ。ウンと上げて儲けるつもりで問屋がいたところ、価格の統制で、儲けられないので、よいのはひっこめて二流品をのみ出している。買う方がたまらぬ。
多くのことが、こういう調子ですね、家賃のことをはじめ。絹ぐるみで生活する人々は決してこまりません、いかにたかくても正絹もある、真綿もある。
夕刻の七時からさち子さん夫婦のおよばれでお茶の会。戸塚の夫妻、壺井さん夫妻。私たち(というのは二人の名のお招待が来ましたから)、その他の友人三名。八重洲園。佐藤俊次というのが良人の名です。自然、鶴さん、繁治さん、私たちが喋り、いろいろ面白かった。かえりに数奇やばしのそばの寿司をたべて、山の手電車の一方の坐席にズラリとピクニックのように並んでかえりました。
――○――
朝、真先にお早うを云うのはなかなかようございますね。私の早起きの習慣は、こういう御褒美つきで奨励されているわけです。
これから、いつも二十三日に花を買おう、私たちの花を買おう、そういう気持がそちらも持っていらしたということ、面白いこと。
今年のあなたのお誕生日には何をしましょう。折々たのしみにして今から考えています。去年私たちの五年の記念にあなたが書いて下すった字で私の本のための印(いん)をこしらえた。一つ捺(お)してあげたの御覧になったでしょう?はじめての印は父がこしらえて呉れた、水晶。あれは一生使えるように堅いツゲの木です。今年のお誕生日の記念に何をしましょうね、蔵書印をこしらえようかしら。又あなたの字をつかって、並べて、ぐるりを工夫して。それともこれは八年目(足かけ)のおたのしみにとっておきましょうか。八年目の二十三日には一まわりして週日も同じになるから。帯だけはもうきめてあります。昔の女は帯を縫ったのね。
そう云えば実録文学の山治君、段々妙な実録で「池田成彬」というシナリオをかいたりするが、この間「坂本龍馬の妻」という脚本を書いた。お龍という女。女に生れて貴方にめぐり合えないなら、男なんかに生れたくはございません、などという云いまわしは粗末であるが、洒落た女の機微をつかまえているようだのに、このお龍さん、第一幕では不二洋子の劔劇に似て居り、幕切れは、或種の神がかりであるというのは、何と笑止千万でしょう。
「沃土(よくど)」の和田伝、島木健作その他何人かで、有馬農相のお見出しで、農村文化の立役者となり、作品が帝国農会の席上引用され、和田氏は日本の政治の明朗化の実証と欣喜(きんき)して居ります。二十名の作家が漢口を描きにゆきました。平服に中折をかぶってステッキをついて写真にとられているのは菊池寛一人。役者一枚上なり。「田園の憂鬱」は軍装して二千円すられた。葦平サン茶色背広で(上海で)これら名士と一夕の歓を交えに現れています。
午後の計温が示されていないと云っていらしたのは十七日(土)でしょう?戸塚と病人見舞いに行った日でしょう、あのときは午後はとばしました。林町へまわったときは計温しましたから。
二十日。この日もかえりに渡辺町であったから十一時半ごろの分はとらず。
朝七時二十分五・四夕方五時半六・五夜九時半六・五
食事七時三十分六就眠一〇
二十一日
朝七時半五・五ひる十一時半六・三夕五時半六・六(夕飯六時)
食事七・四〇十二時夜八時半六・三
朝は七時から七時十五分すぎまでの間に床から出ます。それから身じまいして、計温して、食事して、仕度して、家を出るのは八時十五分過までのうちです。原っぱを通って、受付へ行って、多勢待っていなければいつも大抵九時十五分前ごろ、待合にかけます。これはおきまりの時間表で、ずるとしても五分から十分の間です。土曜月曜はこの刻限から二時間前後待って本を読んでいるわけ。この次の月曜は一奮発してすこし早くして見ましょう。この切手お気がつきましたか?民間機をつくるためだそうで、国男のくれたのを見本に。おかぜを呉々大事に願います 
九月二十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十五日第五十六信
きょうは可笑しい借家人物語を二つ。
きのうひるから殆ど二ヵ月ぶりで栄さんのところに向って出かけました。七月中旬ごろからマアちゃんが工合わるくしているし、繁さん勤めはじめたし、細君はいそがしかったし、病人のベッドのわきで喋るのもいやであったから、お互に。
マアちゃんよくなった。それに、私は、ああ二日つづきの休み日なんて大したことない、実に大したことない。こういう休日が愉しく充実するために私にはどうしたって必要な顔と声と笑いとがあるのに!とふくれていて、思い立って栄さんのうちに向って出発した。
小滝橋へ出るまで、下落合駅のところを道普請していて、すこし広い道が東中野から聖母病院の坂まで貫通しかけています。工事のはじまったのはもう古い。事変で久しく放ぽり出されてセメント樽がコロがっていた。再び着手して、もうすこしで完成。新道へ出るところ(旧道から)「ひどくゆれますから御注意下さい」と婦人車掌が呼んで、赤坊おぶっている女の人に「お子さんのおつむり御注意下さい」それ程。うっかり舌でも出したらかみ切ってしまいそう。小滝通りでおりて、坂をあがって行く。トタンやの店に張紙あり。
「風水害で破損した箇所修繕のためブリキトタン御入用の方は、もより交番より許可証お貰いの上おいで下さい」云々。秋の日にそういう字が照っている。もすこし行ったら「十月一日より商店法実施、皆サンお買物は十時まで!演習十九日、二十六日」と立看板が立っている。
青年学校義務制(十四年から)のための青年調査の注意がケイ示されている。
そういう街頭の光景を眺めて、横丁へ入って行ったら、見たことのある爺さん、袢テンすがたで荷車に何か積んでいる、壺井さんの家の石段々の下で。おや、と思い格子のところへ行って見たら、まあ、引越しのところです。
「なんて、あやういところへ来たんだろう」
「あしたのいまだったら、どうしても運送やさんが、くり合わせつかなくて。」栄さん単衣一枚、手拭をかぶって、せっせとお握りを握っている。繁さん、真面目のような、我ながらびっくりしたような顔で、口を尖(とが)らせ乍ら、一生懸命本をつめている。前日にきまったのですって。大嵐の夜、二階が吹きぬけのない袋六畳だもので、雨戸をとばされ、ガラスは破れ、今にも飛びそうなので、畳をめくって夫婦で夜明け迄押えて遂に倒壊を防いだ。おまけに、この間の地震で、もう迚も辛棒ならず。あなたにあの珍しい家を見せられないのは夫妻の遺憾とするところでしょう。畳のベコベコなのはあなたも島田で、お驚きになりますまい。しかし、ああいう折れかかった鴨居と隅の落ちた床。決して女の力では明かない玄関の格子というような物狂い的家屋は、おそらく話で人を信じさせ難いものでした。
大家さん、株式暴落まではクリスチアンで(細君)栄さんが「怒っても子供にああいうやさしい声でものが云っていられるって、どういうんだろう」と、足かけ四年感服していたが、去年あたり破産に瀕したら、人生の波の方が真率で、その細君をきわめて人間らしいものに戻しました。大家さんのおかみさんらしいものに戻した。新しい家が九分迄かりられそうになると、わけのわからぬわけで駄目。ははアと心付いて、新しい家は急にきめてしまった由です。
お人形、時計、そんなものを持って、折からの雨中、傘を並べて新居へ行ったら、天井も床もしっかりしているので「ああ、これで安心した」と大笑いしました。「天井も菱形じゃないからいい」と私が云って又笑った。
中野区昭和通一ノ一三です。
――○――
けさ八時前に御飯たべていたら、大家の女中さんが来て台所で何か云っている。大工さんをよこしますそうです。大工が来て、世話焼の七十何歳とかの爺サンも来て、玄関のカマチと四隅の柱、台所、湯殿のカマチと直すという。応接室の建ましは断念と見えたり。何しろ縁側がない家だから、大雨だと外の羽目から雨がしみて、室内の欄間の壁が大きい地図のようなカビを出している。「どうもこれじゃ応接間をつけたところで……」と留守の間に云っていた由です。一寸ついている竹の袖垣をその形ごとはずし、ジャッキでギューと持ち上げて四本の柱の根つぎをし、あっちこっち家が真直になったために壁が落ちて、夕刻は大工の方はおしまいというスピードでした。
何という日本の家の便利さ(!)でしょう。何たる積木(つみき)如きものを建物と称すことでしょう。土台五六寸新しい柱を立てて、ジャッキで家ぐるみもち上げていた柱をストンとおとして、自然の重量で、くっついている。クサビもなければ、かみ合わせもない。そういう柱!で支えられている、この地震国の家。家をハウスと訳すのみならず、ホームでもあるし、命の箱でもあるし、私は手早さに感歎すると同時に、アナトール・フランスが「昔物語」で云っているような都市の歴史的な豊富さ、住宅の持つ歴史的内容というものが、こういう建物で間に合わせて雨露を凌いでいる習慣の中には、決してその興味ある堆積をなし得ないのを、実感しました。ゲルツェンの家を作家クラブにもなし得ぬ。卵橋(ポンヌフ)の河岸につらなるパリの十六世紀からの住居の美もあり得ない面白いものではありませんか。感情のアシの短かさ、厚さの浅さ、ニュアンスのうすさ。アメリカ材だと、この家のように十年経つと木がひとりでにくさって来るのですって。(この家どこもかしこも米材なり)都市としての江戸の形成の過程と東京の変遷を考え、一種異様な感がします。昨今、王子に近い志村の町に工場がどっさり建つ。その地形(じぎょう)のために泥をナラす。下から出て来るのは竪穴の住居遺跡です。やっと農業がはじまり、竪穴が集まって聚落(しゅうらく)をなしかけた時代。沢山の土器、鉄片の少々などが出る。そういう土の上は、昔ながらの方法による畑であったのが、いきなり最新式工場と変りつつある。畑の野菜は腐っている、ガソリンが少くてトラックで運べないから。私たちは百匁十五銭のトマトを買っている。(大きいの一ヶです)実に錯綜した線ですね。
――○――
今何をよんでいらっしゃるかしら。私は体に力が湧いて来た感じです。大事にして、来月からはすこし仕事はじめます。こういう力のある健康感、ぱっちりみのいった感じ。うれしい。胸のはり出すような。二十三日に出した手紙に計温かいたから、これにはやめます。九月九日からつけはじめ、十月九日で終る。二十三日の最高六・四、二十四日六・六、二十五日六・五です。こまかにはこの次に。
どうか風邪をお大切に。この夏ぶりかえさずにお過しになれたのを、本当によろこばしく思っているのですから。さあ、あしたは早く行こう。ではこれでおやめ、ね 
九月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十七日第五十七信。
五時頃、昨日開成山からかえって来た林町一族がやって来るというところ。只今茶の間に火を入れてテーブルの前に坐ってふと思い立ってかきはじめます。
林町では食堂のテーブルでよくかいた。こちらでは茶の間では小包をたくさんこしらえたが、めったに手紙はかかず。
考えて見たらこの茶の間のたたずまいは詳しく御存じないわけね。南にぬれ縁のついた長い六畳でね、私はつき当りの襖を背(戸棚)にしていつもテーブルをひかえて坐っている。入る方の(私に向って)左手に、例の私たちの箪笥があり、それと並んで例の茶ダンスがあり、茶ダンスのわきの柱に父が一九三五年の二月十三日の上落合の家で私の誕生日のためにプレゼントとして呉れた精工舎の質素な柱時計がかかっている。その柱から一間が襖で、襖のあっちに北に肱かけ窓のある三畳。三畳から廊下が茶ダンスの裏を通っていて風呂場。奥が台所。台所を通っている廊下が、カギの手に六畳の入口へまわって来ていて、それはまた鍵の手に玄関を入ったところまでのびているという工合です。
テーブルは、山田のおばあさんがお祝いに呉れた黒いカリンを出してつかって居ります。(どうしたでしょうねあのお婆さん。お祝を貰ったときにはお返しが出来なかったから、その年の暮には娘さんに十五円ばかりの羽織地、お婆さんに毛糸のフカフカのチャンチャンを上げ、大変よろこばれて私もうれしかったけれども。)テーブルの左に例の長火鉢。私はまるで子供がままごとをして、おうちの形をこしらえるように、前をテーブル、左手を長火鉢にかこまれて、居心地よく納っていると申す塩梅です。
○おなか大したことなくてようございましたね。お風呂で、さぞだるかったでしょうね。きょうは、妙に私の耳が鳴るというか、圧力が鼓膜に加っている感じで何だかヴェトーヴェン式でいやな心持であったが、かえって用のない人に会っていたらめまいがして、あと床についたら、カゼの気味でした。ゆたんぽをあて背中をぬくめたらすっかりいろんなことが直りました。いつ引いたのでしょう。可笑しいこと。〔中略〕
きのうは、何と云ったらよい日だったでしょう。とにかく外出からかえって来て、実にひとりなのが苦痛でした。外で心にうけて来た衝撃が深く強く、こういうときあなたに話し、相談にのって貰え判断を助けて貰ったら、と呻くように感じました。私のことでも、私たちのことでもないのです。全然家族的なことではない範囲での感情の問題なのですが。
親友として如何に処すべきか。人間及び大所高所からの判断は一つしかないのだが、最も愛する友達が、妻母として大なる傷をうけ、流す血をなかなか正視しがたい心持です。きょうは絶えず考えている。一番しっかりとした愛情で行動したい。そう思って考えている。劬ることで侮蔑にならず、虚偽を虚偽として現実を示すことで、単なる正義感の満足とならぬように。
人間は一度ならず間違います。しかし間違いの種類と程度と間違いかたというものがあります。苦しいことだ。良人としての真実、仕事と生活との統一を求める真実、友人の信頼に対する真実、それらの真実とは何でありましょう。どう行動するのが、真実であるかは判っている筈です。間違いとは、非計画的なものではないでしょうか。計画にしたがって設計された二重の生活を、間違いと云え得ないと思う。それは計画でしょう。我々の友情の内容の深さ、期待や信頼の歴史的な意味というものがわかっていて、自分の存在の意味が分っていて而も出来ることだとは思えない。夫婦とは何でしょう。
抽象的にばかり書いてすみませんが、私の今の心の苦しさは、これだけでも書かずにいられない。辛抱して下さい。芝居のタンカではないが、どっち見てもケチな野郎でござんす風な光景の中で、真心から支持して、生活も仕事も成長するように愛する友のためにも堂々たる良人であるように、誇るに足る友であるようにと切望して来ていた友人を、その本質に於て失った心持は、失いかたが複雑で、主観的でなくて、苦しい。私が留守であった夏、自分から命を断とうと迄苦しい目をしたひとが、再びこれを知ったら、どうのりこえられるだろう。その確信が私につかない。戦慄(せんりつ)を覚えます。私がこのように苦しいのだって、その人及びその時代の善意の大抹殺だからです。これまで、ああいう思いをして何のために生きて来た、ああ考え、ああ云い、今も白を切ってそう云い、している、それは何なのだ、そういう大憤怒の故に苦しいのです。
私が最大の愛情と正当な判断力にしたがって行動出来るよう、支えて下さい。昨夕、そしてきょうは、文字通り私が手をのばしてつかまるあなたの手がいる程です。何たる思いをさせて呉れるのだろう。
しかし夜はやはりちゃんと早く床に入り、よく眠りましたから御心配下さらないように。今夜も勿論同様。但しきょうは熱がすこしあるが、マアこれは致し方なし。
〔欄外に〕
体温表をかいているような気分でない。あとで。きょうは七・二ですから大したことない。 
 

 

十月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月六日第五十八信
十月の六日に八十二度ということがあるでしょうか。本当に気違い天気ね。おなかが空っぽだから、きっとそんなに温度が高いとはお感じにならないかもしれない。
きょうは、あした野原の小母さんがいらしてなさる枕がないし、布団が不足しているし、それらの買物に早いうち日本橋の西川へ行きました。塗った箱枕、うちに一つもない。先にお母さんがおいでになったとき買ったが、度々のひっこしでどうかなってしまっていて。それから朝御飯に一寸あがる佃煮などを買い、伊東やへよって、今度は私たちのために例の大型の封筒を見つけ出し。そして電車でかえりましたが、私はそちらにもよく着てゆく紺の絣を着てフーフー。それでも、早くから新しい袷を縫って十月になるのを待ちかねていたような御婦人たちは暑そうに袷を着て、自分の衣更えの気分を味って居ります。西洋の諺(ことわざ)に曰く「女というものは、自分が美しく見えるためにはどんな苦痛にも耐え得る」と。
帰ってお昼をたべていたらさち子さんがよりました。初めてだったのね。余り前から行くことを云っていたので、初めてのように感じて居りませんでした。
どだい、そちらを訪ねるということが最初だったそうです。二人で責任をもって暮して行くように、と二度も仰云った、と云っていました。その言葉を、あの人に特におっしゃったこと、その言葉にふくまれている貴方としての感想、いずれも私によく通じました。全く、その言葉は幾度云われてもよく、又いく度か自分から自分たちは責任をもって互に互のために生きているだろうかと反省してよい点です。体温の本、一般動物についてですってね。何だか滑稽で思わず笑った。でも、そういう方面の本の探し手としては適任が見つかってようございました。どうせ医者になるならヤブにならぬようと云って下さった、と。私たち勿論ヤブでない医者が友人にあったらどんなに便利でしょう。経済(中央大学)にいた人の由です。中途転業。だからなかなか骨の由です。学生の中でもとっちゃん学生なわけです。
こう書いているうちにも、玄関風呂場は、カベのぬり更えで大乱脈。この間、土台をジャッキでギューと上げて、ストンとおとして根太をついだ話いたしましたろう?そのとき壁は無惨な体たらくとなりました。やっとけさから塗り直しにかかったところです。茶の間の雨のしみたところやちょいちょいとある。何しろ家主さんは不可抗な事情に到って直して呉れるのですから。なかなか微妙なものです。こちらの家へ来て話すとき職人たちは借家人の心持の側に立って、何でもなるたけよくやりましょうという風に話す。その職人が竹垣一つのむこうに行って話すのをきいていると、ナアニちょっくら云々と。心理をとらえている。仰々しく云ったのでは職人としての仕事がなくなってしまうかもしれません。
野原の小母さんは明朝七時十分着です。けさの九時五十何分かに島田を立って。
明日は、お迎に行って、一寸休んで、淀橋へ行って、時間と疲れがくり合わされれば、午後にでもそちらへ行けたら、と思って居ります。今ごろ、むし暑い汽車の中で、くたびれて、心配して、行く先が不案内で、恐らく汗と涙とごっちゃに、大してきれいでもないハンカチで拭きながら岡山あたりを揺られていらっしゃる様子が目に浮びます。東京見物は冨美ちゃんが卒業祝に、と云ったりしていたのに、計らずものことですね。
マア、ことが一落着したらすこし息を入れていらっしゃればようございます。Tさん、妙テケレンなプラチナの指環はめてるのを私が目につけ、あんなのはくさいと小母さんに申したのは本年の五月でした。とり合わずにいらしったっけが。
きのう話していて、女の生活って本当に大変なものね。息子や亭主のことでみんな苦労して、と私が云ったとき、あなたも笑っていらしたけれど、ちらりと、あら、勘ちがいをしていらっしゃるという感じがしました。その笑いの中に。私は苦労という言葉で表現されるようなものは、細君として受けて居りませんし、苦労が苦労としか結実しないような苦労もしていません。私たちの生活とはきりはなして云ったことでした。何だかばか念を押すようで可笑しいかもしれないけれど。
或一つの事件について、一人の人間は、ああこういうことをするようでは心底あらわれたり、と思い、ある一人は、それは性格的な欠陥だと思うけれど、と一部分のことのようにうけるという相異は実に微妙且つ心理の分水嶺をなしますね。或ものは、性格の欠陥と見きわめつけば益〃決定的に判断する傾きになり、一方は、それは特定の方面にもっている欠カンであってと、欠陥が根本的にどんな作用を及ぼすかということは場合場合によってちがうという風に観る。
漱石の「三四郎」に、ピティーアキントゥラヴという言葉をどう訳すかという場面がある。可哀そうだは可愛いってことよと都々逸(どどいつ)風に云い直している。
卑劣さということの解釈も亦そういう点の理解の相異によって相異して来るのですね。或特別な性格がその性格としてそうしか考えられず、やったことは低いには低くても卑劣と云い切れるものでないという風になるらしい。元来そんなの変だ、というのと、あのひとは元来そうなのだから、ということでは、ちがった標準に立っているわけです。面白いものね。
弱い、そして主我的な人は、自分の痛いところを劬(いたわ)ってわかってくれることに対しては、云うをまたず自身の純情を吐露してよろこぶでしょう。すがるでしょう。対手のそのような善良さに、ここをせんどとしがみつくでしょう。功利的な意味でなく、自分のせめてものよい部分を生きのこしてゆくためにも。その所謂純情さにホロリとしてしまう。女の情合いというものは、何と許すことに馴れているのでしょう!自分たちの生活の中で、許されることと云えば本当に、本当にまれで、すくなくているのに。
こういう女の情合のありようと、Hにしろ、Bにしろ、Iにしろ、今日妻としてはどのように生きて居り、往年の翼(人間としての)はいかに挫(くじ)かれているかということを思い合わせると、その間に、深刻な何かを感じます。こういう風に、自身の事情の内にとぐろをまいている生活は、人にも云えない苦しさというものを主観的に経験しているのはうそではないから。その苦しさのうたに自分からいつか眠らされて、鈍痛的無気力状態に陥り、生活感情を合理的にもってゆける人間に対して、女同志である場合には特に、あのひとにそういう女の心持はわからないとか、苦労していないとか、苦労が足りないとか反撥する場合が多い。それも興味ある現象です(一般的に見て云っているのですから、どうぞそのおつもりで)そして、こういう感情の質の相異が或意味では旧い年代の女の心持と、新しい年代の女の心持とのへだたりになってもいる(新しい年代がそれ自身の問題としてもっているものは又様々であり、それなりでよいと云えないものも多くあるのだが)。女の感情、男の感情から義太夫のさわりの部分は、さわりの趣味はいつになったらもっと朗らかで雄大壮厳な合唱と献身とに変ることでしょうね。
年齢が加って、社会的な体面のようなものが出来ると、ゴミ袋はいつしか尨大なものになって、つまりはゴミ袋をどうやらころがしてゆくのが日々の実体みたいなところを生じる人さえあるのだから。
私は襟を正して夫婦とはおそろしいものであると感じます。愛というものはどうやら際限がないらしい。それが愛であればあるほど。どっちみち愛によって生き又死ぬと云えるところがあるのだが、世俗的には身をほろぼすが如く見えつつ生きる道と、外面的には生きつつ実は身をほろぼす道との間に横わる各ニュアンスは実に千差万別であって、びっくりします。どんな人でもその人らしい恋愛しか出来ない。そう云うのも本当であるし、それ故に恋愛や夫婦の情合の生活に於ては、そうでない筈の人々も実に経験主義ですね。寧(むし)ろ、そうである権利のようなものを肯定し且つ主張さえする。科学で戦争がやられているが、この方面の感情の内にはモンストラスなものや暗愚なものがまだまだ蠢(うごめ)いていて、丁度ノートルダムの塔の雨樋飾(ガーゴイル)の怪物のようなものが棲んでさえいるようです。
明日からは事ム的に体も心も忙しくなることでしょう。だから今こうやって、このような話しを。
私の熱のこと。大分とばしてわるうございました。今でも朝おきて御飯前(七時半ごろ)と夕刻(五時半ごろ)、夜八時半か九時には計ります。二十八日の手紙ではのぼせていて、ばからしいさわぎのように見えたでしょう、御免なさい。いろいろ深く学ぶところがあった(あります)一般的な問題として。
二十五日に書いた手紙で前日までのを書いたでしょう、そう覚えて居ります。二十五日、六日、七日と朝五・四位、夕刻の一番高いときで六・九位でした。二十八、九と最高が七・一でした。三十日、十月一日、二、三、四日と最高が六・八。きのう、きょうは七。そして夜九時頃には六・八分です。
九月九日から表をつけ出したのだからもう三日間で一ヵ月ですが、その波を眺めると、九月十五日から九月二十七日位まで、二週間ばかり非常に平均して六・六から六・八を通り、二十七日以後恐らく又二週間ほど七度をすこし越すのではないでしょうか。どうもそうらしい。そうだとすると、生理的なピリオドを中心としていることになります、大体。神経質体質では八度越す人もある由。やはり夕刻五時頃が一番たかいから、もしこれから一ヵ月平均をとって見るとすれば、その時間だけ統一して見てもようございます。しかし本当のところ、私は一ヵ月の調査で十分な気がしているのです。どうお考えかしら。早寝早おきは、これさえ守って行けば、大変病気はふせげるという確信もつき、それが自分の習慣になったことも感じます。それには早朝の挨拶が何よりの役に立ちました。これはいつまでもつづけます。おもゆにきみのおなかではさぞだるいでしょうね。野菜スープ上っているでしょうか、あの匂いはおきらいですか。大してきらいでなかったら、やはりあがった方がいいのではないでしょうか。出来るだけ種類を増すために。本当にリンゴをすってあげたいこと。では又、小母さんがいらしての様子を。 
十月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十三日第五十九信
一ヵ月ぶりの手紙は頂く方も大変珍しい。この間うち、随分お書きにならないなと思っていましたが、心持は全く膝つき合わせているから、或はそういうatHomeさで、うちにいて、よそへは手紙書くように、誰彼へ書いていらっしゃるのかもしれないと思って居りました。
明るい陽のさしているようなお手紙。この頃は何だか特別に毎朝私の顔や心がいっぱいに心持のいい、云うに云われぬ光りを浴びる心持です。きのうなど、その心持よさ、うれしさ、充実したたっぷりさで感動しながら雨の中を原っぱをぬけました。こういう深い、汲めどもつきぬ感じを与える暖流は、何と宝でしょう。日光のチラチラするような、一寸枝蔭(えだかげ)のさしているような、そういう安らかな流れに体をひたして、私は眼を瞑(つぶ)って自分の体をやさしくとりまくものの感じに流れこんだり、ああいい気持と又目をあけて、パシャパシャ水しぶきを立ててあちこち眺めたり。愉しい、愉しい気持。
こういう爽やかな、優しさと力に溢れたような情感の全身的な水浴を、あなたにも時折はさせて上げているでしょうか。私の人間としての質量が小さくて、もしそういう横溢の中にあなたを包み、新鮮にしてあげることが稀だとしたら、本当にすまないわけですね。
汲めどもつきぬもの、滾々(こんこん)と湧き出づるもの、私は貪慾だから、私たちの生活にあるそういうものを実に愛します。この頃特にそれが強くなって来ている。噴きぬき井戸が正しく真直に水脈の上に掘りぬかれていて、その上を風が吹けば虹色の立つ水が溢れるということは、大事なことです。曲りくねって、滲み出して、じめじめしたあふれ水はいやです。
勉強のこといろいろ有難う。私は小説家ですからという気持は大分減って来ているのですが、昨今感じるところあって、文学というもの(少くとも昨今文学と思われているもの)に対して、一層つよい疑いを抱いています。昔小説をかきはじめた頃、所謂文壇の作家の生活気分や作品やに対して本能的な不調和を感じていた。当時は、私の世界的基準はトルストイでしたが。つくってゆく小説、人間として生きてゆく歩みから出来る文学、その相異をしみじみ感じていたわけです。
昨今の出来事及び本になった小説(およみになれなかった)を再三よみ直し考えて見て、文士になっている感情のありようというものについて感じを新にしました。
今日の文学が健全性を失っていることはおどろくべきであると思う。人間感情の紛糾を、真に解決しよう、真に発展させよう、社会的な本源につきつめて究明してゆこうというより、社会的なものだ、相対的なものだ、という一定の観念の上に立って現実にはごたつく気持の縺(もつ)れ合(あ)いに身をまかせ、身をよじり、手をふりしぼる心の姿態を作家的自覚によって描いてゆく。現象的きわまりない。
どんな玉(たま)にしろ、ころがってゆくときは、真中というか中心を中心としているのだから、若しころがってゆく方向とか、ころがりかたを問題にせず、私は中心を真中にしてころがっているんですと主観的に強調したら、それっきりのものでしょう。
健全を求め、そのために努力しているつもりの作家に於てさえそうです。芸術家というものの感受性のありようについて、文士は度しがたい誤りにはまりこんでいる。人間が普通感じることを、一番人間らしい鋭さ、生新さ、溌剌さでピッタリと感じ、その感じを最も綜合的な内容=社会性の豊かな直感として、最も人間らしい意力によって処理してゆこうとする努力として、感受性を見ていない。本来なら頬の色が変るほど高い意味に於ておどろくべきことを、妙な客観性(と思いちがいしている鈍感さ、或は頭の鈍い形式主義)で、平気で、或は平気そうにうけて、さてそれから細いすこし指のふるえるような手で、それを身からはなしたところで、ああこうとこねて見て、それを小説だとしている。今日小説を書いている人々の何人が、真に愚鈍とその依って来るところに向って憤りを抱いているでしょう。それを少くしようという熱意で書いているでしょう。
紛糾を解決しようとする意志を多くの人が恐怖しています。紛糾に身を浮き沈めさせるそのことがヒューマニズムだと思っている。解決のため、その方向への一歩前進のための献身、その恐怖に堪える精神力は、ヒューマニズムの中に入れない。入れたがらない。日本の文学におけるヒューマニズムの特徴として実に近松が余韻をひっぱっています。日常生活におけるそういう人間的緊張の経験とその価値とを知らないから、多くの人々は北條民雄のように、癩病(らいびょう)になって死と闘う心持から書いたものとか、砲弾がドンドン云っているところで書かれたものとかいうものに、変に感傷的に感動し、過重評価する一種の病的傾向に陥っている。人間感情の不具、ディフォーメーションを餌(え)さにしているような文学に対して、私の文学ぎらいはつのります。
私がいつか書いた手紙の中に、自分の文学的技倆の不足を感じる程の生活内容ということをかきました。そのことと、こういう他面での私の所謂文学大きらいとは全く一致しているものなのです。強い羽搏きとつよい線と、しかも微に入り細を穿(うが)った諸現象の具象性をとらえ描きたい、そのために腕が足りないとそういう意味で。
このことは、逆に見れば愈〃私の作家的志向は、はっきりして来たことなのだから、腕のためにも仰云るような勉強は大切なことがよく判ります。職人的修錬の腕は元より問題外なのであるから。
「麦」については笑ってしまった。だって、読んで見て、樹を見て森を見ぬと私だって書いているのですもの。読まぬうちこそ情愛もたのしい期待も抱かせられたが。然し、読まないだって、と云われれば、それは又別ですが。これについては、私の方が「読んで見たのかい」と或一つの作品についての評価であなたから云われた場合があったから、五分五分ね(こういう表現を評して、返上辛辣とでも申しましょうか)。職業的ルポルタージュへの反撥が過重された評価の原因であるとはわかって居ました。
謙虚についても履(は)きちがいはありませんから御安心下さい。自らを大切にし尊ぶことから生じる自重のみが謙虚への本道です。相対的に世俗的にへりくだることではないのだから。
すこし話は傍き道に入りますが、例えば貞潔ということ、謙虚ということ、或は克己ということ、それらを世間では、貞潔が必然となるような愛の質の側から、謙虚が結果する自重、人間尊重の側から克己が来たされるより大な生活目的の達成の努力の側からよろこびをもって自然に説かないのは、全く可怪(おか)しいことですね。このことは何でもないようで何でもある。例えば、不屈性というものにしろ、行為の基準というものにしろ、その側からだけ称えられても、それをもち来す根本の一貫したものが、人間精髄としてその者の背骨を通っていなければ、安ぶしんの二階通りお神楽(かぐら)で、上にちょいとのっかっているだけで、すこしひどく吹きつけると忽ち木端微塵である。科学的精神の波の伝統のうすい日本では、情操としてまで、髄の髄の欲求としてまでそういう心持が浸透していない。理窟、或は現象分析機として或考えかたがちょいと頭にのっているが、胸の方はドタバタ、一向調子が揃っていないのが多い。将来の教育の方法への示唆になります。四五年来のぐるりを見て強くそう思っている次第です。文学において、人間性の尊重が痴愚への屈伏となっている所以です。
――○――
就眠・起床、サッパリだったね、には閉口して居ります。サッパリだったかしら、いつもではなくても時折はかいたように思うけれども。計温は、では十月一杯つづけて見ましょう。この前も書いたように、ざっと二週間ぐらい、本月は十日を中心に七度一二分になっています。早ね早おきをはじめて一ヵ月すこしですから、或は十月、十一月にかけてはましになるかもしれず。体癖を知るためにと云われると、だってというよりどころがないから、これ又閉口しておとなしく云うことをきくしかなし。きょうあたりから、では又こまかく計って書きます。就眠、起床もかきます。(小学生の叱られみたいね)
小母さん、可哀想にくすんで居られます。折角いらしたのだから上野、浅草、明治神宮、日比谷、エノケンからデパートまでおともしました。きのうきょうは、もと十条にいた本間さんに来て貰って、布団を新しくして、昨夜からはそれにおよりました。Tさんが来たら、しくのもなかったから。
電報をありがとう。やっと電報らしく三時すこしすぎつきました。家のことについて、滑稽な笑話があるのですが、この次に。美しい顔をしてよい身なりをして、女の人って、何て途方もない脳みそをつめているのかとふき出す話。では又ね 
十月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十六日第六十信
手の先の冷える雨ですね。こうやって手紙を書こうとすると、はじめてテーブルの木の肌がひやりと感じられます。あなたはお寒くないかしら。もう毛のズボン下着ていらっしゃるかしら。
きょうはね、クスリと笑えるような、滑稽な家族的な日です。
きのう、小母さまは、朝のうちTさんが面会したら、もう午後からでもかえりたくて、あなたが昼間の汽車にしたらいいとおっしゃったというのを、夜でよろしうありますと、八時半のにおきめになりました。何しろ一昨日の朝迎えに行って、ひる頃そちらへ行って夜かえると、すっかりきめていらしたのですから、案外手間どって一昨日は夕刻かえれないのでしびれを切らしていらしたわけです。
八時半に立つというのに、おひるを少々おそうにしたら、はアお夕飯はいりまへん、という胸一杯の有様で、まるで夕方まで身のおきどころのない顔をしてムズムズしていらっしゃる。見ていられない。仕方がないから、では夕方まで映画でも御覧になりますかということになって、雨の中を帝劇へ三人で出かけました。光井のはチラチラするが、こっちのはようあります、というわけです。五時半ごろかえったら、あなたからの電報が来て居りました。
よんでおきかせしたら、余り迷惑そうな、むくれ顔をなすったので、私もすこし子供らしさにむっとして、「これは何も顕治さんが自分のために会いたがっているのではありませんですよ、小母さまがフラフラしていらっしゃるから、それでは将来が不安心だからと思ってなのだから、そんな迷惑そうなお顔をなさるのは妙よ。そういうところがあるから、顕さんは心配しているんです。」
ほんとに、あの位親切に思うちょっての人はほかにありません。それはそう思っていらっしゃる。やっと御気がすこし落付いて、夕飯をたべて、では十九日迄のばすということになりました。私が会って、顕さんの云うちょること手紙で書いてもろうたらようあります。というのはTさんが反対しましたので。
きょうは、降りこめている。茶の間で、濡れた八ツ手や青木の葉が光っている庭、すっかり雨を吸いこんでしめったとなりの家の羽目の見える硝子障子をしめきって、小母さまは大仏の「由井正雪」を、Tちゃんは子母沢の「国定忠治」をよんでいる。私もそのわきでヘッセをよんでいたが、どうもどうも二人の読書の姿にユーモアがあって、ひとりで笑えて来てしかたがない。その神妙さが、何とも云えずユーモラスで、さぞ腹では、あの鍋だの、あの皿だのとそわついていらっしゃるだろうと思うと、可笑しいやら気の毒やら歯痒いやらで、本当に面白い。慰問のため、うちではきいたこともないラジオのレビューというのを午後二時半からやろうというプランを立てたり、私は叱ったりはげましたり、御機嫌をとったりに大童(おおわらわ)です。
今度のことにつけても、人と人とのいきさつというものの面白さ、複雑さをつくづく感じます。小母さまたちは、永年の生活の習わしの結果、目先、その場その場のいきさつ、表面での浅い親切、泣く笑うで気持が刻々動いて行くから、Tちゃんのことでも、ハアさて大変、ユリ子はんにたのもう。それ助かった。顕さんにも会えた。ホラいのう。こういうテムポです。じっくりするということはちっともしらずに暮していらっしゃる。顕さんの親切はようわかっちょるが、顔を見て、泣いて笑って、もうすんだお気です。将来の方針ということでも、どうも私が見てもたよりなぁありさまです。勿論、再び元の道にかえそうとは思わず、御自分のわるいこともわかっていらっしゃるが。
だから、ああやって電報下さると、何だか仕方なしなしいるみたいで、自分で自分がわかっていらっしゃらない。私たちに、あなたに何だか頸ねっこをギューと据えられたみたいな気もしていらっしゃる。笑えるけれど、腹も立つ。頼りない。Tちゃんがよっぽどしっかり腹を据えないと、ぐらつきます。話題にしろ、小母さまから、金の儲かった話、誰がなんぼある、又はすった話が、ここにいても出る。うちで母子顔をつき合わせていたら、きっと、それで終始するのではないでしょうか。生活の習慣というものは可恐ものです。東京の町を歩くのに、小母さまは、いつも我知らず右手を八(や)ツ口(くち)から入れて懐手(ふところで)をしてお歩きになる。ころんだらおきられなくてあぶないから手をお出しなさいませ、やかましく私が云う。これは、非常に小さなその癖、生活の根本気分を物語る特長です。面白いでしょう?
十九日までいらっしゃるようになってよいと思います。いやいやいらして、私は気が揉めるが、それでもいいと思う。いやなところを二日も三日もかえりをのばさなければならなかったことも、何かの形でやはり小母さまのお気持に強い印象としてのこされるでしょうから。ああいう思いをした、とお思いになるでしょうから。事がらの重大性がすこしはしみるでしょうから。昔、私がごく小さかったとき、変な菓子があった。多分飴(あめ)でつくったのですが、電気モーターにかけてフワフワとまるで真綿みたいにフワフワして華やかな色のついた菓子。それはフワフワしているくせに、口へ入れると、細い線のかたさがあって、いやであった。その菓子を思いおこします。実に浅いところをフワフワしている。沈む重みをもっていない。そのくせ、その軽さ、フワフワ工合に於ては、すっかりかたまっていて、もう変りっこなしと皮膚で云っているような。
あなたが力を入れて身の立つようにと考えてお上げになるのは、本当に深い情愛です。それだけのうちこんだ肩の入れかたを他にして呉れるものは決してない。それはわかっていらっしゃる。ですから、全部無駄になるというようなことは決してないことです。あなたのいろいろのことのなさりようから、私は私として二重三重に学ぶところがあり、感じるところがあります。自分に対して注がれている心のいかに深いかということさえも、一層肝にこたえるようです。
私の朝の出勤。朝の挨拶のプランを考えて下すったことにしろ、一ヵ月も実行して見て、その一つの事が日常にもたらす全体の価値がまざまざとわかって来ている。私はもう自分からもやめないでしょう。
そういう風に、具体的に、生活へ何かをもたらす力について、私は屡〃考えます。
沢山の賢い人々は判断はする。在る状態について。だが、その中へ現実に一つの流れをいつしかつくってやる力というものは、必ずしも判断力をもっているからと云って持ってはいない。而も、愛は真に活かされるために、常にそういう力を必要としているのです。親子にしろ、夫婦にしろ、友にしろ、広い人間の諸関係で。私も切にそういう力を育てたいと思う。私のそういう力は皆無ではないが、まだ未成熟で、所謂女らしい配慮のゆきとどく範囲から大して遠く出ていないと自分で思われます。御意見はいかがですか?私は、自分が女であることに些も不平はないから、女らしい配慮、こまやかな輝やかしく愉しい日常性と共に、そういう推進力を確りもちたいと思う。頼りになるところを増したいと思う。これは、天賦の知恵にも負うところが多いから、果して自分がどの位そういうつやをもって生れているかしらとも考える。
これらは総てたのしい思索です。おみやげの饅頭が腐るとか、くさらないとかさわいでいる間に、私の心の中でこれらのことが動いて、そして貴方に話しかけている。そして、手紙をかきたい書きたい心持になる。雨の音の中で手がつめたいでしょう?そう云いながら書いている。秋でもなし、まだ初冬とも云えない。こういう雨の日は何というかしら、一寸向き合って坐っている膝の上にものをかけたいようですね。
〔欄外に〕
○今一騒動して来たところ。何しろ退屈らしいからレビューをおきかせしようとしたところ、第一放送をいくらきいてもヴェートーヴェンの第八をやっている。きのうからか、波調をかえた由。やっと今フルエ声をおきかせしている。 
十月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十七日第六十一信
きょうはお天気になってようございましたこと。きのうのような雨ではすこし困りました。今年は本当に珍しい御誕生日です。小母さまたちは母子水入らずで、いかにも嬉しそうに十時すぎお出かけ。Tちゃんが夏仕度なので壺井さんへ使をやって袷をかりて着せて。入れちがいに、甲府の方の人がよって、立派な黒っぽい葡萄(ぶどう)を二房くれました。それを、父の持っていたので私がもって来ているノルウェイ辺の木の盆に入れて茶箪笥のところへ飾りました。その人が築地を見るため十一時すぎかえったので、私はサアお久さん花を買って来るよと足袋をはき更えて、市場へゆき、すこし紫がかった中輪のと、白の中輪のとを買ってかえり、白い方は机の上。色のある方は茶の間に。茶の間の正面、私の座る場所の右手の三尺の壁には、『冬を越す蕾』の扉の原画がかかっていて、その雪解の川水を描かれている薄灰色のような色や白っぽい額縁と菊の色とは大変よくうつりました。お久さん、マアきれいですこと、いい配合ですねとよろこんでいる。赤いポンポンダリアを三本買って来たのを、お久さんが土産に持って来た白樺細工の掛花瓶にさし、一本だけお久さんにやった。ポンポンダリアはまんまるくて、赤くて、暖かそうで、二輪並んで插っている。こうやって書いていて、微かに菊の匂いがします。そちらにどんな菊があるのでしょうね。黄菊か白菊かの筈だけれども。そして、やっぱりこういう日差しの中で微に匂い、あしたの待ち遠しい心の上に薫っているのでしょう。
去年も一昨年も多勢よって御飯をたべました。その前の年は、登戸の方へ出かけた年。本年は、不思議なことで、小母様母子と私とです。この間うちからつづいて、ごたごたしつづけたので、きょうがこんなにしずかで、菊の匂いをまいて、二人でいられるのが却ってうれしい。お二人があちらはあちらで満足して、出かけていらっしゃるのもいい心持です。
いろいろな年のいろいろな御誕生日がめぐり来りますね。こうして、くつろいで、原っぱの上に濃くおりている夜霧や、その夜霧を劈いて流れている工事場の電燈の光の色やを思い出すのも愉しい。
昨夜は、夕飯がすんだとき、さち子さんが岡山の栗をもって来たので、小母さまがそれをむいて、私もむいて、火鉢の灰にうずめて焼いて、私は初めてやき栗というものをたべました。Tは、焼きかたを忘れて、いきなり火に近くおいたので、はじめの分はこげて妙でした。二度目はうまく行った。子供のうち、あなたもよくなすったってね。先へひろってたべてしまうので、Tさんがさがして、ないようになったと目をパチクリさせたと大笑いでした。
野原での伝説にはいろいろあるが、顕ちゃんの風呂たきの一条は小父上さまもお話しになったし、小母さんも何遍も何遍も仰云る。昨夜も又出てそれを又私が飽きもしないで、はじめっからおしまいまで話して貰って、初めて聴いたとき同然可笑しがって笑う。大人になっても、きき飽きないお話をもっているというのは、やっぱり仕合わせの一つにちがいありません。
むいた栗ののこりは、今下の火鉢にかかって居ります。ふくませに煮ます。
甲府から来た人の話で、その人は果樹をやっているのですが、本年は高級果物が大変な価上りだったそうです。メロンの上もの、五ヶ入りが米一俵の価でした由。大衆向のものはから駄目で、桜ん坊は前年の半価の由です。
結婚の問題がやっと落着したばかりだそうで、そんな話も出、あちらでは、この頃都会と農村との交流作用が生じている。若い女の人で、町のミッションなどを出たり、教師をしたりしていたようなひとが、村の農家(と云っても中以上であるらしい)の嫁に来て、村育ちの女よりも決心かたく努力的でわき目をふらず働いている。ところが、村の中位の農家の娘は、同じような家に嫁入っても、なんだか落付かなく目をキョロつかせて、気が散ったような結婚生活をしている。村の中で不安な生活を見て都会になら何かいいことがありはしないかと思うからでしょう。ところが都会で本当にそこの生活をして来たひとは、どんな世の中になっても土についていれば最悪の場合でも食うにはことをかかぬという点で腹がすわっている。こういうことは新しい心理であり、いろんな偉い女史たちは、若い娘が都会へ出たがる心持の面からだけ、それを而も比較的表面の動機で判断して云々しているが、逆に町の若い女のひとの心に生じているそういうもの、は見落されています。なかなか多くのものがふくまれている心持です。食うことの安定感のためには、相当の因習にも堪えるというところ。因習に堪えないから、自活すると云って町へ出た時代と比べ、若い女の賢さの質が推移している。しかし、何しろ一粒の米も出来ない土地だからと、どこでも天候の工合で白穂の多い本年の米作について話していました。果樹の前は稗(ひえ)と綿だけのつくれた焼原であった由。毎年水を買う、金を出して、河の堰を何日間か買って部落への灌漑にする由。その村は一種の模範村らしいが、これは若い時代の男が大多数中等以上の教育をうけて、果樹にしろ蚕にしろ研究的にやっているからであるが、三十五ぐらいで未婚のあんちゃんが少くないとのことです。分家させられないから。そして、良人として妻に希望する文化上の要求と労働の求める体力、性質との一致したような女のひとが少いから。
町に新しく出来たデパートでは日給三十銭。女学校卒。銘仙の着物を着て通勤せよ。それで娘さんが押しかけている由です。
大都市に近くて、激動を蒙る村や町の生活のうつり変りの激しさ。コロンビアが主題歌をレコードにして売っているお涙頂戴から大して出ていない映画でも故郷の廃家をテーマとしています。
Tさんは今度こそ商売をかえるでしょう。私にその商売(以前やっていた)のカラクリを大変さっぱりと話しましたから。ああさっぱりと見栄をなくしてその悪ラツさをひどいもんだと話す気分なら、戻るまいと思います。先頃は私がどう云おうと、決して話を、損する、儲けるという深度以上にはうけつけなかったし、一通り通用する商売をやっている体裁をつくって居ましたから。小母さん、その話をきいて、ホウ、まア何たら、と唇をとがらしておどろいていらっしゃる。
さあこれから乾した布団を入れます。そしてTちゃんの洗濯物を乾させます。そして夕刻まで本をよみます。義務教育と称する本を。今夜はロールキャベジをこしらえます。招魂社で火花の音がしています。
では又。日がかげって来たこと。私の体温は六・八が最高でつづいています。(こんなかきかたでは叱られそうですが、きょうはこれで御勘弁下さい)明日お目にかかって。 
十月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十七日第六十二信
夕暮が段々迫って来かかる。テーブルのところがすこしずつ暗くなって来ました。薄い一冊の文庫本をさっき手紙をかき終ってから読みはじめている。教科書類は大事にしてあるので、さし当り手元にあるのを、きょうからとしてよみはじめているところです。この本はなつかしい本です。手ずれて、万年筆の線がところどころにひっぱられている。更にそれから時をおいて、赤い鉛筆の条(すじ)がひっぱられているが、ペンの線と鉛筆の線との間には微妙な相異があって、ペンがより集約的な表現に沿うて走っているのに対して、赤鉛筆はより説明的な解説にまでひろがってつけられている。赤鉛筆をもってよんだときと今日の間には何年かが経っています。
本は何と可愛いものでしょう。
こう書いて、次の頁が書かれるまでに三日経ちました。
十八日には私がそちらから帰ってから、Tさんと二人でお出かけで歌舞伎座。浅草のレビューか何か見ていらした(それは前日だった)。二十日にはそちらから三越へまわって、島田のお母さんへのお土産の羽織紐や何かを買ってかえりました。雨が降り出して、それでもどうやら電車で来られて、音羽へさしかかったら、折から野間清治の葬式で、講談社の前は電車一停留場の間だけ、往来の左右まで花輪と人垣、車の連続で、小母さま、一種の見物だと目を大きくしていらっしゃった。人間の心持の活々した面白さと思うが、野間清治が狭心症で急に亡くなった広告が夕刊に出たとき、おや野間が死んだね、と云って何となし笑うような気分が附随し、(十八日の夜で繁治さんのところにいたが)そこにい合わせた人が期せずして同じ気分を受けた。そしてかえって来たら、おひさ君が同じことを云ってやっぱり笑いがついて来た。同じ心持なのです。下らないようだが、人物が人々にいつしか与えている印象の総和的な表現だから、なかなか面白いものだと思う。人間に対する評価というものは、多くの場合こういう風に、はっきりした言葉や表現をとらないものとして(そういう表現を知らない人の心にも)たたまって行くのだから大したものですね。
そんな、花輪の一箇一箇が出来るだけ大仰(おおぎょう)に足を高々とつけて、それを機会として自家広告をしているような葬式を通りぬけて、かえってからよせ鍋の夕飯を五時すぎにすませ、七時には家を出て車で東京駅までゆきました。
Tちゃんのカンカン帽があって、それ一つだけがどこにも入らない。Tちゃんが目白へかえって来たとき、おや洗面器をもって来たのかしらと思って見た風呂敷包みの恰好そっくりのものを又小母さまがこしらえて、後生大事に膝にのせておかえりです。靖国神社の臨時大祭には(十九日)二百万の人出であったそうで、私が外苑や銀座を御案内したら、銀座の風景は全くふだんとちがっていて、黒紋付を着て、ホオに白粉をつけ、胸に遺家族のマークをつけた若い女のひとなどが、式服の白羽二重の裾からいきなり桃色の綿ネルを出して上ずった眼付で歩いているのに沢山出会いました。機嫌のよくない表情でいる。なかなか目にしみつく情景でした。大抵の女のひとが若い。実に若い。汽車の中にもそういう人々が何人か居りました。顔を見くらべると年よりに似た人が多い。兄とか良人とかを失い、実の親とつれ立って出て来ているのですね。
そういう汽車の中に、小母さまとTさんが向いあいに席をとり、睦じいような、そうかと思うと小ぜり合いをしてフッと両方で気分のはぐれるような調子で発車を待っている。例えばTちゃんが洗面器のようなカンカン帽のつつみを見て笑いながら、又来年かついで思い出すさ、というようなことを云うと、小母さまはそれを狭く女のことを思い出すという風にとって何か仰云る。だからお母はんはいやや、すぐそうばかりとる、とTちゃんが苛立(いらだ)たしそうにおこる。あっちへかえってからもこの母子の感情の急所はこういうところにあることがわかります。「小母さま、そういうことは生活の根本の暮しかたで変って来るのだし、当人もそうだと云ってしっかりやろうとしているのだから、こまかいことの方を余り五月蠅(うるさ)く仰云らない方がTちゃんも気持がいいわ、気持で追いまわしちゃ駄目よ。」そんなことを私が云う。「ハア、大丈夫であります。」そして三人とも笑う。まあこんな工合でした。
こんなお天気で広島へよるのも大変でしょう。私のコートをおかししてあるから、いくらかましだが。
出かけていらした甲斐もあり、見物もゆっくりなさり(島田のお母さんよりずっといろいろ見ていらっしゃる)ようございました。お母さんの方には折々これからの機会もありますが。中村やのおまんじゅうを百四十も買ったというのは、恐らく記録ですね。あちらではこれが大変お気に入りなのです。島田へ40、野原へ30、すっかり揃えたら、かえりがのびたので又買い直し。それも思い出でよろしい。
――○――
さて、けさのお手紙ありがとう。私は十三日のあと、十六日、十七日と出しました。追々届くでしょう。「婦人」の筆者のこと。私は判断が全く符合していて愉快でした。
去年の初夏、その作家論を書き、その核心の欠如と、時代の良心の成果としての「女の一生」。それを頂点として「真実一路」では真実そのものの社会的内容を見失ってしまっていること、そして再び、市井の勤直さに逆もどりする危険について書いた。「路傍の石」は一番最後の段階に属す本質をもっているのではないでしょうか。本当に今日の小説家のコースは様々です。だが共通に云われることは昭和の九年以来、あらゆる流派の線が、それ自身下向していることです。そして、しかもその下向が下向として自覚されていないことを特色としている点です。目下生産文学と云われているものにしろね。(「あらがね」の作者、「探求」の作者などによって)。重治の「汽車の罐(カマ)焚き」ごろ(二年以上前)からそういう名詞が文学上にあらわれたが、現在の文学作品においては質のすりかえと役立っている。
「苦々しさ」云々について云っていて下さること。本当です。ああいう表白の心理的原因としてあげられている点は、その通りだったと思う。ああいう時期のああいう憤りは、単に作家対作家としての感情からだけでない面も大いにあるのだが、やっぱり今日ああいう風な表現の曲線をもたないだろうということを考えると、憤りの本質は全く正当であるが、感情の曲折の心理が焦燥をもっていたことが判る。
私はあなたがこういう点を、きょうの手紙で書いて下すって大変面白いと思う。自分で丁度別のことから同じ点にふれて考えていたところでしたから。私が腹立ちを感じたり、妙だと思ったりするのに、土台狂った目安ということはない。大抵の場合、そういうもの(原因)は客観的にあって、それをうけ入れないことは正しいのです。だが、そういう場合の私の感情の線は、必要以上にうねりを打ったり、敏感さに負けたりする。均衡を破る。何故そうかと云えば、ここに云われているとおり、本質の概括力が弱いところがあるからなのです。これはなかなか微妙、多様に影響致しますからね。
前の手紙で書き、又きょうのそちらからの話の中でもふれられているように、現代文学は来(こ)し方行く末の程も判らぬうねりの波間に、主観的必死のしがみつきを芸神として崇(あが)めているのだから、そういう雰囲気を生活人の意力、現実性で克服して、文学以前の人間的強健さを保ち、それにふさわしい文学を生み出してゆくということは、どうしてどうして。仇おろそかの努力では達し得ない。最も小さいよい努力をも評価してまめに心を働かせなければならないということは、一般にはとかく最低限をそれなり認めるという安易さにひきずりこまれ勝です。文学というものは、永い過去に於て所謂こころの姿に我から惚れているところがあるから、特にこの点は弱いと思う。
人間及び作家として、ある直感的な力をもっていること、それに従ってゆく力をももっていることは、自分としてありがたい一つのことだと思いますが、幸にして、そういう自然発生的なもちものの限界や、健康な内容づけの方向や方法やを知ることが出来るのは一層の幸福であり、生き甲斐であり、冥加(みょうが)と思う。
きょうから生活が又軌道にのりますから、読んだり書いたり、愉しく勤勉にやってゆきます。人間の性格というもの、それへの関係について考えたことがある。でもそれは次の手紙で。日光が出て来た。あした行ける。うれしいと思います。
〔欄外に〕
◎本のこと。『経済学全集』の第五十二は「本邦社会統計論」。五十四は「日本経済統計図表(補)」です。 
十月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十三日第六十三信
二十一日づけのお手紙、ありがとう。菊は十八日についたのですってね。十六日の土曜日にあげたくて、金曜日にその手つづきをしておいたのでしたが。いかが?奇麗ですかしら。
私がこの間手紙の中で、生活の中に新しい流れを現実的にもたらす力ということを、今更のように評価し、そういう力の価値を高く感じ直したのは、私の昨今の生活とその周囲とを考えるとき、たった一つのこと、私の早寝早起きの努力が、どれ程重大な全般的効果をひき出しているかということを痛感したからです。たった一つの習慣が全生活の動向を更新する。そう、ここに云われているその通りです。私は初めは単純に、健康のためだけに、早くね、早く起きと云われていると感じていたのですもの。それをずるけさせないために、朝の挨拶を思いつきになった、ちょいと肩をすくめてクスリとするような心持だった。日が経つにつれて、それだけのことが与える生活全体の規律や弾力や内面的な収穫に気付いて来て、フームと感服して、そういう流れを、いつとはなし導き込んで次第に支配的なものに成長させた力について、深い敬意を感じた次第です。
私たちの生活の中で経て来たいろいろのモメントを思いかえして見ると、何とも云えないよろこびが甦ります。私は何と不安なく、信頼にみちた心で、恐怖もなく、あなたから一つの流れを渡ろうとする毎に、さし出された手をつかまえて、今までいくつかの瀬を踰(こ)して来たことでしょう。さし出される手に不安も模索もないから、こちらも怖れを知らない。よりましに生きようとする自分の熱心さと素直さと努力だけにおされて来ている。いつも或る稚さのようなものがついているが。そして、発端に於ては、十分にその全体的の意義を捉えないまま足をふみ出しはするが。
こういう生きかた、導きかたと導かれかたとの間には深い諧調が響いていて、味えばその味の忘れ得ない美がある。調和というものの奥ゆきの深さ。心と体とに響いておのずからそれらを新しくしてゆく無限の喜悦。
今日の中で、あなたが私の生活の習慣について考え助力して下さることの意味は、全く益〃会得されて来て居ります。
この間(二十一日の朝)疲れで顔がはれぼったいようだったのは、宵っぱりの加減ではなく、小母さんたちがマア無事におかえりになって吻(ほ)っとして疲れが出たからです。勿論、次から次へ何か起るのはあたりまえ故、一々くたびれをもち越しては困りますが。(でも正直なところ、あれはやや例外的気づかれでした。自分で退屈しない方法というものを全く知らない人を、退屈させないようにして上げようとするには、可笑しい程気がくたびれるから)
さて、この間おめにかかったとき、一寸話の中に出たジェネレーションについて。そういう世代的性格の起す現象について。
十三日ごろに書いた手紙では、私としてそのときの判断に立っての感想を語っていたわけですが、あれから後初めて良人である人も来て、その心持というのをききました。自身初めからそういう感情の逸脱の質の低さを十分自覚していて、抵抗出来ず、知られればもう百年目。(親しい友人たちの評価に対しても)双方から身を引いてしまって、せめて苦しさを一身に背負いでもするしかないと思っていた由。白(しら)をきったのは、どの顔でそんなことを認める面皮があろうという心持だった由。迚も日の目に当てられるものではないと思っていたとのこと。今日では、そういう考えかたすべてが、自身の感情のビラビラに甘えていたことであるのを感じて居る由。妻である人が、困難と苦痛とを知りながら再び生活を戻したのも、只、そういう性格なのだからと認めるいうのではなくて、そんな性格だから、一人にして自傷的気分の中でいい気にさせておいたら益〃仕様のないものになってしまう、そんなところから追い立てて健康な路へ歩み出させようという努力に根底がおかれていることがわかりました。
母親は、こういう子だからと見限ってしまわず、愈〃こういう子なのだからと愛情の故に砕身する。それに似ているところがあります。而も夫婦であるということは、永い年月の間に同化している点も生じているのだから、その努力の尽大・多面なことと云ったら。深い危険が横わっていることと云ったら。
仕方がないという低いところで元に戻られたのでは、健全な友情を保ってゆく土台を失ったことだから、と大変苦しかった。今日新たに生活を建て直そうとしている足がかりがわかって、私はその努力を真心からの同情と理解とをもって見守ろうと思います。ああいう場合、絶望から虚無的になるのを防ぎ、対手に対して皮肉に辛辣にならず、つきはなしてしまわない、自分たちの生活というものに対する熱心さ、情愛というものを、私は或点感服します。良人である人は、性格として主観的で、自己耽溺(たんでき)で、対人・対世間関係の理解において(のし出す・のし出さない、認められる・られない、について)俗的面と、弱さから来る妻や友人への僻(ひが)み、がむしゃらな自己防衛(防衛しているつもりで、立っている舞台ごと奈落へずりこむような)をもっている。妻の愛に打たれ、目がさめて、出直そうとしている今日の気持が、所謂新鮮ならんとする情緒的な甘えでなくて、どこまで理性的な客観的な自己の見直しであるか。俺の下らなさをこたえているか。(下らなさがまさか判らない俺じゃない、では困りますからね。)時がすぎて、のほほんになってしまわないものか、それは今性急に判断を下せない。この間話の間にも、独り合点で、而もはたから見れば、それこそ独り合点だのにと思う点をやはりそのままに持っていた。初めてきのう家へ一寸よって来たら、これまでよりは変って、家の中のことでも主(あるじ)風に構えていず細君を手伝っているが、そこに明るい方向へ努力している自身を味っているところがあって、何だかやっぱり心配なところが見えた。太い声で「おーい」と妻を呼びつけていたのが、今はそうせず、自分から茶盆をもって手伝う、だが、何だか質は同じことが裏返された形で出ているのではないかと危惧される。本当に質が向上するためには、土台がよっぽど真直にきつく、絶えざる努力と反省とでうち直されねばならず、良人を弁護する気、合理化する気は持たず、しかも離れられない情愛を感じている妻君の、僻ませず、立ち直らせようとする骨折は、実に力一杯です。
本当に、当座のことでなく、前進させたいと思います。そのためにも決して気がゆるせず。
細かくこういうことを書くのは、十三日の手紙などでは、当時私のおかれていた理解の範囲で、只比較でものを云って居りましたから。それを補足したくて。ただああいう対比でだけ今日の状態が在るなら、あなたとしても、私のぐるりに、泥沼ばかりしか御覧になれないわけですから。
――○――
ドイツの哲学に対して正しい社会的見解を示している本の訳者が、その人のいつぞやの、横向き人生態度で、訳文が煩瑣になっているのは実にあらそわれないものだと感じて居ります。原文はたしかにもっと明確であるに違いない。訳者は思想をわがものとしていず、言葉をかきわけていないのだから。立派な古典とその日本訳者とを見比べると、今日ではよくも図々しく「訳した」と腹が立つのが多い。大抵そうだ。これも歴史の相貌の一つでしょう。いつか必ず訳し直されなければなりません。
〔欄外に〕
起床その他ちゃんと書きつけること、お約束を新たにいたします。 
十月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十六日第六十四信
ゆうべ夕飯を終って、『日本評論』別冊のスメドレイの「第八路軍とともに」の終りをよんでいるところへ、おひさが一束の手紙をもって来ました。その一番上にあなたからのがのっている。何と珍しいことでしょう、宵のくちのこんな時刻にあなたの手紙が来るとは、私は何だか部屋の敷居のところへ、電燈の光を肩に浴びてあなたの姿が立ったような瞬間の感じにうたれました。夜着くあなたからの手紙。何年もの間、朝しかうけとったことがなかった。朝、新聞とともにテーブルにのっている。私が起きておりて行って、それを見る。その感じと、しーんとした夜、外から真直来るあなたとは、何と違う感じでしょう。びっくりするような生々しいちがいがあります。迚も普通の手紙を見るときの顔付で見ることが出来なかった。肉体的で。二十四日の午後お書きになった手紙です。
そういう雰囲気の裡で読まれたので、云われていることは、本当にこわかった。おしまいに来て、御自分でもそのことを云って、すこし笑っていらっしゃるので、私も思わず笑いましたが。尤もなことだから、私は強弁は致しません。でも一寸云いましょうか。あなたへの心持から、私は自分から固執するところがあったとも云ったし、強弁のようなとも云うけれども、それをあなたから、そのままの文字で私に向って使われることは少し辛すぎるところもあるのよ、何卒(なにとぞ)お察し下さい。私は別に固執性などは持っていないつもりですもの。
面白いでしょう?私のゆうべの気持は面白かった。あなたの羽織の袂を自分の肩の辺に感じながら一緒に二階へ上る気持がして、手紙も枕の下へ置きたい程なのだけれど、その中に切ない腹の立つ二つ三つの字があって、薄暗いスタンドの明りの中で、テーブルにのっているその手紙を、ジロジロ枕の上から眺め乍ら、ふくれたような、悲しいような、そして親愛に堪えない心持で眠ってしまった。
どんなにか嫌いだから、実にそんなのは厭だから、そんな嫌いなものに似るようで悪かったという心持から私が云った表現を、それなり二つも三つも、宛然(さながら)私の属性のようにお書きになるのだもの。涙を出しているほどいやなのよ。私もよく事ム的にしますから、そしたらもうこんないやな字を頂かなくてすむようになるでしょう。
きょうは久しぶりの晴天ですね。障子の外のテスリに毛布をかけて、乾してある。きょう一日よく乾して、叩いてお送りしましょう。左官屋が大家から来て、あっちこっち壁の手入れをしたので、のり臭い。左官やのおやじ曰く、「こういう工合に光るのは鏝(こて)がちがうんだ。鋼鉄の鏝をつかうんですが、台所のようなザラッとしたのは生(なま)鉄のやつです。」
この間、手紙の終りに一寸書いた隣りの細君の笑話というのはこうです。小母さまのいらした或夕方、「御免下さい。」おとなりの細君が玄関に来た。福島の白河辺の人というふれこみです。良人に死なれて十八九の娘を頭に三四人子供がいる。美人です。だが、私には良人に死なれたという生活の感じが来ない。誰かが世話している、そういう感じ。身ごなしにしろ、万事。その細君が「失礼ですが、お宅のお家賃は、おいくらでしょう。」「三十三円です。」「マア、私のところ、これまで四十二円ですの。こっちの家より二階が一間多いだけぐらいの相違です。」白蟻が畳をくったのですって。いかにも風通りがわるい。云々。その他沢山の苦情をあげて、「マアほんとうにね、ホホ……」と笑って、さて申されるには、「うちの晃博(中学生の息子)に、おとなりの小母さまのところへ行って、こちらととりかえて頂くようにお願いして下さいよって申しましたら、そんなこと云えないって云うんでございますよ。」私は大いに笑ってしまった。ハアハア笑って、「それは仰云れない方があたりまえですね。」と、又笑ってしまった。女子大を出ているという自己紹介です。アメリカに行っていたと。昨今の傑作笑話の一つです。戸塚の夫妻が、生活を新しくするために、一つの家に生活するようにしようとして居て、この附近から武蔵野電車の沿線に家をさがしているが、なかなかありません。細君は二階で、良人は小さい洋間のあるところを見つけて、そこへ城を構えようというプランなのだが。
ところで、こういう風にして書くと、本当によく詰りますね。私は手紙に大きい字を書く方で、しかしそちらへは細かいつもりでも、やっぱりこれよりは大きかった。
漢口の一角へ突入したというので、今夕は提灯行列があるそうです。七時頃から。
七時と云えば、私たちの愛する時計Myricaが、この頃は夏のみならず、秋に入っても一日に数分おくれるようになりました。どういうことなのかしら。昔ながらリボンだけは黒の女もの、留金だけは金をつけられて、毎日チクタクやっているが。私の朝起きてからの大体はこんな割当てです。六時に大抵目をさます。小窓をあける。おひさ君が起き出して掃除はじめるのをきいて床にいる。七時十五分前ごろおりて行って、目を洗って、髪を結って、鼻の頭をパタパタとやって鏡をのぞいて、来信を見る。そして食事。このとき、出かけたあとにたのむ用事を話す。さて、どうお天気は、降るだろうか、そんなことを云いながら着物を着かえて、出かける。これが八時から八時十五分すぎまでの間です。
上り屋敷の田舎びた駅で、この頃は鋼鉄色になりはじめた欅の梢など眺めながら電車を待ってのって、池袋。そこからバスで消防前。野っぱらが日毎に秋枯れて来て、夏は見えなかった小径が黒く朝つゆの間に眺められる景色など印象ぶかく眺めながら休憩所へ着いて、願紙へ書くのが、九時十五分前から九時ごろ。七時半受付とはり出してはありますが、いつかその通りやって大変時間を無駄にした。紙をよこす場所の人は八時でなければ現れず。第一回の呼出しは九時十五分前です。八時に行けば第一回の分に入るが、殆ど一時間待つことになります。
順調に行けば、それからお会いして、うちへ殆ど十時すこし過には帰ります。一寸休んで、おひるにパンをたべて、午後は、勉強か、お客か。用事で巣鴨からじかによそへ廻るか。夕飯六時―六時半。それからこのごろは教課書をよみます。九時前後にお風呂に入り、すぐ二階へあがってしまう。スタンドをつけて暫く横になっていて、落付いてから計温して、眠る。
そういう日程は、余り狂いません。お客にしろ、やはり世間並の時間というものがあって、こちらでいてよろしいと云わなければ、普通のお客で十時までは居りませんから。これまで最もこのプランを狂わすのは、壺井さん、稲ちゃんであったが、そちらもこの頃は生活ぶりを替えてしまったから、大変なちがいです。生活感情というものは実に微妙ですね。皆がやっぱり早寝早起きをしようとするようになる。直接の形ではないが、あなたの奨励法は、ひろく及ぼしました。
『中央公論』で十一月は女流作家短篇特輯を出しました。岡本かの子、円地文子、小山いと子、佐藤俊子、宇野千代子、矢田津世子の諸雄です。昔から時たまこういう催しをやったが、作品の質は、明かに一つの時代を語っていて、すさまじきものは、と申す有様です。恐るべき無内容、貧寒さ、人為性というものが、職業上先生として厚顔に世間に押し出す度胸のつよさと、ひどい対比で現れている。折からアグネスをよんでいて、無量の感じに打たれました。只今毛布について煩悶中。もう一日乾そうかしら、それともこれから送ろうかと。この工合なら明日は晴天らしいけれども。どうかおなかをお大事に。 
十月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十六日第六十五信
夕飯後の本をよみながら、今読んでいるのはルードウィヒの哲学について書かれている批評。これは実に面白い。非常に明瞭に書かれていて、この間二度目によんだドイツ哲学の内容の分析の行われている本との連続で本当に面白い。吸われるように読んで居ます。前の本の或箇処はこの本で一層はっきりとされるし、この本では直接書かれていない部分は、既によんだものによって与えられている。ここに批評の対象とされている哲学者の堂々めぐりの生涯とその思索、及、そこから出て、やがてそれから脱け出して生長した人々の精神活動の過程、ぬけ出して成長した人々の遺産を更に細君と狩猟などもした三年間の雪国での勉強で具体的に明確にした人の功績。こういう道を眺めると、いろいろ感想が深からざるを得ない。
この哲学書の抽象人間や愛に対しての批評は、今日の文学批評の根底におかれるべき性質のものです。この哲学者が「彼自身死ぬほど嫌っていた抽象の王国から、活ける実在への道を発見することが出来なかった」ために、自然と人間とに密着しつつ、その現実的な在りようは理解しなかったという悲劇を、やがては怠慢を、この批評家は、情をもって彼を孤独におき「零落するに委させた」その国の事情に主な原因をみとめているが、今日の読者は、零落に自分をまかせた(貧困と零落とは質のちがうものですから)本人の抑〃の生活への態度をやはり考えずにはいません。
――○――
この本の筆者の特長についていろいろと面白く思います。彼の卓抜な相棒に対して、この人は普及のための文筆の活動をしたと巻頭に紹介されているが、イギリス人というものの気質の点からやはり興味を動かされる。全く別種であるダーウィンにしろね。こういう傑れた(書き方に於ても)本に活かされているアングロ・サクソンのプラスなるものがあることを感じます。同時に、この筆者が批評の対象とその環境との関係への感じかたも、彼自身の環境的なものを感じさせなくもなくて面白い。
――○――
いつかあなたが、ジャーナリスティックなユリの文筆活動ということを仰云いましたね。云われた精髄が新しい意味でわかりかけて来て居ります。
ああ、ああ、でも用心用心。私が一つわかると、わかったわかったとあなたに一々云って、逆にあなたから、そういうんだから云々と散々にやられるのは大変辛いから(!!)(勿論、これは冗談よ)
――○――
四十年間の協働。稀有なるめぐり合わせ。又それを可能ならしめた歴史のその時代。地理的事情。自身を素敵な第一ヴァイオリニストに対して幸福な第二(セコンド)ヴァイオリニストと認め得る、そのような喜び。
――○――
私には実に興味つきぬ点がある。それは、こういう偉い人にでも時代の影はさしていると思われる点。例えば「今日真なりと認められているものは偽りの方面を包蔵していて、この方面が後日現れて来ると同様に、今日偽りと認められているものにも矢張り真の方面をもっていて、その方面のおかげで以前には真なりとして通用することが出来たのであること、必然事であると主張されているものは、純粋の偶然事で組立てられたものであって、偶然事と見えるものは必然事を包蔵する容器であること」という表現で、哲学上の対立(動かしがたいもの)とされていた対立を説明しているところを、わたし達の時代は、更にもっと動的な相互作用に於て「単に相対的な」もの以上のものとして把握し得るだけの進歩に恵まれている。ありがたいことだと思う。
だが、この本を訳したひとは、人間の或瞬間に、全く自分の卑俗な便宜で、きっとこういうところを全く死枯させて自身の身のふりかたに役立てようとしたのでしょうね。丁度リアリズムの問題を、不具にしようとして人々が、バルザックについて書かれた手紙を、最低に読み直したように。
――○――
昨今の流行語の一つにこういうのがあります。十九世紀は分析、綜合の世紀であった。しかして今世紀は(ナチの如く)行動の世紀である。須(すべから)く世紀の子たれ。松・平・の一属。
こういう輩(やから)の、嘗ての勉強が、こういう箇処(自然科学が十八世紀は蒐集の学、十九世紀がその整理の学としての分析綜合の学として発展した云々)というようなところをアクロバットの跳ね台にしているのですね。成程。ローゼンベルグの「二十世紀の神話」が谷川の「日本の神話」の種の如きか。
おや、いつしかもう九時です。そろそろ腰を上げなければ。元ならこんな面白さを中途で切るなんて。巻を離し得ず、夜ふかしをすれば、さすがの私も、今では頂く言葉はもう見当がつきますからね。ではサヨーナラ。
二十七日。
きわめてつながり工合のよい、必然の興味で、家族のことをよみはじめました。これらの四冊の本は一組となっているようなもので、切りはなせないが、普通どの順序で読むのでしょう。空想を第一なのは、明かだが。次は哲学者ルードウィッヒについて、次に哲学について、そしてこの家族から、更に経済の面と、二冊になっている哲学の本へ移るのが一番わかり易いようですね。
著作が、全体的な叙述、更にその重要な部分部分についての深め・解説として展開されている過程は、真面目な仕事ぶりというものについて大いに教えるところがあります。所謂ジャーナリスティックな文筆との相違が益〃歴然として来る。こういう読書は適当の速度、量、一貫性で、次から次へと成長的にされる時、特に多くの収穫があることを感じます。(偶然の一冊は、何かを与えるにしろ、断片的で終りがちです。)そういう風に読むと、光が気持よく前後左右を照すような愉快があります。
二十八日。
きのうに比べてきょうは心軽やかにたのしく原っぱをかえって来ました。御自分で知っていらっしゃるでしょうか?この頃全体暖く流れているものの中でも特別に耀(かがや)く一寸したあなたの頭のうなずきがあるのを。私はそれを実に貪婪(どんらん)に吸い込む、自分への特別なおくりものとして。何分間かのエッセンスとして。明日までの糧食として。きのうは、そのおくりものがなくてかえりましたから。
――○――
この手紙は、これで一区切りにしましょうね。そして別にきょうお話した、私のまわりについてすこし細かに書きます。自分の気持では、私たちの家として、ここにいらっしゃる生活のように感じていても、やっぱり書いた方が猶はっきりするところもある訳ですもの。
会いに出ていらっしゃるにも、くたびれが感じられますか?きょうチラリとうかがって心配になった。私のために、毎日、すこし無理なときも歩いていらっしゃるのではないでしょうか。そんなことがあるのではないかしら。あなたが動くのが大儀に感じられるような時まで歩かせなくては、朝起きさえも出来ない程ではないのだから、本当にどうなのでしょう。ぶりかえしの性質をもっていたら、又絶対安静がよいのではないでしょうか。一番わるいときにも、歩かせてしまったのだから、実際にはおそすぎた気配りですが。いつも安心するような返事しかなさらないものだから、つい、それでいいように思う。呉々お大事に。暖い秋日和で、机の上の黄菊が匂うこと。
こんな詰った字をお読みになるの、窮屈のようではないのかしら。 
十月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十八日第六十六信
さて、この手紙はいろいろ周囲のことを主として。
友達と呼び得る範囲につきあっているのは栄さん夫婦、戸塚の夫妻、中野さんたちぐらいです。然し最後の一組は細君が劇関係故いろいろちがうし、何しろ世田ヶ谷故滅多に会わない。うちで御飯をたべるようなこと(互の家で)も一年にかぞえる位しかない。栄さんは、私たちのああいうこまごました本のこと、身のまわりのこと(私などはよごれた着物を洗って迄もらいました)日常生活の家事的なことまで、栄さん一流の智恵をかりてたすけられている、いろんな話も率直に、深い信頼をもって互にしている。文学の話もわかります、この頃はあのひと自身独特な小説をかいている位だから。
でも、文学についてその他について、あちらが受け身である、それは自然の結果。上落合の時代は、私はひとりぼっち家をもっていたから、毎日毎日世話になった。只今ではすこし遠方になりましたし、良人が勤人だから細君としての用が多くて、そうちょくちょくは会いません。一週に一遍ぐらい会わないと、互に気にかかる、そういう塩梅。
戸塚の細君の方は、御存知の通り。いろいろの会や何かの集りでは、女で一緒に出るのはこの人だけ故。尤もこの頃は(二三年来)私よりも文壇や婦人界的会合へ多く顔を出さざるを得ないようになっているらしいが。文学の話にしろ、生活の話にしろ、又私のそれらの点について批評なりして呉れる唯一の親友です。でも互に馴れ合ってはいない。馴れ合わないところに永続的な又正道的な成長力として互に作用出来るのだということを知りあっている。そう云うものの、公平に見れば、随分大目に見ているようなところもあるでしょう。お互にね。私生活について話しを、どっちかというとこれ迄余りしなかった。何かの折、どういう風にしたら一番よいだろうと相談するような場合も、私にはあったが、先方は余りない。良人との心持、生活の内容、それらについて最も率直な言葉をきいたのは、この間が初めてでした。この間は底の底まで吐露しました。あのひとには、よい意味にも、通俗的な意味にも、なかなか勝気なところがあるから、云ったってはじまらないと自分に考えられることは決して口に出さない。自分の生活、自分たちの生活、それははっきり区分をつけています。だから、この間の事にしろ、最初の決心も、次の別な決心も、いずれもあのひとだけの考えで行動されていて、私はその決心をひき出すために何の相談もうけません。
女には、親友というものが、これまでないのが通例です。仕事の単一な目的のための利害で結ばれている人々はあるが。よいことも一緒にするが、わるいことも一緒にやる。そういうのはあるが。互の評価というものを大切に考えていて、その人の積極的な面と方向とを強めあうような努力をこめた女同志の友情というものは殆どなかった。まして作家の間などでは。様々の欠点もあり、弱点もあり、互の低さで見えずにあるところもあるでしょうが、やはり大切な交友です。
この人の良人、又栄さんの良人達に対して、妻同志、女の友達同志は勿論ひっくるめて見てはいるが、女の側から、その人々の生活の範囲として見てもいるし、接触している。例えば、栄さんと鶴さんとが稲ちゃんぬきに別に話しをすることもなし、二人の友達の良人たちが、はっきりした用件のためでなく私のところへ来るというようなこともない。そんな工合です。日常生活では、まぜこぜ風の、長屋風の親しさでない。それぞれに一城一廓をかまえている。
知人と云い得る範囲の中で、比較的近い人々には幾組かの若い夫婦、働いている女のひと(元から知っている人、そうでない人も入れて)健造が小さかったとき、キングコングをして遊んだ戸台の俊一さん等(池さんその他あの一かたまり等)この知人の関係は、Tさんが数日の滞在の間にびっくりしていたが、身の上相談(勉強のことその他)が多いことになってしまう。
てっちゃん、徳さん、さあ、これはどのカテゴリーかしら。例外の部ですね。そちらへ頻りに行ってくれるが、こっちへは滅多に姿を見せぬてっちゃん。徳さんは折々よって、今日は元気そうだったとか、やっぱり下痢はやせる、などと云ってくれるが、親しい部にすぐ入らないのは、出て来てまだ十分落付いていず、考えかたが、ちょいちょいどっかに走っていて、よく納得出来ないところがあるから。勿論親切で、くさってはいないが。
数年間の風雪は、弱いかたまりを粉々にふきちらしてしまっているから、偶然何かの会で顔を合わせれば口をきくという程度が、徳直その他。而も、その偶然たるや全く稀です。
文壇的喫茶店での社交風のものは、御承知の如く全然昔から私の生活にない。大体私は社交というものはきらいですね。親類だって。(事がなければ集らないし)
私が自分から出かけるところと云ったら、何と少いでしょう!林町(これも折々)、あと栄さん、戸塚。ごくたまに重治さん。
私のように若年のときから、いきなり仕事で世の中に出て行って、様々の箇人関係を通してのし上って来たのでない人間は、而もその分野でその分野の社交に順応しなかったものは、知っているような人はうんと多いが、つき合う範囲は狭いという現象になるのですね。よかれあしかれ、自分の肩をもって何か云ってくれる人間というようなものをもっていない。そんな先輩もいない。身ぐるみ、世の中に突き出ていて、そういう生き方の価値で、数人の友と、私の知らない、而もその辺に満ちている読者、自分に対して抱かれていると感じ、それに対して責任を感じている信頼が生じているわけです。
『東日』や『朝日』『婦人公論』、そういうところが、それぞれ婦人の諸分野での活動家をあつめてグループをこしらえている。そのどれにも入っていません。こういう会では社の親玉が出ます。時によると芸者も呼ぶ。(そういう話をきいた)男の或種の人々(作家)が、或ゴルフのグループに入ると、それが一定の社会的標準となるとよろこぶ。それに似ている。そういうつき合いの面で、私がけむったがられるとしても、其は全く自然で、結構です。
ジャーナリストとは仕事を通しての交渉しかない。現在のような状態だと、従って用事のない記者など一人も現れず。仕事の縁故でずるずるというのはない。尤も、仕事はジャーナリズム関係でも良質の友人があってよいのだが、殆どそういう場合がなかった。
ロシア語の人物は、きょうお話しした通り。間接に、今東京にいず、鵠沼辺に住んでいることなどきいています。これからの将来においても、つき合うことはないでしょう。
これらのことと、この前の手紙で一寸書いた私の一日の時間割とを合わせて見て下さると、きっと生活のこまかいところがいく分はっきりしたと思われます。
野原の人達が今度のことの成行きをよろこんでいることと云ったら!そちらへも手紙がゆきましたでしょう?多賀ちゃん、富雄さん、克子さん、其々から来て、きょう又小母さまから来ました。春立ちかえる家の内と云う有様がうかがわれます。顕兄さんにもよくよくつたえて、と云って来て居ります。県立の学校があるのですってね、そこへ入る由です。富雄さんの気分も一転して明るくなったそうです。東京にすこしいて、今までとちがう雰囲気にふれたのは大層よかったらしく、骨折り甲斐があって何よりです。ではこれで、この手紙はおしまい。 
十月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月三十日第六十七信
二十八日づけのお手紙をありがとう。これは今朝例によって新聞や何かと一緒に現れました。
きょうの手紙はくりかえし拝見しました。特別な注意と吸収とをもって。ここに書かれているいろいろな点は非常によくわかります。所謂こわい手紙風に、感情へのいきなりの感覚ではなしに。
これは、これまで私の頂いた数多いよい手紙の中でも、一層ねうち深いものであり、伝えるものも深く、そして勁い。心からの御礼を申します。
悪質な空気の中での成長のためには、空気のわるさや、それによって窒息してゆく者の姿を描き数えることではなく、現実にそれとの正当なとりくみを行って、健康性を創ってゆかなければならない。そういう意味で、語るところが実に意味深いお手紙です。
私は一度も作家一般におとして自分の将来を云々したことはなかった。人間の真の幸福のため、合理的な叡智の明るさを、少しでもこの世にもたらす芸術家としての自分の生活しか規定したことがない。あらゆる場合と書きものに於て。さもなければ、何のために、一人の芸術家として生きている意味があるのでしょう。だが、そういう主観的な意味づけは、それがあるだけで、希望するものとして現実に存在していると云うことにはならない。例えば、ここに、発端的な時期として示されている期間の私の状態にしろ、当時はそういうことは許されていないのだから、と云われたことを、それなり本気にして、貴方から教えられて、マア何だろう、ひどい嘘つき、と思った。そういう程度だった。本気になどする自分、というところまで及んでいなかった。その点で、発端的と云われるのは当って居ると思います。
それから、これは一寸直接の答えにならないようで、実は大変直接な私の心持の一つ。我々の生活の初まりの時期、私は健全ではあるが生活全体の意味や内容をおぼろげに直覚しているだけの単純さで、あなたと自分というものを、ごく単純化された程度で、肩を並べた感情で感じていた。素朴なよろこびと信頼とに充ちる状態で、おくめんなく一つのものに感じていた。
次の時期に入ると、生活の諸内容が少しずつ分って来るにつれ、貴方への評価が私の内で高くなりまさると同時に、自分の様々の持ちものについて、元のような素朴さで、それなりいい気持で肩を並べたような気でいられなくなった。自分が多くの点で劣っていることを知った。そして、自分の気持では、自分をあなたにひっぱられる必要のあるものを感じる面が生じた。それは甚だ微妙に作用したと思います。主観的には一層努力が自覚されているだけに、つまり自分の努力をそれなりよりどころ(心持の)にしているようなところがあって、あなたからの心付や注意や励しには受け身な敏感さが生じているため、却って、それに対して感情的になり易く、そんなに云ったって、とか、でも、とか、そういう起伏が頻発する心理にあった。自称しぶとさ、は単なる驕慢というようなものとすこし違っていたのです。本質的には、弱さです。そういう微妙な状態の根底には、あなたへの評価、自身の卑下に於て、甘えたものがあった。だから、そういう妙な波のチラチラが起ったと思われます。
現在では、そういう点が大分ましになって来ていると思っている。例えば、あなたがそう仰云るからというような、それに対する従順さのようなもので着手したことが、次第に、自分にとって、自分のものとしてどんな価値があるか明瞭になって来て、成長のためのカルシュームとなって作用している。心理的な妙な凹みが癒って来ている。狭く、前へゆくあなた、ついて行く自分という感情から再び広くなって(広いところへ出て)、昨今では、おくれたり、遑(あわ)てて駈け出したり、何かにひっかかったりしながらだけれども、自分でこぼす涙を手の甲でふりとばしたり、笑ったりしつつ、自分の劣っている面への意識にこびりつかず、伸びようとする意欲にしたがっている。
この間うちから、私が、生活へ新しい道を示す力の価値についてくりかえし歎賞した意味が、これで猶よく分っていただけたでしょう。あなたへのみの褒め言葉と御礼でなく。そういう智恵をもたらすより大きい目的についても。
こういう状態だから、今の私の激しい知識慾は、成長が必然に感じさせているものであり、今、読んで置く、というようなものでなく、もっと営養食、治療食的な味覚と吸収の快感と発育の希望にかられています。我々にとって意義の深い折だし、私は当分、こういう勉強だけを追いつめてゆくつもりです。ゴミくたのようなあれこれを漁(あさ)る興味が益〃なくなっているし。
ここで、私は何をかくかという前に、何ものであるかという問いを、自分のものとして自身に向けて、入念に、そして専念に一つ大掃除をやりましょう。私は自分の低さで、あなたに引っぱられるための者として存在しているのではないのですものね。私のよりしゃんと、より豊富に生きようとするそのところでこそ結ばれているのですもの。バタリコ、バタリコ歩くなどはもっての外です。自分の描くものに甘えずに、実質的な成長をとげてゆくことは、絶えざる力漕(りきそう)を要します。極めて現実的な、よく研究され、整理された、真の敏感さが必要とされる。比重の変化ということについても、今は、それの新しい変化への方向にとりかかっているよろこびと確信との上で、ひねくれずに承認いたします。
初めて手紙を書くようになってから今日まで、恐らく私の書くことの内容、色彩、随分変って来ていることでしょう。様々の高低、様々の揺れ、そして様々の玉石混淆(ぎょくせきこんこう)をもって。或ときは空語と知らない空語をも交えつつ。
さっぱりとして、無駄なく、而もよろこびとユーモアとの漲った生活が、照りかえすような手紙が書けるようになりたいこと。そのような強固な悠々さを身につけたいこと。それらを、自分の芸術の新しい美としたいと思います。
本のこと、前の分と一緒に調べて、ないなら改めて注文しましょう。就寝、起床、計温、二十三日からちゃんとやりはじめたから、月末、一まとめにして表にします。
ユリの勉強を祝福しつつ、ポンポコどてらを召して下さい。 
十月三十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月三十一日第六十八信
ああひどく曇ってすこし落ちて来た。いそいで帰って来てよかったこと。きょうは朝ラジオで俄雨アリと云ったので、コートを着てつま皮のかかった足駄をはいて出たら、あつくてあつくて。気持わるくて歩いていられないようなので、一旦家へかえって、コートをぬいで、下着をうすくして、それから三省堂、東京堂、丸善、本店をまわって今かえったところ。
三省堂の洋書は殆ど無いに等しい有様となりました。お金の制限でやり切れぬらしい。その代りに一杯語学勉強の本を並べて居ります。東京堂へ行って、「地名人名辞典」をきいていたら、見知らない人が丁寧に帽子をとって、失礼ですが「地名辞典」でしたら云々と、国際情報が出している本がよいと教えてくれました。「人名」も清朝末期までのならばPlayfairという人のがよくて、それは東洋文庫と文化振興会のライブラリーにありますと教えてくれました。私も「どうもありがとうございます」とお礼を申しましたが、『ジャパン・タイムズ』の、私たちの求めているのはもう売切れで、来月末に再版を出すまで待たなければなりません。予約をしておきました。楽しみにおまち下さい。
それから丸善に行ったが、御注文の分はなにもなし。別に、シドニイ・ウェブ夫妻の書いた本(Longman)版でSovietCommunism:Anewcivilization?という本がありました。上下二冊。大部なものです。大変売れている。ごく客観的解説であって、ソヴェトとは何ぞやからはじまり、生産者としての人間、消費者としての人間、その他全生活の面にふれている、極めて記述風のものです。こういう本は常識をひろめるに役立つ種類です。興味がおありになるでしょうか。二冊で三十二円いくら。おききしないうちに買わない所以(ゆえん)です。日本の外務省の情報部で、日本教育史、外交政策などに関する外人向パンフレットをいくつか出して居ます。
仕方がないから本店へ行って見たら、『マーチオヴアネイション』がありました。ともかく買ってかえって、小包にしましたが、フランコ側の進軍への従軍記事です。文章に魅力があるというのでもない。しかしマアこういうのもある、というようなわけです。全くひどい挑発的な本も出ていました。きっと全部はおよみにならないかもしれませんね。オーストリアの前首相で、ナチの侵入と共に監禁されたKurtSchuschniggのMyAustriaという本がありました。これは内容のある面白い本だと思います。大戦後からイタリーとドイツの圧力の下に苦しむオースタリーを書いている。それから、英語で書かれた無名の原稿によって出版されたWhyNaziという本がある。非難するためでもなく、ひいきするためでもなく、それがあるままを、と序文にある。イギリス人でその場に列席した法律家がTrialofRadekを書いて居ります。冷静に見ている。何故一般がびっくりする程のことを皆喋ったかということについて、それは国内にいるのこりをうまくのこしておくためであったと見ている。これもつまらなくはないらしいと思います。法律の相異から書いている。改めてアンケートに書いておきました。顔なじみの人がいて、本のとりよせの困難の話をききました。結局ちょいちょい足まめに行って、而して高いことには目をつぶることです。種目をせばめまいとしていると、冊数がすっかり減ってしまう由。『クラッシュインパシフィック』は地方の支店をきいてくれるそうです。JapanoverAsiaは或はあるかもしれずとのことです。
私の方は、日本上代文学や歴史とてらし合わせて、綜合的によんでいるので、なかなか興味があります。順よく進んで居り、これまでより、追々ひろがって行けそうです(読む範囲で)。
白揚社から、新しい方法をとり入れた日本文学史が(源氏前後)まで出ました。きいたことのない筆者の名です。文学を社会の背景から書いている。どんな本かしら。
中央公論の出版目録は直接そちらへ送るように書きました、そう云えば、岩波から『図書』の八月よこしましたろうか。
本間さん(もと十条にいた)が仕立ものをもって来ました。今年はあのひとが戸塚に来たので、どてらの直しや何かたのめて、レコード破りのポンポコになりました。普通の仕立をするところでは、程があるという気持で、なかなかこう徹底してポンポン綿を入れませんから。云っても駄目だから。今年はその点はいくらかましな冬です。
では、今夜は、本屋めぐりの報告で終り。お約束の表を添えて。ではおやすみなさい。早く気候が落付けばいいのにね。
お約束の表十月二十三日――十月三十一日
起床計温就寝計温
午後五―六
23日午前六時十五分六・六九時半六・四
24日午前六時二十五分六・五九時四十分六・四
25日午前六時十分六・四九時二十分六・四
26日六時四十分六・四十時六・三
27日六時半六・五十時十分六・三
28日六時二十分位六・四九時四十五分六・二
29日七時五分前六・八九時四十分六・五
30日七時(日曜日)六・五十時三十分六・四
31日六時四十分六・六 今八時二十分。きょうは眠くて風呂もやめて、もう十分もしたら床に入ります。今六・四
十一月一日からそちらは八時半からになります。けれども寒中にでもならないうちは、今の時間でつづけて見ようと思います。そうしたら第一のグループに入るわけですから。 
十一月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月六日第六十九信
きょうは心持よい晴天になりましたね。きのうの夕方の地震相当つよくお感じになったでしょう?金華山沖が震源地ですって。はじめの五時すこし過のとき、丁度夕飯をたべていて、段々ゆれ出すので心持わるくなって玄関の外へ出ました。そんなことは珍しかった。しかし時計が止らない、大したことにはなるまい、そう思いながら、やっぱりドキドキしはじめて出ました。二度目のときは七時すぎで、そのときは日比谷の公会堂の二階にいました。おひさ君と並んで。舞台では高田せい子舞踊研究所の発表会で、子供の「桃太郎」をやっている。鬼の踊をやっている。そこへゆれて来てユッサユッサ何千人かを詰めてゆれ出したら、女、子供が多いから忽ち将(まさ)に共鳴があがりそうに騒然として来た。するとどっからか男の声で「皆さん大丈夫です。おどろかないでも大丈夫です」と怒鳴り、舞台もつづいて、やがて、小さい子供の桃太郎が舞台へ出て来たら、何よりそれで安心させられたように落付きました。舞台だけ明るく、巨大な円天井にボンヤリついた照明の下に何千の黒い頭があって、ユラ、ユラ始まると、独特の感じでした。一軒の家の中だと家がつぶれても惨状という直感がしないが、ああいうところだと、すぐ人命の危険が迫ります。今朝の新聞で見ると、たった一寸五分程ゆれたのに。然し三陸の大地震以来の由。戸塚の達枝が高田せい子のお弟子なので義理の切符を買い、お久同伴出かけたわけです。中頃以後にやっと戸塚の一家と栄さん、さち子さん姑嫁の一行を見つけました。かえりに栄さん、私、ひさ、三人で数寄屋橋の先まで出て、お寿司をたべて、有楽町からかえりました。
高田せい子の舞踊というのは初めて見ましたが、なかなか大変なものですね。つまり生活の内容、生活を貫いている音楽の感覚と舞踊というものが、溢れるように感じられず、大変考えてこしらえている。或文学的内容はあるのだが、舞踊として、音楽がおのずから肢体を律動せしめるような横溢がない。日本の生活感情の中に音楽のよろこび、表現力が実に欠けている。それがじかに出ている感じでした。
私は、そんなことを次々に感じながら、それらの感じは小波のように感じて、きのうは一晩じゅう、あることを思って居りました。きのうの朝手紙を頂いた。その終りの部分が私につたえる感情を。あの部分は、何とあなたらしいでしょう。心持の篤さ、繊細さ、そして明確さに於て。あの部分は無限のぬくもりと勇気とをつたえます。文字から声が聴え、そして、終りに、「ね、そうだろう」と私の背中に与えられる掌の感じまでこもっている。私たちの生活への愛と思いやりとが心にとまって、くりかえしくりかえしそれを思わずにはいられなかった次第です。
確にここで云われているような場合というものはあるわけです。私は確にばつのわるそうな顔付もしますし、赭(あか)い顔になるのを自分で感じることもある。しかし辛さと感じられる感情は、私としては謂わば外部的なそういう条件が、その場で現れている形に対してというより、その条件がもっと影響している微妙なものが原因で苦しかったり辛かったりするように思えます。二十四時間が私たちにあれば、その内容は実に豊富流動的で、幅ひろく流れる情感のあらゆる面が、刻々にとけ合わされるでしょう。自由自在な表現があります。五分六分では全く集約的で、しかも最も重要な点にだけ集注するから、重要さが、いろいろ忠言的な性質をもっていると、その部分、その面、その点だけに焦点がおかれます。他のもっとひろい部分との釣合は、感情の背景としておかれる。そのときの声、顔つき、目差し、それが完全に翌日までの感情、気分の中心として作用する。おまけに私は子供らしく貪婪だから。窓が開く。いなや、眼でかぶりつくから。いろいろなよろこばしいものを吸いとろうと、ひどく慾ばって構えているから。日常的なことであって、而も決して、毎日毎日に馴れて、事務的反覆になっていない、心持が、ね。だから、そういう主観的な色調に対して、何だか辛く耳にきこえ、心臓を痛ましめる話の種類も、当然あるというものです(話さざるを得ない現実が在る以上は)。きっと、私はそういう情けなさそうな、それでいてがん張っているような顔も可笑しくすることでしょうね。こみ上げて来るものを、それなりの言葉でましてや動作で表わされないのですものね。原っぱを歩きながら、自分の主観的な感情から一応はなれて、云われた言葉について考え、その真の意味を理解し、それを自分の心の裡にあるものとの関係で考えて、判断して、腹に入れる。それだけの精神的過程を常に経ます。それが原っぱを横切る間で終るときもあり、又バス、電車、そして欅の葉の落ちる道、家、二階、遂には床の中までつづくことさえある。
手紙で率直にならざるを得ないと思います。言葉では時間さえないのだから。そして、生活を大切に思う心持は、そういう点でのひっこみ思案というか拘泥をはねとばして来ているのではないでしょうか。私の気持では、私たちの生活の全感情が公開的な本質だと感じられてもいます。うけとる方にとっての辛さは、やっぱりこんな小さい紙片一枚ということから主として生じるのでしょう。
でも、いいわ。私は余りそういう点ではくよつかないで、生活の条件として大局からつかんで、とにかく掃除だの勉強だのを、元気に、熱心に、美しい単純さでやって行きます。そうすれば結果として、大小様々の辛さみたいなものはとけて、流れて、両岸にはささやかながら花も咲こうというものです。
表のこと。上出来と云って下さって大いにうれしゅうございます。借金の下手な云いわけには、笑って、一言もない。
それから、一日のくらしかたの割あて、ね。勿論あれは正常な一日の大略であって、昨夜みたいにたまにはおそくなったり外出したり、午後じゅう出ていたり、あります。大体会が激減した。一般的に、それから私としての条件的に。作家は腰ぬけでね、雑誌にパタパタものを書かなくなると、気味わるがって、大抵作家の会へも呼ばない(中野も同じ)。だからああいうのが一週に僅か二日で、あと五日は番外つづきというのでもないのです(座談会なども全くなくなっているから)。生活は大変ちがって来ています。この年に入って、グーと急転回しているわけです。
環境についての補足。そうね。静止的に書かれていました。あの糸が流れ入り、この糸が流れ出るという風に描かなかった。この足かけ四年間(九―十三)の推移について。九年はいつかも書いたように一月十五日頃から六月十三日まで不在。十三日は母の死んだ日です。私は心臓に氷嚢を当てていた、その前から。その年は十月頃まで林町に暮しました。それまで東信濃町に住んでいた国男夫婦が林町へうつって来た。父は、それを間違ったと云っていた。国男たちの暮す気分が気に染まないので。ゴタゴタする(けんかではない。生活の気分が)国はラジオをガーガーやる。寿江子はアコーディオンをブーブーやる。迚もやかましくて閉口して、十月頃から私は上落合の家をかりたわけです。あの夏はなかなか忘られない。父が、夜よく涼みに私をつれて行ってくれた。車で、国に運転させて。よく歩けなかった七・八月ごろ。「お前の一番行きたい方は、こっちだろう?」そう云って、よくお濠(ほり)ぱたにつれて行ってくれた。柳の木の下で遠くの灯を見ながら風にふかれたりしてね。そしてかえって来た。もとより袂の端だって見えっこありはしない!その時分は、やはり、今近しくしている人たちが、林町の家へも来たり、その時分鈴子さんがいて、よく来た。Aね、エハガキあげた、あの人など、良人とのことで苦しんで来たりした、私が寝ているそのわきで涙こぼしたりして。
上落合の家は、独りでした。林町から臨時に手つだいをよこして貰ったりして。栄さんに毎日世話になっていたのはこの時分から、翌年の(十年)の十月下旬まででした。上落合の家は、五月の二十日ぐらいまでしか持てなかった。上落合の家へ越した年の十二月初めに、夕刊で、市ヶ谷へいらしたことがわかった。その晩あわてて、着物買ったり何か栄さんとした。あの時分は落付かず。詩人の病気は益〃悪くなって来ていたし。仕事としては、バルザックの一寸した研究(リアリズムの解釈の誤った解説に盛につかわれていたから)小説「乳房」その他。この時分はまだ徳さんの現代文化社があったり『文学評論』がともかくあったりした時期。五月から十月下旬まで淀橋。この間に『冬を越す蕾』が出版されたわけです。翌年の三月二十五日?だったろうか、一応かえる迄に一月三十日に父が没した。その前後のことは別にいろいろの点からかかれていると思います。
国が、家の主人となって、例えば戸塚夫妻、中野さん等来てくれても、一つ家に私がいるのがいやと云うのではないが、持ちこむものがいやなのね。一緒に食事するのがいやだと云ったりいろいろで、咲枝は板ばさみだし、私は我慢ならぬ。てっちゃんがかえったのは引越し前の冬だったでしょう。池さんの細君との間が破れたのもこの頃でしょう。
目白へ家をさがした心持は、思い出一しおの故です。Sさんはその年の九月ごろだったか公判のために上京して、戸塚の下宿にいました。ちょいちょい出入りしていて、お金にこまり、ぜひ東京にいたいというので、私はすこし助ける意味で、新聞の切ぬきの整理をたのんだり、本のカードの整理をやって貰ったりして、十円までのお金あげていた。もとから智恵子さんを知っていたのだそうですね。そっちはそっちで進行していたわけです。家をうつるとき、あっちへ一緒になる迄、田舎の送金がなくなったからという理由で目白に来て、二月まで二ヵ月いた。二月に職業を見つけてアパートにうつり、それからこの八月結婚するまでズッとアパート。一月の終りか二月の初めごろ既に先の話は破れたのです。対手の人はこの家へ二度ぐらい来ています。その二度目ぐらいのとき、私がいつまでS子さんをここにおく気かときいたら、それは本人に云うとか云って、かえるの待っていて、ちょうど稲ちゃんが来ていて、変にきまずくて一座白けていたら、外出から戻ったS子さんをつれ出して、話をことわった由。
この人は、それから一遍宮崎龍介の母を訪問したとか云って一寸よった。
これらのほか、若い女のひとたちが何人か新しく環内に入って来ている。ずーっと眺めかえすと、主な糸はやはり三、四本ですね。
てっちゃんの結婚は、てっちゃん流で、友人の誰もよばれず。独特にやっている。旦那さん二階で御勉強、細君は下でコトコト働く。「清子さんの趣味は何?」「サア、働くことでしょうか」そういう工合でやっているし、これからやってゆくでしょう。あの人はそれで落付けるのです。そういう種類で初めて落付ける。そうらしい。家はまだ一度も訪ねず。
徳さんが戻る迄は、歌子さんも折々見えました。この頃はもう安心して、たんのうして、忙しく勤めていて見えませんが。製本して貰う女のひとなども去年の秋ごろからの知人。動坂の家へ遊びに来ていたような親娘のひとたち、まるで会わない。メイソーさん二度ぐらい会ったきり。細君はまだ。コヤさんは結婚したとききましたが(メイソーさんから)やっぱり知らず。会いそうな人が却って会わないのは、いろいろと面白い。母娘さんたち、私は大して会いたくもないが。人々のうつり変りの中で、思い出す毎に切ない気のするのは、詩人の細君が、消息不明なことです。どこかへどんな男かと消えた。可哀相に。何も分らないひとだから。
さて、余り長くなるといけないから、これで一区切り。この頃は大変風邪が流行(はや)ったそうです。喉が痛いと合本もって来た女のひとも云っていました。きょうは、でも本当におそい秋らしい。青空の前に鋼色の欅の梢が奇麗です。この二階はすてがたい眺望あり。では又。 
十一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月八日第七十信
智恵子さんがなくなった通知のハガキを貰ったのは六日(日曜日)の午後八時ごろでした。ああ、到頭と思い、すぐ出かけてお通夜をしようと思った。けれども、まざまざと、最後に会ったときの体も心も実に苦しげであった様子、心の底までうちあけたくて、しかも自身の愛情の誇りのためにとりみだすまいとしている懸命さ、その力一杯だった顔が浮んで、私が行ったら、本当に寝ていてももう一ぺん生きて来て、「ね、私到頭死んじゃったのよ」と云いそうで、迚も横えられてあるようなところへ行けなかった。そう一言云ってホッとしたいためにだけでも、もう一遍おき上って来たそうで。この十ヵ月間の溜息をしんからつくために。
この七年の間の生活と努力とを、最後までまともな場所へおいて理解するために、彼女は実に健気(けなげ)に生きました。そのことを考えると涙をおさえることが出来ず、お葬式のときも泣けた。あちらのお母さんが、「本当にすみませんでした」と云って写真をやったことなど、それだけ切りはなすとすこし芝居がかっているようにきこえるおそれがありますが、これまでの彼女の眼と微笑を見て来たお母さんとしては自然な情愛であったと思います。あの苦しそうな微笑と燃えて乾いて輝いていた眼付とは、小さい顔の上で、万言にまさるものを語っていたのだから。僅かの人が知るきりのしかも健気に生涯を闘い抜いた女性でした。
――○――
さて、きのうはあれから東京堂へゆきました。『新支那現勢要覧』は持っていないし、どんな本か見るためだけにはとりよせることも不便という話。(きょう、文楽堂へたのんで見ました。明日持って来れば見て、よかったらすぐお送りしましょう。明日もって来なければ、やはり返品不能の本である由)それから丸善へよって「ドーデン」をきいたら、あったので一冊とり。本店へ行って見たところ、御注文のものは例によってなしです。ただ『移りゆく日本』の著者はリデラーという人で、その人の『世界経済に於ける日本』というパンフレット式のものがあって、かなりひろくよまれた由なのでそれをとりあえずお送りして見ました。内容のたちがそれで凡そわかるでしょうと思って。『移りゆく日本』は、十一、二円の本ですし又すぐなくなるのだから予約しておきました。『印度年鑑』は本年のはもうなし。来年も入るでしょうと云っていました。予約しましょうか。その方が入手たしかです。『わがオーストリア』は売れたと見えてなし。『ナチとは何か』はユダヤ人問題の側から扱っているらしい、著者ユダヤの人です。どうかしら?この間調べたときはなかった『支那統一のとき』WhenChinaunitesという本があり、近代の推移から西安事件などにもふれているらしい。興味がおありになりそうでしたら、すこしよく調べましょうか。
きのうはかえって来てから、その小さい本を送り出して、ニューヨークの出版屋へカタログ請求の手紙をかいて、夜は『家族』の最後の部分を読み終りました。非常に爽快なよろこびをもって読み終りました。現実に対する深い洞察から生じている結論、そして確信は、何と人間を鼓舞し、自身の合理性への欲求の自然であることを一層深く肯(うなず)かしめるでしょう!
きょうは、午前中、一寸したものを書いて、それから計画していた新しい本にとりかかるため、使を出したりしたら、それがなくて、昨年私たちの生活の満五年の記念のためにあなたが下すった『二巻選集』を、とりよせたことになりました。一巻の方に伝記が集められていて、それをよみはじめました。きょうはこれをよむ。面白い。ところどころでクスリとしたりする。濃い黒い髯のために娘たちがムーア人とあだ名で呼んだこの父親は、若者たちに対して「勉強するように追い立てたばかりではなくて、彼は又我々が勉強しているかどうかを確めた」などとかかれているところを見ると、そして、その答えかたに決してゴマ化しを許さなかったと云われているところをよんだりすると、私の心では特別の微笑がこみ上げざるを得ません。全くよく御承知の通りのわけで、もと、一つ二つ伝記としてよんだことがあっただけ故、矢張り有益です。
今私はこういう計画をもっています。十一月一杯はよく精を出してこの種の読書をつづけてゆき、十二月に入ったらこの一年のしめくくりの意味で、ずっと書こうとしていた今日の文学についての覚え書を書こうと。たのしみにして、今年の初め書いた百枚ほどの「今日の文学」からすこし進歩したものをかきたいと意気ごんでいます。前の分と比べて、自分でどの点がましになっているか意識されるだけ、自覚した努力で書いて見ようと思って居ります。ただ楽に、いわば自然発生的に書くのでなくて、ね。
葉山嘉樹が「幸福」という作品をかき、その中の百姓に「幸福とは結局自分ひとりが、はたにどのようなことがどうあろうと、その日その日をどうやら過していれば幸福ということになる」と云わせているらしい。川端康成がそれを評して「こういう考えはこれまでたくさんの人がもっていたが、文学にこういう形で現れたのは珍しい。だが、幸福とは果してそういうものか。そういう状態で幸福と云い得るか」と疑問を発している。この疑問でさえ、ある感動を与えている有様です。又、暮しの急激な変化は、歴史の転換を感じさせるので、若い作家の間で祖父、父、現在、と三代の推移を描く欲望がある。彼等は、それを短い小説に、家系を主として書いている。ここにも非常に興味ある諸事情が蔵せられているわけです。そういうテーマを何故百五十枚ぐらいのものに、その狭さで扱うかということについて。
ヨーロッパ、アメリカでも、歴史の回転がはげしく感じられているらしく、ドス・パソスはアメリカ「USA」という題の小説を書いている由。イギリスでも各社会層のタイプを描いて現代を示そうとする作品が出かかっている由。あっちの文学がジョイスの心理主義から押し出されて、ロマンティックな方向と新しきリアリスムの方向とをもつことはこの前によんで、手紙にかきましたが、こういう作品は果してどのような実力を内容しているのでしょうね、現実観察に当って。
そう云えば、あなたはもと、「猶太人ジュス」という小説をおよみになりましたろうか?きっと読んでいらっしゃるでしょうね。その作者ホイヒトワンガーは、ジイドの紀行に反対するものとして実に誠実溢れた旅行記をかきました(一九三七年)。翻訳は売り出されると間もなく引っこめられたが。ドス・パソスは別に『戦争のひま』というような題の旅行記を出しました。紹介批評に、小説家としては幾分表面的な場合もあるだろうがと条件つきに、本の面白さを云っていた。私はこの作家については知りません。
入沢達吉博士が死にました。科学者として、死後に、入沢達吉病歴として四十年間の病歴が書かれていた文書が発見され、幼児脊髄マヒをしたことがあって、(Kと同じですね)今もビッコなので、この未だ病原のつきとめられていない不幸のために、解剖に際して必ず脳と脊髄解剖を行うべしと特書してある由。これは科学者らしいいい話です。けさ新聞でよんで心持よかった。この人は昔の留学時代W・リープクネヒトなどと会ったりしている。では又。おお、おなかが空いた。栄さん、小説を直しに来ると云ってまだ来ない、繁治さんのカゼがわるいのかしら。お礼はつたえました。 
十一月十二日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十二日第七十一信
きのうは、そちらからのかえり、二人にくっついて、久しぶりで林町へゆきました。本も入用だし。
太郎、途中で眠くなって、トロンコになって、形勢危しと見たおふくろさんは、一生懸命、電車の窓から、「アラ、トラックよ、何のせてるんでしょう」などとやって、やっと歩かせて辿りつきました。咲は、太郎を「悧巧そう」と一度ならず云われたとくりかえしてよろこんでいました。「お愛想かと思ってよく考えるけれど、宮本さんだもの、ねえ、まさかお愛想だけで云いはなさらないから」とホクホクして、父さんが戻るやすぐ報告して居ました。アボちゃん、「あっこおばちゃんの小父ちゃん(あなたは、こういうむずかしい呼名の方なの、そういう云い方で、何か一組として分るのですって。)が、きょう、太郎ちゃん悧巧そうだって仰云ったでしょう。そうじゃこまるわね、本当にお悧巧になりましょうね。」そういう会話をやって居りました。但、お茶をのんでいて、太郎が余り菓子をねだったとき。
夕飯の前、私は大きい鼠になったり熊になったりしました。太郎は猫と兎。こんなにして、這ったり唸(うな)ったりしたの久しぶりだったので、大いに気散じになりました。太郎はこの頃、もうお伽話の世界での擬人法で遊べるから、なかなか面白い。一人前の対手になる。私が大きいねずみになって食堂の入口のあの重くて大きいドア(覚えていらっしゃるかしら)の蔭にちぢまっていて、猫に向ってとびかかる、そのとき前掛を頭から顔にかけてかぶって、丸い顔を尖った小さい顔にしてとび出したら、逃げながら、フロシキかぶらないんだヨ!フロシキかぶらない鼠ヨ!と盛(さかん)に抗議して、大笑いしました。夜飯後、これも全く珍しく、つよいアクセントの言葉をきいて、愉快だった。
咲は、盛に喋り、はねくりまわる太郎をテーブルの前から見ていて、小父ちゃんに一目ここが見せて上げたいと云いました。大分甘ったれたところ見せたのですってね。私は、でもそれでいいよいいよと賛成しました。だって、そういう憚(はばか)るところのない感情の表現、その身ぶりなんか、やっぱり目と心にいい気持ですものね。たまには。太郎にのみ許されたる独壇場だもの。
いろんな話が出て、十時すぎて、バスがあぶないから車で送って貰ってかえりました。(家のに非ず。国はそういう点全く尻重ですから。かえったらもう出ない)。
フランスへは一ヵ月百円のところ、特別の許可でそれより多く送っている由。この頃は、かためて送れず、毎月ですって。こちらの分は全然別口にすれば送れます。あっちの送金にこめることはその点で不可能の由。複雑に社会が動いているから、あっちでもいろいろの心持でしょう。巴里で金持と女子供は皆避難したときは大分特別な経験もしたらしい様子です。
咲のこと、本当に御存じないのねえ。あの人には兄が一人、これが後とり。姉春江、これは河合さんという凸版の親方だった人の息子の細君。一馬という男。これは郵船の船のり。今結婚しかかっている。あとが例の音楽家です。
ところで、世界の波のうちよせ方は様々に波紋を描いて面白いこと。バック女史が、支那を描いたことによってノーベル賞を貰います。カウツキーという人は八十四でアムステルダムで(ウィーンからうつって)死んだ。ローランが大戦のときノーベル賞を受けました。その祝いがスウィスで彼の質素な部屋で行われたとき、彼は、ピアノでヴェトウベンを弾いたそうです。バックは今「アメリカの子」という小説をかいているそうですが、どのようにお祝いをするでしょうか。
私の勉強は今日から哲学のものにうつります。伝記のつづきに、その本に入っていたある序文でイギリスの十五―十八世紀までの歴史的展望をよんで、実に面白かったし有益で、英文学史というものが、やはり、まだ本国でさえ書かれるようには書かれていないと感じました。漱石の十八世紀の英文学研究も又改めて面白く思いました。十七世紀に町人の文化が発生して、写実を主とする肖像画が生れ、文学の性格描写が生じ、音楽でヘンデルのような表題楽が生じたこと、日本の西鶴が十七世紀であるのも面白い。
いろいろと綜合的に感じ、ふと自分はどうして文学ノートを書かないのだろう、書いていけないわけはなしと思いました。ああ勿論それはかの哲学ノートほどのものでありようはなくてもね。日記が文学ノートのような時期があったが、三年前のとき、記念品としてまき上げられてしまった。それが癪にさわったのでそういうものはつけないことにしていたのですが。文学ノートをこれから書いてゆきましょう。これも些細なことではあるが、やはり自分の日々の内容を自身に摂取してゆくことにも役立ちますから。すこし厚い、しっかりしたノートを一冊買って、はじめましょう。ちょいちょいよむが沢山よんでいる。そういうものについてやはり書いておくべきだと思います。こういう一つの小さい実行性についても、私はこの間うち(夏以来)のいろいろなことが、本当にありがたいと思います。勉強してゆくということはしてゆくことであり、仕事してゆくことは仕事をしてゆくことであり。そう云えば、誰だってそれはわかっている、と申しますが。
十日づけのお手紙もありがとう。率直のことも、私にしろ機械的に考えては居りません。私はこのごろ自分として勉強もしているし、気分もはっきりしているので、先達のうちのいろいろのことから、あなたが、私の些事なるが如くあって実は本質的なものという点へ、視線を鋭くお集めになったことも十分よくわかって来ています。だから、そのときその場では、何だか云って見れば痛くない腹をさぐられる式に感じたことさえあった、それが、大局からの問題として、その点に触れられてしかるべきことが納得されましたから、気分的に苦しむことはなくなりました。
本の装幀は五十銭でした。但これは例外のねだんです。本を余りおよみにならないように。この間てっちゃんが、そのことを云って心配していました。あなたの速力では決して読みすぎるように読んでいらっしゃらないのはわかりますが。十六貫五百おありになるって?きのう咲からききました。「あら?知らないの」と笑っていた。今月の二十三日はお休みなのを知っていらっしゃいますか。花の鉢をたのしみにしているのに。お母さんは、私をすこしは甘えさせてやれと仰云らなかったでしょうか、一寸伺います。
お約束十一月一日―十日
(午後五―六)
起床計温就寝計温
1日六時四十五分六度六十時十分前六・五
2日七時六・八九時六・六
3日七時十分前六・六十時十五分過六・六
4日六時半六・七九時十分頃六・四
5日六時四十分六・六十一時半六・五
(ター坊のおどり)
6日七時十分すぎ六・六十時六・六
7日六時四十分ごろ七・一九時半七・〇
(お葬式のあった日)
8日六時半七・一九時四十分六・六
9日七時五分前七・一九時二十分六・八
10日七時六・八十時六・七
――○――
これだけの余白は勿体ないこと!
『キュリー夫人伝』は、私はまだ読みません。しかしいろいろの条件はあっても(エーヴの美学について)やはり本気で働き、本気で愛し合った二人の卓抜な人間の生活からほとばしる本来の輝きはありましょう。今ちゃんとよむものがあるから、私はそっちの腰かけでよむもの(袋の中。今は『猶太人ジュス』)それから一寸の時間茶の間でよむもの(きのうまでは『近世小説史』)それから机の上の本として、余りあれもこれもと一度におきません。およみになったらこちらへ下さい。そのあとをよみます。おひささんの声アリ、御飯が出来マシタ。今日はさわら(魚よ)とホーレン草をたべます。 
十一月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十四日第七十一信
きょうは何という特別な味いの日でしょう。その下で将(まさ)に将に花咲かんと願った耀かしさ、そして暖かさ。
机の前で勉強をしている。折々云いつくせない光の波が甦(よみがえ)って来て私をつつむために、きつく胸に手を当てながら。
一つ御紹介いたしたいものがあります。それは一冊の帳面。本の整理のために使っている大学ノートと同じ大判で、紙表紙はおとなしい緑っぽい色です。二本の枝がノートブックという字を上下からかこんで若葉をつけて、背のクロースは調和のよい藍色。そしてタテケイです。平凡だけれどもどことなく生新ですっきりもしている。今日からこれが私の勉強帳になることになりました。これからはずっとよむ本と並べておかれ、いろんなことをかきこみます。勉学に関することを。
オイゲンという先生は、大変な混雑物ですね。こういう混雑を、かくの如くつかみ出してはっきりさせてゆくということは、実に大したことです。ここでは二重に学びます。云われていることの正当さと、云いかたの正当さについて。混雑をどこでとらえてどのように奇妙な撞着のモメントを追究して示すかということについて。だが、これは私の哲学的読書力のギリギリのところですね。決して楽によめるなどという大言は吐けません。十分にはわからないところもある。そうかと思うと、覚えず愉快で机をうつようなところもある。数学の公理理解における観念性のところなど。数学がわからなかったこと(わけ)がよくわかります。ところで、あなたは、数学がお得意でしたろうか、そうでもなかったでしょう?数学の教授法の進歩の歴史の中には確に深い意義がひそんでいます。
さて、段々と進んで来て、科学の第三の部類について語られているところに来たら俄に息が楽になった。自然科学に関する知識は何と貧弱でしょう。いつか、狭い部屋暮しの中で『史的に見たる宇宙観の変遷』という文庫本をよんだときにもそう思いましたが。その本からホンの一滴二滴のこったものが、それでもいくらか今思い出されて役に立ちます。
十五日
あなたのところからこの頃の日没の空が見えるでしょうか。きょう上落合のところを栄さんと歩いていたら、重く濁った太陽が、低い地上では靄(もや)の湧いた樹々を黒く浮上らせながら沈んでゆくのを見て、シベリアの景色、バイカル湖のあたりや、モスクワの日没を思い出しました。栄さんのところへは、十七日の用でよったの。先月はごたついていてあなたの御誕生は珍しい家内の顔ぶれでやりました。今月の十七日は、お赤飯をふかさして栄さんのところを(丁度小豆島から妹さんとその娘――小さなの――が来ているから)ユリちゃん小母さんの家へ呼んでおひるをたべます。祝いのばしというのはいいこととなっております、古来。
きょうはおしまいごろに交された話(退院後のこと)あのとき、私は何だか先頃来の点のからかったことの微妙なニュアンスが氷解したような感じがしました。点の辛さを、そのこと自体導き出すものは実際にありました。そして、点の辛さは、有益であり、全体として正当なものであり、私は明かにそれによって精神と肉体との健康をましつつあります。ありがたさにかわるところはありません。でも、やっぱり何か微妙な感情の底流、言葉の語調がひそめているもの、そういうものに影響しているものとして、作用していた何かでなかったと云いえない感じがしました。公的に書き、語っていたのよ、ずっとそのことは。きょう、それはよかった、と仰云った一言で、私は本当に本当に気が楽になった。「そんなこと、判っているじゃないの」と云った自分の心持では、もしもそのような点まで模糊とさせているのならば、何のかんばせあってかまみえんなのだから、判り切っていることだという心だったのでした。けれども逆にも考えました。原っぱを心たのしく歩きながら。そういう点まで一応改めて訊ねさせたものが、私のいろんな点に在ったし、在るのだということを。そして、そこには、やはり深い自省が促されるものが在ります。でも、本当に、よかった。
根本的なところでの安心、土台の安心、そういうものが確保されていて、与えられる励し、批評、心づき、それらの与える感じは、その根本への何かの陰翳を伴って向けられる忠言その他とは、おのずから雰囲気を異にするのが当然です。私にとって、何か苦しかった、心持として(妻としての)何か切なさが伴ったのは尤もでした。今こそ申しますが、私は幾度か涙を以て考えました。この三、四年間の自分の努力というものは、どのようにあなたに今日評価されているのだろうか、と。去年そして、その前の年、私はそういう疑問を感じるような、そういう感じの言葉はあなたからどのような形でも頂いていませんでしたから。「予後不良という診断は不幸にも適中した」と書かれた文句をよみかえしよみかえして、二年を経た今日、このような言葉を語らせるのが、自分であろうかと思ったことでした。
この次私に手紙を下さるとき、どうか、あなたの「それはよかった」という一言が、お互にとってどんなによかったか確認した表現を下さい。それは決して手のこんだことはいりません。ユリがこのようによろこんでいる、よかったは何よりだった、それでもう十分です。生活というものは考えるとこわいようね。当然通じているにきまっているとひとりのみこみしていては実に大変なことさえあるのだから。書きながら、あなたがニヤニヤしていらっしゃるのも見えます。「それは成程よかったし、寧ろ当然なことだが、マアそういう点まで一応訊ねさせるものがあったということについて自省を向けているのは、正しいね」と。主観的の善意の具体化ということは、全く云われている通りですから。
自分としては何かしっくりはまりこみきらない切なさを一方に感じつつ、それでも最も正当に最も健全に、あなたの云われている諸点について考え、努力して来たこと(この二・三ヵ月)は、結果としてよろこびをもたらしました。
本当によかった。これから私は文字どおり曇りなき快活さで、いろいろの改良に従ってゆけますから。再び自分を心から抱かれている者として信じることが出来ますから。これは私にとってどれほどのよろこびと勇気の源泉であるか、きっとおわかりにならないでしょうね。あなたは最も真面目な理解をもって、よくよくユリの人生を支配しているその点をわかって下さらなくては。私はどんなことがあろうと、自分の生きかたで護れる限り、この貴重なる源泉の純潔を完(まっと)うしようとしているし、そのことは即ち、歴史性の上で歪んだ足どりを不可能にしているというところに、なみなみならぬ意味があると信じているのですから。
私は、きょうも亦、その話をとり出して下すったあなたのうむことないたゆみなさに心から感謝いたします。このすーっとした心持の手紙を書いていると、この間うち書いたいくつかの手紙を思いおこし、そこには一生懸命さと共に一抹の不安、どういうのかしら?というものが漂っていたことを感じます。
とにかく土台のところでは十分承認されているというこの心持。これによって私は生かされているのだし成長もして行くのです。私の精髄的なものが、ここにこめられている。これで、私は今年の冬も愛らしい、春のような冬、我々の冬として暮して行ける自信にみたされました。もう今から、特別な心で眺めて待っている月の色、一月に入れば、次第次第に輝きをまして、一夜恍惚たる蒼い蒼い光りに溢れる月に向って、一層新たな歓喜の挨拶を送ることが出来ます。
これから段々事務的な用も多くなるでしょうし、あなたの用もおふえになるでしょうが、それにつけても、よかったことね。私はこのうれしさで、勉強もしんから身につき、与えられる助言の実現努力に骨惜しみしない自分を約束しながら、あなたの手を執り、それを胸において、更にわが手を重ねます。 
十一月二十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十一日第七十二信
きょうはちっとも風がなくて静かでいい日ですね。表を送るのには、明日手紙書いた方がきりがよいのだけれども、かきたいから。『支那統一の時』本当に御免下さい。私が風邪だったので、渡して二階に上ってねていたので、ポケンの本領発揮してしまった。箱をあけたら(包紙入の)出て来たので、思わず私が「ひさ、これなんだい!」とやったので、小さくなって悄気てしまったが、私はフンマンおさまらず、家にいるとつづけて爆発するから、小包二つ抱えて出て郵便局へ行ってしまった。そういう工合でした。着くわけはなかったのです。
さて、島田へは雑誌や本、それに中村屋の、いつかお送りして気にお入りになった豆の菓子お送りしました。おせいぼはもうスタンドにきめてあります。炬燵でゆっくり何か御覧になったり床の中で見たりなさるのに便利なようなの。この頃は、日本趣味のスタンドが出来ていますから、そんなのをお送りしましょう。
てっちゃんには、あの図書の尾崎からと、前に云っていらしてなかった分とを皆書きつけてたのみました。
支那語の字典。あれは不十分だと思われます。画で引けるのでないと、発音がわからない字もあるわけですから。尚文堂のはラジオの支那語講座テキストの裏にまで広告出しているそうですが、大分財政窮迫と見えて、本にはなりません。文求堂のだけで、第一書房のは改版中の由です。『日華』はおなぐさみ迄に、と思ってつけ加えました。あれにしろ半ば無意味ですね、発音が分らないのだもの。
『日ソ』というポケット型の字引もあのとき見ましたが発音はむずかしいと見え、ローマ字でひどいことをやって居りました。支那語も発音はむずかしいのでしょう。よいのが見つかる迄ともかく一時御用立て下さい。
偶然のことからドイツ語の学力大いにある一人の女のひとを知りましたので、あなたのドイツ語向上のために、何かいい字引(文法つきの)を教わることにしました。そのひととは多分二十三日、一水会の展覧会で会い、字引のこともきけるかもしれません。
『仏和』は本日あたりお送りいたします。
岩波総目録のおしまいの本ね、あれはもう出しません。古いのでもないでしょう。しかし私は幸白揚社があの著者の重要著作選集を出しているのを皆もって居りますから、その中にはきっとあるでしょう。「その他」の他がどれなのか分らなくて閉口ですが。もしかしたら誰かもっているかもしれない。
十九日(土)には、待ちぼけでいらっしったのね。十二時迄と思ったのですって。朝、あぶないナと思ったのですが知らす間もないと思っていたらやっぱり。
金曜日は実に面白かった。あれから神田へまわって東京堂へゆき字引などいろいろしらべてフラリと出て専修大学の方向へ行っていたらとある額縁屋の中でチラリと動いた女の姿がどうも光子さんそっくりです。一水会の出品に十五日以後出京とハガキが来ていたし、往来に立って見ていたら、体つき反っぱのところ黒くてやせて、しかし何か美しいところ、まごうかたなしだから入って行って、知らん顔して並んで立っていたら、額ぶちから顔をあげて、アラーとかじりついた。大笑い。それから一緒に家へかえって、御飯たべて、喋って(未来派のこと。絵に、動きをとらえるのはどこでとらえるかというようなこと)。未来派は、一つの物体がその面に反映させているもので、その周囲を語り、或内容を語らせようと試みた。マツァは未来派は技師の世界から生れたもので汽罐車や速力やをとらえようとしていると云っているというので、それは技師の心となど云えないこと、未来派左派が詩で鍛冶派(クーズニッツア)(マヤコフスキー)であった理由、未来派の手法は、新しいリアリズムにより動きをもたらさぬこと。貴方には恥しいけれど、一寸柔道を試みてね、絵の動きは動きの中で、未来派のように車輪をいくつ重ねてボヤかして見たってはじまらず、とまっていたものが動くその瞬間の重心の移動でとらえねばならぬこと、それについてロダンの云っていること。
久しぶりで、方面の違った話をやって全く面白かった。光子さんが絵を出品する前に見て呉れというので、泊っている友達の家へゆきました。(そこがそのドイツ語の女のひとでした)岩松君も二点よこしていたが、夫婦の作品をくらべて、芸術家の夫妻のこわさを痛感しました。光子さんは、昔から丹念にかいて隅々まで描いていたタイプです。岩松さんは、顔なんかばかり興味をもって、しかもその顔から全体が浮ばないように扱っていたが、今度の夫婦の作品は腰の据りかたで一寸おどろきました。光子さんの絵はピアノをひいている若い女なのだが、ちゃんと一つの絵として落付いて居り、ピアノの黒いひろい面をもこなしています。淳さんは去年のように又魚を描いたり、人形二つ描いたり、光子さんの父を描いているが、肖像に於てはバックも体も破タンしています。何か画面で狙って描いていてしかもそれがつかまらない。そういう感じ。光子さんの工場の絵は、昨年の方がよかった。本年のは、技術上は進んでいる大工場ですが、そこは馴れないところなのでお客で、構図を十分考えるゆとりなく、作者(画家)の立場(描く焦点)がない。それに面白いことは、近代設備は、昨年の作事場(さくじば)的工場内よりカラリとしていて、独特の空気があるのが、光子さんの筆触ではまだつかまれなかった。でもそうやって、一年ごとにより進んだより多面な努力をつづけてゆくのは感心です。でも、父母が制作にかかって気が亢(たか)ぶっていると、子供は(六歳)体をわるくしたりしてしまう由。おばあちゃんのところに行っていた由。私は光子さんが下手くそで、紙屑だかナプキンだか分らないもの、つやも光りもない果物をかいていた頃から、その勉強ぶりを買っていたので、年毎にジリジリと成長して、現代の婦人画家の中では次第に本ものの実力を高めて来るのを見るのがうれしい。いつかのエハガキにしろ、あのひとのある心もちの傾向がわかるでしょう?
音楽でこの位まともな女の人がいたらどんなにいいでしょう。本気で勉強して新しい音楽についての努力しているひとがいたらどんなに楽しいでしょうね。器楽のひと、作曲するひと、そういう人を知りたい。作曲もする人がいますが、これは、何というか一種の人物で、自分を人前に出す欲望のつよさで音楽をやるみたいで、一寸よりつけぬ。それは新協の芝居につける音楽の扱いかたで実にわかる。芝居を生かすんではなくてサアきけと、つぎはぎの模倣物をぶちまけるのだから。しかし、こういう過程も過てやがて音楽もすすむのでしょう、とにかく弾くという技術では日本人の女の子が十七でパリのコンクールで一等をとるようになって来たから。芸術が生れるのはこれからです。
私の勉学は愉快に進んで居ります。今よんでいるものは大変に面白い。哲学のことにしろ、最も要点が押し出されています。経済学の部に入って居ますが、これをしゃんと了れば、大分他のものが分るようになると楽しみです。
光子さんが絵の話で動きのことを云って、計らず私が熱中したのは、動きにおいて捕え描写することが、文学でどのような意味をもっているかということ、その深大さ(トルストイのように「まざまざとした体の動き、声と目の動き」の範囲で、動きをとらえるのでさえあれだけ大したことなのだから)をつくづく感じていたからでした。「歴史的な、即ち絶えず変化するところのもの」ここに大した秘密があるわけですものね、文学上の。武田武志という人がリアリズムのことを云っていて、岸田、志賀のリアリズムに比すべきもの(リアリズム)をもった作家は一人もいない(新しき世代に)と云っているのを見て、リアリズムというものも、まだまだ多難なものだと思いました。こういうリアリティーの点から、再三私はあなたが、無根拠な楽観はしないと云っていらっしゃることを考えて、その生々とした意味を感じます。見るべきものを見るということの全くの当然さというかあたり前さをも感じます。段々自分の心も見えて来る。これは何と面白いでしょう。私はこんなところがあったと思う。根本的なところで、自分はシャンとやったしというところ。ね。滑稽のような、こわいようなものですね。勉学を全く自分の鍛練というか自省のモメントとして大いに考え考えやって居ります。道具と考えるほど大それていないのは、幸です。書きたいというのも術をかけて見たいのとはすこし違うのです。対象を通して勉強したい、その心持です。勉学は却って書きたい気をおこさせ、書きつつ又それをつづけるのは一層味ふかいのです。今のように、せっつかれないときに、はじめてそれが出来ます。今のところ勉学はやめられません。その位面白い。この本は特に面白くて、かめばかむほど味が出る。この前にも一寸かきましたが、物理の問題にしろ、数学にしろ、生きた好奇心を刺戟され、精神のよろこびが察しられて来て、しきりにソーニャ・コワレフスカヤを思います。彼女はどんなに数学をとらえていたのだろうかと。私は一人、女のひとで数学の才分がすぐれていると云われた人を知っているが、そのひとは大変図式的な頭です。新しく動的関係で発見された方法を、形而上的なやりかたでやる。そういうのが多いのではないかと思い、ソーニャはどんなだったろうと知りとうございます。あの伝記には、そういう最も内奥的なモメントはとりあげられて居ませんものね。だから伝記もさまざまね。伝記の精髄(それぞれの専門において)がぬけた伝記も多いわけです。
きのうは、午後から『輝ク』の(時雨女史の会)歳末会があって久しぶりで出席したら私が丈夫そうになったと口々に云われ、何をつけていてそんなに艶がよいのかと云われ、一々朝起き早ねをその原因として申しのべました。どうもありがとう。残念なことにはそれにつけ加えて一々、それは誰が私に仕込みつつあるかということを云えなかったことです。つやがすこしよくなればすぐ目をつけてくれますね。もっとせっせと垢(あか)おとしをやっているところのつやについては皆目めがつかぬ。あなおもしろ。ふと、日を考えちがえしていて、きょうは二十一日ね。手帳を見て、丁度表のためにも区切りの日でした。
では、お約束を果して、この手紙はおしまい。花は二十四日ね。

起床計温就寝計温
11(金)六時四十分林町デ熊ニナッテ居テトラズ十二時十分六・七
12六時四十五分六・五九時六・四
13七時六・五十時十五分六・三
14七時十分前六・六九時半六・六
15六時半六・七十時六・五
16七時六・六かぜ気で午後からずっと床に入ってしまった日六・六
17七時六・五午後から床の中六・四
18六時四十分六・五九時四十分六・五
19六時半六・四十時十分六・四
20七時六・五十時半六・五
十六日を中心として本月は熱を出しませんでした。段々いいこと。
この頃はこの仕事も大した苦労でなし。 
十一月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十一日第七十三信
さっき手紙を書いたのだけれども、急に大変話しがしたくなりました。夕飯をすまして又二階へ来て栄さんの小説をよみかけているのですが。
御飯のときひさと喋っていて、この家にはともかく来年で足かけ三年暮したとか、あなたにお正月の着物を仕度するとか、そんなこと云っていたからかしら。私たちの御秘蔵の大島をおきせしようか、それともあれは春までおいて、別に一組こしらえようか、そんなことを考えているの。久しく新しい着物もあげないから、一つ新しいのを見せてあげようか。御秘蔵はふだん着て膝がぬけてしまうと残念のようでもあるでしょう。あの着物の襟の合わせめのにおい。あの着物にしかないように思われる。
六つばかりのとき父がイギリスにいて、夏虫干しをしたら父のきていた冬着が出ました。父のにおいがする。お父様の匂いがする。暑い暑いのに、それを着て、泣きねいりをしてしまった。大人になると、そういう感情表現を、物狂わしいと見るのは、何という風俗でしょう。非常に不自由を感じます。着物をいじるごとにそれを感じる。
「仕立屋へはやらないよ、どっち道。又綿をポンポコ入れなければ駄目だから」「私がもっと上手だといいけれど」「又本間さんにたのもう、本当にちゃんとはじめなくちゃ駄目だから」ちゃんと始めるというのは、おひさ君の勉強です。
折角私たちの家にいて、一年いて、何もしない只台所している、それではいけない。何かしたい勉強を考えるようにと云っていたら、小学校教員になりたいということになりました。外の職業で、結婚と妊娠とでこまる例を見ているので。女学校を出ているから、尋常の正教員には何とかしてなれるのです。それで、来年の夏までガン張って実力をつけて、着手するということになりました。来年の夏までに、追々おひさ君が代りのひとを見つけることにして。ですから、この頃は時々、私が二階から下りて来て茶の間の柱によりかかって、ひさは長火鉢のところにいて、「あれが八分通り出来たんです」「フーム。割ったの?」などという会話をやります。応用問題の話です。そんな当てが出来て、いろいろ時間のことなど考えて貰っているので、ひさ、小包忘れて小さくなったわけなのです。猶々。
おや、按摩(あんま)の笛がきこえて来る。冬の夜らしいこと。
オイゲン先生の二人の人間からはじまる経済の空中楼閣につれて、ロビンソンの話があるでしょう。あの作品を、漱石は十八世紀の英国文学の評論の中で、当時の最も下等なる側の代表と云ってとりあげています。漱石の下等というのは、それが理想小説でもないし、美的小説でもないし、どの頁をあけて見ても汗の匂いがして、椅子をこしらえたり何かばっかりしているからだそうです。そして、構成のだらだらしたところを突いて、自分の小説構成論を述べて居ります。漱石は散文と詩との対比を、散文は人力車にも電車にものらず、二本の足でコツコツ歩くのが散文であるという風にきめたりしていて、文芸は社会の事情と切りはなせぬとしながら、その文芸の分類法は知・情・意の分立に立脚した四つのカテゴリーに並列的に分けているところ、矛盾が面白く思われます。
「ロビンソン」と「トム・ジョーンズ」と「虚栄の市」がフランス訳になる、「ロビンソン」はジャン・プレヴォストが序文をかくのだってね。どういうのでしょう。
スウェーデンのセルマ・ラゲルレフが八十歳のお誕生を祝われ、国家的祝祭を受ける由。この白髪のお婆さんは、キュリー夫人と何と対蹠的な表情、かまえ、書斎をもっていることでしょう。伝記もうお読みになりましたか。ちょいちょいみただけですが、ここにもこのように生きた人たちがいる。そういう気持もするでしょう?あの夫妻は、良人の方が柔軟な性格だったらしく見えますね。それにしろ、何とフランス型の科学者でしょう、彼は。フランスの科学はああいうタイプによって口火を切られて、よく国外でその完成を見るのに、キュリーの場合は、夫人がその点での驚歎すべき実行力というか手となっている。
そう云えば、鴎外の『妻への手紙』が杏奴の解説で出ましたね。いつか、愛子夫人が蘆花の家信を自分のと一緒にして出したが、ああ主観的で、あくがつよいばかりだと、第三者は、性格研究のためにでもない限り益をうけることは少い。前田河の『蘆花伝』はその主観性の中に伝記者までたてこもったものらしい。そういう評が何かにありました。近頃岩波で出している新書のうち、あなたはどんなのをお買いになるかしら。私はクリスティーの『奉天三十年』『支那思想と日本』『家計の数学』(これは家計の方に目をひかれたのではなくて、私たちが、キライナモノとされた数学というものを、生きた姿で見直したいから。)サートン『科学史と新ヒューマニズム』『妻への手紙』(鴎外)『戦没学生の手紙』等です。興味があったらポツポツお買いになりませんか。そしてお下りを頂戴。又袋に入れて持って歩いて読みます。『猶太人ジュス』をよみ終り、こういう小説(ローマ皇帝下のドイツの小公国を背景として)をかいた作者の心持、そして「旅行記」をかいた作者の心持、今一人の書記官の死に対して十億マークを全国のユダヤ人に課せられていることなど思い合わせます。
あの袋も、あながち皮がないばかりではないのです。冬になって、私は紺ずくめになってしまいますから、少しは色彩を、と思って。気がついていらしたかしら。いらっしゃらなかったでしょう?赤いのや黄色いのがこしらえてあるの。あれは自分で縫えるから。段々お目にかけます。
ひさが上って来る、何だろう、雨戸をしめに来た。光子さんが来て、私は心ひそかに計画をめぐらして居ります。こんどはこの二階からもとの家の二階の見える(屋根だけ)南の景色を描いて貰いたいと。茶の間で、あの足でしめる茶ダンス(覚えていらっしゃるかしら、あなたの芸当)のわきにいるところも描いて欲しいけれども。私は未来派のことやいろいろ彼女のためになるお話をしてやるのだから、又エハガキ一つ位描いたっていいでしょう、そう思っているのです。この我々の家を四方からかいて、並べるとマア凡そわかる、そういうお年玉をあげとうございます。自分の住んでいる家の見とり図なら描いてもさしつかえないのでしょう?
[家の見取り図]
二階の方はよく見えて居りますからかきません。ぐるりはこんなにひろくありません。門から玄関まで三歩です。
夏は下の四畳半へ引越します。これから春までここも、二階も西日がさして眩ゆい。その代り二階は火鉢が寒中しかいりません。さあ又、よまなければ。では又ね、 
十一月二十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十五日第七十四信。
きょうはいろいろと複雑な感想もあり、そこから学ぶこともありという心持です。人事の関係について考えて居ます。首尾一貫したものによって動かず、人間の多くは、妙に凸凹したもののひっかかりで互に動いている。そう感じます。自分の気持からだけ動き、袖の下をかいくぐってあちこちするようなやりかたについて、一組の人々に快よからぬ感情もありますが、それには身をまかせず、そこから学び得るものを自身としては学びとろうと思います。月曜日には何とかわかるでしょう。
さて、十七日づけのお手紙に答えて。勉強は元より十一月一杯などでやめようとは思って居ません。これは前便にも書いた通り、いかにも面白いし、生々と吸収されるし、ねうちは益〃明瞭となって来るし、総合的なものの中核となるし、順につづけて行きます。只今はオイゲン批判の最後の部にかかっています。傍ら書きたいという気持。勉強の一つとして。
今の我々の生活の時期をこの頃のようにしてたゆみない計画で経過してゆくことは実に大切なことだと痛感して居ます。知るということは謙遜になる最大の原因ですから。同時に、いろいろの現象の根底にふれ、その動きの関係をつかみ得る唯一の力をも与える。御褒美について、「今はとても未だ未だ也」は、それはそうでしょうと思う。あなたが私に、さアそろそろ御褒美を出してもいいと仰云るのが明日あさってと思うものですか。でも、私はなかなかその点では粘るから、きっとやがて三等賞ぐらいには漕ぎつけるつもりです。どうぞそのときはよろしく。段々目標を遠くなさるのじゃないかしら。あなたは教師としては甘くもないし、喰えない方ですから。全く資質というものはあって無いようなものでもあるのだから、日々の実質で決定されます。あることについての才能というものは、そのことをやる努力の過程を愛し得るか得ないかだというようなことをペシコフが云っていることをいつだったか読みました。これはなかなか掴んでいる。人生を愛すのだって、つまりはその波瀾と悲喜とをいかに経て、人間的一歩をすすめる努力を愛し得るかということです。人への愛だって全くそう思う。どれほどその対手に対しては骨惜しみをしないか、努力をよろこび得るか、それだと思う。抽象的なものは何もない。だから文学者一般であるかないかは、生活そのもので語られると云われていること、それについて退院前後のことがとりあげられる意味は十分に腹に入り、真の自主性ということについて云われていることも今日では、自分の当時の気持の分析の上に立ってのみこめて来ています。受け身に、云われることを成程尤もだと思うのではなくて。あなたが、「それはよかった」と云われたことについて、それを中心に書いた手紙ね。あの手紙について、あなたは、私が又あすこで、生活の動きかたそのもので語られるという現実について鈍い勘しか働かせていないとお思いになったのではないかと思いますが、それはそうではないのです。私は、あのころ、それから後も、主観的には努力を惜しまなかったし、根本的と思われることを守って来ていたつもりだから、それでも猶未熟さからの多くの不足や弱点や観念的なところがあったにしろ、やっぱり一応そのことはあなたも認めて下すって、其故一層生活の日々こそそれを実現するという励ましを願ったのです。その気持は判って下されるでしょう?私は、見合って話している間ばかりでなく、いつだってあなたへ視線をおいている。ぴったり、そこを向いています。体ごとそっち向いている。生きたって死んだって、そっち向いている。斜(はす)っかいでも向いていそうに思われたりしているのではないかと思ってはやってゆけない。一心こらしているくせに、それにこりかたまったようになって手足働かさず思いにとられているようなところが時々あるのがわるいところだし頓馬さや非事ム性やらになって出る。どうでもいいやというところからのサボなんかありようないのですものね。いろいろこういうことはいりくんでいて面白い。追々勉強が身につくに従って動きも本質にふさわしい活溌さ、正確さ、客観性を増して来るだろうと感じられ、建設の原理が、手足について来るだろうと思うと、本当に愉しい。そして、勉学はいっそう無駄なく深く、仕事はいっそう骨格をつよめ、肉をゆたかにつけ、而も脈々として動きの中にあり、それに作用する実力をこめているようになったら、どんなにうれしいでしょう。このことと練達な生きて、強固な生きてであるということは全く切りはなせない。ジャーナリスティックであるなしも、けっきょくはここにかかって来るのであると思います。大いに本人はがんばっているつもりで、本質的にはジャーナリスティックな足場のみであるために、生活の現実でもんどりうってひっくりかえった実例を近く見ましたから、実によくわかった。ジャーナリスティックな場合、どうしたって現象的ディテールを追って、それに対して云々する場合が多く、従って文学理論の歴史から見ても、それを或時代から時代へ発展させ押しすすめる集積としての仕事になり難い。キュリー夫人たちが、生活のための教授とライフワークとしての研究を、強引にひっぱって行った態度は立派です。大した意力です。その二つの間で、重点を誤らなかったことが、あの成果を与えている。あれ程辛苦していて、それでもやっぱりフランスね。夏二ヵ月のあの暮しかた。それぞれの社会のもっている生活の幅ということも考えます。私も段々実のある業績を生めるでしょう。勉強をはじめてから、自分にも感じられる精神状態の均衡と密度の高まりがあるから。
つづけて読むものについて、すこし私の考えついたプランがあるからこんど相談にのって頂きます。今のはもう火曜日ごろ終りますから。
きょう私が感覚的な鮮明さで感じたことについて申しましょうか。それは人間にも鉄の鋳物(いもの)のようなのと、鋼鉄のようなのとあるということです。美と粗雑さとの相異が何というあることだろうということです。つやが何とちがい弾力が何とちがい、その緻密さと強度と何というちがいだろうということです。あらゆる分野において、人類の誇りとなった人々は常にその生きかたに後者の要素をもっている。しかも、やはり鉄の出です。混ぜかた、火のいれかたなどが違う。鉄はひとがまぜて火を入れるのだが、人間には自分でそれが出来る。ここに云いつくせぬ味があると思う。
きょう三越からハガキで、この間注文しておいた『私はヒトラーを知った』IknewHitlerが来た知らせをよこしました。あしたあたり届けて来る。そしたらお送りいたします。
書きぬき出来ましたが、スペインは少いこと。支那関係が四十六位のうちあの便覧に出ている著者は十人位。なかでは『支那革命の精神』の著者がよさそうです。(パイパア)ホルクームと読むのだそうです。
明日から二十七日一杯防空演習です。空からいろんなものが降るのですって。きょうは、丁度家にいたので四時に計ったら六度三分です。却って低い位。栄さん、来月の二日ごろ又お目にかかりに行きますって。今もう九時すぎ。これから風呂に入り、床に入ります。では又。風邪をお引きにならないように。 
十一月二十八日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十八日第七十五信
二十五日づけのお手紙をありがとう。
先ず早寝のこと。それでも八点下すってありがとう。九時に切りあげることは着手しはじめました。おそくなるのではなくて、するのだということ、これは本当だし、笑ってしまった。こういうことからもいろいろフエンして会得することがあります。したこととなったこととの分別が明瞭を欠くところが大いにあるのですね、私の生活に。すべく意志して、したこと。それから、しまいと思ったがしたこと。後の方をとかくひっくるめてなったとする。貴方にはその区分が明瞭だから、したことを「なった、なった」と云っていて、それは、理由づけにならぬ理由づけで、いかにも非理性的に見える。おかげさまで私にも追々はっきりして来ました。だから、なかなか早寝早おきも意味がある。ただつやがましになる以上に。物事に対する態度が学ばれるから。だから、これからはこうきめます。早く寝ようと思うときには十時を励行する。それから、何か特別の必要でおそくなるときは、(例えば三十日には是非音楽をききにゆきたい。十時にはかえれません)おそくなったのではなくて、確に自分でおそくしたのだから、そうとして次の晩でも早くねる。私には下らない弱気があって、例えば私の体のことでもこんなに考慮し、プランを与え方法を示して下さるのだから、一晩だっておそくならない方がいいという気があって、しかも、それなら断然おそくしないということは出来にくく、たまにおそくなる。すると、これこれでこの日はおそくしましたと云い切らず、ついおそくなっちゃってと云う。大変平凡です。何々なっちゃったということは元来好きでもないのだから、以来、はっきりいたします。下らない会や何かで夜更しをすることはしませんが、これからも時折の音楽会と林町ぐらいは十時をこすことになるでしょう。尤も一ヵ月に二度ぐらいでしょうが。それだけは、あらかじめ御承知下さい。マアよかろう、ということにしておいて下さい。手帳を見ると、九月十日に安田さんのところで診て貰ったのですね。十月・十一月とすこしは飛んだが、つづけた。
勉強はほかの本に気を散らしていないから、大体五六時間から七時間あります、もっともそちらからのかえり、よそによる日は減るが。ちょびちょびでは身につかないし、読む吸収力が加速度に加わらないから、それは気をつけて居ります。オイゲン先生の終りの部につれて(第三篇)十八世紀の啓蒙家たちのこと、文学のことをもこれまでよりややまとまった形で学ぶことが出来て、大変愉快です。「永遠の理性」と考えられた(啓蒙家たちによって)ものの実質が、当時の進化しつつあった一定の層の悟性の理想化であり、その矛盾が、光輝ある発火を妙なところ、ナポレオンのポケットへもって行ったことなど、何と教えることが多いでしょう。
啓蒙家たちのことは、文学におけるヒューマニズムの問題のあったとき、いろいろな人がちょいちょいふれたが、真に彼等の理性の本質にふれたものは記憶にない。それはとりも直さず、それをなし得るだけの現代の理性らしい理性がないということです。オイゲン先生は傍ら十五世紀から十八世紀にかけてのヨーロッパ文学史を展望させつつ、予定通り火曜日頃に終ります。そしたら、この間云っていらしたのにとりかかりましょう。
キュリー夫人。私がエーヴの美学云々と云う表現で感じていたもの。バックとの比較も全くです。本当に科学というものの性質をエーヴはつかんでいず、カソリック風なニュアンスで(殉教風に)母の業績を見ているのでしょうね。おっ母さん自身も、云われている点、ちょいちょい見たときやはりあの一行に目が止って、そうではないのにと思ったところでした。こんどいつか送って頂いて通読しましょう。何はどうともあれ、彼女の一心さは見事な姿です。(今四時。たった六度二分です)
きのうの日曜日は、家にいてずっと読んでいたかったが、丸善へ出かけて行って、すっかり本棚を見て、『スペインの嵐』を見つけて来ました。それから、いつか云っていらした『我々は世界を包む』Wecovertheworldという本も見出しました。これはアメリカの今日代表的な海外通信員十六人の短文を、各国のテーマで扱った通信を集めたものですね、御存じだったかしら。いろんなところでの通信をあつめたもので、中には支那に十年いたという米人記者アーベントの「支那通信」などもあります。ジャーナリズムの部に在るのでついこれまで見えなかったのでした。そっちは見なかったから。それに、予約で入ったのは並べないのね。例えば、さっき一緒にお送りしたヘッドライン・ブックの中の『太平洋における衝突』一つも出してなかった。あしたかあさって、あなたのところへ三冊届くわけです。
『スペインの嵐』『太平洋における衝突』『ヒトラー』と。相当御裕福ね。支那の方では新荷なしです。『支那の発展』というのがあるが内容古い。『支那民族』というのがあったが、それはライプツィッヒ大学で何とかいう人が講義したものの英訳です。いくつかの特長をもっていて、支那語と支那思想の独自性、哲学性などということをオイゲンもじりにやっている。
オイゲン先生は今日、その言句の扱いかたの特色とともに何と再生されていることかと思う。尻尾を頭につっこんだとぐろの形を描いている。ああいう伝統みたいなものがあるのですね。これというようなものはない。雑書ばかり残っている形。ドラゴンがどうしたとかオリエンタル何とか。
ケンブリッジ大学でロイ・パスカルという人が講義した『ナチ独裁』という本がありました。スペインに関しては、やはり新しいものがない。連邦制が提案されてからのことは勿論まだないわけですが。五六冊あったが、どうも『今日のスペイン』にまさるものはなさそうです。二人の婦人記者が書いた従軍記『スペインのノートブック』RedSpainishNotebook、『新しきスペインへ向って』TowardsthenewSpainその他。
この本は、予測(国際関係における)をも語っているが、どうかしら。つまりどの位しっかりしているか、それは疑問です。フランス語のものはこの頃科学関係は来るが、文学も社会事情も、新しいものはないらしい。ましてオースタリーの以後のものなどは来ていません。(これは店員にくっついて歩いて調べて貰った)。ロシア語では工業の本が十冊ほど。あとは古い古い駄小説とデミヤン・ベードヌイがまだ批判されずにいた時分の詩集とが、棚の下の方にくっついていました。英語で『五つの現代劇』というのが訳されていたが、それも何と古いのでしょう!十年ほど昔の、しかも或種のものが訳されている。『トゥルビーン家の日々』だの『インガ』だの『パン』だの。もっともっと新しい、健全な、生活を反映したものが出ているのにね。そう云えば、イギリスの期待し得る評論家であったフォックスは三十六七歳だったそうですが、スペインで戦死したのですね。この人や他の二三の人の著作、文学活動が、『タイムス』の文芸フロクの社説で新しき文芸批評の社会的必然を認めさせたのであったのに。戦死したのは去年のことであったそうです。
ドイツの本は昨日はききませんでした。今度いつかそのドイツ語の女の人に相談して見ましょう。本の数々山ほどあれど、ですね。そして、私はこうなると(つまりいく種類の本をも見る必要があると)フランス語とドイツ語がめくらでは閉口。フランス語のはすこしは察しがつくが。ところが語学は仰云るとおり、内容がひっぱってくれなければやり難くて。
丸善から二ヵ所ばかり用事を足して林町へ行って記録を見て来ました。
今日の社会の発展段階にあって、階級が生じている事実は何人の常識にも自明である。現実がそうである以上文学も階級性の上に立たざるを得ない。文学は常に人間のより人間らしい願望を反映するものであるから、今日ではリアリズムがそこまで来ている。そういう意味でのリアリスティックな作家、現実のありようを芸術の中に生かす作家、人類の進歩と幸福とに役立つ作家として活動したい。そう云っている。
根本的に、私はこの間うちからとりあげられている要点(云われた通りを真(ま)にうけたりしたこと。)そのことにあらわれている受動性や曖昧さは十分認めて居ります。その点私は誤っていたし、真の自律性をもたなかった。
生活の庇云々ということは、以上の点との心理的関係で見ると、自分というものをあなたと切りはなした感じで張り出しがついて行ったのではない。そういう点で自分があるべきだけ自主的でなかったことには十分自省が及ばず、それなり、主観の上では一生懸命に、自分の義務と思う成長や仕事で押し出して行っていたので、いつしかそこに相対的な関係での庇が出来て(おじぎされるもので、こちらからもおじぎを返すというような関係での。一例として)、いつしかごみもたまったようなところがあり、そのことを云っていたのだと思います。けれども考えて見れば、あの庇云々のことを書いたのは八月下旬で、当時、私は今ほどはっきりと、或点で自分が見落しているもののあったことを、自覚してはいなかったようです。今私にはそれがはっきりわかった。したとか、なったとかいうことの確然たる内容の相異について、初めに書いた、ああいうことにしろ、やっぱり関係があるのです。
私はこのごろいろんなことから、深く感じるのだが、例えばああいう場合、自分の心の中に、もし自分の愛を疑ったりするようなすき間があったり、そして又私に対して抱かれている愛情について不安をもっていたりしたら、きっともっと警戒的で(自身に対して)あったろうと思います。自分の傾けつくしている情、そそがれている心、それらに一点不安をもたず、その裡にこもってしまうようなところがあって、却って受動的な(客観的には)ことになったと思う。そんなこと位で自分たちがどうなるものか。そういうところ。キュリー夫人の科学は云々というのとどっか似ていたと思います。私は決して人生に受け身なたちではない。そのことは確信をもっています。しかしながら、最も積極的な我々の生活に必要なだけの自律性は鍛練され切っていないのだということは認めざるを得ないわけです。遠い航海には、近海航路とちがうつくりの船が入用なのだから。
これまでのところ、つき離して自分を見れば、むらが多いこと。いいところ、よくないところ、はっきりしているところ、曖昧なところ。自然発生的なごたついている。(いたと書きたいところです、お察し下さい。でも当分は遠慮します)こっちから波が来れば相当もつ、だがこっちからは、自分の重みで不安定。そういう風。本当に何と妙でしょう。自分の妻としての心持に関して終始あんなにつよく主張し通していて、二三ヵ月待てと云われると、それをきいたりして。
私がこの間うち何だか苦しかったのは、何だか感情の問題として、どんな気でいるのかとそういう視線が手紙の奥にもあるようで、そこに云われていることとはおのずから別に切なかった。自分の誤っていた点がはっきり判ったとともに、私の自分での一心さと客観的な態度の誤りとの相互的な関係で、私があなたにも見られていることがわかって、誤りが明瞭に誤りとして却ってはっきり見えるようになりました。あなたが視るべきことはちゃんと見ると云っていらっしゃるその言葉の裡には最も深い愛と励しとも、こもっていて、視るべきことは単に私のネゲティブな面ばかりではなく、私の一心さも、努力も進歩も、それが現実にあればやはり広くちゃんと視られているのだという安心の上に立って、大いにやりましょう。私はどんなに貴方によろこばれたいでしょう!どんなに貴方によろこばれたいと思っているでしょう。では又 
十二月五日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月四日第七十六信
けさ、栗林さんのところへ電話をかけたら、土曜日に面会したのですってね。大体のお話がきまった由。大変手っとり早く行ったこと。木曜日にあっちこっちして調べて、金曜日には立ち話で、はっきりしない、又ちゃんと会って、それからあなたの都合をきいてと云うことになって居たので、けさ電話できいて、何だか意外でした。しかし勿論それでよかったのですが。あなたに会う方をさきと心せいたのかしら。その電話のつづきに三輪さんにかけて、明(月曜日)会うことにきめ、丸善に電話かけ、そしてかえって来て、光子さんとパンをたべていたら電報が来ました。日曜日によくうけつけたと思い、又電報らしく、そちら一一・五〇分ごろ、こちら〇時三十分というのを眺めかえしました。アラ、もうかけちゃったのに、と申しました。あしたお目にかかれば、(かえりに回る約束故)どうしたらばよいのかということが判るでしょう。
ともかく一人きまって安心です。しかし私は、これから様々の経験で、さぞいろいろを経過し、私として学ぶところが多いであろうと考えて居ります。私は事柄の処置というような皮相なことではなく、あなたの指図にしたがって万事をやって行って、そのことから深く学ぶところがあるのを期待している次第です。私たちの生活として、それらを経過することによって。
さて、二日づけのお手紙をありがとう。くりかえしよみ、味い、そして又読みかえし、考える。そういう読みかたをします。より高くより高くと見えるにつれて自身の到達点の現実的な在りようがわかることは全くであり、それは勇気とよろこびとを、湧き立たせるものです。でもね、正直なところ、はじめ一通り貪る眼でよんで、はじめの方の私がいつか何かにつれて云ったことの抜き書きされている部分をよんだら、何とも云えない気がしました。そのわけはね、あすこであれらの言葉はユリの愚かな自負心の例であるかのように示され、とり出され、質づけられて居るけれども、私がああいうようなことを一寸でもかいたそのときの気持は、自負からではなかった。自分がともかく一生懸命にやっているそれを一つも見て貰えない、何かで、そのことが知って欲しい、その気持からいくらかでもああいう反映をもったのでした。それ見ろ、どうだ式では全く無くね。少しはましなのよ、そういう心持、すこしはよろこんでもほしい気持。そういう気持からでした。だから「何という水準だろう」という風に受けられていたことは苦しい気がしました。そして、それだから謙虚について書かれていたというに至っては。私は、栗氏のところへ電話をかけに出て、私の前を走って行くポチの姿を眺めながら、のろのろあの線路沿いの道(あすこはちっとも変って居りませんよ、あなたがよくお歩きになった頃の通り)を歩きながら考え、自分の気持の苦しさについても考え、ここには三つのことが錯綜していると感じました。一つは、こんな心持の行き交いにさえも作用する生活の事情ということ。他の一つは、私が、自分の心持から、そんなものまでを、とるに足る何かの評価であるかのようにとりあげたということにあらわれている客観的な、或は本当に評価というに足りる評価との区分の不分明さ。第三には、それが、愚であるとし、低いとしても、何故すらりと、あなたの感情に、よろこばせたさの心として映らなかったろうか、映らせない何が私のあなたへの心持に在ったろうか、そういう内省。第三のことは、他の場合を考え、特にそう思います。あなたはいつも、その人々の程度での善意だの、好意だの、訴えてゆく心持だのに対して、それぞれの程度に応じて、そこにあるものはそれとして汲みとる方ですから。だから、どうして、私のそういう心持は、その心持として通じなかったろう、何がそれを妨げたのだろう。そう思います。或は私は生意気っぽい調子でそれを云っていたのだろうか、と。人の心は微妙であるから、云われている事より、その調子で多く感じるものですものね。今そのときのことは、私に思い出せもしないしするから、今の私の理性では、第二の点を考え、その点で摂取し成長してゆくしかないと思います。自分に一番よく、一番しっかり、一番ましなものを期待されることは、何とうれしく、又大したことかと、かえりには、全体を愛情と自分のバカさに対する一種のユーモアとで、笑う心持で同じ道を戻って来ました。いろんなことがあるわね。片方はよろこばせたくて、片方は差し出されたそのものを見て益〃、何という水準だろうと思うというのを考えると、でも、やっぱり書いて居て涙が湧く。
作家の変転してゆく諸様相を観察していると、作家というものが、反響に対して敏感であるということから、深刻な地獄に陥って行くのがはっきり見られます。どういう質においても、多くの作家は反響を自分の耳にきいて自分の存在を逆に確めて行くような、病的な傾向をもっているから(不健全な知的分業の結果)、とかく立役者になりたがり、反響の大きい場処に自分をおくことで自身の文学性がつよまり拡大されたように誤解し、時代時代の円天井の移って行っている場処から場処へとくっついて動いて行く。そのことは、この数年来の、真の文学性の喪失と共に一層目立つ特色です。だから、一般に云って、芸術家の対外的関心(その中には様々の虚栄や身振りとともに名声欲も入っている)というものは、作家たちの場合に、ジャーナリズムのわるい面に結びつくと共に、致命的に作用して、名声と共に多く馬脚を現すのです。
自分の場合を考えると、複雑ですね。全然予想も希望も期待もしていなかった(若い若い)ときに、そういうものが(よかれあしかれ)殺到して来て、自身としては寧ろ逆にそれらの一時性、野次馬性、薄情性を痛いように感じ、そういうものが周囲につくろうとする定型をやぶりやぶり生活して来た。しかも、いつも謂わば人目の中に於て。そういうひっくりかえしの形で、それに対しては辛辣に、意地わるに、横紙やぶりにならなければ真に成長出来ないものとして、私に一種の名声とでもいえば云えるようなものがついて来ていたわけです。きびしく云えば、破るという意識のしかたにしろ既にそれが在ることを認めているわけですから、そういう点では何等かの影響を受けていることが云えます。一生懸命に何かをめざして歩いているとき人はその道ばたに、どんなゴミがおちていなかったか知らないで過るようなもので、全生活を一つの目的に向って緊張させ、それに向って進めば、それがぐるりに立てる音に気なんか向かない。そういうものでしょう。所謂凹みにたまるゴミです。凹みという表現はなかなかうがっていますね、いろんなところに事情に応じていかにも動くのが見えるようで。青鞜流というのには、歴史の質の点で、新しいものとの対比上そう云われる範囲のものであるが、事実上の年代は随分違いますね、あの時代にひっかかっていないということは、今日における相当の幸事です。
ここまで書いて紙を数えたらもう四枚半すぎてしまっている。ところで、いくつかの課題というようなものの中で、この間云っていらした江古田の人のことを、又書かなければならないのでしょうが、私は、どちらかというと受け身で、又書いて御覧と仰云るから、書きませんという理由もないから書くが、どうも妙だ。やがては足かけ三年も経たこと、細かく思い出せないようなこと、私もその渦中にいたけれども、真の当事者たちは勝手に自分たちの生活を展開させ、それぞれ勝手に子供を生むような今、どうして、このことは、こんなに私たちの生活の中にだけのこって、何となし妨害物めいたものとしてなければならないのでしょう。そして、私は何故、又くりかえし書く、ということ、それ自体に明瞭に嫌厭を感じる(あなたがそうくりかえしくりかえしふれていらっしゃるからには何かがあるに相異ない。しかもそれがはっきり、成程その点がそうかと、書く毎に自分ではっきりして来るというのでないので)のに、書かなければならず、あなたとしてお書かせにならなければならないのか。それはこの間うちから考えられていることです。本当に何なのだろう。不愉快であってはいけないことだろう?と仰云ったわね。そのことには、単に私が甘くて、名士好な人物に下らなくおだてられた(私として最大限の表現です)のが不愉快であるという以外に、ニュアンスがふと感じられたのでしたが、私のその感じは当っていたでしょうか。もし当っているとすれば、猶いやね。猶書くのがいやね。何故なら、そういうニュアンスに対して何とか書くべき本来の何ものもないのですもの。あのことは、形にあらわして書いて見れば、抑〃(そもそも)は、あなたへ特別心づけて本を送っているとか、便りをしているとか聞かされているので、それにC子さんとのつながり、Rちゃんとのつながりもあり、出て来て病気で、本もいるのに手に入れ難いらしいので、謂わば私としてはお礼心にやった。すると忽ちS子さんとごたごたして、私の知らないところで進捗(しんちょく)して、事後報告をされて、S子さんは下宿代が送られなくて家がなくなったとさわいで、目白へ一緒に来たわけです。あのこと、このこと、ちょいちょい違って私が書くことで、何かをよけているためそれが生じているかのようで不愉快なの?そうだとすれば困ったと思う。だってそんなことは勿論計画的な結果などでありようのないことなのですものね。そして、私として、あなたに其那ことがわかっていないと思えないのは当然のことでしょう?この間、あなたは、「そういうことで弟の人にどういう特別な態度をとるべきではないから」と仰云ったが、私は自分たちの大事な生活感情の中に、何かを生じさせたのみならず(当時そのことで私は随分二人を憎悪した)今もなお砂利(じゃり)みたいなものを一つでものこしている、或はいたことでは平然とした気分ではありません。
自分たちが世話になろうとすることでは、こちらの被害なんか一応考えても見ない。私としていくらかでも被害を蒙ったのは、対人関係の未熟さだが。そういう工合に、喰い下ることが出来るかと思わせた私の生活環境(林町という構え)についても自省するところはあるが。私が、日常生活の微細な点に気を配っていて、例えば会の流れでも、稲ちゃんとか、壺井さんとか、そういうシャペロンなしではぶらついたりせず、悪意や軽薄なゴシップの生じる小さい隙間をもたないようにしてやっているのに。いやね。本当にいやね。悲しいとか切ないとか云うのでなく、明瞭に、余分の胆汁の分泌が自覚されるような「いや」です。あなたもきっとこういう風においやなのでしょうね。機微にふれて云えば、こういういやさは親密な互の触れ合いで、そういう感覚の中では消散されてしまうものであるとわかっているから、こだわりとしてのこっているのが一層いやね。我々のおかれている事情に、どこかで一杯くったようでいやね。
私としては、心からの感情表現として、こうしか云えない。いやな思いをさせてすみませんでしたが、私の当惑という程つよくはないが困った、いやな気持も分って下さるでしょう。早くそんなもの、私たちの間から弾(はじ)き出してしまいましょうよ。私に何にもくっついているのではないのよ、二人の間へわきから何かが入ったのです、そうでしょう?くりかえしくりかえしふれることでマメやタコにしてしまわず、一刻も早く消し弾き出す種類のものだと感じます。それが健全な生活力の姿だと思います。独り合点かしら。
――○――
「オイゲン先生反駁」は実に面白かった。そして有益であり、面白さに於ては勉学はじまって以来でした。ああいう風に全面にふれているところに独特の妙味があります。この間教えて頂いた哲学の本にうつる前、同じ一冊の中に入っている住宅についての文章をちょっと読みます。何しろ昨今住宅問題は到るところで話題となって居る始末です。やすい貸家は殆どない。一方『朝日』の広告にしろ、売家ばかりです。ドンドン売り家が出ている。近年なかった現象です。十条の方などでは女工さん「帰ってあんた眠るだけですもの、一部屋へ三人ぐらいおいて十七円ぐらいずつとっても、たのんでおいてくれって云いますよ」というボロイ儲けの話も耳にします。興味があります。この文章のわきにひかれているのは、貴方の線かしら。人間生活のあるべきようという計算からいうと、八十円の月収の人は家賃十五円で、しかも十五円の家賃の家がいかにあるべきかと云えば、広い庭があって、子供部屋までがあるんだから、どこのことかと思うと、文学史をやる高瀬太郎という人が云っていた。結婚して家を持とうとしているので実感があるのです。さて、では表を添えて、これは終り。
起床計温就眠計温
21六・五〇六・五十時十五分六・四
22六・四〇六・五十時十分頃六・五
23七・〇〇六・四十一時六・四
24六・三〇六・四十時六・三
25六・四五六・三(この日から四時ごろ)九時四十分六・三
26六・五五六・五十時六・四
27七・一〇六・三十時半六・二
28六・二〇六・二十時五分位前六・三
29六・一〇六・四十時六・三
30七・十五分六・三(音楽原智恵子のピアノ十一時四十分)六・四
原智恵子という人は初めてききました。有島生馬がパトロナイズしている人で、近頃何とかいう映画監督と(パリにいた)結婚した。井上園子のピアノと全く正反対で、音色もテムペラメントも、井上がウィーン風・貴族的・近代アカデミックに対し、原のは所謂箇性的で、音色は極めて鮮明で現実的(やや玄人的スレさえも加えて)、原が意識して井上園子と対比色をつよめていることが、なかなか面白うございました。 
十二月十日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十日第七十七信
ベッドの上で一寸一筆。
お休みにしないように気をつけていたのに、やっぱり駄目で、どうもすみません。
熱は大してなく、昨夜一番高かったと云っても七度五分でした。今日は六・八位。喉や鼻よりいきなり胸へ来て(今年の流感の特徴です、いやね)湿布さわぎをやると困るので、自重している次第です。予定では月曜にゆきたいが、どうかしら。
もし熱があって、感じが熱っぽかったら気をつけてやめます。
この間うち、右の眼玉の底が妙に張って来るように痛んだので、あら盲になったら私は大変こまる、あなたに触って話すということが出来ないのだもの、と考えていたら、それは風邪の先駆でした。
きょうは太郎の誕生日で、晩食に招(よ)ばれていましたが、おやめ。ひどい風が吹いている。どうか、呉々あなたも御気をつけて下さい。よくない風邪のたちだから。グリップは妙で、後になる程重い。だから今年はもうこれで、厄(やく)のがれをしたとよろこんで居ります。
けさ、お久さん、火鉢の火を入れに来たとき、真先にお手紙をもって来た。どうもありがとう。本当にありがとう。この手紙は確乎たるものを語っていると共に、大変心持のよいものをも含んでいて、うれしく拝見しました。話すに足る対手である最小限進歩線であるというところを読んで、思わず、そりゃそうだろうと自分に云って笑ってしまった。全くそうだろうとしか云えない。斯うはっきり云われているとズッパリして、快活な勇猛心を励まされます。
今年の暮はね、私は特別な心持で、来年を迎える仕度をして居ります。我々の生涯に様々の歳末がめぐって来たし来るであろうが、今度はその中にあって、やはり特別な心のこもる一つです。心からあなたの健闘を祝し、自身の向上への努力とのために、簡素で、真面目で、しかも明るい希望の射し通した新春を迎えようと思って、仕度をして居ります。自分の心持もややそれに適したまとまりが出来て来たし、経済的な面も処理し、自分で正しいと思えない方面へ文筆的に利用されるよりは、その拒絶の結果が、日常性の中でどのような形体をとって現れようが、それでよいというところに落付いているし、自分の真の成長と発展とのためには、益〃ぴったり益〃集注的に二人の生活というものの裡で吸収、呼吸しなければならないことも愈〃(いよいよ)明瞭となっているし、来年は、大変たのしみです。今年の後半に、どうやら身につけた前提的な日常生活の条件(早ね早おきからはじまって、経済的な面での処置など)の上で、来年は勉学もすすみ、生活に生じて来る様々の現象にもやや可(か)に処すことが出来るだろうと思って。
その舟がどういう舟とは云い現わせないが、私は、あなたの乗っていらっしゃる船の中へ、一層身を落付けてのり込んだ気持です。よく手元を見ていて、足の構えを見ていて、そこから学び、やがて一人前の漕ぎ仲間となれるように。凝っと見ていて、考えて、会得してやって見てゆく、そこに何とも云えないたのしさとよろこびを感じます。
あなたは今年のお歳暮に百合子論を下さるわけにはゆかないでしょうか。最も真面目な意味で、総括的に、展望的に、そしてきょうの手紙のような立派さで書かれた百合子論は実にほしいと思います。低俗さ(あらゆる面での)を、私は否定しません。否定出来ないことだもの。低俗さがそのものとして現実的に納得批判され、高められるためには、より高い規準こそ必須で、当人は主観的にはそれが分っているつもりで、実はいつしかそのものが低まって来ているような時代的特徴について、私は主観的なものに立っていて、なかなか承認出来ない形であったと思います。科学的であるか、科学的明確さに立って現実を見ているか、それとも主観的な道義感みたいなもので立っているかの相異であって、私にはこれまで多分にあとの要素が作用していたと思う。ここが、なかなか面白いというか、危険なところで、あるところまでは推進的な力として働くが、一程度に達すると後退、固着、固執の方向をとらせるものです。あなたの内的状況と比べて、こういう私のゴタゴタを見るとき、きっとあなたには、どうして一目瞭然、理性がそれを現実の地辷りやくねくやを目撃しないかと、不可解のようにお思いになったろうし、なるでしょうね。道義的な主観性というようなものはエーヴやその母にさえもあった。すべて十分の科学的視野に立たぬものの生活につきまとうものです。
本当に百合子論考えておいて下さい。出来たらどうかおくりものとして下さい。真の納得やハッと分ったというのは、本人がその機運まで迫って来たときでなくては真価を十分発揮しないものですが、私は少くとも半年前よりは多くの摂取的条件を、自身のうちに増していると信じますから。紙のひろさに制限があるのに勝手なお願いのようですが、頂けたらどんなに有益でしょう。
まさ子さんがかえりによってくれました。仰云る通り気をせかずにすっかり直してからゆきます、月曜日はどうだろう、今のところ自信がないけれども。
届けがすんだそうでようございました。徳さんが一人心当りを知らせてくれることになって居ます。出来たらダブルより別の方がよいから、風邪を直してそちらをしらべて見ましょう。
栄さんがお手紙見せてくれました。そういう「大志」は婦人そのものにも日常的には歓迎されないらしい云々とあったので、おや、何だか私がそう思わせたようでわるい、と笑いました。『キュリー夫人伝』についてふれられていたから、あちらにも廻すつもりです。
達治さんは無事。お兄さんからの本もうれしいと手紙が来ました、安心したこと。久しくあちこち動いていた様子です。お母さんからおたよりで、元いた運転手でずっとトラックをやって行くつもりとのお話です。では又。風邪の御用心呉々願います。 
十二月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十一日第七十八信
『革新』という本位田先生主宰(しゅさい)の雑誌から原稿を書くようにと云って来ているので、それへ断りの手紙を書きに一寸起きています。
この雑誌、はじめ「科学主義工業」から出せと云っていて、あと、そちらで断ったら一万五千円の違約料をとった由。
私の風邪は熱朝六度七分、夕方五時ごろから七度五六分。大したことのないくせに気分がさっぱりせず。さっき佐藤夫妻が見舞に来てくれて、エキホスの湿布を胸にしろということになり、そうすると、冷えるといけないから猶床に入っていなくてはならないから一筆。
明日はこれではあやしい様子です。さっさと熱を出すなら出して、汗かいて、さらりとしてしまえばよいのに。
火曜あたりから怪しかったから、やっぱり一週間かかるつもりかしら。栄さん二十日、さち子一週間、鶴さん無慮一ヵ月以上です。きょうの予定は、湯気を立ててある二階の部屋は出ないで、折々は起きようと思っていましたが、駄目ね。
余りひどく悪くないくせに、臥ているのは却って気がもめる如くです。明月曜はもしかしたら栄さん、午後に行って貰うかもしれません。来てくれれば。咲枝は兄の一馬(カズマ)が、やっとお嫁さん貰うので(35歳)その仕度のため、(郵船のある横浜へ家をもつので)出かけて大さわぎをやっていて、迚もその気にはなれないから。式は十三日。陸軍中将の令嬢の由。
『都』をこの頃とるようにしました。文芸欄で高見順が今日の文学の他力本願主義、後退の跳梁について書いていて、他力本願(題材主義)で、題材のいいのを見つけて、しかもそれに安易に当っている諸作家の態度(生産主義文学、農民文学等)を難じている。高見のことであるから、安易ならざる態度は何かということになると云えないでいるが、今日の文学(一九三八年後半)の特色にふれていないことはない。
文学批評の衰退について、今は「槍騎兵」にかかれていて、真の基本的理論の展開がない、現象主義であってこまると云っている。これはやはり一つの反作用として興味あるあらわれですが、さてその理論となると、忽ちぶつかるものがあって、なかなかの難問題です。どういう意味を目安において、土台の理論と云っているのか明瞭でないが、今日の文学に対しては、先ず作家性と小属吏性との区分から明らかにしてゆかなければならないのだから。外部的にぶつかるものがあるばかりでなく、そのために内部的にぶつかるものを大多数が感じている。ここにデリケートな今日性が在るというわけでしょう。
この間あなたのお手紙にかかれていたジャーナリズムを通して要求にこたえることと、プログラムの有無のこと。念頭にのこって様々に興味ある考えをのばさせます。しゃんとした理論の要求も要するにここのことですから。白米食を全廃せよ、いやそれは保健上有害である。では云々。そういう昨日、今日、うつる提案につれて文学も文学であることを急速にやめている。
本当にプログラムの問題は面白い。私は文学におけるこの問題の正当な健全な発展と、自身の昨今の勉学とを全く骨肉的なものとして理解しているから、その統一的な成長については丁度、まだどういう答えになって出るかはっきりは云えないが、その質は既に決定された或科学的実験をやっている最中のような注視と観察とがあります。益〃科学性をたかめ、真実のために没我でなければ、文学のプログラムの真髄はつかめようもない。そこまで到達し難いから、文学の諸問題にしろ、現象主義でいけない、いけないという現象性の範囲に止められてしまっているのであると思います。
丁玲に『母親』という小説があって訳されている。どんなのでしょうね。こちらで買って見ましょうか。コヤさんの訳した『馬仲英の逃亡』というのもある。
十二月に入ったら書くことはじめると云っていましたが、本年一杯は読む方専門にしました。現象主義でいけないという限りでは仕方がない。それに、私の大掃除の方も次第に底をつきかけて来ていることが感じられ、それは一方により明確にと進む作用なしでは実際の摂取が行われないから、せっせとよむこと、最も自省的によむこと、只今の時期の自分に百枚書くにまさると感じますから。
そして、今年の一番終りにあなたのお手に入るよう体すっかりちゃんとしたら、私の方からも、総括的な自己省察のトータルをお送りいたします。これまで、私が、いいとか、わるいとか、そういう感情的なものにこだわっていたこと(前便、きのう一寸ふれた)が、この頃よく自覚されて来ているから。いろいろ細かく、心理的にかいて見ましょう。一度ですまず、二通に亙るかもしれない。これらが本年度の私の最も価値ある収穫となるだろうと思って居ります。ではこれでおやめ。もし、あなたも風邪気で咳が出て、胸へ響くようであったら、すぐエキホスの湿布をなさいませ。あなたにはそういう時、特に湿布が大事です。どうぞ呉々もお大切に。弁護士のこと、衣類のこと、本のこと、大体一片ついていて、こうして動けないでも、些かは心平らです、本当によかった。『支那地名人名』は十八日に出る由です。 
十二月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十二日
エキホスがきいて胸の気持が楽になり、きょうは例の五時すぎに七度三分。喉も大分ましです。変な声を出して耳の中へ自分の声が響いてこまりますが。寿江子それでもきょうお目にかかりに行って。たまには私がかぜをひくのもよいかもしれない、彼女のために。大変丈夫らしく見えていらっしゃるとさち子さんも云い、寿江子も云い、栄さんも云ったから、本当なのでしょう。うれしいこと。私は毎日よくばった気持で見ているし、細君と友達とではそちらの気分も又おのずからお違いになろうし、私にはなかなかまだよくばった望みがありますが。
明日も行けない。繁治さんが時間のくり合わせをつけて何とかして行きたいと、先日から云ってくれて居りますから、誰も別の補充は立てず。但、用事を手紙で申します。
弁護士のこと。別に二人の人がわかりました。一人は小沢茂氏。この人は初め栗林氏と共についていて、後ことわられた人。理由はやはり同一の由です。明治大学出?か何かの若い人。私に西巣鴨で会ったことがあるという話の由。私は、ではあの人だったかと背の高い若い人が思い浮ぶ範囲です。話らしい話はしたことなし。ことわられたからそれきりになっているが、やる気はあるのだそうです。一般的に云って。
森長英三郎氏。年や学校についてはわかりません。昔武麟や立信がお金のことで立ったとき、扱った人の由。近くは大森の人の御主人の関係でもう終ってかえっている女の人の事件を扱ったそうです。女の人というのは誰のことであるか不明です。もし大森のひとであれば自分で知って居り、又思い出すでしょうから。この人は音羽に住んでいる由です。
どうかお考えおき下さい。大森のひとの経費は、大阪につとめている弟さんが支払うことになって居る由です。
風邪になってしまったので、どちらにもまだ手紙はかいて居りませんから。それも御承知下さい。私は今度は木曜日には行きたいとプランを立てて居りますから。
寿江子の伺って来た本のこと、わかりました。私も興味もって居りました。しらべましょう。文芸附録も『ロンドン』より『ニューヨーク・タイムス』にしようかと考えて居ります。利用する価値は『ニューヨーク』の方があると考えられますから。アメリカは国際翻訳協定に入っていませんし。
いかにもかぜひき女の部屋らしく、きょうは人形だの古風な糸でかがった大きい手毬だの、琉球生の野生虎の尾という植物だのが机の上にあります。ベッドから見て珍しく風変りな光景です。人形は満州へ行った女の人の土産、大きい手まりと、紺色支那やきの硯屏(けんびょう)の前においてある、赤土素焼の二匹の狗(いぬ)と虎の尾は琉球の女の人の土産もの。
○唇のところに小さい風ホロシが出来。風ホロシが出来ると熱が下るのですって。
その机の下に大アルミニュームの鍋が火鉢にかかっていて、湯気を立てている。半分おき上ってふとんの上に、おなじみの水色のエナメルのスタンド、竹早町以来のを立ててこれをかいて居ります。こんなにベッドにへばりついているところを見ると、やっぱりまだですね。「癒り際に気をつけるように」と仰云ったときいたから自重いたします。
今度のかぜは、私にとっては天井を眺めて、考えつづける時間が生じて非常に仕合わせとなりました。
きのうの手紙に書いた自己省察のトータルは、やはり年のうちに、そちらからの御返事もほしい心持があるので早くかきます。百合子論は私の百合子論のあとで頂くようになってもよいと思って居ります。それも亦よろしいでしょう?
では弁護士の件お考えおき下さい。
栗林氏の方は記録をとりはじめ(写し)たそうです。割合早く仕上るだろうとのことです。おひささんが夕飯をもって来ました。では又。自分がカゼひいてグーグー云っているから、猶そちらが気になるという次第です。自分で自分の看護婦をやって本当にそう思います。
あした繁治さん行けるかしら、どうかしら。きょうは風がなくておだやかでした、どうかお大切に 
十二月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十三日第八十信
きょうはちゃんと着物をつけておき出して机に向って見たところ、頭が丁度西瓜(すいか)のような感じになって来て(つまり、たてにすじが入っているような)又床に戻ってしまいました。わきに小卓子をひきよせて書いて居ります。熱は朝六・六、ひる六・八でした。それ故明日行ってくれる筈の手塚さんにハガキを出してことづけをたのみました。
そちらからかえって来た座布団、まるでかたくなりましたね、余り綿を入れすぎていて、かたまってしまったのでしょう。あれは去年咲枝がおくりものとしてこしらえ、大いに奮発して綿を入れさせ、哀れや、過ぎたるは及ばざるが如き有様ですね。しかしクッション代りとしては或はよかったのでしょうか。今年のは、大変よい模様でしょう。闊達であって品もよい。
『日本経済年報』の最後(本年度)が来て、なかなか面白うございます。事情をよく説明する引用としてつかわれている本。
斎藤直幹『戦争と戦費』、サヴィツキイ『戦争経済学』もうおよみになった本でしょうか。或は興味がおありになるかと思って。もしおよみになるようでしたら送ろうと思いますが。
きょう机に向ったのは、一種の激しい執筆の欲望を感じたからで、もし出来たら私の総ざらいをかきはじめようとしたのでした。でも、西瓜では駄目ね。南瓜(かぼちゃ)頭というわる口があるが、西瓜はまだまし。(なかみがたべられる)
きょうは寿江子一日滞在。お正月はここでしようかというようなことを云って居ります。そうなれば私はやや便利です。今年は、どこか一生懸命な心で我々の正月を考えていて、いつものように全く助手なしでは、時間がおしくなって結局何もやらないでしまうから。私たちのところで正月をしたことはこれまで一度もない。ですから、それもよいでしょう。島田のおうちでも、野原でも、それぞれに今年は正月というものを、特別な感情で迎える仕度をしていらっしゃるだろうと察しられます。
年内に(正月の十日に入営故)隆ちゃんにお祝を送りとうございますね。いろいろにつかえてお金でもよいでしょう?このこと考えておいて下さいまし。達ちゃんの入営のときは、十円お送りした(達ちゃんに)と覚えて居ります。新しい丈夫な財布を一つ買ってその中にカワセを入れて隆ちゃんに送って上げましょう、ね。達ちゃんは雑誌の他、岩波の『坊っちゃん』『小公子』その他送ったから冬ごもりの本はあります、ハーモニカもあるし。
早く癒そうと随分大切にしているのに、ダラダラと永いこと。それに私は大変珍しい経験をして居ります。これまで盲腸をやったときも何かひどい熱を出したときも、土台は疲れが原因であったと見え、横になっていることにちっとも苦がなかった。夜も昼もよく眠って、夕刻から段々夜になり、本当の眠る時刻が来た刻限に、一種の焦々した心持を感じたりしたことなかった。初めて、今度はそういう気持を経験して、寿江子曰ク、「くたびれでない病気ってそういうものよ。」
そこでいろいろと、考え、私が今まで思って見ることも及ばなかった、そちらでの病床の気持について、新しく感じました。実に大したことであったと思います。いつかいつかのお手紙に「知らないで安心していたこともあろうし、知らないで心配していたこともあろう」とあったのをハッキリ覚えて居ります。前の方が実に多いことですね。それでもすこしは丈夫になっているので、熱もこの位だしするのだろうと思っている。益〃病気がきらいです。本年は殆ど病気らしいことはなかった(夏ごろのあやしい工合はともかく)
よく気をつけて居りますから、どうぞ御心配なく。栄さんは私へのお歳暮に毛糸のショールをあんでくれました、それをまいて通うように。あなたへのお年玉はまだ秘密。ありふれた、実際的なものではありますが。では又 
十二月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十五日第八十一信
けさ十二日づけのお手紙着。ありがとう。「パニック的な日頃の手紙」というところでは何だか笑ってしまいました。全く相当のものですものね。でも、この風邪のおかげで、私はやっと一歩前進をとげ、パニック的なるものの本質をとらえることが出来るようになっているから、大丈夫だし、或意味では、パニック的なものも将来遠くなく一層高められた調和へ到達し得るでしょう。
お見舞本当にありがとう。特に最後の一句は、顔と体とがポーと熱くなるような感じで頂きました。それは、わかって居ます。そういう場面を想像すると、嬉しく、そしてすこし極りがわるい。私は自分の病気については、実に誇れないと思っているから。反対に、位置をかえた互の姿において想像すると、やっぱり平静に思い描くことは出来ない。どんなに私はあらゆる種類の薬をかたむけて、あなたに注ごうと熱中することでしょう。私は決してわるい看護婦ではありませんから。
さて、きのうは、濛々(もうもう)たる砂塵も車のおかげで無事に、かえりました。ちっとも熱も出ず、昨夜は初めてずっと六度八分で、大層気分よく、安眠しました。今朝も六・五です。平常は、時に眠りの足りない気分のときもあります。自然のことながら、床に入ってすぐ眠らず、益〃頭脳活溌というときもありますから。でも、十時以前には、もう迚も風邪ででもなければ床につけず、朝おそくなるまいとするし、夜眠れないのがいやで昼寝せず。この間うちのように日中歩きまわる用の方が多いと、くたびれかたが、机に向っての一日と異って、眠る時間はややすくなめでももつらしい様子です。但、朝すこし眠り足らず寒い気分はかぜのもととわかったから、これから七時にしましょう。それよりダラダラくり下げということはありませんから、御安心下さい。今は、別よ。今は暖く日が入るようになってから、起き出して居りますから。
自分でやることについて。その通りです。あの時は全く閉口してしまった。私出歩きつづきでしょう?すべての小包発送まではいつも全部自分でやって居ります。留守の時間、日に乾す位のことは、お久さんにとってもあたり前の割前ですから。お久君の責任だとは云えもしないで閉口と首をちぢめていた所以です。
住宅問題をよみはじめていること、前の手紙に書きましたが、これも亦、大いに教えます。これは、問題のそもそもの意味、扱いかた、正しい理解において問題はどこに問題をもっているかということについて考えかたを示しているから、大変面白い。プルードンが、何故住宅問題をとりあげるかという、その動機の分析は、有意義です。これから哲学に行き、そして経済の本二冊に進みましょう。
そして、私は外出出来ずにいる間の一つの仕事としてこういう日常の手紙とは別に、この間から思っている一つの研究を書いてお送りします。これまで書いた夏以来の手紙とは、全く違った態度が自分に生じ、やっとこれらの諸課題の扱いかたがわかり、こういう風でなければ結局、底は突き得なかったということも会得されました。それは手紙であって、而も手紙でないようなものになるでしょう。私が自身について眺め得る最深の観察と客観的な追究の可能が自覚されて居ります、かくて、私の思考力は最も真面目に発揮されるであろうし、私たちの結びつきの並々ならぬ意味も活かされるであろうし、各面から、決して成果なくはなかろうと期待いたします。あなたの、こわい、こわくないということも半ば笑い声で、半ば本心で互の間にかわされて来ましたが、こわいことは当然で健全である部分と、私にこわく感じられるということに、或私としての問題もあるのです。そういうこともこまかく考えて見ます。なかなか興味つきぬものがある、心というものについて。又愛情というものについて。くれにふさわしく、私はやっと本式の笹箒(ささぼう)きをこしらえ、それは柄も長くて丈夫だし房々もしているし、きっと心のこりなく新しい年への大掃除が行えると信じます。
これから毎日午前の間、その書きものをやります。窮局において、やっぱり実にいい歳末であると思います。かぜも亦大いに価値がありました。
私は可笑しくて、この間うちかぜを深めまいとして吸入をやったら、いくら顔が湯気であたたかでも、それに比例して背中がゾーゾーなって、一向よくなかった。妙なことですね、子供のうち吸入というものは何だか泣きたい程ムンムンとあついものであったが。
寿江子、私のやるべき外まわりを引きうけてやってくれるので大助りです。今頃九段をのぼっているでしょう、弁護士のところへ金を届けに。
ああそれから、そちらで〔この後約一行半抹消〕『馬仲英の逃亡』およみになったのですってね。てっちゃんが送ったのですってね。スノウの本には馬一族のことが、展望的に出ていて、丁度、この本に扱われていることがらも大略の輪郭(外交上の意味の点から)見えて居りました。
柳田泉の『世界名著解題』どの位お役に立ち得るかしりませんが送ります。(只今注文中)
十二月一日から十日間の表。どうぞ御勘弁ね。帳面うつせばいいのだが、今すこし面倒ですから。
きのうは、お元気らしいのがはっきりわかっていい心持でした。この間うち、自分が妙になりかかっていた故か、どうもあなたが湯ざめしたような顔つきをしていらっしゃるようで気がかりだったけれども。それをしかも興ざめに通じさせて感じたりするから厄介ね。では益〃お元気に。私も安心して引こもって癒します。 
十二月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第八十二信(A)
さていよいよ総ざらいを始めます。これを、私は真面目な文学上の仕事に向うと同じような態度でやりたいと思う。文学の諸問題にふれてゆく場合、或は小説をかく場合、私たちは一々読者の反応ということについて拘泥しては居ない。描こうとする対象の世界に没入して、最もその真髄的なものを描き出し形象化そうとする。その過程に創作のよろこびを感じる。これはそのような態度で扱って行きたいと思います。自身の内外の中に沈潜する。そしてその推移を辿ります。疑問と答えとを捉えて行ってみよう。自身の愛するものが、直接それによって、どう顔つきを動かすかということにこだわらず。
夏以来いろいろと大切な問題が出ていて、それについて自分は決していい加減な気持や態度や気休め的答えはしていなかったと思う。真面目にふれ、とりあつかって来てはいるのだが、回顧して見ると、まだまだ強力な全面的把握に到っていなかったしその真面目さも部分的であり、トーンにおいては傷心的でもあったと思う。飛行機が着陸しようとするとき段々に下降して来てつと地表に滑走輪をふれるが、弾んで又はなれ、はなれて又ふれて来て、そういう運動をくりかえす。いくつかの問題とそれに対する自分の心持とはいくらかその関係に似ていたところがあるように思われる。或とき触れる、相当つよくふれる、地面に深い跡をのこす。だがやがて又はなれて行っていて、或ところで又ふれる。深浅に差があり、間がとんで、いずれにしても外部的であることに違いはない。真面目さと云っても、どういうものであったろうか。問題の核心と自分の内部とがぴったり一致して生じる落ついた、平らかな、追究的なのびた力ではなかったと思う。不安が真面目にさせる根柢のモーティヴであったと思う。不安で、軽々した気分で扱えもしないし、はぐらかすことなどもとより出来ない。しかも問題を出される真意も、それを受動的に受けて苦しんでいる自身の心の内部をも、よくわかっていなかったと云える。しかも一面では、自分がとかく云われる言葉を感情的にうけること、それを全体とのつり合いの上で感じず、局部的なものを全部的にうけること。その反応のしかた、答えかたも、どうも自分の一番健全なところが張り出され切らないことが苦痛に自覚されていた。
風邪で臥て、天井を眺め、朝から夜まで絶えずそれらの点を考えつづけていた。肉体の妙な不調和で夜もよく眠らない。従ってその間も頭からぬけない。そのうちの一日、栄さんが一つの手紙をもって来てくれた。それを読み、キュリー夫人について書かれ、所謂家庭での点の辛さについて、婦人の能力について諦観的限度を認めていないということ、しかしその大志は婦人自身によっても日常的には歓迎されないらしい、と書かれているところを読んだら、ずっと雲が追っかけ追っかけ走っていた空の底に、全く碧く澄んでいるより高い空の色が見えた感じがして、極りわるい位、くりかえし手にとりあげて読み直した。
果して、自分は大志によって諸問題をとらえ、それを噛みこなしていたろうか。女房的なもの、相対的なもの、互の機嫌に連関して感情的に作用するものとして受けていたところはなかったろうか。自分たちの間に生じる様々の問題は、根柢にあっては常に大志に根ざしているものだということは、何年かの生活とその蓄積とによってわかってはいるのだが、そうわかりつつ、直接の扱いは相対的で、大志によるものという考えかたは或意味でのマンネリズムに堕してはいなかったろうか。さもなければ、ひとにあてて書かれ、一般的に云われているこの言葉が、どうしてこうも新鮮に、ブレークの空のような色で自分をうつのだろう。そして、自身の成長に限界をおかれていないという歓びの感覚が、おどろきの如く感じられるのも、何故であろうか。
それからは、やや焦点がきまって来て、この半歳における自身の受動性について考えられて来た。積極的に打開し、解決しようという努力はあるのだが、それが発揮されなかった諸原因について。自分の手紙につきまとった或る当てのない痛心や卑屈さやについて。ちっとも求められていたものでないそれらのものが、書いた字数の過半を埋めていたことについて。
七月下旬、キンシカイジョケンジという電報が来たとき自分はサーッと門が開いて、そこに手をひろげてサア来ていいよ、という声をきいたように思った。頭からとび込むような気で、謂わば眼をつぶって全感覚をうちまかせて、空気そのものからさえよろこびを吸い込もうとする貪婪さで歩き出した。
抽象的な形で、うれしさがつづいていたと思う。さて、いよいよ「是好日(これこうじつ)」のうちつづきという単純なむさぼりがあった。
ところが、現象的には却って思いがけない程昔のこと(自注14)が今とり出され、それについての実際うすれてしまった記憶の喚起が求められ、又、何年間かの生活態度について、急襲的な批判が起って来た。
自身の生きかたがこれまで間違っていたとは思わず、より成長するために新たな刺戟、脱皮が必要に迫っているということを自覚しているところまでは敏感でなかった状態であったから、これは雨霰(あめあられ)と感じられたのはさけ難いことであった。同時に、主観的な態度では実に二人の生活を大切にして来た。これまでの何年間か。些の誤解や喰いちがいやの生じないように、波浪の間に在るからこそ、互の生活こそは玉の如き玲瓏(れいろう)さにおこうと努めて来ていて、それは実現されていると思いこんでいた。沢山の生活の語りつくされていない部分が、毎日会えるようになって語られ、時間にすれば数時間にも足りないこれまでの何年間かの生活の補強工作がされる時期として、リアリスティックな用意で感情が整えられていなかった。従って、こういう形で生活の充実がもたらされるべき機会という今の自分の心に生じている摂取力がなくて、いきなり感情の居心地わるさ、当惑、不安。何とかして早くこういうときをぬけたいと思う心。そのために、箇々の問題の出されるごとに、一生懸命それにしがみついて、答えつつ、基本的に見れば、受身で相対的で、それによって現われる一つ一つの表情に、実に現象的に一喜一憂して来たと思う。実にその点では、これまでの自分の生涯に嘗て経験しなかった一喜一憂であり、毎日顔を見るという感性の刺戟が一層それを増し、きのうの顔、きょうの顔、きのうの手紙、きょうの手紙、それらの間に揉まれた。揉まれつつ、やはり根本は大志に根ざしていることは見失えず、従って、非合理な哀訴や悲鳴や涙は、それとして押し出せない。何か耐え難い心であった。
これには、微妙に生活の又ほかの面からの影響とも交錯していると思う。例えば、自分が今書くものを発表出来ない条件にいること。そのため、そういう自身の立場を一人の人にこそ十分に肯定して欲しいと感じている甘えた心。及び、秋ごろ突発的に身辺に生じた紛糾(友人間のこと)で、友情とか善い意志とか或る認識の到達点への信頼とかいうものが、甚しく崩されたこと。それらの悪気流もからんで、感情的に主観的に傾かせた。
自分たちの生活だけは明るさで貫きたい、その希望は正当であるが、姑息に陥って、鼻息をうかがう的になって、却って雲を湧かせることになったのは興味深く、おそろしいところと思う。
段々と環を狭めて行って、更に考えの一つの核が発見されるようになった。それは、退院後の余り威張れない効果をともなった態度(自注15)という点。
このことがとり出されたとき、何より自分は苦痛の感じで間誤ついて、わるかったという風に思い、言葉に出して弁解の余地はないとも云った。けれども、猶横になっていろいろいろいろ考えて見ると、自分の心持として当時のいきさつがどうしてものみこめない。良人に対してどのように一貫したかということとの連絡で、どうしても単に効果として云われたことを、へいとそれなり自分が承知したとすれば、その不見識というか、もろさというか、それがどうも腑に落ちない。自分は一刻も早くかえりたかったのだろうか?決してそうではなかった。父がよくこう云った。お前のすることは間違っていないと思うよ。だが、儂(わし)は切ないからね、可哀そうで切ないから、儂の生きている間はそういうことのないようにしておくれ。もう僅かだよ、二三年の辛抱だよ。よくそう云った。その父は、自分が最も心にかけていた状態において死んだ。思いのこすことは一つもなかった。一つの状態がさけ難いなら、そこの必然を最も純粋に経験すること、それが、人間、作家としての何よりの価値である。まして況(いわ)んや。
条件的なことであったら勿論断っていたに相違ない。あのとき自分がそれをしかたのないことと思ったわけは何であったろうか。後、わざわざその点をきいたとき、曖昧にしていたと云われるが、それは何故だったのだろう。何か誤間化していたのだとも考えられない。
当時の状況を細かく思いおこそうとしていて、不図一つの事実を思いおこし、それが法律上の性質を帯びていて、一定の期間の作用をもつのであったことを思い当った。(きのう、一寸話したこと)そして、そのことを当時きかれたとき、今日の二人の条件とは異っていた(自注16)ので、云い難かったこと、それで云えなかったのだったことを理解した。
何という自分は驢馬(ろば)だろう。すぐびっくりする。途方にくれる。いきなり悪かったと思う。何という驢馬だろう!! 自分に腹立たしく思った。
続いて、一層深く沈んで、このようなこと総ては、単に、私は何て馬鹿なんでしょうと云って、それに答えられる何か優しい言葉を期待するような種類のことではなくて、自分の生活というものが、一画一画を鮮明につかまれて来ていないからであると思わざるを得なくなった。明確に、コンクリートに各モメントがつかまれていないから、時期的な推移がそれなりに作用して、昔は昔のように遠くなる。時間的に逆行した話題が出ると間誤つく、内容的にまごつく。
この自省は一つの大きい輪を描いて、自分がいくつかの問題の出たこの半年間に、何故受動的であったかということへの自問のところへ戻って来るものです。
私は、これまでのように、自分が箇々の問題にくっついて歩いていたのでは、何の意味もないと思うようになった。ユリ子論が必要と云われる、その意義がのみこめた。そして実にこれからの自身の成長は、独特な条件から最も健全であって、而も不健全に堕す無数の可能にとりまかれている、その中で成長しなければならないという意味で、自分が先ず鮮明にこの数年間の自身とその環境との諸関係を見直さなければならない、誰の御機嫌のためでもなく、道徳的な満足のためでもなく、全く生きて、成長する必要の点から、それをしなければならない。
くどいようであるが、これが、自分論をかくに到った過程です。序説です。人間、作家それぞれにタイプがある。構成的な人間は、飽くまで意力的に構成的に人生に向うべきで、美や輝はその最高の状態においてのみ望むべきであると思う。ソフト・トーン(弱音器)をかけての演奏では本音が出ない。
私は、ユリ子についての話をはじめ、研究をはじめる決心がついたとき、思わず床の中で一種の呵々(かか)大笑をやりました。遂にあなたのローマ式攻城法は成功をした、と。元よりこれには私の一番真面目な感謝とよろこびが含められての表現です。では、明日、つづけて。

(自注14)思いがけない程昔のこと――一九三五年五月から一九三六年春にかけて百合子が市ヶ谷にいた間の顕治に対する差入状態。
(自注15)退院後の余り威張れない効果をともなった態度――戒厳令下の事情という判事の言葉に制約されて、百合子が公判までの三ヵ月ばかり顕治に差入れに行っても面会せず、公然と手紙を書かなかったこと。
(自注16)今日の二人の条件とは異っていた――接見禁止中、書信禁止中は立合看守によって記録される面会の時の話の内容と、双方の手紙がみんな予審判事のもとにまわされた。 
十二月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十六日第八十二信(B)
成長の跡をさかのぼって考えて見ると、自分の過去において「私は」という一句が、非常に重大な各モメントにあらわれている。子供っていうものは大人のいうことをきくもんです、だって私いやなの。からはじまって、「貧しき人々の群」は、素朴ながら社会的に私はというものを、当時の既成文学の趣向に向って主張したものであったと思う。以来、環境が必然する様々の習俗に対して、矢面に立ちとおしたのは、私はそう思う、思わない、仮令(たとい)誰がどう云おうと、という一貫性であって、このことは、漱石などが、若い青年たちに向って語ったこと、並、彼自身の生きかたとの対比でなかなか歴史的内容をなすと思う。漱石も、学習院の講演にモウニングコートを着て出て、あなたがたのような境遇の人々は、周囲の習慣、しきたり、人々の言で、一生を支配され易いものだ。決して人まかせに一生を送ってはならない。自分がわるいと思ったら千人が其を平気でやってもやるな。自分がよいと信じたら只一人であってもそれに従え。というモラルを語った。漱石はそう語りつつ、自身のうちにあるそれ以前の教養の重圧で(後年はたしかに重圧的なものとなって出ている)生活の本質的な成長を、その力によって押しすすめることは不可能であった。
自分の時代においては、この私はこう思うはもっと実践力となっていて、同時に、前時代の青鞜がアナキスティックに女権を主張し、男に対する自分たちを主張した段階からは質的に違っていた。男に対して女の生活を云々するばかりでなく、男の生きかたというものも、人間生活という概括の中に観察の対象となっていた。「伸子」あたりまでは、「私は」の限界性が自覚されず、しかし自然発生的には人間的に大なるプラスの生活力として作用して来たのであった。
「伸子」以後、私というものの内容について吟味する能力が生じ又、私はだけでは全く解決力のない現実の組合わさり工合というものが客観的に見えるようになり、社会的な意味では従前より女というものの歴史的なありよう、その影響が明瞭になり、その意味で、私は、より広汎でリアルな複数、私たちに発展した。一応世俗的にはよい環境と一口に云われる生活の中から、身に合わぬものを主張して、私は、でのびて来た生長過程は一つの重大な特色として、自分の作家、女としての生活に関係していると思う。この刃先は、勤労的な環境の中で育った人が、私というものは自覚せず、つまり私はいやだ、というのではなく、そういうのはいやだ、という風に、いきなり生活条件を感じて育って来ているのとは、精神内容として少なからず違っていると思う。後の人が、スラリと現象をうける代り、又スラリと流されてしまう傾向に対して、前者は、終始を自分の態度として意識して行為する傾向がつよい。広汎な複数的婦人生活の波に加ってからも、その一要素としての私、は決して全然より高汎な複数の中に溶け切らなかったし、又、現実の諸条件が歴史的にもその可能を十分発揮していなかったのでもある。かくて、ひろがり、高まりつつ一つの核をもった形で、複雑なくみ合い工合で、波瀾に面した。
生活の諸事情は実に急激に推移して、文学についての考えかた、リアリズムとは何か、ということが考え直されるようになった時代から、複数的私は最も質のよくない分裂をはじめ、その現象は次のことを深く感じさせた。これまでの複数の形は、一つ一つの我が箇人的成長の頂点までギリギリつめよった揚句での飛躍ではなかったこと。寧ろ一つ一つとって見ればしいなであって十分の結実はしていないこと。文学に即して云えば将来事情によっては文学的才能を発揮し得る力を包蔵しているというのではなく、却って、そいう内から破ってゆく独創的な力、新鮮な生活力が多くないために、一つの磁石に鉄屑が吸いよせられるような工合であったこと。しかしながら、日本の文学というひろい面で見れば、或年以後の日本文学史は、動かすべからざる一つの新しい力によって、要求によって貫かれて居り、文学の方向としてそれの正当さは益〃つよく理解される。一人一人が作家としてしいなであるということに一層明かに文化の土壌というものが反映しているのであるから。
狭い誰彼の身ぶりに向って注がれていた眼は、追々それをはなれて、文学の面での諸問題、生活的な面での諸問題の究明への方向をとり、同時に、云って見れば一般の文学的理論的語彙さえ当時にあってはドンドン変って行って、技術上の練達が益〃要求されたため、自身の文学的蓄積の効果は嘗てない程度に有要であった。自分はそれらのものをよく活用して、健全な生活と文学との有機的関係を自身の生活そのもので語ってゆき、書いて行かなければならないと思った。それは自分の一つの義務であると感じた。何故ならば、自分が真に発展的一歩を与えられた文学の時代は、所謂批判を歪んだ利害によって蒙って居り、而も箇人的な諸条件から、生活的に文学的に自身が其に属すれば、一部の低俗な生活、文学の常識は、文学と生活とを貫く健全性そのものの否定的実例として自分をあげるにきまっている。自分より低くとんだ鷲を鶏は笑う。笑う鶏が問題ではない。笑う鶏と笑われる鷲とのいきさつを、秘かな良心の鼓動を感じつつ見守っている者がある。そのおだやかな良心というか、これから飛ぶ稽古をしようとしている若鳥に、或確信を与えることは先に生活をはじめた者の責任であろう。鷲は遂に鷲であることは知らなければならない。
愛情の面からもこのことは複雑に考えられた。自分だけに分っている愛、自分だけそれで守られ、それに献身しているとわかって満足している愛の形体は、抑〃から歩み出しているのではなかろうか。社会的な歴史的な実質をもつものとして、それは当然生活と仕事との成果のうちに語られねばならず、現実の特殊な条件は日常の表現のミディアムとして自分だけを呈出している形である。自分が真に説得的な文学的活動を行うこと、そして一つの困難をぬける毎に益〃生活的に強固になりまさりつつ文学的豊饒さを増してゆくこと、そういう現実の果(み)のりに於て、その原動力となっているものの豊かさ、純一性、成長性が、感銘されるべきものとして理解されて来るのであると思った。
其故、或時期、誰彼に対する自分として現れた主張は、ひろめられ、或文学的潮流に対するより健全、理性的な文学本質の呈出としての表現に代り、論敵を目ざさず、第三者としての読者への説得力を増すことに努めるようになった。この文学上の努力は、複数的我のこわれた当初、自分をとらえかけていた一つの危機を切りぬけさせ、私ぬきで正当であるから正当であると云わせ、感じさせる方向におし出した。
文学におけるこういう必要は、生活的な場合にも同じ必要を感じさせ、自身としての一つのプログラムを与えた。あらゆる場合、必要さけ難い以上の壮言は行わず、しかし健全性の根は決してほじくりあげられて枯らさないように。自分はどんなことがあっても作家であって、アクロバットの芸人ではないのであるから。女及び作家として身につけているだけのことは、人間が人間以外のものであり得ないと等しいのだから。
生活の或期間、そのプログラムで一貫した。
ローマの法王庁の或祝祭で、法王が立っている最上の段階まで大理石の数千の段を参詣人が這ってのぼって行って、その裾に接吻する式がある。その中でもしまともに歩いて階段をのぼる者があれば、それが自然であるとしても、目立つということになる。(余談ながら、ルーテルは、この式に列して非常な懐疑にとらわれた由)文学的な仕事も依然として自然発生的な洞察力みたいなものに導かれつつもやや勉強法が分って来て、文学における日本的なものの擡頭の時期は、少しは歴史そのものの即しての文学的言説を行うことも出来た。続いて、所謂大人の文学の提唱があり引つづきヒューマニズムの論があり、文学のモラルの問題、ルポルタージュの問題があり、それらを自身としてはリアリズムの太根にぎっしり据えて扱うべきが正しいという、自身の文学的プログラムによっていた。
ところで、この時代に入ってから、(ごく近い。一九三六年のごく末から三七年)自分というものの箇的な作用が、従前より一層複雑に現れてきたと考えられる。それまでの努力の結果、生活的にも文学的にも一般的な或承認を獲ることが出来たが、私へかえって来る承認の形は、時代の性格を反映してどこまでも箇的であった。所謂人物論風である。何によってしかるかとは見ない。一人の作家を活かしてゆく力を見ず、生きてゆく作家一人を見る。自力一点ばりに見る。それは一般の目の本質であるが。当人にその誤りと矛盾とが判っているのだが、例えば賛辞への反駁として、そういう見かたは一人の作家の全貌を語らず、又現実を誤っている。人間の成長はかくの如き諸関係で云々と、まともから云えないような事情にある。それは或片腹痛さであり、賞讚に対して批評があり、賞められてうれしくて一層へりくだって励むというのとは、少し違った皮肉が加わらざるを得ない。水準は全く低い。それとの対比で現れるために、当人を高めるより低くつないでおく力がよりつよい。無いよりは増しという最低限度の要求が、文化の枯渇の増大につれて切実にましていること。それに答えてゆくことが、いつしか自身の低下への正当化となること。(これは本年に入ってからの一般的現象)
一箇の作家としての評価というものが、箇人的なものに逆行して行くこと、及びその危険を、ジイドの旅行記批評を書いたとき、おそろしく感じた。(一九三七年正月)ジイドがコンゴ紀行をかいたときの、見せられるものは見ないぞ、私が見るものを見るのだと云って執った態度は、その条件にあっては一つの健全性であった。彼に見せようとされたものは、常にこしらえものであったのだから。彼が目で見た土人の暮しかたが現実であったのだから。然し、二十年の後彼が出かけた旅先の社会条件は、彼のこの箇人主義的な人生態度の枠をこわさざるを得ない力をもっているので、彼は本能的な自己防衛に陥り、現実であるものを見ているくせに、現実として承認出来ず、その裏、裏とかぎ廻って、最も穢い世俗的愛嬌の下に無理解以上の反歴史性をためこんだ。そしてパリにかえって、そのへどを吐いた。歴史はその一方にこのへどを称して、神々のへど(室生さんの題を拝借)とあがめるものがある。そういう心理的な歪みから生じたジイドの今日の全方向は、全く政治的な意味をもってしまった。彼は恐らく意識しているでしょう。
レオン一家の人々の生きかたも同時的に考えられた。心理的な面から。不敏ならざる頭脳が、人生の或モメントに一つぐれて、感情的な我執に陥り、一見理性による現実の追究の如き形をとりつつ、実は心理的骨格は我執の亡者であるということ、その動機で強いがんばりかたで理論化してゆく熱情。そういう人間のタイプは身辺にもあったが。過去の社会からもち来たされている「我」は歴史的混乱の時期に、何たる微妙な現れかたをするものであろう。そのプラスにおいても、マイナスにおいても。
そのような反省はしかしながら、おかれている自身の周囲の諸事情をかえるものではない。文学的生活、日常生活は一層箇別的になって来る方向ばかりで、昨年から本年に入っては、社会的性格の広汎な作家ほど現象的には一層箇別化されざるを得なくなり、文学における健全性が世間的な箇別性で逆に語られているような時期に到達している。そのような消極の形しか持てない、それは各自各様の矛盾をもちつつ文学を文学として守ろうと欲している人々、宇野徳田その他の組から川端に到り更にその後の人々に到る一部分となってまで出ている。今日の生産文学は一定の批評に耐えない本質をもって立っている、それ故立ち得ているという現実の故に沈黙を課せられている少数の者の間にさえ、この箇別化は深刻に浸み出している。各人の事情で。一人は執筆を承諾するが、他の一人は配偶者としての感情からも堪えぬ、というが如く。(ここで一区切り。長くなりすぎるから。今日も熱は六・四分。六・三分。せきも減りました。段々外気にも当りたい気持です。) 
十二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十七日第八十二信(C)
生活と文学とにおけるそういう環境は、実に多くの危険と困難とを将来に予想させるが既に今日いくたの障害となって現れていると思う。
箇別的な事情というものが強力に作用していて、Aの事情Bの事情、それぞれの事情の間の評価が弱まっている。文学におけるヒューマニズムの理解が、人情の域まで墜落したきりになっているのだから、客観的な意味でそうなることは肯けるが。一方文学が非理性的な観念で一括されようとするのに対して経験の尊重が文学の中につよい底流をなし始めている。具体的なもの、現実的なもの、そこに真の人間の生活が息づいているものを、文学の新しい要素として期待する欲望であり、文学の観念化に対して健全を求めている現れではあるけれども、これしも、経験を客観的に総括する力、その必要への目ざめが十分に伴わないから、経験主義になりやすい。経験そのもののひろい目からの評価、経験してゆく自分というものの在りようについての目は概してつぶられたままの形であると云える。
事情は輻輳(ふくそう)しているから、全体としての文学的プログラム並にその中にあって自分のプログラム(相互的な関係での)というようなものが必要であり、特にこのことは、特殊な条件にある作家にとって痛切に感じられている。少くとも自身の要求として益〃切実になって来ている。目前自分として何をやってゆくかということはよく判っているが。作家としての現実の意識は愈〃科学的にならなければならず、益〃展望力を強めなければならず、十月からそろそろながら進捗している勉学はこの点で決して中断出来ないものだと思っている。流派の問題ではないのであるから。そして、独善居士にならないためには。文学におけるこの部分の問題は、未だ十分の見とおしを立てきっていない。この状態のまま、もっと勉学し、もっとつきつめていけば、やがておのずから会得されることがあろうと信じる、主として方法的のことでもあるのだから。単に知能的でなく自己を拡大させてゆくこと、これは今日の事情にあっては必須のことであり又多大の現実の困難を伴うことなのだと思われる。
さて、ここで自分の心に一つの疑問が生じている。これまでの沢山の手紙のうちで、自分はどのように、以上のような生活と文学との推移、その間における自身の姿というものを伝えていたであろうか、と。今これを書いている気持とは違う。それは自然と思う。何故なら今これを書いている気持は、自身に主として向っているのであるから。ある閃きの様々な色としてでなく、真面目な問題として、地味にどの程度書き得て来ているかと考えると、疑問になる。文学や生活について自分の感想として押し出されていることは、少くないであろうし、一貫したものもそれぞれの断片中に汲みとれるだろうとは思うが、基本的な調子に於て、果してどのようであったろうか。自身の成長のためにこのところは執拗に、意地わるく追究しなければならないと思う。それは手紙は相対的なもので、ましてや生活の条件から、そこには様々の音響が底に響かざるを得ず、日常生活の間では、例えば一寸した廊下でのすれ違いの互の眼差しで語られる心持のニュアンスも、何かの字で、何かのトーンで伝えられようと渇しているために、直接そのものとして表現する趣味まで低まらない限り、全く客観的なことにそのような気分が伴奏することが多い。情緒的なものは、それとしての消長を自然にもっていて、その生活の間である真面目なことをとりあげて話す調子とはどうしても違う。同意を求める感情にしろ、淡白ではあり得ない。非常に深く感性的なものにまで常に触れて行くのである。
だが、自分が漠然感じているこの疑問は、それだけでは解釈され切らない。愛情による身ぶりと共に、何か意識されぬ計画されぬ精神的な媚態がありはしなかったのだろうか。ここは微妙だと思う。微妙なところで生粋なる愛情と界を接し、うちまじり、とけ合っているから、切りはなすのは一つの冒険のようでさえある。このような微分的追究に耐える理性と感覚とを信頼して、初めて表現する勇気をも生じるのだが。
自身の心を強くつよく貫いているよろこばせたい心持、安心させたい心持、自分が愛するものを我が宝と思っている、そのような心で自分をもうけとって欲しく望む心。これが、どのような源泉から出ているか。もとより愛からと云う答えは一般に通用するというより以上実体にふれている。確かに愛から。そして又対手の人生を高く評価していることから生じている。その評価への絶対の信頼によっている。けれども、そのよろこばせたさ、安心させたさが、確信され確保されている真の安心の上に悠々的に発露しているものか、それとも、例えば子供が一つ木にのぼると、勇んで下りて来て、母さん僕木へのぼったよ、と報告せずにはいられない、そういう種類のものか。なかなか興味ある心理だと思う。明かに、自分は愛情に加うるに一目をおいたものをもって対している。非常に一目おいている。それによって、どちらかと云えば極めて従順な心をもっている。しかし、生活の他の一部には、自分として、決して自信なくはない。狙撃的目標として悪く耐えて来ているとは思っていない。これが面白く作用して、大変おとなしく従順であるのに、あるところまで埋ると、何かがんばったようなものが出て来るのではないかと考える。同時に、謙遜な心を十分に認めて欲しさも錯綜して、ある事について語る文調に、内輪な響きより張り出したトーンの方が響き、いつしか一つの精神的な媚態となるのではないだろうか。そして、音響学の原理を考えれば、張り出した響きが出れば出るほど、空間がひろいということになる。一目をおいた気持が決してそれなり通過しない点があると思う。
それから又、自分は本来相当甘えん坊でもある。天真爛漫甘ったれたい。この甘ったれたさと精神の緊張力とは比例的で互のつよさでバランスしている。相互のリズムが交って生活に弾力を与えている。このことも、やはり何かの形で、語りかたに影響を与えるであろうと思う。そのようないろいろの要素をむき出しにそのままぶちまけず、何かに托す習慣になって来ていることが。感情は激しく溢れんと欲する。素朴な動作で。そのような瞬間、そのまま書いたってウワことである。何かつかまえて云わなければならない。感情の表現が、文字でしかないこと。これは我々の生活上実に実に大きい意味をもっている。幸ある表現力をもっている。其故書いて、書けたようにも感じるが、その書きかたにはいつしか文字でしか書けぬ書きかたが働いていて、耳に入る言葉や動作の動物的な要素、感覚を流れ洗うものが減って、感情さえ理づめになり、やがて又そこを破りたい欲望がロマンティックなものとなっても現れるのではないだろうか。
自分はこれから手紙のかきかたについてもっと考えようと思う。もっともっと、意味をつけないお喋(しゃべ)り、ホーそうかい、そう思ってよんで貰っていいお喋り、と、それから重大な考えるべき問題をふくんだものとはっきり区別をして。島田にいるとき自分の書く手紙、目白にいて自分のかく手紙、父がいた時分の自分の手紙。それぞれを比べて思い浮べて見ると、何と違うだろう。島田にいるとそこには私たちの生活というものが殆どなくて、ああいうこと、こういうことがありましたと描写報告が多い。父のいた時分の生活は、外部的ないろいろの変化が多かった。ああいう生活らしい色彩を帯びて。目白での手紙は、生活が統一されて一筋のものの上にあるとともに、非常に頭の活動、切ない気持の高まりが反映している。もっと楽になっていいのに。そう思う。健全なそしてくつろいで動的な状態。それを欲しる。そのためにこの連続の総ざらいをも必要とした。益〃ひろい、明るい健やかな理性の土台のつよまりが必要である所以。
時間的にいろいろの細かいことをはっきり記憶によび醒さないこと、その他が不快を与えたと思うが、自身の心理的なものの根を掘り出して見れば、やっぱり動機は一つ性質のものであった。後からこんぐらかって、むしゃくしゃして、平手打ち式気分で語っているが、例えば初めのうちいい人だとか何とか評価していたには、何かそちらとの親密さを告げられるなりに先入観めいたものとしたところがあったからであると思う。後に実際に即して、その人柄が露出した。初めからそれを洞察しなかったことは、自身の人間を見る目のなまくらさである。人生の或時期の生活のありようで生じた相互の関係の形を、それなりの形で評価の実質のように考え混同することは間違っていることを深く感じる。古い友人といきさつにも之は多い。いろいろのことがある。皮肉になるに及ばず、辛辣になるに及ばず、しかし飽くまで実際のありようを見徹す力が、何と必要であろう。
これらのこと、現在なら生じない条件がある。何故なら先ず第一、その人々の関心をひいた物質的条件がこちらに無くなっているから。今私が金にゆとりあると思っている馬鹿も沢山はないのであるから。そういう意味で、当時の生活の雰囲気が自省される面をもっていることを考える。
――○――
触れるべき点に大体くまなくふれたであろうか。自分としては心持の一番底に足をつけて歩いてまわった感じで、落付いた気分にある。誇張したところは殆どないと思う。どうだろうか。このような調子の総ざらいは、大入袋ではないから景気はよくない。益〃質実に、勉学し、仕事をして、二人の生活のそれぞれの時機から学び得るものを十分に吸いとって行くだけしか考えない。もうすこし勉学がすすみ、仕事をやって行ったら、もう一皮という感じで心にある文学のプログラムについての考えもまとまるであろうと思う。
仕事をもこめて、勉学、勉学!そう思う。そう思うと愉しさが湧いて段々ひろがって来て愉快になって、そちらの顔を顧み、笑う心持になる。ユーモアよわき起れ、と思う。ユーモアの湧く位賢明で強健な肺活量のつよい生活。脳髄と肺や心臓のつよい生活。
――○――
よかれあしかれ、これだけ書いて、すこしはさっぱりしました。毎日八枚を、三時間以上ずつかけて書いた。書いて切々と思う。決して大言するのではなく、冷静に客観的に観察して、現象的な範囲での日常の環境は、私の発育のギリギリまで来ていて、即ち小さい着物となって来ていること、奮励一番して、よりひろい合理的な世界へ自分を拡げてゆかなければ、狭い着物でちぢめられることを感じます。そして、その着物がどんなに役に立たないかということについて再三注意して頂いて有難う。これは心からのお礼です。 
十二月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十八日第八十三信
十六日づけのお手紙をありがとう。十四日にお目にかかって、気が安らかになって、落付いて今日まで休養出来ました。まだハナがぐすぐす云ったり折々せきをしたりしているが、もう大丈夫です。こんどは珍しく、風邪気味になったのは六日の火曜でしたからまる二週間と五日煩わされました。私の風邪としては実に長かった。その代りアラ又ぶりかえしたというような癒りかたでもないけれども。ちょいと盲腸がいやな気味で注意中です。
全く本年の後半は、苦しかったが収穫は少くありませんでした。自発的に総ざらいをして見る気になったし。「伸子」の終りの部分については、元の目白の家でも一寸ふれられたことがありました。覚えていらっしゃるでしょうか。私は、はっきり記憶して居る。あの作品の書かれた当時理解の限度で、同じ質の枠内での移りを、進歩或は成長という風に自分から解釈しているが、それは本当の発展ではないね。そういう風な表現で云われ、成程と一部わかったが、あの時分にはまだ今日わかっているだけには判っていませんでしたろう。人間の真の発展は脱皮であるから容易でない。一つ枠の中を動いているだけなら(そして、やはり、伸子のようにその動く現象を発展と見る見かたに今日も多くが捉われているから)文学も発展しつつあるというようなことが云い得るでしょうが。脱皮しかかっているときの期待と不安とは殆ど生理的な心持を伴っていて、一種云いつくせない味です。
『文学者』という雑誌が刊行されました。同人としては、伊藤整、板垣直子、春山行夫、丹羽文雄、本多顕彰、徳永直、徳田一穂、岡田三郎、尾崎一雄、尾崎士郎、大鹿卓、和田伝、上泉秀信、田辺茂一、楢崎勤、室生犀星、窪川鶴次郎、福田清人、浅野晃、榊山潤、水野成夫と申す顔ぶれです。『戦争と経費』その他は買ってありません。そちらでも御読みになれば買おうというわけでした。昨夜『馬仲英の逃亡』をよんで(半分ばかり)大変面白く思いました。ああいう科学者の経験というものについて、局部的な経験、現象的な経験というものについて、考えられました。あの限りで自然も人事もよく描かれているけれど。大馬というのは仲英だけの名ではないのだそうです、スノウによれば。馬一族を称す。そして、回教の中に新旧が分裂を生じている。新は南京からの討伐をともに受けた。旧が白ロシア人をやとって市を防衛した例でしょう。探険家にそういう事情がわかっていないらしい風です。でもあの年でああいう旅行に堪えることはうらやましい。きっと盲腸なんか切ってあるのでしょうね。しみじみそう思った。お笑いになるでしょうけれど。
『世界名著解題』は第三巻まで順次出る由です。あれは第一巻。いかがですか。あってよい本の部ですか?
富雄さんに何を送ったらよいかしら。経済事情の推移の分るものがよいでしょうね。考えておきます、暮から正月にかけてよむように送りましょう。
繁治さんはあの日出かけなかった模様です。従って十四日以後はそちら些か御閑散でしたね。
お正月並に外出用の冬着を一組近日中にお送りいたします。お正月に行ったら、どうぞ、それを着て見せて頂戴。栄さんのお年玉というのは、その羽織についている紐です。皆によくお礼は申します。栄さんの編んでくれた毛糸の衿巻というのもお正月になったらお目にかけます。私たちから栄さん夫妻に上げるのは、茶呑茶碗一組(二つ)です。いいでしょう?戸塚は例年子供が主で、今年は健ちゃん英語がよめるから何かやさしい文句のついた外国の本をやります。どんなに大人になった気がするでしょうね。智慧のひろさのよろこびがどんなに新鮮でしょう!『図書』の西田幾多郎の文章、偉いと云われる半面のああいう稚さ。西田さんには私のような皮むきがないから。可哀そうに。(笑話よ)ではお大切に。今年かぜをお引きにならなければ黄金のメタルものです。 
十二月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
きょうは思いがけず昨夜の夜なかから盲腸が痛み出して、さっき慶応のお医者に見て貰ったらこのままにしておいてはあぶない由です。やむを得ず入院いたします。そして西野先生や何かにもう一遍見て貰って切る方がよいときまれば、いつぞやお話したことのあるモテギ先生に手術願います。国男のをやって頂いたからきっと一族共通であるという盲腸の癖もわかっているでしょうから。勿論こんなくされものを持っていない方がよいのですが、手術はこわいと思います。でも手おくれは猶こわいから、マア仕方がない。
昨夜はひとりで閉口し、けさ寿江子を呼び今いろいろやって呉れて居ります。うちにいて、たった一人で気をもむよりはよし。まだ何にもわかりません、何日入っていなければならないかも。もし切るとしたら私はお守りのようにあなたの御加護をたよりますから、どうぞどうぞ効験あらたかであって下さいまし。これは本気です。本当の本気よ。
又何日間かおめにかかれなくなりますがどうぞそちらお大事に。呉々お大切に。あした寿江子様子を申し上げに行って貰います。熱は六度八分ですから大助りです。では一寸一筆。三時ごろまでに病院へゆきます。今二時。 
十二月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応義塾大学病院より(封書)〕
第八十五信おなかの傷の上に蒲団がじかにかからないように金(かね)の枠がかけてある、それにこれをよせかけて一筆。きょうはいいお天気らしい様子ですね。枕元に窓があって、まだ仰臥状態で見えないけれど。
かぜのおしまいに盲腸がいやな気持と云っていたのがやはり本ものになりました。
二十日の夜独りで眠れず苦しんで、夜があけるのを待って寿江子に電話をかけ湿布の薬をもって来て貰いましたが、前夜(ぜんや)の嘔気の工合で、今度は或は切ることになるかなと予感して居りました。ともかくお医者に診て貰ったら、切らないでいいという程軽くない、由。それでも熱は七度五分位で、熱にかかわりなく又痛みの自覚にもかかわりない由。
三時半ごろ雨の中入院して手術にかかったのは五時すぎ。一時間余で、正味は三十何分。創(きず)は6センチ。盲腸は一部ユ着していて、腰髄麻酔で手術したが、ユ着をはがすとき胆汁を吐きました。すこし化膿しかかっていてやはり放っておくと腹膜をおこすところであったそうで、西野博士も手術前見たとき今度はありますねと云ってらしった通りです。血液検査をして白血球をしらべたら普通四千から六千なのが二万以上であった由。一万を越せばもう全身症状で有無は云わず切るとのこと。よかったと思います。経過もよくて、傷の痛みで誰でも夜眠らずさわぐそうですが私は何だかポーとなって、口が乾いてちょいちょいおきたがその間は眠りました。食事はスープおもゆ五十グラムずつ位のところ。きょうは第三日目で玉子のキミ一つに果汁アイスクリームをたべてよい由。
それでも、私にとって生涯の難物だったつきものがこうやってとることが出来て、手術で心臓が妙にもならず本当によかったと思います。早ね早おきの陰徳はかような場合の抵抗力となってあらわれ恐らく元のようにしていたら盲腸そのものはもっと危険になり、手術ももっと困難だったでしょう。
こうやってねていて、あなたがお元気だと思うと何より気が休まる。本当にお手柄です。どうぞその勢でお正月私がおめにかかれる迄益〃元気でいらして下さい。
普通八日目に抜糸だそうです。私のは只一ヵ所縫ってあるだけで、あとは万全を期してあけてあるそうです。キレイな傷口の由。何日かかるのか只今では未見当ですが大体十五日ぐらいではないかしら。うちへかえるのが一月の六日ごろとすれば早い方ではないかしら。
病院で正月するのは妙のようですが私は却ってああ今年は何たる身心の大掃除!と感じあの右側の体が常に重くてバスにのるのも歩くのも、働くのも常にいたわりいたわりやっていたのがさっぱり左側と同じになると思うとうれしくて来年は、と勇んで居ります。この気持、わかって下さるでしょう。ときには、本を四五冊下げて歩くのが響いて楽でなかったことさえ屡〃だったのですもの。炎症性とか何とか(御研究の知識によって御判断下さい。)一度やったのがかたまってしまうのでなくて再発までずっと同じような病状にある方の盲腸でしたそうです。
あの着物いかがでしょう。お気に入ったかしら。
私はここで正月にはおき上れるところまではゆくでしょうから、これまでより更に具体的に条件のそなわった新しい年への期待でたのしく私たちの七年目のお正月を祝します。お雑煮をたべなくたって名を書いた花飾りのある祝箸でたべていいでしょう。そしてあなたの名をかいた箸でたべて十分お祝いしていいわけでしょう?
二十八日までにつくよう速達にいたします。どうか呉々お大切に。私の方は安心して頂いて大丈夫です、この分ならば。ではいい年を迎えましょう、寿江子や林町へ下った手紙、きのうお土産に見せてくれました、この枕の横にあります、皆はずるいから、こういうものをもって来さえすれば大きい顔をしているの。 
十二月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
第八十六信きょうは初めて椅子にかけて昼飯をたべようとしておき出したところ、二十三日、二十六日、二十八日づけのお手紙をどうもありがとうございました。机のところに置いてちょいちょい飴でもしゃぶるようにとり出してよんで居りました。
この手紙着くのはお正月の一番はじめの分でしょうが、やっぱりおめでとうは早すぎる気がしてまだ書けず。
二十八日には惜しいことでした。寿江子がすっかり容態書をかいて用事をかいて出かけたのですが、十二時すこしすぎそちらへ着きました。そしたら二十八日は午前十一時までだったの。それを気付かず、二十八日をと日ばかり一心に見て来ていたものだから駄目。失敗しちゃったと悄気てかえって来たので、私もがっかりしたし、一番終りの日様子もわからず歳越しをおさせするのはどうも辛抱出来なかったので、もう一遍行って貰い、特別に面会を許可されるよう願いましたがやはりもう人手がなくて駄目で、様子だけはつたえて下さるとのことで書いておいて来たそうです。わかりましたろうか、本当にわるかった。きっと待っていらしたに相違ないのですから。
二十六日に化膿しかけているのではないかという心配がありましたが、二十八日傷からしみ出しているのが漿液(しょうえき)とわかり、糸を切ってその水をよくとったらば熱もすっかり下り二十九日は一日六度台(朝6度夜八時六・九)、きょうは朝五・九で今六・一です。大体はじめから熱は低かった。そして傷の癒着も大層よくて今では三センチに足りぬ(一寸に足りぬ)傷口が殆んどすっかりついていて、下の方にはじめからあけてあるところ(手術のとき細いガーゼを入れておいたところ)が小さくあって、そこから漿液をしみ出させている工合です。お医者様もいろいろで、モテギさんは傷を大きくつけて平気な方。私のおなかを切った木村博士は人間の体に傷は最小限につけるという立て前の由。私の決して小さからぬおなかに一寸に足りぬ傷が、きれいに癒着するのは先生の立て前上些かほこるに足ると見えて、近日中に傷の写真をとるのだそうです。何か統計をつくっていられる由です。
気分は平らかですが、疲労は甚しい。外科的処置は傷がなおりかけると、適当な刺戟で肉も盛上らそうと、もう室内は勿論、すこし歩けと云われます。でもなかなか体が大儀で二三歩歩く位。腰椎をマヒさせたって、やっぱり全身にこたえているし。本当にくたびれかたがひどくて、本は勿論、手紙だってこれが二十四日以来初めてです。ぼんやり仰向いて臥ていて安心したつかれにまかせている。足かけ三年くされものをもっていたのですものね。そして、いつどこで爆発するかという懸念が絶えずあったし、爆発すれば手おくれになる場合が多いのだから、私は白状すれば、思いがけず病気で死ぬとすれば盲腸からの腹膜だと思っていた。ですから私は、いつ、どこで、そういう時に遭っても、あなたへの最後の挨拶の言葉だけはつたえたいと思って、ちゃんと書いて咲枝にずけてあったの、もう二年ほど前から。だってそうでしょう?こんなに互に熱心に生き、この世でめぐり会えた歓びを感じているのに、うれしかったとも云わずいなくなるなんて、承知出来ないことですもの。
二十一日入院ときまったとき、あなた宛にあの手紙かいて、咲枝に万一私が根治してしまったら「あれ」をそちらへ送るように、そうたのんで、それから又別に私たちの生活の事務的なことすっかり箇条書にして、なかなか二時間が忙しかった。今は、もうそういう「あの手紙」もさし当りは不用になったし、よかった。臥ていると、まだ小さいこんな形の渦が見えるようで、それは生と死とで、短い時間のうちにキリキリと一廻りしたという感じがつよくあります。これは一種特別な感じ。手術をうけたりすると、誰でも感じるのかしら。切迫した何時間、その間にキリキリとこういう形で生と死が廻ったという感じ。
手術が終った二十一日の夜は譫語(うわこと)が云いたくて困った。これもめずらしい経験です。半分意識しているのね、他の半分の意識が変に明るいようなサワサワしたような工合で、盛にうわことが云いたい気がするの。きっとあなたでもわきにいらしたら云ったに違いないと思います。意識してこらえたけれどもちょいちょい、いやよ、だとか何だとか云っていた由。今の疲労の種類は何だか分らないが、ともかく、何日でもまるで静かなところへ頭をつっこんで眠りつづけたいという欲望のように感じられて居ります。そちらの懐の中へ顔を押しこんで眠りたい、そういう工合。
すっかり着ているものをはがれて、目かくしをされて、暖い空気の手術室の中で何か堅い台の上にねかされたとき、それは臥かされたよりころがされた感じで、非常に無力な異様な感じでした。今度はいろいろ珍しい経験をいたしました。あなたも手術で入院していらしたことがあるのね。この間うち下すった手紙では、私はいろいろにあなたが闘病の間に行っていらした工夫や努力や不如意の克服やらをはっきりと感じることが出来、深い感想があります。
この手紙のあとは元日に又書きます。
この疲労のために、傷の快癒よりも、全体のろのろと進行している形です。いそぎませんからどうぞ決して御心配なく。血液が清潔であること、糖もタン白も出ていないこと、こういう手術をするとそれらのことが随分仕合わせになります。きょうは九日目ですが本なんか一行もよまずです。急にバタバタ来て、本一つも入れてない。これからポツポツ。この病室は内庭に向って窓があって青空の下に檜葉(ひば)の梢と何かの葉のない枝が見えます。側台にバラが二輪とさち子さんのくれたシクラメンの鉢。ではこれでおやめ。どうか呉々お大切に。お茶かけアンモを上った頃つくのね、私は今年はアンモなし。傷によくないというから。ではこれで本当に今年のおしまいにいたします。 
 
一九三九年(昭和十四年)

 

一月一日〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 四谷区西信濃町慶応義塾大学病院内い号の下より(封書)〕
一月一日第一信。
あけましてお目出とう。今年もまたいい一年を暮しましょうね。
ずっと順調で熱もきのうきょうは朝五・九分位、夜六・八どまりの有様です。このようになおりかかって来ると傷口の大小が決定的に影響して、一寸足らずの傷であるありがた味がよくわかります。傷そのものの不便さはもう殆ど感じません。ただ腹帯をたっぷりかたくまいているのでおなかがかたくって、曲りかがみに大不便です。上体を一寸捩るような形はまだ妙に筋がつれて出来ませんがベッドから下りたり上ったりすっかり自分の力でやれます。きょうから少々歩き初めです。一日に三四度往復十間位のところを歩くようになりました。これで三四日して入浴出来るようになって、もっと足がしっかりしたら全快ですね。傷が大きいと、表面だけ癒ったようで内部はよくついていないことがあり、退院後に又深いところで苦情が生じたりする危険があるそうですがこう小さい傷だと、内からちゃんとまとまり易いから大助り。
今は椅子にかけ、小テーブルに向ってこの手紙を書いて居るところです。咲枝がお年玉にこしらえてくれた黄色いミカンのようなドテラを着て、きのう稲子さんがもって来てくれた綺麗な綺麗なチューリップの植込みを眺めつつ。しかもこのテーブル(枕頭台から引出すようになったの)の上にはお供えが一つあってね、丸く二つ重った形を、そして、上のところに、ちょいと松竹梅の飾りをつけた形を臥(ね)ながら横から見ると、まるで私のようなの。随分似ている、似ている、と笑っていたらけさになって榊原さんが、そのお供えの、丁度おなかのでっぱりのところに、小さい絆創膏を十文字に貼りつけました。上出来の傷のお祝に。そしたら、お供えは俄然生色を帯びて、まるで生きもののように表情的になって、うれしいようなきまりわるいような様子をして、お盆の上にのって居ります。こんなところらしい冗談があるものね、感心しました。
先生たちは元旦でも出て来て、明日入浴してよいということになりました。初めて普通の御飯をおひるにたべて、実に外科の仕事は、バイキンさえ入らず、体質異状がないと早いものですね。
あなたの名、私の名、新しい筆で大晦日の夜お祝箸の袋の上にかいて、先ずあなたのから食べ初(ぞ)めいたしました。ちょうど十九日に自分で買って来てありました。島田の方でもこういうのを使うでしょうか。[図1]模様は羽根に手まりに梅の花。金色と赤の水引の色。模様が大変女の子らしいので、あなたのお名前は何だかいかにも、マアお正月だから仲間に入って遊んでやろうというようです。
明日壺井さん夫妻が見えるそうです。そして四日には繁治さんが久しぶりでそちらにゆく由です。
目白はおひささんが二十六日にかえりました。二十八日までという約束で行ったのですが、急なことだし、他のことともちがうので速達出してかえって来て貰いました。寿江子がとまっています。但三ヵ日の間は寿江子林町でワアワア云いたいらしいので、本間さんのチャコちゃんと云う女の子、高等科二年、をたのんで滞在して貰う手筈にきめました。自分は閑散な正月であるわけですがはたの連中に何とか正月らしくしてやるために、やはりそれぞれ心くばりがあるものです。
手塚さんのところ二十八日だったか女の赤ちゃんが生れました。八百匁以上でよかったが、生れるとき赤坊が廻転して出て来るとき自然にへその緒が解ける方向にまわるべきところ、逆回転だったのでカン子(し)(頭にかけて赤ちゃんをひき出す道具)をつかって仮死で出た由。人工呼吸でそれでも母子ともにもう安全だそうです。なかなか危険なところでした。赤ちゃんの喉がへその緒で次第次第にしまることになるのですから、逆まわりになると。てっちゃん、びっくりしたし、うれしいし、様々なのだろうのにキョトンとして、ホーと云っているには大笑いでした。名はやす子とする由。妻君の母上の名の由。なかなかいいお婆ちゃんで、てっちゃん好きなのですって。手塚やす子という娘さんの父親なのよ今年から。確にホーでしょうね。
中野さんのところはまだ正月が半分しか来ないようですって。お産が一月かですから、それが無事終了までは宿題を夫婦でかかえているようなもの故本当にほっとはしないのでしょう。ふた子でも生めばいいのに。ふたごは面白くて、可愛いでしょう、私たちは皆ふたごって面白くて好きです。勿論どっちも丈夫な場合だけれども。独特にうれしいところがあるにきまっているから。
体全体のつかれかたも追々ましになって居るから御安心下さい。きのう坂井夫妻見えたとき私にゆっくりかまえるようにとのおことづけありがとう。私は全くゆっくりかまえて居ります。ただ外科の進みかたは内科と全然ちがったテムポをもっているだけです。
でも本当にこうやってのんきなこと話して生きていて、妙ね。何日ごろになるか、初めてお目にかかるとき私は手をとってほしい気持です。お辞儀をして、さアユリは死なずに来てよと、そういう気持です。〔中略〕この間入院する前は、二階の勉強机でない方に、ベッドとの間においてある椅子にかけて、いくつもの手紙かきながら、もしかしたら死ぬときになっていたのかと考えた。だって、私としたら珍しく万端すんでいて、あなたにあんなに連作の手紙もかき、心持はしーんとしてしまって滓(かす)のないような工合だし、着物はすっかり新調して上げてしまってあるし、お金のことまで打ち合わせたりしてあったし、いやに準備ととのっている。よく偶然そういうことがあるものだから、成程こんな工合のこともあるのかと考えて居りました。そのために却って手術の間も心持は平静でした。〔中略〕然し、ハラキリはこたえるものですね。〔中略〕
明日入浴出来たら七草(ななくさ)までにかえれるのではないかしら。
二十八日にちゃんとお顔を見てつたえることが出来なかったので気になっていますが、そちらの元旦はいかがな工合でしょう。臥ていて、余り安らかなおだやかな、底によろこびの流れているような心持のとき、きっとやさしい親切な心で思われているのだと感じます。本年の正月は、計らずいろいろの大掃除があって、又珍しい新らしさがあります。年々の正月を思いかえすと何と多彩でしょう。歴史が何と色つよくかがやいているでしょう。この二三日すこし気分がしゃんとしてものをよみたい気も起って来て居ります、ではお話し初めをこれでおしまい。呉々も御元気に。 
一月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
一月二日第二信
きょうから雨か雪という天気予報でしたが、今は空が晴れて、僅かな白雲が東の方に見えます。きょうは、午前十時頃、初めて入浴しました、実にいい心持。傷口は軟膏と絆創膏を貼って。しかも、これは私があぶながってむき出しではこわがるので、おまじないのようにつけてくれたものの由です。むき出しで入浴してもういいのですって。
出て来てから一時間ばかり眠り、先生が見えて、手当をするとき鏡をとって眺めたら、おなかのよこに薄赤く十字がついていて、[図2]この下のところにごく小さい穴が見えました。それは表面だけでもう深さはないとのこと。黄色い薬のついたガーゼをあててバンソー膏をつけて上から湿布してあるだけです。熱は朝五・九。入浴直後六・八、午(ひる)は六・一分です。順調でしょう?いそぐならもう程なくかえってよい由、あとから通えば。私は傷の小さい穴がすっかりふさがって、毎日湿布をしたりしなくてよくなる迄いるつもりです。目白から省線で立ったりして通って来るのはいやだから。それにしてももう僅かのことでしょう。多分もう一週間以内だろうと思います。午後は大体ずっと椅子におきて居ります。両足の踵と左脚のふくらはぎとが、体の不自由だったとき何か筋の無理をしていたと見え、しこってしこってひどくくたびれているだけで、歩くのも傷のところがつれる感じはごく微かです。これがすっかり直って、すっかり軽くなったらどんないい心持でしょう。どんなに軽々といい心持だろうと思うと、私は一つの夜の光景を何故か思い出します、屡〃(しばしば)思い出します。茶色の外套をきてベレーをかぶって、夜の道を急に崖下に家の見えるような坂道にかかったときのことを。すべりそうでこわかったとき、つかまっていいよと云われたときのことを。すこし勢がついて足が迅(はや)まると崖から屋根屋根をとび越してゆきそうな気がしたときのことを。不思議にこわくて、不思議にうれしかったときのことを。
ふらふら読書の道すがらアメリア・イヤハートの「最後の飛行」をよみました。一九三二年頃単独で大西洋横断飛行をしたり、多くの輝かしいレコードをつくっていた彼女が太平洋を横切って世界一周飛行の途中、ニューギニアのレイと赤道直下の小島ハウランド島の間、彼女自身によって「全コース二万七千哩(マイル)の中最も距離長く難コースと思われる」地点で消息を断ってしまった。この一周飛行に当って、彼女はジャナリスムに寄稿する契約をもって居り、飛行の間のノートその他を土台に相当書いた、レイを出るときまで。それを良人であるプトナムが編輯したものです。写真を見ると、いかにもさっぱりした快い風貌の女のひとです。飛行機に対する熱愛とともに、彼女が女の生活能力の拡大について常に熱意をもっているところ(アメリカにおいてさえも!)自身の仕事をもその一実例としての責任感で当っているところ、又飛行機に関して、現代の機械の進歩は、各細部の性能の特殊化の方向にばかり向けられて居り、速力を増すことにのみ向けられている。僅か四呎(フィート)ぐらい(四方)の操縦室に見たり整えたりしなければならないものが百以上あって、これは飛行士をつからせる、もっと単純化すのが一歩の進歩ではなかろうかと云っているところなかなか面白く感じました。安全率を高めるための配慮がもっとされなければならないとも云っている。忙しい操縦の間に十何時間も食事なしでとびながら、自然を観察したり何か、こまかく活動的な頭脳であることがよくわかる。良人が、驚くべき性格と魅力とを惜しんでいるのも尤もです。いつか私も命をおとすときがあるでしょう、そう云って、夫婦がそれを理解し、理解していることから一層互に楽しく結び合い愉快に暮した生涯というものも、味があります。
リンディーの夫人のアンがやはり本をかく由。今度のは「聴け!風を」という題の由。女性の生活と広い意味での文学は、こういう方面にもひろがって行っているのですね。
私は飛行機は駄目です。パリとロンドンとの間を翔(と)んだけれど。普通に酔うのではなくて、脳の貧血がおこります。頭がしめつけられるようになって来てボーとなって、長時間の後にはそのまま死ぬという厄介な酔いかたをするから。みっともなくガーガーやるのは、いくらやっても大丈夫なのですって。
文学的な形にはまとまっていませんが、三八年の九月のモスクワから三人の婦人飛行家(モスクワと南露の方を無着陸飛行したレコード保持者たち)がバイカルのこちらのコムソモーリスカヤ辺へ無着陸飛行を試み、もうすこしのところでガソリンが切れ、不時着に迫られたが機首を突込む危険が見えたので一人の婦人飛行士にパラシュートで飛下る命令が下った。彼女はそれを実行した、機体は幸(さいわい)無事に降りることが出来、一週間ばかり密林での生活ののち救われた記事が『新青年』に出ていた。パラシュートで独り下りた女のひとの経験は恐るべきものです。よく沈着さと推理と体力とで飛行機のところまで辿りついたが、やっと辿りついたときの彼女は片足はだしで、杖をつき、茶色のジャケツの胸にレーニン章をつけて、辛うじて密林から現れて来た由です。この物語の中には、イヤハートの生涯と又全く異った美しさがあるではありませんか。涙の出るところがあるでしょう、人間の生活の美は複雑ですね。
日本では自動車をやれる女のひとさえごくまだ尠(すくな)いから、飛行機まではなかなかでしょう。自動車をやる女のひとは有閑的か何か的ときまったような工合故。咲枝や寿江子は出来るのに本当の免状をとる迄はやらない。
一月三日
きょうは久しぶりで髪を洗って貰って、小豆島産のオリーブ油をつけて、非常にさっぱりしたところです。十二月は中旬にならないうち病気になってしまって、ちっとも髪など洗うときがなかったから、全く爽かです。
考えて見ると、私は十年目位にひどい病気をして居ります。一九一八年、二八年、三八年。そして、それがいつも年の暮ごろから正月にかけて。奇妙です。その上、一つの病気の後に生活が或変化をうけて来ている。今度の後のことはまだわからないけれども。今度の病気のやりかたは以前のどれに比べても結果はプラスだけだから、生活に変りが生じたとしてもやはりプラスだけだろうという気も致します。二八年から九年にかけて肝臓炎をやったときは、内面的に大きいプラスを獲たが肝臓は半死になってのこったのですものね。今度のように生涯の禍根を断ったというのではなかった。
体の調子は良好で、この前の手紙に書いたひどい疲労感はごく微かになりました、ただ、夜夢を見るの。これは私としては大変珍しいことで注意をひきます。何か不安という程ではないがアンイージーな夢を見る。そこで心付いて、もうすこし傷が丈夫になったら眠る間腹帯はとることにしようと思います。しっかりしまっている、そのため何か圧迫感があり実際圧迫されていて夢を見るのでしょうと思う。夢はとりとめなくて、昨夜見た夢はどこかアメリカの植民地で、ポプラーの大変奇麗な緑したたる並木道があり、そこを通りぬけてポクポク埃っぽい道へ歩いて出たら、むこうから人力車が来る。それが日本と支那の人力車のあいのこの形をして、白粉をつけた娘が三人も一台にのっていて、友禅の衣類をつけていて、歩いている私ともう一人どこかの女を、大層軽蔑するように俥(くるま)の上から眺め下して通りすぎました。そんな色の鮮明な夢。心理学者は普通夢に色彩はないと云いますが、私は夢としてすこしはっきりした夢を見るときは、いつもごくはっきりとした色彩を伴っています。
鴎外の、「妻への手紙」というのをよんで、別品(べっぴん)だの何だのという古風な表現をよんだものだから、きっとそんな夢で人力俥なんか見たのかもしれない。
『戦没学生の手紙』は、この本に日本訳されていない部分だけロマン・ローランによって紹介されているそうです。やっぱり一つ一つ特殊な境遇に生きた二十三四歳の若々しい心の姿があって、それが多くの幻にとらわれているにしろ、一律の観念に支配されて物を云っているにしろ、哀れに印象にのこるものをもっています。最後に私の心に生じた疑問は次のようなものです。人間が非人間な非合理な生活の条件に耐える力は実に根づよいが、それを正気で耐え得る人間というものも亦何と尠いことであろう。大抵が、何かの観念に逃げこむ。それで耐える。そのために、非合理な条件を改善する或は根絶させる力がそらされて、減じられてしまう。キリスト教の伝統のある精神の動きかたは、そのことをつよく感じさせますね。現代の神話もそのことをつよく感じさせます。
歩くのがまだ十分ゆかず。又本気な読書もすこし重い。それで、いろいろふらふら読書をしている有様です。
明日は売店が開かれてエハガキを買えます。早速お送りいたします。又あしたの予定は、すこし建物の内を散歩することです。二階の大廊下はからりとしていて心持がよいから。今私のいるい号の上の部屋(真上ではありません)で父が亡くなりました。この病院は父がプランしたので、おれは慶応で死ぬ、と云っていた、そのとおりであったわけです。尤も自分が病人となって見たらいろいろ苦情が出てこの次建てるときはもっともっとよくすると盛に云っていた由。こちらの建物は旧館で、新館の方はもっと帝国ホテル流で私は気に入って居りません。こちらは白壁で、部屋もゆったりとってあって、その代り室内に洗面の設備などはありません。
ずっと風邪もおひきになりませんか、読書の材料は本当に相当なものですね。ヴァルガのは二冊でしょう?インドの本はいつか見て目についていた本です。明日繁治さんがゆきます。そして、七日か八日には寿江子がゆきます。私は七日ごろ家へかえると思いますが、外出はすこしおくれるから十五日ごろおめにかかれることになるのではないかしら。殆ど一ヵ月ぶりね。顔だけ見てはどこも変っていなくてきっとおかしな気がなさることでしょうね。
一月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛慶応大学病院より(絵はがき三枚(一)同病院正門、(二)同病棟大廊下、(三)同全景)〕
(一)この門が信濃町に面した正門。つき当りの自動車のとまっているところが病棟の正面玄関です。この玄関を入ると、子供の群像が一つ立っていて、その正面後のドアからい号に入る。左手に(ドアの手前のホール)二階へ上る階段があって、そこからい号の上へあがるようになって居ます。上ってゆくと、休憩室のようなホールに出て、その窓がこのエハガキの正面に(二階)三つ並んだ大窓となって見えます。もといたのはい号の左側。エハガキの左側の植込に面した側。今は右側。内庭に面して居ます。
(二)ほ、だの、と、だのという字の札が見えるでしょう?これはずっと奥の耳鼻などの病棟。逆にずっと玄関の方へ出てゆくと、一番はじめに、い、があるわけです。内科は、は、です。「い」は急な場合、科によらず入れるところ。ですから小児科もとなり合わせで、少なからずやかましいようなこともあります。きのう(三日)はじめて午後すこし歩いて二階の休憩室まで行って見たら、ラジオをやかましくやっていて、閉口してにげかえりました。おしるしの初雪でしたこと。
(三)手前の木立は外苑ですね。大きく見える玄関は外来の玄関で、その左奥に信濃町に面して、私たちの入口があるがはっきりしないこと。外苑から出て省線の上にかかっている橋をわたった左側の白い一かたまりは別館でしょう。別館とこちらの建物とは長い地下道でつながれて居ます。別館から又はなれて見える一つが食糧研究所の建物でしょう。こうして見ると随分ギッシリとして大きいことね。校舎、研究室皆あるから。そして、信濃町の通りのソバや洋食やすしや、皆この一ブロックのおかげで御繁昌というわけです。((三)までで終り) 
一月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
一月六日第三信
明るい午後。風がきついらしいけれども、実に実に青い空。東京の正月はじめの空の色も澄んでいますが、モスクワの一月の白雪の色、日光の燦き、黒く濃く色とりどりの家の屋根から立ちのぼっている白樺薪の煙など、いつもよく思い出します。冬らしい冬の光景として。
その後いかがでしょう、やっぱり風邪もひかず御元気ですか。四日に繁治さん行きましたか?かえりにもしやよって呉れるかと待っていたら来ず。きのう五日故栄さんでも来ると思ったが来ず。本日午後二時近くですが、まだ来ず。待ちながら文庫の下らない恋物語(ドイツのロマンチシスムの見本のようなもの)を三つもよんでしまった。どうしたのかしら。行かなかったのかしら。行かなくて、わるいと思ってひっこんでいるのかしら。どうしたのだろうと考えながら、これを書き出しました。きのうは、もし何かおことづてがあればと思って待っていたのだけれども。
もし行かなければ、次々への手紙でだけ、私の順調な恢復の模様を知って頂いているわけね。三日前から、毎朝入浴して、手当(ガーゼの湿布をつけること)し直して、一時間ほど眠って、おひるたべて、すこし休んで本を読むという調子です。熱は六度から六・六です。大変きっちりとして来て、入浴から上ったすぐ後六・八位が頂上です。傷は二センチほどにちぢみました。木村博士笑って曰ク「こんな小さい傷口で虫様突起をとったなんてうそだという人があるといけないから、一遍出たのを見ておおきなさい」その位です。そして、傷の下にあいている小さい穴も大分肉が上って来て、浸潤もごくすこしガーゼについて来るだけになりました。今度は全く驚くべき好成績です。木村先生も大いに御満足で、今日は、その大きいおなかの小さいきれいな傷の記念写真をとりました。外科医にも制作的情熱は盛でしてね、先生は忙しいのにわざわざ室へ来て、小さい物尺(ものさし)を傷の横に当てて持っていて、写真をとらせました。「記念のために一枚あなたにもさし上げます」そういう傷なのです、ただの傷ではないと申すわけです。
体の疲れもいろいろにやって見て、大分直りました。七日ごろ退院と思って居りましたが、まだ疲れ易いし、そとを歩きたいという欲望全くないし、するから、十日までいて、浸潤もすっかり乾いてからかえることに今日きめました。折角かくの如き大成功だのに、文字通り針の穴から妙な失敗をしてはくやしゅうございますから。悠々構えろというあなたの標語をここでこそと守るわけです。家へかえっても何処へも行かないだろうと思います。というのは、国府津へ行ったって目白より入浴が不自由だったり食事が自分の負担になるし(としよりの女一人留守していて、そのひとは頭がよくて、私が一人行くと、自分が体が変になって休むの)さりとて温泉へ出かけるのも進まず。去年行った熱川は行きたいが、バスが一時間以上ですから無理だし、熱海、湯河原は気に合わずですから。かえって、又例の十時就眠を実行すれば結構だと思って居ります。それに病院を出るようになれば、私のための恢復薬は特別品があるのだから、東京なんか離れるよりその薬をよくよく眺めて、聴いた方がずっと利くこと確実です。今でさえ、そう思っている次第です、ああこの病院は万事到れりだが肝心の薬一つが欠けている、と。しかも、その薬こそ私を生かしも殺しもする力をもっているのに気付かないとは何とうかつでしょう!
島田では隆ちゃんの出立ちが迫っていて、さぞおとりこみでしょう、この間お母さんからスタンドや何かのお礼とお見舞の手紙頂きました。お母さんのスタンドは日本の手提行燈の形の、白絹を黒塗のわくに張ったもので、よくお似合いになるだろうと思います。お気に入ったそうです。この頃はあなたのところからもよく手紙を呉れると書いてありました。お母さん、私がおなか痛がったり、お餅をたべたいのに食べられないと残念がったりしていたのをよく御承知ですから、手術したことをびっくりなさりながら、やっぱり、後がさっぱりして却って安心と云って下さいました。後がさっぱりのうれしさは、今にもうすこしして平気に歩くようになったとき俄然真価を発揮すると思います。
私はリンゴぜめよ。誰彼が見舞に来て呉れ、何か土産をと考えると、汁の食べられる果物リンゴと思いつきが一致するらしいのです。青森のリンゴ、赤いの青いの、ゴールデン・デリシャス、レッド・デリシャスと、リンゴの行商に出たい位です。あなたの工合のおわるかった時分、私自身何か何かと考えよくリンゴと考え、又リンゴ召上れなどと書いたでしょう?それを思い出して苦笑ものです。リンゴは閉口して、ミカンをたべて居ります。ついでに食事をかくと、もう普通で、朝おみそ汁御飯一杯半、何か野菜の煮たの。ひるは、トーストに紅茶と何か一寸一皿。夜、おつゆ、魚か肉、野菜、御飯二杯。その位で、間にはカステラ一つ位。間食はしない方です。体重はすこし減ったかどうかです。顔もきっと御覧になると、どこも細くはなっていないよ、と仰云るのでしょう。今はまだ脚の力がないの。でも、ベッドの上下、折りかがみ等楽に致します。まだ横向きに臥られません、どっかが心持わるくつるのです。右へも左へも本当の横向きは出来ない。仰向いて例の二つ手をかつぐ形で眠ります。夢はまだ見ます。いやね、昨夜の夢は、小さい小さい耳掻きがいくつもいくつもうんとあって、私はその一つ一つの小さい耳掻きの凹みにつまっている何かのごみをとらなければならなかったの。面倒くさくなって、理屈をこねているの、いろんな発明があるのにこんな下らないことに人間の手間を無駄にしているなんて、非理性的だ、と云って。
非理性的なんかというのは、ひる間考えていた言葉なのです。非常に自分が薬欠乏を感じて、渇いて、求めて求めて呻(うな)るような気持でした。苦しさのどんづまりで不図自分のこの激しい渇望は、与えたい渇望なのだろうか、与えられたい渇望なのだろうかと考えました。それは勿論二つが一つのものですけれども、それにしろ、やっぱり与えられたい激しさであって、この気持そのままあなたの前に提出したら、それはあなたをたのしくよろこばせるものだろうか苦しませるものだろうかと考えました。よろこびの要素が多量にあるにせよ、よろこびをそれなり表現出来ないことの苦しさは確かです。そう考えているうちに、つきつめた心持がうちひらいて、二つの心のゆき交いをゆったりと包んで見るような調子になりました。それにつづけて、女の心のやさしさと云われているものについて考え、本当の、私たちの望ましいやさしさとは、悲しみに打ちくだかれる以上の明察を持つものであること、あらゆる紛糾の間で常に事態の本質を見失わないことから来る落付いた評価がやさしさの土台であることなど、新しい味をもって感じました。やさしさなどと云うものは、男についても女についても、随分考えちがいをされ、低俗に内容づけられていますね。涙もろさ、傷つきやすさ、悲しみやすさ、そういうものがやさしさと思われているが、人生はそんな擦過傷の上にぬる、つばのようなものではない。人間は高貴な心、明智が増せば増すほどやさしくなり、そういう雄々しいやさしさというものは実に不撓(ふとう)の意志とむすびついて居り、堅忍と結びついて居り、しかもストイックでないだけの流動性が活溌に在る、そういうところに、本当のやさしさはあるのですものね。雄々しい互のやさしさだけが男を活かし女を活かすものです。いろいろ考えていてね、語るに足る対手としての最小限の発達線、進歩線と云われていた言葉を思いおこし、その言葉の底に、やはりそういう厳しいやさしさを脈々と感じました。私はどんなやさしさをもっているだろう、どのようなやさしさをあなたにおくっているだろう、そう考えて、永い間考えていた。威厳と(人間としての)やさしさとが耀(かがや)き合っていて、自分の人間としての程度が高まれば高まるほど恍惚とするような、そんなやさしさを自分も持っているだろうか。そんなことを永い午後じゅう考えていました。思うに私のやさしさの中には一匹の驢馬(ろば)が棲んでいる様です。幅の相当ひろい、たっぷりした、持久性のある光の波が、時々この驢馬のガタガタする黒い影で横切られたり、あばれられたりするらしい。しかし、この驢馬はね、消え得るもので、ぐるりの光のつよさと熱度に応じて総体が縮少しつつある。昔から驢馬には女が騎(の)りました。白い驢馬だったそうです。 
一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
一月九日第四信
六日づけの第一信、きのう着。本当にありがとう。化物退治が成功したうれしさが、あのお手紙に響いているよろこびで倍々になりました。我々の頭の上は、天気晴朗であろうとも波浪は決して低からずと予想される時期に向って、腹中の妖怪を退散させたことは全く満足です。しかもこんな好結果で。経済的な点からもよい時期でしたし。
きのうから、もうすっかり漿液の浸潤もなくなりました。きょうはどうかしら。まだ交換がないから、わからないが。今は小さな細長い消毒ガーゼをあてて、上から絆創膏を十文字に貼りつけ。
ここまで書いたら朝の廻診になりました。木村先生入って来て、バンソー膏をはがす。そのとき皆が、一寸どうかしらという表情を沈黙のうちに示す。すっかり乾いて居ました。「もうすっかりきれいじゃないか、もういい」そして、私が歩くとき胃の下の方がつれて、すこし胸がわるいようになりますけれどと云ったら、「横づなでしめたらいいでしょうな」すると、外科の婦長をしている大層しっかりものの森田さんという看護婦が「木綿を二つに折ってしっかり巻いておおきになると一ヵ月ぐらいでお馴れなさいますよ、寒いと傷がピリピリ痛いときがありますから真綿でもお当てになってね」とのことでした。では明日かえったらそのようにしましょう。木村先生は制作品にお名残の一瞥(べつ)を与えて出てゆかれました。
それからお風呂。あったまって、かえって来て、横になってボーッとしていたら案外早く寿江子がかえって来ました。ひどいひどい風の由。では又きょうも外出初は中止です。一生懸命に喋ってパタリと落ちて、両方で大笑いをなすったって?本のこと、その他わかりました。ありがとう。それに、私の外出について寿江子は大変監督権を与えられたように得意になって、主観的にいいつもりでも云々だとか、第三者が見て云々だとか、口真似をしました。十五日ごろ出かけたいと言伝(ことづて)させようとしたら十五日は無理よ、無理よ、二十日にしておけと大いに力説したから我が意を得たわけです。それに二十八日のことも通じていたし満足そうにしていました。いろいろ不十分ではあったが、寿江子としてはよく手つだってくれました。彼女としては初めてのことでした。体の方がやはりましになっているので、出来るのだと云っている、それもそうでしょう。先頃は省線で立っていることなどつかれて出来なかったそうですから。
六日のお手紙は様々の心持、様々の想像される情景がのっていて、くりかえし、くりかえしよみました。隆ちゃんの手紙、全く、一遍よんだだけでは置けない手紙です。私の方へも病気の見舞と挨拶とをかね、同じような勇壮さ同じようなやさしさ、何とも云えぬ素朴さで満ちたいい手紙をくれました。その手紙をよんだとき、あなたの方へもこういう手紙あげたかしら。空が自分の美しい輝きを知らずに輝いているような美しさと、その美しさが環境の表現しかとっていないところ、しかもそれを透して本来の光が見えることなど感動をもって考えていました。なかなか心を動かされました。稲ちゃんが来たので、この手紙一寸見て、とよませた。そんな心持でした。だからお手紙見て、実に同感であったし、こういう気持で愛情を抱いている兄や何かとの生活のつながりということについても浅からぬ思いを抱きました。乗馬隊ですってね。あなたは馬におのりになったそうですが隆ちゃんたちのれるのでしょうか。馬もきっと、あのひとになら優しい動物の心でなつくでしょうね。
富ちゃん、島田で手つだうこと初耳でした。克子さん、二十五日ごろ御結婚です。よろこんで新生活を待っている手紙が来ました。私たちのお祝は針箱です。いいのが買えましたって。針箱というものは情のこもったもので、妻にも母にも暖いものです、鏡台よりも。そうでしょう?女が鏡台の前であれこれしているの、面白いが、時に薄情で女の無智から来る主我性や動物性があらわれる。針箱は活動的で一家の清潔の源(みなもと)に近くていいわ。私が大きいギラギラした鏡の好きでないのは、そういうようなあれこれのわけで、あながち、まんまるなのがいつも目に映れば悲しかろうという自分への思いやりではないの。まんまるなのを決して気がひけてはいないのですものね。まして、盲腸征伐の後では!
京大に入っていらしたときの話。短いなかによく情景が浮き上って、あの部分は短篇のようでした。『白堊紀』の中の短篇が微(かすか)に記憶にのぼりました。漠然雰囲気として。ここの耳鼻は詩人が中耳炎の大手術をうけたから知って居ります。三二年の七月末ごろ、急によばれて行って見たら、もう脳症がおこりかけている。びっくりして十二時ごろ西野先生のお宅へとびこんで行って、入院させて貰って、大手術を受けたが、あの出血のひどかったこと。殆ど死ぬと思った。可哀そうで、私はその頭をかかえて死ぬんじゃないよ、死ぬんじゃないよ、皆で生かそうとしているんだから、と呼んだものでした。
うちへかえるのはうれしいと思います。ここはうるさいの。物音が。大した重症がないからだそうですが。二十三四日ごろ、それから正月に入って二三日、疲労が出ていたとき物音人声跫音(あしおと)のやかましさに、熱っぽくなった程でした。病人一人につき二人、ひどいのは三四人健康人がついている。病気を癒すという目的でひきしまっていないで、何か「事」のようにバタバタしている。入院は「大変だ」「其は事だ。」式ですね。うちへかえって又あの静かな静かな昼間があると思うと、うれしい。聖ロカはきっとこの廊下は公園に非ずという原則がわかっているでしょう。
クリスティーの『奉天三十年』二冊お送りして見ましょう、そう云えば『闘える使徒』の新版まだ出ないらしい。あれとこの奉天三十年とは二つの照し合わす鏡のように、支那の五六十年間を語って居ります。奉天三十年の方がもっと歴史の各場面をはっきりと。この著者は伝道医師故、それとしての小鏡も手にもたれているが、読者はその鏡が、その持ち手にどういうものとして主観的に見られていたかということも亦判断出来て、ぎごちない訳ではあるが、よめます。
この十日ばかりの間によんだものでは、これと、シュトルムの短篇とがマア印象にのこります。スタンダールの「カストロの尼」も一度よんでおいてわるくはないものでしたが。スタンダールの「赤と黒」や恋愛論は十年間に十何冊とか売れたぎりだったそうですね。「パルムの僧院」は一日十五時間ずつ労作した由。
小橋市長の発案で、今度は都会文学というもののグループをつくって、東京の情操にうるおいを与えるそうです。顔ぶれは秋声、和郎、武麟、丹羽文雄、横光利一、もう一人二人。林芙美子、深尾須磨子諸女史はイタリー、ドイツを旅行に出かける由。ドイツの本当の心にふれて来るそうです。
一時長篇が流行しはじめて、忽ちある方向へ流されて行ってしまって今日に及んでいるので、本年は、純文学の甦生は第二義的野心作を並べる長篇よりも、寧ろ地味にフリーランサーとして書かれる短篇のうちにその可能がふくまれていると考えられて来ているらしい様子です。有馬農相の写真をつけた農民文学叢書も、今度は急に表紙を代えなくてはならなくて大変でしょう。
林町では太郎かぜ引。咲枝がすこし体の調子が変と云って居りますが、これは或はやがてお目出度になるかもしれず、まだはっきりしないらしいが。
あなたからの私の世話をしてくれる皆によろしくをよくつたえたので、お手紙が来ると、冗談に、よろしくがあるかしらなどと云って渡してくれます。あなたはここでも、廊下を歩いたりいろいろしていらっしゃるわけです。
和英の辞典はコンサイズよりもすこし大きくて目のつかれないひきいいのが林町にあったから、それと同じのを入れましょう。新法学全集は文楽堂に云いつけます。お金もうおありになりますまい。一二日中に送ります。ではこれで病院での手紙はおしまい。私が、黄色いドテラの片肩をぬいで書いているので榊原さん曰ク「そんなにおあつうございますか」 
一月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕
一月九日夜第五信
今、夜の七時半。榊原さんはここの寄宿の方へ遊びに行って九時にかえって来るところ。私はフォンターネという十九世紀のドイツのリアリスト作家の「迷路」という小説を読み終って、さてとあたりを見まわしたが、お喋りがしたくなって。このフォンターネという作家は、訳者によってリアリストと云われているが、リアリスムは、ドイツではこういう身分にさからったことをすれば、結局不幸になる、という良識を、菊池寛のように恋愛その他の生活法にあてはめてゆく態度に限られていたのでしょうか。ドイツのリアリスムというものに興味を覚えます。ドイツの文学史は知らないけれども。ゲーテ賞を(ノーベル賞なんかナチの文学者は受けるに及ばん。ゲーテ賞をやる、ということで)貰ったカロッサにしろ、医者として或点大変リアリスティックですが、いざとなると、永井潜先生に近づき科学と宗教的なものとをまぜ合わせてしまっている。フランスが文学に於て示したリアリスムの力づよい歴史的な功績と比べて面白い。
今この部屋のスティームの上に、私の腹帯が乾してあり、その上にお正月用にお送りしたと同じ手拭がほしてあります。この手拭はスフ三分混紡で、今にこれでも珍しいものとなるわけですが、使って御覧になりましたか?ちっともさっぱり水が切れません。スフは赤ちゃんの皮膚を刺戟してただらすので、この頃お母さんになる人たちは、古いものでも木綿をきせたいと大努力です。私の腹帯にしろ、晒(さらし)木綿は貴重品、こうやって大切に扱う次第です。
どこかで鳥が囀(さえず)っている。外かしら、それとも室のどこかで飼っているのかしら、チュチュンチュンチュンと囀っている。それともどこかの籠から逃げたのでしょうか。何か気にかかる。
あしたの晩は三週間ぶりで、我が家の机の前に坐れます。そして、こういう万年筆ではないペンで字が書けます。この万年筆のこと、いつかお話ししたことがあるでしょうか、母のかたみだということを。パリで母の誕生日十月十日の記念に父が買ったものです。大切にビロードのケースに入れて、あの殆ど盲目に近かった眼で、勘九分でいつもいろいろ書いていたその万年筆です。先が細くて、いちいちインクをつかったりペンをかえたり出来にくい場合の役に立って居ります。ウォータアマンです。
こういうまとまりのない文章の伴奏として、キーとあいてひとりでに閉る扉の音。パタパタいう草履のおと、何か金物のぶつかる音、廊下に反響して言葉は分らず笑声だけ高い二三人の女の喋り。どこかの咳等があります。病院は今ごろから九時ごろまでいつもなかなかざわつきます。全体がざわめきの反響に包まれている。あしたもうかえると思ってこちらもきっと落付かないからでしょう。やかましさが実に耳につくこと。
十二日
さて、久しぶりで例のテーブルの前。九日づけのお手紙、昨晩茶の間の夕飯が初まろうというときに着きました。どうもありがとう。それについてのことより先に十日の退院の日からのことを書きます。
十日はいい塩梅に風も大してなかったので大助り。午後二時ごろまでに世話になった先生がたに挨拶して自動車にのって榊原さん、寿江子とで家へかえりました。いろんな挨拶や何かでつかれはしたがおなかの方は大丈夫でした。熱も出ず。大体私ぐらいきれいに癒った傷ですっかり完成までいれば、もう全く理想的である由。決してせっかち退院ではなかったのだからどうぞ呉々御安心下さい。
かえって茶の間でお茶をのんでいたら、林町からお祝にお魚を一折送ってよこしました。あっちは、今、咲枝も太郎もかぜ引で食堂にひきこもっていて来られない由。我が家にかえって、いつか下手な図でお知らせした私のおきまりの場処にどっこいしょと腰をおろすと、面白いものね。気分がすっかり変って、病院にいた間の、ひとまかせな気がなくなって、シャンとして来ます。
夜はもらった鯛をチリにして御馳走したが、私はつかれていて本当の食味はなかった。家がさむくて「アイスクリーム・ホーム」と云う名がつきました。病院は六十八度から七〇度であったから、うちへかえってすぐ二階の火のないところに臥たら〇度で、頭がしまっていたいようでした。それから火を入れ、甘いがつめたいアイスクリームを段々あっためて、きょうはもう我が家の温度に馴れて、平気。暖い二階で十度です。華氏五〇度。きのうのお手紙に流石(さすが)相当の気候とありましたが、全くね。本年はそれによけい寒いのです。水道が今年ほど毎日凍ることは去年なかったことです。そちらはさぞさぞと思います。
十日の夜は久しぶりの家でほんとにくつろいだ気分でしたが、やや寝苦しかった。きのうは午後一寸(二時間ほど)横になってあと茶の間にいた、座椅子にもたれて。国男さんがひる頃来て、お祝総代ということで喋って行きました。そのときほんのお祝のしるしと云って仰々しい紅白の紙包をさし出した。お金が入っているらしい様子で、上に御慶祥と書いてあります。ふーん、この頃はこんな字をつかうのかしらと思って、これはどういう意味なの?と訊いたら、その通りだからさというわけ。御軽少の音にあてたのです。大笑いしてしまった。正直に訊いてよかったと。だって、私は真正直にこんな字もつかうかと真似したら大笑いのところでした。
きょうは、只今寿江子がそちらに出かけ。榊原さんとおひささんは、日本橋の方へ、おひささんのお年玉の呉服ものを買いに出かけました。なかなか、恩賞はあまねしでなければならないので、私は大変よ。おひささん、寿江子(これはお正月のとき羽織半身分(はんみぶん)せしめられてしまった。あと半身(はんみ)は咲枝のプレゼント)榊原さん、林町を手伝ってくれた女中さん、本間さんのところのひさ子ちゃん、病院の先生二人。等。大したものではなくても其々に考慮中です。
いよいよ九日づけのお手紙について。これは妙ね、どうして、小石川と吉祥寺とのスタンプが押してあるのでしょう。珍しいこと。十日の午後四―八が小石川で十一日の前〇―八時が吉祥寺。吉祥寺と云えばあの吉祥寺でしょう?あっちへ廻ったの?本当に珍しいこと。
先ず相当の冬らしさの中で、風邪もおひきにならないのは見上げたものです。私がそちらへ早く行きたがっていることと、それを行かせることをあやぶむ気持とは面白いわね、どうも危いという方に些か揶揄(やゆ)の気分も加っていると睨んでいるのですがいかがですかしら。そちらからのお許しがないうちは出られないとは悲しいこと。〔中略〕でも、マアざっとこんな工合よ、と、一日、一寸この様子を見て頂きに出かける位、不可能とは思われません。きょう十七日にお許しを強請したのですがどうかしら。許可になったかしら。二十三日にはこれは、綱でも私をとめるわけにはゆきません。私は外見はやっぱりいい血色で、家の中の立居振舞は大儀などでなく、外見から判断すれば切開した翌日などお医者がびっくりした位桜色だったのですもの。自分の体の気分が一番正しいわけです。〔中略〕
隆治さん九日出発とは存じませんでした。本当にどうだったでしょう、午後四時にはついていたでしょうが。あとで退院したおしらせを島田へ書きますから伺います。
二十五六日ごろの様子を心配していて下すったこと、それをちゃんと知らせなかったこと、御免なさい。あれはね、わたしがどの意味でも慾張ったのではなくて、へばっていて、寿江子に行ってくれとたのんだり容態を書きとらせたりするところまで気が働らかなかったのです。二十四日には、とにかくどんなに心づかいしていて下さるかと思ってあの手紙を書きましたが、二十五日は疲れが出てぐったりしていて一日うつらうつらしていた。夜傷口が痛むようで、二十六日は食事のときだけ起き上るようにと云われて起きるが、ぐったりしてやっとだった。脈の数も多く。二十六日ごろ傷が或は化膿するかもしれないと云う状態になって、二十七日は大変不安でした。ところが二十八日に、ガーゼにひどい浸潤があったので、きっと化膿したと思って糸を切って、さぐり調べたら化膿ではなく、肉も上って来ていて浸潤は漿液と判明。大いに皆御機嫌がよくなって、寿江子はその安心ニュースをもって出かけた次第でした。
二十九日にはすっかり下熱して、初めて六度。三十日には初めて椅子にかけて食事をし、そちらへの手紙も書いたという風でした。
こちらでは、私がのびてしまうと万事ばねがのびて利(き)かなくなって不便です。そちらへも寿江子としたら珍しくよく足を運んでいてくれますが、こちらがへばってボーとなっていると、それに準じて運転が鈍ったり止ったりする。これはどんな場合にも一番困ることですが、寿江子にしろせいぜいのところでしょう。栄さんが丁度工合をわるくしていたことも不便の一つでした。今度の経験から、一つきまりをこしらえておきましょう。万一私が病気その他で動けなくなったら、きっとその容態や情態を知らせ、又そちらからの用をきく役目を一人それにかかって貰うようにきめましょう。規則的な目的なしに暮している人々を、急にキチンと動かすことはこっちの気力がつかれて、この間のようにへばっているとつい及ばなくなってしまう。心配させっぱなしでわるち思っていたのに、本当に御免なさい。それでも、寿江子の体が少しましになっていたのでどの位助かったかしれません。
世話してくれた人たちへのあなたからのよろしくは十分つたえました。〔中略〕
中途でお客があって(主役は当年二つになる女の子です泰子という。私が名づけ親なの。)又二階へ戻って来たが出かけた連中はまだ戻って来ない。
子供の話になりますが、てっちゃんのところの娘、これはやす子ではなく康子とした由、生れるとき難産であったために鉗子(かんし)という鉄の道具で頭を挾んで生ましたところ、産科医の云うにはそのために片方の眼に白くかすみがかかっていて、瞳孔をも覆うているそうです。松本夫人[自注1]が目下風邪だが癒ったらすぐ行って見てよく研究するそうです。可哀そうね。てっちゃんもやっと昨日その話をした、その心持もわかります。眼は親もぐるりも辛いものです。
いずれにせよまだあしたあさっては出かけられないわけですがどうぞ呉々もお大切に。〔中略〕そろそろ風のないひる頃ゆっくり外を歩きます。のりものになどは乗らず。家のぐるりの散歩に。風呂は毎晩入っています。一つの望みは夜もうすこし楽に眠ることです。まだ何だか寝苦しい。夢を見たり不安だったり、熱はもう先のようにとらないでいいでしょう?赤沈などひどかったわけですね、絶えず腹内に炎症があったのですもの。くされものを無理して持っていてあんなに疲れたのだと思います。
では風邪をおひきにならないように重ねてお願い申します。

[自注1]松本夫人――松本清子、眼科医。 
一月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十五日第六信
きょうは珍しく風のない好い日ですね。きょううちのお正月です。元日にいなかったから。小豆粥をこしらえて、おめでとうと云って寿江子、バラさん(榊原のバラ)、ひさ、私とでたべました。そこへ十三日づけのお手紙着。ゆうべ床に入ってから九日頂いたから十一日はどこかで、十三日は私の方へ来たろうかしらと盛に慾ばっていたところでした。
ユリは盲腸に注射したり、とあるのでひとりで笑ってしまった。全く盲腸ではなやまされつづけていたわけですが、おなかのなかのことだからよく判らないで、大抵の人が一度やって切らずに癒すとそのまま吸収してしまっているというので、そのつもりでいて注射したのは、恐らく実際は盲腸のせいで、疲労し易かったりいろいろしたのに対して補強薬のようなモクソールを注射していたわけです。盲腸に注射というと、まるであの尻尾めがけて注射しているようで滑稽ですね。私のは吸収性でなかったから苦しかったのでしょう。
こうして家にいると、目にもとまらないようなこまかい日常の動作のうちに、傷あとなど案外早くましになるのでおどろきます。すこしでもどうかという時期を病院で辛棒していた甲斐があって、かえって五日目ですが動作が楽になって来たし、つれも大分気にならなくなりました。もう切ったところへ手を当てずに歩けます。家の生活は微妙なものだとしみじみ感じます。病院にいてはない細々した立居、のびかがみ、ねじり、無意識のうちにしているそういう微細な運動で馴れるのですね。だからこれを逆な場合として見れば、或条件では、そういう数えることも出来ない動作で、病気をわるくしていることもあるのです。本当にこれは面白いところです。そして、よく医者が御婦人は特に御夫人は必要が生じたら決心して入院すれば二ヵ月かかる病が一ヵ月でなおる、という所以でしょう。おまけに病気をすれば、どうしたって旦那さんが病気しているより細君が臥ている方が気がひけるわけですから。
早くよくなったことにしたくて芸当など致しませんから、決して決して御心配なく。私は大体そういうことは出来ないたちだから大丈夫です。食べるものだって。御心配頂くのも可笑しくて且つ大いに満足ですが、これも大丈夫よ。
私の今年は、やっと十七日ぐらいからはじまるという感じです。病気は去年のうちにつづきになって入ってしまっている。そして、思い出すと、ああ苦しかったナ、と思う。沁々そう思って思い出します。麻睡薬がさめかかって来て、傷をいじられていた間の、あの独特なひっぱったり圧迫したりの感覚を思い出すと、あのとき通り唸りたくなる。医療的な経験でさえこうなのですものね。金属性の関節のついた、手のひらや指の代りに鉤のついた道具を眺める人々が、思い出す思い出はどうでしょう。
本のこと、「女一人大地をゆく」は新本がないのです。古がなかなかない。私のは線だらけ。そのためにおくれている次第です。「使徒」は十二月初旬に新版が出るというので注文中のところ、「母」や「大地」ほど売れないからと見えてまだ出さない。そのためにおくれました。旧版のサラが見つかりましたから一両日中にお送りいたします。タイムズの地名人名はこれもまだです。十二月十八日と云っていて、二十日すぎと云っていて、まだ出ない。
和英はどの道買うわけです。和英はただ単語ばっかり並べたのはつまるまいと思います。慣用語の表現なんかが見て面白いし又実際ためになるし。そのためにはやっぱり、余り手軽なのでは眺める興味も減りますから。林町で備えている井上の和英の大型のがよいと思っていたら絶版の由。すこし歩くようになったら出かけてしらべましょう、見ないとどうもたしかでないから。
徳さんのお年玉である支那語の本二冊お送りいたしました。発音がわからなくても読めてしまいそうな本でした。それからいつぞやカタログを注文した勤労者図書館の目録が到着しました。どっさり本が出て居ますね。小説の翻訳も沢山あります。評論集もある。すこし書き抜きしてすぐお送りいたします。地図のついている新年号の雑誌のこと、これも私が出ないと駄目だからもう少々お待ち下さい。十七日の出初式が無事了(おわ)ったらそろそろはじめます。やっぱりすこし風邪の用心が必要で、近所への散歩もまだ出ませんから。風のひどいのに辟易(へきえき)していた次第です。
体温表十二月に入って一つも書きませんでしたろうか、そうだったかしら。あのダラダラ風邪のときなんか書かなかったでしょうか。――きっと面倒だったのでしょうね。そうすると一ヵ月分ね。もうこの調子が既に或気分を表していてすみませんが、実はこの間大笑いよ、あなたへの手紙で本年からはもう体温表は御かんべんと書いたばっかりに、寿江子の伝言で体温表のことがつたえられたから。こうやって手帖を見ると、七日ごろまで普通で八日には六・八分で臥床。かぜがはじまっています。十二月は病気月だったから、別の紙に書いて見ましょう。しかし、これからの分は本当にもういいでしょう、平熱つづきだのに毎日計っているのは却って健康でないようで妙ですから。ね。
寿江子さんがおききして来た用件はそれぞれその通りにいたしました。手紙はどちらへも書きましたが、御本人はまだ見えません。
腹巻は、これから大いに珍重しなければなりません。毛のものはすべて。あれも(お送りしたのも)7.00ぐらいであったのに10.00になっている。そちらで洗わず、うちで洗ってよくもたせましょう。
まるでちがう話ですが、この間から話そうと思って忘れていたこと。丁度二十八九日でしたろうか、寿江子が病院へ来て、一寸改った顔つきで、こんなものが来たけど、とにかく持って来た、と一つの袋を出しました。それはしっかりした日本紙の反古(ほご)に渋をひいた丈夫な紙袋でね、表にはそちらできまって小包に貼る紙がはりつけてある。「何だろう」猛然と好奇心を動かされました。「何なんだろう」とう見、こう見している。「サア、わからないけれど……」寿江子は勿論そう返事するしかないでしょう、私は余り特別な袋なのでフット思いちがえのような気になって、さては、あなたが何か工夫して私へおくりものして下さったのかと瞬間目玉をグルグルやりましたが、それも変だし、散々ひねくりまわした末「あけて見ようよ」と鋏で丁寧に切って中を出すと、何か全く平べったい新聞包みです。そしてどだい軽いの。そろりそろり皆が首をのばしてその新聞包をあけて見たら、何が出て来たとお思いになりますか。もう不用になった黒い羽織の紐!三人三様の声で「マア」「アラ」「ヘエ」と申す始末でしたが、その紐はずっと私の枕元の物入引出しの中にちゃんと入っていて、私はマアと云ったって感情はおのずから別ですから一日のうち幾度か目で見、手でさわって暮したわけでした。一つの落しばなしのようでもあり、そうでないようでもあり、ねえ。
きのうここまで書いたら背中がゾーゾーして頭が筋っぽくなって来たので、あわてて床に入って一晩じゅうずっと床にいました。夜すこし熱っぽかったが、きょうは大丈夫。出初式がすまないうちは気が気でありません、本当に。風邪をひき易いのは全くね。きのう島田から多賀ちゃんが手紙よこして雪が降って心持よいと云って居ります。小豆島からのたよりにもまだら雪が降りましたって。こちらは凍てついた粉っぽい土になっていてせめて、雨でも降ればよいのに。あなたがおかきになった速達は八日につきました由、大変よろこんでいられたそうです、お母さんも。電報はやはり後についたそうです。すぐ広島へ送った由。ところで克子さんが二十五日に結婚します。どうか新しい生活を祝い励して手紙をおやり下さい。あのひとは善良な正直な辛棒づよいいい娘さんですが、すこしくよくよして、じき生きるの死ぬのというし、世間並の常識にとらわれすぎているところがあります。そのことについても落付いて気をひろくもつよう、よく云ってやって下さい。私もかきますが。出羽さんという家では全くよく辛棒したそうです。
白水社でロジェ・マルタン・デュ・ガールという作家が十四年間かかって書いた「チボー家の人々」という小説山内義雄訳を送って呉れます、十四冊の予定。第二冊まで。千九百十四年に到るフランスの社会を描こうとしたものだそうです。この何々家の人々というのは外国文学には決して例がないわけではないけれども、例えばロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」など、実に立派であるけれども、クリストフによって一人の天才の生きる道を語っていて、時代そのものを描く(人を通して)というところに焦点はおかれませんでした。ヨーロッパ文学の歴史で大戦というものは大きいエポークをなしているが、大戦後の文学の受けている影響が二様であることは極めて興味があり又教えるところ深いと思います。一つの現象は、ジェイムス・ジョイスの流派です。大戦によってこなごなにされた伝統、過去の思索の体系。その破片の鋭い切り口に刹那を反映し、潜在意識にすがりついて行った文学。こういうどちらかと云えば現象的な文学の姿に対して、そのような文学を生む社会の心理そのものを凝視しつつ、社会心理に注意を向けて行って、箇的な主人公のこれまでの扱いかたから社会の層のタイプとしての人物を見て、その矛盾、相剋、進展をリアリスティックに描いて行こうとする努力が現れている文学――このデュ・ガールのような。そして結局は後者が文学の成長の胚子を守るものですが、このデュ・ガールの人間の歴史性(箇人に現わされている歴史性)のつかみかたと、丁度今デュアメルが執筆しつつある「パスキール・クロニクル」というおそろしき大長篇(パスキル博士というのを中心にした年代記)の中での人間のつかみかたとどうちがうか、大変知りたいと思います、やはりこれも一九一四年という年代を問題としています。デュアメルは社会の其々の層のタイプとして人間をとり出さず、人間とはこういういきさつで動きつつこんな波をつくるという風に見ているのではないかしら。フランス文学にあらわれているこういう真面目な収穫は、今日の所謂(いわゆる)事変活(かつ)の入った作家たちに深く暗示するところあるわけなのだが。
『タイムズ』の文芸附録の特輯、世界の文学を見ると、フランスでこういうものが着々と書かれてゆき、ドイツでは極めて旧(ふる)い(中世に迄溯った)小地方都市の歴史小説などが代表作となっているのは面白いことです。いい作品は歴史ものだけと云い得るらしい。歴史上の文献についての研究ではイギリスのクウィーン・ヴィクトーリアの少女時代をしらべたものなどイギリスの研究にまさっているという面白い現象もあります。デュアメルが、この特輯に短い感想をかいていて、いろいろわけのわからない考えかたもあるが、なかで、文化と文明、カルチュアとシビリゼイションとを互に関係しつつ二つは一つでないものとしているところは当を得ています。地球の各地におけるカルチュアは即文明ではなく、文明はその総和的な到達点としての全人類的水準であるということを云っている点では正しい。近代ドイツがその事実を理解しようとしないのは遺憾であると云っている。だがそこがデュアメルで、一転して文明は少数の天才によって高められるという点を強調していて、同時に、所謂実際的な国民が無用と考えるような或知性が人類の精神の成育のためには欠くべからざるものであるとも云っている。いろいろ興味があります。今日の日本文学における長篇小説の問題と、これらの長篇の含んでいる問題とを比較するとこれ又面白く、やはりフランス文学の深い奥行きを考えます。そして世界じゅうの呻きが、小説の世界にも反映していると感じる、其々の声の色、強弱をもって。
おや、もう八枚です。ではこれで中止。明日おめにかかります。
十二月分計温表
起床計温午後四時頃就床計温
一日六・四〇六・三十時六・三
二日七時六・五十時五十分六・四
三日六・四〇六・三十時三十分六・三
四日七・一五六・三十時六・三
五日六・四五六・四この日はひどく暖すぎた十時四十分位?六・二
六日七時六・六風邪ぎみ九時半六・五
七日七時六・四〃十時六・四
八日六・三〇六・八臥床七・三七・五
九日一日臥床。
六・七六・八七・六七・四
十日六・七七・四七・四七・五
十一日六・五六・四七・三七・三
十二日六・五六・五七・〇七・一
十三日六・六六・八七・〇七・
十四日八時。車でそちらへ一寸行った日
六・四后から床につく六・六六・八六・八
十五日床に入っていて手紙の時だけおきた
六・五六・五七・〇七・
十六日六・四六・六七・二七・二
十七日六・四六・五六・七六・七
十八日ひさの姉死去急にかえる
六・六六・四六・四六・四
十九日久々の出〓
七時六・四六・五六・五(十時就眠)
二十日六時四十分六・二六・四九時半
夜十二時すぎ苦しくて目がさめ七・五
二十一日朝七・五、林町へ電話午後入院、手術、后七・八(?)
二十二日―二十八日迄。病院でカルテへかいてよく判らず、六・八位から七・一、七・二の間。
二十九日初めて六・六。三十日以後朝五・九夕方六・六位にきまった。 
一月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき速達)〕
十八日
今日はすっかり景色がかわって外を歩けないのが残念な屋根屋根の眺めです。さきほど弁護士のことについてのおことづけは確にわかりましたから、一筆速達いたします。親切という風に思う程でもありませんのですから。いろいろは二十一日におめにかかりまして。 
一月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十日第七信
十八日づけのお手紙をありがとう。二十一日に行ってシクラメンの大きい賑やかな鉢を二十三日のために入れようと思っていたところ、福寿草が咲きかけでは可哀想故、おっしゃるとおりに致しましょう。その代り今寿江子がこれをかいているまわりで大いに美術家を発揮して居ります。光子さんがいた間にもとの家の一寸見える二階の南側のスケッチをして貰ったら、何となししまりのないのが出来て感じがないのでお送しないでいた。寿江子を動員して見たら、マチスのコムポジションに似たようながら面白いのが出来そうだからやって貰っているところです。どんなのが出来るかしら。前にお送りした室内風景ね、あれの南側の面になる分です。
さて、養生のこと、勉強のこと、事務的処理のこと、ありがとう。体に力のないというようなのは一目でやはりおわかりになるのね。大抵のひとは、私の血色がよいし、活気も一通りあるのでだけ判断する。自分では血色や何かにだまされてはいず、力のない感じの方で生活を計っているから御安心下さい。気分はおだやかで、追々夢も減って来て居ますが、この力の充実しない感じは微妙で、ちっとも戸外へ出たくない。十七日に家から出たぎり。冬はこういう内部的な肉体の恢復というのはおそうございますね。傷のところは大層工合よく肉がもりあがって来ていますが。今の私の体の感じは面白いところがあります。肉体の奥ふかい全体にまだ衝撃(ショック)の余波がのこっていてとれない、そういう感じです。常に不調和というのではない、調和はとれた感じだが、その水平線が低くて、引潮で、時々ああアと思い出したように肉体の中に疲れを覚える。そんな工合。幸二階は日光が十分さしますから、大体二階暮しでのんきにしています、横になったりよんだりすこし書いたり。そちらではこの冬風邪さえおひきにならなかったのだから本当にようございます。私は自分が病院でいた間どの位それをうれしく安心に思ったかしれません。本当に私はよく気をつけますから、お互に今年は好調にやりましょう。
私の場合について云うと、十二月のダラダラ風邪や今度の切腹やその後のこういうやや弱っている状態は、内部的には様々のプラスとなっているのは興味あることだと考えて居ります。あのダラダラ風邪の間に、去年のうちのいろいろな気持の底がカタリと落ちてどこかシーンとした気持になっていたところへ、切腹で、おちた底の上で引つづき静かな持続的な省察が各面に動いていて、決してわるい状態でないと思われます。真面目な勉学ということの立体的な意義も人間生活の長い長い歴史の光とてらし合わせて、益〃感じられて来て居ます。私はきっと、今までよりすこし大人らしい勤勉さがわかって来たのでしょう。ですから勉強はつづけます。事務的に必要なことをよく処理しつつ、落付いて勉強します。書けることを、書くべきようにかきつつ。書くことについてやたらにせき立った気では居りません。今年は去年一杯の苦しかったいろいろのことから学んだ点もあり、体の中からくされもののなくなったこともあって、大分様子がちがった気分で、自律的勉強、書きものの出来る気持です。おなかの中がいつも不安な一点があって、いつもそれを劬(いたわ)らねばならず、しかも気でその不快感をひっさげて暮していたようだったのを今思いかえして見ると、いかにも両肩に力が入っていました。快活さのうちに、軽そうな足どりの中に、見えざる感覚への抵抗が常にかくされていて、神経質なところがありました。手術して見たらそのことがはっきりわかって、両肩の力がぬけて楽になったとともに内面の緊張もとれている。小さいようだが心身ともに相当影響しました。僅か六センチ足らずの突起のおかげで。私のむしが退治されたことは二様に好結果をもたらしていると思って居ります。いろいろと複雑な条件の中では、一つの肉体的な手術が様々に反映するから面白いものですね。
二十五六日ごろの御心配かけたことについては、本当にすみませんでした。これからは(マア度々あっては閉口ですが)気をつけましょう。ボーとしていて、しかも妙に鉢のことなんか気がついて、妙だった。新法学全集は、早速全集見本を見ましょう。この間実物を見たらすっかり装幀の出来た本だったと思ったのですが。何か間違ったのだろうかしら。達治さんの『世界知識』は届いて居ます。事務的にことを処理するコツが今日のことを明日にのばさないところに在るのは実際です。大体その心がけでやってゆくつもり。つもりを一層具体的にいたしましょう。
この三十日が父の三年祭です。(神道)そして母の五年にも当る。何も特別なことはしないつもりの由。林町で神官をよんで式をして、それから青山へお詣りにゆくでしょう。この式や墓参には私も出るつもりです。寿江子もこれをすまして伊豆へゆくと云ってまだこちらに居ます。伊豆と云えば、「生活の探求」は「正月の騒ぎがすんでから」伊豆の温泉へ川端、深田等々氏と出かけて、出京、中央公論社の用事をすませて両国の某という料理店へ車を駆る、というような日記をかいて居ます。作家の日記というものはなかなか感想をそそる。稲ちゃんは、『新潮』の口絵の写真にそえた文章で、この数年間自分は写真をとるとき笑ってしまう癖がついているが今日は笑っていない。これからは又元にかえって写真機の前で笑わなくなるだろうと思う。ただ目だけは子供のようにハッキリあいていたい、と書いている。これなども実にいろいろ感じられる言葉ですね。成長、自分の力で成長してゆこうとする努力の、そのときどきの姿がまざまざとうつっている。楽でなさが私などには犇(ひし)とわかる。
明日出かけるのをたのしみにしているのですが、あしたの晩は眠れるかしら。十七日の夜はね、ああ何と眼の中がいい心持に楽になったのだろうと感じて、幾条も光の箭(や)にいられたような体じゅうの気持で、なかなか眠れませんでした。
いよいよ寿江子の絵が出来上りました。本人は失敗失敗というが、それでもこの室のこの隅からの感じはわかる。これに補足として光子さんの細部的なスケッチが大に役立ちますね。寿江子は室内のあの安楽椅子辺から描き、光子さんのは丁度、私のねまきの干してある浅い手すりのところへ出て、ひろく外の景色を描いていて。光子さんの方の絵で見ると右手の煙突の先に[図3]こんな形に屋根の見えるところがあるでしょう。これがもとの家の屋根に当ります。寿江子の方のでは右手のギリギリのところに濃くこの形で屋根の遠望があらわされているところです。元この家にいたころ、更に奥の大きい屋敷は建っていず、何とかいう人の花園でした。左手に黄色っぽく洋館がある。それも花園の一部でした。二枚とも御覧下さい。今に、この六畳から出た廊下の北窓からの眺望や物干の眺めをおめにかけます。これから私はすこしスケッチをやって見ます。今も寿江子に云って笑ったの「だってくやしいよ、一枚描かそうと思うと、御機嫌とってやってさ。字が書けないと同じようだもの」しかも、ちょいちょいとやはり字でない形で見て欲しいときがあるのですから。この二枚を切手貼ってむき出しに送るか、さもなくばよごれないようにして送ろうかとつおいつの末、すこしおそくなってもよごさずに届く方法にきめました。
島田からお手紙で、富雄さんが手つだうことはお断りになったそうですね。運転手が、却って気兼ねだからというからとのことです。仲仕もおいていらっしゃる由。夜の仕事はやめて安全第一にやっていらっしゃる由、そちらにもそのようなおたよりがありましたでしょう。野原では春になって土地を処分なさる由。林町のうちは水道が凍って風呂がたてられず、目白へ風呂を貰いに来る由。大笑いをしてしまいました。きっと今に「今何時でしょうって目白へききに来るんだろう」。だって林町は家じゅう電気時計で、停電すればそれっきり。目白のはボンボン時計ですから。周囲の一般のレベルをぬきにして一つの家の中だけやったって、不便のときは、極度に不便になる。こういう悲喜劇があるから、私は石炭が質を低下させられるつれ煙突掃除を余計たのむので閉口しつつ、あたり前のフロが大好き。太郎はカゼがなおって遊びに来て、「アッコオバチャン、おぽんぽが痛くなくなったらアボチャン、トシマエンヘツレテッテヤルヨ」と大いに慰めてくれました。では又明日。この分ではしずかな天気そうですね。おめにかかっていろいろ。栄さんの小説が芥川賞候補に上っている由。そういうものはあのひとに、今のところ格別あった方が大いによいというようなものでないと考えます。賞の与えかたにも、やはり大局からの考慮がいるものであろうと思います。 
一月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十四日第八信
お早う。けさはいかがお目醒めでした?ゆうべはよくおよりましたか?いいお天気ね。すこし風があるけれども。きのうはユリの薬のきけ工合をきいて下すって本当にありがとう。何と味のふかい、全身的に作用するこの薬でしょう。大事な大事なくすり。
昨夜は刻々を待つような独特な気持で二階のスタンドのところでいたら、急に雨の音がして来た。そちらでもきこえたでしょう、六時頃。そしたら、実にまざまざとその夜の雨に濡れたところへ電燈をうけて光っている洋傘と、その下の顔と、すこし外套の前にかかって光っている雨粒とが見えました。玄関のところへ私が出ていて、濡れた?ときき、その黒い外套のぬがれるのを傍に立って見ている、手を出してぬぐのを手つだいたいけれども、極りがわるいようでわざと手を出さないで。現に玄関でその光景があるように鮮やかでした。きっと、あなたもこの雨の音を聴いて、やっぱり傘をさして出てゆくような心持になっていらっしゃるのだろう。そう思いました。
雨の音は暫く胸の中へ降るように響いていたが、御飯をすました時分にはもうやんでいた。雨もうやんだのとひさに訊いたら、大きなみぞれでしたと云った。霙(みぞれ)が、では降ったのね。今はいい星夜です。九時ごろバラさんが外からかえって来たとき、ふるような星ですよ、と云っていた。
ゆうべは夕飯後茶の間にいて、縫いものをしていました。私たちの八年目の記念、私が死なないで虫退治出来た記念、そんな心持でそちらでよく着られてもう着物にはならない大島と、どてらであった八反(はったん)とを切り合わせてベッドの覆いをこしらえてかけているのです。長いこと、ベッドスプレッドを欲しいと思っていて、出来合の安ホテルのようなのはいやだし、ついそのままになっていた、そこへ不図思いついて縫いはじめたわけです。出来上るのと、あのスケッチの海老色と青の格子のかけぶとん(動坂であなたのだった)の上へ、今そこで着ていらっしゃる古い方の大島の羽織と同じ布と去年の冬まで着ていらした赤っぽいような細い縞の八反の布とがまざったスプレッドが、昼間はかかることになるわけです。
電燈の下で、例の私の場所に坐って長いこと黙って縫っていた。。そろそろ私はひき上げようとする時分、寿江子が、何かたべたくなって云い出した。「何をたべたいのさ」と私がそう云う。「お姉様何がいいの」。私のたべたいものはきまっているわけでしょう、私はあのブッテルブロードがたべたい。どんな味がしたか、本当はよくわからず、たべたことだけは忘られない、あのブッテルブロードがたべたい。「ね、何がいいのよ、お姉様は」縫いながら「私が一番たべたいものは今、買って来てくれる人がないから、駄目さ」「ふーん」そんなことを云っているところへバラさんがかえって来て、結局紅茶一杯のんで、私は二階へあがりました。
すぐ寝床へ入ってしまった。
けさは、熟睡したいい心持でおきました。
これはゆうべ日記の欄外を見ていて発見したのですが、八年毎に週日(ウィーク・デェイ)は同じになるが、旧暦は同じではないのね。二十三日は今年は旧暦の十二月四日。三日月、四日月のわけです。床に入る前、雨戸をあけて物干のところへ出て見たら、そんなにひどく寒くもなくて、大きい奇麗な星が一杯きらめいていました。
すこし体が弱いところがあって、しかも病気のあと新しい命が流れているところがあって、今の私は、大層面白い工合です。もっと病気が内科的にひどくて長かったら、快復期のこの感じは、おそらく激しく新鮮でしょうね。
――○――
ここへ一人の女客あり。
そのひとの話で、本年の秋ぐらいになったら、西巣鴨に一つ家があるようになるかもしれない話が出ました。大塚の終点からすぐのところの由、西巣鴨何丁目でしょう。その人の親類で、老夫人とその子息の未亡人(子供四人)が二棟に住んでいて、おばあさんが夏に子息の三回忌をすましたら田舎へひき上げると、そこの家があく。その家のおもやをなしているところに若い未亡人と子供らがいるが(銀行員だった人)ポツンとそこにいるよりは実家が渋谷にあるからその近くに住んだ方がよいということになりそうで、そうなると平家で四間ぐらいの家と二階で四間ぐらいの家が、表は別で、内ではかけ橋でつづいているところが、あくわけなのです。
秋から寿江子が東京に落付くについて林町はどうしてもいやだというし、ここへこのままは住めないし(ピアノがうるさくて)心配していたところでした。一人きりはなして妙な生活になるといけないから。もしそこが五十円ぐらいでかして貰えれば寿江子も自分の家賃は出して、食事など共通にして二人でやってゆけるかもしれず、大いに期待して居ります。共同に台所や何かやって、女中さんなしでやれれば、実にうれしいと思います。この家に、私が全く一人というのでは万一のときこの間のような思いをしなければならず、又寿江一人もよくない。そうかと云ってお互の条件が音については反対なのだから、こんな家は理想的です。或は六十円でも(家賃が)二人でやってゆけば却っていいかもしれない。あの辺はこことちがって周囲が直(ちょく)で物価もやすいし、そちらへ多分歩いてゆける位かもしれず、本当にわるくないでしょう。少しわくわくする位です。私の生活の形、寿江子の生活の形、ほんとにああでもないこうでもないと考えていたのですもの。寿江子は、余り工合がいいからもし喋って駄目になるといやだからと云って、こわがって幸運をとり逃すまいとしています。
寿江子は私の癒った祝に今面白いことをやって居ります。いずれおめにかけるものです。
余りうれしいこと口へ出すと消えそうな気がするそうです。ひさの試験は受かるかどうかわからないが、受かるようにしてやって、うかれば本年の冬はいないものと考えなければならず、あとのひとのこともなかなかむずかしくて閉口していたところですし。そういう形で寿江子と家が持てれば相当の恒久性があるわけです。私が旅行したりする間も安心だし。出来るとうれしいと思います。家なんて妙なものね、もしこの話が実現すれば、空想として描いていたような好条件の形が出現するわけです。前かけのまま何でもなく一寸出られるような周囲でなくては一人ではやれるものでない、面倒くさくて。ホクホクしてもう手どりにでもしたようによろこぶのも早計ですから、私ももう笑われないうちひかえましょう。もうたったひとこと、本当に出来たらいいとお思いになるでしょう?
一昨日だったか稲ちゃんと栄さんとが来て、二月十三日には本当に私の誕生日やるかと念を押し、のばしたなんて云っちゃ駄目ですよ、とニヤニヤしながら云いました。何をしてくれるのでしょう。二十三日にしようかと思いましたが、体がしゃんとしないからのばしたのですが。たのしみになりました。これぞというもくろみであの人たちが何かしてくれるのは初めてです。私はこの調子から推してあなたからは相当のものをねだってもいいらしいと思われますがいかがでしょう。何をねだらして下さるでしょう。余りゆっくりではないことよ。どうぞお考えおき下さい。かぜ気味をお大事に。病気をわるくしないおてがらをおくりものだと云われたら困る、謂わばそれにこしたものはないのだから、では又。 
一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十五日第九信
二十三日に手紙を書いて下すったのね、ありがとう。その前日あたりかと思っていたところでした。手紙を一行一行よみ進むうち、すぐ立って出かけたいようになりました。あなたはよく、あの懐しい懐しい物語[自注2]をおぼえていらしたこと。小さな泉とそこの活溌な住人雄々しいきれいな小人のはなしは、いつになっても、どのような話しかたで話されても、本来の愛らしさ、献身、よろこばしさの失われることのない物語です。私は沢山のヴァリエーション、かえ話を知って居ます。覚えていらして?激しい待ちもうけの裡で眠っていた泉が、初めて活々とした小人の魔法で段々目ざめ、やがて美しい虹をかけながら湧き立って来たとき、何とも云えない呻り声で、びっくりした小人が見まわしたら、泉守りの仙女が草の中に失神しかけていたというところ。素朴な仙女がよく描かれていて、私たちは好意をもって笑いましたね。
おいしいものについての御注意もありがとう。全くおいしいものにも様々あり。
体温表のこと。それよりも、消燈・起床をやかましく気をつけた方が合理的のように思われます、今の状態では。どうでしょう。だって熱は五・九ぐらいから六・六の間にきまっていて、それをとるのは、私には何だか只形式のようです。私は種々のよくない習慣をもっているかもしれないけれども、一つほめられていいことは床について横になってからは、決して本をよまないということです。床に入ってからは、いつも仕事のこと、考えたり、親しい物語を描いていたりなかなか活動的で、収穫も少くありません。だから燈なんかいらないの。消燈したって心の中はときによっては光彩陸離の有様です。そういう動的状態でないときは、父の二代目で、ベッドへ入る、スタンドを消す、もうあとは前後不覚。いずれにせよ十時消燈という原則は守りますし守っても居ります。どうか御安心下さい。ほかの連中にかかわりなく、やって居りますから。
いつぞやの連作手紙についての批評ありがとう。芸術家が、もし真の現実と人間生活の諸関係、価値の比をとらえたいと希うなら、規模が大であればあるほど無私でなければならないということが、益〃痛切にわかって来ます。条件的な進歩性ということもよくわかる。これらの大切な諸点については、この間うちの手紙にもかいたように、つづいた病気が微妙に内的にも作用して、心理的に変化したところがあります。ただ、こういう肉体の事情の下で或時期――恢復期の敏感さ、感受性のするどさという感性的なものではなしに。歴史的正負を正しく設定するということは、核の核と思えます。それが出来る能力があれば、すべての小主観性やその日暮しの中での世俗的目安の腰据えなどけし飛んでしまうのだから。いろいろ臥ていた間にもそういうことを考えていて、自身の脱皮について、自身へのきびしさについて考えていたところへかえって来て「はたらく一家」直の小説をよんで、粛然としてしまった。自分など、稲ちゃんなど、本当に沈潜して真面目に真面目に沈潜してめのつんだ小説をかかなければならないと思って。何年かの間絶えず一作家の低下力となっていたものが勝利を占めて、作品のかげで悪魔的舌を突出しているのに、身についているとか何とかで、人間も四十になって云々とか自得しているのは、もう箇人的な好悪を絶しています。こと終れり的です。
芸術家、人間の成長の過程における正負というものは、極めて複雑でダイナミックであり、私はそのことについてもいろいろ自分の生活から発見します。正負の健全な掌握ということには、精神力の、運動神経の溌溂さが大事ですからね。自分たちの生活がいいものでなければならないと思うことと、いいものであるということとは別であるし、同時に、エッセンスに漬けた標本みたいないい生活なんてあるものではないのだし。なかなか興味深いところです。考えて見れば去年は苦しい一年でしたが、本気で暮したおかげで、私の皮はどこか一ところにしろピリといって、今はたのしみなところがある。いつからか文学の仕事にふれて、私はよくもう一歩のところが云々と云っていたでしょう?二年ぐらい前から。覚えていらっしゃるでしょうか。本能のようなものが、おぼろげに何か感じていたのですね、考えて見れば。角度が(掘り下げてゆく)その頃つかめなかった。前へ前へそういう風だった。前へではなくて沈潜の方向が必要であったわけでした。生活の内容に文学上の技術が追いつかないように感じてそのことを手紙でかいたこともありましたが、ああいうのは、やはり正当に見ていませんでしたね。文学的技術は完全ではないが、そう片言でもないので、生活の内容を金(かな)しきとすれば、正しい力の平均でしっかり鎚がうちおろされていなかったからであると思う。ユリにもう一押しというところが欠けているように思われるが、というあなたの言葉は一度ならず云われていて、その都度そのときの理解一杯のところでは考えていたが、それも今にしてわかった、というところがあります。人間の成長は何とジリジリでしょう。そしてリアリスティックでしょう。
きょうは曇りました。火鉢なしでこれをかいているとテーブルの木肌がひやりとします。テーブルの上には友達がくれた桜草の鉢と紫スミレとがあってあとはキチンと片づいて居ります。そろそろ勉強の気分で。
中野さんのところの赤ちゃんは二十七日が生れる予定日だそうですが、重治さんはまだ一本田です。お父さんを金沢の病院に入れるためにいろいろやっているそうです、病気は老年との関係でしょうが、手術を必要とする摂護腺肥大で癌のおそれある由。泉子さんは大塚の病院で生むことにしてあるそうですから安心です。おそい初産ですから注意がいります。
あなたの風邪、どうぞ無事終了のように。こちらから、ただそういう表現でしかあらわせないから。毛糸のシャツ着ていらっしゃいましたが、あれは今召したらもうすこし寒気がゆるむまで脱いではひきかえしますね、きっと。二月も四日ごろ立春でしょう。三月に入るといいこと、早く。空気の肌ざわりは二月下旬でもうちがいますものね。バラは何色でしたろう。フリージア、珍しくいい匂いでしょう?さっぱりしたいい匂いかぐと眼の中が涼(すず)やかになるでしょう。袍着(わたいれ)のこと、ああ云っていらしたので気にかかります。悪寒がなすったのでしょうか。今でもスースーですか?呉々お大切に。お願いいたします。二十七日にね。

[自注2]懐しい物語――ながい年月の間には、いくつもこういう詩集がやりとりされた。書いたものと書かれたものとの間にだけ発行された詩集。 
一月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十九日第十信
二十七日づけお手紙をありがとう。昨日栄さんが、二十五日にあっちへおかきになった手紙見せてくれて、全く通俗化した一作家が「成長」という小説をかいているのには一笑したという意味のところ、思わず大笑いしました。あれも愉快なお手紙でした。
力がついて来たこと、はっきりわかりますか?もう大分予後の弱々しさが神経からもなくなって来て居ります。二十七日には往きは目白の往来で拾って乗りましたが、かえりは大通りまで歩いて、バスと電車でかえりました、初めての試み。埃が余りひどくなければ、寒さそのものはもうこわくありません。永い間、バスなどにのっていて、ドスンとはねると、あ、と脇腹をおさえたい心持でいたから、この頃、すこしドスンとして、神経だけ習慣ではっとするが、おなかの中はちっとも痛くないので不思議な位です。本当に今年はいいだろうと楽しみです。腹の中から不断に毒素を発していたものがないというのはきっと大したちがいだろうと思われます。今のところまだそれほどにもないが。傷のあとなど劬っているから。傷そのものは小さい七八分のすこし赤みがかっている十字で、この頃は肉が凹んでいたのも殆どなおり、仰向にねたり、おふろに入っているときなどすっかりすべすべと平らになりました。傷の上の方に何かまだしこりがあって、それを全くちらしたら完成です。
きのうは電報ですこしおどろきました。記録料など出来上れば当然こちらへ請求するものだからそちらへ請求するわけないのに、どうしたことかと思ってすぐ電話かけてきいて見たらば、旅行中でわかりません。今日かえる由。そちらへ求めて来たのではないでしょう?出来上れば勿論すぐ支払います。ただ、出来たらすぐ支払えとおっしゃるわけだったの?それなら電報はおうちにならなかったでしょうね、よくわからない。今夜でも又電話して見ましょう。
二十三日は本当にありがとう。二十五日につきました。返事もう今ごろ見ていらっしゃるのでしょうと思います。ゆきちがいに。この手紙(二十七日づけ)は私の返事見てからでしょうか?そうではなさそうでもあります。たまでなくても折々が大変結構です。健康上非常に有効です。精神は休められ新たな活気とよろこびに満たされて血液循環がよくなります。薬味(やくみ)というものは常に少量ですが、絶対に必要です。味覚の発達しているものたちにとっては特に。そうでしょう?書いていて不図思いついたのですが、二十四日に出した手紙、二十八日に着いたのではなかったでしょうか。もしそうだったら、電報をうって下すったことについて何かお礼を云いたい気がするけれども。
さて、交響楽的生活の美しさ、豊富さ、消えぬ輝きについて。そこには全く、最も充実した、精神の力づよい生きものとしての人間の自然さが荘厳な天真爛漫のうちに開花されていると感じます。その美しさ、微妙さで感動から胸をしめられ涙を流すときもあり、全身をもって呼ぶことがあるが、本来の透明さ、よろこびに曇りはなく、涙そのものにしろ、たっぷりと暖い雨の奇麗さをもっています。それも一つの交響楽的ヴリエーションです。
あなたが、不合理に体をわるくするなどとは考えていないよと仰云るように、私もそんなこと思っていなかった。
連作手紙について、ありがとう。ここにとりあげられている点は興味ある点です。日本のいりくんだ生活のなげる様々の影は一様でないから、今日という一日のうちに、女大学式なもの、それから羽ばたき出ようとするもの、更に種々の程度で頭だけ、或は胸ぐらいまで或はやっと片脚のところ位迄、第二段目の歴史性から成長しかかっている者が、いりくんでいるし、一人の人間のうちに三つの歴史の時代が実に雑多な形でぶちこまれてもいる。女の生活においてこの三時代の錯綜の形は実に独特であって、この点をはっきり描き出す作家果しているやと思う位です。新しい生活を目ざしている女の生活でも、より高いモラルの創造、到達を日常生活で貫徹しているという場合はごく少いのは事実です。あっちやこっちが古いいろんなものにひっぱられる。客観的に、現実生活の諸関係のうちにある旧いものがひっぱっているから、相当に引きのつよい性格でも、決して図面で計ったようにくっきりとした一本の線を、でくまひくまなしにスーと押し出せず、皆えっちらおっちらと先ずこっちを出し、さて次にこっちを出しとやってゆく。そうやってゆく根気がつづくか、息が切れるかというところが、かね合いのようである。
私の特長となっていた傾向として、第二段目から次への成長の路が、古いものの投影ではっきり見られなかったということ(名のことの場合など)実に、今明瞭に自身批判され得ます。それから又より高い規準にてらしての節度あるモラルの必要ということも。周囲の客観的な条件へのはっきりした目、そして処理、自分の生活で一番大切なのは何か、それとの関係においてどう評価されるべきことかという見きわめ、それらが明瞭につかまれていれば、自分の人のよさなんかに我知らず甘えなければ、無用の混乱は生じないわけです。この点でも相当学んだと思います。それから、前に退院したときのマイナス的状態のことも、今は主観的な気持をぬいて見られるから、ここに云われていることをその通りだと思います。
いつでもそうであるけれども、今は、一人の人間が手ばなしだったり小主観にいい気になっていたりしては、迚もまともに生きられない時代です。文学のありようからにしろそのことは犇々と来る。作家として謙遜に、人間らしい健全性を希うことからがすでに全面の摩擦にさらされる時期です。ユリが、私という歴史的主語について、非常に考えぶかくなり、疑問を抱き、自身を嘗てはゆたかに、つよくあらしめたが、その時期は去って、これからは引とめ材としか役立たないと腹から感じるようになったことは、総ざらい会話の何よりの宝です。木の芽に、先のとがった一点があって、成長がそこを中心として見えるように人間の成長の真のきっかけというのは、平面的なものでなく、集約的であって、核がある。原形質のようなものを突くか、そこをはずれているかで、刺戟の効果は違う。そのようですね、ユリは、その点で「私」をつかまえたこと、つかまえるようにしていただけたこと、それを心からよろこんで居ります。これはこれから先、相当の期間つづく中心的点で、しっかりとらえてはなさぬロック・クライミングの足がかりとしてゆけば、きっと眼界はひろがり、身は高きに近づけるでしょう。自分を撫でまわすことをやめてきつく云えば、節度ある規準への敏感さのゆるみ、客観的条件の不十分な把握、真の自主性のずりなんかは、いずれも、「私」の変化した現象形態だと思っています。あなたは知っていらっしゃるでしょう?日本の過去の文学は、その文章のなかにヨーロッパの文章のような「私」という主語をもちませんでした。そのことに大なる正負がある。日露戦争ごろから、日本の文章に私という主語があらわれはじめ、それは十分に成熟しないうちに、私の固執は、後退的な結果を来すような時代になって、而もその期間は極めて短かい。そのために、今日の文学の素地は、まだ主語を自覚さえしないところと、既に後退性に方向されていることを認め得ないで私に固執した小芸術に跼んでいるところとあり、更に現実では、主語(集合的な)を抹殺してしまおうとする不健全なものに抗して、目前の文学性が、それらの私の固執者によって全く個人的ゆがみの中でありながらも守られつつあるというような複雑さです。丈夫な樫の木のように、歴史の年輪を重ねて、真の健全性のうちに歴史的な主語を高めるということは、嵐のような精神史の一部です。羽音の荒い飛翔です。
あなたは一目でよく私を御覧になるから、こういう変化――「私はあなたに従順である」という意識のようなものに変化が生じたこと、感じていらっしゃるかしら。よく云い現わせないほどデリケートな内部的な感覚なのですが。うち傾けた心持、判断、行動、それだけがあって、ああ私はこんなに心を傾けている云々、という、そういう自覚みたいなもの、枠みたいなものが総ざらいの間に段々まわりから落ちてしまっている、そういう感じの違いかた。感じとしては非常に直接だから、きっとおわかりになるわね。この気持の裡には、よろこびがあるのよ。
午後三時ごろ速達でうつしものが届きました。して見るとお金の請求がそちらへ行ったのかしら。
きょうは、林町の方へひさを手つだいにやったので夕飯は寿江子と二人。林町、家が古くなって土台があやしくなって来たのを機会に、玄関を入って西洋間へ入るところをすっかり直して明るいホールのようにし、食堂の床は板にして椅子にすることにし、土蔵や洗面所の方もすっかり手入れしました。まだ半分で、明日二階で式をするためにはいろいろ一先ず形をつけなければならないので人手不足の由。私が十四五歳の頃からそこにいて初めての小説やその次の作品や丁度あの『一つの芽生』という本に入っている位までの作品をかいた茶室風の部屋も、これで未練なく消えてしまったわけです。寿江子はちょいちょいフランスの詩などを読んで、それに曲をかいています。二階から夜下へおりて行って、お茶をのみながらそんなのを読むと、文章で云えば小品文のおけいこですが、単純で未熟だが、やっぱり興味があって特別な心持がします。プーシュキンの詩が、その北方的なものが一番ぴったりすると云っている。寿江子が、例えばストコフスキーという人の指揮ぶりの非本質性を本能的に見ぬいたり、ストラビンスキーという、日本の現代作家80パーセントがその亜流であるような在フランス作曲家の非音楽性を見ぬいたりするところは、健康な資質で貴重だが、その健全の可能が、どのように伸びるか。そこには又おのずから私とちがうもちものもあって、一般音楽会のレベルの、文学と比べられぬ低さとの関係もあって、なかなかむずかしいことです。
今夜はこれから届いたものをよみはじめます。
明日、林町へゆく前に一寸まわりたいけれども、儀式だの青山へ行くことだのでもし疲れそうならばやめて、予定どおり三十一日におめにかかります。大衆小説のようと云っていらしたのもよみ終るでしょう。
二月になったら二日おきぐらいにきめて又御出勤をはじめます。それから一日おきにして、遂に再び毎日という工合に。勉強や執筆などは、やはりこっちをきちんとやった上での組合わせとしてやりましょう。
かぜの方はいかがですか、やっぱりずっと順にようございますか、お大事に。私はこの頃やっと夢が殆どない平常に戻りました。腹帯は、眠っている間はしないことにして居ます。色のついている夢は、視神経が眠りきらないときに起るのですってね。成程とすっかり合点がゆきました。私たちのように視覚の活動がはげしいものは、過敏な折もあって、色付の天然色夢を見るわけですね。何も気違いが見るというのではないわけです。誕生日に下さるものお考えがつきましたか?本年は、本当に万年筆を買って頂きましょうか、私の愛用ヒンクスウェルズの金Gはもう入らないのです。だからこんなに減って頭のなくなったのでもつかっている次第です。万年筆の先は堅くて弾力がなくて手くびがつかれます、そうではありませんでしたか?万年筆でも買っておいた方がいいのかしらと本気で思案中です。割合暖い夕方ですね。又明後日に。 
一月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(自宅茶の間の水彩画の絵はがき)〕
よごれるかと思うと惜しいけれども。これが茶の間。おなじみの長火鉢。おなじみの茶ダンス。奥の棚の上の青い葉は、琉球の「虎の尾」、うしろの絵は『冬を越す蕾』の扉絵です。
右手のガラス障子の上の欄間には光子さんの描いたレンブラント風の色調の女の肖像がかかっていて、茶ダンスのこっちは、やっぱりおなじみのタンス。上に小さい鏡(譜面台を直したの、動坂頃もあった)くしなど。これでも随分「見たような」感じが増しますね。我々の生活の插画の第四図と申すところ。 
二月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二日第十一信
この三四日は余り風もなくておだやかな日和つづきですね。外がいい心持です。それに夜の美しいこと!ゆうべ栄さんの小説をよみ終って、栄さんを送って門のところへ出たら十時ごろで、月と星とが一点の雲のない空に燦いていて、天の飾りという感じでした。この辺は住宅地でネオンの光や何かで夜空が濁らされていないから、夜空は澄んで居ります。そこからこういう星や月御覧でしょうか。
やっと言葉をつづけるような瞬間。顔にさしよせられる花束はつよい芳しさと魅する力とをもって何と喰われてしまいたい刹那でしょう。
きのうは、西巣鴨一の三〇四六というところへ貸家を見に出かけました。辻町のところに広告が出ていて、同番地に、二階6、下8、4.5、6、2という家と、六、三という小さい家とがあるらしいので、小さい方へ寿江をつめこめばうるさくなくていいとも考えて出かけたら、どうかしてそこがなかなかわからないで別の家を二つ見てかえってしまいました。番地が大変とんで、ごたごたして居るのですね。そして、その附近はそこに近いが却って不便で、他との交通の工合もわるい。近いくせに、いざというとき自動車がひろえないからここからのようにいそいで十分で馳けつけるという芸当が出来ず。
大塚の方へ家が出来るかもしれないというのは秋からのことです。只今のところ、寿江子は五日か六日に熱川へ又行って暮し、五月ごろ私が御一周忌で島田へ行く間、出て来て留守番をし、又あっちへかえって九月に出て来て、それからすっかりこちらに落付くつもりの由です。いろいろのいきさつもあったしするから、実際的な仕事の修業をやるのもいいと思いますが、やっぱりしんから好きであるし、女で作曲をちゃんとやれる人というのも出ていないし、大決心でやるつもりらしいのを見ると私もやっぱりたすけてやりとうございます。寿江子はああいう性質だから、三年一つことにかかれば大体めどが見えるから力がないとわかったら、見きわめをつけてすっかり方向をかえると今から云って居ます。そういうところ、はっきりしているからまあやって見ること、本気にやって見ることはいいと思い、私たちの生活に近くいてやろうというところには、全くこれまでと大ちがいの腰のすえかたがあるわけです。これまでは、生活に(父のなくなった後、彼女にとっては急変した条件での生活に)腰が落付かず、私たちの生活の意味はわかるが、近くにいてその調子に合わせること(部分的にでさえ)はのぞんでいなかったのだから。成長というか自分の発見というか、そういうことは例えば面白い一つの例として、ヴェトウヴェンの芸術についての意見で、二三年寿江子は、そのことで私と意見がちがいました。彼の芸術はもう歴史的な価値しかないと云う風に云い、私は、何を生意気云ってるのさ、誰の口真似かい、と云っていた。この頃やっと、そういう評価から脱して、文学的な人生的な芸術家の生活からの問題でなし、音そのものの問題として、ヴェトウヴェンがしんから音をとらえそれを駆使していることを理解し又芸術の性格において自分の学ぶべきものを最も豊かに蔵していると感じている。現代音楽についても、やっと私が同感出来るところまでやって来ました。音楽の性格は寿江子と緑郎とは実にちがうのです。緑郎は近代フランス音楽をよい学生的習作としての作品のうちで多分にうけついでいるし、寿江子は北方的で、単純で、メロディアスというよりもリズミカルで、すこし機械的なところがある。私が寿江子の音楽的創造性について一つの疑問を抱いているのは、寿江子の頭の機械性というとすこし表現がかちすぎるが、例えばドイツ語の文法を文法だけ勉強出来たり、代数の式をいくらでもうつして退屈しなかったり、そういうところがあること、及び、外面的な勝気のあることです。小さく速い頭のよさがあるところ、目さきを(通俗がかって)よく見るところ、それらは大きい芸術の素質とは反対のものです。外面的な勝気などというものは、もし本当に音楽がわかり、愛せばやがて消える消えざるを得ないものですが。
心ひそかな私の空想を許せば、自分たち姉妹が、やはり芸術的生涯を扶(たす)け合って生きてゆくことが出来たら、どんなにかうれしかろうということです。寿江子がこの頃音楽にもとめている健全性というのは、私は興味をもって見て居ります。彼女が我知らず求めている生きている音楽、音楽通(ツー)のデガダンスでけがされていない音楽というものは、どうしたって、それを生める社会的・個人的条件があるので、まことに遅々とながら、そういう生活の欲求と音楽的欲求とが歩調を合わせて来かかっているところがなかなか面白い。そして、その底には真劒なる課題が横わっているのですから。寿江子はいつその底にふれて、又一つの目をひらかれるでしょう。元は境遇の事情によってディレッタント風な要素でまわり道をさせられたにしろ、現在の生活事情の中でも猶(なお)音楽を忘られず、その希望で体も癒す努力をしているとすれば、やや本ものなのかもしれぬと思われます。
ゆうべ、一寸面白かった。栄さんの小説を茶の間でよんでいた。寿江子もそばにいて、私の注意する箇処を見ていて、あとで文学と音楽と随分ちがうと思った、と云う。それはそうだろう、どこをそう思ったときいたら、一つの小説として見て、私のさすところはものの感じかた描き出しかたの点で、作曲で見れば音から音へのうつりかえかたというようなもののようだが、音楽をかくのは、感じかたそのもので書くのだから、ああいう感じかたがどうこうという問題があれば土台かけないことになるんじゃないかと云っていた。私は興味を感じ、「小説だって土台は感じかたで、事柄が小説ではない。事柄に何を感じているか、それが小説たらしめる精髄だが、そういう本ものの小説以前のものは、ことを描いているだけが多い」「事でもかける、そこがちがう。ことはまるで音楽にはないのだから……」そういう話もなかなか面白いの。鑑子さんとは決して出来ない点にふれて喋っている。寿江子だって大人ですものね、考えて見れば。達ちゃんと二つ下でしょう?五になりましたから。
達ちゃんの話、大変こころにつたわりますね。どうかしら。実現されるかしら。兄弟の心、兄の気持というもの。三人は仲よい兄弟たちであると感じます。その感じの裡には、そして、一語で云いつくされないものがこもっています。明日は、寿江子のことで林町へ行かなければなりませんから、神田へまわって送るものとりそろえ発送しましょう。三人の兄弟の上にも歴史は実にひろく深く、まわって居ることを考えます。
そちらにゆく袋の中に「チボー家の人々」というのを入れてよんでいます。長篇の或書かたとして研究的によんで居ります。ノーベル賞をとったのは、どのようなところの評価であるか全部よまないうちはわからないけれども、着実で同時に動的な構成、周密な立体的描写法など、ジイドの「贋金つくり」などのまがいもの的頭でっち上げ風なのとちがい、リアリスティックな筆致においても、一朝一夕のはんぱ仕事ではないことを感じます。全部で十巻ある予定です。一九一四年夏というのが最後の三冊を占めるのですがどこまで訳出し得るでしょうか。様々の点で勉強になる小説です。
さて、十三日には何を下さるのでしょう。きょうユリに、何が欲しいかいとおききになったのね。どういう言葉で答え得るでしょう。
三日。
きょうは曇って又寒そうな日になりました。
きょうは寿江子の財政整理のために林町へ行ってやります。兄妹は、そういうことをこれまでさし向いでやって、両方世の中知らず、主観的で感情的にばかりなっていたから。財政上の手腕は私は御存知のとおり皆無に等しいが、立てるべきもの、二次的なものとの差別のわかるところで、マア何かの足しになるのです。
原さんが赤ちゃんを生んだの(で、)というより生んだのを見て、大変赤坊を生みたく感じました。面白いものね、この間割合ひどい病気して、そのために感覚的にそういう感じがわかるようになって来て、そのアッペタイトのようなものはああ仕事したいという欲望に結びついて、何か活気ある情感を漲らします。感情や感覚の成長、感性の精神力への融合の多様さや豊富さ。私たちの精神がつよい生命力をもっていて、足りなさの感じからでなく、溢れようとするものの側から、一層のゆたかさとして、私がそういう感じをも体得するようになり、女としてたっぷりさを増して来ているということは、何と微妙でしょう。おかれている事情の裡で、なおこのように充ち満ち得るということ。これは私たちの生活の独自な収穫だと思います。私という琴に更に一筋の絃がふえたような工合。その手ざわりと音色とはいかがですか。
六日の月曜日に。どうか風邪をお大事に。きょうあたりから又ひとしきり寒さが立ちかえるかもしれませんね、 
二月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月四日第十二信
きのうは、林町へ出かけるついでに、大塚病院の原さんを見舞って、神田の本やへよるつもりでそろそろ仕度しかけていたところへ電報でした。丁度二時というところ。それではどうせ出るのだから私巣鴨へまわるから、寿江子原さんのところへまわるようにと云って出たわけでした。髪が苅りたてでしたね、弁護士は七日までにどうしても仕上げなければならぬ書きものがあるとかで、八日にはゆく由です。この手紙より早く月曜お話しいたしますが。
あれから電車で東京堂へ。もう十二月から出来たら出来たらと云っているタイムズの支那地名人名字典、まだ出版しませんで、と東京堂の番頭君恐縮していました。まさか紙がないというのでもないのだろうのに。改補がおくれているのでしょうね。本当におまち遠さま。それから新法学全集又改めてしらべて見ました。三十何冊か出ているのですが、そして、仰云るとおり仮装幀なのですが、日本評論社で分冊を出していないので、もし御注文の刑法、民法、法理学をあつめようとすれば、三十何冊かをとってその中から集めて綴りなおすということになる次第です。日本評論で分冊を出す気があるのかないのか。いずれ出すのでしょうがいかがしましょう。聖戦短歌集、改造社版と書物展望と二ところから出て居り、改造の方は大部分歌のグループに属しているような専門的教養のある人々の作ですし、書物展望版の方は小さくてもち運びも便利です。一応目をお通しになってと思ってきょう送りました。改造版の方もお送りして見ましょうか。私は昨夜ふと、もしかしたら、お母さんのお心ゆかせにいいかしらとも思いました。けれども、いずれにせよ顛倒した世界でうたわれているのが多いことは、やはり学生の手紙と同じ哀れをそそります。『第八路軍従軍記』と井上の和英中辞典もお送りしました。和英、たけのぶのは大きすぎ、井上のは例えば「イタヅラ」という字をローマ字でひくとすぐ「徒に」の「いたづら」が出て来る、ほかのは悪戯(いたづら)が第一に出る、そういうちがい(日本語感のうちの漢文的要素)がありますが、文例ではやはり井上の方がよく選び出して居ります。だから井上にしました。印刷はどうもよくないけれども。
達ちゃんへのものは明日出来上ります。早く送ってやった方がいいと仰云る心持、私の心持として分ります。
五時すぎ林町へ着。(寿江子と)台所のところを改造中で、大工、国男夫婦どたばたやっているところでした。太郎が大きい料理台の上にのっかって歌をうたったり口笛をふいたりしていて。おそい夕飯がすんで、そのうち太郎が母さんの膝へ栗鼠(りす)のようによじのぼって丸くなって眠ってしまい、その始末をしてからさて、帖面、さてファイルブック、さて受とりともち出して財政審議会。寿江子はこれまであっちへまかせていたのですが、一定額以上兄さんに立て替えをさせ、いくら送れ、というようなことを云い、つかいすぎるというので、あっちでは御機嫌よくないのですし、寿は、寿で、自分のものを自分が使うのに云々というところがあって、必要以上の気持のぶつかりを生じているので、今度はすっかり立ち合って、寿江の使うのはいくら、兄へかえすべきのはいくら等々すっかりやったわけです。寿江子は一番生活能力がないというわけで、父が配慮してやってあったのです。
皆それでもきげんよく協議会を終了。それからお茶をのんで車でかえったのは、お約束の十時をすでにずっと越していた刻限です。昨晩は本当にいい月夜で、遠い家々の赤い灯。建てかけの家の屋根の木片(こば)ぶきだけのところが霜でもおいたように白く月光にぬれ光っていて、目にのこる夜景でした。
かえって、茶の間に入ったら私の場所にお手紙がおいてある。おや、御褒美があった!と云ったら、私が巣鴨へ出たあと程なく来たのですって。寿江子曰ク「よっぽど持ってこうかと思ったけれど、かえっておたのしみの方がいいと思って、どうせ落付かないから」と。ありがとう。大変かたまって届いたのですね。三つもいちどきとは。しかもあの三つは、たっぷりしているものたちだから。「煙突ぶらし奇譚」まで覚えていらしたのは、本当にあの一連りの詩物語が、どんなにまざまざとした詳細を生きているかということですね。これらの其々味い深い小題をもつ詩譚は、一つ一つとあなたのお手紙によって思い出させられ、一層の面白さ、可愛さを増します。
花もお気に入ってうれしいと思います。バラもそちらで開いて満足です。どんなのが行くか分らないのですもの。開き切らずに蕾のバラが行ったとはしゃれている、そして、次第次第に咲きみちたというのは。
梅というのは、紅梅であったのが、初めてわかりました。それも好いこと。私は紅梅がすきです、濃い、こっくりした紅色の梅。だが私はもっとおそくしか咲かないものと思っていたので、この間『文芸』へやった日記の原稿にもうすこしで「寒の紅梅」としそうになったが、まだ咲くまいと思ってただの梅にしてしまいました、おしかったこと。もし梅を植える庭があれば、私たちは紅梅を一本きっと忘れなかったでしょう。
連信に対しては、非常に深い関心をもって下すって有難く思い、又そのような深い根づよい関心の底にあるより深甚な愛、人生への愛というものを感動をもってうけとります。我々のこの愛すべき生活の日々に、悠々として而もたゆみない成長を見て行こうとする努力を自身に期待し、又期待されるということは、厳粛なよろこびです。勉学のこと、文学の仕事のこと、そして折にふれて美しさきわまりない詩譚を話すこと。我々のところにある生活の刻々が、最も全的に、充実的に満たされることを希う心持は益〃深められて来ていて、今では、おそらくあなたの胸のそのあたりにそのような深さで滾々(こんこん)と湛えられている思いが、感じとられるばかりです。これは、ああわかったというのとは違うのよ、この感じとられる、という感じは。おわかりになるでしょう?目をはなせないのと同様に、それからは心をもぎ離せないのです。総括的展望は形式に拘らず正しく導き出されるだろうと云っていらっしゃる点は全くそのとおりです。私は最も真面目な考察で、連信への感想を読みそれを我ものとしようとして居ります。豊富な話材があるが、と云っていらっしゃることもわかるように思われます。あの連信にしろ、一行が余りに圧縮された形をとっていて、制作と同じ緊張のもとにかかれました。大体このごろ私は手紙をかくのが遅筆になりました。これは決してわるいことではありません。頭の動く敏感さでかかず、心の語る速度や密度にしたがうと、おのずから滴一滴という工合であり、疾風的テムポがよしんば生じたにしろ、それは決して上滑りをしたものではありません。私たちの生活の精髄は、歴史の切り口の尖端にのぞんでいるものであって、真の人類文化の大集成の要義の把握なしには、いかような文飾をもってもつかめる性質のものでないことは実に身をもって感じています。
きょうは節分です。立春。八百屋や何かで柊(ひいらぎ)の枝を束ねたついなの箒(?)を売っています、はじめてこんなものを見た、撒く豆というのも大きいのね、上落合に暮していた節分の夜、風呂の中で浅草寺の豆まきのラジオをきいて、そのこと手紙にかいたのを思い出しました。うちでは大笑いしました。寿江子が卯(う)の年で年女(としおんな)だからお前に豆をまかせてやってもいいけれど、家じゃ、鬼はーそと!と云ったら家じゅう年女までいそいで外へ馳け出さなくちゃならないから大変だ、と云って。どこかのお寺で鐘をついているのが仄かにきこえます、やっぱり節分のためかしら。島田なんかでおやりになるの?
ああ、そういえば夕刊にこういう話が出ていました。アメリカから日本語勉強に来た学生曰ク(アメリカ人よ)「日本語はむずかしいですね、てるてる坊主の歌の中に、てるてる坊主、てる坊主、あした天気になーれ、とあります、なーれというのは何でしょうか。教科書にないです」成程と思ってね。なーれは、なれの調子だとはすぐわからないのだと、笑いつつ同情してしまった、すべての外国語の困難性について。
十三日のために。私が好きなだけとることの出来る二つのもののほかに、どうぞお考え下さい。サア目をあいてと云われる迄目をつぶって待って居たいと思います。よくて、もうつぶりました。耳もおさえてしまいました。何が出るでしょう!
月曜日に。冷える晩になって来ました、どうぞお大切に。きょうはすっかり早寝です。 
二月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月八日第十三信
きょうはこんな紙。こういうのに細かい字を書くと読みにくくていけませんが、ほかのが切れたので。
けさ、二月六日づけのお手紙。どうもありがとう。二月一日に書いて下すって、すぐそれから六日の分になるわけでしょうね。日光は暖いが、まだ屋根屋根や道路の日かげのところに雪が凍っているので風はなかなかつめとうございますね。五日の晩、大きい牡丹雪が降り出した景色は好くて、寿江子と二人で北窓から並んで首を出し、櫟(くぬぎ)の並木の梢が次第に雪にとけこんで行く景色をやや暫く眺めました。六日にも雪だから勇んで出かけたわけでした。私は雪が実に好きです。雪の匂いというのを知っていらっしゃるかしら。雪には仄かではあるが独特の匂いがあって、豊かで、冬に雪の少い東京は味がないとさえ思います。何も冬は雪にとじこめられて育ったわけでもないのに可笑しいけれども。冬のゆたけさは霜と雪とです。春の泥濘(ぬかるみ)も歩くにえらいがやはり感情があります。
さて、私のおなかのひきつりの件。ひきつりはこのごろ大分ましになったのです。はじめ内部がひきつって嘔気を催したりした位でしたが、それはやんで、次には歩くとどことなく不快につれていやでした。その感じも殆どなくなったら、昼間おきているとどうもなくて、夜床に入ると夜半そのために目がさめる位脚からおなかにかけてつれて痛みました。その頃(先月の二十日前後)は夜楽にねるために腹帯をとっていた時分です。そこで、又腹帯をすること(眠る間も)にして、その代り一工夫して、これまでの一丈二尺もあるのをやめて、短いのにうすく真綿を入れて広幅のままおなかをまき、夜中もそれをややゆるめにして眠ることをはじめたら、段々効果があらわれて、おなかの工合がましになりました。つれがなくなったし、おなか全体の内部が落付いて、腫れぼったい感じや不安感がなくなって、おなかも幾分ちぢみました。こわい気持なしに、ずーっとおなかをへこますことも出来るようになりました。この四五日の状態です。半年かかるというのは、直接つれのことではなく云ったつもりでした。半年かかると、傷をいたわり、腹もちが何となく気がかりということを、すっかり忘れ得るそうだということを云ったつもりでした。やっぱり手術のとき、腸をひっぱったりいろいろやるから、何だか腹の中がもめた感じで、毛細管が鬱血してでもいるような腹もちのわるさであったわけです。この四五日おなかがしまって来たことがはっきり分って、大変快適です。私の体は神経質なところのあるたちだそうです。そのために、そういういろんな点がきついのだそうです。今そちらへは行きだけ拾って居ります。調子がいいところで気をつけようと思って。でももう十日には行きも歩きましょう。その計画です。今月一杯間をおいて出かけ、来月は冷えることもずっと減りますから従前どおりに段々戻るつもりです。
家のこと。さがして見ましょう。九月ごろ空くようになるだろうという家は、特に寿江子が一緒に暮すために好条件であったので、私一人のためには、家主が友人の親戚に当るという便利しかないわけです。尤も、これがなかなか大事ですが。実際借りるとなると。女主人のところは二の足をふみ、又その他等々で厄介な場合が多いが。寿江子はいろいろ話し合いの結果、一緒に暮すのはしばらく保留。寿江子は林町の離れに生活するという計画に決定しました。もしお久君がいなくなった後、二人でやって行く場合、寿江子の体の工合が果して二人でやってゆけるだけ丈夫になっているかどうかわからず、この秋から一年も林町の離れでやって見れば大体疲労の程度もわかるから、それからにしたいというわけです。私もごく毎日を無駄なく暮したいのに、寿江子のむくれ面で気をつかうのはいやですから、それもよかろうということにしました。ですから家は私とひさとの暮しを条件として探すわけです。
エハガキ、面白いでしょう?絵はいいところがありますね、一目瞭然で。今、あの茶の間の外の小庭の眺めをかいています。それと門のところの眺めと。その二枚が揃うと、随分われらの家が視覚化されるわけです。手紙の中で語られる様々の情景が、はっきりしたそれぞれの場面となって、道具立てをもってそちらにも浮立ちます。私はそれを大変たのしみにしています。ハハム、ユリがここで悄気(しょげ)ているな、ホホウ、こんな庭を向いて気焔をあげるのか。それぞれに面白いではないの。
私の手紙は二日(十一信)四日(十二信)という工合です。
○富雄さんから返事がけさ来ました。自動車の方は技術として身につけておいて決してわるいことはないが、小母さんが危険をおそれるのと、ガソリン統制が新たに営業を許可しない方針となっていること、ガソリン払底で木炭自動車を購入しなければならず、それにも厖大な費用がかかるので、却って工場へ入って月給をいくらでもとる方が生活の不安が少いからその方にしようと思うという話です。工場の方へは履歴書を出した由。今、家賃が二十円程入るそうです。それで三人の食費はあるそうです。(何と東京とちがうでしょう!)それにいくらか月給をとることが出来れば嫁さんをとって生活も出来るから、とのことです。島田で雇った運転手が、下松で電信工夫をひっかけてしまい、下松の病院に入れてあるそうです。それやこれやで、小母さんもすっかりおじけついてしまったのでしょう。お母さんもまたそれの善後処理や何かさぞ一人でお働きでしょう。一月二十七日のことだそうです。早速お見舞のハガキ出しました。
富雄さん、猶よくあなたの御意見も伺いたいと云って居ります。
○用件を統一的に片づけるという点についての御注意。書いて終(しま)うと気持で片づいた気になる、というところは、おお痛いと思いつつ思わず笑い出しました。本当に面会、手紙、用事の統一と系統化は大事です、よく心がけましょう。事務的性能の向上ということについての注意は、どうも随分くりかえされなければならないところです。父のお得意の言葉にシステムということがありました。何でもシステムを立ててやらなくちゃいけない。そういう。そして、食堂なんかで、手紙の封を切る鋏が見当らなかったりすると、ホラ、システムはどうした!と云うの。そうすると、みんなが、ソラ、システムがなくなった、と云ってワアワア笑いながらさがすの。カラーのボタンを父が一寸見えなくして葭江見なかったかなどときくと、母は実にうれしそうな眼付をして、あなたのシステムはどうしましたって云う。何しろ私はシステムというと思わず皆が爆笑するようなところで育ったのですものね(!)全く大笑いです。そして私は、あなたが、システムをなくしたところをつかまえてあげることが出来なくて何と残念でしょう。私ばかりがなくしているのはまことに遺憾です。
○おことづけの弁護士のことすこしわかりました、十日に。おめにかかって申します。
十三日の欲しいものについて。私の上げたいものは、たっぷりとそちらからも頂く二つのもののほかには、あのエハガキ連作でした。十三日迄に完成してさしあげます。つつましく、而もごく欲しいものとしてはヒンクスのペン先。これはまだ文房堂にあれば二グロス位買います。使ってしまうものではあるが、私たちの生活にあっては、極めて勤勉な倦むことを知らぬ役割をもって居るものですから。こういう気持は面白いこと。余り欲しいものがはっきりしているので、却って思いつかないようなところ。たべてしまいたいようなだけというところ。あなたも非常にねだられたくていらっしゃるでしょう。みんなみんなユリにやりたいとお思いになるでしょう?
それがつまりはおくりものね。私はそのおくりものの裡に顔をうずめます。
では又。十日に。こういう紙は余白が多くて惜しいこと。 
二月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十一日の夕方第十四信
今五時すこし過たところで、寿江子がおひささんを対手に台処でおかずごしらえをして居ります。私は二階の机のところで、大変珍しそうな顔つきをして、幾分口をとんがらして、しきりにいじっていたものがあるのですが、おわかりになるでしょうか?これを書いているところのものです。万年筆。きのうあれからかえりに文房堂へまわりました。お話していたペン先を買うために。ところが、ついこの間は一グロス3.80であったのが4.50になって居ります。二年足らず以前には2.30位でしたのに。すっかりびっくりしてしまった。たった二箱で大抵の私の高価な買物の頂点になってしまうのですもの。ともかく二箱買っていろいろペンについて話していたら、まだオノトがあるということです。もし今にペン先がないようになったら、慌てるのは余り商売柄心がけがわるいから、ええと大決心をして到頭オノトを一本買いました。万年筆の中でオノトが一番ペン先が軟かなのですってね。十三日にお目にかけます。ごく見かけはあたり前のエボナイトのですが、ペン先の工合はこの字を御覧になってもわかるように割合弾力があるでしょう?その点では調子がようございます。オノトは元あなたが使っていらしたのではなかったかしら。これはペンを引こましてインクを入れたり、小さい金具を動かしてインクを吸上げるのでもなく軸をひっぱり出してギューと押すのですね、ひねくりまわしていたのはその操作のためなのでしたが、何だか馴れないの。ペキリと折りそうでこわくて。その上、私はインクをつけながら書くのが好きでもあるから今はインクを入れてないままつけて書いているところです。本当の書き初めを。金のベルトも何もないので軸が軽いし地味だしどうもありがとう。やっぱりペンになりました。先にもペンという話があったことがあったから実現してようございます。この字はやっぱりヒンクスのGですが鉄の方です。もう一つアルミのようなのがあって、それだと字がちっとものびないの。この鉄のでもひっかかります。小さい字のためには苦情がありませんが、原稿紙へ、しっかりと明瞭な字を書こうとするとひっかかる。
万年筆の歴史を考えるといろいろに面白い。私が生れてはじめての万年筆をもったのは、多分女学校の二三年ぐらいのとき、こわれたと云って父の呉れたものがはじまりでした。金のベルト飾りがついていて、今思えばウォータアマンでした。私は珍しくてうれしくて、それを学校へもって行って作文のときだけつかいました。ところどころにポタリとインクのしみをこしらえながら、それでもうれしかった。次の万年筆は、初めて自分が原稿料というものを貰ったとき、文房堂でやはりウォータアマンを買いました。それはいかにもその頃の女の子の年にふさわしく小型のを。そしたら使うに余り便利でなくて、長い間持ってはいたがどうしてしまったかしら。原稿なんか一度も書きませんでした。それから、いつかも話した母の記念品。それからこれ。
きっとこれは長くよく役に立つでしょう。ガラスのあなたのお下りのペン皿にのせられつつ。そして、沢山の沢山のアンポン的物語とそうではない物語とを告げるでしょう。ときには魔法の小人のおはなしをも。
文房堂では同じとき、鉄製のどっしりしたブックエンド一対をも買いました。これは栄さん夫妻へのおくりものです。ター坊の思い出の日があのひとたちの十五年目の結婚記念日の由です。祝うようなんじゃないと云い、それもそうですが、ともかく十五年は一区切りだから、その本立てをあげます、私たちからとして。二つがあってはじめてそのものとして役立つというところがブックエンドを選んだ所以です。
原さんはもう退院して赤ちゃんと世田ヶ谷へかえりました。卯女(ウメ)(卯(ウ)年の女の子だからの由)という名。中野卯女。この卯女という名は吉屋信子の「家庭日記」という小説の主人公の名だそうで、稲ちゃんもアラーと云ったのですが、お父さん氏の意見ではあの小説はそう永生するものではないからいいのだそうです(勿論その小説はよまないでの話)。
この頃、日本映画の製作が旺(さかん)になって来て文芸映画がいくつかつくられ、水準も高くなったと云われて居ります。伊藤永之介の「鶯」「若い人」「子供の四季」「風の中の子供」「冬の宿」その他。そして今や直さんの「はたらく一家」「あらがね」。文芸映画がどんどんつくられてゆくことには、映画の内的世界の貧弱さから作品を文芸に求めるということに映画としての問題があり、文学の方から云うと、鑑賞のちゃんとした規準がないために、作品そのものが不具なりに適応している。映画がそれをそのままもっと表面的な気分で描いてひろげるから、生活的な影響が益〃わけのわからないものになってゆく。そういう相互的な関係を生じて居ります。シナリオ・ライタアが真面目に求めようと欲しているところは察しられますが、自身独立にシナリオとして生み出す力がかけている。そのことも文学との関係も、実に歴史的な相貌と云うべきです。
明日は十二日。あさっての朝は出かけてこのペンをお見せし、さすがのあなたもへるほどにお祝をねだるつもりで、大いにたのしみです。
十三日にお気がつくかしら。私は髪のかきかたをすこしばかり変えたのですが。あんまりキューとひきつめていていやなので、殆ど元のとおりですが、左の方をすこしわけるようにしてかきつけることにしたのです。そしたらまんまるい顔がすこしたてに長めになり柔かみもつきよくなりました。これもお祝のひとつかしら。
こんど島田へ行っても、もうお母さんが、何とかもうすこしゆるめて結えないかしらと仰云らなくてもすむわけです。書きながらクスリとしているの、だってあなたはきっと一目で何だかユリの顔だちが変ったようだとお思いになるにちがいないが、それが櫛の一つ二つの使いかたの変化だとは、きっとお気付にならないでしょうから。きっとこの手紙をおよみになってから、フーンそう云えばすこし変ったかなぐらいのところでしょう?つまりあなたがおかきになるようにかきつけるわけです、はじめ横に、それからずっと上の方へ。秘密はたったそれだけ。
さっきハガキが来て絵かきの光子さん夫婦、三月四日立ってアメリカへゆくそうです。アメリカでも見ないより(博物館等ボストンなど)ましでしょう。が、率直に云わせると淳さんコンマーシャライズしないかと些か心配です。絵のモーティブが私にはわからないようなものをもサロンの飾りとしてかいているから。子供はお祖母さんにあずけて。お約束の十日までの計温を。
二月一日――十日。
起床計温消燈
一日七時半六°十時
二日七・一五六・三十時半
三日八(目をさましてから三十分ぐらい)六・一十一時十五分位
四日七・二五六九・三〇
五日八(〃)五・九十時四十分
六日七時十分五・八九・四〇
七日八(〃)六(これは夜十一時会からかえって)十一時
八日八六強十時
九日八五・九十時四十分
十日七時二十分五・九十時五十分
◎こうやって手帖を出して写すと、一つの希望を生じます。いつかは、これを書かないでもいいという位になりたい、と。
二月十三日午後三時
今、おひささんがお客様のための皿小鉢を洗っています。私は指図をしておいて一寸二階へ上って来たところ。さっきシャツのボタンをつけ小包にこしらえながら、もうすこしで声を出して笑いそうな気持でした。今もそう。きょうは、あの万年筆を見て頂こうと思うのが一杯でそのほかいろんな云う筈だった文句を一つも云わずに来てしまったのが如何にもおかしい。何だかあなたも笑えるような御様子でしたね。ユリのとんまなような、一心なような、滑稽ぶりを見やぶられたらしいと思います。
きょうは、皆が私に御褒美をくれるのですって。心からの御褒美をくれるのだそうです。大変にうれしいと思います。こういうことをされるのは初めてだから、私のためにみんながどこか私の知らないところでいろいろ相談して、呉れる人たちもよろこび勇んで、きょうを楽しみにしていて、サア、と呉れる御褒美は本当にたのしみです。虫退治も功徳を伴ったと笑えます。何をくれるのでしょう?見当がおつきになりますか?何でしょう。これこそその場にならなければわかりっこなしです。二人であけて見ましょうね。何か物ですって。
二月十五日
全く思いがけないおくりものでしたね。私は簡単に自分の誕生日と考えていたら。はじめ坂井さん、てっちゃんが来て、七時になってもほかの連中は現れない。もうおなかがすき切ってしまって、ポツポツおなべをいじっていたら、戸塚、昭和通、重治さんと一隊が入って来て、部屋の隅に長い丸い棒のようにまいたものを立てました。おや、とすぐなかみがわかったがそれでも私は意味は分らなかった。ずっとあとになってわかって、さてその絨毯をひろげて、うれしさが急にあふれた如くでした。お金は三十三円ぐらいで、そのうちで今絨毯を見つけようというのだから重治さんも大分苦心した模様です。ついに三越で見つけた由。掘り出しものです。そういえば、いつか家具部を歩いていたとき目にとまった色の調子だがねだんを見ようともしなかったものです。日本の家とよくつり合う、東洋風のうす茶、碧、黄、白の配色で本当にきれいです。三畳ぐらいの大さ。寿江子がスケッチ、エハガキにしてくれます。本当にうれしいわね。でもどこに敷きましょう。二階は椅子とベッドで畳はやっと一畳ぶん空いているきり。茶の間はおひささんが火をこぼし水をこぼす可能があるから惜しい。結局四畳半でしょうか。もし新しく家が見つかって、そこに八畳の室があって、勉強机とベッドとの間にそれをのばして、その上にねころがったり出来たら本当にうれしいこと。私たちはよく毛布を畳んでカーペットをこしらえましたね。そしてその真中に机をおいて。この絨毯の上には、あのお婆さんのくれた卓をおくとすっかり調和します。ふかふかとしたところに坐布団をおいて。私たちがこのカーペットの暖かさにつつまれて、というお祝の心であると云われました。皆は初めっから上機嫌で、十二時半ごろまで賑やかでした。この家はじまって以来の賑やかさでした。
〔七枚目右端欄外に〕
お笑い草
結婚第一年綿婚八年ゴム婚二十五年銀
〃五年木婚九年楊婚三十年真珠
六年糖婚十年錫四十年紅玉
七年絨婚(間をとばして)五十年金婚
二十年陶婚七十五年ダイアモンド
生れ月の宝石
十月オパールかトルコ石
二月紫水晶
きのうは、あれからかえって、お礼の手紙を書き、夕飯は林町へゆきました。咲枝が十八日にお祝いをします、お目出度の。その日にあっちこっちの会が重って行けない。(三宅やす子の七周忌、ペンクラブの会、柳瀬さんの結婚と中のの赤ん坊を祝う会)それで、ひさが休日をとったのでお湯に入ってかえって来ました。
さて、十日づけのお手紙をありがとう。十四日朝着。割合かたまりますね。八日に書いたが今頃着いたでしょうか。私が十一月に書いた手紙の中での希望について、丁寧にふれて下さってありがたく思いました。おっしゃる通りもうわかっては居りました。云わば眼を見ただけでも分るというようなものでもあります。それでも、ちゃんと、私の心に在った当時の重量を察してこうしてとりあげて下さることは大変にうれしい。こういう慎重さというものはお互の生活の中では大切な働きをしていると信じます。こういう慎重さによって私は自分の気持に対して責任を感じ、またあなたのお気持に対する自分の責任をもはっきりと知るのですから。いろいろな点から私はこの頃一層深くあなたという方の実に活々とした心持の抑揚やリズムや溢れるニュアンスを理解し、美しい巖にうつ波、とびちる飛沫、現れて消える虹の眺めに飽かぬ思いです。幸にして、私もいくらかはあなたにとってより興味あるものに成長しつつあるでしょうか。
この間、生活というものは背水の陣をしいてしまわなければ落付けるものでない、とおっしゃったこと。耳と心にのこり、面白く翫味(がんみ)しています。この言葉の内に含蓄されているものはなかなか一通りではなくてね。人間芸術家としての成長の真のモメントはここにあると思います。そして、特に面白く思うことはその内容がまことにダイナミックであって、一擢きかいてスーと出た、そのところで又次の一擢きが要求されている種類のものであり、ただその一擢き一擢きを必然にしたがい、かきつづける気力が人間にあるかないかというところがある。沖へ出れば、そうぐるりに小舟はいませんものね、何となく波うちぎわをふりかえり、そこと自分との距離を感じる方が多い。そこでたゆとうところにブランデス時代の天才の悲哀が語られ、誇張もされていたわけです。
人生における背水の陣の意味を一たび理解しそれに耐えるものは、追々成長の異った段階で、一層新しい発見をするから面白いものです。
合理的な生活を希っている道の上に不合理として現れて来る例えば手伝いのことなど。今日では不合理性が、見つけるにむずかしいというような末の現象からしてさえ実にはっきりして居ります。しかも私の日々にあっては不合理の根底が深甚であってね。客間というようなものをおかないという生活の条件がやはりここにも反映しています、大きい因子として、ね。誰か私のほかに人がいる、その点で。こういう避けがたい私の必要と、Sのお嬢さん的偸安とが結びつくことは警戒しなければならないのは確です。私の生活にも関係している点と仰云るのはよくわかります。人間の気持のずるさでSをだしにしたり、Sにだしにつかわせたりしては何にもならぬこともわかります。実際に生活しはじめるのは当分先のことですが。
シャツのことなど、それは本当に、うまく気候にしたがってお着になるのがあたり前です。そのことで特別に弱くなっていらっしゃるなどという考えかたは決してしないのですから。本年は平均より七度近くさむいのよ。私は今年はじめて昼間も綿の入ったどてらを着て机に向って居ります、その位ですもの。
では又明日。雪が降りやんで雀が囀って居ます。赤い花実にむかってする雀の啄(ついば)みやその啄みをかえそうとしてゆれる枝の景色はなかなかつきぬ風情をもって居ます。 
二月十六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(自宅の玄関付近の絵はがき)〕
描いてくれた当人は、失敗失敗と云って居りますが、これだって判る、と出す次第です。左手の垣沿いの小道が少しひろいように見えること。前が生垣つづきの一間ぐらいの小路。左手のつき当りに家があ〔一〜二字不明〕裏の上り屋敷の駅のところの欅の梢が見え、雪の夜など電車のスパークが見えます。貨車が通ると家じゅうゆすぶれます。有斐閣注文しました。 
二月十六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(絨毯の絵はがき)〕
これが十三日の絨毯です。夜描いたので全体すこし色がきつめですが、大体こんな感じです。三畳しきです。おなじみの箪笥の前で椅子にかけてのスケッチです。これは私が寿江子の弟子になって壁だのタンスだの障子の棧だのの色をぬり、ぬるときはおとなしく、これでいい?ときいて注文を出すときはえらそうな声を出すと大笑いをしながら描いたもの。 
二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日第十五信
十四日づけのお手紙をありがとう。きのう頂きました。かえってすぐ返事を書こうと思っていたのですが、そちらへ行ったら十四日のときの受けたものと余りちがった印象だったので、たった間一日のうちにどうしてそういう激しいちがいが生じているのだか咄嗟(とっさ)にそちらのお気持に入って行けなくて、戸まどいを感じ、何だか悲しかったから、その気分がしずまるきょうまで待ったわけ。
きのうすぐ書かないと云ったら、きょう、いやな顔をなすったけれども放っておいた意味とは全く反対の、そういうわけ。
正直なところ、今もやっぱり私には、あなたがあれ程の顔をなさるのが、何か唐突なのですが。私のやりかたに原因がないというのではなく。確かにそうであっても、でも。びっくりしているようなこの気持わかっていただけるでしょうか。ただ対照から、そうつよく感じるのでしょうか。どうお思いになるかしら。
家のことは、お話したように省線の便利はあった方がよいという附随的な条件なのですから、そちらへ歩いて通えるということが条件第一条です。寿江子が一緒に暮さないのだから、ひさと二人の生活を考えて見つけるわけです。きのうはあれからまっすぐ家へかえり、途中で買った地図をしらべていましたが、気持が落付かないので出かけて、そのぐるりを相当歩いて見ました。札は一つもなかった。そちらの裏手の東横とでもいうあたりには大きい雑木林があるの初めて見ました。真中に四間通りが一本通っていて、やがては住宅地になるのでしょうが、きのうは雪が落葉の上にあって独特の眺めでした。護国寺の方から市電が池袋までのびるところで、いかにも新開地らしく、古い餌差町という停留場の棒が立っていたりして居ります。こっち側と池袋の駅よりの方歩きました。自分で大体の当りをつけておかないと、ひさを見させるにも具体的でないから。明日は土曜日ですから或は又何か見当らないものでもないかもしれません。この頃は、もう裏から電車とバスで出かけて居ます。行きの時間には相当もまれる、それももう大丈夫ですから(歩ける距離に見つけるまで、)
勉強の方は、入院前よみかけていたものプルードン批判をよみつづけて居ります。書く方は、『文芸春秋』が小説をのせるようにして見たいと云っているので、それを今ねっているところです。短篇ですが去年の秋ごろから心にとまっている題材です。お手紙に云われている創造力の源泉の問題は、私の場合ではやっぱり生活の掘り下げかた、生活への沈潜度の問題、その条件としての私の夾雑物への目のつけかたというようなものとむすびついていると思います。ここには非常に興味があり且つ微妙な問題があるので、多難な時代の中で成長してゆこうとする芸術家の努力の様々の段階のプラス・マイナス層が現れていると思います。いつかの連信の中であったか、或は他の手紙の中であったかに、一寸ふれたと思いますが、条件に対する抵抗力というか独自性の自覚(歴史にふれての)というようなものを、外へ向って押すように感じていた時代(これは表現は変化しているが期間としては相当長いように思います、一九三〇年頃から昨年ぐらいまで)その範囲で、「健気(けなげ)な」執筆をもしていた時代。勿論そのときはそれで精一杯であったのですし、そこにある反面のものにも心付かなかったのですが、去年の冬、それから暮以来(あの大掃除を区切りとして)これまでの自分が作家としてもっていたプラスとその反面のものが見えて来ました。だから同じぐらいの短篇を考えても、これから書きたいと思っている気持から例えば「小祝の一家」ね、あれをよみかえし考えかえして見ると、今の自分には沈潜度が不足していると感じられます。では何故沈潜度が不足していたかというと自分が認めるより正しさよりよいものへ向う面と、その一方自分にまだまだあるところの負の面とのいきさつがじっくりとわが胸に見られていなくて、現実に前の方の目だけでぶつかっている、そのためにあるよさはあるとして、足りないものがある、芸術品としては。つまりあの一篇の中に「忘られない或もの」というものがあるでしょうか。それだけ突こみ、迫り、描き出したところがあるでしょうか。ここが面白い。作品にそういう奥ゆきが出るということ、味のあるということ、それはとりも直さずその作家が自身の心にもっている複雑性の把握の厚みの反映ですから。
この点については現代文学史的な含蓄があるのです、私一ヶのことではなく。沈潜を、正当な発育の方向に向ってやって行かず、(外部の歪ませる条件と自分の内の歪むまいとする希望、にもかかわらず歪みに吸いよせられる条件としてある(存)もの等をきつく見較べてゆかず)所謂おらくに自分の上に腰をおろしてしまって、元来は文化の歴史のマイナスの面がむすびついて一見文筆的才能と現れているようなところへ沈潜して行きつつある顕著な実例がある。音を立てず、而もそうやって水平線が岐(わか)れつつある。深刻なものです。「雑沓」が旅立以来無銭旅行的テムポであるというのは名比喩で一言もありませんが、私としてはそういう全局面の見晴しから、一時たまっている水のどっとはける予感でいるわけです。自分論は、生活的な面からそして文学的なものからもふれていたと思いますが、そういう気で書いていたのですが。自分の生成の過程その拡大、そのプロセスにある諸相として。自分についてそのように見直してゆこうとするものが全く作家としての欲望の一表現であると感じられていたと思います。自身の作品へ対しての様々な希望、現実のありようについての疑問もとりのけられてはいなかったのです。作家としてのよりひろがりと深化と芳醇化とをはげしく求める気持がある。そこから。あなたを目の先におかずに、という風なことわりがきが書かれたのも、あれは単にあなたへ向っての知的陳列の欲望とはちがったものを書く動機として感じていたからでした。歴史的な文学的プログラムがいるという感じも、そのつきつめから生じています。
この前のお手紙に、到達されている省察の上に立って生活と文学との実際でそれを具体化してゆくためにはなかなかの辛苦がいるだろうと云われていたのは全く本当だと思います。具体化してゆくためには一つ一つと営々と書かれて行かなければならず、そのことでは本年は考えるだけ苦しくつきつめるだけのところから出て来ていて、書く時が来ていると感じます。家が歩いてゆけるところに見つかったら、そのことからもいいと思います。「自分でも認識出来ない負的習性」というものは実に出没自在の厄介ものであるわけであり、「私」の問題も片面ではその最たるものでしょう。例えば表をきっちりつけないこととか、事務的にしゃんとしないこととかをもそのうちに数えられているわけですが。そして、その事自体より複雑な不快をあなたに与える心理的な性質をももっていると思われます。私はこの頃は自分の負性ということについては偏見なしに考えられるようになって来ているし、傷つけられる心持もなしに批評の言葉をもきこうという傾向です。環境的市民的性質のマイナスの作用のことも、謂わばこの頃身に即したものとして見ることが出来、その点も、自分の善意を肯定してその点から自分はとりのけとしておいて、そういうものを歴史性において見るという態度からは育って来ていると信じます。そして、真の成長のためには、現段階で自分のプラスにたよるのではなく、負性に対する敏感さが欠くべからざるものであるのもわかる。「雑沓」が真に描かれるにはこの一点が何か真髄的に重大なものであった。そういうものがそれだけ重大だと分ったのが、昨年夏以後の苦しさのおかげであるというところに、又見のがせない意味があるわけです。
表のこときょうはサボタージュしたねと云われてしまいましたが、十七日にはじめてそちらへ行ったとき、もういいでしょうというようなことを云っていて、それから又あとに、熱は十日まででよいがと云われ、じゃ二月一日からちゃんとつけて、というようなことだったと思います。あなたがああいう目をなさると、駄目よ。私はとたんに叱られる子供にかえったような工合になって、困った気ばかりするから。あなたが、ちゃんとしない、そのことの奥にあることへの気持で仰云るのは判るのですが。ああいう目にいきなり息をつめてしまうのだって、やっぱり私の負性の一つかとも思ってしまいます(半分本気。半分冗談)でも、勿論これは、あなたが私に向ってはどんな顔をなすったって、目をなすったって、いずれもよし、という土台に立ってのことですから、どうぞそのおつもりで。私も段々えらくなってたった一遍でもいいからああいうコワイコワイ目をしてあなたを見て平気でいて見たい(!)
一婦人作家というのは、「木乃伊(ミイラ)の口紅」の作者のことでしたろうか。官能の面の解放者というのはどういうところでのことだったかしら。大正の文学におけるこの女作家の持っていた意味は、単に官能的描写にたけていたということではなくて、男とのいきさつに於て、女が女として自分の我を主張しているところ(官能そのものの世界においても)、しかもそれが我ままの形、身を破る的悲しき荒々しさにおいて出て居り、最も自然主義的な内容でも非理性的で生活も発展の形よりも流転の形をとったことに当時の歴史がうつっていると思われますが。この婦人作家が、その後、一方でよりひろい見聞にさらされつつ他方昔ながらのものに足をかけて生きているために、流転も往年より内容において複雑となり害毒的になり、破綻的となっている。プラスであろうとする側のもので緒口(いとぐち)がついた人的交渉をも、マイナスのもので潰して結局健全な部分(人間的にも文学的にも)からは全く離脱してしまう道どりは、現実の仮借なさを語っていると思われます。
――○――
十時に消燈がどうしてもおくれることについて。どうして、どうしてもなのか納得ゆかないと仰云った。いつも決してゆかないのとはちがうのよ。どうしてもという表現は、あらゆる努力にかかわらず、ではなくて、何と云っても、或はやむを得ず、そういう範囲での内容です。私のいろいろのことに対する要求のお気持から、どうして、どうしてもなのかと仰云るのは分るが、そういうものからすこし間隔をおいて、毎日の暮しの中にはいりこんで来るあれこれ、子供や全くの病人ではない生活のあれこれというものの実際の面から御覧になれば、とりあげて一々の例を並べ立てるまでもないこととしてわかっていらっしゃるのです。そう思うわ。その日の風まかせにフラフラ暮していて、問いつめられると、窮してどうしてもねなどというわけではないのだから。私は自分の生活ぶりの全面的感銘からあなたに一日も早くそういう点に到るまでの心づかいを、注意を不要と感じさせたいと思います。
一日の割当ては、大体午前中に面会と、その他の用事をすませ、午後から夜勉強の時間に当ててゆくつもりです。ものを書くことで面会を休んだりはしないでやってゆく決心です。二つのものが一つしかよしんば書けないとしても、それはそれでよいと思って居ります。私にとってのねうちは、ちがうのだから。去年は毎日の出勤に全くなれていなかったことや内部的に整理されないものが少くなかったことや、体に虫をくっつけていたことやらで、毎日、出てゆくこととその後の印象の噛みかえしと、手紙とで過ぎた如くでした。が、それはやはりそれとして、実に収穫がありました。本年は一歩前進です。出かけて、そして書いて行きます。
――○――
きょうは、よくお話しするバラさん(榊原)が来たので、あのひとは大塚から西巣鴨にかけての地理をよく知っているので、一緒に来て貰って、西巣鴨二、三丁目を随分隈なく歩きました。そして、何と皆それぞれ納っているのだろうとかこちました。そちらの向い側です、バスの通りを挾んで。それから、今度はそちら側にうつって、ずーっと池袋駅に出る迄の裏をさがしましたが、これもナシ。工場といかがわしきカフェーがちゃんぽんに櫛比(しっぴ)して居ります。鉄、キカイの下うけ工場があり、ゴムの小工場がある。昨日歩いたところとは同じ側のすこしずれたところですが。歩いて十五分―二十分ぐらいのところは理想的ですが余り望みない。昔からの条件で界隈の性質がきまってしまっている様子です。中途半端のきらいはあるが、雑司ヶ谷五丁目のぐるりには気をつけていたら或はあるかもしれませんね。七丁目となると東京パンのあたりでずっと遠いし。大体見当はついたから、これからそちらからのかえりにも気をつけ、おひささんにもさがさせます。おひさ君はやすとは全くちがった気質です。アラーつい見なんだと目の前にあるものも見ない、そういうところあり。いきなり家をさがしに出したとこ。そういう点やすはしっかりして居りましたね、自分の判断というものをもって行動した。感心でした。
○さっき徳さんより来信。十九日(日)のばして二十日の分は、用事のためとばすと云ってよこしました。冨山房の辞典のために荀子、老子というようなものを調べているらしい模様です。
○十四日には、あわただしく手紙をかかせ、十六日には御飯のお邪魔になって御免なさい。この間うちは外の暖くなるのを待つ心持で出かけていたので。十四日には前日でくたびれでのそのそしたのですが。これからは又そちらへ九時前後につくよう出かけましょう。
虫が退治られて、きのうも二時間余、きょうも二時間近く歩きまわって足がくたびれただけというのは実におどろくべきことです。よこはらが苦しく、すこしどっさり歩くとおなかじゅう苦しくなったときの気持と比べると。気がつかれる程度のちがいは相当です。
二月ちゅうは毎日ではなくと考えて居りましたが、もう毎日にします。
○有斐閣の本、代金引かえで送るよう注文したから明日あたり着くでしょう。
○いまごろは待ちどおしくて而してこわい手紙がその辺のポストに入っているでしょうか。鉄の赤ポストは公園の鉄サクやマンホールのふたなどとともになくなります。瀬戸もののポストになります。街の燈柱もコンクリートになるのでしょう。『片上伸全集』は興味があると思いますがいかがでしょう、私には心ひかれるものがあります、手紙が収められているそうですから。では明日。 
二月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十九日第十六信
又ひどい風になったこと。二階は縁側なしだからしきりにガラス戸ががたついて居ます。
きのうはあれからかえったら、玄関に男下駄とインバネスとがあり、誰かと思ったら、いつか手紙に書いたことのある甲府のひと、盛に鶏の毛をむしっている。柳瀬さん中野さんの祝いに出席するために、八年目の葡萄酒と山鳩二羽と、私へは鶏をもって来て呉れたのだそうです。とりをつくるの、実は見ているのがいやなの。とりやへやるからと云ったら、肉をかえられるといけないとこしらえてくれました。汗をかいて。そのうち栄さん来。栄さんの芥川賞候補は候補にとどまり、貰ったのは中里恒子という人です。稲子さんが新潮賞の候補にあがったそうですが、こっちは「子供の四季」や「風の中の子供」をかいた坪田譲治と「鶯」その他農民文学をかいている伊藤永之介に行きました。こう並べるといかにもその常識性が新潮らしいでしょう。文学的文壇的常識というよりも、市民的常識が匂う。えらいと云われている人には先ず頭を下げて向ってゆく風な。千円ふいになったと大笑いしました。柳瀬中野のお祝いの会はいかにもその人々らしい会でした。久しぶりにいろんな人の顔を見ました。千田さんのイルマさんが子供をお母さんに見せに八年ぶりで一寸ベルリンにかえってゆくそうです、八ヵ月の予定で。八年の年月は、実に昨今では内容的だから、さぞいろいろの感想の深いことだろうと思います。かえって話をきかせて貰うのがたのしみです。イルマさんだけ行くのです。いろんな人からあなたへのよろしく、よろしく、お体をお大切に、ということでした。
きのうは、会へ行く電車のなかでも、テーブルに向っても、折々朝のうちの匂いたかい花束が近々と顔に迫って来て、むせぶようになりました。私は花の香には実に感じ易いから、あんまり芳しいと気が遠くなりかかります。
きのうは、前便で話していたように会だらけの日でした。けれども私たちは中野さんにも骨を折らしてお祝を貰ったから、中野さんたちの会だけにしようとしていたら、三宅やす子さんの会に是非来て呉れるようにというので、それからエイワンへ稲ちゃんと二人でまわりました。AIはイギリス人の細君とはじめた、初めは小じんまりとしたところでした。父たちぐらいの人々がそのイギリス風をひいきにして段々盛になって、この頃では新築して株主をこしらえたりしています。この会はそれぞれ面白かった、というのは、テーブルスピイチをする女の人が皆相当の年で、それぞれの職業で一家をなしているためその特長があらわれて。例えば村岡花子というラジオの子供の時間にいつも話しているラジオの小母さんは、実に自他の宣伝上手でまるでラジオで話す通りのアクセント、発音、変な無感覚性(きき手に対する)で話すの。実に可笑(おか)しい。それから作家でも吉屋信子の機智の土台のあの小説らしさなど。私は三宅さんのもっていた矛盾やその未解決さや生きかたの或正直さなどを話し、きっとそれもはたから見ればやっぱりにんにあったことを云ったのでしょう。
稲ちゃんのところでは達枝ちゃんが今日三越のホールでおどりのおさらいがある由です。
今これを書きかけて思ったことですが、私たちは一つところに暮していないために、一緒に暮しているより一日の沢山の時間をお互のために(内容として)つかって居ます。本当にそう思う。こうして書き出して、私は決してもう書くことがなくなったと感じたことはないのですもの。あなおそろし。三時間ぐらいはいつも、です。これからは毎日すこしずつお話をしてゆくことにしましょうかしら。
『片上伸全集』のことね、私は文学史的な意味からも買おうと思います。谷崎精二氏が編輯に当っている由です。この人の些かの良心によって手紙も入れられたらしい様子です。内容見本お目にかけましょうね。私も知らないから。
それから三円のこと。思いつきになりましたか?和英どうでしょう、一寸ほかに名案が浮びませんが。
私の考えている小説は今日の母の心持です。いろいろうけている感銘があります。それが書きたい。心持の内側からね。健全さというものの生活的な地味な苦痛をしのんでいる本質について。華やかな時代のヒロインならざるものの生活を貫いている真実について。おととしの冬ごろに小説としては一番おしまいになった短篇で、若い良人をもっている若い妻の心持を、時代的な一般の不安の面から書いたことがありましたが。小さくても、主題ではなまけていない小説をかきたいと思って居ります。
本年に入ってからは、この間お話したようなわけで、すこしずつかけてゆくらしく、『文芸』の日記(キューリ夫人の「科学はものに関しているのであって人に関しない」と云っている言葉への疑問、それを深めかねているエヴの作家としてのプラスマイナスなどにもふれ)十枚。『三田新聞』の、日本映画とその観客とのこと、所謂文芸映画のふくんでいる文学としての問題、映画としての問題、田舎へ送られる映画の種類の文化的質の問題、見るものの人間的自主的な判断の必要など七枚。『婦公』の若い婦人におくる言葉一枚、というような工合です。去年は三田と法政の新聞に五枚、七枚ぐらい書いて未曾有の稿料レコード総計七円也。夏水道の水が実にとろとろしか出ない。実にそれではこまる、やってゆけない。だが、たとえ一筋でも出るからには、水道局は全く水を止めたというこごとは受けないでしょう。市民諸君が水をつかいすぎるから云々、と。今度市で、一定戸数に対する一定数の井戸を掘ることにきめました。防火・断水対策として。この家は、一つ井戸がありますがそれは今使いません。しかし裏の家主さんのところにあります。
家、きのう、正門の前の自動電話の横を入って一寸歩いて見ましたが、全然駄目ね。きょうこれからおひささんを出して見ましょう。下駄の鼻緒を切らして、直してもらってからよくそこで下駄を直すお爺さんがついそちらの門前にいます。そこでもきいたらないらしい。すぐふさがる。六、二ぐらいの家である由、あの界隈は。西巣鴨二丁目という辺はきっとバタやさんが多く甚しいくねくね小路で空巣もあるらしく、何かききたいと思って格子に手をかけてもスラリとあく家はありませんでした、二軒ばかりできいたが。空いている家かと思ってきいたとき。空巣では私たちも笑う思い出がありますね。動坂の家で。あなたの大島だけぜひ出させろと私がねじこんだというようなゴシップつきの。そして、その一味の婆さんが一緒に弁当をたべるとき、きっと私に向っていただきます、とあいさつをしたという世にも滑稽な話。滑稽でも空巣とのそういうようなめぐり合いは恐縮です。
さて、一月中の表を思い出してつける、これはほんとの大体で今これをかくというのも気がさすようなものですが。手帖を見ると、成程一月に入ってからは計温書いていないで、二十九日ごろから又つけて居ります。
○一月一日から退院する一月十日まで。朝七時半。消燈九・三〇。熱は平均朝五・九ぐらいから六・二三分(六分どまり)でした。
○退院後は、朝さむいし、起ききりにならず暮したので、朝九時ごろ夜は十時ごろ消燈していたと思います。熱はもういいことにして頂こうと思ってとらず。
十七日、初めて面会に出かけました。二十一日にゆき、二十三日にゆき、二十七日にゆき、三十一日に行って居りますね。十七日ごろからもう昼間床につくことはしなくなっていたと思います。それでも朝は床の中にぐずついていた。やっぱり九時前後でしたろう。宵っぱりをしていたとも思わない。二十九日六・三、三十日六・四、三十一日六であった。手帖にそう書いてある。二月一日からは気をつけてつけてあり起床についても平常に復しかけて居ります。
○これからは朝を七時にくり上げ、追々又六時に戻しましょう。この朝おき宵ねについてはまことに遅々たる有様ですが、昨今では、夜おそくなるのは段々実際上困るようになって来ているから、これでもあなたの勘忍袋の効果はあらわれているわけです。初めのうちは正直な話、ほんとうに誰のためにやっているのかとあなたに大笑いされそうにやっとこやっとこであったが。私だって、きっとひどいお婆さんになれば宵ねがすきで寝ていたくても寝ていられないと朝おきるのだろうと思うと可笑しい。そっちだけ大婆さんになる法はないでしょうか。
ああ、この間白揚社からブックレビューをしてくれと云ってバッハオーフェンの母権論という本を送ってよこしました。どこかの先生で坊さんらしい人が翻訳しているのです。母権論の序文を。長い訳者序をつけて。神代の神話にからめ、女は働いていさえすれば隷属はないというようなことや、母たる感情の本源性を強調して。これはこの頃の一つの風潮です。母と子とがこの社会での現実の関係ではなくて心霊的結合であるかのように。女において最高の感情を母性感におき、同時に大飛躍で女の勤労性の強さをぬき出して讚美する風。実際上この二つのものの間にある様々のものにふれずに。
病気をする前に、新しい興味で勉強しなおしていた本は、バッハオーフェンの先駆的な意味を十分に明らかにしていたのでそのブックレビューは、今日を生きている女としての現実に科学的なよい意味でのアカデミックな裏づけをもって書くことが出来てうれしかった。プルードンへの批評にしろ、五千円範囲の住宅建築には今度の増税もかからないというような点と結びあっていてやはり面白いこと。
○十日ずつでよんだ本の頁数をノートをするということ。きっと面白いでしょうね、些か中学生風であるが。仕事をどの位したかということが、様々の形でわかって。あなたは大変に大変に狡いわね、忽然として今そう思いました。私のすこし子供らしいところをつかんで、そういう表にすれば欲ばってやるとお思いになるのでしょう?一日だってブランクを出すのは心苦しいと思うとお思いになるのでしょう?くやしいこと。私はそれには、やっぱりかかってしまうでしょうから。但小説をかいているときは一日に何枚としか記入しないでもいいこと、これはきっちりお約束。一枚だって半枚だって一行だって、実際あることですものね。では又明日に。 
二月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十一日第十七信
雪が雨に変ってすっかり寒い天気になってしまいました。今そちらの門のところ、道普請(下水工事か何か)あげくで、ひどい泥濘と云ったら全くお話のほかです。
早速ですが枕のこと、ききましたらやはりスポンジは入りません。空気枕だけの由。年中御旅行中とは恐縮ですね。どうしましょう、それを買いましょうか。
昨日は、かえって暫くしたら婦公の婦人記者来。いろいろ話していて、女の作家のところへ行くのが一番気骨が折れます。なかなか作品の話などついうっかりは出来ませんし、云々。盛に云っているので可笑しくなってしまった。そのひとは私を思想家というものとしているらしいのです。そしてそれは思想家や宗教家の方という形で並ぶものであって、大変包括力があるのですって(!)大笑いをしてしまった。お役所につとめていて、記者になったひとの由でした。
四時すぎごろ重いブックエンドもって栄さんのところへゆき、つれ立っておっかさん[自注3]のところへ出かけました。偶然半丁ほどのところへ越して来ていたのでびっくりしました。六畳の部屋をかりて壁に服をかけ、隅に譜面台などあり。清潔に小じんまりしている。そこへお母さんが相変らずの小づくりながら、つやのいい元気な姿で坐っていて、てっちゃんもいました。マア雨が降るのによう来て下さいました。そして、息子の三年目の洗濯ものを来た日に親類へ皆負って行ってすっかり洗ってやり、次の日二人で家さがしをしてここを見つけた由。来るとき、秋田のどことかとどことかとへよって九日間の切符ギリギリについたとか、汽車の食堂でパンをたべる話そして何里も来る間ゆっくら休んでいる話。三人で、あっちのバター、燻製の鮭、美味いつけものなど御馳走になりました。花をもって行ったのを写真の横に飾り、おじぎをしたら、おっかさんの実に気持のいい生活の気分と一緒に、涙が出るようでした。本当に生活のひとふしずつを愛してたのしんで、丈夫でよく働いて、つけものの話や息子の着物をさしこに刺した話や牧場で牛乳でジャガイモを煮る話や、そんな話をしているのに爽やかで気が和んで本当に新鮮です。栄さんと二人でびっくりしてしまった。悧巧なひと、しっかりもの、情のふかい人、いろいろ傑作はありますが、ここにも一つの傑作ありという感でした。そして生活する地方というものは何と面白いでしょう。一日に一遍はパンにバタをつけたのとリンゴとソーセージぐらい、牛乳とたべるのですって。そして牧場で、ホワイトソースをこしらえかたを教えてやったら、十年やっている(牧場を)のにはじめてだって、草苅に手伝いに来た人はコンナどんぶりに六杯もたべました、美味い美味いってね。あっちに暮しているのは、親戚も多く皆から来てくれ来てくれと云われ、本当に楽しくて豊富でいいのでしょう。この息子がもっとしっかりしていると申し分はないのだけれども。四月の初旬までいるそうです。四月に旭川の技師の細君になっている娘が(妹娘。)赤ちゃんを生むのでその手つだいのためにかえるのだそうです。すこし暇が出来たら何かよろこばせることを考えるつもりです。
達ちゃんの手紙、お話したようにあなたのお手紙を見ての分です。もう楊柳の芽がふくらんで来たそうです。正月九日迄大同で十日から動き出し、内蒙、黄河畔、陜西省境をまわって七日に一ヵ月ぶりで帰り、当分休養の由です。丁度そこへ手紙や荷物がつくことになればようございました。隆ちゃんはあっちへ度々たよりをよこすそうです。そして軍隊の空気にもなれたので楽になったと安心するよう云ってよこすよし。風邪一つけが一つとしなかったと書いてあります。
咲枝の兄の俊夫が(明治生命につとめている)一年半ぶりでこの間無事にかえりました。そして社報に日記抄を出しています。ずっと日記をつけたらしい。日ごろ妹たちにも大人並には思えないような風に見られていたのに。主観は単純であるが、こまかに様々の様子をかいていて、文章は独特に新鮮で、誇張、修飾を知らない味にあふれて居ます。水上瀧太郎にほめられたと云って大よろこびの由。阿部章蔵はあすこの親分です。文章をかくのが面白くなって来ているそうです。このひとは子供の時代の病気のため不幸な生理事情があって、家庭生活もこれまでは悲惨めいていましたが、その妻になっている人は(初め経済的条件だけ目あてだったのが)今度はしんから心配したし、そういう点も何か変化を生じたらしいそうです。いろいろのことがある。
○私はそちらへ通いながらでも、仕事をしてゆくことが出来る自信がつきました。事務的なこともちゃんと整理しておけば心配もないし、そちらに行って待つ間落付いた気持で、頭の中にあるつづきを考えていられるようになりました。これは大変にうれしい。それに、自惚(うぬぼ)れですみませんが、ユリは御飯だと、自分を考えているのですこの頃。どんなものだって自分の御亭主に御飯たべさせもしないで仕事にかかる女はいないでしょう?ね。だから、先ず一日のはじまりに御飯もって行って、ちゃんとたべさせて、自分もたべて、さて、それからととりかかる次第です。この御飯という考えは、その欠くべからざる性質においても私のようにおなかすかしには適切だし、なかなか生活的だと思います。しかも、私にあっては、よく仕事すればするほど、質のいい御飯がいるのですから、猶好都合です。
そちらに通う時間について考えていて下すってありがとう。大体三十分―四十分です片道。家から上り屋敷まで歩き(二丁)そこから池袋まで電車。それからバス。バスからそこの四角の二辺をぐるりと歩く。八時二十分ぐらいに出て、そちらへ九時三四分前。それから九時三十分か四十分まで待って、パチパチと話して、それからかえり。前後二時間―三時間です。十一時ごろはかえれます。
この家は、鉄道の柵の方から自動車が横通りまで入り、門から横通りまでは一丁ぐらい。その点は便利です。表の大通りまで三丁位で、そこからもひろえる、この間うちやっていたように。勿論朝八時すぎにはなかなかありませんが。どうしても歩くしか方法がないところとなると或場合は却って不便です。ここからは、先頃のようにおなか押えているときでも行けたが。あれが歩くきりだったら出られませんでしたね。きっと。目白タクシーというのが表通りにあって呼ぶと角まで入ったから。
寿江子は雪景色見物かたがたこの天気に又家さがしです。きょう、表のぬかるみがひどくて下駄の上までかぶるので裏へぬけて見ました。ああいう家々!もしどこかに火事が出たら人はどこへ逃げるのでしょう!一人やっと通れる小路をはさんでつまった小家。ああいう家も、猶家作であるというのはおどろかれます。この日の出という町で小学校の子供が生活の苦しさから自殺しました。
今年は、去年の夏以来のおかげで出勤にもやや馴れ、気持もゆとりが出来、又沈み重ったところもあっていろいろたのしみです。体も丈夫になって、毎日出て行って、ちゃんと仕事が収穫されてゆけば、私たちの生活も、相当に勤労ゆたかである訳でしょう。私は益〃はっきり、自分の作家としての生きかたを考えて、そうやって仕事してゆくのこそ自分の条件なのだとわかって来たから、ほかの形で仕事してゆく条件など毛頭考えません。――仕事の間(そちらへ行くのやめるとか何とかの意味)お早うと云って、仕事の話もするようになれると思うと愉快です。そうしたら勲章を胸にかけてさし上げましょうね。そのように、手をゆるめず、育てたのは謂わば貴方のお手柄だと思いますから。従来の習慣、これは林町的と云うよりは文学というものの従来のありようとの関係で、私は体を動かすことと机に落付くこととの調和を見つけることが実に下手でした。文学の勤労的でない性質の反映で。その点も進歩すれば、収穫もしたがって豊かになりまさって来るわけです。文学の生活的土台もこういう風に微妙且つ具体的ですから一朝一夕ではないわけです。
片上全集と一緒に婦人の法律をお送りします、明日ぐらい。
ああ寿江子がかえって来た、鼻の先を赤くして。鬼子母神のあたりや先を歩いて見たそうですが、大きい化ものやしきのようなのが一つ売又貸と木札を出していた由。
さてお約束の表、十日より二十日までの分。
起床消燈
十日七・二〇一〇・五〇
十一日七・四〇一一・〇〇
十二日八・〇〇一〇・四〇
十三日七・二〇一時半(ホーラ、目玉がギロリ、でしょう?これは何しろジュータンでしたから)
十四日九・三〇九・四〇
十五日七・四〇一〇・一〇
十六日七・三〇一〇・三〇
十七日七・一五一〇・〇〇
十八日七・〇〇一一・四〇
十九日八・〇〇九・四〇
二十日七・一〇九・三〇
仕事や読書の表はこれから。この間によんだもの、例のプルードン批判。小説ではデュ・ガールの『チボー家の人々』二冊。そしてこのブックレビューを三枚。ジイドの「贋金つくり」と並べているが、その質のちがいについて。映画について(『三田新聞』七枚)、『婦公』「最初の問い」一枚。そして小説についてこね中。
ほんとうに冷えること。おなかにこたえないでしょうか、シャツがあってよかったと思います。
きのう栄さんのところで、アメリカの通俗的な『ライフ』というグラフを見てアメリカ、スウィス、ロシアの雪だるま、と云っても巨大な芸術的なものの写真を見て実に面白うございました。アルプス附近は線が変に澄んで居り、ロシアの人形はいかにも雪国の重厚さ。アメリカのはイヴと蛇というような、あたじけないのでした。ではお風邪をお大切に。

[自注3]おっかさん――小林多喜二の母。 
二月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十三日第十八信
二十一日づけのお手紙をありがとう。蜜入りの特製牛乳の御褒美呉々もありがとう。あの製法にもなかなかなみなみならぬこつがあるわけですから、それを御馳走してやろうと思って下さったのはうれしいと思います。
表のむらなことは、おっしゃる通りですが、この頃又すこし進歩してね、表をつけなければならないのにムラだという結果からの小乗的注意からぬけ出て、一日を一杯に内容的に暮そうとすると、どうしても早ねも早おきもせざるを得ないことが、会得されて来ました。其故今後は従来よりも本質的な自覚で改良されてゆきましょう。やっぱり体のため、というようなことからだけではモーティヴが強いようで強くない。仕事を割当てて見て、その必然が身につく方がたしかだし実質的です。ユーゴーまで!実に笑ってしまった。だってね、ユーゴーが六時、十時と壁上にかいておいたのは何故か御存じ?あれは、決してそれが実行されず、何しろ当時のパルテノンで、徹夜して当時の文人が集ったから、それへの武装的布告だったのですもの。ユーゴーもまさかにその銘がここでこのように語られていようとは思いもよらないでしょうね。何と面白いでしょう。パンテオンのユーゴーの墓は立派でした。
読書のこと、きょう話に出た通り、何か仕事をしている間は、と云ったらきりがないということは本当です。それではいけないと思います。それに、出勤との関係で、急にキューキュー仕事をするということより、一日に少しずつ割当ててやってゆく方法をとらなければ仕事としても長つづきはしないことが明白になりましたから、来月からはキチンと実行して見ましょう。本月中は御容赦。
この頃は虫も退治され、栄養も心身ともによく薬も実に活力の源となるききかたをしているので、きっちりとして、而も収穫的に暮してゆこうとする努力がたのしさを伴っています。小説をかくにしろ、夜昼ないようにくいついて短時間に書くのではなく毎日毎日一定数だけ(五枚か三枚)書きためてゆく愉しさ。よっぽど昔、一番はじめの小説を、女学校に通いながら書いていた頃のような書生っぽさ、そんなものが甦ります。そういうようにして小説も書けてゆくというところに、小説そのものとしての新しい意味もあり、書く意味も生活的に深いわけです。私は、前便で書いたように、若いときからすぐ専門的生活に入って、その旧習にしんでいたから、或時期以後、生活の形が変り、動的要素が殖えて来たら、そういう面が不馴れで、精一杯のところで、そういう生活全体をひっくるめて掌握して仕事をどしどししてゆくという実力が欠けていた、今ごろ、はっきり其がわかります。文学の上の仕事ぶりそのものに一般的にある旧態(世の中一般のことよ)は、私の身にもついているのですから。現在、私たちの生活の条件が、私の心にある自然な要求に結びついて、こうして徐々に徐々に私の生活能力を高めつつあるということは、つきぬ味があります。遂にそこに到達しかけているということのうちにこめられているあなたの御心づくしと努力と忍耐とを、ありがたいと思わざるを得ません。今年は花も実もある暮しが出来そうですね。去年のうちに相当耕された土地に、本年はやさしい肥料がいかにもたっぷりという感じで。そして、それがどんなに必要だったでしょう。どんなによく作用しているでしょう。どんなに、それなしには伸びられぬという種類のものでしょう。その程度の深さ、おわかりになるかしら。楽々として、而もたゆみなく努力してゆくことにある愉しさ。それでなければ仕事など出来ない、単なるむこうっ張りや力こぶを入れた態勢では。いろいろのことから次第に奥ゆきのあるところまで生活がたぐられてゆき、それに準じて足どりも進むところは興味つきぬものがあります。二人の生活が血行よく循環して、現実的に豊富化されてゆくこと。歴史における意味についての理解から来る全面的な肯定が、初歩の時代に(生活の)ややロマンティックな光彩を添え、それはそれとしてやはり当時における真実であったのが、追々成熟して来て、結ばれかたは一層ときがたいものとなり、生活の成果も現実的に強固の度を増して来るという推移は、実に実に味が深い。一つ一つの段階がふっきれてゆくには時間がいるものですね。よい薬をたっぷりと体にしまして、私はあなたの数々のグッド・ウィッシェズに応え、枝ぶりよい花や、つやのよい実を生んでゆきたい。はい、これが一つ。それから、はい、これが一つ。そういう工合にね。よろこんで下さるでしょう。そして、どんなにホーラ御覧と、おっしゃるでしょう。どんなにそう云われても私のよろこびも大きいから、きわめて気よく、一緒になって、本当ねえ、と感服をおしみません。
小説は、ふかく生活にふれたものにしたくて本気です。どうかおまじないを。小さくても、私としてはこれまでと全くちがった条件(生活の)で書いているのだし、気持も或掃除後のことだから、作家の勉強のマイルストーンとしては決してどうでもよいものではない、そう思って居ります。生涯には外見上目立たなくても本質的にそういう作品があるものだと思われます。例えば、「一本の花」。あれは「伸子」からおのずと出て、然しまだ当のない成長の欲望が語られて居るように。
武麟は、純文学が生活からおくれてしまうかもしれない、と云っていて、そのことを直ぐ彼らしき文学の方向に暗示しているが、純文学を最も健全な意味で文学らしき文学と解釈すれば、作家の生活能力如何が、これからの多岐な社会生活の中で最後に決定条件となるものだということが益〃考えられます。そして、それは、明かに光治良氏のように妻君の金もちや、丸山義二君のように、二百円もらって温泉で農民小説をかく生活能力ともちがったものであるのだから。
母親がね、小さいときから赤ちゃんを抱いているため、段々腕の力がまして、相当重い赤ちゃんも比かく的疲れず抱くということ。屡〃思いますが、このことのうちにある自然の微妙な美しさ。
さて、今私は可哀そうなビッコタンです。けさ、上り屋敷の駅で電車にのろうとしたら右足のふくらはぎがどこかプキンとしたら、筋がちがったと見えまるで痛くて、今はヨードを塗り湿布をして小さい象やの怪我姿のようです。でも大したことはないでしょう。明日もゆきます。きょう御注文の三笠の目録も『科学知識』、もありました。『東京堂月報』、とりあえず、家に来ているのをお送りしておきます。和露は近日中に出かけてしらべましょう。
『科学知識』は予約しましょうか、毎号それぞれよむところがあり私もお下りをやはり興味もちますから。
『都』に、フランス文学と、アナーキスティックな思想の擡頭ということを書いている人がある。これはまとめて読んできっと又感想があろうと思いますが、いろいろ実にわかりますね。あすこの雑多性、それの時代的歪(ゆがみ)など。作家イバニエスの故国においてにしろ、そういう要素が活躍したのですから。簡単に燃え、たやすく消える装飾の灯かざりというものはいつもある。その幻滅を、文学的に修飾しようとするエセ文学趣味がある。自分のしんが燃えつきるとそれで歴史のともしびも燃えきったように思うおろかしさ。うぬ惚れ。いろいろある。文学は人間の精神をとまし、同時によごしてもいる。そのありようの条件にしたがって。
片上さんの第一巻(全部で三巻)一寸頁をくって見て、いろいろ感じ深うございます。文章が何と肉体的でしょう。今、こういう風にしんから身をなげかけて書いている評論家、こういう人間情熱が揺れているようなものをかく人はいません。皆とりすまし、自分を六分か七分出し、あたりの兼合を気にしている。昔『生の要求と文学』とかいう本があって、私の最初の本の棚にあったのを覚えて居ります。ともかくこの人としての声の幅一杯に出そうと努力している。そこに読者をうつものがあります。第一巻の序に、種々の理由から全労作は収められなかったとことわられて居りますが。今日の最も良質の情熱は、沈潜の形をとっているのも興味ある点です。
岩波の新書に武者の『人生論』あり、大して売れる由。どこでそうなのかと研究心を刺戟され、一寸よんだら一分ばかり常識をふみ出していて、しかもそれも亦よし式で方向がないこと、(読者を苦しませる)あらゆる読者がそこから自責とは反対の、自己肯定をひっぱり出すモメントに満ち、それを苦労なくオーヨーに云い切っているところで、売れるらしい様子です。武者式鎮痛膏ね。ではきょうはこれで。 
三月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二日第十九信
どーっと二階をかけ下りて行って、すんだ!と、ぺしゃんとあなたの前に座りたい。正にそのところです。今、四十何枚めだかを(まだ数えない)書き終ったばかりです。(終)と書いた紙をわきへどけて、これをひっぱり出したところ。
よく底まで沈んだ気持で一貫してかけて、うれしいと思います。力がこもって。川の水が流れるとき底の石粒に一つ一つさわってゆけるときいい心持でしょうね、そういう心持で書けました。
ここにはお茂登というおっかさんがいます。情のふかい、けなげな母親です。子供が出征して、寂しさで生活についても消極的な気分になるけれども、やがて子供の可愛ゆさで気をとり直し、子供のためにしゃんとして働いて生きて行こうという気になる母の心。そういう心持は、そとのこととして私を日頃感動させているばかりでなく、私の女としての骨髄をも走っている感情です。傷みを知らぬ気づよさ(一面の鈍さ)でなく、深く傷み、やがてその傷みから立ち直る生活の力。決して決して、肉厚なペンキ絵のようなヒロイズムではありません。惻々たるものです。小さいがテーマは確(しっか)りとしています、そして「小祝の一家」や「猫車」より心持が、すこしずつながら深められ、味が口の中にひろがるように、情感のひろがりがある(ように思われる。そのような気持で突こんでゆけたから)。
私がこんなによろこんで話すのは、こんなに底に触った心持で書け、そのような心持で書ける生活の心持がたっぷりとあること、それがうれしく、あなたにも、それはよかったと云って頂きたいから。そして、少しずつ毎日書いて、そっちへの往復の道々もずーっと考えつづけて、書いたというのも第一のうれしさです。私はもうこれからは、いつもそうして書いてゆく決心なのですから。第一回が、自分としては腰をおろして、調和の感じで試みられてうれしい。私のそういう心持を考えていて下すって、励して下すって、本当にありがとう。(きっと云いたいことも、マアあとにしようと思っていらしったのではないかしら。いつぞやのようなお目玉を拝見すると、私は小説どころではないのですものね、全く)先ず御礼を。あらあらかしこ。それにつけても思うのは、薬のききめです。何というよい効果でしょう。これは最も厳粛な意味で考えられ、この間の晩は去年の苦しかったこと、その退治。そして薬のみつかったよろこびを考えて涙をこぼしました。そのような薬にありつけるかどうかということは、つまりは諸原因についての態度がはっきりしての上のことですから。まだ亢奮していて、それが自分にわかります、一寸休憩。
さて、きょうは三日。三月三日、おひな様の日です。
けさは、機嫌よくよろこんで下すって、全くの御褒美でした。ありがとう。こういう風にして追々いろいろと長くつづく仕事もしてゆけると楽しみです。土台私は、決して夜ばかり好きとか、夜の方がよくかけるとかいうのではないのよ、その点では昔から、静かで明るい昼間を実に愛して、仕事して来ているのですから。どうぞ御安心下さい。
あれから大阪ビルへ行ったら、その廊下で先達って一寸お話していた大井という弁護士の事務所を見かけました。
大阪ビルから電車で三省堂へゆき、そこで和英コンサイズを二冊買って、速達に出せるように包んで貰い、松田という人の和露も見ました。この和露は殆ど只一冊の信用出来るものだそうで、専門家も八杉氏のロワとこれとを並用している由です。二冊と和英というのは光子さん夫婦への送別品です。一人で一冊はポケットに入れておかないと心細いのですって。この四日(明日)立って、四月一日にニューヨークにつくそうです。エイプリル・フールにつくのね、要心なさい、とからかったら、光子さんは正直者だもんだから、本当だ、やられるかもしれないね、と目玉をキョロリとさせました。六ヵ月いるつもりの由。それで400ドル。これは日本の金では千六百です。実に計算が立たないような有様です、どうやってゆくかと思うようですが、そこは絵かきは重宝で色紙や扇がものを云うから、作家のようではないでしょう。とにかく広いところを夫婦で見て、名画と云われるものの実物をも見るのは結構です。
和露は買いましょうか?あってよい本であることは確であるし。八円です。片上全集の内容目録は東京堂にもおいてない。おかしいことね。そして第一巻はありますが。すこし手間がかかりますが、とりよせて見ましょう。どうかおまち下さい。
神田から十二月以来初めて戸塚へゆきました。実にこんなことは珍しい!おひな様でね、たあ坊に、小さい肴屋さんとおそばやさんの人形が買ってあるのを届けに。どうせ夫婦は忙しいにきまっていると思って行ったらやっぱり案の定。三時頃一緒に(稲ちゃんと)出て私はかえりました。春めいた日和でしたから、のーとした気で歩きました。
そちらもすこしずつ外の空気に当れるようにおなりになればさぞいいでしょう。でも三月は一番よくない。誰でもそうでしょう?私は春は好きでありません、変に目がコクコクして、のぼせて。八重桜が咲きつづいているのを眺めたりすると、まことに重くて。どうかそろりそろりと願います。三月に入って、空気のゆるみがまざまざと皮膚に感じられるくつろぎは、私も実感をもって理解しました。わずかの、然し何という大きい違いでしょう。こちらの皮膚ものびるように思われます。
二十八日づけのお手紙、きのうの朝来て、御褒美がそこに来たようでした。お目玉については、甘受しなければならない場合がこれからも生じるだろうとは予想されます。けれども次第に私の生活ぶりが秩序立って来るにつれて、そのお目玉は首をちぢめる程度に迄内容的に変化するでしょうし、そのための努力は、既に、或程度の収果を得ていて、少くとも私はユーモアを添えてそれを語れるだけの余裕をもちはじめました。そういう必要もない位になればこの上ないが、と仰云っているが、(内緒で云うと、)たまにはギロリの効力もためして御覧になりたくはならないでしょうか。(勿論冗談よ、私は本当にギロリはこわいのだから)
「えぐいところ」の有無の問題。覚えているというより、思い出しました。文学上のそういうものは、非常に複雑であって、なかなか意味ふかくあるし、云われている通り綜合的な強靭性から生じることです。「えぐさ」は、世俗には清澄性と反対にだけ云われるけれども、芸術の場合は清澄そのものに一通りならぬえぐさが根本になければならぬところに妙味があります。やさしさにしても芳醇さにしても流露感についても。亜流の芸術家は、この本質なるえぐさを見ずに、やさしさなり素朴性なりを云々するから、さもなければ、俗的えぐさと置きかえて、えぐさで仕事師的に喰い下ることを強味のように考え誤ってもいます。Aの如き文学・思想の海のどのあたりに糸をたれればどのように魚がくいつくかということを、おくめんなく狙うことに於てえぐさを発揮するが如く。本当のえぐさに到達することは達人への道ですから。そして、えぐさが単音でないこと(「小祝の一家」は単音よ)、和音であること、折れども折れざる線であって、ポキリとした短い棒ではないこと。このことも亦意味ふかいものですね。今日に到って、秋声、正宗、浩二等の作家が、和郎よりもましであるというところ、和郎がものわかりよすぎる理由、等しく、正当な意味でのえぐさの濃淡にも関係して居ります。えぐさは私の成長の過程では現在、例の私、私に対する自身へのえぐい眼から第一歩をふみ出すべき種類のものであり、より確乎たる理性の緻密さの故に流動ゆたかになる感性の追求に向けられるべきであり、沈みこみの息のつづき工合に向けられるべきであると思われます。鋭い観察というような眼はしの問題には非ず。――そうお思いになるでしょう。生活をこね切らぬ、という状態は微妙なものですね。本人が、何とか自分の心で胡魔化しているより、現実に露出するものは、作家にあっては、実に大きい。今度書いた小説は小さいが、それらのことを私自身にいろいろ書いている間も考えさせたし、考えて気持があるところへ来て初めてかけたものでもあるし、私としては記念的な作品です。題は「その年」。
生活を創造してゆくよろこびを体得すれば、と書かれていましたが、ここにもやはり新鮮にうつものがあります。これまで常に、中絶した作品について、注意して下すっていた。しかも私はもとは、一旦かきはじめた作品を中途でやめたことは一度もなかった。必ずまとめて来ている。それが30年以後にはいくつかあって、当時自分としては、これまでなかったこと故、時間的な側からしか理由を見ることが出来ずにいました。今は、その理由も、時間的な外部の条件と合わせつつ、はっきりわかる。何か薄弱な、意識せざる抗弁的にきこえたというのは、その程度をぬけている心持にとってさもありなんと思われ、いくらか情けなくもきけたでしょうし(そのわからなさ、わからないという状態が語っている弱さ低さ)、そういう点でも、随分忍耐をもっていて下すったわけです。私は今会得されて来ているいくつかの点は確保して、手をゆるめず、仕事をしてゆきたい心持です。そうすると忽ち因果はめぐって、早ね早おきせざるを得ないというのは、何という天の配剤でしょう(!)
きょうは大層早く床に入り休みます。そして御褒美の一つとして、詩集の中から、愛する小騎士物語をとり出します。雄々しい小騎士が、泉のほとりで一日一夜のうちにめぐりあった六度の冒険の物語。覚えていらっしゃるでしょう?この物語の魅力は、えらばれた者である小騎士が、自身の威力を未だ知らず、死して死せざる命の力に深く驚歎する美しい発見にあると思います。深い深い命への讚歎が流れ響いています。ありふれたドンキホーテの物語でないところ何と面白いでしょう。愛らしき小騎士に祝福を。
さて、お約束の表をつけます。
二月二十一日から三月二日迄
起床消燈
二十一日七・〇〇十時
二十二日七・三〇(小説かきはじめる)一〇・二〇
二十三日七・一〇一〇・三〇
二十四日六・四〇一〇・四〇
二十五日七・〇〇一一・〇〇
二十六日七・四〇九・五〇
二十七日六・五〇一〇・三五
二十八日七・〇〇一一・一〇
三月一日七・四〇一一・三〇
二日八・〇〇一〇・四五頃
――○――
でくまひくまについて云えばやはり、浮きつ沈みつ反落線を彷徨して居ります。でも勘弁ね。(つきものがつくと頭が冴えるというか。)
これからのプランは、この線を平らにすることと、本よみとをやりつつ、次の書くものをおなかのなかでこねる仕事です。或は間もなく伝記にとりかかろうかとも考えて居ります。
朝そちらにゆき十一時ごろはかえる。決して、それだけの時間や何かで計り知れぬ印象をうけますから、この間うち、ものをかくとき印象から脱するためにもかえって早昼をたべてすこしずつ、三十分ぐらい眠りました。そういうのです、ひどい集注でしょう、五分、十分が。つづければ一日そのうちに生活しつづけます。去年の後半はそのようでした、勿論それだけの必要があり必然でしたが。印象はその方向で放散されないから、内部へ吸収を待つから。ではおやすみなさい。今夜はのうのうと眠ります。では明日に。 
三月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月八日第二十信
今机のあたりに匂っているこの薄紅梅の香いを封じてあげたいこと。外は風がつよい日ですが、しずかな朝の室内に心持よく匂っています。この二枝は、日曜日に寿江子が哀れな犢(こうし)になったあと、電車にのって武蔵嵐山というところまで当てずっぽに出かけ、そこに畠山重忠の館趾の梅林というのを見たときの土産。この花は薄紅梅ですが、私は昔、女が紅梅重ねと云って着た色の濃い濃い紅梅が実に好きです。こうやってしげしげと見ると、梅の花は、花の裏の萼のところも美しく蕊の見える表より裏が面白い位ですね。その梅林の路に農士学校というのがありました。黒紋付に下駄をはいた書生が、牛肉の包みか何かぶら下げて田舎道を歩いていました。
犢は、けさ熱川へ出発いたしました。おひささんをつけてやりました。ひさは今夜かえります。久しくあけていた家へ行って、布団ほしたり炭買ったり米買ったりするのにポツンと一人では何だか可哀そうだったから。正直に一人ゆくと思うとね。だものでつけてやった次第です。この頃は犢の生活も私に対してフランクになって、フランクになれるように整理されて来て何よりです。体の方も糖も大分ましで、私が病院にいた間あの位動けたからこの次かえる時分には又よくなって居りましょう。寿江子は熱川からかえるとノミにくわれたあとだらけになって、日にやけて、来ます。借りている家の納屋にひどいノミがいるのですって。そのわきを通るのにくわれる由。又ひどいのでしょう。六月に私が島田へゆくとき留守番にかえって来るプランです。
さて、三月四日づけのお手紙をありがとう。きのうついたこと、申した通り。今度はそちらから下さる手紙の番号よく永つづきして覚えていらっしゃること。いつぞやも番号つけて下さり、でも程なくなくなってしまったことがありました。私の方は日記につけておくのだけれども。
ところで、あなたはいい本をおよみになったことね、本当に!「朝起のすすめ」!何とよく役にお立てになるでしょう!あなたがこの位引用なさる本はこれまであったでしょうか?! (このニヤニヤ顔)しかし、真面目に、十分の睡眠を失わない早ね早おきは、そのはじめと終りが体にいいばかりでなく、そういう一日は、当然一日の使いかたをしゃんとするから大いによろしいということになり、私は勿論、本気で心がけて居ります。その点は御安心下さい。けさも実に大笑いしました。寿江子が、いろいろ私に気をつけろと云って、「私から申上げるのは恐縮ですが、どうぞ益〃早ね早おきを遊せ」と云ったから。其那挨拶をさせるだけでも大したことだと大笑いでした。おそらく犢の生涯に初めての挨拶ではないかしら。あなたの鼓舞激励、(プラス叱※[「口+它」]も少々)遂に犢に及ぶ有様です。夜になると、私がキューキュー云って、おそくなるまいとしているのも彼女を感激させたのかもしれません。そのキューキューぶりはお目にかけたいと思います。朝は大したことないわけですが、夜のキューキュー加減と云ったら。
御褒美はありがとう。折角の特製牛乳のこと故、ワイングラス一杯では足りません。あれは小さいものですもの。数杯のんだときにでも、私たちはたっぷり大きいコップでのむ習慣でした。大抵の疲れや風邪ぐらいはあれで癒ります。
詩譚、うれしかった。物語のこまかい節は不思議と覚えていて、題のはっきりしないときは妙な工合です、教えて下すってありがとう。二人の番兵たちの名はピム、パムでした。桜坊(サクランボ)色の帽子をかぶって、雄々しい騎士のためにでなければ決して城門は開かず、円い楯をひかえて立っている姿はなかなか愛すべきです。ピムとパムとは、朝も夜も丘の頂に立って、ゆるやかな丘陵の起伏、微かに芳しい森林越しに海の潮ざいを聴いている。ときに潮ざいは高まり、波は磯にあふれ、ピム、パムが騎士の到着を待つ心は張られた弦のように鋭くなり風のそよぎにもふるえる程だが、そのようなピム、パムたちの風情は深い、そして真面目な美しさへの感動をもって語られています。
生活というものが、ジグザグの線で進み、しかもまことにエッチラオッチラであること。それは実に痛感します。一寸手をゆるめれば、一方が小休み的状態から居眠り的な程度に陥ったりしてしまう。エッチラオッチラにしろ、足の運びのように、一方ずつが、ともかく前へと運び出されつつ相互に動いているときはましですが。自分が、どのような資質をもっているかということについての探求や自覚は、どうも女は男のひとよりも、社会の歴史のためや環境的なものによって、ぼんやりして居りますね。そう思われる。男が生存のために、最も低俗な水準からであるとしても、俺のとり得(エ)はどこかということは、考える。学生時代から考える。そのような人的マサツが早くからある。大多数のものは、その探究と俗処世法と結びつけて、自分の世渡りの方法をかためてゆく。女はその点でも自然発生的ですね。だから、つよい資質の特色があるものが、僅かに自然発生的にその道に赴き、相当行って自覚的努力に目覚める場合が多く、それより更に多い例は、自然発生的な資質は、環境が自然に発生させているマイナスによってこれまた自然発生的に害(そこな)われ、萎靡(いび)させられ、未開発のまま消滅してしまう。
私などは、所謂文壇的野心など全くなくて小説をかきはじめそのような事情が自然発生的であったと共に、それから後の長い期間が模索の方向の健全さにおいても、破壊と建て直しのやりかたにおいても、本質的には自然の命じるまま、というところがありました。あなたが、余程先、手紙のなかでユリのよさや健康性が相当つよくてもそれは内在的なものとしての範囲から出ない場合が多いと、文学のことにふれて云っていらしたことがある、その点だと思います。だから、自分にわかるところまでは実にわかっても、わからないことに到ると平然と自信をもってわからないでいる式の撞着が、おのずから生じることが多かったわけです。内在的本質ということについても、あのときは字は分っていたし、返事に、わかったこととして答えていたかもしれませんが、このお手紙に云われている通り、案外ほんとに合点の行っているのは昨今のことかもしれないとも思います。この頃の生活は私のこね直しというか、芸術の成長の上でもう一段追っ立てる上からも、私にとっては、実に一つ一つを含味反芻する経験(内的に)の日々であって、枠のとれた肉体で(この枠のこと、前にかいた手紙にありますが、覚えていらっしゃるかしら)現実へ入ってゆく感じです。
私たちの生活というものに腰がきまって来る、そのきまりのなまはんじゃくさが減少するにつれて、ぐるりが見え来るし、じりっとした工合が変って来て、ものを書く心持も亦えぐさが本ものに近づいてゆく。あなたがこわい顔をもして私のまわりからいろんなケチくさいつきものをぐんぐんこわさせていらしたことの価値も、今にして十分わかります。よく、自発的にやらないということについて、きつく仰云ったし、これからもきっと云われるでしょうが、自発的にやらないところがあるのは即ちその意味がわかっていない、或はそのことの真意の在りどころがつかめていないので、(私はわかってもやらないという気質ではないから)私の場合には幸、あなたの云いつけは反(そむ)くまいという努力が原初的な形であるので、それによってフーフー云ってやって、さて成程とわかる式ですね。
一人の資質が三様四様の才能の最高最良な開花を見せることなど現実には稀有でしょうね。私は、終局においては賢明である目前の愚、或は鈍と、たゆまざる根で、やってゆく。そして何がどこまでゆくか一杯のところで生涯が終って、一杯ギリギリまでやったと自身で思えれば、よろこびとします。素直であり、素直であるがために現実が客観的現実のありようにおいて見えざるを得ず、それが見える以上見えないことにはならないという、そういう力が、芸術の背柱をなすわけですが、そこまで身ぐるみ成るのは大事業ですね。掃除がすっかりすんだというような固定的なものでないことはわかります。あの掃除では、ゴミはこれ程たまるものかと感歎したのですもの。掃除のあと、スーとして寒いようになった程ですもの。そこへその肌にあたる空気の工合におどろいたのですもの。真の愉しさ、生活のよろこばしい共感が、高まるための相互の献身と努力にしかないと云うことは、明らかなのだと思っていて、先頃はそういう努力がないとか足りないとか云うことがあり得ざることといきばって、そのことにだけ執していたから、哀れにも腹立たしき次第でした。そういう折のあなたが私を御覧になる独特の表情を思い出すと、切なかったことも思い出し、涙が滲むようだけれど、ひとりでに笑えもします。実にあなたは表情的なのを、その程度を、御自分で知っていらっしゃるでしょうか。唇一つの工合で私はもうハアとなってへこたれることがあるのを。こわい、こわいこわさ。そして全くそのこわさの深さに深くあり豊富に溢れるその反対のもの。この机の上の瓶から紅梅の小枝を折ってあなたの胸に插しながら、ききたいと思います。あなたはどうしてそういう方?ね、どうしてそういう方でしょう!
毎日の暮しかたについてのプラン。どういうのが一番実現に近く能率的でもあるでしょう。ものを書くには、直接よまず、動かずこねる時間という時間もスケジュールの中には大切にとられねばならず。今のところは、一寸書いたように、十一時ごろまでにかえり、早ひるをたべて、書くものがあるときは一寸休んでから書きはじめるという方法をとっていました。用事で出かけるときは、なるたけそちらからのかえりに方向をまとめておいて廻ること。そのようにしています。日曜はうちにいたい心持です。動坂で私が散歩したいと云いあなたはうちにいようと仰云ったああいう些細なことも、今わかるようなものです。余り自由学園式割当て生活で、それを守るための生活みたいなのは愚の骨頂だし。
そちらに往復の乗物では(大体のりものではよまず。どうも揺れながら子供のうちからものをよんで乱視になったらしいから)読まず。そちらで三四十分(最小限待つ)その間によみたい小説類をよむことにして居ります。かえってから午後の時間四五時間本気の読みもの。夜はこね時間。それが場合によって夜と昼と入れちがうこともあるわけです。それに私には手紙をかくために三四時間いる。きょうなんかでも。その位かかります。案外と思うようにかかります。こして見ると、栄さんと喋る時間、戸塚へ一寸よる時間がないようでしょう?実際としてはそれがいりますし。勿論それは月に二三度ですが、この頃では。そして、なるたけ昼間にしてしまいました。夜だとついのびてしまうから。勉強の時間がそれでも削られる場合が生じるでしょうね。すこしずつしか読書が捗らないと叱られそうで気がひけます。なるたけうまくやって見ますが。私の速力をずっとおとしてよむから。おちざるを得ない相手でもあり。表のむらや何か、又どうぞ辛棒して見て下さい。むらがあっても絶えずというところからはじめたいと思いますから。本月一杯は読書を中心にして、来月は他に仕事が迫らなかったら、例の伝記をつづけてかきはじめ、それに必要な哲学の本を並行によんでゆくようにしたいと思います。五月にかかるでしょう終るには。六月の島田はどのようになるか未定ですが、あなたのお考えとそのときの事情でもしすこし永くいるようでしたら一つ訳したい小説があります、ゴールスワージの。女の生活を彼らしい正義感で扱ったものですが。それを集注的にやろうかと考え中です。どうかして読む方と書く方ぶつからずくみ合わせたい。出勤はもう問題でありません、御飯ですもの。
家も、心がけているがなかなかです。本当に歩く距離でなくても十五分ぐらいだといいと思います。尤もこの頃は大分馴れて、大して苦でもないけれど。
おひささんの結婚話もまとまりそうですがいつ頃までうちにいられるか、代りがあるかないか。ない方が多く、そうとすれば、又考えようがあるわけです。それは又もうすこし先のこと。
すっかりおなかがすいてしまいました。では珍しくすこし余白をのこしておしまい。その位空いてしまったの。
四日の手紙もう着きましたろうか。南江堂と金原たのみましたが、本やの名から本がきまって、そちらの状態についてどうなのかしらと考えられます。お大切に。体の工合どうでいらっしゃるということはやっぱりよく知りたいのです。 
三月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十一日第二十一信
九日づけのお手紙をありがとう。くりかえしてよみ、心からのgoodwishesを感じ、ありがたく思います。作品のことについてここにふれられていること、そして又お会いしたとき云われた点、いろいろ深い興味と現実の諸問題をふくんで居て、反芻の味と必要とがあると思われます。
主題のことにふれては、全くそう思います。そのことは自然その題材に向ったときに面したことでしたが、私の心持のやまれぬ動きからどうしても書きたくてね。昨年後半からこの頃にかけての私の内的な状態では、この題材や主題のように、心をつかんでいるもの、書きたさに溢れる心持のものを先ず書いてゆくことの必要さを感じていたので、ほかにふり向けなかった。こういう心理は面白いものであると思います。底の粒々に一つずつふれてゆくように、この作品を書いてしまわなければ、自分の心の新しいありようが自身にたしかめられないというか、沈みたいと思うと石を抱くような、というか何かそういう必然の欲求が、こういう全く心臓に響いているものをつかませたわけです。だから自分では久しぶりに好きな心持で考えることの出来る作品です。これとして、やはり一つ、小さい一歩の前へ出た(自分の感覚ではシンと沈潜した)作品だと思います。だから此がのってものらなくても、これからすこしましな作品を生んでゆける創作の生理が感覚されたようなところがある次第です。
現実の可能の範囲をよく知ることは、作品の主題の健全さのためにも大切であることは明かで、そのために、十分の自覚をもつことは出来ないながら芸術の勘でそのことを感じている範囲の作家でも、或文学的苦境を感じているのが今日でしょう。あなたがここの点の多難性を芸術の本質と現実のありようとの関係に立って明らかに観て、ユリの勉強のむずかしさを考えて下さるのは、本当にうれしい。(当然であるけれども、あなたからすれば)ここいらのところに多くの複雑なものがこもっていて、云って見れば百鬼夜行の出発点ともなっているのですから。消してしまおうとするものによって消されてしまっては仕方がない。存在しようとする。その努力や摸索が見当をすこし違えると、「あらがね」以後のその作者になったりいろいろに変化(へんげ)する。全然ジャーナリスムとの接触を考えないということは、消しに身を呈することになるし。(仮令(たとい)最も作家として純真な動機によるとしても、現実の結果ではそういうこととして現われますから)生活上の必要もある。可能な、そして適した形と範囲とでその面での接触を保ちつつ、私としては長篇にしがみついて、折れども折れざる線を描いてゆくのが一番自然であろうと思われます。この頃の文芸附録を見ると、ジェームス・ジョイス(「ユリシーズ」の作者)が十四年目に長篇の完成を公表している。あんな連中でさえそれだけ粘る。心からそう思いました。いつか書いた、「チボー家の人々」マルタン・デュ・ガールにしろね。
私には段々あなたの繰返し繰返しおっしゃる自律性というものの真意にしろ真価にしろ、いくらかずつ現実の内容ではっきりして来るようです。こういう状態を想像して下さい。たとえば睡い朝、かすかに、そして途切れ途切れに物音がきこえて来て、それが追々急に近くきこえるかと思うとフット又遠くなり、だが益〃明瞭になって来る、そういう過程。これらのことはみんな「その年」という作品にも絡んでいて、私たちの会話に肉体があるという現実性とも結びついていて、生活と文学とに於て、グーッと私をひっぱりつつあるのです。表現が下手ですが、おわかりになるかしら。いろんなことが、やっと心臓までしみて来かかっている、そういう感じ。吸取紙のようで可笑しい云い方ですけれども。自分で深く感じて来ていることですから信吉や何かの中絶が頭脳的所産であったために切れたということも十分わかります。「伸子」「一本の花」「赤い貨車」(これは当時の過渡性がよく出ている、私の)それらは、皆ハートから書かれている。自然発生的にね。それから一時期、沈み切らないで、今漸々(ようよう)又自分でもやっと力の出し切れそうに思われる沈潜性が、粘りが、絡みが、生じはじめている。何と時間がかかるでしょう。何とあなたの忍耐もいることでしょう!そのために去年という年がどんな重大な一年であったかも思います。そして、面白いことね、思いかえすとき、去年ぐらい苦しかった年というものを、ああこの数年来本当に知らなかったと感じるの。実際又その質に於て、ああいう苦しさは初めてであるのも実際ですが。すこし話が飛ぶようですがそうではなくて、私は今年カーペットを貰っていいと思う。去年にはまだ現れなかった深まり、リアリティーが、夫婦生活に生じていて、たしかに一時期を画していて、今年はあれを貰うだけのよろこびとそのよろこびを最も真面目な努力のための滋液とし得るところへ来ていると思います。
生活を創造するよろこび、それは決して単独では知ることが出来ない。樹々の枝さえ風が吹かなければあのようには揺れることが出来ないし、花粉でさえとぶことは出来ません。詩集のふるえるような美しさへの傾倒、それについての物語が、生活に一層の質実な潜精力を加えることは、まことにおどろくべき微妙さであると痛感します。
寿江子の体のこといろいろありがとう。ユリの薬も。非常に親切に調剤されて居ります。こまやかに作用します。神経の持久力のために、その鎮静のために。こういう薬が丁度適薬として発見されるに到った私の条件もうれしさの一つです。
さて、きょうは、あれから家へかえって一休みして、おひるを食べてどうしてもこの間から分らずにいる辞書をつきとめる決心をしました。又傘をさして研究社へゆきました。そして受付の女の子にたのんで、九月から本月までの雑誌を皆出して貰って、そこのテーブルで調べにかかりました。そしたら、あった。思わず雑誌を手でたたいて、笑ってしまった。九月よ。それでも大満足です、遂に見つけたから(あなたは又ソーラ、そうだと思ったという顔でしょう?目に見える)その結果は次のようです。
英和では
岩波版、斎藤、熟語本位英和中辞典。
千頁前後のポケット型のものとしては、竹原、スタンダード英和辞典(大修館)。岩波版英和辞典。
和英
宝文館竹原のスタンダード和英大辞典
研究社大和英辞典
日英社斎藤の和英大辞典
「ポケット型で役に立つようなのは無い」とありました。
竹原の大辞典というのを持っていたことがありますが、これは新聞から本から実際につかわれている文例を引っぱって来てあって、実に大辞典でした。面白くもあった。
それから別の号でしたが、引用文のための辞典で、エヴリーマンス・ライブラリーの内二冊で出ている「引用文と諺の字引」Dictionary of quotations & proverbs.というのの紹介があった。ハムレットのto be or not to beなんかや、英語の花より団子式のものがあつめてあるのでしょう。これも特長のあるもののわけです。どれにしましょうか?お考えおき下さい。
あのスナップショットは三月で終りですね。研究社の斜向いが栗林氏の住居。よって見たら、きょうそちらへ行ったとのこと。これはおめにかかって。
今はひどい雨風です。外に西日よけに吊ってある簾(すだれ)がバタバタ云ってあおられていますが雨戸をあけられない。切れてしまいやしないかと心配です。
表、三日から十日まででは一週間ですが、区切りのために。
起床消燈頁
三日七・〇〇九・四五
四日六・四〇一一・三〇戸池さん達の日
五日(日)八・〇〇一〇・〇〇
六日七・〇〇九・五〇一二頁
七日六・三五九・三〇一五頁
八日七・〇〇一〇・〇〇一八頁
九日七・三〇一〇・一五二〇頁
十日七・〇〇一〇・三〇二〇頁
勉強の血肉性も身についてわかって来つつある。猫の舌にザラザラがあってよく骨までしゃぶります、ああいう読書力がありたいと思います。一日をごく充実して使いこなせるようになったらさぞいいでしょうね。この点まだまだ私はなまくらだと思う。稲ちゃんは心のこなごなに苦しいようなときでも、ウーウー云いながら、そのときの心持とかかわりないものを書く。去年見ていてびっくりしました。ポツンとした終りの手紙ですが、これで一まとめ。あしたはどんな日曜でしょうね。お客のないように。 
三月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十二日第二十二信
今、后すぎの二時半。ひどい風がややしずまって、何とあたりはしずかでしょう。おひる迄相当勉強して、パンをたべに下り、ひさは出かけているのでひとりで、今度は小説をよみながらたべ終り、今年はじめて縁側のところへ座布団を出してすこし又よんでいました。八つ手の葉や青木の葉が昨日の雨に洗われてきれいな色をして居り、土は春の雨のあとらしく柔かくふくらんで、静かで、あなたも、あしたはユリが来ると思いつつ、こんな空気を感じていらっしゃるのかと思ったら、たまらなくお喋りがしたくなって来ました。そう沢山喋らなくても堪能するのです。ちょっと顔をこちらへ向けて頂戴。そして、そう、それでいいの、もう。
「ロダンの言葉」、お読みになったでしょうか。彼の作品の「手」覚えていらっしゃるでしょうか。「手」の面白さを高村光太郎などもなかなか云う美術家ですが、手は全く興味ふかい。生活が何と手に映るでしょうね。手が又何と生活の感情を語るでしょう。些細な癖にしろ。いろいろな場合の手。字ではこんなに単純な四本の線である手やその指の活々とした感覚。心と肉体とに近く近くと云う表情で置かれる手。優しく大きく口の上におかれた手。平俗な詩人ではなかなかその趣を描きかねるばかりです。彫刻で、ロダン位人間の情熱の明暗、生命の音楽を描き出し得た人は実にないと思う。それを見ていると言葉なんか飛んでしまって、非常に深い激しい情感の中へひき入れられてしまうような作品がいくつかあります。「考える人」や「青銅時代」や「バルザック」「カレーの市民」などと異った芸術の味で。ああいう巨大な芸術の才能が自由自在に動きまわり足音をとどろかせ得た環境を考えます。けさよんでいた本の中に歴史的成長と民族の関係が描かれていて、それは芸術家にもあてはまり大層興味がありました。読んでいるうちに、農民文学についての本もわかり面白かった。ポーランドの作家の「農民」など、この頃チープ・エディションになって第一書房から出たりしています。アイルランドの農民の生活も世界的に特長をもっているらしいが、この間死んだイェーツなどそういう面からは注目していないようですね。アイルランドとして主張し提出している。イェーツなど大変(グレゴリー夫人とともに)夢幻的詩人のようにだけ思われているが、アイルランドのためには生涯絶えざる仕事をもっていたし、「虫の生活」のチャペックね、あの人なども死ぬ間際までチェッコのために実に立派な努力をしつづけ悲劇的に終っているようです。チャペックの細君は女優でアメリカへ行って暮すことを考えていたらしいが、チャペックはチェコにいられないがチェコ以外のところに住もうとは思えないという心持であったらしい。アメリカに対する楽天的期待を抱けなかったところはさすがに諷刺詩人としてのチャペックの現実性です。けれども、チェコにいられなければいられるところで一番よく生きて行こうという心持、歴史の将来を見る目をそらさない勇気を失ったらしいところも亦、「虫の生活」のチャペックらしいと思われます。芸術家の生活に吹きよせているものはどこでもなかなか快き東風とはちがったものです。
面白いことが目につきます。それは音楽について人々が何か一寸これまでとちがった態度を示していて、林〓氏が何か書いたり宍戸儀一氏が何とか云ったり。世界を流れる言葉としての音楽が、小道具として登場した形です。作曲家の道もえっちらおっちらですね。寿江子など一生にどの位までやれるか。寿江子はまだ主観的で、自分の音の骨ぐみしかなくて(小さい一綴りの)、迚も迚も、それで物語るというところまでは大遼遠です。それでも、すてたものではなく、音楽の勉強生活が、生活である以上いろいろの台所的な用事ぬきの生活なんかある筈ないし、そんなのは不健全だと思うと云っていた。これ位のことでも現代日本の水準の音楽家の心持とは全く異種なのです、一般はその位低い。柳兼子はアルトで、宗悦の妻君で、決して関屋敏子ではない部で、その気位たるやおそろしいが、云うことには、「もう三四年も経って御覧なさい、演奏会以外に歌おうなんて気、まるでなくなっちゃうから」と、いとも楽しげに云った由。これは云われた人の直話です。そういう気分。寿江子は熱川で音楽史と世界歴史をすこし勉強して来る由。寿江子にはそういう真面目なところと私がおしゃく的と云って本気でおこる無智とが交り合っている有様です。女俊寛で、炭やき爺さんと山歩きして、きっと又のみにくわれたあとだらけでかえって来るでしょう。秋までには丈夫にしてやりたいと思います。それでも、もしかしたら一二年は郊外で生活した方がいいのかもしれない。勉強に出る日は一週に何度(三度ぐらい)ときめて。そうしてすっかり安全なように直してしまうつもりのようです。そうすれば私とは暮せない。私はここよりもそこから遠いところへ移ろうとは考えないから。それにピアノ!フー。実にフー。自分がひくときは勝手なものですが。私は下手だから平気だ、と思っています。
戸塚のター坊が小学の一年に入ります。お祝いに靴。それからもう二人女友達が結婚します。それにもお祝。そのひとたちは社交的な意味でなしに私たちから祝われたいの。又おひささんに私は昨夜も冗談云って笑ったのだけれども、おひささんの良人になるひとから私はよっぽどありがたがられていいと。そうでしょう?例えば、どんなに御亭主の云いつけは守るべきか、という実地教訓を身をもって示しているのですもの、そして、そのためにおひささんだって居睡り時間が減ったのですものね。
瓶(かめ)の薄紅梅、もう満開をすぎました。散りはじめて、火のない火鉢の上にのせてあるナベの水の面に花弁が二片三片おちて居ります。
今夜、ねずみ退治をやります。いやな鼠!私たちは退治なんかきらいだから、いい加減にすればいいのに。人参をかじり、夜中目がさめるほど戸棚をかじる。ポチは鼠をおどかす役に立たず。
梅の花の匂いはいやではないが、つよすぎました。二十三日には鉢でいいかしら。それともまだ満員でしょうか。
貸家のなさ。きょうの朝日の裏の広告など、売地、売家が一杯で貸家三四軒です。
○今そろそろ五時になろうとするところ。豆腐屋のラッパの音がします。ヘッセの「青春は美し」という小説をよんでいます。訳者からおくられて。この作者の作品もロマンティストとして或美しさはもっているが、どうも。ペシコフなども若い時代随分当途のない旅をしたけれども、そして十分ロマンティックであったが、ヘッセのようにそのような旅そのものが目的でなかったから随分ちがいます。
きょうは暖いことね。珍しく足袋をぬいでいます。今年はじめて。暮に茶の間の畳新しくしたことお話したでしょうか。いい正月をしようと思って、心祝に茶の間の畳を新しくして二日目か三日目に盲腸を出してしまった。新しい畳は素足に快くふれます。
私たちの白藤の樹ね。あれをちゃんと手入れして美しい花を咲かせたいと思います。今では野生にかえっていて、ほんの一房まるでちょこんとした花をもっただけでした。林町で、庭の隅っこにいる。樹としては大きくなりました。この庭には入らないでしょう。来週は四日も休日になります、つづけて。日月火水と。四月にも二日つづくお休みが一二度あるらしい。この頃は小学生のよう。お休みの日がつづくと、その間に宿題どっさりやろうといきごみます。土曜日から本もって帖面もって、国府津へ行こうかしら。そしたらお客は来ず随分よくばれる。国府津にはもうあの重いような春の風が吹いているでしょうか。これは今フット思いついたことです、プランというほどのことでなし。実行には又留守番だの何だののことがありますから。こう書いているうちに行きそうもない気がして来てしまった。国府津のバスもこの頃はきっと間をおくでしょうし、ハイアも、もう五十銭ではないかもしれませんね。目白新橋間のバスはずっと豊島園の方まで延長しているのですが、このごろいくつか止らないところが出来ました。鬼子母神の近くの高田本町というのはとばしてしまいました。国府津へ行ったりする費用で、私は一枚そちらへゆくとき着る春らしい着物をこしらえましょう、どうもその方がいいらしい。春らしい、生活の心持のいくらか映った色の着物を。瞳も春の色を映していいでしょう?そちらへゆくときこそ、私は一番おしゃれしていいわけですもの。おしゃれ(!)のこと思うと私はふき出してしまう、茶外套の頃を思い出して。女の心持で云ったら一番おしゃれしそうなとき、ちっともそんなこと思わなかった。そんなこと思わないほど心持が一杯であったし、あの時分の一般の気分もそうであったし、面白いものね。このことや思わせぶりがなかったいろいろのモメントを考えて、いつもよろこばしくいい心持です。仕合わせを感じます。仕合わせというものの清潔さを感じます。そして、今、花の一茎もかざしたい、その心持も、やはり同じ自然さの一つの開花でしょう。あなたに自分の好きなものを着せるうれしさ。眺めるたのしさ。自分のために一寸おしゃれした気になって大いにはりきっているのを御覧になるおかしさ。
ロスチャイルドという古い映画ですが、イギリスの名優がやっていて、傑作でしたが、ロスチャイルドがいつも事務所に出かけるとき妻がボタンホールへ小さい一輪の花をさしておくります。市場などで、ちょいちょいその花の匂いをかいで、気の休まりを得ている。丁度ナポレオンに金を出す出さぬで猶太(ユダヤ)人であることからひどい罵倒をうけるが、人類の不幸のための金は出さないとがんばり通して市場へ行くと、皆はナポレオンに投機して、ロスチャイルドの巨大な財産は将に破産に瀕する。番頭どもは兢々としている。が彼はあくまで強気で買いを通しているその緊張が頂点に達したときロスチャイルドは、いつものように上着の花へ顔を近づけようとする、花がない。その瞬間の複雑な、疲労の急激に現れた顔。そこへ従者が、妻からの小さい花を妻からの短い励しの言葉と共にいそぎ届けて来る。ロスチャイルドは非常にたすかったよろこばしさでその花をいつものように上着につけ、遂に素志を貫き、ナポレオンはウォータールーで敗れる。これには勿論マスコット風のしきたりやいろんなものが混ってはいるが、なかなか印象深い場面でした。
大分お喋りをいたしましたね。
栄さんがお母さんの七年忌でかえっています。繁さんが久しぶりで先刻よりました。七十円という服をきてへこたれています。この頃は紳士方は大変です、月給がふっとぶような服代になってしまった。いろんな詩の話が出ました。細君が日向の小石のような暖くて乾いてさっぱりした小説をかいていると、刺戟されて、詩のことをも十年計画で考えて、なかなか面白い。四十以後に傑出した作品を出している日本の詩人のないことなど話題にのぼりました。詩人気質の過去の根の浅さについても。
国男が、開成山の小学校の図書館へ父と母との記念のために本を寄附しようとして居ります。ここの図書には姓名を冠した文庫があって、殆どそれだけでなり立っている様子です。科学の本、生物学のわかり易い本、その他が第二次ので殖えるでしょう。出版年鑑等役立って居ります。昔、父が五十代ぐらいだったとき、開成山に一緒にいたことがあって、そのとき家の近くの大きい池のぐるりにある競馬場の柵に二人でもたれながら話していたとき、父は自分の父の記念のために高い高い塔を立てるというようなことを、実に空想的に話したことがありました。私は何だかすこしきまりわるいような気分で、うす笑いしながらきいていた姿を思い出します。私はよくそういう心持の思い出をもって居ります。父は本当に空想と知れたことを自身知りながらその中に入ってつくって話してゆくのが好きであった。私には何だかそのつくり方の色どりや道順に、当時の感覚で云うと純芸術でないものがあるようでバツがわるかった、あの心持。それも面白く思い出されます。さあ、もうこれでおしまい。折々はこういうお喋りもおきき下さい。きのう話し足りなかったのね、きっと(手紙でのこと) 
三月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十五日第二十三信
机の上の瓶の紅梅は、もう散りかけたので下のタンスの上にもってゆき、今はおひささんが夜店で買って来た菜種の花。よみせの薄暗がりで買っただけあって到って貧弱な茎や葉をしていて。
初歩の経済について、古い好人物大工のウエストンさんの説の誤りを正してやっている文章[自注4]。実に面白くよんで居ります。チンダルの「アルプス紀行」は、科学者が科学について書く文章の実に立派な典型であって、ファブルなど誤りの甚しい一例と感じましたが、こういう種類の文章の見本として文学的にさえ面白い。手に入っていること、底の底までわかっていること、情熱をもってつかんでいること、あらゆる現実の解明の見事さは、それなしには文章の輪廓の鮮明ささえもない。芥川龍之介の文章は作文です。嘘ではない。しかし彼の力がとらえ得る狭さをスタイルの確固さでかためようという努力がつよくみられる意味で作文的です、少くとも。文学の永生の一要素はスタイルであると彼はいい、メリメを愛した。しかし面白いわね、彼が今日および明日よまれるとして、それは彼の生涯の歴史的な矛盾の姿がよませているのだから。この場合、スタイルさえもその矛盾の一様相として現れている。
こういう筆致の生きている文学史が書きたい、今日の文学史が。ひどくそういう欲望を刺戟します。小説も書きたいと思わせる。この筆者の親友[自注5]の筆致はこうしてみると含んでいる何かがすこしちがいます。親友も実に卓抜であるが、こんなにはわたしを自身の仕事へかり立てない。これは興味がある点です。特にこの文章は大工のウエストン爺さんにわかりよいと同じに私にわかりよいからでもあるのでしょうが。
この本の中にこういう忘れられない一句がありました。「時間は人間発展の室である」時は金なり(タイムイズマネー)という比喩との何たる対比。人間が生活と歴史について、まじめな理解を深めれば深めるほど、時間がいかに人間発展の室であるかを諒解してくる。「睡眠、食事等による生理的な」云々と、時間の実質が討究されているわけですが、こういう一句は適切に自律的な日常性というあなたからの課題へ還って来て、それの真の重要性というか、そのものが身についたときの可能性ポテンシャリティの増大について、人間らしい積極性というものが、決して低俗な几帳面さと同じでないということについて理解させる。(益〃よく、という意味)。〔中略〕
何と私たちは尻重でしょうね(この複数は、あなたと私というより、私程度の誰彼のこと)人間よりも動物らしいでしょう。生活にあるはっきりとした美しさというようなものの味い。非常に高い程度の簡明さ。それは決して単純ではない。亜流的文学は、この頂点を目ざさず、紛糾の現象的追っかけに首をつっこんだきりです。はっきりとした美しさの現れるためには欠くべからざる集注力、統一力、ひっぱる力。えぐさもまたその一つとして含まれていると思われます。そういう情熱の湧き得る人生の源泉はどこにあるかということ。ここの究明に至ると、そこにある新鮮さは不死鳥的なものがあります。
ね、私の宿題の表も些か形式からその本質へすすみつつありますね。
○達ちゃんから手紙が来ました。私の書いたのへの返事。丈夫にしているそうです。慰問袋着のも翌日。北京官話と苦力(クリー)の用語とはちがうがあの本有益の由です。
○ロンドンの本やセッカア・アンド・ワーブルグSecker&Warburgからカタログが来ました。又写してからお目にかけましょう。欲しいのがあります。
○英和は岩波のを昨日買ってお送りしました。三省堂のコンサイズよりもよいと思います。ポケット型です。
そちらにゆかない日は、ついこうして話したくなります。煙草をのむ人なら一寸一服というときに。二人いれば、私がきっとお茶でもいれてもって行きそうな時、そのころあいに。そしてこういう話のとき、字まで雑談的なの、おかしいこと。こういう字は、自分のためのノートか、こういう手紙にしかない字。クシャクシャとして、絶えるところがないようで。こんな細かい字は本当にほかへは書きませんものね。
十七日。
(さて、この頃十番以内[自注6]になるためには相当の馴れを要します。)
十四日づけのお手紙をありがとう。十六日着。小説のことはいろいろと経験になって大変有益でした[自注7]。一面にはあんなに書きたくて、心こめて書いたものだったから、反対の効果であったりしなくてよかったというようなところもあります。主題の性質についての話、それから以前からジャーナリズムとの角度について云っていらしたこと、それらが極めて具体的に納得されました。そのことでは多くのものを得ました。習慣でジャーナリズムを一義のように考えるといっていらしたことね、その点も複雑な現実性でわかり、これまでその限界というものは十分に見つつ、書いてゆく気持ではやっぱり一番自分にのぞましいものにとりついているところ、その辺デリケートで、あなたがいっていらした真意もどちらかというと一面的に理解していたようなところがあります。〔中略〕一つ二つならず会得したことがあって(書いて生活してゆかねばならぬものとして)生活的にも興味があります。文学の問題としてみると、際物でない作品に対する要求は自然の勢としてつよいのであるが、その要求の表現が、非現実な夢幻的な方向に向ったりしがちであることも、現実の語りかたの条件の反映として強く現れています。今に鏡花でも再登場するかもしれず。露伴までかえっているのだから。
勉強は十二日以来相当量進捗して居ります。今経済に関する初歩。三つの不可分の要素はわかります。そして、今日のトピックに沈潜するためにも、文学の展望の上にも尽きぬ源泉として活気の基になることもわかります。(十五日の雑談でも語っていますが)。勉強などというものは、ある程度深入りすると一層味が出てもう自分から離さなくなる、そこが面白い。そしてそこまでゆくのが一努力というところも。〔中略〕こっちの側をよくもりたてて、五円よりはすこし、よけい収入もあるように計ってやってゆきましょう。増上慢の語。これは古い言葉ね。おばあさんが、ほんとにまア増上慢だよとか何とか云っていたのを思い出します。女の科学や芸術の分野における悲劇ということは実によくわかります。低さから生じる。ちやほやしてスポイルするのも低さなら、頭を出すのもぐるりの低さから、そして自身の裡に十分その低さと同質のものがあることを自覚しないところ、「えらい」ように自分を思うところ、そこに悲劇の胚種があります。〔中略〕
男の生活の低さ、その一段下の低さ。そういうものは本当に一朝一夕に解決されないもので、実に歴史の根気づよさがいると思われます。本年は私はどこか心の底に絶えぬよろこびがあります。それは自分がすこしずつ、すこしずつ点滴的だが変って来つつあることを感じていますから。そして、じっと考えればこれは私たちの生涯にとって一つの大切な転機をなしつつあるのだと思います。去年から今年にかけてね。このことは考えるたびに一種のおどろきの感情を伴います。自分がむけてくるという感覚。これは何という感じでしょう。いくつかの山や谷を通ったことです。或期間は、全くあなたが、自分の足をただ受け身にだけ動している私を押して坂をおのぼりにもなったのだから、本当にすまなかったし、今は表現以上のありがたさです。そして忘られないのは、栄さんへの手紙で書いていらしたこと。点の辛さは女の成長に限界をおいていないからだという一句。あれが私を電撃したときの心持。窒息的な女房的なものの中に自分から入っていることを知ったびっくり工合。(自分に直接宛てて書かれているものから、それをよろこびとしてつかみ出さずにることのおどろき、ね)あすこいらが悪い状態のクライマックスをなします。私たちの生活の中に決して二度とくりかえすまいと思う圧感でした。今になってあの時分のこと考えると、クリシスというもの(ひろい生活的な意味で)の性質がわかります。ああいう風に風化作用的にも浸み込む、或は出る、のね。日参のおかげで、その期間があれだけで転換の機会が来たと思います。私の盲腸炎はそんなことからいっても何だか実に毒袋がふっきれた感じね。毒々しかったと思う。
伝記については、云われているその点にこそ私の文学的人生的興味の焦点があるのです。日本の文学の歴史の推移との連帯で。それではじめて日本の作家が世界的な作家の評伝をかく意味が生じるわけですから、私たちの生活というものがぎゅっとよくまとまって、能率もましてくればうれしいと思います。もとのリリシズムの一層たかめられた実質での私たちの生活というもの。そのことを考えます。
林町では国男、一ヵ月ほど北支辺へ旅行にゆく由です。仕事をあちらにひろげないではやり切れぬ由です。何しろ水道新設ができなくては建築をやるものはないわけですから。咲は、いろいろ微妙な妻としての立場から心配して居ります。行ったきりずるずるになられては。変なおみやげをもってきては、等。事務所がつぶれたって咲としては御亭主を確保したいのが当然ですから、国によくその点話しました。わかっているといっている。で、私は思わず自分の分っているのがどんなに分っていなかったかを考えて笑い出したし、安心もなりません。国の顔をみると、もちろん仕事についての関心もある。しかしそうでない興味もうごいた顔です。おかみさんは直覚が鋭いから。うんと金をつかってどういうものをみてくるか。咲は六ヵ月のぽんぽで、国ちゃんがとけたら迎えに行くと云ったってもうその時は動けないし、といって居ります。まあ大丈夫でしょうが、今度は。行ってかえる間は。あっちに出張所でもできるようになると深刻な問題を生じます。そうなったら大いに考えなければなりません。こんな形に世相が出るのですね。
達ちゃんの本のこと。字引は高野辰之編(と称する)よいのでありました。
この頃日向は風がないと暖かね。きのうは荒々しい天候でゴッホの春の嵐の絵が思い出されました。黒い密雲と射しとおす日光の条。往来で、オート三輪のフロントガラスがキラリと閃いたりして。やがて青葉。そういえば、土管おきばのよこの枳殻(からたち)の木はどうしたかしら。今年も白い花を咲かせるかしら。サンドウィッチは五十銭だそうです。ブッテルブロードさしあげます。ではお大切に。

[自注4]ウエストンさんの説の誤りを正してやっている文章――マルクスの著作。
[自注5]この筆者の親友――エンゲルス。
[自注6]十番以内――面会順の番号。
[自注7]小説のことはいろいろと経験になって大変有益でした――「その年」は文芸春秋のために書いたが、内務省検閲課の内閲で赤線ばかりひかれて、発表されなかった。反戦的傾向の故をもって。 
三月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十八日第二十四信
手紙がかたまらずに着くと思うとうれしいこと。
「発見」ということについてこの序文(第二巻への[自注8])の中になかなか面白いことが云われて居ります。酸素のことですが。十八世紀には酸素がまだ知られていないので、物の燃えるのは、燃素という仮定的物体が燃焼体から分離されるからと考えられていたのですってね。十八世紀末にプリーストレーという科学者が燃素ともはなれて、一つの空気より純粋の気体を発見し、又誰かが発見したが、二人ながら従来の燃素的観念にとらわれていて「彼等が何を説明したのかということさえ気づかずに、単にそれを説明しただけであった」ところが、パリの一科学者が燃素が分離したりするのではなくて、新しいこの光素(酸素)が燃焼体と化合するものであることを発見し、真の発見者となった。と。そして「燃焼的形態において逆立ちしていた全科学をばここにはじめて直立せしめた」と。経済関係の基本的な点にふれて云われるが、どうもこの燃素的観念というものは、ひとごとならず笑えるところあり。文学における現実の発見とは何であるか。作家の内的構成がどんなに主観的範囲に限られて在ったかということを思います。自分の生活でだけ解決していることを、社会的に解決したように思ったり、現実の発見ということは文学を直立せしめるものであり、其故なまくらな足では立たせられぬというところでしょう。面白い。十四日の手紙で、文学の対象は(芸術家の対象と書かれています)無限に広いと云っていらっしゃる言葉。翫味百遍。この短い言葉のなかに、どれだけの鼓舞がこもっているでしょう。それから、私の二十三信にもかきましたが、ジャーナリズムとの角度のこと。私はひとりクスクス笑っているのです。だって、これも発見の一つでね。あなたという方の発見の一つの面をなすので。私は非常に単純ね。甘やかしていえば一本気とも云えるかもしれないが、そういうお鼻薬は廃止にしたから、やっぱりこういうところに、苦労知らず(ジャーナリズムとの交渉で)のところがあるのだと思う次第です。なかなか興味がある、発見というものは。私は幸だと思います、こういう発見をも世渡りの術的には発見しないでゆくから、(或は、おかげさまで)。
こういう点について考えると回想がずーっと元へまで戻って一つの場合が浮びました。それは私たちが一緒に生活するようになったとき『婦人公論』で何かその感想をかけと云ったでしょう、そのとき私が三四枚真正面から書いて、戻してよこしたことがあったの覚えていらっしゃるかしら。あのことを思い出します。そしてああいう風にしか書かなかったことを。――今ならきっと、読む女の人の生活を考え、客観的に諸関係を考え、書けたでしょうね。自分より、ひとのためにね。そんなこともよく考えてみると面白い。〔中略〕
[図4]ねえ、ここにこういうことがあります。「我々は自分で理解するという主たる目的の」ために二冊の厚い八折判の哲学の原稿を書いたということ。――自分で理解するためにそれだけの労をおしまなかった人たち。その労作がこのようにも人類生活に役立つということ。こういう展開のうちに花開いている個性と歴史。自分そのもののひろく複雑豊富な内容。この文字はこれまでその本の解説にもついていてよんだのですが、新しくうけとるものがあります。私は自分で理解するためにどれだけ努力がされているでしょう。
これについて又もう一つ面白いことがある。人間の内容のレベルということについて。一定以上の内容の到達をとげている人は、坐臥の間に、それ以下の人間がウンスウンスと机にかじりついている間にしか行わないことを行い得るということ。そういう練達のこと。休む時間に高等数学をしたときいて私はびっくりするけれども、休む時間に私が小説をよむといったら、本をよむのが休みかとおどろく人もあると思えば、人間の段々とは長いものですね。でも本当に、私は自分で理解するためにどれだけのことをしているでしょう。文学においても。再び文学のプログラムのことが浮ぶ。これは他の誰彼にわかっていないように私にも分っていない。正しく今日までの過程も跡づけられていない有様です。かえって踏みかためられた小道には雑草といら草とが茂っているままです。
[図5]この二巻の選集[自注9]をあなたから頂いたのは一昨年のことでした。私たちの満五年の記念に。なかなかこまかい編輯です。ダイナミックな編輯ぶりです、科学の三つの源泉を、より深い勉強へと導く形において。
十九日。きょうは朝大変寒くて水道が凍りました。乞食が来ておむすびを呉れというので梅干入れてやった。この頃こういうのは珍しい。金をくれと大抵いいます。
日曜だから、けさは、こうやっていると安心するだろう、といっていらしたそういう工合のなかで暫くじっとして、雀の声をきいて居りました。月曜日にゆけるようにしておいて本当によかったこと。なかなか先見の明がおありだと思いました。四日なんかもたない、そう思いました。
この前の日曜の私の手紙、ロダンの手のことを書いた手紙、もう着いている頃でしょう。土曜にそのお話はなかったけれども。おひささん、結婚をする相手の人がいやというのでもない、しかし勉強もやりたい気がするというので全く落付かず。きょうもその二つのことで出かけるとか出かけないとか、朝飯もたべずきょろついています。生活というものを型にはめて、おかみさんになればもうあり来りのおかみさん生活ばかりをするように考え、勉強するといえば御亭主なんかと思う。それがそもそも古臭いので、相手がちゃんとした人で、いずれ一緒になっていい人と思うならば、ぐずぐずせず一緒になって、相談して、一年ぐらい勉強やれるように生活を組み立ててゆくのが本当だということを私はいうのですが。一生一緒に暮すのだから一年待てない訳はないというのは変で、一生一緒に暮すなら、一年ぐらいの暮し方を相談してやれない法はない、という考えかたでなければ。けれどもおひささんをみて、自発的な愛情からでなしに結婚に入ろうとする若い女の人たちの心理がよく思いやられます。男の方には、様々の理由から結婚は内容的にリアルであって、或はリアルすぎる位ですが、ああいう若い、感情遊戯などですれていない娘にとって、結婚はきわめて抽象的な内容で、しかも形ではごくリアリスティックに迫って来るので、たじろぐところが生じるのですね。私としてもいい経験となります。おひささんはごくフランクに相談するから。きょう、勉強のことも打ち合わせかたがた相手の人に会おうとして、いるところへ電話かけたら(八時前)留守。勤め先へかけたら休み、だそうですとがっかりしています。何だか、普通大森辺の工場につとめている二十八九の男の生活としてピンとくるものが私にはあるが、おひささんはどう考えているかしらと思って居ります。私は黙っている。しっかりした人という定評があるのだそうですが、ボロを出さないという形でのしっかり工合では、とも思われます。普通の男の普通らしさとして一緒になれば、故障になるようなものでもないかもしれず。わきでみていると気になります。
[図6]さて、これから一勉強。きょうから過去の経済に関する学問への批評[自注10]にうつります。
この本は厖大な一系列の仕事が多年にわたってどのような一貫性で遂行されてゆくかということについて、実に興味ふかくまじめなおどろきを感じさせます。そしてますます前の方にかいたこと、即ち自分自身に理解するために、努力しつくす力、紛糾の間から現実の真のありようを示そうとする努力というものが偉大な仕事の無私な源泉となっているか、云わばそれなしでは目先のパタパタではとてもやり遂げ得るものではないことが痛切に感じられます。文学作品の大きいものにしても全くおなじであり、ブランデスだって十九世紀の文芸思潮に関するあれだけの仕事は、その日暮しでしたのではなかったこと明白です。更にそのように無私で強力なバネを内部にもち得るということそのものが、どんなに強力な現実把握上で行われるかということも語っています。
専門的に云えば、私は極めて皮相的な一読者でしかないことを認めざるを得ない。宝が宝としての価値の十分さでわからない。何故ならそれだけの準備がないから。しかし現実の問題としてははっきりわかります。そこが学者でないありがたさ。面白いわね。
このような突こみ、綜合性、様々に示唆的です。心にある文学的覚書(その中で文学のプログラムをわかってゆきたいと考えている)の核へ種々のヒントが吸いよせられてゆく。この前書いたものを継続して、而も文学の諸相をもっとも歴史の土台に深く掘りさげてかき、その過程でプログラムについても理解してゆきたい、そう思っているので。一年に一つずつそういうものを百枚か二百枚かいて、一より二へと深めひろげて行ったらずいぶん面白いものでしょう。子供っぽい正義派的フンガイなんかよりもね。
法律より経済の方が面白いということ、わかる気がします。
[図7、花の絵]さあここでめぐり会った。亀井氏を筆頭とするロマンチストたちが盛に引っぱりまわして、ごみだらけにしていた一句が。(芸術に関する)例のギリシア神話のことです。「困難はギリシア芸術及び史詩(ホーマー)が或る社会的発達形態と結びついていることを理解することにあるのではない。困難は、それらが今も尚われらに芸術的享楽を与え、且つ或点では規範として又及びがたい規範として通るのを何と解するかにある。」ここを引用し、「人類が最も麗しく展開されている人類の社会的少年時代が、二度と還らぬ段階として何故永遠の魅力を発揮してはならぬというのか?」「彼等の芸術が吾々の上に持つ魅力は、それを生い立たせている未発達な社会段階と矛盾するものではない。魅力はむしろ後者の結果であり、未熟な社会的諸条件――その下にあの芸術が成り立ち、その下にのみ成り立ち得たところの――が、二度と再び帰らぬことと、はなれがたく結ばれている」等を引用して、全く逆に使った。そして、「大人は二度と子供には成れぬ」という意味の深さ、更に「子供の純真は彼をよろこばせ、彼は更にその真実をより高き平面に復生産しようと努めないだろうか」と云われていることの文学における現実の意味はまるでかくしておいたこと。
「あらゆる神話は想像において、想像によって、自然力を征服し、支配し、かたちづくる。だからそれは自然力に対する現実の支配が生ずると共に消滅する」というのも何と面白いでしょうね。
――○――
菜の花の色はこの紙に押してつかないかしら。駄目ね、花粉がつくだけで、しかもすぐとんでしまいました。長くなるからこれでおやめにいたしましょう。きょうは寒いこと。それなのに大潮の由。潮干狩、この寒さでやる人もあるかしら。虹ヶ浜に潮干狩があるのでしょうね、やっぱり。では又。

[自注8]第二巻への――マルクス『資本論』第二巻序文。
[自注9]この二巻の選集――ナウカ社版『マルクス・エンゲルス二巻選集』。
[自注10]過去の経済に関する学問への批評――マルクス「経済学批判」。 
三月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十一日第二十五信
けさ、十八日に書いて下すった手紙つきました(十六信)。何と膝をつき合わせ、私を総体でしっかり見て、云っていて下さるでしょう。僕はリアリストの筆調で書いているというところまで読んだら、胸が一杯になって、ひとりでに涙が出て来ました。どうしても泣けるところがある。ありがとう。ありがとう。私は、この頃自分たちの生活というものに深く腰をおろしいろいろ考え、しんとした心持で暮しているから、これらのことはみんな身にこたえてわかることが出来ます。私の真の成長の可能、私たちの生活からこそ花咲き得る筈の、まともなものを培おうとするあなたの真情がうって来、又、これまでの自分の何年間かの、一生懸命だと思っていた気持の様々の遺憾なところがいくらかずつなり見えて来ている折からなので、本当に乾いた眼で空々しく読むなど出来ない。涙は、私のむけたような心の上に落ちます。
ユリには、この人生に、揉まれるなりに揉まれつつそこからぬけて行くようなところより、頭を下げ、体をかため、それに直線的にぶつかって、それをやぶって前へ行こうとするようなところがあり、而も、ときにそれが体当りでなくて、体当りの気でだけいるときがあるのだと思います。『乳房』の序文の言葉は、一つの責任の感じもあって、そのようなものとしてまとめてゆきたい(「雑沓」について、ね)という希望をこめて書いたのでしたが。しかし、文学において、責任のある感じというその感じかたのポイントがいろいろなわけですから、やはりそこに甘えた、非現実的な自己評価がなかったとは、今の私の心持から、云えません。十年間に、作家として殆ど文学史的な意味での十分な仕事がないということは、身を刻まれる思いがします。今これを知ることは、だが、いいことです。何故なら、十年間のいろいろな経験が、身につかぬものはふるい落され、身にしみついたものはのこって、今は、その発酵の時期ですから。少くとも私の作家としての成長の過程から見て。そして、生活の具体的な諸事情から見ても。
外に向っての勝気ということについて、前便かで書いて下すっていましたが、これも実に微妙であって、私は、おかみさん的の勝気はない。けれども、或方向、正しいと思われる文学の存在権とでもいうようなものをかばう心持においては勝気でしょうと思う。その場合、知らず知らず自分の正義の肯定と絡み、その絡みかたにおいて一方の低さから主観的になり、その主観に回帰性が加って、じりじりと心にくい込むものとは反対の形をとって現れて来る。そういういきさつ。その裡には、やはり、私の昔の生活の雰囲気から来ているもの、会ではひとが、中央に私を坐らせる、そういうようなもの、種々が影響しているわけです。
昨今感じられているこの沈潜性が、あぶなげのない実力として身に具るのは、これからの勉強次第ということは実にわかります。日々の勉強、自分への切りこみ、自分を益〃広く高いもののうちに同化さすこと、その日々が、実力となってゆくのでしょう。だから今私は、毎日そちらへゆくこと、勉強すること、それしか考えていません。私たちということは、私たちの生活の初めから何千度か云われているが、その実質がやや真に迫ってつかまれて来たのは、これも近頃という感じがして、私はここにも新しくおどろきをもって感じ直しているものがあります。ずっと、自分がしゃんと生活し、仕事してゆくこと、それが私たちの生活の証であると考え、そのことは元より誤っていないが、現実の場合では、私と二重やきつけとなっていたし、五のものを七に力んでいたところもある。これは責任感のことについてふれた、ああいう心理と共通なものをも含んでいると思われます。
こういうような心持、これまでこういう形では見ていませんでしたね。私たちという心持も、この頃ではぐっと内に自分たちの間に向っています。妻としてのいくらかの生長です。日々の生活の細部が別々に運行していると、こういう自然に、皮膚からそうなってゆくようなことも(尤も、今ふれている内容は只それだけで解決されるより以上のものでもありますが)根気のよい追究がいるのですね。こういう時期が経過すると、細部まで質において一致して来る。それがわかります。そうでしょう?この頃それがわかりかかっている。だから、毎日ゆくこと、単な習慣でもないし、私たちの必然です。腹からそう思って来ている。
去年の暮書いた連信から後、すっかり掘りかえされてむき出た泥の間の礫や瓦のかけを、片はじからすこしずつとりすて中。目下そういう工合。土の黒い色が段々あらわれて来るよろこびを感じつつ。その上に降る涙も、従って、涙そのものの滋養をもっているようです。
いつか余程以前、私が暮の形のことをいろいろ云っていたとき形態の問題ではないと云っていらしたこと、それが自分でわかります。生活というものの本質が、形態だけでない、と云い得るには、非常にはっきりとして自律のある態度が前提されるわけです。そして又有機的な微妙さで、おのずから形態もそれに準ずる。
ジャーナリスムとの接触のこと。消す、消されるのこと。あの手紙の中で云っていたことは、生活の経済上の必要の点から云って居りました。限度を知ることは元より。真の労作を築いてゆくことにしか、全面に自分を成長させるものはない。その限度を明瞭にした上で、かける一杯のところで、人間らしいものをかき、経済の必要もなるたけみたして行かなければならない、という意味のつもりでした。所謂外見的な面子(メンツ)を保つために、低い限度を自分の最大限として稼ぐ気は家のことその他毛頭ありません。でも最低五六十円はなくてはならない。あれは、その話。そして又真の労作というものもその現実性から見れば、それは単に発表し得ないということにだけかかってもいないわけですから。前のこととは別にこれとして考えることもあるわけです。
この頃は、友達たちの生活をいろいろ眺めても、実に箇別性がくっきりとして来て居ます。まあ大抵夫婦一組ずつと見て、その一組がそれぞれの過去現在のあらゆる持ちものをもって、それぞれの足の下の小道をつけつつ生活している、その姿が、実にくっきりして来て居ります。どんなに或る一組は他の一組ではないかということが痛感されます。この中では私たちの生活というもの、その独自性もやはり深く考えられ、自分たちの小道についても深く思う。よその根にどんなに近くよって見たところで、自分の花は咲かない。自分の根の養いとするのでなければ。このあたりのこともなかなか面白いものです、人間生活というものの。
[図8、花の絵]
きのうは、昼すぎ家を出て、ター坊のお母さんをつれて、てっちゃんのところへ行きました、およばれ。てっちゃんが世帯をもって初めてです。赤ちゃん大きくなっている。卯女ちゃん[自注11]の両親だの、良ちゃんのお母さんが弟息子をつれて来て、皆それぞれ親子のつどいでした。てっちゃんの家のあたりは去年ぐらいまでは前が畑でよかったらしいが、今は住宅地に売ろうとしているところで、急速にぐるりが変って来かかっています。豪徳寺というお寺を散歩しました。ここに井伊直弼の墓があります。又招き猫という、縁起の猫の本尊(由来不明)があって、花柳界などこの頃大層な儲りかたにつれ、お猫様繁昌で紫のまくがはってあったりするのを見ました。坊主が自動車に重りあってのって、どこかへ(お彼岸だから)出かけてゆきました。そんなものをも見て珍しく散歩し、夕飯をたべ、かえりました。ター坊のおっかさんの話、本当に真率でいい心持だし面白い。本当は東京にいたいのですって。しかしもし万一のとき心配だからと云って、他の子供たちがきかない由。
島田からお手紙が来ました。お元気で、働いているものもいい若者たちだそうです。甘党だから何かと思っているとありますから、何かお送りしましょう。隆ちゃん五六月頃には渡支の予定だそうです。六月には、皆留守だから御法事も大したことはせず、達ちゃんが秋にでもかえれば(只そうお思いなのか、何かよりどころがあるのか不明です)すぐお嫁さんもたせなければならず、その折は私にぜひ来て貰わなければならないから、この六月には来ないでいいということです。達ちゃんのことはそれとして、私は、皆がいないのだから猶一寸でも行ってあげたい気持です。達ちゃんが手紙で、『文芸』に「早春日記」(私の題は「寒の梅」、もう一人のと集めてそういう題)が出ているので懐しく、雑誌送ってくれと云ってよこした由。あちらにないそうですからこっちから送りましょう。
[図9、花の絵]
丸善の本注文しました。研究社へきいたら出版と同時に送ったという返事でした。まだつかないでしょうか。何でも十二日ごろ発送したそうですが。払込は二月十六日にして居ります。あの英和どうでしょう。わるくありませんでしょう?
家のこと、暮しのこと。寿江子の方へも手紙かいておきました。今に返事よこすでしょう。そしたら又よく考えて、御相談いたします。護国寺のところから、音羽へ曲らないでずっと雑司ヶ谷へぬけて日の出の裏を通って池袋へ出る市電が四月一日から開通します。日の出の三丁目あたりからそちらの横へ出られるわけで、団子坂方面からは一直線、のりかえなしとなりました。ひさは、友達を代りに見つけられそうです。大いに助ります。けれども、全体的な経済の点から、家のこと、考えなければならず。もし、本郷に動くとして、その電車が通るようになったの、何とうれしいでしょう。あれへのりこれへのりしないですんで。時間はすこしかかるでしょうが。これもまだ未定ですけれども。今度そちらからのかえり、林町までずっと行って見て時間を調べましょう。
お約束の表三月十日――二十日迄。
起床消燈頁
十一日六・三〇一〇・二〇十五
十二日七・三〇一〇・一〇四〇
十三日六・四五九・一〇四二
十四日六・三〇一一・〇〇四六
十五日七・三〇(水)一〇・四〇五七
十六日六・四〇九・四〇二〇
十七日六・三〇一〇・〇〇一五
十八日六・五〇一〇・三〇三四
十九日七・〇〇(日)一〇・五〇五一
二十日六・三〇一一・〇〇二四
この頃本について感じることは、一つの本を、何冊も持つの、どういうのかと思っていたら、それが手元にあるなしばかりでなく、違ったときに又よむときやはり別の本がいいということがわかり面白く思います、その時々で引っぱり出して来るところが変化し進みもするので。それから、前に読み終っているものが、他に一歩出たため、又ひろい展望で思いかえされてよみかえしたくなるというようなこと。
又曇って来ましたね。久しぶりの外気。風邪をお大切に、呉々。

[自注11]卯女ちゃん――中野重治の娘。 
三月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
*二十四信という番号、とんで居りませんか?
三月二十六日第二十六信
実に何とも云えずにやついて部屋掃除をやりました。たっぷり屋の御亭主というものは、と考えながら。読書のこと百頁が勉強にふさわしく、二百頁がんばれると(!)三十頁というのは、一方に書きものをもっての話と(!)にやつかざるを得ません。だって、私はまだ蝸牛(かたつむり)的テムポですもの、これから見れば。
しかし、この頃は、ここに云われているように、文章に拘泥せず、全体をつかんで読んでゆくこつは些か身につけました。そして、丁度英語で読むときのように、全体としてわからせてゆくという方法で。今の私のもっている科学的素養では、いくらねちねちやったってわかる限度がきまっていて、今は今の網ですくえるだけ掬って、そう思ってよんで居ります。そして、こんな面白い本はきっと又何年か経って又よみかえすと又よくわかるようになっているだろうし、そのときは今引っぱっている棒がうるさくて又別の本が欲しいだろう、そう思います。暮頃よんでいたのは多く一とおりはもとよんだものでして、やっぱりその感じでした。科学としての面白さは次第にわかって来つつあります、特に文学的になるのです手紙だと、どうしても。そうでしょう?自分の身についたものが多ければ多いほど、その方面の本は速く、深くよめる。だから、文学的なものをよむ力とこういうものをよむ力とを比べて見れば、経済についての知識がどんなに低いかということはおのずから明瞭です。しかし実を云えば、こういうものがこれだけ面白いとはこれまで思えませんでした。どうか当分は蝸牛の歩みよしおそくとも、というところで、御辛棒下さい。私が急に一日に百頁もよんだと云えば、それはうそなのだから。何しろ、W-G-Wというような式には初めて出会うのですから。そしてこんなものは云って見ればアルファベットでしょう?そこからえっちらおっちら歩いているのですから。グランマーとはよく仰云ったこと。こういう文法が一通りわかれば、随分多くの他のことがわかりやすくなるのでしょう。貨幣が主に説明されているところなど実に面白い。人間生活として面白い、バルザック風な。グラッドストーンというお爺さんは、なかなか洒落たことを申したのですね、「人間は恋で馬鹿になるよりも、貨幣の理論ではもっと馬鹿になる」と。この老政治家の夫人は賢夫人で、議会に重大な演説のある日、馬車に同乗して、ドアでひどく指をつめ痛み甚しかったが良人には一言も訴えなかったという一つ話があります。議会へ、そもそも同乗して行くというところ。日本の幾多の賢夫人たちはその良妻ぶりを示すそのような機会を決して持たないわけですね。
自身の仕事についてのこと。又生活についてのこと。いろいろ考えます。主観的ないい意志というようなものも、一定条件の限度とともにもあり得るものだということもこの頃ははっきりわかって来ました。而も条件的なものへの敏感さを失って、いい意志というものの中に入ってしまっていれば、結局において自身については一種の盲目であるということも。人間の成長のジグザグの線というものは実に複雑きわまりないと思います。そのものとして大なるプラスの本質をもっているものでも、関係如何によっては、結果としてマイナスに出る場合もあり。外的な時間のことや、おかれた不自由さが、作家の内的豊富さを加えることは、私にもわかって居たと思います。時間がなくて未熟だというようなことよりも、これだけとぎれた間でこれだけ行けばややましだ、という点を自分で見て、大所高所を目安としての未熟さを身に引そえて感じないようなところに、未熟さが現れていたのだと思われます。云わば未熟さが手がこんでいたと思う。
それにしても、あなたは本当に、何という方でしょう。自分の妻であるということでは決して一人の作家たるものを甘やかさない、一層甘やかさない、その弱点をも最も具体的につかんでいる批評家として在る、ということは、何と感動的でしょう。その長所をも、一作家として同じ程度に掴ませることが出来ないとしたら、それは何と悲しいことでしょう。(これは決して、あの手紙、この手紙の部分について云ったりしているのではありません。この頃私はあなたに対して微塵(みじん)もひがんで居りませんから。全体として感じているから。病気を直すときは病のある部分について語るということは分っているから)
家のこともね、やはり全体とのこととして考えて居ります。目先のことだけで、林町へひっこんだような暮しかた、何だか虫が好かないのです。元の杢阿彌と笑っていらしったこと、それほどでないにしろね。あっちを根城にしておいてそちらの近くに部屋を見つけることが一番いいと思います、そういう生活の形のときを予想していたのに、市内では、家は一つという風にきめて考えていたのは可笑しいと思うけれども。素人の二階は困ります。実に気がつまる。アパートを見つけたいと思って居ります。勿論今こうやっているようには行かなくて、様々の不便や何かあるでしょう。アパートにいる友人(ミケランジェロをくれた女のひと)が云っていたが両隣に夫婦者のひとたちがいたら迚も暮せぬそうです。ケンカすればするでやかましい。睦しければ睦しいでやかましい。そんな壁だって。物を書くような人が、いい加減のアパートでは結局落付けず皆家をもってしまう。それもわかります。私たちの条件では最も家庭的な生活をしようと思うと、見たところ及び日常も、家庭的という旧来の形はこわれなければならないというのは面白いこと。私たちというものの内に向った心持がなければ、仕事に向ってもそういう気持がなければ、アパートなんて、迚も駄目でしょう。私は独りっきりで一日じゅう口をきかないような暮しは苦しいの。ですから、人間の間にはさまったようなところで暮す方が、一人ならいいと思います。素人の二階なんかだと、下のおかみさんとの交渉が、私が女だけに厄介です、口を利くと何か対手の興味は身の上話的になるし。アパートには又それとしての不便がある。でも、あっちを根城としておけばやれないこともないでしょう。勤人の多いアパートが同じならよい。学生の多いところはこまります。どうせいれば誰かということは分る。一つ構えの中でのお客が多かったりしては。生活というものは生きているから、居るところに生活があるわけですから、あっちこっちせず、そちらに大部分暮すにはそれだけの条件が入用ですから、よくしらべましょう、(ひさが来月に入ってかえって来たら)そういう生活をやって見るということには興味があります。人々の中での生活というところが。机だの何だの鍵のかかるのにしなければなりません。親かぎでいくらでもいないとき開けて入れるのですから。誰が入るか、それも分らない。そこがいやね。一人はだからいやね。一つの家なら其だけはないが。空巣のほか。一番いやなのはこのことと手紙のこと。
毛糸足袋のこと、底が切れた話。切れてよかったこと。去年まるで底がいたんでいないのを見て、その底を撫でつつ、ああと考えたことを思い出します。切れたというのはうれしい報知です。春は、皆工合がはっきりしません。一年のうち、この頃から八重桜のぼってりと咲く時分私は一番苦しい時です。食慾も一体に低下します。どうか呉々お大事に。
私の薬のききめは、精神状態まで更新させるようです、きっと本当にそういうききめもあるわけですね。そちらにそれ位きく薬がおありになるでしょうか。いくらか利くのはあるでしょう、けれども。薬のききめが高まればよいと思います、綜合的なものだから。
きのうは、お話していたように島田へ手紙かきました。甘いものは、お母さん、中村やの支那まんじゅうをお思いなのでしょうと考えついたので、お送りします。あれは大気に入りですから。達ちゃんへは、先のとき第二回のとき『抗日支那の解剖』を送りました。この間私が云っていたのは尾崎秀実の『今日の支那批判』というような本です。インフレーション問題だけ何冊かシリーズにしたのが出かけています、興味があるが達ちゃんはどうでしょう、一度お見になりませんか。隆ちゃんに会いたいことも、島田へかきました。寿江子はノミの工合は不明ですが、子供たちを相手に暮している様です、あちらにいると夜九時に眠ります。東京へかえって来ると眠れなくなる由、寝ないのではなくて。それを、私でさえ寝ないと云って怒ると、この間は悄気て居りました。
ポチがね、さきほど死にました。目白の駅のプラットフォームから犬猫病院の札が出ているの、覚えていらっしゃるでしょうか。一昨日の午後そこへつれて行って入院させて、きのうも見にゆきましたが。よほどひどい毒物をたべたのだそうです。ワンワも可哀そうに。捨てられて、やっとうちで飼われて、毎朝私が出るとき走ってお伴して来ていたのに。何を一体たべたのでしょう。アンポンだもので命をおとしてしまった。ワンワの入院料は一日一円五十銭也。獣医さんというのは動物が好きでなるのでしょうね。
十二月の二十三日の朝、ポチがおなかを空かせて私の手をかむ。御飯がちっともなかったので、台所に跼んでいて御飯たいてたべさせてやったりした(盲腸になった朝)。犬も可愛いものです。
もう近々届くでしょうが、セッカーの目録の中にアレクセーイェフの「罠かけのデルス」という本の広告があります。それと同じのに「ケンヤ山を仰ぎつつ」というのもある。「罠かけデルス」は訳してもいい本と思い、それならほかの読みようはないでしょうし、注文します。いつか書いたゴールスワージの小説。ヨーロッパ大戦の時のことで、あれこれだと骨折った甲斐がなくなるから。それに小説でない方が、ものをかく人間には却ってよいし、語学の点から云っても。
この間、何かの雑誌の五行言のようなところに、矢内原氏が「現代は波瀾きわまりない時代であるからこそ、自分は一層永遠なるものに心を向けようと思う」という意味の言葉を云ったのを志壮なるものとしてあげていました。そのとき、永遠なるものとは何であろうという気が閃きました。感心している人は文句に魅せられたのでしょうが。歴史性は、絶えず変ってゆくそこに歴史性があるというような本質でつかまれた上で見ると、云った人の基督(キリスト)教精神や感心したものの心に求めているものの質が明らかに描き出され、面白い。動きの裡でその関係、その矛盾を生ける姿でとらえている点では貨幣についての著者が、作家に教えるものは実に甚大です。お手紙に早寝と書いて消してあります、笑えてしまった。 
三月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月三十日第二十七信
きょうは何と上気(のぼ)せる日でしょう。六十八度です。気温よりあつく感じます。机の上の、小さいけれども本もののマジョリカの壺にアネモネをさしておいたら、けさの蕾が見る見る開いて、満開に近くなってしまいました。
さて、うちのこと、てっちゃんのことづて、きいて下さいましたろう?あれから怪しき者も現れず、炭俵も安全ですから御安心下さい。ひささんは今夜かえります。こういう思いをするにつけて、本当にそちらの近くに堅いいくらか静かなアパートがあればよいと思います。最も実質的に考えて生活を合理化することは、真面目に計画されるべきことであると段々わかってきます。〔中略〕
いつか、去年のうちであったと思いますが、あなたが、生活のやり方について、無理して家を一つもつなんていうことを考えず間借でも何でもしてやって行くのが本当だから、と仰云ったことがあるのを覚えていらっしゃるでしょうか。そのとき、私は、それはそうだが、とわかってもどこか情けないような気がしました。そういう心持はなくなって来ています。新しい周囲が生じるのもよい、そういう興味もあります。生活がぐっと単純化することから違って来る気分もあり、そのことがどう自分に摂取されるだろうかという期待もあります。四月十日頃になると、移動がはじまるから家に留守番が来たらアパートしらべにとりかかります。
二十七日づけのお手紙、ありがとう。くりかえしよみ、例えば家のことなどについて自分の心持に生じている変化について考え、この数ヵ月のうちに(去年から)こき落された贅物のこと、或程度まで贅物がなくなって、そのレベルではじめてああ、と心から納得されるものの生じていることを深く感じます。
勝気さのこと、非常に私の生活にあっては、いろいろの混りものがあり得るわけです。ここにとりあげられているペニイのことね、あれなんか私はアラそうかしらの程度で、そうお?というように、半分冗談の種に云っていた自分の心持でした。それがあなたにこういう場合の例としてあげられることとして、印象を与えているということ。そういうことについても考えます。私の小さい我を粉砕し、又その現象的なあらわれであるそんな勝気さについても爆撃を加えて、よりひろく高い視野にひっぱり出そうとして下さること、ありがたいと思います。〔中略〕
私はこの前の前の手紙(二十二日)で、自分のよい勝気さと俗っぽいものとの混り合いについての反省にふれていたと思います。勝気というもののあぶなさは、現実に無内容であっても、その自覚感情としては在り得るという点です。自負と同じでね。
去年から今年にかけて、目に止るほどの程度でなくても、質の点で、実に私は多くの衣がえをしたし、かえるべき衣について知ることが出来たと思います。そして又去年から今年にかけて作家としての私がおかれている事情の中で、普通のひとならば、一応その事情への劬(いたわ)りで、云いたいことも云わないような正にその時期に当って、その時期こそ真の成長を目ざすべき時期であると、痛いこと、切ないこと、涙こぼさずに居られない点に触れられるということ。わたしたちの生活の妙味つきぬところであると思います。この頃、このことを屡〃考えます。成長ということは烈しいことであって、決して私は成長したいと思いますという、その気持で終るものではない。その心持ちはわかっている式でも、現実の成長はない。益〃今の時期の内容的充実についての関心がよびさまされます。
ジャーナリズムの限界は作家の接触のしかたではないということ、これもよくわかります。特に終りの部分は、意味ふかい言葉であると思います。
このごろ、やっと大部な著作の読書にとりかかって、感歎おくあたわず、です。涙ぐむほどの羨望です。純粋の羨望であって、腹の中では顫えるようです。小説においても、文芸評論においても、こういう態度に些か近づくことを得れば、本当に死んでもいい、そう思う。学問、最も人間的な学究というものの態度、鋭い分析と綜合との間で活き物である現象をとらえ、本質を明らかにしつつ再び活物としての在りようをその全関係と矛盾との間で描き出す力。そして、おどろきを新たにすることは、これらの精気溢るる筆が、対象をあくまで追究しつつ、決して、作家の頭にあるような読者を問題にしていず、念頭になく、筆端は常に内向的であることです。真の文学評論は、正にこういう性質のものでなければならないのですね。作品に即して、その世界の内外をあまねく眺め、よって来るところ赴く客観的なものなどが、煩いとなっていない学芸性。私の作品評などが、学問の基礎をもっていないということは、こういう点とてらし合わして見て、態度そのものが、子供のようなものだということがわかる。子供の怒りにしても尊重さるべきものがあります。しかしそれは大人になるからこそ価値があるのですから。学問的土台がない、ある、ということと深いものをもっている。古今の文芸評論を読破したという学問性だけは、学問性でない。それを読んだことなくても、学問性はあり得ます、正常な生活と文学とを語り、判読し得る。そういう学問性にまでめぐり合えないものが、卑俗な学問性に反撥して、現象主義になり、批評家はいらないと壮言する作家を生むし、一方、そう云われるのも事更わるくないというような批評家を生んでいる。
私にも、どうやら学問らしいものの面白さが、わかって来たことをおよろこび下さい。この著者のものはこの前の手紙にかいた本を入れて、四冊よんで、こんど五冊目にとりかかっているわけです。実に多くを教えます。自分のわかって行きかた、丁度鳶のようと思う。下に餌がある。鳶はぐるりぐるりと外から大きい輪を段々せばめて行って、最後にはその餌にさっと降りる。何だかボーとしている。すこしわかる。段々わかる。わかる、わかる、そしてテンポ(内容に近づく)が早まる。こういうテンポも人間の全体のリズムで面白いと思います。外を撫でて字をよむ。ところどころ一寸突入る。やがて全体やや沈んで、沈んで、こんどは内からよむようになる。まだ内からよむところまで到達はして居りませんが、この頃は、フト気がついて、あらと思う、内側からよんでいた自分に心づくのです。
こういう風な読書力がつけば、文学評論の古典もやがて読んでゆけるでしょう。億劫がらず。実にひどい読書力ね。何と女でしょう。たすきかけて、前かけかけて(ああ思い出した、ユリが、かえると云って前かけかける、と笑われたこと)一寸ぱたぱたやってフーとすぐぐったりとしてしまうような。
私はどんなつまらない小説でも小説でさえあれば、あとからあとからよんであきない、というそういう風な本好きではないのです。又、随筆的境地でもない。だから本当の読書力がつかないと、妙なことになります。
おかあさんからお手紙が来ました。隆ちゃん案外に早く五月初旬渡支ではないかとの由です。四月二日に面会にいらして様子知らして下さるそうです。本年は二回に入営させ、一回(隆ちゃん)は一月。二回分は五月初旬の由。一回分はいられませんから。そうしたら私は五月のとりつきか四月下旬に行かなければなりませんでしょうね。六月六日までの間に一度かえることになりましょうか、居っきりでしょうか。考えておいて下さいまし。行ってかえり、又行く。それも大変です。けれど。
四月一日から島田村が周南町と改名になります。
おかあさんのこの頃のお手紙によって、うちのこともその他順立てようと考えます。もし四月下旬に行って六月六日をすますまでいるとすれば、適当なアパートが見つからなくても、荷物だけ林町へやり、もしおひささんが保姆学校へうちから通うのなら林町から通わせてもよいとも考えて居ります。おひささんもかえって見なければわからず、島田からのお手紙も来なければわからないわけですが。おひささんの学校は四月十三日からはじまり、婚礼はそれよりあとになるでしょう。学校が大森に近いと云って、そっちへ行って同棲してしまうこともこまるだろうから、うちから通ってよいということにしてあるのです。それでもこっちに生活の目標があるので今度は早くかえって来ること!この前の秋などかえろうかかえるまいかと実にひっぱっていたのに。
おかあさん、私が行きたいと云ってあげ、もう馴れたから特別の心づかいは真平だからと云ってあげたらおよろこびです。あなたもそう云っていらっしゃる(行けと)というのならなおうれしいことです。土地の名がかわるようにあちらの生活、一年見ないうちに随分変化したことでしょう。野原の土地は坪二十五円以上となり、皆済(かいさい)して、主家と土地五十坪のこったそうです。御安心でしょう。富ちゃん先(せん)の手紙で、嫁をとってもやって行けると強調していたが、どうかしら。
寿夫[自注12]さん、本を売っ払って行くというから、私欲しい本だけゆずりうけます。只でよこして貰ってもわるいから。
スノウの細君[自注13]が西北地方旅行会見記をかいて居ります。スノウ夫人とは云わず、別な名(旧姓)でやっているらしい。訳もむずかしかったでしょう(『改造』四月)。スメドレイの従軍記と全くちがって、事務的に(マタ・オヴ・ファクト的に)数字や人名など表記して居ります。〔中略〕チュテーのおくさん、えらい女武者であるそうですが、女の問題に答えて私は彼女たちの仲間でありませんと云っているところ。知りませんと。なかなか面白い、いろいろの要素がわかって。複雑な波ですね。
一平さん[自注14]、かの子の追悼をあちこちにかき、様々に思わせます。新婚の頃、友人をひっぱって来て二日二晩のみあかして、となりの室にいるかの子に食うものがあるかないか考えても見ず、のまずくわずで彼女はサービスしていたと。そういうところから彼の発明の童女性が生れ、それが、ああいう形に発展したこと。妻に死なれ、悲しんで炬燵にねていたら弟子が先生は職人のような顔をしてねていたと云い、かの女いないと忽ちこう成り下る自分云々。美しさより、溺情より、何だか病的なものがあって。
さて、又例の表、きょう三十日できょうの分は完成しないわけですがそれだけ別にも及ばないから。
起床消燈頁
二十一日八・〇〇一一・〇〇一五
二十二日八・〇〇一〇・三〇三〇
二十三日六・二〇一〇・四〇二〇
二十四日六・三〇九・三〇一五
二十五日六・四〇一〇・三〇四八
二十六日(日)七・三〇九・四〇七一
二十七日六・四〇九・二〇三〇
二十八日六・三〇九・三〇三一
二十九日七・三〇一〇・三〇三〇
三十日七・〇〇
ここで一つ面白半分、吝嗇漢となって三月分の頁をかぞえあげます(まだきょうとあしたがのこっているが668頁。きょうのを入れて700としていて、30でわる。この算術の答23.3―切りなしのしっぽ。フム。親方の御感想はいかがですか。大したことありませんね。番町皿やしきで侍女お菊は、一枚二枚と皿をかぞえて、やがて化けて出ます。おユリはどんなおばけになることやら。そちらへばけ出そうと思います。どうぞ私のおばけが通れるだけ窓をひろくあけておいて下さい。呉々もお願い。
あなたが大変元気そうで、ときょう徳さんが申しました、くりかえして。手袋、足袋、もう入らぬ由です。ではあさってこそ。

[自注12]寿夫――池田寿夫。
[自注13]スノウの細君――ニム・ウェルズ。
[自注14]一平さん――岡本一平。 
 

 

四月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二日第二十八信
きのうの日づけのお手紙。これはレコードの早さです、そう思って終りへ来たら、まあこれはきのう私が出かける前におかきになったのですね。早い手紙ね、おきぬけの。
一日から八時になって、八時半から四十分の間に第一の呼び出しがあります。まだ肱の力のつよい女軍が相当ですが。池袋の方へ市電が通じたら、池袋辻町のバスが大層すいて朝のキューというような圧し合いがなくなりました。池袋の方はまだ試乗しませんが、表門のすぐわきへ出られて便利の様子です。
このお手紙で云われている必然的未熟さの征服のことは、文学の現実、生活の現実のなかでは、実に意味ふかく複雑な形態をとります。今日の文学のありようを見ると農民文学、生産主義文学、生活派文学、いずれもテーマ小説であって、現実に向っては意識無意識のイージーさに立って居ます。そしてこの分野で左になぎ右に斬りすてやっている猛者連は、殆どかつて左翼的と云われた作家たちであって、未熟さであったもの(歴史性において)はそのまま低さとして在るなりに、処世の法が絡んで、文学の上では今日の歴史の低い文学の面を表現するものとなってしまった。そして、現在では、そのテーマ小説の俗っぽさに対抗するものとして、変な境地小説(芸者・老人等、子供を扱ったり)が現れている。つまり、その裏が出ているわけでしょう。
人間の成長には常に一面の未熟さが伴って、怠慢は、自身に対する測量柱が、自身にプラスと思われる面へだけ立てられたときに生じます。これはいろいろ面白いと思います。
昨年、非常に突入った内部的なありようがとりあげられるようになった細かい動機について考えて見ると。勿論、あなたは以前から、いろいろとユリの成長について、上にかぶさって来る或はひきずっている様々のものを見ていらしたし、それについてふれて来て下さっていましたが、去年は、私が自身の生活事情が変化したことから、それを凌ぐ、或は受けとめる内心の要求として、自分の作家的な経歴というようなものや何かにつよく執したと思います。へこまない、ということを、そういう面の強調で表現し、自分自身の力としたと思う。それが、あなたには、私の変な硬化の危険として、おどろくように映ったと思われます。そこで、これまでより一層、明瞭、強固な表現で多くの注意が与えられ、攻城法が用いられ、暮の私の連信まで到達しました。この心理のいきさつは実にくりかえし、考えるねうちがあると思う。私として、自分の抵抗力を、そういう形での言葉の響をきくことでさがしたということ(我知らず)のうちには、そのときは心付かなかった自身への甘えがあり、本質的にはやはりその境遇に負けていたのであり、言葉で何とくりかえしても要するに、只空気をふるわすだけで消えることであり、実にあぶなかった。あなたは時に、私の髪をつかんで引っぱるぐらいだったのです、あの頃。この前の手紙にもかいたと思いますが、去年あなたが、ああ正攻的であったのは、何という深いよろこびでしょう(相すみませんが、今日沁々とわかるところの。あの頃は苦しい、苦しいと思った。)私たちの生活のうちの忘れることの出来ない一節であると思います。私の最大の、そして相当身についている弱点は、この甘さです。この頃は、この甘さの百面態がいくらかずつ見えて来ました。自身に甘えるところがあって、現実が現実として見えることは決してない。作品がそうです。その世界に甘え、その世界を見る自身に甘えたら、決してリアルには描けない。おたばこ一服になる。おたばこ一服ではまさかにないが、私の長い作品について、云っていらしたことね、(傑れた作品にするには云々と。生活の態度について)あれは本当です。はっきり本当と思います、あいさつとしてではなく。私はこの前後のことを考えると悲しいようです。だって、私は何故自分でそれだけのことを自身について発見して行けなかったろうか、と。そして、そういう力のなかった場合(あなたからの数々の気付き)、自分はどんなになったろうかと。これは考えると全く泣けるほどです。芸術家として生活人としての成長というものの、おそろしさ。ね。一寸正当な眼くばりをおとすと、忽ちスーと、おし流された揚句に眺めれば、陸はあすこであったかというようなものであり。
戸塚夫婦の生活には、こういうものが、形をかえて去年秋現れたと思います。パニック的なものの中から、やはりあっちはあっちとしての成長を見せています。無駄にころびはしなかったと思って見られます。そこにも実に云えない努力があるのですが。(二人の)其々のタイプ、其々の伝統、それによってころんだり鼻面をひんむいたりして、進む。一歩なりとも進めれば幸と致さなければなりますまい。自身の努力というものが現実にあるとしてもそれに甘えれば、努力の成果そのものの本質の価値が逆転し逆作用するところ、何と活々とした人間の生活でしょうね。
低い丘しか歩いたことのない人間がやや山らしい山を一つのぼったことで、フーと息ついて、いや実に俺は山を征服したというような弱さ。そういう弱さや小ささの面から見ると、実に人間はその大多数が虫のようでもある。武者の人生観などこんな面と、例えばミケランジェロなんか見較べて、人間は見ようによっては実に力よわいものだが、又他の一面から見ると、実に偉大だ。それに驚くばかりだ。などという人間一般論を出すわけでしょう。
『ミケルアンジェロ』、そういう本でしたか、あと送って下さい。表のこと、すこし信用がまして来て嬉しい。自分のプランから脱れたとき――つまり黒丸の日だけ云ってあげるの?何だか妙です。黒丸の日だけ起床、消燈、頁とかくの?
今夜おばあちゃんのお客。いろいろの心持でこれから仕度にかかります。もしかしたらこの家で御飯にひとをよんだりするおしまいかもしれないから。あっちこっちスケッチしてよかったこと。私たちのこの家を深く愛します。
アパートでこまるのは生活が露出してしまうことです。これがどうなるか、一番の要点で一番マイナスの条件だから。この点本当に慎重です。あとのことはサバサバするだろうと思えます。
ひさは四月一杯いられるかと思ったら、名古屋の姉が出産しこもち肥立ちがよくなかったらそちらへ行くことになっているのですって。浮足が立っているから。アパートは豊島区内にさがしたいと考えています、かわって、初めてのところへなど行くと、つまらぬ好奇心や詮索でこまるから。何しろ有名人ですからね。お察し下さい。来年六月できれるわけです。
市場へ(目白の角の)買物に出てかえって来かけたらポツポツおちて来て、今は本降りになりました。池さんあしたの夜も雨が降ったりしたらきっとあのひとらしく感傷することでしょう。御せんべつに旅中読む本をあげようと思います、『ミケルアンジェロ』にしましょう。それと、「メチニコフ伝」。これは夫人が所謂文学的に書いていますが。(そうらしい、一寸立ちよみ)
食べもののことについて書くの、いろいろの心持ですすまず、食べさせたくて口の中が苦くなるからいつも書かないのですが。きょうはとしよりのお献立に、春らしく蕗だの花菜(油菜の花の蕾のついたの)、うど、コリフラワーなどにとりの肉のたたいたのをおだんごにしたのをなべにします。それと胡瓜(きゅうり)。これは日本画「蔬菜之図」としておめにかけるわけです。何にしろ、うちの前の通りの古桜が花をつけましたから。そしたらちゃんと雨になる。日本の春の色彩。三月と四月とはお休みの多い月ですこと。一年のうちに一番多い月で、今年は暦の工合で重らず、二日つづきとなっているから。いいような、つまらないような。お休みは一日か二日で十分ね。
[図10、花瓶に活けられた花の絵](アネモネのつもり)。
三日
今、妙な服装でこれを書いて居ります。黒い着物に黒い帯、その上に黄色いどてらを羽織って。向いのうちの三宅さんというお役人の家で、十九歳になる三男が盲腸炎をこじらしてねんてんを起し昨日没しました。可哀そうに。おなかが痛いと云っていて、ちゃんとした手当せず、ダラダラのうち手おくれになった様子です。おじぎして来て、二時にお葬式ということ故角まで見送ろうと思って。
昨夜は、それでもお婆さん御満足でした。戸塚では締切り間に合わず、やっと旦那さんだけ。この紳士がたは年よりを中心に話すなどという心がけがなくて、てんでの話題でてんでに喋って私は気がつかれましたが、又それも考えようでね。ああ、こんな風に、あれも喋っていたんだなと思い出され、私が心配したほどわるくはなかったかもしれません。おみやげに小さい袋にハンケチ二つ入れたのあげました。刺繍のしてあるきれいな布地があったのでバラさんが袋にしてくれたのを。秋また来るそうです。もう二三日でかえる由。かえる迄にもし天気がちゃんとしたら上野か溜池三宅坂の桜を見せにつれて行こうかと思って居ります。
今夜、池さん、送りにゆくのはやめました。却って迷惑らしいから。この頃はそういうのが一つのモードなの。光子さん夫婦にしろ。私には送ってくれなくてお志は十分というようなところ。この頃何と人の生活の移動が多いでしょう。生れる。入学する。職業が代る、その他。元の友人の中で何人か重役が出来ているのだから大したものです、小・信、井・卓その他。
きのうおかあさん、隆ちゃんに面会なすったわけですが、どうでしたろうね。お手紙が待たれる次第です。五月に入って隆ちゃん行くようでしたら、やはりつづけていた方がよいでしょうね。この間のお手紙には、来てくれるなら本当にうれしいから、さしくって、ゆっくり出来るだけ永くいるようにして来いと仰云ってでしたが。私はこんなに丸いのだから半分ずつにして結構なのに残念ね。
〔欄外に〕一ヵ月ばかりのうちに同じこの紙が十銭もあがりました。
島田の生活はまるで変化ですから、私にとっていろいろ楽しくもあり、ためにもなり、見ることの範囲もひろがります、ああいう小さい町の家の女の生活というものは、島田ではじめて経験するのですから。北の地方とはそれに全然ちがうし。文化の古くからひらけているところと北方との相異はきつくて、東北ではあの位の町で、女はあんなにいい身なりをしません。ずっと富の程度がちがいます。諸形式もちがう。野原の家があって、あなたの少年時代は本当にようございましたね。島田のあの町の気分の中では、納まれず、或はじっくり育てなかったとはっきり感じられます。あすこは、何となし詰っている、そしてうのめたかのめです世俗的に。
盲腸を切ってから、(この頃)夜床に入ったとき、それから朝目がさめたとき、体じゅうをずーっとのばして脚をそろえ、踵に力を入れて実にいい心持に全身のびをいたします、何年ぶりでしょう。こんなに力一杯ののびの出来るの。いつもこれまで右膝を立てたり、左脚でバスの中で立ったり、迚もこんなのびは出来なかった。仰向いて、しんからのびて、横向いて、しんからのびて、裸虫のようにうねって、そういうとき、我々の詩集の頁が音をたてて翻るようです。いろいろな活字を見せながら。詩譚をきかせて下さい。ピム、パムからよろしく、随分あなたに帽子をなおして頂きたい様子です。では明日。 
四月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月四日第二十九信
きょうは、やっとぽっちりだけれども薬のおかげで、かぜの気分はましになりましたが、少なからず悲観して居るところです。かえりに新しい電車の方へ出たら、不図気がのって、それを横切って、「アパート」という案内で見ていたアパートをさがし当てて二つ見ました。雑司ヶ谷より。お話にならないので悲観しているところです。あと大塚よりに見るしかない。池袋よりは女と云えば女給さんその他コンキューで、保安のおとくいでしょうから。ほんの一時の好奇心か、その辺を歩きまわる足がかりの為かならばだけれども、そこに落付いて勉強もし仕事もしようというのには迚も駄目でした。同潤会のなどは、随分ちがいますね。久世山だって。この辺のは、アパートというものがよく分らないうちに建った古いものらしい。
五日
思いがけないものが降りました。かぜもひくわけ。四月に入ってからの雪とは珍らしい。かぜはましで、喉も食塩水でよくうがいした為痛みとれ、鼻の中のカサカサもメンソレータムでましです。夜なかに干いてしまって困りますが。
片上全集第二巻が来たので、金原の医書より早くお送りしました。私には深い感興と共感とが感じられました。輯録(しゅうろく)されているものについて。二種の求めるものが一人の友人のうちに統一されないことに対する心持は、歳月や成長にかかわらず、胸へのうけかたはちがって来ているとしても依然としてあるものであり、人間的なものだと思います。私たちの生活のよろこびは、つまりそこにある求めるもののてりかえしであると云えるわけですから。人間のそういう調和というものは何と微妙でしょう。音楽が微妙な震動数の調和で諧調を発しるような。そして、一たびそのような調和を感じ合ったもの同士の、深い深いうちはまりかたというものはどうでしょう。一つのハーモニイはおのずからその中に次のハーモニイへの可能をふくんでいるから、或ところでの楽しい反覆(リフレイン)、あるところでの心ゆくばかりのテーマの展開と、時を経るまま日をふるままに益〃味いつきず。
そういう点で、人間が美しさの頂点を知っているということは、非常なことであると感じます。生の横溢が、生を飛躍しそうな感覚にまで誘う、そういう刹那に迄到達する美しさを感じ合う心と肉体というもの。
きょう、あれを読んだら様々の思いで、新たに、結び合うテムペラメントの必然の一つを感じました。
そしてね、一つの内緒話がしたくなった。女にとってね、私のような女にとってね、そういう深い深いともなり(共鳴)を得ているということはどんなことを意味するか、どのような経験であるかということについて。
あなたは抱月と須磨子の生涯を覚えていらっしゃるかしら。何故、須磨子は抱月のいなくなった後、生きていられなくなったでしょう。何故一年後にもう生きていない気になったでしょう。大変古いことで、世の中の人は物語として記憶しているだけでしょうが、私は、あなたの病気が本当にわるかったとき、時間の問題として語られたとき、自分のうちに生じた一つの激しい感情から、その疑問を、最もなまなましく自身に向けて感じました。逆に云えば、感情の頂点に於て、直観において、いきなり、一掴みにわかって、だが私たちとしては、それを全体との関係のうちにおき直して見なければならなかったというわけです。
丁度その前後に、あなたはユリの旧作をいくつか読み返しなさいました。そして手紙の一つの中で、私のもって生れているいくつかの点にふれて、どんな困難をも凌いで行けるだろうということを云っていらした。実にくい入るように感じることがあった、けれどもあの時分には今書いているようには書くことが出来ず、通じるもののあったことさえ苦しくて、あなたの体が、ああ、やっと!と私の側(がわ)に実在するものとして感じられるようになった、その大歓喜の面からしか表現出来なかった。
私たちが今日見合うよろこびの裡には何と多くのものがこもっていることでしょう。それだからこそ、うれしさは何と透明でしょう。
ここまで書いたら不図思い出したのですが、私が虫退治したとき、切開後、肝心の一週間の経過をはっきりあなたにお知らせしなかったことを、あとで叱られましたね。くりかえし叱られたわね。ああいうとき、ああ仰云るのね。ああ、ああ。わかった。改めて、謹んで、ありがたく叱られ直していい気です。可笑しいこと。あのときは、叱られてると思っていたりして。そんな点で、ユリのバカと少しは癇癪もおこったのでしょう?
[図11、インク壺の絵]ここからインクをつけて書いているインク壺。初めて小説を書いたとき父のくれたインク壺。茶色。
きょう、お母さんからハガキが来ました。二日に面会なさったところ四月九日に第一期の検閲が終って、それからはいつ出動命令がかかるかしれず、発表にはならないが近日かもしれぬ由です。明日御相談いたしますが、私は心配で気がせいて来ました。
十日一杯まで『中央公論』と『帝大新聞』の原稿があるのです。それをすまして、十二日頃島田へ行こうかと思いますがどうでしょう。そして、早いうちに隆ちゃんに会いとうございます。切迫するとむずかしくなるから。そして、五月六日にもしお母さんの御都合さえよかったら一ヵ月早めの御法事をして頂いて、八日ごろかえろうと思います。
うちは、ひさが居ますから寿江子と二人で留守して貰います。それ前にどたばたは出来ないから。そして、寿江子に一週二度ぐらいそちらへ行って用事も伺いするようにして貰いましょう。
猶、自分でもよく考えあなたにも助け舟願いますが、アパートを見て、大いに一考を要すと考え中です。そちらへ往復の時間だけいくらかつまっても、かえって落付けなければ能率が下ってつまらない。林町と二つに生活の分裂することは研究がいります。一週をわけて、土日月の朝まで林町にいるとしあと火水木金とアパートにいる、そう仮定して、アパートで暮す暮しかたの反動として林町でお客攻めもつらいし又所謂家庭的な雰囲気が恋しすぎるのもこまります。書いているもの、よんでいるもの、あっちこっち動かすのも困る。
経済的の点から云っての問題とすれば、どんなに倹約してもここの私たちの家にいたいと感じました。直接、衣食住費は大したことないのです、うちは臨時費がかさむのです、いつも。ひさのあと、ひさの友達が来てもいいことになっていて、アパートがやれそうならそれは気が軽くサバサバするだろうと思うが、おめかけさんだの何だのと、女並みのつき合いをして、しなければいにくい空気故、それほどの興味もないところもあり。菊富士はあれでも下宿やでしたから、すこし又ちがっているわけです。なかなかむずかしい。さりとて林町へだけいるならば、やはり私の生活は全く別箇にやらねば、建ちゆきませんし。
この家、今この家賃で決してもうない。借すものもない。だからうっかりこの家を引はらってしまえない実際です。仕方なく林町へ、というのはいやです。一年に三―四百枚小説をのせることが出来れば経済的にはどうやらなり立つのですから。ほんとに考えてしまう。あっちへいってもこっちへ来ても、生活のパタパタからやっては三日ぐらいいて又あっちというの、本当に考えものに思われます。機械的にそうやらねばならぬものとしてやって見たところで、意味ないし。
――○――
同じ筆者の翻訳でも、訳をする人の文章に対する感覚の敏感さによって何というちがいでしょう、与えるものの。あの本の初めの部分は文庫で、これは名文です、底まで味いをつくして訳しているから全く感動すべき動的な思索の美が流れています。あとの部分は別の人ので、その人は理屈を辿っていて、文章の美まで到っていない、ためにやや晦渋で、活きた美を失っている、残念です、でもつづけて居ますから大丈夫。そちらはこの天候で風邪お大切に、咳出ませんか、明日ね、 
四月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月六日第三十信
四日づけのお手紙けさ、ありがとう。この頃は起きる方が新聞や郵便の配達より早いことがあります。きょうも。手紙見ておいでよと云って、丁度出がけにうけとりました。
先ず金原の本。このお手紙のと合わせ(追加注文したから)届けて来たらすぐお送りします。きょう云っていらした小説では、和田の「沃土」と伊藤永之介「鶯」など農民文学の双壁ということになって居りますから送りましょう。「鶯」はないから買って。生活派という文学を徳永直の「はたらく一家」が代表している観あり。受けみ反映の典型。
本のこと。きょうは家へかえっても思い出して、ふき出してしまいました。本当すぎて笑えてしまうということもあります。あれはそれね。私は手紙で、わかるとか、わかったとか盛に書いてくれるが、とお笑いになったように、きっと書きすぎてしまうでしょう。(あなたの仰云ったことは本当としての話です、勿論)きっと、わかるということをわからせたいと心配しているのね、こんなこともつまらないこせつきのようでもあります。今になおります。よむ方が益〃はかどれば、益〃こせこせ、ね一寸見て、一寸見てとうるさい子供式のことはなくなります。
経済年表はたのんであります。哲学辞典はありますが。経済学史のことありがとう。大部なものの前によんだのにも一部分は出て居りました。文学評論の古典は、アリストテレスとは思いませんでした。あれはもう古典をそう考えていた時代、岩波のホンヤクでよんで(!)しまいました。
いつだったか徳さんか誰か、あなたの物覚えのよいのをフーと云って話していたことがありますが、大掃除以前のきわめつけをとり出されたのは、全く汗顔です、意地わるい方ね。恐縮な顔は自分でも滑稽であるが又腹立たしいところもあります。まさか、今悦に入ったりしてはいやしないでしょう?悦に入っているなどと思ってお書きにもなっていないでしょう。
素朴な合理主義をより成長させるための努力。いろいろ勉強して、文学においても発展成長させたいと思います。素朴な合理主義へは、誰しも一応ゆくのです。そこいらまでは自然発生的に辿りつくが、現実の諸事情の間で、いつしか弱い基力となり、文学においても様々の形体で、主観的な道義性ならまだわかるが、道義性さえ失ったあるがままの姿に安住する姿、陸続です。私にあっての危険は(文学上にも)土台そういうのはこまるため、それに反撥して、しかも基底はちょぼちょぼであるためやはり大きい目で見れば主観的なもので強ばって、ひとも発展させず、自分もめきめき成長するという工合ではなくなるところです。(いつか勝気のことにふれたと同じようですが)そういう点実に面白い、こわいものです。このいきさつを科学的につかまない、そのような機会にめぐり合えないまま、卑俗な意味の物わかりだけよくなってしまうような人の例がある。
ペニイのことから敷衍(ふえん)されてある点ね。これは作品が本ものか本ものであるか、本ものになれる資質かなれない資質かという位機微にふれた点です。反射運動みたいな習性、才気ある女云々、そうとり出して読むと何かおどろかれるようですが、私はこの頃ペニイのこと抑〃(そもそも)からね、こう考えるのです。そういう感想をもたれた以上は、そんな気だとか気でなかったとか云うより先、自分のどこかにそういうものがあるのだ、と。同じような種類の、或は程度の間では似たりよったりのため気付かれずいるものが、見え、質の点で小さくても大きいことだ、と。むき出しの身をもって学び、成長してゆくということは、生涯その成長をとどめない努力をつづけて自省をより高くひろくしてゆくということは大したことですね。その困難さが十分に分るだけでも困難というようなものです。文学においては、特にある境地でものを云う風が多く、(過去の文学の性質上、作家の生活上)あるところへ(迄)ゆくと、とかくそういうものがつく。苔。文学が衰弱しているから、青年の文学における歩み出し第一歩がもう境地の手さぐり、擬態、誇張ではじまっている。
非文学的文学の横行の自然な半面として、純文学がこの頃はずっと浸出して来ています。しかしその純文学が新鮮な血球を増殖させ得ているかと云えば、何しろヴィタミン不足故、境地的なものから脱せず、そのことで純文学を求める心の負の面と結んでしまうことになります。そうなっている。しかしそれにあき足りない本能はうごめいているが、目やすがないから女子供の書くものの面白さに行ったり、今日婦人の作家が健全に成長し得ない、その低さ小ささ、その罪なさ(愚にも近づき得る)のなりに、所謂現象的擡頭をしている。ですから、栄さんのかくものが、栄さんの人となりのままで、その程度なりにまじりもの、こしらえものでないから本人予想以上の好評であるということになります。所謂新人のうちでは忽ち屈指です。健康さから云ったって。そこにやはり悲しみがあるわけです。
〔欄外に〕こんな飾りをつけていて[便箋右上に花飾り付きのページ数]、不図昔の人間がゴジック文字をこしらえた気持思いやりました。ああいう気持、こういう気持のおもしろさ。
自分の主観的な一生懸命さでさえ、成長を阻むものとなり得るということは、一応も二応もわかって居て、岡目八目的にはわかっていたが、我身にひきそえて、この頃は自分たちの生活の本来的なよいものでさえも、それをよいように活かさなければ、わるいものにさえも転化して作用すると思って居ります。推進力というようなことをも複雑に考えます。所謂いいもの、いいこと、だけがよい方への推進力であるときまってはいない。あなたにとって、あなたの讚歌をくりかえすオームや、我々にとって我々のよろこびを死ぬほどの単調さでくりかえすちく音機もいらないわけですから。
円滑性ということについても考えます。いろいろな場合の。これもなかなか目が離せぬ代物と考えられます。同感でしょう?いいものから来ているものもある、だが、ペニイの従妹めいたものもあるのではないか。包括性としてあるのか、どうか。ね、私には幸、便宜的な社交性、功利的な社交性というようなものはすくない方だけれども。俗人気質は全く通暁してよいものだが(作家として)自身の俗人性は、これ又本ものの作品の基調と両立しないものです。文学上のこの点は少しこまかに考えると面白うございますね。久米正雄は文学者というものは一般の大衆より一歩先を歩いていなければならないが、決して二歩三歩先を歩いてもならない、というような彼らしきことを云って、その例として漱石、ゲーテ、トルストイ等あげていました。(よほど前)凡人らしさで衆凡との共感が保てるというわけです。共感ということがここではもっと詮索を要しましょう。もろともに泥濘をこがなければ(現象的に)ならないというのでは、直さんです。泥濘のあるのが現実で、そこをごたごたやっているのが現実だ、そうい直れるものではないわけですから。いつぞやの手紙でふれた小説と神のような心の話ね。考えて見ると文学もジタバタですね。作者の眼のひろさ、高さ、複雑さは、何かこれまで共感のひろさ、複雑さといくらか別なもの、判断力ぐらいの範囲で云われていた傾きがあり、従って共感というと現実主義に傾いて、自分にも対象にも溺れる甘える結果を来している。日本の純文学が私小説となり、今境地小説として出ているのとこのこととは、なかなか深い因縁がつながって居りますね。
ああ、豊富な人間になりたいわね。豊富な人間になりたがる人間ではなくて、豊富な人間そのものになりたいわね。私にとって大切なのは、自分の努力で、現実に、今よりはもっと豊富になり得る余地があるということを常に知っていることです。
様々の大小の題材にまともに当ってゆくことで、私の生きている内容を試し、しらべ、自分にわからせてゆくつもりです。もとより彼此(あれこれ)を書きこなせる、ということではなくて。
『朝日』夕刊に「宮本武蔵」が出ていて(社では夕刊を、むさしという。ニュースらしきニュースないからの由)もう二刀つかうようになったむさしが、愚庵とかいう禅坊主に一喝くらって、昨夜はむさしがその機縁を失うまいとして坊さんのとまる宿の軒下にねてくっついてゆくというところが書かれていました。ロマンチシズムもあり来りのものですが、機縁をのがさぬ心構えということはものを書く人間が、生活の間でハッと心に来たその機縁にあくまで執して、そこからたぐってたぐって一つの作品を書いてゆくのにやや通じるものがありますね。事柄があったって小説はかけない。そこが面白いところね。文才では事柄まではかけるが。
きのうの手紙で、うちのこと、大分ピーピー申しましたが、つづけて頻りに考えて居ります。林町の空気ともう一つの空気の間にちがいが大きすぎる。そこをあっち、こっちとうつること考えると肌にしっくりしません。もっと平押しにゆかないか、そう考えて居ります。そういう形はないかと。林町にしろ、家賃はいるのです、些少にしろ。寿江子が留守番に来たらきいて見ようと昨夜思いついた一つのプラン。寿江子ピアノのひけるアパートはないから弱っていました。郊外に暮すということがこの辺でいいなら、ここの家へ寿江子ピアノと来て共同的な経済にして、私は別にそちらに部屋をもってゆけば、客のこと、手紙のこと、その他が順調にゆき、私は変にバランスのちがった二つの間を動く感じではなく、いいのではないかと思いつきました。林町の裏、しめておく。仕事の用で来た人も用を通ぜず不便なところへ来て無駄足をする。それは困ります。表と一緒のは、いろいろこまります。生活が混るから。一寸こちらへ来て部屋にかえることも直(ちょく)ですし。家のことやる人もこちらにおいて。二階を私の室。下の六畳寿江子。四畳半を茶の間。ね。わるくないプランでしょう。本人にきかないで一人でいいと云っていたってはじまらないが。寿江子にしろ、すこしは責任のある暮しぶりも身につけ、いいのだと思うのですけれども。今の私の時間わりと気のはりでは、台所のこと、洗濯、やってくれる人がなければ非能率的です。
どうも自然の工合で、私と寿江子が近よる傾きが、寿江や私が林町とかたまる傾よりつよい。其々ちがったものによってのところもあるが。どうも、このどうもと体の工合がいぐるしいのが、なかなか実質的なので弱ります。
仰云っていた本調べました。注文したもの支那四冊、スペイン二冊。その他には
China Can Win! by WangMing.「支那は勝つ」
All China Union「全支同盟」
China & The U.S.A. EarlBrowder.「支那とアメリカ」
When Japan goes to War「日本戦うとき」
The Chinese Soviet. V.A.Yakkontoff.「支那ソヴェート」
この位です。スペイン問題は現実が変転して、今日を語るものはないわけです。この次の号にわかるでしょう。急に思いついたことですがペンギン叢書のカタログが日本にあるかしら。丸善でペンギンブックは大量扱っていますが、なかに或は興味のおありになるのがあるかも(小さい可能性)しれません。こんどよく見ましょう。
いつかの二冊の本は、三月二十四日予約申込ズミです。念のために。薬のこと心にかけて下すってありがとう。あれも統制ですものね。一滴一滴大切に大切にのみこみますから、まるきり切れるような不注意は致しません。 
四月八日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月八日第三十一信
けさ云っていらした手紙、もう来るか来るかと思って待っているのにまだ来ません。さっき一寸外へ出てかえって来たところへ配達夫が何か四角くて白いもの入れて行くところだったので思わずにっこりして、うなずいて挨拶してやったけれど、出して見たら本やからの手紙。古書即売!
三日から後、五日(二十九信)六日三十信と書きました。きょうは可笑しいことでさっき出ました。家のこと。私の女学校のとき習った国語の先生で或女のひと『源氏物語の女性』という本を出している人が、見えて娘さんの結婚の話が出て、それにつれ私の家の話が出ました。ここをどくのであったら、家主に話して娘夫婦を入れてほしいと。ところがもう先約ズミで、S子さん一家が、赤ちゃん御入来で、うちがせまいから、後へ是非ということです。では、もしかしたら、今S子さん一家のいるところへ若夫婦ならどうだろう、では赤ちゃんの様子ききがてら行って見ましょうということになり、Sさんの家へ出かけました。上り屋敷のすぐ横。
行って見たら下八畳、二。上六畳。どっちも縁側つきで、隣りとくっついていて、(門ナシ)同じような家が四軒ずつ向いあっていて、すこしはうるさいかもしれないが淋しくない、いいしっかりした家でした。道々歩きながら話というものは何と面白く展開するでしょうと笑いました。だって私が林町へきめればS子さん一家うごき、S子さんたち動けば新郎新婦に家が出来る。ぐるぐるまわり工合が。
この頃、随分うちのことでは考えて居ります。きょう云っていらした相対的なものだからということは本当です。それにユリは自分のライフワーク的な労働について益〃考えて来て居ります。そういう点からも、仰云るようにした方が一番いいのかしれませんね。私たちには私たち独特の生活があるわけであり、それを生活の形の上でもはっきりつかむだけ、十分内的にもつかむことが結局そういう仕事をさせるかさせないかにもかかって来る。主要な目標のためには生活をダイナミックに支配出来る必要があり、又自然そうなっても来る。家のことは単純にうちのことではなくていろいろ自分たちの生活の実質について考えさせます。ああ考え、そしてこう考える自分の心持を、そういう心持として又考えます。例えば三日の手紙におばあさんを招く仕度をしていることをかき、私はこの私たちの家を愛します、とあなたに向って云うとき、私は涙をこぼしたの。わかるところもあるでしょう?しかしそこには何か凡庸なものもあります。それもわかるでしょう?そういう工合。
生活の必要につれてどんどん家を掌握する気分よりも、一般が家を固定の方向に、巣ごもり風に、感受して行く空気なので、沈潜と定着との間、微妙なものがあります。大局から見ると更に面白いものですね。地盤がずりかかっているとき、地震のとき、人は自分のつかまっている木の幹に、ここを先途としがみついて行くように。今度の家のことは、思うにこれまで私たちが持った家から家、例えば動坂から信濃町へのうつりかたとは、ずっと内容的に深化して居り、それにふれて動く感情も複雑です。しかし、こんなにしてこねくって一つの家というものを八方からからんでゆく心持は後まで思い出すようなものでしょう。
家さがしの様々な心持。様々の情景。なかなか人生的です。これだから、家さがしや転宅したことのない人々の心持なんて、襞(ひだ)の足りないようなところが出来るわけね。
この頃の心持、腰をおとして、ついてゆくに価すると思います。何だかあっちこっちから、これまで見馴れない芽がふいているようで。何かが新しく見える、変にくっきりと。むけた心、そのむけたあとに生えて来かかる肉芽。人間の成長の現実のありようは何と其々その人々、その夫婦たちの足の下にふみつけられてゆくその道以外にはないでしょう。
この間の本には、文学運動の過程について。第三階級勃興当時の文学様式、その他文学方法論の問題、明治以後の文学思潮、文壇の風俗主義的傾向を排す等三十三篇、ヴォルガの船旅、ヤドローヴォ村の一日その他に書翰、年譜です。
松山へ行ったら何とかいう川へ行こう、松山には少年時代の苦しい思い出しかないというようなの。その同じ年の秋に書いたやや長い返事二つ。その手紙のおくり主の手紙はもとよりわかりませんが返事から察して、その二十歳か二十一歳であったひとの思索力について考えました。そこには何か刻々に生成してゆく精神の敏感さが燃えている様が反映して居り、自分の二十歳ごろとくらべ、人生への翹望が情感的な爆発(翹望それなりで)をする女の燃えかた、燃えたい勢でたきつけの見わけのつきかねるようなのと、それが思索的な追求となって発現する典型とを、今日にまで及んでいるものとのつながりで、深い愛着をもって見較べました。歳月のへだたった今日に、微笑をもって回想されるというような点もあることがわかりました。
夜になったがまだ待ち人は(手紙のことよ)来ず。あしたの朝になったらば郵便や、早くもって来い、駈けてもってこい。雨にぬらさずもって来い。
きょうは計らず非常にやさしい絃のピシカート(指頭奏法)で桜坊色の小さな丸帽子の主題が演奏されるのをききました。今猶耳についている。 
四月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十二日第三十一信
きょうの暖かさ!もう桜がちりはじめました。このあたりにはよその庭に桜が割合にあって花見いたします。上落合の家ね、あすこの二階から見えるところに八重桜の大木があって、重々しく圧迫するような八重の花房を見たのを思い出します、あの時分の手紙にそんなこと書いたことがあったでしょう?花の下蔭という光線のやさしい照りはえについては、徳山でのお花見で初めてその実感を得たことも。本当にあれは奇麗と感じられました、五年の間春はああいう花を見て大きくおなりになったわけね。
さて、四月六日づけのお手紙、九日に頂き、返事きょう書くという珍しいことになりました。あの手紙に云われている歴史性のない抽象の人間性がない話、あれはいろいろ面白い(最も豊富な語義での)。全くよく人は本質的には何々だが、とか、それは原則的には云々だが、とそこに現実に出ているものについて十分突こまず、現象を仮象のように語る自他幻想癖をもって居りますね。一般の人々の内部にあるそういう癖の根は実に深い。決してカントを崇拝しなくても、そういう点では夥しいカントの門徒がいるわけです。こういう考えの癖が、癖として、身についたものの力でちゃんと見ぬけるということは、現実をどう見るか、それが即ちちゃんと見える上からのことだから。
自分の長所を理解さすことが出来たら、と私が書いたりする気持、それは論理上、短所はしかじか。では長所は、なんという風に対比させて考えたり数えたりしているわけでもないのです。然し、お手紙で面白く感じました。やっぱり、ともかく私は長所という一つの観念を短所と対するものとしての従来の習慣なりにしたがって、深く考えず表現したのですから。そして、それにはそれだけの何かがあるわけですから。言葉は生きていますからね。ちょろりとある尻尾は出している。面白く思う。今の私の心持は、その発端にあっては大分鼻づらをこすりつけられ的であった勉強のおかげで、世界の大さ、立派さ、業績と称し得るものは(少くとも人類としての規模で)いかなるものであるか大分身にしみて来て居りますから、自分の長所とか短所とかいう風での自身のみかたや扱いかたで自分にかかずらう感情はありません。「閲歴」をふりかえって何かそこからみみずの糞のような気休めでもさがしたい程貧弱な気分でもありません。子供っぽい興がりから、すこし大人のよろこびというか、面白さの味がわかりかかって来ているようで、近頃は大いに心たのしいところがあるのです。ですから点のからさも、からさとしては感じません。からさに対置されるものを甘さとすれば、土台そっちから問題にしないことにしているわけですから。私について、二人で、こうだろう?そう思い、事実そうだろう?と語られ、それが会得されて、うなずき、そうね、そうなのね、と話す、そのような調子(これは会話で或場合言葉の表面と逆の内容を語るほど雄弁なものである、その調子として)として考えられます。わかったことによって自分が悲しいと思うとか思わないかは、その調子をかえるものではありませんから。自分がこうと希望して、その希望の正しいことも分っていて、そう行っていないとわかって、悲しくないものはないわけですもの。悲しみは人間を(そのつもりでいれば)馬鹿にはしますまい。幸福と称されるものの凡俗さが人間を、いつともしらず虚脱させるようには。
睦は、遙か彼方云々は、一寸お話した通り。一般の危険しかも最も自覚され難い危険の一つとしての感想でした。その意味で、ひとごとでないというのは実際であると思います、あれを書いた気持も其故ですから。
去年の夏からユリが強ばったというのでもなく、去年の諸事情が、私に自分の経て来た道というものをおのずから顧みさせ、目前の事情に耐えようとして、その過去の道の必然であったこと、意味のあったことを自身に確め、認める傾きになり、そういう傾向の折から、客観的な評価や省察のモメントが与えられたという関係を、動的に内的に見て、私としては、折も折からというべき適切な時期に適切な打開であり、それは、倍の効果で作用したと感じて居るのです。些かなりともプラスであるからこそ生じた事情であるとして、真にそれを内容づけるものであったという風にうけています。それをもって守りとするべきようなものがあると、固定的に考えなくても、心理の傾きとしてね。あるところまで高いところへ出て見ないと低いところの景色が見えない。それは生活上の様々なことでも云えて、興味つきぬところです。
感想、一つの方(『中公』)は花圃の書いた明治初年時代の追想の鏡にうつし出されている当時代の開化の姿の中にある矛盾や樋口一葉という人の、そういう貴婦人連の間にあっての境遇、芸術への反映というようなことと、先頃没した岡本かの子の人と作品とがその人の顔を見たときどうしても一つものとなってぴったり感じに来ない、その感じの妙なことについて。かの女の書く世界には、かの女らしい曲線、色、匂、重み、いろいろあるのだけれども、その人を見ると書くものがある空間をもってその人のまわりに立っている感じ。あれは妙でした。その人から生れたものにそういう妙な感じがあり得るでしょうか(そう表現はしなかったが)。これは稲ちゃんもはっきり感じています。其のことの中に、最後の書かれなかった小説がある感です。童女、童女と云ってね、その御主人が。もし大人の女の童女性というような言葉の好みを許すとして、そういうものが存在するとすれば、それは彼女の夥しい、客観的になり立っていない幻想的な、デカダンスな、非人生的な作品の間にだんだん小さく遠のいて、丸く、白く、なおこっちを見ているように思われる、そういう彼女の哀れさです。勿論こんなことまでには云い及びませんが。『帝大新聞』には、文学とは何であろうかということがこの頃改めて人々の心のうちに問われている、そのことについて。農業、工業、技術の文学的説明が文学でないということが感じられていることについて。『文芸春秋』へは、つなぎにというので一寸した思い出のようなもの。
島田行の仕度はすっかり完了。さっきチッキにして送り出して、明日の私の出立ちは、小さい手提カバン一つです。それに膝かけとクッション。お土産は、お母さんに春のスカーフ。これは紗のような黒い地に黒いつや糸で、こまかい花の出た品のよいの、先、私がそちらへかけて行っている紺のを御覧になってほめていらしたから。私のより上等です、長くお使えなるように。多賀子にもレースのスカーフ。働いている男連には皮のバンドか何かがいいとのこと故それ。野原の小母さまに下駄。河村の細君にも。冨美ちゃんにくつ下。それに、のり。お土産で目のくり玉がむけました。去年より同じようなもので例えば二十円のものが三十円になって居ります。隆ちゃんは、現地教育としてゆくのだから後から送ることは出来ても、行くときは何も持てぬ由です。明日御相談いたしますが、お金でもあげましょうか。
あっちでは主として読む勉強をヘビーかけつつ、書くものについてねって来るつもりです。(本もって行きます)
おくれた手紙で、しかも落付かなげに書いていて御免なさい。いろいろの買い物や家の用事のことやでつかれてしまった。
寿江昨晩参りました。林町から親子三人昨夕飯に珍しく来て、隆ちゃんへのおせんべつよこしました。徳さんがわざわざその間に来てくれてやはり隆ちゃんへ。隆ちゃんの写真お送りいたします。それからお注文の『実用医事法規』を。夜になって先刻届けて来ましたから。では行って参りますから、御機嫌よくね、呉々お大切に。眠い眠いの。下の台所でバケツを誰かがひっくりかえしてガランガランやっている。私はもって行くための縮刷の詩集をこれからとり出して枕許において寝ます。では明朝。 
四月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡周南町上島田より(封書)〕
四月十七日第三十二信
さて、きょう、やっと二階に落付いてこれを書きはじめます。十三日には、午後一時半のサクラで出立。相変らず例の如く寿江子、栄さん送って来てくれ、後から思いがけなく、太郎その両親が現れました。太郎幼稚園がえり。アッコオバチャン送りにゆくかときいたら行くと云ったということで両親ついて来た。
特急は御承知の通り定員で切符を売って居りますから立つ人はありませんが、その代り一つも空いたというところがない。二人ずつ、つまりぎっちり四人向いあって、相当です。私のとなりに来合わせる人は、私を苦しめるだけでなく自身もよけいキュークツ故笑ってしまう。大陸との交通繁くて、こむこと!すぐ隣の席に女がいて私はチンタウに二十七年います、私は奉天に何年。あたい、あたいと云って特別に響く声を出して、我もの顔でした。
やはり盲腸のくされのなくなったのは有難いもので、大してそれでもつかれず。すこし体を休めたかったので広島からは二等にしました。ずっと真直かけたっきりで脚が切なかった、けれども、これは結局二等も同じです。やっぱり二人つまればなかなか楽でない。今のようにどうしたって一人でいられないように混むときには、三等もその点は同じという結論を得ました。
途中はずっと東海道の花見をいたしました。サクラのニッポンというわけね、全く。実に咲いている。そして奇麗です。市内の桜のように灰色のよごれた幕ではない。夜になって、退屈になったとき、朝着いて一度よんだきりであった手紙出して、ゆっくり、ゆっくり、字と字との間をくぐったり、字にもたれて一寸ぼーとしたりしながら永いことかかってよみました。そして、何だか独特な豊富さで旅の心を味いました。自分の名の呼ばれている、その字に声が響いていて、その声の響から全身が感じられて、近くに近くにあることを感じる夜半の汽車の中。
目前や周囲にくらべず、より高くと成長してゆける目安から考えるということは本当のことであるし、又本気で自分の生きかた、仕事に面したとき、云って見れば人類の古典と自身とが一つの直線の上にある感じで、ぐるりの同時代的相貌は煩わさなくなって来る。自身が古典として生き得るという直接の意味ではなく、芸術がいくらか分っているものは、恐らく誰でも、題材に向いテーマに心とられたとき、同時代の誰彼が、ああかいている、こうかいている、は消えてしまうでしょう。
低いものと比べるという形で危険は現れないのです。こっちがましというような形では出ない。比べる気も持たず、そこまで自分を低く見ていず、しかもそれが、十分客観的に自他ともに見得ない(プラスが正しくプラスとされ、負の面はそれとしてこれ又正しく示されるというがない)そこに危険はあるのです。低いところへ移ってゆくと思わず、高いところにいて、事実対比の上ではそうであるが、地盤の下りようがひどいから全体として大したズリ下りになってしまっていることがあり得る。そこがこわいところであると思われます。昨今の私は仕合わせに自分のプラスの面をかぞえないといられないように貧弱でもないから、本当にいろいろ書いて下さること底までよくわかるし、その点では私心ないの。それは前便にも書いた通り、ね。片上全集の第二巻御覧でしたか?一人の友に二つの種類のものを求める心のこと、お思い出しになれましたか?又くりかえしになりますが、それこそ人間が人間に求める深い深い心ですね。男同士、女同士でさえそれは稀であり、ましてや男と女との間に、そういう二重の一致があり得るということは、一般の事情、文化のありように準じて、何と何と稀でしょう。男と女であるという単純な偶然から必然であるかのように結びつくのが一般であるのだから。
十四日の朝ついて、十五日は一日茶の間にいて、昨十六日、日曜日面会いたしました。実にようございました。隆ちゃんは二十一日に立つことが、その前の晩の点呼のとききまったのだそうでした。電報うとうかと思っていたが、どうせきょう来るというのだから、びっくりさせる迄もないと思って出さざったと云って笑って居りました。去年会ったときよりは大分肥って大きくしっかりして、すっかり馴れた風です。班のものが皆可愛がってくれる由。ねえ、わかるでしょう?可愛がらずに居れないところが隆ちゃんにある、当然だと思いました。只おとなしいなんかという受動的なのではないから。やることバリバリやっちゃる、そういうまけん気と、一種独自なやさしさ、おとなしさが伴っていて、本当に私だってかわいいと思うのですもの。昨日は最後の外出で、六時まででした。曇り天気で、お母さんと私とはどんな土砂降りになってもいいように雨合羽を着て、下駄に雨傘といういで立ち。広島の相生橋というところで降りて、桜の咲いている一寸した土堤から下へおりて連隊へゆき暫く待っているとすっかり外出の服装で、長い劒を吊った隆ちゃんが出て来ました。昨夜から一等兵になった由、星二つついている。十時すぎでしたから、ずっと西練兵を突切って歩いて、福屋デパートへ行って、先ずクレオソート丸やその他の薬品を買い、六階の食堂でおひるを三人でたべました。隆ちゃんは西洋料理はきらい。白いお米の御飯よろこんでたべました、あちら麦ばかり故。どうもお花見だし日曜日だし、広島の狭苦しい通りは縁日のような人出で、ゆっくり歩けもしない。すこし静かなところと云ったら隆ちゃんが比治山公園というのへ案内してくれました。ここも折からお花見の大した人出でしたが、山がひろいので、騒々しくはない。そこの林の間の亭に腰かけて、お母さんは隆ちゃんに東京からの御餞別をおやりになり、私たちのもやり、隆ちゃんがこれ迄働いた給料の貯蓄分として、いつぞやお送りした額の倍だけ定期にして証書を見せておやりになりました。私共三人がそんなことをして、隆ちゃんがいろいろ軍隊生活の話をしてきかせてくれたりしているわきには、サラリーマンの親子づれが竹の皮を開いてお弁当をたべたりしているという光景です。暫くしてぶらぶら山の高みへ上ったら、そこは大変。ぎっちりのお花見。のんだくれて歌をうたっている。すぐ下りて、ずっと広島市街の見晴せるところへ来て、みよし野という茶屋のはり出しに休んでお菓子をたべ、そこでしばらく話し。私は三人でどこか落付いたところへ休みたいと思い、宿やか何かへ行こうかと思ったが土地の様子も分らずそうやって、話して、それからズックの物入れ、空気枕など買うために又福やへ戻りました。(広島ではメーターの基本が60銭ね。東京の倍です。東京は30からはじまる。)そこで買物が不足。空気枕なし。本通りという人ごみをごたごた歩いて、森永で又休んで、もうそのときは四時。五時すぎにかえって風呂にも入った方がよいというので、四時半頃西練兵のところで電車にのる私たち、かえる隆ちゃんと訣(わか)れました。
お母さんは面会で上気(のぼ)せ、ゆかれることで上気せ、人ごみでおのぼせになってあぶなくて。私は怪我があってはいけないと思い、時々こわい声して、それでも無事広島から五時二十五分のにのりました。
ゆっくり会えて、本当によかった。隆ちゃんはほんによう早うに来て貰ってすまんかったと云ってよろこんでいてくれて、うれしゅうございました。十六日に私がゆくというお手紙ね、そちらの。丁度十六日につきました由、よませて貰いました。よく分らないが北支の方面のようです。二十日に又会いにお母さんと御一緒にゆきます。二十一日の宇品はそれこそ人波の押しを私の気の押しでは支え切れないから、却ってあぶなくていけないから行かず。Kという運転手がゆきます。
達ちゃんも無事。近々坂田部隊というのと合一して大作戦がある予定の由。お母さんのところへ来る手紙、こまかに隆ちゃんに持たせてやるもののこと、自動車の車体検査についての注意等、大変はっきりと明晰に書いて来て、すっかり大人らしくなって感じられます。水のせいか何かで歯が三本虫くいになっている由、それを直すに送金してほしい由、きょう飛行便でお金と隆ちゃん出発の知らせお出しになりました。
この手紙は、表通りに近い方の部屋で書いています。上ったばかりのところには、Kというのが、自分の机をキチンとおいて、その机の下にトランクをチャンと入れて、机の上にアザリアの桃色の花を飾って居ります。だから私はこっちの部屋。でも正直なところすこし寂しいの。私のいたところ、いるつもりのところにひとがいるから。でも、うちとすればこのKが几帳面によくやっているからというところがあって、お母さんも丁寧に口を利いていらっしゃいますし、そうやって置いていいのです。夜は下の部屋に、お母さん、多賀ちゃん、私、眠ります。こんなことでも私が早おきになっているのでどんなに楽かしれません。早ねを皆と一緒にして、大抵同じ頃起きられますから。案外のところに功徳がありました。これで私が早くおきられないと、自分でも辛かったでしょうから。このKという人の性質はその机のありぶりを見ても分るようなところがあって、なかなかの努力家、まけん気。もう一人いる広瀬という仲士はすこしぬけさんと云われますが、気はよい男です。トラックの方はこの二人がきっちりやっていて、毎日25〜30ずつ仕事している由です。先月は600位の由。ですから、お母さんもこの頃はすこし気がのんびりとしていらっしゃるわけで何よりです。
それについてね、お母さん御上京のプランがあるのです。今ならば二人がトラックはやっている。多賀ちゃんも落付いている。二人の息子を出してしまって、お母さんはあなたの顔が御覧になりたいのです。この頃は毎日でも面会が出来るそうだから、前後十日ぐらいの予定で行って七日ほど毎日ちいとあてでも会うたらさぞよかろう、というわけです。秋に行こうと仰云いましたが、秋はいろいろそちらの用も殖(ふ)え、又お母さんの御上京が単純でなくなるといやですし、今ならまだひさも居り、あの家の四畳半もお母さんのお部屋に当てられるし、今度一緒にお出になることに大体きまりました。岩本のおばさんがお留守番にさえ来て下されば。引越しがしてなくてよかったこと。この前(昭和九年のとき)は信濃町で、私はいず、お風呂も満足にお入りにならなかったのですから、今度は初めて用事といってもいくらかのびのびとしてともかく顕治さんの家へおいでになるのだから、ようございます。さっき野原の小母さんが迎えにいらして、私はこの手紙をかいてから六時のバスで野原へ参り十九日の午後まで泊って来ますが、その折、小母さんが一日がえにきょう会うたら次の日は百合子はんという風にせて、とおっしゃったら、お母さんが眼玉をクルリとお動かしになって、毎日会うてよいのどすやろと仰云った。そこで、私も思わず目玉をクルリとやりつつ、ええお会いになれます、とお答えした珍景がありました。どうも、あなたもこう人気があってはお忙しゅうございます。
御法事をすましてから行こう(くり上げて)というお話もありましたが、私はどうしても御法事はちゃんと六月になさる方をおすすめして、とにかく出ていらして見て、あなたともよくお話しになってから、又六月に私が行くなりどうなりおきめになればよい、ということにきめました。初めて私たちの家へいらっしゃるわけですから、大いにのんびりおさせ申したいと私は今から忙しい気です。去年の秋野原のお母さんが計らぬことで先鞭をおつけになったから、お母さんも顕さんの家は御覧になりたいでしょう。今は皆が気がしまって居ります。その折お留守はなさりやすいからいい機会でしょう。
野原の土地320坪が25ずつで売れ、兼重の4300をかえした由。外に150坪とかそれ以上とかがあって、それは30ならいつでも売れる由。家屋とその敷地はたっぷりあまって居るわけです。富ちゃんのお嫁の件。あの方はその家へ見合いのつもりで行ったら、どうしたわけか大変じだらくな姿でその女が出て来て、「男を男と思わんようなの」がひどく気にさわって勿論オジャン。これはそれで結構です。堅い農家の娘さんを貰うためにこちらのお母さんもお気づかいです、本人もその気だからようございましょう。
あの奥の座敷のすぐとなりの売った地面に製材所が建ちかかっている由。前の鶏舎に朝鮮の人がうんとつまって住んでいる由。台所、事務所のあたりを人にかして、そこには別の一家が住んでいる由。野原もひどい変りようと想像されます。春の魚であるめばるもそんなものを釣っているよりは「稼いだ金で魚買うた方がやすくつく」そうで、めばる売りも来ません。東京の生活の気分と全然ちがう。一体この辺が、何か、目前の金の出入りに気をとられ、何か気分が変っている。躍進地帯ですから。じっくりした気がかけている。人と人との間の空気にそれが及ぼして居ります。ガソリン、タイヤ等、うちは出征家族ですから特別の便宜があって不自由して居りませんそうです。トラックの仕事はありすぎる位の由です。
岩本さんの返事あり次第、私はなるたけ早くお母さんをおつれしてかえりたいと思って居ます。おちついて本をよむということも出来ず、何かそちらの机が恋しい。二十一日に隆ちゃんが出発したら四五日に立ちとうございます。お母さん東京にいらっしゃるならばゆっくりいて頂いていいから。早くかえったって同じですから。(私がこちらを)
私は大変、大変、かわきです。かえって、一週間もおひとり占めにされては決してしわいことを云うのではないけれども、辛いところもある。どうぞよろしく願います。風邪はまだすっかりはよくなりませんが大丈夫ですから御心配なく。
きのうは随分ひどく歩いて疲れて、きょうは顔まで腫(はれ)ぼったい程ですがそれでもおなかはケロリとしていて大助りです。
あなたはずっと調子同じでいらっしゃるでしょうか。十五日に書いて下さいましたろうか?隆ちゃんにはおことづけよくつたえました。達ちゃんがお母さん宛の手紙のなかで、子どものうちからあなたと離れて暮すことが多かったが、当地へ来てから初めて兄さんの頼りになることが身にしみてわかった、博識であることに敬服したというようなことがありました。これは実に大きい収穫であり、博識云々はともかく、頼りになるという感じは人間生活の通り一遍のことでは(相互的に)会得されないものですから、私はまことに感深くよみました。そこには、達ちゃんとしての生活に対する心持の成長が語られているわけですから。私はうれしいと感じてよみました。これまで屡〃(しばしば)私が来て見て感じていたことから見れば、この進歩は、質の向上です。私はよく、一家族の間における人それぞれの影響、それのうけかたというものについて考えて居りましたから。強烈な存在と他のより強烈でないものがどう結びついてゆくかということは実に微妙ですから。リアクションがこれ又微妙な形であり得るのですから。ごく皮相な、当面の不便或はよくわからない迷惑感というものも作用し得るのですから。達ちゃんが、あなたを頼りになる兄として感じはじめたということは、達ちゃんがこれ迄にない辛苦や生死やに直面してからのことで、本気なものが出来て来ている証拠です。生活は何と複雑でしょう。これなど、私たち一家の面している時代的な生活の波の間から、ひろわれた一つの宝のようなものですね。決して架空にはなかったものです。
お母さんも二人いよいよ出しておやりになって、心配ではあるが希望も十分もっていらっしゃるから何よりです。きのうのかえりの汽車の中では、私も何とも云えない心持になって、もしやお母さん涙をおこぼしになりはしまいかと気づかいましたが、窓のところに肱をかけて、何か小声で歌をうたっていらっしゃいました、軍歌の切れを。そしたら私の方が、唇が震えて来るようでした。東京へ行ってあなたに会って来よう、そういうお気持、十分十分わかるでしょう?写真でない生(なま)の息子の顔を見たい、その気持には深い深いものがあると思われます。おそらくは自分で説明や分析のお出来にならないほどのものが。
では二十一日ごろ又書きます。二十日に会っての様子も。呉々お大切に。風邪をひき易い暖かさですから。これから寿江子に手紙かいて、お母さんをお迎えする仕度をさせます。 
四月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 広島駅より(はがき)〕
四月二十日午後七時十五分すぎ。(細かくは明日手紙で。)
今隆ちゃんに一番しまいの面会をすまして広島駅にかえってきたところ。徳山行が八時二十分なので、お母さんは駅の待合室にお待ち頂き、一寸郵便局へ来てこれを出します。今日こちら降ったりやんだりの天気でしたが、十時ごろ連隊にゆき、買物不足分を補充して三時すぎから六時までゆっくりと話し、隆ちゃんもお母様も大満足で何よりでした。あなたからの電報か何か待ち心のようでしたが、こちらの電報御覧になったかしら。 
四月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月二十一日第三十三信
さて、きょうは沢山書くことがある日です。この手紙のつく前二十四日に寿江子があらましの様子申しあげましたろうが、十八日づけのこのお手紙、速達で二十日につきましたがそれはもう夜でね、母上と広島に行っていた留守。十時二十分かにかえって来て拝見した次第です。したがってこのお手紙について隆ちゃんに話すことは出来ませんでしたが、おことづけはよくしましたし遺憾はないと思います。
十七日にあの手紙書いてから野原へゆきました。六時半のバスで。あの手紙書いているとき叔母さんがいらしてね。去年までの習慣で私はまだ二階で寝ているだろうと思って下に喋っていらしたのですって。そこへ私が下りて行ったというわけ。それから二時すぎおかえり迄つき合っていて、夕刻バスで行きました。この頃はガソリンがないから野原まで直通バスは一日一回です。上島田(カミシマダ)を少し出はずれると、野原へのあの一本道の幅が、ところどころ左手の山をくずして大分ひろく、車をかわすのに便利のようになっているのが目につきました。島田市(シマダイチ)附近は、もう大分活況を示していて、「山一組出張所」というような板カンバンが出て居り、すこしゆくと、あの池(景色のよい)の手前あたりの右手の山が切りくずされ朝鮮人のバラックが幾棟か建って洗濯物が干しつらねられ、土方たちがもう仕事からかえった時刻で、何だかかたまって遊んでいるのがバスの上から見えました。もうそのあたりから、緑暗色の外見は実に陰鬱なコンクリートの高さ一丈、底辺の厚み三尺三寸とかいう高壁が蜒々(えんえん)と松の木の間、小丘の裾をうねりつづいて丁度野原の家の前の辺が正門になる由。周囲の樹木の色との関係で平面に見たときああいう色は便宜なのだろうと理解されますが、道行人はエレベーションで見たのですから全く陰気な印象です。正門という辺はまだ出来ていず、その壁は野原のお墓ね、あの日当りのいい、いかにも野の真中の、あのずっと手前を通過して、郵便局よりの墓地のところで終る由。野原の奥座敷の鶏舎よりの廊下の障子をあけたら、いきなり朝鮮人の宿舎の窓があって(鶏舎をかりている)裸の男や何かいて面くらいました。その連中は鶏舎一棟を十五円でかりている。三つに室が分かれているところを一つは雑居、一つは食堂、一つは親方というのがその家族と住んでいる由。朝鮮の唄声、朝鮮の笛の音が、朝目をさましたときからきこえました。明笛は独特の哀調がありますね。唄は南ロシアの半東洋民族の節に似ていていろいろ興味があって、冨美子が、この人たちが、お米をとぐバケツで洗濯したり、一つの洗面器で洗ったり、煮たり、そこから食べたりするのをびっくりして観察して話していました。移動が激しいのと、文化がひくいのと、賃銀がひどいから(一トロッコ(一坪立方)三十銭。だが半分は親分がとる。一日十杯ぐらい。九十円のわけだが、体が一ヵ月働きつづけられまい。せいぜい二十日。その上、食費をはねる(親方))そういう生活になってしまうことを話したら尤もとうなずいていた。子供に対しては偏見もなく、そうやって来た子で野原の学校に上っているのもあるそうです。
もとからある家の蔵と二階ね、おわかりになるでしょう?あすこをつけて大工に土地を売ったというのは昨年のこと。本年に入って、その大工氏は大いに営利に志し、元、風呂のあった側一杯に大きい二階つきの製材所を建築中です。機械をおくコンクリートの座などが、まだ壁のない建物の間に見えました。ここで機械鋸を使い出したらあのシューキューシューシャリという音、さぞやさぞでしょうね。国府津の家の裏に一軒あるの覚えていらっしゃるかしら。あそこ位はなれていても随分きこえるのですから。
野原の家の洋間の事務所、そのとなりの部屋、それにつづく大きい二室、それは小倉の方から来た夫婦に子供三人家族に\15でかしてある。いや応なく泣きこまれた由、あの辺貸家というものがないので。これは徳山の何かの店が出張店を出すためその弟家族をよびよせた由。小肥りのまことに博識(!)の奥さんが、膝おしすすめて喋ろうとされるのにはさすがのおユリも降参しました。台所は共同にしていらっしゃる。野原の家の有様は大体そんな工合。大して落付かないというのでもないが、土地の空気は落付かず。あすこに建つものは特殊な性質のもので自給自足のものです。下うけ工場というようなもので外部が拡大することもないし、官舎の数だってきまっているし室積が消費面に当るし、野原は一定のところまでで地価にしろ、すべて飽和する。これは比較的早く飽和するにきまっているし住宅地とすれば、これ迄より条件はよくないわけです。危険の増大から。だから見果てぬ夢は見ないことと富ちゃんにも話したことです。地価なんかについてね。\25になって売れたらあとの150坪かは\50にもなったらと思うらしいから。それは笑い話ですものね。都会風になるのかというように思えたが、あの壁を見たらすっかりわかりました。そういう風になるのではありませんね。農家は農作をやめて(土地を買収されたから)小金のあるのは、それで商売でも初めようとしているらしいが、ああいうところは大規模の購買組合をもっているのだからその点も大したことはないでしょう。裏の山をきりひらいて官舎が建つ由。
富ちゃんは、朝、この間うちは五時半、夜は八時すぎという働き(トロの数をしらべ、トロへ土の盛りようをカントクする、棒頭(ぼうがしら)的な仕事)それが年度がわりの一区切りで十八日から六時半夕刻四時ということになったそうです。月給四十円、手当十円ぐらい。すっかり真黒になっている。そんな仕事でもそれだけよくやる。余りよくやるので合点が行かないようなので、いろいろ話したら富ちゃんの気持もいくらか判った。マア土地も整理され、すこし金も出来、これで一安心したから、これからは先のように一つ挽回してやろうという風で焦慮してジタバタしないですむから、四五十円でもかっちりとやってそれで暮して(暮せる由、叔母さん、せっせと小遣帖つけていられる)元はくずさず、やってゆき、自分の勤めも追々事務にうつることが出来る望みがあるという見とおしです。
一つ儲けて、家をとりかえすには株しかない。株がええ、そう叔父さんから云い出して株をやるようにさせられた由。元来富ちゃん気が小さく、つまりいくらかしまって安心している金がないと気が落付かなくなるそういう風なのですね。だから今度の整理がうまく行ったのも、あのひととしたらいいわけでしょう。それで、心祝のわけで私が去年の秋富ちゃんのゴタゴタのとき送って上げた旅費20かえして下さいました。返して頂くつもりはなかったが、そういう一区切りのときであちらもそれで心持よいのであるから、では、と頂きました。私の方は大助り。隆ちゃんにいろいろ買ってやって底ぬけでしたから。隆ちゃんは、ああいう人で、何んでも、ハアもう何もいりません、と云ってばかりいるのだから。
野原では、私は富ちゃんと叔母さまに何を云ったとお思いになりますか?予算生活をせよという、全く柄にないことを云ったのですが、それは、あすこには必要なの。これまで定収がなくてその場その場。入れば何でもする、そういう気分でやられて来ているから初めて定収があって、それをきっちりつかってやってゆくことを学ばなければ、結局又「あるだけみたしてハヤないようになった」ということになりますからね。お嫁さんが来たら叔母さまにはどういうようにして上げた方が一家が円満にゆくかという具体案も話してきました。そしたら叔母さまがよろこんでね、こんなにいろいろ心つけて貰ってどうして恩をかえそうやら、いまに富雄が儲けたら、一つうんとお礼をすると仰云ったので、そら又儲けたら、が出たと又本当にすこし気持をわるくして申しました。その癖は根本から改める必要があると。何を富雄さんが儲けられましょう。ねえ。儲けられないのがあたり前です。稼ぐ、そして生活してゆく。それと儲けるとはちがう、全く。富ちゃんだっていやな顔をした。この儲けるというのは、どうも島田も野原も一つの癖で、よくない。儲けにゃ、儲けて貰わにゃ。深い考えもないが何ぞというとこれが出る。そして、やはり出るのは出るだけのことがあるというわけですね、現実に。
十八日は、いつぞや私左の脚がつれてびっこ引いていましたろう?又あのようになってしまって歩けず一日野原の家にいました。十六日に広島で非常に歩いたもので。
十九日の午後一時半のバスでかえりました。その朝お墓参りいたし、あのあたりを感じふかく眺め、お辞儀いたしました。菫の花が草の間に美しく咲いているし、れんげの花も一杯咲いている。やがて壁の内に入ってしまうところです。
かえって来たら、こちらのうちに、おはぎができている。多賀神社の祭祝の由。それを御馳走になり、一番奥の、田を見渡す部屋の円食卓のところで帳簿をひっくりかえし(多賀子)そろばんをはじき(母上)私ペンを握って大仕事がはじまり。周南町になったので、特別税(所得)の申告があるのです。いろいろ商売のことがわかり、例えばタバコは〇・九の利率とか、塩は一カマス平均20銭、肥料5/100以下の利益とか、なかなかためになりました。トラックの方のこともやっと分りました。金は大きく運転するが、又維持にもなかなかかかるものですね。それらをすっかり書きこみ、控えをとり、それから肥料配給申告書をつくり、これもなかなか面白く思いました。八月から配給実施で申告しないものはオミットになります。第二期というのが八月―十二月、三つに分けて四ヵ月ごとにするのでしょうか。これも様式をちゃんと写しをとったから来年は御不自由ありません。これ迄そういう記入は皆達ちゃんや他の人がやっていて大分弱っていらした折からようございました。米穀の方は実施は八月ごろからでしょうといっていらっしゃいます。どういうことになるのか不明です。まだそのお話はでませんでした。昨夜あたり、肥料を扱う店がかたまって、産業組合と対抗するより合をどこかでするからと迎えに来た由。丁度留守でよかったといっていらっしゃる。そういう対抗が、事情の本質をかえないものだし、見当ちがいなことはよくお分りですからその点安心です。只、肥料が固定して(種目)高価になるから農家は困るでしょう、そういっていらっしゃる。肥料など大抵のところでいいことに考えていらっしゃいます。
二十日は、朝六時五十五分で出て、広島の連隊へゆき、十時半まで三十分ぐらい話し、私共買物、昼食に出て、三時―六時半頃までゆっくり話しました。営庭の草の上に坐って、折々雨が通ると傘をひろげて話しました。写真やがなかなか繁昌でその人群の間を写真機をかついで働いている。私たちも草の上に新聞をしいて坐っているままのところを撮らせました。出来たらお目にかけます。三人ともう一人、もとの家の(島田)馬車をひいていたりした高村という人の一人息子が第一乙だったのが召集され、去年五月から入って今隆ちゃんの隊で教育召集(一ヵ月)の教育掛をやっているという人と四人でとりました。(三人は縁起をかつぐから)
薬や何かやはり少しは持ってゆけるということが十六日に会ってわかったので、早速クレオソート丸その他消毒石鹸まであるので、「班でこんだけ用意せちょるものはない云いよります」という状態になりました。すこし咳をしていますが元気だし、平静でちっともいつもとちがったことないし安心です。お母さん二十一日に宇品へいらっしゃりたいらしいが、あぶないし、隆ちゃんもきっといらっしゃらないという約束をおさせ申しました。広島は新緑でね。西練兵場のあたりの緑は実に美しい色です。六時に夕飯のラッパがなり、まだいてもよかったらしいけれども、隆ちゃん入浴しなければならないし、御飯もたべなければいけないからというわけで六時半ごろ営門を出ました。第一中隊の建物というのはずっと奥で、営門の方へ私たち歩きながら、広場を突切ってゆく隆ちゃんを見送っていて、あっちの角を曲ってしまうまでにこちら振向くかと思っていたら、私たちのいる門の方とは反対の馬場の方二度ばかりふりかえって、こっちは向かず行きました。そのふりかえりかた、ふりかえるときの肩の動かしかたなどあなたと実によく似ています。達ちゃんは一寸手を動かすときが似ている。そしてそれらはみんなつまりお父さんのおゆずりなのでしょうか、お母さんのお癖にはないから。面白いことね。写真でおわかりかどうか眼の形、ニュアンスではなく、形は、隆ちゃんの方があなたに余計似ています。お母さんの東京行を隆ちゃんもよろこんで、「ゆっくりあそーでおいでたがええ」と云っていました。気がお変りになって本当にいいでしょう。機会はいく度もあるかもしれないが、しかし常にその前髪をつかめですから、お出になったら出来るだけあとの思い出がたのしみでいらっしゃるようにして差しあげましょうね。そしたら来年六月頃私が又来る迄はもてましょう。それまでに達ちゃんが戻れば文句はなしですが。
寿江子に手紙出して、お母さんのおふとんのことや何かたのみました。よくやっておくときょう返事来ました。万事私どもの方も好い都合のときですから、御ゆっくり願いましょう。これはまだプランにもならない思いつきですが、四月二十九日(天長節)三十日(日曜日)とつづいてそちらもお休みになりますから、もしかお疲れでなかったら日光へおつれしようかと思います。電車で行けるのでしょう?あっちへ行らしたことないでしょうし、この前野原の叔母さんが見えたときと同じ滞留の内容では、話の新局面――母の母たる局面がなくて、よくないだろうと思います。或はおかえりの折、熱海のそばの温泉へ一晩ぐらいおつれしてもいいかもしれないが。きっと日光はお気に入ると思います。一泊でね。伊豆山あたりへ一晩ゆくより話題となるでしょう。きょう、サロメチール買って、私の脚へよくすりこんだから、かえる迄にびっこは直さなければなりません。そして日光へでもおつれしましょう、と云っても私も知らないからたよりないようなものではあるが。
岩本の小母さんが二十四日に来られ、私たちは二十五日の夜こちらを立ち、広島で「桜」にのりかえ(午後一時何分か)二十六日の午後四時四十分東京着です。何とかして二十六日の早朝つきたいと私一流のよくばりから考えたのですが、靖国神社の特別大祭のバスがどっさり出て、汽車は大いに混むので、やはり座席の数はきまっているのにした方がよいと思い、そちらは二十七日で仕方ないことになりました。なるたけ二人一緒に会えるようにいたします、そちらでもどうぞよろしく、朝のうち参りますから。
徳山のお花見は丁度私のゆく一日前、お母さんは河村の細君とお出かけになった由です。ショールはよくお似合だし大層お気に入りで、もう二日のばしたらお花見にかけられたと云っていらっしゃいました。ずっと降ったりやんだりの天気で、きのうもコート着て助かりました。山崎さんの伯父さまにはお目にかかる折はないでしょう。達ちゃんはあっちからいくつか写真を送ってよこしています。そちらには一つも送りませんか、何か面変りして見えます、いかつうなったと云っていらっしゃる。
きょうは隆ちゃんの宇品出発故、おひるにめばるの焼いたのを御飯と共にかげ膳になさいました。お天気がぱりっとしないでいけないこと。二時―四時に出発の由。多賀ちゃんは「タイア」を買いに櫛ヶ浜へゆきました。八十八円七十銭(一本)の由。それが二本かえた。夏迄大丈夫とのことです。なかなか品不足ですから。それに買うための証明書のようなものの扱いかたも一々警察(経済検察官)を経、それがこういう田舎では駐在ですからね。出征家族であるためガソリンもタイアも優先で、何不自由ありません。
私の早寝早おきは大丈夫で、午前二時半までくり上りました。(広島へ出かける日。そしたらね、汽車の時刻を午前と午後とお間違えになったので、三時三十分とかのつもりで駅へ出たら、灯をつけた夜汽車が入って来て改札のところでびっくりまなこを見はっているうち出てしまって、おじゃん。三時十三分だったのです、午前ならば。大笑いしてしまった。以来六時五十五分と決定)
今日まで本は全くよめませんでした。これから二十四日迄すこしつめてよみます。かえると今度は半月は多忙ですから。おひささんはおかみさんになるのにこまごまとしたお客様の料理を知らないでとこぼしていたから(うちのは常に美味でも書生流故)こんどは一つお母様のために私も腕をふるい、おひさ君の花嫁学校にも役立てましょう。おひささんはバカね、もうそろりそろりと私に当てます。私を見習ったというのでしょうか、良人についてはいつも自分の心に在る心持で語るという。しかし、小さいことだが一寸相手の人という者の確りさの種類について感じた言葉がある。おひささんが私のところで経験した生活は(そういう生活は)長所もあるが欠点もある、その欠点を田舎へかえって直して来い、と申しました由。おひささんには申しませんが、私は、生意気だと、思う。田舎の大きい家の二男坊らしい目安があるのです。だから欠点云々という。私はおひささんに「旦那さんにそう云っておくれ。おひささんが自分で持っている欠点を、私たちのうちの欠点と思って貰っちゃとんだ迷惑だって。」おかしいでしょう。いかにもおかみさんのようなことをユリもいうとお思いなさって苦笑なさるでしょう。でも、それはそうだわ、私の心持から云えばね。おひささんはナイーヴですから、対手のそういうクラーク気質を素直に反映するのです。おひささんも、そういう御亭主に鍛えられれば半年か一年して変って来ることでしょう。対手の確りさ、その工合も、それで略(ほぼ)想像がつきました。いわゆるかっちりやでしょう。ビンタで人を使っている立場だから、工場づとめでも。冨美ちゃんは土曜日か日曜に参ります。この頃は大分体がしっかりして、あちらではバター牛乳が献立の中に入れてあるからましです。特に冨美子のためにそういう点気をつけていらっしゃるから。語学のこと申します。女学校を出たら二部へ入って二年で資格をとる計画です。お兄ちゃんが可愛がっているから仕合わせです。女学校三年から上の学校へゆく子と家事向の子とわけて、語学の時間などふりかえる由です。
さあもうそろそろおしまいになりましょう。うちの裏の白い「いちはつの花」が一輪今朝咲きました。鶏の卵は一日に七つか八つ生みます。麦は今年はきれいにのびていて、広島の方は穂がでて居りますが、こちらはまだ。河村さんのうちの横に山羊がいて、それが年よりの男のような声でメエエエと鳴くが、一種妙な淋しさというか、退屈さというかがある声の響ですきでありません。動物の声のくせに、いやに人間っぽいところがある。いやな心持。(本当よ)気の違ったすこし年よりの男が、言葉で何か云えないで、声ばかり出しているようで。上島田の町並はちっとも変りません。周南町とはなっても。もう一度こちらへ手紙頂けるでしょうか。
くれぐれもお大事に。私のかぜは大丈夫です、けれども非常に御持薬を欲します。 
四月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月二十一日夜第三十四信
今下へ近所の細君で指圧療法をする人が来ました。それで一寸失礼をして二階へにげ出し。大変挨拶が長くてこちらの言葉で云うと、ハア持てん、から。
去年来ていた間の手紙に、タマという猫が登場しましたが覚えていらっしゃるかしら。もう八年いる由です。そのお玉夫人が今年は六匹仔を産みました。去年は飼いようが下手ですっかりおびえさせてしまったので始末にこまり、遂にカナリヤ箱に入れて遠くへすてに行ったので、本年は手なずけてそれぞれ養子にやろうというわけです。今カナリヤ箱に仔が六匹入っていて、ときどきお玉夫人を入れてやる。店のところに出ていて、人にも馴れ且つもらい手を見つけようというわけです。よく手まめに母猫を出したり入れたりする、誰彼が。生きものを飼うのはこういう人手がなくては駄目ですね。戸塚の主人は、小鳥を九羽飼っています。それぞれの籠で。私にはそういう小まめさがない。あのひとは実際まめね。鳥の名はどれも相当美しいが。例えば瑠璃、きびたき、黒鶫(つぐみ)などと。
こうして坐っていると、昼間のいやな山羊の声はしなくなって蛙がもう鳴き出して居ります。蛙の合唱期は永いものなのね、六月初旬は夜という夜が蛙の声で溢れるようですから。北海道へ旅行してアイヌ村の真暗な夜、谷地(やち)で(湿地で葦のような草の根のかたまりだけがとびとびにかたまって谷地坊主と云われて居、そこをつたわって歩く)五月頃蛙が鳴いていて、その声々が天地一杯という原始的な印象を思いおこします。自然の深さが、夜の闇、そこで生きているという力一杯の蛙の声々で、非常にポテンシアルな豊饒さで迫って来たのを思い出します。数年前、栄さんと信州に行ったことがありました、あのとき木の葉に小さな蛙がとまっているので、栄さんが珍しがって、ホラ又いた、ソラそこにいると云って歩いたことがあった。四国に――小豆島にそういう蛙いないのですって。
母が若い娘の頃、お風呂に入っていたらいきなり背中へピシャリと冷たいものがとびついたので、キャッと云ったらそれは青蛙だったという、いかにも明治初年の向島あたりらしい話もある。この向島の家は、築地の家の隠居所であった由。私が五つ六つで行った頃は裏に蓮池がありました。青みどろが浮いていた。ここは震災で滅茶になり、後とりがあるようなないような形で今は江井、ね、もと林町にいた、あれがアパートをやって居ります。
ハハア、私がここにいるのでKという運転手遠慮して下へおりた。寝たいかもしれない。では、私もその細君を忍耐して下へ行こう。では又、ね。サロメチールつけたので、びっこ大分楽です。
二十二日
きょうは久しぶりではっきり晴天になりました。暖いこと。でも羽織をぬぐと風邪をひきかかるような工合。そちらの御工合はいかがですか。きょうは二十二日ね。三日、四日に岩本の小母さんが来られて、五日に立って、六日について、七日。七日。七日。
沢山歩いたりして疲れている故か眠いこと。この頃皆つかれて大抵九時半というと一斉消燈です。六時前もう、御免なさんしと云って来る人もある。朝、駅から電話がかかって、二十六日の「さくら」の場席がとれました。多賀ちゃんはお母さんの持っていらっしゃる襦袢を縫っている。私はさっき下で、お母さんがあなたへお土産とお買いになった純木綿の浴衣を裁って、二階へ来て久しぶりで海老茶色の本をひろげました。そして六十頁ばかり読んで、一寸一息入れたくなってこれをかきはじめたわけです。明日冨美ちゃんが来るでしょう。明後日は岩本の小母さんが見えるでしょう。二階にいられる時間がなさそうですね、私は笑われるかもしれないが慾ばりでこんな本よみかけ一冊、つづき一冊、二冊も持って来たの。一冊読了することさえ出来るかどうか。今ではこの本も親しさが加っていて、長い本をよむときの気持の持続性が生じていて、日常生活の気分と平面が同じになって来た感です。生活の内へ大分入って来て、そう嵩(かさ)だかで、手の出ないという感じでない。
てっちゃん、やっぱりこんな本よんでいる話、していましたろうか。そう云えば、私の今日の手はすこし鉄さびやら蕗の渋やらがついています。うちの水はひどい鉄分で、アルミニュームのやかんにすっかり赤さびがついて湯の出がわるいわるいとお母さんが云っていらしたので、その中をすっかり洗いました。マアマアと皆びっくりした、よくこんなのでわかしたお湯をのんでいた、と。でも鉄は貧血症の薬だから、うちの人は皆貧血はしないでいいだろう、と大笑い。蕗はお母さんと、台所の腰かけで話しながらむいたの。わきの七輪ではタコがゆだっている。お湯からゆでると茹(ゆで)ダコの赤いのにならないとか、なるとか。その汁が松の木の緑を深めるというので野原の小父さまが御存命中、わざわざタコを買ってその汁をかけたとか、そんな話をしながら。うちの仲仕たちタコが好きですって。その御馳走。タコは骨を太くするんじゃげなと仰云るから、アラ、タコは自分が骨なしの癖に、と又大笑い。
『大阪朝日』へは『東京朝日』へ出る『中公』の公広など二十二日になって出るのですね。きょう、『中央公論』と『日本評論』とがのっていて、『日本評論』ではパール・バックの「愛国者」という小説の抄訳か完訳か、広告が出て居ります。これは日本の長崎や日本人や、日本に留学している中国人やらが出るのですって。バックはどのような材料によったのでしょうか。
同じ『日本評論』に富沢有為男の「東洋」という小説の広告あり。題が多くを語っている、そのような作品でしょう。しかしこの題からバックの取材(日本人など扱う)を考え合わせ、日本の文学の複雑な内包的可能性というようなものについて考えます。日本の文学において見らるべき視野は、明かに地理的にもひろがって居り、それによって人的諸関係もひろがって来ている。日本の小説が東洋というような題をもちたがる気分が生じている。そのことの中に、現在は盲目性がその中軸となって居ること、ならざるを得ないような事情が、この新しい文学上の条件を非常に特殊なものにしている。非文学的な性質にしている。こういう時期がどのように経過するか、そして真のひろがりがどのように文学の上にもたらされるか、これは十分注意をもって観られるべきことです。川端康成や何か、作品の部分部分でそういう点ではごく小さく或る追随をしつつ全体としてはそういうものと対立するものとして純文学を云って居り、そういう読書人間の要求もありますが、純文学というものが川端の火の枕(「雪国」)でなければならないのではなく、又所謂生活派でも(これは自然主義の一転形ですから)なければならないというのでもない。真の文学の発展、成長が、地理的拡大だけではなり立たないという微妙な真理はここにも反映して居り、文学をもって生涯の仕事としているものにとっての云いつくせぬ遺憾があるわけですね。この点については、なかなか面白い問題がふくまれています。
二十三日
今朝は三時四十分に多賀ちゃんを起し、多賀ちゃんが御飯の仕度してから二人の男連をおこしました。私が目醒し時計。お母さんはおきなくてはならないと思うと、よくお眠れにならないのですって。だから又例によって私がおこし役。私の可笑しい特色ね、こんなに眠りん坊のくせに、大抵おきなければならないとき目をさますというのは。どういうのかしら。かけねもなく、あなたにほめて頂いたのもやっぱりこういう目醒まし役でしたね。それを思うと笑える。そしてその笑いは段々と優しいニュアンスを帯びて来ます。眠たさで、重く柔かになっている体や、いやいや青茶をのんでいらっしゃる手つきや。
達ちゃんからお母さんと私とへ手紙が来ました、十六日に出している。島田へ来たことをよろこんで居り、隆ちゃんにとっては何よりの餞別でどんなに意を強うしたかしれない、と書いてあります。母上の方へは、顕兄さんのお気持も十分わかります、深く感謝しています、と書いてありました。大同の人たちは一部(年かさの人々)が帰還するかもしれぬ由です、勿論はっきりは分らないけれども。若い達ちゃん達は後まわしですが、本年中には、と書いてある。辞典が大いに役に立つ由。誤字がすくなければそのおかげ、とありました。
達ちゃんは面白い。私宛に書くときより、お母さん宛に書く手紙、見違えるようにしっかりしていてゆき届いていて、なかなか急速な成長です。お母さんが三十年来商業に従っていて、後天的に商業をたのしむようになっているから、商業のために忙しいのは決して不満でないのを知っているから、お忙しくて却っていい。そういうようにも書いています。私へは、書くことが家事に即さないのといくらか、かたくなるのね。写真、あなたの方へは送ってよこしますか。東京へと思うと何か気おくれがする(写真)と書いてあるので笑いました。父上の御一周忌くり上げたらよいと達ちゃん申していますが、これは予定通り決してくり上げません。そういうことにきまって、お母さんもお上京になるのですから。よしんば又五日ぐらい私が来なければならなくても、やはり六月六日がようございますから。
これから達ちゃんと寿江子に手紙かきます。寿江子は今主婦代理故、二十六日の夕刻ついて、それから御飯の準備ではこまるから、今日献立を云ってやっておくのです。
野原小母さんお見えにならぬうち、と大急ぎなの。冨美ちゃんがついて来て、私が二階にいたのでは何に来たのかわからないと思うでしょうから。
きょうはひどい風。晴天。二十一日にお墓詣りいたしました。隆ちゃんが宇品を立つ二時二十分ごろ。きれいになっていて、ぐるりの林の中には山つつじの薄紫の花が満開です。山々はどこもつつじの花盛り。賑やかです。その花を折りとってお墓に飾りました。只道が実にけわしくてね。岩根とごしき山をのぼり、まるで「平家物語」よ。お母さんだってあぶなくいらっしゃる。山から雨のとき水がどうどう流れ下る、その溝や洗い出された岩が、つまり道ということにして使われているのですから。ですから年々ひどくなるのです。去年より又ずっと足場わるくなって居ります。
きっとこれが島田からは一番しまいの手紙でしょう。立つ前もう一度お墓詣りいたしましょう。きょうは二十三日。あと四日。一日がせわしくて短くて、そして無限に永い。こういう妙な日々。ではね。 
四月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 日光中禅寺湖歌ヶ浜のいづみや旅館より(男体山の絵はがき)〕
なかなか珍しい組み合わせで且つ珍しい小旅行です。只今湖畔の古風な宿の広縁で椅子にかけ小テーブルでこれをかいて居ります。きょうは一日ふらりふらりと歩いて、湖の静かな眺めがなかなかようございます、建築を二度見に来ようとは思わないが、自然はよい、又季節がちがったらどうだろうか、と思わせます。明日は湯元まで四五十分ドライヴしてお湯にも入り、高山の景色もお目にかけて夕刻かえります。山影が湖面に面白い変化を与えて居ます。 
五月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十三日第三十五信
野原の小母さままだいらっしゃらない。二階で勉強していると、お母さんが上っていらして、これをお土産にどうだろうと、女のつかう胸からかける前かけをおひろげになった。純綿だが、と。ああこれは大変いい思いつきで皆よろこびます。咲枝、寿江、ひさ、みんな一枚ずつ頂くことになりました。一枚、1.30。東京に木綿のはなくて皆ほとほと閉口していますから。お母さんおみやげを心配なさるから、こちらの例のいりこ(これは決して東京では手に入りません)、ういろう(太郎と目白に下さる由)、それにこのかっぽう着。なかなかやっぱり気づかわれます。でもまあこれもいいでしょう。
おや?下でどうも賑やかになって来た。小母さまらしいこと。でも呼び出しがかかる迄ねばっていよう。ほら、上って来た、冨美公。きのうチブスの予防注射をしたら腕が痛くて熱が出て、けさ早くは出られなかった由。
御寿司の御馳走が出来るそうで台所は大活況を呈している。私は冨美子と喋りながら、縫いもの。あなたの寝間着。今にもっと暑くなって、その白地に格子のねまきが届いたらどうかよく覚えていらして、体のまわりを横に縫われている線を触って下さいまし。そこに沢山のおまじないがこめられて、あなたの体をぐるりととりまくようになっている(普通のうちあげですが)。由来昔から魔女が自分の愛する者をいつまでも自分のところにとめておきたいと思うとき、その人の体のまわりに輪を描くのがしきたりですからね。二つの腕でだって、やはり描くのは輪ではないの、ね。
顕兄さん、背骨がかゆうてよう眠れまい。これは私が背筋を縫っているときの多賀ちゃんの評です。
――○――二十四日
きのうは若い連中三時半におきて出た。目醒しが私。
きょうは四時半。やはりその目ざまし役も買っていたら、お母さんが十二時頃目をおさましになって、もう眠れないからいいということで責任をゆずり。三円七十銭(目ざまし時計の価)の役目終り。今夜帰京の荷づくりをします。午前中本よみということにして二階に上って来たところです。
◎冨美子の英語は三年になると、英語と手芸とどっちに重点をおくか生徒をその希望によって二つに分けるのですって。そして、英語には相当の理由、相当の学力がなければ編入させぬ由。冨美子の英語は甲の由。三年からは英語志望する由。二部へ入るのだし理由はあるわけですね。
◎只今寿江子からハガキ。十五日のつぎは二十一日にそちらへ行ったのですってね。二十四日(今日)行くかどうか書いてないので、二十四日行くものとして速達出したあなたへの伝言届かないうちに二十七日になっては困るので電報出しました。
五月四日夜。
何と久しぶりでしょう!深いよろこびの心でこの紙に再び向います。二十三日に書き、二十四日に一寸書いたぎり、十日経ちました。今夕は母上、咲、国と歌舞伎座です。去月の十三日以来、初めて一人の夜。二人きりの夜。二通のお手紙にやっと返事をかくわけです。朝六時から夜九時半までのフール・デェイ・サーヴィス故何卒(なにとぞ)あしからず。お母さんに、何しろ親孝行の注射みたいなもので、間を相当もって頂かなくちゃならないから、相当太い注射をしなくては、と云って大笑いです。
さて、二十五日の夜は八時二十五分に島田の駅を立ちました。広島で一時三十二分のサクラにのり、相当こんではいたが姫路でお母さんの隣の人が下車したので一人で二つの座席をおとれになりました。大阪の午前八時に私のとなりがあきました。大阪では克ちゃんがプラットフォームまで出ていて、お茶や弁当の世話をしてくれました。(四号車で前部なので、なかなかまわって来ないので)克ちゃん、出羽さんにいたときよりはすこしふっくりして、どこかまだ落付かないが幸福も感じているという若い細君ぶりでした。大して話もせず。お母さんはお土産のういろうをおわたしになりました。克ちゃん、あなたへよろしくとくりかえし申して居ました。
桜の花を眺めて往った東海道は、かえりは新緑。名古屋辺まで実に奇麗でした。静岡をすぎるともう瑞々(みずみず)しさが不足でしたが。お母さんも私も、予想よりずっと疲れず東京に着きました。雨が降っていたので傘をもって寿江子と栄さんとが迎えに出ていてくれたのは思いがけぬよろこびでした。省線で目白まで。なかなか御節約でしょう?東京駅のプラットフォームで、ひさがかえったときいたときには実にがっかりしました。折角、家らしくおもてなししようと思っていたのですもの。しかし、寿江子も、林町のまつも、よく準備していてくれてね。私が手紙で指図しておいた通り四畳半をきちんとして、私たちの貰ったカーペットしいて、あなたの使っていらした四角い机、足を高くするための木の附け足をちゃんととって、テーブルセンターしいて、そこにチューリップの花が活かって居りました。茶ダンスの上には、特にお母さん御用に買った鏡が立っていて、タオルねまきの新しいのもかえて居り、布団もまるでポンポコなのが出来ていました。一安心いたしました。
二十五日の夜は、何しろあした顕さんに会おうというのですからぐずぐずしてはいられない。お風呂にお入りになり御飯がすみ、九時には床に入りました。寿江子留守にはよくやってくれました。
二十六日は御承知の通り。私には、ああやってテーブルの上に組まれているあなたの手の眺めなど、何と珍しかったことでしょう。いい爪をしていらっしゃるのでうれしく思い、一つ一つの指の爪についている白い半月形をまじまじと眺めました。私は両方の親指のところに浅い半月形があるぎりですもの。ちっとも爪には条が立って居りませんようね。それも何よりです。
あれから私たちは、日本橋の方へ出ました。毎日のことは、一々お母さんのお話で伝えられて居るわけですね。本当に活動的で、うちにじっとしていらっしゃるということはありません。そちらのかえりずーっと引つづいて夕刻の七時八時近くまで次から次へとお動きになります。御丈夫ね。私の方が、折々フーとなって、ああ盲腸がなくなっていてよかったという位。私はデパートは苦手中の苦手なの。でも、お母さんはそういうところでも、やはり興味をもっておつかれにならず、又お疲れにならないで、ここにも入って見ようとお思いになる気持も分ります。買いものぶりもなかなか面白い。いろいろ細々したお土産や御自分の着物なども揃い、もうあとは岩本の小母さんへのお土産を明日上野の松坂屋辺で見ればいいことになりました。
日光は、大成功でした。こちら八時四十五分に出てね、日光着が一時すぎ。それからブラブラ歩いて東照宮など見て、バスで中禅寺に行きました。馬返しというところまで大形バスで、馬返しから湖畔までは普通の乗用がれんらくをする。ひどい人出。九段へ来た遺家族の人も大勢胸にリボンのしるしを下げて来ていました。お母さんは「ハア、とまらんといにましょうや」とおっしゃる。でもお社を見物で大分足が痛んだので湖畔へ出たら、お母さんもさすがに泊っていいお気持になり、又湖の眺めのいい宿がとれたので、早速一風呂二人一緒にあびて、一泊に決定。部屋は大したことがないが、眺望はようございました。只男体山を背負っている位置でしたから、対岸の米屋というのだったらきっともっと景色はよかったでしょう。二十九日に湯元の板屋に部屋をとるように電報して出かけたのでしたが、湯元は満員というわけで、万一雪のあるてっぺんまで一気にあがって、宿はない、かえりの車はない、下でもう宿は一杯というのではわるいので、急に湖辺に泊ってしまった。翌日湯元まで往復六里ドライヴしましたが、泊りはやはり湖畔でよかったと云っていらしたから私も満足です。
宿屋ではドイツの若い人が何人も泊り合わせ、歌をうたったりしているのもお母さんにはお珍しかった様です。姫鱒(ひめます)も中禅寺湖名物で、私は美味しかったが、お母さんは初めてでどうもぞっとなさらなかった由。河魚は身が軟(やわらか)い。それがおいやのようです。それでも、ここの名物と思えば、食べても見たと笑っていらっしゃる。可愛い子には旅させろ、大事な親にも旅させろだろうかと笑いました。
翌日は、戦場ヶ原や白樺林、楢の深山らしい雄大で凄い樹林をぬけて湯元へ登ったら、ここには雪が積っている。湖畔の桜は赤い蕾で日光では満開。湯元で雪のつもっているのを見たら(往来や山に)何とも云えない面白い、奇妙な、感じがして、一寸一言に表現出来ない心持でした。いい心持というのではないの。変な、世界が変ったような、異様な感情ね。盛夏アルプスなんか登って万年雪を見るとき、こういう感じがするのでしょうね。もっと大規模に。私はそうだとすれば、夏はやはり夏らしいのがすきだろうと思います。大変妙ですもの。すぐには馴れられない。
湯元でお母さんは御入浴。御飯。ここでは鯉の洗いと鯉こくを出しましたが、お母さんこれもやはり「旅にしあれば」召上った由。洗いに至っては、こうしても食べられるものかと感歎していらした。私はやはり北ですね。鯉はすきよ、洗いも。中禅寺へ二時半近く下りて来たら、お母さん、日光は一泊するのが実によいが一泊で十分とのことでした。食べ物の関係から。宿やなんか同じようですものね。たしかにそういうところもある。
華厳滝のそばから、話の種にケーブルカアにのろうということでしたが、大層な列を見てヘキエキして馬返しまで同じ自動車で下り、あと電車で駅。八時すぎ無事御帰館。
お母さんの話題は一きわ内容豊富に、おなりです。東宝で「忠臣蔵」を御覧になり、今夜歌舞伎を御覧になり、随分お話の種は粒揃いです。多賀ちゃん、毎日ハガキで家の様子知らして来るので、御安心です。
明日は不忍池を御覧になりたい由だから、そちらからずーっとまわって、もしかしたら林町へよって皆で写真を一つとるように手筈しようかと思います。写真は私、昔ヴェストなどいじったことがあった程度です。一枚は本式のがあってもようございましょう?記念に。芝居のかえり二人がお送りして来るから、うち合わせて見ましょう。
林町の連中もこの間うちへおよびしたときも、今夕も、わだかまりなくおもてなししているので何よりです。林町の家、謂わば初めてゆっくりお入りになったようなものでね。先のときは、一度目はフィクションの最中で、林町の母が動顛してヒステリーをおこしてしまっていてしゃんとお迎えしなかったし、二度目は国府津にいてお母さんは信濃町だけ。全体から云って、些かいとまある心で、御滞逗になったのは今度初めてと申せます。私の張りきりかたもわかるでしょう。初めてのとき、お母さんは「もうどこも見たくなんかない」と仰云る。それを私がひっぱり出してね。「東京へいらしたのによそを見もしないでおかえりになるなんて、そんな負けた気ではどうなりましょう」と無理やり江井でおつれした。そんな工合でしたもの。今度は本当に御自分も御自分の目で見ていらっしゃれて、うれしいし張りあいがあるし、共通の話の種が殖えてようございます。島田で、東京へ行こうと思うとおっしゃったとき、私は飾りなく云えば、さてと困ったの。実に困ったの。おいでになり、第一日第二日まだお気持がきまらず、それがわかりましたが、もう今日では、あなたのお心もよくのみこめたから、いっそせんない思いをさせることは云うまい、云うたとてどうなろうか、というところに落付いて、こんなに皆が大切にしてくれるのもあなたのおかげ、と思っていらっしゃる。大変結構です。御上京になって甲斐があったと申すものです。あなたのやさしい笑顔や、その上でお母さんがどんなに足をとどろかせなすっても、ゆったりと持ちこたえる気持の豊かさ(ゆたらかというのね、あっちでは)にふれて、しこっていたものがとけたようなお気持と見られます。よかったことね。二日のお手紙の、奥の手のお望み[自注15]というところ、大変ユーモラスに「ハアよう知っちょりやる」と笑っていらっしゃるという工合です。これらはすべて望み得る最上です。私の心くばり、いろいろのお伴、皆甲斐あった、本当にうれしゅうございます。あなたも気がおくつろぎでしょう。それにつけても母上の愛情の本能的な聰明さには深く敬意を感じます。あなたとさし向いでいらっしゃるお話の内容は存じませんが、全体としてね。可愛いものの求めているものが、勘でわかるというのは、やはりその愛が主我的でないからこそです。
私たちの生活の雰囲気、例えば、私が鏡台というようなものもなく書生流に暮している、そんな些細なことでも御自分で御覧になって、やはりようございます。二人で手をとって、東京の街や日光の杉の間を歩き、「私は一人二役だから、どうしてもお母さんには半分息子のようでしょう?」などと喋りもいたします。お母さんも何年も何年も前の召物をきていらっしゃる。私も。「私はこれでなかなか宮本家の家風には合ったお嫁ね」と大笑いしたり。冗談のようだが実際ですね。三つ指式であったら、私は自分が熊の仔にでもなったように工合わるくて迚ももちませんでしたろうから。仕合わせと思います、嫁さんとしても私はやっぱり仕合わせ者ね。
お母さんは改まると普通の標準的応対になっておしまいですが、話をくつろいで私となさるときびっくりするように表現的です。即物的です。例えば、お父さんが、挽回しようとして益〃益〃積極におやりになる、「そのまぶしさちゅうたら、ハアどないな活動写真にもありません」こういう表現。実にヴィヴィッドでしょう。田舎の活動写真なるものの感覚を通して全生活が集約されて居ります。どんな文学の才能だって捏造不可能ですね。
いろいろお母さんとお話していて、お父さんのことに及ぶと、お母さんがどの位お父さんの性格の真髄をつかんでいらしたか、そしていとしく思い愛していらしたか、まざまざとわかり、私に二重にわかって(お父さんの良人としての魅力とでも云うべきものが、極めてデリケートな点ですが)自分の胸に潮のさし迫る感じです。一昨日や昨日、私のかわきは激しくて、胸のふたがとれてしまって、風がじかに吹くようで本当に苦しかった。そしてやきもちをやきました。自分で笑いながら、目に涙をためながら。
夕刻、お母さんお出かけのすこし前軍事郵便着。隆ちゃんです。四月二十六日出。無事○○に上陸、直に宿舎に入り風呂に入り今手紙を書いています。お母様は東京へ御一緒ですかと、あなたによろしくをつたえて居ります。夜は寒い由。隆ちゃんも支那大陸の広さにおどろきの第一印象を語って居るのは面白い。日用品何でもあり、やすい(内地より)支那人苦力が沢山いて色は真黒です等。短いけれどもよくわかるたよりで、二十一日に出立して二十六日手紙書ければ順調に行けたというわけで何よりでした。宛名は
北支派遣沼田部隊気付及川支隊江藤隊
です。こういう字を見ると、達ちゃんとはちがって手紙や小包、時間がかかりそうに思われますね。早速手紙書きましょう。お母さんも芝居にお出かけの前一安心でようございました。
林町の二人お送りしてかえって来ました。菊五郎の「藤娘」なかなか見事であった由。特に音曲がよかったと、お母さんは素養がおありになるから大満足。明朝そちらのかえり写真(一家で)とる手筈になりましたから、追って御目にかけましょう。目白の家だといいのですが、太郎がはしかのなおりかけで外出出来ないから。
宇野浩二が『読売』に、「この頃は作家が片っぱしから流行作家になる、わるい心がけだ」と云っている由。全文よまないからわかりませんが、それだけのことさえ云う作家がすくないから目につきます。久坂栄二郎「神聖家族」という劇、役所のスイセン劇になったそうです。こういう題はパロディーの題ですが、作者ぐるみというのはやはり独特でしょうね。月曜日は九日ね。十日におめにかかります。もう袷におなりになりましたか?

[自注15]奥の手のお望み――転向せよ、という母の希望。 
五月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月九日第三十六信
きょうの空は何と青いでしょう。その青空の下に青葉がいかにも爽やかです。ところがその青葉と青空との上に、王子あたりの見当に濛々(もうもう)と煙が立ちのぼっていて、まだ小爆発の音が折々して居ます。夏の白雲のような煙が北に当ってひろがって居ります。飛行機の音がします。つよい風です。
さて、御気分はいかがでしょう。先日うちから気にかかって居り、土曜日のときには実に懸念でした。様々の気くばりやら何やらで本当に御苦労さまでした。私も随分へたばったけれども、そちらは又独特と思われますから。どうか当分大いに悠々と御休養下さい。今は体の苦しいときです。そして気候も大してよくありませんし、手紙なんかどうかお気の向いたとき一筆下されば結構ですから。友人たちにはよくわかるように話しておきましたから、その方も何の心配もありません。お話の電報出しました。あなたの仰云った通りの文言の下にお名を入れ、つづけて「ゴアンチャクニテアンシンツカレオタイセツニユリコ」として出しました。「アンチャク・ゴコウイシャス」という電報がそちらからかえったら来て居りましたから。
お母さん、しんから御満足でおかえりになったのは何よりでした。誰の目にもその満足ぶりは明らかであったようです。あなたのお心づかいも決して無駄ではなかったから、うれしいと思います。かえりの汽車の窓で、顔を赤くして涙をこぼしてはハンケチで拭いていらっしゃるのを見たらお可哀そうでした。丁度すぐとなりの窓で出征軍人が盛に「死んでかえれとはげまされ」と歌われているので、猶々感傷であったのです。御一緒にどこかまで行けばと思いましたが、特急でそれは出来ませんでした。でもそれは半分はうれしい涙、満足していなければ溢れぬ涙でしたから、きっともう今日あたりは、さぞやさぞ陽明門や何かのお話で賑やかなことでしょう。私たちは相当大役を果した感じですね。
昨日は大森の奥さんと落ち合ったので一緒に家へ来て本の送り出しをやって、それから雨降りの中を大日本印刷まで出かけ(『改造』の)お話していたテーマでは困ること話し、文学についての感想十五枚ぐらい来月に書くことにきめてかえりました。そしたら栄さんや稲ちゃん、お母さん一日ぐらいおのばしになるだろうと思ったと云って来ました。惜しかった。皆の忙しい時期でしたから。二十六日―七日は。栄さん、お母さんにあげるつもりだったと、いいセルの前かけをもって来てくれていました。島田へ送る由。皆いろいろ心くばりしてくれます、そして、呉々もあなたにお大切にということでした。
去月十三日以来、しず心なかったから、こうして机に向うのもうれしい。うんと本がよみたい。お母さんのおかげで、体の工合もどの程度もつか、相当もつことが確められたのでうれしく、盲腸切ったこと、早ね早おきのこと、やはり大した効果と感じます。そして更に、しんから頭をつかうのでない疲れは、肉体にも何と一時的疲労としてしか及ぼさないかということもおどろかれました。足でのつかれ、のりものでのつかれ、グーと朝までねて馬鹿のような単純な頭で、ケロリとしてしまう。書いているときそのつかれ、緊張、全くそれとはちがいます。
これから当分火・金であるとすれば、こうしましょうではないの。朝おきたら一寸した手紙、毎日(行く日はのかして)書こうと思います。ほんの一筆でも。そしたらそれらは毎日順について挨拶を送り、御機嫌伺いをするでしょう。朝出かける癖になったから私も淋しいから。それから勉強にとりかかるということにして。
書くものの下ごしらえしつつ、前からのつづきの読書又はじめます。先ず手紙かき、それからその本よみ。それから別の仕事。そういう順序でやってゆきます。
『都』の文芸欄の「大波小波」時々面白いものがあり、きょうは翻訳について書いたものがありました。『キュリー夫人伝』その他なかなか売れるその売れかたを日本作家の作品の売れかたとくらべて見ると、日本作家のものが木を見ているに対し、森を見んと欲する人間の心から買われている。人類的な面でものをとりあげている点で買われている。云々と。翻訳賞というようなものがあってもよいと云うことを云っているのですが。
今日真面目な文学らしい文学を求める心が一般に動いている、それとも相通じるものですが。真の文学の要求のつよさそのものが、他面にその生れ出ずることの困難性を語ってもいるわけです。ゆうべも稲ちゃんとそんな話になり、ロマンとこの頃、長篇小説という字にルビつけている、そういうロマンしか存(あ)り得ない。そんな話が出ました。それに文化性の要求というものが、どんなに小市民風なものとけじめなくまざり込んでいるかという点についても。例えば、白いシーツをしいてねたいその位の人間らしい生活をしたい。だが、その一枚の白いシーツの感じかたで、忽ち本質は二通りになってしまう。その区別がなかなか人々の心の中でつきかねている。真の文化性とそうでないものとのちがいが、常に一つものの二つの面としてあるということ。それは又程度のちがった形で自分たちの生活の中にもある。そんなこと話しました。達ちゃんがピアノ習いはじめる由、その先生へ行ったかえりだと二人でよりました。学校へ行きはじめたら達ちゃんすっかり大人っぽくなっている。太郎も幼稚園に行ったら、随分しっかりしたところが出来たし面白い。私がピアノ習いはじめたのは十ぐらいのときね。はじめベビーオルガンで教則本やっていてあとでピアノを買って貰った。本郷切通しの青野という店で、旅順の落ちたときロシアの将校がおいて行ったものだそうで、古風な装飾の一杯ついた、銀色の燭台が左右についたそういうものでした、ドイツ製の。若かった父と小さい娘は或夕方それを楽器屋の店内で見て、大して大きいとも思わなかった。ところが、いよいよ家へ運び込まれて見ると、その黒光りの立派さ!黒光りの上に燦(きらめ)く大蝋燭(ろうそく)の美しさ。音のよさ!夢中になって、夜中まであらゆる出たらめを弾きつづけたことを思い出します。その頃は子供でも大人の教則本、それから練習用の『チェルニー』という本をつかいました。十二三でモツアルトのソナタを弾けば、その頃は大変珍しくて音楽の天分豊かなりと思われたものです。今では、教えかたがちがって、子供用の楽譜(オタマジャクシの大きいの)があり、小学三年から上野の音楽学校の幼児課へ通えます。それだけ水準がたかまって来て、音楽がしんの感覚に入って来ている、面白いことです。作曲だってもうじき、心から湧く音として描ける人も出るでしょう。そして現在の先行的作曲家が歴史的に見られるようになる時期もそう遠くはないでしょう。五十年も経てば。
五月四日づけのそちらのお手紙で、卯女ちゃんのこと、何か薬はあるまいかとのことですが、薬はないでしょうね。体質が神経質で不眠なのです。乳をのんで二時間ぐらい、普通の子供がぐっすり眠るとき目をあけたまんまボーとしていてうってもたたいても反応ない由。それが曲者の由。あとはすこし眠るとピクリとして泣き立てる由。医者にもよく相談しているし、牛乳もちゃんと調合されたものをのんでいて、今のところ薬というのもないのではないでしょうか。中野さんのところは全く大変です。夫婦が只さえ癇の高いところへそのわをかけた子供だから、うちじゅう三角の頂点につま立っているようです。よそから、ひとの入るすき間もないようです。気の毒だがどうも困ったものですね。親たちの大変な修行です。一つ心機一転したところをもってああいう子は抱擁的に見て行かなければ、今のように目っぱりこでとっくみ合っていたのではやり切れますまい。原さん、劇場の方のことも心にかかっているから余計おっ立て腰で目っぱりこになるのね。劇場で、もう給料は払えないと云って来た由。複雑な時代的なものがあります。いろいろの辛さ十分わかると思います。「原泉子を休ませる会」でお金が相当集った、そのことも今は却って原さんとすれば重荷となっているかもしれない。あれだけやったのだからと劇団内部の人々に印象づけてしまって、今日給料を払わないフリーランサーとしてしまうということも、マアああいう状態では仕方なかろうということになっては切ないでしょう。むずかしいものですね。時代は八方へ作用して居りますから。公私とも八方への目くばりがいる。質がどんどん変って行っていて、そのことでは文学の或ものの持続性とはおのずから異って居りますから。彼等に云わせれば、結局は芸の問題さと、いうでしょう。一面の事実ですが、そういうことで他の一面をずるくごまかしていることになるのでもあります。そして、そのごまかした点については自分自身へさえも、白ばっくれているというわけでしょう。
そちらへの夜具、奇麗なさっぱりした布買って縫わしにやっておいたら、かけ布団に裁ったと云って来た。大いにカンシャクを起して柳眉を逆立てました。玄人(くろうと)のくせに。早速直させます。
きょうは体の節々が痛いようです。
若葉のかげの白煙も大分、今は低くなりました。まだ低く漂って居ります、白く光って。
隆ちゃんの出るとき、芝生で皆でとった写真来ました。台紙に貼ってお目にかけます。隆ちゃんがあなたに似ているのに稲ちゃん、びっくりして居りました。
達ちゃんや隆ちゃんへの送るもの近日中に手配いたします。隆ちゃんへは支那語のやさしい便覧すぐ送りましょう。
土曜日、余り厚く着ていらっしゃるのですこしおどろき気味でした。寝汗おかきになってうすら冷たいの?どうぞどうぞお大切に。ピム、パムはあなたの左右からお対手に侍(はべ)りたいようです。御気分のいいとき、ゆっくりと森や丘や泉の散策もいいかもしれません。本当にお大事に。あなたが、着実に体をお養いになるよう私も着実な勉強をつづけますから。では又明朝。 
五月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月十日第三十七信
お早う。いかがなお目醒めですか。よく眠れましたか、私はぐっすり。体はまだ幾分きしむところがありますが。寝汗は出ませんでしたか。寝汗をかくと非常にだるいのだそうですね、背中がぬけるようなのだってね。寿江子の話です。きょうもいい天気らしい。
きのう二時間余つづいた青葉かげの白雲は板橋志村のセルロイド工場でした。志村はいつか手紙に書いた太古のタテ穴住居(穴居的)の遺跡の多いところです。見学したタテ穴の一つに火事の起ったらしいところがあって、そういう穴居人たちが火事でどんなにさわいだかいかにも興味深く感じて見たことも書きました。同じ地べたが、今日では同じ火事ながら大ちがいのわけですね。志村には東京で初めての女校長のいる小学校があります。江戸っ子でね、大層肥ったひとで賢い人ですが、この婦人は自分の経験と活動の方針について、自分一代はこれぞという大したことはしないように心がけている、由。女校長にこりさせない為の由です。初めてのがああだったと市の関係者や校長仲間の男らしさに抵触しないための心くばりです。代々幾人も女校長が出るためには、初代はそういう考えも必要なのね。間接ですがその話をきいてフームと思いました。アメリカなどだと、精一杯、男の同僚をしのぐだけの力量を発揮することが必要です、どういう部署にしろ。そうでないところなかなかの紆余曲折があります、特殊な。文学にだけはマアない。マアないと申すのは、やはりいろいろデリケイトであって、小説の場合と評論の場合とでは、どこか感情としてちがうところがありますから。そういう男らしさは文学の領域にも残存して居りますから。
九の日をすこし飛ばして貰うことについて徳さんにハガキ出したら返事が来て、お大事にということです。何か面白い翻訳をしているのですって。家は無事です、まずね、とあり。これもニュアンスのある表現です。うた子さん、劇務でつかれているのです。徳さんも就職のこといろいろ考えている様ですが、そう簡単にはありません。どこにでも口があるというのでは決してありませんから。誰でも欲しいのは一部分ですから。
『改造』へは、この間一寸一葉のことを書いたひきつづきの興味で明治開化期前後の女流作家の開化性(文学で金をとるようになった)と、文学作品そのものの内容の社会性とのいきさつについて、花圃や一葉やその他の人々のことを書いて見たいと思って居ります。楽しみなところがあります。明治文学史に一つもふれられていない点ですから。そして、このことは今日婦人作家のありようについてもいろいろ示唆するところがあり、些かはその点にもふれたい。それに、山田美妙とのいきさつによって自殺した田沢稲舟という婦人作家の社会からうけた儒教的な批判の性質、自然主義以前の馬琴的文学者の気分等も見てみたいと思います。一葉と桃水とのことにしろ、実に平凡です。一葉の若さ、教養の通俗性(それはひとりでに硯友社趣味に通じている)いろいろ考えさせます。その時代から野上彌生、俊子、千代と経て来た日本婦人作家の作品における世界のこと、生きかたのこと、やはり面白い。千代が、ああいう男性彷徨の後今日その文学性よりは元軍医総監とかいう父親の地位の方がより確実であるかに見える人を良人として納ったこと、やはり現代的です。今日は婦人作家が筆一本にかける自信をゆるがされている、経済的にもね。芸術的には勿論。文学にたずさわる名流夫人(今井邦子その他)の安固らしさにひかれる心持。一葉が若い生涯の晩年に到達した文学上の自信は、一歩あやまれば彼女の勝気さの故に到って卑俗な気位に近づく性質をもっていましたが、ああいう意気はお千代さんには決してない。男性彷徨の後、所謂風流な対手との生活に納まるのがこれまでであった、或は下らない対手と下らない市井生活にうずもれるのが(青鞜の諸氏のように)。今日は脂(あぶら)切って居りますから決してそんな素朴ではない。面白いところですね。筆にたより切るひとは、又それなりに双眼鏡を肩からかけたりいろいろの身すぎにいそがわしい。荒い浮世の波のうちかたを思わせます。
歴史的に見ると、若い花圃が洋服着て「男女交際」をして、兄の法事のお金が入用だと小説かいて、大変もてはやされたということも、どんな小説だったかと内容とてらし合わせて見れば随分面白い。これは但し図書館仕事ですが。
「風と共に去りぬ」いかがでしたか。お読みになりましたか。「ミケルアンジェロ」ついでのときお送り下さい。
片山敏彦(ロマン・ロランの研究者)が『都』に書いていた感想の最後は、今日求められているのは精神の建設であるとして、アランの「負いがたきを負うのが精神である」という文句をひき、ヨーロッパでリルケや何かが再びよまれているのもその点にあると云って居り、現象主義以上のものを熱望している感情は、今日の数多い心の要求を反映して居ます。しかし、リルケがゴールであるところ、そこね。何故人間の叡智とでも云うようなものは、いろんな袋小路やあいまいなかげやに、身をよせたがるのでしょうね。複雑極まっての単純な光の、透明な美しさは、透明すぎるのでしょうか。生理的にまだそういう未開さが細胞にあるかと思うようです、折々は。限度が小さくて、低くすぎる。自分をつきはなして見れば勿論その埒外にいると云えたものではありませんけれども。願望としても、ね。
こういういろんなことを考えると、勉強したくなりますね。
きょうは、夜新交響楽団の音楽をききに寿江子と出かけます。
寿江子も今気候の故ですこし工合わるがって居ります。近日中に又熱川にかえるつもりで居ます。栄さんのところでミシンかりてこれから着るものを縫って、そしてかえる由です。寿江子もお母さんとは気の合うところあり。お母さんは、おかえりになって一日二日と日が経つ毎になつかしさがまします。本当にいいところがおありになる。縁側のところで達ちゃんの嫁さんの話が出たらそれにつれて、お母さんは私の膝にお手をおいてね、「あなたは家事向のことを一切心配せんと、仕事をずっとやりとげなさいませ、それで結構」とおっしゃった。御自分もそれをよろこぶ心持でね。お母さんも勉強には興味もっていらっしゃる。御自分の血統の中にあるものとして尊重していらっしゃる、これはありがたいことね。東の窓から朝日がさし込んで背中の方が明るい部屋です。ベッドの白いシーツが朝日を爽やかにうけています。きょう一日御機嫌よく。
〔欄外に〕◎そちらに出かけると、マア二時間費します。その時間だけ書きます。お母さんも本当に「熱い女」のお一人ですね。なかなかようございます。 
五月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月十一日第三十八信
ひどい風ですね、そして大変むし暑いこと。よくお眠りになりましたか。珍しく私は夢を見て、大きい家畜小舎と奇麗な芝生と川村女学院を見ました。川村女学院というのは本当は、目白の大通りにあるのですが、その夢では林の間の芝生の横にありました。可笑しいこと。そして、亡くなった母がそこからうちへかえる途中、よその家の鶏小舎の屋根にのぼってそこから狭くるしい垣の間へおりて、垣をお尻の方からくぐって来るのを一心に待っていました。格子ががらりとあいて、鶏小舎の主人が出て来たのに、私が何か云っている、つまり、あやしい者ではないというようなことを。
昨日は、手紙かいてから本を七十頁近く読み、隆ちゃんやその他先日来たまっていたところへ手紙をいくつもかき、夜音楽をききました。日本で初演のが一つ、フリュートのコンチェルトが一つ、あとヴェトーヴェンの第三(エロイカ)。久しぶりで面白うございました。第一のは、楽器の使いかたとして玄人らしいこったところがあるらしいけれども、音楽として語り溢れるところがなく、頭で作られていて、大変面白いようで面白くないもの。文学にもあります、こういうのは。フリュートは日本の人としては相当にやりますが、体力が不足です。第一、第二、第三と楽章が進むと第三に入り、めっきりへばりが見え、ヨタつき、息を吸う音が耳につくようになる。なかなか大変なものですね。ピアノにしろ、すべての器楽と声楽と、いつもこの全く生理的な体力の粘りのよわさが感じられ、食物のことやいろいろを考えます。神経の緊張でかっと一時に出す力ならあるのでしょうが。
フリュートのコンチェルトなんかというものは、私が新響をききはじめてこの数年の間、今度で二度目ぐらいです。そんなにたまにしかやりません。前のときから見ると、吹き手も上達しました、幅が出て。
おおひどい風だこと。ガラス戸が鳴って、ゴーと風の音がします。こんな風の中にあれはプロペラの音でしょうか。オートバイではないようです、翔(と)べるものかしら。
夜かえって見たら、島田からお手紙が来ておりました。久しぶりであなたの優しい温顔に接し、親切にうちのこともいろいろ相談してくれたので、上京したらはずみがついて元気になったと云っておよこしになりました。ようございました。私が何度か島田に行っていて、こまごましたお母さんのお暮しの好みを知ったのも好都合でした。例えば、すのものをあっちでは実によくあがる習慣やお風呂のことや。お風呂にでも、芝居などすこし改った気分で出かけなさる前にはお風呂にお入りになりたいことなど。小さいことですが、やはりそのつぼが合うことは快適ですから。酢のもの、私はすっぱいから余り自分ではたべません。そんなこともね。今度は私もたんのうして居ります。あなたも随分御苦労様でしたが、その心持は同じでいらっしゃると思います。あなたにも手紙書くがとあり、二人の息子に上京日記をこまかく知らしてやりますともあり、若々しいお手紙でした。
いつぞや月給二百五十とかで赴任した人からも手紙が来ました。あっちには糧棧(リャンザン)という農作物の特殊な中間媒介業があって、いろんな点でお百姓の生活に深く入って居り、この高利貸風な商売人は統制のため、小さいのはつぶれ、大きいのは益〃強大化しているそうです。
私がシベリア鉄道での途中、一寸降りた長春の夜の町をぼんやり思い出しますが、今は特殊市という日本人だけの新設区があるのですって。住宅難で旅館暮し。勿論日本風。そこで臥起(ねおき)して、勤めに出て、勿論日本風、デパートに買物して、勿論日本風。お茶をのみに喫茶店に入って日本の女の人と喋って日本ダンサアとダンスでもすれば、ぴんからきりまで日本にいると大して変りませんそうです。一歩外へ出ればチンプンカンプン。満語のお稽古に着手の由。書籍定価の一割高。印刷費、名刺など倍。物価総体三割ぐらい高の由。支那街での支那料理とタバコだけやすい由。畳一枚五円―七円の家賃の由、それでもないそうです。
東京では十万戸の家が不足しているそうです。稲ちゃんたちの家がないわけですね。国ちゃんが離れをかす気になるわけですね、一畳1.50―2.00が今日の普通だそうです。離れ40で、借りてがおがむ由。おそろしいようなものです。尤も畳数にすればやすいわけですから、標準より。
寿夫さんも、専門の農業に腰を入れてとりかからざるを得なくなって結構です。科学的研究は未開拓だそうです。社会が複雑でしかもおくれた方法でやられているから。地方的に又民族的に、様々の微妙な錯綜があるそうです。
いつか「孤児マリイ」という小説御覧になりましたね、あの作者オオドゥウの「マリイの仕事場」というのが、又堀口さんの訳で出ました。
巻末に、「孤児マリイ」にふれて私の書いたブックレビューが長い全部のっけてある。孤児マリイの広告兼紹介の意味でしょう。これからよむところ。「光ほのか」よりはいいそうです、これはフランス語でよんだ網野菊さんの意見。「光ほのか」は、作者が所謂文学的に意識して、簡明に描き出せば十分面白いところを妙な心理描写、夢幻にしているから駄目でした。作家が、自分の持ち味を自覚しなければならず、しかも自覚された刹那既にそこからの脱皮が努められなければならないということは、容易でないことですね。常にそれは或螺旋形を描くものですから。短い直線で、あっちへぶつかりこっちへぶつかりというのではないから。根よく持続してしかもキリキリと巻き上らなければならない。主観のうちでは、精一杯ねじをしめて、巻き下げを試みることが、真の質的な巻き上りであるというところもありますし。
このこととくっつかないようで、私の心持では非常に何か関連のあることなのですが、お母さんが御上京になって、毎日手をつないで歩いて、私には初めて島田の家の人々というものの真髄が分ったところがあり、それはやはりこの世における一つの愛すべきものの発見で、ありがたいと思うところがあるのです。父上はじめ皆に共通である真率さ。あれは島田の宝です。いつかのお手紙で、お母さんから父上のお話もよく承るようにと仰云っていましたが、話は相当伺いました。箇々の場合の、ね。でも、それを一貫した気風とでも云うようなもの、精髄的なもの、つまりテーマは今度の略(ほぼ)一ヵ月の間にしっかりと私の感情の上に映され、それを愛すようになり、テーマとして懐姙したわけです。こういう過程は微妙ですね。そしてやっぱり、精一杯の接触をしなければ生じないところ、おろそかならぬものと思われます。私は何年か前から、謂わば大層遠大な志の上に立って島田にはあなたもこうなさるに違いないと思うよう、細々と心をつかって来ましたが、それは、今日の理解や共感に到達するための段階のようなものでもありました。これは、現実的には、お互いっこの効果をもたらしているわけですが。お母さんの側としても、やはり、その段々がおいりになったのですけれども。
ひどい波瀾の世俗の波をかぶりつつ、一家が今日に到って見れば一つも暗くなく、歪んでいず、在り得るのは、結局皆がちっとも斜(はす)っかいになったところのない心持でそれを生き通して来ているからであり、精悍なそしてやさしい美しさがあります。あなたがうちの人たちについて、やさしく常にお考えになるわけね。お父さんとお母さんとについて、変らざるねぎらいをお持ちになっているわけですね、実にわかりました。島田の人々を益〃わかることで、深く気の合うところがあることで、私のましなところが豊かにされてゆく、そういう人間関係はありがたいことね。
隆ちゃんと皆がとった写真、この手紙と同時にお送りいたします。裏へ「弟隆治渡支記念写真」と書きましたから、どうぞ。左のひとは今何という名か一寸思い出せない。あの島田のうちのとなりの馬車をひいている物知り癖のひとの息子さんという人です。横になっていらっしゃるのに、さっぱりしない気温でよくないこと。風の音をきいていらっしゃる、眼が見えます。 
五月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
梅雨のさきぶれのようなお天気です。御気分いかがでしょう。夜着只今出来て来ました。十九日の金曜日に持って参りますから、どうかそちらの方そのようお手配下さい。
私のくたびれ大分直りましたから御安心下さい。手紙は別に。   五月十四日 
五月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月十三日第三十九信
大分降ったら空気がかわって楽になりました、すこしつめたくもなって。御気分いかが?きょうのような日は横になっていらしてもしのぎよいでしょうね。すこしずって頂きたいんだけれども。よくて?窮屈かしら。
さて、静かな声で、ゆっくり私たちは話しましょうね。
きのう一寸お話の出た、お母さんの特別土産の御注文のこと。すぐ私が思いつきませんでした、その程度であったのです、うちでのお話でも。それはもとより珍しく東京に出ていらっしゃるのですから、もしやという希望も万更(まんざら)もたないわけではおありなさらなかったでしょうし、もってかえれるものならば、というぼんやりした願いだっておありになったでしょうが、それが目的とはっきりしていたのではなかったし、それぬきで十二分の御満足です。お手紙もよくそのお気持を現して居ります。それだけ御満足の行くように、又つとめもしたのですもの。だからあなたの此上の御心くばりはいりません。安心なすって大丈夫です。東京迄行ったのにというようなお気持は決して決してありません。やっぱり行ってよかった、元気が出た、そういうありさまですから。
きっと島田からのお手紙がついて今頃は同じことがおわかりになっていると思います。
きのうと今日で「マリイの仕事場」を読み終りました。なかなか面白いし落着いた作品です。パリの女仕立屋の生涯と縫女の様々な生きかたと雰囲気とが、女仕立屋という仕事のひどさと一緒によく描かれて居ます。「光ほのか」これは最後の作らしいが、それよりずっとようございます。しかし訳者はこの小説をいました、でした調で書いて居り、仰云いましたと迄は行かないが、云われましたという風な敬語をつかって、マリイの人柄を出そうとしています。すこしこれが疑問です。甘いと思われる。含蓄というようなものは、人柄の篤さというようなものは、そういう云いまわしにはないと思われますし、原文に敬語がつかわれていたとも思われません。
女のやさしさ、或は心やさしい人というものを、敬語のつかい方で現わそうとするところ、何か今日の雰囲気と合わせて却って俗っぽい。女のひとの作品が、文化のより高い方へという意味で評価されるのではなくて、よりつみがないというようなところより文学専心というような面で見られている現在のありようとも、対応している訳者のジャーナリスティックな神経があるようで。
この小説は、パリのありふれた町のどこかを思い出させます。歩道に向って、下は雑貨屋というようなひろいガラス窓の店。その二階か三階かの羽目に、横長く黒地で金文字の何々裁縫店という看板が出ている。のぼってゆく階段は、下の店の入口とは別の横についていてね。歩道の向う側から見ると、型人形が立っていたり、ミシンを踏んでいる女の肩から上のところが見えたり。二三軒先に小さいカフエがあって、鉄脚の白い小テーブルと碧(みどり)と黄とでぬった小椅子が往来に出ているというような街すじ。歩道には新聞紙の屑が落ちてもいる。木曜日とか金曜日とかに市が立って、女の魚売りがゴム引布の大前掛をかけ、肱までのブラウスで、片手を腰に当て、片手をのばして大きくひらいたり握ってふったりしながら、ケンカのようないい威勢であきないしている。そんなような街。
アパートにしろ、パリの古いアパートは階段が暗くて狭くてぐるぐるまわっていて、何百年前に建ったときから日の目は見なかったというのがどっさりあります。
ソルボンヌのそばあたりには古い建物が非常に多くて、その便所が、水洗には改良されているが、コンクリートの踏石(レンガ位の大さ)が左右にあって、あとは流し口のついた凹みだけというのを見たことがありました。随分びっくりしたのを思い出す。パリの真中の、こういう長い長い歴史。コウカサスの山の中でやっぱりこれと同じ仕組みのを見ました。但こっちのは絶壁に向ったさしかけにこしらえられていて、こわかった。
親たちはペリエール並木道というところのアパートに滞在していてね、そこは、地下電車が真中を通っているが、その上は公園のような植込みになっていて、電車も車道もなく、従って道幅は大変ひろい。向う側のカフエの赤と白との日覆と青塗の植木の鉢とがやっと見えるような街でした。そこの表通りに面した五階か三階でした。台処の通用口は玄関とまるで関係なく建物の横手から全階に通じていて、雇人たちの住むのは建物の頂上の半屋根うらの一階ときまっている。(雇人なんかうちの連中にはなかったけれども)
日本の御飯を母がたべたがって折々私が台処をしました。カロリン米をたいて青豆を入れたりして。
そのアパートに近藤柏次郎という人がいました。どんな生活をしているのか分らなかったが、ピアノの名手であったそうです。この人は母堂が急死したら、家産を親戚に横領され、急に帰って来たが、その状態がわかったら、お嫁貰ったりしたのに芸者と死んでしまいました。ピアノで立派に生活出来たのに。パリパリで、妙になってしまったのでしょう。こういう、文化の素朴な伝統の中から、ああいう底なしの壺にうちこまれると、キリキリまいをしているうちに、ズルズルと沈んでゆく。非常にそういう例は多うございますね。多様さや外面の豊富さに目がくらんで、ちっとも評価がないから。そのよりどころがないから。学んで来るには、先ず、何が学ぶべきものであるかを見きわめなければなりませんものね。
――○――
うちに雨もりがします。風呂場と四畳半。これはきっとうちで屋根やでも呼ばなければ改良されないかもしれない、もう二度も大家さんの屋根やが来たのですが、瓦を買わないのよ、だから不足の分があってそのままだから、いつも洩るのです。家賃をあげない。そのことをじっと腹にあるにちがいないから、きっとなかなか屋根や呼ばないでしょう。
――○――
これから、一つの交友録をかきます。半島の人々との交友録。誰という人を中心としてかくことは出来ません。昔知っていた詩をかく龍済さんにしろ、今はどうなっているやら、あっちへかえるときから妙なこと云っていたから。特に半島の人々との交友という点に着目したりするところに或不自然があると思います。そんなことを書こうと思います。
それを書いたら本読み。もう少々で第一巻終り。分業というようなことでも大ざっぱに考えているだけであったのに、いろいろわかり面白うございます。それに又文学的と笑われるかもしれないが、この本の構成の立派さが実に屡〃感歎をひきおこします。文学作品の構成というものは、つきつめると、一人の作者が、その現実の諸関係をどう見ているかということの反映であることが、こういう違った例で一層確められます。その展開の方法、掘り下げの方法、そして又再び発展してゆく動的な思索。偉いものですね。一口に云えない美しさ畏(おそろ)しさがあります。分業についてもプラトーンなどが「人が才能に応じて、適当の時期に、他の仕事に妨げられることなく一つの仕事だけをすれば、一切のものはより豊富に美しくつくられる」という点について肯定しているのと、科学として存在しはじめたばかりの経済学が、当時の分業の性質の上に立って、どこまでも量と交換の場合の価値からだけ問題を見たということ。いろいろ面白い。プラトーンなどが、作られるものの、質のより優良という点からだけ分業の価値を見たこととの対比が。昔々、プラトーンの「リパブリック」など哲学としてよんだ時代からぼんやり盲目窓のように立っていたものが、こういう現実的な光りでパッと開いたような面白さ。
五月十五日
家のぐるりの若葉の緑が一層濃さをましました。同じこの界隈でも、私たちのこの一隅は特別に木立が多くて新緑の美しいのは目っけものです。
平林彪吾という名でものを書いていた松元実が先日急になくなりました。何かの中毒から。
きのうは、おきまりの読書も七十頁ほどやり、又、別の小説一冊よみ。一日読み暮し。小説というのは上田広の「建設戦記」というので、これまでのものとちがって、鉄道部隊の活動に即して何日間かの経験を書いたものです。汽車という一つのものが中心となっているところ、おのずから他の場合の小説を思いおこさせました。そして、様々の危急や苦難に対して、肉体と精神の力をつくしてそれを克服してゆく努力そのものの姿。それはそれだけとして見れば最善のモーティヴによる生命力の発揮の場合やはりそうであるから、深い感想をさそい、一片の感傷ならぬ永い哀れを感じさせました。いつぞやの書簡集(新書の)あの読後感に相通じます。作者はいろんな小説を読んで来ている人ですが、これを書きつつ、それらをどう思い出し思いくらべていたかと考えると、分らないところがのこります。作者の内面のありようについて、ね。そこに、文学の本質的なテーマがあるのだが。そこからさす光はない。
疲れ幾分ようございますか?よくお眠りになるでしょうか。可笑しい夢を見て、東京市内遊覧でモスクワの博物館の前を通ってこんなに雑作なく遊覧なら来られるのにと思って自分をのせているパリの自動車運転手の黒い皮の丸帽を眺めました。思い出していたことがこんがらかったのね、可笑しいこと。まだやっと月曜日。どうか呉々もお大切に。 
五月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月十六日第三十九信
きょうは珍しい小一時間をすごしました。庭で土いじりをして。きのう、栄さんのところへ一寸行って、東中野のところで萩を三株買って来ました、六七寸の芽の出たのを。白二本赤一本と。それを一昨年朝顔をからました濡縁の柱の横に植え、去年栄さんが上落合の記念と云って、元の家の門の入口にあった大きいアカーシアの樹の実が落ちて自然に生えた芽をくれた、それを鉢からおろして戸袋の前の日当りのよいところにうつし、そうしているうちにひさも出て来て、久しゅうほっぽりぱなしになっていた空の植木鉢のゴタゴタを片づけたり、ポチがこしらえた縁下の穴をうずめて平らにしたり、のめり出して芽立っている青木の枝をとりまとめたり。何と珍しいでしょう。大分きれいになりました。が、つくづく眺めて嘆じて曰く「よくよくつまらない庭だねえ。」情緒のない庭です。大家さんの気質が反映して居り、庭をいじったりしている暇のない私たちの生活も現れている。何とかもうすこし、奥ゆきをつけたいものだと眺めました。
私にもしそんな暇や金があれば楓の多い、小径のある庭をつくります。芝生に灌木の茂みがあって、その下に並んでねころぶによい静かなかげをつくります。冬になると、濃い濃い紅梅がチラリチラリと咲き出せば申し分はありません。ずっと昔、エチオピアに、今ロンドンにいる王が暮していた時分、日本人のクックが行っていて、その話に、エチオピアでは人のたけほどの紫の菖蒲が咲くのですって。その紫の花が咲き連っている間を、色の黒い高貴な面立ちの王が、黄金色の日傘をさして散歩されるのは、美しい眺めだったと話していたのを憶い出します。さぞ、と思われますね。その王様の娘さんはロンドンの或病院で看護婦として働いていられます。王妃はこの間、大層悲しそうにハンカチーフを手にしてロンドンから去ってどこかへ行きました。
栄さんの庭には、どくだみをいくらむしっても生える由。鶴さんたちの庭は変化なくこの頃は鳥かごの並ぶこと十三。『中公』から評論集が出る、その目次と原稿の一部を渡さねばならない、髭をそらなければならない、シャボンの泡をなすりつけながらお金とりに来た鳥やの爺さんを長火鉢の前に据えて、「ホーからケキョまでが短いね」と云っている。鶯のこと。「通せばいいと思うんですがね」「通すって何のことです」と私がきく。とやにつく六月―九月をしのげばよい、という意味とのこと。ほー。マアそんな工合です。中野さんのところの庭には、西洋間の前に藤棚があったのが去年の二百十日でふっとんで、それでもさすがは世田ヶ谷ですから牡丹だの何だのと名のつく芽があって、南一杯日もさす。手っちゃんのところはいい大きい沈丁花もあり、木蓮もあり、百合その他季節の花が植っているが、どうも植っているというのに止っている様子です。
御気分はいかが?この頃は皆体の工合よくないと云っています。
十七日
きのうは、午後から評論家協会の催しで、駐日弁事処長とかいう仕事をしている人で趙滉という人の芸術に現れた日支民族性という話をききに出かけました。所謂士大夫の教養としての文化、古典的文化、支那趣味として日本の諸賢に接触されている範囲の支那文化の特長と日本の文化の特長を対比的に話し、「芸術というものは決して大衆に判るもんじゃありませんよ」(日本語でこの通りに)と云われる考えでの話ですが、特質の或対比は、はっきりつかんでいてなかなか面白かった。支那の芸術は、すべて要素の複雑さ豊富さの融合渾然を愛し、総合的関係の間に生じる調和を愛すが、日本の人は簡素を愛し、一目瞭然を愛し、何にでも中心を見つけたがる。支那人にそれはない。茶も華も支那から来たものだが、それが日本に来ると茶道となり華道となる。道(ドー)がすき。そして形式化し、例えば茶道で茶わんを評価するのに五つの要点があってどうでもそれにかなわなければならない。本家の支那にそれがない。こまかい、いろいろのこと、面白かった。底の深さが。只古典的見地の基準で対比されているだけの話ですが。非常に内包するものの大さを感銘しました。そういう座談会で、日本の大家は、盆栽(ぼんさい)はどこが本家でしょうという問いを出し、人間生活には偶然ちがった場所で同じようなことが始められることはよくあって、そういう場合は、文献によるというが、文献が早く出来たところが本家というようになるので、云々。その問いも答えもやっぱり性格的で、なかなか見ものでした。この人の話は清朝どまりです。下村海南という御老人の老いても益(ますます)なるジャーナリストとしての注意力のあらわれ方を興味をもって眺めました。何か一寸した漫談随筆のトピックとなるような箇有名詞や画論など、或は書の筆法のことなどは、チャント万年筆出してノート出して書きつけている。やがて居睡り。「ところで支那の料理を例にひきますと、例えばフカのひれの料理」と云ったら、パッとして又ノートをとりあげました。実に面白いわね。パッとさせるコツを実によくつかんでいる。日本に永くいた人の由。日本の或種の人々の支那趣味というようなものをよくつかんでいる。実業家との接触が多いからですね。皮肉につかんでいます。
今、てっちゃんがよってくれました。呉々よろしくと。そしていつ頃行ったらよいかと。金曜日に伺いましょうね。石川千代松の本を面白くよんだ由。そうでしょう。勝海舟とこの人の父とは友達であり晩年の海舟は知っていた由。別の話ですが、明治文学について宮島新三郎さんの書いた本を一寸見たら、明治七年に日本で殆どはじめて明六社雑誌というのが出て、その同人に西周、加藤弘之、森有礼その他のうち、西村茂樹が加って居るのを見て面白く思いました。てっちゃんのお祖父さんという学者が佐倉藩に身をよせたとき、やはりこの茂樹がいろいろ世話をした由。孫が目白で顔をつき合わしてホウと云っているとは、いかな先生たちでも思い及ばぬところでしたろう。茂樹という人の顔は知りません。祖母の話で、女の繻珍(シチン)の丸帯をほどいて洋服のズボンにして着たとか、英語の字引を祖母も手つだって手写したとか、小判を腰につけて堀田の使いで不忍池の畔を歩いていたら、女の体では足が一歩一歩やっと出すような重さであったとか、土蔵にこもって上野の山の鉄砲の玉をさけていたら窓から流弾が入って、一人息子の一彰の背中にとまって、それを母である祖母がぬいてやったとか、いろいろの話。
おきまりの読書、その中で、南北戦争がイギリスの木綿製造の機械を改良させた速力のおそろしい勢であることが書かれて居ります。「風と共に」の作者はそういうことをどのように知っているでしょう。アメリカが一九二九年の恐慌から後、ヨーロッパ大戦以後持続していた繁昌を失って、文化の面でもその影響はつよく、人々は(アメリカの)失われた繁昌、くみかえられてゆく社会層の現実をまざまざと見せられるような作品をすきになれない(そういう意味ではセンチメンタリストであり、甘やかされた子供であるから)。そのためにアメリカ文学の現状は、現在のありように切りこんだ作品よりもミッチェルのような古い伝統の手法で、ごくあり来りの題材を描いたものが売れる。これは『文芸』に出ていたアメリカ人の評ですが、なかなか語るところをもって居ると思われます。
「我が家の楽園」というアメリカのアカデミー賞をもらった映画が日本にも来ています。原名はYoucannottakeitwithyouで、金のことです。事業事業でやって来た男と、植物学をやっていたい息子、一種の変りもので切手を集めてその鑑定でくっている老人、その孫のタイピスト、いきさつは、人生の楽しさは金にはないということを云っているのですが、日本に来ると、これが優秀作かと思われる。死んで持って行かれやしまいし、と金について考える考えかたは日本に行きわたっているし、日本の観衆にとって大したことなく思えるこの作品も、きっとそういうアメリカでは、アメリカ的楽天性に入ったヒビに対する膏薬なのでしょうね。金貨ジャラジャラやって哄笑していた顔が、ペソスのある笑いの漂う口元になる、その道しるべとでも云うのでしょうか。
十八日
『婦人公論』の短いものを書いているところへ電報。書くことにふれて自分たちの生活を考えていたところへ。短い用事の文言ながら、何と生々しい声の響が感じられるでしょう。くりかえし、くりかえし。手から離れず。
短い時間で書き終ると思っていたら、何だか、書くことから心が遙か溢れてしまって。
ペンクラブで、ポーランドから来た人の招待会があります、六時から。
十九日
今日を待って待っていて、こちらでは大変番号がとぶのを気にして居り、その気持でお顔みたら気分わるそうで、何だかいろいろなものが一時に重ったような気分でした。お大切に。どうかおたいせつに。三十日ごろにはきっと大分ましにおなりになるに相異ありません。ね、私は自分のこの心配を現しようがないからね、毎日を猶一生懸命に暮そうと思います。書く仕事としては『婦公』と『改造』と『三田新聞』とほかに一つ。『婦公』は座談会が二十日にあり、それと二つになる。どれもこまごましてはいますが。『文芸春秋』の六月に、小説代りにと一寸した感想のっています。
きょうはあれからすぐ東京堂へまわりました。ヘラルド社の本は和英対訳で、部分訳であり、元出た本のように只訳したのではなくて、もっと本の筆者の側から紹介したり何かしている本です。金原書店その他の医学書は一つもなし。南江堂へすぐたのみました。
それから文房堂へよったら、店員がすぐ「もうヒンクスウェルスはなくなりました」と。例のペンのことです。「もう?」とおどろきました。バタもなくなるに近い程度に減る由。これは組合の話。ここへは、私の女学校時代の先生だった夫人のお嬢さんが結婚するについてのお祝をさがしに。梅原龍三郎のバラの複写。あたりさわりなく華やかなところもあり、それを縁ごと買って届けて貰い、おひるたべてからそれを持参。
かえったら南江堂から本が届きましたが、全部は揃わず。産業医学のは品切れ、半月程のうちに出来ます由。金原のは二十、九十五となくて、これは二三日中に持って来ます。そしたらすぐお届けいたします。
これらの本、それから座談会の用意のためによんだ本、いろいろ深い感想を湧かせて居ります。体の事情がいろいろの段階を通り、それが一つとして単な反覆ではない通り、心配という、こういう心持もやはり、今日のように新しい経験にふれて行くのは微妙です。(この心持は又いつか)どうかお元気で。代筆でも代弁でも辛棒しますから。そちらへ行かないからと云って、私がのーのーと宵いっぱりして、のーのーと朝ねしていられないこと分ったことではあっても、でも又表かきましょうね。私は一つもあなたに心配をかけたくないの、ですから。頁のことも。特別土産のこと(お母さんの)伺ってようございました。
ああ、それから達ちゃん隆ちゃん、其々新しいポケット型の支那便覧をつけて送りましたから。 
五月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十日第四十信
ふと思い出したのですが、枕ね、やっぱり元のをつかっていらっしゃるのでしょう、ようございますか?空気枕は、やはり空気をすこし入れて、何かの上において使わないとポンポンして落着きませんでしょうね。
ゴムがなくて、これから出来るのはこわれやすいから一つ買っておこうと思います、いずれ御入用でしょうから。
うちの母方の従妹で、和歌をやり、ラグーザお玉さんの大ひいきである古田中[自注16]という奥さんの息子、だから私の又いとこ、が八日に赤坂に入営しました。召集です。挨拶が来ました。その家は男の子三人、女の子一人。男の子の最初です。すこしこちらにいて、出かける由です。
二十一日
さて、昨夕は数寄屋橋外のニューグランドで『婦人公論』が一つの座談会をやりました。岡山に国立の癩療院があって、そこの院長光田という先生は、日本で明治三十年代に初めて癩の国家施設をつくったその当時からの専門家であり、四十五年間の努力をつくしている方。もう一人は昭和に入ってから大学を出て博士をとって熊本の同様のところで活動している林という少壮。その二人を主として、大谷藤子(作家)平井恒子(婦人運動の方?)私とがきき役で、いろいろの話をきいたわけです。光田さんは歴史そのものであるから話は尽きない。大変面白うございました。或点から私たち外部のものに語られない面の多くあることも判りましたが、しかし、一つ深く感銘したことは、『婦公』の思惑では、小川正子の「小島の春」が出たりして一般の関心がたかまっているから、かくれた婦人の献身者の話などきき、女のサアという声を発しさせようというところにあった。ところが光田さんにしろ林さんにしろ、特に老年の光田さんという人の心持は、スケールが大きくて、そういうこせついた一箇人箇人の一寸した插話というような網にかかって来ないのです。だから結果として実話的なものからは遠くなったのですが、私はしみじみその点敬服しました。その人は救癩と減癩そのことについてなら、いくらでも話します。しかし自身のこと、又箇人のこと、決してヒロイックに語らない。クリスチャンですが。本気でそれにかかっている人の没我、それはあながちクリスチャンだから謙遜だというようなものでもないのです。私には他の例で実にそういう没我の確乎性を実感せしめられているわけですから、その人の内面のありようが血液の流れの幅として感得されました。そういう意味で愉快でした。クリスチャン・ドクターですね、しかし話の間にそういうものが根本に作用しているという風には決して話さない。そういうところにも永い経験の結果があらわれているわけでしょう。病理から入ったのだそうです。病理解剖から。二十年後日本は無癩としたいという目標の由。広東省辺に非常に多い由。インドにも多いよし。伝染だから隔離がなければひろがります。光田氏反応と云って菌を一遍煮たのを注射すると、ひどく腫れてうんで菌を押し出す作用が健康人にはある、それを注射してふくれないのは、見たところ何ともなくてもあぶない、保菌ということになる由。これが経験せられてから、病の有無などの鑑別に世界的貢献をしている由。そういうことはともかく(読んでわかることですが)あの光田という人の話しかた、生きかたとジャーナリズムというものの対比は実に感銘深かった。一事をなしとげるとはどういうことかということを示していてね。日本全体で三万足らずの患者の由(台湾、朝鮮のことは出ませんでした、そう云えば。貰った表にもなかったと思う)。
一寸別の話ですが、北條民雄が川端氏に推されて小説など発表するようになったら、癩文学というような語がつくられたことに北條は非常に不満を示しています。生理的の病気で文学の性質をわける、特殊に見る愚劣さについて。これは、かねがね私が北條の文学で川端さんが命の力をやたら感歎することについて、ある憤りさえ感じていたのと、或る共通をもちます、逆な方向から。私はあの当時よくそう思った。そこらの文士どもは、何と日頃命の緊張その意味、それを持ち又すてることの人間性の内容を感じることなくいるのだろう。ああいう特殊な病との闘いの形でだけそれを見たように思っておどろく、何の精神ぞや、と思っていた。何と動物的に無自覚に命をもっているのだろう(そういう病でハッとするのだって、動物性から大いに作用している。トルストイのイワン・イリイッチの描写を見れば彼の方が遙かに鋭い。トルストイは動物性を自分の人間としての日夜の中にはっきり自覚していたのだから。彼の解釈と批評の当否は又次の問題として)。
きのうは出かける前、人生のフェア・プレイのことについて短いもの『婦公』にかきました。
二十二日
きのうは何という風でしたろう。大森や芝に大火事がありました。あの風の中を、昼から帝大の医学博物館見物にゆきました。案内してくれる人があって。
もと、いろいろなところにちらばって置いてあったもの(法医学教室や何かに)を、赤門の銀杏並木をずっと入った正面つき当り、藤棚(池の上)の右手に新しく出来た法医、病理、解剖などの教室の三階全部にまとめたもの。この間荒木文相が帝大に行ったので、そのためにもいそいで並べた由。珍しいし、いろいろ面白く、四ヵ月の胎児の骨格というのを見て感動しました。それは実に小さくてね、而もまるで精緻な象牙細工のように、細かく細かく全部の骨格がすっかり出来ているのです。肋骨にしろ、肢の指の尖(さき)まで、骨ぐみは妻楊子のようであるが出来ているのです。その小さい小さいものがそれだけ完備しているのさえおどろくのに、この小さいものが、全体で、ずーっと大きいものに迄成長するというのは、何と感服するでしょう。命の力の含蓄の深さ。ね。私ぐらい複雑な感動で見たものはなかったでしょう、心からのgoodwishesを自癒力にかけつつ。寿江子も行ったので林町にまわり夕飯をたべ、国ちゃん珍しく送って来てくれました。呉々よろしくを申しました。アボチンからも、アッコオバチャンのオジチャンに「よろしくって云ってね」の由。太郎この頃お弁当もちです。二十四日に生れてはじめての遠足に日吉台へ行って苺とる由。咲のおぽんぽ大分雄大です。太郎「赤(アカ)こちゃんの顔が早く見たいや」と云って居ります。太郎がいい子でお兄ちゃんになれそうならいまに赤こちゃんをくれるという話です。鴻の鳥なんかという面倒はないので自然で結構です。「オレ御用のときは赤こちゃんおいていくんだよ」と自分が御用で絶体窮命したことを思い出しているから大いに笑いました。
『三田新聞』に今日の風俗というものについて六枚かき。『中央公論』の嶋中社長が二十万円出し、あと年五万円ずつの費用で財団法人国民学術協会が生れました。現在の顔ぶれは学界、思想界、文学界の権威二十五名で、文学の側からは正宗、藤村二人で桑木、三木、西田。小倉金之助、石原純。津田左右吉、穂積、和辻、如是閑、小泉信三、阿部賢一、末弘、杉森、笠、松本蒸治、東畑精一等の諸氏。会員は四十名を限定する由。又洋書の欠を補う「西洋事情研究会」というのが出来、これは独伊を中心の由。又国語協会主催で子供読物懇談会というのがあったとき、皆小さい活字やルビの害を一掃しようとしたら吉屋信子が、「私を小説家にしてくれたのはルビのおかげです」と反対論をとなえ、大いにわき立って、二日でも三日でも議論しようという人が出て、女史は「いずれ文章で」と会場を退去したというようなこともあった様子です。何だか笑ってしまった。女史はいつか小林秀雄が日日の会で、当時『日日』にかいていた女史がいるのに、「吉屋さんの小説なんてなっていない」と云ったまではよかったが、いきなり立って、「サアどこがなっていない」とつめよられ、あとグーとなってその大芝居は女史の勝だったということあり、その例を反覆したのでしょうが、今度の対手は、性質のちがう人々だったので気合いが通らず。ああいう人々の経験主義が露骨に出ている。
ひさ、追々かえる時が近づくので、代りにたのんであった友達とはっきりした話したところ、どうもグラグラで駄目。先方の奥さんにうらまれることがあっては私も閉口故、やめと決定しました。改めて、誰か一緒に暮す人を考え中です。映画批評をやっていた筧さんという人が結婚して一年ほどで死なれ、その細君、赤ちゃんつれて今筧さんの親のところに(日本橋辺)います。細君は戸塚の家に暮していたことのあるひと、一緒に。もしかその人が来てもよいことになれば、うちに子供もいていいかもしれません。今日稲ちゃんに相談いたします。女中さんとしてではなく。一緒にいてくれる人として。
お工合はいかがでしょう。私は落付いて一生懸命に勉強していればよい、そう思って居ります。これから又本読み。勉強しながら、時々そーっとわきを見たいような心持になります、そして、どうお?とききたく。大変、かけるものの工合などなおしたいと思います。今はもう夜ですから、夜の仕度にすっかり着物のしわなどもなおしてあげて、ね。目をつぶっても明るさが頭の中までとおる感じのとき、畳んだハンカチーフを目の上におくと平安ですね。

[自注16]古田中――古田中孝子。百合子の母の従妹。文学・美術・演劇を愛好した。重症の糖尿病で永年患い、一九四一年十二月死去。 
五月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十五日第四十一信
又ひとしきり雨が降って来ました。さっきそちらの部屋に切り花が届いた刻限。芍薬(しゃくやく)ですか?今朝夜着をもって行ってね、余っぽどお目にかかろうかと思いましたが、折角三十日とプランを立ててしずかにしていらっしゃるところを急にガタつかせてはわるいと思って辛棒。お工合どうでしょうか。どうか悠々と御養生願います。きのう『朝日』に公判の日どり七月十一日より火木土と書かれて居りましたが、それらのことはいずれ三十日におめにかかって。
私の方、大体相変らず。一寸眠り工合が妙になって居ますが、勿論大したことなし。気にせずあたり前にしています。
一昨日は、『政界往来』というのに何か書くのに、中條政恒という祖父のことを一寸かきました。西村の方は、会があったり自分で書いたりしていろいろのこっているけれども、東北の藩の出で、明治の初めは所謂羽ぶりのよくなかった方の小さい役人で、一生開墾事業に熱中して死んだおじいさんのこと。二人の祖父に、明治へのうつり代りが両面を映していて面白く思われます。西村の方は大礼服の写真。こちらの方は、フロックコート。そういう違い。細君の性格、子供の暮しそれぞれ全くちがいます。やや共通であったらしいのは、どっちの家でも曾祖母という人がしっかりものであった点。私は二人とも顔を知らず、いずれもおばあさんからの話が主です。おばあさんという人は、二人とも風流味がなかった。西村の方は家は茶の家の由。それでも祖母という人は低い現実家で、子供の愛情でも鼻先三寸の方で、老後はそのために幸福とは云えなかった人です。私なんかにでも「百合子さん何々おしかい」という風でね。中條のおばあさんは、貧しい武家暮しの間で風流を覚えるひまなく紋付の裾はしおりで台所働きをしつづけた人です。田舎の言葉で「百合子、お前のおっかさんの手紙は、ハアうますぎてよめねえごんだ」と訴えた人。西村の方は、明六社雑誌同人中では一番保守でした。
きのうは、書くものの下こねをしていたら電報。ユーソーとあるのでいろいろ考え、自分で持って行くまいかと思いましたが、夜床に入ってからもどうもカヴーのことが気にかかるので、自分でゆくことに決め。このまま着られになったら、本当にどんなにさっぱりなさるでしょう。ああさっぱりしていい、いい、と云ってどっさりのボタンつけ終った。半身だけボタンとめて、あと半身は、わざとはずして、見られるようにしておきましたが。面倒でもおつけにならなければ、ね、自分で。一つ一つボタンつけていたら、あなたのホクロのこと思い出しました。そして一つ一つつけてはその上に、挨拶のパットを与えました。言葉にならないいろんな物語をしながら。夜具など運ぶとき晴天だとうれしいけれど、天気がわるいと悲しいわね。折角大切に日に乾してふくらがして、ポンポンのをあげたいのにね。てっちゃん、水曜日だったので様子をききによってくれました。呉々もよろしくと。
昨夕は新響の音楽会だったけれども行かず。前晩余りよく眠らなかったから。早くねたのに、余り好成績でなくて、けさ渋い目をしておきて、夜着をもってゆき、かえりに家の角迄来たら、ぶつかりそうになって隆二さんの一番下の弟さん、駒場出た人に会いました。何年ぶりかで。うちへ来たのだとばっかり思ったら『婦人之友』へゆくところの由。かえりによることにして。台湾の兄さんも出京していられたそうです。
畜産の話、いろいろ面白く思いました。朝鮮牛をテーマにして特殊な勉強をして居る由。北海道というところは、その道の人が見ると、牧場の経営が古風で、近代経営のところとそうでないところとの差が甚しくておどろく程の由です。北海道は、いい、いいと云うので行って見たがよくなかった。これは私に大変面白く思われました。五月の一時に来る春というものをロマンティックに感じて、いい、いいと云った人と、地べたの上の草の生えかたや原っぱを、風景以上に見られる人の心持と比べて。大変なちがいがあります。人生のあらゆる方面にこのちがいがあるわけです。そう思うと、一層そのちがいの深さが感じられる。そんな気がしました。それから金のこと。朝鮮の砂金のこと。図書館のない町での暮し、勉強の金のかかること。等。ホームスパンのことでは大笑いでした。婦人之友工芸研究所とかいうのがあるのです。そこへホームスパンの柄(がら)の見本をしらべに行った由。そしたら「ありゃ心臓のつよさだけでやっているんですな」技術上のことはひどく知らない。チャチの由。「よくうれますか?」ときいたら「え、とてもうれますわ」との答え。大いに笑いました。『婦人之友』は自由学園で年々歳々暮しにはこまらない亜流インテリゲンツィアの細君をつくっているから、一種の信仰というかくせというかで『婦人之友』のものは、どうしてもうれるしくみになっている。この弟さんは兄さん思いの様子ですね。兄さんの心持のこまかいことなど思いやっていました、離婚した妻君についての心持などについても。愛することと甘やかすこととの混同、愛されることのうれしさと甘やかされる安易さに馴れることの混同、それらがいりくんで、破綻を来した。
甘やかされるということの害毒は、世の中の波の荒さが加わるにつれて、不幸の原因となりまさる一方です。何につけても、ね。夫婦の間のことのみならず。甘やかされる形、そのしみこみかたは様々、複雑ですから。ユリの生活に於て、その点をくりかえし、くりかえし、云われるわけであると思います。白蟻にくわれてはおしまいですものね。
きのう『朝日』に今日の学生生活について一寸かいた記事がありました。東大の生活調査だと、月平均四十二円六十四銭。五千四百三十二人のうち一割強がその金にこまっているそうです、農村出の学生が。卒業即応召という事実は、暗記勉強より「笑って死んでゆける心の準備」を熱望させているというのは、わかります。そして坐禅四百七十六名という数が出ていました。阿部知二、現代の漱石と広告文にかかれるが、この若き心を描き得ないことについて、嘗て一度でも涙を流したことがあるでしょうか。私は、所謂作家というもののありようについて、折々何とも云えず貪婪(どんらん)なものを感じることがあります。はっきり大衆作家と本性を出している者の方がまだ罪が浅いようなものです。もう何年も何年も昔にね、私がアイヌの生活をかきたいと思って札幌のバチェラーの家にいたことがありました。そのときバチェラーの養女になっている、アイヌの娘さんで八重子という人がいて、私より二十歳近く年上でしたが一つ忘れられないことをこの人が云いました、何気なくでしたろうが。「皆さんがアイヌを研究して下さいます。そして研究して下すった方は皆さん立派な本をかいたり博士になったりなさいました」胸の中が妙になった心持、今もまざまざ思い出します。だが、アイヌの生活そのものはもとのままということ、八重子さんの心の中で、声なき叫びとなっているのです。この人は和歌をよみます。この人は又バチェラーにつれられてロンドンにも行ったことがあります。
当時私は八重子さんのそういう心持、悲しみ、キリスト教とアイヌの多神教との神話的な混同、そんなことに興味をもって書きたかったのですが、ものにならないでしまいました。今どうしているかしら。
二十七日ごろから二三日図書館通いしようと思うので、それ迄に、こまごましたものもう二つばかり書いてしまおうとしているところです。
筧さんの奥さん(光子さんという名でした)でも来てくれるといいけれども。でもいずれにせよ、私はこの間何とか永続的な形での生活をさがしてバタバタして、そんなものはないとわかって度胸がきまりましたから大丈夫。光子さんだめなら又そのように工夫いたします。三十日迄まだ五日ね。どうぞ本当にお大事に。 
五月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十七日第四十二信
落付かない天候ですね、御気分はいかがでしょう。夜着そろそろお手許に届く頃ですね。一昨夜と昨日は一寸芸当をやってね。私たちふた児なのかしら。心臓がすこしガタガタしてきのうは一日床の中。きっと神経性のです。先工合のわるかったときそういう診断でしたから。すこし眠り工合が妙になっていたから。その故でしょう。十分気をつけて安静にして居りますから大丈夫です。読んだり書いたりも控えて。(これは別よ)お母さんおかえりになって吻(ほ)っとして御褒美頂いて一息いれるつもりでいたら、そちら工合がよいとは云えなくなったので急に気が又張って、疲れが内攻してしまったというのでしょう。小さな肝(きも)ね。こういうこと書くと、ユリ、又宵っぱりしたな、とお思いになるでしょうが、それは断然そうではないのです。
二十九日
きのうは一日おきていて、普通に暮しました。十枚ばかりのものも書いて。もう大丈夫。眠ることも普通になりましたし。午後、佐藤さんが、工合わるがっているときいて聴診器をもってよってくれて、胸の音をきいてくれました。きれいな音の由です。実質に故障があればズットンズットンときこえる由。脚気などで弁膜が肥大しているとキッチリ開閉しないので、ズズットン、ズズットンと、ずった音がする由。なかなか面白いものです。私のは、スットン、スットンと滞らずうっているそうですから、どうか御安心下さい。神経性の不調というのは頭脳活動をする人が折々やるものだそうです。誰でも五月は体の工合にこたえるという話が出ました。私は例年桜時分が苦しいのだけれども、この頃は桜の季節もずったのかしら、今頃に。
それでも(神経性でも)工合などわるくしていては相すみませんから、早速栄さん御愛用の薬を買って煎じてのみはじめました。それはつよい匂いのする漢方薬でね、まっ黒の汁が出て、ヤレと思いましたが、案外にのめます。浅田宗伯先生直伝という字が書いてあるから愉快です。私の体は独特で、いろいろよく出来たところがありますから、マアこうしてすこし手当すれば大丈夫です。漢方の薬も永い間にはきくでしょうし、実際きょうあたりはややきいたと思われる感じもありますが。どういうものか。
○臨床講座の20、95おくれていますが、これらは来月五日ごろでないと出来ないそうです。産業医学の方は十五日ごろの由です。どうかお待ち下さい。
明日は三十日ね。どの位元気になっていらっしゃるお顔が見られるでしょう。いそがしくおなりになるのは九月下旬の様子ですから、ようございます。明日のかえりに六月六日のために島田へお送りするもの調(ととの)えるつもりです、何がいいかしら。やっぱりお菓子と思います。どんなお菓子がいいでしょう。くさりやすくないもの。そして美味しいもの、ね。お母さん今頃三枚の写真をながめて、又一しきりお話が弾んでいることでしょう。そちらへも一枚お送りします。それは、どっちかというと珍しいお母さんがうつって居ます、笑いかかっていらっしゃる顔。立派に実に堂々たる風格です。島田で写真とるときはいつも何かで、お母さんのお気が揉まれ切った揚句(あげく)ですから、いつもかたくなっていらっしゃいます。林町のときはお客で気がおもめにならず、のんびりして、これから不忍の池へでも行こうというところですからそれはちがいます。目白の家で、寿江子が三つとってくれましたが(お母さんと私)まっくろで(シャッタアがこわれていておまけにフィルムの質が低下しているから)かすかに見えるだけ。それでもお送りして見ます。(島田へ)きっとやっぱり珍しくお思いになるでしょう。
お送りする写真には何という題をつけましょうか、母上京記念写真と平凡につけましょう。どうぞそのおつもりで。隆ちゃんには見本として出来て来たとき真先に送りました。達ちゃんには本と一緒にこれから。隆ちゃんのところへはきっと永くかかるでしょうし、一日も早く、お元気なお母さんのお顔見たく思って居るでしょうから。
図書館通いが、胸のバタバタでおくれてしまいました。きょうはまだ外出せず。『ミケルアンジェロ』をよもうと思います、書くもののために。若い人々は一冊でもよい本を知らねばならず、そのよみようも知らなければなりませんから。そして、「時間は人間成長の室である」という言葉のおどろくべき豊富な内容にふれることが大切ですから。
今朝『朝日』に、室生犀星が、豊田正子の近く書いた「おせっかい」というのをよんで、「正子に詩がない、詩をもたずに生れた少女の運命」というようなことを云って居ます。詩をもつ少女とは、では何でしょう。
彼女にあって問題なのは詩の有無以前のことです。ものを書くのは、元来、この毎日の生活のうちにある自分の心に何か語らずにいられないものを感じて、生命の声として書き出すのに彼女は作文を今日のジャーナリズムに煽られ、そのままフワフワと来ている。本をよむという、よりひろい世界を知りたいという欲望さえ持たない少女。目の先耳のはたの声をそのまま片はじからメカニックに模写するものとして。テムプル以下でしょう。問題は、文化の低下状態、文学の低下とむすびついているわけです。その低下と一部の人の妙な純粋性への偏向がああいうジャーナリズムの産物を存在させている。詩。室生さんも人造悪の小説かいて、まだこういう範囲で云っている。人造悪をも詩の一種と感じるほど、彼の日常は常識市民の雰囲気であるのでしょう。
図書館に行ってすこし読んで書きたいのは、明治初年に日本でややかたまって出た婦人作家というものの存在について。彼女たちが、小説をかく、そしてそれを発表し得たこと。そこには、明治の開化、女子教育、男女同権と云われた時代の空気が反映しているけれども、ではその作品の内容というものは果してどういうものであったろうか。『中央公論』の感想に一葉のことをかき、それにつづいて、彼女の場合でも、やはりそれを感じました。当時、二葉亭などの書いた文学と彼女の文学、その相互的な関係を見ると、歴史的に、彼女は、女が書くということに於ては新しい時代を具現し、かかれる内容、文体、そういうものでは古いものの最後の星とでもいうような、輝きかたではなかったろうかと思うのです。
自然主義文学の永い時代、一どはかたまって出た婦人作家の一人も、謂わば働きとおさなかった、それは何故か、野上彌生などは『ホトトギス』からですから。写生文時代以後です。やっぱり、明治の初頭に現れた彼女らの現れかたによっていると思われます。それらのことは、今日、女の作家というものが現れているそのことのありようにも関連していろいろ考えさせ、引いては豊田正子のような人造もの書きに到ります。それらのことを書きたいと思います。男の子に正子がない、あり得ないことについて、ね。岡本かの子の巫女ぶりと正子とは、文学と婦人とのいきさつのピンとキリを示している感です。
明日おめにかかれば、又書くことが出来るのは分っているけれども、これはこれとして出します。
ひさがここにいるのももう一週間足らずです。ああ、筧さんの奥さんの話ね、あれは先方の家庭の工合、考えようで駄目だそうです。これから十一月迄農繁期ですからどうせなかなかないでしょう。繁治さん、きのうの日曜日にはユニフォームを着て野球に出かけたそうです、服装一切会社から出て。体位向上なのね、きっと。本当に明日はどんな御様子を見ることが出来るでしょう。呉々もお大事に。こんなこと云わずものことという感じ、云っても云っても云い切れぬ感じ。いつも二つがぶつかった心持で、この字をかきます。 
五月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月三十一日第四十三信
余り久しぶりだと、前の晩眠らなかったりして、折角きれいな血色を見て頂こうと思うのに。
気分大してましでもおありにならないのに、私の薬のことありがとう。本当にありがとう。どうかゆっくりと願います。すべてのことはあなたの体の工合をもととして行くのですから。きのう自分で気がついたのですけれど、お目にかかった最初の一目、私何とも云えないきついような眼付するでしょう。一目で御様子を知りたい心持、どうかしらという心持、その故ですね、どうぞあしからず。夜具使っていらっしゃること知って一安心です。ひさも、「マアようございましたこと」とよろこんで居ります。
きのうはあれから一度家へかえって、電話かけて、仰云っていた弁護人のひとたちのところを訪ね、用向きを果し、それから新宿までまわってひさのお祝いにやる帯の仕立てのことをたのみ、島田へお送りするお菓子を中村屋で発送注文をして六時すぎ、へとへとになってかえりました。きれいな干菓子お送りしたいと思ったらこわれるから送れませんて。そこで、懐中しること古代もちとをお送りしました。
かえって見たら、そちらから小包が二つ来ている。一つは写真、一番古いのから。段々見くらべて、最近御上京のときまでのを見ると、そこには何と生活の様々の推移が示されているでしょう。達ちゃんの出征のときのはまだそちらね。
もう一つのをあけて見たら、古くからの手紙類。一束一束見てゆき、ああと体の中を暖い、いい心持のものが流れわたるようなうれしさで、くたびれだの、眠られなかったことだの、すーと忘れるようでした。そこにおかれてあるのね。そこにおかれてある。そこにある。これは感覚に訴えてさえ来ます、一日のうちには幾度か、その視線の下にあり、そして折々ひろげられ、互の生活の全身を響かせるのであると思う。よろこびの感情や幸福感は、何と急に、思いがけない包の中などから立ちのぼるでしょう。適薬のききめとこのうれしさでゆうべは実にぐっすり眠りました。枕へ頭おっつけて、挨拶をしてあげて、自分のおでこのあたりに、紺大島の紺の匂いを感じながら。
書類についてのことは、きっと今日話があると思いますが、よくわかりました。すっかり全部とるということが徹底しましたから。昨夜速達で大泉という人の写し上中下三冊送られました。あとは出来しだい、片はじから金を払って、片はじからお送りすることにしてありますから。
『ミケルアンジェロ』は近頃での感銘ふかい本です。もうすこしで終ります、きのうは電車の中までもって歩いて。感心した点は、およみになって居るからくりかえさず。私はメレジェコフスキーがルネッサンスを書いた(レオナルドを中心として)小説を昔よんでいて濃い印象をのこされているので、その根本的な現実の姿として面白い。ブリューゲルの絵を、ベルリンの画廊で見て、あの時代の画家の中では目について離れない、その画家が語られているのも親密です。ブリューゲルの絵は、つかみかたがいかにも生活的で、色も落付いた美しさに充ちていて、上質の散文のような美です。レムブラントを詩とし、ルーベンスをゴブラン織として。
この著者は文章にも一方ならぬ苦心と注意とを払っているのがわかりますが、文章の仮名づかいのこと(音表式でゆく)どうお思いになったでしょう。作家の保守的なこのみからでなく、よんで行ってどうお思いになったでしょう、例えば「わ」という字、「は」の代りにつかう。「はなわ」、「はなわ」どっちが「花輪」か「花は」か、勿論前後のつづきでわかると云えるけれど。音表で、は、わ。へ、え。を、お、等統一されることはローマ字への便利のため、子供のため、いいと思われますが。ぶつかるようで初めよみづらかった。これは単なる習慣でしょうか。変ってしまえば、それでなれる、そう考えてしかるべきでしょうか。
今日の国語、国字の改良問題運動の中には卑俗なものその他がどっさり混りこんでいるのは実際ですが、たとえば子供読(よみ)ものの再吟味で、講談社が氾濫させ、子供の注意を散マン低下させた粗悪な漫画がいくらか減ったのなど、やはりよいことの一つとして作用しているようなものです。
女学校に英語はいらないという声があって、県によっては早速やめたりしたそうですが、今度必修課目の一つと決定。これはきわめて当然のことです。英語が何も立派だとか高級だとかいうために必要なのではないのですものね。カンは指では切れない、カン切りがいる、その謂であるのですもの。語学そのものをかつぐのはタカホ夫人板垣ぐらいのものです。
きょうは、『ミケルアンジェロ』を読み終ってそれについての感想、かかなければなりません。メレジェコフスキーのレオナルド、それから新書でやはり出る児島喜久雄の『レオナルド伝』へも連関させ、書くの、たのしみです。
イギリスにマリ・ストウプス夫人という性に関する科学研究家があります。妻、母としての生活の面からいろいろの研究をしていて、一つの本では、自然というものの洞察において非常に優秀と感じたことあり。日本では婦人の医者で、両性の生活を語る人は、最も低い科学性(自然の美への感動や愛や人間感応の微妙さへ十分ゆきわたらない)に立ちやすくて、所謂単なる生理において語っている、それは、いつも、そういう知識があるだけ美しさも味もその人からへっているという感じを与えるのですが、ストウプスは科学的著述でもごく人間の全面から扱っていて、無知から生じる不幸をふせごうとして居る感じを与えます。そしたら、この人は詩をかく人でした。ハイネマンから『若き愛人たちのための愛の歌』という詩集が出ました。バーナード・ショウが、著者の科学的基礎は、愛の詩に箇人的でないものを与え、これは全く新しいことであり又、稀に見るテーマの厳粛性を与えていて、興味がある、と云って居ります。どうも深尾女史の「葡萄の葉」を凌駕すること数段であるらしい。人体解剖に人間への感動なしに向うのは間違っているというのが当っているとおり、人間の愛や愛の表現へのおどろき、真面目な献身ぬきに両性のことを語るのは間違いだから、日本にも、所謂ふちなし眼鏡チラリという式でない婦人の科学者が出ればいいと思います。同時に科学の希望である筈の未知の領域に向うと、直ちに原始的になって宗教をとなえ出さないような。わからないことは、今にわかることのたのしさとして見るような健全な。科学者が妙なところで足をすべらせるのは、考えれば、やっぱりごく箇人的に見ているからですね。自分の一生でわからない、するともう人間に分らないと思い、人間の力に限りがあるという風に云う。自分中心に見ると、そう見れば見るほど宇宙は縮小するから滑稽ね。
ストウプスの詩集というのは欲しいと思って居ります。少くとも会うよろこび、やがての倦怠、秋の木の葉の散るころは、あの公園も今は思い出という離別と、あくびの出る定型ではないでしょうから。私は、すこしは、凜々と鳴るようなそういう詩もよみたいと思います、本当に。私たちの詩集のほかに、一冊ぐらいそういうものを現代がもっていてもいいでしょう、ねえ。
現代文学は、世界のありようを反映し、文学を生み出す人々のその中でのありようを反映して、皆どの国でも(例外はぬき)愛は壮厳の域迄達せず、せいぜいがペソスですね。それにコルベール(女優、「夢見る唇」をやった)風の悧巧さが加味されたような。日本では又独特にちがっているが。
あしたから又、毎朝、すこしずつでも手紙書いて出すことにいたします。一つの手紙の中に、一日ずつかきためてゆくのでなく。十三日まではまた半月。こんな機械ないでしょうか。あなたはお動きなさらないでも、私がそこのどこかまで行って、どこか見ると、そこからあなたが見えるというような機械。そういう重宝なものはまだ発明されていないのは、実に実に不便です。
寿江子は三日ごろ伊豆行。ひさは七日位にかえります。あとには人をさがしていますが、出来る迄、消費組合関係のひとで派出婦をやっている人を暫くたのみます。
お約束の表を、二十日から。
起床消燈 / 二十日六・四〇一一・三〇(婦公座談会) / 二十一日(日)七・〇〇一〇・三〇 / 二十二日六・三〇九・三〇 / 二十三日六・〇〇九・四〇 / 二十四日七・〇〇前夜うまく眠れず八・三〇 / 二十五日六・一〇(夕飯後胸苦しいから)九すこし前 / 二十六日一日臥床 / 二十七日七・一〇ぶらぶら八・〇〇 / 二十八日六・三〇一〇・〇〇 / 二十九日六・四〇一〇・一五 / 三十日六・〇〇一〇・四〇 / 三十一日六・一五十一時ごろになるでしょう。新響ききたいから。
読書は本月は三三六頁です、第一巻は終。決して大きい顔をして居りませんからお察し下さい。半月はかきものがたまって居りましたから。
もしかしたら、今風呂屋に働いているという女の子がひさの後へ来るかもしれません。私はそういうところへも働きに出なければならない女の児の方が、一緒に住みよいと思います、ひさは性質はよいけれども、自分でよく自分の境遇、富農の、を知らないから、こまかいところで気分がふくらんでいて、その点ではこまることもありました。ごく若い娘だから、留守番のことや何かこれまでとちがう心くばりがいりますが、それはようございます、では又明朝。きのうも一寸思ったのですが、お部や同じですか、或は満員?或はいろいろとあるのでしょうか。 
六月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月一日第四十四信
お早う。ひどく降りますね。入梅は十三日からだというのに。こちらではあっちこっち雨が洩って閉口。
きのうは、あれからS子さんが六週間ぶりと云って初の外出で来ました。お産後というよりも病み上りという風でした。赤ちゃんなしで産褥にいると、あんな風なのかと可哀そうのようでした。あなたに呉々も御大切に願いますとのことでした。それから又一勉強して、早めの夕飯たべて出かける着物にきかえているところへ稲ちゃん来。『くれない』が再版になったので、それは思っていなかったことだから、いつかの分の1/5だけ、とにかくかえすと云ってもって来てくれました。私は勿論よろこんで貰いました。稲ちゃんは前から随分気にしていたのですから。
音楽会はなかなか面白うございました。日本での初演が二つあって、一つはイギリスの民謡をとった狂想曲、もう一つはワルツやポルカ、スイスのヨーデルの歌、パセドーブル、タランテラなどという舞曲の組曲。あとのはそれぞれの舞曲としての特長を相当活かして演奏され、面白く思いました。あとはベートウヴェンの第五。第五もうまかった。そして、かえって寿江子の話が又面白かった、というのは、寿江子は作曲や音楽史の仕事を自分の仕事と思っていろいろ考えている故で、例えば指揮のことでも随分こまかく観察しているのです。例えばこの第五にしろ組曲にしろ、一団としてあげている効果だけ、各人が自身の理解をもっているのではない。そういうのを、一つとまとめてあれだけにひっぱってゆくのは、指揮者のよさであり、このローゼンシュトックという人は、指揮に当って、只一音の笛のためにもちゃんとその笛に向ってよびかけを与え、転調するときは前もってやはり注意を与えている。実にこまかく、そしてひっぱりこまれるところがある。普通の人は、幾つかの小節のはじまりにだけきっかけを与えるけれども、と。この話、私は面白く思いました。これは只譜を読む人、それで指揮する人と自分で作曲する人が指揮するとの違いで、前者はよんでパラフレイズするのだが、後の人はとにかく自分の感覚と体を通せるのですから、指揮するとき、おのずから細部が把握出来、それを一つ一つオーケストラ部員につたえてゆく冷静さ(丁度書いてゆくとき、一字一字を実にしっかりと自分の手の下においている力をもって、初めて書ける如く)もあるわけでしょう。技術団体の指揮(技術上の)というものについて、その話からいろいろと考えがひろがって何か考えるところもありました。
寿江子も本腰になって来ているし、私はいろんな専門的な話し対手として、わかるところと知らないところとのつり合いがほどほどだと見え、(音楽について)この頃話は実質があってようございます。何年も病気して楽器を只キーキーいじることが出来ず、本をよみ、人生的な様々の経験をしたのも、今となって見れば非常なプラスです。曰ク、「もしお姉様と同じ仕事なんかだったら、きっとやらなくなっちゃうだろう。」これは分る心持ですね。この頃は、生活の現実の中にはまりこんでいなくては、ちゃんとした仕事なんか出来っこないとわかって来ているから、本当に何よりです。考えたって分ることじゃない、そう云って居ります。生活において底をつくこと、それが人間の成長と芸術の生長のためにどんなに大切かということ、それも分って来たようです。これらのこと、すべてはうれしゅうございますね。仕事に対してねばりがつよいために段々追求して行って、結局それは何故という問題にぶつかる。ですから、音楽史が、過去には一つも生活とのつながりが何故というところで解かれていないことを発見して来ました。音楽史ではグレゴリー音階というのが、音階の歴史的第一歩の発展とされているが、只そう云われるだけで、どういうところからその発展が導き出されたか説明されていない、変だ、というわけです。ああ寿江子も体が弱いのは可哀そうだが、そして貧乏なのも音楽の勉強には楽でないが、そのために正気に戻って大人になりつつあるのは何といいでしょう。昔のような生活が万一つづいていたとしたら、どんなに折角のもちものが、むき出しの現実の中で磨き出されず、歪んだりごみをかぶった大きい塊りになったりしたことでしょう。でも私たち姉妹の悲劇はね、私は全く静かで仕事したいし、片方は全く音がいるという矛盾です。解決は、家の空間的な大さ。そして、それは云々と、因果の糸車でね。二人で、二匹のこま鼠のように向いあって、何ぞというとこの因果の糸車をまわして見るのですが、どうも軸の場所は同じなので、変った回転も今だに見出せません。私はうんと勉強し、仕事しようと思います。益〃そう思って居り、それの出来る予感もある。ですから、この車が又ぞろ出るというわけです。これから仕事にとりかかります。新書にウィットフォーゲルの『支那経済研究』が出て、面白い由です。御大切に。 
六月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二日第四十五信
きょうは、結局二度お歩きになることになってしまったようですね、おつかれになったでしょう?かえりに電話かけて見たら丁度そろそろそちらにつく頃だとのことでしたから。かち合わないようにとわざわざたのんだのにね。
いろいろお話したこと。例によっての云いかたしか出来なかったけれども、要点をはっきり、現実に即してすぐのみこんで頂けて本当にうれしゅうございます。本当にうれしく気が休まる思いです。別の人をもう一人とおっしゃっていたし、三十日来、苦慮していた次第でした。性格やその高くない面や野心やそういう要素をはっきりわかって下さると、その上でのこれからのやりかたが細かいディテールにふれて、やって行く上に便利です。通俗作家が『朝日』へ連載になるのをもって一つのゴールと目ざすようなものでね。新聞へも並び大名の前列に一寸出てのるというようなことが関心事であると、その立役者として場所に非常に敏感で、自分のことが仕事なのか、ひとのためなのか混同されてしまうのですね。そういう意味での立志伝中の人。なかなかデリケート。「わが道に立つものは容赦はすまじ」というような復讐的闘志が熾(さかん)であるのは、一寸類がないのではないかしら。そういう性格も心得て、大局から見てそろそろとやりましょう。要点をつかんで、のみこんで下すったことを、私がどんなに吻(ほ)っとしたかお察し下さることが出来ようと思います。
天気がからりとしていたし、昨夜は、寝汗余りおかきにならなかったのでしょうか。皮膚の工合すこしはましに見えましたが。こまかい期日にかかわらず加養なさること、全く必要であるし当然です。どうぞのんびりと願います。
きのうの雨!家じゅうたらいだのバケツだの、洗面器からおなべまで出動し行列をつくりました。その雨の中を徳さんが、したたるばかりに濡れて来ました。北京へ勤め口がありそうで行く由。柳瀬さんの心配の由。「そして、奥さんは?一緒?」「いや、あれは国へかえります。」国のことは先(せん)話にきいていてかえれるわけのところではないのです、本当の生活を考えれば。そこをとび出して、東京で働いていて、結婚したのだから。
徳さんと生活するということを断念してしまったのですって。この十年ばかりの間のいろいろなことが、複雑にたたまって来ているのであるし、又相互的な責任もあり、第三者として何も云えないところもあるけれども、何か苦しくて。徳さんの苦しさもわかり、歌子さんがそういう本質的退陣を決心したのもいい気でやっているのではなかろうし。小説をかくのだそうです。
どっちがどうと云えないと思います、徳さんの考えかた、やりかたにしろ。近々出かける前には、あなたのお体さえよければ一度お会いしたいとのことでした。家庭のことは、私だけの知っていることとなって居りますから、どうぞそのおつもりで。今日の大陸が吸収する人々の生活、その道、その色彩ということを、おのずから考えました。やつれていました。仕事がつまっていたけれどもあり合わせで夕飯をあげました。それから仕事にとりかかり五枚半かいて、床に入り。(十一時)様々の感想がたたまって居りましたからやや眠りつき難かったが、よく眠りました。
けさ六時に目をさまして戸をあけたら、朝日が若葉にさしていたのでうれしい気がしました。私の方が早くおきたのでおひささんキョロキョロしてあわてました。庭の土にじかにうつしたアカシヤの実生の芽がこの頃めだって大きくなりました、萩もどうやらいい勢。いつからか、五月の初旬、お母さんおかえりのとき入れた藤の花のこと伺おうと思い思い、ついおくれてしまいます、どんなのでした、藤色の?今年は白藤一つも花をつけず。こっちの庭へつれて来ようかなどとも思います。あの白藤に房々とはじめて動坂の玄関に来たときのように花をつけさせて眺めたい。御異存ないでしょう?樹は足かけ八年の歳月の間にずっと太っているのですもの。咲かしてやればどんな見事な花房をつけるでしょう。場所さえあれば棚にするのにね。われらその白藤のかげに憩わん。(あまり美文ですかしら。蜂にさされるかもしれないわね)
これから一やすみ。窓をあけて風をとおしているので、外の砂利をふむ人の跫音などがして、午前のしずけさがひとしお深うございます。図書館行は明日。きょうは家にあるだけの本をよみ。夜は林町の連中と自由学園の音楽会をききに出かけます。ここの音楽教育は有名です。だが、生徒を入学させるとき、先ず資産しらべをやる、そして云うことをきき、学園型になる子を選ぶ眼力にかけては、もと子夫人の旦那さん大したものである由。おむこさんである人が、ああいう心で「ミケルアンジェロ」をかき、そういう家族の雰囲気、経営、そこに入り切っている自分の妻を、どのような心で感じているでしょう。
では又明朝。毎日すこしずつ書く方がやっぱりいい、そうお思いになるでしょう?来週水曜といえば明日から五日。丁度六日ごろ一区切りつきますから。ひさ七日ごろかえります。 
六月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月三日第四十六信
今は大変珍しいところでこれを書いて居ります、上野。図書館の婦人閲覧室。これからすこし明治二十何年という時代の婦人作家たちとおちかづきになるところです。今の花圃夫人が書いた「藪の鶯」というのなどから。
夕刻までに終って、林町で夕飯をたべるプランですがどうかしら。きのうは大変おつかれになったし、その上きょうは大分むし暑いから割合気分はよくおありにならないでしょうね。この大テーブルの右端にセイラーを着た女学校の生徒が二人居ります。どのテーブルも五人ぐらいずついて、私の紙の番号は46。子供のとき来て、「十五になっていないでしょう」と云われ、「なっている」と云ってよんでいた頃を思い出します。その頃は読む場所もこんなに堂々とはしていず、はばかりなどこわかったものです。ここだけは値上げせず、特別が十銭です、やっぱり。
読んでその感想をいきなりこれにかきつづけてしまうと、又書く気がなくなってしまいますから、今日はそういうことは黙って居りましょう。弁護人との話、昨日いろいろおきまりになりましたか?
きのうの音楽会は自由学園の、音楽教育の父兄への売りこみのため、或は自由学園音楽団としていろいろの場合活動させ、マネキンとするために、成程こうするものかとおどろき、やがて正当な立腹を感じる種類のものでした。基本的なことは何も教えていない、只二十人三十人とかたまって、オーケストラのまねをやったりピアノでワグナーをひいたり、そしてそれは弾くのではなくて鳴らすのですが、音楽の感覚というものをちっとも滲透させていないのです。田舎の金持、自分はレコードはきくが、ピアノはひけないがピアノは買えるという親たちを、その数と一斉の音の鳴り出しでどきもをぬくことは充分出来るでしょうが。ヴァイオリン弾いている娘たちの、体勢さえちゃんと教えられていません。二百八十人だかが、あれだけの盛沢山で昼夜二回興業。大満員。純益は、あすこで北京に開いている女学校と東北農村セットルメントに捧げるのですって。さながら血液循環の如く、一滴もそとにはこぼさぬしくみです。なかなかそういう点にあやつられる親や娘の知性について感じることの多い会でした。つかれて、おしまいまでいず(音楽でない音のボリュームで、つかれるの)、寿江子とかえって来て、寿江子は又テクニックの上で不親切な教えかたと、フンガイして居りました。
ではこれから勉強。きのういろいろひっくりかえしていたら明治初年に日本に入って来た洋楽についての文献が見つかって、寿江子「ありがとう」の連発でした。この机と椅子、丁度家のと同じくらいです。これにフットストールがあれば相当の長時間ねばれますね。図書係の人がもととかわっていました。そして割合親切になっている。私の方がおばちゃんになったせいかしら。窓は高く、大きく、そとに楓の若葉の梢が見えます。
そう云えば、きのう、うちの門を入ったところの樫が一本枯れていたら新しいのと植え代えました。そして可笑しいことは(ひさの話)二人の植木屋がヒソヒソ小さい声で話しているので、じっときいていたら「かまやしない、かっぱらっちまえ」と云っている。「何をかっぱらうのでしょう、きっと林さんの何かでしょう」と目玉をクリクリさせました。「サア、どろぼーの意味か、枝でもかまわずらんぼうにかっぱらっちまえと云ったのか、何しろ植木屋だから私にも分らないね。」と大笑い。ひさにやる帯仕立上って来ました。立派になって。きょう、ひさは買いものに出かけて居ります。大変短くて御免下さい。相当埃くさいのがつんであるから、では、ね。 
六月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月五日第四十七信
きのうは失礼いたしました。(手紙かかなかったこと)
きょうは又何と夏の暑さでしたろう。若葉を風がひるがえして吹く濡縁のところで、その風にひるがえるあなたの紺がすりの着物を眺めました。御気分どうでしょう。きょうは暑すぎるだろう、そう思いました。仕事していると、じっとり汗ばんで来ましたから。
きのう一日ねばっていて、きょうは書きあがる予定のところすこしのこりました。くたびれたから無理に押さず、明日にまわします。明治二十年から三十年ぐらいまでの世の中、文学作品、とくに女の書いたものとの関係で見るとき実に複雑ですね。一種の復古時代ですから。今書いているのは一葉の作品の完成性の考え直しで終り、今日一葉が再出現していることについての質問で終るのですが、それにひきつづく自然主義文学の時代に、婦人作家は何故水野仙子一人しかいなかったかということ、改めてかきたいと思います。これはなかなか面白い点であると思います、ヨーロッパの文学の中を見くらべても。もしかしたら、やっぱり『改造』につづけてかくかもしれません、話の工合によっては。
今は「藪の鶯」という花圃のかいた明治最初の婦人の小説の本質は、二十年という時代のかがみとして、女の真実の成長のためには、まともを向いたものでなく横向きのものとして出て来ているということ、一葉の完成が、旧いものの(文体と内容の)一致によって生じて居り、当時のロマンティストたち(文学界)が、その消えようとする旧いものへの魅力、自分たちにとってなじみふかい女のふるい哀苦を婦人作家がうたうということに対する一つの魅力とからめあって賞讚と支持とをおしまなかったこと、それだからこそ、哀苦もその味にとどまってしまっていたことなど。「『藪の鶯』このかた」
六月六日
ゆうべは可笑しいでしょう、くたびれて十時ごろ寝ようとして、急におやと一あわてしてしまいました。けさ、そちらに行くのだったか、水曜だか急にどう忘れして。勿論覚えていて、水曜日と思い、七日と思い、寿江子にもその話していたのですが、日記を出して例により起床、消灯、つけようとしたら、五日のところへ、大きい字で明日面会とかいてあるのです、あら、変だ、そうかしら、バタバタして、わからなければ、もしそのつもりでいらして行かなければ本当にわるいから、一日早くてもかんべんしていただこうと思って、ドーッと二階下りて、ハンドバッグ出してメモ見たら、ちゃんと「来週水曜日」とかいてあるのです。ああ、ああと、書いてあってよかったと一胸なでおろしました。何かに熱中していると、ボッとなって、急に思い出してかんちがえしたりする。志賀直哉の「狐とおしどり」の話ね、「お前はいつだって思い出さないでいい方ばっかり思い出して、とんまだね」と云われている妻が、良人とおしどりに生れ代る約束して、間ちがえて狐になり、良人のおしどりを見たら、可愛くて、おいしそうで、切なくて、涙こぼしながら到頭たべちまったという話。アンポンは万更ほかにいなくもないのです。メモ大明神でした。
とんまになる原因もう一つ。それはネズミ。三日ばかり前、ふろに入っていて、ふと天井を見たら、天井板のすき間から電気のコードのようなものが見えているが、どうもあやしい、すこし先の方が細くなっているのです。「ちょっと」。寿江子を呼んで、「あれ、何だと思う?」「フーム」。やっぱり同じものと思うらしい。ネズミです、そこで死んでいるのですから閉口。自分でとてもとれない。誰かにとらせなければならないが、ひさに、してとは云えません、何しろ、家では私が一番勇気がなくてはならないわけなのですもの。一番いやなこと、こわいこと、苦しいこと、それは私が先頭に立たねばなりません。奥さんですからね。とれないのにひさを気味わるがらせるに及ばず黙っています。こっちは、「藪の鶯」でかんかんなのだから。書き終ったら誰かよんで来よう。そう思っていたら、ゆうべ偶然小説をもって佐々木一夫さん来。おったて腰で話していたうち、ああ一つたのもうと思いつき、急に寿江子と二人が勢立ったので、佐々木さんはふしぎそう、鼠の一件を話したら、「それは何でもない」と、きっといやだったのでしょうが、立って出してくれました。いいあんばいに燐をのんでたおれたのだったから、清潔だったけれども。ぐったりする位安心したと寿江子と大笑いしました。
きょうは、午前中から時雨さんの会に一寸出て、かえり、今、二十枚かき終ったところ。
あつい日ですね、背中がじっとりして居ります。熱中してかき、面白かった。
こういう風な、比較的、総合的で立体的な勉強をすると、なかなか自分のためになるところがあります。文学の世代において、婦人の刻みつけた線を一寸でも自分の力として先へおし出すこと、それがどのような意味をもつかということを真面目に考えます。ただ流行非流行の問題でなく、その生活と文学との本質において。自分の生涯で、せめて一分なりそれをとげたいと思う、ね、グイグイ、グイグイと押してゆくよろこびは、よしや知ることが出来なくても(客観、主観の関係によって)。
フィレンツェのミケルアンジェロの仕事ぶりのところ、いろいろ忘られぬ感銘です。メジィチの墓の彫刻で、与えられた条件を溢れ出たというところ。あすこは二重に心に刻まれます。このなかには、いろいろとひっぱり出される暗示があります、芸術上のこととして。ミケルアンジェロが、現実が彼にとって辛ければ辛いだけ仕事に熱中したところ、熱中出来たところ、それだけのものをもっていたところ。これも通りすぎることの出来ないところです、私などには。最も健全な、最も歴史性の充実した人間、芸術家になり切るというところ。あなたのおっしゃる「日々の精励」ということの意味、それが唯一つの道であることの謂。
今はまだダイナモが激しくまわった余波で、お喋りをとどめるのに骨が折れます。
さて、すこし家のことに戻ります、六月十三日は母の命日なので寿江子それまで伊豆にはゆかぬ由。七月九日ごろ咲枝が赤子(アカコ)チャンなるものをうみますから、そのときは、太郎のために林町に行ってやる約束いたしました。誰もいないのはよくないから。
きょうは、島田で御仕事のあった日です。昨夜お母さんからお手紙で(三日づけ)お菓子も写真も私の手紙も一どきについて、お菓子は大変めずらしいから、お客膳のなかわんにもって出しますということです。ようございましたね。
あなたのお体すこし疲れていらっしゃるとかいたから、お大切にということです。血圧は百二十ですって。すこしこれではすくなすぎますね。90+57=147ぐらいでいいのに。この次の手紙でうかがって見ましょう。
今日、又ひさ留守です。八日ごろかえりますいよいよ。代りの人いないので、先達てのように一寸林町からかりるか派出婦たのむかします。仕事のせわしい間、十日位まで林町からよぶかもしれず。これから、マアお茶でものみながら一思案いたしましょう。
明日はどんなお顔色でしょう。丁度先月六日に手紙下すったから一月たちました。こんな心持面白いこと、全く待っていないのに、実に待っている、こんな心持。では明朝。いろいろ。 
六月七日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月七日第四十八信
ああア。先ずこういう工合なのです。久しぶりに髪を洗って日光のさしこむお湯に入って。大分かわいて来たので、「二階へ行こうか」とおっしゃるあなたのうしろにくっついてあがって来る心持で、ここへ来て、さて、とくつろいで向いあい。髪はたいへんすべすべです。あなたのはいかが?苅ってほどないように見えましたけれど。
ほんのすこうしずつ、少しずつ、いくらか疲れかたが減るように感じられるけれども、そういう私の眼力は、本当の状態にふれているでしょうか。どうもたよりないとこの頃は思って居ります、爪に白い半月形が出ていて、ああと思ってうれしがって見たりしたの、あれは本当に爪について居りましたか?私が見えたように思い、只がつがつと見ただけだったのかしら。あれから、あの急なひどい疲れの御様子でしたから、白い半月形なんて、なかったものかと思う気さえしました。もしなかったものを見たとしたら、心持わるくなさらないで下さい。あのコロンブスだって、海に漂い、陸を陸をと思っていたときは、雲を陸かと思ったことだってあったのです。どんな思いで、指を私が見るでしょう、ねえ。微妙な、しんみな指たち。
きょうはあれから電話をかけて、弁護士会館へ行き、話の趣わかりました。あなたのおっしゃったことを、只手足となってあのひとの下に働くものという意味で解していて、共働者という立場での人を云っているのがわからなかった様です。やっと「ああそういうことなら」とのり気の様です。あなたのおつもりは勿論そうですね。私は間違わず理解していると思いますが。連絡上、あのひとに導かれるとしても、経験や相当学問に於ては一本立ちとしてやれる程度の人、そうでしょう?そして勿論それはそれとして新しく話をもってゆき、料金の話もされるという関係。そういうのだということがわかったようです、一人、若手で実力もあるという人がいるのだそうですが、つとめている事務所の親方(先生ね、まあ)の関係で、どうかというようなこと。明日何かの用をかね、お目にかかるそうです、そちらへ行って。この手紙はそれまでつきませんけれども、よく、新しくわかった意味に於てあなたとお話しするよう頼みました。その他のこともわかりました。いそいで居る由でした。
それから三越にまわって傘のはりかえ。お母さんのいらしたとき、自動車が急停車して、私の手首にかけていた傘の金(かな)ものの柄が殆ど直角ぐらい曲ってしまったこと、きっとかきませんでしたろうね。そのために直さねばならず、布地もいたんで洩りますから。二本の傘を直すのです。一本は私が動坂の入口をさして出入りしていたの。覚えていらっしゃらないでしょうね、骨がしっかりしていて、布地はもう破れ障子であったの、それを直して。
それからうちへかえり(池袋までのろのろ市電で、新橋―池袋です)すこし休んで髪を洗い、涼風に吹かれたというわけでした。
きょうは、家じゅうごく早ねいたします。ひさは今夜一晩このうちで眠るだけですから、どっさりたっぷりねなければならず、私は又明日からいそがしいし、ひさはいず、今夜せめてのうのうとねておこうというわけで。昨夜も明けがたまで眠れなかった。間におかれる日がちぢむにつれてよく眠れるようになるのがわかりますから、きっと、いまにあたり前になるでしょう。おかしいこと。土曜日までは三日だけですから。
あしたの朝ひさは栄という、いつか(去年の初夏、私が島田へ急に行った留守から)いたひさの友達の娘のところへゆきます。何かの工場へ今つとめて四十五円とっています。その中から、下宿料十五円、家へいくらか送り、交通費、きるものなどすべてまかって、十円やっとのこる。この十円のために夜勤ですっかり体へばりかかっているので、この間来たとき十円出してくれるのならば、却って生活しよいから来てもわるくなさそうな話していたそうで、そのことをきめて来るわけです。来るか、来ないかを。この娘は、先は大変目のこで勘定高かった。たべるものにしろ食べさせるのをたべなければ損、そのようでこちらで切ないところもありましたが、今度は世間を見て、四十五円とは何を意味しているかがわかって、もしかしたら先よりよいかもしれません。
明日の話でどうなるか。いつかも申していたように、私はもう自分たちの暮しに又一さとりして、一緒にいる人のことは、勿論一生懸命に心がけますが、永続的でなくても平気という気になったから、そう気にして居りません。大して困ったところさえなければ誰かいて、空巣の番と御飯をたき洗濯してくれればようございます。その誰かが問題でキューキューしていると云えばそうですが。
今月は一年半ぶりでやや生活するに足る(生活費の三分の二ぐらい)収入がありそうです。きょうお送りした衣類はセル、紺がすり、白い晒木綿の襦袢(半エリをかけてあるのです)、単衣羽織です。襦袢、せん、あるのは小さくてといっていらしたけれどこれはどうでしょうね、新しく縫っておいたのです。羽織、単衣ばおりなんかというようなものですが、季節のものですし、セルや紺がすり一枚では肩さむいとき、人にお会いになることもふえているからお着下さい。この羽織は昔々のです。きょうはまだ袷きていらっしゃるのを見てわるかったと思いました、六月一日からセル類は入るのでしたから。
ああそれから、大森へ速達出しました、かえってすぐ。何だかとりとめのないような手紙だと思います。これは髪を洗ったりしたせいです。私たちの生活にだって、やっぱりこういうようなお喋りのときもあるわけのものですものね。一つ家にいて、あとからあとから忘れながら話しているようないろんなこと、一寸したこと、そして笑ったりすること、こういう流れるものは手紙にはなかなかのらないものですね、笑いというのが土台曲者だから、つかまえるに楽でない、それに字になると、笑いが又笑いをさそい出す味が消えてしまって。こんな話しかた、ごく内輪の気分で、明るい電燈のしたで、「あら、このおしたしは案外美味しいわ、一寸あがって御覧なさい」、そんなことを云っている夜のようです。さもなければ、何かの漫画見てハアハア笑って、「一寸ぜひこれを見て頂戴」と云って、「バカだね」と云われて、たんのうした顔しているような。明日から書くものについての頭の内でサーチライト動かしつつ、一面でこのような気分。緊張していて、ゆれていて、それでいてあるゆとり。ゆとりの只中で絶えず或ところへ集注しているもの。目の中に独特のこまかいつや。では又明日。ねむうございます、八時だのに。 
六月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月十日第四十九信
まだセルが届きませんでしたね。いそいで羽織ひっかけていらしたらしく、エリのうしろが折れずにいるのが見えました。どうか早く寝汗だけでも出なくなるように。
さて、ひさは八日の夜八時半、出発して国へかえりました。おめにかかる折がなかったけれども呉々もお体をお大切にと云ってかえりました。稲ちゃん、栄さん、林町、うちは勿論それぞれ心づくしでお土産もらいようございました。「かえるような気がしない、又あしたかえって来るような」と云って出てゆきました。寿江子が来て泊ってくれています。派出婦も毎日ずっといて貰うほど用はなく使ったひとの話ではまことに負担で、家の中の事もち出されて困るというので、日をきめて一週に二度ぐらい来て貰うようにするかもしれません。どうにかやってゆきますから御安心下さい。そちらに出かける時間午後にしてもいいし、或は又門を外からしめられるようなのにしてもよいと考え中です。どんな家庭だってこんなことはあるのだし、仕方がありません。
八日は、ごたついて、くたびれ、この間から何しろかえるかえるでひさがいても一向落付かなかったので、いよいよ行ってしまってかえってほっとしたところもあるというような工合です。
九日は、『中央公論』の、十枚ばかりの感想をかき(映画の「早春」というのに描かれている女の心持の問題について)、夜、寿江子と日比谷公園を珍しく散歩して、林町へゆきとまり、けさ、寿江子をかり出して、夜着をもってかえりました。『ダイヤモンド』すぐ送り出しましたから。
きょうはすっかり暑く、そちらもむしましょうね。八十度近うございます。
六日は、岩本のおばさま、山崎のおじさま、野原から富ちゃん親子とがお客で無事御法事終った由、お手紙でした。予定どおり古代餅は中椀にもって出して皆によろこばれたとのことでようございました。あなたにも安心するようにつたえてとのことでした。でも、お客が皆かえってしまったときはしーんとして、その静かさがお心にしみた工合です。別に何ともおっしゃってはありませんけれども。文章のどことなしにそれが感じられました。来年は来るのを待っている、とおかきになっています。
きょうはまだどことなく落付かない心持です。しかし、今度は冬になって、農繁期が終って、誰かみつかる迄は、こういう状態でやって行かなければならないでしょうから、早くなれてうまくやって行きたいと思って居ります。寿江子は十三日の母の命日が終るまでは東京に居りますが、あのこも緊縮で、夏着るものを林町のミシンで縫っているので、こっちにばかりもいられません。でも、私は昨夜林町へ行って、しんから底からわが家を恋しく思い、わたしたちの生活というものについて、胸の痛いほどの愛着を覚えましたから、淋しささえやっぱり可愛いと思います。そちらでも夕方豆腐屋のラッパの音がするでしょう?そういうとき、あのいつかの絵ですっかりおなじみの間取りの家の中で、コトコトやっているユリを想像して下さい。幅のひろい前かけかけて、それはいつかのように黄色ではなく、紺のですが。
私たちの生活、そこに流れている心持、それはこの家の隅々に漲っていてね、ここは私たちにとってまごうかたなきわが家です。元とちがって、朝早いから不便もすくないでしょう。窓を青葉に向ってあけ、よく勉強し、仕事をし、あなたのお体を段々とよくして行きましょう。
いろいろに工夫して生活して、生活の術を会得してゆくのも面白いと思います。そのうちには又誰かいる人も見つかりましょうから。
本月はね、十五日までまだつづきがいそがしく。伊藤整の作品のブックレビューなどしなければなりません。私はこの作家はこのみません。しかし、判断をもつところまで行かないで読む若い人たちのためには、よくその人々の納得ゆく形で評価のよりどころを与えなければならないから、そういう意味で、しゃんとしたものをかこうと思って居ります。「幽鬼の街」、「幽鬼の村」、それらは現代の知識人の悲しみ、鬼であるのだそうですが、この作者が現実の生活では大陸文学懇話会とかいうところの財務員というのをしているというのも面白い。今日は行為の時代ということが流行(はや)って居りますが、行為の本質という点でそれを見ると、やはり結局はいかに生きるかということと、どういう文学が生れるかということとの関係になり面白いと思います。その点からかいて行くと興味があると思います。
今、下からは寿江子のかけているラジオでベートウヴェンの「土耳古(トルコ)行進曲」が響いて居ります。どうもこの音というものが。寿江子の音楽に対する理解解釈評価それはなかなか同感されるのですが、音楽と文学とは何とちがうでしょうね。音楽をやる人は、謂わば考えることも感じることもすべて音である、その音が、こっちには同時に同じこと考え感じていたにしろやかましいというのだから困ります。三吾さんの兄さんは、弟に勉強させてやりたいと思ってキーキーをこらえていたそうですが、時には辛棒出来なくなって家をとび出したりしたそうです。三吾さんわるいわね。そんなにして貰ったのに。寿江子は段々しまった気持になって来ていて、今夕も御飯の仕度すっかり自分でしてくれる位になったが、音が果して私にこらえられるかどうか。
水曜日、徳さん行くでしょうかどうかしら。どんな返事が来るでしょう。私は出立がもっと先になっていて、もっとあとでいいと云ってくれることを切望して居るのですが。
あのひとが出発するときまったら、御せん別には、岩波のウィットフォーゲルの『支那経済学史』(?)という本、私たちから記念にあげようと思って居ります。文献があげられていてきっとためになるでしょうから。研究の方法をも示しているそうですから。
きょうは、あっちこっち体動かしてもう迚も眠い。九時半迄にはねてしまおうとほくほくして居ります。今夜は寝ながら仕事について考えないでいいのです。極めてニュアンスにとんだ、賢こさや愛の溢れ出ている一つの笑顔を見ながら、その精神につつまれた感じの中で眠りにつくのがたのしみです。では大変早うございますが、おやすみなさい。 
六月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月十一日第五十信
すっかり用事をしまって、おやと気付いてびっくりしたのは、盲腸を切った功徳が又一つあらわれていて、台所をして働いても、体が大して苦しくなく、特に腰の痛まないこと。気がついて、本当に何だか苦にならないわけが氷解いたしました。去年、ひさが国へかえっていた間なんか、五分ぐらい流しに立って何かしても腰がめりめりいうほど痛み出して苦しかった。今はそんなことなくなり、一日が終ってすこしだるいだけ。私の盲腸は考えて見ると実に邪魔して居りましたね。それに、早寝の功徳もやっぱり利き目を現しているのだと信じます。
庭の八ツ手の木の下に一本榧(かや)がありました。南向の庭だがすぐおとなりの羽目でそこは日の目ささずいじけていた、それを、去年の夏まえに、八ツ手をうごかしたとき、一緒にうごかし東の竹垣のところへおきました。去年中は折角うつしたのに何の功もなく相変らずちぢけたままで居ましたところが、この春は猛然と新芽を繁らし一躍七八寸大きくなりました、丈も横も。一年経ってあらわれました。そういうわけなのでしょうね、私も。益〃気をつけて早ね早おきを守りましょう。早おきすると独りの暮しも気が楽です。先のようだと、おきぬけにお客に来られたり、商人にたのみたいものをたのまずかえられたり、間誤付くこと多く、いやでした。今は、十時以後に来る大抵の御用ききはちゃんと必要に応じて間に合わせられるから。
きょうは、一日例の本よみ。海老茶色の本は、私にくっついて机の上から、タンスの上、ちゃぶ台の横と移りつつ。こういう風にすこしは私の体について動けるぐらい馴れて来たのは、わるくありませんでしょう?このこともおかげさまと申さねばなりません。心からおかげさまと、申す次第です。七十頁ばかり。
午後てっちゃんがまだそちらは行けまいかと様子ききがてら、よってくれました。この間、留守のとき、「誰か来て、これをおいて行きました」と、おとなりの女中さんが、さや豌豆(えんどう)の袋をくれました。きっとあの人がお百姓さんから買ってもって来てくれたのだろうと思ったら、やはりそうでした。
あの家、狭くって(まわりが)いやだから、もっとぐるりのひろい家へかわりたい由です。下手な建てかたで、ここより庭がつまっています。おまけに郊外で、あたりはひらいているから、却ってつまったキュークツさを感じるのです。重治さんのところの方が、ああいうところにある家らしいゆとりがぐるりにあります。しかし家はそうたやすくないでしょう。どっちみち。
きょう、『新女苑』という女の雑誌が来て、いろんなひとの、「私の一番たのしい時」という写真と文がのって居ました。入江たか子は曰く、撮影がすっかりすんだとき、家にいてゆっくりお料理をしたりお菓子こしらえられるとき。これはわかりますね。森律子は赫子という養女の女優と芝居へ出る迄の時間二人でぶらぶら遊びに歩くとき、そして芝居からかえって夜半の一二時間。その時間のしんとしたたのしさを語って居り、これもわかる。あと女では、原信子(歌うたい)、男で日夏耿之介氏、居炉裏(いろり)、何だか仏壇みたいに見える傍の机。ちんまりすわっている顔、私も五十になってあせることのつまらなさがわかった云々。そうかと思うと室生犀星。庭でくらすことを書き、八十坪ほどの庭だが一人では守りをしかね、植木屋が入っていて草とり婆さんが、一本一本こまっかい草までぬいていて、雨が降ると障子をしめてお茶ばかりのむのですって。「一時間以上の雨は庭をきたなくするからである」ハッハッハと笑ってしまうわね。明日からは五月梅雨ですから、おお哀れ犀星よ、汝の茶腹をいかんせん、というところです。実におくめんなしに。一番ましなのは、高村光太郎で、いつが一番すきかたのしいかときかれると、きらいと云う時は別にないと気付いた云々。自然です。大体こういう質問に女のひとの方がすらりとあたりまえに答えているのは興味ふかいところです。偶然人によるのだろうけれども。
この頃、ちょ/\吉屋信子が随筆と名づけるものをかきますが、私は、面白く感じてみます。菊池寛の「話の屑籠」とやや似(にか)よった平俗性に立っているところ、ああいう通俗作家のセンスというものの共通なところわかって面白いが、又お信さんのは一段とザラ紙のセンスで、とめどなく大味とでもいうか、可笑しい。この間自分のにせものが大阪にあらわれて宿やでかっぱらいして逃げたのですって。それをプリプリ怒って書いている、宿屋をする位なのににせものの見さかいがつかないか云々。自分の顔は天下に知らぬものないのに云々。かっぱらいする女が自分のにせで通る、そこに何とも云えぬ皮肉を感じないのね。自身についての皮肉、世間のめくら千人への皮肉や悲哀、そういうものまるでなく、元知事某がおこるときみたいにおこっていました。こういう感情の、全くのおかみさん性、なかなか彼女の通俗作家としての成功とぴったり一致しているものですね。一番低くてひろい底辺の一部をなしている意味で。それが、逆立ちして、形の上であらわれているのだから、文化の歴史も一通りのものではないと思われます。
きょう「ミケルアンジェロ」の話がてっちゃんと出て、あの著者はこれより前の著述でも、あの文章にあらわれている感動性が溢れていて、対象によっては形容詞が多すぎて、妙だそうですね。そうお思いになります(りました)か?芸術家を扱い、対象とぴったりしているために邪魔ではないが、やはり或過剰があります、たしかに。それはすぐ感じますが、それにしろ、そういう過剰など持とうにも持てない人ばかり多いときには、やはり過剰であることにあらわれている著者の未熟さを云うより、そのもとにあるものをとりあげなければなりますまい。その点も同じ意見ではありましたが。よく引しまっていて、そのひきしまりにこもる力から鳴りひびくものを感じる程度に到達することは、小説をかくものにとって一流の一流であり、まして歴史家の場合は。へんな構えや様式化にならず、一見実に無駄なくパラリとした文章で、よんで見ると大きさ、しっかりさ、空間の流れるもの、人生へおろされている根のふかさが、じーっと腹に迫って来るような文章がかけるようになったら人間も相当なものであると云わねばなりません。露伴みたいに、空や水、水や空というような塩梅ではなくね。これまでのすこしどうかした文人は、皆ああいう工合に霞んでしまったから仕様がない。露伴にしろ明治二十八九年、まだ初めて作品を出した時分、一葉のところへ訪問して、「あなたの若いのがうるさい、早く年をおとりなさい、だが年をとったら又わびしいかもしれない」などということを云い、ロマンティック派の星としてあらわれた時代があったのです。この時代のロマン主義者たちは(文学界の人々)自然主義時代を成長の形として生きとおした人、ごくまれです、藤村がやっと凌いだが、彼のリアリズムはやはり主観の範囲にとどまっています。
寿江子が散歩からかえって来ました。奇想天外ななりで。雨が降っていて、今着られる服はちぢむというので、外套の下とは云いながら私の大前かけにブラウスといういでたちで。眠るために歩かなければならないというのだから、まだまだ可哀そうなものですね。
私は、お湯をどっさりわかして、ホーサンを入れて体をさっぱりと拭いて、そして、これを書いていたというわけです。
隆ちゃんから手紙来。どこかへ行っていて、私が五月十日ごろだした手紙をやっと見たと云って五月二十四日づけ。やっぱり達ちゃんのところとは大分ちがいますね。この間送った写真(あなたの方とおそろい)もきっと随分手間がかかることでしょう。何にもこまかいことなく、只手紙の礼、お母さん御上京のよろこびだけです。あなたに呉々よろしくとのこと。
本月二人に送るものには、面(めん)蚊帖を入れてやりましょう、これは顔をつつむ蚊帖です。それに隆ちゃんには肩ぶとん。ものをかつぐとき当てるものです。それに、一寸した下駄みたいなもの。隆ちゃんは、手紙書いた日に酒、タバコ、ビールの配給をうけた由です。どのあたりにいるのか、凡そ見当もつかない手紙でした。そちらへ何か来ましたか。
どうか呉々お大事に。私はこういう言葉、あなたには只一ことでいいのだと思ってがまんしているのですから、どうぞ御推察下さい。 
六月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月十三日第五十一信
きょうはなかなかむす天気です。御気分はいかが?
きのうはいそがしい間、もうすこし待ってくれ待ってくれと云っていたお客日で、一日。
動坂の家に、小説の原稿をもって来ていた女のひと、そのひとは御存知ないが、作品おぼえていらっしゃるかしら。あの小山いと子さんがこのごろ、とにかく女流作家ということになって来て居ます。久しぶりで来て、いろいろの話。旦那さんはつとめのため福島の方へ行っている由。桜木町の家には女学校五年と一年の娘と三人ぐらし。一昨年からそういう生活。そして仕事を発表しはじめている。話の間で女のものをかく人はいやだ、男の方が親切と云うので、男は、てんで問題にしないで高をくくっているから親切みたいなんで、女は一応互角のように思うからなのだろうと話したことでした。アフガニスタンにおける日本の土木技師の生活をかこうというので大苦心です。この人は、小さいこせこせした身辺小説はかきたくないというのはいいのだけれども、大きい題材をこなすだけの生活も勉強も足りないから、メロドラマに陥る。人間との心持もまだまだふみわけ入っていないところがあるし。大変なものですね。
いと子さん、私がおひるの仕度して台所にいたら、立って来て手つだってくれました。豆をむきながら、本の話などしました。上の娘は自然科学がすきで、理科をやりたいのですって。下のはヴァイオリンをやっている由。こういう母子三人の暮しぶりというものもいろいろに思いやられます。
夕飯まだ仕度出来ないうちに(昨夜の司厨長寿江子)若い女のひと三人どかどかと来て。人生の曙に立っている人たち故なかなかわかりたいことが多くてね。一人一人がやはり自分の問題をもっています、生活から。勉強をつづけて行くとしてどういう風にやるか、その他。結婚して通っている女の子もいます。家のことや何か率直に友達同士話しあっていて、面白いところがあります。「あら、もうかえりましょう、ね」などといいながら九時半までいました。
それから、早くたいておいたお風呂に入り。寿江子がくっついて来て、わきでフーフー云って洗いものをしていて、まるで、私まで、自分が洗濯もののような気がすると云って大笑いしました。何しろせまいのですから。
お風呂から出たら何とも彼ともねむくて、寿江子の一服にもつき合えず。フラフラになって二階にあがって、スタンド消したの覚えているかいない位です。
今朝は、すこし丁寧に台所を清潔にして、あがって来てこれを書いて居るところです。寿江子は何しろ、昨夕、台所一人でやってへばったと見え、まだおきません。寿江子きょう林町の法事へ一緒に行って、それでかえりきりになります。私は十四、十五、十六日といそがしいから、又机にへばりつき。すこし埃っぽいのは我慢してね。
人間というものは可笑しいこと。もと上落合に一人くらしていた時分、ひとり眠ること、普通の意味ではこわくもなかったし、平気のようでしたが、あの家で五月の或朝、不図目がさめたら、ベッドの横にめぐらしてあった屏風の上から、帽子をかぶったなりの背広の顔が二つ出ていて以来、一人はほんとにいやになってしまいました。こわいと、いやとは別ですね。寿江子がいなくなったら、本間さんといううちの久子という女の子に夜分だけ泊って貰おうかとも思います。このこはつとめていますから、ほんのねるだけ。朝はこちらも早いから平気ですから。こんなこと云っていても、結局誰もなくて、やっぱりひとりになって、又馴れてしまうかもしれず。あなたは、大して気にして下さらないでいいのです。私はあなたにこうやって、ああだのこうだのということ云わずに居れず喋るのですから。そうかいときいていて下すって、それで十分。
御愛読の詩集、このごろはどんなところの光景でしょう。先達ってうちは、何か詩集を閉じて、枕のわきにおいて、大きい目をあいて天井を見ているような心持でしたが、この節は折々パラパラと風で頁がめくれます。一寸そこを見るとね、樹蔭に小さき騎士が横になっているところが描かれています。眠っているのか、ただ横になっているかよくわからないからでしょう。泉の仙女は、気づかわしさとやさしさとの溢れたおとなしい身ごなしで、すこし首をのばす姿勢で、そーっと小さき騎士の方をのぞいて居る光景。あたりの空気は初夏の青々とした、そして静かなやや曇り日の昼間。小さい騎士の息づかいと泉の仙女がすこしつめたような工合でしている息とは、青葉の一枚一枚に静けさのとおっているような、あたりのやや重い空気の中に一つとなってきこえます。小さい騎士はどんなにして目をあけるでしょうね。泉の仙女の顔は、その刹那どんな輝きにつつまれるでしょう。この插画はうまく描かれていると思います。これだけ想像させるのですから、小さい一枚の絵で。少し心配げな仙女の薔薇色のプリッとした顔立ちは、可愛いところがあります、そうでしょう? 
六月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月十六日第五十二信
暑いでしょう?この二階八十度です。きのうからきょうは、ハンカチーフをもって、汗をふきずめです。明日から又梅雨の涼しさになる由。だるくていらっしゃるだろうと思います。さすがにきのう、きょうは単衣一枚でしょうね。
十四日にユリがかぜをひいているとおっしゃったのは、当って居ました。あのとき自分で何だかすこし鼻声だ位思っていたらあつくて汗かいて、そしてくしゃみをたくさんして、けさはおきる早々食エン水をこしらえてうがいしました。一種の風邪ですね。鼻の奥からノドが痛いようですから。汗だくで鳥肌立ったりして居ります。こんな工合ですもの、余りぱっとなさらないの尤もです。街では、甘納豆で中毒して人死にがあったりして居る季節ですから。
弁護士のひと、もう行ったろうかしら、まだらしい。そういう気がします。細君につたえておきましたが。大森の方のことは昨十五日いろいろわかりました。旦那さんに手紙やった返事がゆきちがったり混雑したようです。これはおめにかかって。
きのうは、朝のうち「あるままの姿は」という題で伊藤整の「幽鬼の街」と「村」の批評をかいて九州へ送り、郵便局からかえって来たら、いろいろの人が珍しく来ました。いやに母子づれが多いのは可笑しゅうございました。松山さんの奥さん、息子をはじめ。松山さんの息子は松山さんと奥さんとに似ているのですが、その特徴を合わされた小さい顔を一つだけはなして見ると、どこか徳田秋声に似ているの。何だか面白く思いました、その子が「おブー」なんかと云っているのは。
女中さんのこと来る人ごとにそれはいけないと云って心配してくれ、すこし当がつきました。二人。一人は九月頃以後、もう一人の方はいつ頃か不明。しかし、いずれも農繁期ですから、秋に入ってということになるでしょう。本年はどこでも蚕の値上りで、例年より多くはき立てたのだそうです。それでも、皆が心配してくれて、うれしゅうございます。やっぱりひとりだと、仕事している間食事の仕度してくれるものがないから、それが終ってからフラフラぐらいでやるから。
くたびれて早く横になっていたら寿江子が来て、泊りましたから、ゆうべはのうのうとして眠りました。きょうはこれから、これを出しがてら、一つ電報をナゴヤの帝大へ送ります、何の間違いか感想のようなものと思っていて、ゆうべよく手紙よんだら短篇です、それではきょう中には駄目ですから。いろいろの大学が何となし地方色や特長をもっているのを見くらべるのは興味があります。先方とすれば一本の糸が私につながっているぎりですが、私の方から見れば、すこし大きく云えば日本中だから。
阿部知二は法政の教師ですが、『中公』にオックスフォードの十二人の学生が、「われは戦うか?」という題でそれぞれ執筆した論文集について感想をかき、マアその感想は小説「幸福」に類似の迷路ばりですが、その中に自分の接触した学生で上流の学生は時局認識がうすいというようなことを云い、オックスフォードのお歴々の息子たちが、それぞれ自分の現実の問題として「ウッド・アイ・ファイト?」という問いに答えていることをのべて居ります。自分の現実の問題というところへ、考えの重点をおくよう、云って居て、それはそれだけ見て当っていますが、抑〃この自分というものが、実に多面な困難にぶつかっているわけですから。
きのう『婦人公論』が来て、いつぞや一寸かいたと思いますが、「私の不幸」という三枚ばかりの文章。いろんなひと、例えば金子しげり、時雨、夏子、宇野千代、私など。なかに稲ちゃんが女の不幸を自身の不幸として云っていました。現代のこの歴史のなかでの女であるということが、決定的に不幸であると、だが仕方がない、やって行くしか仕方がない。「女というもののほかに自分の性格というものもありますから」と。これは何かよんで苦しい文章でした。何となくこの頃わき目に苦しそうです。
女の作家など、文学全般の低下のままに、ひどいありさまとなって只達者に、女だものだからそういう露出性、ばかさも男の下らぬ興味をひく故のような作品など、恥知らず書いたりする世の中ですから、一方、真面目な女の辛さは倍加するわけです。しかもその苦しさが、爽やかにはゆかず。苦しさをも快よしとするような高く翔ぶ味でなく現れるのですね。
この短文のなかで、私は不幸と固定して感じつめているものはないことや、スポーツにおけるフェアプレイのよろこび、かなしみ、善戦というものの勇気、それが人生の感じで、もし私が道具としておしゃもじ一本しか持たないとして、対手が出刃もっているとして、やっぱり私はそのおしゃもじを最大につかって、たたかい、それを道具としてすてない勇気、を愛しているということをかいたのですけれど。現実のなかで女がどんなに低いか、それを知らず踊っている人々。それを痛切に知って苦しむ人、その痛切な知りかたや対しかたが、一緒に生活しているものの微妙ないきさつでいろいろなニュアンスをもって来る。私は女も低いが、男の低さ、そして人間の大多数おかれている低さ、そうどうしても感じが来ます。
小説のこと考えながら、この間送りかえして下すった『日本代表傑作集』ですが、よもうとして出したら皆ひどいのね。宇野浩二のきりぐらいです、ましなのは。それだのにあの序文の大きい文句。この頃に又去年後半期分というのを出しましたが、その内容を見るとやはりどうかと思われます。
私の書こうとしている小説はね、姉と弟です。田舎から東京へ出て来ている。姉の側からの心持。姉は二十一。弟は高等をこの三月に出て、三月の第三日曜日に先生にひきいられて、一団となって上京して来た少年たちの一人。今年はじめてです、こうやって少年群が、就職のため、先生につれられて来たのは。三月のその第三日曜日からかきたいと思っていたもの。
宇野浩二と深田久彌の作品をよんで感じましたが、宇野の作品には、おのずから自分の書いている世界への情愛がにじみ出しているのに反し、深田のは(「二人の姪」)明るく「愛は知慧の巣」というような表現をもちつつ、対象の世界へずーっと入りこんでいず、ある距離をおいて眺めて、感じるものを感じると自覚している心の姿勢。随分なちがいですね。「器用貧乏」あの境地にはいろいろあるけれども、それでも作者の血液がしみとおっている点では真物です。今夜は小説のこねかた。小説の世界が次第に鮮明に(部分部分から)なって来ると、人のうごき、声、表情、場所の光景が目にうかんで、独りでなくなって、何人かの人間をひっぱって自分が歩いているような気になるのは面白いところです。桜坊の話が出たので、本当にたべて頂きたく思います。ふたつぐらいきっと毒ではないと思うのですけれども。二十一歳の姉娘はもう相当具体的に上野のプラットフォームに立ったりするのにまだ名がありません。弟の方も。では又明日。 
六月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月十七日第五十三信
きょうの天気予報はくもり時々小雨でした。ゆうべ、おふろで洗濯をしてね、白い干しものを夜の物干しにもってあがって、折角洗濯したのに降るのかしら、私が洗濯なんかしたから降らざるを得ないのかしら、困ったことだ、と思っていたら、けさはからりとして、すこし間で怪しかったが、午後はこの通りの快晴。家じゅう風をとおし、すっかり大掃除をいたしました。家じゅうしめっぽかったり何(なん)かするところのないさっぱりした気分で、例の茶の間に坐って小説よんでいたら、青い八つ手の葉かげが、二月堂の机(黒塗りでふちに赤い細い線の入っているの)の上に青くちらついて、ちょっと、いらっしゃらない?と云いたい心持がせき上げました。風で風鐸は鳴っているし。私は、紺絣の着物をきてその座敷にいるのです、半幅帯をチョコナンとしめて。
頬杖をつくようにして待っていたけれど、あなたはいらっしゃらないから、今度は私がそちらへ行きます。紺絣のきもので、一寸前かけかけて、青っぽい廊下草履はいて。そこへ行ってふとんにすこし膝をかけるようにして坐りこんで、さて。私は何となしあなたの額や髪をさわって、余り大きくない声でうかがうでしょう。どう?フム。そして、いつもの笑いかたでお笑いになる。私もそういうあなたの笑い顔にこたえるいつもの顔ですこし笑ったような顔になって、それから黙ってお互にしばらく眺めていて、やがて私が喋り出します。きょう、御飯、どんなでした?そう?それなら、御飯にすこし食塩をかけてあがって見たらどう?おむすびはさっぱりしてうまいでしょう。工合がよくないと、お米の匂いやあまさが舌にもっさりして入りにくい。ほんのすこし食塩パラパラとやって御覧になるといいわ。すこしは変っていいかもしれないから。
こんな話はひとから見れば景気もよくない話ですが、それでも、ゆっくりした調子で、互を互のうちへ吸いこむように眺めながら話していれば、やっぱり、それはたのしいわ。そして、やすまります。(食塩のこと、本当ですからもしまだでしたらためして御覧下さい。或はもうエキスパートでいらっしゃるから、ちゃんと経験ずみかもしれませんが。)
それから私は封筒の話をします。この頃まるで紙がわるくなって、それにいつも只四角くて大きいの、飽きるでしょう、だからすこしは涼しいような色や形と思って気をつけて見てもろくなのがないから、到頭あの水色のような日本封筒にして見たのですが、どうかしら。色は軽くていや味でもないでしょう?ペンで表かいたり中から細かくペン字のつまったのが出るのは似合わないようですが、私が筆で巻紙で、大きい字さらさらと書くと、あれはお客用ですから、字の間から心持が洩ってしまいそうです。もしいやでおありにならなければ、すこしあんなのをつづけましょうか。
これは薄藤色ラベンダアですね。これもやさしい色合いでしょう。
それにしても、私は自分の背の小さいのが不便です。人ごみの中に入って、前のひとの背中へ鼻の頭がぶつかってばかりいるのなんか平気だけれども、そこの横のしきりが私の背たけだと胸のところまであって、帯のところがちっとも見えないのですもの。これは本当に落胆です。色どりの中心は帯と帯どめですから、たとえば私がおしゃれしたって、目も心もない板ばっかりがくっついているのですから。
ああ、そう云えば、この間『日日』の「ウソ倶楽部」に出ていた話。
或日、上野の動物園で鳥どもが大さわぎしている。行って見ると、沢山のとりどもが集って、真中に一人の男をとりかこんでごうごうとさわいでいる。よく見たら、その男は伊藤永之介でありました。(「雁」だの「鶯」、とりの名づくし故)これは近来の傑作で、おなかの皮をよじりました。
ね、あなたはあなたのまるいついたてをどこへお立てになります?こんな風?それとも、こう?いっそのこと、邪魔っけな枠をみんなとってしまいましょうか。
そこで私は近く近くとなるにつれて段々小さく小さくなって行って、しまいに、私の黒子(ほくろ)に消えこんで、それで安心して、笑って、キラキラ光る涙をこぼして、それでおしまい。
先達って「ミケルアンジェロ伝」の中で、著者はなかなか芸術についても良識的な感覚をもって語っていていいと思いましたが、ただ一つ、ああまだこの著者には描きつくせぬところがあると、思いました。それは、芸術の態度、特に自然についての部分。覚えていらっしゃるでしょう。あすこに云われている過去の日本の芸術の伝統が自然に向って来たことについては、全く正当です。そして、あすこでとりあげられているのは読者のために有益です。しかし、あの著者は、まだ、人間が或場合、最も科学的でありリアリスティックであるがためにこそ、却って、青い青い月の光りのなかに満腔の思いをこめて、表現しなければならない場合のあること、そういう余儀なさについてはふれていません。ふれ得ないのだと思う。自然に対する東洋的態度というものそのものについても、もうすこし深くながめると、そのよって来るところは、自然へ逃避するという、一方逃避せざるを得ないものがどのくらいひろく存在していたかということであると思います。
支那の生活はあの位歴史的に波瀾多く、苦窮の底は深く生命は浪費せられていた、そういう支那に仙人や仙境が流行ったようにね。私はあの本のあの箇所をよんだとき、科学性に堪えぬものに恥あれ、と痛感した次第でした。つまり、月の光を語らせるものに。現実は何と微妙でしょう。ときによっては「不思議な国のアリス」の物語だって、決して非科学的ではないというような意味で、ここにまで及んで書きわけられる筆というものは、学問ではありませんから。
さっき隆ちゃんから手紙来ました。この間送った小包のついた知らせです、出発のときもたせてやった防塵目ガネ、やはり大いにたすかるそうです。ひどい砂風の由。日中百三十度ぐらいだそうです。周南町(市(いち)の方らしい)出身の人が二人いるそうです。隆ちゃんもやはりめきめきはっきりした手紙かくようになってまいりますね。書きなれて、字も自分なりにまとまって来るからおもしろいものです。隆ちゃんのは、いつも本当に簡単。便箋一枚。でもふれるところへはみなふれて、気持がわかりますから、心持よい手紙です。すぐ返事をやりましょう、これのつづきに書いて。では又明日。きょうは暑いけれど昨日のようにむしませんね。よくおやすみ下さい。 
六月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十一日第五十三信
そうかしら、四信ではないかしら。
それでもすこしはゆったりしたところならいくらかましでしょうとこちらの息もやや楽な感じです。かえったら南江堂の本届いて居ましたから着物と二包速達しました。今度の紺ガスリとある方は、本当にひとにお会いになるとき用です。今ねまきになすった方は、どうでもようございますが。紺ガスリ例によってそちらの洗濯にお出しにならないよう。お送り下さい。
きのうは、かえってからマツがなかなかアクティヴなので、すっかり夜具干しして、風呂敷につつんでしまって、きょうはマツ縫いなおす分のほどきものをして居ります。夜具がしめっぽくなりそうなまま戸棚につくねてあったりすると気になってしかたがなかったからいい心持です。でも痛し痒しで私は苦笑している、というわけは、マツは二日ばかりここへ来て大掃除手つだって上げてと云われて来ているので、活気溢らしていて、些か私の方がつかわれている工合です。私は布団もほしたいが、すこし落付いて書きたいものもあるわけなのですから。いろいろと滑稽ですね。でも、今快晴がつづくのは助ります。もうすこし経つと咲枝パンクで入院ですから人手たりなくなるし、私が留守いをしてやらなければならなくなるから。予定日は九日だそうです。咲は、太郎のためのみならず、ちゃんとした人がいてほしいのです。それがよくわかるし、ほかならぬお産のことですから、私も我マンしていてやります。国男はお産のときそばについていてやれないのですって。そわそわしてお酒のんで、ちっとも酔わないで、ウロウロしているのですって。全く古風です。お産をするおかみさんの手を握っていてやれないなんて、ね。
この間、法政の新聞に『ミケルアンジェロ』のブックレビューをかきました。そしたら五郎氏からミケルアンジェロの「奴隷」のエハガキに細々とかいたお礼頂きました。ノートとっては勉強する人の字はこんなにこまかく書く癖がついているのでしょうか、蠅の目玉よ。殆どエハガキの下の細かい印刷文字と等しい。よむのさえ大変。よくよく目がよくなくてはかけまいと笑ってしまうほど。私と私の愛するかたの健康と幸福とを祈るとあります。私の愛するかたと云えば、つたえるべきかたは一人しかないからおつたえ致します。この著者には前に福沢諭吉、新井白石の伝がありますね、大教育家叢書とかいうなかで。
一昨日は、この間うちからもうすこしでまとまるところになっていた開成山図書館へ送ってやる本の選択完結。『シートンの動物記』それからイーリンの時計や本の歴史、などそろえ林町へわたして、一安心いたしました。シートンが動物の生活を見ている見かたは、ファブルの昆虫より遙かに平明で、平日的です。ファブルの南方フランス気質の誇張やドラマティックな身ぶりはない。ややキプリングの「ジャングル・ブック」に似ています。やはりアングロサクソンの気風がある。しかし鳥のハドソンには劣りますね。こういう動物生活の研究者たちは何故しっかり科学の上に立ちきれないのでしょう。そして、チンダルがアルプスの氷河や旅について書くようにかけないのでしょうね。変にロマンティックになってしまう。シートンが、バルザックの「沙漠の情熱」アラビアの守備兵のフランス人が沙漠で一匹の牝豹と一つ穴にくらし牝豹が彼を恋す。逃げ出そうとすると豹が怒る、友軍に出会ったときのがれるために豹を射ち、その体を抱いて泣く。その豹の眼の色が恋した女のに似ていたから云々というような下らぬ話をそれなり筋だけとって書いたりしている、ことわりはチャンとつけていますが。これは動物の生活の研究者の書く話ではありません。シートンは画家でもあって、細君と二人天幕をもって何年もロッキー山脈のあなたこなたを旅して暮したのですって。書くものはともかく、そういう暮しはわるくあるまいと思いました。この人の顔の表情はすこしファブルに似て居ります。それでもやはり面白いものは面白く、今度寄贈のためにあつめた本の代金として国男の払ったのは五十円位ですが、大抵七割八割での本で、実質に到ってはなかなか優秀です。太郎が毎夏開成山に暮します。いつかはそれらの文庫をよむでしょう。「三年に一度ぐらいずつおやりよ」とすすめて居ります。こうして本のいいのが集ったら手元におきたい心持が実にする由。「だからうちでも一つちゃんとした本棚をおつくりよ」と云って居ります。揃って居るとよむ、そういうのですね。食堂のファイアプレイスのよこの棚をそういう本の棚にすればよいと云って居ります。さがしてよむのは本ずき、手近にあるのでよむ、それが普通。本のない家庭というのはいけません。太郎のためにそろそろ心がけなければ。
二十三日に工合が格別でなくておめにかかれればうれしいと思います。先月は八日以後は三度でしたが、本月きのうまでで三度でしたね。二十三日の後もう一度月末ぐらいという割合でしょうか。もしかすると遠いから無理でしょうか。無理かもしれませんね、用がさし迫らなければ、私は辛棒いたしましょうか。
夏のかぜというのは妙なものですね。ぬけにくいということはきいて居りますが、本当にぬけにくいこと。汗をかく、ゾーとする、クシャミスル、ハナが出ル。そういうことがくりかえされるのです。こうだからとそちらの大変さがわかるようです。
市内の赤痢は相当です。物価があがったから原料など惜しみます。そこからも原因がある。いろいろの世事。葦平が若松市の高額納税の第六位で一万何千とかをおさめるとか。古谷綱武という評論家(でしょうか)は独特な人ですね、『丹羽文雄選集』の編輯者となって、一巻毎に解説年表その他古典に対すると同じことをやっている。トーチカ心臓の世渡り二人組。林芙美でさえ、歎じて曰ク「男のかたは皆いいお友達をおもちだから」云々と。それは横光=秀雄などというコンビネーションについての場合だそうですが。
私は人の心のすがすがしさを求めます。誠意の安らかさと、つきぬ深さとをもとめます。そして、この渇望が、この頁の第一行めに結ばれるのです。はげしく、激しく。こうかくと、自分がまだどんなに光の源泉、安らいと励しの泉というようなたのもしい人物からは遠いかがしみじみとわかりますね。求めることにおけるアクティヴ。これはいろいろに考えられますから。考えの糸はまだつながって居りますが、一応これで。お大切に、どうぞ大切にね、 
六月二十二日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十一日第五十四信
この手紙は、さっきの手紙を書き終ってから下の四畳半へ引こしをして、旅行からかえって来た足につぎのあったカリンの四角い台をおいてそしてかき出しました。ここは右手に窓があってそこから光線が入るものだから、書く手元にうすい手とペンの影が落ちて、何だかシュールリアリストの「手紙」という題のような感じを紙面に与える。スダレがいりますね、これでは駄目だから。大分こちらは涼しく、光線が直接でないから落付きもします。たまには坐って見るのもわるくない。長時間は駄目ですけれども。
『セルパン』が来て、その中に女性の叡智、感覚、女性の知識と愛情などというものをいろんな人が書いています。知識と愛情というのは外国の女の人がかいているのですが、男は自我がつよいものであって、どんな愛情もその自我には抵触させない。自分の自我がおさえられそうな女は愛さない。女は、結局、知識をも、それによって魅力をより豊かにするように心がけよ、というような意味を云っていて、それは勿論どんな女にだって分ることだと思います、それだけ切りはなして云えばね、でも、現実はそう単純ではないから、そして今日の世界は決してそんな清浄界ではないから、男の自我そのものに女の人間としての歴史的な疑問も当然向くのであって、すべて女のもちものを、今日あるままの男の水準で魅力と思われる範囲に止めておく方が所謂仕合わせであるというところに大なる女の不幸があるのではないでしょうか。そして、大局には、やはり男の不幸が。パール・バックのこの誇らかな心では男にとって魅力以上であり、しかも女らしさに溢れる女の苦しみを語っているということをよんで面白く且つ非常にふかく印象づけられているので、なおそう思います。稲ちゃんの生活についてだって十分それが云えるのですから。だから女が従来のカテゴリイでの女らしさを殊更らしく云々したり、情痴的な要素にしか女の愛らしさを見なかったり、そして女も男も低いところで絡んでしまうのだと思います。ねえ、自分が可愛い女であることをのぞまない女が一人だってあるでしょうか。女のリディキュラスな面はそこから出ているとさえ云える位です。今日までの歴史のなかで、女が愛されることをもとめずに、愛して行くよろこびに生きようと覚悟のきまる迄にはどの位の悪戦苦闘がいることでしょうね。何故なら、女のなかにこれまでの歴史の跡はきつくつけられているのですから、やはり愛されたいという受身の望みが激しくあります。それにもかかわらず一方では、女の生活そのものが、その或ものをよりひろい世界に押し出していて、所謂手ごろな女の域はこえてしまっている。そういう場合、そういう歴史的な裂け目に立つ女は、いずれ、なみの女よりも情熱的であり或は意欲的なのだから、一層はげしく女としての愛の渇望をも自覚し、しかもその現実での姿に適合したものがなくて、もし彼女が真に勇気と人間らしさをもっているなら、終に一つの巨大な母性へまで自分の女性の諸感情をひろめてしまわなければ、まともに生きぬけられないでしょう。これは実に悲痛なる女性の羽搏きです。女の生涯の深刻なテーマです。これまでの何人かのチャンピオンたちは彼女たちのいろいろのよい資質にもかかわらず、この女の愛の転質の苦しい過程で挫折して居ります、松井スマ子にしろ。彼女は、そして又多くの女は、現実の中で日常性で、謂わば動物的な自然の力から、彼女の母性をふくらがしてゆく子供をもっていなかったため、自分の人間性の要素の展開を自力でしきれなかった。それだけの精神の多様さ、自由な想像力、普遍性で自分一ヶの存在を感覚し得なかったのであると思います。
ユリが、一人の女、そして深く深く愛されている妻として、こういう風に考えるに到って来ているということ、私たちの生活にある様々の条件に即して観た場合、なかなか味は一通りでないと思われます。何年間かの生活で、随分苦しいいくつかのモメントを経て居り、又日々に新たなそういう飢渇のモメントをもちつつ生活して居る。そして思えば思うほどかけがえなき愛が自身に向けられていることを感じるとき、飢渇的な面に止っていることに満足されなくて、どうしたら、この愛が、よりひろい響きを発し、花開くかと思いめぐらすようになります。これは、すべての内的過程がそうであるとおり、いくつもの、年を重ねるさし潮、ひき潮があって、段々に海岸線がひろげられてゆき、少しずつ、美しい景観がひらけて来るというようなものです。非常に遅々ともして居ります。怒濤もあれば、気味わるい干潟の見えるときもある。そういう時は、私はまだいくじがないから、あなたのそばへよって、じーっと怒った眼付で、それを見つめます、その度ごとにいつも一つの情景を思い出しながら。或夜、春のようだねと云っていらした冬の晩、お茶の水の手前歩いていて、その辺は暗いところへ、左手からサーとヘッドライト照して自動車がカーブして来た、そのとき、私がびっくりして立ちどまりつつ、実際体であなたに近よったのは一寸か二寸のことですが、心ではすっかりつかまっていた、その心を自分で、自動車にびっくりしたよりも深く愕(おどろ)いた、そういう景色と心持とを常に思い出しながら。
ああ。この部屋にいると何と青葉の風が私の皮膚の上に青くうつるようでしょう。
二十二日
きょうは雨。いい日にふり出したと思います、すっかり干すもの干してしまって、きょうは私一日小説をかいているから、丁度二階が眩しくなくて。この小説はきょうとあしたとで書きあげます。一寸したの。しかし前からかきたかったもの。書いてしまったら申します、いつか話していた姉弟の話、あれはすこし大きすぎるのです、場所に合わして。あれはあれとして、別にかきます。
御気分はいかがでしょう。割合照りつづけましたから、きょうの雨はやはり悪くないでしょうか。
マツ、あしたの朝そちらへ行ってかえる迄いてくれます。それで大助り。月末には越後の方から女中さん、見つかるかもしれません。本間さんの知っている手づるから。誰でもよい、いる人さえあれば。そして年よりのひとでなければ。どうかあなたも御安心下さい。越後のひとは、辛棒づよくそしてお金ためるのが上手の由。私の世帯も、もしその子が来たらまかしてお金持!にしてもらいましょうか。但、それが裏がえしに作用されたら相当閉口いたしましょうね。大笑い。
ね、私は心からねがっています、あした工合がわるくなくて、代理ではなくお会い出来るように、と。あしたはどんな花にしましょうか。青々としてたっぷりした鉢植えがあればようございますが。いつぞやの藤、お引越しのときお出しになってしまったでしょう。今小説の中では、一人の女が、雑司ヶ谷の雑木林のところを歩いて居ます。 
六月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十三日第五十五信
ようこそ!ようこそ!けさはうれしいおくりもの。ありがとう。「ポストを見ておいでよ」とマツに云って、これが来たので、思わず目玉ひとまわりさせ、髪をとかしかけのままよみました。
勿論私は、達ちゃんたちにやきもちはやきません。いろいろそうやって本をよんだ心持など書くとは、達ちゃんも結構です。あなたのいろいろの御親切もそうやって通じて、うれしいと思います。同じ一年或は二年が彼の一生にとって何とちがう内容でしょう。
藤の話、そうだったの!きょうの寄植というのはいかがでしょうね。きれいで、匂いも心持よければいいけれど。
「ミケルアンジェロ」、環境の説明の点、たしかにそういうところありました。しかし、新書の読者のためには謂わば、ああいう説明そのものさえ有益でしょうから。仮名づかいはやっぱり腑におちかねるところが、或正しいカンでもあるのね。この頃は一般に、大変漢字をすこし使う文章をかきます、皆が。数年前の方向とは逆の方からのはやりとして。或種の思想家は特にそれを特徴とさえしている。
起床、就床。これはもうやや(ケンソンして)癖になりかかりました。体の調子が、ちがうのですものね。早ね、早おきがずっとされていると。仰云るようにして見ましょう。勉強、これは余りえばれません、十日以後は。今からおふくみおき願いますが。座談会の話、十分によくわかりました。そういう点では無頓着にしていないのですから、これからも猶気をつけましょう。
「はたらく一家」のこと、あれだけでも、きょう云われていることの意味は分っていました。わざわざありがとう。私は笑われるかもしれないが、こういうことに関しては、どんなに省略的にかかれていても恐らくよみちがえていうことは決してしないのです。よみちがえるというより、省略が即ちピシリという感じで来るときだけ、云わば読みちがいでもない、何というか、とにかく、変に強く感じて、汗を出したりするだけです。家庭物語や思い出というものがそういう意味で緑の原となるのは、やはり作者が、そこに流れている歴史の波と人との関係をはっきり把えているときだけであると思います。そういう点でしっかりつかまえて云うことが出来れば、こういうものも面白いものです。必要でさえあると思います。
「マリイの仕事場」などはそんな点からも面白うございます。これはなかなかいい小説の一つです、近くお送りしましょう。隆二さんの詩の話、(きょうお話した)すぐ思い出して下さってようございました、いつかからお話ししようとしていたことでしたから。その詩性についての私の解釈の誤っていなかったことも確実となって。
重治さん、『改造』に詩をかきました、バーンズとハイネの諧謔詩をまぜ合わせたような詩です。高すぎる本を買ってしょげたが、息子にその本をつたえよう、孫にその本をつたえよう、息子がおやじがおれにくれた本と云って孫につたえる、そういうような詩。極めて詩的でない云いかたで紹介して、わるいけれど、マアそんな風です。
さて、きょうは私はホクホクデイなわけです。朝こんなおくりものを頂き、そして、お代りではないあなたに会えもしたのだから。あの節の話、承知しました。そのように計らいましょう。
私は本当に御機嫌はいいのですが、気分はわるいという板挾みの有様です。カゼ。昨夜も八時すぎ床に入ったのですが、どうもはっきりしない、これは、こんなときカゼ引くとぬけないという条件もあるのですが、夏の風はこまること。益〃もって、目がちらついて来るようです。きょうはもう横になってしまおうかしら、思い切って。いくらか仕入れることの出来たこの薬を、大切に二粒ばかり口へふくんで臥てしまおうかしら。臥て、詩集でも眺めていたらこのカゼぬけてしまうかしら。御意見はいかがですか。小さき騎士の逍遙というのをよもうかと思います。すこしものういところのある騎士が、しずかな森の間や泉のほとりをそぞろ歩きしている、その姿はなかなかよく描かれていますから。立派な男の自然の気品、優雅さ、騎士の身にそなわる、それらの美しさをよむのが私は実にすきです。真に男らしい男の優雅さ十分の力や智力が湛えられているところから生じる優美さは、何と深い深い味でしょうね。そこから目をはなせない魅力でしょう。女でそういうだけの優雅の域に達している人はごくまれです。弱さ、しなやかさ、それは或魅力かもしれないけれども、十分足りているみのつまった、力のこもった美とは云えない。男の人間らしいそういう美を表現する可能をもっているのは音楽家ではベートウヴェンです。ワグナアは俗っぽくて、ヌメのようと形容した、かがやきの清らかさは表現し得ない。現代作曲家たちは、知的に肉体的に自身の男性を歪曲されているのが多くて、殆ど問題にならない。私はこの頃心づいておどろいているのですけれど、病気というようなもので肉体が或弱りをあらわすとき、いわば、耀(かが)よい出すという風にややつかれた肉体の上にあやとなって出る精神のつや、微妙な知慧のつやというようなものは、実に見おとすことの出来ない、真の人間らしい一つの花です。深い尊敬と愛とで見られるべき。では、三十日に又。 
六月二十六日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十六日第五十六信
さて、ひと息したところで二階へあがって来て、今度はゆっくり私たちのお喋り。小説ね、思ったより手間がかかって、今日送り出したところです。たった二十二枚ですけれども。それから夕飯の仕度して寿江子とたべて、寿江子出かけ。私はひとり実にたのしく、久々の風呂に入り、さっぱりとしたところなのです。もと、「小祝の一家」という小説、覚えていらっしゃるでしょうか。乙女という女主人公覚えていて下さるでしょうか、お菊とも云った。乙女がひろ子という女の生活の視野から去ってしまう前後の一寸した出来ごとと、そのひろ子という女が、小包をひらいて干している毛布に良人の重吉という男の髪の毛を見つけ出して、それをすてることが出来ず一つ一つひろって小さい髪の毛たばを指の間にしっかりともちつつ、晴れわたった初夏の日光の下に立っているときの心持、そういうもののくみあわさった、小さい作品です。ある雑誌のカットを見ていたら、そこに乙女の裸体が描かれている粗描を見出し、それをかいた男が、乙女のなくなった良人である勉の友人の一人ではあったがデカダンスの故にきらっていたその男であるのを見て、ひろ子が非常に切なく感じる、乙女もあるときは善意で生きたそれに対してもくるしく思う、そういう場面もあります。情感的であって、一味貫いたものがある味いですから、サラサラサッと簡単にはかけなかった。小粒ながら、実はつまった小説。そして小さくても書いた味は小説は小説。小説はつくづくすきだと思います。
本月は、間というものがなくてずっと次から次へ仕事がつまっていて、しかも一人三役で、本当に本当に盲腸がなくて何と楽でしょう。きょう女中さんのこと、心がけていてくれたもとの私の先生の女のひと、わざわざことわって来たからと云って知らせに来て下さいました。その女は、田舎のひとで、亭主曰ク「おやが貰えと云ったから貰ったまでで、俺にはとっくから好きな女がほかにある。俺の女房じゃない、親の嫁なんだからそのつもりでいろ。」そして、一ヵ月もしたらほっぽり出して妾のところへ行ってしまった。そしたらその女いたたまらないで東京へ働きに出たのですが、身重になっていることが段々わかって来て、今かえっているのだそうです。毎日泣いています。けれどもどう身のふりかたがきまるか分りません由。籍を、嫁入先の家でかえしてよこさぬ由。親が気に入っているから、と。そういうのもあるのですね、女の境遇は受け身だから、不思議と思うほどのことがよくあります。
女中さんのことは何とかやってゆきますが、七月中旬から折々一日おきの留守がはじまるようになりそうだと思うので、そのときは又方法を考え出しましょう。この頃は精動運動が活気をおびて来ていて、そのためでしょう、頼母木市長がどこかの田で稲を植えて見たそうです。女のパーマネントは自粛型というのならよろしいのだそうです。ユリのような自然波はこういうときは便利であると思います。自動車のメーター料の基本は三十銭ですが、それに十銭ずつ距離にかかわらず追加がついていましたが、それはおやめになる由。衣服費は大体三十割のね上げの由、三円のもの九円というわけですね。
うちへも金の申告が(用紙)来ました。私の眼鏡のつるのところは金だからわが家の唯一の申告品となるわけでしょう。この金ではいろいろの悲喜劇があるらしい模様です。これまで本ものだと思いこんでいたものがテンプラとわかって、いろいろにごたごたを生じるようなこと、あっちこっちらしい風です。結婚指環売る売らない、そんなことで夫婦が心持の問題とするようなこともあるらしい。ウェディング・リングと云えば、日本でそういうものつかうのがハイカラアと思われていた時分、内藤千代子という今の大衆作家の先駆でしょうね、ひどく白粉を真白に塗ってひさし髪を立てていたひとが(写真で見ると)『女学世界』というようなものに、若い婚約者たちが婚約指環(ダイアモンド)を何かのはずみになくして、心持がもつれたりする小説を、甘々の文章で書いていたりしたが、それから見ると、そういう面の扱いかたもすれて来ているとおどろかれます。女学生のお相手が森田たま女史ですから。
昨日は、例の俗仙人内田百間とロシア語の米川正夫とが桑原会というのを宮城道雄のところで開き、招待が来ていました。大倉喜八郎(?)或は喜七(?)が「オークラロ」という尺八の改良したものを発明してそれを自分でふく。その日に。どうもそういう顔ぶれみたら気が重くなって行きませんでした。宮城という人の箏(こと)はきいてよいものの由です。こういう会でもね、宮城という人は自分のうちで開かせますが、自分はひかない。挨拶だけをする。ね、気質わかるでしょう?利口さも。伍してはしまわないのです。おたいこならざるところを示すテクニックを心得ている。十分ひきよせつつ。フムというところがありますね。
寿江子が今かえって来て、二階のこのテーブルのわきの戸棚の前でフーフー云いながら荷物こしらえはじめました。明日熱川へゆくのです。「ねえお姉さま、つくづく悲観しちまうわ。」「何さ。」「だって日に日にパンパンなんだもの。果なくパンパンなんか悲観だわ。」パンパンというのはふとるパンパン。寿江子はこの頃、元あなたがはじめて御覧になった時分にそろそろ近づきつつあります。やせるにやせられない性なのね、うちの一族は。「これははいてくでしょう(くつ下のことです、きっと)。これはおいてくでしょう。」とひとりごと云いながら、赤い服着てことことやって居ります。又熱川で日にやけて、ノミにくわれたあとだらけになって暮すのでしょう。山羊ひっぱって歩いて。寿江子も今年の秋からは勉強しはじめるぐらいに体が戻って来かかっているので、夏を仕上げにつかおうというわけです。大分先達ってうちは、このまま東京にいてしまおうという気もおこしたらしいが。何か本ひっくりかえして「イッヒビンカツレツ」と云っている。これは、この間大笑いした笑話。さるドイツ語の先生が伯林(ベルリン)へ参りました。とあるレストランへ入りました。給仕の男が、丁寧にききました。「旦那様、何を召上りますか。」すると先生は自信をもって悠々答えました。「イッヒビンカツレツ。――」給仕は、まことにこれは解せぬという顔で、「何と仰云いました。」とききかえしたが、先生やはり泰然と曰ク、「私はカツレツである」と。カツレツという料理の形や材料からこれは実に可笑しい。英語で電話かけようとして、ニューヨークのホテルの電話口で「イフifイフ」と云ったというのも、笑わずにいられないけれど。もし、もしというわけでしょう、森代議士のつくった実話です。
寿江子は箱とトランクをかかえて下へゆきました。「お姉さま、まだ?」とよんでいる。お金の計算があるのです。ではそれをやって来ますから。そして早くねなければ。忘れず寿江子のおいてゆく服の中へ虫よけのホドジンを入れさせなければ。では、一先ずこれで。 
六月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月三十日第五十七信
きょうもホクホクデェイと申すわけです。この手紙は特別にいろいろと豊富で、くりかえしくりかえしよみます。「食べても食べてもまだタベタイ」という子供の唄(うた)のようにね。
風邪のこと、心配していただいてありがとう。やっと大体ぬけたようです。もう喉は痛くなく、すこし洟(はな)が出るぐらいですから。そうね、冷水マサツしましょうか。私は皮膚が或程度刺戟されるのは快く感じて、今でも入浴のときは健康ブラシをつかってコスルのですが。でも、いかにも冬さむそうね。冬つづけなければ意味ないのでしょう?ウフ。
風邪について一つ伺おうと思っていたのは、窓をあけて眠ること。あれはどういうものでしょう。二階の東側一間は、あけはなして不用心でない構造なのです、外部からも見えないし。ですからもしかしたらあけはなして眠ることはじめてもいいと思っているのですが、どういう場合にでも果していいのかしら。日本では例えばキャムプだって湿気が多いからそう大してよくはないそうですが、夜中あけはなして大丈夫なのかしら。直接体に当らず流通しないようにしておけばいいのでしょうか。冷水まさつもよいでしょうが、先ずこの開け放しをやって見ようと思います。どうか一つ御指導下さい。蚊帖をつればあけてもたしかに安全ですね。延寿太夫という芸人は、喉のために冬でも絽の蚊帖を吊って居る由。
肥ったものは大して丈夫ではありませんでしょう?私の常識も、その程度までは医学的(!)なのです。そして、私の肥ること考えると些か癪(しゃく)ね、生活条件が深く作用しているのだから。それはもとより瘠っぽちのたちではないけれども。
送る医書のこと承知いたしました。すぐその配りいたします。手紙の他の二冊も。
達ちゃんたちへ送るの本当にそうきめましょう。十七日なら月はじめの血相変え時期も一通り終りますから。この間は、珍しいおくりもの島田から頂きました。木綿手拭とタオル。それが、一旦北支まで行って、不要品整理で送りかえしてよこしたもの。あわれタオルも大した長途の旅をしたわけです。あなたの分に、大切にタンスに入って居ります。スフ、はあんまり溶けるので、夏のタオルは木綿のパーセントたかめる由。そして、けさ、荒物やに庭を掃くのに萩(はぎ)の箒をたのんだら、どうもスフになるらしくてありませんとのことです。それからみそこしね、あのわくはよく撓う木ですが、それもなくなって来ていますって。案外のものがなくなりまして、どうも、ハイと申しました。
二十三日の花、高く匂う花であったのは本懐であると思います。その花の名の二字の、どちらへアクセントつけてお呼びになるのでしょう、いくらか長くひっぱるように名を呼ばれたとき花は花弁の一つ一つをふるわせつつ、静かにしずかにおさえがたい力で開いて行くでしょう。匂いのうちに一層深くおぼれながら。
バックの本、考えて居りました。「その年」のこと、あれそのものについては、懸念のないものですが、一般にふれてのこととして全く正当な重点の見かただと思います。これは、あながち単純なハピイ・エンドに終らないようなものでも、ハピイ・エンドに終れないことを、気分的に只もってまわる場合にも生じる文学上の危険ですから、明るさなどというものは、現代にあって複雑きわまったもので、窮極は、あらゆる暗さを経つつある、その経かたにあるだけとさえ云えると思います。最も立派な形では複雑をきわめつくした単純さのうちにあり得るだけです。そしてそれは、誰もの日常にあるものでないし、又手放しで現象的に生きて私たちが身につけ得るものでもない。
「その年」の母は、元気をとり戻しかたが、現実の受け身な肯定でないし、あきらめでないし、ある生活的なプロテストとしてあるのです。現代の明るさというものがもしあれば、それは決して呑気(のんき)なテカテカ日向の明るさではなくて、非常に光波の密度の高い、その透明さの底に、或る愁をたたえた美しさのものです。非常に質の緻密な知性とそのひろやかさと歴史の洞察への長くひるまない視線から射出されるものです。ユリの明るさの感覚も、おのずからそこまで成長いたしました。子供の日和ぼっこのようなのや、何か殆ど肉体的な感覚的なものであったところから。面白いものね。ああ、でも決して所謂哲学的ではありませんから。どうか御安心下さい。感性的なものとして矢張りあるのですが、その質が大人になってゆくというわけなのです。
うちにいてくれる人のこと。仰云っていることよくわかります。いつぞやもふれられて居た点でした。仕事している間、家の中大変な有様だとしても誰も小言は云わないのですし、自分の食事ぐらい、この頃の体の調子から苦労ではないし、果して、一人では迚もやれないかどうか、考え中です。一人になった当座は実にいやでしたが。気やすいところもあるの。いろいろの点で。伸縮自在なところがありますから、経済的にも。人をおいていれば、仰云っているような点でも、どうしてもちがうところが出来ます、決して主人根性ではなくてもね。人の労力というものについて、その消費者めいたところが出来ます。私たちのところでは、よそとは比かくならず、食事も一緒だし、外出日もきめてあるし時間の自由もありますが、それでもやはり。だからアメリカのヘルパア(手伝い)と云われているようなのが、私には一番いいのでしょう。時間きめて、朝、夕、手つだってくれて、その余の時間はその人としての勉強なりあって、そのために家事手伝いもするというようなのならば。いる方も気分がちがい、自主性をもっているから。然しそんなのはありませんから(社会全体の事情から。学校だって、一日三四時間のところはありませんから)。私ももしかしたらいろいろ細部を改良して一人でやってゆけるようにした方が、いいのかもしれません。ただ、一人っきりがいやだが。今のところは余りこだわって居りません、仕事ギューギューで。めっぱりこですから、人柄がなかなか問題でね、そのこともあって(何でもひっぱって来ていて貰おうとは思わぬ次第です)。
ローゼンベルグの本は、買ったのは白揚社版で三冊『経済学史』です。ナウカでゆずった、その同じものではないでしょうか(版をゆずったのではないでしょうか、閉店のとき)。
本月は、読書の方すこししか出来なくて、きまりわるいと思います。たった百五十頁ばかり。御かんべん。
就寝で、おきまりをはずれたのは、さあ、どの位かしら(と、手帖を出しかけて、全くこれはエンマ帖ね。)まず手近く、昨日(書きもの終るため、十二時)それから二十四日(小説「日々の映り」)書いていて。十九日、十三日、いずれも林町へ行って。一日が音楽ききに行って。一番おそかったのが二十四日の一時十分前ぐらいです。大体五日です、これは尤も十一時以後になった分ですが。十時と十一時、その間はマアということにして。仕事する、体うごかす、よくよくでなければ早くおねんねの方が自分にとっても、好都合ですから、次第に義務感から自分の便宜になって来ている。全くこういう暮しの形でヒステリーおこさずにやるのは一つはそのことも大いにあずかって力があるのです。朝、元ですと、まだ眠りたりないのに御用ききにおこされる、たのまなければこまる、まず朝が苦手でした。今は悠々です。でも本当にいいときに盲腸切ったとお思いになるでしょう?事々につけてそう思って居ります。
きょうは何日ぶりかで、この手紙に長い長い時間をかけました。又明日から四日か五日の朝まで眼玉グリグリですから。おったて腰のような手紙かくことになるでしょうから。独逸(ドイツ)語の先生の批評はね、主題はまことに立派であるけれども、方法論的のこまかいことがまだ詳(つまびら)かでないから、先に期待すると云うのです。それはそうでしょう。まだ本当の形で作品の内容は示されていず、その変形のフィクションだけ出ているのですから。だから本当の作品の内容にふれたら、主題もその技法もうなずけることは明かでしょう。主題の深い歴史性、それを活かそうとする作者の献身、そこには実に人生的な感動すべきものがあるのだから。私はこれから「藪の鶯このかた」のつづきをかきます。『朝日』の月評で、武麟など婦人作家のことについて妙な、いい気なこと云っています。多分明日は上野、図書館。ではお大切に。女中さん二十円は出しきれませんね、さっき一寸来た人の話。
一寸思い出してひとり笑いつつ。
『朝日』夕刊に、吉川英治「宮本武蔵」をかいている。そこに本位田の祖先に当る婆様が出て来るのですが、今日の本位田先生のお覚えのこともあって、この鬼のような婆さんはやがて改心して仏心にかえる。武蔵を愛して居り、武蔵も愛している娘でお通というのがあります。昨夜、仕事の途中でおなかすかして台所でものの煮えるのを待ちながら夕刊ひろげたら、佐々木巖流というのと武蔵が仕合に出てゆく海辺で、やっと辛苦の末武蔵にめぐり会ったお通がその訣れの刹那、武蔵に胸にすがりたいのを人目にこらえつつ、涙の中から「ただ一言……ただ一言」云々と妻と云ってくれとたのむと、武蔵が「わかっているものを口に出しては味がないのう」とか、吉川張りで云うのです。が、そこを読んで私はひとりの台所で、一種の感情を覚えました。そして、何となしにやりとした、大衆作家のとらえどころというものを。ただ一言、云ってほしい言葉というものをもっているのはお通だけでしょうか、そう思って。体じゅうにその言葉は響いていてそのなかに自分の心臓の鼓動をも感じているほどであるのに、やっぱりきいて、きいて聴き入りたい一ことというものはあるのね。ここのところが面白い。
芸術の上でのマンネリズムの発生という過程はなかなか、だから、微妙です。そういう心が人間にないのではない。しかし、ひと通りのものを、それぞれ具体的な条件ぬきに、場合に当てはめるところに常套が生じるのでしょう。但、こんな大衆作家論のかけらが云いたかったのでないことは、お推察にまかします。
ね、こうして私たち二人きりで暮している。この暮しのなかにはしみ入るようなものがあります。あなたは今、このテーブルのわきのアーム・チェアのところにおいででです。おや、そろそろ蚊いぶしがいりますね。 
 

 

七月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月六日第五十八信
六日も御無沙汰いたしました。水曜日は、優しい小さい花をいくつも大事に抱えてかえったので、うちのなかは何とも云えず賑やかになってね。仕事の間に疲れて寝台に横になっていても心の中に灯のついた提灯がおまつりのようにいくつもの木の間がくれに赤くみえるようでした。くたびれると、その木の下へ行って、目をつぶって顔をおしつけて休んで、そして『文芸』の二つのもの、一つは「藪の鶯このかた」のつづきで明治三十年代と婦人作家「短い翼」、もう一つは今日の文学に求められているもの、或は求められている文学について「人生の共感」、両方で三十四五枚かき終りました。それからすっかり家の大掃除いたしました。手拭かぶって。風呂の火をもしつけておいて、掃除して、御飯炊いて、そして丁度わいたお湯でザァザァといい心持に体洗って、折から雨の降って来た庭の眺めも満足して御飯たべたというわけです。そうして坐っていると、たのしい、くつろいだ空気の中に、おのずから浮んでくるのは優しい花模様の提灯の灯かげです。それは何と近々とあるでしょう。その中にとけこんで、自分もさながらその灯かげとなるような恍惚と戦慄とがあることでしょう。しばらく、しばらく坐っておりました。〔中略〕
まあ、もうあのボーは五時?何とこの手紙に時間がかかったのでしょう。でも、それはそうね。あたりまえでもあります。きょうは私たち一仕事すませた日なのですものね。
唐突なようですが、私がまるでアルコール分に弱いというのは不便のようで、つまらないようで、でも、私のためになっているでしょう。もし平気だったら、私はきっときょうなど円い水晶の小さい盃で琥珀色をして重くとろりとしていたキュラソーをのむでしょう。その色と匂と味いのうちに、あらゆるものを再現させるでしょう。そしてきっと泣くでしょうね。悲しみというのではなく、ね。この円い美しい盃に、二輪の撫子の花をさして、その盃もくだけそうな視線で眺めて、涙をおさえられなくても、やっぱり私は正気でいて、あなたと二人、そういう心持をも眺めているようなところ。本当に不思議と思う。この盃、この透明で円くて、何一つ余計な飾りのない無垢なこの盃。わたしの宝の中には不思議なものがあるでしょう。小さい木魚だの、片方のカフスボタンだの、くずかと思うようなものもある。考えたら何だか笑えてきました。親愛な滑稽さで。私たち人間の心というものの。
御注文の本、明日ぐらいに揃います。刑法切れているらしい様子ですが。〔中略〕
体温計のこと、土曜日におめにかかって。私が慶応に入院していた時のことを考えてみると、一分計は余りつかわれていず、平形の五分計でした。それを六、七分はかけたと覚えます。十分ではなかったと思います。〔中略〕
それから、一つ気味のわるいお話。新聞に出ているには、蜂須賀侯爵令姉年子という女のひとが(ひとりものの)、邸内に工場をたて、二十人の女工さんをつかって人間の髪の毛で混織毛織をつくる研究をしている由、国策。それはいいとして、このひとは、人間の髪の毛から調味料(?)をとるのですって。その上、何とかして髪の毛をコンニャクのようにして食べる法を発見したのですって。曰く、「それは美味しゅうございますのよ」、これには女の鈍感さがあふれていて、実にぞっとなります。髪から人間を食いはじめるということ、感じないのでしょうか。おそろしい想像がそこからのばされる、そのこと感じないのでしょうか。そういう研究にひどくアブノーマルなものがかくされている。この人は少し変で、これまで妙な手芸品を出していましたが。ひどい世の中ですね。しみじみそう思った。理髪店から刈った髪買いあげてやっているのだって。きっとそのうちの女中さんたち、年子様の髪の毛のコンニャクたべさせられるのね。
予定どおり八日に林町へゆきます。こっちへはおみやさんという(金色夜叉のような名ね)お婆さんが泊ります。私は太郎と朝一緒に出て、図書館へ行って、近いから調べるものしらべて、例の婦人作家の歴史書いてしまいたいと思います、咲枝二十一日間はいるかもしれませんから、病院に。土曜日、そちらへ行って、それから。そしてその後も、そちらのかえりにはきっとよるようにしましょう。家、閉めないでよくなったので大安心です。 
七月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月七日第五十九信
けさ五日づけのお手紙をありがとう。九月の風邪はそういうわけだったのですね。それは全く仰云る通りです、私も同じに同じところで何だかすこし冷えるわね、というわけですもの。冬夜具をお置きになるというのは一工夫ですけれども、先頃の夜着をおいておおきになって。掛布団の方は近々又もってかえりましょう。そしてよく乾して手入れしようと思います、いかがでしょう、そして麻の軽い掛布団がよかろうと思っているのですが。今こしらえさせているところです。冬のかけ布団十月ではおそいこと?去年の秋の夜具不足もそのせいでしたか?それとも一枚厚いのがあればいいかしら。
私の冷水マサツ、そんなに絶大の効果を感じたとおっしゃると、でも私やらないわ、と云う理由がなくて、困ったような気になります。窓はすぐレイ行出来るけれど。でもマサツもやりましょう。起きぬけに汗ばんだ体どうせふくのだから。そのときすこし念を入れて本式に。とにかく病気はしまいと思います。こうやって暮していて、体が苦しくないからおのずから会得する感じもあって楽しいところも感じて居りますが、もし先のようだったら、お茶わんすこし洗ったってフーというほどだったのですもの。この切ない体の持つ気持思うと、よくやっていたと感じます。だから、大事、大事。
ドイツ語の作品のこと、年代記がわかるかどうかまだ不明ですが、心がけておきます。健康が十分になったらなんとやりたい語学や勉強が多いことだろう!と仰云る心持、本当によくわかります。そうねえ。あなたが今日の健康の条件を保っていらっしゃるということは、それだけが既に一つの云いがたい努力の成果だから、決して決しておいそぎになる必要はありません。高く評価される点では、作品そのものの切りはなせぬ一部をなす(である)と思われます。
それにしても、生活というものは何と味いつきぬものでしょう、この頃又一しおそう感じて居ます。いつか、ユリが本来ならひとなんかおかないでやって行くべきだとおっしゃったことがありましたね、そのとき、私はなかなかそう行かなくてと云っていたと思います。しかし今こうやっている。そのことについて深く考えます。境遇というものに負けるいろいろの形がある、そう考えます。居る人があるとひとをおいて、いなくてはやれないと思う気持で暮している。しかし現実にいなくなって、しかし暮して行かなければならず、では、どう暮して行くかとなれば、やはり生活の一番本質のところを一層はっきりさせてそれを中心に押して暮す。自分としての生活の重点がキチンと並んだお皿の上にないことは、一目瞭然となり、でもひとがいれば、いる以上はと、そんなことを生活につきそったこととして暮している。そういうこまかいところから細かくない何かで会得されて来て、ユリが本来はひとなんかおかないで、と云っていらしたことが、どういうことかわかりかかって来ます、これはなかなか興味ふかいでしょう?きっちり暮している、そういうことで却って境遇にまけていることさえある、本当の芸術家としては。だから味い深いと思います。私たちには私たちの家庭生活があり、その形がある、そうわかっていても、何か世俗の標準型が忍びこむところがあったりして。いろいろ大変感興があります。ひさのお嫁入りもなかなか悪くない結果と思われます。一応困る明暮を、困らないでゆく、そこに質が変化されます、暮しの内容についての感覚が。書生暮しもいろいろの段階があるものと思います。大いに味ってやっているというわけです。ユリが金持でないことも、仕合わせね。
私は自分が俗っぽくない、俗っぽいところが全くないような出来のいい人間と思っていないから、そういうことも感じます。生活からむけてゆくということ、それは一言には云えないで、むけようによっては人間がわるくなるが、むけかたによっては、やっぱり実に大切なことです。何か非常に大切なことがひそめられている。本質にふれたことがひそめられています。生活というもの、そして生きかたというもの何と微妙でしょう。そして芸術を創って行く人間の心は。広い、歴史の意味での芸術をつくろうとして人間が生活に積極的に当ってゆき、その芸術によって再び生活がひらかれてゆく、そのダイナミックな関係の切実さ。
あなたが生活の中から身につけていらっしゃるいろいろなことということについても、考えられます。ユリは大変おくれてポツリポツリその要点をわかって、そこへ来つつある、そういう工合ですね。生活全体がジリジリ、せり上るのだから時間がかかること。それを見ている方は辛棒が大変ですね。
勉強、十月十七日までには大冊完了でしょう、まさか。七月はがんばります。七八月中に大冊完了というの不可能でなく思えます、夏私は比較的勉強は出来るのですから。多忙の中で、ますます只のやりてやしっかりものになるまいと思います。敏活で、しかも一粒ずつがたっぷり実った葡萄のようにつゆもゆたかに重みある、そういう刻々の心で働きたいことね。働いているそのさやぎのなかに、人間のよろこびのあるそういう活動性。『道理の感覚』はありません、どういう本なのかしらと思って居りました。買いましょう。徳さんは大変目がわるくて、その他のことからいつ立てるかしれない由。同情を感じます。ハガキ書くも辛いほど目がわるい、細君に代筆させない、させられない、そういう日々の雰囲気は目というような患いと感覚の上で一層切なく結びつくでしょうね。これから外出いたします。お母さん、なかなか当意即妙でいらっしゃいます。 
七月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月八日第六十信
きょうは午後一時半ごろになって、お目にかかれないわけがつたえられました[自注17]。けれども、全くつかれとは引替えにならないから、わけがわかって却ってさっぱりして笑ってかえりましたから、どうぞ御心配なく。日曜日に又行ってみましょう。どんな都合になるか。十一日から一日おきに、七月一杯外出の都合となりました。その方がやはりよいそうですから[自注18]。
七八月は、大体大変外出が多くなります。七月中は日曜月曜とつづいた休日があるだけで、火木土、火木土と八時―四時頃まで出ます[自注19]。そちらへは、火木土のうち、火の出がけによってそれからあっちへゆくようにしようと考えますが、どうでしょう。土はどっちもせわしいからなるたけやめて。八時といっても九時以後になるでしょうから。すこしおくれればそれでよいし、又、つづき工合でおくれて困れば、別の水、金にしてようございますし、ね。そういう出勤つづきだから、いよいよもって私の書きつづけようとする仕事はむいています[自注20]。とても小説は駄目ですから。時間のみならず。一日おきずつ印象深いものの間を通るわけでしょうから。強い二つの世界に同時に住むことはできないから。私としてはこういう出勤珍しいことですが、よく注意して疲れすぎないよう、早ねも守り、マサツもやって気をつけますから御心配ないように。八月に入れば目白で暮せます。八月は派出婦でも雇います。そして、私の留守の間、あなたの冬物の仕立をすっかりして貰います。これはよいプランです[自注21]。〔中略〕きまった人は見つかりません。けれども八月はそれできっと工合よく行けましょう。目下のところ、それから先のプランなし。〔中略〕
漱石の例をひいてはふさわしくないが、しかし、一人のものをかく人が四十位になってからものをかきはじめるというのは微妙な関係をもちますね。一通りは自分のものが人生的にも出来ている。だからすぐ一通り認めさせる。その同じレベルで或る期間はやってゆく。だが、という大矛盾が「明暗」に出ているようなものです。若くて書きはじめた者は、自身の未熟さ、しぶさ、すっぱさみんなかくもののうちに露出しつつ風浪のなかで、育つものなら育って来るから、一つの完成の線に止っていられなくてその点ではなかなか荒くのびて来ます。なかなかこの関係はおもしろい。今日の文壇というところ、新人が旧人です。これは何故だろう。世智辛いのね、世智辛いところが旧人をつくり、出来上ったところでなくては認めさせず、認めたと思うともう成長のないことを云々する。その典型は芥川賞。これはそういう両面を可笑しく映し出しています。常に。〔中略〕

[自注17]つたえられました――朝から面会にいって、待っていて、午後になってから、顕治は、体が疲れていて面会したくないと云っているからという理由で看守から面会をことわられた。
[自注18]その方がやはりよいそうですから――この頃から公判がはじまった。顕治は、公判準備のため、各被告の予審調書をよんだり過労して、公判に出廷したため喀血をした。そのため暫く出廷できないまま、逸見重雄、秋笹正之輔、袴田里見、木島隆明、西沢隆二の公判がはじまった。スパイ大泉兼蔵の公判は分離して十月三日からはじまった。顕治が出廷できないために、せめて百合子が傍聴しておいた方がよいということになって、この頃からずっと連続傍聴した。
[自注19]七月中は日曜月曜とつづいた休日があるだけで、火木土、火木土と八時―四時頃まで出ます――公判の日どりと、時間わり。
[自注20]仕事はむいています――現代文学における婦人作家の研究。『文芸』に連載。九年後一九四八年『婦人と文学』として単行本にまとめられた。
[自注21]よいプランです――獄中の顕治のために厚く綿のはいった着物だの羽織だの、どてらが入用なのに、普通の仕立物をするとこは、東京では綿入れをしませんから、とことわられ、いつも困っていた。 
七月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十日第六十一信
朝のうちは涼しいようだったのに午(ひる)頃から大分むしましたね、御気分いかがでしょう。フムと云って例のようにお笑いになる、まあ、そんなところね。どうぞ呉々お大事に。
きょうは午すこし過までそちらで、かえりました。かえりに弁護士会館へまわって、いつぞやの人の方すっかり話がつきました。自分から届けを下げるそうです。自分でも、公判通知が来たので思い出したという範囲の由です。足労に対しては十分のこといたしますから御安心下さい。それがもう二時すぎ。おなか大ぺこで、日比谷の中の更科でおそばかきこみ。そこから林町へ電話かけました、昨日が予定日でしたから。もしか来て欲しくなっているのにいどころがわからないなど云ってさわいでいると可哀想故。そしたら、すこし何だか工合がふだんとちがって国ちゃんおそくなるというので、一旦家へかえり五時頃出直して、只今は林町の食堂。ここはこの頃皆腰かけです。もと、この食堂で手紙かいた時分は坐って居りましたが、今は腰かけ、きょうなどほんの二時間余、うちで座ったきり故何だか脚が重いようだこと。
電気時計が音をたてて廻っていて、二階の雨戸しめる音がして居ます。太郎今ねたところ。
明日は一日日比谷です。そして明後日そちらへ行って見ましょう。あなたのお体に感じられているいろいろの必要よくわかりますから、私の行くことについての御心づかいはいりません。只どうかなるべく体の条件に適したように、やっていらっしゃれるようになるといいと心から思っているばかりです。
きょう、大分エレン・ケイをよみました、初めて。明治四十年代の日本の知識婦人たちには影響を与えていた人という意味で。興味深くよみました、その混雑ぶりを。ケイは三十歳ぐらいのとき、あの有名な婦人数学者だったソーニャ・コワレフスカヤやその親友で彼女の伝をかいている婦人作家(彌生子訳)たちに死なれ、大分寂寥を感じた由。二十年も(一八八〇年以後)ストックホルムの民衆大学でスエデン文明史の講義をしていた由です。彼女がものを書きはじめたのは一九〇三年なのですね。それまでのドイツなどの婦人運動が単純に「男と同権」の女だけ考えて来たのにケイは男とはちがう婦人の権利を諒解しはじめたという点では、ヘヴロック・エリスの云っているとおり価値があるでしょう。トルストイの恋愛や結婚、女というものの性に対する考えかたとの対比においても或健全の要素をもっているけれども、それにしても「恋愛は婦人問題の核心に位する」というその位しかたが、どうも今日から見ると架空で、上の言葉と「大いなる恋愛は勿論、世間的な諸方面の知識を理解するについては子供らしい欠陥を曝露するであろうが、併(しか)し謎と問題とにみちた自身の領域に於ては神の如きエイ智であり聖紀の宝賜でありまた奇蹟を行うの力である」云々ということばを対比して、それが、明治四十年代初期という年代の日本と、ニイチェのロマンティシズムの中で息をしている成瀬仁蔵のフェミニスムと天才主義にそだったらいてうその他を考えると、実にその矛盾においてよく青鞜というものがわかります。その意味でなかなか面白い。
キリスト教の習俗の結婚が神聖であると思われていることに対する不満、箇人の選択による恋愛と結婚とが一致すべきものであるとの要求、又婦人が性についてリアリストになる必要を云っているところ、よい恋愛と結婚のよろこびが心と体のものであることを云っている点、旧いものからの婦人の目ざめは感じられますが、ここでは恋愛が至上であるから、貧しい人々にも恋愛をよろこぶ資格のある人にはその権利をみとめ、富んでいてもその資格ないものには認めないという、そういうフォカスが当てられているところ、これも成瀬門下の考えかた――つまり彼女たちの境遇からの感じかたとぴったりしていたのでしょう。
下巻までよむと、恋愛における箇人選択の主張と、子供というものの公共性とが、どういう調和においてみられるのか分るでしょう。上巻の半まででは分裂があるだけです。母系時代のような子供の認めかたを主張するらしい。そして、どういう女が恋愛と結婚との新しい世界での勝者であるかというと、「イヴとジョコンダとデリラとを一身に具えている婦人」である由。些かあなたもおてれになるだろうと思われます。こんなきまりわるいこと云いながらケイ女史は真の恋愛の共感の微妙さは感覚的な真実にふれて云っているのに!そして、愛のひろさ深さ純一さのみが貞潔を生じさせると云っているのに、妙ね。こういう頭。非常に小市民風の思想家ですね。デリラで何を表現しているのかと思うと、ケイ女史の「焔の美しさ」云々も二元的なものと思う。サムソンを殿堂の下じきにしたようなものが、何か人間らしいプラスの力でしょうか。女のある及ぼす力を、一面からはそういうようなものとして見るのですね。この人は文明史を講義していたというのに、フリイドリヒの「家族の歴史」など本気に一度もよんではいないらしい。この人などきっとヨーロッパの伝統の中では、所謂自由思想家というタイプの典型なのね、きっと。今よんでいるのは「恋愛と結婚」原名「生命線」です。この次「児童の世紀」をよみ、それでケイ女史は終り。
日本の三十年代には「短い翼」で書いた時代には、平民社の活動があって、いろいろ読まれているのに、そういうものが一般の中には成育しなくて、ひどく文学的に「みだれ髪」になったり、四十年代の青鞜になったりして行ったことにもよく女の生活の一般のありようが反映して居りますね、文化の土台が。
いろいろと書いていて考える一つのことは、これまでの一寸した文学史では、例えば自然主義にしろ、花袋が明治三十九年かに「露骨なる描写」と云ったということはかき、四十何年かに「フトン」を書いたとは書いているが、四十四年頃から自分の態度に疑問を抱きはじめて、何年か後には妙な宗教的みたいな境地に入ってしまった、その文学の過程について歩いて見て、日本の自然主義というものを見きわめていません。自然主義をとなえた、そしてこういう代表作を出した。それっきりね、大抵。こういう消長の見かたにも、文学史の脆弱さは出ている。私は一葉のこと書いてそう思いました。一葉は文才と彼女の歴史の限界としての常識性と境遇の必要から、明治三十年後に生きていたら、所謂家庭小説(大正以後の大衆小説)に行ったでしょう、彼女が形式は新しい試みとして書いている「この子」という短篇に、そういう要素(家庭小説の)が実にくっきり出ています。本来的な問題をとびこえて、子は鎹(かすがい)という思想を支持していて。何か始めた、それも歴史的です。だが始めたことがどうなって行ったか、そして終りはどのような形に進展したか。この過程にこそ歴史の諸相剋が映されているのです、実に痛烈に映っている。ですから私は青鞜の時代を扱っても、その人々の今日の女としてのありようにふれずにはいられません。らいてうが大本教にこったということも一つの笑話ではないのですから。
ケイは十八歳のときイプセンの作品をよんだ由。後に影響をうけたのはミルやスペンサー、ラスキン、こういう方向に行っている、再び彼女の自由思想家である所以、ね。明日はどんな天気でしょう。お送りしたシャボンよく泡を立てて匂いすいこみつつおつかい下さい。それはどの花のかおりに近いでしょうか、私には騎士の昼の仮睡に蔭をつけている夏の糸杉の感じで買ったのですが。なおも、なおも、お大切に。 
七月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 本郷区林町二一中條方より(封書)〕
七月十一日第六十二信
夕方五時ごろかえって来たら、「電報が来ていることよ」というのですこしおどろいたら、どうもありがとう。それはもちろん、わかって居りました。感じでわかるわ。そちらからは求めていらっしゃることが。それがこちらには別の形で見えることも。ですから、自分がことわられているなどという風には考えても居りません。それでも本当にありがとうね、急にシャボン送ったりしずにいられない心持、こうしてそちらからつたえられる何かがあるとやすまります。休めて上げたい(それでやすまりたい)、そしてシャボンなど送って見る。そういうものね。
けさは九時すこし過から夕刻四時半まで。何しろごく幅のせまいベンチですし、やたらに高いし、脚がはれて二本のとくりのようになりました。そんなことにかかわらず、やはりよかったと思います。これからも、そういう点は忍耐して必要と思われる出勤はいたします。いろいろと私として感想を与えられましたし、又いろいろとわかった(間接な形で)ところもあって。明後日、その次一日おいた日という工合につづき、十八日から別の分になるわけですが、それが、そうつづくかどうか不明の由。
さて、作品についての現実的な小説勉強というものはいろいろとつきぬ感興を与えます。主題と手法ということは文学が初まって以来のことですが、複雑な長篇小説のなかで、主題とそれに最も適した手法というものがおのずから在るのに、それが一人の作家には文学上の問題としてくっきりと見えているのに、他の作家たちにとっては、各自のテムペラメントとでも云うもの、文学上の理解力の弱さというようなものが色さまざまのかげとなって、遂に最も主題の活きる形での表現をし得ないというところ。実に作家として考えさせるものがあると思われます(附、「ミケルアンジェロ」)。それからもう一つ面白いと思うのは、文学上の論としての方法論というか一種の美学が、主題の求めているダイナミックとはなれて扱われる場合、やはり人生的作品としての発展が失われる実例が多くあることです。このことについてもいろいろと考えます。そして、又面白いもので、作家のもっているリアリストとしての特質というものは、大作でない小さい箇々の作品の中でも、やはり一貫した健全性としてあらわれていること。どうもなかなかつきぬ味があります。作家のジェネレーションとして持っているものの差ということも大したものであると思います。文明史、芸術史の一定の特徴のなかでは、若いジェネレーションの犠牲はすくなくありませんね。
今夜はこれから風呂をつかって早くねます。明日はどんな都合かと思いながら。今はこのテーブルのまわりに一家がかたまっていて、咲枝は「どうしたんでしょう、平気だわ、すこし気がひけちゃう」と云いながら太郎のシャツを型紙で切って居ります。ラジオが何か音楽をやっている。アボチンがラジオの横でダッチャンと何か喋りながら、ラジオのどこかをひっぱって音を大きくしたり小さくしたりしています。小さくなると戸外の雨の音がきこえて来ていい心持です。
生れる赤ん坊の名がまだきまらず、あなたに一つ考えていただこうかという評議もあります、次郎というのに上一字つけたいのですって。男ならば。私はたちどころにあなたの字を貰えばいいと思うけれど、次郎には似合いません、それに中條という姓にも。女の児だったらと、これもまだ不明。桃の花は美しいわね、いかにも女の子でしょう、桃子はいいと思いますが、いかが?字に書くとしかし條という字と桃という字とは感覚の上でしっくりしませんね、むずかしいものです、あなたはどんな名がおすきかしら。もしお気持に暇があったら、本当にすこし考えて下さいませんか。では明朝、短い手紙にどっさりの挨拶をこめて。 
七月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十二日第六十三信
なかなか暑うございますね、夏みかん届きましたか?お金と。きょうは午後一時すぎまでそちらに居りました。アイスクリームと思ったのでしたが、今年はまだの由。人手が足りないと運ぶときとけるので、まだの由。丁度栗林さんも、やはりそちらからの電報ついて、来ていて、又明後日来ると云って居りました。御闘病もいろいろと経過があるのでなかなかですね。いずれにせよ、やっぱり悠々と合理的にやっていらっしゃるに違いないから、その点では安心して居ります。きょうはこれまで話をおききしていたお二人のほかにお会いして、科学的立場ということについてのお話を伺いました。
きょうはそれから新宿へ行って島田へお送りするものを注文して発送させ、達ちゃん、隆ちゃんたちへの慰問袋を二つこしらえて発送。今度は十七日以前にしてしまわないと、又何や彼でおくれるといけませんですから。これで一先ず安心です。それから栗林さんの追加分、全体で三ですから二を今、あとの一を後(のち)にわたす分への追加として、それもすっかりすみ。少なからず満足のようです。仰云った通りにしてこれもようございました。
この間のお手紙で、ユリすこしやせるかなと笑っていらしったけれど、どうも予言的中らしゅうございます。しかも、それは、ひとから見ればちっとも分らないどころか全く円いという事情故、閉口ね。いろいろでやせる次第です。
咲枝ちゃん早く赤んぼうんでくれるといいと思います。只今お医者のところへ行って留守。太郎もどっかで遊んでいて家の中はしずかです。きょうは扇子をつかっていながら、空間というものと、その空間をみたすいろいろのものについて感想しきりでした。人間が、その理性によって天体をわがものとしたということは、何というよろこびと、ほこりでしょう。直感の経験では分らない空間を、測定し、把握し、その運行をとらえたのは、何という人間らしいひろがりでしょう。空間の主人であり得るということは、時に人間のほこりであり、時に反対物でもあります。科学という名で生じることもある。
文学が、文学性という言葉でいろいろ逸脱してゆくのは意味ふかい見ものです。自分の心持を文学性という表現で通用させて。芥川賞の中里恒子は、中村武羅夫あたりが、教養の高さをしきりに云々している。武羅夫の通俗作家的立場での内容の教養であるにかかわらず。々々性というとき、大変絶対的、普遍的、超私的のもののような表現をもちいるのが通例で、しかもリアリスト作家の目には、その絶対性の使いかたの自在性が、まざまざとしているわけだから、作品評というものも一通りならぬものですね。
明日は、又一日日比谷。翌日はどういたしましょうね、栗林さんが出かけると云って居ますから、私はその次一日おいて十六日に行こうかしら。余り、しかしそれでは飛ぶようでもあり。十四日に行って見ましょう。心がかりですから。熱をお出しにならないように、と思って居ります。熱を出したりしたくないから、いろいろ考えていらっしゃる、それが分っているだけ、なお更そう思います。呉々も呉々もお大事に。今咲枝お医者様からかえり。もう一日二日間がある由です。それがわかって大いに安心しました。一つでも安心出来ることがあって助ります。余り面白い手紙かけないで御免下さい。韜晦(とうかい)したみたいなお喋り出来ない、それはお互の真実ですもの、ねえ。咲枝のおなか一日二日大丈夫とすれば明日は目白にかえります、日比谷から。私たちきりになりたいの、大変に。これも分るでしょう?私たちきりになりたい心切です、では又あした。 
七月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
六月十七日第六十四信
金曜日には何とうれしかったでしょう!栗林さんが、こちらへと云って待合室に来られたとき、思わず「ああうれしい」と申しました。ユリがあのようにして現れること、あなたには思いがけなかったでしょうか、こちらはやっとやっとの思いでした。土、月、水と行って居りましたから。
体のこと、本当に本当にお大切に。今のところ、本当にお大切に。これまでホン馬性にならず来たことは、あなたのお体としては見つけものでした、そのこと皆心配していたのです。あの一番ひどかったとき、あの手紙にいつか書いて下すったような統一性でおしのぎになったのだから、今回の低下期も、独自の集注でおしのぎになることを、心から信じて居て、そう心配いたしません、つまり気は揉みません。心のどこかで、息を凝しているようなところ勿論ありますけれど、それは自然のことですもの、ね。水の満々とたたえられたものを運ぶような集注、充実、平安で、どうかおしのぎ下さい。
手紙、どの位まで着いているでしょう。いろいろの用事、比較的順よくすんでいること、おわかりになっているでしょうと思います。慰問袋も二つ、島田への羊カン、多賀子へのイニシアル入りのコンパクト、皆すみました。白地の着物、白麻の肌襦袢なども、土曜早朝送りました。かけぶとんは二十日ごろ出来上りますから、それから。白地のつつ袖のねまきの方、あれは島田で、布地を買って縫ったものですが、あの時分書いた手紙お思い出しになるかしら。あの着物の胴のまわりのあげは、ユリが縫った話。魔女が自分の大切なものをいつまでも自分のところに止めておこうと希うときは、その愛するものの体のまわりに環をかくこと。二つの腕でだって描くのは環ではないの、という話、そんな話、お思い出しになるかしら。もし忘れていらしたら、サラリとしたのをお着になったとき、思い出して下さい。そして、その環へ祝福を与えて頂戴。
今年の夏は、例年より誰にもしのぎ難く思われるそうです。どういうわけなのかしら。
ユリも申すまでもなく、実に流汗淋漓ですが、その汗をふきつつ、汗をふいていることもつい忘れるような深い真面目な、感動にみちた朝夕を迎えて居ります。益〃深く深くとあなたに眺め入り、今更精髄にうたれます。そして、今日までの歳月の意味が一層つきぬ味で翫味されます。ここにふくまれているような、精神のきめ濃やかな人間の美を、人間のエリットのもつ壮重な美しさを、どういう芸術によってあらわし得るでしょうか。強壮な正しさが美と一致する極致を一生のうち、実感のうちに経験し得る芸術家は、まさにそのためには十年の生命をちぢめても冥加(みょうが)と思う。ユリは、女としてそして芸術家として、自分の生涯にめぐり来った様々の美しいもの、感動すべきものに、この数年の間新しい宝を見出して来て居ると思って居りますが、この頃は、それらの宝のよって来る鉱脈が塵埃をはねのけておのずから輝き出して来た観があって、実に名状しがたい心持です。よろこびと悲しみとに打ちふるえる。美しさを見るよろこび、美しさへの感歎きわまって悲しみに合致する心。私たちの生命の絃は何と微妙にはられているでしょう!何と説明しがたい諧調で顫律するでしょう。私たちの生活のうちにはいろいろな愛すべき二重奏(デュエット)がありますけれども、そういう花飾りのような一つ一つの諧調を浮かせつつ流れるものは、耳を傾けつくして、なおつきない脈動のつよい流れです。そこには人間の理智の明るさが透っていて、明確であることからの動かしがたさ、智慧のよろこびがむせんでいる。
われわれの日常では、ガンコさからの不動性、強情からの不自由というものを何と見すぎていることでしょう。無知や偏狭からの固定を何と見ているでしょう。それが多いために、それが多い程一般の暗愚は深いから、光り、動き、流れ、生々として自身の生命をよろこびつつ、しかも不合理ではあり得ないという精神の自然さが、その自然さというものとしてのみこめない程なのですね。人間が人間の精神の自然から、こんなに遠いということ、そこに愕(おどろ)きが新たにされなければなりません。新しい文学の精神、エスプリと云われるものがここにあります。フランスの明智、良識よりは更に一歩進んだものとしての。
抽象的にかかれましたが、ユリの心持はわかって下さるでしょう?ねえ。そして、これを日常のなかにもち来すと、こういう反省となって、私に永遠の花嫁としての涙を潸然(さんぜん)と流させるの。私は果してあなたにふさわしいだけ、いろいろのことして来ているだろうか?いろいろのことしてあげているかしら?そして自分の勉強も、と。
夜あついでしょう、なかなか寝苦しいでしょう、そのうつらうつらの中であなたは喝采の音を遠くおききになりはしなかったかしら。昔はそれを神々の喝采と云いましたが、今は、最も人間らしき人間たちの拍手というコンプリメントの言葉で云われているわけですが。
きょうは、この手紙を、林町の日本間の方の客間のスダレの下っているところで、大きい四角い机に向って書いています。二階はホテリがきつくて苦しいから。ここは古風な座敷ですが、よく風が通るし、茶室のような土庇が長くて日光が直射しませんから。
アラ、どうしたのかしら、カンカン日が照っているのに雷が鳴っている。おや、雨が落ちて来た。面白い天気!西洋間の前の露天のヴェランダのところで、今病院からかえって来た咲枝が、目玉クリクリやりながら、「一寸ダッチャンこれかけない」と日よけの葭ズをまいて居ます、「お母ちゃま、お母ちゃま、これ何」と、太郎が力をいれすぎて金切声のような声を出してさわいでいます。きっと、これですこしそちらも涼しくなるでしょうね。
昨夜、咲枝もう生まれると思って病院へ行きました。私が送ってやった。そしたらまだで、室があつくて閉口して、さっき国ちゃんが迎えに行ってやって、かえって来たところです。なかなかこういうことは、自分でも思うようではないから滑稽ね。十八日から防空演習ですが、明日は伊勢さんに会いに出るから、そのかえり目白によってすっかり指図して、或は明晩は目白へ泊るかもしれません。肝心のお産婦さんがフラフラなので、こっちもそれにつられて可笑しい有様です。五分計の一番たしかな方法は五分ですっかりあがってからもう五分つけてそのままにしておく。そうすれば決して間違うことはない由です。
それから調べておくように仰云った規定ね。左のようです。
(何て真夏らしいでしょう。こんな日光。その日光の中のこんな雨。白い蝶が一つ低く、苔や小笹のところをとんでいる庭の眺め)
刑事裁判事件の報酬規則。
第一審事件ノ手数料ハ左ノ区別ニ従ウ
一、拘留又ハ科料ニ該(あた)ル事件ハ金三十円トス
二、罰金ニ……金五十円
三、長期一年未満ノ懲役又ハ禁錮ニ……金百円トス
四、前各号以外ノ刑ニ該リ予審ヲ経ザル事件ハ金百五十円トス
五、予審ヲ経タル事件ハ金三百円トス
六、併合罪事件ハ最モ重キ刑ニ該ル事件ノ手数料ニ其他ノ事件ノ手数料ノ各三割ヲ加エタルモノトス
第一審事件ノ謝金ハ左ノ区別ニ従ウ
一、無罪ノ判決アリタルトキハ手数料ノ三倍トス
二、公訴棄却免訴刑ノ免除、又ハ執行猶予ノ裁判アリタルトキハ手数料ノ三倍トス
三、求刑ニ比シ軽キ刑ノ判決アリタルトキハ其程度ニ応ジ手数料ト同額以上倍額以下トス
四、没収又ハ追徴ノ請求アリタル場合ニ之ヲ減免スル判決アリタルトキハ前各号ニヨル謝金ノ外別ニ免減価格ノ一割トス
左記各号ニ該ル事件ノ報酬額ハ左ノ区別ニ従ウ
一、予審事件ハ第一審事件ノ報酬額ノ三割トス
二、第二審事件ハ第一審事件ノ報酬ト同額トス但第一審事件ノ報酬ヲ受ケタル場合ハ八割トス
三、第三審事件ハ第一審事件ノ報酬額ノ六割トス但第一審又ハ第二審事件ノ報酬ヲ受ケタル場合ハ半額トス
四、上告審ニ於テ事実審理ノ言渡ヲ受ケタル事件ハ第一審事件ノ報酬額ノ半額トス但上告審又ハ前審事件ノ報酬ヲ受ケタル場合ハ三割トス
五、二審級以上ニ渉リ包括シテ受任シタル場合ニ於ケル上級審事件ハ第一審事件ノ報酬ノ半額トス
六、審級ニ拘ラズ終局迄ヲ目的トシテ受任シタル事件ハ第一審事件ノ報酬ノ倍額トス
七、保釈ノ申請事件ノミヲ受任シタル場合ハ第一審事件ノ報酬ノ二割トス
ソノ他旅費トシテハ、日当一日五十円
宿料一泊三十円
交通費一等又ハ二等運賃
ソノ他ハ一粁ニツキ五十銭
私は、例によってどうもよくのみこめません、こういう算術が。手数料があって、それに加うるに謝金があって、さて報酬金というのは?私の実際に当って、いろいろしらべたところでは、謝金というのも報酬というのも、或目的の成功謝礼であって、私たちの場合成功謝礼というものはあり得ないから費用として(手数料として)先云っていた額ならよいだろう、誰でも、ということでした。そして実際そうなのでしょう。民事関係では、例えば、
目的ノ価額ニ従イ左ノ割合トス
手数料謝金
五百円以下七分一割五分つまり二・二ですね
千円以下六分五厘一割二分
五千円以下六分一割などですが。
この次の金曜日、どんな工合でいらっしゃるかしら。あの位髭、久しぶりでしたね。月曜以来もう出ませんか、この間は二人のお話しになったが、あと大丈夫でしたろうか。
トマト、もし種子がうるさくなかったら、なるたけ召上れね。ぬるくては舌ざわりよくないでしょうが。もし水につけておけたらいいけれども。種子だしてあがれるでしょう?そこだけとればいいから。あのしゃぼんいかがですか、もちろん届いているでしょう?昨年と同じです。去年は夏のうちに一ヶしか使いませんでしたが、今年は二つつかいましょう、もうつかっていらっしゃるかしら。そんなこと些細とお思いでしょうが、生活のそういうなかでは、快い匂いというようなものは随分薬です。だから私はいろいろに考えるの、甘い匂いがいいかしら、それともスッとしたのがいいかしらなどと。そして、夏あついとき、こういう手紙の紙やインクの匂い、あついでしょう?私はつかれているとき、原稿紙の匂い、インク、つかれを感じますから。手紙でも、かすかないい薫りを夏は送りたいと考案中です、昔の殿上人のように香をたきしめるわけにも行かないが、何かと思います。どう?おいやではないでしょう?紙の色だって白でなくてはならないというわけもなし、でもよみにくくてはいやですが。
きょうの封筒、風変りでしょう、ユリの縞のこのみにやや近い。私は太い縞はきらい。瀟洒なところのあるのがすき。この頃の角封筒のわるくなったことは、本当にびっくりです。
次の火・木・土はどうなるのか、火曜の前日しらべて見ましょう。昨日は不明でした。妙なところから来ている人々と並んでいるのもすこしいやのようでもありました。呉々お大切に。手紙、本当に当分おかきにならないでね。島田へも達ちゃんたちにもお話のとおりかきましたから。ではきょうはこれで。 
七月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十七日第六十六信ね、五信かと思ったら。
昨日の暑さは一通りでないと思ったら、やはり九十三度ありました。おこたえになったでしょうね。いかがですか。ずっと平穏につづいておりますか?
けさは早いうちに昭和ビルの伊勢さんのところへゆき、かえりに丸ビルのはいばらにまわってこんな紙みつけてきました。
きょうは風があって、それでも幾分しのぎようございます。すこし暑気当り気味で左の脚が又こむら返りそうな変な気持。この頃はくたびれるので実に早寝をやって、昨日は久しぶりで一日家居しました。ずっと毎日毎日出づめでしたから。朝八時に出て、家へ六時頃かえる、なかなかくたびれました。ゆっくりとよく休養なさらないと無理であると思いました。それに一日だけもてばよいというのでもないから。くれぐれも大切に、と願います。五十キロでは換算してみたら十三貫すこしですね。十キロはおとりかえしにならなければね。申すまでもないことですが、暑いときは塩の辛いものが案外食慾をすすめます。何とか工夫して、少しずつ食慾の出るように。夏ミカンの汁しぼって砂糖いれてトマトを三杯酢のようにしてあがってみたらどうでしょう。ゆで玉子を小さく切ってまぜて。サラドのようになりますが。そして食パンと一緒に。サーディンを夏ミカンの酢で上ったことありますか?こんなのもどうかしら。あなたは夏は果物の酸を御愛用でしたから、何とかそのこのみを御利用になることですね。はい、といって何か一皿出してあげたいと思います。夏みかんのみをほぐして玉子と砂糖かけて、そこへトマトまぜても上れるでしょうし。いろいろなさるの面倒くさいでしょうね。自分で考える(献立など)ことが出来れば、いわば食慾があるという状態なわけですから。でもどうか御工夫下さい。つめたいものと求めても中途半端ですし、かえって熱いものの方が汗は出るが気分が引立ちます。私なんか氷よりお茶のあついのをのんで居ります。
明日火曜からどうなさるの。もしこの火木土がとべば、私はその間に図書館通いいたします。早朝に出かけて。図書館でも男のひとは上着はぬげますが、女は帯しめたままですからね。婦人作家でなくては、そして或る健全がなければ書けない展望に立って、この時代の鏡としての婦人作家の歴史だけは十分力を入れてまとめます。〔中略〕
いわゆる文学的素質というものはない人々によませ、わからせ、そして感じさせてゆく小説、そういうものを考えます。私はそういう点では「独自性」の反対のたちを多くもっているから。婦人作家の歴史にしろ、何かのきっかけでふとよみついた人が、ずーっと導(みちびか)れて明治というものを今日にまでいつしか見わたすところに出てくるという風なかきかた。読者にこびるのではなくて、普通の読書人のもっているいろいろのでこぼこ、弱さ、気まぐれ、そういうものを十分よく知りぬいて、一貫したものについて来させるだけの作家としての努力、それは、云いたいことをよくわからせようとする熱心さと比例するものであると思います。自分を分らすのではなく、そこに描かれていることを分らせようとする、ね。
日本の私小説の伝統は、この作者の世界を分らせるに止る限界を、まだまだうちやぶっていないから。武麟の自分の匂いのつよさはその体臭で読ませているようなものであるし。より高き精神の美しさとまでは行っていず。しかもその精神の美しさも全く具象的であるという意味で、一人の作家の生活に根をおろす以外に成育の道もないところが又微妙です。そこの傍で団扇の風をあなたの横になっていらっしゃるところへしずかに送りながら、時々こんなおしゃべりをするわたし。じゃあしばらくね、と机に向うわたし。やがて、お茶でもあがりたくないこと?と立ってくるわたし。そういういろんなわたしを描き出して下さることは、大変無理でしょうか。私の心の一日は、全くそのようにして送られているのですけれど。 
七月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十九日第六十七信
どうも、やっぱり書きなれた紙がようございますね。きびしい炎暑ですがいかがな工合でしょうか。ユリの方は全く文字どおり汗みずくです。夜中つめたくて目がさめ、ねまきを着かえるという調子です。でも寝汗ではなく。
きょうは一日在宅の日で、二階に大きいテーブルをもち上げ、椅子をもち上げして、自分の落付き場所をすっかりきめました。これから二週間ばかりはここで仕事をし、手紙をかき、暮します。
これは父が事務所でつかっていたテーブル。『中條精一郎』の扉についていた写真、あのテーブルです。堅木のごくあり来りのテーブルに右手へ小さい張り出しをつけてあります、折畳式の。それを上げると四尺ほどになって、ものをひろげるのに好都合です。下の足をかけるところの横木など、父の靴にすられて、塗料はすっかりはげているし木目立っています。こうして、向ってかけるとなかなか落付きます。南縁の前に大きい青桐。
お工合本当にいかがでしょう。呉々も呉々もお大切に。ユリは、この頃、人物ということについて様々に考えを刺戟されています。勿論自然発生的な意味ではなしに。しかし、そういうごく綜合的なものが陶冶されてゆく過程というもののむずかしさについても。どうして人々は多く、ああいう、こういう、と云うことに何かその者の本音があるように思うのでしょう、ああいうこと、こういうこと、その底に本音があるということをどうしてすぐあたり前のこととして理解出来ないのでしょう。事物に対する正しい把握は人物というような概括で云われるものではないが、正しく把握出来る真理への洞察力をその人がどう身につけているかという面からは、やはり人物ということが云えることを深く感じます。そして、本当の勉強をユリなどにもしろということをきびしく仰云る、その意味も実にわかります。もし私に私という或人物があって(誰しもあるのだから、よかれあしかれ)それがどう育つかということ、どう育つ力をもっているかということが現実に示されるには、するだけの勉強して行かなければ、仕事もどこまで出来る可能をひそめているか、つまりは分らないようなものです。いろいろと深い感想に充たされます。実に年々にいろいろの夏を経験いたします。体に注意して日々に勤勉であろうと改めて思います。又申しますが、盲腸切って何とよかったでしょうね。この頃の大汗、きゅうくつきわまる長時間、それでも夜早くねむると、翌日は大体大丈夫です。先週はひどく気をもんでずっと毎日そちら、日比谷、そちら、とやっていたので、幾分こたえて足が苦しくなったりしましたが、それでも先の苦しさなどとは比較にならず。咲枝はもうどうせ防空演習になってしまいましたから、あせらずに自然の陣痛のはじまるのを待つということになりました。九日が予定日でしたから、今日でもう十日のびたわけです。一昨日あたり大分妙のようでしたが、平穏にすぎてしまいました。あなたへ呉々もよろしくとのことです。
島田から、御中元をおうけとりになった手紙来ました。あちらは旱バツですって。七十年来の。植つけの不能であったところが千何百町歩。中途で枯死したのが千何百町歩。日夜雨乞いで大変だそうです。本年は肥料もずっと高かったところへそれでは困るでしょうね。慈雨を待つ、とお手紙にあり、実感をもって書かれていることがわかる程です。それでも家じゅう皆丈夫の由。お母さんもお元気の由です。何年も前、私がいくらそれが出放題のこしらえごとだと申しても、本当とお思いになれなかったことも、今ではやはりそうであったかとお思いなされるところもありましょうし、何よりです。
間接に深められてゆく感動というようなものが甚しくて、ユリはこの頃、まことに引しまった心持です。一面に堪えがたい優しさに溢れつつ。言葉すくなく、思い多く暮して居ります。あなたにさっぱりした浴衣でもうしろからきせかけて、どんなに、「御苦労様ね」と云って上げたいでしょう!
手紙順ぐりついて居るでしょうか。きょうは夜になるまでに『音楽評論』へ五六枚の感想(音楽について)をかこうと思います。そして、そろそろ「明治の婦人作家」の下ごしらえ。本月は火・木・土が二十九日までつづきますから、早めにとっかからなければ。明治四十年代の思想や文学は複雑で面白うございます。この面白さが、さながらに脈絡をもって活かされるのには、大分勉強がいりますから。図書館の目録さがしも大分勝手を覚えました。日本が十年十年に一つの波を経て今日に到っている。おそくはじまった急テンポということが何とまざまざとしているでしょう。女の生活は、両脚を手拭でしばってピョンピョンとびする遊戯のようにその間をとんで来ているわけですが、この頃では手拭をほどいてかけ出そうとはせず、手拭はつけたまま、そっちへひとの目も自分の目もやらないように顔や両手でいろんなジェスチュアをする。そういう芸当を覚えて来ている(文学に於て、生活態度において)。明治四十年代はまだ非科学的ではあるが、手拭を見て、抽象の呪文で(「女性は太陽であった」というような)ほどけるものと思っていた時代。昨日の火曜日は何か錯雑した印象でした。「それがですね」というような癖なのね、平面の渦巻の感じ。では又明日。どうかよくおやすみ下さい。 
七月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十三日第六十八信
きのうから降ったりやんだりの天気ですね。温度は低いのだけれども、今日(八十二度)湿気がきついので、何となく体は苦しい様子です。いかがな調子ですか。あれきり平穏でしょうか。二人一度になったあとは、きっとお疲れだろうと気がかりです。この間うちはやむを得なかったの、火木土だもので。この次は重ならないよう気をつけます。
御注文の本、三冊はあって速達しました。月曜お手元につくでしょう。
それから計温器のことは安田博士にききました。あのひとは呼吸器の専門ですが、やはり人間の体と自然との関係の微妙さを経験によってつよく感じているたちですね、明治時代、呼吸器に関する専門家は、熱がなければよし、あればよくないと、きかい的に扱ったが、現代最新の方法では、本人の体の気分の自覚で、無熱に近く或は無熱でも、自覚のよくない感じがあれば、それを無視せずやってゆくのだそうです。反対の場合もあるわけです。実に箇々別々の由。絶対安静という共通な注意のほかは、全く一人一人自分自分で発見してゆくべきものをもっている由。それはそうでしょうね。一分計の細いの(ジールなどの型)は三分。平型は一分計でも五分の由です。それで完全の由です。よろしくとのことでした。神経質になって拘泥するなどのことは決しておありなさるまいからと、私が却って、はげまされる形でした。
どうか呉々お大切に。私はすこし気になることがあるの、お笑いになるかもしれないけれども。この前のときは、謂わばちっともいそいでいらっしゃらなかったでしょう?よくなる時期について。今回はどうでしょう、いくらかせかれているところないかしら。何だかいくらか前とはちがいそうです、同じ悠々と云っても。どうぞどうぞ悠々とね。今度の方は先とちがって慢性の型になっているでしょうから、悠々の内容も又その時期としての特徴があるのでしょう、おのずから。本当にゆっくりと御養生願います。きっと上手に持ってゆく術を御会得と信じて居ります。
それからね、金曜日は全く悲観したの。あれから目白へかえって出来ている布団をお送りしようとしたら、どうしたとんまか布団屋が綿を入れすぎて来ている。あの場所を現に見ていて「はい、これが夏の布団」などと出されるものではないの。困った!困った!連発してしまいました。寸法が普通の夏ぶとんと云われているものよりずっと長いのです、だもんだから、きっと厚い方がいいと思ったのでしょう。うちわでパタパタやり乍ら散々困ったが、どうにも仕様がない。そこで、急に決心して、又着物着て西川へ行って、ちゃんとしたの注文しました。そのため三日おくれました。御免なさいね。でも、どっち道今年新しく作っておいてようございます。夏のふとんかわの麻地が来年はなくなりますから。せめて、サラリとした布団ぐらいきせて上げたいと思いますもの。
土曜日は四時ごろ家へかえりました。お父さんという人から挨拶されました。息子と父親というものとを非常に珍しい一種の感じで眺めました、若く見える父親なので。生活の日々のちがいは何とそういうところにも出るものでしょうね。息子のひとも、いろいろ固定した観念でものを見ているところもあるが、やっぱり本気になって、案外に脈絡をもって、要点にふれていたので、何となし心根を思いやられました。思いすぎのところも、その原因のよって来るところを考えれば、ね。一日、二日、三日目と次第に筋が通って来たのはようございました。
この頃は、私もまるでサラリーマン。夕飯前かえって来て、一風呂あびて、夕飯たべると、ああとつかれが出て、夜は十時が待ちどおしい有様です。馴れなかったし。いろいろの意味で。眠くて眠くて。
きょうは日曜日で、国男もおり、咲枝もまだ痛くならないで在宅。太郎、下で友達を三人つれて来て遊んで居ります。一日うちにいられるのがうれしくて、きょうは私は主として二階暮し。この次の火、木、土(二十九日)で八月十五日ごろまで休みです。仕事の都合ではじめの火曜日だけは休講にしようかとも、考え中です。図書館に行くひまがないので。『文芸』の締切りは早いから、三日か四日ですから。読むべきものがうんとあるし。
本当に咲枝のおなか、いつでしょうね、二十七八日ときめているのですって、自分では。人間の赤坊は二百八十日はおなかのなかにいる由。でも又自然は微妙なものだから二百八十日をどこから起算するかが、一応わかっているが、現実の場合には千差万別で、やはり正確になんか行かないのがあたり前の由。それはそうでしょうね。或日から二百八十日と云ったって、それはあらましで、何もその日に受胎したとは分らないのだから。それは単に生理上の目標として云われているだけのことだから。
いずれにせよ、八月中旬ごろには目白へかえれるでしょう。今もうこちらに本その他もって来ているから、そして今夜ともしれないから戻るに戻られず。本当に可笑しい。しかし、この次のお産のときは、私はもう留守番はしないことにしようと条約を結びました。だって、何だかやり切れないところがありますもの。
髪をさっぱり苅っていらしたし、髭もそれていたし、白い着物きていらしたし、すがすがしく見えました。そして、極めてリアリスティックに、いろいろの性格は現れるのだからと云っていらしたこと、深く心にのこされました。実にその通りです。歴史が含んでいるだけの多面さが、結局はそういうところへ出る。よきにつけ、あしきにつけ。私もそう子供らしく考えては居りませんから安心して下さいまし、一喜一憂といううけかたはして居りませんから。
一つの仕事――文学でもそうですが――にたずさわって来る人様々の角度というものをいろいろ深く考えるし、真に仕事に献身的であるということは、どういうことかということも、新たな感動をもって理解を深められます。その点での感想は、私のこの夏を通しての最もエッセンシアルな収穫であり教訓でした。自分と仕事とのいきさつにおいても真面目に反省する心持を動かされたし、そのことについてこれまで折にふれ云われて来たいくつもの言葉の血肉性が、尤もであるとか、正当であるとかいう以上の脈搏をうって、私のうちに流しこまれたものであることを感じ直したのでした。そういう感じ直しかたにしろ、私の低さを語っていると思いました。この間うち書いた手紙はきっとあなたとしてお読みになると、私の主観的な感動が舌たらずにかかれてある印象だったろうと思いますが、あれらは、そういう私の心持の状態からでした。去年の夏の頃、私の大掃除以前に云われたことが、まざまざと甦って来て、新たに真の価値を感じさせつつ、ね、そうだろう、という無言の優しさで迫りました。いろいろ涙こぼれた心持、分って下さるでしょう?めそめそではなかったのです。
私たちは普通の夫婦から見れば、何と僅かの言葉しか交し合わないでしょう。そうだけれども、その僅かの言葉が何と活きていることでしょう、ねえ。益〃命のこもった言葉で語りたいと思います。
この頃オリザニンをのんで居ます。脚がむくむから。脚気というのではないらしいけれども。オリザニンというのは、体の疲れを直すのですってね、例えば歩くとか、何とかいうそういう疲れかたを。オリンピックのとき三共はオリザニンをうんと持たせてやったのですって、水泳なんか随分それでコンディションがよかったそうです。
きのうは髪を洗い、きょうはすべすべと軽い髪です。こう書いていたら思い出した。あなたは、髭がちゃんとそれたかどうかをしらべるユリ独特の方法、覚えていらっしゃいますか。
今葭戸が机の前にしまっていて、外に青桐の葉が嵐っぽい風にもまれているのが見え、手摺のところで、紫のしぼりの紐が吹かれています、いつもユリが帯の下にしめている紐、さっき洗ったのです、なかなか汗にしみるから。薄紅いタオルも同じ手摺で風にふかれています。このタオルは夜の汗ふきよう。この頃はあけがたの四時頃、背中がひーやりしてきっと目がさめます。ねまきの汗でぬれたのがつめたくて。そこでおきて、すっかり拭いて、ねまき裏がえしたり着かえたりして又すこし眠る、そのときつかうタオル。どこかで大きい音のラジオがきこえて来ます。防空演習では本年も何人かの命をおとしましたが、咲枝が無事医者に行けたのは幸でした。
この次は八月一日ね。石菖(せきしょう)どんなのが行きましたろう。水を打つといくらか空気もしのぎよくなるかと思って。見た目に露があるだけでも。本当に本当にお大切に。 
七月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき速達)〕
『日本経済年報』の昭和八年度の四冊は第十二輯から第十五輯に当ります。只今出ている十四年度前期(後、二冊目)は三十七輯です。とりいそぎ用事を。どういう風に送るかということをどうか栗林氏におことづけ下さい。暑さお大切に。   七月二十六日ひる 
七月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月二十八日第六十九信
二十六日づけのお手紙をありがとう。パラパラと書かれていても、それにはやっぱりあなたの声や体が響いていて、くりかえしよみます。
一昨日おめにかかったとき、余りこまかく体のこと伺っているひまがないようでした。どうかどうかお大事に。今年は全国的旱バツで、しかも空気はしめっぽくて、妙な夏です。チフス大流行の由。私はチフスだけは願い下げですね、忽ちだから。少くとも、あなたにとって私が何かの役に立っている間は、チフスで死んでは相すみませんから、食物には気をつけましょう、大体、いつも気はつけているけれど。本当は、一昨日ね、私は暑気に当って大下痢をしてね、あすこにかけていて、すこしおとなしくなってしまっていたのです。お気がつかなかったでしょう?おかゆたべて、寝ていました(かえってから)。そして、アドソルビンをのんで、げんのしょうこをのんで。そしたら、きのうは大分よくて日比谷に出かけ、もう今は普通です。ほんの一寸した当り。でもそちらの待合所で、胃ケイレンをおこして白いもの着た人から注射して貰っていた男の人がいました。どこか特別体にこたえるのね、御自分で体の調子はわかっているから時間十分とって来てくれるように、昨日二人の弁護士に申しました。岡林さんは、疲れさすまいと思うのですって。あとで、もっと必要のとき長く話したいから。今頃栗林さん行って居りましょう。兵役法の書類のこと、そちらからの方が早いことになりました、きっとお話しになったでしょうから。
十五日から休みというのは、今のことだけで、日比谷全体のことではないのです、何しろ司法省が真先に夏休み廃止を提案したのだそうですから。従って、そういう一般事務は休みなしのわけです。ずっとつづけてとりはからわれます。
それから差入のお礼のことね。あれもう公然なのです、ずっと以前。あの細君がそれをしたのは、左様なら風の意味と思いました。この頃のモードで、公然が常識の理解にある公然という堂々的形態は決してとりません。「なりつつある」のではない。なったの。そして、それをいろいろとあっせんした人が、事務上のうち合わせで、あなたにちょいちょい会っていて、はっきりしたことを云わないということも、なかなかデリケートな心理であると考えます。職業的ということの理解が、その人にあっては、そういうあらわれをするのでしょう。浜松の旦那さんにははっきり話したと云って居りました。ひとによるのね、そして効果に。時代の風か職業的ということなのか分らないが、とにかく私は、複雑さを感じ、そういうことには必要以外絶対にふれません。おわかりになるでしょう、何だか下手に話して居りますが。
面会の用件のこと、同じように考えたから面白いと思いました。いくつも並べたの。もう二度とも。そしたら、あの紙にはやはりごく概括してありましたね、どういうのか知らないが。でも、ずっとつづけて見ましょう。
規約のこと、昨日あっちで一寸しらべましたら、いくらかはちがうらしい風です。しかし、別の方は今直接関係がないので、印刷物かしてくれず、又そこで写す時間なくて、今日はまだお知らせ出来ません。近日中にあちらで写しましょう。大体でも同じようなことらしいけれども。
大森の細君も一生懸命な顔つきで、心持よい様子でした。云って見れば、はじめて筋の通った話に近いものをきくわけですから。いろいろの誤解のあることについても、その当人のいないここではふれないと云うのはうなずけます。
さぞくたびれるでしょうね。
大体夏はすきで仕事も出来るたちだけれども、今年は、秋が待たれます。でも、もうカナカナが鳴き出しましたね。冷水マサツはじめて居ります、これは笑われそうですが、やむを得ずよ、汗でズクズクになっておきますから。ここの家は目白とちがって、どの窓も開けっぱなしは出来ません。だからわずかに雨戸の無双窓をすこしあけておきます。やっぱり早ね早おきはやって居ますから、どうぞ御安心下さい。早ねしないでいられない。五時から六時の間にかえって来て、体洗って夕飯たべると、太郎もろともフラついて来ます。そこで一ねいりしたら十二時頃おきて困るから辛棒して九時半ごろまでぼんやりしていて、眠ってしまいます。一日おきの仕事にしてあるだけのねうちがあります、十分に。次の一日は、一日家居が出来ないと何にも出来ない。ところが、丸一日かかるから、どうしても次の日の用が生じて。しかし、得るところ、学ぶところ決して少くありませんから、只いそがしい雑事などとは全くちがいます、其は当然であるが。
明日で出勤一段落。それから仕事。今年の夏は、体は苦しいけれども、自分の作家としての生活実質についていろいろ実に深い感想を得た年です。傍ら、婦人作家の研究をやっているのは、これも相並んで有益です。歴史の波の間に社会の生活、女の生活、文学の生活はどう推移し浮沈しているか、そういうことを今日に即して沁々と考え、自分の作家としての一生の内容についても、おのずから改った感想があります。
作家ののこすべき芸術上の真の足跡というものについても、考えます。この間の晩、婦人作家の或る何人かの集った会へ出てね、実に感じ入って来ました、何と彼女たちは変ったでしょう。時雨、市子、禎子、そんな連中は遊ばせ言葉になって社交声で、何か皆に負うたように(これは時雨ひどい)やっている。もとより、作家でも評論家でもなかったのだけれども変りかたがね、平民のなかで暮していず、或種の選良の環境はああいう作用をするのですね。
おや、コトンコトン足音が二階へのぼって来た、太郎です。咲枝は昨夜から病院、まだ生むか生まぬか不明ですが。太郎はこうやって机の前で「御勉強」している人を見るのは大変珍しいのです、うちにそういうのはいないから。前の廊下で揺椅子をひっくりかえして、「あっこおばチャーン、見て御覧」とやっています。そこで私が曰ク、「ね、アボチン、御勉強しているのに、そっちばかり見ると御勉強が見えなくて出来ないだろう、だから駄目だよ」。この頃幼稚園で『キンダーブック』というのを貰って、蟻の生活の話など覚えはじめました。葛湯こしらえて、「白いコナがジャガいもからとれる」というと「フーム」とおもしろがっている。太郎は早く兄さんにならないといつまでも一人立ちしないで、悧巧のくせにひよわで、依頼心がつよいから。
本月は読書は、先月よりひどいことになって居ります。けれどもそれを補うというよりそれに十分代る他のものがあったわけですから、御諒承下さることと存じます(いやに丁寧になったこと!)。尤も、そのことのうちにある様々の問題についての正当なわかりかたということと、そういう実力ということと結びつけて云えば、猶読書大切とも云えますが。けれども、ごく片々とした書きかたで云って居りますが、私のそのうけかた、わかって下すっているでしょう?ただ、ことを知る、だけにはきいて居りません、その点を。最も深くふれて、自省にも役立ちます。
小説が描き得ている人生の面ということが又別な光で考えにのぼります、この頃屡〃。そして、窮極において、何と小さい部分しか描けていないのだろうと思わざるを得ない。ただ一つの作がその内に一つの世界をまとめているので、そこだけのぞいていると終始があるようだけれども。真の大小説ということについて考えます。大小説というと、従来の通念では只題材が大きいとか構成が多くてしっかりしているとかで云われるが、私はこの頃別様に考えます。大小説というものは、そこにこめられている人間的善意の諸様相がどんなにリアリスティックに描かれているかというと、その矛盾、相剋すべてが。そういう意味では「戦争と平和」などとは又ちがった大小説があってしかるべきです、しかし世界にまだそういうものは出ていない、最も書かれてしかるべきところにおいてさえも。そうして見ると、それはよくよくむずかしいのですね。
急に話がとびますが、あなたは私の宛名を、方(かた)としておかきになるときどんな心持?私は何だかいやです。可笑しいこと、でもわかるところもある、そうでしょう?どうぞ猶々お大切に、ピム、パムからよろしく。 
七月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月三十日第七十信
その後、お工合はいかがですか。一昨日弁護士が行ったとき、余り時間がなかったのでしょうか。体どんな風でした?ときのう会ったとき訊いたら、元気のようにして居られましたがと漠然としていた。きのうは風があって、すこし凌ぎようございましたね。涼しい夜は少しは寝よくいらっしゃるでしょう?寝汗はいかが?食慾はどうでしょう。
きょうから十五日まで日比谷は休みになります[自注22]。あなたが十月三日といっていらしたのは、私の伺いちがいかもしれないけれど、十月三日からでなくて九月三十日から四日間で一日延びて、三日、なのですてっね。十月三日からではないのですね。私は三日[自注23]からになったようにおききしたけれど。それは私のきき間違えなのです。わかっていらっしゃると思いますけれども念のために、きのう三人の人たち[自注24]が、四日つづけてでは体がとても無理だといっていました。そうと思います。まあ、それは又そのときのこととして。〔中略〕
純真な一人の婦人を死に到らしめた例として、自殺した若い女の人の立場について全く正しい同情が示されたのもうなずけました。本当に女への態度は雄弁ですものね。男のありきたりの世界では、それが一通り通用しているから。金銭関係、婦人関係、それらの歪みが何によってもたらされたかということの解説など、わかっている人には分っていることであるでしょうが、なおその上にも分らせられてよい点ですね。逆の面からみて、面白いと思う。誰でもそういう面にはひとかたならない関心を(自覚しているといないにかかわらず内心奥深く抱いているということが)きく顔々にもあらわれるから[自注25]。
現実の多角的な鋭さ、錯綜を実に感じます。リアリズムというものの過去の限界についても考える。例えばここに一人の女がある。そして全く善意ではあるが、ある理性の内容の不足から大きい悲劇がもたらされたとする。昔のリアリズムは、たとえば大石内蔵助の臆病心をあばいたように、そこに、その女の英雄崇拝や名誉心や盲信を描き出したとして、それが何のこんにちの意味をもつリアリズムでしょう、ねえ。
どんな偉い人間にも、普通の人としての面がある。そういうことをよくいうが、やっぱりこれもいわゆるリアリズムです。偉さの種類、普通さの種類、それぞれが内容にふれてはとりあげられないまま、多元的にいわれたりして。前の女の場合を仮りに云えば、その女のひとの稚ない善意にたかったバチルスこそ、見のがされないものなのだから。
考えること、感じることの多いこと、多いこと。何と多いでしょう。「貧しき人々の群」、「伸子」、「一本の花」、そして「雑沓」とともに今日を経験しつつあるということ。そういう過程について考えます。そしてニヤリとする。あなたが去年、わたしが、「雑沓」を、書くべきように書けている筈がないんだときめつけていらしたことを思い出して。去年そういわれたことが当っているということが、いまになってまざまざ分るから、わたしがそういえば、あなたにしろ、やっぱりニヤリとなさるところもあるでしょう?書くべきように書けないという範囲での自覚と、そこを一歩出て、では、どんなところで(心のありよう、ね)書けるかと会得されるということとの間には断然ちがうものがありますから。
作家の独自性ということについて、深刻に考えられます。これは去年の秋、親しい女友達の家庭にある紛糾がおこったとき、私がひどくびっくりしたり、いきり立ったりして、あなたが、なんだまるで自分の亭主でも云々とおっしゃったことがあったでしょう。おぼえていらっしゃるかしら。ああいうことにもむすびついているのです。あの折、あなたは感情の節度という点からいっていらっしゃいました。でもその根は、やはり、作家の生活ということに即してつきつめてみると、自主的(作家としての)に関係していると思われて来ました、この頃。或る時期女二人、一つ財布で暮したような生活、そこにあったプラスのもの。それからやがて生活の条件がかわってきて、それぞれ自分の配偶との生活で目に見えぬ変化を徐々に経つつ、自分の善意もめいめいその生活の現実の条件に立って活かすしかないということについての十分な自覚。それが今日の私と友達との信頼のありようの実際ですが、去年の秋はそこまで行っていず、やはり一つ財布で暮した時代の気持が中心にあったのですね。
文学について云えば、作家としての共通な立場の一般性に一緒に立っていたようなところがある。こういう変化も、意味深いと思います。こういう変化が成長の過程に起ってきて、しかもそれをあり来りの自分は自分という形にかためず、相手の独自性(よかれあしかれ)そこから生じる様々の格闘の必然としてプラスの方へとらえてゆこうとする努力という意味で。そういう努力ではじめて、孤立化ではない箇別の価値が生じるわけですから。
ねえ。この夏一つの暮しかた、それが、どんなに時々刻々の内容となって、作家としてのそういうものに作用し実質化してゆくかと考えると、この作家の独自性ということが、なお重く、新しく呼びかけてくるわけです[自注26]。

[自注22]日比谷は休みになります――東京刑事地方裁判所のこと。公判をふくめて。
[自注23]三日――宮本顕治の公判出廷の日どり。
[自注24]三人の人たち――弁護人。
[自注25]きく顔々にもあらわれるから――当時傍聴席のベンチは、検事局関係者、警視庁特高関係のものだけで埋められていた。公開の公判廷であったが、警視庁の拷問係として知らぬもののなかった栗田という刑事がはっていて、家族のほかに傍聴に来るものを、いちいちしらべ、いやがらせをした。そのために、傍聴者は家族のものと言っても、継続的に来るのは百合子一人、あとは、ときに応じて同志袴田の妻、秋笹の父兄という有様であった。
[自注26]呼びかけてくるわけです――公判がはじまって、勤勉に傍聴したことは、百合子にとって、思いもかけなかったほどの収穫となり、内面の階級的成長に役立った。 
七月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月三十一日第七十一信
さて、きょうは又この手紙を上野の大きい埃っぽい机の上でかきます。少し風があってしのぎよいようですが、そちらはいかがでしょう。昨夜珍しくねまきを着かえないで眠れたので、今日は体が楽です。一日外にいるときと家にいるときとそれだけちがうのでしょうか、それとも気候か。よくわからない。
けさはデパートのあく時刻に松坂屋へ行ってあなたの上布をかって、すぐ下の郵便局から速達にしてお送りしました。それから上野へ来たわけ。着物待ち遠しくていらしたでしょう御免なさい。その代り今召しているのよりずっとシャッキリして着心地よい筈です、大いに優待したのですから。
あなたはここへあまりいらしたことないでしょうね。婦人閲覧室はどこかの通路に沿ってあって、今日は風が通るようにドアをあけはなしてあるから、口笛ふいたり、靴のがたがた通ったりする音がやかましい、ここは、借りて家へ持って来るには、土地家屋・不動産を所有する人の保証がいるのです。不動産とは面白いこと。
寿江子がエハガキお送りいたしました由、つきましたか。どんな絵よこしました?明るい色彩?私の方へは板の間にゴザがしいてあって炉の切ってあるお住居のスケッチをよこしました。八月末に一寸かえって十月までいるとか何とかまだ不定です。寿江、糖の方から呼吸器になりかかったからそれですっかり用心しているわけでしょう。お姉様も三四日是非来いと云って居ります。ひとの気もしらないで。知っているつもりなのですが、やっぱりつまるところ知ってはいないから。太郎は今年海水浴第一課をやる予定のところ、ああちゃんがこういう有様なので、きのうは庭の日向に大きい支那焼火鉢の灰のないのを出して、そこへ水を入れて、泥水の中へ海水着着て入ってよろこんでいるのを見て、そぞろに哀れを催しました。海をみせてやりたいと思って。ところが私はうごけないし、女中さんでは不安だし。遂に太郎は本年泥水ジャブジャブで終るのでしょう。稲ちゃん一家もう保田へ行ったかしら。行かないにしろもうすぐでしょう。本年は鶴さんも行く由。それはそうでなければなりません。保田はあの一家に些かの健康をもたらしはしたが、稲子さんの心の苦痛は保田と全く切りはなせない。保田に行っている、その間に、ですから。女のそういう心配というものは深く考えると何とも云えないものですね。ひどいものね。子供を海に入れてやっている間。赤ちゃんを生んでいる間。その間にもなお深い女の、妻としての心配、不安があるなんて何だろう、と思いますね。
きょうはここ若い女学生が多うございます。全体すいているのだが。これからすこし古びた雑誌をよみます。では又あとで。すこし倦きる。すると、煙草のむようにこれをあけてすこし書いて休むというわけです。
ここに一寸面白いことがあります。明治四十一年秋水が、翻訳の苦心を『文章世界』に書いていてね。ブルジョアジーというのが適当な訳語が見出せず、枯川と相談した結果「紳士閥」とした、というようなこと。「それにつけても明治初年から、箕作、福沢、中村などという諸先生が、権利とか義務とかいう訳語や、その他哲学、理化学、医学などの無数の用語を一定するのには、如何に苦心を重ねたかが思いやられる」と。ごく些細なような、しかも何と面白いことでしょうね。
それから漱石はナチュラリスムとロマンチシスムを、歴史の時期によって対生にかわり番こに傾くのがノーマルだと思うと云っているのも面白いと思います。いかにも英文学ね、英国の議会のような(今度保守党、今度自由党)式。そして「或場合にはこの二つの傾向が平衡を示す」などと云っている。これも面白い。対生とか平衡とか当時としてはフレッシュな用語をつかいつつ、この時代には科学的分析というものは全くされていないのですね。例えばロマンティシズムの社会的原因など。いかにも漱石らしい。互に交り平衡を得るなどというところ。彼の境遇とてらして。
あまりのどが乾いたので何かのみに食堂という方へ行ったら、まるで迷路のようで、昔小さかったときこわい思いをして通った婦人室の廊下の方の、まだ先の、そのまだ先の、太郎の話のようにくねくねとしたところの先にひどいのがあって、婦人席と書いた[図12]黒ヌリが立っているのには失笑を催しました。
『青鞜』の第一号にあるらいてうの文章というものは実におどろくべきものですね。ああいうものがともかく一つの影響をもった時代という点にある興味、意味だけです。彼女が大本教になったと思ったが、既に当時から一種の神がかり風なのであったのですね。
きょう一日だけではすまないらしい。又明日も来なければならないかもしれません。では又明日。これは図書館のすぐ前にポストがあってね、そこへかえりしな入れるのです。 
八月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月一日第七十二信
二十九日づけのお手紙、間に日曜がはさまったので、けさ。どうもありがとう。赤子ちゃんの名前のことも。本当にそうね。国男さんたちも、それはわざわざどうも、と恐縮がっていました。男の子の名前、こっちで考えていたのにやはり雄や陽がありました。女の子の名の字は、私とするとおのずから特別な深い感じで見るところもあるわけです。真咲子などと字はいいことね。でも音(おん)は雅子に通じ、どうも些か。詩という字もつかっていらっしゃる、そう思い、くりかえし眺めました。
昨夜の雷いかがでした。久しぶりだったのでこわいよりも見事でした。丁度八時すぎ上野からおなかぺこでかえって来て、夕飯たべていると、はじまりました。けさ新聞を見ると落雷二十余ヵ所ですって。そうでしたろう。稲妻というものの凄(すさま)じい美しさをあれだけ発揮すれば。床上浸水が六百余戸。床下三万余戸。旱バツの地方へも降ったのならよかったと思いますけれども、これは東京近傍だけだったのでしょうね。本当にあやういところをかえって来たと話し合いました。上野の山の中であれに会ってはテムペスト的風景すぎて、きっとこわかったでしょう、どんなにか。
本の話、二十九日に会ったとききいたらそうでしたって。自分が参考として持ってゆくとの話でした。大観堂さがしているそうですが、年カン、年表類、古いのはなかなかない由。きょう山屋へ行って見ましょう、そして、あったのだけでもお送りいたしましょうが、どんなことになるか、あればよいが。
お母さんのお手紙、あなたとしては又御感想がありますでしょうが、お母さんには真実と虚構の区別がいくらかつくだけもおよろこびだろうと思いました。百四十度は本当に息つまるようでしょう。
平静専一が効果をあらわして実にうれしゅうございます。こうして手紙下さる、原稿のようにすきすきでも、でも手紙下さるからは、きっと幾分ましだろうと思い、二重にうれしい。その上にも猶々お大切に。てっちゃんのところではおくさんと赤ちゃんが仙台で、猫とさし向いの暮の由。ハガキ貰いましたから、あなたからおことづての本のこと、云っておきました。伸ちゃんのお友達の家は存じません。あのひとは先日話していましたが、すこし神経に障害をおこして二度入院したのですって。可哀そうね。今はいいらしいが。自分でそれを意識しているところがあるので、そうだったのでしょうが、はじめ私、何だか普通の人より堅くて、どういうのかと思いました。あなたはでも、そのことにおふれにならなくていいのでしょう、きまりわるいという風に感じているらしい様子ですから。
きょうのお手紙の字、丁度原稿ぐらいね。夏ぶとんの工合いかがですか。かけていらっしゃるところ、ポンポンとたたいて上げたいこと。おはつ、と云って。この次お目にかかる折はきっと、お送りした方の白いの着ていらっしゃるでしょう。あれは能登半島の方で織る上布です。ああいう織物も来年はなくなります。
きのう長い時間上野でねばっていたので、きょうは少々出足がしぶります。どうしようかナと考えながら、先ずこれを書いて、というところ。明治四十五年頃を青年時代で送った人はどんな心持で回想するでしょう。左団次と小山内薫の自由劇場の公演のとき、三田文学会は揃いの手拭で総見し、美術学校の生徒は赤い帽子の揃いで見物して、左団次も舞台でそれをかぶった由。今の小宮とかいう人々はきっとそういう時代の空気のなごりをもっていて、芝居に愛好をもっているのでしょうね。
福沢桃介が目黒の方に、洒落た丸木小舎の外見の小劇場をもっていて、そこでストリンドベリイの「令嬢ユリー」をやったのを見たのが思い出されます、大正三年頃。私は大きいリボンつけて、緋ぢりめんの裾のついた着物着て。新生活をもとめる女のひとの間に俳優になろうとする気運が旺(さかん)であったということも時代の空気だったのでしょうね。上山浦路(草人の妻)は女子学習院出身で、学校は除名した由。そんな時代。
福田英という民権時代のお婆さんが、「新しい女」の問題にふれて書いているなかで、男女同権の内容は大ざっぱながら、その同権の可能にしろ、どういう客観的条件がなければならないかという歴史の進化を、はっきりとした表現と方向とで書いているのは面白うございました。らいてうの「太陽なり」は人生態度で人生問題であって、婦人問題でも社会問題でもない、と云っているのは、筋がとおっている。それでも『妾の半生』(改造文庫)では、この人は自身について割合客観的でないのにおどろかされますが。彼女は「若き日の誇り」をずっともっていたらしいから、その故で却ってそうなったのでしょうね。まだ出かけるかどうか気がきまりません、大変愚図だね、とお思いになるでしょう。では。 
八月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二日第七十三信
今、午後の四時半。あなたは何をしていらっしゃるところでしょうか、けさは国男さんの出るとき一緒に出かけて今まで上野でした。おべん当をもって行くのを忘れたので、おひるぬきで今までいて、大ぺこでかえって来て、おそい昼を終ったところ。夕立がやんだ後としてはむしますこと。八十二度で低いのだけれど。
今、何をしていらっしゃるでしょうね。体をしずかにしながら読んででもいらっしゃるでしょうか。私はそこへ行き、ベッドの横のところへ、頭を休めて、わきの床へ坐りこみます。ずっと読みつづけていらしてかまわないの、私はそうやっていれば気が休まるのだから。もし片手で重くないものなら、あいている方を、頭の上へのっけていただけば。何といい心持でしょう、こうやって凝っといるのは。
読みものは進んで居りますか。あとも届いて居りますか?私の心持も、大方あなたの一日の大部分がそこを通っているだろうと思われる一つの流れのなかにあるわけです。そして、いろいろの瞬間を思いやります。今は切実に思いやることが出来ます。
そして、自分の仕事も考え、いろんなものをよみ、一日の〓〓幾度かあなたに何かしてあげたくて掌がやけるように感じています。ほんの一寸したこと、一寸したこと、ひとこと、どう?ということ。一寸コップに一杯つめたい水を。ねえ。これらの欲望の一つ一つは何と小さいでしょう。でも何とあついのでしょう。小さい火でしょう。そしてこういういくつもの小さな火は輪になって私たちをとりまきます。夏でもこういう焔の色はやはり鮮やかで美しい。
今は夜の七時四十分。一人食堂のテーブルに居ます。皆は霊岸橋のよこの大黒屋という有名な鰻やへ行きました。関東からかえって来た豊寿さんという倉知の従弟をもてなしに。私は面倒くさいので失礼。それに仕事の下拵えもあるし。テーブルは薄黄色い地に薄みどりの縞のあるオイルクローズで被われていて、ガラスのビールのみコップに青々とした猫じゃらしがささって前にあります。これは、太郎があっこおばちゃんの御勉強机のためにさっきくれたもの。羽蟻が昨夜あたりはうんと来たがきょうはすっかり減って居ます。
きょうは図書館がこんでいてね、割合となりとくっついていたら、隣りの女のひとしきりに私の手許をのぞいて、くすぐったくて仕方がありませんでした。その人は何かノートにどっさり書いたものを原稿紙に写しているの。そして写し終った部分はノートを四つに裂いて、ビラビラしたのれんみたいにしているの。妙な気持がしました。まるで見知らない女の人に挨拶されてびっくりしたら、それは連合婦人会というところの機関誌の編輯をしている女のひとで、何か書いてくれとのこと。それはよいが、御勉強でございますかって、いきなりつんである本に手をかけて背を見て曰ク「おや、懐しいこと!」それは四十五年―大正二年頃の『青鞜』なの。おなつかしいってその頃大人になってもいなかったろうのに、と又びっくりしてしまった。吉岡彌生女史の伝記編纂の仕事の由。いろんな妙なことがあるものです。
六日までに一区切りまとめ、次月の分も十五日迄にまとめてしまうつもりです。小説も書いた方がいいのですが、今の私の心持の主流は御承知のようなものですから、そういう作家の人生感情の基調の上に不調和を感じず、しかも外部の条件に適した題材というものがそうざらにはないので、思案中です。『中央公論』で十月にと云っているのですが。『文芸春秋』の「その年」の代りもまだだし。小説というものに求めているものが、私の心の中では益〃深い濃い、些細ならぬものとなって来ているのです。あら陰翳(かげ)が〔約三字不明〕あら、晴れた、そんな風なものでは辛棒出来なくな〔約五字不明〕むずかしい、自分にとっても。今毎月つづけている仕〔約三字不明〕今度大正五年迄。それからの分に次の十年。それからの分に昭和の十年間。それから現在に到る部分。もう七八十枚以上かかるでしょうから、それが終ると、私はどうともあれ「雑沓」のつづき書きはじめそうです。ためておくものとして。あなたに向って、評論と大きな顔も出来ないからマア感想めいたものとしても、そういうものにしろ、やはり婦人作家として生き、善意の生活をねがっている者としてしか書けないものを、まとめられれば、やはりすこしはうれしいところもある。「時代の鏡としての婦人作家」大きい題はこうね。黙りこんで、ひっこんで、ムシムシ仕事がしたい。勉強したい。そういう心持です。明治以来の日本文学の中で、婦人作家ののこしている足跡というものは小さく、まばらですが、実に独特に悲痛〔約五字不明〕もっていると思います。女のおかれている社会事情の〔約六字不明〕が実にてりかえしている意味で。ヨーロッパの婦人作家〔約五字不明〕りの通俗作家と数人の文学的作品の作家とを出しています、少くとも二十世紀に入ってからは。ところが日本では、女の通俗作家というものは吉屋など以前には一人も出ていず、皆、育ち切らない作文のようなしかも真面目な(主観的に)文学作品をつくろうとしていた(明治四十年以降)。ここにはやはりなかなか人生的に、そして社会的に日本の女のその時代と層とのありようの特殊さがあります。ものを書きうる女の層のせまさもあらわれていて。全く所謂中流的なものですから。そして、ものを書いて行ける才能そのもののために社会の歴史の歪みにひっぱりこまれた俊子のような華美な悲惨もある。この時代は複雑です。そして又面白い。この時代には女の入り乱れた跫音が響いている。やがて市子が大杉を刺したのをクライマックスとして、新人会の時代が展開されて来て、文学は一つの〔約五字不明〕女の世界の中に於てもあけるわけです。
こういう歴史の見とおしで見ると、自分のありようも広〔約五字不明〕ら見晴らせてなかなかためになります。うぬぼれたいにもうぬぼれられませんものね。四十年代の、若い女がどっと芸術の分野にきおい立ったのは、大局から見ると一つのリアクシオンです、丁度国会開設がきまった後、青年が法科からどっと文科にうつった、紅葉なんかの時代、それにやや似ています、売文社の時代ですから。売文社で一脈を保とうとした時代だから。
自然主義が文芸の上に一つの道を建てたというより多くの流派への一つの門をひらいた形となったのも、日本としては独特の自然主義、つまりはロマンティシズムの変形であったようなところ、いろいろと面白く思われます。あの時代の天弦氏の評論も新しい味で見ました。では又ね。 
八月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月七日第七十四信(これは九枚あります)
ひどい嵐があったせいか、今日の日ざしや風の音は秋が来たようですね。空も。こういう乾いた木の葉の音は本当に秋を感じさせます。
二日づけのお手紙、五日につきました。ありがとう。目玉くりむいていたので、返事申上げるのおくれました。「入り乱れた羽搏き」32枚終ったところです。但徹夜はいたしませんでしたから。(大正三年ヨーロッパ大戦ごろまで)
丸善の本のこと。私もほしいと思って居りました。六章加入の方も欲しいこと。先の本ではレオンの流派の影響がどんなに複雑に作用するかということについて、著者は単純に現実を見て居りました。そういうこともどう成長したか。やっぱり欲しいと思います。今日では、アメリカと日本との距離は全く地理で習ったような標準ではないのね。一冊も来ません。きいてやろうと思って居ります。『ウスリー物語』まだです。
『医典』の方はまだ品切れ。どうかもう少々お待ち下さい。年鑑類は社会にいる人にたのんで貰うよう重治さんにたのみました。今に有無がわかるでしょう。金曜日に栗林氏行くように云って居りましたが、いかがでしたろう。雨でしたが。
それからこの間お話の謝礼のことについての処理の方法など、私はあのとき、自分あっさりすぎるとしみじみ思いました。何かを対手へなげかけてひっぱるという風なところがないのね。チョコチョコ行って、あなた来ますか?ソウ?来るんですって。それ式ですね。私はどうも、いつも対人的ないきさつではあっさりすぎるようです。大変フームと思いました、あなたについてもよ。面白く思いました。
規約のこと、筆耕テンポのこと、承知いたしました。規約は又写しましょう。その方がはっきりしてようございましょう。芝のおじいさんのところへ行ってしらべること、まだあれからは行けませんでした。
書評について、どうもありがとう。云われていることよくわかります。そんな風が気がしました。そういうところが目におつきになるのではないか、そう思いました。自分で読みかえしたときにも。今に又なんかの折、すこしはましな書評でもおめにかけたいものです。しっかりした骨格を内につつんで、ふっくりとした肉つきのつよい線のものが書きたいことだと思います。
今書いているつづきのものについてはそういう点も自分から気をつけているつもりです。底へ底へとふれてゆく、その感じで書いているから。単行本にする話が出て居ります。あれだけ。文庫にでもすればよいでしょう、とにかく多く不足の点があり、外部の事情から全面の展開のひかえられている箇処もあるけれども、ああいうものはこれまで一つもないのだから。社会の状況、その生きた関係で見られた文学の潮流、その中での婦人作家のありよう、それが又再び、当時の歴史へと照りかえりつつ進んでゆく姿としてとらえられることは、何かの価値はあるでしょう。
二十五日には工合わるくて行けませんでした。二十六日もそのつづき。ユリの体も、しかし盲腸なくなって、どの位ましでしょう。この頃の出勤のつかれるのは、只時間とか何とかではないのでしょうと思います。ぐるり、どっち見ても普通人はチラホラという中にかこまれていれば、やはりくたびれかたもちがうというようなものです、二重の刺戟みたいなもので。二十五日のあとは七、九と出かけました。
冷水マサツは、やる癖になりそうです。ずっと続いて居ります。問題は初冬、晩秋ですね、きっと。そこを通ればきっとつづきましょう。それでも、ユリは真冬でも朝晩つめたい衣類、すっぽり着かえる習慣だから或はやり通せるでしょう。風邪をひかなくなれば大いに助かります。
就寝は、(ああ、又エンマ帖よ)七月四日、五日、これは例の通りの理由で一時ごろ。十五日の夜、咲枝が病院へ行くのを送ってやって、十一時半。あとは大体十時―十一時の間です。尤も二十五日六日は二日つづきのような形でふらつきましたが。七月はじめ、あなたが書いて下すった標準で行くと、丙が一日。丁が二日。乙が二十五日。あら珍しや、甲も甲上が二日ですが、この甲上は本質的には丁以下なわけです。おなか通したり、へばったりしていたのだから。林町も今は咲枝がなるたけ早ねをのぞんでいるし、随分やりよい条件です。書きもののためにも徹夜はしないを原則にして、本月にしろ、きのう迄でも十二時越したのはたった二日です、四日、五日。これは全くましだと思います、認めて下さるでしょう。それはそうなわけね。お客はない。台所のことはしないでいいのですもの。家居の日は仕事していられるのですものね。
さて、読書のことは、小さくなって書きます。百二十頁。まことに点滴ですが、すこしで二巻目終ります。どうぞあしからず。
きょう、一つ書きたい小説のテーマ心に浮かびました。家庭家族の内のこととして印象的に書いてゆけばいいでしょう。もうすこしまとまったらきいて頂きます。四五十枚のものでしょう。まだポーッと一つの中心をもったものが浮かんだだけでまとまってはいませんが。どういう風に(時間を、よ)書くか不明。十五日から又出勤ですから。九月七八日に書き上げたいから。今日の人生の現実の中でよく生きたいと思っている若い勤人夫婦、その妻の親たちの考えかた。勤先の人々の心持。そういうものをかきたいのです。今の立身(流行)の妙な波動の中で。貧乏が貧乏としてだけにしか見えず、安心してすじの通った貧乏していられないような空気の中での、子持ちの若夫婦の心持です。その心持の内からかいてゆきたいと思います。いろいろのディテールを添えて。
この頃いろいろ自分の作家的特質というものについて考えます。私は気分から書く作家でもないし、独白の情熱でかく作家でもありません。又、女、女、女、と執したところもない。書きたいところは、やはり今云ったような心持に向きます。小説が書きたい心つよくて。全く、この間『文芸』に「求められている小説、或は小説にもとめられているもの」について書いたように人生的な共感のふかい小説がほしゅうございます。そういうものが書きたい。この人生に何かを求めて生きている人々の心にふれるような、ね。悧巧な小説、うまい小説、しゃれた小説。文学上のおもちゃはほしくない。そういう点でトルストイはやはりいつ迄たっても偉い男であると思わせます。
では明日ね。明日火曜日、ではお大切に。
「夏の庭の小さい泉」の話ね。世の中にはいろいろの共著があると思います。けれどもああいう作品は、そういくつもあるまいと思われます。
朝早く、涼しい光の満ちた庭で、段々泉が目ざめて行って、しかしまだ半ば眠りがうっとりとそこにのこっているようなとき。もっと早くおき出して溌溂としている鳥が一羽、そのふちに来てとまり、はじめは何となくそっと、やがて自分のやさしさに負けて、荒々しいよろこびにあふれながら、下草のまわりに飛沫をとばし、瞼をふるわせつつ水浴をする光景。そのときの小鳥の姿、そしてそのときの泉の様子!
その美しさを話すとき、私の声はひとりでにかわる程です。あなたの手をとって、そして話すような美しさ、ね。勿論、大切に大切にしてあります。 
八月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(はがき速達)〕
弁護士の件につき
お話のひと住所その他わかりまして問合わせたところ旅行中、一週間ほど後帰京の由です。それから『医典』、十二年版のしかなく本屋も古すぎると申します、月末まで待った方がよろしそうです。とりあえず。 
八月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月九日第七十五信
八月四日に書いて下すった手紙、八日朝、そちらへ出かけにとどきました。間に土、日があったせいでしたろう。第六信です。けれども、七月二十五日に速達下すった分は別として。それを入れれば四日のは七信目でした。百年河清を待つには恐れ入りました。私は、待って待って待っていると、ボーとして御飯の仕度するのを忘れて待っているというようなところがあって、この間の手紙、つい用向についてぼんやりしてしまってすみませんでした。話すべきこと、つたえること、勿論ノートにしてあります。そしてやっているのだけれど。
さてきょうはそういう方を第一にね。弁護士のひとの件。住所はやはり代々木上原でした。事務所は麻布区材木町一〇です。会う都合きいたら旅行中で一週間ほど留守の由。
義兄に(娘さんの良人)山口さん[自注27]という人があって(芝の角の家)その人も弁護士であるそうです。もしいそぐならばその人に紹介してもよいということですが、即答は私に出来ないのでお目にかかって(あなたに)きいてから、ということにしました。旅行中の人は第二東京弁護士会所属です。山口さんという人のことも、すこし分らせようと思います。
あの家では、御老母[自注28]が胃ガンで秋まで保証出来ぬとのことです。気丈な婦人なので起きて出歩いてもいられるそうです。まだ二年ありますが、待ちきれずゆくというような歌をよんでいられるそうです。老人は元気だそうですが大変です。いろいろとお察しいたす次第です。医者の診断も咲枝のような例もあり、もし二年待てれば、実に僥倖でしょう。おみまいいたします、近々に。
それから『医典』の件。古本屋へ行って見ましたがあるのは十二年版です。これでは診断には大した変りはないが、新薬などまるで役に立たぬ由。買わずに来ました。本月末に出来るのを待った方がよさそうです。それは、いずれも速達のとおり。朝日の方はまだ返事ありません。大森の方申してやりました。栗林氏の方は今明日中に。大森の方十分はっきり申してやりました、今度は。
おや、又雨になって来たこと。これはしずかな雨ね。木の葉をうつ軟い雨の音。机の上には、アボチンがとって来てくれた蚊帖つり草、猫じゃらし。水引の花。山牛蒡(ごぼう)の花とまだ青い小さい実の房などがささって居ります。きのう、アボチンは根岸のおばちゃん(春江。咲の姉)と、よしという女中さんにつれられて、生れてはじめての独り旅!で茅ヶ崎へ行きました。一日海で遊んで夜かえって来ました。けさ、大キゲンでおきて、私が「アボチン、アッコおばちゃんのお机の草、もう古くなったから又とって来てよ」と云ったら、大得意で、「もうとって来てあるよ」と見得をきりました。離れの前が草蓬々なの。そこからとって来るのです。それが机の上にささっています。こういう面で考えると、私が目白で一人で暮している暮しが、こまごました日常のなかで与えないものの少くなからずあることを感じます。
けさは、ひるすこし前からはじまって、二十枚ばかりの原稿になる口述しました。『婦人画報』一問一答。若い女のひとの生活について。二十枚ぐらいそのまま文章になるように話すのはくたびれます。咲枝、もう出産が迫って来たので重さや何かで腰が苦しがっている、それをすこしなでてやって。そしてまことに奇妙な手紙よみました。岡山の一人の女のひとが、お金を三十円かりたいのですって。いるわけは云えないのですって。詐欺でないことはたしかなのですって。無学とかいてある字は少くとも女学校は出て居ります。山本有三のような作家、さぞひとり合点な手紙よこされるのでしょうね。こういう手紙には返事も出しかねますね。
「ユリ、元気そう」と云って下すってうれしいと思います。
おかげさまで、よ。尤も深い豊富な内容での。様々の深い感想をもって、益〃それを深められながらユリが元気で今日いるということには、ひとかたならないものがあるわけですから。この間或座談会(映画の)でとった写真が『読売』に出て、小さいちょこんとしたのながら扇を胸のところにもって、いかにも心持よさそうにしていると、わざわざアミノさんが、あの写真ないかときいて来ました。寿江子も見たと見え、そのこと云ってよこしました。おかげさまで、とそれをお目にかけとうございます。
この頃よく思います。私は作家であって何と仕合わせしたろうと。そのことを、全く妻としての生活から屡〃思います。私たちがそういうものであるために、生活のいろいろな面を、何と手のうちからこぼさずに生きて行けることでしょう。それによって生活をうるおされ、やさしくされ、新鮮にされ、きのうは更にきょうであり、そしてこの今であるというようなものを、のがさないで生きて行かれることでしょう、ね。
詩人たちの秀抜な感覚や手法を、そのまま私たちの生活に生かして、溢れる詩のなかにひたれるのはうれしいことです。そういう美しさがなかったとしたら、失われたとしたら、私はきっと、ユリは元気そうでと云って頂けないでしょう。詩の歴史が回想されると云われて居ります。けれども、芸術の神通力は、それをこの瞬間にもたらしますから、だから、作家であってよかったと沁々思うわけです。それは全くリアルです。一刹那の耀きでも、ぱーっと景色と色調と交響する音の全部が見とおされます。そういうたのしさ。そういうものが生活をいやし、新しくする力、それは実に大したものです。そうお思いになるでしょう?年毎にそのことがわかって来ているでしょう?より深い休息とあなたがよんでいらっしゃる、その通りね。私たちの生活の中で、それは決して決して過去の文法では語られません。これも何といとしい私たちの現実でしょう。そういう点でも、ユリは、お互にとっていい芸術家になろうと思います、こんなに自分たちの生活を愛していて、そして、ねえ。
床に入って、雨の音をききながらやすみます。
明後日お目にかかります、お大切に。あら、土曜日ね、ではもう一日さきになります、本当にお元気で。

[自注27]山口さん――山口弁護士。
[自注28]御老母――蔵原惟人の母。 
八月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書速達)〕
八月十一日第七十六信
日本橋の東洋ケイザイへ行ってハンケチ忘れて行って、フーフーになってかえって来たらお手紙。(九日づけ)大いにニヤリといたしました。というわけは、珍しくもあなたからのお申しつけの方がほんの一足あとになったわけですから。大いに気をよくいたしました。本のノートなんか勿論ちゃんとしてあります。『医典』のところには未決の赤チェックがしてあります。
さて、用事だけをとりいそぎ
一、『経済年報』昭和八年度第十二輯―第十五輯揃いました。
一、『朝日年鑑』九年版、十年版揃いました。
一、『朝日経済年史』これは目下親切な人が大阪の社へ問合せ中です。大観堂の方はまだ。
一、『医典』については「速達」ハガキに申しました通り。大正十二年版ではひどいと本やの話です。いかがしましょうか、本月末まで待ちましょうか。
一、弁護士のこと、代々木の方はハガキで申上げました通り。伊勢氏はまだ行かないそうです。栗林氏には、先方がまだ会っていないそうだからもうすこし経って、と云いましたらあなたが、直接本人に会って欲しいと云っていらしたとのことでした。土曜日におめにかかって、どうするか伺いましょう。伊勢氏は、父親を知っているし子供のときから知っていて情において放っておけないが、その情に立って自分の云いたいこと又自分としてそうとしか云いようのないようなことは、本人は云っても貰いたがらないのだし、と大分閉口のようでした。具体的な点で、誰にでもわかるひとり合点を注意してやるということは、勿論必要だと云って居りそのために会うと云ってはいるのですが。
一、勉強の表、その他かきました。
一、費用のことについてのお話、よく分っているつもりです。
一、出版年かんのこと、わかりました。
一、第一東京弁護士会「手数料及謝金」左の通りです。
(一)刑事々件区裁判所事件三十円以上
同地方裁判所事件及ビ控訴百円以上
同大審院五十円以上
(二)刑事事件ノ謝金ハ左ノ標準ニ依ル。
(1)地方裁判所又ハ控訴院事件無罪免訴又ハ公訴棄却トナリタルトキハ三百円以上五千円以下
(2)執行ユーヨトナリタルトキハ二百円以上三千円以下
求刑セラレタル体刑ニ対シテ罰金又ハ科料トナリタルトキ亦同ジ
(3)求刑セラレタル罰金ニシテ科料トナリタル場合ハ百円以上一千円以下
(4)上告事件被告自判又ハ事実審理ニヨリ被告人ニ有利ナル判決アリタルトキハ前号ニ従ウ
(三)事務所所在地以外ニ出張スル場合
(1)旅費二キロニ付十銭以上一円以下
(2)日当一日二十円以上二百円以下
(3)宿泊料一泊二十円以上五十円以下
――○――
第二東京弁護士会規則
刑事ニ関スル事件ノ手数料及謝金。
(一)公判ニ付セラレタル事件
イ、第一審ガ区裁判所ノ事件五十円以上
ロ、〃地方〃〃百円以上
(二)公判外ノ事件五十円以上
謝金ハ依頼者トノ契約ニ依ル
(三)出張費
旅費五キロニ付一円以上
日当一日ニ付二十円以上
宿泊料一泊ニ付二十円以上
右ハ総テ出発前ニコレヲ受ク
(四)特別ノ事情アル場合ハ本規定ニ拘ラズ依頼者トノ協議ニヨリ手数料謝金等ヲ増減スルコトヲ得
(五)手数料及謝金ノ規定ハ「各審毎」ニ之ヲ適用ス
(六)「上訴審ノ事件」ニシテ前審ニ於テ手数料及謝金ヲ受ケタル場合ハ適宜其額ヲ定ムルコトヲ得
(七)手数料ハ事件受任ノ際此ヲ受ク
(八)謝金ハ判決言渡、和解又ハ調停ノ成立抛棄、認諾、取下、解任其ノ他事件落着ノ際之ヲ受ク。
但シ取得額ニヨル謝金ハ其ノ取得アリタル時直ニ之ヲ受ク
(九)「顧問料」ハ依頼者トノ契約ニ任ズ
(十)依頼者ガ手数料、旅費、日当又ハ事件処理ニ必要ナル費用ヲ支払ワザル時ハ事件ニ着手セズ又ハ其ノ処理ヲ中止スルコトヲ得
――○――
規定以上の通りです。
一、大森の方は速達出しましたが、岡林氏へ電話できいた結果すぐ三笠の本六法送りました。三笠の本は新しく買いました。
この速達は明朝お手に入ればようございますが。私がお話しするだけでは話しきれないから、重複にはなりませんけれども。
お大切に。『太陽』の増刊お知らせ下すってありがとうございます。割合にこちらにありますね『解放』のもあるし朝日のもあり、明治大正思想史の中にも役に立つところあり。
では用事だけをとりいそぎ。 
八月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十三日第七十七信
きのう、随分水がのみたそうでいらしたこと。うち独特ののみかたで、なめらかに、喉に流れこむ、そういうのみかたの水を。御気分いかがでしょう。ようございますか。お疲れになったでしょうね。
きのうは、神田の本やへまわって思いがけないいい本(仕事用)見つけ出して、それもうれしさの一つに加えて、三省堂へよって、国男さんの誕生日祝の白テブクロ(登山用)を半ダース買い(これはいつも私をのせてくれるお礼です。今は木綿の白テブクロ、やはりないものの一つとなって居りますから)くたびれがどっと体じゅうに出た気持で、いかにも目白迄まわるのが重荷でしたが、エイヤとまわって五時頃林町へかえり。
うっとりして湯をつかっていたらもうお客。咲枝の兄の夫婦。俊夫、戦地からかえってはじめてなのです、重機関銃で一ヵ年行って居りました。その人たち、私がいるの珍しいので話が弾んで十一時ごろかえったら、咲枝が「ね、百合ちゃん、もし夜なか行くようになったら、すまないが来て頂戴」というわけです。それから私は二階で一眠りしたら、咲枝がすこし亢奮した声で医者に電話かけている声で目がさめました。枕もとの時計を見たら三時。すぐ下りて行ってやったら「アーラ、よくおきてくれたこと、よくねていたらしかったのに」ともう着物着かえています、私もいそいで身仕度して千鳥の自動車(うちのは工場へやってあるので、今夜はたのむとタクシーに特約してあったの)で青山六丁目の沢崎という医者のところへゆきました。三時半と四時の間に着。それからきものかえて、咲産室に入ったのが三十分ほど後で、五時十五分前に私は「ではお二階でお待ち下さい」と云われました。室で、籐椅子二つつないで脚をのばし、半ば眠りながら十二日の朝のこと思っていたら、下で急に赤坊のいかにも威勢のいい声がしました。よその赤坊と思って二声、三声きいていたが、下に室はないこと思い出し、いそいで階段口へ行きかかったら、バタバタ下から駈けのぼって来た看護婦が「御安産でございますよ、お嬢さまでございます、お二人ともお元気」と云ってものをとりに行きました。「ああよかった!」思わず声に出して「何てよかったんだろう!本当によかった!」そういって電話室に入り、国男呼ぶのがなかなか出ない。ブズーブズー、二十分もして出ました。生れたこと云うと、妙な咳して「よかったね」と云っている。折から赤坊又泣き出したので、電話室のドアあけて「きこえるだろ、あの声がそうよ」ときかせてやったら、又咳払いのようなことして「ああ。ああ。」と云っている。そういう風になるのね。五時二十分に生れました。ですから陣痛が高まってから三十五分ぐらい。家を出てから二時間余。あやういことでした。自動車の予約がなかったら大あわてのところ。「百合ちゃん来てくれて、よかったよかった」と云い、しばらく手をにぎって話していてかえりました。それが七時。お産の間の時間は何と経つのが早いでしょう!びっくりしました。仕事している夜とお産とは、早く夜が経つこと。
私たちの祝福が、特別きのうは咲枝にまできいたのかもしれないと、ひとり思ってうれし笑いいたしました。七時ではこの頃円タクなし。タクシーをやとってかえって来て、玉子二つたべて十二時まで熟睡しました。どうかあなたも御安心下さい。よかったわね。これは本当の安産でした。可愛い女の子よ。家のしるしで、やっぱりくっきりと[図13]こういう山形の上唇をして。体重は七百六十匁。すこし軽めです。けれども実に張りきった声で音吐朗々と啼(な)き、男の子のような勢です。可愛いこと!小さい小さい顔よ。鼻の頭すこし擦れて、短時間に生れたから楽でね、息づかいも柔らかに赤いふとんかけている。夜あけの町の物音、つゆにぬれているプラタナスの葉っぱの色。自動車ひろいに出たらまだ閉っている店の前に咲いていた一輪の朝顔、みんな新鮮で。何だかすこし涙っぽいような心持でした。太郎のときはこの味知りません。上落合の家で、父が「オトコノコアンザン」と電報くれただけだったから。はじめて父親になったひと小説かきたくなるわけね。平凡事ながらやはり決して平凡ではありません。二人でこの赤ん坊見たいと思いました。又いまにあっこおばちゃんのおじちゃんに御対面ねがいます、私が抱いて行くわ。あなたにもはじめての姪ですね。
午後から国男、アボチン改称お兄ちゃん同伴、初対面に出かけます。島田からもおきき下すっていますから御通知いたしましょう。克ちゃんの御良人、十日に岡山へ応召した由、ふと克ちゃん、もしやお母さんになるのではなかろうかと思ったりしました。
今池田さんから電話。お役所の用で来て、十五日ごろまでいる由です。
きのう、本をひっくりかえしていたら「化粧」という詩が目につきました。ごく簡素な清潔な感覚で、女が自分の愛するものにふれられたところを、湯上りに特別の愛着で、ゆっくりと自分たちの情愛への心をこめて、化粧する。そういう詩です。ソネットね。なかなか趣深うございました。
速達(十一日)もう御覧になったでしょう。九年度年かんと一緒の『メチニコフ伝』はいつぞや『ミケルアンジェロ』をくれた人が、あなたへとわざわざ合本してくれたものです。どんな本かしら。こんなものをユリにかかせたいと思いになるものかしら。私はよんで居りませんが。どうもこの奥さん、自分の気持にだけ入って書いているのではないかと思いましたが。献詞を見て。親愛なる彼とは妙だわ。では呉々お大切に。 
八月十七日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十七日夜第七十八信
きょうは大変長時間で、うちへかえって来たのが七時でした、タクシーにのってその時間。六時半まであちらでした、九時から。さて、きょうは十日づけのお手紙(十五日着)とけさ頂いた十五日づけの分と二つへの返事をかく次第です。
例によって私の事務的処理の鈍さについて。こちら独自の弱音器をかけぬようにとのことは、十分気をつけます。わかりましたと、只ここにいくら書いてもはじまりませんものね。云いわけも致しません。私はどうでもいいと思っているのではなく、出来るだけ即日即決の心持でやっているのだから、そのプリンシプルで一層向上が必要ということはよくわかりますし、又現実には今度のペンギンみたいな失敗をして、ある意味では百ジンの功を一簣(き)に欠いているようなところもおこるのですものね。私はこの頃、心に僻(ひが)んでいるところがないから、くよくよしないでお小言を受けます。あなたが「仕様がないじゃないか」と仰云れば「だけれど」とは云わず、御免なさいねという心持です。(御免なさいね、ですむと思っては居りませんから御安心下さい)
『医典』については申しました通りです。紙が不足故月末迄の予定がすこしおくれるということも、覚えていらっしゃるでしょう?南江堂へ予約しておきました。
就床成績乙下は当って居りますね。ここにいて乙下は未曾有です。書評について。それから題について。堅実簡明の趣味のことは全くその通りです。本質的なものの見かたのことについて云われていること、本当であると思いました。性質というようなものの範囲で云っていたのではなかったのです、私にしろ。やはり現実へ向う態度というものについて感じていて、それで書いていたところあるのです。ですから云われていることも至極ピッタリとした次第です。やっぱりお嬢さん性であるという風に感じていたのです。卑俗な意味での世故というものに対比しての、低い意味からではなく、ね。
時期のことなどもわかりました、御相談いたします。十月十七日までの完了をフイにしないということは大いに心にかけて居ります。この読書の完了を本年の十月十七日にするということは、私にとって決して何でもないことではない心持なのです、去年だって同じというのではなく。ね。
夏の庭のスケッチ。景色目に見えるようでしょう?小草にかかる泉のしぶきの眺めなど。
けさのお手紙。第一註文でオールライトとなるようだと、と云っていらっしゃるお気持、そのスーッと工合がわかるようで何とも申しようなし、です。ああ私は実に几帳面な事務家で、そして又実にゆたかな溢れるような抒情詩人でありたいというのだから、一騒動なわけですね。新しい詩性のタイプなわけだから。こっちで我まんして下さい、と一方だけさし出しておじぎすることはしようとも思っていないのだから。どうぞどうぞ御辛棒。今すこしというような体裁のいいことは云わず、きっとこれからも時々眼玉頂いて、赤くなって間誤付くこともあるだろうと思いつつ、でも、些かすこしはましになります。
実例。『ダイヤモンド』はいきなり社へ行って、十六日とってきょう速達いたしました。バックナムバーは発行元でなければ駄目ですね。古い雑誌などは特に。『経済年表』来ました。それから『体力測定計算表』。二冊明日送り出します。
○芝の弁護士会いました。その話は明日。
○栗林氏月曜日に上ります由。トー写の人のこと、ことわっておきました。十分ことわってよかったわけがありました。その話も明日。兵役法の書類の日附、貴方からお知らせになることも申しました。
○ペンギンに関する時日ということ。
○初めのときは三月十八日づけのお手紙。二つの本の名が出ていて注文したとき(電話できいて、なかったのを思い出します)。
○二度目のときは五月四日づけ。
さて、とおそるおそる帖簿をひらくと(同情して頂戴、すこーしは。二つのエンマ帖ですから)三月二十四日の日附であなたにセッカア・ワーブルグのカタログをお送りして、同日に丸善へ「ホワット・ヒットラー・ワンツ」と「支那におけるモロラア」を予約と書いてあります。五月に先方も届けるのを忘れ、私もついうっかりしてしまったのね。それこそ御免下さい。改めて予約し直しておきます。そして忘れずにおきますから。
仕事に関しての本のこと、どうもありがとう。お年よりの方は何とか日をくり合わせて参りましょう。それから分りかたよく、というのはハイと云えるけれど、鼻でくくったようなというのは苦笑ね。上に木(き)でとつくの?まさか、ねえ。
きょうはくたびれて、かえって、お湯をあびつつ、ふと、あなたが肩の上の勲章に何気ない風で手拭をかけたりなすったときの手つきを、何とも云えない鮮やかさで思い出しました。いろいろなところの勲章は面白いこと。
本月は又なかなかいそがしいから、大いにがんばって、せめて乙下のレコードくずさず働くつもりです。どうかうまくゆくようにと思って居ります。忙しいのも九月上旬、出勤も同じぐらいの日どりですから。
おや、国男、太郎、ああちゃんと赤コチャンのところからかえって来ました、夕飯私一人でした。だからこれもかけたようなものです。昨夜太郎泣いてね。私たち何を云っても泣きわめいていたら十時すぎお父さんかえって、鯨がアンモをたべたという話をしたら、三分ぐらい眠ってしまいました。実にこのききめと云ったら!この太郎め、と、自分にも同じききめのあるもの思いながら笑ってしまいました。夜冷えにならないようにね。風邪おひきにならないようにね。では又。 
八月十八日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十八日夜第七十九信
あれから代々木上原へゆきました。なかなかお見舞にはゆきにくいし、これから先は一層時間がないから。新宿へまわって中村屋でアイスクリームを買って下げて。上原の駅からすぐのところでした。
家は夏であけ放していて、大連の方に行っている娘さんが三人子供をつれて来ていたりして(おみまいに)賑やかですが落付かない。庭のところで浴衣がけの老人が南瓜の前に佇んでいられるので、まあお庭ですか、とびっくりしたら、ああよく来た、よく来たと御老人すっかりよろこび、そわそわして、部屋へ上ったら、あ、私の太陽が来た、これは私のエンジェルだ、となかなかレトリカルで、こういう歓迎の辞をのべ、且つ握手する礼儀を、あなたがなさらないのは、遺憾千万であると申さねばなりますまい。
お母さんはこの前お見かけしたよりやつれて居られるのに、却って何とも云えませんでした。この頃はなかなか御苦労様だそうでと申しました。そして、少しずつ一日に何回でもものをあがるように、お茶をのむところはスープをつめたくしておいて、という風にして滋養をおとりになるようにとよく注意いたしました。それでもしっかりして一言の愚痴が出ません。立派なものです。かえるとき私は、御気丈だからよけいなことは申しあげませんが本当にお大切に、といって来ました。本年じゅういかがかというのは出たら目でなく感じました。待つ時間といえば一ヵ年と一ヵ月ですから。秋になって又上りますといって来ました。
御隠居様になって居られない条件が、ああやってまだあの老夫人を動かしているのです。おじい様は口でいろいろ小言だらだらでも、やはり奥さんを柱として居られる。窓をあけようとしているのを、お前はあぶないから人にさせろと云ったりしている様子は、なかなか心にのこる情景です。なるたけ見舞ってあげたいと考えました。
芝の方の弁護士の方は旅行中、二十三四日以後に会うことにしておきましたから、どうぞそのおつもりで。それから二ヵ月ぶりで栄さんのところへ行って夕刻夕立の中をかえって来たら(ぜいたくをしてタクシーで)何だか苦笑してしまいました。丸善から三月二十二日づけ御注文のペンギンBook二冊といって通知が来ているのですもの。けさあやまったのに損をしてしまった、と思って全く可笑しくひとり笑いました。
伊勢さんのひとの方のことも見当つきましたから、早速そのように相談いたします。兄弟の方々が何とか出来るのですって。そしてその方がやはりよろしいでしょう。困難なことではないのだそうです。でもやっぱり血統とでもいうように大まかなのね。それに台湾だの朝鮮だのですから無理もないのでしょうが。 
八月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十日第八十信
只今電報いただきました(午後二時半)。きょうは日曜日故明日早速そのように手くばりしてなるたけ早く製本させましょう。
きのう栗林氏に、兵役法についての時日のこと、総目録のこと、期日表のこと、など話し、紙に書いたのを渡しておきました。月曜日に参る由。モオラアの本ともう一冊二冊かペンギンも明日送り出します。実際このペンギンには笑ってしまう。
きょうはすっかり夏の終りの雨の日という感じですね。稲ちゃん、鶴さんが熱を出してかえっているそうです。子供二人は保田。こんな雨の日、海岸の家で子供たちの心持、考えるとなかなか面白い。私は七つぐらいのときかしら、一夏大磯の妙大?寺という寺の座敷をかりて弟たちとつれて行って貰ったことがあって、そのときの雨の日の気分が思い出されました。それっきり夏の海というものは知りません。あとはよく郡山のおばあさんのところへ行き、一度ほど沓掛かへ行き、一度信州へゆき(これはお話をしに)そんなものです。こういう雨の日にきつくなって肌にまつわりつくような潮の匂い、雨だれのところに這い出すカニ、そんなことを思い出します。虹ヶ浜の夏にもやっぱりこんな雨の日があったでしょうね、そして、きっと独特な一日の風情でしたろう。家の中に足音が大きく響くようだったり、子供の声が響いたりして、雨戸を引いたところもあったりして。あの辺の砂や道やを何となし思いやります。私はなかなか立体的に思いやるのよ、何だか分らないけれどもほんのりとしたやきもちもこめて。心持のいいやきもちもこめて。そんな気持でこうやって葭戸のかげであなたへの手紙を書いている、この雨の日の風情もなかなかすてがとうございます。濡れている梧桐の葉かげに小さい光がチラチラしているようなところがあってね。
ちょっと舌の上に、一つ追想のボンボンをのせてあげましょう、雨の音をききながら味うおやつのために。私はこっち側に坐って、それを眺めて、眼のなかが爽やかなような心持で笑いながら、どう?美味しいこと?ときいているそんな心持。大変インティームな心持。
夏のかーっとしたような、あけっぱなしな汗一杯の季節の終るころ、こういう雨の日があるなどと、なかなか自然も洒落て居りますね。
きょうは熱いかがでしょう。お大切に。きょうの手紙はパラリとした手紙。詩のようなものは紙に余白をもって刷りますからね、では又ね。 
八月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十三日第八十一信
降りそうなお天気でむしますこと。御工合はいかがですか。今日は咲枝が十日ぶりで病院からかえる日なので、朝からいろいろと忙しく、三時すぎやっとうちへ安着。
泰子にかける蚊帳を私たちのお祝としてやる筈のところ、出来合が寸法合わず。さりとて、きょう蠅をとまらせてはおけないので、ふと思いついて、お膳の上にかける紗の布をかいました。それに桃色リボンをちょいと結んでつけて。そんな準備してから病院へ行き、かえりに団子坂の途中にある菊そばの前のお産婆さんのところによって、明日からお湯つかわせに来ることをたのみ。
下で太郎が、すこし赤坊にやきもちやいた声で甘ったれているのが聞えます。ああ、ああ、これで無事に父さんと太郎とをひきついで大安心です。月曜日に栗林氏行きませんでした由。何か直接の関係のあるところに起ったらしくて、大分せかついて居りました。
火曜日は只行っただけでした。出る筈の人はリョウマチの由。あれはいつでも痛くなるものだというような話でした。きょうは月曜日のかわりに行ったろうと思いますがどうでしたろうか。夜になったら電話かけて見ますが。
製本屋は一番早いところということでたのんであります。すこしお待ち下さい。四冊が一冊では厚すぎて不便ではないかと思われます、専門家が見て、不便そうならば二冊にいたしましょう。
さて、これで咲枝もかえって来たわけですが、私は先の手紙に書いたように、九月の初めの仕事が一かたつくまでこちらに居るつもりです。丁度忙しくなりかかって、かえって又たった独りは閉口ですから。この十月から、三十五歳までの人を雇うに大臣の許可が入用となります、女中さんもそのうちに含まれます。寿江子が八月のうちにかえるそうですから、あのひとの都合もよく相談して、これからの暮しかたを考えます。私は一人の暮しは望みません。いろいろやって見て結局そう思いますから。ねえ、私たちの本質的なたっぷりさというものをなみなみと現実に活かした暮しぶり、簡素で活々として、勤勉で、淋しさを感じない生活をつくりたいと思います。それにはなかなか工夫というものがいります。何しろよく話題にのぼるように、常に次善的なわけですから。でもユリはまめに工夫して、その次善的なものをも、私たちの本質的なたっぷりさをうつすに足るものとして、つくって行きとうございます。
明日は『婦人公論』のために、友情について二十枚ばかり書きます。『中央公論』に天野貞祐という新カント派の先生が、よい友情にめぐり会うことは運命的という風に云って居ります。人間の交渉のなかに生じる極めて複雑な、有機的な必然のあつまりが結果する単純さというものは、生活的なものなのね、哲学ではつかめないところを見れば。女としての私にある一すじな心、それは一見何という単純さでしょう。まるで近松が描いたリリシスムのようでさえあります。しかし、その一筋にこもるものの複雑さの比べるもののない条件はどうでしょう。その複雑さの隅々までを知りつくし評価しつくしていることからのみ生じる全く揺ぎようのない単一さ。これは実に面白い味いつきぬところですね。ああ、いつか「宮本武蔵」のなかのお通の「ただ一こと」をお話しました、覚えていらっしゃるかしら。友情だって土台は同じです。友情なんかを架空的なロマンティシスムでいうのは誤っています。所謂ロマンティシスムでもてる愛などというものは、この現実に只の一つもあるものではないのですものね。
栗林氏のところへ電話したらまだ帰宅せず。様子分りません。八月は外に用事なしと云っていたところ何が突発したのでしょうね。所謂事件をたのまれたという程度でない直接さです。今夜はほっとして(咲枝かえったので)大早寝をいたします。この万年筆、割合書きなれましたね、そうお思いになるでしょう?明後日おめにかかります、それまで。 
八月二十六日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十六日第八十二信
こういう紙は林町でなければありませんですね。速達を夕刻。日比谷からかえって来てお湯をあびたところへ頂きました。栗林氏は、きょう日比谷へ見えませんでしたから、帰途宅へまわりおことづけをして来たところでしたから、八時すぎ電話で、速達の用向きを改めて追加してつたえておきました。
金曜日の用向き、皆その日に果し、伊勢氏にもつたえました。医典も速達いたしました。芝の方には、今朝面会いたし快諾を得ました。そのことはお目にかかりまして。昭和十年、九年の『毎日年鑑』の古い方の分はうちにないと思います。九年版が返送された頃は落合でしたろうが、あの家は私の知らないときたたまれたのでしたし。十年の分はやっぱり私がいず、おそらくきたない机の上であなたの本に貼るペイパアを手紙がわりにと思って、二三年分書きためていた時分ですし。困ったことだと思います。思案して居ります。
速達への御返事として、アメリカの本やへの問合わせ、すぐいたします。それからスノウの本は駄目でした。第六章、一章加ったのですね。本当に同じ本やのですから(統一への道)と、そのこともきいて見ましょう。これは明日は一日仕事にかかりますから、すこし御容赦ねがいます。
ユリの新薬のきき工合、おわかりになりますって、そうでしょうねえ。この頃の顔色、いいでしょう。深い桜色になるところ、私がおかげさまというのも尤(もっとも)とお思いになるでしょう。非常に工合ようございます。
それから詩の話も大変お気に入ったって。大変気に入った、という表現、何とうれしいでしょう。私が、仔猫のようによろこんで、大変、気に入った?大変、気に入った?と、その玉にころがりかかって遊ぶようにうれしい心持、髣髴(ほうふつ)なすって下さい。よろこばれるというのは、本当に本当にうれしいと思います。
あしたの朝(日曜日)国男さん、太郎をつれて開成山へ行きます、来月三日ぐらいまでいるそうです。
咲枝、すこし早めに退院して来て、うちのことをいろいろ気づかうのはすこし疲れすぎますから、ようございます。
泰子見せてあげたいこと。実に啼かない児でね。生れて間もないのに手脚のびのびのばしてよく眠ることと云ったら。そして時々お釜の吹き出すような泣きかたをして、そのときはポンポがすいているのです。可愛い娘です。女の子の可愛ゆさは又一しお。きっとあなたも御覧になったらそうお思いになるでしょう。顔立ちは倉知系統です。水泳と何かテニスのようなスポーツよくやらして明るくて、落付いて苦労はしても所謂不幸にはならない娘にしようね、と咲枝と話します。咲枝ちゃんも、いろいろ見ているので、人間が困難をさけて生活は出来ないこと、しかし困難即不幸ではないように生きられることをいく分は知っていますから。でもあなたが、真に咲くようにと祝福して下すった通り、女の子が、そのように生きられるということの条件は複雑でね。本当に、真に咲き実った女の生涯を送らせてやりとうございますね。赤ちゃんでも、女の児には、女の児の生理があるのです、ちゃんと、もう。或る特徴が現れて、それはこの小さい桃色の体の内に、欠けるところなく女性が蔵されていることを告げるもので、昔の人は完全な女の子のよろこびにお赤飯をたいたのですって。大変にいじらしく思います。無心に眠っているのにね。私は、女の子は人生が受け身だから男の子の方がいいと思っていたけれども、こうしていろいろ見ていると、そういう点もやはり愛憐をひきおこします。可愛さにかわります。この点は大変面白い心持です。男の子に、私はやはり凜々(りり)しい資質、英気を求めていて、太郎にそれが欠けていると腹立たしい。可愛さの逆の面で。女の子に(赤坊だからだけれど)は初めからちがったところがあって。それだけ女の生きる道が嶮しいわけです。
泰子のお喋りをこんなにして。二人の子供たちをつれて小旅行にでも出られる年になること(二人の子が)たのしみです。覇気のある男はある。英気というものは少いものですね。
では月曜日に。早く参ります。どんなお天気かしら。大雨風だったらユリは、龍になるかもしれず。女は大雨のときは龍になるのですから、昔から。ではお大切に。 
九月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月一日第八十四信?
二三日又相当あつい日がつづきました。大体三〇度以上。御気分いかが?お疲れになりはしまいかとすこし気がかりですが。このところ致しかたありませんね。それにしても、どうぞ益〃お大切に。
昨日は、朝、日比谷へゆきがけに、お話の弁護士のところを訪ねました。承諾いたしました。それについてはお目にかかりまして。小さい男の子がポロポロとこぼれるように玄関に出て来て、ニコニコして面白うございました。三十五六歳の人です。或はもう少し若いか。
それから日比谷へ行く途中、気象台の下のところ、竹橋の角で、大体あすこは事故の多いところですが、木材をしこたま積んだトラックが、自転車にのった人ぐるみすっかり轢(ひ)いてしまって菰(こも)をかけてあるのを見て通ったら、段々妙な気分になって、手の平(ひら)が白くなって、フラフラしました。脳貧血がおこったのね。朝日がさしている広い往来の両側にどっさり自動車が止って、皆黙って見ている。白服がどっさり来ている。白オートバイ(ケイ視庁の)が来ている。それでいて、あたりは森(し)ーんとしているのです。そこを通る車はひとりでにすっかり速力をおとして、殆ど止る位にして通る。いかにも大きい都会の出来事の感じです。
日比谷では午後四時まで。きげんよい笑顔でした。さっぱりした物云いでした。かえり電車で来たらひどい混みようで、立っている脚に汗が流れました。窓の横棒に制帽の庇(ひさし)をすりつけながら居眠りしていて、時々片脚をびくりとさせ、今にもこけそうになっているどこかの給仕のような少年もいました。五時頃の市電はそういう乗客を満載です。
太郎が先週の日曜日に急に父さんにつれられて開成山に行ったの御話しいたしましたろうか。この頃はいろいろ事務の用事が多くて、家の連中のことちっともお話ししないでいますね。太郎、大変食堂車に乗りたいのですって。ニュース映画で見て以来。それで開成山に行くとき、昼になったので、食堂車へ行こうとお父さんが云ったら、相当てれた顔をした由。そんなところなかなか面白い。そこでランチをたべた由です。今頃は盛にどろこんこになって、あっちの友達と遊んでいるでしょう。水曜日に寿江子が行きました。一同は九月の三日ごろかえって来る由です。眠り病が四年来の流行です。十歳以下の男の児をおそいます。とんぼとりや何かで害をする由です。太郎に手紙かいて、片カナで、遊ぶとき帽子忘れるなと、けんめいです(私が代筆よ)。
泰子は相変らず一日じゅうよく眠り、のんでは眼をパッチリやって、又眠って。実に可愛い様子です。私たちからのお祝のほろ蚊帳が出来て、それは大きい赤い金魚がついていてね。その中に眠っている泰子はまことに奇麗です。女の子は妙に可愛いことね。汗が出るのでポツポツのおできが少し出来て、そのために目下入浴中止。大したことはないそうです。この娘はきっと大きい女になるでしょう。小さい足の先は細長いし(円くなくて)指の節ものびて居りますから。だから大いに笑うのです。咲枝たちよっぽどうまく粒の揃った子を生まないと、中條の方は皆ずんぐりですから。大きい子、円まっちいチビ、と並ぶと女の子なんか悲観するでしょうから。
私は今特効ある持薬のほかにオリザニンをのんで居ります。オリザニンは夏の疲労には大変よいそうです。強(あなが)ち脚気はなくとも。そしてそのようです。くたびれがくたびれるにしても軽いのです。次の朝には癒っているという程度です。もう一つの薬は、何と血行をよくするでしょう。神経にもよい作用を及ぼします。のんでいるときや、すぐその後は、体のなかが暖くなるような感じで。オリザニンもそうです。こっちはアルコールが入っているから。
木曜日、芝のひと面会に行きましたか。土曜日と間違えたのは、午後に行ってもよいということから何か話があの場でこんぐらかったのね(私がお話していたときのことよ)。
『家庭医学大典』もう届いていましょうが、如何でしょう。『医典』の方駄目ときまれば、南江堂の予約をとり消したいと思います。どういうものでしょうね。
今、前の高村さんで、子供のためのレコードをかけています。太郎のレコードと同じように妙な音を出している。段々のろのろとなって、フーウと低くなって、又あわてて甲高い音になったりして。目白の方はよその家、子供がいないというのでもないのに、こういう音はどのうちでも余りさせません。その点いろいろ面白い。私はいつ頃目白にかえるか、一寸不明です。十日までこちらにいることは確実ですが。全く身元不明の派出婦をおくことは、別な面から考えはじめました。それやこれやで。ひさが手紙をよこし、年の若い娘で或は来るこがあるかもしれないと云って来たので、早速そちらへたのみました。いずれにせよ、誰かあれば大助りです。たとえお離れへ住むにしろ(これは大抵実現せず、寿江子の方をいろいろ考えなければならないから)。
本年の冬は瓦斯なしデーというようなものが出来そうな風です。電力の配給についての自発的節約も、もうはじまっています。林町では、電気時計が一時間に二分―十分おくれるのでおやめにして居ります。
きょうから又目玉ぐりぐりです。せいぜい、丁を出さないようにしてやるつもりですが。六日までに二日、五日と一刻千金が二日ぬけますから。でも凌ぎよくなりましたね。風には秋がおとずれています。今月はどっさり仕事があって、どうかうまくどれもやりとげたいと思います。弁護士のことなど、まあ大体目鼻がついたところがあって、些か安心です。又大分謄写も出来上りましたし。
本のこと、アメリカへの訊き合わせ出しました。それからいつぞや「化粧」というソネットのこと(八月二十日ごろ)かきましたね。あすこと同じ発行所から『ビウェア・オヴ・ユア・バック』という詩が出ているのですが、どういう内容かしらと興味があります。「ユア・バック」というような字は訳す場合むずかしいことね。単純にうしろもあり次の世代を意味することもあり。とかく詩人は気取った題をつけますね。
『タイムス』を見ると、このごろ女の人の生活をかいた本が幾冊か出て居ります。所謂有名婦人のメモアルなどではなく、例えば病弱者としての生活や何か。
咲枝もう大体よくなって、昨夜は十三日以来はじめて風呂を浴びてホクホクして居りました。
この間うちの颱風警報は皆の心持に作用して居りましたね。菊五郎が甲子園で野外劇をやった折も、そのために五万の人出が三万になった由。ユリは嵐が来たら龍になるとかいたりしましたが、あながち嵐なしでも龍になれそうですね。では月曜日に。どうかお大切にね。 
九月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月三日第八十五信
速達をありがとうございました。弁護士氏行きませんでしたって?じゃ私のみならず、さきでも何かごちゃまぜにした感じで間違えたのかしら。土曜日にでも行ったのではなかったでしょうか。御話の趣、よくわかりました。こちらからは何も申さずにおきましょう。夫人へきいてやること、手紙もう出しました。近々返事がありますでしょう。上京は十月に入ってからだそうですね。大体のところ。
月刊の合本のこと承知いたしました。今度はすこし手間をとるかもしれませんが。
本のこと、こういうヨーロッパの有様では注文もいつ来るやらですね。緑郎、大戦始るか始らぬかで、ワルシャワにはドイツのボムが落されているなかでどうしているでしょう。丁度お金もなくなっているそうですが。この前のチェコのとき、巴里では多くの人が都会から逃げ、緑郎も「デンジャー、金オクレ」という名文を打ってよこしたが、今回はその暇もありませんでした。ドイツ式方法で侵入したからね、廻廊へ。
けさいろいろの心持で御飯たべていたら皆川さんから手紙です。八月中旬に男の子が生れた由。そして、何人かの人々が組んで集合住宅をつくるのですって。十五坪ぐらいで三千円。渋谷のどこか奥の由。そのカン誘です。隆二さんの親友だが顔が見えなかった。そういうことについても思っていましたから、この手紙みて何か感じがあり、人の歩く道ということについて感じた次第でした。男の子をもつ、家を建てる。結構ですが。私をカン誘したこと、何となく頬笑(ほほえ)まれます。その人の心持が映っていて。私は十年の間五十円ずつ月賦はらって、渋谷の奥に自分の家というようなもの持つ心は、ちっとも湧きません。この釘もないときに。ごく少数のしかも或る種の人々と集合する気も致しません。まあそういう工合で、非常に一般の空気をよく語っている、日常生活に対する、ね。いろいろ面白いでしょう?世界の波濤のスケールが一方に大きく出ているから、きょうは猶更。白鳥が、日本の作家は皆それぞれの時代に何とか器用にかくれ家を見つけて頭を突こんで来ている、というようなこと書いています。白鳥が云うのだから、これも亦面白い。この人のはかくれ家どころか、そこが住宅なのですものね、本質に。
あなたはこの一二日のうち、おなかこわしなさいませんでしたろうか。昨夜、というよりきょうの明方大層冷えましたね。その故か、ここでは二人腹をこわしました。咲枝とおまつさんという女中と。大層痛んだそうです。どうだろうと頻りに考えます。大丈夫?どうぞお大事に。今年の夏は早くすぎました。夏に入ったとき、早くすぎればよいと思う心持でしたが。すぎかけたこの一夏を顧ると、味い尽きぬものを獲て来て居り、私は落付いた心持になって、その落付きは、自分がその正当さの輪廓だけ知って信じていたことの具体的内容が充実されることからの落付きという工合です。七月から八月へと、心持のそういう心持よい重みが、ずっと加わりました。感覚の面でも具体的だし。現実のリアルな内容というものが作用して来る来かたの微妙さ。その微妙さを考えると、感じ深めてゆくと、次善的なあらゆることが惜しく思われて来ます。実にね。これまで、私はこの次善的なあらゆることが惜しい心持を、その心持なりに自分に許して、というか承認するというか、そうではなく、とにかく次善的なものを可能なだけ積極の面へ転出しようとする、そういう面からだけ自分の心を見はっていました。そのことで、負けていたと思われます。こんな云いかたでは、よく呑みこめなさらないかしら。負けまいとして負けていたという工合だったのね。肩に力いれてね。あらゆる感情のうちに安心して自分を放してやっていなかったと感じます。
二ヵ月ばかりえらく暑かったりむくんだりしたおかげで、そういう方面のリアリスティックな充実から、自分の気持のリアリティも安心してつかめて来たというのは面白いところであると思います。少しずつ或ところへ出たとき初めて、これまでいたところが全体として見えて来る、そのことも面白い。一生懸命にやっていると、ともかくそうやって、流されるのではなくて歩き出して来るから、それも面白うございますね。負けまいとして負けていたことにしろ、反面から表現すれば、押し流そうとするものの中で、とにかく一足一足自分の足で行こうとする、その努力に一杯ということなのだから。人生への態度として、去年の夏のことね、私がすこし微熱出したときのその対応法のこと、なかなか一つの点(プンクト)であると、よく思います。一人の人は、温泉に行って休養しろという。一人の人は、朝六時におきて八時迄に来い、毎日来るように、という。ねえ。後の方法で熱がとれ、生活の全般が一変化を来している。どうも面白い。こういう生きかたの力と美しさ。武者小路は一人合点の多い人ですが、人間が出来ることをするという丈が容易でないと「人生論」に云っているのは当っています。
それからね、そういうことと直接ではないが、間接に結びついていてこの頃感じるのは、子供との遊びかた。子供と遊んでいて、発展的な気分で遊ばせること、そのことは子供の発意を導くようにという表現で云われて来ているが、その発意の導きかたにも工夫の範囲で云われていることが多いのね。自分で工夫させろという風に。だが、それで人間の精神の働きは終りませんから、何か先がある。自分のやっていること興味、その先にもっと知らない大きいことがある、もっと興味ある何かがある、その何かが漠然と感じられるような、そういう面白がらせかたを覚えさせてやる大人は少ないものね。国男、寿江、遊んでいるのを見ると、体、目の前の面白さが面白すぎる。その中だけですんでしまうように遊んでいる。感情の深さ、ひろさ、大さへの感覚がない。心が目をさます、そのことの重大さがわからない。人生へのプリンシプルのなさから。私の心では、こういう観察が、かわきの一面をなすのだからお察し下さい。シムフォニックな共感へまでひろがるかわきをめざめさせるのだから。では月曜日に。

例によってお約束の報告を。
さて、帖面出しかけて。
先月は十一日ごろの手紙で前月の報告したのでしょう。その中に、では、四日に十二時四十分になったとか、五日が十二時半だったとか、丁の部のこと申し上げたわけね。そこへつけ加わって、咲枝のお産の徹夜が加わります(十二日―十三日)。それから咲枝にたのまれたからは、と国男のかえりを待っていてやって十二時すぎたのが二晩。二十八、九。『婦人公論』のをかいていて十二時前後。八月の成績は丁が七つよ。それから丙が乙と半々。奥さん代りをやるとこうですね。読書は二巻目終りの数頁のこっていて残念。九月はどの位ゆくか。いずれにせよ、十月十七日はゴールですから。 
九月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十日第八十六信
きのうの夜九時十五分前まで図書館にいて、かえって来たら速達が来ていました。八時ごろ着の由。帯を解きかけながらテーブルの上にひろげておいてよみ。それからまずと御飯をたべました。その間に咲枝が「困った、困った」とわきでいっている。というのは、本田龍助という八十八歳になる私たちの大叔父(祖父の生きのこっていた一人の弟)が危篤という電話だが、国男はすぐ行けないというしというわけです。この人は私たちとしても放ってはおけない人ですから、では、どうせ私もゆかなければならないのだから、と、十時半ごろに出かけて、かえったら十二時。くたくたでした。きのうは又朝九時からずっとねばっていたので。そちらの方はもう昏睡でした。けさ死去のしらせ。おミヤさんという目白の方にいた人は、中條の祖母の実家の娘で本田さんとは血縁はないが、つづき合っているので、そちらへ行っておミヤさんを本田の方へやるようにして、私は今夜通夜という次第です。目白の方は明日一杯家主にたのんでしめっぱなしです。致し方がないから。多分明日葬式でしょうと思われますから。
私の手紙、ではやっぱり九月三日に書いたの、まだ御覧にならなかったのですね。二十六日の次は一日です。84?というのは、自分であやふやだったのです。その次には三日にかいているのですけれど。そして又例のお約束としていろんな表、別に一枚書いてつけ加えてあるのですけれど。御覧にならなかったのね。もう届いているでしょうか、それとも届かないのかしら。緑郎がどうしているだろうか、どっかへ逃げたろうか、そんなことも書いた手紙でした。私の手紙いつまでついているでしょうとおききしていたでしょう?どうだろうと気にかかったからでした。そう、もとの木阿彌になってのーのーとしていられるとお思いになるのかしらと思って、何だか切ないような笑えるような気持でした。よくよく信用が不確なのですね。私にはいろいろの事務的な几帳面さのこと、又規律ある生活のこと、勉強のこと、決して今日にあって小乗的と云えないこと、わかって来ていると思うのです。そういう気のしまりなしに、ろくなものが書けないということも。そういうことうっちゃりにせず、書くこともしてゆこうと思い、又しなければならないから、ぐうたらな気ではいないわけです。でも、三日の手紙がつかず、ユリが開成山へ一寸行って来ようかしらなどということだけ耳にのこっていて、又あなたとしては決して意に満ちた状態でない他の面でのほかの非事務的な様々と、何となし思い合わせられるとき、ああいう注意改めて書いて下さる心持、本当にわかります。ね、よくて、このことよくよくおきき下さい。もしユリが、同じ平面で只右や左へあるだけのもちもので書き暮して行くような気だったら、決してこの二ヵ月間のような暮しかたは出来ないような一般の空気なのです。そういうつきつめたところでは、私たちは、全く私たちだけの生活の評価と確信とその意味との上に立っていることを、一層つよく感じているわけです。自分の仕事というものについても、そういう根本的なところと切りはなしては居ないと思います。
勉学の方三冊目にかかっています。課程が未了のうちそちらへの面会云々のこと。私には、三日の手紙を見ていらっしゃらないことからの結論と思えるのですが、どうでしょう。そして、そういうことは、一種のコンクールであるかもしれないけれども、何だか私には堪えられそうもないことです。それに、実に望ましいスピードでないにしろ着々(或は遅々とながら)すすめられている以上、私はそのことにこだわらないでもいいのでしょう?
笑っている口許なのだけれど何だか涙が出てしまった。ね、あなたはユリのための教育の方法としての思いつきと、ユリが日々の感情の全中心をどこにおいて暮しているか、その点での同感と、よく見くらべて下すったのかしら。同感があるからお灸の効果はテキメンとお思いになるの?お灸としての効果という程度で云える場合は、もっともっとちがった生活感情のなかでだと思われます。
単衣のこと。お母さんがお送りになった分で、ずっとお着にならずしまってあるのがあります。この次の夏あたりからそろそろそれらが出て来るわけです。純綿大切としまってありますから。白い麻のようなのですっかりはげたのは、ホラ一昨年紺に染めて寿江子が洋服にして着ているということ、お話したでしょう。筒袖にしたのが一枚。繁治さんにあげたのが一枚。
『医学大典』それは惜しかったこと。『医典』の予約やっぱりあのままにしておきましょう。
森長氏[自注29]のこと、いくらかわかりました。明日おつたえします。
開成山ゆきはおやめにしました。
浜松夫人からの返事どうしたのでしょうね、まだです。一日の速達頂いてすぐ出したのですが。よっぽどわるいのかしら。ごたついているのかしら。様子わからず、又つづけて出すのもどうかと思われるし。何とか考えてみましょう。
目白へは十二日にかえります。どっちみち、おミヤさんを留守番としてたのんで居られない事情になりましたから。そして何とか手段を講じて誰かを見つけます、一緒にいるための人。人のないことおびただしくて、お話のほかです。困たものです。私の場合はぜいたくでも何でもないわけですから。
寿江子たち十五六日ごろにはかえって来るでしょう。
もうそろそろ出かける仕度をしなければならない時間になって来てしまった。では明日。あなたの表現では、夏向きに余白をのこしてとかかれているのをよみましたけれど、きょうのは何かしら。
ああ、でも何だかいやですね、白いところのどっさりのこっている手紙など。「雨が降ると龍になる。降らなくても龍になった」の物語、お思い当りになりましたろうか。語呂は下手に出来ていても心持はなかなか活々した小さい話でしょう。この天候がしずまるともうすっかり秋めくことでしょうね。そして、そろそろ浴衣素足の女姿も来年まで初冬仕度のうちにかくれるわけです。泰子はすこし消化不良の由。すこし牛乳がいるので。私のようなゲルンジー娘(牛の名)は、やっぱりそうだったのでしょうか。では今度は本当に。明日。

[自注29]森長氏――森長英三郎氏。数年間にわたる顕治の公判、大審院への上告などに関する煩雑な実務を最も正確に行なわれた。 
九月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十一日第八十七信
きょうは、それでも三日の手紙不着のことがはっきりして、わけがわかってようございましたね。
電報四時すぎつきました。あれからお考え直しになったの?早速つたえましたところ、明日午前中に行ける由です。それから岡林氏の方はなるたけ水曜日にゆきたいが、一つ法廷がある由です。それがすむ時間によって、或は金曜日になるかもしれぬとのことです。そうだとするとユリの次の日よりあとになりますから、一寸手紙でお知らせしておこうと思って。
きょうも暑いこと。きょうはかえりに又図書館へ行こうかと思っていたのですが、昨夜は半通夜で床についたのが二時半ごろだったので、眠りたらず体がくるしかったから真直かえって来ました。この頃平常は夜十時半前後、朝六・半前後です。本月今までのところ出勤は二日一日きり(これから先には二十日すぎにありますが)。三日にかきはじめようとしたら緑郎のことなど気になって、自分の心にある都会の景色が甦って大分亢奮してね、書くような心持にならず。四日、五、六日とかかって、「分流」大正八年頃迄三十五枚書きました。読書は出勤のあった頃は夜が多く、今は午後をつかいます。そういう風にして暮すこと、その暮しぶりに意味を感じて本気なわけです。こんなことが一方では図書館へ出かけて、ねばりもするような面もこしらえているのだから面白いものです。何しろ図書館をいかに活かすかということについて大先輩に親シャしているわけですから。婦人の工場監督官が新設されなければ(今日)ならないという意見が、あちこちに出て来て居ます。しかし、本のなかで見えているような活動を、なし得る人が果して何人あるでしょうね。土台の問題があるのだから。住宅のこともなかなかです。三畳に三人雑居でやり切れなくて女郎屋から工場へかよっている若い労働者がいる(『中央公論』)そうです。間代の高さより家がないのね。川崎辺のことです。目白の家は今ではやすい、いい家ということになったわけです。去年十月の家賃地代より高くは出来ないことになったからようございますが。目白の家賃はずっと同じです。只、今度の改正税率で私たちの職業、弁護士、いずれも自由職業に入って、一千円(控除ナシ)だとこれまで2.70の四倍だったのが年に四十六円となりました。ざっと四倍ですね。
きょう云っていらした、家にいて貰うひとの給料のこと。ひさの頃は決してわるくはなかったのです。この頃は大抵15.00です。新しくたのめば。しかし、それよりも困るのは人のないことです。看護婦もなかなかいない。八十八歳の大叔父さんは、ですから看護婦もなしで永い生涯を終りました。私たちの家持ちも、そういうような条件では大困難いたしますね。一人っきりだから、いて貰う人にも又おのずから条件があって、例えば今林町に十五の可愛い子がいますが、そんなのは一人で留守も出来ずね。
それでもお母さんの方は、多賀ちゃんがこの頃は落付いて来たから何よりです。野原に兄さんもかえって来たし、気分に落付いたところも出来て来たのでしょう。お母さんからはさっきお手紙です。あなたからお手紙が来た、そしたらユリのもついた、本当にうれしかったというわけです。今年はあまり雨がなくて暑すぎたので体を注意して、夏は余り外出もなさらなかった由です。浴衣がけのお写真が入って来ました。河村さんの息子が姉婿のところで修業中、それがとったのですって。すこしぼんやりしている。でも、いつか林町でおとりになったのは、よそですし、すこし気がしまっていらっしゃいますが、こっちはいかにも裏庭でのお顔です。裏庭には、今年菊が咲くとのことです。お写真お目にかけましょうか。ペラリとしたのよ、一枚の。
『文芸』につづけているものも、はじめの『中央公論』のから数えると、「人の姿」20、「藪の鶯このかた」20、「短い翼」25、「入り乱れた羽搏き」32、「分流」35、となりました。一三二枚ですね。この次のが「渦潮」です。「渦潮」で大正年代は終ります。このあたりから、なかなか面白くしかし書きかたがむずかしくなります。それから昭和を七年ずつに分けて二回。百枚越すでしょうね。すべてで二百二、三十枚。「人の姿」、「藪の鶯」、二つはどっちかというと随筆風に書いているけれども「短い翼」からは視野もひろいところから見ています。「渦潮」が十一月、あと二回として来年一月で昭和十四年までが終るわけです。昭和の後半は何しろ森田たま、豊田正子、その他まことに時代的な人々が多いから簡単でないし、そこをこそ念入りに書きたくて歴史をさかのぼったわけですから。本月はこの「渦潮」をこの三四日うちに書いて、それから『中央公論』の小説をかきます。九月号というのをのばして貰っていたのです。九月号のために八月初旬送らねばならず、七月中にかいていなくては駄目で、それは出来なかったから。
九月一日のパイパアの「海外新刊書案内」のなかに22頁Utley.F.という人(女の人です。経済、『日本の粘土の足』という著書あり)の『戦う支那』という本が出て居ります。『タイムス』の紹介で、その科学的な公平な態度を称讚して居ります。もし入荷予定があれば、ほしいと思って(いつか「思う迄のテンポは一致しているが」と仰云ったわね)、而してハガキ出しておきました。もし入荷予定があったら一冊是非欲しいからと云って。
六芸社から出ている『文芸評論』が参考書としてとり出されています。この装幀をした画家は小堀稜威雄という人ですが、今ふっと思うのだけれど、この人が杏奴さんの御良人ではないのでしょうか(ちがうかしら。いつか小堀鞆音の子息だということ、福田君からきかされた気がしもする。そうです、そうです。鞆音の息子さんです)。この本やさん、この頃は妙な本を出版しています、小説ですが。「ジンギスカンは義経ナリ」という木村鷹太郎製の伝説が流行して、去年川端龍子がラクダに甲冑をつけてのっている義経を描きましたが、何だかそういうような傾向の小説なんか出しています。この『文芸評論』の「過渡時代の道標」は今私のかいている部分のために必読のものです。
芥川龍之介についての座談会で久米の云っているところなどでは、彼は、人のよむものは何でもよんでおけというような負けん気で古典もよんだりしたらしい風ですね。
平林初之輔が、自然科学に入口の知識をもっていて、評論家にそういう知識をもっている人の例は尠ないと云って賞(ほ)めている人があるけれども、彼の人間生活の有機的な働き掛けの力を見えなかった欠点はなまじっか彼の科学性にあったわけです。そう云えば晨ちゃん[自注30]が病気再発で満二年絶対安静を云いわたされたそうです。中央公論は月給を払うそうですが。見舞の手紙を出しておきました。可哀想に。考えかたは現実にまけて妙な風だけれども病気は可哀そうね。国男今夜は袴羽織で坐っているわけです。では又。どうぞお大切に。

[自注30]晨ちゃん――片上晨太郎。片上伸の長男。左翼的活動にも関係していたが、肺結核で戦争中信州追分にて死去。 
九月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十七日(十一日づけの次です)第八十九信
机の上のタデの花は、部屋の空気でむされてしおれてしまって居りますが、私はパッチリやで上機嫌です。そのわけは、十月初旬迄の忙しい間も林町へはゆかず、ここにいられることになったからです。おミヤさんが、本田の家からこっちへかえって来て、ともかくその間いるように協定がつきましたから、林町と。午後来ました。おミヤさんというのは生来の愚善に、庶民のすれと消極とを身につけたひとで、可哀そうな老女ですが、一緒にいるのは平常の心持ではなかなか辛いのです。けれども今はそんなことにかまっては居られず、よろこんでいるという勝手な次第です。しかし私は、ここでともかく一人の人がいて、勉強出来てどの位うれしいかしれません。
土曜日には、いろいろと濃やかに心づかいして下すってありがとう。大変にうれしい心持でした。それに、読書のことも。
何となし休まってたっぷりした心持になって、ふと気がついて、ああほんとに、これが幸福という気持、と思いました。
御注文の本のこと、二三日うちに揃いましょう。合本にしている方がもしかしたらおそくなるかもしれませんね。達ちゃん、隆ちゃんには荷造りしました。きょうが日曜だったので明日出します。お菓子とおかずを入れてやりました。本のほかに。隆ちゃん、又「銃後の皆さまのお志」という手紙くれるかしら。グラフィックなどで馬の口をとって河を歩渉しているようなところを見ると、特別な心持がいたします。それはトラックだって同じです。人が降りてえらい目も見る。けれども馬は、馬も人もなかなかでね。
きょう忘れた頃になって浜松夫人から返事でした。瘍(かさ)が背中に出来た由です。体も無理でした由。何の病気かしら。やはり胸でしょう。それだけのことが、お習字のような丁寧な字で書かれていたきりです。
晨ちゃんのところからは細君がハガキくれました。よい方に向っているが、ゆっくりかまえていると、それはそうでしょう。
只今書いているのは「渦潮」、『種蒔く人』の時代から大正の終りまでです。この時代は一年一年が実に内容的ですね。おどろかれます。そして当時の端初的な理論の中で不明瞭にされていた(まだ歯がたたなくて)芸術性の問題は、以来十何年間やはり摩擦のモメントとなって来ているというわけです。だが、このモメントは結局、芸術の生まれる胎がちがう間は消えるものではないのです。あの菊池寛でも、一定不変の芸術の本体というようなことを云ったから面白いと思います。その点ではこの現実家にしてやはり観念化するところ。康成に言わせれば、そこに芸術の鬼が住む、とでも申すべし。
有島武郎の「宣言一つ」の本質を、今度はじめて当時の文芸の解釈との関係で理解しました。藤森の「犠牲」は、人道的苦悶の面のみをとりあげて、考えかたの誤りを見ていない。又、本月号の何かの雑誌で宇野と青野季吉の文学対談で、有島の苦しみは芥川より単純だと云っている。それもわかりますが、それかと云ってこの二人は有島の破滅のバックグラウンドを十分鮮明にしているのでもありません。婦人作家はこの時代に宇野千代、網野菊、三宅やす、ささきふさ、林芙美子等で、とにかく一方に前田河や何か出ているのに、婦人の方はおくれているところも意味ふかいと思います。「キャラメル工場」などは一九二八年・昭和三年ですから。
この作家が先々月『文芸春秋』に「分身」という日支混血児の女の心持をかきました。本月「昨日と今日」という、そのつづきが『文芸』に出ています。よんでみて、深く感じました。混血児が母や自分の血やに感じている愛憎交々(こもごも)の心持、その間で消耗してゆく心持、それは、混血ということに仮托されているが、作者の内面に意識されている不幸感の描出です。その内容おわかりになるでしょう?私は読後そのことをむきつけに感じ、作家的努力でこういう形へあてはめて描き出そうとしている努力に同情しましたし、或る敬意も感じたが、客観的に出された作品としてのみみると、混血というものの荷(にな)いかた(女主人公として)にやはり問題があると思われます。むずかしいものですね。非常に内在的にかかれています。よんで苦しい。気持だけが糸をより合わしたようにかくれています。そうすると、私は私で、部屋や自然や人間のボリュームのある声、体、跫音、そんなものが鮮やかに、心と物、物と心の世界として見えてくるような小説が書きたくてたまらない気になって来る、それも面白い心持です。この作品のかき出しは「心の中に不幸を、人の知らぬ秘密として持っている人々の悲しさは」云々。この間あなたが仰云った「一生懸命さには同情するが」という言葉がその最も複雑な内容で思われます。この作者のつれ合いはこの作品をよんで果してどのような感想を抱くでしょう。
これ(今書いているもの)はもうあと十五枚ほど明日のうちにかき上げて、それからキューリイ夫人が大戦のときラジウムをもって人々をたすけたことを人類への愛という立場から、婦人のために二十枚ほどかき、それから小説にとりかかります。『読売』の月評はことわりました。目の先がクシャクシャするようなものを、こちらに何かテーマがあってでもなく読む暇はないから。今ずっとかいている歴史的なものを一貫してゆくことが、チビチビ月評より遙にまさる自他ともへの勉強ですから。
これをかきつづけて小説をかいて、勉学して、なかなかそれ以上のひまがない。「過渡期の道標」が座右に常にあります。そして、それは背骨となって、書くもののなかに入って来るのです。
この仕事をまとめるとき面白い有益な年表と図書目録をつけます。それはS夫人にやって貰います。図表をつくる仕事。いくらか小遣いをもあげて。
きょうは荒っぽい、落付かない天候でした。南風つよくガラス戸ガタガタゆすぶるから、まるでむし暑いガラガラ(子供のガラガラというおもちゃ)の中で仕事しているようでした。でも今年の冬は炭も不自由でしょうから(水道、瓦斯、電気、もう制限がはじめられています)暖い室というのは大事です。
あなたの方の詩の本は、この頃どのあたりが読まれて居るでしょう。きのう、不図ひらかれた頁に、眼を瞑り、喉をふくらませ、我を忘れた心持でのみほす朝の牛乳、が描かれていて、感覚の鮮やかな描写におどろきと傾倒を新しく感じました。口のなかにある感触を、何と微妙に、即物的にうたっているでしょう。生命のあこがれが、何と優しく激しくあらわされているでしょうね。こういう詩をよむとき、生活の深い深いところがひらかれて、よろこびの厳粛さがてりかえします。では水曜日に。手紙こちらへ、どうぞ。 
九月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十二日第九十信
金曜日に見えましたか。私がお話の趣つたえたときには横浜へ行ったという留守でしたが。
その後お体の工合いかがでしょう。おつかれになるでしょうね。致し方はないが。それでも、私はこの頃すこし安心して居ります。もと、あなたは御自分の体のことちっとも仰云いませんでしたから、どの位どうなのかわからず、おやと思うとやたらに気にかかりました。この頃は、おききすればマア、すこしは仰云る。その方がいいと思います。あなたはユリの体のことばかりきいて下さるけれど、私にしてみれば、そちらの方をよく知りたいわけですから。そして、あなたの体の御様子というものも、やっぱり私たちの生活の内のことですものね。体の様子を私に云って下さることは、そのことで、私が全体としてのやりかたに別に感情を妙にしての間違えをしたりしないということを、あなたが十分わかって安心していて下さることだと考えるのです。
さて、きのうは、『文芸』にかくのを四十枚かき終り。「この岸辺には」という題です。これは書きかたがむずかしくて。何にしろ過渡期の初りですから、単純なかきかたで四十枚余かいて終ったが、どうもと思えるので初めの二十枚余すっかりこねかえて。武者の「新しき村」と有島のことから、その反映の分析から入りました。そしたらやっと納りそうなものになりました。フーと一息つき。それから出かけて、壺井さんのところへ二ヵ月ぶり位に行って、手つだいのことたのんで、珍しく夕飯御馳走になって、古本を見つけ出して、丁度ひどい雨の上ったときいそいでかえり。
きょうは今に、栄さんが来て口述をやってくれます。この口述では、随分古くから栄さんのお世話になっているのですが、面白いものね、S夫人のほうが近くてよかりそうなものですが、あの人とは決して出来ないの。あのひとの性質で。こちらで云う、その中に決して入らないのです。自分だけはなれて批評したり、腹に意見もったりしている。だから、一体になれず、いつも心理的抵抗がある。それが腹が立つ。駄目です。あのひとは全くその点独特ですから。こんなことでも、これほど微妙だから面白いものね。
明日一日日比谷ですから、どうしてもきょうのうちに片づける必要のものがあって。
一昨夜てっちゃんが見えました。奥さん、思いのほか大手術であったそうです、可哀そうに。どうなのでしょうね、子供ももしかしたら、あの康子ちゃん一人かもしれませんね。癌(がん)と同じに、幼時の細胞が皮膜のようになって組織内にのこっていて、それが成長するにつれ育ったり分裂したりして害をおよぼすのだそうです。そういうものの由。メイソウさんの奥さんが眼科を開業したのですってね。そしたら繁昌して、旦那さんすこし押され気味だって。そのことをあなたが可笑しがっていらっしゃるという話ききました。私はどっちも初耳だったから、二重に面白くて笑いました。でも結構ですね、それですっかり生活がしゃんとゆくでしょう、もう何年も会いませんが。重治さんのところでは卯女が大分可愛くなり、もう両足をなげ出して、両手でビンを持ってお乳をのむ由です。その乳に入れる砂糖が世田ヶ谷にはない。それで栄さんのところへ電報が来たので、六軒歩いたら二軒が半斤ずつ売ったそうです。昔中野は「砂糖の話」というのをかきました。が、こういう物語がおこるとは思っていなかったでしょうね。私は当分中野さんへ何かあげるならサトウにしましょう。うちだって、ありはしないが。中野しきりに小説をかきます。身のまわりのこと、子供の泣くこと、ねむらぬこと等々。せっせと書いて彼の癖の独白体を脱しなければいけないが、どうも益〃独白になるのではないかしら。「子を育てるためには先ずその子をくう話」というゴーゴリの題のようなわけです。
おみやさんがいて助かりますが、御飯たいて雨戸あけて、はくだけですから。今市場へ出かけて晩の野菜を買って来てすっかり仕度しておいて仕事にとりかかるというわけ。私は今、それはそれは玉葱(たまねぎ)くさくて、おばけのようよ。くたびれて、パンにバタつけて、生の玉葱うすく切ってのっけてたべましたから。ロシアの農夫は、黒パンのかたまりを片手にもち、片手に玉ねぎをもち、玉葱をかじりつつ黒パンをたべます。
隆ちゃんからエハガキが来ました。いそがしいと見え例の通りの文章です。雑誌は貰って、どっさりあるから、いらないと云って来ています。前にきいてやったのは、本をよむ時間があるかないかだったが、そのことはやっぱりはっきり分りません。この様子ではなかなか暇もないのでしょうね。
この間『戦う支那』Utleyの本、三越へ注文したらことわって来ました。為替のために。
きのうの雨でいくらか電気が安心になりましたね。電気時計が一時間に三分おくれるだけに恢復したそうです。
私はやっとこの頃いろいろ経験して、これからは『中央公論』『改造』『文芸』『新潮』ぐらい折々あつめては製本しておくことにしました。図書館へ行っていろいろやっていると、そうしておくことの必要が実にわかって来ます。これもお蔭さま?! 本というものは、昔はただこのみで買っていましたけれど。何年も前の三月のごく初め、大雪の夕刻、繁治さんと私とが同じ方角へ出かけるのに、あなたから『中公』を買うことたのまれて、新宿でさがして、雪ですべってころんだこと、思い出します。あのムク犬靴はいて。茶色の外套着て。
神近市子の良人は鈴木厚という人でしたが、この間この厚氏から印刷物が来て、「市子と離婚いたし候につき」云々と云って来ました。厚という名だけある。市子の名はない。市子さんは全くひっそりしている。複雑なのでしょうと思われます。市子さんは新宿ハウスというアパートにいる由。ユリの読書はこんな式があるところです| A | G-W< | Pm 。G-Wの部分をこまかによんでいたし、G'-W'のつづきだし。わかります。
おきたりねたりの時間、一日ずつとおっしゃったわね。二十日までの分を。
九月一日七・〇〇一〇・五〇
二日六・二〇一一・〇〇
三日六・四〇一〇・一〇
四日七・一〇分前一二・〇〇
五日七・二〇分過一二・三〇
六日六・〇〇九・三〇
七日六・三〇一〇・四〇
八日六・四五一一・〇〇
九日七・〇〇一二・三〇(本田キトク)
一〇日七・〇〇午前二・二〇(おつや)
十一日八・三〇九・一〇
十二日六・二〇一一・〇〇
十三日六・四〇一〇・四〇
十四日六・五〇九・三〇
十五日六・一〇一〇・〇〇
十六日六・三〇一〇・三〇
十七日七・一〇分前一一・〇〇
十八日七・〇〇一一・三〇
十九日六・二五一〇・二〇
二十日六・三〇一〇・四五
乙十一日
丙八日
丁一日
仕事があるとき、熱中しているとき、どうしても床に入る、すぐ眠る式にゆかず、実質的にはくるいを来してしまいますね、床につき、床をはなれる時間ね。床に入って三分ぐらいで眠ってしまうのですが、気の張っていないときは。十時になると、サアと一応そわつくようになったから私も大したものです。
私にいつ手紙かいて下すったかしら。てっちゃんの話をきいてやきもちをやくわけでもありませんですが。
では月曜日に。
きょうは曇天のくせにむします。優しくピム、パムをその胸の下に。 
九月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十五日第八十九信
このお手紙はいかにも同じ区内に暮しているらしくつきましたね。ありがとう。手紙の番号とりちがえたりして、いかにも眼玉キョロキョロをあらわしていると笑いました。きっとあなたもそうお思いになったのでしょうと思って。これは、ですから九十から逆戻りして正しい番号へついているわけです。九十が二つは変だからこの次はいきなり九十一にいたしましょう。どうぞそのおつもりで。
夜ふかしになり易い危険があるのは全くです。いつでもそうね。だから、時々ホラホラと云って下すって丁度いいのでしょう。ユリが、もうそういう努力はおやめだと放ってしまったりしないことさえ十分わかっていて下さればいいのですから。健康のためには全く十一時までの就眠は大したものです、それに眼のことがあって。私は夜のよみかきは心持は悪くないが、この頃のように電力が低下していると、益〃眼をつからしますから。
読書、本当にヨタヨタ歩きの態ですが、どうぞ御辛棒願います。今のところ。岩波文庫のものや何か、いつか云っていらしたのは読みました(他五篇)。もと読んだの、何を、この間オイゲン先生。ここでひかえているのは大部な哲学です。でも、今のをどうやら渡河してしまえば哲学は近いように感じられます。私はこういう種類の読書はずーっとずーっとつづけるつもりです。深く感じるところあり、ですから。その点でも、のそのそしたりいろいろですが、やっぱり、追々身について来ている一つの感覚なのです。
キュリー夫人のこと、ありがとう。それは分っていました。私は先方からそう云っているままには扱いませんでした。そういう意味のヒロイズムでなく、人間が科学の発見で、よりよいことをこの世にもたらそうとするその考えに立って科学の力を、殺す力としてより生かす力としてつかおうとした点にふれました。あの特許をとるかとらぬかというようなときの夫婦の相談、そんなものとピエールがドルフェスのときは熱中したという無辜(むこ)のものを支持する心、そんな点です。
「メチニコフ」へのお礼承知いたしました。私は「北極飛行」は知りません。書評についてもありがとう。或人は経済条件について書きたりないことにふれていました。
この頃は、夜早く床に入り、本当に眠るのはえらい時刻となるときがあります。小説のこと考えていて。これは本当に内緒のうちあけ話ですけれど。けさも、三時間ほどしか眠らず出かけ、かえって来たら黒枠ハガキでね。芝の老夫人逝去されました。これから弔問です。花とお香典をもって行きます。御老人さぞ落胆されていることでしょう。あなたのお髯の生えかたは面白いことね。縁どりのようで大変面白いと思い、小さい子供がそこをさわる姿を想います。そういうような生えかたね。生やしたくもない髯についてお喋りするようですが、でも。
小田急にのって出かけなければならないから、只今はこれだけ。葬式は明日ですが、その時間私はよそで御話をしなければならないことになっているので、どうしても、きょう行かなければなりません。では又、明日ゆっくり。シーツとにかく一枚送りました。 
九月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書速達)〕
九月二十九日第九十二信
風が出て来ました。きのうシーツやそのほか届きました。きのうはかえりにすぐ栗林氏の方へもまわり。南江堂でよく本しらべましたが、中央公論のと小南著とを合して使った方がよさそうです。それは揃えました。二冊が云々ならば小南の分だけでしょう。
あれこれ書き終ってやっと小説にとりかかります。従って眼玉を据えて居る次第です。でも三日、五日は出かけます。自分の心持としてその日うちにいるのが不自然ですから。やっぱり落付けないにきまっているし、いわば何のために暑い思いしていたのか分らなくなりますから。十月の十日にはそちらへ行っていいでしょうか。四日には寿江子に行って貰うことにいたしますが。一度でもいやなの。何と慾ばりでしょう。病気して動けないのでない限り。この調子では何だかいやで自身出かけそうです。こうしてはどうかしら。三日朝出がけにそちらへ廻るとしたら。そちらはおかまいにならないでしょう。多分そんなことになりそうです。
食事のことや何か忙しいと、今の状態では閉口だし、人からにげたいし、きょう午後から仕事終るまで林町に籠城いたします。用事を足すにもいくらか便利ですから。多分九日まで(これはおそくても、です)。本当は七日まで、ですが。迚もむずかしいから。こちらの家はおみやさんが番をしてくれます。
ね、それからちゃんと坐って、三遍お辞儀をしてお願いいたしますことは、読書がたまってあとで一時になりますが、どうぞどうぞ御勘弁。お手紙、若し急な用なら電報等、林町へおねがいいたします。アトレイの本駄目でした。そのこと、もう書きましたね。いろいろすっかり片づけて、十月十七日にはさっぱり花を飾ってお祝いしようと、本当にたのしんで居ります。あなたは桃太郎のしわんぼだから、御褒美を丸ごと一つは下さらず、きっと半分下さるでしょうが、それでも私は大変それを楽しみに籠城にとりかかります。では、ね。 
 

 

十月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月六日第九十三信
三日づけのお手紙をどうもありがとう。五日に頂きました。まぎれ込んだ二つの手紙というのは、何となし忙しくていらっしゃる空気がわかるようで面白うございました。そうね。私たちもたまにはそんなこともあるぐらい古(!)夫婦になったというのはおめでたいというところでしょう。
表は、九月下旬からこの九日ぐらいまでひどいギザギザで恐れ入りますが、どうぞあしからず。私の三遍お辞儀の願いも黙認というわけでしょうか、どうぞこれもよろしく。今から雷よけをしておきます。
三日にはね、午後二時ごろまで、時間を浪費したあげくやっと二時間ほどでした。五日も無駄足。七日は全然出かけません。これでどうやら私の仕事は息をつきますから、何でもよしあしなものね。三日の二時間のうち二三分のエッセンスあり。劇的会話というようなものもいろいろの場面にあるものです。
五日には、バスで往復して、復のとき体がしゃんと立てない位気分わるくなって、きのうは一日ねました。そしたら夜S子さんが来て、心配して御主人よこしてしらべてくれました。そしたら心臓の音はすんでいるし、尿をしらべたら蛋白も糖も出ていないで本当に可愛いわが体と思い、うれしく、大切に劬って使おうと又改めて感じました。手のひらにひどく痒いところが出来て、それは末梢神経がどうとかなって、神経衰弱の徴候なんですってね。ふくらはぎのつるのとともに。疲労から来ているのだそうです。たまった疲労の由。だが私は又ひとしきり終ったらよく眠って、すこし郊外散歩でも寿江子をひっぱり出して、それでなおりますから、どうか御心配は無用です。
きのうは一日どうせ机に向えない筈だったのだからと臥て、けさは早くおきて、手の膨れなどなおり、ずっと一日書いて又夜早くねます。そして又、明日早くおきてかいて、その方がようございます。つまり徹夜は一晩もいたしません。なかなかいいでしょう。今夜だって、これから電話かけに一寸出て、これを出して、パン買って、かえってお風呂に入ってねてしまうところです。牛乳にカキを入れて煮てそれをのみます。御心配下さらないでいいでしょう?こう気をつければ。
キュリー夫人について云われていること、全くその通りであると思います。文庫のこともありがとう、私は別なのと勘ちがいして居りましたね。
泰子、ものをかくなんてすすめてならせることではないから、マア静観です。旦那さんを見出すというだけだって、どんなにむずかしいか。咲枝はこんなことよんだら、きっとすこし赤い顔してアラと云って、考えて、そうねえ、と沈思するでしょうね。
森長さんのこととりはからいます、ちょっとおくれましたが。三日に会いました。四日には別な人が行きましたでしょう?いろいろのこと又かきます。きょうはちょっと。諸種の不自由に屈托はしないけれど、実際問題としてこまるわ、そうでしょう?勿論そうだからと云って屈托もしないけれど。困りかたは痛切ですから。でもこれは何も切迫したことではないのですから、御心配なく。二つの手紙つくねられていたかたきうちというわけで短いのではございませんから、どうぞそのおつもりで。お体をお大切に、風がなくていい日でした。小説も2/3の終りです。その話も又ね、では。 
十月十二日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十二日第九十四信
さて、今晩は。九日朝のお手紙けさつきました。疲れのこと、気をもまして(というよりもうすこしちがったもの、ね)すみませんでした。鎌倉のことは大笑いね。私が、改めて徹夜はしない云々と書くのは、いろいろ多いと「これは例外」と云って徹夜でもしやしまいか、こっそりやってるんだろう、とお思いになると思って改って書くので、他意なし、です。いそがしいからと云って夜ひる顛倒したら、一生涯きりがないことになってしまいますもの。どうにかやれているのも朝から昼間やっているからですもの。手のはれるのは、血圧の関係ナシです。私の血圧はいいのです、百二十幾つかですから。この間小説かいていたときも、朝から午後ずっとやって夜早く横になって、それでやり通しました。どうぞ御安心下さい。七、八と随分のばしていたものがあったからたたまったのです。十月、十一月へかけても相当ですが、やっぱり昼間仕事の原則でやりますから、どうぞ御安心。
私はすこしバカね、考えてみると。何故あなたにつかれたことなんか書くのでしょうね。しかもそれが読まれて話題になる頃には、何時だって大体もうその状態はぬけているのに。何だか云ってみたいのね。云ってみたくて、云ってみては、結局大道的方針をあなたにくりかえさせているという形ですね。滑稽ね。妙な甘えかたね。これからは、おやめです。太郎が気をはって何か大いに大人ぶってやって、さて、ああちゃんの顔を見るとフニャフニャになる、まさかそれほどでもないけれども。ほんとうに、もう、疲れ話は一切おやめ、と。全くつかれない生活なんていうものはなく、それは過ぎてゆくものであり、而も根本的に疲れないように方針を立ててやっている以上、そんなこと話題にしなくてもいいわけですものね、その事自体はね。私の「疲れた」はもっと心理的発言なのですね。だから、その証拠に、薬は、早ねしたか、と云われることにないのだから、微妙さお分りのことと存じます。今まで自身心づかなかったことでしたが、何だか、きょうは分りました。しかし、あなたもいくらかは分っていらしたかしら?十日におめにかかったとき、この手紙の内容につき、「いや早起きをショウレイした手紙だがね」と云って笑っていらして、そこにニュアンスがあったから。きっとそうでしょうね。そのニュアンス思い出す方が、つかれ癒る感じだから、そうなのでしょう。
夏ぶとん届きました、白い浴衣も。掛布団届きましたろうか。それから、この春着ていらした袷と同じ羽織(茶っぽい銘仙)そちらにはないでしょうね。領置のままかしら。うちさがしても見当らず、どうしたかと思って居ります。別のを一組、雨がやんだら送りますが。私のつもりでは別の一組は外出用と思って居たのですが、とりあえず。その着物と一緒に薄毛のズボン下一枚。半襦袢、毛糸の肌着と入れます。今年はいかが?シャツはやっぱりなるたけ召しませんか。それに一番下へ召すもの、今年は木綿と毛の交織等なくなったので、洗ったものを送ります。衣更えにさっぱり新しいもの、せめて下には、と思いますが、それでも衛生のこと考えるとね。春よりも秋は猶湿気をふせぐものがあげたいから。そして又、不用になったらお送り下さい。これまでのかえらない分など、どうなっているかしら。とりすて?木綿のもの総てダイジダイジですから、どうぞ。
お喋りの前に表の方先にしましょうね。
九月二十日までの分は八十八信でかいたから、二十一日からね、十月十日迄。
21日六・三〇一〇・一五〜16日
22日六・二五一一・三〇┐
23日七・一〇一〇・三〇
24日六・一〇九・四五
25日六・〇〇一一・三〇178頁
(芝の老夫人のこと)
26日七・〇〇一〇・〇五┘
27日六・〇〇一〇・〇〇┐
28日六・二〇九・五〇│
29日六・四〇一二・〇〇│32頁
30日七・〇〇一一・一〇┘
1日六・四五一〇・二〇
2日六・二〇一一・〇〇
3日五・四〇一〇・四〇
4日六・四〇一一・三〇
5日七・〇〇この日はかえってから一日よこになる
6日七・〇〇一一・二〇
7日六・三〇一〇・三五
8日七・〇〇一一・〇〇
9日六・〇五九・一〇
10日七・〇〇一〇・〇〇
ココノトコロハ三拝九拝シテアル部分
以上のような有様。今日からうんと出来るだけ早く、九時台にねます。又二十日前後から九時のうちにねることは出来にくくなるから。
それでも、この程度で小説一つ、例のつづき。出来上ったのは25枚でしたが、はじめ四十枚もかいて、すっかり技術上の問題で書き直し、若い婦人のためのもの三十五枚ほどかいたのは落第の成績ではないでしょう。
「一日から十日休んで、あたり前さ」と、却ってにらまれるでしょうか。このブランクは十七日前後までに、追いつけ、追いこせでやるのです。
稲ちゃんは今箱根の湯本温泉へものをかきに行って居ります。大変珍しく、新鮮な心持でいるらしい手紙です。何しろ毎日が毎日だから、たまにはいいでしょう。一日じゅうの時間が気がつかずにすぎるときがない、とびっくりしている。これは私と逆ね。気がつかずすぎる時間が欲しいと思うのと。いろいろの境遇は面白いと思います。いつか書いた『文芸』の小説の話、あれで、却ってあのひとは河の中流へ舟を出した様で、ようございました。
私の連載のものはやはりつづくのだそうです。だから来月二十枚ぐらいのせます。婦人作家の新しい質の現れて来るところです。何という題にしましょうね。「新しい砂洲」とでもしましょうか。わるくないでしょう。砂洲はいけないかしら。でも東京だってデルタでしたからね。それから『新潮』の新年に短篇をかきます。十一月十日で新年の号をしめきるのです、とはおどろきました。
石炭がないので王子製紙の生産が下って、各雑誌又紙がずっと減り、又四割五分とか。そうすると、皆うすくなる、うすくなると頁がへる、頁がへると作家は生存難になる。きょう山田菊子というパリ住居の女のひとが中心になったお茶の会があり、そこで鉄兵さんの話でした。
この夫人をかこむ婦人作家の座談会が明日午後あります(『読売』)。直子夫人大いに日本の婦人作家のレベルのこと知らしてやらねばと力んでいられる由。作家として扱うのは誤っている。旦那さんスウィス人。成程と思いました。スウィスは絶対中立ですからね。そういうことも面白かった。絵をかきます、全くタレントなしです。ポスターはかけるでしょう。
お母さんがフランス人で鎌倉に住んでいるのだそうです。だからすこしは日常の日本もわかっているでしょう。日本へ来てお客、パリでお客、どちらでもエトランゼ。一つの女の生活ね、こういう女のひとのタイプと鹿子木夫人の生きる一生対比されて、女がかくべき女の生涯と思います。ドイツで員信博士になるにはこの哲学専攻の夫人、実に内助の功あったのでしょう、今別になって員信先生は精動で活動です。夫人はポーランドに父、ドイツに兄、その二人のところを旅行している娘をもっている。そして自分は語学教師として働いて暮している、もう老年のひとです。是也の細君のようなのは新しいタイプですが。特殊な環境での。家族的な条件に於ても。菊子夫人というのを見ていろいろ感じました。単純な世話女房風の気質の人なのにね、それ以上つっこんだ気質でもないらしいのにね。それからこれは大変可笑しい感想ですが、どうしてフランスと日本の間の女のひとは大きい鼻なのでしょう、不思議と思った、まず鼻が目に入る。佐藤美子というソプラノ、このひともハナのお美(ヨシ)という名あり、関屋敏子しかり。本野の夫人しかり、そしてこの夫人もそうです。骨格の関係で目立つのね、関係上。それだけ大きいのでもないだろうのに。
私の小説は題が見つからないで閉口して「杉垣」としました。同じ杉垣の家ながら、なかでの生きる心持は時代により人によりちがいます、その意味で。慎一という男、妻は峯子、照子という女の子一人。小さい勤め人。今日の生活の不安な感情。しかし、いろいろに時代的に動こうとは思わない。妻も、よく理屈は云えないが、其の心持でいる。夏、西の方に一間の窓がひらいていて、そこから消防の物見など見える家。夜、峯子がふと目がさめる。しゅりゅん、しゅりゅんという、いかにも的確な迅い鉄のバネの音をきく。良人の生々としてよく眠っている暖い肉体を自分の頬の下に感じつつ、切ない心持でそれをじっときいている。幾晩もそうして目がさめ、こうしてきいている。しかし良人にはそのことが云えない。感情が余り切実だから。表現が分らない。その音が或夜やんでいる。やんでいる。峯子は涙が出て、良人に唇をもってゆく。よく眠っている慎一は、少年ぽくむにゃむにゃで応える。峯子思わず笑う。そんな経験は慎一がいつ留守になるかもしれないという条件とともに二三年のうちに峯子の生活感情をかえた。十年計画で月三十円の月賦で、集合住宅をたてるというような友人の誘いをうけるが、峯子にはそういう生活の感情が実感にとおい。峯子の兄が慎一を今流に動かそうとする。慎一もそういう風に今を生きたくはない。夫婦とも捨てみで生きる方を選んでいる感情で、終るという次第です。今日生活にあらわれる、若さ誠実さの一つの形としてのそういうもの、それは東京だけで何十万というサラリーマンの胸底にあるものでしょう。それは文学の中で、まともにあつかわれなければいけないものでしょう。軽井沢の秋の高原のそぞろあるきのうちに衰弱するのは、康成その他でたくさんですから。
『新潮』のは何をかくかまだ分りません。とにかく私は独言的小説はいやです。それがどんなに珍しい一つの才能であるにしろ、それはそれで自分は、人間が熱く埃っぽく、たゆみなく絡り合って生きているそういう姿を描き出したい。彫刻的にかきたい。立体的にね。その方向へ本気で船を漕ごうと思う次第です。自分はそういう風な内のしくみに出来ている。それを痛感します。短篇でもひろい音の響きのあるものがかきたい。タイプではなくてね。チェホフは傑出した作家ですが、人生というものをあの時代らしく類型化して描き、そのことではメリメやモウパッサンのように、テーマ短篇とはちがった世界を描きました。文学に短篇の新しい世界を拓(ひら)いた。けれども、これから先の短篇はそういうものからも又おのずから歩み出しているわけですから。生活の物音の複雑さがね。複雑怪奇という新造語の流行される今日ですから。
長篇小説とワイワイ云っていたかと思うと、曰ク「短篇時代来る!」これは冗談でない原因で、紙のこともあるわけです。しかし日本の作家は何というのでしょうね。長篇小説が云わば一つもろくなの出ないうちに、もうそういうわけです。つまりロマンなど生むに耐えない文化性におかれているのです。その点では、こちこち勉強しかないわけです。しかしコチコチ勉強だけでは実際上困る(Oh!又早ね、早おき?! )。勿論冗談ですが。作家が益〃世俗的生活面の単純化(質的のね)の正当性を知らなければ、本当には成長的に生きてゆけなくなって来ています。衣類七割八分、食費四割以上、その他あがっているのだから。面白いことね。文学のジェネレーションのことを考えると実に面白いことね。来月からお米全国七分搗(づき)です。太郎の御飯なみです。太郎は体の条件でそれと普通のとまぜていたが。まぜず。
御注文の本お送りいたします。もう一つ問い合わせの返事はまだですが、いずれこの次までには。
ユリは目玉パチクリです。炭が炭やになくなったから。愈〃衛生的生活ね、この冬は。余り炭火がすきでないから助かりますね。ではどうぞお元気で。あした太郎イモ掘りなのに雨で可哀そうに、お流れでしょう。今九時打ちました。さアさア、では。 
十月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十四日第九十五信
何という目ざめの心地だったでしょう。ここの門のわきに一本木犀の木があって、これまで花をつけたことがなかったのに、ゆうべ見たら黄色の濃い花を葉がくれにつけていて、かすかな秋の花の匂いを漂わしていました。S子さんが「あら、いいことがあるわ、何か」と云いました。その一枝を小さく折って来て、机の上の壺にさしてあります。匂いというほどの匂いはないのだけれど。きょうはいいお天気。髪を洗います。橙(だいだい)のつゆをしぼって髪をゆすぐ水に入れます。ベッドの日向にはあなたの着物やかけぶとんやがほしてある。きょうは、もう一つと美味しがっていうのに、ああいいよと答えられているなかから明けました。その声は、いまどっち向いても聴えます。何というまざまざさでしょう。ああいいよ、そうお?ああいいよ、そうお?そうお?その声について行くと森の中にひとりでに入ります。小さい草原があります。その柔かい草の上に顔をふせると、いかにも芳ばしい。じっと顔をふせている。草の芳ばしさは、若々しい樫(かし)の樹かげをうけて、益〃たかく恍惚とさせるばかりです。樫の樹は無心です。でも、それは、我知らない悦びにあふれていてね。雲の愛撫のなかにたっています。雲と軽風とはそういう美しい樹を見つけたうれしさに耐えがたいという風に、そっと幹を吹きめぐり、雲はやさしく梢を捲き、離れ、また戻って来て変化をつくして流れています。そこには微妙きわまる音楽があって、二つの声のリフレインが響いています。あたりは金色の日光です。
私はその金色の光をあなたに上げようと思い、両手のなかに掬って、大切に、いそいでゆきます。いくらかは指の間からこぼれて、道の上に金色の滴(しずく)をおとしているようです。でもそれは致しかたないわ、ね。あなたには、私がいそいで、しかしこぼさないように、自分の掌のなかを一心に見ながら、すり足のような小走りでいそいでいるのが、おわかりになるでしょう。
この間の手紙(この前の分)でかくのを忘れましたから一こと。おめにかかったとき、私がすこし熊坂長範めいたことを云ったら、あなたは、そんな風に云々と笑っていらした、覚えていらっしゃるでしょう。あのこと。予定なんかをはみ出すのは云わばあたり前みたいなことであろうと思って居ります。いつか、ユリが病気したりしたときのために、と云っていらした方ね。あれが畧(ほぼ)この間書いてお送りした謄写代のトータルほど(すこしすくないが)あって、それを役立てるから大丈夫です。なんだ、そんな、とお思いになるようなことはしません。本末顛倒したようなことがあれば、勿論あなたは、そんなこと希望しておいでにならないのは十分十分わかりきっているのだから。もし、どう考えているか。小さいダイナモ、どうまわすつもりか、と思っていらっしゃるとわるいから。そして、もしかしたら、どこかに礼を云わなければならないような人がいるのではないかと、お思いになるといけないから。これで明瞭でいいでしょう?だから島田へ送った三倍はあるわけです。けれども、これから先の分の部数のことだけはやはり一考を要しましょうね、きっと。出来ればそれの内で納めたいところもあるわけですから。
今年は十七日の顔ぶれもいくらか変化しました。栄さんたちにも相談しましたが、S夫妻は又別にします。それについて、この間御相談しようと思っていてつい忘れてしまって。やはりその方がはたも自然ですしね。いつも困った気持になります。
あなたにお祝い何さしあげましょう。吉例にしたがって限定版の詩集一冊。それはもうきまっていますけれど。今年のは表紙が非常に軟かで、つよい鞣革(なめしがわ)で玉虫色の象嵌(ぞうがん)があります。装幀も年々に含蓄を加えます。
それからリアリスティックなものとして、岩波の『哲学年表』、それは今お忙しいがきっと面白くお思いになるでしょう。折々ひっくりかえしてみて。それをお送りいたします。
あなたのお誕生日が祭日なのは面白いけれども、私としては本当に不便ね。しみじみそう思います。仕方がないから松たけでも入れて、すきやきを一同でたべましょう。ああそれから、お酒なしよ。
きょうの様子だと晴天でしょうね。あなたのところへは二日もおくれて菊の花がゆくでしょう。日どりが本年は特に重っているのでそうなってしまいます。
ああ、私はさっさと髪を洗って、詩集を伏せて、しまって、例の追いつけを開始しなくては。きょうはどうも詩集を手ばなし難うございます。たまにそういう日が、一日あってもいいでしょう、自分に向ってそう云っている次第です。あなたにしても、ユリがアンポンになってしんみりしているのをお想いになると、笑えるでしょう。笑うのは衛生にいいのよ。では又ね。 
十月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十九日第九十六信
きょうは木曜日ですが出勤は又なし。
十四日の次の手紙ですが、あの全くつづきのようなの。どうしたのでしょうね。ずうっとそういう心持で暮して居ます。きょうは午後よっぽどそちらへ行こうかと思いました。疲れるといけないと思って辛棒したけれど。あなたが、よ。
どうかおわん、よく手にもって、よくくちをつけて召し上って下さい。それから退屈したり、ぼんやりしなくてはいけないようなときは、あの耳かきと櫛とを。櫛というものは髪を撫で、髪の間を指で梳(す)く代りでしょう?日向で、のびて、膝の上に頭をおいて。みみかきは優しいものだと思います。
山窩が又なかなか美しいのです。目にしみてしまった。何という美しさかしら。やや荒れた美しい庭の趣ですね。見て何と飽きないでしょう。見て見て見て、眼玉が痛くなるほど見て、まあざっと、これで堪能したという思いがしてみたいものです。
今夜私たちがこうしている空に、サーチライトが動いています。九段の大祭ですから。黒紋付の女のひとがどっさり歩いています。若い女のひとが。山高なんかかぶったお父さんにつれられて。赤ちゃんを抱いたのもいます。春お母さんと日光に行ったときも随分どっさりいて、一つ汽車にものり合わせましたが。
又明日あたりからずっと忙しくなります。『中公』の小説のりました。二ヵ所ばかりブランクが出来たが。
日本の過去の文学が、情痴は描いて、愛の表現というものには乏しかった。今日の所謂大人がその高まった情感を理解しないことは日本の文学を実に低くとどめる外部の力としてあらわれています。或る見かたをする人々は、そう見るということで内面の低劣さを告白している場合が多いのだが、ビュロクラティスムにまもられると、そういうはずかしさも感じないということになっているのでしょう。徳川時代の文学のゲラゲラ笑い、その系列が、感情生活の中にのこっているのね。
『新潮』の正月号の小説はごく短いものですが十一月十日で〆切ります。早いのね。いろんなひとが書くらしい様子です。ズラリと並べるのでしょう。例によって『文芸』のを月のうちにかいて、あと小説をかきます。私はどしどし小説をかきます。なるたけどっさりかきます。そして、小説の世界にひき入れられることで、人々が毎日生きているよりもっとひろくて深い人生へ導かれるようなそういう小説をかきたいと思います。小説の世界にだけとじこもっているような小説、私本当にきらいです。この頃、このきらいさが益〃はげしくなって。そのためには益〃小説が、文学のリアリティーとしてつよめられなければならないわけですから。人間精神のよさは道義というもの以上であるし。
只今もっている書きものはね、感想風のもの三つ(小さなもの)、若い女のひとのためのもの一つ、それから『文芸』20枚ほど、小説20枚ほど。きっと全体印刷に手間がかかるようになったから、十一月、十二月はたたまって来るのでしょう。
机の上に十七日に寿江子がもって来てくれた紅白のガーベラの花があり、茶の間のタンスの上には、原さんが家の近所からわざわざ切らせてくれたダリアの大きい見事な花が満々とあります。黄菊が(私の買った)マジョリカの大きい壺にささって、これは茶ダンスの上に。
珍しく三夫婦そろいました。てっちゃんと。三組の夫妻が揃うということはなかなかないのよ。これまで。芝居の方はなかなかはぐれていたのです。いろんな話で賑やかですが、しみじみ思ったことは、みんなそれぞれの暮しが大変なのね。マア一番栄さんのところが波が平らというわけで(サラリーマン故)あとは小さな舟が上ったり下ったりという工合です。だから、どこかこんごのことに気をとられているところがあって、それも新しい、本年の印象でした。
てっちゃんの奥さんはかえって来た由で、結構です。ニャーニャとさし向いというのが三ヵ月つづいたわけで人相が変っていたから。よかったことね。経過もいいそうですから。子供が、一日は父さんをひとみしりした由。太郎には話の中で、度々アッコおばちゃんのおじちゃんが出てわかっているのですが、会ったらきっとはにかむわね。太郎は、はにかみのひどい方ですから。太郎カナ字がよめるのよ。いつか林町へ手紙下さるとき、太郎あてにごく短いカナの部分をかいてやって下すったら、きっとよろこぶでしょう。
それから本月私は慰問袋やすみます。林町から二人へ送りましたから。早くあげたかったけれど、と云って居りました。たまには別の人のも又いいでしょうから。隆ちゃん、本はやっぱりすこし荷らしい様子ですね。どんなにしているかしら。もうさむいでしょう。
てっちゃん来。二十四日ごろ久しぶりで会いたいからそちらに行く由です。お天気がよかったら、赤ちゃんをつれてゆくそうです。やっぱり会いたくなると云うことです。それはそうだわ。島田あたりが町になった話したら、ヘエヘエとびっくりでした。あの村もきっとその中でしょう?あなたの方が消息に通じていらっしゃるわけです。
きょうは組合が食塩ナシでした。本年の冬はいろんな大ビルがスティームなしになるかもしれない、なりそうで小ビルはホクホクですって。寒帯劇場になるそうです。そちらと同様の生活ね。面白いものです。新聞に「タバコ店ゆずる」がどっさり出ます。昔はタバコ屋というものは権利を買うのにむずかしかったし、確実な商売とされていたものでした。これも昨今らしい風景。
島田からの手紙(たかちゃん)で、お母さん、この間の十七日には大分楽しくおすごしになった様子です。三味線をおひきになりましたって。何年ぶりでしょう!結構ね。あなたから手紙も来て安心した、とその前のおたよりでしたが。その三味線のことはお母さん上出来、とほめてさしあげるつもりです。私がよく「お母さんは出来ないことがないが、たった一つまだ出来ないのは、気をゆっくりお持ちになること」と云って笑っていたから、きっとそのことも出来ることになさろうというのね。何か人の生活というものを沁々感じました。それから、時々の心のくつろぎというものについても。私から見れば、お母さんの、そういうおくつろぎの折々の気持というものは無限の背景をもってうつりますから。もしわきにいて、そんなにしていらっしゃるのを見たら、きっと涙がにじむでしょう。そういうところがあるわ。その小さい、無邪気な、謂わばその人の心でだけのくつろぎの姿は。
もうすこしすると大森の方から、ある女の先生の世話で派出婦が来て、おミヤさんはかえります。その女のひとは縫物が出来ることを条件にたのみましたから、私が仕事の間で下へおりて来ると、そこにはあなたの冬物が縫われているという、いくらか家らしい光景が現出するでしょうとたのしみです。若い女のひとが一刻も早く来てほしいと思って居ります。今は派出もありません。経済的にはたまらないけれども、一人ではやれませんから。ではお大切に。今年は早く寒くなりますそうです。 
十月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十一日第九十七信
夕飯になる迄一寸おかみさんのお喋りをいたします。
けさ、大森から派出婦の、フヂエさんという丸い若い女のひとが来ました。府下の生れで、七人きょうだい。お父さんは精米やさんの由です。一年半派出しているそうです。その全体の様子は、もう二年前であったら、お女中さんをしたにちがいない人ですが、只今では一日一円三十銭、いくらでもひまのとれる派出になっているという人です。ですから、気がおけなくて、楽でようございます。
おミヤさんが明日か明後日はかえるので、そのお礼にハオリを一枚買ってやらねばならず、目白の先の呉服屋へ出かけ、その表地、裏地買って、あなたの着物の裏買って、ザブトンの布をかって(これは三割スフでも木綿だから)かかえてかえって来たら玄関に岡田禎子が珍しく立っている。それからいろいろ劇団の話をきいて、先刻かえったところ。
そしたらガス会社から人が来まして、来月からガスを小さくして(火口を)、そして消費だかも一〇立米へらすことになり、金高にすると四円いくらのものが三円いくらであって、それを超すと翌月はガスをとめることもあるということになりました。こんな小さい世帯でこれ丈ですから、大きいところは随分ちがいますね。たべものやなど、五十円のところ三十五円ぐらいというから、そうすると時間を短くするしかない由。したがって上りがへる。ものが反対にあがる。勢たかくなる。この頃は全くそとでものは食べられないというようなものです。所謂洋食などはペケ。私は外でたべないからたすかりますが、つとめている女のひとなど、自炊していないひと、大変ですね。二十銭、三十銭という食代にやはり何割かがかかって来るわけですから。
玉子あがっていますか?私の方は殆どやめです。市場(あすこの目白の角の)で午前中うりますが(一人に百匁)黄味があのいい匂いの代りに妙ににおうので。冷蔵玉子だそうです。バタは?雪印マルガリンは本ものに似ているそうです。南京豆バタをたべようかと思います。
世帯をもっているということは、この頃の時代ではなかなか作家にとって並々ならぬ意味をもって居ります。時々刻々が反映していますから。それは感情に反映しているのですから。この三四年間を自分で世帯をもって暮すのとそうでないのと、どの位ちがう結果になるでしょう。面白いと思います。時代のカンというようなものは面白いところにありますから。料理に対する感情などでも、私たち流の真価が益〃発揮されて来るわけでしょう。実質的なところが、ね。
文学の仕事と云っても劇は劇場の関係がひどくて、小説の矢田津世子ぐらいのがくさっていますそうです。評価の点で矢田がどういう作家であるかということは別で、ともかくその程度のが。劇で心理描写が出来にくいというのもいろいろの点で制約ですね。岡田さんは久しく抱月、須磨子、逍遙を描きたいのだそうですが、それをかくと、早稲田演劇図書館お出入りさしとめのようになるでしょうとのことです。逍遙のバツが民蔵その他がんばっていて、劇壇の半分は対立するというのだからたまりませんね。
話していて面白く思ったことは、岡田さんは抱月と逍遙とにとって須磨子がかけがえのなかったという感情葛藤の面のみであり、私は本当に書けるのは、須磨子にとって抱月が、かけがえのない人であったということの心理しかないと云うみかたをしている点です。両方かさなるのが現実です。しかし書く意味のあるのはやはり須磨子の内からのみでしょう。さもなければ、何もああいう情熱へのまけかたはしないのですから。生活によって、見どころのちがうところがしみじみと面白い。
たとえば、清少納言のことについて、きのう国文専門のひとと話して、「枕草子」の或場面で、清少の心ばえが、いかにも女房風情というところが、あらわれているところがあるのです。仕えていた中宮が権門の関係におされて、まことにおちめになり、藤原氏の女御が高くおさまっている。中宮は住居もひどいところに居られるが、互には愛していて、その端近のところへ来て朝二人ならんで立って、守護の武士たちが出入りする様子など眺めていられる。その姿はなかなか味深い人間らしいものです。清少はその姿にちっとも心うたれていないでね、只めでたしと見るだけで、自分の寝おきの顔を見ようとして来ている、あの有名な行成のことをかきつらねている。自分のそういう場合の心のありよう、二人のひとたちの愛のありよう、そういうものを沁々と思って見ないのです。そして才のたけた中宮支持の女房として相当きままして、宿へ下っているとき中宮が白い紙など下さると、うれしがって又出仕するという姿。もし古典からの情景で心にのこるところと云って小説にもじってでも書けば、私ならここをかきますね。そんなことの感じかたも亦ちがうの。面白いでしょう?そして、くすくすひとり笑うのですが、私の作家としての最大の弱みは、夫婦をむつましさの美しさで描きたいところではないかしら、と(勿論これは笑い話よ、御安心下さい)。
それからもう一つ可笑しい話、
私に二足中歯の下駄があります。中歯というのは足駄より低くてね、そちらへ行くとき雨の日はくのです。歯をさし代えてははくのですが、それをきのう見たらね、二足ともまるで前歯がひどく減っていて、うしろとは比較にならないのです。
マヤコフスキーが死んだとき葬式へ行ったら、靴の大きい裏がこっち向に並んで見えて、その爪先についていた三角のへり止めの金が、まるで光って、へってピカピカしていました。爪先へついているの、へり止めが。そのことが印象にのこりました。
自分の下駄をしみじみながめてね、これは早死にしそうだと思ってね。私はもとはこんなに前歯をへらしたことなんかないのですもの。修業がいると思いました。でもね、これは行く方角の関係もあって、やっぱりどうしたって前歯はへるのかもしれないとも考えます。御意見はいかがですか。非常に有機的であると思うのですが。勿論うしろがへるなんていうのよりは遙に痛快ですがね。ふき出してしまう、ユリがうしろへらして歩くなんて姿。そうでしょう?
それからもう一つ。
この間あるところで、フランス文学専門で交換学生として行く女のひとに会いました。三十前ぐらいね。その人、話の末に自分の友達に私を好きな人がいるのですって。「マア、そうですか、ありがたいことね」「ええとても崇拝しているんですのよ、そして同じ名だもんだから、あなたのが出ると、ほかの友達に『私がちょいといたずらしてみたのよ』って云っていますの、ホホホホ」私思わず「マア図々しいのね」と申しました。しかしきっと感じなかったでしょう。こういうセンスです、おどろくでしょう、そして文学です。こういうことは、今の流行作家というものの映画俳優的ありようによるのです。通俗作家=流行作家――よんでやる、これね。生きかたというものをどの位うっちゃっているのか、これが実によく語っている。私一ヶのことについて云々しているのではないのです、もっと文学のありよう、或は作家というものの生活が、おのずから一般に与えている感銘の意味でね。
知識人は大宅壮一の巧(たくみ)な表現によれば、急テンポに半インテリに化されつつある、それは本当です、作家が、そこにおらくについている。女が、ちょいといたずらをしてと云うのは、おひがんにおすしやぼたもちをつくったときの言葉です。ひどいものね、文化はこのように低下しつつあるのです。こんな母が育てる児というのはどんなでしょう。いろいろな歴史の時代を経て、人々が益〃窮乏のなかから慧智を得て来うるところと、物質の乏しさ=精神の低さというところとではちがいのひどさがこわいようなものですね。
さて、これできょうのお話は終りです。
けさは喉がカラカラになりましたが大丈夫でしょうか?お大切に。ユリのかわきどうかしてとまらないのは閉口です、では。 
十月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十三日第九十八信
十九日づけのお手紙をありがとう。やや久しぶりね。十日ぶりでしたから。
佐藤さんは、試験つづきで、お医者は大変ですね。あのひとも盲腸をとってから大分ましだそうです。盲腸と云えば、私はあの先生が満州からかえって来て、日どりがきまる迄何となし落付かない心持で居ります。そっちがすまないと何だかおちおち出来ない心持。おわかりになるでしょう?
鉢植は小菊な筈です。どんな色の菊でしょうか。いもの葉のようなのはペラゲアというのでしょうと思います。葉脈の色がちがうのでしょう?そんなに新しい葉を萌え立たせたというのは本当に感心だこと。恐嘆とかいてあって、思わず笑いました。よっぽど驚嘆の度のきついのだと。ユリの場合は、たしかに適切ですが。大規模で微妙な演出という表現は、実に含蓄があり芸術のセンスに充ちた表現で感服いたします。わが小説もしかくありたいと切望いたしますね。
朝晩のこと、マアこの位がいいところでしょう、九時台はなかなかね。三笠の本到着しましたでしょう?全集第五巻の方はてっちゃんからまわせそうです、やっと。
隆ちゃんからも手紙来ましたけれども、このお手紙にかいてあるようなことは一つもありませんでした。アドレスの違いだけは書いてあったが。不思議な偶然でしたね。さぞ感慨があるでしょう。私の方へは例のとおりの文句で只いかにも忙しげですが。林町から二人へ袋送って、私は本月は休むこと前便で申しあげましたとおり。お正月がたのしめるように次の分は心がけて時間もたっぷり見て送りましょう。『北極飛行』承知いたしました。隆ちゃんはやっぱり小国民文庫が気に入りましたようです、丁度いいと云って来ていますから、つづけてあの分を送ろうと思います。
私の「疲れた」。面白いわね。自分でもこの間迄はっきり心持のモーティヴ、知らなかったのですもの。詩集をひらくというような生ぬるいものではないのです、そのなかに顔を埋めるのです。そんな工合。
請求書は来ません、よこして下さいと云ってありますが。
稲ちゃん、友人の結婚の仲人をしたので十六日に式にかえっていて十七日にいたわけです。十八日ごろ又行った筈です。手紙よこさないからきっと仕事に熱中しているのでしょう。三百枚以上かくのに十一月十日ごろ迄とか云っていたが、出来るのかしら。あのひとは私などとちがってどっさり一日にかくから、別でしょうが。
栄さんも百枚以上の小説をかきました。このひとは実にストーリイ・テラーで、そのうまさは身についていますね。しかしもう一重ほり下げた心持を追う描写になるとだめです。不思議なくらいそっちはだめで、一方がすぐれている。だから題材とそれとがうまく結びつくと、今度のなども読むには面白いのです。そこに又大きい問題があるわけです。私もそれは云うし本人も知っているわけですが。そういうものでスラスラかけてしまう題材は早くかき切るべし、と云っている次第です。このひと、稲ちゃん、自分、皆何とちがうでしょう。稲ちゃんは線のひとですね。
きょうはおだやかに日が照って暖かですが、私は目下風邪気味で、ハナのなかが乾いたようで眼玉がいくらか強ばって昨夜は夜中おきて湯タンポをつくりました。それでもきょうは大丈夫です。朝から机に向って居ります。
派出婦さん、お裁縫は下手のようなので些かこまりますが、やたらに、いやにしっかりものでないアンポンだからマアいいと思います。楽しみにしていたのだけれど、どうも、あなたの着物をサラリとひろげという情景は展開しそうもありません。そちらで着るには猶しゃんと縫ってないと、あっちがずり出しこっちがひっこみで妙な袋になってしまうでしょうから。
ユリのかわきもやや可となったら風邪。笑えてしまう。きょうはそろそろ又十日分を書き出す頃ですね。
十月十一日│六・五〇│一〇・三〇│
十二日│七・〇〇│九・五〇│
十三日│六・一〇│一一・〇〇│
十四日│七・〇〇│一〇・四〇│読書98頁。
十五日│七・〇〇│一一・〇〇│余り追つけ追越せでもなかったけれども。
十六日│六・四五│一〇・一〇│
十七日│六・三〇│午前一時│皆がかえったのが十二時すこし前ですもの
十八日│七・三〇│九・四〇│
十九日│六・二〇│一〇・三五│
二十日│七・〇〇│一〇・〇〇│
〔欄外に〕ダラディエの『フランスの防衛』DefenceofFrance三越に注文しましょう、若し来たらおよみになるでしょう?
きょうはもしかしたら太郎が来るかもしれません。大久保の方へ外套の下縫いにゆくのですって。アカコをやきもちやいて、「お母ちゃまは何故赤コばっかり可愛がるの」と云うそうです。
この間からちょいちょい思うのですが、私がこれまで何年かかいた手紙で、去年の分、自分で考えるとどうしても気に入りません。自分に気に入らないということのうちには、自分にとって深い教訓があるのです。いやな手紙が多いわね。詰り何というのでしょうか、斯うすっとしていないのが多くて。そういうすっとしなさの原因を考えて、学び省るところ多いわけですが。あの時分あなたがいろいろ云っていらしたこと、やっぱり忘れることが出来ないから、折々思いかえし、すっとしなかったことの原因にふれて云われているそれらのことは当っていて、そして急にはなおらない、二三年かかると云われていたことの真実もわかります。どの手紙も何だか平らかでない感情の波の上でかかれているような気で思いかえされ、それがいやですね。あなたも恐らく、折々古い手紙くりかえして下さるとして、あんまり去年の分には手がのびますまいでしょう。アッペタイトがおこらない。研究としては又おのずから別ですが。「杉垣」は小さい作品ですが、作家としての私の心持では、去年の手紙がいやに思えるという、そこまで出て来ている心の状態に立って書いているのです。ですから、ひとは何と批評するかしらないけれども自分では心持よいし、先へ仕事をすすめてゆく心の張り合いです。ね、文壇めやすでない、文学のための文学の仕事、そういう仕事の味いというものは、いろいろの時期にその段階で分っているようでいて、さて或時がたつと又新たな実感で分って来るものですね、そこが又面白い。だから或る年齢以上になると、そういう根本的なことについては、何年も前にやはり似たようなこと云っているというようなことが(日記などで)出て、しかも内容は同一でないから面白い。去年の手紙思い出しては、何となく愧(は)じ入っているところのあるのもなかなかいいかもしれませんね。いかが? 
十月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十六日第九十九信
雨のなかを、昨夕は真くらで、新宿辺は珍しい光景でした。通行人は皆傘をさして、傘をさしているというばかりでなく足元をさぐりさぐり歩いていて、地下道(駅)の中でだけいつもの東京人らしい表情と足どりとで歩いている。そのちがいが何だか印象的でした。午後六時ごろそんなところを歩いていたわけはね、珍しく「むさしの」を見たのです。「少年の町」Boy'stownというのが見たくて。アメリカで一人の牧師が保護者のない少年たちをあつめてコロニーをつくっていて、そこでまともな社会人としての成長をたすけてやっている、実際あることです。それをその事業の記念として物語化して映画にしているのだけれども、前半は、自然で面白く後半はメロドラマ的にしてしまって安価です。子供の家の生活を描いた、アブデェンコの「私は愛す」という小説はデーツキー・ドウムの生活の人間らしさを描いて感動的なものでしたが、新聞評でも云っているように、この子供の町の後半はアメリカ式センチメンタリズムが多くて、ギャングの人情に陥して、そういう映画としての欠陥が、そのものでこの牧師の仕事の本質をも語っているような感じです。善意でつくられている映画でもやっぱりそれだけの商魂で価値を低くされている如く、この牧師の善意もそういう少年を街上に放り出す社会生活の性質に対してはやはり一つのビボーであるという感が深まります。子役なんかを泣かせるためにつかったりしてね。それでも私はやっぱり面白く思ったのは、少年の町のその牧師が、アメリカ精神としての自治の心をつよく子供たちに養成しているところ(町のシステム全般に)、男の子同士の正義感からの闘志を或点みとめて、腕力沙汰を、フェア・プレイとしてボキシングで放散させるところ、その牧師先生自身なかなか体力敏捷であって、素早(すば)しこい悪たれ小僧に決してまけない男としてあらわされているところ、アメリカの感情がよく出ていると思いました。町長選挙のとき、一人の一番てこずらせが全く大人のひどい宣伝法をまねて、コロニーの牧牛や馬に自分の名をかいて「選挙せよ」とやったり、急ごしらえの楽隊で選挙場へくりこんだり、そういう大人の模倣としての子供のわるさをもっと落ついて描いて行ったらよかったでしょうに。「人生案内」を私は出たり入ったりでつい見なくてしまって残念です。比較になりませんでしょう、そう皆云っている。
きょうも雨。きょうは又日比谷休みですから、一日机に向う仕事します。『婦人公論』で十二月号の口絵に、いい家庭をスイセンするのですって。私にもどこか一つ選んでくれとのことで、誰がどんな人の家庭選んだかきいたら、よくわからないが小林一三の家庭をえらんだ人がある由。吉屋信子は板垣直子の家庭の由。フームと感服してしまいました。大したものだと思って。板垣は信子の小説の悪口を十年一日云いつづけて来ているひとですから。なかなか通俗作家の心理洞察のタイプがあらわれていて面白いでしょう?娘は女学校以上の勉強させない、という父の意見も、信子女史にはいい父の意見なのでしょうか。
ともかく、私はどこの家庭を選ぼうかと考え、よくよく考えたら、家庭というと、何となし父母子供犬まで揃って、暖くきて苦労がなくて立身していて、というような条件に立ってえらばれているが、果して、家庭はそういう形でだけ云えるでしょうかと思ったのです。人間がよく成長してゆくために心のくばられているところとしての家庭と考えれば、父を失って母と子とだけの家庭に、その善意を認めないという法はないでしょう。冬の夜長に、そういう母が、子供でもねかしたあと、その雑誌をくりひろげて見たとき、どれもこれも夫婦そろって、自足していて、それがいい家庭と云われていたら、ではさけがたいことで父を失った自分たちの家庭は、そのためだけにいい家庭と云われないのか、世間はそういうものか、とどの位痛切に感じるでしょう。その苦しい心持を思いやったら、何だか私はそういう女の心、母と子の生きる心に満腔の同情を感じました。そこで、私はいい家庭の概念に異をたてるのではなく、その感じを更にひろげたものとして母と子の家庭をもそれを生きている心に目安をおいて、十分いい家庭として通すことにきめました。そして、小野宮吉さんの家庭はその生活のありようも知っているから、それをえらびました。
その写真に短い文章をつけます。きょうはそれをかいたり、徳永直さんの「はたらく人々」という女を主人公とした小説の書評をかいたり、『新潮』でとった自分の写真につける文章をかいたりこまこましたものをかたづけます。そして、又図書館仕事がはじまりますから、私はもしかしたら明朝一寸そちらへゆきます。いろいろと返事を申しあげなければならないことがありますから。というわけ。それに防空演習で月曜日ごろは出にくいでしょうから。
うちは、ふぢ江という派出婦のひと、久しぶりで気軽く立ち居するひとと暮して、気分すがすがしいようです。おミヤさんというひとは全く独特なひとでしたから。わるい人ではないが。本当に独特で、私はいつも疳(かん)の虫を奥歯でかみしめていたような気分でしたから、マアすこしの間吻(ほ)っとします。それでも、こういう派出のひとは短期であっちこっち歩いて、そのうちの生活に心を入れず、やることだけやってケロリとしている風だから、きっとすこし永くいると自分で飽きるような傾向があるでしょうね。そういう風に見えます。それでも前便でかいた通り、私を使うような勝った気のひとではないからようございます。私のつもりでは正月の中旬ごろまでいて貰うつもりですが。もちろんそれ前に誰か見つかれば申し分はありませんですが。十月二十一日から十一月二十一日で一ヵ月、一月中旬までは二ヵ月とすこしだが、それまで飽きずにいるかどうか。飽きたら又飽きたときのことです。
稲ちゃんからハガキが来て、小説、うまく進まず、自分から書く意義を見失ってはなだめたり、すかしたりしてかいていると云って来ました。長いもの、短い時間でまとめようという気が先に立つと、やはりせっついてそんな工合になるのでしょう。それでもいずれ何とかまとめましょう。その点では大した技術家だから。
『図書』は九月でお金が切れていた由、御免なさい。そちらに通知が行ったわけでしたが。『英研』は来年四月迄ですからどうしたのかしら。しらべ中です。ユリは可笑しいでしょう?余り詩集が目先にちらついてちらついて、かんしゃくおこして詩集を懐へねじこんでしまったという工合です。ねじこむというのが、やはり懐の中だから、又笑ってしまう、ねえ。 
十月二十八日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十七日第百信
雨戸をしめた二階で机に向っていると、飛行機の音、交通整理の呼子の音がしきりにして居ます。きっと同じ音がそちらにもしているのでしょうね。門の前に立って月空を眺めながら解除まで待っていて、あがって来たところです。
きょうは家の角でも焼夷弾練習があったりして、一日のうち何遍となく外へ出ます。その間に徳永直さんの「はたらく人々」の書評をかきました。しんそこはイージーで、岩の上を波が洗うようにこして書いていて、いい心持がしませんね。ぶつかるところへぶつかっていないところがある、どうも。その上に男の作家が女の出産の苦痛などこまかに描いているのも何だか。男としての心持からなら良人の心持の面からかくならよく分るし、一生に一度、ものをかく人ならかきたいだろうと思うところがありますけれども。この頃はこういう瑣末とっちゃん趣味がはやりでね。重治さんさえひっかかっている。市民の感情というものの解釈の問題です。
さて、英研ね、九月十日に十月号は発送して居りますって。しかし未着ならばすぐ改めて発送すると云って居ります。そのうちにつくでしょう。やはり予約は四月迄あります。
きょうは行きそうにかきましたけれど、考えて見ればおきまりの人があるのですから、おやめにいたしました。きょうの午後信濃町の先生かえられました。すぐ都合問い合わせておきました。電話かけたらね、おばあさんが、迎えに出る時間でも問い合わせたかと勘ちがいされて、「ありがとうございます」としきりに云われたには恐縮しました。近日中にわかりましょう。
きょうは珍しいでしょう。戸外へかけ出したり、書評かいたり、その間には、あなたの綿入れをこしらえる手つだいをしたりいたしました。
派出のひとの感情は面白いものです、そこの土地にいついていない心持だから、防空演習なんか自分に関わりなしという風なの。これは大変面白いと思いました。自分がいつか世帯もったら、やはりいろいろ責任を負ってやらなければならない、そんな風に現在は考えないのです。だから余分の仕事みたいに思うらしい。でも、派出としてはわるい方ではありませんからどうか御安心下さい。
ホーサンがなくなりそうというので一ポンド買いました。クレオソート丸は隆ちゃん、達ちゃんにいつも送ってやるのですが、これもあやしいものです。輸入薬の由。
『新潮』の写真につける短文「机の上のもの」というのかきました。いろんな机の上にあるもののこと書いたのです。例えば、そこいらの文房具屋にざらにあるようなガラスのペン皿のこと。嘗て柳行李のなかから、紺絣の着物やめざまし時計などと一緒くたに出て来たそれは、こわしたりしたくないと思ってつかっている、というようなこと。写真の下にかく文章なんてむずかしいものです、なかなか。サラリとかくのには。妙ね、女のひとは多くその写真に即していろいろかく傾向です。或種のひとは、そういうところで抜(ぬか)らず自家広告をいたしますし。
この頃夜よくお眠りになりますか?
私は大変ねむいのです。なるたけ早くねて、きのうも十時前ぐらいでしたろう。眠るのがたのしみというようなところがあります。今夜もどうも早くねむいという傾です、どういうわけなのかしら。マア結構ですが。なるたけどっさり眠って、そろそろ又眼の色をかえなければ。
『セルパン』に「女流作家をめぐる論争」というのがあって、何かと見たらそれはイギリスの批評家のアンソニー・ウェストが『ニュー・ステイツマン』で四人の女流作家の書評をやって、婦人作家womannovelistのまわりにladynovelist貴婦人作家という名称をつくって、女の作家の下らなさを評しているのに対して、ミチェルとロニコルという作家が抗議しているが、それが又他愛なく、経済や政治の知識があって、その方面の著書もある婦人作家ネイオミ・ミチスンが、一般にヨーロッパ社会の一部に生じているそういうつまらない性的対立を助長する風潮にふれ、現在の不況時代に女性があらゆる部門から駆逐しようとされているということを抗議しているのでした。
ミチスンの抗議にしろ、まだやはり婦人作家というものをごく一般性で云っている。日本の婦人作家がもしこの論争に加われば、彼女は、婦人作家の質にふれたでしょう。婦人作家の中にもladynovelistだっているのです、どこの国にも。例外は他にしては。
そして、どうも日本の作家が十分参加する特権がありそうです、というのはね、この批評家紫式部をあげて彼女の目が社会性をもっているとほめているのですから。でもクスクス笑える。どこの批評家も、余りひとの知らない人物をひっぱって来るのは癖だと思って。あちらで式部、こちらでジイドというのかと思うと大笑いね。 
十月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十九日第一〇一信
二十七日づけのお手紙をどうもありがとう。みみかきなんかこれまでもっていらっしゃらなかったでしょうか。もっていらしたのだが、これは又これとして御愛顧を蒙るわけでしょうか。どうかよろしくね。
バラはどんな色でしょう。バラ、フリージア、菊、マア色どりゆたかでいらっしゃるわけですね。
康ちゃん、本当にそうです、善良そうです。奥さんの澄子さんというひとが、なかなかじみでさっぱりしていて、小市民的な心持の範囲でながらくどくない気質ですから、多分にそれが加っている様です。ニコニコしていたの?いいこと!行きにうちへ一寸よっておむつかえたりして遊んだとき、柿をしゃぶって食餉のまわりぐるぐるつかまって歩いてやっぱり笑って居りました。太郎はあなたにおめにかかって笑わなかったでしょう。あれはああいうのよ。アババをやって見せたというのは実に実に愉快。てっちゃんどんなにうれしかったでしょう。お礼の手紙を出しましょう。
全集五巻というのは、何だか話がゆきちがいましたが、ウリヤーノウの、おっしゃっていらしたもののことですが。この間からずっとさがしていた分。改造文庫にといっていらした分、それです。
『朝日』に真船豊が作品月評をかいています。このひとは自分が戯曲だからか、小説の文章という方からだけ一貫してものを云っていて、鏡花だの万太郎だのと云い、よろしくないのですが(北原武夫の芸論に拍車をかけるから、大局的に。北原武夫というのは宇野千代の良人)「杉垣」のこと、胸を打つ文章として語って居ます。このひとの考えかたによると、「杉垣」の胸をうつのは、沈潜した、思索的な文章でかいてあるから云々というようなところで、何だかピントが狂っていますが。
去年じゅうの手紙のこと、大変思いやりのこもっている温い心持で見ていて下すってありがとう。でもやっぱり自分としてジットリするようなところがあり、それも、自分とすれば自然なのでしょうと思います。
冷水マサツは。多くを語らず、です。
きょうは手紙、ゆっくりどっさりかきたいが強いてやめます、わけは、又右手の拇指(おやゆび)の下がすっかりふくれて右手こまるのです。二度目です。先月末、本月末、とかく月末にはれる。まさか晦日(みそか)がこわいのじゃないだろうのに、と大笑いですが、やはりすこしペンもたず休みますから。すこし研究を要します。心臓の関係だとこまるから。一時的のものを反覆してはこまりますから。可笑しいでしょう、手全体ではないの。拇指の根のまわりのふくれたところが益〃ふくれてしまうのです。きょう、あとで又佐藤先生(!)のところへ相談にゆきます。では又ゆっくり。明日お目にかかりましょう、ひどいひとね、きっと。 
十一月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二日第一〇二信
かえってポストを見たら、やっぱり来て居りました。ありがとう。
私の手のことね、くすりがきけば癒るのです。血管の末梢神経衰弱というので、心臓の関係ではないのだそうです。
佐藤さんはまだ学生ですが、それだけ熱心で、私の日常生活のあらましも知っているから、家庭医としてはなかなかようございます。今薬をもらって居ります。
それに私は気をつけて、マメにちょいちょい休息するようにして居りますから。書くものも本月は『文芸』のつづき(きょうからはじまり)、『新潮』の小説、『文芸』の小説だけで、十二月には一月、二月のために『文芸』のつづきが予定にある位のものです。
『日本評論』の小説は三月にして貰いました。三月でも一月末か二月とっつきの由。『文芸』のはつづけてのせられるうちのせて完結したいと思いますから。
きょう御注文の本、図表は世界のがあって、日本の見当らず。すぐ注文しておきました。本屋といえば、目白駅へ出る黒いサクの一本道、覚えていらっしゃるでしょう、あの右側に金物や床やがあり角に果物やがあります、あの一軒手前に夏目書房という古本屋さんが今出来かかりです。いい人だったらいいと思います。いろんな点でどんなにか便利でしょう。今いい古本やなくて、神田の稲田にたのむのです、主に。
『図書』の良書紹介、やがて私もかきますから、そのこと思って居たところでした。誰も云いませんね、妙ね。
鑑子さんの家のこと。同感して下すってうれしいと思います。人生、幸福、そういうものに対する現実的な一つの見識であるわけですからね。女としては特に、ね。
日常の細部、それから芸術上のこのみにふれればいろいろあります。けれども全体の誠意というところから見て、やはり云えると思って。光ちゃんは大きい娘(小学校五年ぐらい)です。体が大して丈夫でないが、大変美しくて、賢い子です。
いい家庭といえば、先ず世間的な名士というのは何と凡俗でしょう。
うっかりして風邪ひかぬよう、というのには笑えました。そう?そんな顔におもえになりましたか?光栄です。私は風邪ひかぬよう、と云われたりすると、風邪のクスリと云ったいろいろのこと思います。でも本当にきょうはすこし風邪気になりました。きのうは袷であつすぎ、きょうはこんなにさむいのですものね。どうかあなたもお大事に。あなたはうっかりして風邪ひかぬようと云われる必要は、おありにならないのかしら。
一寸ハクショ!ぐらいさせてあげたいと思います。ハクショとしたら、右の肩の上を左の手で、左の肩の上を右の手で二つ三つパタパタとやるというおまじないがあって、うちの母なんかよくやって居りました。きょうは表をかく日ですが、ちょっと二三日御勘弁ね。この手紙かいて、すこし横になって、それからきょう、あすとで仕事してしまって、それからゆっくり又かきます。昨夜なんか九時十分過ぐらいです、床に入ったの。すぐ眠って。今晩はすこしおそくなるでしょう、でも十一時迄ね。ではお大事に。黄菊匂って居りますか?ユリの机の上のは薄桃色と藤色っぽいの、やはり小菊です。明るい午後に匂って居ます。 
十一月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月八日第一〇三信
きょうは水曜日でしょう、きのうからちょいちょいポストをのぞくのですがまだ御到着にならず。今頃どの道通ってる、あの道とおり、この道とおり、と子供のうたのようなものね。それ頂いてからと思っていたのだけれどもまち切れずかきます。
私の手のはれのこと、くりかえし申しますが、本当にいろいろ注意して薬も燐ザイと併用して内分泌の薬のんでいるしその他よくきく鎮静薬も心がけてたっぷり貰って居り、そのために心つけていてくれるひともあり、どうか御気になさらないで下さい。却ってこんな形で出るバローメータアがあればようございます。私は体の右がよくないのね。眼の度も右がひどいし。
けれどもこの間『新潮』でとった写真届きましたが、なかなかちっとやそっとで参らなそうな様子です。カゲは到って濃いから御安心下さい。それは気持よい写真だからやきましして貰って一枚おめにかけましょう。私のはいつも皆と一緒で、そういうときの顔は又そういうときの表情ですから。誰かを愉快にしてやりたいと骨を折っているのでもないし。その写真をとったときは、そちらに行って、かえって横になって、いろいろの感じに浸っているうちすこし眠って、おきて間もなくのところでした。御覧になればその感じ、きっと分ると思います。わたしのお歳暮にいたしましょうか。ユリがこんな写真をよこすのならと、良人たるあなたは大いに気をよくなさるところがあっていいと思います。
さて、てっちゃん十五日に立ちますそうです。私は十三日の月曜日に(大体)行って、島田へのおみやげをことづけます。又中村のマンジュウです。いいでしょう?お気に入りですから。どっさりあげます。野原へも分けるのだから。少しかないと舌がかゆいでしょう。てっちゃんは、やっぱり私の手のはれたりするのを心配してくれて、十三日に天気がよければ澄子さんと赤ちゃんづれで稲田登戸へゆこうという計画です。私としては本年はじめてのピクニックね。十三日までに『新潮』の小説をかいてしまわなければ。まだ何をかくか分らないのです。英男という弟の死んだ知らせをモスクワでうけとって、その悲しさは独自でした、その気持がかきたいのです。でも、どんな風にかけるかと考え中。
きょうは、さっき帝大新聞に「文学のリアリティーとしての思意的な生活感情」というものをかきました。これは武田さんの月評からひき出された感想で、「杉垣」が、翻訳小説なら随分佳作として称讚しただろうが、日本の小説性格形成の過程と西洋的なのとは全くちがう、私のはつくりものと云うのですが、作品との関係では云うこともないが、そこに彼の散文精神の風俗小説的限度があるのです。人間感情のリアリティーとして思意的なものがあることが分っていない。行動の感覚と混同した程度で意力的な感情は日本の文学に昨今どっさり入って来ていますが、その行動を吟味し、人生の歴史のなかへ、集積としてもたらす力としての思意的な生活感情は、武田氏によれば知的だとか理性的だとかいうことになる。そんなものでない感情のリズムとして情感としてのそういう思意性の日本の文学にかけているところは自然主義からのことで、そこには歴史のなかでの一般生活のありようが反映しているわけです。
今日では日本らしさそのものの内容が変って来ているという点を結論としてかいたのです。だって何と妙でしょう日本のこと日本の人間、日本語でかかれた小説がホンヤク小説なら佳作だというような仮定!ああいう人たちの感情は何かプロフェショナルにかたまっていて頭をなでてやる高さの作品にはいいが、肩が並び或はすこし高いとどうもうけつけないのね。作品の出来、不出来以外に或るそういう微妙なものがあります。女、というところがぬけないのね。
マア、こんなことはいい。私は私として書くだけですから。
そちらの黄菊はいかがですか、まだよく咲いて居りますか。そしてすこし匂うこと?三四日前下の四畳半の本をすこし片づけていたらスケッチ帖が出て、寿江子が茶の間の庭をかきかけたのが出ました。むずかしくてよくかけないと放ってあって未完成ですがそれでもやはり面白いからお送りいたします。狭い庭の感じはわかりますから。
十五日すぎにあか子を私がだっこして現れますからどうぞそのおつもりで。大変よく似合いますからよく御覧下さい。十二月に入ると寒いし、春まで待つとすこし大きくなりすぎて、只今の天下御免式面白さが減るからどうしても一度は今のところを見てもらいたいのですって。あなたはきっと慨嘆なさいましょう、よくも似たり、と。
いねちゃんはまだ湯本。この間の土曜日に健造はリュックを背負い妹をつれて二人きりで母訪問に出かけました。十に八つよ。どんなにうれしかったでしょう、双方とも。エハガキくれました。こちらからもお礼に「満州国の露天商人」のエハガキ送りました。うちの藤江女史、きょうはS子さんの家へ一寸行って洗濯やお葉漬けして来たところ、風邪ひきで白髪のお婆さんが半分腰をかがめながらチョロチョロしてお気の毒ですから。よそのうちで働いて気が変ったような顔つきしているから習慣というものは可笑しいことね。
岡さんの奥さんに会って女中さんもしかしたらよこせそうという話ききました。耳よりです。紀の国やで働いていた人が帝大の美学とかの人と結婚してそこの家は大したお寺で、娘を文化学院にやっていた、そんな縁故なのね。そこの女中さんで一人あまったのがあるとかというのです。もし出来たら助りますが。
いつぞやからの本大体集りました。製本も出来て来て。まだ図表がないけれども。
この頃手紙ずっとこの一月二十三日に頂いたオノトで書いているのです。わりに調子があるでしょう、弾力が。ペン先に弾力があるので気に入ってよく大切につかって居ります。
おや、デンポー。もう四時半すぎている。明日早く参ります。日の出を三時十分に出て居りますね。ここは四時十四分。
お約束の表。十月二十日―十月三十一日迄
二十日│七・〇〇│一〇・〇〇│
二十一日│六・三〇│一〇・一〇│読書
二十二日│七・一五│一〇・四〇│九十頁。
二十三日│六・四〇│一一・〇〇│
二十四日│六・三五│九・四五│
二十五日│六・四〇│九・五〇│
二十六日│六・五〇│一〇・〇〇│
二十七日│七・〇〇│一一・〇〇│
二十八日│六・一〇│一〇・三〇│
二十九日│七・〇〇│八・〇〇│(夜なか防空演習でおきるから)
三十日│七・三〇│九・四〇│
三十一日│七・〇〇│九・三〇│
│起きて床の中││
早くねられる日はなるたけ早くねるのが専一と思って先月後半と本月とは随分早い方です。七時間ではおきたときいい心持でないから。当分うんと眠ります。あまり物価の変動が激しいから小遣帖つけて見ようと思ってやって居ますが、なかなかおちてしまう。それでもやはり面白いと思います。ああいい小説が書きたいこと、いいいい小説が。では明朝、まだ来ないのかしら。又ポスト見よう。ではね。 
十一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月九日第一〇四信
遠路をはるばると御苦労様。けさ御到着。返事がすっかりあとからとなりますが、いろいろありがとうね。
体については申しあげたとおり。気力ある人間のかかるべきものでないと私だって思っているから、自分ではそんなこと思っても居りませんし、今だって疲れたら眠ることをモットウにして、それですまして居ります。
詩集のこと、これは私としたら、どうしても又改めて念をおさなければならないところだと思われます。私の詩集は気力を阻害する風の耽溺に導く性質ではないのです。詩趣は高いものなのです。惑溺的なリズムは決してないもので、様々の美しい細部の描写にしろ、それは文字どおり品質のよい芸術がそういう描写において常に失わない精神の諧調と休安とを伴っているものです。詩集にふれて、あなたでさえこうおっしゃると、何となし笑えます。無邪気な意味でよ。
こまごまと心配という形では考えて居りません。でもこの間あなたが「時々又改めてそう云ってやらないと」と云っていらしたようなところもあるかもしれないから、おとなしくありがたいと思って「ええ、そうね」と答えましょう。
二頁ということについては、きょうの私のうれしい顔が語っているとおりです。この前の表の90頁に、どんなにえらい思いがこもっているか。でも二頁は全く最小限ですね。これはもう底をついている量ですから、これ以上いろいろの事情に応じてふやしましょう。
本当に書いたものは読んで頂きたいと思います。あの十月評(もう三年前ね)にしろ、ああいう一部分だけ出ていたわけですしね。
この頃の月評は大体お話のほかです。式場隆三郎というような先生がかつぎ出されるのですから。真船にしろ、ジャーナリスティックな顔ぶれの意味ですから。「十分云えない」ということを逆に「云うことをもたない」ことの合理化に使用して二年、三年と経ている今日、文学を生活でよむというごく自然なセンスさえ失われているように思われます。少くとも作家が日常の生活へ向う心持で、読者一般より先進的義務を負うているということを自他ともに感じているという例はごくまれなようになって来ている。この頃は、文学がわかるということは宇野浩二をほめることのようです。それにしろ、文学をやる人というのは変ね。志賀を神様にして、横光を神様にして、川端を神様にして、今や宇野です。そこにどういう系列があるか、心づかずにね。私はいつか一つ「歴代の神様」をかいて、その文学における推移を示してみようかしら、一寸茶気もあるが面白いわね。気どって「歴代の神々」という題で。
あなたが、「ユリもとにかくよくくらしている」とかいて、わざわざ「少くともそう努めている」とちゃんと追加していらっしゃるところは、全く、全くね。きっと評論は、そういう風なはっきりした現実のつかみがいるのね(この顔つき、お見えになるといいのに。ああなんと、このひとは釘を忘れない、という顔を)。
『哲学年表』届きましたろうか。
きょう『西郷』や何か一まとめの本つきました。
冷水マサツはポシャってしまいました。どうも本年の冬はひどい風邪がハヤるとお医者は予言をしているし、もしかかったら「ホラホラ、だから」と云われそうで、今からこまったような工合です。が、マアいいわ。石炭が不足で大変こまる冬が来るというので、七十二歳のおじいさんが発企で外套ナシのデモンストレーションがはじまったのですって。特にこの冬は外套なしで、というの。日本人の気質ってこういうところがあるのね。自然に対するこういう気質と、所謂風流とを考え合わせてみると、日本の文化の何かの問題があるのです。実にそう思った。真に思意的なものは、自然への融合というところで消してしまって、ごく低い肉体の力がものを云うような面でだけ非自然に自然に対すのね。そして、このことは風流の非自然性を裏から語っているのです。
火野葦平がかえって来ました。『朝日』にかいている。一般がこまっていないということに慶賀の詞をのべています。九州辺はそう見えるのでしょうかね。その記事のとなりに米のことが熱心に出ているというような新聞です。
林町では離れをひとにかしました。これまで川口辺に住んでいた画家です。どっさり子供がいる。あっちはガスが出ないのですが、この炭のないときやれるのかしらと思います。家賃20也(まだ会ったことなし)。
林町の横のダンゴ坂から東京駅へ通っていたバス全廃。あの界隈は昔私が女学校に通っていた時分のようになりました。歩いてゆく人々は大したところとなった。
寿江子、英語ずっとやって居ります。
あぼちんは、あか子にやきもちやいていく分退歩してしまったそうです。年がちがいすぎるとこうでいけませんね。
この間の運動会では活躍したらしいのに、家であそべる子供が出来たら、どうも幼稚園へゆかぬらしい、御きげんとって貰うのがすきで。ケチな顔しているというので、考えている次第です。生活に一貫した何の気分もないところでは、子供がなかなかしゃんとゆきませんね。家庭なんて口で与える教育ではないもの、気分ですもの、時々刻々の親の生きている気分だもの。
達ちゃんのところから逆輸入は面白いこと。でも、それもいいでしょう、お母さんのお心につたわりかたが又別だから。
隆ちゃんの話、ようございましたね。すこしは落付かせてもやりたいと思って居りましたから。
私の体のこと、生れつきどうこうより、これなり一番よく使ってゆくという気分で、拘泥して居りませんから、本当にどうかそのおつもりで。今風邪流行です、お大切に。呉々も。うがいしていらっしゃるかしら。 
十一月十一日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(自宅庭の絵はがき)〕
『日本経済図表』お送りいたします。それから『シベリア経済地理』と。これは大森の奥さんからです。このエハガキは今年の早春雪のある日の庭です。右手に出ているのが四畳半。茶の間の長火鉢のよこから描いたもの。未完成のガラス戸の横に火鉢、私のおきまりの席。「黒蘭の女」案外つまらぬ。ベティ・デヴィスという名女優論は後ほど。 
十一月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十一日第一〇五信
今建具屋が来て、やっと戸扉がつくことになりました。普通ガラガラと引いてあける扉ね、あれの上のところだけすかしにしたのです。すっかり上まで板だと、入ってからが二足三足しかないのに、何だか息苦しいようですから。これは外からピチンとしまるの。かえったらカギであけて入れるのです。もういつかのように物置小舎が留守の間にカラというようなことはなくなります。こうして暮の用心、ひとりになったときの用心しておくわけです。25円也。家をもっている以上ここはどけませんから。足の都合がよくてね。門のあたりのスケッチ御覧にいれたかしら。ないでしょう?いつか寿江子、踏台にエノグ皿のせてもち出していたが距離がなくて(門前の通り一間ぐらい故)うまくかけないと云ってそれぎりになったようでした。
『新女苑』という女の雑誌に諸名流と門というのが出ています。それぞれの御仁がそれぞれの門に立って文句をかいているの。吉屋、宮城(琴)佐藤(春)林(芙)吉田(絃)里見というような人たち。里見さんだけ格子の前に立っている。婦人雑誌の趣味というものの一端がよく出て居るでしょう?勅使河原という生花の師匠は生若い大した男ですね。活花のセンスというような表現で、若い女をひきつけているのがよくわかって笑ってしまいました。縫紋の羽織袴、ステッキついてね。この頃三十になるやならずの若い男が日本服袴の(羽織縫紋にきわまったり)流行があって、この間小山書店の若い男余りキチンと袴はいて、そのヒダのような形して玄関に立っているので、どこの何者かと、思わずキッとなって、あとで大笑いしてしまいました。変な奴と思ったの、実は。すこし正気で、ないんじゃないかと思ったのでした。あっ、こんなこと内緒内緒。彼はおそらく大した芸心によってその紺絣をきて袴はいているのでしょうからね。そういう形式が感覚へ入って来ている。文芸批評の本もののないことが、この流行一つだってうなずけます。あたり前の心持でいるんじゃないのだから。
小説をこねながら。
「貧しき人々の群」、それから「伸子」、「一本の花」から「赤い貨車」、それから「小祝の一家」、「乳房」、この間にまだ書かれていなくて、しかも生活的には意味深いいくつかのテーマがあります。「赤い貨車」から「小祝の一家」までの間で。今書こうとしているものなどは、そのブランクを埋めるものですね。前の手紙で一寸かいたようなものだから。ごく短い「阪」というのを知っていらしたかしら。これもやはり質においてこの間に入るべきものです。でもこれは全くほんの小さい部分を小さくかかれているきりで、(小説ではなかったから)生活の成長とともにあらわれる作品の体系というものを考えます。全集というものの意味についても考えます。ね、いろんな題材をかきこなしているというそういう全集の展望もある。作者の一つの主観でまとめられた世界がうかがわれるというそういう全集もある(夏目、志賀等)。社会のいろんな問題が一杯あるという全集もある(トルストイ)。それから、歴史と個人との活々とした関係が、作品の成長生活の成長の足どりを一つから一つへと語っている、そういう全集が日本にいくつあるでしょうか、人生の見かたの所謂完成の姿はあり、それなりなり成った道はあります、宇野にしたってそうです。けれども作品の体系そのものが生活というものの方向と発展において一つの芸術を語っているようなそういう全集。一つ一つと作品を生んでゆく、その生活そのものが、作品以前の芸術であるという感じ、そのものを完成させようという希望(仕事とともに)、そういう生きる思意が漲った全集。そういうものをのこせたら作家はもって瞑すべしですね。
私はこれから、この点を考えて作品を書いてゆきます。
でも「刻々」の時期に「刻々」があり、「その年」のあるべきときに「その年」のあるということは、いくらかのよろこびです、わが心への、ね。
それから例のかきかけの長いのをちゃんとかけて。そしたら、うれしいわね。
「赤い貨車」というようなものは、かかれていることより、ああいう焦点であれをかいた作者の成長の節がおもしろいので、そこから、どっさり啓蒙的旅行記をかくようになったその間のジャンクションが、内面から作品化されていないということは、やはり注意をひくところですね。当時のいろいろのこととの関係で。自身として現実の個人の事情にまけていたこともわかります。
九年の一月に「鏡餅」という短いのがあるのです。三月ごろの『新潮』にのったので。これは私としては作の出来如何にかかわらず忘られないものですが。「乳房」のなかの女主人公ひろ子のその頃の心持です。ひろ子というのは重吉の妻です。
十五日午後
さあ、やっと終り「おもかげ」二十五枚。「一本の花」から「赤い貨車」、それから一つのジャンクションとなるものとしての作品です。こうしてポツポツぬかされた生活の鋪道を手入れしてゆくわけでしょうか。
長襦袢と羽織の小包つくって出しに出かける迄にこれをまとめようとしたが駄目。速達の時間はたっぷりなのですが十三銭ではこまるから、四時までに郵便局にかけつけるというわけです。
きょうはきのう一昨日にくらべて何と暖いでしょうね。これではやはり風邪のもと、ね。今市場からタラや野菜を入れた風呂敷づつみをぶら下げ、片方にはそこの古本やで買った本もって、かえってきたら汗ばみました。
さっき『新女苑』のひとが来て、芭蕉のことについて、つまりああいう芸術が日本人の心の一つの峰になっている、そのことについていろいろ書いてほしいと云います。面白いからひきうけた。私は、「伸子」時代相当傾倒したのだから。感覚の上でのことですが、現実をつかんでゆく。今どう考え感じるであろうと面白いからひきうけました。その内に入らず生活の今日の感覚で見て行って、そこに私のかく意味があるのですと思う。いろいろ云えそうで面白がっている次第です。芭蕉は女の生活などをどう見て感じていたのでしょうね。そういうことも、やはり心に浮いて来ます。
『文芸』に稲ちゃんが堀辰雄におくる手紙(相互的)かいていて(ロバ時代の旧友)。堀は稲ちゃんがアテネフランセにかよう月謝を出し、ときには自分で教えたのですって、西沢、宮木みんな驢馬。このロバはアルプスにかくれ住んだ詩人(名を堂わすれてしまいましたホラ――どうも出ない〔約二字分空白〕の驢馬の詩からとったもの、ロバこそは天国での上座にいる、勤勉な驢馬は、という詩(ああ、フランシス・ジャム。)あれからとったのです。)その手紙(堀辰雄の返事)にフランスの何とかいう作家が恋愛や結婚は、はじめ創造だと思い、それから完全を求める心だと思い、遂にそこにあるそのままの女をうけ入れることであると思う、ということを云っている。堀さんらしい感情でそれを云っているのです。あるがままの女をどこからどこまでその女としてうけ入れる、これは日本ではなかなか意味がありますね。それの実質が発展的に云われた場合には、特に。そして、大抵の男にはやはり思想としてわかっても、生活の日々の感情としてはわからない。それから又このことも、女のおかれている社会を考えなければ云えないことですし。「くれない」「伸子」どれにしろ、育つ女の歎きがそれぞれの時代の姿で云われているのですものね。「くれない」をもし、作者が、良人のありよう(心理的)までを描けたら、大小説になったのであったが。女主人公の方へのった面だけ現象的にとらえて、つっこんでいない。勿論むずかしいことですけれど。
それからね、これは私の作家として、評論家であるあなたに訴える(すこし言葉が大仰だけれど)ことですが、私のライフワークというものはどうしたって野原や島田の生活風景が自然とともに入らざるを得まいと思うのです。歴史的に見て、私はそれほどの作家ではないかもしれないけれども、作品の質の意味で、それは名誉なわけなのです。でも、そうは思えず、ああ、こうでしょうね。そこで私は嫁になるのですが、こういうことどうお考えですかしら。私の書くものについての絶えざる関心という心理も、複雑なのです(大変フランクに云いますが)本当にどうお思いになりますか?美談が書かれていれば勿論いいのです。リアルな生活というものは分りにくいから。あなたはどうお考えになるでしょう。私は愛すのよ、あれの河岸、あの山、あの道、あすこのカマドの前の人々の悲喜を。でも、やっぱりその心はわからないでしょうか、どうなんでしょうねえ。目前のことではないが、やっぱりいつも気にかかります。愛情をもってかければそれが分らないわけはないと思うのですけれども。
何も急にどうこうというのではなくても、考えておおきになって下さい。そういうことが長い習慣でいつとなしわかってゆくというような道は、つまりいろんないろんな書くものを読んで頂くということしかないでしょうし、又現実の生活での私の感情を見ていただくしかないわけだけれども。でも私としてはやはりあなたのお気持をききとうございます。――たまには私も宿題を出してあげなければね。
それから本のこと、電話できいてわかりました。あの手紙が今度見つけた本に入っているのです。その本はいろいろの文章をあつめてあるのですが、その中に確にあれがあります、御安心下さい。
今夕はこれから御飯たべて、富士見町へ行きます。そして、かえったらおふろに入ってグースーねるのがたのしみ。でもこの頃全く徹夜はいたしませんよ。手の膨れもあれ以来平穏です。
詩集をユリが耽読しすぎはしまいかと思っていらしたのではないでしょうか。そう思って、あなたが当分、詩の話はおやめとなったりすると私は悄気(しょげ)ます。そういうことは絶対にありません。この前の手紙かで云ったように。ですからどうぞ、そちらにある詩の本もおねがいいたします。
では明後日ね、本当に落付かぬ気候ですからお大切に。 
十一月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十八日第一〇七信
十四日づけのお手紙けさ。ありがとう。そうね、この前のは四日に頂いたから十日ぶりです。
手の工合ひきつづき平調です。今はちっともはれて居りませんから大丈夫。今月末は、はらさないつもりだがどうかしら。あやしいかな、どうしても二十日前後から眼玉グリグリですからそうなるのですね。でも養生法は、只劬ったりするのは何にもなりません、お説のとおり。大いによく考えてやって居りますから御安心下さい。よく眠ること、食事に注意することその他で仕事はへらしません、読むのを小説の間御許し願いつつ。三共のユーキリン(燐)をのみますがこれはいいらしい。理研レバーも、私のように肝臓をひどく患ったものには必要だそうです。しかしレバーは薬でのまず、私はいきなり肝ゾーをたべることで補います、薬多種は趣味でないから。
臭剥(シュウボツ)という薬(臭化カリウムを土台にしてつくる鎮痙剤)はうちの家庭薬で(母の代から)三年ほど前あの栄さんと山に行った秋の夏、いちどきに仕事しながらつかれると盛にあれをのんだらおでこや何かにそのためのホロホロが出来てね、それを疲労からだと思いちがいしたことがありました。ですから今のところ私にはこのごくありふれた薬はタブーで、ユーキリンというわけなのです。
佐藤さんたちが近いのでちょいちょいした相談に便利です。生活をよく知っているから。
坂井さんは北京です。北京には「囚われた大地」をかいて林房がトルストイのようだとか云って私がカンカンになったりした平田小六だのその他そういう人たちが何人もいて、百鬼夜行的光景を演じているらしい様子です。『百万人の哄笑』の作者はゴーゴリのつもりで見ているらしいが、ユーゴーもあやしくて、本当のところは心配でなくもないというわけです。何しろ北京は古都の飽和的空気がこわいと石介さんが南京へうつったのだそうですから。
スケッチ、あんなのでもスケッチね、シクラメンの鉢があったり青木が冬の赤い実をつけたり、いきなりとなりの羽目が出ているのや、おわかりになったでしょう。いまに物干のところ描いて貰いましょう。そして玄関のところかいたら、うちは相当立体的になるわけですが、私のスケッチの方は代筆たのむ、のくちだからどうもはかどりません。
あか子はね、今おめにかかれません。キリョウのいいところおじちゃんにおめにかかるべき筈なのですが、只今は髪の間にしっしんが出来て瞼まではれぼったくしているので。きっとお湯のとき頭を洗う、その濯(すす)ぎがうまくゆかなかったのでしょうと思います。この調子では春になりましょうね。木枯しの中つれてゆくのはすこし冒険故。
読書のこと。翻訳の仕方ということは実に関係が大きいと思います。初めの方だけ岩波の文庫本で出ていて、あれは先お話していたように何しろ漢詩をかくひとが訳したのですから、実にわかりよく精神活動の美さえつたえられていましたが。でも私はもうこれには謂わばへたりついているのですから。骨格というものは実に大切ね。そして、例えば作家として年も若く単なる生得の直感にたよってだけちゃんと仕事の出来る時代がすぎると益〃このことは考えられます。文学の豊かな肉づけのなかに埋められてしかもその肉を人体としてまとめるもの。
私はこの前の手紙で作品にふれて云っていた思意的な生活感情というもの、それを自身の文学活動の骨ぐみとして押し出して仕事します。来年の仕事の自身へのモットウです。沈潜し規模のあるそういう生活感情こそ明日の文学の土台です。河上徹太郎が横光の芸術境について、「いかにして日本人であって近代人であるかということの探求」が横光の思想の中核であると云っているのを見て、なるほどと思いました。何とこういう人たちの考えかたは可笑しいでしょう。おひなさまのときの染わけかまぼこのようね、近代日本の日本人が、近代日本の日本人であり得ないということはない、それを一遍「それはないことないこと」にしてから、妙に分裂させてしかつめらしく云い出す、何を「ないことないこと」にしているかということについては自分さえも自分に向って沈黙していて。その勿体ぶりかたで謂わば女子供をたぶらかしている。
そちらへ行くのに、ひどい風当りの中を歩かず池袋の方から横通りぬけて行けますから大丈夫です。でも本年の冬はインフルエンザを今からケイカイされているから私は喉は気をつけます。あなたもどうぞ。うすい塩水でうがいなさいますか?今していらっしゃる?
『新潮』の写真は茶の間の顔というところもあり、こんな顔で仕事はいたしませんからね。でも茶の間の顔がなかなかいいから御目にかけます。こういう顔の系列であなたのドテラの綿入れをやったり、ジャムがすきでいつしかペロリと「いただいてしまう」藤江対手にフーフーやっているのです。藤江というひとはそういう点ユーモラスです。寿江子ったらいかにもそんな顔しているって云うんだもの。明るい性質で、丸くって、お香物を上手につけてマアいい方です。お金ためるのが面白いらしい。1.30ずつとって、十円ちかく会にとられて一ヵ月それでも三十円ぐらいは手に入る由。
三十円のサラリーでそんならずっと家にいるかというと、それはいやらしいのね(話しはしませんが)いつでもいやならかえれるいくらでも他に働ける、それが自由な心持を与えているらしい風です。このひとも本をよむのがすきです。だから、私が笑って、本をよむのもくらしのうちだと思うのは私のところぐらいだろうから、すこしはましなものをおよみと本をより出してやります。派出の女のひとをたのむ気安さというものもあります。その人の生活の一部だけがこちらにかかっているようで。あっさりしたところがある関係だからでしょうね。わるい場合には薄情さとしてあらわれるのですが、互に。ひさのようにしていると、うちにいる間の人間としての成長を随分責任を帯びて考えますから。何かまとめさせたいと思いもするから。でも女が、どこの台所へ行っても二時間もすれば大体働きがのみこめる、というのは意味深長なことですね。台所の仕事というものがそれ位一般性に立っているのだからもっともっと共同的に出来てしかるべきですね。では二十二日にね。二十一日にはおことづけはいくらでも。では。 
十一月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第一〇八信
きょうはおだやかな日でしたね、暖かくて。私は気づかれが出たようになってボンやりして居ります。一昨日心祝いに買った花を眺めながら。
この数日来私は本当に本当に、という工合だったものだから。どうか益〃お大切に。ああ、それでも手は膨れて居りませんから御安心下さい。本当はこんな手紙かいていないでほかのものを書かなければいけないのだけれども。例の芭蕉を。でもマア芭蕉さんはちょっとそちらにいて頂いて、というわけです。
きょうお母さんからお手紙でした。てっちゃんは島田へ行ってね、あなたの代りと云ってお墓詣りをしてくれましたそうです。そして一泊して次の日は虹ヶ浜へ行ったりして(お母さんと)その夜もゆっくりして、「親孝行をなさるようなお心持で万事につけ私をいたわって下され息子たちに会ったような心持がして」と云っておよこしになりました。てっちゃんの面目躍如として居ります。お母さんのこのお手紙をよんで、私が去年十二月二十三日かに盲腸をやって病院にかつぎこまれたとき、偶然目白へ来たと云ってすぐあとから追って来て、私のベッドのわきに立ったときのてっちゃんの心痛溢れた顔つきを思い出します。あのときのてっちゃんの顔は咲枝も寿江子もよく云います。そういう顔でした。てっちゃんにはそういうところがあるのですね。自分が家庭生活を落付いてやるようになって、そういう面が素直に流露するようになって、友達としてもうれしゅうございます。あのひとの親切な心は勿論、ね。お母さんも思いがけずにおいででさぞお気分が変ったでしょう、ようございました。
この暮は自家用車のガソリンは配給なしになるそうです、国男テクシーになるわけです、父は五十すぎるまで電車にのって往復していたのですものね、国男なんかそれで結構です。石炭と炭については、消費組合の配給でどうにかやってゆけそうですから、ユリの寒天曝しは出来ませんでしょう、気をつけて大事につかっているし。いろいろの物が極度に足りないのも或意味ではいいのでしょう、初めての経験なのだから一般には。風邪をひかないように病気にならないようによく気をつけて暮さなければなりません、これこそ大事よ。アスピリンやキニーネ丸はないのですから。
表をかくはずですがきょうは御免を蒙ります。どこか近所の家でアコーディオンをならして、「会議は踊る」という映画の主題歌をたどたどしく弾いて居るのが聞えます。この辺の家々は女中さん一人はいるが主婦がエプロン姿で台所その他に働いて、だが買いものに出るときは羽織着かえてゆくという工合なの。あっちこっちで石炭をはこびこんだり木炭をはこびこんだりしているのを見ます。
うちの門の扉ったらどういうトンマでしょう、雨が降ったら木が曲りでもしたのかあかなくなってしまったのではずしてしまいました。夜ははめて錠をかけるの。滑稽ですが腹が立ちますね。直させなければ。カラカラとあける車がわるいか何かなのです。
きょう、いつぞや云っていた『新潮』の写真台紙に貼りつけました、明日送り出します。何という題にしましょうか、茶の間の百合子それでいいでしょう。台紙が大きいけれど、小さいのに入れたら大きい体に小さい枠がつかえるようでいかにもキュークツなので枠なしののーのーしたのにいたしました。伊藤という人が撮ったのです。木村伊兵衛という肖像の一城の主があってそのひとのグループに属している風でした。芝写真館の台紙ですが、それは台紙だけのものです。そちらへ送りたいと思って焼ましをして貰ったら効果がちがうのです、それで第一のときのをお送りいたしました。これは或意味では傑作中の傑作よ、自然な点で。同じとき二日ばかりおいてとった婦公のは、実にちがいます。うつす人の神経のかたさが反映してしまっていて。自分の気分もちがうのだろうし。面白いこと。そういういろいろの条件でいい写真なんてすくないものです。
そう云えばチェホフの家がヤルタ(クリミヤ)で博物館になっていてそこへ行って見たら仕事机の上にいろんな写真がたててありました。象牙細工の象の行列などとともに。外国の作家は自分の仕事机に写真があっても平気なのでしょうか、私は写真は迚もおけません、あなたは?ボリュームがありすぎて。私の机の右手(ああ先月あたりから机南向にてすりに向って置いているのです)の壁に原稿紙に書かれた心持のいい字がかかっていて、それは眺めてそこに休まり励まされる感じですが。糸くずを丸めたような消しかたも親愛です。これから送られる写真目にさわると云ってどこかにつくねられてしまわないように。きょうは早く早く八時ごろ(!)眠ります、そして明日は早朝から。ではどうかお元気に、お疲れになったでしょう?そう思います。では、ね。 
十一月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十五日第一〇九信
夕方、例の「芭蕉」をかき上げて速達へ出しに出かけたら月夜で、うっすり霧がおりていて。野原に霧がおりていて川があって、夜業をしている大工の燃火(たきび)の見える景色など思い出しました。それから、笑っちゃ駄目だよという言葉を思い出し、笑う、うれしくて笑うという笑い、それはどう表現するだろう、うれしくて笑うという笑い。と考えながら歩いて、スマイルやラフという言葉がふさわしいとも思えず、ホホターエットという言葉思い出し、女の場合大変感じがある(農民的ですが)などと考え考え歩きました。
私の「芭蕉」はニヤリとなさりそうですが、「俳諧の道によらず、散文の道によって」(というのは私の文章よ)描き解剖したから、そうひどいものではありませんし、自分の勉強にもなり面白かった。
同時代人としての近松、西鶴、西鶴が同じ談林派から浮世草子へ行った過程、近松の芸術と西鶴の芸術との間で芭蕉が己の道をどうつけて行ったか。芭蕉の哲学は月並であるが、彼の象徴の形象性が独特であり、日本の感覚であること、枯淡というのが通説だが、芸術家としての彼のねばりのきつかった工合、その他にふれて「この道に古人なし」と云った彼の言葉によって、この頃の妙な古典ありがたやへの一針となしたわけです。只の鑑賞批評をする柄でもありませんから。日本人が今日に日本人としての心を見出し得ないこと、そこに確信をもち得ないこと、そんなことがあってしかるべきではないのですから。
きょう書いて下さる手紙、いつ着くのでしょうね。早く来い、来い。
今夜から小説です。これからこねはじめ。『新潮』へかいたものの続篇をなすものですが。時間と心理の発展の点で。
小説が出来るということと、つくるということのちがいも、いろいろ面白く考えられます。出来るのが自然、つくるのが作為と分けられるうちはまだ初歩ね。出来つつつくるという微妙な創造の過程があって。
二十八日
二十五日づけのお手紙けさ着きました。間に日曜日が入っているからこれで普通です。どうもありがとう。リアリズムの土台について云われていること、いろいろ暗示に富んで居り、考える点があり、これもありがとう。作品の世界のつながりで浮ぶ場合、そのありようは、もっとずっと歴史的で(質を云えば勿論、お手紙に云われている点もそこに入るのですが、時間的に)その大局からの必然の題材というわけなのです。いずれにせよ、しかし、ここに云われていることは、或点にふれている真実です。箇人主義的眼光で真のリアリズムはなり立たないということは、あらゆる場合の真理です。どうもありがとう。
私の小説は、やっときょうあたりからそろそろあらわれ始める様子です。
K運転手が応召だそうで、一時廃車になさるつもりのところ、加藤という古くからの人が達ちゃんと同時に出征して、かえるとき呉々もたのまれているそうで、何とか今の雇主と話しをつけると云っているそうです。いかがになりましたか、まだお返事は来ませんが。Kは実に小さい体で精一杯やってくれましたから、きょう速達で餞別送りました。ポツンとした手紙ね、御免なさい。又かきます。せき立つものがあって、内から。だもんだから。では又ね、きのうはかぜで一日フラフラでした。どうぞお大切に。いやなかぜですから。 
十二月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月六日第一一〇信
随分御無沙汰いたしましたね。きのうは、朝七時半に書き終って、実にいい心持にそれから眠って、おきて、そしておめにかかったわけでした。御褒美、御褒美という気持。勿論作品がそれに価するかどうかはわかりませんが。
盲腸いかがですか、痛むの?又風邪と二人づれで来られないよう呉々御注意下さいまし。疲れてかぜをひきやすいようなとき、又きまって盲腸がグズつきました、私でも。
今度は、丁度書きかけて或クライマックスのとき十二月二日、一日別世界へ参入しておのずから感情をうごかしたので次の日そこで冷えた。(スティムなしですから)風邪と一緒にブランクが出来て変になって、それで到頭四日の夜から朝へというようなことになりましたが、大体は徹夜なしです。あの晩も用意おさおさおこたりなくね、ベッドちゃんと用意しておいて、二時から四時までよく眠ってやりましたから(昼間もねておいて)大丈夫でした。御心配になるといけないから。でもやっぱりしらん顔で十時にねました、とも云えずね。「広場」つまりプロシチャージ、そういう題です。四十枚と二行。
テーマは「おもかげ」のつづきで、そこに二年と何ヵ月の年月が経て、もうかえろうというときになって、朝子という女だけ、作家としてそこにとどまって働くように云われる。そのよろこび、感動。素子という女とのそういう人間的な問題についての感情のいきさつ。朝子は止まろうかどうしようかということについて非常に考え、自分が自分として書くべきものがどういうものでなければならないかということは、そこの三年の成長でわかって来ている。しかし作品として真実にそれを描けるだろうか、その生活の絵模様の中に自分が体で入って描き出している線というものはないことを考え、より困難のあるところへ今はかえることの方がより誠実な態度であると思う。「そのかげには保のいのちをも裏づけているこの三年よ、もし自分をここに止めようとする好意があるならば、これから自分が又ころんだりおきたりして経てゆこうとする、その態度もよみしてくれるだろう」そういう気持でかえる決心をする。そういうことです。保というのは「おもかげ」の中で語られている朝子の弟で、自殺した青年です。保という名で「伸子」の中に出ています、小さい男の子として、シクラメンの芽生を犬にふまれて泣いている子供として。朝子は「おもかげ」でも朝子。「一本の花」の中で只或る仕事をしてそれで自分の暮しも立ててゆく、それで女の生活の独立はあるように思われているが、人間の仕事とはそこに尽きるものだろうか、と職業と仕事との本質について疑いを抱く女が、朝子です。
伸子は題名として今日では古典として明瞭になりすぎていて、人物の展開のためには、てれくさくてつかえなくなってしまっています。伸子、朝子、ひろ子、そういう道で脱皮してゆきます、面白いわね。朝子は重吉の出現までの一人の女に与えられたよび名です。朝子が万惣の二階で野菜サンドウィッチをたべるような情景から、彼女はひろ子となりかかるのです。そして、それからはずっとひろ子。
「広場」では、これまでのどの小説もなかった一つの主題を最も健全に扱っていると信じます。そのことでは小さいながら一つの大きい意味があります、尤もそこいらの月評家にこれは分らないでしょうが。横光が『文春』に「旅愁」をかいています。外国の生活と日本の心とのニュアンスを扱おうとしている、彼流に。そういう小説とは別種のものとしての意味で。
「広場」は、もう一展開したかきかたがされると非常に完璧なのです。事情によって半月形のようなところあり、満月でなく。それは作者として心のこりですが、これも一つの案でしょう、そういう部分追補にしてつかえるようにとっておけばいいじゃないの、そうでしょう?
ひろ子は「雑沓」から作品化された姿であらわれて来るのです。それから重吉も出て来る、これも作品化されたものとなって。でも、私はこの夏のいろいろの経験から、その作品化の浅かったこと、つまり浮彫の明暗を、構成の全体で鈍くしかとらえていなかったことが分って来たので、ずっと書き直します。謂わばこね直します。そして、部分部分出せるところは出してゆきます。私は二様の傾向というか種類の作品をかきましょう、例えばこの頃かくのは或る若い女とその弟が働きに上京して来て暮しているその今日の暮しぶりをかく。多分「三月の第三日曜」という題。この日はその年卒業した小学生が先生につれられて集団となって東京エキや上野駅につきます。そのこと。それはそういう題材ですが、作者の感興のなかでは、はっきり「広場」でかえって来る朝子を描いた心持とつながったものです。その具体化のようなものね。作品と作品との間にあるこういう心理的な必然、は何と興味ふかいでしょう。次々にこうして書くことで初めて作家は作品とともに育ち、育った一歩一歩で作品を生んでゆくということになります。私はあなたもユリがこういう状態にいることをよろこんで下さると思い、うれしい一生懸命な心を励まされます。益〃幅ひろく、多様性をもちつつ河は深く深くと流れ、そういう風にありたいことね。
勉学のことも、ここに見えない効果をもたらしているのではないかしらと、ちょいちょいこの頃は考えます。濫作ではなくたっぷり作品化して行ける発露を心に感じる状態はうれしいこと。「三月の第三日曜」では私は一つ試みたいことはこういう点です。それは今日の現実をトピック的にとらえることは徳永もやっている。重治さんの「汽車のなか」もそうですし、「杉垣」もそういうところをもっている。「杉垣」はもっともトピックとして語ってはいない。それは「汽車のなか」がはじめから終りまでトピックの話し方で一貫しているのに対して、「杉垣」は描かれている生活の波のかげとしてトピック的なものがひそめられています。それではやはり浅いと思うの。歴史というものの厚みが十分こもっていないと思うのです。思い入れを作者は一心にやっているけれど。作品は語り切っていなければいけませんね。少くとも語ろうとしてとり上げられている点については語り切らなければいけない。思い入れの味というようなものは文学の世代の問題として古いばかりでなく、それは又技術上の省略ともちがったものですもの。この次のでは、この点で歴史の新しい頁の匂いというものを描かれている生活の姿そのものからプンプン立ててみたいと思うの。細部までしっかり見て、描き出して、明暗をくっきりとね。この姉弟の生活の絵を思うと、それの背景の気分のなかにこの間うちの読書にあらわれていた少年と少女の生活状態が浮んで来ます。そして、このランカシアの時代は何と素朴な野蛮さであったろうかと思うの。その少年少女たちは不幸のなかで放置されていたのです、その精神を。精神は荒廃にまかされていました。(これが徳永さんの「他人の中」、これはゴーリキイの「人々の中」の心臓のつよい模倣で、その感情が。よんでいて胸がわるくなったが)その時代はすぎています。その素朴な時代は昔です。有三の「路傍の石」は有三が作家として外地の日本語教育のためにのり出すという足どりとともに、実質を変化させつつ流れつづいて来ているわけですから。
『文春』の芥川賞に「浅草の子供」あり。これは不良じみた下層の子供の生活を小学校教師である作者が描いたもので、私はこういう子供くいをこのみません。坪田を青野が「逃げどころをもっている作者」と云うのは当っている。「そのにげどころにも火がついたようだ」と云っているのも。何故人々はもっと子供を愛さないのでしょう。何故子供の世界への大人の感傷でいい気持になっているのでしょう。たかだか罪がなくて自分の幼年時代を思い出す、そんな気分的なものに足をおろしているのでしょう。
ユリは自分に子供がないから、ひとの子は押しのけて「ねえ先生、たくの子供は」とのり出す女親の感情はなくて、もっと広く、或意味では合理的に考えています、そういう感情になっている。そういう点でいつか舟橋の作品について一寸した応答をやったことがありました。書いたかしら?ヒューマニズムというものを聖一は、わが子可愛さにくくりこんでいるもんだから。ああこんなお喋りをもうやめなければね。
一、おたのまれした本今明日中にあるだけ揃えてお送りします、寿江子の分は(おたのまれした)ありましたから。
一、それから謄写のこと、きょうこれをかいてから出かけてゆきしらべて森長さんにもつたえましょう。きょうは先ず手紙をかきたくて。代金のこと次のようです。この前の表からすぐ後につづきます。
あなたの抗告事件に関するもの四通四・八七
熊沢光子手記〃七五・一〇 / 西沢隆二記録〃一四一・一〇 / 袴田里見公判調書〃三八・八〇 / 木島隆明〃三三七・〇〇 / 証拠物写代五通九八・〇〇 / 速記第一日料金一通二四・〇〇
計七一八・八七
それから、例の表ね。あらあら、十一月は私一度もかいて居りませんね、十一月の二日に一〇二信で十月三十一日までをかいたきりね。何だか又一日から三十日まで並べるのすこし辟易(へきえき)ですから、乙何日、丙何日、丁何日として頂きます。おや、甲があるわ、九時半ごろが三つあります。それから甲と丁との二台連結というのがあってそれは一つ。八時ごろ一旦ねて、十二時ごろおきて、三時頃までかいて又ねたという日。
甲三つ / 甲と丁一つ / 乙二〇 / 丙六つ
大体こんな工合、いそがしくてゆっくり遊び日もなくて。
読書は、二十五日ごろから休んでしまいました。お手紙に最低限なのに、とあり。これからは、最低限は守るようにしようと思います。六十二頁(ああいやね、私はこんな小さい数字をかくとき、理由がなくよくばり性が出て、つくづくいやと思う。でも、ここまでためるのは点滴風なのに。)読書力の範囲というか歯というか、よわいことね。これは全く歴代の作家たちの弱点です。今よんでいるところなんかはね、逆な形では、中村屋の主人、黒光女史なんかには実に実によくわかりやすいのです、きっと。生活感情の土台の廻転度数だから。何て腹立たしい可笑しさでしょう。
きのうから十日朝まで私は一人になります。藤江、休みをとってかえっているわけです。昨夜寿江子が来て、とまっています。
きのううかがうのを忘れてしまったが、茶の間の写真いかが?届きました?何て御挨拶いたしましたろう。ねえ、これはあの長火鉢よ、そう云ったでしょう?それともまだ、そこの室までは行けないでどこかで窮屈がっているかしら。私はこんな心持を感じるのです。ここにある。あけて見られる。でも見ないでいる、そういう子供らしいようなたのしんでいる心持。それから又何だかかくれんぼして、二人でどっかの隅にかたまってかくれているときの心持。そんな面白さ。そして私は自分の顔が暖いもののそばにあることを感じるの。そう? 
十二月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月八日第一一一信
きょうは三時ごろまで居ました。もしかしたらと思ったとおり。御気分はいかがですか。どうぞどうぞお元気に。あした又行って見ましょう。
いろいろの用事を先ず。
森長さんとはあの日ゆきちがいでした。金曜日に行かれるときまっていると思ったもんだから。その前日か栗氏ゆきましたって?謄写に関するしらべ。
公判調書
完成(一)袴田四通 / 未完成(二)逸見四通 / (三)木島四通 / ※[丸四]秋笹四通 / ※[丸五]横山二通 / (六)西村二通 / (七)金二通 / (八)加藤二通 / (九)木俣二通 / (十)大泉速記 / (十一)宮本速記必要
予審未完成の分
(一)西村マリ子四部 富士谷、林鐘年 / (二)牧瀬、波多然、大沢 山越、鈴木各予審終結決定書二通 / (三)熊沢光子遺書二通 / (四)大泉記録中外表 検査鑑定書四通 / (五)宮本記録中総目録一通 / (六)山本正美四通 / (七)蔵原二通 / (八)林鐘年四通
証拠物写
(一)『赤旗』一二三号、一三九号五通 / (二)佐野鍋山除名の『赤旗』号外五通 / (三)昭和九年一月二日西山個人署名論文 / (四)スパイ最高処分ヲ強調セルモノ五通 / (五)三十二年テーゼ三通 / (六)兵役法違反二通 / (七)『赤旗』一三三号百七十号清党ニ付テ
命令ニ付テ複写
鉄の規律 / (八)袴田里見上申書
以上
これは書類をお送りするとの話でしたが一先ず。
森長さんへも書類を送っておきました。
それから本は四冊お送りしました。
a『医学的心理学』 / b『精神鑑定例』三宅鉱一 / c『ヒステリーに就いて』 / d『性格学』
それから毛足袋と。
クレッチメルという人の学説が土台のようなものですね。高良氏の『性格学』にしろ。この人は夫妻とも知っています。九州の出身の人ですが。
『書斎』と『読書界』もうじき届くと思います。
島田と多賀ちゃんにはおっしゃったように手紙出しました。どんな工合に決着しますかしらね。Kにも手紙をかき、島田に働く気の有無をきき合わせました。これもどんな返事をよこすかしら。
達ちゃん、隆ちゃんには二三日のうちに袋を送ります。隆ちゃんにはあの本(『戦場より故郷へ』)入れましょう。
お母さんには何がいいかしらと目下大いに頭をひねって居ます。何かマアとお思いになるものをあげたいことね。いろいろちょいちょいしたもの揃っているので、思いつけるのがむずかしい。まだいい知慧が浮びません。この折から、これはとお思いになるもの何かないかしら、もしいいお気付があったら教えて頂戴。毛糸でこしらえた下着類も、もう純毛なんかないし。本当に何かいい思いつきをしたいこと。お母さんは毛皮の胴着、羽毛の肩ぶとん、そんなものも先にお送りしてあるし。
うちでは多分この火曜日から五日ぐらい、私が林町へ行って図書館通いして、壺井さんの妹が目の治療をさせている小さい娘と息子をつれてここに暮すことになりそうです。栄さん百枚以上の小説かいて、その稿料で小さい女の子の目の見えるようになる治療してやるつもりでいたら、紙の統制で、『新潮』は百枚以上の小説をのせられなくなったので、急に困りました。しかし『中公』の二月新人号に三十枚かくのがある。それを年内にすまして医療費にしたい、それをかくのに子供二人ワッシャワッシャでは迚もだめ。では、私が一つ動いて騒ぎ組をうつして(医者にもここからなら歩けるのですって)その間に栄さん完成して、ということに相談した次第です。お金ですけるということは、どっち向いても不可能だから。
木炭のことお手紙できいて下すってありがとう。あれはね、いいあんばいに今夜四俵鳥取の佐々木さんというひとが故郷からのをわけてくれたところへ、佐藤さんが来て、おばアさん、炭がなくなって大さわぎというので一俵かついでゆき、三俵のこり。これがつづいているうちには又何とかなりましょう。炭やは半俵一円五十銭で売ったりしている由。うちの炭は二円二十銭です。二円八十銭がザラです。三円五十銭というのがある。それで十日間ですから。もとは一円二三十銭の品よりわるいので、そうです。醤油もビンと引かえでないとないというわけで、やはり工夫がいるというわけです。
なかなか珍しい家政状態です。紙の制限で雑誌の原稿はいずれも縮少でしょうし、出版一般がどうなるか。長田秀雄の長い戯曲へ稿料つけて『新潮』はかえした由。作家の心持は、稿料がついて来たからマアいいと云うだけでないから。なかなかいろいろでしょう。
ああ、それから前の(十一月二十八日づけ)お手紙の山口さんのお礼のこと、よくわかりましたから、ちゃんととり計らいます。今明夜、寿江子が泊ってくれます。大いにたすかります。とりあえず用事だけを。かぜをおひきにならないよう、呉々願います。インフルエンザがはやりはじめましたから。ではね。 
十二月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十日午後一時半第一一二信
ああ、ありがとうね、本当にうれしかった。けさは、八日の〆切りという『科学知識』への「婦人と文化創造」というものをかきかけていて、それから手紙書こうと思っていたところへ、デンポウ[自注31]。よくうって下さいました。すこし熱っぽいのね。体だるくお感じにならないこと?平静にしていらっしゃい、ね。平静にしていたいという基本的希望によって、平静がこわれかかるというようなおかしい矛盾も、まあ。
火曜日以後になれば、これから先どの位安静にしていらっしゃれるかということも、いくらか見当がつくかもしれませんから。
きのうは二時ごろまでいました。そのおかげで、又「ジャン・クリストフ」をよみかえしはじめて大分すすみました。「ジャン・クリストフ」はそれなりに一つの美しい緊張緻密な世界を示しているけれども、やっぱり今日の目と感情では、うちひらかれるべき窓々が感じられます。そのことも大変面白い。三十年の歳月を経ると、ね。あれがかかれたのは一九〇九年頃でしょう。
手をはらさないように。手をはらさないように。この中に何とたくさんのものが響いていることでしょう。ユリは手ははらさないわ。大丈夫です。けさ藤江がかえって来ましたし。きのう迄は丁度五日にすんで(「広場」)つかれが出ているところへいろいろで、書くものも気が添わずのばしてしまっていましたけれども。きょうからは、今からは又大丈夫です、でも明日どうしましょう。やっぱり行って見ようかしら。それとも火曜日以後にしようかしら。考え中です。あなたのお気持を考えているわけです。もうユリもかえっただろう、そうお思いになると、すこしホッとなさるところもあるのではないかしらとも思って。私たちの生活のあの日、この日、ねえ。私はそう思っていて、別に乱されても居りません、勿論それは、というのは当然だけれども。展開するポイントがわからないのに、只毎日毎日というの――いかが?月曜はゆきません。火曜日に参ります。日比谷からのかえりに、午後早く。私はそこに一つの点を見て居りますから。
多賀ちゃんは私の手紙とゆきちがいに、何だか平凡なつまらない、あきらめ(生活全体について)の手紙よこしました。自分の心をころして皆が心持よく暮すなら云々、などと。それで納まれる万事であるならそれでよろしいのでしょう。それならばそのように私も考えておいていいのでしょうから。しかしまだ分らない、先の手紙の返事は来ていないのですから。
すこし曇って来ました、手套つきましたろうか。
きょうは十二月十日太郎の誕生日。でもクリスマスに併合するのだそうです。私は一月二十三日のおくりものとして、今から『魯迅全集』と『秋声全集』とをお約束ねがいます。いいでしょう?栄さん夫妻があなたに十円までのおくりものがしたいのですって。インバネスを着せて貰って大いに助っているから。何がいいかお考え下さい。おめにかかって云おうと楽しみにしていたのですから。何がいいかしら。何か欲しいと思っていらっしゃる字典でもあったら。手紙下さるでしょう?呉々お大切に、熱をくっつけてはいやよ、お願いいたします、たくさんのgoodwishesを。(毎日毎日出しては、という意味)

[自注31]デンポウ――顕治は病気のため公判廷に出廷中止した。裁判所は無理に出廷させようとし、拘置所はその旨をうけて、顕治を病人として病舎におくることを拒絶しはじめ、病舎で面会を禁止した。 
十二月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十三日第一一三信
きのうからすっかり寒くなりました。いかが?熱はどんな工合になりましたろう。それから脈も。お元気でしょう?
きのう栗林さんが打った電報御落手のことと存じます。
用事だけ先ず申しますが、本月と一月一杯、ちょ/\出るとか出ないとか云うことはないようになりましょう。一月以後のことはまだはっきりは云えないようですが。それでも十二月半月とまる一ヵ月ずっと落付いて安静にしていらっしゃれたら、随分ましなわけでしょう。十六日はとりやめ、勿論それはデンポーでおわかりですね。きのうは栗林・森長氏と三人で落ち合い、この間の記録のうつしのことで、森長さんの控えとはちがう分というのをはっきりしましたからかきます、もっとも森長さんが手紙を出すと云っておりましたが。あとの分、まだすまない分の方ですが、あの書き出しの中で落ちているのが、
一、林鐘年最終訊問調書
一、宮本記録中鑑定書前半
一、逸見上申書
※一、秋笹上申書(これは、これから出るものの由。何通入用かと)
それから、
※一、証拠物中、号外第四面全部というのは、即ち佐野、鍋山除名に関する分と同一のものでしょうか、そこが不分明だということでした。
※山本正美のうつしは何でも大した尨大のもので、栗林氏は自分で全部もっているから不用故、一部か二部でよいだろうという意見でした。このことも御考え下さい。そして適当なところへ御返事下さい。
それから本について、
冨山房のはつきましたろうか。『読書界』は出て居りますが、あすこはいかにもあすこらしく、ちゃんと実費を払うというのではないのね。只よこすのですね。『書斎』は出ているとばかり思ったら、この十一月から休刊の由です。やはり紙の不足からでしょう。従ってこれはありませんわけです。
島田から光井からそれぞれ返事が来ました。お母さんの御意見では、フォードと云っても大した古いもので、達ちゃんがかえるまでもつか、それもあやしく、もし達ちゃんが売れと云ったら売るつもりで返事を待っていると云っておよこしになりました。それは私たちには分らないから、それでよろしいでしょう。Kは私たちから手紙を書くより前、お母さんが「もう一度働く気はないか」とおっしゃった由。そのときK留守であったそうで「では宮本様へ上って御都合を伺います」と云って来て、お母さんのお手紙の方には、折角かえれたのにすぐ商売をやめるというのも変だし、あんまり一人になるのもよしあし故、当分又やってゆくとのお話ですから、きっと好都合に行きましたのでしょう。それでようございました。それからKとしては、多賀ちゃんにそれから会いもせず音信もないから、そちらの気持が分らず、そのことについては何も云えないと云い、お母様としては勿論御反対です。光井の方では何だかちっとも深い心持のこととして扱っていないで、多賀ちゃんの気をまぎらそうとばかり考えている風です。二十日に上京いたしますって。やはり。多賀ちゃんはよろこんでいるし、お母さまも小母さまも皆賛成。但、それは多賀ちゃんの眼の上にあるホクロをとるという目的で。一ヵ月いる由。「気の楽な宿で治せて」云々と小母さま書いていらっしゃる。こういう無邪気さは笑うけれど腹も立つわね、正直なところ。多賀ちゃん自身の気持はまさかそれだけではないでしょうけれど。
多賀ちゃんの心持がどうか分らないが、こちらへもあまり長くいないのがいいでしょう。一ヵ月というのならば、それでよろしいでしょう。
お母さんは様々のことが重っていて、(事故の訴訟で四百五十円とか請求がある由)少し気分がくしゃくしゃしているが元気と云っておよこしになりました。それだから慰問袋をあげようと思ってね。何およろこびかしらといろいろ考えた末、福袋のようなものさしあげます。それをあけると、こまこました女のものの半エリや帯どめ、羽織ひも、腰ひも、いろんなものが出て来るようなそんなものを送ってあげようと思います。きっと気がお変りになっていいでしょう。それから恒例の海苔(のり)と。野原へはのりで御免を蒙ります。冨美ちゃんには何か可愛いものを考えてやりましょうけれども。
十四日には、十二月二日のつづきで出かけます。それから十五日はてっちゃんのところへよばれます。この前のがお流れだったので。十六日に又そちらへ行きましょう。やはり今月もあれこれと忙しい。婦人のためのものを一つ(二十枚ほど)。それから『文芸』の感想二つ。それから古典研究の叢書の別冊で現代文学篇が出ます(評論社)、そこへ今日(最近)の文学についての展望(四五年来の)五十―一〇〇をかきます。これは『文芸』に書いているものの本月書く分の先になってしまうけれども、婦人作家を主とせず全体としてかくから自分のためにもなり、一般のためにもなります。『文芸』のもつづけます。一杯一杯ね、今月はこれで。一月になってからは小説をゆっくりかきたいのです、あの、この間お話していた「三月の第三日曜日」を。これは本当にかきたい。たっぷりとね。「広場」はなかなかいい文句のところが消えてしまったので高い詩情というものが減っておしゅうございました。それでも消えない校正をくれましたが。例えば「ああ、われらいつの日にかその歌をうたわん」という声なき絶叫がある、朝子の感じる、そういうようなところね。非常に詩的なのに、ね。
文学の規模の狭小さというものに、多くのひとはどの位の苦しさを感じているでしょうか。この頃実にそのことを感じます。各自の文学のいかもの性と狭さ、低さについて。このことを自分に即して感じて切ないわ。ぐるりを見まわしてやはり猶切ないわ。文学について、まともなるものをどの位欲するでしょう。ギューギュー小さくても何でもそのまともなるものを自分でこしらえてゆくしかない。そう思います。イブセンがこう云っているって。「生れ持った才能以上の何ものかを芸術に与えるためには、才能以上の情熱或は苦悩がいる」という意味を云っている由。これは面白いわ、ね、生れもった才能に(それも十分には育たず)腰をおろしてしまう、実に多くが。今のような時代には世界の文学が、例外をのぞいて、そうなるのね。世智辛い世の中では文壇的特色の発揮に生存競争的な熱意をもっているのですから。文学のためというよりもね。勉学、勉学、よ。
ああきょうはさむいことね。ものをこうして書いている息が白く見えます。そして手がかじかむ。火鉢に火を入れているのに。
今年の十二月は思いがけず可笑しい月になりました。きょうから栄さんの妹母子が来ます。そして二十日からは多賀ちゃんでしょう。
栄さんの妹の娘はまだ四つか五つなのだけれど、眼の手術をうけるとき、おきて毛布に体しっかりつつまれて、苦しいからウーウーとうなりながら、それでも泣くのこらえて四十分も手術をされるのですって。健気(けなげ)で、泣けるそうです。そして、すこしよくなって来て、これで、眼鏡をかければ弱視の程度にはゆく由です。東京には芝かどこかに弱視児童の学級があるそうです。しかしこの母子は新潟へ住むのです。学齢になれば、又栄さんがあずかるなり何なりして方法を立てるのでしょうが。
林町のアカコはね、まだ頭の湿しんが快癒しないので、見参不可能です。下ぶくれの美人ですが、只今は赤くなってかゆがっていて可哀想です。でも、もうオックーンなどと云って、あやすとそれはそれは可愛ゆく笑うの。おっとりした気質らしい様です。
太郎は目下かぜ気味。私も些か風邪ぎみ。
どうぞお元気に。そして、のうのうとして、よみにくい字のものをよみながら御静養下さい。一ヵ月半でも私はすこし気が楽になったの。持続しますから、ともかくね。手紙いつ書いて下すったでしょうか。呉々お大切に。 
十二月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十六日第一一四信
ゆうべ十時すぎにかえって来て、暗い茶の間からフヂエが郵便物をもって来たら、なかから思いがけない御褒美が出て来て、本当に本当にうれしゅうございました。
速達は速達としてその日のうちにつきました。
きのうはこの前の手紙にかいた通り世田ヶ谷行で、午後二時頃家を出て高野でポンカンを買って、てっちゃんのところへゆきました。やす子の眼がよほどよくなって来ていて、びっくりしました。すっかり仲よしになって遊んで、大笑いして。
夕飯重治さんとたべて、それから康子だけ見て卯女子をほめてやらないと恨まれるからそっちへ廻ったら、丁度雨が降って来て、私はかぜ気味でいるから、急に息をするのが楽になっていい心持になりました。卯女子もしっかりした娘になって、いかにも原さんそっくりです。はっきりしすぎている位の表情です。それから、かえって来たら、御褒美というわけ。茶の間には火鉢があったかいから、ちいちゃんと発ちゃんが眠って居ます。四畳半でお手紙よんで、それから風呂に入り、サロメチールをぬって、きょうは肩の痛いのも背中の痛いのも大分楽です。それでもこの字はなるたけ力入れぬようと心がけて書いているの、お分りになるかしら、字の感じ。手は少し重たいナと思った位ではれません。今のんでいる薬がいろいろききます、御安心下さい。
それは全く仰云る通りよ、ユリは勿論、あなたが疲れたり熱があったりなさるのにノコノコ出て下さることなんか望んでは居りません。そういう意味で無駄足を厭ってもいないの。ただ、ね。是好日のこともわかります、それは私にしてもそうですから。その調子でお互にあの日この日を迎え送りしてゆくのですもの。それでもこの速達頂いて、私はきょうは気分が大変いいわ。大変ききめがあらたかです、どうかお手紙はちょいちょい願います。「よいくれをおくることだ」とありますね、そういう工合?そうでしょうね。どうも、そんならしいわね。それでも、私はやっぱり出かけるのよ、行かずにいることは出来ませんもの。わたしの心持で、そんなこと出来ないもの。でも勿論それは、一つもあなたへのオブリゲーションではないのですから、それは十分にお分りになって。
花をあげた細君は大阪へ行ったのですって。義弟のひとが事務所をこしらえて、そこにつとめるようにしたのでしょう。この間はどうしよう、というような話だったら急に行ったと見えますね。私は知りませんでした。そしたら十四日に岡林氏に会って、そのこと云っていました。これから先の永い生活だからやはり工場で九十銭位ではやり切れないでしょう。只雰囲気ではどうでしょう。その若い義弟は経済の方の、顧問のような時局的経済家で、日常生活のなかでの話題は何千何万何々というわけです。細君に、「本は何でも買うてやるから勉強せい、いうのやけど、せん」と云っている。勉強する必然の雰囲気と生活の現実の質はちがって来ている。それを気づいていないのね。そして、きりはなして勉強しろと云ったって、「うちの亭主は稼ぎがいい位にしか思っとらへん」ということになるのね。この頃の或種の若い人の生活の形です。だから、そういう気分の中であの奥さんどう暮して行くか。淡白なさらりとした大変にいい気質の人だけれど。淡白ということもやはり反面には、何かをもっているのだし。むずかしいものと思います。
島田のこと、車については、前便にかいたとおり。二十一日に多賀ちゃん到着。私はそれから又大いに多忙なのだが何とかくり合わせて、もし出来たら年内にその宿題である眼の上のアザをとってしまうようにしましょう。年越しは多賀ちゃんもいるのだから、世間並にしなければいけまいが、それは多賀ちゃんとフヂエに一任します。藤江の弟が入営で、一月六日から家へかえりたい由。そして十五日ほど家にいて、又来るようにさせます。藤江の月給も私の月給ぐらいでやり切れないが、ひとが誰もいないよりはよいし、多賀ちゃんもこっちへ来る気持、医者がよいするのに留守居のないのもこまるし、こっちに人がいないからかえれないというようでもいけないし。マアいずれも来てからの話ですが。
南江堂の本は、みんな?いかがですか。お役に立ちますか?ああいう類推というの?私にはどうも真の科学性が感じられないでね、人間はもっと現実には微妙です、そう思います、生理だけで人間は生きない、そうじゃないかしら。例えば肥っている体のひとというのにしたって、ああなるほど、これは自分の心持そのままだというのはなかったわ。そういう不完全な科学性ということも分ってよいし。
いま、下はひっそり閑としています、発ちゃんは母さんと医者へ出かけました。のりものがどれもその混みようと云ったらお話にならないの、きのうは発ちゃんが「ツブレルー」とうなった由。木炭不足で市バス半減の由。この暮はまったくしゅらの巷でしょうね。いろんな用事早くきりあげることです。
この家が益〃よい家となります。省線に近いということだけで。黄バスの新橋行で大変便利して居りますが、それが半分に台数へっても、まだ助かりますから省線で。林町なんかおそろしいのよ、この頃は。上野、団子坂、東京駅と循環していたのが全廃になってしまいましたから、昔のように肴町まで歩くか、坂下の電車にのるかどっちかぎりです。きのうの新聞に或るデパートへフラリと来た客が、五千九百円毛皮類買ってケロリとしていたというような風で、今はシャツでも三四十円のものはよくうれるのですって。反物も七八十円から百円ぐらいのが。中位のものはない。うれない。それから実にハアハア笑ったのはね、イナゴ、田圃のいなご、あれは米をたべて秋肥ったのを体の養生のために人間がたべます、薬のように。そのイナゴはスフ入りになって利かないというの。可笑しいでしょう。イナゴはスフが何故か大変すきなのですって。歯ざわりがいいのでしょう。スフの野良着をきて出ると、イナゴがワラワラとびついて来て忽ちくい切られてしまう。スフ入りイナゴとなるわけです。だからイナゴも去年迄よ。これは実際の話です、ですから野良着のことは本気な問題よ。計らざるユーモアです。
山梨あたりも炭俵はホグシて、新聞の上へ炭を小さい山盛りにしてこれでいくらと売っている由。うちの炭は組合から一俵来ました。来月も来るでしょう。本月は去月配給しなかったところへ配給した由。春を待つ心切ですね。三月になれば炭の苦労はなくなるから。でもうちなんかまだ楽です、気持の標準が、炭なしのところにあるのだから。
片山敏彦氏が、アランの「文学語録」を訳したのをくれました。この片山さんはロマン・ロランのスウィス時代親しくした唯一の日本人で、フランス語が専門で、パリでマルチネの家へつれて行ってくれたりした人ですが、アランの紹介をこの人がするのは結構です。というのはね、このアランAlainという人は、自分の独特の用語をもっていて、それはむずかしいのです、それをそのむずかしさの面白さみたいな浅いところで浅野あたりが政治と文化や教育論などあつかっていて、現代日本の評論の内容虚脱の故の修辞性に又新しい迷彩法を与えようとしている。片山さんはそれを少くとも分る表現としてつたえようと努力しているから。興味がおありになるでしょうか、もしおありになるなら送りますけれども。
片山さんという人は、フランス文学をやる人の中では珍しい本当のところの分るひとですが、つまり粋(シーク)から脱しているが、その代り又別の精神界へ住みついてしまったようなところあり。細君はピアノをひくの。お嬢さんが三人ですって。但し、家へは行ったことなくて、どんな小さい娘さんかは知らないが。
おや、はっちゃん達がかえって来た。健ちゃんは来ていないのよ、二人は何と云っても気の毒だからと云って。林町へ私ゆくつもりでしたが、炭がないとか何が足りないとか(ガスの使用制限でストウブは勿論湯もうっかりわかせない位なの)云ってさわいでいるので、いやだからこちらにいます。
面白い本の話したいこと。
そう云えば、私の十日間の表あげなければいけないわね。又たまってしまうと、面倒だから。十二月分の十日。
一日六・四〇一一・〇〇 / 二日七・〇〇九・三〇 / 三日かぜ気味で一日フラフラ、前日冷えて。 / 四日七・三〇八・三〇又二時頃おきて朝迄。 / 五日朝八時頃床に入り十一時半まで。それから面会へ。九・〇〇 / 六日七・〇〇九・四〇 / 七日七・〇〇一〇・〇〇 / 八日六・四〇九・二〇 / 九日七・〇〇一〇・〇〇 / 十日七・一〇一〇・四〇
読書は七日からですから、ホントニオ恥シイバカリ、よ。
十四日には奇妙な職業で月給百円というようなのをききました。今のかぜは、はっきりわるくもならないで、長くかかって心持わるいのね、いやね。
どうぞお大切に。きのう(十五日)栗林氏そちらへ行った筈ですが、あとで電話をかけて見ます、私は十八日に参って見ます。では呉々もお元気で。又私の手紙の頁数が殖えてしまうわ、縞の着物の細君はどうして居りますか?ではね。 
十二月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
十九日の電報への御返事だけをとりいそぎ。五日におめにかかってのち、八日にゆきお目にかかれず、又九日にゆきやはり同じ。十二日の火曜日もお会い出来ずでした。十六日に行こうとして風邪気味でゆかず。又明二十日にゆきます。栗林氏は十九日にも十五日にもゆきました。 
十二月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月二十一日第百十五信
十九日の電報へのハガキ、御覧になりましたか、もう。あの日は富士見町、四谷の病院とおせいぼやお礼にまわって、島田のお母さんのものを買ったりして、林町へまわり、うちへ電話かけたらデンポーだとよんでくれたので、すぐありあわせの毛筆でかいたのでした。
御様子はいかが?きのうは(二十日)すいていて、すぐ番号が来てほどなくそちらからのお返事が来て、十一時すぎ家へかえりました。ことづけをきいて、ああそうですかというとき、やっぱりある顔になるのがわかって自分で笑えました。それでいいとしているのに。そう思って初めっからいるのに、可笑しいわね。
この前の手紙は十六日にかいて居ります、むろんついているでしょう。富士見町は、いつからか云っていらしただけです。先生へのお礼も同じだけ。島田のお母さんには、前の手紙で云っていたの、どうも子供っぽくてきっとよく意味がわからないようにお思いでしょうと思って、いろいろ思案の末、半幅帯を見つけてお送りしました。この前上京になった折もキモノはいくつかお買いでしたが、帯は一本もおかいにならず、ずっと同じのをしていらっしゃるから、きっとお正月に羽織の下へ召すのにいいだろうと思って。実にびっくりするほど物は下って価は上って居ます。この一月に四割又上って十円のものが十四円になるわけです。その帯にしろ以前でしたら六七円のものね、きっと。それが倍近いのです。野原へは御免を蒙ってフミちゃんの髪につける花と小母さまの羽織紐。島田へは林町から吉例によってのりを。
林町へ下すったお手紙、半月近くかかったのだそうですね。国男さん事務所へもって行って返事かいたそうで私は見ず。「封緘で書いたのだって!」と咲枝がむくれていました。ここいら面白いわ、あの夫婦の心持のありようのちがい。一事が万事で。
本当に工合いかがでしょう、熱出ますか?又ね汗をお出しになったりするの?どうぞどうぞお大事に。
こちらはね、やはり暮のいそがしさがいくらかある上に、人の出入りが多くて(というのは、はっちゃん母子きょうかえり、いれちがいに多賀ちゃん)というようなわけで、何だかごたついていて、間、間に仕事して居ります。年内に予定だけ行きそうもない。すこし閉口ね、でもそれがあたり前でしょうから。
明日は多賀ちゃんをつれて慶応へゆきます、例の目の上の黒子をとれるかどうかしらべに。私はこれには全く疑問よ、人間の顔の特長、ある魅力というようなものはのっぺらぼーのところにあるのではないのですものね、眼頭というところは表情的でしょう、もしホクロとれてひきつれでもしたらいかがでしょう。だからよくよくたしかめて、そういう危険は万々なしというのでなければ私はさせないの。やるならよそでやればよい、私のところではいやよ、ね、私は一つの味いと思って見ている位なのですもの。今夜七時四十五分につきます。二十七日か八日に林町では多賀ちゃんも加えて忘年会をやります由。
寿江子がこの歳は私の一番ほしいものが手に入らなくているのに同情して、珍しくおわんだのお茶碗だのをおせいぼにくれました。大変うれしく思いました、そういうものをくれる気になる位大人になったと思って。栄さんが下駄をくれました、コートの色に似た鼻緒なの。それから咲枝がすっかり見立ててキモノと羽織をこしらえてくれました。但これは全部おくりものというのではないの。だけれども来年は何しろその四割高ですから、この三四年間のために一とおりは入用というわけ。この項はこれで。
きょうはチリ紙のために気を揉みました。なかなかもうないの。いろいろの紙類どっかのお倉でグーグーというわけでしょう。大人の童話は、つみが深いと申すわけです。
二十三日
ああ、やっとやっと二階へ来て、落付いて、その膝の上へ手をおいて、ちょっと御挨拶。
けさのお手紙ありがとう。その前に一昨日のつづき。発ちゃん母子が夕飯をたべてかえるというので一緒にたべて、大いそぎで目白の駅まで出かけて、東京駅へ。案外すいた汽車の窓の中にチラリとそれらしい人かげを見たが、一向澄して窓から外へ首を出してもいないの。いそいで前部のそちらへ行ったら、もう出口のすぐのところに赤いコートに赤ショール、黒トランクを前においた多賀ちゃんが立って居ります。前歯をなおしてすっかり冨ちゃんに似てしまって。
それから省線でかえって御飯たべて、ペチャクチャペチャクチャ。なかなか元気にして、気をとり直した様子でいてようございます。どの位いるのか野原のお母さんは一ヵ月と云っていらしたが、私は今大変忙しくて一ヵ月ではどこへもつれても行けないようだろうと思って、と云ったら、私に迷惑だろうからそう云っておいて、ということだったのですって。大きい行李が先へついて、「セルのいる時になったら又送ってやる、いて来い」とお母さん(野原)の話の由。それなら気が落付いて大助りです。やっぱり半年もいて洋裁ぐらい一通り覚えてもよいという気らしい風です。Kの話は出ません、私からは特に切り出して話すということは致しません。こちらの生活でどんな風に心持が変ってゆくか、又変っているのか、それらのことも今に自然に自発的に話として出て来る迄は。今までその一つのことにこだわってやり切れなかったのだから、すこしそれとはちがった生活のひろがりにあってもいいでしょう。
きのう(二十二日)は私くたびれが出て。やっぱり日頃子供のいないくらししていると、子供はつかれるのね。おっかさんがひどく気兼ねするので、それをさせまいとしてやはり自分がつかれているのね。朝のしずかなのがいい心地で、いい心持で、二度ねをしておそくおきてしまいました。(お目玉?まさか、ねえ)それに多賀ちゃんも元気で安心したし。
それから新宿へ出て用を足して、それから慶応へ行って、眼科の部長のひとに多賀ちゃんの黒子を見せたところ、やはり狭いところで深いから切ってとると、どうしてもひきつれになるというのです、このままにしておいた方がよいという意見です、ホラね。というわけ。でも、一ヵ所でそう云われたからといって、それであきらめるのはと云われるかしら。金を儲けたい無責任のものならやらせようとするだろうが、とにかくそのことを云ってやるということにしました。
[図14]こんなところなのですもの、愛くるしいのよ。あなただって、なるほどそんなところならあぶないなとお思いでしょう、瞼の皮がうすいからひきつれて、こわいこわい顔になるわ。それから銀座へ出て、野原へお送りするのり。その他お義理の買いものして、もう五時というのに夜の景色になった尾張町から新橋まで夜店まで見ながら歩いて、新橋からバスで目白まで。この頃の木炭バスは小日向のあの坂ね、大きい、あれをのぼるのに這うようです。胴震いをしながら、うなりながらやっとこさでよじのぼります。
島田の方はいろいろまだあるそうです。お母さんがあなたへと十円下さいました。明日お送りします。ああそれから山口氏へは商品券にしました。炭をね、一月あるかなしですから島田へおねがいしてお金送って、送って頂きましょうと思います。家族間の自家用は許可されるそうですから。お米もどうにかなるでしょう、しかし一時に一俵以下故。
この頃はどんなひとでも顔を見ると真先に云うのは、米、木炭、マッチの話です、女のひとたちお召のゾロリとしたなりで、その話です。島田の方では近所に五十歳ぐらいの女のひとり身のひとがいて、よくお手つだいしますって。昔からよくたのんでいたひとだそうですが。ですから安心ね。それに達ちゃんいよいよ五月にはかえる予定だそうです。本当?わかるの?と私が怪しんだら、本当の由、お母さん益〃おたのしみで、私たちもうれしゅうございますね。そしたらきっとすぐお嫁さんの話で、その方もきまれば私たちは本当に安心ね。何と気が休まるでしょう。お母さんが、五月迄と思って待っていらっしゃるお気持、沁々思いやられます。けさは、私はどうしても終る仕事があって一日家居。多賀ちゃんもひとりで市場まで行ったりして、やっぱり家居。明日は私は外出で、たかちゃん障子を張ってくれますって。私はうれしいわ。
二十日づけのお手紙、けさ着。ではこれから卵さし入れましょう。卵に声なきを如何せん。そんな詩をよんだ女は、支那の女流詩人にも居りませんね。あれほど支那の古典抒情詩の中には、「郎君今何処にあってかこの月を見ん」というのがあるけれども。この年のうちには二十六日に参ります、それが終りです。そのときは又お正月の鉢植えやいろいろさし上げます。一月二十三日は何曜日かしら。火曜日ね。お目にかかりたいようね。それでも、やっぱり行かないのはいやな気持ですから、又来年になってそちらの休みが終ったら出かけて見ましょう。大森の夫人は、全く急に行ってしまったのです、そしたら手紙が来て、弟さんの細君が医者から炊事や洗濯を禁じられているので、そっちの方へまわされて事務所のつとめではないので、と悲かんしています、これは私は可哀想に思えました。急にそういう病人になったのではないのでしょうからね。弟さんが東京へ来たときからそうなのでしょうからね。女の使かわれようとはこういうところがあるのね。寿江子が国男から、妹一人いれば普通なら女中一人いないですむのにと云われてふんがいしている、そこには又別のものがありますけれど、でもやっぱり女にはこういう気の毒なところが伴うのですね。会う人が一人もないというのはいけないから用事だけ、たまに私が会いましょうか、ときいてやったら、大いによろこんで来てそのようにたのむとのことですから、一ヵ月に一度ぐらいは会いましょう。うちを手つだって貰うと云っても、ほかの奥さんでありませんから、やはり私は気づまりだわ、古いなじみでもないのですし。家での働きをしたいとは土台思って居られますまい。
ユリの心持への影響のこと、心つけて下すってありがとう。大丈夫よ、本質的に煩わされていないのですから。小説のモティーフが豊富になるようであるといい――そうね。本当にそうねえ。私はこう云われていることで、あなたのお心持一層感じられます、そして、そういう風な状態での受けかたです、私としても。あなたもそういう気持の肌理(きめ)でいらっしゃるのね、何とそれはこまやかでしょう。今にはじまったことではないけれども。それ自身として、よ。小説のモティーフの豊富さと云われていて、テーマがつよめられると云われていないところに無限の含蓄があります。この言葉をくりかえしかみ直し、心のゆたかさを感じ、慰めの暖かさ、こまやかな精神の肌理のつやを感じます。これは小さいが珠のような一滴ね。本当にありがとう。口のなかへ入れてのんでしまうよう。
詩集は「暖い冬」というのです。人気ない小丘のかげに一つの池があります、その水ぎわに一本の美しい樫の樹が生えていて、静かな深い夜のうちに、明るいしずかな昼の沈黙のなかに、その若い樫の梢は不思議に伸び育って、丁度その池のまんなか、湖心というようなところにその梢の影の頂を落します。池の水はひそかな渦をそこに巻いていて、その樫の梢にふれられたとき、音なくしかも深い深いおどろきとよろこびで揺れます。渦は猶無心にまきつづけ梢は猶影をふれ、日と夜とは自然の緊張した静謐に満たされて、その微妙な調和の世界へ迷いこんだものは、一種のぼんやりした恐怖を感じるくらいです。あたりには、よろこびが正に何かに転じようとする際の音ない高鳴りに満ちている。そういうところが描かれていて、ユリは感動しつつくりかえしくりかえし読みます。そしてね、自分のかくユリという字と、ここの薄く黄色い紙の上にかかれているユリという字とを永く見くらべます。このあとのに、何という感覚がこもっているでしょう、目のなかに涙を湧かせるようなものが。
私はあなたの方の詩集についての話もきかせて頂きとうございます。でもそれには紙が狭いのね、そうでしょう?読むいろんなものについて書くほどの、せきはないのでしょう。そうね。
詩集はもう一つ二つあって、この間から随分かきたかったのです。でも、そちらはどんなかと思っていたところだったから。これから又折々かいていいでしょう?詩の話は、やはり小説のモティーフを豊富にするものですもの。
そちらの薬はどうでしょう、私の愛用薬は今品切れなの。これは本当に残念です。あんなにいい薬だのに。御同情下さい。薬をつくるひとも原料が手に入らないのでしょう、気の毒に。
今寿江子が来て、多賀ちゃんと初対面だもんで下で、すこしきまりのわるいような子供っぽいような声で喋っています。面白いわね、たかちゃんの方が年下なのに、姉さんのようよ。
これは今のところ笑話めいていますが、野田の爺さん、あの野田、あれが隆ちゃんを養子にほしいと云ってお母さんはのり気でいらっしゃるって。勿論まだ本人がいないのだから、あなたがお含みおき下さればいいのですが。あすこには気ちがい息子がいて、おやじを刃物で追いまわすのよ、私は隆ちゃんがそんな奴に刃物三昧に会うのは大嫌いよ、誰だってね。では又近日中に。月曜日そちらのかえりに図書館。
お大切に、ああなんて終りが来ないのでしょう、サヨーナラ。 
十二月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月二十四日第百十六信
二十三日のお手紙、きょうは東京市内らしく二十四日のけさつきました。すこし私は豊年らしい気持になります。こうしてつづけてお手紙頂けると。ありがとう。あのおばさんの手紙にかんしゃくをおこしたのはね、不明瞭に、つまりかんしゃくらしく書いて、そういう意味にとれたかもしれませんでしたが、私としてはすこしは多賀ちゃんの将来に役に立つよう稽古(洋裁でも)させて、島田の家を手つだっていてくれたために私は安心していられたこともかえしてやりたいし、いろいろ生活の気持、ひろくしてやろうと思ったのに、小母さんは、「気のおけない宿で治療して一ヵ月でかえって」とパタパタ、黒子ばかり中心に軽々しく考えるように云っていらして、そのことでかんしゃくをおこしたのでした。お手紙に云われているところに重点はなかったのよ。その点、そう敏感でもないわ、だって、そうでしょう?土台たねがないことは自分でよく知っているのですものね。でも一般的なこととしてはよくわかります。私はそんなに見えて?あなたから。もしそうだとすればそれは私にとって悲しいことだと思います。そういう小悧巧さを私は大きらいなのだもの。女のリコーの一番けちくさいところですよ。
車のことね、達ちゃんから返事があって、貸すのですって。大体売るのではなくてかして3,500ということなのでしたって。かりる方は二年ぐらいの期限でなければ償還しないというのに、こちらは五月ごろ達ちゃんかえれるというわけで、それ迄というので、それでは時間的に不便ということで車は元のまま。それにKがいたって明るい気分で又働いているというのは何よりです、それに台所を手つだうひともいるというのですし。お母さんへは、袋の代り帯をお送りしたこと、申しましたね。今年はお母さんも、やっぱり来年は買えないからコートやショールおこしらえになった由、そこへ偶然新しい帯でマアいいわね。仲仕ももとのひとがいます、大きい体の。私に「こけんとおいで」と云った男。「東京は遠うて、こけてもようおこしてあげられんで」と云った男。
南江堂の本。そうねえ。でもマア御一覧です。
表。この頃は徹夜しない、を原則で、そのために手もはれずにやれました。表は、ばからしいようで、あれでやっぱりいいのね。この間うち子供たちのいた間、九時すぎが何日かつづけられました。疲れも出ていたし。
毛糸足袋のこと、ああそうでしたか。きのう、お正月用外出用の大島綿入、下着、羽織送りました。冬の間外出用をかねて居りますからそのおつもりで。手袋。古いけれども御辛棒。スフよりましですから。行火(あんか)のタネがあってよかったこと、どうかしらと思って居ました。謄写のことわかりました。
全く今年の暮は珍しいことね。三人ですから。去年は病院であったし。私としては賑やかなような寂しいような、よ。二十六日には参りますが、気になさらないでいいのです。お正月どうしてお暮しになりますか。よみもの何かあるのでしょうか。何年か前のお正月思い出します。「お正月どうしていらしたの」と私がきいたら「ねころがって雑誌みていたよ」と云っていらしたわね、万惣の次の正月のこと。今年はどうしてお暮しになるの?やはりねころがって?雑誌みて?私は、ひそかにこの雑誌みて、という表現にふくまれているものを感じて居ります、あて推量かしら。
たかちゃん、きょうは障子をはっていてくれます。藤江が一月の六日にかえります。十五日ぐらい休んで又来ることにしてあります。たかちゃんも、洋裁の稽古と台所とを一度にはじめては馴れないうちくたびれたりするといけないし、寒中は藤江をおいて三月にでもなって、たかちゃんがその気なら藤江なしで二人でやります。藤江に40.00はらうとすれば、十分たかちゃんの勉強費は出るのですから。でも私は、自分が気を立てて仕事しているとき、一々人の出入りに下りて行ったり何や彼やとても気がうるさいようなら藤江おいておくかもしれず。中央公論社で書き下しの長篇を云って来て居ります。それを来年の春から夏への仕事にします。そのためには稲ちゃんのようによそへ行くより、うちの条件をよくしておいてやる方が私として可能ですから、その点も考えているので。まだこまかにプランは立てられませんが。この長篇のことはうれしいわ。力一杯出しきってやりたくていたところだから。短篇はやはり短篇で。前かきかけていたのとはちがう題材でどちらかというと「杉垣」の種類のものです。この間うち云っていた姉弟の小説、ああいうものかいてしまってから、専念とりかかるわけです。たかちゃんは半年ぐらいの予定です。そのくらいあれば洋裁を専門家としてひとのもやれるようになるの。光井にそういう人がいません。ですから自分の将来の家庭のためにも便利ですし、実科しか出ていないというようなひけめもプラスになるものがあって、私たちのしてやれることとしては実質的でしょう。明後日あたり遊覧バスで一めぐりしたら、あとはふつうの生活の間にちょいちょいあっちこっち私と出て、そして黒子もとらないのなら一月の学期から通いはじめればよいと思います。
一月の中旬ぐらいは私もすこしひまでしょうから、藤江いないでも、たかちゃん出られますから。
炭のこと、きょうお母さんにうかがって見ました。この頃は、お米や炭のことを、おまわりさんがききに歩きます、戸別に。統計をとっているのです、需要の。うちは冬は炭一ヵ月三俵、米一ヵ月およそ三斗八升ぐらい。今炭は二俵あるきり。たかちゃんは来る人が皆いきなり「お宅では炭は、お米は」というのでびっくりしています。お米も県外輸出がむずかしく自家用でも制限で、どういう工合になるか一寸わかりません。組合もお米に自信はもっていません。しかし何とかなるでしょう、大丈夫よ。大局から云えば、こういう一般の経験も有益です。すこしはリアルになる。
この頃いやにポール・ブルジェが訳されて、今『愛』というのが送られています、Bookレビューしてくれと。この広告に曰ク、「フランスの漱石、鴎外だ」と。二人の、こんなに素質のちがう人を一人にあてはめていうようなひどいことは、文学にはごめんということを先ずかくつもりです。ひどい杜撰(ずさん)さですね。何でもこんな風です。本年の新年号は創作欄保守です。若い作家、婦人作家、実にかいていず、私が二つ小説かいているのが例外です。稲ちゃん一つ、中里、真杉静枝、円地だけ。林でさえ一つ。(文芸)綜合雑誌は中野一人。では又ね。まだ年のうちにかきます、あなたは? 
十二月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書速達)〕
十二月二十七日第百十七信
きのうそちらへ出かけました、玉子つきましたろう?どんな玉子?丸々として居りましたか?たべられてしまうのだからいいこと。
さて、お加減はいかがでしょう。私のかぜやっとぬけました。かぜがぬけたばかりでなく、きょうもさっきからしきりに気がついて眺めているのですが、腕や手がいやに白くなくて、薄赤くなっていて、私は随分久しぶりで、こんな自分の腕のつやを見る心持です。白いばかりでいやとよく思っていた、それが血色がさしているの。理研のレバー、それから御持薬、こんなにきくのでしょうか、ともかくこれは結構です、どうか御よろこび下さい。体に十分気をつけて、又よく勉強いたしましょう、来年も。
従妹というもの、ましてたかちゃんのような子、一緒に暮すにいいものね。そして寿江子より、三つも年下のたかちゃんの方が、ずっと日常のたすけになること考えて、生活についても考えます。この間うちからポツポツ話してね。一月の初旬から洋裁をはじめさせます。二月一杯人をおいて、三月に入ったら、暖くて万事簡単になるから二人でやって、ほかのひとに払う分でたかちゃん勉強しようというプランです。しかしこれもこの前の手紙で申し上げたようなわけで、そのときの事情によります。私の外出が(一日がかりの)多くなれば人はいなければなりませんし。
きのうの晩はフヂエが会へ一寸かえって二人きりだったので、すこし今度のことしんみり話しました。
なかなかたかちゃんとしては要点にふれて考えています、将来、自分と対手とがあまり程度ちがわぬように成長して来るかどうかという点を第一に。今までの自分の周囲が余りせまかったことも知って居り、あっちのひとが、すこし負担として考えているところのあるのも知っていて、どうしてよいか分らない、というところです、これは正直なところと思われました。
強いて、忘れようとすれば忘られない面も浮び上るのだから、マア自然にしておいて、生活の現実をどんどん進めてゆくがよいということにしました。生活そのものがつまりは決定するのですものね。
あちらでは、ソラ大変、何でもすぐ片づけなければ、と満州あたりに行っている憲兵さんか何かに片づけようとしたのですって。あのひともちょっとやけになって、ええ行っちゃうか、と思ったのですって。でもこちらへ来られることになって、よかったと云って居ります。ああいう勝気で弱い女のひとはそうなる、そこが何よりいけない、そんなことも話しました。
又これは、あなたのお耳へとめるだけのことですが、達ちゃんの嫁さんに岩本新という人の妹をという話があるのですって。新という人は中尉とかで、やがて大尉になるとか。大変な人気の由。たかちゃんの軍曹もそっちのひっぱりの由。
今島田附近は、ああして殷賑(いんしん)工場多く、大抵田地一二丁もってそっちは老人夫婦がやっていて、若いもの夫婦は工場がよいしてゆくというのが、理想の縁談とされているのだそうです。さもなければ財産の二三万が。たかちゃんのときも、お母さん、「豆腐やのせがれでも何でも、学士か財産の二三万ももっちょるなら話もあろうが」とおっしゃった由。ですから達ちゃんは不利なのですって条件的に。かたい農家、かたくない農家、いずれも農家の娘はダメなそうです。一そ徳山あたりからというのだそうで、それには岩本のおばさんが全権委員の由。
私は新という人は存じませんけれど。何だか一寸知っておいて頂きたくて。そして、もしお母さんに何か一ことおっしゃってあげることでもありましたら、とも思われて。これは、一般論として出して頂かないとこまるわ、ね、たか子のおしゃべりのようになっては。私たちは弟の可愛いお嫁を、考えるので。いろいろ。こんなこと、養子のこと、いろいろね。でも何だか気になること、そうでしょう?結局達ちゃんが家のことは主としてやるのですから、そのお嫁さん、その兄、そういう関係は家庭としては大切と思うのです。生活感情の点。若い何にも知らない女のひとが、育った家庭の空気で何か身につけている、それが気になるというわけです。
或は達ちゃんの方へ一寸参考になるような意見がもしおありになったら、云っておやりになったらいいかもしれませんね。本人なのだから、いずれ、最後にきめるのは。どうぞよろしく。気になるので一寸。
今夜は林町の連中と御飯たべます。二十五日の午後から夕方までも林町にいました、二人で。赤このことや何かでゴタゴタして、それでもストーヴを珍客というのでたいて(!こういうのよ、この頃の世の中一様に)その前へアカコの脚をすっかり出してねかして、まるでうれしそうに脚を動して笑うのをよくよく眺めて来ました。アカコ可愛いの。お見せしたいこと。それから太郎とカルタとったりして。
山口さんくれぐれお礼でした。御用の折はどうぞ、と。うちの障子を、たかちゃんがフヂエを督レイして貼ってくれてさっぱり明るくなりました。昨夜は二人でお餅を切って、すこし話して、十時にねました。今夜はすこしおそくなるでしょうね。
隆二さんの手紙が珍しく来て、「僕のことはなにもなにも案ずるに及ばず。養生専一に」と、云って来て居ります。六年の間に餅菓子を一万個食った男と、ざれうたがあります。年のうちには又かきますが。明日は図書館です。まさか休みではないでしょうね。武麟さん、この前妙なわるくちを云って、こんどは真実味が云々とほめている。(『朝日』)しかしいずれにしろ、俳諧の宗匠の点つけみたいな月評は下らない。木村という人の訳のブルージエを春陽堂がよこし、マフ(手を入れるもの、女の)それをハンケチとかき手套とかき、又もう一つにかいている。こういう訳でよまされるのね、題もかえている。では又おせいぼの手紙は別に。 
十二月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書速達)〕
十二月二十七日第百十七信
考えてみると、二十八日のうちについた手紙でないと、お正月に御覧になれないかもしれないのね。ああ、ではいそがなくては。こちらの本当の大晦日に書いたのでは、そちらのお年越しには駄目ね。
(ここまで書いて、たかちゃんをつれて、佐藤さんの家を教えかたがた郵便局まで行って、フト思いついて自由学園の友の会でもしや洋裁やらないかと思ってずっと奥へ歩いて行ったら、思いがけないところに坪田譲治の家がありました。いかにも雑司ヶ谷の家らしい家のたたずまいで、霜どけの庭が垣のまばらな間から眺められ、新しい二階が出ていて、窓のあいたところからスタンドなど見えました。それを見つけたのは私ではなくて、タカ子よ、なかなかのものなり、でしょう?きいたらば(友の会で)三月から十月まで講習はじめるのですって。家からごく近いし人数もやたら多くないし、三月からならあたたこうなって丁度よい、というし、ラッシュアワーで又バスがひっくりかえったなどと云うのも楽ではないし、きいてよかった、これにしようということになりました。材料の心配も先方でしてくれる由ですから。家から七分ぐらい。歩いて。大変いいわ。そして、野原のタタキのところ、ね、あすこを店にするのですって。何だか私まではりきりました。たか子うれしそう。それに一週二三回というのは出るのが一日おき位で、これも疲れすぎず、いいでしょう。あのひとも腕に毛をはやしているから、余り神経をつかうようなのはよくないでしょう。三月まで退屈しないかと云ったら、退屈しようもないとのことです。この間うち、ゴタゴタした上ですし、それもいいかもしれません。夏までにかえろうとせいた心持でいるのでなければ、それもいいと思います。若い女の子がワサワサいるところだと、ひとに負けまいと思って気を張るから、いやなのだって。負けん気なのねえ。ここの家の雰囲気にもなれ、東京というところにも馴れ、何となし口をきくのも楽になって、それからがいいのでしょう。
それからね、こんなこと考えたのですが。今たかちゃん、フヂエがあんなことで一日1.30とっているのを見ているのですから、フヂエがいなくなったら月にまとめて30やって、その中で自分のこと(ちょいちょいした買物など)やって、あまれば貯金するという風なの、いかがでしょう。なかなか独立的なのがすきだから、そうしてやらないと、小づかい下さいと云いにくいでしょうし、ね。それも張合があるでしょう?遊びに出かけるのは私と一緒なのだし。きっとよかりそうに思います。私は又身内のもので稽古させてやるというのと引かえに、そういうところで不自由さすの、いやですから。もし来春、若い小さい娘でも見つけられたら又この点はちがいますが。そして、見つけたいと思うの。
まあ、こんな工合で、この暮は思いがけず人の数の多い暮しになりました。そういう意味では賑やかですから御安心下さい。それにさっき書いたように薄桃色にもなっているし。今年は、仕事の上での収穫も皆無ではありませんでしたし、えっちらおっちらの読書も第三巻終りになり、その他のことでの獲ものは或意味では未曾でした。形に出ないところでえたものは、大変に多かった年でした。そして、楽しい年と云える年だったと思いますけれど。いかが?そうお思いになりませんか?私にはいろいろのうれしいおくりものがあった一年でした。そして、それらのおくりものは、只私への情愛とか何とかいうよりもっとひろい意味で、しかも私にとって何よりというものもありました。ねえ、それから、それはほんとにユリのもの、というものもあったわ。いろいろとありがとう。あなたが私に与えて下すった、いろいろのよろこびぐらい私もあなたにおくりものしたでしょうか。余り大きい顔も出来ないようにも思えます。さりとて、私はしわん坊だったとも思えませんけれども。四月以降は仕事も相当いたしましたしね。
来年も亦いい一年であるように。きっとそうでしょう。大笑いのこと教えてあげましょうか。新年号には(女の雑誌など)よく占いが出るでしょう。何だったか、この間みたら、私は何だか運がいいのですって。そして、特別に註が入っているの、曰ク、御主人大事にと心がければ吉。笑ってしまった。失礼よ、ね、私に今更そんなこと。私の吉運は八方ふさがりの間にだって、その一点で開運、上吉の卦にかわっていたのですものね。トンマねえと大笑いしてしまいました。
あなたのところへ小さい寄植の鉢がゆきます。どんなものが植っているかしら。福寿草だのやぶ柑子(こうじ)だのがあるでしょうね。いつかキャベジのようなと仰云った葉牡丹はやめました、あれはいいようで何か陰気だから。
あなたの右の肩を三つ、それから左の肩を三つたたいて丈夫に年越しの、おまじないしてさし上げます。どんな?いいでしょう?どうぞ御機嫌よく。元日のお雑煮は今年は、あなたのお箸が私のお箸という工合にします。私はちょっとおしゃれするの。そして、そこにいるような顔してそちらを見るのよ。忘れて、そっぽ向いたままでいらっしゃらないで下さい。あの写真についてはお言葉なし、ね、どうして?まだどっかにおかれているのでしょうか。余り自然で、却っていや?それは又その心持としてわかるところもあります。
子供たちへのおくりものは、太郎にフクチャンの羽子板。窪川の健ちゃんには大きい少年っぽい凧。達ちゃんには赤いリボン。各〃に純毛の手袋一組ずつがついています。あなたのも一組あるの。てっちゃんの子供の靴下も中野の子供のくつ下も買っておくのです。二月ごろ誕生日が来ますから。稲ちゃんは二十八日ごろかえるでしょう、おし迫って大変ね。窪川のおばあちゃんには真綿の上足袋をあげました。私は子供と年よりのサンタおばさんですから毎年。健ちゃんたち久しく行かなかったし母さん留守で淋しいところがあり、凧もって行ったらとび出して来て、タア坊はかじりつきました。私は子供のよろこぶ顔みるとホクホクよ。林町で、お手紙よみました。この夏は百合子が云々というところ、何となし読んでいるうちに笑えて来ました。何と云ってよいかしら、その心持。うれしさの一種なのだけれど勿論。おわかりになって?あなたが国男にそう云って挨拶していらっしゃるのを、わきで笑いながら眼玉クルクルやってきいて見ている、その心持ね。
では、ほんとに、ほんとに、いい年を迎えましょうね。これで今年の分は終り。来年の書き初めは、あなたへの手紙です。どうぞお元気に。四日にちょっとそちらへゆきます、また玉子の御挨拶よ。お出にならなくていいのです、私は気がすまないからだけ。いろんな色つけ玉子があるといいのに、お正月は五つ色の玉子あげるのに、ではね。 
 
一九四〇年(昭和十五年)

 

一月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二日第一信
さて、あけましておめでとう。除夜の橿原神宮の太鼓というのをおききになりましたか?私たち(この内容は後出)は銀座からすきや橋に向って来た左角にある寿司栄の中でききました。
おだやかに暖い暮でしたが、正月になったら、きのうは風、きょうは又大層寒いこと。私は羽織を二枚着て居る有様です。
ずっとお元気?かぜは?私のズコズコも悪化しない代り少々万年で。でも、実に吉報があります。それはね、島田から送って下すった炭が十俵無事三十日夜到着。私どもはワーッというよろこびかたで、もうこれで正月になった、という次第でした。うれしいでしょう、何てうれしいのでしょう。ですからきっと私のズコズコもなおるでしょう。佐藤さんのところでお年よりもいられて炭なしに閉口故、一俵あげました。佐藤さんフロシキを頭からかぶってかついで行った。この頃の良人にはこんな役もふえて来て居ります。
いろんなことが押しつまってあってね、三十日にフヂエが無断帰還を敢行、つまり逃げました。可笑しいでしょう?二十八日の夜中会から速達が来ました。二十九日目をさまして何かときいたら、おふくろさんがかぜをひいたからかえってくれと云って来た由。東京で三十、三十一日はどんな日だか分っているのだから、私はおこってね、正月二日にかえっていいから三十日三十一日はいてくれなければ困ると云ったら(ことをわけて云ったから)何とも尤もで、では一寸かえってそのことを云って来ますというわけで、私はそのまま外出。タカちゃんに晩かえりますと云って出ました。私は図書館へ開いていたらゆくつもり。そしたら二十六日に終っている。がっかりして午後早くかえって来て、二人で夕飯たべて、さて十時頃になって、どうしたろうと戸棚みたら包ナシ。ハハアと大笑いしたり、ふんがいしたり派出婦根性をおどろいたり。
タカちゃんは却っていん方がのんきな、というから、では二人でやって、若い小さい娘でもタカちゃんがいれば一人でなくていいから、たのもうというわけに納りました。タカちゃんもゆっくりした気になって島田でやっていたとおりよく働いてくれて、本当にいい娘です。
三十日は夕方、佐藤さん夫妻と戸塚へゆき、おそくまで久しぶりに喋って遊んで来ました。いねちゃん二十九日にかえったの。健造たちのうれしい顔ったら!何てうれしそうなんだろう、顔にウレシイとかいてある、と私が云うと、とろけそうな顔に笑って、体をよじっている。その稲ちゃんのところで又一人にげられたの、可笑しいでしょう、二人小さい女の子がいた上の方が、姉娘。よくない娘だったからまアいいのですって。皆、暮から正月へ荒っぽい金がほしいのね。派出婦なんかきっと三十日から三箇日ぐらいやとわれて、ガタガタやって、よけいに金をとるというわけなのでしょう。短く働いて数をこなして、ティップなんかあっちこっちで貰いたい、そういうわけなのね。こんなところでも私は日本の風習の混乱を感じます。何か手つだって貰った女へのような心づけのしかたをして、しかし派出婦として高く日給とるだけには技能もなく、おもしろいわね。派出婦のスポイルのされかたがよくわかりました。家庭笑劇一幕。
三十一日は一日二人で働いて、私は二階の本の整理。文庫本がまとまらなくてやり切れないので、去年の冬、牛込の方、というところから送られて来た戸棚の本箱、どっかの古物屋でお買いになったらしいの、あれを二階へあげて、あなたの坐ってつかっていらした大きい机の上にのせて、そこへ文庫大半しまって、大変まとまりました。久しぶりで床の間の板が見えて来て気持よくなりました。
それから、あなたからのお年玉である『秋声全集』も床の間の本棚の方へ入れて、夕方やっとすみ。二人きりで夕飯の仕度するより、外へ出てたべようと云うプランでしたが、どうともおなかがすいてやり切れなくなって来たので、たかちゃんがお国流に煮たお煮しめでちょっと夕飯たべて、門松をうちつけて、それから誘いに来た佐藤夫妻と栄さんのうちへ行きました。
そしたらね、ここに又一つ話があります。それは栄さんの妹さんが小豆島から来るとき、子供の一切の衣類、自分の平常着、その他木綿、毛糸(但皆純ナリ)の全財産を大きい布団ケースに入れて送って、それはもう三ヵ月近い先のことでしたが、未だ着かず。遂に紛失ということがわかったのですって。ひどいわねえ。どこかへ間違って配達されたらしいの。そしたらあけて見て、そのままぽっぽらしいのです。まだ編んでないような毛糸もどっさりありました由。先ず子供のものでは大困り。皆着たきり雀の正月よ。栄さんと繁治さんケンカしそうになったりして。それからマアこれが三十一日でよかった、そとへでも出ようよ、というわけで、壺井の二人、うちの二人、佐藤さんの二人、この一隊が銀座へ出ました。一人も暮の銀座をこれまで歩いたことなしの連中なので(私のほかは)それぞれ珍しく。たかちゃんふしぎな気がしましたって。それでもかえりの省線かけられて、かえってふろに入ってねたのが、午前三時。
元旦にはゆっくりおきて、九時頃お雑煮こしらえて、二人ともちゃんとおしゃれして、おとそのんで、あなたのおめでとう武運長久をやって、一日ゆっくりして、たかちゃんのお喋りをききました。
いろいろの風があちらの元旦とちがいますってね。おとそしたりしないのだってね。面白がっていた。私は去年は病院ですし、その前の年はミルクホール問題の正月ですもの、ことし位はのんびりしたくて、ちゃんとやったわけです。
本年は年賀郵便というものは大減です。1/10以下です。宮本顕治先生として鱒書房というのからお年賀が来て居ります、廻送いたします、お出先へ(!)。晨ちゃんがよこしています。多摩川保養園というのに入っている様子です。
「人の世の深き苦み笑み耐へて生きぬく君を尊しと思ふ」こんな和歌がかいてあります。「経過は順調故一層闘病精神を発揮し徹底的に克服するつもり」とかいています。こんな歌をよむ心は、やはり本人もさまざまの感懐があるからのことでしょう。戸ダイさんがアパートで炭なしらしく、賀状もこんなのにてれくさいと思ったら、床やのおやじが電気ストーヴをかしてくれて、手のかじかみがなおったからとかいてくれました。「メーターがおそろしく早い勢で廻転いたします」とあります。炭、米、アパートへは真先にことわる由。そういうのね。
今年のお正月通信はなかなか特徴的でしょう、おのずから。
野原の富雄さんは、きのう年賀電報という派手なものをくれました。多賀ちゃんと二人ハアハア笑いました。「段々父さんに似てきちょるかしれん」というわけで。
きのうは多賀ちゃんも云いたい話みんなして、二人きりだから、よかったようです。フミ子を夏休みによこしたいらしく、それもよいということになりました。四年になると卒業前上京します、旅行で。でも、私は例によって、時間のかち合いで何をしてやることも不便だったりしたらつまらないから、夏来ればゆっくりして、私は仕事していても姉ちゃんとどこへでも行けばいいし、それでハアいいということになりました。達ちゃん五月にかえり、六月には三年の御法事、夏はフミ子、冬達ちゃんが結婚でもしたら、なかなか出入りのはげしい一年です、六月にはたかちゃんがお留守いですから、誰かもう一人いれば安心なわけ。
島田の方もお元気で何よりです。たかちゃんに手紙をよこしたりなさり、はなれて見ると、又可愛ゆさもわかりお互にようございましょう。
二十七日ごろ、てっちゃんに手紙おかきになりましたのね。アラとやきもちをやいた次第です。てっちゃん、昨年の分皆もって来てくれ、又いろいろ興味をもって拝見しました。
良ちゃんお母さん、弟が新宿の方の家を解散して、林町のすぐわきに六月ごろから住んでいるということ、初耳でしょう?
二十九日にね、林町へまわって四時ごろ団子坂の方へと来たら、黒毛糸のジャケツの若いひとが、私にしきりに笑顔しながら近づいて来るの。この辺に、こんな笑顔してくれる人いない筈と思って見たら本郷の独文へ通っている弟さん。智慧ちゃんのなくなったとき咽(むせ)び泣いていた弟さん。「すぐそこにいます」というの。「いつから?」「夏から」本当にびっくりしました。ホラ団子坂の方へ行くと、右手に小さい印刷所があって、そこを右に曲ると、カギの手にバスの停留所のところへ出る道がありましたでしょう、あすこの左側の二階家です。「じゃお母さんにお挨拶して行きましょう」というわけでね、そしたらお母さん大よろこびでした。原さんに教えて私につたえて、と云ったのですって。眠らない赤ちゃんでとりまぎれたのでしょう。「元の家は銀行にわたしまして」とのこと。あすこには娘さんの一人の稼いだ一家と同じ家で、その方からのことでしょう。
こちらはお母さんと二人きり。動坂に娘さんが家をもっていて、そちらへ行ったらいろいろ賑やかには暮していられる由。ただすこしその家は日当りがよくないのですけれども。ちっともしおれてもいず、感心なお母さんです。年を召して、そういう大きい境遇の変化にああ明るく耐えているということは立派なことだと思いました。団子坂を通るといやでもよるようなところ故、折々よってあげましょう。年よりたちは、どこの人も、子供の友達が出入りしてくれることをよろこびます、しんからね。子供への愛がそういう形でてりかえして。
きのうはちょっと「北極飛行」をよみはじめ、深く心を動かされました。こういう底からの明るさ、信頼、合理的であることの当然さ、感慨無量というところです。あの筆者の性格も何と面白いでしょう、ああいうメカニカルな仕事をする人が、公文書でなんかかけないとあの物語をかく、しかしそれはあくまで科学に立った形象性として。ああいう天質の成長というものの中にどの位文化の多面さ、ゆたかさ、自由があるか、そのことでひとしお感動しました。もし私があの書評をかくとすればそのところにつよい光をあてます。新しい文化の傑出したタイプです。本当に感慨無量で、目に涙が浮ぶようでした。訳者は「小説(文学作品)とは云えないが」云々と云っている。しかし、文化の分裂の形であらわれる小説よりは質において遙に上です。あの中には人間の美がさっぱりと輝やいています。あれも本当に、いいお年玉です、いいものを下さいました、ありがとう。ああいうよろこびをもって小説家が仕事出来たら。きっとそうお思いになったでしょうねえ。創ってゆくよろこびが躍動してそれは天真爛漫にさえ見えます。
人間に希望、よろこび、慰めを与え得る文字、というものの価値は大したものです。日本の作家はこれまで、そういうものを通俗な事件そのものの目出度しや、ある心の境地や諦めやで与えようとしてだけ来ていますが、芸術の到達し得るところは、そんなところではないわ、ねえ。芸術は、悲劇をもやはり人間精神の高いよろこびの感動として与え得るべきです。苦痛の中にそのものが描かれてゆくことのなかに、大きい一つのコンソレイションがあるべきです。アランがそのことを云っているのは面白く思いました。なぐさめることではなくて、なぐさめられる心、それについて。芸術家の現実を統括してゆく力として。詩性として。もちろんこの判断はアランの限度のうちで云われているのですけれども。(哲学的に、ね)文学の面白さとこの人間精神のコンソレイションの関係は面白いこと。誰もつきつめて居りませんものね。私は自分の文学はそういう輝きで飾りとうございます、では又。このおしまいの部分は、面白いのよ、私の成長の歴史として。又かきます。 
一月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二日第二信 お喋りのつづき。
小説の面白さと精神のコンソレイションの話。この関係の微妙さと、高低の相異のひどさは、考えると面白いこと。精神に与えるコンソレイションが宗教で代られた(文学における宗教味)時代もあり、道徳で代られた時代があり(ピューリタン時代)文学、すくなくとも小説のこのものは、現実そのもののようなねばり、多様性、動き、関係を、すっかり掌握してゆく作家の写実ではなくて、そこに一つの見とおしをもっている感覚にまで及んだ知性、そういうリアリティーが、精神に与える満足と慰安と生活への鼓舞というもの。
あなた覚えていらっしゃるかしら、いつか書いた私の手紙に、悲劇はない、というような意味のことをかいていたのを。自分の生活感情として。覚えていらして?ところが、あれは、主観に立ってだけのことで、それも今からは浅いと思われます。卑俗な云いかたでのそれはないにきまっているが、悲劇は人生にあります。悲劇とか不幸とか云うものはあります。(私の自分のことではなく)私はこの夏暑いところでいろいろきいていて、悲劇の悲劇であることをはっきり感じたことがあります、一人の婦人の善意の遭遇しためぐり合わせについて。作家として、テーマの本質をつかみ出すこと、その理解によって全体を見とおす平静さと悲劇はない、ということとは大したちがいです。そうでしょう?私はその点では、未熟であったと思います。主観的であり箇人的ですね、そこでおさまっていられるとすれば。これは所謂悲劇への否定から出発していて、そのものとしてはやはり或る健全さへの探求の一つですが。今は、精神を高め、はげまし、愛し、涙そそぎ、しかも勇敢に前へ出ようとする力を与えるものとしての悲劇を理解するし、それがかきたいと思う。
この点は、小さいようで、しかし作家としての成育では随分大切なことです。小説がかける心というものの真髄的な要素の一つですと思う。これが、私の小さいあなたへのお年玉よ。どうぞ御納め下さい。私にはやがてコメディアというものの精神もわかるかもしれませんね。トラゲディアとコメディアとの精神はまるであっちこっちとの極ではくっついていますもの。私は益〃自分を無くしたいと思います、無私にありたいと思う。そして生活のあのうねうね、このうねうねに、うねうねして入ってゆきたいと思う。自分の道というものを押して来た作家、それが成長のあるところで飛躍してこの歴史的無私になり得るということは大変むずかしいことで、又そうでなければ、押して来た、ということの歴史的な意味の失われることで、なかなか面白い。
多賀ちゃんと寿江子の生活上の力というものについて、やはり同じことを感じます。多賀ちゃんはどこでも生活してゆける力をもっている。寿江子はそうではないわ。そういうことから又自分の環境というものを私は考え直すのですけれど。今年もよく勉強しましょうね、質のいい仕事しましょうね。一月号の仕事は、その点もマアお年玉組です。てっちゃんが心からいろいろよろこんでくれましたから、私はこう云ったの。「どうぞ御亭主さんのところへその半分でも書いてやって下さい。私が自賛出来ないし、もししたら『己惚(うぬぼ)れは作家の何よりの敵だよ』ときっと云うわ」と大笑いしたわけです。でもね、夜、床に入って考えて、もし、一言あなたからましだね、ぐらいに云われたら、どんなにうれしいだろうと思って。どんなに満悦だろうと思って。
ああ、それからこれは笑い草の部ですが、『科学知識』の十一月号でしたか十二月号でしたか、およみになったのね、戸川貞雄の文芸時評。アンポンねえ。苦笑いなさる顔が見えて、自分も笑いつつ何だか手のひらが汗ばむようだった。あの筆者が歴史の性質を否定していることはあのひとの問題ですがね、でも作家とすれば自身肯定している部分で肯定されないなんてことは、やはり辛棒しにくいことですから。
一月の「広場」なんかは、評者がやはり判ってはいないわ、本当のところは。しかし、重点のおかれているところには、やはり重点をおいて居ました。そのひとの主観からの色どりでほめていたりして。(二日のつづき)
あのね、お正月らしい色どりにこの封筒へ第一信入れようとしたら、厚くなって入り切らないので、このしっぽはこれでおやめにして、薄いうち、こんな封筒おめにかけます。子供だましだけれど、でもね。
五日に『文芸』二月号しめきるので、私のお正月もきのうだけというようです。急に寒くもなって人の出足はにぶいようです。
ではこのつけたしはこれで。四日に一寸参ります。どうしようかしら。でも玉子のお挨拶だけにしておきましょうね。出ていらっしゃるにも及ばないのだし、さむいさむいし、ね。ねまきの袖を凧のようにして、さむいさむいと仰云るのおもい出した、では。 
一月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(六義園の写真絵はがきT・U〕
一九四〇・一月四日。きのう林町へ年始に出かけましたが、余り天気もおだやかでいい心地だったので、駕籠町のすこし手前で不図六義園の庭を思い出し、急におりて一めぐりしました。なかなかいい散歩場で多賀ちゃんと二人およろこび。ふらふら歩いてから又電車にのって、林町では歌留多という珍しいスポーツをいたしました。百人一首など何年ぶりでしょう!あなたはお上手らしいという定評でしたがいかが?そう? T
U 一九四〇・一・四。この六義園は柳沢吉保が造ったのだそうです。岩崎がもっていたのを開放したものの由です。ところどころにある茶室に座って見とうございました。入場料五銭。札を売るところの男は、「このエハガキを下さい二組」と云ったら「オーケイ」とメリケンのアクセントで申しました。びっくりしました。林町へ二人でとまって、けさ、そちらへ行って玉子の御挨拶いたしました。多賀ちゃんのもどうぞ。余り人出で事故頻出。人間の数に合わせてのりもの不足の故でしょう。 
一月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月五日第三信
きょうはおだやかないいお天気。そして、二十八日のお手紙が到着。二十七日おかきになったてっちゃん宛のにやきもちをやいていたら、私へはやはり別にあったわけでした。ありがとう。独特の暮になりました、本当に。でもいいわ、スロウ・アンド・ステディについては、わがことなのですから。熱がどうか平坦になるように。かぜを引いていらっしゃるというのではないのでしょう?どういうわけかしら。呉々もお大切に。多賀ちゃんの手術について、又家の人員の移動について、もうこまかくおわかりの時分でしょう。今又二人なのよ。今年は多賀ちゃんに寂しい正月させては可哀そうと思い、林町で歌留多とったりして例年にない正月でした、又独特の正月であったわけです。多賀ちゃんはこまかく人の心もちも分り、いろいろいい子だけれど、妙に文学的というところはなくてさっぱりしていて、いい子です。うちのことして貰って私、机にばかり向っていて、何だかすこし気の毒のようです。でも、まあ当分小さい子の見つかる迄これでやりましょう、三月になって多賀ちゃんの稽古がいそがしくなれば、又考え直してもよいことですし。
達ちゃん隆ちゃんにはもう着いたかしら。どうかしら。三越で、あなたの仰云っている通のこと私もよんでいるのできいたら、箇人関係では倍ですって!これで十分と云ってはいけないからなんでしょうと云っていました。箇人関係は倍というのは耳にのこって居ります、カンづめ等随分ね上り品不足。
倉知の紀(タダシ)がかえりました。あの男は三年ぶりです。暮の二十日すぎに金沢からクルミの砂糖菓子を一箱送って来たのですって。林町では何だろうと云っていて、じゃきっとかえっているとさがさしてやっとわかったのですって。今はもう通信も出来るのでしょう。新聞にはかかれて居りません。あっちこっちの戦友の慰問をして旅行する由。あの男も向うきずを太原でうけてどんな人相になっていることやら。この男には実の家族ナシです。林町でもどんな心持でいるかわからなくて(三年のうちに)菓子を送って来るところ、還って来る人の心もいろいろのニュアンスがあるわけですね。はっきりと迎えてくれる顔を描ける人、そうでない人、そうでない人はあっちにいても、こっちへかえるのも出るのも、どっちも可哀そうね。緑郎は音沙汰なし。何か仕事みつけるなら結構です。寿江子すこし糖が出るそうです。やっとすこし勉強はじめたら、すぐね。
「北極飛行」読み終り。いい本というものをよんだうれしさです。たくさんいろんなことが考えられます。仔熊の約束をする子供たちのことその他、この著者は家族というものを、平静な、均等なボリュームで、ちゃんと自分たちの生活のなかに出しているでしょう、私はあの点でもいろいろ感にうたれました。家族というものについての感覚がここでは何とひろく、公然とそして社会的な自信をもって扱われ、存在していることでしょう、私は実に愉快に感じました。ここには生活の日常的の明るさが最も合理的なものの上に立って、あきらかに在って、この筆者は私たちのぐるりのような荊妻豚児的家庭の感情ももっていないし、公のことと私のこととを妙に区別した一昔前の新しさもなくて、何と全統一の感じがあるでしょう。この感動は、私が自分で見ききしていた時分には、まだ社会感情として一般にここまで来ていなかったということと思い合わせて一層深うございます。よろこびとは何と合理的で透明でしょう、私たちは何とそういうよろこびをよろこばんと希うでしょう、ねえ。この感動で屡〃涙をこぼしました。人間のよろこびは、何と大きくひろく動くものとしてあり得るでしょう。そして、ある挨拶をおくる言葉を、心からあなたにもあげたいと思って。この本のなかにはどっさりの忘られぬ響があります、ね、そうだったでしょう?
今年のお正月は、こういう本ではじまって幸先よしの感じです。私はこの本とサンクチュペリの「夜間飛行」と何か日本の飛行をかいた本とくらべて何かにかいて見たいと思います。文学としてね。
きょうはどっさり勉強しなければなりません。もううちの正月は終りです。夜は栄さんが仕上げた小説をもって来るでしょうし。
二十八日のがきょうついたところを見ると、私の二十八日夜の分もあなたのところへはきょうかあしたのわけでしょうね。
きょうはどうかして眼がすこしマクマクします、春のように。
これからの仕事が終ったら、築地を観てその印象をかきます、芝居も久しぶりです。芝居は大した景気だそうです、一般に。楽(ラク)まで売切れとか。柳瀬さん年賀状をよこし近々箇展ひらくとか。光子さんまだアメリカなのでしょうか。どんなにしてやっているのでしょう、変に腕達者にならなければいいけれど。旦那さんそれでなくても売れる画のこつがわかりすぎている傾き故。
では、どうぞどうぞお大切に。シャツなしのところへお正月の挨拶を。 
一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月九日第四信
きのうからひどい風ね。凧のうなりがそちらでもきこえましょう?どうしていらっしゃるかしら。寒くなったし。風邪は引いていらっしゃいませんか。本当に本当にたべられたくなったら又玉子になろうかしらと思って居ります。
『文芸』の仕事「ひろい飛沫(しぶき)」を書き終り。次の古典読本のための下拵え中。そして、いつか三笠のためにかいた百十五枚ほどの文学史めいたものをよみ直しましたが、これは今日の目で見るとどこか下手です。本質に間違いはないが、整理が下手にされているし、その整理の下手さは何かしら、客観性の不足が私としては感じられ、あの節出なくて惜しくもないという気がしました。
この位長いものとして初めて書いて企画がはっきりしなかったのね、きっと。『文芸』の仕事は、そういう点では随分ためになっているとびっくりします。マアこんなお習字があったから『文芸』の方のも行けたのかもしれないけれども。今月のうちに、五十―一〇〇かくのですが、不可能でもなさそうです。こんどは一つよく整理して、一目瞭然しかも文学の正しい詩に貫かれたものをかきましょう。章をよく分けて。
今どんなにしていらっしゃるのだろう。ふところ手して、何かよんでいらっしゃるかしら。それとも横になっていらっしゃるかしら。多賀ちゃんとの二人ぐらしで、私のくらしもいろいろ微妙にディテールが変化いたします。なるたけ外出のときは一緒にゆきますしね。それから第一のちがうことは、一日のうちに何かにつけて、顕兄さん、顕治さんということが出てね。ごく自然に。わたしはすこしふざけて、自分だけの心持をこめて、「ひどい風!御亭主さんどうしているんだろうね」などとも申します。これまで、こんな相手はなかったから。寿江子とは又ちがって。そしてね、これは又一層たべられたさをも誘うわけです。何かすこし家庭らしいのですもの。女中さん相手にばかりくらしていたのとくらべれば。それに多賀ちゃんはなかなか頭が早くて、私が林町に暮せない雰囲気やいろいろもうすっかり理解していますし。面白いでしょう?私は今のうちの空気、大変味って居ります。何処かに私のしこりをほぐすものがあります。しこりがほぐれて、こまかいいろいろの腱だの筋だのがわかって来るような生活の感情は、やはり面白いし、ああこっていたと今にして思うところもあってね。多賀ちゃんでさえこう感じる、そのことを追って思ってゆけば、私がどんな情景を描くか不要多言で、その心も亦、大変きめのこまかい明暗にとんだものです。すっかりお分りになるでしょう?私は自分のそういう明暗が、はっきりあなたの中にもてりかえしていて、わかっていると感じているのだから。面白いわねえ。どこもしこらしていないで、四通八達で、深く深くふれてゆくそういう達人になりたいこと、仕事の上で。生活の上で。実に腰のきまった、ね。私はまだ本気になると堅くなるところがあって、そして、この四通八達はリアリズムの極致なのだから面白い。主観的なおさまりでないところが興味があります、そして無私であって。
又「北極飛行」になりますが、あれをよんで、人間を育てるものは何かと考え、何か激しく求めて喘ぐような感情を経験しました。あの筆者は、自分がどんな新しいものとして生きているか、きっと私たちがその姿を見て呻(うめ)くように感じる程分ってはいないでしょう。人間の成長はそういう風だからおそろしいと思います。ああいうものをよむと、私は七度でも生れかわりたいと感じました。あすこへ文化が育つまで、世代から世代と生れかわって辿りついて、その光の中に出て見たい、そういう気が切実でした。これまで一度の生涯というものへの愛惜は随分つよく感じて生きて来ているけれど、七度もと思ったのは初めて。益〃業がつよくなったのよ、ばけるようになったのね。そちらはいかが?
私はこれまで自分はお化けになれないと思っていたけれどもこの分ではやや有望です。
ふと思いついてひとり笑えます。だって、私は義務読書の中で、一度もこんなばけたい話まではしなかったから。ニヤリとなさるだろうと思って。でも、それは私の具象性でしかたがないのでしょう、見たもの、ここにあるもの、見たところで今日あるもの、その三つの点が生々しく関係しあって、そこの街の匂いとともに顔をうって来るのだから、どうもこたえるわけです。「広場」の後篇なのですものね。
お化けなんて可笑しいけれども、先(せん)、盲腸をきったとき、手紙のこと一寸申上げたでしょう、覚えていらっしゃるかしら。「役に立たなくてよかったね」と云っていらした手紙のこと。よく云うでしょう?自分のごく親愛なものが死ぬとき、そのひとのところへ現れるって。父さえ私のところへはあらわれなかったから、自分のような性質のものは、やっぱりきっとあっさりしちまって迚も挨拶なんかしないだろうし、おばけにもなれそうがない、と思ったのでした。可笑しいでしょう、そして、それは残念だから手紙かいてちゃんと用心していたのだから。ちゃんと化けられる自信がつくまで、手紙はすてられないわ。これは本当よ。
あなたの方の御様子が分らないので、こんな半分のんきそうな(本当はそうではないのだけれど)ことかいていて、どんな御気分のところへ着くのかしらなどとも思います。ああ、でもいずれにせよ、秋風よこころあらば、なのだから同じことですけれども。
寿夫さんから手紙来。おたよりを頂いたと。体がよくないのだそうです。どうしたのか。のみすぎでしょう。年賀のあいさつに、お酒をやめろというと野暮のようだが、体は正直な生きものだから、と書いてやりました。
林町の連中は皆丈夫。多賀ちゃんも幸(さいわい)、風邪もひきません。これは何より。私のはまだ、何度も鼻をかみます。今夜どうしても出かけなければならないのに、こんな風でいやだこと。乾いて、こう風がふいて。東京の一番わるいところですね。
一月も、もうじき二十三日ね。火曜日ね。満月は二十五日。大変くわしいでしょう、当用日記にはこういうこともあります。二十三日までに玉子何箇になるでしょう。
呉々かぜをおひきにならないように。あなたは何日がお書き初めでしたかしら。 
一月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十三日第五信
けさ書き初めをいただきました。(六日づけ)ありがとう。風邪をお引きになったのでもなかったのね。そのことを主に心配していたので安心しました。
私のかぜは随分グズグズでしたが、それが今年の風邪の特色らしくて、やっと昨今大体全快になりました。私は、体の条件で、すこしわるい機会に引くとそのかぜは迚も永くつづくのです、もう大丈夫故どうぞ御安心下さい。多賀ちゃんも元気です。島田の方も御元気。達ちゃんと同じ石津隊のひとが(同日に出た人)先日かえりました由。そして三月ごろはかえれるというそうです。段々そんなこんなでお母さんの御希望も具体性が加って来て、さぞおうれしいでしょう。私は本当に達ちゃんの顔を見たら安心します。そして、私たちは仕合わせであったと思います。隆ちゃんはどこか南の方でしょうか、今、日本の九月十月の気候のところにいるそうです。さむいのは可哀そうですが、それはマアいいこと。ハガキで例の如くわかるのはそれだけです、それから丈夫でいる、ということと。お嫁さんのことその他、おっしゃるとおりね。こちらで人が見つけられないのですから。勿論私は直接何とも云えないから、ただあなたにお話しするわけなのですが。全くとびはなれたところからでは、生活の習慣がちがったりして、双方それに適応出来ず、ね。やっぱりお母さんのお気にも叶うことが大切な条件ですし。岩本の小母さんという方は、お母さんより遙か常識家で、お母さんのそういう面に拍車を加える作用をしているので、いろいろになるような様子です。最小抵抗線でのもの事のおっつけ方は、ここが参謀らしく何となく悲喜劇ですね。岩本の小母さんという方は、現在の御自分の暮しに大変満足していらっしゃり、息子の小学教員の云うことを唯一の真理と思っていられるので、息子殿の口うつしでお母さんにもペチャペチャの由。でもマア話対手として御退屈まぎらしにはいいでしょうけれど。永い間にそういうものの作用が、お母さんの聰明さを曇らしはしまいかといくらかは気がかりです。今のところ、しかし私たちには現実的に別のプランというものもないのですし、お嫁のことも。
栄さんたちのプレゼントのこと。それはいいでしょう。きっとよろこんで「じゃそうしましょう」というでしょう。丸善へでも行って見ましょう。きれたのを、でもとりすてになすっては駄目よ。又ちゃんとつくろって、大事大事にとっておいてつかわなければなりませんから。純毛は大人用は本年はないでしょうね、折角のおくりものでも。
ユリのエッチラオッチラは本年も勿論つづけて居ります。五冊をのりこしたら、フーと大息をつくと思います。目に見えぬ土台というのは適切な表現です。本当にそれは目に見えぬ土台ね。年が経ってからききめがなるほどと感じられるような味がわかります。一昨年中によんだ何冊かのものについてもやはり同じことを感じます。或本をよんで、一旦はもう忘れたようになっていて、しかしどこかに蓄積されている。作品をよんでもそうです。但、私にはまだその底をつくていの理解が不足しているから、その肌身についての身につきかたが、例えば「北極飛行」などとは雲泥の差です。そこは遺憾ね。しかし追々読書力もひろく深く高くなって、消化しきれるようになるでしょう。実際わかるということのうちに、何といくつもの段階があることでしょうね。その段階の多さがやっとこの頃になってわかったようなところもあります。
小説のこと。今のところ、この前の手紙にもかきましたように、本月一杯に今日の文学を歴史的に見たもの百枚以内書いて、来月は「三月の第三日曜」をかいて、それから『文学者』へ何か短いものを書いて、それから『中公』の書き下し長篇へとりかかります。この長篇の話はきまったばかりで、まだこまかい話はきいていず。しかし確定はして居ります。うれしいから一生懸命かくつもりです。それにかかる前に『文芸』のつづきのもの、もう四五回分書いてしまおうと思います。そして長いものをかきはじめたら、余り他に気を散らさず書きます。私はどこへも行けないから、うちの条件をよくして。『文芸』の方のは『改造』から出るでしょう。ついでに「伸子」文庫にしないかきいて見るつもりです、性質から云えばそうしていい本ですから。
あれやこれやで、多賀ちゃんは、野原へ、となりの桶屋さんの娘でこの三月青年学校を出る娘をこちらによこさないか、手紙をかいてくれました。きっと多賀ちゃんがいれば来るでしょう。どうも見込みがありそうです。そうすれば大助りね。私はやはり、何でもたのんでして貰える人がいないと困ります。多賀ちゃんがいれば、一人ぼっちの感じはないからその位若い娘(十六七?)でも大丈夫ですから。三月から多賀ちゃんの仕事も始りますから。もし実現したらいいこと。その娘は三年ぐらいはずっといるつもりですって。多賀ちゃんだって今年一杯はいそうです。洋裁が三月から十月まで。それから一ヵ月ぐらい帽子のことを習ってね。十一月でしょう?そしたら年の暮は野原でということがせいぜいでしょうから。こちらの生活に入りこんで見ていて多賀ちゃんには随分いろいろのことがわかったようです。私が田舎で暮すのは不便ということの意味もわかったようです、ただ水道、ガスの問題ではなく。
四日のはまだですって?もう、お正月用封筒の手紙はついているわけですね。でも、お正月になってかいたのはまだ?寄植でぼつぼつ咲いているのは何?福寿草でしょうか、梅はないでしょう?
梅と云えば、今年は一つ楽しみが出来ました。それはね、あのエハガキをお目にかけた六義園ね、あすこの梅見に出かけようと思って。私の好きな好きな紅梅も、一本ぐらいはどこかにありそうで。いつも桜や桃を見たいと思うのですが、そんな場所へわざわざ出かけてゆく折がなくて。六義園なら何のことはないし。
詩の話も愛読して下すってありがとう。なかなか味いつきぬ趣がありますでしょう。お互に一つ本をよんでいるわけですが、やはり又それについての話も伺いたいのは面白い心持ね。話しかたというものに独特な味いがあります、それからそれを話す様子にも。その情景にも。そしてね、こんなことも思います。人間にも鳥のように、声で唱うしか表現の出来ないような情感もある、と。その声を大抵は胸の中にたたんで暮すのね。人間の胸がもしもアコーディオンであったらどんなに色様々の音を発することでしょう。人間の芸術に音楽があるわけですね。うたう心というものは面白いものですね。うたわんと欲する心も美しい。前奏のメロディーが委曲をつくしてリズムがたかまり、将にデュエットがうたわれようとするときの光彩にあふれた美しさ。全く陸離たる麗やかさ。光漲るなかに何と大きい精神の慰安が在ることでしょう。そういう美しさは涙を浮ばせるものであって、その涙のなかにこころを洗う新しく鮮やかなものがこもっていて。「ああわれは竪琴」という短い詩があります。絃をはられた竪琴が、ああわれは竪琴と、やさしくつよくかき鳴らされることを希っているソネットです。このソネットは目の中に見入り、膝の上に手をおいて、ゆるやかなふしでうたわれるうたですね。一年のうちに一月はユリの詩の月ですから、どうしたって。では、どうぞかぜをおひきにならないように。 
一月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(北京・牌楼の写真絵はがき)〕
一九四〇・一・一四。栄さんのおくりものの手袋をお送りいたします。このエハガキもおくりものです、徳さんの。いろいろのがあります、涼しそうなのは夏に、ね。あしたは朝玉子をあげにゆきます。それから夕方は、小樽のおばあさんとてっちゃんのところ。でも、急に天気が変ったからどうなりますか、雪でもふればおやめでしょうが。私は雪見に出かけますが。雪は何となし家にじっとしていられない心持です。つるさんの本お買えになりましたか?今仕事の下拵のためにこまかく読んで居ります。 
一月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十九日第六信
きのうは妙な一日でした。何だかそちらが一日じゅう気がかりで、電車にのったりしていて人にもまれながら何か急に気になって。どこか工合がおわるいのではないかしら、そんな風に思いました。けさ、十三日づけのお手紙いただいて、すこし安心したけれども。しかし何しろ十三日ですものね。やっぱりどうしていらっしゃるだろうと思われます。本当にいかが?どんな顔つきしていらっしゃいますか?熱の工合などは?このお手紙にはそういうことがちっともかかれて居りませんね。即ち、ましでしょうか。どうかそうであるように。
四日のがお金でしたってね。では十五日の玉子もお金?玉子でなければいやですのに。四日は、しかし正月の間で品が一層揃わず、そんなことだったのかもしれません。
御用の方からシャツのことわかりました。すぐ今ほして送ります。地図もわかりました。『朝日年鑑』の新しい分はいかがでしょうか、送りましょう、ね。
雪も雨もふらないでも、何と何日もかかることでしょう。てっちゃんの手紙、僕は苦笑とあって消されてあるので笑いました。あのひとは、ここに云われているとおり、苦労の時期をまともに生きようとする作家として見る心持や、あなたへの親密さや、そういうものでやっぱりいくらかはあなたに安心をおくることになるだろうという心持で、作品のことなどかいてあげるのね、きっと。
あの文芸批評について、私の感じたことかいた手紙はもう御覧になったわけでしょう?大分前ですものね。仲々分らない人が多いということを全く同じに感じました。そのわからなさの範囲のひろさと云ったら!今年の仕事への祝福をありがとうね。量質ともに粗末でないものを生んでゆきたいと思います。
それにつれて、いつぞやのお手紙の中にモチーフが豊富になるように云々と云われていたことについて、それがモチーフと云われている味の深さをよろこんでかいたことがあったでしょう?モチーフとテーマということの今日の文学でのありようは風変りです、つるさんの評論集の中に、このモチーフについて志賀が、テーマはあってもモチーフが自分のなかに生れなければかけないというのに対して、横光は芸術のモチーフというものを知らないのね、自分の感覚として持っていないで、世界像を整理しようとする意欲としているのは面白いこと。この二三年はこのモチーフを知らず意欲を知っている連中の仕事師ぶり、生活ときりはなされた題材を平気でまとめてゆく意欲がバッコしているわけです。モチーフというものが、生活と芸術とへの全く積極的な態度なしには生れないというところは面白いし。又自分としては過去の何年かに書いたものの、その点モチーフの的確さの点でいろいろ省るところがあります。又そのことばではなくても、あなたがいろいろ云っていらしたことについて。モチーフのゆたかさは、生活感(芸術家なら当然そこに芸術家としての勘も入っているものとして)の鋭さ深さ、生々しい柔軟さですから、なかなか面白い。テーマが、題材との関係で、積極性を求めて云われたとき、このモチーフにふれて、芸術的分析を十分にして云われなかったことも思い出します。当然のこととしてのみこんでしまっていたと思う。本来的に会得されていたものとして。でも、私一人のことについて考えて見るとテーマとモチーフのことは微妙で、たとえば「小祝の一家」ね、あれなどモチーフがはっきりしている部だけれども、でも、やっぱりもう一層自覚されていたら、もっと作品の上でのふくらみ動き流れるもののたっぷりさがあったと思います。このことは、大変大変面白い点よ。私はモチーフなしにかける作家ではなく生れついているわけですが、テーマのとらえかた、とらえられたテーマの正当性、というか、そんなものへのよりかかりが或ときは生じていたと思う。失敗の部に入る作品は、大体こういうところにその原因があったとも思います。テーマはその骨組みは頭脳的なものでもとらえられるのですから。
いろいろと目を白黒させないように、などと!ああわかったわ、あなたは、すこしユリがのぼせて目玉クルクルさせて、そういうところ御覧になりたいのでしょう?ところが、これはあにはからんやというところです、決してソワつかないのよ。泰然としてね、それは正月でしたからすこしよふかしもいたしましたけれども、大体は早ねで、本よみも、すてては居りません。いずれ、表を。と云って礼儀ぶかくひき下るのよ、大した奥様ぶりよ。フーンでしょう?
多賀ちゃんは、年若い仕合わせに、なるたけさしつかえのないところへは一緒に出かけ、変化も多く暮して居ります。大島のよく似合う着物羽織一組買ってやりました。これは知っている人がお払いはいつでも、チビチビで売ってくれるのです。お金で月給やるようなわけ合のものではありませんから。ところが、表は出来たが裏がないのよ。赤い赤絹(もみ)の布がどこにもないのです、織元でひき合わぬ由。三月になって洋裁がはじまったら多賀ちゃんとしての一日の割当が出来ますから、そしたらそんなに一緒にも出ません。
富ちゃんの年賀電報、そうでしょう?それに、最大の謝意ということ、よくわかります。
「北極飛行」本当にすきです。幸福ということは、どういうことかなどとよく論議されたが、主観と客観の幸福がああいう形で一致し得るということは、何という明るいよろこびでしょうね。多くの世界では、その二つがくいちがっていて、客観的な条件は、その歴史性でとらえてだけ主観的に体得される幸福のよりどころとなり得る関係です。
小樽のおばあさんをつれて、てっちゃんの家で夕飯をたべていたとき、静岡の大火のことがわかりました。(十五日)何しろあすこは鶴さんの故郷ですからびっくりしていたら、いいあんばいに、六千戸もやけたその外廓で、わずか一二町のところで、三軒ともたすかりましたそうです。よかったこと。今の火事は本当に気の毒です。ものがないもの。そしたら皆おじけづいてね、動産ホケンかけようと云いました。本だって何だって大変です。このラワンの机が今こしらえたら70ぐらいですって。二十円そこそこのものでしたが。48.00だったこのシモンBedなんか大した財産というので大いに笑いました、鉄成金になった、と云って。十倍として見ろ、なんて云うんですもの!この動産ホケンのことは真面目に考えて居ります、僅の掛金ならやります。
『中公』の書き下し長篇の話、本きまりになりました。顔ぶれはどういうのかその選びかたが分らないみたいです、女では、岡本かの子、私きり。男では石川、丹羽、石上(新しい人です)そのほか。いろんなところから書き下しが出ているが質のちゃんとしたもの、長篇とはかかるものなりというにたるもの、そういうものを出したい由。紙数が制限されてのびのびかけないから、そういう文学上の意義を完了させたい由。四百五十枚ぐらいの由。七八千刷る由。一割二分の由。四五月ごろからかきはじめることになりそうです。それ迄にすっかりいろいろすませて、それに全部かけます。印税をすこしずつつかって兵糧にして。ああと思うのよ、本当にかきたいものを、と思って。しかしよくよく構成をねって私はかきたいこと、書きたい情景、いろいろ出来るだけ活かして見るつもりです。今はまだまだそこに行っていず。手前ですまさなければならないもの一杯だから。これを二月一杯にすませ、三月以後はほかの仕事は大体のばして。三ヵ月びっしりかかってかき上げます。たのしみです。二年に一冊長篇かくことにして、勉強するのもいいと出版部の人とも話しました。マアこれも先のこと。
東京堂あたりへ行って見ると何とどっさりひどい本が(粗末な装幀で)出ているでしょう。書くものの身になると大安売りの姿で悲しゅうございます。だからしっかりした本が出来たらと思います。文学としてしっかりしていて、本のこしらえとしてもチャンとしたの。
今にきっと、私の手紙はその小説の誕生についての話で一杯になることでしょうね。先ず、あなたにそこに現れるすべての人物を紹介したいわけですから。
仕事の配分と時間のこととを考えると、ユリもそうのんべんだらりとしていられないね、とお思いになるでしょう?
私は、この長篇にかかる前の勉強としてモチーフということについて大いにこねるつもりです、文学上の理論としてというより、作家として自分の内部的なもののありようを見きわめるという意味で。私たちの文学において、このモチーフが気質的なものでもないし、主観的なものでもないし、しかも生活の中で生活されたものから生じるというところ、そこを自分に向ってマザマザとさせたいわけです。鶴さんの本を殆ど終りますが、六芸社の本を出してよみ合わせて様々の感想にうたれます。六芸社の本のなかで、小説的現実と云われていること、描写で追求しなければならないと云われていること、いろいろ又味い直し、この筆者の芸術的感情の本ものであること、しかし歴史の中では、いつも全面を万遍なく云い切れないということなども感じました。作家として、この筆者の芸術性を具体的に示す責任を感じるわけです、いつも感じること乍ら。ではどうぞお元気に。二十三日にね。 
一月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十一日第七信
本当は仕事しなければいけないのですが。ね、こっちのペンをもっているくせに。御機嫌はいかがでしょう、寒さもこんなに乾くとあらっぽくていやですね。こんな冬にはやっぱり、春のような冬とは思えないでしょうね、きっと。
ゆうべも、二十三日にはどうなさるかしら、そして自分はどうしようかしらと思いました、夕方からは座談会があって出かけます、花を朝たっぷり買おうと思います、それからそちらへ行って玉子と花とをあげましょうね、そして、どうしようかしら。あなたもそうお考えですか。それとも考えるまでもなく、という条件でしょうか。こちらには、そこがよく分らないのでどうだろうと思うのです。無理をおさせしてはわるいし、いやだから、玉子にして置こうかとも思い、或は、とも思い。でもあなたのことだから妙な義理立てはなさりますまいから、という結論に達しているわけです。それでいいかしら。
さあ、元気を出して仕事しましょう、でもまだヒンクスのGをつかっているのは心がけいいでしょう?文房堂へこの紙がましだから買いに行ったら、原稿紙はどうかということで、ついこの間68Sだったのが75Sになった由。私のつかっているのは一レン4000で二六円二〇銭かでした。この紙は目つけものです、もとの仕入でしょう。もとかいていたポクポクのよりはずっと楽です、つかれかたがまるでちがいます、第一こんな先のちびたGなんかであっちではこの字はかけませんものね。ひと仕事して夕飯の仕度に多賀ちゃんと五時すぎ外へ出たら、マア、何という月でしょう。空は一面青くて月ばっかり出ているのですもの!「ああちくしょう」と云ったら、多賀ちゃんが、「何で?」ときくの。「だって月が出てるじゃないの」勿論これはきわめて非論理な問答です。あんまり飛躍していると思ったと見えて多賀ちゃんも、ついについて来かねて、折かえし質問はいたしませんでした。
昔の伝説ではないけれども、二十日すぎると私は何となし落付けなくなります。
二十四日
すこし風立っているけれどもおだやかな日ですね、きのうはやっぱり特別な二十三日になりました。朝早く九時すぎそちらへ行って、四時すぎまで居りました。マルグリット・オオドゥウの「街から風車場へ」という小説の終りの部分をよんでしまって、それから三和土(たたき)の上にみかんの皮やキャラメルの紙のちらかっているところを眺めたり、どっさりの男の子や女の子の顔が、何て一つ一つおふくろさんの顔に似ているのだろうと思って念を入れて、その子の対手の女や男まで思い泛ぶようにして見たりしました。午後になってから気分が楽天的になって、いろいろ書いているもののことについて考えたりして居りました。一日同じ建物にいたわけ。
それから、大変待たせて、云々という御挨拶を伺って、家へかえりました。五時には家を出なければなりません。四時半ごろについたら、てっちゃんが丁度来て茶の間に待っていました。いきなり旋風を捲きおこす形で私が入って行ったので、ホウホウという次第です。それから大いそぎでお雑煮をたべて、着物きかえて、そこへ入って来た彌生子さんと一緒に家を出ました。
座談会は木々高太郎、奥むめを、私よ。『新女苑』。十時すぎ散会。かえりに目白駅まで送られて、そこで自動車をおりました。
写真屋の横からずっと入って、左へ行くところを右へぬけました。先のうちの前。門はしまって、寝しずまっている。月は中天にあるから濃い自分の影が足の前に落ちて居ります。そして街燈の灯はぼやけて、もっと大きい薄い私の影をすこし斜(はす)かいのところへ投げるので、砂利をふむ草履の音をききながら、あすこの道をゆく私には二つの影があるのよ。二つの影は何という感じを与えるでしょう!ブッテルブロードをもってかえっていらっしゃるあなたの影も二つあったのだと思います。胸の中で生きものがねじられるようです。そして、歩いて来たの。
特別な疲れかた故、多賀ちゃんが風呂をわかしておいてくれたのが本当にうれしく。ゆっくり入って、そして、思い出すの。何て夢中で入ったお湯だったろうと。床に入って薄くあかりつけて、なかなか眠りが来ず。しずかな寝息がきこえるようなのですもの。凝(じ)っとその寝息の感じを聴いていて、又胸の中の生きものが体をねじるのを感じます。そして、バロックの装飾に、アトラスが下半身は螺旋(らせん)の柱によじられた形でつかってあるのなどを思い出し、そういう様式化のなかに何という残酷さがひそんでいるのだろうなどと考えます。
あなたは体がよくおありにならないから、私のなかの生きものが身をよじる話なんかしてはいけないのだ、とも思うの。自分がこんな気持で、座談会で、女の生活のいろいろのことについて話す。生活というものの複雑なおもしろさ、そして又女の生活の自然な開花を希う私の心に女として何と痛切なモティーヴがあるだろうと思ったり。
涙は出さず、眠りました。
けさ、ひどく早く半ば目がさめ、夢のように、ああ今朝と思いました。暫くそこにある情景のなかにいて、又眠って、けさはおそくおきました。
そしたらくたびれは大分ぬけて居ります。きょうは一日家居。『日本評論』に十五枚ほどつるさんの評論の書評をかきます。評論対評論風にではなく、作家があの本から得て来るものについてかくのです、その方がよむひとにわかりやすいから。
その前にどうしても手紙かかずには居れなく、しかもやっぱりこういう手紙を。でも私は書きつつ、ああいいよ、と云われている声や眼やすべてを感じて居ります。これは正銘だと思います。単数で表現されているものではないと思われもします。ああだけれども、やっぱりこの顫音は消えないわ。いろいろな頭のはたらき。いろいろな日常の動き。ひとへの心くばり。それについてふと消えたかと思うと、又きこえるこの顫音。私はそれにきき入って、それを愛して、そして、一つの顔にじっと目をおいているの。それは何と近々としているでしょう。私の指先が何とまざまざ感じるでしょう。
――[図1、花マルのようなマーク]――
さて、私は一張のヴァイオリンのひき手のように、ここで絃の調子を変えようとします。幾分の努力で。
――[図2、花マルのようなマーク]――
余り空気が乾燥しすぎているのが有害なのだそうですね、特に。お体の様子あらましわかって居ります。どうぞ呉々もお大事に。いろんな場合決して決して無理なさらないように。そのことからおこって来る結果について私の不平はありようないのですから。しかし私は心からいろいろが体にふさわしいようになることを願っています。これは全く心から願っていることです。私に出来ること、とあれこれ考えます。けれども、どうも見当がつきません。
[図3、草の絵]
私がいそがしいので、多賀ちゃんもこのごろはいいおかみさんです。きのうなどね、こんなことがあったの。
何しろそういうわけでかえるのが大層おそくて、郵便局がしまってしまって為替来ているのがとれず。あわただしく又出かける仕度しながら、「困っちゃった、かわせのまんまよ、けさの五円はもう小さい小さい紙くずになったし、いやね」と云ってそのまま出て、かえりに更紗のさいふをあけて見たらカワセの紙がないの。おや落したかとすこし遑(あわ)てて見直したらね、小さく畳んだ十円が入っているの。いつの間の仕業でしょう。なかなかいいおかみさんではありませんか。ハハアと感服して、格子入るとすぐ、大いにほめました。「資格があるよ」と云って。しかし、ここに又微苦笑があってね、心ひそかにおもえらく、どうかこの娘も、こんな気のはずみがおこるような御亭主をもたせてやりたいものだ、と。それはそうですものね。やはり対手によりけりですものね。鳴らない楽器はひけない道理ですものね。
そちらにどんなカーネーションとバラが届きましたろうか。カーネーションの花にも匂いがあるのよ、御存じでしょうか。きのうは花をかえなかったけれども、机の上には、濃紅のバラが二輪あります。半開の手前です。
おひささんがこの間遊びに来ました。そして是非来てくれというので、二月八日に行く約束しました。龍宮荘というのへゆくのよ。面白いでしょう?旦那君のいないとき、昼間行くの。そのアパートにもやっぱり鼠が出ます、「人がいても出ます」とよろこんでいるのよ、「ここと同じこんで」と。可愛い気質です。そして、あなたに重ね重ねよろしくとのことでした。お体をお大事に、と。でも、このことづては例えば昨夜のようなときも何人かから貰いますから、大変どっさりなわけなのだけれど。では又ね。本当に悠々(ゆうゆう)と、ね。どうぞ。 
一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十五日第八信
きのうは電報をどうもありがとう。前便を出しかたがた市場へ、小樽のおばあさんにあげる手袋を買いに行っていたあとにつきました。本当にありがとうね。くりかえし、くりかえし、いろいろによみます。僅の字でもいろいろの声がして。ところが、それでもきょうは何だか病気のようになって午後まで臥(ね)ていました。風邪気のようでもあったのですが。何だか体じゅう切ないようで。ゆたんぽを二つもこしらえて背中と脚とあたためて、ひる頃妙なさむけはとれて、一時間ほど眠って、目がさめたらずっと楽になって、それから夕刻まで一気に仕事しました。何とおかしいでしょう。
御気分はいかが?私の病気がうつらないように。肺炎が大流行です。そのための特効薬がないので死亡率は高うございます。私はチフスと肺炎では死んでいられないと思って用心です。きょうはそれで、午後から夜にかけての会は電報を打ってことわり、欠席。きのうだって九時そこそこに床に入ったのに。きょうもまたそうします。
多賀ちゃんはきょう帝劇で「早春」と「花のある雑草」という映画をみて来ました。ひとりで、切符が来ていたので。面白かったそうです。来てから初めての映画ですから面白かったでしょう。まだ芝居は築地の「建設の明暗」(中本たか子)だけだし。なかなか遊べませんね。いつかの手紙で申していた多賀ちゃんのとなりの娘、あれは来ないときまりました。工廠が出来るから村の内でいくらも就職できますからって。それはそうです。そこで、小学校の女先生の知り合いから、十五ぐらいの娘さんをたのむことにしました。夜の時間を勉強にやってやりましょう。お裁縫なり。これは多分できましょう。そしたら私も一安心。その子のおっかさんはどこかで働いているそうですから休みの日を同じになるようにしてやって、母子で休日をたのしめばようございます。
今年の二十三日のために、何を頂きましょう。数々のほかに。去年はこの万年筆でした。なかなかよく役に立って、こまかいケイに沿うていろいろの幾万の字は皆このペンがつむぎ出したのですもの。今年は何を頂きましょう。何を下さりたいでしょう?こうして机の上を眺めて何がたりないかしら。私として何が欲しいかしら。このガラスのペン皿は決してとりかえたくないし。ベッドのよこのスタンドは、あの水色のよ。よくもつでしょう?これもこれでよし、と。時計だって何しろ夏は十五分ぐらいおくれるという、可愛いい生物があるのだし。何とマア私は何不自由ないのでしょう(!)こんな折でないと私はきっと一つ帯留を買うことにしたでしょう。でも、今は駄目です。石にふさわしい金属もつかえないのですから。従ってそういう種類のものは駄目。本当に何かほしいこと。どうかお気が向いたら考えて下さい。あまりじきこわれるものもいやだと思うし。
私のお誕生日の祝の品先渡しというので、栄さんが新村出の『辞苑』をおくりものしてくれました。「座左」におきます。座右では手勝手がわるいから、座左、よ。栄さんは本月の『新潮』「暦」百五十枚ばかり、『文芸』に「廊下」四十枚ばかり、『中央公論』に「赤いステッキ」三十枚ほど発表しました。これは順々になる筈だったのに先方の都合でミンナ出テシーイマッタというわけです。栄文壇ヲ席捲スと私たちは云って大笑いなの。「廊下」についてはこの前一寸書きました。三つの中では「暦」が一等でしょう。栄さんのものとしてもこれまでの中で一等でしょう。栄さんもこれからが本当のウンウンです。でも面白いと思います。昔、栄さんのところで御飯たべさせて貰った某女史は、あの栄さんが、と申した由です。文学は普通の人からかかれるべきものです。最も豊富な意味での普通の人から。変りものが即ち才能者ではますますなくならなくてはたまりませんからね。×作家が東朝の五十年記念一万円の懸賞に当選しました。「桜の国」という題。大陸にからめたものの由です。二人の婦人作家が三十何枚かの筋書だけ出して、それで通して貰うつもりだったとは、トーチカ心臓だ、というような話もどこからかつたわる。藪の雀のかしましさというような趣もあります、こういう話は。でもたまにはこれも一種の解毒ではないかしら、などと思いながら書いている次第です。
『キング』の地図、おそくて御免下さい。もうじきお送り出来ると思います。もう返品になってしまっているので。
堀口大学からオオドゥウの『街から風車場へ』を貰い、よみ終り面白うございました。この作者のものは「孤児マリイ」、「マリイの仕事場」そしてこれがいいし、私としてはこれをなかなか買います。「光ほのか」が、どんな材料からつくられたかが推察されましたが、つまりは「光ほのか」は作為的であって失敗です。
省線の台数が減り、本数もへり、間が四分、八分、八分となるそうです。いよいよここはいいことね。目白の女子大が神奈川県との境の方へ敷地を買って、小学校、女学校、皆そちらへうつすプランを立てましたって。そしたら今年の入学志願者はぐっとへった由です。そうでしょう。ますます子供の通学ということは親の心痛事になって来ているのですものね。私でさえ多賀ちゃんが洋裁習うといってひっくりかえるバスにでものり合わしたらいやだと歩いてゆけるところをよろこびますもの、自分だってふとこわい気がいたします、折々。この頃バスは信用してのれません。どんなに輪がへって、脳天までビリビリしても市電が安心とは。
こんどいつか気分のましなとき、又お手紙を待っています。お話して、と子供がねだる心持は、こうして考えてみるとなかなか面白いと思います。子供がお話、といってゆく相手との心のつながりが。子供はよく申しますね、長い長いお話して、と。ねえ。 
一月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十九日第九信
きょうの風のひどさ!二階の南の空は正に黄塵万丈です、ガラス戸をあけるとすぐ目の中が妙になります。一天かき曇っています。こんなに干天で吹くのだから。火事がこわいこと。
お体の工合いかがかと思います。しきりにそう思っています、熱が落付きませんか?風邪をおひきになりましたか?いけないわねえ、そう思っている次第です。何しろこういう旱天は体に実にわるくて、丈夫なものもすこしずつ異常です、太陽の黒点がすっかりこっち(地球へ)向いているからなのですってね。もうそろそろそれが移動している由です。来月の雨がそこで希望をもって待たれるのでしょう。
何だか様子が分らないので大分気になりますが、こちらからは呉々もお大切に、というしかない次第です。
私の病気は大体直って、或は直して、ずっと平常です。二十七日につるさんの本のおよろこびをやりました。ごく内輪な顔ぶれでしたが、なかなか呑気(のんき)で久しぶりに愉快だったし、つるさん夫妻もうれしかったようで、肝入役は一安心です。五時半と云うきめだったのに六時半になっても来ず。「きょうは手ぶらで来ていいの知っているのだから、変だ」「妙だ」「何散髪しているのサ」「そうだろうがね」というようなことで七時半まで待って、仕方なく食事にかかろうというときは全く愁眉をよせました。私の気のもみかたをお察し下さい。つとめがえりでおなかがペコペコの連中なのですもの。
いよいよあきらめて食べるものを運ばせたら、そこへ、ヤアとひょこひょこやって来て!二十八日(きのう)お仲人をやるのにどうしても金がいるし、髪はきらなくてはならないし、それでおそくなったのですって。電話のない国ではあるまいし。ああよかったよかった、とやっとたべはじめて十時までそこにいて、かえりました。稲ちゃんが、その場へ人にたのんでかりた紋つきと袴とを入れた大きい箱をもって。
この日には、つるさんが通知して、てっちゃんとS夫妻もつらなりました。互に何とか彼とか接触が多いので、いつまでもさけ合わせていても不便なばかりだから一つこの機会ということが云われたので。食卓で自己紹介して(みんなが)一般的に知り合いとなったわけでした。大勢の中でしたから、知らない人もあって(何人も)万事自然でよかったと思います。これは初めてのことでしたから改めて一寸。
そしたらきのう、てっちゃんが急いで来たから何かと思ったら勤め口がありそうなのですって。産業組合か何かの仕事で地味なもの。月給六、七十円の由。どうしようかと、私に相談に来てくれたというわけです。「ほかに相談するひともないもの、宮本しか」とポーと赤くなっている。「結構でしょう?つとめて見たらいいと思う」と申しました。一度もつとめ人の生活をしないで暮せるというような生活は今の世の中では例外です。いきなり食える食えないのことではなくて、やはりてっちゃんが電話一つかけられないとそれで通っている生活なんて、大ぼっちゃんで変です。いきなりいやにサラリーマンになってはやり切れないでしょうから、そんなところが小手しらべに大いによいでしょうと申しました。あなただってきっとそうおっしゃるでしょう?子供がすこし成長してくれば、フラフラのお父さんなんかはよくありませんし。どうするか、多分きめるのでしょう。赤ちゃんの世話にかまけすぎて一日というのも人生として勿体ないもの。
『日本評論』へ『現代文学論』の書評をかねて文学感想をかきました。すこし面白いと思います。青野季吉が作家の凝視ということをかいている、二月『中公』。「文芸時評」。作品と作家とが離縁している。手芸的作品が多い。小説の本質的危険はここにあると思うと、現実を凝視せよ、と云っているのです。しかし只現象をおった凝視だけで、作品は作者との関係で血肉的なものになるのではない。そこにはテーマとモチーフとのいきさつがあり、作品、作家、作品をうむ現実、作品への作家のつながり工合が問題となるのでしょう。そのことを中心にして、書評しました。
線が細い。わかりにくい。いろいろ云う人もあります。線の細さはきわめて人間と結びついたものがあって、二月『文芸』に、批評家としての生い立ちをかいているなかに、論理の発展、論理が自分より上位にいるようなてれくささへ、特に文芸批評にあるてれくささというようなものをかいている。それにふれて、そういうてれくささで著者が書こうとするものの中を、一気に謂わば息をころして歩きぬけているようなところから来ているというようなことも書いたりして。増刷したそうです。
それからきのうは「三つの女大学」をかきました。益軒のと福沢諭吉のと菊池寛のと。諭吉が語っているところは力にみちて居ります。それが寛に到ると、実に低下している。そこに語られる女の生活の歴史のありよう。『文芸』の仕事に必要な勉強からいろいろこんな副産物が出ます。
これから又『文芸』の仕事の下拵えです。これはやってよかった仕事でしたね。もう二百枚越しているわけです。あともう三四回。それに文学は翻訳文学だった時代、「小説神髄」以前の女の活動について加えなければなりません。S子さんが年表をつくっています。こんな表をつけようと思います。
『哲学年表』の通りの形式二頁見開きにして、左に社会、婦人、次文化、文学、婦人作家と横並べにして。社会、婦人には女学校令が出た、女の剪髪禁止とか、戦争その他。文化文学は一般。ラジウムの発見、トルストイの作品、日本の透谷、そんなものを入れ、右手に寥々と婦人作家が出現して来るというわけです。見くらべて、それで何か学べるというようにしたくて。七十六頁ですね、『哲学年表』が。その位でしょう。これはきっと婦人作家のためのなかなかいい激励でしょう、だって、どんな仕事して来ているか一目瞭然となるわけですものね。その中には、詩集、歌集、感想集なども入れるつもりです。
明日は、父の五回目の命日です。多賀ちゃんをつれて青山へ行って、どこかで林町の連中と落ちあって夕飯をたべることになりましょう。林町はああいうガラン堂だし炭を不足しているし、そのさむさと云ったらないのですって。この頃一寸行く気がしないようで。さむいのよ、食堂椅子にしましたけれど、ストーブ倹約ですから。小劇場にいるように落付かないの。お正月に一寸つづけて行ってこの頃すっかりごぶさた。
可愛いふっくり美人は、頭のおできがひどくなってホータイですって。可哀そうに。どうもすこし反応が鈍い方だと云って居ります。せかせかした娘よりはいいでしょう。
太郎はあいかわらず。壺井さんのところの妹さん母子、越後の高田へゆく筈のところ風雪ひどく汽車不通。そのため大阪の方は電燈が不足で、大阪高島やは、百匁ローソクを何百本とか並べて商売をしている由。東京でもローソクは大事です。(ウチにもあります)
明日青山へ出かける前、栄さんに眼医者へつれて行って貰います、私たち二人。多賀ちゃんのを念のために診て貰ったら先天性母斑というのですって。ホクロとちがう由。それは放っておくと、いくらかずつ肥大するたちのものの由。自信をもってキズにしないでとってぬって(くけるのですって)あげるが、一つでも線にのこるとその細胞から又出来るからレントゲンでやくがいいとガン研究所へ紹介されました。そのお医者が病気、めったな人にひどい光線あてられて、こんどは視力がどうというのではこわいから、明日二人で行って、お礼やら何やら。ケイオーの桑原さんはこういう風に云ってくれませんでした。医者が社交的だなんて、何てバカらしいことでしょう。私はこれからこちらの人のところへゆきます。
本当に御気分どうでしょう。メンソラを鼻の中におぬりになると幾分かわいた息が楽のようですけれど。お大切にね、呉々お大切にね。 
二月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二日第一〇信
一月三十日づけのお手紙一日に着きました。二人宛にめずらしいこと。どうもありがとう。二十四日に下すった電報勿論頂きました。二十四日に手紙かいて、それを出しに行っていた間に電報いただいたのだったと思います。きっと又その後すぐつづけてかいた手紙御覧になっている頃でしょう。私はつづけて一つと、あと二十九日と、かいて居ります。そして、これ。明日は父の命日でというようなこと二十九日にかきました。そちらのは二十七日づけ下すったのが三十一日についています。
さて、せめてバラやカーネーションが美事だったとはいささか心なぐさむことだと思います。よかったこと。でも玉子がお金とはすこしつまりませんね。だって、お金では、ね。私の素志が実現されようもないのですもの。やっぱりないのでしょう。そちらではあがれていますか?こっちは市場で午後四時ごろ売るのですが、前から行っていてうまく買わないとすぐなくなります。随分玉子たべません。たまに多賀ちゃんが買って来ると私がよろこぶので、子供みたい、と笑います。あの子は特別よ、だって玉子たべあきて育ったのですものね。今は野原には一羽も居りませんが。鶏舎がまことに堂々たるもので、そこを改造して朝鮮人工夫の家族がすんでいます、そして冨美子がそこの子とよく遊んでやっています。四日には、多賀ちゃんも行きましたから。
風邪ひいていらっしゃらないのは本当に何よりね。それだけ考えても、遠出しないでいらっしゃる報は十分だと思わなければならないわけです。本当にそれはうれしいと思います。二十七日のお手紙に少量血をお出しになったとありますが、あれは二十二日より前ね。(ああ二十一日とあるわ)風邪と道づれではなかったのね。それならば結構でした。私はかぜがお伴かと思って。本年はすこしわるい人は皆苦手の由です。喀血がふえているそうです。二十三日の七・四はある方ですものね。こうやって体のことを書いて下さると、私は気が休まるの。あなたが知らして下さらなければ、私はまるで見当さえつかないのですもの。その心持は不安です。こまかい様子話して下さると、ほかのいろいろの気持も、それを中心として、合理的に落付くのよ。おわかりになるでしょう?だから書いて下さることは、私の健康のためにも必要なことです、この頃ではそうよ、全く。さもないと、何だか、又体じゅうが小枝の折れたもので、出来ているような気持になったりするから。
シャツは、わかりました。手袋、もっといいのを上げたかったけれど、ともかくあれは毛でしたから。よく栄さんにお礼を申しましょう。
『東京堂月報』のことわかりました。すぐちゃんとします。『年鑑』ね、ダブりました。それに、附図があったので、とりいそぎ送りましたけれど、では『キング』の地図だけお送りして見ましょうね。『キング』の方には中国の部がありますが、ヨーロッパの方は特別なよさがなかったので、先ず『年鑑』を、と思った次第でした。
桶屋の娘さんのことについては御話いたしました通り。米のことが出ましたね。この頃の話題です、どこでも。
一ころ大変ひどくて、お米少々に甘藷を一貫目もって来て、このイモを買ってくれなければ米はおいてゆけないと云ったような町もあったそうですが、近頃ややましになっています。うちは幸、あさかの方からのをつかっていて、直接そのうきめは見ませんが、県外輸出を禁じているので送り出しが自家用でもむずかしくて一俵は送れないようです。半俵ぐらいだそうです。うちは古くて、私の名づけたクサレ米をたべています。去年とりよせてあった俵で、そういうひどいのに当ったわけです。でも、どうやら間には合って居ります。炭は、あっちこっちに救援で、佐藤さんのところ、中野のところ、稲ちゃんのところと一俵ずつわけました。
石炭が問題です。この頃は倹約で二日つづけてお湯を立てては二日ぐらいおくのですが、疲れるとこの二日がなかなかもちにくうございます。今少々あるのがきれたらさて、どうなるのでしょうか。まきでたいては時間が大変だし。マッチも大切な大切なものよ。うちではタバコのみがないからややおだやかですが。林町へおみやげに小さいマッチ二つ買って行ってやると、アーと歓声があがります。いろいろと面白い。
三十日は、多賀ちゃんの眼の医者へ行って、皮膚科の人に紹介されて、それから信濃町へおりて外苑をずっと歩いて墓参いたしました。丁度林町の一行と落合ってそこから霊岸橋のたもとの大国屋といううなぎやへ行って、夕飯をたべました。かえりに林町へまわって、お風呂へ入ったらかえれなくなって泊りました。三十一日は、午後から夕方まで約束があって人と会い。つくづく日本の婦人運動をする人というものの質について考えました。統計というものの正当なつかいかたをも知っていない。そして、紡績資本家にごまかされている。そういう風です。女の立場、女の心持というものに、主観的なものばかりで、科学的なものが実に欠けているのです。
一日は、どうしたとお思いになりますか?こればかりはあなたにもお分りにならないでしょう、議会(衆議)傍聴です。これも、その婦人運動家との話同様、私には初めてのことです。そしていろいろの感想あり。『週刊朝日』から行ったのですが。
急に電力統制になったので、どこもかしこもバタバタです、印刷所などにやはり直接こたえますから。それは〆切りのくり上げということになって、私にもこたえるの。
「第三日曜」までの間にまだいくつもはさまっていて閉口気味です。でも、栄さんにたのんで援軍やって貰うことにしたから何とかなりましょう。面白いものね。口述筆記をして貰うのにS子さんは誰も駄目なの。一々内心で反応するから。栄さんは楽なばかりでなくよくゆくの。可笑しいものですね。人の気質は。私はきっとあなたの口述はうまくとりましょう。多賀ちゃんは余り内容とびはなれていて字からしてむりです。馬琴は目が駄目になって、そういうお嫁さん相手に書いたのだから同情いたします。母の晩年も、そういう人がたのんであって、それでいろいろヨーロッパ旅行記などかいていました。よく、字がひどいと云っておこっていた。
この頃の日常はなかなかいい方だと思います。多賀ちゃんも大体すっかり馴れて、こまかいこと皆してくれていますし。
三月下旬、小さい子が来る前、もしかしたら一人臨時に見つかるかもしれず。たかちゃん愉快にやって居ります。いろいろの人の集るところへも、やはりかまわないときはつれてゆく方針です。そしてそこにあるよいもの、下らないものについて、自分の判断をはっきりさせてゆくことは大切ですから。家族的な圏境ばかりでなく。
二十三日にいただくものね、ああこう考えていましたが、今年はお風呂の寒暖計にします。これは必要だし、永年もつし、大好きなお湯につかうもの、休みのためにつかうもの、新しい活動の力のためにつかうもので大変いいから。やすいものでも可愛ゆいもの、そういうものだからいいでしょう?
本月(一月)の表は、あらまし次のようです。手帖とり出し眺むれば、
甲4(九時台よ)
乙22(十時―十一時)
丙3
丁2
起床はこの頃七時平均です。起床の丙が本月は三日ほどあります。お正月の二日とあと二十四日と、二十八日。(これは丁の翌朝)
読書は六十一頁。
読書は、長いものかく間だけは、やすみたいのです。私の計画では、それまでによんでしまいたいのですが。そしたらいいことね。これが終れたら、あとすこしウリヤーノフのものつづけてよみます。終れたらという字が、ひとりでにかけて、笑えてしまいました。フーフー工合がおのずから流露している次第で。ああなんとあなたはスパルタの良人でしょう。スパルタ人の母とか妻とか云う表現はあったが、これは私の新造語にしろ、スパルタの良人というものもあるわね。すこしは同感でしょう?
ところで、十三日は(二月)すこし風変りな誕生日をしとうございます。ついこの間同じ顔で御飯たべて、その世話をやいてへたばったから又同じようにうちでやるのは、くたびれます。それはあなたのお誕生日にいたしましょう。そして私は十二日に鵠沼にいる女友達で小原さんというのを見舞に行ってやって、それのひきつづきで十三日はどこかで過したいと頻りに多賀ちゃんと計画しています。又一昨年の二月十三日をすごした熱川(あたがわ)へ行こうかとも考えます。或は国府津の家へ、とも。多賀ちゃんも「ああ楽しみ」と云っているが。
国府津、ホラあの式で又フロなしですから(水もないのよ今は)それを考えると渋ります。鵠沼のあずまやがつぶれたのでいやね。さもなければあすこへ一晩泊ったのに。その娘さんは私を先生と手紙へかくひとですから、そこの部屋へは泊れないの。その頃まで大車輪でね、そして二日ほど息ぬきして、そして、又はじめます。私多賀ちゃんとあっちこっち歩くのすきです、寿江子みたいに気が重くないし、ひとを心持の上でひきまわさないから。折角風邪ひかずにいらっしゃるのですから猶々お大切に。もう二日で寒はあけます、余寒が却ってきびしいから、お大切にね。 
二月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月三日第十一信
今朝はこんな大きい字で雪のおよろこびをかきます。本当によい雪よ、よい雪よ、ですね。何と息も体の工合も楽々となりましたろう。余りかっと眩ゆくないのも休まる心持です。
ゆうべ御飯たべて多賀ちゃんが台所のガラスをあけたら「あら雪じゃ」というの。「ホウ雪?」と出て見たら竹垣の上に柔かく三四分もう積っていて。「いいね、いいね」と云って床に入りました。よくつもったこと。
只さえじっとしていられない雪なのに、このごろの雪故、速達出しに出かけたら、アスファルトの上はこわいこと。すこし雪があって下駄の歯がすべって。雪道を葉の青々と黄色い花をつけた春の菜種の花をもってかえりながら、動坂の三月だったか二月末か、ひどく雪のつもった夜、私は繁治さんと高円寺の方へゆく用があって、あなたに何かの雑誌を買うことをたのまれ、新宿のところで本屋の店を出た途端、すべってころんだことを思い出しました。そのとき繁治さんは手をかしておこしていいのかわるいのか、というむずむずした表情をして傍に立っていました。そんなことを思い出し思い出し歩いて。雪のある朝は陸橋の上から池袋の方を眺めた景色もなかなか絵画的です。東京には雪のないとき、この陸橋の下を屋蓋に白く雪をのせた黒い貨車がつづいて通るときも、何か遙かなる心を動かされて面白うございます。
雪や雨はすきです。風は夏の風、でも微風よりつよいと閉口です。
きょうはこれから『文芸』のつづきをかきます。「真知子」に扱われている世界にふれてかきます。鉄兵の「愛情の問題」にある誤りが「真知子」のなかでも別の形で出て居ります。
そちらのバラやカーネーションもこんな光線のなかで、やはり新しく眺められましょう。きょうの雪は私にとって二重三重のよろこばしさです。あなたも皮膚のしっとりした快さでしょう?本当によかったこと。この雪に向って歓迎の窓をあけたのは発送電の親方のみではありません。では又。お大切に、風邪ひかずを願って居ります。 
二月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月七日第十二信
お手紙をありがとう。きょうの雪もゆたかだけれども、私の方も珍しくたっぷりです。
きのうね、小説をかく女のひとが来ていて、そのひとは珍しく来たひとなので話していたら、二月一日づけのお手紙が来ました。多賀ちゃんがだまって例のチャブ台の上においたので、私はチラリとそれを目に入れて、どうしたって手を出さずにはいられやしない、黙って封を切ったら詩の話が書いてあるのですもの。どうして話しの合間によめるでしょう。上の空になって、それでも相手しながら、手紙の上へ手をおいて、話しました。
多賀ちゃんとの暮しだと、あなたも御一家息災というユーモアをお洩しになるし、こちらで笑う気持も自然ね。面白いものだと感じます。
蜜入牛乳の欠乏は、お察しのとおり大変こたえます。芳しいオレンジのは、もうずっとなかったのだけれど、菜種の花のは折々あったのです、それもすっかりだから。そのせいか、それとも余り旱天つづきのせいか、全く温泉がなつかしくて。何か生理的にほしいのです。温泉はいいけれども、ちょっとのことに行かなくて。熱川のつちやね、一昨年の二月にいた、あすこ四円だったのが六円になりました。無理もないけれども。
きのうそちらへ行ったのよ。一昨日の朝、紀(ただし)が無事にかえって来ました。それで林町へ行って、親類が集ったのでおそくなりそうなのでとまってしまい。かえりそちらへよったらお金でしか入らない都合で(物はあるけれど)つまらなかったけれども、とにかく来たしるしに。
バラやカーネーションは、平凡と思えば平凡ですが、やはり何かを語るところもあって、すべて花はやはり美しいと思います。花をよくよく眺めていれば、なかなか感動的です。
机の上にフリージアの花があってね、はじめピンと軽く立っていたのが、花が一つ一つひらきはじめたら、その花々の重さで茎が何とも云えないリズムをもって撓(しな)っています。
白い花弁に一本黄色い暖い色が走っていて、よく見ると深い花底の蕊の下にいかにもしゃれた赤っぽい縞が描かれていて、この一つの花に独特さを与えるこまかい自然の変化にほんとにおどろきます。その花の独特さ、ほかにない調子、それだけにある香り、重み、そういうものをしんから知ってきりはなせないのは、その花の茎であり、花から云えば茎であるというのは何と面白いでしょう。その花にその茎、その組合わせ以外に自然は考えさせもしない、それほど互にそれらしくある。面白いわねえ。美しさというのはこういうところから生れるのだと沁々(しみじみ)思います。
ゆうべは、かえって来た野上さんや何かの歓迎会があってレインボーへ行って、外へ出たら大きい牡丹雪が舞い狂って居りました。バスは前のガラスにその牡丹雪が忽ち白くつくので、折々車掌さんがヘッドの方へ出てはらって又進みます。そんなにして目白まで来て、それからすっかり白い道を一足一足家へたどりつき。夜目に雪の白さは、そこをゆく白い足袋が黒っぽく見えるほどでした。街燈の真下にかえると何か黒い小さい蛾がとびちがっているような影が雪の上をかすめている。そういう景色も面白く。たかちゃん、かえったらすぐコップに雪を入れサトーを入れたべました。「どうじゃろ東京の雪は、大味かしら」と云ったには笑いました。そうかもしれないわ。水気の多い春の雪ですから。
雪が私の髪や肩やショールにかかる。その雪は、家を出るときよんで来た詩のこころと通じるところがあって、私は傘で雪をよけるよりは、雪よ、雪よと顔もさし出すような心持です。頬っぺただの、額だの、唇だの。雪がふりかかります。真直に躊躇なく降りかかるの。雪の片々に心をもたせかけて歩きます。そんな雪の夜の道。早春の雪ね。
なるべく手紙をたくさんかいて、と云って下さり、本当にありがとう。うれしいと思います。勿論それも、体の無理なく、ということの範囲で、ね。申すまでもないことですが。この頃、妙なわるい風邪が流行しています。雪が降ってへるということがないらしいの。用心いくらしていても、何ともかかるのはさいなんのようなところがあるので、この間うちから、もし、ユリが又病気になってしまって、動けなくなったらと思い、ずっとお目にかからないでいることが大変切なく思われました。理研レバーでもふせぎきれませんから。送って下すった衣類というのは袷類でしょうか。そうならいいけれど、もし別のでしたら袷、きもの、羽織送って下さい。ちゃんとしておきたいから。いろいろと心せわしいようなところもあります。
今年は創作の実のり多い年となりそうというよろこびが、このお手紙にもかかれています。私はどんなにそれを願っているでしょう、どんなにか。病気になんかかかりたくない心持分って下さるでしょう?かかってしまえば最善をつくすだけですが。せめて今年は本当に無病息災でと思います。
つるさんの本。いろいろそうです。石坂の「若い人」の評ね、あんなのは、あのひとの弱点に立ってかかれているのです、当時の心理として。あの文章のよって立っている心理のありようについては、あの当時その原因をいねちゃんも私ももとより知る前だったから、何だか変だと二人で不賛意を表現したのでした。そういうこともやはり微妙にうつっています。けれどもあれが精一杯よ。キリキリよ。力量(箇人の)のことでは勿論多く云えますが、その枠の形の大きさでは一杯よ。
あれで、余り骨を折ったから、はやりかぜにかかるだろうと云っているほどですもの、あたりで。空気のわるさは旱天と云うとこんなかというばかりですものね。
二月六日にかいて下すったお手紙、けさ(七日)つきました。私は、ですから何だか毎日手紙頂いたような気よ。第四信とありますが、五信よ。
森長さんへのこと、岡林さんへのこと。わかりました。それは結構でしょう。森長さんへ二度目の分ほどいるでしょうか。今すぐわかりません、というのはね、何しろそんなわけで、大蔵省方面の条件の整備について、私大いにまわらぬ頭をひねっているのです。ところがそっちがまだ大体のプランというところまで組立たないので、この二三日のうちに底をはたいていいのかどうか。ちょっとお待ち下さい。それを条件に入れてプランを立てて見ますから。不得手中の不得手でどうもすみませんが。
『東京堂』一月号のこと、きょう、この手紙と一緒に送り出します。「風と共に」は第一の方でしょうと思います。世界名作全集が四五月ごろから中央公論から出ます。これはいくつもそんなプランのある中で一番いいでしょうから買います。一番下らぬのが新潮の。
地図は『年鑑』の附録の方でしょう?テリヨキのあるのは。
寒暖計いいでしょう?買いました。水銀にあかい色のついたのです。お湯のだものいいわねえ。本当に実用的で親愛で。特製詩集は、表紙の装幀に何かの実(み)のようなふっくりした薄赤い二粒の円い珠飾りのついたののことだろうと思います。ありがとう。よろこびということばを、ひとくちに浅く云わず、その一つ一つの響きを大切に区切って味うと、これは何と深く立体的な句でしょう。心の峯々のようなボリュームさえあります。詩集が私の生活にもたらされてから、はじめてそういうよろこびの感じが実感のなかにとらえられているのもうれしいことです。この頃ひらく頁には、希望という句もあるのですが、それは非常にユニークなもので、何というのかしら、希望の先駆、それは人が希望と呼んでいるそういうものになるのだろうかというような極めて複雑微妙な格調のものです。ニュアンスのごく濃いものです。よろこびの豊富横溢している数章と、この希望のそよぎは風の中にあって、という句との間には、時間という虹のそり橋が描かれています。しかも、瞬間に圧縮されるめずらしい形での生活としての時間が描かれていて、なかなか興味つきぬものがあります。插画が作者たちの手で入念に描かれていて面白いこと。
紀さんは、なかなかよく経験して来ています。責任(部下の生命その他)を深く知って来たというだけでも人間の重みが加りました。生活のモラルのなかで、責任という感覚は大抵、一家の範囲を出ないのが多いから。(一家の父、一家の主等々。日常的世帯的)勿論、あり得る最大限のひろさでそれが感じられているのではないけれども。皆が価値評価に対する従来のめやすを揺られるところは大変面白い。歴史の中ではっきりしためあてがあって経過されてゆく事情、条件というすじが通っていないから、現象的にああだのにこう、こうだのに一方にはああ、と並べて、変な空漠を感じている。これは面白いことね。
やっぱりそうだけれども、紀さんが、歴史というものに大変興味をもってかえったのは面白いと思います。現在につくられつつある歴史という感じまで来て。緑郎は、もう送金が出来ないからかえるしかないでしょう。達ちゃんたちのことを、紀さんがかえったのでしきりに思います。干魚(ひもの)が大変便利でうまいそうですから送ってやります。ではこれで。益〃お大切に。 
二月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月九日第十三信
うちの時計が十三分ばかり進んでいるらしいけれども、午後の四時すこしすぎ。
きょうは西の方に真白い富士がよく見えました。とけのこった雪が家々の北側の屋根瓦や軒に僅ずつのこっていて、そこをわたって来る風はつめたいけれども日光は暖い、いかにも早春のような日和です。二月を如月(きさらぎ)というのは面白いことね。夕刻風にふきはらわれて暗くなりながら青くエナメルのように寂しく透明になる空の色を見て、なにか如月という感じがわかるようです。すこし今つかれて。話ししたくなって。
まあ、この炭何と匂うのでしょう、匂うというときれいだが、ガスを出すのでしょう、胸苦しい。ガラス戸をあけ放しにして。
さて、御機嫌はいかがでしょう。ずっと平調でしょうか。七日にかいた手紙で、いろいろ健康に危険な空気のことおわかりになったかしら。御心配下さるといけないと思って。私はいいあんばいに変調なくて居ります。神経の緊張もいくらかおさまりました。
八日はね、大した先約で出かけました、というのはお久さんのところへ。蒲田のアパートに居ります。八日が誕生日なのですって。是非来てくれと、正月に来たとき云っていたので、約束していたので多賀ちゃんをつれて出かけました。六畳のアパートで、それでも窓がひろい空と樫の木に向っていて、大きいタンスやワードローブ、茶ダンス、デスクとぎっしり。デスクの上には『焼入れと焼戻し』というような本がのっています。デスクの前のかべには「ミレーの晩鐘」の蝋刷りと子供をおぶったもんぺの若い母が馬をひっぱってゆく時かの絵がはりつけてあります。そういう住居でおひささんは私が手製の五目ずしがすきと知っているので、わざわざこしらえてくれて居りました。ハイガ米で酢がきかないの。
二時間ほど話してかえりには駅まで送って来て柵の外に立って動くまで見送って居りました。くりかえしよろしくと申して居りました。相変らず情のふかいひと。こういう天然の情のこまやかさと、ごく月並なものの目安とがこんがらかって年を経た後のお久さんを考えると、何といったらいいでしょう。ああ小母ちゃんよ、と思いますね。あなたへのよろしくにしても、そのうちにこめられる心持は、目白時代よりは複雑なのがわかります。彼女も妻の心がわかりかかっているのですものね。そういうところも可愛らしく思われました。結婚式を十二社(そう)で(新宿の先の)やったのですって。東京での、よ。そのとき私を招(よ)ぼうとしてすっかり仕度していて、お久さんの発議でやめたのですって。来て貰うのも気の毒と。それを話して大笑い。だって急にそんなこと云われても私にはそういう場所にふさわしい黒の裾模様なんというものはもって居りませんものね。矢沢という貸衣裳屋はうちかけまでもっているでしょうけれど、私の身幅はないでしょうから。
蒲田からはなかなか遠いこと。あの辺は水道が大変よくなくてお茶がくそうございます。あんなに戸数がひろがると思わず水圧がひくくて、出ないときがあるのですって。二階だから猶。
池上の方の田圃の中に三間(ま)の家があって三十六円也、片はじからふさがっているそうです。
この家の二階がね、六畳一つで、スケッチに御覧になったとおりです。ここへ入って来ると、私は机に向うしかないの、ゆとりがなくて。それで余りいやだからもう一つ四畳半がのらないかと思って国男さんに相談したら、五百円でも無理のよし。防火材がなくてはならないから。坪二百円でも駄目では三間(ま)で36、もするわけです。
きのう、道でルーズリーフの手帖を買おうとしたらデパートなんかにはありませんでした。ルーズリーフをつかおうというわけは、ちょいちょいいろいろかくのです、耳にとまった会話、景色、そのほかいろいろ。これまでどの位ちょっとしたノートや紙切れにかいたでしょう。けれどもそれをちっとも整理してないのです。だから、何か小説をかくとき、季節のことや何か、不便です。それでハハアと今ごろ(!)気がついて、ルーズリーフをつかって、それをはずしてファイルして月雪花からあらゆることを整理しておこうと思いついたのです。よんだものについてのメモにしろ。そしたらいざというとき引くのに楽です。これまで大衆作家やジャーナリストしかそういうことはしなかったようですが、ちがった内容でそれがされることも私たちにとっては決して不自然でないのですもの。生活の環と内容が大きくなると、やはりその必要というか便利かが生じます。
机の引出しをすっかり空っぽにして整理しているうちにいつか、五月ごろの雨上りの景色をかいている紙切れが出て、何だかその頃の空気がぱっと顔にかかって来るように新鮮でした。だからおしいなアと思ってそして考えていて思いついたのです。仕事してゆく自分自分の方法が、こんなにしてたまって来る、見出されて来るのは面白いこと、ね。
十三日に、どこかお湯のあるところへゆきたくてキョトキョトしましたが、おやめにいたします。無理だから。もし鵠沼にちょっと泊れるところでもあれば、一晩海のそばで眠って来ますが。きっと、一人でいろんなこと一どきに考えて、それで温泉へでも行きたくなってしまったのね。どうもそうらしく思えます。理研のレバーはよくきいて、気分としてはそんな気分でも仕事はやって居ります。何と面白いでしょう。ミケルアンジェロが、フィレンツェにいられなくなって、ローマ暮しで心は悲愁に充ちているとき益〃仕事に熱中したというのをいつかよんで、そういうところまで責められている芸の術というものはこれまた稀有だといろいろ感じました。しかし、そういうことは生きかたの方向としては、もっと貧しい芸の術の場合でもあり得ると思うとたのしくなります。人間の生活のキャパシティーというものはおもしろいものね。
キャパシティーからつづいてのわけでもないけれども、この前のお手紙で云っていらしたお礼のことね。あれは、先のことはともかく、お話しのとおりしておきましょう。考えて見れば先のことはともかくならば猶更というところもありますから。でも額はどうでしょう。やはりおっしゃるだけが適当でしょうか。私は、先に予期されていなかったこともあるし、半分でよいのではないかという気がいたしますが。どうでしょう。半分ずつにしておきたいと思います。そして早速とり計らいましょう。(信濃町のおじいさん、あちらへは、お手紙にあっただけでした。森長さんの二度目の分と同じだけ。(これは暮のうちのことですが)その位にしておかないと写しものの方のことで、しがくがつかないままゴチャゴチャになってしまうといけませんから。このところ些か芸当ですから。ポーランド人の手品がいります、何もないところから一着のズボンをつくり出すポーランド人の手品ということわざがありますが。)
富ちゃんのお嫁さんがきまりそうです。下松で小さいあきないをしている人の娘ですって。結構です。岩本という人の妹をぜひ貰ってくれと云われたが、それは困るとことわった由。そのひとが達ちゃんのお嫁さんになってはこまる、という同じ意味でことわったそうです。きっと決定すれば富ちゃんから手紙さし上げることでしょうが。野原の小母さまの顔が見えます。きょう私へ羽織の裏のいいのを送って下さいました。
どうかお大切に。小包つきました。袷お送り下さい、どうぞ。 
二月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十三日の夜第十四信
十日づけのお手紙どうも、どうもありがとう。これがどんなにしてきょうのおくりものになったかお話しいたしましょう、いろいろと重って吉日だったから。
きのうは朝先ずそちらへゆき、フリージアとスウィートピーの花をたのみました。スウィートピイなんて子供めいているようですが、でもあの花々の柔かい色合いはやはりやさしいものを語って居りますから。フリージアもいい匂いです、ユリの花とは少しちがうけれども。たっぷりそれらの花をあげたいと思ってそのようにして、玉子が抽象的になってしまったからミカンなどを。
それから新宿へ行って、ちょっとおかずを買って、多賀ちゃんと落合って、十一時の小田急で鵠沼へゆきました。久しぶりで海の近くの空気の心地よさ。その小原さんという娘さんは、丁度おなかをこわした後だと云って一層やつれていて、そのやつれた顔をほころばしてよろこんでくれました。すこし散歩したりしてかえって来たら雨。ああよく降って来たというわけで、九時頃鵠沼ホテルというのへ行って午後に話しておいた部屋へ上りました。いかがかと思ったが、笑ってしまって。というのは、その部屋はね、ホテルですからね、何しろ。安アパート式に西洋窓で、大きいワードローブが突立っていて、天井は白、羽目は板、間の壁は薄桃色という、つまりお祝の鳥の子餅の箱の中に入ったようなの。でもいいや、ね。とそれから入浴し、その風呂はいい心持。そして次の間に床をとったのを見たら、スタンドは気がきいているが、そこもアパートなの。そして、その主人が茶気たっぷりできっと天蓋つきのBedを置こうとしたと見えて、天井から枠(フレーム)が宙に下って来ているというわけです。
でもいい心持に手足のばして眠って、きょうは特別とおそくまで床の中にいて、それから朝食をたべ、本をすこしよみ、正午近くパンを買って、又そのひとの室へ行きました。(鵠沼ホテル)
そこの家は日本風の昔からある離室をいくつかもっていて、そちらの方はちゃんとした日本式のところで、茶がかっていて大分落付きます。月ぎめをやっているそうでした。90.00から。この月ぎめというところに一寸気をひかれ離れを検分したわけです。休むとき、不意に人に来られっこのないところにいるというのは何といいでしょう。仕事いそがしいとき、人の来っこないという心持は何といいでしょう。ここなら新宿から一時間二十分、デンワもきくし、夜でも東京へ楽に出られるし、などいろいろと条件を考えたわけです。こんなことを条件に浮べて見たというわけよ。
四時二分で鵠沼を出て、五時すぎついて、新宿で一寸夕飯たべて、かえって、幸子ちゃんのところへ門の鍵やポストのものとりにたかちゃんが行っていて、私は火をおこしていたら、「おでんわです」というので黄色いドテラの上に羽織きて出かけたら、栗林氏でした。この電話は私をすっかりなぐさめました。あああなたにも小さいおくりもの、とうれしかった。そこへこのお手紙がもって来られたという次第です。いい折のいい折についたでしょう?ねえ、そして速達にしようかと思ったとあるのですもの。これはいいおくりものでなかろう筈はないでしょう?それに、題とはこれは全くふさわしい頂きものです。この間うち考えていたのです、折々。本当にいいわ。このまま正題にします。時代の鏡という表現も云わば蛇足で、これは題にならないと思っていたのでした。本当にありがとう。実にぴったりとしたおくりものです、私たちの間にしかありようのないおくりものです。呉々もありがとう。ペン軸も。いつも原稿はペンばかりです。こんど出かけたとき、念をいれてさがして使いいい、永年使うようなのを見つけましょう。
年表は、『哲学年表』の組みかたで社会一般、婦人一般、文化、文学、婦人作家という分けかたにして見ました。そうすると、或年、どっさり社会的な事件、婦人の問題が生じているとき、婦人作家はどう活動していたかが分って、それが貧寒であるということからも、暗示するものは少くないわけです。本当は作品を列挙すべきでしょうね。何年何年と。そこまで調べが届くかどうか。やれたらやった方がいいのですが。何とか懇話会(六日ごろの)あれは長谷川のお婆さんによろしくやられたのでした。その経験でいろいろ分ったからもう大丈夫です。どうぞ御安心下さい。
お手紙に伊豆かどこかの小旅行は云々とあって、迚も伊豆まではのびなかったネと多賀ちゃんと大笑いしました。でも休まった工合です。休まったのが、かえってからいろいろわるくないことですっかり体に入った感じです。又明日からせっせと仕事です。大日本印刷(牛込)なんかさえ夜業全廃です、モーターをとめるから。そのため〆切りのくりあげで大したことになりました。これまで一ヵ月のうち十日間はややひまであったのが、もうすこし本当の仕事のため準備があれば、休む日はなくなります。
読みもの、いろいろ妙なところで、骨格になって来て面白く思われます。ナイティンゲールのことがあって、その天使めいた伝説をただした伝記をかくのですが、そのことにふれて、イギリスの働く人たちの生活状態をしらべた文献がすぐ念頭にうかんで来て、やはり極めてリアリスティックな背景を描かせますし、クリミヤ戦争で兵隊が苦しんだことにしろ、それと同じ時代にそのことを関心して、前の本の親友がふれている、庶民生活のひどい扱われ方として。なかなか面白うございます。ジャック・ロンドンの「奈落の人々」がやはりふれて来ます。いろいろ大変面白く、歴史の現実の豊富を、ごっそりとすくい上げて見られるうれしさを感じます。
私は、この頃、いつか(一昨年のころ)云っていらしたように歴史上の題材を正当に扱われるかもしれないと思うようになりました。一つ何かいい歴史小説があってもいいわね。長篇として。歴史小説の正しさのわかるものとして書けたら。
こんどの長篇は、きょうの歴史を描くわけですが、その次一つそういう歴史をかいて見ようかと何となし楽しみです。女の生活の面から見てね。エリオットに「ロモラ」という代表的な歴史的な作品があります。ルネッサンスのイタリーを描いて。勿論これはエリオットの色と調子ではりつめられているものですが。
いろいろ勉強がこねられて来るというのは面白いものね。この頃、やっと気まぐれでない勉強の意味がわかりかかったようです。例えば『文芸』のを一貫してここまで来ると、いろいろはっきりして、今『現代文学読本』(日本評論)のために書いている(栄さんにたのんで)「昭和の十四年間」は、一昨年正月にかいた「文学」(三笠の)よりずっとましになりました。そういう成長はたのしみです。これまでの十年のみのりをちゃんとまとめたいと切望いたします。今年『文芸』のがまとめられて、小説が一つ長いの、あと短いのいくつかとかければ私は本当にうれしいと思います、フーフーが一段落つくというのは、それに又忘れられないうれしさです。
この長いのは、私は本気です。非常に本気です。題材は必しも「伸子」以後、つまりひろ子をそれなり扱い得ないとしても、いろいろな点では芸術的な価値で「伸子」の発展であらなければなりませんから。この完成のためには本当に本気です。ほかの仕事考えていて、そのことにふっと心がゆくと、暫く眠るのを忘れます。
明日行こうと思っていたけれども、二三日のばした方がよいとのことですから、十六日にゆきます。十六日、十六日と思わざるを得ません。ねえ、そうでしょう、ではどうかお元気で、かぜお引きにならないようにね。 
二月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十六日第十五信
けさお手紙をありがとう。スィトピーはよいとして白いカード?やっぱり玉子組?風邪の気配のことについての短いお心づけは大変いろいろ感想をもってよみました。本当にいろいろ感じて。少しと書かれていることが先へつづけて考えられるし、無用のという字の見えるところもいろいろわかり、衛生について考えて下さることよくわかります。変に神経質になるのはよくないねという声もきこえるし、無用の気づかいに至っては、気は病から、となるが、まさかユリは其那ではないのだからと、折りたたまれた心の道。面白いと思います。本当にそうよ、ネフスキー街を歩いたとき割合でこぼこでしたし角はあるし、最も人間の意力を語る大きい橋があるのですもの。
お礼のこと一層はっきりわかりました。新しい事ム所も出来たし、二十にします。(岡林さん)切手で。
袷、お着になったのはやはりちゃんと清潔にして置きましょう、多賀ちゃんにすぐやって貰えるのですから。お着になった方、送って下さい。
ノートの話もありがとう。実に私はちょいちょい思い出します、心にしみついているのね。ありがたいものだと思います。大変よく整えられて居りますから。
十二日から十三日までの暮し模様は前便のとおり。
さてお体の工合はいかが?熱が出ましたか?雨で空気がいくらか柔かくなりましたが、そろそろもう春の荒っぽさがあらわれました。呉々もお大切に。
きょうは私、自分だけの心で素朴に描いていて。勿論ああでいいのよ。ああならああでいいのよ。
あれから多賀ちゃんと池袋で会って、有楽町へ出てフレッド・アステアとジンジャ・ロージャースの「カッスル夫妻」というのを(映画よ)観ました。この二人の舞踊家は世界の名コンビと云われる踊りてで、現代舞踏を創ったカッスル夫妻の生涯を物語りにしたものです。カッスルがイギリス生れで、欧州大戦(1918)に飛行将校として、分列式のとき、着陸の際、相手のスピードののろさから、自分の機体が先着者の真上になり、衝突をしてしまうか、自分が犠牲となるか、二つに一つとなった刹那、垂直上昇をやって、おちて死にました。(今ならこの位のはなれ業では死なないでしょう)。そんな場合の人間的な立派さが芸術家の真髄をつらぬくというところにフレッド・アステアの語らんとするものもあるらしく、カッスルが戦線から賜暇でかえったとき、余りおそいので不安におののいていた妻のところへあらわれ、二人のおどる踊りは、実に美しい情感が溢れていて、涙を誘うほどでした。深い愛のサスペンスのこもったゆるやかな優雅なふりから次第次第に高まり放胆となり燃え立つ旋回飛やくの後、再びしずかな夢に誘うようなメロディーにうつって二人の踊りては互の体を支え合いながら云いようない優しさにしずまります。
こんな抒情詩のような踊りをこれまで見たことがありません。バレーでカップルの舞いがよくありますが、大体いつもきまっていてね。二つの蝶という型が常套です。そういう小品とも全くちがって一組の心の波動のまま、自然の横溢のままが動きのリズムにうつされていて、本当に、私がきょうという日の心持で見たのでなくても、やはりこれはカッスル夫妻への敬意を求められたでしょう。アステアという男の心のくみ立ても面白い。
アルゼンチン・タンゴのようなもの、いわゆる情熱をそういう形で(追う、つきはなす、つきはなしたものが次には追う式)表現しないもの、ずっと調和的沈潜的なものを、あれだけに表現する男は珍しい。男の舞踏家として実に珍しい。
私はこの一つの踊りの美しさに、大いになぐさめられました。そして、ああ私はきょうあなたにどんな優しい話をしてあげようかしらと考えました。アステアが、その踊りで語るようなものを私に語るひとに、私はどんなメロディーをつたえましょう、そんな風に考えました。
それから富士見町へまわりました。ここでいろいろ話し二十日に日比谷へ行く用がある(ひとのこと、夏のつづき)ことがわかりました。
私はたくさんたくさん仕事して居ります。ひる間、栄さんの方へ出かけて手つだって貰って来て、かえって、別の仕事やるという工合です。来月十日ごろから後はいく分ましになりますが。それに、よしあしね、私は勉強する、ということがわかって、若い女のひとのためのものでも、思いつきでかけないものが多くなって。いいけれど、ユニークですから。でも時間は多くかかるわけとなります。
富ちゃんのお嫁は大体この二十二日とかに先方からの返事がある由です。島田の家へ出入りするひとの姪(めい)とかの由。ああこの字クシャクシャかいて、あなたが坦々をクチャクチャもんでいらっしゃるのを見くらべ笑えました。あの坦々のくしゃくしゃを見れば、どんなにデコボコかいやでもわかりますね。
栄さんの「暦」その他、本になります。このひとが作家として示している自然発生のよいものとその低いものについて、低さの面をいうのはごく親しい二人の女の作家ぐらいだということを、栄さんは一つのおどろきに近いこわさとして語っていました。そのとおりです。戸川貞雄の月評家としての目安も、この人らしいことね。第一のように云っている作品について(正月)多くのひとはいろいろ疑問を呈出しているのです。
内在的なものということを云っていらした意味、この頃、人間の問題としても芸術上の問題としても一層わかります。こういうものは全く一つの可能としてあるだけですね、そのものとして内容ではないわね。内容をあらしめる可能としてあるにすぎないというところ、何と考えさせるでしょう。そして何と多くのものが、可能性の色合いというぐらいのところで、日常にも芸術にも生きて行っているでしょう。しかしその可能を内容と成育させてゆくということは何と自分を劬(いたわ)っていられないことでしょう、面白いわ、ねえ。どうぞお大事に。私もいろいろよくやりますから。 
二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日
こんな紙をちぎって書いたりして、何となく女学生の恋文のようで可笑しいこと。封筒はちゃんともって来て、紙を忘れて。それでも一寸かいて、気を落付けて、それからきょうはここがしまるまでねばります。
このノートの上に午後二時すぎの日光がチラチラして居ります、ここは日比谷よ。珍しいでしょう。あやうく潰れかかった図書館だけあって、内部の設備は実にひどうございます。市の図書館として、こんなところにあるのにしては国辱ものですね。婦人の室なんかほんとに狭くて、ぎっしりつまって四十人ぐらい。この辺の若い閲ラン者はこの辺の給仕や何かしている青少年が多い様子です、そんなこともいろいろ又考えさせます。本の出入に一人の若い人がいるきりです、その人の襟もどこかの夜学のマークがついて居ります。四年というしるしがあります。
それでも上野になかった本が三冊とも(平林たいの)あってうれしいと思います。上野にないものであるのもある。必要にしたがって、下拵えの勉強は図書館で出来るから大分便利になりました。大抵のひと、いやと申します。自分のものをかくということになれば、せいぜいこの位のもの、それも、気分をまとめるに役に立つという程度ね、どうしても。
私の向い側の割合年とった女のひとは一心に英作文をやって居ります。となりには女学生がいて、地理をやって居ります。小さいガスストーブが一つあります。夜になったらあっちへストーブよりへうつることですね。森長さん、岡林さん終りましたからどうぞ御安心下さい。
私はこんなノートをつかって居るのです。そして、大きいのんきな字でたてがきをしてノートとるの。
ではこれから一しきり本よみ。どうぞ御元気で。あったかいようで風はさむいことね。西日が右の顔半面にさして、不安です。でもお客にせめこまれる心配のないのは何よりです。ではこんな紙で御免下さい。よみかえして見ていかにも塵っぽいガタガタ図書館での手紙らしくて可笑しくなりました。これも御座興でしょう。 
二月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十四日第十七信
十八日にね、一枚ばかり手紙かきかけて居りました。それにはこうかいてあります、
ひどい風ですね、きょうは紀を夕飯によんだので、買物をしに出かけて、ビリアードの横を入って見たら、ふとんが干されて風にふかれて居りました。けさはずっと勉強していて、その間に云々と目のかわきの苦しさを訴えて居ります。本当にひどいかわきつづきでした。
森長さん二十二日でしたか?それとも三日でしたか。ともかく、今は漸々(ようよう)ほっとなりました。
忘れていられる時間が一日のうちに出来て、何と頭が楽になったでしょう。
写真かえって参りました。割合早くかえって来たのも分るようでもあり、何だかというようなところもあり。
きのうきょうで『文芸』のを終りました。「あわせ鏡」というのです。例えばたい子の小説、芙美、千代これらの人の作品は、一方に歴史をちゃんとうつして(正面から)いるもう一面の鏡なしには決して本質が明らかにされることの出来ない作家たちですから。特にたい子の作品は、反撥をモチーフとしているという全く特殊なものですから。実にひねくれているものですね、書いていておどろかれます。自分のもっているボリュームの全体でひねくれてしまった不幸な人です。
きょうは土曜日でなければ、やれ、と机から立っておめにかかりに行けたのに。「三月の第三日曜日」はやっとこれからよ、可哀そうでしょう?〆切が六日で校了であるそうです。でもこれは気持いっぱいにあるものですから、楽でしょうと思います。かきはじめたらなだらかにゆきそうです。娘の名は何とつけてやりましょう。弟の名は何としましょう。娘はヤスはどう?弟は何か吉のつく名が見つけたいと思います。どうしても娘の生活が中心になりますね。そして、はじめはその日曜一日を書こうかと思ったのですが、もっといろいろかきたいから題も自然かわるでしょうと思います。
月曜日にそちらにゆきます。明日、月曜日、すこしそのために歩きまわらなければなりませんから。何か妙な映画も見なければいけないの。「迚もいいわよ、可哀そうなのよ」という話題になるのに。
この二月は二十九日あって一日たすかりますが、小説がのろくて困ったものです。
うちでは多賀ちゃんの風邪がやっとなおりました。それでもまだ遠くへ出かけたりする気にならない由です。私は、さては東京に当ったと云って笑いました、富ちゃんのお嫁は大体きまりそうです。きまったら割合早く式をあげるでしょう。お祝いには、腹をしめて働くように、バックルのすこしいいのをあげようと思います。20前後の。いかがでしょう、もし何かいいお思いつきがあったらお教え下さい。バックルはいつだったかデパートで多賀ちゃんと見て、「兄ちゃんこんなのよろこぶ」と云ったものだから。野原のおばさまもさぞホクホクでしょうね。私たちが、先の女のひとのことを、そのことだけやかましく云ったって駄目で、生活全体が変って来れば、と云っていたその通りだと御感服の由です。
多賀ちゃんの方も、よくききませんが、Kという人に、はっきりといきさつを切った手紙、島田のお母さん宛の手紙と同封して送ったようです。サバサバしていると云われると、何だか却って私の方が苦しいようでもありますが、でも、生活のひろい視野が出来て、考えかたがちがったところもあるのでしょうし、それでいいところもある。余り狭いなかで反撥しての選択でもあったでしょうから。しかし、何だかやはり私は苦しいところがあります、その手紙貰った男のひとの心を考えると。この人生に持っているいろいろの可能の相異(外部的なものとしての)を考えると、気の毒です。お母さんはおよろこびのようで、「よりよい娘となって」云々とほめたお手紙がありました。
でも多賀ちゃんは面白い娘です、内へ内へと吸収してゆく性質です。そのために考えきれないほどで、初めはひどく疲れたと云って居ります。
いろんな女のひとがいろんな相談をもって来て、その話をわきできいているだけでも、きっと随分判断力はつよめられてゆくのでしょう。
眼の黒子は三月に入って、私がすこしひまになってからです、ひとりで行って万々一妙なことになるといけませんから。
林町のあか子はまっしろけですって。この頃ずっと行かないので寿江子の話です。
そう云えば、隆ちゃんが家へお金送ったというのはびっくりいたしました。あの僅の金の中からどうしてたまるのでしょう、金のつかい道もないところの暮しなのだろうと思いやります。
達ちゃんに送る本はこれまでも皆島田へ送りかえされて来ているそうです、多賀ちゃんと富ちゃんがよんでいたそうです。時間がないのでしょうね、そちらへたよりがありましたろうか。
隆二さんたらこんどの手紙には饅頭(まんじゅう)づくしです。人を見込んで書くにあらず、自然にそうなるなり、なお悪いと笑うだろうか、とありました。この前のは羊羮づくしで、何とか彼とか菓子やの名を並べて千金賜えとあるから、そんな店があったかしらと返事にかいたら、一銭おくれということなり、と三ヵ月もたって教えてよこしました。一銭より千金たまえの方が景気よい由です。相変らずです。栄さんは妹母子を送って高田へ雪見にゆきました。二人でやっていたのは中途ですが。
どうぞお大切に。月曜日に。 
二月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十五日第十九信
きのうの速達。そしてけさ二十一日づけのお手紙前後してつきました。きのうの分から。
書物のこと承知しました。おっしゃっている本もずっとあの頃から一つ包としてあります。『年報』もそのようにしてありますから。目録念のためにかいておきましょうね。
(1)『朝日年鑑』九年度 / (2)同十年度 / (3)『医典』 / (4)小南の本 / (5)浅田の本 / (6)『経済年報』八年度(四冊) / (7)同十四年度(四冊) / (8)『組織論』 / (9)『月刊ロシア』合本一冊
十五冊
只今はこれだけです。もしお気づきがあったらお知らせ下さい。
足袋は今はくのがありませんから、純綿ではない何かお送りいたします。そちらのひどくなったのを、やはりとりすてにしないで送って下さい。古いのでも手入れをしておけば木綿は木綿の甲斐がありますから。どうぞいろいろのもの(下につけるようなものも)そのおつもりで。これは特別お願いいたしておきます。
私の名代のこと、多賀ちゃんはもうそのつもりで心得て居ります。しかしこの間うち一緒にそちらへは行きましたが、お目にかかるための順は分っていないから明日つれて行って、すっかり教えましょう。勿論わかります。その方が私も安心ですから。寿江子はこの頃いろいろ勉強はじめていて目白へもあまり来ず、フーフー云ってやって居りますから、こちらは当に出来ません。多賀ちゃんがようございます。
てっちゃんにはつたえました。つとめどうなったでしょうね、初めの話のところね、あすこは駄目でした。そして別のところに話がすすんで大体出来そうの様子でしたが。
それからこの二十一日のお手紙。
二十一日のは八信で二十三日のは九信よ。ですからこの次は十通めのわけ。そちらで数を覚えていらっしゃるのめんどうくさいでしょう?いつも前には何日にかいたとかいて下されば順はわかりますから、むりに数をおひかえにならなくてもいいのじゃないかしら。
さて、体のこと。本当にそうです。私の御苦労は云わば問題ではありません。今年は冬が特別ひどかったし、本当に御苦労様でした。きっとこれからずっとましにおなりになるでしょう。そういう気がします。たのしみね。私も体には非常に気をつけて居ります。疲労を早く消すように、ということがモットーです。だからすこしへばったときは九時ごろからねてしまうの。八時すぎでもねてしまいます。そして、フロに入って。これがどうも何よりのようです。考えて見ると、この冬、すこし風をひいたことはあったが、そのために臥ることはありませんでした。尤も今年は特別で、かわきで工合わるくなって床にいてしまった日はあったけれども。成績はわるくありませんでした。今に窓をあけて眠るようにしてね。でも一昨年の夏、すこし妙だったとき、よく強引にしかも合理的にああいう方法でやって下すったと思います。あのとき以来の収穫です、そして、これは何年かの間に、どんなに有益でしょう。仕事をたくさんすればするほどその効力がわかるというところがあります。
勉学の方も、どうもやはりそういうお礼をいうことになりそうですね。私はこの頃どんなに深く本当の勉強をしている人間と、そうでない人とが、相当な年になって違って来るかということを痛感しているかしれません。若い時代は何というか、特に女の作家なんかテムペラメントの流露で何とかやっているが、そろそろ本当に年を重ねて来ると、そういうものだけでは不断の新鮮さ、不断の進歩が見られなくなります。実際勉強は大切です。特に三十以後の勉強というものは、将来を何か決定します。だから、書くことでも、読むことでも、本当に真面目にやるべきです、『文芸』の仕事していて、猶そう思うのです。勉強などでも勉強して見ると猶ねうちが分るというのは面白いこと。
多賀ちゃんのこと、前便でかきましたが、追々又いろいろ別の御相談が生じそうです。多賀ちゃんの家の事情で嫁にゆくと、小学を出たぐらいの小商人か職工さんのところへせわされるのだそうです。農家の土地もちというような家の娘が中等学校出ですって。多賀ちゃんも、こちらで暮して見ると、そういう結婚は辛いらしい様子です。そのことが段々考えられて来ている風です。田舎ではその娘のもっている生活力や成長性を見ず、只学校だけでいうから、例えば徳山高女を出た娘と、虹ヶ浜のところの実科を出たのでは全く違った扱いをするのだそうです。なかなかむずかしいようです。東京、田舎、その間には或る大したちがいがあって、多賀ちゃんはピーピーしながらも明るく楽しく人間について希望をもって生きてゆく男女を見たから、十万円ある家へ何故山崎の東京にいる娘が嫁入らないか、という疑問もすこしわかったそうです、もっとも理由は又別ですが。皆がバカたれと云っているのを、そう思ってきいていたって。こんなこと、微妙で、しかも深い問題です、女の生きる上に。だから、又何ヵ月か経つといろいろの話が出るでしょう。
林町のあか子はまだまっしろけ。隆二さんが初雛を祝って、左の歌を下さいました。
はしきやしマダム・キュリーの絵姿もともにかかげよ桃の節句に。
菱餅と五人囃とその蔭に一葉日記もおくべかりけり。(私はうれしかったから虹色の色紙にかいてあか子にやります) 
三月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十二日第十九信
きょうこそは、よくよく面白い手紙をかかなくてはいけませんね。こんなに御無沙汰したのは珍しいことです、本当に御免下さい。
四日づけのお手紙を六日に頂きました。六日に『日本評論』の小説をかき終るところだったので、そのまま返事かかず。七日におめにかかりに行き。八日九日おめにかかり、十、十一日で二十七枚ほどの小説『改造』へかき終り。きのう夕方の六時にフーッと大きい大きい息をつきました。「三月の第三」というの、あれは「第四」に当るのでした、そしてやっぱり「三月の第四日曜」といたしました。二つめのは「昔の火事」というの。村がどんどん工場地帯になってゆきつつある近郊に、地主のよくばりと、その淋しい孫と、その土地から原始時代の竪穴が出て、そこで発掘が行われてゆくことと、そういう一つの生活の姿です。地主の猛之介は、「人間は儲けがなくてよろこんだり熱中したりは決してしないもの」という信念でいる。だから竪穴から土器が出るというと、それはきっと金目のものだろうと思うし、みんながいやにあっさりしていると、きっと甘いこんたんをめぐらしていると思う。竪穴の発掘のとき、つきまとっているけれど、竪穴が原始の農業生活をうつしていると知ると、「ナーンダ、昔の百姓の土小屋か」とあきらめる。孫はおやじが、じいさんと財産争いで家出していて(養子)淋しいので、発掘に来ている青年になじんで、掘る手つだいなんかしている。一つの竪穴が火事を出した痕跡があって、その火事があったという生々しい身近さから竪穴の人々の生活へ実感ももち、みんなとわかれるのも淋しい。雨のふった日、ひとりで、水のたまったその竪穴のところへ行って、そーっと土のかたまりをゴム長の先でけこむ。水の底からの声をきくような眼色で。そういうような事に土地の利害のことやいろいろ。子供の心におどろきをもって見くらべられる竪穴とその附近の近代工場の煙突や、その昔の街道の大福屋や理髪やにあらわれて来る若い者の変化など。覚えていらっしゃるでしょうか、いつか竪穴のこと話していたの、あれです。火事ということから、人間の生活らしさがグーと迫って来た印象が忘られず、いつか書きたいと思っていたの。「第四日曜」とこれとは、何と云ったらいいでしょう、二枚折の屏風のような関係です。あの面、そして、この面、その二つの面が、どこかでつながっている。そういうようなもの。でも、二つつづけてかくと、同じ様式でかくのが進まず、短い方はずっと変化した形式で、話のように、(リアルな描写ですが)かきました。ああ、そしてね、この猛之介のじいさんは畦の由兵衛という仇名の男でありました。自分の畑や田から道へ出るときは、草鞋の下をこそげて出る、一かたまりの土だって汗と金のかかった土をよそへはもち出さぬという男。猛之介は、しかし、武蔵野の黒い土の厚みを二つにはいで、そこから儲を見ようという自分の智慧に満足している。一方を地下げし、一方を地盛りし、二つを売りものとする、そのために、竪穴の水平断面があらわれたのです。面白いわね。欲一点ばりの爺、人のいい発掘家、少年、その土地のいろいろの風景よ。
七、八日には、「昔の火事」をこねながら婦人のためのものを二十五枚(二十枚は口述)。
二十五日に手紙さしあげて、『文芸』の仕事(二十枚)終ったのでした。だから、二十五日からきのう迄半月、全く眼玉グルリグルリで、それでも、半徹夜は六日の晩ぐらいでした。それでもちました。朝からやって、午後休んで、夜は夕飯後から十時すぎぐらい迄ウンウンやって。一日平均十一枚小説をかいたのは未曾有です。理研のレバーがこんなにきくのでしょうか、又実によくのみましたけれども。体力がへばらなくて、それでやれたという感じは初めて。夜ふかしを余りしなくなったききめだとすると、随分あなたはおえばりになるでしょうね。多賀ちゃんの功績も甚大です。あのひとのおかげというところも多々あります。ですからきのうは原稿とどけてから銀座の方へ二人で出て、夕飯をたべ、九時すぎかえったら、あの雨の音でしょう?ゆうべのいい心持で眠ったことと云ったら。ゆうべは十時半ごろ眠って、すぐ眠って、けさは九時半まで一本の棒のように眠りました。このねぼうはあなただって下さる御褒美と思いながら、ホクホクして。
ああ、でもそういえば、私は二十五日よりあとにもう一つぐらい手紙さしあげているでしょう、「合せ鏡」という題のことかいた覚えがあるのですが。あしたうかがいましょう。何だか夢中だったのでごちゃごちゃしてしまいました。
林町へのお手紙よみました。みんなが、いかにも心持よさそうなお手紙だと云って、返事かくと云っていました。国男が、「姉さんの大変いい気持になるものをぜひ見せてあげたいから」と云って、食堂のサイドボード(覚えていらっしゃるでしょう、壁のところに高くたっていた茶色の彫りのある棚、かがみのついた)のところへひっぱってゆくから、何かと思ったらあれでした。緑茶の話が出ていて、笑ってしまいました。咲枝、動坂の家を知って居りますからね、あの二階でのまされた緑茶ということにはひどく同情して笑って居りました。でも咲枝は感心よ、のまされた人に同情するけれども、のましたものの心底もあわれと十分察して居りますもの。それはそうよ、全く。のましたものの方は、そんなにして、自分たちの新しい生活で仕事を渋滞させまいと思っていた自分の心を、満足にも思い些か残念とも思っている次第なのですもの。
太郎へのお手紙、すっかりよみましたそうです。ヤス子はまだ余り小さくてあそび相手にはならないので、私が、あすこをよんで、「でもヤスコは小さくてまだ遊べないね」と云ったら「キットモットオッキイと思ってるんだネ」と云っていました。太郎も返事をかくそうです。この頃幼稚園でぬり絵をやります、印刷した輪廓に色をぬるのですが、色感がよくて面白いので、かざったりしています、あの位の子の絵はなかなかおもしろい、小学へ入ると凡化します。太郎は今はオンチなの。歌は下手。ですから、絵を着目されている次第なのです。あか子は、大分真白がましになりましたが、余りおっとりしていて、すこし心配な由です。成程そう云えばそういう表情よ。美しいし可愛いしいいのですが、パッチリしたところなく、春風駘蕩(たいとう)で頭の中もそうかもしれません。「はしきやし」はいそがしい最中で、とても色紙買いにゆけず、そのままです。いずれかいてやりましょう。
明日はおめにかかりにゆきます。それから多賀ちゃんの黒子の医者へつれてゆきます。一人でやると、どうも心配で。それから病人を二人見まわなければなりません。もうもう宿題なの。そうしているうちに又仕事がはじまりますから。この三四日はそんなことをして大いにのーのーとして休みます。風が激しくて、いかにも三月ですね。外へ出るのは困ること。三月の風は「第四日曜」の第一章からあらわれます。けれども、今年は大助り、多賀ちゃん、竹スダレのことお話しいたしましたろう?あれを二月十三日の分としていただいたのよ。二間一杯に下げると、光線が眩しくなくて大助りです。八月に冨美子が来れば、私は二階で一日くらしますからその用意もかねて。車がついていてね、糸でスルスルと巻き上る竹スダレの下から、まんまるなお月様が遠いむこうの屋根を眺めるという風流な姿を御想像下さい。
今多賀ちゃんが、洋裁のところをしらべてかえりました。四月五日から、月水金、いいでしょう?私は火木土ですから大変いいわ。場所は目白の通りの左側の角の古本屋の横入った右側、下落合一ノ四三七というところで、歩いて五分とかいてある、マア七八分でしょう、でも、これならば歩いている間にバスがひっくりかえったというこわいこともなくてようございます。速成科を四ヵ月やって、あと九月一日から又その上の課程をやります(研究科か裁断科か)そしたらこの年いっぱいでいくらかまとまりましょう。自由科というのもあって、それは回数券です。井上英語スクールと同じシステムですね。これにきまって私も大安心です。四月五日からのが丁度月水金の組で本当にうれしいこと。そうすれば二人が交互ということになりますから(大体)いいこと。稽古の方は九時―四時。これもいい時間です。家じゅうしゃんとしてやれてようございます。小さい女の子はそれこそ三月第四日曜日ぐらいに来ますでしょう。一寸した郵便局のおつかい、八百やへの使い、御飯たくこと、そんなことから段々なれれば大いにようございます、大森の方の子ですから、都会の生活には馴れているわけです。どんな子でしょうね。のんびりとよく大きくしてやりたいと思います。いろんなことを覚えさせて。多賀ちゃんも可愛がってやると楽しみにして居ります。
お母さんのお砂糖、やっぱりこちらも一時に買えず、買いたまりましたから、きょうお送りいたします。ああ、読書の恐ろしい顔の天使が、右の肩から私をのぞきます、暫く御無沙汰していたからよ。何と嫉妬ぶかいのでしょうね。では、どうぞお大事に、本つきましたろう? 
三月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十五日第二十信
十一日づけのお手紙、かえったら来て居りました、ありがとう。きょうは、退屈したダルマが手をのばしたり足をのばしたりする絵があるでしょう、ああいう工合で落付きませんでしたね。
音羽へは今夜参ります。片方は留守。「奥様は?」「お留守でございます。」これも夜かけて見ましょう。
かえりに目白の市場で多賀ちゃんののむアスピリンをきいたら、思いがけずバイエルのがあって、六粒七十銭。それでも大いに助りました。座骨神経痛というのは風邪とともにおこるものだそうです。気がつかないでいて、いつか風邪をひいていたのね。昨日は、和泉橋へ行くときからすこし妙だったのですって。スーンと走って痛むのでクサレがひろがるのかと気を揉んだのですって。大笑いしてしまいました。夕飯のあと、私はそれは神経痛だから暖めて横になればいいだろうと云っていたけれども、まるで不安な顔つきをしているので、不安で安眠しなかったりするといけないと思って、佐藤さんに来て貰って、どこか押して、はっきり座骨神経痛と云われて安心してよく眠ったようです。湿布して横になって居ります。食慾もあるから大丈夫。ただアスピリンをのむから、胃をわるくしなければよいと思って居りますが。三四日したら直るでしょう。それまではマア、ゆっくり休んでいることです。一粒ハリバの話したら、「うちはまだマーガリンではないバタをたくさんたべているのだからよかろう」と云って居りました。「痛くてホームシックになって、すこし泣いたかい?」ときいたら、「ちっともそんなことはない」って、十八のとき広島へタイプの稽古に行っていたときは、夜よく家が恋しくて泣いたそうですが。
大体この頃気候がわるいのね、寿江子はすこし調子わるくて、十時就寝励行(!)の由です。やっと、早ねの効験がわかったか、と私は大威張りです、はじめの頃、私が夕飯すむと、もう何となし寝る時間を気にしてそわそわしていたのを、寿江子は大分嘲弄いたしましたからね。「結局眠るということが大切だ」と云うから、「そうやって、お前の生意気が段々なくなっておめでたい」と、これも大笑いでした。
前の手紙に一寸かいたし、おめにかかって云っていたように今度は大車輪を、私としてはうまくしのぎました、もうこれで、これからやります。昼間を私は好きだしつかえるのに、昼間を十分いかさない法はないし。私の徹夜廃業が、この間うちの条件で実行されたのはやはり、徹夜廃業が身についたのね。その代り毎日いくらかずつ仕事をいたします。ダーッとやって、ダーッとやすむ式でなくなる傾向ですし、これは大いに良好な傾向です。
お手紙の小説のこと、全くそうね。小説というのは変ね、本当に。この頃の小説は、しかし小さき説をなす類さえ少い次第です、只話している、或は喋っている、そういうのが多いし、そういうのが迎えられます。
写真のことも、やはりいろいろと可笑しい、だって私は十二月初めからこの間まで、あれがそこにあるということで心をなぐさめられていたのですもの。可笑しくて腹立たしい心持です。赤子(アカコ)のはね、まだとってないのです、とりたいと思うし、そうしたら、どうしたらいいでしょうね、というわけなの。太郎とアカ子といろんなところでとった写真をおめにかけたいと思います、あの門、この門、この道、というようなところで。きっと面白くお思いになるでしょうと思って。
起床のことは大威張なのですけれども、読む方はペコペコなの。二月は50頁。三月に入ってからは迚もで、やっと十三日から、まだひどい貧弱ぶりです。決して逆転してしまうことはないのです。でも、どうぞどうぞあんまり眼玉をグルンとお動かしにならないでね。身がちぢむからね。こんな肩身のせまい思いをする気持、あなたはお分りにならないのでしょう、くやしいぐらい、ね。
きのう「ユリは丸くなったねえ!」と仰云ったには、本当に恐縮しました。うちへかえってもハアハア笑いました。だって私はこの何年かの間に徐々に徐々に丸くなって来ていて今更おどろかれたというのは全く仰天ものでした。でもね、私は大笑いしつつ面白く思いました。だってきっときのうはそんなこと、ハハアとお思いになるぐらいどこかのんびりだったのね、きっと。顔ばかり見て、用事用事ではないところがあったのね、いくらか。
そんなにホホウとお思いになって?誰をか恨まんやですね。本よみのことで、こんなに肩身せまがったり、こんなに忙しがったりして、それでも痩せる方へ向かないというのは、よくよくのことだから、どうぞあなたも御観念下さい。隆二さんをやとって「はしきやし丸き女房もまたよかり」という和歌でもつくってもらいましょうか。「またま、しらたま、かくるとこなし」とでも。
小説のことになるけれども、この頃はあなたも又改めて通俗小説のフィクション性をお思いになるでしょう、私は痛感します。現実の発展を偶然にたよるということが、フィクションの法則みたいに云われているが、それはまだしも素朴な部ですね。偶然にもあり得ないことを、必然のようにつかってテーマを運ぶのだから、通俗に堕さない文学上の判断というものが、何と大切でしょう。
文学のこういうことに関して、どうせ門外漢には判らない、となげすてることで、一応文学の専門家と云われる人々のフィクション性をバッコさせるのですね。現実を現実として見てゆけば、作品のフィクション性から真のテーマのありどころが、やはりわからないことはないのですから。そういうことでもいろいろ深い感想が刺激されます。小説家が過去の範疇からよりひろいものとしてその常識上のカンも発育させるということは、何と大切なことでしょう。現実の真を見ようとする熱意の及ぼすひろさということも考えます。
長篇の準備は四月に入ってからです、尤もあれこれ折にふれてはこねているけれども。私は何か気持のいい作品がかきたいの。清潔で、深くて、ブリリアントな人間の心が描きたいのです。
時期のこともあり、結局うちにいて、毎日をよく整理して、多賀ちゃんにも出来るだけ助けて貰って、そしてその仕事はやりましょう、よそへ行くことは不自然です、そうして、今の私たちの生活として、そうしてでなければ書けないというようなものをかく必要はないと思うの。芸術の世界の感覚として、ね。これは同感でいらっしゃるでしょう?芸術の必然にとってもこれははっきり云えると思います。ですから、この点ではガンばるつもりです。四月に入ったらそろそろほかの仕事をみんなことわります。長篇の稿料を貰うように相談してありますから何とかなるでしょう。六月六日には島田に行かなければなりません、三年ですから。こんどはいろいろな点からごく短くしか行けますまい。それ前に達ちゃんがかえるといいけれども。もし達ちゃんがそれ前にかえっても、私はそのためにかえることは出来にくいと思って居ります。どうお考えでしょう。きっとお母さんはおわかり下さるでしょうね、あなたからもよくおっしゃって下されば。
多賀ちゃん、ひっそりして臥て雑誌よんでいるようです。これから台所へおりて、夕飯たべたら、音羽へゆきます。
こんな風にして動いている私のふところの中には、やはり例の淡紅色の表紙の詩集が入って居ます。枕のそばにあったり、枕の下にあったり、いつの間にかその上で眠って、体の下になっていたり。机の方ではいつも左手のところにおかれます。そして、一寸つかれたときひろげて一行二行よむのですが、詩の面白さは、ほんの小さい情景をかいた短いものが、やはり心の中に入るとひろくひろく瑞々しくひろがるところにあるわけでしょう。「物干」という題のを覚えていらっしゃるかしら。季節は今ごろです。暖い春の光に質素なふとんを陽に向けてかけつらねた小さい家の物干。という描写からはじまるのですけれど。彼等は二人の子供のよう、彼等は二羽の雀のよう、という句もあるわ、覚えていらっしゃるかしら。親しい友達に一寸かくれん坊して、笑ってよろこんでいる彼等、そういうような初々しさの漲った描写もあります。
私は屡〃この詩をよみます。机の横の障子の外の竹すだれの外には、ここの物干が明るく陽に光っています。そこに折々あなたの着物だのがほされて。その間に顔を入れて陽のあったかさを感じていると、その詩の心は何とまざまざと生きて来ることでしょう。あなたの御愛誦の詩のはなしをきかせて下さい。では又、ね、お大切に。 
三月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十七日第二十一信
きのうから手紙かきたく。夕飯をしまって、さて、と思っていたら人が来てしまいましたので到頭昨夜は駄目。
けさは、普通の時間に多賀ちゃんがおきましたので随分うれしかった。私はほっとして、すこしね坊。
御飯たべてから、多賀ちゃんは、うれしそうに上機嫌で、きのう寿江子がもって来て、かえるとき忘れて行ったパンジーを、植木鉢に入れました。たかちゃんは器用にいろいろよく知っているのね。野原の小父さまの御存命のころ、台所の柿の木のところから、ずっと十円も種をまいて花つくりをしたのですってね。小父さまがくしゃくしゃして変になりかかると、そこへつれ出して楽しんだとのこと。いかにも可愛い鉢が三つ出来て、私も手や前かけを泥だらけにしながら大よろこび。
それから二階へ上って、恐ろしい顔の天使をよんで、(吉例、読書よ)メモを見たら急にあわてました、というのは、十七日にわたす原稿が一つならずあるものだから。多賀ちゃんの病気いろいろでつい御放念だったものだから。
あわてている最中に、一箱つまった小説をもって来た人あり。辛い浮世と申すべし。
それから又引つづいて、百枚以上の小説を、ABCから話してあげる女教師が来て、もう西日に傾くころやっと、ここへ戻りました。
その女教師先生は、小さい女の子の世話を予約していたのですが、急にその子の小父さんという左官やさんが引とって世話したいということになりました由。六七人小僧をおいている由。さもありなん、です。別の子をもう一人当って見るということになりましたが、どういうものか。
多賀ちゃんが稽古に行ったって、よろしいのです、ただ一日じゅうきまって昼間は留守というのが、不用心で、それが閉口です。昼間しめておくと、例えばゴミとりさんというようなものが入れないから一回ぬけます。するとこの頃人不足で、間が永いからゴミ箱を見ると、このおユリが悲観するという哀れな状態になるの。閉口ですね。きっとこの春は空巣がバッコすることでしょう。四月から、うちも何とか方法を立てなければなりません。まだいい思案は浮ばないけれども。
それから、この近日うちに、私は種痘いたします、珍聞でしょう?余り天然痘が出ているから。そして市内の各方面からのひとの中に一定時間大体毎日いることになりますから。古い古いことです、右の腕にホーソーのついたあとのあるのは。円いのも、またま白玉でどうやらしのげるのに円い菊目石というようなものになったら、余り相すみませんものね。天然痘が銭湯に入ったりいろいろの芸当をやっているのをよんだら、こわくなって来ました。不思議な春ね。
そんな有様だのに、林町のああちゃんは、小さい息子が風邪ひきで国府津へ行かれないからその代りと云って、湿布している息子を銀座へつれて行って、フジアイスでアイスクリームのましたときいて、あっこおばちゃん大憤激です。
本当に手紙書こうと思っているのです。風邪というものを何と思っているのでしょうと。あなたにぶーぶー申して、お笑いになるでしょう、私は、でも太郎が可愛いの。そして、そういう愛されかたを可哀そうに思うの。そういう愛しかたをするああちゃんも可哀そうなの。そして、腹がたつのです。それを、こうしてここにかく心持。それは女房の心理、ね。こういうブーブーを、あなたはごくたまにしかおききにならないのですから、まあおきき下さい。
こうして話していながら、ああ今夜は誰も来ませんように、と心ひそかに願って居ます。今夜と明日とで、こまかいいくつかのものを仕上げてしまいたいから。
それをすましたら栄さんとやっていたものを終って、『文芸』のつづき何回分か終りまでずっとつづけてかいてしまって、さて、と長篇にとりかかる順序です。
稲ちゃんの「素足の娘」(書下し長篇)よみはじめています。何だか、作者が抑制して書いているのと、若い十五六歳の娘を自然思い出として書いているところともあり、今までのところではブリリアントなものが少い、少くとも「くれない」より光彩がないような印象ですが、どうかしら終りまで行くと。楽しみにしてよんで居ります。
これから自分が書こうというものについても連関していろいろ感じます。「くれない」は毎月連載されて出来たもの、これはずっと宿やでかかれたもの。そういうものについての感想もひき出されるし。
書く必然がわからなくて、というような手紙の文句があったことを思い出したり。長篇というものはなかなかのものですね、随分しっかりした骨格がいる。石川達三のような、昨今の請負人みたいに代用品ドシドシつかってこんどはアパート、こんどは工場、これはいかがと小住宅もつくるというのもあるし。
石川の「結婚の生態」という小説はひろくよまれるのです、そして参考になりました、というようなことが、若い娘の口から座談会に出ている。可哀そうねえ。娘さんの生活内容も。より若き世代ということはより貧しき世代であってはなりません。
『文芸』の仕事、栄さんとの仕事の必要から、その生態なるものも、解剖しなければならず。買うのが腹立たしいような本というものがあるのは奇妙至極なことね。私は寿江子のをまわさせました。
いろんな妙てこりんなものをよまねばならず。これも修業の一つかしら。私のこの頃の読書の範囲を考えて、何ていろいろと思いました。どんな知識も有益です。大衆文学性を打破するための本当の知識などは、大いに私を愉快にしますし、自分の常識のあいまいさをも痛感します。常識の誤りに逆手をとられるというようなのは真平ね。御同感でしょう?そして、私は私らしくクスリとするの、私の読書力は、何とリアリスティックだろうと。(云いかえれば、そうね、はっきりしているだろうか、と)分りたいと思うと、分りそうもないものも分るのですもの。何と可笑しいでしょう。私の語学のように、これも気合の一種でしょうか。
ああそれから、私はいつかアイヌのことについて、手紙の中にかきましたろうか。十九か二十のとき北海道へ長くいて、アイヌ村に暮したりして、アイヌをかきたいと思って勉強したこと、まだ私には荷にあまっていた(かんどころは今も同一ですが、分析や展開が)ので、一章だけロマンティックにかき出して、旅行のためそれなりになってしまっていたのを、この間ふと思い出して、これからならかけると面白く思ったこと、まだ書きませんでしたろうか?長篇のこといろいろ考えていてそれを考えたのです。いつか長いものに書こうとたのしみです。非常にいろいろ面白いのです。一人の女のひと(アイヌのひと)が中心でね。ロンドンのことや何かまで出るのです。その女のひとの見た世界として。ヴィクトーリア式女のイギリスを、このアイヌの娘が見て、いろいろの感じ、いろいろの受けかた、その適応の型、いろいろ大変面白いのです。溢れるような曠野の血が一方に流れて居り、一方に無限の悲哀があり、最も消極な形でのスケールの大さをもっている女の一の心です。
それからもう一つ、お座りのとき、竹越の『日本経済史』をよんで面白く思った、お菊という女。これは淀君の仕女ですが、当時のいろいろのそういう女の境遇をよく語っていて、面白いの、たとえば、非常に乏しい着類とか。ああいう色彩のバックにどうしてかこの女の名が出ていて、随分面白い。これは西村真次という人の随筆めいた本の中にも目次に出ていて。いつかやっぱりかいて見たいと思います。調べて。
それからもう一つ。これは大名の妻。大した美人。だもんだから、父親が政略的にあっちこっち嫁にやっては、あとでその良人――婿と戦って、敗北させて、娘をとり戻す。最後のその伝がはじまったとき、その妻は父からの脱出の使者を追いかえして、可愛い娘二人かを手にかけ自刃します。当時の強いられた女らしさというものが彼女をそういう命の終らせかたに追いこんでいる。この娘たちも女にこの世に生れて私と同じうきめを見るならば、と自分と一緒に命を終らせている。そういう女の燃え立つ心、それは単純に良人への愛ということだけで云いきれないでしょう?心を打つものがあって、それも同じ頃(お菊と)よんだのだが、どこにかいてあったか忘れてしまって、場所が(本の)見つからないのです、武家時代のことですが。
近松なんかは義理というものに挾まれた武家の女の苦しみは描いて居りますが、その妻のプロテストは義理ではありませんものね。
さあ、こんなに種明しをしてしまって、何だか、きまりわるいこと。肝心の一番手近のはまだ何ともきまらずボー漠としているのに。でもね、歴史小説にしろ、女のかく歴史小説というものの特色はあり得るという確信はあって、やはり面白うございます。これらは何年の間に出来上るでしょう。これで案外遠いものほど近いのよきっと。つまりお菊その他が、アイヌより先になり得るのです、いろいろの点から。
ああこれだけ話して、すこし心持がよくなりました。こんな種、太郎ではないがダイジダイジで、喋らないしね。ロンドンやパリが、その女のひとの目で見られるのも面白いこと。ではどうぞお元気で。忙しすぎないように。 
三月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十二日第二十二信
ひどい風!南の方の空は赤茶けた埃の色でよどんだようになって居ります。
今、妙なことして書いているの。ペンをもっている方の手首に、ホータイのあるのはけさ御覧のとおり。その上、おなかにゴムの湯たんぽをかかえこんでかいているの。変でしょう?
きょう、そこの裏の池袋へ通じる市電の停留場にいたら、風がスースーと体にしみてしみて、何とも云えない気がしたら、かえって気分わるくて、パンをたべるとすぐ湯タンポを二つも入れて臥てしまって、午後やっとおき出し、この体たらくです。
この間うち暖かったのに急にこうだから。春は荒っぽいこと。面白さと云えば云えるけれども。
あなたもどうぞお体をお大切に。この頃の気候は血を出す人の多いときだそうですね。そのことについて面白いことききました。普通の人は、ドッと出ると非常に驚愕して思わず息をつめるのですって。出すのを抑えようとする反射的な動作で。すると、そのように息をつめたあとは、どうしても深呼吸になる。そして血を戻すことになり、窒息がおこったりする由。出るときは上体を斜におこしたもたれかかった姿勢で、かるい咳で出るのは出して、そして塩水のんだりひやしたりした方が大局的な安全の由。この間その話きいて、いつか書こうと思って居りましたから一寸一筆。ハッと息をつめる感覚がいかにも実感でわかるもんだから書きたかったわけです。私には成程、と思えて。自分は、息をつめそうですから。あなたはもう身につけていらっしゃる注意かもしれませんが。
この火傷はね、十九日の制作品です。前日、二十七枚もちょっとした感想かいて、十九日の夜は星ヶ岡で座談会があって、そこからかえって、やれやれといかにものーのーしてお風呂に入って、いい心持で煙突のあっちにある歯みがきのコップをとろうとしたの、半分眠ったようなうっとりで。そしたら、自分の腕の短さ、その円さをすっかり忘れていたので、下の金具にチリッとして、本当にチリッと云ったような大きい感じでハッと目をさまし、オリーブ油をぬってねましたが、次の日われらのお医者が見てしっ布しろというので、あの形です。すこし紫色になって来たからもう大丈夫でしょう、化膿はしませんでしょう、ひきつれにもなりませんから御安心下さい。今はハンカチーフをたたんでくくっておくの。シップでふやけそうでいやなので。
それから、今夜種痘いたします。これをしないとこわくて。いろんなこと!
お母さんからお手紙で、やっぱりすこし風邪で神経痛がなさいましたって。そして前の河村の細君たちにいろいろ手つだいをして貰ったとおたよりですから、明日あたり何かあのひとたちのよろこぶものを送っておきましょう。お母さんにもお菓子お送りいたしましょう、サトウは一人宛十銭ですって。それも配給のあったときだけ。ですからお送りしたのでも大助りとのおよろこびです、今にそれよりはましになるそうです。
達ちゃんから航空便が来ました由。いよいよかえる日が近づいた様子です。電報を打つと云ってあるそうですがそれは打てますまい。早ければ本月うちに任地を出発するだろうとのことです。よかったことね。全く安心です、かえった顔をお母さんはどんなに涙をたたえた眼で御覧になることでしょうね。
そのとき私にきっとかえって欲しいとお思いでしょうが、この間手紙で申上げていたこと、考えておいて下さい。時間的には随分苦しいの。ですからもし行けばほんの三日ぐらいです。前後を入れて五日。しかしなろうことなら六月にまとめたいのですけれども。
うれしいにつれてね、心配です。おわかりになるでしょう?私が達ちゃんのどういう点を心配がるか。こっちで一度経験ずみだそうですから却ってましかもしれないが、もう単純ではないから、全く。すぐお嫁さん話で、もうお母さんもその一点をゴールですから、かえったら本当にちゃんとした手入れしてからでないと。よく不具な子をもったり白痴もったりしては生涯の不幸だから、そうでなくてもお嫁さんの足が曲らなくなったりしてはことですから、よくよく注意が肝要です。あるものとしての処置をすべきです。口さきでのきれいごとは誰にも通用しはしないのだから。そんなことですむ以上深刻なわけですから。
ここまで書いて、今はもう夜です。
おなかの苦しいのは癒って、よく夕飯をたべました。そして左腕に、もう種痘をしました。原価七厘(五人分よ)。それを薬屋では十銭に売ります。町の医者は一人前三十銭―一円とります。伝研に種切れで、きょうは五人分しか薬屋が届けて来なかった由。私のは生れて初めてのが、右に大きい紋になって一つあるきりです。つくかしら。ついたら痒くて閉口ね。その代り安心です。この間うちは人の集るようなところ随分さけて居りました。林町では浅草に近いから強制の由です。
この頃はお忙しいから「暦」も「素足の娘」も御よみになれないでしょう。「素足の娘」一人称で書かれているものです、若い(十六七歳の)娘が性的に目ざめて来る過程、その途上におこる予期しない或男の行為。そのことから追々生活的にも目ざめて来る心持のうつりかわり。父と娘との風変りな生活。いろいろこまかいものです。決して通俗的に書かれていません。ニュアンスでよませてゆくようなものです。けれども、何だかまだまとまらないけれども、何だか感想があります、何か心にひっかかっています。このひっかかったものは面白いからしきりに考えているのですけれども。何だか変な気というかしっくりしない気というかがするところがあって。本当に何なのでしょう。いずれ又わかったら、どうせかかずにいないでしょうけれど。三人称でかかず一人称のところが、却って作者と距離をこしらえているのかとも思うけれど。眠くてしかたなくなったからまだ九時半だけれど御免なさい、ね。 
三月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十四日第二十三信
きょうは日曜日。可笑しい可笑しいことおきかせしましょうか。ゆうべは私眠たくて、九時半ごろ二階に上ってしまいました。いろいろあなたのおっしゃった詩の話や小さい泉子の話思いかえしながらすぐ眠ってしまいました。夜中に一寸目をさまし。そのまま又眠ってけさ、時計がうつ音で目がさめたの。おや何時かしら、一(ひとう)つと数え、二つ三つとかぞえ、九時ごろになったのかしらといい加減びっくりしていると、八つ打ってもまだやまず、九つうってもまだやまず、どう?十一打ってやっとやみました。ホーホーと笑い出してしまった。十時から十一時迄は十四時間よ。びっくりしてドタドタおりて行ったら多賀ちゃんが、ホーと云って笑い出しました。どういうことになったのかと思ったのですって。私のいびきは下へもきこえるのですって。それがけさは、クーともスーとも云わないで、下りて来ないし、どうしたのかと思ったって。いびきは体か頭のつかれのひどいときかくのね。十時間も眠ってあとの四時間ぶんいびきかく必要がなかったのでしょう。何と眠ったでしょう。うれしくって。いい心持で。これで一時ごろねたりしてのことなら私はこんなにホクホクして手紙になんか書かないでしょう。気がひけているわ、きっと。ところが十時に眠ったのですから、素敵だと思います。いいわねえ。自分が可愛くなってしまいました。この間うちの疲れが出ているのでしょう。こんやも又早く早くねるの。楽しみ、楽しみ。可笑しいでしょう?ひどい風だしくたびれるのよ。あなたもお笑いになるでしょう、そしてそれはよかったねとおっしゃるでしょう。
この前の手紙、たった四枚の、あれは手紙にも疲れが出ているようなのでした。書きながらそう感じました。
きょうはチョコンとしてよく眠ってぱっちりして、泉子をつれて、あなたの前へ坐っている、そんな感じ。この感じも大変面白うございます。
きょうはね、すこし仕事しようと思っているのですけれどその前に、すこし、こうやっていろいろの話。多賀ちゃんは今、動物園と有斐閣へ行っているのよ、動物園で面白いグラフィックを売っているの。それを病院にいる健造にやろうと思うの。あしたそちらからのかえりに。八人の子供たちがいるのですって、その部屋には。少年の心持で、初めて病院の暮しどんなでしょう。あしたはそのグラフと『ジャングル・ブック』をもって行ってやります。たべるものは分らないから果物(オレンジ)を少々だけにして。
このうちにたった一人、私たち二人きりの感じ面白く思います。二人っきりという特別の感じは、やっぱりほかのひとがいるとない感じね。こんなことを話している声の調子も何となく低まって、わきにいるひとにだけきこえればいい、そのひとにだけきこえる声でものを云っているといういい心持。これも親密な面白い感情。私は意味のない、それでいて深い深い心のある鳩のような声でクウーと云って見たい心持です。クウーと喉をならしながら鳩は膝から胸へ、胸から顔へ、クウーとよってゆくでしょう。それをうつひとはないわ、ねえ。
泉子の様子をお目にかけたいこと。少女から若い娘になって、紅梅のような風情でしょうと思うのですけれど。決してわすれずたよりよこします。ふーっとせき上げて来る心持があって、覚えずたよりよこすと云った風です。つつましやかで、しかも充実した横溢性をもって溌剌としているところ、いかにも女です。そして、あなたも御存じの、いづみ子のごく仲のよかった子、その子への心持も段々成熟して来ているのは本当に面白いところです。心の成熟というものは微妙ですね。幼い思い出ばかりにとどまってはいないのね。やはりきょうにちゃんときょうを生きているのですもの。全く近く、全くさながらそのように感じる瞬間をもっているのは不思議な心の力です。私は神秘家ではないけれど、それとは全く反対の現実の活々とした豊富さという意味で、例えばいづみ子がそういう瞬間の横溢の刻々のなかで成熟し、ゆたかにされてゆくことに驚歎いたします。彼女はもとからそうでしたが、やはり敏感です。愛に感じやすくて。よろこびが戦慄のように走るとき、何と上気して気を失いそうになるでしょう。ひき入れられるような身ぶりのとき、いづみ子が声ない叫びで微(かすか)に唇をあける様子、そのふれる感覚にまかせてゆく風情。非常に趣ふかく、昔の物語りの表現ではないがあわれふかい趣です。
本当にあなたが御覧になったら何とおっしゃるでしょう。ふりわけがみの幼なじみが今のいづみ子に会ったらきっとおどろき、そしてどんなに恋着することでしょう。彼女にとってそれは意外ではないのですものね。自分の心は知っているのですもの。このこの成長、美しくゆたかな成長はみものと思われます。
私はよく自分が女の芸術家に生れ合わせて、いつか何とかして、こういう微妙きわまる女のいのちの姿を描き出してみたいと思うことがあります。
岡本かの子はそういう生の力を或点やはり感じていたのでしょうが、その表現、その再現の世界は、謂わばそういうものに感動する自分の様々の姿を鏡にうつしてみて、我から我に惚れている範囲ですし。
アベラールとエロイーズの話、御存じでしょうか。この二人は二人で神のなかへ没入してゆくことで自分たちの愛の完成をとげようとした中世の男女ですが。かの子の世界でもなく、アベラールたちの世界でもない、リアルな情感の世界があるということ、そういうものも歴史のなかで発生していること、それが芸術化してみたいと思います。でもこれは大変むずかしいでしょう。そういう可能の諸条件というものは、作品のうしろにおかれ得ないでしょうから。単な人間性のゆたかさというものからだけ描けるものでもないのだし。
こういう美しさが立体的に描き出されてこそ新しい文学の溢れる甘美さはあるのでしょうけれどもね。
この頃かの子の文学の本質がわかるようです。彼女の小説は女がかいた小説ではなくて、小説の肉体は男の肉体での文章やコンストラクションや何か。いつか書いたようにあれは合作なのだが、その合作ぶりがね、妙な共通の感覚的渾一においてされていて、そういう精神状態でされていて、精神の歓喜像としての作品ですね。
文学だからこそそういうものも生れると云えるかもしれないのに、そういうものならそういうもので、何故あの夫妻は芸術家一体としての自分たちのそういう独特性に十分のよろこびと誇りとをもって、二人の作品としておし出さなかったでしょう。何故かの子作にしたのでしょう。一平は、そういうかの子を又描いていなかったのでしょうか。
私は川端や何か芸術がわかるというひとがこの点にふれて云わないのが妙で仕方がありません。世俗の礼儀はすてた世界だのにね。俗人なのね、彼等本心は案外。
きょうこれから、友だちのことをかくのです。私は今有名な友達たちのことばかりはかかず、小学の時代に仲のよかった女の子のことからかきます。その子が芸者になりました。その後どうしたでしょう。
それから女学校時代の仲よしの四人組。その後の〓〓生活の自主性のなさからのはなればなれの工合。〔約三字分不明〕一番はじめての小説を下がきを終った夕方、じっとしていられなくて馳けつけたのは、その四人組の一人の娘のところでした。そのひとは、後に、親たちを安心させろ、という手紙をよこしました、私の親たちは安心していたのに、とことんのところでは。いやね。それからあみのさんや何か。それから又今の友達たち。いろいろの時代と歴史が反映してゆく、そのままに描いて見ようと思います。こういう風にまとめてかいたことはないからきっと面白いでしょう、自分にとっても。友だちたちのなかには、友だちの男のひとたちも入れましょう。私たちが友だちという場合の自然なひろがりですから。
友だちと云えばてっちゃん、火曜日にそちらへゆきますそうです。明日そんなことお話しいたしますが。
詩集の話、この間の「春の物干」という題の、やっぱり面白くお思いになったでしょう?ああほんとに、そういうのもあったね、とお思いになったでしょう、「窓の灯」というのもあって私は屡〃思い出します。その窓に灯がついていないとき、がっかりした心持、というかき出しの。あったでしょう?今に灯かげは外へまで溢れる季節になりますね。では明日。 
三月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月三十日第二十四信
きのうの朝おきて何とうれしかったでしょう、風がなくて。三四日お話のほかでしたね。春はこれで閉口です。
きのうときょうは多賀ちゃんのお使者で。私が無理をしていたのではなかったかとおきき下さいましたって?それからきょうは大変御機嫌がよかったって?いろいろそういう話、何度でもくりかえしてききそうになって、ああもう四度目ぐらいだ、やめとこう、と思いなおす次第です。
きものの話ね。長襦袢がもうじき出来ます、昔、アキスにとられておしまいになってから、以来は季節ぬきのものを着てばかりいらしたから今年は、すこしまともなのをお着せいたします。さっぱりした落付いた、いいのよ。私がそんなもの選んだり縫わせたりするのは一つのうれしいことなのだからもうすこし待って着て下さい。四月五日迄に届けますから。
本のこと、きょう、やめていいと仰云ったの一冊十五円だってね。あのリストの皆注文してこれも二冊云ってあったから、マアとびっくりして早速とりけしました。
揃ったらおっしゃった五冊だけそのようにいたします。
ホトトギスというものは、一声をききつけて戸をあけるともう姿は見えないというけれど、一度その空を飛んだことだけはたしかです。うちのウソは行こう行こうと鳴くばかり、ね。洒落にもなりません。
笑っていらしたって。そうきくといくらか安心いたします。
日当のこと、もうじきわかりますが、旅費としてそちらへ行く分なんかないのよ、そうらしい様子です。はっきりしましたらいずれ。
お手紙はまだ着きません。ついたら、ああ御苦労さま、と云ってやりましょうねえ。本当に。この近いところを十日以上かかるためにはどんなに手紙もくたびれるでしょう、可哀そうに。
けさは、私は妙に眼が充血して痛んで、すぐ仕事しようと勢こんでいたのに、多賀ちゃんを出してから、リンゴをすって、それをガーゼにつつんで昼まで両方の眼をひやしました。昨夜眼を洗いたいナと思ったのにホーサンがなくて、けさはもうそう。風がひどかったためでしょう。もう大体大丈夫。しかし今夜はホーサンで湿布してねます。今、一つ書き終って、河村さんや何かにハガキかいて。――そう云えば中村やの話、おききになりましたでしょう?ひどいわね。それに、ああいうところでものを買うのは女が多くて、女の盲信的なところが又いかにも郊外住居の中流人趣味があって、あすこの混雑には反撥するものがあります。※[「凩」の「木」に代えて「百」]月の何かを見つけてお送りいたしましょう。予約注文でおまんじゅうは十ヶですって。でも、私はニヤリとするのよ、ブッテルブロードは、あれはうちで美味につくることが出来て、ね、そうでしょう、胡瓜のきざんだののせたのなど、ね、あんなのはお世話にならないのだから、と。
私の代りに多賀ちゃんは便利ですね。いろいろの点、島田のこともお話しになれるし、様子もおわかりになるし、寿江子がゆくより気もおけなくて本当にうれしいと思います。
四月から来る筈だった子、駄目になりましたし、多賀ちゃんの学校の方はお話したようなわけですし、一週に二度ぐらい裁縫に行って、夜一寸英語行ったり、丁度よろしいでしょう。
私は、今月はこまごましたものばかり多いのですが、大体十日迄にすまして、しまえる予定です。それはそれで、又あといろいろあって。なかなか四月に入って、ごたついたものぴったりやめるというわけに行かないのでこまります。今から先の分は断然おことわりです。
新しい『文芸年鑑』一寸開いて見て、何となくハハアという感にうたれました。入っている写真もそれぞれの意味で、日本文学にとって歴史的なものをふくんで居ります。文学史というものの性質を、考えさせるものです。文学史とは、こういうものに描き出された面が果して文学史でしょうか。文学史の材料というものも考えます。文学史は其々の時代の作品に即して行かないと、どういう方へ漂流するものであるかということを真面目に沈思させるものです。
作品を生(き)のままによんで、そこから現実をつかんで所謂文学史の内容を見きわめられるだけの文芸批評家が必要です。
この間、『都』の「大波小波」に女の批評家出よ、という短文があってね、私は批評家にちがいないけれど小説が本分で「自分でも、謙遜だろうが『作家の感想』と云っている。」あとは板垣直子一人、その本質は、と『文芸』に出ていた批評家としての生い立ちという女史の文章にふれていて、女の批評家出よ、と云っているのです。これは、そう容易に、はい、出ました、と出ないものですね。いろいろ考えて面白かった。日本の社会、文化での女のありよう、文学での女のありよう、それらを考え合わせると、女は、女流というところでとかく一寸風よけしていてね、私だってあなたが評論をおかきになれば、おそらく「作家の感想」は愈〃(いよいよ)感想に止っているでしょうし。マアこれは一寸耳をこちらへ出して、ソコイラノ評論ヲ評論ト云イ得ルトハ思ッテ居リマセンガ、私ニハホントノ評論ヤソノ骨格ガワカッテイルカラケンソンスルノデス。というわけでしょう。
私には、どうも本当の評論をかくひとの頭の工合というか、ものの考えようというか、自分が持って生れていないものがあると思われます。
そこまで歴史的に綜合的に生れていないように思います。勿論それでもやってはゆくのですけれど。
いづみ子の消息かいた手紙、もう御覧になりましたでしょう?あの子には、あなたがうちの男の子にお会いになるより、会いにくいので、たよりばかりということになります。私ひとりで会ったり余りしようと思わない心持、おわかりになるでしょう?これは面白い微妙な気分ね。会わせたいという心持と、これとは決して同じでないところ。私は、はにかむのですもの。そうでしょう?そして、そこに彼女やその幼な馴染みにふさわしい美しさもあるようです。
こんなにして手紙かくとき、手頸のやけどが、薄赤い柔皮で、こわれていたくて、きっちりと袖口を手くびにまきつけて書いて居ります。もしかしたら一日に行こうかしら。駄目かしら。今夜と明日一杯と、よく仕事して見て、その御ホービが出るか出ないか、というわけです。『文芸春秋』が十円の貯蓄公債よこしました。もし千円あたったら、何をあげましょうか。達ちゃんのお嫁貰うとき千円当れ、五百円でもいい、百円でもいいネと大いに慾をはって笑いました。 
三月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月三十一日第二十五信
きょうは日曜、たのしい日、という子供の唱歌があるのを覚えていらっしゃる?
けさ、やっとつきました。二十三日にお出しになった分。どうもありがとう。いろいろたのしく拝見いたしました。
大名の奥方のこと、そうでしたか?私は蘇峰はよんで居りません。そうよ、朝井、今川などの戦国時代なのはわかって居りましたが。それから、この題材に関して云われていること、大変興味ふかく同感いたします。菊池寛の例も大変面白し、貴司などの行った機械的現代化への注意も面白く有益です。これは特別面白く思います、雄山閣で元から『古典研究』というのを出していましょう?あすこで歴史文学の特輯を出すのですって。それへ二十枚ほど歴史文学について来月かきます。それを書くのは、初めことわろうとしたのですが、自分がやがて書くのに勉強になると思って、かくことにしました。菊池寛のテーマ小説のことは大変面白い。その意味で。私は鴎外の歴史小説を念頭に浮べて居り、漱石の歴史を題材にしたものの態度を思い浮べて居り、そして今日の文学の歴史観の問題を浮べて居り(歴史観の欠如から来る事大主義)ました。短く古典の歴史文学(「平家物語」、「太平記」等)にもふれてみるつもりでしたが。この機械的現代化に陥らず、というところ実に深い価値があり、うれしゅうございます。歴史小説のことが嘗ていろいろ云われたとき、このことはこのような正確さで云われたのでしょうか、そうでなかったように思われますが。この一句のために、たくさんの御礼がされなければなりません。
アイヌのこと、元はちゃんとかけなかったと今わかるところが、お手紙に云われている点です。そういう本質についての理解は全くなかったから、ヒューマニスティックなエキゾチシズムに終ったでしょう。アメリカのホーソーン(古典だけれど)に、「モヒカン族の最後――ラスト・オブ・ザ・モヒカンズ」というのがあり、インディアンをかいたものです。それと、ファジェエフの「ウゲテからの最後のもの」などくらべたら、これも又面白く一つ小さい感想がかけますね。
作品で、一つの新しい面へ赴くとき、そういう風に、一応、文学の課題として本質的な研究と古典の見なおしなどをして、そして作品をつくってゆくこと――自分の理解一杯のところ迄理論的にはっきりさせておいて、作品をかいてゆくという一人二役性も、今のように文学の課題が出されない環境のなかではためにもなるし、作家として一つの真実な態度かもしれませんね。
『文芸』の仕事のようなことをやっても、随分私の作家としての面に有効でしたから。こういうタイプ(作家の、女の)、何だか面白いことね。いかにも文化貧困のやりくり性があらわれていることでもあるし、その半面では、婦人作家の通ヘイである自然発生性からの成長でもあり。
充分描ければ、作品としての面白さは、大名夫人に遙にまさります。但その十分描くというところが、ね、主観的でない困難があり、その程度が、わかるような分らないような。
一頁勉強のこと、我慢しているうちには、とかいてあって、全く破顔一笑よ。今私が何かにふれて、一昨年あたりフーフー云ってよんだものの助けを得ているように、きっとこれも二年ぐらい経ったら効力があらわれるのでしょう。実力なんてそんなものね。
実力と云えば、四月の『図書』に、西田哲学の紹介をかいていた人があったでしょう?およみになりましたろう?私はこの西田という人のベルグソンと東洋とをこね合わせた考えかたがふわけしてみたくて、誰かすっきりとやる人はないかと思っているが、哲学畑は一寸皆呪文にしばられている形で、面白いと思います。つまり日本哲学と称するものの、出来具合がほぐされたところが見たい。私の内在的なものはいろいろ嗅ぎつけて居るのですけれど。ああいう頭を小説の中の人間として扱いきれたらそれも面白いでしょうね。漱石が、先生という人物その他を扱い、あれは作者との関係では単純で、肯定のタイプですが、そう単純でなくね。現実反射の形としてね。阿部知二も知性というなら、せめてその位のり出せばよいのに。哲学の領域で不可能なら、小説の領域で、と云い切れたら愉快でしょうね。あの哲学の「無」なんて、随分国産のモチ(竿につける)よ。横へおしてゆくと出るところは、谷崎、永井あたりです。この頃の武者にも通じたところがある。
明月にひらかれた詩集のはなし。ね、この文章に対して私は何ということが出来るでしょう。その詩が、一度よりは二度と味いを増しつつ朗々と吟誦されたとき感歎に声もなしという風だった、そのような状態が私にさながらそのままにかえって来るようです。ヒローたちの自然さ、逞しさと、云いようない優雅さの流れあった姿。そして、真に天真なものの厳粛さも何とあらゆる曲折のうちに充実していることでしょう。
私は、詩集をくりひろげるごとに、ヒローの優雅な気品への傾倒を深めます。この傾倒の深さ。致命的ね。この感覚の中に生と死とが貫かれています。年毎に、こういう味いが深まってゆくというのは、何としたことでしょう。それほどあの詩は大きい実質なのですね。ね、私はあの詩が好きよ、本当にすき。あなたの手をとってそう云ったら、私は眼へ涙がいっぱいになるでしょう。そのときあなたは何とお答えになるでしょう、絣の着物の袖から手を出しながら、「ああいいよいいよ」、そうおっしゃるでしょうね。その窓の彼方には緑色に塗られた羽目があるでしょうか。
今は夜で、あたりはごく静か。スタンドが灯り、薄紅の蝶のような蘭の花が飾られている机の上で、山羊のやきものの文鎮に開いた手紙をもたせかけ、僕は明日にはじめて芳しい詩集をひらいて、という句を、じっとよんでいる、この句の調子が、何という音楽を想いおこさせることでしょう。私は泣かないでいることが出来ません、でもそれは私がわるいのではないのよ、余り詩が美しいのがわるいのよ、美しさに感動しそれを忘れることの出来ない人間の心が、わるいのならわるいのよ。
さて、人造バタは、のりのようということについて。全く困ったことです。どこでも手に入れにくくなりました。四月一日からタクシーが価(ね)上りになりましょうし、バスもやがて今までの三区を二区にするでしょう。汽車賃は四捨五入でなくて、二捨三入で、銅貨なしのかんじょうになりました。玉子は十ヶ八十銭のわり。そちらのパンはいかがですか。この頃東京パンの食パンもとかく品切れです。いろいろの菓子類全く減りました。小豆が一升七十銭の由、どうしてアンコがつくれるのかと思います。だからきのうも笑って、果物だけはマーガリンも屑豆も入っていまいしサッカリンもないから、これからおやつは果物にしようと云ったようなわけです。これは本当のところよ、おそばだって妙に重くて粉が変になっている、あなたに鍋やきを云いつけに行った藪重、あすこも。
あなたもバタがあがれなくなったらよく果物を召上る方がいいでしょうね。油類もいいのがなくなりました。うちでは衛生上、豚の生脂肪をとかしたのをつかいます。脱脂綿、重曹なんかもありません。眼をひやしたガーゼのきれはし、大事大事よ。きょう、手拭の端がすこしきれたの、これ木綿よ、何に使う?と大笑いでした。
ああ、電報。夕刻つきました。あした御返事いたします。
きょうは午後、髪を洗いました。久しぶりでさらさらと軽く柔く快い髪。私の指の間に梳かれた髪、ポマードをつけられたときには、きっと爽やかに洗われた髪。その髪。
私は今しきりに考えて居ります、明日どうしようかと。自分で行けるかしら、行きたいけれど、と。 
 

 

四月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月六日第二十五信
きょうはうすら寒いけれども空気が快い日でした。さっき寿江子を送りがてら買物に目白の通へ出たら桜が開いている空の上に、綺麗な星のきらめいているのが大変美しゅうございました。今桜は殆ど咲きものこらず、散りもそめず、というところです。この辺は桜があちこちにあって、毎朝上り屋敷のところへ立って、いろいろな桜の色をみます、特に風情のあるものもあったりして。
国府津で青銅の花瓶にさしてソファーのよこの長テーブルに飾ってあった山桜の花、覚えていらっしゃるでしょうか。枝のつやが何とも云えず新鮮で、本当に桜の枝という心持がしたのを思い出します。上落合の家の二階から、ぼってりした八重桜がうるさく見えたのも、きっと手紙に書いたでしょうね。今年は何だか桜もこまかに目に映ります。面白いものね。去年の今頃は、花もあまり目につかなかったのかしら。
さて三十日以来の手紙となりました。三十日のお手紙二日に頂きました。これは大変順調の早さに近づきました。
多賀ちゃんもいろいろに考えているようです。そして今は女学校教師になれる検定をとりたい希望ですが、何しろ高等女学校を出ていないので、その前に一年ぐらい実科高等女学校か夜間で高等女学校の資格をもっているところに通って、そこを出てから検定をうけるなら受けなければならないというわけです。四年の最後の学年一年やるわけですが、それへの編入試験をうけるには、英語や国語やその他の勉強がいるので、先ずさしあたり国語を、友達で専門学校の国文科出の女のひとについてやることになり、次の月曜から通いはじめます。
多賀ちゃんもいろいろ迷うでしょう。二十六七にでもなると、資格があってのことなら一向かまわないが、何もなしでそれは困るという工合。田舎では出来のいい子として通っていたし、自分でもそう思っているし、自分の力を一杯にやってみるのもよいでしょう。
女の子というもの、そして何かはっきりしたものをつかんでいない子、しかも何か心にもっている子、というものは日本ではなかなか困難しますね。そのことについては同情いたします。
『現代』の高見順の文章よみませんでした。でも、丹羽文雄にしたって誰だって、全く云われている通りよ。その点で本当に新しい人は殆どないでしょう。そこに彼等の現代性が寧ろあるのではないでしょうか。云うところの現代性というものは、そのとなりに何を持っているか、隣りとの間にどんな思想の廊下をもっているかと考えれば、合点がゆくし――。文芸のつづきの仕事のなかで、丁度そのこと考えていたところでした。
×や△というような作家たち(婦人の)は、進歩しようとする意欲に立った文学の動きに、はっきり自分を対立させて出た人たちです。男心の慣習に描き出された女心をポーズとした人たちです。それなら何故横光や小林のようにその文芸理論をふりかざしてたたかわないかということ、ね。これは大変面白いところです。ジョルジ・サンドやマダム・ド・スタエルのないのはなぜか。日本の明治以来を見たって、一葉にしろ晶子にしろ、自然発生に彼女たちの芸術境をつくったのであって、既往の文学理論に対して新たなものを樹てたのは、一葉の時代は文学界のロマンチストたちであり、晶子のは鉄幹です。女が男と共に文学上の責任をとっていなかったのが歴史です。だから近代に到ると、そのおくれたところを逆に自由職業的につかって、女の作家というところで、文学運動などとはかけかまいなしに、いきなり文学の購買面と結びついてゆく。そのことを、進歩をめざす文学では共通な人生への態度とともに、共通な文学理論をもって女もその文学の成長のためには責任を自覚して動こうとしたことと対比させて書いたところでした。
いつかあなたが下すった手紙の中に、ユリだって一人の婦人作家として片隅に存在して来て云々とありましたの、覚えていらっしゃるかしら。私は実はあのときは(二年前ぐらい)大変くやしいと思ったの。あなたは私を一つピッシャリやったような、ということ知って書いていらっしゃるのかしらと思いました。けれども、今自身で歴史的に見わたせて来ると、そのことが私の主観にどのようにくやしかろうと、客観的にはそのとおりであったと思われます。(しかし、又その片隅の存在と云われていることの内容として、たとえ片隅の存在であろうとも、とおのずから微笑するところもあるわけですが)
この婦人作家の、片隅に一かたまり式存在には、いろいろ深い歴史性がありますね。非常にそう思う。一かたまりに片隅に片づけようとする何とはなし男の作家の作家以前、芸術以前のものがつよく作用していてね。それを、又女のくせに、あっち側へまわってしまって渡世のよすがとするものがあったりして。
私いつか勉強というものの底力が大切といっていたでしょう。あのことは具体的にはこういうところにもかかわって来るわけです。本当に女の作家は自然発生的よ。ですからこの現実の中での限度に限られた現象描写に終って、それならばどこで特長づけるかといえば、「女らしさ」で色づけでもするしかないわけですものね。バックのこと、全くそうです。明瞭にそのことはわかります。前にもこのお手紙と同じ感想をかかれていましたが。あのときより今の方がきっと一層よくわかって来て居りましょう。そして、女の真の女らしさで、女をみていますし。女らしさを、男対女、情痴的な面での姿でだけ見るのも私にはバカバカしい。しなをしなければ色気がないという旧式な観念は、まだまだつきまとって居りますからね。私小説でない性格は、たとえ、自分のことを書いたとしても賦与されていなければならないと思います。少くとも私たちの「私」は。そうでしょう?
四月二日の速達は、二日のうちにつきました。あの日は午後からいやな会があって、夜仕事のためにおそくまでそとにいて、くたびれきっておそくかえって来たら、頼んでおいた電話のこと多賀ちゃんが一つもしていないのでいいかげん斜めになったところへあれをよんですっかり情けなくなって、それで猫をしかったでしょう、ということになったわけです。多賀ちゃんを私が叱ったのではないのよ。私があまり困って情ない顔をしたので、多賀ちゃんも責任を感じて、文楽堂へはっきりとした声でデンワかけたというわけなのです。でも、もう文楽堂はおやめです、いそぐ本は。自分たちで結局何度も行くことになったのですもの、はじめからその方がよっぽどいいわ。ですからどうぞ今後は御安心下さい。
天然痘ひどいこと。種痘しておいて本当によかったと思って居ります。お母さんからのお手紙で六月六日にはそちらのこともあり、もし二三日しかいられないようなら却って寂しいから、せめて十日もいられるようにして来られるとき来てくれればよいとのことでした。今のところはまだはっきり申せないわけですね、何も。それから、達ちゃんの健康のことよく申上げましたら、あなたからもお話がありましたって?よくそのようにするとのことでしたからようございます。大分出発のときもおっしゃっていられましたが、それはハイと云わずには居られませんもの。でもはっきりお胸に入ってようございました。野原の方のことは、私は何もふれません。
ああ、お菓子は紅谷で(神楽坂)ワッフルをお送りしました。あれはもちもよいから珍しいでしょう。隆ちゃんに送るものも近日中にすっかりいたしますから。今木綿のキレがないので、カンヅメ類を送る包装がうちで出来にくいのです、袋を縫っていられないから。だから三越ですっかり包装させて送ります。
どうかいろいろのこと、お体に無理にならないように。やっぱり寝汗おかきになりますか。本当にお大切に。くれぐれもお大切に。
私の方、全く徹夜ナシでやりました。本月ずいぶん忙しいが、これも徹夜ナシでやりとおす決心です。徹夜なしで規則正しくやるとなかなか能率的です。三月は小説を二ツ(六十枚、二十七枚)入れて一六四枚かいています。読書は十三日から三二頁。先月はすこし無理でした。疲れたままこの月の仕事をしている感じで。では又月曜日に。これから久しぶりにおふろです、水も節約。それより時間がなかったので。 
四月十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十一日夜第二十六信
きのうの夕方も今夜も何と不思議な静かさのみちた晩でしょう。この間うち余り風が吹いて家じゅう揺れて、街では吹きまくられていたから、風がなくなった、こんなにしずかなのかしらと、あたりを見まわすようです。部屋の中も明るくて、底までしずかで。本当に何だかじっとしていられないしずかさ。
二階へ来て物干に出て見たら、西空の方にばかりどっさり星が出ていて、朧月もあって、その下に仄白く満開の桜の梢が見えます。家々の灯が四角や丸やの形で屋根の黒い波の下に見下せて、街燈がない界隈はしずかなそして不安な春の夜です。
この頃どうしてかちょいちょい街燈がつきません、大通りはついているのですが、家のまわり。
下弦の宵月、花の上の朧月。昼間は咲き切って、もう散りはじめた花が白くあっちこっちに見えて冷淡のように見ているけれども、こんな晩は春らしくて面白いこと。犬の吠える声が遠くにきこえたりして。こんなしずかで、しずかさに誘われて心が動くようなのこそ春宵の風情でしょう。モスクワで五月、俄(にわか)に樹々が新緑につつまれて夜気の中で巻葉のほぐれる戦(そよ)ぎがきこえるような夜を思い出します。空気は濃くてね。公園のアーク燈に照らされた散歩道には、人の流れが絶えなくて。いくらアーク燈があかるくても照しきれない新鮮な闇がゆたかに溢れている、そんな夜の光景。ゆうべはこのしずかさが驚きで、ほら、思わずぐっすり眠って急にさめたとき、物音が耳の中で遠くにきこえるようなことがあるでしょう?あんな風でした。そして寂しゅうございました。
今夜は割合馴れて、しずけさの中に身をおいて、何か書くのも楽しいという工合です。
例年、私は花時分が閉口です。今年はややましな方かしら。神経が実に疲労いたしますね、今頃は。
きのう、あなたが、いかにも悠々して気分も悪くなさそうに笑っていらっしゃるのを見たら何だか頭が楽になって。きっと、それがきいたのね。この頃うち、頭が苦しくてね、袂の下へつっこみたくて仕方がなかった。
きょうはましですから、もう大丈夫でしょう。この数日間は、おそろしい能率低下ぶりでした。(手帖見たら、でも二三日です)そんなような顔して居りましたろう?尤も私はいつも丸きおユリで不景気ぶりを表明しないのかもしれないけれど。
マア多賀ちゃんの療治のこともきまって、あとは、ずっとそのお医者の忠告にしたがってやって行けばよいから一安心です。費用は今はとりません。あとで相当のことをしなければならないのですが。
そのお医者はね、親切な人なの。津軽弁でね。ところが全く滑稽なことには、石坂洋次郎と大変よく似ている人なのです。石坂とはこの間座談会で一緒になって、その津軽べんもきいたし、顔も見たし撫で肩で小さい姿も見たし、満喫なので、白い上っぱりを着た人が、まるで似ていたら何だかこたえてしまって。可笑しいでしょう?でも作家は少くとも津軽産は一種の共通性をもっています。石坂、平田小六、深田久彌、太宰治、顔がつるんとしたようで撫で肩かどうかしらないけれども、現実に主観のこってりとした隈(くま)をつけて、一種の執拗さ、エロティシスム、ニヒリスム、あくどさ皆ある。深田が一番都会化して、それらを知的なものにしようとして中途半端ですが。そして狡さもある、芸術家として。薄情かと云えばそうだとは云えず。やっかいなものです。平田は、北京で頭一つ叩かれては五円借りて歩いている由。この平田がナウカのあった頃かいた「囚われた大地」という小説を、房雄はトルストイの作品に匹敵するとほめました。木星社に居た人。ですから私は評論集のときから知っていたから、「あなたもわるい時世に生れて、あんな小説をトルストイの云々ともち上げられる大不幸にめぐり合うのだから、しっかりしなさい」と云ったことがありました。
お医者様は、作家ではないし、又、種類もちがう人ですから(人となりが)私は撫で肩男一般への自分の好みを超越いたします。
ホグベンの『百万人の数学』は大変いい本だそうです。そしたらきょう同じ著者が『飢餓と疾病の撲滅』というような題の本をかいているのを見て(ホンヤク、出版)非常に感動しました。阿知の知性を又いうが、知性とか人間性とかは、こういう真向きの暖いものもある筈です。ねえ、数学というものを万人のためのものにしようという科学上の本の親切な成功は、決して彼が巧なブック・メイカアであるからではありません。
ヴァン・ルーンという人が「世界人類物語」をかいて、これはもう二十年も前のものですが、「聖書物語」をかいて、とにかくイエスという人の生きた時代のローマとイェルサレムとガリラヤの関係を現実に理解させましたが、どうもホグベン先生の方が、ヴァン・ルーンよりも一層正面向きらしい。どんな本でしょう。『百万人の数学』もどっちもよみたいと思います。近頃よみたい本の二つ。
このぴったり人生の正面へ、という態度、くりかえし考えて又々トルストイは偉いと思うし。人間のエネルギーというものは何とおそろしいものでしょうね。充実したエネルギーをもちつづけ得る人間だけが、人生の正面へ、ぴったり向ってゆき抜けるのですね。武者なんか、人生の正面側に向ってはいるが、この頃は大分お安居(あんご)で、のんきに眺めて「フムなかなかよい」という工合。動かしていない、動かされていない、そういう猛烈なところがないのです。
私はバルザックがきらいでしたが、今にわかりそうです、どうもそういう気がする。私はきょう一寸お話ししたこと、「姉さんには頭が上らない」云々のこと、全く個人的な意味でなしに、私の胸をキューとしめつけて痛ましめる、そのようなものとして、しかもバルザック的に抉り出して見たいとしきりに思います。そこにひそめられている女の苦しい涙はどの位でしょう。平気そうに通用されているデカダンスの溝のきたなさ、深さはいかばかりでしょう。石坂の「若い人」およみになりましたか?石坂という人は、そういう溝へ腕をつっこんでかきまわして、そのヌルヌル工合をああ云い、こう云い、云いまわして、そこに満足してしかもその芯は常識よ、きわめて常識よ。ですから、田舎から出て東京に住むようになると、かくものは、地方文化的自得の表情を失って、まるで木片をついだようなものになって来ている。ここいらも面白い。
地方文化ということは、いろいろの問題をもって「若い人」のなかに及び「麦死なず」の中にあります。鶴さんは石坂論では、モチにかかって居ります、自分の心の、感情のビラビラのもちに。石坂の面白がるようなところへ、おもしろがらされているんだもの、少くともあのときは。
日本のこれまでの大きい作家は、どうしても、みんな人生の正面へ向いてはいるのだが、主観的な自分の態度のなかへ入ってしまう。そこが残念ですね。そんな小さい主観に煩わされず、持味なんかふっとばして、生の人生へズカズカ入って行って、而もそこに独自な美しさもあらわせたらどんなに素晴らしいことでしょう。武麟の現実にまびれるのとはちがって、ね。
昨夜音楽をきいてチャイコフスキーの「悲愴(パセテーク)交響楽」をきいて、ああこのように人の心に絡みつく音を、と思いました、寿江子にそう云ったら「チャイコフスキーは二流」と云った。だから私はね、「二流でも五流でもいい、自分が、これだけ出せたら」と云いました。そしたら、やっぱりその点では唸っていました。それで面白く思ったのですが、音楽なんか余り世界的レベルからおくれているもんだから、日本の音楽をかく人間としての自分を世界の何事をかなした人々の間におく可能の点で考えられないのかしら、文学とはそれほどちがうのかしらと思いました。しかし、これは、そうばかりも思えず、寿江子の表現してゆく欲望の消極によるのでしょうとも思います。こんな些細なような言葉でも内奥は深くて、いろいろ面白うございます。ねえ、わが芸術は拙(つた)なけれども、というよろこび、わが吹く笛はとその響きゆく果を感じられるよろこびというものは、これは全く単なる才能の問題ではないのですものね。
私はそのことを思って、思い極ったときは体が顫えるようです。私が作家としてもっている生活の条件、を思って。ああこれだけのファウンデーションと思うの、その上にもしわれらの楼閣をきずくことが出来ないとしたら、それは、果して複数で云える責任でしょうか。そう考えて、ね。私はせめて複数で云えるところ迄はこぎつけようと思う次第です。その漕ぎ方が、どうも原始的な二丁櫓ぐらいのところで、癪(しゃく)ねえ。まだ十八世紀の帆船迄発達していないようでいやねえ。バルザックは、ネルソンがトラファルガーで戦ったときの位の帆船よ、いろんな色の帆をはっているが。桜の花なんかと云い出して、ここへ納るところ、めでたし、めでたし。どうぞ私のおでこにおまじないを。 
四月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(柳瀬正夢個展より(一)「蒙古人」、(二)「水屋」、(三)「料理人」、(四)「合歓の花」の絵はがき)〕
(一)銀座の亀屋の二階にこれ迄商品がつまっていたのが空っぽになりました。あとを画廊にしました。
窓が小さくて光線が不十分です。そこで、正夢さんの箇展がありました。久しぶりであのひとの絵を見ました。のんきな画で恐縮と云っていました。ペシコフ爺さんに似ている蒙古人でしょう?水彩で一番気に入っているのだそうです。
(二)これは小さい水彩です。緑の樹の幹が前へもっと浮き出してうしろの水屋の気勢をつたえたらどんなにいいでしょう。この種のうらみ多し。生活の音響は面白いのにね。私はもしかしたらこの絵をとるかもしれません。まだ未定ですが。描写のアクセントというものは興味ありますね、北京でひどく貧乏して細君に病(わずら)われたそうです。
(三)なかなかつかまれていると思います。でも、こういうデッサンを、勉強する室へかけてはおけませんね。そこに何かリアリズムの問題があると思います。或は人物のテーマのつかまえかたが柔かすぎるのでしょうか、つきぬけないリアリスムを感じましょう?この表情がプラスのものか、そうでないものか、画家は十分自分でわからないまま描いている、ちがうでしょうか。
(四)油で一番気に入っているのはこれだそうです。うしろの赤い城壁の色が目にのこって居ります。なかなか重厚です、が、というところあり、私の好みとして。画面に空気があるということは、絵でもなかなかなのですね。しみじみそう思った。空間のリズム、音響、そういうものが絵からつたわるのは大変なのね。小説と同じね。とかく後のものが前のものにくっついたりして。 
四月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十八日第二十七信
今、夜の八時半。あなたはもうぐっすりおよっていらっしゃるでしょうか。それとも疲れすぎて眠れず眼が冴えていらっしゃるかしら。
私の夜の机の上には、買ってかえって来た白いライラックの房々とした花が柔かい青葉とともに、爽やかに奇麗です。きょうは帰りに、ああ花を買おう、と思いました。そういう気分でした。あなたにあげたい房々した花を自分の机の上にさせば、花はかすかに芳しい匂いを漂わせます。かえりに新しいいい花買う心持、これは一口に云えない私の感情の溢れた形ですね。そして、私はつくづく夕飯をたべながらも、かえりの道々も思いました、こんな心持についてはあなたにお礼を云わなけりゃいけない、と。コンプリメントのこんな表現のあるのも面白いとお思いになるでしょう?動作であらわされるいろんな心持――特に今のようなこんな心持、それを字にするのは何とむずかしいでしょう。「御苦労さま」という一句だって動作にしてみれば何とどっさりに表現されるでしょう?ねえ。熱いタオルをしぼってあげるでしょう?櫛を出してあげるでしょう?横にならしてあげると思います。そして、おきらいな青茶ではない番茶をあげるでしょうし。それから、それから。ひと言もいらないわ。
何となく私にはまだ眠っていらっしゃらない気がする。視線のゆくところにあの海棠(かいどう)の鉢がほんのり赤い花びらをもって置かれてあるように思います。
人間の成長、成熟の美しさということを考えました。はげちょろけの格子の襦袢をパッパッとけだして、相も変らず前のよく合わないような様子で、何と面白いでしょう。そして、しかもそこにある美しさ。やつれながら充実した精神と天真な美しさ。ああ花を買おう、という気持は、そこから発して、一つのつよいメロディーに貫かれているのです。おわかりになるでしょう?手紙をかかないではいられないところもあるだろうではありませんか。
こんな手紙は本当にむずかしいこと。心そのままの動きで、咲き立ての花を一枝折って、笑いながらはい、と出して、それで通じるわけあいのものです。
大変何か話したい心持ですね、話さず或はあなたを横にならしてあげたい心持ですね。
数時間つづけて後姿や横顔や声やを眺め、ききつづけるということだけでさえ、何かちがった夜をもたらすのだと思います。こうしていると瞬きするのが自分にわかるのに、あの時間の間、いつ瞬きしたのかしらといくら考えても分らないから可笑しいわね。
私はおでこをぐりぐりぐりと押しつけて心からする挨拶をいたします。 
四月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十九日第二十八信
心持よさそうに疲れていらっしゃったこと。安心いたしました。それにきょうは雨はあがりましたが、割合よい日でしたし。
私は灯のついたローソクのような心持でかえって暫くぼーとしていて、それからすこし寝ようとしたのですが、たか子が出かける時間だのお客だのに区切られて眠れず。ぼーとしたつづきのようないい心持です。でもこれでは仕事は出来ず。気持はひとつところへ還ってばかりいて。可笑しいでしょう?あんぽんね。でもきっとこういう工合に神経がゆるめられて、今夜はおそらくさぞぐっすり眠ることでしょう。
ゆうべは、すこし眠ったら明るくてたまらない気がして目をさまして、勿論真暗なの、どうしても眼の中が明るく不安なので却って例の水色スタンドをつけたら、落付きました。こんなのごくたまです。然し頭がひどく疲れていると、真暗より仄明るい方が安らかというのは可笑しいものですね、神経にのこされている緊張と光線のバランスとが在る方がいいと見えます。
今私は煩悶中です、というのはね、この部屋、スケッチで御覧のとおりで、入ると、サア仕事するか、それとも寝るか、どっちか、と膝づめに会っているような室内の配置のゆとりなさです。Bedをたたんでしまって、あのゆったりとした坐る机を出して東の窓の下においてきれいな座布団をおいて気分をかえようか、それともベッドを畳んだら一寸休むとき不便かとかいろいろ思案中です。坐って仕事するということは出来にくいし。私こんなに仕事してアンマをとるということがないのは、坐っていないから背中が楽なため、血液循環が楽なため、と信じて居ります。
『現代』の高見の「婦人作家論」よみました。そしていろいろと通俗性を面白く思いました。面白いことね、「如何なる星の下に」というような長い小説をかいているときは、一つの独自の世界の住人のようであるが、ああいうものになると、ヌーとお楽になって毛脛出して面白いこと。ものの判断の標準の平凡さ。あすこが本音で面白いこと。大変面白かった、というのは、撫で切れるものを撫でているという意味です。彼の「ああいやなことだ」の掌にはあまるものもこの世には在りますから。
女らしさを活かし切るだけの男らしさが、男にないということを思いつかない男があるのは、結構人ですね。男というのが彼のスケールで止っている限り、彼等にとって私が女らしくないというのは何たる自然さでしょう!何たる女の溢るる女らしさでしょう。
いずれにせよ、私にはかかわりないことです。そういう標準は。私は益〃自然であるだけなのですもの。そして、ごちゃごちゃした男女のいきさつをだけ書く趣味のないのも私の自然で仕方がないわ。(自分のその面での芸術的価値のことは又別です)
さて又困ったことが出来ました。ハガキが来て、古田中さんという母の従妹に当るひとの病状がよくなくて早く会いたいと云って来ました。このひとは糖尿だったのを永年放っておいてもう五十何歳かで悪化していて、私はこの間うち迚も行けなかったから、この間西川から坐布団を見舞いに送らしたら、それが気に入って愈〃会いたくなったのですって。困ったこと、ではあしたでも一仕事すまして出かけなければなりますまい。このひとは、ああ覚えていらっしゃるでしょう?私たちにあの奇麗な白藤の花をくれた夫人です。私たちごひいきのひとです。もうずっと会いたがっているのについ行けず。
女のひとは男よりこういう病気をこじらします。男は大切な仕事があり、そのために忍耐して加養します、女はうちにいて、自分の体に自分が使われて病もわるくするし、はたにも苦痛を与えることになってしまいます。その点は林町の母もそうでした。ちっとも長生しなかった。
何だろうユリは。何故仕事しないでこんなこと喋っているのだろう、とお思いになるでしょうか。でもきょうはそれは仕方がないとおわかりでしょう?
この手紙御覧になる頃は、きっとムと口をしめて机についているでしょうから御安心下さい。ああ、円い大きい着物の小包がつきました。うちは本の置どころがないようです。でもね、これだけはあなたに一杯くわされたといつも呵々大笑するのですけれど、あのビール箱にいくつもの本ね。今不自由しているのよ、あれがパイになってしまったから。鴎外全集なんか、こんどかくものにも入用なのにないでしょう?近代劇全集がないでしょう?いろんな泰西名著文庫がすっかりなくて、改版がないでしょう。あれが今売らずにあったらほんとに役に立ったのに。あんまりあなたがあっさり仰云るもんで、ふーとその気になったのが間違いのもとでしたね。(但、ここのところ、いく分誇張ある文句ナリ)
あれから家憲が出来たのよ、申しませんでしたね。どんなボロ本も本は売るべからず、というのです。これは宮本家の家憲ですからどうぞ。この頃は古い本の価(ね)が一般にずっと高くなりました。例えば一円八十銭ぐらいの本でさがして買うと一円二十銭ぐらいのところです、ものによっては三倍以上です。紙がないばかりでなくものによって上るのですから。人間にあてはめると、それに準じて価上りなわけですね。表現は妙な形体をとるが。逆のような。
重治さん、つとめやめた話[自注1]をおききですか、円満辞職の由、ほっとしたでしょう。きっとモンペはいて、ヤヤと頭ふって、庖丁といだり干物をとりこんだり、ガリガリ頭かいてふけを落して眉間に突如竪皺をつくったりしていることでしょう。詩人出のひとって妙ね、鶴さんきょうこの頃はズボンの先のうんとつまった洋服姿で長火鉢の前に居ます。私評して曰く「毛のぬけた軍鶏(しゃも)に近い。」本当です。

[自注1]重治さん、つとめやめた話――中野重治は、市の知識人失業救済の仕事に勤務していた。 
四月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(木村荘八筆「庭樹」の絵はがき)〕
四月二十七日、只今丹前を送り出します。あれをかってかえりに、偶然こんな展覧会を見ました。色がないからつまらないけれども。荘八は荷風の「※[「さんずい+墨」]東綺譚」あたりからこういう線をもって来て居ります。例によって芝居絵もありました、これと雪の庭が一寸面白うございました。 
四月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月三十日第二十九信
ふっと灯のない部屋に入って来て、ガラス越しによその家からの明りが木の葉のかげをうつしながら、おぼろ気に部屋にさしこんでいるくらがり、大変に面白い気持です。暫くそのままにいます。このなかで書けるといいのに。こんな部屋の暗さ明るさのかげの交った光景は、夏の暗い部屋を思いおこさせます。その暗い涼しい夜の部屋へどこからともなくさしこんで来ていた光りを思いおこさせます。足さぐりに来て、ぶつかる体をそこに感じるようなそんな心持を思いおこさせます、静かな明暗のうちにある深い快い眠りを思いおこします。これからの夜には、こんな明るさ暗さがこの二階の部屋にも訪れます、何と面白いでしょう。何と様々の情景をふくむ明暗でしょう。
きょうは、朝からあの刻限まで獅子奮迅の勢で古典研究の歴史文学について二十九枚かき終り(半分はきのう)深い興味と感想をもってかき終り、そーらすんだと下りて速達にして、御飯たべてそこへ『都』のひとの来たのを、御飯たべたべ喋って(仕事のうち合わせ)出かけました。
三日まで行かないつもりでしたけれども、どうしてもそれではもたないのですもの、仕方がないわ。御褒美をいただくというわけでダーとかけつけたわけです。
それからのんきに根津山の新緑の美しさ、その新緑のなかに黒い幹々の新鮮な色を絵にかきたいと思いながらかえったら玄関にかけて待っている人。子供のための雑誌をやる人です。チャペックの訳をしたりしている人です、チャペックのあのつよい面よりはそうでない面からチャペックの芸術にふれ近づいて行ったという人柄の人です。私の知っている娘さんと結婚したばかり。その人といろいろ編輯上の話をしていたら『古典研究』の若い人が来て、秋の特輯の下相談です。玄関で中腰で話す。私に芭蕉の抒情性をかけとのこと。日本文学の抒情性特輯の由です。私が先頃『新女苑』に芭蕉のことかきました。それがよかったからとわざわざすすめた人がある由。しかし三十枚もそういうものをかいていたら又々私の小説は消えてしまいますから、大体においてことわります。日本文学の抒情性というものは、それは正確に扱われなければならないものではありますけれど私一人ではやりきれないわ。そうでしょう?
そんなこんなが一応片づいて午後四時すぎ。寿江子が来て、悄気(しょげ)て私の膝を枕にしてころがったから頭をなでていてやったら、寿江子のつかれも癒ったようですし、私の気持も又のんきになりました。寿江子は和音(ワオン)の教師が(作曲上のテクニック)みみっちい気持で教えおしみをすると云ってしょげているの。やがて気をとり直して、「マアいいや」というわけ。「自分はこれまでいろいろましな人にばかりふれるときが多かったが、そうやって世間普通の根性の人ともつき合ってみるのもわるくないや」というわけです。ピアノをききにゆくというので、ひとりだけ早く玉子をゆでておかかかいて出かけてゆきました。
私はそれから今日限りの所得税申告を書き込まねばならず、急いで夕飯すまして、それをやって速達にしてかえって、やっとのうのうとしてこんやはこの手紙だけにいたします。
随分永らくかきませんでしたね、十九日に書いたぎり何てひどかったのでしょう、でも私は今日は今日はと思っていたのよ、カタンカタンとガラスをあげたりおろしたりして、度々受箱を見ていたのよ、でも来やしない。
二十日からきょうまでに「行人について」(『新潮』)8枚、『婦人画報』のかく月の巻頭二十枚、学生の新聞のために石川の「結婚の生態」評七枚。それからこの「歴史文学について」二十九枚、十日に六十九枚はわるくないでしょう。どれも皆勉強のいるものでしたから大変でした。
歴史文学は本当に面白かった、鴎外、芥川、菊池の主な歴史を素材とした作品をよみました。露伴もよんだがかきませんでした。露伴は、歴史が常に権力に屈したものであるということを力説している、そして頼朝、為朝、蒲生氏郷など、なかなか面白うございますが、つまりは露伴流の人物論ですね。そして露伴の面白さも弱みも、彼が江戸っ子流の侠気と物わかりよさとをつよくもっているというところですね。彼が小説家としてねばりとおさなかった所以を過去の人たちは、彼がえらすぎるという風にいうが、そうではないわ。達観を主観的にしているからです。決して支那流の哲人でもないし、強烈な精神の独自性というのでもない。名人肌の一くせある爺さん(勿論内容豊富也)というところですね。ですから人物論としてのそれらの作品は、なかなか面白くて所謂膝を打って大笑す、というところもあるけれども、その面白さで彼は小説家でないことが語られているような工合です。
鴎外の「阿部一族」は雄大複雑な歴史小説で封建のあらゆる枠は枠なりに肯定したところで、その中での性格相剋の悲劇、君臣の臣の負担となるその結末、情誼が、人の生かしかた、生きかた、死しかた、死なされかたなどのうちに表現されなければならなかった姿を、武家気質の範疇での感情行為の必然にしたがってよく描いています。
しかし鴎外は、この時代の枠へ人間の心をこすりつけてはいないのよ。こすりつけられた人間の魂の熱さと重さとで枠がゆすぶれるものとは見ていません、その点彼の現実の順応性が実によく出ている。
このことは逆に「高瀬舟」で、白河楽翁時代の江戸の一窮民の遠島されるときの物語にある財産の観念及ユウタナジイの問題を、鴎外がいきなり一般人間性という自分の主観からとりあげているところにもあらわれていると思います。一窮民と扶持(ふち)もちとでは同じ時代に於て財産の観念は巨大にちがいますし、ユウタナジイのことにしろ、武家のモラルは楽に死なせてやる武士の情というものを承認しているのだから、庶民の男が罪せられたのとはちがった見かたもあったわけです、その現実の相異を、鴎外の主観は何と云っても身分的な差別は失っていて一般人間性のこととして見る丈歩み出していて、その進んだところに止った意味で限界の示されている面白さ。そこから、鴎外が歴史へ働きかけてゆく作家の目と心とを否定して、抽斎などの伝記ものをかくに到った過程はよく分ります、そして鴎外は歴史に向って作家としての手をはなしてしまった。
芥川はあくまで歴史小説をかいたのではなくて、主観の課題を「地獄変」や「戯作三昧」に表現したこと、しかも何故それを、例えば芸術性と社会性の問題の苦悩をトルストイの矛盾に於て描かず馬琴をとらえたか。そこにあるかしこさとよわさ。それが歴史の中に自分を把握させる力のなかったことと一致していて、歴史のたぎり立つとき、何となしの不安に敗北したということ。面白いわね。菊池のテーマ小説が、封建のしきたりに抗して生命への執着やその適応性や英雄打破に向ったことはプラスながら、彼にあってのその合理性は、世上云われるようにショウの相伝ではなくて極めて日本のもの彼のもので、合理性は自然主義のものをもっていて、つまりは常識のものであること、従って、芥川を死なさせた波は彼を大衆作家にしたという歴史とのかかわり合いの姿、こういう対比は大変面白くてヴィヴィドです。そしてユニークです。しかし、彼が徐々に大衆作家になりつつあるときは、日本の文学に質的な一変転がもたらされて、歴史を、寛のみたように個人の利害、ひょんなめぐり合わせ、など以上のものとして見る歴史を歴史として動く姿でかこうとして、「磔茂左衛門」や「綾里村快挙録」が生れたこと。現在の歴史小説とは、今日の現実とどういういきさつにあるか、つまり「島崎藤村」というような伝記小説の現れるのは、日本の文芸思潮のいかなる低下と喪失によるものか云々というのです。
面白くてとりつかれたようにかきました。近頃の快作。だから、きっとさっきぱっちりしていたのでしょう。
今月は半分はフラフラだったけれども、それでも実にこまこまと百十枚もかきました。種目は十二種よ。細かいこと。
大分あとへのばして貰うやくそくにして五月は、前に半分までかいてある古典読本の現代文学を六七十枚かいて、『文芸』のをかき終って三回分ぐらい60枚迄、まとまったのはもうそれで、小説にかかります。『都』へ十日ぐらい迄に「読者論」をかきます、これはこの二三年間の読者と作家とのありようをかいて見るつもりです。文化批評として面白いと思います、こまかく落付いてかくつもりです。
こういう工合で、徹夜はなしです。でもこの間うちは何となし工合わるくて、朝心地よくおきられず。そういうときは、よく仕事出来るときひる間三十分か一時間、上手に一寸眠ってよく休む、そういう眠りかたが却って出来ず、眠ったら猶気分わるそうで眠れず、しかもはきはきせずという工合でした。もうすっかり緑になりましたから大丈夫よ。これからは益〃パッチリです。
読書は又肩をすくめて。ヨンジュウ八マイ(頁)。しかし私はあの「三月の第四日曜」の男の子のその後の運命を近頃現代の少年の運命としてひどく心をひかれて居ります。少年の犯罪が激増しているということは心を痛ましめます、彼等の訴えが耳に響いて来ます。その響はこのささやかなヨンジュウ八マイのなかにつよくつよく反響いたします、人間の心の代償は誰からも払われないということは。
私の創作的アペタイトは、「第四日曜」の男の子の顔つきを髣髴(ほうふつ)といたします。本当にいろいろのことにふれ、いろいろの心にふれたいと思います。
――○――
達ちゃんかえって来て何とうれしいでしょう。きょう、「よくかえって来たね」とおっしゃいましたね。「一九三二年の春」という小説の終りの唯一の小説らしい言葉を突然思いおこしました。昔のひとはこの感情を「よくぞかえりつるものかな」と表現しました。本当によくかえって来ました。いつ頃うちへかえるのでしょうね。お祝に私がゆかない代り、あなたと二人の名で、この間お送りしただけお送りしておきましょう。
久しぶりで随分どっさりいろいろと話しました。私はこの手紙がなるたけ早く着くようにと心から願います。
今夜は枕の下に詩集をおき眠ります。その中からの抜きがきを近いうちお送りいたしましょうね。 
五月二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二日第三十信
今頃多賀ちゃんが、あおい着物で、そちらで喋っている頃でしょうか、それともぼんやりこしかけてラウドスピーカアをきいている時分かしら。
私は今『文芸』の校正が終りました。先月おくれた「転轍」を今日にまわしたのです。ゲラの紙が全く粗末なものだから字がしみて本当にきたないの。よめるかしら。よめないかしら。そう思いつつ封をしたところです。『文芸』は只でさえ、ミスの多いところです。
ひどい風になったこと。例によってうちはガタガタ云って鳴りはためいて居ります。
御気分はいかが?そちらは、こんな風でも、仰向いてねている顔に天井うらの無数の埃がふりかかる感じだけはありませんですね。
きのう、私は顔を仰向け青葉のそよぎがそのまま自分の体となったような気分でかえりました。
今年私は桜も美しいと思って見たし、若葉の色もこんなに眼や気持に沁みとおって。どこやらしず心がかえって来たのかしら(いい意味でよ)。もしそうだとすれば、うれしいことね。そして、そのよって来るところの意味で、あなたもやっぱり御満足でないこともないでしょう?
きょうは些か閑暇ありですから、すこし詩集の話をいたします。あした、あさって、おいそがしいけれど、きっとこれはその後のすこしのくつろぎのとき着くでしょう。詩集とは別だけれども、きのうそんな心持で、夜もずっとその心持がつづいて、胸が余り優しくきつくしめられて、何だかまばたきしても、それがこたえる有様でした。だって、私がまばたきをすれば睫毛(まつげ)はめのなかにある輝いた顔の面をあんなにさわるのですもの。さわる感じが全身をはしるのですもの。電車のところに立っているとき、後を誰か、すと掠めて羽織のそとを掠めたら身ぶるいがしました。若葉の風というものはこんなにしみるものなの?こんなに枝もたわわなものであったのね。新緑の上に鯉幟が見えます。
詩集のなかに「五月の挨拶は」というの、覚えていらっしゃるでしょうか。大変この頃の情景にふさわしい爽やかな、しかも生命にみちた詩句です。「五月の挨拶は若き樫の梢みどりの小旗をかかげ」という冒頭で。うれしい五月の日、芳しい草原のなかの若い樫の木は、いのちに溢れて気品たかく、しかも天真に、一つの泉に向って挨拶しようと、ゆたかな梢をもたげつつ、燃ゆる緑の小旗をかかげます。緑の小旗は、日光にきらめき、風にゆれ、何と強靭に美しく、はためいているでしょう。泉は溢れるしぶきで、珠のかざりをつけながら、ふきあげふきあげて、梢の挨拶にこたえるのですが、泉は地のもので、そこに在るしか在りようがないという自然の微妙さに制約されているのです。この泉の自然への従順さと歎きとは非常に幽婉な趣きで語られていて、本当に面白い。緑の梢の意欲は泉につたわって、波紋となり、益〃しげい水しぶきとなるのです。梢はその波紋を遠く近くとりかえされて緑の波濤のように自身を充実させます。日は高く、泉の白さ、梢の緑と光線の金色の諧調が、かけるもののない空気のうちに満ちる様子。
泉の自然の制約をそれなり美と感じ、しかも歎くこころをうたった数節は、ゲーテの卓抜な抒情詩にまさると私は思います。美しさは人類ととものもので、しかもその細部では質的にさまざまのニュアンスを深めるところは、云いつくせない味いです。目にもとまらぬような何かの動作、そこを詩人はまことに敏感に美ととらえて、「五月の挨拶は」というような愉悦と哀愁の綯(な)え合わされたソネットをかくのだから、たしかに詩魂は生活の宝です。うたう心は、人間が精神において真直に立った姿、現象を一旦整理した上での姿として、うたの心はあらわれるから、そこに慰安(コンソレーション)がある、とアランが云っているのも本当です。
文学論とすれば散文の本質を、訴える、かけめぐる、現実追随の叫びとして本質づけて、詩の心と対比しているところに、アランの誤りは在るのですが。アランは、でもその生活の必然から「五月の挨拶は」という詩は知らないのだし、ましてやそれが散文で猶且つどのようにうたわれ得るかを知らないのですものね。かんべんしてやらなければなりますまい。アランのうけうりをして、リアリズムとはと武りんさんの踵について走りまわる人々にも、この「五月の挨拶」のリズムは別の世界のものでありましょう。
こんな詩をくりかえしくりかえしよみ、美しさきわまれば涙もおとして私はいろいろ考えます。自分たちがこれまでよんで来たいく巻かの詩のことについて。
いろいろの時を経て、詩の具体性、象徴、リズムが段々高いもの、いよいよ複雑であってしかも率直な作品へとうつって、このみが育ってゆくことは面白いことね。そのことについて、きっとあなたも折々はお考えになるのではないでしょうか。少くとも私は随分度々考えます。
四五年前、シャガールの插画のある詩集を私たちは愛読していたことがあったでしょう。あなたがおよみになり、私がよみ、又あなたへおくって、あれもよくよくよまれたものでしたが。今思えば、やはりシャガールの天井から舞いおりる愛の插画がふさわしい程度のものであったと思われます。詩人たちは、自分たちの感覚に若くて、自分のよむ詩の美しさ、その詩のテーマの美しさに我を忘れて、十分に表徴し十分に描き音楽化するところまで行っていませんでした。
それから、何かきわめて微妙な成熟が行われて一巻は一巻へと光彩を深めて行ったおどろき。私ははっきりその一巻から一巻への進歩を思い出せます。ある程度の間が各巻の間におかれて、次に発表されたとき、反誦復唱して私たちは何とその期間にゆたかにされたもののあることを、おどろいて讚歎したことでしょう。
詩魂の尊さは、そのような渇(か)れない進歩が最近の詩集にもうかがわれることです。これはもう何というか、現象にあしをとられての創造ではなくて、時とともに持続された美が瞬間瞬間の閃光に無限の表象をつかんで円熟してゆく一つの境地であると思います。詩人として、私はきっと大なる歓喜と恐怖とがあろうと思います。だって、あのシャガールの時代の作品は、何ていうか、云わば自然発生です。そのような諧調の組合わせは奇遇的必然ですけれども、それでも芸術化されてゆく過程のなりゆきは、自然発生でした。ところが近作になると、第一には第一詩集からの何とも云えないボリウムがかかっていることですし、詩はもう詩作されるというような位置になくて、詩人にとって生命そのものとなってしまって居りますからね。あなたはいくつかの詩から、本当にこの秘密をつかんでいらっしゃいますか?本当につかんでいらっしゃいますか?秀抜な文芸評論家として、本当につかんでいらっしゃいますか?詩もその境地に到って、遂にいのちのうたとなったのであると思います。そういう程度の詩集になると、シャガールのファンタジーによる插画なんか不用になって来るところは、一層興味あるところですね。詩句をよりゆたかにする筈の插画は、シャガールがさかだちしたって、一つのより弱い説明でしかないのですものね。これも実に面白い。大衆小説に插画があって、純文学に插画のない必然もわかります。いろいろ面白いわねえ。
「五月の挨拶」のすこし先に、「わが笛のうたぐちは」というのがあります。これは絃楽器の伴奏につれてうたわれるべき一句です。覚えていらっしゃるかしら、若草に顔を近く、一茎の葦笛をふくうたです。藤村の昔の詩に「そのひとふきはよろこびをそのふたふきはためいきを」というのがありましたが、これは全く音楽の流れをもってうたわれていて、ふきならす音は冴えて笛がふくひとか、ふくひとが笛かという恍惚を単純な言葉のなかに溢れさせています。「われもうたびと、その笛を」といのちをうちかけてゆく姿は何といいでしょう。
私は自分ではたった一つの詩をかいたこともないけれども、詩のわかることにおいては、そこいらの詩人の比でないとひそかに持するところもあるのですが、いかが?そして、あなたがどんなに詩を知っているのかといったら、おどろく人もあるだろうと笑えます。ああ現代の散文の本質はそこまで来ているのにねえ。評論の要素はそこまで活々として多彩であるのにねえ。評論はただ理屈の筋でかくものだと思っているバカ、バカ。もしそういうものならば、どこから私は評論をかく感情の必然をもっているのでしょう、ねえ。その必然の詩の精髄が分らないから、つまりひとは私をまるで知らないということになってしまうわけです。
あなたはまだ足袋をはいておいでですか。きのう、ある女のひとでずっと反物を買っているひとが来て、あなたによさそうな紺ぽい単衣を見つけてホクホクです。羽織の下におきになるようなの。
セルのこと、きょうおっしゃったって?急にあつくなって、単衣まで急行?ネルの長襦袢があつぼったいのでしょう。きょうメリンスの半襦袢お送りいたします。ネルをおかえしなさいまし。私ももう羽織を着て外は歩けなくなりました。すぐ夏ですね、素足の季節ですね。ああそれからこれは多賀ちゃんが、あなたに云おうとして云えないことですって。いろんなひととよくよく見くらべて、この頃私がほんとに奇麗と思うのですって。めでたしめでたし。 
五月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月三日第三十一信
けさ、二十四日づけのお手紙、やっとやっと到着。こんなに永くかかってつくのに、間で殖えて二三通にもならないで、やっぱり一通の姿でついたというのは、甚だ私としては不本意な次第です。
いろいろとありがとう。パラパラ生垣の速達のこと。緊急動員の方は一向さしつかえはないのですから、どうぞ御心づかいなく。私があれを云ったのはね、パラパラ生垣そのもののことです。こんな風にめのつまったのがほしいからというだけ。白藤のひと気の毒です。この間午後ずっと居ていろんな話をしました。主人である人は、和歌や俳句をやったり本をかいたりするのだけれど、大酒毎晩で、病室のとなりが食事部屋で、そこでのんで唄って踊るのですって。そして細君はそれをつらく思って、「この間も私に出てゆけっていうわけなのかしら」と私に相談しました。或は「別の家をもつようにすすめろというわけなのかしら」と。だから私はこう云ったの、「とにかくさわぐにしろ、家でさわぐというのは、やっぱり家に対して、妻に対して自分の義務を感じているとも云えるので、今時の男が本当に何かやりたいと思って、一々女房の許可を得てやるなんて甘っちょろいものではないのだから、こっちからそんなことにさばける必要はない。したいことはしているのだから。只もう三年もの病人で、それは気もむしゃむしゃするのだろうからよく劬(いたわ)って、互につらいところをしのいでゆくしかないでしょう」と申しました。この夫婦は不幸な夫婦なの。しかし、はっきりわかれず一緒にいる以上相せめぐのが習慣で暮すのは、やはりひどいことですものね。でもこのひとの話からも私は本当に結婚生活における女というものを考えます。私たちの友人たちの間でも、GさんにしろHあたりへつとめ口をさがして行ってしまったのは、やはり妻になった人が永い病気になったためです。一緒に暮せない。経済上の負担はある。いろいろ苦しいのでしょう、そして行ってしまう。良ちゃんだってやはりそのことがあります。稲ちゃんとよく話すのですが、女のひとはそういうことからも病気が不幸の意味を深めて来るのね。女ばかりと云えず男もいろいろあるでしょう。女からそうされる場合。でもやっぱり一般からは女の場合が率が多いのね。
柳瀬さんのあのエハガキの水屋ね、あれが届いて、今右手の鴨居の上にかけて居ります。今頃の北京郊外ね、緑の色がいかにも新鮮で、画面は梢の緑、土の柔かい茶、家の灰色というさっぱりした配色です。ねだんはまだ不明。この頃いい絵が見たくて。すこし暇になったら上野の博物館へでも久しぶりで行って見ようと思います。この部屋の額と云えば、机に向って正面の左手の三尺の壁のところに原稿紙にかかれた字がかかっているの、知っていらっしゃいますか?あのスケッチにも入っている筈です。リアリズムの創作方法について書かれたもののうちの一枚です。6という番号が余白にうたれていて。この部屋へ入るひとは友達ではごく近い四五人きりです。ダイジダイジなわけよ。
着物のこと、気候の不定なとき私も気が揉めます。この間うちは、ああ、あついと云った次の日、どうしたんだろうきょうの寒さ、そう云って羽織を着るようでしたものね。でももうこの調子でしょう。
本についての家憲はお笑いになったでしょう。何となし書いていらっしゃるときの表情が浮びます。更始一新的行事、というのは全くそのとおりでしたし、そのことで遺憾は更々なしよ。ただ、この頃は古本が実にないし、それでマアあんなことも云って見るというようなものです。私の批評をかくということは、これはどういうのかしら。今の条件から自然になったのですね、あなたがおかきになれば私は安心して書かずにいますから。それだけは確だから。作家の感想ではあるけれど、と評論的骨格の不備について十分認めつつ一言を吐いたりする必要は客観的にもおこらなくなりますから。仕事の範囲のひろまりや成長というもののモメントは大した複雑なものですね。あのとき予定に入れてなかったというのは、何か全般のありようから極めて自然ですもの。ここにあなたが半ば私を励ますように云っていて下さるように、私だけのことではないと思います。それはそうだわ、ねえ。
疲れ、すこしお直りになって結構。やはり初めの間は随分御注意がいります。本当に体の調子に従っておやり下さい。そのことでは私は心から安心して居ります。正に御放念です、それは私の一つの大きい仕合わせですね、よくそう思います。
仕事のこと。きょうはすこしドンタクの日です。二三日息ぬきをして、又はじまり。三十日の日が所得税申告の〆切りで、去年からの収入を思い出してかきこんで、フーフー云いました。去年の五月頃から私の収入はあるようになって来たのですから、金額にすればまことにすこしです。『文芸』のなんか金にしたら何とひどいでしょう、文芸雑誌は相変らずよ、『新潮』なんか下げましたって、却って。いつぞや島田へ送ったりしたものの三倍から四倍以下ね。それから経費をさし引くのですが、私は多賀ちゃんと笑いました。こんな収入でそれこそハンド・トゥ・マウスで、すべて経費だわ、生きて、考えて、書いてゆくためのすべて経費だわ。これは一目瞭然ですが、税務署はこの真理が通用しません。それだけの金を得るための何かが別にあるように思うのですから、私は本代よ、たった三百円の本で、仕事が出来るでしょうか、笑止千万ですが、マアそんなものです。そこから基礎控除を五百円とりのぞくのです、私のような自由職業は乙種事業というの。それでもまだ納税最低の五百円よりはすこし多いから、いくらか払うわけです。作家なんて全く何万という収入があればそれは経費をわけられますが、さもなくては経費なんて実にこまるわけですね。だからY・Nはいつか税務署とケンカしたのです、あの小説をかくにはわざわざ南洋迄行ったのですからって。
こんどからは稿料をかきつけておきましょう、そう思うけれど、まるで蠅の子のような小さいものを一々かきとめるついそれより先に消滅するのですもの。電光石火とはよくぞ云いける、だわ。栄さんのところ、稲子さんのところ、二人分で率が高まるわけです、あの人たちは庶民金庫からかりて、よそのお倉にいたものを全部とりもどしました。そして毎月十五円ぐらいずつ金庫にかえします。
この頃はそういう工合の暮しね、どこでも。この間うちはキャベジが一ヶ一円いくらかで、半分かっていました。半分四十何銭というキャベジには恐縮いたしました。ふだんに着るような銘仙が一反十五円ぐらいであったものが二十五円―三十円です。絹糸はボー落したが織物はそのねです。デパートへゆくと、もと四五十円の反物があったその並(なみ)に百円のもの、それ以上のものザラです。そして、本年は、これまでになかった新考案の織物が続出いたしました由。そんなキモノきて、六割南京米の入った御飯たべて、そんなびっこの生活に女は平気で、せめてキモノだけと思っているとしたら、度しがたい次第です。いろんな形式で、こんな空気は健全にされるものではありません。カフェーは夜十一時迄ですから、昼遊びの店へと変形しつつある由。同じ遊ぶにしても昼のそういう気分が生活にどれだけ深刻に作用してゆくでしょう。昼間暇のない人間は遊ばないという理屈もなり立つかもしれないけれども。
いづみ子のたよりお気に入ってうれしいと思います。あの子と睦しい好ちゃんの様子は、見るめもうっとりさせる風情ですね。好ちゃんの爽快溌溂の姿は目にさやかなるものがありますから。わきまえのいい子だけれど、それでもあの子が自分のうれしさや元気でわれしらず身じろぎする刹那も、なかなかの若武者ぶりです。私は気に入って拍手をおくる次第です。濃紫の菖蒲の花の美しさ。
林町のうちでは、まつがお嫁にゆくのに代りの人がなくてああちゃんは眼をキョロキョロよ。〓りにしろ誰かとしきりに心がけ中ですがありません。多賀ちゃんは来年の四月か三月まではいるそうですが、やはり誰かいなくては困ります。そのうちに又何とか事情が変るかしら。しかし昔は農家の娘が東京へ来れば白いお米がたべられると云ったのが、今は東京さいげば、南京米食わにゃならんぞい、ですからね。全然逆です。着るものだって、ちっとのお給金では銘仙もかえはしません。
達ちゃん明日あたり島田でしょう。お母さんへお祝いの手紙さしあげたとき、かえったとき人はなかなか落付けないらしいし、むしゃくしゃして腹立ちっぽくもあるそうですから、その気分は毎日、着実に家の仕事をやってゆくのが一番いいそうだからそのようにして、フラフラにさせてしまわないよう気をまぎらすことで解決しないからと申上げておきました。まぎらせる部分は、ごくの表面です。伍長にスイセンされたのをことわってかえった由、家のことを考えて。卯女ちゃんが、栄さんの会のとき、松山さんの男の子とお手々つないで歩いていました、もう歩くの。では又。 
五月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月四日第三十一信
この間のときも雨になって、又きょうも雨になりました。どんな龍が昇天するというのでしょうね。疲れていらっしゃるとき、雨だとやすまるでしょう?風がさっきみたいにゴーゴー云って吹いているよりはましでしょう?よく眠れるようでしょう。うちはたしかに雨の方がましです。ひどい風だからけさ二階の雨戸しめたままにして出て、かえって、今さあ雨だから、とあけて掃除したところです。
あしたは日曜日なのねえ、つい忘れていて、さ、あしたは早く出かけてと云ったら、たかちゃんに笑われて、アアーンアアーンと泣きまねをいたしました。
仕方がないからこれをかきます。きょうは、この前回よりはおくたびれにならなかったでしょうか。次まで間があるから幾分ましでしょうと思われます。
第十二巻は買うことが出来ました。近日届きます。てっちゃんのところへのお手紙、小説がよみたいというお話、私はこの間うちから思っていたの。そうなのじゃないか、と。そうなのが自然な気がして。ですから大変よくわかります。本当にいいものをあげたいと思いますが、近頃ではいいもの飢餓でね。きょう私がもってよんでいたのは、マルタン・デュ・ガールという人のノーベル賞をとった「チボー家の人々」の第六巻です。白水社から送ってくれてずっとよんで居りますが、少くとも主人公ジャックは真実をもってかかれています。「ジャン・クリストフ」なんかも今は、又別様の面白さでおよみになるでしょうね。こんど御相談しましょう、どっちかをおよみになったら?人間生活の奥行の深さ、向上してゆく光景を悠々と描き出したものが、という御希望に、それはこれよ、これなのですけれど、と自分のものを示せたらどんなにうれしいでしょう。
人間生活の奥行の深さ、この表現は非常に豊かで含蓄的で、そして私のリズムに響きをつたえずにいないものをもっている。深い奥行のなかに、生きているもの、脈動しているもの、人間の行動の真の動機ともなっているもの、そういうあらゆる生々しいものがあるということは何とそれをまざまざと芸術に表現されてあるものとして読みたいでしょう。そのように表現しているものとしての作品をかきたいでしょう!
この正月に書いた「おもかげ」と「広場」とは、そういう人間の一つの姿と歌声ですが、それはひどい風に吹きちぎられて途切れ途切れに、しかも熱烈に響く歌声のようなものとなりました。
この二十六日づけのお手紙は、いろいろ大変面白うございます。ちょいちょいしたところが、おのずからちがったトピックのちがった語りかたとなっていて。わきに坐っていて、よそのひとと話していらっしゃるのをきいている面白さ、その面白さです。小説でいうと、題材が多すぎない程度でかかれている作品のゆとりのある面白さとでも申しましょうか。私はよくばりでしょう?オヤオヤと笑っていらっしゃるでしょう。でも私のこのよくばりは、自然なものとして自然承認されているのだから、相当でしょう?私への一番いいおくりものだということは、国男君でさえ万々承知というのですから。
すっかり目白のところがきのが、一通あります。てっちゃん目玉クルリとさせて、肯いている。そんなものね。
スフ足袋物語、つめたいようでいつの間にかぬいで毛布に足を突こんでいらっしゃったという話。
覚えていらっしゃるでしょうか、いつか夜中勉強していておなかすいて来てゆで玉子をこしらえたら、何かの工合でむいたらカラについてしまって、まるでデコボコな妙な風になってしまったことがあったでしょう、あのとき、あなたへーんな顔して見ていらしたけれど、とうとうあがらなかったことがありました。私はよくそれを思い出して、様々に人間の心の本人もはっきりは自覚しないようなニュアンスの面白さ、女はそれをたべるという気持のうちにあるつまらなさ、いろいろ思うのですが、このスフ足袋物語には、あなたのそういう自然なところが感受性のままに流露していて、本当にあなたらしい。こういうものをよむとうれしい気がいたします。そして私へ下すった二十四日の分をよみくらべたり、二十六日のその分をよみくらべたりして、あっちやこっちから眺めるように楽しんでいるというわけです。
ああそれから、てっちゃんに話していらっしゃる三省堂の『英独仏白図解字典』というのは、これはドーソンのを訳したものか、まねしたものではないの?
十八日も土曜日で、それは結構ですが、土曜日の次は日曜日であるというのは私にとって不便です。やっぱりこんなにして手紙かかなくてはすまないのでしょうと思って。
もし十日に天気がよかったら、うちの二人と寿江子とてっちゃんの一家とで稲田登戸(いなだのぼりと)の山の青葉の蔭へ寝ころがりに出かけます。うちではたけの子の御飯のべんとうをつくります。私はすこし歩いてどっさりのんびりして来るつもりです。歩きたいひとは、どうぞとしておいて。
きょうかえりに日比谷公園をぬけました。つよい風が欅の若葉をふきつけていて、柔かい葉房が一ふき毎に大変鋭い刷毛(はけ)ではいた三稜形になって、ああこんなタッチで描いたら面白かろうと興をひかれました。いかにも瑞々しく柔かで、それで瞬間の刷毛めはいかにも鋭いの、面白いものですね。それで截(き)られそうに鋭いの、若葉だからこそ出る鋭さで、そこが又面白いと思いました。嵐っぽい灰色の空のそういう緑の動きは美しいと思います。
今夜はうちはみんな早寝です、雨の音を気持よくききながら早寝です、もうすぐ寝ます。
そう云えばこの頃は水道がひどい渇水で、午後四時ごろ全く出ませんでした(きょう)。こんなおとなしい雨では、村山の貯水池の底までひりついた水が果してどの位ますのでしょうか。中途半端な都市というものの生活のシニシズムというものは。首都なればこそ水の憂いもというようね。明日は五月五日。きれいな濃紫の菖蒲の花を飾ります。 
五月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月五日第三十三信(きのうのは二信ね)
三日づけのお手紙けさつきました。これでなみの調子になりました。
「暦」や「素足の娘」およみになったら又いろいろ感想がおありになって面白いでしょうと思われます。栄さんのように持味と話しのうまさで、自然かくひとの到達したところとその逆のものとの関係がはっきり感じられて面白いと思います、本気で云えば面白いどころか、こわいし、自分がそうだったらどうだろうと思わせられるものではありますが。「素足の娘」についてもいろいろの印象があります、およみになってからまた。
私のこの頃、かくのは感想と評論ですが、この頃のは随筆風ではないの。自分でも本にでもすれば、こんどはきっとしゃんと評論として押し出した題をつけるでしょうと思います。随分勉強してかいているのですもの。そういう実質の仕事しているのですから、その限りでの自信もありますから。でも私の本はそうやすやすとは出ますまい。この間も下らぬデマがあると、雑誌の広告の中ですぐ名も何もふせて、やがてデマとわかって出すという調子ですから。そういう点について、あるスタビリティが商売人に感じられないと、紙のないところを安心して儲けられるものへとゆきますから。それは彼等の打算の心理です。編輯をする人と出版をする人とでは、この点で全く相反したような見解にいて、今日の文化性としてなかなかヴィヴィッドです。文化の面からの必要とか価値とかいうとそれははっきりしているのね。その他の面からのそろばんになると、肩越しに鬼がのぞいている幻想にとらわれるのでしょう、又本当にのぞきもするしね、いやあね。
封建的乱暴さのこと。いろいろ非常にむずかしいのです、ふだん一緒に暮していませんでしょう?いろいろ知らないわけでしょう?それを私が知っているとすれば、それは咲か寿が話したことのわけでしょう、それらのいきさつから、その二人があとで却って妙になるような場合の経験もあったりして。あのひとは昔から私がじっくり腰をすえて二時間もかかって話せば、そのことは十分わかるし納得出来るのです。けれども涙なんか出すほど本気で傾聴して「ほんとに僕は不思議と思う、だって姉さんはちっとも自分の得になりもしないのに、こんなに考えていてくれるんだもの。僕も二三日今の気持でいられたら、すこしは偉くなっているんだけれど、一晩ねるとケロリとしてしまうんだから困る」というのですものね。決して愚弄して云っているのではないのよ。本当に傾聴するのも本当だし、ケロリとするのも本当なの。女房は天下一品と云うのはうそではないのです。しかし、というのもうそではないの。ですから困ってしまう。十七八の頃からそういう二面性はつづいているのです。それにこの頃のあのひとの心には、自分の家庭はうちのこと、という感じだから、そんなに姉さんに世話をやいてもらわずといい。それより世話やかせないでくれればいい、というようなところでね。だって、あのひとは、父の遺族という名を何かにかかなければならなかったとき自分、おかみさん、太郎だけ三人かいて、寿や私は抹殺した感情ですから。これは何だか私に忘られない感じでのこって居ります。全般から来ているのです。何とも云えない強情さと妙な感情のつよさもあるから、私はまあ、こじらさないようにつきあってゆきます。勿論余りのことがあればしゃんと申しますが。性癖というものは、よくよくその人に理想とするところがなければ、それなりに年とともに一つのリリシス迄加重されてゆくのね。あのひとの頭は実に綿密なの。そして極めて計画的なの。ひどくそのいみではいい頭です。ドストイェフスキーの人物めいています、子供のとき、二階から女中さんにおとされて小児麻痺をやって、そんなことも何だか機能的に性格に作用していると思われて、それは可哀そうです。全体はおどろくべき強壮ですが、いろいろの人の内部のくみ立てね。頭がいいと云えば、なみはずれていいところもあるのに。
写真帖のこと、私にも楽しみです、北海の砂丘、本当に見事でした。紀(太原にいてかえったの)がなかなか写真上手で、まだきれいごとですが、なかなかセンスのある作品を作って面白うございます。あっちでいい写真キを買いましたって。かえってから紀が国府津へ行ってね、あの門から入った通路のところや、庭の芝生と杉のところやなかなかいい風景をとったから、私がポストカードにやきつけて貰おうとしたら、今大抵の写真やでポストカード台紙は品切れなのですって。自分がもともっていたのがどこかにあったから、さがしてやいてあげようというようなこと云って居りました。私は紀の写真をしげしげ見て、創作の面白さがわかって、写真展なんかも見たいと思ったりして居りました。紀は結婚する対手のひとが、結婚したら今のようにつとめているのがいやと云うので閉口しています、僅しか月給とらないから、本当はともかせぎの必要があるの。
どんな写真帖あるかしら。丸善なんか見ましょう。もうああいうのは入りませんからねえ。
本のこと、(小説)ともかくこの『チボー家の人々』をお送りして見ます、それとマリの『街から風車場へ』と。女の作家でも、なかみの造作のそれぞれちがう姿、そのちがいにやはりその国の文化の造作の浅厚の差、単複の差、いろいろあらわれていて感想をうごかされます。(「暦」など思い浮べると)
ああ、私は何はどうでもかまわないから、営々として勉強いたします。ただ書くだけでなくて勉強をいたします。勉強していなくてはかけないものを益〃かきます。そして、あなたからときどきはおまじないと御褒美頂いて、それで結構だわ。では明日。 
五月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月七日第三十三信
今昼すこしすぎ。間もなく人が来ます、日大芸術科というところに創作科というのがありますかしら。そこの女のひとが記事をとりに来るのです。もう女の子六つを下にして三人の子供のあるひとです。いろいろ生活への疑問から学校に入ったのですって。ものをかきたいと思って。そういう一生懸命な心持、しかも何だかすこし勘ちがえのところがあるようなのは気の毒です。自由学園出で、御亭主も初めはその気でハニスムにしたがい、一緒にジャガイモの皮もむいていたのですって、そしたら満州へ行って四年役人暮しの間に一変してしまった由。
それは一緒にジャガイモの皮をむくのも結構ですし、ハニのところに通っているような金持の息子がアゴで女中を使わないようにしつけるのはいいけれども、大人の現実生活としてジャガイモの皮を一緒にむくよりも、もすこし本質的なことで一緒にやれることもあるのだし。あの学校の教育の機械性が女を妙なかたいもの、皮相のものにかかずらわせてしまうのね。そういうところへ生活の協力の目安をおくなんて何て卑俗でしょう。熊さん八さんは赤ん坊のおしめだって洗います。野菜車を押して、瀧の川の坂をのぼる夫婦を見て、一日でもああいう暮しがしてみたいと涙をこぼしたのは古川辰之助の夫人でありましたというようなわけです。
さて、お疲れはいかが?すこしずつおなおりになりましたか?きのうはすこしつめたくて、きょうは暖い代りひどい風だこと。前の家で畳干してバンバン叩いています、いかにもゴミの立つ音です。
それからね、昨夜床に入ってから、ふといいこと思いついて、ホクホクして居ります。今に面白い静物写真帖をお送り出来そうです。日本の静物写真帖でもなかなか逸品があり得ることに思い到ったというわけです。
話が逆にもどりますが、日大あたりの芸術科って先生はひどいのね。久野だの浅原だのというひとなのね、伊藤整なんかましな部らしい。ここの映画科でとった「日大」とかいう画は、迚もひどいものだったそうです。法政ではいろいろ学内政治のいきさつで、文科をやめにしてしまうという有様ですし。あっちへひどいかこっちへひどいかというような有様ですね。
試験制度が変って、本年中学に入ったものの知能の低下、高校の程度の下落著しく、おどろかれて居ります。バカほどこわいものなしと、昔の人は賢いことを申しました。
尾崎士郎が「三十代作家論」を『都』にかいています、その渾沌性について。しかし尾崎士郎自身、「人生劇場」ですこし金まわりがよくなったら、やはりきわめてあり来りの生活形態を反復している有様だから、自身の常識性に足をとられていて、やはり文学の中でものを云っている。そんなものであるものですか。昔の文学は常識からの飛躍であったとすれば、今日の彼等のとことんのところは、常識の埒外のものをもって常識のなかにとびこむ方向をとっている。つまり生活の土台はちゃんと常識の中のもののままでかためてゆくことを眼目に文学をやっているようなところがあります。だから石川なんて、尾崎の云っているように逞しい野性なんかどころか、おっそろしい皮の厚い実際性です、逞しき野性なんかという文学性で、尾崎は詩吟調の自身の文学から脱けられないのでしょう。
尾崎は、世相が、彼等を流行児にしたのであって、云々と云っています。しかし、読者の何が、いかなる要素が、彼等を流行児にするエレメントとして作用しているのでしょうか、この辺三四年前、「大人の文学」という妙なことが云われ、大衆は批判の精神なんか持っていないし必要としていないと云われた(小林秀雄)時代から、急速な落下状態としてどういう意味をもっているのか、作家と読者とのむすびつきのモメントのことなど、いろいろ考え中です、『都』へ「読者論」を四回かきます、読者だけ切りはなして私には云えませんから、読者と作者との内的レベルの同一さがここで問題になると思うのです、現実に対して同じような低さ、俗さ、中学生程度がとりあげられるのだろうと思います、すこし本気で考えてかきます。面白いでしょう?
これをかいたら『婦人朝日』へ三十枚の小説をかいて。やっぱり中途からついわりこみますね。ああお客が来てしまった、ではまた。
この間に五日が経ちました。
きょうは五月の十二日(日曜日)ひどい風。
けさ、女のひとのためのものを六枚かき終り。お客。それがかえって。夕飯までのひと休みを。
十日には、土曜日にたかちゃんが話したように行けませんでした。新聞のこと二回だけ書いたら行こうと思ったのですが、それがかけず。おしかったけれど、丁度何だか神経の工合で、ひどく胸がドキついて、夜中息苦しく目をさますようでしたから、休むと云っても、どっさり歩いたりしない方がいいだろうと思って。それもあったのです。どこか疲れがあって、そんな風に出ます。でも神経性で自分でもそのことにはこだわらずよく早ねをして、すこし朝長く床にいて、昼間仕事して、その位の注意で大丈夫です、みんな書くものは疲れかたがひどいことねえ。それは本当にそうだとも思えます。私なんかこんなに気をつけていてこの位ですもの、でも寝てしまうことはこの頃殆ど全くないからなかなかの好成績ですが。御心配は無用よ。食事だってよくよく気をつけて居りますから。よく野菜たべて。
たかちゃんに、例によってと笑っておっしゃったという用件ね、どうでしょう!自分で、これから行きます、と金曜日に私に答えたのよ。
短篇をあつめたのが金星堂から出ます。直さんの『長男』を出したりしている昔からの店。「三月の第四日曜」をそこの主人のひとが大変感服したのですって。その題にします。これはあなたも御存じの題で私は気に入って居ります。「広場」「おもかげ」「昔の火事」「杉垣」その他『新女苑』にかいた短篇三つ。それからもと、長篇としてかき出した「雑沓」「海流」「道づれ」これはどうなるでしょうか、もう一度よくよみかえして見なければなりません。もし入れば随分分量のある本になります。三つだけで百五十枚ぐらいでしょう、あと二百八十枚ぐらいありますから。これから『婦人朝日』へかくのも入れて。
『新女苑』の六月号の裏を見たら近刊予告の中に私の感想集を出すとかいてありました。これはいつか一寸話のあったので、女のひとのためにかいたもの、随筆その他で、文芸評論は私は別にして、それだけまとめたいと思いますから。女のひとのための教養の書という性質のものをまとめるつもりです、そして、うしろに読書案内をつけます、勿論私の知っている範囲なんてたかがしれていますけれども、それでも何かの役には立つでしょう。それに本年のうちに近代日本の婦人作家がまとまれば私として三種の活動がそれぞれまとめられるわけでまあ悪くもない心持です。金星堂のは松山文雄さんに表幀たのみます、松山さんは今自分の仕事に向ってもはり切っていますから。素朴だがいいと思うの。柳瀬さんのは、透明になりすぎていて、あの画境に疑問もあります。
『都』の「読者論」は、ともかく一生懸命かきました。一部の作家が三四年大衆のための文学と云って、同時に批判の精神なんか必要としていないと、読者の文化水準にかこつけて、その提唱者たちが自己放棄をしたときから、読者と作家との正当な関係は失われたこと、そのときから読者の生活は作者の生活的現実ではなくなったこと、そして、作家は制作から実務(ビジネス)にうつったこと、作家が、読者とのいきさつを正当にとり戻さない限り、読者は作家との正当なありようをもち得ないことなどをかきました。そして文学をてだてとして、常識の日常をかためる典型として石川があらわれていること等を。
私は作家として、やはり作家の責任というものを感じ、その面との相関的なものとしてでなくては云えません。只の社会現象としてだけ切りはなして大宅氏が、半インテリ論をするようには云えない。そして、それはごく当然のことです。
さて、『婦人朝日』の三十枚の小説はどんなのをかきましょう。それ迄にこまごましたもの三つ四つまとめておいてね。オランダの女王は六十歳のおばあさんです。そのひとにとって自分の国の堤を切る心持はどのようでしょう。レムブラントの絵はどんなにしまわれるでしょう、ヴァン・ゴッホの絵は。おばあさんの女王は、どんな顔つきで執務して居られることでしょうね。大した働きてだそうです。その姿がフランドル派の絵のようですね。室内の絵の質も歴史とともに様々ね。 
五月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十日第三十四信?
さっきかえって、マアともかく一休みと横になっていたら電報。やっぱり小説の〆切は二十三日でよろしいとのことです。フーッと大息をついて、やっと眼つきが平常になりました。どうも新聞やさん少々かけひきをしてともかく插画だけものにしてしまったのではないかしら。それにしろありがたいわけです。おっしゃるとおり明日夜まで三十枚は神業で、しかも到って人間並のが敢て試みようというのですから、つなわたりのようなわけでした。今月はすこしずつ仕事おくれました、胸がドキつくから。そんなこんなで。あなたまでいそがしがらせて御免なさい。でもたまにはいいでしょう、〆切なんて。あなたのお身にもついているものですから。
きょうはすこしはれぼったそうでした、どうかよくお休み下さい。疲れて眠れないという晩に、あなたがあがったチョコレートのことなど思い出します。覚えていらっしゃること?白い紙につつんで、ボンボンの粒々。そういう夜には、きまって私は居ないのね。
きょうは、丁度中途半端な時間にそちらに行ったのですが、うちにいて、誰かに押しよせられたら目も当てられないので、とにかく出かけ、そちらで手帖出していろいろとこねて居りました。順助さんという若い男が現れます、その従妹の桃子という娘が居て、これはつとめています。二人は互に大変よく気持も分りあって好きなのだけれど、結婚はしない、恋愛には入らないということも分りあっているのです。桃子は、たっぷりやでね、従兄妹同志というようなことで、安心して子供を生めないというようなのはいやなの。「順助さん、従兄なんかに生れて来るんだもの」そういう娘。順助さんは若い勤め人。友人の妹ともしかしたら結婚していい心持になるが、娘と親とは順助が出征するかもしれない――殆どする、ということで進まない。順助はだから結婚生活をもしておきたいのに。桃子にはそれが分るのですが。今日の若い娘とその周囲とは結婚がむずかしくなって来ているにつれて女の生活の安定の目やすから対手を見る打算がつよくなって来ている。反面、青年の心にはもっとずっと人生的な思いで、妻というものを考える心持がある。それは女の今という時代を経てゆくゆきかたとちょっとちがっていて、男の心の寂しさです。桃子の母は、つとめている娘は猶対手が見つかりにくいと云ってこの頃は気を揉む。だが、それならつとめをやめていつ誰があるというのでしょう?
現代のそういう問題をかいて見ようという次第です。三十枚では無理?こんなことでもフランスあたりと若い女の歴史の経過しかたが大変ちがって、桃子はそのことも考える、そういう娘です。題はまだないの。
さて、ここまで二十日にかいて、二十三日にこの小説かき終り。「夜の若葉」という題です。三十四枚なり。
きょうはもう二十八日なのですが(この間に二冊の本の原稿整理)、この手紙の前に十九日にかいていると思いますが、どうかして私の方の手帖にはかきこんでないのです。着きましたろうか、尤も十九日には、二種類の原稿をかいているのですが。どうも余りごたつくので。でも十八日は日比谷でしたからかいたわけねえ。はっきりしないなんて、御免なさい。
きょうは上気したお顔でしたが、大分お疲れになったでしょう?うしろから見ていると、背中の左側に力が入って何だか気にかかりました。本当におつかれでしょうね、呉々お大切に。きょうは、初めての日のあとに私が手紙で書いた感想を益〃切実に感じました。文学においてもリアリスムというものが、どんなに明確、客観的な土台の上になければならないかということに通じた感銘です、そして、私はつよくアダプタビリティというものの本質を覚りました。文学上の表現、再現、読者に本質のことをわからせてゆくための表現法の上の必要なアダプタビリティというものは、決して、それ自身方便的な云いまわしではなくて、表現しようとする事物の核心のはっきりしたとらえかた、テーマのはっきりした把握、その必要の範囲への理解などから生じるものであって、やはりここに云えることは真のリアリズムの生命的なリアルな動きというものです、それとしてあらわれるのが文学において正しい表現としてのアダプタビリティである、実にそう思い、大変多くのことを考えました。
ねえ、そして、私には一つの深い深いよろこびがあります。それは時間と成長とのいきさつのことです。何年間というようにして数えられる年限、そして、その時間の外皮は文学のリアリズムを固定させるかのような条件であるにかかわらず、生活の力と生長の力はその外皮の予想を克服して実に感覚として今日をとらえているということは何といううれしさでしょう。つよくそのことにうたれました。資質のほんとの良質、それとたゆみない努力、感受性、それらに満腔の拍手を送りたいと思います。評論記述のこの美しさを書いている人自身果して私が感じるほどにつよく知っているでしょうか、或は知らず天真のところがとりもなおさず、そのよさの生粋さであるのかもしれませんけれども。ああと私は思うのよ、あの文芸評論の骨格はこのように成熟して来ている、と。
こんな様々の感想をもって、一休みして、夕飯に下りたら島田から速達が来ています、何だろう、と云ってあけたら、「本日は至急御通知することが出来ました」という冒頭で、達治の嫁がきまり、先方はいそがしくもあるし七日以後にと申しますが、当日の式服だけでよいからということにして、お客は秋になってすることにし、式を六月六日に挙行。「六月四日に法事早メマス」とお母さん、ペンの跡淋漓(りんり)というはりきりかたでお書きです。前の河村の親類の高森の熊野写真館の心配で玖珂(くが)の迫口家の三女二十一歳とも子という人だそうです、体格良、女学校は優等、という達ちゃんかねてのぞみの条件で、おまけに美人の由です、大変結構です。多賀ちゃんも前にこのひとのことが話にのぼっていたのを知っていたそうです、玖珂の迫口というとあああの家というところだそうですね、御存じ?父親という人はアメリカにいる由、息子も本年中学を出て今春渡米したそうです。仲人も土地では家柄だそうです、達ちゃん伍長になるとなかなか万事楽(らく)と大笑いです。
まあこれで私たちほんとに安心いたします、よかったこと、ねえ。でも、これも大笑いなのですが、何と急なさわぎでしょう、私の閉口ぶりお察し下さい。お法事が四日では三日の桜で立たなければなりません、六日におめでたい式につらなるためには。それのための服装が入用です、東京でのようにはゆきませんから。それを大至急作らなければなりませんが、私はこの丸さ故、かり着一切だめ、出来合も間に合わず。可哀そうでしょう?黒の裾模様というものがいるのよ、これはいくら原稿紙に描写しても着られないのですものね、あした大童です、しかも三日迄夜の目もねずの勢で仕事片づけなくては行かれないし。そういう裾模様を着て厚くて大きい丸帯をしめて、お姉様は兄の代理にいくつおじぎしたらいいのでしょうか、あなうれしや苦しや。式は高森というところの佐伯屋という家で双方出合って出合結婚(とかいてある)をなさる由です。
お祝に、お父さんのときほど持って参りましょうね。お嫁さんとお嫁さんの実家へはどんなお土産がいるでしょう、お嫁さんへは何か私たちから記念になるものをあげるべきでしょうから。お実家へはのりのつめ合わせでもあげましょう、それでいいでしょう?余り柄にないことすると、これからずっとのことですから。お嫁さんへは御木本から買ってゆきましょうか、指環でも。
私は本が出る年でよかったとしんから思います。明日おめにかかってこのよろこばしき不意打ちをおきかせいたします。
私はこれから十五枚ほどのものをかかなければなりません、そして、三日までは残念ながら二十四時間を手前勝手に区切ってつかわなければなりそうもありません、どうぞあしからず。
富ちゃんの方はどうするのでしょう、「きのう家へかえった、あとふみ」という電報が来ました、家へかえったのは一人なのか二人づれなのか。こちらの方のことに関しては、おっしゃるとおりにいたしますからどうぞ御安心下さい。自分の感情でほどをはずれたことはしないつもりですし。又そのような立場でもないし。
お母さんは全く上気(のぼ)せて眼をキラつかせていらっしゃる様子が文面に溢れて居ります。どっちにしろ多賀ちゃんをつれてゆきます。そういう忙しさで私一人では助手なしでは迚もつかれてしまいますから。多賀子もあれこれで亢奮つづきです、いろいろなことがある年ね、ではこの手紙はおしまい。本当にお大事に。 
五月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月三十日第三十五信
ここで一寸一休み。今かの子の「丸の内草話」というのをよんでいるところです。もう電燈がついていますが、窓外はやや曇った夕方の薄明るさ。きょうはここはすいて居てしずかで、時計の音がきこえます。六時五分すぎ。そちらからずっとまわって来て、日比谷で更科をたべてそしてここへかけて居るわけです。
『ダイヤモンド』六月二十一日とおっしゃったわね、外へ出てすぐたかちゃんに電話かけて(私のかえるのは九時ですから)たのんで、フラフラ歩き出したらおやと思って、まアまだ六月になりもしないのに、と笑えました。きっと五月二十一日のを買うでしょう、それで、『チボー家』のつづき三冊速達いたしました。
雨が今夜降るという予報です、この風はしっ気を帯びていてそんな風です、達ちゃんの御婚礼の日も降るかしら。雨降って地かたまると縁起を祝います、それもあるけれど、水道の水がたっぷりになり苗代が出来るのは一層何よりです。苗代がこしらえられないと、梅雨になったって植つけに困りますものね、山口、岡山、大変な減収です、植えつけたん別も少くなっています。
私は、六日にお式が終って、八日に里がえりがすんだら二三日野原へとまります。それから島田へかえって帰京いたしましょう。十三日には是非かえっていなければいけませんから、十五日として、ね。十日ほどの留守です。
今、本から目をはなし(つまらないの)鉄柵越しに見える街路の植込みの草やそとを通る自転車やらを見ていたら風がひいやりとするせいか、何だか一寸東京を離れるのがいやなようです。淋しいというとつよすぎる表現ですが。いつもこれまでこんな気がしたかしら。余り忙しいものだからかしら。どうにもこうにも行かねばならず、でさえこれだから休みになかなか出られないわけですね。三日の朝そちらへ行きましょうね。二日夜どおししても仕事を片づけるつもりですから。たか子と二人故私は安心して居眠りつづきでもかまわないから。
婦人のためにかいたものの内容は、そういう巻頭的なものといろいろの時評を内容とした随筆と、若い女のひとのためにもなると思うような文学的評論と合わせて五百枚一寸です。題をいろいろ考えていたのですが、『明日への精神』というのはどうでしょう、もっと柔かくとも思ったけれど、これは決して堅いというのではないでしょう?流動性もあるでしょう、頭を擡(もた)げた味もあるように思いますがどうでしょう、これはさっきそちらのドアの外で、ベンチにかけていて、フイと思い浮んだのです、校正の出る迄に考えようと思っていたものだから。わるくないでしょう?きょうかえったら原稿紙へ書いて見てもう一度見なおしましょう。(あら、となりの女のひとも手紙かいている)小説集は『三月の第四日曜』。内に入るのはそれと、「昔の火事」「おもかげ」「広場」「築地河岸」「鏡の中の月」「夜の若葉」もう一つ。「刻々」という題でかいたのをすこし手を入れて、別の名をつけて。三百枚ばかりです、短篇の方は二千しかすらないのですって。
もう一つの方は何部するのか。この間その係のひとが赤と紺の縞のネクタイして来て、何だか上っていて、その話しないでかえってしまいました。やっぱり同じぐらいかもしれず。短篇は松山氏にあとのは寿江子がします、私にしろというのだが、それは寿江子の方がいいわ、上手ですから。『昼夜随筆』というのも寿江子がしました。
『文芸』のつづきのは今昭和十―十二です。十二―十四と大体もう一二回で終ります、そしたら自然主義の時代のところをもうすこし直して明治初年(二十年以前)をすこしかきたして、それでまとまります。秋、本に出来ます。これはいつかいただいた題よ、『近代日本の婦人作家』ちゃんとしていていいこと。
そういえば、私が本のうしろに捺す印を黄楊(つげ)で手紙の字からこしらえて、いつか押しておめにかけたの覚えていらっしゃるでしょうか。あれいいでしょう?一生つかうように黄楊にしたのです、水晶ではわれますから。一番はじめ父がこしらえてくれた真円の中に百合子と図案風に入れたのはかけて、輪がかけました。
こんどは野原へ泊りに行ってからでないと手紙かけませんでしょう、だって二階は若御夫婦の巣ですから、下にいるのだから、キャーキャーパタパタシュウシュウ(これはポンプの音よ)ですものね。お風邪めさないように。さ、又はじめます。ここの電燈はすこし暗いこと、夕飯はかえってから。では出かける迄に又。
〔欄外に〕ここにいるとお客のないことだけはたしかで、一安心ね。 
六月二日午後〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書速達)〕
六月二日第三十六信
きょうはむしあついこと。その上、私は何と上気(のぼ)せていることでしょう!世間では二兎を追うべからずと申しますが、仕事と、本を見つけることと、旅行の仕度と三兎を追っていて、到頭ネをあげて、『文芸』のつづきはのばしてしまいました。一日図書館が休業であったためにこの始末です。しかし、今夜眠らずそれをかいて、又明夜は汽車の中ですぐ御法事で、その次の夜はどうせ家じゅうそわついているというのよりは、却って今夜どっさり眠るのがよろしいでしょう。『セルパン』のも到頭なげ出しました。でもまアようございます。今印刷屋へ電話をかけて、そのこと云って、一息ついたところ。
本のこと、実に思うにまかせません、今夜音羽へ行って、よく説明して来ます、明朝は行けないそうですから。富士見町の方は三日午後より七日迄留守の由です。
私は十三日のうちにかえります、広島を夜中に通る特急にのって、こちらへは十三日の午後につくことになりましょう。
きょうは、四日迄に砂糖とマッチの切符を購買組合にやらなければならず、おミヤさんではだめ故、手紙で送る手筈をし。うちは家族三人でマッチは普通の形の一包みです。砂糖は〇・六斤一人宛(ずつ)で、一斤八です。これは別のところでは通用しない切符です。この紙の六つ切ぐらいのに、卒業証書のように東京市の印が朱で押してあって、面白いものです。こういう種類のクーポンに儀礼の様式がいかにも日本らしいところで。一ヵ月ずつ隣組でくばるのでしょうか。隣組の責任者の用事も尠(すくな)くないわけです。
私は購買組合ですが、そういうところから物を買っていないところは、例えばふだんとっている三河屋というような店へその切符をやるのです、三河屋がその切符をまとめて、市へかえすのらしい様です。店もそういうクーポンによって配給をうけるのですから。もう島田へお砂糖もお送り出来ません。
私が立つ迄に、お手紙がつけばいいこと、あやしいかしら。
寿江子は七日にそちらへ上ります。私はいろいろのコンディションから、きょうは本当にくたびれていること。これからすこし横になりましょう。あした汽車にのりこんで、スーと動き出したら、どんなにヤレヤレといい心持でしょう、さぞさぞ、眠ることでしょうね。となりがたかちゃんで本当に気が楽です、体のうしろへ脚をのばさせても貰えますし。野原へ息ぬきにゆくのもたのしみです、変った町の様子や、お嫁さんの可愛さや、又こまかく申上げます。どうぞおたのしみに。 
六月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡周南町上島田より(封書)〕
六月九日島田第一信
ここは野原の家の座敷の廊下です。気持のいい海辺らしい風が吹いていて、同じ廊下のところにおいてある机で冨美子が宿題をしています。すぐ庭先の鶏舎の朝鮮人の長屋で子供がヤーヤーヤーとないていて、母親が、パアパア何とかとこわいような優しいような声を出して薪をわっています。多賀子はとなりの部屋で虹ヶ浜駅へ特急券をかいにゆく仕度をしていて、富雄さんは昼寝にかえって来ているところ。
ゆうべは初めてゆっくりたくさん眠って、きょうは何と久々にいい心持でしょう。ずっとお元気?手紙いつ来るのかと思っていらっしゃるでしょうね。
さて、三日に立って四日朝着いたら、駅に達ちゃんが出迎えていました。すっかり肩や胸に厚みが出て丈夫そうに艷々(つやつや)した五分苅ボーイです、背はあなたとおつかつよ。家へついて見たらもう御法事の仕度でごったかえっています。台所じゅういろいろのものを並べて。十一時からお式が始り。山崎の小父さん、富ちゃんなど、野原の小母さんも見えました。お祖母さまの十七年忌も一緒でしたのね。光井のお寺の、顎を上へつきあげたような顔をしている坊さんが、小坊主をつれて来てお経をよみました。この坊さんはこの間気がふれたのですって。畑で蛇をつかまえてそこにいるお百姓に、これを食えと云ったが、どうもそういうものはと辞退したら、そんなら俺が食うと云ってくってしまったのだって。光井の家へ来てどなって叫んだそうです(何と叫んだかは知らず)。その人がケロリとして(癒ったのですって)お経をあげました。
それからおきまりのお膳が出ました、ああいうときのお膳の上のもの覚えていらっしゃる?黒塗のお平(ひら)にパンが入っていたりいろいろ面白い。私もお客様というので、そこへ坐って頂きました。
それからお墓詣り。それから光井の寺詣り。これは達ちゃんと私とが総代でやりました。
三年回でしたから、私たちからのお供えとして、丸帯の立派なのをこわして仏壇の「打(うち)しき」をこしらえてもって行きました。お気に入った様子です。光井へゆく途中はまるで昔日の俤(おもかげ)なしとなりました。あの島田市までの途中も家が建ち、道普しんしているけれど、島田市から野原迄と云ったら全く全貌をあらためる、という言葉どおりです。工廠の門へ一直線になる十二間道路が今までの道の左へ山を切りひらいてずっとお寺の下まで通って、うちの裏山はすっかり赤い土肌を見せ、そこにクラブと官舎の建物が立ちました。トロッコ土掘り、トロの線路の踏切番、女がどっさり働いています。三つの池がひっそりと並んでいた山路のところね、あすこは山の頂に貯水場をつくるのだそうで、池はどこかへ消えてしまって、人夫がその辺蟻のように見えています。まだ形もきまらず、あっちこっちほりかえされ土肌をむき出し、荒々しい眺めです。しかし野原の一本町のはずれからこっちは、やはり大した変化もなしです、まだ。しかし、この一本道の両側だけ昔からの家々がのこされて、ぐるりはすっかりこの工場の附属物でかこまれるわけです。
魚なんか三倍ぐらい高騰していて殆ど東京なみです。もとは一匹ずつ売っていたでしょう?それが切身だって。その代り夕方でも魚が手に入るようになりました。
四日はそれで一日バタバタで、五日は次の日の準備のために私はいろいろの包ものに字をかいたり例によって書記。
五日は晴天で助りました。三時にお母さん、達ちゃん、私、山崎の小父さま、一つ車にのって、高森というところの佐伯屋という料理屋へゆきました。そこへ行ってから又一しきりいろいろの打ち合わせで、式がはじまったのは六時頃でした。達ちゃん、黒い紋服袴でなかなかよく似合いました。二階の座敷二つぶちぬいたところへ先ずこちらの一統が並んで着席。すると、控間から父親代りの人がトップを切ってお母さんお嫁さん(裾模様、つのかくし)の手をかいぞえの髪結がとってしずしずとあらわれて、向い側に着席。仲人の挨拶があって「これはお嫁さんからのお土産でございます」と大ふくさをかけたものをもち出しました。こちらでは徳山の岩本の主人がモーニング姿で出て、目録をあけて見て、又しまって、四角四面なあいさつをします。何だか私はへーんな気になって、この美しくて儀式ばっていて、しかも野蛮なようなことがらを眺めました。お嫁さんの方だけお土産というものをもって、そして来るのですものね。それからお盃があって、それがすんで座を改めてお祝いの席に代る間写真をとりましたが、達ちゃんは流汗淋漓です、私も。坐っているのが苦しくて。殆ど気がボーッとなる位です、達ちゃんポロポロ汗を流し(足のいたいのをこらえるため)眼をキラキラさせて(これはうれしさもあり)皆にあおいで貰っています。そこへ、私のところへ御面会になりたいという方が制服でモールつきで御来訪。敬意を表されたのだそうです。御婚礼の場所へまでわざわざ御苦労様とよく申しました。常識ではないことですからね。(下関、徳山間海港警備という新しいシステムが出来たのですって、本年から。万端の様子がそのために従前とはまるでちがいます)
それからこんどはお仲人の河村夫妻、写真屋さん夫妻が正座になおり、新郎新婦はそれぞれの親族の末席に坐ってお膳が出ました。この御仲人は二組の内輪のもので、並んで坐って、うちわの話みたいなことしていて、ちっとも双方の親族の間に話を仲介することなどしらないのです。河村の主人、袴を膝の下に敷きこんで坐ってだまってのんでたべて、おかみさんがスーとすましてわきからその袴をちょいとひっぱると、あわてて膝の下から大切の袴をひき出して坐り直すという好風景です。お母さんというひとの武骨な指にダイアモンドが輝いています。お盃を女中がとりもってあっちこっちへ儀礼的にうけわたしするだけ。ちっとも話をしないの。互の親族は。これは大変奇妙でした。その間にお嫁さんは立って黒の裾模様を訪問着にかえ、すこし坐っていて又立って、こんどは友禅のものにかえ、又すこし立って別の着物にかえ、そしてこちらの親族の一人一人に「不束(ふつつか)な者でございますが何卒(なにとぞ)よろしく」と挨拶してはお盃を出します。お酌をするの。(私はこれを達ちゃんの出征のときやったのよ)
お嫁さんは本当に達ちゃんには立派すぎる位です。田舎者などと云うけれど(島田では大変町方と思っているのです、自分の方を!)それどころか悧溌そうなふっくりと初々しい可愛いはっきりした娘さんです。十時すぎ一つの車にお母さんと若夫婦、かみゆい、次の車の私、河村夫妻、富ちゃんとのってかえりました。近所の人が見物に出ている。井村さん、岩本さん、徳山ゆきの十時五十何分かにのりおくれて次は二時二十五分とかで、店へ一寸ふとんをかけてごろねをし、私たちはお茶づけをたべ、たっちゃんたちは二階へ彼等の巣をかまえました。
が、巣と云っても、本当にこういう形式のお嫁とりは気の毒ね。私何だか可哀そうで、二人きりにしてやりたくて五日の日に「二人を一寸旅行に出してやったらどうかしら」と云ったの、そしたら、私がおなじみになるように「一度そんな話があったのだけれど未定ということにした」というので「そんなこと全く意味ないから是非やりましょう」と電話かけて、宿屋の交渉してやって、湯野という温泉へお里がえりからまっすぐ出かけることになりました。
七日にはお嫁さんは丸髷にゆって、又お式のときの衣類をすっかりつけて、お母さんもその通りで、組合[自注2]の家々を挨拶してまわりました。
八日に十時から、こんどはあたり前の髪と訪問着とでお里へ夫婦、母上とで出かけ、十二時何分かで戸田(へた)まで立った由です。
まあどんなに吻(ほ)っとしたでしょう、ねえ。六日の夜お式からかえって来て、達ちゃんが二階へゆくのに、はずみがなくてバツがわるいだろうと思って、「さあ、これをもって行っておやり」と私たちのおくりものの真珠の指環をもたせてあげてやりました。丁度薬指にはまりましたって、太い方のを買って、どうかしらと心配していたのによかったと思います、中指に入らず薬指だというのも可愛い。そんなにむっちりした娘さんなの。大体大変可愛いひとです、達ちゃんより頭脳は緻密です。何しろ女学校の優等生ですから。いかにもそれらしい字をかきます、お父さんはワイオミング州にいるのですって。でもやっぱり何を商売にしているのかは不明です。お式のとき私がお母さんに挨拶して「あちらは、何をおやりです。木材か何かですか」ときいたらお母さん「さア何と申しましょう」と云うきりなの。これもなかなか面白いでしょう?この辺ではアメリカへ行っていると云えば金を儲けるために行っている、でもう何もきかないで、安心しているのですって。だから私もきかないことにしました。何をしていたっていいのに、どうしておかみさんも云わず仲人も知らずで、それですんでいるか実に愉快です。姉と妹と弟で、弟は中学を出てやはり父の方へ行った由。
昨夜は大笑いよ、皆二人ずつでくつろいでいると、お母さん、岩本の小母上(これは島田の家)、私と多賀ちゃん(これは野原組)、あちらの若夫婦。やっとめいめい吻っとしているのでしょう。私はきょうはやっといつもの皮膚になりました。お式のときの着物、真新しいのが帯の下すっかりちぢんでしまった。何しろ大したお辞儀の数ですから。これでもまだ簡略の由です。あたり前だと次の日即ち七日にひるは女客、夜は男客で、ごったかえすのだそうですから。
きょうあたりはきっとお母さん何となしおねむいでしょう、さぞつかれが出たでしょう、何しろ話がきまってから十二日間というスピード婚礼ですから。お嫁さんはもう家へ来たひとという心持でいることがよくわかります。決してどうかしらとは思っていないわ。お里のお母さんには、私たちのお土産としていいパナマのハンドバッグをおくりました。
お嫁さんにその兄夫婦からおくりものをするというようなことは例のないことなのですって。ですから大変およろこびです、かいぞえの髪結さんは、これ迄何百のお嫁さんをお世話したが云々と、盛(さかん)にここの花嫁の幸運を讚えて居りました。二人とも互が気に入っているらしいから何よりです。お里がえりに出かけるとき、達ちゃんのお仕度がかりは私でね、いいネクタイもって行ってやって、林町の銀のバックルとともに大いに光彩を添えました。コードバンの靴にスフ入りの背広で、万年筆はチョッキの胸ポケットへさすものと初めて会得して、颯爽(さっそう)と出発いたしました。
この分はこれで終り、つづけてもう一つかきます。

[自注2]組合――隣組のような町内の組合。 
六月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月九日島田からの第二信
さて、又つづきを。
島田宛の三日づけのお手紙ありがとう、案外に早く五日ごろ頂きました。
あなたが達ちゃん宛におかきになった速達を、着いたらすぐ読ませて頂きました。本当に懇ろにいろいろおっしゃってあり、達ちゃんも様々に考えましたろう。夫妻ということについてあのひとはいろいろ、あちらにいる間も考えて来たようです。どういうことが夫婦として最大の不幸と不安であるかということも沁々とわかってかえったらしい風です。周囲で、その不安が非常に語られて居り、現実のこととしても多くあったらしく。
きっとちゃんとやってゆくでしょう、ちゃんとしたそして十分愛らしい娘さんですから。お酒のことだって、本当よ。でもあなた迄それを仰云るのは、きっと多賀ちゃんお前が喋ったからだろうって、お母さんお叱りになった由。面白いわねえ、私たちには何とどっさりのことがかくされて体裁をつくろわれて在ることでしょう、そのこと考えると、可笑(おか)しいやら妙なやら。健康のこと、結婚話がきまってから証明書のようなものを貰ったそうです、お母さんのお話。見たところも日やけ酒やけしているが、達ちゃんごく丈夫そうですからいいでしょう。
昨夜は富ちゃんとすっかり話してね。ここの家へ来て座敷へ通ったら紫檀の卓の上に、まるで七八十歳の爺さんでもいじりそうな、ろくでもない小さい茶道具がずらりと並べてあってね、私は何とも云えず物哀れを感じました。だって、昼間は土まびれで火薬だ土方だと、巻ゲートルで働いていて、うちへかえれば母と小さい妹とだけで、そしてこんな古道具屋のまねみたいなことしているのかと思ったら本当に哀れになってしまった。富ちゃんの気持もずっと二半でいたらしいのです、この頃は。
でも、この家の人たちの気分というものもなかなか一つあります。何というのかしら、小父さんがずっとああいう生活で、まともな道を日々ちゃんちゃんと踏んで生活して来ていないから、こういうことに対する一同の態度も、どこやら自主的にテキパキしないで、一つの力が常に家庭に欠けている。モティーブのはっきりしない日々なのね。だから小母さんなんか富ちゃんに対して、ハラハラハラハラしながら口では二言めには、きもやき息子と云って、しかも息子にこきつかわれていらっしゃる。いろいろの家の風は複雑ですね。本当にそう思う。
島田の家では、子供でも出来たら、子供が集注した注意で学校の勉強の出来るような場所と空気をつくってやることが必須ですし、あすこで勉強ずきの子供なんか出来っこないもの、床(ゆか)が絶えずゆすれるような落付かなさで。友子さんは今のところそういうガサガサバタバタではないし、おそらくそうはならないでしょうが。島田の方は又モティーヴが素朴単純にハッキリしすぎている――曰ク儲けにゃならぬ。このモティーヴもなかなか苛烈に人間を追いたくって居りますからね。その根の深く広いこと、実に実におどろくばかりですから。
しかし島田の商売はなかなかむずかしいようです。十ヵ村の肥料配給の元しめになったはいいが、あちこちから送りつける肥料の為替は皆島田の家で、一応切っておかねばならず、その嵩が常に何百円という嵩で猶加入している肥料店が、申込んで配給させた肥料を受けとるとか、受けとらないとかいうことも云えるらしいのですね、これは大したリスクなわけで、きのうも、どこそこがこの干天で何々という肥料は出まいから、受けないと云って来たと云ってカンカンでした。すると、その売れない肥料何百円――五百何十円か――はうちの負担になる由。マア何とかそこは又捌けるのでしょうが、この為替切りには大分お母さんフーフーです。御無理ないと思います。まして共同申込をした店がうちに対して受けないと云えるというようなのはいかにも統制のアナーキスティックなところで、意外のようです。
旱天は島田あたりは幾分ましで麦も収穫されましたが、広島のあたりはひどくて、麦が雑草みたいに立っていました。そして、お父さんのおかくれになった年は、裏の田圃であのように鳴いていた蛙が今年は全く鳴きません。丁度同じ季節に来ているのですけれど。それにこの野原の庭石の白く乾いていること!苔の美しいのがすっかり消えてしまって雑草だけのこっていること。雨がふらなかったら本当に大変ということはよく一目に理解されます。
野原のお墓は山の奥へうつりました。今夕皆でお詣りに出かけようかと云っています。割合遠いらしい様子です。今にここが完成してしまったら、もう、いろいろの意味でおちおち来られもしないところになりそうですね。大体島田もそうです、何時にどこに行く、何日にかえるでは行ったっておちおちしなくて腹立たしい。
これからはお母さんをお呼び出しして一緒に旅行するのが一番いい方法ということになりそうです。その方が周囲も気が楽でね。私たちは予定どおり十二日に立って十三日の午後東京へつきます。エーテル・マーニンというひとのこと、その婦人作家のこと月報ですか?東京堂の。あの海鳥何とかいうところ?何か微苦笑的対比があったの?私はちっとも存じませんでした。イギリスのヴージニア・ウルフだって小説のほか評論・感想いろいろ書いて居ります。外国のちゃんとした作家の活動の圏は皆その位です。マーニン女史のみならず。「街から風車場へ」は大学先生の甘さね、あの調子。実際、あの甘さは彼の白足袋とちょいと下げている合切袋趣味から出て居るものです、オウドゥウはああではないのですものね。おや多賀ちゃんがかえって来た、困った、富士もサクラもないらしい。今夕わかりますが。では又ね、呉々お大切に。 
六月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月十日島田第三信
きのうはお墓詣りに出かけず、けさ早くおきてひる前三人で出かけました。お墓は元の畑の中の場所から引越してずっとうしろの山の方です。家を出て裏の畑へ出て、新しく出来ている六間通りを一寸行って右へお社へのぼります。お社のところよく覚えていらっしゃるでしょう?あの右手の山々にずっとクラブや官舎が出来かかっているのです。お社は昔のとおりです。多賀ちゃん曰ク「東京で考えていたよりずっと奇麗さがへっちょるようだ。」お鈴を鳴らしてなかをのぞいたら、「宮本捨吉明治三十年奉納」の豊公幼時の胆と矢矧(やはぎ)の橋の上の小六の槍の石づきをとらえている小さいごろつきのような豊公の絵があって大笑いしました。それも覚えていらっしゃる?お社のお祭のときはあの石の段々に蝋燭の火をずっとつけつらねるのですってね、それは小学校の女の子の役だったのだってね。
お宮の裏に小松と山帰来とひうちごろの生えた砂山がありますでしょう?あすこはまるで小公園ね。すっかり水無瀬島から下松から室積が展望されますね、ああ気持がいい、いい気持、と私はよろこびました、松の梢がぎっしり古い松ぼっくりをつけていて、若々しく青い松ぼっくりも出来ていて、古い松ぼっくりはおじいさん、若い松ぼっくりは少年という風情です、あの山のいろんな茂みの間を、カスリの着物を着た男の子のあなたが遊びまわる様子を描きました。
それから、もっと大きくなっても、きっとあすこへはおのぼりになったのでしょうね、松の蔭にねころがったでしょう?そしてそのような時代になっての心は又それらしく、ね。
私は様々にそんなことを考えながら心持よく風にふかれ、段々奥へ入って行って、あの山からぐるりとまわって(左へ)あたり前の山中らしくぜんまいなど生えた径をぬけるとお墓がありました。そこへあのれんげ草のなかの一かたまりが移ったのです、うちのは、あのまま元の白い砂迄ちゃんとしいてありました。もって行ったお水をかけ花をさしお線香を立てお辞儀しました。ここも元は竹やぶだったところの由。よく日の当るところです。山懐ではあるけれど。こう書くと大体の見当がおわかりになるでしょうか。それから又同じところへ出て来て暫く砂の上に腰をおろして休みました。そして私は笑うの、上機嫌で。「たまの休暇としてくつろぐがよい、と云っておよこしになったが、まアこれでくつろいだということかね」と。本当に笑ってしまったのよ、あなたのたまの休暇には。考えてみれば、あなたは休暇におかえりになったことしかないのですものね。全権委任大使での出張とは、休暇と何という相異でしょう!
けさのこの小散歩でやっと田舎に来たらしい気になりました。多賀子はこれから広島へゆきます、例のお話していたたか子の友達ね、あのひとにあって、大体の意中をきくために。ついでにみやげのレモンを買い、東京迄の寝台券を買うために。十三日の寝台で十四日朝ついて、すぐそちらに行くしかないことになりましたから。サクラ、富士、どっちも駄目ですから。東京からの汽車はまだいくらかましですが、こちらから東京へは全くひどいこみようです、寝台もあるかしら。これさえあやしいのです。全くお話の外です。
きょうは疲れも殆どぬけて体も苦しくなく軽くなりました。来る前うんと忙しく途中ひどく、すぐつづけさまで、おまけに私の条件がわるくて、相当でした。でもきょうはもう大丈夫ですけれど。
あなたはいかが?こちらはなかなか暑うございますが。若い二人も今夜はかえって来ます。昼日中二人でよう歩かんから夜かえるのですって。そうねえ、一本道でヤレソレとのぞくんですものね。
十三日に立ち十四日朝おめにかかります。いろいろの用事、不便をなさいませんでしたか?こちらからの手紙これがおしまいよ、きっと島田へかえると又バタバタですから。ではお元気で。 
六月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月十一日島田第四信
寿江子から手紙で、お元気らしいというから安心いたしました。森長さんの方へ届けた書類のことも運びました由。単衣のことわからなくて又セルを入れたそうです。御免なさい。もう二日の辛棒よ。
習俗というものは実に妙ですね。たとえば男のひとで一人前の活動をしている者なら、法事や婚礼の式がすめばその夜でも立ってゆくことに誰も不思議を感じません。ところが女だと、それ以上に忙しくても、すぐその式の後、立ってかえるなどということは、何か其事に不満でも持っているのかという風に考えて、忙しさとして決してうけとれないのね。実にこれは習俗の力だと思います。てんで忙しいということの実感がないんだもの。だから口実と思う。何て可笑しく又困ったことでしょう。
私はきのう午後野原からかえりました。お母さん、達ちゃんが二年出征していたのに野原は只一度も慰問袋を送らなかったというお話でした、忘れかねておっしゃるお気持よくわかります、そういう場合のことですからね、何しろ。私たちが野原にいろんなことをしてやったって何にも心にこたえてはいないと仰云います、そうらしいところを今度も感じましたが、多賀子にしろ一人で身を立てることが出来る条件だけをつけてやればそれから後は自分の心がけ次第ですから、それでいいと思うの。島田の手つだいをさせられて云々というようなことがいつ迄もあってはいけませんものね。私はそこまでしたらもういいと思っている次第です。野原は或意味で心の持ちかたで底なしよ。その点、実によくない習慣です。気持にちっともしゃんとした自前のところがなくて、外の力を何とかつかうこと、それによって動くことしか考えていず、それは善意の場合でも依頼心のつよさとなって今度のように現れ、さもないときは利用するということになるのです。そういうことについて一家のカンが欠けている。お家の風のようになっている。だから頭の早い動き、というのもその間のことをクルクルと思い当るという程度になってしまってね。冨美子がましな娘であったらば、と思います。いずれにせよ、この二つの家の激しくいがみ合いつつ切れもせずというくされ縁に対して私は絶対中立ですが。
多賀子を来年の四月頃まで世話して、この夏休みフミ子を遊ばしてやって、それで私の役目はもう十分に終ります。というようなおはなし。
――○――
こちらでも切符で肥料を配給するようになってなかなか新しい事務が殖えて居ります。切符を役場へもってゆかなければなりませんし。若い二人は昨夜十一時頃旅行からかえりました。宿に電話しておいてよかった、以前とはまるでちがった人のこみかただったと達ちゃん大満足でした。花嫁も大分なれて達ちゃんにも口をきくようになりました、人の前で。今、お母さんと、肥料の切符の整理をして居ります、それをうちの帖面にひかえておいて届けるのです。いろんなそんな事務がふえて、この頃のは商売ではなくて事務だということになって来ているのがよく分ります。
私はサッカレの「虚栄の市」をポチポチよんで第四巻までの終り。一八一二年ナポレオンの退散前後のことをかいていて、トルストイの小説を自然思い合わせ、イギリスのリアリズムというものを考えます。この「ヴァニティ・フェア」は面白い、極めてイギリスらしい小説です。こんなイギリスらしい小説の世界というものは二十世紀の初頭以後はなくなっていますね。サッカレの諷刺とゴーゴリの諷刺との性質の相異も感じます。サッカレのは諷刺においてもイギリス風よ。バーナード・ショウのつよい常識が偏見に対して一つの諷刺として存在しているように当時の英国新興ブルジョア気質、貴族崇拝に対して、サッカレの明るい眼と平静な心が、現実のものを見ていて、それが諷刺となっているというわけに思えます。
常識というものがイギリスでは偏見に対して諷刺となり、日本の寛さんは、ショウの弟子のようなところから全く質の異った常識に立って通俗小説に行くところ(いつぞや歴史への態度でもふれましたけれど)面白いことね。老セドレとアミーリヤという娘が、株で失敗して苦しい生涯を送っていると、兄息子が印度で大した身分と金とをこさえて来て、それをひろい上げるというところもいかにもあの頃のイギリス気質ですね。ディケンズはいつも慈悲ぶかい紳士貴族を出して救いの神としたし、サッカレはもう一歩進取的で印度の役人にしてちゃんと救いの神の役を演じさせる。こういうところもいかにも面白く思います。日本の小説でこういう慈悲の神はいつも、人情としてしか登場していないことも実に意味ふこうございますね。例えば台湾で大した成功をしている長兄が云々という通俗小説の展開は余りない、人情の背景としての地理的空間は皆無であるか、或はまことに狭くて同じ国というようなところ全く面白い。日本文学の抒情性ということはこんなところにさえひっかかりをもっていて。
きょうはよむ本が種切れなのよ、可哀想でしょう?そういうときのあなたが、お気の毒であるのと余り大きいちがいはない位可哀想でしょう?
午後多賀子が広島からかえります、寝台券買えたかしら、あやしいものね。お母さんのおみやげに、到って世帯じみたものを頂きます、ちり紙その他。そして炭も少々送って頂きます。こちらでもお米の在りだかを毎日ききにまわってしらべて居ります。東京も一時そうでしたが。岩波文庫の広告見ていると、ディドロの「ラモーの甥」が本田喜代治訳で出ましたね、この有名な古典はどんなものでしょうね。十四日迄にあと三日ね。明後日の朝こちらを立ちます。一日のびるわけはおめにかかりまして。 
六月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月十二日島田第五信
睡い夏の午後という文句がありますけれど、本当にマア何と睡いのでしょうね。この眠さ。頭のしんがしびれるよう。余り眠いからこの手紙をかき出します。
今、この暑いのにお母さんは徳山です。達ちゃんたちのお祝を林町から貰って是非何か何かと気をおもみになるから、ではお盆を頂いてかえりましょうと云ったら、それを買いにお出かけになりました。あしたは是非どこかまで友子さんをつれて送ると仰云るので、柳井ではとまらないし広島は遠すぎるし、さっき達ちゃんと相談して宮島までではいらっしゃって頂こうということにしました。大きい嫁、小さい嫁、両手に花(!)の思いをなさりたいのだろうと思ってなるたけ程いいところと一思案したところです。
宮島をこしらえたのは平清盛ですが、神様は女の守神で、やきもちやきで、すきなひととは行かないところの由。だからお母さんと友ちゃんとならいいわけね。でも女の守神のくせにやきもちやきとは何と飛んだ神様でしょう。女の守りならやきもちをやかない方でよかりそうなのに、もしかしたら御亭主の浮気を割いてやるというわけでなのかしら。
友子さんはいい子で達ちゃんも御満悦、私も同様ですけれど、今も一寸あっちの話が出て、ロッキー山脈御存じでございますか、あすこの方でロスアンジェルスには日本の人がどっさり居りますけれど、そっちには余りいないという話まで出ているのに、「お父さん、何やっていらっしゃるの」というと、笑って答えず、というのはどういうわけでしょう。何もせんさくするのではないが、やっぱりそのことになると誰も答えない、というのは少くとも私の習慣には馴れにくいのね。その辺は農業ではなくて皆小さい商売をしている人が多いというのですが。手紙でかくと、答えないということに何かありそうにきこえるかもしれませんが、格別そうでもないのかしらないけれど、でも普通なら「店をやって居ります」とか何とか一口で一寸云えるところもあるのでしょうと思うけれど。面白いのね。誰も私のようには感じていないのだから。こっちの家もしゃんとしちょる。庭もひろい。家もいい。仕度もちゃんとせて、でOKになっているのだから、私は別に申し条もないわけですが。お里がえりのとき御覧になったら、あちらの家の机の上に木星社の文芸評論集と『婦人公論』とがちゃんとおいて飾ってありましたそうです、呵々大笑的好風景ではないこと?アメリカの父さんのこともこの式の一面なのかもしれませんね。何となくいろいろ面白い。
野原の方へどうかと云っていた広島の娘さんのこと、多賀ちゃんきのう行って見てすぐまとまるという望みはないように見て来ました。或はたかちゃんなんか口を利いたりすると、あとで大変そのひとにわるくて困ることになるかもしれません。
この間の晩あんなに細々といろいろ話して、富ちゃん大いに感謝しているらしかったが、果して現実にどう行動するのか。私にはこう云わにゃというところかもしれず。誰に対してはこう云わにゃ、彼に対してはこう云わにゃ。まるで、では自分のためにはどうしなくてはならないのかというところがフヌケとなっていて。こういうつもりがいろいろの事情でああなったというのではなくてね、土台、ああ云っちょこう、こう云っちょかにゃ、だからいやです。お気の毒とも思いますけれども、しんの腐っているという点はやはりリアルに映ります。今度のことではあの家の悪い習慣の結果が実にまざまざとあらわれて。
今多賀子は野原よ。あついところを又二人で泣いたり笑ったりしていることでしょう。可哀そうに。永い年月の間、日々の勤勉な生活からつつましく生きて来たのでないということは、或時期にこういう結果をもたらすのでしょうか。多賀子はあっちこっちのいがみ合いからぬけた気持で、人間の生活というものを考えてちゃんと成長しなければなりません。
きのうから梅雨期に入ったのにこの照りつけかたいかがでしょう。まるで逆に照りつけているようね。うちの井戸水はまだかれませんけれど大恐慌よ、あちこち。もし今年雨がよく降らなければ、と皆愁い顔です、苗代は枯れませんが、これでダーと降ったらすぐぬかないと根がくさるのですって。それ田作り、植かえと大変ね。どうかして降ればようございますが。島田の川は私が初めて見たときから岸の茂みを洗ってひろくたっぷり流れていたのに、この頃は底が見えて居ります、土州が出ている、これは水源池を工場でこしらえているからですって。下の方の田はちっとも水をうけないことになりつつあります。しかし地価は上りますから、それで満足しているそうです。土地を買い上げられた人々は、皆大きい家を建て、それを抵当にしているそうです。そこへ下宿人をおく算段である由。一円何十銭坪で手ばなしたが、今は建てるに坪当り倍の経費がかかりますから。すぐそばに勝手に土地売買しているのは五十円などと云い、村のあらましも様々ね。
さぞお母さんお汗でしょうから、今お湯をたきつけたところです。今度は吉例ユリのふろたきも只一度ですが、今年の薪はよく燃えてよ、実に見事にもえます、一年越し乾いているわけですから。雨よふれふれ。冬乾いて寒さが特別であったように、乾いた暑さは又格別のことになるでしょう、さア今日は十二日よ。あした朝九時四十二分出発よ。その汽車は東京に向って走るのよ、では。 
六月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
きょうは大分体が大儀らしい御様子に見えました。どうでしょう、大変おつかれになりましたか?珍しくハンカチーフで顔を拭いていらしたし、セルだったし、何だかすみませんでした。すこし暑すぎて猶体が気分わるくいらっしゃるのではないかしらと思って。きっとそうだったのでしょう、おなかでくたびれていらっしゃるし。ずーっと体を曲げて立っていらして。体の工合のよくないとき、いつもそうなるのね。それで私にわかります、ああきょうはどんな工合かということが。どうかよくお休み下さい。単衣もう送りましたが。
十日のお手紙かえってみたら着いていました。ありがとう。そちらへ行ってやっとすこし休まった気になって、かえって拝見して、ああ家へかえって嬉しい、嬉しいとつづけざまに云いました。ところで、どう?島田からの第一の手紙、つきましたろうか。
四日の御法事のことや六日の御婚礼のことや、くわしくお話したいから、又もう一遍かいて見ます。もし先のがついているにしろ、きっと全部同じというのでもないからお読めになるでしょうし。
こっちを三時の「さくら」で立ってね。島田へは朝八時何分。駅に浴衣がけの達ちゃんが出ていました。体なんかすっかりがっちりしてね。出る前からみると恰幅がついたというところです。店の外へお母さんが、おお来てあったと云って出ていらっしゃり、家へ入って見ればもう河村のおかみさんその他ふじ山の婆さんなど来て御法事料理をこしらえている騒ぎです。岩本の小母さんが総指揮役。何でも二十九日ごろからずっと御出張のよしです。
十一時に式がはじまり、野原のお寺の坊さんが来ました。この坊さんはこの間気がふれて畑で蛇をつかまえて、そこにいる人に喰えといって、くわなかったら自分で食ったそうです。でも今はケロリとしているのよ、そしてお経を二通りよみました。お祖母様の十七回忌の由です、だから二つなの。あなたの大好きなお祖母様だったという方でしょうと思って、御焼香いたしました。お父上のは三回忌ですから仏壇に飾る「うちしき」というものをこしらえてゆきました。金襴(きんらん)なんかこの頃織らないのですって。ですからうちにあった丸帯のちゃんとしたふさわしいのを切ってこしらえてゆきました。立派で御満足。それから御膳を頂いて(ホラお平(ヒラ)にパンなんかのっているようなお膳)それからお墓へ詣り、それから達ちゃんと私とが代表で野原のお寺へゆきました。あの辺の道は何と変ったでしょう。お寺の下の道ね、あすこをずっと山へ切り通しをつけて拡げ、三つの池のある淋しい優しい風景だったところ、あの辺はすっかり赤土が露出していて貯水池をつくることをやっているのですって。土方、トロその間をハイヤがひどくゆすぶれながら走りました。昔、少年が自転車で通った山の道はもう思い出の道です。私でさえマアあすこがとおどろいて目を見はります。トロの踏切り番をどっかのおかみさんがやっている。女土方がどっさり居ります。
島田川は水枯れで、酒場ね、何とかいう大きい、あすこの先のとこから光井の工場へ直通の大道路ができて居り、それとは又ちがってお寺の山つづき(光井の家の裏)のクラブや官舎の方へ通じる六間道路があの家のすぐ裏のところ(お宮の下)をとおっていて。昔うちのものだったという山ね、松のある、あの山なんか支那の子供のおけしの前髪みたいに、その一部だけをチョコンとクラブの山の下の赤土のところに出して居ります。
お寺からかえって(四日)その晩は比較的早寝。五日は、いろいろ明日の準備で私は寿という字をいくつかいたでしょう。
六日は晴天で何より。おひる御飯なんか味も分らずすまして、一時すぎから支度にかかり、三時に花婿、母上、私、山崎伯父と一つ車で高森の佐伯屋という家にゆきました。達ちゃん黒い衣類に袴、羽織でなかなかよく似合いました。そのときになっても又書くものがあってね、私は私だけ単衣だけれど大汗でそれをかいて、やがて二階の広間へ上り、こちらが着席するとそこへしずしずと嫁がたの父代理母、花嫁(かいぞえの髪結に手をとられ)、他の親類があらわれます。黒い裾模様に角(つの)かくし、まるで人形のように現れて、スーと坐ると仲人である熊野さんが何か云って、これはお嫁さんのお土産でございますと何か盛り上げてふくさかけたものを出したの。そしたらこちらから岩本の息子の正敏さんがモーニング姿で出て、目録あけたり、勿体ぶって、幾久しく御参納いたしますという。美しくて、何だか野蛮です、大変妙だった、嫁の方ばっかりそんなお土産なんて。
それからお盃になり、親族の盃もまわし、その間の足の痛いこと、気が遠くなるばかりでした。それがやっとすんで、いよいよ写真をうつすとなり、そのときの達ちゃんの大汗といったら。パラパラとこぼれて玉をなしました。私は扇でパタパタあおいでやって、やっぱり脚の苦しいので玉の汗なのよ。花嫁さんと二人でとり、それから皆でとり、それからお祝の席となりました。その間に花嫁はスーと立っては着物をきかえてき、又スーとたっては着物をきかえて来て、三四度そうやって、やがて一人一人の前へ、不束なものでございますがよろしくと挨拶してお酌をしてまわるの。これもお嫁さんだけ。やっぱり気の毒よ。見ていて気の毒で可哀そうよ。それから十時すぎうちへかえりました、やっぱり髪結がついて。
やれやれという工合で下でお茶づけをたべ、達ちゃん二階へゆくのに何かばつがわるそう故、指環出してやって、これもってってあげなさいと助け舟出してやりました。
七日の朝は若い二人とも機嫌よい笑顔でようございました。お嫁さんは御飯のとき一寸下へ来るきりなの。そして夕刻から髪結が丸髷に結ってやって、又きのうの式のときそっくりの大した装をして、お母さんもそのなりをして、提灯つけて組合の家々をまわりなさいました。そしてかえって来てお嫁さんは髪を洗い、八日の里がえりの準備です。大したものでしょう?全く飾られ、見られるための結ったり、といたり、着たりぬいだりです。ふだんだと式を家でして、そのまま夜通し客がいるのですってね。そして朝はもう女客、夜男客というのだってね。そういうお客は秋だそうです。そのときまでにお支度(キモノ、タンスその他)するのだそうです。
八日にお母さんと三人玖珂(クガ)まで行って、そこから湯野に出かけたわけでした。
友子さんという子は可愛いひとよ。眼が三白(サンパク)っぽい(きっとそれが魅力なのよ達ちゃんに。だって婦人雑誌の口絵の女はそういう眼か、さもなくば睫毛の煙ったようなのですから)丸っぽい顔で、しなやかで、笑うときなかなかゆたかです。言葉だって何だってちっとも田舎ではありません。声もいいわ、ふくみ声の調子だけれど、ガラガラではないし。利発です、頭もこまかい。きっと大丈夫やってゆきますでしょう。ふっくりした手の指に私たちからあげた真珠の指環はめて、なかなか愛らしい花嫁です。島田のうちがヤレソレ、パタパタだからびっくりしているでしょう、せわしいんだもの。御飯たべるのも達ちゃんかげんしてゆっくりたべて上げなさい、さもないと友子さん一人のこるのだからやせちまうよ、というものだから、ちゃんとスピードおとしてゆっくりたべてあげて、達ちゃんもいい良人になろうとしているからようございます。あれなら女房は女房で、なんてことにはなりますまい。友ちゃんも達ちゃんがすきらしいわ。いいことね。
私友子さんを見て自分が別格嫁なのを痛感した次第ですし、達ちゃんのお嫁さんの必須な人なのを一層明瞭にしました。お母さんのお傍にああいう調子でものの仰云れる若いひとが出来てやっと安心しました。こうおしね、ああおし、そうだろうという風にやっていらっしゃいます、そうでなくてはね。河村夫妻、熊野夫妻、鼻高々です。この二軒へは、まあ兄として謝意を表する意味で、塗物に銀で扇面をちらしたシガレットケース一組ずつおくりました。〔中略〕
マア、そんなあんばいです。お祝にはお話していただけお金もってゆきました。
我々がなかなか一役を演じていてね。木星社の文芸評論と『婦人公論』が、ちゃんと迫口(サコグチ)の家の机の上におかれて居ります由、何と呵々大笑的好風景でしょう!
そのおねえさんがあしたかえるという十二日の夕飯時には、お仲人である熊野夫妻が来たものだから、腰へ手拭つけて汗をふきふき台所をひきうけて、野菜サラダにキャベジまきにおつゆに何と、こしらえるというのも一つの風景です。茶の間で熊野写真屋氏がおかみさんにお前こういうものをしっちょるか、一向拵えんが、どうで、などとやっている。とにかくお仲人となると、写真とって貰うときとは全く関係がかわるから面白いところあり、又機微もあり。お母さんはお母さんで、大きい嫁は大きい嫁なりに、小さい嫁は又それなりにちょいちょいと御自慢でね。ああいう仕事するひとだから、こんなことようしまいと思っちょったらどうして上手でと、東京へ行ったとき何をたべたというようなお話で、お兄さんのお嫁さんも決して東京の奥さんたるコケンをはずかしめぬというわけです。岩本の小母さんはこま鼠で私は動かない。〔中略〕私は見物という役をひきうけます。どんな役者だって見物がなくては張合いないのだから私は見物という役を買いましょう。旅費をかけてはるばる来た見物だから、小母さま張合がおありでしょう、と笑うもんだから仕様ことなしつれ笑いでね。マア、そんな小風景もあるわけです。寝てもおきても人のなかで、私は苦しいから、ちょいとすきがあるとサッカレーの「虚栄の市」よんで。そのこと書いた手紙はつきましたか?〔中略〕
その七日の近所まわりのおかえしと称して九日の夜にはゾロゾロお寺へ詣るように(これは達ちゃんの形容)御婦人連がお嫁さん見に来ました。
島田もお米は混合よ。割合が東京と逆で、外米は三分です。こっちは七分だが。でも初めのうちは特別に白のをたべましたが。あなたのおなかは外米が消化よくないので故障しているのではないかしら。麦だといいのですけれどねえ。外米のカユはそれは風雅よ。全く浮世はなれて居ります。ヴィタミンが欠乏ですから(外米は)その点に特別の注意がいるそうです。あなたの方もどうぞそのおつもりで。私はオリザニンをのみますけれど。
私の左の足の拇指のはらが素足でバタついて、何かとがめてはれて、うんで、きょうは痛いの。珍しいことがあります。メンソレつけてなおすつもり。何と仕事がたまってしまっているでしょう。実にやりきれない、校正(小説集)は出てきているし。仕事なしで(出来ないで)十日すごすことは楽ではありませんですね。ではこれは初めの手紙の改訂版よ。どうか疲れをお大切に、呉々も。 
六月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月二十二日第四十二信島田の五つを入れると、ね。
ああ、ああ、あーっ、というところよ。今午後四時。やっと日本評論の「昭和の十四年間」を八十八枚終りました。やっと肩のしこりがとれたようです。永い間の宿題で、本当に胸がスーとしました。十四年間の歴史は短いようですが決してそうではなくて、この数年間の動きは実に複雑です。一貫した現代文学史は一つもないから、こんなスケッチのようなものでも、せめて若い読者にそういう意味でのものを与えたくて。
九年以後、芸術性をよりどころとしていた純文学が、どんなに自我を喪失して、文学以外の力にその身を托すようになったか、そのことからどんなに卑俗化、誤った功利性への屈伏、観念化が生じて人間の像が消えて来たか、その再生が今日と明日の文学の課題であるという現実の必然のテーマがあるわけです。こういう歴史の部は、塩田良平氏ともう一人とで持って(初めの方)昭和に入ってからは私一人でかいたわけでした。
ほっとして眠たいような気分。寿江子がうしろのベッドに横になって本をよんで居ります。たかちゃんは病院から林町へ。
明日は、金星堂の本の表紙のことで松山さんのところへ行かなければなりません。それから午後は座談会。月曜日はそちらへ参ります。島田、十日間、全く人の中でしたろう、そこへかえると仕事の用事で又人々で、閉口して、本当に襖をあけて、となりの部屋へ行って(動坂の模様よ)黙って頭くっつけて、美味しいボンボンをしずかに口の中から心の中へと味いたさで苦しいようでした。立つ前フーフー仕事して行ったから、休む間なしということになって。
もうこれから、すき間を見ては眠って、この気分を直します。でもマアこれで一つは終って、万歳ですけれど。蜜入牛乳を呑もうと思います。御褒美に二杯や三杯はいいと思うの。口をつけ、仰向いて、しんから呑もうと思います。
ところでね、ここに一つの面白い話があります。ゆうべ、ある本屋が来て(清和)私に幸福論という本をまとめないかという話なの。まあ今とりかかれる仕事ではないから別に約束いたしませんけれども、私はこれはあなたに早速報告しなくては、と思ったの。だってその人が云うには、自分の生活に一つのまとまりをもっていて、そこから私なら書けるという気がしたのだそうですから。いろんなものをよんで。このことは大変愉快と思うのです、私たちとしてやはり愉快と思うの。そうでしょう?私がそういう風に生活的に充実して、生き生きとした所謂(いわゆる)幸福について語れる者という印象を第三者に与える存在として生きているということは、私として、第一にあなたに語りたいことであるわけでしょう。そういうことから、私は自分の幸福の源泉を新たに感じる感動を押え得ませんもの、ね。ここには何か一寸には云い表し切れない複雑な美しさの綜和がこめられているのですもの。そして、一般的な場合としていうとき、そこにある人間の高さ、美しさ、こまやかさ、絶え間のない心くばりの交流について、そのほんの一部分のことしかふれ得ないのですものね。何だかなかなか面白い。きょう寿江子来たからその話したら、すぐ「ああ、それはきっと面白い」と申しました。でも勿論いくつもの仕事があるのですから、今にのことですが。武者の幸福とは又おのずから異ったものですから、まあいつかのおたのしみ。
十九日づけのお手紙をありがとう、あれは二十日につきました。小さい離れのことは、お母さんもお考えですが、裏が新しい道路でへつられる予定なの、ですからもう何年かしてその辺の様子がすっかりちがうことが決定してでなければ建てられません。お寺の田ね、あの田とうちの間に小さい溝があるでしょう?あすこを越して無花果(いちじく)の樹の方がいく分入って、ずっと高い道が出来るのだそうです。そしたらひどい埃で住居にはやり切れますまい。
達ちゃん、そろそろ落付いたでしょう。達ちゃんたらね、髭すり道具をもっていないのよ。安全剃刀がないの、不図思いついて、いつかの行李の袋に入って来たのを思い出し、ひとにやるのは私いやですが、達ちゃんだからお下りを特別の思召で使わしてやろうと思って送りました。ザラザラだったら可哀そうだもの、片方が、ね、これも姉さんの思いやり(!)
感想集は傍題なしでやって見ましょう。表紙は寿江子がクレオンで旺な夏の樹木を描いたのをつかいます。なかなかリッチな色調でようございます。
『第四日曜』の方は松山さん昔のような表紙かいて、いろいろふさわしくないので気を揉んでいます、あした行って何とか相談しなくては。表紙は楽しみで、心配よ。なかなかいいのがありませんですから。誰のにしろ。『暦』は傑作の部よ。でも、木版にはしないのだから、あのような効果では駄目だし、私の小説は又花の表紙でもないし。
私が七月三日迄にしなければならない仕事、例によって婦人のためのもの三つで六十枚とすこし。『文芸』の二十枚少し。大したものでしょう?お察し下さいませ。おっかなびっくりの『朝日』が女性週評をたのんでかきます、ごく短いもの。でも、ね。今月はいくつもおことわりをしてやっとこれだけ、どうしてもやめられない分を。
夜速達頂きました。表、殆ど出来て居ますからそのように計らいます。ハラマキ、白い着物、もうそちらでしょう。鉢植は元気でしょうか。ガラス一枚に射す電光の光景を髣髴(ほうふつ)として、雷をきいて居りました、妙な梅雨ね。ゆっくりして詩集の話を書きたい心持です。寝冷えなさらないように。 
六月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月三十日第四十三信
いまやっと一かたまり仕事を片づけたところ。そして、この紙をひろげていたら、デンポー。承知いたしました。明朝そのようにしてもってゆきましょう、但、今大観堂は目録をもっているでしょうか、あやしいと思われます。本のネがピンピンでしょう、ですから目録つくれないかもしれないのです、いつぞや目録欲しいと云ったらありませんでしたね、昨年のこと。
お手紙ついたら書こうと思っていたのに。まだよ。
さて、よくない気候ですね。体が疲れやすくて閉口です。さぞそうでしょうね、おなかは大丈夫?あさっては御苦労さまです。雨が二十五日から本腰で、島田の方はやっと田植が出来ました由、お母さんのお手紙。友子さんがうちのことをよくやって、達ちゃんの好きそうな料理もこしらえて、と本当におよろこびで何よりです、全く見つけもののお嫁さんね。あれで達ちゃん、お母さんのおこしらえになるものは勿論何とも申しませんが、おかみさんがまずいものしかつくれないとむくれる方だから、本当によかったわね。お盆になる迄お里へ行くにも及ばないって云っている、それもうれしそうにおかきです。それは友子さんとしても決してわるいおよめの口ではないわ。人数は少いし、物がわかっているし、家庭はいざこざないし、大切な存在として、ちゃんと認められるのだし。まアめでたしめでたし。あなたの方へ達ちゃん手紙よこしましたか?友子さんは?達ちゃんきっと兄さんは兄さんとしてマアおかみさんがああだし、自分もこれで、と一寸わるくないのよ。
私はね、いとど哀れな有様でした。というのはS子さんの姉さんでT子さんというのが田舎から来てね、何しろ大ファンでしょう、お忙しいのはわかっているし、すまないと思うがってなかなか雄弁で。上気せるような思いでした。それでもきょう、二十七日に渡す分をすましてやや安心です。きょうは上野図書館が定期休日。人が来やしないかとはらはらして居りましたが、どうやら今のところ無事。それでも徹夜はしないのよ、感心でしょう。私は益〃徹夜ぎらいです、誰も人の来ない朝、昼間、何といい心持でしょう。
これから『文芸』のつづきのものを書いて、それからもう一つかいて終り!
金星堂の本の表紙、かき直しのことお話しいたしましたね。今度は大変親愛な、本のなかみに気をひかれるようないい表紙が出来ました。それは街の風景なの。ひろい見とおしのきく街、こっちは角で、裏表紙まで往来が曲って来ています。街の彼方にはタンクや煙突があって、ワヤワヤした生活の音響が感じられます、そこが上出来なのよ。その生活の音のあるところが。柔かにグレーの色と薄いタイシャっぽい色、緑、白地にそれらの色がなかなか柔かくあたたかくてようございます。
松山さん、子供が赤痢で辻町の大塚病院に入院していて、毎日池袋から通いました。その途すがらのスケッチよ。作者にとってもひとかたならぬ通りですから、うれしいと思います。でも画家なんて面白いわね。これはモティーヴを私が出して、粗描を寿江がして(小さく)そしてたのんだもんで、合作だねって苦笑いしているの、でも傑作よ。ところが合作の気がして第三者が認めるほど傑作の気がしないらしいの。題字は黒です。
『明日への精神』は寿江子がクレオンでかいてなかなかいいけれど。この表紙は火曜日のかえり社へもってゆきます。
この間うちから日本橋の三越に東洋経済新報社の明治・大正・昭和経済文化展覧会があって、二十九日限りというので二十八日、一家総出で見ました。なかなか面白いものでした。統計表などで年代がちがうのを、それなり扱って、或る印象の混乱しているところもあったが。目録をおめにかけます。なかに明治七年に『経済要旨』という本を西村茂樹が訳して文部省で出している本が並んでいました。面白いことね。このままで進んだのだったら孫はどんなにか祖父をよろこびとしたでしょうのにねえ。
島田からかえってのち、私余り多忙で、何だかおちおちしないみたいで、あなたも変にお気ぜわしいようでしょう?御免なさい。私がきょろついた眼付していると、やっぱりあなたものうのうはなされないようなのがわかるから。来月五日がすんで、さあ、もういいわと、すこしのんびりいたしましょうね。やっと、本当にかえって来た気になりましょうね、そして、あれこれお喋りもいたしましょうね。私はこんどはかえって来たというより体の前後左右から仕事にたかりつかれた工合で、忙しくて不機嫌になるという珍しい現象を呈しました。大体忙しくてもじりじりしたりしたことないのに可笑しいこと。きっと時候の故もあるのでしょうね。
大事な詩集枕の下において、横になるとき一寸さわって、あああると思って、眠るという風です。深い深い休安、そして安息。心が肉体をとおしてだけ語れる慰安。そこにある優しさを、立派な人間たち、芸術家たちは知っている面白さ、「クリム・サムギン」の中にね、サムギンが「ああお前になって見たいと思うよ」というところがあって、私はどんなにおどろいたでしょう。女はその小説のなかで、そういう無限のやさしさ、よろこびの共感をちっとも感じないで、サムギンの心を寂しくするのですが。ほう、そうかいとお思いになるでしょう?そうなのよ。
それからもう一つのこと、それは短編集を整理していて、感じた面白いこと。私の小説には何と月の感銘がどっさりあるでしょう、「鏡の中の月」という題があるし、「杉垣」には月空に叢雲がとんで妻と歩いている良人の顔の上にそのかげがうごくところをかいているし、更にこの「杉垣」は火の見の見える二階の白い蚊帳の裾にさす月があるの。
重吉があらゆるこのもしい性格のうちに転身して来るのも私の一つの弱点(!)ですけれど。月はあおいあおい月以来、自然の景物のなかで、私の一生を通して特別なものになっているのね。この月光は窓にさしているだろう、屡〃そう思い、それはつよい潜在になって情緒の一つの表徴のようです。
作家のいろいろの内部的な構成なんて、実に一朝一夕ではないものですね。だから作家の生活の周囲の意味が一層云われるわけです。
私はどうしてだか、この頃人間の心のゆたかさ、面白さ、その面白さの刻々の流れが、いやに新しくわかって来ていて、そのものが時々刻々の接触にないのが本当に本当に惜しくて仕方なく思われる折が多うございます。この心持を興味ふかく思います。何か作家としての新しい展開のモメントがここにかくれていることが感じられて。根源的には全く妻としてのそういう渇望がねじを巻かれて、そういうものへもかかわってゆく過程も面白いことね。なかなか面白いところね。では又お体を呉々お大切に。 
 

 

七月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月七日第四十四信
もうすっかり、本きまりの暑さになりました。なかなかでしょう、どうぞうまい工夫で、いくらかはしのぎよくお暮し下さい。私の方は、スダレをはったりして、結局二階へ籠城よ。
六日に一番終りの原稿を送って、ホッとしてそちらへ行ったわけでした。ですから、きょうは本当に本当に久しぶりにドンタクでね。ああ、ああと、腹の底から気持のいい太い息をついて、ゆっくり朝飯をたべました。午後三時からは如水会館へゆくのよ、そこで小椋さんの結婚披露がございます。あのかたも今度はやっと結婚出来るようになって、ようございました。前の婚約していて病気になり、ずっと経済的のことを見ていてあげたひとは、去年亡くなられたのだそうです。お互に苦しかったことでしょうねえ。でも小椋さんとしては、ちゃんとするだけのことをしてあげたし、その方もうれしい心もあって生涯を終られたでしょう。なかなか一通りでない心持の後の結婚ですから、友人たちも皆おめでたいと思っているようです、対手のひとは存じませんが、いろいろわかっている人のようです。
今月ぐらい気の張りどおしの月はなかったと思います。だってね、五月下旬からもう精一杯はりつめて、それでも大事な仕事を二つも出来ずに立って、かえって、それから五日迄、十何日という間に百四十枚以上の仕事したのよ、それぞれ勉強のいるのを。あの「昭和の十四年間」が八十八枚のうち五十枚、今度口述したり書いたりでしたし。それでも、徹夜というものはしなかったのだからほめて頂戴。二時になったと云ってシッポつかまえられましたけれど、でも、あれはねえ。そんなことが一晩もなかったと云ったら、それは余り御体裁と申すものでございましょう。我が夫は天の如し、あざむくべからず、という家憲でございますからね。昼間フーフーでやり通すから、どうやらつづいているわけでしょう。その代り、というわけで、読書は御免下さい。迚(とて)もやれませんでした。又継続しますから御安心下さい。
私はこの頃図書館がすきと云うに近くなりました。あすこにいれば決してお客はありません。ちょいちょい何か囁(ささや)き合って、こっち見るひとたちはあっても、いきなりいつかのひとのように、そばへよって来るひとはマアありませんですから。本をよむにはいいわ、そういう勉強のときは。只、ものは書けません。特別室があればいいのねえ、大英博物館の図書館のように。そうしたら、本当にどんなに有効につかえるでしょう。でも、いろいろの点からよめる本とよんでいられない本とがあってね。そのことも面白い文化の諸相です。
ところで六月二十六日朝のお手紙の前の分というのは月が変ってもいまだに出現いたしません。どこへ行ったのでしょうね、又そちらのところではなかったのかしら。私はそれで本望だけれど、郵便やさんは字だけよむのでね、不便ね。(!)
二十六日のお手紙の紙は、ほんとにインクがにじんでかきにくそうだこと。こちらも紙は大変よ。原稿紙は本年ぐらい間に合いそうですけれど。このような手紙の紙、もうあと一二冊で、あとはどんなものになるのやら。やっぱりインクがにじんで大きな字しか書けないようなのかもしれません。
栗林さん、きのう待っていてね、又会ってかえりました。謄写料のこと申していました。一つ五部のがあったかしら、私がしらべて引いてくれと申しました。さっきこまかくしらべたら、五通とってあるのは全部で五種類でうち三つは、一部ずつさし引いて私たちとしては四部だけの分を払って居り、あと二種が五部のままで、それが五十九円八十四銭となります。ですから今回の分からそれだけ差引いて支払えばよいということになります。マア、これでいいのでしょう。私たちとしては仕事がダラダラとルーズでもいいということではいやだから、のことですから。こういう類のことはいつだって、そして恐らく殆ど誰がしてもたくさんの無駄はありがちのものですものね。もう一人のひとの事務所でしらべること、月曜日にいたします。
多賀子は、すこしましになって、うちの買物なんかはシャンシャン出るようになりましたが、東京の暑さはあちらとはちがう由で(それはそうでしょう)大体体が元気ないから、余りベンレイして臥(ね)られると閉口故、岡林さんのことなんか私が月曜日にいたします。
今年の夏はいろいろと面白い心持をけいけんします。
暑い、だけど仕事はしなければならず、又したい。そういう気持のとき、暑さにおされて、味もそっけもない風にしているのを見ると、いやねえ。暑いときこそ気をきりっとして、眼もさやかというはりがないといやになる。しかもそういう人間の精気なんて、なかなか求めたって無理です。暑いときの清涼さは、人間の積極の力からしか出ないのね。女の身じまい一つにしたってそうよ、活々(いきいき)した気働きのないのは閉口ね。それにつけても、暑いときこそ私は出来る限りさっぱりとして見て頂かなくてはわるいわけね。同じ汗いっぱいにしろ快く汗一ぱいでなくてはね。この点私は何点頂けるでしょう。
ところで汗一杯はいいけれど、そして汗もなかなか面白い、どっさりの思い出をもって活気汪溢です、けれど、机にすれて、小さいアセモが出来てピリつくのよ、困りましたこと。丁度右手の下のところが。
――○――
ここまできのう書いて、そちらでやっぱり汗の話が出たので、大変うれしゅうございました。四季とりどりの面白さは、何とゆたかでしょう。こもり居の夏、というような味はごく風流なものよ、滅多にない味よ、荷風だって存じますまい、おそらくは。そうして、そういう味いは、年とともに益〃豊富なニュアンスを加えてまざまざとして来るというのは又何と人間の心の微妙さでしょう。年々はその光彩を鈍らせるものとして作用しないで、段々深さを加えた深い淵のような渇望を湛えてひき入れるような精気を放っているのは奇麗だと思います。
その精気は溢れしたたって、それを語る瞳のなかにきらめきます。
きのうも沁々思ったのですけれどね、いろいろなこと用のこと話していて、大きな声で話していて、次第にその声が低くまってゆく調子、やがて声が消える、自然に向って低まってゆく思いの面白さ、ね。その速度ははやく距離は近いわ。痛切に思います、何と情愛の断面は全面的にひらかれているのだろうと。
虎の門へゆく電車は遠くて、こんでいて、もまれて立ちながら、私はその心の余波のなかにいるの。やっぱり大きくは声の出にくい状態で。電車の遠いのはいいわ。誰とも口をきかず、群集の中で、ひとりの心でいられるのは。二人きりでいられるのは。
途中、時間の都合で神田へまわりました、そして仰云った61という番号の改造文庫しらべましたが、この頃の番号のつけかたが変ってしまっていて、どれだか分りませんでした。又あした伺いましょう、でもきっと品切れの分でしょうね、改造文庫は実に少々よ目下。『文学発達史』しか東京堂にありませんでした、そんな工合。
虎の門ではすっかり詳細にしらべました、手元にある分、送ってある分、その他。随分どっさりのものが送られて居りません。富士見町へ行って、そのリストとてらし合わせて、一部ずつちゃんとそろえて届ける約束しました。私が行ってやりましょう、私が行って、やれば出来ましょうから。これもそれもお使では駄目。この数日のうちに一かたつけてしまいましょう。
そして又図書館通いをして、『文芸』のすっかりまとめて、原稿わたして、そして、本腰に長篇にとりかかりです。そしたら細かいもの皆先へのばします。
金星堂のは七月十五日ごろ迄に本になりますでしょう、これは部数も少いけれど。
それから、借かんの話ね、決して妙なことではなくて、全く短期間のことですから、どうか気になさらないで下さい。そのために、あなたが何かおっしゃるというような必要は決して決してないことですから。只、私の小さい水車の渇水について心配していて下さるから、その補供の道を一寸お耳に入れただけなのですから。すぐ金星堂の方のと九月に実業之日本の方のとですんでしまうのですから。
『文芸』の方の本になるのは[自注3]又次の必要のために役立てますし、大丈夫よ。今年は順調の方よ、まだまだ。
記録のこまかい計算は明日おめにかかって。でも、私覚えちがいしていなかったので大笑いしました。やっぱり十一日でしたね、あなたのほかにもう一人九日と思っていた方もあるそうです、書記課へきいて確めてくれましたから、岡林氏が。ゆうべの雨、眠るにいい雨でしたでしょう?休まったことね。きょうも余り暑くなくて。カッと照りつけられない日の休まった気分はいいこと。では又ね。

[自注3]『文芸』の方の本になるのは――『文芸』に連載した婦人作家研究を中央公論社から出版することになり、全体再整理をし、加筆した。附録として文化年表も作成した。それらの仕事に手間どっているうち十六年一月からの作品発表禁止で、中央公論社では出版見合わせ。遂に中絶した。そのゲラが見つかって一九四七年実業之日本社より出版『婦人と文学』。 
七月十三日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十二日
只今は午後の一時四十五分。この図書館の室はひろくて天井も高いけれども、今は大変眠たいの。ゆうべ蚊がひどくて夜なかパチリパチリやっては目をさまして。よんだ本がつまらなくて。つまらなくてもよまなくてはならなかったのですが。そちらもきっとこんなにムーとしているのでしょうね、きょうはムーとする日です、さっさとふればいいのに。
さっき御相談した本のこと、河出の。大変古いものだけれどまとめて見ましょうね。ここのかえりに林町へまわって作品目録を見て、河出の方でさがして貰いましょう。思いがけないこともあるものです。
それから手紙のことね、あれはフセンをつければいいのですって。きっとそうだろうと思いましたが。あたりまえに紙を切ったのにちゃんとした所をかいて、左記へ御転送下さいと、貼りつければいいのです、そのままの上から。池袋から来て仲町で上野ゆきにのりかえるとき、むこうを見たら郵便局があったから、一寸かけて行ってききました。
それから、もう一つ忘れたこと、それは、きょう手拭とシャボンとをお送りしたことです。その手拭は麻ですから夏は使い心地ようございます。麻の手拭は不思議にいくらギューギュー汗の顔を拭いても皮膚があれません。それにね、その手拭の両方の端に一寸した小さい花模様があります。その花の名は、よろこびの花、というのよ。暑いでしょう?ですからそんな花のついた手拭を是非つかって頂きたいと思って。もしか今つかっていらっしゃるのがあっても、それは暫くおあずけにして麻の方を使って下さいまし。どうぞ、ね。その簡単ないくらか滑稽な花模様から、きっとあなたはいろんな可笑しさや面白さをお感じになれるでしょう、その花はそんな恰好をしてついているのよ。心は一杯で手足が短いというような花なの。可笑しいわねえ。
『文芸』の最後のところの下拵えのために来ているのですけれど、所謂(いわゆる)輩出した婦人作家たちのものをよんでいるわけですが。どうも。大谷藤子という人は、真面目でいいけれども、その真面目さがまだ活力を帯びていないし。美川きよが小島政二郎とのことを書いた小説をよんで眠たくなったのですが、どうも閉口ね。婦人作家という職業の確立、一家をなすことに、実に汲々たるところが最近のこのひとたちの共通性です。年れいのこともある、女としての男との生活のけたをはずれていることからもある、小説をかくためには一旦常識の世界を見すてているのだから、女がその見すてたところで身を立てるということは、経済上の必要ともかさなって、職業人としての食ってゆける面へだけ敏感になるのですね。ここがしめくくりとしてあらわれる今日の現象です。婦人の評論的な活動のにぶいことと、この一家をなす必要に迫られていることから、明日の婦人作家がどうぬけ出し育って来るかが大きい課題です。これは、文化の、もっともっと大きい課題とつづいて居りますからね。今月はこれを終り迄書いて、初めの部分と自然主義のところをもっとよくして、水野仙子、小寺菊などをもっとよんで、そしてまとめます。それと『新女苑』のBookレビュー。今月は「科学の常識のために」かきましたが、来月は何にしましょうね。私は今迷っているの、もうきりあげてしまおうか、それともいようかと。ここに水野仙子の本は一冊もなくて弱ります。 
七月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
これは、この間お話のあった支払いに関することだけの手紙にいたします。
七月八日づけのお手紙にあった九月二十二日請求の分二通というのも判りました。あれは本当にそうでした。あの節、ともかく一応と云って私が払っておいて、あちらへ話すと云って受とりを先生もって行ってしまっていたので、受とりだけしらべたのでは分らなかったのでした。帳面とつき合わせ判明いたしました。あれなんか性質から云って勿論申します。
八月三十一日支払の分三通もわかりました。これは月曜日に行って、先ず上げるものをあげて、それからすっかりはっきりするよう、書きつけを渡します。
今年に入ってからは、今回のが初めてです。その内わけは左の通り。
(中略)
以上が今回分。今こうやって書き出してみると、?のつけてあるのが全く二つ同じもののようですが、どういうのでしょうね。二種類のものが偶然全く同じ枚数であったというわけでしょうか。これもきいて見ましょう。もし重複して書き出されているなら引かせるのでしょうと思いますが。
これと、前のと合わせてすっかり勘定すると、これでやっとすっかりきっちりすることになります。どうもいろいろありがとう。私は得手でないし、現物は見ていないし、フーフーね。
では、この手紙はこれでおしまい。
今はひどい風です。きょうは三島の方は嵐のようです。寿江子のいた熱川の方は大雨で、人の死傷も出ました。あの辺は風当りがきついのね。では暑さお大切に。
マアこの鳥籠二階はゆれること。鳥カゴと云えば「青い鳥」のメーテルリンクが、八十七歳とかでアメリカへにげてゆきました。ニースの家もブラッセル銀行の預金もなくなりました。当分は、シャリー・テムプル主演の「青い鳥」の権利金で暮しますと語った由。彼には、『智慧と運命』という本があります、御読みになったかしら。その『智慧と運命』はこのような彼の今日の現実でどんなに彼を助け得るものでしょうか。青い鳥の籠は、アメリカが動物移入を禁じているから禁じられて、もって上れなかったそうです。これは何だか妙なことね、青い鳥なんて、インコーか何かでしょう?生きているそんな鳥持って歩いたりして、妙ね。女優であるおかみさんの客間趣味かもしれず。
では本当にこれでおしまい。 
七月十五日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十四日第四十六信
今、別に謄写代についての手紙を一封かき終り、これをかきます、ああ、何とひどい風でしょう、グラリと二階がゆれます。あおりをくって。南の方がつよく吹くときはいつもこうです。
七月八日づけのお手紙への返事から先ず。
しきぶとんのことは承知いたしました。ちゃんと用意しておきましょう。スフ綿でないのがこしらえられるからようございました。でもね、この頃細君連の神経はこまかく働いて、どのうちでも、綿をうちかえしにやると、スフの方ととりかえられることを心配して居ります、私も人なみにその心配をします。人情がさもしくなる、ということは決して大きいことから成ってゆくのではないところが面白いものです。
面白いといえば、この間、岡本一平がアインシュタインにくっついて歩いたときの書いたものをよんでいたときに、日本人が何かというと、面白い、という表現をしているということを特にあげていて、興味を感じました。東洋風の大ざっぱな、直観的な、そして腹芸的表現ですから。面白いわね、という表現でしか表現しない話ということの意味も新しく感じられて。
私が忙しいときほど、早寝早おき大切ということはよくわかります。十日毎の表というの、全くありがたくはあるのだけれど。全くありがたくはあるのだけれど。――しかし私としていやと云い切れない次第ですから仰せにしたがって復活いたします。弱って来たりしてはいられないことは確かですから。でも、二時頃というのは毎晩のことではなかったのよ。その点は御休神下さい。
一頁勉強のことも元よりそのつもりで居りました。私がいくらかジャーナリスティックな仕事と、そうでない仕事との見境いがつくようになって来たのもおかげですから。
それから島田からかえりのことね。あれは偸安という意味からだけではなかったのでした。非常に疲労していたし、且つ又婚礼の場所へ御客に来たひとのことなどの関係で、その方が途中スラリとすむこともあったのでした。いずれ又お話しいたしますが。行きはおっしゃるようで行ったのですから。そして、そんなことについて、面白くもないものたちがすましこんでいるような雰囲気がすきでないことなんか自明ですしね。多賀ちゃんなんかの所謂影響のこともありますけれど、前後の事情から彼女も大いに恐慌していたから、意味はわかっていました。まさかぜいたくとは思いません。その点は大丈夫よ。念のために一こと。
今年の夏は体の工合は案外にもちそうです、オリザニンもちゃんとよくのんでいるし、眠ること、食物のこと、よく気をつけて居りますから、何しろ、八月から長いものかき出そうといきごんでいるわけですから。
河出の本のこと、旧作でもよいそうです、図書館でよんで見て、きめて(作品を)それから人にたのんで写して貰わねばなりません。この次は新しい方をとのこと。予約して欲しいと云って居りました、今度のに入れようと思うのは、
一、顔一九二三?四中公?太陽?
二、伊太利亜の古陶一九二四、五、中公
三、心の河一九二四改造
四、小村淡彩一九二六女性
五、氷蔵の二階一九二六女性
六、街二七女性
七、高台寺二七新潮
八、白い蚊帳二七改造
大体こんなところ。よく読んで見なくてはね。覚えていないのさえありますから。新しくつけ加える近ごろの作品については、大いに頭をひねります。どうも程よいものがなくて。或は何にもつけないままにしてしまってはどうでしょうか。
新しいのは来年書き下しを、というのですが、これはまだひきうけ切りません。三千刷るので一割二分の由、作家としての条件が余り低うございますからね、保証の率がなさすぎるという意味で。
ここまで書いたら珍しく重治さんが来て夕刻までいました。泉子さんがよるかもしれないというのでしたがよらず。いろんなこと話している間に、寿夫さんの細君になった人が来ました。これが、いつぞや上野の図書館でいきなり私にものを云いかけたとお話した女の人でした、やっぱり。名をきいたとき、どうもそうらしいと思ったのでしたが。お姉さんのようにしている方だからと云ったということですから、大いに力をつくしてそのような名誉は辞退しました、私は自分の弟は林町のが一人で沢山よ、寿夫さんが弟では任に堪えませんからね。その点は、冗談のうちにも、はっきりと申しました。だって、こまるわ、姉さんのようにして居りますのよ、なんて、ああいうひと。肉身でもないのに、じきおばさんだとかお姉さん云々とは全く趣味に合いません。
そのうちに、おひさ君が久しぶりで水瓜をもって現れました。洋装でね、ずっとつとめて居ります。呉々よろしくとのことでした、お体いかがでしょうと。達ちゃんの御婚礼の写真みせてやったら「アラア何てお可愛いんでしょう」とほめて居りました。自分たちのときはとらなかったのですって。
本当にひどい風です。益〃明日は吹きつのるそうです。いやね。今夜は、星の光なんか吹っとばされたように月の光が皓々です。荒っぽい空ね。大家さんへお中元をあげるのに買物に出かけたら途中で又うちへ来る女の人に出会って。そのひとは風に帽子を吹きさらわれかかって、少なからずあわてました。こんな天候が不穏なのに、山へゆくためのリュックを背負って、シュロ繩や懐中電燈リュックの外へ吊って、余り科学的でない顔つきの若者が何人も省線にのっていました。あぶない気がしてしまいました。山はこわいものですもの。リュックの外へ地図をくくりつけたような男が、シュロ繩なんかもってどこをよじのぼるかと心配ですね。山でもう何人かが死んで居ります、今夏、既に。
冨美子は八月五日ごろ上京するそうです。二十日ごろまでいるでしょう。学校からの旅行が廃止になりましたから、今度はさぞさぞよろこんで居るでしょう。多賀子と二人で遊べばいいわ。何だかまとまりのない手紙になりましたがこれで。 
七月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十七日
こんな紙をおめにかけます。小さい字がふつり合いですね。毛筆でペンででも大きくサラサラとかくべき模様ね。どこで書いているとお思いになりますか。テーブルの上よ。黄色とグリーンの縞のオイル・クローズのかかった。――林町。珍しいでしょう。
けさ、九段、そちらとまわり、お昼になったので林町で食事して上野へゆくためによりました。そしたら、六月十三日の母の命日にも何にもしなかったし、夏の休みにみんなあっちこっちへ行ってしまうので、きょう一日しかひまがないから青山の墓詣りをするという話なので、図書館は明日として一緒に出かけることにしました。それでここで此をかいているわけ。
又ひどい風になりましたね。汗のところへ埃がついて閉口。今このテーブルに八月号の『婦人公論』があって、(自分も書いている分)あけて見たらアラン・ポオのアナベル・リイの美しい詩が日夏の訳でのせられています。アナベル・リイという愛する女の名が、第二節の終りにリフレインとなっていて、情緒も幽婉ですが、日夏さんはこれを、謡曲みたいに「かの帝御羽衣の天人だも」というような用語で訳して居られて、大変重いものになってしまっています。この号に、露伴の肖像もあり、面白い。この白髭の丸形のお爺さんは白い襟をちょい出して、黒い着物で、大きい四角い和本箱が二重に鴨居より高くつみかさねてある座敷にペシャンコな座布団しいて、片手をすこし遠くはなして漢文をよんでいるところを映されています。この爺さんの短い蒙古史のエピソードを戯曲化したものをこの間よんで、この老人のなかにある麗わしい心情と、現実判断の標準の常識性とのために、小説をかかなくなった心的機微を感じましたが、この写真みるといよいよそうです、芸術家が変に玲瓏となるのは考えものね。
今泰子がこのテーブルの端にだっこされて来てお乳をのんでいます、いろいろのことで発育がおくれていてああちゃん大心痛です。可愛いようなすこし気味わるいようなところがあって。
太郎は幼稚園をやめてしまいました。どういうわけか分らず。書生君は大したてこずりもので、近日中保証人のところへあずけるのだそうです。そうしないと安心して、国府津へもゆけないからだそうです。国府津では今年咲枝も海水を浴びるつもりだそうです。「だそうです」つづきで可笑しいこと。
今夜、うちの手伝のひとがやっと参ります。これは吉報でしょう。岩手のお医者さんの妹で友達の紹介です。ユリのお人となりにふれることが何よりの修養とお兄さんが云ってよこしているので私は恐縮です。こまるわねえ。そして大笑いね。特別の人ではないのにね。多賀ちゃんは十一月頃受験して年内にかえるつもりのようです。それがようございましょう。
きのう所得税のための決定が申告どおり来ました。去年四月―本年四月迄。私のような職業は百円について七円五十銭です。七百円の収入とすれば、五十二円五十銭です。それが四期、分納。十三円十二銭五厘。これが一度。六十何円の収入からそれだけ払うのも大変なわけですね。七百円は最低です。新税法の。来年は当然多くなり、しかし其を払う当時の収入は如何にや、と申す次第。涼しくもない世帯じみたお喋りで御免なさい、でも一寸面白いでしょう? 
七月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十八日第四十七信?八かしら。
今夕刻の六時です。けさあれからずっと上野に来て。ここはこんなにひろくて風が通っているのにこんなに手がねとつくところを見ると、又きょうも三十三度でしょうか。
十七日朝というお手紙が珍しくけさついて、その返事もここでかきます。
その前にね、何だか気になることがあるの。あなたは「過渡時代の道標」のとき、ここで下拵えなすったとき『新潮』の昭和二年というのなどをずっとおよみになりましたか?論文の見出しのところ(目次)へ万年筆でカギをかけたりなすったことがありましたろうか、そんなことはなさらなかった?
線とか棒とかにやっぱり癖はあるものと思うのです、気になるというのは、二年のどこかに私の日記で「狐の姐さん」という題のがあって、それにも例外にカギがかかっているの、そして、七十二頁というところがボヤケているのを七とインクでかいてあるの。
そんなこと気にするのはあなたにとって全く片腹お痛いことでしょうか、もしそうだったら御免なさい。でもね。七という字にも、と(字の頭のひっかかる筆づかいに)見覚えがあるように思うの。これも妄念の一種なりや。もしそうならば夏なお寒いような工合ですね。どうぞあしからず。
あなたも、目録室を出て右へ行って、一寸段々のぼったところでおよみになりましたか、一寸遠目には暑そうなところですね。そして、やはり目録室の正面に、高間惣七のねぼけたような花園の大きい油絵がかかって居りましたか?
やっと今、あらましの小説をよんだところです。発表年月が、はっきりしなくてどうも見つからないのもあります。
「顔」「伊太利亜の古陶」「心の河」「小村淡彩」「氷蔵の二階」「街」をよみ、「高台寺」「白い蚊帳」が見当りません。
「顔」その他、勿論今日から見ればいろいろ申すべきところありますが、作品としてつかえます。「街」はやめます。あの頃フィリッポフという白系露人の知人がいて、その生活をかいているのですが、こういうものになると、今日の読者が面白さを見出すとしても、作者はそれで満足しないものがあって、出すのはいやです。全集ならばともかく。ですからもしまだよめないのがなくても、「街」をのぞく五篇であと新しいもの一つなり加えれば一冊の本になりますし、又これで面白いと思います。題材のいろんな風なのも面白いし一寸したアイロニーもあってね。集めておいた方が確にようございます。「白い蚊帳」というのは昭二年の『改造』ですが、ここに二年の『改造』が今ないのです。出ているのかもしれないけれど。間をおいてもう一度来て見ましょう。この本の題は、もし「白い蚊帳」がつかえたらそれもいいでしょう?そういう題で出る筈でしたから。或は、新しい一作の題を、もうすこしましにしてつけてもいいわね。
ところで、今急にあわてた心持になって居ります。毎週木曜日に『朝日』家庭欄に短い週評をかいていて、きょうその木曜でしょう?すっかりポッと忘れていて、今、あら、と思い出してびっくりした次第です。きょうは忘れるわ、それは忘れるわ。忘れられないから週評は忘れてしまうのが当り前です。
それから、ブック・レビューのことについては確にそう思います。又、女のひとのための雑誌に書くのは、通俗教育家とはちがうという点でこそスペースがあるので、そこが又いつそのスペースがなくなるかもしれないところで、極めて微妙です。女史型言説をなしては居りませんから、その点は御安心下さい。すこし勉強して、そして、女の今日のいろんなことを社会的な生活向上の面から見て、批判的にかくという人はこの頃全くすくないのよ。ですから私でもかくことになり、小さいものにしろ、私は所謂雑文は書きませんから(本質的に)それは大丈夫です、念のために一言。
隆二さんから稲ちゃんのこと心配した手紙が来ました。この頃どんなに仕事しているかと。わきから励してやれと。なかなかむずかしいことであるし、むずかしいものね。友人が「この頃はこういうものをかくようになったこと感慨無量です」と云ってよこした由。「素足の娘」のことでしょう。これについてはいろいろ考えますけれど、隆二さんのいうようなわけにもゆきません。作家の生涯の道は全くこわいジグザグね。その間に或る方向の一貫性をもって、いくらかでも目ざす方へ動いていればよし、としなければならないようなところもあり。「心の河」なんかよみかえし沁々とそう思います。
そして、この一貫性は、きょうのお手紙に云われているとおり、作家としての内的な必然性に忠実であるより外にはないのだから、大したものです。
これで、図書館一寸やめ。写す人をさがしてそれにたのみ、自分は当分家で書きます。そしてね、あなたはもしかしたら、いつでも午後二時すぎにしかこの丸いものを御覧になれなくなるかもしれません。うちは午後大したあつさなの、二階が。午後は全く頭がゆだります。ですから午前に一日分の仕事したいのです。そして、ひるをたべて、そちらへ行って、かえって、夕飯前一休みして、夜又いくらか生気を戻す。そういう時間割にしたいと考えて居ります。勝手ですけれど。一番暑いときでなくて御免なさい。一番でも十時でなければかえれず、落付くのは午後となって、それではどうも工合わるうございますから。
さア、きょうは、あつくて、くたびれて、脚がはれているけれど、心の中でたのしい心持のふき井戸の溢れる音をききながらいそいそとして家へかえります。朝の眼のなかによろこびがあるという、リフレインのついた小さなうたがきこえています。あの眼のなかに生きているよろこび、よろこびの可愛さ。あこがれのいとしさ。いとしいあこがれも信頼の籠に盛られれば、それは朝々にもぎたての果物のよう。そういうソネットを、ゲーテが書いたって?うそでしょう。そんな痛みのように新鮮な献身へのあこがれを、ゲーテが知るものですか。天才の半面の俗物という批評を、そういう詩趣を解さなかった生活に帰し得るのですもの。
刺繍の模様は一輪の花でした。[図4]こんな花弁の。一つの花の花びらですから、どの一片(ひら)もむしることは出来ないのよ。一輪の花はうすい黄色と緑。もう一輪は柔かい桃色と黄色でした。それは大変素朴で、真情的な咲きかたをしていました。その花たちは、心一杯で手足の短いような恰好をして、と私が笑いながらこの前の手紙にかいたこと、お分りになるでしょう。なかなか珍重すべき美術品なのにね。
高い天井の電燈がつきました。西日をよけて今坐っているところは灯からは遠いところ。正面の窓がらすにシャンデリーが映っています。
今どうしようかと考えているの、こんなにおなかすいてうちまでガマンするのかナ、それとも林町でたべようか、よると、かえるのに又面倒くサイナと、考えているの。池袋から上野へ直通の市電はなくなって、仲町でのりかえ、それが又混むのこまないの。電話かけておいて目白までかえりそうです。「タカちゃん、ごはんとおみおつけだけあるようにしておいてネ」とたのんでね。
では、これでおしまい。又明日おめにかかります。あしたはどんな花が咲くでしょう、朝顔ばかりが朝咲く花ではないそうな。うちの萩は咲くのかしら、せいは高いのよ、たかちゃんが油カスやって迚も迚も高いのよ。風にふらふらとしてそのときはすこし気味わるい。 
七月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
又、前便かきおとしの記録のことだけを。
五月二十四五日ごろ支払いの分。
一、速記料十一月二十一日分
六六・〇〇
十二月二日分
一、同五月八日請求(四月十八日の分)三四・〇〇
一、加藤、西村公判調書七八六枚四七・一六(一枚六銭)
一、西村マリ記録三部三一・五〇
一、証拠物写シ五組四三・二〇
計二一一・八六
これが、五月に支払いスミの分。
七月十五日に、新しく請求をうけその一部分を支払ったのの内わけは左のとおり
一、木島公判調書一二回四通四七・五二
一、同三、四回四通五九・一八
一、袴田上申書三通四四・二二
一、袴田公判記録四通四一・一四
(あなたのお話で、これが二重になっているのがわかりました。)
計一九二・六六
のうち、重複している分が不明だったので
一一〇・四〇
だけ支払いずみです。重複した袴田の記録は半額をふたんするのでしょう?では残額八二・六六銭のうちから二十円五十七銭引いたもの六二・〇九銭支払えばよろしいわけでしょう。
あついことね、この二階もややましな蒸風呂です。 
七月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十二日第四十六信
先ず七月十日づけの、ゴロゴロ第二信十九日に到着、どうもありがとう。おくれるというのも折にふれてはなかなか愛嬌のふかいものです。これは、ピカッ、ガラガラとはゆかず、きょうこの頃の私の胸のひろがりのなかでは遠雷のとどろきで夏らしい調子です。しかし勿論このことは、いきなり私がベソをかかないというだけで、書かれていることを、どうでもいいとしているのではないのよ。
そして、私は何となくすこしニヤニヤもするの。だって、時々こうしてあなたが私に雷をお落しになるの、万更あなたのためにわるいばかりでもないでしょうと思って。それは、そのときは島田言葉の所謂「歯痒い」わけですが。お父さんの所謂「卑怯未練な」(これ覚えていらっしゃる?お母さんが手袋を一寸見えなくしておさがしになったとき、お父さんが床の上に坐っていらして、「ええい、卑怯未練な」と仰云ったので、私が大笑いしてさがして、「ホラ卑怯未練がみつかった、みつかった」と笑ったの)次第でしょうが。家庭の情景というもののなかにはいろいろ滑稽な面白い要素もあるもので、その意味で私が雷おとされるのも、うちらしくて至極結構です。あなたも、たしかに女房というものをもっているようなカンシャクもおこせて、悪いばかりではないわ。誰が、私のあんな他愛のないベソ顔を見る光栄を有するでしょう(!)何から何まで絵でかいたように完備した女房なんて、叱ることもなくなって、きっとあなたは退屈よ、「バカだなア」という表現にはそう云える対手にしか流露しない親密さがこもって居ります。そして、そういう人の心も、そういうとき独特のゆたかさがあるのよ。そうでしょう?今に、私は益〃ベソをかきながらよろこぶようになってゆくでしょう。
さて、暑いこと。十年来に三十五度になったそうですから。今この机の上の寒暖計は三三度です、九一度ね。下はどの位かしら、面白いからくらべて見ましょう、風がふいても熱風です。
二十日には口が渇いてお苦しそうでした。暑気で体から何かがしぼりとられたようなお顔の色でした。疲れたでしょう?本当に、あつい番茶でもさア、とのませてあげたいと思いました。私の汗は玉と云おうか大雨の如しと云おうか。それでも、やっぱり私はあついお茶やおつゆをのみます、あついものをたべると、汗はひどいひどい有様でも体がダルくならないの、これは妙です、ですから、うちはその点禅坊主の方式にしたがっているわけです。暑いときの熱いものは極めて爽快です。そして、出来るだけ早くねて、窓あけて。あなたはユリが又逆戻りしそうだと御心配ですが、それは大丈夫よ、自分の気分がわるくて、能率の低下がわかっているのだから。
ところが、二十日の日は思いがけないことがおこりました。あれから、理研の文化映画の試写へまわって、久しぶりで面白いのを見て、夕飯をうちでたべ、そろそろ寝仕度にかかろうとしていたら(十時ごろ)戸台さんの友人から電話で、盲腸だというの、入院するのに医者を、という相談なの。ケイオーということですが、あすこの三等なんか、前に耳のわるい人のことで経験しているし、変な若い人に切開されては大変だから、宮川さんがよかろうと、十一時二十分前ごろ家を出て、青山の宮川氏の家へゆき、白山の戸台さんのアパートへ案内しそれから、駒込病院に入院して、手術が終ったのが午前三時。まさに盲腸はやぶれようとしていたところでした。それにくっついていた由。おかげで命一つを拾いました。うちへかえったのは朝の七時。
何しろ、この頃自動車がないでしょう。青山へゆくんだって省線、市電、白山にゆくのだって市電、夜なかにかえれず、朝を待つという次第で、病人のときは実に閉口ね。宮川さんは小さい体を実にマメに動してくれるので、ありがたく思いました。
戸台さんたらお酒をのむのがバレてね、腰椎(ようつい)の注射がきかないのですって。腰ツイがきかなければ全身もきかないのだそうで、局部で手術うけて、痛がってうなっていました。アルコールとは何とひどい害悪でしょう、こわいと思いました。命にかかわるような病気のとき、アルコールと性病とは決定的なマイナスですね。「これにこりてお酒やめればいい」と云ったら宮川氏「イヤ、安心して益〃のむかもしれません」と。
経過は大丈夫でしょう、昨夜窪川さんにもしらせてやりました。びっくりしていた由、きょう鶴さん行って見るとのことです。
右の次第で、きのうの日曜はへばってしまっていました。昨夜は早くねて、きょうは大丈夫。しかし、余り暑いと頭の中が真白くなってボーとすることね。
野原から冨美子は来ますまい。きょう、お話しする家の事情で。
家をかりて勉強するというのも、第一家不足ですから適当なところないし、一室かりても女は、やっぱりキュークツなところもあってね。それに私はテーブル、椅子もちこむのも面倒で。フーフー云い乍ら結局この二階で暮すでしょう。
新しく来た恭(きょう)子という娘は、きっちりしたいい子です。真面目な、丁寧な、いくらかヤスに似た俤のあるいい子です、心に厚みがあります。これは私が飢えていたような味ですからうれしいと思います、家も清潔になりましたし。だから暑くても辛棒出来るところも増しました。
暑いときは、ひとがよそへゆくから、きっとお客もへるでしょう。避暑の習慣なんかないからその点は平気です。私はつくづく、お茶がのみたいときのめるのに何をか云わんやと思うのです、何だか私の気持の標準はいつもそこにあるから。
おや、風が通るようになりましたね、
多賀子が病院からかえって来た(レントゲンの日で)。切腹居士どうしたかしら。
切腹居士と云えば井汲さんの旦那さん、重役になって、そういう生活から又この頃ヤーエンコでさぞうだっていることでしょうね。赤ちゃんを生もうとしている花子さん、眉毛つり上げているでしょう。
金星堂、紙が手に入らないでまだ印刷にかかれないのですって。文芸のものはそうですって。科学のものは先にゆく由。文芸が急を要さないもの、贅沢品の一部と思われるうちは文化も稚い足どりというわけでしょう。
十九日にかいて下すったお手紙、何だか楽しみです、きょう笑っていらした様子から。
これから森長さんのところへ行って来ます。ついでにこれを出すために、一区切り。表は別に。
呉々も暑さをお大切に。横になっているのが苦しい夏は休養もむずかしくてね、夏は本当に心がかりなときです。 
七月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十四日第四十七信
きのう二十二日朝のお手紙――夏寒物語の分――がついたら、けさは十九日の分がつきました。面白いのね、この頃は。よく、あとの雁が先になります。ついた順に二十二日づけの分から。
やっぱり、あのチェックは夏寒なのかしら。それは一応紳士道から云えば、チェックつけるということから一つの例外ですけれど。でも、夏寒かしら。私にはどうしてもあの線の表情が見なれたものなのだけれど。独特なのよ、御存じ?非常に一種のトーンがあって、それは、あなたが何か一寸みを入れてものを仰云るとき、背骨をごく表情的にお動しになる、あの感覚がいつも線に出ている、それなのだけれど。まあ、いいわ。私はこの夏寒むは未解決のままでいいの。なかなかそこにいいところがあって。
麻の手拭は、木綿よりアセモをなくします。くびのところにアセモが出来ていらっしゃるように思いましたが見ちがいでしょうか。枕につくところムンムンすることねえ。何かいい工夫はないものかしら。しきりに考えているのですけれど。座布団なんかは駄目ね。むしろかたいものを何かでくるんで、頸のところをすかすようにした方が、いくらかましかもしれません。水枕なんて夢物語の一つでしょうねえ。
美術刺繍の花弁の形、なかなかいいでしょう?やっぱり夏寒む的でしょう。
ああ、それからこの間のシャボンはアセモのこと考えてホーサン石ケンです。いくらか、普通の石ケンよりはましでしょう、あれがなくなった頃又お送りします。夏はああいうのの方が刺激がすくなくて且つ皮膚のためにようございますから。
本の(河出)題のこと、いろいろありがとう。私はこういう風に、あなたがいろいろと考えたり相談にのって下すったりするの、大変にうれしゅうございます。季節感のことは、本当ね。よほど何かそれ自身含蓄のあるものでないと、やはり季節の感覚だけ浮きますから。
私はいろいろと考えて、一種微苦笑を洩しています。本屋が、ガサゴソいろんな妙なものでひとわたり儲けて、さて、すこしと気が落付いて、私のものなんか出すという気になる。すると、そこには又別の条件が生じているというような塩梅で。どうもなかなか活現実ですから。
『書斎』のこと承知いたしました。
作家の生涯が、時代、環境、家庭、資質様々の綜合ということ。何と痛切に実感するでしょう。きょうも『朝日』の学芸で、杉山平助が書いていて、山本有三が『主婦之友』とかにかいていた「路傍の石」をかきつづけられなくなったということを、作家が事実を通過して描けなくなった今日の現実を遺憾とする意味でかいていました。有三でさえという意味で。人間の心の成長、時代のうごきの必然には、明暗があるのが当然であって、そこを通過することは、天然の理法であるにかかわらず、と云っている。有三においてさえなお然り。このことには無量の意味があるわけです。或る作家にとって、例えば、一人の妻の心というものがあるとする、良人を思う心をかくとする。良人を思う心は抽象には存在いたしませんからね。きわめて具体的条件があります。その条件をぬいてかいたとして、妻の心一般であって、芸術的には独自性もありません。だから書かない。それだけその作家は宝をもちぐされている。何と痛切でしょう。作家はいつも一番かきたいテーマというものがあり、それをこそかいて力量をいっぱいに振えるのであると思います。そのテーマの一番必然なものをいつもよけているということの毒は、非常にふかいものですね。作家の渾身の努力は、いかにしてこのフショク作用にうちかつかということでありましょう。この努力がまたごくごく微妙です。
本当に雨がサーッとふればいいことね。けさ一時曇っていただけでも大いにたすかりました。
今年の夏は一つ修業をしようと思うの。それは風のとおるところでものをかく練習です。私は風が体に当るといやで仕事出来ない。でも、今年は二階に籠城でそんなこと云っていられないから、風が通ってもかけるようにして見ます、これは半ば生理的な原因なのでしょうね。皮膚の表面が温度を奪われ、頭の血管がどうしても充血するその間に何か不快感があるのでしょう。皮膚の弱さもあると思って、それで今年はすこし吹かれて辛棒してみます。
上野にはソーダ水あってよ。私はのみませんが。ソーダ水というものはどうもすきません。ポートラップというもののこと、白山の小さい店でのんだこと思い出しました。覚えていらして?私はあのとき初めてポートラップというものをのみました。
ところで十九日づけのお手紙の前、昨夜速達頂きました。それは私の甘ちゃんと云われていることわかりますし、承認もいたします。あなたに対し、あなたの批評に対してはそうですが、たか子なんかどっかに私の手落ちでもあるような表情をするから非常に不快です。そのことでは不快です。野原にいたときも、あのときの手紙には書かなかったけれど、なかなか腹にすえかねるようなこともあったわけです。あの一家のひとは、とことんのところへゆくと、人を利用すると知らず利用するだけに頭を働かせ、到って水臭い心持で対して来るからきらい。尤も、きらいというのは子供っぽいことですが。でもきらいだわ。自分の勝手でばかりやさしい声したりして。暗黙にケンセイしたり。大変むきつけに書いておやおやとお思いになるかもしれないが御免なさい。書くと下らないようなことだが、心持では腹の立つこともあるのだから、あなたは「ホウ、ユリはむくれてるナ」と思ってきいていて下さればいいのよ。誰に云う人もないと、昔話の木こりは木の洞に自分の云いたいことを云ったというでしょう、あなたは御亭主だから、私のジリジリもおききにならざるを得ないのよ。あしからず。
面白いのねえ。本当にまともな気持でたよりにしているのかと思うと、信頼という本当の気持は知らないで、スルリといつか利用の面へまわってしまっている。だからあいては、本気でためを思ってやって、やがて腹を立ててしまうところが出来る。
ところで、富雄に召集がかかって八月一日に出かけます。何(ど)ういう種類の召集か分らず。明日たか子が御相談いたしましょう。いやなところを思うとムカムカするが、一人の若い女が、ともかく世の中と組みあってゆくのですから、同じ利用するにしても大局的なましの方向に役立つ以上、利用されてやるつもりでは居りますから、その点は御安心下さい。
十九日づけのお手紙。いくらかでも冷たいトマトがあればまアまアね。玉子は売りに出ていますが、痛んでいるリツが多いから。牛乳はおなかにあって居りますか?下痢になりませんか。アメリカあたりの標準で、体のためになるのは四合五勺が単位ですね。ただそれだけはのめますまい。料理に入れるのを入れてですから。どうかうまい組合わせで栄養をおとりになるように。そのことでの倹約は全く無意味よ。味噌汁は汗をかいた体のために力がつきますが、召上るでしょうか。塩分がいるのです、汗をかくと。塩分は非常に大切のようです、肉体の疲労には。
島田からかえりのこと、一般的なこととしてよくわかります。半徹夜なんか絶対して居りません。そうすると朝おそくなり、体がもちにくくて、暑さ一層凌ぎにくいのですから。本当に、いつかの夏、林町にいて、四十度熱出しましたね。そして、叱られたこと!よく覚えて居ります。よく眠ること。体に力のある感じにしておくこと。それはよく気をつけて居りますから。今夜も十時半には眠るでしょう。先日うちのように、一日の大部分暑い外にいると頭がボーとなります。うちにいると疲れ大分ちがいますが、いつもそうばかりもして居られず。
読書案内のこと、はっきりそう思います。例えば「古代社会」だけで、発展が示されなければ、河出のあの結婚や何かを法律上しらべた叢書をあてがったって本質は何も知り得ないのですから。婦人伝についても、この頃多く出るのは回顧風のものね。その点婦人作家論はちがうつもりです。記録のこと、しらべました。
これからすこし明朝渡すものかきますから、又ね。 
八月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月一日第五十三信これで順でしょう?
妙にこんぐらかりましたから先ず、土曜日のことから。土曜日は多賀子が立った日で、朝そちらへゆき、私は夜東京駅まで送ってやりました。家を出るときは気がつかなかったけれども、往来を歩いたら頭がクラクラして足が浮いて千鳥足の気分だものだからびっくりして、送るとすぐ家へかえりました。
日曜日は、それでもどうしても読まなければならないものがあって、昼間じゅうそれにかかっていて、夕飯後すこし書いて早ね。月曜日にそちらへゆき、少々ピンチと云っていたのはそのことです。今まで、体がつかれて苦しい気のしたことは始終ですが、こんどみたいに、体はしゃんとしているのに頭だけ妙になってものもはっきり見えないようだし、目まいがしてあぶないようなのは初めてなので気にしていたわけです。でも、月曜日は午後の六時半から明舟町の新協劇団へ前から話にゆく約束があって、人があつまっているのにことわれないから、早く夕飯たべて出かけようとしていたところへ、てっちゃんが就職がきまったと云ってよってね、そちらへゆきたいが、では明日は私はゆかないからというようなことで、私がめの舞う話もしたわけです。二三日ひとの来ない家のことの考えないでもいいところで、フーフー眠りたいというようなことから国府津へ林町の連中がいるので、行こうかしら。行きたいけれど、やっぱりなかなか思い切って行けない、宮本が行って来いと云ってくれると行けるようなもんだけれど、など話したわけです。じゃあした話しましょう、そうね。こんな工合で、すぐ出かけて、私は虎ノ門へ出かけ十時半ごろ帰宅したわけです。
一時間も落付いていず、私は出かける前でバタバタして別にそんなことを、話して貰うというはっきりした依頼なんかするわけもないし、半分笑い話のようにしていたのでした。私がはっきり、そんなことはいいわと云わなかったもんだから、あの人らしく親切気から妙にこんぐらかったのだろうと思います。
私が疲れたということより、妙な話の出されかたが不愉快でいらっしゃるのはよく分りますが、元来はそういういきさつなのよ。
こんなに頭が変という疲れかた初めてだから、私もすこしびっくりしたのです、勿論ぐたぐたな気になっているのでもないし、只早くこんな目まいなんかなおしたかったわけです。佐藤さんにきいたら、私が珍しいというのが珍しい方の由。頭をつかう人の疲労は大抵そういう形の由、私がふだんひとより丈夫で、生活に気をつけているため余り経験がないのだろうとのことです。だからどっさりたべて、よく眠って、すこし用事へらして(会やお話のことをことわって)休めばいいでしょう。土曜日には、すこし風邪気味ではあったのですが、全くあんなこと初めてだったから。今もまだ幾分クラクラです。
国府津のあの長椅子のこと思い出したりしてね。何だかあの上へ丸まって眠ったら癒りそうな気がしたりして。私が疲れを出すと、半徹夜、不規則とすぐ結論づけられますが、半徹夜なんかで、この程度続くものではないのよ。現実の問題として。普通のひととちがう生活の条件で、昼迄寝ているということはないのだから。
でも、きのう、あなたが、何となく頸の毛を立てた鷲のような彫刻的な顔つきで、私の疲れを承認なさらなかったとき、悲しいようでしたが、やがて面白くなって、その気持は今もつづいて居ります。疲れを承認しないこと、承認しない疲れを、生活の中に生じさせないようにやってゆくこと。つまりそれですから。随分その分量は減っているのだけれど、一年に一度はちょいと出して、三十一日のお手紙のような印象になるのね。あの手紙だけ切りはなしたら、マア私の生活というもの、考えかたというもの、何という惨憺たるものの如くでしょう。私の小市民的敏感性なるものも、あなたへの映りかたに興味をもちます。こういう表現で云われるときには、現実のこまごました場合のなかで、私のそうでもない気質で同じ対象に向ってされているあれこれのことは消されて、その面と思われる点だけ、あなたの印象に甦るのね。常に同じことが甦るのね。それは何となく不思議のようです、そのところだけが、様々の他のいろんな事実によって流動を与えられないまま固定されているというのは。実際はそんなに膠着してはいないのでしょうと思うのですが。どうでしょうかしら。全体的に云えば。
所書のちがったお手紙二つ。どうもありがとう。五月十五日のと六月二十五日のと。生活というのは何と面白いでしょう。この二つの手紙のうちにある天気の工合、そして、三十一日のなかにある風の吹きかた。そしてこんな風も、やっぱり五月十五日のなかに云われている水をかけたり、陽にあてて暖めたり、手入れのいい植物を大切に思う、その一つのあらわれであるということも。たとえば月曜日に私がその上に漂うような心持で、目をまわしながらうっとりとして歩いていたその気持と、水曜日やきょうの気持の変化。そして、そんないろいろの気持の断面がチラリと見えるきりで、見えた断面に一日の気持が、多く支配されるというのは、私たちの独特な生活の条件ですね。こういう光景は非常に趣が深いわね。同じ詩集の中の描写でも、泉の上に太陽は出ているのだけれど、すこし風立っていて、すこし荒っぽく樹の梢がふかれる風がふいていて、雲が飛んでいる。泉の噴水は、いつものようにおのずから溢れてふき上げながらその風で漣立って、水の頂きを風の方向にふきなびかせられている。秋の情緒ですね。美しい寂寥があります。風にふかれつつ光る水の色などに。
きょうは午後、『朝日新聞』で会がありますが電報でことわって出ません。そんな風に気をつけ、余りよみかきせず、三四日休んだらいいでしょう。ごちゃごちゃして御免なさい。ズーっと力をこめて一定に引かれていた線が、突然ゆれて力がぬけたみたいで、きっとあなたも「甚だ妙」でいらしたでしょう、私だって駭然としたのですから。こういう疲れかたは、おどろきを伴うのよ、特に「あら私目がまわる」と云ってすぐそこでつかまる手がない生活のなかで。この気分おわかりになるでしょうか。そこに手があってそれにつかまれれば、つかまったそのことで、もう疲れのいくらかは癒るのよ。これもお分りになるでしょう?私の場合は大層な大所高処からの見解で、うっかりつかれたというと、それは通用しないのだから大したものねえ。全く大したものねえ。でも、疲れないようにいくらしたって疲れたとき、私はやっぱりそれをあなたに向って表現するしかないでしょう?それが自然なのもお分りになるでしょう?国府津のことはもう考えていませんから。グラグラしたはずみにそんな気持になったのです。
お客のこともわかりました。これからはそうしましょう。
きょうはこれで終り。
今多賀子から手紙が来ました。野原小母さんの弟さんの河村さんという方がなくなられたそうです。うちの経済の事情は、やはり多賀子が勤めなければならない程度だそうです。いずれかえって来て、よく相談にのって頂いてからきめるそうですが。
では又明日ね。朝そちらへ行って、あとは横になったり何かしつつ。『英研』六月号でマーニン夫人てどんなひとか見でもしましょう。なおったら又図書館通いよ。では明朝。
つけたしノ表。
(中略) 
八月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月一日第五十三信の別口
この間しらべた記録の配分かたの表、やっと出来ましたから、左のとおり(森長さんでしらべた分)たか子と二人で見えなくしてしまっていた分。
十四、七木俣鈴子手記四通栗、袴、山、秋
〃大泉兼蔵記録二通栗、袴、山、秋
(八月にとった)アトの分と合わせて四
〃秋笹正之輔記録四通同
〃予審終結決定十二通三部、栗、森、秋、袴
〃宮本顕治記録二通栗、袴、山、秋
(八月にとった)あとの分と合わせ四
〃木俣鈴子記録五通栗、秋、山、袴
〃西沢隆二二通栗、
十四、八袴田里見記録五通栗、袴、山、秋
〃金季錫??
〃加藤亮??
〃宮本顕治抗告四森長さんがもっている、栗、あとは分らず
〃熊沢光子記録五栗、袴、山、秋
〃西沢隆二記録四
高橋善次郎一冊
森、
大串雅美一冊
十四、十袴田公判四栗、袴、山(秋)ナシ
木島記録五栗、袴、山、秋
証拠物写シ栗、袴、山、森(秋ナシ)
大泉公判第一回袴、宮、栗
十四、十二大泉第二回第三回?
十五、二証拠物写シ森
西村マリ記録三?
加藤西村公判?(これは岡林氏の方のしらべで、岡林氏のところに一通アリ)
〃林鐘年予審四宮、栗、秋、袴
蔵原惟人二
秋笹正之輔上申四山、袴、
同公判調書四山、袴、
山本正美調書四森
逸見重雄公判四山、袴、
逸見上申書四森
袴田上申書二秋、森、
木俣鈴子上申書二
同公判調書四秋笹二部
この間のしらべではこのようでした。きょう林鐘年と逸見上申書のお話がありましたが、林というのは、そちらに行っているように森長氏は思って居りますね。上申書の方はたしかにまだなのでしょうが。本当によくはっきりしないこと。
○猶、木島公判記録一、二、三、四回は山崎、岡林氏のところにある由です。
これでいくらか見当がおつきになるでしょうか。
写したものはこの表が全部ではなく宮本文書目録そのほか一通二通のもの、とりのけとしてあります。先に写してお送りした分と参照して御覧下さい。
失くしたと云ってもある筈と心がけていたので出現しました。眼玉の御威光のみには非ず、念のために。キラリとすると正気づくとなど御思いになると閉口故。 
八月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月四日第五十四信
雨ね。すこしわきへよって、場所こしらえて頂戴。ああ、これでいいわ。
私の変なのは、やっぱり眼ですね。でも、何とひどいのでしょう。きのうかえりに近藤というお医者へ行って、計って貰ったら、右の方が2.0だったのが3.0になっていて、それは進んでいるわけです。左の方はやっぱり2.0でいいというわけで、もとのしらべでは左右同じな度に少し乱視の度がついていて、右が0.5左が0.25ついていたの。その乱視の度はとってしまって、単純な近視3.0と2.0となったわけです。それですぐ目鏡やへ行ってそのように新しくして、かけたら、今度は右の方はスーと頭のしん迄楽になったのに、左がまだきっちり合っていないようです、今日も左の駄目なのが益〃はっきりして来ているのですが、日曜でしょう?明日迄待たなければならないの。こうしていると、ついどうしてもよむか書くかして又つかれそうだから、栄さんのところへでも行こうかなどと考えているところ。右は楽なのに左が苦しくて、その片方の眼から頭がこの間うちの苦しさの微弱なのになって来るのがよく分ります。でも何とひどいんでしょう。
きのう電報頂いて、ありがとう。眼ね。内科的な原因から眼がどうなっているというのではないでしょう、血圧のこと本当に大丈夫よ、尤も眼の調整がすっかりすんでいくらかでも妙ならすぐやって見ますが。
体のこと非常に注意しているもんだから、体力で或程度まで眼の自身の力で保っていたのが、つかれたので突発的に自覚されて来たのね。
頭のああいう工合の苦しさ、ひどい気持でした。何しろ頭でしょう、致命的な不安です、その感じを自分に誇張しまいとして(そういう精神的な不安を)。突然だし頭グラグラでまともに歩けない位だし、実際たまらない気持でした。いやねえ。これには、一つ原因があるのよ、ずっと眼を見て貰っていた桑原という医者(ケイオーの人)が、一昨年盲腸を切って入っていたとき、ふと眼のことを考えて、すこし変化しているように思って又調べて貰おうとしたの。そしたら、私の眼はちんばで右左ちがうが、度のちがいすぎる眼鏡はわるいからこのままと云ったのよ。
私はそれを信じて居りましたからね。そしたら、きのうの話では、2.0と3.0ぐらいの相異は全く普通でいくらでも差をつけていいし、差がないと見える方の眼だけで見ていることになってよくない、それだろうというわけです。眼をつかうのだからそんな差はやはり大切だというの、永い間には。全く何だか分らない。執拗に自分の眼の感じで追って行くしかないわけになってしまいます。左の方のことよく明日研究してね、それでおさまるでしょう、しかし、神経はよっぽどつかれたのね。これまでにどんなに損していたでしょう。残念だこと。私は何だか段々慶応がすきでなくなります。内科のお医者で今戦争に行っている人はしっかりしていると思っているのですが、どうかしら。
お医者などという人は、ずっと永年かかって、体の特殊な条件をすっかり知っていてもらわなければ、いざという重大なとき何の足しにもなりません。例えば私なんかこんなに丸くたって、婦人科のお医者が、丸い女につきものといういろんな条件、頭痛だとか不眠だとか、便秘だとかは一つもないのですものね。そして、やっぱり内科のお医者がそうだろうと思ういろんな条件もないのですもの、例えば私は胃腸がいい体ですし、新陳代謝もいい方です。そんなことだってやっぱり独自な条件ですもの。
この眼、この左の眼、これがちゃんと調整されれば、そして疲れやすめしたら、もう大丈夫です。眼からの苦しさと、今ははっきりわかりました。
さわいで御免なさい。でも、自分としては小さくさわいだつもりだったのよ。
河出の本のために作品をうつす仕事、きのうときょう二人の若い女のひとにたのみました。一人のひとは洋画をやろうとしている、大変素質のよさそうな二十一の娘さんで、絵の具を買う金を働こうとしているの、ですから、私のこまこました仕事ずっとあればその人にとってもいいわけですが。
きょうはもうこれでおやめね、なるたけ疲れさせない方がいいと思うから。右の眼は底まですーと自然な感じで、左の眼だけ変に意識されています、それが曲者よ。
眼鏡をとった私の顔はどう見えて? 
八月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 神奈川県国府津町前羽村字前川より(芦ノ湖及び元箱根風景(1)、宮ノ下全景(2)、湯本温泉全景(3)、玉垂の滝(4)、箱根神社の森(5)、箱根町全景(6)の写真絵はがき)〕
(1)こちらは八十二度から四度です、東京も余りちがわないようね。何しろ一家総出ですからなかなかの賑わいです。泰子、太郎めっきり元気で泰子はやっと食欲が出た由。私は空気のいいのとお客のないのとが何よりで、ついた日は午後二時間も眠って又早く熟睡いたしました。眼はやはりこの度でいいようです。遠く遠くと水平線をながめて居ります。
〔余白に〕全部で六枚つづき
(2)きのう(七日)は、珍しく私が来たというので国、咲、太郎、私、従弟の紀という一行で午後から夕刻まで箱根まわりをしました。始めて通ったところで仙石原というところがひどく気に入りました、高原的な眺望で。これも初めて芦の湖を小さい汽船で渡りました。仙石原を通ったとき、私の心に一つの遠い夢想がわいて。きっとあなたのお気にも入る風景だったものだから。そこのエハガキがなくて残念です。
(3)こちらもいろいろの生活資料が統制でおかみさん大苦心です。砂糖、炭、米、東京で切符のものは(マッチ、砂糖)こちらではどうしても手に入りません。これから来るのならば、みんな持参というわけになります。魚も十分でありません。ここは所謂避暑地でないためにこういうときは不便ですね。保田の稲ちゃんもショーユを買うのにいい顔をされないと云ってよこしました。
(4)本をよまない覚悟でいるので、子供まじりに何だかだというのは却ってよいかもしれません。紀というのは黒鯛釣りに夢中です。太郎がそれにくっついてゆく。私やああちゃんは、赤子(アカコ)と森閑としたあの食堂のところで風にふかれます。けさは太郎とお恭ちゃんとをつれて海岸へ出て一寸遊んでいたら、雨が落ちて来ました。頭の苦しさ大分直りました。左の目も馴れて来たようです、子供二人とああちゃんと一つ蚊帖で眠るのも珍しい味です。
(5)ここの海岸は、あなたの御存じのころと大して変りません、風にふかれた砂丘もあすこにやはり短い草を生やしています。道路がすっかり変ったけれど。道ばたに松の生えた土堤があったでしょう?あれはもうないけれど。うちは、芝生が出来たのがちがいです。今はあのソファーによく泰子が手足をのばして眠って居ます。こうやって皆とここにいると、日頃と全くちがった空気です。子供二人はちがいますね。おばちゃんになるのも休みの一つのようです。
(6)きのうきょうのうち何にも急な用事はおありにならなかったでしょうか。字をかくとまだすこし頭がしまるようです。でも、只いれば大分まし。字をかいてもこの頭がしまって来る気分がないようにならなくては本物でありませんね。あの位ひどくなった揚句、三四日で直そうというのは虫がよすぎるのでしょうか。目のまわるのはすっかり直りましたからいいけれど。明日はおめにかかります。きょうは一日くもりでしょう。あした雨だと草履で困りますね。 
八月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(「鴨緑江流筏」の写真絵はがき)〕
八月十日、これは随分美しいでしょう、悠々たり千里の江ね。北京の坂井徳三さんが送ってくれた一組の一枚です。まだほかにも面白いのがあります。追々御目にかけましょう。ヴォルガを下った夏の終りのことを思い出します。けれども、この河の水のきらめきがつたえる生活の響はやはりちがうことを感じさせます。揚子江の上流の絶壁の風光はすばらしいようですが、そのエハガキはありません。 
八月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十日第五十四信
暑くないのだけましと思っていたのに、いけませんでしたね、顔色がわるうございました。気分、大分よくなかったのでしょう?こんな天気はよくありません、皆お大事にということでした。どうか安静にしていらして下さい。呉々も呉々もお大切に。月曜日にあのとき云っていらしたことについて御相談いたします。私の方でも出来るだけ心当りをしらべておきます、それ迄に。専門で適当な人を見つけたいと思います。
私の眼は、左まだ研究の余地があります。月曜日にそれをやります(これは六日に)。
五日のお手紙、それから九日にかいて下すったの、けさ、ありがとう。五日のお手紙へのお礼は、六日に申しましたね。国府津も空気こそ袋へ入れてもってかえって、あなたに吸わせて上げたいと思いますが、生活条件がハガキにちょっとかいたようでね。なかなかちょくちょくとはゆきません。その点では鵠沼はましですね、咲枝もつくづく云って居ました、何しろ海は荒くて子供(大人だって)入れないし、全くの漁師村ですから野菜もすくないし。切符のものは別途に手に入れる方法がないし。行くとき国男にたのまれて、台所で使う炭をもって行ってやったのよ、そんな工合。石炭も持って行ったのですって。ですものね。三四日一人でとはゆきません。おしいものだが致しかたなしです。バスがこの頃は大分あやしいの、昼頃はよく休んでしまうし。愈〃(いよいよ)閉口です。でも何とかして折々息吸いにゆきたいとは思って居ります。大磯のようなところは町そのものが外から来る人々によって生計を立てているようなものだから、わるいところもどっさりあって、しかし、今は物資はやや円滑でしょう。全く国府津は、使えるような使えないような、ごちゃごちゃしたところとなりました。あなたの御存じの頃があれで一番住よい条件のあったときでしたね。
パニック的手紙のこと、いつかも書いたように幸(さいわい)大分わかって来て、本質的に所謂気にすることも少くなって居りますから大丈夫よ。夕立をやったとき、あの日は一日時々晴れた空からパラパラと来てね、そして、パラパラ雨をふらしながら、生活って何と面白いいいものだろうと思いました。あんな狭っくるしい、あんな短い時間の間にも、やっぱりああいう形でつい溢れるものがあるのですものね。そして、私はあなたに対して腹を立てている自分、あなたを恨んでいる自分をさがし出そうとして心の底をいくらさぐってもどこにもそういうものが無いので、大変不思議でした。ずーっと心の水底へ鏡をしずかに投げてやると、その小さい鏡は沈んでゆきつつ悲しさを映してはいるけれど、憎悪のかげはどこにも映すことが出来なくて、底に落付いたときには、その鏡の面一杯になつかしさが照っている、大変面白い気持でした。私たちもこうして暮して、九年の月日が閲(けみ)されたことを痛切に感じました。そんないろんなことから思いかえせば、あの夕立、やっぱりなかなか可愛いと思います。
それにつけても、飽きない心のたたずまい、あの眺め、この風景という工合に過されないのは千載のうらみですね。
九日のお手紙、眼の本のこと、どうもこまかにありがとう。眼と神経衰弱についての本をよんで見ましょう。これで左がちゃんとすればきっといいのだろうと思いますが。眼からの疲労と云っても私は実によく眠るのよ、そして食べるのですけれど。只よんだり書いたり歩いたりが苦しいのね。しかし、もう頭が大分楽になって、少くともものを考えることが出来るようになって来ましたから(仕事について)追々ましになりましょう。こんなにしてボヤボヤしては迚もいられない、その気があって早くよくなろうとするものだから。全くあんなに気をつけていたからこの位ですんだのでしょう。
Dのないようにするということ。大体Dはそうないし、例外ね、万一そんなときは朝よく眠るようにします、私は眠りが不足では実に能率が低下しますから。それは自分でよく心得て居ります。よく仕事したいのならよく眠らなければ駄目なのです。
河出の本のもの二人のひとにたのんでうつしています。でもまだ自分でさがす必要のがあり。そのついでに(どうせひとをたのんだのですから)「『敗北』の文学」の批評ののっているのを見つけて、やっぱり写しておいて貰おうと思います。必要でしょうから。いろんな広汎な種類のひとの言葉がより有意義ですから。
「街」「顔」などのほかに「伊太利亜の古陶」「小村淡彩」「氷蔵の二階」「心の河」など、そして「白い蚊帳」「高台寺」等。
「伊太利亜の古陶」というのは一寸した諷刺的なものです、マジョリカの焼物をめぐって。「小村淡彩」は、鎌倉の小料理やへ来た馬鹿な女中をめぐっての風景。馬鹿な小女が、みごもっていて、馬鹿なりにその父親になってくれるものを熱心にさがしているその切な心を、はたでは只バカ扱いにしている、そういう有様。
「氷蔵の二階」は平凡社の、あなたが御覧にならなかった小さい本に入っているのです。氷屋の二階が貸部屋になっていて(アパートの前駆ね)そこに暮している若い女の生活の気持をかいたもの。「心の河」は伸子の前駆をなす種類のものです。一組の男女が、日常茶飯の些事ではいやに心持が通じたのに、生きてゆく根本のところでは何にも通じず、憎らしいと互に思う気持だけがあるとき閃きあっているのが分るという心理。
「高台寺」「白い蚊帳」は内容を覚えて居りません。これから見つける分。
この時代のものは、概して小さいあるときの心理というようなものをとらえている作品が多うございます。まとまっている。でも深さが十分でない。題材がそういうものであるところもあるけれど、やはり作者の生活眼、生活感覚が、環境的なものに支配されていると感じます。能才者という調子があります。上すべりしているというほどではないけれども。そして今の自分としてはその能才風なところが気に入らないわけです。
現在の私は、小さい枠に、どっさりのものを含ませたり盛ったりしようとして、未完成なものを書く傾きがありますが、それらの作品はどれもそれぞれにその世界をもってまとまっていて、つやがあって、小市民の善良さ、かしこさのつやをもっている。狭さがわかります。「顔」「伊太利亜の古陶」「小村淡彩」などは題材は面白いのです。気持も一寸とらえているけれど、生活の息が不足しています。あくどさがない、いい意味でも。濃い色とつよい息がありません。破れたところがない。その頃私は芥川の作品が殆ど大部分一種の作文だということを、理解していなくて感覚で反撥してだけいた、そのことがよくわかるようなものです。少し気持がわるくなったからもうこれでおやめ。本当にお気分はどうでしょうね。 
八月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十一日第五十五信
きょうの御気分はどうでしょう。さむいようなむすような天気ね。すこしはお落付きなさいましたか?
きのうの「ひどく心配しなくていいよ」という気持と苦笑との交りあった極めて複雑な表情が、目にのこっていて、やっぱりこうして手紙かきはじめます。
ほんとにどんなかしら。お眠りなさいましたか。
専門家のこと、いい見当がつきました。おめにかかって申しますが。非常にふさわしいと思われる選定です。月曜日にいろいろこまかくお話しいたします、まち遠しい。
この天候は一般に大変こたえているようです、いろんな人が調子をわるくしています。きょう『都』をみたら保田で稲ちゃんが急病で、鶴さん看病に行ったと出ています、何かしら、扁桃腺なら大したことないけれど。でも扁桃腺は腎臓になるからどうしたのかしらと心配です。あのひとも過労つづきですから。朝鮮旅行で随分無理した揚句だったし。
私の眼の方は、きょう左の方に乱視の度の入っているのを入れかえて見ました。いく分楽になったようです。それにつれて、思いかえして、もう一度、ずっと見て貰っていたケイオーの医者のところへ行って見ることにしました。以前からのひきつづきで、責任を帯びているわけですし、私のような仕事は、眼の使いかた激しくて、一日のうち大抵ごく近距離を見ているわけですから、眼鏡はその特殊な条件も考えられなければならず。つまり右の方にだって、乱視の度がなくては、きっと害があると思いますし、その変化は、やはり前に見て貰った人にたのむ方が比較されていいわけですから。
私はこれから一年一度の健康診断と検眼を実行いたします。こんどのようにショックうけて、さわいで苦しがって実につまりませんから。あの苦しさ!眼鏡が合わなくなると誰でも相当バタバタやるらしいのね。めがねやでは心得たものです。
この頃は外米にヴィタミンBが欠けているために、眼の苦情が増大しているそうです。それから酒の品質低下のために。
ここまで書いたらお客さん、若い娘さんたち。一人は写しものをたのんでいる可愛い人。お恭ちゃんはきょう上野の博物館見物です。佐藤さんのところに、さち子さんの姪が(十五歳)来ていて、その子に見物させるというので、つれて行って貰わせてあるわけです。この間はお恭ちゃんの兄さんが二人づれで来て、よろしくとたのまれました。大切に可愛がられている娘です。だからうちへ来ても変に引こんだところなくて、家の者としての気分でいてようございます。その点では、私は仕合わせだと思って居ります。
ここまで書いたのが十一日。きょうは十八日です。その間ずっと書きませんでした。
けさ、十六日づけのお手紙着。ありがとう。箱根のエハガキ、やっとつきましたそうですね。山の峯々遠けれど、という次第ですね。林町の父、そんなこと云って居りましたか?ストーヴの前の光景やいろいろよく覚えていて、あの重い剣をこしらえ直した火をいじる道具をもって話していたりしたときの様子まざまざ浮びますが、その話は忘れていました。父は大変歓待したいと思ったのね。
国府津の海では、私又別のことを思い出すの。虹ヶ浜のこと話して、私が泳げないと云ったら、そして、きまりわるいと云ったら、「夜教えてやるよ」と仰云ったこと。今年行ったらどういうわけか珍しく、この体に海の水をサアサアとあびて見たいと感じました。それにつれて、一度ならず「夜教えてやるよ」、という声を顔の近くにきき、そういうとき浅瀬の波のなかで、自分が一生懸命つかまっている腕をも感じました。そんな感じをもちながら、入口の蔦(つた)の這ったポーチに腰かけて太郎のやる花火を見物したりしていました。
眼は、昨日又行きましたが、殆ど痙攣がしずまったそうです。半月以上棒にふった甲斐がありました。でも、半月は長かったこと!そして眼鏡も度が測定出来て左が2.5の近視に0.5の乱視。右が3の近視に0.5の乱視ということです。今のレンズは3ですが乱視はついていないの。きのう眼鏡やへよって3に0.5のついたツァイスのをたのんで来ました。一時、ツァイスが入らなくなると云って一対で35円もとったのよ。今は停止価格で片方7円か八円、マア十円どまりでしょう。これでもう大丈夫。よく気をつけて、仕事のどっさりあるときは薬をつけて、夜は眼をひやして寝て、それをつづけたらいいでしょう。どうもいろいろ御心配をかけました。
パニック的手紙を、かんしゃくの問題という風に片づけるとすれば、本当におっしゃるとおりのことになります。でもそうではないと思います、私のそれに対する気持は。そんなものとは思っていないわ。そうだとすれば、或る程度まで一方的な性質で片づけられることですものね。そういううけとりかたがあるとすれば、かかれている本質が、上を流れて去るばかりです。
きめたこと、約束したこと、それをきっちり実行するということは、私たちの生活の条件のなかでは特別な意味をもっていると思います。生活の全般のディテールがすっかり見えているときには何故それが出来なかったかよく分るけれど、そうでない場合は、実行されなかったという結果だけがそちらには見えて、しかも、それを実行するという約束が生活の接触点となっているのだから、そのことについて実行されたされぬということより、接触点が現実的に確保されないような感情への響があるわけですものね。私は、小市民的云々のこともあるけれど、それに加えて、そういう生活感情の面も重く感じます。そういうことからも生活が大切に扱われなければならない事情に私たちはおかれていると思うの、そうでしょう?生活を大切にし愛してゆくということは具体的だから、その事情に従って、ひとには分らない要点が具体的に存在すると思います。それは全体から見れば一部のことだと云えるとしても、もしそのとびとびな一部ずつが燈台の役目をしているとすれば、その一部一部は、生活の日々の波の上にいつも光っていなければならないわけですものね。私はふざけて「あなたの雷」とも呼びますし、「かんしゃく」ともいうし、「こわいこわい目玉」ともいうけれど、それはもっと別な心持からの表現だわ。
「心の河」のこと、そうね。作者の生活と題材との関係という点からのみかたと、読者にとって今日何かかかわりのある題材ということとは、同じようで必しも同じでないという例ですね。
いくつか写して貰ってみて、結論として感じることは、昔の作品は何と昔の作品だろうという感慨です。「伸子」の最終が、本質的な発展ではないということをおっしゃったことがありました。そのときそれが理解されたと思っていました。今、あの頃の作品をよむと、どんなにそれが真実かということが肝に銘じて、更にもう一つの脱皮に移って行った過程を書いて見たい気がする程です。
すっかり写せたら大いに研究してみて、結局、「雑沓」「海流」「道づれ」などを入れて古いものをごく客観的題材のものだけにするようになりそうです。全集は面白いものだと逆に思います。下らない、今見れば不満な作品にも、やっぱりどこかにはその人らしい一貫した糸が細々とつづいていて、本質の変化というものが、その細き一筋にかかっているところ何と面白いでしょう。「高台寺」という小さい作品をよんで、おどろきを新にしました。批評家してよみますからね、これだけ時間が距っていると。時々自分の過去の仕事の総覧をすることは有益です。私のように、狭い個性の境地というものをわが芸術の島としてより立っていないものの推移の過程というものは、きわめて困難です。
作品を集めるとすると、やっぱり、今日の未完成の方がおとといの一定の完成よりは胸くそがよろしい次第です。もし本には入れないとしてもいろいろ学ぶところあって、写し代金何円かも万更浪費ではありません。それがきっかけでたちのいい、心持のいい娘さん一人を知り合いとすることも出来ましたし。
もうこれからの忙しさ。何しろ二十日も仕事しなかったのですから。敷布団この暑いうちにとりかえてしまいましょうか、出来て来ましたから。これまでは布地が勝手な長さに買えましたが、今度のは標準形ですから、すこし短くはないかと思います、普通はあるのだから、そうでもあるまいかと思いますけれど。木綿のわたのふとんを着せてあげようとおかみさんは大わらわよ。今夜か明夕、野原からの二人来るのではないかと思います。
寝起の表、この前のお手紙に甲乙でつけてとあり、その方がまとまるからきょう迄十七日分をまとめて見ます、八月一日から、ね。さて、どうなるかしら。眼のためにやっぱり平常よりはAが多いこと、
A四。B(十一時前後)十二。C(十二時)一。Dはもとよりなしです。朝は平均六時半。Aのなかにaaもあって九時ごろ床に入っている夜もあります。
読むものは休みました。
人を選ぶときの話、そうね。こういうことはやっぱり自分のリアリズムの問題ですね。そう考えるとなかなか機微をふくんでいることが分ります。自分の条件を明かにつかんでいないと、客観的多面的な検討ということも出来ず、一般的な或は一面的な標準できめるから。これは今私に比較的実感的に肯けることです、だってここにOならOという人がある。科学者として或る方法をもっていると云われている。その主張はゆずらないと云われている。ですが、その人が実際に扱っている対人的場面で、経費の関係で云々という条件に譲歩して、その科学者として曲げないと云われている持説を曲げているとすれば、同じ経費経費の条件に対しては同じ無抵抗を示すということが結論づけられます。その発見を私は、ハハアとつよく人の動きのポイントとして感じたばかりですから。曲げるような条件のないところで、学術論として集会の席上で、或はケンケン服膺(ふくよう)する事情におかれている個人対手にその説を曲げないというほど、たやすい真直さはないのですもの。それは客観的には持説を守るということにはならないのですものね。
何につけても具体的な確かさ、それへの即応の敏感さは大切ね。
あなたの一寸した言葉は時々建物の根太までさっと照し出すようです。Oのことについておっしゃった一寸した言葉が、やっぱりそうでした。私なんか足の裏の皺の走りかたまで見られているようなのね、きっと。それで私は安心していられるのね、こんなに。急転した云いかたでいくらか滑稽だけれど。こういう急転のカーブが妻から良人への手紙の特質かもしれないわ。この曲線はふところのなかへ入って行くのよ。そして、そこでつたかつらと変じるのよ。 
八月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十九日夜第五十六信
いそいそと二階へあがって来てね。随分久しぶりの夜の机です。多賀子、冨美子、恭子、三人づれで夕飯後銀座へ夜店というものを見に出かけました、私はそれから風呂に入って、まだいくらかポッとしてめがねがくもる位の湯上り。
きょうは三十一度でした。大体この二三日二十九から三十ぐらいだのに、残暑のあつさは格別なこたえようをするのでしょうか。
あれからずーっと三田へまわりました。四国町に昔西村の祖母が住んでいて、向島のおばあさまと云いならわしていたのが、三田のおばあさまというのは馴染(なじ)まなくて、妙だったのを覚えています。さつまっぱらというところで市電を下りて、歩いて行って左へ入ってそこの二階からは海が見えました。今考えてみれば祖母は一彰さんというあととりとけんかをして、秘蔵娘の住んでいたとなりに小さい家を借りて住んでいたのですね、そしてその婿さんに一文なしにさせられたというわけでしたろう。法学博士でしたからそういうことに通暁している由、よく親族会議からかえっては母がおこっていました。
そんなこと思い出して市電にゆられて行ったら、四国町という停留場がありました。四国町もやっぱりあっちこっち向いてひろがっているのね。東電について右へ曲ると町並はすっかり裏町めきますね、あのあたりは。更に左へ入ると下うけ工場の小さいのが軒並です。薄暗いところに真黒に油じみた工作場が口をあけていて若いものが陰気に働いています。そこを行ってタバコやを曲ると、町並は一しお細かくなって、こまごました日暮しの匂いを漂わしています。駄菓子ややなんかある。そこを一町ほどゆくと右手にすこし大きい西洋建があって目をひきます。そのとなりに古風な黒板塀の家があって、黒板塀の上から盛りの百日紅(さるすべり)の花がさし出しています。その町すじに黒板塀の家なんかたった一軒、そのお医者さんのところだけです。なかなか一風ある家のたたずまいでしてね。門の上に、ほら昔の東京名所図絵の版画なんかにランプの入る角形の街燈が、鉄の腕で門の上についている風景がありましょう?あのとおり昔ながらの角燈がついていて、そのあたりには医者らしい広告の棒もなければ、電柱の広告もしてないの。医院ともかいてないの。普通の標札だけ出してあって、日よけの簾の二三枚たれたしもたやづくりの二階屋です。往来から見えるところに狭い待合所があって、母につれられた女の子が横になっているのが見えます。きっと病人をあずかるときは普通の二階の部屋をつかうのでしょうね、こういうところは。老いたる武士の帷子(かたびら)姿という感じがその家に漂っています。
その前をとおりぬけるとすぐ三田のケイオーの正門の通りへ出たので、おやおやというわけです、丸善がついそこで。
人の感情が年を重ねるにつれていろいろに傾く地理的な環境というようなものをも面白く感じました。一方の丘の上は自家用車が走っているようなところ。そのこっち側は、ああいう小さい庶民の営みが充ちていて、そこで、一種の気骨が聖医というものにしてゆくのがまざまざとわかるようでした。勿論人によって逆になるのだが。
こっちから「いくらよこせ」なんぞとは云わない。だが、自分の方法に疑いが一寸でもあるならよそへ行ったがよかろう、そういう気分が、黒板塀に語られているようにも感じられました。なかなか明治ながらの角燈なんて趣味のはっきりしたものであります。家というものは本当に性格的ね。この目白の家なんか、やっぱりひとが見たら何か性格が語られているのでしょうね。
三田の通りをすこし行って、左へ細い道を折れて行ったら田町の駅の前へ出ました。何と鮮やかにベロアの帽子が思い浮んだでしょう。私がパナマのつばのひろい帽子をすこし斜めにしてかぶって、駅前のこっち側に動いていたとき、ひょっと見たら、反対の側に立って人通りを何となし眺めていらした、あのままの駅前の通りにかーっと残暑の日光が照っています。
ひろい車道のこっち側に、やっぱり小さいソバ屋があって、支那そばの鉢が浮びます。すべてが異様にまざまざとしています。私はオリーヴ色の傘をかざして、十年昔の光景を通りぬけます。これらすべて何と奇妙でしょう。そして私はふっと考えるの、自分はこんなにさっきのように覚えている、そんな風に果してあなたが覚えていらっしゃるようなことだったのかしら、あなたにとって、と。そう考えると一層異様です。私はほんとに何となしそれから先へ、行くところへ誘いましたね。どうして誘ったのでしょう、どうして何となしいらしたでしょう。
きょうの漫歩はあつい漫歩であったけれど、そのあついという字にどの字をあてはめたらいいのでしょう。炎天の下に秋の夕暮の靄が湧いて、そのなかに自分たちであって今の自分たちではない、自分たちの姿を見る白昼の街は独特の趣でした。
誰かが冗談のように電車代だと云って十四銭くれて、私も笑いながら「これ上げるわ」と十銭だまを掌へあげて、まるでさっさと「じゃさよなら」と別れました。でもどうして、まるでさっさと別れたことを、こんなにはっきり知っているのでしょう。
膝の上の例の袋には、冨美子のお土産に三田通の青柳で買ったもなかが入っています。省線のとなりにかけた女の子が、ぐるりとエビスをまわるものだから「この電車新宿へ行きますかしら」と心配そうに訊きます。
エビスのよこのビール会社の空地にビンの丘があって、西日にキラリと光りました。ああ、こんなにあっても足りないのかな、と感心したりして。この頃はソースにしろカルピスにしろ、ビールはもちろん、ビンなしでは買えませんから。
体じゅうに暑さと何かが射しとおしたようなくたびれ工合でかえりました。冨美子はやっぱりくたびれたと見えて、心地よさそうにひる寝しています。冨美子は白アンがきらいだそうです。それからあっちでは枝豆だのどじょうたべないのね。枝豆やどじょうを、人間のたべない下等なもののような表情で多賀子が見たり云ったりするのを私が、そんな女くさいと笑い半分本気半分で叱ったりして夕飯すませたわけでした。この手紙はこれでおしまい。長篇の一節の筋がきめいたこの手紙。おもしろいところのある手紙、ね。 
八月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(「松花江の鵜飼」の絵はがき)〕
八月二十日。こういう鵜飼いの風景もあるのね。きょう、徳さんがスミさんにことづけて、真鍮に七宝の模様の入った支那の切手入れをくれました。スミさんは茉莉(マツリ)花の入った支那茶をくれました。切手入れは小さいけれども、どっしりとしていいボリュームがあってなかなか気に入りました。呉々もよろしくとのこと。きょうは少々仕事しました。カメラがいいからもっと大きく見たいことね。 
八月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十一日第五十七信
午後二時。今みんなは豊島園へ出かけました。パンのおやつを御持参で。私はひとり。これから仕事しなければならないのですけれど、何だかまだ、けさお話ししたりしたことが心にのこっていて。これをかきます。
ゆうべ、夜なか、雷が鳴って雨が降ったの御存じでしたろうか。部屋の灯をけしてあるから、あけてある窓のすき間から雨の音に混って稲妻の光が白い蚊帖の裾にさします。眠らないでその光を見ています。笑って二階へはあがって来たけれども、横になったらやっぱり苦しいの。腹も立たないし論判する気もしない。でも何という惨酷さでしょう。思えば思うほどそこに在る淵は深く暗い感じです。日々の生活に満足し、ほかに思うことがないからとそういうことを思う人間の心に、こんな底のない、むごい考えがあり得るというのは。胸に刃ものが突きさされていて、動くとそこから血が流れるの。急所をそれは刺しているのではないのだけれど、こういう刺しようもあるかと身動きが出来ないの。そして、稲妻が白い蚊帖に射すのを見ています。
段々躯がふるえて来ます。決して涙はこぼれないのよ、只躯がふるえます。私は声に出して云うの、「ああ、しっかりつかまえて頂戴、しっかりおさえて頂戴」と。稲妻がはためいている。こういう夜も私たちの一生のうちにあるのかと、そう思って雨のふきつける音をきいています。
憤りの感情について考えます。怒りは素朴なところがありますね。或意味ではよろこびに転じる一番近い感情とも云える、それは手答えのある感情の動きですから。対手を対手として見る上での感情ですから。
悲しさという感情について考えます。これもそこには涙の溢れる余地があって、涙の中にある和らぎが予想されます。
この絶望ではない沮喪の感覚は何と表現したらいいのでしょうね。
静かな深い深い惨酷は何と音もなく、而も思いかえす余地もなく惨酷でしょう。
今年の初めに、初めて同じような沮喪の感覚を学びました、その折のことはちっとも話しませんでしたね。それはこんな会話なの。「××ちゃん、あれがかえって心変りしたとき困るから余り世話にならんことで。こっちから世話にならんことで。」
笑って床に入ったけれども、非常に思いがけない言葉でしたから、その言葉は耳の中から消えないのよ。夜が明るくなる迄おきていました。大変奇妙な経験でした。けれども、こんなテーマはテーマの本質をとらえているものの間で話題になるべき種類のことではありませんから、私は黙っていたわけでした。
本当に変な心持ね。「ようして貰うから、まさか云えん」というようなことが、自然に一方ではっきりと考えられているというのは。
林町のものに向って私は、昔から、人間は理性をもった生きものであるという点から話して来ました。その明瞭な方法よりも、いろんな事や物や場合やを通じて人柄からひろがってゆく解説の方がふさわしいだろうと思って、その点私たちは相当根気よかったと思います。この何年かの間のそんな心くばりは、何の実質にも吸収されていないのね。してくれるからして貰っておく、それだけなのね、結局のところ。「よく気がつく」「云うことは立派なもんじゃ」その他等々はそれなのだからと素直な結論にゆかないで、それだのにどうこうなのは、こうであろうか、ああだろうか、という頭の働かせかたに導く糸口として役立つというのは、こわいような感じですね。情愛とは何でしょう。不思議な推測の形は、きっと年を重ねるにつれてくりかえされて、そのことから固定された観念のようになってゆくかもしれません。私たちの生活全体が、私の引く糸によって進行したし、しているという考えは、先入観であって、既に固定していることを考えても。
いろんな日常の不平が一つ一つと消えて、一番あとにのこった一つの不平は、種々様々の形で私の上に凝集されるというのは何と微妙でしょう。
仲人は『婦人公論』をもって行って有効に利用し、そして来た嫁とともに、ああいう話がされるという情景を思いやると、私はやっぱり切ないと思います。
足元に裂けて現れたこういう深淵を、それは深淵でないと私に云うことは出来ません。そこにそれがなかったことにも出来ません。けれども、私たちの生活への意志によって、私はその淵の上にも橋は架けるでしょう。何故ならその淵にもかかわらず、対岸との交渉は継続されなければならないのですから。
美しく描かれているままで保たれている感情を、結局は抽象的にしかあらわされない卑俗リアリズムでごたつかせる必要はないという考えで、ずっと来て居りましたが、こういう種類のことは、私ひとり黙って耐えている方がよいこととはすこし違うでしょう?これから先の複雑な推移のなかで、いろんなニュアンスをとって、そのヴリエーションがあらわれたりして、葛藤めいたものになるのはいやですから。
私たちはこれまで所謂不幸というようなものを入りこませずに生きて来ました。これからもそのように生きなければなりません。私たちは、生活の地形にはっきりと知った一つの淵をよく理解し、そこには流失の憂いのない橋を架け、必要にしたがって平静にその上を往来して、やって行きましょうね。
私がいくらか人生を生きて来ているということは、こんな際何という仕合わせでしょう。鬼面に脅かされきらずに沮喪の感覚をもってゆけることは、お互の何という仕合わせでしょう。よろめいても倒れないことは何とよろこびでしょう。この傷からよしやいくらかの血を失っても、急所は別のところにもっている、そのうれしさというものも感じます。
今夜も雷が鳴ります、稲妻がはためきます。こういう夜々に、心の傷をしずかに嘗め、物を思っている精神の姿は、大変あなたに近く感じられるでしょう。
私たちは、こんなとき、一緒にいてもきっと言葉すくなく一つ心の四の瞳という工合にして蚊帖に射す稲妻の色を見ていることでしょうね。私たちはそういう人間たちだわ。別の人間たちではないわ。では御機嫌よくね。 
八月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十五日第五十九信
八月二十一日朝づけのお手紙。ありがとう。不順な天気ね、もう二百十日の先ぶれの風が吹いて来ました。今年は六つ本がまとまる筈なのですが。私としてはまとまることを希望し且つそのようにやってゆくしかないわけですけれど。
あらあらマア、この夕立!大さわぎしてあっちこっちで洗濯ものをとりこんでいます、でも気持がいいこと。この手紙をかき終ったら、冨美子が女子大というところを見たいというからつれてゆくところです。丁度夕立の間やみになって。
冨美子は、あれから遊覧バスにのって一日東京見物をし、きのうは渋谷の海軍館と三越とを見物。きょうは女大。明日は一日鎌倉、江の島へ出かけます。二十七日は翌日立ちますから夜夕飯をたべにつれて行ってやって、伊東やで本立てを記念にかってやることにしました。
島田へはきょう手紙かきました。あたりまえの手紙。そして冨美子のかえるときお母さんのおびあげ、友ちゃんの半エリ、達ちゃんのかみそりの刃をとぐもの、ことづけます。これからも、これまでどおりしてゆくことは致しますから御安心下さい。私が心をくばるのは、何か云いわけのような意味からでないことさえわかっていて下さればいいと思います。
この間の夕立のこと。それはわかっているわ、それは大丈夫です、けれども、あの折は私の気持やっぱりああいう工合になったの。いろんな続きからね。けれど、つづきなしでも、私としたらやっぱり全然きかれる筈でない種類の質問という感じはあるでしょうね、きっと、いつきかれても。生活全体の感覚の問題ですものね。こんな気持も面白いと思います。人間の生活感情にいろいろなかんどころがあるのね、そのことに関しては敏感であるという、かんどころがあるのね。
仕事のやりくりのことは、私もこのお手紙をひろげて眺めて、しみじみどういうことにしようかと考えて居る次第です。
林町は、いつも私がいるというのではないところである方が種々の点からようございます。喋ったりとはならないけれど。もっと別のことで。
長いものかくのには、やっぱり特別にやりくりの必要があることがわかりました。今年福島へゆこうとは思って居りません。あすこは、いろんなものの不自由はないけれども、私はせめて一週間に一度は来たいわ、或は十日に一度。それには福島は遠うございます、急行で五時間。しかもこの頃の上野のこみようは殺人的で、入場券を売り出さないのですから。鵠沼だと電車(小田急)で、電話もかかり、いざ急用というとき安心だし、どうだろうと考えて居ります。いつか(二月十三日)一晩とまりに行ったとき、離れを見て来た話、一寸いたしましたろう?あすこどうだろうと考えます。国府津、たった一人は困るわ、誰かつれてゆくとこっちが又一人になって困るということになるし。鵠沼はただいくら位でおくのか。親切でもなさそうな宿でしたしね。あなたも御存知だし、国府津がもうすこし面倒くさくないといいけれど。うちで、散々「おかず何にしましょう」で、又それがくっついてまわるのは沢山というところもあるの。これまで私は東京をはなれたくない自分の心持の面だけ肯定していて、何とかやりくろうやりくろうとして居りましたが、こうして、あなたも力をつけて下さるとうれしいと思います。思い切って出かけて仕事する気になれて。「婦人作家」のすっかり原稿わたし、評論集の原稿わたし、必要な前がき後がき皆わたし、そんな仕事の間にゆく先をきめます。毎日五枚書くとして四百枚はマア三ヵ月ね。本年一杯ですね。
ふっと考えて、もしや今稲子さんのいる保田の二階、あとをかりようかとも思います。東京から一時間とすこし。二階だけかりるのね。ここにはずっと住んでいる人もあるし、いろんなものに不自由しまいかと思います。これで、こまごま何がない彼がないで案外やっかいなものよ。
眼はやっとどうやら眼鏡はおさまったようです、能率はまだ低いと思います、きのうは、でも六七枚、お客の間にどうやらかきましたが。これから『新女苑』の例月の二十枚、『文芸』『婦人画報』の二十枚があります。『文芸』のは最終の部分になるでしょう。
「心の河」写してくれた人たちが、作品として、今日の若い女のひとの心の問題や気持に近くて是非ほしいというし、その意味では私も心をひかれるので、やはり入れることにしました。作品として客観的にあらわれた意味の点から入っていてもいいと思ったので。「小祝の一家」をすこしところどころ削って入れて、「日々の映り」というあいまいの題で書いたのをすこし手を入れて集めたら、いくらか系統だつのだろうと思います。「刻々」ね、あれは私自分であなたに云いまちがえたのよ、「その年」というの、母の心をかいたものは。「その年」というのは短篇集にいい題でしょう。ですから「日々の映り」を「その年」として見ようかと思います、内容はふさわしくないこともないのですから。
只今電報つきました。すぐききましたら旅行から今朝かえりました由。そして又出かけて留守。今夜多分かえるでしょう、出さき不明の由です。夜こちらへ電話かけるとのことです。
寿江子がおなかをわるくして寝ました。見舞いに行ってやるつもりです。あつくかければ苦しいし、おなか冷えるようだったり、今はわるい気候ですね。
林町の連中は皆開成山です、寿江子一人留守い。それで寝ているからすこし可哀想でしょう。
アルスの写真のこと、一寸きいて見る心当りあり、本やにもたのんで見ましょう。
いつかの写真ブックについての感想同じでしたね。相当悪趣味なのもありましたね。『少女の友』なんかに、目の大きい夢二の絵より一層病的な絵をかいて抒情画と称して少女たちにやんやとうけていた中原淳一が、健全な銃後の少女のためによくないと禁じられました。泣いた子があったそうです。作品でも絵でも、芸術の本性からくさったものがあるということと、しかしそれを芸術外の力で掃除するということとは、一つことでないところが微妙でむずかしいところなのでしょう。
冨美子がきっと下で待ちかねているのよ、ではね。 
八月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士・三保松原の写真絵はがき)〕
八月三十一日、手紙かいているひまがないので一筆。三十日のお手紙をありがとう。やっと昨夜『新女苑』のもの二十枚かき、きょうは『文芸』のつづきの仕事。きょうこの頃は、さすがのユリも殆ど憔悴せんばかりの思いです。めかたの減るのが分るような心持。ああ、この思いを知るやしらずや鬼蓼の風、というところね。こんなところに羽衣の天女は降りたのでしょうか。そして、菊池寛によれば伯龍を神経衰弱にしたのでしょうか。 
九月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月三日第六十信
虫の音がしているのに、こうやっている額に汗がにじみます、午後もあつかったことね。お話していて、いるうちに段々かーっとあつくなって、本当にあつかったこと!でも二十八度よ。二十八度だってあついときはあるのだわ。私が何だか苦しそうに汗ばかり拭くので、多賀ちゃん曰ク、きょうは湿度がたかいのでしょう、と。全くね。
多賀子、きょうから新宿の伊セ丹の裏にあるタイプライタ学校にゆくことになりました。月謝五円五十銭、入学金二円、本代二円五十銭也。月謝は東京では皆おなじです。面白そうにしているから結構です。午後一時―三時半。時間もようございます。三ヵ月。
今回の『文芸』の仕事は、私たちにとってなかなか忘れ難いものとなりました。とにかく一年の上つづけて来た仕事でしたから、かき終って何だか余韻永く、なかなか眠れませんでした。ヴェートウベンなんかのシムフォニーがフィナレに来て、もう終ろうとして、しかし未だ情熱がうちかえして響くあの心理のリズムは文字で表現されるものにもあって、終りはなかなかむずかしゅうございました。題は「しかし明日(あした)へ」というのよ。婦人作家の成長の条件は益〃困難となって来ています。けれども、
「女性のかなしいくらいふしぎな責任。
それは絶望してはならないということだ。」
そういう永瀬清子の詩をひいてね。とくに日本の女性、日本の文学やその他の芸術の仕事をする女性は絶望してはならない、雑草のようにつよい根をもたなければならないという終りです。
『乳房』のなかには、やっぱり「小祝の一家」入って居りません。そうでしょう、いくらユリはあんぽんでも、覚えている筈ですもの。
「日々の映り」の題として私の心に浮んだ同じ必然がうつったというのは大変面白く感じました。ほかならぬそのことなのですもの。一つの道を歩いてゆく、そこにこめられている感動、一本の髪の毛にさわるその感動、渇きもとめる思いや清純なる憤りや深い哀愁が日々に映る、その意味からの題ですから。しかし題として上乗でないとは申せますね。気がついて見ると私たちの生活感が、いかにつよく歴史のうつりへの感想に貫かれていることでしょう。題は「一九三二年の春」以来、「刻々」でしょう、「その年」でしょう、「三月の第四日曜」又はこの「日々の映り」や。作家の生活の反映は微妙をきわめるものですね。
仕事のためよそへ行こうかとふらつく気持。素直にフラつく心持として認めるのが正直のところと思われます。実験室的なものを欲するのではないの、単純に、うちのごちゃごちゃからホッとしたい気持なのね。自分が命令したり、さしずしたりしてやらないと、いくつもの顔がそろってこっち見て待っている家の暮しと、仕事と、その他と、一人っきりやっていると、いやになるのよ。そんなもの放たらかして仕事だけになりたいの。こんな心持は、仕事の源泉的ないそがしさなどとちがったものでね。きっと、二人のときがあって、フーッと云って坐ってしばらく黙っていたら、そういう日々の瞬間に消されつつゆくものが、たまって来て、かんしゃくのようになって来るのね。今の事情でもとよりそれどころではない心持ですけれども。マアときどき国府津にでも行ってムラムラをしずめてやることにいたしましょう。全体の生活の感情から云えば、私は寧ろ、より人々の中を求めています。この界隈のちんまり工合は気にかなったものではないので。一昨夜隣組のあつまりが組長さんのところであって行ったらば(防空演習について)全くお客のもてなしで、おじぎばかりして、本当にえらいことでした。すこしコミカルであってね。この辺は六日に演習です。
九月二日のお手紙けさ着。私、そんなに五六月頃から疲れたと云って居りましたか?忘れてしまっています。きっとそうね、その頃から変になり出したのね。眼鏡はもう落付いています。でも夜、白い原稿用紙の反射がつかれる感じで、当分は夜やらないことね。そう云えばバーナード・ショウは夜十時に必ず床に入りますって。朝早くおき、午前中仕事して、午後は読書やその他。だから八十何歳でもカクシャクとして仕事しているとかいてありました。私もカクシャクとしていなくてはならないのだから、どうしてもAだのBだのとさわがなくてはならないわけね。日本の作家は、そんなに悠々仕事してそしてやってゆくだけの経済基礎がないから、みんなあくせく消耗してしまうのです。代表作集――これは十四年度を御覧になったのでしょう?果してこういう名にふさわしいのでしょうか、うたがわしい。十五年度の編集がはじまって、それには「三月の第四日曜」が入れられますが。そうよ、健全さ、精神の健全さというものが、高く評価されなければならず、精神の健全さは、すぐもんぺをはく形ではないというところが、今日の健全さへの常識とのたたかいとしてあらわれたりする時代です。生活の意欲に方向がないから、一皮はげばデカダンスかと思い、その逆と云えば、いいとっちゃん的人情世界への沈没かと思ったり、その点浮きつ沈みつね。文学における人間性の課題は、現実にはそこのあたりを彷徨して居ると云えるのでしょう。
外的なものが作家に与える腐蝕作用を、いつか書いたときのお手紙よりも、このお手紙が作品のあれこれにふれての上なので、やはり実感として見られていて身近な思いです。こんな場合もあるのよ。稲ちゃんに「分身」という小説があって、それは自身のうちにあるニヒリスティックなものをただかこうとしたという作品ですが、女主人公レンは支那のひとと日本の女との間に生れているの。何とかしないではという心を、日本の心、ニヒルなものを支那の血の流れというようにみているところがあって、私には、気になるところです。魯迅の小説が描いた男はニヒルでした。けれども、今日そういう性格の象徴としてはつかえないと思うの。それにたえぬものがあるのが所謂作家でない作家の感情の健全さではないかと思うの。そのことについて作者はこだわらず、いい対象をつかんだと思っているようです。ニヒルなものと闘うというプラスが、題材をそうつかむところにあるマイナス風なものと分離されて出ている。腐蝕作用はこんな風にも出るのですね、柱の裏側を喰うのね。表側は柱だわ、ちゃんと通用する。作品批評は、今日そこまでを触れないのが通念となっています。
島田のこと。四熊さんは学者の家ですって?だからうちに学問をするものがいるということは心持よいことでもあるのです。いろんな雑誌へ名が出るのはわるくないところがあるのです。しかし自主の標準のないのは当然ですから、人のいう一言二言でいろいろに動かされ、丁度自信のない女優のように手を叩かれるのをガツガツとするわけです。そういう文学ばかりもとめる。同時に、偉いなら金まわりがいいだろう、という結論にもなってね。いろいろ悲喜劇なわけでしょう。
私は皮肉さや辛辣さは抱いて居りません。ぼんやりとして深い苦痛の感じがあるだけです。『大陸』という雑誌があるでしょう。そこにあの小学校先生の縁者という若い人がいて、その人がどういうわけか大層高く評価しているとかで、この間御婚礼のとき、あの面長の御主人は大変私に向ってエミアブルでした。あれやこれやがこんがらかるのね。全く荒磯の小舟波にただようのでしょう。
あなたがこういうことも、まともな据えかたにおいて処置し、平俗なごたつきをすまいとなさるお気持はよくわかるし、私の好みでもないことです、余り月並でね(川柳にしては深刻すぎるが)。天質はそれなりに歳月を経ず、生活の具体的な作用をうけるところに悲しいところもあるわけです。いずれにせよ、きょうはじまったことでないし、又明日に終ることでもないのだから、誠意をもって、やってゆくばかりです。十年経ってこれだけ、この先の十年で、又その先の十年で、とそういう工合のものでしょう。商売は口さきのものです。それはよくなかったと思います。云うことと腹とのちがい、腹はどうか分らぬ、そのことがひょいひょいと頭をかすめるのでしょう。もうこれでこの話はうちきりよ、よくて?
今夜は仕事せず、この手紙だけで終りで休み。明日その翌日とやって、五日には又午後ゆけますでしょう。
『明日への精神』は再校が出て居ります。二十日頃には出来るのでしょう。金星堂のものろりのろりと。
『文芸』のは今度29枚で、大体二十枚ずつで十三回、間に四十枚ほどのがあるから二百五六十枚ですね。それに年表、索引がついたらすこしまとまった本になりましょう。早くまとめてわたすこと!文芸評論をあつめる話、繁治さんの知人の本やという男、全く評価がないのよ、私がどういう作家かもしらないし、勿論かいたものよんでいないのだから、この間明舟町の引越しでちぢかまって、延期ですって。こういうのをばかというのよ。繁治さんやすうけ合いで自分でこまったかもしれないが、いい心持いたしませんでした。
どうか夜よくおやすみになるように。苦しい気持に何といろいろの内容があるのでしょう。私はよく時間的に大変遠くにおいて感じてさえ随分切迫した感情を経験していたのですもの。そして、今の思いになってみれば其に大変加わる立体的な奥ゆきがあって、その立体的なものは、男の心とまたおのずからちがった女の心と肉体との底に眠っているものの目ざめのようなところがあって。色あいときめのこまやかなこういう苦しさ。では又ね。
このところ、でもいくらかごちゃついて。床に入っていて眠らなかったこと、どっちへ入れたらいいのでしょう。
本よみは休みです。じき又はじめますが。
ではおやすみなさい。 
九月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月六日第六十一信
四日朝のお手紙。あああなたは笑っていらっしゃるのね、私だってつり込まれて笑うけれど、馬のやせるのはたべるものがないときよ。そこが馬の馬たるところよ。私は人間で、れっきとした女で、だから肥ったってやせるときもあるというのは全くユーモラスね。しかし、ユーモラスという表現には、何と含蓄があるでしょう。何とこまかい眼差しのニュアンスがこもっているでしょう。
この数日に経験した心持は、何かおそらく一生忘られないところがあると思います[自注4]。ね、人間の心に何年も何年も一つのことが保たれている、保たれているのは、それが散りぢりにならないのはそこに大した力がこめられているからでしょう。ある瞬間、その永年のサスペンスとなっている力の全部がうち傾いて、生活の中に滝のようにおちかかって来ようとする、そういう刹那の感覚。それは決してある事が別の状態になるというような平坦な継続ではなくて、まるで目のくるめくばかりの力の飛躍、いのちの飛躍です。しかも、そのような巨大な転換が刻下に生ずるのではなくて、今にこれだけの総量がおちかかるのだろうかとそのボリュームをはかりつつ、滝壺の深い深い深さをも感じる心というのは。それだけの力の傾きを将に間一髪のところで支えている心というのは。
大波小波のうねりにしろ、大きい大きいうねりでした。わたしは泳ぎが出来ないで残念ですが、でも、高い高い濤にのって、その頂に運びあげられたときにも、気を失わなかっただけはめっけものであったとお思いになるでしょう?息がろくに出来ないようになっても、バシャバシャやらなかったところだけは買って下さるでしょう。その濤のしぶきの間に益〃陰翳こまやかに黒くはっきりと耀いている二つの眼を見失わなかったということは。そしてその正気の美しい眼も、正気のままにやはり同じ濤の頂に運ばれたことは、思えば思うほど忘れることが出来ない。そういう形で溢れる豊かさ、爽やかな生活力そのもののような戦ぎ。
買いもののことを仰云ったりしたとき、そういう無垢な美しさそのいとしさに私はうち倒されるようでした。あのとき出した私の声のなかには聴えない絶叫がこもっていたようなものです。
このお手紙のなかには本の名のことが云われていて、本は僕等の云々とかかれています。この前の手紙にちょっと私が云っていたこと、自分の心と肉体の奥でめざまされるものといっていたこと、それはあなたが本について云っていらっしゃるこのところへ真直つながるものでした。私たちは今日までの生活のうちでいろいろなものを互に与え合って、あたしはあなたにあげられるいろんなものをみなあげているけれど、それでもまだ一つはのこっていることをはっきり感じたの。私たちにもっていいものがまだ一つはあることを感じたの。傾きかかるサスペンスのなかで。現実の形であらわれたかどうかは、勿論わからないことです。けれども雄壮に滔々とおちかかる滝の水のしぶきを体に浴びるように感じながらじっと見ている滝壺の底には、そういう身震いするように生新なものさえあったのは現実です。これはあなたに大変意外?そうではないでしょう?そしてこういうことは何か極めて人間生活の優しい優しい深奥にふれたことであって、一生のうちにそう度々は語らないということもおわかりになるでしょう?喋ることではないわ。感じ合うことだわ、そうね。こういう二人の心をうたった詩はないでしょうか。年ごとにわれらの詩集は単純から複雑へすすみ、なお清純な愛と生命の属性である簡素は失われない。真の抒情詩の美はここにあると思います。
あの本の題は、きょうおはなししたとおりのを入れて、ゆとりと確りさのあるいい題ね。明治のごく初めの婦人作家から入って来るのですからやはり近代日本がついてようございます。きょうは『明日への精神』のための短い前がきをかきます。それから『文芸』の切りぬきを整理し、筆を入れてまとめてしまいます。〔中略〕
『文芸』といえば、雑誌の統制で文学雑誌としては『文芸』、『新潮』がのこる模様です。一枚一円五十銭が最高の『文芸』でも、文芸のための雑誌といえば、やはり誰しも愛着をもっているのはうれしいところでしょう。綜合雑誌もずっと減るでしょう。そういう会[自注5]でどこかの記者が講談社に、きみのところはいくつもあるからすこしまとめてはどうかいと云ったら、曰ク、日本は僕のところから出る雑誌さえあればほかのはなくたっていいのだ。なるほど講談社にちがいないと大いに笑いました。学校内のいろんな雑誌、学生の文学の同人雑誌なども紙がないから出すのをおやめといわれています。紙がないということでそれならいい本を出すということとは別なのです、今日の性格ね。
詩集のはなし、詩集は本当に心をやすめ潤す力をもっているとおどろきます。手紙ひとまとめに風呂しき包みになるのもいいけれどそれらのなかにちりばめられてある詩の話も、やっぱりいっしょに包みこまれなければならないのは不便ね。そういう象嵌(ぞうがん)だけとり出して小さい宝匣(ばこ)に入れておく魔法もなし、ねえ。
この間うちずっと座右にあったのは、『泉と小枝』というのです。ちいさな灌木のしげみの蔭に一つの泉がふき出ています。朝も夜も滾々(こんこん)とあふれています。ふと、その泉のおもてに緑こまやかな枝の影がさしました。泉はいつかその枝の端々までをしめらした自分が露であったことを思いだし、しかし今映っているその枝が影であるとは知らないの。泉にはどこまでも現(うつつ)に感じられて、その小枝を湧きでる泉のなかにその底へとらえようと、いよいよ水をふきあげ虹たつばかりにふき上げます。ふき上げられた水のきらめきは、枝の影のうえにおちて自身のあまった力できつく渦巻き、ふちを溢れて日光の裡に散るばかりです。緑の小枝、緑の小枝、どんな季節の一日に、泉の面にその枝さきをひたすだろうか。枝のさきからしみわたる水の心地よさ。葉末葉末につたわって、すこやかな幹を顫慄(せんりつ)させる泉の深い感応。
おのれの影に湧き立つ泉のメロディーは、いつしか緑の枝にもつたわって、枝はおのずから一ひらの葉、二ひらの葉を泉の上におとします。枝がおとすのか、葉がおのずから舞いおりるのか。水も燃えるということがある。泉のしぶきは焔のようにその葉をまきこみ、きつくきつくと渦に吸い込んで、微妙なその水底へ横たえます。しかも緑の梢は遠くというあたり、いじらしい自然の風趣に満ち満ちて居ります。
写真の話ね。よく御存知のとおり、わたしは横向きではないこのみでしょう?はすかいがすきでもないわ。
いつか足が痛そうに一寸ねじれて、と云っていらしたあの写真が、このお手紙のなかで又とりあげられているのをくりかえしよみます。真正面に向った姿は、云わばどんな豊富さにも力にももちこたえてゆく姿です。お母さんのかげに避難したというところ、本当にそんな風にも見えることね。でもああいう場合、私の心には自然と絶えず描かれている姿があるのでね。あすこに坐った刹那、私は自分のとなりが空気ばかりであるのを感じて胸しめつけられる思いでした。私はあのときそっと耳を傾けて、自然の耳にだけ聴える凜々しくいかにもすきな身ごなしにつれておこる衣ずれの音に、心をとられていたようなところだったと思います。私はあすこにいる、そしていない。何かそんな感じ。その内面の状態と、まるで古風なマグネシュームもち出されて大恐慌を来したのと両方でああなのね。面白い写真。今夜はどこも真暗です。でもこれは出して来ます。又ね。

[自注4]この数日に経験した心持は、何かおそらく一生忘られないところがあると思います――公判のため無理な出廷をして喀血して以来、顕治の健康はずっとよくなかった。裁判所ではあれこれの方法で顕治を出廷させようとして、ある時は拘置所へ出張して公判をつづけようとしたりした。その後、この手紙の時期になって裁判所は顕治を一時拘置所外の療養所へでも入って治療を許可するかのような口吻をもらした。そのことを顕治は百合子につげる時、「多分そんなことは実現しないだろうが」ということをくりかえしつけ加えながら、それでも万一そうなったとき必要な買物などはしておいた方がいいねと云った。顕治の拘禁生活七年目、彼が三十三歳であった。裁判所のこの思わせぶりには転向が条件として附せられていたことがわかったので、顕治は断った。九月六日の手紙と、それに対する顕治の十日の返事はこのいきさつにふれている。
[自注5]そういう会――情報局の編輯者を集めての会議。 
九月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(1 満州国民衆風俗「路傍の肉屋」、2 国立公園富士・鈴川より「橋畔に立ちて」、3 国立公園富士・清水港より「港から」の写真絵はがき)〕
1、九月七日、サイレンが鳴ると、ソラと云って、私も昔の父の仙台平のハカマを縫い直したモンペをはいて熊の仔のような形で出ます。この度は見張りが二人ずつ三十分交代となりましたから大変便利です。この界隈はしずかな隣組で、それも仕合わせです。住居はそういうことにも関係をもって来ました。樵雪という人の絵は、岩や松が生きもののようにムーッとしていて面白いと思います。いかにも一刻な画家らしく。
2、九月七日。何と東海道でしょう。もう一枚の肉やのエハガキとくらべて見ると、ほんとに面白いと思います。肉屋のエハガキからはスケッチもかけるし、小説もかけるようです。それだけ生活がある。マアこれは風景だ、と云えばそうではありますけれど。西太后という女のひとの生活力は大したものであったことが今日万寿山を見てもわかるそうです。エカテリナの生活力が今日でもその建物によってわかると同じでしょうか。エカテリナはヴォルテールと文通しました。西太后はその生活力を傾けて反動でした。
3、九月七日。バックの「愛国者」の住居は長崎です。いつも海と船とが家から見はらせるところに暮している。段々よむと、主人公の心持の転換のモメントが何だかあいまいです。誇張なしにかかれているが、やはりあいまいです。もとよりそういう階級(富商)の若いものとしてはそうかもしれないが。午後から序文をもって実業之日本へゆきますが、途中でボオーボオーに出会うと電車をおりて軒下に入らなければなりません。門の前にバケツ、タライ、砂、むしろが置かれています。 
九月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十二日第六十二信
十日づけのお手紙、その前の分、ありがとう。
前にかかれている生活のことについての話は、私もそう理解してよみました。現実に私は、あなたのおっしゃるとおりの心持で話していたのですから。そして、本筋のこととして、あれは本当だということもほんとうね。
このお手紙(けさついた方)やっぱり、私もくりかえしくりかえしよみます。私のかいた点が意外ではないということはうれしい、うれしいと思います。僕も昔から考えているのだから――昔から考えているのだから――昔というのはいつでしょう。昔というのはいつだったのでしょう、そう考えて何だかあわてたような気になります。
ほら、動坂の家でね、私たちは、自分たちの新しい生活のために仕事が少しでも遅滞してはいけないと思って、随分辛がりながらよく夜中おきては仕事いたしましたね。あの、いやな緑茶を濃く濃くして呑んでは。それとつながった気持から、やっぱり私が別の考えようをしていたということは、はっきり思い出すことが出来ますけれど。
ここに云われていることは精髄的な点です、ただ一つののこりものを光栄あらしめる本質です。これは私にきわめて明瞭な感覚です、一般的な動物的な欲求ではないのですものね、土台。ほかならぬ一つの心と肉体以外に連関のあることではないのですもの。私は舟橋聖一ではないから、ヒューマニティというものを動物的なところまで、煩悩までは包括して考えられませんもの。それにしても、こういうゆたかなモメントがあって、お互がお互の内に全くるつうになる心持は、何といい心持でしょう。何と一層緊密でしょう。全くたばでしょう?まるでまるでぴったりでしょう?泣きたいほど、そうね。私たちにもたらされたこの深みのある、つやのある、みのりこそ、収穫のほめ歌でなくて何でしょう。この収穫は現実のもので、まぎれもないもので、そこにやさしいよろこびの諧調があります。私は未到のものの故に猶若々しく猶その成熟をいつくしむ自分たちを感じます。自分たちがもたないものについて、そのもたない意味を十分に知っていることから、持たない貧相さなど身につけず、却って益〃ひろく瑞々しいマターナルなものに成熟することは、何と面白い愉(たの)しいことでしょう。私たちが愈〃よく生きて、一人二人のもたぬものを、数千万の世代として持つようにしてゆくことは、決して根拠のない空想ではないわ。極めてリアルなことだわ。生む力が精神にもあるということは、普通何でもなく考えられているより意味のあることです。
バックの「この心の誇り」は鶴見の娘が訳して、しかも抄訳で、日本の読者に分りよくするためと云って、自分の感想を入れたというおそろしいしろものです。いかにも親父の娘らしいでしょう?ですからこの本は、よむに苦しいような本よ。云ってみれば、文字の間にチラチラ、チラチラする作品をさぐり出して、よんでゆくようなわけですから。それでも、ここにはやっぱり面白いものがあります。男が仕事と家庭とを二つながらなくてはならないものとするように、女も生活力のつよいひとにとっては、仕事も家庭もいる。その自然であるべきことが、自然として世俗の通念に納得されない。その葛藤です。人間同士の理解には限界のあることをバックは結論としています、しかし彼女はその狭い主観的な輪が、歴史のなかでひろげられてゆくかくされた可能におかれている点は見落しているのよ。最も発展的な人間性の可能を、その意味ではつかめないのです。
バックさんの遺憾事はいつもここのところにたぐまっています。同時に、私は文学――人智一般についても云えるが、――ノーベル賞そのものの限界もおのずとあらわれていて、実に興味ふかく思います。ノーベルはノーベルね。人間の可能性の率直な見とおしにはたえないのよ。そこまで歴史のなかの人間を評価する力はないところが面白い。「愛国者」もおしまいにゆくとこんがらかって「大地」のどこかへとけ込んでしまってね、「しかし土地があります」(都会がこわされてしまって何一つなくなったとしても)そこへ妻子をつれて来て暮しますという、そういうところへ主人公が行きます。バックの作品からこの頃感じるのですが、バック自身非常に自然力をつよく内包しているひとですね。ヴァイタル・フォースのきつい、それに導かれてうごくそういうひとね。そこに「母の肖像」のような美、「大地」のような力が湧くのですね。同じものが「愛国者」のようなものになると、所謂インテレクチュアルなものの限界があらわれて来て、本源的に「大地」へくっついてしまうのです。作者一人は何と複雑でしょう。
私は一人の作家として自分のヴァイタル・フォースのあれこれのからくりを、どの程度見きわめているでしょうか。
でもね、面白いでしょう?あなたはきっと微笑なさるわ。そういう点と、この手紙のはじめの方にかかれていることとは、どっかで大変結びついているのよ。丁度あなたの文芸評論と、今ここで私の前にひろげられている手紙とが、どこかで全くむすびついていると同様に。
そうよ、文学の神通力というものは在ります。文学そのものは、そういう力をもって居ります。
この頃は、いろいろもとから在った団体が解けて一つの別のまとまったものになるのがはやりで、雑誌協会その他が一つの出版協議会のような形になりつつあります。そこでは雑誌を八つまでの分科にわけて、たとえば婦人のためのものは第五、綜合雑誌の属すのは第七、いろいろその他に属せざるもの第八として、それぞれの分科委員会をやって、各分科代表を出そうというのだそうですが、全く大笑いなのは、『中公』は第五で『婦人公論』で当選、『改造』は短歌俳句で当選、第七に入っているのは『日本評論』『時潮』『公論』『日本及日本人』ですって、(『東朝』に出ていました)。ひどい下らない人間がゴソゴソしている証拠です、勿論こんな滑稽なことがそのまま通用しますまいが。『短歌研究』『俳句研究』が研究社の『英研』と一つかこいで、青年男女のためのものの中に入っているとは!岩波の『文学』『教育』『哲学』が、博文館の将棋雑誌と一つ枠とは!国辱ということを真面目に考えたことがあるのでしょうか。当今の策士は、日本を愛す真心なんてどこにもっているのでしょうと思います。十年二十年将来の日本を、どうなると思っているのでしょう。そういうことについて沈思しないおろかものが、フランスは文化主義でそのためにああなったというそらごとをおしつけるのでしょう。ゲーテはどうしてフランスに行ったでしょう、ねえ。
眼はよく気をつけています。それに、きょうは一日在宅だから、正規の方法で糖をしらべる仕度をして居ります。この間あなたが内科的のことをもしらべよとおっしゃったとき、春、ちゃんとしらべて大丈夫だったからいいと思いましたが、やっぱりたしかめます。一番こわいのはあれよ、うちで皆やって居りますからね。頭を使うのが一番よくないなんて。
それから、汗が出ないというのは何と体のつかれをへらすでしょう。ああ何とつかれていたろうと、今しみじみと八月を思いかえします。床のシーツがねまきをとおしてぬれるのよ。歩いてそちらに行っているとき、帯の下は洗ったようです。汗で力をすいとられるようでした。
汗の出なくなるって、何て力がたまるだろうと、この頃は(やっぱり汗はかくけれど)ホクホクです。御同感でしょう。
つたはまだしげって日よけに役立ちましょうか。
歯はいかが?もとなおしたのではないのでしょう。
きのうはあれから七時ごろ迄上野にいました。中島湘煙女史というひとは、漢学で教育されたのね。啓蒙的なことをむずかしい漢文の用語でかいています。漢詩もありました。そして、女は文学の仕事をしやすいと云っている。小さい帖面を茶の間の台所の隅においても出来るから、と。それが(文学が)どんなに女にとって大したことであるかという事実を、明治以来七十何年かの歳月が証明しているわけでしょう。文学的なひとというのではなくて、文学の教養をもった人という人です。文学のこととして一葉がああいう扱いをうける必然もわかります。一葉は小さい手帖でちょいちょい文学が出来るとは考えなかったのですから。 
九月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(モーアランド筆「救助」の絵はがき)〕
九月十四日
きのうときょうは秋晴れらしいいい天気ですね。うれしい報告いたします。やっぱり糖は出ていません。可愛いわね。私のこの丸っこい体。その内のからくりは、案外に精良なのかもしれませんね。糖がないということは一番うれしいことです。うれしいから一寸ハガキかきます。
稲ちゃん呉々もよろしくと。微熱を出して居ます(稲ちゃん)大切にしなくては、ね。 
九月十六日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(ジオラマ筆「墨堤より鐘紡を望む」の絵はがき)〕
九月十六日夜。まだ九時半ですが、すこし疲れ、もうねて、あした一寸そちらへゆけるようにしたいと思っているところ。熱中して一葉の補をかいて居ります。なかなか面白い。そしてね、一息かいて、椅子の背にもたれるとき、ああ今一寸そっち向いて、向いたところに顔があったら、と思います。寿江子がいてもかけるけれど、どうかしらなど思いながら。ほんとにどうかしら、この頃なら、ね。 
九月二十四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十三日第六十三信
今上野です。お祭日で、上野は天王寺の墓地へお参りする人ゾロゾロよ。そして、この人通りは黒い紋つきをきたお婆さんや、赤い洋服を着た孫づれというのですから、動きは到ってまちまちで、あぶなっかしい賑いです。すいていると思ったらなかなかの人で、本を出して貰うのに一時間も待ちました。今度は何と御無沙汰したでしょう。九月十六日づけのお手紙十八日に頂き、十八日の速達は夜おそくつきました。そのことはお話しいたしましたね。きのう一葉を終りました。六十枚かいてしまった。ああいう風に偶像化されている人のことは、やっぱりついこまかに見てしまうものだから。あのひとと『文学界』のロマンティストたちとの交渉は非常にふかく、あの時代のロマンティシズムが生み出したひとと作品ですね。「たけくらべ」などは実にその典型です。そして『しがらみ草紙』の鴎外その他が早稲田文学派(自然主義に追々うごきつつあった)に対してロマンティシズム文学のチャンピオンとして一葉を実に押し出しています。一葉はこれらの人のほめ言葉に「ほめることばしかないのか、あやしきことなり」と云っています。あの時代のロマンティストには「たけくらべ」の美の古さ、新しさ、そこにある矛盾は彼女に向って分析してやれなかったでしょう。勿論一葉にはその力がなかったわけね。半井桃水とのいきさつも、何故あれほどの女のひとがあのひとにと云われているけれど、一つにはあの中島歌子の塾の貴族性にいつも反撥し、とけこめずにいる一葉の庶民的なものへ引かれる心もあったのでしょう。安心して貧乏ばなしが出来るのもよかったのでしょう。十五から二十五までの十年は、どんな女でも、男でも、何と圧縮された多くの経験を重ねるでしょう。この年の間にどう生きたかということで、その人の一生がきまるようね。今度一葉をかいて、しみじみと感じました。この時代に何かどっかどうかでないものが、後年何かであるということは決してないように思えて、面白いやらこわいやらです。
きょうは、三十年から四十年までの間をすこし、かき直したくて。その下ごしらえ。
きのう『明日への精神』の出版届けかきました。やっと出るのでしょう。あの黄楊(つげ)の印、覚えていらして?出来たとき手紙に捺してあげたの、覚えていらして?あの字。あれを捺すのよ、どれにもこれにも。黄楊は丈夫な木で、かけないそうです。そして、それは女の櫛になります、黄楊の小櫛。
けさは、めをさまして、しばらく横になっていて、秋の朝の気持よいしずけさ、明るさ、すずしさをしみじみ感じました。そしてね、「朝の挨拶」という詩を思い出しました。朝、めのさめた子供が、活々とした顔をうごかしてまわりを見まわし、遊び仲間を見つけて、朝の挨拶に出かけてゆく、その足どり。それから訪ねられた女の子が、まだすこし眠たくて半ばうっとりとしながら一声一声に段々溌溂と目をさまして来る上気せた頬っぺたの朝の色。いろいろそういう描写を思い出し、やさしい心いっぱいでしずかに空を眺めている秋の朝と、そこから又別の詩がわくようでした。
この婦人作家の仕事は、本当に誰もはかかないものになってうれしいと思って居ります。よかったわね。それに、これをやったために図書館で準備的な調べはやれる習慣がついて、私としては大しためっけものだと思います。何だか心づよい。一昨年は本が買えないということで、やっぱり生活の気分を圧せられました。ここも新刊は不十分ですけれども、それでも自分がしっかりテーマをつかみさえすれば何かは出来ます。そういう自信は小さい小さいことですが、でもやっぱり一つの生活上の実力よ。なるほど、こういうところなのだナと現実の生活力というものについて考えます。
私の前にいるのはクリーム色のブラウスをきた娘さんで、女子医専か何かのひとらしくドイツ語の文法をひっぱって一生けんめい作文中です。右のとなりはおとなしい日本風の娘さんで、キレイにキレイに何かノートとっていて、一寸字を間ちがえるとナイフで削って、ひょっと見るといつの間にかつっぷして眠っているの。おとなしい動物らしさが可笑しいような、気持わるいような。
お恭ちゃんの兄さんが、自分の働いている村の健康調査の仕事をまとめてレポートをつくりました。それを貰いました。農村の生活事情の分析を土台として、結核の状態、乳児の状態などしらべてあって、二年半の仕事の結果としては十分評価してよいもののようです。なかなかがんばりやなのでしょう。お恭ちゃんはこの兄さんが好きで崇拝しているのね。だから兄さんのいうとおり私のところへも来たのでしょう。いい子だけれど、すこし猫の子で、自主性が足りないの。熱血的よ。面白いでしょう?来年ぐらいになったら、英文タイプをならうのですって。兄さんの関係で結婚の対手はお百姓さんではないでしょうから、それはいい細君の役にたつかもしれないから。
きょうは夕刻までここにいて、夕飯は林町でたべます。開成山からかえりましたから見て来るの。あっちはお米一日に二合七勺で、豆類は一切輸出禁止です。だから名物の枝豆もおみやげになりませんでした。この冬は一人一冬炭一俵の予定だそうで、そちらの生活と平均されて来るわけです。表、今ノート忘れてかけず、この次。この次はじきかきます。汗が出ないのは何と楽でしょう、ねえ。ブロッティングが古くてクニャクニャ、おやおやこんなにすれてしまって。 
九月二十七日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十七日第六十四信
二十日にかいて下すった手紙、けさつきました。
どんな遠くの国から遙々と来たのでしょうね。こんな手紙、こんなリズムのこもっている手紙。はるばると来た手紙。くたびれもしないで、新鮮な香りをこめて来た手紙。
私は今晩一晩、この返事にかけましょう。ほんとにそうなるのよ、たっぷり一晩の物語。
あのエハガキの文句は、全く省略してあって、おわかりにならなかったのね、それによみちがえてもいらっしゃるし。或は私が書き間違えたのかしら。どうしてだか、ではなくて、どうかしら、この頃なら、ね、というのでした。あれをかいたときは、一しきりかいて、すこしつかれて椅子のうしろにもたれて、一寸うしろふりかえったらベッドがあって、もしそこに一つの顔があったらば、と急にこみ上げて思った勢でかいたのでした。あなたは私がうしろにちょこなんとしていて、仕事なさいました。でも、私にその芸当は出来なかったから。となりの部屋でも、何だかときどきおまじないを頂きに行ったでしょう?そんなこと思いあわせて、今の気持、こんなに互の生活に馴れている気持ではどうなのかしら、たとえばうしろによこになっていらしたら私はどんなかしら、仕事出来るのかしら、出来そうでもあるけれど。そんなことを考えたわけでした。寿江子なんかはこの頃うしろにいても、じっとさえしていれば、普通の仕事は出来ることもあるので。面白く思ったのでした。だってこの頃はあなたの体の中にはいりこんだ邪魔ものとさえ、あなたが其を持ってやっていらっしゃるように私も馴染んでいるのですものね。
一葉については明治二十九年来百種ばかりかいたものがあるようです。でも私は、そういう文献学的跋渉はしないで、いきなり作品と日記とその時代の生活全般とのてらし合わせで話しをすすめました。五十九枚かいてね。『文学界』のロマンティシズムと一葉の、互に交叉し合った旧さ新しさの矛盾、ロマンティシズムそのもののもっていた限界の頂点で一葉の「たけくらべ」の完成と賞讚とがあったこと、彼女のうちにあるいろいろな常識の葛藤など分析しました。
きのうきょうは、そのつぎのロマンティシズムとして晶子、『明星』のロマンティシズムのこと、二十三枚終り。『文学界』のロマンティシズムは、日本の恋愛は痴情であるという観念に対してダンテ的愛を強調したけれど、『明星』のロマンティシズムは肉体の権利と高揚とを肯定して、一つの推進を示しているとともに、そのこと自身すでに自然主義へうつりゆく潮先を暗示するものであったこと、晶子の自然発生の感性の発揚は、しかし文学上の自覚としての文芸理論をもっていなかったこと、一葉もそうであること(これは今日までの一般の婦人作家の特長のようですから)、そこに問題が明日へのこされていること、そして、彼女のかいた評論、随筆のリアリズムと歌のロマンティシズムに分裂があって、そのことは評論に彼女独自のリズムや詩情を盛ることが出来ず、――理性を詩にまで高める力がなくて、あり来りの男のような文章(つまらない)にしていること、その分裂は多様性と云えないことなど。
この前かいたときにはまだ足さぐりで、ゴタゴタなの。一年一貫したテーマで勉強したということは、やはり決して軽々なことではないのね。この仕事は本当に立体的な成長を語るもので、個人的の範囲をいくらか出ていて、うれしいと思います。自然主義のところで、女は文学の発足において、男が女に人間を十分認めないことに抗しているのだから、女を雌のように見る卑俗ナチュラリスムには入れなかったこと、などにふれ、反自然主義の青鞜あたりから大分手を入れないでよかりそうです。全く見ちがえるようです。断然ちゃんと気のすむまでやらなければなりません。
河出の本、重複はさせますまい。十一月号にかく小説を入れます。それは「日々の映り」をかき直すの。
小説についてね、私はすこしこの頃考えて居ります。
私の評論は何故読者にとって感銘的なのでしょう。普通それは、頭脳的に云われているのよ。勤勉であること、よくくい下ること、緻密で熱があること。俗に頭がいいから云々と。でもそれはちがうと思います。私の評論には自分が腑におちるところまで辿りつめる探求があります。だから、ある感銘をもっているのだろうと考えます。決して所謂頭のよさなどという皮相のものではありません。
小説を、どういう心の状態でかくでしょうか。昔かいたときは、あるテーマにうたれて、その一筋をたどってかいて行って、自分にわかっていたのは、そのテーマの範囲だけでした。しかし今は、自分として解決したところに立ってかいているような気がします。勿論作家は解決したところに立って(何かの形で)かくのではあるが、何というかしら、心理の解決に到った道筋をまた逆にねばって戻ってあの小路この小道という風に歩かないのね。これは問題であると思います。
幸田露伴という人は、紅葉と対立して一つの理想を人生と文学とにもった男で、この頃の爺さんぶりなどなかなか立派です。その露伴が、いい人柄でいて何故小説はかかなくなったでしょう。一種の哲人になって、何故作家でなくなったでしょう。
バックが、あの「心の誇り」のような限界をもちつつ何故あなたにも評価される価値をもち得ているのでしょう。非常に複雑な問題がここに私についての具体性としてかくされていると思います。
ずっと婦人作家のことかいて来て、いろいろ考えます。そしてね、十一月の小説から少くともこの問題を、作品をかいてゆく現実のなかで自身に向って追究しようというわけです。面白いでしょう?私はひとからいつも明るさと一貫性とでほめられますが、快活であるということは、私が苦しまず、悲しまず、憤らずにそうあるのではないわ。極めて複雑なものが統一され得る力をもっている、それを単純化して表現するだけであるとしたらつまらないと思います。そうでしょう?私は計らず、評論で(理論家的素質からではないが)私らしい仕事まとめたから、小説を一つこのレベル以上に出そうと思います。
「山の英雄」のなかのあの文句、あなたも心におとめになったのね。「自覚した鋭い正直さ」バックは面白いわねえ。阿部知二なんかこれをでんぐりかえさせて(日常的な意味でさえ)存在しているのですものね。日本の多くの作家は、これだけ鮮明な表現で、日常性に立つ正直さをも把握していない方が多うございます。お手紙で云われているような意味では云わずとものこと。正直などということを道義的にしか感じられていないでしょう、ごく俗情に立っての。
文学の根蔕はこの自覚された鋭い正直さ、ですね。
本当に、この頃は疲れがへって、何とうれしいでしょう。汗のひどさなんて、人に云ったってうそかと思うでしょう。このごろは八時間労働です、平均。
流す汗にもいろいろという話。それは全くそうね。ここにかかれている夏の詩譚は大変美しいと思います。思わず渇いた喉をうるおすつもりで、というところ、あのところのリズムには、樹かげの谿流が自身の流れに溢れながら、そこに映る影をまちのぞんでいる風情がまざまざと響いて居りましょう?谿流にはかげをおとす樫の梢もあるという自然の微妙なとりあわせのうれしさを、何とあの作者は真心からとらえてうたっているでしょう。
それから、もう一つの秀逸は、雄大な真夏のスロープの彼方に、かなたこなたと眺めわたされる丘々。という叙景の部分。スロープはこなた樹かげこまやかな谿谷に消え、かなた遙かに円き丘々。爽やかな夕立は歓喜の雨脚を輝やかせて、丘々をすぎ、スロープをすべり、谿流のせせらぎの上に更に白銀の滴々を走らせる、というあたり。旺(さかん)な夏の風景が実に匂い立つばかりです。
私はちっとも詩をかかないというのは、どういうのでしょうね。文学の初歩によくかくでしょう。私はいきなり散文詩でした。それでも私の文章にリズムのないことはありません。メロディーもあります。決して音楽的でないことはないでしょう?私はただの所謂散文家ではないつもりよ。プロザイックなどというのは文学精神の荒廃であると思います。散文の精神というのは現象追ずいではない筈です。
『明日への精神』検印しました。紙がなくて五千が三千になったから大打撃ね。どの位の定価か存じませんが。高山書院というのから出る文芸評論集は三千五百位の予定の由。題何としましょう、「現代の心をこめて」というのがいいというのだけれど。わるくはないのです。でもすこし。それにカッコして文芸評論とあると心をひかれはしますでしょうね。目下考え中です。中公、紙不足で、原稿が手に入ってから半年もかかる由。ひどい話ね。しかし金星堂のだって略(ほぼ)その位になります、だからなお早くやらなくてはね。
「諸国の天女」は、つい先日手紙が来て、ずっと私のかくもの、細かいものもよんでいました由。強いという性格だけのことなのでしょうか。
この頃は、文芸家協会再組織、評論家協会再組織、あちらこちらです。会員であることには変りなし。
さて、例の表。中途になりましたが、九月三日以後きょう迄ね。
甲四乙十五丙四
ああ一頁、一頁。やっと十八頁、ごめんなさい。全くこれはつらいわね。血をはくホトトギスよ。全然同情お出来になりませんか、それとも少しはお出来になって?ところどころでは女学校の代数の時間のように切なくなります、あなあわれ。そして、一番私の血肉になったのは「空想より」と「家族」、それから「デュ先生反駁」などであったと思いますというと、がっかりなさること?でも一方から云えば、実に明快ね、なんて云ったら大うそですし、ね。
あした参ります。ではもうねましょうね。又犬が啼いてるわ。 
九月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月三十日第六十六信
二十八日づけのお手紙、きのう着。ありがとう。
菊さっぱりして、秋らしくて奇麗でしょう。
三省堂の『書斎』御免なさい。あれは、やっぱり出ていないのよ。ずーっと出ないようになったまま、出ていないのです。
二十日の手紙は、お話ししたとおり。二十六日の消印よ。座布団と手紙とは、扱いにおいておのずから違います、ねえ。
きのう、きょうは寒いこと、セル着ていらっしゃいますか。きょうは、女のひとのためのものを二十枚かかなければならないのよ。ヘッセのことをかきましょう、随分よまれているから。ヘッセのうちにある正しいものと、ロマンティシズムにぼやかされているものとの区別、大体ロマンティシズムとはどういうものか、そんなこと。今は妙な時代でね、日本はロマンティック時代というところがありますから。壮語的ロマンティシズムと極めて低俗な万歳的地口とが、日常の感覚のなかでよりわけられずにまざっています。大した大人たちがその見本を示しているから。
小説は、書き直しといってもそれには其だけの愛着があってのことですから、決して片々的片手間仕事にはしません。それに、この前の手紙で云っていたようにいろいろと考えていることがあるのですし。
机の上にペラゲアの赤い花が二輪さしてあって、青い大きい生々とした葉っぱとともにいかにも鮮やかな色です。原稿紙の厚いかさなりの上にやきものの山羊がのっていて、その文鎮にあなたのお手紙よせかけて眺めてかいているのですけれど、私は、この手紙ひらいたときから、きのうから、幾度も幾度も、行為の動機は思慮深く、とかかれているところをくりかえしています。
まざまざとそのときの苦痛が甦ります。寝ることも出来なかったし、歩く力もないようになって、夜じゅう何か畳の上を膝で居ざって歩いていた、はーっと時々苦しい息をつきながら。
一生忘れない夜であると思います。スタンドが何とギラギラ明るかったでしょう。自分に対する何という口おしさだったでしょう。
その苦しさが肉体のなかに甦って来て、しぼるような感じです。
私がある一人の女のひとの真にいたましい悲劇を、しんから思いやり、苦悩の過程を辿ることが出来るのはああいう一夜のためですね。そう思います。そして、こういう苦しさは、どこにもあなたの妻であるということからの救いはないのよ。おわかりになって?あなたにかかわりない全然私のくちおしさ、苦痛であって、しかも、ことの結果があらわれれば完全にあなたの上にあらわされるということで、堪えるに堪えがたい苦痛がまさるのです。何という気持でしょうねえ。何という気持だったでしょう。ああ、といきなりは、生きていられない、という風に思います。それだと云ってどうするのだろう、つづいてそう考える。自分をそのことによってあなたから切りはなされたものと感じ、しかもそんなおそろしい孤独の状態の中から、全く密接に大事なものにかかわってゆくいきさつがまざまざと見えている。あんな気持って。
悄気(しょげ)てるの話ね。そういう言葉の表現で、私は一度も云いあらわした覚えはないと思います。だって、そうではないのですもの。ただ、体が随分参っているということは話したでしょうが。この手紙で、あなたが云おうとしていらっしゃることの本質はよくわかりますから、こまかく一つ一つを訂正するというような意味ではなく、ね。
私には、あの時分、行くたんびに、どうせ命はおしくないんだろう、私だってその位のことは考えているだろうと云って居りました。そして、私が涙を出したり、哀訴したりしないので、こわい様子をしていました。それでも、顔をちがう方へ向ければ、ちがうようにあらわすのね。
一般に云って、誰がああ云った、それでつい、というところは日常に随分ありがちなのね。こういうことは、それだけ切りはなして云えばだけれど、すこし追いつめて考えれば、たとえば女の作家が自身の芸術の理論をもっていなくて自然発生の仕事ぶりをするということと、どこかで共通ね。この頃はこのことを考えていて、そうなってゆくという作家は十中九人ですが、そうしてゆくという作家はなかなかないということを考えています。たとえば一つの大づかみの創作の理論と方向とは何人かに共通なものとしてあるわけですが(今日でも)そのなかで、チェホフの所謂自分の線というものを、持味という範囲より高めて文学史的見地から描き出してゆくものは、なかなかないわね。
私はこの文学史的見地での自身の線がほしいと思うことがこの頃、自覚されて来た希望です。ねえ、面白いでしょう。若々しい向う見ずで仕事に熱中する時代からある段階を経て、真に仕事そのもののための情熱で仕事にうちはまってゆく時代が再び来るというのは、面白いわねえ。刻苦ということがわかって来る時代、一つのアスピレーションではなく刻苦ということが仕事の上でわかって、おのずから楽しみとなる時代。
私は早く完成の形をとる人間ではないから、えっちらおっちらね。
この間、津田青楓の六十一歳の還暦祝があってよばれて行って、洋画の大家たちというもとを近くから見ましたが、文学の人とちがうものですね、洋画でああなら日本画がどの位鼻もちならないものかとびっくりしました。画かきは直接社交的買い手と接触する、安井さんのような肖像画家は名士とばかりつき合うから、何だか大した先生になってしまうのね。鍋井克之は一寸面白いひとです。皮肉も云うところがあって。安井というひとの顔を見て、ああこういう顔のひとがああいうのをかくかと面白うございました。画の中の人のとおりよ、面が多くて、黒い眉して、頬ぺたのよこのところが珍しく赤くて。面と色彩とが錯交していて。石井さんはぼってりで、そういうてがたい教師風の絵だし、鍋井という人は宇野浩二の本でもああいう線の細い淡いような、そこにつよさのあるような風だし。
私は、芸術家に還暦なんかある筈がないから若がえりのお祝だろうと思うということと、この画家が明治からのいろんな文化の波を反映して来たことの独自さを一寸話しました。門の木犀が咲きましたから、せめて匂いを、と思って、花を入れて封をするのよ。では又。 
 

 

十月四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月三日第六十七信
きのうあたりからしきりにそちらに行きたい心持がいたします。でも、それに抵抗するようにして机にねばって居ります。こんな気持、子供らしいような。けれども一週間てこんなに永いのでしょうか。随分奇妙ね。たった一つの、土曜日から次の月曜日までとお思いになれて?きょうは木曜よ。
この前の手紙、丁度これから女のひとのためのものを二十枚かくところ、というときでしたと思います。ロマンティシズムのことかくと云って居りましたろう。けれども、この問題は別にすこし深めて面白い課題となりそうなので、少年から青年にうつる時代の少年少女の心の様々のたたかい、よろこびと悲しみとを描いた文学についてヘッセの「車輪の下」を話のいとぐちとしてかきました。今、「たけくらべ」なんか随分よまれているのですって。ヘッセにしろ「たけくらべ」にしろ、そういうものを今の若いひとが心の休息所とするというのは何と可哀想でしょう。そういうことを若いひとは憤り、大人はそういう文化しか若いものに与えていないということについて大変慚愧するべきです。髪の毛を一分苅にされた頭で、その中では「たけくらべ」が訴えるものとして感じられているということは、何という深刻さでしょう。
ロマンティシズムについては、こう思うの。これまでの文学の考えかたの型では、いつでもリアリズム対ロマンティシズムという風に扱われて来ています。そして評論をするひとたちはその型のなかで語っているけれども、ダイナミックな文学では、こういう二元的対立はもう古いと思うのです。新しい文学評論の領域でも、リアリズムの究明はまだ、その対象として或は一つの要素としてのロマンティシズムを扱うところまで行っていなかったと思います。
この頃、自分の心持を考えてみても、そういう対立は間違っていて、ロマンティシズムはリアルなものの見とおしから来る一つの美感である筈であり、丁度岩波新書の『北極飛行』に飛行士の描いた極めてリアルな推定に立脚しての推測の美のロマンティシズムである筈であり、未来が語られるという性格でロマンティックである筈だと思います。だから、リアリズムの時代的な(歴史の中での)発展の性格に対応していかなるロマンティシズムがあるかということが、リアリズムの方から今日は見らるべきでしょう。これは分りきっているようでいて、文学の評論家は一人もしていないことなのよ。即ち、彼の内部でリアリズムのファクターはそのところまで拡張もしていないし、複雑になってもいないというわけだろうと思います。これは、(そういう現実関係を見直してゆくということは)大変有益でしょう?
それともう一つ私がヘッセやトーマス・マンをよんで考えたのは「有用人」、「無用人」のことで、従来は世俗的無用人が芸術家であって、芸術家の側として其でよいという境地があったと思います。ところが昨今は無用人に存在権は許されない形があらわれて来ているので、その無用人の或ものは急に有用人になろうとして、そのことでは世俗的有用人との区別がつかなくなってしまっている。他のつとめ人と同じ内容で有用人になるしか知らない、つまり有用人になったつもりで文学の本質からは無用人になって、歴史の永い目ではつまり全くの無用人であるということになります。
この歴史は十九世紀文学の流れの中から発して、日本にどうあらわれて来たか、二葉亭四迷のことを、その点から考えてね。マンやヘッセの時代の作家即無用人の考は、二葉亭のあの煩悶[自注6]とどうかかわりあっているのでしょう。十年ばかり前の文学の新しい本質をとらえたものは、無用人でなくて社会と文学に有用人でありうる統一を学んだのであり、そこにしかこの統一はないのですが、所謂「純文学」はそういう実に大事な成長の輪を一つおっことしていますからね。「純文学」における自我の崩壊、それにつれての通俗化、猥雑化と、この無用人、有用人の関係はつながりがあります。
二葉亭についておもちになる興味の核心はどこでしょう。最も早いエゴーの目ざめとして?トーマス・マンは、家族の血統の廃頽(世俗的)のとき芸術家が出るとしています。「ブッテンブーロークの一家」でそれを語っているのだそうです。こんな考えかた――そこに発展を見るという――何とドイツ哲学亜流でしょう。結果から現象的にさかのぼる方法。二葉亭についてかいて下すったら面白いでしょうねえ。中村光夫のはよんでいませんけれど。忘れず、ね。
『明日への精神』やっと出ました。表紙は白でフランス綴です。小磯良平のトンボがかいてあって、題は朱。トンボの色は写生風で瀟洒としている(そうです)が、私は自分の量感が出ていないで余り感服いたしません、表紙なんか私がどうかしらと云うのは賛成しないのよ、だから何だかもり上って来る感じにかけていてがっかりですが、第三者はきれいですって。皆がそういうそうです。三千だけ刷ったが、第二日でもう千部刷るという話が配本の方から出ている由、まだわかりませんが。本のつくりかた雑なのよ、ですからすこし悲しいのよ。折角なのにねえ。でも、出ましたからよかったとしなければなりません。
日本評論社の現代文学読本(何人かのひとと一緒の)案外によく出ましたって。やはり又増刷した由。一ヵ月で珍しい由。しかしこれは版権はないのですから。
明日で金星堂の方も刷りにかかります。文芸評論の原稿もわたしずみになります。そして、中央公論社にわたしたら吻(ほ)っとね。〔中略〕
達ちゃんたち、組合と近所の女のひとたちをよんで秋にお祝をいたしますそうです。お砂糖が足りなくてこまるそうですが今回はこちらでもどうにもなりません。
山田忍道の店[自注7]も、先生の気合から物をつくる術はないものと見えて、あの日本橋の角は貸事務所か陸軍病院になりそうだそうです、伊勢丹もやはり。その他この暮にはいくつかがしめるそうです。つとめている人たちはまだ知らないのでしょう。
島田から炭お送り下さいました。これまでは一俵二円でしたが四円よ。あっちの価もそうなのね。今年の冬子供を生む人は今からハラハラです。
この頃の夜のしーんとして圧迫する気分はそちらも同じでしょう?何だか却って落付けません。今日まではうちのあたり割合しずかですが、夜なかどうかしらと云っているところです。うちの方は上り屋敷の前の空地へ避難するのです。
私はどうかしてすこし風邪気です。勿論大したことなし、そしてね、バカでしょう、ゆうべは秋刀魚(さんま)のトゲをのどに立てたのよ。秋刀魚の骨は細くしなやかで、御飯かためてのんでもなびくばかりでとれなくて、痛いよりくすぐったくてそれは妙なの。困った揚句、喉に薬つけるような綿棒こしらえてかきまわしてフーッとやっととれました。そのときよだれを十日分ほどこぼして勿体ないことをしました。よだれはこの頃大切よ。思わず出るような美味いもの減りましたから。おいしいもの、おいしいもの。私は、ああ美味しいと歎息して、あなたがそんなにおいしいかい?と仰云ったこと思い出しました。

[自注6]二葉亭のあの煩悶――文学は男子一生の事業に非ずという彼の煩悶。
[自注7]山田忍道の店――日本橋の白木屋。 
十月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月六日第六十八信
十月三日づけのお手紙、きのう、ありがとう。
土曜日に朝ゆけたら行こうと思って、ああ申上げたら、金曜の夜中フーッフーッで目をさましてしまって朝おくれて目をさましたので失礼しました。それでも、このまわりには何も落ちなくてよかったこと。
今は一寸一筆ね。原稿を、日曜で目白市場の郵便局が休みで落合長崎まで行って貰うので、ついでに。
これは小説ではないの、ごく短いの、その代り大いにピリリとしなければならない筈なのですが、果して如何か。
「煉瓦女工」の評は、随分こまかにしました。全く私もそう思うの。そして、文学の悪時代、出版の悪時代にめぐり合わせて、あの娘さんそのものが大分大した要素もあるらしくて、「藪入り」なんか最もましな部分の流露です。「今かくことはいくらでもある」「じゃ書くことがなくなったらどうするのかね」「そしたら小説家みたいに、嘘かいてやる」悲しき問答でしょう?文学と云えば直木三十五しかよんだことがないというのをカンバンです。素人文学というものがここまで悪用されるとは川端康成も思わなかったでしょうね。先生という人たちものすごいのよ。新協で上演しようとしたら、先生第一声は「儲かりますぜえ」であったと唖然としていました。二十歳ですからね、私なんか、その娘さんのひととなりをきかないうちは、いろいろ心で思っていたが、今はいささかこわいと思って居ります。先生というのが政治家(この頃流)ですし。娘さん、何だかとんだ娘というところもあるらしい。
高山の本の題、やっぱりでしょう?一寸どうか、ね。今ほかの事で頭いっぱいで考えられず。
外国の婦人作家のこと、永い間の仕事として面白いと思います。でも作品を一とおりよむのも、エリオットなんかあるけれども、ほかの作家のもの手に入れがたくてね。ドイツ、ロシアの作家たちも面白いわ。ロシアの過去の婦人作家というのは、妙な芸術至上主義者やギッピウスのようなシムボリストなどで。婦人の積極性(文化上)は、ああいう文盲率の高かったところでは一方ではそうなり、他方では「フ・ナロード」となるのね。一七年以後小学校の教師をしていた人が先ず文学的活動に入っていて、それも文化の上で考えさせます。ドイツの婦人作家は、ちっともしらなくて、ロマンティストのフーフ一人です。このひとの本は『ドイツ・ロマンティシスム』岩波から大した難解のが出て居ります。
それとは別にね、この間、津田青楓の会に行ってふと思ったのですが、日本の文学者と画家の交渉を、文学者の内から文学の動きのなかから見て、画家と文学者の推移を描いたものは日本になくて、しかも或る種の文学者しか出来ない労作であって、大変面白いと思いました。私は画と音楽がすきで、普通よりはすこしわかるのよ、ですから、それを河上徹太郎のように、他の芸術分野へ、そのまま歩みこんでしまうのでなしに、どこまでも文学・作家という本筋からはなれず、そういうところからでなくては分らない課題をとってゆきたいと思って。面白いでしょうね、たのしみです。ポツリポツリと『中央公論』にでものせてね。「当世書生気質」の逍遙の插画と長原止水の絵との時代的相異。明星時代と印象派の画家たち。自然主義と写実派の画家とはどういういきさつもなかったのでしょうか。漱石と青楓。龍之介と小穴隆一。尾崎士郎と中川一政。小島政二郎と小村雪岱(※[「弓+享」]も入る、鏡花)。白樺と草土社。その他、おもしろいでしょう?画家の画業の本質と代表的作家のうごきとをくらべてどういうモメントが結びつきとなっているか。たとえば、尾崎の「人生劇場」と一政とのくみ合わせは、一政の型のきまった抒情性と士郎の浪曲的感激との結合ですから。石井鶴三の「大ボサツ峠」のさし絵は、作者のあくのきつさのいい面がいかされてあの絵となっているし。
插画にばかりでなく、「白樺」と草土社のつながり、そこにあるセンチメンタルなものなどなかなか面白いと思います。画家の説明出来ないことが語られるわけでもありますし、道楽があるでしょう?これで私もなかなかなものよ。なまじっか、じかに絵の具をいじくるよりもっとよくばりなわけね。
音楽も、近代日本の音楽のうつりかわりを文学の方からみると、これまた面白いと思います。寿江子がもうすこしものがわかって来ると、面白いでしょう。
『明日への精神』千増刷いたします。でも、あわれ、三倍以上の借金がありますから、雲霧消散よ。先のとき又きくように、程々には水をやって手入れしておかなければなりませんからね。四冊本が出て、ひととおり片づく算術です。まことにいそがしい足し算、ひき算ね。「基礎」は三度ぐらいよみましたでしょうね。しかし、いいものの味は、自分の長成とともにわかりかたも育つ故、年々歳々新(あらた)でしょう。
十月の十七日に何のお祝してさしあげましょう。いい写真帖をあげたくていろいろ考え中です。今年はいつものようなこと出来ませんようです。栄さんのところはマーちゃんという娘が胸の方本ものになったらしいし、戸塚はふらふらしているし、そのほかのことで。いずれお話いたしますが。いっそ、寿江子つれて国府津へ行って二三日(十七日を中心にして)いて来ようかとも思ったりして居ります。てっちゃんが招待してくれると云っているのですが、何だかすこしちぐはぐな気もするので。いずれおめにかかりまして。
あした夜着もってゆきます。肩当ての布がいいのが(丈夫なのが)なくて、今、台所で染物工場がはじまって居ります。袷羽織、メリンス襦袢お送りいたしました。
ああ仕様がないわ、一筆なんて、こんなに時間かけて。木犀の花の匂りいくらかのこって居りましたか?もうあれも萩もちりました。これから菊でも植えましょう。犬考えたのよ、でも税のこと考えると。今年の所得を来年何しろ払うのですもの、その来年やいかに、でしょう?だから。 
十月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十二日第六十九信
きょうは大笑いなおみやげだったでしょう?ゆうべきゅうにその話になりました。あなたの御誕生日のおよろこびに何かしてあげたい、じゃ本もの見て貰いましょうか。それですこし日が早すぎたけれど、何しろ赤ちゃんというものは、いろんな都合があってね、雨ふればダメ、風ふけばダメ、くしゃみが少しつづけて出ればダメ故、善はいそげというわけでした。いかが?小坊主は。親たちに似ているのは何と可笑しいでしょう。赤坊は物理的に私にだかれにくいのよ、そのわけは、私はこのように円いでしょう、赤坊だって丸いでしょう、円いものと円いものは接触面が全く小さいのよ、だから双方工合がいいということに行かないの。これも可笑しいでしょう?
あれから私がおしめの袋ぶら下げて家まで無事送り届けてかえりました。そして家へついた途端すっかり眠くなりました、赤ちゃんづれは気が張るのねえ。
七日づけのお手紙と八日のつづけて十日に頂きました。七日の、開巻第一に詩話がのって居りました。「ゆあみ」の話が。八日の午後は、すこしおそいおひるたべて吻っと一休みしていたら二時なのですもの。ぱぁーっと立ちあがって、いきなり着物きかえて、出かけました。全くもたない状態となって。そしたら八日に手紙かいて下すったというので、大変満悦なわけでした。
「朝の風」は十日にかきあげ、ひる前に共同へ届けました。重吉とサヨが現れます。絵画的な周囲の光景風景の感情、その推移と結びあわされつつ、サヨの重吉への心持を描いたものです。いろんな瞬間の。そして、その瞬間瞬間のつみ重りの間にサヨの感情の成長してゆく姿を。
「日々の映り」の直しのつもりでしたが、書いて行くうち全く新しいものとなってしまって、たたみこまれている味は非常に濃やかで且つ複雑で、自分としてはこういうテーマとして、今日かける面からの扱いとして、不満でありません。「日々の映り」のなかでは割合現象的にしか扱われていなかった乙女の後日の姿も、「朝の風」の中ではもっと深められて、単にサヨの重吉に対して抱いている感情との対比という範囲よりふかめられました。一番終りはサヨの妹が赤坊を生む夜あけ、ついて行ってやったときの場面。無事子供がうまれ、高い産声がしている。丁度朝になった時刻で、サヨは電話室のよこの中庭に露のおりている石菖の鉢を見ていると、どこからかラジオ体操のレコードがきこえて来ます。そのメロディーはサヨが重吉と結婚して間もなかった頃、初々しい朝の目醒めのなかできいたものです。そのメロディーを運んで来た朝の風は、二人の体の上をもとおった。サヨは今のよろこびに通じるそのまじりけのないよろこびのために涙をおとす。そういう心持が終りです。大変深いよろこびと安心と乙女への憐れさとこの涙と、透明な清冽さのなかになかなかニュアンスがあります。詩的です。リリカルであって精神の力に貫かれたものがあります。
こうして、爪先一分ばかり、前の作品を抜いたわけよ。ジワジワとこれから各作で前作をぬくつもりです。どうかこの作も、私からのおくりものの一つとして下さい。
七日のお手紙のなかの「アナウンスした」を「したと聞いたが」と訂正して下すったこと、私はうれしいと思います。御話したとおりに。ああいうところに私たちの生活感情の何とも云えない思いとその思いの美しくあり得る精髄がこもっているのですものね。それは全くそうよ。もしそういう感情が私たちの生活の一つの美として感覚されていないとしたら、たとえば、この間の大きい濤に私がゆられ、ゆりあげられた何日間かの心持を、そのあとにかいた手紙のああいう情感では受けられなかったわけですものね。ああ、でも考えればあの折(こないだの)私は半ばものぐるいでした。それはそうねえ。誰がそれを咎めることが出来るでしょう!
ロマンティシズムの問題、そうだったの?この頃のような生活の周囲の空気だと、私は正しい沈着且つリアルな「見透し」そのものが、とりも直さず人間精神の美をなすものであって、その美の自覚された美感というものが、どんなに大切なものかということを深く考えます、バックの所謂自覚された正直さという表現のもっと成長したものとして。そういうものとしての美感を心底に蔵しない者の妄動ぶりは塵煙りが舞い立つばかりです。道義的な善とはちがったもっと云わば高いもの。そういう立派な美の溢れた、命のあふれた小説をかきたいことね。
そのことについて一つ発見があるのです。
「杉垣」など、あすこでは主人公夫婦が現実に対して一つの態度をもっていて、その態度で世相の推移に対してゆくそのところをかいたの。一定の態度をもって生きるということは武麟のリアリスムと称するものにはないから、こしらえものだと云い、私は『帝大新聞』で、散文精神と云われているものが、現実のうちに立ちあがっている精神をもっていないことを云いました。
「朝の風」なんかかいて感じるのは、主人公たちが一定の態度をもっていて、それと照らし合わせる現象を対置した構成でかかれた小説は、局面局面に解答があるわけね。「朝の風」なんかは、心持のいろんな面の動きを追求しているその過程そのものにある態度と高さとがある。小説の面白さというものの本質はここではないでしょうか。通俗家は、シチュエーションでそういうサスペンスをつくるのですし、そうでない人でも本質的見とおしはもたない転々を辿っていて、つまりある一つのことなり心理なりが、何が何だか分らないまま、わかったところ、つかんだところだけでかいている。小説の真の小説らしさ、そのいのちは作家がもっている大さとか高さとかを、過程のうちに反映してゆくところにあるのね。その証拠には、ロマン・ロランだって「ジャン・クリストフ」は実に面白いが、英雄を扱った(むき出して)戯曲は大して面白くないわ。卑俗に、読者にわかるところまで作家が下りると云うが、決して決してそうではないわ。無いことがさがし出されてかかれるのでなくて、あることが、独特ないのちを与えられて現れる、そのいのちこそその作家の高さ深さをあらわすものでなければならないのでしょう。こんなこと、すこしひとり言でしょうか。でも、私は大変いい小説がかきたいのよ。ギューッとつっこんだところのある作品がかきたいのよ。中公の長いの、ですから楽しみです。いろんな研究と発見とが出来るだろうと思います。おでこと心臓とで、ぐいぐい押してかいてみたいの。わるくないでしょう。この意味では春ごろ、てっとりばやく書かなくて本当によかったと思います。
八日づけのお手紙、二葉亭四迷の第五巻、まだそちらにあったのね、どこに行ったのかしらと思っていたところでした。このお手紙もなかなか興味ふかく有益です。二葉亭のこういう分裂と矛盾を、今日真面目にかえりみてわが心にきいて見る作家が果して何人いるでしょう。若しそうしたら今日の自分たちのような世わたりはきまりわるくて困るでしょうね。
私はこういう手紙折々頂きたいと思います。あなたの方に時間のゆとりがおありになるときは。たとえばヘッセについても。マンなどについても。私のほしがる心持、よくおわかりになるでしょう?表現されるということは大切なことですね。表現するということはやっぱり大切なことです。
それから、又一つこの頃考えていることは、古典を私たちがどこまで自身の養いにしてゆくかという点です。若いひとで小説をもって来ます。素質は素直な娘さんなの、でもそのひとの川床は浅くてかたいのよ。何故でしょう?もっとそのひとのもちものは柔かく深いように思えるのに何故自身の重みだけ深まりきらないのでしょう。これについて、そういう世代の人々が川端だの横光だのジイドだのといううらなり芸術にやしなわれて来たということの結果が、こんな貧弱さとしてあらわれていると思えます。うらなり芸術独特のほり下げのあささ、ごまかされた部分のあるがままその上を修辞の力で滑走してゆく芸で、一層貧弱なのね。今のような時流の間で、本当に芸術を未来に向って育ててゆく養分はコンテンポラリーには絶対にと云っていいほどありません。やはり、古典、自分、未来この三位一体しかないと思う。
そこで、たとえばトルストイの作品なんかでも、今の若いものは読みつづけられないのですって。何故でしょう。いろいろ考えたらトルストイの作品では、彼の人生観そのものの二元性分裂が映っていて、感性的なものと思想的なものが分裂していて、レーウィンにしろ、あんなにいやなカレーニンにしろ、考えるとなると議論になるのね。考えを考えとしてだけ開陳します。現代の人々の感性はうらなりながら或る立体性にあって感性が理性となる方向――その悪い例は感性の徴象化、今日の詩なんかの――にあって、トルストイが親しめないのね。私はなんだか、ここのところを大変面白い芸術の特殊性の一つだと思います。「鏡としてのトルストイ」には、こういう表現そのもののうちにあらわれている内容の本質はとりあげられていなかったと思って。古典は何だか、そういうところまでずーっと手をつっこんでつかまれなければならないのね。そういう風に古典にずっぷりと手をつっこめる或るものがなければ、結局未来への伸延力もないというわけで、ここの微妙な生活的モメントを実に実に面白く感じます。そういう意味で、私はよく謹んで学んで、牛若丸になりたいのよ、過去と未来との間を自在にとび交いたいの。そういうつよい脚の弾力をもちたいの。その様を想像すればなかなか快いでしょう?かの子というひとは小さいすこし凸凹のある鏡台の前へぺったり坐って、自分の顔へこの色を彩って見たり、この隈どりをつけて見たりして、こわいだろう?こわいだろう?と自分におどしたり、いいだろう?きれいだろう?と自分をおだてたりした人です。その全体の姿はやはり面白いけれど、作品は一面にひどい通俗性をも持っていて。
ああきょうは何とどっさり喋りたいことがあるでしょう。十七日はどんな天気でしょう。うちに奇麗な花をたっぷりいけて、机の上にも奇麗な花をたっぷりいけて、そして詩集や戯曲集についてのお話いたしましょうね。私は居心地よくするのが割合に上手だったでしょう?
花の匂り、いい匂り。その匂りのなかに神経のほぐされてゆく気持、いい気持でしょう。暖く血がめぐるでしょう。おわかりになるかしら、私はあなたを丁度快適なほどに血のめぐりを暖くそして速くしてあげたいと、いつも思うのよ。休みにそれがなる程度に休ませないようにして上げたいの。これはやさしいことではないと思えます。あるところまで集注されて、それがおのずからほぐれてゆくリズムは大変とらえがたいのですものね。雲の風情はとらえがたいのですもの。
この間うちから一度かいて見たいと思っていることがあります、それは別封で。この手紙十七日につくように。窓からヒラヒラと舞いこむおとずれになるように。では、ね。 
十月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十三日第七十信
これは先ずお約束の表ではじめなければなりません。この十日間は好成績でないわね、第一防空演習でしょう、第二が小説でしょう、尤もあとの方で非常によくないのは九日の夜だけですけれど。
甲二つ 乙五つ 丙二つ 丁が一つ
よみもののこと、プランが変えられて、私はほんとうにほっといたします、どうもどうもありがとう。あれはすこしせめ苦めいていました。もっと早く自分からそのこと云うべきでしたね。そのことでは私は、わるかったと思うの。だって現実の日常生活の条件から、そういう方法が変えられるのは当然ですものね。私はあなたが仰云ったとき、ふとそのことを思って。私のそういう従順さのようなものは本来はあなたに対してよろこばれるものよりも、寧ろ何か自発性の足りなさとして考えられる筈のものだと思って。同感でしょう。
けさは何というまざまざとした感覚のなかから目をさましたでしょう!二つの腕のなかに紺大島のボリュームが犇(ひし)とあざやかで、顔の前に何と紺の匂いが高かったでしょう。
下へおりたら十一日と十二日のお手紙。こうして一組になって到着するのは、いつも片方が黄色っぽい色で片方は白い色なのね、何だか面白い。この前のもそうでした。
十一日のお手紙、題のことで、動物園や植物園に縁のあるのばっかり多いというのは実に笑いました。本当にそうね。昆虫記のような題も少くないわね。日本の文学のある傾向もあるのね。そのこと何だか興味をうごかされ、今度一寸した感想にかいて見ようと思いました。
「日々の映り」という題への批評は適確です。名は体をあらわす式で、あれを私が書き直したい(結局別もののようになりましたが、逆から云えばそれほど)と思っただけ、作品として主観的だったのです。私は大変愉快よ、あなたのお突きの正確さが愉快です。こんな小さい道を貫いて、作品のよまれもしない内奥までふれられてゆくところが。作者の気持いっぱいで、息をのんでいて、語りつくしていなくて。この例から見ても、簡潔ということが自然主義的平凡さとちがうという意味がよくうなずける次第です。
題はそういう意味で本当にむずかしいと思います。つまるところはその人らしい題をつけるものですね。稲ちゃんの「くれない」「素足の娘」「美しい人たち」「女三人」「四季の車」みんななかなかうまいでしょう?一つ一つ聞くとはっとする位しゃれた題です。いかにもその人でしょう、
〔欄外に〕前の頁半ぱに切って御免なさい。余り消すことになってしまったから。
フィクションの題にすれすれで、そうでもないところ。その味。私はこういう題をつけられないけれど、内心はうらやましいことがなくもないのよ。そして、自分なりにいかにも自分らしいのを見つけたいと、いつも思います。そして、お手紙にかかれている例にしてみても、題は歴史を語ります。ここにあげられている思いつかれた題をよんで、私は無量の感想にうたれます。こういう題の本が出るべきであるのに。そういう題がつけられていい筈のものであるのに。
高山のは元のにします。一寸というところはよくわかるのですけれども。勿論よく考えますけれども。現代は題をつける上で、又おのずから微妙なむずかしさがあります。題だけで、そしてその題と著者の名をよみ下しただけで反撥する、そんな神経も題に対してあります。わかるでしょう?ちゃんとしすぎていて通用しない、そんな実際についておわかりになるでしょう。私だけ特別な成層圏にいるわけにゆかない。しかし、最も多く健全な酸素をもつものであろうとする、そういう努力の一つの形として、たとえば「日々の映り」の主観性もより雄弁なものにふくらまそうというわけです。
十二日づけのお手紙しんからうれしいのですけれど、私は自分たちの生活的リアリズムのために、あなたが私の努力を十分みとめて下さりつつ、その努力の価値と意義とは、私がアマゾンであるからではなくて、毒ガスに当てられれば死ぬ人間らしい人間であるから、益〃健全の価値を知ってそのためにつくし骨を惜しむまいとするところにあると、そう見て下さることで、一層うれしさがリアルです。バックの批評はちがった対象で、作家の人生的難航をかたっていますね。その具体的なものにふれることこそ生きた批評であると云える意味で。自分に対していい批評家であれたら、作家はどんなに育つ力をつよくもつことになるでしょう。作家は従来いつもガンコに主観的です。昔式の作家は皆そうね。その範囲で完成している。そういう主観性と対置されるものはいつも世俗的なかしこさで、藤村のように、こういう時代になるとせっせと子供のよみものを書こうというようなことになり、それを秋声が、ああいう人はいいと歎息してながめることにもなります。藤村の童話は、チャンバラよりは、それはよいでしょう。でもね。秋声がそう歎く歎きにはともかく現代の文学の歎きがこもって居ります。藤村がそういうところへ流れ出してゆくことには、やはり只よりましだ、結構だと云えぬ、すかんところがあるわけです。面白いわねえ。
十二日のお手紙、改った気持になり、同時に極めて謙遜な心になって、頂きます。自分とすれば一生懸命だおれをしていた部分が今日はっきり見えます。いろいろな過程をとおってそんなに一生懸命倒れしていたことも今は活かされてはいるけれど。これまでの何年間かのものが、やや結実しかかっているとは思えます、文学的に。一生懸命倒れの時期は、どうして自分の作家としての弱点がああ自分でつかめないのでしょうね、全くそれは不シギね。一生懸命さばっかり自分に感じていて。この頃はすこし高められた形として、自分の作家としての弱点も(一生ケンメイ倒れの意味で)わかりますから、それは今年になってからの収穫だと思います。『文芸』の仕事はそのモメントとなっているのよ。何でも、ですから徹底的に勉強すべきものね。
あの一昨年の「流行雑誌」にことわったこと。今もあれでよかったと思います。「歌のわかれ」はあれに出た作品です。これからも又きっとそういうときがおこりましょうね。極めて現実性があると思っていていいでしょう。積極的な文学上の努力であるということが、外見の消極を保たざるを得ないことは、いろんな歴史の波の間に屡〃(しばしば)生じましょうね。でも一昨年のことから私はいくらか学んだところがあって、無駄ではなかったと思います。いくらかずつ、少しずつ自主的な芸術の意味がわかって、多々益〃弁じ、強固な柔軟性のあふれた美しいものになりたいことね。
昔の作家は自身の中に分裂をもっていて、本当の芸術のための仕事と、金かせぎと二通り分けて使いわけきれるものと思ってやっていて、いつも後者の現実のつよさに引き倒されて来ています。本質の劇(はげ)しい作家は、云わば何でも書きますが、それは書くべき方向と質とで一貫されていて、その統一の上に何でもかけばかくので、純文学的作品と通俗的作品との区別のあるものをかくのではないわ。雑文というものは、そういう統一のある作家はどんなときもかかないわけです。その点で荒れることもないわけなのは面白いところです。
作家と画家の交渉もこの点がやはり興味があって、たとえば尾崎士郎は「人生劇場」の美文的浪曲でそれなりになり、一政はそれに名コンビしたリリシスムとその他の何かはもっているが、その半面そこからぬけ出す努力も忘れないでいる。その相異が数年後にはどんなちがいとなってあらわれるか、そんなところ。
実に確乎としていて、よくしっかり構成されていて、しかもその確乎さや構成そのものが、人間のピンからキリまでの感覚のむき出しの敏感さにみちたものであったらどんなによろこばしいでしょう!そういう作家こそ文学の歴史の上向のために寄与し得る作家です。
十七日のために大変いいものをいただいて、すまない位だと思います。
丸善へ行ったとき文芸評論のところ見ていたら『六つの肖像』という女のひとのかいた本があって、エリオット、ド・スタエル、マンスフィールド、オースティンその他の伝記があったの、十五円。いつかやろうとしている仕事のためにふと買おうかと思って、なかをすこし見たら、こまかい普通の伝記で、マアそれでもいいけれど、と十五円がおしくなっておやめにしてかえりました。ジョルジ・サンドなんかかいていないのよ。でもすこしほしいところもある。今ふらふらしているところです。アメリカの婦人作家、いろいろあるのでしょう、シェリーの研究で有名なエミ・ローエルという女詩人(大きい大きいお婆さんでした)をはじめ。図書館にない本やはり集めなくてはダメでしょうね。
十一日のお手紙におしまいの「よろしく」という文句。ヘロインたちによろしくということば。ちゃんとつたえられました。
この間好ちゃんもいろいろ工夫をこらしていい生活をしているという話。私にはしみじみと忘られません。いつもそのこと思うのよ。いろいろの折の美しいしおりのある態度と思い合わせて、工夫をこらしという表現も真実こもって心に響きます。大変よくわかって。でも一つ一つ具体的な細部は分らないというところに何という感情があるでしょう。深いニュアンスがそこにあります。
好ちゃんがいい感受性をもっていて、戯曲の「谷間のかげ」をよんだときの亢奮したよろこびの表情をそれにつけ思いおこします。若々しい顔立ちが精神の歓喜のために引きしまって而も燃え立つ表情をたたえているときの輝やかしさ。精神が微妙に溌溂に動いて、対象のあらゆる文学的生命にふれ、その味いをひき出し、のこる隈なくという表現のとおりにテーマの発展を可能にしてゆく理解力。
本がそのように読まれるよろこばしさで呻かないのは不思議と、よく話しましたね。字というものは、何と多くのもちこたえる力ももっているでしょう。其を思うと可愛いことね。感動のきわまったとき私が膝の力がぬけるとき字はやっぱりそれをもちこたえて表現してゆくのですもの。字で表現される文学の可能性の大さを感じます。文学は、人生的にみしみし鳴るおもみに耐え得て来ていることは古典が示して居りますものね。これは又別封でつづくのよ。 
十月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十三日第七十一信
丸善で絵の本を見ていたとき、あのイギリス名画集の別の一冊に「最後の章」という絵がありました。
いかにもイギリスらしい室内で水色の服をすーっとふくらませた若い女が、あのイギリスの炉辺にしゃがんで、二つの手をそのストーヴに向ってのばして、今よみ終ったばかりの物語か詩の最後の章の感銘を味っているところです。傍の椅子の上に伏せられたまま本があって。
詩でも戯曲でも、はじめの第一章のつよい感銘と、終りの一章の与える感銘は決定的ですね。ですから、作品についていうとき、よく、はじめすこしよんで、中頃よんで、結びをよめば、その価値がわかるというわけね。しかし、本当の文芸批評からいうと、これはやはり本末顛倒でしょう。少くとも私はそう信じます。
よい作家たち、旺盛な詩人たちであったなら、これから複雑をきわめ、大きい振幅とテーマの展開とがひかえている全篇の序に向ったとき、おのずから力の集注された表現で開始されるのは自然ですもの。しかも傑作ほど思わせぶりなく主題に入るというトルストイの意味ふかい技法上の必然は、あらゆる場合の真実であることもどんなにつきない興味でしょう。作品の主題そのものが、最初の章では自身のそれから先の展開を知らないで、自身に加えられる展開のための力に従順で、真白い紙をしずかにのべて、様々の方向からの描写を与えられてゆくうちに、いつしか作者とテーマ自体の動きとが一つに起伏しはじめて、作者がテーマをすすめてゆくのか、作者がテーマのリズムの緩急につれて次の章からより深くより密接な次の章へひかれてゆくか見わけのつかないときがはじまります。
この中頃のめりはりの、すきまのない精神活動の振幅というものは、いい作家たちほど激しく大きく変化の妙をきわめますね。そして、この過程で、テーマの奥の奥まで作家の筆がたっぷりとふれられてゆくか行かないか、それもきまる。テーマが最後の完全な昇華を行うかどうかもきまります。作家が全力をつくしテーマは自身のうねりを絶頂に発揮する、こういうときの見事さ。
あなたはヴェートーヴェンの交響楽のフィナーレにある、あの一つの迫力ある痙攣を覚えていらっしゃるでしょう?すべての精神の燃え立つ活動には、音楽でも文学がもっているようなああいう強烈な痙攣の経験があることは実に実に面白いところです。ワグナーなんかは終曲をもっと俗っぽく扱って、ヴェートーヴェンのように序曲から高め高めつよい人間と神のまじったようなサスペンスでもち来したものの必然の終曲としていないから、只音の大きい束ですが、ヴェートーベンは何とその点こわいように生粋でしょう。高まり高まって、もうテーマの発展の限りの刹那、彼は全曲のふるえるばかりなフィナーレの第一の音を響かせます。そして、大きいテーマが自然のしずまりを見出すまで、又も又もとうちかえして来るうちかえしの趣。よく御存じの第五交響楽のフィナーレ。そうでしょう?
小説の結びの一句は何と全体のいのちの感銘の集約でしょう。多くの読者は、作者がよろこびきわまった、殆ど悲痛な感動で一字一字とおいてゆくその結びの数行を一生心に刻まれてしまいます。
そういうほど、いのちを傾けて展開されるテーマというものは、作者にとってどんなに自分の身内のものでしょう。どんなに自分ときっても切れないものでしょう。
三文作家は、題材さえ手近くつかめばすぐそこへ、自分を放射してしまう。そういうひとびとは、テーマの真の美しさ、輝しさ、心を魅する力をおそらく終生理解しないでしょうね。
好ちゃんの愛読書である「谷間のかげ」から、段々熱中してしまって、上下二巻の創作物語になってしまいました。
それというのも好ちゃんのひとかたならない生活態度が私を心から感動させる為です。同感して下さるでしょう。私は好ちゃんのことを思うと、よく感きわまって、あれの前に膝をついて、無限の劬(いたわ)りと善意と希望とをこめて抱擁してやりたい心持になります。あらゆるよろこびをよろこばせてやりたいと思うの。これも同感でしょう?そしてね、人間としての素質の見事さを全面的に発育させたいと思うの。そして、それも全く望みのないことではあるまいとも思います。何より幸なことには、彼は文学がわかります、この天のたまものの力で、私が幸もし益〃いい作家となり、縦横に文字を駆使する法力を身につければ、詩や戯曲は、これまで到達していたフォームとリズムをもっと進めて、リアルな趣で、更に成熟へすすめるのだろうと思います。
このこと、あなたはどうお考えになるでしょう。極めて微妙な大切なことだと思うのですけれど。
私の作品が一つから一つへ進歩の道標とならなければならないように、好ちゃんの成育もそのように一つの段階から一つの段階へと導きすすめられなければいけまいと思います。
私はそのために力をおしまないつもりです。どうかあなたも助けて頂戴。好ちゃんのように卓抜な資質のものを、その一定の発展段階にとどめておくなどということ、私には堪えられないことです。彼をほめてやる言葉を私たちがひととおりしか持ち合わさないなどということは、寧ろ腹立たしいでしょう?ねえ。
ユリは欲ばりだ、そうお笑いになりましょうか。笑われてもうれしいわ。
ひとの美質とその生動をより深くと理解してゆけるようになるということは、つまり私たち夫婦の生育ですものね。私たちは多面的に成長しなければなりません。
私は自分のことを云って勝手ですが、この一二年来、いろいろの点成長出来ました。そして、それは去年の夏、詩集の別冊で「素足」というのや「化粧」というのを私がよんだ頃から自覚されて来た影響です。前の手紙でかいた一生懸命倒れ式の精神が、他方にバランスをとり戻して来て、一つの発展をいたしました。私たちの生活の中では一冊の詩の別冊でも何と大きい影響をもつでしょう。
それから後、あなたもいろんな短詩をおよみになりましたし、それを私につたえて下すって、そしてこの間のあの大波の際、今までよまれていた詩集の全巻が、初めから終りまで再読されるという戦慄的な味いで、又私のところに何かが熟しました。みんな其が文学の仕事にてりかえります。何ということでしょうね、人間の生命の様相というもの。
あなたはどうお思いになって?私たち互の流れ合うものも、随分この頃では川床がひろく面白い起伏で飛沫もあげるようになって来ているでしょう。
よくそう思うの。そこにある手紙の束のなかにある私の姿、私たちの様子、どんなに次第によくなってきているでしょうか、と。どんなに段々と夫婦らしくなって来ているだろうか、と。単純なものから複雑な甘美さをもちつつあるか、と。
ああ、きょうはどうでしょう。まる一日あなたと暮しました。
この頃こんな大部な(!)長篇的手紙はじめてね。そして、私目玉のつれるわけ今わかりました。だってこんな細かい字、こんな全心の字、この位かけば目玉だってくたびれるわけですもの。
これも私の十七日のおくりものの一つです。
十七日には、寿江子と佐藤さん夫妻を赤坊ごとよんで何か皆でたべでもしましょう。私がおかみさん役してやって愉快に遊びましょう。
十八日が臨時大祭ですから、市中はごったかえします。そちら、お休みがつづくのではないかしら、よそは休みます。
高山の本の表紙は松山さんにたのみます。河出のは先の方でたのむのですって、誰かに。中公のは誰にしましょうね。これは絵が扉(表紙の裏)にだけあって、表は何か模様のない落付いた色の紙なんかいいのだけれども。表はじみで、表紙の裏の一寸派手なのいいでしょう?
三月か四月に『日本評論』に小説かく約束しました。これから来年にかけて小説たっぷりかいて見ましょうね。
もう四時よ、あきれたものね。けさ起きて、ゆっくり、日曜らしいパンたべて、二階へあがって五枚の感想をかいて、手紙かきはじめたのは十時でした。おひるに一寸おりたぎりよ。ではこんどこそ、これでおしまい。のぼせいかがでしょう?お大切に。 
十月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十六日第七十一信
ひどい雨が又降り出しましたね。このザアザアの音。雨の音ききながらぐっすり眠るの、何といい心持でしょう。私たちほんとにほっとして居ります。あやしげな者がこのあたりから退治されたから。
夜のしずかな人気のない往来の袋小路を照す灯の下へ、ジリリ、ジリリと黒い姿が出て来て、白い姿を垣根へおしつけたあの殺気は、強烈な印象です。怪我というほどのことがなくてようございました。往来を見おろせる窓は有益ね。高い窓からの声は、下の往来でもみ合う砂利の音や罵声をこして、四隣にひびきます。しかし近来、人気のわるくなったこと沁々と感じます。稲ちゃんのところへやはり二階づたいに入った由。誰もいなかった二階へとなりの若いものが入ってものをとった由。どっち道犬は飼いましょうか。これから冬になるし、くれにはなるし。〔中略〕
きょう、島田の生活がどうであるにかかわらず、こっちの生活がどうであるにかかわらず、それは、と私たちのするべきこととして仰云ったことが、これまで分っていたと思っていた理解の棚の底をふっとぬいて、もう少し深いところまで自分の気持が到達した感じをひき出しました。この感じ、おわかりになるかしら。こっちの生活がどうであるにかかわらず、あっちの生活がどうであるにかかわらず。私はそんな気持で自分の親たちに対していたことがあったかしら。私はよくするということを意識していたと思われます。あなたのお気持を表してゆく、そういうところがあったようです。きょうは、でも、あなたのおなかにある深さ、自然さがそれなり私の気持のなかでするするとのびたような感銘です。〔中略〕私はこうやって、徐々に人間の優しさというものが分って来るのね。騒々しいような仰々しいような心づかいとはちがった優しさがわかって来るのね。
十月十八日。
きょうは何といい心持でしょう。きのうはなかなか成功的でね、只天気が不確かだったので、卯女と康子は電車の停留場のところまで折角来たのにそこからもどってしまったのが残念でした。結局は降らなかったのだけれど。
例によってわが家のけさは、花満目です。下のタンスの上には、大阪から種をとりよせて咲かせたと花やが自慢したという大輪のダリヤが、大壺にささって居ります。こんな花びっくりなさるでしょう、まるで生きている飾提灯ほどの大きさの白、赤、黄よ。(これは佐藤さん)それから栄さんの可愛い赤い粒々輝く梅もどきと白菊。私のこれをかいている机の端には、未曾有の贅沢としてカーネーションの束がふっさりとかたまって居ります。もしここを写真にとったらどんな豪奢なおくらしかというような姿です。
きのうはくつろいで愉快でした。〔中略〕みんな珍しいもんだから気持がよいとみえ、夕飯までいて、みそ汁と大根おろしとで御飯たべ、夜も益〃話しにみが入って、おそくまでいました。
賑やかさ、きこえましたろう?もうきっとみんなひき上げて、ユリも二階へひきあげて手紙でもかいているかな、あなたがそんな風にお思いになりそうな頃(夜八時頃)は、いろんな真面目なことや可笑しいことで大笑いの最中でした。そして豆腐の味噌汁が美味いとおかわりしていた頃よ。
こういうやりかたはようございました。きょうが休みなので、みんなうれしくのんびりして、おみこしをあげなかったわけです。午後のお茶というのはいいことね。そして、もしのこるとすればああいうあっさりした夕飯で。うちのものがひどくくたびれなくていいと思いました。
きょうはこれからどっさり仕事いたします。カーネーションがかすかに匂って居ります。あの菊の花咲いたでしょうか。いい題や、そのほかいいものどっさり頂いたけれど、その上なおよくばって手紙待っていたのに、きょうもまだつきません。上下二巻の物語、やっぱり同じめぐり合わせでツンドク休日におかれているのでしょうか。
タカ二さんから久しぶりで手紙が来ました。それは十六日についたのですが、なのに一流の文体のざれ文というのが余り笑えるから御目にかけます。少し古風ゆえそのつもりで耳立てておききあるべし。「いまだのどかに暮らす頃なりしか。顕治をその二階借りする部屋に訪れ、女を口説くにはフットボールの心がけなからざるべからず。タックルせざるべからずなど例の高声にひとりうち語る。顕治本など読みてありぬ。七日ほど経て鶴次郎吾が草の庵を訪れぬ。格子引き開くるより『非常(ひぞう)のこといで来たり。非常のことなり』と云ふ。『何事ぞ』と云へば『百合子婚(まぐあひ)せり。非常のことなり』といふ。『男(をのこ)は誰ぞ』『誰そか思ふ』『知らず』『顕治なり、宮本なり、非常のことなり』やゝあって、『いづれより云ひ初めけむ』と云へば、鶴次郎から/\と打ち笑ひ『相寄る魂なるべし』」
最後、なかなか秀抜でしょう?ハアハア笑いました。
うれしくてハアハア笑うというのいい心持よ。そして、私を十六日にそんなに笑わすなんて、なかなか味なことです。拈華微笑(ねんげみしょう)的微笑もおのずと口辺に漂わざるを得ません。だって、そうではないの、同じスポーツの用語を問いの形で出されることがあるだろうと、優雅なますらおは予想していたでしょうか。それからのサスペンスもなかなか賞翫にたえるものであると思います。ああいう瞬刻のサスペンスを、破らず深く保ちつづける情感そのものが、それから以後、きょうの心にある持続性と本質は一つであることが実にはっきり感じられますでしょう?そういうことが益〃わかって来て、私はあのサスペンスの趣をいよいよ愛し尊重いたします。これは同感でしょう?何とも云えないわかりやすさ、すきとおったようなわかり合い、それとあのサスペンスにたえるつよさとの統一はほんとに美しさがあってすきです。いろいろ、はずみというものの瞬間を知りながら、そのはずみに支配されず、こちらでそれを支配してゆく感情のたちというものはうま味があって、大切なものね。私はしみじみそう思うのよ、あなたは?ある状況のなかで、その者たちにとって肯定されていいはずみでも、何かそこに一寸かんにふれて来る何かデリケートなものがあってそれを感じとって、はずみを支配してゆく心情というようなものは、実例は小さくても、生活感情のいろんな角々、曲り角で、やはり一つの行動の感覚で、価値のあるものね。
はずみに支配されないということは大切なことだと思われます。はずみの力を知っているということも大切であるというのと同じわけでね。
世の中には何だかはずみだけで動く人々さえあります。
こんなこと書いていたら、或る一つの午後の室の光景が浮んで来ました。本郷の仕事部屋。机の上に原稿紙をひろげていて、でももう三時で、五時になれば出かけようという日でした。五時に出かけるということのためにものが書けないの。
そのことばかり何ということなし思っていて。ふと気がついて、あら、自分はそれをこんなにたのしみにしているのかしら、そう思ったら、息がつまって胸がさけそうになりました。益〃机にじっと向っていられない心持になって来て、小さい室の内を歩きまわり、そして、ふと柱にかかっている懸け鏡の前へ立ち止って、そこにうつる自分の顔を見つめました。ああ、ああ、この眼!この顔!おぼえず髪をおさえながら、噫(ああ)、だめだ、だめだ、と自分に向って叫んだときの心持。しーんとした明るいすこし西日のさす仕事部屋。
自分のとらわれたものが何であるかがわかったときのおどろき、よろこび、重大さへの直感。そんなものを表現することも考えず出かけて行った夜の街。面白いわねえ。何て謙遜であったでしょう。
それでもねえ、そんな心の一方には、十六日に書いているような心の部分がきわめて自然発生の環境的なもののまま存在していて、やっと今、つかまれたりしているというのは、何という複雑さでしょう。私は、あの日(十六日)かえる道々大変その気持の変化について考えて居りました。そして、考えたの、本当に隅から隅まで妻なら妻を好くことが出来ることは、なかなかあり得ないことだと。自分が、わるいというのではないが、好きといえないもちものをもっていたことをはっきりわが目でみれば、いかにも沁々それが思えました。そして夫婦というものをあわれにも思いました。愛してゆく、というのは、どういうことなのでしょうね。私は好きだから愛す、と永年思って来たけれど、今はそうばかり思えません。愛すということと好きということはどこかちがって、好き、という感情のつよいひきつける力は、意志以前のようで、好きだから愛してゆくという現実もこまかくみれば、好きなところが多いものだからいやなところや辛いところをこらえて、それをへらす努力をしてゆく、その心が愛というもののようね。好きだから愛す、そんな棒のようなものではないのね、人間の心は。愛は妻なら妻のいやなところに傷けられるときもありながら、只そのいやなところを憎まない、何とかしようとしてゆく、その心ですね。人間のいやなところというのは大変悲しいものね、好きなものがどっかにいやなものもっていて、ちょいちょいそれを出す。そういうことはどんなに味気ないでしょう。私はこうやって自分のいやなものは見つけたけれど、あなたのいやなもの知らないから、何だかこの頁の二行から三行にかけての感想が声になってきこえるようです。本当にそうだったでしょう?一体になってゆくなりかたというものは、実に実に端倪すべからざるいきさつであると感服もいたします。縦横からなのね。これは、おくりものとしたら、画面にあるかげのような関係のおくりものね。しかし、かげがあって明るみが描き出されているというおもしろさ、ね。 
十月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より((1)島崎鶏二筆「竹」、(2)林重義筆「少女」、(3)竹久夢二筆の雪山の絵、(4)同、角兵衛獅子の絵はがき)〕
(1)これは好きというより何と父の作風と息子の作風とは似ているでしょう、とその見本。
今夕方でおなかがすいていて、気がおちつかないところです。すると向いのうちからピアノが鳴って、ショパンのエチュードで「雨」という名の友情を表現した曲を一寸ひいている。実に無感情にひいています。ところが、その女のひとが洋装で出て来るときは大変すっきりしていて、身についていて、きれいなの。女の美しさなんて、こんな風にも在り得るかと思ったところです。
(2)極めてデコラティーヴな画面ですが、昔麦僊が庭園と舞妓を描いたのとは全く異った感覚があります。娘は自分のデコラティーヴに扱われていることにわずらわされず、しかも少女の重みをふくんで、なかなか美しいと思います。少女の手の紫陽花(あじさい)は日本画の緑青に近い鮮明な緑をうき立たせて画の焦点をつくって、少女の立ち姿の重点を下に落ち付けて居り、隅々まで構成の注意が感じられます。目立った作品の一つでした。二十三日。
(3)竹久夢二のロマンティシスムもこのあたりだと、画家としてのセンスに大分近づいているでしょう?もう一歩のところね。きのうとおととい奉祝展というのを見ましたが、たとえば版画なんかでも柚木久太が苦力(クーリー)の生活的なのを出しているほか、感情が遊戯的で、日本版画の感情的伝統について印象づけられました。二十三日。
(4)夢二の人生感想はここへおちいったために、彼の芸術家的気質は彼をひっぱり上げて破滅させず、ひっぱりおろして漂泊させたのだと感じました。私の十六歳ごろ夢二の装飾的画は大変美しく思われ、もっと図案化された表紙の絵など切って壁へピンでとめてトルストイよんでいました。そのコントラスト、その年頃らしくほほえまれます。 
十月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十三日第七十二信
十二日づけのお手紙がこちらについた一番おしまいの分で、あとはいきなり十九日の、きのうつきました。間のは、きっとあしたあたりつくのでしょう。
もしかしたら又いつかのように御自分宛ではないの?本当にそれは何と自然でしょう!
「南京虫」という芝居を見ました。このお手紙で、あの陽気な場面が髣髴(ほうふつ)いたします。クロプイという題。クロプイは或る歴史の時期がすぎるともう動物学の標本にしか存在しなくなるの。クロプイ的存在のすべてがそうなるのです。段々の博物学教室に若い世代の男女がぎっしりつまっていてね。びっくりして、クロプイを見ているの。人類学的標本もあらわれて来て、そういうすべてのものが、まわりにウザウザしているなかでそういう未来の図絵を示される見物は何と大笑いに笑いながら、その非存在的本質を感じることか。
部屋をかりに行ってね、先ず私はききました。南京虫いないでしょうか。するとおかみさんは、マア、とんでもない!と両手をひろげてね。どうして、一匹だっていやしませんよ。すると、そのとき、もう私はチクリと椅子のかげからやられて、思わず立ち上って、変な顔して笑いながら、「そうかしら、多分あなたのお部屋にはいないんでしょうね」と、退散いたします。その位は流暢なものよ。おひまに、この会話を翻訳ねがいましょうか?
でも消毒されるのは何よりです、大チブス(リードが死んだときの)はしらみと南京虫が伝播したのだそうですから。
この紙のひろさは、たとえ1/30なりとも、というお手紙だと思い、くりかえしよみ、そして又いまもよみます。
作品と作家とのいきさつについての物語、それから詩のヒローに単純な呼び名がつけられる面白さ、可愛さ。全くすこやかさは目に浮ぶようと云われているとおりね。健やかな情感とすこやかな理性というものは、実に実に人間の生存の核心の発育力だと思います。そして、昔の人のようにその二つのものが二つの分れたものとしてはなくて、すこやかな情感はすこやかな理性に生活が貫かれて居り、そのようなすこやかさを理性が確保するのは、それにいつもすがすがしく新しい血をおくる感情の、人間らしいすこやかさがあるからであるという関係。そういう人間らしい弾力と暖かさと面白さのあふれた小説がかきたいことだと思います。
一昔前脱皮の内面が描かれるべきであったということは非常に意味のふかい言葉だと思います。「広場」ではじめていくらかそれにふれているわけです。しかし、あの時分に描かれるようには描かれず、従って、そういう作家の発展が、日本文学の中にまるで新しい一つの典型となっているという興味ある歴史の面も浮彫られず、読者の感覚からそのような感受性も喪(うしな)われていたりして。惜しいと思います。今日にあって、勿論、一生懸命さを否定しはしないのですし、一生懸命倒れということも、例えば内面的過程を描いてゆくそのことがとりも直さず最高の歴史的な文学のテーマにこたえていることだと思って、それを自分もひともはっきりつかまず、そういう一体の若さがあって、作品でそういう世界をとらえつつどこまでもアクティヴに生きてゆくという統一が、私などの場合では、自身の未熟さからも出来なかった。そして、いきなり「信吉」のようなものをかこうとして、そして失敗している。そこがなかなか面白いのね。文学の成長の過程は何と各自各様でしょう。一つの大きい動きのなかで、自身の成長の段階をとばさずに踏んで大局のためにプラスとなってゆく、そのように作家を育ててゆくためには、大した経験の蓄積が入用なのね。大人であることが必要なのですね。
そんなことにつけてよく思い出すのは、万惣の二階のサンドウィッチの話です。あんなに自然にあの味を味った心理というものも面白いことね。私はそう思います。同じ話でも話し手によるというはっきりした一つの実例ね。今私が同じような物語を誰からされたとしたって、そんな物語の非文学性虚構を感じずにはいられず、大方耳もかさないでしょうから。そして、それは自然で正当なのだから。そのように非文学性を見わけられるように何故なっているかと云えば、やはり単純素朴な正直だというのは何と面白いことでしょう。ねえ。いろいろな場合、一生懸命倒れと私がいうときは大体、誠意は十分なのだけれども、それを表現してゆくにふさわしい方法やその方法の一般性に負けて自身のものを見きわめることの出来ないような場合、主として自分の一生懸命倒れを感じるのです。ほら、あなたもよく注意して下さるでしょう、或る種の作品が未完成でしかあり得ないというような先入観を持つことは間違っている、と。あれね、あれも一種の一生懸命倒れよ。この頃そう気付きます。私は小説をかくときは一番ぴったりしたテーマでしかかけないようで、そのために妙に自分で自分の足の先にせきをつくりつつ進行するような意識の塞(せき)があって、これはフロイド的現象なのね。これは非常に有害です。小説における私の神経衰弱をひき出します。一生懸命倒れの雄だろうと思います。だから、これからずっと相当小説ばかりかく決心をしたのは、健全にしかしその意識の栓をぬいて溢れさすためです。フロイドは意識のなかのそういうものを性的なモメントでばかり見ましたが、それは彼の彼らしさです。人間生活の現実は遙に多様で、フロイドのとらえ得なかったモメントを、或る作家は歴史的に感じるのです。人間は生物的生活ばかりでないからこそ、云わばフロイドが解いてやらなければならない女の心理的重圧もあるのだから。
そういう意味で、私は来年へかけて出来るだけ努力して、小説もある精神の栓を内部的な沸盪でふきとばしたものにするところをたのしんでいる次第です。
こんな作家としての心の生理、面白いでしょう?同時に何か教えるところもあると思います。かりに私が、作家というものに対してその人々の正当な成育を促そうとしてゆく場合の扱いかたのような意味で。そういう場合を考えると、いかにすぐれた文芸批評家、評論家が存在しなくてはならないかということを痛感いたしますね。個々の状況に文学的に通暁した人がいります。あらゆる部面でエキスパートが要求されるように。このエキスパートの働かせかたも面白いことですね。一般的事務家の普遍的な文化水準には達していて、おいこしているが故に文学上の優抜なエキスパートであるという、そういう文学のエキスパートも決して予想されなくはないのだと思うと、これも亦面白うございますね。気力で追いこしているばかりでなくね、もっともっと複雑にね。歴史の或る時代の姿としては十分にそうであった作家より更に幾倍かの複雑性をおりたたんで。
こんな気持の追求から、島田への自分の心持があなたの言葉で何となしはっとして会得される機会を生じたのは又おもしろいでしょう?ずっとずっと私は文学上、生活上、自分の努力というものを自身どう見ているか、どんな心をそこから養われて来ているかということを考えつめていたら、努力の努力だおれもわかるところがあったりして、いろいろ思っていて、あなたの仰云ったことが極めて純粋な心の要素として語られていることが、自分の心のこととしてぴったりわかったのでした。それもあったもんで、ユリが、自分の気持を合理化ばっかりしているようでは云々と、一昨日おっしゃったとき私は切なかったのよ。でもあとで又考えてね、切なく感じたなんて、やっぱりまだどこかで自分を劬っている根性があるんだナと思って。
あのときについて私は一つの大した疑問に逢着いたしましたが、大人の女のひとってものは、眼に涙が一杯でアブないときでもべそはかかないものなのかしら。可笑しくて、可笑しくて。不思議ねえ。だって、どんな小説だって、彼女は段々赤いふくれた顔になって来て、べそをかいて、涙を目にためたなんてかいてないわ。白いような顔を怨ずるが如くうち傾けて将にこぼれんとする涙をいっぱいに湛えた目で彼を見る、のよ。大変優艷なのよ、変ねえ。全く。私もどうかして、一度はそういう凄い涙の湛えぶりをしておめにかけたいものだと思いました。しかし或はそういうことにもやっぱり歴史性があるのかしら。あるのかもしれないわねえ。怨ずるが如く、という感情の土台がないと、べそになるのかしら。子供はどんな泣きを泣くときにもべそをかきます、何だかおもしろい。ちょいちょい泣くてを知っている女のひとは、いろんな涙の出しっぷりを修得しているのかもしれないわねえ。オンオン泣いてはてとしての技法の効果をこしますものねえ。もしかしたらあした又十六日の分への御返事かくことになるかもしれません。そうだといいけれど。ではひとまず。ああ、それから、種々な手紙が、どんな姿勢でよまれるか想像したら、大変あったかいような、ホコホコするような気がいたしました。 
十月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十五日第七十三信
きょうのむしあつさ、いかがでしょう、そしてこんな風!今朝二十四日朝づけのお手紙ありがとう。
十五日づけのは又現れません。昨日で高山の「現代の心」すっかり原稿わたしました。きょう序文をかいて送ります。河出の『朝の風』、これ、あと『文芸』のをすっかりまとめると一応一段落となり吻っとして先へすすめます。「現代の心」やっぱりいい題ね、なかなかいい題ね。この装幀は松山さんにたのんで、ふっくりしたゆたかないいのを考えて貰います、柔い紙の表紙で。たっぷりした果物なんか面白いのだけれど。ただの図案より、そういう生活の中からのものを描いて欲しいの。
ああそう云えば『朝の風』の内容は、「朝の風」「牡丹」「顔」「小村淡彩」「白い蚊帳」「一本の花」「海流」「小祝の一家」です。相当つまって居りましょう。「海流」七十三枚か、「一本の花」八十何枚か、あと三十枚、四十枚というのですから、そんなに貧弱でもないし、かきあつめというのでもありません。このなかであなたの御存じないのはどれかしら。「牡丹」「顔」「一本の花」はいかが?初め入れようとして入れないのは「心の河」、これはお話したとおり。それから「高台寺」、これは作者の生活的な稚さが、いやです。「街」もそういうところがあるが、「街」は人間のおかれている歴史への無知識にすぎず、「高台寺」は、ある生活にある女の鈍感さがあらわれていていやです。或る茶屋のおかみに今よめばうまく女主人公があやなされているのにそれを心付いていない鈍さがいやでやめました。「伊太利亜の古陶」もわるい。やはりその小市民風なつべこべを自覚していないで、それにのっている。面白いでしょう?そういう作品を生む生活がつづいて、やがて「一本の花」をかいて、生活への激しい疑問にぶつかっているのです。そしてその冬外国へ行っている。全集の中へ入ると、その過程として面白く、しかもね、そのいやな「高台寺」に、やはり「一本の花」及びそれ以後の動きの芽はあるのです。舞妓とさわいでいる、そんな気分についてゆけなくて、とりちらした室の床の間に腰かけて陰気な気分になっている女主人公があらわれていて。しかし短篇集に入れるのは気にかなわないのです。『朝の風』の装幀は本やでやります。別な本のをやっているのを見ましたが、割合あたたかみのある配色で、厚手なところもあり、マアいいでしょう。でも、どんなのになるか。竹村の方は私やはりかき集めは出したくないのです。だからもうすこし待って貰うことにしたいと考えます。今日の世の中で、重複したりかき集めたりした本を私が出したのでは余りですものね。それでいいでしょう?来年早々ぐらいなら。本屋自分の方の勝手でバタバタしていて、『明日への精神』が出たことも知らないのですって。(竹村のひとは、主人とは別のひとですが)何だかそぐわないところがあって。文学書ばっかり出していて、きっと或る意味では妙な文壇ずれがしているのね。出したくないような気をおこさせるひとが来るのよ、いやね。丹羽、高見、石川なんて作家が、曰くをつけられているから、こっちを出したいんだなんて。そういう作家の見かたの商人根性も本当にきらいです。丹羽の作品集を古谷綱武の年表解説つきなんかで、物笑いのように出しておきながら。林芙美子の出版者とのいきさつもひどいものよ。実に本質は酷評している、でも女の子が買う、だから出す、「出版者が赤い舌を出すものですね。」そういうのはきいていてやはりいやよ、ね。
さて、けさのお手紙。『書斎』のことは私三省堂へ一つねじこみたい位です。あんなに行ったりいろいろ手をかけて、いろいろ云って、そして、注文したら来たなんて。それはよかったけれど、私たちの骨折りをまるで無意味にして。実にあすこの事務は雑駁ね。店員のくんれんがなっていないのね。でも御覧になれてようございました。そのなかでのおかみさんへ注文のこと。そうねえ。「永遠の新婚の歓喜にあるわけでほむべきかな」何だかニヤリといたします。極めて複雑なニヤリよ。ごく真面目に肯定した上での、ニヤリですけれど。御亭主の身になって、注文をつけること日々に新たなりであることから永遠の新婚が祝福されるのでは、とニヤリとしたわけです。そういうところに私たちの生活の一種独特のヒューモアもあると思って。私たちの散歩、夜の散歩で、あの本郷の三角路の角の店へ行ったことがあったでしょう?あのときのうれしさ、おかしさ、いろいろ思い出して、何かそこに共通な面白さ、愉快さを感じます。
わかりやすく書くこと、それはテーマの本質上の深さを低くめたりすることではないということ。そのことはよく考えてかいてゆくつもりです。もし私がそういう傾向に陥るとすれば私の文筆の価値はないのですから。随分いろいろのものをかいて、かけて、しかし雑文は一つもないという確信をもてることは新しい文学の作家にとって絶対の必要ですから。
玄人芸は根気仕事というの、里見の芸談のプラスとマイナス、これにも仰云るとおりよく出て居りますね。『文学』なんぞという作品は鼻もちならないものです。ヘミングウェイ、そう?私ももう二階が暑さで苦しいということもなくなりましたから、この二月ばかりは昼間が実に能率的につかわれます。今年の夏は多賀ちゃんが下の部屋つかっていて、私ずっと二階で、そのあつさ。大分参ったのは其もありました。午前四時間から五時間一息にやって、午後すこし仕事して。相当よ。でもやっぱり所謂速筆ではありませんね。割合展開の単純な感想だと十五枚―二十枚は一日の仕事ですけれど、小説なんかやっぱり七八枚。
何となく小説にかきたくて、まだどうかくか分らなくている一つの気持があるの。ここに一人の女があります。その女の少女時代の生活は、母と子とのいきさつで、子供にとって、母が子供を負担としているということがどんなに苦しく腹立たしいことかということを痛感するような生い立ちでした。子供を生むということについて、無責任にはすまい。そう思って成長して来ました。その女があるときに結婚するの。その対手のひとをその女はしんからすきで、そのひかれる心は健全で、その女が対手に対する自分の感情を自覚したときには同時に母となるよろこびへの渇望もめざまされていました。しかし生活の条件へのその女の判断はそのままの形でその欲望を実現させませんでした。その判断はあやまってはいなかったのです。その夫婦は、そのような判断への確信もともにもって充足して生活して来て何年かすぎました。あるとき、そのような生活の流れへ一つの春のさきぶれの嵐のような変化の予告、予想、或は想像がもたらされました。そのことによって、女の経験した内面的な展開は極めてリアルで激烈なものでした。女の生涯には幾度女としての誕生があるでしょうか。女の性格のうちには更に新しい何ものかが開花されました。感覚の豊饒さが加えられました。新しい命へつらぬく良人への愛、新たな生命へ溢れる自分たちの命の美しさ。その昏倒的な美さのために、女は幾つもの夜々を眠りません。その夜々のうちに女は半ば可愛らしいものを自分のうちに感じるようになっているほどです。その春の嵐のさきぶれは、そのように重く生命の樹々を揺りながら、やがて雲が段々動いて、遠のいて、小さくなって、すぎ去りました。もとのような見なれた空となりました。しかし、女はもうもとの女ではないのよ。元にはもどれないのよ。そこには一つの誕生が経過されたのですから。
しかし、女はそのような自身の開花を人生において無駄花とは感じていないのです。どういう事情であろうとも花ならば一杯に咲きひらかなければなりません。そこにそのものの自然なよろこびがあるのですから。けれども、花の嘆きも亦何と面白いでしょう。花粉に出合わなければならない花の嘆きの面白さ。その女は、天然が女である自分のなかにもう一つのみのりの可能性として与えているものを力一杯にみのらせようと一層熱心に思いはじめます。それは人間の意力でもたらされるものですから、少くともある程度までは。そして、女は知っているの、つまりは、それとこれとは一つ生命の展開であると。一つになっている二つの命の火であると。
でも、その女のそういう意欲の半面には何となしこれまでにないテンダアなところが生じていて、こんな心をも経験します。その夫婦が、あるとき、良人の親への思いやりについて話しました。妻であるその女は良人の言葉をよく理解しているのです。でも、そのときの感情は前後のゆきがかりから、わかっているだけ其を改めて云われる悲しさのようなものがあって涙ぐんだ状態でいると、良人は、ごく自然な調子で「自分が子供をもって居る気持になって考えてみればよく分ることだから」云々、と申します。その妻は、その言葉が自分の心臓の上をその言葉のおもみと永さの限りで切りめをつけてゆくような鋭い痛みを感じました。自分たちの間に新しい命の形を表現されないという一つのことのために、その女はたくさんの俗見とたたかって来ています。俗見は最も正当な人間性の評価にあたってさえ、その女が腕のなかにかかえる小さいものをもっていないということを云い立てて、その女の合理性を非難する場合があるのです。
女は自然に洩された良人の言葉を忘れることが出来ません。そういうことについての感じかたの相異は、命を与えるものと、与えられなければならないものとの感じかたの相異なのでしょうか。命を与えるものはモーゼのようなもので、命を与えられなければならないものは、その季節というものに限りのあることを知っているからでしょうか。しかもその女はそのような季節のかぎりをかけて、たった一つの命にしか命のあたえてとしての価値を見ていない、そのことからの感じなのでしょうか。
――○――
これは、なかなかむずかしいとお思いになるでしょう?もし小説にかけなければ、もとよりそれでいいのです、ここにかいたから。云うに云えないその女の傷みの心を表現することは大変むずかしいと思います、何故ならその心持は其だけの単純なものではなくて、それだけの深いよろこびを裏にもっているものでありますから。ああ、そしてね、その女はそのとき良人に、「今ここで云えないいろんな気持があるのよ」と云っているのです。そう云っただけで良人のひとがすぐ諒解出来ないということは万々わかりながら。でも、やっぱりそう云っているの。
小説や詩に何といろいろあるでしょう。私たちはたくさんの素晴らしい詩を知って居りますが、こういうテーマは小説にしか扱えないところ、やはり大変面白うございます。髄の味いのようなものね、それは小説です。私は詩がわかるだけでなくて小説家であることは何とよかったでしょう。では又ね。 
十一月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月三日第七十四信
只今、うちは急に御飯をたいたりして小さく騒いで居ります、というのはね、午後から来たいと予約していた人が急につとめの工合で来なくなったハガキが来たので、この間から野っぱへ行きたくてうずうずしていたもんだから、さアじゃ出かけようと今のりまきをつくる御飯たいているわけです。お恭、たかちゃん、私と三人で、うらの武蔵野電車にのって大泉というところまで行って来ようというのです。そこは只原っぱなの。しかしその原っぱは高原風で実に心持よいの。
きょうは、お休みでなければ、私はどうしてもそちらへゆきたい日です。おとといからそうなのよ。けさはお休みの朝でしょう。全く「朝の風」の心持です。「朝の風」と云えば、河出の方はもう出版届けよこしました。金星堂どうかして居りますね。自分の商売の方から云ったって、早いのがいいのに。
島田へ手紙よくかきました。経営単位として何故一台一口とするかということを、よくわかるように、古くたって新しくったって一台は一台分の稼ぎをすることよくかきました。
そして、お母さんには、まことにいい柄の羽織を見つけたので裏も気張ったのをつけ、紐も見つくろってお送りいたしました。友ちゃんがきっと縫うでしょう。本当にしゃれた奇麗なの。傑作の部です。お母さんはああいう御気象ですから、割合いきめなのがお似合いになるのよ、面白いでしょう?決してもっさりしたのがよくはないのよ。ですから、いつも私の見立てはヒットです。
その点あなたもそうなの御存知?人の気質のなかにあるリズムや線は面白いことね。画家は私をなかなか描けないと申します。全体の印象は非常に鮮明なのに、さて描写してゆくとなると、太いようで繊細で、大きいようで小さくて、それらが交錯してつくり出している感銘はいかにも捉えにくいのだって。
それで思えらく、その人は(松山さん)人の印象の構成を静的にとらえようとしているのね。こんど話してあげようと、今かきながら思います。私はきっと非常に動的なのでしょう。顔立ちというような固定したもので、顔の全印象は出来ていないのね。生きているものをつかまなくては駄目だわ。それを松山さんは静的な線で辿るから何だか似ないもの、いのちのないものをかくのですね。これは大きい発見です。私のためにではなく、松山さんのために。松山さんにもう一つ、高山の本の装幀をたのみます。それは大根畑をかくのよ。いいでしょう?そのことまだお話ししませんでしたろう?『明日への精神』はああいうので私らしい溢れるたっぷりさがないから、高山のは大根畑の土の黒々としたゆたかさ、葉っぱの青々とした大きいひろがり、ひょいと一本ぬけ上って生えているのがあったりして、冬の大根畑は日本の豊かさのようです。それをかきたいの。只、色の工合でどんなになるか、スケッチ風のところに濃い色をさっぱりとつけるという風なのもいいということになりました。只私は赤い色が好きなのに、大根に赤いところないから唐辛子でもくっつけたいけれど、大根畑に唐辛子はないのでね、閉口中です。大根一本、唐辛子を添えて、とまるでお香のものを漬ける前のようなのもこまりますし。
ところで、病気の人というのは何と敏感なのでしょう。竹内てるよという詩をかく女のひとは永年病気なのですが、私の本をよんで、私の手が大変暖い人だということがわかる、と云って来ました。そういう弱い人は、手の暖い人の手につかまると、冷汗がひっこんで大変心持がいいのですって。お百姓の女のひとはそういうあったかい手をしている人がよくあるそうです。
竹内さんは、比喩的にばかり云っているのではないのよ、かの子と私の生理のちがいがかくものをよむとわかるのですって。私は話していても書いていても同じ生理の条件でいられる位健康だが、よわい人は其々の場合、生理のくみ立てをかえることになって非常に疲労がひどい由。
気味もわるいし、感服もいたします。私の手は本当に暖いのですもの。
こんなことも面白いと思います。だって、日本の男のひとの多くは、手の暖い女に僻易するのだそうですから。つめたい手の女の方がいじらしいのですって。
こういう呵々大笑的趣向は別の場合に面白く現れるのよ。あの永瀬清子の詩集は、女が見ると、それが女だからこうも云うし、そういうことが何かの積極的方向だというものに満ちていて、謂わばあの本のねうちは女らしさの上向性にしかないわけです。私はそう思うの、実に女らしい本だと。よかれあしかれ。ところが、詩人たちは、詩人たちの間での彼女は紅一点ではないのですって。女史というのですって。つまり女らしくないのですって。面白いでしょう?青野季吉をはじめ、どうして男のひとたちはこうもボリュームをもっていないのでしょうね。それだもんだから、「今のような時に文学なんかしていていいのかと思う」とか、「自分のようなものは文学でもしているしかないと思う」とか、いやなことを云うのですね。
文学と云えば、晨ちゃんがこの頃すこし体がましになったそうです。そして、短い原稿をよこしました。文学についてかいたものです。よんで欲しいと。もしよかったら、そういう勉強もしてゆきたいと。まだあと一年ほど休養の由。よくなったと云っても、三十分ぐらい散歩していい位の由。ものなんかかいていいのかしらと思います。
ではここまでにしておいて、かえってから又つづきを。原っぱのお話いたしましょうね。
さて、原っぱへ日向ぼっこに出かけた三羽の鵞鳥の物語。
裏の電車で三十分ほど行くと大泉学園という駅があって、その奥が私の気に入っている高原風な原っぱです。大泉へ、のり巻の包みをかかえておりると、もとはガタバスがあったのが、馬車になっているの。ガソリンの関係で。そらそらとそれに並んでのっかって待っていると馬車はなかなか動き出さず。「もう何分です?」「サア四十七分ありますね。」四十七分て永いのよ。そこでわきを見たらタクシーがあるので、それにかけあって、二十五丁のところ一本道をゆきました。
そこに市民農園というのがあって、風致地区で空気が軽やかでいいのですが、そこの芝生へ坐って、さてやれと、おべん当をたべました。まわりにすこしばかり貯金局のグループが来ていてキャッチボールなんかしていて、閑静なの。やや暫く芝の上にいましたが、もう芝の下の地の冷えが感じられます。それから、心覚えの道を原っぱの方へ歩いたら、好きだった小高い芝山のところが、すっかり分譲地になっていて、小さい家が建っていて、ワイシャツにエプロンというような二人が落葉を燃いたりしているの。それらの小さい家々は日光で煙を立てそうに照らされていてね。あっちへ行ってはつき当り(ゆき止りで)して相当歩いて、かえりにはうまく馬車をつかまえてポカリポカリかえりました。三時前に、牧瀬さんという友達(メチニコフくれた人)が練馬の方に家をもっているそこへ三人ぐるみよって、おなかの大きい菊枝さんは大体坐らしといて、二人の女丈夫がパタパタやって皆で御飯たべ、九時頃眠たアくなってかえって、すぐねてしまいました。天下泰平。
きのうは座談会の速記の校正して、下で『婦公』の小僧さんが待っているのに岡林さんから急に相談したいことがあるとかかって来たので、びっくりしました。あんなことでようございました。
そして、思いがけないうれしいこと伺って。本当に本当にうれしい気持です。私は上機嫌よ。そして安心いたします。つまり一番はっきりした形で、現代の一般のマキシマムと私としてのプラスとマイナスが示されているわけですから。そして、もしかこのことはあなたにとって幾らか愉快ではないでしょうか、こうやって書いているもののうちにある響きが、やはり変質されないで、ほかのかきものの中にもつたわっているということが。そういう意味での感情に統一のあるということが。それが、どんな価値と性格とであるかということも。
近頃他のものも御覧になったから、それらのもっているものとの対比も面白いでしょうね、きっと。非常にちがうところがあるのよ、それだからうれしく又苦しいのよ。わかるでしょう?私たちはまともな資質だから。或る面白さというようなところでまとまれない。それは(まともさは)やさしく成長出来る筈のもので、しかし本来のそういう自然さがかけたときは一番まともにそれ(障害)につき当ってゆく種類のものですから。
ああ、でも本当にうれしいこと。
文学史の方、小林秀雄のところ、思い出される論点のつかみかたがあるでしょう?ああいうものは引用して活かすべきですが、それは出来にくかったから。引用より肉体的なわけだけれども。でも、お笑いになるでしょうね。余り私は理論的にかけないから。体あたりでばっかりやっているから。でも、生活的ではあるわ。そのことだけは確信があります。私の文芸批評がケタはずれなのは、他の人たちのようにそこに出ている作品の世界だけなでまわしていないで、ズカズカその人の作家としての人生へまで近づくからでしょう。これで、人生的深み、ゆたかさが加って来れば、やっぱり其でいい独自性がつくでしょうと思います。勉強する張り合がついて。何と気が楽になったでしょう。ああ、ああ、ああ。と頭の中がのびのびしてゆくようです。点がからくてどんな駄目が出ても、やっぱりよろこんで顎をのせてフムフムときいていそうよ。ききめがなくていけないとお思いになるでしょうか。大丈夫よ、私はキオクリョクはある方ですから。
今年は一つよく気をつけ、早ねを益〃励行して風邪引かずの冬を越したいと思って居ります。肺炎になったりするとこまるのよ、そのために必要な薬がありませんから。それからね、お恭ちゃんについて一つこまったことがわかったの、それはきょう申上げます。来年の春でもすぎたら、かえした方がよさそうなことがあるのです。健康上のことで。頭のことです。ですから、猶たっぷり眠らさなくては、ね。
私の例の表、おくれてしまいましたが、十月は甲が割合多いわ。甲七、乙一八、丙四、丁一。炭のないことから一層甲がますでしょう。それからね、大工を入れて、台所の水口の戸の羽目がくさってプカプカなのを直し、家の中の台所から茶の間へ入る仕切りのところやお恭ちゃんの部屋へ入る三畳の障子を内からの錠をつけます。いいでしょう?そうすれば相当安心です。それに石炭入れもつくるのよ、何しろ石炭というものは、石の炭というよりは大した大切なものになりましたから。
珍しく重治さんが卯女ちゃんつれて来ました。ではこれで一区切り。卯女子初めて来たの。では、ね。 
十一月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月六日第七十五信
けさ、四日づけのお手紙。どうもどうもありがとう。
表紙も心持よく思って下すって、うれしゅうございます。小磯という人にとにかくお礼の手紙出したら(本になったとき)奥さんからあいさつで、お粗末なもので、と何かたべものの礼へ答えるような文面だったのは面白うございました。画家の細君なのにちっとも絵画として良人の仕事感じていず、何か注文として感じているところが。家庭で仕事について喋る茶間の空気がそこに出ていて。
世間の母がというところね。全くそうだわ、それはそうだわねえと心に語りました。栄さんがさっき来たのでやっぱりその話をして、本当にそうだろうと云い合いました。私自身にそれがいくらか分っていて、ですから本当に今度はうれしかったと思います。安心した、という一言にどれだけのものがこもっていることでしょう。私にはその全量が感じられます。そして、益〃ゆたかに大きくなって、安心をよろこびにまでしたいと願う次第です。
お礼の手紙や一寸したおくりものへの答えは、ちゃんとあの当時いたしました。それは、お話したとおり。
キュリーとナイチンゲールについて云われていることは全く当って居ります。あのとき、そのことについていろいろ考え、うまく書く方法を考えつかず、それに敗けて居ります。今になって考えれば、必しも書く方法が絶無ではなかったと思われます。その点はやっぱり弱いつかみかたでありました。フロレンスがああいう仕事についた時代のイギリスが、都市衛生について自身の安全のために関心を示さざるを得なかった、そのバックに立って彼女の活動も方向を見出したということは、どの伝記者も云っていないことで、フリードリッヒの英国労働者の生活状態についてかいたものからの勉強が助けとなっているのですけれども。
働くひとの数のこと、この昭和四年一〇〇に対し女一一五・七というのは、繁治さんのくれた調査統計によったものでした。しらべておきましょう。どうもありがとう。誤植も玄人でもあるのね。岩波にさえあるのですからね、というのですものね。
「昭和の十四年間」について、どうかお心づきのこときかして下さい。あれは又五年ぐらいまとめ、ずーっとああいう風にかいて行って(つまり一貫した歴史性に立って文学の移りゆきを見て。文学というものの育つべき方向と、そこからの乖離の姿とをはっきり見て)やがて昭和文学史としてまとめるのを楽しみにして居りますから。ああいう密度でずーっとかかれた文学史があったら、それはやはりそのものによって文学の進んだ程度が示されるものだろうと思いますから。あの仕事なんか、やっぱり永い間のかさなりで出来ているわけです。抑〃(そもそも)のはじまりは『昼夜随筆』の中にある、今日の文学としての三二―三七頃までの概観と、次はそれをふえんしてかいた百枚の未発表の昭和十二年までの文学史と、その上にあれがあるのですから。十二年の暮かいたのはゲラで十三年一月からストップとなったのでしたが下手よ、まとめかたに一貫したところがなくて。一貫しているが自分のものとなり切っていなくて。
小説の集ったものからどんな印象を得て頂くことが出来るでしょうね。きっと、そこには、こちらにはあらわれていないいろいろの時代的苦悩がきっとまざまざと出ていて又別の感想をおもちになるでしょうと思います。こっちの方は、胸につまって来る息づかいを堪えて押し出しているし、そちらは(小説は)息のせつない姿そのままのようなものですから。
河出の二千五百よ。こちらは早いこと。短篇集として二つつづけて見ると、やはりなかなか面白いでしょうと思います。重吉は初めてあなたにおめにかかるわけですけれど、あなたはどんな歓迎ぶりをして下さるでしょうね。ねがわくは肩を一つ叩いて貰える存在であることを。早く小説の方が見とうございます。
母の心持になって、のこと。私は勿論それがそのように云われたことは知っているのよ。ただ、あのときユリはデリケートすぎて話が出来にくいと仰云ったような状態に私がなった、一つの私としてのあのときの心持の状態を説明していたわけです。そして、あのとき、そんなに変に敏感になっていたことは、前後のいきさつからだけの、あのときだけのことでもあるのです。ですから評論をかき、「三月の第四」のようなものをかき、そしてあれがある、その三つのもののいきさつの間に語られているもの、私が私という作家を評論するのであったら、この渦(うず)をこそ分析しずにはおかないでしょう。満腔の同情と鼓舞とを与えてやると思います。そこには分裂がある、などという皮相の結論ではありません。
こうして、自分を新しく意識し、生活の又新しいよろこびが綯(な)いよせられたりして、夏前とは自然異った日々が前に期待されます。だから、今年は本質的にいい歳末ね。よく仕事もしたし、というばかりでなく。私としてはしかもくらべるものなきお歳暮頂いたし。ホクホクよ。ああ何と微笑まれるでしょう。何と微笑まれるでしょう。
意気地を出して勉強おし、というところ。そうお?私意気地なし?ソラ勉学勉学というの思い出します。二十日までには、やっぱりぎっしりよ。国府津へは連中どうするのでしょうか、まだ不明です。赤子(アカコ)がきっと東京では駄目かもしれず、この間も夜中ふるえたりいたしました由。すこしずつ大きくなって来て、却って妙に弱いのね。ああちゃんには大いに同情いたします。
婦人作家の会のことは、文学上リアクショナルなもの(プログラム)をおしつけられないようにということからで、この成立には個人的な面白いことがあり、出来たらやはり皆妙に上ずったのばかりではないから、リアクショナルなものでないようにということが本筋になって来ているわけです。いずれお目にかかって申します。大衆作家(吉屋、林、宇野)などと、すこし真面目な文学を志している(主観的に)円地、真杉その他との間にちがった流れがあり、山川菊栄と板垣とにさや当てがあり等々。仕事として、会が婦人作家のクォタリーを出して行くというようなことを今考えている様です。何しろいろいろに動く時代だから、これにしろやがてどうなるか。
長谷川時雨は「輝ク会」を自選婦人文学者の団体として文芸中央会に自選代表となっていたわけですが、「輝ク会」は銃後運動を妙にやっていて、ちっとも文学との関係はないので、中央会から文学の団体として他の代表を出してほしいという提案があり、時雨女史周章して「輝ク会」はひっこめて、代りに何か会をまとめるという動機をおこしたわけだそうです。私はその会にも次の会にも出ませんでしたが、時雨女史は、自分がすっかり勇退すると云ったらしいが、それは辞令でね。マア変に頭をつっこまず、悠々かけまわりたい人がかけていればいいのです。会の主旨は、文学の仕事と所謂銃後運動との区別を明かにすることを第一条にしているから。婦人作家のグループがあることはわるくもないでしょうし。
文学史のことについて。これは非常に要点にふれている注意だと思います。一九三三年以後は空白となっている、ということ、ね。ここにはいろいろ興味ある問題がふくまれていると思いました。書き直すとき、作品の箇々をとりあげて行ったら、その欠けたところが補足されるでしょう。補足される部分の作家たちは、一貫した流れの努力というような明瞭な区分で自分の見られ語られることを決してよろこびません、『はたらく一家』の序文をわざわざ広津にたのむようなもので。それに対して、筆者は不満をもっています。(あの文学史の)それを努力のうちにかぞえる気もせず、いろいろで、妙な文学に対する評価の客観性のなかに底流としておのずから存続する文学感覚を生かそうとしたのでした。しかし、それはやっぱり一つの声をのみこんでいる結果になるのですね。そこいらのことが大変有益でした。どうもありがとう。学ぶところがあります。のみこんでしまわず、必要な点は皆掘り出してちゃんと組立てるということ。「のみこんでしまう」という現象にはやはりある衰弱があるわけですね。ここいらの心理もいろいろと面白うございます。
これはやがてあと書き足して本にするつもりですから、よく又研究して手を入れましょう。それにつけても勉強勉強よ。そう意気地がないわけでもないでしょう?出来得べくんば、私はほんとにイクジなしのおだまやちゃんとなって見たいところもあります。あなたは大した遠い思慮がおありになるから、ずーっと先にマリアだったかソーニャ・コワレフスカヤだったかの伝記について、彼女がもっと甘やかされなかったらもっとよく成長出来たろうのに、とおっしゃったことがあったの、覚えていらして?何年も何年も前のこと。彼女たちは可哀そうに、可愛がられるというより甘やかされ、その相異を知ることは出来なかったのです。私がその相異を会得しているところがあるとすれば、それは大した仕合わせでなければなりません。晶子の歌集が岩波文庫で出て、それをみると、妻としての思い、妻としての扱われかたが考えられるものがあります。きょう私は爽やかそうでしたでしょう?
では二十日まで。手紙かくの、行くだけの時間はたっぷりかかるのよ、御存じ? 
十一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月九日第七十六信
七日のお手紙をありがとう。十五日の手紙未着の分については、申上げたとおり願います。
きのう『白堊紀』[自注8]をよんでいろいろ感じていたところであったので、このお手紙に「『敗北』の文学」について書かれていること様々に感想をそそります。あすこにあるいくつかの作品はずーっと前にもよんだのでした。そして、そのときとしての感じをうけたのでしたが、今はあれをみると歴史的に人間の成長というものが感じられ、おどろきます。一九二七年と云えば「『敗北』の文学」の前年でしょう?あの作品のもっている様々の特徴は、やはり非常にその人のものね。もとよんだときには、よむ心の主観的な感動と愛着とを先に立てて居りましたが、今はもっとちゃんと稟質としてそこにあるもの、そこから成育して来たものをくみとることが出来て、感じることも一層深うございました。何というつよく迅い成長でしたろう。音がきこえるようね。そして、そのつよい迅い成熟の過程であれらの作品にこもっている確(しっか)りした密度の高さ、やさしさ、感受性はちっとも粗大にされていないで、その押しでのびて来ている。このところもいろいろと私には興味あるところです。「三等室より」[自注9]は、もと私の感じとれなかったような、様々の内容をふくんでいて、そのテーマの語りかたそのものにあらわれている精神史の意味で大変感銘されます。あれは二回つづけたきりですね。「古風な反逆者」[自注10]という作品からも作者の人生の現実に対する態度がよくわかります。第一巻の「狂人たち」[自注11]はあの象徴がちょっとよくつかめません。ただあの中に科白として云われている女についての感想は、その作者の年齢や何かとてらし合わせてうなずけますけれど。「陽」[自注12]という筆者への展開も面白いことね。少年の陽、自動車を見てはやさ、つよさに胸をとどろかす幼い陽から、ああいう青年の陽への成長を、私は作家として刺戟を感じます。書きたいと思います。これは本当に思っているの。
「たのしみながら、だが眼玉はぎろりとして」という様子、実にまざまざ。ブックレビューのこと。若い心であるからこそ、という点。それは真実だと思います。そして、云ってみれば、そう思うからこそ、割にあわない努力をもつくして書いてゆこうとしているわけですから、一層ここに云われている点は重要ね。
自然科学についてのこと、お笑いになったのねえ。一笑したとかかれている、その表情が見え、おかしく、きまりわるい。〔中略〕
『白堊紀』のものをよんでつよく感じたことは、その条件としての完成の努力の力いっぱいさの点、そのように力いっぱいだから、再び一つのところへは戻れず前進するというその力を痛感して、実にその人らしいと思ったわけでした。この作者は自身の生涯をそのように高く、条件の最高に完成させようとする気魄に満ちていて、独自の美だと思います。
こういう完成への努力が、とりも直さず常に前の自分からの成長として、ダイナミックなものとして、現れるということも面白いわね。何故ならば完成を愛す知識人は夥しいが、その場合の完成というものは飽和点としてあらわれ、つづくものは停滞ですから。そういう形で、キレイごとのすきな人々は、完成をねらって、我とわが身を金しばりにするのね。一定のその条件で一度は在り得るが、二度とはないモメントとしての完成ということを思うと、実に実に面白いことね、芸術の面で。つまり文学における典型とは其ね。何だかパーっと今会得されたところがあります。文学における典型を、人はどうして今までこの動的な完成の瞬間においてのこととして、とらえなかったでしょう。作品のうまれてゆく刻々の経過の内面から云えば、つまりはそのこと以外にないのですもの。ねえ。外からばっかり云われていた傾がありますね。これまでの追求では。例えば『現代文学論』の中でにしろ、それ以前の文芸評論にしろ。内から云うと、何とわかりやすいでしょう、創作方法としてわかりやすいでしょう。これは、わかりきっていたようなものの、一層明確な会得のしなおしです。これは面白い、と私が些か亢奮を示しているのはね、こういうことがあるのよ、『歌のわかれ』[自注13]のなかに収められている「空想家とシナリオ」の車善六という存在をどうお思いになるでしょうか、ああいうのは文学におけるリアリズムの神経衰弱的逆効果であると信じます。車善六も、それとからみあってキリキリ舞いをしている作者も一つの典型であるが、再びその作者にとってもくりかえすことの出来ない典型であり、完成です。ところが、あれのエピゴーネンが出て来ていてね。この頃は伊藤整の得能五郎、徳永直の某、そういう出現を、平野というもとからの文芸評論をかく人が、現代文学における自我の血路として一つながりに見ていて、私は大いにそれには反対なのです、血路として、客観的に文学史的に肯定されるべき方向ではないと信じます。車善六だって、あれは敗北の一つの形です。
私は作家として、ひろい視野がある故に身を狭めざるを得ない車善六的感覚と、今のところ(今日迄)「朝の風」のような面でとりくんで来ているのですが、それはあれとは全く反対で、ああいう旋風的突然の完成に自身を捲き立ててゆけないから、正攻法で、従って、サムソンののびかかった髪の毛みたいな苦しいみっともないところがあります。〔中略〕日本の文学史が遠くない昔にさしていた拡大された生活者的我というものを、私は馬鹿正直に追求してゆきます。そこへ自我を解放しようと願います。それは単なる作品のテーマにとどまらず、日本の文学のテーマであり、作家の生涯のテーマであるものだと思いますから。
ああ、どうぞどうぞたのしみながらぎろりぎろりとして頂戴。血路というような性質のものをもとめず、私はやはり行くべき方への道をゆきたいわ。血路というそのものが、文学として、やはり作家個人の範囲の印象です。そうではなくて?十一月号の作品の批評を都に四回ほどかきます。もう度々いやでことわったけれど、今度は思い直してかくことにして居ります。書くモティーヴは、この数ヵ月間の文学の動揺の波をとおして各作家がどんな自身の道を進めているか、例えば火野が妙な河童物語と極めて幻想的懐古の作品をかいている、そのことと兵隊ものとの間にある時代と文学との問題をみるという風に。平野という人は、目の前に出ている作品だけ云っている、この場合も。河童への興味の一貫性というものが私にはやはり感じられます。芥川の河童、碧梧桐(何とかいう俳画家)の河童。日本の河童とは果して如何なるものの化(け)で、いかなる時代に出現するというのでしょうか。そういうことをかくのです。いろんなこんなこと考えているから、清潔なギロリの心地よさ!日本文学における河童(特に近代の)は、決して噴飯ものではないのよ、そうでしょう?私のかかる野暮は尊重されてよろしいものでしょう?日本文学に河童が登場するとき、そこには何かの悲劇があるのですから。
「昭和の十四年間」へのサーチライトはまだ輝きませんね。それはいつ閃くのでしょう、たのしみだと思い待たれます。たとえば、このお手紙に云われているシェクスピアの女の歴史的なつながりの点ね、かきながらもうすこし詳しくかいた方がいいなとちらりと思ったところだから、私には、そこへギロリが焦点をむすぶ必然がわかり、二重にためになるのです、いいかナと思ったのに、突込まなかったということが別に一つあるのですから。御気分のいいときあちらもどうぞね。
国民文学ということがいわれ、何故民族文学が云われないか、いろいろの声がいろいろ云いつつ何故それは云わないか、今日の国民文学というものの歴史性の複雑さ。
本当に勉強、勉強。先ず私はこれから来年にかけて、その長い小説をみっしりとかいて、自分のまわりにある見えない魔法の輪を体の力でやぶらねばなりません。私の所謂生活者的私のところまで。ね。思いつめたる我に鬱屈するというところから、私は私として成長しぬけなければなりませんから。
今夜は久しぶりで多賀ちゃんと二人きり。林町へきのう行ったら、三田の倉知の伯父の家を林町の父が設計して建てた、そこが今空いているので何とかして買って移りたいと熱中して居りました。
風邪お大切にね。私の方は大丈夫のようです。では火曜日に。

[自注8]『白堊紀』――顕治が松山高等学校のころ参加していたプロレタリア文学傾向の同人雑誌。
[自注9]「三等室より」――その雑誌にのっている顕治の小説。
[自注10]「古風な反逆者」――同。
[自注11]「狂人たち」――同。
[自注12]「陽」――同。
[自注13]『歌のわかれ』――中野重治の小説集。 
十一月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十一日第七十七信
九日づけのお手紙、きのう頂きました。いろいろとありがとう。それについてかく前にきのうの行事を一つ。
きのうは朝五時におきて、『改造』へ「板ばさみ」というものをかき(十枚)(今日の女が労働と家庭との間で、どんな板ばさみになっているかということ)それから佐藤さんにつれてもらってあすこの学校の公開にゆき、十二時にかえってから夜までお客という状態でした。そのような忙しいのに公開を見たのは、佐藤さんが自分の専攻の部の特別展を一部にやっていて、いろいろ珍しい標本だの何だのあるというし、我らの細菌をまのあたり見参してその正体も見てやりたかったし、それで出かけたわけでした。くたびれたけれど、いろいろ面白かったわ。細菌ばかりでなく、学生(ああいうところの)の気分というものもすこし感じられて。ああいうテクニカルな学校と教養というものの欠乏についても感じたし。科学精神が陶冶されていなくて医者がどんなにつくり出されつつあるかということ、ポスターやらその他の趣味でまざまざと語られて居りました。
細菌のところで検微鏡の下にあらわれた細菌は、まるでタンポポのわた毛がとんだあとの短く細いしんのようなものね。[図5]こんなものね。大きさも(鏡の下での)この紫色に染め出された[図6]が、あんなに活躍するとは何と妙でしょう。人間生活、日本生活のなかにこんなにビマンしているとはどうでしょう。そして、日本には百人の病人に対して二十のベッドしかなく、ナチは123で23の余分をもって居り、アメリカは128か135か、でそれだけの余分があるのです。余分、よ。感ずるところないわけには参りませんでした。それからいろいろの標本についての説明を佐藤さんからきき、得るところあります。そして、一昨年私が熱を出したときあなたのおっしゃった注意、早期の発見と治療しか道のないこともわかりました。だって、おくれてからの手当なんて非常にまだまだ対症的ですもの、根本的でないのですものね。ああいう風に少しどうかという健康状態のとき、あとの一年というときの生活法で、どっちにもなるものであることがよくわかりました。この部では質問が多いそうです。どことなく自分に懸念のあるひとが、いろいろ素人らしいききかたできくのですって。たとえば、「どの位のを結核というのですか」とか(町のお医者は「肺尖ですよ」といいますでしょう、だからね)「どの位なおったら働いていいのでしょうか」とか、それは答えるのにむずかしいのですって。個々の極めて詳細の状況を知らなくてはならないから。
血液検査をしたり、血液の型を調べたりしていました。私は自分の型を知らなかったので見て貰いましたらAでした。そのA、B、Oのわけかたに、性格の説明がついていたりしてね。これは一見科学的な非科学性です。座興ならいいでしょうが。人間の性格は決して血の型だけでつくされてはいないから。性格学の非科学性と同じね、形式分類科学ね。あなたは何型でしょう、御存じ?同じ型?私の血をあげることが出来るのでしょうか。寿江もA、国男はOですって。父はBであったそうです。OはAにもBにもつかえるのね。
私がかえってから多賀ちゃんも見にゆき、いろいろ生理の具体的なものをよく見て来て、やはり大分ためになったようです。仕事の手つだいしてくれる娘さんと一緒に行ったの。胎児の成長の過程やそのほか、やはり随分有益のようでした。よかったこと。女の生活のそういう面を知らなすぎますから。よかったと思いました。
脳の重さもお話のたねで、世界のこれまでの統計で第一位はクロムウェルよ。一六〇〇代は日本では桂太郎一人です。一五〇〇以下では日本人があらわれ、三宅恒方なんか多い方。そういう平均率のレベルの相異と体格、体質を考え合わせると、やはり興味を感じました。女では三宅やす子一人、一五〇〇代。
私は自分の生活を、とことんまで文化の役に立てる希望です。だから解剖もして貰うし、脳の重さも計って貰うし、骸骨だってあげていいわ。あなたは?そんなのいや?いつか帝大の参考室を見に行ったら、或る医学者夫妻の骨格が保存されてありました。大変可愛かったわ。どっしりとした御主人の骨格によりそって、やさしい小さい女の骨格がきれいに並んで立っていて。私の骨組みは、あんなに繊細でなくてきっと四角っぽいでしょう。でもそこにやっぱり面白いところがあります。マアこれは、茶話ね。
さて、九日のお手紙について。
電報頂き、わかりました。明日いろいろ伺いましょう。
誤植について。自分の本に訂正しておいて、いつか直して貰いましょう。よく見つけ出して頂いてありがとう。
キュリーのこと。私はこの点をくりかえしくりかえし、あちらこちらから考えて、理解のポイントの不確さの、あらわれの具体面というようなものを沁々と理解します。そういうことは何と二重の、間接の、しかも明瞭なあらわれかたをするでしょう。
私はこの前の前の手紙であったかに、「かきかたがむずかしいので」云々と云っていたでしょう?「表現のしかたではなく」とあなたはくりかえしくりかえしおっしゃる。かきかたがむずかしいと思ってつい、というそのことにとりも直さず把握の不たしかさが示されているというのは、実に生々としているわね。大変はっきりわかったわ。
私の頭のどこかに女らしい軽率さがあるのね。こういうことについて大変感じます。勿論、それは不十分な現実の理解に原因していると云えるけれど、たとえば、あのときの気持(書いているとき、シェクスピアのところなんか)そのこと、思っているのよ。気にかけているの。それでそこを突こまないでしまうようなところ。大きい欠点であると思います。こういう点は悲しいと思います。私のものわかりの早いところの裏にくっついている一つの弱点です。大いに気をつけます。私はもっともっとねっちりとしなくては駄目ね。もっともっと野暮くたい精神をもたなくてはなりません。もっと追求の精神を。
世界史との連関でということは私たちの生活の感情となっているわけです。文学史なんかそうでなくてはものの云われる意味、日本文学として云われる意味を失います。年代の区切りかた。ここに云われている意味は正しいと思います。ここにも何だかいくつかの面白い話題がふくまれて居りますね。世界文学が世紀に区切って、横たての連関で各国の文学を綜合的に語る姿を考えると、そこには湧くような旺な文化の命を感じます。そのようなよろこばしいひろやかさで文学史のかかれるのは。「広場」という小説のなかで、劇場のなかの歌声に答えるように宏子の胸に「ああわれら、いつの日にかその歌をうたわん」というくりかえしが湧きあがるところがあります。
そういう抒情性は文字の上から消されます。面白いでしょう?今日の表情が、平板であらざるを得ないではないの、ねえ。小さい鏡は小さい鏡ぐるみ、より大きい鏡にうつして、その中で小ささを示すしかないような工合ね。
ね、私は熱烈に考えているのよ、日本の文学の正統の歴史的発展は、この現実の世界史的な把握や描き出ししかない、と。そのような発展を、日本が自身窒息させるということは、大きい損失であることを学ばなければならないのですが。自分たちが日本を代表していると思っているような人々は、時を得たる人間の喜劇とシャブロンに陥っているから。ああ、何と私はもっと早く心の成長をしたいでしょう。ちょいとうっかりすると軽率になったりするところのない、そんな心配のない心になりたいでしょうねえ。
野蛮への楯としてのヒューマニズムの話。ここも又、よ。自分ではそれが質的一般性に立って云われるべきものでないのは知っているつもりなのです。一般から云おうというつもりはないのです。その時代に、そのような楯ももち出されるプラスとマイナスの面を明らかにしたかったの。マイナスの歴史の断面から発生したプラスとでもいうような本質であるから。たとえば作品の現実では各人の各様の持味の肯定になって、石坂だの岡本だのという怪花をひらいたのだ、と。さもなければ、舟橋のように人情に堕した、と。あの部分は、これから後五年ぐらいとまとめて本にするとき、書き直されるべきですね。
こんどこの本がまとまったことと、「朝の風」をかいたことは私にとって実に意義あることでした。本のまとまった意義は、こんな手紙もいただけるモメントとなったという意味で。「朝の風」は、私の感情の切ない底をついているという意味で。
いろいろのこまかい、しかも実質的なこと、少なからず得て居ります。この二つの仕事から、自分として自分を分析する新しいモメントをとらえたような気もいたします。私の小説と評論とはきわめて興味ある関係なのですもの。評論でそのような仕事もしてゆく、その心の根の思いというようなところを「広場」にしろ「おもかげ」にしろかいていて、「朝の風」は叫んでいる口は見えるが声は消されたような姿をも示していて。その意味で「朝の風」は底をついたのよ。一つの大きい心理的な飛躍が準備されたと感じます。短篇集をまとめてよんだら、そのことを自分に一層はっきり知ることが出来ると思います。たとえば、これまでの作品では題材とテーマが、いつも二つのものをふくんでいるの。「広場」系のもの、それから「乳房」「三月の第四日曜」その他。主観的素材、客観的素材。それがちゃんぽんにあらわれました。「海流」がもし完成されたら、そこの中で、評論で私が統一しているような統一された自他があらわされ、身につけられたのでしょうが、それが中絶したために、そういう時代の気流のために、一方は「朝の風」で底をついたわけです。この関係は本当に微妙よ。こんなかきかたでわかって頂けるかしら。短篇集には、はっきり私の苦しみが映っていると信じます。私の苦しみが映っていて、その私の苦しみが時代のものであるということがどの位語られているか。個性の道があらわれていると思うの。
この次の長いものでは、それを統一してゆくことが会得されたようです。それは一つのよろこびよ。そして、ここまでに示されている永い期間の困難というものは、私の過去の文学の伝統だの、性格だのが原因となっていると思います。私は私小説から発生して居りますからね。人道主義的なものであっても私からはじまって居ります。よしや多くの展開の可能をふくんでいるとしても、私からはじまったということは文学の歴史において何ごとかであるのです。それが拡大され、拡大されてゆく過程で、ある永い期間、やっぱり自分を追求してゆきぬかなくては、本質の飛躍の出来ないところ、ひどいものねえ。
私がもしいくらかましな芸術家であったとしたら、それはつまり、あれをかいてみ、これをかいてみ、という風に血路を求めずやっぱり自分を追いつめて、やっとのりこす底まで辿りついたところにあるでしょう。十年がかりでそこまで自分をひっぱったところにあるというのでしょう。私小説が真の質的発展をとげてゆく道というものは、こんなにも困難な、永い時間を要することです。異った質としてはじめからあらわれる次の正統な文学世代は、この永い苦しい時期を知らず、真に新しいものとしてあらわれる筈なのですが、それは現れず、一層小市民的な方向での細分された才能があらわれているということは、考えさせられます。
(おや、きょうはおみこしが出ているわ、ワッショワッショイ、ワッショワッショとやっている声がして来ました。)
私の精神・感情には、心理学の所謂つよいつよいコンプレックスがあるわけです。それをすべて文学の仕事のためにプラスとして転開してゆくということが、つまり私の全生涯の仕事ね。その集合観念を、自分にとって圧迫的なものとせず、且つ知らず知らずそれに圧迫されず、それをよい、モティーヴとして活かしぬくということです。この前の手紙、私は心の病気めいたものをもっていると申しましたろう?あれもこのコンプレックスの一つね。もっともっと私は達人になって自分のコンプレックスを解放する力をもたなければならないのです。そして、それがこれからの小説の方向です。図書館、本当に可笑しかったこと。全部で三冊よ、私の送ったのは。上野、大橋、日比谷。明日は芥川の「河童」について伺います、どこに書かれているのか。 
十一月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十三日第七十八信
お手紙(十一日づけ)ありがとう。きょうのお手紙は本当にいい手紙です。何だか酸素のたっぷりした空気、オゾンのゆたかな空気が鼻腔から快く流れ入るような感銘です。これはほんとにいい手紙です。
そして、それにつけ、これと逆な感じを受ける気持や場所やを考えると、妙な気がします。文壇的知識人というものが、歴史的な知識人としての皮膚の新陳代謝をおくらしてゆく過程が――そして其はやはり現実の、或は目の前の身すぎ世すぎからの敗北として、同時に自分自身の旧いもちものへの敗北として――こんなに明瞭に示され感じられるというのは。
ほんとにこれはいい手紙です。
新しい文学が潮流としての存在をなくしたことについての考えかた、そのもののつづきとして「形式と内容」がとりあげられているところがあります。過去の業績の正しい評価を示さず、かかれているということは、云われているとおりですね。
そして、筆者は、この「形式と内容」が、作品の内部関係でより展開されていないままになっているところから、次第に二つが分裂して其々の云いのがれ的文学傾向となってゆくことに対してあれをかいたのでしょう。「人間にかえれ」が、生産文学・農民文学などのバッコに対してかかれたように。「対象としての文学現象が論理的分析はされても歴史的分析、対象の基礎の分析が不十分なこと」これはまことに真髄にふれた言葉です。一人のひとについてだけのことでは決して決してないと思います。
そして、更に思えるのは、論理的分析は論理の方法を知っていれば出来ることでありますが、歴史的分析はもっとその人の身についた歴史的なもの、歴史的生活力の底からしかほとばしらないということ。従って、論理的分析は頭脳的に作業され得ることになり、実生活との分離のままに行われるところがあり、そのものとして一種の形式論理になってもゆくということ。これらは、あの論文の筆者が、評論だけをかいていると人間がよくならない、小説をかかないと云々と云ったとき、私は、変で、それはそういう人もあるだろうと答えた、その機微にもふれています。私は永い間そのことが念頭からはなれず、何故と云えば、私は自分が評論のようなものをかいて、人間がよくならないと思えないし、そんな妙なことがあり得るかと思っていたので、しかし、こういう二つのもの、論理的分析と歴史的分析の関係が、はっきりつかめなかったのでした。
私の疑問であった多くのことが、この二つのことで腑(ふ)に落ちました。これは種々の点からあなたが思ってもいらっしゃらないようなキイポイントとなって、私に周囲の事態を理解させます。
私には、自分でその二つの関係がつかめなかったように所謂論理的でないところがありますから。自分たちの生活の実感から私には歴史への感覚がめざまされているので、その自然発生のつよさは、感情の内部で一つのコンプレックスとなっているほど(前の手紙にかいたように、ね)でしょう?時代を経てゆく一人一人の姿は何と複雑でしょう。
そしてね、あなたはお笑いになるでしょう。あの本の筆者に対して、多くの人は魅力がない、肉体がないというのよ。そう評するものはと云えば、論理的推論にさえ堪えない存在であるにかかわらず。何と悲しい喜劇でしょう。
その人に即して云えば、論理的な合理に立とうとせずにいられないだけ前進性をもっていて、その半面に真の歴史的分析は自身の生活に対してさえし得ないものをもっている。今日、ゴに熱中して徹夜していられるところがある。そういうところへの悲しさが、私の場合では又コンプレックスのかたまりを大きくしてゆくというようなわけね。(時代のありさまとの関係として)
いろいろと実にうれしい。わかって。自分は何と自然発生でしょう。この手紙一つをしみじみと眺め、私は自分の内がモヤモヤしていて、力が弱いのをびっくりするようです。いろんなとき、どうも其は変だ、という感じをなかなかリアリスティックな根拠で分析したり構成したり出来ない。
勉強というもののされかたをも考えます。私の場合は、自然発生のものの整理、それの混迷からの救い出し、生活的成長のため、コンプレックスを、歴史性のなかで解いてゆくために不可欠であり、他の人にとっては、論理の展開の筋を見つけ出すために読まれずに、自分の生活へ切り込む刃としてよまれる必要もあるでしょうし。
きょうのお手紙のなかにあることは、この数回からの私の理解に瞳を入れられたところがあります。私はね、たとえば「論理的なものはとりも直さず正統な歴史的見かたしかあり得ない」という単純な確信に立っていたから、逆に、歴史性に或る程度立って云っていられることの内にある論理的なものと歴史的なものとの分裂の誤りを見つけ出されなくて、ひっかかるのです。歴史性の小さい入口から、誘いこまれて全体を肯定したりしてしまう。よくわかるでしょう?自分のうちのモヤモヤというのはそこから発生するのです。
本当にありがとう、ね。段々たのしくなって来ます。勉強してゆく愉快な思い、新鮮なよろこびが湧き立てられます。
前の手紙でかいていた歴史的背景、歴史的な根拠をもつ心理的コンプレックスの、文学としての見かたもゆたかにされます。たとえば中野のスタイルと自分の制作態度とのちがい。それとの関係で云える伊藤整たちの登場人物(余計者の自覚によりつよく立ったあげくの積極性と平野の云っているところのもの)との関係など。
友情についての話。あの中で、私は友情一般が云えないこと、仕事のなかで人生への共通態度は最もはっきり現れるのだから、その態度如何で、友達になり得る人なり得ない人との区別が生じること(つまり私的生活の中での友人になり得ない人でも公的場面でつき合ってゆく事務上の接触をもつことはあり得るのですから)、そして、一般の若い女のひとたちは、共通な人生への態度を感じると、そこにすぐ恋愛的なものを描き出してその曖昧なところをたのしむような傾向をもっているから、それに対して、私は特に友情と恋愛の感情が、女として区別されて自覚されなければ不健全だと強調しているわけだったのですが。その点不明瞭ですか?あれをよんだ女のひとの何人かは、異性の間の友情が、ああいうものであってはつまらない、と云ったそうです。その位、女の社会感情は狭いのね。公人としての同僚感と、その同僚のうちから友情が見出されるということは直接同じだとはしていないつもりですが。同じでないからあの文章の中で、同じつとめに働いている同性や異性の間で、同僚として顔をつき合わしていても、ちがった利害の対立におかれる仲間の方が多い、その中で、共通な生活態度が見出されたとき、それは友情となるが、それがすぐ恋愛的なものと混同されて、友情そのものとして成長しにくい場合が多いということを主張しているわけなのですが。きっと整理が不足しているのでしょうね。もしそういう印象を与えるとすれば。同僚感というものを、生活態度の共感という範囲に限ってだけ云われなくても、それは自然でしょう?もしそう云われれば、その同僚感において友人として必要な人、そうでない人という区別も生じないわけですから。同僚感というものは友情より広汎な、内容の錯交したものでしょう。
しかし、これについて書かれているいろいろと複雑な心持、ヒントは非常によく感じられました。その点で、この文章をとりあげて云っていらっしゃるいろんなことも実生活的によくわかったと思います。すでに現実にいくつかの経験がありますもの、ね。そして、たとえば、前の方でそれについてかいている評論の筆者とのことについて考えてみても、友情そのものがやはりひろいというかいろいろまじっているし。でも又ふっと考えて、たとえば、同僚感という文字があの文章の中に一つもつかわれていなかったということについて考えます。そのことで、このお手紙に云われている点は(感覚というものの根源の微妙さとして)あたっていますね。それも面白いと思います。なかなかギロリはつよい光度をもっていて愉快ね。
新しい読書は、大変活々とした感情でよまれます。もとよんだときとは又ちがいます。〓期としての生々しさがちがうから。五五一頁ある本です、よんでいるのは。
文学について、国民文学ということも、私の考えている或は感じていることの健康さが一層明かに感じられるのですが。
毎日の早さどうでしょう。
きのうは、『漁村』という全国漁業組合の雑誌に婦人のための文章をかいて、漁村の婦人の生活にふれたものをかいてみるために、いろいろしらべて、年かん類勉強したら、日本は四面海もてかこまれし国なのに、漁村生活の調査が不十分にしかされていないのには何だかびっくりしました。すこしは、それについて知りたいと思いました。生活力がないのではないのですもの、富山のかみさんたちの例を見たって。海と女とのいきさつは、海女に集約されていますが(これまでは)、随分いろいろの問題があると思います。農村の女の辛苦とは又ちがったその日ぐらしの不安が時間的に農村の女より女にひまがあっても成長させないモメントとなっていると思いました。漁村の女について私たちは知らないことにおどろきました。
島田からのお手紙で、母さんが御出勤ですって。いいわね。午後二時間ほど友ちゃんと交代ですって。なかなかいいわね。お母さんのために大変ようございます。では明後日に。 
十一月二十二日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十三日第七十九信
今、よんでいて大変面白く思ったこと。イタリーの歴史ですが、一四年において、そこは仕合わせな例外としての一つの力を保っていたものが、その力を失って行った過程というもの。この二十五年間の世界史というものは実にウェルズなどのよくかくところではないということを痛感いたしますね。
「ロマン・ロランの会見記」が(山本実彦)出ています、『文芸』に。ロマン・ロランがもし本当にそれらの言葉を云ったのであったら、やっぱり歴史の進みというものは、ある巨大な価値をもったものの、命数をもつきさせる時期をもつものであるということを感じなければならないと思います。彼等夫妻がある都会のホテルに滞在していたとき毎日細君に花束を届けてよこした一人の人間を、そのことからいい人間、チストカが意外ないい人間という風に判断するとすれば、それは最も凡俗な女流作家或は文学少女の人物評価の基準でなければなりません。現代という時期があらゆるものの評価のよりどころを狂わせていることはどれ程の激しさでしょう。第一次の大戦より確にその点もすすんで居りますね。それはそうだわね。だってあの頃ヒヨヒヨしていたムッソリーニが今日は三巨頭の一人なのですものね。だから二十五年は面白いと思います。
ハハアとあなたはニヤリとなさいますでしょう、「ユリはわかるものを読めば喋り出さずにはいられないのだナ」と。そして、これをかいているのは二十二日なのよ。一週間も経ちました。その間にいろんなことがあって。
二十日までに『文芸』の方をすっかりまとめてしまおうとして熱中しているところへ、女の作家が文芸中央会というのに参加するためにどうこうと長谷川のおばあさんや間宮君にうごかされて度々来て、私はそういうことには現在自分として進まないので消極ですが、はたでドシドシつくって行ったり、そのために外出もしたり。おまけに、物干の木がくさっていて、布団をとりこもうとしてふみぬいて、片脚をおっことしてすっかり紫色にしたり。
お手紙十四、十五、十六、十九日、こんなにたまりました。何と珍しいでしょう。
順ぐりに御返事申します。
文学史のヒューマニズムについて、大変こまかくありがとう。ここについて云われている点は、全く正当です。そしてね、私にしろ、それを考えていないのではないわけなのです。抽象された人間性などというものはないことを。文学に人間の息を求めるという表現は、生産文学、農民文学などに対し、低俗な文学の手段化の傾向に対し、作家が内面テーマにかかわりなくお話をかいてゆく傾向に対し、生きている人間、生きている現実において人間をかくという要求の中へ、かくものの心持としては非常にいろんなものをこめて云っているわけです。
現代文学に二つの流れのあるということについて。比重はどうあろうとも、ということについて。くりかえしよみ、くりかえし様々の感動にうたれます。今日このことを自身に即してどれだけの人が感じているでしょう。文学の正当な成長の問題として。比重はどうであろうとも、ということは、二つの流れとして見られず、何だか一人の人たちの内に、そういう見かたがさけられず求められるようでさえあります。いつか書きましたっけか、『はたらく一家』の著者が広津和郎の序文を貰って、その中に、その作家の歴史に対して臆病なのも庶民性の一つであると書いてくれた序文のせて、その作品集を出したということ。現代文学史というものは、こういう悲しい喜劇を示します。そして、そのような歴史上の大きい現象をちゃんと文芸批評の上でとりあげにくいということ、「分身」についていつか私の疑問かきましたでしょう?あれもそうだわ。十五日のお手紙に、成長するために知性のめぐり合う風波の図景は、と思いやりについて云われているところ。ほんとうにそうです。
しかし、そうであればあるだけ、私たちはちゃんと文学を把握しなければならないと思います。厳密に考えてみると、少なからぬ人たちが、不便な事情というもののために舌足らずにならざるを得ないということを自分に許すことから、(云いかたがまわりくどからざるを得ないでいるうちに、)いつしか、先ず根本的に健全に現実を把握して行こう、或は行くということを忘れ、その感覚を鈍くされ、つまり風化されてゆくというのは、何と恐るべきことでしょう。
このことは本当に微妙で、そしてあぶなっかしいことです。例えば、現在の奇妙な文学論――政治の優位性、というのだそうです。――に対して、芸術至上主義さえ単純に否定は出来ないと、『現代文学論』の著者などしきりに云っている。それはそうです。しかし、芸術至上主義をそれなり肯定すれば、おちゆく先は、経来ったところを見て明らかなのですから、やはり「人間性一般」的あぶないところに落ちこみます。
ね、私は箇性の持味で文学を解決してゆこうとはしていないのよ。そのためにバタバタよ。ですから、十四日のお手紙にある、完成や典型についてのこと、実に面白い。ヒューマニストに還元することに対する抵抗の示されている、あの十四年間の見かたの土台は肯定されていてうれしいと思いました。そしてあれは「現代文学の十四年間」とされる方がたしかにようございますね。高山の本には入れられません。むこうの本やが閉口というので。出たばかりで。あれをね、中心にして、一九三五年ごろの作品評や、これから又先の評などと合わせ、やがて一つのちゃんとした本にまとめましょう。そのときは、やはり「現代文学の十七年間」なりとすればいいわけです。これもなかなかいい題です。そういう目標で、たとえば、これからの『都』の「月評」もあれのつながりにおいて考えてかこうと思って居ります。
いろいろ学んだところについて考えつつ。
私小説か否かのよりどころのこと、そうだと思います。そして、自分が私小説をかいている(ここに云われている本質で)ということを云っていたのでもなかったの。
三七年の暮にかいてあったものは、「十四年間」のなかにその本質のところをより詳細にして入れたわけでした。あのときの面白さは、ヒューマニズムの問題です。文化の擁護のための世界の動きと、こちらでの変形についてどっさり書いていました。しかし、それは竹村のに入れられないのではないでしょうか。そこいら実にデリケートです。作家論とちがうところがあって。逆に作家論の面白さ、考えられますね。作家論から追究するの面白いかもしれませんね。
婦人だけに限定しない心持で、婦人のためのものをかくべきということは、こういうことから見ても真理だということがわかります。河上徹太郎は『婦公』だの『新女苑』だのに、文芸についての特に女のものをよくかきます。そこでは、読者を意識して文芸評論として正面から扱うと一寸厄介だが、というようなものを扱っていて、そのためにその安易につくところが作用して、しゃんとしたものの筈のところに、一種の婦人向式のところがあらわれるということ。
女は決して甘やかされてはいけないし、婦人作家たちを見たってとことんのところではひどく扱われていると思います。例えば昨年婦人作家擡頭云々と云ったって、とどのつまり男のひとたちは、婦人作家の低さと一口に云って、婦人作家の中にも彼等より立ちまさったもののいる事実を抹殺して了うのです。婦人作家だけが、さながら低い別世界にでもいるように。
女の悲劇は、婦人作家論の中でくりかえしくりかえし見られたことですが、常に自然発生のノラ的なものと、それを発展させず、つまりは日本の女らしさに身を屈してゆく、その間の矛盾の姿、何といつの時期にも其々の形としてあらわれていることでしょう。
十九日のお手紙。二冊の本のこと承知いたしました。送ります。島田のお母さんのおつとめのこと。冬はお出にならないつもりだそうです。どんな風にくり合わせなさいますかしら。背戸の家の大きい柿をいりこと送って下さいました。この間の羽織のお礼ね。美味しい柿。あなたは森本というその家を御存じかしら。ハワイからかえった人が今の主人で、薄肉色のソフトなんかかぶって、麦かりをしているお爺さんです。その娘さんやっぱりハワイ生れ、ハワイ育ち、とこやさんです。ところが、一二年前すこし気が妙になって、今はしかしいい婿さんもって落付いているそうですけれど。そこの柿よ。五銭ぐらいのよし。東京では二十五銭ぐらい。
この間からずっとくりかえし連続しているお手紙、実に実にいろいろよくて、私の餌じきのようよ。しかも、そこには数行のやさしい詩の響も交って。私はやっぱり折々大変詩をよみたいと思います。
ああ、はじめの方にかいた女の作家たちの動きについて、あれでは何が何だか分りませんから、もすこし補足すると、文芸家協会が中心になって、十二三の文学団体をあつめ、各〃二名ずつ委員を出して文芸中央会というものをこしらえました。私は文芸家協会員、評論家協会に入っているから別にどうということはないと考えていたら、そこへ一つの婦人団体の代表として入っていた長谷川時雨(もとの『女人芸術』、今の輝ク会として)に対し、もっと他に代表を出してくれと云ったらしく、(その理由としては、彼女が余り文学的でないので、)そう云われると、自分がものをかくものとしてオミットになることをおそれたらしい様子で、円地文子その他を動して日本女流文学者会というのをつくり(今活動しているようないろんな文筆家みんな入れ、山川菊栄から小寺菊まで)その会のとき、皆投票して、円地文子と吉屋信子とを新しい代表にして、やはり幹事には自分が止っているという方策をあみ出したわけです。
私の知らなかったうちに稲ちゃんも文子さんから相談され、別段バタバタするに及ばないということになっていたら、急に別な部分を動してそういうものにしたわけです。そこは立て前として、文学に対する非文学性を否定することや婦人や子供のことに対する真に文化的な助言をし批評をするところということになったそうです。(発企人会へは出ませんでした)
吉屋、山川というような人たちが熱心というの面白いでしょう?私たちは、自分たちも婦人作家ということでおだやかにそこに連って居り、その点では今日文芸家協会員であり評論家協会員であるということと全く同じの意味です。きょう世話をやきたい人が活動すればするのでしょうけれど。もし万一私が何か勘ちがえをして動きまわったりしているのではないかとお思いになるといけないと思って、あらましの事情を申しあげます。
〔欄外に〕今、河出の本もって来ました。三雲という人の装幀。原画見せてよこした次の日行ったら、もう本になっているの(!)
いろいろとこの頃面白いらしい様子です。日本文学者会という妙なものが出来て、世間的に目に立つ仕事して、存在意義を示さなければいけないというわけで、同人雑誌諸君をよんで大同団結を協議するというとき、武麟がボスを発揮して、ある同人雑誌代表は、退場したりした由。今まで、文壇的イリュージョンの輪にかこまれて出現していたいろんなあくのつよい人々を、若い人達は目前に見て、作家の魂という仮想なしに御仁体(ごじんてい)に直面してゆくことは、文学の経験として大変いいわね。どしどし幻滅しなければいけません。そして、健全なひろい息をつくことを知らなければ。
そして、ここは一種の保守的ギルドめいていて、女の作家は一人も入れないのよ、それも何と面白いでしょう。男の作家でも入れないのよ、丹羽文雄を入れないし、中野もいれないの、そういう調子。それから又『文芸』で評論の選者に私を入れようかと云ったら小林秀雄は鶴さんを推した由。それはそれでいいと思いますし、私はことわりますでしょう。よしんば小林秀雄がよかろうと云っても。小説の選者にと云ったら青季不承知の由。これも面白いでしょう?宇野は賛成の由。いろいろね。そういう場面へ評論の仕事で加りたいと思わないから。しかし、それとは別に、やっぱり面白いものがあります。余り長くなるからこれだけにしておいて、表。
十一月一日から二十一日迄。甲三、乙十七、いきなり丁一。これは偶然なの。いろいろ考えていて眠れなかった結果です。起床七時です。読書、私は本を別のになってしまったけれど一一五頁。これは十一日からの行事として。もう一つの方さがします。
きょう寒いので、どてら、おそくなって気にして居ります。かぜお大切に。本当にもって行けばよかったこと、御免なさい。 
十一月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十四日第八十信
雨のわりにおだやかで助ります。でも、そちら冷えましょうね。ポンポコおくらして本当に気になること。
この頃郵便小包のシステムがかわりましてね、市内小包六銭というまことに親愛なものがお廃しになったのよ。そして地方並に目方なの。すると、これまで六銭で行ったものが少くとも五倍、本などだと十倍近いのよ。なかなかうまく儲け法を見つけたものだと感服します。だもんだから、そちらへも、きっとこれ迄送っていた人が持って行くでしょうし、もって行くと、あの苦手の御老人益〃疳がつのり、私は益〃小包一点張りということになります。この有機的関係は、なかなか微妙で、心理的で、六銭が十倍になっても猶その方をとるという程度です。
きょうは、きのう頂いた二十一日づけのお手紙を、すぐ返事申上げます。内容充実のがたまると本当につまらないし、あなただって何だかおいやでしょう?
一つ一つ返事なければ、何となしひとりで大変永く話したように疲れた感じね。
ああ、それからね、本の紙も規準で一定になったし、封筒も十三銭ときまりました。そうきまることはよろしいとして、なかなかひどいものになりました。私は、封筒だの手紙かく紙だのは買いためしてよい権利もっていると思いますが、いかが?こんな紙ももうそろそろ切れます、市中にはとうに切れているのよ。
紙がきたなくなったとき、どんな本が出ているか、ということで、その国の文化のみならず真の国力がはかれる、ということをこの間かきました。それを痛感して居ります。
出現しない本のこと。手許にあります。出現させましょう。十五日づけの手紙については申上げたとおり。珍しいこともあるものね。どうしたわけでしょう。ネズミがその中で子供生んだのかしら。これからもずっと気をつけていましょう。
仕事のこと、『文芸』のかき直しに当面御熱中です。時評二十枚かいたら又それをつづけて、年表も殆ど出来上りましたから、それをまとめてわたします。
表はさち子さんのこしらえていたの余り尨大にしてしまい、しかしあった方がいいので別の人に簡単なのをつくってもらっていて、それを本にはつけ、さち子さんの方はどこかから、何とかした形で単独に年表として出せるよう考え中です。その方が当人は満足でしょうから。本の方へはサク引もつけます。ちょっとしたのでも年表ついた方がいいね、とおっしゃったでしょう?それでとりかかったのでした。やっぱり、やってようございました。
「文学の進路」はこれは傑作の部に属す題です。何とはっきりしていて、幅があって、動いているでしょう。いいわねえ。私はこれは今つかいません。こんないい題!これはね、「現代文学の十四年」に追加してもうすこし先へ行って一冊の本にするときこそ、それにつけましょう。それこそ実にふさわしいでしょう。竹村のに「文化の希望」をわり当てておきます。一つ一つがどれもつかえるということはうれしいと思います。二重三重にうれしいと思います。
『朝の風』出来ました。お送りします。装幀は前の手紙にかいたような河出のやりかたで作者にぴったりして居りませんが、河出からどっさり出している短篇集の一つとしてはましだそうです。そして又一般から云って手にとる気になるそうです。「近代日本の婦人作家」の装幀は、こっちから画家をきめてたのむつもりですが、誰がいいかしら。結局、中川一政かしら。あのひとの抒情的ディフォーメイションが余り気に入っていないところもあるけれど、それでも、今の人としたらましの分ですから。
文学史クロニクル風にかかれているが、という部分。ここは今日非常にいりくんだ手法の必要となっている点で、私は決してクロニクル風に平面に見ていないのよ。流れの本質のくさり(腐敗)を抉り出すことで、それへの文学的対蹠の本質を感じさせようとしているし、その点でむしろ一つの流れの中から云いすぎている、自分の流れを客観的に描き出していないという欠点が生じていると思います。いろいろ弱点がありますが、あれは只クロニクルではないわ。あの調子は只のクロニクルにあるものではないわ。それにね、前の手紙でかいたように、文学上の流れが今日は一人のひとのうちに二筋に流れているようなところや、文芸批評を許さずというドイツのまねの気風があることや、いろいろ実に大した有様です。
流れるままにそれに添うて文学現象を並べてゆくことは文学史ではないと考えているのです。だからいろいろここに云われていること、大変有益だし、この次の仕事で高めたいと思います。
そして、再びここで今日つけられる題の感覚ということについて、意味ふかく考えます。つけられる題で、最も健全なものをあみ出してゆく骨折りということの具体性を。
自分のうちに二つの流れを流しつつ、それが相剋する本質であるということについて感覚が麻痺(まひ)しているようなもののありように対して。文学史の上における文学的堅持というものと、その表現というものの間に生じる差の大さの間におっこちてしまうのね。そのおっこちまいとする方法に二つあって、一つは、文学史的足場の方を移動カメラ式にずらしてずらしてやって来て、表現の可能のそば迄もって来て、本来のカメラのありどころはあすこだったし、であるべきだが、という形。もう一つは、カメラなんかもう自分から蹴ころかしている組。
歴史は与えられた条件でつくるという言葉のうちにあるものの人間らしい希望。骨折り。そうよ、本当にそうだわ。もしそうでないのなら、私たちの生活術にしろ、どうして成り立つでしょう。
文芸復興の声の部分は、自分では、一方が様々の問題に面していたからとだけ感じているのではなかったけれど。そういう時期に、ここに云われているような吸引作用がおこったこと、しかも武リンや林がそういう流れをつくったところをかいていたと思いますが、そうでなかった?
科学的批評は以下、思わず笑えました。実にそうなのですもの。そして、終りまでに語られていることの実現には方法の上での様々な周密な考慮がいって、例えば、毎月毎月短い評論をどっさりかいてゆくというようなものの書きかたをしてゆくことと、どうもいつしかひっぱられて流れにつれて走っていることになりそうです。今日、舞台の正面にいるものほど奇妙な文学踊りをおどらねばならないのだから。
私は幸、益〃お正月号のしめ飾りではない存在だから今月は、これまでのものに手を入れたりする暇もあり、そういう暇をもつ意義を十分にあらしめたい心持です。
私として「十四年間」をかいたのは大変よかったと思います。常にあれを中心として、そこにある弱点についても忘れず、そのつづきとして、文学現象を永い見とおしでとらえてゆこうとする感覚におかれるから。多くて正確でいい仕事、もとよりそれはのぞましいけれど、ある時期には少くていい仕事もいいと思います。結果はどっちにしろ、つまりはいつも精一杯。そこね。
それでも徹夜廃止を実行するようになってから、まる二年と数ヵ月ですけれども、私は丈夫になったと思います。特に盲腸をとってしまってからは。愈〃重心をひくくして、勉強いたします。美しき精神の圭角を輝かしましょう。それなくて何の芸術でしょう。それからね、私は一つ笑われるような希望をもって居ります。それは、来年長篇をかき終ったら三四ヵ月それにかかりっきる大勇猛心をおこして、この間もうすこしのところで息を切らしてしまったもの、はじめっから読了してしまいたいということです。凄いでしょう?何かそんないきごみもいいと思うのよ。せめてすこし本が出た折に。もし事情が許すならば。うんと倹約して、書くものはへらして。(勿論今のままにしたって、現に、正月号はしめ飾りだけでやっている、という実際ですから、自然それだけひまになるかもしれないが)ウンス、ウンスという勉強ぶり、楽しいでしょう?ものには、思い切ってやってよかったということがあるもので、何にでもそれはあるのだから。みんなは、文学文学と叫びながら文学からはなれて走る。私は書生になるの、益〃書生になるのよ。『改造』に有馬と佐々木惣一との対談あり、白髪の佐々木先生、「私は書生で、どうも」と。しかしわかること云っていて面白いと思いました。宇野浩二と青野の選評を見ても面白く、青野は鑑賞に沈湎し、宇野は文学の中から却って評論的であります。「きみは理屈っぽい」と青野先生が宇野に云っている。面白いでしょう?文学常識であるべきことを宇野は云っているにすぎないのです。
先日来の細かいお手紙に、心からお礼申します。他人行儀のようで可笑しいけれど、でも、あすこにある声は深くひろく響くもので、文学の仕事に対する評言の髄にふれていて、私としてやっぱり心からのお礼を云いたい心持です。本当にありがとう。「朝の風」、懐古調では決してありません。 
十一月二十七日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十六日第九十一信
きょうはそちらからいそいでかえると、すこし汗ばみました。大変あったかァい日だったの?
この頃ぱたついていて、頂いた手紙へ返事かいてばかりいて、余り気にくわないから、きょうはすこし時間のゆとりつけて、こちらからかきとうございます。
下で実業之日本の増刷のハンコ押しています。
きょうかえりにひどく気がついたのですが、今銀杏(いちょう)や紅葉が、上り屋敷のあたりでもなかなか奇麗な色です。目白の通りずーっと銀杏でしょう。あれがすっかり黄金色よ。二年ばかり前、銀杏が緑を新しく芽立たせて、雨あがりの街の色が実に美しかったときビリアードの横の方へ散歩に出て、土管おき場のわきの大きいからたちの樹の白い花を見た話、覚えていらっしゃって?あんなからたちどうしたでしょう、又いつか行って見たいと思います。この間うちずっと家にばかりいて、何かきょう沁々色づいた葉の色が目にしみました。そしてね、きっと、いろんな街の色彩が全くへってしまったから、こんなに垣根越しの秋の色どりが目に美しいのだろうと、今年の秋を感じました。多賀ちゃんがかえるとうち二人でしょう、するとお砂糖でも何でも大打撃なのよ。三人と二人とでは大ちがいですから。きょうの『都』の夕刊は、学生は震えているという記事が出て居ます、炭のこと。三十四五室もっていても一俵しかないというわけ。それにお砂糖も1/3に配給減になった由。寒いからあつい紅茶一杯ともいかない由。土、日、でなければ映画館へ学生入れず、乗物では腰かけるナ、頭いがぐり。そして炭もない。今都会へ出ている青年たちの暮しということを考えます。寒いから、かたまって本を読もうとしたりすれば、忽ちだし。青春の価値への確信を、彼等はそのような現実の中から自分で見出してゆかなければならないわけです。あらゆる非科学的な矇昧の間をよりわけて。大したものね。
きょうお母さんからお手紙で、この間の速達に対し、およろこびでした。いろいろなこと、そちらから云って呉れると、若いものはよくきくからとありました。でも達ちゃん行くことにしているかどうかは余りはっきりいたしていませんでした。出発の日は見送りにゆくつもりでいるという風にかいてありました。二十三日に面会して、それからあとは、いつ出るのか秘密の由。それでうまく会えるのでしょうか。そこいらのことはよく分りません。
友ちゃんも元気だそうです。お祭りで四五日おさとへかえって来るのですって。そしてね、冬の間、御出勤は女のひとたちはおやめですって。それはそうでもなさらなくてはね。もし万一お出かけになるのでしたらと思って速達のついでに脚の方をひやさない細かいこと書いてさしあげましたが、私が机に向っているような形では駄目なのね。ちょくちょく立って米をはかったりなさるのですって。それでは冬の間はいけません。もし又腎臓になったりなさると。おやめになるそうですからいいわね。
二十八日には多賀ちゃん、寿江子、私で、歌舞伎を見ます。私としても随分久しぶり。みんなが歌舞伎は見て居りますから、「どうで、多賀ちゃんも歌舞伎へ行っちょってか」というわけでしょうから。多賀ちゃんがかえると、私も何だかくっついてちょいと行ってみたくなりました。それも無理ないのよ、だって私これ迄只の一度も全くの用事なしで行ったことないのですものね、いつだって、あっちでうんとこさお辞儀しなくてはならないようなときばっかり行っているのですから。十二月七八日以後から暫くが一番行けるけれど、でもまあ今度はおやめ。又いつか春でも、用事なしで行って、お母さん京都へお連れしようと思います。本願寺を御覧になりたいんですって。私は大市という古い家のすっぽんがたべたいわ。これは日本の食物のなかの王ね。お母さんきっとそれをあがると陽気におなりになるでしょう、おさけで煮るから。
ああ、それからね、お母さんへお手紙の折、赤ちゃんをお守りなさるのに、おんぶしたりするような長時間のお守りは決してなさらないように云っておあげになるといいと思います、お体のために。子供の重さは日毎に加わって、体に案外きつくこたえるものです。
お母さんは赤ちゃんが生れたら守りをしなくちゃならないときめて、うれしいながら、いくらか悄気(しょげ)ていらっしゃるのよ、先から。あたりの年よりが孫たちの世話で躰をつかっているのを見ていらっしゃるから。今は店はしもたや同然だから、体のえらいようなお守りの必要はないのですから。
ああ、そう云えば羽織ね、大したお気に入りです。よかったことね。
私は明日、明後日と時評をかき終って、それからこまごましたもの、月末から十二月初旬までかいて。それから『文芸』のをすっかりまとめて十日位までに完了にいたします。すこし先日来お疲れの気味なの。会の話ね、きょうお話した。あれはあのような調子でやって参ります。日本文学者会もボスぶりがなかなかで、この先週の集りには集ったもの三人とかの由。そうでしょう、流行作家たちですから。暮の稼ぎははずせませんでしょうから。いろいろおもしろいことね。同人雑誌の大合同というのを仕事に一枚加えて、よび集めて、タケリンいきなり国民文学をつくれ、と云ったのだそうです。そういったって判りはしない。皆色をなしてね、意見らしいものが出ると、同先生が座長に自選していて、そりゃ、君いかんよ、と意志表示をするのですって。さすがに若いものは正直だから静岡のは席をけってかえった由。文学をつくる人間のうつりかわりは案外こういうところからです。これも歴史の面白き有様。
せっせ、せっせと掘る。どうだ上手に掘るだろう、気づいてみたら、頭の上はるか土がうずたかく、外の景色はいつしかうつりにけりというようなスピードですから。
戸塚夫妻は蓼科高原に御逗留です。ここにも一つの笑話があるのよ。蓼科は日本で只一ヵ所海の気流に左右されない真の高原地帯なのですって。実に療養に理想的空気で、しかも坪五十銭で十ヵ年契約で土地をつかえるのですって。
もうこういえばおわかりになるでしょう。あらホント?と、のり出した私が何を考えたか。十坪住宅のことは頭から消えて居りませんものね。私たちの想像力は旺盛に動き出して、そのような空気の中で安らかそうに体をのばしているひとの姿まで見えます。だって百坪で五十円よ、たった五十円よ、五百坪で250よ。
そしたら、稲ちゃんの手紙でね、夏しか住みにくくて、その夏には四五千の都会人士がつめかけて、名流人の御別荘櫛比(しっぴ)の由。ハアハア笑ってしまった。だって、五十銭ときいて私たちがハッとするころは、もう何年も前に人が行くだけ行ってしまっている。ハアハア笑って、又忽ち行雲流水的風懐になりました。芝のおじいさんのところのことなんかで、私はよけい注意をひかれたのでしたが。フーフーいって仕事している間に、そこまで時間と空間とのひろがった想像まで働かすのだから私もどちらかというとまめでしょう?
林町はあの食堂が北向でさむいので、南の客間を食堂居間にして、上成績です。行っても家庭らしくなりました。日光もあって。私は、十二月に入ったらこの部屋をすこし模様更えして、茶の間のタンスを四畳半に入れます。ひとの来る部屋にそういうものをおくと不便ですし。二階はすこしゆとりをつけたいのです、ベッドを四畳半へおろして。只ここはおとなりの台所にくっついていて、すこしやかましいのが欠点だけれど。そして、ひる間一寸休むにこまるわ、いろいろ思案中です。きょうから玄関にはり紙をして、午後でなければお客おことわりにしました。藤村はいやな男ですが、「夜明け前」を七年かかって飯倉でかきましたものね。あのときは一切人に会わずで。私たちにそれは出来ないが、しかし、粘るところは、ざらにない力です。そういうところのよさは学ばなければ。蓼科へ行って秋声の伝記かくのだそうですが、『文学の思考』の序文が与える感想とそのこととをてらし合わせ、私はああはしまいという思い切です。勉強勉強と思うのよ。うちにねばって、休むこともうまくやることを学んで、勉強勉強と思います。原っぱへ行って休んで来て、それでいいと思うのよ。美しい詩集からいつも新鮮にされるよろこびを与えられながら。
そういうようなわけですから、どうぞ私の殊勝な志をめでて詩集についての物語も折々おかき下さい。
でも、今ふっと考えて奇妙なことと不思議に思いますけれど、あの詩集の中に冬のつめたさはつめたさとして一つもうたわれていないの、面白いことね。「濃い晩秋の夜の霧に」という題の覚えていらっしゃるでしょう?遠い野末に見ゆる灯かげという句のある。そして、女主人公が、その野霧が次第にうっすりとする街へかえりながら、自分が不器用で、才覚なしだったものだから、のぞみのよこをただとおってしまったことについてのこりおしく思って歩いている心持をうたった詩。平凡のようだけれど、真情からうたわれている詩。あれだって、ちっとも寒さとして描かれていないし。「ああ、この冬は春の如く」は勿論のことですし。冬のさむさに凍らないあたたかい詩はいい心持ね。あたたかく、丁度程よく心をしめつける詩の風情の味いふかさ。
でもね、私はこうして詩のいろいろの味いを思い浮べると、小説のこと思わずにいられなくなります。いつかも書いたようなテーマの展開の素晴らしさを。
私には大変詩がいるのよ。
おっしゃっていた小さい岩波の本近く手に入りますの、そしたらすぐよみましょうね。金曜日まで、まだ当分ね。火、金というのはなかなか間があるのね。今夜はこれからお風呂に入り、眠ります、早いけれど。そして、あした朝早くめをさまし、よ。ではね。 
十二月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(第十回龍子個展より「真珠潭」の絵はがき)〕
多賀ちゃんのお土産買いをかねて、明治大正昭和插画展をいそいで最終日に見にゆきました。いろいろ実に面白く思いました。插画しかかかない插画画家というものは何と低い限界で終始しているでしょう。そのわきに川端龍子の個展あり。この風景は面白うございますね、奥の深さ、そして前方の平らかなひろがりの調子。墨だけです。いつかの仙樵の描法を思いおこし龍子の才筆の或るくずれを感じます、御同感でしょう? 
十二月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月九日第八十二信
五日づけのお手紙、きのういただきました。ありがとう。「朝の風」のこといろいろ。でも笑えてしまったところもあります。だって、「本旨に反する」とかいてあるのですもの。それはそうだけれど、でもやっぱりおのずと笑えて来る或る健全なユーモアがあります。
いろいろの点よくわかります。しかしね、ああいうものになった心理にはつながりが重く長いものがあって、夏の末ごろのあの買物ばなしの大きいつよい波がしずまらず、本当に私は病気になる位のところがあったから、その心持であれに執し、同時にリアリズムの衰弱もおこしたのです。でも自分でその病気はよくわかって居ります、大丈夫よ。あれをともかく通って、私は先へ歩めるのですから。自分の病気というものを客観的にみて、そこへ二度と足をひっかけまいとするいろいろの芸術上の課題について考えられるようになりますから。
今年一年の小説の仕事はいろいろ大変有意義であったと思います。「広場」「おもかげ」「朝の風」、そういう系列のもの、それから「第四日曜」「昔の火事」「紙の小旗」という系列。それは来年にはずっと統一されて、主観的素材のもの、客観的素材のものとが、一つの現実への情熱のなかにとかされるようになり、それで初めてやっと一束(ひとたば)のものとなります。
来年は勉強した素材で、出来るだけどっさり小説をかきます、たのしみ。こまかいものを書いてくれ、と云われなかったら万々歳なのですが。今のところ余り評論もかきたくありません。片々たるものは本当にいやです。雑誌の頁数がへりますから、どこでも片々となりやすいのです。評論ならやはり一つのテーマを自分でちゃんともって、それを毎月少しずつ書いてゆくという風なら、本当に成長に役立つでしょう。その方法をきめてやりとうございます。いずれにせよ、来年は小説の年です。
「朝の風」の「アパート」のこと、あの上に、人が自由に住む云々という文章があったと思います。けれども読者がそこにあるものを感じないとすれば、やはり不十分であることは明かですが。
二十六日からあと、きょうがはじめての手紙よ。『都』に文芸時評二十枚かいたのち、岩波の『教育』へ二十枚、「紙の小旗」二十一枚、あとこまこましたもの三十枚ほど。間では多賀ちゃんのおつき合いをいたしましたし。
多賀ちゃん七日の夜九時十分でかえりました。荷物が迚(とて)もどっさりでね、超過二円四十銭とかとられたそうです。おまけに一つの方の量が多すぎて、駅でつめかえをしたりして、夕飯をたべて一休みして時計を見たらもう八時、ホラ大変というわけで大あわてして出かけたら、いいあんばいに学習院の角の駐車場に車がいて、それをつかまえて四十分前に東京駅へつきました。まだ車輛が入ってもいまいと思ったら、九分どおりの人がのっていて、びっくりしました。寿江子と咲枝見送りに来ていて、林町へその前々晩送別会によばれ、大よそゆきの草履を貰い、寿江子にも何か貰い、てっちゃん、佐藤さん、稲ちゃん其々からお餞別貰って、多賀ちゃん大ほくでした。
丁度忙しい最中、家じゅうごたごたしていたので、私は疲れました。きょうは風が吹くけれど静かで、お客もなくて、ずっと机にいて一つ仕事終って、これをかいて居ります。又今夜も早くねて、あしたの朝なるたけ早くから校正をやってしまって、そちらへ行って、かえりに小川町の高山へ届けましょう。
校正そこで待ったりしているとき出来るように一つ万年筆をかいました。3.50也。アテナ。丸善。金ペンはありませんですからパラテナというのでペンが出来て居ります。「それで書くとこんな字になるのよ、ザラつきます。ちがうでしょう」でも校正は紙がザラですから、どうせいいの。
多賀ちゃんのかえるついでに島田と河村と野原とみんなおせいぼをわたしてしまいましたから大安心です。丁度『明日への精神』の増刷の分が来たので大助り。歌舞伎を見せ、水谷八重子というものを初めて見物いたしました。新派というものの講談社性はどこかもうああいうひとの身にしみついているのね。八重子は情熱のとぼしい女優ですね、ひどく心情のひろがりの乏しいひとです。つまらない女優であると思いました。松井スマ子は子供のときみたぎりですが、目にのこっている生活力がありましたが。本当の芸術的なところがあったのね、八重子は何だか子役から段々仕立てあげられたというものに見えます、そういう演技とつまらなさがあります。歌舞伎では「演劇の健全性」というもののむずかしさがむき出しに出ていて。ひどいものをやっていました、全然伝統的なものは別として。明日校正わたしたら、あの岩波の小さい本を一気によんで、それから又『文芸』のつづきを一がんばりやって、二十日にはすっかりさばさばとなって、それから大した計画があるのよ。もし咲枝たちが国府津へ行ったらば三日ばかり行って息を入れて来ようというのです、いかが?賛成して下さいますかしら。それから、暮と正月を長いもののプランでこねて、一月は半ばごろから書き出す予定。
お恭ちゃんは多賀ちゃんがいなくなったらたよるものがなくなったから却ってしゃんとしてやりそうです。でも多賀ちゃんはようございました、ともかく腕に自信をつけたし、私たちもいろいろ手助ってもらえて。今本につける表の仕事やって貰っている娘さんに来て泊って貰うのよ、もし私が国府津へ行くことになれば。そのひとに索引もやって貰います。
戸塚では、又蓼科へゆく由です。きょうあたり行ってしまっていやしまいかとすこし気がかりです。三十日ごろ稲ちゃんに偶然遭(あ)ったぎりで。
大工に物干のぬけたところ三十日に直させ、風呂場の戸の下のくさっているところ、台所の下のくさったところ直し、用心に恭子の部屋と台所との境にカギをつけ、台所から内への境にも、便所にもカギをつけ、階段下に戸棚を切って、これまであった戸棚をよくつかえるようにしました。それだけで三十円ばかり。
林さんが(大家さん)畳直すならということですが、半分こちらもちですし、今急に暮にかかってさわぐにも及ばないから、畳はこのまま。下の部屋の模様がえをして、タンス類を四畳半に全部うつし、本棚におきかえます。着物のもの、髪道具、顔のパタパタが、六畳にあるとすこし工合わるく、前からその計画だったのですが、ふさがっていたから。本棚は、御飯たべるにも本はうんざりと思っていたのだけれど、考えてみれば柔かい色のカーテンをかけておけばそれでいいわけですから。その二十日迄のキューキューが終ったら、一つ鉢巻をして移動をやります。林町では暮に私の慰労として坐布団をくれますって。これは大変うれしゅうございます。うちのはひどいのよ、余りだから、この間も西川で見て、そのまわりを廻っていたけれど、どうしても手が出なくて、その話が出たら何の風の吹きまわしかおくりものにしてくれるのですって。大いにうれしいと思っているところです。
それから、十二月はうちへ炭が配給されることになりました、二俵よ。これもやっぱりうれしゅうございます。私は正直に手持ちを書いたのですが、それでも来ました。三人で二俵でしたが、二人では一俵よ多分。いろいろの可笑しな話。世田ヶ谷の方で、ボロ家が四百円に売れて、ガスの権利は千円ですって。価格統制をきめるとき水道とガスのフーッという権利というところまで考えが及ばなかったのね。儲ける人って何と頭が敏活なのでしょう、ふき出すほどうまく思いつくのね。
この頃はいろいろな女のひとが本をかきます、本やはどこかに大迫倫子や野沢はいないかと、変なものでも出すのです。そういう著者が批評を求め、或は会いに来ます、閉口ものが少くないのは残念です。世間の波が藻を打ちあげるようです。亡くなった仁木独人の妻のようなものであったひとがやはり本をかいて出して居ります。いろんな云いまわしを知っている女のひとの喋るような文章です。或はグチとタンカの交ったようなものでもあります。十一月二十日から十日間の表。甲一、乙一、丙八。(丙は十二時前後よ)十二月も八日迄甲一(きのう)、乙一、丙五、丁一。これでは落第ね。これから当分は甲、乙づくしにいたしましょう。すっかりそしてくたびれを直します、では明日ね。 
十二月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十二日第八十三信
九日づけのお手紙、冒頭の用事は一昨日ときのうとで御返事出来たわけでした。
ところで、きょうは凄いのよ、朝の仕事の第一着がこうやって手紙かいているのですから。
きのうは『文学の進路』の校正をすっかり終って、月末から肩がつまるようだったのを吻っと体も心もくつろいだところへ、どうでしょう!好ちゃんが実に実に珍しく訪ねて来ました。実に珍しくて。あなただってホホウとお思いになるでしょう?それもいかにもあの子らしい来ぶりなの。小さい豪傑のようなのですもの。アラまあ、と私は挨拶よりさきに体じゅう熱いようになってしまいました。
相変らず生気溌溂でね。さっぱりと美しくてね。
本当に進取の気象にあふれていて。あなたはお笑いになるかもしれないけれど、私は讚歎おく能わずなのです。でもそんなに長くはいないでかえりましたが。
それできのうは思いがけず愉しき動顛をいたしました。いい心持で、何となし充実した幸福な気持になって、きょうもその気持はつづいて居ます。きっと一時で消えるものではないのだわね。私の生活のなかにずーっと交って、うれしい暖いものになるのでしょう。きのうはそれから神田の本やへ行って、すこし店が分らなくて迷子になり、校正をわたし、それから江古田の方の、私の先生だった女の国文学者のお宅へよばれて夜を過し、かえってお湯に入り、そのお湯の中で又新しく好ちゃんを思いおこし段々愉快になって、笑えました。いい月夜だったのよ、昨夜は。お気がついたでしょう?月影は枕におちますか?それから床に入り、ぐっすりと眠って、けさは、ああああと何だか夏以来の軽やかな快活な心で目をさましました。
ああいう訪問の効果というものは不思議ね。こんな活溌快活な印象をのこすというのは。
あなたにもこんな訪問者をあらせてあげたいと思います。でも私はこう思うの、こんなに私が晴れ晴れといい心持になれば、それをよろこんで下さることで、おそらくあなたも幾分は愉快でいらっしゃるのだろうと。それにしても、きのう思いもかけないあの子を見たとき私が玄関のところで気を失わなかったのは見つけものね。
小説の功徳というものについて考えます。やっぱり小説には、小説にしかないものがあるということを沁々感じます。読むひとは、評論とはまたちがったものを見出すのですものね。云ってみれば、評論一冊の傍に『朝の風』のあるということに独特な哀憐もあるわけです、それが感じられているという事実を、私は感じてうれしいの。そして、それはやっぱり私たちの生活のゆたかさや具体的なものの一つをなすのですもの。更に思うことは、積極ないろいろの生きてゆく姿の面白さ、その真の真の面白さなんて、その幾分が果して文学のうちに再現され得るのだろうか、と。非常に優しい勇気のある美しい動作にしろ、それがその現実の充実した脈搏で描き出されるということが殆ど不可能と思えることだって存(あ)るわけですもの。
五日のお手紙に「朝の風」の着想や題材はユリ独自のもの、と云われていましたけれども、それだから、というところもあるの、おわかりになるでしょう?
九日のお手紙にあるサヨの生活条件がはっきりしていないというところ、あれは勿論作品として指されるべき点です。その点について、あれを活字でよみかえしたとき、私は大変真面目にいろいろと考えたのです、「乳房」との対比で。そして、その相異にあらわれているものから、主観的に自分の病気をはっきり感じたし、客観的に時代を感じたわけでした。そして、あれがそれらの点で底をついている作品であること、一度は通過しなければならなかったけれど、二度とくりかえせないものだということを明瞭に知ったわけです。
そういうことについてなど、弱点を、私はきっと誰より深く理解していると思います。そういう意味でなかなか意味ふかい作品でした。一生に一つしか書かないような、ね。
しかしながら、あすこにある情感が偽りや拵えものでないことは、それが読まれたのちのニュアンスでわかることでもあります。小説って面白いわね、本当にいいわね。こわい程興味がありますね。小説を書いてゆく、腕でかくのでなくて、自分の肉身からかいてゆくと、そこに何と面白く、複雑な錯綜も顕出して来ることでしょう。胸を抑え覚えず片膝ついた姿がそこに現れているにしろ、やはり其は親身なものです。
勿論大丈夫よ。もしそういう状態にいつもいたとしたらそれは既に一つの心の病気ですから。
小説のなかには私は一つの病気をばくろしていると思います。それは、夫婦の情愛についてです。私はそれをやさしい思いでしかかけないという現在の病いをもっていて、これは真面目に成長しぬけてゆかねばならないところだと思っています。(「杉垣」「朝の風」そのほか短篇)
長い小説で、私は力一杯自分の小舟を沖へ漕ぎ出す決心です。
この実業之日本の本に比べると、高山の方は文学に関するものばかりで、又それぞれの味をもっていることでしょう。こちらの本での柱は、明治大正文学の作品の研究でしょうね。
感想や評論をかくときは、益〃はっきりとしてわかりよく語られる歴史の見とおしというものを失わず、ゆきたいと思います。主観にかたよらずに。現代の文化の正常な前進にとって一番大切なものは、そういう視野のひろさや平静さや弾力です。
小説では、私のこの心一杯のものを、ごくひろいところまでグーッとおし出して、人々の生活への共感に活かしてゆかなければなりません。
晨ちゃんの論文は、大変粗笨(そほん)でした。政治と文学のことを論じ、各〃のちがった特殊性を明かにして、二つのものが協力出来るのは、政治が現実の直視をおそれないときに可能であると云いつつ、その可能性の現実的観察はされていなくて。あの人はああいう雑な頭でしたか?では又ね、きょうは、お礼よ。 
十二月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十四日
きのう十一日づけのお手紙、そしてきょうは十三日の朝の。ほらね、やっぱり笑えたでしょう?本当にいい心持ね。何とも云えず愉快なところがあって、からりとして、ぐっすり眠るところがあって。何という知慧者でしょうと三歎いたします、しかもユーモラスであって。ねえ。いいわねえ。情はひとのためならず、と昔のひともわかったことを云ったものだと思われます。
あなたのところにもある快活さ実によくわかります。笑えるという、その目元、口元まざまざと。リアリストであるということは何と幸福でしょう。
よろこびのいろいろなニュアンスが重ねられて、生活の美しいかさね色がつくられてゆくということを考えました。たとえば、長詩の五版連出の面白さ、たっぷりさ、うれしさ、独特でしょう?それとは又違った散文の表現で、しかもバーンスの詩に近いような生活力の溢れた作品での面白さ、たっぷりさ、闊達さ。この闊達さこそ、何かこの傑作の精髄ね。二人を笑わせよろこばせる骨頂ね。
そして又考えるのは、表現の手法の可能の上にある男の芸術家としてのちがい、女の芸術家としてのちがいの天然の面白さ。本当にそれを思います。表現の可能を逆においてみて、女性の芸術家の闊達性が同じ表現に近い手法をとったら、読者としてのあなたはどうお感じになるでしょう。こんな爽快な笑いがあるでしょうか。そうではないと思うわ。きっと心配なさるでしょうと思います。破れた(何かの均衡が)形として感じられるでしょうと。そんなところにある表現の差、微妙ねえ。何と微妙でしょう。女性の芸術の闊達性が、さすがのユリもという表現で出て、健全に明るくあり得るところ、面白いわね。ここのところ千万無量の面白さ。何か本当の男らしさ、女らしさ、その美しさ、自然さというようなものの意味で。女を女らしくあらせるほど男の充実した男らしさの面白さ。
ぷちぷちと小さくうれしく湧き立つような心持があって、私は血液循環も爽やかに大いにがんばりのきく気になって居りますから本当によかったと思います。実に適切な読みものの選択でした。思念的なものでは全くだめな状態であったということが一層はっきりするようです。ああ些末主義をリアリスムと考えているやからに、リアリスムのこんな境地のあることを、どんな描写で学ばせることが出来るでしょうか。
十一日のお手紙。情痴文学がそこまで歩み出せば、それは進歩であるが、もっと複雑な要素に立つ文学がそこへ腰をおろしては退歩であるということ、この関係は正しくとらえて云われていると感じます。あの『現代文学論』にしろ「文学史」にしろ、その前の方の側から云っているが、後者の側をはっきり押し出していないというところに難点があるわけです。更に、この頃の妙な文学の従属主義に対する意味で『現代文学論』の著者は、芸術のための芸術の価値を裏側から云っているわけですが、やはりそこには人間へ還れの場合にすべり込んでいるあぶなかしさのまま一歩進めているところがあって、むずかしいのね。或ものには進歩であるそのことが或ものには退歩としてあらわれるということ、そのダイナミックなもの、そこですね。このことは、いつぞやのお手紙にあった論理的把握と歴史的把握との間にある空隙のことと共に大変有益です。こういうところ私は忘られないのよ。具体的で実にわかるの。ありがとう。
それから、友情論について。ここに云われている点、その通りです。例えば、「友人」だからと云って妻のある男が妻の知らない女を遊ぶ対手にするなんということは、それは友情というべきものでないという理解、それは、友達であるならその友達の配偶への態度に自然な限界があるべきという私の書いたものの中に云われていると思います。そういう点での友情と称するもののいかがわしさを、私はちっとも許す気をもっていません。ですから「人間関係の豊富さ」ということにかりて、そういう妙なルーズさを肯定しようとする友情に、私は常に反対なのよ。遊戯的或は擬似的な接触としての友情なんて、そういう表現をえてつかいたがる連中の頽廃でしかありません。そして、その所謂友達のあいまいな性質、妻を不幸にする存在について私は沢山見本を見ていると思います。それが逆に良人を不幸にする場合だって、例えば「海流」の中にその片鱗を示していると思います。
すべての同僚感即ち友情ではないというのは本当ね。実に本当よ。そして、これは、歴史的推移の甚しいときには、何と具体的に痛感されることでしょう。
その点につき、私はこの頃、いろいろな人のいろいろな暮しかたというものが、つまりはそのひとのいろいろの核心的なものの位置を何と雄弁に語っているかということについて改めて考え直します。
その意味で、いつかのお話の中で一寸出た、(『文学論』にふれてでしたが)「人への評価でもユリは」云々の話ね、やっぱり忘れず心にのこっていて時々反芻しています。ちゃんとした評価、それに準じた交友。そういうことは或る時期心の中で人々の居場処に変化を生じるのです、近いところにいたと思えた人を遠くに見なければならないという風な。そして、そのことはここに云われているひろい輪とその中の独自な輪との関係をはっきりさせていないと、何となし心を傷ましめる感じにうけとられてセンチメンタルになる傾があるのね、そして、自分の評価に自分の方でついてゆかず、ごまかして、人情主義になるのね。その点では大人になってつき合いの雑多な等差に処してゆくべきです。生活の面の多様さにつれて次第に其は分って来てはいても。一番いけないのは近い筈なのに遠いことを発見してゆく心持ね、いやね。そのくせ、それでいて、遠いきりかと云えば、ことによってはやはりそれなり近いのだから。
この感情わかって下さるかしら。「文学史」の後半について云われていることについて、私は一寸前の手紙にもかきましたが、その心持がああいう場合にも私には作用していると思います。そこが、私の評論家でも歴史家でもないところであるわけでしょうが。
仕事上の交渉は云々のこと。私なんか実にそうね。特にその点神経も働くわけですけれど。婦人の作家にしろ何にしろ、その点がルーズなひと、逆に個人的な何かで仕事をひろげて行こうとしたりする人で、しゃんとした社会的存在をつづけるものはありません。
それは日本の社会がおくれているということが変な逆作用をいたしますからね。あの某々が特に接触のある某々だからと、公人として便宜を得るなどということは万々ありませんね。それを女のひとたちはおくれていることから理解しないのよ。女こそ、猶個人関係なんかけとばした仕事でものを云ってゆかなければ、すぐ個人関係の推移とともにどうにかされてしまうことを十分理解しないのです。そして、ひどい軽侮をうけている、かげでね。
私なんか、だから特殊な便宜もないし、非個人的であることから、私を知っていたら云えないような見当ちがいの悪口も云われるけれど、そのような点でちがった質のことはひと言も云わせないところあり、そこが小面にくいということになってあらわされたりもするのよ。読者にかけている期待、読者に負うている責任、その実感とその努力とは、個人的なものを間に挾んで仕事をする人間には到底理解されないことです。読者というものは、つまり歴史の積極なものという意味でしかないのですものね。それに対して自分は何を寄与しているかという確信、それ以外に仕事をさせる力はないのですもの、それ以外に仕事をさせられないことを堪える条件はないのですもの。
十三日の手紙。
カレンダーと云えばね、今あるような柱暦、今年はないかもしれないのですって、実に不便ね。私は月めくりを茶の間の柱の時計の下にかけておいてね、用のある日のまわりに鉛筆でわをつけて居ります。だから坐ってみると一目でわかっていいのに。日めくりなんかだと本当に困るわ。
月曜の午後来てもいいと。あら。あら。では安静は?ずるやね。私はかぎつけていたのよ。きょうからどうせ開始の予定ですから読み了り参ります、丁度用もあるし、お金をもってゆく(そちらへ、よ)シーツもどうやら出来ましたし。
そうね、もう僅で本年も終ります。
多賀ちゃんのこと。多賀ちゃんが一番ためになったのは、私が若い女のひとの生活上の様々の点で、肉親であるとないとにかかわらず出来る限りしていい範囲のことはしてやるということを学んだことでしょう。あのひとのこれまでの圏境は、何かためにいいからか義理があるかしなければ、人にしてやるということを考えない中で育って来て、自分に対してされる親切も、つまりは若い女として自分の可能をのばさせてやろうとする心からだけされていて無償のものだということを知ったのはいいことでした。男のひとと女とは、若い人のもっている条件がちがい、女には特に女の先輩の力が入用です。そのことは知ってよかったのね。それで、野原の裏の地面のことああいう考えかたになったのよ。初め頃は、今更そんなこと要求されたりと、野原側で考えていてね。あのひとが少くともいくらかよりひろい見地に立つことを学び、それをきくことを学んだことは、将来の皆のつき合いのためにいいわ。
女の少しどうかあるひとは「書生を養う」のが好きで、自分の世話した若い男が世間的に立身するのをよろこぶが、そこが私に云わせれば、古い女の古さです。女こそ女を扶(たす)けなければ、ねえ。
多賀ちゃんはたくさんひがみをもっていて、そのトゲをなくしてかえったのは、あのひとの仕合わせよ。すこし利口な女が、やや逆境で、負けん気をもてば、狭い井の中でひがむのはさけ難いことですから。まあ私の親切の理解は様々でも満足されてうれしいと存じます。
夜は十時、ねえ。そういえば一昨夜はかぜになりかかって九時御就床よ。それでうまくまぬがれましたが。早く早くと心がけているのですが。丙が十二時前?では乙は十一時?私は丙は十二時前後なのよ。半までは丙でごかんべんとしているのよ。ああああ、あなたをここへもって来て、この表のようにやらせてみてあげとうございます!
長いものは毎日五―七枚という密度でやってゆくのよ、どんなにたのしみでしょう。そして、表現上の丹念さというものをも十分にとりかえします。沈潜して沈潜して仕事したいと思います。
私が表現上の丹念さをもっているのは、一時に幾種もの仕事が出来ないという私の特性と一つになっていることで、いろいろのことから無理してもいろいろの仕ごとをやって来ているには、無理もなくはないのです。長いものは、もうそれとくびっぴきでやりたいわ。ですからきょう迄おくれたのだけれども。それに、今になるとよかったことね。
長いものの間で、非常に作者の内的な世界が、作品の世界とは別の波調で揉まれたりしたら非常にこまったでしょうから。底をついたところがあって、そこにあらわれている芸術上のいろいろのことを自覚して考えられて、そして、そこからの成長として長いものかくのは大変いいわ。本のバカ売れる時期ではなくなりました、が、それでいいと思うの。石川達三はバカになるわけです。あんな屑をかきよごして三四万の金がゴロリゴロリと入れば、相場師よりバカになる道理です。もぐらもちの嬉しい心持ってあるかしら、私は長い小説をかかえてもぐりこんで仕事すること考えると、もぐらが柔い泥へ鼻柱をつっこんだときこんな楽しみかしらと思います。 
十二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十七日第八十五信
この雨は雪にはならないでしょうね。いかが?大変おさむいでしょうけれども。
私は昨夜は只一つも火鉢なしというところで座談会をやって、なかなか珍しい経験でした。これからずっとこうだとすれば、人を招くものは大いに心しなければなりません。洋服のひとは御免下さい、とオーバーきるのよ、でも私はそう云ってコートを着るわけにも行かないのですもの。
きのうは愉快そうにしていらして、私は二重にうれしく、火鉢なしでも、もてたところあり。
実にこの暮はいい暮れになりました、本当にいいおくりものいただいて。
文庫本ね、適当なときに、適切なもので、ずっと「文学史」について云われていた諸点、自分でもいろいろと考えていた諸点はっきりして、確信がついて、何とうれしい気持でしょう。「人間に還れ」という文学上の表現が或種の作家にとってはデカダンスからの救いである(これはしかし広汎ね、生産文学から農民文学から知性の文学から生活派文学に亙るのですから。)が、或る作家にとっては逆転になるということの意味が、鮮明に見えます。一本の道の上を一つの曲り角からこっち迄そのまま辿って来るのではなくて、ぐるりとのダイナミックないきさつで質の変ったものとなるのだという、その機微は、何と文芸評論にとって、大切な精髄的なものでしょう。芸術至上主義をも否定出来ないというとき、それはありのままに云えば、やっぱりいつか又自由なあきないが出来るようになりましょうというのと同然であるということ、その評論的質のこと、何と微妙でしょう。芸術至上主義論に対して本能的疑問は「人間に還れ」より一層自然に、私にはあったわけでしたから。
でもうれしいわ。本当にうれしいわ。私の爽快さは、名処法と相俟って、本格のものになった様子です。益〃地味に、ジャーナリスティックな埃に穢されぬ本質で勉強するよろこびを理解します。
きょうの雨のようなものね。雨のいる条件はすべて備っていたところ、というわけでしたから。
きょうはね、午前仕事して、午後からあなたの羽織の紐を買いに出て、夕方かえって、深い深いよろこばしい思いで殆どしんみりして、茶の間でひとりで、買って来たいい色の羽織の紐を結んだりといたりして眺めながら、考えて居りました。よく似合うわ、奇麗だことね、そう思いながら、頭のしんでは極めて遠大雄大な文学の展望を描きながら。あーあ楽しい、と思ったの。こんないい色の羽織の紐、こっち側から一寸はなれて見ていいわ、という景色のないのは残念と思いながら、こんなこまかな女房のよろこびとこんな大きい芸術のうれしさとがとけあって一つにもてるということにある条件、沁々と感じました。
私のうれしがりかたすこし強すぎるとお思いになるかと思いますが、それは安心なすっていいのよ。わかったということも理解である場合と発見という場合とがあってね、理解が発見的境地をもたらす場合、その者にとって、他人が知っているとは全然別様に作用する発見であり得るということはあり得るのですもの。
もうすこし仕事片づけたらこの本をもう一度よんでね、つづいて第十章のところのこまかくかいたものをよんで、そして初め間違えてよみはじめたものをよむつもりです、面白い。レバーをのむときのようよ。ああこれだけのむと、あしたもてる、そんな慾ばった感じで血の殖える感じ。
私は痛切に感じます。私は作家として小手先の面白さでまとまるようなものに生れついていないで、その全部の育つためには自身なかなか骨を折って、ぶつかって全重量を傾けるに足る素材のいる時期に入って来ていて、しかも素材を日常の中からつかむ(そんなに大きく)には、それだけの大きい勉強がいるという、そういう作家なのね。
あの文庫よんでいて、一つの云うのがおしいほどいいテーマを感じました。それは「海流」の中にも一寸出て来る重吉の家のあきないの推移の本当に基本をなした動きをずーっと勉強して、今日女の事務員が精米に出張している、その日への過程ね、これは一つの立派な堂々たる素材であり、テーマです。安積(アサカ)の米屋、百姓とのいきさつ、その百姓とKとのいきさついろいろ。これは二年ぐらいあとでものになるのよ。いいでしょう?大したヒントをとらえたでしょう?うれしさはそういう点で二重三重よ。日本と日本の家庭の一つの典型のエピック。リアルによく勉強し、楽しみです。こういう大きい作品のプランがあるといそいそね。その意味でもいい年末です。
しかし、出版関係は大したことになるらしい様子です。紙が先ず現在つかっている量の二割の由。二十冊出した本やで四冊ですからね。配給の工合も全く変化して、今四つの大売捌が会社になって、小売ははじめ希望だけ買ってしまうのですって。そしてその手数料(小売の儲が)岩見重太郎は五割で自然科学なんかは一割の由(暫定)税務署ではならし二割と算術するのだそうだから、誰だって岩見重太郎をおく、と。大したことでしょう?出版屋が、著者を儲けでだけしか計らなくなるのは当然です。儲る著者が石川達三ピカ一という現状は輪に輪をかけます。そして文化は益〃ダラクいたします。しかも国は重大時局に面しているというわけです。
このような来年の展望にあって、しかもやっぱり私はうれしさを感じるとしたら、文学の面白さ、歴史の面白さに所以するしかないわけでしょう。こういう時期に、勉強の価値がどんなにいきるのかということこそ面白いと思います。
ワンワがあんぱんにつられるように、書けるものを追って顎を出してゆけば、どういうことになるでしょう。面白さ、勉強の面白さは、書けるものにかくべきことを見出してゆく力ですから。
この暮は、島田のおせいぼなんかみんなすませたので気が大分楽です。あとは例のふたところと、眼のおいしゃだけよ。多賀ちゃんが世話になっていたお医者様二人にもちゃんとお礼いたしましたし。
あすこの家は時代に一番わるくさらされて居りますね。だから多賀ちゃんにしろ、ぐじぐじした生活態度にすぐなって。
二十五円で本屋をやる人に店の右側の一区切りを貸す話、きっとかえりぎわにあったのでしょう。履歴書出さないでいいのかと云ってもいいと云っていた、何故かしらと思いましたが。
結果からちっとも生活を真に向上させる方向を示さないから、やっぱり総体の私に与える印象では、何だか張り合いぬけのした、なあーんだという感じで、よくありませんね。手紙にでも、こうして私の月給だけ入ると思うと勤めも辛いと思う気が出て、と正直に云ってよこすなら助るけれど、只「つとめもどうしようかと考えています」っきりでね。私は勤めれば、と思って着物だって身のまわりのものだって随分無理してもたせてやっているのに。だから、ひとを利用すると云われるのね。島田のおかあさんがおおこりになるところもわかります。一人の娘が境遇から与えられてゆくよさ、わるさ、何と複雑でしょう。
でも、あなたは余り勤めをおすすめにならない方がいいわ。体が丈夫でなくて、タイプに通ったってよくへばって臥(ね)てばかりいたのだから。体をわるくしたりするといけませんから。生活態度は何も形で勤める、勤めないのことではないのだから。勤めないなら勤めないということの中にある態度なのだから。あの子は頭に早いところがあるから、逆に目前の適応性がつよくてそのときの空気や話にアダプトするのね。何だか裏の地べたを隆ちゃんに云々のことも大した期待を抱かせませんね。それならそれでもかまわないようなものでもあるけれど。
客観的に今の光井の空気、その中でスポイルされてゆく村人たちの生活を思うと、一人の娘のそういう動揺もよくわかり、娘の家の存在もよくわかる、もっと貧乏で貸すところのないものはよろこんで働きに出てゆくのだから。貸せるから(高く)働かなくなる、こうして全く別の方向に押しながされるのね。いろいろやはり深いものがあるわけです。
来年は一仕事すませたら島田へ行ってみたいと思います、いろいろ勉強かたがた。たのしみなのだけれど、あのうるささ思うと些かうんざりね。大臣格でね、どこへお出でです、何日においでです、全く、ばかばかしいのよ。光井へ泊りにゆけば、もうちゃんと御来訪で。実に時代おくれな形です。去年は特別でしたろうけれど。
こんな紙はもう天下どこにもなし。今にきっとタイプライタの用紙にかくでしょう。普通の手紙の紙ひどくて、こまかくかけないし、ペンがひっかかるし駄目です。タイプライター用紙はいくらかましですから。封筒も、もう丸善のああいうのやそのほかありません。日本紙の封筒をつかうかもしれません。いろいろ様子がちがって参ります。
私はこの頃せきしているのよ。大して風邪をひいたとも思わないのに、せきになりました。いきなりせきになったの。あなたは?呉々もお大切に。
羽織の紐、ほんとにいいのよ。そういうものにある美しさは格別ね。男のなりで思い出しましたが、佐野繁次郎ってイヤミの標本は洋画をやるが伊東胡蝶園で俳優花柳方面の白粉屋の主人なのね、成程と感服いたしました。では明日ね。 
十二月二十六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書速達)〕
十二月二十五日第八十六信
これが今年の一番おしまいの手紙となります。きのう、ほぅとお思いになったでしょう?現れたのが寿江子で。
二十二日にね、『文芸』のすっかり完結して、予定の二十日より二日のびたけれど、序文、目次、年表とりそろえ『中公』が五時で終るのでフーフーかけつけて、やっと渡し、やれやれと本当に一年越しの重荷をおろしいい心持になったところ、大瀧の叔母に当る人が永く胃癌(がん)でいたのが亡くなり、そのお通夜ということになりました。
この大瀧潤家という叔父は不運な男で、林町の母と同じ年故今六十六でしょうが、三人の妻に病死されて居ります。一番初めの妻が、父の妹の鷹(ヨー)子という人でした。その人の子が、基とひろ子とあって、ひろ子というのは、三井のパリパリのところへ嫁いだはいいが、ひどいきらわれようをして、病気になって結婚して一年目に離婚して死去しました。基は後つぎだが、あとの細君の子が六人いて、ソーソーたるところへ、そのお菊さんというひとも死に、あとへこのお久さんという人が来てやはりこの人も没したというわけです。又何故お菊さんとかお久さんとかいう名の人ばかり貰ったのでしょうね。
私は、今度の叔母という人とは何かのことで家内が集らなければならなかったときしか会っていないのよ。ですから病気のこともよく知らず、見舞もしなかったので、叔父に対して余りわるいからお通夜いたしました。感謝するよ、と云っていたわ。もうすっかり白髪でね、昨日葬式でしたが、もうすっかり暗くなっている墓所でそのうつむいた白髪だけがぼんやり見えて、私は大変気の毒でした。お医者としてはヤブなのよ。それが家柄の関係で、順天堂のおやかたの次で、生え抜きです。ひとから頭を下げられてばかり来ている。そのためにひろい世間を知らなくて、あととりの息子なんかのものの考えかたと正反対で、又ちがう子がどっさりというのですから、家の内はごたごたなの。
その点も気の毒です。しかしこの点については云わばその人の責任もあるけれど。妻に三度とも病死されるというのは偶然ながらひどい不運ね。そういうわけで、きのうは朝五時の省線でかえって、十一時迄眠って、ずっと七時迄。九時におふろへ入って、けさは十二時迄眠ってしまいました。私の表でこれは何という点でしょう。丁の下?
さて、『中公』では、あれに気を入れていてね、なるたけ早く三月ごろに出したいと云って居りました。それに大変いいことは、うけもちの人が変って、おちついたいい本を出したいと考えている人になったの。今までみたいに、そらやれと火のつくようなことを云わない人になったの。ですから長篇も書くはり合もありますし、いろいろ心持がよくてうれしいと思います。一月になったら長篇の印税をいくらかとって、四ヵ月ぐらいの間にまとめます。その間に、一冊ぐらい本が出るとすれば、まさかまるであとは一文なしにもなりますまいでしょう。
二十八日―五日ぐらい迄にまだ五六十枚書くものがあります。それをすませ、お正月は、あの本のつづきのものをうんとよんでね。
今年の暮は私たちにとっていい暮だと思いますが、いかが?十二月に入ってから、私の心持に本当に明るい展開がもたらされて、一層、しんの人間の明るさが、性格の明るさなどというものにたより切れるものでないこと、しんの明るさは正しい理解からしかもたらされないことを痛切に感じ、そのよろこびは大変ふかいのよ。いろんな場面で物を云わなければならないとき、内在的なかんでものを云うことには限度があって、(その正しさに)ね。その限度はやはり直感されていて、そこから生じる主観的な弱さがあるわけです。勉強のたのしさというものは、こういうときこんな味で分るものなのかとおどろいているわけです。こんなにユリを両面から明るくゆたかにしてくれるおくりものが与えられたということ、やっぱりいいお心持でしょう?私は本当にうれしい気持です。こんなに段落がついて、くっきり自分の心の展開の自覚されるということはうれしいことだと思って。
お母さんもいろいろの点で今いいお気持だし、隆ちゃんも一週間で手紙の来るところに無事で蚊にくわれもしないでいるし、それもやっぱりうれしいでしょう?
それに、何年ぶりかで、借金しないで暮が過せて私はいい心持なの。これもまあいい心持の一つ。
何だかひどくうれしづくめの手紙のようで滑稽だけれど、それでも、その範囲では御同感でしょう。元より一番のうれしいことは、勉強のこととあのことと、仕事のことよ。
この勉学の収穫としてのいい心持というのは、夏から後の結果に対してばかりでなく、よく考えてみると、この三四年来のいろいろの心持の起伏の集積に対して効果を与えているのであると思います。あなたが、あきもせず、くりかえしくりかえし仰云っていることは、やがてはこのようにしてしんからわかる結果で結実するのね。そのことも大変面白いわ。そして、自分の程度がもっと高まるにつれて、くりかえしの必要のへってゆくことも面白いと思います。
この手紙、まるで郵便船でも出るように、いそいで終って速達にいたします、二十八日に間に合わないといけないから。いろいろのことがあったけれども、総体としてはわるい年ではなかったわけでした。
でも、クリスマスなんかは外の飾りからすっかり消えて、銀モールその他なんかどこにも売って居りません。お正月のお餅は切符でこしらえます。おとそにするみりんが買えたので、マア珍しいと笑いました。みりんなんて殆ど一年ぶりですから。
二十八日迄のはこれでおしまいですが、本当のおしまいまでにきっと、まだもう一通は書くでしょうと思います。
寒さお大切にね、はらまききょうもって行きます。あの羽織紐いい色でしょう?では一先ずこれで。 
十二月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月二十六日夜第八十七信
手紙まだ書き足りず。今夜もかきます。
夜は机の木の肌もすっかりつめたくて、手もかじかむので、やっぱり火鉢がいりますね。今夜は二度目の火鉢よ。御倹約でしょう?「紙の小旗」をかくさわぎのとき入れたぎり。従って、大した夜更しもないこと実証也のわけね。
きのうの手紙はいそいで、好ちゃんのことやなんかちっともお話ししず。それやこれやで結局書き足りない感じで、こうやって又紙に吸いよせられたのでしょうと思います。
きょうは、あれから十一時すぎ十二時十分前位まで宅下げ待って、それから富士見町へまわりました。九段下へバスが池袋から出ているのよ、東京駅行。そこから九段の坂をのぼって行ったら、パラパラ降って来ました。いそいで富士見町の方へ曲って家へ辿りついたら先生オーバーを着て出かけるところ。あたふたしていて、二階へ上り、一応勘定書についての説明をきき、それからついマナイタ橋の横だから思い切って金星堂へよりました。そしたらうけもっている人恐縮し切ってちぢくまっているの、可哀想に。あすこでは興亜書房とか云って一方で赤本出しているのですって。紙は紙やからのおあてがいなのですって。間には(九月から)一冊あの本(あなたのおっしゃっていたの)を出したきりの由。その本というのは、戦傷して腰から下が全く失われた人に同情して嫁した看護婦の人の手記なのですって。そのときはいろいろ美談でしたが、実はその結婚について女のひとが、いろいろ家庭の事情に支配されていたということがあって、寧ろ気の毒に思う人もあった、その人の手記なのですって。わるい流行ね。なぜ嘘をつかせるのでしょう、幾重にも。九月以来金星堂としてはそれ一冊なのですって。経済的理由でもないらしいのよ。一月初旬には出るでしょうって、首をちぢめての態でした。表紙も刷れているの見せました。本文も刷り上っているのですって。だからきっと今度はたしかでしょう。
おなかペコペコでかえってパンたべて、さち子さんが来て一寸話していたら、元看護婦をしていた榊原さんというひと、私の切腹のとき手つだって貰ったりした人、あのひとが結婚しているのが半年ぶりに訪ねて来ました。来年三月にお母さんになる由。そしたら、女学校の五年生で、宮田アキという歌をよむ人の娘が来て(予約)いろいろ話し、皆で夕飯たべ、今皆ひき上げたところ。その十八歳の娘さんは絵をやりたいのです、女学校出たらつとめながら。いろいろそれについての勉強方法の相談なのです。お母さんは歌よみで情熱的で(歌人風な、のよ)アテネ・フランセという名も娘は今まで知らなかったというような状態で、たよりないのね。きっと。この間朝、女大のことを私にきくと云って(勘ちがえよ)母娘づれでかけつけて来て、その娘さん一人で来させてくれ、というわけなのです、我々の家庭での最少年よ。表の仕事手伝ってくれていた娘さんは二十で、お恭ちゃんもそうですから。この頃は絵を描きたい娘さんがまわりに出来て面白いこと。絵を描きたい娘さんというのは、小説をかく娘さんより一寸ちがったところがあって面白いのよ。楽なのよ、つき合うのに。それで一味通じるところがあって。だからよく作家は画家の友達を案外好むのね。そして、その好みに作家としての傾向が語られるところも面白いと思います。芥川:小穴隆一。明星派:印象派画家。漱石:青楓。私のはまだおたまじゃくしとまでも行かない娘たち。しかし、深沢紅子のローランサンばりや、三岸節子のマチスばりや、仲田菊代の随筆サロン画風には、ちゃんと健康な批判をもって、そして、どの子も人間を描くのが面白い、というところ、又面白い。そして、これはやはりその子たちの境遇の必然よ。だって、松下則子たちのアリストクラートのように冬は暖い海、夏は涼しい山という生活はないのですもの、常に人間のなかなのですもの。これも面白いことね、非常に女流画家の(特に日本の)歴史には新しい意義です。何故なら、これ迄の画家は、ほんとに女と云えば、花、景色、静物で、人間を描いたって藤川栄子などのように主として衣服の面白さを描いていて、ね。私はこの娘たちを楽しみに思って居ります。菅野とみ子というひとの方は、本当の画家になる決心しているの。きょうのひとは先ず子供育てることが大切で、やれるものならやるのだから、デッサンだけは今からみっしりやっておこうというの。やっぱり自分の原則をもっていてなかなかでしょう?きょうのひとは石井鶴三に見て貰いたいと云っていて、それはいいわ。お父さんというのは彫刻家なの。技術でやって行けず、工場へつとめているというような彫刻家で、それでも知人としては娘の助けになる専門家も知っているというのでしょうね。
自分が初めて小説の長いのかいていた時分を思って、セイラーを着てスカートふくらがして坐っている娘さんを見ました。私は紫紺の袴はいていたのよ。凄いでしょう?そしてね、毎朝ぐらい鴎外が馬にのってゆくのに会ったのよ。鴎外は馬の上からいつも何となし私に視線を与え、私はそれを感じながら、自分は一寸見上げて、下を向いて通りすぎてしまうの。鴎外が私を知っていたということはずっと後に父からききました。
茉莉さんが『明日への精神』のいい書評を『朝日』にかきました。この茉莉さんは、美学の山田珠樹のところへお嫁に行って破婚になったのよ。大した大した結婚式してね。その山田の家というのは下町の大商人で、孫は(茉莉さんの子?)白足袋はかすという家風なのだって。そんな家へやる鴎外、大臣なんかずらりと招く鴎外、そこに鴎外の俗物性が流露していて、しかも娘は、湯上りに足を出して爪を切って貰うことをあやしまないように育てたりして。茉莉さんという娘は、自分の知らないことのために不幸にされた哀れな女です。杏奴の方はずっと自分の常識で、世間の仕合わせも保ってゆくような人。杏奴は絵よ。旦那さんも。茉莉はものをかく方なのよ、どっちかというと。ここにも何かのちがいあり。
久しぶりにお目にかかって、寿江子はいかがに見えましたか?この頃すこし勉強で糖を出して居ります。でも大分落付いて、いろんなこと分って来て、追々ましです。ましになってくれなくては困るわ。
好ちゃんはこの次はいつ頃訪ねて来るのでしょうね、きっと私の誕生日ごろ(二月十三日)来そうな気が致します。あの子は一種のかんをもっていてね、私のよろこぶときを自然に会得するらしいの、奇妙ねえ。
おついでのとき、どうぞよろしくね。あなただって、たよりおやりになることもあるでしょう?どんな字をかいておやりになるの?あなたのことだから、きっとこまやかにうまい工夫をこらした生活法を話しておやりになるのでしょう。
そう云えば、鳥取の手紙すっかりおそくなって。
「寺田寅彦理博の随筆物等おもちではございませんでしょうか。又文筆家の最近の支那紀行と云った様な書物も父は読みたく思っているのですが。それからこれは一寸方面ちがいのお願いかもしれませんが、父はでてから少し随筆物をかくつもりの由にて、その資料の一つとして動物の習性のことをなるべく詳しく記した手頃の動物辞典が一冊ほしく、只今父が文通しています二人の医博に先般しらべて頂いたのですけれど、医家も全然動物学とは関係ないらしく、父の満足する結果を得ないで居ります」云々。
鳥取県東伯郡下北條村字田井逸子
右のようです。私から簡単に、ふさわしい本がないので残念ながらお役に立ちかねる由返事してもよいと思って居ります。その方が却ってよさそうね。いつか云っていらしたようなことを答えられても手紙の書きぶりから推してそれを客観的に理解する力はないでしょう。ああ云った、こう云った、それがどうで、ときっと在る光景考えると、やっぱり面倒です。ですから、私からいろいろふれず辞典のないことだけ返事いたしましょう。その方が単純らしいから。お考えおき下さい。本がないというのは、それだけのことですから。又手紙よみ直して、そう考える次第です。
きょう受とって来た請求書、つづけてかきかけましたが、いつも別封にとおっしゃるのを思い出し別にいたします。さもなければ又折角これを速達にする意味がなくなるといけませんから。
何だか、あした、あさってで、今年は終りというの、足りませんね。思い設けないことで日をとられてしまったので。でも大体予定の仕事はしたからよかったわね。あれがまだすまないうちだったら又のびのびで閉口でしたが。装幀は中川一政にたのみましょうと思って。いつかは石井鶴三にもたのみます。この間三越で明治大正昭和插画展見ましたときね。平福百穂の美しい原画(菊池寛かの)があったが、それが表紙になったところみると、印刷のエフェクトひどいのよ。金星堂の表紙は本当に秀逸です。生活の感じがあって面白いの。『文学の進路』も松山さんで、大根畑よ。今のところだと一月中に二つ本が出るわけですが。『文学の進路』はもう印税大分くいこみよ。半分ほど。
ああ、これだけ書いて、やっといくらかたんのういたしました。これはなかなか貴重なのよ、仕事の時間すっかり当ててしまったのですもの。だって、ねえ。ああ、まだつづきそう。もう一枚。
そちらでは、お正月のお菓子いかが?こちらは甘味ぬきかもしれません。中村やは「午前八時にヨーカンを売リマス」ですって。私は大変くいしん棒ですが、どうもお菓子のために朝からかけまわる勇気はありません。お正月の東京と鮭とはつきものなのに、今年は鮭もないのよ。うちは組合でうまくなさそうな鮭買いましたが。ミカンはあるの。リンゴと。お互に似たようなものでしょう?そして、私は女房心で心痛しているのよ、シャボンはどうなるのだろうと思って。あなたの夏はせめてアセのおちるシャボン、泡の立つシャボンあげたいと思って。
五六年ばかり前、上落合の時分、百円とすこしで暮していました。不思議のようね。今の物の高さ。家賃が今のままで本当に助ります。この頃はよくよくのことでなければ円タクにのりませんから。五割ましよ。一円メーターに出ると.50足すのよ、林町迄.80だったのが1.20ね。ですもの。のりません。
林町の連中も一家眷族(けんぞく)で市電よ。これは私は大賛成です。特に太郎が大馬鹿三太郎と改名しないために、大賛成です。来年小学校。これも近所の小学に入ることになります。これもよろしい、と思います。省線はこの頃一種荒い人気でね。私はいつも迚もおとなしく隅に立ちます。従来市外にひっそくしていた狂犬属が、時候の加減で真中へ出入りをしはじめたことからでしょうね。お正月の三カ日はじっと家居いたします。きょうその小さい女の子が茶色の鼻の頭の黒い小熊をくれました。大変可愛い小熊です。お恭ちゃんがスウィートピイをさしておいてくれました。なかなか皆其々でしょう?マア、もう一杯よ、何て小さい紙でしょう!書くにつれてちぢむのよ、いやね。では本当におしまい。 
十二月二十七日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書速達)〕
十二月二十七日
これは請求書だけの分です。
六月分逸見上申書六〇枚四通三・一八
〃同四九六枚二通二七・二八
七月分木俣鈴子上申二通一四・八五
公・調四通
九月分宮本顕治公期日変更願その他二通一一・九九
ほかに、七月十六日づけ請求で、その中重複している分をさしひいて。
木島公・調四(一、二回)
袴上申三
一〇・三〇
同陳一二三四公調四通
木島公(三、四)四通
計一九二円〇六銭のうち前の支払のとき九十円払って、今度は十円三十銭だけ足せばよい由。いつか云っていらした分はこれでしょう?
袴田上申書二通三二・一六
これは森長氏にきいてみなくては分らない由、すぐには支払いません。
加藤亮・西村マリ子公判記録四七・一六
謄写以上計一四六・九二
速記料
三時間半二八・〇〇
四月十八日三四・〇〇
待一時間半六・〇〇
一時間
五月十八日一四・〇〇
半時間
五月四日一〇・〇〇
五月二十八日一六・〇〇
七月二日一八・〇〇
七月二十日二〇・〇〇
八月十日一〇・〇〇
以上計一二二・〇〇
大計二七〇・九二
右のうち、年内に支払うのは加藤・西村・袴田上申書計七九・三二をさしひいた分一九一・六二だけ払おうと思って居ります。御参考のために。 
十二月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月三十日第八十八信
今は夕方の五時すこし過でね。私は原稿の速達を出したかえり、目白の角の果物やの半町ほど先の右側に出ているお飾りやで、小さい松飾りとそこに下げる小飾りとを買って、自分の椅子の座蒲団の布をすこし買って、お恭ちゃんの御飯茶わんかって、そしてかえって来たら、向島の江井が来ていて、お雑煮用の鶏肉をくれました。そして、お砂糖も持って来てくれたら、林町でうちでないからと横どりをしましたって。
パンを買うのはこの頃朝八時、夕四時、そして朝は十五分ぐらいでうり切れ。大したものでしょう?さっき出がけにちょいとあの線路に向った床やの時計を見たら四時なので、パンやへ行ったらもう列で、一人一斤半が最高です。パンその他のために列に立った経験を思いおこします、方向正反対でね[自注14]。
私はお正月のお祝いにいつもこの重い体の下でよく役に立っていてくれる椅子座蒲団のおしゃれを思い立ち、上にのせる小さいのは鼠色地にこまかい花模様の。下のは赤無地。スフ三割入りの布地。それでもやっぱり綺麗になりました。
寿江子がきのうから机の横のベッドにいます。風邪気味なの。もう大体いいのですが。私はこっちで仕事している。
今夜と明朝と書いて、それでほんの暫く息をつくわけです。でも二月号の校了が七日頃で、やっぱり月初めはすっかりは遊べず。十日すぎにお恭ちゃん三四日家へかえします。大分ホームシックらしいから。
二十七日づけのお手紙、きのう頂きました。文学史についてのこと。一貫した努力が本来あるべきであるという気持。主観的にはその流れを自身の内に感じ、責任も感じている、その筆者の心持から、云わばあれこれの現象へあの程度でも肉迫しているのだと思います。そして、文学の流れとしてそれを単純に表明し得ないところに、本当によみかえしての苦痛が在るわけだと思います。
「若い人」のあの評ね、あれは批評の精神状態の微妙さで屡〃思いかえされます。あれはあの人のおくさんと私とでよんで、変だ、変だ、と云ったのよ。勿論論文としてだけよんで。そしたらあとから、丁度あれが書かれていたとき、あのことが進行中であったのでした。こわいものね。うなずけるでしょう?この間もあの著者は、自分が自分の欲望にひきずられることについて云っていました。このお手紙に云われている分裂は常につきまとっています、そして、かつてのときのように表現されず、段々大人らしくやられてゆくことによって本質的に益〃その面は低下するのです。しかし決してそれを正面からとやかく云わせない構えをもって来ているから。でも私は、この頃はその人々の自主的なものにまかせるべきなのだということが分って、自分を省ること、自分がそれに馴れ合わぬこと、自分は益〃野暮にまともにやること、それを中心と考えることにして居ります、個性的なことに立って云えば、その人としての云い分はいくらだってあるのでしょうから。それ以上のひろい点から云えるなら、その人は自分で自分をもっと責任的に律するでしょう。
仕事の丹念さのこと。それで二十八日に生活費のことおききになったのね。心にかけて(そんなことまで)ありがとう。私は経済上の困難と人間的価値とは、特に現代の社会では別であると考えているのですから、その人に経済能力が奪われたって、本質がそのようなものであれば敬意をもってその状態が見らるべきと思います。儲けられるのに儲けないもの好きとか、ころがり込むところがあると思えばそんな理窟もこねている、というような人間のみかたには、一致出来ないのよ。おわかりになるでしょう?だからなるたけ無理はしないで倹約してやって行くのが一番自然でいいのです。
一月からは当分小説に集注いたしますから外の仕事はのばして貰うようにします。小説を五枚―七枚ぐらいずつ一日にかいてためてゆくたのしさ。今からたのしみです。
友情についての点。自然の条件の外に異性の友人をつくりたがる心は、遊びやの気持と紙一重ということは本当ですし、私のあの友情論は、そういう若いひとの漠然とロマンティックに描かれている友情という雲を、リアルな生活へひきおろして、恋愛と区別して、そして示そうとしたのが目的でした。その点できっと全体とすると、恋愛と友情とのちがうべきことを強調してあなたの云っていらっしゃるような同僚感と、更にその間でも私生活に交渉をもち得る人が友人であるという段々の区別は、明かにされていなかったのでしょうね。
それに一般のこととして云う場合、この同僚感というものも、ずいぶん薄いものなのが普通のようです。只机をならべているというだけで、同僚感というような感情までないのが十中八九らしい。その何人かのうちでやや近い同僚感をもてるのが数人あって、更にその中の輪として友人があるのね。タワーリシチという言葉の訳の同僚というものは、若い女のひと一般には存在しないのではないの?だから同僚感というとき、その内容づけは、極く一般的な形で、同じところにつとめている人、同じ課に働いているひと、となってしまうのね。
自分のこととして云えば話は勿論ちがいますが。同僚と友人、その区別は実にはっきりせざるを得ませんもの。そして何というか、ある人と人とをある時期が同僚として結び合わせても、その客観的な条件が変ってゆけば、それに応じて又変るのでね。そのことも何と動的でしょう。生活の地平線から消え去る多くの姿が必然にあるわけです。
それからね、紙の質と国力の話ね、それからつづいていることね、あれを無意識に書いているということでは困るわ。あなたも大変おこまりでしょうが、私も閉口だわ。だって、そうでしょう?ひとりでにかけてしまうことではないでしょう?
画家が白いものを浮き上らすとき、白い絵の具をぬるばかりではなくて、そのかげにこい色を塗ることで、白を浮立たせなければならないときがあります。犬が犬だよと云われて怒るとすれば、猿ではないよというでしょう。
私はうそから出たまことということを文学論の「人間に還れ」についてだって深く考えます。題材主義のこけおどしに陥っていて、作家の内的な構造とはかかわりなく小説が製造されてゆくことに対して、題材万能から人間に還れということで、論者は人間生活として必然な現実にかえれと云ったつもりでしょうし、そういう風にしか題材主義が土台妙なところから出発していることを突くことは出来なかったでしょうが、しかしやはりそこには論者の何かがあらわれている、そういう意味でね。方便的表現のつもりのところが、いつか主屋(おもや)迄とられるという場合があると思うのです。ですからその意味では、舌足らずが混迷に導かれないことの戒心が実に実に必要なのね。自己暗示にだって人間はかかるのですものね。それが現代の試練だというのは真理にふれたことばです。〔略〕
でもこの間もつくづく思ったのですけれど、あのいい本、よみかえすのが苦痛であると云うにしろ、あれだけ明瞭であり得たということは、何と沁々と今日よりも二十五六年前の歴史の相貌を顧みさせるでしょう。現代の水の浅さはどうでしょう!
きょうはもう二十六日に出した速達見ていらっしゃるでしょうね。これは新年になってつくのでしょうか。そしたらおめでとうのわけだけれども。でもこれは今年の最終で、元日のは元日、それはおめでとうで初めましょう。もう三十日でもこの辺はひっそり閑としているわ。旅行にでも出るのでしょうか。階下でしきりに寿江の洟(はな)をすする音がいたします、家庭的(!)でしょう。では今年のおしまい、ね。
○おかしいおそなえ餅が組合から来ました。もち米七分づきのせいか薄黒くてね、日にやけた小坊主のようよ。

[自注14]方向正反対でね――一九二七―三〇年のモスクワのパンの配給を買うときの列。 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。