「獄中への手紙」 前半  宮本百合子

「獄中への手紙」 昭和九年〜昭和二十年
前半 / 昭和九年十年十一年十二年十三年十四年十五年
後半 / 昭和十六年・十七年・十八年・十九年・二十年・宮本百合子と顕治・雑話
 

雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
 前半 昭和九年〜昭和十五年

一九三四年(昭和九年)
十二月八日 〔牛込区富久町一一二市ヶ谷刑務所の宮本顕治宛 淀橋区上落合二ノ七四〇より(封書)〕
第一信。(不許)[自注1]
これは何と不思議な心持でしょう。ずっと前から手紙をかくときのことをいろいろ考えていたのに、いざ書くとなると、大変心が先に一杯になって、字を書くのが窮屈のような感じです。
先ず、心からの挨拶を、改めて、ゆっくりと。――
三日におめにかかれた時、自分で丈夫だと云っていらしったけれども、本当は余り信用出来なかったのです。叔父上[自注2]が、顔から脚から押して見てむくんでいないと仰云ったので、それでは本当かと、却ってびっくりしたほどです。それにしても体がしっかりしていらっしゃるのは何よりです。私とは勿論くらべものにはならないけれども、私は一月から六月中旬までの間に相当妙な調子になって、やっとこの頃普通にかえりましたから信用しなかったのも全く根拠のないことではないわけです。
叔父上は十二月六日に林町[自注3]にお出でになり父[自注4]にも会われ、いろいろのお話を伺いました。さしいれのこと、弁護士のこと、毛糸であんだ足袋のこと、いろいろ承知いたしました。お弁当のこと、弁護士のことは、大体私もそのように考えて居りましたから御安心下さい。籍のこと[自注5]ももう余程前からの話なのですが、やっと今度お話になられ、私も非常に満足です。あなたも其を当然のことと感じて、御返事下すったということはこれも亦私にとっては様々の意味で愉快なことです。そういう私の心持はおわかりになるでしょう?
五日に叔父上のお会いになったときは、もうあの百日カズラに髯ボーボーではなかったってね。着物は先のままであったそうですが、今日あたりは差しいれたのが届いただろうと思って居ります。帯をしていらしったというけれど、それはどんな帯だったのか、私の入れたやすもののヘコ帯かしら。それとも違うのかしら、と叔父上に伺ったら「ヤアそれは気が付かざった!」と首をちぢめておいででした。
六日の日は、お昼を竹葉の本店へお伴して、座敷が大変お気に入り、今日七日はおひる父と三人で、銀座の星ヶ丘茶寮の出店。かえりにずっと上落合の家へおいでになり、ねころがったり起きたりよもやまのお話ですっかりくつろがれました。夕飯を壺井さん[自注6]と三人でスキヤキをたべて、それから東京駅へお送りして行って、九時ので大阪までお立ちになりました。もう五分くらいしかないので、私が寝台から出て来ようとすると、どっかで林町の父のお得意の口笛の音がするので、キョロキョロしたら、急いであつそうな顔をしながら片手に浅漬の樽を下げてお見送りに来たのでした。
私は島田の父上[自注7]の御好物の海苔(のり)をおことづけ願いましたし、べったら漬もあるし、まあ東京からおかえりらしいお土産が揃って結構でした。
お立ちになってから林町へ一緒にまわってお風呂に入って、十二時一寸前家へかえりました。栄さんがあなたのシャツ類を編んでいてくれたのが待っていて、お茶をのんであのひとはかえり、私は島田の母様[自注8]が私へ下さったお手染のチリメンの半襟を又眺めなおして、いただいたコーセンをしまって、手伝いに来ているお婆さんをやすまして、それからドテラを着てね、さて、と机に向ったわけなのです。
机はやっぱり昔ながらのテーブルで上には馬のついた紙おさえや、ガラスのペン皿やをおいてこれを書きはじめているのですが、あなたは、上落合のこの辺を御存知かしら。
中井駅という下落合の駅の次でおりて、小学校のつき当りの坂をのぼったすぐの角家です。小さい門があって、わり合落付いた苔など生えた敷石のところを一寸歩いて、格子がある。そこをあけると、玄関が二畳でそこにはまだ一部分がこわれたので、組立てられずに白木の大本棚が置いてあり、右手の唐紙をあけると、そこは四畳半で、箪笥(たんす)と衣桁(いこう)とがおいてあり、アイロンが小さい地袋の上に光っている。そこの左手の襖をあけると、八畳の部屋で、そこには床の間もあるの。なかなか一通りなものでしょう?そこへ私は茶箪笥をおき、長火鉢をおき、長火鉢と直角にチャブ台をひかえて、上で仕事しないときは、そこに構えているわけです。八畳からすぐ台所だというのが私どもの暮しかたには大変いい工合なのですが、生憎井戸でね。朝まだ眠いのに家でガッチャンガッチャン、裏の長屋でガッチャンガッチャン。はじめのうちは馴れないので閉口でした。アラー、チブスになるわよ、とスエ子[自注9]等は恐慌的な顔付をしたが、まさかそれは大丈夫でしょうから、どうぞ御心配なさらないで下さい。水道をひく相談をはじめたら、なかなかはかどりません。井戸の水はただ。水道は最低九十三銭。だからいらないと裏の意見だそうです。尤もだと思い大多数の便宜に従います。
台所へ出てから、二階への梯子があり(これは玄関から障子をあけても行けるのです)、二階も縁側があり、入ってすぐが六畳、奥が四畳半。六畳の方に山田のおばあちゃん[自注10]のくれた机をおいて、四畳半へテーブルと、あなたのつかっていらした本棚をおきおさまっている次第です。二階の景色はよくてテーブルの右手の小窓をあけると、小学校の庭と建物越しに下落合の高台が見え、六畳の方の小窓からもそれにつづいての景色が一望されます。小学校だからチーチーパッパで、ときどきはやかましいが、清澄なやかましさで、神経には一向にさわりません。カンカンとよく響いて鐘がなったりしてね。窓から見ていると、友達にトタン塀の隅っこへおしつけられた二年生ぐらいの男の子がベソをかいて、何か喋っていることなどがあります。下の八畳も二階も、それはよく日が当って、実にからりとした私たちに似合った家です。家賃三十円也。井戸だし、少し不便だし、だからその位なのであろうという定評です。
達治さん[自注11]がこの一月二十日頃に入営することを叔父上がお話しになりましたか?その前に出来たらあなたに会われたらいいと思ったし(そちらにいつ頃まわるか私には見当もつかなかったから)母様の御出京の話もあったので、とりいそいで家をもったわけでした。あなたは御存知ないことだけれども、一昨年の十月末から国男夫婦[自注12]がケイオー病院のそばに家をもち、私はずっとその二階で暮して居りました。その家は、林町の母[自注13]が本年六月十三日に肺のエソでなくなり、(私が臨終の僅か五分前に辛うじて淀橋[自注14]からかえって会う事が出来た後、)引はらって、国男夫婦は林町にかえりました。私は夏ごろはずっと歩けなかったし、心臓衰弱で毎日注射していたし、すぐに家をもつことは出来ず林町の二階の長四畳へテーブルを持ちこんで、十月以後は、文学的な感想や評論のようなものを相当沢山かき半年前よりは発展をとげたということで一般に好評でした。現代文化社というところで私の最近の評論感想集[自注15]を出すそうで、多分一月頃出版の運びになるだろうと思って居ります。本年一月の『文芸』にかいた「小祝の一家」という小説は三一書房という本屋から出たいろいろな人十七人の『われらの成果』という小説集の中に集録されました。その小説集には島木健作「癩」、平田小六という「囚われた大地」という長篇小説をかいた元隆章閣の人などもはいっているし、婦人作家では私のほかにいね子[自注16]、松田さん[自注17]なども居ります。藤島まきという作家も出ました。文学におけるリアリズムの問題が、はじめ妙な傾向をもってトリビアリズムと混同して出されたし「ナルプ」は二月解散になったし、今もってその点では問題がのこされている有様です。私はそういうことについても、其だけ切りはなして云々せず、例えば窪川鶴次郎の「風雲」という小説の批評や、横光利一の大評判になった「紋章」などにふれつつ作家としての仕事ぶり生活ぶりにふれた感想そのものの書きかた、現実の生活的な問題としての文学理論上の問題の捉え方そのもので、正常なリアリズムの発展的な方法を示してゆくよう努力しているし、そのために好評でもあると思われます。小説について一九三二年の春ごろよりは又一段腰がすわったから、これからはいくらか書けます。何か、ここ一年の間に、私は作家として大分様々のものを見ききし、感情を鍛錬され、一層深く強い確信の上に立って生活するようになったから、どうぞ悠々とたのしみに私の仕事ぶりを見て下さい。十一月二十日に朝日講堂で神近さんの婦人文芸主催の文芸講演会では私の話がよろこばれ、私としても、あんなに身をいれて、わかりやすく、文学といっても一般化して云うことは出来ぬこと、文学を作るものの社会生活が反映して来ることを様々の作品の例をとって話せたことはなかったと思います。そのときの漫画はね、まるでバルザックみたいな(これは今井邦子の評)上半身の横に、一つ土瓶が描いてあるのでした。私が土瓶一つからだって、見るその人の生活によって、どんなに連想の内容がちがうかということを云ったからでしょう。文学における表現の形象性と云えば、重ね引出しを整理したら、そのことについて、あなたが中途でやめておおきになった古い、多分三四年昔の原稿が出て、その一枚を私は黒い細い枠に入れ、こうやってかいている机の横の壁にかけて居ります。わきの小窓にかかっている紫っぽいところに茶の細い格子のある毛織地のカーテンと原稿紙の字とは大変美しく釣合って、稲子にさすがだといってほめられました。まるでお話ししながら、そこに全体の仕事を感じながら、自分も仕事をしているような居心地よさです。美しさというものは何と活々したものでしょうね。何一つめずらしいものではなくて、しかもこれらのものは本当に堅実で、雄々しく美しくて鼓舞的な輝きを含んでいるのです。その枠の下の本棚は私の御秘蔵本棚とも云うべきもので、いろいろ愛する本を並べて居ります。
この家へ越したのが十一月二十日です。引越し通知のハガキはもう御覧になって居るでしょう?あれも壺井さん夫婦が世話をやいてくれたのです。お正月のハガキもやってくれるそうです。私たちの結婚通知の印刷物以来の恒例だからやってくれたのですって。――原泉夫妻[自注18]は四谷の大木戸ハウスというアパートで細君はトムさん[自注19]の新協劇団第一回公演では「夜明け前」に巡礼をやり、今やっているゴーゴリの芝居では何をやっているか、旦那さんの方はきっと徹夜して小説かいてるでしょう。今夜見物する予定でしたが叔父様をお送りしたからやめになりました。
この近所には千葉で三年ばかり暮すことになった山田さんの奥さん[自注20]もいるし、河野さくらさん[自注21]が留守中のひとり暮しをして居ります。
ところでお読みになる本について、私ははっきりしたお手紙を見るまで自分の考えで入れるしかないのですが、文学に関する本では少し古典と現代の諸潮流の作品とを系統たてて読んで御覧になりませんか。あなたが三日にまだプランをもっていらっしゃらなかったのは私には自然に感じられたし決して意外ではありませんでした。私の文学的ウンチクを示すようにいい順で一つよませて上げたいと考えて居ります。文学・美術・音楽等についての本は大体並行して一冊ずつよめるようにいれてゆきましょう。その他の種類で、あなたが実際的知識を主張していらっしゃるのは当然ではあるが私は深く満足したし、自分の考えと同じ考えを知って嬉しゅうございました。哲学についても、私はきっと同じように、今の哲学の動きに興味をお持ちになっているであろうと思うのですがどうかしら。当っていますか?もし御同意ならやはりそのようなものを心がけましょう。それを手当りばったりでなく、様々の点で順をふんで入れます。だからその順にあなたは注意をなすって下さい。よまない本があってもかまわないから。読んでしまって返す本はそちらで郵送宅下げの手続きをして下さると、一等便利でしょうと思います。これは三日に云うのを忘れました。
この手紙はいつ頃あなたのお手許に届くでしょうね。そして、あなたのお手紙はいつ頃私のところへ来るのでしょう。私はこうやってかいていて、六つばかりのとき母がランプの灯を大きくしてロンドンにいる父のところに手紙をかいていた時の若々しい情熱に傾いた姿をまざまざと思い出します。私の手紙はきっとアメリカへ行く位かかってあなたのところへ届くのでしょうね。
私は体によく気をつけ、健康ブラシをつかっているし、よく眠るし、美味(おい)しがってたべるし、いい状態です。家のことをしてくれる者が落付いたらそれから小説をかきはじめます。私は胸にたまったものを一通り吐き出してしまわなければ小説はかけないので、この月はたくさんほかのものを『文芸』や『行動』や『文学評論』やらに書いたがこんどは小説です。私は来年にはうんと長い大きい小説にとりかかります。それのかける内容が私の体について来た感じです。その身について来たものの一つの例であるが、大きい文学に必要な豊富でリアリスティックな想像力というものは、現実をよくつかんで、しって、噛みくだいていなければ生じぬものですね。そして、そういう力なしに大きい作品は書けないのだが、私は自分が過去二三年の間、そのひろくて、熱のある想像力の土台の蓄積のために随分身を粉にしたし、そのおかげで今日自身が仮令(たとい)僅かなりともそういう文学上の力を再び我ものにしたことを実感しているのです。私はやっと生活の上で闊達(かったつ)であるばかりでなく文学の上でも闊達ならんとしているらしいから一層慎重に勉強をすすめるつもりです。
あなたに叔父様は目のことを注意なすった様子ですが、呉々も読みすぎぬよう願います。それから風呂へ入るとき、風呂桶のフチや洗桶やをよくよく気をつけ、穢(きたな)らしいバチルスを目になど入れぬよう、本当に気をおつけになって下さい。私はあなたについては下らぬ心配を一つもせず安心しているのですが、そして、私はよく仕事をして丈夫で、私の周囲の人のよろこびと希望の源泉となって丸々していれればよいと信じているのだが。そういうことを考えると非常に心痛します。用心を忘れないで下さい。鼻はいかがかしら?便通は?そう、こんなことも今に追々わかるでしょう。もう夜が明けてしまうかしら、ではおやすみなさい。よく眠るおまじないをどうぞ。 
第一信の附録二枚。
これを書いているのは次の日のつまり土曜日の夕方です。今日は曇ってなかなかひえます。うちの近所に美味しい餅屋があるので、林町の父のために、さっきお餅を注文したところ。庭が五坪ばかりあって、椿の蕾がふくらんで、赤い山茶花(さざんか)が今咲いています。その一枝をとって来て、例によって机の上におき、それを眺めて眼をやすませながら、これからバルザックについての感想をかくところです。
ゴーゴリ全集やバルザック全集からこの頃はモリエールの全集まで出るの。バルザック協会がゲーテ協会に対するものとして出来て、なかなか古典は出版されます。出版されるのであって、真に研究されるのでないところに、文学の窮乏があるのでしょう。ドストイエフスキーなどがよみ直されるのみならず、人間の神性とか獣性とかいう問題にからんで云々され、不安の問題が上程され、その深めるための文学的努力はされずに舟橋聖一氏は文学における行動性ということを主張しているし、なかなか壮観です。その行動性のモデルのようにゴンクール賞をとった『勝利者』という小説の翻訳が出ました。小松清氏というフランスにいたことのある人がホン訳したので、まだ二三頁をよんだにすぎませんがジャーナリスティックなものだし、又エキゾチシズムがつよい。フランスでエレンブルグが書いたものを思いおこさせました。私のバルザックについてかきたいところは、ある人々によって云われているようにバルザックが何でもかでも書きたいことを書いたのだがそれは歴史を正しく反映したから、我々もそうやろうということについての不用意の点です。バルザックが、今日いう意味ではリアリストでなかったのだし、彼のロマンチシズムがその時代の必然によって、リアリズムを既に内包していたこと、その二つの矛盾が作品のすべてに実に顕著に顕(あらわ)れていること、従って、林氏亀井氏保田与重郎氏の云う日本ロマン派がそのうちに内包し得るものは何であるかということなどなのです。十月にトゥルゲーニエフの研究を三十枚ばかり書いて、面白くよまれました。しかしバルザックはどういう風に出来るか。月曜日に毛糸の足袋と下着類と戦争論その他を入れます。私はこの頃になって、もう一遍一寸メーテルリンクをみて、何か発見して見たいと思うことがあります。それは、これまでの作家が運命というものについて、実に多く書いているが、メーテルリンクは彼の神秘主義で、青い鳥でそれをのりこえることを語ったと思う。賢こさというような力で、賢者がよく出たでしょう?彼の作品には。悲劇というものも、私は又考え直して見たく思っている。メーテルリンクとは違うが(云うに及ばないとニヤリとされそうですね)私は過去の文学に規定されている悲劇というものの理解について疑問が出て来た。或る生活の中に生じる波瀾かっとうは非常に苛烈であって、異常であるが、それに対する理解が驚くべき見とおしによって貫かれていて、当事者がそれを悲劇以上の把握で捉えて生きぬく場合、それは文学に描かれて悲劇の程度に止っているであろうか。リヤ王なんかは悲劇だし、オイデプスなども悲劇に違いないわね。だが文学は内容を新たにして今日に至り、現実を、現象的につかんでだけ書き得る所謂(いわゆる)悲劇は、高められている、否、高められる可能性に立っていると少なくとも私は自身の文学の前面にそのようなものを感じているのだけれど。
これはこうかくと平凡のようだが、小説をかく心持の上ではなかなか平凡ではないのよ。
バルザックが或時代の或タイプを描いたという評言を後生大事にかついでおまもりのように云っている人があるが、或タイプといってもそれは社会的活動の関係の中で立体的に描かれなければならないので、型として、内的外的活動を規定の枠内で行為させているのは一種の善玉悪玉式で、厖大なロマンチシズムではありますまいか。人道主義的ロマンチシズムをかかげて若いゴーリキイに影響したディケンスなど、こんどよんで御覧なさいまし。クリスマスカロルなど、スエ子がきのうよんで、何だかいやな気がしたと、ひどく気分的に表現していたが主人公がここでも、全くあり得ぬようにセンチメンタルに架空的にとらえられているのです。
ねえ、私は用心しなければいけませんね。こうやってかいていればいくらだって書いて、随筆幾つか分の手紙をかいてしまいそうです。私たちが暮して間もなくあなたは、私がどんな手紙をかくかしらと云っていらしったことがあったが、いかが?私の手紙は。私の手紙には私の声が聞こえますか?私のころころした恰好が髣髴(ほうふつ)いたしますか。その他さまざまの時に見える私が見えますか?三日に余り久しぶりであなたの声を聞いて、私は今だに耳に感じがついて居ます。ここでさえペンをもっていると手がつめたい。(附録終り)

[自注1](不許)――この第一信は「不許可」で顕治にわたされなかった。万一のために保存されていたコピイによる。
[自注2]叔父上――顕治の父の実弟、山口県熊毛郡光井村にすんでいた。幼時から顕治を非常に愛し、小学校へはこの叔父の家から通った。
[自注3]林町――本郷区駒込林町二一百合子の実家。
[自注4]父――百合子の実父、中條精一郎。一八六八年―一九三六年。建築家。
[自注5]籍のこと――百合子入籍の件、顕治と百合子は一九三二年二月本郷駒込動坂町に新居をもった。一ヵ月あまりののち、プロレタリア文化団体に対する全面的弾圧がはじまって、四月七日、顕治は非合法生活に入り、百合子は検挙された。そういう事情のために百合子の入籍手続がおくれていた。
[自注6]壺井さん、栄さん――壺井栄。
[自注7]島田の父上――顕治の実父、宮本捨吉。一八七三年―一九三八年。山口県熊毛郡島田村居住。
[自注8]島田の母様――顕治の実母、美代。
[自注9]スエ子――百合子の妹。
[自注10]山田のおばあちゃん――顕治の下宿の女主人。
[自注11]達治さん――顕治の長弟。顕治に代って家事経営の中心になっていた。一九四五年八月六日広島の原爆当日、三度目の応召で入隊中行方不明となった。同年十二月死去の公報によって葬儀を営んだ。十月十日に網走刑務所から解放されて十二年ぶりで東京にかえった顕治と百合子が式に列した。
[自注12]国男夫婦――百合子の弟夫婦。
[自注13]林町の母――百合子の実母。葭江(よしえ)。一八七六年―一九三四年。
[自注14]淀橋――淀橋警察署。
[自注15]私の最近の評論感想集――『冬を越す蕾』。
[自注16]いね子――佐多稲子。
[自注17]松田さん――松田解子。
[自注18]原泉夫妻――中野重治と原泉子。
[自注19]トムさん――村山知義。
[自注20]山田さんの奥さん――山田清三郎の妻。
[自注21]河野さくらさん――鹿地亘の妻だった人。 
十二月二十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第三信十二月二十四日。午後。(月曜日)
今日は。いかがですか。お体の工合、本の工合、その他いかがですか。きょうは、曇天ではあるが気候は暖かで、私は毛糸のむくむくした下へ着るものは我知らずぬいでいるくらいです。今年はこれから一月一杯オーバーなしですごせる程の暖い正月だとあったけれども、どうかしら。そちらはこの暖かさがどの位おわかりになるのでしょうね。
十八日には思っていたよりずっと早くお手紙がついたので大変うれしゅうございました。その晩例によっておそくまで仕事をしていて、十八日の朝おきて、下の長火鉢のよこへ降りて行ったら、いろんな手紙、古本屋の引札や温泉宿の広告や、そんなものの間に、さも何でもなさそうに挾んで置かれてあった。それをとりあげ、そのまま又二階へまい戻りました。よんで、枕の横において、しばらく眠って又読みました。
私はひとり明るい日の光を夜具にうけながら天井を眺めて、笑った。あなたがやっぱり小さい字をお書きになったから。――しかも大変よくわかるように書けるから。
ありがとう。林町の人たちには、おことづてを一人一人につたえました。皆よろしくと申しました。島田の父上には、こちらからわかもとをお送りいたしますから上るようにと手紙をさしあげました。光井の叔父様がおかえりになってからは、あちらの皆さんのお心持も大変健康になったから何よりです。お母上のお手紙は、この間はじめてどことなく暢(のん)びりした調子でかかれてあったので、よかったと思いました。お話のあった手続のこと、私の分だけはもうすみました。御安心下さい。
初めてのお手紙で、あなたの体に注意していらっしゃること、その他、はっきりわかりました。もちろんそれらのことは、はじめから私にわかっていることであり、あなたが懸念なくいらっしゃる如く、私も全く懸念ないのですが、あなたから響ある言葉をきけば一層のことです。この間書いた手紙をよんでいらっしゃれば、私のかくもののこと、もうあらましのことは申上げたと思いますが、「小祝の一家」はいいところもあるが、今日読んでみると、全体のつかみかたが決して不正確ではないし、とり落してもいないが、まだもう一息つよくてよいところが感じられます。新鮮ではあるが、強烈さが足りないと自身に物足りないのです。部分的な力の入れかたではなく、内容にもっとぴったり迫ったところ、ね、膝づめのところ、それが不足している。おわかりになるでしょう?この感じは。「鏡餅」は去年の大晦日の或る女の感情を描いたもので、二十何枚か二晩にかいてしまった。そのような熱と、又そのような欠点をもっていたものです。それを書きあげて、『新潮』へ送ってほとんど間もなく、すっかり仕事が中断されたわけです。府中へは私もひどい風をひいたとき行きそうになって、おやめになったそうです。
私が伺ってあげた読書のプランについてのお考えはいかがですか。少くとも文学についての順立てはどうかしら。お手紙にあった本の中その大部分は私も既に考え、或るものは買うために注文していたものであったので、自らうなずくところもありました。従って猶文学書などについて自分の立てた見とおしのそう的はずれでないことを感じた次第です。百鬼園はあなたにファブルより面白くないことは私の経験からもわかって居りました。しかし、私はあなたに面白くないものでも時には読んでいただきますから、どうぞあしからず。そして、あなたは面白かったものについてのみおかきになったのでは、何か不足しているとお思いになるでしょう?二葉亭は古いノートを見たので入れました。又つづきを入れましょう。その他、ジイドのドストエフスキー研究とカラマゾフという風に組み合わせましょうね。一かたまりずつ印象はまとめられねばなりませんから。ダラダラと、とびとびでは、御不便でしょうと思います。しっかりかかってよむものと、おやつのようによむものとも組合わせているつもりです。それから近く、ドウデエを入れますが、その作品との連関でよまれるディケンスを入れるという風にね。テエヌ、ブランデスという順に入れましょう。バルザックもなるたけ初期から順に。私はバルザックがどちらかと云えばきらいであり、バルザックがフランスの全歴史を描いている、典型的な時代における典型的人物を描いたリアリストであるというような手紙をドイツからイギリスの或る女作家に書いた人の手紙が出たからと云って急に瑣末描写と受動性のお守りにつかおうとするようなのがいやで、腰をすえて、そのバルザックの矛盾の研究をかいているのですが、書いているうちに、やはりバルザックは巨大な、生々しい大作家であることを痛感して居ります。作家の仕事をする度胸の据え方という点で学ぶところが多くあります。テエヌはバルザックをサント・ブウヴなどとちがって社会的なひろい土台で肯定して居るところは、さすがであり、そのさすがのテエヌにしろ、今日の歴史の到達点から見ると、未だ現実の真のスプリングにふれていないところが又興味津々です。テエヌはやはり受身の考えかたですものね。バルザックの矛盾を闡明(せんめい)し得ぬ同時代的矛盾を自身のうちにもっている。ブランデスは品がいい天質のひとですね(彼の云いまわしを真似ると)、私はやはり同じ作家の研究について、そういう感じをうけました。そして、ところどころで思わずにやついた。ブランデスはあんなに鋭く背景となった十八世紀時代の動きを分析していながら『人間喜劇』の作者が、上品な詩的な情感をもっていたから、復古時代にテンメンとしたといっているのですもの(ブランデスの本はなかなかないので弱ります)。
又今これをかきつづけます。今はもう夜の十二時近く。前の行まで書いて、中井から電車にのって、神田へ出かけました。さし入れの本を買うためです。本当は今朝ごく早くおきて、裁判所へ行き出来たらお目にかかるつもりだったのですが、ゆうべは、夜中になってから熱中しはじめて、いつしか夜があけ、くたびれて動けなかったので私は寝ていて、栄さんやいねちゃんが出かけ、その人々は中野の方へ用事で行き、かえりに栄さんがよって、とてもひどい順番で、年内は無駄だろうと知らせてくれました。明朝行こうとしたのをやめる代り、本は速達でお送りすることにして、それを揃えに行ったのです。
三省堂で語学の本など買ったのですが、どうかしら。すこしそれでやって御覧になってもし工合がわるいようでしたら、どうぞすぐおっしゃって下さい。別なのをさがします。どこもかしこも歳暮売出しの飾りで賑やかです。色彩は、はでであるが、何か通行人の影は黒い、今夜はクリスマス・イーヴなのだけれども、学生の街である神田でさえ、そのような楽しげな雰囲気はなく、うちへかえって夕刊を見て、ああ本当にと思ったほどです。中井から家へ来るまでの、ほんの一二丁の町並も、もう松飾りをしたりして、福引をやっている。うちの瀬戸さん(国府津[自注22]にいたのがお嫁に行くまで来ているのです。あなたの御存じない人)は、そこでモチアミをあてました。
神田では三省堂を出てから夜店の古本を見て十銭でエジソン伝など掘出し、あすこの不二家へよってコーヒーとお菓子をたべ、バスで高田の馬場までかえりました。おなかをすかして、とろろで御飯をたべ、それからお風呂に入って、二階へ上ったという順序です。林町の父が私のお風呂好きはいたく評価してくれて、それはそれはたっぷりいいのをくれました。フロはあるし、こせこせした心配はないし、その上、この土曜日から小学校は正月休みでしずかだし、仕事は面白いし、私もやはり些(いささか)の懸念もない有様です。
小学校について、この前の手紙には大してやかましさが苦にならぬとかきましたが、その後、あなたにアンポンと云われそうなことになったのです。やっぱり喧(やかま)しいの。初めはなぜやかましくなかったかと云うと、それは運動場をコンクリート?か何かで修理するために子供らは皆教室につまっていたのです。運動場ができたら、まるで雀の巣が百千あるようです。しかし、そのワヤワヤワヤはまだいいので、こまるのは体操。ここの体操の先生はいやにリズミカルで、机に向っていると勢よく、「さーア手をあげて!ハッハッハッハッ」とそういう風なのです。「そら!ホイ、ハッ」そういうの。何だか少し野師のようでしょう?でもこの小学校のせいで、私は何年ぶりかで土曜日の午後、日曜日、そして休みのつづくのをしんからたのしんで仕事する味を味わって居ります。
一昨日は、この十日に生れた太郎[自注23]が、産院から林町へかえるので夕方から出かけました。お祖父さんのうれしがりようは全くお目にかけたいほどです。国男も伜(せがれ)の顔を一日に一度見ないと気がすまないと云って、そわそわしていますし、スエ子もうれしそうだし、私は皆がそうやってよろこんでいるのが又大変愉快です。私はこれまで父が気の毒であったのが、ほっとしたようです。父は深く母を愛していた。そのことは私の想像以上のことでした。だんだんそれが分って、しかもしんからそれのわかるのは様々の意味で私一人であり、けれども父のおもりをして国府津にくらすことは不可能ですし、大乗的に行動して家も別にしたのでしたが、太郎はよい折に生れました。この太郎という名、ヌーとしていて男の児らしくていいでしょう?姓と一緒によぶと相当なものになりそうでしょう?これは家族会議(?)できめた名で、主として私の案です。女の児なら泰子というはずでした。この頃、仕事に興じて大体机に向って一日を暮しているのですが、この間いねちゃんがきて、もう日没近くであったが中井の先の下落合の方の野っぱらを散歩して、いい気持でした。その丘の雑木林の裾をめぐる長い道は東長崎の方へまでつづいているのだそうです。夕靄(ゆうもや)がこめている。その方をしばらく眺めました。その野原の端を道路に沿って小川が流れていた。その小川も東長崎の方へまでつづいているのでした。その夕方はいねちゃんも久しぶりで元気で軽々と歩いたし、よかった。女が文学の仕事をする。――芸術家その他として真に発展するためには様々の困難が家庭生活の中にもある。それが現在のような時にはのしかかってくる。気分的にそれにまけてはくちおしいからねと私はつよく云い、あのひともそれはもちろんそう思うのですから、今はもう自分から坐り直して元気になったのです。
ことしの大晦日は、どの友達のところもほとんど皆夫婦そろっているから、私は私のいないことで誰も寂しがらせないから、何年ぶりかで父とお年越しをしようかと云っているところです。お正月七日がすぎたらお目にかかりにでかけます。この頃、もうお弁当はないでしょう。そのままでようございますか?冬のうちだけ牛乳と卵だけは召上って下さい。それからそちらでリンゴと南京豆を買って、南京豆は少ない数をよくよくかんで食べて下さい。そうしてたべると大変体によいそうです。ぜひ忘れないように。
文芸家協会の年鑑は、今年私の「文学における古いもの、新しいもの」という評論をのせました。三五年度の人々の漫画を一平が描き私をも描いている。人間としての本質を把えることができず、あいまいに描いているところはかえって面白く思われました。子供の劇団がイソップ物語をやっております。切符をもらった。観にゆくつもりです。ではおやすみなさい。今はもうあなたがお寝になってから六、七時間も経っている時間です。夜番の拍子木の音が響いている。

[自注22]国府津――百合子の実父たちの海岸の家。
[自注23]太郎――百合子の甥。 
十二月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第四信。
十二月二十六日からはじまる。今夜は火曜日の夜で、今の家に移ってから火曜日と金曜日の午後を人に会う日にきめているので、三四人来て、かえったところです。林町の父にお歳暮に母のかたみの着物でどてらを縫って貰っていたのが出来上り。
私がこれをかくのは、ゆうべも考えてね、一時に=一晩にかいてしまおうとすると、一晩まるでつぶし、而も何だかかきたいことを落すので、時々ぽつぽつと書きためたのを、こんどはお目にかけようかと考えたのです。さっき古本やの話に、この頃ショーロホフの小説などなかなか出るようになった由。スエ子は母がなくなってから糖尿病がひどくなって来て、この頃はアコウディオンを中止で、食餌養生をして居ります。相当意志をつよくやっているのは感心ですが、可哀そうに。私は彼女の音楽について大した幻想は抱いて居りません。
これまでの手紙で忘れていたこと=(手紙拾遺集のようになるけれども)去年の九月から、母が生前書いたものを、主として日記ですが、すっかり栄さんに読めるように書き写して貰い、一周忌までに本にして記念にする手順で居ります。実によく書いて居る。父と結婚――私もまだ生れなかった頃の日記には二人で散歩した事や毎日毎日じゃがいもを食べていたことなど、ちゃんと鵞堂流の筆蹟で書いてあって、私はその頃の生活状態、母のもっていた教養いろいろなものをおもしろく感じます。後年に至ると、もっと歴史的に興味があります。今更そのようなことがあったのかと一九三二年以後、思わず呻(うな)るようなこともある。それはいつも滑稽さと悲痛さとの混ったものです。
そういう仕事のために栄さんは私より私の家族の心持に通暁してしまったのも亦面白いでしょう。栄さんには伝記者としての資格がついてしまったと笑うことがあります。私の机の上には、クロームの腕時計[自注24]に小さい金の留金のついたのが、イタリー風の彫刻をした時計掛にかかってのっている。この時計は不正確なような正確なような愛嬌のある奴です。この頃は大体正確でね。日に幾度か私に挨拶をされています。夏になったらこれで又三十分もおくれる気なのかしら。――
この家、何という可笑(おか)しな家だろう!二階の廊下を暗い中で歩いていたら台所の灯が足の下に透いて一条に見える。何てひどい建てかた!この話を林町の父にしたら、地震につぶれぬよう羽目にかすがいというか斜木を打ってやろうと申しました。そう云ったけれど、それなり忘れているのです。相変らずいそがしいから。この頃は国府津へ準急もとまらないから不便になりました。丹那が開通したからです。
○鼠に顔の上を飛ばれた話。ゴトゴトいう。おや?耳をたてていると机のある方からやって来てカサコソ枕元をかけている。シーッ!力をこめておどかしたら、鼠はあんまりあわてて、おそらく鼻面を向けていた方へいきなり飛んだらそこには私の顔があり、こんどは鼠より私がびっくりしてしまった。鼠は夜目が見えるだろうのに!
○ああそれから、天気の曇った日には、私がよろこんで仕事をしている恰好を御想像下さい。この家はそんなに日が当るのです。天気がいいと私の眼がつかれる位。いねちゃんのところもそうです。先の家の近所へ越して。曇。烈風、障子の鳴る音にまじり凧(たこ)のうなりの響がする。二階のゆれるような感じ。大変寒く、手が赤くて、きたない。

[自注24]クロームの腕時計――一九三二年の春、あのとき宮本は自分の時計が粗末で不正確でこまると言って、わたしの時計と交換した。手くびにつける紐だけはそのままで。わたしの時計であって宮本に使われていた時計は、宮本の検挙されたとき無くなった。 
 
一九三五年(昭和十年)

 

一月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
あけましてお目出度う。私たちの三度目の正月です。元日は、大変暖かで雨も朝はやみ、うららかでしたが、そちらであの空をご覧になりましたろうか。去年の二十八日には、私が家をもったおよろこびをしてくれるといって、健坊の両親、栄さん夫婦、徳ちゃん夫婦があつまり、一つお鍋をかこんで大変愉快に大笑いをしました。その晩は安心してのんびり出来るよう、朝六時までかかって私は到頭バルザックを六十八枚書き上げ、一層心持ちがよかったわけです。バルザックが卑俗であり、悪文であるということを同時代人からひどく云われたし、現代でも其は其として認めざるを得まいが、そのようになった矛盾をつきつめて行ったので、例により扱いかたは生活的であり、私は大して不満ではない心持です。これでそういう種類のかきたいものは書いたから小説です。スーさん[自注1]の兄さんが「第一章」をかいて、健坊の父さんとは又違った意気ごみを示して居るのも面白うございます。文章を簡明――直截にしようということをこころみていて、そのことのなかには又いろいろの気持がこめられているのでしょうと思われます。
三十一日には、近年にない大雨で、私は、こんな大晦日ってあるものかと思い目をさましました。あなたも雨ふりの東京の大晦日は何かふさわしくなくお感じになったでしょう。雪ならわかるけど、ね。
夕方四時頃からいねちゃんのとこへ出かけようとしたら島田の母上からの書留。何かとびっくりしたらお手紙と戸籍抄本とが入って居りました。安心したといっておよろこびでした。又あなたからのお手紙もついた由。今度のお手紙には、初めて「母より」と書いてあって、私は様々の感慨に打たれました。そして、又、島田へ行ってお手紙というのをも大変見たく感じました。
話はあとへ戻るが、今年は父ひとりになって初めての正月迎え云々ということはこの前の手紙で申しあげましたとおり。それで様子を見に、二十九日でしたか、雪の中を林町へ行く前、グレタ・ガルボがクリスチナ女王という写真をとり、大変立派だという評判はもうずっときいていたが、机にかじりついていて、もう昭和館とかでいねちゃんが見たときいたので、私はバカネ、それが戸塚にあるキネマだと思って高田の馬場で降りたら、あるのは戸塚でチャンバラ。しかし、何か見たいので本郷座へ行って、下らぬ漫画を見て、下らぬ映画はかくも下らぬ。駄作小説の如しと感じて林町へ行きました。父はしっかりしているし、がんばりなのに、そして若々しいのにびっくりし、私は自分の思いやりが常識的であるのを感じた次第ですが、父はちゃんと自分でのんきに、正月をおくるプログラムを立てていて、私の心配はそれはありがたかった、というところで終りました。どこへか古い友だち二三人と小旅行に行く由。これで私ものんきに大晦日を迎えたわけでした。(ただあなたのところへ味の素その他もうないに違いない日用品を入れてさし上げるのが間にあわなかったので相すまなく存じましたが)大晦日は大層賑やかでした。
元日、急に夕刻になって思い立って、健坊づれ私といねちゃんと三人で国府津へ出かけました。汽車の都合がわるくてあちらについたのは一時頃でした。今あの往還は海浜のプロムナード国道になるので幅をひろくし、コンクリートにする下拵えですっかり掘りかえされて居ます。もし門がしまっていたら、私が押すからいねちゃん崖をのぼって下さいと云い云い行ったらいい塩梅(あんばい)に門はあいていて、白く浮んだ建物の上に、松のかげの上に空一杯の星。
マア何て沢山の星なんだろ。気味がわるいくらいだね、そういいながら仰ぎ見ました。東京とちがうねえ。それからその晩はすぐ眠って、次の二日の日は、三人で海岸ではなく山の間を散歩しました。そして私は美しい梅もどきの枝を見つけて折ったり、紅葉した木苺の葉を見つけたり、いね子は「いいねエ、何ていいんだろ」、あなたこなた眺めつつ二時間も歩き、健坊は臆病もので、いかにも町育ちらしく、山の小路が坂になっていたり、崖だったりすると尻ごみして「かアちゃん、あぶないよ!」と後を振りかえって云うの。「何だ健坊よわむしだね、百合ちゃんはこわくないよ、ホラ、何でもないじゃないか!」そういう工合。帰って、その晩はストーヴの前でいろいろ夜ふけまで二人の話せるあらゆる話題について話し、少しくたびれると、いねちゃんがタバコをのみながら(この頃のむようになった)詩集『月下の一群』を棚からおろしてよんだりし、又いろいろ話した。
今日になれば去年になったが、夏四日ばかりその時はター坊から父さんから一家づれで、毎日潮浴びをやって暮したことはまだお話ししませんでしたね。私はあのストーヴの前へ坐ったり、ソファへ横(よこた)わったりする毎に、常に一定の内容をもった思い出にだけとらわれるのは苦痛であるし、一方から考えれば決して健康と云えぬし、又其のような状態をおよろこびにならないこともわかるので、新しい、今日の生活としての内容をつけ加えてゆこうと思い、それもあってあの一家に大いに活躍して貰ったのでした。二日の晩は、随分二人の女房がいろいろ話し合いました。やっぱり車の両輪です。細君というものはなかなかむずかしいという話が彌生子さんの「小鬼の歌」につれて出て話し合いました。
知識人の生活のことについて舟橋は何もしないのはわるい、何でもやれという気になって来て、あっちこっちで云われているが、そのことにしろ、やはり女の利口さというものが抽象的に云われないように、宙では内みが何になるか、やはり手ばなしには云えないことです。三日は午後から外が明るい中にかえろうといいつつ、いね公がグーグーひるねをしてしまっておくれて八時すぎに汽車にのり、かえったのは十一時頃。私は自分の二階に横になって吻(ほ)っとしたような心持ちをつよく感じ、自分がこのわれらの家をどんなに愛しているかということをはっきり自覚しました。
あなたは勿論一度に手紙を二通おかけになることは御存知でしょうね。
きょうは本当に寒い。栄さんが、かけていらっしゃる布団と同じ布の坐布団を縫ってくれたのできょうはそれの敷き初めをしました。これを書いているのは五日の午後四時前。障子を新しく張り代えたので、室内は明るくテーブルの上には赤い梅もどきの一枝がさしてある。火鉢のやかんからは湯気を立て。――かぜがはやって居りますが大丈夫ですか?しもやけなどは出来ませんか。栄さんは早々と耳朶(みみたぶ)をかゆがって居ります。七日に、本は『世界文学総論』、カーライルの『クロムウェル伝』、『日本書紀』上・中、ポアンカレの『科学者と詩人』、『国富論』上を入れます。私によくわからないので伺いますが、例えば三冊もつづく本を、一時に三冊入れた方が御便利ですか、或は一冊ずつ三度に分けて他のものをいれた方が御便利ですか、このこと、忘れず御返事下さい。地図この次までお待ち下さい。すみませんが。岩波の『哲学辞典』を入れたいと思って居ます。いねちゃんが何かいい本を買ってくれるそうです。
私のかいた第一信は何日かかってお手に入りましたか。キカイ体操はそちらにありますか?レンブラントのエッチングの絵はがきは届きましたか。ロンドンで買ったのが出たのでお目にかけたのでした。亀やの包みは先方であなたからの手紙を見せてくれなければなどと普通でない面倒なことを云ったので手間どり、年末にやっととりました。封印がしてあって、靴、書類カバン、セル下着類が出ました。中に裏だけの着物が一枚あり。表をはがして着ていらしったのであろうと理解しました。失われた時計については光井叔父上がたのんだ人からいろいろ手続中の模様ですが、役所ではその品物について一々詳細のことを私に訊くよう申すらしいのですが、どうして知って居りましょう77 まして、帽子などまで!ねえ。困ったことです。この次こまかいことは伺います。
私の健康のことについていつもあまり細々(こまごま)とは書きませんが、それは大体工合よいからのことであると御承知下さい。大変よく気をつけて居ります。清らかなる肉体と精神とです。どんな余計なくせもついて居りません。寝床で本をよむということさえ、やっぱり元の通り致しません。
ところで、私の本が三月頃出たら、その印税で楽しみなことが二つあります。その一つは林町の父の親友たち爺さん達を招待して父をよろこばせること。もう一つは島田の父上の御隠居部屋をつくる資金の一部をお送りすることです。この計画は非常に楽しみで、そのために早く本を出したいとさえ思う位です。虹ヶ浜へ小さい家をかりてあげましょうかとも思ったが父上が家を離れなさることは不可能だから、お離れをこしらえて、そこでは埃をかぶらないようにしていらっしゃったらいいと、そう光井叔父上とも御相談したのです。これはいいプランでしょう?私は娘であり同時に息子であるわけですからね、こういうことの実際に当っては。金のなかなかもうからぬことは閉口であるが。私はいい思い付はどんどんやることにきめて居ります。賛成でしょう?余り細かい字でお目にわるいか知ら?
第四信の附録。
一九三五・一・五日夜(手がつめたくてきれいな字でなくなって御免下さい。)
今夜はあまり風が烈しくガワガワバタバタと庇(ひさし)のトタンが鳴り、且つ手がつめたく新しい仕事にかかる気がないので、又一寸かきつづけます。
さっき、『クロムウェル伝』を入れるようにかきましたが、これはあっちこちをよんで見て今おやめに決定いたしました。カーライルの例の文章でクロムウェル書簡の間に生涯を研究したもので且つ第一巻きりでは大したことがない。それだからおやめにしてランゲを入れましょう。
『科学者と詩人』とは訳者の調子がわざわいしてやや甘たるいところが過重せられていると信じるが面白うございます。序論を一二頁よんだだけであるけれども。この次この人の『科学と仮説』を入れましょう。こちらの訳をしたひとは平林氏ではないから文体も違っているでしょう。私はこの偉い人の『科学の価値』という本の手ずれた表紙を常に親愛をもって眺めていたが、それはその手垢に対する主観的親愛に止っていたのだからこれを瞥見して苦笑して居ります。

[自注1]スーさん――中野鈴子。 
二月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第六信。二月四日晴月曜日
こんにちは!きのうの雪はいかがでしたか。おとといお目にかかった時は曇ってはいたがこんなに積ろうとは思いもかけませんでした。きょうは朝のうち『文芸』の随筆をかいて送って、それから雪どけの外気を家一ぱいに流しこんで掃除をして、フロをわかして、すっかり独りでやったのでくたびれてしまった。屋根から雪がすべるひどい音が時々しました。もう今は夜も十一時すぎですが、不図ねる前にすこしこれをかきはじめました。私の手紙はあまりいつも長篇故これは短篇にしようと思っているのだけれど、果してうまく行くや否や?そして字も少しぱらりと書こうと思うのです。
夜の八時頃実にいい気持でお風呂につかってポーとしていたら、あっちこっちのラジオが急におぞましき音でオニワー何とか、何とか何とかワーッと鳴りたてたのでびっくりして耳を立てたら、それは、どこかで年男が節分の豆まきをしているのを中継しているのでした。何だか馬鹿らしく滑稽で私はお湯の中で笑い出したけれど、今年の豆撒きにはイギリスとかアメリカの領事館か何かの人が裃(かみしも)を着て豆をまきに護国寺へ出かけたのだそうです。私はおふろの中で赤毛碧眼の若いひとが裃をつけてどんな発音でフクワうちと叫ぶであろうか。もしかしたらフキュワーウチというであろうと可笑しく、そのラジオならきいてもよいと思いました。
二月の十三日は私の誕生日と母の命日とが重なるので何か特別よいことはないかしらと今からたのしみにして居ります。あなたはそれを覚えておいでになるかしら、忘れていらっしゃるかしらなど、中川でおべん当を注文する折考えました。
ところで、二日にお目にかかって、私は本当に安心いたしました。三十一日に電報をいただき、一日都合よく行かなかった間はいろいろ心配――単純にそうでもないが、心労いたしました。二日には、あなたがそれまで二度お目にかかっていた時よりずっと馴れて、顔つきにも体つきにもあなたらしい流動性が出ていて、大変うれしく、本当にうれしかった。晴れやかな心持でかえりにいねちゃんのところへよったら、やっぱりよかったねとよろこんで、鶴さん[自注2]が何とかいったら、いい機嫌なのによしなさいよと云うから、私は平気さ、何と云おうと鶴さんのいうことなら自分の手足で自分をぶつようにしか感じやしないと笑いました。
本がどうして順よく届かないか私には想像も出来ない。どうか都合よくゆくように。二日にお話のあった事については島田へ申上げて伺いましたから御安心下さい。弁護士の事も心当りを調べましょう。弁護士については御意見を直接におきき出来て大変よかったと思います。信吉叔父上は少し考えちがいをして私にお話しになっていました。
二月は短い月だのに小説を『中央公論』にかかねばなりません。お正月の間は格子の上のはり紙をはがしておいたけれども又明日あたりから「まことに勝手ながらこの次お出で下さる時は火金曜日の午後にお願いいたします」を貼りましょう。実にいろいろなひとが来るものだと感心する位ですから。――
一月の二十三日に行ったとき、売店から梅の鉢を入れるよう頼んだのですが、どんな梅がはいりましたろう。この家の庭に山茶花はあるが梅はありません。門を入ったところには、それでも赤松が一本あるの。私は、ホラ先(せん)動坂の家へ咲枝[自注3]が持って来てたべた虎やの赤い色のお菓子、ああいう系統の色の紅梅がすきです。ほんとにどんな梅が入ったかしら。白いにしろ紅いにしろともかく梅が入ったかしら。――どうも漠然たるものですね。
運動の時間、あなたはどんなことをしていらっしゃいますか。心臓の抵抗力を弱めないよう、例えば朝体操をする時など柱でも壁でも爪先で体を突っぱってうんと押して力を出す事もよいらしゅうございます。私の心臓がひどくなったのも運動不足による衰弱です。どうかお気をつけになって下さい。それからお風呂の時桶や湯槽(ゆぶね)の縁をよく注意して、眼へバイキンなど入れぬよう、呉々お願いいたします。私の心配と云うのも謂わばそのようなことが主なのですから。――
今夜本当は帝劇へベルクナーという女優が主演している女の心という映画を見に行こうかと思っていたのでしたが、家の中をコトコト動いていたので駄目。新交響楽団のベートウベンをずっときいているのですが、今度はパスをくれそうです。そうしたらうれしい。うちにピアノがほしいけれどもピアノがあったらよしあしだろうからそれよりレコードをきけるようにしたいと思っています。国府津へ国男が父親になった記念に大変いいラジオをすえつけて上げたので親父さんはもう、東京だと思って聞いていたらそれは上海であったというようなことがなくてすみます。箱根山の関係で、これまでのでは調子がわるく、うまくきこえるのは却って遠いそっちの方なのでした。いつか二人で聞いていて、私がそれを発見し大笑いをいたしました。
近々に太郎が、生後まだ六十日ばかりのヒヨヒヨながら伯父様、即ちあなたに誕生最初の敬意を表して何か本をさし上げるそうです。湯ざめがして来たから一旦これでおやすみ。本当に床に入るのです。
次の日の午後四時頃。(五日)雪どけの雨だれの音がしとしととしている。下の、北向きの部屋の濡椽には雨だれのしぶきがかかって下駄がぬれてしまった。
きょうは久しぶりで髪を洗い、さっぱりしたと同時にクタクタになってしまいました。昼湯というのへ実に久しぶりにはいりました。私はどういう性か、子供の時分から髪を洗うととてもくたびれて、元は病気のようになったものです。さっき髪を洗って長火鉢のところでお茶をのんでいたら、トルストイの結婚の幸福の中に、女主人公である娘が、領地のテラスで湯上りで、ぬれている髪に白いきれをかぶってくつろいでお茶をのんでいるところへ、後良人となる男の人がゆくところが描かれていたのを思い出しました。
ああいうとこの描写でも上手(うま)いわね。とことんのところまで色も彫りも薄めず描写して行く力は大きいものですね。谷崎は大谷崎であるけれども、文章の美は古典文学=国文に戻るしかないと主張し、佐藤春夫が文章は生活だから生活が変らねば文章の新しい美はないと云っているの面白いと思います。しかし又面白いことは佐藤さんの方が生活的には谷崎さんのように脂(あぶら)こくはないのですからね。
(アラ、どうしたのでしょう、小学校のラジオが大きい声で、株の相場を喋り出した。三十八円十(とお)銭ヤスだなどと喋っている。このラジオで朝子供らが体操をやります。徹夜したり、早起きしたりした朝私は二階の窓からその校庭の様子を目の下に眺めます。)
この間の音楽会で広津さんにあいました。いつも元気ですねと云っていた。私が『日日』にかいた随筆のことをいっていたのです。さっきその原稿料が来た。短いもの故わずかではあるが、ないには増しです。
あなたの召物や何か、これからは本のようになるたけお送りします。いろんな意味で流行(はや)っている本もお目にかけますから、どうぞそのおつもりで。きょうはこれでおやめにいたします。私は毎日、特別な心持でポストをあけて居ります。
追伸。お下げになった夏の着物は三日ばかり前につきました。

[自注2]鶴さん――窪川鶴次郎。
[自注3]咲枝――百合子の弟の妻。 
二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第七信二月七日の夜からはじまる。木曜日。下弦の月。さむし。
こんばんは。今、女の生活のことについての二十枚近いものを書き終り、タバコを一服というような、しかし心の中にはまださまざまの感想が動いているという状態で此を書きます。すこしくたびれた。今、口をきく対手がない。だから、これを書きます。昨日は今年の中で一番寒い日でしたそうです。品川沖へ海苔とりに出たお爺さん漁師がモーターが凍ったところへいろいろ網にひっかかったりして不幸にも凍死したという話があります。私はゆうべも仕事をしていたがあまり寒いので寝てしまいました。寝ながら、さむいといってもここには火鉢があるということを非常にはっきり感じました。あなたは霜やけにおなりになりませんか?足の指に出来ていませんかしら。よくこすることです。塩をつけてこするといいという話をきいた覚えがあるがどういうものかしら。こんな紙に書いたのを御覧になるのは実に久しぶりでしょう。しかし不思議なもので、字はこれで手紙の字が書けていたのお分りですか?原稿の字ではない。心持がちがうから、原稿のとおりには書けない。面白いものね。
さて、おとといの晩、栄さん夫婦とシネマを見たことをすこしお喋りいたしましょう。グレタ・ガルボというスカンジナビア生れの女優が(特色のある顔つきの名女優です)クリスチナ女王というのをやった。何しろ早稲田の全線座というので、特等三十五銭で見るのだから、少し気のきいたところはすっかり廻っての果です。スウェーデンの若い女王クリスチナがスペインから王の求婚使節になって来たある公爵だかと、計らず雪の狩猟の山小舎で落ち合い、クリスチナが男の服装なのではじめ青年と思い一部屋に泊り、三日三晩くらすうち(ここはすっかり切ってあって不明)クリスチナが女であることがわかり互に心をひきつけられて別れる。御殿へ出て、はじめてクリスチナの身分がわかり、結婚をする気でいた野心家の貴族との張り合い、その他所謂映画らしい、いきさつがあって、クリスチナが到頭退位してそのスペインの男が帰国する船へかけつけると、当の対手は敵役に決闘をしかけられ既に瀕死。クリスチナに介抱されつつ死ぬ。クリスチナは夫が二人で住もうと云った崖の上の家へ住むために船出するところで終り。ガルボは、いい女優の特長として幅があるし、流動的だし、含蓄があるし、私は好きな女ですが、この平凡で謂わばセンチメンタルな映画を見て、私はどっち道不幸なめぐり合わせを描写して涙をこぼさせるようなのは、すきでないと感じました。この私の心持から或一つの話を思い出します。大変裕福に、大変愛され、何不自由なく育って多分高等学校にいるある家の息子が、そのおかあさんに、母様何故活動なんかが好きなんだろう。ひとの不幸や悲劇や、そんないやなものをわざわざ見てどこが面白いの、と云ったのだって。
お母さんは私閉口しちゃったけれど、やっぱり観に行くわ、と楽しそうに忍び笑いをして、デモ、もうあの先生は誘わないの、と私に云いました。その話を思い出した。これは私がいやだというのとはちがうのですけれどもね。今の世の中に、そういう心持の青年も生きているというのが私に印象つよいわけです。
そう云えば『白堊紀』がそろって手に入りました。芝のおじさんが今月中にひっこすのですが書画骨董が多いのでその始末に閉口中。林町の父は、この頃ちょくちょく旅行に出かけ用事なのですが、正月には御木本真珠を見に山田へ行った話、まだ申しませんでしたね。御木本さんは元ウドンやだったそうで、その頃使った臼が故郷の山にしめを張って飾ってある由。そして先頃赤しおで真珠をやられたとき東京の支配人に打った電文は「アスカラテンコウツカエ」でした由。テンコウは砂糖のうちでやすい、赤っぽいてんこ砂糖です。一風あるでしょう。息子さんはラスキンの研究家で、元オーキという婦人服やのあったところへ茶をのませる博物館めいたものをこしらえています。ローザというのがラスキンの愛した女のひとであったそうで、ストーブのれん瓦にも、盛花にもバラ、バラ、バラ。よく私が服のかり縫いに行ったところが、どこやら面影をとどめながらそのラスキンハウスになっているから、この間父、スエ子づれで行ったら何だか可笑しかった。父がそのバラずくめを見て、例のふりかたで頭をふって曰ク「まだ子供だ」。でもミキモトさんはもうお父ちゃんなの。私は余技アマチュアというものの主観的な特長を一席実物について父に話してきかせました。
おや、耳の中がキーンと云う。変ね。そろそろ寝ろとの知らせでしょう。馬のついた文鎮をのせて又この次。
今は八日の午後三時。ひどい風の音にまじって、隣家の庭で炭やが炭をひいている音がきこえます。小学校の校庭の騒ぎはまさに絶頂。風でがたつく障子を眺めながら私は考えている、この家は仕様がないな。斯うすき間だらけでは、と。
私は大変風がきらいなことを御存じだったかしら。このことと、むき出しの火を見ることが好きでない点は父方の祖母のおき土産です。おばあさんは、貴方御存じないけれども南風の吹く日はやたらに忙しがって用もないのにお離れでコトコト動いて、私が「おばあさま、どうなすったの」ときくと、「きょうは、はア、南風が吹くごんだ」と云って、あわてているの。春になって南風が吹くと私も閉口いたします。きょうは、夕飯を林町でたべて夜下町へ用事で出かけます。街燈のない広い大通りは宵のうちから淋しいものね(ではまた)
もうきょうは十一日。何という日の経つことは速いのでしょう。きのうは雨のふる中を田圃道をこいで歩いてすっかりくたびれてしまいました。
あなたに申し上げるのを忘れましたが、この間達治さんが広島へ入営したとき、私がお送りした御餞別の僅かな金で、黄色いメリンスの幟(のぼり)をおつくりになりました由。その手紙をお母様からいただき、私はいろいろ感服いたしました。
私の机の上に一寸想像おできにならない物品がふえました。寒暖計。今五十度です。林町の母の臨終の枕元にあったものの由です。というのは私はその時、迚(とて)も寒暖計などは目に入れる余裕がなかったから。この頃の朝六時前後は何度かしら。○下何度かしら。尤もここのでは分らないようなものであるが。大体風の天気がつづいて感心しませんね。
きょうは二月十七日の日曜です。きのう一昨日はすっかり春めいて暖かであったがきょうは又時雨(しぐ)れている。そして寒い。この部屋はよく日の当る時で五十三四度。今のように寒いと四十六度ばかりです。四十六度は華氏で摂氏だと八度です。五十五度が十度よ。
十三日の誕生日にはスエ子からインクスタンドと父から柱時計を貰いました。インクスタンドは黒い円い台の上にガラスの六角のがのっていて、黒いフタのついたもので、しっかりとした感じです。柱時計は皆の意見によると私に似ているんですって。つまりずんぐりなのです。父もお前に似たのをさがしたと申しました。どちらかというと粗末なものなのだけれども、これで私は時計はどれもそれぞれ因縁のあるものをもっていることになったし、寒暖計もあり馬のついた文鎮、ガラスのペン皿もあり、それぞれのものが皆私の机のまわりで様々の物語りをして生きているようです。下には長火鉢も茶だんすもあるし。
スーさんがなかなかいい詩をかいたし、栄さんが面白い短篇をかいたし、活溌です。私は一昨年書きかけていた小説を今の心持で書き直して完成させるつもりです。
この頃は、寒いといっても気温がゆるみました。私はどうかして夜更かしをせず早起きをして、仕事をして行きたいと思います。長いものを書くためには徹夜などもってのほかですからね。このためには大分がん張らないとどうしても夜更かしになるから困ります。稲ちゃん一家は、徹夜が日常です。こまったものね。今度の手紙はこれで一まずおしまいにいたします。リンゴをあがって下さい。きっときっと。 
二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(国枝金三筆「麗日」の絵はがき)〕
二月十七日日曜日。
外で鶯の声がきこえますけれども又曇って寒いこと。用事を申しあげます。島田父上からお手紙にて、松山の学校の頃のお金は八円何銭とかであったが、それはもう当時に支払ってあるから安心するようにとのことでした。島田では達治さん御入営後、いい運転手が来て車を大切にするので母上およろこびです。リンゴをお忘れなく召上って下さい。 
三月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第九信二月二十日の夜。かき始める。風が強い。遠くに犬の吠える声がする。
きょう島田から達治さん入営の時の写真が届きました。島田のお家の前の往来に一杯御父上、母上、軍服を着た達治さん、むっつりした隆治さん、国旗を手にした信吉叔父上その他を中心に見送りの男の人達が円く溢れたところをとったものです。あの狭い往来のこちら側からむかい側の軒下まで人でつまっていて、もしバスがあのときやって来たら、きっとバスの方で待たなければならなかったであろうと思われるほどの盛況です。御母上様が丸髷でお手をちゃんとそろえ、いかにも「……ちょります」という風におうつりです。達治さんはすこし人に当てられ気味の表情です。幟がいく本も立っている。私の分としてこしらえて下さったという黄色いメリンスのというのはどれだろう、これがすこしダラリとして重みがあるようだからこれかしらなどと栄さんと話しました。きょうはもう一つ写真が出来て来た。それはいねちゃんと私とが大きいアルミの薬(や)カンをかけた私のうちの茶の間の火鉢をさしはさんでとったもので文学雑誌のひとがとったのです。いつかやはり別の文学雑誌が私の机の前にいるところを横からとったのがあった、それに似ているという話です。
きょうは二月二十日で、いろいろの感想をもって暮しましたが二十三日におめにかかりに出かけますから、この手紙よりどっち道私が先にお会いすることになりますね。
何とおかしいのでしょう。今これを書いていて、あなたのお体はどうかしらと考え、それを伺うと、実際は私がお会いした後の御様子をきくことになるのですものね。
着物のことも、そのほか本のことも、おめにかかって伺いましょう。きょうは久しぶりで机の上に赤いバラの花を一輪買いました。きょうまでは、正月の二日に国府津の山で採った梅もどきの実をさして居りました。よくもちました。
私は今、どういっていいかしら、一寸面白い心持でこの手紙を書いて居るのです。心のしんでは、そして頭では、ひどくこれから書く小説のことについて集注的になりながら、何かそのための媒介物のようにこうやってこの手紙を書き、段々心持の落付きを深く感じつつあるの。
私の机の上には又、レビタンというチェホフ時代の風景画家の描いた「雨後」という絵をハガキにしたのが一枚ある。非常にうるおいあり情趣あるリアリズムの画で、北の海フィンランド辺の海の入江の雨後の感じが活きて居ります。フィンランド辺の海は真夏でもキラキラする海面の碧(あお)い反射はなくて、どちらかというと灰色っぽく浅瀬が遠く、低く松などあって、寂しさがある。波もひたひたなの。濤の轟きなどという壮快なのはない。虹ヶ浜へは去年のお正月行って海上の島の美しい景色を眺めました。でも大変風がきつかった。そして、さむくあった。
黒海は実に目醒めるばかり碧紺の海の色だのに、潮の匂いというものはちっともしないので、私は、あらこの海、香いのない花!と云ったことを覚えて居ります。日本の海はそういう点だけから見ればやはり相当ようございますね。
湯ざめがして来てさむいのに、海のことを書いていて猶寒い。あなたはもう六時間ばかりするとお起きになるでしょう。よくお眠り下さい。たのしい夢ならば見るように。
中絶してきょうはもう三月の十七日です。一つの手紙でこんなに永くかかるのは珍しいでしょうね。
きょうも風がつよい。日曜日です。そしてあなたのお誕生日の十七日。九日から毎日ボーイがお使いに来て書けた丈の原稿をもってゆくという風で十三日の朝七時頃すっかり七十二枚かき上げました。小説としてよいかわるいかとにかく全力的に書いたことだけ自分にわかって居ると申す工合です。いずれにせよ、「小祝の一家」よりはよいのだから、私はあなたにあれしかよんでいただけないのが大変残念なわけです。
ところで、十三日は母の命日故、一睡もしないうち林町へ法事に出かけ前後一週間、眠ったのかおきたのか分らぬ勢で仕事をしたためすっかり疲れ、未だに体がすこし参って居ります。
手紙は大変御無沙汰になって日づけを見ると、殆ど一ヵ月近くかかなかったことになりました。御免下さい。御注文の本のことはきっとはかばかしくゆかないのでいろいろ御不自由と思いすみませんが、段々うまく致します。この間うち私は血眼だし、ほかのひとに書きつけを書いて貰ったら、もしや私が病気ではないかと心配なさりはしまいかと思ったりして本まで少しおくれました。間をおかず昨日と一昨々日送り出しましたが、どうかしら。
ともかくこの手紙は何か遑(あわただ)しく半端ですが、これだけにして送り出します。『辞苑』辞書としていいであろうと思うがいかがでしょうか。すぐ又書きます。林町の皆からもよろしく。 
三月二十五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第十信三月二十日水曜日
今この手紙の中には太郎の泣き声が混って居ります。林町の食堂の真中のテーブルで、太郎がねむがって泣き立てているところで書きはじめました。きょうはいろいろ賑やかな日でした。
先ず昨夜久しぶりでいねちゃんがやって来た。春めいた日だったので、私は家じゅうをあけ放し、来ていた女の客としゃべっていたら門の中の板塀の下から見馴れた羽織が見え、いね公やって来たら、長火鉢の前にぺたぺたとなってニヤリニヤリ笑うだけでろくに声も出さないの。大腸カタルのひどいのをやって、もう殆ど三週間経ちますがまだやっとおもゆの親方をたべているところ。春の風にふらふらやって来て、おまけに近所の原っぱへ私を散歩につれ出そうとしたのですって。それどころでなく、夜はお魚のスープをこしらえて御飯をスーさん、栄さんとりまぜ四人でたべ、丁度送って来た『文学評論』などよみ、いろいろ話し、十二時頃になった。
行って送ってあげようと云っているうち、私はきょうの用事を思い出しついでに一つふろ敷包みをこしらえてそのまま林町へ来ました。配膳室のドアをわざとコトコト叩いたら、内の連中は時間が時間だし何が来たのかと一どきにこっちを見ている。そこへ私が現れたというわけ。
けさは、二階に眠っていた父(私の来たのを知らないから)がおきたのをききつけて、洗面所でバシャバシャやっているうしろからいきなりびっくりさせ、それから電話を一つたのんで、又こんどは二階のおやじさんの空巣へもぐり込んで例によってお眠りブー子をやって、おきて来たら、すぐ私のいつも坐るところのテーブルに、あなたからのお手紙(父宛に、三月十四日にお書きになった分)がのっていた。封が切ってある。父が読んで私の目につくところにわざと置いて出かけたのでした。家じゅうのものがよみ、特に咲枝は太郎の生後百日目の食い初めのお祝い日であったのでうれしかったらしく、夕方、ハガキであなたへのお礼を書いて居りました。父は、深く心を動かされたらしく却って私に向っては何も云えない風で、しきりに島田のお父さんのこと、あなたは何か不自由なものはないか、金はあるのだろうかなどきき、朝は、私が電話をかけておいて下さいとたのんだ法律事務所へ自身出かけて行ってくれました。
私へ下さる通信の書籍の名で占められている部分、また非常に要約された文章、またはあるときは全く言葉としては書かれていないことがあっても、私に感じられているものが、父へのお手紙の中には横溢されて居るのを感じました。くりかえしくりかえしよみました。私はこの頃非常に小説を書きたい心持になっているのでお手紙から受ける感情はすべて、その方向に私の心の中であつめられ、鼓舞となります。ありがとう。
(今日は前半を書いた日から五日経った三月二十五日です。ひどいひどい風。空にはキラキラ白く光る雲の片が漂って、風はガラス戸を鳴らしトタンを鳴らし、ましてや椿(つばき)、青木などの闊葉を眩ゆく攪乱(かくらん)するので、まったく動乱的荒っぽさです。春の空気の擾乱です。二階には落付いていられない。机の前は西向の窓でいたって風当りがつよく、下落合の丘陵から吹きつける風で、いつかは障子がふっ飛んで手摺を越し下の往来へ落ちた。今は下で、茶ダンスの横に、坐る大きい三つ引出しの机がある。そこでこれを書いて居ります)
『中央公論』の「乳房」は伏字がなくてうれしゅうございます。出来、不出来は当人には今のところ不明です。一生懸命にとにかく体当りでやったから却ってそんな風なのでしょう。重吉という男の細君のひろ子という女の活動の間での心持を主として描いたのです。一昨年の秋百枚近く書いてあった、あれをすっかり書き直し、いわば全く別ものがそこから生れ出したという工合です。
これを書いて、いいことをしたと思います。これを書き直し、ものにしないうちは外のものにとりかかれぬ気持の順序でしたから。――
この小説をかいたので、『社会評論』に半年契約で書いている女の生活についての感想は四月やすみました。きょうこの手紙を終ってからその支度。
ところで、きょうは風のひどいほかに、私は落付かない心持がして居ります。ほかでもない、あなたに御入用の本のことについて裁判長にやっと明日面会できる始末だから。先週は祝日があって、一日おきのところがすっかり飛び、土曜日は、『文学評論』の用でだめでした。どうぞあしからず御察し下さい。
差入れの本は、いたって無秩序にしか入れられないですみませんが、こちらもこの頃段々様子がわかって来ましたから次第に工合よくなると思います。
この間の世界地図は、ひどいのでしたが、無きには増しと存じ、いまにもっとましなのを買ったらとりかえましょう。語学の本はもうつかっていらっしゃいますか?
坪内先生が死なれて、私はあちらこちらから感想をもとめられましたが、先生と私との間には所謂師弟としての絆(きずな)は浅くあったし、年の差以上の差が互の歴史性の上にあり、『文芸』にそのような短いものを書いたきりです。坪内先生の生涯を考えるにつけ、様々の教訓があるが、後進に対する包括力のひろさということ、客観性ということの重大さを深く教えられる。抱月が坪内先生の常識的モラルにあっては包括され得なかった点など、ね。面白いと思います。早稲田出の代議士が勲一等を貰ってあげようとしたがことわったことは、又先生の賢さの一面でしょう。白鳥が坪内先生によって文学の道を学んだのみならず、生死に処する道をも学んだと云っているのも興味がある。財産を大学に寄付し、しかも生活は安定であり得る方法において生死に処する道が見出されている。そこを白鳥が教えられたと感じているところ。
私は、相変らずいろいろのことを面白く観察し不自由な毎日の生活をもやはりそのように自分ながらあちらこちらから観察し暮して居ります。私はますます物事に深くそして広い感興をもち得る人間になりたいと思って居ります。体を丈夫にして、ね。それにしても、この風はマア、何だろう!
作家の感性のことについて。感性のことはやはり究極は見かたの問題だし、人を動かす作品の力がただ写実では足りなく、ロマンチックな要素がいるというAさんの見解もロマンチックというだけではずっているし、時間があったら一寸した作家としての経験を土台としてこのことをも書いて見たい。いろいろやりたいことが多く、私は自分が余り精力的でないナなど思います。今、私のところは女中兼作家の生活故、マア、ごみをためてもかくつもりです。
島田の父上のお体は相変らず。わかもとが大変お気に入って居ります。気は心だから、こちらからお送り致して居ります。達治さんは自動車隊ですってね。お母様のおたよりにありました。
てっちゃんも相変らずねんばりとかまえて悠々して居る模様です。弟がお母さんと上京してどこかにつとめている由。てっちゃんのおくさんの体がよくなくてね。光井の叔父上も相変らず、かっちゃん[自注4]のお嫁入りはもう二三年のばす由です。このかっちゃんと、私は虹ヶ浜へ昨年の一月行きました。それは冬の海で松林が私に多くの想像を刺戟しました。あの松林に月がさしたらどうであろうかと。そして、あなたのかりていらしたという家[自注5]を眺め。
そちらで着物はもう冬着ではむさくるしいでしょうか、まだ袷(あわせ)は早いかしら、夜具も、うすいのをこしらえてお送りいたしましょう、夜具は五月に入ってからでもよかろうと思います。スエ子のハガキ御覧になりましたか?では又。御元気で。

[自注4]かっちゃん――顕治の従妹。
[自注5]あなたのかりていらしたという家――顕治が大学一年の夏そこで暮した。 
 

 

四月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕
第十一信四月十一日の夜。
きょうは、何と暖だったでしょう!きのうあなたの四月五日づけの手紙をいただき、元気になって仕事をして、ゆうべは十二時頃一旦ねて又おき、その「花のたより」と題する感想を終ろうとしたら、もうベッドに入ってからつる公がやって来て、詩の話や秋声の話やらをしてすっかり予定が変更。けさは十時頃おき、書きあげた原稿をナウカへ届けて、それからスエ子が三四日前から入院したケイオーへまわろうとしましたが、本屋を歩いたのでくたびれ、雨も降って来たのでそのままかえり、栄さんのところで新鮮な野菜をいっぱいたべ、家へかえりました。今は夜の十一時すぎであるが机の上の寒暖計は六十三度です。冬中この二階は隙間風がひどく四十度前後であった。でも私も今年は風邪をひかず、その事ではあなたの御自慢にまけません。私の方は健康だわしの励行が大分によい結果を示しているらしい様子です。この頃は、毎年のことであるが、どちらかというと疲れ易く、しかも眠い事と云ったら!それはそれは眠くて春眠暁を覚えずという文句を、実に身を以て経験中です。バカらしく眠いが、これは何か必要があるのであろうと思い、ゲンコを握ってグースーです。グースーと云えば、今度の稿料で私は自分のためには、辛うじてベッドを一つ買うことが出来ました。二階のこの間まで机を置いた方がこの頃は西日で眩ゆいので机は六畳へひっぱって来て、そちらにはベッドを置いております。ピアレスのベッドで三つに折れるの。低くてスプリングもよいから、仕事してくたびれるとそのまま体をよこにする事が出来て大いに能率的であるわけです。つる公も椅子テーブルの方が疲労が少ないから大いにそれでやると云っているが、いつその道具立ては出来ることやら。
私のベッドというと人聞きがよいけれど実は、そのベッドには本式のマトレスはまだついていないのです。普通の敷布団がのっかっているの。この次の小説でマトレスは出来るだろうという次第です。
ドーデエの小さいものが面白かったそうで私はそのお下りをきょうからよみはじめます。私のよんだのは「サフォ」やグリグリというお守りを崇拝しつつひどい寄宿舎で死ぬ哀れな黒坊の小王子の話などです。ドーデエがパリの二十五年間の思い出を書いたのは忘れられず面白い本でした。南フランスから出て来て第一の朝オペラ座の裏の焼鳥屋のようなところで飯をたべる、作家志望の若い貧乏な自分を描いていて、実に情趣ゆたかであった。ドーデエは妻と大変むつまじく暮して、部屋のこちらの端のテーブルについてドウデエが一枚小説をかくと小さい息子がヨチヨチそれをむこうの端にいる母さんのところへもって行って、そうやって仕事をした。そのような思い出が書かれていた。私はよっぽど前によんで、トルストイと妻とのいきさつの正反対の例として、強く印象にのこされました。計らず昨今は、つる公といねちゃんとが、二台連結で、どっちが書いているのか分らないみたいにある時は仕事をしている、その様子を見る光栄を有するけれども。
小説「乳房」の出来については、読んでいただけなくてまことに残念ですが、一寸一口に云えないらしい。鉄兵さんは完璧であるが退屈であるといい、しかし退屈という表現が当っていないと見え、友達たちは退屈とは云わぬ。「進路」でも作者と主人公がくっついていたが、そういうところがあるといね公が云って居ました。直子さんにきょう郵便局のところで会ったら感心しましたと云われ、私は、いろいろ問題があるでしょうがと挨拶せざるを得なかったわけです。季吉さんたちから左向けで突走っているというようなことは半句も云わせなかった点をどうぞ買って下さい。戸坂さんは作品を、生活態度として買ってしまって百パーセント信頼してくれるけれど、作品批評としてはそれを承服しない人もあるでしょう。
重治は現実につめよっているが丸彫りにしていないと云ったが、そういうところか。
いずれにしろ、前へ、前へで、今は、次の小説のことと、冬を越す蕾と題する随筆集出版の仕度中です。
詩の事につき、又他の書くものにつきゆうべも話したが、私たちはまだ縦横自在ではないことを痛感し、もっとオク面なくなって、しかも正当な焦点をもつようになりたいと頻りに話したことです。小説を書くについても新しい現実の内容が豊富複雑錯雑して居て、直さんは小説勉強というものを『文学評論』にのせて、現実をいかにつかまえんかと苦慮して居ます。
ところで、今住んでいるこの家は、小学校のやかましさと風当りのつよさで閉口し、且つ水道のないことで参って、どっか近所にいい家があったら引越したいと思って居ります。いい家はあかない。困ったものです。「乳房」を書いた時は、切っぱつまってからは、前の同じ大家の長屋が一軒あいた。そこへ机と椅子を持ちこんで昼間居りましたが、それでは落ち付かないのです。
夜はこの二階はいい心持ちです。全くしずかで、この頃は居ながら桜をあなたこなたに眺め、寂とした校庭のむこうに当直室の灯が見えたりして。私は他の作家たちのように夜だけ書くのが好きではないでしょう。私は昼間が好き。しずかな昼間の部屋でものを書くのは何と健康で、ゆったりとしていいでしょう。丁度午後のそういう時間が体操とかち合って、ここの学校の先生はさながら自分の肉体の柔軟さと力感と肺カツ量とをたのしむように空まで声をひびかせて、ソラソラソラ手をあげてハッ、ハッもう一ついきましょう、シッシッと。それは(アラアラ地震です、ゆれる、ゆれる。眠っていらしって知らないのでしょう?)活溌です。女の子が声を揃えて一(イー)、二(ニー)とかけ声をかけたり、女の子が力をかっきりこめず、イー、ニー、と澄んだ声をそろえて〔後欠〕 
四月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(はがき)〕
第十一信の(二)太郎はこの頃それはチューチューとひどい音をさせて自分のゲンコを吸います。ちび公(プチショーズ)を今よんでいて、あなたが何となく少年時代をいろいろお思い出しになっただろうと感じました。『白堊紀』の小説はそれより後のことが書かれているわけですね、面白かった。楓(かえで)の若芽の下に朱の房のような花が咲いている、楓の花というものは四月の今ごろ咲くのですね、私はさっき林町の庭を歩いて青い芽の美しさでボーとなるようでした。一九三五・四・十四日、これで終り
四月十八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛上落合より(封書まき紙に毛筆書表に「戸籍謄本壱通領置」とある)〕
きょうは又寒い雨がふります。庭の紅椿花がぬれて、雨だれの音がしきりである。今島田のお母様に手紙をさしあげました。そのついでに私の斯ういう手紙を御覧にいれます。
いつぞやお話のございました配偶の改姓に御いりになる戸籍謄本を同封いたしました。
近日中おめにかかりたいと思って居りますが、とりあえず謄本をお送りいたします。四月十七日 
四月二十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(赤城泰舒筆「雨海を渡る」の絵はがき)〕
第十二信の別。四、二十一日
きょうはもう初夏のような気温で、八重桜の花びらが庭へ一杯ふきこみます。冬の間に枯れてしまっていると思っていたバラの幹から、さっき庭へ下りて見たらサンショの芽のような芽生えが出て来ている。弁護士は面会にゆきましたでしょうか。どうかリンゴをよく召上れ。袷おそくなってすみません。 
五月九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(はがき(1)(2)
五月九日午後、林町にて。(1)
きょうは何と暑いでしょう。私はもうひとえを着て居ります。そちらもきょうのような日はお困りでしょう。三日におめにかかって帰りましたら倉知の叔父[自注6]が(六十九歳で)午後四時に亡くなり、三四日そのために忙しく、私はカゼをひいてひどく咳が出ましたがもう大丈夫です。咲枝は後のことをいろいろ心痛して居りますが、太郎のお乳のことを考え、気をしっかりもって居りますから感心です。きょうは父がおなかをわるくして二階で臥床中。私は食堂でこれを書きます。風の音がストーブの中でボーボーいっている。
(2)先日腹巻はもうお送りしてあるように申ましたが、やっぱりこちらにありましたからすぐお送りいたしました。もう召していますか?急にこう暑いので、私は少しあわてて居ります。いそいでセル、単衣羽織その他さしあげましょうね。御注文の本、一冊だけ品切ですが、二十日ほどたつと改版ができますからそれを入れましょう。
小学校のラジオで私はこの好季節をヒステリーになったから、目下しきりに家さがし中です、近所で。近々又おめにかかります。

[自注6]倉知の叔父――偶然同じ日に書いたこの二枚つづきのハガキが、この家から百合子が書いた最終のたよりになった。[実際は五月十日付が最終のたより]倉知の叔父――咲枝の父。 
五月十日朝〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(山下新太郎筆「海棠」の絵はがき)〕
五月十日、第十三信の副。
五月三日におめにかかってかえりましたら、午後四時すぎに倉知の叔父が六十九歳で死去いたしました。私はいそがしいので儀式だけですまそうとしたが、親身なため心持もすまず三日ばかりすっかりそのために時をつぶしました。緑郎が一番可哀想です。咲枝は太郎の乳がとまるといけないと思ってしっかりしていたから感心でした。
腹まきはやはり家にあってまだお送りしてなかったので至急送り出しました。私はひどいセキで吸入をしたりキンカンの汁をのんで居ります。 
 
一九三六年(昭和十一年)

 

四月十五日
今晩は。
いま、夜の八時十分前。一九三六年四月十五日。慶応の病室。スエ子は緑郎の作曲が演奏される音楽会へ出かけてゆき、私ひとり室の隅の机に向って、これを書いて居ます。
ゆうべから、私はこの風変りな手紙を、これ迄いつも貴方へあげる手紙を書いていた時のような楽しんだ心持で書きはじめる仕事に着手しました。三月二十四日に予審が終った時、私は外に出たら何よりも先にあなたのところへ出かけてゆき、過去一年間の様々の経験の中から積み重ねた成長の花束を見せて上げたい、見て欲しいと思っていたのですが、公判がすまないうちは面会も手紙も許可されぬ由。其で、この何時お手元に届くか今のところ未だ見当のつかない手紙をこのようにポツポツと書きためることを思いついたのです。三月二十七日の夕方出て、すぐ慶応に入り、今日で十八日目。この二十五日に退院して林町に住みます。
――何から書こうかしら。二月二日、五日間帰宅を許されて帰っていた私が、黒い紋付を着て坐っている食堂の例のテーブルの傍で、咲枝が書いたハガキにより、貴方が私の健康につき最悪の場合さえ起り兼ねまじく御思いになったこと、後から林町のものたちへ下すったお手紙を見せて貰って承知いたしました。初めてお目にかかれる時、私はきっと「死にもしなかった!」と云って笑って貴方を眺めることであろう。そう思って居りました。今、私は決して急な危険など迫った状態ではありません。然し、これまで、考えて見ると、私はちっとも曰(いわ)く付(つき)の心臓について、具体的なことを申上げて居ませんでしたね。それは、なげやりに暮していると云うより、普通の生活条件の中では私はどちらかというと御存知の通り用心深く体を扱う方ですし、心持の方から云えば、いつだって元気で、外に云いようがないし、つい細々したことをお喋りしなかったのです。でも、きょうはこの風変りな手紙の書き出しに、私は少し自分の心臓について書きましょう。そして、貴方に安心して頂き、これから余りそんなことを繰返し書かないですむように。
(一)私が丸まっちい体をしているので心臓が疲れ易いということ。これは最も見易い常識。
(二)一昨年の一月から六月十三日に母の危篤により帰る迄の間に私は猛烈な心臓脚気にかかっていて、胸まで痺れ、氷嚢(ひょうのう)を当て、坐っていた。
私の心臓が慢性的に弱ったのは、この第二のことからです。その時は、オリザニンの注射その他の治療で直そうとし、大して苦情なく暮すようになって、貴方に初めてお目にかかれた十二月初旬には、もう自分の体のことなどお話する必要なく感じて居たのでした。今度は淀橋にいた時から注意をそこに集めていましたが徐々に弱り、父の亡くなった前後、非常に不安定な状態になりました。本来はその時最も入院が必要でした。けれどもその都合にゆかず、予審が終ってから即ち目下養生をしているという次第です。お医者様は私の心臓について、極めて公平で自然な説明をされます。「これで持っている間持つでしょうとしか申上られませんね」と。至極尤もなので、私は笑い出し、心の中で、これでは貴方だってふーむと仰云るしか返事があるまいと、或ユーモアを感じるのです。全くそうらしいの。持つ迄持つということは、つまり私は生きていられるだけ生きていられるということで、私が持ち前のたっぷりや的生存を自信をもって或期間つづけ得ると云うことです。私の知識と意志で出来るだけ衛生に叶った生活法をやって行って、さて、主観的に自覚されない微妙な均衡の破れで、不意と私が生きつづけられなくなったとしたら、其はどうも困るわ、貴方には、御免下さい、と云うしかない。父と私との実に充実した情愛を包む各瞬間をして益〃光彩あり透明不壊であるように生きましょう。私は父との永訣によって心に与えられた悲しみを貫く歓喜の響の複雑さ、美しさに就て、文字で書きつくされないものを感じて居ります。其は音楽です。パセティークな、優しい、歴史性を確固としたがえた交響楽です。私は、本当に自分が芸術家として又一つ力強く人生に向いて背中を押し出されたような、新しい現実の面を我ものとしつつあることを感じて居るのです。このように私の経験。悲劇の発生を不可能ならしめる程充実した愛の高められた本質の美しさ。そういう人生の最も耀(かがや)いた、強烈な経験を経て、私は自分が愛する者たち(父ばかりでなく)に対して持って来た愛し方が微塵(みじん)遺憾な点のないことに、深いよろこびと確信とを新しくしました。私が一番いい方法で丈夫になるための努力をすることを信じて御安心下さい。そして、一層磨かれ、深められ豊かにされた情熱で、自身を貴方にとって遺憾ないものであるように仕事し、我々の心は充ち満ちて、どうしてうたわずに居られよう。ねえ。貴方はそこで可能な最上の生活を営んでいらっしゃる。今は私もそのディテールを知って居るわけです。私はこっちで段々健康をとり戻し、好い小説を書きはじめる。 
五月二十五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 本郷区駒込林町二一中條咲枝より[自注1](正宗得三郎筆「四国風景」の絵はがき)〕
きょうは御病気の様子が少しはっきりわかったのでいくらか安心いたしました。
面会の節、つい申すのを忘れましたが生玉子は白味をのぞいて黄味だけ召上れ。それから夏ミカンをよくあがるように。トマトはまだでしょうか。おかゆのお弁当を一ヵ月つづけておきました。朝牛乳、玉子二つ、一つはナマ一つは半ジュク、御注文のとおりいたしました。本のこともすぐ計らいます。どうかくれぐれもお大切に。お元気なのは分って居りますが家のもの、友人たちは本当に心配して居ります。全体として体力を蓄積なさることが大切ですから、読書なども平常よりは用心してなさいますように。
皆からよろしく。きょうの太郎は眠くって失礼。でも思いがけなかったでしょう。

[自注1]中條咲枝より――発信人は咲枝となっているが、百合子が書いている。前年五月中旬検挙された百合子は、十月下旬治安維持法によって起訴され、市ヶ谷刑務所未決に収容された。一九三六年一月三十日、父中條精一郎が死去した。百合子は五日間仮出獄した。ふたたび市ヶ谷にかえり予審中、二・二六事件が起った。三月下旬、保釈となった。百合子は慶応病院に入院した。保釈の際、判事は二・二六による戒厳令下の事情によって百合子の公判が終了するまで顕治への面会通信は控えるようにといった。 
六月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二十六日の夜。九時第一信[自注2]
今、二階の北の長四畳の勉強部屋でこれを書きはじめようとしていたら、太郎がアァアァアとかけ声をかけながら、一段ずつ階段を登って来て私の膝にのり、しばらく色鉛筆でモジャモジャとやってから、となりの広間の大きい写真の前へゆき、さかんに「おじいちゃまにこーんちヮ」をやっているところです。
二十四日には、本当に本当に久しぶりでした。あまりいろいろ激しい生活の変化がこの一ヵ年間に生じたので、かえって何も申せませんでした。私は慶応病院に三月下旬から一ヵ月入院していた間に、あとになってお目にかけようと思って、毎日暇なときにポツポツ手紙のようなものを書いたのですが、時がたつとそれもやっぱり手紙としての役に立たないことがわかりました。
とにかく、私の顔と声と眼の艶を御覧になり、あなたはきっと安心して下すっただろうと信じます。そしてわたし自身も深い安心を感じます。私は昔、あなたにユリはお嬢さんだから云々という言葉をいただいて以来、私のあらゆることであなたが心配して下さるということ――心配をあなたにかけなければならないものとしての自分を感じる必要のないものとして生きようとする習慣で暮していたし、あなたについても下らない心配は一切しない覚悟をきめていたので、私の体についても私が安心している間はあなたも安心していらっしゃるという風な感じかたでこの一ヵ年は暮したわけでした。でも私は変に気を揉(も)まないのはよいが、あなたに思ったよりずっとひどい不自由をもさせていたことがお会いしてわかり、心苦しく思います[自注3]。これからお互に一生懸命にその時分の不如意から生じた病気を癒(なお)しましょう。きっと癒ります。ある安定を見出せば、そこで全身の調和が生じ、あなたの一等の健康水準ではないまでも、低下したら、したなりに安定しましょう。
気分はやっぱりあなたらしくゆったりしていらっしゃるからほんとうにうれしく存じます。大事にして下さい。ごたごたいうに及ばないことは実によく分っているのですけれども。文学の仕事についても、生活法についても御安心下さい。私が最近に経た鍛錬は、一人の私のような生き方をしてきた作家には、十分の価値をもって摂取されるものですし、ずいぶん無駄なく勉強もしたし、着々と作品の計画もたてはじめて居ります。私はやっぱり生活を愛し、たくさん笑い、心の底に音楽を感じながら、例えば、きょうは暑くて苦しいから、勉強部屋の掃除をさっぱりして、裏庭から草花をとって来てそれをさし、フロをたきつけ、それを浴び、きのう下げてきたフトンの日によく乾したのをベッドに入れ、夕立が来た頃は爽やかな、うるおいのある心持で横になってちょっと休みました。それからついこの間六十八歳で立派な生涯を終ったクリムサムギンのおじいさん[自注4]のことについて少し勉強し、あしたの朝早起きするのを楽しみに、このお喋りを終ったら寝ます。だいたい健全なプログラムで毎日がすぎ、出来るだけ夜ふかしはしません。でもこの間、「わが父」を『中央公論』に書いたときは徹夜してしまいましたが。
きのう速達で手拭(一)、タオル(二)、下へはくもの(二)、単衣(一)、フロ敷(一)等お送りし、フトンは敷布を添えました。タオル二本のうち、私は薄手の方がさっぱりした使い心地だろうと思いますが、実際はどうかしら。薄いのがよかったらこの次はそれだけにいたしましょう。本は比較的軽いもの、だが面白そうなものを『日本経済年報21』とともに送りました。あなたの帯はもうぼろぼろになりましたろう?はじめからあれはやすものだったですものね。この次の手紙のとき、そのしおたれに傍点]工合をお知らせ下さい。今年の夏、私はやはり東京を離れない予定です。何とかして、すこしはさっぱりした一夏を送らせてあげたいと思います。去年も一昨年もひどい夏でした[自注5]から。
父のことについて私は特別あなたにどう書いてよいかわからない。短い言葉で表現すれば父は父として最もよい生きかたをしたし、なくなりかたをしました。父と私との心持の相通じていた程度の濃やかさは御存知ですが、父は自分の死によってまで、かえって私たちに生活力をおこさせ、人生の正道を愛す心を深くさせる、そういう生活を営みました。よく世間では急な永訣のとき、虫が知らせるとか、或る徴候があるとかいうが、父と私との場合、ちっともそんなことはなかった。それはまことに愉快です。そんなこみ入った心霊的技巧がいらないほど、生命が終る途端まで互の結びつきは充実していて、云わば死んでも死なぬ有様なのだから。すべて充実したもの、生粋なるもの、自然力でもそういう発現をする場合、常にどっちかというと単純なような形であらわれ、しかも云いつくされぬ美にみちている。人間も、この美に精神を鼓舞されるには、出来あいの生きかたでは駄目であるから、私はつい自分を幸福な者の一人に数える次第です。こちらはまだ蚊帳はつりません。そちらは?太郎はこの頃ニャーニャという言葉を覚えました。ではおやすみなさい。又書きます。

[自注2]第一信――公判後、百合子からの第一信。
[自注3]心苦しく思います――一年二ヵ月ぶりに面会して、宮本への差入れ状態が非常にわるかったことがわかった。一月三十日に中條の父が死去したとき、顕治は弔電をうつ金さえもっていなかった。百合子が市ヶ谷の女囚の面会所で家のものに会うたびに、あっちは大丈夫かしら。ちゃんとしている?ときいたとき、百合子のきいた返事は、いつも、ええ大丈夫。御安心なさい。ちゃんとしていてよ、という返事と笑顔だった。
しかし現実では、顕治は不如意のために疲労していた体の栄養補給ができず、結核を発病した。
[自注4]クリムサムギンのおじいさん――百合子はマクシム・ゴーリキーの伝記を書こうとしていた。
[自注5]去年も一昨年もひどい夏でした――一九三四年の夏は二人とも留置場生活中であった。一九三五年の夏はまた百合子が留置場生活であった。 
 

 

七月九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(陳清※[「汾」の「刀」に代えて「一/刀」]筆「榕園」の絵はがき)〕
七月九日。きょうのおかゆはどうでしたろう?かたくなかったかしら。どうか食欲をうまく保つよう御工夫下さい。スープは栄養よりもアッペタイトを刺戟するのでよいのだそうだけれども。ゆっくり手紙が書きたいけれども、私はまだ仕事が一しきり片づいていないので、このハガキで間に合わせます。テッちゃんが会いたがって、きょうも手紙をくれました。近々出かけます。お父さんの椅子も買いに出かけますが、一度島田へきいてあげましょう。坐椅子をかってあげたのでもしかしたら其によりかかっていらっしゃるのかもしれないから。この支那の人の絵の色彩、生活感、面白いでしょう。今の時候で見ると大変暑苦しいようであるがなかなか濃厚で面白い、但この作品で画家は極めて自然発生的に自身のもちものを出しているだけですが。今私はゴーリキイと知識人とのこと、又女のこと等面白い研究をかいています。 
七月十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十五日の夜。第二信。
毎日よく降りました。お体はいかがでしょうか。しめっぽくて、皮膚もさっぱりせず、心持おわるかったでしょう?お風呂に入れないとその点こまります。アルコールを貰って水にわって体を拭くことは出来ないものでしょうか。
私は今月の初めからずっときのうまで非常に忙しく沢山勉強もしたし、自身で堪能するだけ書くものにしろ深めたものを書いたので、読んでいただけないのがまことに残念です。そのためについ手紙がおそくなった次第です。体も疲れると心臓が苦しいので氷嚢を当てますが、それ程疲れなければ平気であるし大体私は夏は精神活動も活溌だから、近々に又小さい家をもって、今度は誰か家のことをしてくれるひとを見つけて、単純に、しかも充実した美しい生活をやるつもりです。
今、国男たちが、階下の食堂で盛に家のプランについて喋っている声がする。この家は御承知の通りダラダラと大きくて生活に不便であるので、この連中は小ぢんまりとしたものをこしらえ直して暮そうという計画なのです。
私が病院から帰って来た時分、スエ子は是非私と住みたい心持で、私もそれはやむを得まいと思って居りましたが、この頃ではスエ子が自身の職業をもつ条件や何かでやっぱり国男たちと暮し、後には一本立ちになるプランに変更です。だから私は私で自分の一番よいと思う暮しかたをすればよくなったので大変楽です。去年の六月頃詩人[自注6]である良人に死別した女のひとで、おひささんというおとなしい人がいるのでもしかしたらそのひとに家のことを見て貰うかもしれません、それが好都合にゆけば私は殆ど幸福というに近い暮しが出来るのですが――私の条件としてはね。この頃私は仕事というか文学についての勉強心というか猛烈であって、女学生のようです。愈〃(いよいよ)日常を単純にしようと思うの。生活の様々な経験はそういうためにいつしか大変私のためになっているのが愉快です。そのために時間や精力を費すべきものとそうでないものとの区別がはっきり感情の上でしていて。田村俊子さんがアメリカからかえって来て、この間の雨の日、浦和の田舎の名物の鯉こくをいろんなひとと食べにゆき、いろいろ話し、大変面白く感じました。ゴーリキイの小説の中に「アアあの奥さんは、蚊に生きることを邪魔されている」という文句があったが、本当にそういうひともあるのですね、そのことを面白く思いました。「私蚊なんかいたら死んじゃうよ」そういうの。二十年アメリカの移民の間に暮しても尚そういう感情であるというのは、他の一面の熱っぽいところ、ものに正面から当って行こうとするところとひどい矛盾であって、その矛盾は滑稽に近いものとなっていることが分っていない。――大変面白いのです。人間観察としてね。
さっき良吉さんが芝居につかうアコーディオン(手風琴の進化したもの)のことで急に来て、いろいろ話しました。面白い本を翻訳しました。小説ですが、活動の結果手も足も失い目さえ見えなくなった二十四歳の青年が、自分の文学でまだ役に立とうとして書いたものです。感動的なものです。その前にはスエ子の誕生祝に三越へ行って硝子(ガラス)製の奇麗(きれい)な丸いボンボンいれを買ってやりました。やすいもの、だがいい趣味のもの。この頃の硝子製造が発達して芸術的なものの出来ているには驚きます。その前日には、疲れているのに無理であったが北極探険隊の遭難とその救助とモスクワの歓迎との実写映画を見てまだ生きていたゴーリキイがスタンドで感動し涙をハンケチで拭いている情景を見ました。五十銭です。何というやすいことでしょう。きょう『日本経済年報24』を送ります。それから今にアルプスの雪景のドイツ版の写真帳を送ります。チンダルの『アルプス紀行』はもうおよみになりましたか。お気に入りましたか?私は写真で涼ましてあげたいと思うのです。この花の匂いは庭の白いくちなし。匂います?今晩封じこめておいてあしたの朝とり出して送るのですが。
第二信のうち。七月十六日の夜
きょうは何と暑かったでしょう。この頃熱はいかがな工合でしょうかしら。却って暑ければ暑いなりに気候が定った方がしのぎよいでしょう。今九時半頃。庭の樹の間に灯をつけ、提灯を下げ、スエ子が歌をうたっている。私は二階でこれを書いているのですが、きょうは珍しいことが二つあったのでこの付録を足すことになりました。太郎が生れてはじめて動物園にゆきました。そしてあざらしが大層気に入って、かわゆがったそうです。熊は遠いところから見るのだし、お猿はチョコマカしていやで、象は、こっちを向くと少しこわいのですって。あっちを向いていると安心でうれしがった由。私は太郎親子と一つ車で上野まで廻って其から、あなたのところへ出かけ、久しぶりでテッちゃんに会いました。髪がすっかりぬけて薄くなっているの。でも丈夫そうで澄んで大きいいい眼付をしていて、やっぱり何だか要領を得ずニコニコしている顔は雄弁に感情を語るのだが、口の方は一向駄目で、変に隅によっかかったような恰好をして、本当にあの人らしいと云ったら!大笑いです。私は二十三日にお目にかかりにゆきます。何か特別な支障のない限り。

[自注6]詩人――プロレタリア詩人、今野大力。『戦旗』とプロレタリア文化連盟関係の出版物編輯発行のために献身的な努力をした。共産党員。一九三二年の文化団体に対する弾圧当時、駒込署に検挙され、拷問のビンタのために中耳炎を起し危篤におちいった。のち、地下活動中過労のため結核になって中野療養所で死去した。百合子の「小祝の一家」壺井栄「廊下」等は今野大力の一家の生活から取材されている。 
七月十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十九日日曜日午後四時第三信
蝉(せみ)の声がしている。ピアノの音がしている。
二階に上って来て手摺から見下したら大きい青桐の木の下に数年前父が夕涼みのために買った竹の床机が出ていて、そこに太郎がおやつのビスケットをたべている。わきに国男が白い浴衣姿でしゃがんで、黒豆という名の黒い善良な犬が尻尾をふっている。太郎に私が上から「太郎ちゃん、ワンワンにおかし、はいって!」と云ったら、Sさんというスエ子の注射のために来ている看護婦が「おやりになってるもんだから味をしめて動かないんです」と笑っている。太郎は自分の手からビスケットをやってなめられて、アウとうなっている。「犬のよだれはきたなくないことよ、お兄様」「そうかい」そんな会話。日曜日らしいでしょう?
私はきょう下の食堂へ来ていたあなたからのお手紙を声を出して家じゅうのものによんできかせました。そして、どう?〓〓〓何て云いわけをして上げる?ときつ問しました。というのは、私は家であなたが御心配下すったとは全く逆の位置にあるからです。真面目な話。私は大切にされているが、其はいろんな心配を相談出来るからというとり得のためなのです。そして私はもうこういう種類の心労は大変疲れたから、早く自分の単純で書生らしい生活に戻りたいと願っているところなの。
この前の手紙で申し上たような有様、更に現実はあれより複雑故、一番広い視野で先を見通すものが、こういう中では疲れ、そしてあるところでそのものとしての限度を見出し、それ以上の力こぶは入れても事情は改善されぬと見きわめないと徒らな精力を消耗するのです。叱れるうちはまだよいというのは本当の言葉よ。叱ったって仕方がない、わるいと云うのではないがどうも何とも仕様がない、そういうのは大変困るものです。そういう生活に対して或レン憫(びん)が感じられる場合こちらの心持は楽でないところがある。家じゅうで今は私が一番年上なのですもの。いろいろこれまでと違う経験をして居ります。大事にしすぎて昔風のお嬢さん風邪を引くことがないとも限らない等と!温室の空気などと!おお。私は重い睡い空気と何とか新鮮な人間の生きるにふさわしいオゾーンを発生させようと夜もひるも動いている小さい丸いダイナモなのに!! あなたの手紙は私を笑わせ、そして愛情のふかい怒った心持も起させ、ゲンコをその鼻先にこすりつけて上げたいと思わせます。おお。本当にぶって上げたい。
坐布団は見つかりました。半ズボンは急に一つともかくお送りしました。きょうの夜夏のかけぶとんが出来るからお送りいたします。私はゴーリキイ研究を一冊にして出版することになったので八月中旬までそのために大勉強です。この仕事は一昨年の冬書いたバルザック研究等とまた違った意味でいかにも私らしいものであり、自身のためにも――作家的発展のためにも大変よいものです。『改造』八月に四十余枚書いたのはこれまでの研究――国際的な範囲で――が特にとりあげてはいない面――ああいう出身の一作家の発展とインテリゲンツィアとの相関関係を見きわめようとしたものであり、十分の自信があります。トルストイ、チェホフ、ツルゲーネフ等と婦人を描く点において彼はどう違ったかという点、それは『文学評論』に書き、彼の初期のロマンチシズムがもっていた歴史的意味については『文学案内』に。
私はゴーリキイをこのように愛し、食べ、学び、そして、アメリカ流に云えばthroughになってしまおうとしています。トルストイとも比べ、この二人からは何という滋養の吸いとれることでしょう。トルストイが若かったゴーリキイのことを、「頭はわからない。ひどく混雑している、が人間として非常に知慧がある、フム」と云ったことは興味あります。二人はなかなか噛みでがあります。
ゆうべは良さん、ター坊の親たち、重治さん、栄さん夫婦などと、どじょうのおつゆをたべて大変面白くいろいろ――アンデルセンの自伝のことその他を話しました。
きょうは、手紙をいただいて、笑い出しつつ握って振ったゲンコをこのような形にかえて御目にかけます。 
七月二十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(有島生馬筆「ある種の肖像画」の絵はがき)〕
七月二十三日。きょうはお目にかかるつもりで出かけたところが、生憎加藤氏がお休みをおとりになっているので都合がつかず残念をいたしました。なかなか暑気が厳しいがいかがですか。盗汗(ねあせ)は出ませんか。熱は?きょう中川によって昨今のまま一ヵ月お弁当をつづけておきました。夜具も持ってかえりましたが、あれではこの冬お寒かったのではなかったかと思いました。やっぱり細かいところが御不自由であったと考えられます。毛布のカヴァーは駄目です。夏向のカケ布団は昨年のがそちらにあると思いますがいかがでしょう?白地の麻単衣をお送りいたします。来月十日過にはお目にかかれ〔約四字抹消〕
トマトはまだですか。 
七月三十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
午後の六時前。食堂で。第四信
この数日来の暑気の烈しさはどうでしょう!栄さんのところへのお手紙を見せて貰ったら、夏らしい気候になり、と書いてあったが、私はそういう余裕ある気分でこの暑さを感じることのできない心持でした。八年来の暑さだそうです。熱の工合はいかがですか。汗と盗汗との区別がおわかりになりますか?食欲はあるでしょうか。今年の夏は久しぶりで私が家にいるから何とかしてすこしあなたも凌(しの)ぎよくしてあげたいと思っていたところ、休暇で工合わるくなり本当に残念です。
これは暑い、そう思い、そちらの様子を考えると暑さは又更に独特の汗を私にしぼらせます。この頃は暑さで夜中に目をさまし、又あまりよく眠れないくらいです。そちらではよくお眠れになりますか。少しは風通りはありますか。
うちの連中は暑さで閉口しながら元気で、太郎はこの頃小さい黒ん坊のように半裸で暮して居ります。大きい青桐の下に大タライを出してそこへゴムの魚(オトト)や軍艦を浮べ、さかんに活躍です。スエ子の糖尿がいい塩梅にこの頃は少しましです。でもずっと注射して居ります。私はオリザニンの注射カムフルの注射で飽きあきしてスエ子の一日に二度の注射を傍目(はため)にも重荷のように眺めます。スエ子は目下職業をさがしています。
きのうは、繁治さん、栄さんや徳さんの奥さんなど皆で夕飯をたべました。徳さんもこの暑いのに可哀そうに[自注7]。
その前晩は、健坊[自注8]のところで珍しく夕飯をたべ、九時半頃になってそこらへ涼みに出ようと、これも栄さんを加え四人でぶらりと出たらどうも水の流れるのを見たくてたまらず、どっかへ行ってみようと私が云い出し、両国の河岸までのしてしまいました。何年ぶりかで夜の大河を眺め、なかなかいい気分でした。惜しいことに河岸でゆっくり腰かけやすむところがなくてね。どこかお台場かどこかへ小さい船の出る浮棧橋まで出てみたら、モーターボートが通ると波のうねりでその小さい四角な棧橋がプワープワーと揺れてね。丸まっちい私は平気なようなこわいようなの。鶴さんは例の「百日かずら」の頭を風にふかせ、竹の御愛用ステッキ(これは文壇漫画にもかかれます。体は細い、だがステッキの太さよ。という工合で)を顎の下に突いてしゃがんでいたが、やがてホラどうだねと立って左、右、左、右と脚をひろげて力を入れ、小さいフワフワ棧橋をなおゆすろうとするのです。ところが不覚にも、その棧橋の陸につないであるところに私と栄さんと合計三十何貫の重みがずっしりとかかっていることに心付かず、私が「十二貫じゃ無理よ、こっちはこの通りなんだからね、」と云ったのでナアーンダとあきらめ、いねちゃん、大笑い、帰りに盲滅法に歩いたら明治座の横のプラタナスの大変綺麗な並木のある新しい公園へ出て、震災後のこの辺の新鮮な風景を味いました。明治座八月興行の立看板が出ていて「彦六大いに笑う」三好十郎作、杉本良吉演出、井上正夫、水谷八重子、岡田嘉子などと出ていて、これも面白くみました。私は先日来、ゴーリキイの研究を本にするために大変勉強したので、一息いれるのと暑さにうだったのとで、この数日一寸のびました。(中休みです。書くのはこれから)
この前のお手紙で国府津へでもおいでと云って下さったけれども、あすこは夏はムンムンです。それに海へ入らないしね。去年、重治さん夫婦は富士見の高原へゆき、健坊たちは千葉の海岸へ行ったが、今年はどこもまだ釘づけです。資金思わしからずでね。
島田へは椅子をお送り申しました。お気に入って東京からよこしたといってはお見せになっている由。私も大変うれしい。それは折たたみ椅子でのばすと長椅子にして寝られ背の勾配も加減できるのです。籐(とう)でしっかりしていて、お父さんの大きいお体でも平気です。近く山崎さんの伯父上[自注9]が御出京になり、あなたにもお会いになりたいそうです。
ところで、この手紙はきっと私がお目にかかる時分にやっと着くのでしょうが、シャツその他の衣類、フトンなどの工合はいかがでしょうかしら。間に合って居りましょうか。あなたはまだお湯をおつかいになれませんか?浴びるだけならいいのではないでしょうか。虫にくわれませんか。おや、今涼しい風が入って来た。こういう風をこの封筒に入れてちょっと吹かせてあげとうございます。二階は蒸風呂です。だもんで下にいて、些(いささ)か能率低下なの。家で夏をすごすのは四年目です。ではどうか御機嫌よく。

[自注7]徳さんもこの暑いのに可哀そうに――坂井徳三がプロレタリア文化運動のため検挙されて未決にいた。
[自注8]健坊――佐多稲子の長男健造。
[自注9]山崎さんの伯父上――顕治の母の兄。 
八月九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月三日、午後十一時頃、第五信
きょうは久しぶりの涼しい日でした。この二階はひどく西日がさして眩しいので、疲れてこまっているので、たまにこうして雨が降ると私はホッとして、ああたすかったと思います。同時にこの点でだけはすこしあなたの利害とちがっていると苦笑するの。きょうは眼鏡をとりかえることをやりました。慶応に入院していた間に眼の検査をしてもらったところ、私の眼は右と左とで大変度がちがっているので、今かけている眼鏡より度はちがえられないが、瞳孔距離がちがうというので処方を書いて貰っていた、それをやっとこのごろ、今日、なおしに出かけたのです。今までのフチを一まわり大きくして、レンズはツァイスのウロ・プンクタールというの。これは赤外線、紫外線を吸収して人工光線の下で仕事をするのに大変疲れないのだそうです。大奮発です。でも眼玉ですものね。そう云えば、私のこれを書いているテーブルの上には、馬の首のついた中学生じみた文鎮のわきに明視スタンドが立っているのです。そのことをまだ書きませんでしたね。そっちで『科学知識』をよんだらスタンドの科学的光度のことが書いてあって、明るく視るスタンドが科学的な計算によってつくられたというのを知りました。あの暗いところで、そういう知識を得ました。家へ帰って真先に買ったのはそれ。三段に光度が変えられ、柔かい光がいい心持です。こんどはそこへレンズがとび切りとなって、おお、おお、ね。私どんなに勉強しなければならないか!ですね。この次お目にかかるとき、私は今日の世界の科学の最も新しい成果であるレンズをとおしてあなたを見るのですが、あなたはこの手紙をおよみになる迄気がおつきにならないでしょうね。あのところで、私たちには眼鏡のことまでを話しているひまがないもの。あなたは近眼におなりになりませんか。大切にして下さい。無理をなさらないように。スエ子も眼鏡をもっています。これは遠視。国男も。緑郎も近視。全くこれではベルリンの小学生ではないが、支那人と日本人の違いはどこで判るか?ハイ日本人というものは眼鏡と写真機をもっています、ですね。
四日。火曜日、夜中の二時。
早寝をしているはずなのに、こんな時間に手紙を書いたのではすっかり馬脚をあらわしてしまいますね。しかし、今夜は眠る前ぜひ一筆かきたい。けさついた七月二十五日づけのお手紙のお礼を。
あれはまるであなたのごく近くに坐って話をしているような心持を私に起させました。あなたが健康について云っていらっしゃること、又差入れについて云っていらっしゃること、みんな私が心にもっていると全く同じ心持です。単にそう考えるのではなく、全身でそう感じているために、私たちの生活全面にわたっての明るさ、平静さ、確信がヴォルガのように豊かな力で張り切りながら流れてゆく、そういう工合です。私はよくわかっている。私たちの生活で何が大切か、私の勉強について差入れがその差しつかえとなるようなことを、あなたはちっとも希望していらっしゃらないのだし、そんなことを又私もするような小乗的態度ではない、なくてよいのであるということを。
詩人だったひとは、持病があったところへ肺病がだんだんわるくなって遂に生きられなかったのですが、動坂のおばさんだったひとやそのほかの友達たちが最後まで想像されないほどの親切をつくしました。死ぬ二、三日前に撮った写真では、タオル寝間着――黒の縞のところに赤っぽい縞が並んでついたの――を着て、『冬を越す蕾』を手にもっているところがとられていました。
国男連中は、まだラジオです。今頃がベルリンの午後三時四時です。オリムピックのドイツ語の放送が聞えてきています。一九四〇年に東京オリムピックが催される由、その賑やかさが今から思いやられます。武者小路、西條八十などスタディアムにいての通信をおくってよこしています。白鳥は夫婦で行っている。藤村は国際文化協会という役所から後援され、ペンクラブの大会へ(ヴェノスアイレス)出かけて居ります。昔、フランスへ茶の実をもって行ったように今度のおみやげも日本の植物の実と柿本人麿の和歌です。横光利一はパリにいて、一九二九年以来の花の散ったパリ[自注10]を見てつまらないと感じている由、面白いものね。見る人のこころごころの秋の月かなの感ありです。藤村と云えば、私は読書生活中に漱石をよみ直し、いろいろ興味ある発見をして居ります。小説を書いたら、次には漱石、鴎外、藤村の極めて作家的、人間的突こみをやってみたいと虎視タンタンよ。鴎外のロマンチシズム、その中挫、ゲーテ的なものの空想と現実との齟齬(そご)、大変面白いのです。いつになったら書けるか、今、ゴーリキイをやっていて、九月初旬本になり、築地の記念上演と同時に出るでしょう。それから腰を据えて小説を書いて(これは二年間位の仕事[自注11])、それからこの三老人にとりかかるのだから。私はこの間うちの経験で本をよむ術というか、本から必要なところをとって来る術とでもいうかを一層高めたので、三老人相手の仕事もいきいきと今日の生活の面に結びついて出来るつもりで楽しみです。そういうものは、この三、四年間の成長で自覚されて来たものです。こう欲ばりでは本当にアメリカ的事務処理法がますます必要ね。そして精神の永久の若さと休息のために、私は一方でますます子供らしくなってゆきそうです。では今晩はこれで、おやすみなさい。
五日、午後三時。
食堂の湿度計をみると、針はずっと中心によっている。やっぱり暑くてもさっぱりしている日は違うね、そんなことを話しながら、さて机をどっちにうつしたものかと考え、とうとうベッドを置いた八畳の方へ長四畳から出て来てしまいました。二階は概してあつい。特に四畳は西日がさすので。ここは庭を見下し、青桐の梢に向い、いくらか増しです。ピアノの音がしている。緑郎はゴーゴリの「検察官」を組曲に(パロディー風に)つくるプランをたて、しきりに思案中です。私はきのう、おとといでシャパロフ[自注12]をよみかえしたのですが、ゴーリキイより三つ年下のこのひとの経験はいろいろ比べて面白い。なかに、シベリアにはチェレムーシャという韮(にら)に似た草があって、それをたべると壊血病の癒るということがあります。何なのでしょうね。
一つの家でも食堂九〇度、この机のところは九四度。
昨夜は若い友人を渋谷の第一高等学校の近くへ訪ねてゆき、珍しいものを見ました。Y・Sの家ですが、昔の土蔵づくりの武者窓つきの全く大名門です。その門の翼がパァラーで主人Sの話し声がし、右手ではK女史のア、ア、ア、ア、という発声練習が響いているという工合。家全体は異様に大時代で、目を瞠(みは)らせる。そして道を距てた前に民芸館と称する、同スタイルの大建築がまるで戦国時代の城のように建ちかけている。木食(もくじき)上人、ブレーク、アルトの歌手。それとこの家!実にびっくりして凄いような気がしました。Yの父は三井の大したところの由。私はブリティシュ・ミューゼアムで、ブレークの絵を見たときの印象を思い出し、ああいう特殊な世界にあってもとにかく清澄きわまる水色や焔のような紅色やで主観的な美に於ては完成していたブレークを、あんなに心酔しているY氏が、こういう重い、建築史からもリアクショナルな建築の家、わが家に住むとはびっくりした。芸術的感覚というものがいかに彼にあってはよりどころよわいかということにおどろいたのです。強さ、重さ、鈍重さの美を素朴な美しい木造の柱や何かにいかさず、ああいう土蔵づくりに間違えてしまったところ、実に微妙で複雑な歴史性の反映です。建築上の民族的特質というものについての勘ちがいがある。Y氏の愛する木食上人の木像は、ああいう家に住む土豪にあって彫(きざ)まれたものではなかったのですからね。
SUが新交響楽団のキカン誌『フィルハーモニー』の編輯の仕事に入りたい希望でいることは、この前の手紙で申しあげましたね。今月の二十日頃採否がきまります。いずれにせよ、この家には住まないことになりました。KUが私がいないではSUと住むことを我慢しきれないというの。SUの方でも。――ケンカ別れをしてしまうより別々に暮そうということになったのです。二人ながら生活においては未熟練で、感情的で、互に「他人よりわるい」場合が頻出するのですね。私は太郎の遊んでいる姿を眺め、この可愛い小僧の精神の中に、どれ丈この生温い、受身な、姑息な生活気分を打開する力がこもっているかと思います。そしてどうかこの小僧が成長する時代が活溌であって、おのずからいきいきとした雰囲気に呼吸して育つようであったらと希望します。私たちの家の三代の間の歴史は実に興味があります。この面白さは文字でしか描写できぬものです。
私の家はそろそろさがして貰うことにしました。どこに住んでよいかよく分らないけれど早稲田南町辺はどうかしらなど考えて居ります。戸塚へも近いし。市外はおやめです。夜などの出入りに淋しくて困るから。
この手紙はいろいろ盛り合わせになりました。
お体の様子は又くわしくお知らせ下さい。
附録、千葉県の保田に一ヵ年契約で月六円の家があり、いねちゃんの子供らのために共同でかりました。学校の休のうちに子供らは出かけます。私は毎日大勉強で、本を運ぶのが面倒故、一かた今の仕事が片づいてから。七十銭位の本になります[自注13]。大変面白い文化年表をつけます。前例のない試みですが、有益です。

[自注10]花の散ったパリ――一九二九年のアメリカの恐慌の影響をうけたパリの生活。
[自注11]二年間位の仕事――「伸子」の続篇が計画されていたが実現しなかった。
[自注12]シャパロフ――シャパロフ著『マルクス主義への道』。
[自注13]七十銭位の本になります――ゴーリキー伝のこと。健康悪化してこの伝記は未完のまま終っている。 
八月十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(正宗得三郎筆「干潮」の絵はがき)〕
八月十日午後五時半。夕立があがって心持よい夕方。蝉がオーシイツクツク、オシオスと鳴いています。御気分はいかがですか。私は毎日十枚位ずつ書いて居ります。二日ばかり前、十二銭貼った手紙を出しましたが御覧になりましたかしら。きょう此をかくのは、さっき雨上りの庭へ出て見たら離れの庭に白藤の花が今頃咲き出したのを見つけうれしさに興奮しました。貴方は、私達の祝いに貰った大きい白藤の花の鉢を、二階の廊下においていたことを覚えていらっしゃいますか?その白藤が今年はじめて時おくれの花をつけたのです。私はうれしくてこのハガキをかきます。 
八月十八日夕〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十六日(第六信)
夜中。時間がよく分らない。
私の例の時計は、このごろよく居睡りをしますので。――
こんなにおそく話をするのは、この頃私は実に実に勉強をしていて、今五十枚ばかりペシコフ爺さん[自注14]の少年時代について書き終り、まだ興奮がさめず、何か書きたいからです。
たあ坊・健造たちは保田の月六円の家へ両親とゆきました。太郎は咲枝ちゃんと安積。スエ子はこの三日間ばかり信州八ヶ嶽の麓の小海線という高原列車の沿線へ行き美しく日にやけてかえりました。私は家でギューギュー。そして、貴方にきょう「太陽(ゾンネ)」という題でヴォルフ博士がライカ・カメラで撮った海陸写真集をお送りいたします。
もう涼風が立ってからこのようなものを送るのを御免なさい。私も秋になってからもし事情が許したら少し休養して来るつもりだから。二人のところに、今年の夏の休暇は時おくれなのです。
お体は朝夕しのぎよくなりましたか?食欲はお出になりますか。あしたあたりお手紙が来るのではないかと思います。十八日にはお目にかかりにゆくつもりですが。――私は、今の本みたいなものは一生一冊だから本当に熱心にやって居ります。深い洞察、愛のこもった分析、公平な作家的批判、その全幅を傾けて居り愉快です。木星社から出た本[自注15]が三版目になりこの秋か冬出ます。後書を発展的な見地に立って私が自身の名でかくつもりです。私はもうその位の経験は積(かさ)ねていると信じて居りますから。歴史の或時の業績の中から積極的なものがちゃんと引出されるのは当然であり、悦びです。
十八日の午後二時。
あれからかえって来て、急に夏フトンをほして、ボタンをつけて、今江井が又のっけて中川へ届けに出かけたところです。
夏ぶとんがあの暑い最中になかったというのは実にお気の毒様でした。私は前に手紙で伺ったとき、御返事がなかったからそちらにあるものと考え、栄さんも在ると云ったので、わざわざ縫ったのに入れなかったのです。本当にこういうゆき違いは些細なことであるが私としては大変あとの心持にのこります。暑いね、今日は。そう云う、そして、お湯がもうお浴びになれるのかしらんと考える。そういう風に心持が動いている。暑い。暑い。だが自分としてはさっぱりした花でも机の上に置いてウンウンとやっているのが結局一等心持がよい。そういう感情の状態だから夏ぶどんの行違いには閉口してしまいました。マア、でもいいわ。それに、今年の冬こそあんな足の先の出るようなのではない夜具をさしあげます。あなたの体に、あの変に小さいおしるしのような被物がのっかっていたのかと考えると滑稽で腹立たしい。
家の者のいろいろの近況を申しましょう。スエ子はこの十九日頃職業がきまるか駄目になるかの境で、気を張って居ります。どうもあやしいらしい。慶応を出た人で、編集事ムをやっている人のスイセンしている者があるので。
江井は御承知のとおり永年働いていて家族八人故このひとの身の振方については随分心配いたしました。国男には父のような月給が払えぬから。それで江井も大いに頭をしぼり、向島の西村の土地のがら空きのところへアパートを建てることになり、それで江井の安定の手段とすることになりました。私はやっと肩の重荷をおろしました。何しろ、こういう話、スエ子の話、皆、百合子様、お姉様なのです。この数ヵ月は珍しい方面での心労をいたしました。俊造はこの秋学校をどうやら出てどこかの製作所に入ります。家も冬までには建て直して小ぢんまり、文化的にする由[自注16]。国男夫婦は家が直ると心持(生活の)まで変ることを大変たのみにして、何でもすべていいことは家が直ってからという期待につながれて居ります。この心理は面白いのです。私も激励して笑い乍ら「居は心をうつすそうだからね」と云って居ります。そしたら国男もしっかり勉強するのだそうです。
私の弟妹たちは一風も二風も其々(それぞれ)に変って居ります。実に変っている。
太郎は今安積で、日にやけ、田舎の子と遊んで居る由、結構です。土のこわいようなものが出来上っては仕方がありませんから。少しはよその子とケンカして泣くのもよいでしょう。「ああお坊ちゃま危(あぶの)おございます」では見ていても切ないもの。
島田の方では、達治さんの除隊が一番たのしみでいらっしゃいます。
これは、私達二人の楽しみで、まだ島田へは申さないのですが(実現しないとすまないから)達治さんがお嫁を貰うとあのお家では狭いの。お風呂場のところをね、改造してお父上のゆっくり寝ていらっしゃる小部屋にし、風呂は台所の左手(井戸の奥)へもって行ったらどうでしょう?
六畳か八畳のさっぱりした部屋をこしらえて上げたいと思います。私はそのことを、なかにいて考えたのでした。あんまり早く達治さんが御婚礼してしまうと困るが、来年の中頃以後であったら何とかなりそうで楽しみです。家のプラン想像なさることが出来るでしょう?
二階は達治さん達。今の下の部屋が隆治さん。その奥へお二人というわけなのです。ずっと戸外が見えるよう冬でも外景の見えるようガラスをよく利用してね。楽しい想像でしょう?私は私式の粘りでこの小さいが愉快な空想を実現するつもりです。どんなにおよろこびになって下さるでしょうか。大変嬉しい計画[自注17]です。木星社の本のこと、このこと、二つの楽しいことです。秋になれば、あなたのお体も少しはよくなるでしょうし。
九月十日に「どん底」や「エゴール・ブルィチョフ」の記念の講演会の予定があり、私の校正も一通り終ったら或は安積へゆくかもしれません。只景色のいいところにいるだけなら二三日でよいが、安積は久しぶりでいろいろ面白いかとも思うので。
きょうは暑いが乾いている。机の上にコスモスの花があって非常に初秋めいた美しさです。スエ子の注射のための看護婦のひと(私も慶応で世話になり、父の最後も世話してくれたひと)が、私がよく仕事をするからと御褒美によく花をいけかえてくれるのです。あなたのところの蘭はまだ活々として居りましょうか。白藤の花は三房あります。ではまた。
付録(一枚)
きょうもお話の間にいろいろ私の生活について心配して頂いていることをありがたく存じました。でも、普通な意味で心配していただくには及ばないのです。その点私達は大層幸福者であります。私はやっぱりどこまでも私ですから。あなたは百合はお嬢さんだが、云々と云って安心していらしったその安心をずっともっていて下さってちっとも間違いでないし見当ちがいでもないのです。私は自分がそういう点安心しているのにあなたが心にかけていらっしゃるのかと思うと、逆に何だかこうして説明しなければならないような気になります。
これはおかしいことです。

[自注14]ペシコフ爺さん――マクシム・ゴーリキーのこと。ゴーリキーと書くと消された。
[自注15]木星社から出た本――宮本顕治『文芸評論』。
[自注16]家も冬までには建て直して小ぢんまり、文化的にする由――住宅の改造その他すべては空想におわった。
[自注17]大変嬉しい計画――親孝行の計画も財政不如意で今日まで実現していない。 
八月二十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(スキーの絵はがき)〕
八月二十日。今日「夜明け前」の後篇とロンドンの「ホワイト・フアング」の訳とドーデエの「ジャック」を入れます。「白い牙」は昔枯川の訳があったが、お読みになりましたろうか。しかし心持のよいものだからもう一度でもよいでしょう。ヴォルフの写真集はお手に入りましたか。ヴォルフが細君などの入ったものをとり、集団の美を把えぬところは一つの特長ですね。しかしライカカメラの技術としては最高の由。今夜は鈴子さんが国へかえるので戸塚の夜店を歩き鈴虫を買ってかえったところ、今もって鳴かぬ、雄ではないのだろう雌だろう。そういうことなら口惜しいけれど可哀そうだから捨てない。そんな話をして、私がこれは随筆になると云ったらスエ子曰ク「吉屋さんものね」。お体をお大切に。夜具はいかがでしょうか。
今やっと鈴虫が鳴きはじめました。野生な声でケチくさくて可愛らしい。今、私が机に向って坐っている。スエ子がわきへ小さい椅子をもって来ていろいろ話して居ります。 
八月二十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十八日夕方から。第七信。
この紙は、型が小さくてぽっこり四角くなって何だか窮屈めいて居りますね。大きい紙にたっぷり大きく書いた字。それはきっと御覧になって心持がよいだろうと思いますが、書くとついこまかくなる、段々こまかく粒々になってとけ込んで行くような工合になる、面白いものです。時々は字をかかないで音でたよりをあげたい位です。貴方が音譜をおよみにならないのは、何と残念でしょう。
あなたの窓から見えるものは何でしょう、空、電信柱、雀、樹の梢、それから何でしょう?花はあるかしら。この頃きっと随分空を御覧になるでしょう。空は時々海に似て、よく眺め入ると体が浮いてしまうでしょう?流れてゆくでしょう?私はこの感じはよく知って居ります。だが果してそれだけの面積が見えるか?安積の夕焼空の色彩の燃える美しさは驚くばかりです。太郎はどんな風にあの夕焼空の下をヨタヨタ歩いているでしょうか。
十九日の昼。
机に向っている。うしろから涼風が入って来る。仕事にとりかかる一寸前。昨夜鶴さんが保田からかえって来て、すっかり皮膚をやいて皮をはがしてかえって来ました。「己(おれ)は顔が貧弱だから黒い方がいいね。どうもそうらしい。」そういう意見で、得意そうでした。一昨日は重治さんのところで午後を暮しました。栄さん夫婦が保田へゆく。旅費はある。でもあっちでね、というのでお米一俵送りました。面白いでしょう?徳さんがかえって来たらあすこの夫婦も行くことになっているのですが、どうもまだいつかえるか分らないので――そのうち、秋になってしまう。
緑郎が今軽井沢の演奏会からかえって来ました。外国のひとが主に聴いたが、リズムのはっきりしたものが外国人には分ると云っていた、これは面白い点ですね。机の上には寒暖計があり。只今八十度強です。私は仕事部屋に、寒暖計だの湿度計だの磁石だのよく切れるハサミ、ナイフだの欲しい。今は寒暖計だけ。こういう程度に直接生活的な器は何だか生活慾を刺戟していい心持です。ところが時計はチクタクの大きく聴えるのなど大きらいです。あの夏になると眠りがちな時計を目立たぬところへ置いて安心しているから可笑しい。でも(エジソンでも時計はきらいでしたそうですからね)仕事の速度というか、進み工合というか、そういうものが結局二十四時間を計っているのだから。
コスモスの花瓶(かびん)にホンのすこしアスピリンをいれました。ぐったりしたから。利くかしら?もとスウィートピーにアスピリンをやったら、すっかり花が上を向いて紙細工のようになってうんざりしたことがあった。
この頃の小説の題は皆一凝りも二凝りもこって居ます。高見順の「起承転々」「見たざま」村山知義の「獣神」、高見順は説話体というものの親玉なり。それから「物慾」とか「情慾」とかそういう傾向の。高見順という作家は「毅然たる荒廃」を主張しているそうですが、バーや女給やデカダンスの中では毅然たるものが発生しにくいし他に生活はないし、背骨が立たぬから説話体をこね上げたらし。解子さんなどこういう才能の跳梁(ちょうりょう)に「私は小説を書いてゆけるかしら」とききに来られました。作家の生活の張りの難しさを深く感じました。書いていると限りなし。ではこれで、この紙をどけ下から原稿紙を現してはじめます。「私の大学」の部を。シャパロフと並行に。面白い仕事です。ガスケル夫人は、シャロッテ・ブロンテの伝記を書いたが、其はイギリスの(十九世紀)文学的業績中伝記文学の傑作だそうです。
二十二日の夜中。
雨が降っている。疲れて、しかし十分働いた満足の感じ。汗が体に滲(にじ)み出している。鈴虫のことについて書いたエハガキは到着いたしましたか?その鈴虫が今しきりに声を張って鳴いて居ります。おお、何とくたびれたことでしょう。そして、心が微笑している。一種の幸福さ。――
これを書いて感じたことですが、私はこれまでの――昨年五月十日迄の手紙では、こういう風に私の生活、仕事の中からの直接の響きのままの手紙を書きませんでしたね。手紙として整理して書いて居りましたね。おや、どこかでボーが鳴っている。
――○――
二十三日、日曜日です。
ロンドンのローヤル・ソサエティー・オヴ・ブリティッシュ・アカデミーから、父の閲歴について問い合わせが来て、それに答える下書を国男が書き二階の私のところへ持って来た。父の生れた年は明治元年(一八六八)でペシコフと同年でした。只一八六八でいいか、A・Dと加えるかというので大笑いをやって父の仕事のリストのところへ来ると、私は何か一種の興奮を感じました。父は沢山の仕事をして居ります。いろいろ。実に沢山の建物をのこしている。子供達に対して御承知の通りのひとであった父がこれ丈の業績を蓄積している。そのことが私を深く感動させます。父は仕事を愛していた。よく食堂のテーブルのところで方眼紙(?)のノートを出していろいろプランを描いて居りました。尤も父の持っていたスタイルは私の好みとは大変異っていましたが。そして、私にのこされた愛情のこもった遺物[自注18]は、私の家を建ててくれると云ってよろこんで楽しそうに十ばかりのいろんな小さい家のプランを書いた二枚のホーガン紙です。一番気に入っていたのに赤インクで(1)とノートがあり、そこには私の部屋のほかにもう一つの部屋があって、スペーア・ルームor・mと書いてあります。私は自分があすこにいた時又父がなくなったとき、そういう家が実際に建ったりしないで何とよかったろうかと思いました。(プランは昨年五月より少し前に描いたのです)私は自分の体を入れておく場所については、最も単純なのを好くようになりました。元からそうであったが猶そうなったから。いろいろの思い出、伝記、保存しなければならぬ責任、そういうものを欲しません。
(同じ夜)
私は或一人の作家の生涯について二百五十枚ばかりの勉強をするのだと思っていたところ、単に伝記を書く以上の収穫が、現在あることをつよくはっきり感じ出しました。何かが私の内部で芽をふくらしい。そういう予感。
二十七日の午後。
さあ、きょうはこれを書いてこの手紙は出すことに致しましょう。きのうはゴーゴリの「タラスブリバ」の試写を見て面白かったし又いろいろの感想もありました。国男は安積へゆき、家は至ってしずかになりました。家へかえってからはじめて音のない生活です。大変楽です。頭がよく働く。(今短い感想を書いたところ)鶴さん夫婦は日にやけていずれもまっくろです。私はその傍にゆくと心持がわるいほど白い。きょうも毛布のことが電話で通じられました。すぐ送ります。私は大変お手紙を楽しみにして、着くのを待って居ります。

[自注18]愛情のこもった遺物――建築家であった百合子の父は一九三五年ごろ、百合子の住む家の設計図をいくとおりも作った。百合子にも住む家ぐらい何とかしてやりたい、と。百合子は、それが実現するとは思わず、またそれを維持してゆく経済条件がないから、家をつくることを希望していなかった。しかし、そのプランのどれにも、父は顕治が使うための室を割りあてていた。いつも、二人が住む家として考えていた。家は、実現しなかった。 
八月二十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(十国峠(1)、熱海峠(2)の絵はがき)〕
八月二十九日土曜日。
きょうはスエ子、緑郎、紀(ただし)(従弟の一人)と江井という顔ぶれで、熱海をまわって十国峠を通り、つい最近出来た強羅公園のドライブウエーを宮の下へ出て夜十時すぎにかえりました。十国峠も強羅も私には初めてで、大変愉快でした。峠の上の濃い霧、すっかり道路が変っている国府津の家の前。〔以下絵はがき(2)などいろいろ大変印象づよかった。かえりには大森の沢田屋でカニをたべ、賑やかなのにびっくり致しました。十国峠の入口はこのエハガキのようになっていて、八十銭とります。ゴーラの方は一円五十銭を橋銭のようにとる。そこでこのハガキを買い、スタンプを押させました。芝居がかって可笑しい写真!右手の方へ行くのです。この夏はじめての遊楽でした。又こまかくは手紙で。 
八月三十日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第九信。八月二十七日の夜から。
きょうは体によくない天候でしたが御気分はいかがだったでしょう。皮膚がひやっとしていて汗がじっとり出る。今も出ている。八十度一寸出ています。月夜だったが今は霧が漂っている。湿気が多いのですね。『二葉亭全集』をよんだら扉に「ロシア文学は意識的に人生を描いている。それが日本の文学と違う」と書いてあった、鉛筆で。昔あの本をあなたは古本でお買いになったのかしら。十九世紀のシムボリストのところ(別な本)を見たらカントの哲学との関係についてノートがあって面白い。いろいろ面白い。万年筆でひかれてある条の傍に更に点をうってゆくようなこともあります。そういうときは大変に又面白い。(もう眠ろうとしてメガネをはずしたのに、フトこの紙が目に入ったので一言お喋(しゃべ)りを)
二十九日の午後。
暑い日光が青葉青葉にさしてすこし錆びた緑金色の輝が庭に一杯になっている。アルプスの山の中の羊飼の男のヨーデルの合唱が聴え、日本の豆腐屋のラッパの声がそれに混っている。私は何を別に話すというのではなく、貴方に呼びかけている。それは、呼びかけるということが、実に沢山の、云いつくされない沢山の感情と感覚との圧縮的表現だから。感覚的な、感覚が話す話はなかなか字に出来にくいものですね。――芸術家というものがこの感覚的なものによって生き、人生をさぐり、そのものの内容をより豊富にしてゆく過程は面白い。
本当に打ちこんで勉強し、ものを書いてゆく快よさを、本当に感覚的に知っているものこそ、真の作家になり得る可能性をもっていると思います。ジイドは、ロマン・ロランとともに外国の作家としてはいつか勉強したいが「贋金つくりの日記」の中に感情と情熱との相異について書いている。その相異を知らぬものが、人生から感得するものは、いかに貧弱であるかということを云っている。私はこの三四年作家として猛烈にそのことを感じ、二三の場合、話したこともあったがわかるものがなかった。さすがジイドである。そうでしょう?あなたはこのことは分っていらっしゃる。けれども、私がハッとそのことを思う折々にすぐ、傍を向いて、「ね、こうでしょう?だから!」ということは出来ない、残念であるが。二人分を感じて、私の心は撓(しな)うようです。撓いつつ甘美な苦痛を感じて、折れないという自覚のよろこび。
抽象的なことを喋って御免なさい。でも時々はこれもいるのです。私の精神衛生の見地からね。(笑い声は小説家が苦心するところです、今も困ったわ。私は笑っているのだが――)ああ、私共は、沢山沢山感じて生きているのだからね。
――○――
この頃沢山読む本は、いつか前に書いたときつかったもので紙がはさんである。もう古びて。こんどは、又この次の便利のために、必要なところには昔の人のはり紙のように紙を貼って見出しを書いて居ります。一目瞭然で大変によろしい。その紙の切ったのを沢山こしらえて、一つの小さい箱に入れておいてある。その箱はパリで、母が誰かのおみやげにやると云って買ったのの残りで、本当はマッチの飾箱なのです。金色のレースが張ってあって、細い色リボンの花飾りがついていて、ローマッチをこするザラザラがある。ロココまがいのけちくさいもの。その中から紙片を出して本に貼る。
ガラスの角ばったペン皿のとなりに置いて。ペン皿には御存知の赤い丸い球のクリーム入れがあって、太郎が二階へ来ると、私はいそいでそれをかくすの。握ったら可愛がってはなさないのです。ところがおばちゃんにしろ、これをどっかへころがされては一大事とばかり、太郎と同じように眼玉をギラギラさせるの。可笑しいでしょう?きょう千田さんから電話、うちの小さい子供が話をするというので私の話、「ああもしもし、きこえる?私はね、まだあなたにあったことはないけれどね、あなたが生れるときリンゴの煮たのを母さんにあげたことがあるのよ。こんど会いましょうね」
太郎はまだ後輩故卓上を握ってア、ア、というだけ。
きのう二百哩ばかりドライヴをした、いろいろの話を書くのが順のようだけれども、きょうはあなたが八月二十二日に書いて下すった手紙が朝食堂のテーブルの上にのっていたので、先ずそのお礼を申します。
きょういただいたお手紙はいろいろの意味で、美しさに満ちて感じられました。だからこうしてこの日のまわりには花飾りがつけられたのです。ヘーゲルの話は大変面白く思いました。何故なら私はこの手紙の二十九日の分で書いているように、ヘーゲルが筋の立った理屈にまとめて考えていることを全身全心で感覚し、その中心情熱によって、さまざまの感情を高き低き生活の峰々として統一して押しすすめているのだから。
私は本当に他出という表現で云われている、それよりもっと生々しい緊密さ、謂わばこっちが風邪をひけばそっちも風邪をひく位の肉体的な感じで感覚している。何のために生きているかということが、はっきりしているからこそ、私は主観的には迅(とう)に悲劇を脱却しているわけです。只人間生活の歓び確信というものの、最も鋭い、最もニュアンスに富んだ、最も出来合いでないものの感じ得る陰翳(いんえい)――それによって明暗が益〃生彩を放つところの、動く生命力の発露として、苦痛をも亦愛し得るだけ生活的です。私があなたにあげる手紙の中で、我々の生活には何が一番大切かということに触れて書くとき私はその答えが分らなくて書くのではないのですよ、答えはわかって居て、心に響となって鳴っていて、何とも黙しかねて、字にまで溢れるという工合なの。あなたが、そういうことにもふれて、きょうのような手紙を下さるのも私には大変にうれしい。私の生活について書いて下さることは勿論必要なものとして摂取されずにいるわけはないのですものね。
私は愚劣なものの中からさえ役に立つものがあれば何か役に立つものを見出そうとする位、よくばりなのだから。まして。まして。恐らくあなたは御自分の字、字そのものよ、までが私にどの位必要なものであるかきっと御存知ないでしょう。
恐ろしい、動きのとれない現実はないと仰云るのは本当です。私だって、それは知るようになったし、云わば一人の人間が自分だけ動きがとれない心持でいるのに、客観的な現実はどしどし推移してゆくところに、現実――生活の力強い波動があるとさえ云えるのだから。只どうぞ、「失うものは借金ばかり」とおえばりにならないで下さい(ホホー。)
私は今特にどの点について「事情を改善することにつかれた」心持を書いたか覚えて居りませんが、経済的なことではないのよ。私自身にしろあなたひとりは威張らしておいてあげられない位「失うものは借金」の組ですからね。何がこの人生において合理的な生きかたであるかというようなことを心持の上でわからせて戸主気質から少しでも解放してやりたいこと。妹に真の自立性というものを教えて、勝気のために却って歪む自尊心の負傷を少くしてやりたいこと。咲が自分の亭主に対してもう少し正しい健康な意味での影響をもつように、そうしてよいものだと確信するように。それらのことは、私が家を別にして生活すると出来難いからいるうちに改善してやりたいと考えた、そのことであったろうと思います。疲れたというのは、自分たちが腹からそういう要求をもっていないから、皆敬意と一つのチェホフ的翔望をもって、
ほんとねえ、そうしたらどんなにいいだろう!
と深く呼吸をするが、実際の生活はその古い道を流れている。食うに困らぬこと、即ち生活にこまらぬことと思っている。そんなような気がしているらしい。その中で改良に疲れたと云ったのでしょうと思います。
国など「姉さんがいなくなったら僕も大変だ、よっぽどしっかりしないとダラクするね」と云ってはいるが。何か反歴史的な執着などから経済的にもその他にもごたついてはいないのです。どうかそのことは御安心下さい。悪いものではない。だがどうも困る。そういう存在を今のような歴史は沢山に包括して居りますからね。
私の手紙が第五信までついて居る由。ところで私の今書いているのには第九信と番号が打ってある。十二銭の切手を貼ったのを御覧になりましたか?すると私は一つ自分の番号をとばしてしまったのかしら。或は今のが第八信に当るのかしら。とにかくこの頃はウンウンでね。偉大な価値の評価が正当にされるようにされないということ、それが私の努力の動因です。単にまつり上げるのでなくて、一箇の芸術家は自分の才能をどのように生かして来たかどんな力ととり組み自身の矛盾ととりくんで来たかというその突き入るような分析、綜合、生きた人その人がそれをよんでああ自分は斯うであったかと三歎するようなもの、そういうものをつくる決心で私はとりかかって居ります。半分ばかり終りました。書きながら私自身の生長も自覚されるような、そういうものを書いて居ります。よろこんでいただけるだろうとたのしみです。
きのう十国峠で採って来た秋の花をお目にかけたいけれど、せっかく花を入れてあげてそれがなくなってしまって居たりすると惜しいからおやめにいたします。押して色をうつしてあげるにはあまり鮮やかに咲いていて可哀そうなの。女郎花(おみなえし)、撫子(なでしこ)それから何というか紫のまるい花と白とエンジ色のまことにしゃれた花と。それがコップにさして机の上にあります。
私はこれから髪を洗います。そしてさっぱりして仕事をします。きのうはお暑かったでしょう。きょうはからりとしていて凌(しの)ぎよいが。――この手紙を御覧になる頃にはお目にかかります。 
九月七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第十信八月三十日から。
この頃私はこの手紙が日記のようなものですね。又くつろいだお喋り。親密な会話。頭の中でつきつめたことの独白――もう一人の自分に向っての。そういう風ね。私は自分の全生活の波、色、響をあなたのところへ一つものこさずつたえて、それでくるんであげたい。むきになって仕事をしているときのつめよせた調子までも。一貫した生活のトーンで、私の生活の波長をはっきりお感じになるというのは、私にもわかる。そして、私は、はっきりそのことを感じてもいるのです。私の生活の響が応えられていることを。
さあ、本当にこうしていないで髪を洗わなければ。さっきの手紙を封をしてまだテーブルの上におき、私はもう次のたよりの冒頭をかいているのです。
九月七日
一週間とんでしまいました。あなたは二十九日には手紙を書いて下さいませんでしたか?日曜日(六日)には大変待っていたのだが。――私は今病気なの、珍しく。変に黒い突出たような眼玉をして。三十一日の朝(この前の手紙をあげた翌日)起きるのが苦しかった。無理をして約束の築地の稽古場へゆき一時間半ほど熱心に話をしてくたびれてかえったら悪寒がして熱が四十度ばかり出ました。夜中だったがお医者を呼んだら喉が少し赤いというのでルゴールでやいてね、冷やしたり、おなかをあっためたりそんなことをして、どう原因があるということもはっきりせず今日やっと平熱になりました。
眠って、眠って、眠って、まるでそういう病気のようでした。きょうは眠くないの。皆心配してくれ、稲ちゃんは私が仕事をしすぎているから断然当分呑気に休まなければいけないという主張です。本当にそうするかもしれません。これがなおって起きて歩けるようになったら全く仕事をしないなどということは出来ないから、仕事を持ってでも栄さんとどっかの温泉へでもゆきたいと思って居ります。こんなにへばったのは何年にもないことでした。四月に慶応に入院していた時より弱った。まだ臥床。おカユ。食欲が出ないでいけません。私はどんなに参ってもすぐ食欲は恢復したのに、癪(しゃく)ね。今日は私は癒る確信がつきました。御安心下さい。本当はね。笑い草ですが、余り頭が苦しくて昏々(こんこん)と眠るからね、もしかしたらこの頃流行の嗜眠性脳炎ではないかと思って、もしそういう疑いがあれば正気なうちにあなたに手紙を書いて置こうと思ったの。書くと云ったって結局今の私の心持で何も特別なことはないわけですが。どこを区切りにしたって違った色の血は私の体の中を流れて居はしないのだから、ね。
あなたの方の御工合はいかがですか。すこしはましになりましたか?私は病気になったりしたのを恥しく思う心持があります。勿論過労からであったにしろ。やっぱり自分の健康の事情を十分理解しないで熱中したりした思慮の不足がある。
久しく途切れたからこれを書き今日はこの位でもう出します。この頃は時候がわるいらしいから呉々お大事に。こんな空を見て臥(ね)ているのは残念ですね。 
九月七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(山下新太郎筆「東山と萩」の絵はがき)〕
九月七日夜。今夜八日ぶりでお湯をつかい、お茶をのみに食堂へ来てこれを書きます。私の体、御心配をかけましたが、単純な疲労が重ってひどくこの残暑でやられたらしいのです。ひどく汗が出て出て、皆に、お前がたこんなに汗が出るかと訊いていたうちに疲れを重ねて居たのだったらしい様子です。御飯もきょうからたべます。背中の痛いのもすこしましになりました。栄さんがよく来て電気をかけてくれます。きょうは稲ちゃんも見舞いに来てくれ、ゆっくり休むよう呉々も云ってくれました。どうかそちらでもお大切に。
このエハガキはもう四、五年以前のもののようです。二科や院展がはじまったから新しいエハガキを御覧にいれましょう。南画会が小室翠雲と関西派との衝突で解散した由。残暑をお大切に。本当にお大切に。 
九月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(青鉛筆書き封書)〕
九月十一日第十一信
きょうはひどく風が吹くので暑さが乾いて吹きとばされて居りますね。ペンで書くと抵抗があってくたびれるので一寸このような鉛筆。
私の体は七日の夜(ハガキを書いた晩)から二三日又一寸後戻りをして熱は出ませんが食事がちゃんとゆかず、まだブラブラです。自分の思っていたより疲れていたと見えます。しかし、もうこの順で段々よくなりますからどうぞ御安心下さい。ことしはあなたにもなかなか大変な夏でしたでしょう。残暑になってから却ってよくないのね。弱っていらっしゃいませんか。
私は努力して頭の中をカラにしてボンヤリしようとして居ります。
二階で臥ている。時々下へ降りる。そして、太郎とお喋りを致します。
太郎はこの頃ハッパ、アーチャン。イヤダイヤダ。その他喋り、こちらの云うことはもう物語がわかります。家はこの頃病人続出でね、スエ子は大腸カタルがひどくなりかけて目下慶応入院中です。然しずっと経過はよくて、発病後一週間ばかりですが、却って私を追いこし、もう外出出来るしすぐ退院いたします。私も、もう数日後には面会に出かけます。本当に御心配下さらないように。小さい声で白状すればね、あなたがどこかへお行きと書いて下すった時分、どこかへ行っておけば今へばらなかったのでした。でも、私は、「七、八月は東京に居りません」というマンネリズムが我まん出来なかったのでね。御心配をかけて御免下さい。
シャツ上下薄手のをお送りします。『破戒』は絶版で古本をさがします。近々シンクレアの『ジャングル』を入れます。 
九月十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第十二信九月十三日日曜日午後
ああ、あしたは日曜日であると思う。そして、今朝、起きるとすぐ食堂へ下りて行って来信のところを見る。無い。これはどういうことであろう?二週間何も書かれないということは?そう考え、顔を洗いながら私が病気をするような気候故、そちらも大変工合がわるくていらっしゃるのではないだろうか、このごろは残暑が苦しい、中川へ養生書の注文をなすったそうであるから。――いろいろと考える。或は又自動車で動くようなことがあって、それが障ったのではあるまいかなど。明日面会に行こう!そう思いつつこの手紙を書いて居ります。
私の健康はやっと起きるようになりました。もう殆ど一日中起きて居り、仕事をする気力も段々もりかえしました。熱は出ません。いろんなひとがいろいろの一身上のことについて相談に来る。それをやっぱり加減がよくなくても聞く。そしてそれぞれの意見を云う。――面白いもので、この頃のような時季には、いろんなひとが一身上のことで問題をおこして居ります。仕事を本気にやっているときは勿体ないからね、時間が。――でも勿論疲れるようなことは致しませんから御安心下さい。
きのうは、思いがけずてっちゃんがやって来てね、夕方まで愉快にいろいろ喋りました。話していたとおり帰ってあけの日に来たのです。お土産に『柿本人麿』という本と、森杏奴(あんぬ)が書いた『父の思い出』の本をくれました。十七貫だそうです。あのひとらしく楽しそうに正直にいろんな話をして、私も久しぶりで珍しく愉快でした。嫁さんを見つけてくれとたのまれました。私は若い女のひとは沢山知っているけれども、夫婦の生活が複雑微妙であることを知りぬいているので――最もよい場合を知り、わるい場合を目撃しつつあるので――仲人(なこうど)をやることは大役すぎます。寧ろいやね。紹介をしてあげるのがせきの山です。そう話した。そしたら「そりゃそうだね」と高笑いをして居た。嬉しいときの高笑いは本当に高笑いね。勉強のことなど話しました。
今、スエ子が慶応から退院してかえって来ました。赤痢の疑いとイ者は云ったが、実はそうでなかったのですって。糖尿が悪化すると下痢をつづけてそのまま昏睡してしまいになることがあり、万一スエ子がその初りでは大変ということであったのだそうです。いい塩梅に糖も減っている由です。つやつやして、よく眠った顔をして「お姉様どうした?」と入って来た。これで一〔中欠〕
この間あなたが書いていらしたように全く生活のための健康であるということを深く会得しているから、自分のことについても、あなたのことについても、出来得る最上をつくしつつ心痛はしないでいるのですが、気になる。気にかかる。これはやむを得ないことです。そして、ああ私は決して病気などするようであってはならないと思うのです。一層つよく。生活のための健康なのだからね。二人の生活のための。私は目下温泉保養の決心をして、やすくて閑静なところを調査中です。栄さんとゆくために。私が書いている評伝の後に興味ある文化年表をつけます。そちらの方を受持っていてくれるので、共通の仕事もあるから。三週間位の予定です。多分信州の上林(かんばやし)へゆきます。大変やすくて、閑静でよさそうなところだから。芝のおじいさんたちのゆくところらしい様子です。机をもって本をもってゆきます。早寝をして、散歩をして、母さん役からはなれて、少しのんきになるつもりで。この手紙を御覧になるのは又私がお目にかかってからのことになりますね。どうか呉々もお大切に。安眠なさるよう切望いたします。 
九月十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(はがき)〕
今日の午後手紙を書いて、夜テーブルの横を見たら一枚私の字の書いてある紙がおっこちている、何だろうと思って見ると、手紙の中の一枚が何のはずみか落ちていたのに心づかなかったのでした。変な手紙をおうけとりになることになるでしょう。その頁で私はあなたのお体のことを主として伺っていたのだのに。――どうぞ右の次第御承知下さい。注意が散漫になっているのではないから。 
九月二十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(鍋井克之筆「榛名湖」の絵はがき)〕
九月二十四日夕方五時。
今、『東日』の月評をかき終り「地獄のカマのふたがあいた、あいた」と御機嫌のところです。私は短い時間に、沢山の雑誌をよむこと、つまらない小説をよむことがきらいでしかたがないが、とにかくがんばってまとめてうれしい。明日お目にかかりにゆくのですが、一筆。これは今の二科に出て居る絵です。 
 

 

十月三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県下高井郡上林温泉せきや方より(地獄谷の写真の絵はがき)〕
十月三日。一日に仕事が終らず、二日に出発。上野から長野まで汽車。長野から湯田中まで電鉄。その後自動車でのぼり二十分ばかり来ると、桜並木のところに、店頭にお菓子を並べてタバコの赤いかんばんが出ている、そこがせきやです。部屋からは、その桜並木、むこうの杉山、目の前には杉、桜、楓など。お湯はおだやかな性質で、よくあたたまります。ウスイのとんねるを知らないほど眠って来てしまいました。空気がよくて鼻の穴がひろがるよう。二つの部屋に栄さん、私とかまえて居ります。今日も雨です。
栄さんがお湯で、アラ、と云って立ってゆくから、ナニときいたら青い雨蛙が青い葉の上で動いたのでびっくりした由。二人ともあんまり口もきかず、のびるだけ神経をのばして居ります。
いねちゃんが上野まで送ってくれました。汽車がカーブにかかるまで赤いジャケツが見えました。
昨夜は何時に眠ったとお思いになりますか?六時半よ。そしてけさ、六時半。納豆、野菜など、なかなか美味です。きょうテーブルをこしらえて貰います。 
十月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(せきや旅館前の桜花の絵はがき)〕
十月十一日、日曜日、晴。
十月三日づけのお手紙を昨日いただきました。私の生活のうまいやりかたについて考えて下さり、本当にありがとう。この頃私は痛切に考えていたことでしたから。ゆっくり手紙を書きますが、とりあえず。林町では国男が盲腸でケイオウに入院し、一時間半かかる手術をしましたそうです。イマそのハガキを見ました。そのゴタゴタもあって、咲枝はあなたにさし上げる夜具をまちがえて送ってしまいましたが、あとでとりかえますから、何卒(なにとぞ)あしからず。
シャツ、薄いもの上下、まだ届きませんかしら。冬のはまだ早いと思い、毛の薄いのを入れましたが。
これが私のいるせきやさんの一家です。左手の障子がその家。もっとも十年ほど前の様子ですが。この桜並木はよく、皆の顔の向きに山々の眺望があります。お大切に。
〔欄外に〕本のことはよく分りました。こんどは忘れっこなし。 
十月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(上林温泉から渋温泉を望む風景の絵はがき)〕
十月十一日、日曜日、きょうの午後、この宿の裏の方に新しく建った二階の方へ移り、やっと落付きました。十日ばかり、ほとんど毎日野天で昼間は暮らし、大分日にやけ、足が達者になりました。スキーで有名な志賀高原へ一昨日行きました。新しいドライヴ・ウエイを二十分ばかりのぼると杉、松、栗、柏などの見事な喬木の森がつきて白樺、つつじ、笹などの高原植物になります。石ころ道の旧道を、冬ごもりの仕度に竹、木材、柴など背負い、馬につんだ農夫がうちつれだって下ってゆきます。高原の頂に国際観光ホテル建造中です。
この川が流れて千曲川に合します。この手前にやや濃い山の左手に長野がある。更に左手のこのハガキからはずれたところに雪をいただいた日本アルプス(北)が見えます。落日を受けて美しいのはこの遠くかすんだ山々です。田は収穫時です。お湯は一日一度です。どうぞ御安心下さい。
〔欄外に〕夜も早ねをして居ります。 
十月十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(川中島方面の写真の絵はがき)〕
十月十二日、小雨ふったり、やんだり。きょうは山の中から出かけて、二人は毛襦子の大コウモリをつき、善光寺見物です。善光寺下という電鉄の駅でおりたら陸続として黄色の花飾りを胸につけた善男善女が参詣を終ってやって来る。四十以上の善女が多い。今は付近の小管という家で名物のおそばをたべようというところです。寺はつまらぬ。長野という町は山々を背に何となく明るい雰囲気をもって居ます。山々の中腹に白く靄(もや)がたなびいて雨中山景です。
ソバは変にニチャニチャして、ちっともおいしくありませんでした。手打ちソバなどたべさせぬひどいもの也。 
十月十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(封書)〕
十月十二日(月)第十六信
九月三日に下さったお手紙は十日につきました。あなたが、私について、一層生活の達人になるようはげまして下さること、本当にありがとう。そのことは、近来自分でも益〃はっきり感じて居ることでした。何故なら一昨年の六月以後去年の五月までの間に一昨年の九月頃まで体が悪くていたにもかかわらず、一冊の『冬を越す蕾』がまとまるだけの仕事をしました。今年にして見ても四月以後今日までに私の体の事情に合わせれば、相当の勤勉さです。時間のつかいかたをもっと巧みにすることと、それは私を徹夜から防ぐためにどうしても必要です。全く私は変なウシミツ時にあなたに喋りかけては、計らずしっぽを出してしまいますものね。(でも私は小さいしっぽであろうが、大きいしっぽであろうが、あなたにはお目にかけずにいられないのだから、どうぞあしからず)
私は年に一つは本の出来るだけに働くプランです。今年は或は暮れに近づいて二冊出るかもしれません。評伝と別に白揚社が感想集を出すと云っているから。――
ところで、ここでの生活ぶりについて何と書きましょう。――私としては珍しい表現でしょう?つまりこれは、落付こうと努力しつつ落付けずにいるということになると思います。
ここの自然は実によくて、或はそのために落付けないのかしらとも考えます。きのう迄は部屋の都合で落付けなかった。丁度山々では紅葉(もみじ)が赤らむのでね、善光寺詣りの団体くずれが、大群をなして温泉めぐりをやり、渋(しぶ)からこの上林へとくり上って来る。それらの連中はこの家から少し上の上林ホテルというのにつめこまれるが、この家では二晩おきに、二晩つづいて、奇声を発する変なチビ芸者をあげてさわぎがあり。小学校の先生が集団的にさわぐのです。ドタンドタン殺気と田舎らしい荒っぽさのこもった遊びぶりで、二階じゅうがゆれる。あげくに、廊下ですすり泣く声がして「よし、わかった、ナ?ええ、ええ」などと同僚になぐさめられている先生がいる。そういう有様。海抜二千八百尺のところでも、おお自動車の便利さよで、こういう光景が展開される。その自動車があるので、私は胸も苦しくせずに五千何尺(海抜)という志賀高原へのぼることも出来るのですが。戸外で山をながめ、引しまって新鮮で濃いような空気を吸っていると私は大変いい心持で休まって、さて、家へ入り仕事をせねばならないと思うと落付かぬ。これは妙な心持です。その原因についていろいろ考える。結局ユリは東京で徹夜しないようにして働いているのが一番「うれしがって、仕事をしている」状態らしい、そして、時々四五日、山の空気を吸いにでも来る方が。この心持はどういうのだろう。外部的な事情からではない、東京には私たちの生活があり、ここなどでは半分きりですからね、何だかダメだ。半分と半分との間で無理に延ばされ、ひっぱられているものがあって、だから駄目です。尤もこれは一方的な感じかたかもしれないのだけれども。
十六日にお目にかかったら、途端にああ、休まったと感じるだろうと思っておかしい。ホウ、ユリのバカ。
でも、日にやけたし、体がしまったし、脚は丈夫になったし、決して効果なしではありません。その点は御安心下さい。おかしいでしょう?だから主観的な私の心持の複雑な交錯にかかわらず、生理的な条件はよくなっていること確かです。きょうの手紙は永く書いても同じ。これでおしまい。 
十月十四日夜〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(中沢弘光筆「北信濃風景」の絵はがき)〕
このエハガキに描かれているところは今は一面の段々の田で、稲が実り、背景の濃い杉山とつよい色調のコントラストです。多分この左手の方に一米十円をかけたという一万メートルの志賀高原へのドライヴ・ウエイが通って居ると思います。雪は上林で三四尺の由。志賀の上では七尺だそうです。冬の健康法を私は、雪の中で頬っぺたを赤くしてやりたいと思う。ポコポコしたところへ逃げずに、ね。
中沢さんの絵では雪のブリリアントなところが出て居ません。ここに水上泰生(水彩画家)の別荘あり。
東京からスキーヤーが来るとき、土地の農民は山案内をしたり、千本で一円の箸を内職したりします。竹カゴもあむ。 
十月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より(長野市風景の絵はがき)〕
十月十四日の夜。あした一寸東京へかえるために栄さんとカバンつめを終ったところです。この間書いた手紙で、私はここに落付けず閉口しているところを書きました。けれども健康のためにもう少し居る方がよいし、きょうは十日間の収穫として短いこの生活のスケッチなど『サンデー毎日』に書き、段々調子がついて来るらしい。二十日頃にかえってずっと仕事をします。いかにもここの空気が気に入っていて(本当の空気です)、何だかまだしんにのこったかすまでがさっぱりしない心持ですから。これは変な字ですね。スエ子の万年ペンが出て来たので、それでかいている。長野市は中央がずっと傾斜をもった町で、横通りを見るといつも山が見え一種の情趣はもって居ます。 
十月二十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(中村不折筆「芦の湖」の絵はがき)〕
十月二十一日。
きょうは雨つづきの後の晴天で、珍しく川口さん夫妻が小さい娘の南枝(ミナエ)子をつれてきて、うちの太郎と動物園へ今出かけたところ。私はカゼで門のところに佇み、黄色いずくめの太郎が初めて会った南枝子の手をとって歩いてゆくのを遠くなるまで眺めました。きょう布団カヴァー、シャツ下へきるもの等送りました。四五日うちに新しい夜着もお届け出来ます。この絵は文学的ではあるが、不折が描くところ面白いでしょう?私は気に入って居ります。
おなかの工合はいかがですか。一口にたっぷり口に入れてゆっくりかむことは大変よいそうです。〔約五字抹消〕もそのようにかむ。ゆっくり昨夜話し、いろいろ愉快でした。「批評は現在体で書かれた歴史である」という言葉をキイノートとしている由。 
十月二十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第十七信。十月二十七日(火)ひどい風。
きょうあたりお手紙が着くかと思っていたがまだ着かない。待っていず、書いて、出してしまいましょう。先週の火曜日には、いろいろのエハガキをなるたけ沢山御覧になったらと思い、わざと私の手紙は書かなかったから。――
お体はいかがでしょう。中川へ夜着のことで電話をかけたら、まだやっぱりそちらのおカユのようですね。あなたはリンゴをたべていらっしゃるでしょうか。生(なま)の果物でもあれは赤痢の新療法に使用される位有益です。よくかんで一日に二箇ぐらい召上れ。胃腸がよわっていてもリンゴは特別です。それに、もし胃腸がうけつけたら鉄とカルシューム補給のため、バタと鰯(いわし)、鮭(さけ)の類、カン油なども是非あがった方がよい。私はいろいろ考えてね。あなたの胃腸のわるい原因がやっぱり胃腸から吸収されるものによって癒されるしかないことを思い、まことに隔靴掻痒(かっかそうよう)の感です。鉄分とカルシウム分の減退は著しいのだから、どうかどうかその点を御注意下さい。バタ(北海道と指定して)をつけたパンは駄目ですか?何とかしてバタをあがるとよいと思うのだが。
私の体はこの間又ケイオーで診て貰いました。ラッセルはもうすっかりなくなっています。御安心下さい。オリザニンをのみ、過労せねばよい由。過労をしないということは、仕事をよく配分することであるから、私はそのことを心がけて、仕事は十分、多量にして居ります。一月号の『中央公論』に小説をかくので、上林へかえることは中止しました。本をよんでする仕事と小説とは全く違った雰囲気を要求するのでね。然し、上林へ行ったことは、あれだけ外気の中で山を歩いたことは実にきき目があり、体にも気分にも大変のプラスでした。ちがった場所での生活の観察もよく、私は「上林からの手紙」というのと「山漆(やまうるし)」というのと二つ随筆をかき、猶書きたい。これは小説を書く気分とごく近いものなので、そのためにもようございます。作家評伝の間に小説をはさみ、その小説のプランは長篇として立て、一部分ずつ「伸子」のように書いてゆくのです。いいでしょう?なかなか。評伝は十二月初旬小説が終ってから再びつづけて、前半のように緻密にして生活的であり、生活と芸術とその歴史性の掘下げでユニークなものを完結します。小説もそのように生活のディテールと活力の横溢したものにしたいと思います。「乳房」を書いているから、きっとよいと思う。あれからもう育ってきているから。まだ、だがプランの詳細は出来ていない。毎日もうそのことに、心がつかまえられています。
林町の例の二階の机に向って、計画中です。
国男の体は大分回復して来ました。でもまだ疲労熱を出す。十一月の初旬には退院しますでしょう。スエ子の盲腸は糖尿で切開が望ましくないから、何だかまだおなかが堅いと蒼い顔してフラフラです。太郎は益〃愛らしい。可愛い可愛い小僧です。
私の住むところ、国府津を思いついて下さいましたが、私はもうあすこには住めないと思う。父と最後に行って、父のかけた椅子を見ると苦しい。寝室も陰気さの方が勝っている。勉強机など父の趣味で買ってくれたのが置いてあり、やはりそれも苦しい。私は感覚的に肉体的に父を感じているのに、物があってしかも父はいないという感じばかりはっきり迫って来るところは、さすがのおユリも閉口よ。面白いでしょう。これはスエ子も全く同じ心持です。国、咲はちがうの。平気です。彼等はあすこで自分達の生活をやったからでしょう。それに家の前は八間のコンクリートの国道であり、後方には東海道本線が走り、クラウゼ的な丘陵で、落付けません。道ばたのあの土堤(どて)や松はもうない。つまり、あったとさえ想像出来ぬように無いのです。ですから私はやっぱり市内に家をさがしましょう。十二月中旬に。ああ私には〔約十五字抹消〕
では又。あしたあたりお手紙が来るかしら。 
十一月四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月四日ひどい南風。第十八信。
その後盲腸の工合はいかがでしょう。夜眠れないほどお痛みになったとは想像も出来ませんでした。ひやした丈でどうやら納まったのならまアよいが。
十月は大体盲腸やチブスの季節である由。しかし、若し手術がいる場合、そちらではどうなさるのでしょう?どうかお大切に。この間のお手紙をよんで、面会のとき、それでは苦しくていらしたろうし、又却って歩いたり立っていたりなすった丈本当の意味ではマイナスになったのだったと残念でした。国男はやっときのう退院してかえりました。まだつとめには出ません。晒木綿(さらしもめん)の腹帯を巻いて居ります。
この前の私の手紙もう御覧になりましたろうか。もう上林へは戻らぬことお分りでしょうか。『中央公論』の一月に小説をかきます。だから、山の中にいたのでは駄目故ずっとこちらに居り、仕事がすんだら又一寸空気を吸いにゆくかもしれません。今頃ポツポツ私たちが上林や善光寺から書いたエハガキなど届き、私が上林へ又かえろうなどと云っている手紙がお手に入っているのでしょうね。可笑しいこと。
きのう鶴さんのところでお手紙拝見しました。稲ちゃんが、「あの着物を私達が入れたと思ってお礼を云われて、わるくってしようがない!」とくりかえし笑いながら云っていた。縫うことと小包にすることを私が留守なのでたのんだのでした。「でも、好意ということでは同じだからいいさ」と私も笑ったの。本(蘭学事始)は、たしかに二人からの御誕生の祝です。鶴さんは大変体が参って居ります。そしてこの人は科学的には治療出来ないの、私は心配して居ます。彼は生きなければなりません。その重要さがはたしてどの位わかっているかしら、よくそう思う。
この間島田へ上林からお送りしたのは松葉の茶です。今度は少し沢山、野原の方と両方へお送りいたしました。いつぞやお話のあった毛布ね。あれはことしのお歳暮にさし上げましょう。私も少しは稿料も入るし。「阿Q正伝」の作者魯迅が没しました。写真の顔は芸術家らしくなかなか立派なところがあります。支那のゴーリキイといわれた由。この頃、パアル・バックというアメリカ人の女作家(支那生れ)のひとの「母」「大地」など支那を描いた作品をよみました。芸術の現実によって中国のしんの姿をつかむことの困難さが其々に感じられます。
作家としての発展の段階は生涯のうちに幾つ自覚されるものであるか、それは人によって、又その人の稟質(ひんしつ)の豊富さによるのであろうが、私などはこの頃になって小説というものにつき、そのこしらえものと、そうでないものとの差別がはっきりして来たようです。小説家としての発育は、小説を書くことでなされるという特殊な面が、人物の完成ということと微妙に相関している。人物が出来ている、だから直ぐいい小説がかけるとだけは云えず。芸術上の実践ということについては、まことに興味津々たるものがあります。英樹さんの評論の原稿を、私は興味と責任とをもってよみます。小説家と理論家とのちがい、そして理論家の素質というものについて、そのむずかしさについて感じます。何と、人生さながらの小説が欲しいでしょう!科学者の随筆が小説よりも面白いと思われるという傾向が昨今あります。それは小林秀雄が、わけの分らぬ言葉の手品をしていたり、妙な下らぬ小説や賞がはやって、常識がそれにプロテストするからなのだが。
そのプロテストが又いろいろの事情によって三四年前とは全く異り、手がこんでいてひねくれていて、はっきり自明なことではイヤイヤをするというのだから、相当なものです。いろいろ勉強と努力と成長とがいります。
近日中に又面会に参ります。今夜はピヤチゴルスキーというセロの名手をききます。久しぶりで。パストゥル(科学者)の一生が映画化されて来て居ります。これも見たいと思う。お体のことは本当にあなたの御用心を願うことしかありません。

私の体のことをこの前の手紙に比較的くわしく申しましたから、きっともう安心していて下さることと存じます。
改めて、もう一度。ラッセルはもうすっかり消えました。過労のための一時的なことでした。心臓は特別の新しい徴候なし。過労するな、過労するなが信条ですが、過労せぬということは仕事をよく塩梅することなのだから着々とやるだけはやって居ります。
今は風邪でズコズコですが、これは大したものではありません。どうか御安心下さい。 
十一月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月十一日水第十九信曇天
午後二時外苑で三万人の学生や青年団が音楽祭をやって君ガ代をうたっているラジオ。
きのうは、先月のときから見ると、やっとあなたらしいお顔つきでした。窓があいて、一寸のり出すようになさったとき、少しよくなっていらっしゃるのを感じました。それにしても、先月は苦しかったのですね。よっぽど立っているのが無理であったに違いない。どうか、これからは、きのうお話のように少し無理そうなときはわざわざ出て来ないで会えるようにして下さい。その方が私はずっとずっと安心なのだから。
けさ十一月二日づけのお手紙をありがとう。書く日がずっていることを知らず、二三日随分待って居りました。私の仕事のこと、又療養のこと。こまごまとありがとう。具体的にたのまれなければインスピレーションを実現しないとお笑いになったって?なかなか辛辣ね。ひどい!と思いながら思わず私もニヤリとしてしまいましたが。作品によって過去の作品を克服してゆくということは、全くです。私は、評伝風なものとしては夏からかかっているのをすっかり完成させたら、漱石その他にはすぐかからず、来年は主としてずっと長篇にかかります。作品そのもので、題材と主題との関係で今私がとりあげたく思っている諸点、芸術化されるべきであると思っている諸世相を書いてゆくつもりです。大変たのしみであるし、きっとあなたによろこんでいただけるものがかけそうです。丁度お産をする母が肉体的に出産を予感するようなもので、私の内部的カラクリは丁度もう作品をかくとき、或ゆとりと或客観力と経験の蓄積をもって来ている。この感じは、何と説明しましょう。実に何か内部的な一つの世界の前に扉があきかかっているのを見ているような、独得の感じです。へとへとにならず着実にやってゆきます。少し力をこめた作品をかく心持は本当に自分が生むもので又同時にうまれるもののような快い苦痛がある。只今は構成です。一月にはほんの六七十枚ですが、コンポジションは全篇の大体をこしらえておく必要があるので。
本を(医療の)そちらで買って下すったのは結構でした。お金がもうあんまりおありにならないでしょうね。でも来月までは辛棒(しんぼう)していただかねばなりません。島田の河村さんの御夫婦には一寸往来でアイサツしたきりでよく存じませんが、お父さんが朝のうち行っていらっしゃるなんて、何といい光景でしょう。そして、お父さんは東京から来た坐椅子だとか何だとか、たのしんで自慢したり、又心配したりしていらっしゃるのでしょうね。目に見えるようです。河村さんにも、この暮には何かお送りしましょう。
国男の体のことよろしくお礼を云ってくれとのことです。例によって筆不精ですからね。五日に退院し、まだ家にブラブラしている。国府津へでも行こうかなど云っている。盲腸は普通の三倍の大さがあった由。又、とったあとから生えるかもしれぬ由。そういう体質があるのですって。咲枝は疲れが出て、背中をいたがり、おふろのとき、私がサロメチールを背中じゅうにフーフーいってぬってやります。太郎はこの頃はダッチャン(父さん)、アアチャン、オバチャン、みんないるので大満悦です。かぜもひかず、くるくるして片言を云っている。汽車の絵をかかせるのですが、何故だか、チッチャポッポが大好きです。スエ子は盲腸がどうやらおさまり。鵠沼の方にさむしくないところを一部屋かりて、当分暮すでしょう。この家も一月末にはとりこわしがはじまりますから。私は十二月中旬に引越しの予定です。年の暮は、私たちの家でお客をよんでやります。私は私たちの家なしでは暮せぬ。来年はうんと能率的でしょう、それがたのしみ。
昨日御注文のアンダアシャツ早速はからいます。毛糸の寒中用のももひきジャケツは、今年御新調です。柔く軽いが、これまでのものより上等です。今栄さんが編んでいます。夜着はお気に入りましたか?割合心持よい色の工合でしょう。
この間は田村俊子さん、重治さん、間宮さんたちと、稲ちゃんのところで御馳走になり、愉快に一夜を過しました。池田さんは今苦しいの、わかれ話が起って、もつれていて。勉強はそれでもやっている。お体全体どうかお大切に。歯も。然し、もしかすると、一番わるい峠はお越しになったのではないでしょうか。来年には或安定が生じるのだろうという気がします。よい仕事が出来るようにおまじないをして下さい。では又。 
十一月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(朝井閑右衛門筆「丘の上」の絵はがき)〕
十一月十四日。毎日仕事の下拵えのために没頭して居ります。この頃健康改造のために注射をはじめ、すこしよいようです。今年の冬は、なるたけ火鉢を入れず、よく日に当りという方向で注意するつもりです。道具立てなかなか面白し(仕事の)いろいろの絵の展覧会がありますが、ひまがなくて。つい時間がおしくて。今竹内栖鳳やその他無カンサ組の文展招待展というのも別コにあって、殆どどれがどれやら素人に分らない位です。招待展評に曰く「文展の瘤展」「愚作堂に満つ」云々。この絵が大臣賞を貰っているのは大変面白いことです。これは普通の落選もある文展の方です。又散歩に出たらエハガキを買って来てお目にかけましょう。 
十一月二十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十二日第二十信。
そちらからのお手紙を待っていたことや、小野さんが急逝されたこと[自注19]やで、この手紙はいつも書く筈の時より大変におくれました。
その後、お体はいかがですか。ずっと順に恢復をつづけていらっしゃいますか。この間面会のときお話のあった毛糸の足袋下をお送りしたら、もうかえって来ました。領置には出来なかったのでしたろうか。十二月に入ってから又お送りして見ましょう。それからかけ蒲団のあつさはいかがです?やっぱり薄いとお感じでしょうか。夜着の上からでしたらあれでよいのではないかとも思うが。――
本は注文なすった分がありましたろうか。
鑑子さんの旦那さまは一昨二十日払暁没しました。足かけ三年の病臥の後です。二十日に重治さんから教えられて、咲枝、稲ちゃんと三人で出かけ(大森)夜十二時頃かえるつもりで行ったのですが、いかにもかえりかねてお通夜をしました。知義さん、須山さん[自注20]、大月さん[自注21]等肖像をかきました。二十五日に築地で劇団葬[自注22]にきまりました。小山内薫以来のことです。鑑子さんは実にこれ迄努力をして来て、これからもしっかりやってゆくでしょうが、私はこの二三年の間に両親をそれぞれ特別な事情の下で失って、感銘深いものがありますが、しかし、良人を失ったということは、その悲しみの性質において全く別のものであることを痛感しました。全く別のもの、全くその感覚においてちがうことである。死んで貰っては困る。実にそう思う。心と体とが、そう叫ぶようでした。暮している場所や事情やそれはどうでも、生きていること、そのことは絶対の価値をもっている。元より複雑ないろいろのことをふくめてのことですが。
もうじき父の一周年になります(一月三十日)。母の本はあのようにしてつくられたので、父の記念出版をしたいが、それには様々の困難があり、こまっていたら国民美術協会で大河内正敏氏や石井柏亭その他の人が一冊の『中條精一郎』という本を出して下さる由。私は大変うれしゅうございます。家族で出すよりずっとうれしい。それで一昨日、一昨々日は、「父の手帖」という文章を一寸かき、その前には又もう一つの別のをかき、更に十二月十日頃までにもう一つ二つ短い文章をかく予定です。スエ子も咲も国もそれぞれに書きます。御目にかけられるのが楽しみです。
スエ子は昨日から鵠沼へ住みました。小さい離れが小料理やの裏にあり、私がもと(四五年前)仕事部屋にしていたところ。半年ほど東京と半々に暮すそうです。太郎は相変らず。
私の仕事はプランが大きいので手間がかかりました。そろそろかきはじめます。自分で何だかこれまでとは違う心持が内部にしているのは興味があります。思いがけず助けてくれることが出来るひとがあって、第一部の下拵えはまことに好都合でした。体もお通夜できょうは背中が痛いが、大体は順調ですから御安心下さい。この二階から紅葉した楓の梢が見られます。上林辺はきっともう雪でしょう。きょう毛のシャツ、下シャツ等をお送りいたします。呉々もお大切に。十二月の十日頃にお目にかかります。かぜをお引きにならないように。では又ね。

[自注19]小野さんが急逝されたこと――音楽家関鑑子の良人、新協劇団演出家小野宮吉、数年来の腎臓結核によって死去した。
[自注20]須山さん――須山計一。
[自注21]大月さん――大月源二。
[自注22]劇団葬――新協劇団葬。 
十一月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月二十六日第二十一信
けさ、十一月十六日づけのお手紙が届きました。その前のは二日の日付けであるから、間の週にはよそへおかきになったわけでした。大体そのことは分っているのに、何だか毎週待つから可笑しい。あなたのお体のことは、勿論絶えず念頭にありますが、私は決してくよくよ案じては居りません。そのことは、呉々御安心下さい。自然の治癒力について私は自分の経験から或理解をもって居りますし、あなたという方をも亦更によく理解して居りますから。根本的には安心立命して居ります。それから私の体のことを、この間うちはとやかく御心配かけ、すみませんでした。目下好調子です。小説も、今回分は僅かでも大体の通ったプランを立てなければならず、そのために時間を多く費しましたが、やっとそれが終り、書きはじめました。「乳房」のときより進んだ心の状態にあります。大変すなおに、描く対象を浮彫りにしてゆけそうな心持です。或自然な、柔軟な突こみがされそうな感じで、大変、大変うれしい。満を持し、いそがず迫ってゆく、この感じ。今度の仕事の準備中ふと「戦争と平和」をよみかえしました。もと一度、或ところは二度三度よんでいるが、今度よんで見て、ずっと異った専門的技術上の発見があって、これもためになります。描く対象は元より全く違っても、小説というものを書く上では学ぶべき点あり。「夜明け前」で学ぶべきは、仰云るように、作者の根気、努力、であるが、こちらの作者のスケールと現実洞察の、彼なりの鋭さ、リアリティーは実に光彩陸離たるものがあります。若い時代が、その技術をくみとりつつ、内容に於て新たな世界を芸術化し得るというよろこび、我から我に与える鼓舞には一寸云いつくせぬものがあります。描こうとする世界への没頭というか献身というか。しかも最も冷静な見とおしと統制。芸術的感興というものがこのように全心的な燃焼を要求するからこそ、芸術家にとっては、いかに生きるかというところまでが問題になって来る。興味あることです。私は決して夜更けの仕事がすきではないから、この点も改めて御安心いただきます。きっと眼が丈夫でないからだろうが、私はひる間の書きものが一番好きであるし、そのように整理してやって居ます。ほんとに、時間は悠久であるが、ですね。でも、私のように欲ばると、いろいろへまをやって、どうやらこの頃は、時間というもののほとんど驚くべき性質=同じ三時間のつかいようで、生涯の仕事としての何かが加えられたり、全く空に消えたりすることの驚くべき性質を実感してつかむことが出来るようになりましたから、きっと追々あなたもマアよいとお思いになるようになるでしょう。でも、仕事の上での欲ばりというものはよいものです。欲ばってのことなら、たとえへまをやってもきっと、何か得て立ち直りますからね。ほんの一寸した経験でも。時間を充実させる術をしっかり身につけたら、もうその人は人生の達人と云うべきでしょう。私なんか、まだ、どっちかというと、平凡に忙しがっている平凡な欲ばりやの程度かもしれません。島田のこと。あなたのお考えになるその通りを私も考えて居ります。私は自分の両親に対して今日、ああしておけばよかったと思うようなことは一つもありません。島田のお二人に対しても私の希望していることはそのことですから。古典について評論家がなくて、辛うじての時評家が多いことについての感想。同感です。英樹さんに対して私が点がカライのはその所以(ゆえん)です。私の机の上には中学生じみた馬の首のついた文鎮と庭の山茶花の花とあり。来年一杯以上かかる長い旅に踏み出したような宏(ヒロ)子という若い女(作品の中の)に勇気とよきタイプを祝って下さい。では又。
〔欄外に〕○毛糸の足袋下はハイラないのでしょうか。去年はそっちではいていらしたのでしたが、いらないのではないのでしょう?
○毛糸のシャツ、白メリヤスの下シャツをお送りいたしました。
〔「戦争と平和」を読んだという項の上欄に〕○これは特別な勉強よみで、作品のコンストラクションの解剖を、ノートしつつよんでゆく方法です。
漱石でさえ、交響楽は書けなかった、交響楽を書きたいと思う。 
十二月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月五日午後第二十二信
あなたはベッドの上で手紙をおかきになる[自注23]とき、どんな恰好をしておかきになりますか。あまり工合がよくないものですね。今私はこの手紙を、二階の部屋のベッドに仰向きになって背中の方へクッションをつめて、板に紙をのっけてかいているのですが。そして、こんな形で手紙をかかなければならないことについて、小さくなっています。二日の夜、夕飯後、急におなかが苦しくなって、咲枝は経験者だもので、早速盲腸と診断し、お医者を呼び、冷やし、それでも盲腸としては大分軽い方です。この頃ずっと仕事に熱中しているから養生生活であったのに、何と可笑しいでしょう。一身同体という証拠ででもあるのでしょうか。手術はせず、内科的になおしますが、いろいろ面倒くさい。流動物ばかりです。私の位でも苦しいことは相当であったから、あなたはさぞお辛(つら)かったでしょう。歩くなどということは実に苦しい。どうかお大切に。私の方はいろいろ揃っているのですから。きょう板上執筆の試みとしてこれを書いて見ているのです。が、気を入れては少し無理かしらとも思う。何とかしてとにかく仕事だけはやります。どうか御安心下さい。全く今年は盲腸の当り年です。びっくりしてしまう。熱ははじめ八度出たきり。ずっと平熱です。
この間丸善で毛布の二枚つづきのをそれぞれ光井と島田とにお送りしておきました。達治さんも十一月三十日には除隊になったでしょうから、島田もさぞおよろこびでしょう。
あなたの冬用の厚ぼったいドテラが今縫いあがりました。フランネルじゅばんと入れます。どうかそのおつもりで、不用の袷(あわせ)類を下げてお置き下さい。
さむくなりましたが、今年は去年より概して暖いのではないかしら。きょうなどなかなかおだやかな日です。
盲腸など大変きらいです。少しひまなとき、そして健康状態のいいとき、切ってとってしまって置こうかと思います。こんなアナーキーな突発的な虫を体に入れておくことは何とも承知出来ない。いろいろ条件がわるく重なったとき、又きっとやるのだから。近日又ゆっくり常態で書きますが、今日は文字通り同病の誼(よしみ)による御機嫌伺いを申します。

[自注23]ベッドの上で手紙をおかきになる――病監には机がなく、ベッドの蒲団の上で手紙を書いていた。 
十二月十二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月十二日第二十二信
十一月三十日づけのお手紙を十日の朝いただきました。このお手紙ではまだ私の盲腸のことを御存知ない。お体の方は順でしょうか。第一に、私は六日頃からベッドとデスクと四尺ばかりのところを動いて仕事をはじめ、十一日の朝終りました。あなたが手紙で、もう今頃は一区切りがついてよろこんでいるだろうと仰云ったのは一日だけ早かったわけでした。盲腸は軽くて今もうおかゆですが、冷やした結果、肝臓が痛み出して、只今では盲腸はケロリとしてむしろ肝ゾーが痛い。短い上下の間に、全然反対の療法のいるものがかち合って可笑しいことになりました。いよいよ、盲腸をとってしまう必要あり。これは来年の仕事です。
ともかく仕事がやれる程度であったことは大助りでした。仕事の結果は、何しろうんと長いものの登場ですから、ヨーロッパ旅行の途中神戸へついたようなものです。その部分としては満足です。じっと先の方を見てゆっくり歩いている、そんな風。そしてこの仕事では一晩も徹夜をしませんでした。これはどうかほめて下さい。今度の経験で、いわゆる病弱なものの時間上の得というようなことを感じ、苦笑ものです。私の希望しているような生活的な、表現の健康なシムフォニックなものがつくられそうです。発端にその可能があらわれていると信じます。
旧(ふる)い小説集というか、短編集、その他あります。入れて見ましょうか?あなたのおっしゃる前期的作品ですが。前期といえば「小祝の一家」も或意味で前期です。「乳房」は一つの過渡でした。「雑沓」に至るまでの。
全集目録は明日お送りいたします。「どてら」はおうけとりになったでしょう?中野さんが大島へ行ったとは知らなかった。只今鑑子さんから電報とお手紙のお礼が来ました。池田さん、あのお手紙の言葉を見たらきっとうれしいでしょう。
作家生活というものの複雑であり興味ある点は、或種の作家、そしてその作家が一定の到達点にあってそのレベル内で十分活動する社会の事情があると十年の間に漱石、芥川のように相当の仕事をするものですね。そのことはなかなか観察すべきです。彼等は、其々、自分の持っているものの中で働いて、生涯を終った。旧いもちものを脱ぎすてて新しいみのりへまで動く必然を感じず(漱石)感じてもそれを放棄の形で肯定した(芥川)。
作家が永い生涯の間で何度発展をとげるか、そしてその時にどの位作品をのこしてゆくか、これは大なる研究に値し、作家必死の事柄です。「四十年」の大作でクリムの性格は発展的に描かれていなかった。発展しない時期の作者はそれを描き得たが、一躍した後、それが書きつづけられなかった。これも深甚な興味があります。自分のこととして、今これから大長篇を書くことの出来るのをうれしく思います。それは必ず貫徹し得るから。まことに生活の結晶であるから。――
林町の生活について以前二十枚近く書いたことがありました。ではこの次の手紙(近々かきます)はその分だけにいたしましょう。
私へのおまじないをありがとう。むしがれいはそろそろたべられるけれど、チーズどうかしら。私は咲枝に「ホラ、こうかいてある御馳走をし……」と笑いました。今日島田へ達治さんのかえったお祝いをかきました。きょうは柔かく暖い日。何ともっともっと喋りたいでしょう。では又。お体をお大切に。呉々もお大切に。
附録一枚
国民美術協会から『中條精一郎』が出版されます。そのことは申しましたが。――
この十五日が締切りで、私は「父の手帖」「写真に添えて」「家族抄」など四十枚ばかり書き、寿江は「父」三十枚ばかり、咲「お祖父様」を少々、国男も何か書きます。来年一月三十日は一年祭です。その折までに出来るのだそうです。これは御覧になれるから大変楽しみです。咲きょうけんそんして「いらない原稿紙があったら下さい」だって。もちろん私はよろこんで、半ペラの新しいのを一綴進呈いたしました。 
十二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月十二日第二十三信
この手紙では林町の生活のことを主として書きましょう。
事務所は依然八重洲ビルにあり。名称も元のままですが、主体は曾禰氏が主です。ところがこの老博士は今年八十四五歳であり、君子であり品格をもった国宝的建築家でありますが、現実の社会事情からは些か霞(かすみ)の奥に在る。ために国男はじめ所員一同具体的な生活的な面で安心して居られず、という有様です。せちがらさを、この老大家は道徳的見地でだけ批判して居られるのですから。もっとも御自身の経済はせちがらさに動かされないからそうなるのでしょうけれども。
江井のことについて心配して居ましたが、向島の西村(母の実家)の土地が空であったので、そこへ四十室ばかりのアパートが落成し、江井はその管理人兼十何年か後の所有者として生活しはじめました。
車はプリムスをドイツ製オープンのアドラーに代え、国男自身運転して事務所にかよって居ります。
この古い家をこわして、小さい、単純な(設備はうんとよくしたい由)ものを建てるそうで、二月頃着手するでしょう。裏の土地が沢山あきます。小さい家を二つ建てるのだそうです。「姉さん、平ったく考えて、姉さんが住むのが一番いいと思うね」と云います。
私としては目下考慮中です。深甚に考慮して居る。おひささんというひとは、いろいろ自分の心持から、金の点から、私と一緒に暮すことはことわって居りますから。作家にとって実に大切である生活の日常的アトモスフォールの点から、考慮中なのです。こまかい便利は勿論便利にちがいないし、用心もよいにはよいが。――
続十二月十七日。
十五日に寿江子がお目にかかれて大変安心しました。無理をしないようと繰返しおっしゃった由。御心配をかけました。ずっと順調ですが、やっぱり、痛わらなければならないものを体の中にもっていることは、面倒だから、若し医者がよいと云ったら、この暮から正月にかけ、どうせガタガタしがちな時であるから、入院して、とってしまおうかとも考えて居ります。どうもそれが時間の一番の利用法らしい。但未定です。決定すればその前にお目にかかりに行ったとき、いろいろお話しいたしましょう。父の記念出版のための原稿を十五日の午後にすっかりわたしました。私はなかなか活動ですよ、「雑沓」七十枚、『婦公』「未開の花」七枚半、『ペン』に「時計」という随筆十枚昨日書いて、略(ほぼ)九十枚近い父のための原稿を整理して、四五十枚は執筆しています。
――○――
寿江子この頃鵠沼で、体も糖尿の方は大分よくなって居ります。だが、器楽を専門にはやれないので、音楽に関する文筆の仕事に向いつつあり。ドイツ語なども一人でいつの間にかはじめている。ところが音楽の方はおくれていて、まともな音楽史一冊出ていず、芸術史にしろ、今日の到達点において書かれたのはないから教育上閉口です。
音楽家は、素質的に少しでもましなひとは、主観的にそれに自負してしまう、そこで危険です。緑郎は今年既に作曲を三つやっているし、評論活動その他落付いて若いものらしくやっている。これは土台がいくらかあってのことだから、教育上の心配というものはないのです。本のよみ方も知っている。
太郎はこの頃、自分をアーボチャンと云い、いろいろの単語を喋り、なかなか可愛くよく発育しています。今度お目にかけます。大きいということが云えず、アッコオバチャンと云い、コの音の出しようをクの間のように喉音で出します。
今年のうちに青山の墓地の始末をして父の墓標も立てなければならないので、そのデザインが出来上りました。なかなかいいデザインです。早いものでもう間もなく一年です。
先日、島田からのお手紙で、達治さんがかえられて皆およろこびの御様子でした。光井からもお手紙いただきました。あちらにも上林の松葉茶をお送りしてあります。召上っているらしい。今年のうちに着く手紙としてはこれが終りかもしれませんね。私は体も大切によく勉強もしているから本年は本年として心のこりなく送ります。お体を重ね重ねお大切に。くりかえしそのことを願います。 
十二月二十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十二月二十日雨第二十四信
この手紙は来年になって御覧になるでしょうか。それとも今年かしら。きょう、十二日付のお手紙をいただきました。小包で厚いシャツ、袷せが届きました。きょうは日曜故、明日夜具のエリをお送りいたします。あの小包を見て、こちらからのシャツの入れようがおくれたことをさとりました。御免んなさい。
小野さんの没されたことについて計らず同様に感じたのは当然ではあるが、やはり何か心に微笑がわきます。生を貫徹するために死をも貫くのであるが、そういう実質において価値ある生命のねうちは実に高く、手前の勝手で粗略には出来ない。この頃、連続的な仕事をもっていて、盲腸などやったから、かえって体のもちかたについて真面目になりました。よかったようなものです。それにいろいろな雑誌の切抜きなどの整理(評論のための)新聞のせいり等、はっきりその必要とやりかたが分った折から、M子さんが小遣いも入用なので、一週定期的にセクレタリーをやってくれることになり、あなたからの本の御注文も古今未曾有のカード式整理方法によって整理されました。やっと御安心下さいと申せるようになりました。私も本当にホッとした。一人では全くまわりきれなかったのだから。M子さんは詩人的なテムペラメントでたのしみ愛しながらそういう仕事をもやってくれます。新しい生活の希望をもってやって居ります。
宏子の出発を祝って下すってありがとう。今度の小説では、社会の各層の縦断です。ゆっくり、根気よく、仕事に要される持続力の全幅を傾けてやりましょう。
M子のために買ってやったフランス語の第一課を見たら〔欧文約十八語抹消〕「忍耐は日常不断の勇気である」又〔欧文約十二語抹消〕「天才とは永き忍耐である」等、一寸洒落た文句があって、これはあなたも目をおとめになりそうであるから、お互のクリスマスプレゼントマガイにいたしましょうか。本年末は島田、光井の方へ毛布二枚つづきお送りしたのみならず、自身のために『ロンドン・タイムス』の文芸付録とアメリカの『THENATION』誌を一年予約しました。いいでしょう?英語、ドイツ語は寿江子、フランス語はM子と分担してヨチヨチやって貰って、自分は日本語専門でやります。ところが寿江子の英語もまだまだでね。努力だけは買ってやります。父の本のために三十枚ほど彼女もかきました。
私は何だか、あけましてお目出とうという気もせず、ただお互に来年は体をましにしてそれぞれのやりかたでの勉強をやりましょうという心持だけです。三六年は全く体というものについて新しい経験を重ねましたから。『新潮』は新年号に十五枚ぐらいの小説を十五人ぐらいにかかせているが、批評によると、短篇アンサンブルとしての効果なし。稲ちゃんも大変スタイルに留意して試みている。矢田津世子が書き、たい子がかいている。俊子さんの第三部は(第二世の小説)『改造』二月に出るでしょう。俊子さんにしろ彌生子さんにしろ、女の作家が年齢に比べて若いということ(作品において、主題において)、このことは、よしあしがあるが、一面には永久に求めざるを得ないものを女が正直に追求していることによって若いとも考えられ、なかなか興味があります。一昨日「含蓄ある歳月」という七枚ばかりの彌生子感想を『帝大新聞』にかきました。私は一月中に評伝を完結して、四月頃つづきを発表します。盲腸は切りません。きらぬ方がよい由。私、もしかしたら盲腸ぐらいもっていてアラームベルの役をさせた方がいいかもしれない、夜更しをするとジリジリ!たべすぎそうになるとジリジリ!仕事のときは、但シベルがなり出したら、あなたの目ざましのように足の方へ蹴込んでしまう?まさかね。
明後日ごろお目にかかりにゆきたいと思って居ります。『プーシュキン全集』はまだ出て居りません。文芸時評的なものを年内に二つかきます(『文芸』『文芸春秋』)。
本当にこの手紙は、去年(こぞ)とやいわん、今年とやいわん。 
 
一九三七年(昭和十二年)

 

一月八日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月八日第二十六信
晴れ。五十一度。緑郎のピアノの音頻り。
今年の正月は去年とくらべて大変寒さがゆるんで居りますね。そちらいかがですか。お体の工合はずっと順調ですか。畳の上で体が休まるということを伺って、きわめて具体的にいろいろ理解いたしました。何でも、世界を珍しい暖流が一廻りしたそうで、大変あったかい。それで却って健康にわるく、世界に一種の悪質の風邪が流行している由、称して、ヒットラー風。
私は、今年の正月は余り自動車にものれず、餅もたべられず、おとなしい正月をいたしました。盲腸の方も大体障害なく、きのう野上さん[自注1]のところへ行ったら薏苡仁(ヨクイニン)(何とよむのか忘れてしまった、田舎にも生える数珠子玉(ジュズコダマ)という草の支那産のものの由)という薬を教わって来ました。彌生子さんの盲腸もそれでなおした由。二月の『文芸』に横光の「厨房日記評」を二十枚ほどかき『文芸春秋』の文芸評を今準備中です。文芸懇話会賞の室生犀星は「雑沓」などは題材的に歯に合わず活字面を見ただけでうんざりの由です。横光、小林秀雄、犀星等、芸術上の高邁(こうまい)イストが、現実において一九三七年度には急速に自分達のポーズと反対のものに落下しつつあるところ。日本文学の上に一つの新しい歴史の生れたことを、感じ、興味津々です。一月中旬に白揚社から本が出るのだが、まだ題名がきまらず。何かいいのはないかと考え中です。生活的でうるおいがあって、音楽的色彩的であるようなの。
いつぞやから、私の家について云っていたのを覚えていらっしゃるかしら。あなたが皆とかたまりすぎて夜更しばかりしないようにと注意して下すったし、そのことをも考え、一緒に住む人のことをも考え、なかなか決定いたしませんでしたが、この正月三日に、目白のもとの家[自注2](上り屋敷の家です。覚えていらっしゃるでしょう?)のそばで、小さい、だがしっかりした家を見つけ、そこを借り、Xと一緒に暮すことにいたしました。家賃三十四円也。上が六畳で下が六・四半・三・玄・湯殿というの。部屋が一つ不足です。だが家賃との相談故これで我まんします。一つ一つの部屋が廊下で区切られていて南向きです。二階は一日陽がさし、どちらかというと直射的だから勉強するために刺戟がありすぎます。陽よけの工夫がいるほどです。五尺四方というフロ場!用心はよさそうで、省線に近いが静かです。Xか、Dさんから手紙が届きました?XとDさんとは結婚することになりましたが、Dさんの家庭の事情、経済事情がまだXと同棲するに至っていないので、Xは当分私と暮します。Xは詩を書いてゆくのですが、家から一銭も来なくなってしまった。十二月には私が下宿代を出しましたが、毎月そのようには行かないから一つは家を持つことを急いだのです。この二人は、勿論多幸ならんことを切望いたしますが、今のところX自身、愛情と一緒に一種の不調和を感じて居るらしい。このような直観的なものはゆだん出来ませんからね。Dさんは確かに人の注意をひくに足りる人ですが、あらゆる過去の経験で人に愛され、便利で信頼し得る友人をもち、いつも出来る人物と見なされ、自身それを知って、家の中では唯一人の男の子として生活して来た人にありがちな一つの特長をもっている。素直な人でしょうが、そういうものは強くある。よい意味でも、まだペダンティシズムをもっている。Xにはスーさんとは違うが、似た気質あり。すっかり納得ゆかないうちに一方では衝動的に行動する。人と人とのことはむずかしいものね。私はXと暮す以上は大いにXをふっくりしたものにしてやりたいと思って居ります。でも、私とXとは持っている感情の曲線が何という違いでしょう。Xは細いマッチの棒ぐらいのものをつぎつぎにもっている、そして詩も三四行のをかくの。こういう芸術の有機的つながりは実に微妙です。
健康のためにも、仕事のためにも生活を統一する便利が殖(ふ)えるから、家をもったら能率的且つ書生的に暮します。楽しみであり、一寸うるさいナと思うのはXのこと。でも決してわるいというのではないのです。
一昨日の晩であったかKさんが始めて家へ来てしみじみ話して行った。人間が孤立的になる場合、その原因は人間としてのプラスの面からだけでは決してない。私はそのことを率直に話しました。そのように話したのは恐らく知りあってからはじめてです。稲ちゃん達はなかなか悪戦的日常(経済的に)ですがよくやって居り、静岡から妹夫婦が東京へ転任になって来ました。私の引越しは十二日頃です。番地がまだ不明。おしらせします。引越したらお目にかかりに行きます。お体を呉々もお大事に。変な気候をうまく調節してお暮し下さい。

[自注1]野上さん――野上彌生子。
[自注2]目白のもとの家――一九三一年初夏から三二年一月下旬まで百合子が生活した家。 
一月十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕
一月十六日午後四時今柱時計が四つ打つ。
今年になって二つめのこの手紙を、私が何処で書いているとお思いになりますか。きっと、前の手紙を見ていらっしゃるだろうけれども、これは私たちの新しい家の二階の六畳のテーブルの前。やかましくない程度に省線の音をききながら、そして、この紙の横にあなたからいただいた二通の手紙、十二月二十六日のと一月六日のとを重ねておき、くりかえしくりかえしよみながら。丁度くたびれているひとが煙草を腹の中まで吸ってつかれをやすめ心愉(こころたの)しくしているような工合に。――十三日にこっちへ引越し、Xさんが家の仕事に馴れないし、いろいろ揃える仕事、本を片づける仕事その他できのうまでゴタゴタ。やっとさっき風呂に入り、さっぱりと髪を洗い、十三日の朝引越しさわぎの間で遑(あわただ)しく立ちよみして来た二つの手紙をよみなおし、この家ではじめて書くものとしてこの手紙を書いているわけです。十三日は、十一日までアンドレ・ジイドについての感想的評論をかいていてつかれ、(ジイドがURSSへ旅行したその旅行記に対して『プラウダ』や『文学新聞』が批判している。だが作家の内的矛盾の過程はその内部へ入って作家の独特な足つきに従って追求してゆかなければ、文学愛好者には納得ゆかぬのですから)十三日の引越しはどうかと、あぶながっていたところ、スエ子がなかなかのプロムプタア役で到遂引越しはスみました。十三日の晩は良ちゃん、てっちゃん、池田さん、詩の金さん、戸台さん[自注3]、栄さん、手つだいやら様子見やらに来て、十一人位で夕飯をたべました。
上落合の家にいたときは、大体独りっきりで、栄さんが近所に住んでいたから暮せたようなものの、ひどかった。その点今度はいいでしょう。但物価は最近五割近く高騰したものもあり、その方は閉口です。民間のサラリーマンの月給も上げてほしいという声たかく、偉い人々例えば(陸相)など民間も協力せよと云っていて下さるが、文筆家の稿料はどなたも上げよと仰云らぬ。いろいろ活きた浮世は面白の眺望です。お鍋を一つ買ったら、その商人曰く、これだけは昨日のねだんでお売り申上げますと。
ところで、この二つのお手紙は、いろいろの意味で私には大変うれしゅうございました。いつもながらありがとう。記念の心を送ってやりたいと思っていて下さるということ。どうかよく考えて、素敵な言葉でも下さい。そう書かれていることが既に私にとっては、香馥郁(ふくいく)たる悦びの花束なのだけれど。こういうおくりものに対しては私は寡慾ではいられないわ。手紙を毎週待ったことは、私の申上げたことは覚えていたのです。もしか毎週書いていて下さるのに届かず、しかもそうと知らずにいるのなどつまらないから、それで一週間おきにと云ったのでした。しかし、ほしいという面から云えば毎日をもいとわず。今年は、お気の向くとおりに下さい。自分だけの心持を押し立てて云えば、あなたの手紙を血の中にまで吸収するのは誰よりもここにいる一人だと思っているのだから、云わば一行だって、ほかにこぼすのはいやな位、その位の貪婪(どんらん)さがあるのだが、そこは市民の礼譲で、どうぞほかへも、と云っている次第なのです。この正月は『文芸』へ横光の「厨房日記」の評を二十三枚、ジイドのを二十四枚かき。どれも最近の文集に入ります。きのうの晩も題を考え、なかなかうまいのがなくこまります。「昼夜」というのにしてスエ子の装幀にしようと思うのです。活きて動いた絵をかいて。これはもう原稿をわたす必要あり。木星社の本は二十五日です。私はその後書きを、心を傾けたおくりものとして一月の二十三日に書きます。よいものを書きます。そして、間に合えば、私の本やもう一つの本の印[自注4]は、あなたの書いて下さった私の名をそのまま印にしたのをつかいたいと思って居ります。これは大変好いでしょう?思いつき以上でしょう。ねえ。この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。本のことAさんにつたえましょう。やっぱり林町からこっちにうつってよかったと思います。時間を十分活用出来るという点からだけでも。あっちでは、今太郎が風邪、母さんも風邪。丁度私が引越した日から臥(ね)て居ます。食堂でストウブをあったかくして、廊下や何かはさむい。そういうのが非衛生なのでしょう。
きょう思いがけなく山崎の伯父さん(島田の母上のお兄さん)が見えました。この八月頃から東京暮しで高橋というひとのボロの会社(ほんもののボロです)につとめて居られる由。娘さんの一人が阪神につとめていたのが小林一三に見出されて今は映画女優の由。そのお姉さん(虹ヶ浜へ行ったひと)が岩本さんの奥さんの由。いろいろお話を伺いました。山崎さんは下の娘さんと松原(小田急の沿線)に住居です。この頃、私の最近の学習語は本が入らず役に立てたいにも立てられません。又ごく近々ゆっくり書きます。この二つのお手紙に対してのこった返事を。私の鉢のは南天の葉よ、紅葉ではないの。お正月の南天。ではどうぞお大事に。
〔欄外に〕
○父がああいう生活力の豊富さからかもし出していた家風というようなものは、父なしには保ちません。その点大変微妙である。私がその継承者で発展者であるわけですが、日本の家というものは主人が主人ですから。私も小さい家で、私たちの家のここでの主人とならねばならぬ訳。

[自注3]戸台さん――戸台俊一。戸台俊一は日本プロレタリア文化連盟の出版部・書記局などに活動して、一九三二年の春からのち、三三年、三四年と日本プロレタリア文化連盟「コップ」が解散するまで実にしつこい弾圧と検挙を集中的にうけた。三三年ごろは、二ヵ月も三ヵ月も留置場生活をしたあげくに、やっと釈放されて五日目に往来を歩いていたら警視庁の特高が「なんだ、君は外にいたのか」とそのままつれて行ってぶちこまれたというようなことさえあった。未決生活も経験している。「コップ」の最後の時期のもっとも忠実な同志である。
[自注4]本の印――顕治の手紙にあるあて名の百合子という字をそのまま木版にして検印用の印をつくった。 
一月十八日(消印)〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕
此度左記へ転居致しましたから御通知申上げます。
一九三七年一月
東京市豊島区目白三丁目三五七〇
中條百合子 
一月二十八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十八日。第二十八信。薄晴れ。火鉢のない正午四十二度。
一月の二十三日に是非お目にかかりたいと思っていたところ、その日は土曜日で時間が間に合わず残念をいたしました。二十五日のときは、大変いろいろもっと伺いたいことがあったのに、話している心持が中断されたままであったので、今日でもまだ何だか、いつものこれ迄のようにいい心持でない。きっと貴方の方もそうでいらっしゃるでしょう。とにかくお風呂に入れるようにおなりになったことはうれしい。さぞ久しぶりのときはいい心持だったでしょう。湯上りに、水でかたくしぼった手拭(てぬぐい)で、きつく体を拭くこと。風邪よけに。
ところで。私の本年に入ってからの手紙は一月八日に林町から第二十六信を出し、十五日頃この家に引越した印刷のハガキをさしあげ、十六日には、あなたの一月六日のお手紙と十二月二十六日のお手紙に答える手紙を目白の家から出して居ります。そのうち、どの分が届いているのでしょう。八日のは御覧になったでしょう?十六日のは?この手紙がつく頃はもちろんおよみになっていると思います。
◎差入れのこと。忙しくて手がまわりかねていることはありません。申したように、その手紙をかいた時、何かいそいで書くものとかち合っていそがしい気がしたのできっとそう書いたのでしょう。どうか御心配はなさらないで。それに、私は貴方への手紙をそのときのいろんな心持を率直に書いているから、そんなこともかいたのでしょう。貴方は、又こんなことを云っていると、笑っていらっしゃればいいのよ。
◎夜具の白いキャラコ衿(えり)は寿江が伺って来たので、歳末にタオル二本と一緒に中川から入れさせるようにしておいたのでしたが、まだ届かなかった由。とりまぎれたのでしょう。調べて居ります。
◎本は、『リカアド』などと一緒に御注文のは、私が上林へいたときあっちへ下すった手紙の分です。小説に気をとられて、失礼。早速お送りします。戸台さんにきのうたのみ、四、五日で来ましょう。
そろそろ本をおよみになるのだから、この次のたよりには、すっかり本の整理をして、お送りしましょう、書いてよこして下すった分、入れた分と、私はどっちかというと事務的にゆかず、すみませんが、然し、私がそちらに必要なものについて抱いている気持など、云うまでもないことなのだし、よろこびをもってしていることも云えば滑稽(こっけい)な位のことなのだし、マア折々御辛抱下さい。ああ、私は、ユリは間抜けだね、と云われることも時と場合では本当に大歓迎なのだから。非常に快適な雨の粒のようなのだから。
◎玉子のこと、サンドウィッチのこと、申しておきました。すみません、すみませんと云っていました。
それから、一番もっと伺いたくて中途半端になっていたXのこと。貴方のお手紙で、きっといろいろ私によく分るだろうと楽しみにして居りますが、お話しの要点は、私にも分りました。Xの生活を助けてやるのはよいが、一つ家にいて、そこへDさんが良人としての資格で来ることについてあなたのお感じになる心持。
簡単にいきさつを辿ると、XとDさんとの間にそういう感情のいきさつのあったことも、まして、結婚の意志があることも、私には全く告げられず、只歳末に近づいて、Xへの送金が農村の大不況のため途絶した、困った、どうしたらいいでしょうと云うことでした。一方、林町の家は改築する[自注5]のでいずれ私はどこかへ移る必要がある、では、私と一緒に暮して見るか?それに越したことはない。そういう話で、その話がきまっても、まだ彼女は私に自身の事情については黙って居りました。殆んど家がきまってからRさんが稲ちゃんに困ったと云って話し、稲ちゃんがXに、私に話すべきであると教え、Xはやっと話した。それで私はその時少し腹を立てたのでした、当然。
ところが、Dさんの方は、家庭がああいう事情でおっかさん達はこのことをよろこんでいない。CちゃんがよくなってRさんと暮せるまで、Xは一緒に暮せない。皆弱くて、働けないのだから。
DさんとXの心持については、私達周囲のものの腹の底は、あまり周囲から刺戟せず、時の自然な力で発展するものならさせ、さもないものならそれもよしという気持です。そういう印象を与えるのです、二人という人々が。性格や何かの点。
Dさんは頻繁(ひんぱん)にここへ来ることはない。普通の友人として一週一度ぐらい来て、かえった、少くともこれまでは。Zさんの心持を、この間、それとは別に一寸訊いたのですが、あのひとはXに対して、別にどう思っていず、適当な結婚をしたらよいと思う、又対手のひとが、自分とのことに拘泥したりする必要のない程自分たちの結合は時間的に短かかったし、内容がない、という事です。
こういうことは私とすれば何だか変なところがある。そんなものであるのか、あってよいのだろうか。そういう気がする。だが、あのひとはそれでよいらしい。私が改めてそういうことについてキッチリしようとするのが寧(むし)ろ分らなかった。二十五日に、貴方のおっしゃったのは深い友情の言葉でした。
私としては、彼(あ)のひとが、貴方の友情のねうちを深くかみしめることが出来るか出来ないかが問題でなく、対手はどうであろうと、貴方のお気持を私たちの家庭生活の裡では貫徹しなければいやです。
あなたが快くなく思いになるような風に私たちの家があってはならないし、又そんな家のある意味もない。私の心持お分りになるでしょう。
今丁度別に手つだいをさがしかけていたところであったから、それが見つかったら、Xは別に住むように考えましょう。何か少しでも収入のある仕事を見つけて。そして、別に一つ部屋をもたそう。ちょいちょいしたことで手伝って貰うとしても。それから、私たちのところにいるうちは、Dさんは従前どおり普通の友人として来て、かえって貰いましょう。そういうやりかたはどうかしら。二十五日に、私はどちらかと云うと、何だか苦しい心持で帰ったの。途々(みちみち)いろいろ考えて。こんなに、貴方の心持を重く見て、自分の心持の中に入れて暮して居るのに、そういうことで貴方を不快にさせたのは実に実に残念であるから。そして、貴方が、自分の家が、変にもつれの間に入っているようにお思いになったらさぞいやだろうと。そういうことを考える必要の起ったのは何しろ、五年の間に初めてでしたからね。参ってしまった。
私が自分たちの家をもつのは、林町の生活に対して図式的に考えているからではなく、実際の必要です。一つの家に、二人の主人が居ては主婦が困るのだから。Xのことは別としても、私たちの家はここに持ちつづけます。私は、貴方の心持を考えたら、あの夜でもXに部屋借りさせようかと思ったが、それも激しすぎるから、と、新しいプランを話しただけにしておきました。けれども、貴方のお心持によっては、すぐそのように計らってもようございます。私が生活費をもってやる覚悟なら今すぐにでも出来ることなのだから。どうか御返事を下さい。私の生活なんか、そこで貴方がいやだと思っていらっしゃると思うと全く光彩を失ってしまうのだから。
子供らしい人々は、貴方に対して書く手紙のなかで甘えているのね。そして、あなたへの親密さの一層の表現として、私がどうしたというようなことを誇張的に表現するのね。そう書くことで、あなたへの親愛を更に内容づけるように感じて。大人の年をして、子供っぽい感情のふるまいをすることは、はたの迷惑ですね。ともかく、この手紙は話さねばならない事柄の性質上、大して愉快でないのはくちおしいことです。でも、大体のこと分っていただけるでしょうか。この手紙の任務は其なのですが。只今ネルのお腰を速達で出します。呉々もお大切に、寒中だから。

[自注5]林町の家は改築する――林町の家の改築は実現しなかった。 
一月三十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月三十一日。第二十九信
二十八日に第二十八信を書き、引つづきこれをかきます。先便の主な内容であったことが変って来たので。XとDさんとのことは、初めから、私共はたで何だか合点ゆかぬものあり、又、あっちの家庭関係では、どうしても折合ず、困難であったが、Dさんが昨日Xに自分が軽率であったこと、阿母さんのXがどうしても嫌な心持は彼にも反映すること、一緒に生活しようとする計画は絶望であること、XはXとしての生活を立てるようにとなど話した由。
Dさんの家庭とXは久しい以前から知っていて、その私の知らなかった時代にXは、善意からであろうが、智恵ちゃんや阿母さんとして忘られぬ深刻な打撃を与えていて(療病に関し)迚(とて)も妥協の見込みないわけなのだそうです。
僅か一二ヵ月の間に自分達のみならず周囲にも浅からぬ波を立て。軽率であったという言葉以上のようなものです。
私の心持では、斯様のこと、分るようで分りかねるところがある。どんな気持で人生を見て、自分の一生を見ているのか。生活をよくして行こうとする意志とか努力とか知っていて、云っている人でも、何だか釘のない組立てもののような工合で。実に変な気がします。私としては其那ことで貴方のところへまで或心持を波及させられ、腹立たしい気がします。
然し、おかしいことには、私のそういう腹立たしさの深さなどは又一向通じて居らぬのだから。親切な心をもっている人間をも、その親切に限界をつくらせ、親身にさせる度合いをうすくする人というものがある。
とにかく、そういう工合で、彼の人達の交渉の内容はすっかり変った次第です。従って貴方が不快にお思いになる点は自然消滅してしまった。勿論、このこと全体が、浅はかな、衝動的な、愉快ではないことですが。
Xが、何かちゃんとした職業をもつようにすることは同じです。人間として拵え上げる上にももっと人間を知り、その中にいるのが必要です。
親がないとか、体がよわいとか、そういうことを特殊な条件として、時代的関係もあって、不運から却って依存的に生きて来たという人間は、女になど多いのですね。Xはもっと一人前の女、人間になる必要がある。今度のことについては五分五分ですが。
もう私たちの間に、こういうことについてこういう種類の手紙を書くことは終りです。
――○――
二月の『文芸』や『文芸春秋』に書いた評論「迷いの末は」(横光の「厨房日記」の評)「ジイドとプラウダの批評」等、私として云うべきことを納得ゆくように云うことが出来て近来での成功でした。随筆集の題は「昼夜随筆」です。
竹村から別に小説集が出て、これは「乳房」を表題にします。「昼夜随筆」の方は寿江子が表紙を描きました。雨の日、女が子供をおぶって傘をさし乍らもう一本手に黒い毛襦子のコウモリをもって待っているところ。スケッチです。「乳房」の方は竹村の主人が装幀して名の字をかくだけです。
文学の領域にもこの頃は人情ごのみでね。横光氏曰ク「義理人情の前に無になる覚悟が必要云々」と。こういう作家は「人情としては実に忍び難いが云々」と云って人情を轢殺(れきさつ)して過ぎる人生の現実に芸術のインスピレーションを感ぜぬものと見える。小林秀雄、保田与重郎、等の日本ロマンチストたち。私はこの次からもっと心持のよい、いいもの私たちの便りらしい手紙を書くことが出来るのを非常に楽しみにして居ります。今のこのXらのやりかた、人間のそういう面について腹の立っている心持も直って。では又。風が出て来ました。 
二月六日朝〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月五日立春の後といってもびっくりするような暖かさ。夜。
けさ、まだ本当は、はっきり起きたわけでもなく二階から下りて来たらXが
「お手紙が来て居ますよ」と云うので、茶の間に行ったら、ウラウラと朝日のさし込むテーブルの上にお盆があって、その上に手紙がちゃんとのせてあった。「うれしい」と云って、あけて、よんで、一つアアと安心して、顔を洗おうとして台所へ行ったけれど、眼がしぱつくので、ホーサンどこ?と大声を出したら、「そこの棚にあります」見るとアルのでそれを洗眼コップに入れて目を洗ったら、ピリッとする。ああ、こんなに充血していたのかともう片方洗ったら、何だかピリッとする工合が変なので目からはなした途端プーンとアルコールが匂った。「アラ!Xさーんアルコールで目を洗っちゃった」それから、ホーサンで洗い、水で洗い、まっかな目を鏡にうつして眺めていたら、Xがわきから「聞いたことないねェ」というので大笑いしてしまった。誰だって聞いたことなんかあるでしょうか!アルコールで目を洗ったなんて。
でも、気が抜けていて笑い話にすんだから御笑い下さい。(一封の手紙ユリをして動顛(どうてん)せしむることかくのごとし)きのう手紙を書いて一月六日づけの手紙を眺めて、いつ次のが来るのかしらと思ってそのことを書いた、それをやめて、これに改めました。家の生活のやりかたについて二重に考えて下すって、本当にありがとう。
私の手紙ですこし様子はお分りになったでしょう。自分でいやに腹を立てているところがあったので、あなたもいやと仰云った点、全身的に感じたのでした。でも、又次の手紙に書いた通りだし、今夜栄さんの話で、或はXに職業が見つかるし、そしたら私はずっとよくなるでしょう。生活の感情の微妙さ。目前の便利でまぎらすことの出来ない人間間の心持というものは何と活々と力のつよいものでしょう。それが逆に作用した場合には、目前の障害を踰(こ)ゆる人間感情の結合と隔全とがなり立つのであるから、面白い。
私は一つ家に住むものがどんな対人関係をもっても、どんな生き方をしてもよいという風には思えず、蕊(ずい)まで見えるし触れてゆくので、Xなど今まで心づきもせず、思いもしなかった自分を発見している有様です。
ともかく、私はただしょげもしないし、御安心下さい。おくりものの第一、ありがとう。私は私で、あなたがどんなに僅かでもいい心持で本をお買いになるだろうと随分楽しみにしていたのでした。では頂きます。そして極めて高雅な図案でイニシアルを組合わせ、あの文句を刻(ほ)らせましょう。私は万年筆は余りつかわず特に仕事には。だからよく考えて或はペン軸にするかもしれません。よく考えましょう。毎日つかいたい。気を入れて書くものを其で書きたい。ね、そうでしょう?
私達の生涯を托するところのペンなのだから。只順に行っても其は三月の五日以後になります。或は全然、そういう都合にはゆかなくなるかもしれない。然し、もしそうであるなら、そうで、又私は、それをよいおくりものとして、記憶し得るわけです。そういうことが今日実現し得ないということで語られている作物の価値の意味に於て。
『リカアド』、繁治さん宛のお手紙も見せて貰いました。きょう小泉信三の正統派三人の研究を先に入れ、近日中に『リカアド』が見つかるでしょう。繁さんのところにもないのですから。戸台さんにたのんで居ります。プーシュキンもきょう入れ。
夜具衿とタオル二本。暮に中川へやってあった、訊いたら、「あちらで廃業になって居りませんから」とケロリとしている。別の方法をとりますから少しお待ち下さい。食慾がお出になったのは何よりです。私の方も、いろいろ家の落付く前のゴタゴタで気がつかれているが御安心下さい。然し、真面目に私は、生活の形態というものについて考えます。もっと下らぬ労力をはぶいた、しかも「お姉様」的でない生活はないものかと。あなたは御自分の家として、どのような形をお考えですか。どういうのがいいとお思いになる?私は勉強、休養、を主眼にした極めて便利な家に、一人でやってゆけるような形で住むのがどうも一等らしく思えます。日本の家では、出かける前に雨戸をしめる、そのことだけでも大変です。一つ大きな勉強部屋、あと、八畳(客間、食堂)に四畳半位、台所(ごく能率的にする)湯殿。そして入口のドア一つピシとしめれば全部よろしいという工合なの。そして、手伝いの人に時間制で来て貰うというようなの。何か一つ大いに考える必要があります。この頃私は前よりも一層勉強が主の生活の心持なのだもの。日本建の家は家を守るための人手を余り要求しすぎます。生活も、その時代のいろいろの必要からかわるものですね。
きょう、咲枝が太郎を初めてこの家につれて来ました。この間大雪の折、『婦人公論』から写真をとりに来て、私は太郎と雪の中に傘をさして立ってとって貰いました。そして、けさついたお手紙の私への宛名を切って、そのとおりの字を写真にとって印にこしらえます。これは国男夫婦が印屋へやって私の誕生日のお祝いにくれます。たのしみです。それで検印するの。
山崎の伯父様のいかめし型は適評です。柔道の先生のことは勿論よく承知して居ります。いろいろ考えちがいをすることはありませんです。きのう、こちらの家へはじめての本の小包着。きょうもう一つ(衣類の方)着。
早く散歩に出られるようにおなりになるといい。久しいことですものね、もう。本当に日当でポカポカさせてあげたい。今年は一月の二十七日が満月でした。ここからも月がよく見えます。窓から私を訪ねて来ました。一月八日と十六日に書いた分が届いたのでしたね。これは第五信です。ではお大事に 
二月八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(男の人がスキーをしている写真の絵はがき)〕
二月八日。きのうの夜小雨の中を神田へ本を買いに行ったらこのエハガキが目についたのでお送りいたします。栄さんがきょう上林へのこした荷物をとりに行きました。
これは何処の景色か分らない。中野夫妻はスキーに那須へ行ったそうです。ハイカラーね。上林の上の方もきっとこんな眺めでしょう。あの辺はもっと起伏が多いが。もう一枚同時にかきます。 
二月八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(男の人がスキーをしている写真の絵はがき)〕
このエハガキを見ると、日光にキラキラ光る雪の匂いと頬ぺたに来る爽(さわ)やかな冷気が感じられるようですね。私は風より雨がすき。雨より雪がすき。雨が降ったりすると傘をさして出かけたくなります。スキーをして見たい、もし私の丸い短い体ののっかれるのがあるならば。但これは夢物語。モンペをはいて、赤い毛糸のエリ巻をして。スースーと、誰のところへ。 
二月十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(中西利雄筆「優駿出場」の絵はがき)〕
二月十日。これは古いエハガキ。今からもう足かけ三年前の帝展に出ていた水彩です。その時の招待日に父と見に行って、父がこの絵は動いている一寸いい。と立ちどまった絵。この刷(すり)は色がよくないが、陳列されていた薄暗い隅では騎手の体の線まで活々と見えて私も一寸面白く思いました。偶然手に入ったからお目にかけます。あなたのところでは、夕方エハガキの色など特別鮮(あざやか)に見えるでしょう? 
二月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日午後一時ごろ。
南のガラス戸をすっかりあけていると、ベッドの上まで一杯の日光。ものを書くには落付かぬ位です。(私は、春の日光には耐えられないから、眼の弱い故(せい)。床の間をつぶして北に窓をあけようかと思って居ります。)あなたのところにも、体のどこかにこういう日光が当っているのかしら。畳の上だけかしら。日当りのあるところにお移れになったというのは何とうれしいでしょう。何だか私もほっとして楽な気持です。幸福な心持が微かにする位です。
十五日には、ゆっくりお目にかかれてよかった。実によかった。話す言葉や何かのほかに、いろいろうれしかった。何しろ私ははりつめた心でいたのですもの。
お話で、私の生活の雰囲気について一層何かお感じになった理由も察せられました。フランス語の件。私はものを書くのが仕事で、責任をもって書く習慣をもっていても、あなたへものを書くときには、くつろいでいるのかしら。例えば、私が林町のうちでフランス語の稽古などはじめているのではなくて、Xがよそで稽古をDさんにして貰っていて、私はその教科書を買ってやり、その本がテーブルの上にあったもんで、あんな格言なども引き出したということが、はっきりあなたにはのみこめないようにしか、書かなかったのかしら。可笑しいような、腹の立つような気がしました。そして、実は、貴方の方に読みちがえというようなことは絶対にないもののように、ひた向きに考えこんでいる自分も一寸おかしかった。だって貴方だって――南天を御存知ないみたいなところがあるんだもの。
林町の家の建直し(建築)は目下材料高騰で一寸見合わせですが数ヵ月うちには着手されます。正月早く、あなたには突然のように私が引越したのは、Nが正月頃傾向がわるく家をあけ(飲んで)そういうときは私が煙ったく、煙ったいと猶グレるので、Kのやりかたがむずかしいこともありありと分って一層早くうつったのでした。この目白の家が割合よかったこともあって。ここは、先の家の一つ先の横丁を右に入った右の角のところで、小さい家です。でも、夕刻晴天だと富士が見えます。交通費がやすくすむので何より助かります。バスで裁判所や市ヶ谷へゆけるの。
木星社の印税は第一回分は三月五日によこすことになって居ります。それで、ではやっぱり万年筆を買いましょう。あなたの顔を見たらそれを買おうと仰云る思いつきの心持がよく分りました。そして、ダイヤモンド社でやらせましょう。装幀は小堀鞆音の息子で、ツルゲーネフ全集をやった人。古九谷のような赭地(あかじ)に緑のこんな形の飾、[図1、縦書き手書きで「文芸評論集」。その周りに2重に雲形の線]その中に文学評論集と墨でかいて右肩に著者の名。刷ることは千部刷りました。
もう一つのおくりものフリードリッヒ『二巻選集』[自注6]も私は少し得意です。もうとうに買って大切にしてもっているのだから。古典に対する私の理解力については御懸念は決して決していりません。私はここで又ここらしい激しい波浪の間に在るのです。船は小さいと云っても、近代科学の設備を怠っては居りません。私は小さい造作がいかに科学的かということが、今日の価値であると信じているのですから。
ジイドは、その作家的矛盾を自分から合理化すべきではなくて、ジイドが真に誠実であらんと欲するなら自分の観念的な誠実ぶりのポーズをきびしく自己批判すべきであり、その点で与えられる批判を摂取すべきであることを書いたのです。無電で小松清とジイドが喋ったとき批判はあっても愛する心にかわりはないと云った由。まだこの作家には本当のところが会得されていない。人間は自己満足や陶酔やのために自分の愛を云々するのではない、新しい、より高い価値を現実のうちに齎(もたら)すことこそ愛の実証だのに。
ところで、この印(いん)はお気に入るでしょう。
一月二十六日のお手紙で、あなたが万年筆のおくりものについて書いて下すったその手紙の宛名の字です。検印用です。残念なことに竹村書房から出る小説集には間に合いませんでしたが「昼夜随筆」の方には間に合うでしょう。木星社のにも二日違いで間に合いませんでした。私は大変うまく字が出ていてうれしい。ツゲの木です。数を多く捺(お)すのには一番よい由。
百合子
第三のおくりもの。名のこと[自注7]。私は昨夜もいろいろ考えたけれど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか?果して。もしそうだとすれば、何故私はこうして考え、よくよく考えずには返事出来ないものが内的の必然としてあるのでしょう。それに、お話を伺ったとき、私はこのことと私の生活の土台云々のことが、ああいう下らぬ混雑につれて結びついて出ている、思いつかれている、そのことでは、率直に云って大変くやしかった。そして、何だか腹立たしかった。私の生活の土台!勿論それは常によく手入れされ、見廻られ、より堅固にされるための種々の配慮が必要であることは自明なのですけれども、そのためのいろいろの忠言というものを、私は実に評価して、一箇の私事ならずとしてきいて居ります。けれども、もし、私の生活の土台が二元的な危険をもっているならば、どうして今日まで私の人及び芸術家としての努力を統一的に高めて来ることが出来たでしょう。(この二三年間の作品が皆よんで頂けないことが本当におしい。)私は、あなたのお心持を細かく立ち入って感じて、そういうことの思いつかれたことも分らなくはないのです。決して。いえ、非常によく分る。それだけ、それが、私としてくやしい雑(まざ)りものをもっているらしいことが私の直感としてどかないのです。今私の感じているままを細かく書くと非常に面白いが、又長くなりそうで心配。簡単に云うと、私たちの生活は、貴方と私とが互に深く豊富な自主的生存の自覚、情熱に対する自主的な責任をもっているからこそ、特別な事情の中でも発育し、ゆたかに美しく花咲いているのだと思います。私があなたの妻であるからというだけで、私は貴方に対してこのような私の心を傾けているのではないのです。私が私で、そして貴方をしかく愛するからこそ外部的な力で破られぬ結びつきをもち得ている。そして、そのことが、現代の日本の法律の上で、特に我々の場合、別々では不便を来しているから、習慣に従って姓名を貴方の方のと一つにしている。そうでしょう?その方が本当というのは、特に私たちの場合、何だか私の感情の、これまで生き貫いて来た、これから生き貫こうとしている感情の全面の張りにぴったりしない。私は、可笑しい表現だけれども、中條百合子で、その核心に宮本ユリをもっていて、携えていて、その微妙、活溌な有機的関係によって相互的に各面が豊饒(ほうじょう)になりつつあること、強靱(きょうじん)になりつつあることの自覚を高めているのです。私たちの生活の波瀾を凌がせ、揺がせず、前進させている私の内部の力は、こういう力で、大局的に貴方の生活と自分の生活との充実を歴史の上に照らし出して見通して、建設して行くところから湧くのです。貴方は御自分の姓名を愛し、誇りをもっていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ云えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自立力をもち、確固としていてこそはじめて、比類なき妻であり得ると信じています、良人にしても。私たちは、少くともそういう一対として生きているのではないでしょうか。同じ一人の良人一人の妻という結合にしろ私は新しいその質でエポックをつくる、一つの新しい充実した美をこの世の歴史に加えようとして暮して居ります。こういう私の心持は勿論分って下さるでしょう?私としては、特に、私として自分が意企しなかったキッカケから、そういうことが貴方に思いつかれたことが、何だか遺憾です。だからこのことは、私たちのおくりものとは別にしましょう。別箇の問題としましょう。ね。
隆治さんにきょう、これと同時に手紙を出します。それから買物に出かけて、御注文の品を小包に出します。
島田へは私も思っていたから行きますが、いつ頃になるかしら。三月のうちに行きたいと思います。三月のうちに仕事と仕事との間を見計らって。一週間か十日ぐらい。
いろいろ書いて一杯になってしまったけれど、十三日には窪川、壺井夫妻、徳さんの細君、雅子、林町の連中太郎まで来て十三人。六畳にギューギュー。皆がきれいな花をくれ、稲ちゃんのシクラメンがここの机の上にあります。木星社の本の表紙の見本刷を額にして飾った。皆よろこんで居りました。日本画風なところがあるが安手ではありません。桜草はいかがですか。日があたればきっと長く咲きつづけるでしょう。私はこの手紙を、あなたの膝の前にいる近さで書いている、襟元のところや顔を眺めつつ。では又、御機嫌よく。おお何とあなたの目は近いところにあるのでしょう。では又。

[自注6]フリードリッヒ『二巻選集』――フリードリッヒ・エンゲルス二巻選集。
[自注7]名のこと――百合子は当時作品を中條百合子の署名で発表していた。 
二月十九日夜〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき(1)(2))〕
エハガキが切れているのでこんなので御免なさい。
きょう午後に小説集『乳房』が出来て来ました。くすんだ藤色の表紙に黒い題字。早速速達で御覧にいれます。「この一冊に集められている作品の中には『一太と母』のように随分古く書かれたものもあり本年の一月に発表した『雑沓』のようなのもある。旅行記は小説ではないわけであるが私の作家としての生涯にこのような旅行記を書いた時代の生活は忘られないものであるし、今日では、五六年前に書かれた旅行記も却って或味いをもって読まれるので収録することにした。私たち一部の作家がこの数年間に経験した生活の道は実に曲折に富でいた。一つの作品から一つの作品への〔以下はがき(2)〕間には、語りつくされぬ人間生活の汗が流された。そして、直接その汗について物語ることは困難である。私は益〃誰にでも読まれ得る小説として『雑沓』の続篇をかきつづけ、そのことによって私たちの芸術の到達点をも示し、自身の芸術を高め得るような仕事をしてゆきたいと願っている、一九三七年一月二十三日。」序です。今夜はこの家へはじめて佐藤俊子さん[自注8]が来て夕飯をたべ、手紙に押してあげた印を見て字の感じを大層ほめていました。あれは暖い字ですもの、本当に。とりあえず床に入る前。

[自注8]佐藤俊子さん――前年の秋、十八年ぶりにアメリカからかえってきた佐藤(田村)俊子。 
二月二十八日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十八日日曜日晴
きょうは何だか久しぶりで心持のよい晴天。きのうの晩は座談会で銀座へ出かけたら、かえりはひどい雨で、上落合の神近さんの家の先で、送ってくれた自動車が泥濘(ぬかるみ)にはまりこんでしまって荒ナワを車輪にからみつけても、砂利をおいても動かず。どうどうと降る雨の中でポツネンと待っていて、運転手が空車をつれて来て、それでうちへかえりました。その夜の雨の中でルームランプの明るい車の中にぽっつりといて、もうあなたはきっと眠っていらっしゃると、その刻限(十時すぎ)について考え何だか妙な気がしました。
きょうは昨夜の雨で晴れた空気の工合が一層心持よいのだが、あなたのところではどうかしら。それに私は今日うれしいのは、一日お客をことわって、『昼夜随筆』のためにかいている感想を書いてしまおうとしているからもあるのです。駅のすぐそばにいろんなものを売っている市場があるのを覚えていらっしゃるでしょうか。あすこへ行って、内側が紅で外が黄色っぽいバラを買って来て、三輪ばかりテーブルの上にさしています。
二月九日に書いて下すったお手紙の後の分をこの数日の間大変待っていました。島田へでもおかきになりましたか?隆治さんのことは伺ったら、隆治さん自身は希望していないのだそうです。ひとの話で、いいようなことをきいて寧ろ達治さんの心持から一寸そんなことにもふれたらしい様子です。隆治さんはやはりお家の仕事の手助けをしていらっしゃるのだそうです。そちらへもお手紙がありました?お父上が、二月十七日頃工合をわるくなすったということ。一時はお驚きになったそうですが、よい塩梅に恢復なすったそうです。しかし、元通りということは出来ず、どっちかというと病症は前進している傾の御様子です。あなたが御心痛になるといけないとお母様は御心配ですが、私としてはあなたのお心持は十分わかっているつもりですから、御病状のこともこれからずっとあるとおりにお知らせいたします。その方をあなたもよいとお思いでしょう。意識など少し混濁していらっしゃる御様子です。三月の十五日迄に私はやむを得ぬ仕事を一応かたづけ、それから島田へ御見舞に行くつもりです。それより早くは仕事の都合上絶対に無理なので、幸(さいわい)御様子も落付いているし、それまで私は大車輪に働いて出かけます。どの位あちらにいるか、それは御様子を見なければ申せず、私はお母様のお邪魔にさえならなければ、少し長くあちらにいようかとも考えて居ります。私は島田で、お客でなくなりたいから。こちらの家の留守番を見つけ、予定を別に立てずあちらへ行って見て、きめようと思います。ただ、あなたも御存知のとおりお店だから生活の様子がああいう調子の中で、私が落付いてまとまった仕事をすることはどっちかと云えば困難でしょう。そういう無理で、空気をこわしたくもないから、その点では半月ぐらいの期間を考えても居ります。
いずれにせよ、私は出来るだけのことをいたしますからどうか御安心下さい。あなたがおやりになるだろうと思うことは皆やりましょう。そういう心付で、私は決して、あなたが残念であったとお思いになるようなことはしません。どうか深く私を信じて安心しておまかせ下さい。この手紙は十日も経って御覧になるのですね、その前に私はお目にかかるわけですが。――
ずっと運動にはお出られになりますか?入浴は?今年は冬が大体暖く、春がもう来たようです。寿江子が鵠沼から来ると大抵私の方にいる。今も居ります。段々私の生活ぶりもわかって来て、ちょいちょいしたことでは手助けをするつもりで居ります。実際にどの位出来るかということは、おのずから別ですが。二月、三月(四月も)と『文芸春秋』に時評をかき、杉山平助氏から近頃の正論をはく批評家というようなことをきわめつけられ、ホーホーと我ながら批評家ということばに笑います。六芸社の本は序も簡単にしかしよくかけた方だし、好評です、全体としてそうなのは勿論当然であるが。ああいうものが売れる、それは実に興味ある現実です。私の楽天性の根拠いかに堅くリアルであるかと、努力を鼓舞されます。この前の手紙で書いたおくりもの第三についての私の心持はおわかりになっていただけたかしら。議論めかしくて可笑しいやですが、書くとやっぱりあのようにしか書きようがない。そして、私は心でひとりで思っているの、貴方は、御自分が本当に安心して大らかな心持でいらっしゃれるのは、ああいう風なところが私にあって初めて可能なのだがナ、と。己惚(うぬぼ)れではありません、決して決して。現実は錯綜して、困難で、もし私が自主的に生活に責任をもってゆけないのであったら、あなたは迚も心付きを云って下さるに暇(いとま)ないどころか、実際には常に万事手おくれであることになるのだから。でも、私は大体に、まだまだ貴方に勘でお心遣いをうけるようなアンポンがあるのね、そのことでは本当にすまないし、一方から云うと勘が本質的には的を外れないということが有難くうれしくもあります。
これは大変微妙な心持。このような歓びというのは。私は評論を、作家、人間としての洞察から現実に即して自由にかいて、或ことを云い得ている。小説でも、今どうやら一歩前進の過程にあるらしく、努力のコツとでもいうか、そういうものが会得されかかった感じです。現実を、その全体が立体的に活きて働くように書いてゆく、描写してゆく、何とそれはむずかしいでしょう。私は評論をかく上で体得したものを、小説で更に高く形象的に身につけようと意気ごんでいる次第です。私は、生れつきが小さい持味でまとめて、その人らしさだけで立ちゆくタイプではない、もっと違った何かがあって、それを全面的に発展させるためには自分の人一倍の努力がいる。より大きい美のためには。私たちはそういうたちですね。ああ、こういう話をしはじめると限りがなくなってこまる。保田与重郎は『コギト』を出し(雑誌)日本ロマン派の理論家であるが、この頃は王朝時代の精神、万葉の精神ということを今日の文学に日本的なものとして提唱し、そのことでは林、小林、河上、佐藤春夫、室生犀星等同じです。現代には抽象的な情熱が入用なのだそうです。三木さんは青年の本質は抽象的な情熱をもちうるところにある云々と。そのような哀れな空虚な青年時代しかこれらの人々は持たなかったのでしょうか。二十五日に文芸春秋社の十五年記念の祭があり、稲ちゃん、俊子さん等と行きましたら、小林秀雄というひとがお婆さんのような顔つきで、私に妙なお土砂をかけました。フウー。では又。これから仕事をします。どうかよくおやすみになるように。 
三月一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(五色温泉の山の写真の絵はがき)〕
三月一日、小雨。白揚社へ最後の原稿をもって行って、神田で寿江子と支那飯をたべるために歩いていてこれを見つけました。これは奥羽の五色温泉の山の上の高原の雪景です。私は九つ位のとき父と祖母と一緒に五色に一夏くらしました。温泉宿は一軒で、そこの窓からは山の中腹で草を食べている牛も見え、この原はサイ河原と云ったと思います。
夏も大変うつくしい景色です。夜はこれも寿江子と帝劇で二都物語を観ました。当時のフランスの人民がよく描かれていませんね。 
三月四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月四日快晴、些か風。第八信
きょうは水曜日です。私はいつも水曜日木曜日などという日は特別な感情で朝テーブルの上を見る。けさ、眼鏡をまだかけないで下へ降りてテーブルを一寸見たら、心待ちにしている例の封緘がなくてハトロン封筒が一枚あり。何だろうと思って手にとって見て、ハア、とうれしく、それでも実に実に珍しくて丁寧に鋏で封を切ってそのまま一通りよんで、又よんで、食事の間じゅうくりかえして出したりしまったりしました。可笑しいのね、何と可笑しいのだろう、一通の手紙でも見る毎に何かいいものが出て来そうな、何かよみ落しているような、もっと何かあるような気がして、まるで宝の魔法箱でも眺めるように飽きないのだから。この分量だけ手紙を下さるのにあなたがとって下すったいろいろの手数はよく分るので一層うれしゅうございます。
二月十七日に六信をかき、二十日すぎに七信をかきました。もうそろそろ二つとも届く頃でしょう。
このお手紙に書かれているすべてのことは皆よくわかりました。或はもう分っていたこと(お目にかかって)もあり。(差入島田の要点等)
いまうちには信州の方の知人へ稲ちゃんが世話をたのんで呉れ、よい人が見つかりそうですから御安心下さい。ヤスのような人物だったらどんなにいいでしょう、あの半分位でも。
いずれにせよ、私は私たちの生活全面を非常に愛しているのです。そして辛いなどと、きりはなして考え、又感じたことは殆ど一度もない、これこそ、私は私たちの無上の幸福だと思って居ります。私が身に引き添えて思うことは、私たちの文学の上にでも、しなければならないことに比べて、生活術が未熟だったり、人間としての鍛練が足りなかったりすることを自覚したとき、ああもっともっと豊富になりたい、とそれさえも私の場合では希望の光の裡で欲求されるのです。私は御承知の通り滅入らないたちの女です。私の方にあらわれる生活上のいろいろのこと=次善的な方法で家をもたなければならぬこと=それさえ私は私たちの生活として決して半端とかあり得べからざるとかいう俗的規準で感じていず、全的なもの、全く充実したもの、私たちの現実の中でもち得る唯一のものとして生きているのです。どうぞ御安心下さい。私にもし例外的に己惚れが許されるとしたら、この点だけです。貴方という存在は、朝夕まわりに姿を立ち動かしていないでも十分私をたっぷりと場所に坐らせ、豊かにさせていらっしゃるのだから。私たちはその点では本当の自信に満ちています。ただ、私はね、些かアンポンであるし、その自信を現実の歴史的な価値に具体化してゆくために、えっさえっさであるというわけです。それもなかなかよろしいのですよ。疲れすぎない程度に腰を据えて仕事を押してゆく心持は。
『文学評論』が(六芸社の方)いろんな本屋の店頭に積まれている。となりの方に小説集も落付いた藤色の表紙で並んでいる。何というよい眺めでしょう。評論感想集の方の名は「昼夜随筆」というのにしました。わるくはないでしょう。「わが視野」というのはよい題です。この次のにつけます。
私の感想評論はこの頃少し内容がましになって、この次の分には「わが視野」とつけてもよいらしい。この頃のは評論に力点があるの。
私の誕生日は謄本には二月十一日でしょう?十三日なのです。何を間違えたのか。ずっと間違いっぱなしです。私はこの頃益〃夜仕事をするのがいやなので、なるたけ午後一日じゅうの仕事をするようにします。夜ちゃんと寝て、朝起きる、そういうのでないと私にはつづかないから。
中野さんが三四日前、銭湯の洗場で滑って左腕の肱の内側をガラス戸へ突込んで深く切り、小さい動脈を切ってしまって、手術をうけ目下臥床中です。あのひとは今年の正月はスキーに行って右肩を雪につき込んでくじいてしまったし、怪我がつづきます、もう然し心配はいらないのです。
島田の方ではお父様ずっと平調でいらっしゃるらしく何よりです。前の手紙でお話ししたように私はもしかくり合わせたら三月二十日頃から出かけます。四月十日頃までの仕事沢山ありそれを全然しないことは出来ず、その点をも考えて。おくりものは、やはり万年筆にします。ペン軸でもし非常に恒久的なのがあればよいが。今つかっているのはもう十四五年になるが、それでこわれたりしてはいやだから。私はこわれないの、折れないのが欲しいから。古典も、大抵揃って居りますが、書簡の部分を、うごかして、それきりどうかなってしまっているから補充しましょう。
『学鐙』、『アナウンスメント』等現在のはお送りしあとは丸善に注文しました。貴方の方から御注文であった本の目録は別封でお送りいたしましょう。これはこれとして。今年の春は、本が三冊も出て、傍らものも沢山かき、賑やかな時です。しかし、執筆のレベルは一つよりは一つへと高まらなければ意味ない。昔よりずっとずっと勉強です。又自らちがった形で。
私は今年の記念にそしてあなたが三十歳におなりになったお祝いに、私たちの蔵書印をつくるつもりです。もう自分から本を売るようなことはしないから。お体をお大切に。皮膚がゆるんでカゼを引き易いからお大事に。 
三月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(梅の花の写真の絵はがき)〕
三月五日金、春の北風。
きのうは半紙のお手紙をいただきうれしく早速返事をさしあげました。昨夜は国際ペンクラブの大会でアルゼンチンへ行った藤村の歓迎会へよばれ、芝公園の三縁亭という珍しいところへゆきました。
上野の精養軒のようなガラリとした、もっとオフィシャルな感じの店で、会にも文芸コンワ会の代表、国際文化振興会の代表等出席。藤村の挨拶は世界の大きい波に一寸でもふれて来ただけ、作家らしいものをよい意味でもっていました。きょうは下の四畳半へ勉強部屋をうつし、夕方太郎が汽車ポッポ見物に来。 
三月七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
注文書のリスト上に*をつけたのはもう送った分です。
(一)一九三五・六・一咲枝宛
改造日本文学全集中「独歩」「漱石」「藤村」 春陽堂明治大正文学全集『長塚節集』 アンドレ・ジイド*『一粒の麦もし死なずば』 『ドストエフスキー論』 『日本経済統計図表』 『近世日本農村経済史論』 *『憲政篇』*『正史篇』『軍事篇』 章萃社『日本社会経済史』 *『日本経済年報』第二十輯 『日本歴史地図』
(二)一九三五・七・二七咲枝宛
改造社文学全集中*「漱石」「独歩」「藤村」「長塚節」 改造名作選集中「藤村」「漱石」 『開化期文学集』*『戦争文学集』 新潮社全集「ディケンズ」「スタンダール」「ドライザア」*「トーマス・マン」 英書 The Works of W.Shakespeare, gatherd into one Volume 中央公論『シェークスピア研究』の栞
(三)一九三五・一〇・二六咲枝宛
図書月報・全集内容見本、普通目録丸善の洋書目録中政治経済芸術哲学ノ分類目録 *?『日本歴史地図』『東洋歴史地図』『兵法全集』
(四)一九三五・十一・二咲枝宛
佐々木惣一『憲法』*上杉『憲法読本』アモン『正統派経済学』小泉信三*『アダム・スミス、マルサス、リカアドオ』クーノー『ヘーゲル伝』安倍『近世哲学史』
(五)一九三六・三・一四寿江宛
*『日本経済年報』第二十一、二十三輯
(六)一九三六・五・二六
*ブランデス『ゲーテ』
(七)一九三六・一〇・三日上林の百合子へ
『リカアドウ』林権助『わが七十年を語る』*『猟人日記』*小宮『漱石襍記』木村『旅順攻囲軍』ツルゲエネフの*『散文詩』
(八)一九三六・一〇・二一百合子へ
*『療養新道』*『栄養食と治病食』*『内科読本』*『国民保健読本』
(九)一九三六・十一・二百合子へ
プーシュキン*ツルゲーネフ*フローベル*ゲエテ全集目録
(十)一九三六・十二・二六百合子へ
プーシュキン全集目録
――○――
以上の中、林の『わが七十年を語る』『リカアドウ』は目下本屋にたのんであります。『ヘーゲル伝』は近日お送りいたします。ブランデスの『ゲーテ』はよんでおかえしになったのではなく、数が多すぎたので一旦送りかえした本の中に入って来たのではなかったでしょうか。もしおよみになるのだったら又入れましょう。
――○――
三月二日づけのお手紙をありがとう。一通りよんだときいろいろの感情を経験し、それからずっとその感情を感じつめて、結局私が貴方に向っていうことは心からのありがとうであるとはっきりしました。ありがとう。
あなたが私の生活について考えて下さるだけ考えてくれている人はない、本質的に。ディテールについては又別にかきましょう、特に父について。それはそれとして、又おのずからお話しもあり。それから私は随筆的存在ではないし、本もそうではないし、そういう生きかたをし得るものでもないでしょう?元来。一人の女としての愛情から云ってさえも――
今『都』へ「文学における復古的提唱に対して」書いています、四回。
附録一枚
「わが視野」の内容の概略を一筆。
社会時評、文芸時評、作家研究、随筆で、社会時評はいろいろ。文芸時評は「迷いの末は」25枚、横光厨房日記の批評、「ジイドとそのソヴェト旅行記」「文学における今日の日本的なるもの」24枚、「パアル・バックの作風その他」10枚、「子供のために書く母たち」15枚、「『大人の文学』論について」(林房雄、小林秀雄らの提唱に関して)10枚、「十月の作品評」12枚、「自然描写における社会性について」15枚、「『或女』についてのノート」15枚、「今日の文化における諸問題」23枚、「一九三四年度における文学の動向」30枚、
作家研究
(一)マクシム・ゴーリキイの人及び芸術(四十枚)
(二)同その発展の特殊性にふれて(四十枚)
(三)同によって描かれた婦人(二十三枚)
(四)ツルゲーネフの生きかた(四十枚)
(五)バルザックから何を学ぶか(七十枚)
(六)藤村、鴎外、漱石(九枚)
随筆
最も長いので二十枚位(わが父)を入れて五六篇ぐらい。(終) 
三月十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕
三、十七日。十五日にはいろいろ御相談が出来て私は大変うれしく、いい心持になりました。貴方から私は多くのことについて教わるけれども、しかられる自分というものは考えて居りませんから、そういうものとして互を見てはいないから。とにかく本当にゆったりした心持になれました。きょうは「今日の文学の鳥瞰図」を唯研に送り、栄さんと風の吹く街へ出て、島田へのおみやげを買いました。父様へは夜具。母様、野原の小母さん、向いの家の人には裾よけ。達ちゃん隆ちゃん富ちゃんにはバンド。克子さんにはきれいな腰紐とカッポー着。あとは子供らのための小さいお菓子入りのいろんな袋。今夜はそちらもお寒いでしょう。きょうお母さんからお手紙で、待って下すって居ます。『リカアドウ』を入れました。『日本経済年報』も。 
三月十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(佐伯祐三遺作「レ・ジュ・ド・ノエル」の絵はがき)〕
三月十九日明日立つ予定のところ、仕事、旅費、そのほかの都合で、二十三日頃になります。これを出してもきっとあっちから出す電報と、おつかつに御覧になるのでしょうね。さむいことさむいこと、父上のお布団はいいのを西川で買いました。稲ちゃんと。 
三月二十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕
三月二十三日。今夜立つところ汽車に寝台がなくて、くたびれているので明日の午後三時に立ちます。いよいよお立ちです。窪川さん夫妻はうずらの玉子を、壺井さんたちは体によいというお茶を、M子はのりのつくだにとおたふく豆を。それぞれお見舞にくださいました。お父さんはこういうお見舞を考えていらっしゃらないでしょうから、さぞおよろこびであろうとうれしゅうございます。私は今二十枚ばかりの評論を終り、もう一つ夜終ります。 
三月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(厳島紅葉公園と広島駅の絵はがき二枚)〕
二十四日の午後三時のふじで東京をたち、ひろしま午前五時四十分、島田九時前でした。ひろしまから柳井線に入ったら、海と対岸の景色が珍しくて、目が大きくなったようでした。お家へ入って行ったら、中の間にお父さんが起きかえっていらっしゃるので、びっくりしたり、大安心したりでした。思ったよりずっとよくなっていらっしゃいます。ひる間、どっちかというとよくお眠りになるので、夜は御退屈のようです。気分も平静でいらっしゃるし、食事もあがれます。お母さんは相変らず御活動です。井戸がすっかりポンプになり、お店もさっぱりきれいです。
晴、島田の茶の間。
きょうは晴天、おだやかな日です。お父様は障子のそばへ床をうつし、今は座椅子によって上半身起き上っていらっしゃいます。上御機嫌。お母さんは、稲ちゃんがくれたウズラの玉子をわっていらっしゃる。隆ちゃんは丁度仕事からかえったところ。前の麦畑の麦は一尺ばかりのびて居ます。
家じゅうがいろいろと手入れをされていて、大変明るい感じです。うれしいと思う。達ちゃんはまだかえらず。野原から多賀子さん[自注9]が手つだいに来て居ります。

[自注9]多賀子さん――顕治の従妹。 
三月二十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(浅野泉邸の絵はがき)〕
三月二十六日今丁度正午の時報。ラジオは株式をやっています。
きのうは野原の御父上も見え、お向いの御夫婦も見え、兼重さん(山田の)も見え、なかなか賑やかでした。今は野口さんのお父さんが見えています。私のために大変キレイな座布団をこしらえて下すってあり、テーブルも出来ている、何でもあなたが野原でつかっていらっしゃったのというの。そのザブトンは大きいのに達ちゃんか誰かもっと大きいのがよかろうと云ったと大笑いです。毛布も布団もお気に入り、かけていらっしゃいます。いずれゆっくり手紙をさしあげます。 
三月二十七日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
三月二十七日晴天の午後三時前。
二階の部屋。父上は今おやすみ中。さっき隆治さんが一寸かえって来て御昼を土間で食べて、又仕事に出て行ったところ。すこし風はあるがいい天気の日です。裏に面した窓をあけ放して、山や農家の様子を眺めながら、私はさっきからあなたのこちらにおよこしになってある手紙を整理して、さて、いろいろとうちのことを申しあげようと思って。――
お父さんの御容態は電報やハガキで一寸申上げたように大変平静です。食慾もおありになり、朝二膳ひる三膳夕三膳ぐらい、おかゆと御飯とをあがります。おさしみや野菜をあがる。カステラ、ういろう等もあがります。いい舌をしていらっしゃり、通じも一日置き自然についていて、この四五日は用便も御自分でおわかりになるようになり、皆々大よろこびです。皆夜中の間のコタツのまわりに集り、お父さんのまわりを囲むと、いかにもうれしそうな御機嫌で、ニコニコなりづめです。御飯を私がサジでたべさせてあげ、臥たり起きたりのお手伝いもしてあげますが、お母さんのお上手なのにはかなわない。何かやっていらっしゃるのを此方でよくよく観ていると、やはり急所があるのです。そこをエイヤッと私も真似をするの。「お后(ゴー)[自注10]や、一寸来て」お父さんはお后(ゴー)様なしでは立ちゆかぬ有様で、又お母さんが、明るく、てきぱきと、優しくしてあげていらっしゃる様子というものは実に見ものです。美しいというべき眺めです。達ちゃんにしろ隆ちゃんにしろ、病人として片づけず、生活の中心において実によくやっている。何とも云えない親しさ、睦(むつま)しさ。私は、林町のうちの睦しかった、その性質とここの人たちの睦しさの性質とを考え比べて見て、斯ういう一家の仲間に加われる自分を仕合わせな者だと深く感じます。そのことは、深く、深く感じます。あなたは、本当に立派な御両親や弟たちをもっていらっしゃる。心からおよろこびを申します。こういう心持の暮しというものは、人工的にこしらえようと云ったって出来ぬことです。全体の気分がね。私は、お父さんの扱われていらっしゃる様子を見て、親切とはかくの如きものと感服している次第です。単なる丁寧ではありません。いろいろ私は感動いたします。
家の財政のことは、お母さんから詳しく伺いました。丁度二月の七日に講の整理がついて、お祝をなすった由。十日ばかり経ってお父上がおたおれになったのですが、やはりよっぽどの御安心でしたのです。こちらの家は、今はすっかりこちらの所有になったわけで、二階などすっかり畳がえが出来、雨樋も壁もさっぱり白く手入れされ、家の中は、一つの清潔で静かな活気に充ちています。お店の方も、明るくなって居る。野原の方はこちらのように手堅く行かず、あすこは全部売却して、Tさんのいる、広島の方へ行こうと云っていられる由です。二千百円ぐらいの整理をし、あと千四五百をあまして、出かけようとして居られる由ですが、その価では買手が見つからぬ由です。きのうもゆっくりお母さんとお話し、野原は、あなたも思い出をもって愛していらっしゃるが、将来、若い二人が仕事をしてゆくには、どうしても、今の場所の方がよいから、ここは年の地代\60でやはり持っていて、向い側に九十坪ほどの横長い地面が\1200ほどで手に入るから、達ちゃんの結婚のための必要もあり、出来るだけ早くそこを手に入れておいて、貸家にしてもよいということに大体御相談がまとまりました。この家を達ちゃんのものにしても土地がないので、この辺では結婚の話にもなり難い、まア土地も一寸あるというところで嫁に来させても、となる由。それで私は、私たちで、その半分でも出来るだけ早く都合して、そっちを解決して、出来ることならお父さんに達ちゃんのお目出度(めでた)を見せてあげたいと思います。私たちのお目出度はあんまり本質的すぎて、世間のお祝儀は高とびした形だったから。ああやって、お父さんがニコニコ楽しそうにしていらっしゃるとほんとうに、そういうよろこびもさせてあげたいと思うし、お母さんのそばにいる、若い女のひとの手も実に入用なのがわかります。これはいい案でしょう?あなたもきっと賛成でいらっしゃるでしょう。講の方が片づいている以上、それがよいと思います。
隆ちゃんは、目下の考えでは運転の方でやってゆきたい由で、兵隊まで(一年予)うちを手つだい、あとはよそにつとめて、という気らしいが、お母さんは、達ちゃん一人では無理だから、月給制にしてずっと協力してやらせたいという御意見です。そして、ここのお店も会社組織を改めて、達ちゃんの名儀になさる由。お母さんは今まで女の社長でいらしったのよ、御存知?うちには、なかなかアマゾンが出ますね。きのう、お母さんと二人で大笑いしてしまった。だって女の社長なら、婦人雑誌に出さなけりゃならないでしょう?これは冗談だが。――野原の方の土地家屋は講をつくるときに、信吉さんが父上の御承知ない間に、自分の名儀にしてしまっていらっしゃる由です。その他お二人としてはいろいろのことで、この際、あちらはあちらとして生活の責任をもってゆくようになることを御希望です。あなたは御存知ないかもしれなかったが。――お父さんの昔仲間の野田さんはこの頃の激しい時期に株にひっかかって、皆々心配して居ります。
お母さんは、近いうちに、私を宮島見物につれて行って下さるそうです。こちらへ来る迄、私は父上のことも心配だったし忙しくて忙しくてひどかったし、着いて、お父さんのお笑いなさる顔を見て安心したら、何だかポーとなって、久しぶりで、まるでのんきな休まる気分です。お母さんの娘になって、少し遠慮しながら甘ったれて、冗談を云って笑って、真面目な相談もして、そして夜は十時すぎにもう寝て、それでも朝九時頃まで眠ります。どうも、眠くて眠くて。それは眠いの。あなたに、これだけ書いて、家の中の空気おわかりになるでしょう?林町がああ腰をぬいて暮して居るし、私はキリキリまいをしているし、ここでは、お母さんを中心に活々(いきいき)と軸がまわっていて、又別な楽しさ、安らかさです。
今度来て本当によかった。
お医者も特別に誰というお好みはありません。しかし、お父さんは昼間お眠りになりすぎます。これは、やはり全体の御衰弱ですから、余り油断はならないと思います。あなたの方はずっとおよろしい方ですか?食慾も出て居りますか。どうか、どうか、お大切に。ここにいると何だか遠いようです。私はこちらですっかり疲れをなおします。では又

[自注10]お后(ゴー)――顕治の故郷の地方では、おくさん、おかみさんをお后(ごう)はんとよぶ。 
三月二十九日(消印)〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 厳島より(安芸の宮島廻廊より千畳閣を望む絵はがき)〕
ここは大変に明るい美しいところでびっくりしました。清盛という人物が只ものでなかったのがよくわかります。よい天気。お母さんと、砂と松の間をふらりふらりと歩いて、よい散歩です。あなたもここは御存じでしょう? 
三月三十一日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
三月三十一日ひる少し前曇天。
下でお父さんが「お后(ゴー)、お后(ゴー)」と呼んでいらっしゃる。私は「ハイ、ハイ」と降りかけ「お后(ゴー)さまは今御用ですよ」御小水?合点をなさる。用意してあげると「手をかせ」、私の手につかまって体を横になさるが、今度は勘ちがえ。それから起き上らせてあげて、背中のうしろにつめをかって、ラジオをかけてあげる。今甲子園のゲームです。あたりが静かなので「投げました投げました!」いう声が、窓の軒の下からきこえて来る。蛙が円い声で鳴いている。今日は勘定日でお母様はきのうからその準備で御多用。達、隆二人は、虹ヶ浜とかへお嫁の荷をつんで出かけました。きょうはそっちもいそがしい由。
一昨日は今度病気をなすってからはじめて腰湯をつかわせ申しました。丁度二人が午後あいたので、家じゅう総がかりですっかり洗ってあげ、さぞさっぱりなさいましたでしょう。言葉が自分ではよくおっしゃれないが、話はよくおわかりです。この間お母さんと宮島へ行った留守など、店の番をするからそこの襖をあけておけと、来る人にちょいちょい応待なすった由。段々元に近く快復なさる。夜、御飯がすむと、こたつのまわりに皆あつまって賑やかです。外へ出て見て、外が暗くてしんとしているのにびっくりする位家の中は生々としています。お母さんを見て、家の中心になる女のひとの気質というものがどんなに大切かということを感歎します。お母さんは家宝ですね。私は女の先輩として、なかなか敬服措くあたわざるところがある。理解力にしろ、生活の地力であすこ迄高めていらっしゃるのですから、実にフレキシブルです。そして労苦の中からよろこぶことを学び、その感情をなみなみと持っていらっしゃる。本当に傑作です。お父さんは、今、わきから見ていると、もう全くお后(ゴウ)さまに依っていらっしゃる。一種の美しさがある。勿論今でも時々かんしゃくは起しなさるらしいが。ずっと床についていらしても大きい骨格で、広い厚い肩で、その肩を私が自分の胸いっぱいに受けて抱えてあげたりしていると、何だか錯雑した二重うつしのような優しい感動を覚えます。骨格は、あなたはお父さん似でいらっしゃるのね。
明日あたり、多賀子さんと野原へゆきます。この次来るときにはどうなっているか分らないから。海岸へも行って見ましょう。
海岸といえば、ゆうべ虹ヶ浜の話が出て、何とか家のくり合わせがつき、お父さんの御様子が順調だったら、夏は虹ヶ浜のあなたのいらした家でもかりておつれしたら等話しました。これはまだ全く未定です。お父さんはお后(ゴー)さまなしでは日が越せないし、お后さまは家がなかなか手ばなせないし。
隆ちゃんに私たちとして『早稲田商業講義録』を一年分申しこんであげました\15、広島の簿記学校へという話も出たが、そこはボキ専門で、それほどの偏(かた)よった勉強は必要ないので、マアボツボツやって行ったらいいでしょう。隆ちゃんもこの頃は段々遠慮が減って、すこしは喋るようになりました。なかなかいい子です。達ちゃんは、かえって来た当座は、自分が二年兵で初年兵を命令にしたがえていたその癖で弟と一緒が却ってうるさいようだったのだそうです。それでも、お母さんの舵とりよろしく、今日では互に扶けあうが、やはり兄弟は面白いものね。兄さんの方が全責任を負う(雇人対手のように)気にならず、隆がこう云ったからなど云い、ごたつくこともある由。でもいいのですよ、結局は。
あなたは何日頃こっち宛の手紙を下すったかしら。お目にかかったのは三月の十五日でしたが。――
私は二階の、裏山の見える方の窓の下に机をおき、本をよんだりこうして手紙をかいたり。きのうあたりから一日に三四時間ここで暮します。私は四日にお父さんのために臥ていて外が見えるように、茶の間の障子を作りなおしたのが出来て来るから、それを見たら五日頃かえることになりましょう。私は令名サクサクな東京の奥さんなのですが、仕事をエイヤッとするにはやはり東京がよろしい。そして、もしお父さんの工合がよかったら夏、虹ヶ浜でお暮しになるようにしてもよいと考えて居ります。御機嫌はいいことと思って別に伺いませんでした。きのうあたりから又寒い。猫の仔が五匹います。では又 
 

 

四月二日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月二日。晴島田からの第三信
待ちかねるようであったお手紙がやっと来ました。あなたは三月十八日に書いていて下すったのね。それが着いたのは今朝です。
このお手紙に一つ一つ答えて参りましょう。お父さんの御容態についてはこれまでの手紙で書いた通りです。今後の御発病の原因は、危険なことであったが、岩本氏(東京の)が結婚してはじめて見え、お酒が出て、お父さん、こっそりそれをおやりになったのですって。夕方、若い連中がかえって来て、それとは知らずお風呂へ入れ申したから、ショックの起るすべての条件は完備してしまったわけでした。この位でお止りになったのはふしぎな位。
御様子は段々私が来てから一週間であるが、その間にも気付かぬ位ずつ語彙(ごい)も殖えて来られ、長い文句を仰云るようになりました。しかし、うとうとしていらっしゃるときのイビキは病的ですから決して安心ではない。実に平安に、ソッとして保たなければならないでしょう。私が来たことは大変大変御満足で、お母さんが「もう思いのこすことはありますまい、顕治に会うたも一つことじゃから、のうお父さん」と仰云ると、首をうなずけて、「ない」と仰云る。そんな状態。お言葉は子供の片言です。障子を直したことはこの前の手紙で書きました。この位いるとほんとに家のものになれて私もうれしい。
今も、あなたの手紙を懐(ふところ)に入れて、お母さんと背戸の鶏小屋のところ(十羽いる。七つ八つ九つと卵を生みます)に日向ぼっこしていろいろ台所を直すことや、とりこわした物置を又建てることやあれやこれやを話しました。あなたは蔵つづきの物置を御存じでしょう?あれをこの間とりこわした由。古くなってこけかかったから。今度はその古材木で九尺に三間ほどのものを建てようというのです。
負債のことは、講の片がついて、只今はもう何もタンポに入っているものなし。この決算のことについては三年かかっているそうです。飛田の山崎氏が保証人であったのが、山崎氏もああいう事情で東京へ出てしまわれたので、却って簡単に運ぶようになり、お父さんの旧友で、兼重という七十余の老人が親方の肩入れで、二月七日に万事落着し、五十円ほどのお祝いの宴まですんだのだそうです。お父さんの年金もこちらに戻っています。他にこまかいものが少々あるがそれは五百円ばかりで片がつき、十分ポチポチやってゆく自信がおありの由です。だから、第一の手紙に申しあげたように、私達は達ちゃんの嫁とり条件を少しましにする方向へお手伝いしようとお母さんにお約束したわけでした。
三年前島田へ来たときは、ほんの五六日でした。お母さんをつれてあなたに会わせ申すのが眼目でしたから。その時野原へは夜一寸おじぎに行ったきり。だからきのうは昼からすっかり屋敷の中を見せていただき、私ははじめて真に荒廃したという家の有様に接し、いろいろ深く感じました。あなたは今の野原の家の建ったのを御存じないのですって?離れのあったところに便所が出来、そこからつづいて八畳六畳の両椽の座敷があり、鶏舎との間に昔からのザクロや大名竹を植えた小庭があり、元の表の間との間の中庭には岩を入れ、池をつくり、そこに金魚がおよぎ、桜が小さい実をつけている。あなたが勉強なすったという二階(台所の先の方から上る)は人が住まぬままになって居り、となりの室のハタ台や糸をかけたままのワクに積年の塵があった。それから鍵の手につづいている風呂の方、又昔油をしぼった小舎の辺、更に奥へ二棟立ち並んでいる大鶏舎。いずれも、春の明るい陽をうけつつ雑草の間に建っている。今あの家には叔父上夫妻、冨美子(十二)で、私はこの小柄な美しくて堅い小娘とあっちこっち廻って歩きながら一種の桜の園を感じました。あなたが、お母さんへのお手紙で、うちのことを知らすのはユリのためになることでもあるし云々と云っていらっしゃる、そのことを思い出しつつあなたの少年時代をも深くその感情に入って感じつつ歩きました。あなたは林町の生活を御存じないから割によいことを多くお考えだけれど、それにしても、こういう時代の推移の姿を見ることは又私には刻みつけられるものがありました。そういう荒廃の中で、中庭の苔は美しく日光をすかして見える。そこに坐って叔父さんは「駅」の父さんが楽しむということを知らないなど仰云っている。母さんがこの頃は金の話ほかせんようになったなど。私は「そうではありませんよ。お母さんは生活の事情によって、ゆとりが出来ればなかなか趣のわかる方ですよ」など喋る。あなたのことも。写真を見たりして。然し、野原は断然整理しなければ駄目です。こちらは島田のように単純にゆかず、(負債について島田の母上も御存じなし、私も何だか伺えない)マアボチボチ片づけていらっしゃるほかないでしょう。Tさんはあなたの御心付をありがとうということです。そして自分でもこの頃は段々考えて着実にやる方針らしい。やはり子供の時からの環境で、体を労して稼ぐことは思い得ないのですね。何か「まとまった金」ということが念頭についてしまっている。けれども、これとても、もうこの道でゆくしかないでしょう。
ジイドは、あなたの御覧のように私も見て居ます。この二月の評論では、ジイドが自分の抽象的な誠実性の故に誤られて現実を見る力を失っている。そういう作家の矛盾の点をとりあげていたのです。作家が、自分の存在の客観的な意義を理解しない、理解する力をもたぬことは実に恐しい誤りを引起すものです。ジイドにしろ。だから、あなたが私の客観的理解力、進退等についていろいろ注意して下さることの価値は十分わかるつもりです。断乎とした忠言者のないこと。そしてその忠言には常に正当な私の仕事に対する努力の評価がふくまれ、更によりよいものを求めてなされるものである、そういうものが乏しいことは、たしかに私の可哀想と云えば云えることです。谷川などはまだまだいい方よ。私たちの作家としての存在そのものが、現在にあっては抗議的存在です。作家として粘ること自体がいかがわしい文学の潮流に対してのプロテストであり、今日もし私たちが阿諛(あゆ)的な賞讃など得られるとしたら、それこそ!それこそ!謂わば、もし賞(ほ)められたら、それこそ目玉をくりむいて、賞めた人と賞められた点とを見きわめなければならない。そういう状態です。今日賞讃の性質は、従前のいつの時期より恐ろしい毒素をふくんで居るのです。私は賞められないことには、既に馴れています。賞められたくなんかないが、私たちが褒められないことの意義と、その健全性を、ヨシヨシと云って欲しい。実に、実に。抽象的に云ってはおわかりにならないかもしれないが。でもわかるでしょう?
今日作家としてまともであるには、単なる自分の才能の自負とか閲歴とか、何の足しにもならず。却って才能云々はその人の道をいつしかあらぬ方へ導く百パーセントの危険をもっている。私の人生派的傾向が、思わぬ力で今日の波瀾の間に私を落付かせているのです。この頃の室生、小林、林、河上、佐藤春夫、その他を作家というのであれば、私や稲公は作家の埒から夙(つと)にはずれているようなものです。或意味で、今日は文壇が自解しつつあるばかりでなく従来の概念での文学が揺れている。逆な力で優位性の問題が出ていますからね。
私はここで活々として暮して、台所を手つだったり、風呂燃きしたり、全くわが家と暮しています。私はこっちへ来て、非常にこれまでの話と種類の違った稼ぎのいろいろの話をきいて、どうも思わぬ収穫を得つつあるらしい。この次の分はこちらで拝見出来るかしら。お大切に。花を入れました。 
四月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(徳山・幸町通りの写真の絵はがき)〕
四月五日。ひどい風ですが、野原の叔母さん、冨美ちゃん、多賀子、こちらはお母さんと私という同勢で徳山公園のお花見にゆき、かたがた二番町の岩本さんと井村さんのお宅により、私はお母さんの後からよろしくと申して来ました。徳山中学校の屋根が見えました。徳山銀座で私がころびました。徳山駅は目下改造中で大ゴタゴタです。きょうは日がいいと見えてお嫁さん二組に会いました。 
四月五日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月五日曇天、島田からの第四信。
こちらへ来てから十日経ち、家にもおちつき、いろいろこれまでの手紙で書いてあげ落したことを思い浮べます。今父上は眠っていらっしゃる。この頃はお母さん午後ほんの一寸体を横になさいます。夜、ゆうべ三度もお起きになりました。夜の世話が母さんには一番健康的にもこたえるのですが、どうもお后(ゴー)さんでなくてはお父さんのお気がすまない。あなたはきっと、こんなに気の折れて「お后(ゴー)ここへ来(キ)」と炬燵(こたつ)に自分のそばにおきたがっていらっしゃるお父さんを想像お出来にならないかもしれませんね。おや、下でガタガタいっている。きっとお父さんの御用便ですよ。(中止)何て重いお父さん!しんが非常に御丈夫なのね。一日おき二日おきに自然便がおありになります。木の腰かけ便器ができていて、そこへ、かけ声をかけて動かし申すのですが、女三人ではほんとにやっと、やっと。
この間、宮島へ行ったとき夕方からあすこの岩惣(いわそう)という家の、川の中にある離れに休んでお母さんといろいろ話しました。そして、達ちゃんの結婚式のとき、ハイこれは顕治の嫁でございますというのもおかしいから、こんどかえり間際にでも、一寸ものを持って組合[自注11]と近所にお母さんがつれて挨拶をして下さることになりました。三十一日に急にタオルを三本一箱づめにしたものを東京へ注文したところ(十七軒分)。私は「ここのもの」になりました。これはいろいろ面白いの。きのう徳山にいられる甥(銀行員)が娘さんのお嫁のことで見え、私が初めて紹介された。前かけをかけていたら、お母さんそれをおとらせになって、髪をかきつけてきた私を一寸しらべるようにみて、そしてお引合せになるの。私がお母さんのわきでお茶をいれたり何かする。それを、お父さんまで至極満足そうにして眺めていらっしゃる。こういうときの私の心持、おわかりになるでしょう?もし貴方がわきにいらしたらどんな顔をなさるだろうと、あなたの独特な一種の表情を思い浮べ、微笑も禁じ得ず。但しこれはひとりになってのとき。
私はこっちの地方と東北の田舎とを比べ、事毎におどろきます経済的な点で。みんな女のひとなど都会風の装(なり)。一寸出かけるにもよいなりをして、私なんか質素です。そういうこともおどろきます。中学生は在郷軍人の服と同じ色の服、キショウだけちがう。女学生は大抵東京と同じセイラアです。野原にゆくとき虹ヶ浜にまわりました。春陽駘蕩(しゅんようたいとう)たりという景色で、あの家[自注12]には人が住んでいました。下松(くだまつ)には日本石油、その他工場が近頃の景気で活動して居り、江の浦のドックにはウラジオからも船が入ります。そこの職工さんたちの住居払底で、虹ヶ浜の小さい家はこの頃よくふさがっているのだそうです。島田の高山(呉服屋の隣り)は石油とギャソリン専売権をもって居り、うちは多くそこの仕事をする模様です。今度ガソリン一ガロンにつき五銭価上り、一カン二十五銭高。うちの車は一日に一カン位入用の由です。運賃を今のままでは引合わないという話がでています。うちの車庫は、店のとなりの方。もと製材のあったところを車庫にして、となりを木炭倉にしてある。きのうその辺をみていたら、店の前で近所の女の人たちがお母さんと私をつかまえ、かどぐち社交がはじまって、くすぐったかった。ここは全く小さい町気質ですね。言葉にしろ。河村さんの娘が高森の写真屋に嫁(かた)づいたのでその写真やに六日に来て貰って、ここの一族、野原の皆が写真をとります。そしたらお目にかけましょうね。
汽車の音は賑やかなものと思っていたら、この辺は小駅であるから一種寂しい心持を与える。汽笛が山々に谺(こだま)する。ギギー・ゴトン貨車の音など特に。少年のあなたはその響をどんな心持でおききになったろうと思います。きりなしだからこれでおやめ。
〔原稿用紙に書いてある手紙の欄外に〕
ここに暮していると小説的な風に感情が押される。
こっちの風景は明媚(めいび)であるけれども、景色そのものが自身で飽和している。そこから或るつまらなさ。北方の荒涼として情熱的なところがない。それでいてこの辺は乾いている。

[自注11]組合――隣組のような町内の組合。
[自注12]あの家――顕治が学生時代夏をすごした家。 
四月十日夕〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十日午後暖い晴天。島田からの一番終りの手紙(第五)
私は五日頃かえるように云っていたからもうこちらへは手紙を下さらないのかもしれない。店で、お母さんがあなたに上げるとおっしゃる肌襦袢を縫っていると、「ユービン」と云って河村さんへ自転車にのった若者が何か入れてゆくのが見えました。河村さんに郵便が来てこっちに来ないのは大変不思議に思えた。そして、又縫っていたら河村さんの細君がキビの餅をもって来てくれ、達・隆はそれを頬ばって仕事に出てゆきました。
この河村さんの娘が結婚している写真屋さんに来て貰って、二三日後一家全員で写真をとり、大さわぎでした。あなたにお目にかけるために。七日に、背戸(せど)を見晴すガラス戸が出来上り、大満足です。二尺三寸の一枚ガラスをはめたから雨の日も外が床の中から見えます。きのうは、金物屋のおくさんが字を書いて呉れということでした。夜は、おかあさんが、私をつれ、三越から届けさせたタオル三枚入りの小箱をもって、近所にあいさつにまわりました。「よいお日和(ひより)でございます。あの、これが顕治の嫁でござります、どうかよろしく。日頃御厄介になっちょりますから今度見舞いに参りましたについて、一寸お物申したいと云って居りますから」云々。そうすると、私が「どうぞよろしく」とおじぎするの、お母さん大安心の御様子でお店の敷居を跨(また)ぎつつ「サア、こうしておけばもうおおっぴらにお歩きさんし」
おじぎをするとき私は大変お嫁のような気が致しました。
きょうは蓬(よもぎ)つみに島田川のせまい川辺へ行きました。橋(フミ切りのところ)で達ちゃん達がそのときはトラックを洗っていました。その道で荒神さんの高いところにものぼりました。その石の段のところに野生のわすれな草が咲いて居た。勿忘草(わすれなぐさ)など通俗めいているけれどもああいうところであなたは子供の時お遊びになったのでしょう?何だかそれこれ思ったら子供らしい愛らしさがあって、その花をつまみました。今押してあるから出来たら又お目にかけましょう。島田川の白菫(しろすみれ)も。皆、実に自然主義文学以前の、日本的ロマンティシズムの素材で面白くて仕方がない。藤村の詩など考え合わせると、日本のその時代の文学の地方性=フランス・ロマンティシズムの都会性に対する=が感じられます。私は十二日の朝ここを立ちます。来るのはよいがかえすのはいやだとしきりにお母さんがおっしゃり私もその心持です。いろいろ、お味噌だの、かきもちだの草餅だの外郎(ういろう)だの小さいすりこぎだの頂いてかえるの。私を可愛がってくれた祖母が田舎から私にくれたものを思い出して、私は大層うれしがって居る次第です。
お父さんは腎臓に障害が起って居ります。やはり順々にそういう新陳代謝には故障が起るのですね。この手紙がここでかく手紙のおしまい。私が、こんな島田川の手紙をかくなんて、なかなかいいわね。では又。お目にかかる方が早いのだから、そのとき他のことはいろいろと。
〔欄外に〕この桜は室積の桜。潮風に匂う桜は大変ここら辺のより豊かに美しいと思いました。 
四月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
四月十一日。昨夕七時頃野原から電話で、叔父上急に右が痺れて口が利けなくおなりになった由。達治さん多賀子私うちのトラックにのってゆきました。既に昏睡(こんすい)です。瞳孔反応なし。今朝十時富雄さん帰り。三時(午後)克子大阪より。私は明日の出発をのばして御様子を見、且(かつ)お世話をいたします。血圧二百二十。この前の発病は百八十であったとのことです。第一信 
四月十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
野原伯父上今度の原因は、日頃やはりお酒を相当あがっていたところへ、昨日は好天気だったので、ひなたで植木いじりをしていらっしゃり、夕方大変いい心持で、風呂に入ろうなどいって居られたところでした由です。「おせん、右へ来たぞよ。おれは奥でよこになるから駅へ電話かけえ」とおっしゃったきりになった。あなたのお手紙のことを改めて申上げたら、もうこれから絶対やめるといっていらしたというのに。 
四月十三日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十三日島田。晴天、暖し。
野原伯父上の御急逝には実におどろき入りました。さぞびっくりなさり御残念でしたろう。前後の御様子をかきます。
この前の手紙で書いたように、私が着いた日、光井からお出かけになり、いろいろの話をし、愉快そうに夕刻までいておかえりになりました。それから三四日して、私が午後から伺い、おそいお昼をメバルで御馳走になり、お母さんのお云いつけで、お墓詣りをすると云ったら伯父さんも一緒に出られました。村会議員の選挙などの話があってひとが来たりし、夕方私がおいとまする迄、やはり面白そうにお話しでした。「自分はいろいろ悲観するようなときは百合子さんの笑い顔を思い出して元気を出す」そんなことを云っていらしった。家の整理についてのお話も出ました。土地六百坪一括しては買い手がつきにくいから区画して手ばなしたいとか、鶏舎はよそへほぐして売るとか。
そのときも、私が着いた日も、伯父さんは私の前ではお酒召上らないが、やっぱり上っているらしい様子なので、よくよくそのことを申上げたら、タバコはやめにくいが酒はなくても平気と云っていらしった。あなたのお手紙にあったことを私は自分の出発の時刻をお知らせするハガキにわざわざ改めて書いて上げました。
九日の夜、私は十二日の上(のぼ)りの寝台券を買った。十日の午後七時頃、夕飯をたべようとしていたら、野原から電話。伯父さん口が利けんようになったから、多賀子をかえしてくれ云々。氷と氷枕を買って戻れ。
達治さんが丁度いて、私は心配だから一寸様子を見て来て注意することがあればして上げたいと、トラックで三人でかけました。冨美子をたった一人の対手で伯母さんはあわてていらっしゃる。中庭を隔てた日頃のお寝間に行って見ると、一目で昏睡であることが分りました。やがて医者が来て、瀉血(しゃけつ)を五勺ほどし、尿をとり、血圧を低めるための注射をしました。そして小一時間の後かえったら、激しいケイレンと逆吐(しゃっくり)が起りました。その時からずっとお顔の様子がわるくなった。私は富雄を呼ぶこと克子を呼ぶこと等一時頃までいろいろお世話しましたが、どうも御容態が思わしくないので、次の日の朝、貴方に電報した次第です。十日の日は暖かった。伯父さんは上機嫌でひなたで竹の鉢植をこしらえるためにお働きになった。そして、夕方珍らしく飯がうまいと、五杯もあがり、あと、よそから来た餅を二つあがった由。そして、そろそろ湯に入ろうかというとき、急に右がしびれ出し、こっちへ電話をかけるよう指図をして自分で床へお入りになった。冨美子が枕元についていたら「おや、目が見えんようになった」と仰云った由。それ限りでした。
翌十一日は母上がお見舞にゆかれ、私が家でお父さんの守(もり)をしていた。午後三時すぎ母上おかえり。やはり時間の問題と思うとのことでした。医者も今明日が危期という。お父さんは丁度九日位に血尿があって、それが鎮静していらっしゃるが、これらのことで興奮なさり、食欲不振でした。カンシャクも起った。それやこれやを話して、私は本をよみながら裏で風呂を焚(た)いていたら、様子がわるいからすぐ来てくれという電話です。母上、今おかえりになったばかり。すぐ達・隆がトラックでゆきましたら隆がとってかえして来て、もうおなくなりになったとの報知です。呆然としました。それから母上、私、隆と野原へ出かけました。出かけようとしたら、父上、母さんを呼び止め、「俺がゆかれんから二人分してやってくれ」とおっしゃったそうです。隆治さんは初めて近親の死に会って非常にショックをうけました。激しく泣いた、私は、涙が胸の内側に流れるようで。(もっと複雑な感じ。時代的にも人生的にも様々の思いの輻湊(ふくそう)した)
富雄さんは十一日の朝、克子は御臨終の直前にかえりました。講中の人々が来ている。あわただしい人の出入り。母上と私とは二時すぎまでお通夜をしてかえりました。私は私たちにとって一方ならない御縁の方であるからずっとお通夜したいと思ったけれども、お母さんが私の盲腸がわるいのでお許し出ませんでした。十一日に隆に託してお見舞を十円。御香典には貴方のお名前で二十円。
私が来ていたうちに全く急にこういうことになったことを、皆と単なる偶然ではないように話し合っていました。百合子はん会うたのは顕ちゃんに会ったもホンついじゃから、因縁(いんねん)じゃのう、しきりに伯母さんも云っていられます。伯父上としては御苦痛なく、あの家でおしまいになり、あの家から葬儀の出たことはマアよろしかった、お母さんのそういうお言葉には私も同感です。
御年五十四歳、母上より一つお若いのです。
十二日のお葬式には最後のお寺詣りまでずっとお伴しました。今十三日はお骨上げです。うちからは達ちゃんが行って居ります。野原の家、屋敷は只今は兼重萬次郎という人の手に入っていることになっています。しかしこの人はお母さんのよく御承知の人物で、自身の権利として二千円ばかりのものを回収すれば、あとは若し余分が出れば遺族に上げると申して居り、それは信用し得るそうです。
富雄さんは広島へ帰るのをいそいでいるが、伯母さんや冨美子はこっちの整理つき次第広島にうつるでしょう。克子は大阪の、こっちのお母さんの従弟とかの家にここ三四年行って働いて居り、又そこにかえりそこから結婚の心配もして貰う方針です。多賀子は未定ですがここに手つだってやはり身の振方をつけていただく方がよいかと考えます。お母さんもそのお考えで、冨美子は出来るから師範に入れるプランであった。それはその方がよい。富雄の生活は確実性がないから。未だ申しませんが、伯父さんの御厚情を考えて、私たちは冨美子の学資を何とか助けてやりたいと思って居ります。たとえ少々でも。貴方も御賛成でしょう。十四日にあっちの若い人々が来ます。又いろいろ話しましょう。そして、私は十五日に立ちたいと思って居ります。
父上はずっと平静でいらっしゃるから御安心下さい。尿も血がなくなり量も殖えましたから。 
四月十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十三日島田。
さっき書いた手紙を出して貰い、寝台券をとって貰いました。十五日に立つことに決定しました。
昨夕は御葬式がすんでから(こっちの家でそれは負担なさいました)克子、多賀子、達治、私、座敷でいろいろ話した。玄関から台所の方はずっと襖をとり払って大広間とされて居り、近所の人々が酒もりをしている。その声が中庭越しにきこえる。裏へは急造りのカマドが二つ出来ていて、湯殿の前のところへ台を出し、附近の子供が二十人近く石ころ、レンガ、薪をこしかけにして御飯をよばれている。おっかさんたちが手伝いに来ているからでしょう。
話しているところへ伯母さんも来られ、私がつくという話がわかったら、伯父さん一方ならないおよろこびで、島田の二階の方はさむいが、炭とりがないから一つこれをかしてやろう。花も好きだが、あっちにはないからこれを、と、わざわざ炭とりと花瓶とを運んで下さったのだそうです。私はそうとは知らなかったが、この炭とりには重宝して、本当に伯父さんがおっしゃった通り、そこから炭をついで一寸した書きものをしたりいたしました。花瓶も、お母さんがただ野原からくりゃりましたとおっしゃったが、私を歓迎のためとは知りませんでした。どこまでも伯父さまのやりかたですね。
それからあっちへ遊びに行ったとき、私はあなたがおっしゃったことをもつたえ実際的の話を伺いたいと思ったが、簡単におっしゃり、楽観的におっしゃるぎりで、それ以上つっこめませんでした。こっちのお母さんのお話で、講以外に負債がおありになり、あの土地を処分するしかないことは分って居りましたが。
野原は今の交通関係では昔とちがって全くの閑地ですね。あすこは隠居地です。
お葬式は御承知のとおりこっちの真宗(西本願寺なむあみだぶつ)の式で万事やられました。様々の習慣がちがうから、私はお母さんのあとについて、白いカツギをかぶって、白と緑の造花をもってお墓へおともしました。達ちゃんと富ちゃんが組んでいろいろのことをしました。隆ちゃんが真先に道あけあんどうというものをもち、母上、私、女の子たち、僧侶、富ちゃん、お棺、達ちゃん、それから伴の人という行列で、豌豆(えんどう)が花咲き、夏みかんがみのり、れんげの花の咲いている暑いような陽の道をお墓へとねってゆきました。そこで式があり御焼香があり、それから火葬場へおゆきになり、私たちはかえったわけでした。
又うちで読経、焼香、御膳がでて、親族のものだけお寺二つへまいりました。町の中のと、山の高いところのと。その山のお寺には白と紅の芍薬(しゃくやく)が花盛りで、裏を降りてくると松林の匂いがしました。海はすっかりかすんでいた。そこで紫のスミレを二つつみました。今にお目にかけましょう。伯父さんのような方にふさわしい晴れて花のあちこちに咲いた日でした。 
四月二十日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(はがき)〕
四月二十日夜。きょうの午後慶応大学病院へ行って、盲腸の手術のことについて、以前から私の体を診て貰っている医者に相談したところ、切開することは中止するようにとのことで、手術はおやめです。目下盲腸は癒着(ゆちゃく)しているからつれたり何か無理がゆくと工合わるい程度であるのに、余り丈夫でないのに切るのはというわけです。御心配なさっているといけないから、とりあえず。 
四月二十一日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十一日、荒っぽい風の日、こういう風は大きらい。
むしむしとして、埃いっぱいで。落付かぬ天気ですね。きのう夜ハガキを書いた通り、私の盲腸は手術しないことになりました。自分では弱い体という風に考えずにいるのに、もし万一という条件がつくとは何だか可笑しいようです。盲腸もこう癒着して居れば、急に腹膜をおこすこともそうないだろうということだから、マアいいにしておきます。今、ベラ・ドンナという鎮痛のための薬を少しのんで居ります。あなたの盲腸はずっと納って居りますか?私はどうしても貴方の生きていらっしゃるうちは生きていたいから、荒療治はおやめです。島田で苦しいのを我慢しながら、お父さんの診察に来る裏の何とかいう髭を眺めていたら、心細くなって、一そ切って置こうと思ったのでしたが。
そういえば、お目にかかったとき、厚着していらっしゃるように見えたのですが、ちがうかしら。今年、もしお体の事情がすこしましであったら、そろそろ皮膚の抵抗力をつよめるようにしましょうね。
島田が、私の故郷のような感じになって、ときどきチサの和えものだの、新鮮な魚だのを思い出します。島田川の岸の景色も心にのこっている。お父さんは、私がのませると薬をあがり、ほかの人だと、ぶってこぼしてしまったりなさる。安着の電報に添えてチチウエ、オクスリヲヨクメシアガレとうったら、この頃お母さんや達ちゃんたち、閉口するとそれを護符のようにもち出す由。あなたからも、この薬をのむことと、お小便をとるための袋をおつけになることの必要をよく云ってあげて下さい。今日、この袋はお送りするのですが、おむつではどうしても不潔で細菌が犯し、膀胱(ぼうこう)カタルを猶悪化させますから。きのう慶応でいろいろ訊いて来たことの一つです。すっかり腰が立たなくおなりになったことが膀胱の活動をも鈍らせるのだそうです麻痺によって。お父さんは、そういうものを五月蠅(うるさ)がりになるのです。
お父さんは何という直情径行の、そして一面弱い方でしょう!何と弱い方でしょう!貴方が少年時代から恐らく感じていらしったろうと思う種々の感情の明暗が、今度三週間暮してかなり推察されました。達ちゃんと隆ちゃんとでは情感の動きかたのタイプが違います。達ちゃんは常識の平面を横に動く。隆ちゃんの天性は縦(たて)の方です。生活が体をつかって、かえれば食べて眠くなる生活だから素朴な表現をもっているが。隆ちゃんはどこか貴方に似て来ている。
島田は確に昔より楽になって来て居ります。そのためには実に尽大な努力が払われ、やや小康を得て、すこしは家の気分にくつろぎが出ている。父上も寧ろ今は仕合わせな病人でいらっしゃいます。この半面には、この調子を保って行こうと欲する、極めて自然な要求が心のどこかにあって、それは、結果としては万事事なかれ風なものになっている。人間の心持というのは何と微妙でしょう。休息が今肉体的にも入用なのであるから、或意味で神経を鎮める上にも、自然の作用なのではあろうけれども。――私のしてあげる一寸したことでも実によろこんで下さる。すまないように悦んで下さる。よろこぶのを待ちかねていたようによろこんで下さる。そして、そんなによろこばれながら、そのよろこびは、全く日常性の範囲にだけガン強に限られていることを強く強く感じるのは何という悲しいよろこびでしょう。私はこれまでこんな感情は知らなかった。理屈に合わぬことは合理的なものの考えかたというところから話してやって来た、自分の親などにはずっとそうしてやって来た。
いろいろの点から、実にためになりました。本当に行ってよかった。これまでの私の生活の中にはなかったものが見られたし、接触出来たし。
一つ傑作のエピソードを。
或日、タバコ屋の方で人の声がする。前掛をかけた丸いユリが出てゆく。「バット一つ下さい」それが爺さんで、ユリの顔を見てはにかんだようにする。「ハイ、どうもありがとう、二銭のおつり」爺さんやっこらと腰をかけ、バットをぬいたがマッチをもっていない。「マッチがいりますね」わきの棚を見ると、マッチが沢山ボール箱に入っている。「ハイマッチ」「いくらです」見ると一銭とある。ユリ何心なく「一銭だが、マアいいその位のもんだからつけときましょう」「ハア、それはどうもありがとう」爺さん満足してかえる。ユリ、のこのこ中の間の方へ来かかりながら、オヤ、アラ、と気がついて、あああのマッチは売りものだったんだ、一銭だってとらなければいけなかったんだ、と気がついたときは、もうおそい。バット一ヶは利益八厘でしょう、一銭のマッチをつけては二厘損したわけになる。ユリ、ひとりで襖のかげで口をあいて笑ったが、お父さんにも母さんにも云う勇気なし。以上、傑作お嫁の商売往来、秘密の巻一巻の終り。
一巻の終りと云えば、島田へ野天のシネマが来て、二人と多賀子と野原から来ていた冨美子をつれて宮本武蔵を見にゆきました。島田では『大阪朝日』をとっています。そこに学芸欄というものは殆どないの。武蔵や連載小説が、関心の中心です。地方文化ということについて非常に考えた、又私はあっちで作家ではなく嫁のみであるという在りようについても。やはり文化のことを考えました。実にいろいろ面白い。活きた圧力です。では又。どうか風邪をお大切に。あっちから廻送されるお手紙が大変に待ちどおしく思われます。 
四月二十七日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(クロード・モネの絵はがき)〕
二日ばかり前の細かい雨の降った日、新緑の濡れている色が美しくてうちに居られなくなりずっと歩いて土管の沢山ころがっているところの方を散歩しました。カラタチの花が高いところに白く咲いていた。小さい家が樹のかげにあった。入れた袷(あわせ)は鶴さんとお揃いです。ネマキは母上から。襦袢は島田で私がそうやっているのもよく似合うと云われつつ縫ったもの。 
四月二十九日午後〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
〔欄外に〕今日は休日で隣家に子供と遊ぶ父親の声がする。
島田のをぬかして第何信になるかしら。教えて下さいまし。
『文芸』に山本有三論のようなものを書くために、この間うちから殆ど全作品をよんでいて、昨夜それが終り、今日から書こうかと思っていたがどうもつまらない。有三の正義感というものの根源を明らかにすることが私の眼目なのだが、その根源がまことに云わば日常的で。――
四月十七日にあなたが島田宛に下すったお手紙うれしく、あなたがよろこんで下さることがうれしく、くりかえしくりかえし拝見しました。私に与えられたヨシヨシについても。ありがとう。私は島田からは多分第五信ぐらいしか書いていないと思います。殆どもう皆御覧になったわけね。その後お母さんのところからは頻りにお手紙下さいます。大阪からかえって来ている克子さんがお嫁の話があるのでこちらにいて島田の方をお手伝いしている由。富雄さんは広島へ戻って居り、土地の処分は、比較的有利に行きそうな由。
お父さんも、野原のことでは突然であったし、大分ショックをおうけになりましたが、それが鎮り、この頃は熱もおありにならないそうで、これは何よりです。熱がつづくと疲労するから。その点で私はひそかに心を痛めていたのだったから。送ってあげたゴムの袋は大していやがらずにつけていらっしゃいますって。あなたもよくお使いになるようおすすめ下さい。お母さんが大きな洗濯物のために川にゆき、まして梅雨にでもなれば本当にお困りなのです。でもよかったわ、お気にかなって。
貴方は、蔵の前の漬物小舎をこわした話、前の手紙で書いたこと覚えていらっしゃるでしょう。あれが新しく建ったそうです。台所口から庭へ出たところにイチハツの花があるのを覚えていらっしゃるかしら。その花が白く咲いたそうです。その花や、大きな茂みになっている赤いバラの花が、今年は広々としたガラス障子越しに見えるわけですが、その障子にガラスをはめた人は、ほかならぬあの縁側のところから、往年泥棒と間違えられて貴方におっかけられた人です。何という罪のない可笑しさでしょう。何と思ってあすこのガラス入れたかしらと思って。その夕方(何年か前の)中気になったお婆さんがあったでしょう?そのお嫁さんが今病気全快して店にいて、帰りに柳井まで一緒に話しながら来ました。
顕さん顕さんと云って皆が私に話します。(タオルもってお辞儀して後は)そして、私は東京のお后(ゴー)さんよ。いつか達ちゃんがお父さんに私をさして「あれだれで」ときいたら、お父さん何とも云えない笑顔で、「ユリちゃん」と仰云った。でも私をお呼びになるときは「東京の、ちょっと来て」です。「お父さん、面倒だからお后のかわりにおユーとおっしゃいましよ」そう云っても今度はまだよ。いつかおユーとおっしゃるかしら。
寿江子が今度はすっかり留守番をしてくれました。昨夜鵠沼へかえりました。一ヵ月以上ここにいたわけ。それから二日ばかり前に伊那からお久さん[自注13]という女中さんが来ました。いろんな友達が心配してくれて。三十日一杯でこれまでいたのがかえります。おひささんに縁があること。眼鏡をかけ、うたをうたうのがすきな十九の娘です。女学校を出ている。稲子さんの心配です。
私の盲腸は切らないことに決定したので、野上さんが盲腸の余後にのんだ薏苡仁(ヨクイニン)湯という漢方の薬をのみはじめました。ききそうです。のみ難(にく)いもの。さし当りの仕事としてその有三をかき、『改造』へ四五十枚の小説をかきます。今月は、それでも白揚社の本が出たので何とかやりくれましたから御心配ないように。本当に今度は六芸社の本にしろ思いがけない役に立ちました。待望の書として六芸社のはレビューされています。
『冬を越す蕾』と今度のとの間には大きい成長が認められている。そのことも当然ではあるが、私としてはやっぱり少しは安心してもいただきたいと思って。
林町の連中には、私がかえってからまだ会いません。あっちが国府津へ行って居たので。太郎にお母さんが下さった大きなコマをもって近々出かけます。栄さんは「大根(ダイコ)っ菜(パア)」という子供を主題した独得の小説をかきました。これは面白い。稲ちゃんは地方新聞に長篇をかいています。これもよい修業です。M子は毎日よく働いて月給四十円になりました。うちで御飯をたべている。
この頃、二階の北の小窓から見ると欅(けやき)の若葉が美しくて、美しくて。新緑の美しさは花以上です。お体は大丈夫なのでしょう?近いうち、活々とした初夏の模様の手拭とすがすがしいシャボンをさしあげます。それらのものはここで新緑をうつしている皮膚の上にも。
仕事をすましたらお目にかかりに行きます。

[自注13]お久さん――埋橋久子。信州の人、目白の家で三年間位百合子とともに暮した。 
五月六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(外国風景の絵はがき)〕
五月六日。何というひどい風が吹いたことでしょう。きのう「山本有三氏の境地」三十九枚ばかり終り。本気で書いた。お体はいかがですか。私はこの二日ばかり前から一日二ヶのリンゴを励行しはじめました。一日に二つリンゴをたべて二年経つと体が変る。それほどよい。私はそれをやる決心をしたのです。努力して継続するつもりです。貴方もおやりになってはどうかしら。 
五月十六日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月十六日日曜日第十四信
きのうの朝九時頃目がさめて下へ来て長火鉢の前のテーブルへ来ている手紙を見て行ったら、ハトロン封筒があり。おとといのお話で少くとももう二三日は先と思っていたのでうれしく、何だか案外早かったように感じられたが、落付いて見れば、書かれたのは七日なのですものね。
あの日、お目にかかって外へ出たら雨になっていました。そこで私は傘と一緒に持っていた黒いフクサ包から別の下駄を出して、草履をしまって、玉子のことや何か云いつけて、珍しく戸塚へゆきました。二階の大掃除をやって古雑誌が出た、面白いものが出ている。長椅子の上にのっかっていろいろ話し、御飯を食べ、それからフラフラ散歩して新宿へ出たら、丁度時間があったので「裸の町」という文芸映画を2/3見て、高野へよってかえりました。日本の映画も追々心理的なものを捕えて表現しようとしているところへ迄来ている。だが、まだまだ不十分。女の内的なものの表現が弱いのでこの作は大分弱くなっている。チャンバラでないものを作ろうとする努力に対してはこういう試みも支持されている訳です。文芸映画の陥る危険は散文的なものと映画的なものとの区分の不鮮明さですね。
タカノの店がすっかりひろがって派手になりレビュー的セットになってから私ははじめて――だから去年以来はじめて。美しい果物は万惣をも思い出させ野菜サラダの味なども思い出させました。
一昨日は、島田からかえって一仕事マア終ったしお目にもかかったし、いね公曰く「きょうはやっとホッとしたでしょう」きのうは何とあつかったでしょう。土曜日で昼迄働いた若い女の人たち数人遊びに来ているところに手塚さん市川苺(いちご)をもって来てくれ、暫く皆と話し、運動ズボンを買うとか云って新宿へ出てゆきました。戸塚の二人は別々に勉強部屋をもっていることをお話ししましたかしら。妹さん夫婦が転任になって来たので近くに一軒もってその二階に鶴さんがいます。御飯はこっちの家。細君の方は二階に大体ひとり仕事するようになった。でも出入りで、やっぱり昼間はザワザワしているが。――
きょうは又斯うして霧雨で、しずかで、私にはいい日曜だが、体には全くよくない。どうか呉々お大切に。実はなどと、汗をとっていらしたところを歩いて来たりして。――夜はよくおやすみになりますか。おかゆは十日分。パン一日おきは本月中云いつけておきました。本も注文してお送りいたします。私の方は薏苡仁(ヨクイニン)湯という漢方の煎薬をのんで、徹夜廃止で、早いときは十一時頃床に入って大いに自重して居ります。何となし少しずつましになって来る感じです。この前の手紙に申しあげたように今来ているお久さんという十九歳の信州の娘は淡白快活で常識もあり大変気が合い、私はお安さん以来の落付きです。そして兄の感化もあるのか、さっぱりして、安より明るい。私はこの好条件を十分活用して仕事をよくし、体を直すつもりです。どうか御安心下さい。
島田の家の事情が却って私たちについて物わかりよくしているとお手紙にあることは全く同感です。それは本当です。私は島田の家に深い情愛を感じて居ります。あすこには林町になど全くなかった生活の空気がある。
あなたが少年の時代から御自分の周囲に感じていらしったものと、私の周囲にあるものとは、社会での場処がちがうとおり質がちがっている。あなたの経験していらっしゃるものの中には(家族的に)皆察しのつく、そしてその条件ではやむを得ないと理解され得る質のものです。
私はあなたが周囲に対してもっていらっしゃる思いやり深さやさしさを殆ど驚く程ですが、あなたにはそれが可能な根拠がある。
虹ヶ浜へおつれしようという話も、かえる頃には不可能らしいとわかりました。お后さまは家をお離れになれないし、お父さんにはお后さまは不可欠である。そして店も。やはり活動の圏外にいることはおいやなのです。動かし申すだけ疲れるだろうというようなことで。――夏は葭戸でもこしらえ、新しいきれいな蚊帖(かや)でもあげようと思います。そして秋またゆきましょう。これは親愛な笑話ですがよくよく覚えていらして下さい。私が島田へゆくときあなたのお手紙で、ユリも暫く滞在したいと云っている云々とおかきになった、お母さん方の時間の標準で暫くと云いゆっくりと云うのは最少限一ヵ月なのよ。一ヵ月以上なのよ。私は笑い出したが何だか困ってしまった。わるくて。早くかえらなければならないと云うのが。長くいるように云って下さるの、うれしい。でも島田で仕事することは不可能です。だから秋に又ユリもゆっくりということは何卒保留しておいて下さい。ほんとうにわるいから。がっかりさせ申すのは。――野原にはよっぽど前、長いお見舞をかきました。仏壇の話も添えて。
あなたがこの手紙で本旨だけと書いて下すっていること、私の妙てこ理屈についてあなたが書いて下さるのは大変にいい。楽しみにして待って居ります。私はあれを書いたときの心持で今日は居ないから。しかし、ああいう妙な押し出しをしたことの根底には、私のバカなむきがあったのですよ、分っていらっしゃるでしょう?
あのとき貴方は、ユリが作家としての生活、その名の中では幾分安易な気分もあるだろう二つに足をかけている生活云々と仰云った、その言葉を、云われていない言葉の内容にまで入らず、そこに出ている角度でだけ、しかも全身的にうけて、私はあの当時の不快な条件もあったから、まるで一匹の山あらしのように苦しくなってしまったのでした。ああ、貴方が私にこういうことを云い得るのだろうか。今日良心をもって生きていようとする作家の努力を作家だから安易であるという風に概括出来るのだろうか。偸安(とうあん)的でない作家が、そして私のような愛情で生きている女が二つのもの(態度)に足をかけて、ふりわけで生活してゆかれるなどと思うということはあり得るのだろうか。等々
今になると、私にも自分の心持の観かたの主観的だったところは分って居ります。貴方が仰云ろうとしたことも分るわ。貴方にそれを云わした感情の本質も。私たちは、或ことを話し合うに一番適した場合=心持に=を選ぶことが出来ない、又表現を細かく行届かせて話すひまのないということのために、何という思いをしたことでしょうね。けれどもあのことは私にいろいろ教訓を与えました。
文学の仕事の上で、実質的な評価と他のものとの関係は丁度シーソーです。そういう時代である。私はそういうものに対して乱さず生活を押してゆくのだが、貴方に向うと私はどうもナムアミダブツ宗のようね。時々お数珠におデコを撫でて貰っていい気持になりたがるところがあった、アナ恐ろし。私の理屈がおくれていると仰云ることはよく分る、だが、私のような女でさえ、一番苦しいこと、一番我慢ならないと思う(主観的に)ことでムクレると、ああいう墨を吐くところ、(リクツのようなのは外の形だけよ)私は自分の日本婦人的事情を感じます。正体云々とお笑いになったが、私のみの正体でない。大変そのことを感じます。お手紙を楽しみにして待ちます。では又 
五月二十四日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(ゴッホの絵の絵はがき)〕
五月二十四日、雨が降りますね、きょう、やっと合シャツやセルをお送りいたしました。おそくなって御免なさい。『改造』の小説42マイは「猫車」という題。もう一ヵ月ばかり前のやはり雨の日、ぬれた青葉の美しさにひかれて歩きに出て雑司ヶ谷の土管などつんである辺を歩き木の下の小さい家を眺めたりしたことを書いたエハガキ御覧になりましたか。こういう大さのは手紙並なのを知らなかったから或は駄目だったかしらと思います。キレイな絵だったのに。―― 
五月二十九日〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十九日小雨第十五信
きのう、二十五枚ほど「マリア・バシュキルツェフの日記」について書き終って、それを届けて、国男寿江と落合って、市ヶ谷へ行って夜具をとって来ました。ひどくなりましたね。あなたの御病気との悪戦苦闘を何だか感じるようでした。この次は、ああいう厚ぼったいのでない方が却っていいのではないかしら、綿が切れないで。いずれ又それは御相談いたしますが。
そちらはきっと当分いろいろ落付かないでしょうね。中川にははり出しが出て居りました。それでも何だかどんなところかしらという気がして居ります。今の予定では十日頃まで大変いそがしいからそれがすんで、そちらもお落付になった頃――二十日頃お目にかかりに出るつもりです。この間は、おそくなって差いれが出来ませんでしたから明後日ごろさし入れだけにでもゆくつもりです。もし都合がついたらお目にもかかりますが。――
お体はいかがですか。今年の梅雨は早い。私は徹夜廃止の励行で大分よいらしい様子です。薏苡仁(ヨクイニン)もききます。二日ばかり前お母様からお手紙で、お父上の御様子がましになったお話しです。何よりです。食事もお進みになる由。野原の家は整理までずっと住んでいらっしゃることになり、おせむさんの弟さんが同居なさる由。お葬式のときお目にかかっているだろうけれどもよく分りません。
今日、私は少しポケンなの。くたびれていて。今月は仕事がつまっていて、きのうまでに百四〇枚ばかり、一つも口述なしで書いた。このうち相当勉強したものが百二十枚ばかり。マリアの日記は千五百頁あるのを二日でざっと目をとおし。――
それでも、これだけ仕事の出来るのは、私の毎日が珍しく順よく運ばれていることのしるし故、その点本当に安心していただけてうれしい。(そして、テツヤしないのですよ!! )
おひささんという娘はいい子です。自然ですなおで日常に必要なだけ頭もよい。徹夜しないでやるのがうれしくて。うれしくて。その代り、今月は戸塚へ二度、壺井さんへ一度、林町へ一寸一度、座談会一、映画(3)、音楽(1)という位です。音楽のいいのがききたくて。私はどうもラジオや蓄音器の電化音が耳につらい。どういうのでしょう。下手でも生(なま)を欲する。ゆうべは本当に生(なま)がききたかった。ゆうべは珍しく非常に物語のあるしかも痛切な私たちの夢を見ました。その夢をそのまま書いたら、ひとはこしらえた物語というでしょう。本質が、その筋を貫いている。非常に美しい行為と涙とがあるのです。私の体を貫いたために、あなたは死んだようで死んでいないという風な。面白い。ああ、本当にそれが夢だということを、きいたら人は信じられないでしょう。私は滅多に夢を見ず、たまにこういう夢を見る。面白いわね。こまかい部分をきかせて上げたいと思います。では又。 
六月二十日〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所[自注14]の宮本顕治宛 目白より(封書)〕
六月十三日日曜日曇。第十六信
きょうは母の三年祭の日です。一九三四年の六月十三日は大変にカッと陽のてりつける暑い日で、父が迎えに来て杉並から胸に氷嚢を当てて順天堂に行ったら、十五分ばかりで母は亡くなった。あの日の暑さや光線や父の顔や、まざまざとして居ります。お祭りはきのうにくり上げてやりました。
ところで、あなたのお体はいかが?お暮しはどんな工合ですか。この手紙はまだ出しません。でもどうも書きたい。又連作にしてお目にかけましょう。
私はこの一月頃から半年ばかりの間に随分沢山評論風な仕事をしました。その結果、自分の仕事というものについて一層いろいろの理解がふかまって来た感じです。つまり、私は評論風な仕事における自分の特質というもののプラスとマイナスの点がはっきり分り、現在の自分として、どの位までのことが出来るかということも分ったのだと申せます。そして、まことに面白いことには、この間の手紙でも一寸申したように、自分の評論が先へ先へと押してすすめてゆく線を、今は作家としての半面がついて行っている(両方一足ずつチャンポンに前進する)ことが分った。こういう云いかたは私らしすぎるが――お分りになるでしょう?書いて行くということについても、何か一つ目がひらけたようなところがある。普通、芸術家たちは書くと云い、私もこの永い年月書いて来ているのだが、書くということは存在させることであるというのを、感覚としてまで感じているのはこの頃です。それが文字によって存在させられなければ、どんな作家の善意も努力も生活内容も存在として実在しないという事実は何とおそろしいことでしょう。書かれてはじめて、それが存在し、自分やひとに働きかけて来るものとなる。在らしめること。そのためには碎心(さいしん)しなければならないこと。何と面白いでしょう。この感じは評論のような仕事で、私が最近経験した一定の段階までの成長で、却って小説とのちがいとして自覚されて来たものです。私はこの点がわかって、何だか作家として底がもう一つ深くなったようなよろこばしさです。評論のようなものでは私は疑問をつらまえて最後まで手を放さずその矛盾や疑問の発生点をつきつめてゆくたちです。そしてそれは、研究というか、語るというか、とにかく小説の在らしめてゆく感じとはちがうものであり、小説が何とそのようなものであるかを痛感させるのです。
評論風な勉強は、自然の結果私自身に向っても小説の水準の引上げを課すのも面白い。私は当分小説にかかりきって、在らしめる術を行います。これから私は事情のゆるす限り自然発生的にあれこれの仕事に手をかけず、一年の或期間小説をかき、その汽罐車のように評論をかくという風にやってゆきたい。カマだけ一つで先へ行きすぎてしまうと一大事ですからね。大きい重い荷物をひっぱってゆかなければならないのだから。(こんな色の紙は珍しいでしょう?たまには目に変っていいかと思って。)寿江子は線路のむこう側に新築されたアパートに部屋をかりて鵠沼を引上げました。夏で家賃が上るから。うちで夕飯をたべさせます。
太郎はナカナカなものになりました。遊びに来て玄関をガラリとあけると「アッコおばチャン」とアーッコに独得のアクセントをつけて呼ぶ。アーッコは大きいの意味です。いろいろしゃべります。寿江子は糖尿の消耗から或はすこし呼吸器を犯されているかもしれませんがまだ不明(但、寿江へのお手紙にこれを書いて下さらないように)今月のうちに調べると云っている。私は徹夜しないしどうか御安心下さい。今日は日曜でラジオその他が寧ろやかましい。
十五日夕方。
六月五日づけのお手紙がけさつきました。このお手紙で見ると、私が五月下旬に書いた手紙はまだ見ていらっしゃらないのですね。お久さんが呉々も御親切にとよろこんで居ります。お久さんは三度たべます。私は二度だが。島田の方へは今日お母さんのお気に入りのハブ茶と中村屋の柔かい甘納豆とをお送りいたします。ハブ茶は野原の方へも。中村屋のザクスカはこの頃ちっとも食べず。寿江子はきのうアパートへ荷物をもって来て、さっき見に行って来たところ。東と南が開いていて落付きます六畳で19円。夕飯をすましたら銀座の三越へカーテンを買ってやりにゆく。目下小説についてコネ中。可笑しいことにはこの三日ばかり前から一匹の猫がどこからか家へ来るようになりました。おとなしい灰色と白。夜は皆猫を大して好かないから閉めます。すると、朝私が茶の間に坐ると出て来て決してよそにゆかない。この猫は随分間抜けです。猫なんて好かない人にこんなになつくものでないのに、可笑しい奴!今これを書いている足のところに丸まっています。そしてニャーゴォなんかと鳴けず、変な声でギューギュー鳴いている。
M子は近所のアパートへ四、半の部屋をかりて暮すことになりました。四十円の月給とりです。自分でとる金で自分の生活をやって見ることが必要だから。
十六日の午後曇。よそでピアノの音。仕事をこねている。大体まとまる。そして、気持がのって来る。
二十日の夕方六時。
今日は日曜日で、うちはワルプルギスの夜ですよ。寿江、M子、その他の連中が集って来ている。いよいよ仕事にとりかかる。昨日はそちらへ徳三さんの細君が初めてゆくので案内がてら様子を知るためにゆきました。この手紙いつ頃御覧になれるのかしら。
暑くなりましたからお体を猶々御大事に。単衣(ひとえ)をお送りいたします手拭シャボンと。では又。

[自注14]巣鴨拘置所――一九三七年六月十一日、顕治は市ヶ谷刑務所未決から新築落成した巣鴨拘置所へ移転した。 
六月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月三十日雨第十七信
私たちは同じ区内に住んでいるのに、お手紙はやはり半月かかってくる。何と不思議のようなことでしょう。十六日づけのお手紙ありがとう。蒲団の綿が切れていた原因についてはまことに何とも申しようなし[自注15]。私は心からあなたの膝小僧を撫でてさしあげます。
十九日には徳さんの細君についてそちらへゆきました。そして一寸差し入れをしておいたが、あとはそちらでもうおやれになっているでしょうか。合シャツは去年のよ。昔のはもう使って居りません。ギューギューというのは洗ってちぢんだのかしら。中野さんはあの字典を『中央公論』に書いた小説のお金で入れてくれたのです。鶴さんは大変まじめによい仕事をして居ります。あのひとは私が徹夜がいけないとかいろいろいうと、常識を笑っていたが、この頃私のいうことも本当と身にこたえて来ているらしい。熱は出して居ります。稲ちゃんずっと書いています。すらりとしてあの人らしいもの。とにかく私は、この夫婦を実に大切に思います。私にみになるような気付を云ってくれるひとは外にない。六芸社の本[自注16]などについて批評を書いた鶴さんの文章は、友愛の珠玉です。
私は二十日頃から仕事をはじめ、小説だけにかかってずっとやっている。毎日いくらかずつ書いて。沢山の時間を考えて。本質的に勉強しながら、自分を発育させつつ学びつつ書いて居ります。徹夜はしてはいないけれども、小説を熱中して書いていると、そこの世界が二六時中私によびかけて招くから、気が立って、頭が燃えて、床の中でやはり長く眠らない。しかしそれはお察しのように愉しいし、その時間は有益なのです。あなたに喋りかけて、そうでしょうといったり、ひとりあなたのこわいろをつかったり、いろいろ芸当があるのです。そして、猫と遊ぶ。この猫は前便に書いた猫、ひどい好人物的猫で、猫を好かないものの家にいついてしまいました。仕方がないから戸に切穴をつくった。仕事をしていると別の椅子の上で丸まって他愛なく眠っている。夜中になると黒い真丸い、美しい表情になって、私が下へおりるとついて二階にあがって来る。犬の子のように先へハシゴをかけ登って。ところが私は何としてもニャーを寝るところへは入れられない。いやなの。下へおろすに、一寸遊ばしてホーラ、ニャーと足袋を片方下へ投げると、この猫はいそいでおっかけて降りる。その間に私はかけてスイッチをねじって障子をしめてしまう。このような余興。
島田がおよろしいのは何よりです。この時候のわるいことは、だが、何ということでしょう。
六月に『文芸』へ「山本有三氏の境地」という作家論をかきました。勉強して書いたの。
それから今、ウィーンのワインガルトナーというオーケストラのコンダクタァが夫人と来ています。二十八日にききに行った。いろいろ芸というものについて、こういう出来上った大家の持ちものを観察したわけですが。ベートーヴェンの第六シムフォニイ、田園交響楽というの、あれはやっぱりその理解の点でききものでした。貴方も覚えていらっしゃるでしょう?あの曲。静かな小川のほとりの部分もよく、特に楽しい農夫のつどいの部分(雷雨になる前の)、あすこはヨーロッパの村の祭、そこの音楽、雰囲気、ビール、踊、その気分が絵画的なまでにつかまれていて、私はききながらドイツの十七八世紀の風俗画を見るようでした。日本の楽人はこういう生活感情がないから、いわゆるベートーヴェン式に把握して、ロマンティックな自然感だけを描き出します。面白かったのは、その細君のカルメン・ワインガルトナー夫人の指揮です。ヨーロッパにも女のコンダクターは一人か二人です。いかにも細君風なの。バトンをもって立ったところが。ドメスティックなの。そして手法は非常に年長で大家である先生・良人に従っているので、何だか生粋でもないし、その人は感覚もないし、刻み目、つっこみが浅く、いい人であることと、いい芸術家であることとは必しも一致しないという実例でした。暖い感じの人なのだけれど。なかなか暗示の多いところです。一つもピリッとしたところがない。女であるだけ私は残念でした。主観的にはまじめなのです。もちろん。こういうことも私は、前便で書いた、芸術は在らしめること、客観的に在らしめなければ、どんなよい意図もないに等しい、というあのことを感じ直させました。カルメンさんはあんな偉い人の細君だから、一つ背中をぶってハッとさせて、帯をしめなおさせてくれるような人はいないかもしれないから気の毒です。私は云ってやりたいが、素人だと思って、やっぱりきかないにきまっている(これは冗談)。
私はこの頃、あなたにかぶれて、或は刺戟されて、時間というものを実に内容豊富につかいたくてたまらない。仕事というものがわかってきた。時間がすぎてゆくその感覚なしに、のんべんだらりとしていられると、SUでもジリジリしてきます。私はよく仕事して、休むとき音楽がやれたら本当にうれしいのだけれど。私には文学・音楽・絵の順ですね。今仕事五十枚。半分。十日までにもうそれぐらい。チェホフは仕事にぴったりする気持を、紙と平らになるという表現でいっている。落付き工合を現わしてはいるが。私どもはもっと角度をもっているな。ただ平らではない。心の角度があって、いわば彫り出し、築き、現わしてゆくので、彫刻的な精神労作だから。平面をかいてゆくのではないから。ペシコフは単純に、夜灯の下でやるこの苦しいそして楽しい仕事といっている。何とそれぞれその人でしょう。私は何というでしょう。昼間の平均した光の裡で、刻々に人生を再現してゆく、そのむずかしさ、楽しさ。私は本当にまぶしくなく、さわがしくない昼間、誰にも邪魔される心配がなくて、せかずに書いてゆく心持は名状しがたい。時々改正通りが一筋ひろくそっちへつづいている様子など思いながら。
あなたもお忙しいでしょうが、どうか時々は私を夢で訪ねて下さい。シャガールの絵ではないが、いきなり天井をぬいて、こぼれていらしってもびっくりはしませんから。林町の連中にはよろしく申します。アヤメとツバメの手拭はうちにもつかっています。あのシャボンの匂いはさっぱりしていると思いますが、どうだったかしら。

[自注15]何とも申しようなし――拘置所の監房がせまいので、足がつかえ、顕治は膝をのばして寝たことはなかった。
[自注16]六芸社の本――宮本顕治『文芸評論』。 
 

 

七月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十一日日曜日曇、小雨第十七信
さて、きょうは私たち、この小さい仕事部屋で久しぶりに二人っきりです。おととい仕事をすまして、きのうはくたびれていたが三越へ行って野原へあげるものを見て来て、きょうはのびのびとして貴方とさし向い。
一昨夜の晩は豪雨がありました。割合におそくなってから。林町から自動車でかえって来たら、豪雨沛然(はいぜん)たる夜のなかに、連って光っているあなたのところの電燈が眺められました。きのうは可笑しい日でね。くたびれてポケンとしていたものだから健坊とタア坊のお土産に買ったマリと、あなたのために涼しい下ばきを買ったのをタクシーの中に忘れてしまって、いねちゃんのところの玄関でター坊に歓迎の声をあげられて、ア、忘れたと又戸外へ出たがもとより後かたなし。でもマアどこかの子供とあの男がよその知らぬ人の計らざる御中元を貰ったのだからいいと思いなおしました。まして、その自動車はボロでしたから。
健造とター坊は私が仕事にくいついていて二十日ばかり現れなかったら、この頃来ないね、と云い、二銭ずつ二人でためて私のところへ来ると云ったのだって。私はそれに心を動かされて、先ずマリを買って出かけたのに。――そのうめ合せにきのうは其から二人の子供をうちへつれて来て御飯をたべさせて、おひささんに送らせようとしたら、たよりなさそうにしているんで又私が送って行ってやって。健造たちはさしみがすきなので御馳走してやったら、その一切を特別なお志をもって猫にやりました。この猫何ていう名なのかい?名はないよ、オイオイニャーと呼んだり、わるさをするとネコ!と叱るよ、と云ったらフームという。名をつけてやっておくれ、そしたらその名を呼ぶからと云ったら、健造考えていて、きまりわるそうにしていてミミと縁側に書いた。何かの話に出て来る猫の名でしょう。ター坊に、兄ちゃんが猫にミミって名をつけたから、家へかえってお話し、と云ったらター坊、あたしが話してやる健ちゃんきまりがわるいから、だって。六つと九つの兄妹。大変に面白く、そして林町の太郎のようにスポイルされていないから、いかにも「小さい人々」で心持よい。子供たちの母さんは『婦人之友』への小説できのうは大忙し。私のは『文芸春秋』。新聞の方も母さんはつづけていて、前月は先方が金を渋ったのでねじこんだが、今日は一ヵ月先どりしたから、とキューキュー云っている。まあこんな工合ですね。
あしたお目にかかるのだけれどもお体はどうでしょうか。この間の暑さ!六十年ぶりの由。私は腕の汗が机にきしむので手拭を当てて仕事しました。苦しくおありになりませんでしたか?氷の柱をあげたいと思った。それからフーフーあつい番茶を。夏ぶとんは不用のように仰云ったけれども、心持のものですし色彩のものだから二日ばかりのうちにタオルのを入れます。しぼりの浴衣はいいでしょう?きょう袷せ類が着きました。
先月から今日までにかけての私の仕事は、いくつかの新聞に短いもの三つ、映画批評三つ、中国における二人のアメリカ婦人=スメドレイとバックのこと、社会時評のようなもの一つ、小説。すべてで枚数にすると百五十枚以上。これから二十日すぎまでに短い小説を一つに文芸時評一文化時評二つだけはいや応なしです。なまけて居ないでしょう?それに小説について、私は、「雑沓」、「猫車」から今度のにかけて、少し発見したところがあります。いつぞやあなたが作品の実質で漱石や鴎外ならざる時代を語ることについて書いて下さったことがあった、ああいうことも原論としてはわかっているのだけれども、書いてゆくそのことで新しい世界をひらいてゆくこととは、考えて分っていることとやって見てわかっていることとの間に在る微妙なちがいのようなところがあって、そのやって見てわかるところが漸々(ようよう)身について来たようなところがあるのです。本当に今年は沢山小説を書こう。作品の中に作者の肌と体温と現実の社会的血行がうずいているような作品こそ書きたい。書いてゆくに際して、そこまで出し切れる迄修練したいと思う。私の持っている作家的水準は決して単純に低いとは云えないものであるが、私が自分に求めているだけの闊達(かったつ)さ、強靭(きょうじん)さ、雄大さはまだわがものとしていません、まだその手前での上手(うま)さであり、確(しっか)りさである。
昔の小説家が主観的な力(りき)みで、そういう箇性の範囲での闊達さに到達した、そういうのではない内容での闊達さ、美、簡素な力、そういうものが本当に欲しい。そしてそれは作者の生きかたからだけ求められるものですからね。こんどの小説を書いて行くうちに何だか私は自分のリアリズムの扱いかたが高め得る方向を見出したようでうれしい。どうかこの方向がのびるように!
一生懸命に努力し、自分に与えられる賞讚や批判の中からむだなく養分を吸って育ってゆく、その生活感は何とよいでしょう。自分の努力、自分の熱心、そういうものが、とりも直さず真心からの愛と一致し、その具体的な表現であるとさえ感じて(その経験と摂取において、自分の目に入れこになっている眼を感じて)、信じて生活してゆけることは、何と貴重なよろこびでしょう。私を努力させる力、私を生かしている力、それは何という根づよい強健なものでしょう。抽象的に書いて何だか妙だが、おわかりになるわね勿論。私が絶えず探し求めていて、自分を一層ひろげたり強めたり本ものに近づけたりする小さいキッカケでもピンと来たときどんなに私はあなたと共に其をうれしく思うでしょう。ありがたいとさえ思う。つまりこれらすべてのことは、私が比較的健康の工合もよくて、心が情愛に満ちていて、仕事にはり切っていて、その仕事を一つ一つあなたに、全く、実に、ほかならぬあなたに見て貰いたく思っているということなのです。こう書くと何だか暑い盛りに一層あつっぽい息をかけるようですみませんが、でもこれはあなたの不幸にして幸福な良人としての義務だから、生かしているものの義務だから、あしからず。
本のこと、差し入れのこと、皆お目にかかって申します。鶴さんたちの生活はいろいろむずかしさをもっている、しかしもし鶴さんが、どんな形になろうと、二人の生活を完成させて見せるというところに腹が据わればほんとにいいのだけれど。長くなりすぎるからこの手紙はこれで。 
七月十三日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十三日
様子がわからないということは、本当に苦しいときがある。きのうお目にかかる前の日私は割合自分の仕事を一区切りした気分その他でのんきらしい手紙を書いたりして。
きのうは、あの位立っていらっしゃるのが骨折りではなかったでしょうか、あとから熱が出ませんでしたか。あすこは明るいので顔色のわるいのが目立ったかもしれないのに、いきなりびっくりして、わるかったと思います。でも、余り、これまでより冴えなく見えたものだから。
ところで、先ず弁当のことはかえりによって調べたところ、私が六月十九日に行ってとりあえず五日とたのんでおいたのを二十五日から五日間入れてしかも一本しかカユでなく四本普通になっていたのでした。四本分は責任を負って何とかするとのことです。何しろあの時分はひどかったそうで、あやまっていました。さぞいろいろ不自由なさったでしょう。そういうことがやっぱりさわって来ているのですね。きのうは二十日までおカユその他を入れました。
毛布カバーつき、座布団カワーをお送りします。お金を四十円送ります。野原のことはこまかく様子をききますが、私として、あなたの体が工合わるいときそういうことまで心を労させるのがいかにも本意ないから、私に何でも云って貰うようにしようと思う。もとより貴方が必要以上に心配をなさるとは思っていないけれども、それでも、という気が私に起るのもお分りになるでしょう?
私たちの条件で可能の最大をつくしてあなたの体を恢復させましょう。その目的のために、私は至急処分するものはしますから、どうか体のために必要なことはちっとも節約せずにおやり下さい。
当分私たちの全力をあつめて丈夫になりましょう。肉体の性質が或点強靭であるし、精神は十分の支える力をもっているのだから、気候が定り、もう少し暑いなら暑いでカラリとすればきっとましにおなりになります。
医学的な健康体に私たちはどうせなれないが、平衡を保つことは可能です。それを目ざすことは絶対に不可能ではないのだから。気をそろえてやりましょう。私の知識、私のマメさ、私のもつその他すべての資質が、そのために最小限にしか活用されないのは何と残念でしょう。自分の体の内が苦しいように苦しいのに、それを直接には最小限にしか表現しないで、仕事をしてゆく心持というものを、きのうきょう味っています。これは或る意味で新しい経験ですが、私は決して悄気(しょげ)はしないから御安心下さい。只まだ非常に生々しくてそれに馴れない。
さて、野原には黒檀(こくたん)の五十円の仏壇を送りました。本当は金ピカなのだろうが、記念の品を納める心持にふさわしいような、但シ格に従ったよい品です。冨美ちゃんには浴衣(ゆかた)と思ったがやめてお金にします。島田を手伝っている多賀ちゃんに浴衣。父上にはいろいろの食料のカンづめと果物のカンづめ。
私はこの手紙が着かないうちにお目にかかりにゆくでしょう。あんな苦しそうに立っていないでよい方法はないでしょうか。いろいろのことが、もっともっと体の細かいことが気になるから。きょう稲ちゃんと一緒にあなたの夏のかけ布団を注文にゆきました。きっとこれはたけがたっぷりだろうと思います。どうか呉々お大事に。元気に。よくお眠りになって下さい。本を、どんなのをお買いになったか、つい訊かないでこまったと思います。どんなのを送ってよいか分らないから。重複しやしないかと思って。では又近々に 
七月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十日火曜日晴天第十九信
けさは、お手紙がもう着いているだろうと楽しんで下に降りて来たら、来ていない。武田長兵衛から新薬の試用が来ている。御職掌がら先生がたには御頭痛も多いことでございましょうから云々。私は頭なんか痛みゃしない(!)
今茶の間の机で珍しくこれを書いて居ります。この部屋は六畳で、となりの三畳の境をあけておくと北南風が通って案外に涼しいのです。
きのう今日は暑いが乾燥して居ますが、御気分はいかが?御気分は元気でしょうがおなかの虫はいかがな工合ですか。掛布団を送り、只今筒袖のねまきになさる麻の着物とちゃんと袂のついた御新調とを送りました。
島田のお母さんからお手紙で腎ウ炎をなすったのですって。二週間おやすみになったって。生れてはじめて医者にかかって病気のつらさが分ったと仰云っていらっしゃいます。今私が盲腸のために飲んでいる漢薬の医者へハガキをかいて、腎ウ炎の余後のためによい薬を送って貰うことにしました。それをすぐお送りしましょう。
達治さんが召集されるかもしれないと御心配です。無理ないと思います。隆ちゃんはもう六ヵ月で入営ですからね。もし達ちゃんがいなくなれば、うちは運転手をやとわねばなりますまい。経済的にそれではキャンセルしかないのですが。一般的な困難がきわめて具体的に一つのわれわれの家庭に反映して来ているわけです。万一そういうことになれば、私たちとして何か些かでも考えることはありますからよいけれども、ねえ。
林町では国男が盲腸手術後の脱腸(ヘルニア)になって又手術すると云っています。二三日うちにやるらしい。寿江はこの頃近所のアパートに大体落付いて、昼飯や夕飯をよく一緒にたべます。
Sさんという元からの看護婦が池袋の堀の内にいて殆ど毎日来てくれ、寿江のインシュリンの注射をしてくれる。この頃寿江子は英語の勉強をはじめ、性格にしっかりしたつよいところもあるのに結局はどっちつかずで、人生の評価の土台がない。二十三の女の子というのはこういうのかしらと昨夜も感じました。この位いい素質をもっているのに推進力としての情熱が足りない。体が弱いことに帰しているけれども、それは間違いです。もし体が丈夫でなければよい生き方が出来ないのなら、私たちなんか、年々歳々どこから生活に対するこのような愛や信を獲て来るのでしょう。今岩波文庫のスティブンソンの「若い人々のために」というのを一寸よんでいて、この人が、あんな体で海洋の孤島に生活してしかもどんな人生の見かたをしていたか分って、大変面白い。
勿論歴史的な違いはあるにしろ。いつか去年あたり私が手紙で書いた情熱と感情(センチメント)のちがいをやっぱりこの人も知っている、さすがであるとニヤリとしました。そして曰く「信は厳粛な経験をつんだ、しかし微笑んでいる大人である。油断なき信は、私達の人生と境遇の横暴とに関する経験の上に築かれる。信は必ず失敗を見込み、名誉ある敗北を一種の勝利と見做(みな)す云々」スティブンソンの「宝島」やなんかを私たちは面白がらないのだが、そういうものを書かせた――自分の条件を最大に活かして――彼の生きる気持には面白いところがあります。精神の活々とした感受性、習慣や反覆でこわばらない心をこの人は持ちのいい心と云っている。これは柔軟な含蓄ある表現ですね。この表現の中には愉しいものがあるわ。
きょうは、今月に入ってはじめての丸一日の休日です。あしたあたりから短い小説を一つ書き文芸時評をかき、一寸休んで九月初旬八月下旬までに又たっぷり小説のつづきを書きます、『新潮』。貴方の仰云るように生活をきちんとして、時間を内容ある仕事でぴっちりとはりつめたいと思う。この頃やっとそのこつがわかり、自分もそれに少し馴らされて来たし、仕事と生活との統一の水準が高まりました。覚えていらっしゃるかしら?いつかバルザックが貧乏のためにあれだけの仕事をしたということを、あなたが私へ比喩的に書いて下さったのを。歴史は幾変転して読者の要求が高まるに正比例して、バルザックのような相互的解決が或種の作家にとって外部的に不可能であるところに歴史の妙味があります。
野原の方のことについて御返事がありましたか?私の方へはまだであるが、あの地所は広いので、分割して売ると、整理して猶住宅と土地だけは残り得る計算だということは、この間のお母さんのお手紙にもありました。地所が大きいからそういう都合にゆくのでしょう。但し、活動の中心から地理的に遠いため活動的な買手がなかなかつかないらしい。それで整理が永びいているのです。講のほかに近隣からのユーヅーもあるらしい。くわしくわかったら又改めて書きます。
私はハンドバッグの中にきのう貰った面会許可をもって居ります。四五日うちにお目にかかります。その前に一寸お体のことを調べたいから――私の知識ではあやしいものだけれど。――
太陽燈あてていらっしゃいますか?慶応などでも軽い熱のひとはかけている由、時間を加減して。私の手のひらの下にはあなたのおなかの気持のわるいところの感じがはっきりつたわって居ます。そして、私は念を入れてそれらのところを撫でる。何という目の前にある感じでしょう。お大事に。呉々お大事に。 
七月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十五日第二十信
七月十日づけのお手紙を一昨日いただきました。あのお手紙は最も真面目な心持と新鮮な誠意とでよまれ、それに対しての返事は具体的にいろいろあります。けれどもこの手紙はそれとは別に野原の家のことについてお母さんに伺ったお返事が今ついたので詳しく申上げます。
お母様の書かれている順に。
二十五年前、「商売の失敗野原の信吉さんのことで」三千円の頼母子(たのもし)。年百二十円の掛金、元は去る七月十一日に全部すむ。抵当として野原の家屋敷、島田の家が入っていた。
其後十三四年前に又二号抵当で一万五千円の頼母子。一万五千円の中には野原の借金も相当あったが、「いつの間にか野原の不動産及び家屋敷が全部信吉の名儀に書きかえられていました」、父上がお怒りになったところ、立会人二人が入って、年百十五円の頼母子を二十五年間にかけてすまして呉れよと書きものを入れました。もし返掛しないときは全部不動産は兄へかえすこと。
二三年は野原でもかけたが、その後はかけず、島田で九回まで年六百円をかけ、その後父上の御病気などの事情から頼母子側で抵当を処分して整理することになったが、兼重萬次郎が心配人に入り、三千円の一時返掛で話がきまり、その負担額を、野原は五百坪もあるから一千六百円島田一千四百円ということになり、この三千円は兼重さんが出した。三号抵当に入っていたのでこれは百八十円、世話人その他の費用百五十円。島田の分は合計千八百円以上の負担となった。これは兼重へ追々かえすことにして頼母子は片づいた。
野原の頼母子の負担は一千六百円ですが、ほかに自分としての借金が利子とも三千円位あって、これも兼重にかりている。土地は時価四千五百円位。買手がつけば一千五百円ぐらい浮いて、本家の家屋敷ぐらいは保てる。兼重も熱心に買手をさがしているというわけです。
Tさんの私たちへの情愛の示しかたについてなど、私は自分の心持は別に申しませんが、この間島田へ行ったときは、お母さんもやっぱりここまで詳しくはお話し下さいませんでした。
お母さんは、事情をあなたが御存じないことを知っているTさんとして、貴方に向っていろいろ事実を歪めることについて御立腹です。そのお気持には私も自然な同感があるわけです。
島田は頼母子からは自由になっているが、兼重という爺さんにはまだ相当の責任があるわけなのですね。この点も春にはぼんやりしていた。恩給はすっかりお手元に戻っているのですが。
あなたが全体の事情に対して正当な判断をなさることはわかっているから、私はこの手紙はこれでおやめにします。
猶おばさんからのお手紙で黒檀の仏壇は、かねておじさんが欲しいと云っていらしたものだそうで、大変およろこびでよかったと思って居ります。冨美ちゃんからお礼の手紙つきましたか?お体を呉々もお大事に。だるいのに体をお動かしになるのは大変だと深く察します。私も三日ばかり工合わるくしましたから猶々。 
七月二十六日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十六日第二十一信
きょうあれからかえって、すっかり安心をして、喉がかわいてかわいて。たくさん番茶をのんでトマトとパンをたべて眠りました。私はいつも永い仕事を一つ終ると本当にのうのうして眠るのに、今度はお目にかかったとき、沢山の気にかかることがあったので、珍しくよく眠らず、疲れがぬけなかったので病気したりして。
昼ねから醒(さ)めて、体を洗って、新しい仕事を考えながら二階で風にふかれていたら、不図思いついて狭い濡縁(ぬれえん)の左の端れまで出てみたら、そこから四つばかりの屋根を越してあなたも御存じのもとの私の家の二階の裏が見えました。間に自動車の入る横通りが一つあって、それから先なのに、屋根と梢とでその道路の距離は見えず。眺めていて、あの二階にさした月の光の色をまざまざと思いおこし、ここに今自分たちの生活があること、そうやって昔の家の見えること、それらを非常に可愛らしく思いました。あの屋根とここの濡縁との間にある距離はその位だけれども、私たちの生活は何とあれから動き進み、豊富にされてきているでしょう。そのためどれほどの人間らしい誠実さと智慧と堅忍とがそそがれているでしょう。世間では、私たちをある意味でもっとも幸福な夫婦と折紙をつけています。私はもちろんそれをいやに思ってはききませんが、そういう人々の何パーセントが、何故に私たちが幸福な夫婦であり得ているかという、もっとも大切な点について考えをめぐらしているだろうか、とよく思います。
七月十日づけのお手紙を私は三度や四度でなく読んで、こういう手紙を貰える妻の幸福そしてこわさというものをしみじみと感じました。貴方は何と私を甘やかさないでしょう。(こわいのはむかしからだけれど)あの手紙の中には小さい感情でいえば、普通の意味で、私に苦しい言葉もあった。たとえば、ユリのジェスチュアは云々。――ジェスチュア!?そう思う。ああと思う。ジェスチュア。だが幾度もとり出してよみ直して、しまって、こねているうちに結局私にのこるものは、生活態度について、貴方が私の可能性を認めた上で求めていらっしゃる水準のより高いところへの健全な激励だけです。
あの手紙にたいする答えは、きょうお話したこともその一部分です。私の生活の経済的な面をこまかく書いたことはなかったけれども、一昨日、林町へ行って書類をしらべるまで、私はいろいろのことを知らなかったのです。去年の春かえってから、ことしの正月こっちへ越すまでは入院の費用やその他で、自分の分などの話も出さなかったし、こっちへ移ってからは大体四十円程、私のつかえる分としてもって来て、私はそれをあなたの分として、至って素朴な形でやっていたわけです。日常生活は稿料でやってきています。〔中略〕
目の前に電燈の色が暑いので、昼光色をつけました。水色のような電球。これだと虫が来ないというが来ている。
稲ちゃんは二十五日に子供たちをつれて、無理をして保田へゆきました。健造曰く「母チャン、どうしたって二十五日おくらしたら駄目だから。日記に、二十五日ホダへゆきましたってもう書いちゃったんだから」だって。
栄さんは、妹さんが、あやうくインチキ結婚に引かかりそうになったので、そのこわしに出かけ、かえって来ました。もしかしたら又もう一度ゆくかもしれず、そうしたら壺井さんも行って一ヵ月あっちで暮す由。あのひとこのひと皆行ってしまって、私はお喋り相手がないわ。
七月八月は映画も音楽もロクなのなし。仕事をして暮す。但し、この家は縁側がなくて、いきなり硝子戸なので、風は通るが落付かず。でも私は、あなたにたいしてこういうことは云えません。
夏、腸をこわすと実にへばりますね。私はまだしっかりしない。あなたの方もなかなか照りつけるでしょうね。木蔭がないから。お体についても、私は緊めつけられるような、息の出ないような苦しい心痛からはもう自由になりました。しかし腸なんか敏感だから、そのためにも私は一層よい女房にならなければならない。愛情なんて、実に必要を見出してゆく直覚、努力、探求のようなものですね。人にたいしても人生にたいしても、決して空なものではないし。主観的なものでもない。愛しているという自分の感情をなめまわしているなんて、何て結局はエゴイストでしょう。(これは小説の中に考えていることとくっついているが)「海流」はチョロチョロ川がすこし幅をつけて来て、いろいろの錯綜もあらわれて来て、やや調子もでて来ました。面白いそうです。「雑沓」より進歩して来ているところもある。技術ではなく、現実に向う態度で、私はこの長篇を努力して書き終るとやっと小説における自身の今日の到達点を具体化できると信じ、本気です。
きょうは何となく愉しい。私もこれで案外しおらしいのだから、どうぞ呉々もそのおつもりで。これから仕事。では又。もう九時だからねていらっしゃる刻限ですね。どの窓だろう。お大事に。 
七月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月三十一日午後90゜近いあつさ。第二十二信
二十七日づけのおはがきを二十八日に拝見しました。この二三日じゅうにとりにゆきましょう。何だか今年の暑気は体にこたえること!その後いかがですか。私はもうおなかの工合も直って汗をふきふき仕事しているから御安心下さい。
富雄さんのところから返事が来ましたから、又その内容をおつたえいたします。この間、あなたが両方が同じような気持だから云々と仰云って。まったくその通りで何だか苦しいわ。何故自分で自分の実際を私たちに語る正直さ信頼をもち得ないかと思って。島田がどうやらやれるようになったのは只管(ひたすら)野原のおかげであるのに云々。達ちゃんや隆ちゃんの献身をも青年同志の思いやりで見るべきだのに。
さて、
(一)大正十年頃光井の土地六百坪及び家、信吉名儀となる。
(二)大正十二年一万五千円の頼母子。返掛六百円の中、島田四百九十円、光井百十円。光井はあと返掛せず。
(三)本年初め頼母子を整理し二千八百円の中(母さんのお手紙には三千円とあったようですね)野原千六百四十円。島田千百六十円。頼母子は消滅して、千六百四十円は光井の負債となる。他※[「奚+隹」]舎其他を担保にして千七百十五円の負債。合計二千七百十五円也。
(四)整理方針、土地家屋の売却。価格約三千円。母屋をとりのこすためには約千円位調達の必要あり。
(五)信吉の主人格である周防村の大地主山口彦一に、千百円の負債あり。信吉と富雄の名。
(六)光井の家は本年一杯で整理。母屋をとりとめられなければ一家離散の由。
あなたがいろいろ親切にたずねて下さるのをよろこんで居ります。島田に対しての呪(のろい)には苦笑しますが。――
私の手紙は又別に書きます。混同してしまいたくないから。
お弁当を外からちっとも入れられないと何だか不自由がましたのではないかと心配しがちですが、この間のお話で何だか大変安心しました。案外の便利もあるものですね。
どうかお大事に。リンゴの液が腸のため体のためによいのを読むので、どうかして汁だけめしあがれないものかしら。噛(か)んでカスを出すというのも不便であるし。何かよい工夫はないでしょうか。では又。いろいろのお喋りを後ほど。 
八月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第二十三信けさは珍しく汗をかかないで目をさましたと思ったら、午後はやはりむして来た。今年は例年になく夕立がありません。私はおお暑いと息苦しく感じる毎に、そこの建物の上へ大きい大きい如露をもって行ってサーサァと思いきり水を注ぎかけてあげたい感じです。
工合はいかがですか。寝ていらして背中がむれるでしょう。ベッドの上で体を右へまわしておいて、体とベッドの間へ団扇(うちわ)で風を入れて又ねると、ほんのそのときぎりですが案外涼しいものです。右へかえったら又左へかえってという風に折々やると。
私はこの間、二三日少々ぐったりとしたが、おなかの方はもう大丈夫ですし、仕事もしておりますから御安心下さい。私は暑いと云っても、自分の日常的条件でどうこういう気分は全く持っていないのだから。
稲ちゃんは前便で書いたとおり保田。栄さんは妹さんが変な男にたかられてこまっているのでそのおっぱらいに小豆島。もし繁治さんが行けるようなら、二人で八月一杯滞在の由です。中野も国。戸台さんも保田。俊子さんは軽井沢。雅子さんは体の工合がわるくて八月一杯休みをとりました。何とか工夫がついたら暑いアパートにかがまっているより、田舎で暮したらよいと思って、保田の方をきき合わせちゅうです。
島田や野原へお手紙お出しになりましたか。申すまでもないことですが、何か一寸した思いちがいからでも双方が揉(も)めるという状態らしいから、どうぞそのおつもりで(経済的な問題に関して)。この間、富雄さんからの手紙の内容をおつたえしたとき、私としての手紙を別に書きましょうと云ったのは、この頃いろいろと又身にそえて分ってきたことがあって、私は心からあなたにお礼を云いたいことがあるの。あなたが、一つ一つと私たちの本質的な生長のために必要でないボートを私にやかせることが、どういうことかという真価が次第に明瞭にわかってきて――自分の生活感情に新しく加って来る推進力の新しい発見の面から分って来て、私はそのことについて心のもっとも深いまじめなところから、改まってあなたにお礼を云いたい心持なのです。私はどのボートがない方がいいかを洞察し得るものは、私をその上に泛べている広い、たっぷりして活々した愛情なのであるから、その意味でも私は何だか鞠躬如(きっきゅうじょ)とした気持になる。この頃私は自分たちの中にあるそういう貴重なものに思い及ぶ時、感動から涙をおとすことがある。自分たちの生きてきた五年の歳月というものの内容を考えて。――普通のもののけじめで五年が一区切りになるばかりでなく、今年は私の生涯にとってなかなか一通りでない意味をもつ内的な問題が発展させられた年でした。
あなたには私がこんな妙な切口上のようでお礼を云ったりするの、おかしいかもしれないが、笑いながら、ユリのばかと笑いながら、やっぱりそれでもあなたにも分る我々のよろこびというものはあると思うの。抽象的に云っているがお判りになるでしょう。いろんな、文学的なおしゃべりや何かとは一寸別にして、この手紙を出したい心持があるのです。
私は自分の誠実さによってだけ遅々としてものを理解し、本当に会得してゆくたちの人間だから、あなたは良人としてある場合は少なからぬ忍耐をも必要とされます。あなたの忍耐の結果が必ずしも無でないところに私としてのよろこびもある。暑い最中に暑くるしいお礼をのべておかしいが、お互に暑さに堪えている折からのおくりものとしてはなかなかに新鮮なものなのですから、どうぞおうけとり下さい。 
八月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
この頃ハガキが新しくなりました。見本をかねてお医者様の名前をお知らせ申します。慶応大学病院外科元木(モテギ)蔵之助氏です。この方は日本での権威です。では又手紙は別に。 
八月十五日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十五日日第二十四信
きのうは、腰をかけていらっしゃれたからすこしは疲れがましでしたか?本当におやせになったけれどもやせたことだけに別に拘泥せず、熱が高くないことの方を寧ろプラスとして見るべきなのでしょうね。あなたの御努力も、そういうところに目立たぬながらやはり決定的な価値であらわれているのだと思いました。後姿はいかにも相変らずのあなたです。ちらりと見送り、おお何と珍しいと浴衣の肩をふって歩いていらっしゃる瞬間の印象を全心にうけた。だって何年ぶりでしょう?! あなたの全身を動作の中で眺めたというのは。――
お話の本は、私は普通の図書目録だと勘ちがいしていて、それなら何かいろいろの目録でよいという風に考えていた。今日東京堂へ行って揃えてお送りします。
けさ、七月二十七日に書いて下さった手紙がテーブルの上にのっていた。きのうはいろいろくたびれて、夜は珍しく九時頃から床に横になり月を眺めながら、ひるまのいろいろのことを思ううちにうとうとと眠り、十二時頃目を一寸さまし、又暫く目をさましていてもう月は屋根のむこうに沈んだが、ベッドの中ですこし片側へよって、又いつか眠るまであなたとお喋りをした。時々撫でてあげながら。――
あなたのガクガク的調子をユリが悄気なかったかと思って下さること、ありがとう。悄気ることはなかろうという御想像は全く当っています。私はあなたに対しては私に向ってされるすべてからいつも最善の、そして、最愛の正当な理解をくみとるのをつとめてもいるし、お互の誠意の当然の結果として必ずそうあるのです。だからあなたの一つの笑顔さえ私にどんな意味をもつかお判りでしょう?ここが私たちの生活の実に基調です。
私がよく勉強している時ほど所産に対してハムブルだということ。私はあなたにハムブルでなく思わせたことがあったかと、極(きま)りわるい気がした。私たちの仕事の目標が、日常の現象的に対人的な比較の上に立てられて居らず、新しい文学的価値をもたらすために、自分の生涯の生活的芸術的全努力がどの程度までの寄与をし得るものかと考えて日々を送っているのだから、本質的に傲慢ではあり得ない。傲慢であることと、確信に充ち、自分たちの努力の方向の正当性を信じている生活態度とはおのずから別ですもの。根本的に私はゴーマン人間ではないわ。癇癪(かんしゃく)は起すが。そして軽蔑すべきものに対して軽蔑をかくし社交性を発揮することも出来ないけれども。どうか私が自分たちの希望している何分の一かでも価値のある成果をもつことが出来るよう、時々お目玉も大変にいいわ。
郵船のものや何かきのうお話した通りです。『ダイヤモンド』の何頁かをフームと眺めていらしたでしょう、可笑しい。お手紙のうち乾布と冷水をやっている、のあと、僕の石盤にも云々まで二行半真黒けよ。あなたのお手紙としては初めてです。それから、窓をあけて眠るのは、雨天や靄の濃い時はよくないそうです。シャボンはこれからずっとお送りします。匂いというものは神経を休めるから。神経の疲れたとき水でシャボンで手を丁寧に洗うのは大変よくききます。御存じかも知れないけれども。
お久さん、お久さん元気かねと来ているよと云ったら、おや、ありがとうございます大元気だとおっしゃって下さいましって。暑いので簡単な服を着て、鉢巻をして、なかなかユーモラスでやっています。あんまり足の裏を真黒にしているので熊の仔という名があります。信州の中農なので生活に対する気分が、気質的にはよいが、どこまでもしっかりしたということは望めず。雅子さんは一ヵ月体が悪いので休暇を貰って今保田にいます。稲子さん、戸台さんと皆あっちです。ユカタあと一二枚ほしいとこのお手紙にはあるけれども、きのうはもういいと云っていらしたわね。
きのう、本はおよみにならないのでしょうとおききしたのは、近頃の流行的作品なるものを少しずつ読んで頂きたいと思っていたからですが、勿論いそがず。
作品の評価の主観性の要求とはなかなか微妙な錯綜と混乱とを導き出しています。作品に社会性を求める必然は健全ですが、平凡な市民の日常的限界が作品の限界となりやすくそこに又経験主義的な危険がかくされている。婦人作家の昨今の暮しぶりもいろいろに分化して来ているし。では又。お体のことは決してくよくよはしません。でも、非常に本気なの癒そうとして。暑さをお大事に。 
八月十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき二枚)〕
さっき手紙を書いてから東京堂へ出かけて、かねて御注文の図書総目録というのを調べました。あれは栗田書店から出ているので昭和八年版新しいのなしです。昭和八年以前の本を知るのにだけ役立つわけですが、どうしましょう。『出版年鑑』の十二年版はもう御覧になったのでしたろうか六月出版ですが。もし昭和八年以前の分でよかったら総目録をお送りいたしますが。(第一)
本郷の南江堂へ行って学問的な本をしらべて、腸と太陽燈療法についての本をお送りしましょう。普通の本やではだめです。かえりにもとの砲兵工廠の横を通ったら、今あすこは後楽園スタジアム九月開場予定として工事をやって居ります。中村光夫の『二葉亭四迷論』を古本で買いました。御覧になる気はないかしら。『胃腸病の新療法』日野お送りしますが大したことなし。終(第二) 
八月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(ダマスカスの細工物「ランプ」の絵はがき)〕
八月十七日、きのうの午後太郎と一緒に本郷の南江堂へ行って、本を買いお送りしました。私は何というあんぽん!ほんとに何という。外ならぬあなたが体のために本をよむことも注意していらっしゃるということの意味が、やっと今になってはっきり判ったなどというのは。本当に御免なさい。私はこれから本をよまぬあなたのために、毎日一枚ずつ小さいお喋りをのせたハガキをかくことにしました。仕事をはじめる前の挨拶として。 
八月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(トルコの細工物「大ざら」の絵はがき)〕
八月十八日、朝。
御機嫌よう。工合はいかがですか。きのうは九三度二分ありました。濡椽の外の柱にさち子さんが蒔いた朝顔の花がこの頃咲き出し今も咲いている。きょうは、小さい小説の仕事にかかります。元フランスの首相であったブルムが「結婚の幸福」について論文があり、それは男も女も多夫、多婦的傾向をもっているのだから、或年齢までそれでやって後結婚すると幸福だと云い幸福を平凡と休安に規定しているところは彼の進歩性を語っているではありませんか。 
八月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士箱根大涌谷の絵はがき)〕
八月二十日、永井荷風の「※[「さんずい+墨」]東綺譚」ではないがラジオはほんとうにきらいだ。この頃はあっちでもこっちでも。家々が開け放しだからなおたまりません。空が皺くちゃになるような感じですね。お気分はいかがですか。私は体の工合がつかれて余りひどいから明日あたりから暫く国府津へ仕事をもって行こうと思います。疲れがたたまっていてよろしからずです。きょうは又少々暑くなりましたね。 
八月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 神奈川県国府津前羽村字前川中條内より(封書)〕
八月二十二日、晴、第二十五信、九十二度、きのうは、朝のうちそちらへ出かけてやっと夜着をとって来て、それから小さい例の茶色のスーツケースに本や着換えをつめて、四時に東京を立ちました。寿江子が横浜まで送りに来て、あとは私一人。この頃国府津は小田原にすっかり交通要点をとられてしまって、この頃は準急もとまらない。但し、街路はすっかりコンクリートになって、家の前の私たちがのぼった古松の生えた赤土の崖などはどこにもなくなってしまった。そのことは多分去年の夏、あなたに其那スポーツは体の弱っているときにするべきでない、と云われたドライブで家の前を通ったときの印象で書いてさし上げたと思います。庭は芝生になっている。母が没した後父と来たとき植えさせた合歓木(ねむのき)が風に吹き折られもせず一丈ほどに成長している。
私はこの間のハガキに書いたようにラジオのやかましさを聞いて机に向っていると、炎天の空がくしゃくしゃ皺になって感じるような神経の工合になったので、本当に本当に思い切ってこっちへ来ることにしました。相変らず仕事をもってではあるが、ラジオがガーガー云わず、来客がなく風が吹くのだけはましです。きのうはいい月夜で、窓からあまり海上が美しいので、ふらりと波打ぎわまで出てみたら、面白い発見をしました。虹ヶ浜であなたは知っていらっしゃるかしら。月の海というものは、高い遠いところから見ると銀波洋々であるが、波打際までゆくと月のさしている一筋のところだけ海上が燦(かがや)いて、あとは微妙に暗く、しかもどこか明るく海面がもり上ったように見えるものですね。大変珍しかった。箱根の山の方も、風に吹かれた砂丘の方も見えず。丸い白い浴衣に団扇をもった私一人が月の照る浜にいるだけ。犬もいない。
家の方は、S(略称「バラさん」という)父、寿江、私とお馴染(なじみ)の看護婦のお母さんが来ていてくれるので私は本当に安心していられる。
こんどはまわりがすこし心配しはじめてそういう順立てもしてくれたのです。
お工合はどうですかしら。この間の本はすこしは役に立つでしょうか。どうしても腸の疾患だけを特に一冊にとりまとめたのはありません。あの本は南江堂で買ったがその前日丸善(神田)へ行ったら医書のところに『人間は皮膚を変える』というヤセンスキーの小説、黒田辰男訳が立ててあって、笑いを押えることが出来なかった。何たる皮肉でしょう!この作者の現実と人間の進歩の関係を見ることに於ての誤りは皮膚だけかえるところにあると批評されているが、皮膚を代えるのは生理的現象であるとして丸善の小僧氏は医学書の間に入れてある。実に善哉善哉である。近来の傑作です。こちらで私は全く神経の休養とその間にゆっくり仕事をすることを眼目にしているので林町からも誰も来させない。台所の方にずっと留守番をしているおミヤさんという六十四のお婆さんひとり。父が私がここで勉強するためにテーブルを一つ買ってくれた(一九三五年の初冬)。それを今日三年ぶりであけようとしたら(引出し)狂ってしまっていてあかない。広間のテーブルが夏なので室の中にタテに置いてある。あの大ソファは炉に背を向けてTの字に。そのテーブルのところでこれを書き、又仕事もするつもりです。私は大変意気地がなくてわるいが、全くこの間うち少し病気のようになりました。例えば、ああこの風に一緒にふかれたい。そういう感情と、ああこれをたべさせて上げたい、ああこの風に吹かせてあげたい、そう思うのとでは感情のニュアンスが実に実にちがう。ああこの風に一緒に、だと私の目の中にもう一つ目ありのくちで、風よ我らを共に吹けでどこへでもスースー行って平気だが、吹かせて上げたいとなると、もう何だか涼しくても切ない、美味くても切ないでね。だから病気のようになる。そして、おお畜生、自分が病気の方が楽だと思って呻(うな)る。
でも、私は又もう一つ勇気を起して、この切ない心持もちゃんと持って身につけて、平静な明るさをとり戻しますから、どうか御安心下さい。ここに月末までいて、すこし神経を休めたらいいでしょう。よく働いたも働いたし。この次手紙を下さるときどうかユリのこの心持におまじないをして下さい。ユリよよく眠れ。よくうまがって食べろ。楽しめ、笑え。そして俺のこともよく心配しろ、と。
ほほう、私は大分アンポンの本性を露出していますね。でも、私自分ひとりで、私が元気でいればそれは貴方もよろこんで下さると納得させて居切れないのです。ホレ、しっかりして、とおしりの一つもぶって下さい。
この間うち一日一枚のエハガキをはじめたのだが、御覧になっていますか?甚だ心もとなし。ではこれから仕事(『報知』月報)の準備にとりかかります、お大切に、お大切に。 
八月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕
八月二十四日国府津第二十六信。こういう書簡箋が出て来たので。
きのうは、実に実に珍しい大雷雨でしたが東京はどうでしたろう。ああ降る!降る!と白雨煙るのを眺め、そこの屋根に沛然と雨の注ぐ気持を考えたけれど、降ったでしょうか。天と海上との間に火の柱が立った。はじめての見もので壮大、かつ恐しかった。こういうときの雷は地軸をゆるがすという形容そっくりです。裂ける如し。
時評を書いています。あと二回で終る。今度は、むくみも引いたしよく眠るし成績はようございます。
あなたはいかがでしょう。よくおよりますか。私はいろいろの意味でこういうところに十日以上暮している辛棒はないから、これからは余りへばらないうち三四日本をもって来ようというプランです。
この海岸は御承知の通り海水浴場がないからその点ではさっぱりして居ります。遊びに泳いでいる者一人もなしです。私は豆腐ばかりたべている、それから胡瓜(きゅうり)と。二十九日に緑郎がパリへ立ちます。音楽の勉強のために。福沢の孫で法律をやっている青年と一緒。緑郎は何か得て来るでしょう。どうかお大切に。国府津へ原稿を出しに出かけるのでいそいで一筆。 
八月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕
八月二十六日第二十七信
今朝十六日づけのお手紙が来ました。東京からお久さんの付箋(ふせん)がついて。
二十二日にこちらで書いた私の手紙はきっと今月の終り或は私がお会いしてから後についたりするのでしょうが、このお手紙に、ユリもどっかへ行って休めとあるので私は大変気が楽になった。去年の夏は体がしゃんとしていなかったのに馬力を出したからいけなかったし又、疲れを休める適当な方法を知らなかったのでドライブしたりしてしまいました。
今年は疲れかたのタイプも休むタイプも会得したから、ドライブなどしないし、ここでも日中は日かげでいてつよい光線に直接当らぬようにこまかく注意して居ります。きのう寿江子が太郎をつれて来て、私の顔色がましになったと云っている。二十三、二十四、二十五と、毎朝十一時に国府津へ行って原稿を送り出し、五回の時評が終って、きょうは休み。
作家が客観的に全面的に押し出されていないと作品においても萎靡(いび)するというのは真実です。今日のような社会の雰囲気の中では、この点が実に実に決定的な意義をもっています。どこかに一寸もたれ込むものをもっている人々は、暫く風をいなす気でそこにもたれて遂にえらいことになる有様です。私は幸、乱作ではない多産の時期に入って来たらしい様子です。本当に仰云る通り完成をしきった段階というものはないのだし、自分なら自分というものに現れている過渡性が、どういう歴史性を語っているかということが客観的に把握され、その意味を客観的に評価出来るところまで力をつくして生きて居れば、自身の所謂未完成をおそれる理由はないのです。
現在の私は仕事の軽重をよく見きわめて整理して、基本的勉強を怠らず、体を気をつけて、仕事と休養のバランスをつけることです。私たちの生活が段々深められ成熟して、二人をおく条件に阻害されることが益〃減って来るということは何という歓びでしょう。私たちはこうして自分たちの不動な幸福をつかんで行く。そしてつかんだものは決して手離すことなく豊饒になってゆく。ユリのそのキャパシティーを鼓舞して下さい。
おみそ汁が買えることは知らなかったからああそれはよかったと、口の中にいい味がした。沢山は発酵するがすこしずつはきっといいのではないでしょうか。私がこしらえた辛い辛いおみそ汁!
Tさんたちのことは、私もいろいろ心配して居ります。いつも互のなすり合い以上のところに原因があることを云っているのですが。――こんど又書きましょう。しかし本当に合点させることは容易ではないでしょう。
私は昨今仕事の参考に必要になっていた『日本文学全史』(東京堂)久松潜一の『日本文学評論史』(上下)等を買いました。何しろ「もののあわれ」「ますらおぶり」が一部のアプ・トゥ・デイトですからね。久松氏の仕事は箇人でだけ問題を見ている範囲ではあるが、私の欠けている知識は与えます。それから、カールの書簡集の部分などぬけたままになっているから、其を補充します。当分のうちに役立てるのが一番有効というのは切実にわかります。それから、いつか、父の記念出版に私の書いたものについてあなたの仰云ったこと覚えていらっしゃるかしら。私があれだけでも書いたというのは云々と私が云ったら、もし書けないのなら云々とあなたの仰云ったこと。思い出して下さい。そういう場合も予想されないことはない。私は自分たちの生活と文学的業績に対しては飽くまで純潔であることを望んでいるのだから。大変抽象的だがお分りになるでしょう。とにかくあらわれた形はどうあろうと我々の生活の成長のためにこそ活用されるべきなのは云わずとものことなのだから。
私の盲腸何とうるさい奴でしょう。此奴(こいつ)のために、私の休養の形は安静、床に休むことになって来る。おなかの右下四分の一にだけ邪魔ものがいる。きのうきょう、これがバッコしているのです。今月のうちに科学と文学のこと(科学ペン)婦人作家の今日(文芸復興)この間ハガキに一寸書いたブルムの結婚観の批判(婦公)をかき来月から又すこし沢山小説をかきます。ではどうかお大事に。 
八月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(絵はがき二枚小田原海岸(一)と小田原駅(二))〕
(一)八月二十八日午後二時すぎ。
国府津へこの頃通用するようになった全国速達で原稿を出しに来たついでにバスで小田原まで来ました。この駅の右手にコウズのあの茶屋が大きい店を出している、そこで今御飯をたべようとしている、赤く塗った椅子その他、箱根気分のところです。国府津からバス20銭。出征送るのでとても大混雑です。
八月二十八日(二)小田原の御幸ヶ浜に遠い親類のやっている宿屋があって子供のうちよくそこへ来ました。ある正月、チリメンの長い袂のきものを着てこの浜の波打ぎわの砂丘に腰かけていたらいきなり砂がくずれて波の中におっこちて本当に本当に死んだと思ったことがあった。大体ここも海は荒くて入れません。この食堂の隅に老夫婦居り父母を思い出します。
一九三七年八月二十九日
[「遺書」として書かれ投函されなかった。]
一九三七年八月二十九日日曜日晴 顕治様国府津。
きょうは、爽やかな風がヴェランダの方から吹いて来ている。セミの声が松の木でする。海の方から子供らが水遊びをしているさわぎの声が活々と賑やかにきこえる。――平凡な午後です。
私は今日書こうと思っていた仕事がすこし先へくりのばされたので、長テーブルの前で風に吹かれつつ、この空気を貴方に吸わして上げたいと沁々思いながら、裏から切って来たダリアの花を眺めているうち、ああ、きょう、あの手紙を書こうと思い立って、これを書きはじめました。この手紙は謂わばすこし風がわりの手紙です。何故ならこうして書いている私自身が、いつこれを貴方が御覧になるかということについては全く知らないのだから。
それにもかかわらず、私はこの手紙は必ずいつか平凡な体も心もごく平穏な一日に貴方に書いて置こうと思っていたものです。このことを思い出したのはもう随分久しいことになる。私が市ヶ谷にいた頃からです。
健康の力が、私の希望するほどつよくないということ、しかし、私たちは斯くの如く夾雑物のない心で歴史の正当な進展とそこに結びつけられている自分たちの生活を愛し、互の名状しがたい愛と共感とを愛している以上、或場合、私の生きようとする意志、生きる意味を貫徹しようとする意志と肉体の力との釣合が破れることが起るかもしれない。それでも、私はやはり人及び芸術家として、自分の希望する生きかたをもって貫こうと思っている。芸術家に余生のなきことは他の、歴史に最も積極的参加をする人々の生涯に所謂余生のないのと、全く等しい筈であると思う。私たちに余生なからんことをと寧ろ希いたい位のものです。
私はこういう点では最も動ぜず、正当な理解をもつ幸福にある。それでね、私はいつどのように、どこで自分の生涯が終るかということは分らないが、最後の挨拶とよろこびを貴方につたえないでしまうということはどうも残念なの。私は、こうして互に生きていること、而して生きたことをこのように有難く思い、よろこび、生れた甲斐あったと思っているのにその歓喜の響をつたえないでしまうのは残念だわ。このようによろこぶ我々の悦びを、何とか表現せずにしまうということは。
よしんば永い病気で生涯が終るとしても私があなたに会えたことに対する、この限りない満足とよろこびとは変らないであろうし、ボーとなってしまってポヤッと生きなくなってしまうのなんかいやですもの、ねえ。
ああ、でもこの心持を字であらわすことは大変困難です。体でしかあらわせない。私たちを貫く知慧のよろこび。意志の共力の限りない柔軟さ。横溢して新鮮な燃える感覚。愛の動作は何と単純でしかも無限に雄弁でしょう。互の忘我の中に何と多くの語りつくせぬものが語られるでしょう。
私と貴方との境の分らなくなったこのよろこびと輝きの中で、私の限りない挨拶をうけて下さい。
貴方について私は何の心配もしない。貴方は私のように不揃いな出来ではなくて、美しい強固さと優しさと知に充ちている。私はその中にすっぽりと自分を溶かしこむこと、帰一させてしまえるのがどんなにうれしく、楽しい想像だか分からないのです。もう自分というものがあなたと別になくて、間違う心配もなくて、離れている苦しさもなくて、一つの親愛な黒子(ほくろ)となってくっついているという考えは、私を狡猾なうれしさで、クスクス笑わせるのです。
そして、もう一つ白状しましょうか、私の最大の秘密を。それはね、この頃私の中につよくなりまさりつつある一つの希望。それは、私がさきに、あなたの中にとび込んで黒子になってしまいたいという動かしがたい願望です。だから、あなたがこの手紙を御覧になるときはその点でもユリ奴(め)、運のいい奴!と私をゆすぶって下すっていいのです。ホラね、と私はほくほくしてくびをちぢめて益〃きつく貴方につかまるでしょう。
涙をおとしたり、笑ったりしてこれを書いて、海上を見渡すと実によく晴れて、珍しく水平線迄が澄みきっている。
いかにも私たちの挨拶の日にふさわしい。ではこの早く書かれた手紙を終ります
わが最愛の良人に。
   ユリ 
九月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕
九月一日夜十一時半第二十八信
林町のテーブルで珍しくこれを書いて居ます。急にバラバラ雨の音がしている。明朝緑郎がフランスへ立ち、咲枝が送りがてら神戸の友達のところへゆく。倉知の俊夫(咲の兄)が召集されて出かけ、従弟の倉知紀(ただし)が又呼ばれて出かけ、春江の良人河合(咲の義兄)があぶないと云う工合で、この頃の空気がつよく反映しています。
さて、昨日は疲れていらしたところを却っていけなかったかもしれませんでしたね。口がお乾きになる様子でしたね。しかし、秋になって気候も落付いたら追々きっと調和が保てて来るでしょう。理想的に行かないにしろバランスがとれるようになるであろうと確信して居ります。
きのうはもう時間がなかったので、けさ予審判事にお会いして、体に関する条のことお話しておきました。それに関する部分だけのこととしての私の理解に立って。
本とりそろえて最近にお送りします。私は明夕又国府津へ行って六日頃まで居るつもりです。菊池、越智氏のことは島田のお母さんに伺って一番手近い機会にすっかりすましてしまいましょう。
きのうは本当につかれた様子をしていらしたし、いかにもおなかの気持がさっぱりしない風でした。其でもあなたの心持がやっぱり相変らず平らかで、笑顔も暖く励ます光をもっていることは本当に本当にうれしい。私たちはいろいろのことから健康を失ってはいるが、私たちに健康を失わせた人生の経験は、私たちに不健康の中でも、互の笑いに輝きあらしめる力を与えているというのは何と微妙であり意味ふかいことでしょう。病気であるのに猶且つ健康な人々の心のはげましになり、生きかたのよい刺戟になり得る。私も及ばずながら病気したってそういう風に病気をし、それを克服してゆこうと思います。
では又ね、ゆっくりいろいろ書きます。どうかおなかのブツブツが早くましになれ! 
九月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(御幸ヶ浜海水浴場の絵はがき)〕
九月四日、四五日いなかった間に国府津はすっかり秋めいて来ました。御気分はいかがですか。おなかのいやな心持はずっと同じですか。私は盲腸がつきものになってから、そのおなかの感じがややわかります、眉のところへ反射して来るようなあの感じ。お大事に熱は下りましたか?涼風が立ってしのぎよくなったらとたのしみです。ジョルジュ・サンドの「愛の妖精」というのをよんだ。一種のお伽話(とぎばなし)ですね。 
九月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十一日第三十信
非常に荒い天候ですね。きのうの雨のひどさ、きょうの風のきつさ。南風だから落付かぬ。お気分はどうでしょう。本当に早くカラリとして秋になればよいと思います。そしたらさっぱりとなさるでしょう、そう思う。本年の残暑のきびしさには鬼もカクランを起した位です。
さて私は八日の朝、国、咲、私と三人で国府津からかえりました。出征する若い兵士とのりあわせ、東京まで来て、一寸林町へより、南江堂へ来ている本をとり目白へかえりました。家の方はSさんのお母さんが来ていてくれたので全く安全。どうしても栄さんの顔が見たく電報を出して夜来て貰ったが、ほかにも忽ち数人のお客です。あなたに手紙をかきかけたのがそれで中絶。次の日は、いろいろな人に入れてやるものを荷造りしたり、夕飯を戸塚の夫婦栄さん夫婦とたべて夜いろいろ物語。
きのうは雅子さんが真黒に日にやけ、体のしまった形で保田からかえって来ました。勤め一ヵ月休み月給もらっていて、又つとめるのです。今度は仕事ぶりを整理してすこし疲れを減らしたいと云っていますが、うまくゆけばよいが。――
島田のお母さんから先日伺った菊池、越智氏のことについて御返事が来ました。お母さんのお話では、あなたの思いちがいでいらっしゃるようですよ。当時あなたがひとの迷惑をかけるのを大層いやがっていらしたので、ずっとお家で出していらしったとのことです。何かの覚えちがいしていらっしゃるのかしら。そのような金は一銭もないと仰云っているのですけれど。――何か其那話でもあったのではなかったでしょうか。
それから島田と野原の負債の表をつくるようにとのことで、私こまってしまっているのです。それはね、お母様が手紙はあなたへおつたえしたら置いておいてくれるなとおっしゃったので、又材料がなくなっている。そう度々きいて上げることも出来ず。どうかあしからず。
野原の方も、このお手紙によると買手が二三人ついたそうです。そして主屋(おもや)とその敷地ぐらいは十分のこる勘定になるそうです。そう例の爺さんがお母上に申した由です。大変結構です。あなたもいろいろ配慮してお上げになった甲斐があるというものです。
お父様、すこし心臓が弱くおなりになったらしい。私は十月一杯はどうしても動けないがそのうちに又折を見て、今度は短い期間お見舞に行こうかと思って居ります。お目にかかれば本当に本当によろこんで下さる。相すまない程うれしがって下さる。もうすこし近かったらねえ。でも十月以後にはどうしても一遍ゆくつもりです。そして行ったら野原と島田が負債のことで感情的になっているようなことのないように、よく大局的に話して来ようと思います。一人一人の生活態度に対して抱く批判と、家と家との心持とは一つものではないのだから。
私は一つ感想をかいて、それから又小説。国府津には、出征した従弟のことや何かで四日東京へ戻って前後七日と五日いたわけですが、それでも今度は『報知』の月評、『科学ペン』、『自由』とみんなで五十五枚ばかり仕事したからよかった。八月は体が苦しくて能率低下と思ったが、それでも八九十枚の仕事はしていました。しかし、私は様々沢山仕事をしている人の仕事の質をも考え、自分の仕事はどうかして質量ともに高めたいと切望します。同一水準で沢山かける、これでは悲しい、我々の年や業績の歴史から云って。やはりのろくても前進しなければ。よく眺めていると、作家でも、日常性というものを健全に把握せずそこへ足を漬けている人はすこし作品が調子にのってつづけて出ると忽ち下らない日常の描写になってしまうのは、実に教訓です。そして、その人々に日常性に浸ることと無条件肯定の誤りを誤ったところで、それはインテリ性という風にだけ感じるところ、何と微妙でしょう。いつかのお手紙に作家の理性をも科学的に育てることその他実に真理であって、しかもそれを自身の心臓で会得することの必要を知っている作家、又知ろうとする作家、実に尠(すくな)い。今日は複雑な理由によって作家センチメンタル時代です。芸術家としての勇気とか献身とかいうことさえ実質不明瞭の感傷でうたわれて居ります。センチメンタルでないとピッタリ来ないと云った風です。こまったものなり。読者のみがセンチメンタルでないところが今日の文学的特徴です。
壺井さんもしかしたら又失業しそうです。鶴さん相変らず。この間の晩皆が呉々よろしくとのことでした。稲ちゃんいそがしくて保田からハガキも上げなかったがわるかったとしきりに云って居ました。
ああ何と風がひどいでしょう。書いている紙の上に天井の塵がおっこちる。では又書きます。医術の本でも何だか苦笑し腹の立つような非科学的な類別をする者がありますね、南江堂の本の終りの部分[自注17]。呉々もお大切に。酸っぱい果物がよくないことは知りませんでした。

[自注17]南江堂の本の終りの部分――南江堂出版の結核に関する医書に、思想問題をおこす人間は多く結核患者だという独断が書かれてあった。 
九月十七日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十七日第三十一信
きのうは本当にいろいろと、ほんの一寸した小さな事柄まで珍しく嬉しく、そのうれしい波がきょうまでも響いて体の中に流れているようです。久しぶりであなたの身ごなしに特徴である闊達な線の動きも美しく見えてつよく印象にのこります。一昨日は非常に苦しい心持であの壁の外からひきかえしたので、どうしても真直家へ引かえす気がせず、戸塚へまわって、防空演習の暗い灯の下で白飯をたべてかえった。昨日は朝七時半から出かけていて、一昨日の気持のつづきで、すこし気の晴れる方向へ事が進んだので、どうしても一寸よって見たく雨のひどい裡を行った。でも本当にびしょぬれになった甲斐があってうれしかった。かえりに又長い長い高壁に沿って、ザッザッと傘に当る雨の音をききながら歩いていて深く一憂一喜という心の動きかたを感じました。勿論其は当然であるけれども。しんでは安心して居ると云うか、何かともかく不動の土台がある。しかしその土台に、殆ど高く鳴り響く波動を打って苦しい心配やその心配をめぐっての様々の考えやが動く。土台はそれでもわれることはないので凝(じっ)としたまま益〃激しくつよくその波動にこたえてゆく。この感情は人間に日常的な時間の観念を失わせ、日常の社交性を失わせるようなものです。
けさは、きのうのつかれが出て、九時に一度目をさましてから、又ベッドに戻って心愉しさの中で可笑しい夢を見て、その夢の中ではあなたの肩と横顔と目差しばっかりを見ました。あなたの紺絣を着た肩のまわりには、あなたを歓迎している人たちが沢山居て私はこっちから近よれない、あなたはこっちをちょいちょい御覧になる。そしてそこは田舎でね、馬蹄型の山路も遠くに見えた。可笑しい夢!
夜着は、きのう注文しておきましたから、二十日にはお届けします。
夏の間じゅう下の四畳半を勉強部屋にしていたのだが、飽き果てたので、二三日前から二日がかりで、又二階へテーブルをもち上げました。この二階は六畳きりで二間南があけっぱなし。東の方へ机を向けないと形がつかず、そうすると右手の書いている方から光線が入って紙にかげをつける。南へ向ってはのぼせ過ぎますから。――
私は勉強部屋だけはすこしゆとりがあってその部屋の中をいろいろ考えながら動きまわることの出来るところが欲しい。本気になって来ると私はひとと話もしたくないし顔も見たくなくなるから。
島田へは年内に是非ゆきます。十一月に入ってゆけるようになるだろうと思います。フタの浮いたお風呂を思うとクスクス可笑しい。全くあれは奇妙なものね。あの風呂は長湯出来ない。心持から。あなたの烏の行水も子供のときからああいうお風呂だからではないでしょうか。
高校の賄(まかない)のことその他は訊き合せて見ましょう。この二三日持って歩いて大仏次郎の「由井正雪」をよみました。前、中、と。これはこの作者の傑作の一つです。最近「雪崩」を出したが、こういう現代の性格を扱うと破綻だらけでポーズが見えて、大衆小説というものが本質にいかに非芸術性を含んでいるかということの悲劇的典型に見える。しかし、由井などは筆もこまかく心理もそれなりにふれていて、筋の説明ぬきの飛躍、あまりの好都合等を許せばなかなか面白い。一面、世間師であり、それを自覚し、しかもそこでしか生きる点がないと思っている由井の心持など、少しは歩み入って描いていて、これと「雪崩」を比べると、大家にならんとする前の作者の脂ののりかたと、大家になって年経た後の気のゆるみ、金のたまり工合、いろいろ教訓になります。大仏という人は由井の扱いかたで一直線にゆくと或は純文学に入ってしまったかも知れない。彼の賢さがそこを引しめたから今日大家であるが、同時に引しめたところで芸術的発展の線の切先を下向せしめた。自分と世間がわかりすぎる、これが大仏の弱さです、芸術家としての。彼は遂に「上品で優雅な氏」で終るか。そして、日本文学史の上に私は実に面白く思うが、山本有三にしろ大仏にしろ、昭和五年から七年までの間に彼等の最優秀作の一つを出していることです。その理由を何処に見るでしょうか。私は面白くて仕方がない。自分がこの期間に文学の上で猛烈に自分を外面的に破壊したことを思い合わせ。文学における科学性の問題の史的展望についてこの頃この方面での勉強のテーマをもっている。では又。どうかこの次もきのうのようなあなたにお目にかかれるように。お大事に、お大事に。 
九月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(演劇「アンナ・カレーニナ」の舞台写真の絵はがき)〕
九月二十一日、夜具をおいれしました。これは本月の新協のアンナ・カレーニナ。右端が原さんのドリイ。膝をついているのが細川ちか子のアンナです。カレーニンを滝沢がやっている。性格をちっともあの冷たい粘液質においてつかんでいない。演出は良吉。壺さん夫妻、いね、私、かえりには泉子さんを待ち合せて初日のお祝に新宿のむぎとろをたべました。御気分はいかが?きょうはむしあつかった。二十五日から夜更けの円タク流しがなくなるので不便です。 
九月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十四日第三十二信
こういう紙に書くと、目方が重くて不便なので、普通の紙を買うまで待とうと思って居ました。ところが、今午後三時、二階の壁に向け、南を左にして斜(はす)かいの西日をカーテンで遮るようにした部屋の机のところに、全く快適な柔かい光線がさしている。ゆうべから、夜中にもおきて書きたかった手紙を、もう迚ものばして居られない。光線も、あたりの静かさも私の心にある熱もすべてが紙に私を吸いよせる。(何だか霊感的な手紙でもあるような勿体(もったい)ぶりかた!)
さて、御気分はいかが?私の目にはこの間の御様子があざやかであるから、何だかあれからずっとあの調子でいらっしゃるように思えます。この手紙を御覧になってすこししたらまたお目にかかるわけです。私は十月の五六日までこれから死物狂いなの。小説です。文芸。『文芸』では長篇をずっと年四回ぐらいずつのせることにしました。私は云っているの、のせ切って御覧なさい、文芸は一つの功績をのこすから、そのように私もがんばってよいものにするからと。大体見とおしがついてうれしい。但金には殆どならない。今日長篇をのせ切るのは、結局文芸専門のものでしょう。仕事がまとまればよいとして考えて居ります。
この間お目にかかったとき、実は私一つ大変な秘密を抱いてひとりでホクついていたのです。自分から嬉しい一種の感動でつい口へ出しそうになったが、やっと辛抱してあなたのお誕生日の祝いまでそっとしておきました。先(せん)、お互に話していた名のことね。十月から本名に全部統一します。そのことを親しい連中にも話した。長篇が終って本にするときとも考えていたが、この長い大仕掛な仕事が終るまでと何故のばすのか、自分の心持に必然がなくなった。それでつまり十一月号の書いたものすべてから宮本百合子です。あなた又ユリバカとお笑いになるでしょう。でもこれは全く私の生活の感情のきわめて自然な流れかたなのだから、私は自分でもうれしく、特に私がこの半年の間に、いろいろの心持を歩んで、ここへ来ていることそのことがうれしい。だから今度はあなたからお断りをくっても、私はでもどうぞという工合なの。ですからどうぞ。私は結局はこれまでの年々に何かの形であなたのお誕生を記念して来た、その中で外見は一番形式的のようで、実質的なおくりものの出来たのは今年であると思います。そして、そのような可能を与えて下すったお礼を心から申します。仕事から云っても私はこういう成長に価していることの確信があります。私たちは字を書いたり、短い時間に喋ったり、そんな形で互の心持をつたえなければならないのだけれども、こう云っている私の心持のあなたへの全くの近さ、ふれ工合。それを字でかくことはお話のほかにむずかしい。おお、私はここに、こんな工合にしてものを云っているのに。
私がこんなに歓びの感情を披瀝(ひれき)するのは、あなたに唐突でしょうか。そうではない。でも、私のこの心持がわかるであろうか。このよろこびの中には何とも云えず新鮮で初々しいものがある。又新しい青い青い月の光がそこにさして来ている。私は書きながら涙をこぼすのよ。人生というものは、其を深く深く愛せば愛すほど、何と次次へと貴重なおくりものを私たちに与えるのでしょう。この私たちの獲ものが食べられるもので、あなたのおなかへ入って、すっかり体の滋養になったらさぞさぞいいだろうのに。ではこの手紙はこれでおやめ。私のおくることの出来るあらゆる挨拶であなたを包みつつ。 
九月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「二筋の川のある村」の絵はがき)〕
九月二十五日、文房堂で買った二科のエハガキ。この画は本当にこういうところがあったのでしょうか。夢でしょうか。そう思わせるところにこの画家のこの絵での狙いどころがあたったわけと云うべきか。昔このひとは遙かに精悍でありました。これは芝居のや〓〓をもったかきわりの如し。もう一つの東郷湖という風景も同じように或趣味に堕している弱さがある。 
九月二十五日の夜。〔向井潤吉筆「伐採の人々」の絵はがき〕
この絵を眺めていると、コムポジションを一寸工夫するともっと生活の雰囲気とスケールのある絵になると感じられますね。もっとも前景の一かたまりの人間と、その奥の木を引っぱる一列の人間との間隔が、雰囲気的にアイマイにしか把握されていない、だからクシャとしている。実物は果していかがや。まだ見て居りません。十月最後に見られれば見ます。御体をお大事に。 
九月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「梅雨時の東郷湖」の絵はがき)〕
九月二十八日夜。
はじめの頃の単行本を、製本しなおしてお送りいたします。すっかり古くなってこわれてしまっているから。鎌倉へゆくと頼朝公御六歳のしゃりこうべというのがある。「一つの芽生」などというのを見ると、自分の御六歳のしゃりこうべのようで、フーフー。でもその小猿のしゃりこうべのようなものもお目にかけます。何卒(なにとぞ)幸に御笑殺下さい。 
九月二十八日夜十二時。〔宮本三郎筆「牛を牽く女」の絵はがき〕
大変おそく書いて、しかられそうであるけれど、今、きょうの分だけ仕事を終って比較的満足に行って、一寸あなたとお喋りがしたい心持。お茶を一緒にのみたいとき。原稿紙の上に、こまかい例の私の字でごしゃごしゃと(一)(二)という下に書きこんであって、そこから様々の情景と人々の生活が歴史の中に浮上って来る。何とたのしいでしょう。私は『あらくれ』や、『新女苑』や『婦公』に、新しい署名のものを送って、たっぷりして仕事している。 
 

 

十月一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国枝金三筆「松林」の絵はがき)〕
十月一日の夜。仕事が熱をもって進んでいる。雨だれの音。鶴さんが工合をわるくして心配しましたが、もうややよろしいらしい。あなたはいかがでしょうか。雨つづきで気分がさっぱりなさらないでしょう。
この仕事を五日の午(ひる)までに終って、六日はお目にかかりにゆくのを御褒美のようにたのしみにして、せっせとやっている。ミシェルというフランス人がモンパルノという小説をかき、今大家であるモジリアニが一枚たった六フランでパン代に売った絵が一年後一万一千フランで売られたことなどかいていて、いろいろ考えさせます。 
十月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 広島駅より(広島駅の絵はがき)〕
十月九日朝五時四十分。広島でののりかえ。このあたりでは構内のランプもすっかりくらくなっています。兵隊さんがこの食堂にも沢山。雨はやんでいます。七日の夜は仕事を片づけるために眠れなかったので、八日の三時に立ったときはフラフラ。十時頃までウトウトしていて、寝台が出来たので五時間ばかりよく眠りました。馴れたのでこの前より近いように思います。島田でびっくりなさいましょう。 
十月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(封書)〕
よく晴れたお天気。今お父さんはお休み中。多賀ちゃんがおひるの支度をしている。お母さんはどこへかお姿が見えない。私は店で新聞をよんでバットを一つ売って、今上ってきてこれを書いているところ。
きのう八時四十何分かについて、改札のところを見たら多賀ちゃんがでていました。小さいトランクと中村屋のおまんじゅうを入れた風呂敷包みとをもって出たら、きょうは防空演習だからといって、いきなり自動車にのせられてしまった。達ちゃん、消防の服装(ポンプの小屋へ)で出ていたそうです。ちっともわからなかった。
お父さんは大よろこびでいらっしゃいます。思ったよりいい顔の色をしていらっしゃるし、舌が実にきれいでびっくりするようです。夏は何しろひどい暑気だったので心臓が苦しくおなりになったそうですが、今は御飯も大きいお茶碗に二つ(おかゆ)をあがります。間食はなさらず。春のときからみると、お体は軽くおなりになったし、気分も自発的なところが大分減っていらっしゃいます。それでも昨夜私が何か云ってふざけたら皆笑い出して、お父さんも、一緒に大笑いしていらしった。気分はやはり非常におだやかです。お母さんが、顕治の知っている頃のお父さんじゃったらどんな我儘(わがまま)云うてじゃろと思っているだろうとおっしゃっています。おとなしい、いろいろ気になさらない。すこし、お母さんや内輪のものにはカンシャクをお起しになる位のことです。御気分が平らなのは何よりです。きょうこれから野原へお墓参りに行って来ます。野原の家の方は四百五十円ばかり不足しているかぎりで家と土地とが十分のこる由です。かり手がついて来るから家は小学の先生にでもかして、おばさんや冨美ちゃんたちは富雄さんの方へ引うつって世帯を一つにしようという計画とみえます。富雄さんのこれまでいた店が駄目になって(つぶれた)日米証券へ入っている様子です。
こちらもずっと平穏にやっていらっしゃいます。大していいということはない。やはり不景気だそうです。でも手堅くやっていらっしゃるから。――隆治さんは今年は二十歳なのですね。この六月かにケンサがあるのね。私は間違って一月に入営かと思って居りました。春のとき何だかそんな風に間違って覚えて来てしまったのです。六月にケンサならまだ間があります。
あなたが中学の一年生だったとき、よくつれ立って通った中村さんという人が戦死されました由。河村さん[自注18]のところでは夜業つづき。島田から四十二人一時に出て、総体では七八十人の由です。野原からかえったらこのつづきをまたかきます。おお眠い。けさは十時まで眠ったのにあたりが静かで、気がのんびりするものだから、眠い眠い。つかれがでてきてしまったのです。きっと。
きょうは十一日。小春日和。
きのう野原からは夜八時半頃かえりました。皆よろこんでいて、くれぐれあなたによろしくとのことでした。今あの家には小母さんと冨美ちゃんと河村さん(小母さんの弟さん)とその姪という方とです。河村さんは下松(くだまつ)の方につとめ口が出来て、あっちに家が見つかり次第ゆく由。下松は借家払底で、一畳一円で家がないそうです。河村さん、あなたのお体について心配していました。くれぐれもお大事にと。
野原の小母さんは家がのこるので本当におよろこびです。私たちもよかったと思います。小母さん曰く、いつか二人でかえって来てくれてもとめるところがあってうれしい、と。ハモの御馳走になったりしてお墓詣りをして、かえりに切符をかって来たら、お母さん、もし都合がついたら琴平さん[自注19]へ詣でて来たいというお話です。来年の秋でもゆっくりおともしましょうと話していたのですが、もし達ちゃんが召集されでもしたらというお気持もあるので、急にお思い立ちになったのでしょう。今時間表をしらべているところです。
お母さんも永年のお疲れで、この間腎盂炎をおやりになってから、すっかり御全快ではなく、台所の仕事などでも過労をなさるといけない御様子です。今は多賀ちゃんが手つだっているから大丈夫ですが、きのうも野原へ行って、すっかり多賀ちゃんに手伝って貰うようよくたのんでおきました。
春からみると何か全体がしずかになっている。お母さんは余りこれまで御丈夫でなかったし、御無理だったから、すこしこの際お労(いたわ)りになる方がよいのです。そちらもこんなにいい天気でしょうか。どうかお元気に。若い連中も元気にやって居りますから何よりです。では又。

[自注18]河村さん――島田の宮本の家の向いの一家で、病父がその人のリヤカーにのせてもらって相撲や芝居見物に行ったこともある。
[自注19]琴平さん――讚岐の琴平神宮。 
十月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕
十月十二日。こういう景色が山の頂上から見晴せるわけだったのですが、雨で濛々(もうもう)。平野の上にもくり、もくりと山が立っている、この地方の眺めは或特色があります。屋根を藁(わら)でふいている、その葺きかたが柔かくて特別な線をもっている。人気はよくない。善通寺というところも通りました。松山へは時間がなくてゆけず。いつか又別に参りましょう。道後にもゆきたい。ぜひ行って見たい。小母さんのお伴で琴平も見たわけです。 
十月十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十五日夜小雨。
今夜は愉しい夜の仕事。――十四日の夜八時二十一分かの上りで島田を立って十時四十分頃広島。そこで一時間余待って、夜中の〇時二分の特急ふじで十五日、きょうの午後三時二十五分東京着。寿江子と栄さんが迎に来てくれていて、その足で裁判所へまわり、島田の半紙へ書いてもって来た許可願に印を捺して貰いました。あしたお会いするために。そして目白へかえって来て、お土産の松茸(まつたけ)だのくりだのを皆にわけていたら、留守番をしていてくれた雅子さんがお手紙を出して来た。
栄さんがかえってから、二階へあがって来て、一週間ぶりに机に向い、くりかえし、くりかえし、又うち返して読んだ。本当に手紙は食べもののようです。味う。味う。
それは九月一杯はこういうリフレッシュメントがなかったから、むさぼる如き心持です。でも決して工合のわるいときを押してまで書いて下さらないでもよい――(然し、出来るだけ手紙は書こうと云っていらっしゃることの上に立って、一寸分別臭く云って見ます。)
島田で書いた手紙のように、お父さんは私の云うこともおわかりになりますし、別れの御挨拶をするといかにもお心のこりの風でこちらが困るような感情もおあらわしになるが、やはり公平に見て春よりはお弱りです。それでも実にきれいな舌をしていらっしゃる。あれでもっていらっしゃるのでしょう。行ってようございました。お母さんも琴平へ強行的小旅行をなさっても次の日腰が痛い位のことでお元気ではあるが、私は呉々お金よりも体、ということを念頭にお置きになるようおすすめしました。あなたもこの次お書きになるときには呉々もそのことを仰云って上げて下さい。
例えば私が島田へ往復二等にする。そのことが体のために必要であるということを実感としておわかりになったのは、今度の四国ゆきの御経験からです。それまではゼイタクと思っていらしったことを、御自分で云って笑っていらしった。体を大切になさることが島田の家のために重大であることをよくおっしゃってあげて下さい。こちらから又腎盂炎のための薬、暖い下着、夜具などお送りいたしますから。
私が野原へもゆき、十三日には野原からも島田へ来られ、先頃じゅうのもしゃもしゃも一応調和状態になって居りますから御心配なく。多賀ちゃんも島田で手つだってくれるつもりで居りますし。私も今度は盲腸も痛めずかえりましたから御安心下さい。この頃割合にましな方です。あなた野原の克子と冨美子ととりちがえていらっしゃるのではないかしら。一人前の手紙をかくって。克子は一番の姉娘です。この間あげた手紙の主は冨美子よ、今小学の六年生の。いつぞや私が間違えた高校時代の賄のことはよく申上げてきました。お母さんはもうすっかりお忘れだから鶴さんの返事をまちましょう。経堂辺に住んで出版屋につとめていられるらしい風です。緑郎、寿江子、友達たちへのおことづけは皆申します。稲ちゃんのところでは鶴さん又盲腸らしい由。十七日には御飯一緒にたべようとたのしんでいたのに。――
このお手紙にもある大きい平安の気持。私には非常によくわかります。日常の便宜性に関しないというその性質も。我々の生きてゆく道について考えるとき、その心持は私の心にも実に充満して来る。互を流れ交している水が噴水のように粒々となって、ひろびろとして或微妙な輝きをもって照っている水の面へ落ちてくる。その複雑な、優しさと勁(つよ)さと無限の的確さをもった粒々の音。心の耳を傾けて聴けば聴くほど美しさの底深さが迫って来るような音とひろがりの感覚。この裡には何という歓喜と苦痛とその苦痛さえも熱愛する情熱がこもっていることでしょう。私は、この名状しがたい感覚を、自分の芸術家としての成育の上にどこまで摂取出来るだろうかと思うことが屡〃(しばしば)です。何故ならこの緊張したその極点にあって鳴り出すような人生の美感はあまり強くて、それを芸術家魂で支えるには、よほど素晴らしい芸術的稟質が必要であるから。おわかりになるでしょう?
ユリがこのような人間的豊饒さへの過程と作家的成熟とを、一定の土台の上に立って極めてリアリスティックに、十分の歴史性をもって客観的に完成させようと努力していることは。そして決して其はたやすいことではないのだから。容易に完成するには余り私たちの生活に豊富なものがありすぎる。それにおしつぶされないように。おお、それは迚も猛烈な作家的自己鍛練です。感動を感動としてその中に主観的に没入することは一定の情熱の量をもったすべての過去の芸術家が生きふるして来た道です。謂わば息絶えなんばかりの心持を、新しい客観的な価値として、芸術的にこの現実の中に再現してゆくこと、其は実に実に大仕事です。
本当に、昔の芸術家の感動はその人だけの幅で流れた。今日は世界の振幅をもっている!この幅、つよさ、錯綜、それが一人一人の中に鳴り響いている、その姿を描くこと。やっとそろそろ鳴り出した私の交響楽はどこまでその響かすべき音響を奏し切るでしょうね。
十月一杯に五十枚ほど今日の文学について書くことがあり、それを終って又小説にとりかかります。長い小説というものはまことに書くべきものです。その中で作家は成長し得る。
お体について、私は最も苦痛な心配というような気持をここの峠ではのり越えたような気分です。これから無理さえなかったらやや平穏ではないでしょうか。あの暑気であったもの、たまったものではなかったのです。冬は却ってましです。風邪さえひかないようになされば。
私は今あなたからの手紙を、この紙に半ば重ねるようにして左手に並べておいて、読んでは書き、書いては読んでいるのですが、字というものは何と肉体的でしょう。ここに簡単に百合子と書かれている。三字のよびかけに無量の含蓄がある。或人によって或場合書かれるわが良人へという宛名は、良人へという一般的な代名詞にしかすぎず、而も他のあるものにとってはこのたった五つの字が存在の全幅にかかわっている。生存の根に響く内容をもっている。人間の心のちがいの面白さ。
今夜はもうこれでおやめ。今頃は何の夢?夢なし? 
十月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十五日第三十三信ぐらいでしょう?
今年は実に雨の多い秋でした。きょうは珍らしくいい天気、きのうは日曜日で私たちとしては本当に珍しい一日をすごしました。戸塚の母と子供ら二人、栄さん私、井汲さん母子という顔ぶれでピクニックしたのです。私はもう五年も前にそういう遊びに出たきりだったので、珍しく、頬っぺたは大気の中ですこし日にやけてピチピチしたような気分で、夏以来の気分のしこりがとけたよう。
行った先は池袋から東上線というので朝霞(あさか)。薯(いも)掘りです。曇っていたので、どうするか分らなかったが、大きいお握りや島田から頂いて来た玉子の茹(ゆ)でたのをもって池袋へ出かけたら、戸塚の子供二人が母さんをひっぱってピンつくやって来た。
朝霞はいかにも平凡であるが武蔵野の起伏をもった地形で、薯掘りはおどろくなかれ、そこにある寺が世話やきなのです。バスに一区のって山門の石の標(しるし)が見えるところへ来ると、左手の広い畑の面に一ヵ所こちゃこちゃ色とりどりの人間のかたまりがある。薯掘りなのです。山門を入ってゆくと、そこの亭(ちん)、そこの松の木の下に棧敷をはってフタバ幼稚園、何々小学校、特殊飲料組合とびっしり。本堂の右手に紙を下げて薯掘案内所。一坪十六銭。うねが一本の三分の二位。私たちはそういう休処へはわりこめないから、石段を下りて名ばかりの滝のあるところに丸髷の百姓小母さんの出している茶屋の床几を二つくっつけてそこで休んでお握りをたべ、実に呑気(のんき)で、間抜けピクニックなところに云いがたい味があって、神経の大保養になりました。やがて又山門の外へ出て、畑道をゆき、薯掘りにかかったが、井汲さん親子一生懸命掘るわ掘るわ。健造も面白くて二坪買ったのでは掘りたりなく、じゃあもう一坪買っておいでと云ったら、ありがてえなアと云ったのには爆笑してしまった。
広い畑の眺めの上にごちゃごちゃした狭くるしい人のかたまりを見ると、いかにも東京から来て買った畑をせせくっているようで、可笑しいが、ごそごその中に入って、はだしになって健造のもて扱っている薯を掘ってやったりしていると、やっぱり薯掘りは掘るべきものなりというようなところでした。
団体には景気のいい世話役がついているのがあったりして、庶民の秋の行楽の一つの姿がある。かえりは薯をわけ、それぞれにかついだり背負ったりして、ブラブラ十何丁かある駅まで歩いて来た。
そしたら余り駅がひどい人なので、すこしすくのを待つ間、広告でもう一つの名所としてある日本第二の大梵鐘(だいぼんしょう)というのを見物に、自動車へ満載で行った。ところが、そこは寺でも何でもないトタン屋根の大作事場で、その梵鐘の発願人根津嘉一郎。大仏もこしらえかけてある。職人が働いていて、その仏師の仮住居らしい竹垣の小家の前にはコスモスが咲いている。根津はこの梵鐘を精神凶作地の人々におくるための由。大仏もつくり、名所にして金が落ちるようにする由。根津とこの土地とはどういう関係があるのかは不明でした。
家へかえったのは六時。稲ちゃんのところで夕飯の御ちそうになり。ぶらりと時々山や野原を歩くことの必要をしみじみ感じました。少くとも稲や私には実に必要です。くたびれは大したことなかったけれども、眠ったら夢を見ました。シンプソン夫人の旦那様が三越で女の振袖を買っているところでした。
二十七日に渡す原稿を終ってお目にかかりにゆきます。M子、体がもたないので社を一週に二三度出ることにして、原稿だけ送るようにしました。月給は、きょう貰って来るのだが、二十円ならいい方。食えない。うちで食わす。食わすことに異議はないが、私の心持にはそれ以外の重みがかかってこまるから、何とかしたいと考え中です。
掛布団の工合はいかがでしょう。島田へは、もし達ちゃんが召集されると、それからでは間に合わないから、真綿でこしらえたチョッキと毛糸の靴下二つ送りました。お母さんが召すために長襦袢の布。あなたの腹巻のための毛糸、そして明日あたりお母さんに、あなたがこの冬かけていらした夜着をつくり直してお送りします。お母さんは達ちゃんに軟かい夜具をきさせて御自分は私が称して石ブトンというのをつかっていらっしゃる。この冬はお体もすこし疲れが出ていらっしゃるからすこしは軽い思いをなさる必要があります。夜中に二三回お父さんの御用でお起きになるし。隆ちゃんがとなりに寝てあげています。
名画エハガキはつきましょうか。輸入禁止になるので特別にお目にかけたくてお送りしたのですが。では又お目にかかって。きょうはまだ眠たい、大体この頃眠たくて。あなたもよくおよれますか 
十月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十九日第三十四信
きょうは暖い天気です。天気が暖いばかりでなく暖い。体の内に何とも云えない暖かさと安らかさとがある。こういう気持、何と久しぶりでしょう。
きのうはあれからかえって、お昼をたべて、それからお客に会って、眠りました。朝あの時間にゆくためには、前晩おそいといつも眠い。(前の日に『婦人公論』へ刻々の課題という女のきょうの生きかたについて書いたので)目がさめたら五時。五時半から中央公論の故瀧田樗蔭十三回忌あり。私も発起人の一人。ゆこうかゆくまいか。紋付着て帯しめて苦しい。それでも決心して出かけました。徳富蘇峰、桑木厳翼、如是閑その他という顔ぶれ、作家では秋声、白鳥、春夫、※[「弓+享」]、久米など。女の方では瀧田さん時代の人俊子、千代、私、時雨など。いかにも東京会館向なり。蘇峰、如是閑、しきりに瀧田の思い出のなかに私の名を引き合いに出し、何だかてれてしまった。何も瀧田の人物鑑定眼を裏づけるに私だけをとり立てて云うには当らないのですからね。好意からとわかっているだけてれくさかった。
かえりに俊子さんのところに一寸よって喋って、十二時になると円タクの流しがなくなりガレージから反対の方角に行くときは猛烈な価になるのであわててかえって来ました。
ところで、うちのおひさ君、きのう日向に自分のふとんを干しました。ポンポコになっているのをかついで二階から降りてゆくから、おひささん、そのふとんで今夜早くグースーねるの考えるとうれしいだろう?と云ったら、ええ、うれしくて黙って居たいようだ、と云った。何という感情表現でしょう。実にその気持端的にわかる。私は非常に感服しました。
きょうはこれから勉強して、来るべき文学について何か書く。これは一口に云えぬ題です。文学に近頃場所をとりはじめているルポルタージュというもののリアリティーが来るべき時代の目でどう見られるか、又ルポルタージュの真価とリアリスムの問題もあり、そのことをすこしつきつめて見て見たいと思います。ルポルタージュというのは若干の地方色と抽象名詞の羅列ではない筈のものですから。直さんなどこの理解に於て房雄君と全く同じである。
九月一日の『ダイヤモンド』明日お送りします松山さんの絵の本も。松山さんは満州旅行をしてスケッチをいくつか描き須山計一さんと展覧会をしました。私は月賦でチチハル辺の醤油屋の店をかいた30円の六号をとり、今机の右手の壁にかけてあります。松山さんまだ下手です。それでも好意のもてる絵で、眺めて感じる親しい未熟さ(技術上の)が何だか却って私を自分の仕事に努力させるような面白さがあります。画面に雰囲気を出すということは何とむずかしいのでしょうね。それにこの画家はそういう点では角度がまだ鋭くない。性格的にも。松山さんは人物をもっと勉強して私を描きたいのだって。私もいやではないが、私の生きている歓びと苦しさの綯(な)い交った光輝というような核心的なものが、現在の腕ではつかまるまい。単純にしっかりさなどと抽出されたらまったく降参ですから。ただしっかりものの女なんて!! 松山さんの絵が上達するのをたのしみにして待って居りましょう。
島田と野原の方のこと、二三日のうちにとりはからいます。本当にいい折でしょう。島田にしろ達ちゃんが召集をうければやはり人手を以前よりおやといにならなければならないのだし。
野原と島田とは同額にします。50ぐらい減らしたって同じこと故。まあ私たちとして一生に一度のことでしょうからね。それから、これは女房じみたお願いですが、どうか島田へ手紙をおかき下さい。今度のことは私たちが度々出来ないことだから今しておくのだということをはっきり御納得ゆかせておいて下さい。私はいろいろな気持からこの間うち島田へ出来るだけ骨を折っている。作家は雑作なく大した金をとるそうな、というお考えが何となく出来ていて、実はこの間行ったときも感じて苦しかった。私は説明したり、ありがたがって貰ったりはしたくないから笑っているだけですが。どうかお願。私のこの心持もあなたには勿論おわかりなのだから。よろしくお願いいたします。こういう形で出て来ると、同じ〔後欠〕 
十一月一日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月一日第三十五信。
この間お目にかかったときから何か心にのこっているものがあっていろいろ考え、あなたのお体のことについてですが、床に入る前この手紙を書く気になりました。
この間のときも、あなたはどっちかというと私の心持を安めよう、不安を与えまい、大局的に悠々(ゆうゆう)としてするべき勉強をしているようにと心にかけて御自分の健康のこともお話しでした。私もそのお気持はよくわかるしいろいろだが、不図考えて、私はいつもあなたの体の悪いときを過ぎてからだけそのことをきいているということについて非常にびっくりしました。例えば夏に腸出血をしたということを初めておききしたのは十月十五日頃でした。その前から永らく便に膿(のう)が混っていたことを伺ったのは先日がはじめてであったと思います。そしてそういう病状は既に年のはじまり頃からあったのでしょう。
細かい変化、熱の上下、そういうことは勿論大局的に眺め見とおしてゆかなければならないが、そういう、何か本質的な変りについて、私がそのときどきに知らなかったということは、決して今日の私をも安心せしめません。あなたとしてそれらを持って動じぬことで自然な恢復力を蓄積していらっしゃることは当然のことであるけれども、私が其を刻々に知らされないことは、考えて見れば、あまり特別です。あなたからしか謂わばあなたの体のリアリティーは知ることが出来ない。私が根もとの安心というか持久的なものはたっぷりもっているということがよくわかっていただけているなら、私は常に具体的にあなたの体の事情について知っていて、私としてするべき様々のことをしたい。この間もお話ししたように、互の間にある安らかさというものの能動的な具体性はあるのですもの。例えどんな小さいことでも。どんな一寸したことでも。私は古風なロマン主義者でも巫女(みこ)でもないから、最も大切なものをアブラハムの祭壇にただのせて主観を満足させてはいられない。
どうかこれから出血でもあったり、何か変ったことがあったらきっと電報を下さい。きっと。私が右往左往的心痛をするだろうという風な御心配は本当に無用です。私は逆から云えばあなたに安心されている証左としてもそのようにして頂く権利があると思うの。よほど前、咲枝に下すったお手紙で、ユリの体についても何についても最も悪い場合のことでも事実を知らすようにと仰云っていたでしょう?あの心持。分って下さるでしょう?劬(いた)わられ、知らされない。それは有難く、うれしい。でもくちおしいというようなことがないとどうして云えましょう。私はこれまで割合多岐な現実を見て、それを正当に理解し耐え、処する道を見出そうとする努力には次第につよめられて来ている。私たちの生活の貴重な収穫として。ですから、私がはっとばかりにとりのぼせてはしまわないことが確かなら、どうぞもっとそのときそのときあることを教えて下さい。これはあなたとして何もさしさわりはおありにならないことです。そうして下すったからと云って、あなたの何ものもよわりはしない。大変面倒くさいことでしょうか?或はそういう様々の手続きが却ってあなたの体にさわる風な事情でしょうか。もしそうならば、ですがさもなければどうかこの希望をかなえる約束をして下さい。却って私は安堵することが出来るだろうと思います。私はあんまり我ままな女房ではないでしょう?だからその承認として、こういう指きりをして下さい。もしお願いがわがままだったらそれでもかまわない、やっぱり私は私の心にあるこれほどの愛情が当然に必要とする具体性としてこのゲンマンの指を出します。ではこのこと、きっと。 
十一月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(演劇「土」の舞台写真の絵はがき)〕
十一月十日。八日の雨の中を、うちのおひささん同道「土」長塚節を見ました。演出岡倉士郎。小説「土」にはない節自身を出しているが、高志の進歩的性格は漠然としている。おつぎ山本安英。勘次薄田。平造本庄。これは勘次が平造のキビの穂を苅って見つかったところ。
大体面白く見られました。満員。壽夫さんに逢いました。呉々よろしくとのことでした。 
十一月十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十一日の夜。第三十六信
(きょうはじめて勉強部屋へ火鉢を入れました。今鉄びんの湯が煮えたっていい音を立てている、但しこの湯はのめず。咲枝がさびさせてしまったのを持って来たのだから。オ薯(いも)のシッポでも煮てアクを抜カネバナラヌ)
十一月二日のお手紙がけさつきました。この頃は先のうち、一週に一度ずつ日曜日か月曜ときめて待っていた心持はなくなって居るけれども、やはり朝第一に、ホーサンで眼を洗うより先に、テーブルの手紙束をひっくるかえすのを見ると、結局絶えず待っているということになる。慢性なり。
秋晴れのような明るさと澄んだ力のある手紙をいただいて大変大変うれしい。ありがとう。古い頃書いたものをそういう風に読んでいただいて、何と云っていいかしら。頬っぺたの両方へ、小さい灯がついたような感じです。それにつけても、『冬を越す蕾』、『乳房』、『昼夜随筆』そしてこの頃書いているものを読んでほしいと思う。あなたに読んでいただくことが出来ない、そういう事情が、私を自分の仕事に向っておろそかならざる心持にしているというのは何と面白い関係でしょう。体はこの頃よく気をつけているし、すこしゆとりをつけているので大分ましになりました。残暑頃と秋の初めはへばっていたが。長い小説は、第一が「雑沓」80枚、「海流」97枚、「道づれ」65で、私のプランの第一の部分の三分の二ばかり来ました。この正月『文芸』にのこりの部分をすっかりのせてしまいたいと思ったが、三笠から出ている『発達史日本講座』の現代に今日の文学50枚を十月一杯までにかくべきだったのをのばしているので次の部分は二月頃にするか三月にするかします。
第一、第二、第三部になる予定です。1931頃から'36位に及ぶ。私は昔云っていたようにこの小説では、外面的な事件を主とせず、社会の各層の典型的な諸事情と性格と歴史の波との関係を描き出してゆきたいのです。恐らく一遍書き終って随分手を入れなければなりますまい。しかも、室生犀星、佐藤春夫、中村武羅夫というような人々は、私の小説を見ると持病のゼン息が起ったり、はきそうになったりするのですって。お互様に辛いことです。
小説は長いもののつづきのほかに、「築地河岸」25と「鏡の中の月」18とをかいた。今年はそれでも、すこしは小説を書いた方です。段々かけてくる。来年はもっと小説に重点をおきたいのですが、短いいろいろの評論風なものも、自分の趣向からばかりでなくやはり書く方がいいと思い(金のことに非ず)閉口です。十月には多分もう書いて上げたと思いますが、『新女苑』(祭日ならざる日々)12、『婦公』20、別に15あとこまかい文芸的感想30ばかり。本月はその三笠の一仕事を片づけたらあと短い小説20〜30をかいて、あとはすっかり長い方のつづき。
「伸子」をかいた頃を考えると夢のよう。三月に一度ぐらいの割で60枚だの九十枚だのとポツリポツリ書いていた。
日本ペンクラブというのが十年から出来ていることを御存じでしょうか。会長藤村、教授翻訳家出版関係者、作家詩人という面々です。大変行儀がよくてキュークツであるところです。私がそこの会員にされました。夏頃そこと外務省とで女の作家の作品をドイツ語にするので送るのだそうで林、野上、宇野、私で、私は「心の河」。これはあなたのよく云っていらっしゃる『白い蚊帖』に収めるためにまとめた短篇の中の一つです。自分でこまかいことは記憶しない。そんなに古いもの。
あなたのお体のこと。慣れた強さの生じることもよくわかります。強靱であることもわかる。でも、この前、私が速達であげた手紙の約束は守って下さるでしょう?私がくよつく故ではありません。それも分って下さるわね。お母さん方を御安心させ申すために私がいく分心をつかっていることもわかって下さっている。
野原島田へお送りするについてのお願い、あれももうお読み下すったかしら。
いろいろの私たちの生活の悲喜をひっくるめて、とにかく私はいい仕事がしたい。とにかく私たちの仕事であって、他の何人のでもないという血と熱との通っている仕事をしたい。小説でも。評論でも。私たちが素質的にもっているものの価値というものあるとすれば、其は要するにこういう望みを忘れることが出来ないで、そのために努力しつづけてゆく気力が即その価値であるとでも云えるかもしれない。私の芸術家としての困難は、人間的生活経験の内容が複雑豊富でそれをこなす技量がカツカツであるという点です。生活内容に応じては技量があまっていた時代、今はその逆の時代。それに私は何だか持ちものが、これまでの所謂小説家とちがっているのだが、それが芸術的完成にまで到達していない、美しく素晴らしく脱皮し切っていない、そういう実に興味深い未知数が現在あるのです。稲子はいつもよい批評家であり鼓舞者で、私は注意ぶかくその言葉を考えながら、謂わば自分の発掘をしているようなところです。その点からでもこの長篇は重大な意味をもっているわけです。太郎のことはこの次、別に太郎篇をあげます。緑郎はついたということが分っただけ。あさってあたりお目にかかりに行きますが。この手紙では沢山書きのこしてしまった。本当に度々手紙を頂けるなら、実に、うれしい。 
十一月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十六日晴第三十六信
きょうは、おなかのわるい日の手紙。どうかして、おなかの工合がわるくて、今日お目にかかりに行こうとしていたのに、それが出来ず。その代りにこの短いお喋りをいたします。
『文芸首都』にこの頃の文学の一つのあらわれとしてルポルタージュのことについてかき、国文学の専門の雑誌に二十枚ばかりの鴎外、漱石、荷風の文学にあらわれている婦人観をかき、短い小説をかく前の気分できのうは珍しく文展見物をしました。戸塚の夫妻、もう一人田舎のひとと私。月曜日は鑑賞日というので一円。それを知らず私が細君と田舎のひとの分を出すつもりで行ったのであと30銭しかのこらず。大笑い。
文展ではいろいろ駄作悪作の中にやはり面白いものあり。栖鳳、木谷千種、清方など、文学に連関しての問題を我々に与え大いに愉快でした。栖鳳本年は何匹も家鴨(あひる)の子が遊んでいるところを描き、(二双屏風)金の箔が地一杯にとばしてある。久米正雄、七十歳の栖鳳が老境で若さを愛す心持流露していると、うまい批評をしたが、金箔のことについては効果上あるがよいかないがよいかと書いていた。私達三人の結論は、この画に金箔は重要な画面の一つの支え重厚な一要素となっているのであって家鴨だけであったら決して効果は出ないし、弱くなるし破綻を生じることを観破しました。栖鳳の画の価を考え、それをつりあげたからくりなど考えると虫がすかぬが、この老爺相当のものである。自身の芸術の弱い部分を賢くプラスに転化させる大なる才覚と胆力とを有している。これはやはり相当なものです。久米の芸術境が批評にあらわれ、栖鳳フフンと思ったであろう。いずれエハガキをお目にかけましょう。きのうは何しろ30銭だったので。
清方は鰯(いわし)という題の小さいものであるが、一葉の小説の情景です。溝板カタカタと踏みならして云々。長屋の水口でおかみさんが魚屋と云ってもぼてふりから鰯を買っているところ、水口の描写、[図2]と書いた札の下っている隣家の様子、なかなかリアリスティックなのですが、中心になるおかみさんがこの家のおかみとして※[「藹」の「言」に代えて「月」」](ろう)たけていすぎるのです。「一言に云えば背がすらりとしていすぎるんだよ」稲公の言。それ者あがりとしても生活が滲みついていず、「築地」の絵(知っていらっしゃったかしら。中年のいかにも粋な女が黒ちりめんの羽織で一寸しなをして立っているところ)が浮いていて、甘く且つ通俗になっている。清方の通俗性、插画性は、或マンネリスムの美の内容にある。随筆などにもこれは出ている。いつも情景を鏡花、一葉、荷風、万太郎で。これもお目にかけましょう。
荷風の「※[「さんずい+墨」]東綺譚」は本年中の傑作と云われています。それについてハイと云えるところと云えぬところとある。すこし彼の作品をよみ、いろいろ感想もあるが、私はふと里見※[「弓+享」]と比較して見て面白く思いました。※[「弓+享」]も花柳小説を昔ながらの花柳で描く恐らく最後の作者であろうが、荷風を比べると、その蕩児(とうじ)ぶりがちがう。※[「弓+享」]が花柳の中に「まごころ」を云々するところが※[「弓+享」]の持味であったのだが、この発生は何処からでしょう?こういう一つらなりの日本文学の消長を何かしら語るものがあると思う。水上瀧太郎が云っているとおり、「まごころ」も身勝手しごくであるが、粋の要求も身勝手なものですね。
洋画では、特にこれこそというものはなし。中村研一などやはりうまいことはうまい。高間惣一が「日の出に鶴」なんぞかいているし、文部大臣賞を去年貰った男が、いかにも人をくった模倣の露出したコンポジションと不快な色感で通州というのをデカく描いている。私たちのすきであった絵ハガキをお目にかけましょう。
かえりには、『日日』へよって、細君が随筆をかいた稿料をとって、三人で不二家で食事をして、私は現代ドイツ音楽の夕へまわりました。今日の作曲家たちのものです。私たちぐらいからの年頃の。何だか大して面白くなかった。演奏の技術が弱く貧しいためもあるが。――断片的でした。音楽の中の生活感情がつよく一貫していない。
そう云えば、此間、国際文化振興会主催で、輸出する映画日本の小学校、活花(いけばな)、日本画家の一日、日本の陶磁器などを見ました。この前の手紙に書いたかしら?小室翠雲が竹の席画をしてそれをうつし面白く、又陶磁器は特に秀逸でした。これまでよりずっとましになっていた、文化映画として。小学校の方も、板垣鷹穂氏らの都市生活研究会とかがこしらえたのより遙にヴィヴィッドであるし、生活が出ていてよかった。下で今げんのしょうこを煮て居ります。陽がさしている。体がすこしだるくて。
御気分はこの頃ましですか。もう冬の日ざしですね。今年は秋がなかったようです。苅った稲をしごけないのに雨がつづいたから、豊年であったのに不収穫であるよし。 
十一月十九日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十九日第三十七信
きょうは何とくたびれたでしょう。風に真正面から顔を吹かせながら歩いた。真直原っぱのはずれから家へ帰る気がしないで、あなたにあげる文展のエハガキを買いに、神田の文房堂へまわりました。思うようなのがなかった。日本画がないし。吸取紙を買っていたら、これまでの白い厚いのはなくなって同じようでも和製で吸収がわるいから薄い方がいいと教えてくれた店の男が、私を女学校のときから知っていると話しはじめました。まあ、とびっくりして感心した。私はここの原稿紙で小説をかき出したのですもの。二十五字詰で、そういうのが例外であることも知らず、「貧しき人々の群」はそれをつかった。思い出すことが、沢山あったがそのことまでは話さず。かえって新しい花をテーブルの上に飾って、ベッドに入って、まるでまるで眠った。
寿江子が来て、又一緒に一寸出て、燈火の消えている街々の風景を見学して来て、エハガキの小さいところへ字をかく気がせず、こうやって手紙をかきます。本当は、私は今頃小説をかいていなければいけないのに。字を間違えたりばかりするから、あした早くおきてはじめましょう。あしたの夜は眠れなくてもかまわない。
ひどい、永い病気とたたかったのち、次第次第に治癒力が出て来て、生活力がたかまって来る今のあなたのお気持は、本当にどんなでしょう。さしのぼる明るさや響や波動が内部に感じられるようでしょう?私はそこをあっちこっちに歩く、眼をあなたの上につけて。それらの感じは、全く私の感覚の中に目醒めるようです。私はこの夏本当に苦しかった。今になってみれば苦しかったわけであると思います。どうか、どうか益〃自重して、その大事な生活力を蓄えて下さい。小説をかいていて、熱中して書いていて、いよいよおしまいが迫って来たというときの、あの何とも云えない内からせき立てられるような感じ、それをぐっともって重く愈〃(いよいよ)慎重にと進んでゆくあの気持。快復期の微妙な感動と歓喜は非常に似ているようです。そこがさむくさえないならば、雪の美しささえ似合(ふさ)わしいというような生活感情の時期なのでしょうけれど。もしかしたらあなたは、私たちの生涯の生理的な危期をどうやらのり越えて下すったのかもしれない。私のよろこびがお分りになるでしょうか。分るでしょうか。ああ。
私は何だか何日も何日も眠りとおしたいように気の安まり、ほぐれた感じです。一寸あなたの袂の先でもつかまえて眠って眠って、眠りぬきたい。この手紙はこれでおしまい。 
十一月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(山下大五郎筆「中庭の窓」の絵はがき)〕
十一月二十一日の朝七時すぎ。
きのう午後二時頃からかかって小説を今かき終ったところ。二十五枚。「二人いるとき」という題。大変なリリシズムでしょう、お察し下さい。内容はリアリスティックですから御安心下さい。この絵は実物はもっともっと新鮮です。一枚五銭でこの物価の時代、色彩の活きたエハガキは無理なことです。これからねるところ。 
十一月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十二日曇第三十八信
若い女のひとのための読書案内をするために、最近出たフランスの或女仕立屋の書いたものをよんでいます。そして、その間の一寸したお喋りを。
この本を買うためにさっき外へ出かけ、途中で例のあなたの時計を修繕にやりました。懐中時計。もう動かなくなっているので。そしたら油がきれてゴミが入ってしまっている由。「きかいは割合よろしゅうございます」「買ったらいくら位です?」「今でしたら十円出ましょう」その位のもの?そしてこれかしら、いつかお母さんが洋服と時計を買った(『改造』の当選)といっていらしったの。とにかく又動くようになるのは大変うれしい。留金ばっかり金の可笑しい時計!
一昨日からきのうの朝にかけて、ひどく馬力をかけたので疲れが出ている。昨夜は重治さん来て夕飯をたべて、いろんな仕事の話をして愉快。
この夏からこの間までの私の切なかった心持など話しました。丁度、もろい崖から落ちかかっている人が、手の先の力に全身をかけながらじりじりと、もっと堅いしっかりした地質のところへまで体をひき上げて来ようとしている、もろい土のくずれてゆくのと、手の力の持久力と、その全くのろい而も全力的な努力が必要とする時間と、それらのかね合いがどうなるだろう。実に見ていてたまらない。しかも見ているしかないという事情。日夜背中のどこかに力が入っていて、心にゆとりがなくて、実にひどかった。今は何か本当に体をのばしてつっぷしてほーっとするような気持がしています。あなたの今の体のお工合と、そのたっぷりした心持とを感じながら、ああえらかった、と顔の汗を手のひらでぶるんとするような心持。そして、私は今はまあ一寸、こういう心持をも喋って、気をほぐしてよろこばしさと新鮮な感覚とに身をまかせたい心持。
いつかの冬、あなたは春のようだね、春のようだね、と云っていらしたことがあった。覚えていらっしゃるかしら、歩きながら。
今年の冬、私たちは冬をそういうような底流れの感情ですごすのではないでしょうか。今年私たちのまる五年目の生活は随分はりつめたものでしたね。肉体の強靱さと精神の均衡というものは何と微妙でしょう。一本橋をわたるとき、落ちやしまいか、落ちたらこわい、という恐怖が足をすべらせる。そしてそれと反対のもの。私は、扇をひらいて褒(ほ)めて上げたいと思う。もとより当然のことではあるけれども。あなたをとり戻したという感じ。そのはっきりしたあなたの姿が打って来る感じ、その感動がどんなだか本当に、本当におわかりになるだろうか。
夜なかに霜がおりて、朝とけ、夜月がさして木の葉がおちているように、そういう絶間ない営みで生活力をたかめて行きましょう。すっかり新しいしっかりした地べたのところまで出切りましょう。うれしさから涙をこぼしながら笑って、或責任と義務の自覚による意力からだけ自分がやっぱり生きて行かなければならないものかと思うことは、殆ど堪え難かったと、今話すことの出来るのは何と笑える、そして又涙の出る心持でしょう。これを云ってしまえば私のくつろぎも底をついた形ですね。では又。呉々も大切に。決して今までの周密さを御自分の体に対してゆるめないで下さい。 
十一月二十五日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十四日第三十九信、
きのう、夕飯後十枚ばかり「若い婦人のための書棚」をかいて、終ってお風呂に入ったばかりのところへ「光子さんがいらっしゃいました」「どの」「岩松さん」絵かきの光子が来た。雨が降っていて十時半頃で、さては神戸から出奔して来たかと思ったら(夫婦ゲンカをやっていたから)そうではなくて、一水会という石井柏亭や安井曾太郎のやっている会へ絵をもって来たのでした。夜、二時頃までいろいろ絵や文学や女の生活の話をして、けさおそくおきてかえった。月末までいるというので、私は自分の大好きな動坂の家のスケッチと、本郷の或高台、一方は長いコンクリート塀になっていて、ずっと遠く小石川を見晴す風変りな道のスケッチ、をして貰うことにしました。私の勉強している部屋にこういう可愛らしい都会の隅々の絵があったらどんなにうれしいでしょう。大変たのしみです。其にしても光子は、自分の絵の道具をもって来ないとはけしからぬ。かりにも十日ばかり東京に来て、しかも刺戟を与える人々の顔を期待して来ていながら。まだただのおかみさんと画家とが分裂している。渾然(こんぜん)一つになっていない。心で一生懸命で手がまだ怠けている。こういう状態を多くの女の芸術家が経ているし、男も70%まではこれで一生を終るのね。
若い女のための本をいろいろ考えていて、私に体がもう一つあったら、本当にいい味と力と鼓舞のこもった女のための本を極めて綜合的な内容で書きたいとさえ思いました。すべてが切りはなされていて婦人問題、医学の問題、法律の問題、ばらばらである。それが一人の女の日常生活のすべての部分にとけこんでいる。一人一人の女が、自分から世の中に働きかける可能をもっている。そういうことを感情から分らせてゆく本が一つもないというのは何たることでしょう。世の中に本は溢れているが、こういうクサビのような本はかかれていない。
笠間さんの随筆は面白うございましたか、第一のを数行一寸見たが、何だか目があらい。
シャルル・フィリップの「ビュビュ・ド・モンパルナス」(これはお手紙で下らなさがわかった)をふとよみかえして、ここに描かれているパリの下級勤人の生活や娼婦の生活に対する作者の心持と、荷風や武麟や丹羽のかく市井風俗との気稟のちがいを感じます。どうして後者の作家らは目先の物象しか見ないでしょう。浅はかにそれにひっぱられて喋くっているのでしょう。精神というものが低い。戯作者気質が「当世書生気質」で終っていない。そこが日本の文学の美の内容をひきずりおろしている。或壮麗な恍惚にまでたかまる悲劇。歓喜に迄貫通する悲劇というものの味いを生活の中に持して行くだけの精神力のはりつめかたをもたない。
私は音楽も絵にも文学にも実にこの強靭きわまりない高揚と、それと同量の深いブリリアントな忘我を愛するのだけれども。私の仕事が文字を突破してそこまで横溢することが出来たらどんなにうれしいでしょう。輝きわたる人間の真情のままが躍動したら。
今夜は今に寿江子がここへよって、七時から新響の定期演奏をききます。
(二十五日になってからの分)
昨夜はベルリオーズという人の(クラシック)夢幻交響楽というのがなかなか面白かった。題の如きもので、情熱的第一楽章。円舞曲(舞踏会)第二楽章。野原での風景。絞首場への行進曲。悪魔の祭日の行進曲。大体テーマは(文学的に)分るでしょう?このひとは楽器のつかいかたが面白く、太鼓のつかいかた(雷)として実に芸術的につかいヴェートウベンのパストーラルの嵐の太鼓のように説明的でない。又或場面、楽しき野原が次第にそこでのシニスタースの光景を予想させながら最後には遠雷と鳥の声とでやや「枯枝に烏とまりけり」の灰色と黒を印象づけるところ。そして、この全体の曲に、一つずつモーティブとなり得る要素が沢山あってなかなか刺戟された。私が音楽家であったらきっと今日こんなにしていられないでしょうと思う。メイエルホリドの音楽をつくったりして、二十一二歳で第一シンフォニーをつくったシュスタコヴィッチの音楽は、現物をきいたとき深い疑問を感じた。又写真にあらわれている相貌からも疑問を感じていた。音楽がフランスの後をついている外(ほか)何があるのかと疑問だったところ、この間新しいオペラのコンペティションのようなことが行われ、「ティーヒドン」(デルジンスキー作曲)、この男の「マクベス(オペラ)夫人」(明るい(バレー)小川)が並んで上演され、明るい小川、マクベス夫人は絶対的に否定された。これは題を見ても文学をやるものには内容がわかります。世界的名声にあやまられたものとしてシュスタコヴィッチもエイゼンシュタインもメイエルホリドもある。(日本にもあります)私は音楽について直感的に抱いていた評価がやはり正しいのが証明されてうれしい。絵についても音楽についても私はこういう直感の科学性を豊富にしてゆきたいと思います。私の絵や音楽の批評は大抵はいつも当っているのだが、素人だから日本的レベルというものを自分では知らずにとび越しているので玄人(クロート)は所謂エティケットを知らぬ奴と思う。文学において文壇をことわっているのに、絵や音楽やの通(ツー)に追随する必要もない。
『二葉亭全集』は買いますから、そしたら御覧になるでしょう?中村光夫、『二葉亭四迷論』あり。では又。私たちは月の美さを好きですね。この間の月夜は灯のない街と共に小説「二人いるとき」の中にかいた。お大事に。ずっとあの調子でしょう?猶々油断なさらないで下さい、お願いいたします。 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(竹内栖凰筆「若き家鴨」の絵はがき)〕
十一月二十五日、これがこの間の手紙で話した栖凰の絵の右の方です。左の方もつづけて御覧下さい。私たちの批評の当っていることをお認めになりましょう。きょう、やっとお手紙が届いたが、十二日の分は来ず、いきなり十八日の分です。十二日のを待って待っていて来なかったわけです、どうしたことであったろう。
見ぬ魚の大さ。 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(竹内栖凰筆「若き家鴨」の絵はがき)〕
十一月二十五日。この間お目にかかったときよく伺った野原島田のことは私によくよくわかって居ります。あなたのお気持の中から。島田へはこのお歳暮にさしあげましょう。私はお父さんを笑顔にして上げたいから。野原は冨美子が女学校へ入ったら。来年三月。丁度フミちゃんの教育費に十分なわけです。大変によいと思う。皆安心出来て。月謝の心配は女の子は辛いだろうから。※[丸B] 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鏑木清方筆「鰯」の絵はがき)〕
十一月二十五日、これが例の清方の鰯です。画面の奥までちゃんと描いているのだが、やはり插絵風になってしまっている。芸術家が単に情緒に止った場合この如き技術をもっていてもやはり低俗にならざるを得ないことは実に教訓ですね。日本画にも或る意味でのバーバリスムが入って来ていて(藤田嗣治の田舎芸者のモホー)其様なのも見かけたがまだ外側のものです。※[丸C] 
十一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(中野和高筆「ひととき」の絵はがき)〕
十一月二十五日この絵は父親のイギリス風なおじいちゃんぶりが林権助伯を思い出させ、又何となく林町の父をも思い出させます。したしみのある面白い絵です。軽井沢辺と見えますね、遠景の工合。何年ぶりかで今年は絵を見て、芸術家の感興ということをいろいろに考えました。感興の色合、深さ、リアリティー。清方だって身にそった感興でこれをつくっているのですからね。※[丸E]これは※[丸E]までで終りです。 
十一月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(菊池契月筆「麦※[「てへん+臣」]」の絵はがき)〕
十一月二十九日夕方。
そこにも豆腐やの音が夕方はきこえるでしょう。きょうは、本当に久しぶりで苅られ、分けられている髪を見て何と珍らしかったでしょう。
まだ四時すぎだのにもうすっかり夕方になっている。この娘の顔は原画は非常に清潔な美しさを持っているのですがよく見えませんね。どうか猶々お大切に。今の肉のつき工合はもう一遍ひきしまらなければ本ものではありません、本当にお大事に。 
十二月一日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(新作帯地陳列会より「頴川陶象綴錦」の絵はがき)〕
光子さんが動坂の絵をかくので一緒に来ました。あのまま木小屋があるしポストがあるし。おいなりさんの赤い旗が昔より大変賑(にぎ)やかにひるがえっていて通りの広さと云ったら。
この絵はがきの帯はなかなかいいでしょう?しめたいと思う、但し空想の中で。あなたに買っていただいて。エイセンは父の好きな陶工(クラシック)の一人です。国男さんから手袋をお送りいたしました。光子さんの子供は五つ、太郎より兄さんです。 
十二月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(安井曾太郎筆「承徳の喇嘛廟」の絵はがき)〕
十二月四日。安井曾太郎の画集の面白いのを文房堂で見つけましたからお送りいたします。画集中にこの絵の水彩のようなのがある。こっちにまで発展して来ている跡もくらべるとなかなか面白い。きょうは光子さんが油の方をしあげて、二人でその額ぶちを買いにゆきました。可愛い絵です。いずれ写真をお送りいたしますが、思いがけず今年の暮はいいものが出来ました。 
十二月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月五日日晴れて風がある。第四十一信
十一月二十五日づけのお手紙をけさいただきました。お体はずっと調子を保っておりますか。きょうあたりから吹く風がいかにも師走風になりました。綿入れ類ももう届いておりましょう。このお手紙に三つよく読めない字がある。「『科学知識』は時折達治に送っている」のあとにすぐつづいて「のものは矢張りやめにした。」その上の三字がよめない。珍しいことだがよめない。何でしょう。この次お目にかかって伺います。大したことではないらしい。
あなたが、本をよめなかった間に得たものの価値について云ってらっしゃることは、大づかみではあるが私にも推しはかることが出来ないとは思いません。
私の仕事について考え希望して下さること、全く私自身が考え努力していることと等しく、それ故一層はげましとなるのですが、私は箇々の作家のおかれている箇人的な事情、歴史的諸事情がその錯綜推進の間でどのように作家を大成せしめるかということについて、実に興味というには複雑すぎるほどの感興を抱いている。わが身についても。内からの力と外からの力。その波はどのように将来の二十年ぐらいの間に一ヶの作家を押すでしょう。この考えは、一人の作家として自力で可能な範囲での努力は益〃おしみなくやって見る必要があるという結論を導き出すのです。
本年は私の文筆的生涯のうちで、決して尠い仕事をした年ではありませんでした。所謂拙速的仕事もしなければならないこともあったが、私の拙速は決して投げたものではなく、最上に最速にという工合であったから、一年経って顧ると、自分が一番能力を発揮して一つの仕事をまとめ得る時間、用意それぞれが評論ではこんな風、小説ではこんな風と、技術的に理解を深められました。
専門家としてはこういう自分の性能を知ることも必要であり、そのためにはやはり一杯にフルにやって見る必要がある。のろのろしかやれないもの、或程度のスピードを出してよいもの、ひとりでに出るもの、だがスピードの出た頭の活躍がどんな傾向を人間として作家としての私の中に蓄積してゆくか。こういう点をもやっぱり研究して見る必要がある。
私は永年極めて自然発生的に内部の熱気に押されてばかり仕事をして来たから、この頃いろいろこんなこまかいことも意識にのぼって来て、建築的に仕事を考えるようになったのを面白く思います。
一水会と言う絵の会に、昨日光子さんと寿江と三人で行って、有島生馬の絵を見てアマチュア芸術家の陥るところは恐るべきものであると感じました。絵を、ネクタイを結ぶように描いている。楽でアットホームであるというのではない、だらんと、只手になれていて、感動と洞察と追求が全く現実に対して発動していない。金のある人間が、ヴェランダで煙草をふかしてのびているようです。里見※[「弓+享」]、生馬、武郎と考えて、武郎の生死について感じました。岩松の絵、どうも見た目のエフェクトを狙うことが巧みすぎる。正直に脚(あし)までちゃんと描かない。光子さんの絵は造船所の旋盤工場だというので、実はあの人のよい意志とは云え、或堅い定式かと心配していたが、絵を見て感心しました。二十号だが、ちゃんと色彩の感覚、働いている人間への共感、皆もって明るく水気をもって描かれている。大変うれしかった。百円の絵です。買い手を欲しがっている。但し、彼女の芸術の過程を愛するものでなければ、この絵はサロン用ではないからなかなかむずかしい。柏亭先生に世話をたのんだらと云ったら、洋画家のパトロンとの関係の個人主義、極秘主義というものはひどいものらしく、自分が口をきいて売れるところをひとに紹介などはすまいとのことです。この世界は知らなかった。絵というもののかげの世界のおくれ工合、険悪工合にはびっくりしました。
きょうから、『発達史日本講座』の現代文学をかきはじめます。この頃、小説にくっささりたい。それに夏からのこの約束で、フーフー。五十枚ばかりだから、ユリよがんばれ、です。これさえすますとこの種の予約はまぬがれます。
キャベジの葉のようなのというのは葉牡丹でしょう。それは、市民的正月の恒例である葉っぱです。外側の葉の枯れるのをはがすと内へ内へとキャベジのように新しくなって行って、しまいには大変柄の長い玉になります。私たちは今年の暮は、何となし愉しい。そうではありませんか。とにかくいつなまけたということはなく生きたし、あなたは快復に向っていて下さるし、今年のために私達は何かしようとしていたところ優しい絵も二つ出来たし。年を送るという感情がこのような安心を伴って、感じられることは何年にもなかったことです。而もほのぼのと日ののぼる感じをもって。では又、かぜをひかないで下さい。 
十二月十一日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十一日第四十二信
けさ、あなたの十二月二日づけお手紙がつきました。ありがとう。いろいろな心持というものも、こうして字にかいておけばこそ一層はっきりとした存在となって確実に実現するのは、実に妙ですね。私はこのごろ、仕事にふれてこの事実を深く感じている、もし文学として書かれていなかったら、この人生の人間性、情の力や美の錯綜はどうして今日だけの蓄積として人間の歴史につたえられるでしょう。そして、私たちはまだ実に実に少ししか書いていない。そう思うと勿体ない。歴史に新しく加えるべきものは本当に多いのに。
この頃は急に空気が乾きはじめて、皆喉がカラカラして、鼻の奥がかわいて苦しいが、ずっと大丈夫でいらっしゃるでしょうか。私は夜中、急に喉がいりつくようで目をさますことがある。
昨夜は『中公』の随筆を十枚かいて(くちなし)、これから例の私の荷物である今日の文学のつづきをかきます。今、能動精神の文学の声がおこったところです。フランスのそういう時代のもっているものと、こっちのとを比べてなかなか意味深い。この仕事は十三四日に終らねばなりません。
全く今年は沢山仕事をした。最も活動したものの一人です。しかし、今年の仕事ぶりは忘れることが出来なかろうと思う。歯をくいしばってやったところがあって。
このごろは心にくつろぎが出来て、瑞々(みずみず)して、何しろ私のこれまでの一生に只一度もつけたことのない題をつける位ですから。来年はいろいろ仕事を整理して、評論風なものでは一つまとまって七八十枚のものを、あとは小説という風にやりたい。そして、いかにもそれがやれそうな気持です。芸術というものは一面刻薄であって、こっちが一生懸命でも心のゆとりなさなどは何か一つのマイナスとなって作品に出る、なかなかくやしいようなものです。オペラの唱い手曰ク、最も悲しいうたを最も悲しくうたえるときは、自分が一番丈夫で幸福な時だ、と。これは勿論そのままではないし、そうだとしたら、今日芸術の仕事を何人がやり得るかと言いたいところですが、それでも、今の心の状態の方が私としてよい。来年は質の更によい仕事をします。今年の暮、私はいそがしい仕事が終ったら出かけて行って、一組のおとその道具を買うつもりです。或暮に、私はショールを巻きつけておとその道具を買いに出かけ、いろいろ見て或ものは手に迄とって将(まさ)に買おうとしたが、どうしても心に買わせぬものがあって遂に買わず、複雑不思議な思いに深く沈んでかえったことがあった。
今年は、それを買います。そして、それを買うことが実にたのしみで、うれしい。新しいおとその道具からあなたに注ぎ、私につぎ、そして親しい大事な友達に注ぐ。
漱石の金剛草の話、私もその本はやはり面白く同様の印象でよみました。漱石の文学論、十七世紀英文学史、いずれも大事な只一つの鍵をおとしているだけ、そのことが今日明瞭に分るだけ、しっかりとしたもので面白い。英文学史なんか、ああ漱石が只もう二箇の「何故(ホワイ)?」を発してこの分析を深め得たら、と痛感した。狭いところにいて読んで。文学論にしろ、堅固周密な円形城壁のようだが、真中がスポンとぬけていて。すべての分析がそれぞれの線の上でだけ延ばされているから、簇生(そうせい)していて相互関係の動きと根本に統一がない。あなたのおっしゃるとおりの原因なことは明かです。
あなたの時計は直って来て、この机の上にあります。金時計というのは、私は全く見なかった。賄のこと、まことに残念ですがまだ分りません。きょう島田からお手紙で、お金がつき、大変よろこんで下さり、よかったと思います。達治さん達も一層本気で働く気分を励まされていると仰云っています。よかったわね。光井の方へは、この暮は、冨美ちゃんへの本(『小公子』やその他)と何かお送りして、お金は来年三月です。
あなたの腹巻きも、栄さんと新工夫したのをもうじきあめてお送り下さる由。今度のはきっとなさりよいでしょう。
本月六日に、曾禰達蔵博士が八十六歳で急逝されました。私はお祖父さんに死なれたようで、その夜お挨拶に行ってお姿を見たら大変涙がこぼれました。この方の生涯のこまかいことは知らないが、長州萩の人の由。漢詩などをやる(文学のことでしょう)のが好きであったが、家が貧しくて給費生となるには当時(明治以前)工学でなければ駄目だった。それで工学をやるようになった、と述懐された由、長男は理学博士で物理です。お前は其故好きな勉強をしろといわれた由。
事務所は十一月中に第二段の縮少をして、一月からは名儀も国男一人のものとなり、老人は隠退されることになっていました。国男もこれからは全く独力です。今の情況ですから建築は一般に困難です。
明日ごろ、可笑しい虎の絵の手拭を送ります。色のついた虎、虎年ですから。壁の比較的よい装飾になりますから、お正月には古いのとかえておつかい下さい。タオルねまき、初めは幅がひろくすぎるかもしれませんが、こんどは洗ってもちぢまりません。普通に召せるでしょう。
では猶々お大事に。この手紙は下旬につくのでしょうね。私はもう四五日のうちにお目にかかりにゆきますが、二十日すぎてから着くかと思うと何か一寸した言葉があげたい。一寸、胸のところに吊っておくような。
many many good wishesという云いかたは、謂わば暖い掌で背中や肩を親しくたたくような表情ですね。では又。 
十二月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月二十五日夕方。第四十四信
十二月十五日づけのお手紙ありがとう。それについてはかくとして、とにかくこの手紙がそちらに届くのは正月に入ってからでしょうね。そうすると正月の第一のたよりになるわけですね。新春の挨拶というものには早いけれども、でも今年は、この間のうちの手紙で私が書いていたとおり私たちに歳暮も早く、したがって新年も早く来たような心持です。だから、時間をとび越して、この手紙の中でいろいろと新しい一年に対して予想する感情でいうことは自然です。
一九三八年という年は、どのような内容で過されるでしょう。時節柄、「天気晴朗なれど」であろうと思われる。私は自分の仕事についてこの間書いたように本年よく勉強したことと、あなたの命がとりとまったらしいこととで、はっきり一つの成熟の感じがしてこの年こそゆっくりと心の満足するような書きぶりでやりたいという希望に満ちていたのです。勿論、それがそうゆけばこれにこしたことはない。でも、そうゆかなかったとして、作家としての生き方の本然性が失われるのではないから、それなら又私らしくいろいろと勤勉に収穫をもってやってゆこうとも考えて居ります。そういう点ではやはり日々是好日たらしめ得るわけです。
どっちにしろ、あなたが健康の平衡を保っていて下さることは何よりうれしい。何よりの安心。精神上の苦痛というものも様々で、私は世俗的な意味で苦労性ではないのだけれど、苦しいということは、私の場合では自分の体より寧ろそちらの体についての場合につよく感じられます。あなたの着実な健康増進のための努力には、私は全幅の信頼をもっているから、出た結果はどうであろうとも、あなたに対しての私の苦情というものはないわけです。どうか今年は熱を出したくないものですね。
おかゆの境地を脱したら実に実にしめたものです。こんなにやいやいいう体面上、私も気をつけ最上の健康を気をつけますから御安心下さい。私の盲腸も妙な奴で、曲者です、ただものでない。可笑しいわね。まア、適当にあつかって居ります。
ところで、どてらお気に入りました?今、もう押し迫って縫って貰えないので出来ているのを買って背中へだけポンポコ真綿を足したのです。エリは大変柔和でしょう?顎や頬にやさしく当るでしょう?きっとあなたはもっともっとふくらんだのを欲しくお思いだろうと察しているのですが、どうか辛抱して下さい。あれでも普通よりは厚い分なのですから。
もう一枚の綿入羽織は一月中旬にしかお送り出来ません。これもあしからず。
二十二日ごろ、光井の方へ500お送りしておきました。あなたの方のお小遣いもあれで当分間に合うし。いい正月と云うにはばかりなしですね。
きのうは、午後五時までかかってやっと夏以来の宿題であった「今日の文学の展望」96枚かき終り、夢中で終って雨の中を林町へゆきました。太郎の誕生日は十日であったが曾禰博士[自注20]の御不幸でいそがしかったのできのうにしたのです。河合の息子(咲枝の姉の子)たち、その身内の男の子四五人男の子ばかりで来ていて二階をすっかり装飾し、どったんばったんの大さわぎ。寿江がプロムプターであるが、この前からの風邪の耳がまだなおらず、繃帯(ほうたい)に日本服姿でふらふらしていました。丁度私の行ったのは六時半ごろで、程なく昼の部は終り。子供ら引上げ。忽ち太郎孤影悄然となったので、歓楽きわまって哀愁生じて、泣いてしまった。実にこの子供の心もちわかるでしょう?一人っ子なんてこれだから可哀そうです。
それから夜の部がはじまって、こっちは大人の世界。御飯一緒にたべて、寿江へ買ってやった小幡博士の音響学の本の扉に字をかいてやったりして、珍しく昨夜は林町に泊った。おひささん一人故泊ることがちっともないのです。仕事の荷が降りたところなのでフースー眠って、目をさまして、すぐには起きもせず、私にいただいてある黒子(ほくろ)のごくそばで遊んで、懐しがって、優しい感情と切ない感情と、てっぺんではどうしてこう一つなのだろうと感じ、凝っとしていた。
それから起きて、食堂で太郎がトランクへちょこんと腰かけてお箸で食べているとなりでシャケで御飯たべて、「アラ百合ちゃん奈良漬がすきだったわね、一寸きってさし上げて」「アノー、もうみんなになって居るんですが」「ほんと?! というような会話があって、締切をサイソクの速達が来ているという電話でかえって来ました。
隙間風がスースーと顔をなでる家ながら、我が家はよろしい。まして、ちゃんと一つの封緘(ふうかん)がひかえていて見れば。
二葉亭の手紙や日記類の方への興味は全くそのとおりお送りする順として考えて居りました。安井氏の画に対して利口すぎるとの評がある。尤もです。奥行きなさは、愚かさではなくて、その利口さのために生じている。この頃の絵も妙に引込む力をもっていない。画面一杯にせり出して並んで、迚(とて)も目をひき、うまいがどこまでも心を引っぱりこむというところはない。ああいう本で梅原龍三郎のがあります。又見ておきましょう。絵というものは頭のためにいい(私たちのような仕事との関係で)。音楽は聴き込んでいって、こっちの心がこっちの心の内部で啓(ひら)ける燃えもする工合ですが、絵はやっぱりその芸術の特質で、眼の前がパーッと絵に向って開いて行って、こっちから入りこんで行って、散歩をして、フムと思ったりハンと思ったり出来て、やはり楽しいものです。スケッチが出来たら、下手でもさぞいい保養だろうと思います。寿江子は上手(うま)い。それでも絵は気まぐれにしかやる気がしない由。
あなたがお礼を出したく思っていらっしゃる人々には皆よろしくつたえますから御心配なく。親しい人達と賑やかに越年しましょう。百枚近い文学のこの三四年間に亙る鳥瞰図的な推移図のかけたのは、不満もあるが、よかった。生活の中で幸福を発見する能力や仕事のそれが増してゆく諸事情というものは何と複雑でしょう。
この間、国男宛に下すったお手紙、あっちがお歳暮に来たとき呉れました。わざわざありがとう。国男は、自分が書かないのにすまないと云っていた。皆に対してあなたの配って下さるお心持をありがたく感じました。緑郎はこの間初めて手紙をよこして、パリのエトワールの近くの或一寸した作家の未亡人の家に暮すようになり、フランス語がまだよくこなせないから御飯のたびに大汗の由です。あのひとなりにいろいろ学んで来るでしょう。紀(ただし)は負傷しました。但生命に別状はない。島田の方では多賀ちゃんのたよりで、お店へ米俵をつみ上げて、トラックも休みなしの由、収入のある方らしい御様子で、父上も炬燵(こたつ)のある中の間でこの頃は御機嫌よろしいとのことです。結構だが忙しくてお母さん又腎臓をぶりかえしになるといけないと思って居ります。ではこの、今年と明年とに亙る手紙はおしまい。あさって(二十七日)お目にかかりにゆきます。寒くなって来たこと。年内に雪が降るかしら。かぜをお引きにならないように。どうぞ。

[自注20]曾禰博士――曾禰達蔵博士。百合子の父中條精一郎と協力して建築事務所を長年経営された。 
 
一九三八年(昭和十三年)

 

一月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第二信きょうは風がきついけれどもいい天気。二三日あっちこっちしていて、こうやって机に向ってゆっくりこれを書くのがいい心持です。きのうはあれから気分でもわるくなりませんでしたか?熱が出たりしなかったでしょうか。割合いい顔つきをしていらしたので安心です。
きのうお話した生活の変化のこと(自注1)について、もうすこしくわしく私のプランを申します。二日に書いた手紙には、びっくりした気持がきっとつよく出ているでしょう。フームと、びっくりしないで、びっくりしたから。
経済の方面では、大体御承知のとおりです。補充の方も何とか工夫がつくでしょう。書くものが変っても、随筆でもなんでも名を別にしても同一人であってはいけず、「情を知ってのせたものは」云々とあるから、文筆上の仕事では不可能ですが。家もおひささんも当分このままです。お話した店の方が形つくと(自注2)、それによって私も戸塚辺へうつるかもしれない。二人の子供たちと七十八のお婆さんときりで、親たちが店へかかりっきれば、店へ通うとして余り頼りないから近くにいてくれたら安心だとおっかさんが云っており、私は又精神的健康法の上からどこまでも扶(たす)けて扶けられてゆくつもりです。私はプランにしたがって一層充実した勉強をしつつ、そういういろんな点で勤労に近くいて暮します。これは今の事情の下では大変いい暮し方で、それを思いついて私たちはうれしい。その意味では張り切っております。どうか、ですから御安心下さい。生活力はいろいろの形をとって発露するものね。あなたがきのうこの話をきいて賛成していらしったし、笑っていらしったし、それもずいぶんいい気持です。私たちらしいでしょう。褒(ほ)めていただいていいと思う。資金の方はまだよくわかりませんが、知人に専門家がいて肩を入れていてくれる由故いいでしょう。私たちのところにはまだ九〇〇ありますから、そのうちから光井へお送りした位まで私は投資するのよ。大した資本家でしょう。(これはうまくやりくりますから、あなたの方の御配慮は無用)正月のはじめは、そういうプランを立てるのにつぶしたからそろそろ又落付いて勉強をはじめます。夜更しが今度こそやまるでしょう。朝から午(ひる)すこし過までにかけてみっちり毎日勉強し、基本的な勉強の本もよくよみ、やっぱりこの中にも愉しさはある。人間の生活は全く面白い。『婦人公論』の正月号にね、近角常観という坊さんが(禅)「一心正念にして直に来れ。我能(よ)く汝を護らん。衆(す)べて水火の二河に堕せんことを畏れざれ」という文句の解説をやって時局的な意味をつけていたが、洒落れた字のつかいかたを昔の人はやっております。人間が成熟してゆくいろんな段階というものを含味してみると複雑なものですね。でも本当にきのうはお目にかかってあなたの笑い顔と真直な明るく暖い眼差しとをみてスーッとした。かえり道に歩きながら、その眼で私をみて下さい、とリズミカルに、うたのように思いながら勢よく軽く歩きました。
夕方島田の方へ手紙をかきお話した件について、主としてあなたの御意見として申しあげました。その方が御諒解になりやすいでしょうから。どうかそのおつもりで。
私の机の上はこの頃あなたのまだ御存じないものが一つふえました。それは花瓶です。この頃インベやきの紅茶セットなどよく出はじめたが、その焼で水差しの形で七八寸の高さ。これは珍しいでしょう?音楽評論社で原稿料の代りにくれたの。たくさん水仙をいけてあります。私のさし当って一番おしまいの稿料がこういう形でのこされたのは興味があります。それにこの位大きい瓶がほしくていたところだからなお更気に入って大よろこびです。昔、私は小さい花を一二輪机の上におくのがすきであったが、この頃は花の蔭という風に左手の机の奥に房々とたっぷり花のあるのが好き。私の贅沢(ぜいたく)。風呂と花とたまの音楽会。二十三日にはゆくつもりだったら日曜日ですね。今年は。それなら二十日にゆこうかしら。
どうかお元気に。乾くから喉をわるくなさらないように。おなかはもう痛まないのでしょうか。では又。皆からよろしく。

(自注1)生活の変化のこと――この年一月から翌年の夏頃まで内務省検閲課の干渉によって中野重治・百合子の作品発表が禁止された。
(自注2)店の方が形つくと――窪川夫妻がコーヒーの店を出そうとしていて、百合子もその仲間に入っているつもりでいた。 
一月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(中村研一筆「朝」の絵はがき)〕
一月十二日、岩波の『六法全書』本年(昭一二)版は皆うり切れてしまい、新しい法規を入れたのはもう二三ヵ月後に出ますそうです。どうせ新しいのならその方がよいと思いお待ち願います。『二葉亭四迷全集』の一二は、創作です。待っているのは五六七八になりましょう。これもまだすこし間がある。一筆そのおしらせを。
一応うまいのは分るが、という絵が何と多いのでしょうね。うまさに於てこれも場中に光っていた方の部です。 
一月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(山と水辺と村の風景の絵はがき)〕
一月二十二日、あしたは日曜日でこの天気では雪になるでしょうか、雪は可愛いから降ってもいいことね。月のない代りに雪の夜にでもなったら、又異った眺めでうれしいと思います。あしたは防空演習だけれども午後は神田へ行って、およろこびのしるしとしていいものを買って頂きます。その中にはドンキホーテもプルタークもある国民文庫刊行会のシリーズです。夢二のこの絵はどこか瀬戸内海らしくて島田のどこかに似ているようです。 
一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
稲ちゃんのところへ、ひさが手つだいに行っていて、ひっそりとした午後三時。右手の薄青い紗のカーテンを透して午後の斜光が明るくさしている。机の上へ父の元買った小さいマジョリカの花瓶(中世には薬瓶としてつかわれたもの)をおいて、黄色いバラを二輪活けて、これを書いて居ます。きょうはすこしゼイタクをしてバラの花を二輪ぐらい買ったってよい。日曜日だけれどもラジオもやかましくなくていい。本当にこの辺はピアノもラジオもやかましくなくてその点では助ります。今の時刻、あなたもきっとこの午後の光線を仮令(たと)えば霜柱の立った土の上に眺めていらっしゃるのではないかしら。或は冬らしくすこし曇りを帯びた空を眺めていらっしゃる?
私は独りで明るさと静かさとあなたの傍にいる感情の中で、一寸した道楽をやって居ります。それは一つの算術です。日記の一番終りをあけて見る。1938年の十二月三十一日は土曜日です。本年の元旦は土曜日であった。すると来年の元旦は日曜日で来年の一月二十三日は月曜日ということになる。ハハ。これはよろしい。では二十三日に出かけられる。ここで一日ずつあとへくって見ると、六年前のきょうは月曜日だったことが思い出されます。そして来年は七年目で又月曜日。つまらない、しかし私には一寸面白い算術。
一月二十五日の午後。
きょうも又晴れている。非常におだやかな天気。おとといのバラは八分開いて微かによい匂いを放っている。本を送る包みを二ヶこしらえて上へあがってこの手紙をつづけます。きのうは体の工合のよさそうなお顔付を見て本当にうれしくいい心持でした。便通は腹の調子を告げるばかりでなく全身の工合を語るから、それが苦情すくなければ何よりです。
きのうは割合いろいろ聞いて頂けて、さっぱりした安心した気持です。あれから真直家へかえって、すっかりおなかをすかして、おそばをたべて一休みしに二階へあがろうとしたら、ひとが来て五時すぎてしまった。そのうち、ひさ、戸塚へゆく時間で出かけいよいよ二階へ上ったら到頭十時まで一息に眠ってしまいました。ひさがかえる音で下へおりて、三十分ばかりいて、又あがって、二三時間おきていて又眠りつづけました。きょう、おだやかな天気を沁々(しみじみ)感じる道理です。あああ眠ったと云う心持。この間うち体がこわばったりしていたのが大分ましになりました。
きのうも簡単にお話したとおり、私は当分このままの生活をつづけます。今家賃は33円です。がやはりこの周囲でももすこしやすい家でもあれば代ってもよい位の考えです。家賃だけを切りはなして考えても交通が不便では私の生活に全く無意味だから。この頃のタクシーの価はあなたの御存じの時分より倍は高くなりました。銀座から目白まで雨だと一円以下では来ません。夜淋しすぎるところに住んだり林町のように億劫(おっくう)なところに居ると忽ち車代がびっくりするようになる。林町には空気全体がいやです。Sの、チェホフの小説の中にでも出て来るような人生の目的なさそのもののようなピアノの断片をしかも永い間聞くだけでも辛棒出来そうもないから。この二十八日には、父の胸像を(北村西望氏作)建築学会の中條精一郎君記念事業委員会から私達への贈呈式があります。この記念事業には中條文庫も出来ます。造形美術と建築の研究を主とした文庫です。私は文庫ときくと冷淡でいられなくていつかもし可能であったら、何かいい本を父の名によるこの文庫に寄附したいと考えます。この頃私は自分の性格にこういう一種独特のたちを与えて、いろんないやなことや苦しいことを、やはり失われない快活さと希望とで堪えてゆく気質に生んでくれた父の気質というものを、心からありがたいと感じている。益〃このありがたさは痛切であって、恐らく私が年をとり生活の波浪を凌(しの)ぐこと深ければ深いほど、いやまさる感謝と思われます。そして、そのような私の気質のねうちを充分に知っていて、又その光りを暖くてりかえしはげまし、人間らしい強靭さに導いて行ってくれる人のいること。それら全体の諸関係をひっくるめて友情につつんでいてくれる決して尠(すくな)くない友人たちのいるということ。なかなか私は幸福者です。だからよく私は、これらのねうちを活かすのこそ自分の人間及び芸術家としての責任であると感じ、まことに人生というものに対して畏れつつしんだ気持になります。女の生活で、心のたよりになる二三人の女の友達をもっているということさえ、現代の現実ではなみなみならぬこととしなければならないのですものね。
明日あたりお話した籍のことについてもうすこしとりまとまったことを調べて手続をすすめましょう。そして、来月には、はっきりとした私の勉強のプランについてきいて頂きましょう。よくプランを立てて一年に五百枚ぐらい――一冊の本の分量だけの仕事は必ずやってゆく決心です。どんな時でもそのときにしておくべき仕事というものは文学の上に必ず在るのですから。断片的でない勉強をまとめます。これまでは仕事即ち職業としての外との相互関係から比較的短かったから。暮に書いた「今日の文学の展望」百枚はこの種のものとして一番長かったが、どういうことになるか。ゲラのままです、目下のところ。これももっと手を入れたい。散漫なような手紙ですが、これで。猶々お大切に。おひささんがおかかをえらい音を出してかいている。では又 
一月三十一日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
きょうはすこし気分をかえるためにこんな紙に書きます。半ペラはいつもこの色をつかうので。
ロンドンから雑誌のようなものは二十日ほどで来ます。あなたのお手紙が十七日にかかれていてもここへつくのは二十八日。何と面白いでしょう。
二十八日には建築士会の中條精一郎君記念事業会から、父の肖像(薄肉彫・ブロンズ直径三尺近いもの北村四海氏作)をおくられました。建築士会へは中條文庫資金一万二千三百円也が寄附されました。全額は一万五千円ばかり集った由です。
三十日は二年目の父の命日で、雨のなかを青山墓地へゆき、花のどっさり飾られているお墓に参りました。この前の手紙で書いたように、私はこの頃いやまして父が困難に対して快活な精神を失わなかった資質の価値を尊敬している心持なので、お墓詣りも特別な心持で行ったのですけれども、石に中條家之墓と書いてあるのを見ると、父によりそっていろいろと喋ったり、肩を叩いて笑いあったりするような気持も違ったものになってしまいます。父の墓というものが欲しい。そういう気がしました。かえりに太郎も加えて同勢五人、銀座の松喜という牛肉をたべさせる家で夕飯をたべました。この店にしたのにも曰くがあるのでね、父がここの肉を美味(おい)しがって百合子に食べさせてやりたい、いつか行こう、ね、ぜひ行こうと云っていたっきり、私はまだ一遍も行かなかったので、特にそこにきめたわけ。バタ焼にしてどっさりたべました。そしたら雪になって来て、寿江と私とだけ日比谷で車を降りて二人で雪の中の公園をあっちこっち歩き、非常にいい心持でした。鶴の青銅の噴水のある池の畔(ほとり)の亭(ちん)にかけて降る雪を眺めていたら、雪は薄く街の灯をてりかえしていて白雪紛々。紅梅の枝に柔かくつもってまるで紅梅が咲いているような匂わしい優美さでした。雪はすきだから思わず気がたかぶって犬の仔のようになる。父のなくなった一昨年の二月二日に、葬式をすませて戻るときも、私の髪に白い雪がふりかかっていた。つづいて、あの近年珍しい大雪になりました。それに父の記念日と雪とは似合います。雪のもつ豊饒な感じが美しさの大きい要素で、そういう豊饒さと活気とが父に似合わしいのですね。
あなたも雪はお好きでしょう?けさはね、雪がすっかり消えてしまわないうちにと、家を出て裏の上(あが)り屋敷の駅から所沢まで武蔵電車で行って、バスで国分寺へ出て(この間はなかなかよい、大雪だったらさぞ美しいでしょう、黄色いナラの林があって)省線で目白へかえって来ました。すこし乗物ばかりで残念ですが、やっぱりよかった。
今、パール・バックの「母の肖像」というのをよんで居ります。そしていろいろバックの心持(書いている)を考えます。心持の性質について考えます。訳者の筆致の影響もあるが、バックの表情にあってかたまっているものが、やはり作者としての感情の底にがっちり構えているという感じ。そしてしたしめないところが生じている。それにしてもこのバックやスメドレイや、アンナ・ストロングなどは其々(それぞれ)に合衆国の生んだ現代の婦人の一タイプです。マドリードの「パッショナリア」という名を得ている婦人と共に。これはラテン人であるが。
私は又伝記の仕事を継続し、語学を役に立て、小説をつづけ、段々勉強に順がついて来ましたからどうか御安心下さい。非常にいそがしくやっていたのが、急にそういういそがしさはなくなったので、神経が新しい事情のテムポに適応するために時間がかかりました。いろいろの気持も。内外ともなかなか複雑ですからね何しろ。
一月二日に第一信。八日に第二。十二日第三。十六日第四。二十五日第五、そしてきょうの第六信。一月二日には、私が錬金術師でいやなことからも、金(キン)をねり出すということを書いたのでした。二月十三日の私の誕生日には新しい人たちに何を御馳走しましょう。その前にお目にかかりますが、あなたは私に何を祝って下さいますか?何をやろうと考えていて下さるでしょう。二つばかりのものは私にもうわかって居るけれども。どうか益〃お大切に。木綿の晒(さらし)にもSFが入るので、あなたの肌襦袢(はだじゅばん)のために大なる買占めをして一反サラシを買いました(!)では又。かぜを引かないで下さい。 
二月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 伊豆熱川温泉つちやより(つちや旅館の絵はがき)〕
二月十日九日の午前九時五十二分で立ち午後の二時すぎこっちへ着きました。網代からバスで伊東まで、そこで又のりかえてバスがいかにも伊豆らしい柔かい枯草山や海やを左手に眺めて海岸の上を走り、二時間ばかりで温泉につきます。ごろた石の坂道で歩くのには工合よろしくないが部屋からすぐ海上に大島が見え温く、昨夜は十時前からけさ十時まで眠ってしまいました。大いに眠ってかえるつもりです。粉雪がちらついている。寿江子がわきでタバコをのんでいる。お大切に。
この写真はこの家のよさがわかりません。私たちのいるのは正面玄関の向って左手の二階。手拭のかかっている室の右どなりです。左の別棟がお湯。小さい仕切った室があって大助りです。山のダイダイの木に黄色い実がなっていて、光井の村の景色を思い出します。梅は末(スエ)です。紅梅も末。雪益〃。 
二月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 熱川温泉つちや別館より(封書)〕
二月十二日晴第七信
この手紙は、伊豆の東海岸のいかにも晴れた日光を受けながら、つちやという宿の八畳の室のカリンのテーブルの上で書いて居ます。
八日には、元気そうにしていらしったので安心でした。あの風邪流行の中で鼻かぜですませたのはお手柄お手柄。あのときお話の大島の着物、インバネスのこと。あなた何か混同していらっしゃるのではないかしら記憶の中で。もう一度前後のことをよく思い合わせて思い出して御覧なさいませ。ひさのお使いは無駄足だったのですから。
ところで、二月二日に書いて下すった第三信、九日の朝立つときに着いたというのは実に大出来です。昨年のうちに、やはりこの位の日数でついてうれしかったことがあったけれども。あけてよんで、国府津などにも持って行った例のベルリン製の紙トランクに入れて又こっち迄持って来、今はやはりこの紙の左において書いている。
本の御注文のこと、これはお話でも分ったからかえったらお送りいたします。二葉亭は私が特に入用でもないから、やっぱり来た毎にお送りしましょう。中村光夫も二葉亭論のときはいくらか見られたが昨今はどうも。書き下し長篇小説も実際には従来の意味での通俗小説めいたものになってしまっています。阿部さんの幸福もその一つであるが、作者は漱石を狙って「それから」や「こゝろ」を念頭において公荘(くじょう)という人物を一ヶの媒介体として現実諸相を反映させようとしているが、「心」の「先生」や「それから」の代助が文化人として、人間として習俗に対して求めて居り主張していたものが何であったかを理解しているものには、今日の公荘が只のガラスでものをあれこれうつす(判断せずに)ものとしてだけ出ているのが、つよい時代的な特色として見えます。インテリジェンスが只ものわかりよさ、あれもこれもさもありなん式の傍観性としてだけしか物の役に立たないでいるところ。文学が豊饒になるためには実に広い大きい幾多のものが必要であると痛感します。長い小説は決して安易にやっているのではないのです。「伸子」などでも本にしたときすっかり通して手を入れ、完成させた、そのような程度のことを云っているのです。すっかり書き直すなどということは実際には不可能ですもの。
こっちの暮しはきょうであしかけ四日目。九日にはね、午後〇時何分かに網代について、すぐそこからバスで伊東下田行が出かかっているのだが熱川の宿はどこがよいのか知らない。赤帽にきいたら福島屋が一番いい、電話をかけといて上げましょう、電話料二十銭。二十銭わたしてバスにのったら、伊東まで相当ある。伊東は乾いたようなあまりに風趣のない町に見えた。伊東から又下田行で熱川まで一時間余。すっかりで二時間余です。山の間の坂道の左手に熱川温泉入口とアーチが出来ているところを、ハイヤーでぽんぽんはずみ乍ら七八丁下った狭苦しいところに福島屋あり、途中番頭曰ク生憎満員でお部屋がありませんがともかくお迎えして云々。上って見ると夜具部屋のようなところしかない。そこで宿に電話で交渉させて、坂の途中にあったつちや別館の九号という室におさまったわけです。海からはすこしはなれているが、大島が目の前に見え、左右は山の岬が出ていて、畑の真中の木の櫓から下の宿の温泉が噴き出して夜も昼も白い煙を濠々(ごうごう)立てている。その煙とはるか海の彼方の三原山の噴火の煙とが同じ一直線の上に在るように、ここからは眺められます。宿の入口の垣のところに白梅紅梅が咲いていて、もう末です。伊豆椿が咲いている。しかし散歩にはごろた石が多く坂が急で不向。月は夜うしろの山からのぼります。温泉の白い湯気と海とが輝かされる。月の姿は見えないの。大島の左手の端に低いが目立つ燈台があって明滅する。
私は海の上に島を眺めていたことがないから一日のうち、時間と雲の工合によって遠くの大島が模糊と水色に横わって居たり、急に夕日で紫色に浮立って見ているうちに、右手のところに断崖があらわれ、やがて島の埠頭らしいところが一点水際でキラキラ光り出したりする光景のうつりかわりが面白い。夕刻は、今そうやって細かい家並まで目に入っていた島が、自動車を一二台見送って再びそっちを見ると、もうすっかり霞(かす)んでしまっていたりして変化きわまりない。空気がよい。塩類の湯も体に合います。一日に一遍ゆっくり入ってバラ色になって眠る。一日に何度か、ああこの空気を、とか、ああこの日光を、とか思う。おなかの右側全部(肝臓や盲腸)ぎごちなくつれたりひっぱられたりするのがましになりました。私たちは十五日ごろにかえるでしょう。一九三一年の二月ごろ湯河原に一ヵ月ばかりいたことがある。肝臓のために。大宅さんだの隆二さんだのが遊びに来て一緒に湯河原の小山にのぼったことがある。こっちの方が海気があるから一層心持がようございます。寿江子をつれて来てよかった。寿江子の体にもよいらしいけれども、それより私がぼんやりするためには独りよりずっとよかった。独りだと私の頭が休まない。すこし疲れが直ればすぐ働き出して、休んでいられない気になってしまうから。
きのうはバスで二時間ばかりかかって下田へ行って見ました。実のお吉で食っている。吉田松陰先生の住んでいた家というのは蓮台寺温泉の中の狭い小路の横です。普通の田舎家の土間のある家でごく小さい。子弟をあつめて講義したという、ベン天島というのも小さい。下田の町からはずれた柿崎というところ。ハリスのいた寺、お吉がカゴで通った玉泉寺という寺へあがる海岸です。黒船が二つの島の間に碇泊して天地を驚倒させたという二つの島のへだたりを見ると、当時の黒船の小ささがわかって実に面白かった。バスの女車掌さんが皆説明して呉れる。伊豆が金山で有名で幕府(徳川)の経済をまかなっていたとか、運上山というのが見えたりして。伊豆はなかなか幕末の舞台でしたから。曾我兄弟の父河津氏の所領がその名をもっていたりする。
寿江子は今散歩に出かけました。私はきのうごろた石坂でせっかく買った新しい下駄をわってしまって困った。きのうは相当にゆすぶられましたからきょうは一日しずかにしているつもりです。今大島の真上に一つの雲のかたまりが止っていて、三原山の煙が一寸ねじくれ乍ら真直のぼって、その雲との間に柱のように見えます。私がこうしていてもあなたがかぜも引いていらっしゃらないと思うと本当に気が楽です。 
二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日第八信
これはもう東京。ひどい風が雨を吹きつけていて、ガラスのところから眺めると、目白の表通りにある三本の大きい欅(けやき)の木が揺れる房のように見えている。ガタガタ家じゅうが鳴りわたっている。何ていろいろな音がしているのでしょう、風の唸りに混って。
私たちは十五日の午後に熱川を立って夕方東京にかえりました。十三日の私の誕生日はよい天気で、寿江子はスケッチに出かけ、私は宿でゆっくり本をよみ。次の日は矢張りひどい雨ふりで、いかにも暖い海岸での春のはじまりの雨というたっぷりした降りかたでした。寿江子は私のわきでスケッチをして居り、鼻歌まじりで一心に集注した可愛い顔つきで雨にぬれて色あざやかな外の風景を描いて居り、私はドーデエの『月曜物語』を、特別な興味と関心とで読んで居り、午後じゅう、ほんの一寸しか互に喋らず、しかも静かに充実した精神の活動が室に満ちて居り、本当に本当にいい心持でした。十三日とこの日とで私はすっかり疲れがぬけたようになり、もみくしゃな顔がしっとりとしたようになりました。其故、きょうこんな荒々しい天候でも私は休まった神経のおだやかさ、きめの濃やかさというようなものを感じ、気持よい活気を感じて居ります。
本当にありがとう。私は誕生日へのあなたからのおくりものとして、この休みを休んで来たから、その甲斐があってうれしいと思います。
お体の方はずっと順調ですか。きょう、夏ごろ南江堂の書棚を苦しい切迫した気持でさがしてお送りした本どもがかえって来たのを見て、私は思わず、ああ、これは大事にとっとかなけりゃ、と云いました。全くそうでしょう、ねえ。それから一つ私は悟りをひらいて来たことをお話ししましょう。この前熱川で書いた手紙にも其について書いたが、私はこれまでの何年かの間、自分が何かをああ美味しい!とたべた刹那(せつな)、又ああいい空気だと感じた瞬間、すぐその下から、忽ちいろいろと苦しい心持を感じて来ている。一昨年上林(かんばやし)へ行ったときだってそれがあって、勉強勉強と考え、折角行ったのに十分効果をあげられなかった。熱川の三四日もそうであったが、不図考えてね、あなたも折角行っておいでと云って下さったのに、其をたっぷり休めないなんて、何というけちさと考え、心持のよい空気も海もあなたが皆私へ下さるものという気になったらやっと安楽になりました。小乗的で滑稽だが、でも、この気持の中には私としては本当のものがあるのです。どうかお笑い下さい。
十六日には新響の定期演奏会をききました。朝吹という若い夫人(テニスの朝吹の一族)ピアノを弾き、なかなかよかった。女のひとでこの位量感があり、変化もある演奏をするのは珍しい。熱心に聴いていい心持につかれました。林町では咲枝が風邪で臥てしまっているので、きのうは午後から太郎をつれ戸塚へまわって達坊とおかあさんとを誘い、家で七時まで遊んでそれから私は音楽をききに出かけたわけ。
留守の間おひささんは戸塚へ手つだいに行っていて、一日に一遍ずつ見まわりに来て居ました。
ドウデエは昔「サフォ」がはじめで、いくつかの作品をよんだが、『月曜物語』は短篇集として様々の感想をおこさせる作品集です。短篇というものについてもメリメと比較し、モウパッサンと比較し、チェホフに比べたりすると、例えばモウパッサンの「脂肪の塊」などとドウデエの短篇とでは、同じ時期の人生の断面を其々にとらえていても捉えかたがいかにもちがう。ドウデエの思い出に、原稿が一枚かけると、小さい男の児がそれをチョコチョコととなりの部屋にいるお母さんのところへ運ぶ(浄書に)光景があり、そんな風にものを書くということを昔私はびっくりして覚えています。深刻な矛盾の中に当人が楽しそうにしている姿というものは独特の見ものですね。この小さい男の児が、今はもういい爺さんでクロア・ド・フューの仲間で活躍しているのだから面白い。父ドウデエの作品がこのように一家の歴史のすすむ酵母を既に語っている、そこが又面白く思われる。
一緒に送りかえされて来た購求の書下し長篇小説の一冊を眺め、私は胸の中に迸(ほとばし)る苦さを抑えかねました。その作者に好意をもつ義務を感じられない、そういう苦々しさです。
雨が上りかけて、空の西の方が光って来ました。それでも寒いこと。手が大層つめたくて、変な字になる。近日お目にかかりに行きますが、どうか風邪を呉々おひきにならないように。 
二月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十七日第九信
きょうは第四信をありがとう。この位こまやかな手紙を書いて下さるのであったら、体の工合もずっと順調でいらっしゃるにちがいないと安心です。
私の誕生日について本当にありがとう。十三日をどう暮したかということは熱川からの手紙或はかえってから差上げた手紙でもうおわかりになって居ますでしょう。別に何というお祝ではなかったが、十三日はたっぷりとしたそして落着きのあるいい日でした。暮から私はやはり随分揉(も)まれた、渦の真中に落ちた一つの小桶のように、ちゃんと底は下にして位置を保ってはいるのだが、随分キリキリまわされた、そういう風に十三日ごろ熱川で感じました。そう感じるだけ落着いて来たのでした。二十日に二月二十日ですし、私の誕生日をやっていつもの親密な顔ぶれで御飯をたべました。俊一さんはこの頃勤め人で朗かになっていた。鶴さんから呉れた春らしい菜の花(はタンスの上)と、桜草は机の上のこれをかいているむこうに咲いている。稲ちゃんは私が一昨年久しぶりで自分のお茶碗をつかえるようになったとき、さっぱりした藍で花を描いた茶碗とお湯呑(ゆのみ)をくれましたが、二十日もこんどは白いところに清々しくはあるが赤や金の入った蘭の花のお茶碗と、肥って丸い唐子(からこ)が子をとろ遊びをしている模様のお汁碗をくれました。そしたら栄さんがやっぱり唐子のついたお茶々わんをくれて、おまけにどうでしょう、私のふだん羽織の裏にやっぱり唐子がいっぱい遊んでいるの。尤もこの方は何年も前のではあるが。大笑いをしてしまった、何か私と連想があるのでしょう。だから来年はくりくりした這い這い人形によだれかけでも呉れるのかもしれないと笑いました。
いつかあなたが、私におくりものとしての言葉をやろうと思うが、豊富すぎて表現しにくいという意味を云っていらしたことがあった。私は私の希望するものをみんなあなたから頂くよろこびと、絶えず其等を貰っていて私がたっぷりしているというみのった感じと、事々に生活の感動をそこへ響き合わしてゆく心持とでは、充分に充分に輝やかしい迄に慾張りです。この点での私たちの慾張りは一つの人間的美にまで近づいている。こまかいものから大きく深いものに到る迄、私はあなたからとっている。この間もね、隆二さんにあなたから誕生日のおくりものとして熱川への小休みを貰ったと云ってやったら、本当にいいおくりものを貰ってよかったとよろこんでくれました。
ところできのうは本当に悲観してね。何しろ私が帰ったのは十六日で、二十日がすんだらお目にかかりに出かけようと思っていた。そうしたら二十一日に関鑑子さんのお父さんが亡くなられたことを知り、二十四日の御葬式の日までお通夜その他で暮しました。如来(ニョライ)氏は古い美術記者で、昔は林町の家の前の坂の中途に住んで居り私はユリちゃんと呼ばれている縁がある。中風に急な老衰でした。七十三歳。一葉だの紅葉だのというと明治文学史の頁の中でしか親しみのない存在であるが、如来さんと云えば鑑子さんの幸・不幸の密接な存在で、一つぐれると明日演奏会に着て出る長襦袢まで質へぶちこんで呑んでしまったりするが、又娘を愛し、誇り、娘の生き方を肯定しようとすることでも第一の人でしたからごく近くて人間ぽい。この如来さんのことを一葉が日記の中に書いている。素(す)っぽこ袷(あわせ)に袴だけはつけていて気焔万丈だとか、よい女房を世話してくれと云ったとか。又『紅葉随筆集』に如来の美術批評集(五色?の酒)の序が入っている。それらの本の頁に大きい紙を挾んで一つ一つ見せてくれ、しかし著作の方は一つもない、ということで極めてよく表象されている一生でした。父はよく如来さんのものを買ったりしたらしい。
さて、二十四日にその葬儀が終り、二十五日は疲れ休みで、丸善へジョーンズの発音辞典を買いがてら許可をとりにゆき、きのう二十六日に行くつもりだったらほんの一寸のことでおくれて、到頭あした迄のびてしまいました。ああ悲観した、フウ!と云っていたところ今朝お手紙で、随分うれしかった。
葬式が団子坂のお寺だったので、かえりに林町へよったら、国男へ本を送って下すったのが丁度届きました。テーブルのあのひとの席にちゃんと飾っておいて、わきから首をのばして開けるのを待って見たら、あれはいい本です。欲しいと思っていたし、国男の常識をひろくするによい本だから、およみなさい、きっとおよみなさいと申しました。この著者の『数学教育史』も面白いでしょう。寿江子についてもありがとう。私はこの子をすこしたすけてやって音楽史の仕事をまとめさせてやろうという計画があります。音楽史らしいものは殆どないのだから。島田へ送る本のこと、承知いたしました。
住居のことなど、なかなか動けません。栄さんと共同にやることは不可能ときまりましたし林町の裏は、私として、寿江子の家を無いようにして自分が住むということは出来ませんし。格別な智慧も出て居りません。
この頃の暮しを利用して体を丈夫にしようとしてお客でもないときは必ず十二時前に寝るようにして居ります。朝もしたがって早く徹夜は今こそ全廃です。熱川からかえってから皆元気そうになったとほめてくれます。大家(オーヤ)さんが垣根と門の腐ったのを修繕させている、大工の音。あした、ではお目にかかって、又いろいろ。よく風邪をおひきになりませんでしたね 
三月一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月一日第十信。
きのうも今日も夕方から風が出たが、いかにも春めいた日でした。うちのひさはすっかり上気(のぼ)せて、それも何だか春めいて見えました。
きのうは久しぶりでお会いして、あなたの着物の召しようがくつろいでいたのが目についた。三月に入ると火の気のないところの大気は本当にちがってきますね。やがて夕暮が美しい薄明になって来る、そしてエハガキの色どりが奇妙に鮮やかに活々(いきいき)として来る。今年は季節のうつりかわりが沁々感じられて、ああ春になったとよく思います。
きのうは、うちの話が中途でポツンときれてしまいましたから、先ずそれをつづけましょう。前便で大抵書いたと思いますが、家はなかなか簡単にかわれません。アパートなども一応考えるが、謂わば往来を区切ったようなものでね、ドアをあける。それっきりではこまります。雑多な人間のいることも種々不便です。アパートは考えられず、林町の離れは前の手紙に書いたようなわけ。夏まではともかくここに居ます。交通のことやいろいろの点を考えるとなかなか動けません。それに、この頃の生活は沈潜して勉強出来るし又するべきときだから、毎日を変に落付きのわるいものにしてしまうことは本質的に非能率ですから。それに私はやっぱりこの辺を大変愛しているのだと思います、ちっともうつりたくない。ですから家のことは当分御心配なさらないで下さい。依然として、この小さいながらもわれらの窓に灯火は輝きつづけてゆくから。
これから当分南風が吹く日が多いが、皮膚のゆるみで風邪をおひきにならないで下さい。寿江子はこの三四日風邪で臥(ふせ)って居ます。どうも大分見舞に来て欲しいらしいが私はすこしつめてやっていることがあるので、机にとりついてつい出かけない。三月三日のお雛様には達(たあ)ちゃんが女主人でうちの太郎まで御招待です。本間さんの一家がこの節は戸塚ですから子供の日で私は大いにたのしみです。この間は健造に将棋を一寸おそわりました。コマの名と動きとだけ。達坊は半年ばかり高田せい子さんのところで舞踊をやっていて、子供は語学と同じに、物まねから、いつの間にか体をリズミカルに動かすことを覚えていていかにも七歳の娘の子で面白い。健造はすっかり少年です。私もすこしはなぐさみというものがあってもいいから、健造先生に将棋でもならい、あなたから御指南いただきましょうか。偶然だの、単なる筋肉的なスピードだので競争するのはちっとも好きでないが、こういうものは面白そうに思う。十六七歳のころ私は五目をやってつよかった。何かの可能性を、これは語るものでしょうか。(笑声を書くということは小説の中でむずかしいと同様に、手紙の中でもむずかしい)
私は誕生日のおくりものに頂いた小旅行のおかげで、本当にこのごろは工合よくなり、無駄のない日を暮して居ります。だが、私はどうも一日に二つの仕事をふりわけにやってゆくことは出来ないたちだから、一二ヵ月何か生活のためにしなければならないことをやって、あと二三ヵ月は別のものにうちこむという風にやって行ったら、工合よく行きそうです。そういう風にゆけたら、そとからこまごまと切られないで、十分気を入れてやれて、随分うれしい。
きょうの手紙はどっちかというとゆったりした気持のものだからついでに書きますが、あなたは眼というものの微妙さをおどろき直すような感動でお感じになったことがあるでしょうか。私はきのう深く其を感じて来ました。こんな小さい瞳の中にあなた全体が入るのですもの。瞳から入って心にそっくり活きている。何というおどろくべき仕組みでしょう。眼ほど謂わば宇宙的な部分は人間の体のどの部分にもないと思う。眼のむさぼり、眼の食慾、眼のよろこび眼から眼へ流れるものは無辺際(むへんさい)的なニュアンスと複雑さと簡明さをもっている。私はよくよくそばによって、あなたの眼の裡(うち)にうつっている自分を見たい。私がそうやってよくよく見ているとき、その私の眼の中に近く近くあなたがすっかりうつっている。何というおもしろさでしょう。見ることのよろこびが余り大きいと、びっくりして私は見得る機能に対してまで新しい珍しさを感じます。
すこし又熱ぽいかもしれないが時候が今ですから気になさらず、どうか呉々お大事に。 
三月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月八日第十一信
この間三四日何と暖たかだったでしょう。東中野のところに在る三越の青年寮の大きい桜は、八重だのにもう七分通り咲いてしまいましたって。それが又きのうきょうの陽気で、さぞ途方にくれていることでしょう。机の上に、三日のおひな様のとき戸塚の花やで買って来た見事なアネモネがさしてあって、それは一昨日あたり今にも紫の粉を撒(ま)いて散りそうに開いていたのが、きょうあたりは花弁をすぼめておつぼの形です。ずっとお体は大丈夫でしょうか。熱はどうなったでしょう。すこしだるいようでしょう?今は誰でもそういう疲労感があります。
私はずっと工合よく保っていて、しかも相当うれしいことには、きのう歯の医者へ行ってしらべて貰ったら比較的良質の歯だそうです。いろいろ大した手当は不用で、左の下の奥が親知らずを入れて二本だめになっている、それを多分抜くでしょう。あと一つ右の上に過敏になっている箇所があって、それを手入れするぎり。お茶の水の文部省附属の方へ行きました。父もよく通っていた。そこはどんな人でも一度ずつ手当の費用を払い、すべての専門部があって安心です。世にも歯の手入れは辛いから、フーフー思っていて、きのうは大決心で行って、却って大安心しました。どうか御安心下さい。私がこんなに丸っこくて、頭脳的にやや酷使の気味で、それで糖尿的でもないし、齦(はぐき)も健康だというのは全くうれしい。益〃夜ねる前に歯をみがくことの効果を信じる次第です。
この頃は一日に八時間位の労働です。いろいろ視力をつからさないように注意をして。(春は目がつかれる)面白いことに出会いました。それはイギリスの中世の伝説の一つですが、或時、アーサ王が悪者の魔法をつかう騎士につかまってしまった。その悪者はアーサに謎を出した。すべての女が最も望むものは何か。その本当の返答が出来なければ国土を皆とってしまうという。アーサは苦労したがこれぞと思う答がないとき、或森の中で、醜さきわまりない女に出逢うと、それが答えを教えて呉れた。曰ク、すべての女の最も望むことは自分の意志を持つということですよ。
その答えでアーサは悪い騎士に勝ち、そのみっともない女は、その礼に美しい騎士を良人としてアーサから獲る。するとそれでその女にかけられていた魔法の半分がとけて、女は可愛らしい若い婦人の姿のままで一日の半分は居られる。良人である騎士に、夜美しい方がよいか、昼間うつくしい方がよいか、ときくと、騎士は初め、夜の間美しい方がいいという。でも、女としては昼間きれいで皆の間にいられる方がたのしいのだというと、男はその女の望みを叶えてやって、夜こわい方でもよいということにすると、それが最後の鍵で、女はすっかり魔法から解かれ、美しいまま生涯を暮せた、という話。
私は大変面白く思いました。七世紀から十一世紀位までの社会でつくられた物語の中で、人間力以上の人物であるアーサが解けない謎が、女の真の心持の要求しているものであるという点、しかもおそろしい魔力が、女に対する男の真の親切な思いやりでのみ、終に解けるとされているところ、大変に面白い。その頃の婦人の生活一般、男の理想と現実の両面が象徴されていて、いかにも面白く思いました。こういう物語は、今の世の中の少年少女にも教訓になるようなものですね。国男などには大いに有益です、ひとつきかしてやろうかしら。
この間うち隆二さんしきりによき結婚生活、特に芸術家の結婚生活について書いてよこします。貧乏だもので、おでことおでこをつき合わしているような夫婦が多すぎると。そして、真の夫婦というものは互により高い一人を求め合う面で結ばれているものだし、又一人で歩いてゆかねばならぬ、まじり合ってしまってはいけないとしきりに云って居る。何で感じたのでしょう。清少納言や何かひとりで暮していたことを書いて、ローマン的心持らしい。いろいろと微笑されます。勿論いい夫婦というに足りる夫婦は大変に尠い。それだけ互を人間として尊重し評価し愛して同体となっているのは尠いけれども、このひとにはまだ多くの、而も最も人間感情の微妙端巌なところが実感されていない。同時に、私はこの頃、深く深く、人間が一生のうちに、そういうところに近づき触れてゆける結び合いにめぐり合えるということの稀有さを、ひろい背景と考え合わせて感じ極まっているので、何だか無理もないようにも思えます。
それにしても生活というものは何とリズミカルで、変化するに応じてそれぞれの味い、豊富なものでしょう。あなたはいつか栄さんの良人に、いやな勤めの味を自分も知っていると云っていらっしゃいましたね。この頃私には其がわかります。いろいろ事情も条件もちがうけれども、感情においては判ります。私としては新しい境遇によって得た新しい収穫です。なかなかためになります。益〃根が深くなる。この人生に於て愛するに足るあらゆるものを愛す心がいよいよ鋭く水々しくされる。この三四年の間に、私が経て来た生活とその収穫の経緯は一本の道の上ではあるが、芸術家の生涯にとっては重大で、現在の事情も或意味ではこれまでの様々な経験が与えたと違った一つの意味ふかいものを私に与えるらしい様子です。
生活の全面的な関係だけが可能にする発育のモメントというものがある。正直に生きてそれにぶつかり得ることが既に一つの幸福であり、そこから何かましなものを学べることは、何という滋味でしょう。私は一箇の人間として、所謂(いわゆる)幸福と才能とのキラキラしたところを突破し得る何かが与えられていることを、心から謙遜になって有難いと思って居ります。俗人的でない生活力がみがき出されてゆくということは、真面目にありがたいことです。では又。これは地味な手紙だけれども、丁度この頃の土のように底に暖みを感じているよろこびの手紙なのです。翔(と)ぶような歓び、又こうやって地べたを眺めるような欣(よろこ)び。いろいろね。丁重な挨拶をもって 
三月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十一日夜第十二信
三月三日の、丁度私たちが戸塚のうちで盛(さかん)にお雛様を眺めていた時分書いて下すったお手紙、珍しく早くつきました。その返事を書こうとして机に向ったらこの近所にまあ珍しい三味線の音がして雨が降り出した。私は小さな薬局がひっくりかえったような臭いの口をして居ります。奥歯を二本抜いて来たので。どれの根にも膿の嚢(ふくろ)がついて居ました。レントゲンにうつっていた。よい工合にあとも痛まず出血もしません。ただかえり路はすこし体がフーとなったような塩梅であったが。
火曜日から三日ばかり(きのう迄)風邪になって床につきましたが、雪を見たら却ってさっぱりしてしまった。何にしろ不順ですね。ずっと同じ御工合でしょうか。
さて、私が小説について苦々しさがほとばしるといきなり書いて、本当にあれは唐突でした。何にしろ生き方のからくりの悪臭で皆相当当っているものだから。何を書くかより以前に何者であるかということ、について貴方もいつか被云(おっしゃ)っていらした。あの点です、私がああいう爆発を示したのは。相対的にましなものということは認めざるを得ない、それを十分自分から計量して、今時それ以上何がいるというのだという風に居直って、一般感覚で感じないところを、少数の人間が何と感じて居ようと平然と無視した振舞いかたで現実生活をあやつって居られると、芸術の本質から、一応ましみたいであることの悪質を痛感するわけなのです。抽象的な云いかたしか出来ないけれども。一からげは大丈夫です。私もこの頃は大分目も指もこまかく働くようになっていて、これは松茸(まつたけ)か松だけそっくりだがそうではないとか、大分わかります。
あの小説とは別のこととして、勉強ぶりについていろいろ楽しい期待をもって下さること、よくわかりますし、私も実にその点では云いようのない位、自分にもたのしみです。そのことでは私は自分の最大の貪慾と勤勉とを発露させます。そして長年の友達たちというものもありがたい、誰も皆そういうたのしみは持っていて様々の形で期待して呉れます。私にとって一番こわいのは自分が、わるい作家になるということです。窮局に於て、それよりこわいということは存在しない、と思う。私は作家としての生涯の豊饒なるべき時期にめぐりあった新しい条件を、真の豊饒さのために底の底まで活かすつもりです。充実した時間を送って居ります。きのうからきょう、きょうから明日と、長い見とおしと計画とによって充実した力のむらのない日を送り迎えることはなかなかつくし難い味です。
健ちゃんがそろそろ語学をはじめるらしいが本当にいいことです。語学の実力は小さいときからやったものにはかなわない。いざとなると私の英語がいきかえって来るのを見ても。達ちゃんの舞踊の如きも同じで、歯の手入れ、音楽、語学は子供からです。
鶴さん又盲腸で臥ている由。清三郎さん大元気です。おひさ君本当にやがて一年東京に暮すことになります。早いものね。さち子さんがお手紙をもって来て見せてくれました。桜草がきれいらしいこと。十五日にはてっちゃん御夫妻が初見参です。あなたのところへ二人で行ったかえりによってくれたのだそうですが、その日は私が留守でしたから。お手紙がついたとの話でした。地図と本つきましたか?近々『六法』その他お送りします。又月曜日位にお目にかかりにゆきますが呉々お大切に。どてらとネマキの小包はつきました。あれも歯医者のように匂いますね。では又。
歯をぬいたせいかしら、いやにふわりとした腕の工合で妙です。 
三月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十七日第十三信
十四日には元気そうな御様子でいい心持でした。庭へ出られるようにおなりになったのは何とうれしいでしょう。往来から見ると壁のあたりに樹も見えないが、花なんかやっぱりあるのでしょうね。ヨーロッパと東京にこの頃肺気腫の患者が殖えて来る傾向なのでしらべたら、アスファルトの微細な粉がいつか肺を刺戟して、そういう病にかかりやすくなるのだそうです。一日に地べたを踏むことがない人、いつもアスファルト道しか歩かない人は、一生のうちよほど体を参らすらしい。ひどいものですね。郊外に住むということが益〃贅沢の一種になるわけです。
先ずお父さんの御様子から。昨日お母さんからお手紙が来ました。実にいいあんばいに熱もすっかりなく、医者(秋本ですが)も大丈夫と云ってびっくりしている由。食事は朝牛乳一合、おひるおかゆ一杯お汁、おろし大根とさしみ。夕略(ほぼ)同じ。衰弱もお回復で「血色もまことによくなりましたから決して御心配下さいますな」そして食事の外は「いつもおとなしく休んでおります」「顕治にも心配せぬようお伝え下さい」とのことです。
島田の方はお医者様が何人か出征して、五ヵ村に秋本さん一人です。その医者で御なおりになったのですから、実に万歳ですね。私は殆どびっくりするほどであるし又しんから嬉しい。あなた方の体質はこういう型なのですね。私の方は父ゆずりで溌溂(はつらつ)としているがしんが脆(もろ)い(生理的に)。
あちらでも遠いところをと云って居らっしゃるしするから、急に行くことはやめます。そして四月になって一段落をつけて、一寸御様子を見て来るかもしれません。野原の方も冨美ちゃんが三月二十七・八日頃女学校の入学試験です。入ったら本を二三冊と万年筆をお祝いにやろうと思って居ります。あちらももう一周忌です。何かお供えの品をお送りしようと考え中です。
一昨夜やっと大観堂へ出かけました、宿題を果すために。そしたら、お金をお送りになっているのが一寸見当らず。ともかく『真実一路』と本庄氏の『日本社会史』を店からお送りします。土屋氏の本は手元になく、本庄氏の『農村社会史』という方は大観堂目録にない様子です。近日中に行ってもう一度しらべます。
丸善の方もちゃんと命じました。松山高校へも出しました。私のやりかたは可笑(おか)しくてすぐやってしまう分はいつもちゃんちゃん行って、一遍落すとなかなか落しっぱなしになってしまう。そちらでは、落された部分が却っていつも気になるのが自分の経験でわかっているのに。あなたの忍耐を、私までためさないでいいのに、御免なさい。毛布と着物と二包みにして送り出しました。着物はすこし寸法が短い目に仕立ててあります。でもあれは私たちのお気に入りの紺の方ではないから、まああれで一通り召して下さい。毛布はすこし毛のうすくなっているところもあるが。
今村さんの亡くなったことはいつか一寸お話ししたと思いますが覚えちがいであったかしら。友達たちはあのひとのために実によくつくしてやりました。それから九州の兄の家へかえってそこでも自分が思っていたよりはよく扱われていたが、遂に亡くなりました。詩は集に入っているののほか、雑誌にのったのも、大体はわかっているし、とってあるようです。今野さんの詩もやはりまとめてとってあります。あのひとは兄さんの家庭があるだけで、あのひとのあとで困っている家族はないのです。
エドガア・スノウの本(自注3)が半年かかって到着しました。見せてあげたいと思います。きょうの手紙は大変家事むきのものになりました。これから二三時間仕事をして、それからもらった切符で前進座を見ます。皆ここのひとは上手(うま)くなりました。山岸しづ江さんなども。阿部一族(鴎外)の映画は好評です。今日は江戸城明渡し(藤森)です。では又。どうかそのお元気で。

(自注3)エドガア・スノウの本――エドガー・スノウ『中国の赤い星』。 
三月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十日第十四信。
今夜は何という春めいた晩でしょう。
この頃は、昼間は落付かない風が吹いていやだが、夜になるといかにも和らいだ空気ですね。灯をうけて紙に向ってさっきから仕事をしている。紙の上にペンの音が響き、ずっと遠いところを電車の音もしているが、人声はどこにも聞えず、大変心持がよい。明るさの中に何か微粒子が動いているようで、手紙を書かずに居られません。一寸ペンをもったまま傍をふり向き、この夜とこの一種の静かさの裡で顔を見たい。見えてはいるのですけれどもね。そこに在るのだが、私が顔をもってゆくと空気が動いて、心が自分の優しさに困惑する。
これからこういう夜がつづいて、ますますいろいろ勉強したり、考えたり、書いたりしたくなることでしょう。本当に静か。きのうの晩、栄さん夫妻あてのお手紙をみせてくれました。相変らずピーピー暮しだろうとは図星故、大いに笑いました。でもあすこは栄さんがああいう生活的な人柄だし、ピーピーながらも抑揚をもって毎日をすごして居ります。
話が唐突に飛ぶけれども、しゃべりつづけていなければならないというのは、何といやでしょうね。何もしゃべらず、ただ見ていたい、見て、見て、見ていたい。そう思う。尤も昏倒(こんとう)してしまうかもしれないけれども。
明日あたり『六法全書』『国勢図会』などお送りしましょう。ああ、こんなにしてあれこれといってみて、いいたいことはこのどれでもないというようなのは、おかしい。そして、苦しい。
自分ごとみんなまるめて、一つの黒子(ほくろ)にしてそこへつけて、眺めて、さて、この下じきになっている紙に向って又仕事をつづけましょう。
きょうは三月二十三日の午すこし過です。雨上りの曇天であるが、窓をあけていると盛にどこからか雀の囀(さえず)りがきこえてきて朝のようです。昨夜は新響の定期演奏会でマーラーの第三交響楽でした。ひどい雨降りのところをあまり机にへばりついているので、意を決して出かけ面白かった、いろいろ。女声のアルト独唱や子供の(といっても若い女学生をつかった)合唱のついたもので、独唱の歌詞はニーチェの詩ですが、音楽でも神秘くさいものをほんとに幽玄にはなかなかやれないものね、すごむばかりで。それにつづく光明的な楽章に子供が合唱するのですが、それは教会のベルや神の栄光がうたわれる。ヨーロッパ人の感情の型づけが、あまり定型的に出ていて、ベートーヴェンはこういう型にしたがわず、もっと人間感情を生粋(きっすい)のまま、全く音楽的に様々の情熱を表現しているだけでもやはり偉いと思いました。人間生活の諸相につき入ること、それ以外に芸術はない。その諸相をより全体的にとらえ得るためへの努力以外に努力はないと今更の如く感じます。
きのうは又、知っている人に割引で岩波の斎藤の『中辞典』を買って届けて貰い、うれしかった。なかなかいい字引です。活字が第一やたらに小さくなくていい。そして豊富にあつめてあって、こんなのと、オックスフォードと、市河の古語があれば、まあ大抵の役には立つのでしょう。非常な勢でやっています、早くすきなことがやりたいから。
それから、かねがねの宿題の返事がやっときました。松山高校内菊池用達組販売部という紫のゴム印をおして。鉛筆をなめなめ書いた字で、先ず「お葉書正に拝見いたしました」云々と、女の字で書いている。今も菊池の由です。「以前の帳簿は保存してありますけれども本店主人及店員の主なる人は、目下戦地へ行って居ります為、金額は不分明に御座います。それで宮本顕治様のお名前はよく覚えて居ります。お払未納の分をお心にかけられお申越しでありますが」何程でもよろしいと申すわけです。いくら位だったか覚えていらっしゃらないでしょうね。よほど前には三円いくらといっていらしたが。五円位やっておきましょうか?越智という人のあとは四人目でお上(かみ)さんの住所は分りかねるそうです。松山の学校は指田町というところにあるのですかしら。あさってあたりおめにかかりにゆきます。繁治さんの詩を一つ『文芸』にやりました。
私は林町のうしろなどへ行かないでよかった。実によかった。よろこんでいます。ここにこうしていてこそ新しい事情の新しい収穫がくっきりと身につくのです。それをひしひしと感じて居ります。
沈丁花という花の薫り、そこにも匂いますか?この辺は夜など静かな往来いっぱいに漂っています。では又。春先の風邪を御用心。 
三月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二十九日第十五信。
午前九時前の朝の光をうけて、あなたに手紙を書くというのは、大変珍らしいことでしょう。昨晩は十一時頃床(とこ)に入って、非常にぐっすり眠って、けさはおひさ公と一緒におきてパンをたべて上って来たところです。
あなたのところでは、今朝はどんなお目醒(めざめ)でしたか。やっぱり気分がよかったかしら。そして、永い間横になって目を開けて、朝の目醒のいろいろな情景を思い起していらしたかしら。
金曜日は、出かけにうすら寒かったので、ああやってお目にかかったときはコートを着ていたが、ずっと広っぱの水たまり道を歩いているうちにすっかり暖くなってしまって、鋪道へ出たら、街路樹の支柱へハンドバッグなどのせて、コートを脱ぎたたんで持ってかえりました。そしたら、女学校の上級生であった時分、女子大へ一寸通っていた時分のことをはっきり思い出した、朝雨がふってかえりに晴れている。すると、私共はその頃和服で袴の上にバンドをつけて通っていたから、合羽(かっぱ)をたたんで、お包みの下へもって、傘をもって、袴に靴という姿で、大いに気取って歩いたものでした。その時分は、森鴎外も、私が肴町へ出る時刻、馬にのって、立派な顔立ちでよく通りました。
土曜日は茂輔氏の『あらがね』(小山出版)の会でいろんな人の顔といろんなテーブルスピーチをききました。高見順君「テーブルスピーチというものをやります」という冒頭。
日曜日には、わが家として特筆大書すべきことがありました。子供たちが皆一年だけ進級したので(達枝は来年だが)そのお祝いをしてやることにしてあった。子供は大楽しみをするからあまり前もって云って、何かさしつかえると実に相すまないから前晩までふせておいて、日曜日は栄さん、本間さんの細君、ひさ、私もちょいちょい手伝って、お釜二つに五目ずしをつくりました。細長い台を二つタテに並べたところへ、高女四、高等二年六年三年三年と並んで、賑やかに食べること、食べること。私は前掛をかけて首をまげて見物していて、「一寸ゆっくり、沢山たべなけりゃだめだよ」とか「お腹ギューギューならバンドおゆるめ」とか云っている。「もうさっきゆるめちゃいました」健造は総代だったって。新しい服がすこし大きいので首が細く見えるのもいかにも進級風景です。健造新らしい服のせいか膝にハンカチをひろげて食べている。別に何とも私は云わなかったが、この子の性質が出ている。ハンケチなんかかけないでいいし、思いつきもしない方がいい。年よりがいるとちがうのかしらなどと思って眺めました。女の子二人はもう大きくもあるのだが、男の児等とちがっている。稲ちゃんも私も女びいきのくせに男の児の方がすきで、面白い。男の児みたいに面白い女の児がざらにいるようにならなければ嘘だと沁々思います。男の児はどれも、どんぐりでも、何かくっきりした輪廓(りんかく)をもっている。粒々がある。だから面白い。女の児は女の児という一般性の中に流れこんでいて。
夜、又あとから寿江子、さち子来てたべて、総計十五六人が出入りして、私はすっかりくたびれました。いい心持に堪能して。子供らをたべさせたりするのは実にいい気保養です。これからたまにやることにきめた。
きのうは、雨であったが一仕事してから慶応病院へ古田中という母の従妹に当る夫人の見舞いに出かけ、途中三越へまわって貴方御注文の羽織紐を買おうとしたら28日でやすみ。8の日はああいうところは休日です。近所の店で買いました春らしい色をしている、胸の前に一寸下げて下さい。私もふだんのを一つ買った。赤い縞のついているの。
きょうはこれからずーっとやって、午後は栄さんのところで例のノエ式をかけて貰おうかなど考えて居ります。背中がつかれているから。まるでトンネル掘りの土工が、そらもう一シャベルとはり合をつけてやるように、せっせせっせとかかっているので、頭より背中がくたびれる。しかし生活が与える新しい経験というようなものは実に面白い。
冨美ちゃんの試験は26,7日で終ったわけですがどうだったろうかしら。体が腺病質なので。東京の小学校では、体によって肝油をやっています(金を払ってですが)。あっちではそういうことはしない。三十日すぎたらきいてあげて見ましょう。
新協で朝鮮の伝説春香伝をやっている。「若い人」(映画)の女主人公をやって好評であった市川春代が春香にとび入り、赤木蘭子を対手の男にしてトムさんレヴューばりです。まだ見ない。近いうちに行きたいと思って居ります。原泉、病気をおして春香のおふくろさんをやって居ます。どうかお元気で。きょうもこれで余り暖くもないようですね。又近いうちにいろいろと書きます。 
 

 

四月五日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月四日第十六信
落付かない天候ですが、ずっとお体の調子はつづいて平らかですか。けさおきて、下へ行ったら、例の茶箪笥(ちゃだんす)の上に、桜の花の枝がさしてあったので、おやまあ、どうしたの、と云ったら、往来でどっかのお爺さんが太い枝をおろしていたのの、あまりを貰って来たのだそうでした。仄(ほの)かに匂う。何年も前、国府津で、四月六日の朝、長テーブルの青銅の瓶に活けられていた奇麗な山桜の房々とした枝を、忽然と思い出しました。枝の新鮮な艶を帯びた銀茶色がやはり似ている。花はずっと貧弱だけれども。それから上へあがって、物干しに上って四方(よも)の景色を眺めたら、あちらに一本、こちらに三四本と八分通りの桜が見えました。そこには桜の樹はなさそうですね。
ところで、冨美ちゃんは、室積(むろづみ)の女学校へ入ったそうです。お祝に字引きをやりましょう。室積に通うということは、つまり元の野原の家に住みつづけるということでしょう。それなら体のためにも、気分の落付きにもよろしいでしょう。広島というせわしない町の、ごみごみした一隅へ急に移ってはどうかと思って居りました。あの子は肺門淋巴腺をやりましたから。
ひさの弟も中学をうけて、一・二番だったが落ちたそうです。それに姉がお嫁に行くので、そうなると、実家に手がなくて、かえらなければなりそうもない。それで、当人も大いに悲観している。こまったよゥと悄気(しょげ)ている。世の中つ(ツー)は思うようにならんもんだ、と。私の方も彼女より少く悲観しているのではないが、そうきまったら又仕方がないから誰かおひさ公にかわりを見つけて貰ってなどと考えて居ます。誰もいないでよければ一番単純なのだが。鼠とさし向いでは永もちがむずかしいから、そろそろ対策を考えましょう。
支那の文明批評家で林語堂という人がものを書いていたのを一寸よんだら、欧州の作家を引用して気焔をあげている中に、昔からの支那の椅子は威儀を正して見せるためであって、体をくつろがす目的でない。そんなのは嘘偽であるから、自分はティーテーブルでも何でもへ足をあげて楽にすることにしていると、勇気凜々(りんりん)書いていて私は笑い出したし、同時に所謂ハイカラーというか一面的合理主義を感じて、複雑な感想をもちました。このひとは胡適と並ぶ人の由。ですから、支那の現代文学の一方の面が感じられる。魯迅が、立腹して批評している現代支那文学の性格の一部がわかって面白く感じました。
『漱石全集』の中に、初頭のロマンティックな「幻影の楯」、「カミロット行」(これはむずかしい漢字)というような作品を覚えていらっしゃるかしら。漱石は時代の面白さを反映していて、そういう外国のロマンティックな騎士物語の中では、火のような女を愛して、興味を傾けて描いている。焔の如き彼女の思いをも支持して描いている。ところが、リアリスティックな日本の女を描くと、終始一貫心驕(おご)れる悧溌な女(「虞美人草」藤尾、「明暗」おとしその他)と、自然に、兄や親のいうがままの人生を人生と眺めている娘とを対比させて、その対比でいつも後者をより高く買っている。その点実に面白い漱石の男心ですが、その初期のカミロット行の女主人公になる、ゲニヴィアという王妃の恋物語を、漱石は十八世紀の英文学の古典を土台にしているが、その書き方が(マロリー)車夫馬丁の恋の如しと云って、高雅にあでやかにと自分で書き直した。あでやかさ、高雅さが装飾的で、初期の漱石の匂いと臭気が芬々(ふんぷん)である。さて、その元となっている物語と、同じ時代のウェイルズの伝説の文章とは実にちがって面白いのです。マロリーは騎士道という観念で書いているのだが、ウェイルズの伝説は、民衆の富とか、公平とか、物の考えかたをこまかに具体的に出していて、つまり常識が日常生活の中で作用しているとおり出ていて面白い。着物だの、食物だのいろいろを、素朴で現実的な山国人らしく観察していて面白い。昔のその地方の一般人の感情がはっきり分る点が面白い。いろいろと面白いことがあるのですが、それは又いずれ。
桜が咲いて、風だの雨だのがある。花に風というと皆は今日思わず笑うが、特に関東地方では全く、花は風にもまれるために咲くようですね。フィリップという作家の祖母は乞食だったそうです。フィリップはそういう祖母をもったもう一人の大作家と余り年代がちがわなかった、ちっとも知らなかったけれども。では又。お大切に。私は七日頃に行こうと思って居ります、お目にかかりによ、島田ではなく。 
四月十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十日第十七信
七日には妙なべそかき顔をお目にかけてすみませんでした。全くの愛情と正当さから云われたことだのに、あんな顔になってしまって、さぞ当惑なさり、おいやだったでしょう。御免なさい。
あの日は、前日からいろいろと何年も前の日や夜のことを思っていて、感情がそのように傾き、心持が皮膚をむき出していたところへ、本のことや何か、大変苦しく感じた上だったので、思わず、そっちの感じがこみ上って。何年めかに私のべそをかいた顔を見せて、やっぱりあの上気(のぼ)せた顔が、貴方の目にのこっているでしょうか。話が短い時間のために、一面にだけ区切られ、そうは分っていても、出た面だけがともかく一応その日からこの次お目にかかる迄目の前にちらついていて、何だか苦しいこと。私はその点では全くいくじがないと思う。あなたの目つき、顔つき、肩のありよう、そういうものが、感覚的に苦しい。貴方が不本意であるというそのことが、既に切ない。
お話のことは、その本質の深さや正しさや意味の含蓄が、非常によく分りました。
せき立てられるようにして聴いたり喋ったりしていた時とは比較にならずよくかみこなしてわかって来ました。私としては主を従にして考えたつもりではなく、確にあわてたこともあり、且、永続的な条件に対して何か備えたいと考えられたからでした。主を主とするために、と考えた。だが、そう云っていてはきりがなくなると云われ、将来の自分の時間というものを勝手に都合よく予約ずみのように考えていたことが、誤っていたと思います。私の事情として、今二つに分けて考えるのが抑〃(そもそも)という点も、その心持のぐるりを細かにしらべて見れば、やはり貴方が指し示して下すった点の重要さがわかります。本当にありがとう。あんな短い時間のうちに、これだけ大切なことを云って貰えたことを私は感謝するし、又、貴方としたら何か歯痒(はがゆ)かろうとすまなく感じます。あの足場から、この足場へと、はっきり着々と堅固にのぼってゆく途中で、次の岩の方へ手をのばしながら、頓馬に首をのばして下をのぞいているみたいであった。
登山の初心者はこれをやって、そしておっこちたのでしょう。貴方のこわい顔でそこ、そことさされ、その地点の性質もよく見きわめたし、足がかりの刻みつけかたも、分っていたところと一層ウム、成程と身に徹(こた)えた。このことについては、ここに書き切れない位の感謝があります。本当に私のありがたく感じている心をうけて下さい。このことは当座の役に立つきりのことではなくて、何か生涯の一貫性のことですから。芸術家としての。
私たちの経済については、すっかり貴方の仰云るとおりにしてやってゆきます。そしてすぐ又つづきの仕事に着手しますが、もう十日ばかりは辛棒して下さい。ひとの好意に対する私の義務というものもあり又そのひとが他に負うている責任もあり、それだけはさっぱりと果すのが本当だと思いますから。
貴方に指されて、わかり、わかろうとする誠実さをもっているというのが、せめても私のとりえであるけれども、私とすればちっとも威張れたことではない。人間の出来ということについても考える。随分身も心もしめて、いるのだけれども。そして、そう考えると涙がこぼれる。出来が粗末なところのある人間だと考えると、大変悲しい。いつでも。最も重要なことが、人生について、芸術について見とおせるような実力のあるものになりたいと思います。
この間、私は何かつべこべ云ったようで心持がわるいけれども、あの折の心持で、何だかすっかり主を従にしていると思われているのではあるまいかと、びっくりした心配な心持になったので、あれこれ並べたのです。でも、考えて見れば、それはぎりぎりのところでは、当っている観察なのですが。勿論今はそのことも分っているのです。
丸善へ行ってきいたら、分類目録はつくれないのだそうです。只今のところ。為替がどんどん代るし、本の種類のよしあしもかわるので。しかたがないから『学鐙』と一緒に『アナウンスメント』をお送りして貰うことにします。『大尉の娘』は東大久保の家で見つけ出しました。プーシュキンの全集とゴーゴリ、チェホフなどあります。順々にお使いになれます。
他の本、今明日うちに届くからお送りします。生活の細々した日常のことは、ちゃんとした筋がとおっていれば、それに準じておのずから整理され、純一されてゆくものですから、どうか御心配なく。まさか私も、小道具で舞台を見られるものにして貰ってゆく役者ではないから、その点は本当に御心がかりなく。
手紙をかきながら涙をこぼしたりして。人生の過程の様々の瞬間について考える。小さなような、而も深い深い有機性をもっている畏(おそ)るべき底広き渦紋が在る。或るほそいほそいすき間からさして来ている光線は一条であるが、その彼方に光の横溢があるというときもある。私はその渦やそのすき間を、感覚にまで浸透して感じ、目撃することの出来るのを、おどろき、うれしくありがたいと思う。これは、七日の貴方の非常に優れたおくりものに対する謙遜な妻の礼手紙です。では又ね。 
四月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月十八日第十八信
さて、この間九日に手紙を書いて、きょうは九日目。手紙を、あれを終ってからさっぱりとして湯上りのようにあなたに書きたいと思って、きのうも一昨日も、ああ書きたいと食慾のように感じながら辛棒した。
この手紙はそれで、今、私への褒美(ほうび)というような工合で書いているのです。
それでも、私はやっぱりやり通してしまって、一種の満足があります。丁度家の掃除をせっせとやってやれいい心持と感じているような工合で、大して自慢するようなたちのものではないけれども、やっぱり一つのことを仕終ったという快さはあります。貴方に云われたいろいろのことを非常によく身に泌みているので、決して洒々といい心持がっているのではないから、この一寸した満足感を喋るのだけ何卒(なにとぞ)苦笑して黙ってきいていらして下さい。私とすれば、やっぱり第一に貴方に云いたいのですもの。
この次お目にかかる時は、もう私はちゃんとした勉強にかかっています。気をひかしたりしないで、貴方に喋れるのは何といい心持でしょう。
今のところ、ひさもいつかえるか(国へ)わからず、ずっと落付いて居ります。
その後お体はどうでしょう、順調ですか。ひどい風の吹く季節もすぎ、きょうは荒っぽい天候だが、東の窓を机からふりかえって見ると、濃い鼠色の嵐雲の前に西日をうけた八重桜の花が枝もたわわに揺れて美しさと激しさの混りあった光景です。欅の若芽も美しく北窓から見える。今年私たちは恒例のピクニックもしなかったら、この頃健坊たちがしきりにどっかへ行こうよと云うので、多分来週の日曜日にはどこかへ奥武蔵辺へつれて行ってやることになるでしょう。
親たちと私とは一昨日春陽展を上野で見ました。木村荘八、中川一政、石井鶴三、梅原龍三郎の諸氏の画境について、実に何とも云えぬ印象をうけて来ました。中川一政の昔の画集に巣鴨の昔のそこの附近を描いたものがあったりして独特の味をもっていたが、この数年尾崎士郎や芙美子女史の芝居絵のような插画を描きまくっているうちに、画技は衰え、しかも文筆の上で妙なポーズをかためたのが却って画家として他に語る方法を可能ならしめたこととなり、実に熱意もなければ愛もない画を出している。鶴三はレビューを油で描くのはよいとして、その見かた描きかた、「こんなのもやりますと云っているようだね」という評が適切です。これを見ても、私はそう云っていてはきりがなくなる、と云われた貴方の言葉を思い出し可怖(おそ)るべしおそるべしと毛穴から油あせを感じた。先生先生とぺこぺこされ、金になり、描くほどに金になってゆくと、こういう袋小路につまるのですね。往年の春陽会の気品というようなものは熱心と探究心とを失って、まるでお話になりません。これから見ると、国画展の方が生気があり、ましで、一枚一枚を見ようという気をおこさせた。
いつか、麦遷と溪仙(ケイセン)との遺作展があって偶然見たことを書いたでしょうか……土田麦遷という男が展覧会の大きな大原女などで試みて居たものが、そこにあった花鳥小品にはちっとも徹底していないで、全く平凡な色紙絵のようなのにおどろいたこと、書いたかしら。溪仙の方は碧紺などに独特の感覚があり、空想力もゆたかでたのしんでいるところ遙かに面白かった。
何か色の絵はがきを送って上げたいと思って、上野では暫く見たがろくなのがないからやめてしまいました。
ところで、改造の本ですが、あれは品切れで(本やは絶版と云ったが)一寸手に入らないので、改めて古本屋にたのむことにいたします。三笠のは配本を中絶したので大変おそくなってしまいましたが、古いのお送りいたします。
今六時がうつのに、まだ明るい。
この手紙はまとまりのわるいようなものになりましたが、まだすこし気が立ったところがあるので、あしからず。そちらからはなかなか来ないこと。それだのに九日間かかず、それを知っていて、却ってごたごたやっている間に又のめのめ書くということが出来なかったのです。こういう心持も貴方はよくわかって下さると信じます。では又御機嫌よく 
四月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十三日第二十信
きょうは小雨が降っている。静かな明るい雨。いろいろな緑の色が雨に映っているような雨です。
きのうは、外へ出て広い空地の方へ行ったら小さい雨粒が一つポツリと額に当って、降らないうちにと大いそぎで、黄色い鼻緒の草履で歩いた。それでも家へついても大丈夫だったけれども。
昨夜は、本当に楽々としていい心持で眠りました。そちらはいかがでした?あの小さいところが開いて、そこから溢れて私をつつんだ心持が、私の心と体とにずっと今ものこっていて、何とも云えず安らかないい心持です。私たちは互に顔を見合わせたとき、いつでもきっと、この前会ったときからのはっきりした心持のつながりの上で、合わせばすぐぴったり合う切りくちで、互に顔と顔とを合わせる。これは本当にありがたいことだと思います。きのうはうれしかった。けさ夢のなかで、私のてのひらがまざまざと頬の上を撫でて、近くある眼とその手ざわりに感動して、優しい呻り声をあげて目を醒しました。そしたら静かに雨が降っている。きょうはそういう工合の日。
さて、私はいよいよ伝記の仕事にとりかかります。大変面白いものにします。いろいろな角度をこの評伝のなかに反映させ、最も豊富な人生と文学との流れの美しさで貫こうというつもりです。
芸術の仕事は、勿論目前に読まれることが大事だが、読まれないからと云って何も変るものではないし、私は芸術の仕事にきのうきょうとりかかっているのでもないから、張り合いを失うということもそう大してないと思う。逆説的に云えば複雑な形で、大層大きい期待と張り合とがあるようなものです。だから、大変だから一層本気で暮さなければということの実質がここにあるのだと思うわけです。
ずっと昭和文学史補遺のようなものを、年々まとめて書いておくことも大事であると考えて居ります。昨年の末から書いた現代文学の展望のつづきとそれ以後の作品の現実について。これは有益なことであるから必ずやるつもりです。
文学としての諸潮流のありよう、或はあらざる有様もその変遷もなかなか面白い。
昨夜一寸『婦人公論』を見たら、ラジウムのキューリー夫人の伝をその娘の一人が書いているのをよみました。キューリー夫人が、女としてどんな幸福な妻であったかということ、その豊富な夫妻の共感共働が貧窮の灰色をさえ光らせているのを見て、感じるところが実に深かった。世の中には見事な生涯を送る夫婦というものが、いろいろの形でどっさりあるでしょうが、キューリー夫妻は、その傑作であったと思う。今のある種の若い人々にこれをよませると、ともかくそれだけ熱中出来る目的があったのだから幸福ですわ、というでしょうね。目的のないこと、才能のないこと、それを自覚しているというのが賢さの一モードであるから。同じ『婦公』に出ていて面白く感じたことは、現代の若い婦人への注文でいろんな先輩が、誰でも云うことをそれぞれ部分的に云っているが、今日の若い人々のリアリズムが、生活上負けた形でのリアリズムであることを指して居るのが一人もなかった。
その結果から生じている現象だけをとりあげていて、それがいけない、と云っている。実生活でその人々自身負けているリアリストで、ただ人間的理想というか、或る道義感というか、そんなものでだけ注文をつけている。自分が生活の経験を重ねるにつれて、現実にまける度がつよくなるにつれて、反動として青年に純粋なものを求める人々の感情をこの頃深く観察します。丁度中村武羅夫氏の純文学論のようなもので、自分が書くものはああいうもののために、芸術作品を云々するとひどく息まいて来る。人生の一波一波をその身で凌いで、いるところでものを云い、書きするということ、芸術家のとことんの力はこれできまるようなものですね。その抜き手のためには何とつよい腕と肺活量がいることでしょう。
松本正雄というひとと鉄兵とがバックの短篇を訳したのを六芸社から送ってくれました。主として、はじめのひとがやったらしい。読んだらお送りして見ましょう。茂輔さんの『あらがね』も送って見ましょうか。スノウの本はすこしお待ち下さい。
寝汗せは例外として出るのでしょうね。どうか呉々お大事に。これから夏にかけて、又十分気をつけましょうね。私の盲腸は、はと麦と玄米と黒豆とを煎(い)って挽(ひ)いたものを煮てのむことで大分つれなくなりました。では又。寿江子のことを書くのを忘れた。この次、別に何でもないけれども。 
四月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月三十日第二十一信
さあさあと水道を出して洗濯ものをゆすいでいる音がしている。風呂場では水道の栓が来ていないから流し元でやっている。風の音が裏の電車の響を運んで来る。そしてすっかり障子を閉めていても、裏の北窓から見える青い空と気の遠くなるような欅の若葉の青々とした色と重みとがこの紙の上までさして来ているような心持。本当に初夏になりました。お体はいかがですか。やはり時々は寝汗が出るようでしょうか。どうか御大切に。リンゴをよく召上れ。よくすっかり噛(か)めば腸にももう大丈夫でしょうし、腹の健康を増すためにもよいと思います。東北大で赤痢をリンゴ液で癒す実験に成功したこといつか余程前にも申しましたね。そう云い乍ら私自身は大して食べられないような工合で威張れないが。
きのうは祭日で歌子さんが休みなので、少々慰問のため、裏の武蔵野電車で二十分ばかり行った大泉の野原へ栄さんと三人で午後から歩きに出かけました。赤松とくぬぎ欅の雑木林の多い、いかにも高原風な風趣のあるところです。風致地区になっているので、やたらに家も畑もつくらせず、自然の草道が切りひらかれた雑木林の間に遠く消えている。その見とおしが心をひきつけるのであすこへ行って見たいとつい歩く。そういうところで、景色の北方めいた荒さその中に流れている優しさが、実に私の好みに合うところです。上り屋敷から22銭でそこへ行ける。よいところを見つけ出したものだと大満足です。しかしここは大人のしかも音楽を好くような人間の或種の人を魅するのであって、太郎などは駄目。第一お猿がいないし驢馬(ろば)もいないし。
太郎親子は一ヵ月余国府津で暮しました。そしてかえって来て太郎を幼稚園につれて行ったら、アアちゃんの手をぎっしりつかまえて一言もきかず。門のところで大いに泣いたそうです。幼稚園には先生がいます。ところが太郎にとって先生というのはこれまでの生涯に医者しかない、白いおべべの先生と云う言葉のために、欲しいお菓子もやめさせられたのです。幼稚園へ行って見たら先生がいてしかも白いものを着ていて、見馴れぬ小さい子供たちが口々に先生先生と云っている。太郎の満身に汗が出た心持も分る。大いに同情いたします。しかし私は大変おばちゃん根性をもっていてむっちりしていて、而も勇気のある、リズムのある少年太郎を大いに待望しているのだが、どうも。子供は子供自身のものをもって生れて来るから仕方がない。ヴェトウヴェンはオットウという甥をもっていて熱愛した。甥はぐれて、生涯伯父に厄介をかけました。が、その手紙に曰く、伯父上あなたは実に立派で実に偉大な人間の愛情をも持って私に対して下すった。けれども、私の生れつきに対してあなたは余り正しすぎ立派すぎ美しすぎ、自分に迚もその真似は出来ないと思うことから私はよけいに下らないわるいものになった。もっと下らない平凡な伯父であったら、私は平凡ではあってももうすこし世間並に暮したでしょう云々。勿論これは成り立たない弱者の逆(さか)うらみです。しかし現実の生活の中にこれはどの位あるでしょう。本当に、どの位微妙な程度と変化においてあるでしょう。そして、この人生に真理と美とをもたらそうとする人々の、其々の心くばりというものが、どんなにこまやかにまめで、うむことをしらぬ多様さ、堅忍、己を持することの高さの故の親しみ易さがいるかということも痛感します。人間を見くびらないが甘くも見ない、しかし真に人間の力を信じている人間というものはすくないが大切な存在です。
寿江子はこの間私と行った熱川に2円の家(一ヵ月)をかりました。明日あたりそちらへ行くでしょう。この頃インシュリンの注射液は輸入統制をうけて居り、重い傷のために必要で病院でも代用品です。寿江子の糖がすこし多いので、暫くあちらで暮すつもりらしい。国男はよい折に車を小さいのにしておいたと云って居ります。ガソリン券というものをわたされました。ああいう小さいのは一日つかえますが、アメリカの馬力の大きい車パッカードその他は夜になるとガソリンがなくなります。バスやタクシーの少なくなる不便を電車の長時間の運転で補われる由です。ここに住んでいてよかったと思います。省線の価値は大したものですから。達ちゃん達もこれまでのようにはトラックが動かせますまい。紙がなくなったので今日はこれだけ。私は今文学史補遺的仕事をして居ります。半期ずつまとめての通観です。では又 
五月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(封書)〕
五月九日
島田の家の表通りに近い方の二階の机でこれを書きはじめました。風が出て、曇天。鶏のコーココと云っている声や雀の囀(さえず)りが聞えるのに交って、竹の葉がカサカサと乾いた音を立てている。何だか暮のようです。この竹の葉は達治さんのためにあちこちからおくられた旗の竹の葉の触れ合う音です。きのうまでは二十何本か旗がズラリと立って、むかいの河村さんの家のとなりの小さい空地に大きい国旗が立ち、小旗がはりわたされ、こんな工合で賑やかでした。
[ポールに日の丸の絵。てっぺんから斜めに1本のロープが下がり、小旗が沢山つけられているの図入る]
お母さんは又いつ私に来て貰わなくてはならないか知れないから、今度は来ないでもよいと折かえして電報をおよこしになったけれども、やっぱり顔を見れば来て貰ってよかったと大層およろこびで何よりでした。私は六日のふじ(午後三時)で立って、七日の朝八時すぎつきました。非常にこんでいて、寝台もとれなかったので、くたびれて、広島からのりかえてすいた車にのったら眠くて眠くて柳井線は眠って通り、フト田という字が見えるので、岩田へ来たかと、逆によみ直したら島田なのでびっくりして、ふくらがしたままの空気枕をつかんでトランクを車の外へすてるように出して降りました。ふーふーとなって、それでも可笑しくて、皆に吹聴したけれども、そう皆は可笑しそうでないので、又可笑しかった。
御父さんは赤紙が来たとき、よかったと仰云った由。きのうは、出発の前、組合の人々が来て、女連は台処を手つだい、店と次の間とをぶっこ抜きにして天井へすっかり旗をクリスマスのように張りめぐらし、送別に来た人に御馳走とお酒を出します。父上を奥へお置きしては亢奮していけまいと母さんは、二階へお上げすると仰云ってでしたが、八日は朝から父上御機嫌がわるく、人々が集りはじめたら益〃怒っていらっしゃる。それで不図気付いて、「お父さんここで見ていらっしゃりたいのでしょう?」と私がきいたら合点をなさる。二階を指して手をお振りになる。それでこそと、お母さんも「ホウホウ、そいじゃここで見ていたいちうのだったか」とそこにずっとお床をおいたままで、ずっと混雑の有様をきげんよく見ていらっしゃいました。午後一時頃、土蔵の前のところで家内だけ、父上、お母さん、私、隆、達だけで小旗をもった写真をとりました。よくお父さん暫くでも椅子におかけになれました。お見うけしたところ、やはり大分御疲労です。ずっとおやせになっています。それでも、頬っぺたに薄すり血色があって、心臓のお苦しくならない限り、おとなしくて居られます。心臓の苦しいというのは、心悸亢進するらしいのです。脈が非常に速くなり、百以上。そして結滞もするらしい。そういうときは鎮静する迄お苦しみだそうです。きのうも夜あたりそういう風におなりなさるまいかと大分心配したが、いいあんばいに平静におねむりになりました。
達治さんは元気で出かけました。けれども、何も先のことが判っているわけではないから漠然としたところもあって、きのうは島田のステーションの端から端まで溢れるような見送りをうけて出て行ったら、後から私は涙がこぼれそうでたまらなかった。東京からクレオソート丸を千粒ほど、キニーネを二百粒、クリームとなっている一寸した消毒薬を三チューブ買って来て持たせました。急に腹巻をきのうこしらえて、それもおなかに巻きつけてやりました。下じめも十五ばかり新しくつくってもって行かせました。七日の朝ついたら、何もしてない風で、お母さんは、何か薬ども持たしてやりたいが、と云っていらしたところだったので、少し持って行ってようございました。私は体に気をつけるようにとしか云いようがなかった。それにどういう生活があるのか分らないから、性的な悪疾についてはよくよく注意するようにと話したら、これは大変達ちゃんも思いがけないようで、しかも後々まで重大な意味のある注意だとよろこんでいました。誰しも戦さに出ると云えば玉や劔のことしか考えず、そのことのほかに終生を毒するものがあることを一寸考えない。そのため、外見は完全で大変なものをもってかえって、子や孫までえらい目を見る。一言でもそのことを注意出来てお互によかったと思います。手紙でもかけず、又お母さんの思いつきになることでもないから。八日午後二時四十何分かの汽車で広島まで行って、昨夜は宿やにとまるのだそうです。きょう(九日)午前九時に入隊。それからのことは分りません。隆治さんがきのうは柳井まで送りました。同年兵が今度は何人も出かけるそうで達治さんの乗る汽車にも沢山のって居りました。もし私のいるうち宇品からでも出るようでしたら、お母さんのお伴をして送りにゆきましょう。
こちらのガソリンは一ヵ月千キロ平均のマイル数に対して、一日五ガロンつまり一五〇ガロンです。それでどうにかやって行ける由。バスなどは往復回数を減らして居ります。運賃ももとより高くなったが、トラックがどっさり徴発されてこちらにのこっているのは尠いので仕事は沢山あるそうです。従って、商売はやってゆける。どちらかと云えばよくやってゆける風です。けれども隆ちゃんが入営すると、一人も男手がなくなるから、自動車は休車にしておく計画だそうです。一人の日給が人夫で二円―二円五十銭で、仲士と運転手とをおけば少くとも百二十円はかかり、それではやって行けないとのお話です。又、雇人だけでは又別にいろいろお困りらしいし。こちらの物価は二三割上ってはいるが、東京程多角的に生活に迫って来ないようすで、こちらの景気はどうですか、ときくと、誰も一様にぼんやりと、大してわるいことはないと云う返事です。隆治さんの入営はまだ検査が、この二十日故未定ですが、今年は早く入営することになりそうな風です。すこしは稼げるときに、すっかり働き手をなくするので、お母さんもお辛い様子で、きのうも別に涙をおこぼしにはならなかったが、いろいろ仰云る言葉からまことに同情を禁じ得ません。そういう場合になれば、私たちも出来るだけのことは些少(さしょう)なりとも致しましょう。只、現在は私の経済力も到って小さくて残念ですが。
野原の方は、あのお墓のある地域を覚えていらっしゃるでしょう?あの辺から(すこし手前から)ずっと海辺に近くまで何か海軍の方の大工場が立つのだそうです。七円であった地価が二十円となりました。そして、あの家の裏に十二間道路が出来るそうです。従って、野原の地面も予定の略(ほぼ)三倍の金を生じたので、すっかり御安心です。あちらの方はそういう思いがけないことで心配はいらなくなりました。冨美ちゃんは室積女子師範の附属高女の由です。女学校から引つづき小学校の正教員の資格をとるようにとあちらでも考えていらっしゃる。女の子でも一人しっかりさせておかなければあの家はあとでお困りでしょう。富雄さんも、七円から二十円へ着目して、この頃は外交員仲間をかりあつめて株屋をはじめたいなどと云っているそうです。外交員では、株の社会でもまともには通用しない存在だから、しっかりした店の店員として働くなら話は分るが、株屋をはじめると云うのは。どうも、実にどうも。お母さんへの啓蒙をこの頃やっているらしく、同じ興味をもたせようとして、送金の出来ぬ月はやすい株を上げておくからよく気をつけていて価の出たとき売るようにと云ったりしている風です。今日において価の出ていない株に価の出る可能はなかなかないことを私は常識から昨日もおばさんにお話ししました。母子ぐるみで株に気をとられたら、その結果はどんなになるかということを、私は遠慮なく申したので小母さんも涙を出して傾聴していらした。商売として考えず、儲け儲けとしてあせるからどうにもなりません。富雄さんはどんなに儲けようとどんなに損をしようとも冨美ちゃんと小母さんとの生活は地道に立ってゆくように計画して、そのような野原がひらけるなら又手頃な小店でもやってきっちりなさるよう申しました。
私はこちらに十四五日頃までいるつもりです。目白はひさとその友達で留守番をして居ります。きのうは組合のひとが出発のあとで一杯やる、そのお給仕をしました。明日は恵比寿講とかがある由。どういうのかよくまだ分らず。何か組合仲間だけのもので三ヵ月に一度ずつあるらしい。お店には今様々の肥料が一杯つまっています。では又、お体はずっと順調でしょう?呉々もお大切に。 
五月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
五月十四日島田からの第二信第二十三位?
きょうは南がきつく吹いている日です。アンテナが鳴っている。隆治さんは明け方の三時三十何分かの汽車で広島にいる達治さんの面会に出かけている。野原の先に普賢様というのがあって、そのお祭が今日だそうです。貴方も覚えていらっしゃるかしら。いろいろの見世物などが来たのはこのお祭り?この間から仲仕に来ているリューさんという十八かの男は(これは朝鮮の人ではないけれども、そう呼ぶだけで字が分らない)大いにはり切りボーイとなってお祭りに出かけています。この男のおなかには切腹のあとがあります。親子げんかをして切腹したのに誰もとりあわなんだと笑っている。
父上は今うとうと中。母上と多賀ちゃんとはお店で、高山の息子が出征するために送る旗を田中さんという人に書いて貰ったのをメリンスにはりつける仕事中。私は二階ですこし妙な顔つきでこれを書いている。というのは、十二日からひどく下痢をはじめて十三日一杯えらい目を見て今日はどうやらフラフラおきている、という有様です。原因はどうも、何とかいう家から端午餅をよこした。そのとり粉がわるかったらしく前の河村さんでも三人やっている。よそでもやっている。私が臥(ね)ていると、お母さんは気をもみなさり、食べないと気をもみなさり、なかなか食べずにねかしておいて下さらないから苦笑ものです。でも、これだけお喋りが出来るのだからどうぞ呉々もお心配ないように。私は十六日の寝台を買いましたから、体の工合さえ悪くならなければ十八九日にはお目にかかりにゆきます。
この前の手紙で、十日に恵比寿講がある話をしました。あの晩は組合の人だけで、達ちゃんの世話になったお礼だと云って、十何種かの御馳走を拵え、お酒を出し、大いにもてなされました。私もお母さんのお尻にくっついていろいろやった。組合というのは十軒ずつなのですね。何とかいう理髪屋の爺さん、覚えていらっしゃるでしょうか?妙にからんだ、もののわかったようなことを云うくだまき男。それが最後までのこっていた。
十二日には、朝六時五十五分の汽車で広島にゆきました。お母さんのお伴をして。広島の第二高等小学校に駐屯していて、十五日頃には渡支するというので出かけたのです。達ちゃんは石津隊の本部付の側車です。これは、ソクシャというのだそうです。世間でサイドカーというもの。伝令づきの由。それに中隊長三人のうち二人は、同年次であった由、又伍長、軍曹などいずれも達ちゃんの教育を受けた初年兵であったそうで、いろいろ便宜の由。御二人は大安心ですし、何より結構です。十二日はその小学校の校庭で昼頃まで兵隊がいろいろやるのを見物し、連隊長の訓示というものも拝聴しました。それから分宿している箇人の家へ行って一休み。午後は六時頃までいろいろ不足の品を買いものして夕飯は軍曹殿と達ちゃんの食べるのを見物して、十一時三十五分で広島を立ち、こちらに二時ごろかえりつきました。お母さんは御自分の目で、軍装のととのった姿を御覧になったし、元気な様子を御覧になり仕度も兵としては相当手落ちなくととのえたので大分御安心でようございます。
きのうは、じっと寝たまま、多賀ちゃんといろいろ話し、野原の家のこと、こちらのことなど話し、こちらの方も二人の男がいなくなればどうしても多賀ちゃんにいて貰わねばならず、多賀ちゃんとしては富雄さんが出たらあとの暮しをどうしようという心配がある。そこで、今は又養鶏がよくなっているから(支那卵が入らぬ)鶏を五十なり百なり飼い、やがてあすこへ何か出来たら人をおいてそれであちらの暮しは自転してゆくようにし、多賀ちゃんはとにかくどちらかが還る迄ここで手伝って貰うこととし、その代り今十円の給料を十五円にして、十円野原へやるとしても五円のうちは自分のものとしてためられるよう、それは私が当分持って出すことにきめました。お母さんとしては十五円はお出しになりたくないそうですから。私としてもその方が安心でよい。貴方もこの方法には賛成して下さるでしょう。そして、こちらの家計は、お店はやって行けることだし、負債は殆ど全くないのだし、銀行へ行っても大分丁寧な挨拶をお受けになるそうですから、決して心配はいりません。このことだけは安心してよい。話のときは、永年の生活の習慣から、他の半面ばかりを出す癖になって居られますが。二人の息子を戦争に出す母の心の苦しさは深いものであるから、どうやら暮しが根拠を保っているのが、せめてものことです。私たちとしても、何とかして力に及ぶことをするだけで、志を受けていただける範囲であるのは幸です。この十数年間の努力というものがどんなであったかとお察しいたす次第です。
お父さんは、ちっとも落胆もしておられません。あなたが六日にお出しになった電報は、昨十三日の午後につきました。いつぞやからお話しの、いつか払った六円若干の金の送り先は、もう覚えてはいらっしゃらないそうです。
広島という市は、戦争で次第に繁栄して来た都市です。独特な性格をもって居ります、その町の商人たちの気分が。島田というところも潤いのないところですね。かけ引きを主として暮す生活が人間を変化させてゆく力は非常に深刻なものです。では又。島田からの手紙はこれでおしまい。 
五月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十日第二十四信
やっと晴れましたね。青葉がすっかり重みと厚みとを増して、初夏の色になりました。十八日には、どうせ濡れついでに、あれからすぐ丸善へゆきました。そしてmaoの本をきいたところ、どこの支店にもなし。いつかついでに注文をしておいて貰うことにしておきました。けれども、これは大変時間的には当にならないのです。為替の関係で。そのときフォックスという英国評論家の『小説と民衆』という本を買いました。一九三五年以後の英文学、評論の変化を示しているものです。しかし、一寸序文を見たが、小説というものの存在意義を随分初歩的なところから主張して物を云いはじめていて、英文学における批評や評論の過去の性質というものを考えさせます。英文学における評論の伝統というものをすこし知りたく思いました。テイヌがフランス人であったということだけで、その面ではフランス文学の方が昔からすこし先を行っているのではないでしょうか。
牧野さんの本はお送りいたしましたが、スノウのも、私は大いによい妻としての心を発揮してあなたに先にお見せすることにして送りました。折角御注文のがないから、その代りに。十分その代りとなります。
十八日にはかえりに林町へよりました。久しぶりで太郎と遊び、国男にも会いました。このひとは、この間どっかの二階からころがり落ちて肋骨を痛め、名倉に通っていました。そしたら偶然糖尿になっていることを発見されて、すこし悄気ている。でも私はいいことだよいいことだよと云いました。すこしはそれでこわがって酒を減らせばいいのです。この前はもうすこしで片目つぶしそうな怪我をするし。
寿江子は熱川で山羊を飼っていると手紙が来ました。二十五日ごろ又一寸かえって来る由。
十九日は戸塚へ行っていろいろ話し、新宿のムーランルージュへつれられて行った。ここはいろいろ今日の社会相を笑いの中に反映していて面白かった。
鈴木さんのところへは明日行きます。そして万端相談いたしますから、どうぞそのおつもりで。
きょうは十時すこしすぎに、徐州陥落のサイレンが街じゅうに響きわたりました。達ちゃんの船はもう支那の近くにいるのでしょうが、どこにいるのかしら。ちょくちょく思いやります。私がそんなことを思いながらこれを書いている家の門には軒並みの旗が立っていて、物干しにはあなたの冬着が、名を書いたほそい紙片をヒラヒラさせながら干されている。
私は仕事に対する欲望が潮のようにさしのぼって来ているので、すこし肝のたった馬のような調子です。眼尻(まなじり)に力がこもって、口をむすんで。文学における全体と箇との問題などが、今日新しい機械論として出て居るのなどは何と興味あることでしょう。
『タイムズ』の文芸附録が今度スコットランドの現代文学の特輯(とくしゅう)を出しました。歴史的な小説をかく婦人作家が二人いることがはじめてわかりました。スコットランドはその自然の景観から、独特なロマンティシズムをもっている由。では又。セルと単衣羽織をお送りいたします。お大事に。 
五月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
五月二十二日第二十五信
きのうの朝、下へおりて行ってテーブルの上を見ると、三月十四日とした封緘がおいてある。三月十四日、三月十四日怪訝(けげん)に思って手にとると封は開いてなくて、この間あなたが書いたよと云っていらした分でした。ひさが、「三月のがいま着くんでしょうか」と目玉をうごかしている。「そうじゃないよ、日づけを間違えていらっしゃるんだよ」と笑いました。
本当に久しぶり。そして、これを書くために私からのいくつかの手紙をよみ返して下すったということもありがとう。でも、この貴方の手紙は、或大きいことに心をとられていて、その心の一端をここへ向けて書かれているという調子があらわれていて、なかなか微妙です。そういう点も意味ふかい印象です。
私に下すった宿題は、力こぶを入れた答えをさし上げますよ、近日中に。この作品は仰云るとおり今日の生活の態度気分の上で少なからぬ意味をもっているものです。しかも純正なる批評をうけていないものです。大体この作者はその出発第一歩から、まともな批評をおそれるに及ばない、という条件から出ているので、独特な特徴をもっている。「僕の書くものが厳密に云えばなってないのを知っていますよ、しかしそれを突いて来る者はないじゃないですか」こう私に向って云った度胸のひとです。突いて来る者があっても判るものにしか判らず、その数は少いから平気なのです。まあこういう表現はこの位にしておいて、芸術上の問題としていずれ書きます。
泉子さんの体はいいあんばいにそれ程大したことはないそうですが、これまでの柏木の家は日当りわるく不健康なので世田ヶ谷へこしました。トマトの苗やなんか買って大いにやっている由。重治さんは市の失業救済の方からの口を見つけて日給一円三十銭で毎日通勤してナチの社会政策の翻訳をして居ります。世田ヶ谷から通うのは大変でしょう。
鶴さんの盲腸はおさまりました。私はあれを見ると自分の盲腸にも腹が立って、しきりにはと麦の煎薬をのみ、この頃はすこしましです。この間島田であんな無理をしたが、出なかったから。それに三共でうり出しているモクソールという注射液が大変によいそうで、これからすこしこの注射をやります、但注射なのでね。誰かにして貰わなければなりません。
栄さん夫妻、相かわらず、爽(さわ)やかに而して貧乏して居ります。手塚さんは島田へわざわざ達ちゃんの送別の手紙をくれました(前便で書いたと思いますが)
伝記が豊富な題目に溢れているのは全くです。実に豊富です。そしてそれをすっかり活かし切るようなものが書けるということの歓びは、決して単に箇人の才能とか学識とかの問題に止まらない。
御注文の本のリストの整理は、忘れずにやって置きます。
松山の方のことは島田からの手紙でもお判(わかり)になったことと思って居ります。そう云えば島田の家の井戸が改良されたことお話ししませんでしたね。風呂へ水汲みが厄介なのでコンクリートのタンクをポンプの上にこしらえて、こっちで水を入れておけばあっちは栓をあければよいようになって大した進歩です。
いずれ本人から手紙を上げるでしょうが雅子さんが近々結婚しそうです。対手のひとはまだ私の面識のない人です。細かい家庭のことも知りません。しかしそれで落付ければよいし当人はうれしそうにして自然な軟らかさを体に現しているからいいのでしょう。戸台さんも或は結婚するかもしれない。今年は結婚年のように皆が結婚するので、私はお祝いに忙しい次第です。
生活のやりかたについて私の分ったことをこのお手紙の中でも悦んでいて下すって大変うれしゅうございます。私は本来決して便宜的な人間ではない。又、食うため云々を、素朴に買いかぶるほど稚くもありません。土台、食うためになった作家なのじゃないのだから。世態と日常とは益〃各面から煩瑣(はんさ)になります。そして、私たちは健全な豊富な意味で益〃書生生活に腰を据えなければならないのです。歌舞伎座が立ちゆかず、やすい芝居をするようになるそうです。築地はハムレットを千田がやっている。ひさは姉が結婚して、農繁期になるのに田舎では雇う人手もないというので一・二ヵ月かえります。その代りにひさの友達で栄さんという子が来ます。この子とひさと二人で島田に行っていた間留守番をして居りました。ひさとか栄とかかちあう名はあるものね。但この栄はずっとしぼんで素質の小さい栄ですが。では又。この頃真白い紙はタイプライタアの紙しかない、何故かと思います。皆スジ入り。お大切に。 
六月四日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
このハガキは差入についての走りがき。
一、帯は夏だけもてばよいつもりです。あの方が軽くてすこしはよいかと思います。二、二枚の単衣のうち、紺の方は、些かおしゃれの分です。もう一枚の方がいくら洗ってもよい分。二日にそのことを忘れて申しませんでしたから。紺はそちらで洗わぬこと。三、ああいう下にはくものはいかがなものでしょう、暑くるしくあるまいとも思いますが、試みに。手紙はこれとは別。 
六月五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
六月四日(白い紙特にこの紙は書きよい、タイプライター用ですが。)第二十六信
さっき十二時のサイレンが鳴ったところ。(この辺のサイレンは、学習院前の小学校で鳴ります。防空演習のときも)テーブルの上の寒暖計は八十度。つよい風。この二階はいきなり硝子で、それをあければフーフー吹きまくって勉強出来ず、しめれば温室的な欠点がある。すだれや何かでいろいろ加工してある次第です。下で寿江子の咳払いがきこえる。ひさはきょう国へ一時かえりました。代りとして栄さんというひさの友達が来ていてくれます。栄だのひさだのって、縁があるのね、とこの間は大きい栄さんと大いに笑いました。
二日の日には、原っぱを横切って通りに出て、一寸林町へよって、上野の松坂やへ出かけて下着などを買いかえると、いねちゃんが待っていて、久しぶりに夕飯を一緒にたべ、いろいろ喋り十二時頃かえりました。あすこもずっと女中さんなしです。それでも幸、体も丈夫でやっています。私の留守にひさすっかり冬ものを乾しておいたので、昨日は貴方への小包を送り出してしまうと半日、入れかえをやりくたびれた。毛のものなど今年の冬はこれまでのようにないから虫にくわせまいとして。夕方ひさと栄、新宿に出かけ、寿江もいず、のろのろとして風呂をたいて入った。十時ごろから身の上相談のような訪問あり。今日はすっかり落付いて楽しく机に向って居ります。
ところで、私はいつぞやの(四月七日の日の)貴方の私へのおくりもののねうちをこの頃一層改めて深く理解し、本当にあれは云って貰ってよかったことであると思って居ります。何故ならば、島田からかえって来てから、私は勉強にかかって文学的覚書をかきはじめて居るのですが、こまかに本気にとりかかっていると、自分がこういう勉強をみっしりやりつづけなければ本当の現実的発育というものはおくれるという事実が、明瞭に明瞭に分りました。そして、こういう細かい周密な勉強をして見ると、ひとしお芸術というものに深く歩み入る云うに云えぬ深い味いが身にしみ、逆にそういう感覚を喪失することの致命性が分るのです。而も、喪失は、誰を見ても決して一時には起らずいつとはなしに、日常の裡にジリリジリリとどこかへめり込む如く生じて来る。三年、五年の後の相異はどのようでしょう。
この間の小説の話も一言には表現し切れぬ多くのものがあると思われます。根本的な欠点は、時代から時代の推移があらわれている自然な一人物をとらえて来て(現実の中から)その主人公の人生への善意を描こうとしているのではなくて、或意図のもとに、歴史の血脈を否定して、志村と対立するものとして創り出した駿介を、作者があらかじめ枠をつくり各コマを区切った局面と心理との間へ、無理を押し切ってつめこんでいるところに、一般の読者を満足させなかったものがあったのは当然でしょう。
駿介が志村に反撥した時代、自分のからから動き出した原因、それらは極めて曖昧であり、現実に駿介のような存在は、尠いでしょう。作者は用心ぶかく駿介が耕す畑やなんか持っている条件を、そういう条件を皆持っていやしないという批評もあろうが、と予防しているが、どうしても、駿介が近頃文学にも流行のインテリゲンツィア無用風のタイプから、どうぬき出ているのか分らない。田舎の生活のこまごましたことはしらべてある。だからそのくっきりしたところが、真実のテーマである人間の動きの拵えものとの間にギャップをつくり、あの作品の不自然な観念と現実的細部との間のギャップの見えないものには、人間の非現実性を覆う作用を営んでいると思う。人間の本当の生活というものの考えかたも変です。田舎の現実と云う点でも、例えば駿介の親父のようなのは或意味で哲人であるし、周囲の村人たちが、大学を中途でやめて来ている駿介に、皆があんなに抱擁的であるのは実際から遠い。もっと辛辣です。もっといろいろ痛くない腹をさぐる眼ざしをします。あなたもよくよく御承知のように。
人間の善意というものは、どのように形をかえてでも流れ出ずるもので、その美しさと活々とした力とは水のようです。傑(すぐ)れた芸術家ほどそういうものを豊かにもっている。人間性の様々の工夫、様々の思案を親切に評価し認めてゆくのは作家の愛です。それがなければ、土台芸術はないようなものであるが、或作品を或形で書くことで、書かれているなかみを語ろうとしているのではなくて、そう書く態度を示すのが目的であるとしたらどうでしょう。文学作品の評価は、そこへまで触れざるを得ないでしょうと思います。若い人々の現実は、どうせサラリーマンになるんだから、一つ満鉄へでも入りたいね、池貝へ入りたいね、そういう今日の形をとっている面がある。阿部知二さんの「幸福」という小説では駿介のような苦学した大学生が、卒業すると自殺してしまう人物が出て来る。駿介は方面ちがいの勉強を恩恵的にさせられることをいやがると説明されているが、観念の堂々めぐりにあきて、土をほじくることでも行動がほしいと更に心理的に分析されて居り作品ではそこに重点がある。志村がそう動いて来たのなら、筋がとおったようでもあるが、駿介という別箇のものをつくって、それを動かすにしては志村と二重うつしです。猶々微妙ないくつかの点もある。河が溢れて堰(せき)を既にちろちろ切りかかって居るとき、その堰に自分の手に鍬をもっているから、水はこちらへ流れようとする力を示しているのだからと堰の土を掘り下げる百姓があったとしたら、洪水ふせぎに出ている村人はおこるでしょう。
二日に、徳さんにも夏みかんだの何だのを御馳走した気でいたら三十一日に帰京したというハガキを貰い、きょう午後見えました。やつれてはいるが元気です。
ひさの代りに来ている栄さんという娘は、おひささんより他人の家で苦労しているので、仕事というものの事務的な処理をわきまえていて、几帳面なところがあって、よいところがあります。これは随分の見つけものです。この次お目にかかる迄に一つ考えておいて頂きたいことがあります。敷布団のことです。もうそれも相当になったでしょうが、夏のうちにとりかえてはどうでしょう、そして頭の方の角(かど)を(こんな形に)した方が、そして今よりすこし幅をせまくした方が(普通に)便利ではないのでしょうか、丈(たけ)の点で。どうか御研究下さい。ではお大切に。おなかをお大切に。夏は妙に、却っておなかの冷える感じがあるのね。 
六月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
第二十七信。
今裏の鶏舎のところでお母さんと徳山の岩本の小母さんとが、ごみを焚していらっしゃる。駅のところでブレーキをきしませながら貨車が停車しました。この頃は貨物自動車の数が著しく減ったので、家の前通りは随分しずかです。夜中に耳についた貨車の軋りなどがこんな昼間によくきこえて来る。この汽車が蒸気を吐く音やギギーときしってしずかにとまる音には一種独特の淋しさがありますね。去年四月にきたときもそう感じたが。
うちは、きょう初七日(自注4)でやっと少し落付きました。今までは全く手紙をかきに二階に上っていることが出来なかった。お葬式は喪主があなたでしたから私の用も多かったわけでした。万事とどこおりなく終りました。御父上の御経過から申しあげます。
一週間程前(六月六日の)すこし心臓が苦しくおなりになったので、医者をよび注射をしてすこし氷でひやしていらした由です。それから又よくおなりになったが、すこし熱があるから薬をというのでそれだけずっとつづけていらした。六日は朝も昼も御飯をよく召上り、午後三時頃、多賀ちゃんがうちにいて、お母さんはつい近くの川へ洗濯に出かけていらした。そしたら「ヤイ」とおっしゃるので多賀ちゃんがお菓子ですかといいながら行ったら、大変汗を出していらっしゃる。「えろうありますか」ときいたら「えらい」といわれるので、「おばさん呼んで来ますから待っちょりませ」といったら、「待っちょる、待っちょる」とおっしゃった由です。川まで御存知の距離です。二人で戻って来たら、早もう息もおありにならない風で、二つばかり大きい息をおつきになったきりで万事休したそうです。医者は、従ってそのあとで呼ばれたわけですが、もちろん手の下しようがなかった。
お母さんは、どうも食がちいと行けすぎると思うちょったと云っていらっしゃいます。おかゆなどもう一つと云って召上ったそうです。それにすこし話がおできになった由。「隆ちゃんも出征したらどうなろうかいの」とお母さんがおっしゃったら、「どうにかなる」と云っていらしたそうです。すこしの間仲なおりというような御様子だったのでしょう。私は八日の九時前にこちらに着きました。その日の午後二時に、三軒のお寺から坊さんが四人来て七条の袈裟(けさ)をかけて式をはじめ、家の横の寺へ行って又式をしてから火葬場へ運びました。この日は雨が大降りになるかと思うと又やむという空模様で、大雨の間と間とに事を運んだ形です。火葬にはこの辺ではしないのだそうですが、墓地が臨時なので、(野原の方はその大建造物(自注5)の敷地に入るので近く移らねばならず、今の場所〈家の上の寺〉は崖っぷちしかないので近くましなところへお買いになる由)火葬にしたわけでした。秋本精米の主人、富雄、隆治ともう三人ばかりの男のひとたちがおともしました。
翌日はお骨上げ。やはり降ったり照ったりでしたが、お母さんと女のひと三人がゆきました。私は留守居。おかえりになった夜、坊さんが来て読経し、その坊さんとお母さん、隆ちゃん、私とリンさんという若衆とでお墓へお納めしました。場所は新しくきりひらいたところで、普通にゆく道とは別の、家からいうと先の方の右手の急な崖をのぼって墓地へ出る小路を知っておいででしょうか。その道から頂上へ出たすぐ右手のところです。お父さんの御骨は隆ちゃんがゴム長靴はいて背負ってかえってきました。私はこういうやり方をはじめて見たし、日頃からあまり仰々しい儀式のよそよそしさを感じているので非常に心を動かされました。すべてのやりかたに愛情がこもっている。坐って、紋附を着て、雰囲気をつくっている感傷というものはない。いい心持でした。
夜は昨夜まで八時頃から十時頃まで、山本の近さんがカンカンカンカン木魚を叩いて二十人位集ってナムアミダをやって、沢山お酒をのんで、御馳走にあずかりました。あたりの田圃で今は地べたが湧き立つように蛙が鳴いています。電燈の光のあつい家の中では、ナモアミダブ、ナモアミダブといろいろな顔と声が合唱して、茶色と黒とで描いた一つの風俗画でした。御仏壇に紋附を召したお父さんのお写真が飾られているが、皆がナムアミダをやっている最中お母さんが思い出したようにナムアミダ、ナムアミダとお数珠をもんでいらっしゃる様子をみるといかにもところの慣習にしたがっていらっしゃるのがわかり、その退屈さを無意識に辛抱していらっしゃるのが分ります。落付かないで、居心地が納らないでいらっしゃる。これは結構なことです。健康ないきいきした心が動いていてナムアミから溢れているのは何よりです。
あなたのお送りになったものは九日の午後につきました。こんなに心配せんでいいのに!とおよろこびでした。お礼の印刷物をきのう七十枚ばかり発送しました。あなたのところへも御自分の名で刷られたものがやがて届きましょう。
さいわい、この四月五月でいろいろの整理がすっかりつき、家屋、自動車、煙草その他すべて達治さんとお母さんの名儀になっているそうです。名目上の相続をあなたがなさったわけです。すこし落付きになったら達治さんの分家届けをして、戸主の分だけ分けるようにしましょう。お父さんの年金は六月六日迄の分、恩給は半額(これは扶助)うけとれます。三百いくらかの簡易保険を戻します。墓地の入費などは不明ですが、今度の当座の入費と御香奠(こうでん)がえしぐらいは、よそから来た分と私たちの分とで十分にすむと考えられます。お母さんは、二人がいなくなっても商売はやっていらっしゃるおつもりですし、二三年は何をしないでも食べてゆける自信があるからくれぐれも心配するなとのお話です。
お母さんが、この数年来ずっと店をやっていらしたおかげで、いろいろ生活に変動が生じても一本の筋はずっと徹っているから、その点は実にようございます。只これからすこし暇がおできになる。その暇が、これからのお母さんに心持の上で影響することが大きいから、危険はそこにあります。よく内容づけないといろいろよくない。よくない可能は内外にみえる。何とかしてせいぜいすこしは面白い本をよむ習慣を追々につけていらっしゃるようにしたいと思って居ります。商売の性質にうるおいがない。幼い子供がいない。まわりに大したものがいない。しっかりしなければならない事情はお母さんに幾重にもかかって居りますから。
私は今日からすこし落付くのですから、やがて御香奠がえしの買物のお伴などもして三十五日までいることになるでしょう。きのうは広島のTさんが又金銭上のしくじりをやったらしく、行方不明だとかで小母さんは只今そちらです。そっちももしかしたら何か御相談がいるかもしれませんし。
達ちゃんは元気で炭鉱のある、そして有名な石仏のある大同の兵舎にいるそうです。日本人の商人も居り、茶わん一ヶ八十銭の由、カフェーもバーもある由。慰問袋をこしらえてやります。又次便でいろいろ。お金が不自由におなりにならないでしょうか。もう少しの間もたせて下さい。お体をお大切に。私は大丈夫きょうからすこし沢山眠りますから。盲腸も大丈夫です。では又。

(自注4)きょう初七日――六月六日、七年間病床にあった顕治の父親が死去した。
(自注5)大建造物――野原の海岸沿いの畑地を広大につぶして、海軍工廠が建設された。 
六月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
六月十四日
きょうはひどい雨です。二階の裏の障子をあけて見ると、段々になった石垣や田のところにいくつも滝が出来ている。うちには雨洩りうけのバケツたらいなど出しかけてある。その後お母さんもずっと御元気です。私はなるたけ三十五日が終る迄こちらに居るつもりで居ります。六月六日からかぞえると七月九日か十日です。達ちゃんから又五日づけのたよりあり、これも無事です。電報昨日着、非常におよろこびでした。 
六月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月十五日第二十八信島田からの第二信
けさ、長いお手紙が着きました。私がゆっくりおきて、下へ行ったら「顕治が手紙おこしましたで、すっかり、ように心持よう書いておこしました」と云っていらっしゃいました、私も拝見しました。家じゅうがよんで、時には、あの電報など伝さんという人(古くから出入りしていた人ですって)にまでお見せになりました。
お母さんもずっと御元気です。きのうのように大荒れに雨が降ると、ああきょうのような日でなかってよかったと云っていらっしゃる。永い間の御病気でしたし、かねて御覚悟のあったことだし、せめて隆ちゃんがいてよかったし、お苦しくなくてよかったし、お心のこりはないわけです。でも急にひまがお出来になって、今はあれこれとあとの始末でおいそがしいが、私としてはそのお暇が可哀そうです。良人というものは、他の何人によってもかえられないものを持っている、母としての面は発露されても妻としての面の心持はおのずから別であるから、私は又その点を深くお察しいたします。ましてお父さんはああいう方で、妻としてのお母さんの思い出は実に激しいものがあるのですから。
ハガキに書いたように、私は三十五日がすむまでいることにしました。お母さんがその方をお望みですから。どうせおよろこばしたくて来ているのに二週間早くかえって心のこりをおさせするにも及ばないことです。お金をお送りいたしました。
きのうはこっちはひどい大雨で、トンネルがくずれたり列車不通になったりしました。うちは、店へもし川水が上ったら大きなものを動かせないから心配しましたがそれはまぬかれた。けれども夕方下松へトラックで行った隆ちゃんがひどくビッコを引いてかえって来た。高山の石油のドラムカン(大きい円いの)をつんで行って、仲仕が荒れなのでついて来ず、雨ぐつがすべって左の足の拇指(おやゆび)のところを落ちて来たカンでぶった由、うち身になってひどくなっている。早速ヨーチンをかわせ、氷をかわせ、私と多賀ちゃんが看護婦になって手当をした。夜中三時頃おきて又氷をかえてやった。きょうは動かず臥ています、「臥ているのも辛うあります、お父さん大抵えらかったいのう」と云っている。でも大丈夫です。骨がどうということはないでしょう、五十貫近いものらしい。甲に落ちたら卒倒していたでしょうね。
壺井繁治さんからは中村やのおまんじゅうを、手塚さんからは五円お供えを送って下さいました。それぞれお礼を出しました。三十五日には、おかたみ分けをなさるそうですが、お父さんは永年臥たきりでいらして着物もないので、おかたみ分けには新しいものをお買いになります。貴方に20、私にも20、多賀ちゃんにもその位、富雄さん10、克子さん10、という予算で、何か下さるそうです。あなたにはそのほかお父さんの立派な羽二重の紋付を下すってあります、こちらにとっておいて頂きますが。あなたのは秋にセルを買うことにしてあります。
私はちゃんとした夏帯がないから買って下さるそうです。外のときでないから私もよろこんで頂きましょう。
お母さんは欠かさず毎日御墓参になります、そして烏がちゃんとまっちょると云ってお土産をもっていらっしゃる。ちょっとしたお菓子や何か。こちらでは烏がお供えを啄(ついば)むと難なく極楽へ行けたという証拠としているのだそうですね、しきりに又烏がいたと云っていらっしゃる。
達ちゃんには、近日慰問袋を送ります。広島へおかたみ分けを買いに出たときに。
私はお母さんと条約をむすんでひる間は多く二階にいて読むか書くかすることにしました。夕方は下へ来て私の仕事の風呂タキをやります。それから夜は皆と喋る。そういう習慣にします。そしてゆっくり居ります。今はスノウをよんでいる。やりかけの仕事をおいて来たから。こっちでこれをよみ終るつもりです。四六一頁あるから丁度よい。ゆうべみんなで話していたとき貴方の小さかったときの話がしきりに出ました。貴方が小さくて、何かじぶくって泣くとお母さんが、もうやめいなと云うと、虫が泣かすんじゃああーんと泣いたという話、こういう伝説を御存知ですか?お祖母様が御秘蔵で、おおええええ顕治が泣くんじゃない虫が泣かすんだ、のうと仰云るのを覚えていて云ったのですって。私たちのように可愛がられて育った子供たちは、皆それぞれ伝説がありますね。私はあなたの赤坊のときの写真や小学生のときの写真や松山へ行っていたときの写真や、松山へはじめて行くとき着て行った絣(かすり)の着物まで知って居りますよ。絣のその着物は、今お母さんが召していらっしゃる。そして産衣(うぶぎ)の黄色いちりめんの袖まで見ている、いかがです?私の赤いふりそでの産衣を見せて上げられないのは残念です。
下で隆ちゃんが体の動かせない人と思えない大声で何か喋っている。今年の麦はわやです。雨が苅入時に降り人手不足で、沢山が畑で黒くくさっています。昔裏の田をつくったことがあるのですってね。稲苅りなさいましたか?しめっぽいからお体を呉々大切に、本当にいろいろ着る物を送っておいてよかったと思って居ります。では又 
六月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月十五日第二十九信第三信(島田から)
西洋の人たちは白湯(さゆ)を飲まなかったかしら。――妙なことを考えるわけは、スノウが旅行して行って御馳走になる、鶏の丸煮、丸ムギのパン、キャベジ、ジャガイモ、粟、それを心からよろこんで食べたが、飲むものは熱い湯しかなく、死にそうにのどが干いたといいながら、それには手もふれられなかったと云っている。何と不自由なのだろうと考えて、そして思いかえしてみると、本当に白湯をのんでいるアメリカ人もイギリス人もロシア人も見たことはありませんでした。妙ね。気候の関係でしょうか。(下ではラジオが浪花節をやっている。)
一日のうち何時間、こうやって新鮮な意志の輝きや青春の真の美しさを吸いこむ読書は、何とうれしいでしょう。おりおり感動のあまり頁の上を手で思わずなでながら読んでいます。
十六日一昨日から昨日の雨は、山陽線の岡山よりすこし手前のところで土砂崩壊による列車テンプクを起し、二重衝突が起って修学旅行に出かけた小学生を多く殺しました。きょうはすっかり晴れて、うちでは満帆を張りひろげたように白い洗濯物を干し、畑ではくさりかけている麦の手入れと始末に大わらわです。
隆治さんはきょうもう仕事に出ました。私はタバコを売ったり、電話をきいたりする。こっちの電話は略語と専門語とがあるのでなかなかむつかしい。アクセントがちがうから、地名がはっきりしなくて。
今午後の二時頃。お母さんとたくさん洗濯をした多賀ちゃんとは下で昼寝。きょうは面白くて四十三頁もよみました。
十七日きょうはさわやかな上天気です。家じゅうのぼろや、ぼろでないものを出しかけて洗ったり、干したり、はたいたりしています。私も頭をプラトークで包んで、二階の掃除をし、東の日の一杯当るところへ夜具を皆ほしたところです。稲子さんから御香奠を送って下さった。明日は二七日です。早いものだと思う。前の河村さんの長男は工場に通って旋盤ですが、足の踵が三四年前から痛んで、この頃はひどくなっている由。どうもカリエスらしいのでレントゲンで見て貰うことをすすめ、きょうあたり徳山の病院へ行ったでしょう。達ちゃんの折と今度のこととで、近所の人々に顔なじみができてすこしは話をする人々もふえました。河村さんのところでは娘さんは二年ばかり前に結婚して(写真師)一人子供があり、二人目がこの間生れて程なく死にました。今、兎をたくさん飼っています。兎は湿気に弱い由。達ちゃんのとき生れた兎の仔を、うちの猫の玉がとって自分の仔に食わしたことがあります。うちの玉は七年とかいます。あなたも御存じかしら。
明日は自転車坊さんが来ます。これはお母さんの命名。野原のお寺に二十三四の役僧がいて、この人は自転車にのって来るからです。
今十二時半。エー、キャンレー、キャンレー、ああキャンレー、キャンレー、キャンレーと呼んで通る。毎日、晴天だと今頃。これはキャンデーのことです。氷菓子だそうです。この辺の子供は、東北地方のようにとうもろこしや枝豆はたべないのですってね。こういうものをたべる由。
十八日きょうも晴れて東からすこし肌寒い風が吹いてくる。きのうのラジオで東京は平年よりずっと冷える由。工合はいかがですか。冷えをお腹に引込まないようにくれぐれ願います。
きのうは夕方御飯のとき(この頃は大てい七時すぎ。日が長いので)お母さんが大助さんの生れた家(自注6)へ炭を届けさせるついでに、螢の工合をきかせ、どっさり出るという報告で、私を螢狩りにつれていって下さいました。八時に内藤のタクシーを呼んで、お母さん、多賀子、私、河村さんの細君と総領息子と金物やの娘がのり、助手台へうちの倫公が、すすはきに使いそうな笹っ葉をくくりつけた竹をもってのった。そして、うちのすぐそばのふみ切りからもう一つ大きいのを越して、その次の一寸したのを越して四ツ目のすこし手前、桜がずっと生えている手前の辺の橋のところへ降りました。その黒川さんという家が一軒ぽつんと樹かげにみえ、あの辺は大変陰気です。汽車が暗い山と山との間に火の粉を散らし、おそろしい音を立てて、いかにも「火車的」に通るのも恐ろしい。その次の踏切でつい二日ばかり前人がひかれたりしてなお更。
この辺の夜の景色など覚えていらっしゃるかしら。螢は二十日ばかりおくれているそうで、大してもいなかったが、私ははじめてあんな冴えた大きい螢の光りをみたし、数をみました。私が糸で縫った紙袋にそれでも四五匹とって、かえり路は家まで二十丁余歩いてかえりました。なかなか印象的な散歩でした。多賀ちゃんが、夜の黒い大木がこわいこわいというのが面白かった。たしかに圧迫的です。私は子供の頃、開成山の暗い夜、竹やぶのわきを通るのがこわくて、おぶさっている背中でしっかり目をつぶっていた。多賀ちゃんが田舎でありながら、狭い小さい町暮しの感覚をもって成長していることを面白く感じました。
読書はなかなか有益です。歴史の細部に亙っての特性が、実に感じられ、思索を深く長くひろい規模に刺戟される。私はこのおかげで大分ものが判りました。毎日四十頁前後きっとよんでいる。文学の問題としても種々面白いヒントがあります。下では自転車坊さんのおときのために、ステッキになりそうな筍を煮ています。
私は明日あたり野原にゆき、珍らしく泊ってくるつもりです。そしてついでに虹ヶ浜や室積やを見て来ます。高いところにあるあなたの小学校も。何とかいう小学の先生(うるさい程ほめちょる、と多賀ちゃんがいう)は今室積で代書をしていられる由。もちろん訪問のために室積にゆくのではありませんが。――
大いに熱中して読んでいる私の様子、やがておなかをかき出して、いきなり着物をぬいでノミをつかまえようとする私。ノミは多くの場合私より迅(はや)くて、とりにがし、ペコペコとイマヅをまいて又坐りこむ私。二階の部屋(東向の方)の様子と、そのかっこうとをお考え下さい。なかなかの戯画よ。非常に知的な漫画です。
この手紙は一先ずこれで終り。あとは野原その他の様子になります。今光井から電話らしかったが、何かしら。明日ゆけなくなるのかしら。
むらのある気候ですからくれぐれお大切に。この手紙は凡(およ)そ本月末か来月初めに着くのでしょうね。あなたはこちらの私へ書いて下さったろうかどうだろうかと、そう待ちかねているのでもないがちょいちょい考えます。では又。本当にお大切に。

(自注6)大助さんの生れた家――難波大助の生家。 
六月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡光井村より(封書)〕
六月二十日(一九三八年)山口県光井村にて第三十信
野原の家の奥座敷で、東の方の庭に向って障子も縁側の硝子戸もあけ、机を出してこれを書いています。
きのう十一時すこし過のバスでこちらへ来ました。途中でドラムカンの空(から)をうんと積んだ隆ちゃんのトラックとすれ違い、私は分ったがあっちは分らなかったらしい。
こちらの家は去年の春だったか、台所と風呂場をすっかり改造して便利になっています。昔からの台所のところ、御飯たべる板の間、覚えていらっしゃるでしょう。あの土間のつき当りのところを(店(みせ)から入って)区切って、すっかりコンクリートのいい風呂をこしらえ鶏舎のガラス窓を十分つかって大いに文化的!になって居ります。四角くちぢまった土間に、ちいさいがしっかりしたへっついが新しく出来て、今にポンプもこっちの内へ引き入れてすっかり濡れずにやれるようにする由です。
丁度ポンプのところから(油しぼりの小屋のこっちの端)隣りの大工さんに土地が売られて居り、油しぼり小舎も大工さんのものです。今は麦の苅ったのと板とが薪木とつみこんである。
大工さんは、表の倉のところ、あの古い二階から風呂のあった小舎をこめて百坪ばかり1100で買って子供の小さいの二人と細君とで、一寸見るとキャンプ生活みたいな暮しかたをやっています。それでも菊を大変上手につくる由。今は朝顔の鉢が沢山あります、おじさまの御秘蔵であったシャボテンのこちゃこちゃした小さい鉢はやっぱり棚の上や庭にあります。
こちらの家は静かで落付いて、本当に仕事がしたい気になること。一寸、いつかゆっくり来て、ものを書いて、折々は海辺へでも出て見たいようですが、もう間もなく例の建造物が出来、人口は五万になるそうですから、迚もそんなしずかな空気はなくなるでしょう。うちの裏の一番はずれのすぐそばに十二間道路が出来るそうです。表は三尺とかへずられて八間通りになりますそうです。そして、自動車は柳井室積間を疾走し、新都市計画が実現されるわけです。野原の土地の買上げは終結して、お寺で調印したそうです。
きょうお墓詣りをして見たら、買い上げられた土地というのは、お墓へゆくあの細い畑の間の道の中程に、右手に入るうねった枝路があったでしょう?あのすこし先からだそうです。お墓のはるか手前からです。昔は綿が植えられ、やがて田になったこのところどころにはねつるべの井戸をもった畑も、間もなく高い塀にかこまれてしまうわけです。田の中をこいでもよいという条件で、農民たちは最後の田植の準備中です。牛をつかって黒い雨合羽に笠をかぶって一生懸命雨の中を働いて居ります。売価では、新しく元の面積はとても手に入らぬそうです。
奥の間の次に(六畳)月三円で小学校の十九歳の女教師が間がりをしています。大変に若くて、きのうは、この四月同期で卒業して就職した友達が来て、いろいろ可憐なお喋りをしていたかと思うと、すぐいかにも若い娘二人の眠っている寝息がきこえて来ました。やがて一人が大きい声で「手をあげて」とねごとを云いました。こちらの蚊帖の中で私は思わず破顔いたしました。すこし話の内容がちがうだけで、ひさと栄(うちの若い人たちよ)とがかたまっているのと似た感じで、何だか可愛いの。勤めにまだ馴れず辛いことが多いらしい。「けど誰にも云えやせんやろ、だから親には何でも云うの、書くと気がすっぱりするさかい書いてしまっちょるの」と云ったりしています。この人がいるし、隣の大工さんは、二階の方をすこし直してぴったりくっついて住んでいるし、決してこちらは淋しくありません。田布施の先にオゴー?というところがありますか?そこの娘さんの由です。兵児帯(へこおび)をしめています。私は、バラの鉢を縁側のそばへもって来たり、今はマークトウェーンの小説をよんでいます。野原の方には本棚があって改造で出した『世界大衆文学全集』などもあります。昨夜は冨美ちゃんにアンクルトムスや紅(べに)はこべその他似合わしいものを見つけてやりました。よそのうちへ行って本棚があるとうれしいこと。
永くなりすぎそうだからこれでおやめ。明日はふっても照っても室積へゆきます。そしてあさっては島田へかえります。きっとあっちもすこしお淋しいでしょうから。しかしそれにお馴れなさるようにとも思ってすこしはこちらにも泊るのです。そちらでも雨が降って居りますか?こちらからのたよりにも、小さい事実というか出来事というか一杯つめられていますね。達ちゃんは無事です又便りあり。 
六月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月二十一日第三十一信光井
午後四時。やっときょうは晴天です。裏からとって来た矢車草の碧い花が机の上のコップにさしてある。この辺の花の色は実に鮮やかで、野生の月見草、小町草、その他本当に自然の濃いはっきりした日光の美しさを思わせる色をしている。この辺の家や墓地にはいろんな花がつくられている。島田には花を作っているような家は殆どない。
机の上にすこしばかり樹の青っぽい蔭がさしていて、一寸何だか夏休みの或日のようです。そして、すこし、郷愁にかかっている。原っぱのところにずっと見える塀や、工場のような建物や、そこにある一つの顔に郷愁を感じて居ます。私は七月十三日頃にかえります。近頃三十八日以上四十日も留守をしたことはありません。随分珍しい。
きょうは野原の海岸へ初めて出ました。ここは虹ヶ浜とちがって、松林が二重になっているのね。そして手前の古い松林のところはいかにもねころぶに心持よそうです。浜へ出て、舟へこしかけて、叔母さまと二人黒い洋傘をさして沖を眺めていました。浜そのものは虹ヶ浜の方が清潔であるし広いし遠浅でようございますね。この頃は浜防風のとうがたって、丸い手毬(てまり)のような実をつけている、実を覚えていらっしゃるかしら。かえり路は、葭のずっと生えている小路へ、郵便局の酒樽つくっていた建物の方から出て、郵便局の隣りの雑貨店で隣の大工さんにやる赤坊帽をかいました。この雑貨店のおっかさんはいかにもがっちり屋の顔をしているが、店に十一年とか経つ大シャボテンが二つあって、びっくりするような花を咲かしていました。
ここには小さなカニがいますね。今庭のカタ木の古い幹(みき)のところを一匹はっている。さっきは石の大手洗鉢の水の中に奇麗(きれい)に浮いていた。
六月二十二日
一時四十分のバスでかえりました。この頃はガソリンの倹約で朝十一時十何分かの室積行が一時四十分野原を通り、あとは夕方の六時すぎ。間で二度下島田へかようだけです。農繁期なのでバスは行きかえり殆ど一人。あちこちで田植最中です。野原附近の買われた土地は、島田川のそばまでで、三十万坪だそうです。都市計画はこの前柳井と書いたでしょう?あれは間違いで徳山室積間です。
二十三日
隆治さんが昨夕びっこをひきひきかえって来た。左脚の上へねぶとが出来ていて痛い。「ひとが、横根でもふみ出したのかと思いよる」とふくれていましたが夕刻秋本へ行って切って貰って来た。寝冷えもしていて、きょうは両方で休み(仕事もないので)私共三人は(母上・多賀子、私)徳山まで出かけました。三十五日のおかえしと慰問袋へ入れるもののために。十二時頃から雨になって、母様だけ下松でおり、あんパンやらマンジュウやらの手配をなさり、五時頃かえり、それから又お墓へお詣りなさいました。雨が降っても何でも四十九日までは毎日参るべきだとのことで、なかなか大変でいらっしゃいます。私は折々御一緒にゆきますが。
二十四日
達ちゃんから航空便で手紙が来ました。父上のおなくなりになったことを知らせたのへの返事です。やさしい心持やこれまで尽すべきことを皆つくして来た安心とが溢れた手紙でいい手紙でした。あなたからの電報をよんで(文句をうつして隆ちゃんがやりました)感動した心持をもつたえて居ります。こうして、皆遺憾ない心持で貫かれているのは本当に何よりです。
午前中かかって慰問袋をこしらえました。航空便でやろうとしたらそれは駄目な由。いつ着くことやら。出動準備中だそうです。
隆ちゃんまださっぱりせず床についています。疲れも出たらしい。私もすこしあやしいので、今はお母さんの羽織を拝借して着ています。午後からは久しぶりで親密な読書にかえります。
福岡に(入りぐち)おりをという寺があって中気のための名灸がある由、いつか昔、あなたがすすめてお母さんを出して上げたのに、次の朝行かずに戻っていらしたという故事のあるところ、あすこへおつれ申そうかと云っているところです。お母さんには御丈夫な上にも丈夫でいていただかねばなりませんから。おなかはこの気候でも大丈夫でしょうか、呉々お大切に。近ければ一寸かえるのに。では又ね 
六月二十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月二十六日第三十二信
さっきから机の上やトランクのところやあっちこっちさがして、がっかりして坐って下から持って来たこのペンで書きはじめました。ペン先を紙に少し包んで持って来たのが、この間野原へ行くとき机の上を片づけ、何かと一緒にまぎれてすててしまったらしい。御愛用の金Gがこの頃益〃大切になって来たので箱から分けて来て却ってバカをしてしまいました。
さて、十八日づけのお手紙をありがとう。お体のことについて書かれているところが消してある。あなたが何か書きかけたのを消していろいろ気をつけるとかいてだけある。それは、大変私の想像を刺戟しているのですが、どうなのかしら実際のところは?本当に大丈夫でしょうか。少しよろしくないがいろいろ気をつけているというわけでしょうか、そうとしか考えられないので気がかりな次第です。どうぞどうぞお大事に。呉々いろいろとお気をつけて下さい。
きょう野原の叔母さん富ちゃんと一緒に広島へゆかれました。金談のため。お手紙にあることは、口があきる程申しますが、もう云われて聞くという段階は一家がその気分から失っています。小父さんが株でなけりゃいけんと云われてはじまったのだそうだから。それに、ごくひくい常識というか何というか、ああいう人々には、例えば私が金を大儲けしている上で、そんなことは下らんと云えばフウムと首をかしげるが、私たちのような生きかたをしているものが云ったって、それは道理だがと現実にはききません。実験をしばしばやってそういう結論に到達しています。
隆ちゃんはおできと風邪で床に三日ばかりついていたが今日はもう働きに出て居ります。このひとは律気者でよく働いて、やさしい心をもっています。
達ちゃんへの手紙に書いてやることよく承知いたしました。出かけるとき繰返し申しましたが又云ってやりましょう。酒は既に身についているし相当遊びもする。遊びを知っているんだから心得もあるようです。しかし念には念を入れて申してやりましょう。
先刻大畑の何とか云う、富田のおじさんの娘さんの旦那さんで小学教員兼醤油屋の主人が見えました。スマ子さんの御主人です。貴方によろしくとのことでした。大いに反産(産業組合)をやったがあきまへんわいと云って笑っていました。ここいらでも八ヵ村が共同で駅の先に大きい倉をもって醤油の共同醸造をやりはじめていますそうです。肥料・米、やはり扱っています。どことかで近江商人に会って話したら近江辺ではこの子は悧溌(りはつ)だから商人にしよう、大して出来んから学校へやろうと云うそうなが、こっちは逆だと話していられました。長州というところが維新以来もっている一つの伝統、気風というようなものはいろいろ面白いと思います。この頃よくそう思う、いろんな人間のタイプを考えて。
私の読書は半分よりすこし先に進みました。実に有益です。いろいろと考えを導かれ、それを押しひろげ特色を比較し合い実にためになっています。この何日間がこのおかげで無内容でなくなります。
「生活の探求」は今日の文部省の教育映画となるそうです。
私の生活のやりかたについても種々考え、出来るだけ単純化そうと思って居ります。主観的に書生らしい気持でいても、客観的にそうでなくて、安部のおじいさんみたいに、今日は、ハイ(とアパートの戸をあけるや否や)ポカポカ。グー、ではこれも困りますからね。格式とかそのほか下らぬものはもとより問題の外だが、そういう方面の格もあってね。滑稽ならぬ滑稽が生じます。なかなかおいそれとゆきません。御賢察下さい。考慮中です。いずれにせよこの夏じゅうは今の家をかわりません。こちらでこれだけ暮し、又急にあれこれしては、余り仕事が中断されていやですから。
この頃の文学は本質の発展がとまって、心理的な身躱(みかわ)しがすこし動きのように見えているという有様です。作家の生活の生長が全般に問題にならぬような状態におかれている。
よく暮したいと思います。熱心に、人間としての確信をもって生きる生きかたをしたいと思います。そのためには、本当に下らない日常の居場所(心と身との)その他についてさえ益〃敏感と健康な清潔さが必要です。それの可能な条件を少しずつでもより多くと生きてゆくことが中心的な努力であるようです。
お体を本当にお大事に。お願い申します。私はすこし盲腸があやしいが微かなことですから気をつければ大丈夫です。御飯ばかりたべるから用心にオリザニンものんで居りますし。お風呂をたく匂いがする。さあ行ってやって来よう、では又ね 
六月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
六月二十七日第三十三信
昨夜野原の小母さんがおそく広島から戻って島田の方へ泊られたので、多賀ちゃんは夜番にあっちへかえりました。昨夕からきょうおひるもお母さんと二人で台所をやっています。(夕方には多賀ちゃんがかえる)二人で喋りながら、あの台所で洗いものをしたりお鍋を洗ったり雑巾がけをしたりしている。今午後一時。店へ誰か来ている。私は勉強しに二階へ。この机(低い四角い赤っぽい木の)はあなたが野原の小父さんにお貰いになったのですってね。随分私の役にも立って居ります。
お母さんは私がずっといたので大変よかったとおよろこびです。妻の心持としてのお母さんの気持の通じるのは今のところ私一人ですものね。そして、それこそお母さんとして一番切実なものであるわけですから。お二人は結局深く結びついた御夫婦であったと思います。お父さんは実にお母さんを愛していらした。カンシャクはどんなに起してもね。お母さんのお気持ではカンシャクで苦しい思いをしたのも、けんかしたのも、とび出したのも、やはりお父さんいらしてのことというつきぬ思い出があるのです。私には実に実によくわかる。お母さんも本当によい可愛い女房であると思います。若い女のひとたちが良人に死なれて殉死する気持がよくわかると云っていらっしゃる。こういう心持のキメのこまやかさというものは、決して通り一遍のおかみさんの感情ではありません。そして私はそういういろいろの瑞々しい活々とした感情の故に、おかあさんを一層一層可愛く身に近く、同じように熱い血をもっている女性として愛します。そういう心持を底にもっていながら、日常はこれまでと些も変らないように店をやり昔の世話をやき、体を畳に倒して私が可笑しいことを云うと笑っていらっしゃる。何といいでしょう!お母さんもまことに横溢的なところがあります。私はいろいろの点で仕合わせです。私の母も一通りの女ではなかったが、お母さんは全くちがったタイプで、現在の我々にふさわしい多くの美点をもって、やはり我々をよろこばせて下さる。
六月二十八日
きょうはお母さんはお店のテーブルのところで、月末のかけとりの下拵え。書き出しをこしらえていらっしゃる。外では麦のとりいれの最後でモーターの音がしきりにしてモミをとっています。
私は本が面白くて我を忘れて沢山よんだ。西北地方の回教徒についての部分は、ニュース映画でばかり見ていて、はっきりしなかった待遇ぶりをすっかり明かにして実にためになりました。回教徒のモスクが東京のどこかに新たに建てられて、その教徒のための学校が別につくられたのですものね。いろいろ面白い。
今度は、栄さん、戸塚の夫妻、てっちゃん、さち子さん、重治さん、徳さん、本橋さんそのほかからいろいろお供えをいただきました。お礼はちゃんと例の刷りものを出しておきましたから御安心下さい。
暑いこと。お体はどうですか。熱が出たりしないでしょうか。大分気にかかります。
二十九日
隆ちゃんが車庫でタイアのパンクしたのを直している。七十何円かであったものが、この頃は百三十何円とかだそうです。大切に大切につかっている。一日のトラックの賃が(一日かしきり)三十五円だそうです。柳沢(ヤナザワ)といううちでもトラックをはじめる由です。達ちゃんは出征軍人だから、休車が出来る。(さもなければ三ヵ月で権利を失う由)隆ちゃんも入営すれば休車になさるそうです。人をやとっては、割に合わぬそうです。こちらの生活も、多賀ちゃんがいればよい、いなければいないでよいと仰云っています。私はお一人では心がかりだから十五円自分が出していて貰うつもりですが、野原との感情的いきさつは紛糾していて、私のような外からの者の心持、又気持の焦点の違ったものでは収拾がつきませんから、万事お母さんのお気にまかせます。多賀ちゃんがいなければ十六七の少年を置いたら、一寸した荷は動かせるし、活気があってよかろうとも云っていらっしゃいます。私はこれから本よみ。下から「お母さんも家業にせいを出していらっしゃるから私も家業をはじめましょう」と上って来たところ。きょうはもう麦の始末も終りモーターのブーブーいう音もしません。なかなかむし暑い。二階はやはり暑いものですね、夏は。
三十日
お母さんは只今徳山へ買ものにお出かけです。この間私たちがお伴をして行ったとき御位牌(いはい)を注文なさったが、それが少々やすものすぎるので直させのためです。かえりに、おせんべのお土産があるでしょう。
昨夜のニュースで、東京が大雨だと知り、こちらは一昨日から晴天つづきで、只夜ひやっこい東風が吹くだけだったので、いかにも東京から遠くはなれていることを感じました。きょうはお母さんも汗をおかきでしょうから早く湯をわかして私は髪を洗います。椿の実をつぶしたので。昔うちで椿の油をしぼったってね。徳さんが手紙をくれました。支那語をものにして来たので、面白い翻訳をしたそうです。いいものを身につけましたね。私の有益な読書は面白さにひかれて予定以上に進み、もう今日あすで終ります。沢山の真面目な話題があります。
日本のアパートというのは、宿やのようなものね、ちっとも室即ち一軒の独立性がない。いくらでも管理人が留守にあける。同潤会でもそうらしい様子です。アパートメントとしての性質をはっきりもっているところは、一種の高級アパートメントで、これ又至って臭気がつよい。庶民的でなくて、飽きの来るセット式ハイカラーさが漲(みなぎ)っている。葱(ねぎ)をぶら下げて出入りなどすることが出来にくいように出来ている。アパートメント生活がもっと一般化して、もっとしゃんとするにはやはりそれとしての歴史が入用なのでしょうね。現在のところではとかく長屋式、お目つけ式なものが混(まぜ)こぜになっている。江井のやりかたなど見るとよく分って興味があります。営業だからね。
今月もきょうで終り。二日に四七日があり十日が五七日で御法事があります。百ヵ日まではこれで一段落ということになりましょう。今月の手紙はこれで終りにいたします。お体を呉々お大事に。誰でもこう急に暑くなると閉口ですから。隆ちゃんは午前中珍しく家にいます。では又 
 

 

七月七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月四日第三十四信
毎年こんなに東海道山陽本線が梅雨期に度々不通になったでしょうか、ラジオのニュースをきいているとびっくりするほど今年はあっちこっち不通です。「雨並に水に関するニュース」という題で放送している。
六日
きょうはお父さんおかくれになってから丁度一ヵ月目になります。出征する人、送る人ぞろぞろと前の通りを通っている。隆ちゃん達は昨夜十二時すぎ室積から電話がかかって徳山から氷をつんで行ったのが、今午後三時前まだ戻らず。何でもサバが大漁で急に仕事が次々と出来ているのでしょう。夜中でも唄をうたいながら出かけて行った、二階から下りて行って、「熱いお茶でも飲まそうか?」ときいたら「イイエよろしうあります」と云って、そして歌を小声でうたい乍ら出かけて行きました。如何にも若い者らしくて云うに云えない美しさがありました。きょうも暑い。
きのうと先刻まで、私は徳山から買って来た巻紙と封筒とで三十五日の忌あけの礼手紙を書きました。もうこちらに居るのも一週間ほどになりました。あともう一通手紙を書くと島田からの分は終り。
お体はどうかしら。大丈夫ですか?凌ぎにくくむしている。余りむすので一層大汗をかこうと大童(おおわらわ)で火夫をやったり何かしています。京都神戸雨の水害あり、こっちもグズグズの天気でそれかと云って降らずにむしている。仏様のお花がいるのとすこし暇がお出来になったのとで、裏に小さい花畑が出来そうです。多賀ちゃんが好き且つ上手です。
たか子氏の「南部鉄瓶工」をよんで実に感じるところあり。文学の批評が作品の世界に十分ふれて語らなくなってから、生活そのものが何と盲目に流されて行くことでしょう。強力に流されつつ文学がフラフラついてその旗をふりつつ、歴史は更に複雑な多難な方へと内容づけられて行っている。自身の経験の裡からでなければ成長しないとしても、その経験たるや実に独特の細部をもって居り且つ深刻です。日本の文学が世界の文学の中に占める意味の深さを考えます。現実は古きもの新しきものが実に高度に結合されている。林語堂『我が国わが民族』の著者(これもかえったらお送りして見ましょう)が、自分の方の生活とこっちの生活を比べてこっちが一定の方向への一枝石だと云っているのも面白うございます。
私はこの間うちの勉強から非常に興味あるヒントを得て、大変貴方と喋って見たい。文学としては農民文学の問題ですが。現代の日本の農民文学というものは、和田伝の「沃土」などではどんな価値ある題材をとり落しているかというような点です。昔研究された条件より実に大飛躍をして居る農村の性質=大河内さんの工業化や組合化の有様、世界の有様と比べてそれを眺め渡した姿など。借金を背負っているということは、例えばTさんの暮しについておよこしになったような方向へも行き得るのでね。一代をそれで終ることが珍しくはないのです。
借金と云えば、この間うちのいろいろな借金の束を見せていただいて私たちは「これだけあれば家宝ですよ」と大笑いしました。お母さんは借金なしという生活はこの四月以来初めてだと云っていらっしゃいました。この四月以来ですって。三十何年間の話ですね。
ああ今やっと隆ちゃんたちが戻って来た。お母さんが「お父さんの命日にお前」何とか、心配したことを話していらっしゃるらしい。私も下りて見ましょう、おやこれからお昼らしい、カチャカチャ茶わんの音がする。「百合子はん一寸来て見てつかわせ」何だろうと行って見ると室積では鯖(さば)が十何万疋とれてこれから又広島へそれを運ぶ、一寸よってお昼をたべているのだが、トラックにのって来た人が二十五疋ばかり鯖をくれている。うらや前やに分け野田さんが来たのにも分ける。お父はんの命日にというあとは、よく稼いでよろこんでじゃろというのでした。御燈明がついている。昨夜からかけて70ばかり稼ぐらしい、こんなことは何年にもないとの由です。では又。隆ちゃん夕飯代二人分一円もらって又出てゆきます。 
七月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
七月十二日第三十五信
島田からおしまいの手紙を書きます
十日にはお父様の三十五日が無事に終りました。八日の午後から徳山の岩本のおばさんがカヅ子という六つのお婆ちゃん子をつれて来られ、九日は夜の十一時頃までかかっていろいろの仕度をしました。十日は十時から式がはじまり、井村氏、山崎のおじさま、室積の河野とかいうところの細君、野原の母娘などで十二時頃式と御膳がすみ、お墓詣り寺詣りとすませ、夜すっかりひまになりました。
三十五日がすんで本当に安心いたしましたし肩の荷が下りたようです。いてようございました。昨日は、皆が骨休めのため虹ヶ浜で一日のんびりしました。松林の間に六畳ばかりの離れの形の掛茶屋が出来て、そこを一日一円から、かす。あなたが家をかりていらした、あの前あたりのところです。その時分には、そういう設備はなかったのですってね、この二三年来のことだそうです。そこへ行くとゴザと座布団をもって来る。お茶その他も出来るのだそうですがきのうはまだ備っていなかったので、通りの方の氷店からお茶やお菓子をとって、もって行ったお握りをたべ、十一時頃から七時すぎまで海風にふかれて、松の香を吸っていい心持、様々の思いで午後を過しました。そろそろ海水浴をしている人たちもあり。午後四時頃まで実に晴れ渡って、沖を宇部へ通う曳船が重く並んで通るのが見え、水無瀬島の方もよく見え、いい景色でした。水無瀬島と野原の浜とをつなぐ工事が起されるとかいうが、あれがすっかり囲われて重油が流れ出したらこちらの海も今日のように清澄ではなくなりましょう。松も枯れるでしょう。
十五夜らしいので、一つ浜の月見をしようと思ってね、大いに愉しんでいたのに、夕刻から風が荒く曇り出し、どうかしらどうかしらと云っている間にポツリポツリ当って来たので、それやれと仕度をして駅へ出たらひどい夕立が降り出しました。
小やみに八時十二分かの汽車にのったら島田へつくと、白い埃がたまってぬれてもいない。スーと暗がりから隆ちゃんが出て来て、皆が下げて持っているお重箱の空や何かを自転車にのせて行ってくれました。そのとき私は何ともいえずいい気持がして同時に、お母さんのお気持が判りました。達ちゃん、隆ちゃん、うちは皆男の子たちで、大きくつよく立派に成人している息子たちにかこまれている母の感情の中には、微妙にたよっているところがある。愛情のうちに、母が娘に対するのとは異ったたよりがある。それに馴れていらっしゃるから、私のようにそういう便利なく生活するに馴れているものから見ると甘えるように、男でなくては、と云っていらっしゃる。だから二人ともいないときっとどんなにかお淋しいでしょう。娘二人いなくなったのとはちがってお淋しいでしょう。娘であって見れば力にしろ人間としての質量にしろ、母さんが優るとも劣りはなさらないのですから。
女だって、男の子を家庭で見るように大まかに見て育てればすこしはましになるのにね。女は女で、こせつくようにと女がするのだから可笑しい。着物や何か誰のために何のためにそうしなければならないのか一向意味が判らないのに、あれではいけない、これではいけない。うちなんかそういう点では普通よりいく分ましなのでしょうが、どうもびっくりする。他は推して知るべしです。
それでも今度は一ヵ月以上いたので、外出したと云えば野原徳山虹ヶ浜だけでお墓へちょいちょい位ですが、どこの家がどのお婆さんの家ということなどすこしは分って面白うございます。ここでは私もお客からやっと家の者らしくなり、台処へでも何でも勝手に歩きまわれるし、ものの在りどころもすこし見当がついたし塩の売りかたをも判ったし、雑巾がけもやるし、居心地よく楽になりました。
今下で兼重さんが来ている。野原のおばさんも来て、克子さんが大阪でお嫁にゆくことになり(汽車会社の設計につとめている技手か何か)その結納の百円がいるので、明晩私が大阪で二時間ほど途中下車し克子さんにわたしてやるために、相談をしていらっしゃる。山崎の小父さんも昨日は珍しく虹ヶ浜へ一緒にいらして愉快そうでした。峯雄さんが出征し、進さんというのが額の真中に玉が入っていて出せないらしい。頭が折々気分わるいという位だそうですが、妙な工合に骨をくぼませてでも入りこんでいると見え手術が危険のため全快出来ぬらしい。左の指が二本やられて指はついているが曲らぬ由。一番末の息子は十九歳の由、のんべえの由。
岩本さん(新)というひとは右腕をやられ、これも腕はついているが、水平以上にあがらぬ由です。
私は明朝九時五十何分かにここを立ち七時に大阪へおりて十時にのりつぎ、十四日朝かえります。十五日にはお目にかかりに出ます。夏布団があげてないので気にかかって居る。白揚社のカタログ十二年七月のをこちらへ送って来ているが、本年のはないらしい様子ですね。あすこで今ダーウィンの全集を出しはじめた。面白い仕事であると思います、訳さえよければ。ダーウィンとファブルとの感情的いきさつも小説的ですね、ダーウィンがゆとりのあるイギリスの医者の息子で、イギリス流の気質でああいう体系的傾向を示したのに対して、コルシカの中学の貧乏教師をやったファブルが、フランス南方人のガンコさで反撥して、一生反撥していたところ、興味がある。文章をファブルがああいう擬人法で書いたのにもダーウィンの文章への明言された反撥がある。だが、今日第三者の目から見た場合、科学的な著作或は科学者の文章としてやはりダーウィンが上であります。いつか書いたかしら、ダーウィンという人は文章がいつの間にか牛の涎(よだれ)になってダラダラダラダラのびてゆくうちに、文章のはじめと終りとが自分で判らなくなって大いに困却したと自分で書いているのが可笑しい。又、小切手(銀行の)を書くときの大騒ぎぶり、金槌や何か皆自分の仕事場においといて子供らにそれを貸すときの勿体(もったい)ぶり、いかにもイギリスの中流人気質です。日本人は宣教師がああなのかと思うが、宣教師でなくても十九世紀のイギリス人に共通なものなのだと可笑しい。このうち(島田)のあわてかた、物忘れ、非常な物見高さにしろやはり一つの特徴で、うるさくて腹が立ってその癖滑稽で可愛い。何と可笑しなものでしょう、こういう日常の暮しがそれだけで初めであり終りである生活というのは!ではこの騒々しい中からの手紙を終ります。ああ島田もすっかり私の故郷になりました。うるさくて、きらいで、だが思うとふき出すようなことが沢山出来た。では又 
七月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県徳山駅より(「徳山市毛利公邸桜の一部」の絵はがき)〕
十五日朝五時。今徳山駅でのりかえ六時十八分を待っているところ。売店があいたので一寸これをかきます。東海道が大雨で二日不通でしたからひどいこみようでした。東京駅では入場券を売らず、めいめい荷物をもって、ひどい押し合いでのります。十時にのれず、十時半に立って四時二十何分かにここよ。 
七月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕
布団を受とりに参りますから又いつかのように、そちらに示すハガキをお出し下さい。そのハガキをもって受とれるように、どうぞ。   十五日 
七月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月十六日第三十六信
久しぶりにテーブルに向ってこれを書き出します。南の方から涼しい夜風が入って来て、すこし雨っぽい。どこかでホホホホと高く笑っている女の声がする。よく響くその声を自分で意識していることがはっきりと感じられて、変に華やかそうで却って空虚な感じを与える。
さて、私はきょうまだ一種の揺れている心持です。あながち長い間汽車にゆすられて来たからではなく。パチンコのゴム紐をつよく遠くひっぱればひっぱるほど、ひどい勢ではね戻って来るでしょう?私の心持は、それに似た工合だったから。熱烈にとびかえり、ぴったりとよっても、まだその緊張の顫動(せんどう)はのこっているというわけなのです。顎のあたりや頬の横にひげのあるときは、これまでも二三度見ているのだけれども、そういう顔とその中に輝いている二つの眼は、しみついて迚も消えない。大事になすって下さい。本当に、本当に。凝っと横になっていらっしゃるような午後、暑い空気は単調に而もありあまる内容をもって重く流れるようでしょうが、その空気を徹して粒々となってその皮膚をとりかこみ撫で、尽きぬ物語をしているものがある。叫びさえもこもっている。呉々お元気に。
きのう一寸話の間で感じたのですが、島田の方が今日負債をもっていないという事実を、殆ど感じとして納得お出来になれない程のようですね。全くそれは無理ないかもしれません。あなたが物心おつきになってからはずっと激しい生活のつづきだったのですものね。この間島田からの手紙で書いたように、三十何年ぶりかなのだそうですもの。貴方にとって未知である条件が現在の島田の生活に生じている次第です。あの家の最悪の時期は一九三一年か二年、自動車を買う迄で、それからは二人の若い人たちが其々自分たちで車を使えることと、父上が御病気で、母さんが店を主としてやりくって手堅く内輪にやりつづけていらしたため、追々返済の時期に入り、昨年二月に大口の片が四年かかった揚句(交渉に)片づいてからは本年の四月を最後に全部かたがついたのだそうです。私たちの志もその役に些かは立ちましたそうです。今返すのは五十円ぐらいで折合うの一つだけだそうです。お父さんがそういう安心の裡で生涯をお終りになったということは、御当人のどんな安心であり又家のものの安心であるか、お母さんが、「おとうはんはフのええおひと」と仰云るわけがあるのです。ですからお母さんはお淋しいし生活も決して安心してはいられないながら、元から比べれば、これ程安気なことはなかったという現状でいらっしゃるのです。
店の肥料は田舎の経済事情の推移と、うちがかけとりの面倒さから貸をしないのとで本年などは、あの家はじまって以来の閑散さだそうです。トラックが毎日二つ一つは欠かさず仕事をしている。隆ちゃんが正月までやって、あとはお母さんのお手でやれる左官材料米塩タバコすこしの肥料という風にしていらっしゃれば、生活は少額の扶助料とともに、不安という程のことはおありなさいません。何とでもやって行くからこっちは心配しないでと仰云いますが、私たちの気持として何だかお母さんお一人放ってはおけないから多賀ちゃんの給料¥15だけもつことにしたわけです。あなたはですから本当にそう可訝(けげん)そうになさらないでよいのです。貴方を安心させるために私がそんなことについて実際とちがう、よい面だけをとり立てていうようなことはあり得ないのですから。
今度は納得ゆきましたろうか。私が十五年も開成山に行かないでいるので庭から山々の宏大な眺望の代りに、放送局の塔を眺めることになると云われてもフウムと感服するが、どうも実感として来ない。きっとそうなのですね。世間一般の時期も過去の六七年間は、今日では不可能のことを可能ならせていたのです。
私は、あなたがどうもそんなことがあるかしらといいたげな表情をなさるので、はっきり納得して、その点では安心して頂きたいと思います。あちらの経済生活はあなたの配慮を求めずにやってゆけます。お母さんのお気持も、世間並の修辞をぬきにして申せば、やはりそうです。折々貴方の表現にしたがえば時候のかわり目にいろいろお思いになり、ごたごたとなって平凡らしい綿々が生じたとしても。
毎日はあちらに現実あるものの上で経って行っているのです。そのことでも、申すまでもなく御安心下さい。私たちが弟を二人もっていたということは、偶然のうちの最も幸福の一つです。お母さんが今日安心していらっしゃる程度を、私は貴方に感じさせてあげたいと思います。今日から明日の問題をとりあげれば、それは無いことではなくて、無いのが有るようになったことから生じるのです。すべて。これも又微妙です。
こうやって書いていて蚊やりをつけていないのに気になるほどの蚊がいない。今年は蚊の尠い夏でしょうか、この間の大雨で流されてしまって減ったのでしょうか。
この間の大雨の被害四億の由。東海道阪神の被害のひどさは汽車から見て実におどろきました。舞子のところ住吉のところなど、線路のところへ山が岩と松とをのせて流れ出したようで砂土の丘が出来ている。
六甲の麓(ふもと)の金持の別荘地帯は、八畳じきぐらいの岩がたたまり落ちて家屋を埋め、地盤はその上から新しくかためなおさねばならぬ。
布引のダムに山から流れた木や岩がつまってそれがあふれ(布引貯水池が決潰した水)大惨害となったのだそうです。六甲を植林せず、ゴルフリンクや何々ガーデンと土一升金一升にやったばちの由。急行は最徐行で通り、復旧の困難さがよく分りました。ひろい範囲ですし、仕事が人の手でやるしかない種類なので。
浴衣あれを着ていらっしゃるうちに白い絣と薄いものとをのりをつけてお送りします、隆ちゃんは浴衣にのりのついたのが嫌いだそうです。貴方は召しましたね。その方がさっぱりするから。夏のかけもの月曜にお送りします、ボタンたっぷりつけました。どうかおなかを呉々大事に願います。去年から見ると然し何という好成績でしょう!では又近々に又 
七月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十三日第三十七信
やっと盛夏らしい空気と日光になりました。暑くてもカラリとして風があると爽快です。三四日前のむしあつかったこと、まるでジェラチンの膜の中に入っているように苦しかった。机の向きをかえて、エハガキに描かれているのとは正反対の方の窓に机を向けました。梧桐の繁った梢が窓の前にさし出ていて、薄い緑色のレースのカーテンが風に帆のようにふくらみます。
そちらは、いかがでしょう。暑さはこたえるでしょうね。おなかはどんな調子でしょうか。
昨年のことを思えば、今年はたすかりますけれども、なかなか気がかりです。どうか呉々もお大切に。食事の前に、薄い食塩水で、口をよくゆすぐ(うがいをする)という仕事をずっとやっていらっしゃいますか?この間、そちらからの本を見ていたら、そういうことが、腸の注意の条にありました。よんでいらっしゃることは必定ですが不図、忘れていらっしゃりはしまいかという気がした。特に大してわるくないときには。もし実行していらっしゃれば何よりですが、念のために。
こちらは、ひどく疲れが出たというのでもないが、暑いなかを用事で歩く日がつづいて、ヤレと落着こうとしたら、二十日の夜十時頃から、うちの栄さんが俄におなかが痛いと、うなって苦しみはじめ、その夜は二時頃まで医者さわぎをしました。何でもない暑気当りですが、日頃体が丈夫でないので、心配した。ずっと臥たきりで、きょうやっと床の上におきている。昨日、Sさんという、おなじみのもと慶応の看護婦をしていた人が偶然遊びに来て、すこし泊って行って呉れることになったので、大助り。寿江子も引きつづいてこっちにいて、この数日は、片方に病人、片っぽに半病人で、私もフーとなっていましたが、きょうはましです。
オリンピックも中止と決定しましたね。文展をやるとか、やらぬとか、云っていて、又これは、いかなる情勢の下においても開催すると、文部大臣の決定が語られています。加納のお爺さんがオリンピックを日本でひらくために、外国へ行って、かえりの船の中で病死し年や何か、父を思い出させるので(気分も)、新聞の写真を冷淡に眺めることは出来なかった。そのオリンピックが中止になったか、フムやむを得ぬ、とお爺さんは一寸唇の隅を引き下げていることでしょう。オリムピック準備で、三年間の契約で来ていたドイツ人など、つまり失業ね。紡績女工のみならんや、です。
八月号の『改造』に、文芸春秋の芥川賞をとった火野葦平が、三百枚ばかり、戦地の日記「麦と兵隊」をよせています。これから読むところ。楽しみと一種の情愛を感じます。林や尾崎さんのルポルタージュとは、おのずから異った期待を与える。『中央公論』は、やはり従軍している上田広の作品をのせています(きょうの広告)こちらは、支那娘と支那軍閥を描いた小説らしい。尾崎士郎まがいの線とうねりで、「糞尿譚」をかいた作者が、上官の推薦文とともに日記を発表していて、『新文学』によっていた上田広氏が、どんな仕上げで小説をかいているか、なかなか興味がある。作者それぞれがもっている、微妙な条件と心理に迄ふれての面白さがあります。暇があるから書いたのではなくて、いつ死ぬかもしれないと思ってこまかに書いているところ、なかなか人間の生活と文学との、深い、深いきずなを思わせます。読んだら感想をおきかせしましょう。日露戦争のときには田山花袋や国木田が記者として行き、鴎外には陣中の長詩や何かがあり、一方藤村が、『破戒』の自費出版のために一家離散させた。三十年後、文学の領域はひろがっている。同時に、一家離散的面も複雑になって来ている。全体ひっくるめて、文学の収穫は豊富となり、増大しているのです。文学の全線ののびていることは、逆に中間のたるみのひどさをもおのずからひき出しているわけです。自分の力でうごかず、うごかされる部分が。この、線のたるんだ部分に、しゃがんで首をうごかして空の雲の走る方向を見上げている夥(おびただ)しい作家がいる、それさえも文学の大局から見て決して無駄ではないというべきでしょう。
そちらからの本の中に、『直哉全集』の第一巻があったので、初めていくつかの短篇をよみました。「菜の花と小娘」など、ある美しさ、人間らしいつや、明瞭さをもっているし、作者が、よく女の子ののびのびとして弾力あるしなやかさを、理解していることがわかる。だが、この完成の境地は、全く高踏的で謂わば陶器的な美観ですね。過されている青年期というものも、今日の青年はどんな気持でよむでしょう!
犬が鳴いて、「ミヤモトサン、ミヤモトサン」と呼ぶ声がした。(午後二時)寿江子が、「ハイ」と云って行って電報をもって来た。電報?何だろう、あけて見て、「キンシカイジョ(自注7)」とよみ、凝っと紫インクでタイプされたその一行と名前とを見ていると、あなたの声と身ぶりとで、「さあ、おいで」と云われている心持になりました。きょうは土曜日なのが、何と残念でしょう。御苦労様、本当に御苦労さま。あしかけ五年ぶりです。このほんの短い一行にこめられている内容を考え、電報を書いていらっしゃるときの気持を考え、さっぱりした浴衣でも、うしろから着せかけて上げたいようです。よく電報をくだすったことね、ありがとう。では、この手紙も普通に近く着くことになりましたわね。はじまりの方は、半月ばかりかかるものとして書いていたのだが。
月曜日には出かけます、ここからは池袋へ出てバスで、全体二十五分ぐらいでゆけるから。今日何か一寸してあげることは出来ないかしら。仕方がないから、色鉛筆の花をさしあげます。では月曜ね

(自注7)「キンシカイジョ」――一九三四年十二月未決におくられてから四年めに、接見禁止、書信の禁止が解除された。予審終結の結果である。顕治は事実を公開の公判廷で陳述することを主張して白紙のまま予審終結をした。 
七月二十六日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
七月二十六日第三十八信
やっぱり手紙を書かないわけにはゆかない。猶書かずにはいられないようなところもありますね。ブロッターにつかうために細く截った吸取紙をこの紙の上にのせています。ブロッティッングペイパアも元のようなのはそこいらの文房具店にない様です。
いねちゃんの「くれない」という小説が中公から本になりますが、この表紙も注文通りの紙があるかないか判りませんからと、きのう話していました。小さい印刷やに紙がわたりません。鉛の字母が一本一厘だったのが八厘です。どしどし潰れている。本は益〃大切なものとなって行くわけですが。――
きょう、私が出かけようとして腰を上げかけている徳さんと話していると、隣りの大家さんから電話ですと云って来た。Sさん(看護婦であったひと)が出ると、それをかけてよこしたのは寿江子で、十五分ばかり前に出かけたのにくっついて犬が駅の前へ行ったら犬狩りにつかまってしまった、おまわりさんにたのんで命乞いをしたから連れに来てくれという由。うちの小道のつき当りに一軒家があります。そこは実にちょくちょく代って、この一年半の間にも三四人代った、その一軒が引越しのとき一匹犬をすてて行った、小さい犬ではない雄で白いところに黒いブチがあって、よく吼(ほ)えるが一向吼える意味がはっきりしないという頓狂ものです。食物をやってマア人が通ると吼えるだけいいと笑っていたところ、ちゃんと飼っていないので頸輪も札もない。それが出かけるたんびに前になり後になりして走ってついて来る。ワンワ、今につかまるよ、などと云っていてつかまったわけです。殺されるか飼うかと二つに一つとなって飼わざるを得ない。明日警察へ届けましょう、だが年もわからず名もない。ワンワと呼ぶだけ。時には犬さんお前は少し足りないよなど云っていたのだから、Sさんに名は何てしましょうねと云うと、これ又ワンワでいいじゃありませんかという始末です。
Sさんが来ていて呉れるのは二十日から栄さんが体をわるくして(胃腸)床についている。偶然来て泊って手伝っていてくれるのです。皆暑気当りの気味ですね。いね公もやったし大きい栄さんもちょいちょい熱を出す。それには原因があって、繁治さんがこの半月ばかり前から勤めになりました。大河内の科学主義工業の調査の方です。80円。京橋へ通う。朝八時ですから六時頃おきる。妻君はそれですこし参るらしい様子です。泉子さんは赤ちゃんが出来たのと呼吸器の障害とで新協が東宝で今度やる「火山灰地」には出演不能。泉子さんを休ませる会がいろんなひとの骨折りで出来そうです。芝居の方のひとの肉体的労働というものは実に大きい。安英さんの体を見たってびっくりする。どうして持つだろうかと。すこし休んで丈夫な子を生まねばなりません。これから子供を育てるのは元のひどさと又ちがう。謂わばわれわれの貧乏が貧乏としてしかうつらないようなぐるりの有様だから。子供をしゃんと育てて行くにむずかしいわけです。スフ時代の子供ですからね。豈(あに)おべべのみならんや。
重治さんもずっと通っているらしい様子です。てっちゃんはお祖父さんが明治のごく初め、浦塩へ役人として行ったその時代の日記を整理して一部八月の『中央公論』に発表しました。このお祖父さんというのが千葉の佐倉の堀田の何かひっぱりがあり、脱藩した形式で塾をひらいていて、西周だの西村の祖父だのが何か習ったらしい。西村の家は堀田ですから。いつかその話が出て、フームというようなわけでした。そう云えば、このお祖父さん(西村)の『日本道徳論』というのが昨年であったか岩波文庫として出ました。お気づきでしたろうか?面白いものね。
おひさは今夏蚕が三眠からおきたところで田舎で大働きをやっている様子です。早くかえって来たいと云っているが。
うちのことは島田からの手紙で書いたようにまだはっきりきめられません。けれども島田へ四十日近く行っていた経験で、私がそちらにつれて動くことが多くなれば家を一軒もっていることは全く無意味です。林町の離れは、ぐるりがぐるりであり、又いろいろ大局的に、教育的に影響がよろしくない。たださえ私が金持という伝説が偏見とさえなって流布しているのですから。
生活の本質の成長というための努力は、時には一見まことに些細なような点でさえ相対的には大切なことがあります。うちのことなど単に便宜上だけのことでないから、いつぞやあなたも一寸仰云ったように、よく考えてきめたいと思います。親しいひとたちは今のような風に生活して行けないかしらと云うが。いっそのことそこの塀のそとへキャンプでも張ってしまいましょうか(!!)
島田の方へわざわざあの本(文芸百科辞典の)送って下さって本当にありがとうございました。送って下すったのが着いたとき私はもう立ってしまっていて、フセンがついてこちらへ届きました。ざっと読んだことがある。けれども又読みかえそうという気になりました。しんから歴史をとらえた大きい感情、深い湧き出ずるものをもった文学をこの頃は渇き欲します。実に欲する。稀薄な空気の中で酸素が欲しいように欲しい。金子しげりというような女史たちが、男のズボンの折りかえしが無駄でありというような決議をする世相。「島崎藤村」「菊池寛」(小島政二郎)というような題で小説が出る流行。文学の歴史も、作家そのものが文学思潮的に稚くて、わからず知らなかった時代(例えば明治初期)と、作家の努力が作品と現実が引き込む必然からどうよけようかという点に払われる時代とは大変な相異ですね。
今夜は栄さんもすこしましだし。大して暑くないし、久しぶりで夜机に向っていい心持です。島田のつかれが抜けないうちごたついていたから。
本のリストはもう一度しらべてお送りいたしますが、いつか一度は、まとめてお送りしたことがあったと覚えて居りますが、どうだったかしら。これと一緒にハガキを書いてアグネスの本注文して見ます。ドイツ語のはあるが、私には駄目。だが、この頃はフランス語とドイツ語少々よめないとつまりません。すこし読みなれたら私流によめるのではないかとも思います。イルマさん(是也の細君)ならいい先生だろうが豪徳寺ではね。鶴さん外語のドイツ語の夏期講習に通っています、感心です。除村さんは親切にやると露語をうけている人が云っていた。これから火野氏の「麦と兵隊」をよむ。ではまた。あした雨でないと布団をもってゆくのだけれども。寝冷えをなさらないようにね 
八月四日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月四日第三十九信
昨夜から書きかけていた手紙があったのだが、それはやめてしまって別にはじめます。きょうのことは、本当にわるうございました。いろいろとさぞおいやだろうとすみません。ユリは、もとよりあなたの体のことは実に実に思っているのだけれども、又一方ではそれよりほかのこともわかっているつもりです。だから、時によっては、その心痛をどんなに努力してもちこたえるかということは、この一年半の経験でよくわかって頂いていると思います。体のことについて世俗的な女房風なはからいをやろうというようなこせついた魂胆はなく、単純にかんちがい納得ちがいをしたのです。そして、自分でそう合点したので却っていやに手とり早いようなことをやって、やっぱり女房並にアンポンであるようで本当に辛い。あなたとして仰云るとおり勘弁するもしないもないとしか云いようがないでしょうが。きょうはかえりに悄気てかえった。悄気て風の吹く原っぱのところをかえって来た。今も悄気がぬけない。あした顔を見たらぬけるかしら。あしたもしあなたのいやさも増していたらと閉口した心持です。ちゃんとあなたのなさる通りにと思ってわざわざ訊いて頓馬をするなんて何て頓馬でしょう。ここではこまかく申しませんが、自分の心に対して辛辣な気持をもちます。頓馬をされてあとであやまられるなどということは馬鹿らしいことであり、下らなく腹立たしいが、どうか堪えて下さい。用事についての話しかた、私としての念の押しかたの呼吸、要点が痛切にわかりましたから、これからは決してそういう混乱はいたしません。残念でたまらないところがある。
――○――
本のリストらしいものを同封します。これについても大して威張れない工合ですが。
大判の大学ノートに線をひいて、日づけ、書名、状態をかきこむようにしました。そして差入の紙や何か入れてある大箱へはり紙と一緒に入れておいて、すっかりちゃんとやります。注文の部、こちらから入れた部、かえって来た部(購求のものもそのときしるしをして)と三つに分けて書いたら、其々わかりやすいでしょう。これからはその帖面をもち出します。
――○――
いろいろとお喋りしたかったのだけれども、今夜はそんな元気がないから、又。
屋外燈管制が今夕からはじまって、電車は、ものの読めない暗さで走っているそうです。竜頭蛇尾ということには謂わば芸術的に云ってさえ美がない。だから全く全く恐れ入って小さくなっている。
一九三七年五月十四日づけ*購求
読了のもの『ゲエテとトルストイ』『大地』『外遊断想』
注文『日本統計図表』『近世日本農村経済史論』丸善目録
スタンダール・独歩(*ともに不許)
六月五日づけ
購求読了*『戦略・戦術論』*『エッケルマンとの対話』*『絵のない絵本』*『蒙古』*『軍縮読本』*『ロシア語四週間』
差入『文芸年鑑』『プーシュキン全集』
六月十六日(巣鴨へ引越しての第一信)
ドウデンの『図解字典』(中野から)
七月二十七日づけ
原博士『肺病予防療養教則―かくの如く養生すべし』不如丘『療養三百六十五日』新潮『結核征服』長崎書店『療養夜話―胃腸病の新療法』
八月十六日づけ
○この手紙に本のことはなかった ○この間に手紙なし
十月四日づけ
南江堂『結核及びその療法』読了 『ダイヤモンド』九月一日(注文)
十一月二日づけ
ユリの古い本読了(『貧しき人々の群』『一つの芽生』等) 『秋風帖』
十一月十八日づけ
『日本風俗画大成』二冊(了)
購求「フランス通信」「東西雑記帳」
十一月二十五日づけ
購求『その後に来るもの』『支那は生存し得るか』
十一月三十日づけ
「朝日」「毎日」年鑑購求
十二月二日づけ
『二葉亭全集』目録差入 ピリンガム『支那論』購求
一九三八年の分
『真実一路』(すみ、かえる)
*『科学的精神と数学』(林町へ) *『生活の探求』
差入すみ 国勢図会―地図 / ロシア語の本
注文。但品切れ、今はいいとのこと。本庄『日本社会経済史』土屋『近世日本農村経済史論』
以上のほか手帳から注文の書きぬき
『岩波六法全書』(差入ズミ) 牧野『日本刑法』上下(差入ズミ) 『監獄法概論』(差入ズミ、不許、宅下げ) 『日本経済統計図表』三巻の中の一冊(品切れ) 三笠書房『発達史日本講座』内容見本(出版中絶につきとりやめ) 『大尉の娘』(プーシュキン原文)スミ 中央公論社『支那経済と社会』(ウィットフォーゲル上巻)(売切れ、古心がけた) 学芸社『支那農業経済論』(スミ、かえり) The Marchtoward the Unity 品切れ、注文した。 『東洋歴史地図』(八月三日発送) 『牧野英一記念論文集』中鈴木義男氏論文ケイサイの分。(しらべ中) 『敗走千里』(八月五日送) 送品目録*は購求 *『支那事変実記』 『神々は渇く』(不許) *『山谿に生くる人々』 『リカアドウ』 *『冬物語』 Red star over China 不許 *『批評精神』 *『フランス、イスパニア読本』 『二葉亭四迷全集』第六巻迄 『三井王国』 『一般哲学史』 『古代日本人の世界観』 『内科的緊急処置』 『虫様突起内科的治療』 『療養新道』 『家庭療養全書』 『胃腸病の新療法』その他医療に関するもの 『デヴィッドの生立』 時局関係のもの数冊(『支那は生存し得るか』その他) 『聖女ジョウン』 『戦争』 『経済学及び課税の原理』 『支那経済地理概論』 『アメリカ読本』 『日本文学評論』二冊 *志賀直哉第一 『雪国』 *『緑の館』 『中條精一郎』 『母の肖像』 『フランクリン自伝』 *『シェクスピアその世界観と芸術』 *『リアリズム』 『出版年鑑』 『蒙古』 『軍縮読本』 『絵のない絵本』 
八月六日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第四十信私が誤って納めた金(自注8)について、貴方の意志でなかったという点を表明して頂きたいと思います。土台私が払うべきものではなかったのでしたからお手数ですが、どうぞ。
裁判ノ執行ニ対スル異議
被告人宮本顕治
右者兵役法違反被告事件ニ付
昭和年月日(ここへ地方で判決の云いわたしのあった年と月。日はなくてもよい)
御庁ニ於テ罰金弐拾円ニ処スル旨ノ言渡ヲ相受ケ候処昭和十三年八月四日東京刑事地方裁判所検事局ヨリ被告人妻ユリニ対シ右罰金ノ納付方請求有之、妻ユリハ誤ッテ之ヲ納付シタル次第ニ有之候(領収証書番号第一〇五九号)従ッテ右罰金ハ被告人ニ於テ納付シタルモノニ無之候間右執行ノ御取消相成度此段異議申立候也
昭和年月日
東京拘置所在監
右宮本顕治
東京刑事地方裁判所 御中
こういう手紙をすみませんがお出しになって下さい。事後でも貴方のお払いになったものではないのだから、被告人としてやっぱり手紙をお出しになる立場がおありの由です。私が頓馬で面倒なことをおさせして本当にすみません。
とりいそぎ、要点だけ。

(自注8)誤って納めた金――一九三五年ごろから係争中であった兵役法違反事件が一方的に決定して、百合子に罰金二十円を支払うよう通達してきた。 
八月八日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第四十一信三四日やせるような思いをして夜も余り眠れないような気持だったので、きょうはかえるとパンをたべて夕刻まですっかり眠りこんでしまった。
良人というものは妻の愚かさによっても良人としての自分を痛感させられる場合がある。一生のうちに何度かあるものなのでしょうか。親の愚かさよりつれ合いのおろかさは何倍かしのぎにくい。そう思って辛かった。それでも貴方がそうやって平らかにうけて下すったから本当に有難く思います。あなたのいやさをこちらからまざまざと察してその原因が自分であることを承認しなければならないというのはどんなに苦しいでしょう。こういう心持は貴方はきっと一度も御存じないでしょうね。私はこういう経験に際してはギリギリのところ迄自分を追いつめて見るから汗と一緒にひとりでに涙が流れました。
今年の夏は私たちの暮しには珍しい夏ですね。毎日でなくていいと仰云るけれども私は八月中は毎日行こうかと思って居ります。あなたの風入れになるばかりでなく、毎日きまった距離をきまった時間に歩くのが或は私の体にもいいのではないかという気がして居るから。その上、少くとも私には大変にくつろぎになり、たっぷりさになり、生活のめのつんだ成長の感じで、この一月からの緊張したものが健康にほぐされてゆく工合です。毎日会えるようになって私は自分が肩を楽にしているのにびっくりしました。ああやっぱりこんなに体をかたくしていたのかと思いました。十八九の頃からともかく自分の書くもので生活して来た人間が、その道をとざされたということは決して容易なことではない。神経にもつよく影響します。私は神経衰弱にならぬときめているから、それにはかからないが、知らず知らずの間に不自然な緊張があって、自分の勉強的仕事をやってゆくにも、おのずからたのしむ風のゆとりが欠けて極めて微妙な焦立ちが底に流れていた。書いていながら不図それを感じ、二重にいやでした。(島田へゆく前)思索のたのしさ、対象により深く深くとはいり込んでゆくたのしさで、体をふりながらわきめもふらず進んでゆくようなところがなく、何だか息が短くて癪(しゃく)にさわっていた。心ひそかにこういう神経の過程はどんな工合に踰(こ)えてゆかれるのかと思っていた。
そしたら、この頃そういうごく微妙な部分でらくになって、いくらか均衡をとり戻した自覚があります。だからこの調子で八月は暑さも暑いし、すこしゆったり顔を眺め、物干にほされるあなたの着物をたたんだりして滋養を摂(と)ろうという気になりました。それでいいでしょう?お互にそういう意味での養生を致しましょう。ともどもということも具体的で、貴方の白絣の袖がついここにあるような感じは大変に大変に気の休まりになります。たまだと、何だか大きい声を出して、力を入れて、私は丸っこいから精一杯爪先に力を入れて、のり出して物を云うようだけれども、この頃はふだんのようで、あなたも私もふだんで、この何でもないようでたまって来る滴々が生活にもたらす味いは又特別です。首をかしげそれを味い、体中に膏油のように手のひらまでまんべんなくのばしてゆくようなところがあります。この膏(あぶら)がもっとよく沁みこんだら、私はきっと何かこれまでとちがった豊かな元気をとり戻すだろうという予感がします。既に新しい細胞が微かな活力でうごいていることを感じます。妻として作家として今の事情から日々新しいものをすこしずつではあるが本質的に吸いとっているようです。それに、たまだったときには、その次の時までの私の生活の全内容というものを最も中心的なものに総括して、その印象を貴方につたえるしか方法がなかったから、私が自身の弛緩(しかん)を警戒する敏感さ、あなたの知ることの出来ない部分にゴミをつけまいとする心くばりは、随分神経質でした。同じことであっても、きのうからきょう、きょうから明日へと流れつづくと、その流れは自然で、その心くばりにおいても一緒の感じでくつろげる。
これらのいろいろの感じは皆新しい。こういう感じが来ようと知らなかったし格別それを期待していなかった。知らなかったわけです。
私たちが生活するようになってから、私は屡〃(しばしば)新しい歓びとおどろきにうたれてそれを百花繚乱という表現やそのほかの表現で二人の間にもって来たが、例えば今こうやって書いている私の心を流れているものは、何と云ったらよいでしょう。
これは小川かしら。きれいな水のたっぷりある、草の葉をそよがせて流れる川の音のような工合ね。息がしやすいような空気がここにはある。静かにその音をきいていると、時の経つのを忘れ飽きることがない。ああ、だがこれは決してただ単調に流れているのではない。一寸、こっちへ手を出して。ね、あすこにあんな燦(かがや)きがあるでしょう。そして、あの色は何といり組んだ光りをもって次第に高まって来るでしょう。益〃美しさと勁さとを増して高まって来る音響の裡に私たちは包みこまれ、そして、こういう感覚の中で、あなたは去年の苦しかった夏、私にあてて肉体の衰弱が強くなると逆に日常的便宜性に関しない大きな平安の心持が強く起きて来るのは面白い経験だったと書いて下すったのでしょう。(本の整理のために去年の手紙をよみかえし十月から十一月へとユリの旧作をよみ返して下すった非常に深い心持の意味を更につよく感じ、この前の手紙にもそれを書きたかったのでした。けれども、一方であんなへまをして迚(とて)もその勇気がなかった。紙がなくなってしまった。小さい字で。小さい字を書いて感じる。ずっとそばでこの位の声でものを云いたいと、非常に非常に。 
八月十日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月十日第四十二信
お手紙ありがとう。今朝拝見しました。そして、読んで或おどろきを感じ、それから様々の感想を刺戟されました。私はこんな立腹の調子の微塵も感じられぬ手紙、最も深い親切だけが漲って感じられる手紙を期待しては居ませんでした。あんなことを云っていらしたから少くとも、もっと所謂こわいものを覚悟していた。十分それにふさわしいのであるから。
一通り読み、更に読みかえし、私はこの手紙の中に云われていることが、全く根本的なものにふれ又機微にふれている大切なことであるのをわかるばかりでなく、それを云っているあなたの態度から二重に感じるもの、教えられるものが非常に深い。
この間、本の整理のために去年の間にいただいたいくつかの手紙をよみかえしたときにも、私は何か自分が感情的になってせまくとりつめたような気持で受けたことも、あなたの側からは、ひろい生活的見透しに立って云われている場合であったことを再び発見して居りました。例えば去年の初めここへ家をもった前後のことなど。
きょうお手紙を読んで、私は貴方が元より天性にある資質であるが、その規模というか大きさというかを一層深め拡げていらっしゃることを痛感しました。弱点をそのままうのみにして許す寛大さと云われるようなものでない寛大さについて、私はこれまでも一度ならず身にしみて感じて来ています。それでも、この手紙には、何とも云えぬこせつかなさ、不動な正当さ、いつ読んでも、読む人間が人間としての成長を願っている者なら、尽きぬ教訓となるものが、単に言葉としてではなく、独特の温さの感銘を伴って湛えられている。私がこの感動を特にとり立てて云うのは、貴方の内にこのようにして豊富にされつつある或る力が、日常のどのようなところから蓄積されて来ているかということを考えずには居られず、それに思い到ることで、云われていることが益〃その真の価値で心にはいって来るためです。
相手を傷つけず、しかもその最も急所にふれての忠言を与え得るというのは、或る人間的達成の水準以上にあって初めて可能です。私などはこの点だけ見ても実にまだまだです。客観的な正当さと、自分が怒ったり毒汁を吐いたりする権利とをごっちゃにしたりする。
私はこの前の手紙で書いたように、本当に自分の腕にかぶりついているようなところのある気持でこの手紙をひらき、そして読むのだから、ここから射し出す明るさとあったかさとに何とも云えない気がする。
人間と人間との間に「純粋」な感情交渉があり得るなどということは全く仰云るとおり無いことです。だからこそ、価値あるものの価値と本質とを守ることが不可欠になる。愛情にしろ、最も複雑な、固有な、調和と共感と努力とが統一されているからこそ、かけ換えというもののない献身の諧調に達する。お手紙の中のその数行は、愛情について云っても、謂わば現実的相貌にふれてのこととして、意味ふかく、私の捕えられる一番複雑な内容において拝見した次第です。
私たちの生活の成長ということについて考えます。いつしか段々といくつかの段階を経て、私たちの生活も、今はよく云い現すことは出来ないが、ただ仲よいとか、睦じいとかという程度の時代を過ぎましたね。自分の生活は独特だからとこの間仰云った、私の生涯もその独特さと結びついてやはり独特なものとなって来ている。縫い合わされて、その糸はこちらに出て来、この糸はそちらに出ていて、分けられない。例えば自分の弱点についても、先は、貴方に対して恥しかったり、残念だったり、極りわるかったりした。貴方にそれにふれて云われるとき、向い合って座らされるような気になった。
段々、今はそうでなくなっている。私の弱点さえも、私があなたから離れることのないものであるごとく貴方にくっついているものだと感じている。それについてすまないと思う。どんなに手荒に貴方が療治をしようとも、貴方の一部なのだから、一生懸命に手をかし、率先して最大の努力をつくす気持です。こういう云い表しかたは不十分なのだけれども、いくらかわかって下さるでしょう?
私は貴方のBetterHalfになるということは恐らく決してないだろうが、然し仮令Weakerhalfであるにしろ、その向上と発展とのために現実に生涯が賭されているのであってみれば、私たちは少くとも腐って動かない部分をもっているのでないことだけはたしかです。「雑沓」について書いていらっしゃること、思わず笑ってしまった。あれはね、まさか私だってそれを云った人だって「カッコつき」の大傑作と思っては居りません。貴方に読んで頂けないものについて、私はいくらかでも知らせたいと思う、すこしはましということを知らせたいと思う。それで、その意味で、そういう表現で云われた言葉もつたえるわけ。達成だなんかと思っているものですか。この手紙全体の終りに近く云われていれば、細かく反覆しないでもよいと思って、これだけにします。私が日々行くことは、初めはよく分らなかったねうちをもたらしますから、私は一つの丸い吸収玉(アブゾービングボール)(そんなのあるかないかしらないが)となって行きます。深いお礼の心とよろこびとをもって。 
八月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第四十三信二百十日でも近づいたような風の吹きかただこと。栄さん宛に送っていらした手紙の本のリストもすっかり帳面にかきこんで、そちらでお買いになったものをぬいて、みると注文は凡そ
一九三五年(十年度)一八〇冊内一七〇読了。
一九三六年(十一年度)七〇冊のうち五〇冊返送。別に医療に関するもの十冊位送る。
一九三七年(十二年度)主として医療のもの一〇冊位。
一九三八年(十三年度)この年から購求が主となったので、御注文は大体古本でさがす分となりこれは凡そ一〇冊位です。
三六・七年とも雑誌はずっと見ていらしたから、それを一年に三〇―四〇冊として数えると次のようです。
一九三五―一九三七年末迄凡そ三〇〇位読了。
一九三五―一九三七年末迄注文凡そ三三〇冊位。
このほか、そちらで折々購求してお読みになった単行本を入れると、凡そ三五〇―四〇〇冊となるのではないでしょうか。一九三五年は一ヵ月凡そ十四五冊以上読まれて居ります。この密度は永年つづくものではなく、つづいたらば必ず烈しい神経衰弱になったでしょう。私の経験で、読めて読めてしかたがない、又読みたくて読みたくてしかたがなく、御飯の間も手ばなしたくないようで、ハハーンと我から肯(うなず)き、読書のスピードをおとすことと、一ヵ月に冊数をへらすことに努力した覚えがあります。そういう風に抑制して一日を、日本経済史・漱石全集、一寸したものと三つに区切って、三日四日目に大体入れ替えをするような調子でした。
どうかことしもあまり読書はつめてなさらないで下さい。読みすぎは実にわるいから。呉々おねがいいたします。今年から来年にかけてもう一息丈夫になって下さらねばなりません。読むことを制御できたその力で恢復していらしたのだから。本当に大切です。この分は本のしらべだけ。参考におなりになるかと思って咲枝宛のと栄さん宛のとの中からの抜き書を同封いたします。
日本人に近眼と乱視の多い理由を、日頃から文字のタテヨコの混乱が影響しているのではないかと思います。一日のうちにヨコをよみ(外国語)そしてタテをよむ。そういうのは果して害がないかしら。あなたは折角眼がよくっていらっしゃるから、わるくしたら惜しいと思います。中国の若者も眼鏡が殖(ふ)えているし、お会いして伺いますが、上海にいて魯迅全集の仕事をしていた内山完造の『支那漫語』(改造)、イギリスの一九三三年以後の文学批評の新しい潮流を代表するラルフフォックスの『小説と人々』TheNovel&ThePeopleおよみになる気がありますかしら。前者は手許にまだないが、後のならやっと着きましたが。では又別にいろいろと。
一九三五年十一月十六日(咲枝宛より抜書)
私の勉強の眼目は(一)現在についての具体的知識、(二)社会経済史、(三)新しい科学の三つの源泉である近代古典(スミス、リカアドオ、哲学のヘーゲル、フォイエルバッハ、ラ・メトリイ、残りではサン・シモン、オーエン等)(四)軍事科学、(五)文学、芸術、(六)語学ですが、この一年度は大体各部門の概括的展望を心がけ、不十分ながらある程度まで目標どおり進み得ました。大体総数一七〇位で、内(一)及び(二)が五〇(三)一五(四)七(五)五〇その他歴史伝記が二〇雑誌五〇位です。
十一月二十二日(壺井栄あてより抜萃)
今年の十二月で読書の第二年度に入るので次年度の予定の大要を書いておきます〔中略〕
(一)相変らず統計類を利用しながら日本産業、日本農業、法制等(法学全集等もつかいましょう)
(二)『明治維新史』および以後の軍事、憲政、経済史『明治文化全集』朝日の明治大正史等も利用しましょう。
(三)(イ)価値論を中心としてスミス、リカアド、(ロ)ヘーゲルをやってフォイエルバッハおよびフランス唯物論、(ハ)十七世紀以後の啓蒙思想家。
(四)ナポレオン以後の戦争史、クラウゼウィッツの再読、陸軍省の操典等、地図と対照してやります。
(五)文学、芸術では読み落してある近代的古典をやりましょう。
〔中略〕時間の振りあいの度合いを仮に比率で表せば、(一)(二)が四、(三)が三、(四)が二、(五)が一の割合です。 
八月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書速達)〕
八月十九日第四十三信
きのうは、出てから池袋の駅でプラットフォームを間違えて、長いこと来ない方向の電車を待っていました。やっと気がついて別の方へ行って有楽町まで行って、用をすまして伊東屋であなたからの手紙を整理するためのスクラップを買って雨の降る人ごみの中を歩いていたら、ずーっと思いつめていたいろいろの考えの波の間から、段々にわかるよ、わかるんだよ、と笑って云っていらした貴方のいかにも確信のゆるがない顔や声や眼と、自分が赤くのぼせて貴方から視線を引きはがすことが出来ない気持、もっともっと云いたいことで喉がつまったような気分でふくれて立っていた様子とが対比的に浮んで来て、独特のユーモアを感じ、思わず胸の中を一抹の微笑が流れた。そしたら大変気分がひらけて来てすこし楽になった。
昨夜は小さい蚊帳の外からさす電燈の灯を眺めながら、五時頃まで目がさめていました。さっき坂井さんがそちらに行くとよって呉れたところです。栄さんの(うちの)兄が入営が早くなり十月頃なのでいろいろ相談と云って出かけ、家じゅうに私一人。貴方に向って坐っている私一人。
きのう、私の云いたいことが後にどっさりのこされたようになったにはいくつかの原因があると思います。
根本的にあなたの示された点はわかっているつもりです。私のルーズな点と云われることについても私は弁解しようとは思いません。自分があらゆる点で統一された張りで生活したいと希望しているとき、その及ばない点がある場合、何故それがそうあるかと究明する必要はあっても、貴方に向ってああこうと説明するには及ばないことですから。
私が俄に頬っぺたがカッとしたようなのは、(一)ユリにもそういう性格が云々ということ、(二)あちらの一家族という方へユリの在り場所を力点づけてあなたが仰云った点、(三)ユリがいろいろ考えているからだが、もしそれがなければ云々。これらのことが私の心の中へ工合よくおさまらなかったわけでした。特に第二のことが。
広い意味での環境として、ああいう家庭生活があるということ。而もユリの近くにあるということ、それは事実です。私がある時期そのうちに育ったこと、今日も或面での接触があるのだから、常にそれを客観的な見とおしで洞察し、まきこまれず、積極的な歴史性として作用してゆくだけの努力が当然要求されているというのも全くのことであると思います。そういうところで私が厳しさを欠いているということ、つまりそれが自分の生活感情のうちにあるルーズさとして、あなたが云われることも、私は自分の生活の成長のため、昨今は他から殆ど一滴もない養液として、ありがたく頂きます。
元より、ユリのそういうやわな面とあちらの生活のありようとの間には、連関がないことはない。ひろく、微妙な意味で。然しながら、その点を見きわめ、又とり出して見ることで、ユリというものをあの程度に、あっちの方へ力点づけた在りようで云われることは、当っていたでしょうか。
書きはじめて、これはユリのこの十年の成果として文学史的価値を与えようと決心している長篇小説は、複雑な内容をもっていて、一口には云えませんが、ある一家族の歴史的推移を扱う場面の最も骨格をなすテーマは、父親である男がその人間的美質や技能にかかわらず、自分の属す社会の故に、極めて卑俗な生活面を持ったことを発見して、次代の者である娘が、父への愛、悲しさ、残念さの故に一層より合理的なものへの献身に進んでゆくことが、一つの歴史の性格として把えられています、そのほかいくつかの愛と呼ばれていて愛でない人間関係の究明とともに。
丁度二月の初めのひどい雪の日、霏々(ひひ)と降る雪を小さく高い窓に眺めながら、激しい疲労ですこし気が遠くなったようになって横になりながら云いつくされぬ感慨で、そのことを考えた。
ユリ子がああいう心持でああいう生活をしているのに(貴方との面です)、俺には云えないと云って詩を私にのこして亡くなった。私たちの生活そのものが、偽善的な意味でなしに、その人の人間らしい面にふれて、その良心の護(まも)りとなったということ、そういう地位や年齢に厚かましくなり切れなかった心を、私は二様の点から忘られないわけです。
我々の生活の意味の大切さ、与えるところの無形の深さを、重い責任とともに痛感しました。(このことはこれまで一度も書きませんでしたね)技術家並に経営者としての錯綜した社会性についていつかあなたも書いていらしたその通りです。だから、この上なく愛しながら一緒に生活出来なかった。
今の人は、時代の性質に応じて、質はずっと低下して居り、形式上現代の徳義を破らなければ安心していられる。或生活面のテクニックでは先行者の技術を学びとっているわけですから。
人間が真面目に成長を努力すれば、条件としてその過去の在りようを十分にはっきりさせなければならない。その場合、主観的に語られる方と客観的に評価される方とあり、例えば私が最初の小説を書く頃から、自分の環境的なものに疑いをもっていたこと、追々一方の社会的経済的生活が膨大になるにつれて、そのギャップが甚しくなり、自分は一生懸命にその中から健全な新しい要素として生育しようとして来たという主観的な自覚は、それだけで肯定され得るものではない。客観的な達成から見られて、その主観的なものも評価されなければなりません。
客観的に不十分であり、怠慢があると云われることを、決して私はこわがってもいず、又あくせくして陳弁これつとめようともしない。けれども、客観的に在るところまでは、その線をはっきり自他ともに確保した上で、更により高い進展のために一層努力されるわけでしょう。こう書けば、そんなことはわかっているよとお笑いになるかもしれず、又、それがなければ土台出ない話だとユリの頓馬ぶりをお感じになるかもしれないと思う。けれども、お前もその一族という風に焦点をおいて云われると私は辛い。堪えがたいようなところがあるのです。
いつかよっぽど前の手紙に、ユリは毎年どこかへ行って暮したのだろうから云々とあったとき、生活の細部というものはわかり難いものだと思ったことがありました。私は二十歳位から折々家族と暮したが、何年も一緒に暮したことはなかった。この三・四年ぐらいちょいちょいすこし長く暮したことはなかった。
今度のことで、私がルーズな結果になったのは、親密さの余りというより、見きっていたところがあった。あっちの生活、自分の生活、その間に本当の血脈は通っていない、それをつよくつよく感じていたために、或意味での不親切があり、それが、自分の生活感情に或点での究明追求の放棄となって作用していたと思います。ルーズさを十分認めるとして、私にはそういうように思われている。近似性や類は友を呼ぶ風なものであったとはどうしても思われない。迂(う)かつであったということには私の敬して近づけられていない或点からもある。(よいことではないが)
月曜日にお会いして話が出たとき、私はいろいろを尤もと思い、念を押して、仰云ることはすぐやることにしているが、この次までには結果はもって来られないからと云ったとき貴方はゆとりをもって、「ああそれはそうだよ、考え甲斐のあることだからよく考えてやるといい」と云って下すった。
二日の後に、そのつづきの気持で行って、あなたの方の気持のテンポと呼吸が揃わなかった上、何か私をもひきくるめて感じていやな心持らしいようでもあり、私としては云いつくせないことがどっさりのこった感じだった次第です。
あちらの家へ行くことは月に二度ぐらいです、大体。狭い言葉のつかいかたでごくそばの日常的接触としての環境というような風に云われて、ぴったりしないということもおわかりでしょう?
私はあなたに、私と家族との間にある心持の実際のありようと、私が客観的にルーズとなった内部の事情とをわかって頂きたいと思います。隆ちゃんやお母さんの御生活に、暖い近さを感じている反面には、そういう質的な不一致が一方に感じられているからでもあるのです。
私が只いろいろ考えているからというだけで或一貫性を生じ得るのではないと思う。頭だけの問題では決してない。最も複雑微妙な生活的蓄積の上での決定的な選択と評価とが心と体とを貫き流れているからこそ、好きという一言に、全生活の歴史の方向がかかっているのだと信じます。性格としては同じだが考えがあるからなどというような根の浅いものではない。考えなら或は変るかもしれないではないでしょうか。それは体質的近似があるように心理的な多くの共通性をも与えているだろうから、一般的に似たところがないとは云えません。それを警戒しなければならないということもわかる。けれども、似ているからぐずぐずになっているのでは絶対にありません。
今度その解決にとりかかっている問題は、私という人間の鍛煉のためにも多く役立つことですから、いい加減にせず、具体的に、あの子にも人間生活の正しさをわからせられるようにやりたいと思います。不毛の土地であるという先入観をすてて誠意をもって当って見ます。
どうかこの手紙をよく読んで、私がしつこく云っている点が、私の生活の感情のうちでどれ程生々しく大切に思われているかということをうけとって下さい。そして、その点について納得が行ったら笑いながらでもいいからわかったよという返事を下さい。或一定の土台以上の標準からと知っていても私のような妻としては、やはりわかったわかったと云って欲しいこともあるものです。この感情は貴方に向ってこそ全幅に求め披瀝してよいものだと信じます。では又、 
八月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一九三五年八月十日栄さん宛
※『ゴオゴリ全集』(第二巻まで入れていずれも不許) ※大観堂円本目録 古典社の『古本年鑑』 ※一誠堂目録 ※『大思想全集』カタログ 『ヘーゲル伝』 『ヘーゲル哲学解説』(岩波)
一九三五年九月十四日栄宛
『自然科学史』
一九三五年十一月九日栄さん宛
※北隆館月報 ※図書月報 ※春陽堂月報 ※春秋社月報 鉄塔書院 白水社月報 ※白揚社月報 『日本経済統計図表』(有沢) 『世界経済統計図表』 ※『日本憲政史』尾佐竹猛 『経済学史』高橋 ※?『経済学史』小泉信三 『ヘーゲル哲学体系』ローゼンクランツ 『ヘーゲル哲学解説』白揚社 『クーノーフィッシャー』白揚社 『ヘーゲル哲学概論』岩波 『ヘーゲル哲学解説』クローナー 『小論理学』 『精神現象論』岩波 ※『大論理学』 『大独日辞典』登張 ※竹越『日本経済史』十一、十二、十。
一九三五年十二月七日栄さん宛
※『日本国勢図会』十年版 ※『リカアドウ』 『ヘーゲル伝』 『日本財政論』大内 「日本財政論」阿部 『日本戦時経済論』 『トラストカルテルシンジケート』 ※『流通論』上下福田 『非常時国民全集』中陸軍篇海軍篇海外発展篇 『帝国憲法講義』佐藤丑次郎 『憲法総論』山崎又次郎 ※『帝国憲法逐条講義』上杉 ※『日本刑法』改訂版牧野 『刑法概論』島田 『刑法基礎理論』島田 『国際外交録』中央公論 ※『日本外交秘録』 ※『わが七十年を語る』林権助 『世界経済問題研究』 ※『日本資本主義発達史』(講座・不許) 早稲田『国民の日本史』中「幕末史」「維新史」 『経済学史の史的研究』渡辺 『価値学説史』第一巻「正統派経済学」波多野 『リカアドの価値論及び其の批判史』堀 『英国経済学史論』ロッシャー 『英国経済学史』プライス 『地代思想史』高畠 ハイム『「ヘーゲル」と其の時代』 改造社『経済学全集』中「欧州経済学史」「各国経済学史」 スタンダール『ナポレオン』 ※『孫子』桜井忠温 『軍事科学講座』文芸春秋社
栄さん宛の手紙からは以上全部で凡そ七十冊、チェックした分だけは送ったもので、僅か二十六冊ほどです。そのうち不許が講座を一冊として三。
――○――
市ヶ谷からの第一信から昨年一杯までの注文された本の総数は大体二百十。そのうち送られた分は凡そ百二十冊ばかりです。
――○――
これは本の調べについてだけの分。手紙は別に。 
八月二十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十二日月曜の夜第四十四信
光子さんが三ヵ月に亙る岩手と北海道の絵の旅からかえって来て、きのうから泊っています。今風呂に入っている。私は二階。
雨がひどく一しきり降ってやんで虫の声がしている。そこのまわりの腰ぐらいの高さある草むらの中でどんなにこういう虫の声がしているかしら。虫の声はそこへも聴えているかしら。眼をあいて横になっていらっしゃる耳にきこえているだろうかしら。
きょうは、まるで電話が途中で切れて、もうつながらないままボックスを出て来るような気持でしたね。こういうのは、又こういうのでいかにも困る。私としてこう云いたかったのだとか、或は、貴方のおっしゃる意味はこうだったのだという、考えて分ること、考えて筋の立つこと、そういうことが話しのこされたのとは又異います。何という独特な舌ざわりでしょう!
私たちの話は細かいところまでふれつつ、その細部を穿(うが)って大きいものに触れている方法なので、金や本や衣類の用向きの形はとらないから、日常必須の用件とうつらないのでしょう。
ああいう話しは、私たちにとって欠かされないものだけれども、どうしても一定の時間がいります。単な言葉数でない時間がいります。同じ土台、同じ線の中で話していることは勿論わかっているのだけれども、互の気持がぴったりするところまでゆかないうちに中絶されて、どこかくいちがった感覚でのこされる。これは私にとって感覚的に大変苦しい。そちらもそうでしょう?あれも、これもわかっている、けれども……。そこで切れる。これは謂わば健康によくない状態です。考えてわかることでのこった話は、のこった影響がこんなに体じゅう苦しいようではない。わからせようという、一つの楽しみのようなものが含まれます。気分でくいちがう、或はぴったりしきらないのは迚も其那楽なものではない。あした顔を見てこの気持がほぐされるまで持ち越し、云って見れば、そのサスペンスの永さで実に苦しい。私にはこういう苦しさは肉体的に来て、殆ど堪え難うございます。
一言に云って、私たちは新しい事情にまだよく馴れず、その条件をつかいこなしていないと云えるのではないでしょうか。
急にあれもこれもとたたまり、一つのテーマについて、そのテーマの展開法では数倍の時間が必要な話しかたを、不可能な短時間のうちにしようとしているのではないでしょうか。この話しかたの内奥には、頻繁に会い、話せるために一層細部までを結び合わそうとする互の意識しない自然な烈しい慾求が働いていて、逆にそのとき毎にのこした部分を生じ、のこされた部分は一種の苦しさ焦慮めいたものになってたまって来る。客観的には時間の不足が原因であるのに、気分の満たされないものが、何か互の気持の内に存(あ)るように感じられたりするのではないでしょうか。
私は余り苦しいから、しきりに考えます。私たちの間で話されていることについてのお互の根本的な理解で、齟齬(そご)しているところは無いと信じます。仮令それが私自身のいろいろな到らない点にふれていることであったとしても。それはわかっているのだとしか思えません。分ってはいるのだが、あの場処でああいう長篇的展開をはじめると、その過程でどっちかが一人で進んでいるような瞬間、時間的に中断され、苦しいことになるのではないでしょうか。
毎日でも会えるということの中には、斯様なものがいかにも潜んでいます。
貴方はどんなにお感じでしょう。恐らく私より大してましなことはあるまいと思われます。いつも真直に幅ひろい視線で私の上に注がれている眼を、その暖かさは失わず、然し或微かな身ぶりと共にお伏せになる表情を、私は平気で見ていられません。かえっても、その表情と身ぶりとが私につきます。いそがしい交通機関の波の間に、いろんな用向や人との応対や笑いの間にさえ、その身ぶりは私の心をひっぱりつづける。
視線が合えば、互の切りくちがすっかり合ったよろこび。そのよろこびでどんな苦しさも凌げて来ました。その確信には無限の力がある。そしてそれも感覚として来るものだから、きょうのように電話が切れた感じは、やはり感覚として全面の訴えをもつのです。小さい言葉の端々、電話の切れるすぐ前にきこえた言葉の一つ一つにこだわることは、貴方にもすまないことであるから(そこで止る意志ではなかったのだから)私も、それに執さない修業を致します。大局から、我々の把(つか)んでいるところから見とおして私の最善の善意と努力で噛みこなして滋養にしましょう。けれども、これからずっと、可能な時間と私共の話しかたとの関係は同じような条件でつづくわけですから、何か話しかたの一工夫をしてはどうでしょう。そのことで私のこういう苦しい輾転反側が解決される部分もあるのではないでしょうか。こういう状態が続くと私は、自分が病気になるだろうと思う。そんな苦しさですもの。しまいには涙がこぼれて来る。そんな苦しさを続けていることは決してよくありません。
私は思うに、やっぱり深くこまかく而して大きいことは、ああいうときに話しきれず、手紙に書き、又書いて頂くしかないのではないかと考えられます。会うときはその材料の上に立って大体の結論にふれて話し、そこで生じた次のテーマは、それとして又書いてつくしてゆくという風に。システマティックにやらなければ不便でつかれるのではないでしょうか。私はいくじないことかもしれないが、あなたを見て聴く言葉は悉(ことごと)く熱く、つめたく、あたたかく、流れ、或は刺さり、鼓舞され、又軽く肩をたたいて、どうだいと云われるものとして、生(なま)で、全感覚で受けます。だから、妙に中絶してはやり切れない。
話しかたと時間との関係であるのが大部分だとお思いになったら、どうか一工夫しましょう。
さもなくて、私に対する貴方の意に満たなさから湧いているものの諸変化、ニュアンスであるとしたなら、貴方にもそんなに感覚的な居心地わるさを与えた自分の受けるものとして、私は自分の苦しさを云いたてることは出来ないと思います。私たちは、私たちの生活における神経の生理によく通暁して、例えば私がここでこの苦しい頭を一つおまじないさえして貰えたらと思っている。そういうものの裏がえった神経の作用にあやつられないようにしなければならないとも思います。きょうはこの間からの事について書くわけだったのですが、電話の切られかたが余り苦しかったから、ほかのことが書けない。それでこの手紙となった次第です。
きょうは、いろいろをぬきにしてすこし工合がおわるそうでしたが、いかがですか?あなたの横になっていらっしゃる布団の傍に坐って、永く永く何といろいろのことを話したいでしょう!何とあなたの笑顔を見たいでしょう!何と「ユリばかばか」と云われたいでしょう!これは私の飢渇です。 
八月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十四日第四十五信
きょうは心も軽く鼻歌まじりに栄さんを督励して本箱を置換えたりベッドを直したりして、又元のエハガキのような位置におちつきました。この間うちから落付いて勉強したくなっていてそれにもかかわらずいろいろまとまらなかったが、きょうからは楽になったところがあって、そろそろはじめます。当分引越さないときまったからには、地震のとき二階の廊下が本棚の重みで抜け落ちたりするといけないから、本棚を二つ重ね(あの重ね本棚の小さい方)下の四畳半において材木屋へ行ってモミの五分板二枚一・七〇也買って来て、ベッドに入れました。「乳房」という小説の書けたときこのピアレスのベッドは買ったもので、年数でいえば、詩を書く友達が亡くなったときだからまる三年ぐらいですが、スプリングがすこし弱って来て、背骨によくないといけないので板を並べてスプリングをあてにしないことにしたわけです。追々暑さもなくなるから又この机とベッドとをよく使って勉強しましょう。
私たちの生活にあっては、勉強・仕事なしでは感情そのものの重量さえもちこたえ難いということを最近痛感しました。苦しいことがあると益〃仕事に身をうち込むということを、よく伝記や何かで割合あっさりと書く習慣があるが、人間が苦しいとき愈〃自分の仕事の価値を知り、それに深く結びつくのは、その人間がそれまでの過去において、既に相当までその道での苦労を重ねているということですね。苦しいとき自分を救うものとして自分の仕事を自覚し得るということ、救うに足るだけの技術、方向をつかんでいるということ、このことはなかなか大した生活の蓄積であると、おのずから感服するところがあります。
お話の本のリストの追加分を同封いたします。封緘の紙質がわるくなってインクがしみて書きにくがっていらっしゃいますが、この紙にしろわるくなりました。これは伊東屋の昔からあるDAWNというので同じ三十五銭でずっとよかった。原稿紙は二年ほど前三十八銭(100枚)が四十五銭にあがり(昨年)只今は六十銭で、しかも品切れ。このペン先は三倍近くなりました。では又、手紙はゆっくり別に。あなたも昨夜はどこか軽々した気持でいらしたでしょう?
一九三四年十二月百合子宛第一信から注文
※『世界国勢年鑑』 ※『世界地図』 ※『満鮮』 ※『我等若し戦わば』 ※『我等の陸海軍』 『明治維新研究』 ※『蹇蹇録』 ※スミス『国富論』 ※リカード『経済学原理』 ?『地代論』 ※『近代民主政治』 ※『将来の哲学の根本問題』 ※『史的に見たる宇宙観の変遷』 ※ランゲ『唯物論史』 『ヘーゲル哲学解釈』 ?『種の起原』 ※ブランデス『十九世紀文学主潮史』 ※『世界文学講座総論編』英・独・仏・露 ※ジイド『ドストエフスキー論』 ※テイヌ『文学史の方法』 ※『従兄ポンス』 ※『従妹ベット』 ※『知られざる傑作』 ?『二都物語』 『カラマゾフ兄弟』 『罪と罰』 ※ゴーゴリの『外套』 ?『検察官』 ?『ハイネ全集』 『ウイルヘルム・テル』 ※独歩(不許) ※藤村 ※漱石 ※有三の『波』 ※広津和郎 ※野上 ※『国定忠治』 ※『日本合戦譚』 大仏『由井正雪』 白柳の『西園寺公望伝』 ※『海舟夜話』 ※『野口英世』 『新版義士銘々伝』 ※『チャールス・ダーウィン』 ※『科学者と詩人』 ※『ゲーテとの対話』 ※『この人を見よ』 『プルターク英雄伝』 ※『ミル自伝』
――○――
一九三五年五月九日迄の百合宛の分より
『帝国農業年鑑』 『日本農業年報』 『我国近世の農村問題』 ※『経済年鑑』 『世界経済年鑑』 ※『近世日本農村経済史論』 ※『日本資本主義発達史講座』(不許) ※『世界経済図表』 『日本経済図表』 ※『日本憲政史』 ?『近世外交史』 『政治思想史』 『現代独裁政治論』 ※『法窓漫筆』 『法窓雑話』 ※『法窓夜話』(不許) 『裁判異譚』 ※『世界大戦後のヨーロッパ』 『爆弾上のヨーロッパ』 ※『世界大戦原因の研究』 ※『石油問題』 ※『列強対満工作史』 ?『日本社会経済史』 『景気論』 『日本独占産業物語』 ※『日本開化小史』 ※『日本工業史』 ※『日本商業史』 『経済学史の基礎概念』 『労働価値説の擁護』 『芸術経済論』(ラスキン) 『その後のものにも』 ※『日本外交秘録』 ※『リットン報告書』(不許) ※プーシュキン『スペードの女王』『吹雪』 ※宇野『文学の眺望』 ※谷川『文学の展望』 『ツシマ』 ※『ソーニャ・コヴァレフスカヤ』 ?『広辞林』 『漢和字典』 ※『英和』 ※?『和英』 『世界経済年報』ヴァルガ ※『日本経済批判』ヴァルガ ※『日本経済年報』第二輯 ※『軍備増税・公債』 ダニロフ『軍備と国民経済』 『世界経済年報』 ?『帝国主義論』 ※『風車小屋だより』 ※デヴィッド ※『日本陸軍史』 『明治文化全集』中 ※「自由民権篇」
百合、五月十日頃より留守。咲枝、栄宛につづく。
一九三六年五月―十二月百合子宛
※東京堂月報一ヵ年予約のこと ※堀『リカアドウ』 ※『わが七十年を語る』 ※『猟人日記』 ※『散文詩』 ※『栄養食と治病食』 ※『内科読本』 ※『国民保健読本』 
一九三七年百合宛
『プーシュキン全集』 ※丸善目録 ?『日本統計図表』 ※スタンダール『赤と黒』(不許) ※『ダイヤモンド』九月一日号 ※太陽燈療法に関する本 ※『盲腸炎の内科的処置』 ※ユリの古い作品 ※『胃腸病の新療法』 ※『結核及その療法』 ※『文芸年鑑』(一九三四・六・七) ※『出版年鑑』
一九三八年(×はさがし中)
※新版『岩波六法全書』 ※牧野『日本刑法』上下 ※『監獄法概論』(不許) ※『大尉の娘』(原文) ×ウイットフォーゲル『支那の経済と社会』 ×『支那農業経済論』 ×The Marchtoward the Unity. ※『東洋歴史地図』 鈴木氏論文(牧野記念)ナシ ×『文芸年鑑』三五年度 スノウの『ファーイースタン・フロント』 アグネス・スメドレイの話 ストロングSoviet constitution ※『英語研究』九月号 ※『支那事変実記』十二輯 ※『戦争と二人の婦人』 ×『法制上の女子』 ×『法律に於ける女子の権利と義務』 大体以上のようです。 
八月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
八月二十八日第四十七信
いろいろのことを書きましたが、もうすこし文学についてのお喋りがしたい。
賀川豊彦の作品に似た作品というあなたの批評を、この間鶴さんに話したら「フームそうか俺の狙いも相当だね」という意味を云って居ました。谷川さんは『朝日』で、説得力のある文学だとか、教養のための文学だとか云っていて、私はニヤニヤを禁じ得なかった。谷川さんの悧口さと識見の不安定さで、何だかどうもと腑(ふ)に落ちないながら、現在目前でチヤホヤされているものをそのチヤホヤのよって来るところ、並作品の現実にふれて両面から科学的に明かにしてゆく力がないから、処世的なカンを働かして、説得力のつよさなどと云うところをとりあげ、賞める声に追随しつつ、それとは心付かれぬように芸術性の問題はさけて行っている。その点を誰かがとりあげても自身の所説は対象となり得ぬように。昨今の批評精神の典型です。岡本かの子の作品その態度に対しても、谷川という人は、もうそろそろそこらへ評価が落付いた、というときになって初めて、安心したように、それを認めかねると表現する。面白い見ものです。『文芸』か何かの人物評に、「三木清は誰でも知っているように決して正面から人の顔を見て物を云うことをしない。きっと顔をそむけて云う。又阿部知二はのぼりかけた山を、これはいけないと見ると未練なくサッサと中途から引きかえして来る。行動主義文学のときもそうであり常にそうである。現代はこういう横向き型、中途引かえし型が適者なのである」と云って、「それは人間としていいことだというのとはおのずから別である」、云々と。
「探求」の作者も亦大なる横向きなので、私はそれをよんで、大笑しました。
『改造』八月に、火野葦平の「麦と兵隊」という長い報告文学日記がのりました。報道班で働いている人です、「糞尿譚」で芥川賞をとった人です。
新日本文化の会宛にその原稿が送られて来て、そこには『改造』関係のものがいるので(中山省三郎だともいう話)すぐ『改造』がのせた。『中公』であわてているのを知って情報部か何かにつとめ日本青年外交協会という(原勝が主になっている)ところで働いているのがそれならと上田広の「鮑慶郷」という小説を世話をしてのせた。
「麦と兵隊」はあくどいこしらえもののあとに出たものですから、それだけで人を引きつける本当さを買わせます。いろいろの現象の、とりあげられている範囲の現象は誇張なく熱心にこまかく記されています。所謂現地報告が昨秋の流行となって、さまざまのいい加減なものを見せた。石川達三は腕達者なところを一つ揮(ふる)って看板絵のような小説をつくったらしいが、これは発禁となり、目下編集責任者・作者・名儀人が法律問題にかかっている。久米正雄のような人は、こういう時勢になると却って石川達三のような人がたのもしくなって来る、というような時代ですが、そういう所謂玄人の通俗作家的な歎息はともかく、一般の人はやはりこしらえものは好かぬ、小説の代用品は好かぬ。スフ小説は求めていません。但現実から、どのようにとり出して来ている局面が、その範囲でうそでなく書かれているかということにまでふれて行く読書力ということはおのずから別です。
上田さんは、兵火の間にも文学を手ばなさず、いつ死ぬかもしれないからこそ小説をかくという気分で「鮑慶郷」を書いている。その気組みは本気さで人を真面目にします。しかし、文学と生活との関係で考えたとき、その場でそのときその人しか書けぬものを書かず、題材的に描写的にごくありふれたものを、そして生活から或意味で遊離したものを、その必死のなかで書くということは、文学というものの理解の点で重大な疑念を生じさせます。小説にまとめるだけが第一の文学的価値でない。更につき進んで、どういう心理的経過によって、ルポルタージュをかくべき『新文学』によっていた人が、そういう、生(なま)でない、一寸そらした文学とのとり組みかたをしているかと考えると、複雑なものが在る。火野という人は一昨日軍の命によって、報道班のチャンピオンとして上海から放送しました。
二十二人の作家が来るべき漢口陥落記録のために出発する由です。内務省情報部や何かのあっせんだそうです。女の人では吉屋、林が加ります。菊池寛から片岡、武田麟太郎、瀧井孝作も釣竿を片づけて出かける由。
私は書きかけていた文学的覚書をつづけます。一月にゲラになってそのままある百二十枚ばかりのと合わせてこの二・三年間の文学の鳥瞰図が出来ます。この位まとめると、さらに改良すべき点、勉強を深めるべき点が一層はっきり眺め渡せて有益です。私そのものを、じかに読んでいる貴方というこわく、かけがえなき読者のために、私は最善の努力をつくしますよ。では又。 
九月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月三日夜(土)第四十八信
嵐のあとがまだすっかり直らなくて、街燈がついていない。そこここの板塀が倒れたまま。樹木もかしいだままです。そこへ何日ぶりかの月が澄んだ空に出ている。葉っぱを、すっかり嵐に揉(も)みちぎられて、古いはたきのような形になった桐の梢の上に星が大きく光っている。
疲れた、あらされた地べたの上に、一片の月は輝いて、涼しい風も吹いているけれども、きょうの夕刊では、目下南洋から本ものの颱風(たいふう)が上って来ていて、五日の夜までには、この間の疑似よりもっとこわいのがやって来ると云っています。何という荒っぽい天候でしょう。この間の夜中、グラグラゆれる二階にいて、もう十分だのに。林町では土蔵の白壁が皆おちたり、裏の何間もあるトタン塀が倒れたり散々の由。板塀も竹垣も一間十円ばかり(五倍以上)。トタン板を門の屋根にふくのにも許可が入用。荒れ後の始末も一通りのことにはゆきません。この間うちの狭い風呂場の、三尺に四尺ほどのスノコを新しくしたら金四円也。流しのトタンのこわれを張りかえたら二円也。
――○――
さて、九月一日づけのお手紙をありがとう。この間、お目にかかったとき改まった心持で特にお礼を云ったように、この八月一ヵ月は、実に一重二重のねうちをもって、私のためには有益でした。段々の話のうちに、貴方が去年の正月ごろのことを細かにお訊(き)きになった意味もわかり、周囲の生活的雰囲気と自分との関係の客観的なありようというものもわかり、貴方がそのことを、私に注目させようとしていらっしゃること、そのほかそれぞれにフムフムとわかっていたのだが、この間の土曜日の経験へ私の首ねっこをつらまえて面を向けさせて下すったことは、実に実に感謝に堪えません。
あの二時間ほどの時間は、云いつくせない内容で私の皮をひんむいた。単に処置の問題でない影響を与えられました。その苦しさと憎悪とが、きびしく自分のこれまでの態度というものを顧る方向に向けられた。謂わば、何の気もなしいつの間にか張り出していた庇(ひさし)がふっとんで、俄に万事が一目で見渡せる明るみに出たと云った工合です。
貴方がおっしゃることがわかったと思っていた去年の正月あたりの事も、この情態で一層くっきりと、人間交渉の丸彫りの姿、小説にかけるだけの生々しさで(現実性で)再び浮んで来て、頭で、そういうことになると、わかったという領域から、今更ながらそれが見えていやだという感情にまで進みました。
この庇のふっとんだ感じは、私の生涯にとって、真に大切なことであったと思う。こういう、身にこたえた教訓、思い知らされた思いは、これまでに一度あります、或る春。愛情というものの確的な質と行為の本質を見失うと、死んでも死に切れぬ目に会うということを知らされた経験。これは生涯の教訓となっている。私の一生にとっては一夜のうちに死し、而して辛うじて甦ったような経験でした。質は違うが、今度私が感じた庇のふっとんだ感じは、今の段階の私にとって、やはりこれからの何年間、或は全将来への警告となったものです。
あなたは、いい気になることの危さとしてそれを云っていらっしゃる。いい気になっている、と云われたとしたら、きっと私は熱心に、いや、そうだとは思われない、どうしてそういい気になんかなっていられるか、と云うに違いない。(これまで何通かの手紙は、きっと貴方に、八分は腹に入るが、二分がどうもひっかかっている感じであったろうと思います。二分のひっかかりが、ここのことです)いい気になっていると云われて、成程ね、とそれが肯ける程、謂わば簡単明瞭な自惚れや、いい気になり得る諸条件があるなら、却ってその害悪も浅いようなものでしょう。生活の諸条件は、主観的にも客観的にも我ながらいいようなところはない。自分の気で精一杯努力しているつもりでいる。それで、一度頓悟して見れば、ふっとぶ庇があったというのは、どういうことでしょうか。私はその点をこの間うちからずっとずっと考えつづけた。そして、もしこの点に鼻をこすりつけるようにされる機会がなかったらどうだったろうと考えて、甚しい恐怖を感じた次第です。私は一応、世間の目やすで見て(文学上も)仕事の質量・日常生活、指をささせぬ生活で張りとおして来ている。努力をおしまない、という自覚がある。決してひっこまないぞという自覚がある。漱石流にこの心理を図解すると、つまり遠心的傾向こういう工合だったと思う。そういうものの一形態として内省も行われ得ます。ここから、私の云う庇というか、張り出しがいつの間にかついて来ると或は来たと思う。その張り出しの性質として、張り出しの尖端での感覚は緊張している。だが、張り出しの下に何を巣食わせているかということに周密な眼くばりがない。対外的な接触面での押しの自覚がつよいから。
貴方はいつか、私の日常生活に、どこか押し切っていないところがあるのじゃないかと、文学上の仕事に連関して云って下すったことがあります。覚えていらっしゃるでしょうか。
私は当時それを当時の心理なりに解釈して、よく会得されなかった。今は、この云われている押しというものは性質上、内向的なものであり、沈潜力の意味、自分の見きわめ方のギリギリ加減ということとしてわかり、そうすると、貴方の直感が健全なものにふれていることが、わかります。
正直に心持を云って、私は自分がただ一人の女、作家というばかりではないということを常に心におき、全く心を傾け力一杯やって来た。それが客観的に一般にうけ入れられ、正当に評価されるようになったことはよろこばしく、又社会生活の当然であるが、その間に、いつか一方では庇も出来ていたというわけになります。或性格の美点とか長所というものが、或関係の下ではマイナスの面をも示し、作用する一例であると思う。勿論、自分のお人よしを甘く買っているような、欠点としか云いようのないものも加っているのであるが。
初めはいやでギューと首をつかまえられたような工合で面を向けたことを、観るうちに、感じるうちに、凡そ一年の自分の恰好(かっこう)がまざまざと浮んで来て、思わずも呻る有様であった。
この発見では、私は貴方がこれまで書いて下すったどの言葉よりも、劬(いたわ)りなく自分を見て居ります。愛の手とその力の現れかたというものについても、真面目に感じます。
今度のことで私は四つの心をそのむき出しの姿で目撃したのであって、自身をも全くつき放して見ることが出来ました。
私は、自分たちの生活の形というものを、今あるよりほかの形で描くというようなことはしたことがなかった。これが必然なら最上に活かそうとだけ思って来た。今もそれに変りはないが、今度の経験で、自分がいつも貴方と一緒に日常を暮せたら、もうすこしはましになったろう、いつともしれず、庇なんかつかず、つよいきれいな力で洗われていただろうと思い、無限の思いに打たれました。いろんな、目にもとまらぬような細かい事々、気持、貴方というものを心の本尊にして外に対して護っている心持、そんなことからさえ、或意味では庇が育つ。それと全く反対の日々夜々を考えると、貴方が忠言者と仰云る、そういうことさえ気づかず、おのずから流れるように或ものが自分に浸透することを考えると、(ここで考えられる理想化もあって、)なかなかに堪えがたき心地ぞする次第です。日常的な打ち合わせ、そういう程度ではない。
生活の形態の問題でないこと、自分の芸術家としてのリアリズムの問題であること。いろいろわかる。そして、貴方が一応わかるが云々というように使っていらっしゃる微妙な表現――まだ一分、或は二分が、何か本質的に疎通しきっていないという感覚から出る表現の価値を、非常に感覚上の同感をもって理解するわけです。
この解毒剤のせいで、私は大変すーっとして本当の落付いた勇気に満ちて居るから、どうかおよろこび下さい。この手紙だって、そういう一種の雨あがりの明るい静かな爽やかさが漂っているだろうと思います。
これから私は毎日午後すこし早めにそちらへ行って、かえって来てゆっくり休んで、夜は孜々(しし)として勉強します。楽しい心持です。そういう心持で、きのう省線の定期(半年)を買いました。こんど見せて上げましょうね。
「傑作」云々のこと。あの作はあの作として傑作だがという程度で稲ちゃんが云ったことです。おべっかとしてだけ云う人もあった時期だからと思いついて一言。褒められるという恥辱が存在することは判って居ります。
この手紙は、決してあなたの心に、一応わかったがね、という味はのこさぬものと信じます。われわれの生活の深いよろこびと感謝とをもって。 
九月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十一日(日)第四十八信
きのう、目白で省線を下り、駅前の市場の中にある郵便局で早速中村善男(自注9)という名を電話帳で調べたが出ていない。恵風園という方でしらべたがやっぱり出ていない。では仕方がない、月曜慶応に行こう。そう思ってうちへかえって来ました。中野さんが来ると云っていたから、来ていまいかと急いだのだったが、来ない。茶の間でパンをたべ茶をのんで休んでいたが(二階のベッドで)段々じっとしていられない心持になった。自分がそんなに病気なのかしら――。どうも納得されない。一年でも二年でも会わず養生しなければならない。そんなことなんてあるもんか!そんな病気をしているなんて承知出来ない。病人の仲間入りをして、朝から晩まで病人ばっかりの中に生活するなんて、そんなことは我慢(がまん)出来ない。いやだ、いやだと声になって出るように、感情がせき上げました。
夕飯になっても中野さんが来ないので、すこし腹が立って(約束していたのだから)いるうち、あした日曜日でまる一日何だか分らない苦しい気持でいるのは下らない、安田さん(自注10)に診察して貰おうと思いついた。すぐ電話をかけたら、九時すぎにかえる由。出かけました。体の工合は、先にも診(み)て貰ったことがあるので、ホホウというわけ。だが、こんな景気のいい肺病は見たことありませんがね、まア拝見しましょう。すっかり細かに聴いて、叩(たた)いて、「何もきこえませんよ、肋膜もないし、きれいなもんですよ」念のためと云って、血圧を計りました。130。「ずっとあるかと思った」これも成績良好。次に動脈から血をとって赤沈(せきちん)をしらべ、別に何か注射して反応をしらべました。注射した薬は、もし体内に活動中の菌がいれば、二十四時間内に、ひどく膨(は)れて水腫(ば)れになる由(壺井さんのマアちゃんが、何かの試験で腕が膨れて痛くて動かせないと云っていたのは、このことでした。)赤沈(赤血球の沈澱(ちんでん)によって見る)は三〇。タイピストや事ム員の女のひとの夜の平均だそうです。医者の本では、日本の女の赤沈の平均は七―(カラ)十としてあるそうですが五十六十になると、必ず結核があり、二〇―三〇では只の疲労の由。注射の反応はありません。熱は、安田さんで計ったのが六度七分。けさ六度、ひる六度三分、夕刻七分。
全体くたびれが出ているだけだから、ゆっくり休んだらいいですよ、大丈夫とのことで、大変うれしかった。何でもないと判って、こんなにうれしいとは、これまで想像もつかなかった位です。注射の反応の程度は、都会生活をしている人の平均以下です。
御心配をかけてすみませんでしたが、どうぞ、この私のうれしさをたっぷりわけて下さい。そして、一年でも二年でもと云われて動顛した気持は私として忘られないお灸(きゅう)だから、今の生活事情を十分活かして、夜はおそくも十一時に就眠の家憲を立てて守る決心をしました。あなたはニヤニヤして、信用しないと仰云ったが、それは九時だとか十時だとか云えばウソをつくことにも実際上なるかもしれませんが、十一時なら、あなたに十分満足されないかもしれないが、うそはないところですから。
血圧の高くないこともうれしい。私は痼疾(こしつ)と云っても肝臓や盲腸で、手当や日頃の注意で癒って来ているものばかりであるし、本当に安田さんにゆく迄はいやな不安な気持でした。私の背中に音がすると云ったのは順天堂の横田さんという医博でしたが、どうしたのでしょうね。もしその当時感染していたのなら、その注射の反応がこんなに弱小ではない筈ですもの。休火山になっているにしろ。全くわからない。気管支が鳴っていたのかしら。さもなければ、おどかしたのかしら。
本当にうれしい。よろこんで、有難がって、せっせと早寝をして疲れをぬいてしまいます。
それから、これは万一の場合のために今からかたくお願いしておきますが、私がもしそういう病気になっても、どうぞサナトリアムに入れることだけは、かんべんして下さい。普通の病院は、いろんな種類の病人がいる。経過もまちまち。生死もまちまち。だが、サナトリアムというところは、或危急をもちこす必要でもあるのでない限り、同種の病人だけいて、而も一種の雰囲気をもっていて、迚もやり切れるものでない。精神的に快癒がおくれる。そう感じます。二三のところを見てのことですが。だから、どうぞお願いをしておきます。私はこれでも度胸を据えれば立派な病人になれる人間ですから、一律的なサナトリアム世界へは御免です。本当にそれを考えただけで、いくらだって早寝をし得ます。
叱られた子供のような滑稽な手紙ですが、私は本当にうれしい。よかったわねえ。安田さんは湯治にゆけというが、私は却ってこちらで早寝してキチンと食事して十分疲れをなおす自信があります。生活の日常にそういう癖をつけなければ何にもなりませんもの。では安心の御通知として

(自注9)中村善男――一九三八年の夏ころ微熱を出して、寝汗をかくようになった。夏だのに、どうしてこんなにヌルリとつめたい汗をかいて目がさめるのかと思っていたら、それが寝汗だということがわかった。顕治は面会のときその状態を知って、結核専門の中村善男氏の診察をうけ、きびしい療養をして、そのために一年や二年面会できなくなっても治療しなければならないと言った。
(自注10)安田さん――安田徳太郎医学博士。 
九月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十三日第四十九信
今かえって、お茶をのんで、二階に上って来たところ。この頃はおとなり(大家さん)で倒れた塀を直すためにずっと大工が入っていて、昼間はずっとカンナ、ノミ、丁(ちょう)ナの音が絶えません。何だかきのう大工が来て、寸法をはかって、玄関をはり出して三畳をつけ、そうすれば二階にもう一間出来るから住みよくなると云っていた由。どういうことなのかよく分らない。この頃貸家払底で家賃も上って来ているので、ここの大家さん、勘定だかく、家をすこし間数ふやして40か¥45とる魂丹かもしれず。こっちへ何と話をして来る気か、とそのときまで放っておくつもりです。家賃をこの位にしとうございますが、それでいらして下さればこれに越したことはない、もしお高すぎるなら御無人ですし云々、そんな口上を述べるつもりかとも思う。マアそのときのことです。庭の竹垣越しに並んでいる材木を見ると、塀だけではない柱材が立てかけてある。家主心理というものは面白いでしょう?家賃値上げを禁止しているが、間どりを変更するのは家主の自由、それに従って高くするのも自由、つまり方法によっていくらでも上げられるのです。他の一方では、あげられないことになりましたから、と材木高を口実に、ひっくりかえりそうな家が、あの大嵐に遭(あ)っても材木一本手入れせぬ。(壺井さんの例)景気が片よってよいのと、空襲をおそれて郊外分譲地はこの何年にもなかった売れようです。一反百円の着物(それも女もの)が大百貨店ではいくらも並んでいる。これも久しく見なかったこと。
さて、十日の午後のお手紙をありがとう。私がお会いしたあとお書きになったのらしいと思いました。
心配していただいてすみません。時あればユリが早寝早起きをするようになるだろうと、そのときがいかにも来たとしか考えられません。云われているとおり、今の条件で体を悪くしては何とも申しわけがない。これまでは、強(あなが)ち耳をふさぐのではなくても、早ねしかねたこともありました。日曜の手紙でかたくお約束したとおり、最もおそくて十一時迄、早くてはもっと早くねることにします。当分の間は、夜は出来るだけ早くねて、ひるもちょいちょい横になることにします。体のこと、漠然としか書きませんでしたから、すこし溯(さかのぼ)って申します。
盲腸が折々つれたり、左脚の痛むの(これは内からの土産)がいやだから、七月二十日頃から凡(およそ)一ヵ月ばかり、三共のモクソールという、お灸で発生する精分の薬の注射をやっていました。これは、副作用のないもので、永くつづけてよいのだが、注射をしてくれるSという看護婦のひとが旅行に出るので、八月二十日ぐらいでやめました。すこしは利いたらしい、盲腸に。
抑〃モクソールを云い出したのは、疲労感があって、それがたまる感じだったからでしたが、八月の中頃以後(下旬ね)折々熱を感じてとって見て七度二三分まで出て、つかれの故と思い、注射が直すだろうと思っていた。それがひっこみ切りにならず。疲労の感じは増して来て、胸にひろびろと力のあるいい気持が失われ、座っていると、いつか胸と腹とを落している。それは、今もそうです。それに右の肩が千金の重さという風なので、自分で気になり出して、つい貴方に訴えたという次第です。今の条件で病気―疲れをつくっているのではなくて、疲れにしろ、疲れが出た、というのでしょうね。今目前を見て、何でつかれる?と考えて、これでつかれると云い得るほどのものはないのですもの。
糖の検査は昨夜もやる必要があると思いました。これは慶応です。林町の者が浅野さんという人にかかってやっている。そのひとにたのみます。これは早速やります。もしかしたら明日やります。一日がかりの仕事故。それで何もなかったら、もうたしかに疲れだけです。
こちらが健康喪失などしたら遺憾どころではないということは全くです。何か腹立たしささえもって、早く寝ろとあなたがお思いになる気持が、まざまざとわかります。二食のこと。これもちゃんと三度にして食餌の選びかたも気をつけますから、どうぞ御安心下さい。
現実に私がすっかりしゃんと丈夫にならなければ、安心して下さいというのも礼儀のようですみませんが。
この手紙(あなたの)、しばらく無一文状態も加って、とあり。私は実に切ない切ない気がする。云っても仕方がないが、私は健康の当時の事情とそのこととの結びつきを考えると、いや、あなたの体を考えると、そのことに焦点が一度は必ず行って実にやり切れない気がします。小さい小さい一つのプラス、それがチビチビと全体をかえるときがある。そういう時だったのに、と思う。そして、私が会うたびに、「あっちお金ちゃんとしてあるだろうか、御弁当は?」ときくと、「ああ百合ちゃんの云った通り、ちゃんとしてあるわ、安心して大丈夫よ」と答えていた丸い罪のない顔を思い泛べ、今更攻められず、攻められぬこともやり切れぬ、そういう気持です。あなたにこの切なさ、おわかりですか?私があの窓から笠を指にひっかけてのび上って、そういつもいつも訊いていた、殆ど真先にきいていた。そして、そう答えられて気を休めていた、その気持。そして今その気持を思い出す気持。察して下さいますか。
手紙に時刻を書かなくなったのは、きょうお話したとおり。このインペイ法はよんでいて笑い出してしまいました。あなたは実によくない悪弊だと思っていらしたと見え、蔽うの下(代り)に弊をかいていらっしゃるから。インペイ法とは、わるいと思ってインペイするのでしょう?私はそんなにわるいと思う内容での夜ふかし(只喋るとか遊ぶとか)はしないという腹でいて(コレ迄のことよ)インペイはしなかったわ。只夜中の二時や三時に、先のように一種の楽しみに手紙かいたりしなかったからだと思います。私はそうこまごま頭をつかう質ではないわ。
早朝の出かけのこと、ありがとう。ありがとう。そのように考えて下すったのを有難く思い、あのすこしずるそうなあなたの笑い顔をなつかしみます。でもラッシュ・アワーとかちあってひどい混雑だろうとすこし心配です。木曜日に試みて又方法をきめましょう。早いのは、ようございますね。ずっと歩ける距離なら本当に申し分なしだのに、片道だけでもね。もうすこし涼しくなって汗ばまなくなったら近く行ける道の探検をして見ましょう。ラッシュ・アワアのこみかたは言語に絶しますから。
前後して、この次(つづけて書く)が、九月一日づけのお手紙への補足だのその他になりました。枚数が多すぎるから、これで一寸区切って。 
九月十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十四日第五十信
前の手紙にお約束の体温をかくのを忘れたから一寸。
夜は八時半ごろ
十二日朝五・八ひる六・三夕六・七夜七・一
十三日朝五・七ひる六・二夕六・八夜七・一
十四日朝五・八ひる六・三
昨夕お客で、その若い女のひとたちを送りがてら管制の往来へ出て、駅前で林町へ電話をかけ、検尿のやりかたを国男さんにききました。管制でも月があるので助かります。闇夜だと、女は歩けませんね。
検尿は朝、昼、夕と各食前、及食後二時間をとり、更に全体一日総量を計り出してその中から試験管二本とって調べるのですって。今朝から早速着手して居りますが、殆ど無意識に処理されていることを、それだけキチリキチリやるのは、やはり一つの仕事になるから妙なものです。
私としては、そして又病気としても結核より糖の方がいやです。どうも出ていそうもない、そう思います、欲目でなく。糖の出る尿の独特なトロリとした重さがないから。勿論わかりませんけれども。
ところでこの手紙は今朝から二つ目。そのわけは、一つを書き終りかけたら不図気がついてテーブルの奥の半ペラ原稿紙をあけ第四十八信として、三十一日の夜更けに書いたまま出さずにいた手紙を見つけ出したからです。とんちんかんのようになったので、初めの分はおやめで、これを書き直しはじめたわけ。あなたが九月六日に書いて下すった返事に、二十八日の(文学のことを書いた分でしょう)二つ目と三日に書いたのとを読んで下すった感想があり、三日のは切手三つはった分で、大切なのだったと思う。それの番号はどうついていたでしょう。
三十一日の夜のあの大嵐でこわくて眠れなかったので起き出して書いたらしい、短く。あなたももしや目をさましてこの凄じい風雨をきいていらっしゃるかしらと書いています。カーテンのないガラスのひろい空白にこの稲妻や雨はどんな夜の眺めでしょうとも書いている。
あの晩は家がゆさゆさゆれて眠れなかったから出すのを忘れたのか、三日の手紙にもっとこまかに内容を書きのばしたので、これは出さなかったのか。そこがはっきり覚えていません。三日の手紙四十八信として居りましたか?こんど教えて下さい。この出さなかった分で、特に伝えたいことはないけれども。あなたが、先達(せんだって)中の手紙に、よく一応は判るが、とユリの手紙に答えていらした、その気持。一応わかるが、まだ何か底をつき切っていないという感じが、三日の手紙を私が書くまで貴方のお気持にあったことの必然を認めていること。八月が我々の生活、特に私にとって実に内容に富んだ意味ある月であったこと。それらを話して、瞼(まぶた)からウロコの落されたことのよろこびを話して居ります。
瞼からウロコの落ちたこまかな有様については三日にかき、それを貴方も肯(うべな)って下すった通り。
一般の生活の混乱が著しいときこそ、益〃自分を甘やかさず、事情を甘く見ず、自身の到達している箇所の動的性質をはっきり知って、押しをゆるめぬということ。本当にそうです。友情というもののもつニュアンスにしろ、やはりその時期の事情を反映するから、その微妙に変化しつつある現実を見ずにもたれかかっていればやはり共倒れですものね。しゃんとしたことを云う何のよりどころが貴様にある、そういう居直りが横行しているのだから。
私が、幸にして、鼓舞と叱責とに値するということは有難いことです。
この間うちからのことで深く感じたことですが、私の生涯にとって、あなたの暖く、しかも決していい加減のところでは引込めない手の力が、実にどれ程の価値をもっていることでしょう。私は正直に告白して、やっぱり自分にしぶとさがあると感じ、おそろしく思いました。あなたが私の手紙の或ものに対して執拗に、一応わかるがと、反面にまだまだと主張していらした間、ものの見かたと云いかたに、やはり私の固執(正当化)が作用して居り、それは、何かしぶとさに感じられます。愚昧さから来る頑固ではなくてね。骨節のつよいという言葉にすぐ置きかえては、やはり自惚(うぬぼ)れになると自覚されるようなものです。
私がそういうシンを知ったのは、大したことです。私はつよい人間は好きであるが、しぶといの等は大きらいですから。自分の内にそんな大きらいのものの破片を見るだけ眼を据えられたということは、これからのために並々ならぬ収穫です。しぶとさは人間の発育の蕊(ずい)を止めるものでありますから。ガリリ、ガリリとそのしぶとさを健全に愛の手で粉砕される、そのような噛みくだきを受け得るということ、それはこの世の中でまれにめぐり合えるよろこびであると思う。万一、そういうつよいいい歯とその歯が根気よく噛んで呉れる互の結び合いとがなかったら、私は或は金かもしれないが、あっちこっちに多くの無駄なもの、堅いものをもったままで終ったでしょう。そして、それは金であるとは云えない。遂に、金なるべくして成りとげなかったものというだけです。
どういう事情からにしろ、糸の切れたタコの状態があって、それが客観的に賞讚されないものであるということは、よくよく肝に銘ずべきと思う。この間の日曜も重治さんと文学談をやって、現代文学の大目付という言葉が出された。何か私にはピーンと響くものがあり、思わず力をこめ、居る、というだけが大目付ではない、どうしている、ということできまることだ、と自分に云いきかすように云ったことでした。
全く、この間、私がいやがって右や左へかわそうとする首根っこを、柔かく、而もしっかりつかまえられて、逃げも出来ず、くさいきたないものへ眼を向けさせられ、鼻面をすりつけられたこと、忘られない。涙をこぼしながら、ウムウムと、そのきたなさやなにか承認しなければならなかった、その味も忘られない。その後の爽やかなすがすがしさ、涙顔ではあるが、本当に納得行って心地よく笑い、首ねっこを抑えていた手に一層の愛着を覚える、そういうようなうれしさも忘られない。
――○――
いろいろこの頃の気持は、そういうようです。その気持で二科を見に行って、いい加減なのでいかにも詰りませんでした。この春国展、春陽会を見たりしたときより遙につまらなかった。自分の境地というものをつきつめている画家さえ、二科にはいない。鍋井などという人もボヤッとしている。つまらなそうにしている。うち興じている人さえなく、これに比べれば国展の梅原龍三郎の二つの絵など、多くの疑問は与えながら、今猶絵としてまざまざと印象をのこしています。今度の二科は出たら何一つのこらず、あなたにせめて一枚エハガキをお送りしたいと思いましたが、それさえなかった。
二科は琉球流行でね。いろんな人が藤田嗣治その他琉球の布(きれ)、人物、風景を描いている。木綿がなくなることから琉球の絣、染に人の懐古的目が向けられた。それもありましょう。
婦人画家が殖えて来ていること。婦人画家の裸婦には鑑賞によけいなものがないから非常に清純で卑俗でないこと。
――○――
芸術家が、現象的でなくなるには、何という大した修業がいることでしょう。二科の画でも火野氏の作品でも、樹の一本一本を描き、リアルに描き、だがその樹の生えている山や林の地形と土質にはふれられない。本質というものはさながら実在しないように扱われている。だからリアリティーとは云いかねること。これが芸術上一般の通念となるために歴史はえらく揉みとおされるわけなのでしょう。芸術家にとって日常生活のリアリズムの深化のかくべからざる所以はいかに深く遠いかと思う。それについて最近一つ勉強したことがあり。いずれ別にお目にかけます。志賀直哉の「暗夜行路」後篇についてです。「二人の婦人」はオハナシね。壺井さんの「大根の葉」(文芸)好評で、稲子さんも私も鼻が高うございます。 
九月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十五日第五十信
万歳!万歳!いかにもうれしくて、明日の朝お話出来るときまで待たれない。糖はちっともありません。ちっともありませんよ、と調べたのを却って不思議そうに慶応の医者が云いました。糖が出ていやしまいかということは、どんなにかいやだった。菌が活動中というのよりいやだった。糖尿というのは、いやな、こわい病気ですよ、頭がメキメキと駄目になる病です。逆に、過労(脳の)からもかかる。記憶力はなくなる、根気はなくなる、文学的な本気の仕事は殆ど不可能になる(非常によく直さないと)私はこれ迄一番いやなのは気違い、それから糖尿。そう思っていた。自覚があるので辛いのは糖尿。その位おぞけをふるっていたのだから、試験管を八本抱えて、けさお目にかかっていて、決して平然ではなかったのです。だから、うれしい。念のために、又背中、胸よく見て貰いました。「今のところ異状はあると云えませんね」
つまり、自然な警告なわけです。私は、今度はこれ迄のように、夢中で何かやっていて、いきなり病気につかまったのではなく(肝臓のとき、盲腸のとき)ジリジリおどかされて、こんな気持は生れて初めてでした。おそれろ、おそれろということなのね、きっと。図にのるな、ということでしょう。
だから、早ねをして、早おきをして、秋の朝風の吹く原っぱを歩いて、あなたにお早うをして、そして、午後はすこしずつ勉強をやって(熱が出なくなってから)夜の客はことわって、すっかり体をつくり直します。朝おきの気持は、煙草のけむの匂わない部屋の空気のようなもので、身についたら、ねボウはいやで、きっとたまらなくなるのでしょう。
うれしいから、子供のように、心の中で、朝(あさア)とくおきよ、おきいでよ、という古風な歌の節をうたう程です。
けさ、智恵子さん(自注11)について、あなたが一寸お云いになった言葉、もし良さんがあの半言表現してくれる態度の人物であったら、智恵子さんは、同じ命が持てなくても、どれ程のよろこびをもって生きることが出来たでしょう。私は妻という(しての)気持から、あなたとしては極めて自然に云われた数言を、耳へしみこませ、わが懐の奥ふかく蔵(しま)う心持です。
だから、私は自身の不注意などの原因で弱くなったりしてはすまない、一層そう思います。糖を出していなかったり、虫にくわれていないことは、せめてもの申しわけです。ああ、ああ、何とほっとしたでしょう!このしるしをつづけて雨だれみたいに並べたい位。私は病気がきらいなの。自分が病気なのは一等きらいです。臥て、動けなくているなんて。ましてこの頃。いいお灸と申すべし。ちゃんちゃんといろいろしらべて本当によかった。
御心配をかけたことをすまないしするが、今はうれしくて、手をつないでピンつくピンつく跳ねまわりたいようです。これからも益〃食事にも気をつけ、現実的に合理性を発揮します。
ああ、こんなうれしさは何と珍しいでしょう。お赤飯たいていい位だと思う。では又別の手紙でいろいろ。

(自注11)智恵子さん――杉山智恵子、杉本良吉の妻。 
九月十八日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十六日第五十二信。
きのう、きょう、朝出かけは裏の上り屋敷から池袋まで出ることにして見ました。省線駅の段々がなくて、これは大変に楽です。駅の段々が意識に上ったのは初めてでした。昔、詩人の細君(自注12)が、弱くてよくそのことを云っていて、信濃町を辛がっていたが、きのう上り下りをして見て、本当にそれがわかりました。体力というようなものはどこを標準にしてよいか分らないようなもののようだが、実に微妙にちがうものですね。びっくりする。
びっくりすると云えば、朝起きは、何と昼間がゆっくり永いでしょう!私は昼間が決してきらいでない。読むにも書くにも。静かな昼間、(お客が来る心配の絶対にないというときの)落付き心地には、飽きない愉しさがあり、充実がありうれしい。そういう静かな光の満ちたような昼間がこれから続いたら、きっと新しい力で勉強が励まれるでしょう。
目白の駅を下りたら十時すこし過で、あの野っぱらの真中できいた空襲警報のつづき。飛行機が編成で上空に来て、戸山ヶ原の方へ去ると、こっちでは、二千米ぐらいのところで、一機が一機を追うように「盛にやっている」(これは角の果物やの若い衆の表現。)私も立ち止ってそれを仰ぎ見て、その若い男に訊きました。「どっちが敵機なんでしょうね」「サア迚も見えませんね、白い布の尾をふき流して居りますそうですが」暫く立って見ていたら「あすこへバク弾を落したよ」と、呑気(のんき)そうに太った防護団のおっちゃんが云っている。別にかけ出す人もいない。やがてヘルメット帽をかぶった団員の若い一人が白い紐のついた毬(まり)を手にもって、どこが変ってるんだろうというようにして交番へ渡しました。その毬がバク弾なの。やはり駅の周囲ですね。パンとトマトを買って横丁へ曲って来たら、さっき一機うちをしていたのか別なのか相当にスピードの出ている速さで前後して追うような勢で西方へ翔(と)んでゆく。一種の緊張がその機勢にあって、私は地べたの上から樹の梢越しに見上げつつ、兵士たちが演習のとき、突撃のとき夜などつい気が入りすぎて負傷者を出すということを思い出し、地上に見物人を意識しているこれら上空の人の心理を一寸想像しました。
今夜で防空演習もすみます。
A・Kさんの小説が久しぶりに『文芸』に出た。小さい作品であり、云々するほどでないと云えるかもしれないけれども、作者も昔からの友人たちも、特別な心でこの作は見ました。△氏という△大の△△さん門下の哲学の人が、あのひとの作品をよんで、何とかしてこのひとを助けて立派な作家にしてやりたいと思って結婚を申し込んだ。私などが外国にいたとき。
A・Kさんは、自分から進んで結婚の対手をさがし出す人でもないし、間違ってでも掴(つか)んでゆく、そういうたちでもないので、この申出を考えて結婚した。
七八年結婚生活をしたわけですが、その△さんというひとは、(ここまで書いていると、玄関が勢いよくガラリとあいて、その音に合わしてはあとがしずか。あらあら健造さんがお使いに来ました。あした智恵子さんのお見舞に誘った返事をもって。丁度又空襲ケイホーの間なので、健ちゃんと物ほしにのってすこし飛行機を見て、本棚のところへ来たらそこの岩波文庫のうらの目次をくっている。「なんなの?」「南総里見八犬伝買ったんだよ」「ふーん」と私はびっくりして「わかる?」「わからないとこ母ちゃんにきく……でも余りわかんないから新八犬伝を買うんだ」そして下へ来て豆たべながら「あれ書いたひと、めくらになったんだね。でもどうしても書こうと思って、妻に話してかかすけれど、妻は小さいとき学校へ上んなかったから字を知らないのを教えて書かしたんだね」「ああ。でもそれは馬琴のつまじゃない。息子の嫁さんだよ」「ふーん」豆の小さい包みを下げて靴音たかく帰ってゆきました。健造は九歳か。十かしら。少年の面白さたっぷりです。何て男の子は面白いだろう。太郎はどんな子になるだろう。自分の子に男の子を考えると何だか笑えてくることがある。あなたにこの興味がおわかりになる?自分たちの子というものを。健造が、妻ということばを云うときその響は大層清冽(せいれつ)でありました。無色透明で。智恵子さんのところへ行くそうです。
さてつづき、良人であった人は芸術家の生活というものの急所がわからず、勉強な女大学生(受動的な)のように考えていたらしくて、この次この本よめ、この次これ、そう云われても作家になっている人なんだから、よかれあしかれ内面の必然があって、ハイハイよめないときもあり、そういうのが、女って結局しかたがないものだ、という結論を引出すことになったらしい。八九年の後、この春離婚して、そして、この作品をまとめた。フランスの婦人作家列伝ていうのを見たら、すこしましな仕事している人って皆、普通の意味での結婚生活やっていないって書いてあったんで、何だか元気がついちゃったようで、と遠慮深く云っていました。フランスでまでもそう?私はこの頃こういう話は、もとよりも切ない心でききます。ものでも書こうという女は、その性格が妙なところが一応書く力となっているのもあるが、友人たちをみれば、やはり感じること深く、愛することの深いところから書いている。そういう女が、結婚生活、家庭生活で両立せず、様々に傷つくのは、本当に辛い。まだまだ、女が人間らしい積極さから行動しても、結果は受け身にあらわれ、数え立てられる世の中だから、女の生活をいとしく思うことが深くなるにつれ、自分の娘というものを、女親には娘がようございますわ、という気分で見られなくなって来るのですね。少年を見て感ある所以です。
きょうは、かえって髪を洗いました。それでも大丈夫。十二時半に昼飯前六度三分。
何と、じき枚数が重なるのでしょう。一日のうち頭の中を通ることは果してイクバクでしょう!このごろは、貴方への手紙しかものを書かない。糖の出ない安心はこのように心を活溌にさせています。現金で極りわるい位。
〔一枚目欄外に〕
この頃、大きいたっぷりした封筒が実にない。そのために手紙出しおくれて、しかも、こんなので
〔十一枚目欄外に〕
体温表
十三日の夜九時頃七・一
十四日 朝7.30五・七 昼12.00六・三 夜9.00七・一
十五日 朝7.00五・八 昼六・四 夜9.00六・八(これは初めて六度代になった夜)
十六日 朝7.00五・七 昼六・三 夜9.00六・六
十七日 朝7.00五・六 昼は外出でとぶ 夜10.00六・七
十八日 朝7.15五・六

(自注12)詩人の細君――今野大力の妻。 
九月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十六日第五十三信
文学についての話。つづき
アンナ・ストロングがね、三年ほど前に書いた自伝があります。徳さんが貸して呉れました。IChangeWorldsという題。自分の棲(す)む世界を、古いのから新しいのへかえるという意味でしょうね、きっと。一人称をもってはじまる題をつけることから、何だかしっくりしなかったが、すこし読んで、不思議な気がして来た。これはどういうのだろう。ストロングとはこういうものの見かたをするひとか、それで、どうしてと、働きさえ不思議に思われて来た。「人間というものは行動するものである」そんな風にはじまる。
「理性とは行動を、あとから理屈づけるものである」云々。そういう調子でこの書若し諸君の人生指標となれば幸、と云った前書きがあり、さて、「自分は、アジアの奥の故郷から、西へ西へと追われた部族の出である」と云って本文に入っている。猶太(ユダヤ)人ということでしょう?スメドレイという人は、おそろしい程、むきつけに書くひとです。昔の作品では、殆どアナーキスティックと云える位のむき出しで、人生にこわいもの、見栄を知らず生きて行く女の、おそろしい率直さと、行動の真の意味を客観的につかみ得ていないところから、アナーキスティックな風になってさえいる。ストロングは正反対ですね。「我」という意識の流れは孤より衆へ通じ云々と。迚も読みつづけられない。どうして、そしてどの範囲で英語新聞の編輯などやれたのかと、計らざる感服をしました。
第一書房からバックをうけて、あの売行を保とうとして出されたミッチェル女史の『風と共に去りぬ』GonewiththeWind。『タイムズ』の文芸附録に、本やがGoing,Going!と増版を広告していますが、日本ではそれ程の売ゆきを示さず。(三冊で略六円になる本)これは面白いと思う。第一、南北戦争というものは日本の文化にヨーロッパ程感情のつながりを持っていない。第二に、現今ヨーロッパの文学は、大戦以来引つづいてジョイスの「ユリシーズ」風、ハックスレイの「双曲線」風の心理分析、潜在意識分析文学の時代から一歩動いて来て、一方ではロマンスの大復活流行、一方に新たなリアリズムへの努力が擡頭している。これは、昨今の世の中から実にわかりますね。ロマンスが特に歴史的背景をもつものに傾いているということもわかる。「風と共に」は前者の風潮にのっているものです。だからあっちで売れる。『タイムズ』の推セン書の中に今週文学ではロマンスが(名は忘れた)あり、次の週は一匹一片の男(?)と云うようなリアリスムの作品が推されている有様。『タイムズ』の文芸附録でさえ、という現実の力の面白さがある。
――○――
志賀直哉の「暗夜行路」は、昨年終りの部分が出来て、前・後、完結しました。前篇、昔の茶色の本でお読みになりはしなかったかしら。
この間後篇を読み、漠然と、わからないと思うところをもっていたのが、私自身の最近のいくつかの経験や自省によって、その点わかったところがあって、それが話したい。特に語りたい心持がするのは、私が最近経過した内部的な大掃除みたいなもの、或は嵐のようなもののおかげで、すこし古葉が落ちて、ものがはっきり見えはじめた部分があって、そのおかげで、漠然納得ゆかない気持でうけていたものを、はっきり捕え分析し得るようになった。そこが意味深長で、きいて欲しいわけなのです。
「暗夜行路」の主人公謙作が京都で鳥毛立屏風の絵にあるような女(この絵覚えていらっしゃるかしら。大どかな、素直な、気品ある若い女です。裾を左手ですこしかかげているような、元禄風の)を見そめて、そのちゃんとした娘と結婚して、生活しはじめる。その妻である女は、挙止、言葉づかいよさの諸点が現実の作者の妻である婦人を、まざまざ読者に思い浮ばすように描かれている。夫婦の生活は苦労なく、例のこの作者らしい雰囲気で、友人と花をやって遊んだりし、その間、妻が札を間違えたのを、或る狡(ずる)さかと思っていやな気がする、それが妻に反映して悄気(しょげ)るなどのニュアンス。この作者が人間の心持に潔癖と云われている定石的モメントもあり。その妻が、妻の従兄に当る男と、良人の旅行中過ちを犯す。その描写が、私に腑に落ちなかった。男青年が、花をやって徹夜して、荒れつかれた神経の反射で、我むしゃら頭からつっかかってゆくような面は描かれているが、妻である女が屈伏するモメントがわからぬ。子供時分二人で、意味は分らぬが、ある遊びをしたことなど作者はもち出しているが、リアルでない。そんな女としてでなく描かれているのに、天質のいいものをもつ女として描かれているのに、良人を愛しているのに、そこでそう脆(もろ)いのが合点ゆかぬ(女として)
良人はそれを過ちとして、女の或場合の災難として、腕力的にかなわない災難として許す。
この点もどうもわからなかった。花の札を妻が間違えることにさえ、ずるいのかと心持わるくするのなら、こういう場合災難として見るしかなくたって、そのような災難を生じるサーカムスタンスをもつことにもっともっと苦しい思いをする筈だし、根本的に云って、そういう条件での災難と云い得るだろうか、原っぱで五人に囲まれた、そういうのでもないのに。どうも腹に入らぬ。
主人公は、これで自分たちが不幸にされては余り下らぬ、そう思い、ひっかかっている気分を直しに大山へ旅行して、そこで所謂自然の療法をうけ、やがてそれにこだわらぬ気持までひろがる。そこで終り。
そういう苦しみを夫婦で凌ぐのに、景色の変った山へのぼって暮して、それで転換するのも何だか腑に落ちぬ。
谷川さんその他、夫婦愛の醍醐味として讚えているが、わからない。根本に分らない。それでこの間、菊子さんが来たとき、それを話しました(弟子だから)。すると、「暗夜行路」は自伝風な作と思われているが、実際はそうでない。架空のものの由。
「じゃ、猶変だ。だって一般に自伝的なものとしているでしょう?その作品の中に、誰がみたって奥さんそっくりと思える人が描かれ、そういうことがあれば、そうかと思う」「奥さんは再婚の方ですから、先生の心にある或気持から、考えられたんじゃないんですか」「そういうの、わるいと思う。だって、現実の気持のそれを、ああいう形で、あんな重大な、妻のああいういきさつに描いて卒業するなんて!」
作家のエゴイズム以前にある男のエゴイズム、それを感じていない作者。菊子さんもそれには異論なかった。
人間のいきさつ、心持、それを人並より潔癖であるとされている作者でも、環境とその自省の鈍磨、いい痛棒のくらわし手がないと、こういう極めて人間の真髄的な箇所で、潔癖の反対になる。そういう致命的な鈍りが生じていることを志賀さんは知っているだろうか。
この頃のチミモーリョウの跳梁(ちょうりょう)をいやがって「文士は廃業だ」と憤然としているという面だけで、一作家としての彼は語りつくせたと云えません。又こんな数になってしまった。では又
〔一枚目欄外に〕
「奥さん、そんなの読んで黙っていられるかしら」
よまないのですって。一度何かよんでコリてから。
石坂洋次郎論の「若い人」の中で江波という娘を見る評者の甘さから、ケンカをやる戸塚の夫婦の生活と、何たる相異でしょう。
〔十三枚目欄外に〕
前便のタテの封筒がいかにもいや。東京堂と丸善とへ出かけるから、そこで何か見つけて、それから出すことにします。 
九月十九日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十八日第五十四信。
〔前略〕昨日あれから戸塚へまわりました。おなかペコペコで御飯をたべ、終ったら鶴さんがやって来て、やはり御飯をたべ、そちらの噂やいろんな話。『朝日』朝刊に石坂洋次郎が長篇をかくことになって四五日前作者の言葉なども公表された。そしたら、けさ突然、坪田譲治「家に子供あり」というのに変更されている。何かあった。「若い人」がいけないということになったのだろう。この間内務省の懇談会で、またたびもの、遊蕩(ゆうとう)もの、女の生活の放縦を描いたもの(女子学生もこめて)はいけないというおふれが出たばかりです。
出かけようというとき鶴さん一寸一緒に新宿へ出ようと云い、私はおみやげのバタ、稲ちゃんは不二(ふじ)やでお菓子を買い、不二(ふじ)やでコーヒーをのむのに(鶴さん)つき合って、それから市ヶ谷へ行ったら六時ごろです。
病人さん(自注13)は、けさあなたから親切な手紙を貰ったとよろこび、私たち二つの顔を見たらいかにも嬉しそうでしたが、瘠(や)せて、弱って、ひどい。八貫位の由です。夏じゅう九度から八度の間を行っていたところへ、(発熱)この間の大嵐のとき屋根が吹きとばされて、煤水がダーダー流れ出したので階下へおりようとしたら、梯子がその水で滑って、頂上から下へ落ちた。「そのまま喀血(かっけつ)でもして死んだら余りにみじめだと思って心配しましたが、いい工合におさまって」とおっ母さんが話されました。二週間近くも大家さんの二階にいたのですって。家から食事をもってゆき、便の始末をしながら。さぞ、どちらも大変であったでしょう。今は朝九時ごろ悪寒がして発熱する由。家の中の様子、病人の顔つき、こちらも息がつまるようで、苦しく、苦しかった。療養所のおそろしい話を、黙っていられない、という風に話されました。「どんな病院よりおっ母さんのそばがいいから、ここへおいて貰います」いろいろな感情があるらしいのです。「こんなにおっかさんてありがたいものだとは知らなかった。きょうだいと云ったって、手拭一つしぼってくれませんからね。」
病気はこわい。いやだ。しんから病気はしまいと思います。この間の手紙で、私が本気で云っていたこと、サナトリアムはいやだということ、あなたはそれについて返事をまだ下さらないが、本当にはっきり覚えて承知していらして下さい。ね。盲腸で切るとかそんな或時期だけのは入院が勿論いいが。
日本の療養所(市の)は、まだ実に低いところにあり、病人の箇々体質、病状などこまかに扱わず、病気と精神力との関係など全く無視されている。そのために例えば、八度熱があればどの注射、しなければならない、いやでも。そして、智恵子さんなどのように重態になったりする。その他の療養所では南湖院その他菌のあるものは入れないのだって。何のために建ててあるのでしょう?では病気を享楽するひとのためにあるというにすぎない。ブラブラ人の社交場にすぎない。(富士見などのように)ああ丈夫でいること丈夫でいること!
息のつまったような気持で出て、空気が吸いたくて神楽坂まで歩いて田原屋で御飯をたべました。それから歩いて稲ちゃん死んだユーゼニ・ダビの「北ホテル」という作品の話を熱心にして、(その作品のよさと思われている弱さについて。弱さにとどまっているこの作者の勤労者性について)矢来下からバスにのって、かえりました。
ダビについての感想は「くれない」の作者としての感想として特に面白かった、というのは、私はこの愛する作品については、いろいろの感想があるのです。作品が十分の構成をもっていないということ、構成のないということは、この作者のどの作にも或共通したところであるが、事件、心理のいきさつを、よって来っている現実としてつかんで整理しきらず、はじから現象に即したように描いてゆくため、構成がなくなり、語りつくされない部分が出て来る、そんな気がつよくしていたので、ダビの「北ホテル」の感想は二重に心をあつめてききました。買っておよみ下さい。婦人の作家が、その生涯のうちに、皆が、いくつか、どんな形でか、この作品のようなものを書かなければならず、書いているということ。そういう点からもこの作品は或本質的な意義、価値をもっているもの故、もっと十分書きつくせない事情のあるのが、惜しゅうございます。
俊子さんの昔の作や「伸子」や「小鬼の歌」の夫婦の生活や「乳房」やそして「くれない」や同じ作者の「わかれ」という短篇などと合わせよみ、考えると、女の生活をうち貫いて流れている歴史の波濤の高さが胸にひびくようですね。きょうは久しぶりで林町へ出かけます、うちにいる栄さんは、兄が入営で一日いないから。

(自注13)病人さん――杉山智恵子。 
九月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月十九日第五十五信(封筒の糊がわるくて張り直しをしました。)
きょうは、大変に珍しいところから手紙を書いて居ます。林町。食堂のテーブル。午前十一時すこし前。
きのう林町へ来て見たらお客がいて、いろいろゆっくり話したかったので泊り、けさ国男さんが出かけてから、南の縁側ですこし日向ぼっこをしながら本をよみ、食堂へ来てこれをかき出しました。
話というのはね、あのひとの生活ぶりについてこの間から考えていたこと。咲のいないときすっかり遠慮のない表現で一度話したいと思っていたので。
私が早寝早起きを励行しているというのにはすっかりびっくりして、敬意を表しました。その実、本人は(私は)まだそれが習慣として身につくところまで行っていないから、まるで早ね早おきに使われて、夕飯を終ると宵の口から眠る時間を気にして滑稽しごく。しかし私はひとが笑ってもこれはやります。どうしてもやります。このねうちの感じかたは、或は貴方がお考えになるより深いのではないでしょうか。
咲枝、太郎は二十六日ごろかえって来る由。太郎すっかり田舎言葉で「いがねえか」など尻上りに云っている由。
この間私に国府津へでも行くか?とおっしゃったとき、二日ばかりも、とお云いになった。二日、という区切りかた、二日いたから?一ヵ月もと云われず、二日もと云われた方、笑えるようなところがあって、しかも私にはいい心持でした。ゆく行かないにかかわらず。
国男さん、安積(あさか)へ誘うが、やっぱり行きません。東京の日々の暮しで、きっちり習慣をつけてしまわないうちから動くと心配ですもの。今のところそれが仕事だもの。ああ、林町へ来て、又よふかしをしたのじゃないか、と思っていらっしゃるでしょう?顔が見えますよ。例のレコードをかきましょう。
きのうの朝までは前便に書いたと思いますが
ひる十一時四十分六・四夕午後五時半六・三夜九時六・六
食事十二時半食六時半就眠九時四十分
今朝起きたの七時半。
七時四十分五・八ひる十一時十五分六・五夕六時六・六夜六・五
食八時すこし過十二時半六時半九時半
きょうはおひるをたべて目白へかえります。渡辺町へまわろうとしたら留守故。
十日間の温度表を見ると、段々頂上が下って来ると共に最低との開きも減り、面白い。十五日以来から最高が六度七八分ですね。今月の初めごろ、すこし熱っぽい生理的な理由もあったけれど。
○『プラクティカル・エンサイクロペディア』昨日丸善から送りました。英語のドウデンは中身はすっかり同じです。ドイツ語のは二冊か三冊あるのですってね。英語は一冊にまとめられていて、やっぱり初めに人間老幼男女、つんぼの女などあり。ですからおやめにしました。フィリップ・ギブスの『国境を横切りて』(アクロス・ザ・フロンティア)というのがあり、買いたいようでもあったが、おやめ。四五ヵ月前七円五十銭であった本がダラの変化で昨日は十二円八十銭です。大変なかわりかた。このような金で外国旅行をやるのは気骨が折れて彌生子さん夫妻も大変でしょう。もっとも旦那さんの方は外務省からですが。ケンブリッジとオックスフォードで能の講演をする由です。ギリシア文学の知識で、この人は欧州人にわかる方法で世阿弥を説明するのでしょう。ギリシア古典悲劇の様式と、能とはその独唱とコーラスと身振り的舞踊において非常に共通している。観念ではなく、様式で。ギリシアのは、合唱で、主人公の運命に対する哲学、客観的観察(判断)とでもいうようなものを表現している風です。
そんな、私も常識としているところをもっと広く、且つこまかに話すのでしょう。息子が交換学生として行っているイタリーにもゆき、ギリシアもまわって来て、かえりはアメリカを通る由。朝四時ごろJOAKから国際放送をしたりして活動です。
九月二十一日に、つづきをかいて出そうとしたところ、羽織紐のことについて、ちがったように書いておいたので、きょう、二十三日書き直し。
今、貴方へのフランネルねまきとおこしの小包をこしらえて、出させてやって、羽織をはおって二階へ上って来たところ。今年はじめての羽織です。秋のうつりかわりは春から夏へのときとはちがって、こちらでも心元ない。夜着のこと、先にもそういうことがあったので又さっきかえる前、確めて訊いて見たら、十月に入らなければ入れない。どういうのかくわしく判らないが、そうです。十月に入らなければ衣類のセルも夜着も入らない。肌寒い方へ向うときは、こういうことで何だか落付きませんね。早く十月になってしまえばいいと思う。フランネルや羽織で、調子をとっていらして下さい。
二十日には、そこからのかえり、雨中を渡辺町へまわり、買物に一緒に出かけ、かえりかけたら漱石の未亡人というひとに出会いました。古風なひさし髪に一糸乱れず結び上げ、りゅうとしたお召、縫いのある黒地の帯、小柄だががっちりとみが入った風采(ふうさい)。金の儲かる役人の奥君という風格で、漱石の作品にあらわれている妻君の反映や鏡子述「漱石の思い出」、松岡とのことその他思い合わせ、いかにもとうなずける様子です。長男が、中学の三四年生のとき、お出入りのいんちき音楽師に大天才とおだてられ、ヴァイオリンの修業にドイツに出かけました。いんちき士が、お伴にくっついて行こう魂丹であったらしいが、それは実現せず、若い息子だけが行った。が、行って見ると、元より上手に弾く日本少年のヴァイオリンは、天才の問題と大変遠いし、技術の到達点にしろ少年自身絶望するようなものであった。金はある、子供である。ベルリンにはヴィクトリアという日本人の税関と称するカフェーがある(西洋のカフェーは或とりひき場)。ヨーロッパ戦後である。一九二九年に私がベルリンの国立銀行の広間の人ごみの裡にいたら、ちらりといかにも見たような顔が視線にうつった。漱石そっくりの道具立てと輪廓とで、而もその内容なく、背のどちらかというと低い背広の体の上にその特徴ある顔で、じっとこちらを見て佇んでいる、言葉をかけるほど互に知っていない、だが、お互に誰かということを知りあっている、そういう眼ざしで。漱石そっくりで漱石ではない息子の顔立ちは、伯林(ベルリン)の雑踏をこえて、今も目にのこって居ります。一種異様な寂しさと哀れさとがあった。その息子が、何年か前に帰りたいと云ったとき、この剛腹なる母は、それを拒んだらしい。今になって、つれてかえることが話しに出ている由。
(ああ、いやな匂い!午後二時すぎるとお隣りで煉炭風呂に火をつける。煉炭のガスはきつくてトタンの煙突が一年でくさる程有毒で、実にいや)
二十二日には、かえりに三越へまわり、あなたの夜具のことを致しました。ステープル・ファイバアというのは何と重くて、変にプリンプリンとしていて、ひやっこいのでしょう。そういうのでなくて木綿七分、スフ三分という布地があったからよかったけれど。綿も白一号というのはなくて白二号。二流品だけ。ウンと上げて儲けるつもりで問屋がいたところ、価格の統制で、儲けられないので、よいのはひっこめて二流品をのみ出している。買う方がたまらぬ。
多くのことが、こういう調子ですね、家賃のことをはじめ。絹ぐるみで生活する人々は決してこまりません、いかにたかくても正絹もある、真綿もある。
夕刻の七時からさち子さん夫婦のおよばれでお茶の会。戸塚の夫妻、壺井さん夫妻。私たち(というのは二人の名のお招待が来ましたから)、その他の友人三名。八重洲園。佐藤俊次というのが良人の名です。自然、鶴さん、繁治さん、私たちが喋り、いろいろ面白かった。かえりに数奇やばしのそばの寿司をたべて、山の手電車の一方の坐席にズラリとピクニックのように並んでかえりました。
――○――
朝、真先にお早うを云うのはなかなかようございますね。私の早起きの習慣は、こういう御褒美つきで奨励されているわけです。
これから、いつも二十三日に花を買おう、私たちの花を買おう、そういう気持がそちらも持っていらしたということ、面白いこと。
今年のあなたのお誕生日には何をしましょう。折々たのしみにして今から考えています。去年私たちの五年の記念にあなたが書いて下すった字で私の本のための印(いん)をこしらえた。一つ捺(お)してあげたの御覧になったでしょう?はじめての印は父がこしらえて呉れた、水晶。あれは一生使えるように堅いツゲの木です。今年のお誕生日の記念に何をしましょうね、蔵書印をこしらえようかしら。又あなたの字をつかって、並べて、ぐるりを工夫して。それともこれは八年目(足かけ)のおたのしみにとっておきましょうか。八年目の二十三日には一まわりして週日も同じになるから。帯だけはもうきめてあります。昔の女は帯を縫ったのね。
そう云えば実録文学の山治君、段々妙な実録で「池田成彬」というシナリオをかいたりするが、この間「坂本龍馬の妻」という脚本を書いた。お龍という女。女に生れて貴方にめぐり合えないなら、男なんかに生れたくはございません、などという云いまわしは粗末であるが、洒落た女の機微をつかまえているようだのに、このお龍さん、第一幕では不二洋子の劔劇に似て居り、幕切れは、或種の神がかりであるというのは、何と笑止千万でしょう。
「沃土(よくど)」の和田伝、島木健作その他何人かで、有馬農相のお見出しで、農村文化の立役者となり、作品が帝国農会の席上引用され、和田氏は日本の政治の明朗化の実証と欣喜(きんき)して居ります。二十名の作家が漢口を描きにゆきました。平服に中折をかぶってステッキをついて写真にとられているのは菊池寛一人。役者一枚上なり。「田園の憂鬱」は軍装して二千円すられた。葦平サン茶色背広で(上海で)これら名士と一夕の歓を交えに現れています。
午後の計温が示されていないと云っていらしたのは十七日(土)でしょう?戸塚と病人見舞いに行った日でしょう、あのときは午後はとばしました。林町へまわったときは計温しましたから。
二十日。この日もかえりに渡辺町であったから十一時半ごろの分はとらず。
朝七時二十分五・四夕方五時半六・五夜九時半六・五
食事七時三十分六就眠一〇
二十一日
朝七時半五・五ひる十一時半六・三夕五時半六・六(夕飯六時)
食事七・四〇十二時夜八時半六・三
朝は七時から七時十五分すぎまでの間に床から出ます。それから身じまいして、計温して、食事して、仕度して、家を出るのは八時十五分過までのうちです。原っぱを通って、受付へ行って、多勢待っていなければいつも大抵九時十五分前ごろ、待合にかけます。これはおきまりの時間表で、ずるとしても五分から十分の間です。土曜月曜はこの刻限から二時間前後待って本を読んでいるわけ。この次の月曜は一奮発してすこし早くして見ましょう。この切手お気がつきましたか?民間機をつくるためだそうで、国男のくれたのを見本に。おかぜを呉々大事に願います 
九月二十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十五日第五十六信
きょうは可笑しい借家人物語を二つ。
きのうひるから殆ど二ヵ月ぶりで栄さんのところに向って出かけました。七月中旬ごろからマアちゃんが工合わるくしているし、繁さん勤めはじめたし、細君はいそがしかったし、病人のベッドのわきで喋るのもいやであったから、お互に。
マアちゃんよくなった。それに、私は、ああ二日つづきの休み日なんて大したことない、実に大したことない。こういう休日が愉しく充実するために私にはどうしたって必要な顔と声と笑いとがあるのに!とふくれていて、思い立って栄さんのうちに向って出発した。
小滝橋へ出るまで、下落合駅のところを道普請していて、すこし広い道が東中野から聖母病院の坂まで貫通しかけています。工事のはじまったのはもう古い。事変で久しく放ぽり出されてセメント樽がコロがっていた。再び着手して、もうすこしで完成。新道へ出るところ(旧道から)「ひどくゆれますから御注意下さい」と婦人車掌が呼んで、赤坊おぶっている女の人に「お子さんのおつむり御注意下さい」それ程。うっかり舌でも出したらかみ切ってしまいそう。小滝通りでおりて、坂をあがって行く。トタンやの店に張紙あり。
「風水害で破損した箇所修繕のためブリキトタン御入用の方は、もより交番より許可証お貰いの上おいで下さい」云々。秋の日にそういう字が照っている。もすこし行ったら「十月一日より商店法実施、皆サンお買物は十時まで!演習十九日、二十六日」と立看板が立っている。
青年学校義務制(十四年から)のための青年調査の注意がケイ示されている。
そういう街頭の光景を眺めて、横丁へ入って行ったら、見たことのある爺さん、袢テンすがたで荷車に何か積んでいる、壺井さんの家の石段々の下で。おや、と思い格子のところへ行って見たら、まあ、引越しのところです。
「なんて、あやういところへ来たんだろう」
「あしたのいまだったら、どうしても運送やさんが、くり合わせつかなくて。」栄さん単衣一枚、手拭をかぶって、せっせとお握りを握っている。繁さん、真面目のような、我ながらびっくりしたような顔で、口を尖(とが)らせ乍ら、一生懸命本をつめている。前日にきまったのですって。大嵐の夜、二階が吹きぬけのない袋六畳だもので、雨戸をとばされ、ガラスは破れ、今にも飛びそうなので、畳をめくって夫婦で夜明け迄押えて遂に倒壊を防いだ。おまけに、この間の地震で、もう迚も辛棒ならず。あなたにあの珍しい家を見せられないのは夫妻の遺憾とするところでしょう。畳のベコベコなのはあなたも島田で、お驚きになりますまい。しかし、ああいう折れかかった鴨居と隅の落ちた床。決して女の力では明かない玄関の格子というような物狂い的家屋は、おそらく話で人を信じさせ難いものでした。
大家さん、株式暴落まではクリスチアンで(細君)栄さんが「怒っても子供にああいうやさしい声でものが云っていられるって、どういうんだろう」と、足かけ四年感服していたが、去年あたり破産に瀕したら、人生の波の方が真率で、その細君をきわめて人間らしいものに戻しました。大家さんのおかみさんらしいものに戻した。新しい家が九分迄かりられそうになると、わけのわからぬわけで駄目。ははアと心付いて、新しい家は急にきめてしまった由です。
お人形、時計、そんなものを持って、折からの雨中、傘を並べて新居へ行ったら、天井も床もしっかりしているので「ああ、これで安心した」と大笑いしました。「天井も菱形じゃないからいい」と私が云って又笑った。
中野区昭和通一ノ一三です。
――○――
けさ八時前に御飯たべていたら、大家の女中さんが来て台所で何か云っている。大工さんをよこしますそうです。大工が来て、世話焼の七十何歳とかの爺サンも来て、玄関のカマチと四隅の柱、台所、湯殿のカマチと直すという。応接室の建ましは断念と見えたり。何しろ縁側がない家だから、大雨だと外の羽目から雨がしみて、室内の欄間の壁が大きい地図のようなカビを出している。「どうもこれじゃ応接間をつけたところで……」と留守の間に云っていた由です。一寸ついている竹の袖垣をその形ごとはずし、ジャッキでギューと持ち上げて四本の柱の根つぎをし、あっちこっち家が真直になったために壁が落ちて、夕刻は大工の方はおしまいというスピードでした。
何という日本の家の便利さ(!)でしょう。何たる積木(つみき)如きものを建物と称すことでしょう。土台五六寸新しい柱を立てて、ジャッキで家ぐるみもち上げていた柱をストンとおとして、自然の重量で、くっついている。クサビもなければ、かみ合わせもない。そういう柱!で支えられている、この地震国の家。家をハウスと訳すのみならず、ホームでもあるし、命の箱でもあるし、私は手早さに感歎すると同時に、アナトール・フランスが「昔物語」で云っているような都市の歴史的な豊富さ、住宅の持つ歴史的内容というものが、こういう建物で間に合わせて雨露を凌いでいる習慣の中には、決してその興味ある堆積をなし得ないのを、実感しました。ゲルツェンの家を作家クラブにもなし得ぬ。卵橋(ポンヌフ)の河岸につらなるパリの十六世紀からの住居の美もあり得ない面白いものではありませんか。感情のアシの短かさ、厚さの浅さ、ニュアンスのうすさ。アメリカ材だと、この家のように十年経つと木がひとりでにくさって来るのですって。(この家どこもかしこも米材なり)都市としての江戸の形成の過程と東京の変遷を考え、一種異様な感がします。昨今、王子に近い志村の町に工場がどっさり建つ。その地形(じぎょう)のために泥をナラす。下から出て来るのは竪穴の住居遺跡です。やっと農業がはじまり、竪穴が集まって聚落(しゅうらく)をなしかけた時代。沢山の土器、鉄片の少々などが出る。そういう土の上は、昔ながらの方法による畑であったのが、いきなり最新式工場と変りつつある。畑の野菜は腐っている、ガソリンが少くてトラックで運べないから。私たちは百匁十五銭のトマトを買っている。(大きいの一ヶです)実に錯綜した線ですね。
――○――
今何をよんでいらっしゃるかしら。私は体に力が湧いて来た感じです。大事にして、来月からはすこし仕事はじめます。こういう力のある健康感、ぱっちりみのいった感じ。うれしい。胸のはり出すような。二十三日に出した手紙に計温かいたから、これにはやめます。九月九日からつけはじめ、十月九日で終る。二十三日の最高六・四、二十四日六・六、二十五日六・五です。こまかにはこの次に。
どうか風邪をお大切に。この夏ぶりかえさずにお過しになれたのを、本当によろこばしく思っているのですから。さあ、あしたは早く行こう。ではこれでおやめ、ね 
九月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
九月二十七日第五十七信。
五時頃、昨日開成山からかえって来た林町一族がやって来るというところ。只今茶の間に火を入れてテーブルの前に坐ってふと思い立ってかきはじめます。
林町では食堂のテーブルでよくかいた。こちらでは茶の間では小包をたくさんこしらえたが、めったに手紙はかかず。
考えて見たらこの茶の間のたたずまいは詳しく御存じないわけね。南にぬれ縁のついた長い六畳でね、私はつき当りの襖を背(戸棚)にしていつもテーブルをひかえて坐っている。入る方の(私に向って)左手に、例の私たちの箪笥があり、それと並んで例の茶ダンスがあり、茶ダンスのわきの柱に父が一九三五年の二月十三日の上落合の家で私の誕生日のためにプレゼントとして呉れた精工舎の質素な柱時計がかかっている。その柱から一間が襖で、襖のあっちに北に肱かけ窓のある三畳。三畳から廊下が茶ダンスの裏を通っていて風呂場。奥が台所。台所を通っている廊下が、カギの手に六畳の入口へまわって来ていて、それはまた鍵の手に玄関を入ったところまでのびているという工合です。
テーブルは、山田のおばあさんがお祝いに呉れた黒いカリンを出してつかって居ります。(どうしたでしょうねあのお婆さん。お祝を貰ったときにはお返しが出来なかったから、その年の暮には娘さんに十五円ばかりの羽織地、お婆さんに毛糸のフカフカのチャンチャンを上げ、大変よろこばれて私もうれしかったけれども。)テーブルの左に例の長火鉢。私はまるで子供がままごとをして、おうちの形をこしらえるように、前をテーブル、左手を長火鉢にかこまれて、居心地よく納っていると申す塩梅です。
○おなか大したことなくてようございましたね。お風呂で、さぞだるかったでしょうね。きょうは、妙に私の耳が鳴るというか、圧力が鼓膜に加っている感じで何だかヴェトーヴェン式でいやな心持であったが、かえって用のない人に会っていたらめまいがして、あと床についたら、カゼの気味でした。ゆたんぽをあて背中をぬくめたらすっかりいろんなことが直りました。いつ引いたのでしょう。可笑しいこと。〔中略〕
きのうは、何と云ったらよい日だったでしょう。とにかく外出からかえって来て、実にひとりなのが苦痛でした。外で心にうけて来た衝撃が深く強く、こういうときあなたに話し、相談にのって貰え判断を助けて貰ったら、と呻くように感じました。私のことでも、私たちのことでもないのです。全然家族的なことではない範囲での感情の問題なのですが。
親友として如何に処すべきか。人間及び大所高所からの判断は一つしかないのだが、最も愛する友達が、妻母として大なる傷をうけ、流す血をなかなか正視しがたい心持です。きょうは絶えず考えている。一番しっかりとした愛情で行動したい。そう思って考えている。劬ることで侮蔑にならず、虚偽を虚偽として現実を示すことで、単なる正義感の満足とならぬように。
人間は一度ならず間違います。しかし間違いの種類と程度と間違いかたというものがあります。苦しいことだ。良人としての真実、仕事と生活との統一を求める真実、友人の信頼に対する真実、それらの真実とは何でありましょう。どう行動するのが、真実であるかは判っている筈です。間違いとは、非計画的なものではないでしょうか。計画にしたがって設計された二重の生活を、間違いと云え得ないと思う。それは計画でしょう。我々の友情の内容の深さ、期待や信頼の歴史的な意味というものがわかっていて、自分の存在の意味が分っていて而も出来ることだとは思えない。夫婦とは何でしょう。
抽象的にばかり書いてすみませんが、私の今の心の苦しさは、これだけでも書かずにいられない。辛抱して下さい。芝居のタンカではないが、どっち見てもケチな野郎でござんす風な光景の中で、真心から支持して、生活も仕事も成長するように愛する友のためにも堂々たる良人であるように、誇るに足る友であるようにと切望して来ていた友人を、その本質に於て失った心持は、失いかたが複雑で、主観的でなくて、苦しい。私が留守であった夏、自分から命を断とうと迄苦しい目をしたひとが、再びこれを知ったら、どうのりこえられるだろう。その確信が私につかない。戦慄(せんりつ)を覚えます。私がこのように苦しいのだって、その人及びその時代の善意の大抹殺だからです。これまで、ああいう思いをして何のために生きて来た、ああ考え、ああ云い、今も白を切ってそう云い、している、それは何なのだ、そういう大憤怒の故に苦しいのです。
私が最大の愛情と正当な判断力にしたがって行動出来るよう、支えて下さい。昨夕、そしてきょうは、文字通り私が手をのばしてつかまるあなたの手がいる程です。何たる思いをさせて呉れるのだろう。
しかし夜はやはりちゃんと早く床に入り、よく眠りましたから御心配下さらないように。今夜も勿論同様。但しきょうは熱がすこしあるが、マアこれは致し方なし。
〔欄外に〕
体温表をかいているような気分でない。あとで。きょうは七・二ですから大したことない。 
 

 

十月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月六日第五十八信
十月の六日に八十二度ということがあるでしょうか。本当に気違い天気ね。おなかが空っぽだから、きっとそんなに温度が高いとはお感じにならないかもしれない。
きょうは、あした野原の小母さんがいらしてなさる枕がないし、布団が不足しているし、それらの買物に早いうち日本橋の西川へ行きました。塗った箱枕、うちに一つもない。先にお母さんがおいでになったとき買ったが、度々のひっこしでどうかなってしまっていて。それから朝御飯に一寸あがる佃煮などを買い、伊東やへよって、今度は私たちのために例の大型の封筒を見つけ出し。そして電車でかえりましたが、私はそちらにもよく着てゆく紺の絣を着てフーフー。それでも、早くから新しい袷を縫って十月になるのを待ちかねていたような御婦人たちは暑そうに袷を着て、自分の衣更えの気分を味って居ります。西洋の諺(ことわざ)に曰く「女というものは、自分が美しく見えるためにはどんな苦痛にも耐え得る」と。
帰ってお昼をたべていたらさち子さんがよりました。初めてだったのね。余り前から行くことを云っていたので、初めてのように感じて居りませんでした。
どだい、そちらを訪ねるということが最初だったそうです。二人で責任をもって暮して行くように、と二度も仰云った、と云っていました。その言葉を、あの人に特におっしゃったこと、その言葉にふくまれている貴方としての感想、いずれも私によく通じました。全く、その言葉は幾度云われてもよく、又いく度か自分から自分たちは責任をもって互に互のために生きているだろうかと反省してよい点です。体温の本、一般動物についてですってね。何だか滑稽で思わず笑った。でも、そういう方面の本の探し手としては適任が見つかってようございました。どうせ医者になるならヤブにならぬようと云って下さった、と。私たち勿論ヤブでない医者が友人にあったらどんなに便利でしょう。経済(中央大学)にいた人の由です。中途転業。だからなかなか骨の由です。学生の中でもとっちゃん学生なわけです。
こう書いているうちにも、玄関風呂場は、カベのぬり更えで大乱脈。この間、土台をジャッキでギューと上げて、ストンとおとして根太をついだ話いたしましたろう?そのとき壁は無惨な体たらくとなりました。やっとけさから塗り直しにかかったところです。茶の間の雨のしみたところやちょいちょいとある。何しろ家主さんは不可抗な事情に到って直して呉れるのですから。なかなか微妙なものです。こちらの家へ来て話すとき職人たちは借家人の心持の側に立って、何でもなるたけよくやりましょうという風に話す。その職人が竹垣一つのむこうに行って話すのをきいていると、ナアニちょっくら云々と。心理をとらえている。仰々しく云ったのでは職人としての仕事がなくなってしまうかもしれません。
野原の小母さんは明朝七時十分着です。けさの九時五十何分かに島田を立って。
明日は、お迎に行って、一寸休んで、淀橋へ行って、時間と疲れがくり合わされれば、午後にでもそちらへ行けたら、と思って居ります。今ごろ、むし暑い汽車の中で、くたびれて、心配して、行く先が不案内で、恐らく汗と涙とごっちゃに、大してきれいでもないハンカチで拭きながら岡山あたりを揺られていらっしゃる様子が目に浮びます。東京見物は冨美ちゃんが卒業祝に、と云ったりしていたのに、計らずものことですね。
マア、ことが一落着したらすこし息を入れていらっしゃればようございます。Tさん、妙テケレンなプラチナの指環はめてるのを私が目につけ、あんなのはくさいと小母さんに申したのは本年の五月でした。とり合わずにいらしったっけが。
きのう話していて、女の生活って本当に大変なものね。息子や亭主のことでみんな苦労して、と私が云ったとき、あなたも笑っていらしたけれど、ちらりと、あら、勘ちがいをしていらっしゃるという感じがしました。その笑いの中に。私は苦労という言葉で表現されるようなものは、細君として受けて居りませんし、苦労が苦労としか結実しないような苦労もしていません。私たちの生活とはきりはなして云ったことでした。何だかばか念を押すようで可笑しいかもしれないけれど。
或一つの事件について、一人の人間は、ああこういうことをするようでは心底あらわれたり、と思い、ある一人は、それは性格的な欠陥だと思うけれど、と一部分のことのようにうけるという相異は実に微妙且つ心理の分水嶺をなしますね。或ものは、性格の欠陥と見きわめつけば益〃決定的に判断する傾きになり、一方は、それは特定の方面にもっている欠カンであってと、欠陥が根本的にどんな作用を及ぼすかということは場合場合によってちがうという風に観る。
漱石の「三四郎」に、ピティーアキントゥラヴという言葉をどう訳すかという場面がある。可哀そうだは可愛いってことよと都々逸(どどいつ)風に云い直している。
卑劣さということの解釈も亦そういう点の理解の相異によって相異して来るのですね。或特別な性格がその性格としてそうしか考えられず、やったことは低いには低くても卑劣と云い切れるものでないという風になるらしい。元来そんなの変だ、というのと、あのひとは元来そうなのだから、ということでは、ちがった標準に立っているわけです。面白いものね。
弱い、そして主我的な人は、自分の痛いところを劬(いたわ)ってわかってくれることに対しては、云うをまたず自身の純情を吐露してよろこぶでしょう。すがるでしょう。対手のそのような善良さに、ここをせんどとしがみつくでしょう。功利的な意味でなく、自分のせめてものよい部分を生きのこしてゆくためにも。その所謂純情さにホロリとしてしまう。女の情合いというものは、何と許すことに馴れているのでしょう!自分たちの生活の中で、許されることと云えば本当に、本当にまれで、すくなくているのに。
こういう女の情合のありようと、Hにしろ、Bにしろ、Iにしろ、今日妻としてはどのように生きて居り、往年の翼(人間としての)はいかに挫(くじ)かれているかということを思い合わせると、その間に、深刻な何かを感じます。こういう風に、自身の事情の内にとぐろをまいている生活は、人にも云えない苦しさというものを主観的に経験しているのはうそではないから。その苦しさのうたに自分からいつか眠らされて、鈍痛的無気力状態に陥り、生活感情を合理的にもってゆける人間に対して、女同志である場合には特に、あのひとにそういう女の心持はわからないとか、苦労していないとか、苦労が足りないとか反撥する場合が多い。それも興味ある現象です(一般的に見て云っているのですから、どうぞそのおつもりで)そして、こういう感情の質の相異が或意味では旧い年代の女の心持と、新しい年代の女の心持とのへだたりになってもいる(新しい年代がそれ自身の問題としてもっているものは又様々であり、それなりでよいと云えないものも多くあるのだが)。女の感情、男の感情から義太夫のさわりの部分は、さわりの趣味はいつになったらもっと朗らかで雄大壮厳な合唱と献身とに変ることでしょうね。
年齢が加って、社会的な体面のようなものが出来ると、ゴミ袋はいつしか尨大なものになって、つまりはゴミ袋をどうやらころがしてゆくのが日々の実体みたいなところを生じる人さえあるのだから。
私は襟を正して夫婦とはおそろしいものであると感じます。愛というものはどうやら際限がないらしい。それが愛であればあるほど。どっちみち愛によって生き又死ぬと云えるところがあるのだが、世俗的には身をほろぼすが如く見えつつ生きる道と、外面的には生きつつ実は身をほろぼす道との間に横わる各ニュアンスは実に千差万別であって、びっくりします。どんな人でもその人らしい恋愛しか出来ない。そう云うのも本当であるし、それ故に恋愛や夫婦の情合の生活に於ては、そうでない筈の人々も実に経験主義ですね。寧(むし)ろ、そうである権利のようなものを肯定し且つ主張さえする。科学で戦争がやられているが、この方面の感情の内にはモンストラスなものや暗愚なものがまだまだ蠢(うごめ)いていて、丁度ノートルダムの塔の雨樋飾(ガーゴイル)の怪物のようなものが棲んでさえいるようです。
明日からは事ム的に体も心も忙しくなることでしょう。だから今こうやって、このような話しを。
私の熱のこと。大分とばしてわるうございました。今でも朝おきて御飯前(七時半ごろ)と夕刻(五時半ごろ)、夜八時半か九時には計ります。二十八日の手紙ではのぼせていて、ばからしいさわぎのように見えたでしょう、御免なさい。いろいろ深く学ぶところがあった(あります)一般的な問題として。
二十五日に書いた手紙で前日までのを書いたでしょう、そう覚えて居ります。二十五日、六日、七日と朝五・四位、夕刻の一番高いときで六・九位でした。二十八、九と最高が七・一でした。三十日、十月一日、二、三、四日と最高が六・八。きのう、きょうは七。そして夜九時頃には六・八分です。
九月九日から表をつけ出したのだからもう三日間で一ヵ月ですが、その波を眺めると、九月十五日から九月二十七日位まで、二週間ばかり非常に平均して六・六から六・八を通り、二十七日以後恐らく又二週間ほど七度をすこし越すのではないでしょうか。どうもそうらしい。そうだとすると、生理的なピリオドを中心としていることになります、大体。神経質体質では八度越す人もある由。やはり夕刻五時頃が一番たかいから、もしこれから一ヵ月平均をとって見るとすれば、その時間だけ統一して見てもようございます。しかし本当のところ、私は一ヵ月の調査で十分な気がしているのです。どうお考えかしら。早寝早おきは、これさえ守って行けば、大変病気はふせげるという確信もつき、それが自分の習慣になったことも感じます。それには早朝の挨拶が何よりの役に立ちました。これはいつまでもつづけます。おもゆにきみのおなかではさぞだるいでしょうね。野菜スープ上っているでしょうか、あの匂いはおきらいですか。大してきらいでなかったら、やはりあがった方がいいのではないでしょうか。出来るだけ種類を増すために。本当にリンゴをすってあげたいこと。では又、小母さんがいらしての様子を。 
十月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十三日第五十九信
一ヵ月ぶりの手紙は頂く方も大変珍しい。この間うち、随分お書きにならないなと思っていましたが、心持は全く膝つき合わせているから、或はそういうatHomeさで、うちにいて、よそへは手紙書くように、誰彼へ書いていらっしゃるのかもしれないと思って居りました。
明るい陽のさしているようなお手紙。この頃は何だか特別に毎朝私の顔や心がいっぱいに心持のいい、云うに云われぬ光りを浴びる心持です。きのうなど、その心持よさ、うれしさ、充実したたっぷりさで感動しながら雨の中を原っぱをぬけました。こういう深い、汲めどもつきぬ感じを与える暖流は、何と宝でしょう。日光のチラチラするような、一寸枝蔭(えだかげ)のさしているような、そういう安らかな流れに体をひたして、私は眼を瞑(つぶ)って自分の体をやさしくとりまくものの感じに流れこんだり、ああいい気持と又目をあけて、パシャパシャ水しぶきを立ててあちこち眺めたり。愉しい、愉しい気持。
こういう爽やかな、優しさと力に溢れたような情感の全身的な水浴を、あなたにも時折はさせて上げているでしょうか。私の人間としての質量が小さくて、もしそういう横溢の中にあなたを包み、新鮮にしてあげることが稀だとしたら、本当にすまないわけですね。
汲めどもつきぬもの、滾々(こんこん)と湧き出づるもの、私は貪慾だから、私たちの生活にあるそういうものを実に愛します。この頃特にそれが強くなって来ている。噴きぬき井戸が正しく真直に水脈の上に掘りぬかれていて、その上を風が吹けば虹色の立つ水が溢れるということは、大事なことです。曲りくねって、滲み出して、じめじめしたあふれ水はいやです。
勉強のこといろいろ有難う。私は小説家ですからという気持は大分減って来ているのですが、昨今感じるところあって、文学というもの(少くとも昨今文学と思われているもの)に対して、一層つよい疑いを抱いています。昔小説をかきはじめた頃、所謂文壇の作家の生活気分や作品やに対して本能的な不調和を感じていた。当時は、私の世界的基準はトルストイでしたが。つくってゆく小説、人間として生きてゆく歩みから出来る文学、その相異をしみじみ感じていたわけです。
昨今の出来事及び本になった小説(およみになれなかった)を再三よみ直し考えて見て、文士になっている感情のありようというものについて感じを新にしました。
今日の文学が健全性を失っていることはおどろくべきであると思う。人間感情の紛糾を、真に解決しよう、真に発展させよう、社会的な本源につきつめて究明してゆこうというより、社会的なものだ、相対的なものだ、という一定の観念の上に立って現実にはごたつく気持の縺(もつ)れ合(あ)いに身をまかせ、身をよじり、手をふりしぼる心の姿態を作家的自覚によって描いてゆく。現象的きわまりない。
どんな玉(たま)にしろ、ころがってゆくときは、真中というか中心を中心としているのだから、若しころがってゆく方向とか、ころがりかたを問題にせず、私は中心を真中にしてころがっているんですと主観的に強調したら、それっきりのものでしょう。
健全を求め、そのために努力しているつもりの作家に於てさえそうです。芸術家というものの感受性のありようについて、文士は度しがたい誤りにはまりこんでいる。人間が普通感じることを、一番人間らしい鋭さ、生新さ、溌剌さでピッタリと感じ、その感じを最も綜合的な内容=社会性の豊かな直感として、最も人間らしい意力によって処理してゆこうとする努力として、感受性を見ていない。本来なら頬の色が変るほど高い意味に於ておどろくべきことを、妙な客観性(と思いちがいしている鈍感さ、或は頭の鈍い形式主義)で、平気で、或は平気そうにうけて、さてそれから細いすこし指のふるえるような手で、それを身からはなしたところで、ああこうとこねて見て、それを小説だとしている。今日小説を書いている人々の何人が、真に愚鈍とその依って来るところに向って憤りを抱いているでしょう。それを少くしようという熱意で書いているでしょう。
紛糾を解決しようとする意志を多くの人が恐怖しています。紛糾に身を浮き沈めさせるそのことがヒューマニズムだと思っている。解決のため、その方向への一歩前進のための献身、その恐怖に堪える精神力は、ヒューマニズムの中に入れない。入れたがらない。日本の文学におけるヒューマニズムの特徴として実に近松が余韻をひっぱっています。日常生活におけるそういう人間的緊張の経験とその価値とを知らないから、多くの人々は北條民雄のように、癩病(らいびょう)になって死と闘う心持から書いたものとか、砲弾がドンドン云っているところで書かれたものとかいうものに、変に感傷的に感動し、過重評価する一種の病的傾向に陥っている。人間感情の不具、ディフォーメーションを餌(え)さにしているような文学に対して、私の文学ぎらいはつのります。
私がいつか書いた手紙の中に、自分の文学的技倆の不足を感じる程の生活内容ということをかきました。そのことと、こういう他面での私の所謂文学大きらいとは全く一致しているものなのです。強い羽搏きとつよい線と、しかも微に入り細を穿(うが)った諸現象の具象性をとらえ描きたい、そのために腕が足りないとそういう意味で。
このことは、逆に見れば愈〃私の作家的志向は、はっきりして来たことなのだから、腕のためにも仰云るような勉強は大切なことがよく判ります。職人的修錬の腕は元より問題外なのであるから。
「麦」については笑ってしまった。だって、読んで見て、樹を見て森を見ぬと私だって書いているのですもの。読まぬうちこそ情愛もたのしい期待も抱かせられたが。然し、読まないだって、と云われれば、それは又別ですが。これについては、私の方が「読んで見たのかい」と或一つの作品についての評価であなたから云われた場合があったから、五分五分ね(こういう表現を評して、返上辛辣とでも申しましょうか)。職業的ルポルタージュへの反撥が過重された評価の原因であるとはわかって居ました。
謙虚についても履(は)きちがいはありませんから御安心下さい。自らを大切にし尊ぶことから生じる自重のみが謙虚への本道です。相対的に世俗的にへりくだることではないのだから。
すこし話は傍き道に入りますが、例えば貞潔ということ、謙虚ということ、或は克己ということ、それらを世間では、貞潔が必然となるような愛の質の側から、謙虚が結果する自重、人間尊重の側から克己が来たされるより大な生活目的の達成の努力の側からよろこびをもって自然に説かないのは、全く可怪(おか)しいことですね。このことは何でもないようで何でもある。例えば、不屈性というものにしろ、行為の基準というものにしろ、その側からだけ称えられても、それをもち来す根本の一貫したものが、人間精髄としてその者の背骨を通っていなければ、安ぶしんの二階通りお神楽(かぐら)で、上にちょいとのっかっているだけで、すこしひどく吹きつけると忽ち木端微塵である。科学的精神の波の伝統のうすい日本では、情操としてまで、髄の髄の欲求としてまでそういう心持が浸透していない。理窟、或は現象分析機として或考えかたがちょいと頭にのっているが、胸の方はドタバタ、一向調子が揃っていないのが多い。将来の教育の方法への示唆になります。四五年来のぐるりを見て強くそう思っている次第です。文学において、人間性の尊重が痴愚への屈伏となっている所以です。
――○――
就眠・起床、サッパリだったね、には閉口して居ります。サッパリだったかしら、いつもではなくても時折はかいたように思うけれども。計温は、では十月一杯つづけて見ましょう。この前も書いたように、ざっと二週間ぐらい、本月は十日を中心に七度一二分になっています。早ね早おきをはじめて一ヵ月すこしですから、或は十月、十一月にかけてはましになるかもしれず。体癖を知るためにと云われると、だってというよりどころがないから、これ又閉口しておとなしく云うことをきくしかなし。きょうあたりから、では又こまかく計って書きます。就眠、起床もかきます。(小学生の叱られみたいね)
小母さん、可哀想にくすんで居られます。折角いらしたのだから上野、浅草、明治神宮、日比谷、エノケンからデパートまでおともしました。きのうきょうは、もと十条にいた本間さんに来て貰って、布団を新しくして、昨夜からはそれにおよりました。Tさんが来たら、しくのもなかったから。
電報をありがとう。やっと電報らしく三時すこしすぎつきました。家のことについて、滑稽な笑話があるのですが、この次に。美しい顔をしてよい身なりをして、女の人って、何て途方もない脳みそをつめているのかとふき出す話。では又ね 
十月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十六日第六十信
手の先の冷える雨ですね。こうやって手紙を書こうとすると、はじめてテーブルの木の肌がひやりと感じられます。あなたはお寒くないかしら。もう毛のズボン下着ていらっしゃるかしら。
きょうはね、クスリと笑えるような、滑稽な家族的な日です。
きのう、小母さまは、朝のうちTさんが面会したら、もう午後からでもかえりたくて、あなたが昼間の汽車にしたらいいとおっしゃったというのを、夜でよろしうありますと、八時半のにおきめになりました。何しろ一昨日の朝迎えに行って、ひる頃そちらへ行って夜かえると、すっかりきめていらしたのですから、案外手間どって一昨日は夕刻かえれないのでしびれを切らしていらしたわけです。
八時半に立つというのに、おひるを少々おそうにしたら、はアお夕飯はいりまへん、という胸一杯の有様で、まるで夕方まで身のおきどころのない顔をしてムズムズしていらっしゃる。見ていられない。仕方がないから、では夕方まで映画でも御覧になりますかということになって、雨の中を帝劇へ三人で出かけました。光井のはチラチラするが、こっちのはようあります、というわけです。五時半ごろかえったら、あなたからの電報が来て居りました。
よんでおきかせしたら、余り迷惑そうな、むくれ顔をなすったので、私もすこし子供らしさにむっとして、「これは何も顕治さんが自分のために会いたがっているのではありませんですよ、小母さまがフラフラしていらっしゃるから、それでは将来が不安心だからと思ってなのだから、そんな迷惑そうなお顔をなさるのは妙よ。そういうところがあるから、顕さんは心配しているんです。」
ほんとに、あの位親切に思うちょっての人はほかにありません。それはそう思っていらっしゃる。やっと御気がすこし落付いて、夕飯をたべて、では十九日迄のばすということになりました。私が会って、顕さんの云うちょること手紙で書いてもろうたらようあります。というのはTさんが反対しましたので。
きょうは、降りこめている。茶の間で、濡れた八ツ手や青木の葉が光っている庭、すっかり雨を吸いこんでしめったとなりの家の羽目の見える硝子障子をしめきって、小母さまは大仏の「由井正雪」を、Tちゃんは子母沢の「国定忠治」をよんでいる。私もそのわきでヘッセをよんでいたが、どうもどうも二人の読書の姿にユーモアがあって、ひとりで笑えて来てしかたがない。その神妙さが、何とも云えずユーモラスで、さぞ腹では、あの鍋だの、あの皿だのとそわついていらっしゃるだろうと思うと、可笑しいやら気の毒やら歯痒いやらで、本当に面白い。慰問のため、うちではきいたこともないラジオのレビューというのを午後二時半からやろうというプランを立てたり、私は叱ったりはげましたり、御機嫌をとったりに大童(おおわらわ)です。
今度のことにつけても、人と人とのいきさつというものの面白さ、複雑さをつくづく感じます。小母さまたちは、永年の生活の習わしの結果、目先、その場その場のいきさつ、表面での浅い親切、泣く笑うで気持が刻々動いて行くから、Tちゃんのことでも、ハアさて大変、ユリ子はんにたのもう。それ助かった。顕さんにも会えた。ホラいのう。こういうテムポです。じっくりするということはちっともしらずに暮していらっしゃる。顕さんの親切はようわかっちょるが、顔を見て、泣いて笑って、もうすんだお気です。将来の方針ということでも、どうも私が見てもたよりなぁありさまです。勿論、再び元の道にかえそうとは思わず、御自分のわるいこともわかっていらっしゃるが。
だから、ああやって電報下さると、何だか仕方なしなしいるみたいで、自分で自分がわかっていらっしゃらない。私たちに、あなたに何だか頸ねっこをギューと据えられたみたいな気もしていらっしゃる。笑えるけれど、腹も立つ。頼りない。Tちゃんがよっぽどしっかり腹を据えないと、ぐらつきます。話題にしろ、小母さまから、金の儲かった話、誰がなんぼある、又はすった話が、ここにいても出る。うちで母子顔をつき合わせていたら、きっと、それで終始するのではないでしょうか。生活の習慣というものは可恐ものです。東京の町を歩くのに、小母さまは、いつも我知らず右手を八(や)ツ口(くち)から入れて懐手(ふところで)をしてお歩きになる。ころんだらおきられなくてあぶないから手をお出しなさいませ、やかましく私が云う。これは、非常に小さなその癖、生活の根本気分を物語る特長です。面白いでしょう?
十九日までいらっしゃるようになってよいと思います。いやいやいらして、私は気が揉めるが、それでもいいと思う。いやなところを二日も三日もかえりをのばさなければならなかったことも、何かの形でやはり小母さまのお気持に強い印象としてのこされるでしょうから。ああいう思いをした、とお思いになるでしょうから。事がらの重大性がすこしはしみるでしょうから。昔、私がごく小さかったとき、変な菓子があった。多分飴(あめ)でつくったのですが、電気モーターにかけてフワフワとまるで真綿みたいにフワフワして華やかな色のついた菓子。それはフワフワしているくせに、口へ入れると、細い線のかたさがあって、いやであった。その菓子を思いおこします。実に浅いところをフワフワしている。沈む重みをもっていない。そのくせ、その軽さ、フワフワ工合に於ては、すっかりかたまっていて、もう変りっこなしと皮膚で云っているような。
あなたが力を入れて身の立つようにと考えてお上げになるのは、本当に深い情愛です。それだけのうちこんだ肩の入れかたを他にして呉れるものは決してない。それはわかっていらっしゃる。ですから、全部無駄になるというようなことは決してないことです。あなたのいろいろのことのなさりようから、私は私として二重三重に学ぶところがあり、感じるところがあります。自分に対して注がれている心のいかに深いかということさえも、一層肝にこたえるようです。
私の朝の出勤。朝の挨拶のプランを考えて下すったことにしろ、一ヵ月も実行して見て、その一つの事が日常にもたらす全体の価値がまざまざとわかって来ている。私はもう自分からもやめないでしょう。
そういう風に、具体的に、生活へ何かをもたらす力について、私は屡〃考えます。
沢山の賢い人々は判断はする。在る状態について。だが、その中へ現実に一つの流れをいつしかつくってやる力というものは、必ずしも判断力をもっているからと云って持ってはいない。而も、愛は真に活かされるために、常にそういう力を必要としているのです。親子にしろ、夫婦にしろ、友にしろ、広い人間の諸関係で。私も切にそういう力を育てたいと思う。私のそういう力は皆無ではないが、まだ未成熟で、所謂女らしい配慮のゆきとどく範囲から大して遠く出ていないと自分で思われます。御意見はいかがですか?私は、自分が女であることに些も不平はないから、女らしい配慮、こまやかな輝やかしく愉しい日常性と共に、そういう推進力を確りもちたいと思う。頼りになるところを増したいと思う。これは、天賦の知恵にも負うところが多いから、果して自分がどの位そういうつやをもって生れているかしらとも考える。
これらは総てたのしい思索です。おみやげの饅頭が腐るとか、くさらないとかさわいでいる間に、私の心の中でこれらのことが動いて、そして貴方に話しかけている。そして、手紙をかきたい書きたい心持になる。雨の音の中で手がつめたいでしょう?そう云いながら書いている。秋でもなし、まだ初冬とも云えない。こういう雨の日は何というかしら、一寸向き合って坐っている膝の上にものをかけたいようですね。
〔欄外に〕
○今一騒動して来たところ。何しろ退屈らしいからレビューをおきかせしようとしたところ、第一放送をいくらきいてもヴェートーヴェンの第八をやっている。きのうからか、波調をかえた由。やっと今フルエ声をおきかせしている。 
十月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十七日第六十一信
きょうはお天気になってようございましたこと。きのうのような雨ではすこし困りました。今年は本当に珍しい御誕生日です。小母さまたちは母子水入らずで、いかにも嬉しそうに十時すぎお出かけ。Tちゃんが夏仕度なので壺井さんへ使をやって袷をかりて着せて。入れちがいに、甲府の方の人がよって、立派な黒っぽい葡萄(ぶどう)を二房くれました。それを、父の持っていたので私がもって来ているノルウェイ辺の木の盆に入れて茶箪笥のところへ飾りました。その人が築地を見るため十一時すぎかえったので、私はサアお久さん花を買って来るよと足袋をはき更えて、市場へゆき、すこし紫がかった中輪のと、白の中輪のとを買ってかえり、白い方は机の上。色のある方は茶の間に。茶の間の正面、私の座る場所の右手の三尺の壁には、『冬を越す蕾』の扉の原画がかかっていて、その雪解の川水を描かれている薄灰色のような色や白っぽい額縁と菊の色とは大変よくうつりました。お久さん、マアきれいですこと、いい配合ですねとよろこんでいる。赤いポンポンダリアを三本買って来たのを、お久さんが土産に持って来た白樺細工の掛花瓶にさし、一本だけお久さんにやった。ポンポンダリアはまんまるくて、赤くて、暖かそうで、二輪並んで插っている。こうやって書いていて、微かに菊の匂いがします。そちらにどんな菊があるのでしょうね。黄菊か白菊かの筈だけれども。そして、やっぱりこういう日差しの中で微に匂い、あしたの待ち遠しい心の上に薫っているのでしょう。
去年も一昨年も多勢よって御飯をたべました。その前の年は、登戸の方へ出かけた年。本年は、不思議なことで、小母様母子と私とです。この間うちからつづいて、ごたごたしつづけたので、きょうがこんなにしずかで、菊の匂いをまいて、二人でいられるのが却ってうれしい。お二人があちらはあちらで満足して、出かけていらっしゃるのもいい心持です。
いろいろな年のいろいろな御誕生日がめぐり来りますね。こうして、くつろいで、原っぱの上に濃くおりている夜霧や、その夜霧を劈いて流れている工事場の電燈の光の色やを思い出すのも愉しい。
昨夜は、夕飯がすんだとき、さち子さんが岡山の栗をもって来たので、小母さまがそれをむいて、私もむいて、火鉢の灰にうずめて焼いて、私は初めてやき栗というものをたべました。Tは、焼きかたを忘れて、いきなり火に近くおいたので、はじめの分はこげて妙でした。二度目はうまく行った。子供のうち、あなたもよくなすったってね。先へひろってたべてしまうので、Tさんがさがして、ないようになったと目をパチクリさせたと大笑いでした。
野原での伝説にはいろいろあるが、顕ちゃんの風呂たきの一条は小父上さまもお話しになったし、小母さんも何遍も何遍も仰云る。昨夜も又出てそれを又私が飽きもしないで、はじめっからおしまいまで話して貰って、初めて聴いたとき同然可笑しがって笑う。大人になっても、きき飽きないお話をもっているというのは、やっぱり仕合わせの一つにちがいありません。
むいた栗ののこりは、今下の火鉢にかかって居ります。ふくませに煮ます。
甲府から来た人の話で、その人は果樹をやっているのですが、本年は高級果物が大変な価上りだったそうです。メロンの上もの、五ヶ入りが米一俵の価でした由。大衆向のものはから駄目で、桜ん坊は前年の半価の由です。
結婚の問題がやっと落着したばかりだそうで、そんな話も出、あちらでは、この頃都会と農村との交流作用が生じている。若い女の人で、町のミッションなどを出たり、教師をしたりしていたようなひとが、村の農家(と云っても中以上であるらしい)の嫁に来て、村育ちの女よりも決心かたく努力的でわき目をふらず働いている。ところが、村の中位の農家の娘は、同じような家に嫁入っても、なんだか落付かなく目をキョロつかせて、気が散ったような結婚生活をしている。村の中で不安な生活を見て都会になら何かいいことがありはしないかと思うからでしょう。ところが都会で本当にそこの生活をして来たひとは、どんな世の中になっても土についていれば最悪の場合でも食うにはことをかかぬという点で腹がすわっている。こういうことは新しい心理であり、いろんな偉い女史たちは、若い娘が都会へ出たがる心持の面からだけ、それを而も比較的表面の動機で判断して云々しているが、逆に町の若い女のひとの心に生じているそういうもの、は見落されています。なかなか多くのものがふくまれている心持です。食うことの安定感のためには、相当の因習にも堪えるというところ。因習に堪えないから、自活すると云って町へ出た時代と比べ、若い女の賢さの質が推移している。しかし、何しろ一粒の米も出来ない土地だからと、どこでも天候の工合で白穂の多い本年の米作について話していました。果樹の前は稗(ひえ)と綿だけのつくれた焼原であった由。毎年水を買う、金を出して、河の堰を何日間か買って部落への灌漑にする由。その村は一種の模範村らしいが、これは若い時代の男が大多数中等以上の教育をうけて、果樹にしろ蚕にしろ研究的にやっているからであるが、三十五ぐらいで未婚のあんちゃんが少くないとのことです。分家させられないから。そして、良人として妻に希望する文化上の要求と労働の求める体力、性質との一致したような女のひとが少いから。
町に新しく出来たデパートでは日給三十銭。女学校卒。銘仙の着物を着て通勤せよ。それで娘さんが押しかけている由です。
大都市に近くて、激動を蒙る村や町の生活のうつり変りの激しさ。コロンビアが主題歌をレコードにして売っているお涙頂戴から大して出ていない映画でも故郷の廃家をテーマとしています。
Tさんは今度こそ商売をかえるでしょう。私にその商売(以前やっていた)のカラクリを大変さっぱりと話しましたから。ああさっぱりと見栄をなくしてその悪ラツさをひどいもんだと話す気分なら、戻るまいと思います。先頃は私がどう云おうと、決して話を、損する、儲けるという深度以上にはうけつけなかったし、一通り通用する商売をやっている体裁をつくって居ましたから。小母さん、その話をきいて、ホウ、まア何たら、と唇をとがらしておどろいていらっしゃる。
さあこれから乾した布団を入れます。そしてTちゃんの洗濯物を乾させます。そして夕刻まで本をよみます。義務教育と称する本を。今夜はロールキャベジをこしらえます。招魂社で火花の音がしています。
では又。日がかげって来たこと。私の体温は六・八が最高でつづいています。(こんなかきかたでは叱られそうですが、きょうはこれで御勘弁下さい)明日お目にかかって。 
十月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十七日第六十二信
夕暮が段々迫って来かかる。テーブルのところがすこしずつ暗くなって来ました。薄い一冊の文庫本をさっき手紙をかき終ってから読みはじめている。教科書類は大事にしてあるので、さし当り手元にあるのを、きょうからとしてよみはじめているところです。この本はなつかしい本です。手ずれて、万年筆の線がところどころにひっぱられている。更にそれから時をおいて、赤い鉛筆の条(すじ)がひっぱられているが、ペンの線と鉛筆の線との間には微妙な相異があって、ペンがより集約的な表現に沿うて走っているのに対して、赤鉛筆はより説明的な解説にまでひろがってつけられている。赤鉛筆をもってよんだときと今日の間には何年かが経っています。
本は何と可愛いものでしょう。
こう書いて、次の頁が書かれるまでに三日経ちました。
十八日には私がそちらから帰ってから、Tさんと二人でお出かけで歌舞伎座。浅草のレビューか何か見ていらした(それは前日だった)。二十日にはそちらから三越へまわって、島田のお母さんへのお土産の羽織紐や何かを買ってかえりました。雨が降り出して、それでもどうやら電車で来られて、音羽へさしかかったら、折から野間清治の葬式で、講談社の前は電車一停留場の間だけ、往来の左右まで花輪と人垣、車の連続で、小母さま、一種の見物だと目を大きくしていらっしゃった。人間の心持の活々した面白さと思うが、野間清治が狭心症で急に亡くなった広告が夕刊に出たとき、おや野間が死んだね、と云って何となし笑うような気分が附随し、(十八日の夜で繁治さんのところにいたが)そこにい合わせた人が期せずして同じ気分を受けた。そしてかえって来たら、おひさ君が同じことを云ってやっぱり笑いがついて来た。同じ心持なのです。下らないようだが、人物が人々にいつしか与えている印象の総和的な表現だから、なかなか面白いものだと思う。人間に対する評価というものは、多くの場合こういう風に、はっきりした言葉や表現をとらないものとして(そういう表現を知らない人の心にも)たたまって行くのだから大したものですね。
そんな、花輪の一箇一箇が出来るだけ大仰(おおぎょう)に足を高々とつけて、それを機会として自家広告をしているような葬式を通りぬけて、かえってからよせ鍋の夕飯を五時すぎにすませ、七時には家を出て車で東京駅までゆきました。
Tちゃんのカンカン帽があって、それ一つだけがどこにも入らない。Tちゃんが目白へかえって来たとき、おや洗面器をもって来たのかしらと思って見た風呂敷包みの恰好そっくりのものを又小母さまがこしらえて、後生大事に膝にのせておかえりです。靖国神社の臨時大祭には(十九日)二百万の人出であったそうで、私が外苑や銀座を御案内したら、銀座の風景は全くふだんとちがっていて、黒紋付を着て、ホオに白粉をつけ、胸に遺家族のマークをつけた若い女のひとなどが、式服の白羽二重の裾からいきなり桃色の綿ネルを出して上ずった眼付で歩いているのに沢山出会いました。機嫌のよくない表情でいる。なかなか目にしみつく情景でした。大抵の女のひとが若い。実に若い。汽車の中にもそういう人々が何人か居りました。顔を見くらべると年よりに似た人が多い。兄とか良人とかを失い、実の親とつれ立って出て来ているのですね。
そういう汽車の中に、小母さまとTさんが向いあいに席をとり、睦じいような、そうかと思うと小ぜり合いをしてフッと両方で気分のはぐれるような調子で発車を待っている。例えばTちゃんが洗面器のようなカンカン帽のつつみを見て笑いながら、又来年かついで思い出すさ、というようなことを云うと、小母さまはそれを狭く女のことを思い出すという風にとって何か仰云る。だからお母はんはいやや、すぐそうばかりとる、とTちゃんが苛立(いらだ)たしそうにおこる。あっちへかえってからもこの母子の感情の急所はこういうところにあることがわかります。「小母さま、そういうことは生活の根本の暮しかたで変って来るのだし、当人もそうだと云ってしっかりやろうとしているのだから、こまかいことの方を余り五月蠅(うるさ)く仰云らない方がTちゃんも気持がいいわ、気持で追いまわしちゃ駄目よ。」そんなことを私が云う。「ハア、大丈夫であります。」そして三人とも笑う。まあこんな工合でした。
こんなお天気で広島へよるのも大変でしょう。私のコートをおかししてあるから、いくらかましだが。
出かけていらした甲斐もあり、見物もゆっくりなさり(島田のお母さんよりずっといろいろ見ていらっしゃる)ようございました。お母さんの方には折々これからの機会もありますが。中村やのおまんじゅうを百四十も買ったというのは、恐らく記録ですね。あちらではこれが大変お気に入りなのです。島田へ40、野原へ30、すっかり揃えたら、かえりがのびたので又買い直し。それも思い出でよろしい。
――○――
さて、けさのお手紙ありがとう。私は十三日のあと、十六日、十七日と出しました。追々届くでしょう。「婦人」の筆者のこと。私は判断が全く符合していて愉快でした。
去年の初夏、その作家論を書き、その核心の欠如と、時代の良心の成果としての「女の一生」。それを頂点として「真実一路」では真実そのものの社会的内容を見失ってしまっていること、そして再び、市井の勤直さに逆もどりする危険について書いた。「路傍の石」は一番最後の段階に属す本質をもっているのではないでしょうか。本当に今日の小説家のコースは様々です。だが共通に云われることは昭和の九年以来、あらゆる流派の線が、それ自身下向していることです。そして、しかもその下向が下向として自覚されていないことを特色としている点です。目下生産文学と云われているものにしろね。(「あらがね」の作者、「探求」の作者などによって)。重治の「汽車の罐(カマ)焚き」ごろ(二年以上前)からそういう名詞が文学上にあらわれたが、現在の文学作品においては質のすりかえと役立っている。
「苦々しさ」云々について云っていて下さること。本当です。ああいう表白の心理的原因としてあげられている点は、その通りだったと思う。ああいう時期のああいう憤りは、単に作家対作家としての感情からだけでない面も大いにあるのだが、やっぱり今日ああいう風な表現の曲線をもたないだろうということを考えると、憤りの本質は全く正当であるが、感情の曲折の心理が焦燥をもっていたことが判る。
私はあなたがこういう点を、きょうの手紙で書いて下すって大変面白いと思う。自分で丁度別のことから同じ点にふれて考えていたところでしたから。私が腹立ちを感じたり、妙だと思ったりするのに、土台狂った目安ということはない。大抵の場合、そういうもの(原因)は客観的にあって、それをうけ入れないことは正しいのです。だが、そういう場合の私の感情の線は、必要以上にうねりを打ったり、敏感さに負けたりする。均衡を破る。何故そうかと云えば、ここに云われているとおり、本質の概括力が弱いところがあるからなのです。これはなかなか微妙、多様に影響致しますからね。
前の手紙で書き、又きょうのそちらからの話の中でもふれられているように、現代文学は来(こ)し方行く末の程も判らぬうねりの波間に、主観的必死のしがみつきを芸神として崇(あが)めているのだから、そういう雰囲気を生活人の意力、現実性で克服して、文学以前の人間的強健さを保ち、それにふさわしい文学を生み出してゆくということは、どうしてどうして。仇おろそかの努力では達し得ない。最も小さいよい努力をも評価してまめに心を働かせなければならないということは、一般にはとかく最低限をそれなり認めるという安易さにひきずりこまれ勝です。文学というものは、永い過去に於て所謂こころの姿に我から惚れているところがあるから、特にこの点は弱いと思う。
人間及び作家として、ある直感的な力をもっていること、それに従ってゆく力をももっていることは、自分としてありがたい一つのことだと思いますが、幸にして、そういう自然発生的なもちものの限界や、健康な内容づけの方向や方法やを知ることが出来るのは一層の幸福であり、生き甲斐であり、冥加(みょうが)と思う。
きょうから生活が又軌道にのりますから、読んだり書いたり、愉しく勤勉にやってゆきます。人間の性格というもの、それへの関係について考えたことがある。でもそれは次の手紙で。日光が出て来た。あした行ける。うれしいと思います。
〔欄外に〕
◎本のこと。『経済学全集』の第五十二は「本邦社会統計論」。五十四は「日本経済統計図表(補)」です。 
十月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十三日第六十三信
二十一日づけのお手紙、ありがとう。菊は十八日についたのですってね。十六日の土曜日にあげたくて、金曜日にその手つづきをしておいたのでしたが。いかが?奇麗ですかしら。
私がこの間手紙の中で、生活の中に新しい流れを現実的にもたらす力ということを、今更のように評価し、そういう力の価値を高く感じ直したのは、私の昨今の生活とその周囲とを考えるとき、たった一つのこと、私の早寝早起きの努力が、どれ程重大な全般的効果をひき出しているかということを痛感したからです。たった一つの習慣が全生活の動向を更新する。そう、ここに云われているその通りです。私は初めは単純に、健康のためだけに、早くね、早く起きと云われていると感じていたのですもの。それをずるけさせないために、朝の挨拶を思いつきになった、ちょいと肩をすくめてクスリとするような心持だった。日が経つにつれて、それだけのことが与える生活全体の規律や弾力や内面的な収穫に気付いて来て、フームと感服して、そういう流れを、いつとはなし導き込んで次第に支配的なものに成長させた力について、深い敬意を感じた次第です。
私たちの生活の中で経て来たいろいろのモメントを思いかえして見ると、何とも云えないよろこびが甦ります。私は何と不安なく、信頼にみちた心で、恐怖もなく、あなたから一つの流れを渡ろうとする毎に、さし出された手をつかまえて、今までいくつかの瀬を踰(こ)して来たことでしょう。さし出される手に不安も模索もないから、こちらも怖れを知らない。よりましに生きようとする自分の熱心さと素直さと努力だけにおされて来ている。いつも或る稚さのようなものがついているが。そして、発端に於ては、十分にその全体的の意義を捉えないまま足をふみ出しはするが。
こういう生きかた、導きかたと導かれかたとの間には深い諧調が響いていて、味えばその味の忘れ得ない美がある。調和というものの奥ゆきの深さ。心と体とに響いておのずからそれらを新しくしてゆく無限の喜悦。
今日の中で、あなたが私の生活の習慣について考え助力して下さることの意味は、全く益〃会得されて来て居ります。
この間(二十一日の朝)疲れで顔がはれぼったいようだったのは、宵っぱりの加減ではなく、小母さんたちがマア無事におかえりになって吻(ほ)っとして疲れが出たからです。勿論、次から次へ何か起るのはあたりまえ故、一々くたびれをもち越しては困りますが。(でも正直なところ、あれはやや例外的気づかれでした。自分で退屈しない方法というものを全く知らない人を、退屈させないようにして上げようとするには、可笑しい程気がくたびれるから)
さて、この間おめにかかったとき、一寸話の中に出たジェネレーションについて。そういう世代的性格の起す現象について。
十三日ごろに書いた手紙では、私としてそのときの判断に立っての感想を語っていたわけですが、あれから後初めて良人である人も来て、その心持というのをききました。自身初めからそういう感情の逸脱の質の低さを十分自覚していて、抵抗出来ず、知られればもう百年目。(親しい友人たちの評価に対しても)双方から身を引いてしまって、せめて苦しさを一身に背負いでもするしかないと思っていた由。白(しら)をきったのは、どの顔でそんなことを認める面皮があろうという心持だった由。迚も日の目に当てられるものではないと思っていたとのこと。今日では、そういう考えかたすべてが、自身の感情のビラビラに甘えていたことであるのを感じて居る由。妻である人が、困難と苦痛とを知りながら再び生活を戻したのも、只、そういう性格なのだからと認めるいうのではなくて、そんな性格だから、一人にして自傷的気分の中でいい気にさせておいたら益〃仕様のないものになってしまう、そんなところから追い立てて健康な路へ歩み出させようという努力に根底がおかれていることがわかりました。
母親は、こういう子だからと見限ってしまわず、愈〃こういう子なのだからと愛情の故に砕身する。それに似ているところがあります。而も夫婦であるということは、永い年月の間に同化している点も生じているのだから、その努力の尽大・多面なことと云ったら。深い危険が横わっていることと云ったら。
仕方がないという低いところで元に戻られたのでは、健全な友情を保ってゆく土台を失ったことだから、と大変苦しかった。今日新たに生活を建て直そうとしている足がかりがわかって、私はその努力を真心からの同情と理解とをもって見守ろうと思います。ああいう場合、絶望から虚無的になるのを防ぎ、対手に対して皮肉に辛辣にならず、つきはなしてしまわない、自分たちの生活というものに対する熱心さ、情愛というものを、私は或点感服します。良人である人は、性格として主観的で、自己耽溺(たんでき)で、対人・対世間関係の理解において(のし出す・のし出さない、認められる・られない、について)俗的面と、弱さから来る妻や友人への僻(ひが)み、がむしゃらな自己防衛(防衛しているつもりで、立っている舞台ごと奈落へずりこむような)をもっている。妻の愛に打たれ、目がさめて、出直そうとしている今日の気持が、所謂新鮮ならんとする情緒的な甘えでなくて、どこまで理性的な客観的な自己の見直しであるか。俺の下らなさをこたえているか。(下らなさがまさか判らない俺じゃない、では困りますからね。)時がすぎて、のほほんになってしまわないものか、それは今性急に判断を下せない。この間話の間にも、独り合点で、而もはたから見れば、それこそ独り合点だのにと思う点をやはりそのままに持っていた。初めてきのう家へ一寸よって来たら、これまでよりは変って、家の中のことでも主(あるじ)風に構えていず細君を手伝っているが、そこに明るい方向へ努力している自身を味っているところがあって、何だかやっぱり心配なところが見えた。太い声で「おーい」と妻を呼びつけていたのが、今はそうせず、自分から茶盆をもって手伝う、だが、何だか質は同じことが裏返された形で出ているのではないかと危惧される。本当に質が向上するためには、土台がよっぽど真直にきつく、絶えざる努力と反省とでうち直されねばならず、良人を弁護する気、合理化する気は持たず、しかも離れられない情愛を感じている妻君の、僻ませず、立ち直らせようとする骨折は、実に力一杯です。
本当に、当座のことでなく、前進させたいと思います。そのためにも決して気がゆるせず。
細かくこういうことを書くのは、十三日の手紙などでは、当時私のおかれていた理解の範囲で、只比較でものを云って居りましたから。それを補足したくて。ただああいう対比でだけ今日の状態が在るなら、あなたとしても、私のぐるりに、泥沼ばかりしか御覧になれないわけですから。
――○――
ドイツの哲学に対して正しい社会的見解を示している本の訳者が、その人のいつぞやの、横向き人生態度で、訳文が煩瑣になっているのは実にあらそわれないものだと感じて居ります。原文はたしかにもっと明確であるに違いない。訳者は思想をわがものとしていず、言葉をかきわけていないのだから。立派な古典とその日本訳者とを見比べると、今日ではよくも図々しく「訳した」と腹が立つのが多い。大抵そうだ。これも歴史の相貌の一つでしょう。いつか必ず訳し直されなければなりません。
〔欄外に〕
起床その他ちゃんと書きつけること、お約束を新たにいたします。 
十月二十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十六日第六十四信
ゆうべ夕飯を終って、『日本評論』別冊のスメドレイの「第八路軍とともに」の終りをよんでいるところへ、おひさが一束の手紙をもって来ました。その一番上にあなたからのがのっている。何と珍しいことでしょう、宵のくちのこんな時刻にあなたの手紙が来るとは、私は何だか部屋の敷居のところへ、電燈の光を肩に浴びてあなたの姿が立ったような瞬間の感じにうたれました。夜着くあなたからの手紙。何年もの間、朝しかうけとったことがなかった。朝、新聞とともにテーブルにのっている。私が起きておりて行って、それを見る。その感じと、しーんとした夜、外から真直来るあなたとは、何と違う感じでしょう。びっくりするような生々しいちがいがあります。迚も普通の手紙を見るときの顔付で見ることが出来なかった。肉体的で。二十四日の午後お書きになった手紙です。
そういう雰囲気の裡で読まれたので、云われていることは、本当にこわかった。おしまいに来て、御自分でもそのことを云って、すこし笑っていらっしゃるので、私も思わず笑いましたが。尤もなことだから、私は強弁は致しません。でも一寸云いましょうか。あなたへの心持から、私は自分から固執するところがあったとも云ったし、強弁のようなとも云うけれども、それをあなたから、そのままの文字で私に向って使われることは少し辛すぎるところもあるのよ、何卒(なにとぞ)お察し下さい。私は別に固執性などは持っていないつもりですもの。
面白いでしょう?私のゆうべの気持は面白かった。あなたの羽織の袂を自分の肩の辺に感じながら一緒に二階へ上る気持がして、手紙も枕の下へ置きたい程なのだけれど、その中に切ない腹の立つ二つ三つの字があって、薄暗いスタンドの明りの中で、テーブルにのっているその手紙を、ジロジロ枕の上から眺め乍ら、ふくれたような、悲しいような、そして親愛に堪えない心持で眠ってしまった。
どんなにか嫌いだから、実にそんなのは厭だから、そんな嫌いなものに似るようで悪かったという心持から私が云った表現を、それなり二つも三つも、宛然(さながら)私の属性のようにお書きになるのだもの。涙を出しているほどいやなのよ。私もよく事ム的にしますから、そしたらもうこんないやな字を頂かなくてすむようになるでしょう。
きょうは久しぶりの晴天ですね。障子の外のテスリに毛布をかけて、乾してある。きょう一日よく乾して、叩いてお送りしましょう。左官屋が大家から来て、あっちこっち壁の手入れをしたので、のり臭い。左官やのおやじ曰く、「こういう工合に光るのは鏝(こて)がちがうんだ。鋼鉄の鏝をつかうんですが、台所のようなザラッとしたのは生(なま)鉄のやつです。」
この間、手紙の終りに一寸書いた隣りの細君の笑話というのはこうです。小母さまのいらした或夕方、「御免下さい。」おとなりの細君が玄関に来た。福島の白河辺の人というふれこみです。良人に死なれて十八九の娘を頭に三四人子供がいる。美人です。だが、私には良人に死なれたという生活の感じが来ない。誰かが世話している、そういう感じ。身ごなしにしろ、万事。その細君が「失礼ですが、お宅のお家賃は、おいくらでしょう。」「三十三円です。」「マア、私のところ、これまで四十二円ですの。こっちの家より二階が一間多いだけぐらいの相違です。」白蟻が畳をくったのですって。いかにも風通りがわるい。云々。その他沢山の苦情をあげて、「マアほんとうにね、ホホ……」と笑って、さて申されるには、「うちの晃博(中学生の息子)に、おとなりの小母さまのところへ行って、こちらととりかえて頂くようにお願いして下さいよって申しましたら、そんなこと云えないって云うんでございますよ。」私は大いに笑ってしまった。ハアハア笑って、「それは仰云れない方があたりまえですね。」と、又笑ってしまった。女子大を出ているという自己紹介です。アメリカに行っていたと。昨今の傑作笑話の一つです。戸塚の夫妻が、生活を新しくするために、一つの家に生活するようにしようとして居て、この附近から武蔵野電車の沿線に家をさがしているが、なかなかありません。細君は二階で、良人は小さい洋間のあるところを見つけて、そこへ城を構えようというプランなのだが。
ところで、こういう風にして書くと、本当によく詰りますね。私は手紙に大きい字を書く方で、しかしそちらへは細かいつもりでも、やっぱりこれよりは大きかった。
漢口の一角へ突入したというので、今夕は提灯行列があるそうです。七時頃から。
七時と云えば、私たちの愛する時計Myricaが、この頃は夏のみならず、秋に入っても一日に数分おくれるようになりました。どういうことなのかしら。昔ながらリボンだけは黒の女もの、留金だけは金をつけられて、毎日チクタクやっているが。私の朝起きてからの大体はこんな割当てです。六時に大抵目をさます。小窓をあける。おひさ君が起き出して掃除はじめるのをきいて床にいる。七時十五分前ごろおりて行って、目を洗って、髪を結って、鼻の頭をパタパタとやって鏡をのぞいて、来信を見る。そして食事。このとき、出かけたあとにたのむ用事を話す。さて、どうお天気は、降るだろうか、そんなことを云いながら着物を着かえて、出かける。これが八時から八時十五分すぎまでの間です。
上り屋敷の田舎びた駅で、この頃は鋼鉄色になりはじめた欅の梢など眺めながら電車を待ってのって、池袋。そこからバスで消防前。野っぱらが日毎に秋枯れて来て、夏は見えなかった小径が黒く朝つゆの間に眺められる景色など印象ぶかく眺めながら休憩所へ着いて、願紙へ書くのが、九時十五分前から九時ごろ。七時半受付とはり出してはありますが、いつかその通りやって大変時間を無駄にした。紙をよこす場所の人は八時でなければ現れず。第一回の呼出しは九時十五分前です。八時に行けば第一回の分に入るが、殆ど一時間待つことになります。
順調に行けば、それからお会いして、うちへ殆ど十時すこし過には帰ります。一寸休んで、おひるにパンをたべて、午後は、勉強か、お客か。用事で巣鴨からじかによそへ廻るか。夕飯六時―六時半。それからこのごろは教課書をよみます。九時前後にお風呂に入り、すぐ二階へあがってしまう。スタンドをつけて暫く横になっていて、落付いてから計温して、眠る。
そういう日程は、余り狂いません。お客にしろ、やはり世間並の時間というものがあって、こちらでいてよろしいと云わなければ、普通のお客で十時までは居りませんから。これまで最もこのプランを狂わすのは、壺井さん、稲ちゃんであったが、そちらもこの頃は生活ぶりを替えてしまったから、大変なちがいです。生活感情というものは実に微妙ですね。皆がやっぱり早寝早起きをしようとするようになる。直接の形ではないが、あなたの奨励法は、ひろく及ぼしました。
『中央公論』で十一月は女流作家短篇特輯を出しました。岡本かの子、円地文子、小山いと子、佐藤俊子、宇野千代子、矢田津世子の諸雄です。昔から時たまこういう催しをやったが、作品の質は、明かに一つの時代を語っていて、すさまじきものは、と申す有様です。恐るべき無内容、貧寒さ、人為性というものが、職業上先生として厚顔に世間に押し出す度胸のつよさと、ひどい対比で現れている。折からアグネスをよんでいて、無量の感じに打たれました。只今毛布について煩悶中。もう一日乾そうかしら、それともこれから送ろうかと。この工合なら明日は晴天らしいけれども。どうかおなかをお大事に。 
十月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十六日第六十五信
夕飯後の本をよみながら、今読んでいるのはルードウィヒの哲学について書かれている批評。これは実に面白い。非常に明瞭に書かれていて、この間二度目によんだドイツ哲学の内容の分析の行われている本との連続で本当に面白い。吸われるように読んで居ます。前の本の或箇処はこの本で一層はっきりとされるし、この本では直接書かれていない部分は、既によんだものによって与えられている。ここに批評の対象とされている哲学者の堂々めぐりの生涯とその思索、及、そこから出て、やがてそれから脱け出して生長した人々の精神活動の過程、ぬけ出して成長した人々の遺産を更に細君と狩猟などもした三年間の雪国での勉強で具体的に明確にした人の功績。こういう道を眺めると、いろいろ感想が深からざるを得ない。
この哲学書の抽象人間や愛に対しての批評は、今日の文学批評の根底におかれるべき性質のものです。この哲学者が「彼自身死ぬほど嫌っていた抽象の王国から、活ける実在への道を発見することが出来なかった」ために、自然と人間とに密着しつつ、その現実的な在りようは理解しなかったという悲劇を、やがては怠慢を、この批評家は、情をもって彼を孤独におき「零落するに委させた」その国の事情に主な原因をみとめているが、今日の読者は、零落に自分をまかせた(貧困と零落とは質のちがうものですから)本人の抑〃の生活への態度をやはり考えずにはいません。
――○――
この本の筆者の特長についていろいろと面白く思います。彼の卓抜な相棒に対して、この人は普及のための文筆の活動をしたと巻頭に紹介されているが、イギリス人というものの気質の点からやはり興味を動かされる。全く別種であるダーウィンにしろね。こういう傑れた(書き方に於ても)本に活かされているアングロ・サクソンのプラスなるものがあることを感じます。同時に、この筆者が批評の対象とその環境との関係への感じかたも、彼自身の環境的なものを感じさせなくもなくて面白い。
――○――
いつかあなたが、ジャーナリスティックなユリの文筆活動ということを仰云いましたね。云われた精髄が新しい意味でわかりかけて来て居ります。
ああ、ああ、でも用心用心。私が一つわかると、わかったわかったとあなたに一々云って、逆にあなたから、そういうんだから云々と散々にやられるのは大変辛いから(!!)(勿論、これは冗談よ)
――○――
四十年間の協働。稀有なるめぐり合わせ。又それを可能ならしめた歴史のその時代。地理的事情。自身を素敵な第一ヴァイオリニストに対して幸福な第二(セコンド)ヴァイオリニストと認め得る、そのような喜び。
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私には実に興味つきぬ点がある。それは、こういう偉い人にでも時代の影はさしていると思われる点。例えば「今日真なりと認められているものは偽りの方面を包蔵していて、この方面が後日現れて来ると同様に、今日偽りと認められているものにも矢張り真の方面をもっていて、その方面のおかげで以前には真なりとして通用することが出来たのであること、必然事であると主張されているものは、純粋の偶然事で組立てられたものであって、偶然事と見えるものは必然事を包蔵する容器であること」という表現で、哲学上の対立(動かしがたいもの)とされていた対立を説明しているところを、わたし達の時代は、更にもっと動的な相互作用に於て「単に相対的な」もの以上のものとして把握し得るだけの進歩に恵まれている。ありがたいことだと思う。
だが、この本を訳したひとは、人間の或瞬間に、全く自分の卑俗な便宜で、きっとこういうところを全く死枯させて自身の身のふりかたに役立てようとしたのでしょうね。丁度リアリズムの問題を、不具にしようとして人々が、バルザックについて書かれた手紙を、最低に読み直したように。
――○――
昨今の流行語の一つにこういうのがあります。十九世紀は分析、綜合の世紀であった。しかして今世紀は(ナチの如く)行動の世紀である。須(すべから)く世紀の子たれ。松・平・の一属。
こういう輩(やから)の、嘗ての勉強が、こういう箇処(自然科学が十八世紀は蒐集の学、十九世紀がその整理の学としての分析綜合の学として発展した云々)というようなところをアクロバットの跳ね台にしているのですね。成程。ローゼンベルグの「二十世紀の神話」が谷川の「日本の神話」の種の如きか。
おや、いつしかもう九時です。そろそろ腰を上げなければ。元ならこんな面白さを中途で切るなんて。巻を離し得ず、夜ふかしをすれば、さすがの私も、今では頂く言葉はもう見当がつきますからね。ではサヨーナラ。
二十七日。
きわめてつながり工合のよい、必然の興味で、家族のことをよみはじめました。これらの四冊の本は一組となっているようなもので、切りはなせないが、普通どの順序で読むのでしょう。空想を第一なのは、明かだが。次は哲学者ルードウィッヒについて、次に哲学について、そしてこの家族から、更に経済の面と、二冊になっている哲学の本へ移るのが一番わかり易いようですね。
著作が、全体的な叙述、更にその重要な部分部分についての深め・解説として展開されている過程は、真面目な仕事ぶりというものについて大いに教えるところがあります。所謂ジャーナリスティックな文筆との相違が益〃歴然として来る。こういう読書は適当の速度、量、一貫性で、次から次へと成長的にされる時、特に多くの収穫があることを感じます。(偶然の一冊は、何かを与えるにしろ、断片的で終りがちです。)そういう風に読むと、光が気持よく前後左右を照すような愉快があります。
二十八日。
きのうに比べてきょうは心軽やかにたのしく原っぱをかえって来ました。御自分で知っていらっしゃるでしょうか?この頃全体暖く流れているものの中でも特別に耀(かがや)く一寸したあなたの頭のうなずきがあるのを。私はそれを実に貪婪(どんらん)に吸い込む、自分への特別なおくりものとして。何分間かのエッセンスとして。明日までの糧食として。きのうは、そのおくりものがなくてかえりましたから。
――○――
この手紙は、これで一区切りにしましょうね。そして別にきょうお話した、私のまわりについてすこし細かに書きます。自分の気持では、私たちの家として、ここにいらっしゃる生活のように感じていても、やっぱり書いた方が猶はっきりするところもある訳ですもの。
会いに出ていらっしゃるにも、くたびれが感じられますか?きょうチラリとうかがって心配になった。私のために、毎日、すこし無理なときも歩いていらっしゃるのではないでしょうか。そんなことがあるのではないかしら。あなたが動くのが大儀に感じられるような時まで歩かせなくては、朝起きさえも出来ない程ではないのだから、本当にどうなのでしょう。ぶりかえしの性質をもっていたら、又絶対安静がよいのではないでしょうか。一番わるいときにも、歩かせてしまったのだから、実際にはおそすぎた気配りですが。いつも安心するような返事しかなさらないものだから、つい、それでいいように思う。呉々お大事に。暖い秋日和で、机の上の黄菊が匂うこと。
こんな詰った字をお読みになるの、窮屈のようではないのかしら。 
十月二十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月二十八日第六十六信
さて、この手紙はいろいろ周囲のことを主として。
友達と呼び得る範囲につきあっているのは栄さん夫婦、戸塚の夫妻、中野さんたちぐらいです。然し最後の一組は細君が劇関係故いろいろちがうし、何しろ世田ヶ谷故滅多に会わない。うちで御飯をたべるようなこと(互の家で)も一年にかぞえる位しかない。栄さんは、私たちのああいうこまごました本のこと、身のまわりのこと(私などはよごれた着物を洗って迄もらいました)日常生活の家事的なことまで、栄さん一流の智恵をかりてたすけられている、いろんな話も率直に、深い信頼をもって互にしている。文学の話もわかります、この頃はあのひと自身独特な小説をかいている位だから。
でも、文学についてその他について、あちらが受け身である、それは自然の結果。上落合の時代は、私はひとりぼっち家をもっていたから、毎日毎日世話になった。只今ではすこし遠方になりましたし、良人が勤人だから細君としての用が多くて、そうちょくちょくは会いません。一週に一遍ぐらい会わないと、互に気にかかる、そういう塩梅。
戸塚の細君の方は、御存知の通り。いろいろの会や何かの集りでは、女で一緒に出るのはこの人だけ故。尤もこの頃は(二三年来)私よりも文壇や婦人界的会合へ多く顔を出さざるを得ないようになっているらしいが。文学の話にしろ、生活の話にしろ、又私のそれらの点について批評なりして呉れる唯一の親友です。でも互に馴れ合ってはいない。馴れ合わないところに永続的な又正道的な成長力として互に作用出来るのだということを知りあっている。そう云うものの、公平に見れば、随分大目に見ているようなところもあるでしょう。お互にね。私生活について話しを、どっちかというとこれ迄余りしなかった。何かの折、どういう風にしたら一番よいだろうと相談するような場合も、私にはあったが、先方は余りない。良人との心持、生活の内容、それらについて最も率直な言葉をきいたのは、この間が初めてでした。この間は底の底まで吐露しました。あのひとには、よい意味にも、通俗的な意味にも、なかなか勝気なところがあるから、云ったってはじまらないと自分に考えられることは決して口に出さない。自分の生活、自分たちの生活、それははっきり区分をつけています。だから、この間の事にしろ、最初の決心も、次の別な決心も、いずれもあのひとだけの考えで行動されていて、私はその決心をひき出すために何の相談もうけません。
女には、親友というものが、これまでないのが通例です。仕事の単一な目的のための利害で結ばれている人々はあるが。よいことも一緒にするが、わるいことも一緒にやる。そういうのはあるが。互の評価というものを大切に考えていて、その人の積極的な面と方向とを強めあうような努力をこめた女同志の友情というものは殆どなかった。まして作家の間などでは。様々の欠点もあり、弱点もあり、互の低さで見えずにあるところもあるでしょうが、やはり大切な交友です。
この人の良人、又栄さんの良人達に対して、妻同志、女の友達同志は勿論ひっくるめて見てはいるが、女の側から、その人々の生活の範囲として見てもいるし、接触している。例えば、栄さんと鶴さんとが稲ちゃんぬきに別に話しをすることもなし、二人の友達の良人たちが、はっきりした用件のためでなく私のところへ来るというようなこともない。そんな工合です。日常生活では、まぜこぜ風の、長屋風の親しさでない。それぞれに一城一廓をかまえている。
知人と云い得る範囲の中で、比較的近い人々には幾組かの若い夫婦、働いている女のひと(元から知っている人、そうでない人も入れて)健造が小さかったとき、キングコングをして遊んだ戸台の俊一さん等(池さんその他あの一かたまり等)この知人の関係は、Tさんが数日の滞在の間にびっくりしていたが、身の上相談(勉強のことその他)が多いことになってしまう。
てっちゃん、徳さん、さあ、これはどのカテゴリーかしら。例外の部ですね。そちらへ頻りに行ってくれるが、こっちへは滅多に姿を見せぬてっちゃん。徳さんは折々よって、今日は元気そうだったとか、やっぱり下痢はやせる、などと云ってくれるが、親しい部にすぐ入らないのは、出て来てまだ十分落付いていず、考えかたが、ちょいちょいどっかに走っていて、よく納得出来ないところがあるから。勿論親切で、くさってはいないが。
数年間の風雪は、弱いかたまりを粉々にふきちらしてしまっているから、偶然何かの会で顔を合わせれば口をきくという程度が、徳直その他。而も、その偶然たるや全く稀です。
文壇的喫茶店での社交風のものは、御承知の如く全然昔から私の生活にない。大体私は社交というものはきらいですね。親類だって。(事がなければ集らないし)
私が自分から出かけるところと云ったら、何と少いでしょう!林町(これも折々)、あと栄さん、戸塚。ごくたまに重治さん。
私のように若年のときから、いきなり仕事で世の中に出て行って、様々の箇人関係を通してのし上って来たのでない人間は、而もその分野でその分野の社交に順応しなかったものは、知っているような人はうんと多いが、つき合う範囲は狭いという現象になるのですね。よかれあしかれ、自分の肩をもって何か云ってくれる人間というようなものをもっていない。そんな先輩もいない。身ぐるみ、世の中に突き出ていて、そういう生き方の価値で、数人の友と、私の知らない、而もその辺に満ちている読者、自分に対して抱かれていると感じ、それに対して責任を感じている信頼が生じているわけです。
『東日』や『朝日』『婦人公論』、そういうところが、それぞれ婦人の諸分野での活動家をあつめてグループをこしらえている。そのどれにも入っていません。こういう会では社の親玉が出ます。時によると芸者も呼ぶ。(そういう話をきいた)男の或種の人々(作家)が、或ゴルフのグループに入ると、それが一定の社会的標準となるとよろこぶ。それに似ている。そういうつき合いの面で、私がけむったがられるとしても、其は全く自然で、結構です。
ジャーナリストとは仕事を通しての交渉しかない。現在のような状態だと、従って用事のない記者など一人も現れず。仕事の縁故でずるずるというのはない。尤も、仕事はジャーナリズム関係でも良質の友人があってよいのだが、殆どそういう場合がなかった。
ロシア語の人物は、きょうお話しした通り。間接に、今東京にいず、鵠沼辺に住んでいることなどきいています。これからの将来においても、つき合うことはないでしょう。
これらのことと、この前の手紙で一寸書いた私の一日の時間割とを合わせて見て下さると、きっと生活のこまかいところがいく分はっきりしたと思われます。
野原の人達が今度のことの成行きをよろこんでいることと云ったら!そちらへも手紙がゆきましたでしょう?多賀ちゃん、富雄さん、克子さん、其々から来て、きょう又小母さまから来ました。春立ちかえる家の内と云う有様がうかがわれます。顕兄さんにもよくよくつたえて、と云って来て居ります。県立の学校があるのですってね、そこへ入る由です。富雄さんの気分も一転して明るくなったそうです。東京にすこしいて、今までとちがう雰囲気にふれたのは大層よかったらしく、骨折り甲斐があって何よりです。ではこれで、この手紙はおしまい。 
十月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月三十日第六十七信
二十八日づけのお手紙をありがとう。これは今朝例によって新聞や何かと一緒に現れました。
きょうの手紙はくりかえし拝見しました。特別な注意と吸収とをもって。ここに書かれているいろいろな点は非常によくわかります。所謂こわい手紙風に、感情へのいきなりの感覚ではなしに。
これは、これまで私の頂いた数多いよい手紙の中でも、一層ねうち深いものであり、伝えるものも深く、そして勁い。心からの御礼を申します。
悪質な空気の中での成長のためには、空気のわるさや、それによって窒息してゆく者の姿を描き数えることではなく、現実にそれとの正当なとりくみを行って、健康性を創ってゆかなければならない。そういう意味で、語るところが実に意味深いお手紙です。
私は一度も作家一般におとして自分の将来を云々したことはなかった。人間の真の幸福のため、合理的な叡智の明るさを、少しでもこの世にもたらす芸術家としての自分の生活しか規定したことがない。あらゆる場合と書きものに於て。さもなければ、何のために、一人の芸術家として生きている意味があるのでしょう。だが、そういう主観的な意味づけは、それがあるだけで、希望するものとして現実に存在していると云うことにはならない。例えば、ここに、発端的な時期として示されている期間の私の状態にしろ、当時はそういうことは許されていないのだから、と云われたことを、それなり本気にして、貴方から教えられて、マア何だろう、ひどい嘘つき、と思った。そういう程度だった。本気になどする自分、というところまで及んでいなかった。その点で、発端的と云われるのは当って居ると思います。
それから、これは一寸直接の答えにならないようで、実は大変直接な私の心持の一つ。我々の生活の初まりの時期、私は健全ではあるが生活全体の意味や内容をおぼろげに直覚しているだけの単純さで、あなたと自分というものを、ごく単純化された程度で、肩を並べた感情で感じていた。素朴なよろこびと信頼とに充ちる状態で、おくめんなく一つのものに感じていた。
次の時期に入ると、生活の諸内容が少しずつ分って来るにつれ、貴方への評価が私の内で高くなりまさると同時に、自分の様々の持ちものについて、元のような素朴さで、それなりいい気持で肩を並べたような気でいられなくなった。自分が多くの点で劣っていることを知った。そして、自分の気持では、自分をあなたにひっぱられる必要のあるものを感じる面が生じた。それは甚だ微妙に作用したと思います。主観的には一層努力が自覚されているだけに、つまり自分の努力をそれなりよりどころ(心持の)にしているようなところがあって、あなたからの心付や注意や励しには受け身な敏感さが生じているため、却って、それに対して感情的になり易く、そんなに云ったって、とか、でも、とか、そういう起伏が頻発する心理にあった。自称しぶとさ、は単なる驕慢というようなものとすこし違っていたのです。本質的には、弱さです。そういう微妙な状態の根底には、あなたへの評価、自身の卑下に於て、甘えたものがあった。だから、そういう妙な波のチラチラが起ったと思われます。
現在では、そういう点が大分ましになって来ていると思っている。例えば、あなたがそう仰云るからというような、それに対する従順さのようなもので着手したことが、次第に、自分にとって、自分のものとしてどんな価値があるか明瞭になって来て、成長のためのカルシュームとなって作用している。心理的な妙な凹みが癒って来ている。狭く、前へゆくあなた、ついて行く自分という感情から再び広くなって(広いところへ出て)、昨今では、おくれたり、遑(あわ)てて駈け出したり、何かにひっかかったりしながらだけれども、自分でこぼす涙を手の甲でふりとばしたり、笑ったりしつつ、自分の劣っている面への意識にこびりつかず、伸びようとする意欲にしたがっている。
この間うちから、私が、生活へ新しい道を示す力の価値についてくりかえし歎賞した意味が、これで猶よく分っていただけたでしょう。あなたへのみの褒め言葉と御礼でなく。そういう智恵をもたらすより大きい目的についても。
こういう状態だから、今の私の激しい知識慾は、成長が必然に感じさせているものであり、今、読んで置く、というようなものでなく、もっと営養食、治療食的な味覚と吸収の快感と発育の希望にかられています。我々にとって意義の深い折だし、私は当分、こういう勉強だけを追いつめてゆくつもりです。ゴミくたのようなあれこれを漁(あさ)る興味が益〃なくなっているし。
ここで、私は何をかくかという前に、何ものであるかという問いを、自分のものとして自身に向けて、入念に、そして専念に一つ大掃除をやりましょう。私は自分の低さで、あなたに引っぱられるための者として存在しているのではないのですものね。私のよりしゃんと、より豊富に生きようとするそのところでこそ結ばれているのですもの。バタリコ、バタリコ歩くなどはもっての外です。自分の描くものに甘えずに、実質的な成長をとげてゆくことは、絶えざる力漕(りきそう)を要します。極めて現実的な、よく研究され、整理された、真の敏感さが必要とされる。比重の変化ということについても、今は、それの新しい変化への方向にとりかかっているよろこびと確信との上で、ひねくれずに承認いたします。
初めて手紙を書くようになってから今日まで、恐らく私の書くことの内容、色彩、随分変って来ていることでしょう。様々の高低、様々の揺れ、そして様々の玉石混淆(ぎょくせきこんこう)をもって。或ときは空語と知らない空語をも交えつつ。
さっぱりとして、無駄なく、而もよろこびとユーモアとの漲った生活が、照りかえすような手紙が書けるようになりたいこと。そのような強固な悠々さを身につけたいこと。それらを、自分の芸術の新しい美としたいと思います。
本のこと、前の分と一緒に調べて、ないなら改めて注文しましょう。就寝、起床、計温、二十三日からちゃんとやりはじめたから、月末、一まとめにして表にします。
ユリの勉強を祝福しつつ、ポンポコどてらを召して下さい。 
十月三十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月三十一日第六十八信
ああひどく曇ってすこし落ちて来た。いそいで帰って来てよかったこと。きょうは朝ラジオで俄雨アリと云ったので、コートを着てつま皮のかかった足駄をはいて出たら、あつくてあつくて。気持わるくて歩いていられないようなので、一旦家へかえって、コートをぬいで、下着をうすくして、それから三省堂、東京堂、丸善、本店をまわって今かえったところ。
三省堂の洋書は殆ど無いに等しい有様となりました。お金の制限でやり切れぬらしい。その代りに一杯語学勉強の本を並べて居ります。東京堂へ行って、「地名人名辞典」をきいていたら、見知らない人が丁寧に帽子をとって、失礼ですが「地名辞典」でしたら云々と、国際情報が出している本がよいと教えてくれました。「人名」も清朝末期までのならばPlayfairという人のがよくて、それは東洋文庫と文化振興会のライブラリーにありますと教えてくれました。私も「どうもありがとうございます」とお礼を申しましたが、『ジャパン・タイムズ』の、私たちの求めているのはもう売切れで、来月末に再版を出すまで待たなければなりません。予約をしておきました。楽しみにおまち下さい。
それから丸善に行ったが、御注文の分はなにもなし。別に、シドニイ・ウェブ夫妻の書いた本(Longman)版でSovietCommunism:Anewcivilization?という本がありました。上下二冊。大部なものです。大変売れている。ごく客観的解説であって、ソヴェトとは何ぞやからはじまり、生産者としての人間、消費者としての人間、その他全生活の面にふれている、極めて記述風のものです。こういう本は常識をひろめるに役立つ種類です。興味がおありになるでしょうか。二冊で三十二円いくら。おききしないうちに買わない所以(ゆえん)です。日本の外務省の情報部で、日本教育史、外交政策などに関する外人向パンフレットをいくつか出して居ます。
仕方がないから本店へ行って見たら、『マーチオヴアネイション』がありました。ともかく買ってかえって、小包にしましたが、フランコ側の進軍への従軍記事です。文章に魅力があるというのでもない。しかしマアこういうのもある、というようなわけです。全くひどい挑発的な本も出ていました。きっと全部はおよみにならないかもしれませんね。オーストリアの前首相で、ナチの侵入と共に監禁されたKurtSchuschniggのMyAustriaという本がありました。これは内容のある面白い本だと思います。大戦後からイタリーとドイツの圧力の下に苦しむオースタリーを書いている。それから、英語で書かれた無名の原稿によって出版されたWhyNaziという本がある。非難するためでもなく、ひいきするためでもなく、それがあるままを、と序文にある。イギリス人でその場に列席した法律家がTrialofRadekを書いて居ります。冷静に見ている。何故一般がびっくりする程のことを皆喋ったかということについて、それは国内にいるのこりをうまくのこしておくためであったと見ている。これもつまらなくはないらしいと思います。法律の相異から書いている。改めてアンケートに書いておきました。顔なじみの人がいて、本のとりよせの困難の話をききました。結局ちょいちょい足まめに行って、而して高いことには目をつぶることです。種目をせばめまいとしていると、冊数がすっかり減ってしまう由。『クラッシュインパシフィック』は地方の支店をきいてくれるそうです。JapanoverAsiaは或はあるかもしれずとのことです。
私の方は、日本上代文学や歴史とてらし合わせて、綜合的によんでいるので、なかなか興味があります。順よく進んで居り、これまでより、追々ひろがって行けそうです(読む範囲で)。
白揚社から、新しい方法をとり入れた日本文学史が(源氏前後)まで出ました。きいたことのない筆者の名です。文学を社会の背景から書いている。どんな本かしら。
中央公論の出版目録は直接そちらへ送るように書きました、そう云えば、岩波から『図書』の八月よこしましたろうか。
本間さん(もと十条にいた)が仕立ものをもって来ました。今年はあのひとが戸塚に来たので、どてらの直しや何かたのめて、レコード破りのポンポコになりました。普通の仕立をするところでは、程があるという気持で、なかなかこう徹底してポンポン綿を入れませんから。云っても駄目だから。今年はその点はいくらかましな冬です。
では、今夜は、本屋めぐりの報告で終り。お約束の表を添えて。ではおやすみなさい。早く気候が落付けばいいのにね。
お約束の表十月二十三日――十月三十一日
起床計温就寝計温
午後五―六
23日午前六時十五分六・六九時半六・四
24日午前六時二十五分六・五九時四十分六・四
25日午前六時十分六・四九時二十分六・四
26日六時四十分六・四十時六・三
27日六時半六・五十時十分六・三
28日六時二十分位六・四九時四十五分六・二
29日七時五分前六・八九時四十分六・五
30日七時(日曜日)六・五十時三十分六・四
31日六時四十分六・六 今八時二十分。きょうは眠くて風呂もやめて、もう十分もしたら床に入ります。今六・四
十一月一日からそちらは八時半からになります。けれども寒中にでもならないうちは、今の時間でつづけて見ようと思います。そうしたら第一のグループに入るわけですから。 
十一月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月六日第六十九信
きょうは心持よい晴天になりましたね。きのうの夕方の地震相当つよくお感じになったでしょう?金華山沖が震源地ですって。はじめの五時すこし過のとき、丁度夕飯をたべていて、段々ゆれ出すので心持わるくなって玄関の外へ出ました。そんなことは珍しかった。しかし時計が止らない、大したことにはなるまい、そう思いながら、やっぱりドキドキしはじめて出ました。二度目のときは七時すぎで、そのときは日比谷の公会堂の二階にいました。おひさ君と並んで。舞台では高田せい子舞踊研究所の発表会で、子供の「桃太郎」をやっている。鬼の踊をやっている。そこへゆれて来てユッサユッサ何千人かを詰めてゆれ出したら、女、子供が多いから忽ち将(まさ)に共鳴があがりそうに騒然として来た。するとどっからか男の声で「皆さん大丈夫です。おどろかないでも大丈夫です」と怒鳴り、舞台もつづいて、やがて、小さい子供の桃太郎が舞台へ出て来たら、何よりそれで安心させられたように落付きました。舞台だけ明るく、巨大な円天井にボンヤリついた照明の下に何千の黒い頭があって、ユラ、ユラ始まると、独特の感じでした。一軒の家の中だと家がつぶれても惨状という直感がしないが、ああいうところだと、すぐ人命の危険が迫ります。今朝の新聞で見ると、たった一寸五分程ゆれたのに。然し三陸の大地震以来の由。戸塚の達枝が高田せい子のお弟子なので義理の切符を買い、お久同伴出かけたわけです。中頃以後にやっと戸塚の一家と栄さん、さち子さん姑嫁の一行を見つけました。かえりに栄さん、私、ひさ、三人で数寄屋橋の先まで出て、お寿司をたべて、有楽町からかえりました。
高田せい子の舞踊というのは初めて見ましたが、なかなか大変なものですね。つまり生活の内容、生活を貫いている音楽の感覚と舞踊というものが、溢れるように感じられず、大変考えてこしらえている。或文学的内容はあるのだが、舞踊として、音楽がおのずから肢体を律動せしめるような横溢がない。日本の生活感情の中に音楽のよろこび、表現力が実に欠けている。それがじかに出ている感じでした。
私は、そんなことを次々に感じながら、それらの感じは小波のように感じて、きのうは一晩じゅう、あることを思って居りました。きのうの朝手紙を頂いた。その終りの部分が私につたえる感情を。あの部分は、何とあなたらしいでしょう。心持の篤さ、繊細さ、そして明確さに於て。あの部分は無限のぬくもりと勇気とをつたえます。文字から声が聴え、そして、終りに、「ね、そうだろう」と私の背中に与えられる掌の感じまでこもっている。私たちの生活への愛と思いやりとが心にとまって、くりかえしくりかえしそれを思わずにはいられなかった次第です。
確にここで云われているような場合というものはあるわけです。私は確にばつのわるそうな顔付もしますし、赭(あか)い顔になるのを自分で感じることもある。しかし辛さと感じられる感情は、私としては謂わば外部的なそういう条件が、その場で現れている形に対してというより、その条件がもっと影響している微妙なものが原因で苦しかったり辛かったりするように思えます。二十四時間が私たちにあれば、その内容は実に豊富流動的で、幅ひろく流れる情感のあらゆる面が、刻々にとけ合わされるでしょう。自由自在な表現があります。五分六分では全く集約的で、しかも最も重要な点にだけ集注するから、重要さが、いろいろ忠言的な性質をもっていると、その部分、その面、その点だけに焦点がおかれます。他のもっとひろい部分との釣合は、感情の背景としておかれる。そのときの声、顔つき、目差し、それが完全に翌日までの感情、気分の中心として作用する。おまけに私は子供らしく貪婪だから。窓が開く。いなや、眼でかぶりつくから。いろいろなよろこばしいものを吸いとろうと、ひどく慾ばって構えているから。日常的なことであって、而も決して、毎日毎日に馴れて、事務的反覆になっていない、心持が、ね。だから、そういう主観的な色調に対して、何だか辛く耳にきこえ、心臓を痛ましめる話の種類も、当然あるというものです(話さざるを得ない現実が在る以上は)。きっと、私はそういう情けなさそうな、それでいてがん張っているような顔も可笑しくすることでしょうね。こみ上げて来るものを、それなりの言葉でましてや動作で表わされないのですものね。原っぱを歩きながら、自分の主観的な感情から一応はなれて、云われた言葉について考え、その真の意味を理解し、それを自分の心の裡にあるものとの関係で考えて、判断して、腹に入れる。それだけの精神的過程を常に経ます。それが原っぱを横切る間で終るときもあり、又バス、電車、そして欅の葉の落ちる道、家、二階、遂には床の中までつづくことさえある。
手紙で率直にならざるを得ないと思います。言葉では時間さえないのだから。そして、生活を大切に思う心持は、そういう点でのひっこみ思案というか拘泥をはねとばして来ているのではないでしょうか。私の気持では、私たちの生活の全感情が公開的な本質だと感じられてもいます。うけとる方にとっての辛さは、やっぱりこんな小さい紙片一枚ということから主として生じるのでしょう。
でも、いいわ。私は余りそういう点ではくよつかないで、生活の条件として大局からつかんで、とにかく掃除だの勉強だのを、元気に、熱心に、美しい単純さでやって行きます。そうすれば結果として、大小様々の辛さみたいなものはとけて、流れて、両岸にはささやかながら花も咲こうというものです。
表のこと。上出来と云って下さって大いにうれしゅうございます。借金の下手な云いわけには、笑って、一言もない。
それから、一日のくらしかたの割あて、ね。勿論あれは正常な一日の大略であって、昨夜みたいにたまにはおそくなったり外出したり、午後じゅう出ていたり、あります。大体会が激減した。一般的に、それから私としての条件的に。作家は腰ぬけでね、雑誌にパタパタものを書かなくなると、気味わるがって、大抵作家の会へも呼ばない(中野も同じ)。だからああいうのが一週に僅か二日で、あと五日は番外つづきというのでもないのです(座談会なども全くなくなっているから)。生活は大変ちがって来ています。この年に入って、グーと急転回しているわけです。
環境についての補足。そうね。静止的に書かれていました。あの糸が流れ入り、この糸が流れ出るという風に描かなかった。この足かけ四年間(九―十三)の推移について。九年はいつかも書いたように一月十五日頃から六月十三日まで不在。十三日は母の死んだ日です。私は心臓に氷嚢を当てていた、その前から。その年は十月頃まで林町に暮しました。それまで東信濃町に住んでいた国男夫婦が林町へうつって来た。父は、それを間違ったと云っていた。国男たちの暮す気分が気に染まないので。ゴタゴタする(けんかではない。生活の気分が)国はラジオをガーガーやる。寿江子はアコーディオンをブーブーやる。迚もやかましくて閉口して、十月頃から私は上落合の家をかりたわけです。あの夏はなかなか忘られない。父が、夜よく涼みに私をつれて行ってくれた。車で、国に運転させて。よく歩けなかった七・八月ごろ。「お前の一番行きたい方は、こっちだろう?」そう云って、よくお濠(ほり)ぱたにつれて行ってくれた。柳の木の下で遠くの灯を見ながら風にふかれたりしてね。そしてかえって来た。もとより袂の端だって見えっこありはしない!その時分は、やはり、今近しくしている人たちが、林町の家へも来たり、その時分鈴子さんがいて、よく来た。Aね、エハガキあげた、あの人など、良人とのことで苦しんで来たりした、私が寝ているそのわきで涙こぼしたりして。
上落合の家は、独りでした。林町から臨時に手つだいをよこして貰ったりして。栄さんに毎日世話になっていたのはこの時分から、翌年の(十年)の十月下旬まででした。上落合の家は、五月の二十日ぐらいまでしか持てなかった。上落合の家へ越した年の十二月初めに、夕刊で、市ヶ谷へいらしたことがわかった。その晩あわてて、着物買ったり何か栄さんとした。あの時分は落付かず。詩人の病気は益〃悪くなって来ていたし。仕事としては、バルザックの一寸した研究(リアリズムの解釈の誤った解説に盛につかわれていたから)小説「乳房」その他。この時分はまだ徳さんの現代文化社があったり『文学評論』がともかくあったりした時期。五月から十月下旬まで淀橋。この間に『冬を越す蕾』が出版されたわけです。翌年の三月二十五日?だったろうか、一応かえる迄に一月三十日に父が没した。その前後のことは別にいろいろの点からかかれていると思います。
国が、家の主人となって、例えば戸塚夫妻、中野さん等来てくれても、一つ家に私がいるのがいやと云うのではないが、持ちこむものがいやなのね。一緒に食事するのがいやだと云ったりいろいろで、咲枝は板ばさみだし、私は我慢ならぬ。てっちゃんがかえったのは引越し前の冬だったでしょう。池さんの細君との間が破れたのもこの頃でしょう。
目白へ家をさがした心持は、思い出一しおの故です。Sさんはその年の九月ごろだったか公判のために上京して、戸塚の下宿にいました。ちょいちょい出入りしていて、お金にこまり、ぜひ東京にいたいというので、私はすこし助ける意味で、新聞の切ぬきの整理をたのんだり、本のカードの整理をやって貰ったりして、十円までのお金あげていた。もとから智恵子さんを知っていたのだそうですね。そっちはそっちで進行していたわけです。家をうつるとき、あっちへ一緒になる迄、田舎の送金がなくなったからという理由で目白に来て、二月まで二ヵ月いた。二月に職業を見つけてアパートにうつり、それからこの八月結婚するまでズッとアパート。一月の終りか二月の初めごろ既に先の話は破れたのです。対手の人はこの家へ二度ぐらい来ています。その二度目ぐらいのとき、私がいつまでS子さんをここにおく気かときいたら、それは本人に云うとか云って、かえるの待っていて、ちょうど稲ちゃんが来ていて、変にきまずくて一座白けていたら、外出から戻ったS子さんをつれ出して、話をことわった由。
この人は、それから一遍宮崎龍介の母を訪問したとか云って一寸よった。
これらのほか、若い女のひとたちが何人か新しく環内に入って来ている。ずーっと眺めかえすと、主な糸はやはり三、四本ですね。
てっちゃんの結婚は、てっちゃん流で、友人の誰もよばれず。独特にやっている。旦那さん二階で御勉強、細君は下でコトコト働く。「清子さんの趣味は何?」「サア、働くことでしょうか」そういう工合でやっているし、これからやってゆくでしょう。あの人はそれで落付けるのです。そういう種類で初めて落付ける。そうらしい。家はまだ一度も訪ねず。
徳さんが戻る迄は、歌子さんも折々見えました。この頃はもう安心して、たんのうして、忙しく勤めていて見えませんが。製本して貰う女のひとなども去年の秋ごろからの知人。動坂の家へ遊びに来ていたような親娘のひとたち、まるで会わない。メイソーさん二度ぐらい会ったきり。細君はまだ。コヤさんは結婚したとききましたが(メイソーさんから)やっぱり知らず。会いそうな人が却って会わないのは、いろいろと面白い。母娘さんたち、私は大して会いたくもないが。人々のうつり変りの中で、思い出す毎に切ない気のするのは、詩人の細君が、消息不明なことです。どこかへどんな男かと消えた。可哀相に。何も分らないひとだから。
さて、余り長くなるといけないから、これで一区切り。この頃は大変風邪が流行(はや)ったそうです。喉が痛いと合本もって来た女のひとも云っていました。きょうは、でも本当におそい秋らしい。青空の前に鋼色の欅の梢が奇麗です。この二階はすてがたい眺望あり。では又。 
十一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月八日第七十信
智恵子さんがなくなった通知のハガキを貰ったのは六日(日曜日)の午後八時ごろでした。ああ、到頭と思い、すぐ出かけてお通夜をしようと思った。けれども、まざまざと、最後に会ったときの体も心も実に苦しげであった様子、心の底までうちあけたくて、しかも自身の愛情の誇りのためにとりみだすまいとしている懸命さ、その力一杯だった顔が浮んで、私が行ったら、本当に寝ていてももう一ぺん生きて来て、「ね、私到頭死んじゃったのよ」と云いそうで、迚も横えられてあるようなところへ行けなかった。そう一言云ってホッとしたいためにだけでも、もう一遍おき上って来たそうで。この十ヵ月間の溜息をしんからつくために。
この七年の間の生活と努力とを、最後までまともな場所へおいて理解するために、彼女は実に健気(けなげ)に生きました。そのことを考えると涙をおさえることが出来ず、お葬式のときも泣けた。あちらのお母さんが、「本当にすみませんでした」と云って写真をやったことなど、それだけ切りはなすとすこし芝居がかっているようにきこえるおそれがありますが、これまでの彼女の眼と微笑を見て来たお母さんとしては自然な情愛であったと思います。あの苦しそうな微笑と燃えて乾いて輝いていた眼付とは、小さい顔の上で、万言にまさるものを語っていたのだから。僅かの人が知るきりのしかも健気に生涯を闘い抜いた女性でした。
――○――
さて、きのうはあれから東京堂へゆきました。『新支那現勢要覧』は持っていないし、どんな本か見るためだけにはとりよせることも不便という話。(きょう、文楽堂へたのんで見ました。明日持って来れば見て、よかったらすぐお送りしましょう。明日もって来なければ、やはり返品不能の本である由)それから丸善へよって「ドーデン」をきいたら、あったので一冊とり。本店へ行って見たところ、御注文のものは例によってなしです。ただ『移りゆく日本』の著者はリデラーという人で、その人の『世界経済に於ける日本』というパンフレット式のものがあって、かなりひろくよまれた由なのでそれをとりあえずお送りして見ました。内容のたちがそれで凡そわかるでしょうと思って。『移りゆく日本』は、十一、二円の本ですし又すぐなくなるのだから予約しておきました。『印度年鑑』は本年のはもうなし。来年も入るでしょうと云っていました。予約しましょうか。その方が入手たしかです。『わがオーストリア』は売れたと見えてなし。『ナチとは何か』はユダヤ人問題の側から扱っているらしい、著者ユダヤの人です。どうかしら?この間調べたときはなかった『支那統一のとき』WhenChinaunitesという本があり、近代の推移から西安事件などにもふれているらしい。興味がおありになりそうでしたら、すこしよく調べましょうか。
きのうはかえって来てから、その小さい本を送り出して、ニューヨークの出版屋へカタログ請求の手紙をかいて、夜は『家族』の最後の部分を読み終りました。非常に爽快なよろこびをもって読み終りました。現実に対する深い洞察から生じている結論、そして確信は、何と人間を鼓舞し、自身の合理性への欲求の自然であることを一層深く肯(うなず)かしめるでしょう!
きょうは、午前中、一寸したものを書いて、それから計画していた新しい本にとりかかるため、使を出したりしたら、それがなくて、昨年私たちの生活の満五年の記念のためにあなたが下すった『二巻選集』を、とりよせたことになりました。一巻の方に伝記が集められていて、それをよみはじめました。きょうはこれをよむ。面白い。ところどころでクスリとしたりする。濃い黒い髯のために娘たちがムーア人とあだ名で呼んだこの父親は、若者たちに対して「勉強するように追い立てたばかりではなくて、彼は又我々が勉強しているかどうかを確めた」などとかかれているところを見ると、そして、その答えかたに決してゴマ化しを許さなかったと云われているところをよんだりすると、私の心では特別の微笑がこみ上げざるを得ません。全くよく御承知の通りのわけで、もと、一つ二つ伝記としてよんだことがあっただけ故、矢張り有益です。
今私はこういう計画をもっています。十一月一杯はよく精を出してこの種の読書をつづけてゆき、十二月に入ったらこの一年のしめくくりの意味で、ずっと書こうとしていた今日の文学についての覚え書を書こうと。たのしみにして、今年の初め書いた百枚ほどの「今日の文学」からすこし進歩したものをかきたいと意気ごんでいます。前の分と比べて、自分でどの点がましになっているか意識されるだけ、自覚した努力で書いて見ようと思って居ります。ただ楽に、いわば自然発生的に書くのでなくて、ね。
葉山嘉樹が「幸福」という作品をかき、その中の百姓に「幸福とは結局自分ひとりが、はたにどのようなことがどうあろうと、その日その日をどうやら過していれば幸福ということになる」と云わせているらしい。川端康成がそれを評して「こういう考えはこれまでたくさんの人がもっていたが、文学にこういう形で現れたのは珍しい。だが、幸福とは果してそういうものか。そういう状態で幸福と云い得るか」と疑問を発している。この疑問でさえ、ある感動を与えている有様です。又、暮しの急激な変化は、歴史の転換を感じさせるので、若い作家の間で祖父、父、現在、と三代の推移を描く欲望がある。彼等は、それを短い小説に、家系を主として書いている。ここにも非常に興味ある諸事情が蔵せられているわけです。そういうテーマを何故百五十枚ぐらいのものに、その狭さで扱うかということについて。
ヨーロッパ、アメリカでも、歴史の回転がはげしく感じられているらしく、ドス・パソスはアメリカ「USA」という題の小説を書いている由。イギリスでも各社会層のタイプを描いて現代を示そうとする作品が出かかっている由。あっちの文学がジョイスの心理主義から押し出されて、ロマンティックな方向と新しきリアリスムの方向とをもつことはこの前によんで、手紙にかきましたが、こういう作品は果してどのような実力を内容しているのでしょうね、現実観察に当って。
そう云えば、あなたはもと、「猶太人ジュス」という小説をおよみになりましたろうか?きっと読んでいらっしゃるでしょうね。その作者ホイヒトワンガーは、ジイドの紀行に反対するものとして実に誠実溢れた旅行記をかきました(一九三七年)。翻訳は売り出されると間もなく引っこめられたが。ドス・パソスは別に『戦争のひま』というような題の旅行記を出しました。紹介批評に、小説家としては幾分表面的な場合もあるだろうがと条件つきに、本の面白さを云っていた。私はこの作家については知りません。
入沢達吉博士が死にました。科学者として、死後に、入沢達吉病歴として四十年間の病歴が書かれていた文書が発見され、幼児脊髄マヒをしたことがあって、(Kと同じですね)今もビッコなので、この未だ病原のつきとめられていない不幸のために、解剖に際して必ず脳と脊髄解剖を行うべしと特書してある由。これは科学者らしいいい話です。けさ新聞でよんで心持よかった。この人は昔の留学時代W・リープクネヒトなどと会ったりしている。では又。おお、おなかが空いた。栄さん、小説を直しに来ると云ってまだ来ない、繁治さんのカゼがわるいのかしら。お礼はつたえました。 
十一月十二日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十二日第七十一信
きのうは、そちらからのかえり、二人にくっついて、久しぶりで林町へゆきました。本も入用だし。
太郎、途中で眠くなって、トロンコになって、形勢危しと見たおふくろさんは、一生懸命、電車の窓から、「アラ、トラックよ、何のせてるんでしょう」などとやって、やっと歩かせて辿りつきました。咲は、太郎を「悧巧そう」と一度ならず云われたとくりかえしてよろこんでいました。「お愛想かと思ってよく考えるけれど、宮本さんだもの、ねえ、まさかお愛想だけで云いはなさらないから」とホクホクして、父さんが戻るやすぐ報告して居ました。アボちゃん、「あっこおばちゃんの小父ちゃん(あなたは、こういうむずかしい呼名の方なの、そういう云い方で、何か一組として分るのですって。)が、きょう、太郎ちゃん悧巧そうだって仰云ったでしょう。そうじゃこまるわね、本当にお悧巧になりましょうね。」そういう会話をやって居りました。但、お茶をのんでいて、太郎が余り菓子をねだったとき。
夕飯の前、私は大きい鼠になったり熊になったりしました。太郎は猫と兎。こんなにして、這ったり唸(うな)ったりしたの久しぶりだったので、大いに気散じになりました。太郎はこの頃、もうお伽話の世界での擬人法で遊べるから、なかなか面白い。一人前の対手になる。私が大きいねずみになって食堂の入口のあの重くて大きいドア(覚えていらっしゃるかしら)の蔭にちぢまっていて、猫に向ってとびかかる、そのとき前掛を頭から顔にかけてかぶって、丸い顔を尖った小さい顔にしてとび出したら、逃げながら、フロシキかぶらないんだヨ!フロシキかぶらない鼠ヨ!と盛(さかん)に抗議して、大笑いしました。夜飯後、これも全く珍しく、つよいアクセントの言葉をきいて、愉快だった。
咲は、盛に喋り、はねくりまわる太郎をテーブルの前から見ていて、小父ちゃんに一目ここが見せて上げたいと云いました。大分甘ったれたところ見せたのですってね。私は、でもそれでいいよいいよと賛成しました。だって、そういう憚(はばか)るところのない感情の表現、その身ぶりなんか、やっぱり目と心にいい気持ですものね。たまには。太郎にのみ許されたる独壇場だもの。
いろんな話が出て、十時すぎて、バスがあぶないから車で送って貰ってかえりました。(家のに非ず。国はそういう点全く尻重ですから。かえったらもう出ない)。
フランスへは一ヵ月百円のところ、特別の許可でそれより多く送っている由。この頃は、かためて送れず、毎月ですって。こちらの分は全然別口にすれば送れます。あっちの送金にこめることはその点で不可能の由。複雑に社会が動いているから、あっちでもいろいろの心持でしょう。巴里で金持と女子供は皆避難したときは大分特別な経験もしたらしい様子です。
咲のこと、本当に御存じないのねえ。あの人には兄が一人、これが後とり。姉春江、これは河合さんという凸版の親方だった人の息子の細君。一馬という男。これは郵船の船のり。今結婚しかかっている。あとが例の音楽家です。
ところで、世界の波のうちよせ方は様々に波紋を描いて面白いこと。バック女史が、支那を描いたことによってノーベル賞を貰います。カウツキーという人は八十四でアムステルダムで(ウィーンからうつって)死んだ。ローランが大戦のときノーベル賞を受けました。その祝いがスウィスで彼の質素な部屋で行われたとき、彼は、ピアノでヴェトウベンを弾いたそうです。バックは今「アメリカの子」という小説をかいているそうですが、どのようにお祝いをするでしょうか。
私の勉強は今日から哲学のものにうつります。伝記のつづきに、その本に入っていたある序文でイギリスの十五―十八世紀までの歴史的展望をよんで、実に面白かったし有益で、英文学史というものが、やはり、まだ本国でさえ書かれるようには書かれていないと感じました。漱石の十八世紀の英文学研究も又改めて面白く思いました。十七世紀に町人の文化が発生して、写実を主とする肖像画が生れ、文学の性格描写が生じ、音楽でヘンデルのような表題楽が生じたこと、日本の西鶴が十七世紀であるのも面白い。
いろいろと綜合的に感じ、ふと自分はどうして文学ノートを書かないのだろう、書いていけないわけはなしと思いました。ああ勿論それはかの哲学ノートほどのものでありようはなくてもね。日記が文学ノートのような時期があったが、三年前のとき、記念品としてまき上げられてしまった。それが癪にさわったのでそういうものはつけないことにしていたのですが。文学ノートをこれから書いてゆきましょう。これも些細なことではあるが、やはり自分の日々の内容を自身に摂取してゆくことにも役立ちますから。すこし厚い、しっかりしたノートを一冊買って、はじめましょう。ちょいちょいよむが沢山よんでいる。そういうものについてやはり書いておくべきだと思います。こういう一つの小さい実行性についても、私はこの間うち(夏以来)のいろいろなことが、本当にありがたいと思います。勉強してゆくということはしてゆくことであり、仕事してゆくことは仕事をしてゆくことであり。そう云えば、誰だってそれはわかっている、と申しますが。
十日づけのお手紙もありがとう。率直のことも、私にしろ機械的に考えては居りません。私はこのごろ自分として勉強もしているし、気分もはっきりしているので、先達のうちのいろいろのことから、あなたが、私の些事なるが如くあって実は本質的なものという点へ、視線を鋭くお集めになったことも十分よくわかって来ています。だから、そのときその場では、何だか云って見れば痛くない腹をさぐられる式に感じたことさえあった、それが、大局からの問題として、その点に触れられてしかるべきことが納得されましたから、気分的に苦しむことはなくなりました。
本の装幀は五十銭でした。但これは例外のねだんです。本を余りおよみにならないように。この間てっちゃんが、そのことを云って心配していました。あなたの速力では決して読みすぎるように読んでいらっしゃらないのはわかりますが。十六貫五百おありになるって?きのう咲からききました。「あら?知らないの」と笑っていた。今月の二十三日はお休みなのを知っていらっしゃいますか。花の鉢をたのしみにしているのに。お母さんは、私をすこしは甘えさせてやれと仰云らなかったでしょうか、一寸伺います。
お約束十一月一日―十日
(午後五―六)
起床計温就寝計温
1日六時四十五分六度六十時十分前六・五
2日七時六・八九時六・六
3日七時十分前六・六十時十五分過六・六
4日六時半六・七九時十分頃六・四
5日六時四十分六・六十一時半六・五
(ター坊のおどり)
6日七時十分すぎ六・六十時六・六
7日六時四十分ごろ七・一九時半七・〇
(お葬式のあった日)
8日六時半七・一九時四十分六・六
9日七時五分前七・一九時二十分六・八
10日七時六・八十時六・七
――○――
これだけの余白は勿体ないこと!
『キュリー夫人伝』は、私はまだ読みません。しかしいろいろの条件はあっても(エーヴの美学について)やはり本気で働き、本気で愛し合った二人の卓抜な人間の生活からほとばしる本来の輝きはありましょう。今ちゃんとよむものがあるから、私はそっちの腰かけでよむもの(袋の中。今は『猶太人ジュス』)それから一寸の時間茶の間でよむもの(きのうまでは『近世小説史』)それから机の上の本として、余りあれもこれもと一度におきません。およみになったらこちらへ下さい。そのあとをよみます。おひささんの声アリ、御飯が出来マシタ。今日はさわら(魚よ)とホーレン草をたべます。 
十一月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月十四日第七十一信
きょうは何という特別な味いの日でしょう。その下で将(まさ)に将に花咲かんと願った耀かしさ、そして暖かさ。
机の前で勉強をしている。折々云いつくせない光の波が甦(よみがえ)って来て私をつつむために、きつく胸に手を当てながら。
一つ御紹介いたしたいものがあります。それは一冊の帳面。本の整理のために使っている大学ノートと同じ大判で、紙表紙はおとなしい緑っぽい色です。二本の枝がノートブックという字を上下からかこんで若葉をつけて、背のクロースは調和のよい藍色。そしてタテケイです。平凡だけれどもどことなく生新ですっきりもしている。今日からこれが私の勉強帳になることになりました。これからはずっとよむ本と並べておかれ、いろんなことをかきこみます。勉学に関することを。
オイゲンという先生は、大変な混雑物ですね。こういう混雑を、かくの如くつかみ出してはっきりさせてゆくということは、実に大したことです。ここでは二重に学びます。云われていることの正当さと、云いかたの正当さについて。混雑をどこでとらえてどのように奇妙な撞着のモメントを追究して示すかということについて。だが、これは私の哲学的読書力のギリギリのところですね。決して楽によめるなどという大言は吐けません。十分にはわからないところもある。そうかと思うと、覚えず愉快で机をうつようなところもある。数学の公理理解における観念性のところなど。数学がわからなかったこと(わけ)がよくわかります。ところで、あなたは、数学がお得意でしたろうか、そうでもなかったでしょう?数学の教授法の進歩の歴史の中には確に深い意義がひそんでいます。
さて、段々と進んで来て、科学の第三の部類について語られているところに来たら俄に息が楽になった。自然科学に関する知識は何と貧弱でしょう。いつか、狭い部屋暮しの中で『史的に見たる宇宙観の変遷』という文庫本をよんだときにもそう思いましたが。その本からホンの一滴二滴のこったものが、それでもいくらか今思い出されて役に立ちます。
十五日
あなたのところからこの頃の日没の空が見えるでしょうか。きょう上落合のところを栄さんと歩いていたら、重く濁った太陽が、低い地上では靄(もや)の湧いた樹々を黒く浮上らせながら沈んでゆくのを見て、シベリアの景色、バイカル湖のあたりや、モスクワの日没を思い出しました。栄さんのところへは、十七日の用でよったの。先月はごたついていてあなたの御誕生は珍しい家内の顔ぶれでやりました。今月の十七日は、お赤飯をふかさして栄さんのところを(丁度小豆島から妹さんとその娘――小さなの――が来ているから)ユリちゃん小母さんの家へ呼んでおひるをたべます。祝いのばしというのはいいこととなっております、古来。
きょうはおしまいごろに交された話(退院後のこと)あのとき、私は何だか先頃来の点のからかったことの微妙なニュアンスが氷解したような感じがしました。点の辛さを、そのこと自体導き出すものは実際にありました。そして、点の辛さは、有益であり、全体として正当なものであり、私は明かにそれによって精神と肉体との健康をましつつあります。ありがたさにかわるところはありません。でも、やっぱり何か微妙な感情の底流、言葉の語調がひそめているもの、そういうものに影響しているものとして、作用していた何かでなかったと云いえない感じがしました。公的に書き、語っていたのよ、ずっとそのことは。きょう、それはよかった、と仰云った一言で、私は本当に本当に気が楽になった。「そんなこと、判っているじゃないの」と云った自分の心持では、もしもそのような点まで模糊とさせているのならば、何のかんばせあってかまみえんなのだから、判り切っていることだという心だったのでした。けれども逆にも考えました。原っぱを心たのしく歩きながら。そういう点まで一応改めて訊ねさせたものが、私のいろんな点に在ったし、在るのだということを。そして、そこには、やはり深い自省が促されるものが在ります。でも、本当に、よかった。
根本的なところでの安心、土台の安心、そういうものが確保されていて、与えられる励し、批評、心づき、それらの与える感じは、その根本への何かの陰翳を伴って向けられる忠言その他とは、おのずから雰囲気を異にするのが当然です。私にとって、何か苦しかった、心持として(妻としての)何か切なさが伴ったのは尤もでした。今こそ申しますが、私は幾度か涙を以て考えました。この三、四年間の自分の努力というものは、どのようにあなたに今日評価されているのだろうか、と。去年そして、その前の年、私はそういう疑問を感じるような、そういう感じの言葉はあなたからどのような形でも頂いていませんでしたから。「予後不良という診断は不幸にも適中した」と書かれた文句をよみかえしよみかえして、二年を経た今日、このような言葉を語らせるのが、自分であろうかと思ったことでした。
この次私に手紙を下さるとき、どうか、あなたの「それはよかった」という一言が、お互にとってどんなによかったか確認した表現を下さい。それは決して手のこんだことはいりません。ユリがこのようによろこんでいる、よかったは何よりだった、それでもう十分です。生活というものは考えるとこわいようね。当然通じているにきまっているとひとりのみこみしていては実に大変なことさえあるのだから。書きながら、あなたがニヤニヤしていらっしゃるのも見えます。「それは成程よかったし、寧ろ当然なことだが、マアそういう点まで一応訊ねさせるものがあったということについて自省を向けているのは、正しいね」と。主観的の善意の具体化ということは、全く云われている通りですから。
自分としては何かしっくりはまりこみきらない切なさを一方に感じつつ、それでも最も正当に最も健全に、あなたの云われている諸点について考え、努力して来たこと(この二・三ヵ月)は、結果としてよろこびをもたらしました。
本当によかった。これから私は文字どおり曇りなき快活さで、いろいろの改良に従ってゆけますから。再び自分を心から抱かれている者として信じることが出来ますから。これは私にとってどれほどのよろこびと勇気の源泉であるか、きっとおわかりにならないでしょうね。あなたは最も真面目な理解をもって、よくよくユリの人生を支配しているその点をわかって下さらなくては。私はどんなことがあろうと、自分の生きかたで護れる限り、この貴重なる源泉の純潔を完(まっと)うしようとしているし、そのことは即ち、歴史性の上で歪んだ足どりを不可能にしているというところに、なみなみならぬ意味があると信じているのですから。
私は、きょうも亦、その話をとり出して下すったあなたのうむことないたゆみなさに心から感謝いたします。このすーっとした心持の手紙を書いていると、この間うち書いたいくつかの手紙を思いおこし、そこには一生懸命さと共に一抹の不安、どういうのかしら?というものが漂っていたことを感じます。
とにかく土台のところでは十分承認されているというこの心持。これによって私は生かされているのだし成長もして行くのです。私の精髄的なものが、ここにこめられている。これで、私は今年の冬も愛らしい、春のような冬、我々の冬として暮して行ける自信にみたされました。もう今から、特別な心で眺めて待っている月の色、一月に入れば、次第次第に輝きをまして、一夜恍惚たる蒼い蒼い光りに溢れる月に向って、一層新たな歓喜の挨拶を送ることが出来ます。
これから段々事務的な用も多くなるでしょうし、あなたの用もおふえになるでしょうが、それにつけても、よかったことね。私はこのうれしさで、勉強もしんから身につき、与えられる助言の実現努力に骨惜しみしない自分を約束しながら、あなたの手を執り、それを胸において、更にわが手を重ねます。 
十一月二十一日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十一日第七十二信
きょうはちっとも風がなくて静かでいい日ですね。表を送るのには、明日手紙書いた方がきりがよいのだけれども、かきたいから。『支那統一の時』本当に御免下さい。私が風邪だったので、渡して二階に上ってねていたので、ポケンの本領発揮してしまった。箱をあけたら(包紙入の)出て来たので、思わず私が「ひさ、これなんだい!」とやったので、小さくなって悄気てしまったが、私はフンマンおさまらず、家にいるとつづけて爆発するから、小包二つ抱えて出て郵便局へ行ってしまった。そういう工合でした。着くわけはなかったのです。
さて、島田へは雑誌や本、それに中村屋の、いつかお送りして気にお入りになった豆の菓子お送りしました。おせいぼはもうスタンドにきめてあります。炬燵でゆっくり何か御覧になったり床の中で見たりなさるのに便利なようなの。この頃は、日本趣味のスタンドが出来ていますから、そんなのをお送りしましょう。
てっちゃんには、あの図書の尾崎からと、前に云っていらしてなかった分とを皆書きつけてたのみました。
支那語の字典。あれは不十分だと思われます。画で引けるのでないと、発音がわからない字もあるわけですから。尚文堂のはラジオの支那語講座テキストの裏にまで広告出しているそうですが、大分財政窮迫と見えて、本にはなりません。文求堂のだけで、第一書房のは改版中の由です。『日華』はおなぐさみ迄に、と思ってつけ加えました。あれにしろ半ば無意味ですね、発音が分らないのだもの。
『日ソ』というポケット型の字引もあのとき見ましたが発音はむずかしいと見え、ローマ字でひどいことをやって居りました。支那語も発音はむずかしいのでしょう。よいのが見つかる迄ともかく一時御用立て下さい。
偶然のことからドイツ語の学力大いにある一人の女のひとを知りましたので、あなたのドイツ語向上のために、何かいい字引(文法つきの)を教わることにしました。そのひととは多分二十三日、一水会の展覧会で会い、字引のこともきけるかもしれません。
『仏和』は本日あたりお送りいたします。
岩波総目録のおしまいの本ね、あれはもう出しません。古いのでもないでしょう。しかし私は幸白揚社があの著者の重要著作選集を出しているのを皆もって居りますから、その中にはきっとあるでしょう。「その他」の他がどれなのか分らなくて閉口ですが。もしかしたら誰かもっているかもしれない。
十九日(土)には、待ちぼけでいらっしったのね。十二時迄と思ったのですって。朝、あぶないナと思ったのですが知らす間もないと思っていたらやっぱり。
金曜日は実に面白かった。あれから神田へまわって東京堂へゆき字引などいろいろしらべてフラリと出て専修大学の方向へ行っていたらとある額縁屋の中でチラリと動いた女の姿がどうも光子さんそっくりです。一水会の出品に十五日以後出京とハガキが来ていたし、往来に立って見ていたら、体つき反っぱのところ黒くてやせて、しかし何か美しいところ、まごうかたなしだから入って行って、知らん顔して並んで立っていたら、額ぶちから顔をあげて、アラーとかじりついた。大笑い。それから一緒に家へかえって、御飯たべて、喋って(未来派のこと。絵に、動きをとらえるのはどこでとらえるかというようなこと)。未来派は、一つの物体がその面に反映させているもので、その周囲を語り、或内容を語らせようと試みた。マツァは未来派は技師の世界から生れたもので汽罐車や速力やをとらえようとしていると云っているというので、それは技師の心となど云えないこと、未来派左派が詩で鍛冶派(クーズニッツア)(マヤコフスキー)であった理由、未来派の手法は、新しいリアリズムにより動きをもたらさぬこと。貴方には恥しいけれど、一寸柔道を試みてね、絵の動きは動きの中で、未来派のように車輪をいくつ重ねてボヤかして見たってはじまらず、とまっていたものが動くその瞬間の重心の移動でとらえねばならぬこと、それについてロダンの云っていること。
久しぶりで、方面の違った話をやって全く面白かった。光子さんが絵を出品する前に見て呉れというので、泊っている友達の家へゆきました。(そこがそのドイツ語の女のひとでした)岩松君も二点よこしていたが、夫婦の作品をくらべて、芸術家の夫妻のこわさを痛感しました。光子さんは、昔から丹念にかいて隅々まで描いていたタイプです。岩松さんは、顔なんかばかり興味をもって、しかもその顔から全体が浮ばないように扱っていたが、今度の夫婦の作品は腰の据りかたで一寸おどろきました。光子さんの絵はピアノをひいている若い女なのだが、ちゃんと一つの絵として落付いて居り、ピアノの黒いひろい面をもこなしています。淳さんは去年のように又魚を描いたり、人形二つ描いたり、光子さんの父を描いているが、肖像に於てはバックも体も破タンしています。何か画面で狙って描いていてしかもそれがつかまらない。そういう感じ。光子さんの工場の絵は、昨年の方がよかった。本年のは、技術上は進んでいる大工場ですが、そこは馴れないところなのでお客で、構図を十分考えるゆとりなく、作者(画家)の立場(描く焦点)がない。それに面白いことは、近代設備は、昨年の作事場(さくじば)的工場内よりカラリとしていて、独特の空気があるのが、光子さんの筆触ではまだつかまれなかった。でもそうやって、一年ごとにより進んだより多面な努力をつづけてゆくのは感心です。でも、父母が制作にかかって気が亢(たか)ぶっていると、子供は(六歳)体をわるくしたりしてしまう由。おばあちゃんのところに行っていた由。私は光子さんが下手くそで、紙屑だかナプキンだか分らないもの、つやも光りもない果物をかいていた頃から、その勉強ぶりを買っていたので、年毎にジリジリと成長して、現代の婦人画家の中では次第に本ものの実力を高めて来るのを見るのがうれしい。いつかのエハガキにしろ、あのひとのある心もちの傾向がわかるでしょう?
音楽でこの位まともな女の人がいたらどんなにいいでしょう。本気で勉強して新しい音楽についての努力しているひとがいたらどんなに楽しいでしょうね。器楽のひと、作曲するひと、そういう人を知りたい。作曲もする人がいますが、これは、何というか一種の人物で、自分を人前に出す欲望のつよさで音楽をやるみたいで、一寸よりつけぬ。それは新協の芝居につける音楽の扱いかたで実にわかる。芝居を生かすんではなくてサアきけと、つぎはぎの模倣物をぶちまけるのだから。しかし、こういう過程も過てやがて音楽もすすむのでしょう、とにかく弾くという技術では日本人の女の子が十七でパリのコンクールで一等をとるようになって来たから。芸術が生れるのはこれからです。
私の勉学は愉快に進んで居ります。今よんでいるものは大変に面白い。哲学のことにしろ、最も要点が押し出されています。経済学の部に入って居ますが、これをしゃんと了れば、大分他のものが分るようになると楽しみです。
光子さんが絵の話で動きのことを云って、計らず私が熱中したのは、動きにおいて捕え描写することが、文学でどのような意味をもっているかということ、その深大さ(トルストイのように「まざまざとした体の動き、声と目の動き」の範囲で、動きをとらえるのでさえあれだけ大したことなのだから)をつくづく感じていたからでした。「歴史的な、即ち絶えず変化するところのもの」ここに大した秘密があるわけですものね、文学上の。武田武志という人がリアリズムのことを云っていて、岸田、志賀のリアリズムに比すべきもの(リアリズム)をもった作家は一人もいない(新しき世代に)と云っているのを見て、リアリズムというものも、まだまだ多難なものだと思いました。こういうリアリティーの点から、再三私はあなたが、無根拠な楽観はしないと云っていらっしゃることを考えて、その生々とした意味を感じます。見るべきものを見るということの全くの当然さというかあたり前さをも感じます。段々自分の心も見えて来る。これは何と面白いでしょう。私はこんなところがあったと思う。根本的なところで、自分はシャンとやったしというところ。ね。滑稽のような、こわいようなものですね。勉学を全く自分の鍛練というか自省のモメントとして大いに考え考えやって居ります。道具と考えるほど大それていないのは、幸です。書きたいというのも術をかけて見たいのとはすこし違うのです。対象を通して勉強したい、その心持です。勉学は却って書きたい気をおこさせ、書きつつ又それをつづけるのは一層味ふかいのです。今のように、せっつかれないときに、はじめてそれが出来ます。今のところ勉学はやめられません。その位面白い。この本は特に面白くて、かめばかむほど味が出る。この前にも一寸かきましたが、物理の問題にしろ、数学にしろ、生きた好奇心を刺戟され、精神のよろこびが察しられて来て、しきりにソーニャ・コワレフスカヤを思います。彼女はどんなに数学をとらえていたのだろうかと。私は一人、女のひとで数学の才分がすぐれていると云われた人を知っているが、そのひとは大変図式的な頭です。新しく動的関係で発見された方法を、形而上的なやりかたでやる。そういうのが多いのではないかと思い、ソーニャはどんなだったろうと知りとうございます。あの伝記には、そういう最も内奥的なモメントはとりあげられて居ませんものね。だから伝記もさまざまね。伝記の精髄(それぞれの専門において)がぬけた伝記も多いわけです。
きのうは、午後から『輝ク』の(時雨女史の会)歳末会があって久しぶりで出席したら私が丈夫そうになったと口々に云われ、何をつけていてそんなに艶がよいのかと云われ、一々朝起き早ねをその原因として申しのべました。どうもありがとう。残念なことにはそれにつけ加えて一々、それは誰が私に仕込みつつあるかということを云えなかったことです。つやがすこしよくなればすぐ目をつけてくれますね。もっとせっせと垢(あか)おとしをやっているところのつやについては皆目めがつかぬ。あなおもしろ。ふと、日を考えちがえしていて、きょうは二十一日ね。手帳を見て、丁度表のためにも区切りの日でした。
では、お約束を果して、この手紙はおしまい。花は二十四日ね。

起床計温就寝計温
11(金)六時四十分林町デ熊ニナッテ居テトラズ十二時十分六・七
12六時四十五分六・五九時六・四
13七時六・五十時十五分六・三
14七時十分前六・六九時半六・六
15六時半六・七十時六・五
16七時六・六かぜ気で午後からずっと床に入ってしまった日六・六
17七時六・五午後から床の中六・四
18六時四十分六・五九時四十分六・五
19六時半六・四十時十分六・四
20七時六・五十時半六・五
十六日を中心として本月は熱を出しませんでした。段々いいこと。
この頃はこの仕事も大した苦労でなし。 
十一月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十一日第七十三信
さっき手紙を書いたのだけれども、急に大変話しがしたくなりました。夕飯をすまして又二階へ来て栄さんの小説をよみかけているのですが。
御飯のときひさと喋っていて、この家にはともかく来年で足かけ三年暮したとか、あなたにお正月の着物を仕度するとか、そんなこと云っていたからかしら。私たちの御秘蔵の大島をおきせしようか、それともあれは春までおいて、別に一組こしらえようか、そんなことを考えているの。久しく新しい着物もあげないから、一つ新しいのを見せてあげようか。御秘蔵はふだん着て膝がぬけてしまうと残念のようでもあるでしょう。あの着物の襟の合わせめのにおい。あの着物にしかないように思われる。
六つばかりのとき父がイギリスにいて、夏虫干しをしたら父のきていた冬着が出ました。父のにおいがする。お父様の匂いがする。暑い暑いのに、それを着て、泣きねいりをしてしまった。大人になると、そういう感情表現を、物狂わしいと見るのは、何という風俗でしょう。非常に不自由を感じます。着物をいじるごとにそれを感じる。
「仕立屋へはやらないよ、どっち道。又綿をポンポコ入れなければ駄目だから」「私がもっと上手だといいけれど」「又本間さんにたのもう、本当にちゃんとはじめなくちゃ駄目だから」ちゃんと始めるというのは、おひさ君の勉強です。
折角私たちの家にいて、一年いて、何もしない只台所している、それではいけない。何かしたい勉強を考えるようにと云っていたら、小学校教員になりたいということになりました。外の職業で、結婚と妊娠とでこまる例を見ているので。女学校を出ているから、尋常の正教員には何とかしてなれるのです。それで、来年の夏までガン張って実力をつけて、着手するということになりました。来年の夏までに、追々おひさ君が代りのひとを見つけることにして。ですから、この頃は時々、私が二階から下りて来て茶の間の柱によりかかって、ひさは長火鉢のところにいて、「あれが八分通り出来たんです」「フーム。割ったの?」などという会話をやります。応用問題の話です。そんな当てが出来て、いろいろ時間のことなど考えて貰っているので、ひさ、小包忘れて小さくなったわけなのです。猶々。
おや、按摩(あんま)の笛がきこえて来る。冬の夜らしいこと。
オイゲン先生の二人の人間からはじまる経済の空中楼閣につれて、ロビンソンの話があるでしょう。あの作品を、漱石は十八世紀の英国文学の評論の中で、当時の最も下等なる側の代表と云ってとりあげています。漱石の下等というのは、それが理想小説でもないし、美的小説でもないし、どの頁をあけて見ても汗の匂いがして、椅子をこしらえたり何かばっかりしているからだそうです。そして、構成のだらだらしたところを突いて、自分の小説構成論を述べて居ります。漱石は散文と詩との対比を、散文は人力車にも電車にものらず、二本の足でコツコツ歩くのが散文であるという風にきめたりしていて、文芸は社会の事情と切りはなせぬとしながら、その文芸の分類法は知・情・意の分立に立脚した四つのカテゴリーに並列的に分けているところ、矛盾が面白く思われます。
「ロビンソン」と「トム・ジョーンズ」と「虚栄の市」がフランス訳になる、「ロビンソン」はジャン・プレヴォストが序文をかくのだってね。どういうのでしょう。
スウェーデンのセルマ・ラゲルレフが八十歳のお誕生を祝われ、国家的祝祭を受ける由。この白髪のお婆さんは、キュリー夫人と何と対蹠的な表情、かまえ、書斎をもっていることでしょう。伝記もうお読みになりましたか。ちょいちょいみただけですが、ここにもこのように生きた人たちがいる。そういう気持もするでしょう?あの夫妻は、良人の方が柔軟な性格だったらしく見えますね。それにしろ、何とフランス型の科学者でしょう、彼は。フランスの科学はああいうタイプによって口火を切られて、よく国外でその完成を見るのに、キュリーの場合は、夫人がその点での驚歎すべき実行力というか手となっている。
そう云えば、鴎外の『妻への手紙』が杏奴の解説で出ましたね。いつか、愛子夫人が蘆花の家信を自分のと一緒にして出したが、ああ主観的で、あくがつよいばかりだと、第三者は、性格研究のためにでもない限り益をうけることは少い。前田河の『蘆花伝』はその主観性の中に伝記者までたてこもったものらしい。そういう評が何かにありました。近頃岩波で出している新書のうち、あなたはどんなのをお買いになるかしら。私はクリスティーの『奉天三十年』『支那思想と日本』『家計の数学』(これは家計の方に目をひかれたのではなくて、私たちが、キライナモノとされた数学というものを、生きた姿で見直したいから。)サートン『科学史と新ヒューマニズム』『妻への手紙』(鴎外)『戦没学生の手紙』等です。興味があったらポツポツお買いになりませんか。そしてお下りを頂戴。又袋に入れて持って歩いて読みます。『猶太人ジュス』をよみ終り、こういう小説(ローマ皇帝下のドイツの小公国を背景として)をかいた作者の心持、そして「旅行記」をかいた作者の心持、今一人の書記官の死に対して十億マークを全国のユダヤ人に課せられていることなど思い合わせます。
あの袋も、あながち皮がないばかりではないのです。冬になって、私は紺ずくめになってしまいますから、少しは色彩を、と思って。気がついていらしたかしら。いらっしゃらなかったでしょう?赤いのや黄色いのがこしらえてあるの。あれは自分で縫えるから。段々お目にかけます。
ひさが上って来る、何だろう、雨戸をしめに来た。光子さんが来て、私は心ひそかに計画をめぐらして居ります。こんどはこの二階からもとの家の二階の見える(屋根だけ)南の景色を描いて貰いたいと。茶の間で、あの足でしめる茶ダンス(覚えていらっしゃるかしら、あなたの芸当)のわきにいるところも描いて欲しいけれども。私は未来派のことやいろいろ彼女のためになるお話をしてやるのだから、又エハガキ一つ位描いたっていいでしょう、そう思っているのです。この我々の家を四方からかいて、並べるとマア凡そわかる、そういうお年玉をあげとうございます。自分の住んでいる家の見とり図なら描いてもさしつかえないのでしょう?
[家の見取り図]
二階の方はよく見えて居りますからかきません。ぐるりはこんなにひろくありません。門から玄関まで三歩です。
夏は下の四畳半へ引越します。これから春までここも、二階も西日がさして眩ゆい。その代り二階は火鉢が寒中しかいりません。さあ又、よまなければ。では又ね、 
十一月二十五日夜〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十五日第七十四信。
きょうはいろいろと複雑な感想もあり、そこから学ぶこともありという心持です。人事の関係について考えて居ます。首尾一貫したものによって動かず、人間の多くは、妙に凸凹したもののひっかかりで互に動いている。そう感じます。自分の気持からだけ動き、袖の下をかいくぐってあちこちするようなやりかたについて、一組の人々に快よからぬ感情もありますが、それには身をまかせず、そこから学び得るものを自身としては学びとろうと思います。月曜日には何とかわかるでしょう。
さて、十七日づけのお手紙に答えて。勉強は元より十一月一杯などでやめようとは思って居ません。これは前便にも書いた通り、いかにも面白いし、生々と吸収されるし、ねうちは益〃明瞭となって来るし、総合的なものの中核となるし、順につづけて行きます。只今はオイゲン批判の最後の部にかかっています。傍ら書きたいという気持。勉強の一つとして。
今の我々の生活の時期をこの頃のようにしてたゆみない計画で経過してゆくことは実に大切なことだと痛感して居ます。知るということは謙遜になる最大の原因ですから。同時に、いろいろの現象の根底にふれ、その動きの関係をつかみ得る唯一の力をも与える。御褒美について、「今はとても未だ未だ也」は、それはそうでしょうと思う。あなたが私に、さアそろそろ御褒美を出してもいいと仰云るのが明日あさってと思うものですか。でも、私はなかなかその点では粘るから、きっとやがて三等賞ぐらいには漕ぎつけるつもりです。どうぞそのときはよろしく。段々目標を遠くなさるのじゃないかしら。あなたは教師としては甘くもないし、喰えない方ですから。全く資質というものはあって無いようなものでもあるのだから、日々の実質で決定されます。あることについての才能というものは、そのことをやる努力の過程を愛し得るか得ないかだというようなことをペシコフが云っていることをいつだったか読みました。これはなかなか掴んでいる。人生を愛すのだって、つまりはその波瀾と悲喜とをいかに経て、人間的一歩をすすめる努力を愛し得るかということです。人への愛だって全くそう思う。どれほどその対手に対しては骨惜しみをしないか、努力をよろこび得るか、それだと思う。抽象的なものは何もない。だから文学者一般であるかないかは、生活そのもので語られると云われていること、それについて退院前後のことがとりあげられる意味は十分に腹に入り、真の自主性ということについて云われていることも今日では、自分の当時の気持の分析の上に立ってのみこめて来ています。受け身に、云われることを成程尤もだと思うのではなくて。あなたが、「それはよかった」と云われたことについて、それを中心に書いた手紙ね。あの手紙について、あなたは、私が又あすこで、生活の動きかたそのもので語られるという現実について鈍い勘しか働かせていないとお思いになったのではないかと思いますが、それはそうではないのです。私は、あのころ、それから後も、主観的には努力を惜しまなかったし、根本的と思われることを守って来ていたつもりだから、それでも猶未熟さからの多くの不足や弱点や観念的なところがあったにしろ、やっぱり一応そのことはあなたも認めて下すって、其故一層生活の日々こそそれを実現するという励ましを願ったのです。その気持は判って下されるでしょう?私は、見合って話している間ばかりでなく、いつだってあなたへ視線をおいている。ぴったり、そこを向いています。体ごとそっち向いている。生きたって死んだって、そっち向いている。斜(はす)っかいでも向いていそうに思われたりしているのではないかと思ってはやってゆけない。一心こらしているくせに、それにこりかたまったようになって手足働かさず思いにとられているようなところが時々あるのがわるいところだし頓馬さや非事ム性やらになって出る。どうでもいいやというところからのサボなんかありようないのですものね。いろいろこういうことはいりくんでいて面白い。追々勉強が身につくに従って動きも本質にふさわしい活溌さ、正確さ、客観性を増して来るだろうと感じられ、建設の原理が、手足について来るだろうと思うと、本当に愉しい。そして、勉学はいっそう無駄なく深く、仕事はいっそう骨格をつよめ、肉をゆたかにつけ、而も脈々として動きの中にあり、それに作用する実力をこめているようになったら、どんなにうれしいでしょう。このことと練達な生きて、強固な生きてであるということは全く切りはなせない。ジャーナリスティックであるなしも、けっきょくはここにかかって来るのであると思います。大いに本人はがんばっているつもりで、本質的にはジャーナリスティックな足場のみであるために、生活の現実でもんどりうってひっくりかえった実例を近く見ましたから、実によくわかった。ジャーナリスティックな場合、どうしたって現象的ディテールを追って、それに対して云々する場合が多く、従って文学理論の歴史から見ても、それを或時代から時代へ発展させ押しすすめる集積としての仕事になり難い。キュリー夫人たちが、生活のための教授とライフワークとしての研究を、強引にひっぱって行った態度は立派です。大した意力です。その二つの間で、重点を誤らなかったことが、あの成果を与えている。あれ程辛苦していて、それでもやっぱりフランスね。夏二ヵ月のあの暮しかた。それぞれの社会のもっている生活の幅ということも考えます。私も段々実のある業績を生めるでしょう。勉強をはじめてから、自分にも感じられる精神状態の均衡と密度の高まりがあるから。
つづけて読むものについて、すこし私の考えついたプランがあるからこんど相談にのって頂きます。今のはもう火曜日ごろ終りますから。
きょう私が感覚的な鮮明さで感じたことについて申しましょうか。それは人間にも鉄の鋳物(いもの)のようなのと、鋼鉄のようなのとあるということです。美と粗雑さとの相異が何というあることだろうということです。つやが何とちがい弾力が何とちがい、その緻密さと強度と何というちがいだろうということです。あらゆる分野において、人類の誇りとなった人々は常にその生きかたに後者の要素をもっている。しかも、やはり鉄の出です。混ぜかた、火のいれかたなどが違う。鉄はひとがまぜて火を入れるのだが、人間には自分でそれが出来る。ここに云いつくせぬ味があると思う。
きょう三越からハガキで、この間注文しておいた『私はヒトラーを知った』IknewHitlerが来た知らせをよこしました。あしたあたり届けて来る。そしたらお送りいたします。
書きぬき出来ましたが、スペインは少いこと。支那関係が四十六位のうちあの便覧に出ている著者は十人位。なかでは『支那革命の精神』の著者がよさそうです。(パイパア)ホルクームと読むのだそうです。
明日から二十七日一杯防空演習です。空からいろんなものが降るのですって。きょうは、丁度家にいたので四時に計ったら六度三分です。却って低い位。栄さん、来月の二日ごろ又お目にかかりに行きますって。今もう九時すぎ。これから風呂に入り、床に入ります。では又。風邪をお引きにならないように。 
十一月二十八日夕〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十一月二十八日第七十五信
二十五日づけのお手紙をありがとう。
先ず早寝のこと。それでも八点下すってありがとう。九時に切りあげることは着手しはじめました。おそくなるのではなくて、するのだということ、これは本当だし、笑ってしまった。こういうことからもいろいろフエンして会得することがあります。したこととなったこととの分別が明瞭を欠くところが大いにあるのですね、私の生活に。すべく意志して、したこと。それから、しまいと思ったがしたこと。後の方をとかくひっくるめてなったとする。貴方にはその区分が明瞭だから、したことを「なった、なった」と云っていて、それは、理由づけにならぬ理由づけで、いかにも非理性的に見える。おかげさまで私にも追々はっきりして来ました。だから、なかなか早寝早おきも意味がある。ただつやがましになる以上に。物事に対する態度が学ばれるから。だから、これからはこうきめます。早く寝ようと思うときには十時を励行する。それから、何か特別の必要でおそくなるときは、(例えば三十日には是非音楽をききにゆきたい。十時にはかえれません)おそくなったのではなくて、確に自分でおそくしたのだから、そうとして次の晩でも早くねる。私には下らない弱気があって、例えば私の体のことでもこんなに考慮し、プランを与え方法を示して下さるのだから、一晩だっておそくならない方がいいという気があって、しかも、それなら断然おそくしないということは出来にくく、たまにおそくなる。すると、これこれでこの日はおそくしましたと云い切らず、ついおそくなっちゃってと云う。大変平凡です。何々なっちゃったということは元来好きでもないのだから、以来、はっきりいたします。下らない会や何かで夜更しをすることはしませんが、これからも時折の音楽会と林町ぐらいは十時をこすことになるでしょう。尤も一ヵ月に二度ぐらいでしょうが。それだけは、あらかじめ御承知下さい。マアよかろう、ということにしておいて下さい。手帳を見ると、九月十日に安田さんのところで診て貰ったのですね。十月・十一月とすこしは飛んだが、つづけた。
勉強はほかの本に気を散らしていないから、大体五六時間から七時間あります、もっともそちらからのかえり、よそによる日は減るが。ちょびちょびでは身につかないし、読む吸収力が加速度に加わらないから、それは気をつけて居ります。オイゲン先生の終りの部につれて(第三篇)十八世紀の啓蒙家たちのこと、文学のことをもこれまでよりややまとまった形で学ぶことが出来て、大変愉快です。「永遠の理性」と考えられた(啓蒙家たちによって)ものの実質が、当時の進化しつつあった一定の層の悟性の理想化であり、その矛盾が、光輝ある発火を妙なところ、ナポレオンのポケットへもって行ったことなど、何と教えることが多いでしょう。
啓蒙家たちのことは、文学におけるヒューマニズムの問題のあったとき、いろいろな人がちょいちょいふれたが、真に彼等の理性の本質にふれたものは記憶にない。それはとりも直さず、それをなし得るだけの現代の理性らしい理性がないということです。オイゲン先生は傍ら十五世紀から十八世紀にかけてのヨーロッパ文学史を展望させつつ、予定通り火曜日頃に終ります。そしたら、この間云っていらしたのにとりかかりましょう。
キュリー夫人。私がエーヴの美学云々と云う表現で感じていたもの。バックとの比較も全くです。本当に科学というものの性質をエーヴはつかんでいず、カソリック風なニュアンスで(殉教風に)母の業績を見ているのでしょうね。おっ母さん自身も、云われている点、ちょいちょい見たときやはりあの一行に目が止って、そうではないのにと思ったところでした。こんどいつか送って頂いて通読しましょう。何はどうともあれ、彼女の一心さは見事な姿です。(今四時。たった六度二分です)
きのうの日曜日は、家にいてずっと読んでいたかったが、丸善へ出かけて行って、すっかり本棚を見て、『スペインの嵐』を見つけて来ました。それから、いつか云っていらした『我々は世界を包む』Wecovertheworldという本も見出しました。これはアメリカの今日代表的な海外通信員十六人の短文を、各国のテーマで扱った通信を集めたものですね、御存じだったかしら。いろんなところでの通信をあつめたもので、中には支那に十年いたという米人記者アーベントの「支那通信」などもあります。ジャーナリズムの部に在るのでついこれまで見えなかったのでした。そっちは見なかったから。それに、予約で入ったのは並べないのね。例えば、さっき一緒にお送りしたヘッドライン・ブックの中の『太平洋における衝突』一つも出してなかった。あしたかあさって、あなたのところへ三冊届くわけです。
『スペインの嵐』『太平洋における衝突』『ヒトラー』と。相当御裕福ね。支那の方では新荷なしです。『支那の発展』というのがあるが内容古い。『支那民族』というのがあったが、それはライプツィッヒ大学で何とかいう人が講義したものの英訳です。いくつかの特長をもっていて、支那語と支那思想の独自性、哲学性などということをオイゲンもじりにやっている。
オイゲン先生は今日、その言句の扱いかたの特色とともに何と再生されていることかと思う。尻尾を頭につっこんだとぐろの形を描いている。ああいう伝統みたいなものがあるのですね。これというようなものはない。雑書ばかり残っている形。ドラゴンがどうしたとかオリエンタル何とか。
ケンブリッジ大学でロイ・パスカルという人が講義した『ナチ独裁』という本がありました。スペインに関しては、やはり新しいものがない。連邦制が提案されてからのことは勿論まだないわけですが。五六冊あったが、どうも『今日のスペイン』にまさるものはなさそうです。二人の婦人記者が書いた従軍記『スペインのノートブック』RedSpainishNotebook、『新しきスペインへ向って』TowardsthenewSpainその他。
この本は、予測(国際関係における)をも語っているが、どうかしら。つまりどの位しっかりしているか、それは疑問です。フランス語のものはこの頃科学関係は来るが、文学も社会事情も、新しいものはないらしい。ましてオースタリーの以後のものなどは来ていません。(これは店員にくっついて歩いて調べて貰った)。ロシア語では工業の本が十冊ほど。あとは古い古い駄小説とデミヤン・ベードヌイがまだ批判されずにいた時分の詩集とが、棚の下の方にくっついていました。英語で『五つの現代劇』というのが訳されていたが、それも何と古いのでしょう!十年ほど昔の、しかも或種のものが訳されている。『トゥルビーン家の日々』だの『インガ』だの『パン』だの。もっともっと新しい、健全な、生活を反映したものが出ているのにね。そう云えば、イギリスの期待し得る評論家であったフォックスは三十六七歳だったそうですが、スペインで戦死したのですね。この人や他の二三の人の著作、文学活動が、『タイムス』の文芸フロクの社説で新しき文芸批評の社会的必然を認めさせたのであったのに。戦死したのは去年のことであったそうです。
ドイツの本は昨日はききませんでした。今度いつかそのドイツ語の女の人に相談して見ましょう。本の数々山ほどあれど、ですね。そして、私はこうなると(つまりいく種類の本をも見る必要があると)フランス語とドイツ語がめくらでは閉口。フランス語のはすこしは察しがつくが。ところが語学は仰云るとおり、内容がひっぱってくれなければやり難くて。
丸善から二ヵ所ばかり用事を足して林町へ行って記録を見て来ました。
今日の社会の発展段階にあって、階級が生じている事実は何人の常識にも自明である。現実がそうである以上文学も階級性の上に立たざるを得ない。文学は常に人間のより人間らしい願望を反映するものであるから、今日ではリアリズムがそこまで来ている。そういう意味でのリアリスティックな作家、現実のありようを芸術の中に生かす作家、人類の進歩と幸福とに役立つ作家として活動したい。そう云っている。
根本的に、私はこの間うちからとりあげられている要点(云われた通りを真(ま)にうけたりしたこと。)そのことにあらわれている受動性や曖昧さは十分認めて居ります。その点私は誤っていたし、真の自律性をもたなかった。
生活の庇云々ということは、以上の点との心理的関係で見ると、自分というものをあなたと切りはなした感じで張り出しがついて行ったのではない。そういう点で自分があるべきだけ自主的でなかったことには十分自省が及ばず、それなり、主観の上では一生懸命に、自分の義務と思う成長や仕事で押し出して行っていたので、いつしかそこに相対的な関係での庇が出来て(おじぎされるもので、こちらからもおじぎを返すというような関係での。一例として)、いつしかごみもたまったようなところがあり、そのことを云っていたのだと思います。けれども考えて見れば、あの庇云々のことを書いたのは八月下旬で、当時、私は今ほどはっきりと、或点で自分が見落しているもののあったことを、自覚してはいなかったようです。今私にはそれがはっきりわかった。したとか、なったとかいうことの確然たる内容の相異について、初めに書いた、ああいうことにしろ、やっぱり関係があるのです。
私はこのごろいろんなことから、深く感じるのだが、例えばああいう場合、自分の心の中に、もし自分の愛を疑ったりするようなすき間があったり、そして又私に対して抱かれている愛情について不安をもっていたりしたら、きっともっと警戒的で(自身に対して)あったろうと思います。自分の傾けつくしている情、そそがれている心、それらに一点不安をもたず、その裡にこもってしまうようなところがあって、却って受動的な(客観的には)ことになったと思う。そんなこと位で自分たちがどうなるものか。そういうところ。キュリー夫人の科学は云々というのとどっか似ていたと思います。私は決して人生に受け身なたちではない。そのことは確信をもっています。しかしながら、最も積極的な我々の生活に必要なだけの自律性は鍛練され切っていないのだということは認めざるを得ないわけです。遠い航海には、近海航路とちがうつくりの船が入用なのだから。
これまでのところ、つき離して自分を見れば、むらが多いこと。いいところ、よくないところ、はっきりしているところ、曖昧なところ。自然発生的なごたついている。(いたと書きたいところです、お察し下さい。でも当分は遠慮します)こっちから波が来れば相当もつ、だがこっちからは、自分の重みで不安定。そういう風。本当に何と妙でしょう。自分の妻としての心持に関して終始あんなにつよく主張し通していて、二三ヵ月待てと云われると、それをきいたりして。
私がこの間うち何だか苦しかったのは、何だか感情の問題として、どんな気でいるのかとそういう視線が手紙の奥にもあるようで、そこに云われていることとはおのずから別に切なかった。自分の誤っていた点がはっきり判ったとともに、私の自分での一心さと客観的な態度の誤りとの相互的な関係で、私があなたにも見られていることがわかって、誤りが明瞭に誤りとして却ってはっきり見えるようになりました。あなたが視るべきことはちゃんと見ると云っていらっしゃるその言葉の裡には最も深い愛と励しとも、こもっていて、視るべきことは単に私のネゲティブな面ばかりではなく、私の一心さも、努力も進歩も、それが現実にあればやはり広くちゃんと視られているのだという安心の上に立って、大いにやりましょう。私はどんなに貴方によろこばれたいでしょう!どんなに貴方によろこばれたいと思っているでしょう。では又 
十二月五日朝〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月四日第七十六信
けさ、栗林さんのところへ電話をかけたら、土曜日に面会したのですってね。大体のお話がきまった由。大変手っとり早く行ったこと。木曜日にあっちこっちして調べて、金曜日には立ち話で、はっきりしない、又ちゃんと会って、それからあなたの都合をきいてと云うことになって居たので、けさ電話できいて、何だか意外でした。しかし勿論それでよかったのですが。あなたに会う方をさきと心せいたのかしら。その電話のつづきに三輪さんにかけて、明(月曜日)会うことにきめ、丸善に電話かけ、そしてかえって来て、光子さんとパンをたべていたら電報が来ました。日曜日によくうけつけたと思い、又電報らしく、そちら一一・五〇分ごろ、こちら〇時三十分というのを眺めかえしました。アラ、もうかけちゃったのに、と申しました。あしたお目にかかれば、(かえりに回る約束故)どうしたらばよいのかということが判るでしょう。
ともかく一人きまって安心です。しかし私は、これから様々の経験で、さぞいろいろを経過し、私として学ぶところが多いであろうと考えて居ります。私は事柄の処置というような皮相なことではなく、あなたの指図にしたがって万事をやって行って、そのことから深く学ぶところがあるのを期待している次第です。私たちの生活として、それらを経過することによって。
さて、二日づけのお手紙をありがとう。くりかえしよみ、味い、そして又読みかえし、考える。そういう読みかたをします。より高くより高くと見えるにつれて自身の到達点の現実的な在りようがわかることは全くであり、それは勇気とよろこびとを、湧き立たせるものです。でもね、正直なところ、はじめ一通り貪る眼でよんで、はじめの方の私がいつか何かにつれて云ったことの抜き書きされている部分をよんだら、何とも云えない気がしました。そのわけはね、あすこであれらの言葉はユリの愚かな自負心の例であるかのように示され、とり出され、質づけられて居るけれども、私がああいうようなことを一寸でもかいたそのときの気持は、自負からではなかった。自分がともかく一生懸命にやっているそれを一つも見て貰えない、何かで、そのことが知って欲しい、その気持からいくらかでもああいう反映をもったのでした。それ見ろ、どうだ式では全く無くね。少しはましなのよ、そういう心持、すこしはよろこんでもほしい気持。そういう気持からでした。だから「何という水準だろう」という風に受けられていたことは苦しい気がしました。そして、それだから謙虚について書かれていたというに至っては。私は、栗氏のところへ電話をかけに出て、私の前を走って行くポチの姿を眺めながら、のろのろあの線路沿いの道(あすこはちっとも変って居りませんよ、あなたがよくお歩きになった頃の通り)を歩きながら考え、自分の気持の苦しさについても考え、ここには三つのことが錯綜していると感じました。一つは、こんな心持の行き交いにさえも作用する生活の事情ということ。他の一つは、私が、自分の心持から、そんなものまでを、とるに足る何かの評価であるかのようにとりあげたということにあらわれている客観的な、或は本当に評価というに足りる評価との区分の不分明さ。第三には、それが、愚であるとし、低いとしても、何故すらりと、あなたの感情に、よろこばせたさの心として映らなかったろうか、映らせない何が私のあなたへの心持に在ったろうか、そういう内省。第三のことは、他の場合を考え、特にそう思います。あなたはいつも、その人々の程度での善意だの、好意だの、訴えてゆく心持だのに対して、それぞれの程度に応じて、そこにあるものはそれとして汲みとる方ですから。だから、どうして、私のそういう心持は、その心持として通じなかったろう、何がそれを妨げたのだろう。そう思います。或は私は生意気っぽい調子でそれを云っていたのだろうか、と。人の心は微妙であるから、云われている事より、その調子で多く感じるものですものね。今そのときのことは、私に思い出せもしないしするから、今の私の理性では、第二の点を考え、その点で摂取し成長してゆくしかないと思います。自分に一番よく、一番しっかり、一番ましなものを期待されることは、何とうれしく、又大したことかと、かえりには、全体を愛情と自分のバカさに対する一種のユーモアとで、笑う心持で同じ道を戻って来ました。いろんなことがあるわね。片方はよろこばせたくて、片方は差し出されたそのものを見て益〃、何という水準だろうと思うというのを考えると、でも、やっぱり書いて居て涙が湧く。
作家の変転してゆく諸様相を観察していると、作家というものが、反響に対して敏感であるということから、深刻な地獄に陥って行くのがはっきり見られます。どういう質においても、多くの作家は反響を自分の耳にきいて自分の存在を逆に確めて行くような、病的な傾向をもっているから(不健全な知的分業の結果)、とかく立役者になりたがり、反響の大きい場処に自分をおくことで自身の文学性がつよまり拡大されたように誤解し、時代時代の円天井の移って行っている場処から場処へとくっついて動いて行く。そのことは、この数年来の、真の文学性の喪失と共に一層目立つ特色です。だから、一般に云って、芸術家の対外的関心(その中には様々の虚栄や身振りとともに名声欲も入っている)というものは、作家たちの場合に、ジャーナリズムのわるい面に結びつくと共に、致命的に作用して、名声と共に多く馬脚を現すのです。
自分の場合を考えると、複雑ですね。全然予想も希望も期待もしていなかった(若い若い)ときに、そういうものが(よかれあしかれ)殺到して来て、自身としては寧ろ逆にそれらの一時性、野次馬性、薄情性を痛いように感じ、そういうものが周囲につくろうとする定型をやぶりやぶり生活して来た。しかも、いつも謂わば人目の中に於て。そういうひっくりかえしの形で、それに対しては辛辣に、意地わるに、横紙やぶりにならなければ真に成長出来ないものとして、私に一種の名声とでもいえば云えるようなものがついて来ていたわけです。きびしく云えば、破るという意識のしかたにしろ既にそれが在ることを認めているわけですから、そういう点では何等かの影響を受けていることが云えます。一生懸命に何かをめざして歩いているとき人はその道ばたに、どんなゴミがおちていなかったか知らないで過るようなもので、全生活を一つの目的に向って緊張させ、それに向って進めば、それがぐるりに立てる音に気なんか向かない。そういうものでしょう。所謂凹みにたまるゴミです。凹みという表現はなかなかうがっていますね、いろんなところに事情に応じていかにも動くのが見えるようで。青鞜流というのには、歴史の質の点で、新しいものとの対比上そう云われる範囲のものであるが、事実上の年代は随分違いますね、あの時代にひっかかっていないということは、今日における相当の幸事です。
ここまで書いて紙を数えたらもう四枚半すぎてしまっている。ところで、いくつかの課題というようなものの中で、この間云っていらした江古田の人のことを、又書かなければならないのでしょうが、私は、どちらかというと受け身で、又書いて御覧と仰云るから、書きませんという理由もないから書くが、どうも妙だ。やがては足かけ三年も経たこと、細かく思い出せないようなこと、私もその渦中にいたけれども、真の当事者たちは勝手に自分たちの生活を展開させ、それぞれ勝手に子供を生むような今、どうして、このことは、こんなに私たちの生活の中にだけのこって、何となし妨害物めいたものとしてなければならないのでしょう。そして、私は何故、又くりかえし書く、ということ、それ自体に明瞭に嫌厭を感じる(あなたがそうくりかえしくりかえしふれていらっしゃるからには何かがあるに相異ない。しかもそれがはっきり、成程その点がそうかと、書く毎に自分ではっきりして来るというのでないので)のに、書かなければならず、あなたとしてお書かせにならなければならないのか。それはこの間うちから考えられていることです。本当に何なのだろう。不愉快であってはいけないことだろう?と仰云ったわね。そのことには、単に私が甘くて、名士好な人物に下らなくおだてられた(私として最大限の表現です)のが不愉快であるという以外に、ニュアンスがふと感じられたのでしたが、私のその感じは当っていたでしょうか。もし当っているとすれば、猶いやね。猶書くのがいやね。何故なら、そういうニュアンスに対して何とか書くべき本来の何ものもないのですもの。あのことは、形にあらわして書いて見れば、抑〃(そもそも)は、あなたへ特別心づけて本を送っているとか、便りをしているとか聞かされているので、それにC子さんとのつながり、Rちゃんとのつながりもあり、出て来て病気で、本もいるのに手に入れ難いらしいので、謂わば私としてはお礼心にやった。すると忽ちS子さんとごたごたして、私の知らないところで進捗(しんちょく)して、事後報告をされて、S子さんは下宿代が送られなくて家がなくなったとさわいで、目白へ一緒に来たわけです。あのこと、このこと、ちょいちょい違って私が書くことで、何かをよけているためそれが生じているかのようで不愉快なの?そうだとすれば困ったと思う。だってそんなことは勿論計画的な結果などでありようのないことなのですものね。そして、私として、あなたに其那ことがわかっていないと思えないのは当然のことでしょう?この間、あなたは、「そういうことで弟の人にどういう特別な態度をとるべきではないから」と仰云ったが、私は自分たちの大事な生活感情の中に、何かを生じさせたのみならず(当時そのことで私は随分二人を憎悪した)今もなお砂利(じゃり)みたいなものを一つでものこしている、或はいたことでは平然とした気分ではありません。
自分たちが世話になろうとすることでは、こちらの被害なんか一応考えても見ない。私としていくらかでも被害を蒙ったのは、対人関係の未熟さだが。そういう工合に、喰い下ることが出来るかと思わせた私の生活環境(林町という構え)についても自省するところはあるが。私が、日常生活の微細な点に気を配っていて、例えば会の流れでも、稲ちゃんとか、壺井さんとか、そういうシャペロンなしではぶらついたりせず、悪意や軽薄なゴシップの生じる小さい隙間をもたないようにしてやっているのに。いやね。本当にいやね。悲しいとか切ないとか云うのでなく、明瞭に、余分の胆汁の分泌が自覚されるような「いや」です。あなたもきっとこういう風においやなのでしょうね。機微にふれて云えば、こういういやさは親密な互の触れ合いで、そういう感覚の中では消散されてしまうものであるとわかっているから、こだわりとしてのこっているのが一層いやね。我々のおかれている事情に、どこかで一杯くったようでいやね。
私としては、心からの感情表現として、こうしか云えない。いやな思いをさせてすみませんでしたが、私の当惑という程つよくはないが困った、いやな気持も分って下さるでしょう。早くそんなもの、私たちの間から弾(はじ)き出してしまいましょうよ。私に何にもくっついているのではないのよ、二人の間へわきから何かが入ったのです、そうでしょう?くりかえしくりかえしふれることでマメやタコにしてしまわず、一刻も早く消し弾き出す種類のものだと感じます。それが健全な生活力の姿だと思います。独り合点かしら。
――○――
「オイゲン先生反駁」は実に面白かった。そして有益であり、面白さに於ては勉学はじまって以来でした。ああいう風に全面にふれているところに独特の妙味があります。この間教えて頂いた哲学の本にうつる前、同じ一冊の中に入っている住宅についての文章をちょっと読みます。何しろ昨今住宅問題は到るところで話題となって居る始末です。やすい貸家は殆どない。一方『朝日』の広告にしろ、売家ばかりです。ドンドン売り家が出ている。近年なかった現象です。十条の方などでは女工さん「帰ってあんた眠るだけですもの、一部屋へ三人ぐらいおいて十七円ぐらいずつとっても、たのんでおいてくれって云いますよ」というボロイ儲けの話も耳にします。興味があります。この文章のわきにひかれているのは、貴方の線かしら。人間生活のあるべきようという計算からいうと、八十円の月収の人は家賃十五円で、しかも十五円の家賃の家がいかにあるべきかと云えば、広い庭があって、子供部屋までがあるんだから、どこのことかと思うと、文学史をやる高瀬太郎という人が云っていた。結婚して家を持とうとしているので実感があるのです。さて、では表を添えて、これは終り。
起床計温就眠計温
21六・五〇六・五十時十五分六・四
22六・四〇六・五十時十分頃六・五
23七・〇〇六・四十一時六・四
24六・三〇六・四十時六・三
25六・四五六・三(この日から四時ごろ)九時四十分六・三
26六・五五六・五十時六・四
27七・一〇六・三十時半六・二
28六・二〇六・二十時五分位前六・三
29六・一〇六・四十時六・三
30七・十五分六・三(音楽原智恵子のピアノ十一時四十分)六・四
原智恵子という人は初めてききました。有島生馬がパトロナイズしている人で、近頃何とかいう映画監督と(パリにいた)結婚した。井上園子のピアノと全く正反対で、音色もテムペラメントも、井上がウィーン風・貴族的・近代アカデミックに対し、原のは所謂箇性的で、音色は極めて鮮明で現実的(やや玄人的スレさえも加えて)、原が意識して井上園子と対比色をつよめていることが、なかなか面白うございました。 
十二月十日午後〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十日第七十七信
ベッドの上で一寸一筆。
お休みにしないように気をつけていたのに、やっぱり駄目で、どうもすみません。
熱は大してなく、昨夜一番高かったと云っても七度五分でした。今日は六・八位。喉や鼻よりいきなり胸へ来て(今年の流感の特徴です、いやね)湿布さわぎをやると困るので、自重している次第です。予定では月曜にゆきたいが、どうかしら。
もし熱があって、感じが熱っぽかったら気をつけてやめます。
この間うち、右の眼玉の底が妙に張って来るように痛んだので、あら盲になったら私は大変こまる、あなたに触って話すということが出来ないのだもの、と考えていたら、それは風邪の先駆でした。
きょうは太郎の誕生日で、晩食に招(よ)ばれていましたが、おやめ。ひどい風が吹いている。どうか、呉々あなたも御気をつけて下さい。よくない風邪のたちだから。グリップは妙で、後になる程重い。だから今年はもうこれで、厄(やく)のがれをしたとよろこんで居ります。
けさ、お久さん、火鉢の火を入れに来たとき、真先にお手紙をもって来た。どうもありがとう。本当にありがとう。この手紙は確乎たるものを語っていると共に、大変心持のよいものをも含んでいて、うれしく拝見しました。話すに足る対手である最小限進歩線であるというところを読んで、思わず、そりゃそうだろうと自分に云って笑ってしまった。全くそうだろうとしか云えない。斯うはっきり云われているとズッパリして、快活な勇猛心を励まされます。
今年の暮はね、私は特別な心持で、来年を迎える仕度をして居ります。我々の生涯に様々の歳末がめぐって来たし来るであろうが、今度はその中にあって、やはり特別な心のこもる一つです。心からあなたの健闘を祝し、自身の向上への努力とのために、簡素で、真面目で、しかも明るい希望の射し通した新春を迎えようと思って、仕度をして居ります。自分の心持もややそれに適したまとまりが出来て来たし、経済的な面も処理し、自分で正しいと思えない方面へ文筆的に利用されるよりは、その拒絶の結果が、日常性の中でどのような形体をとって現れようが、それでよいというところに落付いているし、自分の真の成長と発展とのためには、益〃ぴったり益〃集注的に二人の生活というものの裡で吸収、呼吸しなければならないことも愈〃(いよいよ)明瞭となっているし、来年は、大変たのしみです。今年の後半に、どうやら身につけた前提的な日常生活の条件(早ね早おきからはじまって、経済的な面での処置など)の上で、来年は勉学もすすみ、生活に生じて来る様々の現象にもやや可(か)に処すことが出来るだろうと思って。
その舟がどういう舟とは云い現わせないが、私は、あなたの乗っていらっしゃる船の中へ、一層身を落付けてのり込んだ気持です。よく手元を見ていて、足の構えを見ていて、そこから学び、やがて一人前の漕ぎ仲間となれるように。凝っと見ていて、考えて、会得してやって見てゆく、そこに何とも云えないたのしさとよろこびを感じます。
あなたは今年のお歳暮に百合子論を下さるわけにはゆかないでしょうか。最も真面目な意味で、総括的に、展望的に、そしてきょうの手紙のような立派さで書かれた百合子論は実にほしいと思います。低俗さ(あらゆる面での)を、私は否定しません。否定出来ないことだもの。低俗さがそのものとして現実的に納得批判され、高められるためには、より高い規準こそ必須で、当人は主観的にはそれが分っているつもりで、実はいつしかそのものが低まって来ているような時代的特徴について、私は主観的なものに立っていて、なかなか承認出来ない形であったと思います。科学的であるか、科学的明確さに立って現実を見ているか、それとも主観的な道義感みたいなもので立っているかの相異であって、私にはこれまで多分にあとの要素が作用していたと思う。ここが、なかなか面白いというか、危険なところで、あるところまでは推進的な力として働くが、一程度に達すると後退、固着、固執の方向をとらせるものです。あなたの内的状況と比べて、こういう私のゴタゴタを見るとき、きっとあなたには、どうして一目瞭然、理性がそれを現実の地辷りやくねくやを目撃しないかと、不可解のようにお思いになったろうし、なるでしょうね。道義的な主観性というようなものはエーヴやその母にさえもあった。すべて十分の科学的視野に立たぬものの生活につきまとうものです。
本当に百合子論考えておいて下さい。出来たらどうかおくりものとして下さい。真の納得やハッと分ったというのは、本人がその機運まで迫って来たときでなくては真価を十分発揮しないものですが、私は少くとも半年前よりは多くの摂取的条件を、自身のうちに増していると信じますから。紙のひろさに制限があるのに勝手なお願いのようですが、頂けたらどんなに有益でしょう。
まさ子さんがかえりによってくれました。仰云る通り気をせかずにすっかり直してからゆきます、月曜日はどうだろう、今のところ自信がないけれども。
届けがすんだそうでようございました。徳さんが一人心当りを知らせてくれることになって居ます。出来たらダブルより別の方がよいから、風邪を直してそちらをしらべて見ましょう。
栄さんがお手紙見せてくれました。そういう「大志」は婦人そのものにも日常的には歓迎されないらしい云々とあったので、おや、何だか私がそう思わせたようでわるい、と笑いました。『キュリー夫人伝』についてふれられていたから、あちらにも廻すつもりです。
達治さんは無事。お兄さんからの本もうれしいと手紙が来ました、安心したこと。久しくあちこち動いていた様子です。お母さんからおたよりで、元いた運転手でずっとトラックをやって行くつもりとのお話です。では又。風邪の御用心呉々願います。 
十二月十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十一日第七十八信
『革新』という本位田先生主宰(しゅさい)の雑誌から原稿を書くようにと云って来ているので、それへ断りの手紙を書きに一寸起きています。
この雑誌、はじめ「科学主義工業」から出せと云っていて、あと、そちらで断ったら一万五千円の違約料をとった由。
私の風邪は熱朝六度七分、夕方五時ごろから七度五六分。大したことのないくせに気分がさっぱりせず。さっき佐藤夫妻が見舞に来てくれて、エキホスの湿布を胸にしろということになり、そうすると、冷えるといけないから猶床に入っていなくてはならないから一筆。
明日はこれではあやしい様子です。さっさと熱を出すなら出して、汗かいて、さらりとしてしまえばよいのに。
火曜あたりから怪しかったから、やっぱり一週間かかるつもりかしら。栄さん二十日、さち子一週間、鶴さん無慮一ヵ月以上です。きょうの予定は、湯気を立ててある二階の部屋は出ないで、折々は起きようと思っていましたが、駄目ね。
余りひどく悪くないくせに、臥ているのは却って気がもめる如くです。明月曜はもしかしたら栄さん、午後に行って貰うかもしれません。来てくれれば。咲枝は兄の一馬(カズマ)が、やっとお嫁さん貰うので(35歳)その仕度のため、(郵船のある横浜へ家をもつので)出かけて大さわぎをやっていて、迚もその気にはなれないから。式は十三日。陸軍中将の令嬢の由。
『都』をこの頃とるようにしました。文芸欄で高見順が今日の文学の他力本願主義、後退の跳梁について書いていて、他力本願(題材主義)で、題材のいいのを見つけて、しかもそれに安易に当っている諸作家の態度(生産主義文学、農民文学等)を難じている。高見のことであるから、安易ならざる態度は何かということになると云えないでいるが、今日の文学(一九三八年後半)の特色にふれていないことはない。
文学批評の衰退について、今は「槍騎兵」にかかれていて、真の基本的理論の展開がない、現象主義であってこまると云っている。これはやはり一つの反作用として興味あるあらわれですが、さてその理論となると、忽ちぶつかるものがあって、なかなかの難問題です。どういう意味を目安において、土台の理論と云っているのか明瞭でないが、今日の文学に対しては、先ず作家性と小属吏性との区分から明らかにしてゆかなければならないのだから。外部的にぶつかるものがあるばかりでなく、そのために内部的にぶつかるものを大多数が感じている。ここにデリケートな今日性が在るというわけでしょう。
この間あなたのお手紙にかかれていたジャーナリズムを通して要求にこたえることと、プログラムの有無のこと。念頭にのこって様々に興味ある考えをのばさせます。しゃんとした理論の要求も要するにここのことですから。白米食を全廃せよ、いやそれは保健上有害である。では云々。そういう昨日、今日、うつる提案につれて文学も文学であることを急速にやめている。
本当にプログラムの問題は面白い。私は文学におけるこの問題の正当な健全な発展と、自身の昨今の勉学とを全く骨肉的なものとして理解しているから、その統一的な成長については丁度、まだどういう答えになって出るかはっきりは云えないが、その質は既に決定された或科学的実験をやっている最中のような注視と観察とがあります。益〃科学性をたかめ、真実のために没我でなければ、文学のプログラムの真髄はつかめようもない。そこまで到達し難いから、文学の諸問題にしろ、現象主義でいけない、いけないという現象性の範囲に止められてしまっているのであると思います。
丁玲に『母親』という小説があって訳されている。どんなのでしょうね。こちらで買って見ましょうか。コヤさんの訳した『馬仲英の逃亡』というのもある。
十二月に入ったら書くことはじめると云っていましたが、本年一杯は読む方専門にしました。現象主義でいけないという限りでは仕方がない。それに、私の大掃除の方も次第に底をつきかけて来ていることが感じられ、それは一方により明確にと進む作用なしでは実際の摂取が行われないから、せっせとよむこと、最も自省的によむこと、只今の時期の自分に百枚書くにまさると感じますから。
そして、今年の一番終りにあなたのお手に入るよう体すっかりちゃんとしたら、私の方からも、総括的な自己省察のトータルをお送りいたします。これまで、私が、いいとか、わるいとか、そういう感情的なものにこだわっていたこと(前便、きのう一寸ふれた)が、この頃よく自覚されて来ているから。いろいろ細かく、心理的にかいて見ましょう。一度ですまず、二通に亙るかもしれない。これらが本年度の私の最も価値ある収穫となるだろうと思って居ります。ではこれでおやめ。もし、あなたも風邪気で咳が出て、胸へ響くようであったら、すぐエキホスの湿布をなさいませ。あなたにはそういう時、特に湿布が大事です。どうぞ呉々もお大切に。弁護士のこと、衣類のこと、本のこと、大体一片ついていて、こうして動けないでも、些かは心平らです、本当によかった。『支那地名人名』は十八日に出る由です。 
十二月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十二日
エキホスがきいて胸の気持が楽になり、きょうは例の五時すぎに七度三分。喉も大分ましです。変な声を出して耳の中へ自分の声が響いてこまりますが。寿江子それでもきょうお目にかかりに行って。たまには私がかぜをひくのもよいかもしれない、彼女のために。大変丈夫らしく見えていらっしゃるとさち子さんも云い、寿江子も云い、栄さんも云ったから、本当なのでしょう。うれしいこと。私は毎日よくばった気持で見ているし、細君と友達とではそちらの気分も又おのずからお違いになろうし、私にはなかなかまだよくばった望みがありますが。
明日も行けない。繁治さんが時間のくり合わせをつけて何とかして行きたいと、先日から云ってくれて居りますから、誰も別の補充は立てず。但、用事を手紙で申します。
弁護士のこと。別に二人の人がわかりました。一人は小沢茂氏。この人は初め栗林氏と共についていて、後ことわられた人。理由はやはり同一の由です。明治大学出?か何かの若い人。私に西巣鴨で会ったことがあるという話の由。私は、ではあの人だったかと背の高い若い人が思い浮ぶ範囲です。話らしい話はしたことなし。ことわられたからそれきりになっているが、やる気はあるのだそうです。一般的に云って。
森長英三郎氏。年や学校についてはわかりません。昔武麟や立信がお金のことで立ったとき、扱った人の由。近くは大森の人の御主人の関係でもう終ってかえっている女の人の事件を扱ったそうです。女の人というのは誰のことであるか不明です。もし大森のひとであれば自分で知って居り、又思い出すでしょうから。この人は音羽に住んでいる由です。
どうかお考えおき下さい。大森のひとの経費は、大阪につとめている弟さんが支払うことになって居る由です。
風邪になってしまったので、どちらにもまだ手紙はかいて居りませんから。それも御承知下さい。私は今度は木曜日には行きたいとプランを立てて居りますから。
寿江子の伺って来た本のこと、わかりました。私も興味もって居りました。しらべましょう。文芸附録も『ロンドン』より『ニューヨーク・タイムス』にしようかと考えて居ります。利用する価値は『ニューヨーク』の方があると考えられますから。アメリカは国際翻訳協定に入っていませんし。
いかにもかぜひき女の部屋らしく、きょうは人形だの古風な糸でかがった大きい手毬だの、琉球生の野生虎の尾という植物だのが机の上にあります。ベッドから見て珍しく風変りな光景です。人形は満州へ行った女の人の土産、大きい手まりと、紺色支那やきの硯屏(けんびょう)の前においてある、赤土素焼の二匹の狗(いぬ)と虎の尾は琉球の女の人の土産もの。
○唇のところに小さい風ホロシが出来。風ホロシが出来ると熱が下るのですって。
その机の下に大アルミニュームの鍋が火鉢にかかっていて、湯気を立てている。半分おき上ってふとんの上に、おなじみの水色のエナメルのスタンド、竹早町以来のを立ててこれをかいて居ります。こんなにベッドにへばりついているところを見ると、やっぱりまだですね。「癒り際に気をつけるように」と仰云ったときいたから自重いたします。
今度のかぜは、私にとっては天井を眺めて、考えつづける時間が生じて非常に仕合わせとなりました。
きのうの手紙に書いた自己省察のトータルは、やはり年のうちに、そちらからの御返事もほしい心持があるので早くかきます。百合子論は私の百合子論のあとで頂くようになってもよいと思って居ります。それも亦よろしいでしょう?
では弁護士の件お考えおき下さい。
栗林氏の方は記録をとりはじめ(写し)たそうです。割合早く仕上るだろうとのことです。おひささんが夕飯をもって来ました。では又。自分がカゼひいてグーグー云っているから、猶そちらが気になるという次第です。自分で自分の看護婦をやって本当にそう思います。
あした繁治さん行けるかしら、どうかしら。きょうは風がなくておだやかでした、どうかお大切に 
十二月十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十三日第八十信
きょうはちゃんと着物をつけておき出して机に向って見たところ、頭が丁度西瓜(すいか)のような感じになって来て(つまり、たてにすじが入っているような)又床に戻ってしまいました。わきに小卓子をひきよせて書いて居ります。熱は朝六・六、ひる六・八でした。それ故明日行ってくれる筈の手塚さんにハガキを出してことづけをたのみました。
そちらからかえって来た座布団、まるでかたくなりましたね、余り綿を入れすぎていて、かたまってしまったのでしょう。あれは去年咲枝がおくりものとしてこしらえ、大いに奮発して綿を入れさせ、哀れや、過ぎたるは及ばざるが如き有様ですね。しかしクッション代りとしては或はよかったのでしょうか。今年のは、大変よい模様でしょう。闊達であって品もよい。
『日本経済年報』の最後(本年度)が来て、なかなか面白うございます。事情をよく説明する引用としてつかわれている本。
斎藤直幹『戦争と戦費』、サヴィツキイ『戦争経済学』もうおよみになった本でしょうか。或は興味がおありになるかと思って。もしおよみになるようでしたら送ろうと思いますが。
きょう机に向ったのは、一種の激しい執筆の欲望を感じたからで、もし出来たら私の総ざらいをかきはじめようとしたのでした。でも、西瓜では駄目ね。南瓜(かぼちゃ)頭というわる口があるが、西瓜はまだまし。(なかみがたべられる)
きょうは寿江子一日滞在。お正月はここでしようかというようなことを云って居ります。そうなれば私はやや便利です。今年は、どこか一生懸命な心で我々の正月を考えていて、いつものように全く助手なしでは、時間がおしくなって結局何もやらないでしまうから。私たちのところで正月をしたことはこれまで一度もない。ですから、それもよいでしょう。島田のおうちでも、野原でも、それぞれに今年は正月というものを、特別な感情で迎える仕度をしていらっしゃるだろうと察しられます。
年内に(正月の十日に入営故)隆ちゃんにお祝を送りとうございますね。いろいろにつかえてお金でもよいでしょう?このこと考えておいて下さいまし。達ちゃんの入営のときは、十円お送りした(達ちゃんに)と覚えて居ります。新しい丈夫な財布を一つ買ってその中にカワセを入れて隆ちゃんに送って上げましょう、ね。達ちゃんは雑誌の他、岩波の『坊っちゃん』『小公子』その他送ったから冬ごもりの本はあります、ハーモニカもあるし。
早く癒そうと随分大切にしているのに、ダラダラと永いこと。それに私は大変珍しい経験をして居ります。これまで盲腸をやったときも何かひどい熱を出したときも、土台は疲れが原因であったと見え、横になっていることにちっとも苦がなかった。夜も昼もよく眠って、夕刻から段々夜になり、本当の眠る時刻が来た刻限に、一種の焦々した心持を感じたりしたことなかった。初めて、今度はそういう気持を経験して、寿江子曰ク、「くたびれでない病気ってそういうものよ。」
そこでいろいろと、考え、私が今まで思って見ることも及ばなかった、そちらでの病床の気持について、新しく感じました。実に大したことであったと思います。いつかいつかのお手紙に「知らないで安心していたこともあろうし、知らないで心配していたこともあろう」とあったのをハッキリ覚えて居ります。前の方が実に多いことですね。それでもすこしは丈夫になっているので、熱もこの位だしするのだろうと思っている。益〃病気がきらいです。本年は殆ど病気らしいことはなかった(夏ごろのあやしい工合はともかく)
よく気をつけて居りますから、どうぞ御心配なく。栄さんは私へのお歳暮に毛糸のショールをあんでくれました、それをまいて通うように。あなたへのお年玉はまだ秘密。ありふれた、実際的なものではありますが。では又 
十二月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十五日第八十一信
けさ十二日づけのお手紙着。ありがとう。「パニック的な日頃の手紙」というところでは何だか笑ってしまいました。全く相当のものですものね。でも、この風邪のおかげで、私はやっと一歩前進をとげ、パニック的なるものの本質をとらえることが出来るようになっているから、大丈夫だし、或意味では、パニック的なものも将来遠くなく一層高められた調和へ到達し得るでしょう。
お見舞本当にありがとう。特に最後の一句は、顔と体とがポーと熱くなるような感じで頂きました。それは、わかって居ます。そういう場面を想像すると、嬉しく、そしてすこし極りがわるい。私は自分の病気については、実に誇れないと思っているから。反対に、位置をかえた互の姿において想像すると、やっぱり平静に思い描くことは出来ない。どんなに私はあらゆる種類の薬をかたむけて、あなたに注ごうと熱中することでしょう。私は決してわるい看護婦ではありませんから。
さて、きのうは、濛々(もうもう)たる砂塵も車のおかげで無事に、かえりました。ちっとも熱も出ず、昨夜は初めてずっと六度八分で、大層気分よく、安眠しました。今朝も六・五です。平常は、時に眠りの足りない気分のときもあります。自然のことながら、床に入ってすぐ眠らず、益〃頭脳活溌というときもありますから。でも、十時以前には、もう迚も風邪ででもなければ床につけず、朝おそくなるまいとするし、夜眠れないのがいやで昼寝せず。この間うちのように日中歩きまわる用の方が多いと、くたびれかたが、机に向っての一日と異って、眠る時間はややすくなめでももつらしい様子です。但、朝すこし眠り足らず寒い気分はかぜのもととわかったから、これから七時にしましょう。それよりダラダラくり下げということはありませんから、御安心下さい。今は、別よ。今は暖く日が入るようになってから、起き出して居りますから。
自分でやることについて。その通りです。あの時は全く閉口してしまった。私出歩きつづきでしょう?すべての小包発送まではいつも全部自分でやって居ります。留守の時間、日に乾す位のことは、お久さんにとってもあたり前の割前ですから。お久君の責任だとは云えもしないで閉口と首をちぢめていた所以です。
住宅問題をよみはじめていること、前の手紙に書きましたが、これも亦、大いに教えます。これは、問題のそもそもの意味、扱いかた、正しい理解において問題はどこに問題をもっているかということについて考えかたを示しているから、大変面白い。プルードンが、何故住宅問題をとりあげるかという、その動機の分析は、有意義です。これから哲学に行き、そして経済の本二冊に進みましょう。
そして、私は外出出来ずにいる間の一つの仕事としてこういう日常の手紙とは別に、この間から思っている一つの研究を書いてお送りします。これまで書いた夏以来の手紙とは、全く違った態度が自分に生じ、やっとこれらの諸課題の扱いかたがわかり、こういう風でなければ結局、底は突き得なかったということも会得されました。それは手紙であって、而も手紙でないようなものになるでしょう。私が自身について眺め得る最深の観察と客観的な追究の可能が自覚されて居ります、かくて、私の思考力は最も真面目に発揮されるであろうし、私たちの結びつきの並々ならぬ意味も活かされるであろうし、各面から、決して成果なくはなかろうと期待いたします。あなたの、こわい、こわくないということも半ば笑い声で、半ば本心で互の間にかわされて来ましたが、こわいことは当然で健全である部分と、私にこわく感じられるということに、或私としての問題もあるのです。そういうこともこまかく考えて見ます。なかなか興味つきぬものがある、心というものについて。又愛情というものについて。くれにふさわしく、私はやっと本式の笹箒(ささぼう)きをこしらえ、それは柄も長くて丈夫だし房々もしているし、きっと心のこりなく新しい年への大掃除が行えると信じます。
これから毎日午前の間、その書きものをやります。窮局において、やっぱり実にいい歳末であると思います。かぜも亦大いに価値がありました。
私は可笑しくて、この間うちかぜを深めまいとして吸入をやったら、いくら顔が湯気であたたかでも、それに比例して背中がゾーゾーなって、一向よくなかった。妙なことですね、子供のうち吸入というものは何だか泣きたい程ムンムンとあついものであったが。
寿江子、私のやるべき外まわりを引きうけてやってくれるので大助りです。今頃九段をのぼっているでしょう、弁護士のところへ金を届けに。
ああそれから、そちらで〔この後約一行半抹消〕『馬仲英の逃亡』およみになったのですってね。てっちゃんが送ったのですってね。スノウの本には馬一族のことが、展望的に出ていて、丁度、この本に扱われていることがらも大略の輪郭(外交上の意味の点から)見えて居りました。
柳田泉の『世界名著解題』どの位お役に立ち得るかしりませんが送ります。(只今注文中)
十二月一日から十日間の表。どうぞ御勘弁ね。帳面うつせばいいのだが、今すこし面倒ですから。
きのうは、お元気らしいのがはっきりわかっていい心持でした。この間うち、自分が妙になりかかっていた故か、どうもあなたが湯ざめしたような顔つきをしていらっしゃるようで気がかりだったけれども。それをしかも興ざめに通じさせて感じたりするから厄介ね。では益〃お元気に。私も安心して引こもって癒します。 
十二月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
第八十二信(A)
さていよいよ総ざらいを始めます。これを、私は真面目な文学上の仕事に向うと同じような態度でやりたいと思う。文学の諸問題にふれてゆく場合、或は小説をかく場合、私たちは一々読者の反応ということについて拘泥しては居ない。描こうとする対象の世界に没入して、最もその真髄的なものを描き出し形象化そうとする。その過程に創作のよろこびを感じる。これはそのような態度で扱って行きたいと思います。自身の内外の中に沈潜する。そしてその推移を辿ります。疑問と答えとを捉えて行ってみよう。自身の愛するものが、直接それによって、どう顔つきを動かすかということにこだわらず。
夏以来いろいろと大切な問題が出ていて、それについて自分は決していい加減な気持や態度や気休め的答えはしていなかったと思う。真面目にふれ、とりあつかって来てはいるのだが、回顧して見ると、まだまだ強力な全面的把握に到っていなかったしその真面目さも部分的であり、トーンにおいては傷心的でもあったと思う。飛行機が着陸しようとするとき段々に下降して来てつと地表に滑走輪をふれるが、弾んで又はなれ、はなれて又ふれて来て、そういう運動をくりかえす。いくつかの問題とそれに対する自分の心持とはいくらかその関係に似ていたところがあるように思われる。或とき触れる、相当つよくふれる、地面に深い跡をのこす。だがやがて又はなれて行っていて、或ところで又ふれる。深浅に差があり、間がとんで、いずれにしても外部的であることに違いはない。真面目さと云っても、どういうものであったろうか。問題の核心と自分の内部とがぴったり一致して生じる落ついた、平らかな、追究的なのびた力ではなかったと思う。不安が真面目にさせる根柢のモーティヴであったと思う。不安で、軽々した気分で扱えもしないし、はぐらかすことなどもとより出来ない。しかも問題を出される真意も、それを受動的に受けて苦しんでいる自身の心の内部をも、よくわかっていなかったと云える。しかも一面では、自分がとかく云われる言葉を感情的にうけること、それを全体とのつり合いの上で感じず、局部的なものを全部的にうけること。その反応のしかた、答えかたも、どうも自分の一番健全なところが張り出され切らないことが苦痛に自覚されていた。
風邪で臥て、天井を眺め、朝から夜まで絶えずそれらの点を考えつづけていた。肉体の妙な不調和で夜もよく眠らない。従ってその間も頭からぬけない。そのうちの一日、栄さんが一つの手紙をもって来てくれた。それを読み、キュリー夫人について書かれ、所謂家庭での点の辛さについて、婦人の能力について諦観的限度を認めていないということ、しかしその大志は婦人自身によっても日常的には歓迎されないらしい、と書かれているところを読んだら、ずっと雲が追っかけ追っかけ走っていた空の底に、全く碧く澄んでいるより高い空の色が見えた感じがして、極りわるい位、くりかえし手にとりあげて読み直した。
果して、自分は大志によって諸問題をとらえ、それを噛みこなしていたろうか。女房的なもの、相対的なもの、互の機嫌に連関して感情的に作用するものとして受けていたところはなかったろうか。自分たちの間に生じる様々の問題は、根柢にあっては常に大志に根ざしているものだということは、何年かの生活とその蓄積とによってわかってはいるのだが、そうわかりつつ、直接の扱いは相対的で、大志によるものという考えかたは或意味でのマンネリズムに堕してはいなかったろうか。さもなければ、ひとにあてて書かれ、一般的に云われているこの言葉が、どうしてこうも新鮮に、ブレークの空のような色で自分をうつのだろう。そして、自身の成長に限界をおかれていないという歓びの感覚が、おどろきの如く感じられるのも、何故であろうか。
それからは、やや焦点がきまって来て、この半歳における自身の受動性について考えられて来た。積極的に打開し、解決しようという努力はあるのだが、それが発揮されなかった諸原因について。自分の手紙につきまとった或る当てのない痛心や卑屈さやについて。ちっとも求められていたものでないそれらのものが、書いた字数の過半を埋めていたことについて。
七月下旬、キンシカイジョケンジという電報が来たとき自分はサーッと門が開いて、そこに手をひろげてサア来ていいよ、という声をきいたように思った。頭からとび込むような気で、謂わば眼をつぶって全感覚をうちまかせて、空気そのものからさえよろこびを吸い込もうとする貪婪さで歩き出した。
抽象的な形で、うれしさがつづいていたと思う。さて、いよいよ「是好日(これこうじつ)」のうちつづきという単純なむさぼりがあった。
ところが、現象的には却って思いがけない程昔のこと(自注14)が今とり出され、それについての実際うすれてしまった記憶の喚起が求められ、又、何年間かの生活態度について、急襲的な批判が起って来た。
自身の生きかたがこれまで間違っていたとは思わず、より成長するために新たな刺戟、脱皮が必要に迫っているということを自覚しているところまでは敏感でなかった状態であったから、これは雨霰(あめあられ)と感じられたのはさけ難いことであった。同時に、主観的な態度では実に二人の生活を大切にして来た。これまでの何年間か。些の誤解や喰いちがいやの生じないように、波浪の間に在るからこそ、互の生活こそは玉の如き玲瓏(れいろう)さにおこうと努めて来ていて、それは実現されていると思いこんでいた。沢山の生活の語りつくされていない部分が、毎日会えるようになって語られ、時間にすれば数時間にも足りないこれまでの何年間かの生活の補強工作がされる時期として、リアリスティックな用意で感情が整えられていなかった。従って、こういう形で生活の充実がもたらされるべき機会という今の自分の心に生じている摂取力がなくて、いきなり感情の居心地わるさ、当惑、不安。何とかして早くこういうときをぬけたいと思う心。そのために、箇々の問題の出されるごとに、一生懸命それにしがみついて、答えつつ、基本的に見れば、受身で相対的で、それによって現われる一つ一つの表情に、実に現象的に一喜一憂して来たと思う。実にその点では、これまでの自分の生涯に嘗て経験しなかった一喜一憂であり、毎日顔を見るという感性の刺戟が一層それを増し、きのうの顔、きょうの顔、きのうの手紙、きょうの手紙、それらの間に揉まれた。揉まれつつ、やはり根本は大志に根ざしていることは見失えず、従って、非合理な哀訴や悲鳴や涙は、それとして押し出せない。何か耐え難い心であった。
これには、微妙に生活の又ほかの面からの影響とも交錯していると思う。例えば、自分が今書くものを発表出来ない条件にいること。そのため、そういう自身の立場を一人の人にこそ十分に肯定して欲しいと感じている甘えた心。及び、秋ごろ突発的に身辺に生じた紛糾(友人間のこと)で、友情とか善い意志とか或る認識の到達点への信頼とかいうものが、甚しく崩されたこと。それらの悪気流もからんで、感情的に主観的に傾かせた。
自分たちの生活だけは明るさで貫きたい、その希望は正当であるが、姑息に陥って、鼻息をうかがう的になって、却って雲を湧かせることになったのは興味深く、おそろしいところと思う。
段々と環を狭めて行って、更に考えの一つの核が発見されるようになった。それは、退院後の余り威張れない効果をともなった態度(自注15)という点。
このことがとり出されたとき、何より自分は苦痛の感じで間誤ついて、わるかったという風に思い、言葉に出して弁解の余地はないとも云った。けれども、猶横になっていろいろいろいろ考えて見ると、自分の心持として当時のいきさつがどうしてものみこめない。良人に対してどのように一貫したかということとの連絡で、どうしても単に効果として云われたことを、へいとそれなり自分が承知したとすれば、その不見識というか、もろさというか、それがどうも腑に落ちない。自分は一刻も早くかえりたかったのだろうか?決してそうではなかった。父がよくこう云った。お前のすることは間違っていないと思うよ。だが、儂(わし)は切ないからね、可哀そうで切ないから、儂の生きている間はそういうことのないようにしておくれ。もう僅かだよ、二三年の辛抱だよ。よくそう云った。その父は、自分が最も心にかけていた状態において死んだ。思いのこすことは一つもなかった。一つの状態がさけ難いなら、そこの必然を最も純粋に経験すること、それが、人間、作家としての何よりの価値である。まして況(いわ)んや。
条件的なことであったら勿論断っていたに相違ない。あのとき自分がそれをしかたのないことと思ったわけは何であったろうか。後、わざわざその点をきいたとき、曖昧にしていたと云われるが、それは何故だったのだろう。何か誤間化していたのだとも考えられない。
当時の状況を細かく思いおこそうとしていて、不図一つの事実を思いおこし、それが法律上の性質を帯びていて、一定の期間の作用をもつのであったことを思い当った。(きのう、一寸話したこと)そして、そのことを当時きかれたとき、今日の二人の条件とは異っていた(自注16)ので、云い難かったこと、それで云えなかったのだったことを理解した。
何という自分は驢馬(ろば)だろう。すぐびっくりする。途方にくれる。いきなり悪かったと思う。何という驢馬だろう!! 自分に腹立たしく思った。
続いて、一層深く沈んで、このようなこと総ては、単に、私は何て馬鹿なんでしょうと云って、それに答えられる何か優しい言葉を期待するような種類のことではなくて、自分の生活というものが、一画一画を鮮明につかまれて来ていないからであると思わざるを得なくなった。明確に、コンクリートに各モメントがつかまれていないから、時期的な推移がそれなりに作用して、昔は昔のように遠くなる。時間的に逆行した話題が出ると間誤つく、内容的にまごつく。
この自省は一つの大きい輪を描いて、自分がいくつかの問題の出たこの半年間に、何故受動的であったかということへの自問のところへ戻って来るものです。
私は、これまでのように、自分が箇々の問題にくっついて歩いていたのでは、何の意味もないと思うようになった。ユリ子論が必要と云われる、その意義がのみこめた。そして実にこれからの自身の成長は、独特な条件から最も健全であって、而も不健全に堕す無数の可能にとりまかれている、その中で成長しなければならないという意味で、自分が先ず鮮明にこの数年間の自身とその環境との諸関係を見直さなければならない、誰の御機嫌のためでもなく、道徳的な満足のためでもなく、全く生きて、成長する必要の点から、それをしなければならない。
くどいようであるが、これが、自分論をかくに到った過程です。序説です。人間、作家それぞれにタイプがある。構成的な人間は、飽くまで意力的に構成的に人生に向うべきで、美や輝はその最高の状態においてのみ望むべきであると思う。ソフト・トーン(弱音器)をかけての演奏では本音が出ない。
私は、ユリ子についての話をはじめ、研究をはじめる決心がついたとき、思わず床の中で一種の呵々(かか)大笑をやりました。遂にあなたのローマ式攻城法は成功をした、と。元よりこれには私の一番真面目な感謝とよろこびが含められての表現です。では、明日、つづけて。

(自注14)思いがけない程昔のこと――一九三五年五月から一九三六年春にかけて百合子が市ヶ谷にいた間の顕治に対する差入状態。
(自注15)退院後の余り威張れない効果をともなった態度――戒厳令下の事情という判事の言葉に制約されて、百合子が公判までの三ヵ月ばかり顕治に差入れに行っても面会せず、公然と手紙を書かなかったこと。
(自注16)今日の二人の条件とは異っていた――接見禁止中、書信禁止中は立合看守によって記録される面会の時の話の内容と、双方の手紙がみんな予審判事のもとにまわされた。 
十二月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十六日第八十二信(B)
成長の跡をさかのぼって考えて見ると、自分の過去において「私は」という一句が、非常に重大な各モメントにあらわれている。子供っていうものは大人のいうことをきくもんです、だって私いやなの。からはじまって、「貧しき人々の群」は、素朴ながら社会的に私はというものを、当時の既成文学の趣向に向って主張したものであったと思う。以来、環境が必然する様々の習俗に対して、矢面に立ちとおしたのは、私はそう思う、思わない、仮令(たとい)誰がどう云おうと、という一貫性であって、このことは、漱石などが、若い青年たちに向って語ったこと、並、彼自身の生きかたとの対比でなかなか歴史的内容をなすと思う。漱石も、学習院の講演にモウニングコートを着て出て、あなたがたのような境遇の人々は、周囲の習慣、しきたり、人々の言で、一生を支配され易いものだ。決して人まかせに一生を送ってはならない。自分がわるいと思ったら千人が其を平気でやってもやるな。自分がよいと信じたら只一人であってもそれに従え。というモラルを語った。漱石はそう語りつつ、自身のうちにあるそれ以前の教養の重圧で(後年はたしかに重圧的なものとなって出ている)生活の本質的な成長を、その力によって押しすすめることは不可能であった。
自分の時代においては、この私はこう思うはもっと実践力となっていて、同時に、前時代の青鞜がアナキスティックに女権を主張し、男に対する自分たちを主張した段階からは質的に違っていた。男に対して女の生活を云々するばかりでなく、男の生きかたというものも、人間生活という概括の中に観察の対象となっていた。「伸子」あたりまでは、「私は」の限界性が自覚されず、しかし自然発生的には人間的に大なるプラスの生活力として作用して来たのであった。
「伸子」以後、私というものの内容について吟味する能力が生じ又、私はだけでは全く解決力のない現実の組合わさり工合というものが客観的に見えるようになり、社会的な意味では従前より女というものの歴史的なありよう、その影響が明瞭になり、その意味で、私は、より広汎でリアルな複数、私たちに発展した。一応世俗的にはよい環境と一口に云われる生活の中から、身に合わぬものを主張して、私は、でのびて来た生長過程は一つの重大な特色として、自分の作家、女としての生活に関係していると思う。この刃先は、勤労的な環境の中で育った人が、私というものは自覚せず、つまり私はいやだ、というのではなく、そういうのはいやだ、という風に、いきなり生活条件を感じて育って来ているのとは、精神内容として少なからず違っていると思う。後の人が、スラリと現象をうける代り、又スラリと流されてしまう傾向に対して、前者は、終始を自分の態度として意識して行為する傾向がつよい。広汎な複数的婦人生活の波に加ってからも、その一要素としての私、は決して全然より高汎な複数の中に溶け切らなかったし、又、現実の諸条件が歴史的にもその可能を十分発揮していなかったのでもある。かくて、ひろがり、高まりつつ一つの核をもった形で、複雑なくみ合い工合で、波瀾に面した。
生活の諸事情は実に急激に推移して、文学についての考えかた、リアリズムとは何か、ということが考え直されるようになった時代から、複数的私は最も質のよくない分裂をはじめ、その現象は次のことを深く感じさせた。これまでの複数の形は、一つ一つの我が箇人的成長の頂点までギリギリつめよった揚句での飛躍ではなかったこと。寧ろ一つ一つとって見ればしいなであって十分の結実はしていないこと。文学に即して云えば将来事情によっては文学的才能を発揮し得る力を包蔵しているというのではなく、却って、そいう内から破ってゆく独創的な力、新鮮な生活力が多くないために、一つの磁石に鉄屑が吸いよせられるような工合であったこと。しかしながら、日本の文学というひろい面で見れば、或年以後の日本文学史は、動かすべからざる一つの新しい力によって、要求によって貫かれて居り、文学の方向としてそれの正当さは益〃つよく理解される。一人一人が作家としてしいなであるということに一層明かに文化の土壌というものが反映しているのであるから。
狭い誰彼の身ぶりに向って注がれていた眼は、追々それをはなれて、文学の面での諸問題、生活的な面での諸問題の究明への方向をとり、同時に、云って見れば一般の文学的理論的語彙さえ当時にあってはドンドン変って行って、技術上の練達が益〃要求されたため、自身の文学的蓄積の効果は嘗てない程度に有要であった。自分はそれらのものをよく活用して、健全な生活と文学との有機的関係を自身の生活そのもので語ってゆき、書いて行かなければならないと思った。それは自分の一つの義務であると感じた。何故ならば、自分が真に発展的一歩を与えられた文学の時代は、所謂批判を歪んだ利害によって蒙って居り、而も箇人的な諸条件から、生活的に文学的に自身が其に属すれば、一部の低俗な生活、文学の常識は、文学と生活とを貫く健全性そのものの否定的実例として自分をあげるにきまっている。自分より低くとんだ鷲を鶏は笑う。笑う鶏が問題ではない。笑う鶏と笑われる鷲とのいきさつを、秘かな良心の鼓動を感じつつ見守っている者がある。そのおだやかな良心というか、これから飛ぶ稽古をしようとしている若鳥に、或確信を与えることは先に生活をはじめた者の責任であろう。鷲は遂に鷲であることは知らなければならない。
愛情の面からもこのことは複雑に考えられた。自分だけに分っている愛、自分だけそれで守られ、それに献身しているとわかって満足している愛の形体は、抑〃から歩み出しているのではなかろうか。社会的な歴史的な実質をもつものとして、それは当然生活と仕事との成果のうちに語られねばならず、現実の特殊な条件は日常の表現のミディアムとして自分だけを呈出している形である。自分が真に説得的な文学的活動を行うこと、そして一つの困難をぬける毎に益〃生活的に強固になりまさりつつ文学的豊饒さを増してゆくこと、そういう現実の果(み)のりに於て、その原動力となっているものの豊かさ、純一性、成長性が、感銘されるべきものとして理解されて来るのであると思った。
其故、或時期、誰彼に対する自分として現れた主張は、ひろめられ、或文学的潮流に対するより健全、理性的な文学本質の呈出としての表現に代り、論敵を目ざさず、第三者としての読者への説得力を増すことに努めるようになった。この文学上の努力は、複数的我のこわれた当初、自分をとらえかけていた一つの危機を切りぬけさせ、私ぬきで正当であるから正当であると云わせ、感じさせる方向におし出した。
文学におけるこういう必要は、生活的な場合にも同じ必要を感じさせ、自身としての一つのプログラムを与えた。あらゆる場合、必要さけ難い以上の壮言は行わず、しかし健全性の根は決してほじくりあげられて枯らさないように。自分はどんなことがあっても作家であって、アクロバットの芸人ではないのであるから。女及び作家として身につけているだけのことは、人間が人間以外のものであり得ないと等しいのだから。
生活の或期間、そのプログラムで一貫した。
ローマの法王庁の或祝祭で、法王が立っている最上の段階まで大理石の数千の段を参詣人が這ってのぼって行って、その裾に接吻する式がある。その中でもしまともに歩いて階段をのぼる者があれば、それが自然であるとしても、目立つということになる。(余談ながら、ルーテルは、この式に列して非常な懐疑にとらわれた由)文学的な仕事も依然として自然発生的な洞察力みたいなものに導かれつつもやや勉強法が分って来て、文学における日本的なものの擡頭の時期は、少しは歴史そのものの即しての文学的言説を行うことも出来た。続いて、所謂大人の文学の提唱があり引つづきヒューマニズムの論があり、文学のモラルの問題、ルポルタージュの問題があり、それらを自身としてはリアリズムの太根にぎっしり据えて扱うべきが正しいという、自身の文学的プログラムによっていた。
ところで、この時代に入ってから、(ごく近い。一九三六年のごく末から三七年)自分というものの箇的な作用が、従前より一層複雑に現れてきたと考えられる。それまでの努力の結果、生活的にも文学的にも一般的な或承認を獲ることが出来たが、私へかえって来る承認の形は、時代の性格を反映してどこまでも箇的であった。所謂人物論風である。何によってしかるかとは見ない。一人の作家を活かしてゆく力を見ず、生きてゆく作家一人を見る。自力一点ばりに見る。それは一般の目の本質であるが。当人にその誤りと矛盾とが判っているのだが、例えば賛辞への反駁として、そういう見かたは一人の作家の全貌を語らず、又現実を誤っている。人間の成長はかくの如き諸関係で云々と、まともから云えないような事情にある。それは或片腹痛さであり、賞讚に対して批評があり、賞められてうれしくて一層へりくだって励むというのとは、少し違った皮肉が加わらざるを得ない。水準は全く低い。それとの対比で現れるために、当人を高めるより低くつないでおく力がよりつよい。無いよりは増しという最低限度の要求が、文化の枯渇の増大につれて切実にましていること。それに答えてゆくことが、いつしか自身の低下への正当化となること。(これは本年に入ってからの一般的現象)
一箇の作家としての評価というものが、箇人的なものに逆行して行くこと、及びその危険を、ジイドの旅行記批評を書いたとき、おそろしく感じた。(一九三七年正月)ジイドがコンゴ紀行をかいたときの、見せられるものは見ないぞ、私が見るものを見るのだと云って執った態度は、その条件にあっては一つの健全性であった。彼に見せようとされたものは、常にこしらえものであったのだから。彼が目で見た土人の暮しかたが現実であったのだから。然し、二十年の後彼が出かけた旅先の社会条件は、彼のこの箇人主義的な人生態度の枠をこわさざるを得ない力をもっているので、彼は本能的な自己防衛に陥り、現実であるものを見ているくせに、現実として承認出来ず、その裏、裏とかぎ廻って、最も穢い世俗的愛嬌の下に無理解以上の反歴史性をためこんだ。そしてパリにかえって、そのへどを吐いた。歴史はその一方にこのへどを称して、神々のへど(室生さんの題を拝借)とあがめるものがある。そういう心理的な歪みから生じたジイドの今日の全方向は、全く政治的な意味をもってしまった。彼は恐らく意識しているでしょう。
レオン一家の人々の生きかたも同時的に考えられた。心理的な面から。不敏ならざる頭脳が、人生の或モメントに一つぐれて、感情的な我執に陥り、一見理性による現実の追究の如き形をとりつつ、実は心理的骨格は我執の亡者であるということ、その動機で強いがんばりかたで理論化してゆく熱情。そういう人間のタイプは身辺にもあったが。過去の社会からもち来たされている「我」は歴史的混乱の時期に、何たる微妙な現れかたをするものであろう。そのプラスにおいても、マイナスにおいても。
そのような反省はしかしながら、おかれている自身の周囲の諸事情をかえるものではない。文学的生活、日常生活は一層箇別的になって来る方向ばかりで、昨年から本年に入っては、社会的性格の広汎な作家ほど現象的には一層箇別化されざるを得なくなり、文学における健全性が世間的な箇別性で逆に語られているような時期に到達している。そのような消極の形しか持てない、それは各自各様の矛盾をもちつつ文学を文学として守ろうと欲している人々、宇野徳田その他の組から川端に到り更にその後の人々に到る一部分となってまで出ている。今日の生産文学は一定の批評に耐えない本質をもって立っている、それ故立ち得ているという現実の故に沈黙を課せられている少数の者の間にさえ、この箇別化は深刻に浸み出している。各人の事情で。一人は執筆を承諾するが、他の一人は配偶者としての感情からも堪えぬ、というが如く。(ここで一区切り。長くなりすぎるから。今日も熱は六・四分。六・三分。せきも減りました。段々外気にも当りたい気持です。) 
十二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十七日第八十二信(C)
生活と文学とにおけるそういう環境は、実に多くの危険と困難とを将来に予想させるが既に今日いくたの障害となって現れていると思う。
箇別的な事情というものが強力に作用していて、Aの事情Bの事情、それぞれの事情の間の評価が弱まっている。文学におけるヒューマニズムの理解が、人情の域まで墜落したきりになっているのだから、客観的な意味でそうなることは肯けるが。一方文学が非理性的な観念で一括されようとするのに対して経験の尊重が文学の中につよい底流をなし始めている。具体的なもの、現実的なもの、そこに真の人間の生活が息づいているものを、文学の新しい要素として期待する欲望であり、文学の観念化に対して健全を求めている現れではあるけれども、これしも、経験を客観的に総括する力、その必要への目ざめが十分に伴わないから、経験主義になりやすい。経験そのもののひろい目からの評価、経験してゆく自分というものの在りようについての目は概してつぶられたままの形であると云える。
事情は輻輳(ふくそう)しているから、全体としての文学的プログラム並にその中にあって自分のプログラム(相互的な関係での)というようなものが必要であり、特にこのことは、特殊な条件にある作家にとって痛切に感じられている。少くとも自身の要求として益〃切実になって来ている。目前自分として何をやってゆくかということはよく判っているが。作家としての現実の意識は愈〃科学的にならなければならず、益〃展望力を強めなければならず、十月からそろそろながら進捗している勉学はこの点で決して中断出来ないものだと思っている。流派の問題ではないのであるから。そして、独善居士にならないためには。文学におけるこの部分の問題は、未だ十分の見とおしを立てきっていない。この状態のまま、もっと勉学し、もっとつきつめていけば、やがておのずから会得されることがあろうと信じる、主として方法的のことでもあるのだから。単に知能的でなく自己を拡大させてゆくこと、これは今日の事情にあっては必須のことであり又多大の現実の困難を伴うことなのだと思われる。
さて、ここで自分の心に一つの疑問が生じている。これまでの沢山の手紙のうちで、自分はどのように、以上のような生活と文学との推移、その間における自身の姿というものを伝えていたであろうか、と。今これを書いている気持とは違う。それは自然と思う。何故なら今これを書いている気持は、自身に主として向っているのであるから。ある閃きの様々な色としてでなく、真面目な問題として、地味にどの程度書き得て来ているかと考えると、疑問になる。文学や生活について自分の感想として押し出されていることは、少くないであろうし、一貫したものもそれぞれの断片中に汲みとれるだろうとは思うが、基本的な調子に於て、果してどのようであったろうか。自身の成長のためにこのところは執拗に、意地わるく追究しなければならないと思う。それは手紙は相対的なもので、ましてや生活の条件から、そこには様々の音響が底に響かざるを得ず、日常生活の間では、例えば一寸した廊下でのすれ違いの互の眼差しで語られる心持のニュアンスも、何かの字で、何かのトーンで伝えられようと渇しているために、直接そのものとして表現する趣味まで低まらない限り、全く客観的なことにそのような気分が伴奏することが多い。情緒的なものは、それとしての消長を自然にもっていて、その生活の間である真面目なことをとりあげて話す調子とはどうしても違う。同意を求める感情にしろ、淡白ではあり得ない。非常に深く感性的なものにまで常に触れて行くのである。
だが、自分が漠然感じているこの疑問は、それだけでは解釈され切らない。愛情による身ぶりと共に、何か意識されぬ計画されぬ精神的な媚態がありはしなかったのだろうか。ここは微妙だと思う。微妙なところで生粋なる愛情と界を接し、うちまじり、とけ合っているから、切りはなすのは一つの冒険のようでさえある。このような微分的追究に耐える理性と感覚とを信頼して、初めて表現する勇気をも生じるのだが。
自身の心を強くつよく貫いているよろこばせたい心持、安心させたい心持、自分が愛するものを我が宝と思っている、そのような心で自分をもうけとって欲しく望む心。これが、どのような源泉から出ているか。もとより愛からと云う答えは一般に通用するというより以上実体にふれている。確かに愛から。そして又対手の人生を高く評価していることから生じている。その評価への絶対の信頼によっている。けれども、そのよろこばせたさ、安心させたさが、確信され確保されている真の安心の上に悠々的に発露しているものか、それとも、例えば子供が一つ木にのぼると、勇んで下りて来て、母さん僕木へのぼったよ、と報告せずにはいられない、そういう種類のものか。なかなか興味ある心理だと思う。明かに、自分は愛情に加うるに一目をおいたものをもって対している。非常に一目おいている。それによって、どちらかと云えば極めて従順な心をもっている。しかし、生活の他の一部には、自分として、決して自信なくはない。狙撃的目標として悪く耐えて来ているとは思っていない。これが面白く作用して、大変おとなしく従順であるのに、あるところまで埋ると、何かがんばったようなものが出て来るのではないかと考える。同時に、謙遜な心を十分に認めて欲しさも錯綜して、ある事について語る文調に、内輪な響きより張り出したトーンの方が響き、いつしか一つの精神的な媚態となるのではないだろうか。そして、音響学の原理を考えれば、張り出した響きが出れば出るほど、空間がひろいということになる。一目をおいた気持が決してそれなり通過しない点があると思う。
それから又、自分は本来相当甘えん坊でもある。天真爛漫甘ったれたい。この甘ったれたさと精神の緊張力とは比例的で互のつよさでバランスしている。相互のリズムが交って生活に弾力を与えている。このことも、やはり何かの形で、語りかたに影響を与えるであろうと思う。そのようないろいろの要素をむき出しにそのままぶちまけず、何かに托す習慣になって来ていることが。感情は激しく溢れんと欲する。素朴な動作で。そのような瞬間、そのまま書いたってウワことである。何かつかまえて云わなければならない。感情の表現が、文字でしかないこと。これは我々の生活上実に実に大きい意味をもっている。幸ある表現力をもっている。其故書いて、書けたようにも感じるが、その書きかたにはいつしか文字でしか書けぬ書きかたが働いていて、耳に入る言葉や動作の動物的な要素、感覚を流れ洗うものが減って、感情さえ理づめになり、やがて又そこを破りたい欲望がロマンティックなものとなっても現れるのではないだろうか。
自分はこれから手紙のかきかたについてもっと考えようと思う。もっともっと、意味をつけないお喋(しゃべ)り、ホーそうかい、そう思ってよんで貰っていいお喋り、と、それから重大な考えるべき問題をふくんだものとはっきり区別をして。島田にいるとき自分の書く手紙、目白にいて自分のかく手紙、父がいた時分の自分の手紙。それぞれを比べて思い浮べて見ると、何と違うだろう。島田にいるとそこには私たちの生活というものが殆どなくて、ああいうこと、こういうことがありましたと描写報告が多い。父のいた時分の生活は、外部的ないろいろの変化が多かった。ああいう生活らしい色彩を帯びて。目白での手紙は、生活が統一されて一筋のものの上にあるとともに、非常に頭の活動、切ない気持の高まりが反映している。もっと楽になっていいのに。そう思う。健全なそしてくつろいで動的な状態。それを欲しる。そのためにこの連続の総ざらいをも必要とした。益〃ひろい、明るい健やかな理性の土台のつよまりが必要である所以。
時間的にいろいろの細かいことをはっきり記憶によび醒さないこと、その他が不快を与えたと思うが、自身の心理的なものの根を掘り出して見れば、やっぱり動機は一つ性質のものであった。後からこんぐらかって、むしゃくしゃして、平手打ち式気分で語っているが、例えば初めのうちいい人だとか何とか評価していたには、何かそちらとの親密さを告げられるなりに先入観めいたものとしたところがあったからであると思う。後に実際に即して、その人柄が露出した。初めからそれを洞察しなかったことは、自身の人間を見る目のなまくらさである。人生の或時期の生活のありようで生じた相互の関係の形を、それなりの形で評価の実質のように考え混同することは間違っていることを深く感じる。古い友人といきさつにも之は多い。いろいろのことがある。皮肉になるに及ばず、辛辣になるに及ばず、しかし飽くまで実際のありようを見徹す力が、何と必要であろう。
これらのこと、現在なら生じない条件がある。何故なら先ず第一、その人々の関心をひいた物質的条件がこちらに無くなっているから。今私が金にゆとりあると思っている馬鹿も沢山はないのであるから。そういう意味で、当時の生活の雰囲気が自省される面をもっていることを考える。
――○――
触れるべき点に大体くまなくふれたであろうか。自分としては心持の一番底に足をつけて歩いてまわった感じで、落付いた気分にある。誇張したところは殆どないと思う。どうだろうか。このような調子の総ざらいは、大入袋ではないから景気はよくない。益〃質実に、勉学し、仕事をして、二人の生活のそれぞれの時機から学び得るものを十分に吸いとって行くだけしか考えない。もうすこし勉学がすすみ、仕事をやって行ったら、もう一皮という感じで心にある文学のプログラムについての考えもまとまるであろうと思う。
仕事をもこめて、勉学、勉学!そう思う。そう思うと愉しさが湧いて段々ひろがって来て愉快になって、そちらの顔を顧み、笑う心持になる。ユーモアよわき起れ、と思う。ユーモアの湧く位賢明で強健な肺活量のつよい生活。脳髄と肺や心臓のつよい生活。
――○――
よかれあしかれ、これだけ書いて、すこしはさっぱりしました。毎日八枚を、三時間以上ずつかけて書いた。書いて切々と思う。決して大言するのではなく、冷静に客観的に観察して、現象的な範囲での日常の環境は、私の発育のギリギリまで来ていて、即ち小さい着物となって来ていること、奮励一番して、よりひろい合理的な世界へ自分を拡げてゆかなければ、狭い着物でちぢめられることを感じます。そして、その着物がどんなに役に立たないかということについて再三注意して頂いて有難う。これは心からのお礼です。 
十二月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十八日第八十三信
十六日づけのお手紙をありがとう。十四日にお目にかかって、気が安らかになって、落付いて今日まで休養出来ました。まだハナがぐすぐす云ったり折々せきをしたりしているが、もう大丈夫です。こんどは珍しく、風邪気味になったのは六日の火曜でしたからまる二週間と五日煩わされました。私の風邪としては実に長かった。その代りアラ又ぶりかえしたというような癒りかたでもないけれども。ちょいと盲腸がいやな気味で注意中です。
全く本年の後半は、苦しかったが収穫は少くありませんでした。自発的に総ざらいをして見る気になったし。「伸子」の終りの部分については、元の目白の家でも一寸ふれられたことがありました。覚えていらっしゃるでしょうか。私は、はっきり記憶して居る。あの作品の書かれた当時理解の限度で、同じ質の枠内での移りを、進歩或は成長という風に自分から解釈しているが、それは本当の発展ではないね。そういう風な表現で云われ、成程と一部わかったが、あの時分にはまだ今日わかっているだけには判っていませんでしたろう。人間の真の発展は脱皮であるから容易でない。一つ枠の中を動いているだけなら(そして、やはり、伸子のようにその動く現象を発展と見る見かたに今日も多くが捉われているから)文学も発展しつつあるというようなことが云い得るでしょうが。脱皮しかかっているときの期待と不安とは殆ど生理的な心持を伴っていて、一種云いつくせない味です。
『文学者』という雑誌が刊行されました。同人としては、伊藤整、板垣直子、春山行夫、丹羽文雄、本多顕彰、徳永直、徳田一穂、岡田三郎、尾崎一雄、尾崎士郎、大鹿卓、和田伝、上泉秀信、田辺茂一、楢崎勤、室生犀星、窪川鶴次郎、福田清人、浅野晃、榊山潤、水野成夫と申す顔ぶれです。『戦争と経費』その他は買ってありません。そちらでも御読みになれば買おうというわけでした。昨夜『馬仲英の逃亡』をよんで(半分ばかり)大変面白く思いました。ああいう科学者の経験というものについて、局部的な経験、現象的な経験というものについて、考えられました。あの限りで自然も人事もよく描かれているけれど。大馬というのは仲英だけの名ではないのだそうです、スノウによれば。馬一族を称す。そして、回教の中に新旧が分裂を生じている。新は南京からの討伐をともに受けた。旧が白ロシア人をやとって市を防衛した例でしょう。探険家にそういう事情がわかっていないらしい風です。でもあの年でああいう旅行に堪えることはうらやましい。きっと盲腸なんか切ってあるのでしょうね。しみじみそう思った。お笑いになるでしょうけれど。
『世界名著解題』は第三巻まで順次出る由です。あれは第一巻。いかがですか。あってよい本の部ですか?
富雄さんに何を送ったらよいかしら。経済事情の推移の分るものがよいでしょうね。考えておきます、暮から正月にかけてよむように送りましょう。
繁治さんはあの日出かけなかった模様です。従って十四日以後はそちら些か御閑散でしたね。
お正月並に外出用の冬着を一組近日中にお送りいたします。お正月に行ったら、どうぞ、それを着て見せて頂戴。栄さんのお年玉というのは、その羽織についている紐です。皆によくお礼は申します。栄さんの編んでくれた毛糸の衿巻というのもお正月になったらお目にかけます。私たちから栄さん夫妻に上げるのは、茶呑茶碗一組(二つ)です。いいでしょう?戸塚は例年子供が主で、今年は健ちゃん英語がよめるから何かやさしい文句のついた外国の本をやります。どんなに大人になった気がするでしょうね。智慧のひろさのよろこびがどんなに新鮮でしょう!『図書』の西田幾多郎の文章、偉いと云われる半面のああいう稚さ。西田さんには私のような皮むきがないから。可哀そうに。(笑話よ)ではお大切に。今年かぜをお引きにならなければ黄金のメタルものです。 
十二月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
きょうは思いがけず昨夜の夜なかから盲腸が痛み出して、さっき慶応のお医者に見て貰ったらこのままにしておいてはあぶない由です。やむを得ず入院いたします。そして西野先生や何かにもう一遍見て貰って切る方がよいときまれば、いつぞやお話したことのあるモテギ先生に手術願います。国男のをやって頂いたからきっと一族共通であるという盲腸の癖もわかっているでしょうから。勿論こんなくされものを持っていない方がよいのですが、手術はこわいと思います。でも手おくれは猶こわいから、マア仕方がない。
昨夜はひとりで閉口し、けさ寿江子を呼び今いろいろやって呉れて居ります。うちにいて、たった一人で気をもむよりはよし。まだ何にもわかりません、何日入っていなければならないかも。もし切るとしたら私はお守りのようにあなたの御加護をたよりますから、どうぞどうぞ効験あらたかであって下さいまし。これは本気です。本当の本気よ。
又何日間かおめにかかれなくなりますがどうぞそちらお大事に。呉々お大切に。あした寿江子様子を申し上げに行って貰います。熱は六度八分ですから大助りです。では一寸一筆。三時ごろまでに病院へゆきます。今二時。 
十二月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応義塾大学病院より(封書)〕
第八十五信おなかの傷の上に蒲団がじかにかからないように金(かね)の枠がかけてある、それにこれをよせかけて一筆。きょうはいいお天気らしい様子ですね。枕元に窓があって、まだ仰臥状態で見えないけれど。
かぜのおしまいに盲腸がいやな気持と云っていたのがやはり本ものになりました。
二十日の夜独りで眠れず苦しんで、夜があけるのを待って寿江子に電話をかけ湿布の薬をもって来て貰いましたが、前夜(ぜんや)の嘔気の工合で、今度は或は切ることになるかなと予感して居りました。ともかくお医者に診て貰ったら、切らないでいいという程軽くない、由。それでも熱は七度五分位で、熱にかかわりなく又痛みの自覚にもかかわりない由。
三時半ごろ雨の中入院して手術にかかったのは五時すぎ。一時間余で、正味は三十何分。創(きず)は6センチ。盲腸は一部ユ着していて、腰髄麻酔で手術したが、ユ着をはがすとき胆汁を吐きました。すこし化膿しかかっていてやはり放っておくと腹膜をおこすところであったそうで、西野博士も手術前見たとき今度はありますねと云ってらしった通りです。血液検査をして白血球をしらべたら普通四千から六千なのが二万以上であった由。一万を越せばもう全身症状で有無は云わず切るとのこと。よかったと思います。経過もよくて、傷の痛みで誰でも夜眠らずさわぐそうですが私は何だかポーとなって、口が乾いてちょいちょいおきたがその間は眠りました。食事はスープおもゆ五十グラムずつ位のところ。きょうは第三日目で玉子のキミ一つに果汁アイスクリームをたべてよい由。
それでも、私にとって生涯の難物だったつきものがこうやってとることが出来て、手術で心臓が妙にもならず本当によかったと思います。早ね早おきの陰徳はかような場合の抵抗力となってあらわれ恐らく元のようにしていたら盲腸そのものはもっと危険になり、手術ももっと困難だったでしょう。
こうやってねていて、あなたがお元気だと思うと何より気が休まる。本当にお手柄です。どうぞその勢でお正月私がおめにかかれる迄益〃元気でいらして下さい。
普通八日目に抜糸だそうです。私のは只一ヵ所縫ってあるだけで、あとは万全を期してあけてあるそうです。キレイな傷口の由。何日かかるのか只今では未見当ですが大体十五日ぐらいではないかしら。うちへかえるのが一月の六日ごろとすれば早い方ではないかしら。
病院で正月するのは妙のようですが私は却ってああ今年は何たる身心の大掃除!と感じあの右側の体が常に重くてバスにのるのも歩くのも、働くのも常にいたわりいたわりやっていたのがさっぱり左側と同じになると思うとうれしくて来年は、と勇んで居ります。この気持、わかって下さるでしょう。ときには、本を四五冊下げて歩くのが響いて楽でなかったことさえ屡〃だったのですもの。炎症性とか何とか(御研究の知識によって御判断下さい。)一度やったのがかたまってしまうのでなくて再発までずっと同じような病状にある方の盲腸でしたそうです。
あの着物いかがでしょう。お気に入ったかしら。
私はここで正月にはおき上れるところまではゆくでしょうから、これまでより更に具体的に条件のそなわった新しい年への期待でたのしく私たちの七年目のお正月を祝します。お雑煮をたべなくたって名を書いた花飾りのある祝箸でたべていいでしょう。そしてあなたの名をかいた箸でたべて十分お祝いしていいわけでしょう?
二十八日までにつくよう速達にいたします。どうか呉々お大切に。私の方は安心して頂いて大丈夫です、この分ならば。ではいい年を迎えましょう、寿江子や林町へ下った手紙、きのうお土産に見せてくれました、この枕の横にあります、皆はずるいから、こういうものをもって来さえすれば大きい顔をしているの。 
十二月三十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
第八十六信きょうは初めて椅子にかけて昼飯をたべようとしておき出したところ、二十三日、二十六日、二十八日づけのお手紙をどうもありがとうございました。机のところに置いてちょいちょい飴でもしゃぶるようにとり出してよんで居りました。
この手紙着くのはお正月の一番はじめの分でしょうが、やっぱりおめでとうは早すぎる気がしてまだ書けず。
二十八日には惜しいことでした。寿江子がすっかり容態書をかいて用事をかいて出かけたのですが、十二時すこしすぎそちらへ着きました。そしたら二十八日は午前十一時までだったの。それを気付かず、二十八日をと日ばかり一心に見て来ていたものだから駄目。失敗しちゃったと悄気てかえって来たので、私もがっかりしたし、一番終りの日様子もわからず歳越しをおさせするのはどうも辛抱出来なかったので、もう一遍行って貰い、特別に面会を許可されるよう願いましたがやはりもう人手がなくて駄目で、様子だけはつたえて下さるとのことで書いておいて来たそうです。わかりましたろうか、本当にわるかった。きっと待っていらしたに相違ないのですから。
二十六日に化膿しかけているのではないかという心配がありましたが、二十八日傷からしみ出しているのが漿液(しょうえき)とわかり、糸を切ってその水をよくとったらば熱もすっかり下り二十九日は一日六度台(朝6度夜八時六・九)、きょうは朝五・九で今六・一です。大体はじめから熱は低かった。そして傷の癒着も大層よくて今では三センチに足りぬ(一寸に足りぬ)傷口が殆んどすっかりついていて、下の方にはじめからあけてあるところ(手術のとき細いガーゼを入れておいたところ)が小さくあって、そこから漿液をしみ出させている工合です。お医者様もいろいろで、モテギさんは傷を大きくつけて平気な方。私のおなかを切った木村博士は人間の体に傷は最小限につけるという立て前の由。私の決して小さからぬおなかに一寸に足りぬ傷が、きれいに癒着するのは先生の立て前上些かほこるに足ると見えて、近日中に傷の写真をとるのだそうです。何か統計をつくっていられる由です。
気分は平らかですが、疲労は甚しい。外科的処置は傷がなおりかけると、適当な刺戟で肉も盛上らそうと、もう室内は勿論、すこし歩けと云われます。でもなかなか体が大儀で二三歩歩く位。腰椎をマヒさせたって、やっぱり全身にこたえているし。本当にくたびれかたがひどくて、本は勿論、手紙だってこれが二十四日以来初めてです。ぼんやり仰向いて臥ていて安心したつかれにまかせている。足かけ三年くされものをもっていたのですものね。そして、いつどこで爆発するかという懸念が絶えずあったし、爆発すれば手おくれになる場合が多いのだから、私は白状すれば、思いがけず病気で死ぬとすれば盲腸からの腹膜だと思っていた。ですから私は、いつ、どこで、そういう時に遭っても、あなたへの最後の挨拶の言葉だけはつたえたいと思って、ちゃんと書いて咲枝にずけてあったの、もう二年ほど前から。だってそうでしょう?こんなに互に熱心に生き、この世でめぐり会えた歓びを感じているのに、うれしかったとも云わずいなくなるなんて、承知出来ないことですもの。
二十一日入院ときまったとき、あなた宛にあの手紙かいて、咲枝に万一私が根治してしまったら「あれ」をそちらへ送るように、そうたのんで、それから又別に私たちの生活の事務的なことすっかり箇条書にして、なかなか二時間が忙しかった。今は、もうそういう「あの手紙」もさし当りは不用になったし、よかった。臥ていると、まだ小さいこんな形の渦が見えるようで、それは生と死とで、短い時間のうちにキリキリと一廻りしたという感じがつよくあります。これは一種特別な感じ。手術をうけたりすると、誰でも感じるのかしら。切迫した何時間、その間にキリキリとこういう形で生と死が廻ったという感じ。
手術が終った二十一日の夜は譫語(うわこと)が云いたくて困った。これもめずらしい経験です。半分意識しているのね、他の半分の意識が変に明るいようなサワサワしたような工合で、盛にうわことが云いたい気がするの。きっとあなたでもわきにいらしたら云ったに違いないと思います。意識してこらえたけれどもちょいちょい、いやよ、だとか何だとか云っていた由。今の疲労の種類は何だか分らないが、ともかく、何日でもまるで静かなところへ頭をつっこんで眠りつづけたいという欲望のように感じられて居ります。そちらの懐の中へ顔を押しこんで眠りたい、そういう工合。
すっかり着ているものをはがれて、目かくしをされて、暖い空気の手術室の中で何か堅い台の上にねかされたとき、それは臥かされたよりころがされた感じで、非常に無力な異様な感じでした。今度はいろいろ珍しい経験をいたしました。あなたも手術で入院していらしたことがあるのね。この間うち下すった手紙では、私はいろいろにあなたが闘病の間に行っていらした工夫や努力や不如意の克服やらをはっきりと感じることが出来、深い感想があります。
この手紙のあとは元日に又書きます。
この疲労のために、傷の快癒よりも、全体のろのろと進行している形です。いそぎませんからどうぞ決して御心配なく。血液が清潔であること、糖もタン白も出ていないこと、こういう手術をするとそれらのことが随分仕合わせになります。きょうは九日目ですが本なんか一行もよまずです。急にバタバタ来て、本一つも入れてない。これからポツポツ。この病室は内庭に向って窓があって青空の下に檜葉(ひば)の梢と何かの葉のない枝が見えます。側台にバラが二輪とさち子さんのくれたシクラメンの鉢。ではこれでおやめ。どうか呉々お大切に。お茶かけアンモを上った頃つくのね、私は今年はアンモなし。傷によくないというから。ではこれで本当に今年のおしまいにいたします。 
 
一九三九年(昭和十四年)

 

一月一日〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 四谷区西信濃町慶応義塾大学病院内い号の下より(封書)〕
一月一日第一信。
あけましてお目出とう。今年もまたいい一年を暮しましょうね。
ずっと順調で熱もきのうきょうは朝五・九分位、夜六・八どまりの有様です。このようになおりかかって来ると傷口の大小が決定的に影響して、一寸足らずの傷であるありがた味がよくわかります。傷そのものの不便さはもう殆ど感じません。ただ腹帯をたっぷりかたくまいているのでおなかがかたくって、曲りかがみに大不便です。上体を一寸捩るような形はまだ妙に筋がつれて出来ませんがベッドから下りたり上ったりすっかり自分の力でやれます。きょうから少々歩き初めです。一日に三四度往復十間位のところを歩くようになりました。これで三四日して入浴出来るようになって、もっと足がしっかりしたら全快ですね。傷が大きいと、表面だけ癒ったようで内部はよくついていないことがあり、退院後に又深いところで苦情が生じたりする危険があるそうですがこう小さい傷だと、内からちゃんとまとまり易いから大助り。
今は椅子にかけ、小テーブルに向ってこの手紙を書いて居るところです。咲枝がお年玉にこしらえてくれた黄色いミカンのようなドテラを着て、きのう稲子さんがもって来てくれた綺麗な綺麗なチューリップの植込みを眺めつつ。しかもこのテーブル(枕頭台から引出すようになったの)の上にはお供えが一つあってね、丸く二つ重った形を、そして、上のところに、ちょいと松竹梅の飾りをつけた形を臥(ね)ながら横から見ると、まるで私のようなの。随分似ている、似ている、と笑っていたらけさになって榊原さんが、そのお供えの、丁度おなかのでっぱりのところに、小さい絆創膏を十文字に貼りつけました。上出来の傷のお祝に。そしたら、お供えは俄然生色を帯びて、まるで生きもののように表情的になって、うれしいようなきまりわるいような様子をして、お盆の上にのって居ります。こんなところらしい冗談があるものね、感心しました。
先生たちは元旦でも出て来て、明日入浴してよいということになりました。初めて普通の御飯をおひるにたべて、実に外科の仕事は、バイキンさえ入らず、体質異状がないと早いものですね。
あなたの名、私の名、新しい筆で大晦日の夜お祝箸の袋の上にかいて、先ずあなたのから食べ初(ぞ)めいたしました。ちょうど十九日に自分で買って来てありました。島田の方でもこういうのを使うでしょうか。[図1]模様は羽根に手まりに梅の花。金色と赤の水引の色。模様が大変女の子らしいので、あなたのお名前は何だかいかにも、マアお正月だから仲間に入って遊んでやろうというようです。
明日壺井さん夫妻が見えるそうです。そして四日には繁治さんが久しぶりでそちらにゆく由です。
目白はおひささんが二十六日にかえりました。二十八日までという約束で行ったのですが、急なことだし、他のことともちがうので速達出してかえって来て貰いました。寿江子がとまっています。但三ヵ日の間は寿江子林町でワアワア云いたいらしいので、本間さんのチャコちゃんと云う女の子、高等科二年、をたのんで滞在して貰う手筈にきめました。自分は閑散な正月であるわけですがはたの連中に何とか正月らしくしてやるために、やはりそれぞれ心くばりがあるものです。
手塚さんのところ二十八日だったか女の赤ちゃんが生れました。八百匁以上でよかったが、生れるとき赤坊が廻転して出て来るとき自然にへその緒が解ける方向にまわるべきところ、逆回転だったのでカン子(し)(頭にかけて赤ちゃんをひき出す道具)をつかって仮死で出た由。人工呼吸でそれでも母子ともにもう安全だそうです。なかなか危険なところでした。赤ちゃんの喉がへその緒で次第次第にしまることになるのですから、逆まわりになると。てっちゃん、びっくりしたし、うれしいし、様々なのだろうのにキョトンとして、ホーと云っているには大笑いでした。名はやす子とする由。妻君の母上の名の由。なかなかいいお婆ちゃんで、てっちゃん好きなのですって。手塚やす子という娘さんの父親なのよ今年から。確にホーでしょうね。
中野さんのところはまだ正月が半分しか来ないようですって。お産が一月かですから、それが無事終了までは宿題を夫婦でかかえているようなもの故本当にほっとはしないのでしょう。ふた子でも生めばいいのに。ふたごは面白くて、可愛いでしょう、私たちは皆ふたごって面白くて好きです。勿論どっちも丈夫な場合だけれども。独特にうれしいところがあるにきまっているから。
体全体のつかれかたも追々ましになって居るから御安心下さい。きのう坂井夫妻見えたとき私にゆっくりかまえるようにとのおことづけありがとう。私は全くゆっくりかまえて居ります。ただ外科の進みかたは内科と全然ちがったテムポをもっているだけです。
でも本当にこうやってのんきなこと話して生きていて、妙ね。何日ごろになるか、初めてお目にかかるとき私は手をとってほしい気持です。お辞儀をして、さアユリは死なずに来てよと、そういう気持です。〔中略〕この間入院する前は、二階の勉強机でない方に、ベッドとの間においてある椅子にかけて、いくつもの手紙かきながら、もしかしたら死ぬときになっていたのかと考えた。だって、私としたら珍しく万端すんでいて、あなたにあんなに連作の手紙もかき、心持はしーんとしてしまって滓(かす)のないような工合だし、着物はすっかり新調して上げてしまってあるし、お金のことまで打ち合わせたりしてあったし、いやに準備ととのっている。よく偶然そういうことがあるものだから、成程こんな工合のこともあるのかと考えて居りました。そのために却って手術の間も心持は平静でした。〔中略〕然し、ハラキリはこたえるものですね。〔中略〕
明日入浴出来たら七草(ななくさ)までにかえれるのではないかしら。
二十八日にちゃんとお顔を見てつたえることが出来なかったので気になっていますが、そちらの元旦はいかがな工合でしょう。臥ていて、余り安らかなおだやかな、底によろこびの流れているような心持のとき、きっとやさしい親切な心で思われているのだと感じます。本年の正月は、計らずいろいろの大掃除があって、又珍しい新らしさがあります。年々の正月を思いかえすと何と多彩でしょう。歴史が何と色つよくかがやいているでしょう。この二三日すこし気分がしゃんとしてものをよみたい気も起って来て居ります、ではお話し初めをこれでおしまい。呉々も御元気に。 
一月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
一月二日第二信
きょうから雨か雪という天気予報でしたが、今は空が晴れて、僅かな白雲が東の方に見えます。きょうは、午前十時頃、初めて入浴しました、実にいい心持。傷口は軟膏と絆創膏を貼って。しかも、これは私があぶながってむき出しではこわがるので、おまじないのようにつけてくれたものの由です。むき出しで入浴してもういいのですって。
出て来てから一時間ばかり眠り、先生が見えて、手当をするとき鏡をとって眺めたら、おなかのよこに薄赤く十字がついていて、[図2]この下のところにごく小さい穴が見えました。それは表面だけでもう深さはないとのこと。黄色い薬のついたガーゼをあててバンソー膏をつけて上から湿布してあるだけです。熱は朝五・九。入浴直後六・八、午(ひる)は六・一分です。順調でしょう?いそぐならもう程なくかえってよい由、あとから通えば。私は傷の小さい穴がすっかりふさがって、毎日湿布をしたりしなくてよくなる迄いるつもりです。目白から省線で立ったりして通って来るのはいやだから。それにしてももう僅かのことでしょう。多分もう一週間以内だろうと思います。午後は大体ずっと椅子におきて居ります。両足の踵と左脚のふくらはぎとが、体の不自由だったとき何か筋の無理をしていたと見え、しこってしこってひどくくたびれているだけで、歩くのも傷のところがつれる感じはごく微かです。これがすっかり直って、すっかり軽くなったらどんないい心持でしょう。どんなに軽々といい心持だろうと思うと、私は一つの夜の光景を何故か思い出します、屡〃(しばしば)思い出します。茶色の外套をきてベレーをかぶって、夜の道を急に崖下に家の見えるような坂道にかかったときのことを。すべりそうでこわかったとき、つかまっていいよと云われたときのことを。すこし勢がついて足が迅(はや)まると崖から屋根屋根をとび越してゆきそうな気がしたときのことを。不思議にこわくて、不思議にうれしかったときのことを。
ふらふら読書の道すがらアメリア・イヤハートの「最後の飛行」をよみました。一九三二年頃単独で大西洋横断飛行をしたり、多くの輝かしいレコードをつくっていた彼女が太平洋を横切って世界一周飛行の途中、ニューギニアのレイと赤道直下の小島ハウランド島の間、彼女自身によって「全コース二万七千哩(マイル)の中最も距離長く難コースと思われる」地点で消息を断ってしまった。この一周飛行に当って、彼女はジャナリスムに寄稿する契約をもって居り、飛行の間のノートその他を土台に相当書いた、レイを出るときまで。それを良人であるプトナムが編輯したものです。写真を見ると、いかにもさっぱりした快い風貌の女のひとです。飛行機に対する熱愛とともに、彼女が女の生活能力の拡大について常に熱意をもっているところ(アメリカにおいてさえも!)自身の仕事をもその一実例としての責任感で当っているところ、又飛行機に関して、現代の機械の進歩は、各細部の性能の特殊化の方向にばかり向けられて居り、速力を増すことにのみ向けられている。僅か四呎(フィート)ぐらい(四方)の操縦室に見たり整えたりしなければならないものが百以上あって、これは飛行士をつからせる、もっと単純化すのが一歩の進歩ではなかろうかと云っているところなかなか面白く感じました。安全率を高めるための配慮がもっとされなければならないとも云っている。忙しい操縦の間に十何時間も食事なしでとびながら、自然を観察したり何か、こまかく活動的な頭脳であることがよくわかる。良人が、驚くべき性格と魅力とを惜しんでいるのも尤もです。いつか私も命をおとすときがあるでしょう、そう云って、夫婦がそれを理解し、理解していることから一層互に楽しく結び合い愉快に暮した生涯というものも、味があります。
リンディーの夫人のアンがやはり本をかく由。今度のは「聴け!風を」という題の由。女性の生活と広い意味での文学は、こういう方面にもひろがって行っているのですね。
私は飛行機は駄目です。パリとロンドンとの間を翔(と)んだけれど。普通に酔うのではなくて、脳の貧血がおこります。頭がしめつけられるようになって来てボーとなって、長時間の後にはそのまま死ぬという厄介な酔いかたをするから。みっともなくガーガーやるのは、いくらやっても大丈夫なのですって。
文学的な形にはまとまっていませんが、三八年の九月のモスクワから三人の婦人飛行家(モスクワと南露の方を無着陸飛行したレコード保持者たち)がバイカルのこちらのコムソモーリスカヤ辺へ無着陸飛行を試み、もうすこしのところでガソリンが切れ、不時着に迫られたが機首を突込む危険が見えたので一人の婦人飛行士にパラシュートで飛下る命令が下った。彼女はそれを実行した、機体は幸(さいわい)無事に降りることが出来、一週間ばかり密林での生活ののち救われた記事が『新青年』に出ていた。パラシュートで独り下りた女のひとの経験は恐るべきものです。よく沈着さと推理と体力とで飛行機のところまで辿りついたが、やっと辿りついたときの彼女は片足はだしで、杖をつき、茶色のジャケツの胸にレーニン章をつけて、辛うじて密林から現れて来た由です。この物語の中には、イヤハートの生涯と又全く異った美しさがあるではありませんか。涙の出るところがあるでしょう、人間の生活の美は複雑ですね。
日本では自動車をやれる女のひとさえごくまだ尠(すくな)いから、飛行機まではなかなかでしょう。自動車をやる女のひとは有閑的か何か的ときまったような工合故。咲枝や寿江子は出来るのに本当の免状をとる迄はやらない。
一月三日
きょうは久しぶりで髪を洗って貰って、小豆島産のオリーブ油をつけて、非常にさっぱりしたところです。十二月は中旬にならないうち病気になってしまって、ちっとも髪など洗うときがなかったから、全く爽かです。
考えて見ると、私は十年目位にひどい病気をして居ります。一九一八年、二八年、三八年。そして、それがいつも年の暮ごろから正月にかけて。奇妙です。その上、一つの病気の後に生活が或変化をうけて来ている。今度の後のことはまだわからないけれども。今度の病気のやりかたは以前のどれに比べても結果はプラスだけだから、生活に変りが生じたとしてもやはりプラスだけだろうという気も致します。二八年から九年にかけて肝臓炎をやったときは、内面的に大きいプラスを獲たが肝臓は半死になってのこったのですものね。今度のように生涯の禍根を断ったというのではなかった。
体の調子は良好で、この前の手紙に書いたひどい疲労感はごく微かになりました、ただ、夜夢を見るの。これは私としては大変珍しいことで注意をひきます。何か不安という程ではないがアンイージーな夢を見る。そこで心付いて、もうすこし傷が丈夫になったら眠る間腹帯はとることにしようと思います。しっかりしまっている、そのため何か圧迫感があり実際圧迫されていて夢を見るのでしょうと思う。夢はとりとめなくて、昨夜見た夢はどこかアメリカの植民地で、ポプラーの大変奇麗な緑したたる並木道があり、そこを通りぬけてポクポク埃っぽい道へ歩いて出たら、むこうから人力車が来る。それが日本と支那の人力車のあいのこの形をして、白粉をつけた娘が三人も一台にのっていて、友禅の衣類をつけていて、歩いている私ともう一人どこかの女を、大層軽蔑するように俥(くるま)の上から眺め下して通りすぎました。そんな色の鮮明な夢。心理学者は普通夢に色彩はないと云いますが、私は夢としてすこしはっきりした夢を見るときは、いつもごくはっきりとした色彩を伴っています。
鴎外の、「妻への手紙」というのをよんで、別品(べっぴん)だの何だのという古風な表現をよんだものだから、きっとそんな夢で人力俥なんか見たのかもしれない。
『戦没学生の手紙』は、この本に日本訳されていない部分だけロマン・ローランによって紹介されているそうです。やっぱり一つ一つ特殊な境遇に生きた二十三四歳の若々しい心の姿があって、それが多くの幻にとらわれているにしろ、一律の観念に支配されて物を云っているにしろ、哀れに印象にのこるものをもっています。最後に私の心に生じた疑問は次のようなものです。人間が非人間な非合理な生活の条件に耐える力は実に根づよいが、それを正気で耐え得る人間というものも亦何と尠いことであろう。大抵が、何かの観念に逃げこむ。それで耐える。そのために、非合理な条件を改善する或は根絶させる力がそらされて、減じられてしまう。キリスト教の伝統のある精神の動きかたは、そのことをつよく感じさせますね。現代の神話もそのことをつよく感じさせます。
歩くのがまだ十分ゆかず。又本気な読書もすこし重い。それで、いろいろふらふら読書をしている有様です。
明日は売店が開かれてエハガキを買えます。早速お送りいたします。又あしたの予定は、すこし建物の内を散歩することです。二階の大廊下はからりとしていて心持がよいから。今私のいるい号の上の部屋(真上ではありません)で父が亡くなりました。この病院は父がプランしたので、おれは慶応で死ぬ、と云っていた、そのとおりであったわけです。尤も自分が病人となって見たらいろいろ苦情が出てこの次建てるときはもっともっとよくすると盛に云っていた由。こちらの建物は旧館で、新館の方はもっと帝国ホテル流で私は気に入って居りません。こちらは白壁で、部屋もゆったりとってあって、その代り室内に洗面の設備などはありません。
ずっと風邪もおひきになりませんか、読書の材料は本当に相当なものですね。ヴァルガのは二冊でしょう?インドの本はいつか見て目についていた本です。明日繁治さんがゆきます。そして、七日か八日には寿江子がゆきます。私は七日ごろ家へかえると思いますが、外出はすこしおくれるから十五日ごろおめにかかれることになるのではないかしら。殆ど一ヵ月ぶりね。顔だけ見てはどこも変っていなくてきっとおかしな気がなさることでしょうね。
一月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛慶応大学病院より(絵はがき三枚(一)同病院正門、(二)同病棟大廊下、(三)同全景)〕
(一)この門が信濃町に面した正門。つき当りの自動車のとまっているところが病棟の正面玄関です。この玄関を入ると、子供の群像が一つ立っていて、その正面後のドアからい号に入る。左手に(ドアの手前のホール)二階へ上る階段があって、そこからい号の上へあがるようになって居ます。上ってゆくと、休憩室のようなホールに出て、その窓がこのエハガキの正面に(二階)三つ並んだ大窓となって見えます。もといたのはい号の左側。エハガキの左側の植込に面した側。今は右側。内庭に面して居ます。
(二)ほ、だの、と、だのという字の札が見えるでしょう?これはずっと奥の耳鼻などの病棟。逆にずっと玄関の方へ出てゆくと、一番はじめに、い、があるわけです。内科は、は、です。「い」は急な場合、科によらず入れるところ。ですから小児科もとなり合わせで、少なからずやかましいようなこともあります。きのう(三日)はじめて午後すこし歩いて二階の休憩室まで行って見たら、ラジオをやかましくやっていて、閉口してにげかえりました。おしるしの初雪でしたこと。
(三)手前の木立は外苑ですね。大きく見える玄関は外来の玄関で、その左奥に信濃町に面して、私たちの入口があるがはっきりしないこと。外苑から出て省線の上にかかっている橋をわたった左側の白い一かたまりは別館でしょう。別館とこちらの建物とは長い地下道でつながれて居ます。別館から又はなれて見える一つが食糧研究所の建物でしょう。こうして見ると随分ギッシリとして大きいことね。校舎、研究室皆あるから。そして、信濃町の通りのソバや洋食やすしや、皆この一ブロックのおかげで御繁昌というわけです。((三)までで終り) 
一月六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
一月六日第三信
明るい午後。風がきついらしいけれども、実に実に青い空。東京の正月はじめの空の色も澄んでいますが、モスクワの一月の白雪の色、日光の燦き、黒く濃く色とりどりの家の屋根から立ちのぼっている白樺薪の煙など、いつもよく思い出します。冬らしい冬の光景として。
その後いかがでしょう、やっぱり風邪もひかず御元気ですか。四日に繁治さん行きましたか?かえりにもしやよって呉れるかと待っていたら来ず。きのう五日故栄さんでも来ると思ったが来ず。本日午後二時近くですが、まだ来ず。待ちながら文庫の下らない恋物語(ドイツのロマンチシスムの見本のようなもの)を三つもよんでしまった。どうしたのかしら。行かなかったのかしら。行かなくて、わるいと思ってひっこんでいるのかしら。どうしたのだろうと考えながら、これを書き出しました。きのうは、もし何かおことづてがあればと思って待っていたのだけれども。
もし行かなければ、次々への手紙でだけ、私の順調な恢復の模様を知って頂いているわけね。三日前から、毎朝入浴して、手当(ガーゼの湿布をつけること)し直して、一時間ほど眠って、おひるたべて、すこし休んで本を読むという調子です。熱は六度から六・六です。大変きっちりとして来て、入浴から上ったすぐ後六・八位が頂上です。傷は二センチほどにちぢみました。木村博士笑って曰ク「こんな小さい傷口で虫様突起をとったなんてうそだという人があるといけないから、一遍出たのを見ておおきなさい」その位です。そして、傷の下にあいている小さい穴も大分肉が上って来て、浸潤もごくすこしガーゼについて来るだけになりました。今度は全く驚くべき好成績です。木村先生も大いに御満足で、今日は、その大きいおなかの小さいきれいな傷の記念写真をとりました。外科医にも制作的情熱は盛でしてね、先生は忙しいのにわざわざ室へ来て、小さい物尺(ものさし)を傷の横に当てて持っていて、写真をとらせました。「記念のために一枚あなたにもさし上げます」そういう傷なのです、ただの傷ではないと申すわけです。
体の疲れもいろいろにやって見て、大分直りました。七日ごろ退院と思って居りましたが、まだ疲れ易いし、そとを歩きたいという欲望全くないし、するから、十日までいて、浸潤もすっかり乾いてからかえることに今日きめました。折角かくの如き大成功だのに、文字通り針の穴から妙な失敗をしてはくやしゅうございますから。悠々構えろというあなたの標語をここでこそと守るわけです。家へかえっても何処へも行かないだろうと思います。というのは、国府津へ行ったって目白より入浴が不自由だったり食事が自分の負担になるし(としよりの女一人留守していて、そのひとは頭がよくて、私が一人行くと、自分が体が変になって休むの)さりとて温泉へ出かけるのも進まず。去年行った熱川は行きたいが、バスが一時間以上ですから無理だし、熱海、湯河原は気に合わずですから。かえって、又例の十時就眠を実行すれば結構だと思って居ります。それに病院を出るようになれば、私のための恢復薬は特別品があるのだから、東京なんか離れるよりその薬をよくよく眺めて、聴いた方がずっと利くこと確実です。今でさえ、そう思っている次第です、ああこの病院は万事到れりだが肝心の薬一つが欠けている、と。しかも、その薬こそ私を生かしも殺しもする力をもっているのに気付かないとは何とうかつでしょう!
島田では隆ちゃんの出立ちが迫っていて、さぞおとりこみでしょう、この間お母さんからスタンドや何かのお礼とお見舞の手紙頂きました。お母さんのスタンドは日本の手提行燈の形の、白絹を黒塗のわくに張ったもので、よくお似合いになるだろうと思います。お気に入ったそうです。この頃はあなたのところからもよく手紙を呉れると書いてありました。お母さん、私がおなか痛がったり、お餅をたべたいのに食べられないと残念がったりしていたのをよく御承知ですから、手術したことをびっくりなさりながら、やっぱり、後がさっぱりして却って安心と云って下さいました。後がさっぱりのうれしさは、今にもうすこしして平気に歩くようになったとき俄然真価を発揮すると思います。
私はリンゴぜめよ。誰彼が見舞に来て呉れ、何か土産をと考えると、汁の食べられる果物リンゴと思いつきが一致するらしいのです。青森のリンゴ、赤いの青いの、ゴールデン・デリシャス、レッド・デリシャスと、リンゴの行商に出たい位です。あなたの工合のおわるかった時分、私自身何か何かと考えよくリンゴと考え、又リンゴ召上れなどと書いたでしょう?それを思い出して苦笑ものです。リンゴは閉口して、ミカンをたべて居ります。ついでに食事をかくと、もう普通で、朝おみそ汁御飯一杯半、何か野菜の煮たの。ひるは、トーストに紅茶と何か一寸一皿。夜、おつゆ、魚か肉、野菜、御飯二杯。その位で、間にはカステラ一つ位。間食はしない方です。体重はすこし減ったかどうかです。顔もきっと御覧になると、どこも細くはなっていないよ、と仰云るのでしょう。今はまだ脚の力がないの。でも、ベッドの上下、折りかがみ等楽に致します。まだ横向きに臥られません、どっかが心持わるくつるのです。右へも左へも本当の横向きは出来ない。仰向いて例の二つ手をかつぐ形で眠ります。夢はまだ見ます。いやね、昨夜の夢は、小さい小さい耳掻きがいくつもいくつもうんとあって、私はその一つ一つの小さい耳掻きの凹みにつまっている何かのごみをとらなければならなかったの。面倒くさくなって、理屈をこねているの、いろんな発明があるのにこんな下らないことに人間の手間を無駄にしているなんて、非理性的だ、と云って。
非理性的なんかというのは、ひる間考えていた言葉なのです。非常に自分が薬欠乏を感じて、渇いて、求めて求めて呻(うな)るような気持でした。苦しさのどんづまりで不図自分のこの激しい渇望は、与えたい渇望なのだろうか、与えられたい渇望なのだろうかと考えました。それは勿論二つが一つのものですけれども、それにしろ、やっぱり与えられたい激しさであって、この気持そのままあなたの前に提出したら、それはあなたをたのしくよろこばせるものだろうか苦しませるものだろうかと考えました。よろこびの要素が多量にあるにせよ、よろこびをそれなり表現出来ないことの苦しさは確かです。そう考えているうちに、つきつめた心持がうちひらいて、二つの心のゆき交いをゆったりと包んで見るような調子になりました。それにつづけて、女の心のやさしさと云われているものについて考え、本当の、私たちの望ましいやさしさとは、悲しみに打ちくだかれる以上の明察を持つものであること、あらゆる紛糾の間で常に事態の本質を見失わないことから来る落付いた評価がやさしさの土台であることなど、新しい味をもって感じました。やさしさなどと云うものは、男についても女についても、随分考えちがいをされ、低俗に内容づけられていますね。涙もろさ、傷つきやすさ、悲しみやすさ、そういうものがやさしさと思われているが、人生はそんな擦過傷の上にぬる、つばのようなものではない。人間は高貴な心、明智が増せば増すほどやさしくなり、そういう雄々しいやさしさというものは実に不撓(ふとう)の意志とむすびついて居り、堅忍と結びついて居り、しかもストイックでないだけの流動性が活溌に在る、そういうところに、本当のやさしさはあるのですものね。雄々しい互のやさしさだけが男を活かし女を活かすものです。いろいろ考えていてね、語るに足る対手としての最小限の発達線、進歩線と云われていた言葉を思いおこし、その言葉の底に、やはりそういう厳しいやさしさを脈々と感じました。私はどんなやさしさをもっているだろう、どのようなやさしさをあなたにおくっているだろう、そう考えて、永い間考えていた。威厳と(人間としての)やさしさとが耀(かがや)き合っていて、自分の人間としての程度が高まれば高まるほど恍惚とするような、そんなやさしさを自分も持っているだろうか。そんなことを永い午後じゅう考えていました。思うに私のやさしさの中には一匹の驢馬(ろば)が棲んでいる様です。幅の相当ひろい、たっぷりした、持久性のある光の波が、時々この驢馬のガタガタする黒い影で横切られたり、あばれられたりするらしい。しかし、この驢馬はね、消え得るもので、ぐるりの光のつよさと熱度に応じて総体が縮少しつつある。昔から驢馬には女が騎(の)りました。白い驢馬だったそうです。 
一月九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 慶応大学病院より(封書)〕
一月九日第四信
六日づけの第一信、きのう着。本当にありがとう。化物退治が成功したうれしさが、あのお手紙に響いているよろこびで倍々になりました。我々の頭の上は、天気晴朗であろうとも波浪は決して低からずと予想される時期に向って、腹中の妖怪を退散させたことは全く満足です。しかもこんな好結果で。経済的な点からもよい時期でしたし。
きのうから、もうすっかり漿液の浸潤もなくなりました。きょうはどうかしら。まだ交換がないから、わからないが。今は小さな細長い消毒ガーゼをあてて、上から絆創膏を十文字に貼りつけ。
ここまで書いたら朝の廻診になりました。木村先生入って来て、バンソー膏をはがす。そのとき皆が、一寸どうかしらという表情を沈黙のうちに示す。すっかり乾いて居ました。「もうすっかりきれいじゃないか、もういい」そして、私が歩くとき胃の下の方がつれて、すこし胸がわるいようになりますけれどと云ったら、「横づなでしめたらいいでしょうな」すると、外科の婦長をしている大層しっかりものの森田さんという看護婦が「木綿を二つに折ってしっかり巻いておおきになると一ヵ月ぐらいでお馴れなさいますよ、寒いと傷がピリピリ痛いときがありますから真綿でもお当てになってね」とのことでした。では明日かえったらそのようにしましょう。木村先生は制作品にお名残の一瞥(べつ)を与えて出てゆかれました。
それからお風呂。あったまって、かえって来て、横になってボーッとしていたら案外早く寿江子がかえって来ました。ひどいひどい風の由。では又きょうも外出初は中止です。一生懸命に喋ってパタリと落ちて、両方で大笑いをなすったって?本のこと、その他わかりました。ありがとう。それに、私の外出について寿江子は大変監督権を与えられたように得意になって、主観的にいいつもりでも云々だとか、第三者が見て云々だとか、口真似をしました。十五日ごろ出かけたいと言伝(ことづて)させようとしたら十五日は無理よ、無理よ、二十日にしておけと大いに力説したから我が意を得たわけです。それに二十八日のことも通じていたし満足そうにしていました。いろいろ不十分ではあったが、寿江子としてはよく手つだってくれました。彼女としては初めてのことでした。体の方がやはりましになっているので、出来るのだと云っている、それもそうでしょう。先頃は省線で立っていることなどつかれて出来なかったそうですから。
六日のお手紙は様々の心持、様々の想像される情景がのっていて、くりかえし、くりかえしよみました。隆ちゃんの手紙、全く、一遍よんだだけでは置けない手紙です。私の方へも病気の見舞と挨拶とをかね、同じような勇壮さ同じようなやさしさ、何とも云えぬ素朴さで満ちたいい手紙をくれました。その手紙をよんだとき、あなたの方へもこういう手紙あげたかしら。空が自分の美しい輝きを知らずに輝いているような美しさと、その美しさが環境の表現しかとっていないところ、しかもそれを透して本来の光が見えることなど感動をもって考えていました。なかなか心を動かされました。稲ちゃんが来たので、この手紙一寸見て、とよませた。そんな心持でした。だからお手紙見て、実に同感であったし、こういう気持で愛情を抱いている兄や何かとの生活のつながりということについても浅からぬ思いを抱きました。乗馬隊ですってね。あなたは馬におのりになったそうですが隆ちゃんたちのれるのでしょうか。馬もきっと、あのひとになら優しい動物の心でなつくでしょうね。
富ちゃん、島田で手つだうこと初耳でした。克子さん、二十五日ごろ御結婚です。よろこんで新生活を待っている手紙が来ました。私たちのお祝は針箱です。いいのが買えましたって。針箱というものは情のこもったもので、妻にも母にも暖いものです、鏡台よりも。そうでしょう?女が鏡台の前であれこれしているの、面白いが、時に薄情で女の無智から来る主我性や動物性があらわれる。針箱は活動的で一家の清潔の源(みなもと)に近くていいわ。私が大きいギラギラした鏡の好きでないのは、そういうようなあれこれのわけで、あながち、まんまるなのがいつも目に映れば悲しかろうという自分への思いやりではないの。まんまるなのを決して気がひけてはいないのですものね。まして、盲腸征伐の後では!
京大に入っていらしたときの話。短いなかによく情景が浮き上って、あの部分は短篇のようでした。『白堊紀』の中の短篇が微(かすか)に記憶にのぼりました。漠然雰囲気として。ここの耳鼻は詩人が中耳炎の大手術をうけたから知って居ります。三二年の七月末ごろ、急によばれて行って見たら、もう脳症がおこりかけている。びっくりして十二時ごろ西野先生のお宅へとびこんで行って、入院させて貰って、大手術を受けたが、あの出血のひどかったこと。殆ど死ぬと思った。可哀そうで、私はその頭をかかえて死ぬんじゃないよ、死ぬんじゃないよ、皆で生かそうとしているんだから、と呼んだものでした。
うちへかえるのはうれしいと思います。ここはうるさいの。物音が。大した重症がないからだそうですが。二十三四日ごろ、それから正月に入って二三日、疲労が出ていたとき物音人声跫音(あしおと)のやかましさに、熱っぽくなった程でした。病人一人につき二人、ひどいのは三四人健康人がついている。病気を癒すという目的でひきしまっていないで、何か「事」のようにバタバタしている。入院は「大変だ」「其は事だ。」式ですね。うちへかえって又あの静かな静かな昼間があると思うと、うれしい。聖ロカはきっとこの廊下は公園に非ずという原則がわかっているでしょう。
クリスティーの『奉天三十年』二冊お送りして見ましょう、そう云えば『闘える使徒』の新版まだ出ないらしい。あれとこの奉天三十年とは二つの照し合わす鏡のように、支那の五六十年間を語って居ります。奉天三十年の方がもっと歴史の各場面をはっきりと。この著者は伝道医師故、それとしての小鏡も手にもたれているが、読者はその鏡が、その持ち手にどういうものとして主観的に見られていたかということも亦判断出来て、ぎごちない訳ではあるが、よめます。
この十日ばかりの間によんだものでは、これと、シュトルムの短篇とがマア印象にのこります。スタンダールの「カストロの尼」も一度よんでおいてわるくはないものでしたが。スタンダールの「赤と黒」や恋愛論は十年間に十何冊とか売れたぎりだったそうですね。「パルムの僧院」は一日十五時間ずつ労作した由。
小橋市長の発案で、今度は都会文学というもののグループをつくって、東京の情操にうるおいを与えるそうです。顔ぶれは秋声、和郎、武麟、丹羽文雄、横光利一、もう一人二人。林芙美子、深尾須磨子諸女史はイタリー、ドイツを旅行に出かける由。ドイツの本当の心にふれて来るそうです。
一時長篇が流行しはじめて、忽ちある方向へ流されて行ってしまって今日に及んでいるので、本年は、純文学の甦生は第二義的野心作を並べる長篇よりも、寧ろ地味にフリーランサーとして書かれる短篇のうちにその可能がふくまれていると考えられて来ているらしい様子です。有馬農相の写真をつけた農民文学叢書も、今度は急に表紙を代えなくてはならなくて大変でしょう。
林町では太郎かぜ引。咲枝がすこし体の調子が変と云って居りますが、これは或はやがてお目出度になるかもしれず、まだはっきりしないらしいが。
あなたからの私の世話をしてくれる皆によろしくをよくつたえたので、お手紙が来ると、冗談に、よろしくがあるかしらなどと云って渡してくれます。あなたはここでも、廊下を歩いたりいろいろしていらっしゃるわけです。
和英の辞典はコンサイズよりもすこし大きくて目のつかれないひきいいのが林町にあったから、それと同じのを入れましょう。新法学全集は文楽堂に云いつけます。お金もうおありになりますまい。一二日中に送ります。ではこれで病院での手紙はおしまい。私が、黄色いドテラの片肩をぬいで書いているので榊原さん曰ク「そんなにおあつうございますか」 
一月十二日〔巣鴨拘置所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕
一月九日夜第五信
今、夜の七時半。榊原さんはここの寄宿の方へ遊びに行って九時にかえって来るところ。私はフォンターネという十九世紀のドイツのリアリスト作家の「迷路」という小説を読み終って、さてとあたりを見まわしたが、お喋りがしたくなって。このフォンターネという作家は、訳者によってリアリストと云われているが、リアリスムは、ドイツではこういう身分にさからったことをすれば、結局不幸になる、という良識を、菊池寛のように恋愛その他の生活法にあてはめてゆく態度に限られていたのでしょうか。ドイツのリアリスムというものに興味を覚えます。ドイツの文学史は知らないけれども。ゲーテ賞を(ノーベル賞なんかナチの文学者は受けるに及ばん。ゲーテ賞をやる、ということで)貰ったカロッサにしろ、医者として或点大変リアリスティックですが、いざとなると、永井潜先生に近づき科学と宗教的なものとをまぜ合わせてしまっている。フランスが文学に於て示したリアリスムの力づよい歴史的な功績と比べて面白い。
今この部屋のスティームの上に、私の腹帯が乾してあり、その上にお正月用にお送りしたと同じ手拭がほしてあります。この手拭はスフ三分混紡で、今にこれでも珍しいものとなるわけですが、使って御覧になりましたか?ちっともさっぱり水が切れません。スフは赤ちゃんの皮膚を刺戟してただらすので、この頃お母さんになる人たちは、古いものでも木綿をきせたいと大努力です。私の腹帯にしろ、晒(さらし)木綿は貴重品、こうやって大切に扱う次第です。
どこかで鳥が囀(さえず)っている。外かしら、それとも室のどこかで飼っているのかしら、チュチュンチュンチュンと囀っている。それともどこかの籠から逃げたのでしょうか。何か気にかかる。
あしたの晩は三週間ぶりで、我が家の机の前に坐れます。そして、こういう万年筆ではないペンで字が書けます。この万年筆のこと、いつかお話ししたことがあるでしょうか、母のかたみだということを。パリで母の誕生日十月十日の記念に父が買ったものです。大切にビロードのケースに入れて、あの殆ど盲目に近かった眼で、勘九分でいつもいろいろ書いていたその万年筆です。先が細くて、いちいちインクをつかったりペンをかえたり出来にくい場合の役に立って居ります。ウォータアマンです。
こういうまとまりのない文章の伴奏として、キーとあいてひとりでに閉る扉の音。パタパタいう草履のおと、何か金物のぶつかる音、廊下に反響して言葉は分らず笑声だけ高い二三人の女の喋り。どこかの咳等があります。病院は今ごろから九時ごろまでいつもなかなかざわつきます。全体がざわめきの反響に包まれている。あしたもうかえると思ってこちらもきっと落付かないからでしょう。やかましさが実に耳につくこと。
十二日
さて、久しぶりで例のテーブルの前。九日づけのお手紙、昨晩茶の間の夕飯が初まろうというときに着きました。どうもありがとう。それについてのことより先に十日の退院の日からのことを書きます。
十日はいい塩梅に風も大してなかったので大助り。午後二時ごろまでに世話になった先生がたに挨拶して自動車にのって榊原さん、寿江子とで家へかえりました。いろんな挨拶や何かでつかれはしたがおなかの方は大丈夫でした。熱も出ず。大体私ぐらいきれいに癒った傷ですっかり完成までいれば、もう全く理想的である由。決してせっかち退院ではなかったのだからどうぞ呉々御安心下さい。
かえって茶の間でお茶をのんでいたら、林町からお祝にお魚を一折送ってよこしました。あっちは、今、咲枝も太郎もかぜ引で食堂にひきこもっていて来られない由。我が家にかえって、いつか下手な図でお知らせした私のおきまりの場処にどっこいしょと腰をおろすと、面白いものね。気分がすっかり変って、病院にいた間の、ひとまかせな気がなくなって、シャンとして来ます。
夜はもらった鯛をチリにして御馳走したが、私はつかれていて本当の食味はなかった。家がさむくて「アイスクリーム・ホーム」と云う名がつきました。病院は六十八度から七〇度であったから、うちへかえってすぐ二階の火のないところに臥たら〇度で、頭がしまっていたいようでした。それから火を入れ、甘いがつめたいアイスクリームを段々あっためて、きょうはもう我が家の温度に馴れて、平気。暖い二階で十度です。華氏五〇度。きのうのお手紙に流石(さすが)相当の気候とありましたが、全くね。本年はそれによけい寒いのです。水道が今年ほど毎日凍ることは去年なかったことです。そちらはさぞさぞと思います。
十日の夜は久しぶりの家でほんとにくつろいだ気分でしたが、やや寝苦しかった。きのうは午後一寸(二時間ほど)横になってあと茶の間にいた、座椅子にもたれて。国男さんがひる頃来て、お祝総代ということで喋って行きました。そのときほんのお祝のしるしと云って仰々しい紅白の紙包をさし出した。お金が入っているらしい様子で、上に御慶祥と書いてあります。ふーん、この頃はこんな字をつかうのかしらと思って、これはどういう意味なの?と訊いたら、その通りだからさというわけ。御軽少の音にあてたのです。大笑いしてしまった。正直に訊いてよかったと。だって、私は真正直にこんな字もつかうかと真似したら大笑いのところでした。
きょうは、只今寿江子がそちらに出かけ。榊原さんとおひささんは、日本橋の方へ、おひささんのお年玉の呉服ものを買いに出かけました。なかなか、恩賞はあまねしでなければならないので、私は大変よ。おひささん、寿江子(これはお正月のとき羽織半身分(はんみぶん)せしめられてしまった。あと半身(はんみ)は咲枝のプレゼント)榊原さん、林町を手伝ってくれた女中さん、本間さんのところのひさ子ちゃん、病院の先生二人。等。大したものではなくても其々に考慮中です。
いよいよ九日づけのお手紙について。これは妙ね、どうして、小石川と吉祥寺とのスタンプが押してあるのでしょう。珍しいこと。十日の午後四―八が小石川で十一日の前〇―八時が吉祥寺。吉祥寺と云えばあの吉祥寺でしょう?あっちへ廻ったの?本当に珍しいこと。
先ず相当の冬らしさの中で、風邪もおひきにならないのは見上げたものです。私がそちらへ早く行きたがっていることと、それを行かせることをあやぶむ気持とは面白いわね、どうも危いという方に些か揶揄(やゆ)の気分も加っていると睨んでいるのですがいかがですかしら。そちらからのお許しがないうちは出られないとは悲しいこと。〔中略〕でも、マアざっとこんな工合よ、と、一日、一寸この様子を見て頂きに出かける位、不可能とは思われません。きょう十七日にお許しを強請したのですがどうかしら。許可になったかしら。二十三日にはこれは、綱でも私をとめるわけにはゆきません。私は外見はやっぱりいい血色で、家の中の立居振舞は大儀などでなく、外見から判断すれば切開した翌日などお医者がびっくりした位桜色だったのですもの。自分の体の気分が一番正しいわけです。〔中略〕
隆治さん九日出発とは存じませんでした。本当にどうだったでしょう、午後四時にはついていたでしょうが。あとで退院したおしらせを島田へ書きますから伺います。
二十五六日ごろの様子を心配していて下すったこと、それをちゃんと知らせなかったこと、御免なさい。あれはね、わたしがどの意味でも慾張ったのではなくて、へばっていて、寿江子に行ってくれとたのんだり容態を書きとらせたりするところまで気が働らかなかったのです。二十四日には、とにかくどんなに心づかいしていて下さるかと思ってあの手紙を書きましたが、二十五日は疲れが出てぐったりしていて一日うつらうつらしていた。夜傷口が痛むようで、二十六日は食事のときだけ起き上るようにと云われて起きるが、ぐったりしてやっとだった。脈の数も多く。二十六日ごろ傷が或は化膿するかもしれないと云う状態になって、二十七日は大変不安でした。ところが二十八日に、ガーゼにひどい浸潤があったので、きっと化膿したと思って糸を切って、さぐり調べたら化膿ではなく、肉も上って来ていて浸潤は漿液と判明。大いに皆御機嫌がよくなって、寿江子はその安心ニュースをもって出かけた次第でした。
二十九日にはすっかり下熱して、初めて六度。三十日には初めて椅子にかけて食事をし、そちらへの手紙も書いたという風でした。
こちらでは、私がのびてしまうと万事ばねがのびて利(き)かなくなって不便です。そちらへも寿江子としたら珍しくよく足を運んでいてくれますが、こちらがへばってボーとなっていると、それに準じて運転が鈍ったり止ったりする。これはどんな場合にも一番困ることですが、寿江子にしろせいぜいのところでしょう。栄さんが丁度工合をわるくしていたことも不便の一つでした。今度の経験から、一つきまりをこしらえておきましょう。万一私が病気その他で動けなくなったら、きっとその容態や情態を知らせ、又そちらからの用をきく役目を一人それにかかって貰うようにきめましょう。規則的な目的なしに暮している人々を、急にキチンと動かすことはこっちの気力がつかれて、この間のようにへばっているとつい及ばなくなってしまう。心配させっぱなしでわるち思っていたのに、本当に御免なさい。それでも、寿江子の体が少しましになっていたのでどの位助かったかしれません。
世話してくれた人たちへのあなたからのよろしくは十分つたえました。〔中略〕
中途でお客があって(主役は当年二つになる女の子です泰子という。私が名づけ親なの。)又二階へ戻って来たが出かけた連中はまだ戻って来ない。
子供の話になりますが、てっちゃんのところの娘、これはやす子ではなく康子とした由、生れるとき難産であったために鉗子(かんし)という鉄の道具で頭を挾んで生ましたところ、産科医の云うにはそのために片方の眼に白くかすみがかかっていて、瞳孔をも覆うているそうです。松本夫人[自注1]が目下風邪だが癒ったらすぐ行って見てよく研究するそうです。可哀そうね。てっちゃんもやっと昨日その話をした、その心持もわかります。眼は親もぐるりも辛いものです。
いずれにせよまだあしたあさっては出かけられないわけですがどうぞ呉々もお大切に。〔中略〕そろそろ風のないひる頃ゆっくり外を歩きます。のりものになどは乗らず。家のぐるりの散歩に。風呂は毎晩入っています。一つの望みは夜もうすこし楽に眠ることです。まだ何だか寝苦しい。夢を見たり不安だったり、熱はもう先のようにとらないでいいでしょう?赤沈などひどかったわけですね、絶えず腹内に炎症があったのですもの。くされものを無理して持っていてあんなに疲れたのだと思います。
では風邪をおひきにならないように重ねてお願い申します。

[自注1]松本夫人――松本清子、眼科医。 
一月十六日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月十五日第六信
きょうは珍しく風のない好い日ですね。きょううちのお正月です。元日にいなかったから。小豆粥をこしらえて、おめでとうと云って寿江子、バラさん(榊原のバラ)、ひさ、私とでたべました。そこへ十三日づけのお手紙着。ゆうべ床に入ってから九日頂いたから十一日はどこかで、十三日は私の方へ来たろうかしらと盛に慾ばっていたところでした。
ユリは盲腸に注射したり、とあるのでひとりで笑ってしまった。全く盲腸ではなやまされつづけていたわけですが、おなかのなかのことだからよく判らないで、大抵の人が一度やって切らずに癒すとそのまま吸収してしまっているというので、そのつもりでいて注射したのは、恐らく実際は盲腸のせいで、疲労し易かったりいろいろしたのに対して補強薬のようなモクソールを注射していたわけです。盲腸に注射というと、まるであの尻尾めがけて注射しているようで滑稽ですね。私のは吸収性でなかったから苦しかったのでしょう。
こうして家にいると、目にもとまらないようなこまかい日常の動作のうちに、傷あとなど案外早くましになるのでおどろきます。すこしでもどうかという時期を病院で辛棒していた甲斐があって、かえって五日目ですが動作が楽になって来たし、つれも大分気にならなくなりました。もう切ったところへ手を当てずに歩けます。家の生活は微妙なものだとしみじみ感じます。病院にいてはない細々した立居、のびかがみ、ねじり、無意識のうちにしているそういう微細な運動で馴れるのですね。だからこれを逆な場合として見れば、或条件では、そういう数えることも出来ない動作で、病気をわるくしていることもあるのです。本当にこれは面白いところです。そして、よく医者が御婦人は特に御夫人は必要が生じたら決心して入院すれば二ヵ月かかる病が一ヵ月でなおる、という所以でしょう。おまけに病気をすれば、どうしたって旦那さんが病気しているより細君が臥ている方が気がひけるわけですから。
早くよくなったことにしたくて芸当など致しませんから、決して決して御心配なく。私は大体そういうことは出来ないたちだから大丈夫です。食べるものだって。御心配頂くのも可笑しくて且つ大いに満足ですが、これも大丈夫よ。
私の今年は、やっと十七日ぐらいからはじまるという感じです。病気は去年のうちにつづきになって入ってしまっている。そして、思い出すと、ああ苦しかったナ、と思う。沁々そう思って思い出します。麻睡薬がさめかかって来て、傷をいじられていた間の、あの独特なひっぱったり圧迫したりの感覚を思い出すと、あのとき通り唸りたくなる。医療的な経験でさえこうなのですものね。金属性の関節のついた、手のひらや指の代りに鉤のついた道具を眺める人々が、思い出す思い出はどうでしょう。
本のこと、「女一人大地をゆく」は新本がないのです。古がなかなかない。私のは線だらけ。そのためにおくれている次第です。「使徒」は十二月初旬に新版が出るというので注文中のところ、「母」や「大地」ほど売れないからと見えてまだ出さない。そのためにおくれました。旧版のサラが見つかりましたから一両日中にお送りいたします。タイムズの地名人名はこれもまだです。十二月十八日と云っていて、二十日すぎと云っていて、まだ出ない。
和英はどの道買うわけです。和英はただ単語ばっかり並べたのはつまるまいと思います。慣用語の表現なんかが見て面白いし又実際ためになるし。そのためにはやっぱり、余り手軽なのでは眺める興味も減りますから。林町で備えている井上の和英の大型のがよいと思っていたら絶版の由。すこし歩くようになったら出かけてしらべましょう、見ないとどうもたしかでないから。
徳さんのお年玉である支那語の本二冊お送りいたしました。発音がわからなくても読めてしまいそうな本でした。それからいつぞやカタログを注文した勤労者図書館の目録が到着しました。どっさり本が出て居ますね。小説の翻訳も沢山あります。評論集もある。すこし書き抜きしてすぐお送りいたします。地図のついている新年号の雑誌のこと、これも私が出ないと駄目だからもう少々お待ち下さい。十七日の出初式が無事了(おわ)ったらそろそろはじめます。やっぱりすこし風邪の用心が必要で、近所への散歩もまだ出ませんから。風のひどいのに辟易(へきえき)していた次第です。
体温表十二月に入って一つも書きませんでしたろうか、そうだったかしら。あのダラダラ風邪のときなんか書かなかったでしょうか。――きっと面倒だったのでしょうね。そうすると一ヵ月分ね。もうこの調子が既に或気分を表していてすみませんが、実はこの間大笑いよ、あなたへの手紙で本年からはもう体温表は御かんべんと書いたばっかりに、寿江子の伝言で体温表のことがつたえられたから。こうやって手帖を見ると、七日ごろまで普通で八日には六・八分で臥床。かぜがはじまっています。十二月は病気月だったから、別の紙に書いて見ましょう。しかし、これからの分は本当にもういいでしょう、平熱つづきだのに毎日計っているのは却って健康でないようで妙ですから。ね。
寿江子さんがおききして来た用件はそれぞれその通りにいたしました。手紙はどちらへも書きましたが、御本人はまだ見えません。
腹巻は、これから大いに珍重しなければなりません。毛のものはすべて。あれも(お送りしたのも)7.00ぐらいであったのに10.00になっている。そちらで洗わず、うちで洗ってよくもたせましょう。
まるでちがう話ですが、この間から話そうと思って忘れていたこと。丁度二十八九日でしたろうか、寿江子が病院へ来て、一寸改った顔つきで、こんなものが来たけど、とにかく持って来た、と一つの袋を出しました。それはしっかりした日本紙の反古(ほご)に渋をひいた丈夫な紙袋でね、表にはそちらできまって小包に貼る紙がはりつけてある。「何だろう」猛然と好奇心を動かされました。「何なんだろう」とう見、こう見している。「サア、わからないけれど……」寿江子は勿論そう返事するしかないでしょう、私は余り特別な袋なのでフット思いちがえのような気になって、さては、あなたが何か工夫して私へおくりものして下さったのかと瞬間目玉をグルグルやりましたが、それも変だし、散々ひねくりまわした末「あけて見ようよ」と鋏で丁寧に切って中を出すと、何か全く平べったい新聞包みです。そしてどだい軽いの。そろりそろり皆が首をのばしてその新聞包をあけて見たら、何が出て来たとお思いになりますか。もう不用になった黒い羽織の紐!三人三様の声で「マア」「アラ」「ヘエ」と申す始末でしたが、その紐はずっと私の枕元の物入引出しの中にちゃんと入っていて、私はマアと云ったって感情はおのずから別ですから一日のうち幾度か目で見、手でさわって暮したわけでした。一つの落しばなしのようでもあり、そうでないようでもあり、ねえ。
きのうここまで書いたら背中がゾーゾーして頭が筋っぽくなって来たので、あわてて床に入って一晩じゅうずっと床にいました。夜すこし熱っぽかったが、きょうは大丈夫。出初式がすまないうちは気が気でありません、本当に。風邪をひき易いのは全くね。きのう島田から多賀ちゃんが手紙よこして雪が降って心持よいと云って居ります。小豆島からのたよりにもまだら雪が降りましたって。こちらは凍てついた粉っぽい土になっていてせめて、雨でも降ればよいのに。あなたがおかきになった速達は八日につきました由、大変よろこんでいられたそうです、お母さんも。電報はやはり後についたそうです。すぐ広島へ送った由。ところで克子さんが二十五日に結婚します。どうか新しい生活を祝い励して手紙をおやり下さい。あのひとは善良な正直な辛棒づよいいい娘さんですが、すこしくよくよして、じき生きるの死ぬのというし、世間並の常識にとらわれすぎているところがあります。そのことについても落付いて気をひろくもつよう、よく云ってやって下さい。私もかきますが。出羽さんという家では全くよく辛棒したそうです。
白水社でロジェ・マルタン・デュ・ガールという作家が十四年間かかって書いた「チボー家の人々」という小説山内義雄訳を送って呉れます、十四冊の予定。第二冊まで。千九百十四年に到るフランスの社会を描こうとしたものだそうです。この何々家の人々というのは外国文学には決して例がないわけではないけれども、例えばロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」など、実に立派であるけれども、クリストフによって一人の天才の生きる道を語っていて、時代そのものを描く(人を通して)というところに焦点はおかれませんでした。ヨーロッパ文学の歴史で大戦というものは大きいエポークをなしているが、大戦後の文学の受けている影響が二様であることは極めて興味があり又教えるところ深いと思います。一つの現象は、ジェイムス・ジョイスの流派です。大戦によってこなごなにされた伝統、過去の思索の体系。その破片の鋭い切り口に刹那を反映し、潜在意識にすがりついて行った文学。こういうどちらかと云えば現象的な文学の姿に対して、そのような文学を生む社会の心理そのものを凝視しつつ、社会心理に注意を向けて行って、箇的な主人公のこれまでの扱いかたから社会の層のタイプとしての人物を見て、その矛盾、相剋、進展をリアリスティックに描いて行こうとする努力が現れている文学――このデュ・ガールのような。そして結局は後者が文学の成長の胚子を守るものですが、このデュ・ガールの人間の歴史性(箇人に現わされている歴史性)のつかみかたと、丁度今デュアメルが執筆しつつある「パスキール・クロニクル」というおそろしき大長篇(パスキル博士というのを中心にした年代記)の中での人間のつかみかたとどうちがうか、大変知りたいと思います、やはりこれも一九一四年という年代を問題としています。デュアメルは社会の其々の層のタイプとして人間をとり出さず、人間とはこういういきさつで動きつつこんな波をつくるという風に見ているのではないかしら。フランス文学にあらわれているこういう真面目な収穫は、今日の所謂(いわゆる)事変活(かつ)の入った作家たちに深く暗示するところあるわけなのだが。
『タイムズ』の文芸附録の特輯、世界の文学を見ると、フランスでこういうものが着々と書かれてゆき、ドイツでは極めて旧(ふる)い(中世に迄溯った)小地方都市の歴史小説などが代表作となっているのは面白いことです。いい作品は歴史ものだけと云い得るらしい。歴史上の文献についての研究ではイギリスのクウィーン・ヴィクトーリアの少女時代をしらべたものなどイギリスの研究にまさっているという面白い現象もあります。デュアメルが、この特輯に短い感想をかいていて、いろいろわけのわからない考えかたもあるが、なかで、文化と文明、カルチュアとシビリゼイションとを互に関係しつつ二つは一つでないものとしているところは当を得ています。地球の各地におけるカルチュアは即文明ではなく、文明はその総和的な到達点としての全人類的水準であるということを云っている点では正しい。近代ドイツがその事実を理解しようとしないのは遺憾であると云っている。だがそこがデュアメルで、一転して文明は少数の天才によって高められるという点を強調していて、同時に、所謂実際的な国民が無用と考えるような或知性が人類の精神の成育のためには欠くべからざるものであるとも云っている。いろいろ興味があります。今日の日本文学における長篇小説の問題と、これらの長篇の含んでいる問題とを比較するとこれ又面白く、やはりフランス文学の深い奥行きを考えます。そして世界じゅうの呻きが、小説の世界にも反映していると感じる、其々の声の色、強弱をもって。
おや、もう八枚です。ではこれで中止。明日おめにかかります。
十二月分計温表
起床計温午後四時頃就床計温
一日六・四〇六・三十時六・三
二日七時六・五十時五十分六・四
三日六・四〇六・三十時三十分六・三
四日七・一五六・三十時六・三
五日六・四五六・四この日はひどく暖すぎた十時四十分位?六・二
六日七時六・六風邪ぎみ九時半六・五
七日七時六・四〃十時六・四
八日六・三〇六・八臥床七・三七・五
九日一日臥床。
六・七六・八七・六七・四
十日六・七七・四七・四七・五
十一日六・五六・四七・三七・三
十二日六・五六・五七・〇七・一
十三日六・六六・八七・〇七・
十四日八時。車でそちらへ一寸行った日
六・四后から床につく六・六六・八六・八
十五日床に入っていて手紙の時だけおきた
六・五六・五七・〇七・
十六日六・四六・六七・二七・二
十七日六・四六・五六・七六・七
十八日ひさの姉死去急にかえる
六・六六・四六・四六・四
十九日久々の出〓
七時六・四六・五六・五(十時就眠)
二十日六時四十分六・二六・四九時半
夜十二時すぎ苦しくて目がさめ七・五
二十一日朝七・五、林町へ電話午後入院、手術、后七・八(?)
二十二日―二十八日迄。病院でカルテへかいてよく判らず、六・八位から七・一、七・二の間。
二十九日初めて六・六。三十日以後朝五・九夕方六・六位にきまった。 
一月十八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき速達)〕
十八日
今日はすっかり景色がかわって外を歩けないのが残念な屋根屋根の眺めです。さきほど弁護士のことについてのおことづけは確にわかりましたから、一筆速達いたします。親切という風に思う程でもありませんのですから。いろいろは二十一日におめにかかりまして。 
一月二十日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十日第七信
十八日づけのお手紙をありがとう。二十一日に行ってシクラメンの大きい賑やかな鉢を二十三日のために入れようと思っていたところ、福寿草が咲きかけでは可哀想故、おっしゃるとおりに致しましょう。その代り今寿江子がこれをかいているまわりで大いに美術家を発揮して居ります。光子さんがいた間にもとの家の一寸見える二階の南側のスケッチをして貰ったら、何となししまりのないのが出来て感じがないのでお送しないでいた。寿江子を動員して見たら、マチスのコムポジションに似たようながら面白いのが出来そうだからやって貰っているところです。どんなのが出来るかしら。前にお送りした室内風景ね、あれの南側の面になる分です。
さて、養生のこと、勉強のこと、事務的処理のこと、ありがとう。体に力のないというようなのは一目でやはりおわかりになるのね。大抵のひとは、私の血色がよいし、活気も一通りあるのでだけ判断する。自分では血色や何かにだまされてはいず、力のない感じの方で生活を計っているから御安心下さい。気分はおだやかで、追々夢も減って来て居ますが、この力の充実しない感じは微妙で、ちっとも戸外へ出たくない。十七日に家から出たぎり。冬はこういう内部的な肉体の恢復というのはおそうございますね。傷のところは大層工合よく肉がもりあがって来ていますが。今の私の体の感じは面白いところがあります。肉体の奥ふかい全体にまだ衝撃(ショック)の余波がのこっていてとれない、そういう感じです。常に不調和というのではない、調和はとれた感じだが、その水平線が低くて、引潮で、時々ああアと思い出したように肉体の中に疲れを覚える。そんな工合。幸二階は日光が十分さしますから、大体二階暮しでのんきにしています、横になったりよんだりすこし書いたり。そちらではこの冬風邪さえおひきにならなかったのだから本当にようございます。私は自分が病院でいた間どの位それをうれしく安心に思ったかしれません。本当に私はよく気をつけますから、お互に今年は好調にやりましょう。
私の場合について云うと、十二月のダラダラ風邪や今度の切腹やその後のこういうやや弱っている状態は、内部的には様々のプラスとなっているのは興味あることだと考えて居ります。あのダラダラ風邪の間に、去年のうちのいろいろな気持の底がカタリと落ちてどこかシーンとした気持になっていたところへ、切腹で、おちた底の上で引つづき静かな持続的な省察が各面に動いていて、決してわるい状態でないと思われます。真面目な勉学ということの立体的な意義も人間生活の長い長い歴史の光とてらし合わせて、益〃感じられて来て居ます。私はきっと、今までよりすこし大人らしい勤勉さがわかって来たのでしょう。ですから勉強はつづけます。事務的に必要なことをよく処理しつつ、落付いて勉強します。書けることを、書くべきようにかきつつ。書くことについてやたらにせき立った気では居りません。今年は去年一杯の苦しかったいろいろのことから学んだ点もあり、体の中からくされもののなくなったこともあって、大分様子がちがった気分で、自律的勉強、書きものの出来る気持です。おなかの中がいつも不安な一点があって、いつもそれを劬(いたわ)らねばならず、しかも気でその不快感をひっさげて暮していたようだったのを今思いかえして見ると、いかにも両肩に力が入っていました。快活さのうちに、軽そうな足どりの中に、見えざる感覚への抵抗が常にかくされていて、神経質なところがありました。手術して見たらそのことがはっきりわかって、両肩の力がぬけて楽になったとともに内面の緊張もとれている。小さいようだが心身ともに相当影響しました。僅か六センチ足らずの突起のおかげで。私のむしが退治されたことは二様に好結果をもたらしていると思って居ります。いろいろと複雑な条件の中では、一つの肉体的な手術が様々に反映するから面白いものですね。
二十五六日ごろの御心配かけたことについては、本当にすみませんでした。これからは(マア度々あっては閉口ですが)気をつけましょう。ボーとしていて、しかも妙に鉢のことなんか気がついて、妙だった。新法学全集は、早速全集見本を見ましょう。この間実物を見たらすっかり装幀の出来た本だったと思ったのですが。何か間違ったのだろうかしら。達治さんの『世界知識』は届いて居ます。事務的にことを処理するコツが今日のことを明日にのばさないところに在るのは実際です。大体その心がけでやってゆくつもり。つもりを一層具体的にいたしましょう。
この三十日が父の三年祭です。(神道)そして母の五年にも当る。何も特別なことはしないつもりの由。林町で神官をよんで式をして、それから青山へお詣りにゆくでしょう。この式や墓参には私も出るつもりです。寿江子もこれをすまして伊豆へゆくと云ってまだこちらに居ます。伊豆と云えば、「生活の探求」は「正月の騒ぎがすんでから」伊豆の温泉へ川端、深田等々氏と出かけて、出京、中央公論社の用事をすませて両国の某という料理店へ車を駆る、というような日記をかいて居ます。作家の日記というものはなかなか感想をそそる。稲ちゃんは、『新潮』の口絵の写真にそえた文章で、この数年間自分は写真をとるとき笑ってしまう癖がついているが今日は笑っていない。これからは又元にかえって写真機の前で笑わなくなるだろうと思う。ただ目だけは子供のようにハッキリあいていたい、と書いている。これなども実にいろいろ感じられる言葉ですね。成長、自分の力で成長してゆこうとする努力の、そのときどきの姿がまざまざとうつっている。楽でなさが私などには犇(ひし)とわかる。
明日出かけるのをたのしみにしているのですが、あしたの晩は眠れるかしら。十七日の夜はね、ああ何と眼の中がいい心持に楽になったのだろうと感じて、幾条も光の箭(や)にいられたような体じゅうの気持で、なかなか眠れませんでした。
いよいよ寿江子の絵が出来上りました。本人は失敗失敗というが、それでもこの室のこの隅からの感じはわかる。これに補足として光子さんの細部的なスケッチが大に役立ちますね。寿江子は室内のあの安楽椅子辺から描き、光子さんのは丁度、私のねまきの干してある浅い手すりのところへ出て、ひろく外の景色を描いていて。光子さんの方の絵で見ると右手の煙突の先に[図3]こんな形に屋根の見えるところがあるでしょう。これがもとの家の屋根に当ります。寿江子の方のでは右手のギリギリのところに濃くこの形で屋根の遠望があらわされているところです。元この家にいたころ、更に奥の大きい屋敷は建っていず、何とかいう人の花園でした。左手に黄色っぽく洋館がある。それも花園の一部でした。二枚とも御覧下さい。今に、この六畳から出た廊下の北窓からの眺望や物干の眺めをおめにかけます。これから私はすこしスケッチをやって見ます。今も寿江子に云って笑ったの「だってくやしいよ、一枚描かそうと思うと、御機嫌とってやってさ。字が書けないと同じようだもの」しかも、ちょいちょいとやはり字でない形で見て欲しいときがあるのですから。この二枚を切手貼ってむき出しに送るか、さもなくばよごれないようにして送ろうかとつおいつの末、すこしおそくなってもよごさずに届く方法にきめました。
島田からお手紙で、富雄さんが手つだうことはお断りになったそうですね。運転手が、却って気兼ねだからというからとのことです。仲仕もおいていらっしゃる由。夜の仕事はやめて安全第一にやっていらっしゃる由、そちらにもそのようなおたよりがありましたでしょう。野原では春になって土地を処分なさる由。林町のうちは水道が凍って風呂がたてられず、目白へ風呂を貰いに来る由。大笑いをしてしまいました。きっと今に「今何時でしょうって目白へききに来るんだろう」。だって林町は家じゅう電気時計で、停電すればそれっきり。目白のはボンボン時計ですから。周囲の一般のレベルをぬきにして一つの家の中だけやったって、不便のときは、極度に不便になる。こういう悲喜劇があるから、私は石炭が質を低下させられるつれ煙突掃除を余計たのむので閉口しつつ、あたり前のフロが大好き。太郎はカゼがなおって遊びに来て、「アッコオバチャン、おぽんぽが痛くなくなったらアボチャン、トシマエンヘツレテッテヤルヨ」と大いに慰めてくれました。では又明日。この分ではしずかな天気そうですね。おめにかかっていろいろ。栄さんの小説が芥川賞候補に上っている由。そういうものはあのひとに、今のところ格別あった方が大いによいというようなものでないと考えます。賞の与えかたにも、やはり大局からの考慮がいるものであろうと思います。 
一月二十四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十四日第八信
お早う。けさはいかがお目醒めでした?ゆうべはよくおよりましたか?いいお天気ね。すこし風があるけれども。きのうはユリの薬のきけ工合をきいて下すって本当にありがとう。何と味のふかい、全身的に作用するこの薬でしょう。大事な大事なくすり。
昨夜は刻々を待つような独特な気持で二階のスタンドのところでいたら、急に雨の音がして来た。そちらでもきこえたでしょう、六時頃。そしたら、実にまざまざとその夜の雨に濡れたところへ電燈をうけて光っている洋傘と、その下の顔と、すこし外套の前にかかって光っている雨粒とが見えました。玄関のところへ私が出ていて、濡れた?ときき、その黒い外套のぬがれるのを傍に立って見ている、手を出してぬぐのを手つだいたいけれども、極りがわるいようでわざと手を出さないで。現に玄関でその光景があるように鮮やかでした。きっと、あなたもこの雨の音を聴いて、やっぱり傘をさして出てゆくような心持になっていらっしゃるのだろう。そう思いました。
雨の音は暫く胸の中へ降るように響いていたが、御飯をすました時分にはもうやんでいた。雨もうやんだのとひさに訊いたら、大きなみぞれでしたと云った。霙(みぞれ)が、では降ったのね。今はいい星夜です。九時ごろバラさんが外からかえって来たとき、ふるような星ですよ、と云っていた。
ゆうべは夕飯後茶の間にいて、縫いものをしていました。私たちの八年目の記念、私が死なないで虫退治出来た記念、そんな心持でそちらでよく着られてもう着物にはならない大島と、どてらであった八反(はったん)とを切り合わせてベッドの覆いをこしらえてかけているのです。長いこと、ベッドスプレッドを欲しいと思っていて、出来合の安ホテルのようなのはいやだし、ついそのままになっていた、そこへ不図思いついて縫いはじめたわけです。出来上るのと、あのスケッチの海老色と青の格子のかけぶとん(動坂であなたのだった)の上へ、今そこで着ていらっしゃる古い方の大島の羽織と同じ布と去年の冬まで着ていらした赤っぽいような細い縞の八反の布とがまざったスプレッドが、昼間はかかることになるわけです。
電燈の下で、例の私の場所に坐って長いこと黙って縫っていた。。そろそろ私はひき上げようとする時分、寿江子が、何かたべたくなって云い出した。「何をたべたいのさ」と私がそう云う。「お姉様何がいいの」。私のたべたいものはきまっているわけでしょう、私はあのブッテルブロードがたべたい。どんな味がしたか、本当はよくわからず、たべたことだけは忘られない、あのブッテルブロードがたべたい。「ね、何がいいのよ、お姉様は」縫いながら「私が一番たべたいものは今、買って来てくれる人がないから、駄目さ」「ふーん」そんなことを云っているところへバラさんがかえって来て、結局紅茶一杯のんで、私は二階へあがりました。
すぐ寝床へ入ってしまった。
けさは、熟睡したいい心持でおきました。
これはゆうべ日記の欄外を見ていて発見したのですが、八年毎に週日(ウィーク・デェイ)は同じになるが、旧暦は同じではないのね。二十三日は今年は旧暦の十二月四日。三日月、四日月のわけです。床に入る前、雨戸をあけて物干のところへ出て見たら、そんなにひどく寒くもなくて、大きい奇麗な星が一杯きらめいていました。
すこし体が弱いところがあって、しかも病気のあと新しい命が流れているところがあって、今の私は、大層面白い工合です。もっと病気が内科的にひどくて長かったら、快復期のこの感じは、おそらく激しく新鮮でしょうね。
――○――
ここへ一人の女客あり。
そのひとの話で、本年の秋ぐらいになったら、西巣鴨に一つ家があるようになるかもしれない話が出ました。大塚の終点からすぐのところの由、西巣鴨何丁目でしょう。その人の親類で、老夫人とその子息の未亡人(子供四人)が二棟に住んでいて、おばあさんが夏に子息の三回忌をすましたら田舎へひき上げると、そこの家があく。その家のおもやをなしているところに若い未亡人と子供らがいるが(銀行員だった人)ポツンとそこにいるよりは実家が渋谷にあるからその近くに住んだ方がよいということになりそうで、そうなると平家で四間ぐらいの家と二階で四間ぐらいの家が、表は別で、内ではかけ橋でつづいているところが、あくわけなのです。
秋から寿江子が東京に落付くについて林町はどうしてもいやだというし、ここへこのままは住めないし(ピアノがうるさくて)心配していたところでした。一人きりはなして妙な生活になるといけないから。もしそこが五十円ぐらいでかして貰えれば寿江子も自分の家賃は出して、食事など共通にして二人でやってゆけるかもしれず、大いに期待して居ります。共同に台所や何かやって、女中さんなしでやれれば、実にうれしいと思います。この家に、私が全く一人というのでは万一のときこの間のような思いをしなければならず、又寿江一人もよくない。そうかと云ってお互の条件が音については反対なのだから、こんな家は理想的です。或は六十円でも(家賃が)二人でやってゆけば却っていいかもしれない。あの辺はこことちがって周囲が直(ちょく)で物価もやすいし、そちらへ多分歩いてゆける位かもしれず、本当にわるくないでしょう。少しわくわくする位です。私の生活の形、寿江子の生活の形、ほんとにああでもないこうでもないと考えていたのですもの。寿江子は、余り工合がいいからもし喋って駄目になるといやだからと云って、こわがって幸運をとり逃すまいとしています。
寿江子は私の癒った祝に今面白いことをやって居ります。いずれおめにかけるものです。
余りうれしいこと口へ出すと消えそうな気がするそうです。ひさの試験は受かるかどうかわからないが、受かるようにしてやって、うかれば本年の冬はいないものと考えなければならず、あとのひとのこともなかなかむずかしくて閉口していたところですし。そういう形で寿江子と家が持てれば相当の恒久性があるわけです。私が旅行したりする間も安心だし。出来るとうれしいと思います。家なんて妙なものね、もしこの話が実現すれば、空想として描いていたような好条件の形が出現するわけです。前かけのまま何でもなく一寸出られるような周囲でなくては一人ではやれるものでない、面倒くさくて。ホクホクしてもう手どりにでもしたようによろこぶのも早計ですから、私ももう笑われないうちひかえましょう。もうたったひとこと、本当に出来たらいいとお思いになるでしょう?
一昨日だったか稲ちゃんと栄さんとが来て、二月十三日には本当に私の誕生日やるかと念を押し、のばしたなんて云っちゃ駄目ですよ、とニヤニヤしながら云いました。何をしてくれるのでしょう。二十三日にしようかと思いましたが、体がしゃんとしないからのばしたのですが。たのしみになりました。これぞというもくろみであの人たちが何かしてくれるのは初めてです。私はこの調子から推してあなたからは相当のものをねだってもいいらしいと思われますがいかがでしょう。何をねだらして下さるでしょう。余りゆっくりではないことよ。どうぞお考えおき下さい。かぜ気味をお大事に。病気をわるくしないおてがらをおくりものだと云われたら困る、謂わばそれにこしたものはないのだから、では又。 
一月二十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十五日第九信
二十三日に手紙を書いて下すったのね、ありがとう。その前日あたりかと思っていたところでした。手紙を一行一行よみ進むうち、すぐ立って出かけたいようになりました。あなたはよく、あの懐しい懐しい物語[自注2]をおぼえていらしたこと。小さな泉とそこの活溌な住人雄々しいきれいな小人のはなしは、いつになっても、どのような話しかたで話されても、本来の愛らしさ、献身、よろこばしさの失われることのない物語です。私は沢山のヴァリエーション、かえ話を知って居ます。覚えていらして?激しい待ちもうけの裡で眠っていた泉が、初めて活々とした小人の魔法で段々目ざめ、やがて美しい虹をかけながら湧き立って来たとき、何とも云えない呻り声で、びっくりした小人が見まわしたら、泉守りの仙女が草の中に失神しかけていたというところ。素朴な仙女がよく描かれていて、私たちは好意をもって笑いましたね。
おいしいものについての御注意もありがとう。全くおいしいものにも様々あり。
体温表のこと。それよりも、消燈・起床をやかましく気をつけた方が合理的のように思われます、今の状態では。どうでしょう。だって熱は五・九ぐらいから六・六の間にきまっていて、それをとるのは、私には何だか只形式のようです。私は種々のよくない習慣をもっているかもしれないけれども、一つほめられていいことは床について横になってからは、決して本をよまないということです。床に入ってからは、いつも仕事のこと、考えたり、親しい物語を描いていたりなかなか活動的で、収穫も少くありません。だから燈なんかいらないの。消燈したって心の中はときによっては光彩陸離の有様です。そういう動的状態でないときは、父の二代目で、ベッドへ入る、スタンドを消す、もうあとは前後不覚。いずれにせよ十時消燈という原則は守りますし守っても居ります。どうか御安心下さい。ほかの連中にかかわりなく、やって居りますから。
いつぞやの連作手紙についての批評ありがとう。芸術家が、もし真の現実と人間生活の諸関係、価値の比をとらえたいと希うなら、規模が大であればあるほど無私でなければならないということが、益〃痛切にわかって来ます。条件的な進歩性ということもよくわかる。これらの大切な諸点については、この間うちの手紙にもかいたように、つづいた病気が微妙に内的にも作用して、心理的に変化したところがあります。ただ、こういう肉体の事情の下で或時期――恢復期の敏感さ、感受性のするどさという感性的なものではなしに。歴史的正負を正しく設定するということは、核の核と思えます。それが出来る能力があれば、すべての小主観性やその日暮しの中での世俗的目安の腰据えなどけし飛んでしまうのだから。いろいろ臥ていた間にもそういうことを考えていて、自身の脱皮について、自身へのきびしさについて考えていたところへかえって来て「はたらく一家」直の小説をよんで、粛然としてしまった。自分など、稲ちゃんなど、本当に沈潜して真面目に真面目に沈潜してめのつんだ小説をかかなければならないと思って。何年かの間絶えず一作家の低下力となっていたものが勝利を占めて、作品のかげで悪魔的舌を突出しているのに、身についているとか何とかで、人間も四十になって云々とか自得しているのは、もう箇人的な好悪を絶しています。こと終れり的です。
芸術家、人間の成長の過程における正負というものは、極めて複雑でダイナミックであり、私はそのことについてもいろいろ自分の生活から発見します。正負の健全な掌握ということには、精神力の、運動神経の溌溂さが大事ですからね。自分たちの生活がいいものでなければならないと思うことと、いいものであるということとは別であるし、同時に、エッセンスに漬けた標本みたいないい生活なんてあるものではないのだし。なかなか興味深いところです。考えて見れば去年は苦しい一年でしたが、本気で暮したおかげで、私の皮はどこか一ところにしろピリといって、今はたのしみなところがある。いつからか文学の仕事にふれて、私はよくもう一歩のところが云々と云っていたでしょう?二年ぐらい前から。覚えていらっしゃるでしょうか。本能のようなものが、おぼろげに何か感じていたのですね、考えて見れば。角度が(掘り下げてゆく)その頃つかめなかった。前へ前へそういう風だった。前へではなくて沈潜の方向が必要であったわけでした。生活の内容に文学上の技術が追いつかないように感じてそのことを手紙でかいたこともありましたが、ああいうのは、やはり正当に見ていませんでしたね。文学的技術は完全ではないが、そう片言でもないので、生活の内容を金(かな)しきとすれば、正しい力の平均でしっかり鎚がうちおろされていなかったからであると思う。ユリにもう一押しというところが欠けているように思われるが、というあなたの言葉は一度ならず云われていて、その都度そのときの理解一杯のところでは考えていたが、それも今にしてわかった、というところがあります。人間の成長は何とジリジリでしょう。そしてリアリスティックでしょう。
きょうは曇りました。火鉢なしでこれをかいているとテーブルの木肌がひやりとします。テーブルの上には友達がくれた桜草の鉢と紫スミレとがあってあとはキチンと片づいて居ります。そろそろ勉強の気分で。
中野さんのところの赤ちゃんは二十七日が生れる予定日だそうですが、重治さんはまだ一本田です。お父さんを金沢の病院に入れるためにいろいろやっているそうです、病気は老年との関係でしょうが、手術を必要とする摂護腺肥大で癌のおそれある由。泉子さんは大塚の病院で生むことにしてあるそうですから安心です。おそい初産ですから注意がいります。
あなたの風邪、どうぞ無事終了のように。こちらから、ただそういう表現でしかあらわせないから。毛糸のシャツ着ていらっしゃいましたが、あれは今召したらもうすこし寒気がゆるむまで脱いではひきかえしますね、きっと。二月も四日ごろ立春でしょう。三月に入るといいこと、早く。空気の肌ざわりは二月下旬でもうちがいますものね。バラは何色でしたろう。フリージア、珍しくいい匂いでしょう?さっぱりしたいい匂いかぐと眼の中が涼(すず)やかになるでしょう。袍着(わたいれ)のこと、ああ云っていらしたので気にかかります。悪寒がなすったのでしょうか。今でもスースーですか?呉々お大切に。お願いいたします。二十七日にね。

[自注2]懐しい物語――ながい年月の間には、いくつもこういう詩集がやりとりされた。書いたものと書かれたものとの間にだけ発行された詩集。 
一月二十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
一月二十九日第十信
二十七日づけお手紙をありがとう。昨日栄さんが、二十五日にあっちへおかきになった手紙見せてくれて、全く通俗化した一作家が「成長」という小説をかいているのには一笑したという意味のところ、思わず大笑いしました。あれも愉快なお手紙でした。
力がついて来たこと、はっきりわかりますか?もう大分予後の弱々しさが神経からもなくなって来て居ります。二十七日には往きは目白の往来で拾って乗りましたが、かえりは大通りまで歩いて、バスと電車でかえりました、初めての試み。埃が余りひどくなければ、寒さそのものはもうこわくありません。永い間、バスなどにのっていて、ドスンとはねると、あ、と脇腹をおさえたい心持でいたから、この頃、すこしドスンとして、神経だけ習慣ではっとするが、おなかの中はちっとも痛くないので不思議な位です。本当に今年はいいだろうと楽しみです。腹の中から不断に毒素を発していたものがないというのはきっと大したちがいだろうと思われます。今のところまだそれほどにもないが。傷のあとなど劬っているから。傷そのものは小さい七八分のすこし赤みがかっている十字で、この頃は肉が凹んでいたのも殆どなおり、仰向にねたり、おふろに入っているときなどすっかりすべすべと平らになりました。傷の上の方に何かまだしこりがあって、それを全くちらしたら完成です。
きのうは電報ですこしおどろきました。記録料など出来上れば当然こちらへ請求するものだからそちらへ請求するわけないのに、どうしたことかと思ってすぐ電話かけてきいて見たらば、旅行中でわかりません。今日かえる由。そちらへ求めて来たのではないでしょう?出来上れば勿論すぐ支払います。ただ、出来たらすぐ支払えとおっしゃるわけだったの?それなら電報はおうちにならなかったでしょうね、よくわからない。今夜でも又電話して見ましょう。
二十三日は本当にありがとう。二十五日につきました。返事もう今ごろ見ていらっしゃるのでしょうと思います。ゆきちがいに。この手紙(二十七日づけ)は私の返事見てからでしょうか?そうではなさそうでもあります。たまでなくても折々が大変結構です。健康上非常に有効です。精神は休められ新たな活気とよろこびに満たされて血液循環がよくなります。薬味(やくみ)というものは常に少量ですが、絶対に必要です。味覚の発達しているものたちにとっては特に。そうでしょう?書いていて不図思いついたのですが、二十四日に出した手紙、二十八日に着いたのではなかったでしょうか。もしそうだったら、電報をうって下すったことについて何かお礼を云いたい気がするけれども。
さて、交響楽的生活の美しさ、豊富さ、消えぬ輝きについて。そこには全く、最も充実した、精神の力づよい生きものとしての人間の自然さが荘厳な天真爛漫のうちに開花されていると感じます。その美しさ、微妙さで感動から胸をしめられ涙を流すときもあり、全身をもって呼ぶことがあるが、本来の透明さ、よろこびに曇りはなく、涙そのものにしろ、たっぷりと暖い雨の奇麗さをもっています。それも一つの交響楽的ヴリエーションです。
あなたが、不合理に体をわるくするなどとは考えていないよと仰云るように、私もそんなこと思っていなかった。
連作手紙について、ありがとう。ここにとりあげられている点は興味ある点です。日本のいりくんだ生活のなげる様々の影は一様でないから、今日という一日のうちに、女大学式なもの、それから羽ばたき出ようとするもの、更に種々の程度で頭だけ、或は胸ぐらいまで或はやっと片脚のところ位迄、第二段目の歴史性から成長しかかっている者が、いりくんでいるし、一人の人間のうちに三つの歴史の時代が実に雑多な形でぶちこまれてもいる。女の生活においてこの三時代の錯綜の形は実に独特であって、この点をはっきり描き出す作家果しているやと思う位です。新しい生活を目ざしている女の生活でも、より高いモラルの創造、到達を日常生活で貫徹しているという場合はごく少いのは事実です。あっちやこっちが古いいろんなものにひっぱられる。客観的に、現実生活の諸関係のうちにある旧いものがひっぱっているから、相当に引きのつよい性格でも、決して図面で計ったようにくっきりとした一本の線を、でくまひくまなしにスーと押し出せず、皆えっちらおっちらと先ずこっちを出し、さて次にこっちを出しとやってゆく。そうやってゆく根気がつづくか、息が切れるかというところが、かね合いのようである。
私の特長となっていた傾向として、第二段目から次への成長の路が、古いものの投影ではっきり見られなかったということ(名のことの場合など)実に、今明瞭に自身批判され得ます。それから又より高い規準にてらしての節度あるモラルの必要ということも。周囲の客観的な条件へのはっきりした目、そして処理、自分の生活で一番大切なのは何か、それとの関係においてどう評価されるべきことかという見きわめ、それらが明瞭につかまれていれば、自分の人のよさなんかに我知らず甘えなければ、無用の混乱は生じないわけです。この点でも相当学んだと思います。それから、前に退院したときのマイナス的状態のことも、今は主観的な気持をぬいて見られるから、ここに云われていることをその通りだと思います。
いつでもそうであるけれども、今は、一人の人間が手ばなしだったり小主観にいい気になっていたりしては、迚もまともに生きられない時代です。文学のありようからにしろそのことは犇々と来る。作家として謙遜に、人間らしい健全性を希うことからがすでに全面の摩擦にさらされる時期です。ユリが、私という歴史的主語について、非常に考えぶかくなり、疑問を抱き、自身を嘗てはゆたかに、つよくあらしめたが、その時期は去って、これからは引とめ材としか役立たないと腹から感じるようになったことは、総ざらい会話の何よりの宝です。木の芽に、先のとがった一点があって、成長がそこを中心として見えるように人間の成長の真のきっかけというのは、平面的なものでなく、集約的であって、核がある。原形質のようなものを突くか、そこをはずれているかで、刺戟の効果は違う。そのようですね、ユリは、その点で「私」をつかまえたこと、つかまえるようにしていただけたこと、それを心からよろこんで居ります。これはこれから先、相当の期間つづく中心的点で、しっかりとらえてはなさぬロック・クライミングの足がかりとしてゆけば、きっと眼界はひろがり、身は高きに近づけるでしょう。自分を撫でまわすことをやめてきつく云えば、節度ある規準への敏感さのゆるみ、客観的条件の不十分な把握、真の自主性のずりなんかは、いずれも、「私」の変化した現象形態だと思っています。あなたは知っていらっしゃるでしょう?日本の過去の文学は、その文章のなかにヨーロッパの文章のような「私」という主語をもちませんでした。そのことに大なる正負がある。日露戦争ごろから、日本の文章に私という主語があらわれはじめ、それは十分に成熟しないうちに、私の固執は、後退的な結果を来すような時代になって、而もその期間は極めて短かい。そのために、今日の文学の素地は、まだ主語を自覚さえしないところと、既に後退性に方向されていることを認め得ないで私に固執した小芸術に跼んでいるところとあり、更に現実では、主語(集合的な)を抹殺してしまおうとする不健全なものに抗して、目前の文学性が、それらの私の固執者によって全く個人的ゆがみの中でありながらも守られつつあるというような複雑さです。丈夫な樫の木のように、歴史の年輪を重ねて、真の健全性のうちに歴史的な主語を高めるということは、嵐のような精神史の一部です。羽音の荒い飛翔です。
あなたは一目でよく私を御覧になるから、こういう変化――「私はあなたに従順である」という意識のようなものに変化が生じたこと、感じていらっしゃるかしら。よく云い現わせないほどデリケートな内部的な感覚なのですが。うち傾けた心持、判断、行動、それだけがあって、ああ私はこんなに心を傾けている云々、という、そういう自覚みたいなもの、枠みたいなものが総ざらいの間に段々まわりから落ちてしまっている、そういう感じの違いかた。感じとしては非常に直接だから、きっとおわかりになるわね。この気持の裡には、よろこびがあるのよ。
午後三時ごろ速達でうつしものが届きました。して見るとお金の請求がそちらへ行ったのかしら。
きょうは、林町の方へひさを手つだいにやったので夕飯は寿江子と二人。林町、家が古くなって土台があやしくなって来たのを機会に、玄関を入って西洋間へ入るところをすっかり直して明るいホールのようにし、食堂の床は板にして椅子にすることにし、土蔵や洗面所の方もすっかり手入れしました。まだ半分で、明日二階で式をするためにはいろいろ一先ず形をつけなければならないので人手不足の由。私が十四五歳の頃からそこにいて初めての小説やその次の作品や丁度あの『一つの芽生』という本に入っている位までの作品をかいた茶室風の部屋も、これで未練なく消えてしまったわけです。寿江子はちょいちょいフランスの詩などを読んで、それに曲をかいています。二階から夜下へおりて行って、お茶をのみながらそんなのを読むと、文章で云えば小品文のおけいこですが、単純で未熟だが、やっぱり興味があって特別な心持がします。プーシュキンの詩が、その北方的なものが一番ぴったりすると云っている。寿江子が、例えばストコフスキーという人の指揮ぶりの非本質性を本能的に見ぬいたり、ストラビンスキーという、日本の現代作家80パーセントがその亜流であるような在フランス作曲家の非音楽性を見ぬいたりするところは、健康な資質で貴重だが、その健全の可能が、どのように伸びるか。そこには又おのずから私とちがうもちものもあって、一般音楽会のレベルの、文学と比べられぬ低さとの関係もあって、なかなかむずかしいことです。
今夜はこれから届いたものをよみはじめます。
明日、林町へゆく前に一寸まわりたいけれども、儀式だの青山へ行くことだのでもし疲れそうならばやめて、予定どおり三十一日におめにかかります。大衆小説のようと云っていらしたのもよみ終るでしょう。
二月になったら二日おきぐらいにきめて又御出勤をはじめます。それから一日おきにして、遂に再び毎日という工合に。勉強や執筆などは、やはりこっちをきちんとやった上での組合わせとしてやりましょう。
かぜの方はいかがですか、やっぱりずっと順にようございますか、お大事に。私はこの頃やっと夢が殆どない平常に戻りました。腹帯は、眠っている間はしないことにして居ます。色のついている夢は、視神経が眠りきらないときに起るのですってね。成程とすっかり合点がゆきました。私たちのように視覚の活動がはげしいものは、過敏な折もあって、色付の天然色夢を見るわけですね。何も気違いが見るというのではないわけです。誕生日に下さるものお考えがつきましたか?本年は、本当に万年筆を買って頂きましょうか、私の愛用ヒンクスウェルズの金Gはもう入らないのです。だからこんなに減って頭のなくなったのでもつかっている次第です。万年筆の先は堅くて弾力がなくて手くびがつかれます、そうではありませんでしたか?万年筆でも買っておいた方がいいのかしらと本気で思案中です。割合暖い夕方ですね。又明後日に。 
一月三十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(自宅茶の間の水彩画の絵はがき)〕
よごれるかと思うと惜しいけれども。これが茶の間。おなじみの長火鉢。おなじみの茶ダンス。奥の棚の上の青い葉は、琉球の「虎の尾」、うしろの絵は『冬を越す蕾』の扉絵です。
右手のガラス障子の上の欄間には光子さんの描いたレンブラント風の色調の女の肖像がかかっていて、茶ダンスのこっちは、やっぱりおなじみのタンス。上に小さい鏡(譜面台を直したの、動坂頃もあった)くしなど。これでも随分「見たような」感じが増しますね。我々の生活の插画の第四図と申すところ。 
二月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二日第十一信
この三四日は余り風もなくておだやかな日和つづきですね。外がいい心持です。それに夜の美しいこと!ゆうべ栄さんの小説をよみ終って、栄さんを送って門のところへ出たら十時ごろで、月と星とが一点の雲のない空に燦いていて、天の飾りという感じでした。この辺は住宅地でネオンの光や何かで夜空が濁らされていないから、夜空は澄んで居ります。そこからこういう星や月御覧でしょうか。
やっと言葉をつづけるような瞬間。顔にさしよせられる花束はつよい芳しさと魅する力とをもって何と喰われてしまいたい刹那でしょう。
きのうは、西巣鴨一の三〇四六というところへ貸家を見に出かけました。辻町のところに広告が出ていて、同番地に、二階6、下8、4.5、6、2という家と、六、三という小さい家とがあるらしいので、小さい方へ寿江をつめこめばうるさくなくていいとも考えて出かけたら、どうかしてそこがなかなかわからないで別の家を二つ見てかえってしまいました。番地が大変とんで、ごたごたして居るのですね。そして、その附近はそこに近いが却って不便で、他との交通の工合もわるい。近いくせに、いざというとき自動車がひろえないからここからのようにいそいで十分で馳けつけるという芸当が出来ず。
大塚の方へ家が出来るかもしれないというのは秋からのことです。只今のところ、寿江子は五日か六日に熱川へ又行って暮し、五月ごろ私が御一周忌で島田へ行く間、出て来て留守番をし、又あっちへかえって九月に出て来て、それからすっかりこちらに落付くつもりの由です。いろいろのいきさつもあったしするから、実際的な仕事の修業をやるのもいいと思いますが、やっぱりしんから好きであるし、女で作曲をちゃんとやれる人というのも出ていないし、大決心でやるつもりらしいのを見ると私もやっぱりたすけてやりとうございます。寿江子はああいう性質だから、三年一つことにかかれば大体めどが見えるから力がないとわかったら、見きわめをつけてすっかり方向をかえると今から云って居ます。そういうところ、はっきりしているからまあやって見ること、本気にやって見ることはいいと思い、私たちの生活に近くいてやろうというところには、全くこれまでと大ちがいの腰のすえかたがあるわけです。これまでは、生活に(父のなくなった後、彼女にとっては急変した条件での生活に)腰が落付かず、私たちの生活の意味はわかるが、近くにいてその調子に合わせること(部分的にでさえ)はのぞんでいなかったのだから。成長というか自分の発見というか、そういうことは例えば面白い一つの例として、ヴェトウヴェンの芸術についての意見で、二三年寿江子は、そのことで私と意見がちがいました。彼の芸術はもう歴史的な価値しかないと云う風に云い、私は、何を生意気云ってるのさ、誰の口真似かい、と云っていた。この頃やっと、そういう評価から脱して、文学的な人生的な芸術家の生活からの問題でなし、音そのものの問題として、ヴェトウヴェンがしんから音をとらえそれを駆使していることを理解し又芸術の性格において自分の学ぶべきものを最も豊かに蔵していると感じている。現代音楽についても、やっと私が同感出来るところまでやって来ました。音楽の性格は寿江子と緑郎とは実にちがうのです。緑郎は近代フランス音楽をよい学生的習作としての作品のうちで多分にうけついでいるし、寿江子は北方的で、単純で、メロディアスというよりもリズミカルで、すこし機械的なところがある。私が寿江子の音楽的創造性について一つの疑問を抱いているのは、寿江子の頭の機械性というとすこし表現がかちすぎるが、例えばドイツ語の文法を文法だけ勉強出来たり、代数の式をいくらでもうつして退屈しなかったり、そういうところがあること、及び、外面的な勝気のあることです。小さく速い頭のよさがあるところ、目さきを(通俗がかって)よく見るところ、それらは大きい芸術の素質とは反対のものです。外面的な勝気などというものは、もし本当に音楽がわかり、愛せばやがて消える消えざるを得ないものですが。
心ひそかな私の空想を許せば、自分たち姉妹が、やはり芸術的生涯を扶(たす)け合って生きてゆくことが出来たら、どんなにかうれしかろうということです。寿江子がこの頃音楽にもとめている健全性というのは、私は興味をもって見て居ります。彼女が我知らず求めている生きている音楽、音楽通(ツー)のデガダンスでけがされていない音楽というものは、どうしたって、それを生める社会的・個人的条件があるので、まことに遅々とながら、そういう生活の欲求と音楽的欲求とが歩調を合わせて来かかっているところがなかなか面白い。そして、その底には真劒なる課題が横わっているのですから。寿江子はいつその底にふれて、又一つの目をひらかれるでしょう。元は境遇の事情によってディレッタント風な要素でまわり道をさせられたにしろ、現在の生活事情の中でも猶(なお)音楽を忘られず、その希望で体も癒す努力をしているとすれば、やや本ものなのかもしれぬと思われます。
ゆうべ、一寸面白かった。栄さんの小説を茶の間でよんでいた。寿江子もそばにいて、私の注意する箇処を見ていて、あとで文学と音楽と随分ちがうと思った、と云う。それはそうだろう、どこをそう思ったときいたら、一つの小説として見て、私のさすところはものの感じかた描き出しかたの点で、作曲で見れば音から音へのうつりかえかたというようなもののようだが、音楽をかくのは、感じかたそのもので書くのだから、ああいう感じかたがどうこうという問題があれば土台かけないことになるんじゃないかと云っていた。私は興味を感じ、「小説だって土台は感じかたで、事柄が小説ではない。事柄に何を感じているか、それが小説たらしめる精髄だが、そういう本ものの小説以前のものは、ことを描いているだけが多い」「事でもかける、そこがちがう。ことはまるで音楽にはないのだから……」そういう話もなかなか面白いの。鑑子さんとは決して出来ない点にふれて喋っている。寿江子だって大人ですものね、考えて見れば。達ちゃんと二つ下でしょう?五になりましたから。
達ちゃんの話、大変こころにつたわりますね。どうかしら。実現されるかしら。兄弟の心、兄の気持というもの。三人は仲よい兄弟たちであると感じます。その感じの裡には、そして、一語で云いつくされないものがこもっています。明日は、寿江子のことで林町へ行かなければなりませんから、神田へまわって送るものとりそろえ発送しましょう。三人の兄弟の上にも歴史は実にひろく深く、まわって居ることを考えます。
そちらにゆく袋の中に「チボー家の人々」というのを入れてよんでいます。長篇の或書かたとして研究的によんで居ります。ノーベル賞をとったのは、どのようなところの評価であるか全部よまないうちはわからないけれども、着実で同時に動的な構成、周密な立体的描写法など、ジイドの「贋金つくり」などのまがいもの的頭でっち上げ風なのとちがい、リアリスティックな筆致においても、一朝一夕のはんぱ仕事ではないことを感じます。全部で十巻ある予定です。一九一四年夏というのが最後の三冊を占めるのですがどこまで訳出し得るでしょうか。様々の点で勉強になる小説です。
さて、十三日には何を下さるのでしょう。きょうユリに、何が欲しいかいとおききになったのね。どういう言葉で答え得るでしょう。
三日。
きょうは曇って又寒そうな日になりました。
きょうは寿江子の財政整理のために林町へ行ってやります。兄妹は、そういうことをこれまでさし向いでやって、両方世の中知らず、主観的で感情的にばかりなっていたから。財政上の手腕は私は御存知のとおり皆無に等しいが、立てるべきもの、二次的なものとの差別のわかるところで、マア何かの足しになるのです。
原さんが赤ちゃんを生んだの(で、)というより生んだのを見て、大変赤坊を生みたく感じました。面白いものね、この間割合ひどい病気して、そのために感覚的にそういう感じがわかるようになって来て、そのアッペタイトのようなものはああ仕事したいという欲望に結びついて、何か活気ある情感を漲らします。感情や感覚の成長、感性の精神力への融合の多様さや豊富さ。私たちの精神がつよい生命力をもっていて、足りなさの感じからでなく、溢れようとするものの側から、一層のゆたかさとして、私がそういう感じをも体得するようになり、女としてたっぷりさを増して来ているということは、何と微妙でしょう。おかれている事情の裡で、なおこのように充ち満ち得るということ。これは私たちの生活の独自な収穫だと思います。私という琴に更に一筋の絃がふえたような工合。その手ざわりと音色とはいかがですか。
六日の月曜日に。どうか風邪をお大事に。きょうあたりから又ひとしきり寒さが立ちかえるかもしれませんね、 
二月四日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月四日第十二信
きのうは、林町へ出かけるついでに、大塚病院の原さんを見舞って、神田の本やへよるつもりでそろそろ仕度しかけていたところへ電報でした。丁度二時というところ。それではどうせ出るのだから私巣鴨へまわるから、寿江子原さんのところへまわるようにと云って出たわけでした。髪が苅りたてでしたね、弁護士は七日までにどうしても仕上げなければならぬ書きものがあるとかで、八日にはゆく由です。この手紙より早く月曜お話しいたしますが。
あれから電車で東京堂へ。もう十二月から出来たら出来たらと云っているタイムズの支那地名人名字典、まだ出版しませんで、と東京堂の番頭君恐縮していました。まさか紙がないというのでもないのだろうのに。改補がおくれているのでしょうね。本当におまち遠さま。それから新法学全集又改めてしらべて見ました。三十何冊か出ているのですが、そして、仰云るとおり仮装幀なのですが、日本評論社で分冊を出していないので、もし御注文の刑法、民法、法理学をあつめようとすれば、三十何冊かをとってその中から集めて綴りなおすということになる次第です。日本評論で分冊を出す気があるのかないのか。いずれ出すのでしょうがいかがしましょう。聖戦短歌集、改造社版と書物展望と二ところから出て居り、改造の方は大部分歌のグループに属しているような専門的教養のある人々の作ですし、書物展望版の方は小さくてもち運びも便利です。一応目をお通しになってと思ってきょう送りました。改造版の方もお送りして見ましょうか。私は昨夜ふと、もしかしたら、お母さんのお心ゆかせにいいかしらとも思いました。けれども、いずれにせよ顛倒した世界でうたわれているのが多いことは、やはり学生の手紙と同じ哀れをそそります。『第八路軍従軍記』と井上の和英中辞典もお送りしました。和英、たけのぶのは大きすぎ、井上のは例えば「イタヅラ」という字をローマ字でひくとすぐ「徒に」の「いたづら」が出て来る、ほかのは悪戯(いたづら)が第一に出る、そういうちがい(日本語感のうちの漢文的要素)がありますが、文例ではやはり井上の方がよく選び出して居ります。だから井上にしました。印刷はどうもよくないけれども。
達ちゃんへのものは明日出来上ります。早く送ってやった方がいいと仰云る心持、私の心持として分ります。
五時すぎ林町へ着。(寿江子と)台所のところを改造中で、大工、国男夫婦どたばたやっているところでした。太郎が大きい料理台の上にのっかって歌をうたったり口笛をふいたりしていて。おそい夕飯がすんで、そのうち太郎が母さんの膝へ栗鼠(りす)のようによじのぼって丸くなって眠ってしまい、その始末をしてからさて、帖面、さてファイルブック、さて受とりともち出して財政審議会。寿江子はこれまであっちへまかせていたのですが、一定額以上兄さんに立て替えをさせ、いくら送れ、というようなことを云い、つかいすぎるというので、あっちでは御機嫌よくないのですし、寿は、寿で、自分のものを自分が使うのに云々というところがあって、必要以上の気持のぶつかりを生じているので、今度はすっかり立ち合って、寿江の使うのはいくら、兄へかえすべきのはいくら等々すっかりやったわけです。寿江子は一番生活能力がないというわけで、父が配慮してやってあったのです。
皆それでもきげんよく協議会を終了。それからお茶をのんで車でかえったのは、お約束の十時をすでにずっと越していた刻限です。昨晩は本当にいい月夜で、遠い家々の赤い灯。建てかけの家の屋根の木片(こば)ぶきだけのところが霜でもおいたように白く月光にぬれ光っていて、目にのこる夜景でした。
かえって、茶の間に入ったら私の場所にお手紙がおいてある。おや、御褒美があった!と云ったら、私が巣鴨へ出たあと程なく来たのですって。寿江子曰ク「よっぽど持ってこうかと思ったけれど、かえっておたのしみの方がいいと思って、どうせ落付かないから」と。ありがとう。大変かたまって届いたのですね。三つもいちどきとは。しかもあの三つは、たっぷりしているものたちだから。「煙突ぶらし奇譚」まで覚えていらしたのは、本当にあの一連りの詩物語が、どんなにまざまざとした詳細を生きているかということですね。これらの其々味い深い小題をもつ詩譚は、一つ一つとあなたのお手紙によって思い出させられ、一層の面白さ、可愛さを増します。
花もお気に入ってうれしいと思います。バラもそちらで開いて満足です。どんなのが行くか分らないのですもの。開き切らずに蕾のバラが行ったとはしゃれている、そして、次第次第に咲きみちたというのは。
梅というのは、紅梅であったのが、初めてわかりました。それも好いこと。私は紅梅がすきです、濃い、こっくりした紅色の梅。だが私はもっとおそくしか咲かないものと思っていたので、この間『文芸』へやった日記の原稿にもうすこしで「寒の紅梅」としそうになったが、まだ咲くまいと思ってただの梅にしてしまいました、おしかったこと。もし梅を植える庭があれば、私たちは紅梅を一本きっと忘れなかったでしょう。
連信に対しては、非常に深い関心をもって下すって有難く思い、又そのような深い根づよい関心の底にあるより深甚な愛、人生への愛というものを感動をもってうけとります。我々のこの愛すべき生活の日々に、悠々として而もたゆみない成長を見て行こうとする努力を自身に期待し、又期待されるということは、厳粛なよろこびです。勉学のこと、文学の仕事のこと、そして折にふれて美しさきわまりない詩譚を話すこと。我々のところにある生活の刻々が、最も全的に、充実的に満たされることを希う心持は益〃深められて来ていて、今では、おそらくあなたの胸のそのあたりにそのような深さで滾々(こんこん)と湛えられている思いが、感じとられるばかりです。これは、ああわかったというのとは違うのよ、この感じとられる、という感じは。おわかりになるでしょう?目をはなせないのと同様に、それからは心をもぎ離せないのです。総括的展望は形式に拘らず正しく導き出されるだろうと云っていらっしゃる点は全くそのとおりです。私は最も真面目な考察で、連信への感想を読みそれを我ものとしようとして居ります。豊富な話材があるが、と云っていらっしゃることもわかるように思われます。あの連信にしろ、一行が余りに圧縮された形をとっていて、制作と同じ緊張のもとにかかれました。大体このごろ私は手紙をかくのが遅筆になりました。これは決してわるいことではありません。頭の動く敏感さでかかず、心の語る速度や密度にしたがうと、おのずから滴一滴という工合であり、疾風的テムポがよしんば生じたにしろ、それは決して上滑りをしたものではありません。私たちの生活の精髄は、歴史の切り口の尖端にのぞんでいるものであって、真の人類文化の大集成の要義の把握なしには、いかような文飾をもってもつかめる性質のものでないことは実に身をもって感じています。
きょうは節分です。立春。八百屋や何かで柊(ひいらぎ)の枝を束ねたついなの箒(?)を売っています、はじめてこんなものを見た、撒く豆というのも大きいのね、上落合に暮していた節分の夜、風呂の中で浅草寺の豆まきのラジオをきいて、そのこと手紙にかいたのを思い出しました。うちでは大笑いしました。寿江子が卯(う)の年で年女(としおんな)だからお前に豆をまかせてやってもいいけれど、家じゃ、鬼はーそと!と云ったら家じゅう年女までいそいで外へ馳け出さなくちゃならないから大変だ、と云って。どこかのお寺で鐘をついているのが仄かにきこえます、やっぱり節分のためかしら。島田なんかでおやりになるの?
ああ、そういえば夕刊にこういう話が出ていました。アメリカから日本語勉強に来た学生曰ク(アメリカ人よ)「日本語はむずかしいですね、てるてる坊主の歌の中に、てるてる坊主、てる坊主、あした天気になーれ、とあります、なーれというのは何でしょうか。教科書にないです」成程と思ってね。なーれは、なれの調子だとはすぐわからないのだと、笑いつつ同情してしまった、すべての外国語の困難性について。
十三日のために。私が好きなだけとることの出来る二つのもののほかに、どうぞお考え下さい。サア目をあいてと云われる迄目をつぶって待って居たいと思います。よくて、もうつぶりました。耳もおさえてしまいました。何が出るでしょう!
月曜日に。冷える晩になって来ました、どうぞお大切に。きょうはすっかり早寝です。 
二月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月八日第十三信
きょうはこんな紙。こういうのに細かい字を書くと読みにくくていけませんが、ほかのが切れたので。
けさ、二月六日づけのお手紙。どうもありがとう。二月一日に書いて下すって、すぐそれから六日の分になるわけでしょうね。日光は暖いが、まだ屋根屋根や道路の日かげのところに雪が凍っているので風はなかなかつめとうございますね。五日の晩、大きい牡丹雪が降り出した景色は好くて、寿江子と二人で北窓から並んで首を出し、櫟(くぬぎ)の並木の梢が次第に雪にとけこんで行く景色をやや暫く眺めました。六日にも雪だから勇んで出かけたわけでした。私は雪が実に好きです。雪の匂いというのを知っていらっしゃるかしら。雪には仄かではあるが独特の匂いがあって、豊かで、冬に雪の少い東京は味がないとさえ思います。何も冬は雪にとじこめられて育ったわけでもないのに可笑しいけれども。冬のゆたけさは霜と雪とです。春の泥濘(ぬかるみ)も歩くにえらいがやはり感情があります。
さて、私のおなかのひきつりの件。ひきつりはこのごろ大分ましになったのです。はじめ内部がひきつって嘔気を催したりした位でしたが、それはやんで、次には歩くとどことなく不快につれていやでした。その感じも殆どなくなったら、昼間おきているとどうもなくて、夜床に入ると夜半そのために目がさめる位脚からおなかにかけてつれて痛みました。その頃(先月の二十日前後)は夜楽にねるために腹帯をとっていた時分です。そこで、又腹帯をすること(眠る間も)にして、その代り一工夫して、これまでの一丈二尺もあるのをやめて、短いのにうすく真綿を入れて広幅のままおなかをまき、夜中もそれをややゆるめにして眠ることをはじめたら、段々効果があらわれて、おなかの工合がましになりました。つれがなくなったし、おなか全体の内部が落付いて、腫れぼったい感じや不安感がなくなって、おなかも幾分ちぢみました。こわい気持なしに、ずーっとおなかをへこますことも出来るようになりました。この四五日の状態です。半年かかるというのは、直接つれのことではなく云ったつもりでした。半年かかると、傷をいたわり、腹もちが何となく気がかりということを、すっかり忘れ得るそうだということを云ったつもりでした。やっぱり手術のとき、腸をひっぱったりいろいろやるから、何だか腹の中がもめた感じで、毛細管が鬱血してでもいるような腹もちのわるさであったわけです。この四五日おなかがしまって来たことがはっきり分って、大変快適です。私の体は神経質なところのあるたちだそうです。そのために、そういういろんな点がきついのだそうです。今そちらへは行きだけ拾って居ります。調子がいいところで気をつけようと思って。でももう十日には行きも歩きましょう。その計画です。今月一杯間をおいて出かけ、来月は冷えることもずっと減りますから従前どおりに段々戻るつもりです。
家のこと。さがして見ましょう。九月ごろ空くようになるだろうという家は、特に寿江子が一緒に暮すために好条件であったので、私一人のためには、家主が友人の親戚に当るという便利しかないわけです。尤も、これがなかなか大事ですが。実際借りるとなると。女主人のところは二の足をふみ、又その他等々で厄介な場合が多いが。寿江子はいろいろ話し合いの結果、一緒に暮すのはしばらく保留。寿江子は林町の離れに生活するという計画に決定しました。もしお久君がいなくなった後、二人でやって行く場合、寿江子の体の工合が果して二人でやってゆけるだけ丈夫になっているかどうかわからず、この秋から一年も林町の離れでやって見れば大体疲労の程度もわかるから、それからにしたいというわけです。私もごく毎日を無駄なく暮したいのに、寿江子のむくれ面で気をつかうのはいやですから、それもよかろうということにしました。ですから家は私とひさとの暮しを条件として探すわけです。
エハガキ、面白いでしょう?絵はいいところがありますね、一目瞭然で。今、あの茶の間の外の小庭の眺めをかいています。それと門のところの眺めと。その二枚が揃うと、随分われらの家が視覚化されるわけです。手紙の中で語られる様々の情景が、はっきりしたそれぞれの場面となって、道具立てをもってそちらにも浮立ちます。私はそれを大変たのしみにしています。ハハム、ユリがここで悄気(しょげ)ているな、ホホウ、こんな庭を向いて気焔をあげるのか。それぞれに面白いではないの。
私の手紙は二日(十一信)四日(十二信)という工合です。
○富雄さんから返事がけさ来ました。自動車の方は技術として身につけておいて決してわるいことはないが、小母さんが危険をおそれるのと、ガソリン統制が新たに営業を許可しない方針となっていること、ガソリン払底で木炭自動車を購入しなければならず、それにも厖大な費用がかかるので、却って工場へ入って月給をいくらでもとる方が生活の不安が少いからその方にしようと思うという話です。工場の方へは履歴書を出した由。今、家賃が二十円程入るそうです。それで三人の食費はあるそうです。(何と東京とちがうでしょう!)それにいくらか月給をとることが出来れば嫁さんをとって生活も出来るから、とのことです。島田で雇った運転手が、下松で電信工夫をひっかけてしまい、下松の病院に入れてあるそうです。それやこれやで、小母さんもすっかりおじけついてしまったのでしょう。お母さんもまたそれの善後処理や何かさぞ一人でお働きでしょう。一月二十七日のことだそうです。早速お見舞のハガキ出しました。
富雄さん、猶よくあなたの御意見も伺いたいと云って居ります。
○用件を統一的に片づけるという点についての御注意。書いて終(しま)うと気持で片づいた気になる、というところは、おお痛いと思いつつ思わず笑い出しました。本当に面会、手紙、用事の統一と系統化は大事です、よく心がけましょう。事務的性能の向上ということについての注意は、どうも随分くりかえされなければならないところです。父のお得意の言葉にシステムということがありました。何でもシステムを立ててやらなくちゃいけない。そういう。そして、食堂なんかで、手紙の封を切る鋏が見当らなかったりすると、ホラ、システムはどうした!と云うの。そうすると、みんなが、ソラ、システムがなくなった、と云ってワアワア笑いながらさがすの。カラーのボタンを父が一寸見えなくして葭江見なかったかなどときくと、母は実にうれしそうな眼付をして、あなたのシステムはどうしましたって云う。何しろ私はシステムというと思わず皆が爆笑するようなところで育ったのですものね(!)全く大笑いです。そして私は、あなたが、システムをなくしたところをつかまえてあげることが出来なくて何と残念でしょう。私ばかりがなくしているのはまことに遺憾です。
○おことづけの弁護士のことすこしわかりました、十日に。おめにかかって申します。
十三日の欲しいものについて。私の上げたいものは、たっぷりとそちらからも頂く二つのもののほかには、あのエハガキ連作でした。十三日迄に完成してさしあげます。つつましく、而もごく欲しいものとしてはヒンクスのペン先。これはまだ文房堂にあれば二グロス位買います。使ってしまうものではあるが、私たちの生活にあっては、極めて勤勉な倦むことを知らぬ役割をもって居るものですから。こういう気持は面白いこと。余り欲しいものがはっきりしているので、却って思いつかないようなところ。たべてしまいたいようなだけというところ。あなたも非常にねだられたくていらっしゃるでしょう。みんなみんなユリにやりたいとお思いになるでしょう?
それがつまりはおくりものね。私はそのおくりものの裡に顔をうずめます。
では又。十日に。こういう紙は余白が多くて惜しいこと。 
二月十五日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十一日の夕方第十四信
今五時すこし過たところで、寿江子がおひささんを対手に台処でおかずごしらえをして居ります。私は二階の机のところで、大変珍しそうな顔つきをして、幾分口をとんがらして、しきりにいじっていたものがあるのですが、おわかりになるでしょうか?これを書いているところのものです。万年筆。きのうあれからかえりに文房堂へまわりました。お話していたペン先を買うために。ところが、ついこの間は一グロス3.80であったのが4.50になって居ります。二年足らず以前には2.30位でしたのに。すっかりびっくりしてしまった。たった二箱で大抵の私の高価な買物の頂点になってしまうのですもの。ともかく二箱買っていろいろペンについて話していたら、まだオノトがあるということです。もし今にペン先がないようになったら、慌てるのは余り商売柄心がけがわるいから、ええと大決心をして到頭オノトを一本買いました。万年筆の中でオノトが一番ペン先が軟かなのですってね。十三日にお目にかけます。ごく見かけはあたり前のエボナイトのですが、ペン先の工合はこの字を御覧になってもわかるように割合弾力があるでしょう?その点では調子がようございます。オノトは元あなたが使っていらしたのではなかったかしら。これはペンを引こましてインクを入れたり、小さい金具を動かしてインクを吸上げるのでもなく軸をひっぱり出してギューと押すのですね、ひねくりまわしていたのはその操作のためなのでしたが、何だか馴れないの。ペキリと折りそうでこわくて。その上、私はインクをつけながら書くのが好きでもあるから今はインクを入れてないままつけて書いているところです。本当の書き初めを。金のベルトも何もないので軸が軽いし地味だしどうもありがとう。やっぱりペンになりました。先にもペンという話があったことがあったから実現してようございます。この字はやっぱりヒンクスのGですが鉄の方です。もう一つアルミのようなのがあって、それだと字がちっとものびないの。この鉄のでもひっかかります。小さい字のためには苦情がありませんが、原稿紙へ、しっかりと明瞭な字を書こうとするとひっかかる。
万年筆の歴史を考えるといろいろに面白い。私が生れてはじめての万年筆をもったのは、多分女学校の二三年ぐらいのとき、こわれたと云って父の呉れたものがはじまりでした。金のベルト飾りがついていて、今思えばウォータアマンでした。私は珍しくてうれしくて、それを学校へもって行って作文のときだけつかいました。ところどころにポタリとインクのしみをこしらえながら、それでもうれしかった。次の万年筆は、初めて自分が原稿料というものを貰ったとき、文房堂でやはりウォータアマンを買いました。それはいかにもその頃の女の子の年にふさわしく小型のを。そしたら使うに余り便利でなくて、長い間持ってはいたがどうしてしまったかしら。原稿なんか一度も書きませんでした。それから、いつかも話した母の記念品。それからこれ。
きっとこれは長くよく役に立つでしょう。ガラスのあなたのお下りのペン皿にのせられつつ。そして、沢山の沢山のアンポン的物語とそうではない物語とを告げるでしょう。ときには魔法の小人のおはなしをも。
文房堂では同じとき、鉄製のどっしりしたブックエンド一対をも買いました。これは栄さん夫妻へのおくりものです。ター坊の思い出の日があのひとたちの十五年目の結婚記念日の由です。祝うようなんじゃないと云い、それもそうですが、ともかく十五年は一区切りだから、その本立てをあげます、私たちからとして。二つがあってはじめてそのものとして役立つというところがブックエンドを選んだ所以です。
原さんはもう退院して赤ちゃんと世田ヶ谷へかえりました。卯女(ウメ)(卯(ウ)年の女の子だからの由)という名。中野卯女。この卯女という名は吉屋信子の「家庭日記」という小説の主人公の名だそうで、稲ちゃんもアラーと云ったのですが、お父さん氏の意見ではあの小説はそう永生するものではないからいいのだそうです(勿論その小説はよまないでの話)。
この頃、日本映画の製作が旺(さかん)になって来て文芸映画がいくつかつくられ、水準も高くなったと云われて居ります。伊藤永之介の「鶯」「若い人」「子供の四季」「風の中の子供」「冬の宿」その他。そして今や直さんの「はたらく一家」「あらがね」。文芸映画がどんどんつくられてゆくことには、映画の内的世界の貧弱さから作品を文芸に求めるということに映画としての問題があり、文学の方から云うと、鑑賞のちゃんとした規準がないために、作品そのものが不具なりに適応している。映画がそれをそのままもっと表面的な気分で描いてひろげるから、生活的な影響が益〃わけのわからないものになってゆく。そういう相互的な関係を生じて居ります。シナリオ・ライタアが真面目に求めようと欲しているところは察しられますが、自身独立にシナリオとして生み出す力がかけている。そのことも文学との関係も、実に歴史的な相貌と云うべきです。
明日は十二日。あさっての朝は出かけてこのペンをお見せし、さすがのあなたもへるほどにお祝をねだるつもりで、大いにたのしみです。
十三日にお気がつくかしら。私は髪のかきかたをすこしばかり変えたのですが。あんまりキューとひきつめていていやなので、殆ど元のとおりですが、左の方をすこしわけるようにしてかきつけることにしたのです。そしたらまんまるい顔がすこしたてに長めになり柔かみもつきよくなりました。これもお祝のひとつかしら。
こんど島田へ行っても、もうお母さんが、何とかもうすこしゆるめて結えないかしらと仰云らなくてもすむわけです。書きながらクスリとしているの、だってあなたはきっと一目で何だかユリの顔だちが変ったようだとお思いになるにちがいないが、それが櫛の一つ二つの使いかたの変化だとは、きっとお気付にならないでしょうから。きっとこの手紙をおよみになってから、フーンそう云えばすこし変ったかなぐらいのところでしょう?つまりあなたがおかきになるようにかきつけるわけです、はじめ横に、それからずっと上の方へ。秘密はたったそれだけ。
さっきハガキが来て絵かきの光子さん夫婦、三月四日立ってアメリカへゆくそうです。アメリカでも見ないより(博物館等ボストンなど)ましでしょう。が、率直に云わせると淳さんコンマーシャライズしないかと些か心配です。絵のモーティブが私にはわからないようなものをもサロンの飾りとしてかいているから。子供はお祖母さんにあずけて。お約束の十日までの計温を。
二月一日――十日。
起床計温消燈
一日七時半六°十時
二日七・一五六・三十時半
三日八(目をさましてから三十分ぐらい)六・一十一時十五分位
四日七・二五六九・三〇
五日八(〃)五・九十時四十分
六日七時十分五・八九・四〇
七日八(〃)六(これは夜十一時会からかえって)十一時
八日八六強十時
九日八五・九十時四十分
十日七時二十分五・九十時五十分
◎こうやって手帖を出して写すと、一つの希望を生じます。いつかは、これを書かないでもいいという位になりたい、と。
二月十三日午後三時
今、おひささんがお客様のための皿小鉢を洗っています。私は指図をしておいて一寸二階へ上って来たところ。さっきシャツのボタンをつけ小包にこしらえながら、もうすこしで声を出して笑いそうな気持でした。今もそう。きょうは、あの万年筆を見て頂こうと思うのが一杯でそのほかいろんな云う筈だった文句を一つも云わずに来てしまったのが如何にもおかしい。何だかあなたも笑えるような御様子でしたね。ユリのとんまなような、一心なような、滑稽ぶりを見やぶられたらしいと思います。
きょうは、皆が私に御褒美をくれるのですって。心からの御褒美をくれるのだそうです。大変にうれしいと思います。こういうことをされるのは初めてだから、私のためにみんながどこか私の知らないところでいろいろ相談して、呉れる人たちもよろこび勇んで、きょうを楽しみにしていて、サア、と呉れる御褒美は本当にたのしみです。虫退治も功徳を伴ったと笑えます。何をくれるのでしょう?見当がおつきになりますか?何でしょう。これこそその場にならなければわかりっこなしです。二人であけて見ましょうね。何か物ですって。
二月十五日
全く思いがけないおくりものでしたね。私は簡単に自分の誕生日と考えていたら。はじめ坂井さん、てっちゃんが来て、七時になってもほかの連中は現れない。もうおなかがすき切ってしまって、ポツポツおなべをいじっていたら、戸塚、昭和通、重治さんと一隊が入って来て、部屋の隅に長い丸い棒のようにまいたものを立てました。おや、とすぐなかみがわかったがそれでも私は意味は分らなかった。ずっとあとになってわかって、さてその絨毯をひろげて、うれしさが急にあふれた如くでした。お金は三十三円ぐらいで、そのうちで今絨毯を見つけようというのだから重治さんも大分苦心した模様です。ついに三越で見つけた由。掘り出しものです。そういえば、いつか家具部を歩いていたとき目にとまった色の調子だがねだんを見ようともしなかったものです。日本の家とよくつり合う、東洋風のうす茶、碧、黄、白の配色で本当にきれいです。三畳ぐらいの大さ。寿江子がスケッチ、エハガキにしてくれます。本当にうれしいわね。でもどこに敷きましょう。二階は椅子とベッドで畳はやっと一畳ぶん空いているきり。茶の間はおひささんが火をこぼし水をこぼす可能があるから惜しい。結局四畳半でしょうか。もし新しく家が見つかって、そこに八畳の室があって、勉強机とベッドとの間にそれをのばして、その上にねころがったり出来たら本当にうれしいこと。私たちはよく毛布を畳んでカーペットをこしらえましたね。そしてその真中に机をおいて。この絨毯の上には、あのお婆さんのくれた卓をおくとすっかり調和します。ふかふかとしたところに坐布団をおいて。私たちがこのカーペットの暖かさにつつまれて、というお祝の心であると云われました。皆は初めっから上機嫌で、十二時半ごろまで賑やかでした。この家はじまって以来の賑やかさでした。
〔七枚目右端欄外に〕
お笑い草
結婚第一年綿婚八年ゴム婚二十五年銀
〃五年木婚九年楊婚三十年真珠
六年糖婚十年錫四十年紅玉
七年絨婚(間をとばして)五十年金婚
二十年陶婚七十五年ダイアモンド
生れ月の宝石
十月オパールかトルコ石
二月紫水晶
きのうは、あれからかえって、お礼の手紙を書き、夕飯は林町へゆきました。咲枝が十八日にお祝いをします、お目出度の。その日にあっちこっちの会が重って行けない。(三宅やす子の七周忌、ペンクラブの会、柳瀬さんの結婚と中のの赤ん坊を祝う会)それで、ひさが休日をとったのでお湯に入ってかえって来ました。
さて、十日づけのお手紙をありがとう。十四日朝着。割合かたまりますね。八日に書いたが今頃着いたでしょうか。私が十一月に書いた手紙の中での希望について、丁寧にふれて下さってありがたく思いました。おっしゃる通りもうわかっては居りました。云わば眼を見ただけでも分るというようなものでもあります。それでも、ちゃんと、私の心に在った当時の重量を察してこうしてとりあげて下さることは大変にうれしい。こういう慎重さというものはお互の生活の中では大切な働きをしていると信じます。こういう慎重さによって私は自分の気持に対して責任を感じ、またあなたのお気持に対する自分の責任をもはっきりと知るのですから。いろいろな点から私はこの頃一層深くあなたという方の実に活々とした心持の抑揚やリズムや溢れるニュアンスを理解し、美しい巖にうつ波、とびちる飛沫、現れて消える虹の眺めに飽かぬ思いです。幸にして、私もいくらかはあなたにとってより興味あるものに成長しつつあるでしょうか。
この間、生活というものは背水の陣をしいてしまわなければ落付けるものでない、とおっしゃったこと。耳と心にのこり、面白く翫味(がんみ)しています。この言葉の内に含蓄されているものはなかなか一通りではなくてね。人間芸術家としての成長の真のモメントはここにあると思います。そして、特に面白く思うことはその内容がまことにダイナミックであって、一擢きかいてスーと出た、そのところで又次の一擢きが要求されている種類のものであり、ただその一擢き一擢きを必然にしたがい、かきつづける気力が人間にあるかないかというところがある。沖へ出れば、そうぐるりに小舟はいませんものね、何となく波うちぎわをふりかえり、そこと自分との距離を感じる方が多い。そこでたゆとうところにブランデス時代の天才の悲哀が語られ、誇張もされていたわけです。
人生における背水の陣の意味を一たび理解しそれに耐えるものは、追々成長の異った段階で、一層新しい発見をするから面白いものです。
合理的な生活を希っている道の上に不合理として現れて来る例えば手伝いのことなど。今日では不合理性が、見つけるにむずかしいというような末の現象からしてさえ実にはっきりして居ります。しかも私の日々にあっては不合理の根底が深甚であってね。客間というようなものをおかないという生活の条件がやはりここにも反映しています、大きい因子として、ね。誰か私のほかに人がいる、その点で。こういう避けがたい私の必要と、Sのお嬢さん的偸安とが結びつくことは警戒しなければならないのは確です。私の生活にも関係している点と仰云るのはよくわかります。人間の気持のずるさでSをだしにしたり、Sにだしにつかわせたりしては何にもならぬこともわかります。実際に生活しはじめるのは当分先のことですが。
シャツのことなど、それは本当に、うまく気候にしたがってお着になるのがあたり前です。そのことで特別に弱くなっていらっしゃるなどという考えかたは決してしないのですから。本年は平均より七度近くさむいのよ。私は今年はじめて昼間も綿の入ったどてらを着て机に向って居ります、その位ですもの。
では又明日。雪が降りやんで雀が囀って居ます。赤い花実にむかってする雀の啄(ついば)みやその啄みをかえそうとしてゆれる枝の景色はなかなかつきぬ風情をもって居ます。 
二月十六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(自宅の玄関付近の絵はがき)〕
描いてくれた当人は、失敗失敗と云って居りますが、これだって判る、と出す次第です。左手の垣沿いの小道が少しひろいように見えること。前が生垣つづきの一間ぐらいの小路。左手のつき当りに家があ〔一〜二字不明〕裏の上り屋敷の駅のところの欅の梢が見え、雪の夜など電車のスパークが見えます。貨車が通ると家じゅうゆすぶれます。有斐閣注文しました。 
二月十六日(消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(絨毯の絵はがき)〕
これが十三日の絨毯です。夜描いたので全体すこし色がきつめですが、大体こんな感じです。三畳しきです。おなじみの箪笥の前で椅子にかけてのスケッチです。これは私が寿江子の弟子になって壁だのタンスだの障子の棧だのの色をぬり、ぬるときはおとなしく、これでいい?ときいて注文を出すときはえらそうな声を出すと大笑いをしながら描いたもの。 
二月十七日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十七日第十五信
十四日づけのお手紙をありがとう。きのう頂きました。かえってすぐ返事を書こうと思っていたのですが、そちらへ行ったら十四日のときの受けたものと余りちがった印象だったので、たった間一日のうちにどうしてそういう激しいちがいが生じているのだか咄嗟(とっさ)にそちらのお気持に入って行けなくて、戸まどいを感じ、何だか悲しかったから、その気分がしずまるきょうまで待ったわけ。
きのうすぐ書かないと云ったら、きょう、いやな顔をなすったけれども放っておいた意味とは全く反対の、そういうわけ。
正直なところ、今もやっぱり私には、あなたがあれ程の顔をなさるのが、何か唐突なのですが。私のやりかたに原因がないというのではなく。確かにそうであっても、でも。びっくりしているようなこの気持わかっていただけるでしょうか。ただ対照から、そうつよく感じるのでしょうか。どうお思いになるかしら。
家のことは、お話したように省線の便利はあった方がよいという附随的な条件なのですから、そちらへ歩いて通えるということが条件第一条です。寿江子が一緒に暮さないのだから、ひさと二人の生活を考えて見つけるわけです。きのうはあれからまっすぐ家へかえり、途中で買った地図をしらべていましたが、気持が落付かないので出かけて、そのぐるりを相当歩いて見ました。札は一つもなかった。そちらの裏手の東横とでもいうあたりには大きい雑木林があるの初めて見ました。真中に四間通りが一本通っていて、やがては住宅地になるのでしょうが、きのうは雪が落葉の上にあって独特の眺めでした。護国寺の方から市電が池袋までのびるところで、いかにも新開地らしく、古い餌差町という停留場の棒が立っていたりして居ります。こっち側と池袋の駅よりの方歩きました。自分で大体の当りをつけておかないと、ひさを見させるにも具体的でないから。明日は土曜日ですから或は又何か見当らないものでもないかもしれません。この頃は、もう裏から電車とバスで出かけて居ます。行きの時間には相当もまれる、それももう大丈夫ですから(歩ける距離に見つけるまで、)
勉強の方は、入院前よみかけていたものプルードン批判をよみつづけて居ります。書く方は、『文芸春秋』が小説をのせるようにして見たいと云っているので、それを今ねっているところです。短篇ですが去年の秋ごろから心にとまっている題材です。お手紙に云われている創造力の源泉の問題は、私の場合ではやっぱり生活の掘り下げかた、生活への沈潜度の問題、その条件としての私の夾雑物への目のつけかたというようなものとむすびついていると思います。ここには非常に興味があり且つ微妙な問題があるので、多難な時代の中で成長してゆこうとする芸術家の努力の様々の段階のプラス・マイナス層が現れていると思います。いつかの連信の中であったか、或は他の手紙の中であったかに、一寸ふれたと思いますが、条件に対する抵抗力というか独自性の自覚(歴史にふれての)というようなものを、外へ向って押すように感じていた時代(これは表現は変化しているが期間としては相当長いように思います、一九三〇年頃から昨年ぐらいまで)その範囲で、「健気(けなげ)な」執筆をもしていた時代。勿論そのときはそれで精一杯であったのですし、そこにある反面のものにも心付かなかったのですが、去年の冬、それから暮以来(あの大掃除を区切りとして)これまでの自分が作家としてもっていたプラスとその反面のものが見えて来ました。だから同じぐらいの短篇を考えても、これから書きたいと思っている気持から例えば「小祝の一家」ね、あれをよみかえし考えかえして見ると、今の自分には沈潜度が不足していると感じられます。では何故沈潜度が不足していたかというと自分が認めるより正しさよりよいものへ向う面と、その一方自分にまだまだあるところの負の面とのいきさつがじっくりとわが胸に見られていなくて、現実に前の方の目だけでぶつかっている、そのためにあるよさはあるとして、足りないものがある、芸術品としては。つまりあの一篇の中に「忘られない或もの」というものがあるでしょうか。それだけ突こみ、迫り、描き出したところがあるでしょうか。ここが面白い。作品にそういう奥ゆきが出るということ、味のあるということ、それはとりも直さずその作家が自身の心にもっている複雑性の把握の厚みの反映ですから。
この点については現代文学史的な含蓄があるのです、私一ヶのことではなく。沈潜を、正当な発育の方向に向ってやって行かず、(外部の歪ませる条件と自分の内の歪むまいとする希望、にもかかわらず歪みに吸いよせられる条件としてある(存)もの等をきつく見較べてゆかず)所謂おらくに自分の上に腰をおろしてしまって、元来は文化の歴史のマイナスの面がむすびついて一見文筆的才能と現れているようなところへ沈潜して行きつつある顕著な実例がある。音を立てず、而もそうやって水平線が岐(わか)れつつある。深刻なものです。「雑沓」が旅立以来無銭旅行的テムポであるというのは名比喩で一言もありませんが、私としてはそういう全局面の見晴しから、一時たまっている水のどっとはける予感でいるわけです。自分論は、生活的な面からそして文学的なものからもふれていたと思いますが、そういう気で書いていたのですが。自分の生成の過程その拡大、そのプロセスにある諸相として。自分についてそのように見直してゆこうとするものが全く作家としての欲望の一表現であると感じられていたと思います。自身の作品へ対しての様々な希望、現実のありようについての疑問もとりのけられてはいなかったのです。作家としてのよりひろがりと深化と芳醇化とをはげしく求める気持がある。そこから。あなたを目の先におかずに、という風なことわりがきが書かれたのも、あれは単にあなたへ向っての知的陳列の欲望とはちがったものを書く動機として感じていたからでした。歴史的な文学的プログラムがいるという感じも、そのつきつめから生じています。
この前のお手紙に、到達されている省察の上に立って生活と文学との実際でそれを具体化してゆくためにはなかなかの辛苦がいるだろうと云われていたのは全く本当だと思います。具体化してゆくためには一つ一つと営々と書かれて行かなければならず、そのことでは本年は考えるだけ苦しくつきつめるだけのところから出て来ていて、書く時が来ていると感じます。家が歩いてゆけるところに見つかったら、そのことからもいいと思います。「自分でも認識出来ない負的習性」というものは実に出没自在の厄介ものであるわけであり、「私」の問題も片面ではその最たるものでしょう。例えば表をきっちりつけないこととか、事務的にしゃんとしないこととかをもそのうちに数えられているわけですが。そして、その事自体より複雑な不快をあなたに与える心理的な性質をももっていると思われます。私はこの頃は自分の負性ということについては偏見なしに考えられるようになって来ているし、傷つけられる心持もなしに批評の言葉をもきこうという傾向です。環境的市民的性質のマイナスの作用のことも、謂わばこの頃身に即したものとして見ることが出来、その点も、自分の善意を肯定してその点から自分はとりのけとしておいて、そういうものを歴史性において見るという態度からは育って来ていると信じます。そして、真の成長のためには、現段階で自分のプラスにたよるのではなく、負性に対する敏感さが欠くべからざるものであるのもわかる。「雑沓」が真に描かれるにはこの一点が何か真髄的に重大なものであった。そういうものがそれだけ重大だと分ったのが、昨年夏以後の苦しさのおかげであるというところに、又見のがせない意味があるわけです。
表のこときょうはサボタージュしたねと云われてしまいましたが、十七日にはじめてそちらへ行ったとき、もういいでしょうというようなことを云っていて、それから又あとに、熱は十日まででよいがと云われ、じゃ二月一日からちゃんとつけて、というようなことだったと思います。あなたがああいう目をなさると、駄目よ。私はとたんに叱られる子供にかえったような工合になって、困った気ばかりするから。あなたが、ちゃんとしない、そのことの奥にあることへの気持で仰云るのは判るのですが。ああいう目にいきなり息をつめてしまうのだって、やっぱり私の負性の一つかとも思ってしまいます(半分本気。半分冗談)でも、勿論これは、あなたが私に向ってはどんな顔をなすったって、目をなすったって、いずれもよし、という土台に立ってのことですから、どうぞそのおつもりで。私も段々えらくなってたった一遍でもいいからああいうコワイコワイ目をしてあなたを見て平気でいて見たい(!)
一婦人作家というのは、「木乃伊(ミイラ)の口紅」の作者のことでしたろうか。官能の面の解放者というのはどういうところでのことだったかしら。大正の文学におけるこの女作家の持っていた意味は、単に官能的描写にたけていたということではなくて、男とのいきさつに於て、女が女として自分の我を主張しているところ(官能そのものの世界においても)、しかもそれが我ままの形、身を破る的悲しき荒々しさにおいて出て居り、最も自然主義的な内容でも非理性的で生活も発展の形よりも流転の形をとったことに当時の歴史がうつっていると思われますが。この婦人作家が、その後、一方でよりひろい見聞にさらされつつ他方昔ながらのものに足をかけて生きているために、流転も往年より内容において複雑となり害毒的になり、破綻的となっている。プラスであろうとする側のもので緒口(いとぐち)がついた人的交渉をも、マイナスのもので潰して結局健全な部分(人間的にも文学的にも)からは全く離脱してしまう道どりは、現実の仮借なさを語っていると思われます。
――○――
十時に消燈がどうしてもおくれることについて。どうして、どうしてもなのか納得ゆかないと仰云った。いつも決してゆかないのとはちがうのよ。どうしてもという表現は、あらゆる努力にかかわらず、ではなくて、何と云っても、或はやむを得ず、そういう範囲での内容です。私のいろいろのことに対する要求のお気持から、どうして、どうしてもなのかと仰云るのは分るが、そういうものからすこし間隔をおいて、毎日の暮しの中にはいりこんで来るあれこれ、子供や全くの病人ではない生活のあれこれというものの実際の面から御覧になれば、とりあげて一々の例を並べ立てるまでもないこととしてわかっていらっしゃるのです。そう思うわ。その日の風まかせにフラフラ暮していて、問いつめられると、窮してどうしてもねなどというわけではないのだから。私は自分の生活ぶりの全面的感銘からあなたに一日も早くそういう点に到るまでの心づかいを、注意を不要と感じさせたいと思います。
一日の割当ては、大体午前中に面会と、その他の用事をすませ、午後から夜勉強の時間に当ててゆくつもりです。ものを書くことで面会を休んだりはしないでやってゆく決心です。二つのものが一つしかよしんば書けないとしても、それはそれでよいと思って居ります。私にとってのねうちは、ちがうのだから。去年は毎日の出勤に全くなれていなかったことや内部的に整理されないものが少くなかったことや、体に虫をくっつけていたことやらで、毎日、出てゆくこととその後の印象の噛みかえしと、手紙とで過ぎた如くでした。が、それはやはりそれとして、実に収穫がありました。本年は一歩前進です。出かけて、そして書いて行きます。
――○――
きょうは、よくお話しするバラさん(榊原)が来たので、あのひとは大塚から西巣鴨にかけての地理をよく知っているので、一緒に来て貰って、西巣鴨二、三丁目を随分隈なく歩きました。そして、何と皆それぞれ納っているのだろうとかこちました。そちらの向い側です、バスの通りを挾んで。それから、今度はそちら側にうつって、ずーっと池袋駅に出る迄の裏をさがしましたが、これもナシ。工場といかがわしきカフェーがちゃんぽんに櫛比(しっぴ)して居ります。鉄、キカイの下うけ工場があり、ゴムの小工場がある。昨日歩いたところとは同じ側のすこしずれたところですが。歩いて十五分―二十分ぐらいのところは理想的ですが余り望みない。昔からの条件で界隈の性質がきまってしまっている様子です。中途半端のきらいはあるが、雑司ヶ谷五丁目のぐるりには気をつけていたら或はあるかもしれませんね。七丁目となると東京パンのあたりでずっと遠いし。大体見当はついたから、これからそちらからのかえりにも気をつけ、おひささんにもさがさせます。おひさ君はやすとは全くちがった気質です。アラーつい見なんだと目の前にあるものも見ない、そういうところあり。いきなり家をさがしに出したとこ。そういう点やすはしっかりして居りましたね、自分の判断というものをもって行動した。感心でした。
○さっき徳さんより来信。十九日(日)のばして二十日の分は、用事のためとばすと云ってよこしました。冨山房の辞典のために荀子、老子というようなものを調べているらしい模様です。
○十四日には、あわただしく手紙をかかせ、十六日には御飯のお邪魔になって御免なさい。この間うちは外の暖くなるのを待つ心持で出かけていたので。十四日には前日でくたびれでのそのそしたのですが。これからは又そちらへ九時前後につくよう出かけましょう。
虫が退治られて、きのうも二時間余、きょうも二時間近く歩きまわって足がくたびれただけというのは実におどろくべきことです。よこはらが苦しく、すこしどっさり歩くとおなかじゅう苦しくなったときの気持と比べると。気がつかれる程度のちがいは相当です。
二月ちゅうは毎日ではなくと考えて居りましたが、もう毎日にします。
○有斐閣の本、代金引かえで送るよう注文したから明日あたり着くでしょう。
○いまごろは待ちどおしくて而してこわい手紙がその辺のポストに入っているでしょうか。鉄の赤ポストは公園の鉄サクやマンホールのふたなどとともになくなります。瀬戸もののポストになります。街の燈柱もコンクリートになるのでしょう。『片上伸全集』は興味があると思いますがいかがでしょう、私には心ひかれるものがあります、手紙が収められているそうですから。では明日。 
二月十九日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月十九日第十六信
又ひどい風になったこと。二階は縁側なしだからしきりにガラス戸ががたついて居ます。
きのうはあれからかえったら、玄関に男下駄とインバネスとがあり、誰かと思ったら、いつか手紙に書いたことのある甲府のひと、盛に鶏の毛をむしっている。柳瀬さん中野さんの祝いに出席するために、八年目の葡萄酒と山鳩二羽と、私へは鶏をもって来て呉れたのだそうです。とりをつくるの、実は見ているのがいやなの。とりやへやるからと云ったら、肉をかえられるといけないとこしらえてくれました。汗をかいて。そのうち栄さん来。栄さんの芥川賞候補は候補にとどまり、貰ったのは中里恒子という人です。稲子さんが新潮賞の候補にあがったそうですが、こっちは「子供の四季」や「風の中の子供」をかいた坪田譲治と「鶯」その他農民文学をかいている伊藤永之介に行きました。こう並べるといかにもその常識性が新潮らしいでしょう。文学的文壇的常識というよりも、市民的常識が匂う。えらいと云われている人には先ず頭を下げて向ってゆく風な。千円ふいになったと大笑いしました。柳瀬中野のお祝いの会はいかにもその人々らしい会でした。久しぶりにいろんな人の顔を見ました。千田さんのイルマさんが子供をお母さんに見せに八年ぶりで一寸ベルリンにかえってゆくそうです、八ヵ月の予定で。八年の年月は、実に昨今では内容的だから、さぞいろいろの感想の深いことだろうと思います。かえって話をきかせて貰うのがたのしみです。イルマさんだけ行くのです。いろんな人からあなたへのよろしく、よろしく、お体をお大切に、ということでした。
きのうは、会へ行く電車のなかでも、テーブルに向っても、折々朝のうちの匂いたかい花束が近々と顔に迫って来て、むせぶようになりました。私は花の香には実に感じ易いから、あんまり芳しいと気が遠くなりかかります。
きのうは、前便で話していたように会だらけの日でした。けれども私たちは中野さんにも骨を折らしてお祝を貰ったから、中野さんたちの会だけにしようとしていたら、三宅やす子さんの会に是非来て呉れるようにというので、それからエイワンへ稲ちゃんと二人でまわりました。AIはイギリス人の細君とはじめた、初めは小じんまりとしたところでした。父たちぐらいの人々がそのイギリス風をひいきにして段々盛になって、この頃では新築して株主をこしらえたりしています。この会はそれぞれ面白かった、というのは、テーブルスピイチをする女の人が皆相当の年で、それぞれの職業で一家をなしているためその特長があらわれて。例えば村岡花子というラジオの子供の時間にいつも話しているラジオの小母さんは、実に自他の宣伝上手でまるでラジオで話す通りのアクセント、発音、変な無感覚性(きき手に対する)で話すの。実に可笑(おか)しい。それから作家でも吉屋信子の機智の土台のあの小説らしさなど。私は三宅さんのもっていた矛盾やその未解決さや生きかたの或正直さなどを話し、きっとそれもはたから見ればやっぱりにんにあったことを云ったのでしょう。
稲ちゃんのところでは達枝ちゃんが今日三越のホールでおどりのおさらいがある由です。
今これを書きかけて思ったことですが、私たちは一つところに暮していないために、一緒に暮しているより一日の沢山の時間をお互のために(内容として)つかって居ます。本当にそう思う。こうして書き出して、私は決してもう書くことがなくなったと感じたことはないのですもの。あなおそろし。三時間ぐらいはいつも、です。これからは毎日すこしずつお話をしてゆくことにしましょうかしら。
『片上伸全集』のことね、私は文学史的な意味からも買おうと思います。谷崎精二氏が編輯に当っている由です。この人の些かの良心によって手紙も入れられたらしい様子です。内容見本お目にかけましょうね。私も知らないから。
それから三円のこと。思いつきになりましたか?和英どうでしょう、一寸ほかに名案が浮びませんが。
私の考えている小説は今日の母の心持です。いろいろうけている感銘があります。それが書きたい。心持の内側からね。健全さというものの生活的な地味な苦痛をしのんでいる本質について。華やかな時代のヒロインならざるものの生活を貫いている真実について。おととしの冬ごろに小説としては一番おしまいになった短篇で、若い良人をもっている若い妻の心持を、時代的な一般の不安の面から書いたことがありましたが。小さくても、主題ではなまけていない小説をかきたいと思って居ります。
本年に入ってからは、この間お話したようなわけで、すこしずつかけてゆくらしく、『文芸』の日記(キューリ夫人の「科学はものに関しているのであって人に関しない」と云っている言葉への疑問、それを深めかねているエヴの作家としてのプラスマイナスなどにもふれ)十枚。『三田新聞』の、日本映画とその観客とのこと、所謂文芸映画のふくんでいる文学としての問題、映画としての問題、田舎へ送られる映画の種類の文化的質の問題、見るものの人間的自主的な判断の必要など七枚。『婦公』の若い婦人におくる言葉一枚、というような工合です。去年は三田と法政の新聞に五枚、七枚ぐらい書いて未曾有の稿料レコード総計七円也。夏水道の水が実にとろとろしか出ない。実にそれではこまる、やってゆけない。だが、たとえ一筋でも出るからには、水道局は全く水を止めたというこごとは受けないでしょう。市民諸君が水をつかいすぎるから云々、と。今度市で、一定戸数に対する一定数の井戸を掘ることにきめました。防火・断水対策として。この家は、一つ井戸がありますがそれは今使いません。しかし裏の家主さんのところにあります。
家、きのう、正門の前の自動電話の横を入って一寸歩いて見ましたが、全然駄目ね。きょうこれからおひささんを出して見ましょう。下駄の鼻緒を切らして、直してもらってからよくそこで下駄を直すお爺さんがついそちらの門前にいます。そこでもきいたらないらしい。すぐふさがる。六、二ぐらいの家である由、あの界隈は。西巣鴨二丁目という辺はきっとバタやさんが多く甚しいくねくね小路で空巣もあるらしく、何かききたいと思って格子に手をかけてもスラリとあく家はありませんでした、二軒ばかりできいたが。空いている家かと思ってきいたとき。空巣では私たちも笑う思い出がありますね。動坂の家で。あなたの大島だけぜひ出させろと私がねじこんだというようなゴシップつきの。そして、その一味の婆さんが一緒に弁当をたべるとき、きっと私に向っていただきます、とあいさつをしたという世にも滑稽な話。滑稽でも空巣とのそういうようなめぐり合いは恐縮です。
さて、一月中の表を思い出してつける、これはほんとの大体で今これをかくというのも気がさすようなものですが。手帖を見ると、成程一月に入ってからは計温書いていないで、二十九日ごろから又つけて居ります。
○一月一日から退院する一月十日まで。朝七時半。消燈九・三〇。熱は平均朝五・九ぐらいから六・二三分(六分どまり)でした。
○退院後は、朝さむいし、起ききりにならず暮したので、朝九時ごろ夜は十時ごろ消燈していたと思います。熱はもういいことにして頂こうと思ってとらず。
十七日、初めて面会に出かけました。二十一日にゆき、二十三日にゆき、二十七日にゆき、三十一日に行って居りますね。十七日ごろからもう昼間床につくことはしなくなっていたと思います。それでも朝は床の中にぐずついていた。やっぱり九時前後でしたろう。宵っぱりをしていたとも思わない。二十九日六・三、三十日六・四、三十一日六であった。手帖にそう書いてある。二月一日からは気をつけてつけてあり起床についても平常に復しかけて居ります。
○これからは朝を七時にくり上げ、追々又六時に戻しましょう。この朝おき宵ねについてはまことに遅々たる有様ですが、昨今では、夜おそくなるのは段々実際上困るようになって来ているから、これでもあなたの勘忍袋の効果はあらわれているわけです。初めのうちは正直な話、ほんとうに誰のためにやっているのかとあなたに大笑いされそうにやっとこやっとこであったが。私だって、きっとひどいお婆さんになれば宵ねがすきで寝ていたくても寝ていられないと朝おきるのだろうと思うと可笑しい。そっちだけ大婆さんになる法はないでしょうか。
ああ、この間白揚社からブックレビューをしてくれと云ってバッハオーフェンの母権論という本を送ってよこしました。どこかの先生で坊さんらしい人が翻訳しているのです。母権論の序文を。長い訳者序をつけて。神代の神話にからめ、女は働いていさえすれば隷属はないというようなことや、母たる感情の本源性を強調して。これはこの頃の一つの風潮です。母と子とがこの社会での現実の関係ではなくて心霊的結合であるかのように。女において最高の感情を母性感におき、同時に大飛躍で女の勤労性の強さをぬき出して讚美する風。実際上この二つのものの間にある様々のものにふれずに。
病気をする前に、新しい興味で勉強しなおしていた本は、バッハオーフェンの先駆的な意味を十分に明らかにしていたのでそのブックレビューは、今日を生きている女としての現実に科学的なよい意味でのアカデミックな裏づけをもって書くことが出来てうれしかった。プルードンへの批評にしろ、五千円範囲の住宅建築には今度の増税もかからないというような点と結びあっていてやはり面白いこと。
○十日ずつでよんだ本の頁数をノートをするということ。きっと面白いでしょうね、些か中学生風であるが。仕事をどの位したかということが、様々の形でわかって。あなたは大変に大変に狡いわね、忽然として今そう思いました。私のすこし子供らしいところをつかんで、そういう表にすれば欲ばってやるとお思いになるのでしょう?一日だってブランクを出すのは心苦しいと思うとお思いになるのでしょう?くやしいこと。私はそれには、やっぱりかかってしまうでしょうから。但小説をかいているときは一日に何枚としか記入しないでもいいこと、これはきっちりお約束。一枚だって半枚だって一行だって、実際あることですものね。では又明日に。 
二月二十一日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十一日第十七信
雪が雨に変ってすっかり寒い天気になってしまいました。今そちらの門のところ、道普請(下水工事か何か)あげくで、ひどい泥濘と云ったら全くお話のほかです。
早速ですが枕のこと、ききましたらやはりスポンジは入りません。空気枕だけの由。年中御旅行中とは恐縮ですね。どうしましょう、それを買いましょうか。
昨日は、かえって暫くしたら婦公の婦人記者来。いろいろ話していて、女の作家のところへ行くのが一番気骨が折れます。なかなか作品の話などついうっかりは出来ませんし、云々。盛に云っているので可笑しくなってしまった。そのひとは私を思想家というものとしているらしいのです。そしてそれは思想家や宗教家の方という形で並ぶものであって、大変包括力があるのですって(!)大笑いをしてしまった。お役所につとめていて、記者になったひとの由でした。
四時すぎごろ重いブックエンドもって栄さんのところへゆき、つれ立っておっかさん[自注3]のところへ出かけました。偶然半丁ほどのところへ越して来ていたのでびっくりしました。六畳の部屋をかりて壁に服をかけ、隅に譜面台などあり。清潔に小じんまりしている。そこへお母さんが相変らずの小づくりながら、つやのいい元気な姿で坐っていて、てっちゃんもいました。マア雨が降るのによう来て下さいました。そして、息子の三年目の洗濯ものを来た日に親類へ皆負って行ってすっかり洗ってやり、次の日二人で家さがしをしてここを見つけた由。来るとき、秋田のどことかとどことかとへよって九日間の切符ギリギリについたとか、汽車の食堂でパンをたべる話そして何里も来る間ゆっくら休んでいる話。三人で、あっちのバター、燻製の鮭、美味いつけものなど御馳走になりました。花をもって行ったのを写真の横に飾り、おじぎをしたら、おっかさんの実に気持のいい生活の気分と一緒に、涙が出るようでした。本当に生活のひとふしずつを愛してたのしんで、丈夫でよく働いて、つけものの話や息子の着物をさしこに刺した話や牧場で牛乳でジャガイモを煮る話や、そんな話をしているのに爽やかで気が和んで本当に新鮮です。栄さんと二人でびっくりしてしまった。悧巧なひと、しっかりもの、情のふかい人、いろいろ傑作はありますが、ここにも一つの傑作ありという感でした。そして生活する地方というものは何と面白いでしょう。一日に一遍はパンにバタをつけたのとリンゴとソーセージぐらい、牛乳とたべるのですって。そして牧場で、ホワイトソースをこしらえかたを教えてやったら、十年やっている(牧場を)のにはじめてだって、草苅に手伝いに来た人はコンナどんぶりに六杯もたべました、美味い美味いってね。あっちに暮しているのは、親戚も多く皆から来てくれ来てくれと云われ、本当に楽しくて豊富でいいのでしょう。この息子がもっとしっかりしていると申し分はないのだけれども。四月の初旬までいるそうです。四月に旭川の技師の細君になっている娘が(妹娘。)赤ちゃんを生むのでその手つだいのためにかえるのだそうです。すこし暇が出来たら何かよろこばせることを考えるつもりです。
達ちゃんの手紙、お話したようにあなたのお手紙を見ての分です。もう楊柳の芽がふくらんで来たそうです。正月九日迄大同で十日から動き出し、内蒙、黄河畔、陜西省境をまわって七日に一ヵ月ぶりで帰り、当分休養の由です。丁度そこへ手紙や荷物がつくことになればようございました。隆ちゃんはあっちへ度々たよりをよこすそうです。そして軍隊の空気にもなれたので楽になったと安心するよう云ってよこすよし。風邪一つけが一つとしなかったと書いてあります。
咲枝の兄の俊夫が(明治生命につとめている)一年半ぶりでこの間無事にかえりました。そして社報に日記抄を出しています。ずっと日記をつけたらしい。日ごろ妹たちにも大人並には思えないような風に見られていたのに。主観は単純であるが、こまかに様々の様子をかいていて、文章は独特に新鮮で、誇張、修飾を知らない味にあふれて居ます。水上瀧太郎にほめられたと云って大よろこびの由。阿部章蔵はあすこの親分です。文章をかくのが面白くなって来ているそうです。このひとは子供の時代の病気のため不幸な生理事情があって、家庭生活もこれまでは悲惨めいていましたが、その妻になっている人は(初め経済的条件だけ目あてだったのが)今度はしんから心配したし、そういう点も何か変化を生じたらしいそうです。いろいろのことがある。
○私はそちらへ通いながらでも、仕事をしてゆくことが出来る自信がつきました。事務的なこともちゃんと整理しておけば心配もないし、そちらに行って待つ間落付いた気持で、頭の中にあるつづきを考えていられるようになりました。これは大変にうれしい。それに、自惚(うぬぼ)れですみませんが、ユリは御飯だと、自分を考えているのですこの頃。どんなものだって自分の御亭主に御飯たべさせもしないで仕事にかかる女はいないでしょう?ね。だから、先ず一日のはじまりに御飯もって行って、ちゃんとたべさせて、自分もたべて、さて、それからととりかかる次第です。この御飯という考えは、その欠くべからざる性質においても私のようにおなかすかしには適切だし、なかなか生活的だと思います。しかも、私にあっては、よく仕事すればするほど、質のいい御飯がいるのですから、猶好都合です。
そちらに通う時間について考えていて下すってありがとう。大体三十分―四十分です片道。家から上り屋敷まで歩き(二丁)そこから池袋まで電車。それからバス。バスからそこの四角の二辺をぐるりと歩く。八時二十分ぐらいに出て、そちらへ九時三四分前。それから九時三十分か四十分まで待って、パチパチと話して、それからかえり。前後二時間―三時間です。十一時ごろはかえれます。
この家は、鉄道の柵の方から自動車が横通りまで入り、門から横通りまでは一丁ぐらい。その点は便利です。表の大通りまで三丁位で、そこからもひろえる、この間うちやっていたように。勿論朝八時すぎにはなかなかありませんが。どうしても歩くしか方法がないところとなると或場合は却って不便です。ここからは、先頃のようにおなか押えているときでも行けたが。あれが歩くきりだったら出られませんでしたね。きっと。目白タクシーというのが表通りにあって呼ぶと角まで入ったから。
寿江子は雪景色見物かたがたこの天気に又家さがしです。きょう、表のぬかるみがひどくて下駄の上までかぶるので裏へぬけて見ました。ああいう家々!もしどこかに火事が出たら人はどこへ逃げるのでしょう!一人やっと通れる小路をはさんでつまった小家。ああいう家も、猶家作であるというのはおどろかれます。この日の出という町で小学校の子供が生活の苦しさから自殺しました。
今年は、去年の夏以来のおかげで出勤にもやや馴れ、気持もゆとりが出来、又沈み重ったところもあっていろいろたのしみです。体も丈夫になって、毎日出て行って、ちゃんと仕事が収穫されてゆけば、私たちの生活も、相当に勤労ゆたかである訳でしょう。私は益〃はっきり、自分の作家としての生きかたを考えて、そうやって仕事してゆくのこそ自分の条件なのだとわかって来たから、ほかの形で仕事してゆく条件など毛頭考えません。――仕事の間(そちらへ行くのやめるとか何とかの意味)お早うと云って、仕事の話もするようになれると思うと愉快です。そうしたら勲章を胸にかけてさし上げましょうね。そのように、手をゆるめず、育てたのは謂わば貴方のお手柄だと思いますから。従来の習慣、これは林町的と云うよりは文学というものの従来のありようとの関係で、私は体を動かすことと机に落付くこととの調和を見つけることが実に下手でした。文学の勤労的でない性質の反映で。その点も進歩すれば、収穫もしたがって豊かになりまさって来るわけです。文学の生活的土台もこういう風に微妙且つ具体的ですから一朝一夕ではないわけです。
片上全集と一緒に婦人の法律をお送りします、明日ぐらい。
ああ寿江子がかえって来た、鼻の先を赤くして。鬼子母神のあたりや先を歩いて見たそうですが、大きい化ものやしきのようなのが一つ売又貸と木札を出していた由。
さてお約束の表、十日より二十日までの分。
起床消燈
十日七・二〇一〇・五〇
十一日七・四〇一一・〇〇
十二日八・〇〇一〇・四〇
十三日七・二〇一時半(ホーラ、目玉がギロリ、でしょう?これは何しろジュータンでしたから)
十四日九・三〇九・四〇
十五日七・四〇一〇・一〇
十六日七・三〇一〇・三〇
十七日七・一五一〇・〇〇
十八日七・〇〇一一・四〇
十九日八・〇〇九・四〇
二十日七・一〇九・三〇
仕事や読書の表はこれから。この間によんだもの、例のプルードン批判。小説ではデュ・ガールの『チボー家の人々』二冊。そしてこのブックレビューを三枚。ジイドの「贋金つくり」と並べているが、その質のちがいについて。映画について(『三田新聞』七枚)、『婦公』「最初の問い」一枚。そして小説についてこね中。
ほんとうに冷えること。おなかにこたえないでしょうか、シャツがあってよかったと思います。
きのう栄さんのところで、アメリカの通俗的な『ライフ』というグラフを見てアメリカ、スウィス、ロシアの雪だるま、と云っても巨大な芸術的なものの写真を見て実に面白うございました。アルプス附近は線が変に澄んで居り、ロシアの人形はいかにも雪国の重厚さ。アメリカのはイヴと蛇というような、あたじけないのでした。ではお風邪をお大切に。

[自注3]おっかさん――小林多喜二の母。 
二月二十三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
二月二十三日第十八信
二十一日づけのお手紙をありがとう。蜜入りの特製牛乳の御褒美呉々もありがとう。あの製法にもなかなかなみなみならぬこつがあるわけですから、それを御馳走してやろうと思って下さったのはうれしいと思います。
表のむらなことは、おっしゃる通りですが、この頃又すこし進歩してね、表をつけなければならないのにムラだという結果からの小乗的注意からぬけ出て、一日を一杯に内容的に暮そうとすると、どうしても早ねも早おきもせざるを得ないことが、会得されて来ました。其故今後は従来よりも本質的な自覚で改良されてゆきましょう。やっぱり体のため、というようなことからだけではモーティヴが強いようで強くない。仕事を割当てて見て、その必然が身につく方がたしかだし実質的です。ユーゴーまで!実に笑ってしまった。だってね、ユーゴーが六時、十時と壁上にかいておいたのは何故か御存じ?あれは、決してそれが実行されず、何しろ当時のパルテノンで、徹夜して当時の文人が集ったから、それへの武装的布告だったのですもの。ユーゴーもまさかにその銘がここでこのように語られていようとは思いもよらないでしょうね。何と面白いでしょう。パンテオンのユーゴーの墓は立派でした。
読書のこと、きょう話に出た通り、何か仕事をしている間は、と云ったらきりがないということは本当です。それではいけないと思います。それに、出勤との関係で、急にキューキュー仕事をするということより、一日に少しずつ割当ててやってゆく方法をとらなければ仕事としても長つづきはしないことが明白になりましたから、来月からはキチンと実行して見ましょう。本月中は御容赦。
この頃は虫も退治され、栄養も心身ともによく薬も実に活力の源となるききかたをしているので、きっちりとして、而も収穫的に暮してゆこうとする努力がたのしさを伴っています。小説をかくにしろ、夜昼ないようにくいついて短時間に書くのではなく毎日毎日一定数だけ(五枚か三枚)書きためてゆく愉しさ。よっぽど昔、一番はじめの小説を、女学校に通いながら書いていた頃のような書生っぽさ、そんなものが甦ります。そういうようにして小説も書けてゆくというところに、小説そのものとしての新しい意味もあり、書く意味も生活的に深いわけです。私は、前便で書いたように、若いときからすぐ専門的生活に入って、その旧習にしんでいたから、或時期以後、生活の形が変り、動的要素が殖えて来たら、そういう面が不馴れで、精一杯のところで、そういう生活全体をひっくるめて掌握して仕事をどしどししてゆくという実力が欠けていた、今ごろ、はっきり其がわかります。文学の上の仕事ぶりそのものに一般的にある旧態(世の中一般のことよ)は、私の身にもついているのですから。現在、私たちの生活の条件が、私の心にある自然な要求に結びついて、こうして徐々に徐々に私の生活能力を高めつつあるということは、つきぬ味があります。遂にそこに到達しかけているということのうちにこめられているあなたの御心づくしと努力と忍耐とを、ありがたいと思わざるを得ません。今年は花も実もある暮しが出来そうですね。去年のうちに相当耕された土地に、本年はやさしい肥料がいかにもたっぷりという感じで。そして、それがどんなに必要だったでしょう。どんなによく作用しているでしょう。どんなに、それなしには伸びられぬという種類のものでしょう。その程度の深さ、おわかりになるかしら。楽々として、而もたゆみなく努力してゆくことにある愉しさ。それでなければ仕事など出来ない、単なるむこうっ張りや力こぶを入れた態勢では。いろいろのことから次第に奥ゆきのあるところまで生活がたぐられてゆき、それに準じて足どりも進むところは興味つきぬものがあります。二人の生活が血行よく循環して、現実的に豊富化されてゆくこと。歴史における意味についての理解から来る全面的な肯定が、初歩の時代に(生活の)ややロマンティックな光彩を添え、それはそれとしてやはり当時における真実であったのが、追々成熟して来て、結ばれかたは一層ときがたいものとなり、生活の成果も現実的に強固の度を増して来るという推移は、実に実に味が深い。一つ一つの段階がふっきれてゆくには時間がいるものですね。よい薬をたっぷりと体にしまして、私はあなたの数々のグッド・ウィッシェズに応え、枝ぶりよい花や、つやのよい実を生んでゆきたい。はい、これが一つ。それから、はい、これが一つ。そういう工合にね。よろこんで下さるでしょう。そして、どんなにホーラ御覧と、おっしゃるでしょう。どんなにそう云われても私のよろこびも大きいから、きわめて気よく、一緒になって、本当ねえ、と感服をおしみません。
小説は、ふかく生活にふれたものにしたくて本気です。どうかおまじないを。小さくても、私としてはこれまでと全くちがった条件(生活の)で書いているのだし、気持も或掃除後のことだから、作家の勉強のマイルストーンとしては決してどうでもよいものではない、そう思って居ります。生涯には外見上目立たなくても本質的にそういう作品があるものだと思われます。例えば、「一本の花」。あれは「伸子」からおのずと出て、然しまだ当のない成長の欲望が語られて居るように。
武麟は、純文学が生活からおくれてしまうかもしれない、と云っていて、そのことを直ぐ彼らしき文学の方向に暗示しているが、純文学を最も健全な意味で文学らしき文学と解釈すれば、作家の生活能力如何が、これからの多岐な社会生活の中で最後に決定条件となるものだということが益〃考えられます。そして、それは、明かに光治良氏のように妻君の金もちや、丸山義二君のように、二百円もらって温泉で農民小説をかく生活能力ともちがったものであるのだから。
母親がね、小さいときから赤ちゃんを抱いているため、段々腕の力がまして、相当重い赤ちゃんも比かく的疲れず抱くということ。屡〃思いますが、このことのうちにある自然の微妙な美しさ。
さて、今私は可哀そうなビッコタンです。けさ、上り屋敷の駅で電車にのろうとしたら右足のふくらはぎがどこかプキンとしたら、筋がちがったと見えまるで痛くて、今はヨードを塗り湿布をして小さい象やの怪我姿のようです。でも大したことはないでしょう。明日もゆきます。きょう御注文の三笠の目録も『科学知識』、もありました。『東京堂月報』、とりあえず、家に来ているのをお送りしておきます。和露は近日中に出かけてしらべましょう。
『科学知識』は予約しましょうか、毎号それぞれよむところがあり私もお下りをやはり興味もちますから。
『都』に、フランス文学と、アナーキスティックな思想の擡頭ということを書いている人がある。これはまとめて読んできっと又感想があろうと思いますが、いろいろ実にわかりますね。あすこの雑多性、それの時代的歪(ゆがみ)など。作家イバニエスの故国においてにしろ、そういう要素が活躍したのですから。簡単に燃え、たやすく消える装飾の灯かざりというものはいつもある。その幻滅を、文学的に修飾しようとするエセ文学趣味がある。自分のしんが燃えつきるとそれで歴史のともしびも燃えきったように思うおろかしさ。うぬ惚れ。いろいろある。文学は人間の精神をとまし、同時によごしてもいる。そのありようの条件にしたがって。
片上さんの第一巻(全部で三巻)一寸頁をくって見て、いろいろ感じ深うございます。文章が何と肉体的でしょう。今、こういう風にしんから身をなげかけて書いている評論家、こういう人間情熱が揺れているようなものをかく人はいません。皆とりすまし、自分を六分か七分出し、あたりの兼合を気にしている。昔『生の要求と文学』とかいう本があって、私の最初の本の棚にあったのを覚えて居ります。ともかくこの人としての声の幅一杯に出そうと努力している。そこに読者をうつものがあります。第一巻の序に、種々の理由から全労作は収められなかったとことわられて居りますが。今日の最も良質の情熱は、沈潜の形をとっているのも興味ある点です。
岩波の新書に武者の『人生論』あり、大して売れる由。どこでそうなのかと研究心を刺戟され、一寸よんだら一分ばかり常識をふみ出していて、しかもそれも亦よし式で方向がないこと、(読者を苦しませる)あらゆる読者がそこから自責とは反対の、自己肯定をひっぱり出すモメントに満ち、それを苦労なくオーヨーに云い切っているところで、売れるらしい様子です。武者式鎮痛膏ね。ではきょうはこれで。 
三月三日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月二日第十九信
どーっと二階をかけ下りて行って、すんだ!と、ぺしゃんとあなたの前に座りたい。正にそのところです。今、四十何枚めだかを(まだ数えない)書き終ったばかりです。(終)と書いた紙をわきへどけて、これをひっぱり出したところ。
よく底まで沈んだ気持で一貫してかけて、うれしいと思います。力がこもって。川の水が流れるとき底の石粒に一つ一つさわってゆけるときいい心持でしょうね、そういう心持で書けました。
ここにはお茂登というおっかさんがいます。情のふかい、けなげな母親です。子供が出征して、寂しさで生活についても消極的な気分になるけれども、やがて子供の可愛ゆさで気をとり直し、子供のためにしゃんとして働いて生きて行こうという気になる母の心。そういう心持は、そとのこととして私を日頃感動させているばかりでなく、私の女としての骨髄をも走っている感情です。傷みを知らぬ気づよさ(一面の鈍さ)でなく、深く傷み、やがてその傷みから立ち直る生活の力。決して決して、肉厚なペンキ絵のようなヒロイズムではありません。惻々たるものです。小さいがテーマは確(しっか)りとしています、そして「小祝の一家」や「猫車」より心持が、すこしずつながら深められ、味が口の中にひろがるように、情感のひろがりがある(ように思われる。そのような気持で突こんでゆけたから)。
私がこんなによろこんで話すのは、こんなに底に触った心持で書け、そのような心持で書ける生活の心持がたっぷりとあること、それがうれしく、あなたにも、それはよかったと云って頂きたいから。そして、少しずつ毎日書いて、そっちへの往復の道々もずーっと考えつづけて、書いたというのも第一のうれしさです。私はもうこれからは、いつもそうして書いてゆく決心なのですから。第一回が、自分としては腰をおろして、調和の感じで試みられてうれしい。私のそういう心持を考えていて下すって、励して下すって、本当にありがとう。(きっと云いたいことも、マアあとにしようと思っていらしったのではないかしら。いつぞやのようなお目玉を拝見すると、私は小説どころではないのですものね、全く)先ず御礼を。あらあらかしこ。それにつけても思うのは、薬のききめです。何というよい効果でしょう。これは最も厳粛な意味で考えられ、この間の晩は去年の苦しかったこと、その退治。そして薬のみつかったよろこびを考えて涙をこぼしました。そのような薬にありつけるかどうかということは、つまりは諸原因についての態度がはっきりしての上のことですから。まだ亢奮していて、それが自分にわかります、一寸休憩。
さて、きょうは三日。三月三日、おひな様の日です。
けさは、機嫌よくよろこんで下すって、全くの御褒美でした。ありがとう。こういう風にして追々いろいろと長くつづく仕事もしてゆけると楽しみです。土台私は、決して夜ばかり好きとか、夜の方がよくかけるとかいうのではないのよ、その点では昔から、静かで明るい昼間を実に愛して、仕事して来ているのですから。どうぞ御安心下さい。
あれから大阪ビルへ行ったら、その廊下で先達って一寸お話していた大井という弁護士の事務所を見かけました。
大阪ビルから電車で三省堂へゆき、そこで和英コンサイズを二冊買って、速達に出せるように包んで貰い、松田という人の和露も見ました。この和露は殆ど只一冊の信用出来るものだそうで、専門家も八杉氏のロワとこれとを並用している由です。二冊と和英というのは光子さん夫婦への送別品です。一人で一冊はポケットに入れておかないと心細いのですって。この四日(明日)立って、四月一日にニューヨークにつくそうです。エイプリル・フールにつくのね、要心なさい、とからかったら、光子さんは正直者だもんだから、本当だ、やられるかもしれないね、と目玉をキョロリとさせました。六ヵ月いるつもりの由。それで400ドル。これは日本の金では千六百です。実に計算が立たないような有様です、どうやってゆくかと思うようですが、そこは絵かきは重宝で色紙や扇がものを云うから、作家のようではないでしょう。とにかく広いところを夫婦で見て、名画と云われるものの実物をも見るのは結構です。
和露は買いましょうか?あってよい本であることは確であるし。八円です。片上全集の内容目録は東京堂にもおいてない。おかしいことね。そして第一巻はありますが。すこし手間がかかりますが、とりよせて見ましょう。どうかおまち下さい。
神田から十二月以来初めて戸塚へゆきました。実にこんなことは珍しい!おひな様でね、たあ坊に、小さい肴屋さんとおそばやさんの人形が買ってあるのを届けに。どうせ夫婦は忙しいにきまっていると思って行ったらやっぱり案の定。三時頃一緒に(稲ちゃんと)出て私はかえりました。春めいた日和でしたから、のーとした気で歩きました。
そちらもすこしずつ外の空気に当れるようにおなりになればさぞいいでしょう。でも三月は一番よくない。誰でもそうでしょう?私は春は好きでありません、変に目がコクコクして、のぼせて。八重桜が咲きつづいているのを眺めたりすると、まことに重くて。どうかそろりそろりと願います。三月に入って、空気のゆるみがまざまざと皮膚に感じられるくつろぎは、私も実感をもって理解しました。わずかの、然し何という大きい違いでしょう。こちらの皮膚ものびるように思われます。
二十八日づけのお手紙、きのうの朝来て、御褒美がそこに来たようでした。お目玉については、甘受しなければならない場合がこれからも生じるだろうとは予想されます。けれども次第に私の生活ぶりが秩序立って来るにつれて、そのお目玉は首をちぢめる程度に迄内容的に変化するでしょうし、そのための努力は、既に、或程度の収果を得ていて、少くとも私はユーモアを添えてそれを語れるだけの余裕をもちはじめました。そういう必要もない位になればこの上ないが、と仰云っているが、(内緒で云うと、)たまにはギロリの効力もためして御覧になりたくはならないでしょうか。(勿論冗談よ、私は本当にギロリはこわいのだから)
「えぐいところ」の有無の問題。覚えているというより、思い出しました。文学上のそういうものは、非常に複雑であって、なかなか意味ふかくあるし、云われている通り綜合的な強靭性から生じることです。「えぐさ」は、世俗には清澄性と反対にだけ云われるけれども、芸術の場合は清澄そのものに一通りならぬえぐさが根本になければならぬところに妙味があります。やさしさにしても芳醇さにしても流露感についても。亜流の芸術家は、この本質なるえぐさを見ずに、やさしさなり素朴性なりを云々するから、さもなければ、俗的えぐさと置きかえて、えぐさで仕事師的に喰い下ることを強味のように考え誤ってもいます。Aの如き文学・思想の海のどのあたりに糸をたれればどのように魚がくいつくかということを、おくめんなく狙うことに於てえぐさを発揮するが如く。本当のえぐさに到達することは達人への道ですから。そして、えぐさが単音でないこと(「小祝の一家」は単音よ)、和音であること、折れども折れざる線であって、ポキリとした短い棒ではないこと。このことも亦意味ふかいものですね。今日に到って、秋声、正宗、浩二等の作家が、和郎よりもましであるというところ、和郎がものわかりよすぎる理由、等しく、正当な意味でのえぐさの濃淡にも関係して居ります。えぐさは私の成長の過程では現在、例の私、私に対する自身へのえぐい眼から第一歩をふみ出すべき種類のものであり、より確乎たる理性の緻密さの故に流動ゆたかになる感性の追求に向けられるべきであり、沈みこみの息のつづき工合に向けられるべきであると思われます。鋭い観察というような眼はしの問題には非ず。――そうお思いになるでしょう。生活をこね切らぬ、という状態は微妙なものですね。本人が、何とか自分の心で胡魔化しているより、現実に露出するものは、作家にあっては、実に大きい。今度書いた小説は小さいが、それらのことを私自身にいろいろ書いている間も考えさせたし、考えて気持があるところへ来て初めてかけたものでもあるし、私としては記念的な作品です。題は「その年」。
生活を創造してゆくよろこびを体得すれば、と書かれていましたが、ここにもやはり新鮮にうつものがあります。これまで常に、中絶した作品について、注意して下すっていた。しかも私はもとは、一旦かきはじめた作品を中途でやめたことは一度もなかった。必ずまとめて来ている。それが30年以後にはいくつかあって、当時自分としては、これまでなかったこと故、時間的な側からしか理由を見ることが出来ずにいました。今は、その理由も、時間的な外部の条件と合わせつつ、はっきりわかる。何か薄弱な、意識せざる抗弁的にきこえたというのは、その程度をぬけている心持にとってさもありなんと思われ、いくらか情けなくもきけたでしょうし(そのわからなさ、わからないという状態が語っている弱さ低さ)、そういう点でも、随分忍耐をもっていて下すったわけです。私は今会得されて来ているいくつかの点は確保して、手をゆるめず、仕事をしてゆきたい心持です。そうすると忽ち因果はめぐって、早ね早おきせざるを得ないというのは、何という天の配剤でしょう(!)
きょうは大層早く床に入り休みます。そして御褒美の一つとして、詩集の中から、愛する小騎士物語をとり出します。雄々しい小騎士が、泉のほとりで一日一夜のうちにめぐりあった六度の冒険の物語。覚えていらっしゃるでしょう?この物語の魅力は、えらばれた者である小騎士が、自身の威力を未だ知らず、死して死せざる命の力に深く驚歎する美しい発見にあると思います。深い深い命への讚歎が流れ響いています。ありふれたドンキホーテの物語でないところ何と面白いでしょう。愛らしき小騎士に祝福を。
さて、お約束の表をつけます。
二月二十一日から三月二日迄
起床消燈
二十一日七・〇〇十時
二十二日七・三〇(小説かきはじめる)一〇・二〇
二十三日七・一〇一〇・三〇
二十四日六・四〇一〇・四〇
二十五日七・〇〇一一・〇〇
二十六日七・四〇九・五〇
二十七日六・五〇一〇・三五
二十八日七・〇〇一一・一〇
三月一日七・四〇一一・三〇
二日八・〇〇一〇・四五頃
――○――
でくまひくまについて云えばやはり、浮きつ沈みつ反落線を彷徨して居ります。でも勘弁ね。(つきものがつくと頭が冴えるというか。)
これからのプランは、この線を平らにすることと、本よみとをやりつつ、次の書くものをおなかのなかでこねる仕事です。或は間もなく伝記にとりかかろうかとも考えて居ります。
朝そちらにゆき十一時ごろはかえる。決して、それだけの時間や何かで計り知れぬ印象をうけますから、この間うち、ものをかくとき印象から脱するためにもかえって早昼をたべてすこしずつ、三十分ぐらい眠りました。そういうのです、ひどい集注でしょう、五分、十分が。つづければ一日そのうちに生活しつづけます。去年の後半はそのようでした、勿論それだけの必要があり必然でしたが。印象はその方向で放散されないから、内部へ吸収を待つから。ではおやすみなさい。今夜はのうのうと眠ります。では明日に。 
三月八日〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月八日第二十信
今机のあたりに匂っているこの薄紅梅の香いを封じてあげたいこと。外は風がつよい日ですが、しずかな朝の室内に心持よく匂っています。この二枝は、日曜日に寿江子が哀れな犢(こうし)になったあと、電車にのって武蔵嵐山というところまで当てずっぽに出かけ、そこに畠山重忠の館趾の梅林というのを見たときの土産。この花は薄紅梅ですが、私は昔、女が紅梅重ねと云って着た色の濃い濃い紅梅が実に好きです。こうやってしげしげと見ると、梅の花は、花の裏の萼のところも美しく蕊の見える表より裏が面白い位ですね。その梅林の路に農士学校というのがありました。黒紋付に下駄をはいた書生が、牛肉の包みか何かぶら下げて田舎道を歩いていました。
犢は、けさ熱川へ出発いたしました。おひささんをつけてやりました。ひさは今夜かえります。久しくあけていた家へ行って、布団ほしたり炭買ったり米買ったりするのにポツンと一人では何だか可哀そうだったから。正直に一人ゆくと思うとね。だものでつけてやった次第です。この頃は犢の生活も私に対してフランクになって、フランクになれるように整理されて来て何よりです。体の方も糖も大分ましで、私が病院にいた間あの位動けたからこの次かえる時分には又よくなって居りましょう。寿江子は熱川からかえるとノミにくわれたあとだらけになって、日にやけて、来ます。借りている家の納屋にひどいノミがいるのですって。そのわきを通るのにくわれる由。又ひどいのでしょう。六月に私が島田へゆくとき留守番にかえって来るプランです。
さて、三月四日づけのお手紙をありがとう。きのうついたこと、申した通り。今度はそちらから下さる手紙の番号よく永つづきして覚えていらっしゃること。いつぞやも番号つけて下さり、でも程なくなくなってしまったことがありました。私の方は日記につけておくのだけれども。
ところで、あなたはいい本をおよみになったことね、本当に!「朝起のすすめ」!何とよく役にお立てになるでしょう!あなたがこの位引用なさる本はこれまであったでしょうか?! (このニヤニヤ顔)しかし、真面目に、十分の睡眠を失わない早ね早おきは、そのはじめと終りが体にいいばかりでなく、そういう一日は、当然一日の使いかたをしゃんとするから大いによろしいということになり、私は勿論、本気で心がけて居ります。その点は御安心下さい。けさも実に大笑いしました。寿江子が、いろいろ私に気をつけろと云って、「私から申上げるのは恐縮ですが、どうぞ益〃早ね早おきを遊せ」と云ったから。其那挨拶をさせるだけでも大したことだと大笑いでした。おそらく犢の生涯に初めての挨拶ではないかしら。あなたの鼓舞激励、(プラス叱※[「口+它」]も少々)遂に犢に及ぶ有様です。夜になると、私がキューキュー云って、おそくなるまいとしているのも彼女を感激させたのかもしれません。そのキューキューぶりはお目にかけたいと思います。朝は大したことないわけですが、夜のキューキュー加減と云ったら。
御褒美はありがとう。折角の特製牛乳のこと故、ワイングラス一杯では足りません。あれは小さいものですもの。数杯のんだときにでも、私たちはたっぷり大きいコップでのむ習慣でした。大抵の疲れや風邪ぐらいはあれで癒ります。
詩譚、うれしかった。物語のこまかい節は不思議と覚えていて、題のはっきりしないときは妙な工合です、教えて下すってありがとう。二人の番兵たちの名はピム、パムでした。桜坊(サクランボ)色の帽子をかぶって、雄々しい騎士のためにでなければ決して城門は開かず、円い楯をひかえて立っている姿はなかなか愛すべきです。ピムとパムとは、朝も夜も丘の頂に立って、ゆるやかな丘陵の起伏、微かに芳しい森林越しに海の潮ざいを聴いている。ときに潮ざいは高まり、波は磯にあふれ、ピム、パムが騎士の到着を待つ心は張られた弦のように鋭くなり風のそよぎにもふるえる程だが、そのようなピム、パムたちの風情は深い、そして真面目な美しさへの感動をもって語られています。
生活というものが、ジグザグの線で進み、しかもまことにエッチラオッチラであること。それは実に痛感します。一寸手をゆるめれば、一方が小休み的状態から居眠り的な程度に陥ったりしてしまう。エッチラオッチラにしろ、足の運びのように、一方ずつが、ともかく前へと運び出されつつ相互に動いているときはましですが。自分が、どのような資質をもっているかということについての探求や自覚は、どうも女は男のひとよりも、社会の歴史のためや環境的なものによって、ぼんやりして居りますね。そう思われる。男が生存のために、最も低俗な水準からであるとしても、俺のとり得(エ)はどこかということは、考える。学生時代から考える。そのような人的マサツが早くからある。大多数のものは、その探究と俗処世法と結びつけて、自分の世渡りの方法をかためてゆく。女はその点でも自然発生的ですね。だから、つよい資質の特色があるものが、僅かに自然発生的にその道に赴き、相当行って自覚的努力に目覚める場合が多く、それより更に多い例は、自然発生的な資質は、環境が自然に発生させているマイナスによってこれまた自然発生的に害(そこな)われ、萎靡(いび)させられ、未開発のまま消滅してしまう。
私などは、所謂文壇的野心など全くなくて小説をかきはじめそのような事情が自然発生的であったと共に、それから後の長い期間が模索の方向の健全さにおいても、破壊と建て直しのやりかたにおいても、本質的には自然の命じるまま、というところがありました。あなたが、余程先、手紙のなかでユリのよさや健康性が相当つよくてもそれは内在的なものとしての範囲から出ない場合が多いと、文学のことにふれて云っていらしたことがある、その点だと思います。だから、自分にわかるところまでは実にわかっても、わからないことに到ると平然と自信をもってわからないでいる式の撞着が、おのずから生じることが多かったわけです。内在的本質ということに