西洋文明 雑話 [4]

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雑学の世界・補考   

ロジャー・ベーコンの光学思想

中世の「視覚」?
中世はよく音が優位の世界だなどといわれる(*)。これはつまり、史料として残る視覚的なものの貧しさ、表現の貧弱さなどから、また一方で音楽的な豊かさなどから、視覚よりも聴覚の方が大きな影響力をもっていたのだという考え方だ。なるほど、確かに写本に描かれた人物像など、現代人の目から見れば「貧相な」ものにすぎないかもしれない。後代の遠近法もまだなければ、写実的描写も、ディテールの細やかさもない。中世の「芸術作品」はルネサンスに比べればはるかに見劣りがする……けれども、そう考えた時点で、すでに進歩史観の虜になってしまっているのではないか。直線的な、右肩上がりの歴史認識は、否定されたはずだったにもかかわらず、こういう中世の聴覚を重んじる立場に、すかし絵のように刷り込まれていたりするから厄介だ。
* これは例えばW-J. オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)などが触発した立場だ。そこでは音声と文字との関係において、前者が圧倒的優位に立つとされている。しかしながら、それはあくまで文字をのみ比した場合であって、他の視覚的な文化の豊かさは考慮されていない。
視覚に対する聴覚の優位、という話にはもう一つの「刷り込み」がある。視覚的な史料は乏しいながらも存在するのに対して、聴覚的史料というものは存在しない。あるのは聴覚に関連づけられるような史料だけだが(ネウマ譜などの写本、楽師らの図像など)、それもまた乏しいものでしかない。この点からすると、視覚に対する聴覚の優位は単純に云々できないことになる。とはいえその一方で、言語による情報伝達という観点を取り出してみれば、文字を目で追うよりも、口承されるものを耳から聞く方が一般的だった。それはその通りだろう。けれども、当然ながら情報伝達というのは言語だけに限定されない。非識字者といえど聞くだけでものごとを捉えていたわけではない。実際、教会は「貧者の聖書」として、一般の信徒に対して視覚による聖書の内容の教育をなすものだったといわれている。目と耳はいつの時代でも使われていたのだし、当たり前だが今でもそうだ。人は書物を読むが、同時に学校では口頭で授業が行われるではないか。相互に補完的な関係にあるものを分離して、どちらが優位かと比較するのは、すでにして近代的な「分業」的発想、「専門化」的発想、あるいは抽象的単位を仮構した「量的比較」という発想の虜になってしまっている。現代人のそういう発想が、認識に刷り込まれているというわけだ。
問題は視覚と聴覚のどちらが優位だった云々ではなく、それらがどのように用いられ、世界をどう切り出していたか、ということだ。視覚と聴覚はもちろん質的にはまったく異なるけれど、いずれも「世界の切り出し」に向けて動員され、そのために用いられていくことは確かだ。それは現代人の用い方とは別の用い方だったりもする。そうした部分に焦点を当てていくこと、それがここでの課題になる。それはつまり、中世の「世界観」の成立・変遷などを概観していきたい、ということだ。いずれにしても、ここでの「世界の切り出し」のプロセスとは、外部世界のカオスの中からなんらかの像・印象が浮上することをいうのであって、そこには視覚・聴覚の優劣などは存在しない。
このシリーズでは視覚についてそうした作用を考えていきたいと思っているのだが、それは視覚が優位だからでも劣位だからでもない。単にそれを先に扱ってみる、というだけのことだ。世界を認識する際の重要な要素としての視覚。その後には聴覚(あるいは嗅覚、触覚も)をめぐる考察も続けなくてはならないかもしれない。いずれにしても、ここで眺めてみたいのは、「視覚」の周辺から見えてくる風景だ。このシリーズは、いわば中世の視覚をめぐる一種の散策でありたいと考えている。視覚が切り出す世界像、視覚そのものの認識、古代の光学論の継承と遊離など、そこでは様々な風景が開けそうだ。そんなわけで、毎回なんらかの著者ないしテーマで、そうした風景に遊んでみることにする。
ロジャー・ベーコンから始めよう
今回はまずロジャー・ベーコンを取り上げよう(後のフランシス・ベーコンではない)。ロジャー・ベーコンは13世紀のイングランドのスコラ哲学者だ。生年や没年も詳しいことは不明のようで、生まれは1210年とか1214年とか諸説あり、また出身地に関しても諸説ある。パリで神学を修め、当時盛んに教えられていたアリストテレスの自然学を講じるようになるが、後にはスコラ哲学に異を唱え、実践的な学問へと学問全体の改革を訴えるようになる。1266年から68年にかけて、教皇クレメンス4世のために『大著作(Opus majus)』『小著作(Opus minus)』『第三著作』(Opus tertiumu)』『形象の増殖について(De multiplicatione specierum)』などを執筆する。一般に、ロジャー・ベーコンが重要なのはその学問的な改革指向のためだといわれている(*)。神学の豊かさのためには、異教の学問を取り込むことをも辞さない(ヘブライ、ギリシア、アラブの言語を学び、西欧の知的向上に努めるべきだとした)という立場は、なかなか画期的なものだった。また数学を(それまでの論理学ではなく)重視する立場を取り、自身はとりわけ光学の研究に打ち込んだ点も特徴的だ。もちろん光学研究には先駆者たちもいるが、彼の光学は独自の自然哲学となしているとされる。こういうわけで、ベーコンはまさに本シリーズの冒頭を飾るに相応しい。
そんなわけで、ここではべーコンの光学の核心部分を『形象の増殖について』(『形象増殖論』と言われたりもする)で眺めてみることにする。この形象の増殖こそが、ベーコン自然学の核心的な部分だとされている。参照するのは羅英対訳本("Roger Bacon's Philosophy of Nature", trans. by David C. Lindberg, St. Augustine's Press, 1998, Indiana)だ。 この対訳本の訳出にあたっているリンドバーグは、冒頭の解説文で、ベーコンの光学にまでいたる知の流れを振り返っている(pp.xxxv - liii)。光のメタファー(とりわけそれを神と同一視する考え)はプラトンや聖書から始まって、アレキサンドリアのフィロン、プロティノスのネオプラトニズムを経ていく。さらにはアウグスティヌス、5世紀の偽ディオニシウス・アレオパギタを通じ、中世にまで継承され、オーベルニュのギヨーム、ボナベントゥラ(ベーコンが属していたフランチェスコ会の代表的知識人だ)などへと引き継がれていく。さらにプロティノスの系譜はイスラム世界をも経由し、ベーコンが盛んに引用するイスラム世界の哲学者アル=キンディのほか、アヴィケンナ、ユダヤ系のアヴィケブロンなどを経、それらの翻訳を通じて中世世界にも大きな影響を及ぼすことになる。そこには、ベーコンの師でもあるグロステストなども連なる。こうした見取り図の先に、ベーコンの光学思想が位置づけられる。ではさっそく、その思想のエッセンスがまとめられている第一部を中心に、同書を見ていくことにする。
形象の成り立ち
そもそも形象(species)とは何か。それは自然の作用素(agens)がもたらす効果(effectus)のことだ。「例えば、大気中の太陽の明かり(lumen)は、太陽がその本体にもつ光(lux)の形象だ(dicimus lumen solis in aere esse speicem lucis solaris que est in copore suo)」(p.2)。この場合、太陽の光が作用素で、それが媒質(medium)である大気を媒介することで、結果的に(その効果として)明かりが存在する。ここで重要な原則がある。上に挙げたアヴィケブロン(当時のフランチェスコ会に多大な影響を及ぼしていたとされる)の説では、発出したものは、その発出の元になったものの似姿となるとされる(p.xlvii)。もともとはアリストテレスから来るこの説を用い、ベーコンは、作用を受ける受容体は、最初は作用素とは似ていないのだが、作用が働くことによって作用素に似るのだと述べる(p.6)。受容体は作用素の効果を受けて変容するのだ。こうして大気中の「明かり」は、もとの太陽の「光」に似たものとなる。
さらに媒質を介することによって、様々な特性も形作られる。「彩色と輝きは、色と明かりから媒質と視覚とに生じるが、彩色は色が存在しなければありえないし、輝きは光がなければありえない((...)a colore et luce advenit medio et visui coloratio et illuminatio. Sed coloratio non est nisi per coloris, nec illuminatio nisi per esse lucis)」(p.8)。光だけが問題なのではないことは、すでにこの「色」への言及からも読みとれる。あらゆる形象は、作用素(ここでは色もまた作用素をなしている)から媒質(大気)への効果として生じる。その際、作用素がもたらす第一の効果(最初の効果)は常に同じだ(p.18)。しかも形象は偶然によって生じるのでもない。それは認識や判断にも関与することから(「羊は狼の複合的な形象を感受し、その形象は類推力を司る器官にまで浸透する、そのため羊は一目見て逃げ出す(p.24)」)、「実質」(認識や判断に関わる部分だ)によって生じるのだ。
さて、上に言及した山本義隆は、師グロステストに対してベーコンが異なる点として、光の捉え方と、近接作用のモデルを上げている。まず光の捉え方については、グロステストが光をすべての作用の原質とするのに対し、ベーコンにとっての光は様々な作用の一例にすぎないのだという(『磁力と重力の発見 1』、p.256)。さらに近接作用のモデルは、作用素と受容体とが近接する際に「第一の効果」が生じ、それが「第二」「第三」などの効果を近接的に、また連続的に生じさせるというもので、あくまで光が瞬時に球面上に広がるとするグロステストに対して、ベーコンが時間的な伝播を論じている点が独創的なのだという(同、p.258)。なるほど、ベーコンの形象の考え方では「いかに作用するか」が重要なのだ。それは順次、時間的に(ごく短い時間だが)波及する。音の場合を除き(音の場合には、衝撃によって本来の場から動かされることによる振動が問題であって、第一の効果に関する限り作用素と媒質の関係ではないとされる。ただし第一の効果から第二の効果(共振動など)は形象と考えられている(テキスト、p.20))、自然の一般的現象としての形象はあらゆる細部にまで及んでいく。人間の感覚もまた形象を作り出すが、それはごく一部の特殊な形象にすぎないのだ。ここから導かれる人間観は、認知の及ばないもの(形象が得られないもの)にも取り囲まれているという意味で、人間は実に限定的な存在でしかない、ということになるだろう。
視覚と世界
数ある形象の作用には、人間の感覚が作り出す形象も含まれる。色、匂い、味、様々な感触など、各感覚器官がそれぞれに形象を作り上げる(p.32)。視覚はその中の一つにすぎない。しかもその視覚についての認識は、少なくとも11世紀以前の伝統的な視覚の認識とも異なっている。サビーヌ・メルシオール=ボネ『鏡の文化史』(竹中のぞみ訳、法政大学出版局)によれば、古代から中世まで継承されていた「視覚」の考え方には、プトレマイオスに準拠する説と、デモクリトス、ルクレティウスに準拠する説があった。前者は、目から直線状の視覚光線が発せられ、その光線が物体に到達して形や色を目に伝えるという考え方で、後者は、物体の側から粒子が発せられ、それが目に達するという考え方だ。プラトンがそれを総合し、目からの光線と日の光との流れが出会うのだとしていた。10世紀後半から11世紀前半に活躍したイスラムの数学者アル・ハーゼンが網膜の残像を指摘するまで、それは修正されなかったのだという(『鏡の文化史』、pp116-117)。アル・ハーゼンの著作が翻訳されてヨーロッパに伝わるのは11世紀中のようで、ベーコンもアル・ハーゼンを盛んに引用しており、当然ながら、目から光線が発せられるという見解は明確に否定している(p.32)。
ベーコンの場合、対象物のもつ形や色は、媒質(この場合は空気がその役割を担う)を経て視覚において形象を形作る。そのためには、対象物がなんらかの密度(媒質とは異なる密度)をもっているだけで十分なのだ((...) sufficit visui quod color et lux sint in denso aliquali, scilicet, ut terminetur visus, non enim terminateur nisi per densum.)(p.38)。人間は対象物の形象を対象物そのものとして受け取るが、形象の生成とは、受容体の実質に潜んでいる能動的な潜在性を引き出す形で行われる(per veram immutationem et eductionem de potentia activa materie patientis)(p.46)。作用を受け取る側にあらかじめ存在している潜在性を、その作用が顕在化させるのだ。色ガラスを例に取ると、その色の形象は最初大気中に作られるのだが、それだけでは発色しない。空気が色の潜在力に乏しいからで、その空気が不透明な混合物に接した時の方が強く色の形象が生じる。そちらの方が実質として、より色に適切な潜在力をもっているからだ((...) quando venit ad corpus mixtum, quod magis aptum est ad colorem, potest species in aere existens educere de potentia materie speciem pleniorem)(p.54)。
作用素の効果は常に同じであっても、このように受容体が異なれば作用も異なる場合がある。また逆に、例えば太陽と月のように(ベーコンの時代にはいずれも光源と考えられている)、光の作用の大きさや速度は同じだとしても、光源の強度が異なる場合もある。ベーコンはこの場合は大きさが異なるからだとし、プトレマイオスの『アルマゲスト』をもとに、太陽は地球の170倍、月は地球の39分の1という数字を挙げている(p.64)。数字は現代において知られている実際のものとは相当違うものの、地上世界が限定的なものであるという認識はここに明確に見て取れる。さらに、作用素の効果には漸減性もありうる。作用素は第一の効果を及ぼし、近接作用によって第二次、第三次の効果が生まれ、作用が及ぶ限りの末端にまで達するわけだが、その過程において効果の完全性が受容体の性質などによって漸減していくのだ(p.68)。
ベーコンはプトレマイオス的世界観(地動説、周転円説)に即して、世界は球形であるとし、その理由の一つは、天空が球であることによって、天空の力が中心、つまり地上という創造の場にすべて流れ込み集まるからだ、としている((...) sperice figure esse debet ut undique a partibus spere confluant virtutes celorum in centrum huius spere, quod est locus generationis.)(p.78)。作用は上から下へともたらされる。効果が完全になるには、作用素が受容体より力が強く、また両方に共通の実質が存在することが条件なのだ(Stat igitur ratio generationis effectus completi in duobus, scilicet quod agens habeat potentiam maiorem quam patiens ut vincat, et quod materia sit communis agenti et patienti (...))(p.82)。したがって、条件がうまく揃わなければ、効果の完全性は漸減しうるのだ(ここから、屈折などの現象が想定される)。ここには強から弱へという力の階層関係が見て取れる。神を頂点とした天空から地上への階層、それに連なる地上の物質の階層だ。それなくして形象の作用は生じえない。また、上の二つめの条件から、諸階層にはなにがしかの実質の共通性が前提とされていなければならない。ベーコンの考える世界は、このようにきわめて階層的であるとともに均質的だ。
幾何学的認識へ
さて、ここまでが『形象の増殖について』の第一部のアウトラインだ。ベーコンの自然学のエッセンスは基本的にここまでで出尽くしていると思われる。これに続く第二部から第六部では、形象の増殖という動きに関して、より具体的な問題についての説明がなされる。例えば屈折の考え方だ。形象が媒質を通過する際に、その媒質からの抵抗を受けて屈折するわけだが、これをめぐっては入射角と反射角の等号や、物質による屈折率の差、形状による反射の違い、天体の蝕の問題などが言及される。また、移動する物体の形象の問題もある(形象それ自体は移動するのではなく、その都度作られる)。さらに複数の作用素から複合的な形象を受け取る場合の統合という問題もあり、垂直方向(直線的ということ:階層性、つまり上下関係があるため垂直という言い方になっている)の形象が、受容体に優位に働くと説明されている。これらの細かな問題については今後触れることもあるだろうから、ここではこれ以上取り上げない。
とはいえ、いずれにしても興味深いのは、それが幾何学的図形を駆使して説明される点だ。それはまさに客観的な記述を指向していることの証しだ。図形そのものは概略的なものではあっても、視覚に訴えることが理解を助けることをベーコンは承知している。一方でそれは、当然ながら抽象的な思考の全面的開花を示している。これはまさに、13世紀のスコラ学の「言語論的転回」(論理学的展開)とパラレルだ。両者は同じ抽象的な認識の上に成り立っているように思われる。観察・言説といった一次的なものをベースに抽象思考を練り上げる動きは、まさに中世盛期からの特徴点をなしている。そしてそれはより広い社会的なコンテキストにも開かれているはずだ。  
 
モンテスキュー『法の精神』における「シヴィルcivil」概念の二重性
 ハリントン『オシアナ共和国』との対比において

 

I 序
これまで共和主義の歴史は、思想史の文脈において、古代ギリシャ、ローマの古典的哲学の伝統を継承し、権威を付与された書物の歴史として主に分析されてきた。この共和主義の歴史的系譜を描き出した代表的な研究者としては、J・G・A・ポーコックが挙げられる。ポーコックは、自らの提示した「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定の下、古代ギリシャ、ローマの古典学問の復興を通じて共和主義思想を近世に復活させた代表としてルネサンス期フィレンツェの思想家、ニッコロ・マキァヴェッリ(1469-1527)を位置づけ、以降、その思想は、ジェームズ・ハリントン(1611-77)によって1640年代から1650年代にかけての市民戦争期にイングランドに移入され、さらにアメリカ合衆国創設においてその展開を見たとする。このなかでもポーコックの描き出す共和主義の歴史において、近代社会における「シヴィック・ヒューマニズム」の原型を提示した思想家としてハリントンには重要な位置付けが与えられることになる。ハリントンは、土地所有と武器携行を条件に「公民」全員が「徳」を維持する古代ギリシャ、ローマの「共和政」を模範とし、現実に適用すべき「共和政」の理論として『オシアナ共和国』(1656)を著した。そして、このハリントンに代表される「マキァヴェリアン・モーメント」の問題枠組と対比したとき、モンテスキューの共和主義思想の特徴が明らかになると思われるのである。
モンテスキュー(1689-1755)は『法の精神』(1748)において、商業活動の普及した近代社会では全ての「公民」による「徳」の維持が困難になるため、古代の「共和政」を再現することは不可能であることを認識した。そこで彼が新たな「共和政的統治」の模範であるイングランドの「政治制度syst􌍡eme」の由来として認めたのが、封建法の起源として位置づけられることになる「ゲルマンの森」なのであった(cf. EL11-6,al.67;30-2)。このようなモンテスキューの観点は、現実に適用するための「共和政」に関する抽象的理論の探究にではなく、むしろイングランドとフランス君主政とが共有する封建法の遺産の歴史学的探求へと彼を導く。モンテスキューの提示する共和主義の歴史は、古代ギリシャ、ローマという哲学的書物の歴史的系譜を単純に看過することはないが、そこからは異質なゲルマン社会、および封建制に由来する諸制度の歴史的変遷の過程をも同時に考慮することを可能にする。そこで共和主義に関する、これら二つの伝統の関係性を解く手掛かりとなるのが『法の精神』における「シヴィル」概念の位置付けなのである。
モンテスキューは『法の精神』の中で、「国制の法droit politique」と「公民の法droit civil」を区別するに際して次のように書いている。
「維持されるべき社会の中に生きる者として考えられるかぎり、彼らは治める者が治められる者に対してもつ関係において法律(lois)をもつ。これが『国制の法』である。さらに、彼らは全公民(tous les citoyens)が相互でもつ関係において法律をもつ。これが『公民法』である」(EL 1-3)。さらに、グラヴィーナを参照することで「国制的状態E ́ TAT POLITIQUE」を「個々のすべての力(forces)の結合」として、「公民的状態E ́ TAT CIVIL」を「意思(volont􌍝es)の結合」として規定し、「すべての意思が結合することなしには、個別的な力は結合しえない」(ibid.)ことを確認する 。こうして「ポリティック」の領域として「統治者の被治者に対する関係」が、「シヴィル」の領域として「被治者間相互の関係」が、『法の精神』の問題枠組として区別されることになる。本論文の目的は、モンテスキューが、この著作全体を通じて、これら二つの領域が、特にイングランドとフランス君主政の各々に固有の歴史的文脈において分離する過程を描き出したことを明らかにすることにある。
これまでのモンテスキュー研究において、イングランドとフランス君主政とにおける「シヴィル」の領域それ自体の歴史的生成過程の相違、あるいはその具体的内実が分析されることはなかった。その結果として、モンテスキュー自身が『法の精神』の中で、これら二つの国を同時に扱うことで、いかなる問題系を導き出し、あるいは「ヨーロッパ」の形成に関するいかなる歴史認識を有していたのかが、未だ十分には明らかにされていないのである。これらの問いは、ポーコックが提起した、イタリア、イングランド、そしてアメリカ合衆国へと、その系譜が辿られる「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定に疑問を投じることになる。
ポーコック自身が認めて次のように書くように、この問題枠組では、それ自体において、イタリアから見た際の「アルプス以北の君主政」、つまりフランス君主政の問題が除外されていたのである。
「マキァヴェッリの時代に十分なまでに発展していたアルプス以北の君主政は、古来の慣行(usage)のみによる以上に、自らを法的に基礎づけることができたことは強調されなければならない。この君主政は、道徳的かつ神聖、そして理性的な普遍的秩序を体現するものとして自らを主張しえたのである。人民が古来よりその統治(rule)に馴染んでいたのに加え、この君主政は自らの正統性を、その支配権において運用していた古来の慣習法(ancient customary law)の総体から汲み出していた。[…]私たちは、マキァヴェッリが、彼自身のフランス君主政に関する観察から、その特徴の多くに親しんでいたことを知っているが、彼は、その統治の最高度に合法化されたシステムを、その深みに至るまで描き出すことはなかった。」(Pocock 1975,159)
このような、フランス君主政を考慮した際に立ち現われる「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定の限界を明らかにするためにも、古代ギリシャ、ローマの伝統に対してハリントンとモンテスキュー各々の有する関係が重要な意味をもつ。そこで本論文では、まず、この二人の思想家に関して、その各々が生きた時代、つまりは名誉革命の以前と以降とにおいてのイングランドに可能な統治形態に関する認識を比較する。この分析を通じて、この国の「共和政的統治」に認められた「統治者」の役割、さらには土地と動産という財産所有の形態と密接に結び付いた「公民」の位置付け等に関して二人の認識の相違が確認されることになるだろう。その次に、『法の精神』で扱われるイングランドとフランス君主政の各々の歴史的文脈における「シヴィル」の領域の担い手を具体的に明らかにする。この著作における両国に関して、「統治者」たる「君主」との関係で規定される、「被治者」の領域、つまりは「シヴィル」の領域の指し示す内容は異なる。まず、イングランドで「シヴィル」の領域の担い手の主要部分を構成し、封建制の崩壊過程を通じて歴史的にその社会集団としての「独立性」を獲得したのは、「商業国民」として認められる「中間層」であった(定森2005)。これに対し、フランス君主政において「君主」に対する「独立性」を歴史的に獲得したのは「貴族」である。この「貴族」は、むしろ封建制の確立過程を通じて土地の世襲化を認められ、さらには領主裁判権を獲得することで独自の法的秩序の担い手となる。このようにモンテスキューの思想においては、単に「ポリティック」と「シヴィル」の概念が分離しただけでなく、「シヴィル」の概念によって、イングランドの歴史的文脈では「商業」の発展により出現した「ブルジョア市民社会」の側面が、フランス君主政の歴史的文脈では「封建的身分社会」の側面が重視されていたことを含意する。このことは、モンテスキューが「シヴィル」の領域の形成過程を、いかなる歴史的観点から描き出したかの問題に関わるのである。
II 『オシアナ共和国』と『法の精神』における共和主義の伝統の異質性

 

1. ハリントンにおける古代ギリシャ、ローマの共和主義の伝統
ハリントンは、1640年代から1650年代にかけての市民戦争期のイングランドに、古代ギリシャ、ローマの共和主義を近代社会に復活させたマキァヴェッリの思想を輸入した。そこで、ハリントンは、マキァヴェッリが十分に考慮するに至らなかったヴェネツィアの政治制度に対する評価を併せる形で、自らの共和主義思想を再構成したのである。ハリントンは、その主著『オシアナ共和国』(1656)において、独自の仕方で「古代の慎慮ancient prudence」と「近代の慎慮modern prudence」を区別する。そこで彼は、「古代の慎慮」に基づく統治を評価し、土地所有と武器携行に基づく古代のイスラエルやギリシャ、ローマの共和政における政治参加の形態を理想化する。ハリントンが土地所有を重視するのは、それが軍隊の維持に不可欠であり、また共和国と民兵制が不可分の関係にあることを認めたからなのである。この「古代の慎慮」を前提に、彼は、イングランドに「オシアナ」という仮想の名を与えた上で、審議する「元老院senate」と議決する「民会peuple」に分かれた「二院制立法府」、「官職輪番制rotation」、「秘密投票」、一定程度以上の財産所有を相続法により制限する「農地法agrarian」などを兼ね備えた理想的共和国像を描き出す。これに対して「近代の慎慮」に基づく統治は、ハリントンに従えば、カエサルの統治以降、古代ローマ共和政が帝政に転化し、このローマ帝国が崩壊する過程で、ゴート、ヴァンダル、ロンバルド、サクソン等のゲルマン諸民族の侵入によって導入され、17世紀半ばの内乱に至るまで存続した。彼は、この「近代の慎慮」に由来し、封建的な庇護従属関係の歴史的帰結として生じた、「王」、「貴族」、「人民」の各々が政治的権限を配分する「ゴシック・バランス」を「ゲルマン人の君主政Monarchy of Teutons」の産物として認め、それを内乱の原因として批判したのである。このような「古代の慎慮」と「近代の慎慮」を対比して、ハリントンは次のように書く。
「ここで統治(government)というものを[『そのあるべき姿においてde jure』、あるいは古代の慎慮に従って] 定義しておくと、統治とは、それにより人々のシヴィル・ソサエティ(civil society)が共通の権利や利益の基礎の下に構成され、維持される技術であり、また、[アリストテレスやリヴィウスに従えば] それは、法の支配であり、人の支配ではない。/また、[『事実上de facto』、また近代の慎慮に従って定義するならば] 統治とは、それによって、ある一人または少数の人間が都市ないし国家を服従させ、自分たちの私的な利害によって、それを支配する技術であ。そのような場合に、もろもろの法律は、一人の人間や少数の門閥に従って作られるため、こうした統治は、人の支配であって、法の支配ではない。」(Harrington[1656]1992,8-9/訳233)
ハリントンにおいて、「シヴィル・ソサエティ」は「共通の権利や利益」に基づいて統治する技術である「古代の慎慮」に従うことで成立し、この統治は「法の支配empire of laws」として定義される。これに対してゲルマン諸民族、および中世の都市や国家に認められる「近代の慎慮」による統治は、「私的な利害」に基づく堕落した「人の支配empire of men」として定義される。「近代の慎慮」による統治は、「王」、「貴族」、「人民」の党派対立に政体の均衡を依存させるため、そこから生み出された「ゴシック政体」は自らの安定を維持できず、内乱の原因として考えられたのである。したがって、ハリントンの政治思想において、「近代の慎慮」による統治に「シヴィル・ソサエティ」の存在が認められることはない。その例外として認められたヴェネツィアは、ローマ帝国の崩壊によって世界に統治の害悪が蔓延して以降も「難攻不落の地の利によって蛮民の侵攻をまぬがれ、古代の慎慮に絶えず眼をそそぎ、古代の判例をも凌ぐほどの完全さにまで到達」(ibid.,8/訳233)した国として評価されたのであった。
ハリントンは「土地財産(estates)の不平等のあるところでは、権力(power)の不平等があるに違いなく、権力の不平等のあるところでは、コモンウェルスはありえない」(ibid., 57/訳278)とするように、土地所有の均衡が権力関係の均衡を規定するという名な定式を提示し、この観点から「オシアナ」、つまりはイングランドにおいて「共和政」が出現する歴史的過程を描き出す。ハリントンに従えば、ヘンリー7世(在位1485-1509)の治世以前のイングランドは、スペイン、フランス、あるいはドイツの君主政と同様に「貴族による君主政monarchyby a nobility」として認められる。そこでは「貴族が、その従者や領民によって反乱を起こし、持続的な莫大な流血を招来するまでの戦争を開始する利益を頻繁にもち、かつまたそのための権力を常に有していたのであった」(ibid., 31/訳255)。これに対して、ヘンリー7世は、「定住法」、「家臣・領民に関する法律」、「土地譲渡法」等を通じて貴族の権力を抑制することで、その権力が人民の手中に落ちる原因を作った。特に「定住法」は「この王国の力に重大な影響を与え、事実、土地の大部分をヨーマン層、すなわち中間層(middle people)の手中に引き渡すことになり、彼らは、隷属も窮乏もしていなかったため、領主への依存からは解放されており、自由に豊かに暮らしていたから、それだけ優れた歩兵となったのである」(ibid., 55/訳277)。その治世を継いだヘンリー8世(在位1509-49)は、修道院を解体し「貴族階級の衰退と並んで、勤勉な人民に莫大な獲物を提供することになり、コモンウェルスの均衡は、極めて明白に人民の側に傾くことになる」(ibid., 55-56/訳277)。こうして、主に土地財産の移転の歴史的帰結として「下院(house of commons)は徐々に台頭し、それ以来、王侯たちにとって極めて重要でかつ恐るべき存在」となるに至った(ibid.,55-56/訳277)。ハリントンの歴史解釈に従えば「貴族階級を失った王国は、もはや天の下で軍隊以外に頼みになるものをもたなかった。それゆえ、わが国の統治の崩壊が内乱を引き起こしたのであって、内乱が統治の崩壊を引き起こしたのではなかった」(ibid., 56/訳278)。この内乱を平定して登場した立法者である虚構上のクロムウェルに、ハリントンは、実際のこの人物、および、この著作が出版される約3年前にあたる1653年に成立した護国卿体制の独裁に対する批判も含めて、「オシアナ共和国」の構想を託すべく、この書物を執筆したものと考えられるのである。
そこで問われるのが、ハリントンの構想する「オシアナ共和国」における政治制度、および、その担い手たる政治的指導者の位置付けである。歴史的にも自らを「平等なコモンウェルス」として実現した「オシアナ」は、護国卿体制以前のランプ議会に見られたように「国王と貴族を除外した人民の単一の評議会(one single council)」から成り立っていたが、そこにはなおも「審議」と「議決」の過程が統合されるという「寡頭制」の弊害が残っていた(cf.ibid.,64-66/訳286-87)。「単一の評議会からなるコモンウェルスにおいては、分割〔審議〕を行った者以外に選択〔議決〕する者はないことになる。それ故、そのような評議会は争奪の場となり、党派を生ずる(factious)ことは必死である」(ibid.,24/訳248)。この弊害の回避のためにも、ハリントンは、この国の「単一の評議会」の解散をクロムウェルに促し、実際の歴史上の護国卿体制とは異なって、「代表制」の原理に基づく「二院制立法府」や「官職輪番制」の導入を含めた諸々の制度改革を提案したものと考えられるのである(cf.ibid.,164-66)。さらに、この政治制度の担い手に関して、ハリントンは「学問なしに、あるいはその学問のための余暇をもつこともなく、政治学(politics)が習得しうると考えることは無益な想像に過ぎない」(ibid., 136)として、「政治学」の教養を兼ね備えた政治指導者階層という意味で「アリストクラシー」という言葉を用いて次のように書く。
「人民も、なおまた聖職者も、そして弁護士(lawyers)も、国民の中のアリストクラシーたりえないのであるから、残るのはただ貴族(nobility)のみである。その名称で、これ以後繰り返しを避けるために、私は、フランス人が貴族(noblesse)という語で理解するように、ジェントリを理解することにしよう。」(ibid., 137)
ハリントンは、「オシアナ共和国」の「ジェントリ」とフランスの「貴族」を共に政治指導者階層たる「アリストクラシー」として位置づけ、それを「人民」に対比させる。「オシアナ共和国」では、優れた能力に基づいて選ばれる「審議する元老院」は「ジェントリ」からなる「アリストクラシー」により、「議決する民会」は「人民」により構成される。「コモンウェルスの知恵」は「アリストクラシー」に、「コモンウェルスの利益」は「人民全体」の中に見出されるからである。そして「コモンウェルスが国民全体からなっている場合には、あまりにも大きすぎて、一つの集会に集まることができないので、この評議会は、平等であって、全国民の利益以外の利益と決して手を結ぶことがないように作られた代議体(representative)から構成されるべきである」(cf. ibid., 24/訳248)。しかし「平等なコモンウェルス」である「オシアナ共和国」では、「ジェントリ」と「人民」は階級的に対立するわけではない。なおも「不平等なコモンウェルス」として認められた古代ローマ共和政とは異なり、「オシアナ共和国」の「元老院」は「世襲の権利によるのでもなければ、土地財産の大きさのみを考慮して承認されるのでもなく、[…]人民を導く彼らの徳や権威の影響を増大させる、その優れた才覚によって選ばれるのである」(ibid., 23/訳247)。
ハリントンは「古代の慎慮」が弱体化し、「近代の慎慮」が強化・促進された契機として「カエサルの武力から生じたローマ歴代皇帝のいまわしき支配」を挙げた(cf.43/訳266)。そもそも古代ローマにおける「不平等な共和政」は「農地法を粗末にしたことによって奢侈をはびこらせ、彼ら自身と後世に対して、無限に貴重な自由というものを失ってしまったのである」(ibid., 43/訳266)。こうした不平等の蔓延した国家においてこそ、「代表制」の原理も含めて「党派対立」は流血を伴う内乱の原因として認められたのである。これに対してヴェネツィアを例とする「平等なコモンウェルス」では、「党派」が内乱の原因になることはない(cf. ibid.,33/訳257)。「オシアナ共和国」においても、この統治参加の平等の維持のために、一定程度の「人民」の土地財産の平等が「農地法」によって維持されなければならない。さらに政治制度に関しては、「立法府」が「審議する元老院」と「議決する民会」に分割され、「執行する行政府」をも含めた、これら全ての機関の構成員は「統治における平等な交代」を保障する「人民の投票札による投票での平等な官職輪番制」によって選ばれなければならなかったのである(ibid.,33-34/訳257-58)。「平等なコモンウェルスとは、基礎となっている〔所有の〕均衡においても、その上部構造、つまりはその農地法においても官職輪番制においても平等なコモンウェルスのことである」(ibid.,33/訳257)。このように、ハリントンが構想する「シヴィル・ソサエティ」、すなわちその「公民」が平等に統治に参加する国家には「統治者」と「被治者」の区別は認められていなかったのである。ポーコックも主張するように、ハリントンの課題は、古代ギリシャ、ローマの「共和政」に見出され、土地所有の一定程度の平等を条件とする政治参加と軍事的奉仕、および、それに伴う公的献身としての「徳virtue」を重視する「シヴィック・ヒューマニズム」の観点から、近代のイングランドに「公民資格citizenship」を復活させることにあった。そうであるが故に、ハリントンは、この「徳」を妨げ、「私的利益」の追求を一般化する「商業取引trade」に積極的役割を認めることはなかったのである(cf. Pocock 1975,383-86)。  
2. ハリントンにおける理論的探求とモンテスキューにおける歴史学的探求
モンテスキューに従えば「一群の著述家は、王冠が見えない至るところに無秩序を見出していたのに、ハリントンには、イングランドの共和国しか目に入らなかった」(EL 29-19)。ハリントンは、近代社会イングランドに土地所有に基礎づけられた古代ギリシャ、ローマを模範とする「共和政」の復活を模索した。その結果として、ハリントンの歴史叙述においては、動産、あるいは金銭的財産に関して、それらが「支配権empire」の均衡に影響を与えることが認められながらも、そこには周縁的な位置付けしか与えられることはなかったのである。「なぜならば、支配権を生み出すような財産に対しては、それがなんらかの根元ないし足場をもつことが必要であるが、そうした足場は土地財産の形でしかもつことはできず、その他の形では、いわば宙に浮いたようなものだからである」(cf. Harrington[1656]1992, 13/訳237)。これに対して、モンテスキューは1688年の名誉革命以降のイングランドを「共和政が君主政の形式のもとに隠されている国」(EL 5-19)として認め、その新たな「共和政的統治」の基礎を近代的な商業社会に求めた。そこでは、かつて「徳」の内実を成した「祖国への愛」(EL 5-2)や「平等への愛」(EL 5-3)といった厳格な「習俗」を要請する「古代の共和政」は、もはや実現不可能な過去の遺物として認められたのである(EL 3-3)。近代の商業社会では、「古代的共和政」のように土地所有に基づく政治参加と軍事的奉仕を条件とする「公民資格」の発想が前提とされることはない。この意味においてモンテスキューは、マキァヴェッリやハリントンに見出された古代ギリシャ、ローマを模範とする共和主義の伝統からは明確に異質な議論を展開する。モンテスキューは、第11編第6章「イングランドの国制について」の末尾で、ハリントンを、「資産が平等でない共和国において、それを平等にする仕方を考案」していたカルケドンの立法者、パレアス(EL 5-5)と重ね合わせるかのように次のように書く。
「ハリントンもまた、彼の『オシアナ』において、ある国家の国制が到達しうる最高度の自由がいかなるものであるかを検討した。しかし、彼はこの自由を見逃した後になって探し求め、ビザンティオンの岸を眼の前にしてカルケドンを建設したといえよう。」(EL 11-6,al. 71)
マキァヴェッリ、ハリントンが想定した古代ギリシャ、ローマ以来の共和主義の伝統において「徳」の問題は重要性をもち、その「腐敗」を回避するために民兵制や宗教に関する政策を通じて、その回復が追及された。そうであるがゆえに、彼らにおいて、人民に良き秩序を与え、その「徳」を鼓吹する役割は立法者に委ねられたのである。ハリントンは、ヴェネツィアを「完全に平等なコモンウェルス」に最も近い例として認めながらも、「それは自己保存のためのコモンウェルスであって、そのようなコモンウェルスでは統治に参与する市民の数が少なく、統治に参与しない人々の数が多いという点を考えてみれば、属州をも含めれば不平等である」として、いまだ「完全な平等」を達成するには至っていないと考えた(Harrington[1656]1992, 34/訳258)。 これに対して、ハリントンは同時代のイングランドにおいてこそ、土地財産の理想的な均衡が実現する時代が到来したことを認めたのである。こうした歴史的背景を前提に、「完全に平等な共和国」の最初の例として、理論的構築物たる「オシアナ共和国」は、実在のイングランドに適用されるべく構想されたのである。ハリントンに従えば「著書や建築物は、それが唯一人の著者や建築家を持つのでなければ、完成の域に達することができないように、コモンウェルスも、その構造に関しては同様な性質を持つ」(ibid., 67/訳289)。そこで、ハリントンは「オシアナ」の立法者たるクロムエルを、「もっとも勝利に輝く軍隊の長であり、無比の愛国者」として理想化し、この立法者に自らの構想の実現を託したのである。この虚構上の人物に、約800年にわたり存続したスパルタの基礎を築いた立法者であるリュクルゴスに関してマキァヴェッリが書いた評価を参照させ、その偉大なる栄光に感嘆する場面を描き、この「オシアナ」の立法者が次のような決意に到達したとする。すなわち「その決意とは、まず第一に立法者は一人でなければならないということ、第二に統治制度は一気に、かつ即刻作られるべきであるということであった」(ibid., 66-67/訳288)。なにより『オシアナ共和国』は、「立法者」に捧げられた、実際的適用のための理論的書物に他ならなかったのである。
モンテスキュー自身も、『法の精神』の第2編から第8編にかけて議論する三政体論において「共和政」、「君主政」、「専制」を分類し、その各々に「政体を動かす人間の情念」である「原理principe」を「徳」、「名誉」、「恐怖」として対応させる際には同様の問題枠組を踏襲している(cf.EL 3-1)。そこでは、各々の政体の存立は、主に「立法者」の能力に依拠し、それに固有の「原理」を維持することで栄え、それを失うことで「腐敗corruption」へ至るとする循環論が想定されている。しかし、そうであるが故に先の三政体の分類には収まらず、第11編の「国制」の議論における「統治者」の観点、そして第19編の「習俗moeurs」、「生活様式mani􌍡eres」、国民的「性格」の議論における「被治者」たる「公民」の観点、これら両者の観点から描かれるイングランドの議論は、「立法者」の観点を中心に描かれた政体循環論には収まらない側面を含意する。モンテスキューは言う。「自由をそれが存在するところで見ることができるとすれば、そして、それをすでに見出したとすれば、なにゆえにそれを探し求める必要があろうか」(EL11-5)。「イングランドの国制」は、モンテスキューが、その「原理」において「立法者」が追求するために提示した理論的構築物だったのではなく、むしろ、この国の諸社会勢力が経てきた抗争の歴史の具体的帰結として、彼が見出した対象だったのである(cf. Manent 1994,20-25)。
モンテスキューは、『法の精神』の中で、イングランドにおける「共和政的統治」の担い手となったこの国の「公民」を「商業国民」として積極的に評価した。商業社会において、「公民」同士は、その経済的関係において相互依存的でありながらも、彼らは封建制の崩壊過程を通じた動産所有の拡大を通じて、「統治者」たる「君主」に対して社会的勢力としての「独立性」を漸次的に獲得し、「自由の精神」を共有する「中間層」を形成したのである(定森2005)。この国では、その歴史的帰結として生まれた「国制」を媒介に、「王」、「貴族」、「人民」の「権力抑制」が実現されたのである。モンテスキューも言うように、「国民の精神が政体の諸原理に反していないとき、それに従うべきなのは立法者の方である。なぜならわれわれは、自由に、しかもわれわれの生来の天分に従って作り上げたもの以上によいものを作り出すことはできないからである」(EL 19-5)。彼は、この国の「国制」の議論を通じて、「統治者」の政策が「被治者」たる「公民」の「習俗」により制限を受ける時代が到来したことを肯定したのである(cf. EL21-20)。モンテスキューは「イングランドの国制」それ自体を商業社会における「習俗」の歴史的産物として認め、ハリントンが内乱の原因として批判した対象である「ゴシック政体」(EL 11-8)を逆に評価した。こうして、第11編第6章の「イングランドの国制」に関する議論の末尾近くで、階級的不平等の下に権力を各々の社会勢力に配分する「政治制度」の由来が、古代ローマの歴史家、タキトゥス(55頃-120頃)によって描き出された「ゲルマン人の習俗」に求められることになる(EL 11-6,al.67)。さらに、モンテスキューによる政治制度に関する評価は、ハリントンが十分には議論を展開しなかった、イングランド、そしてフランス君主政における司法機関の問題にも繫がる。マキァヴェッリの眼にも、特にフランス君主政における法律の整備は、その共和主義思想の問題枠組では説明しきれない異質な要素に留まっていた。マキァヴェッリ自身も、その『ディスコルシ』において、彼自身の同時代である16世紀前半のフランス君主政を次のように評価していたのである。
「王国の場合も、同じように革新を断行し、その王国創設当時の法律に復帰するようにしなければならない。フランス王国では、これが好結果をおさめていることが認められる。この王国では他の王国にも増して厳格にその法律、および諸々の制度を遵守して生活している。その法律や諸制度の遵奉者をもって任ずるのは高等法院(parlamenti)で、特にパリ高等法院がそうである。フランスの法律、諸制度は、この機関によってたえず革新されており、王国内の領主に対しても拘束力をもち、ときには王自身に対しても有罪の宣告をする。」(Machiavelli[1531]1954, 313/訳289)これまでの分析を踏まえることで、古典的共和主義の近代社会における復活という「マキァヴェリアン・モーメント」の問題枠組を越え、新たな観点から「アルプス以北の君主国政」、およびその法律と諸制度を評価することが可能になる。以降、モンテスキューが、イングランドとフランス君主政の共有する遺産として認める封建法の歴史的位置付けを明らかにすべく試みることになるだろう。  
III イングランドとフランス君主政が共有する封建法の遺産

 

1. イングランドにおける「ゲルマン諸民族」の制度的遺産
モンテスキューは、『法の精神』の第11編第8章で、古代ギリシャ、ローマ等の「共和政」を取り上げ「古代人は貴族団体に基礎をおく政体を知らなかったし、国民の代表によって構成された立法府に基礎をおく政体はなおのこと知らなかった」(EL 11-8)ことを確認し、再びタキトゥスを参照することで「代表制」の由来をゲルマン社会に求めることになる。そこで、モンテスキューは「ローマ帝国を征服したゲルマン諸民族は、人の知るように極めて自由であった」として、イングランドとフランス君主政を含めた「われわれが知っている諸君主政の見取り図」を描き出す。「ゲルマン諸民族」は農村に定住し、占領地に分散する過程で、それまでに維持していた人民全体による集会が不可能になった。「しかし、征服前に行なっていたように事案を討議することが必要となり、この人民はそれを代表者によって行なった。これがわれわれの間のゴシック政体の起源である」(EL11-8)。モンテスキューは、イングランドを「共和政が君主政の形式のもとに隠されている国」(EL 5-19)として認め、階級的不平等の存在するこの国で、「代表制」を媒介に「公民」の間接的な統治参加を可能にする「共和政的統治」の由来を「ゴシック政体」の歴史の中に見出したのである。
モンテスキューは、ハリントンと同様に、イングランドにおける「共和政的統治」の出現の背景に封建制の崩壊過程を認める。ハリントンは、この過程を土地財産の歴史的移転の観点を中心に分析した。これに対して、モンテスキューは動産の移転を重視し、商業社会の歴史的発展とそれに伴う「中間層」の形成の側面からこの過程を描いた。しかし、モンテスキューは、単に、諸々の社会勢力が有する財産の均衡が権力の均衡を規定するという側面だけではなく、それに対応する「裁判権」の歴史的移転という側面からも、この同じ過程を描き出している。モンテスキューは『随想録』で次のように書く。
「議会の諸法令によって、イングランドの全ての土壌は、農業奉仕保有(socage)であることが決定された。この決定は、封建法に対して非常に大きな打撃を与えたのである。あらゆる世襲的裁判所は取り除かれ、すべての土地貴族、土地に基づく依存の紐帯(d􌍝ependancede fonds)もまた取り除かれた。今や、一方には国王裁判所が、他方では、平民保有地(roture)が全てなのである。」(MP 1645)ハリントンの議論に関しても見たように、イングランドにおいては、ヘンリー7世によるヨーク派貴族の所領没収とそれに伴う王領地の拡大、封建貴族に対する圧力、そしてヘンリー8世の教会改革に伴う修道院の解体等によって土地貴族は著しく弱体化した。そこで、モンテスキューが封建貴族の弱体化の帰結として主張するのが、その「世襲的裁判権」の剥奪と「国王裁判所」への「裁判権」の集中であった。モンテスキューに従えば、「イングランドの議会」は「領主のすべての裁判権」を廃止したが「ある君主国において、領主、聖職者、貴族および都市の特権を廃止してみるならば、ほどなく民衆国家か、さもなければ専制国家が出現することになる」(EL 2-4)。さらに、「イングランドで貴族に商業を許している慣行は、この国において君主政体を弱めるのに最も寄与したことの一つである」(EL 20-21)とも認められるように、血統や戦士的資質に基づく「貴族」の内実も次第に失われる。この「貴族」の衰退に代わって勃興したのが「ジェントリ」を含め、「商業国民」として認められる「中間層」であった。モンテスキューの思想においては、彼らこそが、「貴族」によって担われた法秩序の衰退にもかかわらず、「統治者」に対する「被治者」の領域、つまりは「君主」に対して「独立性」を維持し、「自由の精神」を共有する「シヴィル」の領域の担い手として、自らの社会的勢力を形成したのである。
イングランドの「商業国民」は「君主」に対抗しうる「中間層」として自らの社会的勢力を形成しながらも、彼らはフランス君主政において「法服貴族」が担う特権に基づく「裁判権」をもたない。しかし、彼らは「貴族」の特権に支えられた、この法的秩序を放棄しながらも、その政治制度に関しては、先に見た「代表制」と同様に封建制の遺産の全てを失ったわけではない。ここに「イングランドの国制」の議論において、「国制」の領域に関わる「立法権」と「執行権」の二権力に対し、「公民」の領域に関わる「裁判権」の「権力の分離s􌍝eparation despouvoirs」が提示されたことの意味がある。この国の「国制」に関して述べられるように、「裁判権が立法権や執行権と分離(s􌍝epar􌍝ee)されていなければ、自由は存在しない」(EL 11-6, al.5)。この国では、特定の個人や集団による「権力の濫用」を防ぐという意味での「国制との関係における政治的自由」は、「代表制」を媒介にして、「執行権力」としての「君主」、「立法権力」内部の「人民の立法院」と「貴族の立法院」、これら社会的諸勢力が「権力抑制」を実現することで保障される。これに対して、「裁判権力」は「公民法に属する事項の執行権力」として認められる(EL 11-6 al. 1)。そして「国制」に関わる「ポリティック」の領域が「公民」に関わる「シヴィル」の領域とは異質であることに対応するように、「立法権」と「執行権」からの、「裁判権」の「権力の分離」が認められたのであった(定森2005)。法的秩序の担い手であった特権に基づく「貴族」の没落したイングランドにおいて、この「裁判権力」は、主に「宗教」、「習俗」、「平穏」、「公民の安全」を対象とする「刑事の法律」(EL 12-4)を媒介に、なおも「公民との関係における政治的自由」を保障する政治制度として認められたのである。この国に特有の「裁判権」の形態、特には「陪審員jur􌍝es」(EL 6-3)の制度も、「代表制」と同様に「ゲルマンの森」から封建法を媒介にもたらされたものと考えられるのである。  
2. フランス君主政の歴史における「貴族」の誕生
モンテスキューも認めるように、フランス君主政は、イングランドのように「自由」を直接の目的とすることはない。この政体は「公民や国家や君公などの栄光(gloire)」のみを目的とする。「この栄光の結果として自由の精神(esprit de libert􌍝e)が生じ、この精神は、これらの国家において自由そのものと同じくらい偉大なことをなし、おそらく同じくらい幸福に貢献することができる」(EL 11-7)。モンテスキューは、同時代におけるフランス君主政の「貴族」を、「最も自然的な従属的中間権力」(EL 2-4)として認めた。この「貴族」こそが、18世紀に至って、なおも「統治者」たる「君主」との関係において規定される「シヴィル」の領域の担い手として認められたのであった。つまり、彼ら「貴族」は「君主」の対抗的社会勢力として相対的な「独立性」を維持し、また、「高等法院parlement」を中心とする「裁判権力」の担い手だったのである。モンテスキューが「立法権」、「執行権」、「裁判権」の三権力に関して言うように、「ヨーロッパの大部分の王国において、政体は制限的(mod􌍝er􌍝e)である。なぜなら、君主は最初の二つの権力〔立法権と執行権〕をもつが、第三の権力〔裁判権〕の行使はその臣民に委ねるからである」(EL 11-6,al.7)。この「裁判権力」の担い手である「貴族」の起源が封建法の歴史の中に求められることになる。
モンテスキューは、イングランドとフランス君主政を含む「全ヨーロッパ」の共有する遺産として封建法を位置づけ、第30編と第31編で扱われる、この封建法とフランス君主政の確立過程の関係について議論を開始するに当たり次のように書く。
「もし私が世界に一度は発生し、おそらく今後は発生しないであろう一つの事件を黙過したならば、また、それまでに知られていた法律に由来したのではなく、全ヨーロッパ(toute l’Europe)に一瞬のうちに出現したこれらの法律〔封建法〕について語らないとしたならば、私の著作には不完全さが残るであろうと思う」(EL 30-1)。
モンテスキューは、ローマ帝国を征服した「ゲルマニア」出自の諸民族の「習俗」に関して書き残した著述家として、『ガリア戦記』の著者であるカエサル、およびタキトゥスの二人を挙げ、彼らの著作の至るところに「蛮民の法律」の細部が描かれていることを見出す(EL30-2)。さらに、これら二人の著作の中に、後の封建法を特徴づける「従士制vasselage」の原型が見出されることから、この「蛮民の法律」が、イングランドとフランス君主政を包含する枠組みとしての「全ヨーロッパ」の封建法の歴史の出発点に位置づけられたのであった(EL 30-3,30-4)。「ゲルマン諸民族」は「ゲルマニアにおいては、ほとんど土地を耕作していなかった。
タキトゥスおよびカエサルによれば、彼らは大いに牧畜生活に身を入れていたらしい。だから、蛮民の法典の諸規定のほとんどすべては、家畜を基礎としている」(EL 30-6)。この「遊牧民族」が定住し、「農耕」、そして「商業」へと生産活動を展開していく過程が、そのままフランス君主政の歴史として辿られるのである 。
そこで、モンテスキューが「ゲルマン人の習俗」に由来するものとして認めた政治制度の遺産としては、「ポリティック」の領域で諸身分間の「権力抑制」を可能にする「代表制」と同様に、諸々の判決の蓄積を通じて「シヴィル」の領域の秩序を生み出し、それを維持する「裁判権」の形態が重要な意味をもつ。
「裁判権(juridiction)をもつものが誰であっても、国王、伯、グラヴィオン、百人官、領主、聖職者は、決して一人では裁判しなかった。この慣行(usage)は、ゲルマンの森に起源をもつが、封地が新しい形態をとったときにもなお維持された」(EL 30-18)。
モンテスキューに従えば、封建法が効力を有したフランス君主政の成立の歴史を通じて「すべての従士(vassal)の領主に対する義務は、武器を持ち、その同輩を領主の法廷で裁判することであったのをわれわれは見ている」(EL30-18)。そこでは「誰かの軍事的権力(puissancemilitaire)の下にある者は、またその民事裁判権(juridiction civile)の下にもあるということは君主政の基本原理なのであった」(EL30-18)。また「裁判権は、古い封地においても新しい封地においても、封地そのものに内在する権利であり、その一部をなす利得的権利(droit lucratif)であった」(EL 30-20)。こうして「ゲルマン諸民族、およびそれから出た諸民族」は「家産的裁判権を確立した唯一の民族」として認められることになる。つまり「その〔領主裁判権の〕起源を探究すべきであったのは、ゲルマン人の慣行と慣習法(coutumes)の奥底においてなのであった」(EL 30-20)。この「ゲルマンの森」に由来する「慣行」や「慣習法」が、封建制確立の歴史を通じて「君主」が「貴族」に対して封地と「領主裁判権」とを委託することを可能にし、彼ら「貴族」は「君主」に全面的に依存することのない独自の法的秩序を形成するに至ったものと考えられるのである。
モンテスキューは「この大きな特典〔封地への託身〕を享受し、貴族の階層に入ることを許された自由人」の歴史的出現に関する議論を第31編で展開することを予告し(EL 30-25)、さらに、この編の結論部であり、『法の精神』全体を通じての結末にも当たる第31編第34章では、「国制の法律lois politiques」と「公民の法律lois civiles」の関係性という観点を明示するように次のように書く。
「封地が取り上げ可能か一代限りかであったときは、封地はほとんど国制の法律のみに属していた。[…]しかし、封地は世襲的になり、贈与されることも売却されることも遺贈されることもできるようになったとき、国制の法律にも公民の法律にも属した。封地は、軍事的奉仕の義務と見られることによって国制の法律に属し、取引される財産の一種と見られることによって公民の法律に属した。このことは封地に関する公民の法律を生み出したのである」(EL 31-34)。
このように封建制の確立の歴史を通じて「貴族」は土地の世襲化を認められ、「領主裁判権」を獲得することで自らの社会的勢力を確立する。彼ら、中世のフランス君主政における「貴族」は、一方の「統治者の被治者に対する関係」として規定される「ポリティック」の領域では、「君主」に対する軍事的奉仕という形で庇護従属の関係にありながら、同時に、その武器所有を基に対抗権力を形成し「権力の濫用」を回避することで「法律」に基づく統治としての「政治的自由」の条件を形成する。他方の「被治者間相互の関係」として規定される「シヴィル」の領域において、この「貴族」は「領主裁判権」の担い手として、未だ共同体内の全人民を保護するには不十分で、極めて原初的な形態ではありながらも「所有権propri􌍝et􌍝e」を保護する「公民の法律」の枠組を形作ったものと考えられるのである。「国制の法律は彼らに自由を得させ、公民の法律は所有権を得させたのである」(EL26-15)。こうして「裁判権力」の担い手である「貴族」は、その「慣行」の歴史的帰結として、「君主」の権力に対して一定の独立性を獲得し、フランス君主政に固有の法的秩序を形成するに至ったのである。モンテスキューは、この「シヴィル」の領域の担い手である「貴族」の誕生の過程を、ローマ帝国を征服して以降の「ゲルマン諸民族」に由来する「ゴシック政体」の歴史に見出したのであった(cf. EL 11-8)。
これまで見てきた封建制の確立過程とは対照的に、13世紀以降、18世紀前半に至る歴史は、この封建制が崩壊し、フランス君主政が次第に絶対王政へと転化していく過程になる。この過程で、まず、貧困化した「貴族」の「領主裁判権」は直属上級領主に移転し、かつて結合していた封地と「裁判権」とは分離する(EL 28-27)。ルイ9世(在位1226-70)は、旧来の封建貴族の慣習であった「決闘裁判」をその所領内部で廃止した(EL 28-29)。「裁判上の決闘の慣行が廃止され始め、新しい控訴の慣行が導入され始めると、自由な人々(personnes franches)がその領主の法廷の不正に対する救済手段をもち、平民(vilains)がそれをもたないのは不合理であると考えられた。そして高等法院は平民の控訴を自由な人々の控訴と同様に受理した」(EL 28-31)。以降、王権の中央集権化が進展し、「高等法院」は常設の裁判所となることで、その統治機構に統合され「遂には、あらゆる事件に対応できるように多くの高等法院が創設された」(EL 28-39)。この「決闘の慣行」の廃止に伴う「新たな控訴の慣行」の導入に対応するように、12世紀にヨーロッパに再生した「ローマ法」は、その後に「文官職(emplois civils)を志すすべての人々の知識の対象」(EL 28-45)として学習されることになる。「領主たちに自分自身で法廷を開くのを禁じたのは法律ではなかった。[…]ローマ法、諸法廷の判決、新たに成文化された慣習法の集成の認識には、無教養な貴族や人民には全くできない研究が必要だったのである」(EL 28-43)。そこで、フィリップ4世(在位1285-1314)の治世における1287年の王令は、この国家機構の官僚的役割の担い手を、聖職者を除き、「貴族」に限定されない「世俗人の階層ordre des laics」の中から選ぶことを義務づける(EL 28-43)。彼らが、「法律の保管所」(EL 2-4)としての「高等法院」の担い手となる「法服貴族」に昇進していったものと考えられるのである。そもそも、この「法律の保管所」は「貴族身分に生来のものである無知やその不注意、国家的統治に対するその軽蔑のために、ある団体、すなわち法律をその埋められている埃の中からたえず引き出してくる団体」(EL 2-4)として必要とされていたのであった。
この「法服貴族」の国家機構への統合の過程は、商業社会の勃興、そして「売官制」の拡充に伴い階級間の流動性が高まる過程にも重なる。モンテスキューは、商業社会の発展を時代の不可逆な流れとして認め、この「売官制」に関しては「金銭を対価として貴族身分を獲得しうるようになっていると、大商人は、これに達しうる地位に自分をおくために大いに努力する」(EL 20-22)として、その社会的有用性を認める。しかし他方で、授爵されて以降の「貴族」の商業従事に関しては、「それは商業にはなんの利益にもならず、貴族階層を破壊する手段となる」(EL 20-22)として厳しく批判する。つまり「売官制」は「徳のためには行なおうとしない事を家業としてなさしめ、各人をその義務に向かわせしめ、国家の諸身分をより永続的にする」(EL 5-19)という側面で肯定されたのであり、そこではなおも階級としての「貴族」の維持が重視されていたのである。だからこそ「君主政」の存続を維持するためにも「法律は貴族身分を世襲にしなければならない。それを君公の権力と人民の無力との間の境界とするためではなく、両者の紐帯とするために」(EL 5-9)。
モンテスキューは、宮廷社会の例に見られるように、近代の「君主政」における「名誉」が、実際には私的利益の追求に他ならない「偽りの名誉」として機能し、この「名誉」が逆説的にも「君主政」の維持にとって有益になったことを認めた(EL 3-7)。しかし、たとえ「貴族身分」が再編成され、その内実が変質したとしても、イングランドとは異なり、フランス君主政では「法服貴族」を含め、彼らは、なおも世襲の特権をもつ(EL 20-22)。この政体で「自由の精神」(EL 11-7)の担い手と成り得る「貴族」の没落、および、ルイ14世(在位1638-1715)に典型的に見られた、王権の絶対化から生じる「専制」の脅威という問題に向き合うなかで、モンテスキューは、フランス君主政における軍事的・司法的役割の担い手の原型として、中世封建社会の「貴族」を再評価したものと考えられるのである。旧来の「戦士貴族」(EL 20-22)の残存は、近代において「名誉」の内実が失われるなかで、なおもその階級の本質を担保する最後の砦となった。彼らは、「君主」に対抗してでも自らの命を賭して「名誉」を守り、「貴族身分」としての最終的な存在理由を固守する点で重視されたのである(EL 4-2)。「君主なくして貴族なし、貴族なくして君主なし。貴族がいなければ、君主は専制者でしかない」(EL 2-4)。「貴族」は「君主政の本質」に含まれていたのである。モンテスキューは『法の精神』を締め括るに当たり、ローマ建国の神話を扱った叙事詩、ヴェルギリウスの『アエネーイス』第3巻第523行、破壊されたトロイアの地を逃れ、アエネーイスの一行が新たな建国の地イタリアを発見した際の一同の歓喜の声を引用する。「『イタリア、イタリア…。』私〔モンテスキュー〕は、大部分の著者が封地の研究を始めたところで終わることにする」(EL 31-34)。ハリントンを含め、多くの著者たちは、封建制の崩壊過程とそれに伴う新たな社会の勃興を重視した。これに対して、モンテスキューは、フランス君主政の歴史的文脈の中で、その「専制」への転化に抗いうる「中間権力」、そして「シヴィル」の領域における「所有権」の法的担い手として中世の「貴族」を評価する。彼は封地と世襲の特権に基礎づけられた、この「貴族」の誕生の歴史という観点から封建制の確立過程を評価したものと考えられるのである。 
IV 結びに

 

これまでの分析を経ることで、初めて、ポーコックが提示した「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定を越え、『法の精神』における「シヴィル」の領域の歴史的形成という観点から、イングランドとフランス君主政とを同時に評価することが可能になる。まず、ハリントンは、古代ギリシャ、ローマの共和主義を模範とし、さらにはヴェネツィアの政治制度から発想を得ることで、土地所有と武器携行に基礎づけられ、「公民」が平等に「統治者」の役割を担う「共和政」を探求した。彼は『オシアナ共和国』を、現実に適用できる理論的構築物として「立法者」の観点から提示したのである。そうであるが故に、ハリントンの考える「シヴィル・ソサエティ」に「統治者」と「被治者」の区別はなく、それは古典古代の「共和国」、すなわち国家と同一視されたのであった。これに対して、モンテスキューは『法の精神』において「統治者」と「被治者」の対比に基づいて「ポリティック」の領域と「シヴィル」の領域を区別する。
この尺度に照らしたとき、一方のイングランドの歴史的文脈で「シヴィル」の領域の担い手となったのは、主に15世紀後半から17世紀後半にかけて、封建制の崩壊過程で没落しゆく「貴族」に代わり、その商業活動を通じて勃興した「中間層」であった。他方のフランス君主政に関しては、18世紀に至って、なおも「貴族」が、その内実の変質を伴いながらも「シヴィル」の領域の担い手として認められた。彼ら「貴族」は「君主政」の「専制」への転化に対抗しうる「中間権力」の基盤であり、同時に法的秩序の担い手でもあったのである。だからこそ、この国に関しては、「土地を耕作しない遊牧民」である「ゲルマン諸民族」が定住して後、フランク王国の建国からカロリング朝を経て、10世紀末のカペー朝の設立に至る封建制の確立過程が、「貴族」の誕生の歴史として評価されたのである。
こうして、『法の精神』における「シヴィル」の領域に関し、イングランドでは封建制の崩壊過程が、これに対してフランス君主政ではその確立過程が重視されたことが明らかになり、その歴史的形成過程の二重性が理解されることになる。モンテスキューは『法の精神』執筆後に書かれた『随想録』の断片に次のように書き残していたのであった。「私は国制の法律が、公民の法律ともつ関係を扱うが、私は、私以前に、この関係を扱った人間を誰も知らない」(MP 1770)。
モンテスキューは「命令法の言葉遣い」により特徴づけられ、理論の実践的な適用を旨とする「立法者l􌍝egislateur」(EL28-38,29-19)の学問、つまりは古代ギリシャ、ローマ以来の哲学的書物の伝統を単純に放棄することはない。しかし、他方で「シヴィル」の領域の歴史的生成の問題に関しては「法学者jurisconsulte」(EL 28-38)の学問として、封建法の研究を通じ、「ゲルマン諸民族」の「習俗」、「慣習」に由来し、「統治者」の権力に対して抑制機能を果たしうる政治的・法的諸制度の遺産の歴史的探求に向かったものと考えられるのである。そしてカペー朝以降の封建法の変遷は、この「蛮民」に由来する「古来のフランスの法慣例」、そして12世紀に再生し国家官僚化的役割を担う「文官職」の「知識の対象」として学習された「ローマ法」とが法典の編纂過程で混交し、フランス君主政の中央集権化が進展する過程となる(EL 28-38)。こうして『法の精神』の対象とする「ヨーロッパ」が、古代ローマ、あるいはゲルマン社会にその起源を求める思想的・法制度的遺産の複合性を具体的に分析する観点が与えられることになる。
モンテスキューの思想を受容したデヴィッド・ヒューム、アダム・ファーガソン、アダム・スミス等、いわゆるスコットランド啓蒙の思想家たちは「シヴィル・ソサエティ」に関して、主に同時代のイングランドの商業社会を想定し、「野蛮」から「技芸」の発達や「生活様式」の洗練への移行によって特徴づけられる「物質的に開明化された社会civilized society」の発展の側面を思想的に重視した。モンテスキュー自身も、確かに「商業は野蛮な習俗を磨き、これを緩和なものにする」(EL 20-1)ことを認めるが、彼は「商業」によって、生産活動の発展段階から見た際の歴史の一部をしか説明してはいない(cf.EL 21-5,21-6,21-20)。むしろ、モンテスキューは「法律によって歴史を、そして歴史によって法律を明らかにすることが必要である」(EL31-2)とも言うように、イングランド、およびフランス君主政の双方の歴史を、「野蛮な人民」から「法的に開明化された人民peuplespolic􌍝es」(EL22-3)へと至る「シヴィル」の領域の形成史の観点から描き出したのである。
モンテキューは、「シヴィル」の領域の歴史的形成の問題に関して、「物質的開明化」の観点から、近代における商業社会の勃興の過程を重視するスコットランド啓蒙の思想家たちとは対照的に、その歴史を「法的開明化」の観点から、封建制の確立過程に遡って描き出したものと考えられるのである。 

 

1) 以下、『法の精神』(EL と略す)からの引用は、Montesquieu(1951)による。その際には慣例に従い編と章を記すが(例。EL 1-3『法の精神』第1編第3章)、必要に応じて段落番号を併記する(例。EL 11-6,al.71『法の精神』第11編第6章71段落)。『随想録(Mes)Pens􌍝ees』(MPと略す)は、Montesquieu(1991)から引用し、その断片番号を記す。その他の著作からの引用は、著者名の後に出版年、ページ数を記すこととする。(例。Pocock 1975,159)訳文に関しては翻訳がある場合にはそれを参照したが、必要に応じて筆者が訳し直している。なお、[ ]内の引用は原著者、〔〕内の補足は全て筆者による。
2) フィリップ・ペティットの『共和主義― 自由と統治の理論』に従えば、マキァヴェッリ、ハリントン、モンテスキュー、そして『カトーの手紙』や『フェデラリスト』の著者たちは、人民における「非支配としての自由freedom as non-domination」を守るための最良の制度を模索した点に特徴があるが、現代に至る、これまでの政治理論、政治哲学の伝統は、制度の構想よりも、合意の意味や正義の本性、政治的義務の基礎等の形而上学的な問いに専心することで、長きに亘り制度に関する分析を看過してきた(Pettit 1997, 240)。こうして、ペティットは、この著作の副題が含意するように、実際的適用の観点から立法、行政、司法の制度的在り方を問うことで「自由と統治の理論A Theory of Freedom and Government」を探求する。これに対して本論文は、『法の精神』で扱われる代表制と司法機関の由来を歴史的観点から明らかにすることを通じ、ペティット自身も含めた政治哲学全般が前提する古代ギリシャ、ローマの伝統からは異質な「共和主義」の系譜を『法の精神』から汲み出すべく試みる。なお、ペティットの理論的観点から成される「非支配としての自由」の分析と異なり、『法の精神』における「統治者」からの「独立性ind􌍝ependance」の問題を、「習俗」の中に見出される「自由の精神」との関係で解釈し、この「習俗」が、「法律の許すすべてをなす権利」(EL 11-3)としての「政治的自由」の条件それ自体を生み出す過程を歴史的観点から評価したものとしては、定森(2005)を参照。
3) マンフレート・リーデルは、「市民社会」の概念史を議論するなかで、ドイツの自然法学者、プーフェンドルフ(1632-94)を取り上げ、そのラテン語の「キウィタスcivitas」、あるいは形容詞形の「キウィリスcivilis」の概念使用において、政治的機構形式としての「国家」と臣民団体としての「社会」とが未分化であったことを確認する。さらにリーデルは、同じくドイツの思想家、ライプニッツ(1646-1716)における「ソキエタス・キウィリスsocietas civilis」の概念の理解に関して次のように書く。「19世紀の法哲学や国家哲学が『封建社会』の典型的な現象形式として強調することになるもの―― すなわち貴族によって統治されるラントの支配層とそれを支える人的な従属者の層―― は、この『市民社会』概念の中に含まれている。こうしてソキエタス・キウィリスが、17世紀から18世紀にかけての政治理論において繰り返し好意的に受け入れられている封建的諸身分社会の本来的呼称であることが説明される」(Riedel 1975, 739-40/訳40-41)。こうしてリーデルは、「キウィリス」と「ポリティクス」が概念として分離される歴史的契機にイタリアの思想家、グラヴィーナ(1664-1718)とモンテスキューを位置づける(cf. ibid., 746/訳48)。
4) リーデルに依拠しながら「市民社会」の概念史を描くファニア・オズ=ザルツバーガーは、本論文の主張とは反対に、ここで言われる「国制的状態」と「公民的状態」の区別が『法の精神』全体を通じて重要性をもつことはないとする。(Oz-Salzberger 2001)
5) なお、「シヴィル」の領域それ自体の歴史的生成の問題とは異なり、近代社会に限定した意味での「市民社会soci􌍝et􌍝ecivile」の形成の観点からイングランドとフランス君主政を比較した研究としてはSpector(2004)が挙げられる。スペクトールの観点と本論文で展開される「シヴィル」の観点との相違に関しては、定森(2005)の註21を参照。
6) なお、サヴォナローラ、マキァヴェッリ、フォーテスキュー等において、ラテン語の「ポリティクスpoliticus」の概念がその歴史的文脈に応じて「共和政」と「君主政」の双方を意味したとする概念史研究に関しては、Rubinstein(1987)を参照。
7) エリック・ネルソンは共和主義に関して、農地法、あるいは相続法による財産制限の発想の源になった「ギリシャの伝統」と、これらの法律が所有権を侵害するものと見做した「ローマの伝統」を区別し、前者の「ギリシャの伝統」に、トマス・モア、マキァヴェッリ、ハリントン、モンテスキュー、アメリカ合衆国の創設者たちを位置づける(cf.Nelson 2004,esp.chap.4)。しかし、ネルソンの解釈とは異なり、モンテスキューにおいて、その共和主義思想の由来は必ずしも古代ギリシャ、ローマの伝統に限定されず、特に、西ローマ帝国崩壊以降、封建法の導入を媒介する近代ヨーロッパの相続法の歴史に関しては、古代ローマと古代ゲルマン社会の双方に由来する諸々の法律の混交の過程が描かれている。
8) 福田有広に従えば、ホッブズにおいて臣民の服従は、絶対的権力による征服や命令によって実現すると考えられたが、ハリントンは、ホッブズを批判する過程で、この服従の内実を変容させた。つまり、ホッブズにおいては「万人の戦争状態」における恐怖や貧困が主権者に対する臣民の服従の源として考えられたが、ハリントンにおいては平等の実現それ自体が内乱や抵抗の必要性を無くし、臣民の利益の実現から得られる権威が服従の基礎になる。この平等という条件を前提に、初めて権力の問題は後景に退き、代わって利益の調整のための政治機構が構想されうるものになった、とされる(Fukuda1997, 91-96)。
9) デヴィッド・W・カリザーズに従えば、モンテスキューは『法の精神』第8編第5章においてヴェネツィアの「貴族政」を、「貴族」が世襲となり、その権力が「節度mod􌍝eration」を失うことから生じる「腐敗」を最もよく回避した政体として肯定した。しかし、第11編第6章でイングランドの政体と比較される段階になるとヴェネツィアでの「立法権」、「執行権」、「裁判権」の「貴族」への集中は「専制的」であるとして、その評価を一転させる。こうしてカリザーズは、ヴェネツィアの「貴族政」という同一の対象に関して互いに両立しない異なる評価が『法の精神』内部に並存することを確認する(Carrithers 1991)。しかし、カリザーズが説明しない、第8編と第11編のヴェネツィアに対する評価の相違の原因は、「ポリティック」と「シヴィル」の観点の相違、つまり「統治者」と「被治者」の観点の相違として理解できる。モンテスキューは、1733年には書かれていたとされる『随想録』で次のように書く。「ヴェネツィアにおいて元老院議員は、統治者としては(politiquement)自由であるが、公民としては(civilement)自由ではない」(MP 751)。
10) モンテスキューは「共和政体においては、裁判役が法律の文字に従うのがその国制の本性である」として、イングランドの陪審制度を評価し次のように書く。「イングランドでも陪審員は、彼らの前に示された事実について、被告人が有罪であるか無罪であるかを決定する。被告が有罪と宣言されると、その事実に対して法律の科する刑罰を裁判役(juge)が言い渡す。そのために裁判役に必要なのは眼だけである」(EL 6-3)。
11) モンテスキューは「法律はさまざまな人民がその生活必需品を調達する仕方と非常に深い関係をもっている」として、「狩猟」、「牧畜」、「農耕」、「商業」へと生産段階が発展するに応じ「より大規模な法典」が必要になるとする四段階論を提示する(EL 18-8)。しかし「野蛮barbarie」としての牧畜段階により、その歴史が開始される「ヨーロッパ」の概念の具体的な内実に関しては、この概念の外部に放逐され、アメリカ大陸北部等に発見された「未開sauvage」としての狩猟、採集段階の位置付けも含め改めて議論されなければならない。
12) ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』に従えば、「礼儀civilit􌍝e」という概念は、16世紀前半、特にはフランスの宮廷社会の出現に対応して用いられ始め、後に、この言葉は「文明化civilisation」の概念へ発展したとされる。エリアスは、この概念の個別的な起源をエラスムスの1530年刊行の著作『少年礼儀作法』に求めて次のように言う。「言葉の歴史によく見られることだが、後に再び『礼儀』という概念が『文明化』という概念に進んで行く際に見られるように、ただ一人の人物がその原動力を与えたのである。エラスムスは彼の著作を通じて、古くからよく知られよく用いられた『キウィリタスcivilitas』という言葉の意味を新たに極端化し、新たな働きをこの言葉に与えた」(Elias1969, vol.1. 67/訳上巻141)。エリアスが同著作の第3部で議論するように、この「文明化の過程」は、13世紀初頭に始まる自然経済から貨幣経済への長期的な発展に伴い、フランス君主政が中央集権化し、市民階層の国家官僚化が漸進する過程に対応する。しかし、本論文の主題である『法の精神』における「シヴィル」の領域の形成過程は、エリアスの述べる「キウィリタス」の系譜によりも、むしろ「キウィタス」の系譜に属し、そこでは「習俗」や「生活様式」の洗練よりも、封建制を通じた法的秩序の形成の側面が重視されることになる。
13) 近代のフランス君主政における「貴族」の「名誉」と商業社会の関係を、その同時代の思想史的文脈を踏まえて詳細に分析した代表的研究として川出(1996)が挙げられる。なお、近代のフランス君主政に関して、「自由」の概念の内実を含めた多岐に亘る主題は「ポリティック」と「シヴィル」の関係性の観点から改めて議論されなければならないだろう。
14) マルク・ブロックは、その『封建社会』の序文で、「封建制f􌍝eodalit􌍝e」、あるいは「封建的f􌍝eodal」という言葉を「ある文明の状態un􌍝etat de civilisation」を指し示すものとして用いた最も初期の人物としてアンリ・ド・ブーランヴィリエ(1658-1722)、そしてその読者であり批判者でもあったモンテスキューを挙げることで自らの問題を設定し、さらに、彼らを参照することで、その分析対象を、9世紀半ばから13世紀初頭の西部および中部ヨーロッパに位置づけている(Bloch 994,Introduction)。
15) モンテスキューは、第29編第19章「立法者について」で、その例としてプラトン、アリストテレス、マキァヴェッリ、トマス・モア、そしてハリントンといった、まさにポーコックが描き出す「マキァヴェリアン・モーメント」の系譜に重なる思想家たちを取り上げて次のように書く。「法律は、常に立法者の情念と先入観に出会っている。法律は、あるときにはそこを通り抜けながらもその色に染まり、あるときにはそこに留まってそれと一体化する」(EL29-19)。
16) ドナルド・R・ケリーは、14世紀以来の封建法の起源に関する法学者間の議論の延長上に位置づけられる論争、つまりは、宗教戦争に巻き込まれた16世紀のフランス君主政の文脈の中で、カトリシズムの側に立ち成文法を重視する「ローマ起源の命題」と、プロテスタンティズム、あるいはガリカニズムの側に立ち慣習法を重視する「ゲルマン起源の命題」とが対立し、両者が妥協し合うに至る論争を通じて「近代歴史学の基礎」が次第に形成されていった模様を描き出している(cf.Kelley1970,esp.chap.7)。
17) ファーガスンは、その『市民社会史』(1767)において「開明的polished」という概念の二重性を意識して次のように書く。「開明的(polished)という言葉は、その語源より判断すれば、元来は法律や統治(government)に関する民族の状態に関連して言われたもので、[開明化された人々(men civilized)とは、市民の義務を実践する人々のことだったのである。] 後に至って、この言葉は単に民族の状態だけではなく、文芸、機械的技術、文学、商業に関連して用いられるようになり、[開明化された人々(men civilized)とは、学者、流行を追いかける人々、そして商人のことを指すようになった]。」(Ferguson[1767]1995, 195/訳38;[ ]内は、1768年の第3版でのファーガソンによる加筆)。ファーガソン自身は、この著作において、むしろ後者の「文芸、機械的技術、文学、商業」という「物質的開明化」の歴史を強調し、その発展がもたらす「腐敗」に対抗する意味で、「市民的徳」の復興を肯定したものと解釈できる。なお、アダム・スミスは1756年に『エディンバラ評論』に寄せた論稿の中で、その前年に出版されたルソーの『人間不平等起源論』の一部を翻訳し紹介する際に、フランス語の「未開の人間homme sauvage」の対概念である「開明化された人間homme polic􌍝e」を、英語の「文明化された状態にある人間man in his civilized state」と翻訳した(Smith 1980,251-56/訳330-33)。スミスとモンテスキューにおける「開明化」の概念の内実の相違を分析することは、法学から分離する経済学の対象の固有性を明らかにすることに繫がる。この問題は、イングランドの封建制崩壊の過程に関して、特にはスミスの『法学講義』とモンテスキューの『法の精神』の各々が与える説明の比較を通じて明らかにする必要があるだろう。 
 
「捨てる」と「拾う」との共時的社会の中のルソーの「子捨て」と『エミール』

 

はじめに
J.J.ルソー『エミール』は教育界で必読書とされている。同書によって拓かれた教育事実がおびただしいものであることからも、そして教育を考えるものならばその開拓事実をさらに継承発展させていく義務を負うことからも、必読書である地位は揺るぎないものである。ただ、そうした開拓・継承・発展過程を持ちつつ、その一方で『エミール』にルソー自身がかなりの「制約」(舞台設定)を与えていることも事実であり、その事実を看過することができない立場からすると批判的にならざるを得ないわけである。私は『エミール』をあげつらって批判する立場ではないことを前置きしておき、とりあえず「制約」の問題について箇条書き的に整理してみたい。 
制約の中の『エミール』

 

(1) 男子教育と女子教育とを歴然と区分しており、女子は男子に従順で奉仕するように育てられなければならない。標語的に言えば「女子差別の書がなぜ人間解放の書なのだ」と言うことになるだろう。この問題についてはもっともよく知られていることである。男性に従順な女子の教育を説く書という読み方もできるし、そこで描かれる男性とは女子を従順なものとしてみなし、実践できる主体という意味において、この従属関係の中で生きる男性もまた人間としては十分な存在としてあるはずはないという、ともに不完全で差別的な人間の形成の書である、という批判にも行きつく。
(2) 「私は、病弱な子どもなら、・・・引き受けはしないだろう。いつになっても彼自身にも他の人間にとっても無用の長物であり、・・」とあるように、病弱者や障害者は教育の対象から除外している。標語的には同じく「障害者差別の書がなぜ人間解放の書なのだ」ということになる。この問題も性差に続く重要な「制約」である。今日で言うところの健常者のみを教育対象としているという点で、『エミール』は発達を論じている書だというにもかかわらず、教育の対象たる「発達」主体から障害者が除かれているという点で、障害者差別教育の書である、という批判にも行きつく。
(3) 「エミール」というのは貴族もしくは台頭しつつあったブルジョアジーの子どもであり[1]、ルソー自身がその子どもの家庭教師を引き受ける、というストーリーで描かれる。家庭教師は、できるなら、子どもが生まれる前から雇った方がいいという。このことから『エミール』が教育一般書ではないことが指摘される。つまり、彼は、当時なされていた組織的教育(学校)に対する創造的提言をしているわけではなく、あくまでも家庭教育論なのである。彼は寄宿学校(コレージュ)、修道院、学院といった当時の、貴族やブルジョアジー子弟の組織的教育に対してきわめて批判的であった。貴族やブルジョアジーの家庭教育のあり方に問題を感じたからこそ「貧乏人には教育は不必要である」と言い家庭教育改革のための提言を書くとしたなら、その一方で貴族やブルジョアジーの子弟が通っていた寄宿学校など組織的な教育に対する改革提言を書いても良さそうなものだと思ってしまう。とにかく彼には組織的教育は罵倒するものでしかなかった。標語的には「社会的営みとしての組織的教育を否定する教育論がなぜ近代教育の開拓の書なのか」となる。
(4) 「子どもが生まれたその時から教育が始まる」とルソーは言う。もちろんここには父親が子どもを「養育」する義務も含まれるのだが[2]、具体的直接的には「新生児には乳母が必要である」ことからルソーは教育を論じている。彼の言う「乳母」とは二通り考えられ、一つは「もし母親がその義務を果たすことに同意するならば、結構なことだ」、二つは「もし母親とは別の乳母が私たちに必要なのであれば、まず第一に善い乳母を選ぶことにしよう」ということである。「乳母」に関することは後に触れるので、ここでは「母親」がその母乳をその乳児に与える、ということに限って、問題とされたことを挙げておこう。「まさに、女性を家庭に閉じこめることこそ近代ブルジョア社会への道を開くものであり、全人類の解放から遠のくことになった」のだ。『エミール』が、焚書事件などがあったにもかかわらず、貴族やブルジョア達の間で読まれ、それまで「乳母」に預けていたそれらの階級の間で、直接我が母乳を与えること、すなわち母親による育児が大流行したという。この「家庭教育」説[3]はフランス社会に大きな影響を与える。というのも、ようやく女性の社会進出が芽生え始めていた時期であったことに対して「歯止め」をかけるような政治が誕生するようになる。フランス大革命期の恐怖政治下で多くの人がギロチンにかけられたり投獄されたりしているが、その中に女性の社会進出を自らが勧めたり、暗躍したり、論説を張ったりしたことを理由とされているものがある。「女性と女性市民のための権利宣言」を執筆したオランプ・ドゥ・グージュはギロチン台に消えたし、女性の政治参加を認めたコンドルセは投獄され獄中で自死した。つまり、女性による家庭での子育ての主張は女性の人間としての自立とは真っ向から矛盾するものとして捉えられたわけである。近代国家システムを強固にしたナポレオンI世もまた『エミール』をこよなく愛読し、女性の社会参加の道を究めて細くした。つまり、近代化の始まりと同時に女性は家庭の中に閉じこめられたわけである。ルソーは近代化の思想的理論的な端緒を拓いたと評価されるが、その一方で、女性を社会から遠ざける論として『エミール』が読まれたわけである。
(5) ルソーが自らの子どもを捨てたことが『エミール』を執筆させた動機だと言われている。この説に従えば、同書は、自らの「子捨て」行為に対する懺悔の書としての性格も有している。確かにルソーは『エミール』の中で「長いあいだ自分の過失の上に苦い涙を注ぎ、だからと言ってけっして慰められることはないだろう」と、「父親の義務」を果たせない者に「予言」しているが、明らかにこれは自責の言葉である。ルソーの論敵ヴォルテールはルソーと同じようにフランス近代の魁であるが、彼は『エミール』を「子捨てをした者が子育ての書を書いた!」とスキャンダラスに揶揄している。ヴォルテールに限らず、そして今度はスキャンダラスにではなく、私の目の前の物知り顔の女子学生達がヴォルテールと同じことを言う。200年変わることのない「子捨て」攻撃である。 
『エミール』を共時的社会の中で読む、ということ

 

J.J.ルソーは偉大な思想家であり文筆家である。また音楽家(作曲家)でもある。だが、それ以外に彼には何があったろうか?
たとえば、「エミール」の家庭教師は作者であるルソーである。彼は家庭教師をして日銭を稼いだこともある。だが、その家庭教師であった実在のルソーは自らの家庭教師ぶりをうまくいったと捉えていたのだろうか?これはむしろ否定的であった。つまり、実在の家庭教師・ルソーは描かれず、仮想現実の家庭教師・ルソーが描かれたのである。この比喩的表現の中に私のすべてのルソー像があるのだが、これでは不十分きわまりない。そこで、「共時的社会」という概念を登場させて考えてみたい。つまり、生活者ルソー像である。
私たちは、いや私は、いつしか『エミール』を「すばらしい教育の書、原典である」という形容の中にルソーの人間像をステレオ・タイプ視してしまっている。すなわち、フランス革命を起爆させた(この時のフランス革命というのも絶対視してしまっているのだが)、かのパンテオンに合祀されている偉大な人物(この時のパンテオンというのも絶対視してしまっているのだが)などなど、確かにそれは事実であろうが、ルソーが生きていた時代のことではない。ルソーが生きている時代の中でルソーを見ず、「後の時代」から、その「後の時代」を説明するためにルソーの言説を借用しているのである。今やこの説明の仕方は、ルソーの全的批判(むしろ否定)をも呼んでいる。
ルソーは大変上昇志向の強い貧乏インテリゲンチャであった。近代入り口前後のフランス社会の青年で、上昇志向が強い者の「生き方」とはどのようなものであったのか、少なくとも、その「平均像」だけでも知った上でないと、ルソーを理解することはできないだろう。ルソーが恋愛をした、あるいは好意を寄せた、あるいは「世話を受けた」対象は、「○○夫人」とついているのが多い。そしてその「夫人」は貴族ないしは貴族的生活をしている人たちだ。そして、その一方で、ルソーはどちらかというと下層階級に属するテレーズと同衾生活をする。結婚する意思は毛頭ない。・・・何ともはや、今日の我々からすると、その女性関係において、<とんでもないくわせ者>・ルソーである。しかし、これが、上昇志向を満たそうとした若者達の、平均像だったとしたら、ルソーも「時代の人」であることが証明されるわけである。つまり、社会総体がそうした「意志」を持ち「実践」をしていた、それに支えられてルソーはいのちと思想とを紡いでいた。その時代をくぐり抜けて一気に今日的な意味での倫理観と道徳とを身につけている人がいたならば、お目にかかりたい。いや、ご教示願いたい。ルソーも、彼のすべてが後の時代を「予言」したのではなく、彼のごく一部が「予言」したにしか過ぎない。そのような構え(「制限」)で『エミール』を読むと、前述の「制約」はルソーに固有のものではなく、フランス社会の「制約」であることが分かるのである。つまり、ルソーは共時的社会の中の一人として、いのちを育み思想を錬磨していた、ということである。そのことがルソーの歴史的存在意義を少しも低めることにはならないのだ。いや、低めることがあってはならないと、私は思う。
一時的に「遺産」を手にすることがあったにせよ、ルソーは、概して貧困者であった。借金をこしらえ、「夫人」達に援助を得ることによって、いのちを保ち、思想を膨らませていた。それ以外に彼は何の能力もなかったといえば、言い過ぎだろうか。そのようなルソーの同衾相手テレーズが懐妊した。結婚する気はないが子どもを作った。このことを責めるのか?今の私たちの感覚で。もちろん結婚制度があるわけだし、ルソーもテレーズも未婚者であるわけだから、結婚することが望ましいという声もあるだろう。ただ、それがその時代の絶対的倫理観であったのかどうなのかという検証も必要だろう。厳格なカトリック社会であるにもかかわらず(あるいはそのせいかもしれないが)、婚姻外で生まれる子どもの数はかなり多い。避妊・中絶が許されない教義の中で、「性に激しい」(ルソー『エミール』の青年期論による)若者たちの間で、あるいは貧困故に文化・文明に接することが十分でなかった男女の間で、婚姻外妊娠・出産があること自体、何ら不思議なことではない。さらには、上昇志向の青年と、「愛人」を持つことを一種のステータスと考えていた上流社会の女性−そのこと自体は「姦通罪」という名で制度的には厳しく罰せられたのであるが−との間でもそうだろう。そうした、まだまだ近代的に整備されていない社会の中の一人の青年・ルソー、生活者ルソーを捉えることは、けっしてルソーの思想の偉大さをゆがめるものでもない。ルソーに同化するのではなく、いかにルソーを批判的に継承・発展していくか、それが先哲に対する敬愛の証しである。 
ルソーの「子捨て」について

 

ルソーの「子捨て」は次のようである。
1746年 第1子誕生 産婆が直ちに孤児院に預ける。ルソー不在中
1748年 第2子誕生。孤児院に預ける。
1751年 第3子誕生。孤児院に預ける。
1752年 この年から55年にかけて第4子、第5子誕生。孤児院に預けられたという。
ルソーの「子捨て」はルソー自身が『告白』で述べているのであり、その時々に彼が記録に残しているのでもなければ、公式な記録簿に掲載されているわけではない。従って、『告白』に述べられていることを「事実」とする、という仮説のもとに論理が出発する。
この「孤児院」とはどこのことだろう。「孤児院」とは、「保護」と「養護」との機能を備えているところ、という意味だろう。「保護」に関して言えば、18世紀中葉のパリに限定すると、ノートルダム広場の棄児院とトルソー広場の棄児院とが存在していた。当時「捨て子」は「棄児院」に直接「持ち込まれる」ばかりではなく、教会の階段であったり(かの「百科全書」のタランベールは教会の階段に「捨て」られた子どもであった)、街中であった。「捨て子」は習俗化されていたとはいえ、やはり、「棄児院」に直接持ち込むことははばかられたとみえる。19世紀に入って棄児院(「施療院」という総合救済施設の一部門)の入り口に子どもを「捨てる」ための回転戸棚式窓口が取り付けられる。これは、教会の階段や路上の「捨て子」は新生児にとってはあまりにも危険すぎることからの配慮でもあろうし、「棄児院」の役人との直接の接触を避けることの配慮でもあろう。パリのような大都市ではこうした施設が整っていたが、そうではない田舎ではどうだったのだろうか。今の私にそれを解読する能力は整っていないが、それでも一枚のリトグラフがヒントを与えてくれる。町はずれ(宗教的共同体=パロワスの入り口)にはたいてい十字架が立てられていた。その十字架のふもとは芝生の小山になっている。私が所持するリトグラフは、その芝生の小山に、一人の女が幼児を捨てているところを描いている。頭からすっぽり黒服を被っている様は宗教者を装っているものと思われる。目は人目を怖れているように描かれている。それは「罪の意識」からかどうかは分からない。地方都市の教会には「施療院」施設のようなものが具備されていたと思われる。病人が出ない地域はないし、棄民をしない地域もないからである。十字架の下に「捨て」ること=教会の階段に捨てること、に、通じはしないだろうか?
ルソーが我が子を「捨て」た当時、どれほどの「捨て子」があったのだろうか。18世紀という時代、フランスは近代を準備する時代でもあり、道徳や倫理の移行期の雰囲気を醸し出していたと言われる。「捨て子」が前世紀に比べて飛躍的に多くなるが、それは、先に述べたような非婚出産が急増したことと無関係ではない。あとで述べるが、乳母制度との絡みで「捨て」られた子どもに加えて、望まれずして生まれた子どもが登場し始めるのである。ルソー研究者ジャン・ゲーノは、1745年から1766年まで捨て子は3,233人から5,604人、という数字を紹介している。パリでは、全出生児中捨て子の割合が三分の一を超えていた、という驚くべき事実を示している。これを見ても分かるように、ルソーの「捨て子」は彼に固有の問題ではなかったのだ。フランス社会の「習俗」と言ってもいいほどであり、今日の目から見れば、まさに「恥部」である。
「捨て」られた子どもはどうなるのだろう?サルペトリエール施療院は捨て子を4歳まで預かっている(育てている)。それから先は具体性に乏しい「調査」段階なので充分に確信を持って言えないが、保護施設(棄児院)から出た(出された)子どもは養護施設に預けられた。養護施設は数多かったようである。ただ、養護施設は5、6歳の子どもを預かったと言われる。7歳になったら子どもたちは手仕事の見習に出されたのである。なお、この児童労働に対する保護政策がとられはじめるのは、じつに19世紀中葉、1841年のことである。「子どもの労働に関する法律」によって、7歳以下の子どもの労働が禁止され、8歳から12歳までが8時間、12歳から16歳までが12時間の労働時間の制限が設けられた。13歳以下の夜間労働(夜9時から朝5時まで)が禁止された。これでさえ過酷な状況下に置かれているわけだから、制限が設けられる以前の子どもの労働実態がどれほどに過酷であったかは、推測にかたくない。
このように見ると、一口にルソーが「捨て子をした」と言い、その先が「孤児院」(あくまでも訳語だが)と言われているが、フランス社会の当時の「決まり」では「棄児院」であったことが分かる。そして、第1子の場合について見れば、産婆が直接そこの役人に預けたというから、異例な「捨て子」であったということも付言しておかなければならない。もっともこのことはルソーがあずかり知らぬことであり、彼はただ、見ざる・聞かざる・言わざるを決め込んでいた。つまり「子捨て」の意志決定には直接関わらずにいた、ということである。おそらく、これもまた、当時の「夫」「父親」の常態であったのだろう。つまり、「子捨て」は「女の仕事」のうちであったし、ルソーはそれを受け入れていた、ということである。 
「乳母制度」について

 

先に触れたように、ルソーは『エミール』の中で、自身が「父親の義務」を果たさなかったことを悔いている。このことを念頭に置くと、「子ども」にとって最低必要な保育・養育者は、父そして母あるいは乳母、そして家庭教師だと、ルソーは考えていたということになる。母親による授乳にウェイトが置かれていることによって、当時、夫の社会活動の舞台裏を支えていた妻たちがそうした社交界から姿を消すようにしむけるというベクトルが働くこととなる。革命期の恐怖政治でギロチン台に上らされた幾人かの女性が、社交界で活躍していたことに対し、良序・秩序に反する、という理由がつけられたことに繋がる問題である。すなわち、「女よ、家庭に帰れ」ということである。
さて、子どもに「母乳」を授けるのは必ずしも母親に限らない。「善い母乳」を出す「乳母」も、ルソーは勧めている。これこそ、フランス社会の伝統的、習慣的な子育てのシステムである。ルソーがそこに矛盾を感じていたとは思われない。だから、「乳母」システムについて考えてみる必要があるだろう。
「乳母」には二種類ある。「乳母を雇う」のと「乳母に預ける」のとだ。「エミール」の場合には「雇われ乳母」が考えられている。この場合だと、「エミール」の両親は、誕生からのプロセスに寄り添うことになる。それに対して「乳母に預ける」場合には、両親の手許から一定期間(授乳期間)子どもを手放すことになる。ルソーはこのことは認めていないと見るべきだろう。習慣・風俗のうちその一端を、彼は採り入れなかったということである。結局、子どもは両親のもとで養育されるべきである、というルソーの子育て観を見ることができる。文学『ヴォバリー夫人』には夫人が「乳母に預けた我が子」に会いに行く場面が描かれているが、ルソーに言わせれば、このような子育ては認められないというわけである。「母親よ、我が家で、子どもを育てなさい。」と。
「乳母」がフランス社会の習慣・風俗であった、と述べた。一体どれぐらいの子どもが「乳母」によって育てられていたのだろうか。どのような階層が「乳母」制度を利用していたのだろうか。18世紀の資料を所有していないので、後の時代のことから推測するしかない。『エミール』が教養階層の間で大流行し、なおかつ政策的に「母親よ、家庭に帰れ」とされた時代を経た19世紀中葉での統計で、パリの場合、出生した子ども53,000人のうち20,000人から25,000人が乳母によって「母乳」を与えられていた、とある(ファニー・ファイ=サロアの研究による)。驚くべき数字ではないか。この子どもの数を見ても、その親の階級が元貴族やブルジョアジーといった上流階級に限られていたのではないことは容易に推察される。端的に言って、「乳母を雇う、乳母に預けるのは当たり前」なのである。授乳を「放棄する」母親たちは、多くの場合、それぞれ労働に与していた(社会参加していた)のであって、けっして、階級的見栄や欲望から来る「子育て放棄」ではなかったということを、押さえておかなければならない。母親が授乳をするということは、その期間は、社会参加の機会が奪われる、もしくはきわめて減少することに繋がる。『エミール』は女性の社会参加の機会を奪った、ということも、あながち虚言ではないのである。同書には、母親の労働の間に、子どもが紐で結わえられ、動きを不自由にさせられていることを、責めている場面がある。しかし、現実は、女性の労働力をあてにする(たとえそれが搾取対象であり、あるいは夫を「支える」脇役的なものであるにせよ)社会の中にあっては、「女性よ、家庭に帰れ」とはいかなかったのが実態であった。
「乳母」そのものに目線を当ててみることにしよう。
私など凡俗は、左の乳房に我が子を、右の乳房にはご主人様のお子様を、などとイメージしてしまう。果たしてそうなのだろうか。
乳母はれっきとした職業である。乳母斡旋所という仲介機関も存在する。中世に遡って確認することができる機関である。もちろん、仲介機関を通さないプライベートな乳母もいたが、それはもっぱら「雇われ乳母」(住み込み乳母)であった。いずれにしても左右両方の乳房を違った子どもにあてがうということは忌避されていた。つまり、乳母はその両の乳房をただ一人の乳児のためにしか、捧げることができなかったのだ。この事実はしっかりと確認しておかなければならない。というのは、それでは、その乳母の子どもは一体誰が授乳したのか?という問いを引き出すことに繋がるからである。そして、乳母はわが子と頻繁に会うことができたのだろうか、という問いにも繋がっていく。つまり、『エミール』に即して、「善い母乳」を出す「乳母」を選択したとしたら、その乳母は当然住み込みである。「エミール」家には「乳母」の子どもも同居することになるのだろうか?同居しないとしたら「乳母」はわが子に会うためにしばしば「エミール」のもとから離れたのだろうか?それはいずれもノーという回答を用意しなければならない。ルソーがそれを描いていないから、という理由ではない。それでは「乳母」の意味がないからである。
「乳母」は、自分の子どもを自らの母乳で育てることができなかった。乳母がわが子に会いたくなってしばしば雇い主の下から姿を消す、という事態も想定されるから、それを避けるために、乳母の子どもは、はるか遠くの地方に「預け」られた。その預け先は、やはり「乳母」であることが多かったようだが・・・・・。「子捨て」はこうして存在し続けるわけである。
残念ながら、ルソーは自らの父親の義務を果たすことができなかったことを悔いてはいるが、乳母システムの持つ「子捨て」の必然性についてまでは言及することができなかった。ルソーの意識内にある共時性がそうさせたのだろう。 
「捨てる」と「拾う」の共時的社会

 

いとも簡単に子捨てをする社会。フランスは文明社会として私たちには強く印象づけられているが、なかなかどうして、少なくとも「子捨て」という行動の側面からだけ見ると、失礼ながら、じつに野蛮な社会だと言っても過言ではない実態である。もちろん、人類社会ある限り、その社会構造から「棄児」は生み出されてきたし、生み出されている。冷めたいい方であるが、人間社会である限り、「個人」を社会の基礎単位をしないところでは、「棄児」は社会的必然である。我が国では「間引き」という言葉でそれが語られてきた。ルソーに倣って「告白」をするならば、私は、幼児期には、つねに「間引き」の「候補」として縁者から見られていたそうだ。「おしでつんぼでいざり」という「差別用語」のオンパレードで語られる育ちであった私は、棄児ならぬ「間引き」という生命抹消による不在証明の危機に晒されていた。「間引き」は生命再生の可能性をほとんど感じることができない棄児行為である。果たして、フランス社会の伝統的な「子捨て」は「間引き」のような棄児行為であったのだろうか?「乳母」は、自身の子どもを「間引き」することによって、母乳をお金に換えた、それしか「家族」が生きる道はなかったのだろうか?
すでにお分かりのように、「教会」や「施療院」などの施設が「捨て子」を「拾う」そして「養う」ことをするのが、フランス社会の伝統である。「捨て子」行為に伴う事故(たとえば、野犬に襲われるなど)はあっただろうけれど、原則は、社会の意志で「拾い」「育てる」ところにあった。ルソーの時代も、もちろん、そうである。我が手から子どもを離すけれども、社会の手からは子どもは離さない、そういう社会システムが存在していたことを、私たちは何よりも理解しなければならないだろう。「日本社会は共同体で子育てをした」という。それと同時に語られなければならないのは「日本社会は共同体で間引きをした」ということも語られなければならない。フランス社会に置き換えてみると、「フランス社会は親が子捨てをした」、そして「フランス社会は共同体が子どもを拾い、育てた」のである。それぞれの社会の「習俗」は、事実として、受け止めなければならない。
ルソーはその習俗の人でもあった、ということも語られなければならないだろう。時代を超越した生き方はしていなかったのがルソーの実像である。『エミール』にはそういった「制限」が色濃く反映されている。
ただ、補足的に、述べておかなければならないことがある。それは6歳までは「共同体が子どもを拾い、育てた」としても、先に児童労働のことで示したように、6歳を超えると、子どもは自力で日常生活を生きていかなければならなかった。キリスト教世界に共通であったであろう「共同体による子育て」は、7歳以上の子どもには適用されていない。このことは、ペスタロッチのシュタンツの孤児院の実践で、私たち教育界の者は、常識的につかみ得ている。7歳以上の子どもの「子捨て」の方が、本当は、問題が多いのかもしれない。あらゆる庇護から見放された「孤児」の問題は、キリスト教世界の長い間の桎梏となっていたはずである。先に「子捨て」されたダランベールの例を挙げたが、そのことによって私は、「子捨て」を擁護したつもりはない。むしろ、ルソーの5人の棄てられた子どもの行方が遙として知れないことの方が、大きな歴史的課題を投げかけている。私の近年の研究課題パリ・コミューンからこの問題事例を紹介してこの項を結びたい。パリ・コミューンによって政府に逮捕され裁判にかけられた子どもが651人いる。年齢は7歳から16歳までである。当時の「常識的な」子どもの年齢は14歳までであるので、その数を数えたら、全体の三分の一に及ぶ。また、全体のうち128人が孤児または浮浪児であったこと、全体のうち教育をまったく受けていない子どもが224名に及んでいたことが政府に報告されている(『1871年3月18日の反乱に関する調査報告書』1872年、より)。普仏戦争下にあったことも数字を大きくしているけれども、共同体の子育て機能が充分ではないことの証しでもあろう。
つまり、乳幼児に対する共同体の「子育て」機能は不十分であったにせよ整えられていたけれども、少年期の「子育て」機能は、不十分であったし、そのことが少年期の大きな不幸を招いていたという事実があることを、看過できないのである。 
『エミール』が共時的社会から突き抜けたもの

 

この項のテーマに関して、前述したことで言えば、母親による授乳を基軸とすることによって生まれる「近代家族形態」を生み出したことが挙げられるだろう。我が日本では福沢諭吉もそうである。ルソーに即して言えば、父親も子どもの養育に参加する義務があるが、それは「人類に対しては人間を、社会に対しては社会的人間を、国家に対しては市民を育てる義務」であり、母親はその義務を持たない。父親が義務を果たすことを容易にする「援助者」である。封建的な性差別から近代的な性差別が生まれるゆえんである。
ところで、ルソーは、『エミール』の序の冒頭で、「この本は、さまざまの省察や観察を、秩序もまたほとんど脈略もなしに集めたもの」と書いている。私が注目したいのは「観察」という言葉なのである。教育に関する架空小説、と学生時代に教わったことが心の奥深くに住みついていたためだろうか、私はこの言葉の存在を重要視することはなかった。しかし、ルソーを共時的社会でとらえ直すようになってから、この言葉の重みを強く感じている。「教育に関する架空小説」という言葉からは「この本に書かれていることがらは事実ではない、もしくは実在しない」という印象を強くさせられ、「観察」という言葉からは「事実もしくは実在を対象化している」という印象を強くさせられる。二つの印象の間には深い溝がある。この溝を埋めることが、私の、近年の『エミール』理解の課題となっていた。共時性についての記述は、この溝を埋める作業の一つの未熟な到達である。
ルソーが「観察」した共時性で、それこそ薄皮を剥ぐように知ることになる事実に、たじろぐ私がいる。それは、たとえば、ルソーが障害者は教育の対象でないとしていることに関わることである。フランス社会は、ほぼ近代の入り口まで、教育の対象をきわめて限定していた、という事実がある。つまり、障害者の多くはフランス社会が教育のらち外に置いていたのである。「施療」はするけれども「教育」はしない。そのことは、教育が社会化・文化化の営みであると規定する私からすれば、障害者の多くは社会化・文化化の対象とされていなかったというフランス社会の習俗下に置かれていた、ということである。だから、習俗的共時性に生きる側面のルソーが障害者を教育の対象から外すとしたことは、前述の論理からすれば、何ら不思議ではない。
それでは、彼は、彼が描いた教育は、どのような「観察」の結果生まれたのであろうか。全くの絵空事であったのだろうか。
ルソーの時代、障害者のうちでも、聾唖者に対する教育可能性が追究され、成果をあげ、そして「施療院」ではなく「学校」が設立されていた、という事実がある。偶然か必然かまでは私は理解していないけれども、ルソーは聾唖教育の開拓者ヤコブ・ロドリゲス・ペレールと親しく交流をしている。ペレールの伝記を書いたエドアール・セガンが次のように書いている。
「ペレールはこれらの問題を聾唖者に対して、すべてのわれわれの感覚がどこかで一致していることを実証することによって余すところなく解決しようとしていた頃、彼はJ.J.ルソーと交際していたのである。二人はルウ・ドゥ・ラ・ブラティエール[4]で互いに近くに住んでいたのであり、・・・。ペレールはその通りに10人ないし15人の聾唖者を収容する学校を開設していた。そしてルソーはいつも親しく、隣人らしい態度で入ってきたものである。」(『障害児の教育と治療』より)
また、“MAGASIN PITTORESQUE”誌の1876年版ではヤコブ・ロドリゲス・ペレールの聾唖教育に関する百科全書派の強い関心ぶりが示された記述が次のようになされている。
「聾唖者をしゃべらせるこの(ペレールの)技術は非常に新しいものであった。・・・(中略)・・・J.-J.ルソー、ラ・コンダマン、ダランベール、ディドロは強い関心を持ってペレールの授業を参観した。」
間違いなくルソーは、聾唖者という障害者に対する「教育」の様子を見、教育の可能性を、すなわち社会化・文化化の可能性を観察していた。ちなみにディドロは『百科全書』に「ペレール、スペイン生まれ。彼の方法はまさに天分によるものだ。彼の成功は科学アカデミーの歴史の中に位置づけられなければならない」と書き記している。このことに関しては、すでに障害児教育史関係者によって、詳細な検討がなされているはずであるので、私のような門外漢はこのあたりで留め置くのが礼儀であろうと思う。
今私が言えることは、ルソーに見る「感覚教育」の重視は、間違いなく、ペレールの教育の「観察」の結果を「省察」したところから生まれたものである、ということである。一人の男の子に詳細な感覚形成の過程を描き出したことは、たとえそれが、「男性」像形成のためだというストーリーであったにせよ、後の教育者達が、自らの目の前の子どもたちに対象化させて、すなわち「一人の子ども」に対象化させて、教育の営みの重要な武器としたことによって、次第に「差別」化された部分をそぎ落としていった。その最初の人が、ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチであろう。ペスタロッチはシュタンツの孤児院の孤児達(男女ともである!)の一人ひとりの記録を残している(モルフ『ペスタロッチー傳』第1巻より)。それは後世の教育者の、その「今」から見れば、未成熟なものであるけれども、ペスタロッチの記録から学び、さらに不必要なものをそぎ落とし、そして必要なものを付記していく。・・・・ 
おわりに

 

私たちが「古典から学ぶ」という時に忘れてはならないことは、共時性への着目であろう。多くの共時性の中から突き出ているものを探り出すことが、その次の課題となる。そうして探り出されたものは、今という共時性の中で共鳴するもの、あるいはさらに突き出るものという事実と「架空」とを生み出す。もちろん、ここで言う「架空」とは、実現可能性に繋がるものであり、絵空事ではない。
私は『エミール』をこういう読み方をする。共時性を無視して、対象を「ヒーロー」や「逆ヒーロー」扱いすることは、歴史を冒涜することだろう。

[1] ルソーはエミールを「孤児」としているが、誕生前から家庭教師を雇うことを勧める記述や母親による授乳を勧める記述、父親による養育に関する記述があり、エミールは「孤児」であるとしても、『エミール』が読者の手に渡った時には「孤児」としては読まれないだろうとの私の理解から、敢えてこのように記述した。「エミール」と括弧書きしたゆえんでもある。
[2] 「父親は、生ませた子どもを養ったとしても、それだけでは任務の三分の一しか果たしたことにならない。彼は、人類に対しては人間を、社会に対しては社会的人間を、国家に対しては市民を与える義務がある。」と、父親の三大義務を述べている。
[3] 敢えて「家庭教育」説としたのは、ルソーは「母親の母乳による育児」を絶対視していたのではない、と私は『エミール』を読んでいるからである。このことは、先に挙げた二つの条件をよく読めば自明のことである。
[4] 現ジャン・ジャック・ルソー通り 
 
ルソーという病

 

ルソーの言葉遣いは注意深く研究するだけの価値があるだろう。それは教育について奇妙にひねくった表現とともにのべられているけれども、またそれだけ根本的な真理も含んでいるのである。デューイ『民主主義と教育』
はじめに
ルソーとは病である。病は不幸を生み出し、幸いを求めてさまよう。今、ルソーの病に伝染した私たちは幸いを求めている。ルソーという病にかかったことを知らぬままに。ルソーの『エミール』が発刊されたのは1762 年。これに先立つこと約70 年前、ロックは1693 年に『教育に関する考察』を出版している。「健全な身体に健全な精神が宿る」という今の学校の学校目標のような台詞で始まる本書は、のちにルソーにも読まれ、『エミール』にも繰り返し登場している。ほとんども場合、否定するために、であるが。
ルソーは、ロックが子どもが遊んで暑くなったとき、水を飲むのを止めさせようとしてパンを食べさせる*1 というと、「奇妙なことだ。私はむしろおなかがすいているときに飲みものをやることにしたい」と言う。ロックが子どもとは論理を立てて話をせよ、と言えばルソーは議論好きな反抗児を生み出すだけだ、と反論する。ロックが人にものを与えるものがいちばん恵まれることだということを経験的に教え、気前を良くする習慣を身につけさせよ、と言えばルソーはそれではギブアンドテイクの習慣を教えるだけで、ほんとうに与えることを教えることにはならない、と批判する。
ロックの教育論に通底するのは、子どもは甘やかすと好き放題になって持って生まれた自分の能力もだめにしてしまうから、しつけは厳しくなければならないという考え方である。我々は自然状態にあっては白紙(タブラ・ラサ)であり、経験によって観念が生まれるという啓蒙主義をとるロック立場からすれば、このような教育に対する考え方は当然である*2。ロックの教育に対する考え方は「現在も生きており、パブリック・スクールに於ける鍛錬主義、全寮制による人間的接触においた教育方針にも、またオックスフォード、ケンブリッジ両大学における個人指導にもその根拠が見られる」(訳者解説p.351)が、ルソーほど人口に膾炙してもおらず、多数の支持者も得ていない。まして、ルソー「教育論」のように、その後のヨーロッパの思想に、アメリカの思想に、そして日本の思想に大きな影響を与えてもいない。それはなぜなのか。
*1 ロック『教育に関する考察』服部知文訳岩波文庫p.31 ただし、詳細に読むと、ロックは(季節が)暑いときは食中りにかかることがおおいため、パンかなり食べさせ、その間に「ビール」を温めればよい、と述べている。
*2 とはいえ、本書ではむち打ちなどの懲罰や、報酬を与えて機嫌をとることも避けるべきであるとしており、畏敬の念を持たせるようにすれば目配せ程度で十分に注意しうるものとも述べ、バランスをとっている。現在もイギリスの寄宿学校などでは採用されているというのも頷ける。  
ルソーのパースペクティヴ

 

ルソーの驚くべきパースペクティヴは、彼の出世作となった『学問芸術論』においていかんなく発揮されている。
芸術がわれわれのもったいぶった態度を作りあげ、飾った言葉で話すことをわれわれの情念に教えるまでは、われわれの習俗は粗野ではありましたが、自然なものでした。そして態度の相違が一目で性格の相異を示していました。人間の性質が根本的に今日よりよかったわけではありませんが、ひとびとはお互いをたやすく見抜くことができたので、安心していたのです。そのような利益−もはやその価値を、われわれは感じなくなっていますが−によって、彼らは多くの悪徳をおかさないですんだのです。ルソー『学問芸術論』
ルソーが行ったことを一言でいえば、「学問芸術」の相対化である。ルソーを「早すぎたポストモダニスト」と称したものがいるが、まことに正当な呼称であろう。しかし、そこには当然の疑問が生じる。いったいなぜ、ルソーにこのようなパースペクティヴが可能であったのかということだ。私見によれば、それを可能にしたのは、驚いたことに「学問芸術」に対するルソーの怨念とも言える呪詛があったからなのである。
ルソーは生後すぐに母親を亡くした。父親は時計職人としては腕がよく、ルソーの面倒も見たが、ルソー10 歳のときには警察に厄介になるような人物であった。そのような父親をもった子どもの宿命として、その後、ルソーは母方の叔父に寄宿したり、徒弟奉公に出されたりして不幸な幼年時代を過ごすことになるのは不自然ではない。学校を知らずに育ったルソーは独学で学ぶしかなく、本を読んで孤独に過ごした。
奉公先を飛び出したルソーは青年期、青年期以降を通じて放浪を繰り返し、寄食をくりかえす。ヴァラン婦人のもとで屈折した寄宿生活をしたり、家庭教師として住み込んでは盗みを働いて追い出されるなど、まとも学問や芸術に打ち込む時など無かった。けれども、独特な才能で独学したルソーは、音符の表記法のアイデアで一儲けを企んだり、知識人と交友して仲間ができるなど、独学の才能で学問や芸術分野に足を踏み入れていた。とはいえ、社会に認められることなく長い時間を過ごし、アカデミーに対する鬱屈した思い=不幸感は想像を絶するほど強かった。そもそも不幸な生い立ちで、金銭的にも恵まれないルソーにとって、華やかな彼らの生活は、どれほど憧れ、同化しようとしても、根本的に彼とは相容れない世界のものあったのだ。
38 歳のとき、「学問と芸術の進歩は風俗の向上に貢献したか、それとも堕落させたか」というアカデミーの懸賞論文の募集広告を見たときに、ルソーは雷光で打たれたように、思いついた。自分を苦しめているのはアカデミーをつくっているもの、学問芸術、ひいては文化そのもであると。つまりは、文化こそが人間を堕落させた張本人であるのだ、と。
当時は啓蒙主義まっさかりである。単純に言えば、科学で解決できないものはない、とう思いが支配的であった。そこに、そもそも文化的解釈という装置を持ったこと自体が、システム人間の不幸なのである、とぶちあげたのである。周囲が驚嘆しない訳はない。しかし、驚嘆こそすれ、この時点ではだれもルソーが意識的無意識的にもっていた裏技には気づいてはいなかったと私は確信している。ルソーが行ったことは、それほどまでに常軌を逸したものだった。ルソーがこの論文で行ったのは、学問芸術にたいする「自分の不幸」をテコに、文化という「そもそもの装置」を見つけ、ひっくり返すという奇妙な離れ業だったのシステムだ。
この論文は賛否の嵐を−もちろん否定する声の方が大きかったのだが−、巻き起こし、ルソーは一躍注目の人となる。ルソーは自信をつけた。名声を得たこともそうだが、何よりも「自分の不幸」をテコに「そもそもの装置」をひっくり返す裏技を発見したことに、である。
続いてルソーは、『人間不平等起原論』において、自然状態における平等と人間的価値の芽生えによる不平等について語る。ここでは、「自分が長い間注目されなかった」という不幸をテコに、「平等という装置」をひっくり返す。当時は身分や階級は自然ののものとして見られ、当然のこととして受け止められていた。
観念や感情がつぎつぎに続き、精神と心情とが動かされるにしたがって、人類は従順になっていく。結合は広がり、絆は強められる。人々は小屋の前や大きな木のまわりに集まることに慣れた。そして恋愛と余暇から生まれた真の子供である歌と踊りが、暇になって集まった男女の楽しみ、というよりはむしろ仕事となった。おのおのが他人をながめ、また自分もながめられたいと思いはじめ、そこで公の尊敬ということが一つの価値をもつようになった。最もじょうずに歌い、または踊るもの、もっとも美しいもの、最も強いもの、最も巧みなもの、あるいは最も雄弁なものが、最も尊敬される人になった。そしてこれが不平等への、そして同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑が、また他方では恥辱と羨望とが生まれた。そしてこれらの新しい酵母から引き起こされた発酵が、ついには幸福と無垢にとっては不吉な合成物を生み出したのである。
人間たちがお互いに相手を評価しはじめ、尊敬という観念が彼らの精神の中に形成されはじめるやいなや、だれもがその権利を主張した。ルソー『人間不平等起原論』
「ながめる−ながめられたい」(「見る−見られたい」)という欲望が、「尊敬する−尊敬されたい」欲望を生み出し、これが不吉な合成物、すなわち不平等の原初となったとルソーは言う。ルソーの奇妙な離れ業はこれでは終わらない。今度は「孤独であった」という自分不幸をテコに、「平等という装置」をひっくりかえしてみせるのである。未開人たちについてルソーはこういう。
彼らがたった一人だけでできる仕事、数人の手の協力を必要としない技術だけに専念しているかぎり、彼らはその本性によって可能な範囲で自由に、健康に、善良に、幸福に行き、そしてお互いに独立した状態での交際の心地よさを享受しつづけたのである。しかし、一人の人間が他の人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分のたくわえをもつのは有効だと気づくやいなや、平等は消え去り、私有地がはいり込み、労働が必要となった。
ルソーに言わせれば、「不平等の装置」を発動させているのは「二人以上であること」なのである。これほどの裏技はないだろう。ルソーによれば、不平等を生み出さないためには、孤独であることが正当なのである。孤独はルソーの生き方である。孤独である自分の不幸を正当化するために、平等の価値そのものを相対化してみせた。奇妙な、あまりにも奇妙な離れ業は、奇妙すぎるゆえに、だれもルソーの本当の意図を見抜くことができな
かったのである*1。
*1 『人間不平等起原論』の注釈から書き始めた『言語起原論』では、言語そのものを相対化する。  
『エミール』へ

 

今日、教育において子どもの自由は尊重されなければならないと考えられている。空気のようにそう思っているので、私たちのほとんどは、人はこれまでずっとそのようにしてきたかのように錯覚をしている。けれども、子どもを発見したのはルソーであり、それまでの社会において、子どもは大人によって長い間慈しみ養育されるべきものではなく、赤ん坊の時期を終えれば、小さな大人として扱われ、育てられるものであった。ルソーが子どもの側から事物をとらえ、教育について語ったのは文字通り「コペルニクス的転回」であり、画期的なことであった。ルソーの『エミール』が評判となったとき、それまでの抑制的制限的な教育を反省し、子どもを自然状態に置いて育てようとした読者が続出した。そのくらいルソーの子どもの育ちに関する考え方は衝撃的であり、人に行動を起こさせるほど力を持ったものだったのだ。カントに日課の散歩を忘れさせたほどである。一般社会に与えた衝撃は想像に難くない。
さて、私はルソーの「コペルニクス的転回」について再び述べようとしているのではない。問題とすべきは、なぜルソーに「コペルニクス的転回」が可能であったのか、ということだと考えている。その前に、ロックとルソーの関係について少々触れておきたい。 
ロックの後継者としてのルソー?

 

先にロックの教育論に対するルソーの反応のいくつかを紹介した。ロックが子どもの教育は原則的に大人がコントロールすべきと考えたのに対して、ルソーは自然状態、すなわち大人のコントロールは最小限にすべきだとした。なぜなら「万物をつくるものの手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」からである。このパースペクティヴは『学問芸術論』と同じである。そもそも文化という装置がイケナイのである。
ではルソーは、子どもを「人間の手にうつらないように」すべきだと主張したのだろうか。もちろんそうではない。私たちは弱く、そんなことはできない。それはルソーもよく分かっている。むしろ、ルソーは「植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる」と述べている通り、教育の価値についてよく認めている。「人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない」とさえも述べている。ロックを否定し、自然の状態を称揚しているルソーの言葉?と思ってしまうが、ルソーはさらにこう続ける。「そういうことがなければすべてはもっと悪くなるのであって、私たちは中途半端にされることを望まない」つまり、ルソーは意図的教育の必要を十分に認めているのである。ルソーは教育の担い手として、自然、人間、事物を挙げた。ルソーは作為的に「自然状態に近づける」ことで理想の教育を生み出そうとしているのだ。これを現在でも私たちのほとんどは誤解している。「万物は造物主の手を離れる時は全てが善いものであるが、人間の手にかかるとそれらがみな例外なく悪いものになる」などというルソー解釈は、文字通りルソーの表面しか見ていない。
ルソーの裏技に気づかなければルソーの真の姿には迫ることができない。
赤子の産衣を否定し、その理由を「自然に反した習慣」だからという。「エミールがけがをしないように注意するようなことはしまい」という。8 歳までに子どもが死ぬのは自然の規則であり、いくらかの危険はためらってはならないからである。誤解してはいけないが、これは、ルソーが子どもを「自然に反しない」で育てることを目論んでいると受け取ってはいけない。「自然に反しない習慣」に近づけるよう、意図的作為的に自然に反しない習慣で育てることの必要を述べたものなのだ。ルソーはロックの純粋な継承者である*1。「手法が違う」だけなのである。それは、例えばルソーが次のように述べていることから分かる。
エミールを銃の音になれさせるとしたら、まず、ピストルの口火を燃やしてみる。あのパッと燃えあがって消える炎が、稲妻のようなものが、彼を喜ばせる火薬の量を増して同じ事をくりかえす。すこしずつ、おくりをもちいないで、ピストルに少量の弾薬をこめる。そのあとで、銃の音、花火の音、大砲の音、このうえなく恐ろしい爆発音になれさせる。
ルソーは、啓蒙主義者と同じように、人間は教育によっていかようにも育てられると信じている。では、エミールはルソーによってどのように育てられたのだろうか。
ロックらの啓蒙主義者は、人間はタブラ・ラサの状態で生まれ、人間の手で科学や論理によって啓蒙されることを必要していると考えた。ルソーはタブララサであることを善とし、人間の手で啓蒙されなければならないことが運命的な悪であるとした。しかし、それはルソーの教育が消極的であることを意味しない。エミールがルソーから受けた教育は、エミールがルソーの教育を意図的作為的であると感じないように仕組まれた、恐ろしく手の込んだ教育だったのである。それは、のちに受け止められたような消極教育とはまったく異なる考えである。それどころか、恐ろしく念入りに準備された計画的教育なのであったのだ。ルソーは家庭教師で預かった、気まぐれな子どもの指導経験について次のように言っている。
彼の気まぐれをなおしてやらなければならなくなったとき、私は違ったやり方をすることにした。
まず最初に彼に落ち度があるようにする必要があったが、それはむずかしいことではなかった。子どもというのは目先のことしか考えないということを承知しているわたしは、容易に先のことが見透せるという有利な立場をかれにたいして利用した。私は彼の好みにひじょうによくあっていることがわかっている、家のなかでの楽しみごとをさせるようにした。そして、彼がそれに夢中になっていることがわかっているときに、ひとまわり散歩をしてこようと言いに行った。かれは全然うけつけなかった。わたしはひきさがらなかった。そしてかれは、私が降参した様子を見て、それを貴重な勝利と考えた。
子どもは、これが周到に計画された彼の教師による布石であるとは知るよしもない。
あくる日になると、こんどはわたしの番だった。かれは退屈した。わたしが退屈するようにしたのだ。そしてはんたいに、わたしはひどくいそがしそうな様子を見せた。彼に決心させるにはそれほどにする必要もなかった。
何という手の込んだ環境づくりであろうか。
思っていたとおり、彼は仕事をやめてすぐに散歩に連れて行ってくれと言いにきた。私はことわった。かれは言いはった。「だめです」と私は言ってやった。
「あなたは自分の思い通りにして、私にも自分の思い通りにすることを教えたのです。私は外出したくありません。」「それじゃ」とかれは勢いこんで言った。「ぼくは一人で外出します。」「お好きなように。」そう言って、私はまた仕事にとりかかった。
この子どもは、「なにかあったら家庭教師のせい」と少し威勢をはりながら外出するが、ルソーは父親とこの件については事前に同意を得ていて落ち着き払っている。さらには子どもの外出中には、子どもの知らないルソーの友人である見張りを用意し、見ず知らずの大人として一人で散歩する子どもにちょうどいいくらいの後悔をもたらすよう、「演技」するよう依頼してある。そして、帰ってきた子どもをいかめしい態度で迎えたルソーは、「そうしたことがすべて芝居にすぎなかったのではないかと、かれに疑惑をもたせないためにに、その日は散歩に連れていかないことにした」のである。
なぜこれほど手の込んだ教育をしなければならないのか。それは、「自然の指導にまかされたたえまない訓練」を仕組むためである。気づかれないように、演技に囲まれながら「自然の指導」を受けることにより、子供は「善」を極力残した状態で成長することができる。ルソーはそのように考えたのである。
このような指導を受けながらエミールは育ち、理想の女性とするソフィアと結婚する。
ソフィーは美人ではないが、他においては非の打ち所のない、快活な女性である。理想の女性と結婚することは、ルソーにとっては無上の幸せである。『エミール』の最後でその褒美をエミールに与え、自分に感謝させる。さて、エミールとは誰なのか。
*1 ロックらの啓蒙主義者が、人間はタブララサの状態で生まれ、人間の手で科学的論理によって啓蒙されることを必要していると考えるのに対し、ルソーはタブララサであることを善とし、人間の手で啓蒙されなければならないことを運命的な悪であるとした。しかし、子どもを人間の手から離して育てることができないことから、極力自然の状態に近づけて育てることを述べたわけである。 
ルソーの不幸と『エミール』とみんなの不幸

 

エミールは誰なのか。そもそもエミールはなぜ書かれたのか。
のち、『告白』を書いて自伝としている気質からして、みなしごエミールは、かつてのルソーであろう。母無く、父無く、教育もされず不幸なルソーは、盗みを働き、嘘をつく少年時代を過ごした。そして認められることなく成人し、貧しいなかで5 人の子どもを孤児院に捨てることになる。妻を愛しておらず、愛に焦がれて不全感に打ちのめされる。そういう自分を恨まないわけがない。自分は救われなければならない。一体なぜ、自分はかくも孤独でかくも不幸であるのか。『エミール』書かれた動機はここにある。もっとちゃんと教育されれば、こんな不幸な自分にはならなかったのだ。
エミールに恐ろしく手の込んだ教育を受けさせ、その教育を成功させているのは、ルソーが教育的に恵まれなかった自分の幼少期から青年期の不幸な思い出をテコとして、「善なる子どもという装置」を発動させるためである。すべては不幸な環境が問題なのであり、真の自分は善であるという、幼少期の自分を救い出すためのストーリーであった。
このことが『エミール』をして、読者を夢中にさせた要因である。すなわち読者は切実にこう思うのだ。「ああ、私は間違えた教育論で育てられた。だからことあるごとにものごとにおびえてしまったり、根気がなかったり、虚栄心が強かったり、人をうらやんだりしてしまうのだ。エミールにおけるルソーのような教師に、私が育ててもらったならば!」その先を続けるまでもないがこのように続くだろう。「こんな自分じゃ無くて済んだのに!」という嘆息である。ルソーの不幸はみんなの不幸として伝染した。「こんな私に誰がした」これが「ルソーという病」である。 
『エミール』とわれわれ

 

さて、私たちはルソーの呪縛から逃れていない。むしろ呪縛はますます強く私たちを規制しようと力を強めているといってもいい。
私たちを取り巻く教育論のほとんどは、自分自身のルサンチマンを昇華させようとするストーリーで構成されている。
わたしはまともな教員というのに出会ったことがない。どれもこれも権威を笠に着て押しつけようとする無能な教師ばかりだった。もしも、私がほんとうに生徒のことを考え、親身になって教師という仕事に取り組もうとする人間と出会っていたならば、と思う。(Aさん二八歳会社員)
○○のような学校経験(教育)を受けなければ今のような自分にはならなかったのに、という他律的な感覚である。もしもこの御仁が「ほんとうに生徒のことを考え、親身になって教師という仕事に取り組もうとする人間」と出会ったいたならば、果たしてほんとうに人生の苦しみ(一部かもしれないが)から、逃れることができたのだろうか。そんなことは実証できないし、今後もすることはできない。不可能な夢を追うという意味では、幼少期あるいは青春前期に対する淡いロマンチシズムにすぎないともいえる。上記のAさんの投書は私の創作だが、むろんこのような感覚は珍しいものではない。『国民の教育』の中で渡辺昇一はこういう。
(戦前の学校においては=引用者注)先生もまた熱心で、非常にできるのに貧乏で進学ができない生徒には、身銭を切って面倒をみるとか、豊かな人を口説いて金を出させるなどということまでやっていたのである。野口英世もそのようにして、周囲のおかげでどんどん大きくなっていった優秀な日本の子どもの一人であった。
あのとき彼が、そのような熱心な先生に出会わなかったならば、高校はおろか中学校にさえ行けていなかったはずだ。それが教育に熱心であるばかりか、できる生徒の生活面まで心配をし、進学のためにあらゆる手当をするという先生に恵まれたおかげで、ノーベル賞に何度もノミネートされ、いまもなお欧米の百科事典にも大きく名を残す野口英世が、誕生したのである。
野口英世が、その何とかいう教師と出会っていなかったらノーベル賞を取れなかったかどうかなんてだれにわかるのだろう。あるいは野口が「つまらない教師が多くて腹が立つ」というルサンチマンをバネに、大きく羽ばたいたかもしれないじゃないか。とくにこの手の言説のまずいのは、「だから今の教育がうまくないのは熱心な教師が足りないからなのだ」とか「熱心な教師が増えれば戦前のように優秀な人材が生まれてくることになるのだ」という安直な処方箋を引き出してしまうことだ。ごく普通に考えて間違いのないことだが、熱心に生徒のことを考え行動する教師が多数出現したら、ノーベル賞を受賞する日本人が続々と輩出されるというのは滑稽な錯覚である。
とはいえ、○○のような出会いがあったら今の自分は違った形になっていたかもしれない、というような「もしも」の感覚は、われわれが一般的に持っているものである。たぶんほとんどの人間は、今を不全感とともに生きているのであって、その責を過去の自分を育てた環境に帰したくなることは強い誘惑である。しかし個人的な学校体験におけるルサンチマンを拠り所として教育全般に言を渡そうとした場合、「熱心な教師が増えれば、ノーベル賞を受賞する優秀な人材が生まれてくるのだ」というような粗雑な意見表明にしかなり得ないことを抑えておく必要がある。私たちが学校・教育校を取りまく言説について考えていくにあたっては、自己の経験が自分の思想のどの位置に、どのように有効に働いているのかを慎重に見極めなければならない。
ルソーの病は近代人の病である。私たちはルソーの呪縛にあまりにも深くとらわれてしまっている。現在私たちが依拠している考え方のほとんどにルソーの呪縛は潜り込んでしまい、逃れることは不可能に近い。しかし、ルソーそのものをを相対化する作業をすすめることが、近代からの呪縛を放つことであるという信念のもとに、思考をすすめることこそが、ポストモダンの突破口になるのではないかと私は考えている。 
 
フィジオクラシーとフランス革命

 

革命前夜のエコノミスト F. ケネーの個人史をめぐって 
T はしがき

 

革命史学における視座の転換をふまえて
1989年は、フランス革命200年、イギリス名誉革命300年にあたり、とくにフランスでは、近代フランスの生誕と人権の世界史的成立を祝う行事が年初から年末に至るまで続いた。クオリティー・ペーパーで知られる『ル・モンド』は、毎月特別号を出し、200年前の同月に起こった諸事件を日ごとに記録し、200年前を追想する素材を広く提供した。また、現時点において進行しつつある記念行事を報道し、歴史家や政治学者等の論稿を掲載するなどして、近代フランスの出発点となったこの革命を現代の地平において評価する場合の問題点の開示に努めた。
同紙が、共和国レベルでの公式行事の1つとされた国際学会(「フラソス革命像をめぐる世界会議」)の組織責任者に任じられたM.ヴォベル(パリ第1大学革命史講座担任教授)の"正統派的"見解に対して、『フランス革命批判辞典』の編集者F.フユレの見解を記事として並列させたのは、革命200年祭典の是非をめぐる諸種の見解の相違を象徴的に示すものであった(拙稿「脱神話化に向かうフラソス革命」『クライシス』第38号、参照)。
この時点において、フラソソワ・ケネーの政治経済論が、在来のフラソス革命史論とは異なる色調において再評価されているのはs経済学史や社会思想史に関心を持つものにとっては注目すべき一つのことであった。
それは、とくに「所有」がフラソス革命史においてもった意義を見直そうとするものであり、その執筆者は日本で『自主管理の時代』の著者として知られるローザンバロソであることも人目を引く。
自由・平等と所有との関係。この関係は、人類史における"ブルジョア時代"に固有のものなのだろうか。
少なくとも(マルクス主義を含めて)在来の社会認識ないし歴史感覚においては、それは"ブルジョア的"なものとされ、その是非の両論とも階級的な性格を持つとされてきた。
"ブルジョア的"という形容詞が即「資本主義的」という意味合いを持つに至るのは、他ならぬ資本主義的な社会経済的諸関係が支配的になって以降のことである。しかしこの語は、西欧大陸諸国では、中世以来の社会的存在であるブルジョア(bourgeois)の生存様式を固有の属性とするものであり、それ自体が単に経済的なものの一義性に浸されるものでもなく、根底的に社会的であり、特殊には文化的であるところの人間の歴史的な存在を意味している。
本稿は、西欧でのrブルジョアジー」の歴史的実存形態を時代と地域ごとに検討することを固有の課題とするのではなく、それがどのようなものを基礎概念とする社会的存在であったかをあらかじめ示しておいて、主題の展開をこころみるものである。
ここで「ブルジョア」とは、私的所有の相互的承認による自覚的な社会形成を行なう作用主体であり、そのかぎりで、相互に自由かつ平等な人格を法的に享受する諸個人である。
200年前のフランス革命がどのようなものとして再評価されるかという点で学問上の論争が行なわれるとき、ごく一般の諸個人や諸家族の間で個人史や家族史が語られ論述され、アカデミーでの革命史論に資料的かつ歴史観的な反省を迫っている。フラソス社会党政府が、自由・平等・人権・民主主義をフランス革命の提起した世界史的価値と称揚し、自由・平等と並記されてきた友愛について語らず、また所有についても語らなかったのは、現時点の社民党政府の政治的判断の在りようを物語っている。
「友愛」はこれまで政治的民主主義を越えた社会主義ないし共産主義への橋渡しとなる標語とされてきたが、それが平等と一体となって独走するとき、遠くはバブーフの「陰謀」、近くは19世紀社会主義ないし20世紀共産主義への架橋ともなった。またジャコバソ独裁はロシア革命でのプロレタリア独裁の先駆形態とされてきた。いま、このことへの警戒心が強く政論家たちの間に働いている。他方、自由・平等は、所有と結びつけられずに、人権→民主主義に直結され、優れて政治的なものへと昇華している。
ところがフランスの地方各地では、政府主導の行事とは別個に、その地方の近世史上の画期となった時期として革命史をとらえ、その見地からする諸種の行事が進められていた。
私は、ブルゴーニュ地方やペリゴール地帯の諸都市で、町をあげて行なう時代祭りに招待され、その地域の歴史における一時期として革命期をとらえることの意味に改めて気づかされた。
フラソス革命は優れてフラソスの革命であって、それ自体としてはなにも世界革命であるわけではなく、むしろフラソスにおける国民国家の完成過程の一局面である。私はこう押さえることの自然さをそこにおいて痛感した。
このことはまた、社会的基礎原理としての所有が自由・平等と不可分であるということの具体的姿態がどうあるか、あるいはどうあるべきか、という問題が近世以降絶えることなく問い続けられきている、ということを思い起させて止まないのであった。
1989年の夏以降、東欧諸国に、円卓・フォーラム型市民革命が連動し、そこでは自由・平等・人権・民主主義が、既存の国家社会主義的な全体主義の否定のうえに、原理的に確認され制度的に法制化されつつある。そのなかで、まさしく所有が改めて問い直されるに至っている。
あたかも1989年がようやく暮れようとするとき、フランス人はもはや革命200年祭の祝賀をめぐる是非の議論に時間を割く心の余裕を保ちえなかった。めくるまうぽかりの激動が、東欧から伝わってくるからであり、それが、まさしく世界的な激動だからである。
それは、世界システムの形成が現に、いかに進行しているかについてのグローバルな把握を不可避な知的営為としている。と同時にそれは、よりリージョナルな課題の発見と解決の模索を不可避なものたらしめている。
"東欧"としての中部ヨmッパ諸国で、強制されたソ連型"社会主義"が崩壊するとき、それは、ソ連邦そのものに反作用してソ連邦における「社会主義」と「ソビエト」との国名からの正式除去をまねきよせ、一方でソ連邦の再編様式をめぐって、他方で私的所有の承認をめぐって、国民投票が大統領によって提起されるに至った。私的所有の承認が、社会主義に対立するものとされてきた以上、これはごく当然な措置であろう。
ここでは、「所有」が、どのような形態においてありうるか、また、どのような社会的規定性の法的表現として、ありうるかが問題なのである。
私たちは今ここで、所有を私的所有の一義性に於いてのみ把握する、まさしく資本主義的に私的な見地の持つ一時代的性格を、批判的に受けとめると同時に、所有の社会的所有としての在り方とは、どのようなものなのであるかを、歴史的に検討し直す必要の前にたっている。
このような問題視角から経済学史におけるフラソス革命というものを考察してみるとき、F..ケネーの所有論のもった歴史的意義を再確認する必要に迫られる。まさしく、このゆえにこそ、フユレの『フラソス革命批判辞典』では、ローザンバロンがフィジオクラートの所有論を現代の問題意識のなかに蘇えらせているのであった。
本稿で私は、1989〜90年における三度の東西ヨーロッパ視察を通じてえた問題意識と資料発掘の帰結を、提示していこうと思う。それが、1994年に予定されているケネー生誕300年を記念する行事へと連動することを念ずるものである。なお新資料の発掘は、年来の友人ジャックおよびイレエヌ・ピオジェ夫妻JacquesetIrenePiogerの積極的な努力にひとえに負うものであり、ここに改めてその友誼に深謝したい。  
II F.ケネーの個人史をつうじて

 

ケネーは重農主義の創始者であり、フラソス古典経済学の創建者と評され、その名はよく知られているが、その実像はあまり知られていない。
日本では、戦前に一、二の簡単な評伝が出された以外には、固有の研究にもとつくケネー伝は存在しない。欧米では、戦前におけるグスタフ・シェル『ドクトル・ケネー』(1907)が刊行されたほか、固有の評伝は存在しない。しかしそれ以前に、ケネーの理論的研究者であるA.オンケンが『フランソワ・ケネーの経済的政治的著作集』(1888)を刊行するにあたって、伝記的記述をそれに付している。また第二次大戦後、ジャクリーヌ・エヒトが『経済表』200年を記念して出版した『フランソワ・ケネーとフィジオクラシー』(1958)と題するケネー著作集において、その冒頭にケネーの評伝を付している。
後者は、著作集として前者の不備を補っており、またその評伝もオンケソとシェルのそれに比べて、各地の古文書館ないし市町村役場に保存された公的資料の探索にもとついて記述された出色の作品である。
1989年私は、革命記念行事さなかのフランスに滞在して諸種の現地調査を行なうなかでこのことを確認した。
一般の読者には知られなかったが、ケネーに関心を持つものの間で流布された、伝記にありがちな神話的物語が、このエヒトの研究によって多く問い直され、訂正されている。それぼかりか、ケネー家が系譜的に探求され、ケネー研究のうえで大きな文献史的寄与がもたらされた。
しかし、エヒトの論述は、エクゾースティヴな文献探索の処理に迫われていて、そこから滲みでる論点の積極的な開示をあえて控えているためか、学説史研究のうえにこれまであまり活用されなかった。
だが、このエヒトによる評伝は、新たな文献史的研究のなかで、しかも革命期および革命前夜の社会的文化的状況認識に関する視座の転換のなかで、今日、以前とは異なる地平での意義を持ちうるに至っている。
以下に私は、ケネー個人史の諸画期について私なりに知見し入手しえたことがらや原資料を紹介しつつ、本稿の主題に迫っていきたいと思う。
それに入る前に、ケネーの生涯(1694-1774)は、問題史的にみて、次の4期に区別することができることを指i摘しておく。
第1期 幼少年時代 / パリ近郊農村メレ
第2期 修業一外科医時代 / パリ・マソト
第3期 侍医、エコノミスト時代 / ヴェルサイユ宮中二階
第4期 エコノミスト / ヴェルサイユ市グラン・コマソ(→ 墓地)
これら諸画期での特徴的なことを、以下に項別編成して読者に示していく。  
1.ケネーの出生地と生年月日

 

(a)出生地
ケネーの生地は、パリ南西約30キロにある都市モンフォール・ラモーリとマントに近接したメレ村(現在のイヴリーヌ県一かつてのセーヌ・エ・オワズ県)であり、中世以来肥沃な農村である。13世紀以来フランス王がモンフォール・ラモーリに君臨するパリ・サγ マグロワー一ル修道院との間でその帰属を争ったところとして知られる。
その争いはとくに、その地の上級裁判権droit de haute justiceがどこに帰属するのかをめぐってであった。もっともよく知られる事件としては、1306年ジャソ・ジャグランという一住民が首を吊って自殺を遂げたのであるが、当時の習慣では、自殺者は教区内に埋葬されxず、改めて死刑宣告が行なわれて絞首台に移される。それを執行する権利が、フラソス王かモンフォール・ラモーリ領主か、と争われたのである。事件は、パリ高等法院に持ち込まれたが容易に決審せず、結局1310年9月4日判決が下され、モソフォール・ラモーリ領主がその権利を持たぬものとされた。しかし結審後もなお、この領主はこれに従わず、死体をさらって別の場所に吊した。
メレの歴史として顕著なことといえぽ、このあと17〜8世紀における最も著名な学者・医師の列に挙げられるフラソソワ・ケネーの出生である。
メレ市役所に備え付けられたパンフレットによると、ケネーはこの村で「ラブルール」ニコラ・ケネーの子として生まれた。父は農夫であり、時に商人でもあって、サンマグロワール寺院の収税吏を務めたこともある。この記述に従うかぎり、のちにフランソワ・ケネーの娘婿エバンが言いたてるニコラ=弁護士説は、ケネーの生地ではすでにシェル以前に、否定されていたことになる。
父ニコラとその妻ルイズ・ジルは13人の子供をもったが、我hのフランソワは第8子である。
(b)生年月日
フランソワは、1694年6月4日木曜日に生まれた、とされてきた。
この点は、80年後にかのミラボー公爵が「6月4日という彼の誕生日は、後世の人にとって祝日となるだろう」と述べたことにもとついて主張されるものらしく、これまでほとんどの伝記・評伝等で6月4日説が採用されている。しかし、それを公的に証明するものはない。
当時、新生児は洗礼を受けることが義務づけられており、その日付が教会保存の洗礼簿に記載されている。ときに出生日がそこに追記されることもある。ケネーの洗礼簿ではどうなっていたのか。
次ページに掲げる資料は、その原簿である。
この300年前の司祭のペン書きを判読したものが、資料である。
この古文書の中葉にスタンプが押されている部分に目をこらしていただきたい。そして次のタイプ文第1行目に`cinquieme jour de juin'とある記述が、`vingtieme'と訂正されていることに注意されたい。
原簿第1行目の第3語を`cinqui6me'と読むか`vingtieme'と読むか、が問題になるのである。
これが、`cinqui6me'と読まれるのであれば、出生日はその前日、4日ということになる。そしてこの日が、19世紀以来すべての文献において出生日とされてきたのであった。しかし、ヴェルサイユ市庁舎古文書館のル・メイヨソ氏の判読では、`vingtieme'つまり20日のほうが、判読されるかぎりでは正確だろう、とのことである。本稿がこれまで取り上げてきたエヒトも、これを20日と読み、洗礼日が15日も遅れている、と指摘している。
出生と洗礼とが、そのようにずれることがありえたことは否定できない。しかし、ケネーの父祖ニコラがサソマグロワール寺院の収税吏だと自ら名乗りながら、そのような遅延をあえてするということは、果たして自然なことだろうか。
中世のオルトグラフとしては比較的判読しやすい方ではあるが、最終の決め手は私たちの手に余る。
私はそのことをただ指i摘するだけで、それ以上の推論を行なわないことにする。
そして、ただ、次の一事を付け加える。
300年前のこの洗礼簿が教会に保存され、フラソス革命中にコミaソ(市町村)役場に移管されて今日に至っており、たまさかに尋ねてきた外国人の要請によっても、ただちに閲覧されうる状態になっている、ということこれである。
ケネーは、なにはともあれ経済学史のうえでは一学説の創設者であるが、フランス革命期においては一般に知られぬ外科医であり、エコノミストであった。そのような人物の出生が、公文書によって論じられうるというところに、300年という月日を通じてのetatcivilの公共性と持続性が生きている。そして、このことはそれ自体societe civileが王政期以来、全革命期をつうじて生成、持続、発展してきている、ということの一証左であると言}よう。  
2.ケネーはどこで死んだか

 

ケネーが死んだのは1774年12月16日であることは、これまで多くの論者が採用してきた見地であり、それを積極的に肯定する古文書がある。したがって、18日とする!、2の論者の記述は決定的に誤謬であることが確認される。
ヴェルサイユ市図書館に保存されていたケネーの埋葬書に、この点、次のように明記されている。
「1774年12月17日、Ecuier Conseiller du Roy(王顧問官候補)、medecin ordinaire et consultant de sa Majest6(国王陛下付き常侍医)フランソワ・ケネーが、80歳半の年齢で昨日死亡したので、以下に署名する司祭たる私の手によって、臨席する下記の者の面前で、当教区の旧教会〔ノートルダムの教会区所属の旧教会"vieille eglise"〕に埋葬された」。
次ページに掲げる原簿とそのタイプ文にここで注目されたい。
この古文書は、かつてA.オソケンが『ケネー著作集』において、ケネーがパリとヴェルサイユのどこで死んだかが不明であると書き残していることに対する最終的な回答である。かつてオンケソが、ケネー死亡の地につき明記するのをあえて避けたのは、ケネーの門弟たちの書き残した文書では、パリのミラボー侯爵邸での門弟葬に関する記述は多いが、ベルサイユで行なわれた葬儀については誰も論じていないからである。革命前夜の思想状況のなかで、このミラボー邸での弔辞または賛辞についての賛否の論がかまびすしかったのに対して、ヴェルサイユでは近親者と聖職者だけで葬儀がごくひめやかに行なわれたのであろう。
12月17日に埋葬された旧教会とは、"旧サソ・ジュリアソ教会"であり、ヴェルサイユ宮正面に向かっての手前右側に存在していた。
ヴェルサイユ宮とその周辺の地図を参照されたい。
この旧サソリアソ教会は、実はノートルダム教会よりも古い教会であり、20名以上の著名人が埋葬されていたことが「ヴェルサイユの歴史」(ヴェルサイユ市立古文書館発行)に記載されている、一種の聖地である。しかし、革命期をつうじて放置され破損するがままにおかれて、今日ではその姿を地上に止めていない。その土地が、地図上の区画として明記されているため、今日そこを推定することができる。
今日では、数件の民家の庭地となっている。 
3.最後の居所グラン・コマン

 

彼が死んだのは、ヴェルサイユ宮殿正面玄関を一歩前にでた右側の建物、グラン・コマソにおいてであった。そこは、王族の賄い方のために作られた建物であった。のちに陸軍病院、今日では普通の公立病院となっている。
ケネーは、そこに、医者の資格で最後まで居住した。言い換えれば、宮殿内では医者としての最高に近い地位を失ったが、まったく無役で宮殿から放り出されたわけではなかった。
1764年、彼を庇護したポソバドゥール夫人が死去して以来、彼は、医師間の陰湿な競争関係にからまった政治的対立のなかで、かつての勢威を失ったが、ルイ15世が生存するかぎりTたとえ医師最高の地位たる侍医長就任への道は閉ざされていたとはいえ、既得の地位を失わないでいた。
しかし、1774年5月10日におけるルイ15世の急死は、この凋落傾向に最後の止めをさした。新しい王ルイ16世は、ケネーがポンパドゥール夫人の信任した侍医であることをとくに忌避した。また小麦騒擾guerredebleへと傾斜する穀物事情の悪化のなかで、ケネー一がフィジオクラートたちの"セクト的自由化活動"の機関誌Ephemeridesの庇護者であったことを嫌ったのであった。
ケネーは、この時から宮殿を離れてグラソ・コマンに移り、その二階にあてがわれたアパルトマンに住んだ。寝室と食堂と書斎がある比較的広いアパートであった。ケネーはそこで、弟子たちと接見のひとときをもった。
1774年8月25日、チュルゴーの総理大臣就任をケネーが知ったのは、このグラソ・コマンにおいてであった。9月13日チュルゴーが穀物取引の自由を宣言するのを聞いたのも、この部屋であった。ボードーの編集したNouvelles Ephemeridesの第1巻の見本刷りをケネーが見たのもここであった。彼はそこにおいて自分の執筆した、かの「マクシム(農業王国の経済統治の一般準則とそれら準則に関する注)」が新しい姿であらわれるのを見たのであった。
しかし、12月に入り、若いときからの持病K痛風"が昂進し、彼を不眠状態に陥らせた。
病状悪化の報せがパリに伝わり、ボードーが馬で駆けつけた。ケネーはそのころ、数日来誰とも会わず、誰とも話をしたことがなかったのであるが、ボードーを見るや元気がで、「学派」と「新聞」の噂についてのニュースを求めた。
ボードーが去るや、急に気力が衰えていった。幸い14日に、かねてケネーが関与してきた新しい外科医学校(現在の医学部)の創設儀式が行なわれたという報せが届いた。それを伝えたのは、彼の二人の孫、Quesnay de BeauvoirとQuesnay de SaintGermainであった。この二人は、常備近衛兵gendarmes de la garde ordinaire du royの任にあった。自分の推挙によって公務職に就いた近親者から、門弟たちの政治的勝利(一時的でしかないのだが)と、医学教育上の成功とを、ともに知ることができたのは、彼の生涯にとって最後の喜びであったに違いない。 
4.ヴェルサイユ宮の中二階

 

ケネーは、マントの医師としてその知的ならびに技術的な能力をかわれて、その地域の領主duc de Villeroyに召しだされていたが、たまたまポソバドゥール侯爵夫人付き女官エストラード伯爵夫人が大公と行をともにするなかで、癩痛を起こしたのを治療したことが縁となり、ポソバドゥール夫人付侍医として1749年春、ヴェルサイユ宮に入った。
エヒトの評伝によれぽ、ポンパドゥール夫人は、はじめ、かつてのシャトルー夫人の部屋に居住していたが、そこからパソチェヴル大公夫人の部屋に移っていた。そして、ケネー博士に、新しく彼女の部屋になった場所の中二階に1つの部屋をあてがった。
1989年ピオジェ夫妻と私どもの調査依頼に応じてヴェルサイユ宮博物館保存官補佐マダム・ウッグのもとで、"中二階rの調査が進められた結果、次のことが判明した。それは、ヴェルサイユ宮正面にむかって、中央部が右翼と接合する地点に存在した侍医部屋であり、1830年代におけるシャルル10世の宮殿改造によって取り除かれ、今日では存在しない。ただし、中央部反対側に同一構造のものが現在も残されていて、これを見ることができる。内庭に面しており、王の私室にすぐ近接する。
1989年9月20日、未公開部分に属するこの部屋を含めて、ポソバドゥール夫人関係の部屋を見学することができた。ケネーの"中二階"とは、伝えられる通り、ポソバドゥールの住む1階の部屋のすぐ上に造られた高級召使部屋である。高さは2メートルに達せず、広さも6畳間に満たない。
どのような資料をもとにしてエヒトが描いたのか不明であるが、中二階の部屋は、数歩あるけぽ反対側の壁についてしまうほど狭く、暖炉だけが唯一の遺物となっている、とされているが、おそらく真実に近いだろう。デェポンやマルモンテルが書き残しているように、「とても狭い部屋で、それを彼は書斎にして使っていた」。狭く暗い部屋、それは想像以上であった。
資料は、所狭しと並ぶ図書や書類に囲まれ、机の片隅で本を読み物を書くケネーを画くものである。ただし、この絵の作者は不明である。この絵は、1891年7月7日という日付の入ったモンフォー一ル・ラモー一リ郡人民協会総会議事録の冒頭に掲げられたものである。
ポソバドゥールが最初に居住した部屋は、資料の地図最上部にある部屋であって、そこには、王や寵姫の通う狭い秘密通路があり、1階と3階の間には、cagevolant(吊り籠)と呼ぽれる手動のエレベーターが備えてあった。
ケネーは、この王宮の中二階に住んだだけでなく、ポンパドゥールの行くところは必ず随行した。フォンテソブロー、シュワジ、パリ等がそれである。それらの地の城館に残る家具台帳のなかに彼にあてられた部屋の名が記載されている。パリでは、ポンパドゥールの館(HoteDに彼は居住した。それは、もとのエブルー館であり、今日のエリゼ宮である。ポソバドゥールの死後には、ルクセンブルグ宮殿にあった彼女の娘婿の部屋にケネーが居住したこともある。
ポンパドゥールの在世中、ケネーがどれほど深く宮中の内密な人事交流に通じていたか、これらの居住場所をたどれぽ一目瞭然である。
彼は、1749年にベルサイユに入って以降、わずか3年にして常侍医頭となったが、最高の地位たる侍医頭に就任するには至らなかった。ただし1761年には、グラソ・コマン付医師の地位を兼ねた。
ポンパドゥールの死(1764年)後も彼は、中二階にあり、ルイ15世が死去(1774年初頭)するに及んで、中二階を去りグラン・コマンに移る。 
5.ケネーの家族

 

(a)先祖
ケネー家は、15世紀にモンフォールのラテン語教師を務めた司祭ジャン・デュ・ケネーという名を最初に記録にとどめている。16世紀には織物業を営んでいたらしい。16世紀の末、ケネーの曾祖父がラプルールとして生活し、また商業を行ない、しかもタイユの収税吏をかねていた。その子つまりケネーの父親は、ラブルールとして農業を営み、かつ小規模の商業を行なっていた。この父親の時代、ケネー家は比較的に裕福な状態にあり、メレのサン・グロワール街に居を構えていた。その住居には、2つの寝室、1つの穀物倉と地下倉、そして1つの納屋があった。《家全体が屋根瓦で覆われて》いて、中庭の奥には、馬小屋と牛小屋があり、通りに面して店舗があった。ケネーの両親は、この家屋に住み、中庭先の店で雑貨や食品類の小売りをしていたらしい。同家は、牛と馬を数頭ずつもち、37ペルシュと25ペルシュの土地を耕していた。
〈付論〉
父ニコル・ケネーの耕作していた土地は37ペルシェと25ペルシュであるとエヒトが算出した根拠は明らかではない。いま、もしこれが実態だと仮定して、これを『プチ・ラルース』に記載されている換算値で表示すれぽ、以下のとおりとなる。37ペルシュと25ペルシュはそれぞれ、7.4アルパンと5アルパンであり、合計12.4アルパンとなる(1ペルシュ=1/5アルパン)。これをさらに、1アルパン=25〜50アールで換算すると、310〜620アールとなる。
父祖以来のラブルールで、教会前で小売業を営んでいた父ニコラは、男女それぞれ1人の召使を雇い、教会、より正確にはサングロワール修道院の収税吏の役についていた。
以下に掲げる資料は、ケネーの生家と伝fられる家を写したものである(ただし、実際のケネー家は、数軒離れたところにあったという伝えもある)。
このニコルは、子供たちの教育にあまり関心をもたず、少年フランソワは、11歳になっても読み書きができなかった。たまたま日雇いで庭仕事にきていた者から『農業と農家』と題する当時有名な内科医シャルル・エチエソヌ・ジャン・リエボーの本を教えられ、爾来、学問への関心を強め、メレの司祭やモソフォールの司教に教えを乞い、パリに足をのばして書物を求めた、と伝えられる。
13歳のとき父ニコラが急死したので、勉強はますます困難になった。しかし彼は母親の許しをえ、パリで彫版師の資格をえて生計をたてようとした。努力してこの資格を得、それで生活しながら、ケネーは医学部やサソコーム外科医校の講義に登録して勉強を続けた。植物学・薬学・化学・生理学・数学・哲学が習得された。
1716年、彫版師の仕事をやめて、モソフォー一ルに近いオルジュビュスQrgebeusで外科医の実務を開始した。同時に彼は植物学に関心をひかれ、その勉学に努めた。
(b)妻と子
1713年1月8日、パリの商人の娘ジャソヌ・カトリーヌ・ドゥファンと結婚し、マソトで外科医としての生活を送った。
この妻との間に、彼は4人の子供をもうけた。
長男プレーズ・ギョームは、1717年11月18日に出生。サソマクル教会区で洗礼を受ける。
この第1子は長じてsカトリーヌ・デギュヨンと結婚し、ケネーにとっての5人の孫を残す。この孫の世代が、フランス革命期の怒濤を迎えることになる。
1719年、長女マリジャンヌ出生。サントクロワ教会区で洗礼。その洗礼証書が資料である。幼児にして死亡。
ついで、次女マリ・ジャンヌ・ニコル、1723年10月13日出生。姉と同様に、サントクロワで。
当時、サソトクロワ教会区は、サソマクルより位格が高く、町の知名人を受け入れていた。ケネーのマントでの地位が上昇していることの証である。この娘はのちに、外科医プリューダソ・エヴァソと結婚し、子孫を残す。
第4子は男であり、フランソワ・ピエールと名付けられ、1728年1月10日、コレジアル教会で洗礼を受ける。
妻ジャンヌ・カトリーヌは第4子の出生にあたって病をえ、出産後一月にして死亡。
当時の洗礼証書には、カトリックの習慣として名付け親の姓名が、その職業ないし地位とともに記されている。その記載から推して、洗礼を受けた子供の両親の社会的地位をうかがい知ることができる。
マントで死んだ妻は、コレジァル・ノートルダムに葬られているが、その残した子供の名付け親を見れば、この家族の縁者の地位はいたって低い。第4子の名付け父はラシャ商人であり、名付け母は雑貨屋商の妻である。第3子、第2子、第1子のいずれも、ごく普通の庶民であり、教会の収税吏ないし助任司祭の域をこえていない。
この点、ケネーにとっての孫の洗礼簿に出てくる名付けの父と母が、のちに示すように当代最高位に列する貴人であることと対照的である。
これらの点を確認するために、早世した二人の子マリ・ジャンヌとフラソソワ・ピエールの洗礼証書および妻ジャソヌ・カトリーヌ・ドウファソの埋葬書を比較されたい。
(c)孫一一革命期をはさんでのケネー家
ケネーは、メレ村の外科医からヴェルサイユ宮に入り、ポンパドゥール夫人付侍医、ついで国王付侍医として社会的な階梯をのぼっていくのであるが、(同時にエコノミストとしての活動も始めるのだが)この点はひとまずおいてsここでは、ヴェルサイユのケネーが、早世しなかった二人の子つまり長男ブレーズ・ギョームと次女マリ・ジャソヌ・ニコルに対して、親としてどのように配慮したかを見てみよう。
一言でいって、娘には同じ外科医とめあわせ、医師一家としての社会的昇進の道をひらき、長男およびその子つまり孫に対しては、徴税請負人等の有利な金融的活動に入らず、堅固な土地耕作地主としての道を歩ませた。また適当と見られる場合には、宮廷の公職に就ける道を開いた。
長男ブレーズ・ギョームの洗礼簿にのっている名付親は、教会の収税吏クラスの者である。
この慎ましやかな医者の子は、結婚するときには、勅命フランドル馬糧総督の公職にあり、その結婚相手は、元国王枢機官アソドレ・ジャック・デギヨンの娘マリアソヌ・キャトリーヌ・ロベルティエソヌ・ジョゼフ・デギョンである。
デギョソ家といえぽ、後年の大革命期における封建的権利放棄の一提唱者を生み出す開明的大貴族である。この名門と縁を結ぶことになる長子プレーズ・ギョームのためにケネーは、ニベルネ地方で一つの地所を購入する。
そのころ彼はすでに、王太子の天然痘治癒と医学に関する数多の著作を称されて、貴族の地位に列せられていた。アノブリル(anoblir)されたものは「高貴な土地を購入する権利」を有していたので、ケネーはニベルネー地方において、ボーヴォワールという土地を購入した。この土地は、サンジュルマソ領主権、サンルー領主権、グルウェおよびボールペールの領主権を備えたもの(この意味で高貴な土地)であり、元国王枢機官ルイ・ボフイル・ボンフィルの未亡人マドレーヌ・オリビエ・シモソに帰属するものであった。
1754年、ケネーは4万リーブルを払って、この土地をブレーズ・ギョームに供与し、息子は毎年2000リー・ブルずつ返済した。翌1755年1月、この契約が完了した土地のうち、サンルー領主権は、これを他人に譲渡する。
この土地は、ヌベールから6リュゥー離れたサンジュルマン・アン・ビリ教区に所在し、そこの所有者が居住する城シャトーには、7つの部屋と広間、書斎、納屋、馬・牛小屋、菜園、流水路、噴水等が備わっていた。ブレーズ・ギョームは、このドメース(館)に妻と居住し、その義母であるデギヨン家のキャトリーヌ・ドーファンの財産を相続することを放棄してまでして農業経営に専念し、よき成果をあげた。この意味で、父ケネー以上に彼はフィジオクラートであった。父ケネーはといえば、自分で耕作地主になったことはなかった。
のちに「マブリがケネー攻撃を行なった際に、ケネー博士は、自分の地所の収入増加をはかるために良価説を唱えた、というのはまったく基礎がない」とエヒトが証言しているのは興味深い。
このブレーズ・ギョームには、5人の子供があり、第1子ジャソ・マルクは、ヴェルサイユで1750年1月20日に生まれ、同月24日ヴェルサイユ・サンルイ教会区で洗礼を受けた。その名付け父は、軍事大臣ダルジャンソソ伯爵であり、その名付け母は、なんとポンパドゥール侯爵夫人である。これが、ケネー・ド・ボーヴォワールと称していく。
このジャン。マルク。ケネー・ド。ボーヴォワールは、革命期にサソジェルマソの市長となり、立法議会ではニエブル選出の議員となった。妻との間に子供がなく、1803年二人とも相次いで病死(妻10月30日、夫11月1日)。ケネーのこの孫夫妻がジャコバン独裁の狂気の時期を生き、ナポレオンの皇帝即位直前期まで生存していることは確認されてよいだろう。
第2子ロベール・フランソワ・ジョゼフは、その父がまだ公務についていた時期、つまり食糧・馬糧官だったころ、バレソチエソヌで1751年1月23日に生まれた。この子は長じて、ケネー・ド・サンジェルマソとなる。
このロベール。フランソワ。サンジェルマンは、コレージュ・ド・ヌーベルで農家経営に関する優れた学業を修め、祖父ケネーによってヴェルサイユに呼び出される。のちポーランド大使マサロスキーに同行して、ポーランドで農業指導にあたる。帰国してテェルゴーによって抜擢、デュポン・ド・ムールの統括する部局CourdesAidesの長とる。しかし、恐らく、テユルゴーの失脚にともなって、その地位を失ったのであろう。ソミュール近辺のパサソジュに引退。
そこでは1783年にCour Souverainede Saumurの長官に任じられ、のち立法議会にメーヌ・エ・ロワル選出議員として加わり、"穏健派"として活躍。1792年8月、パリでの政争から身をさけてバサンジュに帰り、判事に選出され、またソミュール地区裁判所長となり、ナポレオンの皇帝戴冠式に列席したのち1805年4月8日バサソジュで死去した。
この人物は、父祖ケネーの原理(フィジオクラシー)を、スミスから借りた表現で変容させた。
一説には、イギリスから伝って来たフリーメーソソに加わっていたといわれる。
ブレーズ・ギョームの第3子フィリップ・ジェルヴェス・マリー・ケネーは早世。第4子アレキサソドル・マリ・ケネーは、1776年、科学絵画アカデミーならびに国王にメモアールを提出。翌1789年、パリ市やヴェルサイユでの騒乱に立会い、のち軍務についてデュムリェ将軍とともにアルゴソヌに出陣。歩兵大尉として、かのバルミーの戦いに参加。1794年、軍職を引く。ただし、パリ地区徴税監督官の地位についたことがある。ナポレオソ帝国の崩壊する1815年2月、セーヌ県のサソモーリスで死去。
最後にケネーの血縁をたどってエヒトが作成した家系図を掲げておこう。
〈付論〉ケネーの娘婿
娘マリ・ジャンヌ・ニコルは、1740年、すでにメトル・シルルジアンとなっていた若きプリューダソ・エヴァソと結婚。ケネーは、自分の就任していた外科医アカデミー書記の地位をこの娘婿に譲った。ついで皇太子付侍医の地位を得させる。
マリ・ジャンヌ・ニコルは、今やエヴァソ夫人としてヴェルサイユで3人の子供を生むが、それぞれの子の名付親には、各界の名士がそろっている。第1子の場合は、サソフロラソタン伯爵とエストラード伯爵夫人。第2子の場合は、マショダソヴィルとポンパドゥール夫人令嬢ジャソヌ・アレキサンドリーヌ。第3子の場合は、デギヨン侯爵ルイ・ド・ノワイユと、なんとポンパドゥール夫人その人である。
エヴァン夫人洗礼簿には、名付親の職として教会収税吏の名があがっていたことにかさねて注意。
革命前夜の絶対王政期において、1ないし2世代の間に社会的な昇進(と没落)がいかに急速であるかの一証左がここにある。
エヴァン夫人は、1761年4月4日、第4子出生にあたって、お産の床で死ぬ。
この娘婿は、その後再婚するのであるが、ケネーは、その最後の地位グラン・コマソ付き医師の地位を彼に贈った。
このエヴァンはs死の床にあるケネーの側にあり、埋葬に立会う。医師としての同業者意識も手伝ってか、岳父の生涯を神話化するような賛辞や伝記的記述を残している。 
III societe civilとsociete politiqueとの接点としてのpropriete

 

1.革命の所有史的展開 
ケネー家が、その前夜と終末を身を以て体験したスランス革命とは、どのようなものであったのか。これは言うまでもなくsいつフランス革命が始まり、それがいつ終わったかという一般的問題の説き方にかかるものである。
フランス革命とは結局、所有の形態の変革だ、と指摘したテーヌの有名なテーゼは、革命史学の左翼的傾向のなかで、きわめてブルジョア的に一面的なものと解されてきたが、これは、通俗的に解釈されたマルクス的陛級史観とどこかで通底している。テーヌのテー一ゼがいまもし、ブルジョア的なシニズムであるとすれぽ、フランス革命を封建制と近代資本主義社会との分節=連節の過程とみる歴史観は、所有のもつ経済的・社会的・政治的な意味内容の不十分な把握に立脚している。
私たちはここで、フランス革命にきわめて深い関心を抱き自らの革命史論として取り上げるべき諸論点を草稿に書き残したマルクスのことをここで思い起してよい。彼は、経済学研究を通じて、所有のもつ上記三義的意義を検出し、それを1 自然に対する対象的自己活動による自己自身の獲得approprier、2 そのような対象的に自己獲得する主体が帰属する種族Gattungswesenの自己産出、3 その種族内での独自的な相互意識ないし相互承認である、と分析したのであるが、そのぽあい1は、総じて生産活動であり、2 は、社会関係の形成過程であり、3 は、法関係の原基的措定であるのであった(拙稿「循環=蓄積論と歴史認識」『経済学と歴史認識』岩波書店、所収)。
所有が、もっぱら権利として意識されるのは、ブルジョア的社会諸関係が資本主義的な経済関係として独走的に成熟し、ブルジョア的に歴史的な法関係が超歴史的な自然法として物象化している場合である。このことは、所有が上記の三義中の最終規定に一義化するということである。そして、この意味での所有が日常的意識のなかで自明化されていると批判的に自己了解されるのは、資本主義的諸関係が動揺する社会的・政治的な危機においてである。そして、そのような自己了解それ自身が、すでにイデオロギー的自己変革に他ならないのである。ブルジョア的所有関係が絶対王政のなかで成長してゆき、この王政の制約を乗り越えようとするとき、それはそれ自体の内包するイデオロギー的形態をほとんどマニケイスムに等しいまでに絶対化しがちである。そして自らに立ちはだかるものを暴力的にさえ払いのけようとする。
その前に立ちはだかるものとはとくに、在来の社会関係であり、政治形態である。そしてまた、その三者に関連する財政ないし租税形態である。フラソス革命はいつ始まり、いつ終わったかという問いを立てるとき、その前には、仔細にえぐりだせぽつきることのない多数の歴史的事実がある。しかし、それらの全てを通じて、所有の三義性が最もドラスティックに問題化されたことをもって革命の発端とし、この三義性が最もラディカルにその形態を転換させて安定していくことに革命の終焉を見いだしえて初めて、革命の始期と終期を確定しうるのであると思われる。
そのような観点に立つとき私たちは、1788年の時点におけるカロソヌとブリエソヌによる財政改革と社会的特権廃止ならびに高等法院に代わる名士会の開催、その国民議会への脱皮をもって革命の発端とみることができる。そしてその終期としては、ナポレオソによるかのブリュメール18日、すなわち軍事独裁による総裁政府の消滅、ナポレオソ民法典の制定、第1帝政の成立をもって革命の最終過程の終了と見ることができるだろう。
ここで私たちはf革命の端緒をなしたカロソヌとブリエンヌの改革とその挫折をほんの少しく顧みてみよう。
カロソヌが財務総監として国王に提示した改革案は、1 財政上の貴族・聖職者の特権廃止、2 国内関税を含む消費税の廃止、そして何よりも土地単一税の創設、3 穀物流通の対内的対外的自由の実現であった。これは、ケネーのフィジオクラシーを政策化したものである。ほぼ10年前のテユルゴーの政策を、より追い詰められた経済的・政治的・社会的条件のなかで、再実施しようとするものであった。しかしそれだけに、テユルゴーの時代とは異なる政治的抵抗がより深刻な形で出現していた。
改革案は在来の社会関係の基本に触れざるをえない。それだけに、それが国王の法令として行政官僚から提示されてもパリの高等法院によって法令としての登録を拒否される惧れが多分にあった。土地単一税の創設と国内穀物関税の廃止も、各地方の高等法院において承認される必要があった。
案の定カロソヌ案は高等法院の反対にあった。これに対抗するためカロンヌは、名士会を開催することにし、その構成員を政府で任命したのであるが、その名士会がなんとカロンヌ案を否決したのであった。国王ルイ16世は、カロソヌを罷免して、代わりに名士会での反対派指導者トゥールーズ大司教ロメニー・ド・ブリエソヌを財務総監に任命した。しかし、この新宰相が提示しえたものは、ほとんどカロソヌと等しい方策であった。つまり、土地単一税の徴収、貴族特権廃止、穀物流通の自由、コミュソ(市町村)およびプロバソス(州)での議会創設がそれであった。
なぜ、代替案がなかったのだろうか。
それは、絶対王政の危機が、そしておよそ封建制の危機が行き着くところまで行き、特権階級出自のものであれ、およそ行政の責任者である以上なさねぽならぬことは、なさざるをえず、見なけれぽならないものは目を背けてはならないのであった。つまり、租税を負担して国家を養うものは社会的物質的剰余でしかなく、人間生活の必要物資は、自由に生産され自由に売買され自由に消費されるほかない、そして個人間の社会的政治的な合意は、議会での決議という形式をとらざるをえないのであった。
ブリエンヌがsコミュンとプロヴァソスでの議会の創設を提示したとき、高等法院はこれに抵抗した。同時に、従来の名士会に代わる全国三部会の召集が、そのころ出版されはじめたパソフレットや新聞において;声高に要望されるようになった。アメリカ革命の英雄ラファイエットは、その人格的化身として振る舞った。もはや国王の高等法院への親臨による強制的な登録も無効だと高等法院によって宣言される事態が出現していた。それは同時に地方各地の高等法院のパリへの連帯表明を呼び起こしていた。しかもそれは全国的な騒乱状態と軌を一にしていた。ブリエソヌの罷免とネッケルの大臣職への復権。そしてネッケルの再度の失脚。
ここに見られるものは、財政問題を解決するための方策は単に経済問題であるだけでなく、社会的にして政治的な諸エレメソトを包摂しているのであり、それは一方で、領主裁判権・封建的諸特権の廃絶→能力の不平等を認識したうえでの所有の権利としての平等性の相互承認→ 地方自治体および国民共同体の自覚的形成の過程である。また他方では、高等法院→全国三部会→ 国民議会という合意形成機関の全国民化の過程である。この二つの過程は相互に関連しあい、対外的な紛争によってその対内的な危機の深さが倍加されていった。逆にまた、この対内的な解体過程は、新しい国民的再編過程に転換しつつ新たな対外的関係の創造に向かっていく過程でもあった。国内における革命の絶頂期において、対外的関係は最悪化し、対内的な革命終結期は同時に、世界帝国の形成期に連動する。そしてこの帝国の解体は、対内的に王政復古へと反転する。すなわち革命そのものの否定に帰着する。
私たちは、1789年に先んじたカロソヌ・ブリエンヌの施策とその挫折において象徴されるアソシャン・レジームの内部崩壊は、1789年7月における人民によるアンヴリッドの武器奪取と、それによるバスチーユ攻撃によってドラマ化され、さらに8月4日の国民議会におけるノワイユ子爵とデギョン公爵の自発的行為としての封建的権利の放棄、そして市民権と人権の宣言という革命詩に開花していく。
そこには、かつてフィジオクラシーとして理論化された社会e歴史認識のロゴスが垣間見られる。今日ローザンパロソが、フユレの『革命批判辞典』において、フィジオクラシーと立憲議会との関係の深さを再確認するのは至当である。「18世紀の巨大な自由主義的諸潮流のなかで、とくにフィジオクラートの寄与、中でも普遍的な土地単一税論が、ボアギsベールやヴォーバン以来、交易と経済発展を阻害する消費税に対する批判・論難に結びついた」(前掲書、p.804)。そして、財政改革が市民権要求へと展開していくことこそ、イギリスでもアメリカでも、その市民革命期に見られたことであるが、それがここでまさしくフラソス的形態をとって現われ出たのである。いま私たちは、カール・マルクスが次のように指摘していたことを、改めて確認してよいだろう。「フランス人は、租税体系についての真に歴史的な民族である。しかもフラソス人は、あらゆる場合に物事を一般的観点から法制化し、単純化し、しかも伝統を打破した民族である」(「エミール・ド・ジラルダソ著『社会主義と租税』によせて」)。「土地所有の外見的賛美が、実践的には急変して、リカードォ学派の急進分子の思想と全く同様に、租税はもっぱら地代に賦課せよということになるのであh、その意味するところは、国家による土地所有の潜在的没収である。フランス革命は、レーデレルその他の抗議にもかかわらず、この租税理論を採用した」(『剰余価値学説史』)。 
2.ケネーの所有論

 

フィジオクラシーの始祖ケネーにとっては「各人が自分の利害関心や財力ならびに土地の資質に見合った生産物を、自分の畑で、自由に耕作する」自由を確保されてこそ、そこに産出されたものを、「対内・対外の両面で自由に交易しうる」のであり、そのような生産圏と流通圏において「所有権の安全」が確保されることこそ、「統治の要諦」にほかならないのであった。このケネー原則は、所有の三義性をまさしく言いあてたものであるといえる。
このことを確認したうえで、ケネーの所有論が、まさしくフラソス的なある特質を備えていることに注意せねばならない。
その1。彼にあっては、「土地の所有者と耕作の前払いの所有者とが、双方ともに等しく所有者でありsこの点において、格式が平等である」(「マクシム」第15の註)ことが、積極的に語りだされている。つまり、動産(事実上の生産資本)の所有者が不動産の所有者と全く対等とされており、所有は社会の経済的秩序の本質的基礎とみなされている。これは、ブルジョア的平等性に宿りうる資本主義的性格を積極的に評価し、それを原則化することに他ならない。
その2。ケネーにあっては、「土地の生産物は、三種の所有者すなわち国家と土地の所有老と十分の一税徴収者とに分配される」(「マクシム」第5の註)のであって、この三者間はco--proprietaire共同所有老の関係にある。このことは、ケネーにおける私的所有権概念の未成熟を示すものではない。そうではなく、土地の産出する剰余こそ、政治社会を、市民社会とともに、しかもそれとは異なって、成立させるものだ、とそこでは主張されているのである。したがって、ケネーにあっては、土地所有者が純生産物の自己の取得分以外のものを国家の必要とする租税として収納し、また聖職老への祭費として収納するのは、当然なのである。個人所有者として、教区として、また国民国家として全所有老が、その帰属する種族Gattungswesenとその天地を維持しえてこそ、全てのことが成り立ちうるのである。
上記二つのことを主張する点で、ケネー所有論は、まさしくフラソス的であり、同時に、それゆえにこそ、フラソス革命前夜の危機を照射する理論的基準になりえている。
このような理論的基準を理論体系上の原理としているからこそ、彼は、一見、土地所有者の擁護者のように見えながら、逆に現実の土地所有者への厳しい批判家として理論的に立ち現われていたのであった。彼が次のように書き残していることを、私たちは忘れてはならないだろう。
「租税が土地の収入からのみ取得されるべきことを、地主たちは、自らの無知な貧欲のために認めることができなかった。貴族と聖職者とは、制限負担や無際限の免税を要求した。しかもそのような措置が彼らの財産や身分からして当然であると抗議していたのである。主権者の方もまた、特権階級の官職保有者や政府のあらゆる行政諸部門で、職務や役職についている全ての人々に全面的な免税を行なうことが適切であると考えた。このような措置のため、国家収入はきわめて貧弱な水準に陥り、ついに主権者が諸種の間接税に助けを求めるようになった。… … ところがこの間接税の発達と、その不幸な結果のため、国庫の欠乏を満たすために間接税と直接税の双方が次から次へと増徴されねばならなくなった。」(「第2経済問題」)。
革命の発端は、単に王権に対する貴族の反乱として起こったのではない。法服貴族と帯剣貴族、国王と貴族、貴族とブルジョアとの間における全対立が、アンシャン・レジームの末期を彩っていた。1780年代における行政官僚の代表者が、法服官僚の抵抗によってその支配力を消滅させられ、この後者がまた、国民議会に転生した全身分会構成者たる市民citoyenによって乗り越えられるのは、その政治的ドラマトゥルギーである。
ケネーは、国家論としては何よりもまず、「市民諸階級間の分裂が恣意的な専制君主の成立を許すようなことがあってはならない」と主張し、同時に、大地主が支配する「アリストクラシー」も、無知な下層民が支配する「デモクラシー」も、アナルシーと無秩序を引き起こすものとして、これを否定した。さらに、アリストクラシーとモナルシーとの混合形態も、さらにまた、アリストクラシーとデモクラシーとモナルシーの混合形態も否定したのであった。前者はおそらく、ブルボン絶対王政の混乱を示唆し、後者はイギリス議院内閣君主制の自己欺隔を示唆するものである。「支那専制政治論」において彼が展開したデスポティズム・レガルのテーゼは、絶対権力の空洞化を見通す理論装置であり、その理論の根底として彼が措定した自然権論は、能力の不平等の認容のうえで権利としての所有の平等性を積極的に主張するものであった。フィジオクラシーにおいては、自由主義は、平等主義の無際限の独走を予防する理論装置を備えていた。だが逆に、経済的リベラリズムが一面印に政策化される余地を残していた。
ケネーの直接の弟子たちは、デュポンを始めとして、穀物取引の自由を、時と場所を顧みずに、原則的に振りかざす傾向があった。いわぽ、市場原理の導入を一面的に主張したのであった。しかも、土地単一税については、理論として語るに止め、政策的提言を行なわなかった。
危機の深まった80年代においては、単一土地税制の実現こそ緊急不可避であることが、貴族階級出身の行政官僚によってさえ自覚された、そして実現されようとした。しかもこのことがまた、市民権要求を最も直接的で原理的な闘争主題としていくのであった。
そのような過程のなかで顧みるとき、ケネーとルソーとの意外なまでの近さを確認してよいだろう。この両者にあっては、社会形成が富者と貧者との間の形式的平等性のうえでの実質的な支配隷従関係の進展として進められるものと認識されているのであった(拙著『経済科学の創造』岩波書店を参照されたい)。この点マルクスが、『資本論』中の蓄積論においてあえて注記して、これを示すところである。なお、革命期のソルボンヌ教授J .B.モグラは、他ならぬルソーが「所有権は市民社会の真の基礎であり、市民の政治参加の真の保障である」と述べていたことを指摘し、ルソーを所有権の否定者と見る平等主義老マブリの言説を否定していた。さらに同時代に11ルソー主義老"を自認していたロベスピエールやマラーの言説を批判していた。今日の私たちは革命期における彼の言明を真面目に受けとめてよいだろう。  
3.生誕200年祭におけるケネー評価

 

いまからちょうど100年前の1891年、数年後に控えたケネー生誕200年の記念行事を行なう組織が形成され、そのイニシアティヴでメレ村の中心広場にケネーの胸像が建てられることになった。また、それに前後して諸種の集会が催され出版物が刊行された。そのうちの一つとして、1892年7月10日メレ村の所属するMonfort1'Amaury郡の学校祭がメレで行なわれた。そこで発言した数人のなかに、ケネーの4代目の子孫が二人招待されていた。そのうちの一人、M.J.ケネー・ド・ボールペールは、比較的長い講演のなかで、次のように述べている。
「この思慮ぶかい精神の持ち主にとって、統治に心を砕かない市民citoyenというものは考えられませんでした。彼は、モナルシーという統治形態についてあえて言及することはしませんでした。彼の時代には、そのようなことを考える者はだれもいなかったのです。彼は絶対王政を断罪しました。しかし、これに対抗する自由主義的な予防措置を提案していました。一方で、彼はまた、この絶対王政に抗すべくf大部分の国民に教育と自治の手段を与えるよう努めました。これは、政治的な世論という対抗装置を創造することに他なりません。他方、彼は全国民的な自律性を保障する"必然の法"の網のなかに王政を封じこめました。彼にあっては、国王はまだ君臨するのではありますが、もはや統治するのではなかったのです。まさしくそこには、近代の到来があります。…… この法は、権利義務の同等性のうえに立つ自由の法であり、他面、所有の法であります。… …ここにケネーが所有と名付けるものは、蓄積された賃金にほかなりません。… …その安全を、国家は責任を持たねぽならないのです。…… このようなことをアンシャソレジームの最中で言う人を見いだしうるのは、また絶対君主の宮殿の中でそのようなことを言い、かつ書くだけの自律した精神の持ち主を見いだすのは、歴史を知るものにとってまことに驚くべきことでしょう。… … ケネーのこのような思想は、彼の世紀に固有な闘争のなかでは注目すべき事象であるでしょう。そして、その意図するところが破壊することではなく、改造し新たに築きあげることであったのは注目されるべきでありましょう。この点からして、多くの人hにとって彼が、フィロゾーフと呼ぽれていた人よりも優れているとされるのはもっともなことであります。革命史の初期において彼がとくに選ばれ、その著作から多くのものが学びとられたのは、以上の理由によるのです。彼の原理的な諸定言が、人権宣言のなかに取り入れられたのも同様です。近代社会の産業的憲章たるこの宣言に取り入れられて当然なのであります」("Assemblee Generale Annuelle de la Societe populaire")。
この曾孫の言は、必ずしも身びいきな誇張ではないだろう。19世紀末の第3共和制下ではフィジオクラシーが世に広く受け入れられていたのではない反面、熱狂的なルソー主義は、ひどく忌避されていた。このことは、1896年8月23日メレでのケネー彫像儀式における教育文芸省の代表者の講演からもうかがい知られる。そこでは、「ケネーの定言はフランス革命の出発点をなしていたのであります。8月4日の夜に封建的特権の放棄が自然発生的になされたのは、課税の不平等によって利益をえていた者でさx..、『経済表』の作者の格言の正しさを知っていたからでありました。この8月4日の夜、フラソソワ・ケネーの願いの実現にむかって、大きな歩みが一歩すすめられたのです」("L'inauguration du Buste de Francois Quesnay" dans Bulletin de la societe populaire du canton de Montfort l'Amanry)。
上に掲げた一文は、100年前に一地方で行なわれた記念行事での言葉にすぎないが、今日、視座の転換が迫られているフラソス革命史の再検討にあたって、その資とするのに吝かであってはならないものであるだろう。少なくとも私にとって、インパクトに満ちた時代の証言として受けとめられる。
ケネー生誕300年を数年後に控えている私たちは今日、ロシア革命が再審に付せられているのを目のあたりにしている。新資料の発掘が一面的強調へと落ち込むこのとを自戒しながら、視座の転換そのものを不断に自己吟味する必要の前にいま私たちは立たされている。それをどう果たしうるか、自らに向かいつつ、古典と現代との間の往復運動を試みていかねぽならないと、自らに言い聞かせつつ、ここに筆をおくこととしたい。 
 
経済と倫理 / アダム・スミスから学ぶ

 

経済学の祖アダム・スミスが『道徳感情論』において論じた人間観と社会観を考察し、その考察にもとづいて『国富論』を検討する。それによって、スミスが『国富論』で用いた有名な言葉「見えざる手」の真意を問い直すとともに、自由放任主義者のイメージとは異なったスミスのイメージを示す。また、二つの著作を通じてスミスが発信するメッセージは何かを探り、その現代的意義を考える。  
ご紹介にかえて

 

本日、ご講演いただきます大阪大学大学院経済学研究科の堂目卓生教授をご紹介いたします。
ロータリーの職業奉仕の会合で突然アダム・スミスの名前が出てきて多少とまどっておられる方もあると思います。
殆んど全てのロータリアンの皆さんは企業や事業の経営者でおられます。昨年10月以降、突然、経済恐慌寸前のような状態に陥り、今日まで続いております。本日お集まりの皆さんも毎日の事業の経営に苦労されていることと思います。今日のテーマは「経済と倫理」でありまして、近代経済学の祖と言われるアダム・スミスからその人間理解と経済学の関係について学ぶことが必要であるとの観点からロータリーでこれを取り上げることといたしました。
堂目先生が最近お書きになりました「アダム・スミス」が大変評判となっていることはご存知と思います。私も一読して感動を覚えましたので、同じ大阪大学出身でロータリアンの畑田先生にご紹介を頂き、今日の運びとなったことを感謝いたしております。
アダム・スミスは250年程前のイギリス、スコットランドで活躍され、母校のグラスゴー大学で倫理学、心理学、道徳哲学の専門家でありました。近代の経済学はそもそも倫理、道徳から始まったものであります。
また、ロータリークラブが誕生する1年前に発刊された「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いたマックス・ウェーバーも実は倫理学の先生でありました。経済と倫理はその始めから密接につながった概念であります。ロータリーの100年の歴史も、その葛藤の中で様々な変化を遂げてきた実績があります。「経済と倫理」は今、最も新しいテーマであると考えまして、堂目先生に御出場をお願いした次第です。
そもそも経済とは人間が幸せに暮らすための方法であって、その基本は倫理、道徳に根拠をおくものであります。アメリカ発の金融資本主義の行き過ぎが世界を混乱に陥れています。アメリカの投資銀行を始め、大会社の経営者が数億、数十億円の年間給与、ボーナス、退職金を受け取っていると報道されています。片方で地球人口67億5000万人の40%が一日で2米ドル、その半数は1米ドル以下で生活しているとのことです。これは正に資本主義の堕落であると思います。  
経済と倫理 / アダム・スミスから学ぶ

 

ご紹介にあずかりました堂目でございます。国際ロータリー第2660地区職業奉仕委員長の皆様、このたびは私を地区協議会の講師としてお招きくださり、まことにありがとうございます。
私は、現在、大阪大学で経済学の歴史、主としてイギリスの経済学の歴史及び経済思想を教えております。今日は、私が昨年出版いたしました「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界」に基づいて、経済学の祖として有名なアダム・スミスが、社会と経済、あるいは人間というものについて、どのような考え方を持っていたかをお話したいと思います。
お話しは、次のような構成で進めていきたいと思います。
まず、第1に、スミスが生きた時代と、その後のスミスのイメージについてお話しし、2番目に、スミスの道徳哲学の中心概念である「同感」(シンパシー)の仕組みを中心に、スミスの人間観と社会観を明らかにし、第3に、それらの人間観・社会観に基づいて、スミスが市場というものをどのよう3
にとらえていたか、そして4番目に、経済成長の真の目的は何だと考えていたかをお話ししたいと思います。さらに5番目に、スミスが当時のヨーロッパの経済体制、すなわち重商主義体制と呼ばれるものに対して、どのような批判的意見を持っていたか、特に、当時起こったアメリカ植民地問題、アメリカ独立戦争の問題に対してどのような対応策を考えていたかということをお話します。そして6番目に、上記のスミスの思想から、現代の私たちは何をメッセージとして受け取ることができるかを検討してお話を終わりたいと思っています。  
アダム・スミスが生きた時代―アメリカ独立戦争とフランス革命前夜

 

先ず、スミスの生涯と彼が大体どのような時代の人かということを、お話しします。
1707年、スミスが生まれたスコットランドは、イギリスに統合されました。その原因は、それよりも19年前の1688年にあります。すなわち、名誉革命によって、イギリスはプロテスタント系の王朝を中心に、新しい政府をつくりました。そのために、カソリック教徒のルイ14世、すなわちフランスと戦争状態になりました。もちろん、植民地の獲得も戦争の原因になっていました。
地理的関係を思い浮かべていただければ分かるように、北からスコットランド、イングランド、フランスとあるわけで、スコットランドの中には、かなり多くのカソリック教徒もいるわけです。それで、イギリスは、南のフランスと北のスコットランドが手を結んでイングランドを挟み打ちにすることを恐れ、そうなる前に早目にスコットランドを統合することにしたのです。アイルランドは1801年に統合されて、イギリスはUK(United Kingdom)になるわけですけれども、それもやはりフランスとのナポレオン戦争中に、カソリック教徒が多くいるアイルランドから側面攻撃を受けるのではないかという恐れを抱いたためです。
さて、スコットランドの人々は、この統合をどのようにとらえたかというと、当然、民族自決を訴えて、統合に反対する人がおりました。主としてハイランドと呼ばれる北の方の人々、牧畜や農業を中心に生計を立てていた人々が、民族意識が非常に高くて、この統合を屈辱的なものとして反対しました。彼らの中の急進派は、ジャコバイト(ジェームズ派)と呼ばれ、名誉革命で追放されたジェームズ2世、およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を求めて、スコットランド国内あるいはイギリス国内で何回か反乱を起こしております。では、統合に反対する人ばかりだったかというと、そうではなくて、ローランド(エディンバラやグラスゴーなどが含まれます)の人々、港町周辺の商人や製造業者たちはむしろ、イギリスが大西洋に持っている貿易権に、スコットランド人も自由に参加できるようになるわけですから、この統合に賛成しました。
したがって、スコットランドは、民族自決をとるのか、それとも経済的利益をとるのかということをめぐって、二つに割れた時代であります。経済的繁栄、あるいは商業社会の拡大が、社会における諸個人の間のきずなを切ってしまわないかという、現代にも通じる問題が、既にこのころ、知識人の間で議論の的になっていたのです。  
イギリスの国債、国の借金の増大がもたらしたもの

 

スコットランドを統合したイギリスといいますか、統合しましたからグレート・ブリテンになるわけですが、イギリスがその後どのような運命をたどったかというと、18世紀に入ってからフランスと三度、戦争をしております。一つ目がスペイン継承戦争、二つ目がオーストリア継承戦争、そして三つ目が英仏七年戦争です。当時、フランスはヨーロッパ随一の軍事大国であったわけですが、イギリスは運よく三度とも戦争に勝利して、その結果、北アメリカからフランス勢力を一掃し、北アメリカをほぼ手中におさめることができました。
しかし、イギリスには大きな問題がありました。それは、戦争のために国債を発行し、国債残高が増加し始めたことです。18世紀及び19世紀におけるイギリスの名目国債残高の推移をみますと、18世紀の後半に、国債の残高が増えていることがわかります。しかも、その増え方は直線的ではなくて、階段的にふえているのです。なぜ階段状になるのかというと、それは戦争のために、あるいは戦争のたびに国債を発行したからです。
一つ目の階段状増加は、今言いました三つ目の戦争、すなわち英仏七年戦争のためにイギリスが発行した国債の額に相当し、二つ目の、それよりもやや大きな階段は、今日の後半お話ししますアメリカ独立戦争のために、イギリスが発行しなければならなかった国債をあらわしています。
3番目の階段状増加は、崖のようになっておりまして、フランス革命後の対仏戦争、あるいはナポレオン戦争のために、イギリスが発行した国債をあらわしています。その崖の頂点、すなわち1815年における国債残高は、推定で当時のイギリスの国民所得、あるいはGDPの約3倍、現在の日本の国債残高がGDPの1.7倍で、これも財政破綻するのではないかというぐらいの大きなものですけども、それに比べても、さらに大きな国債を発行していました。
今日は19世紀の話をするわけではないのですが、19世紀に入ってもその国債残高は、増えはしなかったものの、余り減りませんでした。減り始めるのは1870年以降です。これはどうしてかというと、国債を有期年金や終身年金に切り変るということを行ったからです。国債は売買したり相続したりすることができますが、それができないような個人年金に利率を少し上げて変えてもらうという政策で、国債の見掛け上の額を減らしたのですが、財政負担はそれほど減ることはありませんでした。
したがいまして、一度発行した国債というのは、なかなか償還したり削減したりすることは難しい。にもかかわらず、イギリスが財政破綻しなかったのは、1820年ごろから約50年間にわたって、年率2%から4%の経済成長を続けることができたからです。財政破綻しなかった唯一の理由は、経済成長です。意図的なインフレ政策はとっておりません。
さて、このような19世紀初頭の破滅的な状態に比べれば、1750年代、スミスの時代というのは、財政悪化といっても、未だましであったといえます。しかしながら、財政難の道が始まっていたことに変わりはありません。イギリス政府はもう財政難が始まっている、あるいは将来、より大きな財政難になっていくだろうと考えました。そこで、政府は、これまで税金をまともに払っていないイギリス人、すなわち、アメリカに移住したアメリカ植民地の人々に課税しようとしました。これに反発した植民地の人々は、1775年に独立戦争を起こし、そして、1783年にイギリスはアメリカの独立を承認しなければならなくなりました。これは、よく考えると大変皮肉な結果です。植民地を獲得し、植民地を防衛するために戦争をしてきて、財政難になった。植民地の人にその費用の一部を負担してくれと言ったら、その植民地が逃げていってしまった、いったい何のための戦争してきたのかという、悔やまれる結果になったわけです。
一方、フランスの方はどうかというと、フランスも同じように国債を発行しておりまして、次第に財政難になっていきました。フランスは植民地を失いましたから、植民地に課税するということができませんので、国内の人々、平民にもう少し税金を納めてくれと頼まなければならなくなりました。そこで、フランス国内の三つの身分の代表者が重要議題を議論する場であった三部会を招集したのですが、三部会における投票の比率をめぐって物別れになってしまい、フランス革命が勃発します。1789年の出来事です。
この二つの出来事から、我々は、財政赤字というのは、その時の政治家が考えてもみないような政治的帰結を将来にもたらしかねないということを教訓として学ぶことができるのではないかと思います。
以上が、簡単ではありますが、スミスが生きた時代の雰囲気です。恐らく、スミスが見たものは、1707年の統合以後、民族自決か経済的繁栄かをめぐって言い争う、故郷スコットランドの人々の姿であり、また、植民地獲得をめぐってフランスと戦争を繰り返し、だんだんと財政難に陥っていくイギリスの姿であっただろうと思います。  
見えざる手、個人の利己心が社会の繁栄をもたらす

 

このような中で、スミスは二つの書物を著しました。一つが『道徳感情論』、1759年英仏七年戦争中に書かれた本です。もう一つが1776年の有名な『国富論』、これはアメリカ独立宣言の年、アメリカ独立戦争が起こった翌年に出版されております。『道徳感情論』は倫理学の本であり、『国富論』は経済学の本だと言われております。これら二つの著作によって、スミスは当時としても大変有名になりました。しかしながら、後世までスミスの名前を残すことに貢献したのは、何と言っても『国富論』の方であっただろうと思います。
『国富論』の中で最も有名な言葉は何ですかと聞くと、大抵の人は「分業」または「見えざる手」と答えるのではないかと思います。皆さんも、「見えざる手」という言葉をどこかで聞いたことがあると思います。しかしながら、実は、スミスがこの「見えざる手」という言葉を『国富論』の中で使ったのは、たった1回です。それは、労働者を雇うための資本を持っている資本家が、どの産業、あるいはどの事業に自分の資本を投資するかを考えている場面に出てきます。これは有名な箇所ですので、次に掲げます。
「どの個人も、できるだけ自分の資本を国内の労働を支えることに努め、その生産物が最大の価値を持つように労働を方向づけることにも努めるのであるから、必然的に社会の年間の収入をできるだけ大きくしようと努めることになる。確かに個人は、一般に公共の利益を推進しようと意図してもいないし、どれほど推進しているかを知っているわけでもない。(中略)個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手・・・・・に導かれて、自分の意図の中には全くなかった目的を推進するのである。それが個人の意図にまったくなかったということは必ずしも社会にとって悪いわけではない。自分自身の利益を追求することによって、個人はしばしば、社会の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進するのである」(『国富論』第二巻、303−304頁:傍点は引用者による)
これが、「見えざる手」という言葉が1回だけ出てくる箇所です。スミスの死後、この「見えざる手」の記述は、スミスについての通俗的なイメージをつくり上げることに貢献しました。その通俗的なイメージとは、次のようなものだと思われます。すなわち、利己心に基づいた個人の利益追求行動が、市場における競争を通じて、社会の繁栄を促進するというものです。そして、競争的な市場における価格調整メカニズムのことを、スミスは「見えざる手」と呼んだのだとされました。スミスの名前を知っておられる方は、このようなイメージをもっておられるのではないかと思います。このようなイメージによって、スミスは人間を利己的な存在であると想定した経済学者として、そして、競争を重視する経済学者として解釈されてきました。
しかしながら、私は、このスミスの通俗的なイメージには二つの問題があると思います。一つ目は、果たしてスミスは、利益追求行動を行う個人は社会から切り離された孤立した存在であると考えていたのかどうか、二つ目は、果たしてスミスは、個人の利己心に基づいた行動が、市場を通じて社会の繁栄を促進すると無条件に考えていたのかどうかです。実は、これらの問題に対しては、スミスが書いたもう一冊の書物『道徳感情論』で展開される彼の人間観を検討することによって、明確な答えが得られるのです。
以下では、このような問題意識に立って、スミスの人間観、特に同感について説明いたします。  
道徳感情論・同感のしくみ

 

『道徳感情論』は次のような文章で始まっております。
「人間がどんなに利己的なものと想定され得るにしても、あきらかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心を持ち、他人の幸福を―それを見る喜びのほかには何も引き出さないにもかかわらず―自分にとって必要なものだと感じるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であり、それは、われわれが他の人々の悲惨な様子を見たり、生々しく心に描いたりしたときに感じる情動である。われわれが、他の人々の悲しみを想像することによって自分も悲しくなることがしばしばあることは明白であり、証明するのに何も例を挙げる必要はないであろう。」(『道徳感情論』上巻、23頁)
この文章から明らかなように、スミスは、私たち人間は利己的なところもあるけれども、それだけではない。利害関係がなくても、他人の感情や行為に関心を持ち、それを見て、自分も一緒に喜んだり、悲しんだり、あるいは憤慨したりする、そういう能力を備えているのだと述べています。 このような能力のことを、スミスは「同感」、シンパシーと呼びました。シンパシーというと、日本語では共感の方がふさわしいかもしれませんが、私は同感と言った方がいいかと思います。なぜなら、スミスの言うシンパシーは、他人の感情を自分の心の中に写しとり、それと同じ感情を引き起こそうとする、あるいは引き起こせるかどうかを検討する能力だからです。ですから、以下では、シンパシーのことを同感と訳すことにいたします。
スミスの同感について、例をあげて詳しく説明しましょう。今、ある他人が当事者として、何かの対象に対して感受作用、感情作用、何かの感情を引き起こしている、あるいは何か行為を行っているとします。そして、私は観察者としてそれを見ているとしましょう。例えば、これはいかにも学生用の例ですけれども、ある人が、就職が決まり、就職が決まったということを対象にして、喜ぶという感受作用を起こしている。あるいは喜びのために笑うという行為を行っている。それを私は見ているとしましょう。あるいは、ある人が身内を亡くすという事実を対象に、悲しむという感受作用を引き起こしている。あるいは悲しみのために泣く、涙を流すという行為を行っている。それを私が見ているとしましょう。二人の間には特別な利害関係はないとします。
私はまず利害関係がなくても、笑っている人、泣いている人を見たら、どうしたのだろうと思って関心を示す。そしてその事情を知った後、次に、私もこの対象と同じ関係を結んでみる、つまり、私もその相手と同じ立場に立ってみて、自分の立場を相手の立場と置きかえてみます。私であれば、就職が決まったらどのような気持ちになるだろう、あるいはどのような喜び方をするだろうかと考える。私であれば、身内を失ったらどのような気持ちになるだろうか、どのような悲しみ方をするかということを、想像力を使って考えてみる。そしてその次に、想像された自分の感受作用や行為と、現に相手があらわしている感受作用や行為とを比較して、それが一致するかしないかを検討する。もしも一致するならば、私は、相手があらわしている感受作用や行為を是認し、一致しなければ否認する。私が認めたことがもしも相手に伝われば、相手は自分の感受作用や行為が認められたことに対して、快感を持つ。認めることができた私も快い気持ちになる。もしも私の否認が当事者に伝われば、当事者は不快な思いをし、私も認められなかったことに対して不快感を持つ。
先ほどの例で説明しますと、お葬式などで、身内を亡くした人が悲しんでいる。私もその人の立場に立ってみる。自分も悲しい気持ちになる、同じように泣くだろうと思えば、その相手の感受作用・行為を是認する。そして私も一緒に涙を流すかもしれない。そうすると、私が泣いている姿によって、私の是認が相手に伝わり、悲しみの中にある相手は、悲しみを和らげることができます。私も、悲しみをもつこと自体は、ある意味で苦痛であるわけですが、その人の悲しみを是認できたことに対しては、ある種の快感、満足感を得ることになります。
逆に、就職が決まって大喜びをしている人を見て、私であれば、もう少し周りに気を使ってそんな喜び方はしない、どうも喜び方がみっともないと思われるような場合には、私はその人の喜びを否認します。その否認がもしも相手に伝われば、喜んでいる人は自分の喜びが周りの人に認められなかったことを知って、喜びの中において、水を差されたような気持ちになる。私も他人の喜びを認められなかったことをうれしく思うかというと、決してそうは思わなくて、むしろある種のいら立ちを覚える。以上がスミスのいう同感の基本的な仕組です。  
心の中の公平な観察者

 

このようにして、他人の感受作用や行為が適切かどうかを判断しながら社会生活を営むうちに、自分がこのようなことをするのであれば、他人も自分があらわしている感受作用や行為に対して、是認・否認をしているに違いないと、私たちは感じるようになります。今度は、自分が当事者になって、他人が観察者になります。他人は恐らく想像力を使い、立場を置きかえて、自分だったらどんな感受作用や行為をするかということを想像して、私が引き起こしている感受作用や行為の適切性を判断し、そこで是認あるいは否認をします。他人の是認・否認は、たまに、私に伝わってくる。私は当然、多くの人から、あるいはすべての人から、自分が起こしている感情や行為を是認されたいと願います。
しかしながら、日常生活、現実の生活においては、実は、多かれ少なかれお互いに利害関係、あるいは、人柄の好き嫌いというものがあって、私たちは、自分の周りのすべての人から、是認を受けることはできません。それは皆様が日頃経験されている通りです。ある人から是認されると、別の人たちからは否認される。ある人たちからは適切だと判断されるけれども、別の人たちからは不適切だと判断される。私たちは、一体、だれの判断を基準に、自分の感受作用や行為が適切かどうかを判断したらいいのかに迷うようになります。
そこで、私たちは、それまでの自分の経験をもとにして、心の中に公平な観察者、つまり何の利害関係も持たない第三者的な観察者を、心の中に形成します。つまりそのコミュニティなり社会で共通の公平な判断基準を持った人を、心の中にもう一人つくるのです。そして、自分が何かの対象に感受作用を起こすか、行為を行ったときに、自分の中にいるもう一人の自分、公平な判断をすると思われるもう一人の自分であれば、その同じ状況でどのような感受作用を起こすか、どんな行為を行うかを想像してみるのです。判断が一致していれば、心の中の観察者は、自分の今の感受作用や行為を是認していることになるし、そうでなければ否認していることになります。是認されれば快いし、否認されれば不快です。自分としては何とか今の自分の感受作用や行為に納得しようとするのです。もう一人の自分、胸中の公平な観察者に是認されれば、私たちは安心しますが、否認されれば、何か気持ちが落ちつきません。
このように、私たちには、一方で、自分に対する他人の評価、すなわち生きた観察者の評価が実際の声として聞こえてくる。他方で、私たちは、自分の心の中にいる公平な観察者、胸中の公平な観察者の是認・否認という、内なる声にもさらされます。
注意すべき点は、胸中の公平な観察者は最初からいるのではなくて、他人との交際を通じて、経験的に形成されるものなのですが、形成された後は、世間の評価とは異なった評価を与えることもあるという点です。これらの評価は、もちろん一致するときもあるが、違うときもある。なぜ違うときもあるのかというと、世間や生きた観察者は外から私を見ている。外から見ているので、実は私がどうしてそのような感受作用を引き起こしているのか、どうしてそのような行為に至ったのかという動機やプロセスを正確に知ることはできない。したがって、どちらかと言えば、目に見える結果の影響を受けて、私の感受作用や行為に対する是認・否認をする傾向がある。ところが、胸中の公平な観察者は、実は私自身なので、私がどうしてそのような感受作用を起こしているのか、どうしてそういう行為を行っているのかという動機やプロセスを他人よりはよく知っている。だから、判断のための情報量がより多く、結果に余り左右されず、動機やプロセスを考慮して判断することが出来るからです。
スミスは、世間の評価を常に気にする人のことを弱い人、ウィークマンと呼んでいました。そして、世間の声よりも胸中の公平な観察者の声を重視する人のことを賢人、ワイズマンといいました。実際は、私たちには弱いところと賢いところの両方があるわけで、二つの評価にさらされながら、時には内なる声に立ち返り、時にはそれを無視して、世間の声を重視してしまう、私たちはそういう矛盾した存在であるとスミスはとらえていたと思います。賢明さと弱さを両方備えている、それが現実の人間なのです。  
毎日のニュースをどう見るか、生身の私と公平な観察者

 

さて、私たちが、胸中の公平な観察者を形成する前と後とでは、他人の行為に対する判断の仕方は変わります。胸中の公平な観察者が形成されていないときには、私たちは生身の自分を他人の立場に置きかえて、自分であったらどのような感受作用や行為を起こすかを考えるわけですけれども、成長して、胸中の公平な観察者を形成した後には、生身の自分ではなくて、胸中の公平な観察者であれば、同じ状況の中でどのような感受作用や行為を引き起こすだろうかということを想像して一致性を検討し、是認・否認するということになるのです。私たちは毎日、ニュースで詐欺・窃盗・傷害・殺人などさまざまな犯罪のニュースを見たり、聞いたりします。それを見たときに、私たちは、皆さんがそう思われるかどうかわかりませんが、自分もひょっとしたら、何か魔がさして同じことを行うかもしれない、こういう恐れを私たちは心のどこかに持っています。しかしながら、それは生身の自分、いろいろな思いを持っている自分であれば、同じことを起こすかもしれないでしょうが、自分の中の極めて公平な部分、胸中の公平な観察者であれば、そのような行為は行わないということを知っています。ですから、私たちは、犯罪を見聞きしたときに、それらが不適切であると否認をするわけです。したがって、私たちは成熟すると、いわば、自分のことは部分的に棚に上げて、他人の行為を評価するようになると、スミスは考えます。
行為の対象が人間になった場合には、問題はもう少し複雑です。今、ある人が別の人、他人に対して何らかの行為(A)を行っているとします。この行為が、行為を受ける人にとって有益であれば、行為を受ける人は感謝という感情を行為者に向けます。その行為(A)が有害であれば、憤慨、怒るという感情が行為者に起きます。私はそれを観察する立場にあるとしましょう。
こういった行為(A)を私はどのように評価するでしょうか。スミスは、ツーステップの評価をすると言っています。まず私は、自分といいますか、正確には私の中にある胸中の公平な観察者が、行為者の立場に立って、同じ状況にあったらそのような行為をするかどうかを検討します。その行為を(A´)としましょう。そして、(A)と(A´)を比較することによって、その行為が適切性を持つかどうか、すなわち動機において適切かどうかを判断します。これが第1ステップです。第2ステップでは、今度は行為を受ける側に立って、そのような行為を受けた場合、自然にわいてくる感情は何かということを想像します。この感情を(B´)とします。それは、感謝であったり、憤慨であったりするわけです。これらを組み合わせて、最終的に、この行為(A)に対してある判断を下すことになります。どのようにして最終判断を下すかというと、(A)と(A´)が一致し、要するに、胸中の公平な観察者であっても、同じような行為をするだろうということがわかって、かつ(B´)、すなわち、そのような行為を受けた場合の感情が感謝である場合には、行為(A)は報償に値する、あるいは、称賛に値する行為だと私たちは判断します。そうではなくて、(A)と(A´)が一致しなくて、つまり胸中の公平な観察者であれば、そのような行為は行わないだろうということが分って、かつ(B´)、すなわち、そのような行為を受けた場合に、自然にわいてくる感情というのが憤慨だとわかる場合、その行為(A)は処罰に値する、あるいは非難に値する行為だと判断するわけです。
例えば、経済的に困っている人を友人が助けるという行為をしたとします。私はそれを見ているとしましょう。私は、私の中の公平な観察者であれば、そのような経済的に困っている友人を見たときに同じような行為をするかどうかを想像してみる。いろいろ事情によって判断は違うとは思いますが、一般的には恐らく同じような行為をするだろう、あるいは、しようとするだろうと判断します。そして、今度は行為を受ける側の立場に立って、自分が非常に困っているときに、友人が経済的に助けてくれたならば、自然にわいてくる感情は何かというと、感謝でしょう。したがって、(A)と(A´)が一致し、なおかつ(B´)が感謝であるので、この経済的に困っている友人を助けるという行為は報償に値する、あるいは称賛に値する行為だと私たちは判断します。もちろん、二人の関係が過去どういうものであったかとか、それぞれの経済状況がどれほどのものなのかというようなことが考慮されると、この判断は修正されるかもしれませんが、基本的にこれは何か褒められるべき行為だと私たちは判断するのです。
二つ目の例、こちらの方が大事なのですが、金品を奪うために他人を殺害する行為を考えてみます。行為者は、この人からお金を取るために殺す。それを私が見る。私は、どう判断するかというと、まず、私の中の公平な観察者が同じような行為をするかというと、大抵の場合それはしない。先ほど言いましたように、生身の私なら、何かの拍子でするかもしれないけれども、私の中の公平な観察者であればそのようなことはしない。したがって、動機に適切性がないと私たちは判断します。次に、行為を受ける側に立って、私が何か物をとられるために、殺されるという場合は、殺されてしまったら実は感情は起きないわけですが、想像の中で、どんな感情が起こってくるかというと、当然憤慨です。自分が侮辱されたと感じて憤慨する筈です。したがって、(A)と(A´)が一致しなくて、なおかつ、自然にわいてくる感情が憤慨であるので、金品を取るために他人を殺害する行為は、処罰に値する行為、非難に値する行為だと私たちは判断するわけです。
スミスはこのような議論をもとにして、刑法の基礎は感情であると考えました。何故、あらゆる社会に歴史上、刑法があるのかというと、今の例を使って言えば、人々が金品を奪うために他人を殺害した行為者に対して、行為を受けた人にかわって憤慨を引き起こす。行為を受けて死んでしまった人は何もできないわけですから、この人にかわって、この人の憤慨は晴らされなければならないと感じるのです。要するに、復讐されなければならないという感情が、あらゆる社会が刑法を作った動機であり、根本原理なのだというわけです。決して、刑法があると、犯罪が少なくなって、人々が平和に暮らせるからという、合理的理由にもとづいて刑法が作られたのではなく、そういった有害な行為を受けた人の憤慨に同感し、それを晴らしたいという感情的な理由から、刑法が古代から作られてきたというわけです。スミスにとっては、法は復讐の感情から始まるということが、人間の本性を考えれば当然のことでした。
さて、立場を置きかえて、私が行為者である場合には、私は胸中の公平な観察者から処罰に値すると思われたくない、あるいは、報償に値する行為をしたと思われたいと考えるでしょう。このことから、大抵の人は次のような一般的諸規則を自身の中につくるとスミスは考えます。
どういう規則かというと、(1)胸中の公平な観察者が、処罰(または非難)に値すると判断するすべての行為は回避されなければならない、(2)胸中の公平な観察者が、報償(または称賛)に値すると判断するすべての行為をするためのあらゆる機会が求められなければならないということです。スミスは、一般的諸規則の(1)が正義にかなった行為を私たちに勧め、一般的諸規則の(2)が慈恵的な行為を私たちに勧めると考えました。正義とは、他人の生命・身体・財産・名誉を傷つけないことであり、慈恵とは、他人の利益を進んで促進することです。もしも、私たち一人一人がこれらの一般的諸規則を守るならば、それによって秩序だった心地よい社会が形成されるでしょう。特に、人類は、正義の一般的諸規則については、法という強制力を伴った形でこれを制度化し、その結果、どの社会も完全ではないにしろ、秩序を形成することが歴史上できてきたとスミスは考えます。
以上ちょっと難しい議論だったかもしれませんが、要するに『道徳感情論』は、他人に関心を持つという想定から出発して、いかにして法がつくられ、人々がそれを守り、社会秩序が保たれるかということを説明しているのです。  
繁栄は何によってもたらされるか、野心について

 

次に、社会の繁栄について、つまり、経済の発展について考えてみたいと思います。
スミスは、私たちは他人に関心を持つし、同感しようとするのだけれども、他人の悲哀に対してよりも歓喜に対して、すなわち、悲しみよりも喜びに対して同感しやすいと考えます。つまり、嫉妬がない場合には、他人の喜びには進んで同感したいと思うけれども、悲しみにはできるだけ同感したくないと思うというわけです。どうでしょうか。これを大学で学生に聞くと、「いや、先生、それは違います」、「私は他人の喜びを見ると余り気持ちがよくない」、「同じ同級生が、就職が決まったりすると悔しい」、「何か、他人が失敗したり悲しんだりすると、かわいそうにも思うけれど、心のどこかで喜んでいるところもあるんですよ」などと正直に言う人がいるわけですが、そういうときに私は次のように聞き返します。「じゃ、皆さんは結婚式とお葬式とどっちに行きたいですか」と。結婚式では新郎新婦が互いに愛を誓い合い、両親や世話になった人に感謝の言葉を述べ、そして周りの人が祝福の言葉を述べる、そういう人びとの喜びを見ることが予想されます。このとき、私たちの気持や足取りも軽くなるでしょう。他方、お葬式はどうかというと、もちろん自分の大切な人が亡くなったときには、本当に駆けつけたいと思うけれども、一般的には、お葬式で見るものは他人の悲しみであり、涙であり、無念です。私たちは、そういうものを進んで見たいとは思わないので、結婚式のときに比べれば、気持ちは非常に重く沈んだ心持ちで行かなければならないでしょう。
したがって、私たちはやはり、いろいろな利害関係の中で嫉妬も起こるでしょうけれども、一般的に、他人の喜ぶところを見たいのであって、悲しむところはできれば見たくないといってよいと思います。ここが非常に大事なところです。なぜなら、その結果、私たちは他人の喜びの原因になるものに好感を持つようになるからです。つまり、美しいもの、豪華なもの、富んだもの、地位の高いものには自然と好感を持つようになる。反対に、悲しみの原因になるもの、醜いもの、貧しいもの、地位の低いものには何となく嫌悪感を持つようになるのです。自分が他人から好感や嫌悪感を受ける側に立ってみるならば、他人から好感を得ようと思えばどうしたらいいかというと、より美しいものを身にまとい、より豪華な家に住み、より高尚な趣味を持つ必要がある、このように私たちは考えるようになります。
スミスは、ここに、私たちの財産形成の野心の起源があるというのです。私たちは、日常生活にとって必要なものがすべてそろったとしても、何故、財産をさらに大きくしようとするのか、なぜ自分の富を大きくしようとするのかというと、それは野心によるものです。他人からの好感を得続けよう、他人からの同感を得続けようとする、そういう野心を私たちは持っているのです。これを虚栄心と呼んでもいいかもしれません。野心とか虚栄心というと、何か悪いもののように考えられるかもしれませんが、スミスは、必ずしも野心や虚栄心を悪いものだとは考えておりません。むしろ、個人が勤勉に働き、技能を磨き、収入として得たお金を節約するためには、ある程度の野心、あるいは虚栄心がなくてはならないと考えています。ここが大事なところです。人類全体として見ても、人類が未開の状態から出発して、今日のような文明化された繁栄した社会を築いてきた背後には、多かれ少なかれ、人間の中に野心や虚栄心があったからだとスミスは述べています。
諸個人が財産形成の野心に基づいて利益追求行動を行えば、必然的に競争が生まれます。資源は限られているので、財産形成の野心が無限に起これば、当然競争というものが起こるでしょう。スミスはここでも競争を否定しませんが、次のような非常に重要な留保条件をつけています。
「富と名誉と出世を目指す競争において、彼はすべての競争者を追い抜くために、できるかぎり力走していいし、あらゆる神経、あらゆる筋肉を緊張させていい。しかし、彼がもし、彼らのうちのだれかをおしのけるか、投げ倒すか、するならば、観察者たちの寛容は完全に終了する。それは、フェア・プレイの侵犯であって、観察者たちが許しえないことなのである。」(『道徳感情論』上巻、217−218頁)
これは1759年に書かれた言葉です。もうこの時代にフェア・プレイという言葉をスミスは使っていたのです。スミスが競争に対して設けた条件は、フェア・プレイの条件です。フェア・プレイとは、今までの説明から明らかなように、公平な観察者が認めない行為を控えることです。つまり、競争する人が先ほど示した一般的諸規則、特に正義の規則を守らなくてはならないということです。
重要なのは、実際に、存在する法律やルールを守ってさえいればフェア・プレイなのかというと、そうではないということです。まだルールになっていなくても、法律化されていなくても、その社会である程度成立している公平な観察者の基準に見合わないもの、公平な観察者であれば是認しないような行為は慎まなければならないということです。
こうして、利益追求行動が正義感覚によって制御されて、はじめて社会の繁栄が実現するとスミスは考えました。
このように社会の秩序も、そして社会の繁栄も、他人に関心を持つという人間の本性、つまり社会的存在としての人間の性質が出発点にあると言えます。
以上が、簡単ではありますが、『道徳感情論』で示されたスミスの人間観と社会観です。  
見えざる手、スミスの考える市場

 

さて、ここでもう一度、『国富論』の中で述べられた、「見えざる手」について考えてみましょう。スミスは、確かに、個人が自分の利益を求めて経済活動を行うことは、結果として社会の繁栄を促進すると述べました。
しかし、今やこの議論の背後には、重要な留保条件があることがわかります。まず、利益追求行動を行う個人は、決して孤立した個人ではなく、社会的個人だということです。つまり、個人が利益を追求することの背後には、他人からの称賛や同感を求めるという社会的存在としての動機があるということです。
もう一つの留保条件、より重要な留保条件ですが、それは、市場が機能するためには、個人の利己心が正義感覚によって制御されなければならないという条件です。正義感覚も、人間が社会的存在であることから導かれます。個人の利己心が正義感覚による制御を受けることによって、はじめて、市場における「見えざる手」が機能し、社会の繁栄をもたらすことができるのです。この場合、市場は、もちろん競争も起こるのですが、その本来の機能、つまり、見知らぬ人同士が必要なものを交換して助け合う互恵の機能を果たすでしょう。スミスにとって市場は本来、互恵の場であって、決して競争する場ではありませんでした。市場はアリーナやリングのように、そこで勝つことを目的にした場ではないのです。相手が必要としている物、こちらが必要としている物を、相手の感情に同感しながら正直に物を交換するという、それだけの場なのです。非常にシンプルなものですが、これが本来の市場の目的なのです。正義感覚があれば、互恵の場としての市場が十分機能し、その結果、お互いが自分ではつくれないものを他人から調達して、よりよい状態を実現することができるということになります。
正義感覚と利己心のバランスが崩れることは往々にして起こります。私たちの中には弱さと賢明さの両方があって、そのバランスが崩れれば、市場は不正と独占をもたらし、社会の繁栄を妨げるだけでなく、社会秩序も乱しかねないとスミスは考えました。後で述べるように、ヨーロッパ諸国が重商主義を採っていたスミスの時代はそのバランスが失われていた時代でした。  
スミスの考える幸福

 

さて、次に、経済成長についてお話しすることにしましょう。個人の利益追求行動は市場を形成するだけではありません。資本蓄積を促し、経済成長を実現します。
では、スミスは、経済成長の真の目的はどこにあると考えていたでしょうか。このことを明らかにするため、スミスの「幸福論」をまず検討しておきたいと思います。スミスが幸福の意味をどのようにとらえていたかを検討しておきたいと思うのです。
スミスは道徳感情論、上巻、432頁で、幸福をはっきりと次のように定義しております。「幸福は、平静と享楽にある。平静なしには享楽はあり得ないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。」このように、スミスは、幸福は心の平静にあると考えていたのです。
では、心の平静を保つためには何が必要であるとスミスは考えていたでしょうか。道徳感情論、上巻、116頁に次のように書かれています。
「健康で負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何をつけ加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の追加はすべて余計なものだというべきだろう。そして、もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮き立っているとすれば、それは最もつまらぬ軽はずみの結果であるに違いない。」
このように、スミスは、人が心の平静を保つためには、健康で負債がなく、良心にやましいところがない状態であればいい、ただ、その状態を実現するための富は必要だと考えていました。私はこれを「最低水準の富」と呼んでおりますが、最低水準の富は必要であり、また、それさえあれば十分であるとスミスは考えていたのです。
一方、スミスは、最低水準の富さえ持つことができない人々、すなわち貧困の状態にある人々は、大変悲惨な状態にあると考えていました。なぜ、貧困の状態にあるのが悲惨なのか。それは、もちろん、不便な生活を送らなければならないからです。しかし、それだけではありません。貧困の状態にある人の持つ本当の苦しみとは何かについて、スミスは次のように述べています。
「貧乏な人は、(中略)彼の貧困を恥じる。彼は、それが自分を人類の視野の外に置くこと、あるいは、他の人々がいくらか彼に注意したとしても、自分が耐え忍んでいる悲惨と困苦について、彼らが、幾らかでも同胞感情を持つことはめったにないということを知っている。彼は、貧困と無視という、双方の理由で無念に思う。無視されることと、否認されることは、全く別のものごとなのではあるが、それでもなお、無名であることが名誉と明確な是認という日の光を遮るように、自分が少しも注意を払われていないと感じることは、必然的に人間本性の最も快適な希望をくじき、最も熱心な意欲を喪失させる。」(『道徳感情論』、上巻、130頁)
このように、貧困の状態にある人の本当の苦しみは、自分の苦しみを他人に同感してもらえないことなのです。私たちは悲惨なものを見たいとは思わない。他人の悲しみを、大きな悲しみであればあるほど、それを本当に見たいとは思わない。だから、なるべく見ないようにする。ということは、貧困の状態にある人は、私は他人の目に映らない方がいい存在、いない方がいい存在だと自分で思い込むことになり、そのことが一番悲惨なのだと、スミスは考えます。
このような幸福に関するスミスの議論を、横軸に富を、縦軸に幸福の度合いをとって図に描いてみます。胸中の公平な観察者の判断、是認・否認を重視する賢人の場合は、最低水準の富、つまりその社会において健康で、負債がなく、良心にやましいところがない状態で生活できる富の水準に到るまでは幸福の度合いは非常に低く、富が最低水準値をこえたところで幸福の度合いは縦軸に平行な直線関係で急上昇し、その後は、富の増大は賢人の幸福をそれほど高めることはない、すなわち、幸福と富の関係は横軸にほぼ平行な直線になるはずです(下図の線分ABCD)。
弱い人は、世間の評価、実際に聞こえてくる声を重視するので、賢人と違って、最低水準の富を超えた後も、富が増大すればするほど自分はさらに幸福になれるだろうと考えるのです(線分ABCE)。このように、最低水準の富の水準を超えた後で、賢人と弱い人では、想定する富の増加と幸福の増加の関係が違っています。
賢人と弱い人に共通しているところは、その富の水準が最低水準に達していない場合の、富と幸福の関係で、賢人も弱い人も同様に、富の大小にかかわらず幸福の度合いが非常に低いという点です。  
スミスの賢人とストア派の賢人

 

スミスが影響を受けたストア派という古代ギリシャの哲学においては、賢人は、あらゆる場合に、富の量が変わっても幸福の度合いは変わらないと予想します。ストア派では、富が全くないゼロの状態で、もう今日か明日死んでしまうような状態であっても、あるいは最高の富がある王様のような状態であっても、自分の幸福、自分の心の内は全く変わらないと考えるのです。全く富がなくても、使い切れないほどの富があっても、どちらも運命として受け入れて、全く動じない人、これがストア派の想定する賢人なのです。スミスは、富はやはり、ある程度ないとだめで、ある程度以下になると幸福感が急激に下がってしまうと考えました。けれども、ある程度以上の富があれば、それ以上の富の増加は大した意味はないと考える人が賢人で、富はあればあるほどいいと考える人は、世間の声と評価というものを気にする弱い人だと考えています。
この幸福を保つための最低水準の富は、その社会で人間らしく生きていくことができる富で、それを得るためには、何かの仕事を持って、最低限の収入、賃金を得て暮らしていなければならないとスミスは考えました。そうした仕事を持たないで、最低水準を下回る富しか得られない人、失業者・浮浪者として暮らさなければならない人たちは、他人の施しによって生きていくか、あるいは犯罪によって身を立てていかなければならないことになります(線分ABの状態)。
貧困は偶然か必然か

 

個人が貧困を避けることができるかどうかは、偶然によるところが大きいとスミスは考えます。もちろん、勤勉や節約など個人の努力にも依存するわけですが、ある人が貧困な状態にあるか、そうでないのか、その人の富が最低水準より多いか少ないかというのは、偶然によると考えるのです。どんな家庭に生まれたのか、裕福な家庭に生まれたのか、それとも貧乏な家庭に生まれたのか、どんな能力を持って生まれてきたのか、健康で生まれてきたのか、あるいは、何か大きな障害を持って生まれてきたのか、こうした個人にとっては偶然の出来事によって、その人の富が最低水準より多いか少ないかが大きな影響を受けてしまう。
個人にとっての偶然の出来事の中には、彼が、あるいは彼女が所属する社会の経済が、全体として発展しているのか、あるいは全体として衰退しているのかということも、個人の力によっては何ともしがたい偶然の出来事でしかありません。経済が発展している社会、あるいは発展している時代には、雇用も増大し、恐らく多くの人々が最低水準以上の富を手にすることができるでしょう。反対に、今のように経済が衰退している時代や社会では、失業がふえ、最低水準の富を手にできない人の数がふえるでしょう。このように、経済の発展は、貧困の状態(線分ABの状態)にある人々の数を減らすという重要な意味を持っているわけであり、実は、これこそが、スミスが考える経済成長の真の目的なのです。  
地主・資本家・労働者そしてブリティッシュ・ドリーム

 

では、スミスは、当時の社会において経済成長はどのような人々によって担われ、実現できると考えていたのでしょうか。18世紀的の階級社会は、地主・資本家・労働者の三つの階級によって構成されていました。地主は上流階級で大きな富と高い地位を持つとともに、政治的な支配階級であって、社会のほかの階級にとってのあこがれの的でありました。資本家階級は、中流階級であり、地主に比べて富は大きくはなく、社会的地位も高くありませんが、資本を所有し、社会の生産を組織する役割を持っています。資本家は地主から土地を借りて地代を払い、労働者からは労働サービスの提供を受けて、賃金を払います。資本家自身は資本を持っていて、利潤という収入を得ます。資本家は野心を持っています。それは、自分の資本を有効に活用し、利潤をさらに蓄積することによって、より大きな財産を形成し、いつかは上流階級、すなわち地主階級の仲間入りをしようという野心です。実際、18世紀当時のイギリスの事業家は、成功すると、郊外に移って大地主になる。ジェントルマンになるというのが、ブリティッシュ・ドリームであったわけです。
労働階級は、就業者と失業者ないしは浮浪者に分かれます。就業者はなすべき仕事を持ち、少なくとも最低水準の収入を得て、人並みの生活をすることができる人々です。一方、失業者や浮浪者はなすべき仕事がなく、最低水準の収入すら得られない人々であり、他人からの施し、または犯罪によって生計を立てていかなければならない人々です。そして、その労働者階級のうち、どれだけの割合を就業者にすることができるかは、専ら資本家による資本蓄積にかかっているとスミスは考えました。
先ほどお話した富と幸福の関係で考えますと、失業者・浮浪者の富は最低水準の値に到達していなくて、幸福の度合いは非常に低い状態です。一方、労働者のうち、最下層の業務の就業者は、何とか最低水準の富を獲得して平静な生活を送ることができる状態です。資本家は野心を持っていて、富はあればあるほど幸福の度合いが上がると考え、世間の声と評価とを気にする弱い人ということになります。  
格差と再配分政策と職業

 

資本家は、いつかは地主になるという野望を持っていて資本を蓄積します。資本家が資本を蓄積し、事業を拡大することによって、経済は成長し、労働に対する需要が増えます。その結果、下層階級の中の失業者・浮浪者の一部が雇用され、彼らの富は増大して最低水準を超え、幸福の度合いが上がります。社会の幸福を最大にするという点では、最低水準以上の富の格差はそれほど大きな問題ではなく、貧困の人々の数をいかに少なくするかがの方が大事です。問題は、格差一般ではなくて、貧困なのです。最低水準の富を得ることの出来ない状態にある人の数をどれだけ少なくするかということが問題だと言えます。しかも、貧困の状態にある人びとは、世間の軽べつと無視からも救われなければなりません。彼らが最低水準の富を手にしさえすれば問題が解決するというのであれば、再分配政策をすればすみます。すなわち、富んだ人に課税をして、貧しい人に給付すれば、貧しい人は何とか生活できるようになるわけです。
しかし、スミスは、貧しい人びとは、富とともに独立心ないしは自尊心も回復しなければならないと考えました。そのために、彼らに与えられるべきものは、施しではなくて仕事だとスミスは言います。そして、それを継続的に達成することができるのは、政府ではなくて資本家であると彼は考えます。資本家はいわば、「見えざる手」に導かれて経済成長の真の目的を果たすのだというわけです。
このように、スミスの目は、主として下層階級、特に失業者・浮浪者の境遇改善に向けられていたと言えます。スミスはこのような視点に立った資本蓄積、あるいは経済成長が必要だと考えたのであり、それらの妨げになるものはすべて社会的害悪だと考えました。そして、そのような害悪の中で、個人と政府の浪費、特に政府の浪費が資本蓄積を妨げる要因になると言っています。  
スミスの規制緩和論と重商主義批判

 

スミスは市場の取引規制も資本蓄積の妨げになると考えます。なぜなら、規制は資本の効率的な運用を妨げ、利潤率を全般的に引き下げるからです。国内取引に対して課せられる規制と同様、外国との取引、すなわち貿易に課せられる規制も有害です。
しかしながら、当時のヨーロッパ諸国では、貿易を中心にさまざまな規制が設けられていました。15世紀の大航海時代以来、ヨーロッパ各国の政府は、貿易こそが国家存続のかなめであると考え、貿易の決済手段である金や銀を確保しようとしました。ヨーロッパ諸国は、最初アメリカ大陸に金鉱山を求めて植民地を建設したのですが、発掘に値する金鉱山がないことがわかると、今度は植民地貿易を独占するとともに、関税・奨励金などの貿易黒字を人為的につくり出す政策を進め、その結果として金の保有量を増大させようとしました。金を掘って、とってくることができないのであれば、ヨーロッパにある金をひとり占めしようという政策です。つまり、植民地からの安い原材料を自分の国だけが輸入して安い製品をつくり、それを他のヨーロッパ諸国に売って、貿易黒字をふやそうというわけです。
スミスは、このような、独占と規制を用いて金の保有量を増大し、それによって国力を高めようとする政策を重商主義と呼びました。スミスによれば、重商主義政策は実際には、一部の特権商人や大製造業者の利益を守るだけで、国民全体の生活にとっては不利なものです。各国は、外国から安い製品が入ってこないように高い関税を設けます。そのため、各国の国民は高い関税がかかった外国製品、あるいは関税によって保護された高い自国製品を買わされることになるわけです。そのうえ、敵対的な高関税はヨーロッパ諸国の関係を悪化させ、さらに植民地の獲得をめぐって戦争が起きます。実際、イギリスはフランスと戦争を繰り返していました。植民地の獲得と防衛のために莫大な軍事費がかかります。それを国債で賄ったとしても、いずれは税金によって支払わなければなりませんし、国債の利払いは税金によって払わなければなりません。
植民地が防衛費の負担をしない場合は、本国国民が負担することになります。したがって、国民は高い製品を買わされるだけでなく、重い税金を払わされることにもなるわけです。むしろ、高い製品を買うために、重い税金を払うことになるといった方がいいかもしれません。
重商主義政策は、このように、一部の特権商人や大製造業者の利益にはなったとしても、あるいは、植民地を持っているという威信が、政府の虚栄心を満たすことになったとしても、国民全体の真の利益にはなりません。それは、効率的でも公平でもない経済体制だといえます。このような理由で、スミスは重商主義政策に強く反対し、規制は撤廃されるべきだと強く訴えました。スミスが規制緩和論者だとされるのはこのような理由によるものです。
しかしながら、実際には、スミスは、規制の緩和は、緩和によって損害をこうむる人々の感情も考慮して、ゆっくりと時間をかけて慎重に進めなければならないと考えました。なぜなら、社会秩序というのは、人々の感情をベースにしてつくられているからです。
したがって、スミスにとって、規制をどの順序で廃止していくかは、今すぐに決めるべきことではありませんでした。スミスは、穏健で現実的な規制緩和論者であったのです。  
植民地の統合か分離か、国富論の結論

 

1770年当時、イギリスには、正しい判断を、すぐに行わなければならない問題がありました。それは、アメリカ植民地の反乱という問題です。『国富論』において、スミスは、アメリカ植民地問題に対する二つの対応策を示しました。第1の案は、アメリカ植民地を1707年のスコットランドのように、イギリス帝国の中に正式に統合するというものでした。この統合案では、貿易は、一部の特権商人や大製造業者によって独占されるのではなく、すべての諸国民に解放されます。すなわち、規制がとり払われて自由に貿易ができるようになります。また、植民地は防衛サービスを提供する本国に対して、これまでは、税金を払ってなかったわけですが、スミスの統合案では、防衛に見合う税金を払うことになっています。
スミスは、植民地貿易の自由化は、一気に行われるべきではなく、徐々に行われるべきものだと考えていたわけですから、当面は植民地貿易にかかわる諸規制をある程度は残しながら、植民地に対して、本国国民に課しているのと同じ税を課すことを提案したといえます。
スミスは、イギリス政府が植民地に税金の支払いを求めたことに関しては、それは妥当である、当然であるという判断を下しています。スミスにとって、イギリスの税制度を植民地に拡大することは、制度的に可能でありましたし、また正当なことでありました。ただし、課税の正当性は、各植民地が納税額に比例した数の代表者、すなわち議員をイギリス議会に送ることが条件でした。これは、イギリスの国体の問題であって、議会は納税者の代表機関ですから、王が税を課すことに対しては、納税者の代表がそれを承認しなければならない。税を課すのであれば、アメリカから納税額に見合う比率の代表議員が出ていって、どこにどれだけの税金をかけるかということを決めるべきです。ベンジャミン・フランクリンが言った、「代表なくして課税なし」というのも当然なのです。防衛をするのだから税を払えというのも、妥当、正当であるけれども、税金を払うのであれば、代表を送らせてくれというのも、イギリスの国体上、正当なことなのです。
しかしながら、この条件には、イギリス本国にとって受け入れがたい困難が含まれていました。スミスは、アメリカ植民地が広大な土地と豊富な天然資源を背景に、将来、急速な経済発展を遂げるだろうと予想していました。そうなると、アメリカの納税額がふえて、それに比例してイギリス議会におけるアメリカ代表者の議席の数、あるいは割合もふえることになります。将来、アメリカの納税額がイギリスの納税額を上回れば、イギリス議会の主導権はアメリカ選出の議員たちに握られ、その結果、イギリス帝国の首都が、ロンドンからアメリカの政治的中心地、多分フィラデルフィアに移ることが予想されたのです。そうなれば、イギリスが「大英帝国(ブリティッシュエンパイア)」という名称を使い続けたとしても、実質は「アメリカ帝国(アメリカンエンパイア)」となって、イギリスがアメリカ帝国の一属州になる日が来るだろうと、スミスは述べております。
イギリス政府や国民はこのような結末を招くような統合を受け入れることは恐らくできないだろうとスミスは考えました。したがって、おそらく政府の指導者にとって、とるべき戦略は、武力によって植民地を制圧し、代表権を与えることなく、植民地に課税することになるでしょう。そうなると、植民地側の指導者に残された選択は徹底抗戦しかないでしょう。スミスは、アメリカ植民地とイギリス本国との関係は、もはや修復不可能なところまで来ていることを直観的に洞察していました。
スミスが示したもう一つの案は、分離案と呼ぶべきもので、イギリスが、アメリカ植民地を自発的に分離し、独立国として承認することでした。統合案では、植民地は本国政府に防衛を委託し、それに見合った税を納めることが示されたのに対し、分離案では、植民地は独立国となり、自国政府によって防衛を行うことが示されました。統合案が植民地の人々を本国国民と同等に扱うことを意味したのに対して、分離案では、植民地の人々を諸外国の人々と同等に扱うことを提案していると言えます。 ただし、スミスによれば、独立した植民地と本国との間には、自由貿易に関する通商条約とともに、安全保障条約が結ばれ、集団的自衛体制がとられることになっていました。要するに、植民地は本国の同盟国になるわけです。
また、統合案においては、植民地貿易にかかわる諸規制と諸権益は、当分の間は残されるかもしれないのに対し、分離案では別の国になるわけですから、両国の間にあった権益は、アメリカが独立したその日から消えることになります。このことは、植民地貿易に従事する特権商人や大製造業者には受け入れがたいことでしょう。また、政治家や国民にとっても、今まで維持してきた植民地を手放すことは大変不名誉なことでしょう。
このように、統合案も分離案も、理論的には実行は可能でしたが、現実的にはどちらも大きな困難を伴うものでした。
では、スミスは最終的にイギリス政府に対して、どちらの案を提案したのでしょうか。スミスは次の文章で、『国富論』を締めくくっております。
「ブリテンの支配者たちは、過去一世紀以上の間、大西洋の西側に大きな帝国を持っているという想像で国民を楽しませてきた。しかしながら、この帝国は、これまで想像の中にしか存在しなかった。これまでのところ、それは帝国ではなく、帝国に関する計画であり、金鉱山ではなく、金鉱山に関する計画であった。それは、何の利益ももたらさないのに巨大な経費がかかってきたし、現在かかり続けている。また、今までどおりのやり方で追求されるならば、これからもかかりそうな計画である。なぜなら、すでに示したように、植民地貿易の独占の結果は、国民の大多数にとって、利益ではなく、単なる損失だからである。今こそ、我々の支配者たちが―そして、恐らく国民も―ふけってきた、この黄金の夢を実現するか、さもなければ、その夢から目覚め、また国民を目覚めさせるよう努めるべきときである。もしこの計画を実現できないのであれば、計画を断念すべきである。もし帝国のどの植民地も帝国全体の財政を支えることに貢献させられないのであれば、今こそ、グレート・ブリテンが、戦時にそれらの領域を防衛する費用、平時にその民事的・軍事的施設を維持する費用からみずからを解放し、将来の展望と計画を、自分の身の丈に合ったものにするよう努めるべきときである。」(国富論、第四巻、358−359頁)
このように、スミスが最終的に支持したのは分離案でした。スミスにとって、植民地貿易の独占によって金の保有量を増加させ、国力を高めようとするイギリスの計画は、幻想でしかありませんでした。その姿は、アメリカ大陸に金鉱山を探し求めた、かつてのポルトガルやスペインの姿と同じでした。スミスは、今こそイギリスはこの黄金の夢から目覚めなければならないと考え、夢の原因となっているアメリカをむしろ自発的に放棄することを『国富論』の結論としたわけです。この結論は、イギリスの政府と国民に対し、弱さにとらわれることをやめ、賢明さに基づいた行動をとるように呼びかけたものだと思います。  
スミスの私たちへのメッセージ

 

最後に、スミスが現代の私たちに与えてくれるメッセージは何かということについて、お話ししましょう。それは4つあると思います。
第1に、スミスは、私たち人間を、社会的存在としてとらえることの重要さを教えてくれているように思います。今日お話ししましたように、人間が正義感を持つのも、利益を追求するのも、他人に関心を持ち、他人の同感を求め、そして反感を避けようとするからだといえます。社会秩序が形成されるのも、社会が繁栄するのも、すべては人間の中にある同感のおかげです。一方、利益の追求が行き過ぎて、独占をもたらしたり、場合によっては秩序を乱したりするのも、人間が他人の目を意識する社会的存在であるからです。いずれにしても、スミスの人間観に従えば、個人を社会から切り離された存在と想定し、その想定から経済や社会を分析するのは誤りだということになります。
第2番目として、スミスは、私たちに富の役割を教えてくれているように思います。富の役割は当然、私たちの生存を確かなものにすることであり、私たちの生活を便利なものにすることです。しかしながら、スミスは、富の役割をそれ以上のものとみなしていました。スミスは、富の重要な役割は、人と人をつなぐことであると考えていました。市場は、まさしく、富と富を交換することによって、見知らぬ人同士がつながり合い、助け合う互恵の場です。また、経済成長は、富が増大することだけではなく、富んだ人と貧しい人の間のつながりを広げることを意味しました。さらに、貿易は、外国の人々、言葉も文化も異なっていて通常はコミュニケーションしにくい人々たちとの交流を深め、相互依存関係を築くことによって、互いの安全をより確かなものにするという役割を持っています。このように考えると、経済活動の役割の一つは、人と人とのつながりを広げるところにあると言えます。
スミスが教えていると思われることの3番目は、人と人をつなぐ富の役割を十分生かせる経済社会を目指すべきだということです。スミスは、市場社会がこの理想に一番近いと考えていました。ただし、市場社会が本当に人と人、あるいは国と国をつなぐ富の役割を十分に生かすためには、独占や結託、不正や偽装などがあってはなりません。また、経済が、他国よりも優位に立とうとする国家の戦略の手段になってもいけません。したがって、市場はこのような意味で、公正かつ自由でなくてはならないと言えます。
4番目に、スミスは、今できることとそうでないことを見きわめ、今できることの中に真の希望を見出すことを教えているように思います。私たちは、社会の将来について、理想を持たなくてはなりません。しかしながら、同時に、理想に向かって今できることとそうでないことを見きわめなければならないと思います。実現できないような理想を強く推し進めようとするのは、単なる熱狂でしかありません。
スミスが『道徳感情論』や『国富論』において戦った相手は、実は、社会を根底から覆そうとする、急進的改革主義者でした。独占利潤や既得権益にしがみつく人々を、スミスはもちろん批判はしていますが、本当の敵はそこには見ていなかった。どこに敵を見ていたかというと、後にフランス革命を起こしたような人々、あるいは、当時でいえば、トマス・ペインのようなアメリカ独立戦争に熱狂しているような人々で、むしろ、そういう人たちによって社会がひっくり返される前に、きちんと手を打たなくてはならないというのが、スミスの立場だったと思います。
スミス自身は、世界が自由な市場によって結ばれることを理想としましたが、だからと言って、イギリスが設けている規制をすぐに全廃すべきだと主張したわけではありません。一方、アメリカ植民地問題に対しては、植民地を放棄するという大胆な提案を行いました。スミスは、植民地の分離によって、イギリスは理想に向かって一歩前進できるのだと考えたのであり、それがイギリスの今できることであると考えたのです。そして、結果はそのとおりになりました。
以上が、スミスが私たちに与えてくれているメッセージです。これらのメッセージによってつくられるスミスのイメージは、従来のイメージ、すなわち自由放任主義者、市場原理主義者のイメージとは随分異なったものではないでしょうか。
スミスは、市場は有用であると考えていましたが、万能だとは考えていませんでした。経済成長は必要だと考えていましたが、それ自体が目的だとは考えていませんでした。個人にとって、富はある程度必要だと考えていましたが、あればあるだけ幸福になれるとは考えていませんでした。スミスは、個人にとっても、社会にとっても、最も必要なのは心の平静だと考えていたのです。  
今、私達に求められているもの

 

1970年代のオイルショックを乗り切ってから30年、私達はIT化やグローバル化に伴う市場の拡大、あるいはそれがもたらすビジネスチャンスに目を奪われて、公平な観察者の視点を失っていたのではないでしょうか。このことが原因の一つになって起こったと言える、昨年の金融危機およびこれから深刻化すると予想される世界的な不況は、私たちの心の平静を乱し、市場経済への信頼を揺るがせるものだと言えましょう。
今後、市場に対する規制は強化されるかもしれません。しかし、規制の強化だけで、市場に対する信頼が取り戻せるとは思えません。また、安易な規制や政府の介入は景気の回復をかえって遅らせるかもしれません。市場が本来の機能、互恵の場としての機能を十分に発揮するためには、ルールや規制だけでは十分とは言えず、むしろ、市場参加者が自分の行動を公平な観察者の目で見て、その判断に従う習慣をつけていかなくてはなりません。そのような習慣は、生きた人間同士の日常的な、顔の見えるつき合いの中で、長い時間をかけて形成されるものだと言えます。
世界経済や日本経済が動揺する中で、私たちは先ずスミスの社会観、すなわち社会の秩序も繁栄も同感によって、すなわち他人の感情を自分の心の中に写しとり、それと同じ感情を引き起こす能力によって、支えられるものなのだという社会観を再確認し、共有すべきだと思います。それがたとえ遠回りのように見えたとしても、日本経済や世界経済、そして私たち一人一人が心の平静を取り戻すために、今なすべきことだと思います。
したがって、企業経営に携わる皆様が、このようにして定期的に集まり、企業が守るべき倫理、スミスの言葉で言えば、公平な観察者の判断基準とは何かということについて、あるいは職業を通じての社会奉仕のあり方について考え、語り合う場を持っておられるということは、大変重要なことであり、有意義なことだと思います。私の今日の話が、ここにお集まりの皆様方一人一人に何かのお役に立てば幸いです。  
 
人は幸福か

 

はじめに 
よく「人生は短い」という。「長い人生にはいろいろなことがあるさ」というのはむしろ例外で、洋の東西を問わず人生の短さはかなさを嘆くことばは多い。「芸術は長く、人生は短し」Ars longa, vita brevis (ヒポクラテス)、「少年老い易く、学成り難し」(朱熹「偶成」)、あるいは織田信長が本能寺で非業の最期をとげたときに舞った伝える「人間五十年、下天(げてん)のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり、一度生をうけ滅せぬもののあるべきか」(幸若「敦盛」)。これだけ寿命がのびた現代でも人生はまだ短いという印象は強い。
しかし、私はローマの哲人政治家セネカ(前4 –後65)のことばにはいつも勇気づけられる。
「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費(ついや)されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」
良く生きれば人生は十分に長い。したがって、長い、短いをきめるのは、どれだけ良い人生を生きられるかということになろう。「良い人生」を「幸福な人生」といいかえてみよう。では「幸福」とは何か、われわれは幸福なのか、どのようにすればわれわれは幸福になれるのか。これについて、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「幸福」の条件をいくつかに分類しているが、ここはドイツの哲学者ショーペンハウアー(1788-1860)の『幸福について-人生論』の整理のしかたを借りてみる。ショーペンハウアーによれば、人生の財宝には三つの部類がある。第1は人のありかた(人品、人柄、人物。これには健康、力、美、気質、道徳的性格、知性とその完成が含まれる)、第2は人の有するもの(あらゆる意味での所有物)、第3は人の印象の与え方(他人のいだく印象に映じた人のあり方と思惑。名誉、位階、名声に分けられる)である。人のありかたは、人の有するものや人の印象の与え方よりも、人の幸福に寄与するところが大きい。人のありかたとは人の本来有するものである。
どのようにして人は幸福になれるのだろうか。この答えはまさに千差万別だが、やはり一つのやりかたは、やや遠回りだが、「学ぶ」ことである。学ぶことは人の幸福にふさわしい。なぜなら、人は学ぶことによってまさにその人のありかたを良く変えることができるからである。もちろん、私がここにおいて「学ぶ」と言っているのは、大学に入らなければとか、大学を出ていなければ、とかを指すためではない。すべての人はいつどこにおいても学ぶことができるのでなくてはならない。なぜならすべての人は幸福を求めるからである。
しかしながら、すでに述べたショーペンハウアーの分類には「人のありかた」のほかに、第2の「人の有するもの」、第3の「人の印象のあたえ方」があった。たとえば、お金や財産、そして地位や出世がこれに当たるが、これらをまとめて「実利」とあらわそう。「学び」が「人のあり方」を変えるのでなく、この「実利」に結びつく場合は、幸福との関係はどうなるだろうか。最近は仕事の評価に能力主義が取り入れられてくると、「学ぶ」ことの意味も変わってくるのではないか、と考える人も少なくないかも知れない。このかかわりで、話は遡って、明治5年「学制」の発布、つまり日本における学校制度の始まりのことに思い当たる。「学制」は、時期的にも国家主義色の強い「教育勅語」(明治23年)のはるか以前であり、内容もこれと対照的に教育は人のため(身を立てるため)というなかなか開明的内容をもっている。いわく「サレハ(だから)学問ハ身ヲ立ルノ財本トモ云ヘキ者ニシテ人タルモノ誰カ学ハスシテ可ナランヤ。」
ここで「身を立てる」とは何かをくわしく論じる余裕はないが、それはとにかくも、「学び」の目的が何であれ、「学び」である以上さしあたりは打算や実利を超越し人の内側にはたらきかけ、考えさせる要素は大きい。その意味では「人のありかた」を向上させる。たとえばお金をもうけるために経済学を学ぶのであっても、人は何のために労働するのか、どういう意味においてお金は必要なのか、人は何のために生きるのか、という問いと無関係に経済学を学ぶことはできない。学ぶこと自体、人を思慮深くするのである。『論語』の「為政」篇に「学びて思わざればすなわち罔(くら)く、思いて学ばざればすなわち殆(あや)うし」という有名なくだりがあるが、これも学ぶことが人の内側に働きかけることを簡潔にあらわしたことばである。
「学ぶ」こととその学んだ結果のまとまりをあわせて「学問」という。広辞苑には「学問」とは「勉学すること、またそうして得られた知識」とある。固いイメージを思い浮かべるが、それでも学生の間で「天才柳沢教授の生活」というコミックの主人公が妙に人間的で人気があるらしい。この私も何十年も学問を職業とし大学を職場としてきたので、「学び」を通じて人の「幸福」とは何か考えさせられるチャンスも多い。学ぶことは人の幸福のありかたや人のあり方とどうつながるか、そこで、体験や感想を材料に自省してみた。ところで、あたりまえだが大学(職業)を離れたひとりの「私」もいるはずで、ついで「私」としての「幸福論」を考えてみた。そうしてみると、日頃は考えなかった私なりの「人は幸福か:現況報告書」のようなラフ・スケッチが手元に残ったのは、われながら意外でむしろこのほうが面白かった。ここにもうひとつの大きな課題が浮かび上がるからである。
「幸福」ははたして学んだり教えたりできる対象だろうか。たしかに、人は悩むとよく哲学書を読んで考える。また経済学、社会学、政治学、法学、文化人類学などの見地からさまざまに科学的に分析してゆく人もいる。これらはある程度有効である。たとえば、人間が完全に幸福でないとすれば--そして、それはほとんどたしかだが--何がそれを妨げているのか、と。ここでわれわれは、まずは、「国家」や「社会」など人間が作った目に見えない外側にわれわれが囲まれていることに気づく。しかしこのことは、正確な分析はあるにしても、あまりにありきたりで新味がない。では、外側を除けて「われわれだけ」なら幸福になれるのか。が残念ながら、なかなかなれないだろう。なぜか。答はむずかしいが、思い切って「しっと」(ジェラシー)をとりあげてみた。「しっと」をとりあげることが格別に妙とはいえないのは、すでに人のもう一つの性質「エゴイズム」はとりあげられているからである。つまり、「市場」とは形を変えた、というよりは形を見えなくした「エゴイズム」が、期せずしてうまく働いているシステムであり、この法則を見出したのが経済学者アダム・スミス(1723−1790)である。
けれども、幸福は学んだり教えたりされるよりは、むしろみずから感じあるいは親しいものたちと共感するものではないか。幸福は学問以前、いや「哲学以前」でさえあるのではないか。そう思えてしまう。われわれの学びもその方向をさしてゆくのがいいのではないか。まずは本文を読んでください。 
学者の快楽主義と禁欲主義

 

大学の先生は「学者」といわれている。学者は学問を職業としている人のことである。といっても、学問は学者だけのものではない。反対にいうと、職業ともなると別物になり、かえってほんとうのことがみえなくなる部分もある。家庭菜園で楽しまれる野菜作りも、農業ともなればお金の要素が入る。車もマイカーなら大切に手入れするが、タクシー・ドライバーの車なら営業的配慮も働く。大学教授も毎週、毎日の講義になぜか情熱がわいてこない日もある。
そこで、そもそも学問をするとは何だろうか。これには2つの大きな要素があるように思う。まず、一つは「好きなこと」をするという面である。自分の関心事、知識欲、達成欲を満たすことは基本的には楽しく、人生を充実させるからである。アリストテレスは「すべて人間は本来知ることを欲する」と云っている。学問することは人だけにそなわった喜びであって、人以外の動物にはそれはない。学ぶことは人の重要な快楽の一つである。「快楽」というとやや奇異かもしれないが、少なくとも正しい意味での快楽主義に合致する。私がここで「正しい」とかいったのは、むかしエピクロス(前342−271)という哲学者が提唱した快楽主義はまじめなものなのに、誤解を受け続けているからである。快楽主義を信じている人々はよく「エピキュリアン」(エピクロス主義者)と呼ばれているが、快楽主義とは「快を自然に従わせること」をいう。肉体的享楽にふけることとは全く別である。度を過ごす、無理をすることは自然に反するのである。ここでいう「自然」とはふつうの自然環境だけをさすのではなく、天地万物の道理といった意味である。この言い方をすると、人が学ぶことによって喜びを得るということは、すごく自然なのである。つまりはイヤイヤながら学ぶということはもともとあり得ない、というよりそれでは「学ぶ」ことにはなっていない。
もう一つはこれとは反対の「禁欲主義」の要素である。学問には「勉強」がつきものであるが、この勉強は「強いて勉める」、つまりずばり禁欲主義そのものである。もともと禁欲主義は、感性的、肉体的欲望を理性や意志によって抑え、道徳的な理想を達成しようとする生活態度のことで、そのもっとも徹底した例では、お寺の修行僧の苦行や修道院のシスターズの隠遁生活がある。しかしわれわれの日常生活でも禁欲主義的な面は実に多くある。たとえば、皆が遊んでいるときでも自分は勉強する、働く、あるいは正しいルールや義務をきちんと実行する。これでわかるように、禁欲主義は世間の動きに惑わされず、精神の独立、最近の言葉でいえば「自己決定」を大切にする。いきおい、浮世離れをした生活をしているように見られる。私の体験でも、今になっておもえば、少年時代には虚弱体質の反動で禁欲主義に親近感をおぼえたものである。それが他人がいやがる勉強の苦痛をむしろ歓迎し、大学の教師を職業として選ばせたのだとおもう。多くの他の職業でも似た体験を持つ人も少なくないはずだ。
禁欲主義は誰にでもある行動のパターンだが、歴史でみるとその精神面の一つに「ストア主義」がある。禁欲主義を信奉する人をよく「あの人はストイックな人だ」などというが、そのストア主義である。さきにのべた快楽主義とならんでこういう考え方のルーツも古く、紀元前2、3世紀のギリシアにさかのぼる。「ストア」とはこの学説が述べられたアテネの柱廊(ストア)にちなんでいるのだが、これらの人々の一人で哲学者セネカ(前4 –後65)は、人間の幸福は自然に適合し、無理なく心安らかに平静に生きることであると説く。では「自然」とは何か?これは先にも述べたが、われわれが天地万物の道理、神の摂理などというときの「理」、それによって森羅万象が生み出される源をさす。歴史的に見ると、それまでの自然哲学を元にして倫理学を展開したアリストテレスはそのルーツといえるが、ストア学派はそれをうけたゼノン(前336/5 – 264/3)をもって開祖とする。その後、キケロ(前106−43)、暴君ネロをいさめたといわれるセネカ、ローマの「賢帝」の一人といわれたマルクス・アウレリウス(121−180)など高い位にいた人、エピクテートス(55頃−135頃)のように奴隷の身分から身を起した人など、さすがにストア主義の個人主義にふさわしく、階級の別なくそれぞれ、欲望を恐れず理に基づいた人生(セネカ)の幸福を説いている。
ところで、そうなると学問をすることには快楽主義の面と、禁欲主義の両面があることになるが、そもそも快楽主義と禁欲主義は矛盾しないのだろうか。ほんとうのところを知ればこれらは矛盾しない。ストア主義者セネカも、仲間(ストア主義者)には悪いがエピクロスの言っていることは相当に正しい部分がある、と述べているように、ほんとうの快楽主義と禁欲主義は基本としては同じ内容をめざしている。実際、ストア主義者は「心を自然に従わせる」こと、エピクロス主義者は「快を自然に従わせる」ことを説いている。というのも、エピクロスの教えによれば、自然の最も重要部分を占める快はそれ自体としては悪いものではない、しかしある種の快は行き過ぎれば何倍もの心の煩いをわれわれにもたらすからである。わかりやすくいえば、セックスやグルメの快も行きすぎれば必ず弊害(苦痛)をもたらすのである。もっとも、ここまで来れば、これらは学問のことだけでなく、すべての人にとって人生をすごすための教訓となるのであろうが。 
学ぶことの幸福は金銭的な幸福と逆の面がある

 

学問はすべての人に開かれている。学びの目的は、知的な関心であったり、視野や考え方を広げる、あらたな能力の得ることのためなどで、ひとくちでいえばその人の内面が充実することあるいは発展することである。それが達成されることには大きな精神的喜びがある。したがって、学問は直接にお金をめざすものではない。となると、学問に限らず、快楽主義も禁欲主義もしかるべき経済的条件がないと成り立たない。最低収入がしかも安定した流れとして入ってこない状況では、好きなことをやって世の中を生きていくことも、また結果的には浮世離れした生活を実行することもなかなかむずかしい。学者は職業として学問に従事するが、よく「好きなことをやってお金をもらえていいですね」といわれる。しかし、それは事実とちがう面がある。大学を卒業してすぐに職に就く人はこの条件が成り立つが、学者をめざそうとすると、駆け出しのころは、食うや食わずのスレスレの生活を最初のハードルとして覚悟しなければならない。学者の経済生活は一応の生活水準には達しているが、決して世間が想像するほど裕福というほどではない。好きでそういう道を選んだのでは、という面はたしかにある。といっても、学ぶことは何も学者だけではないはずで、すべての人に学ぶ喜びを知る権利があるとすると、人が学ぶのに経済的負担が重いことはいいことではない。それでも、学ぶことの本質は精神的幸福であって、物質的・金銭的なものではないことは肝に銘じておこう。 
人間の幸福

 

すべての人は幸福になるために生まれて来る。学ぶこともそのためである。ところで、このごろ学ぶことをひとりひとりの人生との関わりで考えてゆくことがめっきりすくなくなった。だから、私はまずは、入学式やオリエンテーションで「皆さん、学問は人生のためにあるのですよ、学問のために人生があるわけではない」とよびかけ、人生は一回しかない、敷かれたレールの上を行くよりは一度は自分の生き方から広くながめてみるようにと、アドバイスしている。
私はもとは理科系の出身であるから、学ぶにしたがって、自然や宇宙にある真理や法則がだんだんと自分の前に姿をあらわしてくることにスリルと喜びを感じたものである。ところで、ずっと以前から次のような非常に気になっていることがある。フランスの思想家アルベール・カミュ(1913−1960)は以前から人気ある思想家、哲学者であるが、その代表作品『シジフォスの神話』で、有名なガリレオ・ガリレイの地動説に対する宗教裁判にふれ、ガリレイが裁判の中で自説を曲げ地球が動くことを取り消すことで命が助かった-----その際「それでも地球は動く」とつぶやいたとか、つぶやかなかったとか-----のは、むしろ全く当然だという。なぜならば、地球が太陽の周りを回るのか、太陽が地球の周りを回るのか、それはどうでもよく、命を賭けるような大問題ではないのであって、人生最大の問題とははたして人生に生きる価値があるのかどうかなのだ、と。カミュはいい過ぎの感があるにしても、ガリレイや自然科学を低く見るためにそう云ったのではなく、むしろ彼のことばを借りれば、「死亡理由が立派に生存理由になるのだ」。そのために命をかけてもよい理由こそ、その人が生きる目的である。それでは、家族は?仕事は?学問は?恋愛は?将来の進路は?こう考えてゆくと、すべての人にとって共通のテーマ「人生の幸福とは何か」という問題に行きつくのである。 
幸福は学びうるか

 

人の「幸福」は学んだり教えたりえきるものだろうか。多くの人は、それは感じるものではないか、というだろう。できるとすればどのように? できないなら何が問題か。
そこで、哲学は人の「幸福」について今までどう語っているだろうか。まずは、おなじみのギリシアの哲学で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスのアカデメイア派。ソクラテス(前470 -399)は、人の生きがいは「ただ生きることでなく、善く生きること」に求められるとし、そのことの大切さを自分の死を以って証明した。ここで私はカミュが「死亡理由が立派に生存理由になるのだ」と云ったのを思い出す。プラトン(前427 -347)においては「善」は「イデア」(理想)にまで高められる。人間の魂が高められ心身の要求が満足された理想的境地を考えれば、それが幸福である。ここで「プラトニック」(プラトン的)ということばを思い出そう。よくわれわれは「プラトニック」を肉体的に対し精神的というように使うが、それは正確ではなく、「プラトニック」とは、理想として高められたとか、純化された、という意味である。ここで「理想」というのは語感としては「目的」に近く、プラトンの「さまざまなものを大切にしているように見えても、じつは、そのときほんとうに大切にしているものは他の何かであって」(『リュシス』)という言い方をかりると、この「他の何か」が幸福に当たる。プラトンの弟子アリストテレス(前384-22 )になると、「幸福」がすべて人間の行いがそのために、あるいはそれに向けてなされる最高(というよりは最終、終局)の善ときちんと定義され、さまざまにその幸福の根源が整理されているのは、幸福について考える後世の人々にとってはありがたい。
しかしながら、幸福の中心は幸福感覚であり「哲学以前」ではないだろうか。「哲学」も「学」だが、人の「幸福」を哲学でとらえきれるものだろうか。幸福につきどれだけ深く考えたところで、理解は進むが(それはいいことであるが)、「幸福」になれるわけではない。ギリシアの哲学にしても、幸福についてほんとうにその深みをつかんでいるとはいえない。わたしに云わせれば、何といってもギリシアの哲学に感じる最大の問題は、「他人」「他者」(私以外の人)がいないこと。つまり、それぞれの「私」については、深くよく語られているが、「私A」と「私B」の「関係」については、ほとんど何の関心も寄せられていない点は、人の幸福については相当気になる。現代風にいえば、人と人との「触れあい」のことといえようか。ものを根源から考えるのが哲学であるのに、その哲学の目がここに届かなかったのはなぜかと考えてみると、うまくいえないが、これと根底で関係ありそうなこととして浮かんでくるのは、現在とは異なった奴隷制社会であったことであろう。「私」と私の奴隷は、生れながらにして命令し命令される関係である。私は彼(彼女)を売っても、生かしても殺してもよい。「君は奴隷に生まれてきたのだからね」とか「奴隷であることは君の運命なのだから」で通ってしまう社会は、いまとは相当に異なる想像もできないものだと思えてしまう。
もう一つ、ソクラテスは「ただ生きるのでなく、善く生きよ」という。これは感動的であり宗教的福音の芳香さえただよっている。しかし、宗教とは異なるのは、救い(救済)を伝えてない点。つまり善く生きられない人はどうするのだろうか。いいかえれば、「先生、凡人はどうすればいいのでしょう?」。無視されるのか、放り出されるのか、亡き者にされてしまうのか、凡人は生きる資格はないなどというわけにはいかない。ではどうするのか。もっとも、ソクラテスを批判する資格は今日のわれわれにはなく、これについては、哲学の旧く新しい課題として再挑戦が待っているのだろう。これに答えられないと、哲学に対する信頼は大きく揺らぐことになるだろう。
アリストテレスをはじまりとする幸福論は、その後に(ヘレニズムの時代といわれる)、エピクロス派、ストア派の幸福論を生んだ。これらはいま読んでも、われわれの心に安らぎと自省を与えてくれる。たとえば、こんなに寿命が伸びている今日でも「人生は短い」といわれるが、しかし、セネカもいうように、「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費(ついや)されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」。まことに至言である。ただ、ここでは幸福は個人の内心に限られていて、その意味では自己中心的である(利己主義と混同しないこと)。とはいえ、これらの幸福論(ことにエピクロスの快楽主義)は、近代に入って「功利主義」を生みだし、さまざまなよき社会のモデルを与え、たとえば、今日では人は幸福を求めるのみならずそれを求める「権利」もある、ということはあたりまえになっている。エピクロス派、ストア派の幸福論の影響は今でも大きいのである。 
「国家」と「社会」のクローズ・アップ

 

数百年前のヨーロッパ近代の入口(16世紀後半から17世紀にあたり、日本では江戸時代の始めと同時代)では、「国家」の成立とともに、人(個人)に対する「国家」や「社会」の暴力がクローズ・アップされ、国家や社会は悪事ばかり働いているとの批判がだんだんと高まってきた。フランス革命の基の理念を作った思想家・文学者ルソー(1712−1778)は、国家や社会は要らない、「自然(の)状態」でこそ人は本来の人であるが、
しかしおそらくいっそう力強い学問、文学、芸術は、人々がつながれている鉄鎖の上に花飾りをひろげ、彼らがそのためにこそ生まれたと思われるあの根源的自由の感情を押し殺し、彼らにその奴隷状態を好ませ、彼らをもって文明国民と称されるものをつくりあげる(『学問・芸術論』)
として、人間的な基本次元から痛烈に現社会を批判した。よって、人間の教育をまずゼロから考えなおすべきである。『社会契約論』とならんでよく知られる『エミール』も
われわれは自分の知識によって幸福になりうる以上に、自分の無知によって幸福になることだろう(『エミール』)
最も普遍的に人間を構成しているものから研究するとよい(『同』)
と述べているが、その影響力には非常に大きいものがあり、ルソーは現体制をゆるがす危険思想家と見なされるようになった。実際、まもなく起こるフランス革命の指導者の一人ロベスピエール(1758-1794)はルソーの強い影響下にあったくらいである。やはりルソーの影響をうけたイタリアのベッカリーア(1738−1794)も、『犯罪と刑罰』で、最近、人の幸福に対する最大の脅威は国家、ことににその残虐な刑罰であり、あきらかに理屈に反していると批判した。もともと刑罰権は国家の存立の基礎的必要条件であり、刑罰権のない国家はなくそれは国家の証でもある。ただ、それは一般的な話で、刑罰の濫用と残虐な刑罰は人類の幸福の敵である。わが国にも残酷な刑罰はあったが、ヨーロッパでもそれはひどいもので、多くの心ある者の良心を揺さぶったことは想像に難くない。今日でも、ヨーロッパには刑罰博物館があり、そこを訪れる人はあまりの凄惨さに胸を痛めて出てくるくらいである。
ベッカリーアを受けてイギリスの哲学者ベンサム(1748−1832)は、『道徳および立法の諸原理序説』で司法改革を提唱、その基礎として国民の幸福は「最大多数の最大幸福」(これは、ベンサムのオリジナルではない)でなくてはならず、国家の立法政策はこれに基づいて改革されねばならないとし、当時としては相当思い切った改革案を提案した。この「最大多数の最大幸福」の原理は哲学的急進主義と呼ばれたが、それでもフランスで進行していたフランス革命とりわけジャコバン党独裁の恐怖政治とは対照的で、議会制に基づくだけ穏健であった。しかし、とにもかくにも、このフランス革命と相まって、人類は歴史上はじめて人民の幸福のための国家の良き政策という考え方を打ち出すことになったが、これを広く「功利主義」という。
もともと「功利主義」の「功利」は「効用」ともいい、英語では「ユーティリティー」つまり「役立つこと」を意味するが、人々の幸福にいかに役立つかに価値の中心をおく考え方が正確な意味での「功利主義」である。「最大多数の最大幸福」はその合い言葉の一つである。その根拠として、ベンサムが『道徳および立法の諸原理序説』第1章第1行目で
自然は人類を苦痛と幸福という、二つの主権者の支配のもとにおいてきた
と言っているのは有名だが、この考えには以前に思い当たるふしがある。エピクロスの快楽主義である。つまり、功利主義は千数百年前の幸福の教え(エピクロス主義とストア主義)を近代において実行しようというももくろみであると考えられよう。もっとも功利主義は幅広い考え方でいろいろなバリエーションがある。ベンサムの後、哲学者経済学者ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)は、説教臭いが有名なことば
満足した豚よりも不満足なソクラテスの方が幸福である(『功利主義論』)
とのべて、幸福は比較しうること(ただし、幸福の比較は今日では否定的に考えられている)、人間には尊厳があることを言い表しているが、全体としてミルの功利主義は倫理的色彩が強い点が特色である。また、人間の尊厳は人生を自らの考えでを選択できるところにある(『自由論』)とするのはいいとしても、中国伝統社会の重苦しさを多数の横暴の例にとるなど、説得力を欠く折衷が目立つところは賛否の分かれるところであう。
人類の幸福という次元からみれば、フランス革命(広く「市民革命」といわれる)の成果は歴史的に非常に大きかったが、その方法は急進的暴力的であったため反動も大きく、革命の主導権は保守勢力の手に落ちざるをえなかった。革命後の社会の混乱と人々の英雄待望の心理は、結局はナポレオンというカリスマの出現と独裁に道を開けることとなった。このような状況がその後もうち続くなかで、社会の矛盾、国家の悪しき政策によって、堕(お)ちて行く人々の数は止るところを知らなかった。マルクス(1818-1883)らの社会主義思想が本格的に生れてきたのもこの頃で、「共産主義のマニフェスト」(いわゆる『共産党宣言』)は1848年のことである。また、これとは別の流れではあるが、市民革命が挫折し人々が人間の自由や幸福のあり方に対して大きな幻滅を味わうなかで、人間のあり方に対する見方考え方を根本的に見直そうという思想的な機運も生まれてきた。これがキェルケゴール(1613-1856)の「実存主義」(実存=人間の自己としてのあり方)である。この考え方は最初はキリスト教の弁証論であったが、20世紀に入ってハイデガー(1899-1976)、サルトル(1905-1980)の実存主義の哲学を生むことになるが、話がやや難しくなるのでここではこれ以上ふれないこととしよう。
「いやいや、その燭台は盗まれたのではなく、彼にあげたのです」こう言ってミリエル司教はジャン・バルジャンを助ける。司教の人類愛に赦され改心したジャンは人のために働き人々の信望を得て名市長にまで上り、その社会悪と闘う姿は世で尊敬を集める。最近も映画になり、劇にもなってよく知られるビクトル・ユーゴー(1802−1885)の永遠の名作『レ・ミゼラブル』のテーマだが、やはり、人の幸福と不幸をリアルに描き出しすべての人に感動を与える点は、文学者や作家が他の追随を許さないところである。私は9歳の頃、当時は『ああ無情』とムズカシク訳された少年少女文学全集の一冊をクリスマスの(サンタクロースの!)プレゼントとして贈られ、子供ながらに心に深く刻まれるものがあった。「なさけぶかい」ということばを両親から教えられたのもこのときである。
このユーゴーはマルクスと同時代人で、マルクスによる当時の市民社会(ブルジョア社会)の秀逸な分析『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』にも触れられて登場する。もっとも、ここではユーゴーは高い評価にはなっていない。にもかかわらず、文学者は人間社会の状況分析のリアリティではやはりプロである。こういうと同僚には悪いが、社会科学者はいわば社会の病理解剖をする専門家であり、社会科学の分析は科学として正確で緻密ではあるが、どこか血が通っていない感も否定しきれない。それに対して文学者はいわばカウンセラーとして人の心に触れる。社会科学者は、勝手にカウンセリングしてもらっても病状はよくならない、正確な病状分析がまず必要というだろうが、それでも『レ・ミゼラブル』はフィクションとはいえ社会分析としてのリアリティには社会科学者も脱帽ではないだろうか。 
トルストイに見る現代人の不幸論

 

人間の幸福と不幸について、次の一文以上に古今東西によく知られたものはそうない。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(トルストイ、1817−1875)。
作家のよく知られた大作『アンナ・カレーニナ』の最初の書き出しである。もっとも、これは作家のはじめの構想にはなく、もともとは次に続く「オブロンスキー家では何もかもめちゃくちゃだった」から小説はスタートするはずであったという。もしそうだったら、NHKの連続ドラマかアメリカのソープ・オペラふうの家庭小説になっていただろうか。実際のところ、『アンナ・カレーニナ』も、見方によっては、美貌の人妻の不貞と転落、そして鉄道自殺という破局をむかえるまでを長々と描いた小説にすぎないとすることもできないわけではない。
ただ、私は人の幸福や不幸を考えてみると、そうは思いたくはないのである。ヒロインのカレーニナの夫はいったいどんな人だったかといえば、今日われわれの周囲にじつによく見るタイプなのである。彼の名をカレーニンという。(ロシアでは夫の名に「ア」aや「アヤ」ayaをつけて○○夫人とする。たとえば、チャイコフスキー夫人はチャイコフスカヤとするなど)。カレーニンは成功した高級官吏であった。格別に彼が冷たい性格であったわけではない。むしろ、謹厳、実直、誠実であって、芸術にも理解のある人であった。ただ、彼はたかだか謹厳、たかだか実直、たかだか誠実であったにすぎない。彼には情熱や心からの愛は感ぜられず、誠実というより、いわば不誠実な誠実・冷淡な誠実がどっかり腰をすえていた。彼は妻アンナを愛していると自分では思っていた。そしてまた、アンナ自身、彼を立派な人だとは思っていた。ここは長く引用した方が実感が伝わるであろう。
−わしはこういうことを言うつもりなのだが、−と彼は冷静に、落ちついて言葉をつづけた、−お前にもとくと聞いてもらいたい。嫉妬心というものは恥ずべく、卑しむべき感情だとわしが認めていることはお前も知ってのとおりで、わしは、決してそんな感情に左右されることは自分にはゆるさないつもりだ。だが、世間には、礼儀というある一定のおきてがあって、これを踏み越えれば、罰を受けないではすまない。今夜、わしは自分で気づいたわけではないが、社交界の連中に与えた印象から察して、お前の態度ふるまいは、あまり望ましいものではなかったようだ。
−お前の感情のこまかい点にまで残らず立ち入るなどという権利はわしにはないし、だいたい、そんなことは無益なばかりか、有害だとさえ考えているよ、−とアレクセイ〔カレーニンのこと〕は話しはじめた。−心の中をほじくっていると、よく、そっとしておけばいいようなものを掘りおこしてしまうことがあるものだ。お前の感情は−お前の良心の間題だ。だが、お前の義務をはっきり示してやることは、お前に対しても、わし自身に対しても、さらに神に対しても、わしとしてはしなければならないことなのだ。われわれの生活は、人々の手によってではなく、神によって結ばれているんだからね。この関係を破り得るものは犯罪しかない。そして、この種の犯罪は必ず重い罰を伴うものなのだ。
−アンナ、お願いだ、そんな言いかたはしないでおくれ、−とおとなしく彼は言った。−そりゃ、わしのまちがいということもあるかもしれないが、こんなことを言うのも、自分のためであると同時に、お前を思っての上だということは信じておくれ。わしはお前の良人であり、お前を愛しているのだから。
高貴である。だがひどく冷たい。また他人行儀で妻に対する愛情はほとんど感じられない。嫉妬は人間としてみにくい感情である、ゆえに私には(彼には)関係がない、などと本気で言える人だったのである。
愛しているですって?このひとに愛することなんか出来るのだろうか?愛などというものがあるともし人から聞かされなかったら、このひとは決してこんな言葉を使いはしなかったでしょうよ。愛がどんなものか、このひとには分ってはいないのだもの。(アンナ)
では、アンナの内縁の良人ウロンスキーの方はどんな人だったか。彼が正しい人であることはアンナもよく承知していた。ただ、彼女は彼に正しくあってほしいと願ったわけではない。そうでなく、彼女は愛され満たされたかったのだ。どのように?ウロンスキーにはどう頭で考えてもそれがわからなかったし、どうすればよいのかも思いつかなかった。アンナは非常に感受性の鋭い女性であった。彼女の行動は行動としては愚かだったが、しかし、一つの真実を指そうとしていた。つまり、トルストイは、カレーニンやウロンスキーの上に、実は現代人の中にある人間性に対する鈍感さを見たのである。
ここで、話題はややずれるが、大学時代の私の第二外国語はロシア語だった(よく使う外国語は社会に出てから独習すればよい、と思ったのである)。ところで、面白いことに、ロシア語に「カレーニン」Kaleninという語が固有名詞としても普通名詞としてもないのだ。トルストイの純朴さと正義感の強さに共感と尊敬をもっていた作家ロマン・ローランの『トルストイの生涯』によれば、往年のトルストイは夫人からたしなめられるくらいにギリシア語学習に熱中していたが(ロシア語の起源はギリシア語)、実は「カレーニン」はギリシアの古典中の古典『ホメロス』にある「カレノン」(頭)からとった造語なのである。それでわかった。トルストイは「カレーニン」に、頭だけで考える人々がいかに人間の真実から遠いかをこめたのである。 
他人(ひと)の幸福を知って、自分は幸福か不幸か

 

人の心には緑色の目をした怪物が棲(す)むという。英語では「グリーン・アイド・モンスター」(green-eyed-monster)。これが暴れ出すと心はそれにのみこまれズタズタになってしまう。抑えこむのは容易ではない。何だろう。答えは「嫉妬(しっと)」「やきもち」「ジェラシー」。他人(ひと)の幸福に心が平静でなくそれを憎む気持ち、あるいは愛する者の気持ちが他の者へ向くことに対して心が乱される気持ち。「グリーン・アイ」といえば嫉妬のこと。この語源はシェークスピアの『オセロ』で、ヴェニスの名将オセロは、自分の美貌の妻が部下とあやしいとの讒(ざん)言を信じて嫉妬に狂い殺してしまう。しかし讒言はウソとわかり、オセロも自殺する。「オセロ」とはそれ以来、嫉妬、やきもちの代名詞になっている。そのほか、『ヴェニスの商人』にも「緑色の目」は登場する。
人の幸福の敵はその心中にある。人がたった2人でさえ、そこにはもう2人の幸福を妨げる要素がある。まさに社会や国家以前、人類の始まりとともにある。嫉妬に狂うと心は平静でなく、平静であろうとするもう一つの心と大格闘になる。心臓の鼓動は高まり顔は青ざめる。英語大辞典には「グリーン」とは「青白い」と訳すと書いてある。他人(ひと)の幸福をどう評価するかという問いは、「幸福論」から不当に排除され、幸福論はもっぱら自らの幸福だけを扱うものであってきた。しかし、人の心の奥にあるもう一人の自分が闘いをいどむのであれば無視できるどころの話ではなく、それこそ大問題である。古今東西の哲学者が人間の嫉妬心に正当な扱いをしなかったのはうかつというほかない。
すこし理屈っぽくいおう。Aさんの幸福の判断をAさんがすることはきわめて順当だが、Aさんの幸福をBさんがどうやってどのように判断するかとなると、Aさんの幸福を直接にBさんが感じているわけではないので評価は相当にむずかしい。意外なことだが、この問題を正面からとり上げた数少ない一人は、あの『国富論』(あるいは『諸国民の富』)の経済学者アダム・スミスであった。スミスは最初の経済学者とされているから、スミスが学者になったとき、彼が経済学の専門でなかったことは当然である。専門は「モラル・フィロソフィ」、つまり道徳哲学。人は他人に対してどれだけその人(他人)の立場で考えることができるか、どれだけ心を同じにできるか、これがテーマであった。上の言い方では、BさんがBとしての気持ちでなく、Aさんの気持ちをもつ。こんなことが可能であろうか、無私の神にのみ可能ではないか。それはとにかくも、これを「シンパシー」(sympathy)という。これはスミスのいいたいことからは「同感」「共感」と訳され、「同情」とは訳されない。この議論は『道徳感情論』という、スミスの玄人向けの本に縷縷(るる)書きしたためてあるが、つまり人が自分の幸福だけを考えたら「社会」は成り立たないだろうとスミスは当初心配したのである。
後年、スミスは、(経済学で云う)「市場」のことなら心配ご無用、人とは自分の利益をまず考えて行動するものと想定しても格別に問題はない、と考えるにいたった。これを「経済人(ホモ・エコノミクス)」の仮定ということは知っている人も多いだろう。スミスのメジャーの著書『諸国民の富』の「分業について」では、「われわれが食事をとれるのも、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのでなくて、自分自身の利益に対するかれらの関心によるのである」と述べているが、それではたしてうまく行くのかといえば、そこは「神の見えない手」が働いて、市場という社会は、バランスしうまく行くとスミスはいう。じっさい、「個人の私利をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する。………見えざる手に導かれて、みずからは意図もしていなかった一目的を促進することになる。」今日「市場メカニズム」といわれるものはまさにこれに言い尽くされる。これによって、スミスといえば、『諸国民の富』、そして「市場メカニズム」の元祖という公式が出来上がった。『道徳感情論』は相対的にマイナーになり、他人(ひと)の幸福という重要問題に関する議論も関心を引かなくなってしまった。ここは意外と大きな歴史の曲がり角だったかもしれない。
私の仮説であるが、現代では他人(ひと)の幸福とか嫉妬はわれわれのなかでは思いのほか無視できない存在である。たとえば、政治学者はあまり考慮しないようだが、国政選挙では政策だけでなく候補者たちへの嫉妬で投票行動が左右されているのではないか、と思えるふしがある。それはとにかくも、ひとつ確かなことはもし嫉妬が心のふつうの働きだとすると、すべての人が幸福になるという理想状態は理屈の上ではありえないことである。ある人の幸福が必ずや他の人の心をかき乱すであろうから。ショーペンハウアーが『幸福について』でいうごとく、嫉妬はなかなか打ち勝ち難い、なぜなら相手の持物でなく、相手その人に対するものだから。けれども、嫉妬を野放しにするのでなく、それを心にとどめ、かつ美しいものに対するあこがれや愛を優しさで包むという心のバランスは重要だ。
私の専門は統計学や数学である。親が小学生の私に代数学と英語の家庭教師をつけたからかも知れない。たしかに数学のとぎすまされた簡潔な真理は永遠のものでありすばらしい。だが、昔から習いたかったのはむしろ音楽や絵の方である。美しいもの、すばらしいもの、感動的なものに対する人の愛、あこがれ、場合によっては独占欲というものは、心の中にたとえ道徳に反してでも、存在しようとする。こういう「生」の世界は芸術の世界を作る。道徳的に正しく生きる「生」も人間の「生」なら、これに対する反道徳的な反「生」もそれ自体「生」である。こういったのはニーチェ(1844-1900)である。嫉妬はみにくく反道徳的かも知れないが、それは美しい愛の反映像でもある。
イタリア系イギリスの画家ガブリエル・ロセッティ(1828−1882)の「プロセルピナ」という妖艶な絵は以前から愛好家が多く、文学者や作家が多数批評を書いている。わが国でも蒲原有明(文学者)の詳しい批評がある。「プロセルピナ」はギリシア神話中の女性の名で、彼女は不幸な結婚に閉じこめられたが、約束に反して禁断の実を食べたためにそれから逃れることができない。「ざくろ」は閉ざされた結婚、左から下がる「蔦」(つた)は忘れられぬ思い、そして蔦の流線に乗るプロセルピナの緑(!)の衣、ロセッティが好んだといわれる衣のひだ。モデルの名はジェイン・モリス(Jane Morris)という。ロセッティの友人で有名な社会主義思想家でまた工芸家、それで商会を設立したウィリアム・モリス(1834−1896)の妻である。モリスの結婚生活は不幸であったため、画家の心は自然にこの不幸な女性に向かうが、しかし彼女は他人の妻である。不遇な結婚に閉ざされた女性の心を象徴的にイメージさせるこの絵ほど、愛と嫉妬、そして画家の優しさを表すものはない。 
幸福はファンタジー

 

ショーペンハウアーは幸福についてるる述べたあとそれは、心の迷いだという。だからこそ救いが必要であるともいう。私にとっては「幸福」は救いのファンタジーである。サン・テグジュペリの童話『星の王子さま』には、やがて大人になる子供にたいへん大切なメッセージがある。「こころで見なければ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは目に見えない」。目には見えないが存在する。だから「ファンタジー」といっても空想ではない。サン・テグジュペリは飛行士であり、空を飛びながら地上の「救い」を想う。その意味でも空想ではない。同じく飛行士であるリチャード・バックの『かもめのジョナサン』もまさしく人の「救い」と人への愛を想い飛び続ける。ここには霊的(スピリチュアル)な優しささえこめられている。訳者五木寛之の解説によれば、訳者自身この「スピリチュアル」にどうしてもついていけないようだが、作品中にくりかえし述べられているように『かもめのジョナサン』は「神」ではない。逆にいうと、それくらいそこここに宗教的信仰が感じられるのである。
幸福のファンタジーとして世界中に知られ決して忘れられないのは、ベルギーの詩人、劇作家、哲学者メーテルリンク(Maeterlink 1862-1948)の『青い鳥』、あのチルチル、ミチルという男の子と女の子を主人公とするクリスマスの夜のファンタジーである。「青い鳥」とは「幸福」ので象徴であり、メーテルリンクのメッセージは、青い鳥はあなたのすぐそばにいるというものである。幸福は「いつだってあなたのまわりにいる」。だから、チルチルが「会った覚えがない」というと、「幸福たち」からゲラゲラ笑われる。まず家の中から幸福を探すと、意外なことにわれわれのまわりには多くの「幸福たち」がいて、十人も二十人も登場して来る。「大きな喜び」(主な喜び?)として「正義である喜び」「善良である喜び」「ものを考える喜び」「仕事を仕上げる喜び」「もののわかる喜び」、最後に「母の愛」が登場する。たしかに、母の愛はまさに「哲学以前」である。そして劇最後の登場のトリは待たれるもの(救世主=メシア)としての「光」である。
面白いのはおいしいものを食べる「幸福」である。一瞬「?」という気がする。テレビのコマーシャルで「私、しあわせ!」という「飽食」の時代だから、食べることの幸福もある程度訳がある、と思えてしまう。心の広い哲学者メーテルリンクが「『太りかえった幸福たち』、この人々は品が悪いが悪い人ではない」というところに、幸福を求める者の心の優しさがある。人が幸福を求めるなら、やはり幸福にあれやこれやの差をつけず(先に述べたジョン・スチュアート・ミルを思わせる)、すべてを優しく包み受け入れることが必要である。幸福を求めること自体が周囲に不幸をもたらしてはいけない。幸福を求めること自体、幸福と心の温かさと優しさをもたらすものだからである。 
 
近代によみがえる快楽主義

 

 市場と功利主義 / 「金利生活者」の幸福論か 
心の平静  
すべて人は幸福をもとめる。「幸福」とは何かについて考えるとき、富、名誉、力、健康、長命であれ、何であれ、すべてのひとが答をもっている。幸福は哲学者のものではなく哲学以前であり、幸福論はきわめて古い歴史をもっている。西洋でみれば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学よりも古い。自然哲学者デモクリトスは、ふつう、世界の根源として「原子」の概念を立てた人として近代において有名であるが、体系化されていないものの、多くの倫理説を格言や体験として残している。その幸福論は独特な風格があるもので、高貴な自己中心主義に人の魂の安らぎがある、という。何はともあれ、幸福は何らかの快楽にあるという定義に照準が合ってきている。これは、後世のストア哲学者セネカも『心の平静について』で引用している。
しかし、やはり、幸福についての最初の本格的な哲学的論議は、プラトンとアリストテレスによってはじめられる。プラトンの幸福は、哲学的に最高にして真なるもの(イデアの世界)の追求と認識の生活にある。感性的なものから自我や人格がはっきりと区別されて切り取られ、その全体的完成がめざされているのは、最初の理想主義者ともいうべきプラトンにふさわしい。この幸福の定義は、新プラトン主義(3−6世紀)、およびそれと形影相伴うキリスト教の教義の形成と発展につれて、次第に超越的かつ宗教的になってゆく。
プラトンと異なり、本質の観想(テオリア)だけでなく実践(プラクシス)をも重視したアリストテトレスは、幸福(エウダイモニア)を倫理の究極目的、行動の基準とし、まさに「幸福主義」倫理学の体系をうちたてた。その中心的著作『ニコマコス倫理学』第七章では、幸福の定義が与えられている。
幸福は、人間の人生の目的として最高善であり、神から与えられるものでなく人間として求めることのできるものである。人間は運命からも自由である。幸福ははっきりと此岸(こちらがわ、われわれの生きているこの世)の「徳」なのであり、その意味では近代の功利主義に通じるが、相異点は、近代功利主義は感覚に基礎をおくのに対しアリストテレスの幸福は人生の最高善の追求に基礎がある、という点である。19世紀思想家ジョン・スチュアート・ミルによれば、アリストテレスは「公正な功利主義者」なのである。 
ストア主義はキリスト教へ

 

つぎに、われわれは、ストア派の禁欲主義の幸福論について語らねばならない。ストア派はヘラクレイトス(万物は火であり、流動転変する、しかしそのなかに本質があるとした)のロゴス説に発し、古くはキプロスのゼノンによって派をなし、中期にはプラトン、アリストテレスの説を容れ、後期にはローマ帝政期に入って、皇帝ネロの宰相となった後に死を命じられるセネカ、解放奴隷から哲学者となったエピクテートス、賢帝マルクス・アウレリウスを輩出した。ストア派も、それと対照して考えられるエピクロス派も、著しい特徴はその個人主義的傾向である。それは、アレキサンダーという一人の人が来て(ヘーゲル)、そのために良きポリス共同体が滅び去った後、人間がヘレニズムの広い世界にひとりひとりとなって投げ出されたという体験に照応している。
ストア派の幸福は、唯一者に従い世界の秩序を従容として受入れ、その服従によって自由を得る人生の徳にある。個人の理性に対する静かで強い信頼、意志の独立がそこに見出される。後世ヘーゲルもこの理性の卓越性を称賛した。それはセネカの『幸福な人生について』に述べられている。
ストア主義は近代においてショーペンハウアーという表現を見出した。それは消極的な幸福追求であるが、積極が美徳、消極が悪徳というわけではない。世の「快楽主義者」はいわゆるエピキュリヌン(エピクロス主義者)で通している。「もし単に快楽の追求が幸福なら、むしろ私が求めるのは人間の善であって、胃袋の善ではない。胃袋は家畜や野獣の方が大きいではないか。」(セネカ)。エピクロスが『メノイケウスあての手紙』でいうように、本当の快楽主義(ヘドニズム)は、もちろんそのようなものではない。「平静」ということが大切なのである。ストア派のセネカにもこれはわかっていたので、エピクロスを崇高であるとさえいっている。それはセネカ『幸福な人生について』を読むとよい。
これは尊敬できるものである。また、明るい。だが、いかなるものであれ、キリスト教はエピクロスの快楽主義を拒否した。キリスト教の幸福は、「山上の垂訓」に示され、アウグスチヌス(初代キリスト教会最大の教父)によって決定的とされたように、原理的には此岸の拒否、彼岸(むこう岸、超越的なもの、永遠の神)の追求に魂のやすらぎを求めるものであり、快楽主義がどのように洗練されていても、いや、洗練されているがゆえに、人を永遠の生命から遠ざけるものとするのである。これに対し、後世ニーチェが『悲劇の誕生』などでキリスト教のこの傾向を論難したのは、人の知るところであろう。
哲学的には、あるいは社会科学的には、エピクロスの快楽主義は、個人の感覚的要求の充足という意味で近代功利主義の原型である。いまだ国家や市場が出現はしてはいないけれども、これらがそなわれば、快楽主義は、経済学的には、功利主義の理論的表現である「限界効用」の概念を通じて、現代社会の計画主義の哲学的一規準を与えたものといってよい。
われわれは中世を割愛しよう。 
近代の幸福 =「不確かな」財産

 

幸福は哲学以前であるといっても、古代が終わるころにはすでに、幸福についてひととおりの哲学的確信が得られていた、とはいえるであろう。「幸福」とは富や名声の中にあるのではなく、魂やその姿勢の内に基礎づけられる。理性的な洞察のない名声や富は「不確かな」財産である、と。
そうだとすると、「近代」それ自体が幸福と矛盾している。現代、人は、公的組織(国家)や私的組織(企業)のなかで生きざるを得ないし、名声は役割と紙一重であって、それが不確かでも逃れるわけにはゆかない。また、われわれは、市場の経済行為で生活の糧を得ざるを得ないから、不確かな富のゆえに市場を離れるわけにもゆかない。もちろん、必要と必要以上を区別せよという論は可能である。しかし、その差は、人間の生き方としてはきわめて相対的であって定まらず、問題はもとの幸福をめぐる哲学問題に戻ってしまうのである。
フランス革命は、人類史的に巨大な思想実験であったとともに、諸幸福学説のテスト場であった。とにかく、旧制度の証拠は刑罰制度ひとつ見れば具体的に明らかであった。かつて、ベッカリアが「犯罪と刑罰」で警告した不正な刑罰、ひどい野蛮が、いぜん支配していた。これは正真正銘の不正な法制度である。かれは幸福の分配について嘆いた。
「社会の利益はその全ての成員に普遍的に分たれなければならぬ。然るに、事実、人間の社会に於ては、この利益は最少数者の上に止まり、あらゆる権力と幸福とを少数者に、あらゆる貧弱と不幸とを残る多数者に集中せずにはおかない傾向が優勢なのである。」
フランス革命はまぎれもなくそれ自体一つの偉大な幸福の成就であった。「進もう、祖国の子らよ、栄光の日は来たれり」(ラ・マルセイエーズ)。革命の推進力ジャコバン派の青年雄弁家サン・ジュストのいうように、「幸福とは、ヨーロッパにおけるひとつの新しい観念」なのであった。もっとも、幸福はおびただしい革命のモットーの一つなのであって、フランス革命自体が新しい幸福の観念を生み出したことはない。むしろ成就した幸福の落着き先がはなから不確かであった。
マラー 「助けてくれ、いとしいもの!」
ロベスピエール 「いかなる道徳的観念とも縁のなかった男が、どうして自由の擁護者たりえようか。彼は悪徳に対して寛容を公言していたが、これによって、世界じゅうのありとあらゆる腐敗した人間どもを、味方として手に入れたのだ。」
ダントン 「ロベスピエールよ、お前もおれのあとからついてくるのだ………。」
このように、ひとえにこの「幸福」のために、フランス「人民の友」マラーは、確信犯人の見本ともいうべきジロンド派の少女シャルロット・コルデーの剣に倒れたのであり、ジャン・ジャック・ルソーの体現者にして、献身的な革命の使徒ロベスピエールも、自己の目的の高潔な道徳性を信じて、革命の僚友ダントンさえ断頭台に送った。かれはとみに妥協的になってきていた。そのダントンの最期の言葉どおり、ロベスピエールも革命の過激化を恐れたジロンド派を中心とする国民公会「中間派」によって失脚、同じく断頭台に送られる。後世、反動の代名詞となった「テルミドール(熱月)の反動」(1794年熱月9日)である。サン・ジュストもこのロベスピエールと同じ運命をたどる。
いかに自由が至高に道徳的でも、革命の課題はほどほどに成就しさらに血を流す政治は必要なく、その遂行者ジャコバン派の存在はいまや有害、危険である。これがかれら中間派(テルミドール派、テルミドリアンとよばれた)の共通の認識ないしは雰囲気であった。多くの変革、革命に共通な力学である。変革の敵はつねに内部にいるのであった。 
ああ、痛ましき19世紀

 

今世紀の伝記作者ステファン・ツワイクは「ジョセフ・フーシェ」ある政治的人間の肖像」のなかで、中間派を支えた中産市民階級(プティ・ブルジョワ)について言っている。
「テロルは終わったが、革命の熱烈火のごとき精神もまた消えてしまい、英雄時代は去ったのである。いまや後継者の時代がきた。山師と利得者、掠奪者と二股膏薬、将軍と富豪の時代、新しい組合の時代がきたのだ。」
「熱月9日という日に世界史的意義を与えたのは、ロベスピエールの処刑ではなくして、その後継者たちのこのような卑怯な欺瞞的な態度にある。なぜならこの日まで革命はいっさいの正義正道を革命自体のために要求するとともに、いっさいの責任を平然とみずから負うてきた。しかしこの日以来革命は不正非道を犯すことをもおそるおそる許容し、こうしてその指導者たちは革命を否定しはじめたからである。しかしながらあらゆる精神的信仰、あらゆる世界観は、みずからの絶対的に正しいこと、みずからの過誤なきことを否定するやいなや、その最も内部的な力がすでにすでに罅(ひび)がはいってしまうものなのだ。こうして悲しき勝利者タリアンとバラーが、その偉大な先駆者ダントンやロベスピエールの屍に鞭打って殺人者の残骸とののしり、右翼派の椅子、すなわち穏健党、共和国の秘密の敵の側におずおずと席を占めるにいたって、彼らは革命の歴史と精神を裏切ったのみならず、自分みずからを裏切ったのである。」
多数派テルミドリアンの頭目の一人になるはずだったフーシェは、最も政治的に慧眼であった。彼は、昨日までの政敵彼をあすにも断頭台へ送ろうとしていた―ロベスピエールたちの後継へ回った。
「答えは簡単だ、彼[フーシェ]の考えはほかの連中よりも賢明であり、先見の明があったからであり、彼のすぐれた政治的悟牲が、自体を達観することにかけては、危険が迫ったために息の短いエネルギーを発揮したにすぎないタリアンやバラーのような鈍物に比し深奥なものがあったからのことである。かつて物理学の教師をやっていた彼は、およそ波というものが空間に静止するを得ないという動力の法則を知っていた。波は前進するか後退するかしなければならぬものであることを彼は知っていたのだ。だから今、後退がはじまり反動がはじまれば、これもまた前の革命と同様、衝撃を中止することはないであろう。ちょうど革命と同じように極端まで最極限まで、すなわち暴力に走るであろう。しかしそうなればにわか細工のこの同盟は必ず破れるに相違なく、そして反動が勝つとなれば、その時には革命の前衛闘士はすべて滅びてしまうのだ。なぜなら新しいイデーとともに昨日の行為に対する尺度もまた物騒なほどに変わってしまうからである。昨日までは共和主義的義務および道徳と見なされたことも………そうなれば必然的に犯罪と見なされるであろうし、昨日の原告は明日の被告となるであろう。」
いまでもよく読まれるミシュレの『フランス革命史』も描写する。
パリはふたたび陽気になった。なるほど飢饉はあった。しかし、ペロン小路は光を放ち、パレ・ロワイヤルには人が満ちあふれ、劇場は満員だった。………この道を通って、われらは巨大な墓場へとおもむいたのである。この墓場にフランスは五百万人の人々を葬った。
この「墓場」が総裁政府(テルミドール派権力)を、「ブリューメル(霧月)18日のクーデター」で転覆したナポレオン・ボナパルトの軍人独裁、「ナポレオン体制」であることはいうまでもない。以後、フランスはナポレオンの第一帝政、ついで王政復古、七月王政(七月革命)、第二共和政(二月革命)、第二帝政、第三共和政、………と、バスティーユが陥落した1789年から第三共和政成立の1870年まで実に80年間、栄光と転落の目まぐるしい変化と混乱を演出した。この演出者こそ「市民階級」(ブルジョワ)であり、19世紀は「ブルジョワの世紀」であった。このブルジョワがフランス革命自体の子であり、テルミドール派に端的に表現された醜悪さを内部に抱えているにせよ、「幸福」という「新しい観念」、そしてツワイクのいう「新しいイデー」がはらみ落した子であることは、まちがいなかった。
この世紀はまた功利主義にとっては手におえない時代であった。なぜなら、はじめ「情熱」が歴史を推進しその持ち主はみな確信犯であった。彼らは功利主義とは全く縁のない世界に生きていた。情熱が引いた後は、退屈と日和見主義が支配した。スタンダールは『赤と黒』で、「自己の情熱のために身を犠牲にする、それなら文句はない。しかしありもしない情熱のためにとは!ああ!いたましき19世紀よ!」と、王政復古期のフランスを形容している。ここでも功利主義の道徳性はむしろ愚昧、こっけいと見られた。むしろ、ブルジョワの世紀が提起した問題に対し、社会主義(マルクス)、実存主義(キェルケゴール)、実証主義(コント)は、それぞれの立脚点から幸福学説を形成することとなった。
人間はあやうい不確かな位置にいるのであって、それは過去も今日も、したがって未来も変わることはない。これは哲学的にもそうなのである。古く、プラトンは民主主義を低く評価したが、アリストテレスは哲人政治を望むべくもないものとして、民主主義の方を高く評価した。現代アメリカの経済学者アロウは、いくつかの自然な公理をもとにして、民主主義は内部に矛盾を含むことを証明したが、これはいつにかわらぬ人間の困難の数学的表現の一つである。 
「幸福」の政治哲学と市場哲学

 

そもそも、エピクロスの感覚的な幸福論は、近代においてその近代版というべき「功利主義」をうみだした。「最大多数の最大幸福」(ベンサム)であらわされるように、これはそれ自体ひとつの幸福学説である。
もともと、感覚や経験は「人間」の自覚の確かな出発点と考えられ、その確信から「近代」の印をおびた経験主義の大きな歴史的流れが流れ出た。そのなかで、功利主義が、近代の二つの巨大なもの、一方で「国家」を他方で「市場」を作りだす思想的原動力となった意味は大きい。すなわち、今日のわれわれは、みな近代功利主義の子なのである。
功利主義はイギリスの古典的経験論に乗って展開してゆく。その一番手フランシス・ベーコンは、人間の先入見である「幻像」(イドラ)を除去し、「形相」(フォルマ)の把握によって自然を解明し、それを支配、利用することを夢みた。その思想にふさわしく、雪の防腐作用の実験中に病を得て没したが、その実験精神は近代を象徴している。
トーマス・ホッブスはこのフランシス・ベーコンの助手であった。このホッブスこそ、生々しい、赤裸々な近代の国家像の創始者である。かれは、まず、単に抽象的ではなく、人間に「権利」という所有物を認めた。この権利の所有者たちが糾合し、「社会契約」によって「コモンウェルス」(国家)をつくる。すべてが糾合されているので、このコモンウェルスは原理上、契約されている範囲では、できないことがなかった。その意味で権能において万能であり、かつて人間はこのようなものに会ったことがなかった。いうなれば巨大な怪獣(旧約聖書にある「リバイアサン」になぞらえた)が出現したのである。怪獣であるというのも、それはいわば機能的な生命体と考えられるからである。
これで、人間が自然状態(無政府状態)で暮らしている矛盾は克服される。ホッブスには、17世紀のイギリス革命前の絶えまない内乱はまさに実感であった。この契約により、人間は平和に幸福にこの地上で暮らせることになるが、人間に秩序を命じることのできるのは、本来、神だけであるから、このコモンウェルスはそれ自体「地上の神」である。その意味でホッブスの国家は中世を脱け出ていた。総じて、ホッブスは、「権利」、「契約」、「国家」を近代の人間に贈った偉大な天才的思想家である。
ベーコンの助手だけあって、「国家」の構成法も論理的科学的な色彩が濃く、また人間論は心理的生理的で、感覚と記憶が重視されている。哲学構想も、「物体論」、「人間論」、「市民論」の三部構成になっているが、「神」ぬきのものであって、もはや中世のアリストテレス的体系をみることはできない。ことに、ここにのべたような唯物主義にホッブスの大胆な近代性が表現されていると、一般には考えられている。しかし、アリストテレスの体系との関係、キリスト教との関係、教会論などは、未知の分野も多く、『リバイアサン』の最後の教会論は、それほど反教会的ではない。ホッブスの評価はややステレオタイプになっており、再評価はわれわれ近代に新しい展開を与えよう。
ジョン・ロックはホッブスと異なり、人間の「自然状態」を「自然法」のみが支配する、「自由」かつ「平等」な理想的な幸福状態ととらえたうえで、それのもつ矛盾、弱さを克服するため必要で最小限の、しかしその限りにおいては最高の権力を構想し、それを「立法権」として定義した。『市民政府(二)論』がそれである。それは君主権の気ままな行使から人民を守り、他方、立憲君主制度を理論的に擁護するという、実践的要請に貫かれており、構成は常識的に見える反面きわめて周到であり、人民を守るいわゆる「抵抗権」も社会契約の内容から導かれる。『市民政府論』は、これ自体一つの正統的教義であり、アメリカ合衆国独立宣言にはほぼ同旨の原理が採用されている一方、名誉革命を遂行した新興市民階級の利益を反映して、所有権の不可侵性が強く打ちだされている。
ジョン・ロック自身は、ピューリタンではなかったが、その生活や思想はピューリタン的であった。もっとも、その著作には「神」は強くだされず、自然法を後見する神がいた。また、『市民政府論』の構成も、親子関係の理念から出発し、目的論によって論を運んでいる。ホッブスのような原子論はとられていない。ジョン・ロックにおいて、近代秩序と古代中世的秩序が交錯しているのは、興味深い。
「国家」のつぎは「市場」である。市場の哲学者、アダム・スミスは道徳哲学者として功利主義者、そしてその上に国民経済学をきずいた。その議論の基本はこうである。まず分業を前提とする。労働そのものは「苦痛」(トイル、骨折り)であるから、商品はそれの生産に費やした苦痛に見合う分の価値をもつと考えられ、その苦痛の計算値(労働時間)が等しくなるとき、商品交換が成立する。そうでなければ苦痛は補償されないからである。スミスはこの「労働価値説」の最初の体系的樹立者であったが、分業形態の出現を前提としている。つまり、価値を実体的なものにするのが分業である。スミスの『諸国民の富』は、このように成立する「市場」メカニズムにつき、次のように述べる。 
「分業について」では、道徳哲学の一大命題

 

われわれが食事をとれるのも、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのでなくて、自分自身の利益に対するかれらの関心によるのである、
「国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について」では、政治経済学の一大命題;個人の私利をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する。………見えざる手に導かれて、みずからは意図もしていなかった一目的を促進することになる、
とのべる。利己心が無政府(アナーキー)ではなく社会的善をもたらすことは、常識にとって驚きである。スミスはグラスゴー大学の道徳哲学の教授として『諸国民の富』に先立って『道徳感情論』を著したが、この2書が、政治経済学(ポリティカル・エコノミー)、道徳哲学(モラル・フィロソフィー)として、経済学の両輪をなすのである。経済学とは、市民的幸福のための市場哲学であった。
だから、「市場メカニズム」がどのような気ままな私利追求も免責するということではない。スミスは人間の利他的本能をより高次の「正義の法」としてとらえ、良い行為と悪い行為、それに対する報償と制裁をくわしく論じる。正義の法は、直接に個人の私利追求に介入することなく、全体として正義が損なわれぬ形で、個人の利己心が社会の利益を達成するよう後見すべきである。このように、スミスは「諸国民の富」の追求を、人間の高い「道徳感情」の上に載せたうえで、自由放任(レッセ・フェール、レッセ・パッセ)という神の手に任せたのである。スミスは1790年、前年のパリ・バスティーユの陥落の報と入れかわりに没したが、かれが思った新興市民階級が大陸でどのような革命を成就し、どのような反動を引き起こし、矛盾と醜悪さを抱え込みながらも次の世紀の力強い担い手に成長したか、それを知らなかった。 
近代のエピクロス主義者

 

フランス市民革命が近代最大の政治的事件であるとすると、同時代人としてこれに立ちあったイギリス経験主義者は、いうまでもなく、ジェレミイ・ベンサムである。功利主義のモットー「最大多数の最大幸福論」でよく知られるこの近代エピクロス主義者の原点は、『道徳および立法の諸原理序説』の始まり
「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが口をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が、地方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている」(第一章 功利性の原理について)
でよく理解できるが、市民(ブルジョワ)の時代にあって、このエピクロスの説も公共性をもっていた。ベンサムの念頭にあったのは、ベッカリーアと同じく、何はともあれ刑罰法を中心とする司法改革、そして憲法改革(成文憲法典)、極度に不正な選挙法の改革、経済上の制限立法の改革などであった。大陸で起っていた急激な政治的革命と比べれば地道で、今でいえば政策科学であったが、実際には結果は失意と絶望の連続であった。選挙法改革、制限立法の改革が至難であることは、今日を見れば想像に難くない。(彼の思想を受け入れたのは若々しい革命フランスであって、ミラボーはベンサムの著作中に演説の材料を求めている。)
ベンサムにつぐジョン・スチュアート・ミルに至って、ベンサムの感覚的快楽原理は精神的のものへ拡大され、また、量的にしたがって異なった個人間で、功利(効用)は比較できないものとされた。『功利主義論』には、有名な豚とソクラテスの比喩がある。ミルは、とうの昔に廃れてしまったアリストテレスの使徒であった。
イギリス経験論の精神的な傾向はその静けさにある。フランス革命の奔放な理性信仰は、すでにジャコバン独裁のころからベンサムを困惑させていた。1789年のフランス人権宣言の「平等」、「自由」の暴力性、無政府性、全体的な形而上学性を彼は批判したが、逆に、後年、このベンサムをマルクスは「俗物の元祖」と呼んでいる。ここには、この世紀における、功利主義者の不安と役割の後退があらわれている。その意味では、ミル(1806−1873)の生きた時代はまさに象徴的であった。1806年にはナポレオン帝政が既に始まっており、1873年に第二帝政が倒れて第三共和政が成立、世界が帝国主義の時代へ入ってゆくまで、まさにフランス革命の生んだ市民社会の典型期に一致する。これは、この自由主義的功利主義者の不安をさらにつのらせた。一世紀ほど後に、ドイツの政治哲学者のカール・シュミットが『現代議会主義の精神史的地位』において
「ミルは、民主主義と自由との対立の可能性、少数者の否定を、絶望的な憂慮をもってみていた。ただひとりの人間であれ自分の意見を表明する可能性をうばわれるかもしれないと考えただけでも、この実証主義者は、説明しがたい不安のなかにおかれるのであった。なぜなら彼は、ひょっとするとそのひとりの人間が真理にいちばん近づいているかもしれないと心に思うからである。」
と言ったのは、ミルが、その『自由論』でのべたように、市民社会が自由によって生まれながらその自由を否定する矛盾をこの目で一部始終を見た同時代人として、皮膚で感じていた不安を、指しているのである。シュミットの口調にはやや皮肉が感じられる。「議会制−民主主義」の「−」は到底両立できない。二概念を強引に文言上つないでいる単なる符号と見破っていた自負があったからであろうか。
一方、マルクスの方からの批判はもっときつい。『資本論』第二版へのあとがきは、ミルの経済学へ批判の矢をむける。
「1848年の大陸の革命は、イギリスにも反作用をおよぼした。なおも科学的立場を要求して、支配階級のたんなる詣弁家や追従者以上の者であろうと欲した人々は、資本の経済学を、いまやこれ以上無視しえなくなったプロレタリアートの要求と調和させようとした。それゆえに、ジョン・スチュアート・ミルによって最もよく代表されるような、無気力な折衷主義があらわれたのである。これこそ『ブルジョア』経済学の破産宣言であって、………」
そのミルも、自由主義的功利主義者として、『経済学原理』で逆に社会主義的国家の存在を自由への脅威と考えていた。
シュミットがミルを「実証主義者」とよび、マルクスが「折衷主義者」と呼んだのは、興味深い。ミルのこの功利主義は、すでに体系に発展しつつある経済学、そして、転変きわまりないフランス社会の現実に何らかの経験的説明を与えようとする試みとしてのコントの実証主義、さらには、本筋のベンサム功利主義の「最大多数の最大幸福」原理に対する「自由」の原理からする懸念の立論、こういった諸傾向をまとめ上げる一つの受け皿の性格をもっていた。思想としての「功利主義」も、イギリス、フランス諸国の立法改革の思想原動力となって一定の成果をあげ、いわゆる「哲学的急進派」はベンサム、ミルにおいてその役割を終えた。ミルにおけるように、いわば「功利主義的」発想法として近代人の発想法の中へ拡散し発展的に解消したと思われる。マルクスの批判も考えあわせると、ミルはまさに次の時代への過渡期の思想家であった。 
「近代経済学」とは何なのか

 

一つの大きな動きは、1870年代初頭の経済学における「限界革命」である。カール・メンガー(ウィーン)、スタンリー・ジェヴォンズ(ケンブリッジ)、レオン・ワルラス(ローザンヌ)は、独立に、すでにミルが指摘していた「限界効用逓減の法則」に注目、スミス以来の労働価値説に替えて「限界効用」を価値の基礎におき、生産、分配をも統合的に包む経済学理論をうち立てた。これが、今日のいわゆる「近代経済学」とりわけミクロ経済学(価格理論)の原型である。「限界効用」は財そのものを原子論的、微視的に価値づけし、経済学の課題の中に個人(方法論的個人)の主体的、主観的、心理的選択の考え方を積極的に導入、経済主体(とくに消費主体)の行動を陽表的に捉えることに成功した。
これに対しても、ソ連の経済学者ブハーリンが、この近代経済学の傾向を、「金利生活者」の経済学としてきびしく批判している。個人(主観)主義的、非歴史的、消費的傾向をさしている。マルクス経済学それ自体にも問題があるものの、「金利生活者」の幸福とは今の日本の幸福状況をしめしてはいまいか。 
 
カント「純粋理性批判」序論

 

T 純粋な知識と経験による知識の違い 
我々のあらゆる知識が経験から始まることは疑いがない。なぜなら、我々の認識能力は、対象となるものに出会わないで、どうして働き出すだろうか。対象が我々の感覚に働きかけて、一方でそのイメージを作らせ、一方で知性の活動を喚起してその様々なイメージを比べさせたり、組み合わさせたり、分離させたりして、その結果、感覚の印象から来た生の素材を知識に作り変えるのである。この知識こそは経験と呼ばれるものである。
したがって、時間的な順序で考える限りは、経験に先立つ知識などあり得ないことになる。つまり、経験によって全ての知識は始まるのである。しかし、全ての知識が経験によって始まるといっても、我々の全ての知識が経験の中から生まれてくるわけではない。
なぜなら、我々の経験による知識は、外から受け取る印象と、(その感覚的印象によって喚起された)我々の認識能力がもともと自分自身で用意しているものが合わさって、はじめて生まれてくるものである可能性が高いのである。
この我々の認識能力が用意しているものと元の素材との違いは、そう簡単には見分けられず、そこに注目してその違いが分かるようになるには長年の訓練が必要だろう。
これが本当にそうなのかはよく調べてみないと分からないし、とても簡単に答えられないことである。いったい、経験にも感覚的印象にも依存しないような知識が存在するのだろうか。そのような知識は、経験によって後天的に生まれた知識である経験的知識とは区別して、先天的知識と呼ばれている。
しかし、先天的知識というだけでは、我々の問題が意味することを充分正確に表しているとは言えない。なぜなら、我々は経験から得た知識であっても、その時には直接経験せずに常識で考えて分かったことを、「そんなことははじめから分かっていた」と言いがちだからである。しかし、常識は経験から手に入れたものにすぎない。
例えば、家の土台の下に穴をあけたために家が倒れた人がいると、そんなことはあらかじめ分かるはずだ、つまり、家が実際に倒れるという経験がなくても分かるはずだと言うだろう。しかし、その人が前もってそのことを知らなかった可能性はある。なぜなら、そのことを前もって知っているためには、少なくとも、物体には重さがあって、支えがなくなると落下するということを経験を通じて知っていなければならないからである。
したがって、我々が以降において先天的知識と言う場合は、特定の経験に依存しない知識ということではなく、どんな経験にも依存しない知識を意味するものとする。その反対が経験的知識であり、経験を通じて後天的にしか手に入れることのできない知識を意味する。そして、先天的知識のうちでも、経験に依存する要素が少しも混じっていないものを、純粋な知識と呼ぶことにする。
たとえば、「あらゆる変化には原因がある」という命題は、先天的ではあるが純粋ではない。なぜなら、この命題の中の「変化」という概念は経験によらなければ手に入らないからである。 
II 我々はある種の先天的知識を持ってる
   常識さえもこれを欠いては成立しない

 

次に問題なのは、純粋な知識と経験による知識を明確に区別する基準は何かという問題である。経験によって我々が知ることができるのは、あるものがこれこれであるということだけである。それが必然的にそうであるということは経験によって知ることはできない。
したがって、第一に、もし我々に必然的にそうであると思われるような内容の命題があれば、それは先天的な判断を表していることになる。そして、その命題がさらに先天的な判断を内容とする命題から引き出されたものだとすれば、それは完全に先天的な判断を表していることになる。
第二に、経験から引き出された判断(帰納法)は、例外のない普遍性を備えていない。それは比較的多くの場合に当てはまるだけである。つまり、これまで観察した範囲では、これこれの法則には例外が見つからなかったと言うことしかできない。したがって、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その内容は経験から引き出されたものではなく、完全に先天的だということになる。
経験的な普遍性を持つ命題は、多くの場合に当てはまることを全てに当てはまるように言っているだけである。例えば「全ての物体は重さを持っている」という命題がそうである。それに対して、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その判断は先天的認識能力という特殊な源泉から引き出されたものである。つまり、その内容が必然性と例外のない普遍性を備えていることが、先天的知識の基準であって、この二つの基準は互いに密接に結び付いているのである。
しかしながら、ある判断が必然的でないことを示すより、例外のない普遍性を持たないことを示す方が簡単であるし、ある判断の必然性を示すより例外のない普遍性を示す方が分かりやすかったりする。だから、これらの二つの基準は別々に使うのが望ましい。片方だけで充分正確だからである。
さて、ここまでくれば実際に人間の認識の中に、必然的で例外のない普遍性を持つような判断、すなわち、純粋で先天的な判断があるかどうかを示すことは簡単である。
学問から例を求めるなら、数学の様々な命題を思い浮かべればよい。また、常識的な頭の働きから例を引くなら、「全ての変化には原因がある」という命題をあげれば充分だろう。
後者について言うなら、「原因」という概念そのものの中に、原因と結果の結びつきという必然的な概念と、原因結果の法則の持つ例外のない普遍性が含まれているのは明らかである。したがって、もし原因の概念が(ヒュームの言うように)ある出来事とそれに先立つ出来事を何度もいっしょにして、その二つを結びつけて考える習慣から引き出されたもので、主観的な必然性しか持たないものだとしたら、それはもはや原因とは言えなくなるだろう。
いや、このような例に頼らなくても、我々の認識能力には経験によらない純粋な原則(Grundsätze)が存在することを証明できるし、人間の認識が可能となるには経験によらない原則がなければならないことを示すことができる。
なぜなら、人間の認識が従うべき原則(Regeln)がことごとく経験から引き出され、何の必然性も備えていないとしたら、人間の認識はどこで確実さを手に入れられるだろう。そのような原則はとても原則(Grundsätze)としては扱えないだろう。
とは言え、今のところは、我々の認識能力に純粋な用法があることを確認し、そのような用法の特徴を示すだけにとどめておこう。
しかし、判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのものが消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。
このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、(実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象がなんらかの実体に属していると考えさせるような性質を取り除くことはできない。
諸君は何についてであれその本質について考えざるを得ないのである。そのために、諸君は本質という概念が諸君の先天的な認識能力のなかに存在することを認めざるをえない。 
III あらゆる先天的認識の可能性、
   その原則と範囲を明らかにする学問が哲学には必要である

 

これまで述べたことよりもさらに重要なことは、ある種の認識が、経験の領域に留まっていずに、経験の世界に対応するものがないような概念を使って、経験の領域を越えて我々の判断の範囲を拡大しているように見えることである。
我々の理性は、現象の世界で知ることができるどんな事よりもはるかに重要ではるかに高級な問題を探求し続けているが、この探求はまさにそのような認識に属しており、経験を手がかりに真実を探求する感覚の世界を越えたところで行われている。
実際、我々は、どれほど疑いの目で見られようと、どれほど軽蔑され無視されようと、あらゆる誤謬の危険を冒してまで、この重要な問題の探求を止めようとはしない。この純粋理性にとって避けることのできない問題とは、神と自由と、霊魂の不死の問題である。
そして、形而上学とは、これらの問題を解決することにあらゆる精力を注ぎ込んできた学問である。この学問は最初から、独断的に、つまり理性の能力を前もって見極めることなしに、これほど重大な問題に自信満々で取り組んできた。
しかしながら、経験という土台を離れる以上は、我々がこれからうち立てようとする建物の土台が大丈夫なのかどうかをよく調べておくのが自然である。どのような知識でも、それがどこから来たかを確かめずには使えないし、どんな原則(Grundsätze)でもそれがどんな起源を持つものかを知らずに信用するわけにはいかないからである。
つまり、我々の知性はどうやって上記の先天的な認識能力を手に入れるのか、そして、先天的な認識能力はどの程度のもので、どれほど有効で、どんな値打ちがあるのかという問題を、前もって考えるのは自然なことである。もし「自然」という言葉が、「ふさわしくて合理的に起こるべきこと」を意味するなら、実際これ以上に自然なことはない。
しかし、もし「自然」という言葉が「普通に起きること」を意味するなら、逆に理性の能力に対する検査がこれまでずっとなおざりにされてきたことほど、自然で分かりやすいことはない。なぜなら、先天的な認識の一つである数学的認識の信頼性はずっと昔から確立されているので、数学とはまったく性格を異にするかもしれない他の先天的な認識も数学と同じようなものだと思われてきたからである。
しかも、いったん経験の世界の外に出てしまうと、もはや経験と矛盾する心配はなくなってしまうし、認識を拡大する魅力は抗しがたいものなので、明らかな矛盾に直面しない限り、拡大の歩みは止まりようがない。しかも、この明白な矛盾は虚構の世界を念入りに組み立てることによって避けられるのである。しかし、虚構は虚構でしかない。
数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもどんな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によらなくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。
こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。
このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出していったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはできなかった。しかし、自分ではそれには気づかなかったのである。
理論によって何らかの構築物をうち立てようとするとき、人々はできるだけ急いでそれを完成して、その基礎がしっかりしているかは後から調べようとする。それが思索の場での人間の理性のいつものやり方である。しかも、その基礎が大丈夫だと得心するために、あるいは手遅れの危なっかしい検査を無しで済ませるために、あらゆる言い訳を探し求めるのである。
建築の途中では基礎について何の疑問も不安も抱かず、しっかりした基礎の上に建てていると思い込んでしまうのは、我々の理性が行うことの大部分が、対象についてすでに我々が持っている概念を分析することだからである。
概念の分析というものは非常に多くの知識を我々にもたらしてくれる。しかし、分析は、実際には既存の概念の中ですでに(混乱した形ではあるが)考えられていたことを明るみに出したり明確にしたりするだけである。ところが、少なくとも形の上からは、それらは新たな知識のように思われがちである。しかし、その内容や素材に関する限り、既存の概念を拡大したわけではなく、それをただ分析しただけなのである。
しかし、この分析というものは実際に先天的な認識(分析的判断)をもたらしてくれるし、その認識は確かなもので役立ちもする。この見せかけにだまされて、人々はいつの間にか、概念の分析だけで元の概念とはまったく別の認識、つまり、既存の概念にそれとは違う先天的な概念を付け加えるような認識(総合的判断)を生み出せると思い込んでしまった。ところが、どうすれば総合的判断を生み出せるかは誰も知らないし、そんな疑問を抱いた人さえもいないのである。
そこで、次にこの二つの判断の違いを論じることにする。 
IV 分析的判断と総合的判断の違い

 

主語と述語の組み合わせで表現される判断(ここで扱うのは肯定判断だけだが、以下に述べることは否定判断にも容易に応用できる)には、二つの種類が可能である。その一つは、主語Aと述語Bがあるとして、Bの概念がAの概念に(隠れて)含まれている場合。もう一つは、二つの概念の間につながりはあるが、Bの概念がAの概念とは別にある場合である。
最初の場合をわたしは分析的判断と呼び、あとの場合を総合的判断と呼ぶ。分析的判断では(肯定の場合)、同一性によって主語と述語が結びつけられている。それに対して総合的判断では、同一性なしに主語と述語が結びつけられる。
前者の場合は、述語は主語の概念に何も付け加えることはない。それは、主語の概念の中に(混乱した形ではあるが)すでに存在すると思われる部分的な概念に分解するだけである。したがって、これは注釈的な判断と呼ぶことができる。
それに対して、後者の場合、述語は、主語の中にはけっして存在しない概念、主語の概念をいくら分析しても引き出せない概念を主語の概念に付け加える。したがって、これは拡張的な判断と呼ぶことができる。
たとえば、もしわたしが「全ての物体には大きさがある」と言えば、それは分析的判断である。なぜなら、わたしは「大きさ」が「物体」と結び付いていることを発見するには、「物体」と結びつけて考えられる概念を越える必要はなく、「物体」の概念を分析していき、わたしがいつも「物体」の概念の中にあると思っている様々なものを想起すれば、この述語を見つけ出すことができる。したがって、これは分析的判断である。
それに対して、もしわたしが「全ての物体には重さがある」と言えば、この述語はわたしが一般的に「物体」という概念の中にあると思っているのとは全く違う概念である。そこで、このような述語を付け加えるのは総合的判断だということになる。
ところで、経験に基づくあらゆる判断は、本質的に総合的判断である。なぜなら、分析的判断の根拠を経験におくのは無意味だからである。わたしが分析的判断をする場合には、自分の持っている概念の外に出る必要はないし、その判断の正しさを経験によって証明する必要もないからである。
「物体には大きさがある」というのは、先天的に成立する命題であり、経験に基づく判断ではない。なぜなら、経験するまでもなく、「物体」の概念の中を探せば、この判断を下すのに必要なものは全て揃っているからである。だから、わたしは「物体」の概念から、矛盾律(「AがBであると同時にBでないことはあり得ない」という法則)にしたがって述語を引き出せばよいのである。そうすれば同時に、この判断は、決して経験から得ることのできない必然性を備えたものとなる。
一方、わたしは「重さがある」という述語を「物体」の概念に含めて考えることはないが、「物体」の概念は経験の一部となることによって経験の対象となる。すると、わたしは経験の一部となった物体の概念に、同じ経験の他の一部(重さ)を付け加えることができるようになる。こうして、重さの概念は物体の概念に結びつけられる。
わたしはその前に、「物体」の概念を「大きさ」や「不可侵性」や「形態」などどれも「物体」の概念の中に存在すると思われる特徴によって分析的に認識することができる。しかし、今わたしは、自分の認識を拡大しようとしている。
つまり、わたしは物体の概念を引き出した際の経験を想起して、上記の様々な特徴に「重さ」という特徴が結びついていることに気づいたとき、この「重さを持つ」という述語を「物体」の概念に付け加えるのである。
このように、「物体」という概念と「重さ」という述語を総合的に組み合わせることができるかどうかは、経験に依存している。一方の概念は他方の概念に含まれてはいないが、両者はそれぞれ、たとえ偶然であっても、経験という全体の中の一部として互いに結び付いている。経験とはそれ自体様々な直観を総合的に組み合わせたものだからである。
しかし、総合的判断の中でも先天的なものの場合には、この経験の助けを全く得ることができない。では、わたしはAという概念の外へ出て、Bという概念がAという概念と結び付いていることを知るには、何を頼りにすればよいだろうか。何によって総合的な結合は可能となるのだろうか。なぜなら、この頼りとすべきものを経験の領域の中で探すことはできないからである。
例えば、「全ての出来事には原因がある」という命題を考えてみよう。「出来事」という概念には、ある存在とそれが存在する前になにがしかの時間が経過していることなどを考えることができる。そして、この「出来事」という概念から分析的判断を引き出すことはできる。しかしながら、「原因」という概念は「出来事」という概念とは完全に別のところにあって、「出来事」という概念とは全く異なるものであり、「出来事」という概念には決して含まれてはいない。
では、どうして、わたしは「出来事」について、それとは全く異なる述語を加えて、「原因」の概念が「出来事」の概念に含まれていないにもかかわらず、それが「出来事」の概念に必然的に結びついていると認識するのだろうか。
我々が、概念Aの外側に、それとは異なるが、同時にそれと結び付いていると思われる述語Bを発見できたと思うとき、その裏付けとなる未知のXとは何だろうか。それは経験ではあり得ない。なぜなら、ここで問題にしている命題は、前の概念に後の概念を、例外のない普遍性と必然性をもって結びつけるものであり、概念だけに基づいており、完全に経験から独立した命題だからである。
つまり、我々の経験に依存しない理論的な認識の最終的な目標は、このような総合的命題、つまり、拡大的な命題である。なぜなら、確かに、分析的命題は非常に重要で無くてはならないものだが、それは総合的結合を確実かつ広範囲に行って新たな知識を手に入れるためには概念の明確化が欠かせず、そのためには分析的命題が役立つというだけのことだからである。 
X 経験に依存しない総合的判断は、
    理性がたずさわる全ての理論的な学問の原理となる

 

1. 数学上の判断はすべて総合的判断である。この事実は議論の余地のないほど確かであり、それがもたらす結果から見ても非常に重要である。にもかかわらず、これまでのところ、理性の分析に携わる人たちはこの事実を知らないでいる。いやそれどころか、彼らはこれとは全く反対の考え方をしているのである。
なぜなら、彼らは全ての数学者の推論が(例外のない必然性を確保するために)矛盾律によって行われることを発見したので、数学の原理(Grundsätze)もまた矛盾律によって導かれる(分析的判断)と考えているからである。しかし、これは間違っている。
確かに、総合的命題を矛盾律によって説明することができる場合もある。しかし、それは、その命題が引き出された元の総合的命題が別にある場合に限られていて、総合的命題が単独で矛盾律によって説明されるわけではない。
まず第一に、厳密な意味での数学的命題はつねに先天的な判断であって経験による判断ではないことに注目しなければならない。なぜなら、数学的命題は経験からは引き出せない高いレベルの必然性を備えているからである。これに異議を唱える人がいるなら、この特徴を純粋数学に限ってもよい。ということは、純粋で先天的な知識だけを含み、経験的な知識を含まない数学(代数や幾何など)ということである。
例えば、7+5=12 という命題は分析的命題で、7と5の合計という概念から矛盾律にしたがって引き出されると考える人がいるかもしれない。しかし、よく見ると7と5の合計という概念は、二つの数を結びつけて一つにすること以外には何も含んでいないことが分かる。
二つの数を合わせた一つの数が何であるかという情報は、その中には含まれていないのである。わたしは7と5を結びつけることを考えるだけでは、決して 12という概念を導き出すことはできない。わたしはそのようなありうべき合計という概念をどれだけ分析してみても、そこに12という数を見つけることはできないのである。
そのために我々は7と5の合計という概念の外に出て、直観の助けを借りなければならない。その直観とは例えば二つの数の一方に対応する五本の指や、ゼンガーがその『算数』の中で示したような五つの点である。そして、この直観によって与えられた5の一つ一つを順番に7の概念に加えていくのである。
つまり、わたしは7から出発して、5という概念の代わりに手の五本の指を直観として使って、取りのけておいた一つ一つを5になるまで、このイメージにしたがって、7に対して順番に足していくのである。そうして12という数字が出来上がるのを目にするのである。
7に5を足すということは、「7と5の合計」という概念の中に見つけることができるが、その合計が12という数に等しいということは、その概念の中にはない。つまり、数学的命題はつねに総合的なのである。これはもっと大きな数を扱うならさらにいっそう明らかになるだろう。その場合には、どれだけ手元にある概念をひねくり回してみても、直観の助けなしにそれらを分析するだけでは、けっして合計の数を発見できないことが明白だからである。
同様に、純粋な幾何の原理(Grundsatz)はどれもけっして分析的命題ではない。「二点間を結ぶまっすぐな線は最短の線である」というのもまた総合的命題である。なぜなら、わたしの中の「まっすぐな」という概念には、質に関する内容は含まれていても、量(長短)に関する内容は含まれてはいないからである。「最短」という概念は、完全によそから付け加えられたものであって、「まっすぐな線」という概念をどう分析しても、そこから引き出すことはできない。
したがって、ここでも直観の助けが必要である。この助けがあってはじめて総合は可能となるのである。
幾何学者が前提としている原理(Grundsätze)のなかには、確かに分析的なものがあって、それらは矛盾律に基づいている。しかし、そのような命題は、同一律(A=B)と同じく、演繹法や帰納法でつなぎの役割をしているだけで、単独で原理(Prinzipien)として機能しているわけではない。
たとえば、A=A、つまり「全体はそれ自身に等しい」とか、(A+B)>A、つまり「全体はその部分より大きい」などがそうである。確かにこれらの命題は直観なしに概念だけで有効であるが、それらが数学のなかに含まれているのは、直観で捉えられるからにほかならない。
数学の場合、このような例外のない必然性を備えた命題の述語は、我々の概念の中にすでに含まれており、その命題は分析的なものだと一般的に信じられているとすれば、その原因はひとえにこのような命題の表現方法の曖昧さにある。
というのは、我々は数学の命題においては一つの与えられた概念に何か一つの述語を付け加えて考えるべきなのであるが、この結び付きの必然性はすでにその概念に付随しているからである。しかしながら、問題とすべきは、与えられた概念に何を付け加えて考えるべきかではなく、その概念の中に、たとえかすかではあっても、実際に何があると考えるかである(訳注:数学の命題の場合には、概念の中には何も考えてはいない)。
そうすれば、その述語は、与えられた概念自身の中にあると考えられたものとしてではなく、その概念に付け加えられるべき直観をつうじで、その概念と必然的に結び付いていることが明らになる。
2. 自然科学(物理学)の法則の中には、経験によらない総合的判断が含まれている。そのうちから二つだけ挙げてみよう。「物質の世界の変化においては物質の量は不変である」と「動きの伝達においては作用と反作用は常に大きさが等しい」である。これらの法則が両方とも、必然性と先天的起源を持っているだけでなく、総合的命題であることは明らかである。
なぜなら、わたしは物質という概念の中では不変ということを考えたりはしない。物質が空間を占めていることから、わたしはそれが空間の中に存在するということだけを考える。そこで、わたしは物質の概念の外側に行って、その概念の中では考えることのできない先天的な何かをその概念に付け加えて考える。したがって、この命題は分析的ではなく総合的であって、しかも経験に依存しないものである。自然科学の他の純粋な分野の命題もこれと同様である。
3.形而上学は、これまで単に試みとしてなされただけの学問であるとはいえ、人間理性の特性のおかげで、無くてはならない学問であり、その中には経験によらない総合的な認識が含まれているはずである。なぜなら、その役割は、物事に対して我々が先天的に自ら持っている概念を分析して明らかにするだけでなく、我々の先天的な認識を拡大することでもあるからである。
そして、そのためには、我々は与えられた概念に、その概念に含まれていない何かを付け加えるような原理(Grundsätze)を使わねばならない。そして、先天的かつ総合的な判断を通じて、もはや経験によっては確認できない世界の探求に乗り出すのである。それは、例えば「世界には最初の始まりがある」というような命題を探求することである。このように、形而上学とは、完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。少なくとも、形而上学の目的とはそういうものである。 
VI 純粋理性についての一般的な問題

 

多くの問題を一つの問題の形にすることができれば、それだけですでに大きな収穫だろう。そうすれば、問題が正確に定義されて、仕事がやりやすくなるだけでなく、我々の意図が実際に達成されているかどうか確かめようとする人たちにとっても、判断がつけやすくなる。
ところで、純粋理性の問題は 「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」 という問題の形に集約できる。この問題はこれまで一度も検討されずにきている。そのために、形而上学はこれまでずっと矛盾と混乱の間を行ったり来たりしてきた。いやそれどころか、分析的判断と総合的判断の違いさえもよく検討されずにきたのである。
この問題がもし解明されるなら、形而上学は着実な進歩を始めるだろう。しかし逆に、総合的な判断は経験によらなければ不可能であることが充分に証明されれば、形而上学は存在できないことになる。
多くの哲学者たちの中でもデビッド・ヒュームはこの問題に最も近づいた人である。しかし、彼は充分明確にしかも普遍的なやり方でこの問題を考察したとは言えない。彼はひたすら原因と結果の関係という総合的命題(因果律)に取り組んだ。そして、彼はそのような命題は経験によらなければ全く不可能であるということを明らかにしたと信じた。
彼の結論によれば、我々が形而上学と呼んでいるものは全くの妄想でしかない。つまり、実際には経験から借りてきたものが習慣によって必然性を持っているように見えるだけのものを、我々は理性による認識だと思い込んでいるのである。
彼がもし我々の問題を普遍的な観点から考察していたら、あらゆる純粋哲学を破壊するこのような結論に陥ることはなかっただろうし、自分の説に従えば、総合的命題を経験によらずに扱う純粋数学が不可能になることに彼も気づいていただろう。頭のいい彼が純粋数学が不可能だと言うはずはないからである。
上記の問題を解くことは、すなわち、対象に対する経験によらない理論的知識を含むようなあらゆる学問を純粋理性を使用することによって創設し完成させることは可能であるかどうかを問うことである。要するにそれは、次の問に答えることである。
「純粋数学はどのようにして可能か」
「純粋な自然科学はどのようにして可能か」
これらの学問が実際に存在する以上、このように問うてみることは決して間違ってはいない。なぜなら、そもそもこれらの学問が可能であること自体はそれらが存在することによってすでに証明されているからである。(原注)
原注 / それでもなお純粋な自然科学の存在を疑う人がたくさんいるかもしれない。しかしながら、経験に基づく物理学についても、その初期の頃に発見された様々な法則、質量保存の法則や慣性の法則や作用反作用の法則などのことを考えてみればよい。すると、これらの法則が実は純粋な物理学を構成するものであることが容易に分かるはずだ。このような理性に基づく純粋な物理学は、たとえそれが扱う範囲は狭くても、独立した学問として扱うに値する。
いっぽう、形而上学のこれまでの歩みは遅々としており、また、これまでに提案された形而上学はどれ一つとってみても、この学問の本質的な目的に照らせば、それが実際に存在するとは言えないものである以上、この学問がそもそも可能かどうかを疑ってもよいのである。
しかし、ある意味では、この学問が標榜するような知識は、すでに誰にも与えられていると考えるべきでもある。つまり、形而上学は現実に存在しており、それはたとえ学問とは言えないとしても、人間の本質的な傾向なのである(metephysica naturalis)。
なぜなら、人間の理性は、単なる虚栄心に満ちた博識の欲求に駆られることはなくても、内面の欲求に駆られて、ある問い──理性の能力を経験の世界に働かせても、経験から得た原則(Prinzipien)を使用しても答えられないような問──に向かって、ひたすら突き進むものだからである。そのために、どんな人間も、理性が成熟して物を考えるようになると、心の中に何らかの形而上学がいつも存在するようになり、決して消えることがない。そこで
「人間の本質的な傾向としての形而上学はどのようにして可能か」
という問いが生まれる。それは言い換えると「どのようにして、一般的な理性の本質的傾向として、あの問い──純粋な理性が自らに問いかけ、何とかして答えようと必至になるあの問い──は生まれてくるのか」ということである。
これまでのところ、このような問い──例えば、世界には始まりがあるのか、それとも昔からずっと存在するのかという問い──に答えようとするどのような試みも、矛盾に直面せずにはいられなかった。そのために、我々は形而上学をめざす本質的傾向には満足できないでいる。それはとりもなおさず、何らかの形而上学(その成否は問わず)を常に生み出してきた純粋理性の能力に不満を感じているということである。
しかし、我々はそもそも形而上学の対象となるものを認識できるかどうかなら、我々の理性によって確かめることができるにちがいない。つまり、形而上学は何を研究対象とすべきか、あるいはその研究対象に関して判断を下す能力が理性にはあるのかどうか、あるいは我々は安心して純粋理性の扱う領域を拡大してよいのか、それともちゃんとした境界線を引くべきかどうかを明確にすることなら、我々の理性にもできるにちがいない。
したがって、上記の漠然とした問題「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能なのか」から始まった我々の問いは、次のように言い換えることができる、
「学問としての形而上学はどのようにして可能か」。
要するに、理性の能力を批判的に検討することこそ学問としての形而上学への道であり、それに対して、理性を批判せず、根拠のない主張に基づいてそれを独断的に使用することは、別の同じく根拠のないな反対意見を生み出すだけであり、結局それは懐疑主義に至る道である。
学問としての形而上学は驚くほど膨大なものとなることはない。なぜなら、この学問は、無限に複雑多岐にわたる理性の対象を扱うのではなく、理性自身を扱うのであって、理性の内側だけから発生する問題、理性とは異なるものの本質ゆえにではなく、理性の本質ゆえに自分に課せられる問題を扱うからである。
しかも、経験の世界に現れる対象についての理性の能力を批判を通じて前もって完全に理解しておけば、形而上学という経験の世界の境界線を越えたところで理性の使用を試すときにも、その使用範囲と限界を誤りなく決定するのはたやすいに違いない。
したがって、形而上学を独断的に実現しようとしたこれまでの試みは全てなかったものと見なすことができるし、また見なさねばならない。なぜなら、これまでの試みの中に見られる分析的な部分は、我々の理性に先天的に宿っている概念を単に分析しただけで、それは本来の形而上学の目標ではなく、その準備に過ぎないからである。本来の形而上学とは先天的認識を総合によって拡大することだからである。
この目的にとっては、概念の分析は役に立たない。それは概念の中に何が含まれているかを明らかにするだけで、どのようにして概念を手に入れたかを明らかにはしないからである。ある概念をどのようにして手に入れたかが分かれば、そのような概念をあらゆる認識の対象について有効に活用することができるのである。
形而上学を独断的に実現する要求の全てを放棄することはたいした忍耐を必要としない。これまでの形而上学は、理性が独断的に使用されたために理性が自己矛盾に陥らざるを得ず、ずっと昔にどれも権威を失ってしまっている。
しかしながら、この学問は人間にとって無くてはならないものである。それは、次々に生えてくる幹を切り取っても、根っ子まで破壊することのできない植物に似ている。この学問を知的困難にも外的抵抗にもめげずにこれまでとは違うやり方で成長させて実を実らせるまでには、過去の形而上学を放棄するよりももっと大きな忍耐を必要とするだろう。 
VII 『純粋理性批判』という名の特別な学問の構想とその内容

そして、まさにこの形而上学の再生のために、『純粋理性批判』という名の特別な学問の構想が生まれたのである。
つまり、理性は経験によらない認識原理(Prinzipien)を提供する能力であり、純粋理性は全く経験によらない認識原理を提供する能力である。すると純粋理性はオルガノン(学問研究の道具)となり、あらゆる純粋な知識を経験によらずに手に入れる原理の総体ということになる。そして、そのような万能の道具を網羅的に適用すれば、純粋理性の一個の体系を作れるかもしれない。
しかし、それは過大な要求であり、そもそもそれで我々の認識は拡大するのか、またそれはどういう場合に可能なのかはまだ分からない。したがって、純粋理性の体系を作る前段階として、純粋理性に評価を下して、純粋理性の源と限界を明らかにするためだけの学問が必要なのである。
純粋理性についてのこの学問は、理論ではなく批判と呼ぶべきものであり、思索の場におけるその役割も実際には消極的なものとならざるを得ない。この学問は理性の能力を拡大するのではなく、それをはっきりさせて、過ちを犯さないようにするためにだけ存在する。しかし、それだけでも大きな収穫となるだろう。
わたしは、知識は知識でも対象についての知識ではなく、対象を経験によらずに知る方法についての知識のことを「超越的」と呼んでいる。
そして、そのような知識を集めて体系化したものが「超越的哲学」と呼ばれることになるだろう。しかし、そのような哲学は最初の間は荷が重すぎる。なぜなら、そのような学問は総合的認識と分析的認識の両方の先天的認識を完全に含まねばならないため、我々の目的からは、あまりにも遠すぎるからである。
というのは、我々が分析を行うのは、経験によらない総合的認識の原理の全体像を把握するためにどうしても必要な場合だけに限らねばならないからである。我々にとって重要なのはこの原理をつかむことだけなのである。
我々のこの研究は理論ではなく、単に超越的な批判と呼ばれるべきなのである。なぜなら、この研究の目的は、我々の認識を拡大することではなく、我々の認識を修正することであり、我々が持っているあらゆる先天的な認識の価値を見極める手段を提供することだからである。
したがって、この批判は、もし可能ならば、オルガノン(上記)の準備をすることであり、もしそれができないなら、あらゆる先天的認識の規準の準備をすることである。そして、その基準に従えば、純粋理性哲学の方法の全体像を──この哲学が、純粋理性の認識領域を拡大することになるか、限定することになるかは分からないが──総合的かつ分析的に描くことができるはずである。
このような批判のシステムを構築することが可能なこと、そしてそれがとても完成できないほど巨大なものではないことは、あらかじめ次の事実から容易に推測できる。つまり、我々がここで扱うのは物の本質ではなく──それなら膨大な量になる──物の本質について判断を下す知性(悟性)、しかもただ先天的な認識について判断を下す知性だけを扱うのである。
しかもその知性の武器庫(=原理と方法)は我々の内側を探せばよいのだから、それはきっと見つかるはずである。また、どう考えてもそんなにたくさんあるはずはないから、それらを完璧に理解してその価値を正しく評価することができるにちがいない。読者はこの本の中に純粋理性に関する書物に対する批判やその理論に対する批判が書かれていると思わないでもらいたい。ここにあるのは、純粋理性の能力に対する批判だけである。
我々は、この批判に基礎を置くことによってはじめて、この分野における古今の著作を評価する確かな方法を手にすることができる。それがない現状は、資格のない歴史家や批評家が、根拠のない他人の主張を、これまた根拠のない自分の主張によって評価しているだけである。
そして「超越的哲学」という学問があるとすれば、それは『純粋理性批判』を通じて、原理(Prinzipien)に基づいて構成していくべきものである。つまり、この哲学のあらゆる部分が完璧で確実な構造をもつことは、『純粋理性批判』によって保証されねばならない。この哲学は純粋理性の全ての原理からなる体系なのである。
この『批判』には人間のあらゆる先天的認識に対する詳細な分析が含まれていないため、一個の完全な体系とはならない。まさにそれゆえに『批判』は「超越的哲学」と呼ばれることはない。我々は『批判』において、上記の先天的認識に含まれる基本概念の全てを数え上げるつもりである。しかし、これらの概念の詳細な分析も、それらの概念から引き出される概念を完全に検討することもしないのがよいのである。
というのは、この『批判』の全体の目的は本来「総合」にあり、この場合に見られる問題は、分析の場合には存在しないので、そのような分析や検討は我々の目的とは関係がないからである。また、そのような派生的なことや分析にまで責任を負うことは、我々の計画の一貫性を損なうことにもなる。我々の目的から言って、そんなことは省略してよいのである。
本論の中で示される先天的概念とそこから派生する概念に対する完全な分析は、先天的概念が充分な「総合の原理(Prinzipien)」として存在し、それが本質的な目的を達成するために必要かつ充分なものなら、あとからでも簡単にできることである。
したがって、『純粋理性批判』には「超越的哲学」の基本的な部分は全て含まれることになる。しかし、『純粋理性批判』は「超越的哲学」の完璧な理念を示すものであっても「超越的哲学」そのものではない。なぜなら、『純粋理性批判』においては、経験に依存しない総合的な認識を完全に調べるのに必要なだけしか分析は行われないからである。
この「超越的哲学」という学問の内容に関して注意すべき点は、経験に基づく要素を含むような概念はその中に入らないということである。つまり、この学問は完全に純粋な先天的認識だけで構成されねばならない。したがって、道徳の最高原則(Grundsätze)や基本概念は先天的な認識ではあるが、「超越的哲学」の中に入ることはできない。
なぜなら、確かに、経験に基づく快不快の概念や好き嫌いの概念が道徳的な教訓の基礎となることはないが、純粋な道徳の体系を構成するときには、これらの経験に基づく概念が、義務を妨げるもの、克服すべきもの、あるいは、払いのけるべき誘惑として,義務の概念を構成する際にどうしても必要となるからである。
したがって、「超越的哲学」とは純粋な理論理性だけの哲学である。実践的なものは全て動機を含むために、感情と関係している。つまり、感情は認識の経験的な源なのである。
この『純粋理性批判』を一般的な哲学書のやり方にならって構成するなら、我々がこれから提示する『純粋理性批判』は、最初に純粋理性の原理論 (Elementar-Lehre)が、二番目に方法論が来る。この二つの大きな部分は、それぞれたくさんの小さな部分に分かれている。その分け方までここで述べるつもりはないが、序論あるいは前置きとしてここで言っておくべきことは、人間の認識には感性と知性という二つの幹があって、この二つは我々には分からない共通の根から出ているということである。
そして、感性を通じて対象が我々に与えられ、知性を通じて我々はそれを考えるのである。感性のうちでも、対象が我々に与えられる条件となる先天的概念を含むものは「超越的哲学」の中に含まれる。また、認識の対象を考えるためには、何よりもまずその対象が人間に与えられねばならないから、超越的感性論が原理論の最初に来る。 
 
化学の歴史 (history of chemistry)

 

長く曲折に富んでいる。火の発見を契機にまず金属の精錬と合金製造が可能な冶金術がはじまり、次いで錬金術で物質の本質を追求することを試みた。アラビアにおいても錬金術を研究したジャービル・イブン=ハイヤーンは多くの業績を残したが、やがて複数のアラビア人学者は錬金術 (alchemy) を批判するようになっていった。近代化学は化学と錬金術を弁別したときはじまった。たとえばロバート・ボイルが著書『懐疑的化学者』(The Sceptical Chymist、1661年)などである。そしてアントワーヌ・ラヴォアジエが質量保存の法則(1774年発見)を打ち立て化学現象において細心な測定と定量的観察を要求したのを境に、化学は一人前の科学になった。錬金術と化学がいずれも物質の性質とその変化を研究するものではあっても、科学的方法を適用するのは化学者だけである。化学の歴史はウィラード・ギブズの業績などを通じて熱力学の歴史と絡み合っている。 
前史  
火と原子論の発見
化学の起源は燃焼という現象に遡ることができる。火は、ある物質を別のものに変容させる神秘的な力であり、それゆえ驚きと迷信の出所となった。食品の調理による食習慣の変化や、陶器、それぞれの用途に特化した道具類の製作など、火は古代社会にさまざまな側面で影響を与えてきた。
原子論は古代ギリシアと古代インドに起源をもつ。ギリシアの原子論は、ローマのルクレティウスが紀元前50年に著した『万物の本性について』(De Rerum Natura)のなかで指摘した紀元前440年まで遡ることができる。その記述では、この考え方は原子(アトム)が物質の最少の単位であると提唱したデモクリトスやレウキッポスに始まるとしている。偶然にも同時代のインドの哲学者カナーダ (Kanada) は、そのヴァイシェーシカ (Vaisheshika)・スートラ (sutra) の中で類似の提言をしている。カシュヤパが彼のスートラに表れたのは瞑想の産物であったようだ。同様の手法でガス(気体)の存在も論じられた。カナーダがスートラで提唱したことは、デモクリトスが哲学的黙想から提唱したものでもあった。いずれも経験的データを欠いていたので、科学的証明のない原子存在は容易に否定された。紀元前330年にアリストテレスは原子の存在に異を唱え、ヴァイシェーシカ学派の原子論も長い間反論に晒された。
ヨーロッパでは、キリスト教会がアリストテレスの著作を一種の経典のように扱い、原子論関連は異端視された。アリストテレスの著作はアラビア語に訳されてイスラム世界で保存され、13世紀になるとトマス・アクィナスとロジャー・ベーコンがこれをラテン語に翻訳して再びヨーロッパに紹介した。 
冶金術の起こり
のちの冶金術に道を拓くガラスの発見と金属の精錬を導いたのは火であった。冶金術の初期には金属精錬の方法が認められ、紀元前2600年頃の古代エジプトでは金が貴金属になっていたことが知られる。合金の発見は青銅器時代の幕開けを告げた。青銅器時代ののち、軍がより高度な武器を求めたことで冶金術の歴史は新しい段階を迎えた。ユーラシアの諸国は高性能の合金を造り、これを使った甲冑や武器を製作すると全盛期を迎えた。これはしばしば戦闘の結果を決定付けた。 
インドの冶金術と錬金術
古代インドでは冶金術と錬金術にめざましい進歩がみられた。ウィル・デュラント (Will Durant) はThe Story of Civilization 1: Our Oriental Heritage(『文明の物語1:東洋の遺産』)の中で次のように記す。
古代インドの鋳鉄は化学成分が素晴らしく、グプタ朝時代は工業開発がめざましく、帝政ローマなどとの比較でも染色、製革、せっけん製造、ガラス、セメント、・・・などの化学工業分野では最も高度な技術を擁していたとみられる。6世紀までヒンドゥー教徒は化学工業の分野でヨーロッパよりはるかに先行しており、V焼 (calcination)、蒸留、昇華、蒸気加熱、不揮発性化 (fixation)、熱を伴わぬ発光、麻酔薬や催眠剤の調合、金属塩・化合物・合金の調製などに熟達していた。鋼の焼鈍しは古代インドに持ち込まれて完成したが、現代までにどのようにヨーロッパに伝わったのかは不明である。ポロスの王はアレキサンダーからの高価な贈り物として金や銀ではなく30ポンドの鉄を選んだと伝えられる。イスラム教徒はこのヒンドゥー教徒の化学と化学産業のほとんどを近東やヨーロッパに伝えた。たとえば『ダマスカス剣』製造の秘密はアラブ人がペルシア人から、ペルシア人はインドから手に入れたものであった。 
賢者の石と錬金術の起こり
古代エジプトなど、古くから錬金術と呼ばれる前科学が興った。錬金術師はエリクサー、賢者の石などを追い求めた。錬金術は歴史上多くの文化圏で実践され、哲学、神秘主義、前科学が混淆する体裁がよくみられ、また多くの人間が安価な金属をどうすれば金に転換できるかに関心をもった。
錬金術は卑金属を金に変える目的ばかりか、ペストに見舞われたヨーロッパなどでは人々の健康に役立つ医薬の開発でも期待された。ただ、不老不死の霊薬発見のための試行したものの霊薬も賢者の石も発見された事例はない。また、生物に生命を吹き込む『エーテル』が空気中に存在すると信じることも錬金術師の特徴としてあげられる。錬金術の実践者としては、生涯を錬金術に捧げたアイザック・ニュートンなどがいる。 
錬金術に立ちはだかる壁
新しい化合物についての系統的な命名法がなく、また言葉が難解・秘儀的かつ曖昧で用語の意味が使用者により異なっているなど、現代の立脚点からみると、錬金術には複数の問題点がある。具体的に The Fontana History of Chemistry(Brock、1992年)によれば:
錬金術の言語は十分な経験なく得た情報を秘匿するため秘儀的な聖なる術語を創り出した。この言語は現代のわれわれにはよくわけがわからないが、ジェフリー・チョーサーの『錬金術師の徒弟の話』 (The Canon's Yeoman's Prologue and Tale) (『カンタベリー物語』の一部)やベン・ジョンソンの『錬金術師』 (The Alchemist) の読者ならこれなど笑い飛ばすに値すると解釈できよう。
チョーサーの物語は安価な物質から贋の金を造るなど錬金術のいかがわしい一面をあらわにした。チョーサーのすぐのち、ダンテ・アリギエーリもこの詐欺への関心を行動に移し、著作中で錬金術師全員を地獄へ送り込んでいる。その後1317年にアヴィニョン捕囚の教皇ヨハネス22世は、贋金作りの錬金術師全員をフランスから追放した。また、『金属を増殖』した場合は死罪に処するという法律が、1403年にイングランドで成立した。この他にもいろいろ強硬な手段を講じたものの、錬金術は絶えることがなかった。王侯貴族や特権階級は依然として賢者の石や不老不死の霊薬を自分用に探し求めていた。
また、再現実験のための科学的方法についてはまだ合意がなかった。当然のように多くの錬金術師は潮汐の時刻や月齢など無関係な情報を彼らの手法に取り込んでいた。錬金術の秘儀的性格や難解な用語は、錬金術師が実は半可通であるという事実を隠蔽するのに好適だった。14世紀のはじめには錬金術に危機が訪れた。つまり人々が懐疑的になったのである。実験を他者が再現しうること、かつ結果について何が明らかになり何が不明であるのかを明晰な言語で報告するという科学的方法が必要なのは、誰の目にも明らかとなった。 
錬金術から化学へ  
初期の化学者
近代の科学的方法の発達は遅々としてなかなか前進をみなかったが、化学に関する科学的方法の萌芽は中世イスラム教徒の化学者の間に現れ始め、これを先導したのが「多くのものが化学の父とみなす」9世紀の化学者ジャービル・イブン=ハイヤーン(ゲベルス)であった。彼はランビキ(蒸留器)を発明・命名、数多くの化学物質を化学的に分析、宝石職人 (lapidary) を集め、アルカリと酸を弁別、数多くの薬を製造した。
その他有力なイスラム教徒の化学者には、アリストテレスの四元素説を批判したジャアファル・サーディク とラーズィー (Muhammad ibn Zakarīya Rāzi)、また錬金術の実践と金属変性の理論で名声を博したキンディー 、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー 、イブン・スィーナー 、イブン=ハルドゥーン、および物質本体は変化しうるが消滅し得ないとして質量保存の原型を記述したナスィールッディーン・トゥースィーらがいる。
ヨーロッパの比較的正直な医者にとって錬金術とは知的営為であり、時を経て熟達した。一例としてパラケルスス(1493年 - 1541年)は化学と医療の理解が曖昧ながらも四元素説を斥け、イアトロ化学(医療化学)(iatrochemistry) と呼ばれる錬金術と科学のハイブリッドを形成した。ところで、パラケルススによる実験が真に科学的であったとはいい難い。たとえば、新しい化合物が水銀と硫黄の組み合わせでできうるという自身の説の延長として、彼は『硫黄油』なるものを作り出したが、これは実はジメチルエーテルであり、水銀でも硫黄でもない。
ロバート・ボイル(1627年 - 1691年)は錬金術用の近代科学的方法を見直し、錬金術と化学の距離を広げたとみられている。ロバート・ボイルは原子論者だったが、原子の呼称として "atom" よりも "corpuscle" という語を好んだ。物質がその特性を維持しうる最小部分は原子(corpuscles)のレベルであると彼は述べている。
ボイルはボイルの法則で特記される。彼はまた記念碑的出版物『懐疑的化学者』(The Sceptical Chymist)でも特記され、ここで彼は物質の原子説を発展させようとしたものの成功には至らなかった。これらの前進にもかかわらず、『近代化学の父』と賞賛されるのは1789年に質量保存の法則(またはラボアジエの法則)を発見したアントワーヌ・ラヴォアジエである。これにより化学は定量的性質をもち信頼できる予測が立てられるようになった。 
アントワーヌ・ラヴォアジエ
化学研究の文献で古代バビロニア、エジプト、その他イスラム化後のアラブ人やペルシア人の成果を引用できるにもかかわらず、近代化学が花を咲かせたのは質量保存の法則の発見と燃焼におけるフロギストン説(1783年)に対する反論により『近代化学の父』とみなされたアントワーヌ・ラヴォアジエ以来である。(フロギストンは燃焼時に可燃物から放出される不可量物であると想定された。)ミハイル・ロモノーソフは18世紀ロシアで化学の伝統を独自に確立した。ロモノーソフもフロギストン説に異を唱え、ガスの分子運動論で先駆けとなった。彼は熱を運動の形態とみなし、物質保存の考え方を提唱した。 
生気論議と有機化学
燃焼の性質(酸素を参照)が明らかになったのち、生気論および有機物と無機物の識別という別の論争は、フリードリヒ・ヴェーラーが偶然無機物から尿素を合成した1828年から革命的に展開した。これ以前に無機物から有機物が合成された事例はなかった。この発見は異性論にも大きく貢献した。これで化学の新しい研究領域が開かれ、19世紀末までに科学者は数多くの有機化合物を合成できるようになった。そのうちきわめて重要なものは、モーブ、マゼンタ、およびその他合成染料、そして広く使われている医薬のアスピリンである。 
ラヴォアジエ後の原子論をめぐる論争
19世紀を通じて化学の世界は、ジョン・ドルトンが提唱する原子説の支持者と、これに反対するヴィルヘルム・オストヴァルトやエルンスト・マッハ らに二分されていた。原子説派ではアメデオ・アヴォガドロやルートヴィッヒ・ボルツマンがガスの振舞をうまく説明したものの、この論争の決着は20世紀はじめにブラウン運動を原子論的に説明したアインシュタインの説をジャン・ペランが実験で検証するのを待たねばならなかった。
論争が決着するまで長い時間を要したが、この間すでに多くのものが原子論の概念を化学に応用していた。20世紀になるまで十分発達していなかった原子の構造に関する予測となるスヴァンテ・アレニウスのイオン説などはこの好例である。マイケル・ファラデーもこの分野の先駆者で、彼の化学における貢献は電気化学の分野だったが、そのなかで金属の電気分解または電着 (electrodeposition) の過程における電気量は元素の量および、特定の比をもつ元素同士の固定量と密接に関係していることを明らかにした。これらの発見はドルトンによる結合比の発見同様、物質の原子論的性質に関する最初の手がかりとなった。 
周期表  
長い時間をかけて、存在が判明した化学元素の数は着実に増加してきた。この長大な一覧表(またその結果、以下に述べる原子の内部構造の理解も)を地に着いたものにする一大突破口となったのは、ドミトリ・メンデレーエフとロータル・マイヤーが作成した周期表だった。さらにメンデレーエフはこれを用いてゲルマニウム、ガリウム、スカンジウムの存在と性質を予測した。この3元素を当時メンデレーエフはそれぞれエカシリコン、エカアルミニウム、エカボロンと命名した。メンデレーエフはこれを1870年に予言したが、1875年にガリウムが発見され、しかもメンデレーエフの予想に近い性質を有していた。 
化学の現代的定義  
20世紀以前には伝統的に、化学は物質の性質とその変化についての科学と定義されていた。そのような物質の劇的変化を対象としない物理学とは明確な一線が引かれていた。さらに物理学とは対照的に、化学は数学を多用しなかった。化学の領域で数学を使用することにはっきり後ろ向きの姿勢をみせる者さえいた。たとえば、オーギュスト・コントは1830年に次のように記している。化学的疑問の研究に数学的手法を導入しようなど、まったくもって不合理であり化学の精神に反すると断ぜざるを得ない…、はたして数学的分析は化学の領域で主流の手法となるべきであろうか・・・、幸いながらほぼ不可能な心得違いというもの・・・、これはその種の科学で急速かつ広汎な質の劣化をひきおこすだろう。しかし同じ19世紀でも後半には見方が変わり、アウグスト・ケクレは1867年に次のように記している。私たちが原子と呼んでいるものの数理力学的説明に至り、その特質を記述する日が来ることを私は待望している。
アーネスト・ラザフォードとニールス・ボーアが1912年に原子構造を発見し、マリー・キュリーとピエール・キュリーが放射性物質を発見してのち、科学者は物質の性質に関する視点を劇的に変化させる必要に迫られた。化学者が獲得してきた経験は、もはや物質の性質全体の研究とは関連を失い、原子核を取り巻く電子雲と、電子雲の誘導で発生する電場における原子核の振舞だけが研究対象となった(ボルン-オッペンハイマー近似を参照)。化学の守備範囲は常温常圧に近い条件下でわれわれを取り巻く物質の性質に限定され、電磁波への曝露は地上における自然条件下のマイクロ波、可視光、紫外線などとあまり変わらないものに限られた。化学はそこで、物質の構成・構造・特性・変化を扱う物質科学と再定義された。しかし、ここで使われる物質の意味は原子と分子がつくる物質とはっきり関係付けられ、原子核内部の内容物、核反応、イオン化したプラズマ内の物質は対象としない。とはいえ人類の尺度からいえば化学の領域は依然広大であり、化学がすべてを包括するといってもあながち外れてはいない。 
量子化学  
量子化学はその誕生を、シュレジンガー方程式の発見とこれを水素原子に応用した1926年とする見方がある。一方、ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンによる1927年の論文を量子力学の第一歩とする見方もある。これは2原子の水素分子かつ化学結合へ量子力学を応用した初の事例となった。後年これを引き継いだエドワード・テラー、ロバート・マリケン、マックス・ボルン、ロバート・オッペンハイマー、ライナス・ポーリング、エーリヒ・ヒュッケル、ダグラス・ハートリー (Douglas Hartree)、ウラジミール・フォック、その他多数により研究は飛躍的に進んだ。
しかし、複雑な化学系へも応用して量子力学を一般化することについては懐疑的な見方も残っていた。1930年頃の状況をポール・ディラックは次のように記している。
物理学の主要部分と化学全体に適用する数学理論のために必要となる物理法則はすっかりわかっており、この先困難となるのはこれら法則を厳格に適用する結果、複雑すぎて解読できない方程式を作り出してしまうことだけだ。量子力学に適用する近似的実践的方法を開発すべきであり、それにより膨大な計算をせずに複雑な原子系の重要事項を説明できるようになるのが望ましい。1930年代と1940年代に開発された量子力学の方法は、化学や分光学に量子力学を応用したものの、化学的疑問への解答としては不十分という実態を裏書する理論分子・原子物理学として引き合いに出されている。
1940年代には物理学者の多く(オッペンハイマーやテラーなど)が分子・原子物理学から核物理学に転向した。1951年、ルーターン法 (Roothaan equations) に関するクレメンス・ルーターン (Clemens C. J. Roothaan) の画期的論文は、量子化学の分野でエポックとなった。これにより水素や窒素のような小さな分子用の自己無撞着場方程式という解決法への道が開けた。そのような計算は、当時最先端のコンピュータ上で計算した積分表の支援を得て実施された。 
分子生物学と生化学  
20世紀半ばまでに原理上物理と化学の統合は進み、化学的特性は原子の電子構造の産物として説明されるようになった。ライナス・ポーリングの著作 The Nature of the Chemical Bond (『化学結合の性質』)では、量子力学の原理を一層複雑な分子における結合角の推算に使用している。しかし、量子力学から援用した原理は、生物学的意味のある分子の定性的化学特性を予測することができても、20世紀末まで厳密なコンピュータ計算による定量的方法ではなく、規則性・観察・処方箋の集積と化している。
ジェームズ・ワトソンやフランシス・クリックらは、DNAの二重らせん構造に関する該当分野の化学の知識のほか、ロザリンド・フランクリンが得たX線回折像を情報源としてその制約の中でモデルを構築し、この発見的アプローチを援用し予測を立てて1953年に勝利を収めた。この発見により生命の生化学分野での研究が爆発的に増加した。 同年、ユーリー-ミラーの実験が実施され、タンパク質の基本構成要素である単純なアミノ酸がより単純な分子から生成されうることを、地球表面の原始的プロセスの再現実験によって実証した。生命の起源の本質については多くの疑問が残るものの、これは化学者が管理下の実験室で仮想の反応を研究することに踏み出した第一歩となった。
1983年にキャリー・マリスはDNAの試験管内増幅法を創案した。これはポリメラーゼ連鎖反応(PCR)と呼ばれ、実験室でこれを操作する際に使う化学反応に革命が起こった。PCRはDNAの特定の部分を合成するために使われ、また生物のDNAの塩基配列決定を可能にして大規模なヒトゲノム計画をも完結させた。 
化学工業  
19世紀の後半には地中からの石油採掘が大幅に増加して多種の化学薬品を生産し、またそれまで使用されてきた鯨油、コールタール、船用需品 (en:naval stores) に置き換わった。石油の大規模な生産と精製でできる加工原料から、ガソリンや軽油などの液体燃料、溶剤、潤滑油、アスファルト、ワックス、そのほか合成繊維、プラスチック、塗料、界面活性剤、医薬、接着剤、肥料その他向けのアンモニアなど、現代世界で普及している各種材料が生産されている。これらの多くは高効率生産を実現するため新しい触媒や化学工学の援用を必要としている。
20世紀の中頃には、シリコンとゲルマニウムの超高純度単一結晶で大きなインゴットを造り、ここから半導体用素材上の電子回路構造を自由に精密に製作できるようになった。他の元素を添加して化学組成を正確に制御して、1951年にはソリッドステートトランジスタの生産が始まり、さらに小さな集積回路の生産も可能となり、これを使用した電子機器殊にコンピュータは世界を大きく変えた。 
 
原子論 (atomism)

 

“すべての物質は非常に小さな、分割不可能な粒子(Atom、原子)で構成されている”、とする仮説、理論、主義などのこと。
古代ギリシャの原子論
古代ギリシアでは、(師弟関係にある)レウキッポス、デモクリトス、エピクロスらが、不可分の粒子である原子が物質を構成する最小単位であるという原子論を唱えた。古代ギリシャの原子論は、広く人々に受け入れられたとは言い難く、その後2000年ほどの間、大半の人々からは忘れ去られた考え方となっていた。
イスラームの原子論
イスラーム理論神学(kalam)では、一部の例外を除き、存在論の基礎を原子論においている、とされる。Jawhar fardというのが、Juz' la yatajazza'u(=もはやそれ以上分割できない部分)とされ、原子に相当する。 ただし、存在のもうひとつの単位として「偶有(arad)」があり、原子はつねに偶有と結びついており、偶有と原子は神によって創られた次の瞬間には消滅する、とする。Jawhar fardが結合して、いわゆる物体を構成しており、物体(原子)の変化はすべて神が作る偶有によって説明され、物体相互の関係は否定されている。 イスラームの原子論では(西洋の原子論のように世界を機械論的に説明しようとはしておらず)、世界に生成性(muhdath)があり、世界を生成させているのは神であり、神が世界を直接支配している、と説明している。
ただし、その説明のしかたには様々なタイプがあり、アシュリー派は、偶有性の持続を一切認めず、全ての原子の結合や分離、生成、変化は神の創造行為と結び付けられている、と説明するのに対し、ムータジラ派は例外的にいくらか偶有性が持続するとすることで、人間の行為の選択可能性や、自然界の秩序を認めた。
空間の構造については、それが連続的であるのか、あるいは原子のような最小単位があるのか議論があったが、後者のほうが優勢であった。また、真空については、存在を認める議論と認めない議論の両方があった。
イスラームの原子論の起源については、古代ギリシャ起源説、インド起源説、独立の発生だという説などがあり、はっきりとしたことはわかっていない。
西欧近代の原子論
デカルトなどは、"原子"などという概念を採用した場合、それがなぜ不可分なのかという問いに答えることは不可能と判断し、粒子はすべて分割可能だとした(原子論の否定)。
16世紀以降、化学が進歩し、ラボアジェ、ドルトンなどにより物質の構成要素として元素概念が提唱された。かれらの論が近代原子論の源流とされている。
だが、20世紀初頭になっても、科学者の主流派・多数派は、物質に(中間単位としてであれ)構成単位が存在するという説は疑わしいものだと見なしており、一般の人々も含めて、Atomという単位が存在するとは思っていなかった。
例えば、エルンスト・マッハやオストヴァルトなども、実証主義の立場から、"原子"なるものは観測不能であることなどを理由に"原子"なるものが実在するという原子論には反対し、エネルギー論を主張していた。そして、原子論の考え方に基づいて熱現象を試みに計算してみたものなどを論文類で発表しはじめた若者ボルツマンと激しい論争を繰り広げた。この論争に関しては、アインシュタインの1905年の論文によるブラウン運動に関する理論(仮説)の提出、および1909年のペランによる実験的検証(左記アインシュタインの理論の検証を含む研究)により、ただの理屈や理論ではなく何らかの粒子が存在すると認知されることによって一旦決着がついた。
それまで反対派のほうが多かった「何らかの粒子的な単位」の存在が自然科学者一般に認められるようになったことで、それは自然科学分野で理論を構築するために使える便利な概念的道具となった。
現代の自然科学における原子論の後退、他の説明体系
何らかの粒子的な単位の存在が認められ道具として用いられるようになるのと平行して、「分割不可能」という概念のほうは後退してゆくことになった。
原子の存在自体がまだ広くは認められていなかった20世紀初頭においても、つまり、物質がのっぺりとしておらず何かしらの単位がある、と自然科学者によってようやく考えられるようになりそれが「Atom」と呼ばれるようになった20世紀初頭においても、既に原子が「負の電荷を持った電子」と「正の電荷を持った何か」でできているという議論が行われており(つまり下部構造についての議論が始まっており)それは電子と原子核からなることも、ほぼ確実視されていた。皮肉なことに、Atom「原子」という言葉がようやく科学的なものとして用いられ始めたころには、原義の「分割不可能な最小単位」どおりのものではなくなっていたのである。さらに「原子核の内部構造として「陽子」と「中性子」が存在する」と考えられるようになり、さらにAtomという概念からは遠のいた。さらに、その後のさまざまな研究により、その陽子や中性子も「分割不可能」ではなく「内部構造(下部構造)を持つ」とされるようになった。
また、古代原子論や近代の原子論のように「ある大きさを持つ粒子」が物質の基本単位になっている、とする考え方とは異なった、「大きさを持たない点」によって物質が成立している、とする考え方も生まれた。 また、プランクは粒子説による困難を回避するために、空間の側に最小単位があるとする考え方(プランク長)を発表した。
現在では、“原子”の内部構造のことは、世界的には、「subatomic particles」などと呼ばれている。つまり、“分割できない”という、根拠が不確かな概念は用いることを慎重に避けている。
subatomic particlesには、いくつかのタイプがあるとされ、陽子や中性子はハドロンとしてひとくくりにされている。今のところ(2009年現在)、レプトンとクォークが、発見されている中では最小の構成要素であるともされている。また、現代においても、場についての理論や仮説を説明するのに、相手が一般人の場合に「場」という用語を避けて、科学としてはあまり適切ではないと知りつつも「粒子」という用語を使う例もある。だが、いずれにせよもはや世界の自然科学者は、科学的に正式な言明としては、「これが最小単位だ」などと根拠も無しに断言するようなことは行わない。レプトンやクォークも、さらに内部構造が発見される可能性がある、と考えている。
また、超ひも理論においてはすでに、全てのsubatomic particlesは有限な大きさを持つ「ひもの振動状態」であるとされている。もっとも、物質についてひもで説明するとしても、例えば「ひもの組成は何か。ひもの内部構造はあるのか?」という疑問は残っている、と考え、一般に科学者は正式の論文で「最小単位だと検証された」などとは断言したりしない。 
 
「光・波動」の歴史と科学者

 

スネル(Willebrord Snell von Rpoken 1591-1626)
オランダのライデン大学力学教授であった。はじめ法律を学んだが数学、天文に非常に興味を持った。1615 スネルの法則(1620年の説もある)スネルは、水中の物体の浮かび上がりを観察し、空気中の長さと水中の長さの比が見る方向に関係なく一定ということを見出した。スネルは一度もその発見を公表しなかったが、ホイヘンスとイサーク・フォス(オランダの古典語学者)らによって発表された。
スネルの述べる法則は「同一媒質については、入射角と反射角余割(cosecant=sinの逆数)の割合は、常に同一値である」としている。スネルはこの法則を実験的に確認した。現在広く知られている屈折の法則は、デカルトが1637年に著した<屈折光学>の中で示したものだが、デカルトはスネルについては言及していないので、デカルトが独自に発見したと思われる。
ただ、デカルトは実験から求めておらず、光の粒子説に立っていたデカルトは高速が密度の濃い媒質中で大きいという誤りの仮説に基づいて論じている。
1617 三角測量の方法を考案した。
1741 彼の死後、モーペルチュイ(P.L.Maupertuis 仏)は「最小作用の法則」を著し、最小作用の法則に、「作用量」:質量×速度×径路を導入。光の粒子説をとっていたので、光にも粒子にも成立するとし、非弾性衝突、スネルの法則を説明した。 
ホイヘンス (Christian Huygens (1629-1695)
オランダのハーグで生まれた物理学者・天文学者・数学者である。ホイヘンスは、父の友人のデカルトの教育を受けて育った。父コンスタンチンは、ガリレオの友人で、資産家、国会議員であり、恵まれた環境で教育を受けた。最初はライデン大学で数学と法律を 学んだが後に数学、物理学をはじめ多くの領域の研究をした。フランスのルイ14世に説得されて1666〜1681年にパリに滞在した。
ニ ュートン、ライプニッツと同じく生涯結婚しなかった。ホイヘンスは「光論」の前書きで、仮説と演繹の重要性を明確に強調した。
1650 「流体静力学」
1651 「数学的曲線の求積法」
1655 製作した望遠鏡で、土星の輪と衛星タイタンの発見
1656 「物体の運動について」
1657 振り子時計を発明、特許を得る。ゼンマイを使用。当時の時計は太陽の動きにあわせて係りが時計の針を修正していたので30分位のくるいがあった。ホイヘンスが発表した振り子時計の論文により時計の精度は飛躍的に進歩した。
1673 「振り子時計」を著す。遠心力の公式、複振り子、重力加速度等を論じる。
1678 著書に『振子時計』(1673年)、『光についての論考』(1690年)などがある。振り子や光、土星などの研究にも力を注いだ。ホイヘンスは、光が進むのに時間を要すること、光は縦波の性質を持ち、エーテル粒子の弾性衝突によって進むことなどを提唱し、ニュートンの光の粒子説と対立した。ホイヘンスの原理で光の波動説(縦波説)、素元波の考え方を示めした。またエーテルの存在を主張。部分波の伝播は述べられていたが、周期性、干渉性などには及んでいなかった。したがって、ニュートンの説明した色の成因を説明することができず、1世紀の間、ニュートン説が優勢であった。波動説の根拠は、光の速度が有限であること(レーマーの計算)、交差した光が何の影響もおよぼさないことであった。エーテルは「衝突振り子」が瞬時に振動を伝達するように硬く、「調和振動」をして振幅に周期が依存しないような弾性体であるとした。また複屈折の起因を粒子が楕円であるためとし、物質の屈折率も求めた。
1690 方解石を重ねた偏光実験をし、「光論(Traite de la lumiere)」出版。最初書かれたのは1678年で以後追記されて刊行された。前書きで、仮説と演繹の重要性を明確に強調した。ホイヘンスはエーテル内の振動が音と同様に縦波であると仮定していたので偏光現象を説明できなかった。論文「重さの原因について(Discours sur la cause de la pesancur)」で、重力の成因を微小粒子による渦運動の反作用であるとした。
1703 「衝突による物体の運動について(De motu corporum ex percussione)」が死後出版された。この中で慣性の法則、相対性、弾性衝突を公理として衝突の理論を展開した。現在の運動エネルギー、運動量保存の概念に相当するものに到達していた。書かれたのは1669年であった。 
マリュス(Etienne Louis Malus 1775-1812)
パリに生まれ、陸軍技師としての教育を受け、ナポレオン戦争に従軍した。その後アントワープとストラスブルグで進められていたフランス軍の監督時代に、複屈折に関するフランス協会の懸賞問題の研究を始めた。偶然1個の結晶をリュクサンブール宮殿(ルネッサンス様式)の窓から、自分の住んでいたダンフェール街の家に反射されてくる太陽の像を見ていたら、結晶がある特定の位置で2重像の一つが消えてしまうことを発見した。はじめ、光が大気中を通過する際に何らかの作用を受けるためと考えたが、夜になって水平に36度の角度で入射するロウソクの光が同様な結果をもたらした。しかも方解石から出た2本の光が36度の角度で同時に水面に入射し、そのさい通常の光線の方の一部が反射されたとすると、異常な光線の方は少しも反射されなかったことを確かめた(1808)。
「偏光(polarisation)」という名称を使用した。
この頃の波動説では偏光について説明がなされなかった。光が波動であることを実験で示したトーマス・ヤングは1811年、マリュスへの書簡で次のように語っている(ヤングは光の微粒子説派であった)。
「貴下の実験は、私が採用した(干渉の)理論の不備こそ示していますが、この理論が”偽り”だということを証明するものではありません」
さらに1817年ヤングはアラゴ(*1)への書簡で次のように書いている。
「すべての波動が音の波動と同じく、同心球面を作って均質の媒質の中を単純に伝播され、半径方向に沿った球面粒子波の前進後退運動と、それに伴う凝縮と希薄化とができているというのがこの理論の原理です。しかもこの理論が横振動を説明することも可能なのです。それは球面粒子波の運動が、その半径に関して、ある一定の方向に向いているからです。この横振動が、その半径に関して、ある一定の方向に向いているからです。この横振動こそ’偏光’なのです」。
*1 アラゴ(フランスの天文学者、物理学者。1805年経度局の一員としてJ.B.ビオとともに子午線測量に従事。1809年エコール・ポリテクニク教授、1830年パリ天文台長。フレネルとともに偏光の実験から光の波動説を実証(1816年)、電流による鉄の磁化の実験(1820年)、アラゴーの円板の実験など光学、電磁気学に貢献もある。 
ブリュースター(David Brewster 1781−1868)
エジンバラ大学で宗門にはいるための教育を受けたが一度も宗門の仕事をしなかった。英国科学振興協会の指導的立場だった。
万華鏡(日本には江戸時代末期に伝来した)を発明、複屈折を研究。英米両国で一時万華鏡を求める数が供給限度を遙かに超えたという。
1815 偏光角の法則を発見。偏光の数値化した。偏光角をα、屈折率n のとき、tanα=n
1818 光学的に2軸性な結晶を発見
1834 バンドスペクトルの発見。発煙硝酸を通した太陽スペクトル中に暗線とバンドを見出し、化学分析応用を模索した。
ヤング、アラゴ、フレネルらが光の波動説の研究を成し遂げた後に至っても、ブリュースターは波動説から離れることはなかった。 「光の波動説に対する私の一番大きな反対は、造物主が光を作り出すためにエーテルで空間を満たすというような、そんな拙劣な仕掛けをする罪を犯したなどとは、とても考えられないことにある」と自説を曲げようとはしなかった。 
ユークリッド(エウクレイデス、エウクリデス、Eukleides)BC323〜285
反射の法則はユークリッド、ヘロンらによって紀元前から発見されている。
ユークリッド幾何学「原論」と、幾何光学の創始。
「光学」「反射の光学」などを著す。平面・曲面における反射の法則。
「optics=光学」の語源は彼の視覚論「Optica」に由来する。
ユークリッドの個人的生活に関してほとんど知られていない。また、推論されるほとんどのものは5世紀に書かれ、プロクロス(412−484 新プラトン派最大の体系思想家)による。プロクロスによれば、ユークリッドは、アレキサンドリアでプトレマイオス1世Soter (BC323〜285)に数学を教えていた。
ユークリッドについて短い2つの逸話がある。1つは、ユークリッドが、若いエジプトの王であるプトレマイオスを教えていた時、彼は「原論」によらずに幾何学の熟達へのより短い道があるかどうか尋ねられましたとき、ユークリッドは「幾何学に王道はない」と返答したと言う。第2の話は、幾何学を学んでいた一人の学生に、幾何学の新しい概念の学習のために、彼が何を得るだろうかと問われた。ユークリッドは、「彼は学習したら得をしなければならない」のだそうだからと、彼にコインを授けるように彼の助手に命じた、という。 
フェルマー(Pierre de Fermat 1601-1665)
フランスのモントーバンに生まれた数学者。法律を学び弁護士を開業。
1629 フェルマーの定理。「極大・極小研究のための方法」を著す。また、フェルマーは微積分に非常に長けていた。
1643 「平面および立体軌跡入門」(死後1679年出版)
アポロニウスの円錐曲線論を復活、解析幾何学の方法を用いる方程式と図形(座標の軌跡)の関係を明確化もした。放物線の接線の方程式、解析幾何学の創始、デカルトと並んで解析幾何学の発見者とされる。1658 光線の通路を経過時間の最小値とするというフェルマーの原理を発表した。
1661 地方議員になり、余暇に数学を研究。整数論、確率、曲線の極限などを研究した。屈折の法則を導き出した。フェルマーの原理、による光の直進、反射、屈折の説明。光線逆進の原理の説明。フェルマーの原理は「光がある媒質の1点から他の1点へと’最も少ない時間’で進み、また濃密な媒質内では速度はより小さい」というもので屈折の法則を証明するものである。 
ニュートン(Isaac Newton 1642-1727)
分光学の創始・光学の研究。
1664 かなり初期から反射・屈折の法則の知識があり反射望遠鏡の開発に着手。光についての最初の観測は、太陽のコロナに関するものであった。
1666 非球面レンズの製作に挑戦しプリズムを製作。
1666〜7 プリズムによる分散現象(1672年「色と光についての新理論」で公表)2重プリズムの実験から白色光(太陽光)が色の集まりであること、色が光の固有の性質であること、物理学と視覚の生理学の関連の明確化。光が「実体性」粒子であると主張。
1668 色収差、球面収差の除去法を考え反射望遠鏡を開発した。
1672 「色と光についての新理論」著す。光の粒子説を唱えホイヘンス、フックと4年越の論争が続いた。
フックの薄膜の干渉色による反論として「エーテル」の振動説。ニュートンはエーテルと粒子との相互作用という折衷案を提示した。
1675 ニュートンリングの干渉色は光の粒子が「周期性」を持つと考えた。「光学」の中で、光の透過性、反射性の「発作(fits)」により進行距離に依存した部分反射・透過がおきるとした。つまり、『光が透明物質に進むときに、反射と屈折のいずれも存在するということは微粒子説によると説明がつかない。このことを説明するためにニュートンは、容易な反射と容易な伝播(屈折)の’発作’が普遍的なエーテルによって微粒子に伝えられると提唱した。飛翔する微粒子の進行は、表面付近のエーテルを刺激し、その結果エーテルの続く圧縮と希薄化が生ずる。このエーテル圧縮の瞬間に、表面に到達した飛翔微粒子ははね返される。逆に、もし微粒子が希薄化の瞬間に到達すると、その進路は妨害されることが少なく、通過することになる。』
これがガラスなり水の表面がどのように飛翔する微粒子からなる光線を一部を反射し、一部は屈折するかのニュートンの説明である。
また、複屈折を光の粒子が微小磁石のような性質から説明しようとし、「polarization」という言葉を用いた。また、「スペクトル」という用語も「光学」の中で名づけられた。 
オーギュスト・フレネル(Augustin Jean Fresnel 1788-1827)
フランスブローイ生まれの物理学者。幼いときは物覚えが遅く、8歳になってもほとんど読むことができなかった。トーマス・ヤングと対照的である。13歳にカン市(北仏の港町)の中学に入学。16歳にパリ理工科大学および土木学校に学び、土木技師になった。1823年フランス学士院、1825年イギリス王立協会会員。
1815 王統派であったフレネルは、100日天下の時、投獄された牢屋の中に差し込む光で回折理論を考えたという。回折を波の集まりとしてとらえ、半波長帯を考えた。フレネルはヤングを敬愛していた。この時点ではヤングの理論を知らなかった。
1816 アンペールがフレネルに光が進行方向と直角に振動していることを示唆。
1816〜18 アラゴーと共同で、偏光の実験し、常光線と異常光線が干渉しないこと。また偏光の異なる光は干渉しないことを確認し、横波説を考えたが、力学的に説明できなかった。アラゴーは光が横波だと、エーテルが剛性を持たなくてはならないため観測事実に反すると反対した。
1818 光の波動論の確立:回折と偏光の理論光の回折に関する研究、ヤングの実験の理論的正当化。横波としての光の数学的理解。偏光・複屈折の説明(アラゴーと共同)した。フレネルの静止エーテル理論は、地球がエーテルに対して動いていなければ、光行差は生じず恒星は静止していると考えた。「フレネルの半波長帯」、光路差がλ/2ごとに異なる同心円状の帯を考えて回折を説明した。
1821 偏光について実験を行い、全反射が横波でなければ説明つかないことに自信を持った。 
トーマス・ヤング(Thomas Young 1773-1829)
イギリスサマセットシャー州ミルバートンに生まれた。
2歳にはすらすらと本を読みこなし、4歳には聖書を2度も読み、6歳にはゴールドスミスの長詩<廃墟の村>を暗唱したという。
13才の時には、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語が読め、博物学や自然科学の勉強を始め、14才には彼は独学で、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、エチオピア語など多数の中近東の古代、近代語の勉強も始めた。このことは後年、シャンポリオンとは独立に行われたロゼッタ・ストーンのエジプト象形文字の解読研究や、エジプトの研究において優れた業績を上げるもとになった。
16歳頃、奴隷貿易に反対し、砂糖を口にしなかった。19歳で医学教育を受けケンブリッジ大学で学び、ロンドンで開業。熟達したラテン、ギリシャ学者であり、同時にニュートンの「プリンキピア」や「光学」、ラヴォアジェの「化学要論」等多くの自然化学の主要著作に親しんでいた。王立研究所(前年ラムフォードが開設)の自然哲学(物理学)教授になる。1802年王立協会の外事書記に任命され終身この職にあった。
1793 乱視と目の構造に注目し、以降光学の研究を続けた。
1801 王立協会で薄いガラス板の色についての論文で光の波動説を主張。
『起源の違う2つの波動が、その方向を完全にかあるいはほぼ完全に一致させたときは、その2つを合わせた効果は、そのおのおのの波動に固有の運動を組み合わせたものにほかならない』と、干渉の法則を示唆したフックの’微小物体学’にあるが、ヤングも独自にこの考えに至った。ヤングはこの法則を音と光に徹底的に適応した。この干渉の論文はブルーム卿らに攻撃を受け、ティンダルが言うように「20年間もこの天才の火は消された」。彼の権利回復に尽力したのはフレネル、アラゴの二人である。
1802 論文「色と光の理論について」により、エーテル媒体説、色は波長によることを仮定。干渉、回折についてのべ、回折をエーテルの密度差より説明。1807 「自然哲学講義」を著す。この書物には、王立協会でヤングが行った講演のすべてを収録している。これにはジョセフ・スケルトンの手になる美しい版画が入りで、この書物に収められているヤングの講演の内容は、乱視について初めて記述したこと、「エネルギー」(ギリシア語の「活動:エネルゲイア」が、語源)を物体の質量に速度の二乗を乗じた積(F=mv2)として初めて用いたこと、ホイヘンスの学説に賛成して光の波動理論を作り上げたこと、(いわゆる「ヤングの複スリットの実験」)潮汐のヤング理論など、電気に関しては二つの講演が入っていて、その一つは磁気に関するものヤングがいわゆる「ヤング率」を導入し、現在でも一般に用いられている定義を確立した弾性に関する講演など、ヤングの研究の主要なものについての研究経過とその成果である。
これらの講演は当時における最も完全、最も正確な物理学の研究であると現在でも考えられている。チェルニンがヤングを称して「(色の知覚についての)生理光学の父」といい、後になってヤングと同じ光の波動を研究したヘルムホルツは「この世に生を受けた最も明晰な人」であると考えていた。
いわゆる「ヤングの複スリットの実験」での結果、光の波動説によって説明できる現象である(当初は光を縦波と考えた)、求めた光の波長はニュートンリングより求めた値と一致した。光の色により、干渉の径路の差が異なる事は、波長=色であるということであり、赤色=0.7μm、青色=0.4μmであることが分かった。フレネルの干渉実験の結果を受けて、偏光どうしが干渉しないことより、光は横波であると指摘した。
1814 ビオらの粒子説による複屈折の説明を批判、しかし論破できなかった。 
グリマルディ(Francesco Maria Grimaldi 1618-1663)
父が絹を販売し経済的に豊かな家に育った。イタリアの物理学、数学者、イエズス会神父。ボローニャの教授職にあった。1640〜 1650年の間自由落下を研究した。時間は振り子を使用し、落下距離が時間の2乗に比例することを確認している。1665年に暗室に一条の光を導き、光が物体の影に回り込む事を観察し()、回折現象をはじめて発見(レオナルド・ダビンチは 早くに注目していた)。
回折という用語を使った。「光に関する物理・数学」を著す。光の波動性を示唆した。
天文学では月面の暗部を詳細に観察し月面図()を作成した。
グルマルディの研究はフレネル。フック、ホイヘンス、ニュートンらの多大な影響を与えた。 
ドップラー(Christian Andreas Doppler 1803-1858)
ザルツブルグの石工の家に生まれたオーストリアの物理学者、数学者。幼い頃は虚弱であったという。
1835 プラハ工科大学教授。
1842 二重星に関する研究から光に関するドップラー効果を発見。つまり、発光体の色が、発音対の音の高低と同様に、発光体が観測者の方へ近づいたり遠ざかったりする運動で変化するはずと考えた。音については、バロート(1817-1890オランダの気象学者)が、列車で実験した。駅を急速に通過する列車上の人は、駅で鳴 っている鐘の音が、列車の近づくときは実際より高く、遠ざかるときは低く聞こえることに気づいた。
1850 ウィーン大学物理学教授、物理学研究所長。収差、色彩論、光学距離計の改良を行った。49歳で肺結核で亡くなる。
キーラー(1857-1900アメリカ)は二重星、星の運動についてドップラー効果を使って成功し、1895年には土星の内側の明るい環の中側のふちが21Km/s動くうちに外側の環のふちが16.1km/sしか動かないことを明らかにし、全体として一つの固体でないことを発見した。
1859 化学者ロバート・ウィリアム・ブンゼン(1811-1899)およびガスタブ・ロバート・キルヒホッフ(1824-1887)が、炎、プリズムによる生じる光を広がること、および特定にイオン化された要素としてのスペクトル内の特殊な可視線のスペクトル分析を開発した。星の典型的なスペクトル線中にドップラー効果による波長のずれが観測された。 
レーマー(Christensen Roemer 1644-1710)
レーマーはデンマークの商人の息子だった。彼はコペンハーゲン大学に学んだ。そこで彼はErasmus Bartholin(アイスランドの氷晶石の複屈折の発見で知られている医学教授)に認められTycho Brahe の原稿の編集の仕事を任された(1664 年〜1670)。
1672 レーマーはピカールとともにパリ王立観測所で働き始め、すぐ後にルイ14世Dauphin の天文学の個人教師、科学のフランスアカデミーの観測所での研究を任命された。
しかし最も大きい業績は1676 年、最初の比較的正確な光速の測定だった。木星のいくつかの衛星の蝕を観測した。
これらの衛星がその軌道を公転する周期は、年間のすべての時期で同じでなく、木星の見かけ上の大きさが減っていくときにはその値が平均値より大きいことに気づいた。観測された不規則性が光速が有限であるという仮定の下に成り立つと確信していた。
1676 フランス科学アカデミーへの発表では「その11月に起こる木星の第1衛星イオの食が、8月の観測に基づく計算による
時間より約10分遅れる、と予言し、この食い違いは光が木星から地球までに届くのにかかる時間によると仮定すれば説明できる」とした。
11月9日、この食は5時35分45秒に起こったが、計算では5時25分45秒に起こる予定だった。11月22日、レーマーは自分の理論を詳しく説明。光が地球の軌道を通過するのに22分かかると述べた(現在は正確には16分36秒であることがわかっている)。ピカールは賛同したが科学アカデミーやカッシーニは彼の理論を受け入れなかった。
レーマーは木星の第1衛星に計算の基礎を置いたが、それ以外の他の3つの衛星による同様な計算では、成功しなかったと述べている。その後フランス皇太子の牧師になり、後にクリスチャン5世によってデンマークに呼び戻され王立天文台長になったが、パリでの名声は薄らいだ。
第1衛星以外に対する疑問をどのように解決したかについては分かっていない。レーマーは多くの天文学的観測結果を残したが、その殆どが1728年コペンハーゲンの大火で消失した。レーマーの理論は英国のハレー(ハレー彗星で知られる)に支持され、ブラッドレーによる新しい方法で検証されることになる。
1728年の光速測定 / 木星(公転周期11.86年)の衛星(ioイオ;英語ではアィオ)の食の周期(約42時間28分36秒)が、地球と木星の太陽に対する相対位置によって異なることにより光速を測定した。左図の地球E1、木星J1が太陽Sと同じ側にあって太陽と同一直線上にあるときにはじめの食があった(緑色の点が衛星)とする。これから地球E2と木星J2が太陽Sの反対側にあって一直線上になるまで113回の食がある。レーマーはこの113回の食が計算結果より遅れるのは、光が地球の軌道直径を通過する時間が原因と考え光速を計算した。この113回の食の時間t は食の回数をN、イオの木星に対する公転周期をT、地球の公転直径をL、光速をc とするとの関係がある。
L=2.986×1011m、時間ずれを16分36秒=996秒とすると、c=2.998×108m/sである。 
ブラッドリー(James Bradley 1693-1762)
ブラッドリーは、光行差の発見で知られる英国の天文学者。発見は地球が太陽のまわりで移動したというコペルニクスの理論を立証する重要な証拠、光の速度を推定する方法を与えた。
経済的理由でブラッドリーは聖職者になりBridstowで生活したが、彼の科学的な努力およびエドモンド・ハレーとの友情により1718年に英国学士院に選ばれた。オクスフォードの教授を1721年までつとめた。ブラッドリーは1728年に英国学士院に彼の発見を発表した。
ブラッドレーは恒星の視差の決定に苦心していたが、その変位が予想より全くかけ離れていることを発見。ほとんどこのことについて諦めかけていたが、思いかけないことがひらめいた。「1728年9月のある日、テームズ川の帆船の周遊会に同行したとき、船が方向を変えるごとに風向きが変わるように思われることに気づいた。船員にわけを聞いてみると、帆柱の上端にある風見の方向が変わるのは、ただ船の進路が変わることだけによるもので、その間風向き自体は変わらず一定だったということだった。これが手がかりになり、光の伝播に地球が軌道上を進むことが加わって、天体が見える方向に(光速度と地球の公転速度という)2つの速度の比による分量だけ、年間のずれができるに違いないとすぐに悟った」。
光行差(下注参照)の値から太陽光線が地球に到達するのに8分13秒(現在は約8分20秒)かかると推定した。ブラッドレーはニュートンの光の微粒子説に基づくと、光行差が簡単に説明できることを発見した。ブラッドリーによる測定で光速は295、000Km/sだった。
ブラッドリーによる発見は地球の軸の章動の発見だった。視差に関する研究を行なっていた時、最初に変動に気づいたが、章動が月の引力によって引き起こされると信じていた。1747年に彼の研究を終えて、1748年に英国学士院で発表した。ハレーが1742年が死亡の後グリニッジ観測所の後継者となった。彼の観察の大部分は死後に公表されるが、非常に正確な星図を研究し続けた。
ブラッドレーによる竜座γ星の視差の測定(右図)
ブラッドレーは6月から12月にかけて天球上でS'からS''へと見かけ上の動きを示し、3月と9月ではその中間を占めると予想した。しかし、実際はこの恒星の位置は、6月と12月には同一だった。視差の影響は何一つ見いだせなかった。しかも、奇妙なことに3月と9月にはこの恒星は同一位置にあるようには見えなかった。
(注) 光行差と光速測定
風のないときに、動く電車中から雨の動きを見ると、斜め手前に降って見えるように、動く観測者には光速度が実際の向きと異なって見える。地球は公転軌道上を29.8Km/sの速度で動いているので、観測している恒星の位置は実際の位置と異なることになる。この現象を光行差という(地球の公転によるものを年周光行差、自転によるものを日周光行差という。ここでは前者である)。左図のように地球の公転軌道面にあって公転速度に対して直角方向にある恒星Pから届く光が距離ABを通過する間に観測者がABに直角にBCだけ動くと、恒星はBAの方向にあるように観測される。見かけの角度は、で与えられるから、年間を通すとP1、P2と左右にずれて円軌道ないし楕円軌道を描くようにずれて見える。
実際の観測によるとα=20.47秒(角度1秒は1度の1/3600)=9.9267×10-5rad≒tanαから、
光速度 c=29.8×103/9.9267×10-5=2.9966×108m/s 
フィゾー(Armand Fizeau 1819-1896)
フィゾーは、地球上の光速度を決定する方法を開発したことで知られているフランスの物理学者。以前に、光速度は天文学の現象に基づいて測定された(レーマー、ブラッドレーなど)。
フィゾーは1819年9月23日にパリで生まれた。彼の父親は王政復古期間中の医学の有名な内科医および教授だった。フィゾーは経済的に潤沢で、自分の好きな研究手段の大半を私財でまかなった。
彼は、パリのStanislas大学で医学を志したが、病気のために進路変更した。代わりに、フィゾーは、パリ観測所でフランソワAragoとともに研究した。
1839 フィゾーは新しいダゲレオタイプ(銀板写真)写真術に夢中になった。1845年に太陽の表面の詳細な写真をとることにより天文学の観察のためのダゲレオタイプ写真術を開発した。さらに1847年太陽からの熱線が波動として作用することを発見した。初期の頃フィゾーはフーコーと研究をともにしていた。
フィゾーは歯車をつけた車輪を回した。車輪が規則正しい間隔で光を遮り、断続する閃光は遠方に置かれた固定鏡で反射させた。この実験は、パリ郊外のシュレンヌとモンマルトル間8633mの距離で行われ、論文は1849年に発表された。彼の計算は、313300Km/sであった。
フィゾーは、さらに光の別の重要な現象を研究した。光が通り抜けている媒質の運動にかかわらず、光の速度が定数であることを実証した実験を行なった。光が異なる媒質を通って異なる割合で移動したことは以前に確証されたが、もし媒質が動いていれば、光速度の速度が増加させられるだろうと信じられていた。フィゾーは、彼が液体を流すことによって光速度を測定した研究を行なった。驚いたことに、液体の移動によって光の速度が増加しないことを発見した。彼の観察は、光の特性に関してニュートンの古典的力学の法則に矛盾していた。これは後にマイケルソン、モーリーによって確認された。
1866 ロンドンの英国学士院が彼にランフォード・メダルを与えた。偉大な科学者および共同者は長年彼の努力を継続したが、大多数の彼の重要な仕事は彼の初期の研究に行なわれた。
光速度の測定はレーマーによる1676年の突破口となる努力で始まって、光速度は、種々様々の異なる技術を利用する100人を越える少なくとも163回測定された。はじめての測定から300年以上後に、1983年光速度は毎秒299、792.458キロメーターであることとして定義された。したがって、光が1/299、792、458秒の時間に真空中を移動する距離を1mと定義される。
図のように歯車H(コマ数N=720、回転数n=12.6回/s)、凸レンズL1〜L4を配置する。
Sから出された光はレンズL1を通り、半透明鏡で反射され歯車を通って左側のレンズL2(この焦点位置歯車があるので平行光になるに)を経て、L3を通りこの焦点位置に鏡M1が配置されているのでM1での反射光も平行光になる。歯車とM1間での距離L は8633Kmである。反射光が再び歯車Hの歯の間を通ることができると、M2を通りレンズL4から観測者の達する。
歯車をゆっくり回転させ歯車の歯の間を通った光が反射され再び歯を通り抜ければ明るく見えるが、反射された光が歯に遮られると見えなくなる。このときの歯の回転数から光速c を測定する。光が距離L往復する時間t はt=2L/c、回転による、歯の隙間から歯までの時間t'は である。t=t ' からc=4NnL の式から光速が計算できる。歯車の回転数nが12.6ではじめて暗く見え、このことから、それぞれ数値を代入し c=313300Km/sが求められた。 
フーコー(Jean Bernard Leon Foucault 1819-1868)
フーコーはフランス・パリの出版社の息子として生まれた物理学者。彼は光学と力学の実験で有名で、極端な精度と光速度とを比較する方法を開発した。フーコーは、地球がその軸を中心に回転することをフーコー振り子で証明した。
フィゾーに会い、太陽の表面の詳細な写真を撮り、1849年に光速度を正確に測定する方法を開発した。フーコーは、空気中の光速度が、それが水の中にあるより大きいことを証明し、ニュートンの微粒子説を否定した。
フーコーは1851年、振り子を使って地球の自転を証明した。実験は4カ所で行われた。最初の実験はダッサ街の彼の別荘の地下で行われた。5kgの重さの真鍮球が鋼鉄線でつり下げられた。球は傍らに寄せられ、糸が完全な静止状態になるまで、その位置に留められ糸を焼き切って放された。この振り子は一定の垂直面内を振動し始め、地球の自転を実験で明らかにした。人間の目には振動面が回転し、地球が静止状態にあるように見えたが、この見かけ上の運動の角度は地球が同一時間内に回転した角度に実験場所の正弦を乗じたものと等しいことが分かった。第2回目はもっと好条件が必要としてアラゴに勧められ天文台の建物を使った。天文台で11mの長さの振り子を使って正確に検証した。第3回目はナポレオン3世の好意によりパンテオンが選ばれ、28kgの球が厚さ1.4mm、長さ67mの針金でつり下げられた。パンテオンは見物客で一杯になった。第4回目は万国博覧会で行われた。
また、フーコーは軸線のまわりで地球の動きを示すためにジャイロスコープを発明した。1855年に磁界(それらは時々フーコーの流れと呼ばれる)によって生成された渦電流の存在を実証した。彼は麻痺の突然の発作に苦しみつつ48歳で亡くなった。
フーコーによる光速測定法 / フーコーは回転する鏡の反射を利用して、光の速さを測定した。その原理は次のようである。図に示すように、光源Sから出た光はスリットを通り、半透明鏡Hを通り抜けて平面鏡Rにより反射され、凹面鏡Mに達する。Mで光はもと来た道をたどり、Rが静止していれば回転平面鏡で反射し、さらに半透明鏡上のQ点で反射してPを通る。いま回転平面鏡RのOを中心として一定の回転数n(回/s)で回転させる。OM 間の距離を l、光の速さを c とすると、光がOM 間を往復する時間はt=2l/c となる。この間に平面鏡Rは角θだけ回転している。そのため光は半透明鏡のQ' で反射されPを通らず、Pよりごくわずか離れたP' を通る。この際、角度∠QOQ' をθで表すと右図により、鏡がθだけ回転すると反射光は ∠QOQ'=∠QOR'−∠Q'OR'=(α+θ)−(α−θ)=2θ だけずれる。
鏡は1(s)間に2πn (rad)回転するので、θ(rad)回転に要する時間t (s)間はだから が成り立つ。よって光速は で得られる。フーコーはn=800、l=20mとしてc=298600Km/sを得た。 
マイケルソン(Albert Abraham Michelson 1852-1931)
1880 ベルリン大ヘルムホルツの研究室で「マイケルソン干渉計」の雛形開発。その後、グラハム・ベルの資金援助によりベルリン機械製作所で高精度版製作。
1881 ベルの援助の下、マクスウェルが提案した干渉計を製作。ベルリン、ポツダムの天体物理観測所で最初の実験。ベルリンでは交通により、ポツダムでも干渉計の回転軸のブレにより測定できなかったが、マイケルソンは、エーテルの相対速度はないと発表してしまった。ケルビン卿やレイリー卿の関心は呼んだが、学会には認められず、失意のうちに光速度測定の研究にもどる。クリーブランドのケイス応用科学学校(現ケイス工科大)の物理教授に近くのウエスタン・リザーヴ大のモーレーと知り合う。
1887 光速度の等方性干渉実験「エーテルの風」の痕跡がないことをモーリーとともに実験。これでエーテルの存在を否定した。
1926 フーコーやフィゾーの装置を改良し、ウイルソン山とサンアントニオ山の間の35km の距離を用いて c=2.99796 ×108m/sの値を得た。
左下図の装置で、スリットSを出た光は正八角形の回転鏡Rの一面a、平面鏡M1、M2で反射され凹面鏡C1での反射によって平行光になり、遠方の凹面鏡C2に達し、その焦点にある平面鏡M3で反射されて、再び凹面鏡C1に至り、平面鏡M4、M5、回転鏡Rの一面bでの反射の後プリズムPを経て望遠鏡Tで観察される。回転鏡aから入った光がbに達するときb面に鏡面がなければ望遠鏡で光を観測できない。b面からの光が見えるようにRの回転数を調整し、35.385Km先にC2を置き、528回/sの回転数で調べた。 
クインケ(Georg Hermann Quincke 1834-1924)
ハイデルブルグ、フランクフルトの物理学者。ヴュルツブルク(1872)、ハイデルブルグ(1875-1907)の教授だった。金属の光学特性、液体の分子力、毛細管現象を研究。音波干渉計であるクインケ管を1866年考案し、音波の波長の測定を可能にした。弟子に陰極線発見者Philipp Lenard (1862-1947)とMax wolf (1863-1932)がいる。 
 
中世の動力 / 水車と風車の発展

 

1.中世の水車
中世において、産業の色々な過程に水力が適用されたことが、イギリスの産業革命期の高度に機械化された綿紡績工場へとつながったとされる。
古代から中世の初期にかけては、落下する水の力が利用される仕事はほぼ小麦の製粉のみであったが、16世紀には製粉水車に加えて、金属の溶解、鍛造、切削、圧延、切断、研磨、粉砕、打ち抜き用などの水車が出現した。第1図は1660年頃の刃物製造業に利用した水車の図でGが研削砥石である。また第2図は中ぐり盤に用いた水車の例で、上部にそのスケッチが描かれている。
東ドイツでは鉱山の坑道の排水用にボロ玉つき鎖ポンプが使用されていた(第3図参照)。軍事需要は、冶金工程での水力利用の拡大に貢献し、例えば1500年〜1750年の時期に初めてマスケット銃の銃身や大砲の中ぐり(第4図)、大砲の砲身を旋削する金属旋盤用の動力として水車が用いられた。第4図では4本の水平ドリルが横に並べて置かれ、水力で回転させられる。奥の壁際には研削砥石があり、銃身の外面研磨に使用された。
中国でも、1637年発刊の「天工開物」に第5図に示すような田への揚水用水車が記されている。
2.風車の歴史
風車は現代でも使われている翼車型風速計のルーツである。またヨーロッパに行くと各地に古い風車が見られる。
風車は水車のようにその歴史と地理的分布が明らかでないようである。10世紀の初頭ペルシャの写本の中に、水平型風車が644年に始めて使われたという記録が残っているが、モーゼの時代に既にエジプトには存在していたと考えられる。
4世紀から15世紀にわたる東西ローマ帝国から、ルネッサンスまでの時代においては、流体機械の進歩は水車と風車の数量の増加となって現れた。
特に10世紀までは、ペルシャでは水平型風車が灌漑の揚水などに使用された。写真1はその復元模型である。
これは製粉用に使われたもので、羽根としてすのこ状の帆があり、下方には石臼が見える。左側に風除けがあり、風車に一方向の風のみが当たる工夫がなされている。現在でもアフガニスタンなどに遺跡が残っている。
この水平型水車は未だにどのようにして、現在の垂直型風車の先駆者と思われる地中海の風車に結びついたかは分かっていない(写真2参照)。
今でもクレタ島には6,000台もの揚水風車が回っているという。実際に、ヨーロッパで使われている垂直型風車はペルシャの風車からのものでなく、穀物用水車からアレンジメントされたものに由来する全く独自の革新であったようである。
この風車の技術を広めたのは十字軍であり、アラビアの風車の技術を西のヨーロッパに伝えた。一方モンゴルのイスラム侵攻により、東の中国にも伝えられ、特に10世紀から13世紀に至る宋代は風車文明が開化し、その後も各地で相当数が用いられている。英国では1200年より少し前に風車があった。しかしポープ・セレスチン3世が風車に十分の一課税を課したため、13世紀の終わりまでに、北欧で発達するようになった。
オランダ(Netherlands)は中世の初めから海面下に位置していた。国は引き続く洪水にみまわれ、特に1421年11月18〜19日のものは最悪で、72もの村が破壊された。そこで海水の洪水を防ぐための防壁が建築され、土地が海岸堤防の間のスペースを排水することによって形成された。残った水溜りや湖は空のまま残った。この目的のために揚水風車が使われたのである。
当初の風車は、羽根の方向は固定であったが、風の向きによって風車方向が変えられるように改善されてきた。オランダの風車は1850年ころに最盛期を迎え当時1万台あったという。
写真3はオランダを旅行すると誰でもが訪れるザーンセスカンスの古典的風車群4台のうちの3台を写したもので、粉挽き、排水、製材、マスタードの攪拌などを実演しているそうである。
3.日本の風車と水車の歴史
「東風(こち)吹かば、にほひおこせよ梅の花、あるじなしとて春を忘るな」(1006年)に代表されるように、我が国には古来より風をテーマにした歌や小説が多くある。日本の文化は古くは中国、中世に入ってオランダ、ポルトガルから伝来している。隣国中国では相当の数の風車が利用されたという事実もあり、風車大国のオランダあたりからも技術が伝わってきてもよさそうであるが、おもちゃとしての「かざぐるま」以外には実用風車が用いられた形跡はない。日本は山地が多く雨も多いため、水利に恵まれ水車が発達した。風は歌の題材にはなったにせよ、台風のように災害をもたらすものとして嫌われたようである。また風車を作ったとしても度重なる台風で破壊されてしまうのも、主な理由であったであろう。時代は先に飛んでしまうが、我が国の風車の歴史はというと、明治の文明開化とともに始まったようである。写真4は明治時代中期に「赤い風車の学校」として知られていた横浜のフェリス女学校の揚水用風車が描かれた絵である。
それでは水車についてはどうであったのでろうか?
日本の水車の歴史は「日本書記」による推古天皇18 年(610)3月、高句麗の僧曇微が碾磑(てんがい)を伝えたときにはじまったとされている。以来日本の風土に同化しながら、揚水用や動力用として江戸時代中期の1700年代には全国に普及した。第6図は水車絵として日本最古のもので鎌倉時代1290年代の伏見天皇宸翰「源氏物語抜書」の料紙下絵に描かれている宇治の揚水水車である。
第7図は捨遺都の水車を描写した絵である。
「井堤里玉川の流れを以って水車をめぐらし、昼夜碓(うす)を踏ませて米を精白にし、舂(しょう)をまはせて菜種を挽きわり、あるはもろもろの粉を震はせけり。その車の工他に異なり。」と記されている。大型の1台の水車によって杵を働かせ、さらに歯車(羽車)によって運動を変換することで薬種をひき、さらにまで回転させている。こうした運動装置は日本では珍しい仕掛けであった。
次に示すのは第8図の都の淀水車である。
「淀の水車はむかしよりありて耕作のためにす。秀吉公の室淀殿、これに住したまひしより城中の用となす也。」と記してあることから、秀吉が日本を統一した1590年ころのことである。図は右上方に揚水車として有名な淀の水車を描くが水車の描写は正確ではない。手前は大阪へ通ずるいわゆる三十石舟である。この揚水車は829年に発せられた太政官符によって全国的にその利用が勧められたが実現しなかった。しかし京都付近にはかなり設置されたらしく、「宇治の河瀬の水車」(夫木抄)「大井川の水車」(徒然草)などに記録されているので、1350年頃には日本にも水車が存在していたことになる。ヨーロッパでも水車が普及したのは中世であるから、規模を別にすればさほど遅れはとっていないといえる。
これらの絵を発見したときには、大和の国もなかなかやるものだと我ながらにいたく感激した。 
 
産業革命からフランス大革命へ

 

1.ニュートンとフック及びライプニッツとの確執
アイザック・ニュートン(Isaac Newton[英]、1642〜1727)は20世紀にアインシュタインが出現するまでの最高の物理学者とされている。彼はエジソンやアインシュタインがそうであったように、少年時代にはさほど才能の際立ったところのない、普通の少年であったという。21歳のときヨーロッパではペストが大流行し、彼は一時故郷に避難していた。このときリンゴ畑でリンゴが落ちるのを見てかの有名な「万有引力」を発見したといわれている。しかしこれについては、「フックの法則」で有名なフック(Robert Hooke[英]、1635〜1703)から「自分が先に発見してニュートンに手紙を書いたではないか、貴殿はこれにヒントを得たのであるからこの事実を認めて著作に発表せよ」とクレームがついた。またライプニッツ(G.Wilhelm Leibniz[独]、1646〜1716)からも微積分は自分が先であるという丁重な手紙が届いたが、ニュートンはこれを無視したため、これより彼らの後継者も含め100年以上も訴訟が続いた。これはイギリスとドイツの国際紛争であり、両国の学術交流がストップしてしまったという。微積分に関してはニュートンには物的証拠がなくどうも不利であった。しかし争っていたフックの方はニュートンの実力を認めていたのであろうか、王立協会の重鎮であるフックの応援もあってニュートンは1687年に「プリンキピア」を発表したのである。プリンキピアは、
第1巻 ニュートンの力学体系、万有引力からケプラーの3法則の誘導
第2巻 粘性媒体内における物体の運動と流体力学
第3巻 宇宙体系の議論で、太陽や惑星の質量決定、月の運動に見られる不規則性
の3巻から成っていた。
第1巻には万有引力の他にニュートン力学でも最も有名な第1法則の「外部からの影響を受けない場合は、質点は静止又は等速運動を持続する」と、第2法則の「質点の加速度は外力に比例し、外力の方向に起こる。」が述べられている。第1法則で最もよい例は、人工衛星が一定の速度で地球の周りを回り続けることである。第2法則は外力をF、質点の質量をm、加速度をαで表すと、かの有名な式が導かれる。F=ma  である。
また第2巻では流体力学において、顕著な功績を残している。それは「粘性のために生ずるせん断応力は流れの速度勾配に正比例する」という、いわゆる「ニュートンの粘性法則」であり流体力学の基本事項の一つとなっている。従ってこの法則に従う流体を「ニュートン流体」というようになった。我々が日常生活で慣れ親しんでいる水、空気あるいは石油はこれに属する流体であり、流体力学を研究する学者や技術者は、ニュートン流体が相似則が成り立つために、例えば船や飛行機の実験に、小さな模型を作り水又は空気を用いて研究することが出来るのである。フック自身も「流れの計測」には有意義な業績を残しており、第1図の風速計、水銀気圧計がそれである。また、Dr E.A. Spencerは開渠流量計についても彼が1683年に発表したとしている。この他にも自在継ぎ手とかレンズみがき器など特殊な計器や器具を考案している。このため工学系の技術者に分類されていると思いきや、生物の研究で最も功績が大きい生物学者であったのである。17世紀後半にしてやっと、流体計測に携わる技術者が待望の流れを計測する計器「風速計」が出現したのである。フックの風速計は、流速が増えるとターゲット板が上がり風圧を受ける面積が小さくなるので、風速表示は当然等間隔目盛りではなかったのであろう。またニュートンにより粘性という概念が生み出された
のも流体計測に携わる人にとって特記すべきことである。でも残念ながらニュートンは発明の先陣争いに疲れ果てたのか、人嫌いになり、晩年は錬金技術に凝ったそうである。
2.中国・清時代の治水
この頃の中国に目を転じると、1662年に永明王が没して明が滅び、康煕帝が中国最後の朝廷である清朝の初代帝位に着いた。康煕、雍正、乾隆時代には農業生産を非常に重要視し、この百年余りの間に、河の治水は無論、水利の開発、利用に関して見るべき効果を挙げた。この方面で突出した貢献者は康煕帝(1662〜1722)に仕えた陳であった。彼は洪水を的確に制御するために、「測水法」を発明した。即ち河水の横断面積に流速を乗じて、水の流量を計算した。
陳の言によれば「その法とは、まず水門の広さを測り、1秒で如何ほど流れるかを測り、一昼夜分を累積すれば、流量が計算できる」と述べているのである。「流量計測の歴史1」で述べたように、流量の概念を最初に導き出したのは、150年頃に古代ギリシャのヘロンであったが、歴史を紐解いてみると、実際に流量の概念を社会に役立てたのは、陳が最初であったといえよう。私は思うのである。何故この時代にヨーロッパで発展してきた水車の回転数から水の流量に結びつける概念が生まれなかったのであろうかと。多分「今日は水車の回転が速いから水量が多い。」くらいのアバウトな概念に終っていたのであろうかと。流量計発明の機会はいくらでもあったはずである。
3.産業革命時代へ
さて17世紀後半から18世紀前半に入るとニューコメンからワットまでの蒸気機関の改良により、ヨーロッパは英国を中心とした産業革命の時代へと急速に進展していくわけである。蒸気機関を完成して産業革命の直接の引き金になった人こそ、ジェームス・ワット(James Watt[英]、1736〜1819)である。ここで蒸気機関のルーツを遡ってみると、これもやはり「流量計測の歴史1」の第7図に記したヘロンの蒸気反動タービンなのである。小泉袈裟勝氏が述べたように、ヘロンは時代を1,700年も先取りしたまさに稀有の天才だったのである。さて蒸気機関もれっきとした流体機械ではあるが、きりがないので熱機関あるいは熱力学の問題として「流れの計測の歴史」では深入りしないことにする。ご存知のように、蒸気機関は急速に前号で述べた水車及び風車などによる古典動力に取って変わっていく。
流体力学は、スイスのバーゼルのベルヌーイ学派によってその基礎が築かれた。ダニエル・ベルヌーイは(Daniel Bernoulli[スイス]、1700〜1782)は「ベルヌーイの定理」という流体力学で重要な定理のもととなるエネルギー原理を1738年に提示した。これに基づき1758年にオイラーは「流体の位置エネルギー、運動エネルギー、及び圧力エネルギーの3項の和が一定」という関係式を確立した。
ピトー(Henri de Pitot、仏、1695〜1771)はベルヌーイの定理に先立つこと6年前の1732年に「ピトー管」の名で有名な流速計を開発し、この年にセーヌ河で流速の計測を行っている。これはベルヌーイの定理に基づいて流速を検出する方式のもので、今でも流体力学の研究に大学や研究所で使われているものである。
4.フランス大革命時代へ
時代が18世紀後半に入ると、イギリスの産業革命のあとに続いて、アメリカ独立宣言(1776年)、フランス大革命(1789年)と激しく変化する世の中へと推移していく。科学界でも、窒素、酸素の発見に続き、ラヴォアジェが1789年に出版した「化学要論」は近代化学の基礎を系統的に述べるものとして、ニュートンの「プリンシキア」、ダーウインの「種の起源」に匹敵するものであり、彼が近代化学の父と讃えられる所以である。この中において元素概念の明確な規定と科学的元素表が提示された。1780年にガルバーニが動物電気を発見し、1799年にヴォルタによる電池の発見がありここにきてやっと電気の息吹が始まる。フランス大革命は1789年7月14日に専制主義と封建制を象徴するといわれた牢獄バスティーユが民衆によって占領され破壊されたときに始まる。1792年にはフランス共和制が公布されルイ16世が処刑され、その後ギロチン断頭台による処刑が次々に行われる恐怖時代へと突入していく。ヴェルサイユ宮殿を訪れると、マリー・アントワネットの美しい肖像画に魅せられるが、その王女は、哀れにも1793年10月14日に断頭台にのぼり処刑されるのである。読者は薄気味悪い断頭台の話が何故出てくるのか不思議に思われるであろう。しかし恐怖政治は科学者の身にも及ぶのである。フランスで主に用いられていた長さの単位は、メートル法成立まではピエ・ド・ロワ(Pied de Roi、約0.325m)であった。1790年にタレーランは新しい単位系を作ることを国民議会に提案した。パリ科学学士院もこの計画に賛同し、委員会を設けて検討を開始した。その委員は前出のラヴォアジェ(Antonine Laurent Lavoisier[仏]、1743〜1794)、ラグランジュ、ラプラスなど後世に名を残す錚々たるメンバーで構成されていた。ラヴォアジェは水の密度測定を担当していた。その大部分の仕事は1793年8月に終わっていたが、彼は徴税請負人であったがゆえに、同年11月に投獄されたのち、1794年5月8日に断頭台で露と消えてしまうのである。
ラヴォアジェは獄中から護衛つきで実験室に通い、実験が完了するや処刑された。ラグランジュは「この首を落とすのには一瞬で足りるが、百年かかってもこんな首はできまい。」と友人に嘆いていたという。ラヴォアジェの後継者が発表した4℃の水の密度は現在最も正確とされている1dm3の水の質量0.999972kgに非常に近い値であった。
写真は仲睦まじいラヴォアジェ夫妻の絵であるが、マリー夫人は金髪青眼で非常な美貌の持ち主であり、「陽気で賢明で科学的な貴婦人」として実験室にサロンに終生かわらぬ内助の妻として、夫の仕事を助けた。しかし無残にもギロチン台はそれを絶ってしまったのである。この時期、シャール(仏)は1787年に気体膨脹に関するシャールの法則を示した。現在「ボイル・シャールの法則」といわれているものである。彼は1783年に水素気球を発明している。8月24日彼は市民の見守るなかで水素気球を飛ばしたが空中爆発をおこし失敗した。そこで失敗の原因を究明し、気球が上空に行って膨張し過ぎるときにガスが逃げるように改良し、再度12月1日にヴェルサイユ広場で気球を飛ばし大成功をおさめている。さてフランスのギロチン断頭台による恐怖時代はロベス・ピエールの刺殺とともに去り、英雄ナポレオンに引継がれて行く。先にも述べたヴォルタによる電池の発明は電気の世界に初めて灯をつけたといえよう。現代の科学工学をリードする電気電子技術の幕開けとなる。ナポレオンは1796年にイタリア遠征より凱旋し、ヴォルタの電池の実験を供覧して彼に伯爵の栄誉と年金を与えたのである。第3図はナポレオンが計画した19世紀はじめの英国との戦いに、空からはフランスで発達した気球、海上からは船、地下はトンネルを掘って、海峡を渡ろうとする英国上陸作戦であるが実現せず、トランファルガルの戦いでネルソン率いる英国海軍に完敗する運命となる。湯浅光朝氏はナポレオン時代を次のように評している。「18世紀後半から19世紀初頭にかけてのナポレオン時代は、科学史上最も生彩に富んだ浪漫的時代であった。ニュートン物理学の完成によって絶頂に達した機械的世界観の展開は18世紀啓蒙時代を生んだが、既知の理知、伝統の領域をはるかに越えた未知の広大な世界があることが分かってきた。即ち機械的自然観から脱皮、前進を意味し、ニュートンの原理をもってしても解釈し得ない新現象が次々と発見されていった。18世紀末を境として、社会機構は高度資本主義時代に移行し、自然科学は前代未聞の発展をとげていく。」と。 
 
人口論 / AN ESSAY ON THE PRINCIPLE OF POPULATION

 

訳序
マルサス『人口論』の第一版と第二版との間に大きな差異があることは、どの本にも書いてあり誰でも知っている。しかしその第二版以後がどうかということになると、余りはっきりしていないようである。しかし実際は、『人口論』はマルサスの生きている間に六版を重ねており、その各々にはいずれも訂正または増補が行われているのであって、同一の版本は一つもないのである。もちろん第二版の訂正増補が最大であるが、これに次いでは第三版及び第五版のそれである。そして第四版及び第六版はその各々の前の版の再刻と普通には称せられているが、それでさえ実は修正が加えられているのである。
これらの訂正ないし増補の跡を辿ることは、単にペダンティックな趣味のためであるならば、実に下らないことである。しかしながら実は、マルサスの『人口論』は、経済学に関する理論的著述であるよりはむしろ階級的利益の代弁書である。そしてこのことは、代弁せらるべき利益の情勢の変化につれて代弁理論が刻々と前後撞着的に変化してゆくことに最もよく露呈されるのである。この意味で、『人口論』こそは、そのある版本だけを読了しそれだけで理解の行く本ではなく、ぜひともその各版本を比較読了しなければならぬのである。
しかしながら、それだからと云って、六種の版本について格別に六種の訳本を出すことは無用の業である。したがって私は、ただ一つの訳本でしかも前後六版の変化が辿れるような飜訳をしてみたいと、前から考えていた。しかし各版の文句を噛み合せるという形(私がマルサスの『経済学原理』の岩波文庫版で試みた形)ではこれは到底行い難い。けだし各版の差異が大である上に、本が六種にも及ぶので、無理にこれを実行してみたところで煩わしくて読めるものではないからである。
そこで今囘再建春秋社によって機会が与えられたので、とにかく本文については一応第六版を基礎とし、これになるべく読む邪魔にならぬような形で細字で訳者註を加えて、各版の差異を現すこととした。読み方については別記『凡例』を参照せられたく、また『人口論』の階級的本質その他については『解説』を参照せられたい。
最後に一言すれば、私はかつてこの試みを少しやりかけたのであるが、それは戦争のために抛棄せざるを得なくなった。従って今囘はこれを改めてはじめからやり直したのであるが、それにもかかわらず当時の試みに関する御配慮につき堀經夫博士にここに謝意を表したい。また今日の試みに当っては美濃口時次郎教授及び東京商大図書館の御配慮によって希覯図書を接見するの便宜を与えられた。併せて感謝の意を表する。なお春秋社の瀬藤五郎及び鷲尾貢の両氏、並びに原稿整理その他各般の事務につき多大の便宜と助力とを与えられた高橋元治郎氏及び高橋一子君にも厚く謝意を表したい。一九四八年六月
凡例
一、本訳書はマルサス『人口論』の第六版を全訳し、これに加えて、第一―第五版にこれと異る記述がある場合、その他関連的記述のある場合、その重要なものを対照附記したものである。
二、第六版の本文の全文は大きな文字で印刷し、その他の部分は訳註として小さな文字で印刷されている。
三、従って、第六版を通読しようと思う人は、訳註を飛ばして、大きな文字で印刷されているところだけを通読されたい。
四、第一―第六版のいずれをとっても同一の版本は一つもない。しかしその差異の全部を表わすことは、いたずらに煩わしくなるだけであるから、重要と思われるもののみを表すこととした。
五、なお各版の出版年次は次の通りである。
第一版一七九八年 / 第二版一八〇三年 / 第三版一八〇六年 / 第四版一八〇七年 / 第五版一八一七年 / 第六版一八二六年
右の各版相互の関係については、詳しくは巻頭の『解説』を参照せられたい。 
マルサス『人口論』解説

 

一 
トマス・ロバト・マルサスの『人口論』(Thomas Robert Malthus, An Essay on the Principle of Population.)が匿名の下にはじめて世に現れたのは、一七九八年である。
それはフランス大革命とそれに続くナポレオン戦争の時代であった。そして『人口論』はまさしく一つのフランス革命の子であると云うことが出来る。しかしそれは革命の側に立ってこれを鼓舞する書ではなく、革命の情熱に冷水を浴びせる書であった。
由来フランスは、一七八九年の大革命に至るまでは、絶対王制によって統治されていた。しかし実際上の権力は貴族及び僧侶の手にあった。これらの権力者は、貨幣を代償として、種々の特権を大貨幣地主に売渡していた。これらの諸階級は、商人資本及び高利貸資本による封建的農業関係の分解によって生じた農民の貧困や、形成されつつある近代都市に溢れている汚辱的貧困と対照的に、極度の奢侈生活を営んでいた。殊に豪奢の競争において大貨幣地主との助力結合を得て終ついに封建貴族を威圧するに至ったところの国王の宮廷における奢侈は、言語に絶するものがあった。ために公債は激増し租税は加重された。しかも対外的には、アメリカにおける植民地は失われ、そこにおける艦隊は無に帰し、またドイツにおいては屈辱的大敗をなめなければならなかった。このことはまたも公債租税の累進に著しい拍車をかけ、フランスの財政は破産に瀕した。かくて特権を享受し得なかった所の小生産者、農民、中小商人資本家は、国王に対し叛旗を飜ひるがえして立った。一七八九年に革命が勃発するや、バスティユは開かれ土地は地主から奪われた。九二年には権力は小資本家及びパリの労働者の手におち、王制は廃止され、九三年には革命はその絶頂に達したのである。
実にこの革命は封建制度の晩鐘であり資本制制度の暁鐘であった。それは英国にも大きな影響を与えずにはおかなかった。けだし英国は既に数度の革命によって一応立憲的政治形態をとるに至っていたとはいえ、しかもそこには沈淪の状態にある無数の破滅せる農民や小生産者や労働貧民が溢れていたからである。彼らはフランスの『国民』がその貧困の状態を打破せんがために、その貧困の原因と考えられるいわゆる『デスポティスム』に対して立ち上ったのを見た。そして彼ら自身また立って、自己の貧困を打開せんがために、現存する社会制度特に政治制度を打破せんとしたのである。すなわちそれは一方においては、実践的に、いわゆる『通信協会』の運動を、イングランド、スコットランド、及びアイルランドの全英国にわたって、燎原の火の如くに進展せしめると共に、また他方においては、理論的に、リチャアド・プライスのフランス革命謳歌に端を発するエドモンド・バアク対ラディカルズの論争となって現れた。ラディカルズにして論争に参加し革命を讃美し英国の状態を批判したものは、プライスを別としても、メアリ・ウォルストウンクラフト、ジョウジフ・プリイストリ、ジェイムズ・マッキントッシュ、トマス・ペイン、ウィリアム・ゴドウィンをはじめ数十人に上り1)、他方これに反対せるものは、バアクを別としても、ジョン・ホロウェイ、エドワド・セイア、ウィリアム・コックス等多数に上った2)。更にまた『通信協会』も、トマス・ハアディ、トマス・ホルクロフト、ホオン・トゥック、トマス・ペイン等によって代表される『ロンドン通信協会』を中心として、その影響は急速に、全英の小生産者、小資本家、労働者の階級の間に拡がって行った。大都市においては『通信協会』は必ずしも破壊的ではなかったけれども、地方、特にアイルランドにおいては、既に騒擾の兆が現れて来た。かくて革命の当初にはなお平静を持していた英国特権階級も、ようやく事の急なるにその度を失って来た。その最初の現れは、メアリ以下の駁論を誘発したエドモンド・バアクのプライス批判であったが、一七九二年にフランスの王制が廃止された時に、『通信協会』が、権力を掌握したパリの労働者及び小資本家と手を握ったことを見たピット政府は、この英国特権階級の希望を実行に移す口実を得た。すなわちここに英国史上稀に見る一大弾圧が全英にわたってラディカルズの上に加えられ、その著書は発売禁止処分を受け、その代表者は十分の訊問も取調もなくして相次いで処刑され、英国における最初の――もっとも上記の如く純粋なものではないが――労働者運動は根こそぎに破壊され、一八〇〇年の結社禁止法に至ってそれはようやく終りを告げた。これいわゆる『英国におけるフランス革命』であるが、マルサス『人口論』は実にこの闘争における輝ける特権階級擁護の書なのであり、フランス革命に関する論争に終止符を打ったものと称せられているのである。
1) 例えば次を参照、――
Richard Price ; Discourse on the Love of our Country, delivered on Nov. 4, 1789, etc. 1789.
Mary Wollstonecraft ; A Vindication of the Rights of Men, etc. London 1790.
Joseph Priestley ; Letters to the Right Honourable Edmund Burke, etc. Birmingham 1791.
James Mackintosh ; Vindiciae Gallicae. etc. Dublin 1791.
Thomas Paine ; Rights of Man etc. 1791.
Do. ; Rights of Man. Part Second, etc. 1792.
William Godwin ; An Enquiry concerning Political Justice etc. London 1793.
Do. ; The Enquirer. etc. London 1797.
2) 例えば次を参照、――
Edmund Burke ; Reflections on the Revolution in France, etc. London 1790.
John Holloway ; A Letter to the Rev. Dr. Price. etc. London 1789.
Edward Sayer ; Observations on Doctor Price's Revolution Sermon. London 1790.
William Coxe ; A Letter to the Rev. Richard Price, etc. London 1790.
この論争の口火を切ったものはリチャアド・プライスである。彼はそれまで英国に関する人口論争に参加し、英国の人口減退を主張し、貧困に関する世論を喚起せんとしていたのであった1)。しかるに彼は今やフランス革命を見、それが名誉革命の精神と相通ずることはなはだ多きを感じた。しかし彼によれば、名誉革命は大事業ではあったが決して完全な事業ではなかった。そこで彼は、フランス革命に倣い、名誉革命の精神に復帰して、英国の社会的並びに政治的の改革を行わんことを、主張したのである。すなわち彼は一七八九年の『名誉革命記念協会』の集会において一場の説教を試み、愛国心を論じ、我国を愛するがためにはそれをして愛せられるに値するものたらしめる必要のあることを説き、今や自由の光はアメリカに始まってフランスに達し、終に全ヨオロッパを覚醒せしめんとしている、と主張して、フランス革命を擁護し英国の改革を支持した。続いてプライス一派は更にこれに次いで、フランス国民議会に祝辞を送ったが、これは国民議会からの感謝文によって応えられた。これが問題の発端である。
1) Richard Price ; Observations on Reversionary Payments ; etc. London 1st ed., 1771 ; 2nd ed., 1772 ; 3rd ed., 1773 ; 4th ed., 1783. Do. ; An Essay on the Population of England, etc. London 1780.
以上のようないきさつは英国特権階級に驚愕の念を与えた。彼らの一部はなお平静を持したが、他の一部はこれに対して何事かがなさるべきことを希望した。かくて、ホロウェイ、セイア、コックス等のプライス批判が現れたが、なかんずく最も重要なのはエドモンド・バアクのそれである。
バアクの所説の中心点は次の如くである、――およそ英国における一切の改革は過去の先蹤せんしょうを典拠として行われたのであり、またそうあるのが当然である。しかるに英国には世襲の王位や世襲の貴族をはじめ、また英国流の自由が遠い祖先から伝えられて来ている。従って真に改革が必要であるならばこれに従って改革を行えばよいのであって、フランスに学ぶような必要は少しもない。かくの如くフランス革命は、啻ただに英国の先例たらしむべき資格を欠くばかりでなく、更にただ革命としてのみ見ても最悪の性質のものである。他の革命においては、その犠牲となったものは常に悪虐極まりない人物であった。しかるにフランス国王が穏和な合法的な国王であることは疑問の余地がないのに、フランス人はかかる模範的統治者に対して革命を起したのである。従って単にフランスから何物も学ぶべきではないというに止らず、更に進んで英国をしてフランスの模範たらしめるべきである、と。
なおバアクはかかるプライス批判の外に、積極的にフランスにおける反革命運動を組織し支持するに至ったので、ラディカルズは彼に対して著しい怒りの念を懐くこととなった。かくて前述の如くウォルストウンクラフトをはじめ、プリイストリ、マッキントッシュ等数十名のものは一斉に立って、バアクの所論を覆えそうとしたのであるが、その代表的なものはペインの『人権論』である。
ペインによれば、バアクの所論は彼自身の述べる所そのものによって否定される。けだし改革は過去の先蹤によるべきであるとすれば、その先蹤はまたそれ自身の先蹤を有もつであろう故に、結局創造の時まで遡るの外はなく、そして創造の際には人間は人間であるのみであり、それ以外の何ものでもあり得ないのである。しかるに生殖は単に創造の延長に過ぎぬ故に、人間は人間として、創造の際におけると同様に、その生存の権利を有つはずである。しかるにかかる権利すなわち彼れのいわゆる自然的権利の中には、なるほど個人において権利としては完全であるが、その行使において不完全なものがある。それは安固及び保護に関する権利である。かくて各個人はかかる権利を社会の共通貯蔵に持込み、必要の場合には共通貯蔵からその保護を受けることとなる。これいわゆる市民的権利である。ひるがえって政府の起源を見るに、それは迷信か、力か、この市民的権利かであり、フランスにおいて形成されつつあるものはこの第三のものであるが、英国の政府はウィリアム征服王以来その第二に属する。従って英国もまた一つの『フランス革命』を必要とする、というのである。
バアクはこれに対し正面からは答えなかったが、しかしその政治的態度の故にホイグ党から離脱するに当って若干ペインに触れ、更に実践的には法律によるペインの処刑を大いに運動したが、しかしこれは成功しなかった。一方ペインは更に続いて『人権論』第二部を公けにし、国王及び貴族を大いに罵倒するかたわら、貧困問題の重要性を強調し、貧民法を廃止して貧民に権利としての生存を保証せんことを主張した。この書については終にバアクの運動は効を奏し、ペインは起訴され終に有罪の判決を受けたが、彼は既に身はパリにあり、その処刑を免れることが出来た。
ペインの『人権論』は、バアクの書と並んで多大の反響を惹き起したが、これに続いて現れたゴドウィンの『政治的正義』の反響も、これに劣るものではなかった。しかしこの書は、ペインのそれとは異ってもはや論争の書ではなく、積極的理論の展開がその主題である。積極的理論とは、空想的思弁的な無政府共産生義である。すなわちゴドウィンによれば、政府の目的は単に暴力の行使にあるにすぎない。従ってそれは悟性または意思の働きたる服従とは何らの適法的関係をも有ち得ない。されば、あるべきものは『政府なき簡単な社会形態』でなければならない。更に彼れの共産主義は如何というに、有用物の所有ないし消費を決定するものは正義でなければならない。換言すればそれは必要ないし欲望によって決定されなければならない。他方労働もまた万人の共通に担当するところでなければならない。従って、もし一方では奢侈に耽り得る人がいるのに、他方健康や生命を破壊してまでかかる奢侈に必要な物資の生産に従事するものがいるのは、正義に反することである。結局生産及び消費の全分野において共産主義が導入せらるべきである、というのである。ただここに注意すべきは、彼が、人口の増加によるかかる理想社会の終局的困難を予想していたことである。しかし彼によれば、その時は遠いのであるから、かかる遠い将来の困難が予想されるからといって、現在の実質的進歩に躊躇すべきではない、というのである。
彼はなおこれに続いて『研究者』を著している。これはマルサス父子の論争を誘発し、その結果として子マルサスが『人口論』第一版を著すこととなったものであるが、しかし理論的興味は多からぬものである。
かかる時に、また、人類の『不定限の可完全化性』を主張するコンドルセエの楽観的思想1)が、フランスから海を越えて渡って来た。彼れの思想は一種の歴史観を基調とするものである。すなわち彼によれば、人類の歴史は将来をも含めて十段階に分たれ得るものであり、この第九段階と第十段階とを分つものがフランス共和囲の成立である。しからばこの時から始まる第十段階においてはいかなる見通しがなされるかというに、国民間の不平等の消滅、同一国民内の不平等の消滅、及び人類の真の完成、の三つがそれである。そして科学や文明の進歩を見、人類の精神とその能力とを検討するならば、この三つは果てしなく実現されるであろうと考えられる。――しかしながら、その際には、ゴドウィンの頭にも浮かんだところの、人口の増加による終局的困難が生じないであろうか、という疑問は、また彼れの頭にも浮かんだものであった。これに対して彼もまた、時は遠いと答える。しかし彼もまた、これではその時が到着した時に対する真の解答にはならぬことに気附いて、その時には産児調節の手段に出ずべきことを説いている。かくて彼は、かくの如き完全化の進行によって、終に人類は不死になるに至るものとさえ、考えているのである。
1) Marie Jean Antoine Nicolas Caritat, Marquis de Condorcet ; Esquisse d'un Tableau Historique des Progrs de l'Esprit Humaine. L'An III de la Rpublique.
かくの如き社会の将来に関して相次いで現れた楽観的見解を否定し、よってもってフランス革命により生じた一種の狂熱状態を沈静せしめるの役割を演じたのが、外ならぬマルサス『人口論』第一版である。 

 

マルサスの『人口論』第一版は、匿名の下に、一七九八年に現れたのであるが、これに先立って一七九六年、彼は公刊の目的をもって、フランス革命に影響されて混沌たる状態にある時勢を論じた一つのパンフレット1)を書いた。これは終に公刊されずに終ったが、しかし吾々はエンプスンが後に試みた引用と紹介2)とによってその大略を知ることが出来る。
1) これは次の如く名附けられるはずであった、―― The Crisis, a View of the Present Interesting State of Great Britain, by a Friend to the Consitution.
2) Edinburgh Review for Jan., 1837. "Art. IX. Principles of Political Economy considered with a View to their Practical Application. …… etc." by Empson.
エンプスンによれば、このパンフレットは、政治論、宗教論、及び経済論の三部分に分たれているのであるが、これを一読すれば、マルサスがこれによって擁護せんとしたものが、いわゆる地主階級及び中流階級であり、すなわちラディカルズによって最も攻撃されたところの政治組織の担当者たる特権階級であったことが、わかるのである。
このパンフレットは出版書肆の拒絶によって日の眼を見ないでしまったが、それに次いで彼が一七九八年に著した『人口論』こそは、彼を一躍時代の寵児たらしめたものである。
『人口論』を誘発するに至った直接的動機は、その序言に明かな如くに、ゴドウィンの著『研究者』の中に収められた『貪慾と浪費』なる論文について、彼がその一友――実はその父ダニエル・マルサス――と交わした会話にある。しかるにこの会話は社会の将来の改善に関する一般的問題へと移行して行った。そしてこの一般的問題に関するマルサスの見解をまとめたものが、『人口論』第一版なのである。
ここにマルサスのいわゆる一般的問題とは、人類はこれから加速度的に限りなき進歩をなして行くものであるか、または幸福に達すれば再び窮乏に沈淪しこの窮乏がまたも次の幸福の出発点となるというふうに永久の擺動はいどう(オシレイション――マルサスはこの語そのものもその観念もこれをコンドルセエから得て来たもののように思われる)に運命づけられていなければならぬのであるか、ということである。そしてマルサスは後の方を肯定することによってこの問題に答えんとしたのである。
マルサスの論述の仕方において極めて特徴的なことは、それが一種の唯物論的色彩を非常に濃くもっていることである。このことは、彼が繰返して、経験の重視を強調し、単なる臆測を排撃していることから、容易に知ることが出来る。実は彼れのこの卑俗な一種の唯物論が、空想的思弁的なゴドウィン、コンドルセエ流の思想に対して、一つの大きな強味と見えたであろうことは、容易に想像し得るところである。
すなわち彼は本来の問題に立入るに先立ってまずその基礎理論を展開する。まず食物が人間の生存に必要であるということ、及び両性間の情欲は必然的でありかつほとんどその現状に止まるであろうということは、何らの証明を必要としないこと、すなわち『公準』とせられ得よう。そこでひるがえって見るに、人口増加力は、人口を支持すべき生活資料の増加力よりも、不定限により大である。しかるに人間の生存には食物が必要なのであるから、この不等の二つの力の結果は勢い平等に保たれなければならず、換言すれば人口増加力はいかに大であろうとも、現実の人口増加は生活資料の増加の範囲に限られてしまうこととなる。この関係はしかし人類のみに限られたことではなく、一切の生物界に見られるところである。そしてこの不等の二つの力の結果が平等ならしめられざるを得ないことの結果として、動植物界においては種子の濫費や疾病や早死が起り、人類においては窮乏及び罪悪が生ずる。すなわち窮乏及び罪悪は人口に対する『妨げ』であり、これあるによって人口は生活資料と均衡を維持し得るのである1)。
1) Malthus, Essay on Population, 1st ed., ch. I.
しからば、フランス革命が暗示すると考えられている社会の一般的永続的改善は、この事実によって完全に否定されなければならない。ゴドウィンの想像するような社会はこれあるによって初めから不可能なのであるが、今仮りにこれが成立したとしても、一方においては家族を支持する上での危惧が全く消滅するために人口増加は著しくなり、他方においては自利の発条が除かれるので、生活資料の生産は減少するので、まもなく人口と生活資料との均衡は破壊され、三十年も経たない内にゴドウィンの社会は全滅してしまうことであろう。ゴドウィンの説はかくて、必然の法則から発する罪悪及び窮乏を社会制度に由来するものと考えた点にある、と云わなければならない1)。
1) Ibid., ch. X.
さればまた当然に単なる人口増加の擁護は誤りでなければならない1)。それと同時に、食物を増加せしめずに単に人口のみを増加せしめ、かつ社会の最良部分とは称し得ないものに食物を強制的に分与しようとする貧民法もまた、誤れる法律であると云わなければならない2)。
1) Ibid., ch. VII.
2) Ibid., ch. V.
これと共にまた、前述の人口は過去と現在とではいずれが多いかという人口論争についても、そのいずれが正しいかは容易に決定せられ得る。それは単に出生数または死亡数のみを取扱っていたのでは明かにされ得ない。人口は生活資料によって終局的並びに総括的に規定されるのであるから、この生活資料の増減に着眼すれば、人口の増加は同時に明かにされるであろう。そして生活資料の増加を考えるならば、人口が減退して来ているとは決して云い得ないのである1)。
1) Ibid., ch. IV.
さてひるがえって考えるに、人口にかくの如き秩序があるとすれば、それは一切の改善の努力を無に帰せしめるものであり、従ってこれは人間に絶望を教えるものではないであろうか。しかしこれは事実ではない。反対にこのことはかえって人間を覚醒せしめるものである。怠惰なものは生存し得ず勤勉と努力に対してのみ報いが与えられるということは、かえって人に大きな希望を与える。しかも必要は発明の母であり、従ってこれによって人類はますます進歩して行くこととなるのである1)。
1) Ibid., chs. XIIX & XIX.
以上の如きものが『人口論』第一版の主たる主張であるが、その基礎理論たる人口理論の中で最も中心的な命題は、人口増加力は食物増加力よりも『不定限に』より大である、ということである。ここに『不定限に』とは、マルサスによれば、限度は存在することは確実であるけれども、しかしこれを明瞭に指示し得ない、という意味である。マルサスは人口及び食物の増加力を示すに当って有名な幾何級数及び算術級数の語を用いたけれども、それは直ちに両増加力を明確に限定するものと解してはならない。むしろ彼においては両増加力は幾何の大きさを有つかを明確に云い得ないのであり、従って両者を明確に比較することは不可能なのである。しかしこれらを、事実しかる大きさから離して具体的に云い現せば、人口は少くとも二十五年を一期として倍加し、食物はせいぜいの所二十五年を一期として同量附加をなす如き力しか有たない。しかしこの二つの級数は、事実しかる大きさからは離されているのであり、両者の真の大きさは従って不明である。すなわち人口増加力は食物増加力よりも大であるということだけはわかるが、その真実の開きは不定限であるというのである。――これが彼れの根本命題の真の意義である。さて、しかるに食物は人間の生存に必要なのであった。しからば結論は当然に、人口は必然的に生活資料によって制限される、ということにならざるを得ない。かかるものが彼れの基礎理論なのである1)。
1) Ibid., chs. I, II & IX.
以上の基礎理論は生物界一般につき自然法則として樹立されたものであるが、彼は次に一転して、この理論によって社会の問題を解こうとし、平等主義や貧民法や人口論争の問題を論ずるに至ったことは、右に述べた如くである。しかし彼は社会を説くに当って、当時の時事問題のみを論じたのではない。彼は歴史を論じ、人類はまず狩猟状態から始まり、次いで牧畜状態に進み、最後に農牧併行状態に進むものと考え、これらの時代における重要な歴史事実を以上の如き基礎理論によって解釈せんとしているのである1)。
1) Ibid., chs. II & III.
かくの如き内容を有つ『人口論』の第一版はすさまじい反響を喚び起した。ゴドウィン等の平等主義はまもなくこれによって圧倒されてしまった。『英国におけるフランス革命』は、『人口論』第一版と、ピット政府の弾圧とによって、全く克服されてしまった。マルサスの匿名はまもなく破られた。そして彼れの名は一躍論壇の寵児となったのである。
かくてマルサス『人口論』は一世の名著と称せられるに至り、それは連綿として今日にまで至っているのであるが、この名声の根拠が何に帰せらるべきかは余りにも明かであると云わなければならない。
そこで彼れの思想の理論的背景を振返ってみるに、まずこれをヨオロッパ全体の問題として見る時は、そこには一方では人口をもって富なりとしまたは富に達する唯一または最大の手段なりとする見解(マアカンティリズム及びカメラリスティクの如き)が広く行われており、国家の政策が人口増加を擁護すべきはむしろ自明の理であるとされていた。しかるにまた他方では人口は単に国の繁栄の結果であり、かつ徴標であるにすぎず、従って単に人口を増加せしめんことを企図するよりも、まずその基礎たる国の物質的一般的幸福を企図する必要があると説くものが少なからず存在した。しかも彼らの中の多くによれば、人口増加力は極めて大なるものであり、この人口を支持すべき資料は、これと同一の速度をもっては増加し得ない故に、そこに必然的に戦争や流行病や不節制や不道徳がかかる優勢な力の実現を阻止するために現れることとなる、と説いていた。しかもある者は、この事実をもって社会の一般的永続的改善を不可能ならしめる要因をなすものである、と考えてすらいた。かかる時に一七八九年にフランス革命は勃発した。それは貧困と悪辱、不正義と不公正を一挙にして絶滅するものであるかの如く見えた。社会の一般的永続的改善はこの日よりその緒についたかの如く見えた。さればここに政治的社会的のまた思想的の一大混乱時代が出現したのである。
更にマルサスの理論的背景を特殊的に英国について見るに、常識的世論が人口増加の擁護にあったことはヨオロッパ一般と同一であるが、マルサス的思想においてもまた欠けるところはなかった。なかんずくジェイムズ・スチュワアトはこれをいわゆる学問的に1)、ジョウジフ・タウンスエンドはこれを試論的に2)、論じて余すところがなかった。しかるにフランスにおいてその端を開いた3)人口減少の危惧は、英国に渡って極めて広汎にわたる人口論争を惹き起しており4)、またフランス革命勃発後はいわゆる『英国におけるフランス革命』と呼ばれる英国史上空前のの社会的混乱が経験されていた。この後の問題は特に緊急なものであった。従って『英国におけるフランス革命』に対する鎮静剤たる理論は一つの必然であり、かつそれがマルサス的内容を有することは可能であったのである。
1) 彼は人口と食物との両増加力の関係をその全経済理論の出発点としている。James Steuart ; An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy : etc. London 1767.
2) 彼がフアン・フェルナンデスの山羊と犬との例を引いて貧困を論じたことは、極めて有名である。Joseph Townsend ; A Dissertation on the Poor Laws. London 1786. Do. ; A Journey through Spain etc. 2nd ed., London 1792.
3) Charles de Secondat, Baron de La Brde et de Montesquieu ; Lettres Persanes. 1721. Do. ; De l'Esprit des Lois. 1748.
4) 英国においてはこの論争は二つの形で行われた。その一は英国自身に関するものであり、人口減退を主張するものは前掲のリチャアド・プライス、その反対者は、Arthur Young (A six Months Tour through the North of England : etc. Vol. IV. 1771. Do. ; The Farmer's Tour through the East of England. etc. London 1771.), John Campbell (A Political Survey of Britain. etc. 1774.), William Eden (Four Letters to the Earl of Carlisle, etc. London 1779. Do. ; A Fifth Letter etc. London 1780.), William Wales (An Inquiry into the present State of Population etc. London 1781.), John Howlett (An Examination of Dr. Price's Essay), George Chalmers (An Estimate of the Comparative Strength of Great-Britain, etc. 1782.) 等である。
もう一つは、マルサスが『人口論』でかなり詳しく触れているところの、古代世界と当時とに関する Hume-Wallace Controversy である、―― Robert Wallace ; A Dissertation on the Numbers of Mankind etc. Edinburgh 1753. David Hume ; Political Discourses. Edinburgh 1752 : Discourse X. Of the Populousness of Antient Nations.
いわゆるマルサス的理論が単に識者の口にするに過ぎないところであり、常識的世論が人口増加の擁護であった時において、マルサスがこの常識論を正面から排撃する立場に立ったことは、なるほど世人を驚かしたことであろう。しかし単にこの事実をもって吾々はマルサスのすさまじい反響を説明することは出来ない。実に彼れの『人口論』の第一版は社会思想史上において完全に比類なきほどの反響を惹き起した。悪罵と賞讃とは共にそれに雨と注いだ。しからばそれは右の如き俗論の徹底的排撃によるものであろうか。それが事実でないことを知るためには、単にタウンスエンドを振返るだけで十分である。けだし彼は既にこのことをマルサス以上に徹底的に行っていたのであるから。ではそれは何によって説明せらるべきであろうか。上述の如くにそれがこの内在的理論の故をもって説明し得ないとすれば、勢いそれは外部的事情すなわち社会的役割によって説明せられる外はない。しかるにマルサスはその基礎理論の上に立って二つのことを解決せんとしたのであった。人口論争における人口減退の問題がその一であり、『英国におけるフランス革命』における社会の一般的永続的改善の可能性の問題――貧民法の問題を含めて――がその二である。しかるに人口論争においては勝敗の数は既に明かであったのであり、しかもフランス革命に関する論争が起って後はそれはかなりに世間の視聴から隠れてしまっていた。従って『人口論』第一版の出版の年たる一七九八年の遅きに至ってマルサスが現代の人口のより多きを立証せんとしたところで、それは世間の視聴を惹くべくもなかったのである。結局彼れの反響の基礎は、フランス革命によって惹き起された英国特権階級の不安を最も適時にかつ俗耳に入り易い形で排除した点にある、と云うべきである。もちろん平等の社会への憧れを抹殺し去ったのはマルサスをもって最初とはしない。しかしながらフランス革命の主動勢力が一七九二年を境としてジャコバンの手に落ち、英国における『通信協会』がジャコバンと手を結ぶに至って後、英国の社会情勢が著しく逼迫を告げるに至って後に、人口原理を根拠として平等主義を正面から克服せんとしたのは、マルサスをもって最初とする。ここにマルサスの名声の真の根拠が存在するのである。 

 

この絶大な『人口論』のポピュラリティに最も驚愕したものは、おそらく著者マルサスその人であったかもしれない。ところがこの書は時事問題を論ずるいわゆる試論であり、学究的なまたは philosophical な論究ではない。そこで第一版の望外な成功に自ら驚いたマルサスは、海外旅行と多大な読書とによって多数の資料を蒐集した上、一八〇三年の第二版においては、第一版の試論的性質を捨ててこれに代えてそれを一つの論究の書とするにつとめた。かくて努力の主観的目標は、時論の追及から原理の歴史的証明へと転向した。すなわち第一版においては若干の頁を割かれたに止った人口原理を実証する歴史的記述の部分は著しく拡張され、それは尨大ぼうだいな第二版の約二分の一を占めることとなった。彼れの主観的意図のこの変更は、両版の書名の比較によって知ることが出来る。すなわち、――
第一版―― An Essay on the Principle of Population, as its affects the future Improvements of Society, with Remarks on the Speculations of Mr. Godwin, M. Condorcet, and other Writers.
第二版―― An Essay on the Principle of Population ; or, A View of its past and present Effects on Human Happiness ; with an Inquiry into our Prospect respecting the future Removal or Mitigation of the Evils which it occasions. A new Edition, very much enlarged.
かくて『人口論』第二版は第一版に比して著しく尨大なものとなったが、なお彼れの主観においては極めて重大なもう一つの変更がある。それは第三の妨げとしての『道徳的抑制』の導入である。第一版においては、より大なる力たる人口の力は、罪悪及び窮乏の二つの妨げのみによって、食物の水準にまで圧縮されるというのであったが、第二版においてはこの二つの妨げに加えて、『道徳的抑制』すなわち結婚し得る境遇に至るまで結婚を差控えその間道徳的生活を送ることを挙げている。この変更は論敵ゴドウィン自身の示唆によるものと想像されるが1)、マルサスはこの修正を極めて重視している。これについては『人口論』第二版の序言、その他その本文の関係箇所における彼自身の記述に詳しい。
1) William Godwin ; Thoughts occasioned by the Perusal of Dr. Parr's Spital Sermon, etc. London 1801, pp. 72-75. Malthus ; Essay, Bk. III., Ch. III. : Observations on the Reply of Mr. Godwin.
『人口論』はその後しばしば版を重ねている。すなわち一八〇三年の第二版に続いて、一八〇六年には第三版、一八〇七年には第四版、一八一七年には第五版、一八二六年には第六版が現れている。これらはいずれも訂正増補を含むが、その中特に第二、第三、及び第五の諸版が甚だしい。今それら諸版の相照応する諸章を対照してみると次の如くである。
( 中略 )
以上の対照は章別のみに関するものであるが、これによって既に各版の間に大きな差異の存することが知られる。そして通常は、各版の間の差異は、第一版と第二版との間に限られるようなことが云われているが、これが決して事実でないことがわかる。しかも各版の間の差異は決して単に章別のみに関するものではなく、更に同じ章の中でもまた各版の間に大なり小なりの差異が存するのである。従って『人口論』各版の差異なるものは、普通に想像されているよりも遥かに大きいものであることがわかるのである。
ではかかる各版の外形的差異によって、理論的内容の上にいかなる変化がもたらされたかというに、その詳細は以下の本文自身が物語るであろうから、ここでは敢えて取り上げないが、ただその理論的差異を解釈する上でのいわゆる『導きの糸』をここに与えておくことは決して無用ではなかろう。
吾々は既に『人口論』第一版の社会的意義が、『英国におけるフランス革命』に対する英国特権階級擁護にあることを見た。この特権階級は、国王、貴族、僧侶、大地主、大資本家等の雑多な要素を含むものであり、ラディカリズムの階級的支持者たる小資本家、小生産者、労働者、無産無職者等に対する意味においてのみ一体をなしていたものである。しかるに『英国におけるフランス革命』が彼らにとり勝利的に終るにつれ、今度はナポレオン戦争の進行に伴って、特権階級の内部における封建的要素とブルジョア的要素との対立が激化して来た。これは主として穀物価格の騰貴による地主利益と資本家利益との対立によるものである。この対立は経済学の範囲においてはマルサス対リカアドウの対立となって現れた。すなわち前者は封建利益なかんずく地主利益の擁護者となり、後者は資本家利益の擁護者となった。すなわち『人口論』は版が進むにつれて、資本家利益に対する封建利益の擁護者としてのマルサスの役割がますます明瞭に露呈されて行くのが見られるのである。
『人口論』各版の進むにつれて見られるもう一つの顕著な点は、その反労働者性である。時の進行につれ地主階級と資本家階級の対立は鮮明になって行ったが、これと共にまた、資本家階級と労働者階級との対立も激化して行った。そして、地主利益の関する限りにおいては反資本家階級的であったマルサスも、事が資本家対労働者の関係に関するものであり、しかも地主階級利益がそれと関しない限りにおいては、今度は反労働者階級的な資本家階級擁護者としてますます明かに現れるのである。
以上二つの観点に立って『人口論』各版の差異を見る時に、その真価は最もよく理解せられ得るのである。 

 

既に述べた如くに、マルサスの『人口論』はその出現の時以来、実に異常の反響を喚び起し、悪罵と賞讃は雨の如くにこれに注いだ。すなわちそれに対しては善意悪意の無数の反撃が行われているが、それにもかかわらず、それはまたその出現後まもなく経済学の名著の一つとなり、それは連綿として今日に及んでいる。従って経済学または社会思想を論ずる著書でこれを紹介しまたは批評しないものはほとんどない状態である。だからマルサス批判の書は真に汗牛充棟も啻ならざるものがあるのである。しかしここでは到底その全部を紹介することは出来ないから、極めて簡単な一瞥いちべつを与えてみることとする。
マルサス『人口論』に対する諸批判は、肯定的批判と否定的批判とに分って見るのが便利であろう。前者はマルサス説の大綱はこれを認め、それに若干の加工を加えることによって、これを『発展』せしめんとするものであり、後者はマルサス説の誤謬を指摘してこれを否定せんとするものである。吾々はまず肯定的批判を瞥見べっけんして後、否定的批判を見よう。
吾々は右に、マルサスが既に『人口論』の後版において反労働者的な資本家擁護論を説きはじめていることを述べた。しかしこれは、地主階級の利益に触れない限りにおいて、という条件附きのことであって、彼れの理論の主たる擁護利益はどこまでも地主階級利益にあったのである。そこで、肯定的批判の第一歩は、マルサスの理論から地主的色彩を払拭し、これを純然たる資本家階級理論とすることによって行われた。これはいわばマルサスの手を離れて後のマルサス説の第十九世紀的存在状態なのであり、私がマルサス説の第二期と仮称するところのものである。
このマルサス説の第二期は前後二段に分たれる。すなわちその前半はいわゆる収穫逓減の法則の人口理論への採用と労賃基金説の成立とに至るまでの時期であり、その後半はこれが卑俗化され俗流化された後に労働運動無効論=反社会主義の形で大衆の中に宣伝され浸透して行く時期である。そしてこの前後二段の時期を境するものは、ジョン・スチュワアト・ミルである。
マルサス説の第一期から第二期への転換を成就し、前者における地主階級的色彩の一掃に理論的に寄与したもの、すなわちそれの第二期の前半を代表するものは、ジェイムズ・ミル、ナソオ・ウィリアム・シイニョア、ジョン・ラムゼイ・マカロック、及びジョン・スチュワアト・ミルである1)。そしてかくして成立した純資本家理論としてのマルサス説こそが、いわゆる労賃基金説である。
1) James Mill ; Elements of Political Economy. London 1821.
Nassau William Senior ; Two Lectures on Populations, etc. London 1829.
John Ramsay McCulloch ; The Principles of Political Economy : etc. Edinburgh 1825. Do. ; A Treatise on the Circumstances which determine the Rate of Wages and the Condition of the labouring Classes, etc. London (2nd ed.) 1854.
J. S. Mill ; Principles of Political Economy etc. 1848.
マルサス説の第二期においては、主題は当然に労働者階級の労賃である。すなわち労賃基金説においては、総労賃は労働者に分たるべきところの生産された既与の食物量なのであり、これが労働者に分たれて労賃となる、というのである。これを有名な用語をもってすれば、分子は総労賃=食物量であり、分母は労働者数であり、商は労賃である。従って労賃基金説によれば、重大な結論が随伴することとなる。分子は既に生産された既与のものであるから、商すなわち労賃を大ならしめるためには、分母すなわち労働者数を減少する以外にない、ということになる。換言すれば、労働者数の減少を企てずして労賃の引上を行えば、その結果は失業の増加となって現れざるを得ない。かくて労賃の引上を目的とする労働運動は労働者階級全体にとっては自殺的行為となることとなる。――労賃基金説はかくて有力な反労働運動論、反社会主義論となった。
労賃基金説はジョン・ミルによって理論的に完成され、同時に彼によって抛棄された。すなわち彼は、フランシス・ロンジ及びウィリアム・トマス・ソオントンの批判を受けて、この説を淡白に抛棄した1)。しかし、この説は、経済学史上抛棄されたこの日から、大衆の中へ下向して俗流化し、反社会主義論、産児調節論として大きな実践的結果を挙げることとなるのである。
1) Francis D. Longe ; A Refutation of the Wage-Fund Theory etc. London 1866.
William Thomas Thornton ; On Labour, Its wrongful Claims and rightful Dues etc. (2nd ed.) London 1870.
J. S. Mill ; Thornton on Labour and its Claims. Fortnightly Review, for May, 1869.
俗流化常識化された労賃基金説の宣伝用特別版の作者は、一八七七年に設立された『マルサス主義連盟』に集まったもの、なかんずくC・R・ドライスデイル及びアンニ・ベサント夫人である。彼らはこの国際的組織に拠って、反社会主義と産児調節の宣伝のために倦むことを知らぬ活動を続けた。そしてそのために、多数の集会や講演会を催し、各種の印刷物を無数に印刷配付し、社会主義者と果敢執拗な闘争を行い、また法廷事件を利用してその勢力を増大することを忘れなかった1)。
1) 『連盟』の出版物中で最も有名なのは、その機関誌 The Malthusian 及びパンフレット Annie Besant, The Law of Population etc. であり、また法廷事件として最も有名なものは "Fruits of Philosophy" case 及び Dr. Allbutt case. である。
マルサス説は再転してその第三期に入る。それはすなわち第二十世紀におけるマルサス主義であり、または帝国主義時代におけるそれである。
第二十世紀は恐慌と窮乏の時代であり、侵略的戦争の時代である。それはかくて『持てる国と持たざる国』の理論を作り上げ、過剰人口の圧迫による侵略戦争の合理化を試み、戦争準備のために労働運動圧伏のために新装の労賃基金説を発明する。それは今日の吾々としては詳細に縷説るせつする必要がないほど生々しい事実である。ここではただ、その理論的代表者として例えばルウドウィヒ・ミイゼス1)、実践的代表者として第二次大戦終了に至るまでの日・独・伊の政策の如きを、挙げるだけで十分であろう。
1) Ludwig Mises ; Ursachen der Wirtschaftskrise. 1931.
次に、マルサス人口理論の否定的批判に至っては真に無数に存在すると云い得るように思われる。けだし上述の如くに、マルサス以後の経済学または社会思想に関する著書にしてこれに触れぬものはほとんどないと云っても差支えなく、しかもそれは一言なりとも批評的な言辞を弄しないものはまずないからである。
しかしながら、よく考えてみると、それに対する否定的批判は実は思ったほど多くは存在しないのであることがわかる。けだし否定的批判が真に否定的批判であり得るのは、問題の論者が単にこれを否定せんとする意図を有ったというだけでは足りないのであって、真にその批判がこの否定を全面的にまたは部分的に行ったという事実によるのであるからである。
そもそもマルサス人口理論における根本的致命的誤謬は二つの点にある。その第一は、いわゆる人口原理なるものを樹立するに当って採用されている孤立化という方法であり、その第二はかかる普遍的自然的原理が直ちにもって歴史的人類に対しその特殊な段階に関係なく無条件に適用され得ると考える点にある。そして真の否定的批判と称せらるべきものはこれらの点に関して行われた批判のみに限られるのである。
まず第一の点から見るならば、マルサスにおける人口はそれ自身としての人口であり、また食物はそれ自身としての食物である。それらは絶対化され孤立化されている。しかし実は、食物を食う人口なるものも、これを食う人口に対しては食物である。例えば鰯はそれ自身の食物を有ちながら同時にそれを食うものに対しては食物である。しかるにマルサスにあっては、鰯の人口は鰯の人口であって鰯たる食物となることのないものである。実は生物のある種はマルサスにおけるが如くにそれ自身として存在するものではなく、自然界における密接不可離の相互関連と複雑多様な交互作用の中ではじめて自己自身たることを得るのである。従ってはじめから個別化された種そのものはあり得ない。反対に、存在するものは全生物界における存在の生産及び再生産であり、全体の種における総連関である。むしろ特定の種は、かかる総連関の中においてのみ特定の種であり得るに過ぎぬ。かくて探究は当然に全体から出発しなければならぬ。そしてここに、個別化され絶対化された部分から出発するマルサス人口理論の根本的誤謬が存在するのである。
孤立化された部分ではなく、全体から出発するならば、全自然界における人口と食物とは一つの均衡を形成している。すなわち全自然界における生命は、全体としては、食うものと食われるものとに分たるべきであって、この二つの均衡がない限り生命の持続は不可能である。もとよりこの均衡は内的及び外的の原因によって絶えず破壊される。しかしこの均衡破壊の運動と同時に、均衡再建の、または新らしい均衡形成の、反作用が働く。従ってここに云う食うものと食われるものとの均衡は、一つの動的均衡であるということになる。そして特定の種の増殖の秩序は、全体としてのこの動的均衡の中においてかつこれに対してのみ決定されるのである。
例えば鰯をとろう。マルサスによれば、鰯はその食物以上に増殖するので、過剰のものは他の餌食になる。しかし全体的観察によれば、鰯は過剰に増殖するのではなく、その一部は残存し一部は餌食となることが、全生物界の均衡調和なのである。そしてこの均衡がくずれ、鰯が食われ過ぎる事態が新たに生ずるならば、かかる事態は新らしい一つの均衡の完成によって落着くことになる。またマルサスによれば、松の木が無数の花粉を飛ばし多数の種子を散らすのは、その増加力がより大である証拠である。しかし全体的観察によるならば、かくも無数の花粉を飛ばしかくも多数の種子を散らさなければその種の維持が出来ぬほど松の増殖の可能性は限られているのである。
したがって、たとえ文字の上では、マルサスとダアウィンは同じことを云っているように見えるとはいえ、実はマルサスの場合は、この個別化から社会の貧困へと論断して行く独断論なのであり、ダアウィンの場合は、一つの動的均衡、すなわち均衡の破壊と再建の中における、特定の種の、及び特定の種の間の、闘争と淘汰とに関する、科学的理論なのである。
この分野に関するマルサス人口理論の否定的批判に部分的または全面的に成功せるものとしては、マイクル・トマス・サドラア、トマス・ダブルデイ、ヘンリ・チャアルズ・ケアリ、ハアバアト・スペンサア、及び一連の唯物論的弁証法論者を挙げることが出来るであろう1)。
1) Michael Thomas Sadler ; The Law of Population : etc. London 1830.
Thomas Doubleday ; The true Law of Population etc. London 1841.
Henry Charles Carey ; Principles of Social Science. Philadelphia 1858-1859.
Herbert Spencer ; A System of Synthetic Philosophy. Vol. III. : The Principles of Biology. Vol. II. N. Y. 1884.
Friedrich Engels ; Dialektik und Natur, Marx-Engels Archiv, II.
Karl Kautsky ; Vermehrung und Entwicklung in Natur und Gesellschaft. K. III. Do. ; Malthusianismus und Sozialismus, I. Das abstrakte Bevlkerungsgesetz, Neue Zeit, 29 Jhrg., I. Do. ; Materialistische Geschichtsauffassung, I. Bd.
次にその第二の点、すなわち自然法則の社会への直訳的適用について云えば、これまたマルサスの致命的誤謬の一つをなすものである。云うまでもなく社会もまた自然である。しかしながら、社会は社会たる限りにおいて、それ自身自然ではないから、同時に自然との対立物であり、従って自然界とは相容れぬ特殊の歴史的法則の支配するところとなっている。しかもこの社会は、その経済の発展程度に応じて、当該時に特殊なる生産方法の上に立つのであり、従ってその各々における歴史的法則は、形式的規定として以外には共通性を有たぬものである。たとえば封建社会に特殊なる歴史的法則は、資本制社会とは何らの関係をも有ち得ない、等。かくて資本制社会における労働者階級の労賃現象の説明は、これを超越的な自然法則に求むべきではなく、または社会一般に通ずる形式的法則に求むべきでもなく、実に資本制社会に特有な資本の法則の中に求めらるべきものである。
かかる線に沿ってのマルサス批判は、まずジョン・ウェイランド、アーチボオルド・アリスン、ジョオジ・エンサア、シモンド・ド・シスモンディ等を通って発展して来たのであるが、それは終に総括的最終的にカアル・マルクスによってその完成点に達したのである1)。
1) John Weyland ; The Principles of Population and Production, etc. London 1816.
Archibald Alison ; The Principles of Population, etc. Edinburgh & London 1840.
George Ensor ; An Inquiry concerning the Population of Nations : etc. London 1818.
Simonde de Sismondi ; Nouveaux Principes d'Economie Politique, etc. 1819.
Karl Marx ; Das Kapital. I. Bd. Do. ; Zur Kritik der Politischen konomie, Vorwort.
否定的批判はかくの如くして発展し完成したのであるが、しかしながらこのことは、社会的存在物としてのマルサス人口論が克服されたことを意味するものでは決してない。それが色食二欲という極めて常識的な根拠に立つ限り、大衆の無批判的受容を得ることは極めて容易であり、しかもそれが新装の労賃基金説の形をとる限り、資本制社会の存続する間は、社会的には決して克服せられ得ない、と云わなければならぬ。
かくて今日マルサス『人口論』を研究することは、なかんずくその各版に現れた思想の変化を辿ることは、それが一つの階級的利益理論であることを闡明せんめいする上に極めて重要なことと考えられるのである。 

 

最後にごく簡単にマルサスの伝記を附記しておこう。
トマス・ロバト・マルサスはダニエル・マルサスの次男として、一七六六年二月十四日に生まれた。一七七九年に彼は教育のためにリチャアド・グレイヴズのもとに遣られ、一七八二年には更にギルバアト・ウェイクフィールドのもとに遣られた。そして一七八四年には彼はケインブリジのジイザス・コレジに入学し、一七八八年に、このコレジ唯一の第九数学優等生として卒業した。一七九六年にはサリのオールベリの副牧師をしていたが、この時前述の『危機』なるパンフレットを書いた。しかしこれは出版書肆の拒絶によって日の眼を見なかったこと前述の通りである。
父ダニエルはヴォルテールと文通を交わし、またルウソオの遺稿保管人であったと云われているほどの、進歩的思想の所有者であった。そこでこの父子の間には、『人口論』の序言に書いてあるように、フランス革命の思想的内容をなす進歩的思想に関して、なかんずくゴドウィンの『研究者』等に表れた思想に関して、口頭の討論が行われ、その結果として『人口論』第一版が現れることとなったのである。
第一版の成功にむしろ驚愕したマルサスは、一七九九年に、学友のオタア、クラアク、及びクリップスと共に海外旅行に出かけ、ドイツ、スウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、及びロシアを訪問して、その第二版のための材料を蒐集した。更にまた彼は別にフランス及びスイスにも赴いた。その結果として一八〇三年に第二版が現れたことは、前述の通りである。そしてこの時に至って、彼ははじめて匿名を捨てたのである。(彼はこの間に一八〇〇年に『食料品の高き価格』なるパンフレットを書いているが、これもまた匿名であった。)
一八〇四年四月十二日に、道徳的抑制の提唱者マルサスは――従って確かに『婚資をたくわえて』――ハリエット・エカアソオルと結婚した。彼らの人口増加力はアメリカの植民地におけるほど大でなかったと見えて、子供はわずかに三名に止った。
一八〇五年に、東印度会社の現地向職員教育の目的を有つ東印度大学が、ヘイリベリに設置され、マルサスは招かれて歴史及び経済学の教授に就任した。彼はこの職に死ぬまで止った。なお彼は世界最初の経済学教授である。
彼は一八三四年十二月二十九日に心臓病で死んだが、それまでに実に多数の著書及びパンフレットを書いている。これを列記すると次の如くである。
1. The Crisis, a View of the present interesting State of Great Britain, by a Friend to the Constitution. Written in 1796. ――公刊されずに終る。
2. An Essay on the Principle of Population, etc. 1st ed., 1798.
3. Do. 2nd ed., 1803.
4. Do. 3rd ed., 1806.
5. Reply to the chief Objections which have been urged against the Essay on the Principle of Population. Published in an Appendix to the third Edition. 1806.
6. Essay on Population. 4th ed., 1807.
7. Do. 5th ed., 1817.
8. Additions to the fourth and former Editions of an Essay on the Principle of Population, &c. &c. 1817.
9. Essay on Population. 6th ed., 1826.
10. An Investigation on the Cause of the present high Price of Provisions, By the Author of the Essay on the Principle of Population. 1800.
11. A Letter to Samuel Whitbread, Esq. M. P. on his proposed Bill for the Amendment of the Poor Laws. 1807.
12. A Letter to the Rt. Hon. Lord Grenville, occasioned by some Observations of his Lordship on the East Indea Company's Establishment for the Education of their civil Servants. 1813.
13. Observations on the Effects of the Corn Laws, and of a Rise or Fall in the Price of Corn on the Agriculture and General Wealth of the Country. 1814.
14. An Inquiry into the Nature and Progress of Rent, and the Principles by which it is regulated. 1815.
15. The Grounds of an Opinion on the Policy of restricting the Importation of foreign Corn ; intended as an Appendix to "Observations on the Corn Laws." 1815.
16. Statement respecting the East-Indea College, with an Appeal to Facts, in Refutation of the Charges lately brought against it, in the Court of Proprietors. 1817.
17. Principles of Political Economy considered with a View to their practical Application. 1820.
18. Do. Second Edition with considerable Additions from the Author's own Manuscript and an original Memoir. 1836. ――死後に出版せらる。
19. The Measure of Value stated and illustrated, with an Application of it to the Alterations in the Value of the English Currency since 1790. 1823.
20. Art. "Poor-Laws," Supplement to the 4th, 5th, and 6th Editions of the Encyclopaedia Britannica, vol. vi. 1824.
21. Art. "Population," ibid. 1824.
22. On the Measure of the Conditions necessary to the Supply of Commodities. Read on May 4, 1825. (Transactions of Royal Society of Literature of the United Kingdom. Vol. I., Pt. 1. 1826.)
23. On the Meaning which is most usually and most correctly attached to the Term "Value of a Commodity." Read on November 7th, 1827. (Ibid., Vol. I., Pt. 2. 1829.)
24. Definitions in Political Economy, preceded by an Inquiry into the Rules which ought to guide Political Economists in the Definition and Use of their Terms ; with Remarks on the Deviation from these Rules in their Writings. 1827.
25. A Summary View of the Principle of Population. 1830.
右の中の若干に説明を加えれば、五及び八はその各々の以前の版の購買者の便宜のために、増補修正せる部分を別刷としたものである。一二及び一六は、彼が職を奉じた東印度大学の状態につき非難の声の起った時に、これを駁して著したものである。一三、一四、及び一五はいわゆる穀物論争または地代論争に関するものであり、その論敵は主としてデイヴィッド・リカアドウであった。その中うち特に一四は、これあるが故に、マルサスは差額地代説の創説者の一人と称せられるのであり、これは元来東印度大学における彼れの講義に由来するものであって、後にそれは拡大されて一七の中に包含された。なお彼は一七を訂正増補する意図をもって加筆していたが、それは生前には出版されず、死後に至ってようやく出版された。それが一八である。彼はこの一七において既にリカアドウと価値について大いに争っているが、一九は端的にこのリカアドウとの価値論争の産物であり、一七において支配労働と穀物価格との中項をもって価値の尺度となした見解をここで改め、支配労働こそが価値の不変的尺度であると主張している。二〇及び二一は云うまでもなく百科辞典への寄稿であり、二一の内容は二五において再現されているが、しかし二五は彼自身の手になる出版ではないように思われる。
右によって知られる如くに、マルサスはリカアドウと多年にわたって地代や価値やその他多くの問題について論争した。それは著書やパンフレットだけではなく、長年月にわたる多数の手紙の交換によっても行われた。ただしマルサスの手紙はリカアドウのものほどは残っていない。
なお右に挙げた著書及びパンフレットのほかに、マルサスの書いた手紙や雑誌論文もかなり残っている。手紙は、残っているものとしては、リカアドウとの論争のものよりは、むしろ、人口理論に関するものの方がより重要である。
後記――この解説では、頁の制限があるので、ただ書き放しにしたに止り、立証引用が行われていないので、無責任な独断的記述と取られる虞おそれがないでもないが、しかし次の拙著では私はこれらのことを立証すべく努めているから、神経質の読者には一応参照を願いたい、――
マルサス人口論各版の差異(昭和七年、東北帝大)――経済学説研究、マルサスの人口・歴史・経済理論(昭和七年、第百書房)――マルサス批判の発展(昭和八年、弘文堂)――黎明期の経済学(昭和十一年、巌松堂)――新マルサス主義研究(昭和十五年、大同書院)  
序言 (訳註――第一版のみに掲載)

 

以下の論文は、もと、ゴドウィン氏の著『研究者』中の論文の問題すなわち貪慾と浪費(訳註)について、一友と交わした会話に由来するものである。この討論は、社会の将来の改善に関する一般的問題を提起した。そこで著者は、最初は、その友人に、会話で出来ると思われるよりもはっきりと自分の思想を紙上に述べてみるというだけの考えで、机に向かったのである。しかるにこの問題は、著者をして、従来考えてみもしなかった色々な考えに面せしめ、そして、かくも一般に興味ある問題に関しては、いかに微かな光でも、それはすべて公平に迎えられるに違いないと考えられたので、著者はこれを著作の形とすることに決心したのである。
〔訳註〕次を指す、―― William Godwin, The Enquirer. Reflections on Education, Manners and Literature. In a Series of Essays. London 1797 : ―― Part II., Essay II. : Of Avarice and Profusion.
議論全体を明かにするためにもっとたくさんの事実を集めたならば、この論文は疑いもなくもっと遥かに完全になったことであろう。しかし非常に面倒な仕事に長い間かつほとんど全く妨げられたのに加えて、出版期を著者が最初に申し出た時期以上にあまりおくらせまいという(おそらくは不謹慎な)希望をもったので、著者はこの問題に専心することが出来なかった。しかしながら著者はその蒐集した事実は、人類の将来の改善に関する著者の意見の真理なることを証する、少なからず有力な証拠をなすものなることが、わかるであろうと考える。著者が現在この意見につき思っているところによれば、これを確立するためには、社会に関する最も大雑把な観察に加えて、事実を平明に述べさえすればよいのであって、それ以上はほとんど必要はないようである。
人口は常に生活資料の水準に抑止されなければならぬということは、既に多くの著者が気づいていた明白な真理であるが、しかし著者の想起する限りでは、いかなる著者も、特別に、この水準が実現される仕方を研究したものはない。そしてこの仕方を考えるからこそ、著者にとっては、社会の将来の非常に大きな改善の途上には最も強い障害があると考えられるのである。著者は、この興味ある問題を論ずるに当って、著者が動かされているのは真理の愛好の念のみであり、ある特定の人々や意見に対抗せんとする偏見ではないことが、わかってもらいたいと思う。著者は、社会の将来の改善に関する若干の見解を、それが幻想であればよいがという気持とはおよそ遠い気持で読んでみたが、しかし、著者をして、自分の希望するものは証拠がなくとも信じ、または好ましくないものは証拠があっても賛成を拒否し得せしめるほどの、悟性の支配力を得はしなかったということを、告白せざるを得ない。
著者の人生観は陰鬱な色をもっている。しかし著者は、かかる暗い色を画いたのはそれが絵画の真実であると確信するからなのであり、色眼鏡や持ち前の気まぐれによるものではないことを、意識している。著者が最後の二章で素描した精神説は、人生の多くの害悪の存在に対する説明として、自ら満足に思うものである。しかしそれが他の者にも同じ効果を有つか否かは、これを読者の判断に委ねなければならない。
もしも著者が、社会の改善の途上に横たわる主たる困難と考えるところのものに、より有能な人々の注意を惹くことが出来、その結果として、この困難が、たとえ理論上だけでも、除去されたことを見得たならば、著者は喜んで現に懐いている意見を撤囘し、そしてその誤謬を知って歓喜するであろう。一七九八年六月七日 
第二版序言 (訳註――第二―六版の全部に掲載)

 

私が一七九八年に著した『人口原理論』は、序言に断っておいたように、ゴドウィン氏の『研究者』の中にある一論に示唆されて出来たものである。それは、時興にうながされて書かれたものであり、当時辺鄙なところにいて手に入れ得た少数の資料によって書かれたものである。私が該書の主論点をなす原理を演繹して来た著作の著者は、ヒュウム、ウォレイス、アダム・スミス及びプライス博士(訳註)だけであり、そして私の目的は、これを適用し、そして、当時公衆の注意をかなり刺戟していた人類及び社会の可完全化性に関する諸々の推論が本当かどうかを検討してみるにあった。
〔訳註〕これはおそらく次を指すものであろう。
David Hume, Of the Populousness of ancient Nations. (Political Discourses. Edinburgh 1752: ---- Discourse X.)
Robert Wallace, Various Prospects of Mankind, Nature, and Providence. 1761.
Adam Smith, An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations. 1776.
Richard Price, Observations on Reversionary Payments, etc. London 1771 ; 2nd ed., 1772 ; 3rd ed., 1773 ; 4th ed., 1783 ; etc.
論議を進めていく中うちに、私は当然に、この原理が現存社会状態に及ぼしている影響を、いささか検討してみるようになった。あらゆる国民の下層階級に見られる貧困と窮乏と、及び上流階級が何度彼らを救済しようと努力しても失敗する事実とは、これによるもののように思われた。こういう風に私がこの問題を考えれば考えるほど、それはいよいよ重大性を帯びるように見えた。そしてかかる考察は、『人口論』がかなり公衆の注意を刺戟した事実と相俟って、私をして、この問題をもっと一般的に例証し、かつそれを現実の事態に適用して経験上誤りないと思われる推論をそれから下すことによって、これにもっと実際的な永久的な興味を与えることが出来ようという気持で、私の暇の際の読書を、人口原理が過去及び現在の社会状態に対して及ぼした影響を歴史的に検討することに、向ける決心をさせたのである。
この研究をしている中に、私には、『人口論』をはじめて著した時に知っていたよりも遥かに多くのことが、今までになされていることが、わかった。既に早くプラトン及びアリストテレエスの時代に、人口の過急の増加から生ずる貧困と窮乏とは明確に認められ、また最も乱暴な救治策が提案されていた。そして近年では、、この問題は、それがもっと公衆の注意を刺戟しなかったのが、当然に変だと思われるくらいに十分に、フランスのエコノミストのある者や、時にはモンテスキウや、また我国の著者の中では、フランクリン博士、サア・ジェイムズ・スチュワアト、アーサ・ヤング氏、及びタウンスエンド氏によって、取扱われているのである(訳註)。
〔訳註〕これ等は次を指す。(なおエコノミストとはフィジオクラアトの義である。)
Franois Quesnay, Maximes Gnrales du Gouvernement Economique d'un Royaume Agricole et Notes sur ces Maximes.
Do., Analyse du Tableau Economique ; Observations Importantes.
Charles de Secondat, Baron de la Brde et de Montesquieu, Lettres Persanes. 1721.
Do., De l'Esprit des Lois. 1748.
Benjamin Franklin, Observations concerning the Increase of Mankind, peopling of Countries, &c. Written in Pensylvania. 1751.
James Steuart, An Inquiry into the Principles of Political Economy : being an Essay on the Science of Domestic Policy in free Nations. In which are particularly considered Population, Agriculture, Trade, Industry, Money, Coin, Interest, Circulation, Banks Exchange, Public Credit, and Taxes. London 1767.
Arthur Young, A six Months Tour through the North of England : etc. London 1771.
Do., The Farmer's Tour through the East of England. etc. London 1771.
Do., Political Aruthmetic. Containing Observations on the present State of Great Britain ; and the Principles of her Policy in the Encouragement of Agriculture. Addressed to the conomical Societies established in Europe. To which is added, A Memoir on the Corn Trade : drawn up and laid before the Commissioners of the Treasury. By Governor Pownall. London 1774.
Do., Travels, during the Years 1787, 1788, and 1789. Undertaken more paticularly with a View of ascertaining the Cultivation, Wealth, Resources, and National Prosperity, of the Kingdom of France. Bury St. Edmunds 1792.
Joseph Townsend, A Dissertation on the Poor Laws, by a Well-Wisher to Mankind. London 1786.
Do., A Journey through Spain in the Years of 1786 and 1787 ; with particular Attention to the Agriculture, Manufactures, Commerce, Population, Taxes, and Revenue of that Country ; and Remarks in passing through a Part of France. London 1792.
しかしながら、なすべきことはなおたくさんある。人口と食物との増加の比較という、今まではおそらく十分力強くまた正確には述べられていない問題を別としても、この問題の中最も特異な興味ある部分のあるものは、全然手がつけられていないか、またはほんのちょっと論じてあるだけである。人口が常に生活資料の水準に抑止されなければならぬということは、明確に述べてあるけれども、しかしこの水準が実現される色々な仕方を研究したものはほとんどなく、そしてこの原理は十分にその帰結まで追及されたこともなければ、それが社会に及ぼす影響を厳重に検討すればわかって来ると思われる実際的推論を、それから引き出してもいないのである(訳註)。
〔訳註〕同様なことは、既に第一版序言中の第三パラグラフにおいて、ただしもっと強硬な形で、述べられている。
従ってかかる点が、私が以下の『人口論』において最も詳細に取扱った点である。現在の形ではこれは新著と考えてよく、そしてまた私はおそらく、本書に残っている旧著の若干部分を除いてしまって新著として出版してもよかったのであるが、絶えず他の書を参照するの不便を思い、むしろ全一体として纒まとめることを考えて、この形としたのである。だから私は第一版の購買者に何もわびる必要はないと信じている。
この問題をかねて理解していたか、または第一版を熟読してそれがはっきりわかった人々にとっては、私がそのある部分を余りにも縷説し過ぎ、また不必要な反覆の罪を犯しているように見えることを、恐れる。こうした欠陥は一部分は不手ぎわから起ったものであるが、また一部分は意識的なものである。多数の国の社会状態から類似の推論を導くに当って、私にはある程度反覆を避けるのが非常に困難であった。またこの研究の中、吾々の通常の思考習慣とは異る結論に導くでは、私には、確信を生み出そうというわずかでもの希望をもって、異る時、異る機会にこれを読者の心に提示するのが必要であるように思われた。私は、より広汎な読者に印象を与えるためには、文体を飾ろうなどということは一切喜んで犠牲にしようと思った。
ここに展開された原理は議論の余地なきものであるから、従って、もし単に概観だけに論点を限ったならば、私は難攻不落の城塞に身を固めることが出来たであろうし、そして本書は、そうした形の方が、おそらく遥かに堂に入ったらしい外貌を有ったことであろう。しかしかかる概観は、抽象的真理を進めるには役立つであろうが、何等かの実際的善を促進する傾向はほとんどないのである。そして私が、それから必然的に生ずると思われる帰結――かかる帰結なるものが何であろうとも――のいずれかを考察することを拒否するならば、私はこの問題を正当に取扱わず、またそれを正しく論議したことにはならぬ、と考えたのである。しかしながら、この案をとったので、私は多くの反対論と、またおそらくは極めて激しい批判とに、門戸を開くことになったのに、気がついている。しかし私は、私が犯しているかもしれぬ誤謬ですら、議論の手がかりとより以上の検討の刺戟とを与えるであろうから、社会の幸福とこれほど密接な関係を有つ問題をより以上一般の注目をひくようにするという、重要な目的に役立つであろうと考えて、ひそかになぐさめているのである。
本書の全体を通じて私は、原理において、前著とは、罪悪と窮乏のいずれの部類にも入らない人口に対するもう一つの妨げの作用を想定する点で、意見を異にした。そして本書の終りの部分で、私は、『人口論』第一版の最も苛酷な結論のあるものを緩和せんと努めた。このことをなすに当って、私は、正しい推理の原理を破らず、また過去の経験によって確証されない蓋然的社会進歩に関する何らかの意見を表明しはしなかったと、希望する。人口に対する妨げはそれがいかなるものであろうと、それはそれが除去せんとする害悪よりも悪いものだと、なお考えるものには、前版『人口論』の結論が依然十全の力を有つであろう。そしてもし吾々がこの意見を採用するならば、吾々は、社会の下層階級の間に広く存在する貧困と窮乏とは絶対的に救治し難いものであると、認めざるを得ないであろう。
私は本書の中に掲げてある事実や計算については誤りを避けるよう、出来るだけの努力をした。それでもなおそのあるものが誤りであることがわかったとしても、読者はそれが一般的論述に本質的には影響を及ぼすものではないことを、認めるであろう。
問題の第一部門を例証するに当って現れた山なす資料の中から、私は最良のものを選んだとか、またはそれを最も明晰な方法で配列したとか云って、誇る気は少しもない。道徳的政治的問題に興味を有つ人々には、この問題の新奇さと重要性とが、その取扱の不完全を補ってくれることを、希望する。一八〇三年六月八日 
第三版前書 (訳註――第三、四両版のみに掲載)

 

この版の主たる変更は次の如くである。
第二篇の第四章及び第六章となっていた章は、記録簿の資料から結婚の出産性と結婚まで生存する産児の数とを測定せんとする際に著者が誤りを犯していたので、ほとんど書き改めた。そこでこれらの章はその内容が前版ではそのすぐ前の諸章と続いていたが今度はそうではなくなったので、この篇の後ろの方に移すこととし、第九章と第十章とにすることとした。
同篇の中『英蘭における人口に対する妨げ』を取扱う章には、前世紀を通じて出生の比例はほとんど均一であったと考えることが正しくなく、従ってかかる論拠に基いて異る時期の人口を測定するのが正しくないことを証示するために、一記述を加えてある。
第三篇第五章には、一時的の困窮期には貧民を扶助するのが得策でもあれば義務でもあることを論じた一文を挿入した。また同篇の第七、八、九、十の諸章では章句を削除したり挿入したりした。これは穀物輸出奨励金を取扱う第十章において特に甚だしいが、けだしこの問題は現在重要性を有し、最近大いに論ぜられているからのことである。
第四篇第六章では一章句を削除し、善政が貧困を減少するの結果を論じた一章句を加えた。
同篇の第七章では一章句が削除された。また第八章では既婚者と未婚者との比較を論じたかなりに長い章句を削除し、そして吾々は道徳的抑制の義務を説いてはいるものの結婚が望ましいものなることを軽視してはならぬことを述べた一文を加えた。
最も顕著なる変更は以上の如くである。その他は単に誤解を防ぐために少数の用語上の訂正を試み、ここかしこに短い章句や説明用の註を加えただけである。この種の小さな訂正は主として最初の二箇章に行われている。
上述の変更は本書の原理に影響を及ぼすものではなく、従って四折版(訳註)の価値を本質的に減ずるものではないことを、読者は見るであろう。
〔訳註〕第二版を指す。
附録には『人口論』に対する主要反対論への答弁が収められている。そして前版の購買者の便宜上これは四折で印刷の上別個に手に入れることが出来る(訳註)。本書の全体を読了する余暇や気持のない人々は、この附録を見れば、本書の中心的な論点を知り得てもって全体の目的と傾向とをほぼ知ることが出来るであろう。
〔訳註〕これは次の形で出版された。
Malthus, Reply to the chief Objections which have been urged against the Essay on the Principle of Population. Published in an Appendix to the third Edition. London 1806.
上下両巻をなるべく同じ大きさにするために印刷者の方で両巻の『索引』を第一巻の終りの方に附することとした。『附録』と『索引』とがこんなに長くなろうとは初めは分らなかったが、もし分っていたら両巻をもっと都合よく分割したことであろう。 
第五版序言 (訳註――第五、六両版に掲載)

 

この『人口論』は、大戦争があり同時に特殊の事情によって外国貿易が極めて栄えた時期に、はじめて公刊された。
従って本書は人間に対し異常な需要があり、人口過剰から何等かの害悪が生ずる可能があるとはほとんど考えられない時に、公衆の前に現れた訳である。こういう不利益があったのであるから、その成功は合理的に期待され得べかりし程度以上のものであった。従って、その次の時期はこれと種類を異にして最も著しくその原理を例証しその結論を確証した時期となったが、この時期には本書はその興味を失わないものと考えられ得よう。
従って、問題の性質は永久的興味を有し将来それには多くの注意を払われるであろうと考えらるべきものであるから、私としては、その後の経験と知識とによって私が知り得た本書の誤りを正し、かつ本書を改善しその有用性を一層大ならしめる如き増補や変更を加えざるを得ないのである。
この問題の前半についてもっと多くの歴史的例証を加えるということならば容易なことであったであろう。しかし私が前に述べた如くに、各特定の妨げが自然増加力を各々どれだけ破壊するかを確証すべき十分正確な記述はやはり得ることが出来ないので、手に入れ得る唯一種類の極めて豊富にある証拠から私が前に得た結論は、全く同じ種類の証拠をもっと集めてみた所でその力を加えるものではないように私には思われた。
従って最初の二篇では増補はフランスに関する新らしい一章と英蘭に関する一章とだけであり、これは主として前版の公刊後に生じた事実に関するものである。
第三篇では『貧民法』に関する一章を加えた。そして『農業及び商業主義』を論ずる章と『富の増加が貧民に及ぼす結果』を論ずる章とは適当に整えられてもいなければまた主題にすぐ適用することも出来ないように思われ、その上私は『輸出奨励金』を論ずる章で若干の変更を試み、『輸入禁止』の問題に関して若干附加しようと思ったので、これ等の章を書き改めることとした。これ等はこの版では第八、九、十、十一、十二、十三の諸章となっている。更に同篇の最後の第十四章には新らしい名前を附して二三の章句を附加した。
第四篇では私は『貧困の主要原因に関する知識が政治的自由に及ぼす諸影響』と題する章に新らしい一章を加え、また『貧民を改善する種々なる企劃』を論ずる章にも一章を加えた。また私は『附録』にもかなりの増補を試み、前版以後に現れた『人口原理』を論ずる二、三の論者の論作に答弁を与えた。
この版で行われた主たる増補と変更とは以上の如くである。これは大部分『人口論』の一般諸原理を現在の事態に適用したものである。
前の諸版の購買者の便宜のために、以上の増補と変更は別冊で公刊することとする(訳註)。一八一七年六月七日
〔訳註〕これは次の形で出版された。
Malthus, Additions to the fourth and former Editions of an Essay on the Principle of Population, &c. &c. London 1817. 
第六版前書 / 一八二六年一月二日

 

この版で行った増補は主として、一八一七年にこの前の版が現れて以後新らしい人口調査や出生、死亡及び結婚の記録簿が現れた国の人口の状態に関し、記録や推論を若干加えた点にある。それは主として英蘭、フランス、スウェーデン、ロシア、プロシア、及びアメリカに関するものであり、従ってこれら諸国の人口を取扱う章に現れている。『結婚の出産性』を論ずる章では表を一つ加えたが(第一巻四九八頁)(訳註1)、これは現在若干の国で行われている十年ごとの人口調査の中間期の人口増加百分比率からその倍加期間またはその増加率を示すものである。『附録』の終りには私がゴドウィン氏の最近の著書(訳註2)に答えない理由を簡単に述べてある。本書の他の部分では小さな変更や訂正が行われているが、これはいちいち指摘する必要はない。また若干の註を加えたが、その中うち主要なるものは、自由貿易下のオランダにおける穀物の変動を論じ、一国の食物の不足はある他国のその豊富なることによって一般に相殺されると考えるのが誤りなることを述べたものである(第二巻二〇七頁――訳註、原書の頁である)。
〔訳註1〕第二篇第十一章最後の表を指す。
〔訳註2〕Godwin, Of Population. An Enquiry concerning the Power of Increase in the Numbers of Mankind, being an Answer to Mr. Malthus's Essay on that Subject. London 1820. ――これは、マルサス『人口論』によって全く忘却の中に陥しいれられたゴドウィンが、デイヴィド・ブウス David Booth の助力を得て著した最後の必死のマルサス反駁書である。 
 
経済学および課税の原理 1

 

序文 / 第1章 価値について / 第2章 地代について / 第3章 鉱山の地代について / 第4章 自然価格と市場価格について / 第5章 賃金について / 第6章 利潤について / 第7章 海外貿易について
[解説] 
序文
大地の生産物―労働と機械と資本を一つにまとめて投下することによって地表から得られるものは全て、社会の3つの階級に分けられる。即ち、土地の所有者、貯え、即ち土地の耕作に必要な資本の所有者、そしてその人々の勤労によって土地が耕作される労働者たちである。
しかし、社会の発展段階が異なると、これらの階級のそれぞれに地代、利潤、賃金という名の下に割り当てられる大地の全生産物の割合は本質的に異なってくる。土壌の実際の肥沃度、資本の蓄積と人口の増加、そして農業に用いられる技術、創意工夫、及び道具に主に依存するのである。
この分配を規定する法則を確定するのが、政治経済学の主要課題である。チュルゴー、スチュアート、スミス、セー、シスモンディ、そしてそれ以外の者たちの著作物によって学問として多くが改良されてきたが、彼らは、地代、利潤、及び賃金の自然の行く末について満足の行く情報を殆ど与えない。
1815年、マルサス氏はその「地代の性質と進歩に関する研究」のなかで、そしてオックスフォード大学の一研究員はその「土地投資に関する小論文」のなかで、殆ど同時に真実の地代の教義を世に示した。そうした知識なしでは富の進歩が利潤と賃金に及ぼす影響について理解することは不可能であり、また、社会の異なった階級に及ぼす課税の影響を満足の行くまで追跡することも不可能である。課税される商品が、大地の表面から直接取られる生産物である場合には特にそうである。アダムスミスと、私がほのめかした他の有能な著述家たちは地代の原理を正しく認識しなかったために、多くの重要な事実を見逃したように私には思える。そうした事実は、地代というテーマを完全に理解した上で初めて見つけることができるのである。
この欠陥を補うには、本書の作家の有する何がしかの能力よりも遥かに優れた役者の能力が必要とされる。それでも、彼がこの問題について最大限に検討を行った後において―上記の傑出した著述家たちの書物からその作家が支援を得た後において―多くの出来事のあった最近の数年間が現在の世代に貴重な経験をもたらした後において、利潤と賃金に関する意見や課税の作用に関する意見を述べても、彼が自信過剰になっているとはみなされないと彼は信じる。もし、彼が正しいとみなした原理が、そのとおりであると判明したら、それらの原理をその重要な結果に至るまで追跡するのは、彼よりも有能な他の人々の
仕事になるであろう。
この作家は、広く受け入れられている意見と闘うなかで、特にアダムスミスの著作中の、自分としては意見が違うことに理由があると考える文章に多くの注意を向ける必要があることに気がついた。しかし、彼はそうするからといって、政治経済学という学問の重要性を認める全ての人々とともに、この高名な著者の意義深い書物が正当にも掻き立てる称賛の輪に参加することを拒むのではないのか、と疑われることのないように願う。
同じことはセー氏の優れた書物にも言えるであろう。彼は、スミスの原理を正当に評価し、それを適用した大陸で最初の人、或いは最初の人の1人であった。また、彼は、啓蒙され利益の多いその制度の原理をヨーロッパの国々に推薦するために大陸の他の著述家たちが行った全てのこと以上のことを行った。それだけではなく、彼はこの学問をより論理的でより教訓的なものに整えることに成功した。そして、独創的で正確で深遠な議論を幾つか重ねることによりそれをより豊かなものにした。(注)しかし、この紳士の著作に対して著者が抱く尊敬の念は、彼が「政治経済学」のなかの彼自身の考えとは相容れないように見える文章について自由にコメントすることを妨げることはなかった。そうした自由は、学問のために求められるのだと彼は思う。
(注)「販路について」の第15章第1節には、特に重要な原理が含まれている。それはこの傑出した著述家によって初めて解説されたものであると私は思う。
3訂版のお知らせ
私は、この改訂版で前回の改定以上に、「価値」という難解なテーマに関する私の意見を十分に解説しようと試みた。そして、そのために、第1章に幾つかの追加を行っている。また、「機械」に関する新たな章も挿入した。それは、国の異なった階級の利益に及ぼす機械の改良の効果に関する章である。「価値と富、その性質の違い」の章で、私は、その重要な問題に関するセー氏の教義、それは彼の書物の最終版でもある第4版で修正されているが、その教義について検討した。私は最後の章において、貨幣で納める追加の税を支払う国の能力についての教義を今までよりも理解しやすくするように努めた。もっとも、農耕技術の向上よって国内で穀物を生産するのに必要とされる労働量が減少するか、或いはその国の製造品を輸出することによってその国が必要とする穀物の一部を海外から安い価格で手に入れるかのいずれかの結果として、その国の全商品の総貨幣価値は低下することになるのではあるが。この検討は非常に重要である。というのは、海外の穀物の輸入に規制をかけないままにしておくという政策に関係するからである。巨額な国の債務の結果として、重くて固定的な貨幣で納める税の負担に喘ぐ国では特に重要である。私は、税を支払う能力は、全商品の粗貨幣価値に依存するものでもなければ、資本家と地主の収入の純貨幣価値に依存するものでもなく、各人が通常消費する商品の貨幣価値と比較した、各人の収入の貨幣価値に依存するものであるということを示そうと努めた。
1821年3月26日 
第1章 価値について

 

第1節 
商品の価値、即ち、その商品と交換される他の商品の量は、その生産に必要とされる労働の相対量に依存し、その労働に対し与えられる補償が大きいか小さいかに依存するのではない。
【使用価値と交換価値】
アダムスミスによって次のように言われてきた。「価値という言葉は2つの異なった意味を有し、それは、あるときは特定の対象物の効用を示し、またあるときはその対象物を保有することが伝える他の商品を購入する力を示す。一方は使用価値と呼ばれ、他方は交換価値と呼ばれるだろう」彼は続ける。「最大の使用価値を有するものがしばしば殆ど或いは全く交換価値を有しない。それとは反対に、最大の交換価値を有するものが殆ど或いは全く使用価値を有しない」空気と水は大変に有益である。それらは実際生きるために欠かせないものである。それでも通常の場合には、それらと引き換えに何も得ることはできない。それとは反対に、金は空気や水と比べて殆ど役に立たないが、他の商品の多くと交換されるであろう。
それでは、効用は交換価値の尺度ではない、もっとも、効用は交換価値にとって絶対に必要なものであるが。もし、ある商品が何の役にも立たなかったならば、他の言い方をすれば、それが我々に有難味を感じさせることができなければ、それがどんなに稀少であっても、またそれを調達するためにどれだけの労働が必要であろうとも、交換価値を有することはないであろう。
【価値の源】
商品は、効用を有すれば2つの源からその交換価値を生みだす。商品が稀少であることと、商品を手に入れるために必要とされる労働量から。
その価値が稀少性によってのみ決定される商品がある。そうした商品は、労働によってその量を増やすことはできない。従って、供給量を増やすことによってそれらの商品の価値を低下させることはできない。珍しい彫像や絵画、稀少な書物や硬貨、そして特殊な土壌で栽培されるぶどうからしか造ることのできない非常に量の限られた特殊なワインが、こうしたものの例である。そうした商品の価値は、それらを当初生産するのに必要とした労働量とは全く無関係であり、そうした商品を手に入れたいと欲する人々の富と好みに応じて変動する。
しかし、こうした商品は、市場で毎日交換される商品全体のなかのほんの一部に過ぎない。欲しいと思う商品の大部分は、労働によって手に入れられる。そして、そうした商品は、もし我々がそれを調達するために必要な労働を幾らでも投入する用意があれば、一つの国だけでなく多くの国において殆ど際限なく増大させることができる。それでは、商品について、或いは商品の交換価値について、或いはまた商品の相対価格を規定する法則について論ずるとき、我々は、人間の勤労の発揮によってどれだけでも量を増やすことのできる商品、そしてその生産に当たって何の制約もなく競争が行われる商品のことだけを常に想定する。 
【解説】
「珍しい彫像や絵画、稀少な書物や硬貨、そして、特殊な土壌で栽培されるぶどうからしか造ることのできない非常に量の限られた特殊なワインが、こうしたものの例である」に相当する原文は次のとおり。
Some rare statues and pictures, scarce books and coins, wines of a peculiar quality,which can be made only from grapes grown on a particular soil, of which there is a very limited quantity are all of this description.
この英文は、従来、例えば次のように訳されてきた。
「いくつかの珍しい彫像や絵画、稀観の書物や鋳貨、広さがきわめて限られている特殊な土壌で栽培されるぶどうからだけしか醸造できない特別な品質のぶどう酒、これらの物はすべてこの種類に属している」(羽鳥・吉澤訳、「経済学および課税の原理」岩波文庫。以下「羽鳥・吉澤訳」と言うときには同じ書物を指す)
この訳は、of which以下の文章がa particular soilを修飾すると解釈しているのだが、そうではなくwhichはwines of a peculiar qualityを指すものと理解すべきである。こうした理解が正しいことを裏付けるように、第17章には次のような表現が出てくる。
Those peculiar wines which are produced in very limited quantity, and‥ 
【投下労働量と価値】
社会の初期の段階では、こうした商品の交換価値、即ち、他の商品と引き換えにある商品がどれだけ与えられなければならないかを決定する規則は、殆んど各商品に費やされた相対的労働量だけに依存する。「全ての物の真実の価格は」とアダムスミスは言う。「全ての物が、それを手に入れたいと思う人に本当にかける費用は、それを手に入れるための苦労と面倒なのである。それを手に入れた人、そしてそれを処分したいと思うか他の何かと交換したいと思う人にとって全ての物が実際に有する価値は、彼が被らなくて済む、そして他の人に押し付けることのできる苦労と面倒なのである」「労働は最初の代価であった。全ての物に対して支払われた最初の購入通貨であった」もう一度。「資本の蓄積と土地の私有化の双方に先立つ社会の初期の未開な状態においては、異なった物を手に入れるために必要なそれぞれの労働量の割合が、それぞれの商品を交換する際の何らかの規則を与えることのできる唯一の事情のように見える。例えば、もし狩猟民族の間で、1匹のビーバーを仕留めるのに1匹の鹿を仕留める場合の2倍の労働がかかるのが普通であれば、1匹のビーバーは自然に2頭の鹿と交換されるであろうし、2頭の鹿の価値があることになろう。通常2日間の或いは2時間の労働よって生産されるものが、通常1日の或いは1時間の労働によって生産されるものの2倍の価値があるのは自然なことである」(第1巻、第5章)
これが実際、人間の勤労によって増やすことができない物を除く全ての商品の交換価値の基礎であるということは、政治経済学における最も重要な教義である。
価値という言葉にまつわる漠然とした概念と同じほど、この学問において、多くの誤りや多くの意見の相違が発生する原因はない。
もし、商品に現実化された労働量が商品の交換価値を規定するのであれば、労働量が増える度にその労働が投入された商品の価値を高めるに違いない、労働量が減る度に商品の価値を低下させるに違いないように。
【アダムスミスの考え方】
交換価値が発生するそもそもの源についてそれほど正確に明らかにし、そして、全ての物は、それらの生産に投下される労働量が多いか少ないかに比例して価値が大きくなったり小さくなったりすると一貫して主張すべきであったアダムスミスは、彼自らもう一つの価値の標準尺度を樹立した。そして、商品が多くのこの標準尺度と交換されるか、少ない標準尺度と交換されるかに比例してそれらの商品の価値が大きくなったり小さくなったりするかのように話をする。
彼は、時には穀物を標準尺度とし、また時には労働を標準尺度とする。何らかの商品の生産に投入された労働量ではなく、その商品が市場で支配することのできる労働量なのである。あたかもこの2つのものが同じことを表現しているかのように話をし、あたかも人間の労働が2倍効率的になったから、従って人が2倍の量の商品を生産することができるようになったから、人は必ずやそれ(【注】労働)と引き換えに以前の量の2倍の商品を受け取るであろうと、言うのである。
もし、これが本当に真実であったとすれば、そして労働者の報酬は常に彼が生産したものに比例するとすれば、ある商品に投下された労働量とその商品が購入することのできる労働の量は等しくなるであろう。そして、どちらによっても他の品々の価値の変動を正確に計測するかもしれない。しかし、それらは等しくない。最初のものは多くの状況において一つの不変の価値と言える。従って、他の品々の価値の変動を正しく示す。後者は、それと比較される他の商品の価値の変動と同じように変動を被る。アダムスミスは、金と銀などの価値が変動する仲介物は、他の品々の変動する価値を決定するには十分な資格がないことを見事に解明した後、彼自身、穀物や労働に決めることによって、価値が変化しない訳ではないものを仲介物に選んだのである。 
【解説】
リカードが何故アダムスミスを批判しているか、その理由がお分かりだろうか。
今、例えば、10時間の労働を投入してある商品が1単位生産され、同様に10時間の労働を投入して穀物が1単位生産されるとすれば、その商品1単位の価値は、穀物1単位の価値と等しくなるであろう。では、次に、穀物の生産が容易になって、10時間の労働を投入することによって2単位の穀物が生産できるようになったと仮定すれば、その商品の価値はどのように変化するであろうか?恐らく、その商品の1単位の価値は、2単位の穀物と等しくなるであろう。では、そのときに、その商品は何時間分の労働を支配することができるであろうか?投下労働量が商品の価値を決定すると考えれば、その商品は10時間分の労働を支配することになろうが、リカードはそうはならないと言う。何故ならば、労働者の賃金は、労働者の穀物生産能力に比例して変化することはないからだ、と。つまり、労働者は自らが投入した労働量に応じた穀物(=労働量)を常に手に入れるのではなく、あるときはそれを上回る穀物を、そしてあるときはそれを下回る穀物を手に入れるというのである。何故ならば、仮に穀物の生産能力が大きく落ち込むようなことが起きても、最低限度の穀物を労働者に与える必要がある(その半面幾ら穀物の生産能力が上がっても、労働者不足にならない限り労働者に必要以上の穀物を与える必要ないと思われる)からだ、と。従って、リカードは、下に示すようにその商品は、10時間分の労働を支配する(Aのケース)というよりも、20時間分の労働を支配するケース(Bのケース)に近づくのではないのかと考え、このため「支配労働量=投下労働量」の関係は認められず、支配労働量が商品の価値基準になることはないと言うのである。
1単位のある商品―――1単位の穀物―――1単位の労働
(10時間の労働を投入)(10時間の労働を投入)(10時間の労働)
<穀物の生産が容易になると>
↓↓↓A
ある商品―――2単位の穀物―――1単位の労働
(10時間の労働を投入)(10時間の労働を投入)(10時間の労働)
B
―――2単位の労働
(20時間の労働) 
【価値尺度としての金と穀物】
金と銀は、新しい、より豊かな鉱山の発見から生じる価値の変動を間違いなく受ける。しかし、そうした発見は珍しいことであり、その影響は大きいとはいっても比較的短い期間に限られたことである。それらはまた、鉱山を稼働させる技術や機械の改良によって生ずる価値の変動を被るであろう。というのも、そうした結果、同じ量の労働でより多くの金と銀が手に入るかもしれないからだ。それらはまた、鉱山が永年に亘り世界に金と銀を供給し続けた結果、鉱山の生産量が落ちることによる価値の変動を被るであろう。
しかし、穀物はそうした価値の変動原因のどれから影響を免れるのか?一方では、農業の改良から、また農耕に用いられる機械や道具の改良から価値が変動することはないのか?他の国ならば耕作に供されるかもしれない新しい肥沃な地域、そしてまた、穀物の輸入が自由である全ての市場における穀物の価値に影響を及ぼすような新しい肥沃な地域の発見から価値が変動するのと同じように。
他方では、穀物の輸入の禁止から、或いは人口や富が増えることから、さらに質の劣った土地を耕作せざるを得ないために追加の労働が必要になることから、穀物の価値が高くなる影響を受けないのか?
【労働の価値の変動】
労働の価値も同じように変動するのではないのか?他の全ての品々と同じように、社会の状態の変化が起こる度に常に変動する供給と需要の割合によって影響を受けるだけではなく、労働の賃金が支出される食料や必需品の価格が
変動することによっても影響を受けるのではないのか?
同じ国においてあるとき、ある一定量の食料と必需品を生産するために、別の相当前の時期に必要とされた労働量の2倍が必要になるかもしれない。しかしそれでも、労働者の報酬は殆ど減らないかもしれない。もし、以前の労働者の賃金が、一定量の食料と必需品であったとしたら、仮にその量が減らされたら、彼は恐らく生存していけなかったであろう。この場合、食料と必需品は、その生産に必要な労働量によって計測すれば100%上昇しているであろう。一方、それらが交換される労働量で計測すれば、その価値は殆ど上がっていないであろう。 
【解説】
ここでリカードは、食料という商品の価値について考える。1単位の食料の生産に必要な労働量が2倍になる。つまり、投下労働量は2倍になる。しかし、その1単位の食料が購入できる(支配できる)労働量は変わらない。従って、食料の価値は、投下労働量で計測すれば2倍になっている筈なのに、支配労働量で計測した現実の価値は変わっていない、と。 
同じことが、2つ以上の国について言えるかもしれない。アメリカとポーランドでは、最後に耕作に供された土地において、一定数の人間の1年間の労働が、同様の環境にある英国の土地に比べ、遥かに多くの穀物を生産するであろう。それでは、これら3つの国では、他の全ての必需品は同じように安いと仮定するとき、各国で労働者に与えられる穀物の量は、生産の容易さに比例するであろうと結論付けるのは、大きな間違いでないのだろうか?
【支配労働量】
もし、労働者の靴と衣類が、機械の改良によってそれらを今生産するのに必要な労働の1/4で生産することができたとしたら、それらの価値は恐らく75%低下するであろう。しかし、労働者が1着の上着でなく4着の上着を永久に消費したり、或いは1足ではなく4足の靴を永久に消費したりすることができるようになるどころか、恐らく労働者の賃金は、長い時間をかけなくても競争や人口に対する刺激の効果によって、賃金が支出される必需品の新たな価値に応じたものに調整されるであろう。もし、こうした改良が労働者の消費の対象となる全ての商品に及んだ場合、僅か数年もすれば、享楽品の所有量を増したとしても、その増加量は小さなものでしかない労働者に我々は気がつくであろう。もっとも、そうした商品は、製造面で技術改良が全然起こっていない他の商品と比べ、交換価値が大きく減少しているのではあるが。また、それらの商品は、
大きく減少した労働によって生産されたものであるが。
【結論】
それでは、アダムスミスとともに「労働は、時には大量の商品を購入し、時には少量の商品を購入するから、変化したのはそれらの商品の価値なのであって、それらの商品を購入する労働の価値ではない」と言うことが正しい筈がない。従って、「労働だけがそれ自身の価値を変えることがないものであり、それだけが、それによって全ての商品の価値が全てのときところで計測され比較されることのできる究極の、そして真実の標準である」と言うことが正しい筈がない。しかし、以前アダムスミスが言ったように、「異なった物を手に入れるために必要なそれぞれの労働量の割合が、それぞれの商品を交換する際の何らかの規則を与えることのできる唯一の事情なのである」と言うことは正しい。他の言い方をすれば、それらの商品の現在或いは過去の相対価値を決定するのは、労働が生み出す商品の相対量であって、彼の労働と交換にその労働者に与えられる商品の相対量ではない。
【価値変動の確認方法】
2つの商品の相対価値が変動する。そして、我々は変動がどちらの商品に実際に起こったのかを知りたいと願う。もし、我々が現在の一方の商品の価値を靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、そしてそれ以外の全ての商品と比較すれば、その商品がこれら全ての商品の以前と正確に同じ量と交換されることが分かる。もう一方の商品をこれらの同じ商品と比較すれば、それらの商品全てに対してその価値が変動していることが分かる。そうなれば、我々は、大きな蓋然性をもって変動はこの商品に起きたと推測するであろう、その商品と比べられた多くの商品の方に変動が起きたのではなく。もし、こうした様々な商品の生産に関係する事情をさらに吟味した結果、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖などの生産のために同じ量の労働と資本が必要とされることが分かれば、そして、その一方で相対価値の変動が起きたその商品を生産するのに以前と同じ量の労働が必要でないことが分かれば、蓋然性は確実性に変化する。価値の変動は、その一つの商品に起きたことが確信される。そこで我々は、その価値の変動の原因についても知るのである。 
【解説】
(以前)穀物布
1人の労働/日―――10単位―――10単位
(現在)
1人の労働/日―――20単位―――10単位
以前、1人の1日の労働が穀物10単位と交換されていたのに、現在では穀物20単位と交換されるようになったと仮定しよう。この場合、労働の価値が上がったのであろうか、それとも穀物の価値が下がったのであろうか?答えは何とも言えない。しかし、仮に観察の対象を布にまで広げたところ、労働と布の交換比率に変化が生じていないことが分かると、穀物の価値が低下したのではないかと推測するであろう。そして、さらに観察の対象を広げることによって、価値が変化したものが確定できるようになるであろう。  
【穀物と労働の価値の変動】
もし、1オンスの金が、上に列挙した商品やそれ以外の多くの商品のより少ない量としか交換されないことを我々が知ったら、そしてまた、新しい豊かな鉱山の発見によって、或いは機械を有利に使うことによって今までよりも少ない労働量で一定量の金を手に入れることが可能になったことを私が知ったら、他の商品と比べた金の価値の変動の原因は、金の生産が容易になったこと、即ち金を手に入れるのに必要な労働量が少なくなったことであると言うことが正当化されるであろう。同様にして、もし労働の価値が他の全ての商品と比べて大きく低下したら、そして、もしその労働の価値の低下が、穀物や労働者の他の必需品の生産が大いに容易になったことによって引き起こされた豊富な供給量の結果であることが分かったら、穀物と必需品の価値はそれらを生産するために必要な労働量が減少した結果低下したと言うことは正しいと思う。そして、労働者の支援物の供給が容易になったことで、それに伴って労働の価値の低下が起きたと言うことは正しいと思う。
【注】1オンスの金とは1トロイオンスの金のことであり、これは31.1035gの金を意味する。  
【解説】
リカードは、商品の価値(相対価値)は投下労働量によって決定されると言う。しかし同時に、その労働の価値は、他の商品と同じように価値の変動を免れないと言う。と言うことは、商品の価値は何時になっても確定できないことになる。いずれにしても、では何故労働の価値は変動するとリカードは考えるのであろうか?それは、労働に与えられる穀物の量は変動しない傾向があるからだ、と。リカードは、もし、穀物の生産に必要な労働の量に変化が起きるときに、労働に対していつもと同じ量の穀物しか与えられなければ、労働が支配できる労働が変化することになると考える。従って、リカードは、労働の価値が変動すると考えるのである。しかし、リカードが、労働の価値が変動すると言った途端、アダムスミスのように支配労働説を認めたことになるのではないだろうか?  
アダムスミスとマルサス氏は違うという。金のケースの場合には、貴方が、その価値の変動を金の価値の低下と呼んだのは正しかった、と。何故ならば、穀物と労働の価値は変動していなかったから。そして、金は、以前に比べ他の全ての品々だけではなく、それら(【注】穀物と労働)のより少ない量しか支配できないのだから、全ての物の価値は変わっておらず、金だけが変わったと言うのは正しかった、と。しかし、穀物と労働の価値が低下するときには、それらは、我々が価値の標準尺度として選んだものであるから、それらも価値の変動を被ることを我々は認めながらも、そのように言うことは極めて不適切であろう。彼らによれば、正しい言い方は、穀物と労働は価値が変わらないままで、他の全ての品々の価値が上昇したということになろう。
【リカードの異議】
私が異議を申し立てるのは、この言い方に対してである。私は、金のケースの場合と全く同じように、穀物と他の品々との間の価値の変動の原因は、穀物を生産するのに必要な労働量が減少したことにあることを知っている。従って、正しい論理に従えば、穀物と労働の価値の変動を私は、それらの価値の低下と呼ばなければならない。それらが比較される品々の価値の上昇と呼んではいけない。
もし、私が労働者を1週間雇わなければならないとして、そして10シリングではなく8シリングを払うとして、お金の価値に何の変化も起きていなければ、その労働者は多分彼が以前10シリングで手に入れた以上の食料や必需品を手に入れることができるであろう。しかし、これは、アダムスミスが言ったように、そして最近ではマルサス氏も言っているように、彼の賃金の真実の価値が上がったからだというのではなく、彼の賃金が支出される品々の価値が低下したせいである。これらの事態は全く違う。それでも、私がこの現象を賃金の真実の価値の低下と呼んだという理由で、私は、新たな風変りな表現を用いると言われている。この学問の真実の原理と折り合いをつけることができない表現だ、と。私にしてみれば、風変りでそして事実一貫性のない言い方をしているのは、私の論敵の方であるように見える。  
【解説】
(以前)賃金10シリング―――10単位の食料を購入
(現在)賃金8シリング―――20単位の食料を購入
上の場合、次のようなことが言えるかもしれない。
(a) お金の価値が上がった。従って、賃金は実質的に上がった。
(b) 食料の価値が下がった。賃金は下がった。
アダムスミスやマルサスは(a)の考え方を採用し、リカードは(b)の考え方を採用した。リカードは、もし食料の生産が容易になっているのであれば、食料の価値が下がっていると考える。それに対し、アダムスミスは、食料の価値は不変であるので、賃金が下がったとは考えない。なお、当時は、1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンスであった。  
【具体例】
穀物の価格がクォーター当たり80シリングのときに、1人の労働者に1週間の労働の対価として1ブッシェルの穀物を支払うと仮定しよう。そして穀物の価格が40シリングに低下したとき、その労働者は1.25ブッシェルの穀物が支払われると仮定しよう。さらに、その労働者が家族のために1週間に0.5ブッシェルの穀物を消費し、そして残りを燃料、石鹸、ロウソク、お茶、砂糖、塩等の品々と交換すると仮定しよう。もし、一方のケースで彼に残る0.75ブッシェルの穀物が、他のケースで彼に残った0.5ブッシェルの穀物が調達したのと同じ量の上記の品々を調達できなければ―そして、調達しないであろうが―労働の価値は上がっているのであろうか、それとも下がっているのであろうか?  
【賃金の変化】
穀物:1ブッシェル(80シリング/q) 穀物:1.25ブッシェル(40シリング/q)
貨幣賃金:10シリング 貨幣賃金:6.25シリング
使途:穀物に0.5ブッシェル(5シリング)、その他に0.5ブッシェル(5シリング) 使途:穀物に0.5ブッシェル(2.5シリング)、その他に0.75ブッシェル(3.75シリング)
【解説】
1ブッシェル=36.36872リットル。1クォーター=8ブッシェル。従って、1クォーターは291リットル。  
上がっている、とアダムスミスは言わなければならない。何故ならば、彼の標準は穀物であり、そして、その労働者は1週間の労働に対してより多くの穀物を受け取るからである。下がっている、とアダムスミスは言わなければならない。「何故ならば、物の価値は、それを保有することによって示される、他の商品を購入する力にかかっているからである」そして、労働は、そうした他の商品を購入する力が落ちているのである。  
第2節

 

違った質の労働には違った報酬が与えられる。これは、商品の相対価値の変動を引き起こす原因ではない。
【労働の質の相違】
しかし、労働を、全ての価値の基礎になるものだと言い、そして殆ど相対的労働量だけによって商品の相対価値が決められると言うからといって、労働の質の相違や、ある仕事の1時間や1日の労働を他の仕事の1時間や1日の労働と比較することが難しいという事実に私が無頓着であると思ってはいけない。異なった質の労働が含まれている場合の労働の評価は、直ちに市場において全ての実践的な目的のために十分な正確さを持って調整されることになるし、そしてそれは、労働者の相対的な技能や遂行された労働の集中力に依存する。一旦そういった価値の目盛りが形成されたら殆ど変化することはないであろう。もし、宝石職人の1日の労働が通常の労働者の1日の労働よりも価値があれば、そのことはずっと以前に調整され、価値の目盛りの適切な場所に刻まれたであろう。  
(注)「しかし、労働は全ての商品の交換価値の真実の尺度であるが、普通労働によってそれらの価値が評価されるということではない。多くの場合、2つの違った量の労働の割合を確認するのは困難である。2つの違った種類の仕事に費やされた時間だけが常にこの割合を決定するのでもない。耐え抜かれた困難さと発揮された才能が同様に考慮されなければならない。1時間の辛い仕事には2時間の気楽な事務以上の労働が含まれているかもしれない。或いは、学ぶのに10年間の労働がかかった仕事に1時間の労働を充てることには、通常の仕事の1カ月分の勤労以上の労働が含まれているかもしれない。しかし、困難さや才能のいずれについても、それらを正確に計測する尺度を見つけるのは容易ではない。実際、違った種類の労働の違った生産物を交換するに当たっては、双方に対しある程度の糊代が通常認められる。しかし、正確な尺度で調整されるのではなく、日常生活の仕事を続けていく上で十分と思われる大まかな等しさ(正確に等しいとは言えないまでも)に従って、市場において値切ったり安売りしたりして調整されるのである」国富論第1編第10章  
従って、違った時期における同じ商品の価値を比べる際には、その特別な商品に求められる相対的な技能と相対的な労働の集中度を考慮することは殆ど必要とされない。そうしたことは、両方の時期に等しく作用するからである。あ
る時期のある種類の労働が、別の時期のその同じ種類の労働と比べられる。もし、1/10、1/5、或いは1/4が加えられたり引き去られたりしているのであれば、その原因に応じた結果が、その商品の相対価値に生じるであろう。もし、1枚のウールの布地が現在、2枚の亜麻布の価値を有しており、そしてもし、10年後に1枚のウールの布地の通常の価値が4枚の亜麻布に等しいものになるとすれば、ウールの布地を作るのにより多くの労働が必要になったのか、或いは亜麻布を作るのに必要な労働が少なくなったのかのいずれかであるか、それともその2つの原因が同時に作用したと判断して構わない。
【商品の相対価値の変動】
私が読者の注意を引こうと思う研究は、商品の相対価値の変動の効果に関するものであって、商品の絶対価値の変動の効果に関するものではないので、違った種類の労働が如何に評価されたか、その程度を吟味することは余り意味がないことになる。それらの労働が当初どれほど異なっていようと、或いはある手先の器用さを習得するために他の労働を上回る多くの才能と技能と時間が必要であろうと、その違いは世代が変わっても殆ど同じであり続けると判断して構わない。少なくても、1年毎の変動は僅かであり、従って短期間では商品の相対価値に影響を与えることは殆どないと判断して構わない。
「労働と資本の異なった投下先における、賃金率と利潤率双方の異なる比率の割合は、既に見てきたように社会の富や貧困、つまり社会の状態が進歩しているか、変わらないか、或いは後退しているかによって大きく影響を受けるようには見えない。そうした社会厚生の変革は、それらは賃金にしても利潤にしてもそれらの一般率に影響を及ぼすものではあるが、最終的には全ての投下部門において等しく影響を与えるに違いない。従ってそれらの割合は同じであるに違いない。そして、少なくてもある程度の期間に亘って、如何なるそうした変革によっても大きく変えられることはあり得ない」(国富論、第1分冊第10章)  
【解説】
The proportion between them therefore must remain the same, andcannot well be altered, at least for any considerable time, by any such revolutions.
この文章は、国富論からの引用であるが、and 以下に与えられた2つの訳を紹介する。
「国状のかかる激変によっても、少なくとも相当永い間、容易には変わらないものである」(竹内謙二訳。「経済学及び課税の原理」(東京大学出版会)
「少なくともかなりの長期間については、容易に変更されることはありえない」(羽鳥・吉澤訳)
両方の訳とも理解するのがやや難しいが、前者は、「少なくとも相当永い間、容易には変わらない」と言っているので、もっと長い時間が経過すれば変わるように思われる。他方、後者は、「かなりの長期間については、容易に変更されることはありえない」と言っているのであるから、短い期間であれば変更されることがあるということになる。となると、両者は違ったことを言っていることになる。どちらが正しいのか?正解は後者であると思われる。つまり、アダムスミスは、一時的にはバランスが崩れるようなことがあっても、ある程度の期間が経てばバランスが調整されると考えるのである。  
第3節

 

商品に直接充てられた労働が商品の価値に影響を与えるだけではなく、労働の助けになる道具と建物に投下される労働もまた影響を与える。
【道具の使用】
アダムスミスが言及する初期の状態においてさえも何らかの資本―それらは恐らく狩猟者自身によって作られ蓄積されるのであろうが―が、獲物を仕留めるために必要であろう。そうした道具がなければビーバーも鹿も仕留めることはできないであろう。従って、こうした動物の価値はそれらを仕留めるのに必要な時間と労働だけではなく、狩猟者の資本、即ちそれらを仕留める際の助けとなった道具を供給するために必要とされる時間と労働によっても規定されるであろう。
ビーバーを仕留めるのに必要な道具が、鹿を仕留める道具を作るのに必要な労働より多くの労働を用いて作られたと仮定しよう。それは、前者の動物に近づくことは大変に困難であり、その結果その獲物により正確に照準を合わせる必要があるからである。そうなれば、1匹のビーバーが2頭の鹿以上の価値があっても自然なことであろう。そして、まさにこの理由によって全体としてはより多くの労働がビーバーを仕留めるために必要になるであろう。
【道具の耐久性】
次に、その両方の道具を作るのに同じ量の労働が必要であったが、しかし、それらの道具の耐久性が全く違ったと仮定しよう。耐久性のある道具からは、その道具の価値のほんの一部分しかそれによって生産されたその商品に移転されないであろう。そして、耐久性が低い道具からは、その価値のより大きな部分がその商品に現実化されるであろう。
ビーバーと鹿を仕留めるために必要な道具は全て一つの階級の人々に属するかもしれない。そして、それらを仕留めるために用いられる労働はもう一つの階級によって提供されるかもしれない。ただそれでもそれらの相対価格は、その資本の形成とそれらの動物を仕留めることの双方に投下された実際の労働量に比例するであろう。  
【解説】
リカードは、ビーバーと鹿の相対価値は、道具の製作に費やされた労働量とそれを仕留めるために直接費やされた労働量の合計に比例すると言うが、実際にはそうはならないであろう。何故ならば、リカード自身が直前で、「耐久性のある道具からは、その道具の価値のほんの一部分しかそれによって生産されたその商品に移転されないであろう」と言っているからである。  
【資本家の取り分と商品の価格】
労働と比較して資本が豊富にあったり僅かしかなかったりする様々な状況下で、そして、人々を養うために欠かすことのできない食料と必需品が豊富にあったり僅かしかなかったりする状況下で、あれやこれやの部門に同じ量の資本を投下した者は、得られた生産物のうちの半分、1/4、或いは1/8を受け取り、そして残りが労働を提供した者たちの賃金として支払われるかもしれない。しかし、こうした分配がこうした商品の相対価値に影響を与えることはあり得ないであろう。というのは、資本の利潤が大きかったり小さかったりしても、つまり利潤率が50%、20%、或いは10%だったとしても、或いは賃金が高かかったり低かったりしても、利潤と賃金は両方の部門に等しく作用するからである。
社会の職業が発展して、漁業に必要なカヌーや釣りざおを供給する者もいれば、種や農業に最初に用いられた粗末な機械を供給する者もいるとしよう。しかしそれでも同じ原理が通用するであろう。生産された商品の交換価値は、それらの生産に投下された労働量に比例するであろう、と。生産に直接用いられた労働だけではなく、特定の労働を実現させるために必要な道具や機械の生産に用いられた労働も含めて、である。
【商品の価値を構成する労働の具体例】
もし、我々が、改良がなされ技術や商業が発達した社会に注意を向けてみれば、そのときにもなお商品の価値がこの原理に素直に従って変動することに気がつくであろう。例えば靴下の交換価値を計測してみると、我々は他の品々と比べたその靴下の価値が、それを製造し市場に持ち込むのに必要な労働量に依存することが分かるであろう。第一に、綿花が栽培される土地を耕作するのに必要な労働がある。第二に、その綿花を靴下が製造される国に運搬する労働がある。その労働には綿花が運ばれる船を製造する労働の一部が含まれ、その賃金はその商品の運賃に上乗せされる。第三に、紡績工と織り手の労働がある。第四に、靴下の製造に貢献する建物や機械を作った技師や鍛冶屋や大工の労働の一部がある。第五に、小売人の労働やそれ以外の多くの、もういちいち挙げるまでもないが、そうした人たちの労働がある。こうした様々な労働の総合計が、この靴下と交換される他の品々の量を決定する。一方、そうした品々に投下されている様々な労働に対しても同じような考慮がなされ、その靴下に与えられるそうした品々の量を等しく決定することとなる。
【省力化と交換価値の低下】これが交換価値の真実の基礎であるということを確信するために、製造された靴下が他の品々と交換されるために市場に来る前に、綿花が通らなければならない様々な過程の一つを省略できる何らかの改善がなされたと仮定しよう。そしてまたその結果を見てみよう。もし、綿花の栽培に必要とされる人の数が少なくなったり、或いは航海に用いられる船員の数が少なくなったり、或いは綿花を我々の下に運ぶ船の建造に必要な船大工の数が少なくなったり、或いはまた建物の建設や機械の製造に必要な人手が少なくなったり、或いはこれらの機械が建造されたときにもっと能率を上げたりするならば、靴下の価値は不可避的に低下するであろう。そしてその結果、他の品々を支配する量は減少するであろう。靴下の価値は落ちるであろう。何故ならばその製造に必要な労働量が減ったからである。従って、そうした労働の省力化が起きていない他の商品のより少ない量としか交換されないであろう。
労働使用の節約は、商品の相対価値を必ず引き下げる。その労働の節約が、商品の製造そのものに必要な労働であろうと、生産に貢献する資本の形成に必要な労働であろうとも、である。いずれの場合にも靴下の価格は低下するであろう。靴下の製造に直接必要な漂白工、紡績工、織り手などとして雇われる人たちの数が少なくなろうと、或いは、間接的に関係する船員、運搬人、技師、鍛冶屋などとして雇われる者の数が少なくなろうとも、である。一方のケースでは、労働の節約分の全てが靴下の価格に反映されるであろう。何故ならば、そうした労働は全て靴下の製造に向けられたからである。他方のケースでは、労働の節約分の一部しか靴下の価格には反映されないであろう。残りの労働は、その生産に建物、機械、及び車が貢献した他の全ての商品に充てられるからである。
【具体例】
社会の初期の状態において、狩猟者の弓及び矢が、漁業者のカヌー及び釣りざおと同じ価値で同じ耐久性を有していたと仮定しよう。双方とも同じ労働量の産物であるからだ。そうした環境では、狩猟者の1日の労働の成果である鹿の価値は、漁業者の1日の労働の成果である魚の価値と全く等しいであろう。魚と獲物の相対価値は、それぞれに現実化された労働量によって全てが規定されるであろう。生産量がどれだけであろうと、或いは一般的な賃金水準、或いは一般的な利潤率がどれほど高かろうと低かろうと、である。
例えば、漁業者のカヌーと釣りざおが100ポンドの価値があり、そしてそれらは10年間持つとみられ、そして年間の賃金が100ポンドの10人を雇い、それらの人々が1日の労働で20匹の鮭を獲ったと仮定しよう。狩猟者の用いる道具も100ポンドの価値があり、そして10年間持つとみられ、そして年間の賃金が100ポンドの10人を雇い、そしてそれらの人々が1日で10頭の鹿を獲ったと仮定しよう。そうなれば1頭の鹿の自然価格は2匹の鮭になろう。それを獲った人々に与えられる全生産物のうちの割合が大きかろうと小さかろうと、である。  
【漁業者と狩猟者の比較】  
漁業者 狩猟者
資本の価値 100ポンド(カヌー、釣りざお) 100ポンド(道具)
耐用年数 10年間 10年間
労働者 10人(100ポンド) 10人(100ポンド)
獲得物 鮭20匹/日 鹿10頭/日
価値の比率 1/鮭1匹 2/鹿1頭
【利潤と賃金の関係】
利潤の問題に関しては、賃金として与えられる割合が最も重要である。というのも、利潤は、賃金が低いか高いかにきっちり比例して高いか低いかになるということが直ちに分るに違いないからである。しかし、そのことは、魚と鹿の相対価値には少しも影響を与えることはできないであろう。というのは、賃金は、両方の仕事において同時に高いか低いかになるからである。もし、狩猟者が、彼の獲物と引き換えにより多くの魚を自分に与えるように漁業者に仕向けるために、彼の獲物の大きな割合、つまり大きな割合の価値を賃金として支払ったという言い訳を強調したならば、後者もまた、同じ原因によって同様に影響を受けていると述べるであろう。従って、どのように賃金と利潤が変動しようと、そして資本の蓄積の効果がどれほど大きかろうと、全ての状況において、彼らが引き続き1日の労働によって同じ量の魚と獲物を手に入れる限り、自然な交換率は1匹の鹿に対して2匹の鮭ということになろう。
もし、同じ量の労働でより少ない魚やより多い獲物が手に入ったならば、魚の価値は獲物の価値に対して上がるであろう。その反対に、同じ量の労働でより少ない量の獲物しか手に入らないか、より多くの魚が手に入ったならば、魚に比べ獲物の価値は上がるであろう。
【価値尺度があれば】
仮に、それ自身の価値が変わることのない何らか別の商品があったとすれば、我々は魚と獲物をこの商品と比べることによって、どれだけの変動分が魚の価値に影響を及ぼした原因に起因するものなのか、そしてどれだけの変動分が獲物の価値に影響を及びした原因に起因するものなのかを確認することができるであろう。
お金がそうした商品であると仮定しよう。もし、1匹の鮭が1ポンドの価値があり、1頭の鹿が2ポンドの価値があるとしたら、1頭の鹿は2匹の鮭の価値があるであろう。しかし、1頭の鹿は3匹の鮭の価値を有するようになるかもしれない。というのも、鹿を手に入れるためにより多くの労働が必要となるかもしれず、また、鮭を手に入れるための労働が少なくなるかもしれず、或いは、両方の原因が同時に働くかもしれないからである。
仮に、我々が、価値が変動することのないこの標準物を持っていたとすれば、我々はこうした原因のいずれがどの程度作用しているのかを簡単に確認するかもしれない。もし、鹿が3ポンドに上昇する一方で、鮭が引き続き1ポンドで売られたら、我々、鹿を手に入れるために必要な労働が増えたと判断するかもしれない。もし、鹿が引き続き2ポンドという同じ価格で売られ、同時に鮭が13シリング4ペンスで売られたとすれば、そのときには我々は、鮭を手に入れるために必要な労働が少なくなったと確信するかもしれない。そしてもし、鹿が2ポンド10シリングに上昇し、そして鮭が16シリング8ペンスに下がったら、我々は、両方の原因がこれらの商品の相対価値の変動に作用したと確信するであろう。
【賃金の変動と商品の相対価値】
労働の賃金が変動しても、こうした商品の相対価値には如何なる変更ももたらすことはできないであろう。というのも、賃金が上昇したとしても、どのような仕事においても、より多くの労働量が必要になることはないからである。しかし、高い賃金が支払われるであろう。そして、狩猟者と漁業者に獲物と魚の価格を引き上げさせようとする同じ理由が、鉱山の所有者に対しても金の価値を引き上げさせようとするであろう。こうした誘因はこれら3つの仕事に同じような力で作用するので、また、賃金の上昇の前でも後でもそれらの仕事に従事する者の相対的な地位に変更はないので、獲物と魚と金の相対価値は変わらない状態が続くであろう。賃金は20%上がるかもしれない。その結果、利潤がその割合を上回って低下するかもしれず、或いはそれほどは低下しないかもしれないが、いずれにしても、こうした商品の相対価値には少しも変更を引き起こさないであろう。
【商品の相対価値の変化】
さて、同じ量の労働と固定資本を用いてより多くの魚を産出することができるようになったが、金と獲物の産出量は増えることがないと仮定すれば、魚の相対価値は金と獲物に比較して低下するであろう。仮に、20匹の鮭ではなく25匹の鮭が1日の労働の産物であったとすれば、鮭の価格は1ポンドではなく16シリングに低下するであろう。そして、2匹の鮭ではなく2匹半の鮭が1頭の鹿に与えられるであろう。しかし、鹿の価格は以前と同じく2ポンドのままであり続けるであろう。同様に、仮に同じ量の資本と労働を用いより少ない量の魚しか手に入れることができなくなったとしたら、魚の相対価値は上昇するであろう。それでは、魚の交換価値は一定量の魚を手に入れるのに必要な労働量が多くなったか少なくなったかという理由によってのみ上がったり下がったりするであろう。そして、必要とされる労働量の増減割合を超えて魚の価値が上がったり下がったりすることはあり得ないであろう。  
【解説】
ポンドとシリングとペンスの関係は次のとおり。1ポンド=20シリング。1シリング=12ペンス。従って、1匹の鮭が1ポンドのときに20匹獲れるとするならば、25匹獲れると、1匹の鮭の価格は0.8ポンドになる。そして、0.8ポンドは16シリングになる。  
それでは仮に、我々が他の商品の価値の変動を計測することのできる、価値が変動することのない標準物を有していたとすれば、そうした商品が恒久的に上昇することのできる最高限度というものは、もし、想定される状況の下で生産されたとすれば、生産に必要な追加労働量の割合に応じたものになることが分かるであろう。そして、生産にそれ以上の労働が必要とされない限り、そうした商品の価値は少しも上がることはあり得ないであろう、と。
賃金の上昇は、商品の貨幣価値を引き上げないであろうし、生産のために追加の労働が必要とされない商品であって、固定資本と流動資本の割合が同じであり、かつ同じ耐久性の固定資本を用いて生産した他の商品に対する相対価値を引き上げることもないであろう。もし、他の商品の生産のために必要とされる労働が多くなったり少なくなったりしたら、我々が既に述べたように、それは直ちにその商品の相対価値に変動をもたらすであろう。しかし、そのような変動は、必要とされる労働量に変化が起こったためであり、賃金が上がったからではない。  
第4節

 

商品の生産に用いられた労働量が商品の相対価値を規定するという原理は、機械や固定的で耐久性のある資本の使用によって大きく修正される。
【資本の耐久性と資本の組み合わせ】
前の節で、我々は、鹿と鮭を仕留めるのに必要な道具は、同じような耐久性を有し、かつ同じ量の労働の成果であると仮定した。そして、鹿と鮭の相対価値の変動は、それらを手に入れるのに必要な労働量の変化にのみ依存することを見てきた。しかし、社会の全ての状態において、様々な仕事に用いられる道具、建物、及び機械の耐久性の程度は区々であり、それらを生産するための労働の量も区々であろう。
労働を養う資本と道具、機械、及び建物に投じられる資本の割合もまた、様々であるかもしれない。この固定資本の耐久性の相違と、二つの種類の資本が組み合わされる割合の相違が、商品の生産に必要な労働量が多いか少ないかということ以外の、商品の相対価値の変動に対するもう一つの原因を持ちこむのである。この原因とは、労働の価値の上昇或いは低下である。
【固定資本と流動資本】
労働者によって消費される食料と衣類、労働者が働く建物、そして労働の助けになる道具は、全て消耗する性格を有している。しかし、こうしたいろいろな資本が長持ちする期間は大変に区々である。蒸気機関は船よりも長持ちするであろう。船は労働者の衣類よりも長持ちするであろう。そして、労働者の衣類は、彼が消費する食料よりも長持ちするであろう。
資本が急速に消耗するかどうかに応じて、また何度も再生されることが必要とされるかどうかに応じて、つまり消耗が緩やかであるかどうかに応じて流動資本か固定資本の名の下に分類される。
(注)この区別は本質的なものではなく、区分けの線を正確に引くことはできない。
その保有する建物と機械が、価値が高く耐久性のあるビールの醸造業者は、より大きな固定資本を用いると言われる。その反対に、資本が主に賃金の支払いに費やされ、そしてその賃金が食料と衣類、つまり建物と機械よりも消耗度が高いものに支出される靴屋は、資本の大部分を流動資本として用いると言われる。
流動資本は回転する、即ち資本家の下に戻ってくるが、還流する期間は一様
ではないとも言うべきである。農業者が種を撒くために購入する小麦は、パン屋がパンを作るために購入する小麦に比べれば、より固定的な資本である。一方は、小麦を土の中に放置し、1年間は収益を得ることがない。他方は、それを臼で挽いて小麦粉にし、彼の顧客に対してパンにして売ることができる。そして、1週間のうちに資本を再び元通りにするか、或いは他の事業を始めることができる。  
【解説】
固定資本とか流動資本という言い方は、聞き慣れないかもしれないが、経済学で言う資本とは、貸借対照表上の「資本」を指すのではなく、生産された者のうち、消費されずに残った将来の生産に役立つ生産物を指す。つまり、アダムスミスやリカードが言う流動資産や固定資産は、我々が流動資産や固定資産と呼ぶものと同じであると考えてよかろう。  
【固定資本と流動資本の組み合わせの影響】
それでは、2つの業種が同じ量の資本を用いるかもしれない。しかし、その資本は、固定資本と流動資本という点でみれば、非常に異なった配分になっているかもしれない。ある業種では流動資本として用いられるものが非常に少ないかもしれない。即ち、労働を養う資本が少ないということだ。機械、道具、及び建物など比較的に固定的で耐久性を有する資本に主に投下されているかもしれない。また、ある業種では同じ量の資本が用いられているかもしれないが、それは主に労働者を養うために用いられ、道具、機械、及び建物に投じられる資本は非常に少ないかもしれない。労働の賃金の上昇は、そうした異なった状況で生産された商品に対し必ず不均一な影響を与えるであろう。
もう一度。2人の製造業者が、同じ量の固定資本と同じ量の流動資本を用いるかもしれない。しかし、それらの固定資本の耐久性は全く違っているかもしれない。ある製造業者は1万ポンドの蒸気機関を保有するかもしれないし、またある製造業者は同じ価値の船舶を保有するかもしれない。
もし、人々が機械を生産に用いることはなく、専ら労働だけを用いたとしたら、そしてそれらの商品を市場に持ち込むのにかかる期間が同じ長さであったとしたら、そうした商品の交換価値は、用いられた労働の量に正確に比例するであろう。
もし、人々が同じ価値を有し同じ耐久性を有する固定資本を用いたとしたら、そのときも、生産された商品の価値は同じになり、それらの商品は生産に用いた労働量が多いか少ないかに応じて変動するであろう。 【賃金上昇の影響】
しかし、同様の状況で生産される商品は、それらの商品の生産に必要とされる労働が増加するか或いは減少するかということ以外の原因では変動することはないであろうが、それでも、同じ割合の固定資本を用いて生産されてはいない他の商品と比べるときには、私が以前述べた他の原因、つまり労働の価値の上昇からも変動するであろう。例えそれらの商品の生産に用いられる労働量が増えたり減ったりしていなかったとしても、である。
大麦とカラス麦は、如何に賃金が変動しようと、互いに同じような関係を維持するであろう。綿製品とウールの布地も、もしそれらが同じような条件で生産されたのであれば、同じような関係を維持するであろう。しかし、賃金が上がったり下がったりすると、大麦は綿製品と比べて価値が大きくなったり小さくなったりするであろう。また、カラス麦のウールの布地に対する関係も同じであろう。
【具体例】
2人の男がいて、それぞれが100人の人間を1年間、2つの機械を作るために雇い、そしてもう1人の男がいて、同数の人間を穀物の栽培のために雇うと仮定しよう。その年の終わりの時点で、各機械の価値は穀物の価値と同じであろう。というのも、それぞれが同じ量の労働により生産されるからだ。それらの機械の所有者の1人が、次の年に100人の労働の助けを得て布地の生産にその機械を用いると仮定しよう。そして、もう1人の機械の所有者も同じように次の年に100人の労働の助けを得て綿製品の生産に機械を用いると仮定しよう。その一方で、農業者は今までと同じように穀物の耕作に100人の労働者を用いると仮定しよう。
2年目の年に彼らは全て同じ数の労働者を雇っているだろう。しかし、毛織物業者の商品とその機械を合わせたものは、また綿製造業者の商品とその機械を合わせたものは、200人の人間を1年間用いた労働の結果となろう。或いはむしろ、100人の人間を2年間用いた労働の結果となろう。その一方、穀物は100人の人間の1年間の労働の結果となるであろう。その結果、もし穀物の価値が500ポンドであれば、毛織物業者の機械と布地を合計したものは1000ポンドの価値にならねばならないし、綿製造業者の機械と綿製品を合計したものも穀物の価値の2倍にならなければならない。  
【条件設定】  
毛織物業者 綿製造業者 農業者
1年目:100人を1年間 1年目:100人を1年間 1年目:100人を1年間
雇い機械を作る。 雇い機械を作る。 雇い穀物を生産する。
2年目:機械と100人の労働で布地を作る。 2年目:機械と100人の労働で綿製品を作る。 2年目:1年目と同じように穀物を生産する。
しかし、それらの価値は、穀物の価値の2倍を超えるものとなろう。というのは、毛織物業者と綿製造業者の資本の1年目の利潤が彼らの資本に加えられているからである。一方、農業者の利潤は支出され、使用されている。それでは、彼らの資本の耐久性の程度の違いによって、或いは同じことであるが、そうした商品の1組が市場のもたらされることができるまでに経過しなければならない期間のためにそれらの商品の価値は上がるであろう。それらの商品に投じられた労働の量にきっちり比例することはなくなるであろう。それらの価値は、最も価値あるものを市場に持ち込むことができるようにするためにより長い時間が経過する必要があり、それに対する補償をするために、1に対する2ではなくそれより幾分大きくなるであろう。
【時間に対する補償】
各労働者の労働に対して年間50ポンドが支払われたと仮定しよう。つまり5000ポンドの資本が用いられ、利潤率は10%だったとしよう。穀物と同様、2つの機械の価値は1年目の終わりには、5500ポンドになるであろう。2年目には製造業者たちと農業者は再び5000ポンドを用いて労働者を雇うであろう。従って、彼らは再びそれぞれの商品を5500ポンドで売るだろう。しかし、機械を使う者たちは、その農業者と同じ立場になるために、労働者のために用いた5000ポンドの資本に対し5500ポンドを手に入れなければならないだけではなく、5500ポンドの利潤としてさらに550ポンドを手に入れなければならない。その5500ポンドというのは、彼らが機械に投資しているお金の額である。この結果、彼らの商品は6050ポンドで売られなければならない。  
【解説】
ここでは機械の耐久性は永久であると想定されているように思われる。仮に耐用期間が短いとすれば、その機械を用いて作られた商品の価格は相当高くなる。例えば、耐用期間が1年だとすれば、(5000+500)×1.1+5000×1.1=11550ポンドとなるであろう。  
それでは、ここにそれぞれの商品の生産のために毎年正確に同じ量の労働を用いる資本家たちがいるが、それでもそれぞれが用いた固定資本の量、つまり累積された労働量が異なるために、彼らの生産する商品の価値は異なるのである。
布地と綿製品の価値は同じであろう。何故ならば、それらは、同じ量の労働と同じ量の固定資本の生産物であるからだ。しかし、穀物の価値はこうした商品の価値と同じではない。何故ならば、固定資本に関する限り、それらは違った環境の下で生産されるからだ。
【賃金上昇の影響】
しかし、それらの相対価値は、労働の価値の上昇によってどのような影響を受けるのであろうか。布地と綿製品の相対価値に何の変化も表れないのは明らかである。というのも、想定されている環境では、一方に作用する影響は同じようにもう一方にも作用するに違いないからだ。また、小麦と大麦の相対価値も如何なる変更も被らないであろう。というのも、固定資本と流動資本に関する限り、2つとも同じ条件で生産されるからだ。しかし、布地に対する穀物、或いは綿製品に対する穀物の相対価値は、労働の価値の上昇によって変更されるに違いない。
【賃金の上昇と利潤】
利潤の低下を引き起こさない労働の価値の上昇はあり得ない。もし、穀物が農業者と労働者に分配されることになっているのであれば、後者に与えられる割合が大きくなればなるほど前者に残される割合は小さくなるであろう。そこで、もし布地或いは綿製品が作業者とその雇い主の間で分配されるのであれば、前者に渡される割合が大きければ大きいほど、後者に残される割合が小さくなるであろう。
【具体例】
それでは、賃金の上昇のために、利潤が10%から9%に落ちると仮定しよう。彼らの共通の商品価格(5500ポンド)に固定資本への利潤として550ポンドを加えるのではなく、それらの製造業者たちはその額に対し9%を加えるに過ぎないであろう。即ち、495ポンドである。この結果、価格は6050ポンドになるのではなく5995ポンドになるであろう。
穀物は5500ポンドで売れ続けると思われるので、より多くの固定資本が用いられた製造品は、穀物や他のより少ない固定資本しか入っていない商品と比べて価値が低下するであろう。労働の価値が上昇したり低下したりすることを原因とする商品の相対価値の変動の程度は、全体の資本に対する固定資本の割合に依存するであろう。非常に高価な機械によって、或いは非常に高価な建物のなかで生産された商品や、或いは市場に持ち込むまでに長い時間のかかる商品、これらは全て、相対価値が低下するであろう。一方、主に労働によって生産された商品、或いは速やかに市場に持ち込むことのできる商品は、相対価値が上昇するであろう。  
【解説】
製造業の一般利潤率が10%から9%に落ちるとき、何故農業の利潤率は変化しないのであろうか?ここで、リカードは「利潤が10%から9%に落ちると仮定しよう」といっているが、むしろ、「利潤が現実化するまでに必要とされる時間に対する報酬率が10%から9%に低下したと仮定しよう」と言うべきではなかったのかと思われる。そうすれば、「穀物は5500ポンドで売れ続ける‥」ということにも無理がなくなる。  
【商品の価値を変動させる2つの原因】
しかし、読者は、この商品の価値の変動の原因がもたらす効果が比較的軽微であることに気がつくであろう。利潤率を1%低下させるほどの賃金の上昇があっても、私が想定した状況で生産された商品の相対価値はたった1%しか変動しない。それほど大きな利潤の低下が起きるのに、それらの商品の価格は6050ポンドから5995ポンドに落ちるだけである。賃金の上昇によってこれらの商品の相対価格に起き得る最大の効果といっても、6、7%を超えることは起き得ないであろう。というのも、恐らく利潤は如何なる状況においても、それを超えるような価格の全般的な、そして恒久的な低下を認めることができないからである。
商品の相対的価値の変動を引き起こすもう一つの大きな原因、即ち商品を生産するのに必要な労働量の増加や減少が起きる場合にはそうではない。もし、穀物を生産するのに100人ではなく80人が必要とされるのであれば、穀物の価値は20%低下するであろう。つまり、価格が5500ポンドから4400ポンドに低下するであろう。もし布地を生産するのに100人ではなく80人で十分になれば、布地の価格は6050ポンドから4950ポンドに低下するであろう。
恒常的な利潤率の変動は、如何なる大きさのものであっても、年数が経たないと作用しない原因の結果であるが、一方、商品を生産するために必要となる労働量の変化については、日常の出来事である。
機械、道具、建物の改良、及び原材料を生産する面での改良がある度に労働が節約され、そして我々は、そうした改良が適用になる商品について、容易に生産を行うことができるようになり、その結果、商品の価値が変わる。それでは、商品の価値の変動の原因を計測するに当たって、労働の価値が上がったり
下がったりすることによる効果を全く考慮しないということは間違っているが、だからといってそれを重要視し過ぎるのも間違いであろう。この結果、この書物のこの後の部分では、私はこの変動の原因について場合によっては言及しようが、商品の相対価値に起きる全ての大きな変動は、商品を生産するためにそのときどきに必要とされる労働量が多くなったり少なくなったりすることによって引き起こされると考えることにする。  
【解説】
恒常的な利潤率の変動は何年かを経て起こるのに対し、商品の生産に必要な労働量が変化することは日々起こり得るとリカードは言うが、これは何を意味するのだろうか?リカードは、一般的利潤率を決定する最大の要因は、土地の生産力であると考える。つまり、国が発展するに従って、新たに耕作可能な肥沃な農地が限られるようになると、穀物の輸入の自由化を認めない限り、一般的利潤率の低下は避けられなくなる。こうして、一般的利潤率は、永い期間を経てゆっくりと変化するとリカードは考える。他方、個々の産業においては、機械化や技術の進歩が起こる度に、生産に必要な労働量が少なくなる傾向があり、従って商品の価値を引き下げる力が働く。しかし、個々の産業で労働の省力化が起きても、それは必ずしも利潤率を引き上げることにはならない。何故ならば、もしある特定の業種の利潤率だけが上昇しようとすると、他の業種から資本の流入が起こるからである。そして、労働の節約が起きても、他の業種から資本の流入が起きるのであれば商品の価値を低下させるだけであろう。  
【市場に持ち込むまでの時間と価値との関係】
もし、それらの生産に同じ量の労働が投じられた幾つかの商品が、同じ時間で市場に持ち込むことができないのであれば、それらの交換価値に違いが生じることは言うまでもないであろう。私が、ある商品の生産のために1000ポンドの費用で20人の人間を1年間雇うと仮定しよう。そして、その年の終わりに、商品を完成させるためにさらに1000ポンドを用い、再び20人を1年間雇い、そしてその商品を2年後に市場に持ち込むと仮定しよう。もし、利潤率が10%であれば、私の商品は2310ポンドで売れなければならない。というのも、私は1年間に1000ポンドを用い、そしてさらに1年間に亘り2100ポンドを用いたからだ。もう一人男がいて、全く同じ量の労働者を雇うが、彼の場合には全て1年目だけに雇う。彼は2000ポンドの経費で40人を雇う。そして1年目の終わりに10%の利潤を伴って売る。つまり2200ポンドで売る。それではここに、同じ量の労働を投じた2つの種類の商品があるが、一方は2310ポンドで売られ、他方は2200ポンドで売られる。
このケースはさきほどのケースとは異なって見えるが、実際には同じことである。両方のケースとも、一方の商品の価格が高いのは、その商品を市場に持ち込むのにより長い時間がかかるからである。前のケースでは、機械と布地の合計した価格が穀物の価格の2倍を上回っていた。もっとも、それらには2倍の量の労働しか投じられなかったが。第二のケースについては、一方の商品は他の商品よりも価値が大きい。もっとも、その生産により多くの労働が用いられた訳ではなかったが。両方のケースにおいて、価値の違いは利潤が資本として蓄積されることから生じる。そして、利潤の発生が保留される期間に対する正当な補償に過ぎない。
【結論】
それでは、異なった業種において用いられる資本を、固定資本と流動資本とに違った割合で配分することによって、そのルールに対し大きな修正が加えられるように見える。そのルールとは、ほぼ労働だけが生産に用いられるときに遍く適用されるものであって、商品の価値はその生産に必要な労働の量が増えたり減ったりしない限り変わることはないというものである。こうして、そのルールに大きな修正が加えられるように見えるのは、労働の価値が上昇すればただそれだけで、労働量に変化がないのに、その生産に固定資本を用いる商品の交換価値を引き下げることがこの節で示されているからである。そして、固定資本の量が大きくなればなるほど価格の低下は大きくなるであろう。  
第5節

 

賃金の上昇や低下によって価値は変動しないという原理は、資本の耐久性が一様ではないことと、資本が資本家の下に戻ってくるまでの速さが一様でないことによっても修正を受ける。  
【解説】
The principle that value does not vary with the rise or fall of wages~
この英文をどう訳すべきか?一見難しい英文には見えない。「価値は賃金の騰落とともに変動するものではないという原理」(羽鳥・吉澤訳)のように訳してしまいがちだ。しかし、そのように訳してしまうと、どうもしっくりこない。賃金が変化することと商品の価値の変化が同時に起きることがあり得るからだ。例えば、農業技術の進歩などによって穀物の生産力が増大し、その結果賃金が低下することと、ある商品について、その商品を生産するのに必要な労働量が変化することによってその商品の価値が変動することが同時に起きることがあり得る。
このwithを「〜とともに」と訳すから、文意が納得できなくなるのである。withを原因を表す前置詞と理解し、「〜によって」と訳したらどうであろうか?そうなれば、賃金が上がったり下がったりしても、商品の価値が上がったり下がったりすることにはならず、単に利潤が下がったり上がったりするだけだというリカードの主張が明瞭になる。  
【資本の耐久性と価値の関係】
前節で我々は、2つの異なった業種の2つの等しい資本の、固定資本と流動資本の割合が等しくないと仮定した。そこで今度は、割合は同じであるが、耐久性が同じではないと仮定しよう。固定資本は、その耐久性が弱まるにつれ流動資本の性格に近づく。製造業者の資本を維持するために、より短い期間で消耗され、その価値が再生産されることとなる。
我々は、ある製造業部門において固定資本の比重が大きくなるのに比例して、そしてそのとき賃金が上がると、その製造業部門で生産された商品の価値は、流動資本の比重が大きい製造業部門で生産された商品の価値よりも相対的に低くなることを見たばかりだ。固定資本の耐久性が低くなり、流動資本の性格に近づくのに比例して、同じような結果が同じ原因によって引き起こされることとなる。 
【解説】
「同じような結果が同じ原因によって引き起こされることとなる」これをそのまま理解すると、固定資本の割合が小さくなるのに比例して、その商品の価値は相対的に低下するように読めてしまう。しかし、それではリカードの言いたいことの反対になるのではないか?リカードは、固定資本の割合が小さくなると、そしてそのときに賃金が上昇すれば、それに比例して商品の価値は相対的に上昇すると言いたかったのではないのか? 
もし、固定資本が耐久性を有しないとすれば、それを元の状態のままに維持するために毎年大量の労働を必要とすることとなる。しかし、そうして投下された労働は、その製造された商品に実際に支出されたものとみなされるかもしれず、そうなればそうした商品は、その投じられた労働に比例した価値を有するに違いない。もし、私が殆ど労働を用いずに商品の生産が可能な2万ポンドの価値がある機械を保有していたならば、そしてそうした機械の減耗の程度が極めて僅かであったならば、そして一般的な利潤率が10%であったならば、私は私の機械を用いたために、2000ポンドを大きく上回る価格をその商品に付ける必要はないであろう。しかし、もし機械の減耗の程度が大きく、そのためにその機械を効率的な状態に維持するために必要とされる労働者の数が年間50人であったとしたら、私は、私の商品に価格を上乗せすることが必要となるであろう。そして、その上乗せ額は、他の商品の製造に50人を投じ、かつ機械を全く使用しなかった他の如何なる製造業者によっても得られるであろうと思われる金額に等しい額であろう。
【賃金上昇の影響】
しかし、労働の賃金の上昇は、急速に消耗される機械を用いて生産された商品と、ゆっくりとしか消耗されない機械を用いて生産された商品とでは、一様な影響を与えることはないであろう。一方の商品の生産に当たっては、より大量の労働が、生産される商品に継続的に移転されるであろうが、もう一方の商品については、そのように移転される労働量は僅かなものでしかないであろう。従って、賃金が上がる度に、同じことであるが利潤が低下する度に、耐久性のある資本を用いて生産された商品の相対価値を引き下げることになるであろう。そして、それに比例して、より消耗度が高い資本を用いて生産された商品の相対価値を引き上げるであろう。賃金の低下は、これと正反対の効果を生むであろう。  
【解説】
リカードは、賃金が上がる度に耐久性のある資本(機械)を用いて生産された商品の相対価値を引き下げると言うが、その理由は必ずしも明確ではない。
例えば、次のようなケースを考えてみよう。
10人の労働者でA、B、Cという機械を作る。それらの機械の耐用年数は、それぞれ、1年、5年、10年とする。これらの3つの機械が、その後自動的に商品を生産すると仮定すれば、その価値は次のとおりとなろう。
<毎年生産される商品の価値>
1年、2年、3年、4年、5年、6年、7年、8年、9年、10年
A―10
B―2、2、2、2、2
C―1、1、1、1、1、1、1、1、1、1
耐用年数が10年の機械の維持更新には毎年1人の労働が必要であり、耐用年数が5年の機械には毎年2人の労働が必要である。従って、賃金の上昇が起きても同じように影響を受けると思われるが、そうなればリカードの言うようにはならない。但し、耐用年数が短い機械は毎年維持更新をする一方で、耐用年数の長い機械については維持更新をしないと言うのであれば、耐用年数の長い機械が生産する商品の価値は相対的に低下するかもしれない。  
【具体例】
既に言ったことであるが、固定資本の耐久性の程度は非常に区々である。それでは、どのような業種でも使うことのできる機械が、100人の1年間分の仕事をすると仮定しよう。そして、その機械は1年間だけ持つとしよう。さらに、その機械が5000ポンドであるとし、100人の人間に毎年支払う賃金が5000ポンドであるとしよう。そうなれば、その製造業者にとってはその機械を買おうが、人々を雇用しようが、どちらでもいいことは明らかだ。しかし、労働の価値が上がり、その結果100人を1年間雇うのに合計5500ポンドかかるようになると仮定すれば、その製造業者はもはや何の躊躇もなくなり、5000ポンドでその機械を購入して仕事をさせることが彼の利益になることは明らかだ。しかし、その機械の価格が上昇することにはならないのか?労働の価値が上がった結果、その機械も5500ポンドにならないのか?
【機械の価格が上がる可能性】
もし、その機械の製作に用いる資本がなかったとしたら、そして機械を作る者に対する利潤が発生することもないというのであれば、その機械の価格は上がるであろう。例えば、もしその機械が、各人の賃金が50ポンドである労働者100人が1年間働いた成果であって、その結果その機械の価格が5000ポンドで
あったとしたら、仮に賃金が55ポンドに上がれば、その価格は5500ポンドとなろう。しかし、そんなことはあり得ない。100人未満の人しか用いられていないのだ。さもなければ、その機械を5000ポンドで売りに出すことはできないであろう。というのも、その5000ポンドの中から労働者を雇った資本の利潤が支払われなければならないからだ。それでは、1人当たり50ポンドの賃金で85人の人間しか雇われなかったと仮定しよう。つまり、年間4250ポンドになる、と。そして、その機械を売った代金が労働者に支払う賃金を上回る750ポンドが、その技師の資本の利潤となったと仮定しよう。賃金が10%上昇したならば、彼は425ポンドの追加の資本を用いることを余儀なくされるであろう。従って、4250ポンドではなく4675ポンドを用いることになるであろう。そして、その資本に対し、彼が彼の機械を5000ポンドで売り続けたとすれば、彼は325ポンドの利潤しか得ることはないであろう。しかし、これが正に全ての製造業者や資本家の現実なのである。
賃金の上昇は彼らの全てに影響を与える。もし、その機械のメーカーが、賃金が上がった結果その機械の価格を引き上げるのであれば、尋常ではない量の資本がそうした機械の生産に投下されることになり、ついにはその機械の価格は通常の利潤を与えるだけの水準にまで低下するであろう。 
(注)我々はここで、古い国々は機械の使用に駆り立てられ、そして新しい国々は労働の使用に駆り立てられるのは何故か、という理由を知る。人々を養うための食料の供給が困難になる度に労働は必ず上がるであろうし、労働の価格が上がる度に機械を使用する新たな誘いが起きるであろう。人々を養うための食料の供給が困難になるということは、古い国では、常に起こっている。一方、新しい国々では、労働の賃金が少しも上がらないのに人口が大きく増えることがあり得る。700万人目、800万人目、そして900万人目の人に食料を供給することが、200万人目、300万人目、そして400万人目の人に対するのと同じように容易に行うことがあり得る。 
それでは、我々は、賃金上昇の結果としては、機械の価格は上がらないであろうということが分かる。
しかし、一般的な賃金の上昇の中で、彼の商品の生産に必要な経費を増やすことがない機械に頼ることできるその製造業者は、もし彼が自分の商品に今までと同じ価格を付け続けることができるのなら、特別な利益を享受することになろう。しかし、既に見てきたように、彼は商品の価格を引き下げることが余儀なくされるであろう。即ち、彼の利潤が一般的水準に下がるまで資本が彼と同じ商売に流入し続けるであろう。  
【解説】
「その機械の価格は通常の利潤を与えるだけの水準にまで低下するであろう。それでは、我々は、賃金上昇の結果としては、機械の価格は上がらないであろうということが分かる」という理由は、次のとおり。
・機械製造業者の利潤率:5000÷4250=1.176517.65%
・労働者100人を用いて生産した商品の価格:5000×1.1765=5882.5
5882.5ポンド
・賃金上昇後の、労働者を用いる場合の利潤率:5882.5÷5500=1.0695
6.95%
・賃金上昇後に、機械の価格が上がらない場合の利潤率:5000÷4675=1.0695
6.95%
従って、賃金上昇後、機械の価格が5000ポンドであれば、一般的利潤率に一致する。
「彼は商品の価格を引き下げることが余儀なくされるであろう」と言うが、具体的に商品の価格が幾らにまで下がるかと言えば、一般的利潤率は6.95%に下がるので、価格は、5000×1.0695=5347.5、即ち、5882.5ポンドから5347.5ポンドへ低下する。但し、事態はこのままでは終息しない。何故ならば、一つの商品に2つの価格が存在することになるからである。恐らく、労働者に対する需要が減少し、賃金の低下がこの後起きるであろう。  
それでは、このようにして一般国民は機械の恩恵を被るのである。
こうしたもの言わぬ機械は、それらが取って代わる労働よりも常に遥かに少ない労働の産物なのである、それらのものが同じ貨幣価値を有しているときでさえ。そうした影響を通して、賃金を引き上げる食料価格の上昇が影響を与える人々の数は少なくなるであろう。上の例のように、100人ではなく85人に影響が及ぶだけであろう。そして、その結果の節約は、製造された商品の価格の低下として現れる。機械も、またその機械によって生産される商品も真実の価値が上がることはない。そうではなく、機械によって作られる全ての商品の価格が低下する。機械の耐久性に比例して低下する。
【結論】
それでは、次のことが分かるであろう。多くの機械や耐久性のある資本が使用される以前の社会の初期の段階においては、同じ量の資本で生産された商品はほぼ同じ価値を有するであろう。そして、そうした商品の生産に必要とされる労働量が多いか少ないかということによってのみ、商品の価値は相対的に高
くなったり低くなったりするであろう。しかし、これらの高価で耐久性のある道具の導入以降は、同じ量の資本を用いて生産した商品が、非常に違う価値を持つであろう。ただ、そういった商品の生産に必要な労働量が多くなったり少なくなったりするのに応じて、それらの相対価値はなお上がったり下がったりしがちではあるが、それらはもう一つの変動を被るであろう。もう一つの変動とは、小さな変動ではあるが、賃金や利潤が上昇したり低下したりすることからも生じる変動である。
5000ポンドで売られる商品は、10000ポンドで売られる他の商品を生産した資本と同じ大きさの資本で生産されるかもしれないので、そうであればそれらの製造業者の利潤は同じになるであろう。しかし、もし、それらの商品の価格が、利潤率の上昇や低下によって変わることがなかったなら、彼らの利潤は同じではなくなるであろう。
如何なる種類の生産であっても、そこで用いられる資本の耐久度に応じて、そうした耐久性のある資本が用いられるそうした商品の相対価格は、賃金とは反比例して変動するようにも見える。そうした商品の相対価格は、賃金が上がれば下がり、賃金が下がれば上がるであろう。これとは反対に、固定資本を余り用いず主に労働によって生産された商品や、価格が評価される仲介物に比べてより耐久性のない固定資本を用いて生産された商品の相対価格は、賃金が上がれば上がり、賃金が下がれば下がるであろう。 
第6節

 

価値の変化しない価値尺度について
【不変の価値尺度】
商品の相対価値が変動したとき、いずれの商品の真実の価値が低下し、いずれの商品が上昇したのかを確認する手段を有することが望まれるであろう。そして、それは、他の商品が晒されている如何なる変動の影響もそれ自身は受けることのない、価値の変わることのない何らかの価値の標準尺度と一つ一つ比較することによってのみ可能であろう。しかし、そうした尺度を持つことは不可能である。何故ならば、価値が確認されようとする対象物が晒される同じ変動にそれ自身が晒されることのない商品など存在しないからである。つまり、その生産のために必要な労働量が多くなったり少なくなったりすることのないものはない。
【次善の策】
しかし、もしこの仲介物の価値の変動の原因が除去されることができれば―例えばもし、我々のお金の生産には常に同じ量の労働が必要とされるということがあり得るとしたら―しかし、それでもなおそれは、完全な価値の標準物、即ち価値が変わることのない価値の尺度になることはないであろう。何故ならば、既に説明に努めてきたように、その生産に必要な固定資本と、我々が価値の変動について確かめたいと思う商品の生産に必要な固定資本の割合が違うために、それも賃金の上昇や低下による相対価値の変動を被ると思われるからである。それはまた同じ理由から、つまり、それを生産するために用いられる固定資本と、それと比べられる商品の生産のために用いられる固定資本の耐久性の程度が違うために、或いは一方のものを市場に持ち込むのに必要な時間が、その価値の変動が確かめられようとする他の商品を市場に持ち込むのに必要な時間と比べて長いか短いかということのために、それは変動を被るかもしれない。そうした事情があるために、考えることのできる如何なる商品であっても、完全に正確な価値の尺度になることはできない。
【金と標準物】
例えば、仮に我々が金を標準物として決めたとしても、それは他の商品と同じように偶発的な出来事の下で手に入れられる、そしてそれを生産するには労働と固定資本を必要とする商品に過ぎないことは明らかである。他の全ての商品と同様、労働の節約がその生産にも起こるかもしれないので、その結果それを生産することが容易になったというそれだけの理由で、他の品々と比べた相
対価値の低下が起こるかもしれない。
仮に、この変動の原因が取り除かれたとし、同じ量の金を手に入れるのには常に同じ量の労働が必要であると我々が仮定しても、それでも金は、他の全ての品々の価値の変動を正確に測定する完全な価値の尺度になることはないであろう。何故ならば、金は他の品々と全く同じような固定資本と流動資本の組み合わせによって生産されることもなければ、同じ耐久度の固定資本によって生産されることもないであろうし、金を市場に持ち込むのに必要な時間の長さも全く同じという訳でもないからだ。
それは、それ自身と全く同じ条件で生産された品々に対しては完全な価値尺度であろうが、それ以外のものに対してはそうではないであろう。例えば、もしそれが、布地と綿製品を生産するのに必要であると我々が仮定した同じ条件で生産されたとしたら、それらの品々に対しては完全な尺度になるであろうが、しかし、穀物、石炭、及び他のより少ない固定資本を用いて生産される品々やより多い固定資本を用いて生産される品々に対しては完全な尺度にはならないであろう。何故ならば、既に示したように恒久的な利潤率に変動が起きる度に、これらの商品の生産に必要な労働量とは関係なく、これらの商品の全ての相対価値に何らかの影響を及ぼすと思われるからである。 
【価値の標準尺度に近似するもの】
仮に金が穀物と同じ条件で生産されたとしたら、そしてそうした条件が決して変わらなかったとしても、金は同じ理由によって常に布地と綿製品の完全な価値尺度ではないであろう。それでは、金も、またそれ以外の如何なる商品も、全ての品々に対する完全な価値尺度にはなり得ない。しかし、利潤率の変動の商品の相対価値に与える影響は、比較的軽微であることは既に述べたところである。また、最も大きい影響は、生産に必要な労働量が変動することによって引き起こされることも既に述べたところである。従って、この価値変動の重大な原因が金の生産から取り除かれると仮定すれば、我々は恐らく理論的に考え得る、価値の標準尺度に最も近いものを保有することになろう。
金は、たいていの商品の生産に用いられた平均的な資本の量に最も近い、2つの種類の資本の組み合わせによって生産される商品であるとみなすことは許されないのか?こうした資本の組み合わせは、2つの極端なケース、一方は殆ど固定資本を用いないもの、そしてもう一方は殆ど労働を用いないものとほぼ等距離の関係にあって、それらの中間値とみなすことは許されないのか?
それでは、もし私が不変の標準物にほぼ近いある標準物を保有していると仮定してよければ、それによるメリットは、どんな場合であっても価格や価値がそれによって評価される仲介物の価値の変動の可能性について煩わされることなく、他の品々の価値の変動について話ができるようになることである。
それでは、私は、金によってできているお金が、他の品々のたいていの価値の変動を被ることを十分認めるところであるが、この研究の目的を促進するために、金は価値が不変のものであって、従って全ての価格の変動は、私が話をしている商品の価値に変動が起きたことによって引き起こされたものであると私は仮定することとする。
【賃金の上昇の影響】
この主題を終える前に、アダムスミスと彼に従った全ての著述家たちが、私の知る限りでは1人の例外もなく、労働の価格の上昇は、常に全ての商品価格の上昇を伴うこととなると主張したと述べておくことが適切であろう。そのような意見は何の根拠もないことを証明できたと私は思う。また、賃金が上昇したときには、価格を評価する仲介物に比べ少ない固定資本を用いて生産された商品しか価格が上がらないであろうということ、そして固定資本を多く用いて生産された商品は、価格が確実に下がるであろうということを証明できたと思う。それとは反対に、賃金が低下したら、価格を評価する仲介物に比べ少ない固定資本を用いて生産された商品しか価格が下がらないであろう。より多くの固定資本を用いた商品は全て、確実に価格が上がるであろう。
【絶対的労働量と価格の関係】
一方の商品は、その費用が1000ポンドになるほどの労働をそれに投じ、そして他方の商品は、その費用が2000ポンドになるほどの労働を投じたからと言って、その結果一方の商品の価値が1000ポンドになり、他の商品の価値が2000ポンドになると私が言っているのではないことについても一言言っておくことが必要であろう。そうではなく、私が言ったのは、それらの商品の価値は互いに1対2になるであろう、そして、それらの商品はその比率で交換されるであろうということである。こうした商品の一方が1100ポンドで売られ、他方が2200ポンドで売られること、或いは一方が1500ポンドであり、他方が3000ポンドであることは、この教義の真実性にとっては何の重要性もない。その問題に対しては、ここでは立ち入らない。それらの相対価値は、それらの生産に投じられた相対的労働量によって規定されるとだけ確認しておこう。 
(注)この教義に関してマルサス氏は、次のようにコメントする。「我々は実際、商品に用いられた労働を、思いのとおりにその真実の価値であると呼ぶことができる。しかし、そうすることで我々は、通常使われている意味とは違った意味で言葉を使うことになる。我々は直ぐに、費用と価値の非常に重要な違いについて混同してしまう。そして、富の生産に対する主要な刺激策について明快に説明することがほぼ不可能になってしまう。その刺激策は、まさにこの相違にかかっているのだ」
マルサス氏は、物の費用と物の価値が同じものである筈だというのが私の教義の一部であると考えているように見える。彼の言う費用というのが、利潤を含んだ「生産コスト」であれば、それはそのとおりである。しかし、上の一節では、これは彼の意味するところではない。従って、彼は私のことを明確に理解している訳ではない。 
第7節

 

価格が常にそれによって表現される、仲介物であるお金の価値の変動から生じる結果と、お金が購入する商品の価値の変動から生じる結果の違い
【お金の価値の変動】
既に説明したように、私は、他の品々の価値の相対的変動の原因をはっきりと指摘するために、お金を価値が不変のものであるとみなす必要があるが、私が既に注意を向けた原因、つまりそれらを生産するために必要な労働量の変化によって引き起こされる商品の価格の変動と、お金それ自体の価値の変動によって引き起こされる商品の価格の変動とのそれぞれから生じる異なる結果に言及することは有益であろう。
お金は価値が変動する商品であるので、貨幣賃金の上昇はしばしばお金の価値の低下によって引き起こされるであろう。この原因によって生じる賃金の上昇は、実際常に商品の価格の上昇を伴うであろう。しかし、そうしたケースにおいては、労働と全ての商品の関係が変わることはなく、変動はお金に限られていることが分かるであろう。
【お金の価値の変動原因】
お金は、外国から手に入れられる商品であるので、そして全ての文明国家において一般的な交換の仲介物となっているので、そしてまた商業と機械の改良が起こる度に、或いは増え行く人口に対する食料と必需品の入手が困難になる度に、異なった比率でそれらの国々に分配されるものでもあるので、絶えず変動を被る。交換価値と価格を規定する原理について述べる際、商品それ自体に属する変動と、価値や価格がそれによって表現される仲介物の変動によって引き起こされる変動の違いを注意深く区別すべきであろう。
【お金の価値の変動の影響】
お金の価値の変動から生じる賃金の上昇は、価格に対し一般的な効果を生み出す。そして、その同じ理由による賃金の上昇は、利潤に対しては真実の効果を何も生み出さない。その反対に、労働者の報酬がより多く支払われるという状況にあること、或いは賃金によって購入される必需品の調達が困難になることから生じる賃金の上昇は、ある場合を除いて価格の上昇という結果を生まない。そうではなく利潤を大きく低下させる効果を有する。一方のケースでは、その国の年間の労働のより大きな割合が、労働者の支援に対し振り向けられる訳ではない。他方のケースでは、より大きな割合が振り向けられる。 
【地代、利潤、および賃金の上昇】
我々が、地代、利潤、そして賃金の上昇や低下を判断するのは、何らかの特定の農場の土地の全生産物が地主、資本家、そして労働者という3つの階級にどのように分割されるかによってであり、明らかに価値が変動する仲介物によって評価される生産物の価値に応じて判断されるのではない。我々が利潤率、地代率、そして賃金率を正確に判断することができるのは、どの階級によって手に入れられる生産物の絶対量によってでもなく、その生産物を手に入れるのに必要な労働量によってである。
【具体例】
機械や農業技術の改良によって生産総額が倍増するかもしれない。しかし、もし賃金、地代、そして利潤も倍増すれば、これら3つは以前と同じようにお互いに同じ関係を保つであろう。そして、どれも相対的に変化したと言うことはできないであろう。しかし、賃金が、この増加分の全てについて分かち合うことがなかったならば、つまり賃金が2倍になるのではなく5割しか伸びなかったとしたら、そして地代が2倍になるのではなく7割5分しか伸びなかったとしたら、残りの増加分は全て利潤になっているので、私は、利潤は上昇する一方、地代と賃金は低下したと言うのが正しいと考える。というのも、もし我々がこの生産物の価値を計測する価値の変動しない標準物を持っていたとしたら、労働者と地主の階級に舞い込んできた価値は以前と比べ少なくなり、その一方で資本家階級に舞い込んできた価値は以前よりも多くなったことを知ることになるからである。
例えば、商品の絶対量が2倍になったが、それらは以前と全く同じ量の労働の生産物であると知るかも知れない。生産された100の帽子と上着と穀物が、もし次のように分配されたら‥
・労働者が以前得た量25
・地主が以前得た量25
・資本家が以前得た量50
合計100
そして、これらの商品の量が2倍になった後、100毎に次のように分配されたら‥
・労働者が得た割合22
・地主が得た割合22
・資本家が得た割合56
合計100
そのケースについて、私は賃金と地代は落ちて利潤は上がったと言うであろう。もっとも、商品の量が多くなった結果、労働者と地主に支払われた量は25から44への割合で増えているであろう。賃金は、それらの真実の価値、即ちそれらの商品を生産するのに用いられる労働と資本の量によって計測されるべきであり、上着にしろ、帽子にしろ、お金にしろ、或いは穀物にしろ、名目的価値によって計測されるべきではない。
私が正に想定したこうした状況では、商品の価値は以前の半分にまで低下しているだろう。そして、もしお金の価値が変わっていなければ、以前の価格の半分にまで低下していることにもなろう。それでは、もしこの価値の変わることのなかった仲介物によって労働者の賃金が低下していることが判明したら、それらの賃金は、かつての賃金以上に安い商品のより多くを労働者に供給することができるとしても、それでもなお賃金の真実の低下が起こったことになろう。 
【お金の価値の変動と利潤率】
お金の価値の変動は、その変動が如何に大きくても利潤率には何の違いも引き起こさない。というのも、製造業者の商品が1000ポンドから2000ポンドに、即ち100%上昇する場合、そして、もしお金の価値の変動が生産物の価値に与えたのと同じ大きさの影響をその価値に対しても与えられた資本が、つまり、彼の機械、建物、及び商売の在庫品も100%上昇するならば、彼の利潤率は同じになるからである。そして、彼はこの国の労働の生産物の同じ量を、そして同じ量だけを支配することになろう。
もし、一定の価値を有する資本を用いて、彼が労働の節約により生産量を2倍にすることができ、そしてその生産物が以前の半分の価格にまで下がる場合、生産物を生みだした資本に対するその生産物の価値は、以前と同じ割合を有するであろう。その結果、利潤はなお同じ率であろう。
もし、彼が同じ量の資本を用いて生産物の量を2倍にすると同時に、お金の価値が何らかの偶然により半分に低下したとすれば、その生産物はそれまでの2倍の貨幣価値で売られるであろう。しかし、それを生産するために用いられた資本もまた以前の貨幣価値の2倍となろう。従って、このケースにおいても生産物の価値は資本の価値に対して以前と同じ割合を有するであろう。そして、生産物は2倍になっても、地代、賃金、そして利潤は、この2倍になった生産物がそれを共有し合う3つの階級に分配される割合に応じて変動するだけであろう。 
第2章 地代について

 

【地代と商品の価値の関係】
しかし、土地の私有化及びその結果としての地代の創造が、商品の生産に必要とされる労働量とは無関係に商品の相対価値に何からの変動をもたらすのかどうか、ということが残された検討課題となる。その主題(【注】価値)のこの部分(【注】地代の及ぼす影響)を理解するためには、我々は地代の性格、及び地代の上昇や低下を規定する法則について調べてみることが必要である。
【地代とは】
地代とは、大地の生産物の一部であって、土壌の本源的で不滅の力の使用に対し地主に支払われる分け前である。しかし、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同される。分かり易い言葉で言えば、農業者が彼の地主に対し毎年支払うものであればどんなものであってもその用語が適用される。もし、同じ広さで、同じ自然の肥沃度を持った2つの隣接する土地のうち、一方の土地が納屋の有する全ての利点を享受できる他に、排水や施肥が適切になされ、さらに垣根や柵や壁で利点が生まれるように区分されているのに、他方の土地にはこうした利点が何もなかったならば、一方の土地の使用に対しては他の土地の使用に比べて自然に多くの報酬が支払われるであろう。しかし、それでも両方のケースにおいてこの報酬は地代と呼ばれるであろう。
しかし、改良された農地に毎年支払われるお金の一部分だけが土壌の本源的で不滅の力に対して与えられるということは明らかである。それ以外の部分は土地の質の改良に用いられたり、土地の生産物の保管に必要な建物を建設するために用いられたりした資本の使用に対して支払われるであろう。
【森林の地代】
アダムスミスは、地代について私がその意味を限定したいと願うような厳密な意味で地代について論ずることもあるが、その用語が通常用いられる一般的な意味合いで使うことがさらに多い。彼は、南ヨーロッパ諸国の木材の需要、そしてその結果木材の価格が高くなったことが、かつては地代を支払う余裕のなかったノルウェーの森林に対しても地代を支払わせる原因となったと、我々に言う。
しかし、彼がこうして地代と呼ぶものを支払った人がその土地にそのときに立っていた価値ある商品のことを考えて、地代を支払ったことは明らかではないのか?また、彼はその木材を販売することによって、利潤をともなって実
際にそれに対する支払いを自分自身に対して行ったことは明らかではないのか?もし、実際木材が取り去られた後で、将来の需要に応えようとして樹木や他の物を植えるために、そのための土地の使用に対しその地主に何らかの補償が支払われたとすれば、そうした補償を正当にも地代と呼んでよかった。何故ならば、それは土地の生産力に対して支払われるものであるからだ。しかし、アダムスミスが述べたケースにおいては、補償は木材を取って販売する権利に対して支払われたのであって、木をそこに植える権利に対して支払われたのではない。彼はまた、石炭鉱山の地代と採石場の地代についても話をする。そして、それらに対しても同じ意見が当てはまる。即ち、鉱山や採石場に対して支払われる補償は、それらの場所から取り去ることのできる石炭や石の価値に対して支払われるのであって、土地の本源的で不滅の力とは関係がないのである。
【地代と利潤】
このことは、地代と利潤を考察する上での非常に重要な違いである。というのは、地代の先行きを規定する法則は、利潤の先行きを規定する法則とは大きく異なり、同じ方向に作用することは滅多にないことが分かっているからである。全ての進歩を遂げた国家においては、毎年地主に支払われるものは地代と利潤の双方の性格を帯びているから、反対に作用する原因の効果によって変わらない状態が続くことも多い。また、あるときにはこうした原因の一方が、或いは他方がより重みを増すことによって前進したり後退したりする。そこで、この書物のこれから先において私が土地の地代について話をするときには、土地の本源的で不滅の力の使用に対して地主に支払われる補償のことについて私は話していると理解して欲しい。
【地代の発生】
豊かで肥えた土地が豊富に存在する国に最初に入植するときには、実際の人口を養うために耕作する必要のある土地は、それらのほんの一部に過ぎないであろう。或いは、実際そうした人々の有する資本を用いて耕作することのできる土地はほんの一部であろう。このために地代は存在しないであろう。というのも、まだ私有化されていない土地が豊富に存在し、従って誰もが耕作する土地を自由に選ぶことができるときには、土地の使用に対しお金を支払おうとする者など誰もいないからである。
供給と需要の共通の原理によって、そうした土地に対して地代が支払われることはあり得ないだろう。その理由は、何故空気と水の使用に対し、或いは無限に存在する自然の恵みに対して何も支払われないのかという理由と同じである。一定量の原料があり、そして大気の圧力や蒸気の力の助けがあればエンジ
ンは仕事をするであろうし、そうすれば人間の労働を大幅に削減するだろう。しかし、こうした自然の助けに対して課金がなされることはない。何故なれば、それらは無尽蔵にあり、全ての人の自由になるからだ。同様にして、ビール醸造業者や蒸留酒業者及び染め物業者は、彼らの商品の生産のために絶え間なく空気と水を使用している。しかし、水と空気の供給は限りがなく、価格はない。 
(注)「我々が既にみてきたように、大地は、それだけが生産力を有する自然の力ではない。しかし、大地は、一団の人間たちがそれを排他的に自分たちのものにすることできる唯一の、或いはほぼ唯一の力である。その結果、その者たちは大地の利益を自分たちのものにすることができる。川の水及び海の水は我々の機械を動かし、我々の船を運搬し、そして我々の魚を養う力を有することによって、生産する力も有しているのである。風車を回す風、或いは太陽の熱でさえ我々のために働いてくれる。しかし、幸いなことに『風と太陽は私のものであり、それらが提供するサービスに対してはお金を支払わなければならない』と言うことのできる者はまだいない」「政治経済学」J.B.セー第2巻P.124 
もし、全ての土地が同じ性質を有していたとしたら、もし量に限りがなかったとしたら、そして土地の質が全て均一であったとしたら、それが特に有利な場所に存在するのでない限り、土地の使用に対し料金を請求することはできないであろう。それでは、土地の使用に対して地代が支払われるのは、ただ土地の量に限りがあるからであり、また土地の質が均一ではないからである。そしてまた、ただ人口の増加に伴いより質の劣った土地、或いはより不便な場所にある土地が耕作に供されるからである。
社会が進歩するなかで2番目に肥沃な土地が耕作に供されるとき、1番目の土地に直ちに地代が発生する。そして、地代の額はこれらの2つの土地の質の違いに依存することとなる。
3番目の質の土地が耕作に供されると、2番目の土地に直ちに地代が発生する。そして、以前と同様にこうした土地の生産力の違いによって地代は規定される。同時に、1番目の質の土地の地代は上昇するであろう。というのは、1番目の質の土地の地代は、一定量の資本と労働を用いて産出した生産物の差額の分だけ常に2番目の土地の地代を上回らなければならないからである。人口が増加する度に国は食料の供給量を増やすことができるようにするため、より質の劣る土地に頼らなければならないようになり、より肥沃な全ての土地の地代が上昇するであろう。 
【具体例】
そこで、No.1、2、3の土地が同じ量の資本と労働を用いて、純生産物として100、90、そして80クォーターの穀物を生産すると仮定しよう。人口に比べ肥沃な土地が豊富に存在し、従ってNo.1の土地しか耕作する必要のない新しい国では、全ての純生産物はその耕作者に帰属するであろう。そして、それは彼が前払いした資本の利潤となるであろう。
No2を耕作する必要が生じるほど人口が増加するや否や―No2からは、労働者に賃金を支払った後、90クォーターの穀物しか得ることができないが―地代はNo.1に直ちに発生するであろう。というのも、そうでなければ農業の資本に2つの利潤率が存在しなければならなくなるか、または10クォーター、或いは10クォーターの価値がNo.1の生産物から他の何らかの目的のために引き抜かれなければならないかのいずれかになるからである。土地の所有者がNo.1の土地を耕作しようと、或いはそれ以外の誰かがそれを耕作しようと、この10クォーターは等しく地代を構成するであろう。というのも、No.2の耕作者は同じ資本を用いて、10クォーターの地代を支払ってNo.1を耕作しようと、或いは地代を支払わないでNo.2を耕作し続けようと、同じ結果を得ることになるからである。同様に、No.3が耕作に供されるときには、No.2の地代は10クォーター、即ち10クォーターの価値でなければならないことが示されるであろう。その一方で、No.1の地代は20クォーターに上がるであろう。というのも、No.3の耕作者は彼がNo.1の地代に20クォーターを支払おうと、或いはNo.2の地代に10クォーターを支払おうと、或いはまた地代を支払わずにNo.3を耕作しようと、同じ利潤を得ることになるからである。 
【解説】
ここで言われている、100、90、80クォーターの生産物は、純生産物としてのものである。従って、労働者に賃金(生産物)を支払った後に残った生産物を意味する。
<図> (賃金)(利潤)(地代)
No.1■■■■■■■■■■□□□□□□□□■■純生産物100
No.2■■■■■■■■■■□□□□□□□□■純生産物90
No.3■■■■■■■■■■□□□□□□□□純生産物80 
【同じ土地への資本の追加】
No.2、3、4、5という、即ち質の悪い土地が耕作される前に、資本は、既に耕作がなされている土地でより生産的に用いることができるということがしばしば、そして事実普通に起こる。No.1に当初用いられた資本を2倍にすることによって生産物が2倍にならなくても、つまり生産物が100クォーター増えなくても、しかし生産物は85クォーター増えるかもしれないということが多分分かるであろう。また、この生産量は同じ資本をNo.3に投下することによって得ることのできる生産量を上回るということが分かるだろう。
そのような場合、資本は好んで古い土地の用いられることになり、そして、等しく地代を創造するであろう。というのも、地代は常に2つの等しい量の資本と労働を用いて得られる生産物の差額であるからだ。もし、ある借地人が1000ポンドの資本を用いてその土地から100クォーターの小麦を得、また彼が第2番目の1000ポンドの資本を用いて85クォーターの小麦を得るならば、彼の地主は借地期間の満了時に借地人に対し15クォーター、或いはそれに等しい価値を追加の地代として支払わせる権利を有するであろう。というのも、利潤率が2つあるということはあり得ないからである。もし、彼が2番目の1000ポンドの資本に対する収益が15クォーター減少することを我慢するとすれば、それは、それを上回る利潤を挙げることのできる投資先がないからである。共通の利潤率はそうした割合になるであろう。そして、もし当初の借地人が拒否したとすれば、他の誰かがその土地の所有者に対し、その利潤率を上回る部分の全てを喜んで支払うことが分かるであろう。
他のケースと同じようにこのケースにおいても、最後に用いられた資本は地代を支払うことはない。最初の1000ポンドの資本のより大きな生産力に対して地代として15クォーターが支払われ、そして2番目の1000ポンドの資本に対しては如何なる地代も支払われない。もし、3番目の1000ポンドの資本が同じ土地に投下され、そして75クォーターの収益があれば、そのときには2番目の1000ポンドに対し地代が支払われるであろう。そして、その地代はこれらの2つの生産物の差額に等しい、つまり10クォーターになるであろう。同時に最初の1000ポンドの資本にかかる地代は15クォーターから25クォーターに上昇するであろう。一方、最後の1000ポンドは如何なる地代も支払わないであろう。 
【解説】
我々が地代を想像するときには、殆どの人が一定の面積に対する地代を想像すると思う。それは、土地の価格について、1坪とか1平米当たりの価格を考えるのと同じようなものである。しかし、リカードが地代というときには、それは一定面積当たりの地代を言うのではなく、一定の資本を用いた場合の地代を指している。従って、比較の対象となる土地の面積がどれほど違っても構わないのである。さらに言えば、同じ土地に資本を追加投資した場合についても、土地の賃貸期間が更新される場合には、新たな地代が発生すると考えるのである。 
【肥沃な土地が豊富に存在する場合】
それでは、もし良質の土地が、増大する人口を支えるための食料の生産が必要とするものより豊富に存在したとすれば、或いは収益を低下させることなく古い土地に限りなく資本を投下し続けることができたとすれば、地代が上がるということはあり得ないであろう。というのも、地代は、労働を追加することによってそれに応じて収益が少なくなることから常に発生するからである。
最も肥沃で、最も立地条件がいい土地が最初に耕作されるであろう。そして、その生産物の交換価値は、他の全ての商品の交換価値と同じように、それを生産して市場に持ち込むのに必要な、最初から最後までの様々な形での労働の総合計量によって調整されるであろう。質の劣る土地が耕作に供されると、原生産物の交換価値は上がるであろう。何故ならばそれを生産するためにより多くの労働が必要となるからである。
【商品の交換価値を決めるもの】
全ての商品の交換価値は、それらが製造品であろうと、或いは鉱山の生産物であろうと、或いはまた土地の生産物であろうと、非常に好ましい、かつ専ら特殊な生産能力を有する人々が享受する条件の下での生産にとって十分な、少ない労働量によって規定されるのではなく、そうではなくそうした能力を何も有しない人々によって生産に必ず投じられるより多い労働量によって常に規定されるのである。最も不利な条件下でそれらを生産し続ける人々によって投入されるより大量の労働量によって規定される。ここで最も不利な条件ということが意味するのは、必要とされる生産量が、生産の続行を必然のものとする最も不利な条件ということである。
【慈善制度】
こうして、貧乏な人たちが慈善家の基金によって仕事を与えられるという慈善金の制度においては、そうした仕事の生産物である商品の一般的価格は、こうした労働者に対して与えられた特別の便宜によって規定されるのではなく、他の全ての製造業者たちが遭遇する普通の、そして自然な困難さによって規定されるであろう。こうした便宜を何も享受することのない製造業者たちは、仮にこうして援助を受けた労働者たちによって提供される供給物がその社会の全
ての不足分に等しいとすれば、市場から全く追い出されてしまうかもしれない。しかし、もし、その人が商売を続けたとすれば、それは、ただ彼がその商売から資本の通常の、そして一般的利潤率を得ている場合だけであろう。そして、そうした状態になるのは、生産に用いられた労働量に比例した価格で彼の商品が売れるときだけである。 
(注)セー氏は次の一節において、究極的に価格を規定するのは、生産コストであるということを忘れているのではないのか?「土地に用いられた労働の生産物はこの特別な性格を有する。つまり、量が少なくなるからと言ってその生産物が高くなる訳ではない。何故ならば、食料が少なくなると同時に人口が常に減少するので、その結果要求されるこうした生産物の量は、供給量が減少するのと同時に減少するからである。その他に、穀物の価格は土地が完全に耕作されている国に比べ、沢山の未耕作地が残っている所において高いということは観察されていない。英国とフランスは、今と比べれば中世時代においては遥かに不完全にしか耕作されていなかった。人々はそのときには今より遥かに少ない量の原生産物しか生産していなかった。しかし、それにも拘らず、他の品物の価値と比較すれば穀物は高い価格で売られてはいなかったと判断できる。もし、生産物の量が少なかったとすれば、人口も少なかったのである。需要の弱さが供給力の弱さを補っていたのである」(第2巻、338)商品の価格は労働の価格により規定されるという意見に感銘を受け、そして全ての種類の慈善金の制度は、そうした制度がない場合よりも人口を増やす傾向があり、従って賃金を引き下げる傾向があると正当にも想定しているセー氏は次のように言う。「英国から来る商品の価格の安さは、その国に存在する無数の慈善金の制度によって一部はもたらされたのではないか、と思う」(第2巻、277)これは、賃金が価格を規定すると主張する人々の一貫した意見である。 
【最も肥沃な土地で起きること】
最良の土地では、確かに以前と同じ量の労働を用いて、なお以前と同じ量の生産物が得られるであろう。しかし、その生産物の価値は、新たな労働と資本をより肥沃でない土地に投じた者たちが得る収益が減少する結果、引き上げられるであろう。それでは、肥沃な土地が有する劣った土地に対する優位性は決して失われはしないし、その優位性は耕作者や消費者から地主に移転されるだけであるが、それにも拘わらず、質の劣った土地にはより多くの労働が必要となるので、また我々が原生産物を我々に追加供給できるのは、そうした劣った土地からだけであるので、その生産物の相対価値は以前の水準よりも恒久的に上回り続けるであろう。そしてまた、生産のための追加の労働が必要とはなっていない帽子、布地、及び靴などのより多くと交換されるであろう。
【原生産物の相対価値が上がる理由】
それでは、原生産物の相対価値が上がる理由は、獲得された最後の生産物の生産により多くの労働が用いられるからであり、地主に地代が支払われるからではない。穀物の価値は、生産のために地代を支払わない質の土地に投入される労働の量、或いは地代を支払わない資本部分とともに投入される労働の量によって規定される。穀物の価格は、地代を支払うから高いのではなく、穀物の価格が高いから地代が支払われるのである。仮に地主たちが地代の全てを放棄したとしても、穀物の価格は下がらないであろうと正当にも言われてきた。そうした措置を講じても、何人かの農業者を紳士のように生活させることができるだけであって、耕作されている土地のなかで最も生産力のない土地において原生産物を生産するのに必要とされる労働量を減少させることはないであろう。
【土地の優位性と地代】
土地という生産源が、有益な商品を生産する他の全ての生産源に比べて有する優越性について聞くことほどありふれたことはない。土地が地代という形で生みだす余剰物のためだ、というのである。しかし、土地が最も豊富に存在し、最も生産力を有し、そして最も肥沃であるとき、土地は地代を生まない。より肥沃な土地の最初の生産物の一部分が地代として切り離されるのは、土地の生産力が落ち、労働に対する報酬として生産されるものが少なくなるときにのみ起きるのである。製造業者たちが助けられる自然の作用に比べれば全く不完全なものであることに気が付くべきであったこの土地の性質が、特別に優れた点として指摘されてきていることは奇妙なことである。
【自然の恵みと土地】
仮に、空気、水、蒸気の弾性、そして大気の圧力が、その質において大きな違いがあったとし、そして、それらが誰かの手に渡ることがあったとし、かつそれぞれの質のものが控え目な量だけ存在したとしたら、それらは連続する質のものが次々に利用に供されるに従い、土地と同じように地代を生むであろう。より質の劣るものが用いられる度にそうしたものを使って作られる製造品の価値は上昇するであろう。何故ならば、同じ量の労働の生産力は落ちていくからである。人は額に汗してより働くようになり、自然はより働かなくなるであろう。そして、土地は、生産力が限られているということで、もはや傑出したものではなくなるであろう。
【土地と機械】
もし、土地が地代という形で与える余剰物が優れたものであるというのであれば、毎年新たに建造される機械は、古い機械よりも能率を悪くすることが望まれる。というのも、そうなれば、製造された商品にその機械だけではなく王国中の他の全ての機械によってより大きな交換価値が間違いなく与えられるからである。そうなれば、最も生産力の高い機械を保有する者たち全てに対しレントが支払われるであろう。 
(注)アダムスミスは言う。「農業においても、自然は人と一緒に働く。そして、自然の労働には経費はかからないが、その生産物は、賃金が最も高い熟練工の生産物と同じように価値を有する」自然の労働は、自然がなすことが多いからではなく自然がなすことが少ないから対価が支払われる。自然が贈り物に対してけちになるのに比例して、その仕事に対してより大きな代価を課す。自然は寛大で恵み深いときには常に無償で働く。「農業に用いられる役牛は、製造業に用いられる労働者と同様に、自ら消費するもの、即ちそれらを用いた資本と等しい価値の再生産を、その資本の所有者の利潤を伴って引き起こすだけでなく、それ以上の価値の再生産を引き起こす。牛たちは、農業者の資本とその全ての利潤に加えて、規則正しく地主の地代の再生産を引き起こす。この地代は、地主がその農業者に使用権を貸与した自然の生産力の産物とみなされるかもしれない。地代は、そうした想定される生産力の大きさに応じて大きかったり小さかったりする。換言すれば、想定される土地の自然の、或いは改良された肥沃度に応じて、ということになる。人間が行ったとみなされる仕事に対する補償がなされた後に残るものは、自然が行?た成果なのである。それは全体の1/4よりも少ないことは滅多になく、1/3を超えることがしばしばである。製造業に同じ量の生産的労働を投入しても、これほどの再生産を引き起こすことができるものはない。製造業では自然は何もせず人が全てを行う。そして、再生産の量は、それを引き起こす自然の作用の力の大きさに常に比例するに違いない。従って、農業に用いられる資本は、製造業に用いられる同じ量の如何なる資本に比べても、生産に関わるより多くの労働を稼働させるだけでなく、それが雇用する生産に関わる労働の量に比例して、その国の土地と労働の年間の生産物に対しより大きな価値も追加し、さらに、住民たちの真実の富と収入に対しより大きな価値を追加する。資本の全ての用いられ方のなかで、それが社会にとって最も有利な用いられ方なのである」第2編第5章P.15
製造業においては、自然は人間のために何もしないのか?我々の機械を動かし、航海の助けになる風と水の力は、何でもないのか?最も目を見張るべきエンジンを我々が作動させることができるようにする大気の圧力と水蒸気の弾性は、自然の恵みではないのか?金属を柔らかくしたり溶かしたりする熱の効果や染色や発酵の過程における大気の分解の作用の効果については言うまでもない。自然が人間の支援をしない、しかも気前よく、無償で支援をしないと言うことができる製造業など存在しない。
アダムスミスの書物から私が写し取った一節に対し、意見を述べる形でビュキャナン氏は次のように言う。「第4編に収められた生産に関わる労働と生産に関わらない労働に関する見解のなかで、私は、農業が他の種類の産業以上に、国の資本を増大させることはないということを示そうと努めてきた。スミス博士は、地代の再生産が社会にとってそれほど有利であると長々と話すなかで、地代が、価格が高いことの結果であるとは考えない、また地主がこうして手に入れるものは、社会全体の犠牲の上に手に入れられるとも考えない。地代の再生産によって社会が得る絶対的な利益など何もない。他の階級の犠牲の上に、ある階級だけが利益を得るのである。自然が人間の勤労とともに一致して耕作に取り組むので、農業は生産物を生み出すとともにその結果として地代を生み出す、という考えは単なる空想に過ぎない。地代が生み出されるのは、生産物からではなくその生産物が売られる価格からである。そして、この価格は、自然がその生産を助けるからそうした価格がつくのではなく、その価格で消費を供給と一致させるから付くのである」 
【地代の上昇】
地代の上昇は、常にその国の富が増加する結果であり、またその増大した人口に対し食料を供給することが困難になる結果である。地代の上昇は富の兆候ではあるが、決して富の原因ではない。というのも、富はしばしば、地代が変わらないか低下してさえいるときにも急速に増加するからである。自由に使うことのできる土地の生産力が低下するとき、地代は急上昇する。自由に使える土地が最も肥沃であり、そして輸入が最も制限されておらず、そして農業技術の進歩により生産量をそれに見合って労働を増やすことなしに何倍にでも増やすことができ、その結果地代の上昇が緩やかである国々において富は最も急速に増加する。
もし、穀物の価格が高いことが地代の結果であり、地代の原因でなかったとすれば、地代が高いか低いかに応じて価格は影響を受けるであろう。そして、地代は価格の構成要素となろう。しかし、最大の量の労働によって生産された穀物が、穀物の価格の規定者となる。そして、地代は、穀物の価格の構成要素として少しも入り込むことはないし、入り込めない。
(注)この原理を明確に理解することが、政治経済学という学問にとって最も重要なことであると、私は確信している。 
【結論】
従って、アダムスミスが、商品の交換価値を規定した元々の尺度、つまりそれらの商品が生産されるために用いられる相対的労働量が、土地の私有化と地代の支払いによって全く変更されることがあり得ると想定することが正しい筈がない。原料は、殆どの商品の構成物として入り込んでいるが、穀物と同じように原生産物の価値は、土地に最後に投下され、そして地代を支払うことのない資本の生産性により規定される。従って、地代は商品の価格の構成要素ではない。
我々はここまで、そこに存在する土地が様々な生産力を持つ国の、富と人口の自然な増加が地代に及ぼす効果について検討してきた。そして、我々は、収穫量の少ない土地に対し追加の資本を投下することが必要となる度に、地代が上昇することを知った。その同じ原理から次のようなことが言える。土地に対し同じ量の資本を投下する必要性をなくし、従って最後に投下された資本の生産力を引き上げるような如何なる社会状況の変化も、地代を引き下げるであろう。 
【解説】
we have seen that with every portion of additional capital which it becomes necessary to employ on the land with a less productive return rent would rise.
この英文に次の訳が与えられた。「吾々は土地に追加資本を投ずることが必要となって来ると、この投下される追加資本の追加分毎に生産収益が逓減するので、地代が上騰するであろうということを見た」(竹内謙二訳)
訳者の言いたいことも分からないではないが、原文以上のことを言っているのではないだろうか?つまり、土地に追加資本を投ずることが必要になったときに、必ず収穫の減少が起きるかのように訳者は言うが、リカードはそこまで言ってはいない。リカードは「収穫量の少ない土地に追加の資本を投下することが必要となる度に‥」と言っているだけなのである。 
【資本の増減と人口】
労働維持のための基金を大きく減少させる国の資本の大きな減少も、当然この効果を有するであろう。人口は、人々を雇用する基金によって自らを規定する。従って、資本の増加及び減少によって常に増加したり或いは減少したりする。従って、資本の減少が起きる度に必ず穀物に対する有効需要が少なくなり、価格も下がり、そして耕作地も減少する。資本の蓄積が地代を引き上げるのとは反対の理屈で、資本の減少は地代を引き下げるものである。より生産力の乏しい土地が次々に手放され、生産物の交換価値は低下するであろう。そして、優れた質の土地が最後に耕作される土地になり、その土地はそのときに地代を支払わないであろう。
【農業の進歩と地代】
しかし、一国の富と人口が増加するときに、もしそうした増加が起きても、より痩せた土地を耕作したり、或いはもっと肥沃な土地の耕作に対し同じ額の資本を支出したりする必要性を少なくする顕著な農業技術の改良が伴えば、同じ結果が生まれるかもしれない。
仮に、ある一定の人口を養うために百万クォーターの穀物が必要であり、そしてその穀物がNo.1、2、3の質の農地で生産されるなら、また仮に、その後No.3を用いることなくNo.1とNo.2の土地だけでその必要な穀物が生産できる技術が発見されるとしたら、直ちに地代の低下が起こるに違いない。というのも、そのときにはNo.3ではなくNo.2が地代を支払うことなく耕作されることになるからだ。そして、No.1の地代は、No.3とNo.1の生産物の差額ではなくNo.2とNo.1の生産物の差額にしかならないであろう。人口が同じであり、増えることがないのであれば、穀物に対する追加の需要が起こる筈がない。No.3に投下されていた資本と労働は、社会にとって望まれる他の商品の生産に向けられるであろう。そして、そうした商品の原材料が、より不利な条件で資本を土地に投下することなしには手に入れることができないということがない限り、地代を引き上げる効果はあり得ない。原材料がより不利な条件でしか手に入れることができない場合には、再びNo.3が耕作されなければならない。
【資本の蓄積】
農業技術の改良の結果、或いはむしろ生産のために投入する労働量が減少する結果と言うべきかもしれないが、そうした結果原生産物の相対価格の低下が起こるならば、自然に資本の蓄積量が増加するというのは疑いもなく正しい。というのも、資本の利潤が大いに増大することになるからである。この資本の蓄積は労働に対する需要の増加を引き起こし、賃金を引き上げ、そして人口を増加させ、さらに原生産物に対する需要を増やし耕作地を増加させる。しかし、地代がかつてと同じ高さになるのは、人口の増加があってからのことである。即ち、No.3が耕作に供された後のことである。相当の時間が経過しているであろうし、地代も確実に減少しているであろう。
【農業の進歩】
しかし、農業の改良には2つの種類がある。土地の生産力を増加させるものと、機械を改良してより少ない労働で我々がその生産物を手に入れることを可能にさせるものとである。それらは2つとも原生産物の価格を低下させる。それらは2つとも地代に影響を与えるが、その影響は同じようなものではない。もし、それらが原生産物の価格を低下させなかったならば、それは改良にはならないであろう。というのも、かつて商品の生産に必要とされた労働量を減らすことが、改良と呼ばれるための必要不可欠の特長であるからだ。そして、こうした労働量の減少は、その商品の価格、或いは相対価値を低下させずに起こることはあり得ない。
【生産力を引き上げる改良】
土地の生産力を引き上げる改良とは、例えばより上手な輪作や、上手な肥料の選択などである。こうした改良が起これば、今までと同じ量の生産物をより狭い農地から得ることが絶対にできるようになる。もしカブを使用した農法の導入によって私が穀物を生産する他に羊の飼育ができるのであれば、かつて羊が飼われていた土地は不要になり、より少量の農地で同じ量の原生産物が生産されることになる。もし、1枚の農地で20%多い穀物の生産を可能にする肥料を私が発見するならば、私は、私の農場の最も生産力が乏しい農地から少なくても資本の一部を引き上げるだろう。
【資本の引き抜き】
しかし、既に述べたとおり地代を減少させるためには、土地が耕作されなくなることが必要な訳ではない。この結果を生むためには、同じ土地に連続して資本が投下され、それらが違う結果を生み、そして最も収穫が少ない資本をそこから引き抜くだけで十分である。もし、カブ栽培法の導入により、或いはもっと強力な肥料を使用することにより、より少ない資本で同じ結果を得ることができるのであれば、そして連続して投入された資本の生産力の差額を攪乱させることがないのであれば、私は地代を引き下げるであろう。というのも、今までと違ったより生産力の高い資本部分が、他の全てのものが評価される新しい基準になるからである。 
【具体例】
例えば、もし連続する資本が100、90、80、70を生産したのであれば、私が、これら4つの資本を用いる限り、私の地代は60となるであろう。それは、次の差額になるからだ。
・70と100の差額=30その生産物100
・70と90の差額=20その生産物90
・70と80の差額=10その生産物80
・ その生産物70
合計60合計340
(地代は60である一方、生産高は340となろう)
そして、私がこうした資本を投下する限り、それぞれの資本の生産物が等しい額だけ増加しても地代は同じであり続けるであろう。もし、100、90、80、70の代わりに生産量が125、115、105、95に増加したとしても、地代はなお60のままであろう。それは次のような差額になるからだ。
・95と125の差額=30その生産物125
・95と115の差額=20その生産物115
・95と105の差額=10その生産物105
・ その生産物95
合計60合計440
(地代は60である一方、生産高は440に増えるであろう)
しかし、そのように生産物が増加しても、需要が増加しなければ、それほど多くの資本を土地に投下する動機はあり得ないであろう。 
(注)私は、農業におけるあらゆる種類の改良の、地主にとっての重要性を私が過小に評価していると思われたくない。それらが直ちに引き起こす効果は、地代を引き下げることである。しかし、そうした改良は人口に対し大いに刺激を与え、同時により少ない労働でより痩せた土地を耕作することを可能にするので、究極的には地主にとって大変な利益となる。しかし、そうなるまでには一定の期間が経過する必要があり、それまでの間地主には確かに痛手となる。 
それらの資本のうちある部分が引き抜かれるであろう。その結果、最後の資本は、95ではなく105を生産することになろう。そして、地代は30に低下するであろう。それは次のような差額になるからだ。
・105と125の差額=20その生産額125
・105と115の差額=10その生産額115
・ その採算額105
合計30合計345
(地代は30である一方、生産額は人口の欲する量に対してなお十分であろう。生産量は345クォーターになるのであるから。)
需要は、たった340クォーターであるのだから。
【価格を引き下げる改良】
しかし、穀物地代を引き下げることなしに、生産物の相対価値を引き下げる農業の改良がある。もっとも、土地の貨幣地代を引き下げることにはなるが。そのような農業の改良は、土地の生産力を増大させることはないが、より少ない労働で生産物を得ることを可能にする。そうした改良は、土地の耕作そのものに向けられるのではなく、土地に対して用いられる資本の形成に向けられる。鋤や脱穀機等の農具の改良や、農耕に用いられる馬の使用の節約、或いは獣医学の専門知識の獲得がこの種のものである。
資本が少ないということは、労働が少ないということと同じ意味であるが、土地に投下される資本は少なくなるであろう。しかし、同じ量の生産物を得るのに、耕作する土地を少なくすることはできない。しかし、この種の改良が穀物地代に影響を与えるかどうかは、異なった部分の資本を投下して得られる生産物の差額が増えるか、変わらないか、或いは減少するかという質問に依存するに違いない。仮に、4つの部分の資本、例えば、50、60、70、80が土地に投下されて、そしてその結果同じ結果がもたらされるとし、そしてそうした資本の形成に何らかの改良がなされ、それぞれの資本から5を私が差し引くことが可能になり、その結果それまでの資本が45、55、65、75になったとしても、穀物地代に何の変化も生じないであろう。しかし、改良の内容が、最も生産力の低い資本を全て節約することを可能にするものであったとしたら、穀物地代は直ちに低下するであろう。何故ならば、最も生産力の高い資本と最も生産力の低い資本の差額が縮小することになるからである。そして、この差額こそが地代を構成するものなのである。 
【解説】
50、60、70、80の資本を土地に投下し、同一量の生産物を手に入れる場合と、何からの改良によってその同一量の生産物を手に入れるために必要な資本の量が45、55、65、75に減少した場合の穀物地代が同じままであることはない。何故ならば、50の資本が80の資本と同一量の生産物をもたらすということは、生産力に1.6倍の違いがあることになるが、45の資本が75の資本と同一量の生産物をもたらすときの生産力の違いは1.666倍になっているからである。 
【結論】
これ以上例示を増やさなくても、次のことを証明するには十分であろう。同じ或いは新たな土地に連続して投下される資本から得られる生産物の差額を縮小させるものは何であっても地代を低下させる傾向を有し、逆に、その差額を拡大させるものは何であっても必ず反対の結果を生じさせる。即ち、地代を上昇させる傾向を有する。
【地主にとっての二重の利益】
地主の地代について話をするとき、我々は地代を、何らかの一定の農場に投下された一定の資本によって獲得された生産物に対する割合とみなしてきた。そして、そのときに、その交換価値について考慮することはしなかった。しかし、その同じ原因つまり生産の困難さが、原生産物の交換価値を引き上げ、また地主に対し地代として支払われる原生産物の割合も引き上げるのであるから、地主は、生産の困難さから二重の意味で利益を得ることが明らかである。第一に、地主が受け取る割合はより大きくなる。第二に、地主に支払われる商品の価値はより大きくなる。 
(注)このことを明らかにするために、そして穀物地代と貨幣地代がどの程度違ってくるかを示すために、10人の労働が、ある質の土地において180クォーターの小麦を手に入れ、そしてその価値は、クォーター当たり4ポンドで、全部で720ポンドになると仮定しよう。そして次に、同じか違う土地に追加された10人の労働が170クォーターしか追加的に生産できないとしよう。そのとき、小麦の価格は4ポンドから4ポンド4シリング8ペンスに上昇するであろう。というのは、170:180というのは4ポンド:4ポンド4シリング8ペンスということだからである。或いは、170クォーターの生産に一方では10人の労働を必要とし、他方では9.44人の労働しか必要としないのであるから、上昇率は9.44:10となり、それは4ポンドと4ポンド4シリング8ペンスの関係と同じになろう。さらに10人が用いられれば、その収益は次のようになろう。
・160価格は4ポンド10シリングに上昇
・150価格は4ポンド16シリングに上昇
・140価格は5ポンド2シリング10ペンスに上昇
さて、穀物の価格がクォーター当たり4ポンドのとき、180クォーターを産出した土地に地代が支払われなかったとしたら、170クォーターしか産出することができないときには、10クォーターが地代として支払われるであろう。そして、穀物の価格は4ポンド4シリング8ペンスであるので、42ポンド7シリング6ペンス(注2)になるであろう。  

(注2)42ポンド6シリング8ペンスの間違いであろう。 4ポンド4シリング8ペンス=(4+4/20+8/12/20)ポンド=4.2333ポンド
4.2333ポンド×10=42.333ポンド=42ポンド6シリング8ペンス
生産量 穀物地代 穀物の価格 貨幣地代
160クォーター 20クォーター 4ポンド10シリング 90ポンド
150クォーター 30クォーター 4ポンド16シリング 144ポンド
140クォーター 40クォーター 5ポンド2シリング10ペンス 205ポンド13シリング4ペンス
穀物地代は100、200、300、400と増加することになるが、貨幣地代は100、212、340、485と増加することになる。  
穀物地代 貨幣地代
100 100
200 212
300 340
400 485
第3章 鉱山の地代について

 

【鉱山の地代】
金属は、他の品々と同じように労働によって獲得される。確かに自然がそれらを生み出す。しかし、地球の内臓からそれらを取り出し、そして、我々の役に立つように整えるのは人間の労働である。
鉱山は、土地と同様に、通常その所有者に地代を支払う。そして、この地代は、土地の地代と同様に、その生産物の価格が高いことの結果であって、決して原因ではない。仮に、誰でもが自分のものにして構わない、等しく豊かな鉱山が豊富にあったとしたら、そうした鉱山は地代を生むことができないであろう。それらの生産物の価値は、鉱山からその金属を抽出し、そして市場に持ち込むのに必要な労働量に依存するであろう。
しかし、等しい量の労働を用いたとしても、非常に異なった結果を生み出す、様々な質の鉱山が存在する。稼働させられている鉱山のなかで最も痩せている鉱山、その鉱山から生産される金属は、その鉱山を稼働させるために用いられ、そしてその生産物を市場に持ち込むために用いられる労働者が消費する全ての衣類、食料、及びその他の必需品を調達するに足る交換価値だけではなく、その事業を遂行するために必要な資本を前払いした人に対し通常の利潤をも支給するに足る交換価値を有するものでなくてはならない。
地代を支払わない最も痩せた鉱山から得られる資本の収益は、それよりも生産力のあるそれ以外の全ての鉱山の地代を規定するであろう。この鉱山は、資本の通常の利潤を生みだすとされている。他の鉱山がこの鉱山以上に生産するものは全て必ずや地代としてその所有者に支払われるであろう。この原理は、我々が土地に関し樹立したものと全く同じものであるから、それについてこれ以上述べる必要はないであろう。
【金属の価値】
原生産物及び製造品の価値を規定するのと同じ一般規則が、その金属にもまた適用されると述べておけば十分であろう。それらの金属の価値は、利潤率にも賃金率にも、そしてまたその鉱山に対して支払われる地代にも依存することはなく、その金属を手に入れ、そして市場に持ち込むのに必要な労働の総量に依存するからである。
他の全ての商品と同様に、その金属の価値は変動を被る。鉱山業に用いられる道具と機械類の改善があるかもしれず、その結果、相当の労働の節約が起こるかもしれない。新たな、そしてより生産力のある鉱山が発見されるかもしれない。そうした鉱山では、同じ量の労働でより多くの金属が手に入れられるかもしれない。或いは、市場へその金属を運ぶことが容易になるかもしれない。こうしたケースのいずれにおいても、それらの金属の価値は低下するであろう。従って、より少ない量の他の品々と交換されることになろう。他方、より深く掘ることが必要になったり、水が溜まったり、或いは他の偶発的な出来事が起こったりし、その金属を手に入れることが困難になることによって、他と比べてその金属の価値が大きく上昇するかもしれない。
従って、一国の硬貨がどれほど誠実にその標準値に従うことがあろうとも、金と銀でできたお金は、なお価値の変動を被るであろうと正当にも言われてきた。また、他の商品と同じように、偶発的で一時的な変動だけではなく、恒久的で自然な変動も被るであろう、と。
【鉱山の発見】
アメリカの発見によって、そしてそこに豊富に存在する豊かな鉱山の発見によって、それらの貴金属の自然価格に大きな影響がもたらされた。この効果はまだ終わっていないと多くの人々は考えている。しかし、アメリカの発見によって生み出されたそれらの金属の価値に及ぼす影響は、恐らく長い間止んでいるであろう。そして、もし最近、これらの金属の価値が少しでも低下しているとしても、それは、鉱山の稼働方法が改良されたことに原因を求めなければならない。
【金の優位性】
これらの金属の価値の低下がどのような原因から生じたものであるにせよ、その効果はスピードが遅く緩やかであるので、金と銀が他の全ての品々の価値を計測する一般的仲介物であるということから、実際の不便さが感じられることは殆んどない。価値が変動する価値の尺度であるということは疑いのないところではあるが、これよりも価値の変動が少ない商品は恐らくないであろう。この利点と、この金属が有する硬さ、可鍛性、分割可能性などの他の多くの利点が、どこにおいてもそれらの金属が文明国家のお金の標準物として選ばれることを正当にも保証する。
もし、同じ量の労働が、常に同じ量の固定資本を用いて、地代を支払わない鉱山から同じ量の金を手に入れることができるのであれば、金は、我々がものごとの自然の成り行きのなかで有することのできる、価値変動を被ることのない価値尺度に最も近いものになるであろう。確かに需要に従ってその量は増えるであろうが、その価値は不変であろう。そして、他の全ての物の変動する価値を計測するものとして高く評価されるであろう。
私は、この書物の前の部分で既に、金にはこの不変性が付与されているものとみなしたが、この後の章においてもこの仮定を維持する。従って、価格の変動について論ずる際には、変動は常に商品の側に起きているとみなされ、決してそれを計測する仲介物の側に起きているものとはみなされないであろう。  
第4章 自然価格と市場価格について

 

【市場価格】
我々が労働を商品の価値の基礎にし、そしてそうした商品の生産に必要な相対的労働量を、互いに与えられる商品の量を決定する基準にするからと言って、我々は、商品の実際の価格、即ち市場価格がこの第一の自然の価格から偶発的に、或いは一時的に乖離することを否定するものであると思ってはいけない。
ものごとの通常の成り行きに任せるならば、人類の欲求や要望が求める量にぴったりと一致して、ある程度の期間に亘って供給され続ける商品はない。従って、価格の偶発的で一時的な変動を被らないような商品はない。  
【解説】
there is no commodity which continues for any length of time to be supplied precisely in that degree of abundance which the wants and wishes of mankind require.
この英文に対して次の訳が与えられた。「どれだけかの期間にわたって、まさに人類の欲求願望が要求するほど豊富に供給され続けるような商品は、全くない」(羽鳥・吉澤訳)
この訳を読むと、どのような商品であっても、人々が満足するほど十分に供給されるものは何もないように読めてしまう。しかし、現実はそうではない。リカードは、人類の要望する数量にいつもぴったり一致して供給される商品はないと言っているのだ。  
【市場価格の調整機能】
資本が、偶々需要のある様々な商品の生産に対して、まさに必要とされる量だけが正確に割り当てられるのは、そうした変動が起きる結果に過ぎない。価格が上がったり下がったりするので、利潤はその一般水準を上回ったり下回ったりする。そして、資本はそうした変動が起きた特定の投下先に参入することが奨励されるか、或いはそうした投下先から撤退することを警告されるかのいずれかである。
【利潤の最大化】
全ての人間が自分の望む先に自由に資本を用いることができる限り、人は当然最も有利な資本の投下先を探し求めるものである。人は、自分の資本を移動することによって15%の利潤を得ることができるのであれば、10%の利潤に満足することは当然ないであろう。全ての資本家の、より利潤の少ない事業を止め、より利潤の多い事業を求めるという、この止むことのない欲求が全ての利潤率を均一化させる強い傾向を持つ。或いは、ある事業が他の事業に比べて有しているか、有しているように見える有利性を当該関係者の見積もりによって補償する分だけ利潤率を調整する強い傾向を持つ。
【資本移動】
この変更がどのように起こるか、その手順を観察することは恐らく大変に困難であろう。こうした変化は、ある製造業者がその資本の投下先を全く変更させることによって引き起こされるのではなく、多分当該投下先の資本の量を減少させることによってのみ引き起こされるであろう。全ての豊かな国にはお金持ち階級と呼ばれる階級を構成する多くの人々がいる。こうした人々はどんな仕事にも従事しない。そうではなく、手形を割引いたり、社会のより勤勉な人々に融資を行ったりすることに彼らのお金を用い、そのお金が生みだす利子によって生活する。銀行家たちも同じ目的に多くの資本を用いる。そうして用いられた資本は巨額な流動資本を構成する。そして、一国の全ての様々な業種によってその大きな割合か、或いは小さな割合が用いられる。
恐らくどんなお金持ちの製造業者であっても、その事業を自分の資本が許す範囲に限る者などいないであろう。彼は、彼の商品の需要動向に応じて増えたり減ったりするこの浮動資本の幾らかを常に保有する。絹製品の需要が増加しそしてウールの布地に対する需要が減少するとき、毛織物業者は彼の資本を携えて絹の事業に移動することはしない。そうではなく、彼は労働者を幾らか解雇し、そして銀行家や資産家からのお金の借入を止める。絹製造業者の場合は、これと反対である。彼は多くの労働者を雇いたいと思うし、こうして借入を増やす動機が大きくなる。彼はより多く借り入れ、こうして資本は、製造業者に彼の常日頃の仕事を停止させる必要もなく、ある投資先から他の投資先に移動される。
【資本の最適配分】
我々が大きな町の市場を注意して眺め、そして、如何に規則正しく市場に国産の商品と海外の商品が供給されているかを観察するとき―流行の変化や人口の変化のために需要が如何に変動しても、豊富過ぎる供給による供給過剰や、供給不足による価格の異常な高騰をしばしば引き起こすことなく、必要とされる量が規則正しく供給されていることを観察するとき―我々は、まさに必要とされるだけの量の資本をそれぞれの業種に割り当てる原理が、一般に思われている以上に有効に機能していると認めない訳にはいかない。
【利潤率に差をつける理由】
資本家は利潤が上がる資金の用い方を考える中で、当然のことながらある仕事が有する、他の仕事にはない全ての有利性を考慮に入れるものである。従って、彼は安全性、清潔さ、気安さ、或いはその仕事が有する他の仕事にはないそれ以外の現実の有利性、或いは想像上の有利性を考慮に入れた結果、彼の貨幣利潤の一部を喜んで放棄するかもしれない。
もし、こうした状況を考慮に入れた結果、資本の利潤がある部門では20%、そして他の部門では25%、また別の部門では30%になるように調整されたとしたら、恐らく恒久的にそのような相対的な相違を維持するであろうし、また、利潤率の差がそれ以外のものになることもないであろう。というのも、もし何かの原因によってこれらの部門のうちの一つの利潤が10%引き上げられるのであれば、この利潤は一時的なものであり、直ぐに通常の利潤状態に復帰するか、或いは他の部門の利潤もまた同じ割合で引き上げられるか、のいずれかになるからである。
現在の状況は、この意見の正当性に対する一つの例外を示すものであるように見える。戦争の終結によって、かつてヨーロッパにおいて存在していた資本投下先の配分状態は混乱させられ、全ての資本家は、今必要とされる新たな資本の配分体制における立ち位置を未だ見つけていないのである。
【利潤率の変動】
全ての商品がそれぞれ自然価格にあると仮定しよう。その結果、全ての投下先の資本の利潤は、全く同じ利潤率であるか、或いは、関係者の見積もりによってそうした資本の用い方が有している、或いは有していないと思われる現実の或いは想像上の有利性に相当する分だけ異なるであろう、と。では、流行の変化によって絹製品の需要が増加し、そして毛織物製品の需要が減少すると仮定しよう。それらの自然価格、即ちそれらの生産に必要な労働量は変わらないであろう。しかし、絹製品の市場価格は上昇し、毛織物製品の市場価格は低下するであろう。その結果、絹製造業者の利潤は一般的なかつ調整された利潤率を上回るであろうが、その一方毛織物御者の利潤はそれを下回るであろう。
こうした部門では利潤だけではなく、労働者の賃金も影響を受けるであろう。しかし、この絹製品に対する需要の増加は、毛織物業から絹製造業へ資本と労働が移転することによって直ちに満たされるであろう。そのとき、絹製品と毛織物製品の市場価格が再びその自然価格に近づき、そして、それらの商品の製造業者たちはいつもの利潤を得るであろう。
【市場価格の調整機能】
それでは、商品の市場価格がある程度の期間以上に亘りその自然価格を上回ったり下回ったりすることを回避させるものは、資本をより不利な投下先からより有利な投下先に振り向けようとさせる、全ての資本家が有する欲求である。それらの商品を生産するための労働に対し賃金を支払い、そして、投資された資本を元の状態に戻すための経費を支払った後に、それぞれの事業に残る価値、即ち超過分が投下された資本に比例するように商品の交換価値を調整するのはこうした競争なのである。
【自然価格を論じることの重要性】
国富論の第7章(【注】第1編)において、この疑問に関する全てが大変に説得力を持って論じられる。特定の資本の投下先において、労働の賃金と資本の利潤だけでなく、商品の価格に対しても偶発的な原因によって一時的な効果が及ぼされることを十分に認めながらも―但し、こうした効果は社会の全段階で等しく作用するものであるから、商品の一般的価格や一般的賃金、及び一般的利潤には影響を及ぼすことはない―我々はこうした偶発的な原因からは全く影響を受けることのない自然価格、自然賃金、及び自然利潤を規定する法則を扱う限り、こうした一時的な効果は全く考慮に入れないことにする。
それでは、商品の交換価値、即ち、何か一つの商品が保有する購買力について論じる際、私は、その購買力とは、如何なる一時的或いは偶発的原因によっても攪乱されることのない商品の購買力であって、かつその自然価格である購買力を意味する。  
第5章 賃金について

 

【労働の自然価格】
労働は、買われたり売られたりし、かつその量が増やされたり減らされたりする他の全ての商品と同じく、それに対する自然価格と市場価格を有する。労働の自然価格とは、労働者たちを全体として増やすことも減らすこともせず生存させ、そしてその種族を永続させることを可能にするのに必要な価格である。
労働者の、自分自身とその家族―労働者の数を維持するために必要であると思われる家族―を養う力は、彼が賃金として受け取るお金の量に依存するのではなく、そのお金で購入する食料、必需品、そして習慣により彼にとって必要不可欠となっている便宜品の量に依存する。従って、労働の自然価格は、労働者とその家族を養うのに必要な食料、必需品、そして便宜品の価格にかかっている。食料品と必需品の価格が上がれば労働の自然価格は上がることになり、それらの価格が下がれば労働の自然価格も下がることになる。  
【解説】
商品の価値(相対価値)を規定するものは、その商品に投入された労働量であるとリカードは言う。しかし、同時に彼は、ここでも言っているように、その労働の価値は、食料品や必需品の価値が変動すればそれ自身も変動すると言う。しかし、労働の価値をそのように定義してしまうと、労働は不変の価値尺度ではあり得なくなってしまう。従って、労働を価値の基準に据える以上、労働の価値を議論すべきではなく、また逆に、労働の価値を議論するのであれば、労働を価値の基準に据えることは適当でないことになる。  
【労働の自然価格の傾向】
社会の進歩にともない労働の自然価格は常に上がる傾向がある。何故ならば、労働の自然価格を規定する主要な商品の一つの価格が、それを生産するための困難度が上がることによって高くなる傾向があるからだ。しかし、農業の改良やそこから食料が輸入される新市場の発見が、必需品の価格が上昇する傾向を一時の間弱めるかもしれないし、或いは必需品の自然価格を低下させることさえあるかもしれないので、その同じ原因が労働の自然価格に対し、それに相応する影響を及ぼすであろう。
【製造品の自然価格の傾向】
原生産物と労働を除く全ての商品の自然価格は、富と人口の発展のなかで低下する傾向がある。というのも、一方では、それらの商品が作られる原材料の自然価格が上がることから、それらの真実の価格が上がるが、この効果は、機械の改良や労働の配分方法の改善、或いは生産者たちの科学及び技術双方の能力の向上により相殺されてなお余りがあるからである。
【労働の市場価格】
労働の市場価格は、供給の需要に対する比率が自然に作用することによって労働に対し実際に支払われる価格である。労働は、その量が少ないときに高く、その量が多いときに安い。労働の市場価格は、それがどんなにその自然価格からかけ離れようとも、一般の商品と同じようにその自然価格に一致する傾向がある。
労働者が元気で幸せでいるのは、労働の市場価格が自然価格を上回るときである。彼が所有することのできる必需品や享楽品の割合が増えるのも、従って健康で大きな家族を養う力を持つのもそのときである。しかし、賃金が高いことによって人口の増加が促されると、賃金は再び自然価格にまで下がり、時には反動により確かに自然価格を下回るであろう。
労働の市場価格が自然価格を下回るとき、労働者の状況は最も惨めになる。そのとき、貧困は、習慣によって絶対に必要なものになっている安楽品を労働者から奪い去る。労働の市場価格が自然価格にまで上昇するのは、そして労働者が、自然賃金率が与える控え目な快適品を保有するようになるのは、そうした欠乏状態が労働者の数を減少させた後か、或いは労働に対する需要が増大した後になってからのことである。
【市場賃金率】
市場賃金率は、賃金がその自然率に一致しようとする傾向にも拘わらず、発展する社会にあっては、期間の定めもなく常にそれ(【注】自然賃金率)を上回ることがあるかもしれない。というのも、増大した資本が新たな労働需要に対し与える刺激の効果が発揮されるや否や、また新たな資本の増加が起こり同じような効果が発揮されるかもしれないからである。こうして、もし資本の増加が緩やかであり、かつ絶えることなく続けば、労働需要は、人口の増加に対して継続的な刺激を与えるかもしれない。
【資本の定義】
資本とは、一国の富のうち生産に用いられる部分であり、食料、衣類、原材料、機械等の労働を実行させるために必要なものから構成される。
【資本の増加】
資本は、その価値が上がると同時に量が増えるかもしれない。一国の食料と衣類を追加するために以前よりも多くの労働が必要となると同時に、それらの追加がなされるかもしれない。その場合には、資本の量だけではなくその価値も増加するであろう。或いは、資本は、その価値が上がることなく、場合によっては、その価値が実際に低下するなかで、増加するかもしれない。一国の食料と衣類の追加がなされるかもしれないだけではなく、そうした追加が機械の力を借りて、それらを生産するために必要とされる比例的労働量を増加することなく、場合によっては比例的労働量の絶対的な減少をともないつつ、なされるかもしれない。資本の全体が、或いはその一部が単独で以前よりも大きな価値を有することなく、否、多分実際以前よりも価値が低下する一方で、資本の量が増加するかもしれない。
【労働の市場価格の変化】
最初のケースでは、食料、衣類、その他の必需品の価格に常に依存する労働の自然価格は上がるであろう。第二のケースでは、労働の自然価格は変わらないか、下がるであろう。しかし、どちらのケースにおいても、賃金の市場率は上がるであろう。というのも、資本の増加に比例して労働需要が増加し、なすべき仕事量に比例してその仕事を行う者に対する需要が発生するからである。
どちらのケースにおいても、労働の市場価格は自然価格を上回ることになろう。そして、どちらのケースにおいても自然価格に一致する傾向があるであろう。しかし、最初のケースではその一致が速やかにみられるであろう。労働者の状況は改善されるであろうが、大きく改善されることはないであろう。というのも、食料と必需品の価格の上昇が、上昇した賃金の大部分を吸いつくしてしまうからである。この結果、労働の供給が少し増加しただけでも、或いは人口が僅かに増加しただけでも、労働の市場価格を、その引き上げられた労働の自然価格にまで直ぐに押し下げてしまうであろう。
第二のケースでは労働者の状況は大いに改善するであろう。彼の受け取る貨幣賃金は増加するであろうが、彼は如何なる追加価格も支払う必要がなく、また、恐らく彼とその家族が消費する商品の価格は低下しているとさえ思われる。労働の市場価格が再びそのときの低い、引き下げられた自然価格にまで低下するのは、人口が大きく増加した後のことであろう。
それでは、社会が改善する度に、そして社会の資本が増加する度に、労働の市場賃金は上昇するであろう。しかし、その上昇が永続きするものかどうかは、労働の自然価格も上がっているかどうかにかかるであろう。そして、これは、労働の賃金が支出される必需品の自然価格の上昇に再びかかるであろう。  
【労働の自然価格の曖昧性】
労働の自然価格は、食料や必需品で計測されてさえも、絶対的に固定され、そして常に一定であると考えてはならない。同じ国でも時代によって異なるし、国が違えば大変に違うものである。
(注)ある国では必要不可欠な住まいや衣類が、他の国では必要ないかもしれない。インドの労働者は、ロシアの労働者を死から救うには十分とは言えないような覆いの支給しか自然賃金として受け取らないとしても、全く元気よく働き続けるかもしれない。同じような気候状態にある国々においてさえも、生活習慣の違いが、自然の原因が引き起こすほどの大きな違いをしばしば労働の自然価格に引き起こすであろう。―トレンズ様の「穀物貿易に関する一論文」のP.68
この主題の全てが、トレンズ大佐によって見事に解明される。
【労働の自然価格と習慣】
労働の自然価格は、本質的に人々の習慣に依存する。英国の労働者は、もし、彼が自分の賃金でジャガイモ以外の食料を買うことができず、また、泥で塗り固められた小屋以上のものに住むことができないのであれば、そのような賃金は自然賃金率を下回るものであり、家族を養うには余りにも少なすぎると考えるであろう。しかし、「人間の生活費」が安く、人の必要品が直ぐに満たされるような国では、こうしたつつましやかな自然の要求物でもしばしば十分なものであるとみなされる。現在、英国の小さな家で使われている多くの便宜品でさえ、我々の歴史の初期の頃には贅沢品とみなされていたであろう。
社会の進歩とともに製造品の価格は常に低下し、そして原生産物の価格は常に上昇するので、豊かな国の労働者は自分の食料を僅かばかり犠牲にするだけで、他の全ての足りないものを十分に調達することができるほどの、そうした商品の相対価値の不均衡が最後には作り出される。
【賃金の変動要因】
貨幣賃金に必ず影響を与える貨幣価値の変動については、我々はお金が常に一定の価値を有するものとみなしているので、ここではそのような作用がないものと仮定しているが、そうした貨幣価値の変動は別にして、賃金は2つの原因による上昇及び低下を被るように見える。
第一は、労働者の供給と需要。
第二は、労働者の賃金が支出される商品の価格。
社会の発展段階の違いに応じて、資本、即ち労働を雇い入れる手段の蓄積は、そのスピードが速くなったり遅くなったりする。そして全てのケースにおいて、労働の生産力に依存するに違いない。労働の生産力は、一般的に言って肥沃な土地が豊富にあるときに最大となる。そのような期間においては、資本の蓄積のスピードは余りにも急速であり、資本の蓄積と同じ速さで労働者を供給することができないことがよくある。
【人口増加のスピード】
好ましい環境の下では、人口は25年間で2倍になるだろうと計算されている。しかし、その同じ好ましい環境の下で、一国の全資本がより短い期間で2倍になるかもしれない。そのようなケースでは、賃金は全期間に亘って上がる傾向があるであろう。何故ならば、労働に対する需要が供給よりもさらに速いスピードで拡大することになるからである。
文明が大変に進歩した国々の技術や専門知識が導入される新しい入植地では、資本は人間の数よりも速いスピードで増加する傾向があるであろう。そして、この労働者の欠乏が、仮により人口の多い国々によって満たされなかったとしたら、そうした傾向があることから労働の価格を大いに引き上げるであろう。こうした国々の人口が増え、そして質の劣った土地が耕作に供せられるのに比例して、資本を増加させる傾向が弱まる。というのも、実在する人々の要望を満たした後に残る余剰生産物は、必ずや生産の容易さ、つまり生産に用いられる人々の数の少なさに比例するに違いないからである。
それでは、最も好ましい環境下では恐らく生産を増やす力は人口を増やす力よりなお一層大きいであろうが、そうした状態は長く続くものではない。というのも、土地は量が限られ、かつ質の違いがあるために、追加の資本が土地に投入される度に生産性は低下するからである。一方、人口を増やす力は同じであり続ける。
【飢餓からの回避手段】
肥沃な土地が豊富に存在するが、そこに住む人々は無知、怠惰、そして野蛮さから欠乏と飢饉に晒され、かつ、人口が生計手段を圧迫していると言われている国々では、長い間人々が住み続けている国々―それらの国々では、原生産物の供給力が低下することから、過大な人口の全害悪が経験される―で必要とされるものとは大変に異なった救済策が適用されなければならない。一方のケースでは、害悪は政治の拙さ、財産権の不安定さ、そして全ての階級の国民の無教育から発する。彼らが幸せになるためには、政治を良くし、よく教育するだけでよい。というのも、人口の増加を上回る資本の増加が必然の結果として生じるからである。如何に人口が増えようとも、人口が多過ぎるということはあり得ない。というのも生産力がなお一層大きいからである。もう一方のケースでは、人口は、人々を養うために必要とされる基金よりも速いスピードで増加する。人口の増加率を引き下げない限り、勤労に励めば励むほど害悪は増すことになる。生産が人口の増加に歩調を合わせることができないからである。
人口が生計の手段を圧迫しているとすれば、残された救済策は人口を減らすか、或いは資本の蓄積をさらに速めるかのいずれかである。全ての肥沃な土地が既に耕作に供されている豊かな国では、後者の救済策は大変に実践的なことでもなければ大変に望ましいことでもない。何故ならば、努力をし過ぎれば全ての階級を等しく貧しくしてしまうからである。しかし、肥沃な土地がまだ耕作に供されていないことから使われていない生産の手段が豊富に温存されている貧しい国では、それ(【注】資本の蓄積)が害悪を取り除く唯一の安全で効果的な方法なのである。というのも、特にその効果は全ての階級の人々を向上させるからである。
【安楽品に対する嗜好】
人類の友は、全ての国において労働者階級は安楽品と享楽品に対する嗜好を持ち、そしてまた、彼らは全ての法的手段によってそうした品々を手に入れる努力が奨励されることを願わずにはいられない。人口が過剰になることを防ぐには、それよりも安全な策はあり得ない。労働者階級が欲しいと思うものは殆どなく、そして最も安い食べ物で満足する国では、国民は大変に大きい浮き沈みと惨めさに晒される。彼らにはその災難から逃れる場所がない。彼らはそれよりも低い生活状態に安全を求めることができない。彼らは既に余りにも低い状態にあり、それよりも低くなりようがないのである。彼らの最低限度の生活を支える主たる品目が僅かでも欠乏する場合には、彼らが利用できるそれに代わるものが殆どない。そして、そうした不足が生じると飢饉の持つ殆ど全ての害悪を伴うのである。  
【賃金の傾向】
社会が自然に発展する過程では、労働の賃金はそれが供給と需要によって規定される限り、低下する傾向を有するであろう。というのは、労働者の供給は同じペースで増加し続けるであろうが、労働者に対する需要はそれよりも緩やかなペースでしか増加しないからである。例えば、もし賃金が年間2%の資本の増加によって規定されたとしたら、資本の蓄積が1.5%しか増加しなかったときには、賃金は低下するであろう。そしてもし1%とか0.5%しか増加しなかったというのであれば、さらに低下するであろう。そして資本の額が変わらなくなるまで、賃金は下がり続けるであろう。そのときは、賃金も変わらなくなるであろうし、実際の人口を維持することができるだけになるであろう。こうした状況では、仮に賃金が労働者の供給と需要だけによって規定されたとしたならば、賃金は低下することになる、と私は言う。しかし、賃金は、それが支出される商品の価格によっても規定されることを我々は忘れてはならない。
人口が増えるにつれ、こうした必需品の価格は常に上がり続けるであろう。何故ならば、そうした物を生産するのにより多くの労働者が必要になるからである。それでは、もし労働の賃金が支出される全ての商品の価格が上がる一方で、労働の貨幣賃金が低下するのであれば、労働者は二重に影響を受けるであろう。そして、直ちに生計手段を全く奪い取られてしまうであろう。従って、労働の貨幣賃金は低下しないで上昇するであろう。しかし、上がるとは言っても、安楽品と必需品の価格が上がる以前に労働者がそれらを購入したのと同じ量を買うことができるほど上がることはないであろう。
【具体例】
もし、彼の年間賃金が24ポンドであったとして、即ち、穀物の価格がクォーター当たり4ポンドのときの穀物6クォーター分であったとしたら、彼は、穀物の価格がクォーター当たり5ポンドに上昇したときには、穀物5クォーター分の価値しか恐らく受け取らないであろう。しかし、5クォーターの穀物の価格は25ポンドであろう。従って、彼の貨幣賃金は追加されるであろうが、彼はその追加された賃金では、彼が以前家族で消費したのと同じ量の穀物や他の商品を自分に与えることはできないであろう。
【賃金と利潤】
それでは、労働者の賃金の支給額はこうして実際には悪化するが、それにも拘らずこの賃金の上昇が製造業者の利潤を必ず減少させるであろう。というのは、彼の商品が今までよりも高く売られることはないからであり、しかも、それらの商品を生産する経費は上がるからである。しかし、このことは、利潤を規定する原理を検討するところで考察されることになる。  
【賃金の長期的傾向】
それでは、地代を引き上げるのと同じ原因、即ち同じ割合の労働量を用いて追加の食料を供給することの困難さが増すことが、賃金も引き上げることになると思われる。従って、もしお金が不変の価値を有するものであれば、富と人口の増加にともない、地代と賃金の双方は、上がる傾向を有するであろう。
しかし、地代の上昇と賃金の上昇の間には、本質的な違いがある。地代の貨幣価値の上昇には、生産物に対する取り分の増加が伴う。地主の貨幣地代が大きくなるだけではなく、穀物地代も大きくなる。地主はより多くの穀物を保有するようになり、そして、1単位の穀物は、価値が上昇していない他の全ての商品のより多くと交換されるであろう。労働者の運命は、それほど幸せなものではないであろう。労働者はより多くの貨幣賃金を受け取るであろう。それは確かである。しかし、彼の穀物賃金は減少するであろう。彼の穀物に対する支配力だけでなく、彼の全般的な生活水準が悪化するであろう。というのも、市場賃金率を自然賃金率以上の水準に維持することがより困難になったことが分かるからである。
穀物の価格が10%上がる一方で、賃金の上がる率は常に10%を下回るであろう。しかし、地代は常にそれを上回る率で上昇するであろう。労働者の状況は全般的に低下し、地主の状況は常に改善されるであろう。
【具体例】
小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであったときに、労働者の賃金が年間24ポンド、即ち小麦6クォーター分の価値であったと仮定しよう。そして、彼の賃金の半分が小麦に支出され、残りの半分、つまり12ポンドが他の商品に支出されると仮定しよう。彼の受け取る額は次のようになるであろう。  
賃金 小麦の価格 小麦の量
£24、14s. £4、4s. 8d. 5.83クォーター
£25、10s. £4、10s. 5.66クォーター
£26、8s. £4、16s. 5.50クォーター
£27、8s. 6d. £5、2s. 10d. 5.33クォーター
彼は、以前ときっちり同じ暮らしを送ることができる賃金を受け取るであろう。というのも、小麦と他の商品に支出するお金は次のようになるからである。
・小麦が£4のときに3クォーターの小麦の価格£12
他の商品の価格£12
合計£24
・小麦が£4、4s. 8dのときに3クォーターの小麦の価格£12、14s.
他の商品の価格£12
合計£24、14s.
・小麦が£4、10s. のときに3クォーターの小麦の価格£13、10s.
他の商品の価格£12
合計£25、10s.
・小麦が£4、16s. のときに3クォーターの小麦の価格£14、8s.
他の商品の価格£12
合計£26、8s.
・小麦が£5、2s. 10dのときに3クォーターの小麦の価格£15、8s. 6d.
他の商品の価格£12
合計£27、8s. 6d
穀物が高くなるのに応じて、労働者の受け取る穀物賃金は少なくなるであろう。しかし、彼の貨幣賃金は常に増加するであろう。一方、以上の仮定から、彼の享楽品の量は正確に同じものとなるであろう。しかし、他の商品は、原生産物がその構成要素として入り込んでいるのに比例して価格が上がるので、彼はそれらの幾つかに対しより多くを支払うことになろう。彼が消費するお茶、砂糖、石鹸、ロウソク、そして家賃は恐らく高くはならないであろうが、ベーコン、チーズ、バター、亜麻布、靴、布地に対して支払う額は多くなるであろう。従って、上に示したように賃金が上がる場合であっても、彼の状況は相対的に悪化するであろう。
【お金が海外から輸入されるという現実】
しかし、私は、金即ちお金が作られる金属が、賃金が変化した国の産物であると仮定した上で、賃金の価格に及ぼす影響を検討してきた、と言われるかもしれない。しかも、私が推論した結果は現実とは殆ど一致していない、何故ならば金は海外の産物であるからだ、と言われるかもしれない。しかし、金が海外の産物であるとしても、この議論の真実性を少しも否定することにはならない。何故ならば、それが国内で見つかったものにしろ、海外から輸入されたものにしろ、賃金が上がることの効果は、究極的にもそして直ちに起こる効果としても、同じものであることが証明されると思われるからである。  
【賃金の上昇と金の移動】
賃金が上がるときの一般的な理由は、富と資本の増加が労働に対する新たな需要を生みだし、そしてそれが間違いなく商品の生産量の増大をもたらすということだ。こうして追加された商品を流通させるためには、商品の価格が以前と同じであるとしても、それまで以上のお金が必要となる。それによってお金が作られ、かつ海外から輸入しなければ手に入れることのできないこの商品がもっと必要になる。ある商品が今までよりも多く求められるときにはいつも、その商品の相対価値は、それが購入される商品と比べて上昇する。仮に、より多くの帽子が求められたとしたら、その価格は上がりより多くの金が帽子に対し与えられるであろう。より多くの金が求められたとしたら、金の価格は上がり帽子の価格は落ちるであろう。そのときには、同じ量の金を購入するためにより多くの帽子とより多くの他の商品が必要となるからである。
【商品の価格と金の流入】
しかし、想定されたケースにおいて、賃金が上がるから商品の価格が上がるであろうと言うことは、全く矛盾したことを肯定することになる。というのも、我々は第一に、金は需要が増えた結果その相対価値が上がることになると言いながら、第二に、商品の価格が上がるから金の相対価値は下がることになると言うが、この2つの結果は、全く両立不可能なものだからである。商品の価格が上がると言うことは、お金の相対的価値が低下すると言うことと同じである。というのも、金の相対価値が計測されるのは商品によってであるからである。
それでは、もし全ての商品の価格が上がったら、そうした高くなった商品を購入するために、海外から金がやってくることはできないであろう。そうではなく、金は国内から海外に向かい、相対的に安くなった海外の商品を購入することに有利に用いられるであろう。それでは、お金が作られる金属が国内で産出されようと、或いは海外で産出されようと、賃金の上昇は商品の価格を引き上げることはないように見える。お金の量を追加することなくして、全ての商品が同時に上がるということはあり得ない。
【金を流入させる要因】
我々が既に示したように、このお金の追加は、国内で調達されることもできないし、また海外から輸入されることもできないであろう。海外から追加の金を幾らかでも購入するためには、国内において商品の価格が高くではなく、安くなければならない。金の輸入と、それによって金が購入されるもの、つまり金に対し支払われる全ての国産の商品の価格の上昇は、絶対に両立することが不可能な結果である。紙幣を幅広く使用するとしても、この問題を変えることにはならない。というのも、紙幣は、金の価値に一致する、或いは一致しなければならないからである。従って、紙幣の価値は、その金属の価値に影響を与える原因によってしか影響を受けない。
【結論】
それでは、これらのことが、賃金が規定される法則であり、全ての社会における圧倒的大部分の人々の幸福度を規定する法則である。他の全ての契約と同じように、賃金は公正で自由な市場の競争に委ねられるべきであり、立法府の介入によってコントロールされるようなことは、決してあってはならない。  
【救貧法】
救貧法の明確で直接的な傾向は、こうした明確な原理とは正反対のものである。それは、立法府が慈悲深く望んだように貧しい人々の生活状態を良くすることはなく、貧しい人々と豊かな人々の双方の生活状態を悪化させてしまう。救貧法は、貧しい人々を豊かにする代わりに、豊かな人々を貧しくするように仕組まれている。現在の法律が施行される限り、貧しい人々を養う基金は益々増加し続け、ついには国の純収入を全て吸い尽くしてしまうか、或いは公共の支出のための決してなくなることのない需要を満たした後に、国家が我々に残すものと同じ大きさの収入を少なくても吸い尽くしてしまうということは自然の成り行きである。
(注)次の一節で、それが一時的な惨めさを意味するのであれば、私はビュキャナン氏にそこまでは同意する。「労働者の状況で最大の不運と言うべきものは、食料の少なさか仕事の少なさのいずれかから発生する貧困である。そして、全ての国において無数の法律が労働者の救済のために作られてきた。しかし、社会には立法によっては救済することができない惨めさがある。従って、実行不可能なことを目標にすることによって、実際には我々の力の及ぶ良い結果を達成し損なうことのないように、立法の限界を知ることが有益である」―ビュキャナン、P.61  
【救貧法廃止の必要性】
こうした法律の致命的な傾向は、もはや不思議なことではない。というのは、マルサス氏の手によって十分に議論が展開されてきたからである。そこで、貧しい人々の友であれば全ての者が、そうした法律の廃止を熱心に願わなければならない。しかし、不幸なことにそうした法律が作られてから長い年月が経過し、そして、貧しい人々の生活習慣もそうした法律の上に成り立っているので、我々の社会システムから救貧法を安全に根絶するには、最大の注意深さと巧いやり方が必要となる。こうした法律の廃止に最も賛成する者は全て、もしそうした法律―それは間違って作られているのであるが―が対象とする人々に対し、大きな苦痛を与えないようにすることが望まれるのであれば、そうした
法律の廃止は、極めて緩やかな手順を踏んで行わなければならないということに合意している。
貧しい人々の安楽と福祉は、彼らの数の増加を規制し、そして早過ぎであって将来のことを考えない結婚が余り起こらないようにするための彼ら自身の相当の注意、或いは立法府側の相当の努力なくしては、恒久的には保証されることはあり得ないということは疑うことのできない真実である。救貧法の制度はこれとは正反対であった。救貧法は、我慢することを余計なことにし、そして、賢明さと勤勉の代償である賃金の一部を軽率さに与えることによって軽率さを招いてきた。
(注)1796年以降、下院で明らかとなったこの主題に関する知識の進歩は、救貧法に関する委員会の最新の報告書とピット氏がその年に表明した次の考え方を比べてみれば明らかなように、幸いにも小さなものではなかった。彼は言った。「多くの子どもがいる場合には、非難や軽蔑の理由とするのではなく、権利と名誉として、我々に救済をさせて頂きたい。こうなれば、大家族であるということは呪いではなく恵みになる。そしてまた、自らの労働で自らに必要なものを供給できる者たちと、自らの国を多くの子どもたちで豊かにした後に、生活のための支援を求める権利を有する者たちの間に適当な線を引くことになるであろう」―ハンサードの「議会史」第32巻P.710 
【解説】
They have rendered restraint superfluous, and have invited imprudence,by offering it a portion of the wages of prudence and industry.
これに次のような訳が与えられた。「救貧法は、慎重で勤勉な人々の賃金の一部をその施行に提供することによって、抑制を不必要にし、無分別を招いたのである」(羽鳥・吉澤訳)
この訳は、by offering it のitを「その施行」と理解しているが、そうではなく、itはimprudenceを指すと理解すべきである。 
不幸の本性が救済策を指摘する。救貧法の対象を徐々に縮小すること。貧しい人々に独立することの価値を植え付けること。貧しい人々に制度としての慈善事業や偶然の慈善事業に頼るのではなく、生活のためには自分で努力することが必要であることを教えること。思慮深さと先見性が不必要な美徳でもなければ、利益を生まない美徳でもないことを教えること。そうしたことによって我々は次第により堅実で健全な状態に近づくであろう。
最終的にその廃止を目的としないような救貧法の改正は全く注目に値しない。
この目的がどうしたら安全に、そして同時に最も暴力を用いないで達成できるかを指摘できる人こそが、貧しい人々の最良の友であり、そして人道主義の味方である。
不幸を緩和することができるのは、貧しい人々の暮らしがそれによって支えられる基金を現在とは違った方法で集めることによってではない。もし、その基金の額が増やされたり、或いは最近提案されたような方法に従って、国家全体から一般基金として課せられたりしたならば、事態は改善しないどころか、我々が除去したいと望んでいる苦痛が却って深刻化してしまうであろう。
【教区毎のお金の徴収】
現在のような基金の集め方や使い方は、その致命的な効果を弱めるのに役立ってきた。各教区が、それぞれの教区の貧しい人々の生活支援のための独立した基金を集める。そのため、仮にこの王国全体の貧しい人々の救済のために一つの一般基金としてお金が集められた場合に比べ、救貧税を低く抑えることが自分たちの更なる利益目標にもなり、実行目標にもなる。各教区は、その全ての節約が自分たちの利益になるのであるから、他の何百もある教区が一般基金に参加する場合に比べ、この税を経済的に徴収することと、この救済資金を倹約して配分することに大いに関心を持つ。
我々は、救貧法がまだ国の純収入の全てを吸い尽くしていないということの原因は、ここにあると考えなければならない。救貧法が大変な負担にならずに済んでいるのは、救貧法の適用が厳格であるからだ。もし、法律によって、支援が欠けている全ての人間が確実に支援を受けることができ、しかも、それによってそれなりの生活が送ることができるのであれば、理屈の上からは、他の全ての税を全部集めたとしても、そのたった一つの救貧税に比べれば軽いものにしかならないと我々は予想するであろう。
【結論】
重力の原理であっても、そうした法律が富と力を惨めさと弱さに変えてしまう傾向があることほど確かなことではない。単に生活手段を供与するために努力することを除いては如何なることに対しても勤労しなくなる。才能の違いを混同してしまうようになる。頭の中がいつも身体の欲するものを与えることばかりになってしまう。そして、ついには全ての階級が普遍的な貧困という病に罹ってしまうであろう。
幸いなことに、こうした法律は、労働維持のための基金が規則正しく増加し、そして人口の増加が自然に要請されるような繁栄の時代に施行されてきた。しかし、もし進歩のスピードがもう少し遅くなり、もし我々の状態が静止状態に至るのであれば―そうした状態から我々はなお遠く離れていると私は信じているが―そのときには、こうした法律の致命的な性格がもっと明白になり、また警戒すべきものになろう。そのときにはまた、多くの困難が追加されることによって、そうした法律の廃止が邪魔されるであろう。 
第6章 利潤について

 

【課題】
異なる投下部門の資本の利潤は、お互いに一定の割合を保つ傾向があり、かつ全てが同じ程度、同じ方向に動く傾向があるということが示されたので、我々に残された検討課題は、何が利潤率を恒常的に変動させ、そしてその結果何が利子率を恒常的に変動させるのか、その原因を探ることである。
【利潤と賃金】
我々は、穀物の価格は、地代を支払わない部分の資本を用いた場合の、穀物を生産するのに必要となる労働量によって規定されることを見てきた。
(注)読者は、この主題を明確にする目的で私が、お金を価値の不変なものとみなし、従って全ての価格の変動は、商品の価値の変動が原因であるとみなしていることに留意することが望まれる。
我々はまた、全ての製造品の価格は、それを生産するのに必要な労働量が多くなるか少なくなるかに比例して上がったり下がったりすることも見てきた。価格を規定する量(注)の土地を耕作する農業者も、或いは商品を製造する製造業者も、いずれも地代のためにその生産物の如何なる部分も犠牲にすることはない。彼らの商品の全ての価値は2つの部分にのみ分けられる。一方は資本の利潤を構成し、もう一方は労働の賃金を構成する。
(注)「価格を規定する量の土地を耕作する農業者も」に相当する原文は次のとおりである。Neither the farmer who cultivates that quantity of land which regulates price,~お気づきのとおり、これでは意味が通じない。「量」と言っているが、「質」の間違いであろう。このquantityは、第1版と第2版では、quality となっていたのが、第3版でquantityになったと言われている。誤植であると思われる。
穀物と製造品が常に同じ価格で売られると仮定すれば、利潤は賃金が低いか高いかに応じて高いか低いかになろう。しかし、穀物の生産により多くの労働が必要となるために穀物の価格が上がると仮定しよう。その原因は、生産のために追加の労働が必要とされない製造品の価格を引き上げることはないであろう。それでは、もし賃金が同じであり続けたなら、製造業者の利潤は同じままであろう。しかし、これは絶対に確かなことであるが、もし賃金が穀物の価格の上昇によって上がれば、そのときには利潤は必ずや低下するであろう。
仮に、製造業者が常にその商品を同じ価格、例えば1000ポンドで売ったとならば、彼の利潤は、それらの商品を製造するのに必要な労働の価格に依存するであろう。賃金が800ポンドのときには、彼が賃金を600ポンドしか払わなかったときに比べ彼の利潤は少なくなるであろう。それでは、賃金が上がるのに比例して利潤は低下するであろう。
【原生産物の価格上昇】
しかし、原生産物の価格が上がれば、農業者は賃金に対し追加額を支払うであろうが、少なくても農業者は同じ利潤率を確保することになるのではないのか、と聞かれるかもしれない。しかし、決してそのようなことはない。というのも、農業者は、製造業者たちと同じように彼が雇う各労働者に対し賃金の追加分を支払う必要があるだけではなく、その同じ量の生産物を得るために地代を支払うか、或いは追加の労働者を雇うかのいずれかを余儀なくされるからである。そして、原生産物の価格の上昇は、その地代、或いは追加の労働者に見合ったものにしかならず、農業者に対し賃金の上昇分を補償することはないからである。 
【解説】
it may be asked whether the farmer at least wouldnot have the same rate of profits,~
この英文に対し、次の訳が与えられた。「農業者は、(賃金に対する追加額を支払わねばならないとしても、)少なくとも同一率の利潤を得ないだろうか、と」(羽鳥・吉澤訳)
この訳は、at least がthe same rate of profitsを修飾する者と考えているが、そうではない。農業者を修飾しているのだ。 
【具体例】
もし、製造業者と農業者の双方が10人の労働者を雇い、そしてその賃金が1人につき24ポンドから25ポンドに上がった場合には、それぞれが支払う総額は240ポンドではなく250ポンドになるであろう。しかし、これは、同じ量の商品を手に入れるために製造業者によって追加的に支払われることになる全額である。しかし、新しい土地の農業者は多分追加の労働者を1人雇うことが余儀なくされるであろう。従って賃金として25ポンドの追加額を支払うことが余儀なくされるであろう。そして、古い土地の農業者は、地代として25ポンドという全く同じ追加額を支払うことが余儀なくされるであろう。そうした追加の労働が発生しなかったならば、穀物の価格が上がることもなければ、地代が上がることもなかったであろう。従って、一方は賃金だけに275ポンドを支払う必要があり、もう一方は賃金と地代の合計として275ポンドを支払う必要があろう。ともに製造業者よりも25ポンド多く支払うことになろう。この後者の25ポンドに対しては、農業者は原生産物の価格の上昇によって補償を受ける。従って、彼の利潤は製造業者の利潤となお一致する。この命題は重要であるのでさらに解説をしよう。 
【解説】
穀物の生産が困難になり、その結果、賃金の上昇が起きるとともに一定量の穀物を生産するのに労働者を1人追加することが必要になれば、さらに25ポンドが賃金か地代として必要になるとリカードは言うが、錯覚ではないのだろうか?
(資本)(生産物)
<優等地>250ポンドXポンド
<限界地>275ポンドXポンド
このままでは、地代が算出できないので、同額の資本が用いられるとすれば、次のとおりになる。
(資本)(生産物)
<優等地>275ポンド1.1・Xポンド
<限界地>275ポンドXポンド
以上から、生産物の差は、0.1・Xになるので、それが地代になる訳であるが、
0.1・Xが25ポンドになるのは、生産物が250ポンドの場合だけであり、また、その場合には利潤がゼロになるということであるので、地代が25ポンドであることはあり得ない。仮に生産物が500ポンドであったとすれば、地代は50ポンドになるだろう。
従って、リカードが言うような、「追加労働者に支払う賃金=地代」の関係が成立することはない。 
【社会の進歩と分配の変化】
我々は、社会の初期の段階では、大地の生産物の価値に対する地主と労働者の取り分の割合は、ともに小さなものに過ぎないであろうということを示してきた。そして、それが富の進歩と食料調達の困難さが増すのに比例してその割合が増加するであろうということを示してきた。我々はまた、労働者の分け前の価値は、食料の価値が高いことによって増加されるが、労働者の真実の取り分は減少することになるということも示してきた。その一方、地主の分け前は、価値が上がるだけでなく量においても増加することになる、と。
地主と労働者に支払った後に残る土地の生産物は必ず農業者に帰属し、彼の資本の利潤を構成する。社会が進歩するにつれて全体の生産物に対する彼の取り分は減少することになるが、それでもその価値は上昇するので彼は地主や労働者と同じようにより大きな価値を手にするだろうと、主張されるかもしれない。
【利潤の具体例】
例えば、次のように言われるかもしれない。穀物の価格が4ポンドから10ポンドに上がったとき、最も良い土地から得られた180クォーターは、720ポンドではなく1800ポンドで売られるであろう。従って、地主と労働者は、地代と賃金としてより大きな価値を確保することが証明されるとしても、それでも、農業者の利潤も多くなるかもしれない、と。しかし、これは不可能である、私が今から証明するように。
先ず、穀物の価格は、最も質の悪い土地で穀物を生産する場合の生産の困難さが増すことに比例してのみ上がるであろう。もし、ある質の土地で10人の労働が180クォーターの小麦を手に入れ、そして小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであれば、全部で720ポンドになることは既に言ってきたとおりだ。そして、もし追加の10人の労働が同じ土地、或いは別の土地で追加として170クォーターの小麦しか生産しなければ、小麦は4ポンドから4ポンド4シリング8ペンスに上昇するであろう。というのも、170対180ということは、4ポンド対4ポンド4シリング8ペンスになるからだ。別の言い方をすれば、170クォーターの小麦の生産に一方の場合には10人が必要であり、もう一方の場合には9.44人しか必要としないので、増加率は9.44対10であり、それは4ポンド対4ポンド4シリング8ペンスになる。同様にして、もし追加の10人が160クォーターの小麦しか生産しないのであれば、価格はさらに4ポンド10シリングまで上がることが示されるであろう。もし150クォーターであれば、4ポンド16シリングまで上がるであろう。その後も同じように続くであろう。 
しかし、地代を支払わない土地で180クォーターが生産され、そして、価格がクォーター当たり4ポンドであったときの販売額は 720ポンド
そして、地代を支払わない土地で170クォーターが生産され、そして、価格がクォーター当たり4ポンド4シリング8ペンスに上昇した場合の販売額は、それでもなお 720ポンド
同じく4ポンド10シリングの160クォーターは 720ポンド
4ポンド16シリングであるときの150クォーターは 720ポンド
もし、農業者が、これらの等しい価値のなかからあるときは4ポンドという小麦の価格で、またあるときにはそれより高い小麦の価格で規定された賃金を支払うことを余儀なくされるのであれば、彼の利潤率は穀物価格の上昇に比例して減少することになるのは明らかである。
従って、このケースにおいて、労働者の貨幣賃金を上昇させる穀物の価格の上昇は、農業者の利潤の貨幣価値を減少させることがはっきりと証明されたと思う。
しかし、古くて質の良い土地の農業者のケースも全く異なることはないであろう。彼もまた、支払うべき賃金を増加させているであろう。そして、どんなに穀物の価格が上がることがあっても、彼と彼の常に等しい数の労働者との間で配分される720ポンドを上回る生産物の価値を彼が保持するということは決してないであろう。従って、労働者が多く取るのに比例して、農業者の取り分は少なくなるに違いない。
【地代の負担者】
穀物の価格が4ポンドであったとき、180クォーターの全ては耕作者のものであり、それを彼は720ポンドで売った。穀物の価格が4ポンド4シリング8ペンスに上がったとき、彼はその180クォーターから10クォーターの価値を地代として支払うことを余儀なくされ、その結果残った170クォーターは720ポンドを上回る価値は生まなかった。穀物の価格が4ポンド10シリングにさらに上がったとき、彼は20クォーターを、或いはその価値を地代として払い、その結果160クォーターしか残らず、それが720ポンドという同じ額を生み出した。
それでは、穀物の価格がどれほど上がろうとも、一定量の追加生産物を得るためにより多くの労働と資本を用いることが必要になる結果、そうした価格の上昇は常に追加の地代、或いは追加の労働の価値に等しいものにされるであろう、ということが分かるであろう。その結果、穀物が4ポンドで売れようと、或いは4ポンド10シリングで売れようと、或いはまた5ポンド2シリング10ペンスで売れようと、農業者は、地代を支払った後に彼に残されたものによって同額の真実の価値を手に入れるであろう。こうして我々は、農業者に帰属する生産物が180、170、160、或いは150クォーターであろうと、彼は常にそこから720ポンドという同じ総額を手に入れるであろうということを知るのである。穀物の価格が、その量に反比例して上昇するからである。
それでは、地代は常に消費者に降りかかり、農業者には決して降りかからないように見える。というのは、もし彼の農場の生産物が常に180クォーターであるとすれば、価格の上昇が起きれば彼は自分のためにはより少ない量の生産物の価値を保持し、そして地主にはより大きな量の生産物の価値が与えられるであろうが、しかし差し引かれる額は、彼に常に720ポンドの総額を残すようなものになるからである。
全てのケースにおいて、720ポンドが、賃金と利潤に分けられなければならないことも分かるであろう。もし、土地から採れた原生産物の価値がこの価値を上回れば、それがどれほどの額であってもこの価値は地代に帰属する。もし上回るものがなければ、地代はないであろう。賃金や利潤が上がろうと下がろうと、それらが支払われなければならないのは、常にこの720ポンドからである。一方では、利潤は、労働者に絶対に必要なものを支給するのに十分なものが残らないほど多くのものをこの720ポンドのうちから吸い上げてしまうほど上がることはあり得ない。他方では、賃金は、利潤としてこの総額の如何なる部分も残さないほど上がることはあり得ない。
こうして全てのケースにおいて、もし原生産物の上昇に賃金の上昇が伴えば、製造業の利潤と同様農業の利潤も、原生産物の価格の上昇によって引き下げられる。
(注)読者は、不作だったり豊作だったりすることから生じる、或いは人口に影響を及ぼす何らかの突然の効果によって需要が増加したり減少したりすることから生じる偶発的な変動を我々が考慮に入れていないことに気が付いている。我々は、自然でかつ一定の穀物の価格について話をしているのであって、偶発的でかつ変動する穀物価格について話をしているのではない。 
【農業者の立場】
もし、農業者が地代を支払った後に残る穀物に対し何の追加の価値も得ることがなければ、そして、製造業者が彼の製造する商品に対し何の追加の価値も得ることがなければ、そしてさらに、双方が賃金に対しより多くの価値を支払うことを余儀なくされるのであれば、利潤は賃金の上昇によって低下するに違いないということ以上にはっきりと証明できるものがあるであろうか。
それでは、地代は常に生産物の価値によって規定され、かつ常に消費者に降りかかるものであるから、農業者は地主の地代の如何なる部分も支払わないが、地代を低く保つことに、或いはむしろ生産物の自然価格を低く保つことに決定的な利害関係を有している。
原生産物の、或いは原生産物が構成要素となっている商品の一消費者として、農業者は他の多くの消費者と同じように、その価格が低いことに利害関係を有するものである。しかし、彼は穀物の価格が高いことを大変心配する、それが賃金に影響を及ぼすからである。穀物の価格が上がる度に彼は、同じ額であって変わることのない720ポンドから彼が常に雇うとみなされている10人の労働者に対する追加の賃金を支払うことが必要になる。賃金を扱ったところで我々は、賃金は原生産物の価格が上がると必ず上がることを見た。58ページの計算のために仮定したケースを基にすれば、もし小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであるときは、賃金は年間24ポンドになることが分かるであろう。 
小麦の価格が以下の価格であれば、 賃金は以下のとおり
4ポンド4シリング8ペンス 24ポンド14シリング0ペンス
4ポンド10シリング0ペンス 25ポンド10シリング0ペンス
4ポンド16シリング0ペンス 26ポンド8シリング0ペンス
5ポンド2シリング10ペンス 27ポンド8シリング6ペンス
変わることのない720ポンドの基金は、労働者と農業者の間で次のように分配される。
小麦の価格 労働者の取り分 農業者の取り分
4ポンド 240ポンド 480ポンド
4ポンド4シリング8ペンス 247ポンド 473ポンド
4ポンド10シリング 255ポンド 465ポンド
4ポンド16シリング 264ポンド 456ポンド
5ポンド2シリング10ペンス 274ポンド5シリング 445ポンド15シリング
(注)180クォーターの穀物は、以上のように価格が変動したときに、地主と農業者と労働者の間で次のように分配されるであろう。
小麦の価格 地主 農業者 労働者 合計
4ポンド 0 120 60 180
4ポンド4シリング8ペンス 10 111.7 58.3 180
4ポンド10シリング 20 103.4 56.6 180
4ポンド16シリング 30 95 55 180
5ポンド2シリング10ペンス 40 86.7 53.3 180
貨幣で計測した地代、賃金、利潤は次のとおり。  
小麦の価格 地代 利潤 賃金 合計
£s. d. £s. d. £s. d. £s. d. £s. d.
40 0 480 0 0 240 0 0 720 0 0
4 4 8 42 76 473 0 0 247 0 0 76276
4 10 0 900 0 465 0 0 255 0 0 810 0 0
4 16 0 144 0 0 4560 0 264 0 0 864 0 0
5 2 10 205 13 4 445 150 274 5 0 925 13 4
そして、農業者の元々の資本が3000ポンドであったと仮定すれば、彼の最初のケースの資本の利潤は480ポンドであるので、利潤率は16%となろう。彼の利潤が473ポンドに落ちたとき、利潤率は15.7%になるであろう。
465ポンドに落ちれば、利潤率は15.5%
456ポンドに落ちれば、利潤率は15.2%
445ポンドに落ちれば、利潤率は14.8%
しかし、利潤率はなお一層落ちるであろう。何故ならば、これは思い出さなければいけないことだが、農業者の資本は、穀物と干し草、脱穀されていない小麦と大麦、馬と牛のような原生産物で大部分は構成されており、それらは皆、生産物の価格上昇の結果価格が上昇することになるからだ。彼の利潤の絶対額は、480ポンドから445ポンド15シリングに落ちるであろう。しかし、私が今述べた理由により、もし彼の資本が3000ポンドから3200ポンドに増えるのであれば、穀物の価格が5ポンド2シリング10ペンスのとき、彼の利潤率は14%を下回ってしまうであろう。
【製造業者の利潤】
仮に、製造業者もまた、彼の事業に3000ポンドを投下したとすれば、賃金の上昇の結果、同じ事業を継続することを可能にするために彼は資本を増加させることが余儀なくされるであろう。もし、彼の商品が以前720ポンドで売れたとすれば、それらは同じ価格で売られ続けるであろう。しかし、かつて240ポンドであった労働の賃金は、穀物の価格が5ポンド2シリング10ペンスのときには274ポンド5シリングに上がるであろう。最初のケースでは、彼は3000
ポンドに対し利潤として480ポンドを残すだろうが、2番目のケースでは、彼は増加した資本に対し、445ポンド15シリングの利潤しか得ないであろう。従って、彼の利潤は、変更させられた農業者の利潤率と一致するであろう。
【商品の価格上昇の原因】
原生産物の価格の上昇によって多少なりともその価格が影響を受けることのない商品は殆どない。何故ならば、土地から採れる原生産物が、ある程度は殆どの商品に構成要素として入っているからである。綿製品、亜麻布、及び布地は全て、小麦の価格の上昇とともに上がるであろう。しかし、それらの価格が上がるのは、それらの原料となっている原生産物の生産に対しより多くの量の労働が投入されたからであり、それらの商品の生産のために用いられた労働者たちにその製造業者からより多くが支払われたからではない。
全てのケースにおいて、商品の価格は、それにより多くの労働が投入されるために価格が上がり、それらの生産に投下される労働の価値が高くなるからではない。宝石や鉄、金の延べ板、銅でできた商品の価格は上がらないであろう。何故ならば、地表から採られる原生産物は、そうした商品の構成要素とはなっていないからである。 
【解説】
リカードは、「綿製品、亜麻布、及び布地は全て、小麦価格の上昇とともに上がるであろう」と言うが、例えば、綿製品の原料である綿花の生産に必要な労働量が、小麦の生産に必要な労働量と同じように変化すると、どうして言うことができるのであろうか。もし、そう言えないとすれば、綿製品は小麦の価格の上昇とともに上がることはない。 
【貨幣賃金が上がる原因】
私は、貨幣賃金が原生産物の価格の上昇によって上がるということを当然視している、しかし、これは決して必然の結果ではない、というのも労働者は少ない享楽品であってもそれで満足するかもしれないからだ、と言われるかもしれない。労働の賃金がかつて高い水準にあったかもしれないというのはそのとおりであり、また労働者たちが幾らかの賃金の引き下げには耐えるかもしれないということはそのとおりだ。もし、そうであれば、利潤の低下は阻止されることになる。しかし、必需品の価格が少しずつ上がるのに、貨幣賃金が低下するという事態や、或いは変わらないままであるという事態を想定することは不可能である。従って、通常の状況では、賃金を引き上げることなしには、或いは賃金の上昇が先行することなしには、必需品の価格の恒久的な上昇が起こる
ことがないのは当然であると考えられるであろう。
仮に、労働者の賃金が支出される食料品以外の必需品の価格が幾らか上がったとしても、利潤に及ぼす影響は同じであったか、殆ど同じであったであろう。そうした必需品に対し労働者は追加の価格を支払うことが必要になることから、労働者は賃金の引き上げを求めざるを得なくなるであろう。そして、賃金を上昇させるものは何であっても、必ずや利潤を引き下げる。しかし、絹、ビロード、家具、そしてそれ以外の労働者が必要としない商品の価格が、それらを生産するためにより多くの労働が投下される結果、上がると仮定するならば、そのとき、そうしたものの価格の上昇は利潤に影響しないのであろうか?決して影響しない。というのも、賃金の上昇以外に利潤に影響を及ぼし得るものはないからだ。絹とビロードは、労働者が消費するものではない。従って、賃金が上がることはあり得ない。
【一般的利潤率】
私は、利潤率について、一般論を述べているということが理解されなければならない。ある商品の市場価格は、その商品に対する新たな需要が求めるほどの量が生産されないために、その自然価格即ち必然の価格を上回ることがあり得ることは、私が既に述べたところである。しかし、これは一時的な効果に過ぎない。その商品を生産することに用いられる資本は高い利潤を生み出すので、自然にその商売に資本を引きつけるものである。必要な資金が供給され、かつその商品の量が十分に増加させられるや否や、価格は低下するであろう。そして、その商売の利潤は一般の水準に一致するであろう。
一般的な利潤率の低下は、特定の資本の投下先に限られた利潤の上昇と両立しないというものでは決してない。資本がある投下先から他の投下先に移動していくのは、利潤が不均衡であるからである。それでは、賃金上昇の結果、そして増加する人口に対して必需品を供給することが難しくなる結果、一般的な利潤が低下し、そして徐々により低い水準に落ち着こうとする間、農業者の利潤は、ほんの少しの間、以前の水準を上回ることがあるかもしれない。
海外貿易と植民地貿易の特定の部門に対して、異常な刺激が一定期間与えられるかもしれない。しかし、このことを認めたとしても、その理論、つまり利潤は賃金が高いか低いかに依存し、そして賃金は必需品の価格に依存し、そして必需品の価格は主に食料の価格に依存する、何故ならば他の全ての必要な品々は、殆ど制限なく増加させられる可能性があるからだ、という理論を否定することには決してならない。 
【解説】
「必需品の価格は主に食料の価格に依存する、何故ならば他の全ての必要な品々は、殆ど制限なく増加させられる可能性があるからだ」ということの意味が理解しづらいかもしれない。これは、殆ど制限なく数量を増大させることのできる物は、食料とは違って供給量を増しても価格の上昇を招くことがないので、従って必需品の価格の変動の最大の原因は、食料の価格の変動であると言っているのである。 
【需給関係と資本の移動】
価格は常に市場で変動する、そして先ず、需要と供給の相対的な関係を通して変動するということを思い出さなければならない。布地を1ヤード40シリングで供給することができ、そして、それで通常の利潤を与えることができるとしても、流行が変わることによって、或いは突然思いもかけず需要を増やし或いは供給を減らす何らかの原因によって、布地の価格が60シリングまで或いは80シリングまで上がるかもしれない。布地の生産者は暫くの間、尋常ではない利潤を享受するであろう。しかし、資本が自然にその製造業に流れることとなる。そして、ついに供給と需要の関係が再び適正な水準を回復し、そしてそのときに布地の価格は再びその自然価格、つまり必然の価格である40シリングに落ちつくこととなる。
【利潤の自然的傾向】
同様にして、穀物に対する需要が増える度に、農業者に対し一般的利潤を上回る利潤を与えるほど穀物の価格が上がるかもしれない。もし、肥沃な土地が豊富にあれば、穀物の生産に必要とされる資本が投下された後、穀物の価格は再び以前の水準に低下するであろう。そして、利潤は、以前と同じこととなる。しかし、もし肥沃な土地が豊富にないのであれば、そしてもしこの追加の穀物を生産するために通常以上の資本と労働が必要とされるのであれば、穀物の価格は、かつての水準まで落ちることはないであろう。穀物の自然価格は引き上げられることとなる。そして、農業者はより大きな利潤を恒久的に享受するのではなく、必需品の価格の上昇によって生み出される賃金上昇の不可避的な結果である利潤率の低下に我慢せざるを得ない自分を発見することとなる。
そこで、利潤は、その自然の傾向として低下する。というのも、社会の進歩と富の発展のなかで、必要とされる食料の追加分は、益々多くの労働を犠牲にして手に入れられるからである。この傾向、いわば利潤の重力とでも言うべきものは、かつて必要とされた労働の一部を不要にすることができ、従って労働者の第一の必需品の価格を引き下げることができる、農業科学上の発明と同様、必需品の生産に関係する機械の改良によって、幸運にも何度も時間の間隔をおいて制止させられるのである。
【賃金上昇の上限】
しかし、必需品の価格の上昇及び労働の賃金の上昇は限られている。というのも、賃金が、農業者が受け取る全額である720ポンドに達するや否や(既に述べたケースのように)、そこで資本の蓄積は終るに違いないからである。というのも、そうなれば資本は何の利潤も生むことができなくなり、それ以上の労働が求められることはあり得ず、その結果人口は最大点に達しているからである。本当はこの時点に至る遥か前に、利潤率が非常に低くなることによって資本の蓄積が行われなくなっているであろう。そして、労働者に賃金を支払った後のその国の全生産物の殆どが、土地の所有者と十分の一税及び税の受領者の財産となるであろう。
こうして、以前使用した不完全なケースを私の計算のベースとすれば、穀物の価格がクォーター当たり20ポンドのときに、その国の全ての純所得は地主に帰属するように見える。というのも、そのときには、当初180クォーターを生産するのに必要とされた労働量が、36クォーターしか生産する必要がなくなるからである。それは、20ポンド対4ポンドは、180対36になるからである。それでは、180クォーターを生産した農業者(仮にそのような180クォーターの量を生産したという農業者がいたとしての話であるが。というのも、その土地には投下された古い資本と新しい資本が入り混じっていて区別することができないのであるから)は、次のように販売するであろう。
・180クォーターを、クォーター当たり20ポンドで売ると‥‥3600ポンド
・144クォーター(地主の地代:180と36の差)の価値‥‥‥2880ポンド
・差額の36クォーターの価値‥‥‥720ポンド
・36クォーターの価値が10人の労働者へ‥‥‥720ポンド
・利潤は、ゼロ
以上の計算において、私は、次のように仮定した。
・穀物の価格が20ポンドになったとき、労働者たちは、引き続き年間3クォーターの穀物を消費する(60ポンド)。
・そして、それ以外の商品に対し労働者たちが引き続き12ポンド支出する。
・この結果、各労働者は年間72ポンドを支出する。
・従って、10人の労働者には年間720ポンドがかかるであろう。
これらの全ての計算において、私は、ただその原理を明らかにすることだけを望んできた。そのため、計算の基礎は無作為なものであり、単に例示することを目的としたということは殆ど言う必要がないであろう。結果として出てくるものは、人口の増加により次々と必要になる穀物の量を手に入れるのに必要な労働者の数、或いは労働者の家族により消費される穀物の量などの違いについて、私が如何に正確に述べたとしても、程度の差はあろうが原理としては同じものになっているであろう。 
【解説】
it is scarcely necessary to observe that my whole basis is assumed at random, and merely for the purpose of exemplification.
この文章にat random という用語が出てくるが、この英文に対して次の訳が与えられた。「私の基準全体が恣意的に、また単に例証のために仮定されているということは、ほとんど言う必要もない」(羽鳥・吉澤訳)
お気づきのように、この訳ではat randomを「恣意的に」としている。竹内謙二訳では「勝手に」としている。これらの訳は適切ではないのではなかろうか?しかし、このケースに出てくる数値は特定の目的のために選ばれたものであるから、そもそもat random、つまり「無作為に」想定したと言うことがおかしいのである。 
私の目的は問題を単純化することであり、従って食料以外の労働者の必需品の価格が上がることは考慮に入れていない。必需品の価格の上昇は、それらが作られている原材料の価格が上がった結果であろうし、またそれが勿論、さらに賃金を引き上げ、利潤を引き下げるであろう。
【資本蓄積の動機】
私は、価格のこのような状態が恒久的なものにならないうちに、資本の蓄積に対する動機がなくなるであろうということを既に述べた。というのも、蓄積された資本に生産をさせるという目的を持たないで資本を蓄積する者はいないからである。そして、蓄積された資本が利潤に作用するのは、生産のために用いられるときだけである。動機がないのであれば、資本の蓄積は起こり得ないであろうし、その結果、そうした価格の状態は決して起こり得ないであろう。農業者と製造業者は、労働者が賃金なしでは生きていけないのと同じように利潤がなければ生きていけない。彼らが資本を蓄積しようとする動機は、利潤が減少する度に少なくなるであろう。そして、彼らの苦労や、彼らが資本を生産的に用いようとするときに必ず遭遇するに違いないリスクに対し十分な補償を与えることがなくなるほど利潤が低くなるとき、資本蓄積の動機は全く止まってしまうであろう。
【利潤率の低下】
私は、利潤率は、私の計算で見積もったよりももっと急速に低下するであろうと再び述べなければならない。というのも、生産物の価値は、想定された状況の下で私が述べたようなものであるので、農業者の資本は必ずや価値の上がった多くの商品によって構成されることから、農業者の資本の価値は大きく増大するからである。
穀物が4ポンドから12ポンドに上がる前に、彼の資本は多分その交換価値が2倍になり、恐らく3000ポンドではなく6000ポンドになるであろう。もし、彼の利潤が180ポンドであったとしたら、即ち彼の元々の資本の6%であったとしたら、利潤はそのとき3%よりも高くなることはないであろう。というのも、3%で6000ポンドだということは、180ポンドを与えることになるからだ。そうした条件でしか、懐に6000ポンドを所持した新たな農業者は、農業という事業に参入することができないであろう。
多くの商売がこの同じ原因から多少なりとも何らかのメリットを受けるであろう。ビール醸造業者、蒸留酒製造業者、毛織物業者、及び亜麻布の製造業者は、原料と完成品からなる資本の価値の上昇によって利潤の減少の一部が補償されるであろう。しかし、金物類、宝石類、及びその他の多くの商品の製造業者は、その資本が一律にお金により構成されている人々と同様に、何の補償もなしに利潤率低下の効果を全て被るであろう。
【利潤の減少】
しかし、我々はまた、土地に対する資本の蓄積と賃金上昇の結果、資本の利潤率は低下するかもしれないが、それでもなお利潤の合計額は増加するであろうと予想するであろう。10万ポンドが繰り返し蓄積される度に、利潤率が20%から19、18、17%へと逓減率で低下すると仮定すれば、我々は、そうした連続する資本の所有者たちによって受け取られる利潤の総計は、常に増加すると予想するであろう。資本の量が20万ポンドであったときには、10万ポンドのときよりも利潤は大きいであろう。30万ポンドのときには更に大きいであろう。それから以降も資本の増加が起こる度に、率は落ちるであろうが利潤は増え続けるであろう、と。  
【解説】
We should also expect that, however the rate of the profits of stock might diminish in consequence of theaccumulation of capital on the land, and the rise of wages, yet that the aggregate amount of profits would increase.
この英文のWe should also expect that~は、どのように訳すべきなのか?
2つの例を挙げる。「われわれはまた、〜と予想すべきである」(羽鳥・吉澤訳)
「吾々はまた〜を期待すべきである」(竹内謙二訳)
それらのようにshouldを義務を表すものとして訳してしまうと、どうも文章のつながりが悪くなってしまう。何故ならば、このshould にはalsoが付いているが、それ以前の文章には、我々が予想すべきようなことは何も述べられていないからである。このshouldは推量を表すもので、「〜であろう」と訳すべきである。  
しかし、この増加は一定の期間においてのみ真実である。例えば、20万ポンドの19%は10万ポンドの20%を上回る。さらに、30万ポンドの18%は20万の19%を上回る。しかし、資本が巨大な額になるまで積み上り、かつ利潤が落ちた後にさらに資本が蓄積されると、利潤の総額を減少させる。資本の蓄積額が100万ポンドであり、利潤率が7%だと仮定すれば、利潤の総額は7万ポンドになるであろう。ではもし、その100万ポンドの資本に10万ポンドが追加され、そして利潤率が6%に低下すれば、資本の総額は100万ポンドから110万ポンドに増加することになるが、資本の所有者によって6万6千ポンドが、つまり4千ポンド減少した額が受け取られることとなる。
しかし、資本が何らかの利潤を生む限り、生産物の量の増加だけでなく価値の増加を生みださない資本蓄積などあり得ない。追加の10万ポンドを用いることによって、以前の如何なる部分の資本も生産力を落とすことにはならない。その国の土地と労働の生産物は増加するに違いない。そして、その価値は引き上げられるであろう。以前の生産物の総量に対して追加される生産物の価値によって資本の価値は引き上げられるだけでなく、生産物の最後の部分を生産する困難度が増すことによって、土地の全ての生産物に対して与えられる新しい価値によっても引き上げられることになる。
【利潤の侵食】
しかし、資本の蓄積が非常に大きくなるときには、この増加した価値にも拘わらず、増加した価値は、以前よりも小さい価値が利潤には充てられ、その一方で地代と賃金に充てられるものは増加するように分配されるであろう。こうして、連続して10万ポンドの資本が追加される度に、例えば利潤率が20%から19%、18%、17%へと低下する度に、年間得られる生産物は量において増加するであろうし、その価値は、追加の資本が生みだすと見られる追加の全価値を上回るものとなろう。
それは、2万ポンドから3万9千ポンドを上回るものに増加するであろう。そして、それから5万7千ポンドを上回るものに増加するであろう。そして、私たちが前に想定したように用いられた資本が100万ポンドになるとき、もしそれにさらに10万ポンドが加えられ、かつ利潤の総額が実際に以前より低いとしても、それでもなお6千ポンドを上回るものが国の収入に加えられるであろう。しかし、それは地主と労働者たちに対する収入となろう。彼らは、追加の生産物を上回るものを得るであろう。そして、彼らは、その状況から資本家の以前の取り分さえも侵食することができるようになるであろう。
それでは、穀物の価格が4ポンドであり、従って我々が以前計算したように、地代を支払った後に農業者に残る720ポンドのうち、480ポンドを農業者が保持し、240ポンドが労働者たちに支払われたと仮定しよう。価格がクォーター当たり6ポンドに上がったとき、農業者は労働者に300ポンドを支払うことが余儀なくされ、彼の利潤として420ポンドしか保持できなくなるであろう。農業者は、労働者たちが、以前と同じ量であって、それ以上ではない量の必需品を消費することが可能になるように、労働者たちに300ポンドを支払うことが余儀なくされるであろう。
では、仮に投下された資本が720ポンドの10万倍、即ち7200万ポンドを生みだすほど大きかったとしたら、小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであったときには利潤の総合計は4800万ポンドとなろう。そして、それよりも大きい資本を用いることによって、小麦の価格が6ポンドであったときに720ポンドの10万5千倍、即ち7560万ポンドが得られたとすれば、その場合には利潤は実際に4800万ポンドから4410万ポンド、即ち420ポンドの10万5千倍に低下し、賃金は、2400万ポンドから3150万ポンドに増加するであろう。  
【解説】
7560万ポンドの生産物が獲得されたときに、利潤が4410万ポンドになり、賃金が3150万ポンドになる理由は、小麦の価格がそれまでのクォーター当たり4ポンドから6ポンドへ上昇するためである。即ち、小麦の価格がそれまでの4ポンドであったときには、720ポンドの小麦が480:240(2:1)の割合で利潤と賃金に分配されていたのが、価格が6ポンドになると、420:300(1.4:1)の割合で分配されるようになるからである。
利潤は、7560×1.4/2.4=4410で、4410万ポンドとなり、賃金は、7560×
1/2.4=3150で、3150万ポンドになる。  
【労働者と地主】
賃金は上昇するであろう。何故ならば、資本に比例するものを上回る労働者が用いられることになるからである。そして、各労働者は、より多くの貨幣賃金を受け取るであろう。しかし、我々が既に示したように、労働者の状況は、
彼がその国の生産物のより少ない量しか支配できない限り悪化するであろう。唯一の真実の利得者は、地主であろう。彼らはより高い地代を得るであろう。何故ならば、第一に、生産物がより高い価値を有するからである。第二に、彼らはそうした生産物のうちのより大きな割合を確保するからである。  
【解説】
「賃金は上昇するであろう。何故ならば、資本に比例するものを上回る労働者が用いられることになるからである」
資本が増加する割合を上回って労働者数が増えると、何故賃金は上昇するのだろうか?賃金はむしろ低下すると考えるのが普通ではないのか?
リカードが考えることはこうである。社会が発展し人口が増加すると、肥沃な土地が相対的に少なくなる。そうすると土地の生産性が落ち、一定量の穀物を生産するのに必要な労働者の数が増加する。しかし、その一方で、労働者には、労働者の生存を確保するものが与えられなければならないので、人口の増加に従い全生産物に占める労働者側の取り分が増大し、資本家の取り分は減少する。
つまり、労働者の数が増え、食料の生産が困難になるのに比例して、全生産物中に占める労働者の取り分が増えるので、賃金が上昇するとリカードは言うのである。  
【資本家と労働者】
より大きな価値が生産されるのであるが、地代を支払った後に残る価値のより大きな割合が生産者(【注】ここでは労働者のことを指している)たちによって消費される。そして、これが、これだけが利潤を規定するのである。土地が豊富に生産する間、賃金は一時的に上がることがあるかもしれず、そして生産者たちはいつもの割合以上のものを消費するかもしれない。しかし、人口に対して与えられる刺激が速やかに労働者たちの消費を通常の水準にまで引き下げるであろう。
しかし、痩せた土地が耕作に供されるとき、或いはより多くの資本と労働が古い土地に投下されるとき、より少ない生産物の収益しか得られず、その効果は恒久的なものになるに違いない。資本の所有者と労働者たちに分配される、地代を支払った後に残るもののより大きな割合が、後者に充てられることとなる。各自は、より少ない絶対量しか得られないかもしれないし、また多分そうなるものである。しかし、農業者が保持する全生産物に比例するものを上回る労働者が用いられるのであるから、全生産物のうちより大きな価値が賃金として吸収されることになる。その結果、より少ない割合の価値が利潤に充てられることになる。これは土地の生産力を制限している自然の法則によって、必ずや恒久的なものにさせられるであろう。
【利潤を規定するもの】
こうして、我々は、我々がかつて立証しようと試みた同じ結論に再び到着する。全ての国、全てのときにおいて、利潤は、地代を生まない土地に対して、或いは地代を生まない資本とともに投下される労働者たちに、必需品を供給するのに必要とされる労働量に依存する。それでは、資本の蓄積の効果は、国によって異なるであろう。そして、主に土地の肥沃度に依存するであろう。ある国が如何に広大であっても、その土地がやせた土地ばかりであり、かつ食料の輸入が禁止されているのであれば、少々の資本の蓄積でさえも利潤率の大きな低下を起こし、地代が急速に上昇するであろう。その反対に、小さいけれども肥沃な国は、そして特に食料の自由な輸入を認めるのであれば、利潤率の大きな低下を招くことなく、或いは地代の大きな上昇を招くことなく大きな資本を蓄積するかもしれない。
【賃金上昇の影響】
賃金に関する章で、我々は商品の貨幣価格は、賃金の上昇によって引き上げられるものではないことを示そうとした。お金の標準である金がこの国の産物であったとしても、或いはそれが海外から輸入されたものであったとしても、いずれの想定の下においても、である。しかし、仮にそうでなかったとしても、つまり、もし商品の価格が高い賃金によって恒久的に引き上げられたとしても、高い賃金は労働の雇用主から彼らの真実の利潤の一部を奪うことによって常に彼らに影響を与えるという命題が、真実でないということにはならないであろう。
帽子屋、靴下屋、及び靴屋は、各自特定量の彼らの商品を生産するために10ポンドの賃金を支払ったとし、帽子と靴下と靴の価格が、それぞれの製造業者にその10ポンドを払い戻すのに十分なだけ上がったと仮定しよう。彼らの状況は、そうした値上がりが起こらなかった場合と比べ少しもよくならないであろう。もし、靴下屋が靴下を100ポンドではなく110ポンドで売ったとしたら、彼の利潤は以前と正確に同じ貨幣額となるであろう。しかし、彼はこの同じ額のお金と交換に手に入れる帽子、靴下、及びその他の製品の量は1/10少なくなるため、そしてまた、以前の金額の貯蓄で彼が雇うことのできる労働者は、賃金が上がったので少なくなるため、さらに彼が購入することのできる原材料は価格が上がったので少なくなるため、彼の貨幣利潤が実際に減少し、かつ全てのものが以前の価格のままであった場合と比べ、少しも改善することはないであろう。
それでは、こうして私は第一に、賃金の上昇は商品の価格を引き上げることはなく、そうではなく、常に利潤を引き下げることになること、を証明しようとしたことになる。第二に、もし全ての商品の価格を引き上げられることができたとしても、なお利潤に対する効果は同じになること、そして実は、価格と利潤が計測される仲介物の価値だけが引き下げられることになるということを証明しようとしたことになる。  
第7章 海外貿易について

 

【海外貿易と価値】
海外貿易の拡大は、一国の商品の総量を増大させ、従って享楽品の総量を増大させることに大変力強く貢献するものであるが、一国の価値の総量を直接に増加させることにはならない。全ての海外産の商品の価値は、それらと引き換えに与えられる我々の土地と労働の生産物の量によって計られるので、仮に我々が、新しい市場の発見によって我々の商品の一定量と引き換えに2倍の量の海外産の商品を手に入れたとしても、我々は今までより大きい価値を得ることはないであろう。
【具体例】
もし、ある商人が、英国産の商品を1000ポンド分購入することによって、英国の市場において1200ポンドで売ることのできるある量の海外産の商品を手に入れることができれば、彼はそうして資本を用いることによって20%の利潤を得ることになる。しかし、彼の利益も、また輸入される商品の価値も、そうして得られる海外産の商品の量が多かったり少なかったりするからといって増加することもなければ減少することもないであろう。例えば、彼が25樽のワインを輸入しようと、或いは50樽のワインを輸入しようと、もしあるときには25樽が、またあるときには50樽が同じように1200ポンドで売れるのであれば、彼の利益は影響を受けることはあり得ない。いずれの場合においても、彼の利潤は200ポンド、即ち資本の20%に限定されることになる。そして、いずれの場合にも、同じ価値が英国に輸入されることになる。
【海外貿易と利潤】
もし、50樽が1200ポンドを上回る価格で売れたとしたら、この商人の利潤は一般的な利潤率を上回るであろう。そして、資本は、ワインの価格が低下し全てを以前の水準に引き戻すまで、自然にこの有利な商売に流れ込むであろう。
海外貿易において特殊な商人が時々挙げる大きな利潤が、その国の一般的利潤率を引き上げると確かに主張されてきた。そして、その新しい有利な海外取引に参加するために他の投資先から資本を引き抜くことが、全般的に価格を引き上げ、それによって利潤を引き上げると主張されてきた。
穀物の生産に充てられる資本、そして布地、帽子、靴などの製造に充てられる資本が必ず少なくなるので、それらに対する需要が変わらない限り、これらの商品の価格は大きく引き上げられ、その結果農業者、帽子屋、毛織物業者、
そして靴屋は、その海外の商人と同じように利潤を増加させるであろうと権威者によって言われてきた。
(注)アダムスミスの第1編9章を参照  
【解説】
当時、アダムスミスなどは、海外貿易は次のようにして国内産業の利潤率を引き上げると考えた。
海外貿易でビジネスチャンスが拡大→儲かる部門へ資本が移動→既存部門の資本不足→供給不足の発生→価格の上昇→利潤率の全般的な上昇  
【リカードの批判】
こうした考えを持つ人々は、私と同じように、異なった投資先の利潤はお互いに一致する傾向があること、そして、ともに上昇しともに低下する傾向があることを認める。我々の違いはここにある。彼らは、利潤率の均一化は、利潤の全般的上昇によってもたらされる、と主張する。私は、その有利な事業の利潤は、速やかに一般的水準にまで低下することになるという意見である。
というのも第一に、こうした商品の需要が減ることがない限り、穀物の生産や、布地、帽子、靴などの製造に充てられる資本が必ず少なくなるということを私は否定する。そして、仮にそうであれば(【注】同じ量の資本が用いられるのであれば)、それらの価格が上がることはないであろう。
【資本不足が起こらない理由】
海外の商品の購入には、英国の土地と労働の生産物の同じ量か、より多い量か、或いはより少ない量が用いられるであろう。
もし海外商品の購入に同じ量の生産物が用いられるとすれば、そのときには、布地、靴、穀物、そして帽子に対し以前と同じ需要が存在することになり、そして、同じ量の資本がそれらの生産に充てられることになる。
もし、海外産の商品の価格が安い結果、英国の土地と労働の年間生産物のうちのより少ないものが海外の商品を購入するために用いられるとすれば、他の商品(【注】国産商品)を買うためにより多くのものが残ることになる。仮に、海外商品の消費者の自由に使える収入が追加されるために、帽子、靴、穀物などに対し以前よりも大きな需要があるというのであれば―より大きな需要があるであろうが―かつて、より大きな価値の海外の商品を購入した資本も、また自由に使えるのである。その結果、穀物、靴などに対する需要が増加しても、増大した供給を調達する手段もまた存在する。従って、価格、或いは利潤もまた、永久に上がるということはない。
もし、英国の土地と労働の生産物のうち今までより多くものが、海外の商品の購入のために用いられるとすれば、他の商品の購入のためにはより少ないものしか用いることができない。従って、帽子、靴などは、より少ない量が求められるであろう。資本が、靴、帽子などの生産から解放されると同時に、海外の商品を購入するために用いる他の商品の製造にはより多くの資本が用いられるに違いない。
その結果、全てのケースにおいて、海外の商品と国産の商品の合計に対する需要は、価値に関する限り、その国の収入と資本により制限される。
【具体例】
もし、一方が増えれば、もう一方は減らなければならない。もし、同じ量の英国の商品と引き換えに輸入されるワインの量が倍になれば、英国の人々は、今までの2倍の量のワインを消費するか、或いは同じ量のワインとより大量の英国の商品を消費するか、のいずれかが可能になる。仮に、私の収入が1000ポンドで、そしてそれで毎年100ポンドのワイン1樽と900ポンドの英国の商品の一定量を購入していたならば、ワインが1樽50ポンドに低下したときには、私は、その節約された50ポンドを追加のワインの購入か、或いはそれまで以上の英国産の商品の購入か、のいずれかに当てるかもしれない。仮に、私がさらにワインを購入し、そして全てのワイン呑みが同じような行動に出たら、海外貿易は少しも攪乱されることはないであろう。ワインと引き換えに、これまでと同じ量の英国産の商品が輸出されるであろう。そして、我々は2倍の量のワインを受け取るであろうが、その価値は2倍ではないであろう。
しかし、仮に私と他の者たちが、今までと同じ量のワインで満足したとすれば、より少ない英国産商品が輸出され、そしてワイン呑みは、以前は輸出されていた商品を消費するか、或いは彼らが好きな何か他のものを消費するか、のいずれかになるかもしれない。それらの生産に必要とされる資本は、海外貿易から解放された資本によって供給されるであろう。
【資本蓄積の2つの方法】
資本が蓄積されるには2つの方法がある。収入の増加か消費の減少のいずれかの結果、資本は貯蓄されるであろう。もし、私の支出が同じ額であり続ける一方で、利潤が1000ポンドから1200ポンドに増えれば、私は以前よりも200ポンド多く毎年貯蓄する。もし、私の利潤が同じ額であり続ける一方で、支出を200ポンド節約すれば、同じ結果が生み出されることになる。年間200ポンドが私の資本に追加されることになる。
【具体例】
利潤が20%から40%に上がった後にワインを輸入した商人は、英国産の商品を1000ポンドで買うのではなく、857ポンド2シリング10ペンスで買わなければならない、依然として、それらの商品の見返りとして輸入したワインを1200ポンドで売り続けながら。そうではなく、もし彼が1000ポンドで英国産の商品を購入し続けたとすれば、ワインの価格を1400ポンドに引き上げなければならない。彼はそうして自分の資本に対し20%ではなく40%の利潤を得るであろう。  
【解説】
857ポンド2シリング10ペンスで買ったものを1200ポンドで売れば、40%の利潤を得ることになる理由は次のとおりである。
857ポンド2シリング10ペンス=(857+2/20+10/12/20)ポンド
=(857+0.1+0.04166)ポンド
=857.14166ポンド
1200÷857.14166=1.40000従って、40%の利潤となる。  
しかし、もし彼の収入が支出される全ての商品が安くなる結果、彼とその他の全ての消費者が、彼らが以前支出していた1000ポンドのうち200ポンドを節約することができるのであれば、彼らはもっと効果的に国家の真実の富を増やすであろう。一方のケースでは、収入の増加の結果貯蓄がなされ、もう一方のケースでは、支出が減少した結果貯蓄がなされるであろう。
【結論】
もし、機械の導入によって、収入が費やされる商品の大部分の価値が20%低下したならば、私は、収入が20%増加した場合と同じように効果的に貯蓄することができるであろう。しかし、一方のケースでは利潤率は変わらないのに、もう一方のケースでは20%上がる。もし、安い海外製品の流入で、私が支出から20%を節約することができるのであれば、その効果は、機械の導入でそれらの生産費用を引き下げた場合と正に同じになる。しかし、利潤は引き上げられないであろう。
従って、市場拡大の結果、利潤率が引き上げられるということはない。但し、市場拡大によって、商品の総量を増加させることには同様に効果があり、そして、それによって労働維持のための基金と労働が投下される原材料を増大させることが可能になるかもしれない。
労働配分を改良することによって、また、その位置、気候、或いはその他の自然の有利性や人為的な有利性から、その国にとって最も相応しい商品を各国が生産することによって、さらにまたそうした商品を他の国々の商品と交換することによって、我々の享楽品を増大させるということは、そうした享楽品が利潤率の上昇によって増大されることと同じように人類の幸せにとって重要なことである。
【海外貿易と利潤率】
この書物のなかで一貫して私は、利潤率は、賃金が低下することでしか引き上げることができないということを示そうとしてきた。そして、賃金が支出される必需品の価格が低下する結果としてでしか、賃金の恒久的な低下はあり得ないことを示そうとしてきた。従って、もし海外貿易の拡張によって、或いは機械の改良によって、労働者の食料と必需品を安い価格で市場に持ち込むことができるのであれば、利潤は上がることとなる。もし、我々が消費する穀物を栽培する代わりに、或いは、労働者の衣類やその他の必需品を製造する代わりに、こうした商品を安い価格で我々に供給することができる新しい市場を我々が発見すれば、賃金は低下し利潤は上がることとなる。しかし、もし海外貿易の拡大や機械の改良によって安い価格で得られる商品が、専ら金持ちが消費するような商品であれば、利潤率の変更は起こらないであろう。ワイン、ビロード製品、絹製品、そしてその他の高価な商品が50%低下しても、賃金に変更はないであろう。その結果、利潤も同じままであろう。
それでは、海外貿易は、収入が支出される目的物の量や種類を増加させるので、そしてまた、商品が豊富で安くなることによって貯蓄や資本の蓄積に誘因を与えるので、ある国にとって大変有利になるが、輸入される商品が労働者の賃金が支出されものでないのであれば、資本の利潤を引き上げる傾向はない。
【労働省力化と利潤】
海外貿易に関して言ってきたことは、国内の取引にも等しく当てはまる。利潤率は、労働配分の改良、機械の発明、道路と運河の開通、或いは製造か流通のいずれかにおける何らかの労働省力化手段によって引き上げられることは決してない。こうしたことは価格に作用する原因であって、消費者にとって必ず大変にためになる。というのは、そうしたことによって彼らは、同じ労働、或いは同じ労働の生産物の価値と交換に、そうした改良が適用される商品を大量に入手することができるようになるからである。しかし、それらは利潤には何の影響も与えない。他方、労働の賃金が低下する度に利潤は上がる。しかし、それは商品の価格には何の影響も及ぼさない。一方は、全ての階級にとってためになる。というのも、全ての階級が消費者だからである。もう一方の場合には、生産者にとってのみ利益となる。彼らの利益は多くなるが、全ては以前の価格のままである。最初のケースでは、彼らは以前と同じものを得る。しかし、彼らの利益が費やされる全てのものは、交換価値が低下している。  
【解説】
一般の人々一般の人々は、機械の発明などがなされると利潤が上がると考えるであろう。そそれは次のような発想をするからである。
械の発明、機械の発明、道路と運河の開通、労働の省力化→生産コストの削減→
利潤の増加
それに対して、リカードは、機械が発明されても利潤率は上がらないと考える。それは、生産コストが低下しても、仮に価格が低下しないとすれば、一般的な利潤率に比べ当該業種の利潤率が高くなり、その結果資本の流入が起こり、生産量が増加するので、結局、価格は低下すると考えるからである。但し、少し前のところでリカード自身「もし海外貿易の拡張によって、或いは機械の改良によって、労働者の食料と必需品を安い価格で市場に持ち込むことができるのであれば、利潤は上がることとなる」と言っていることに注意すべきである。即ち、機械の発明や、道路や運河の開通等も、それらが食料等の価格低下につながるものであれば、利潤率を引き下げる要因になるのである。
では、賃金が低下した場合には、生産コストが削減されるから、価格が低下することはないのであろうか?リカードは、そうはならないと考える。何故ならば、賃金が低下するということは、全ての産業において賃金が下がるということを意味するので、賃金の低下が起こっても資本の移動は起こり得ず、従って価格が変わることはないというのである。  
【個々の利益の追求】
一つの国の商品の相対価値を規定する正にその同じルールが、2カ国以上の国の間で交換される商品の相対価値を規定することはない。完全に自由な貿易体制の下においては、各国は、その資本と労働を各自にとって最も有利な投下先に自然に振り向ける。この個々の利益の追求が、全体の普遍的な利益と見事に結合する。勤労を刺激することによって、才能に対して報酬を与えることによって、そして自然によって授けられた特殊な能力を最も有効に用いることによって、労働を最も効果的にそして最も経済的に配分するのである。一方、生産物の総量を増大させることによって全体の恩恵を広め、そして利益と付き合いという一つの共通の絆で、文明化した世界中の国々からなる共通の社会を結び付けるのである。
ワインはフランスとポルトガルで作られ、そして、穀物はアメリカとポーランドで作られ、そしてまた、金物類と他の商品は英国で製造されると決めるのは、この原理なのである。
【利潤率均一化と国境】
同一の国では、一般的に言って利潤は常に同じ水準にある。さもなければ、資本の用いられ方が安全なものかどうか、或いは好みに合うものかどうかで違うだけである。しかし、国が異なればそうではない。仮に、ヨークシャーで用いられる資本の利潤がロンドンで用いられる資本の利潤を上回れば、資本は速やかにロンドンからヨークシャーへ移動するであろう。そして、利潤率の均一化がもたらされるであろう。しかし、資本の増加と人口の増加から英国の土地の生産率が低下した結果賃金が上がり利潤が下がる場合、資本と人口は、英国から、利潤が高いかもしれないオランダやスペインやロシアへ必ず移動するということにはならないであろう。
【ポルトガルのケース】
仮に、ポルトガルが他の国々と何の商業的つながりも持たなかったとしたら、その資本と労働の大部分をワインの生産に用いる代わりに―そのワインでポルトガルは自国で使用する他国製の布地と金物類を購入するのであるが―ポルトガルは、その資本の一部をそうした商品の製造のために振り向けることが余儀なくされるであろう。そして、ポルトガルがそうして得る商品は、多分量だけではなく質も劣るであろう。
【比較優位の原理】
ポルトガルが英国の布地と引き換えに与えることになるワインの量は、仮にそれらの両方の商品が英国で、或いはポルトガルで製造されたとした場合の、それぞれの商品の生産に充てられた労働量によって決定されるのではない。
英国は、布地を生産するためには1年間に100人の労働を必要とし、そして仮に英国がワインを生産することを試みたとしたら、同じく1年間に120人の労働を必要とする、という状態にあるかもしれない。そのような場合には、英国はワインを輸入し、そして布地の輸出によってワインを購入することが、英国の利益になることが分かるであろう。  
【解説】
これだけのリカードの説明では、何故英国がワインを輸入し、かつ布地を輸出することが利益になるのか、分かりにくいであろう。ここでは、1単位の布地と1単位のワインが、国際市場では同じ価値がついているとの前提で考えると分かり易い。つまり、1単位のワインと1単位の布地の相対価格は、国際市場では1:1であり、他方、英国では1:1.2であるのであれば、英国の立場で考えれば、価値の低い布地を引き渡し、その代わりに価値の高いワインを手に入れた方が得になるのである。  
ポルトガルでワインを生産するのには、1年間に80人の労働しか必要としないかもしれない。そして、同国で布地を生産するのには1年間に90人の労働を必要とするかもしれない。そのような場合には、ポルトガルにとっては、布地と引き換えにワインを輸出した方が有利になるであろう。この交換は、ポルトガルが輸入する商品が、英国よりも少ない労働でポルトガルにおいて生産することができるにも拘わらず、それでもなお起きるかもしれない。
ポルトガルは90人の労働で布地を作ることができるであろうが、それを作るのに100人の労働を必要とする国から輸入するであろう。何故ならば、ポルトガルにとっては、むしろワインの生産に資本を用いた方が有利だからである。ポルトガルは、仮に自国の資本の一部をブドウの栽培から布地の製造に切り替えた場合に生産することのできる量より多くの布地を、ワインと引き換えに英国から手に入れることになる。  
【表】布地とワインを、それぞれ1単位生産するのに必要な労働量  
布地 ワイン
英国 100人/年 120人/年
ポルトガル 90人/年 80人/年
こうして、英国は80の労働の生産物を得るために、100の労働の生産物を与えるであろう。そうした交換は、同じ国のなかの個人間では起こり得ないであろう。100人の英国人の労働が、80人の英国人の労働に対し与えられることはない。しかし、100人の英国人の労働の生産物が、80人のポルトガル人の労働、60人のロシア人の労働、或いは120人の東インド人の労働の生産物に対し与えられることはあり得る。
【海外取引の特異性】
この点に関する単一国と多くの国との違いは、資本が利潤のより多い投資先を求めて国から国へ移動することの困難さと、そしてまた、国内であれば地方から地方へと常に移動することを考えれば容易に説明が付くことである。
(注)それでは、機械や技術などの面で相当な優位性を有し、従って隣国よりもより少ない労働を用いて商品を製造することができる国は、そうした商品と引き換えに、自国の消費のために必要な穀物の一部を輸入することもあり得ると思われる。仮に、自国の土地がもっと肥沃であったとし、そして穀物の輸入先の国よりも少ない労働を用いて穀物を生産することができたとしても、である。
2人の男が、両方とも靴と帽子を作ることができる。一方はもう一方に比べ、両方の仕事で優っている。しかし、帽子を作ることについては、彼は1/5、即ち20%しか競争相手に対し優位に立つことができない。そして、靴を作ることについては、彼は1/3、即ち33%優位に立つことができる。力量の優っている男が靴を作ることに専念し、そして、劣っている男の方が帽子を作ることに専念した方が、この双方にとって利益とならないのだろうか?  
【表】2人の男が生産することのできる靴と帽子の量
帽子
A 133 120
B 100 100
そうした状況では、ワインと布地は両方ともポルトガルで作られることが、従って、布地の生産に用いられる英国の資本と労働が、布地を作るためにポルトガルに移されることが、英国の資本家と両国の消費者にとって間違いなく有利であろう。そのケースでは、こうした商品の相対価値は、一方はヨークシャーの産物であって、もう一方はロンドンの産物であった場合と同じ原理で規定されるであろう。仮に、資本が、最も利潤が上がる用い方が可能な国に自由に移動したとすれば、全てのケースにおいて利潤率が相違することはあり得ないだろうし、また、商品の真実の価格、即ち労働価格(【注】労働によって計測した価格)の相違は、それらの商品が売られる様々な市場にそれらを運搬するために必要とされる追加労働量の分以外にはあり得ないだろう。
【資本が海外に移動しにくい事情】
しかし、資本がその所有者の直接の支配下に置かれないときの、想像される或いは現実の資本の不安定さが、自分の生まれ故郷や親類たちに別れを告げ、自分の習慣は凝り固まっているのに、今さら見ず知らずの政府と新しい法律に身を委ねることに対する、全ての人が有する嫌気と相まって、資本の移動をストップさせることが経験によって示される。こうした感情―残念なことに弱まっているようであるが―が、たいていの資産家に、外国において彼らの富のより有利な投資先を求めるよりも、自国内の低い利潤率で満足させるのである。
【金銀の配分と貿易】
金と銀は、流通する一般的な仲介物として選ばれているので、それらは、もしそのような金属が存在せず、そして外国との取引が純粋に物々交換であった場合に起きると思われる自然な取引量に応じる割合で、商業の競争によって世界の異なった国々に配分される。
こうして、布地は、輸入元の国における価格を上回る金と引き換えにポルトガルで売れない限り、ポルトガルに輸入されることはない。ワインは、ポルトガルにおける価格を上回る価格で英国において売れない限り英国に輸入されることはない。もし、その取引が純粋に物々交換であったとしたら、その取引は、英国が一定の労働を用いて、ブドウを栽培するよりも布地を製造することによって、より多くのワインを手に入れることができるほど布地を安く作ることができる場合にだけ、そしてまた、ポルトガルの勤労が、逆の結果を伴う場合にだけ、続くことができるであろう。  
【解説】
Gold and silver having been chosen for the general mediumof circulation,
この英文には次の訳が与えられた。「金と銀が流通の一般的媒介物に選ばれているので」(羽鳥・吉澤訳)
「流通の一般的媒介物」とは何を意味するのか?特に、「流通の」の「の」は何を意味するのか?つまり、この訳はここのofの意味をよく理解していないのだ。このofは、名詞を伴うことによって形容詞的な意味を持たせるofなのである。つまり、「(それ自身が)流通する一般的な仲介物」と訳すべきなのである。  
【英国側の事情の変更】
さて、英国がワインのある製造法を発見し、英国にとっては、ワインを輸入するよりも生産する方が利益になると仮定しよう。英国は、その資本の一部を海外貿易から国内取引に自然に振り向けるようになるであろう。英国は輸出のための布地の製造を止めるであろう。そして、ワインを自ら生産するであろう。こうした商品の貨幣価格は、それに従って調整されるであろう。当地では布地の価格は変わらぬままであろうが、ワインの価格は低下するであろう。そして、ポルトガルでは、いずれの商品の価格も変化はないであろう。布地は、暫くの間、この国から輸出され続けるであろう。何故ならば、布地の価格は、当地よりもポルトガルの方が高い状態が続くことになるからである。しかし、ワインの代わりにお金が布地に対して与えられるであろう。そしてついには、当地におけるお金の蓄積と海外におけるお金の減少が、二つの国の布地の相対価値に作用し、その結果、布地を輸出することが利益にならないようにするであろう。  
【解説】
She would cease to manufacture cloth for exportation,and growwine for herself.
この英文に次の訳が与えられた。「輸出用毛織物の製造をやめて、自国用ぶどう酒を生産するであろう」(羽鳥・吉澤訳)
何となく違和感を覚える。for herself は、「自国用」と訳すべきなのか?その前に「輸出用」が出てくるので、そう訳したい気持ちも分からないではないが、ここは「自ら」と訳すべきであろう。  
【仕事の交換が起きる前提】
もし、ワイン製造の改良が非常に重要な種類のものであったならば、仕事を交換することが両国にとって利益になるかもしれない。英国が、彼ら(【注】英国とポルトガル)が消費する全てのワインを作り、ポルトガルが、同じく彼らが消費する全ての布地を作るのである。しかし、これは英国における布地の価格を引き上げ、そしてポルトガルにおける布地の価格を引き下げるような貴金属の新しい配分によってのみ実現することが可能なのである。英国におけるワインの相対価格は、その製造技術の改良により本当に有利になる結果低下するであろう。即ち、その自然価格は低下するであろう。布地の相対価格は、お金の蓄積によって上がるであろう。
【具体例】
そこで、英国でワイン製造技術の改良が起こる前に、当地ではワインの価格が1樽当たり50ポンドであり、ある量の布地が45ポンドだったと仮定しよう。一方、ポルトガルでは、その同じ量のワインが45ポンドであり、また同じ量の布地が50ポンドであったとしよう。ワインはポルトガルから輸出され、5ポンドの利潤を挙げるであろうし、布地は英国から輸出され同じ額の利潤を挙げるであろう。
その改良のあった後、英国ではワインが45ポンドに低下し、布地は同じ価格のままであると仮定しよう。商売上の全ての取引は、独立した取引である。ある商人が、英国において45ポンドで布地を買うことができ、そして、それをポルトガルにおいて販売し通常の利潤を得ることができる限り、彼はそれを英国から輸出し続けるであろう。彼の仕事は単に英国産の布地を購入し、そして、その代金を為替手形で支払うことである。その為替手形は、彼はポルトガルのお金で購入する。彼にとっては、このお金がどうなろうと全く重要ではない。彼は、為替手形を送付することによって彼の債務を支払っているのである。彼の取引は疑いなく、彼がこの為替手形を手に入れる条件によって規定される。しかし、その条件をそのとき彼は知っている。為替手形の市場価格、即ち為替レートに対し影響を与える原因は、彼にとって考慮の外にある。
【為替手形の売買】
もし、市場の状況が、ポルトガルから英国へのワインの輸出にとって好ましいものであれば、ワインの輸出業者は為替手形の売り手になるであろう。そして、その為替手形は布地の輸入業者か、或いは、彼(【注】布地の輸入業者)に自分の保有する為替手形を売った者のいずれかによって購入されるであろう。こうして、お金が何れの国からも移動する必要もなく、各国の輸出業者は、彼らが売った商品に対して支払いを受けるであろう。各人が直接のやり取りを何もすることなく、布地の輸入業者によってポルトガルで支払われたお金は、ポルトガルのワインの輸出業者に支払われるであろう。そして、英国では、その同じ為替手形の譲渡によって、布地の輸出業者はワインの輸入業者からの価値を受け取る権利が与えられるであろう。 
【解説】
商品と為替手形とお金の流れを図示すれば次のとおり。
<英国><ポルトガル>
ワインの輸入業者←ワイン←ワインの輸出業者
↑↓→手形→↓↑
手形↑↓お金手形↓↑お金
↑↓↓↑
布地の輸出業者→布地→布地の輸入業者
←手形←
輸出や輸入にかかる決済は、実際にお金を送付するようなことをせず、為替手形の送付によって行うことが多い。何故ならば、金や銀といったお金の輸送には、経費と危険が伴うからである。そして、銀行の決済のシステムを通じて、相反する同額の為替手形を相殺した後に残る分だけの現金を送付することによって、全体の輸出入の決済は完了する。
なお、上にいう「彼に自分の保有する為替手形を売った者」とは、ワインの輸出業者のことではなく、例えば、為替手形の売買を業とする銀行家などである。
<為替手形の売買例>
・ワイン輸出業者→布地の輸入業者
・ワイン輸出業者→為替業者→布地の輸入業者
「彼に自分の有する為替手形を売った者」と過去形になっているのは、誰かから為替手形を購入する前に、手持ちの為替手形を顧客に売っただけの話である、と思われる。  
【為替手形の価格変動】
しかし、もしワインの価格が、英国へのワインの輸出など行えないような価格であったとしても、布地の輸入業者は同様に為替手形を購入するであろう。しかし、その為替手形の価格は高くなるであろう。それは、その為替手形の売り手が、最終的にそれによって2国間の取引を清算する見合いとなる手形が存在しないことを知っているからである。彼は、為替手形と引き換えに得た金貨や銀貨を、英国の彼の取引相手に実際に輸送しなければならないことを知っているかもしれない。彼が金貨や銀貨を送るのは、彼の取引相手が、自分(【注】彼の取引先)に対して請求することを認めている要求に対して応じることを可能にするためであり、従って、彼は正当な通常の利潤とともに、全ての経費をその為替手形の価格に盛り込むかもしれない。
【為替手形のプレミアム】
それでは、もしこの英国宛ての為替手形のプレミアムが布地を輸入することによる利潤と同じ大きさであれば、輸入は当然のことながら止まってしまうであろう。しかし、もし、為替手形のプレミアムが2%でしかなかったら、もし英国における100ポンドの債務を支払うことができるようにするためにポルトガルで102ポンドが支払われるのであれば、そして、その一方で45ポンドの布地が50ポンドで売れ、布地が輸入される限り、為替手形は購入され、お金が送られるであろう。そしてついには、ポルトガルにおけるお金の減少と英国におけるお金の蓄積が、もはやこうした取引を続けることが利益にならないような価格の状況を生み出すであろう。
しかし、ある国におけるお金の減少と他の国におけるお金の増加は、一つの
商品の価格だけに作用するものではない。そうではなく、全ての商品の価格に作用し、従ってワインと布地の価格は両方とも英国で上がり、両方ともポルトガルで低下するであろう。一方の国では45ポンドであり、もう一方の国では50ポンドである布地の価格は、恐らくポルトガルでは49ポンドか48ポンドに落ち、英国では46ポンドか47ポンドに上がるであろう。そして、為替手形にプレミアムを支払った後では、そうした布地の価格では、如何なる商人に対しても、その商品を輸入する気にさせるほどの利潤を与えることはないであろう。
【英国とポルトガルで起こること】
こうして、各国のお金は、採算の合う物々交換を調整するのに必要な量だけが、各国に対して割り当てられる。英国はワインと引き換えに布地を輸出した。何故ならば、そうすることによって英国の勤労は自分たちにとってより生産的になったからだ。英国は、布地とワインの両方を自分で作るときと比べ、より多くの布地とワインを手に入れた。そして、ポルトガルは布地を輸入してワインを輸出した。何故ならば、ポルトガルの勤労は、ワインの生産に用いる方が、双方の国にとってより有利に用いることができたからである。
英国で布地を生産するのが困難になり、或いはポルトガルでワインを生産するのが困難になると仮定しよう。或いはまた、英国でワインを生産するのが容易になり、或いはポルトガルで布地を生産するのが容易になるとしよう。両国間の取引は直ちに止むに違いない。 
【解説】
少し前に出てきたfor herself がここにも出てくる。
she had more cloth and wine than if she had manufactured both for herself.
「織物とブドウ酒二つ共自国用に造る」(竹内謙二訳)というように訳すのではなく、「自ら」とか「自分で」と訳すべきである。  
【お金の移動の効果】
ポルトガルの状況にはどんな変化も起こらない。しかし、英国は、ワインの生産にもっと生産的に労働を用いることができることを発見する。そうなれば、その2国間の物々交換の取引は直ちに変化する。ポルトガルからのワインの輸出が止むだけではなく、貴金属の新しい配分が起こり、ポルトガルの布地の輸入もまた妨げられる。
双方の国が恐らく自分自身のワインと自分自身の布地を作ることが自分たちの利益になることを知るだろう。しかし、こんな奇妙な結果が起こるであろう。
英国ではワインが安くなるだろうが、布地の価格は上がるだろう。より多くが消費者によってそれ(【注】布地)に対し支払われるであろう。一方、ポルトガルでは、布地とワインの消費者はそうした商品をより安く購入することができるであろう。改善がなされた国では価格は上がるであろう。何の変化も起こらなかったが、利潤の上がる海外貿易部門を奪われた国では、価格は低下するであろう。
しかし、このことは、ポルトガルにとって見た目の有利さに過ぎない。というのも、その国で生産された布地とワインの合計の量は減少するであろうし、その一方で、英国で生産された量は増加することになるからである。これら2つの国では、お金の価値がある程度変化したであろう。英国では低下し、ポルトガルでは上昇するであろう。お金で計測すれば、ポルトガルの全収入は減少するであろう。同じ仲介物で計測すれば、英国の全収入は増加するであろう。
こうして、如何なる国で製造業が改良しても、世界の国々に対する貴金属の配分を変える傾向があるように見える。改良が見られた国の物価を引き上げると同時に、商品の量を増加させる傾向がある。
問題を簡略化するために、私は、2国間の取引が2つの商品、ワインと布地に限られると仮定してきている。しかし、多くの様々な商品が輸出及び輸入の品目リストに入っていることはよく知られていることだ。ある国からお金を取り去り、かつ他の国にお金を蓄積することによって、全ての商品の価格は影響を受け、その結果お金の他に多くの商品の輸出が奨励され、そうなれば、そうでない場合に予想されるような大きな結果が2つの国のお金の価値に起きることを妨げるであろう。
【お金の配分の攪乱】
技術や機械の改良の他に、貿易の自然の成り行きに絶えず作用する、そしてお金の均衡とお金の相対価値に影響を与える様々な原因がある。輸出奨励金や輸入奨励金、そして商品に対する新しい税は、ときには直接的にそしてときには間接的に作用することによって自然な物々交換を攪乱する。そして、価格を自然な商売の成り行きに相応しいものにさせるために、結果的にお金を輸入することや輸出することを必要とさせるであろう。この結果は、攪乱の原因が発生した国だけではなく、商業世界の全ての国で多かれ少なかれ起こる。
これは、異なった国における異なったお金の価値をある程度説明するものである。それは、国産の商品の価格、そして価値は比較的小さいが量がかさばる商品の価格が、他の原因とは関係なく製造業が盛んな国では何故より高いのかということについて我々に説明するであろう。正確に同じ数の人口を有し、同じ肥沃度の同じ広さの耕作地を有し、そして有する農業知識も同じ2つの国の
うちでは、輸出向け商品の製造により多くの技術とより優れた機械を投入している国の方が、原生産物の価格が高くなるであろう。利潤率は多分ほんの少ししか違わないであろう。というのも、賃金、即ち労働者の真実の報酬は両方において同じであると思われるからだ。しかし、労働者の賃金は、原生産物の価格と同様その国の技術や機械に伴う有利性のために、その国の商品を求めて多くのお金が流入してくる国の方が、貨幣で評価すれば高くなるものである。
もしこれらの2カ国のうち、一方の国が、ある品質の商品を製造するのに優れていたら、そしてもう一方の国が、違う品質の商品を製造するのに優れていたら、どちらの側にも貴金属の明らかな流入が起こることはないであろう。しかし、優越性がいずれかの方に非常に偏っているとすれば、そうした結果は不可避のものとなろう。
【お金の価値と利潤】
この書物の前の部分で我々は、議論のためにお金は常に同じ価値を持ち続ける、と仮定した。しかし、今や我々は、お金の価値の通常の変動や商業世界全体に共通するお金の価値の変動の他に、特定の国においてお金が被る部分的な価値の変動もあることを示そうと思う。また、お金の価値は、実際そうであるように、相対的課税、製造業の技術、気候の有利性、自然の生産物、及びその他の多くの原因に依存するので、如何なる2つの国においても決して同じであることはないということを示そうと思う。
しかし、お金はそうした恒久的な変動を被り、その結果、たいていの国にとって共通である商品の価格も相当の相違が生じるが、それでも、お金の流入か流出のいずれかよっても、利潤率に影響が及ぼされることはないであろう。資本は流通する仲介物が増加するからといって、増えることはないであろう。もし、農業者が地主に支払う地代と労働者に支払う賃金が、ある国では他の国よりも20%高ければ、そして同時に、その農業者の資本の名目価値が20%高ければ、彼は原生産物を20%高い価格で売るだろうが、彼は全く同じ利潤率を得るであろう。 
【解説】
Capital will not be increased because the circulating medium is augmented.
「資本は流通する仲介物が増加するからといって、増えることはないであろう」
何故、この英文を私が示すのか?それは、少し前にthe general medium of circulation が「流通する一般的な仲介物」と訳すべきだと説明したが、そのことがこの原文で実証されているからである。つまり、ここではthe medium of circulation をthe circulating medium と言い換えているのである。  
利潤は賃金に依存する。利潤は、名目賃金に依存するのではなく真実の賃金に依存する。労働者に年間支払われるのが何ポンドであるかではなく、その賃金を得るために必要とされるのが、何日分の労働日数であるのかに依存する。以上の事は、何度言っても言い過ぎるということはない。従って、賃金は2つの国において全く同じであるかもしれない。賃金の地代に対する割合や、賃金の土地から得られる全生産物に対する割合も同じになるかもしれない。もっとも、労働者は、一方の国では10シリングを受け取り、もう一方の国では12シリングを受け取ることがあろうが。
【金鉱山からの距離】
製造業が殆ど発展しておらず、かつ全ての国の生産物が殆ど同じもの、つまりあの量のかさばるそして最も役に立つ商品で構成される、社会の初期の状況では、異なった国におけるお金の価値は、その貴金属を供給する鉱山からの距離によって主に規定されるであろう。しかし、社会の技術や改良が進むと、そしてまた特定の産業に秀でた国が現われると、鉱山からの距離は依然として計算に入るであろうが、貴金属の価値はそうした製造業の優位性によって主に規定されるであろう。
全ての国が穀物、牛、及び粗末な衣類のみを生産すると仮定し、また、金を生産した国からか、或いは産金国を征服した国から金を手に入れることができるのは、そうした商品の輸出によってであると仮定しよう。金は英国よりポーランドにおいて、当然大きな交換価値を有するであろう。穀物のようなかさばる商品を運送するには、遠くの航海になればなるほどより多くの費用がかかるからであり、また、ポーランドまで金を運送するのにも多くの費用がかかるからである。
2つの国における金の価値の相違、同じことであるが、2つの国における穀物価格の相違は、英国における穀物の生産能力が、その土地の肥沃度と労働者の技術及び道具の優秀さから、仮にポーランドに比べ遥かに優っているにしても、生じるであろう。
しかし、もしポーランドが真っ先に製造業の改良を行い、量はかさばらないが大きな価値を有する商品を含め、広く望まれる商品を作りだすことに成功するとすれば、或いはもし、ポーランドだけが、広く望まれ他の国は保有しないある天然の産物に恵まれるとすれば、ポーランドはこの商品と引き換えに追加の金を手に入れるであろう。そして、その金は、ポーランドの穀物、牛、粗末な衣類の価格に影響を及ぼすであろう。
距離が離れているという不利は、価値の大きい輸出可能な商品を有しているという有利さによって補償されて余りがあるであろう。そして、お金の価値は、英国よりもポーランドの方が永久に低くなるであろう。その反対に、もし技術と機械の有利さを保有するのが英国の方であったとしたら、金の価値は何故英国の方でポーランドよりも低いのか、そして、穀物、牛、及び粗末な衣類は何故前者の国(【注】英国)でより高いのかということについての以前から存在している理由に、もう一つの理由が加わえられるであろう。 
【解説】
製造業の発展により「大きな価値を有する商品」を生産するようになると言えば、価値が投下労働量によって規定されると考える限り、矛盾するように聞こえるであろう。確かに、その国に限って考えればそのとおりである。しかし、製造業の発展している国は、価値の低い(=投下労働量の少ない)商品の生産に成功したからこそ、安い価格で海外に輸出することが可能になる。そして、製造業が発展していない国からすれば、それらの商品は、自分たちにしてみれば価値が高いのであり、その価値が高い筈の商品を安く買うことができるので、輸入したくなるのである。従って、ここでいう「大きな価値を有する商品」というのは、その商品の輸入国から見た場合、と理解すべきであろう。  
【結論】
これらだけが、世界中の異なった国におけるお金の相対価値を規定する2つの原因だ、と私は信じる。というのも、課税によってお金の均衡は攪乱されるが、税を課せられた国から、熟練、勤労、及び気候に伴う何らかの有利さを奪い取ることによって、お金の均衡が攪乱されるからだ。 
【解説】
リカードは、お金の相対価値を規定するものは、(@)金鉱山までの距離、と(A)製造業の発展度合い、の2つだけであると言う。つまり、関税や輸入規制は、お金の相対価値を規定する原因から除くのである。しかし、リカードは、関税や輸入規制によってお金の均衡が攪乱されることは認める。では何故、関税などはお金の相対価値を規定する原因から除くのか?これは関税などを課すことによって確かにお金の均衡が攪乱されるとしても、それは単なるきっかけであって、本当の理由は関税を課すことによって(A)の製造業が発展していることの有利性が制限されると考えるからであろう。  
【穀物の価値】
お金の低い価値と穀物の高い価値、或いはお金の低い価値とお金が比較される他の何らかの商品の高い価値を注意深く区別しようと、私は努めてきた。これらは、一般的に同じことを意味するものとみなされてきた。しかし、穀物がブッシェル当たり5シリングから10シリングへ上がるとき、それは、お金の価値が下がったためか、或いは穀物の価値が上がったためか、いずれかの理由によるものであろう、ということは明らかだ。こういう訳で、我々は増大する人口を養うために益々質の劣った土地に続けて頼らざるを得ないことから、穀物は、他の品々に比べ相対価値が上がるに違いないということを知ったのである。従って、お金が永久に同じ価値を持ち続けるのであれば、穀物はそうしたお金のより多くと交換されるであろう。即ち、穀物の価格は上がるであろう。 
【解説】
アダムスミスは、お金の価値が高いということは穀物の価値が低いということであり、一方、お金の価値が低いということは穀物の価値が高いということである、と考えていた。従って、そこからは、お金の価値の変動と穀物の価値の変動は同時に起きることになるが、リカードは、お金の価値の変動と穀物の価値の変動は、分けて考えるべきだと主張した。  
同様の穀物価格の上昇は、我々が特別有利に商品を製造することができるような、製造業における機械の改良によって引き起こされるであろう。というのも、お金の流入がその結果起こるからだ。お金の価値が低下するであろう。従って、より少ない穀物としか交換されないであろう。しかし、穀物の価格が高いことから発生する効果といっても、穀物の価格が高いことが、穀物の価値の上昇によって生み出される場合と、お金の価値の低下によって生み出される場合とでは、全く違うのである。
両方のケースとも、賃金の貨幣価格は上がるであろうが、それがお金の価値の低下の結果であれば、賃金と穀物が上がるだけではなくそれ以外の全ての商品の価格も上がるであろう。もし、製造業者が賃金に多くを支払えば、彼は自分の商品に対して多くを受け取るであろう。そして、利潤率は変わらないであろう。しかし、穀物の価格の上昇が、生産の困難さが増した結果であれば、利潤率は落ちるであろう。というのも、製造業者はより多くの賃金を支払うことを余儀なくされるであろうが、彼の製造品の価格を引き上げることによって自分自身に補償することができるようにはならないからである。
【お金の価値】
鉱山を稼働させる能力に何らかの改善がなされ、それによってより少ない量の労働で貴金属の生産が可能になれば、お金の価値を一般的に引き下げるであろう。そうなれば、全ての国においてより少ない商品と交換されるであろう。しかし、如何なる国であってもある特定の国が、その国にお金の流入をもたらすほど製造業に秀でるとき、お金の価値は低下するであろう。そして、穀物と労働の価格は、他の如何なる国と比べてもその国では相対的に高くなるであろう。
お金の価値が高くなるということは、為替によって示されることはないであろう。穀物と労働の価格がある国では他の国に比べ10%、20%、或いは30%高いにも拘わらず、為替手形はパーで譲渡され続けるかもしれない。想定される環境では、そうして価格に差が生じることも自然の成り行きであって、そして外国為替は、穀物と労働の価格を引き上げることができるほど十分な量のお金が製造業に優れた国に流入する場合にだけパーであり得るのである。 
【解説】
ある国宛ての外国為替がパー(平価)で取引されるかどうかは、その国の金の移動が制限されているかどうかにかかっている。もし、完全に金の移動が自由であるのであれば、その国宛ての外国為替はパーで取引される。もし、金の移動が制限されており、本来あるべき量よりも多くの金を保有しているのであれば、その場合の金の価値は落ちてしまう。つまり、国際間での金の移動が自由であれば、A国における金1gはB国の金1gと交換される筈であるが、仮にA国の金の海外への流出が制限されており、A国が本来有する以上の金を保有しているとすれば、A国の金は、本来有すべき購買力を有しなくなっているために、A国の金1gはB国の金1gと同じ価値を有することはなくなってしまうのである。  
もし、海外の国々がお金の輸出を禁止し、そしてそうした法律を順守させることができたとしたら、確かにその製造業国家の穀物と労働の価格の上昇を起こさせないかもしれない。というのも、紙幣が使用されていないと仮定すれば、そうした価格の上昇は貴金属の流入があった後においてのみ起こり得るからである。しかし、彼ら(【注】海外の国々)は、外国為替が自分たちにとって非常に不利になることを回避することはできないであろう。もし、英国がその製造業国家だったとして、そして、お金の輸入を妨げることが可能だとしたら、フランス、オランダ、そしてスペインとの関係の外国為替は、それらの国にとって5%、10%、そして20%不利になるかもしれない。
【外国為替の変動】
お金の流通が強制的に止められ、そしてお金がその正当な水準に落ち着くことを妨げられるときにはいつも、外国為替の変動幅に上限はなくなる。その効果は、その保有者の意思によって正貨と交換することができない紙幣が、無理に流通させられたときに起きる効果と似ている。そうした通貨は、必ずやそれを発行した国になかに留められる。大量に発行され過ぎたからといって、他の国に拡散することはあり得ない。流通量の水準は破壊され、外国為替は、その量が過剰になった国にとって不可避的に不利になるであろう。貿易の流れはお金を他の国々に押し出そうとしているのに、仮に、強制し得る手段、或いは回避することのできない法律で強制することによって、お金がある国のうちに留められることになれば、金属のお金に関しても同じ結果が起きるであろう。
【お金の価値と外国為替】
各国が、本来保有すべき量のお金を正に保有するとき、各国のお金は、多くの商品との関係で5%、10%、或いは20%も違うこともあり得るので、確かにそれぞれが同じ価値を有することはないであろうが、しかし、外国為替はパーであろう。英国の100ポンドは、或いは100ポンドに含まれる銀は、フランス、スペイン、オランダの100ポンドの為替手形を、或いは同じ量の銀を購入するであろう。
【各国通貨の相対価値】
異なった国々の外国為替とお金の相対価値について話をするとき、我々は、いずれの国の商品によって計測されたものであっても、商品によって計測されたお金を決して意味してはいけない。外国為替は、穀物、布地、或いはそれ以外の商品―如何なる商品でも構わない―によってお金の相対価値を計測しようとしても、それによって確かめることはできない。そうではなく、ある国の通貨の価値を別の国の通貨の価値で計測することによって確かめられるのである。
【外国為替の相場】
外国為替は、両国にとって共通の何らかの標準物と比較することによって確かめられるかもしれない。もし100ポンドの英国宛ての為替手形が同じ額のハンブルグ宛ての為替手形が購入するのと同じ量の商品をフランスやスペインで購入するならば、ハンブルグと英国の外国為替はパーであろう。しかし、もし英国宛ての130ポンドの為替手形が、ハンブルク当ての100ポンドの為替手形が買うものを上回るものを買うことがなければ、外国為替は英国にとって30%不利になる。
英国において100ポンドは、為替手形、つまりオランダで101ポンド、フランスで102ポンド、そしてスペインで105ポンドを受け取る権利を購入することができるかもしれない。そのケースでは、英国との関係では、オランダは1%、フランスは2%、そしてスペインは5%不利であると言われる。そのことは、それらの国の通貨の量があるべき水準より高いということを示している。そして、それらの通貨の相対価値及び英国の通貨の相対価値は、それらの国から通貨を引き抜くか、或いはそれを英国の流通量に加えることによって直ちにパーに回復されるであろう。
【通貨価値の減価】
外国為替が20%から30%この国に不利に変動した最近の10年間に我が国の通貨は減価した、と主張する人々は、次のように主張したと非難されるのであるが、そのように主張することは決してなかった。どのような主張かといえば、お金は様々な商品との比較において、ある国では他の国より、価値が大きくなるということはあり得ない、と。そうではなく、彼らが主張したのは、こうである。英国の130ポンドが、ハンブルクやオランダのお金の価値で計測して、100ポンドの金の地金を上回る価値がないときには、お金の価値を減価させなければその130ポンドを英国内に留め置くことはできないだろう、と。
【具体例】
130ポンドの良質な英国の正貨をハンブルグに送ることによって、5ポンドの経費はかかるとしても、私はハンブルグで125ポンドを保有するであろう。それでは、私が送ったポンドが良質な英国の正貨でないという理由以外に、ハンブルグで100ポンドを与える為替手形に対して130ポンドも支払うことを、何が私に同意させることができるのであろう?それらは劣化しており、ハンブルグの正貨に比べ本源的価値が低下していたのである。だから、もし、5ポンドの経費をかけて実際にそこに送ったとしても、100ポンドでしか売れないであろう。金属のポンドの正貨に関しては、私の130ポンドがハンブルグで125ポンドを調達するであろうということは、否定できない。しかし、紙幣の正貨では、私は100ポンドしか手に入れることができない。しかし、それでも紙幣の130ポンドは、銀や金の130ポンドと同じ価値があると主張されていた。 
【解説】
By sending 130 good English pounds sterling to Hamburgh, even at an expense of £5, I should be possessed there of £125;
この英文の後半部分に対して、次の訳が与えられた。「なお私はその地で125ポンドを入手するはずである」(羽鳥・吉澤訳)
前にもshouldの訳が問題になったが、このshouldも推量のshouldと理解すべきである。  
【紙幣の価値】
紙幣の130ポンドは、金属のお金の130ポンドと同じ価値があるのではないと、より合理的に主張した者も確かにいた。しかし、彼らは、価値を変えたのは金属のお金の方であって紙幣の方ではないと言った。彼らは、減価という言葉の意味を実際の価値の低下に限定したかったのだ。そして、お金の価値と、法律に従いそれによってお金の価値が規定される標準物との相対的な相違額にその言葉の意味を限定したくはなかったのだ。
【法律が決めるお金の価値】
英国の100ポンドのお金は、以前はハンブルグの100ポンドのお金と同じ価値を有し、ハンブルグの100ポンドを購入することができた。他の如何なる国においても、英国宛て或いはハンブルグ宛ての100ポンドの為替手形は、まさに同じ量の商品を購入することができた。その同じ品物を手に入れるために、私は最近130ポンドの英国のお金を与えることを余儀なくされた。ハンブルグの方は、100ポンドのハンブルグ貨幣でその同じ品物を手に入れることができるのに、である。もし、英国のお金が以前と同じ価値であったとしたら、ハンブルグのお金の価値が上がっていたに違いない。しかし、その証拠はどこにあるのか?英国のお金の価値が落ち、ハンブルグのお金の価値が上がったということをどうやって確認することができるのか?これを決定する基準などないのだ。それは証拠を認めない訴えなのだ。全く肯定することもできなければ、全く否定することもできない。世界の国々は早くから、正確に参照することができる価値の標準などないことを確信していたに違いない。従って、一般的に他の如何なる商品に比べても価値の変動が少ないと彼らに見えたものを仲介物に選んだのだ。
法律が変わるまでは、そして、それを使用することによって、我々が確立しているものよりもさらに完璧な標準物を手に入れることができる商品が発見されるまでは、この標準に我々は従わなければならない。この国において金が専ら標準である限り、お金は、1ポンドの正貨が5ペニーウェイト3グレインの標準となる金の価値を有しないときに減価するであろう。そして、それは金の一般的な価値が上がるか下がるかには関係がないのである。 
【解説】
1トロイオンス=20ペニーウェイト。そして、1ペニーウェイト=24グレイン。従って、5ペニーウェイト3グレインの金とは、(5+3/24)ペニーウェイトの金となり、それをトロイオンスに直すと、0.25625トロイオンスの金になる。なお、1トロイオンスは、31.1035gであるので、0.25625トロイオンスの金とは7.97gの金ということになる。  
 
経済学および課税の諸原理 2

 

PRINCIPLES OF POLITICAL ECONOMY AND TAXATION
訳序
本書はデイヴィド・リカアドウ David Ricardo の主著『経済学及び課税の諸原理』"Principles of Political Economy and Taxation." の全訳である。
リカアドウはユダヤ系の英国人である。彼は、一七七三年、富裕な株式仲買人エイブラハム・リカアドウの第三子として生まれ、幼少にして実際的教育をうけた後、勉学のためアムステルダムに送られ二年の後帰英し、ロンドンで一年間学校教育をうけて、齢よわいわずかに十四才にして父を援たすけて実業界に入った。二十一才の時クエイカア教徒の女と結婚し、自らもクリスト教徒に改宗したために、父との間は不和になり、ために彼は父から独立して、一時苦難の時を送ったが、まもなく彼も物質的成功を得ることが出来た。そしてこのことは彼に勉学の余裕を与えることとなった。勉学の対象は初めは自然科学に限られていたが、たまたま妻の病中、バアスにおいて巡囘文庫中のアダム・スミスの『諸国民の富』を見るに及んで、ここに経済学に対する興味を覚えることとなったのである。
かくて彼れの富が次第に増加し、実業界における彼れの地位がますます重きをなすに至るとともに、また彼れの経済学研究が進むにつれ、彼はまず通貨及び銀行に関する諸論文をもって論壇に登場し、次いでナポレオン戦争にともなう穀物関税に関する論争には一八一五年に『低い穀物価格』を書いて参加し、穀物保護貿易論者たるマルサスの所見を痛烈に批判した。一八一七年の『経済学及び課税の諸原理』の第一版は、以上の諸論の総決算たるものである。
一八一九年には彼はポオトアーリントンから代議士に選出された。それ以後彼れの諸論文は主として彼れの議会生活と関係あるものであるが、一八二二年の『農業保護について』だけは他と趣を異にし、彼に他の一切の著作なくともこれのみにても彼は一流の経済学者たり得るとマカロックが評したほどの、傑出した独立論文である。
リカアドウは、一言もっていうならば、古典派経済学の完成者である。古典派経済学は、ブルジョア的埒内において最高の発展をとげた経済学であり、ウィリアム・ペティ及びボアギュイベールにはじまって、リカアドウ及びシスモンディをもって終るものである。この派の経済学は二つの段階を経て発展している。すなわちその前期はマニュファクチュア期のそれであり、その後期は機械工場制期のそれであって前者を代表するものがアダム・スミスであり、後者を代表するものがリカアドウである。かくの如くにリカアドウは、古典派経済学の最後の最高の総括的発展者であるため、この派経済学の根本的基礎理論たる労働価値論は、彼においてそのブルジョア的埒内において許される限りの発展をしたのであるが、同時にまたブルジョア的生産の矛盾はこの学派の固有の歴史的限界に制限されて、生産方法そのものの矛盾としてではなく、理論的構造内部における解決しがたい矛盾として顕現していることが、彼れの体系にとって特徴的となっている。このことは、例えば本書巻頭における労働価値論における平均利潤の問題――またはいわゆる価値と生産価格との矛盾の問題――に最もよく露呈している。しかもそれにかかわらず、彼がこの問題を黙殺して進まずこれが解決に正面から取組んだこと、更にまた本書の第三版に至って改めて『機械について』の諸問題を真剣に取りあげたことは、その歴史的限界性にもかかわらず、彼れの偉大さをよく物語るものといわなければならない。彼れの全理論が後にマルクスによって最も正しい意味において発展的に止揚されたことは、人のよく知るところである。
本訳書は、底本をその第三版にとり、更にゴナア教授の傍註をもたぶんにとり入れ、その上にかなりの訳者註を加えて、出来上ったものである。私はかつて昭和七年に本書を同じく春秋社から出版したことがある。当時すでに本書については、堀經夫博士及び小泉信三博士による二種の訳本が行われていた。前者は正確、後者は流暢、いずれも好個の訳本である。それにもかかわらず私が当時本書を更に訳出したのは、それが『世界大思想全集』の一巻として包含されており、従って先覚二著の学者的訳書に比して学生用として普及の機会が多かろうと考えたからである。従って飜訳の態度は、どこまでも学生用参考書を作るということを第一義とした。今度再建春秋社が改めて古典経済書の一つとして本書の出版を企図されたについて、私はやはり学生用参考書としての本書の必要を感じ、同じく学生大衆用普及版を作る目的をもって、改めて全巻に亙って厳密に改訳の筆をとると共に、また戦後の傾向として用語の現代化をはかることとした。その結果意外の労を払わなければならなかったが、かくしてとにかく出来上ったのが本書である。
かくて本書は普及を中心とする大衆版であるが、さればといって本書は過度の読み易さを追求すべき性質の内容のものではない。もともと内容は経済学の理論であるから読物的な軽さを欠いているのであるが、これに加えてリカアドウは決していわゆる名文家ではない。この意味では彼は論敵マルサスの闊達な文調にまさに百歩を譲るものである。時に彼は英語にそれほど練達ではなかったとさえ評されているくらいである。更に、こうした理由よりもよりいっそう、訳者の不敏にして、本書はなお大衆的普及版としては排除すべき生硬さが多々あることと思われる。これらの点は、読者諸賢の叱正を得て、適当な機会に訂正をしたいと思う。
なお本書のなるについて春秋社の瀬藤及び鷲尾の両氏、ならびに高橋君の配慮と助力とを得たこと多大なるものがある。記して感謝の語としたい。一九四八年二月 
原著者序言
土地の生産物――すなわち地表から、労働、機械、及び資本の結合使用によって、得られるすべてのものは、社会の三階級の間に、すなわち土地の所有者、その耕作に必要な蓄財すなわち資本の所有者、及びその勤労によってこれを耕作する労働者の間に、分たれる。
しかし、社会の異なる諸階級においては、地代、利潤、及び労賃の名の下に、これらの諸階級の各々に割当てられるであろう所の土地の全生産物の比例は、全く異るであろうが、それは主として、土壌の現実の肥沃度に、資本の蓄積や人口に、そして農業において用いられる熟練や創意や器具に、依存するのである。
この分配を左右する諸法則を決定することが、経済学における主要問題である。この科学は、テュルゴオ、スチュワアト、スミス、セイ、シスモンディ、及び他の人々の著作によって、大いに進歩してはきているけれども、それらは、地代、利潤、及び労賃の自然的径路に関する満足なる叙述は、ほとんど与えていないのである。
一八一五年に、マルサス氏は、その『地代の性質及び増進に関する研究』において、またオクスフォド・ユニヴァシティ・カレヂ一校友は、その『土地への資本投下に関する試論』において、ほとんど同時に、地代に関する真実の学説を世に提供したが、この知識なくしては、富の増進が利潤及び労賃に及ぼす結果を理解し、または租税が社会の種々なる階級に及ぼす影響を十分に追究することは、不可能である。それは、課税された貨物が、地表から直接に得られた生産物である場合には、特にそうである。アダム・スミス、その他前述の有能な学者は、地代に関する諸原理を正しく観察しなかったため、思うに、地代の問題が徹底的に理解された後においてのみ発見され得る所の、多くの重要な真理を、看過してしまったようである。
この欠陥を補うには、本著者の有するよりも遥かに優れた諸能力が必要である。しかしながら、この問題に対しその全力を費した後に、――上記の優れた諸学者の著作から援助を得て後に、――そして、豊富な事実を有つ最近の数年が現代人に与えた価値多き経験を得て後に、利潤及び労賃の諸法則、並びに租税の作用に関する、著者の意見を述べることは、思うに彼において僣越であるとは考えられないであろう。もし著者が正しいと考える諸原理が、事実正しいものであることが見出されるならば、それを追究してあらゆるその重要な帰結を明かならしめることは、著者自身よりもより有能な他の人々のなすべきことであろう。
著者は、一般に受容されている所見を反駁するに当って、著者がその理由あって所見を異にする所のアダム・スミスの著書中の章句により詳細に論及するの必要なることを、見出した。しかし著者は、その故をもって、経済学なる科学の重要なるを認めるすべての人と共通に、この有名な学者の深遠な著作が正当に喚起する賞讃に参与するものではない、と疑われないであろうことを、希望する。
同じことが、セイ氏の優秀な著作に当てはめ得ようが、彼は啻ただに、大陸の諸学者中で、スミスの諸原理を正当に評価しかつこれを適用した最初の人、または最初の人々の一人であり、かつその啓蒙的にして有益な体系の諸原理を、ヨオロッパ諸国民に推奨するに、他の大陸の諸学者を全部合せたよりもなす所多かったのみならず、更にまたこの学問をより論理的なかつより教導的な順序に置くことに成功し、そして、独創的な正確なかつ深遠な二三の討論によって、斯学を富ましめたのである(註)。しかしながら、著者がこの紳士の著作に対して懐く尊敬は、著者が学問の利益のために必要であると考える自由をもって、著者自身の見解と異る所の『経済学』中の諸章句に対し批評を加えることを妨げなかったのである。
(註)第十五章、第一部、『市場論』は、特に、この優れた学者によってはじめて説明されたものと信ずる所の、二三の極めて重要な諸原理を含んでいる。
第三版に対する原著者の注意
本版においては、私は前版におけるよりも、価値に関する困難な題目についての私の所見を、いっそう十分に説明せんと努力し、そしてその目的のために、第一章に二三の附加をなした。私はまた、機械の問題につき、またその改良が国家の各種の階級の利害に及ぼす諸結果についての、新しい一章を挿入した。価値と富との特性に関する章においては、私はこの重大な問題に関するセイ氏の学説――その著書の最終第四版において修正されたもの――を検討した。最終の章において私は、その農法の改良により、国内においてその穀物を生産するに必要な労働量が減少するか、または、その製造貨物の輸出により、外国からより低廉な価格でその穀物の一部分を取得するかの結果として、たとえその貨物総量の全貨幣価値は下落するとしても、一国は附加的貨幣租税を支払う能力があるという学説をいっそう有力なる見地からして、打ち立てようと努力した。この考察は極めて重要であるが、それはけだしこの考察は、特に、莫大な国債の結果たる、重い固定貨幣租税を負担している国において、外国穀物の輸入を無制限のままに放置する政策の問題に、関係するからである。私は、租税支払能力は、大量の貨物の総貨幣価値にも、また資本家及び地主の収入の総貨幣価値にも、依存するものではなくして、各人が通常消費する貨物の貨幣価値と比較しての彼れの収入の貨幣価値に依存するものであることを、示さんと努めたのである。一八二一年三月二十六日 
目次 
訳序 / 原著者序言 /第三版に対する原著者の注意 
第一章 価値について
第一節
(一)価値なる語の曖昧さ。使用上の価値と交換上の価値
(二)価値を有する物品における効用の必然的存在
(三)分量上の価値の原因。稀少性従って大抵の場合において労働
(四)稀少性
(五)(六)生産費及び交換価値の根拠としての労働。このことはスミスによって裏書きさる
(七)しかしながら彼は後に、穀物及びそれ自身交換される物品たる労働その他の価値標準を樹立している
(八)穀物に関しての誤謬。それはそれ自身多くの原因よりして可変的である
(九)労働もまた可変的である
(一〇)それに関するスミスの誤謬
(一一)このことを更に例証す
(一二)あらゆる物の真実価値は、その生産に、または労働それ自身の場合にはその維持に、必要な労働量によって評価さるべきである
第二節
(一三)労働は疑いもなく種類を異にするけれども、かかる種類の相違はまもなく調整され引続き永久的なものとなるから、前掲の法則は覆くつがえされない
第三節
(一四)更にすべての企業においては資本が必要であり、従って貨物に直接に適用される労働がその価値に影響を及ぼすのみならず、更に最終工程を便ならしめるための為めの器具を準備するために用いられる労働もまた然しかする
(一五)このことは、貨物はその生産に投ぜられた各々の労働量によって交換されるという法則に、影響を及ぼさない。労働とは直接的なものと間接的なものとであると考えなければならない
(一六)このことは、不変的価値標準があるならばそれによって証明されるであろう
第四節
(一七)貨物はその生産に費された各々の労働量によって交換されるという法則は、次によって修正される
(一八)イ、かかる労働が直接でありまたは間接である相対的程度、すなわち機械その他の耐久的資本の比例的分量の相違、若干の貨物はそれによって、労働の価値の騰落により、他のもの以上に影響を蒙るから
第五節
(一九)ロ、資本の耐久力の不等は、生産に用いられる時間の比較的不等
(二〇)以上の要約
第六節
(二一)不変的価値尺度。その存在とその使用に必要な条件
第七節
(二二)貨幣はかかる不変的標準ではない
(二三)その価値の変動より起る相違 
第二章 地代について
(二四)地代の性質及び定義。それに対し地代が支払われるもの
(二五)歴史的起源。存在原因、それは種々なる耕地によって産出される収穫の相違から生ずる
(二六)またはむしろ種々なる資本投下分に対しなされる収穫の相違から生ずる
(二七)交換価値は、存在する事情の内最も有利なそれの下において費された労働量によってではなく、最も不利なそれの下において費された労働量によって、決定される
(二八)地代の存在は農業の有利なことを証明するものではない
(二九)地代は富の増加の結果であって原因ではない
(三〇)地代全額は生産物に対する需要の減少によって減少する
(三一)同じことは、土壌の肥沃度の増加、またはその耕作様式の改良、によって齎もたらされる 
第三章 鉱山の地代について
(三二)鉱山の経済的地代は、土地の地代を支配すると同一の法則によって決定される。従って貴金属の価値は地代の存在によって影響を蒙らない 
第四章 自然価格及び市場価格について
(三三)市場価格はしばしば貨物の自然価格から変動する。かかる変動は資本の投資を左右する
(三四)異る職業における率のある相違はこれらの各々の職業における真実のまたは想像上の便益の存在によって説明される 
第五章 労賃について
(三五)労働の自然(名目)価格は必要貨物の価格に依存する
(三六)労働の市場価格
(三七)市場価格は資本の蓄積によって自然価格以上に騰貴し、自然価格自身は必要貨物の価格騰貴または愉楽の標準の変動によって騰貴する
(三八)資本の増加と労働の増加との関係
(三九)資本の増加率の減少は、貨物によって現わされる労賃の市場率の下落を惹起ひきおこさないであろう、もっとも貨幣労賃は、耕作の進行につれて必要貨物の価格が騰貴しなければならぬから、騰貴しなければならないが
(四〇)このことは金が外国から輸入されるという事実によって影響を蒙らない。労賃の騰貴は価格の騰貴を惹起さない
(四一)救貧法の悪影響 
第六章 利潤について
(四二)必要品の価格の変動は製造業者の利潤に影響を及ぼすが、製造品の価格には影響を及ぼさないであろう
(四三)その結果をかくの如く考えれば、その永久的結果は
(四四)利潤下落の傾向。ある最低限が蓄積を奨励するに必要である
(四五)より以上の考察 
第七章 外国貿易について
(四六)外国貿易による市場の拡張は、価値を増加せしめず、「利潤率」に影響を及ぼさない
(四七)しかしながら異る国において生産された貨物は、一国から他国へ生産要素を移動せしめ得ないために、生産費によっては交換されない。各国は最大の便益を有つ貨物を生産している
(四八)このことは貨幣の介入によって変更を受けない。外国貿易によって貨幣は種々なる国の間にその必要に応じて分配される
(四九)手形の使用
(五〇)交換に参加する二国中の一国における産業の進歩の結果
(五一)種々なる国における貨幣価値の変動を惹起している他の原因
(五二)貨幣の価格及び価値のかかる変化は利潤には何らの影響をも及ぼさないであろう
価格の地方的変化の二つの主たる原因――鉱山からの距離及び産業上の地位
(五三)為替相場の変化 
第八章 租税について
(五四)租税は資本か収入かから支払われねばならぬ
(五五)後者からのその徴収を奨励するのが正しい政策である。このことは、一、死亡に関する税において、二、財産の移転に対する租税において、無視されている。しかのみならず、この後者は最も有利な産業の分配を害する 
第九章 粗生生産物に対する租税
(五六)粗生生産物に対する租税は消費者の負担する所となる、けだしそれは土地の場合において耕作の限界に影響を及ぼすから
(五七)それに加うるにまたその結果として、問題の粗生生産物は労働者の消費に入り込むものと仮定されているから、それは労働の労賃を騰貴せしめかつ利潤を下落せしめる傾向がある。このことの結果として四つの反対論がかかる租税に対して主張されている
(五八)イ、固定的所得を享受している者は影響を受けない。これを反駁す
(五九)ロ、労賃は必要品の価格騰貴に単に徐々として随伴するに過ぎない。その結果として貧窮。このことを、価格騰貴が、一、供給の不足、二、需要の増加、三、貨幣価値の下落、四、必要品に対する租税、によって惹起されるものとして考察す
(六〇)ハ、蓄積が阻害される
(六一)ニ、外国の競争の場合における不利益 
第十章 地代に対する租税
(六二)地代に対する租税は地代と同様に価格に影響を及ぼさない
(六三)しかし地代として支払われているものは二つの部分、すなわち地代そのものと支出に対する利潤とからなる。従って地代として支払われているものは価格に影響を及ぼし得よう 
第十一章 十分一税
(六四)十分一税は消費者の負担する所となる
(六五)しかしそれは、外国からの輸入に対する奨励金の性質を有っているから、地主にとって不利である 
第十二章 地租
(六六)地代と共に変動する地租は地代に対する租税であり、従って価格に影響を及ぼさない
(六七)しかし固定的地租は価格に影響を及ぼし、かつ最悪の土地を耕作している者にとり不公平であり、そして結局消費者の負担する所となる。従ってそれは労賃利潤間の関係に影響を及ぼし得よう。
(六八)しかしながら土地及び生産物に対するすべての租税は、供給需要間の関係を変更するから、生産を阻害する。アダム・スミス及びジー・ベー・セイの意見 
第十三章 金に対する租税
(六九)金はそれに租税が課せられたからといって価格において急速に騰貴する傾きはない、けだし第一に、金の存在量は単に徐々として減少され得るに過ぎぬから
(七〇)第二に、金に対する需要は、ある確定量に対するというよりはむしろある交換能力に対するのであるから
(七一)従ってある事情の下においては租税が金に課せられてしかも何人によっても支払われないことがあり得よう。スペインの場合 
第十四章 家屋に対する租税
(七二)同様に家屋に対する租税は、家屋数が急速に減少され得ないために、地主の負担する傾向となる
(七三)建築物家賃と敷地地代としての地代の分別 
第十五章 利潤に対する租税
(七四)利潤に対する租税は、価格に影響を及ぼして、消費者の負担する所となるであろう。従って利潤に対する一般的租税は、貨幣価値が変動しない限り、価格の一般的騰貴を意味するであろう
(七五)しかしながらこの騰貴は、固定資本または流動資本への資本の分割され方の相違によって、すべての場合においては同一ででないであろう。英蘭イングランド銀行兌換停止条例に関する、このことからしての結論
(七六)利潤に対する租税が地主階級に与える格別の影響
(七七)消費者としての株主に対するそれ
(七八)利潤に対する租税による物価の影響され方 
第十六章 労賃に対する租税
(七九)労賃に対する租税は、労賃の「名目」率の存在する故に、利潤の負担する所となるであろう。この率はアダム・スミスによって主張されたが、ビウキャナンによって反対された、後者は次のことを否定する
(八〇)第一、貨幣労賃は食物の価格によって左右されるということ
(八一)第二、租税は労働の価格を騰貴せしめるであろうということ
(八二)かかる租税は結局、アダム・スミスの考えるが如くに消費者の負担する所とはならず、利潤の負担する所とならなければならぬ
(八三)彼れの結論が正確であるとしても、それは彼れの想像している如くに外国貿易におけるその国の力を破壊しはしないであろう
(八四)必要品及び労賃の課税に関する彼れの見解を更に検討す
(八五)課税の一般的影響 
第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税
(八六)貨物に対する租税はかかる貨物の価格を騰貴せしめる。もしすべての貨物が課税されるなら、貨幣が依然課税されずかつその供給が変動しないというだけの条件で、すべての価格は騰貴するであろう
(八七)生産的企業に対する課税の影響に関する枝話。債務の利子に対し課せられた課税は、一人から他のもう一人へのある富の移転に過ぎない
(八八)貨物が独占価格にある時には、それに課せられた課税は、価格に影響を及ぼさず地代に影響を及ぼすであろう
(八九)しかしながら粗生生産物に関しては事情はこれと異る。スミス、ビウキャナン、及びセイのこの点に関する理論を、特に麦芽に対する租税の問題に関聯して考察す 
第十八章 救貧税
(九〇)救貧税の負担は異るであろう。すべての利潤に対する租税の場合には労働の雇傭者によって負担される。特別に農業利潤に対する租税である場合には消費者によって負担される。地代に対する場合には地主によって負担される
(九一)かかる救貧税は通常製造業よりも農業のより重く負担する所となるという事実によって、それは全部労働の雇傭者によって支払われることなく、一部分価格騰貴を通じて消費者によって支払われるであろう 
第十九章 貿易路の急変について
(九二)急変が特定産業に及ぼす影響
(九三)国民の繁栄について。二つの結果の相違。国民は常に結局利得する。産業は永久的にすら害されるかもしれぬ
(九四)戦争終結時の英国におけるが如き、農業の特殊の場合 
第二十章 価値及び富、両者の特性
(九五) 価値と富との本質的相違、前者は生産の困難な点に依存し、後者はその便宜に依存す
(九六) 従って価値の標準は富の標準ではない。かくて富は価値に依存しない
(九七) 一国の富は二つの方法で増加され得よう、一、国の労働能力の増加により、従って生産された貨物の量と共にその全価値の増加によって、二、新しい生産の便宜によって、従ってこれは必ずしも価値の増加を伴わない
(九八) 不幸にして価値と富との区別は余りにもしばしば無視されている。特にセイによって 
第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響
(九九)労賃騰貴のある永久的原因がない限り、いかなる資本蓄積も永久的に利潤を下落せしめないであろう
(一〇〇)生産とは需要の物質的表現である
(一〇一)外国貿易への資本の利用は、国内で用いられて利潤を齎し得る資本額に絶対的限界のあることを示すものではない。しかしながらかかる使用は利潤がより大であると期待されるから起るのである
(一〇二)利潤と利子との関係
(一〇三)利子率は、他の原因による一時的変動を蒙るとはいえ、終局的かつ永久的には、利潤の作用によって支配される 
第二十二章 輸出奨励金及び輸入禁止
(一〇四)輸出奨励金は国内市場において必ずしも価格を(永久的に)変動せしめるものではない。生産の増加の結果より不利な条件の下に耕作をなすに至る時を除けば、穀物に対する奨励金についてはこれは事実である
(一〇五)アダム・スミスの第一の誤謬、穀物の貨幣価格の騰貴は生産の増加に導くものと信じている
(一〇六)第二の誤謬、穀物の貨幣価格がすべての他の貨物の価格を左右するという命題
(一〇七)第三の誤謬、奨励金の結果は貨幣価値の永久的低落を惹起すとす
(一〇八)第四の誤謬、農業者及び地方紳士は穀物の輸出奨励金によって利益は受けず他方製造業者はその生産品の輸出奨励金によって利益を受けるとす。さて製造業者及び農業者は同一の地位にありかつ利益を受けない。地方紳士は地代が存在するために利益を受けるであろう
(一〇九)問題全部をビウキャナン及びセイの意見に関聯して更に論ず 
第二十三章 生産奨励金について
(一一〇)孤立国における穀物の生産奨励金を支払うべき基金が製造貨物に対し課せられた課税によって徴収される時における、その奨励金の影響。かかる事情の下においては資本の分配には何らの直接的変動も起らないであろう
(一一一)労働の労賃及び雇傭資本家に対する影響
(一一二)その生産に必要な労働量の変化を通じての穀物の価値の変動によって資本家の地位に齎される影響と、課税または奨励金の理由によるその価値の変動によるそれとの相違
(一一三)穀物等に対する租税によって賄われた基金より支払われる所の製造業に対する奨励金の影響――第一の場合の反対 
第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説
(一一四)穀物を生産している土地は常に地代を産出しなければならぬというアダム・スミスの見解を批判し否定す
(一一五)これと反対に穀物を生産している土地の地代はスミスが鉱山地代が決定されるとなしている仕方で決定されることが主張されている、もっとも双方の場合においてリカアドウは、価格は用いられている最も肥沃ならざる資源よりの生産によって左右されるという事実に注意を惹いているが
(一一六)従って地主の利益は、スミスの見解とは反対に、土地の生産力の増加によって害され得よう
(一一七)地主の利益は常に消費者のそれと対立す。スミスは低い貨幣価値と高い穀物価値とを弁別していない 
第二十五章 植民地貿易について
(一一八)アダム・スミスのなしたる如くに自由貿易の不変的利益を主張するのは正しい
(一一九)しかし植民地に課せられた禁止は母国を大いに利するであろう
(一二〇)相互に貿易しているある二国の貿易に課せられた禁止というより一般的な場合によってこのことを例証す
(一二一)高い利潤は価格に影響を及ぼさないということ 
第二十六章 総収入及び純収入について
(一二二)一国の力は、その力が富またはそれから租税が支払われる基金に依存する限り、純所得に依存し総所得には依存しない。アダム・スミスはこのことを理解しない
(一二三)内国商業及び外国貿易の各々の利益についてスミスに更に誤れる点。一方が他方より有利であるということはない 
第二十七章 通貨及び銀行について
(一二四)貨幣鋳造を左右すべき諸原則。量に依存する価値
(一二五)紙幣
(一二六)発行過剰を妨げる必要
(一二七)紙幣を一定の条件の下に金と兌換し得るものたらしめることによって、金属貨幣に代えて紙幣を用いる利益
(一二八)それは政府によって発行せらるべし
(一二九)これに関する種々なる意見
(一三〇)単本位または複本位の使用 
第二十八章 富国及び貧国における、金、穀物及び労働の比較価値について
(一三一)アダム・スミスの主張する如くに、穀物で測られた金は、富国においては、高い価値よりはむしろ低い価値を有つ
(一三二)繁栄せる国が衰える時には、穀物で測られた金等の価値はその結果として騰貴するものではない
(一三三)金は必ずしも鉱山を所有する国において価値がより低いわけではない 
第二十九章 生産者によって支払われる租税
(一三四)製造業における後期よりもむしろ初期の租税の支払に関する二つの誤謬の訂正
イ、消費者は、彼れの租税支払期を遅延せしめ得ることによって、前払に対する利子の支払を補償される
(一三五)ロ、もし一〇%が課せられるならば、それは一年につき一〇%であり、各転嫁につきそうであるのではないであろう 
第三十章 需要及び供給の価格に及ぼす影響について
(一三六)需要及び供給は価格を決定するとは言い得ない、次のことが顧慮されざる限り
(一三七)イ、貨幣の変動
(一三八)ロ、生産費の規制的影響 
第三十一章 機械について
(一三九)一見したところ機械の導入は、生産に従事する種々なる階級に、単にそれが産業路に変化を惹起す限りにおいてのみ、影響を及ぼすように思われる
(一四〇)しかし労働に対する直接の需要は、流動資本より固定資本への資本の変化によって、著しく減少するであろう
(一四一)この減少はおそらく救治されるであろう、もっともそれは必ずしも直ちにではない
(一四二)労働の利益は、更に、流動資本の用い方の相違によって、著しく影響を被るであろう
(一四三)しかしながら機械の導入は一般に徐々として起るであろうから、有害な結果は予見する必要はない 
第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見
(一四四)地代を取扱うにあたってのマルサスの誤謬。第一の誤謬、地代をもって富の創造なりと考う
(一四五)マルサス氏の地代の三原則
(一四六)第二の誤謬、地代は土地の肥沃度によるとす
(一四七)第三の誤謬、労賃の下落は地代の一原因なりとす
(一四八)第四の誤謬、肥沃度の増加は地代の増加に導き、その反対も真なり、とす
(一四九)穀物と関聯しての「真実価格」なる語のマルサスによる矛盾せる使用
(一五〇)穀価の下落は必ずしもすべての他の貨物の価格の下落を齎すものではないこと
(一五一)公債所有者の地位を取扱うにあたって、マルサスは前述の如くこの原理を無視している
(訳者註)項への分類、及びその名称は、ゴナア教授のほどこせるものである。 
   
第一章 価値について

 

第一節 一貨物の価値、すなわちそれと交換されるある他の貨物の分量は、その生産に必要な労働の相対的分量に依存し、その労働に対して支払われる報酬の多少に依存しない。 
(一)アダム・スミスは次の如く述べている、『価値という言葉は、二つの異った意味を有もっており、ある時にはある特定物の効用を言い表わし、またある時にはその物の所有が齎もたらす所の他の財貨を購買する力を言い表わす。前者は使用上の価値、後者は交換上の価値と呼ばれ得るであろう。』彼は続けて言う、『最大の使用上の価値を有つ物が、しばしば、ほとんどまたは全く交換上の価値を有たず、また反対に、最大の交換上の価値を有つものが、ほとんどまたは全く使用上の価値を有たない。』(訳者註)水や空気は極めて有用であり、それらは実に生存に不可欠のものであるが、しかも普通の事情の下では、これらと交換して何物も得ることは出来ない。反対に金は、空気や水と比較すればいくらも有用ではないが、多量の他の財貨と交換されるであろう。
(訳者註)アダム・スミス著『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三〇頁。 
(二)しからば効用は、交換価値にとって絶対的に不可欠ではあるが、その尺度ではない。もし一貨物がどうしても役に立たないならば、――換言すれば、もしそれがどうしても吾々の満足に貢献し得ないならば、――いかにそれが稀少であろうとも、またどれだけの労働の分量がそれを獲得するに必要であろうとも、それは交換価値を欠くであろう。 
(三)効用を有つならば、諸貨物は、次の二つの源泉からその交換価値を得る、すなわちその稀少性からと、それを獲得するに必要な労働の分量からとである。 
(四)その価値がその稀少性のみによって決定される若干の貨物がある。いかなる労働もかかる財貨の分量を増加することを得ず、従ってその価値は供給の増加によって低下せしめられ得ない。珍しいある彫像や絵画、稀少な書籍や貨幣、極めて狭い範囲の、特別な土壌で栽培される葡萄からのみ造られ得るに過ぎない、特殊な性質を有つ葡萄酒の如きは、すべてこの種のものである。それらのものの価値は、それを生産するに最初必要とした労働の分量とは全く無関係であり、そしてそれを所有せんと欲する者の富と嗜好との変化するにつれて変化するのである。
しかしながらこれらの貨物は、市場において日々交換される貨物の総量の中、極めて小なる部分をなすにすぎない。欲望の対象物たる財貨の遥かに最大の部分は、労働によって得られるのであり、そして、もし吾々が、それを獲得するに必要な労働を投ずる気になりさえするならば、啻ただに一国においてのみならず更にまた多くの国において、ほとんど限りなく増加せられ得よう。 
(五)しからば、貨物について、その交換価値について、かつその相対価格を左右する所の法則について、語る際には、吾々は常に、人間の勤労の発揮によって分量を増加することが出来、かつその生産には競争が制限なく働く如き貨物のみを意味するのである。 
(六)社会の初期においては、これらの貨物の交換価値、すなわち一貨物のどれだけが他の貨物と交換せられるであろうかを決定する規則は、ほとんど全く、各貨物に費された比較的労働量に依存するのである。
アダム・スミスは曰く、『あらゆる物の真実価格、すなわちあらゆる物がそれを獲得せんと欲する者に真に値するのは、それを獲得するの骨折と煩苦とである。あらゆる物が、それを獲得し、かつそれを処分せんと、すなわちそれを他の何物かと交換せんと欲している者に、真に値する所は、それが彼自身をしてこれから免れしめることが出来、かつこれを他人に課することが出来る所の、骨折と煩苦とである。』(訳者註)『労働は、すべてのものに対して支払われた所の、最初の価格――本来的の購買貨幣であった。』(訳者註)また曰く、『資本の蓄積及び土地の占有の両者に先だつ所の、社会初期の未開状態においては、種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることの出来る唯一の事情であるように思われる。例えば、もし狩猟民族の間で通例一匹の海狸を殺すには、一匹の鹿を殺す労働の二倍を要するとすれば、一匹の海狸は当然に二匹の鹿と交換せらるべきであり、換言すれば、二匹に等しい価がある。通例二日の、または二時間の労働の生産物たるものは、通例一日の、または一時間の労働の生産物たるものの二倍に価する、というのは当然である。』(註)
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三二頁。
(註)第一篇、第五章(これは誤りである。正しくは第六章。この句は、キャナン版、同上、四九頁――訳者註)。
人間の勤労によって増加し得ないものを除けば、これが真にすべての物の交換価値の基礎であるということは、経済学における最も重要な一学説である、けだし、価値なる語に附せられた曖昧な観念から生ずるほどの、かくも多くの誤謬と、かくも多くの所見の相違が起る源泉は、他にないからである。
もし、貨物に実現された労働の分量が、その交換価値を左右するとするならば、労働の分量のあらゆる増加は、それに労働が加えられる貨物の価値を増加せしめなければならず、またそのあらゆる減少はそれを下落せしめなければならない。 
(七)かくも正確に交換価値の源泉を定義し、そして論理を一貫させるためには、すべての物はその生産に投ぜられた労働の多いか少いかに比例してその価値が多くなるか少くなると主張すべきであったアダム・スミスは、彼自身もう一つの価値の標準尺度を立て、そして物は、この標準尺度の多くまたは少くと交換されるに比例して、価値が多くまたは少いと言っている。時に彼は標準尺度として穀物を挙げ、また他の時には労働を挙げている。そしてここに労働というのは、ある物の生産に投ぜられた労働の分量ではなくて、市場においてそれが支配し得る労働の分量なのである。すなわちこれらは同一事の異る二つの表現であるかの如くに、そして、人の労働の能率が二倍になり、従って一貨物の二倍の分量を生産し得るの故をもって、必然的にそれと交換して以前の分量の二倍を受取るであろう、というように言っている。
もしこれが実際真実であり、すなわちもし労働者の報酬が常に彼の生産した所に比例するならば、一貨物に投ぜられた労働の分量と、その貨物が購買する労働の分量とは等しく、そしてそのいずれも他の物の変動を正確に測るであろう、しかしこの両者は等しくない、前者は多くの事情の下において、他の物の変動を正確に示す不変の尺度であるが、後者はそれと比較される貨物と同じく多くの変動を被るものである。アダム・スミスは最も巧妙に、他の物の価値の変動を決定するためには、金や銀の如き可変的媒介物が不十分なことを、示した後に、彼自身穀物または労働に定めることによって、それらにも劣らず可変的な媒介物を選んだのである。 
(八)金や銀は、疑いもなく、新しいかつより豊富な鉱山の発見によって変動を被る。しかし、かかる発見は稀であり、かつその結果は、有力ではあるが、比較的短い期間に限られている。それもまた、鉱山採掘の熟練及び機械の進歩からも変動を被るが、それはけだしかかる進歩の結果、同一労働でより多くの分量が得られるであろうからである。それはまた更にそれが長年の間世界に供給をなした後に、鉱山の生産額が減少しつつあるということからも変動を被る。しかしこれらの変動の諸原因中のいずれから穀物は免れているであろうか? 一方において、それは農業の進歩により、耕作に使用される機械器具の進歩により、並びに、他国において耕作せらるべく、かつ輸入の自由なすべての市場における穀物の価値に影響を及ぼすべき所の肥沃な新地の発見によって、変動しないであろうか? 他方において、それは輸入禁止により、人口と富との増加により、及び劣等地の耕作が必要とする労働量増加によっての供給増加の困難の増大によって、価値の騰貴を被らないであろうか? 
(九)労働の価値も等しく可変的ではないか、啻に他のすべての物と同じく、社会の状態のあらゆる変化につれて必ず変動する所の、需要と供給との間の比例によって影響を受けるばかりでなく、更にまた労働の労賃がそれに費される所の、食物その他の必要品の価格の変動によって、影響を受けて?
同一国において、ある時に、食物及び必要品の一定量を生産するために、他の離れた時に必要なそれの二倍の労働量が必要とされるかもしれない、しかも労働者の報酬は、おそらくほとんど減少しないであろう。もし以前の労働の労賃が食物及び必要品の一定量であるとすれば、彼はおそらくその分量が減少されたならば、生存し得なかったであろう。食物及び必要品はこの場合、その生産に必要な労働の分量によって評価するならば、一〇〇%騰貴しているはずであるが、しかるにこれらの物と交換される労働の分量によって測るならば、それはほとんど価値が増加していないはずである。
同じことが二つ以上の国についても言い得よう。アメリカやポウランドにおいては、最後に耕作された土地において、一定数の人間の一年の労働は、英国において同じ事情の下に在る土地におけるよりも、遥かにより多くの穀物を生産するであろう。さて、すべての他の必要品が、それらの三国において同様に低廉であると想像するならば、労働者に報酬として与えられる穀物の分量は、各国において生産の難易に比例するであろうと結論するのは、大なる誤りではないであろうか?
もし労働者の靴や衣服が、機械の進歩によって、今日その生産に必要な労働の四分の一で生産され得るに至るならば、それはおそらく七五%下落するであろう。しかし、労働者がそれによって、一着または一足の代りに永久に四着の上衣または四足の靴を消費し得るに至るであろう、ということは決して真実でないから、おそらく、彼の労働は近いうちに、競争の及び人口に対する刺戟の結果によって、その労賃の費される必要品の新価値に適合せしめられるであろう。もしかかる改良が労働者の消費するすべての物にまで及ぶならば、吾々は、それらの貨物の交換価値が、その製造においてかかる改良が行われなかったあらゆる他の貨物に比較して、極めて著しい低落を受けたにもかかわらず、またそれが極めて著しく減少した労働量の生産物であるにもかかわらず、おそらく数年ならずして労働者は、たとえ増加したとしてもわずかしか増加しなかった享楽品を所有しているに過ぎないことを、見出すであろう。 
(一〇)しからばアダム・スミスと共に、『労働は時により多くの、また時により少い財貨を、購買し得るであろうから、変化するのは財貨の価値であり、財貨を購買する所の労働の価値ではない、』(訳者註)したがって『それのみがそれ自身の価値において決して変化しないものである所の労働が、それによってすべての貨物の価値が、すべての時及び処において評価されかつ比較され得る所の、窮極のかつ真実の標準である。』(訳者註)と言うのは、正しくない、――しかし、アダム・スミスが前に言った如くに、『種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることが出来る唯一の事情であるように思われる、』換言すれば、貨物の現在または過去の相対価値を決定するものは、労働が生産するであろう所の貨物の比較的分量であって、労働者にその労働と交換して与えられる貨物の比較的分量でないと言うのは、正しいのである。
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、同上、三五頁。 
(一一)(編者註)もし現在及びあらゆる時においてそれを生産するために正確に同一の労働を必要とするある一貨物が見出され得るならば、その貨物は不変的価値を有つものであり、そして他の物の変動を測り得る標準として極めて有用であろう。かかる財貨については吾々は何ら知る所なく、従ってある価値標準を定めることは出来ない。しかしながら、吾々が貨物の相対価値の変動の諸原因を知り得るために、またそれらの原因が作用する如く思われる程度を算定し得るに至らんがために、価値標準の本質は何であるかを確かめるのは、正しい理論を得るために、極めて有用なことである。
(編者註)第一版及び第二版にあったこの章句は、第三版から除かれた。ここではそれを旧に復しておく。 
(一二)二つの貨物が相対価値において変動する、そして吾々は、そのいずれに変動が実際起ったのであるか、を知りたいと思う。もし吾々がその一方の現在の価値を、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、その他すべての貨物と比較するならば、吾々は、それがすべてのこれらの物の正確に以前と同一の分量と交換されるであろうことを見出す。もし吾々がその他方を同一の諸貨物と比較するならば、吾々は、それがこれらのすべての財貨に対する関係において変動しているのを見出す、かくて吾々は、たぶんの蓋然性をもって、変化はこの後の貨物にあったのであり、それと吾々が比較した諸貨物にあったのではないということを、推断し得るであろう。もしこれらの種々なる貨物の生産に関連せるすべての事情をより詳細に検討して、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖等の生産は正確に同一量の労働及び資本が必要であるが、しかしその相対価値が変動した一個の貨物の生産には、以前と同一量の労働が必要ではないことを吾々が見出すならば、蓋然性は確実性に変じ、そして吾々は変動はこの一個の貨物にあることを確知し、かくてその変化の原因をもまた発見するのである。
もし私が、一オンスの金が、上掲のすべての貨物及びその他の多くの貨物のより少い分量と交換されることを見出し、更にもし私が、新しいより肥沃な鉱山の発見により、または機械の極めて有利な使用によって、一定量の金がより少い労働量によって獲得され得ることを、見出すならば、他の貨物に比較して金の価値の変動の原因は、その生産がより便利となったこと、すなわちそれを獲得するに必要な労働の分量の減少である、と正当に言い得るはずである。同様に、もし労働があらゆる他の物に比較して価値において大いに下落し、そしてもしその下落が、労働者の穀物及びその他の必要品の生産が大いに便利になったことによって助勢された豊富な供給の結果であることを見出すならば、思うに私が、穀物及び必要品はその生産に必要な労働の分量が減少した結果価値において下落したのであり、かつかくの如く労働者を養うための資料の供給が容易になったことが、続いて労働の価値における下落を伴ったのであると言うのは、私としては正確であろう。否、とアダム・スミスやマルサス氏は言う、金の場合にはその変動をその価値の下落と呼ぶのは正当であったろう、けだしこの際穀物及び労働は変動しなかったからである。そして金は、これらのもの並びにすべての他の物の以前よりもより少い分量を支配するであろうから、すべての物は静止しており、金のみが変動したというのも正しかった。しかし吾々が価値の標準尺度たるものとして選んだ所の穀物及び労働が下落した時は、それらが蒙ることを吾々が認める所のすべての変動にもかかわらず、かくの如く言うのは極めて不当である。正しい言葉としては、穀物及び労働は静止しており、そして他のすべてのものは価値において騰貴したと、言うべきであろう、と。
さて、私が抗議するのはこの言葉に対してである。金の場合におけるが如く、穀物と他の物との間の変動の原因は、正しく、穀物を生産するに必要な労働の分量の減少であることを、私は発見する、従ってあらゆる正当な推理によって、私は、穀物及び労働の変動をもってそれらの価値における下落と呼び、そしてそれらが比較される物の価値における騰貴ではないと言わざるを得ない。もし私が一週間の間、一人の労働者を雇わねばならず、そして私が彼に十シリングではなく八シリング支払うとしても、貨幣の価値に何らの変動も起らなければ、この労働はおそらくその八シリングをもって彼が前に十シリングで得たよりもより多くの食物及び必要品を獲得し得よう。しかしこれは、アダム・スミスによって述べられ、更に近くはマルサス氏によって述べられた如く、彼れの労賃の真実価値における騰貴によるものではなく、彼れの労賃が費される物の価値における下落によるのであり、この二つは全く異なるのである。しかもなお私がこれをもって労賃の真実価値の下落と呼ぶのに対し、経済学の真実の原理と相容れない所の新しいかつ異常の言葉を用いるものといわれている。私にとっては異常なそして実に矛盾した言葉とは、私の反対論者によって使用されているものこそそれであるように思われる。
穀物が一クヲタア八〇シリングの時、一労働者が一週間の仕事に対し穀物一ブッシェルの支払を受け、かつ価格が四〇シリングに下落した時、彼が一ブッシェル四分の一の支払を受けるとせよ。更に、彼は、彼自身の家庭内において一週間に半ブッシェルの穀物を消費し、その残りを、燃料、石鹸、蝋燭、茶、砂糖、塩、等々のごとき他の物と交換するとせよ。もし後の場合に彼れの手許に残るべき四分の三ブッシェルが、前の場合に半ブッシェルが彼に齎したと同じだけの上記の貨物を齎し得なければ、――それは実際齎さないであろうが――労働は価値において騰貴したのであろうか、または下落したのであろうか? 騰貴した、とアダム・スミスは言わなければならぬ、けだし彼れの標準は穀物であり、そして労働は一週間の労働に対してより多くの穀物を受取るからである。下落した、とこの同じアダム・スミスは言わなければならぬ、『けだし一物の価値は、その物の所有が齎す所の、他の財貨を購買する力に依存し、』そして労働はかかる他の財貨を購買するよりわずかな力しか有っていないからである。 
第二節 異る質の労働は異った報酬を受ける。
 このことは貨物の相対価値における変動の原因ではない。 

 

(一三)しかしながら労働をもってすべての価値の基礎であると論じ、かつ労働の相対的分量をもってほとんど全く貨物の相対価値を決定するものであると論ずるに当って、私は、労働の異る質を、また一つの事業における一時間または一日の労働を他の事業における同時間の労働と比較する困難を、考慮に入れぬものと考えられてはならない。異る質の労働の評価は、すべての実際的目的のためには十分正確に、市場において速かに調整され、そして労働者の比較的熟練、及びなされたる労働の強度に依存するものである。この準尺は、一度形成されれば、ほとんど変化を蒙らない。もし宝石工の一日の労働が、普通労働者の一日の労働よりも価値がより大であるならば、それは久しい以前から調整されているのであり、価値の準尺における適当の位置に置かれているのである(註)。
(註)『しかし、労働がすべての貨物の交換価値の真実の尺度であるとはいえ、それらの貨物の価値が普通これによって測られるのではない。二つの異る労働量の間の比例を確めることはしばしば困難である。二つの異る種類の仕事に費された時間は、単独では、常にこの比例を決定するものとはきまらないであろう。忍ばれた困難や発揮された才能の異れる諸程度が、同様に斟酌されなければならない。二時間の容易な仕事によりも、一時間の困難な仕事に、より多くの労働があるかもしれない。あるいは通常の誰も知っている事業における一月の勤労に従事するよりも、それを習得するに十年の労働を要する職業に一時間従事する方に、より多くの労働があるかもしれない。しかし、困難にしろ才能にしろ、それの正確な尺度を見出すことは容易ではない。実際異る種類の労働の異る生産物を相互に交換する際には、ある酌量が普通両者に対してなされている。しかしながらそれは正確な尺度によって調整されているのではなくて、正確ではないが、日常生活の仕事を行うに十分であるという種類の、大ざっぱな平等に従って、市場の駈引によって調節されているのである。』――『諸国民の富』第一篇、第十章(これは誤りである。正しくは第五章である。――訳者註)
従って、異る時期に同一の貨物の価値を比較する際には、その特定貨物の生産に要した労働の比較的熟練及び強度についての考慮は、ほとんど必要がない、けだし労働は両方の時期において同様に作用しているからである。ある時におけるある種類の労働が、他の時における同じ種類の労働に比較されているのである。もし十分の一、五分の一、または四分の一が附加されまたは減少されたならば、この原因に比例せる結果がその貨物の相対価値の上に生み出されるであろう。
もし今毛織布一片がリンネル二片の価値に等しく、そしてもし十年後に毛織布一片の通常の価値がリンネル四片に等しくなるとするならば、吾々は毛織布を作るにより多くの労働が必要であるか、またはリンネルを作るに労働がより少くて足るか、または両方の原因が作用した、のいずれかである、と安全に結論し得るであろう。
私が読者の注意をひこうと欲する研究は、貨物の相対価値における変動の結果に関するものであって、その絶対価値におけるそれに関するものではないから、種々なる種類の人間労働の評価されるその比較的程度を検討することはさして重要ではないであろう。吾々は、種々なる種類の労働の間に本来いかなる不平等があろうと、またある種の手先の技術を習得するに必要な才能、熟練、または時間が、他の種のもの以上にどれだけであろうと、それは一時代より次の時代に引続きほとんど同様であるか、または少くともその変動は、年々に亙って、極めて小なるものであり、従って短期間内では、貨物の相対価値に対しほとんど影響を及ぼし得ないものであると、正当に結論し得るであろう。『労働及び資本の種々なる用途における労賃及び利潤の両者の種々なる率の比例は、既に述べた如くに、社会の貧富、社会の進歩的、停止的、または退歩的状態によって、多くの影響を蒙るものではないように思われる。公共の福祉のかかる変革は、労賃及び利潤の両者の一般率には影響を及ぼすけれども、結局はすべての異れる職業において両者の率に一様に影響しなければならない。従ってそれらの間の比例は引続き同一でなければならず、そして少くともあるかなりの長期間に亙ってかかる変革によってよく変更され得ないものである。』(註)
(註)『諸国民の富』第一篇、第十章(キャナン版、一四四頁――訳者註) 
第三節 啻に貨物に直接に加えられた労働が
 その価値に影響を及ぼすばかりでなく、かかる労働を補助する所の、
 器具、道具、及び建物に投ぜられた労働もまた、そうである。

 

(一四)アダム・スミスが述べている初期の状態においてすら、狩猟者をしてその鳥獣を殺すことを得しめるためには、おそらく彼自身によって作られかつ蓄積されたものであろうとはいえ、ある資本が必要であろう。ある武器がなければ、海狸も鹿も殺され得なかったであろう、従ってこれらの動物の価値は、それを殺すに必要な時間と労働とだけによってではなく、狩猟者の資本、すなわちその助力によってそれを殺す所の武器を、作るに必要な時間と労働とによってもまた、左右されるであろう。
海狸を殺すに必要な武器は、それに近づくことが鹿に近づくよりもより困難であり、従って標準がより正確であることが必要であるために、鹿を殺すに必要な武器よりも遥かにより多くの労働をもって作られたと仮定せよ。一匹の海狸は当然に二頭の鹿よりも価値がより多いであろう。そしてそれはまさに全体としてより以上の労働がそれを殺すために必要であるという理由の故である。または両方の武器を作るに同一の分量の労働が必要であるが、しかし両者は非常に耐久力が異ると仮定せよ。耐久的な器具からはその価値のわずか一小部分が貨物に移転されるであろうが、より耐久的ならざる器具からは、それがその生産に寄与する所の貨物に、その価値の遥かにより大なる一部分が実現されるであろう。
海狸及び鹿を殺すに必要なすべての器具は一階級の人々に属し、そしてそれを殺すために用いられる労働は他の階級によって提供されることもあろう。しかも両者の比較価格は、資本の形成と動物の捕殺との両者に投ぜられた現実の労働に比例するであろう。資本が労働に比して豊富でありまたは稀少であるという、事情の異る場合においては、人間の生活に欠くべからざる食物及び必要品が豊富でありまたは稀少であるという事情の異れる場合においては、同一の価値の資本を一つのまたは他の事業に提供した者は、取得された生産物の半分、四分の一、または八分の一を得、残りは労賃として労働を提供した者に支払われるであろう、しかしこの分割は、これらの貨物の相対価値には少しも影響を及ぼし得ないであろうが、それはけだし資本の利潤が多かろうと少かろうと、それが五〇%であろうと、二〇%であろうと、一〇%であろうと、または労働の労賃が高かろうと低かろうと、これらは両方の事業に一様に作用するであろうからである。 
(一五)もし吾々が、社会の職業の範囲が拡張し、ある者は漁撈に必要な独木舟及び船具を作り、また他の者は種子及び始めて農業に用いられる粗末な機械を作ると仮定しても、しかもなお生産された貨物の交換価値は、その生産に――啻にその直接の生産にばかりではなく、更に器具または機械がそれに用いられる特定労働を有効ならしめるに必要なすべての器具または機械の生産に――投ぜられた労働に比例するであろう、という同一の原理は依然真実であろう。
たとえ吾々が、より以上の進歩がなされ、かつ技術と商業の繁栄せる社会状態を見ても、吾々はなお、貨物がこの原理に従って価値において変動するのを見出すであろう。すなわち例えば、靴下の交換価値を測るに当って、吾々は、他の物と比較してのその価値が、それを製造しかつそれを市場に齎すに必要な全労働量に依存することを見出すであろう。第一に、原棉が栽培される土地の耕作に必要な労働がある。第二に、靴下が製造されるべき国に綿を運搬する労働があるが、それは綿を運搬する船舶の建造に投ぜられた労働の一部分を含み、そしてそれはこの財の運賃に算入されている。第三に、紡績工及び機械工の労働がある。第四に、その生産を助ける建物及び機械を作った所の機械工、鍛冶屋、及び大工の労働の一部分がある。第五に、小売商人その他これ以上特記する必要のない多くの者の労働がある。これら種々なる種類の労働の総額が、これらの靴下と交換せらるべき他の物の分量を決定するのである。他方投ぜられた種々なる分量の労働に関する同一の考察が、同様に、靴下に対し与えらるべきそれらのものの分量を支配するであろう。
これが交換価値の真の基礎であることを確信するために、製造された靴下が他の物と交換されるために市場に来るまでに、原棉が通過しなければならぬ種々なる行程のいずれか一つにおいて、労働を節約する手段中においてある改良がなされたと仮定し、そしてそれに随伴する諸結果を観察しよう。もし原棉を栽培するに必要な人間が減少するか、または航海に従事する船員、または原棉をわが国に運搬する船舶を建造する造船工が減少するならば、またもし建物及び機械を作るに人手が減少するか、またはそれが作られた時に能率を増加せしめられたならば、靴下は必然的に価値において下落し、従ってより少量の他の物を支配するであろう。それが下落するのは、けだしより少量の労働がその生産に必要であり、従ってかかる労働の節約のなされなかった物のより少い分量と交換されるからである。
労働の使用を節約すれば、その節約が貨物そのものの製造に必要な労働で行われようと、またはその生産を援助する資本の形成に必要な労働で行われようと、必ず貨物の相対価値は下落する。いずれの場合においても靴下の製造に直接必要な人々たる漂白工、紡績工及び機械工として用いられる者が減少したにしろ、またはより間接に関係している人々たる船員、運搬夫、機械工、及び鍛冶工として用いられるものが減少したにしろ、靴下の価格は下落するであろう。一方の場合には一部分のみに靴下が帰属し、残りはその生産のために建物、機械、及び車輛が役立つ所の、すべての他の貨物に帰するであろう。
社会の初期の段階において、狩猟者の弓及び矢と漁夫の独木舟及び器具は共に同一の分量の労働の生産物であって、等しい価値を有ち等しい耐久力を有つものと仮定せよ。かかる事情の下においては、狩猟者の一日の労働の生産物たる鹿の価値は、漁夫の一日の労働の生産物たる魚の価値と、正確に等しいであろう。魚と獣との比較価値は、生産物の量がどれだけであろうと、または一般的労賃または利潤が高かろうと低かろうと、全然その各々に実現された労働の分量によって左右されるのである。もし例えば、漁夫の独木舟及び器具は一〇〇磅ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼は十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅ポンドであり、また彼らは一日にその労働によって二十匹の鮭を得るとすれば、またもし狩猟家が使用する武器もまた一〇〇磅ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼もまた十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅ポンドであり、また彼らは一日に彼に十頭の鹿を獲得するとすれば、一頭の鹿の自然価格は、全生産物がそれを獲得した人々に与えられる比例は大であろうと小であろうと、それには関係なく、二匹の鮭であろう。労賃として支払われる比例は利潤の問題においては最も重要なものである、けだし労賃が低いか高いかに比例して、利潤は高くまたは低いであろうということは、直ちに判るべきことであるからである。しかし労賃は同時に高くも低くもあるであろうから、それは決して魚及び獣の相対価値に影響を及ぼし得ないであろう。もし狩猟者が労賃として、彼れの獲物の大部分をまたはその大部分の価値を、支払うという口実をもって、彼れの獲物と交換してより多くの魚を与えるように漁夫に誘うならば、漁夫は、彼も等しく同一の原因によって影響を蒙ったと述べるであろう。従って労賃及び利潤の変動がどうあろうと、資本蓄積の結果がどうあろうと、彼ら各々一日の労働によって同一量の魚と同一量の獣を捕獲し続けている限り、自然的交換率は、鹿一頭対鮭二匹である。
もし同一量の労働をもってより少い分量の魚またはより多い分量の獣が捕獲されるならば、魚の価値は獣のそれに比較して騰貴するであろう。もし反対に、同一量の労働をもってより少い分量の獣またはより多い分量の魚が捕獲されるならば、獣は魚に比較して騰貴するであろう。 
(一六)もしその価値が不変なある他の貨物があるとするならば、吾々は、魚及び獣の価値をこの貨物と比較することによって、この変動のうちどれだけが魚の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべく、またそのうちどれだけが獣の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべきかを、確かめ得るであろう。
貨幣がかかる貨物であると仮定しよう。もし一匹の鮭が一磅ポンドに値し、一頭の鹿が二磅ポンドに値するならば、一頭の鹿は二匹の鮭に値するであろう。しかし鹿を捕獲するにより多くの労働が必要になり、または鮭を得るにより少い労働が必要になり、あるいはまたこれらの原因が同時に作用したために、一頭の鹿が三匹の鮭の価値を有つようになることもあろう。もし吾々がこの不変的標準を有つならば、吾々は容易に、これの諸原因のいずれがいかなる程度に作用したかを確め得るであろう。もし鹿が三磅ポンドに騰貴したのに鮭が引続き一磅ポンドで売れるならば、吾々は、鹿を捕獲するのにより多くの労働が必要になったのである、と結論し得よう。もし鹿は二磅ポンドという同一の価格を続け、そして鮭は十三シリング四ペンスで売れたならば、吾々は、鮭を得るのにより少い労働で足るものと確信し得よう。またもし鹿は二磅ポンド一〇シリングに騰貴し、鮭は一六シリング八ペンスに下落したならば、吾々は、これらの貨物の相対価値の変動を生ずるに両方の原因が働いたものと信ずるであろう。
労働の労賃におけるいかなる変動も、これらの貨物の相対価値の変動を生み出し得ないであろう、けだし、それが騰貴したと仮定しても、これらの職業のいずれにおいてもより大なる労働量が必要になったのではなく、労働がより高い価格で支払を受けるのに過ぎず、そして狩猟者及び漁夫をしてその獣及び魚の価値を引上げんと努力せしめると同一の理由が、鉱山の所有者をしてその金の価値を引上げようとさせるであろうから。かかる誘引はすべてのこれら三つの職業において同一の力をもって働き、そしてそれに従事する者の相対的地位は、労賃の騰貴の前と後とで同一であるから獣と魚と金との相対価値は引続き変らないであろう。労賃は二〇%騰貴し、利潤はその結果それ以上または以下の割合で下落するであろうが、これらの貨物の相対価値には少しも変動が起らないのである。
さて、同一の労働と固定資本とをもって生産し得る魚は増加するが、しかし金または獣は増加しないと仮定するならば、魚の相対価値は金または獣に比較して下落するであろう。もし、二十匹の鮭ではなく二十五匹が一日の労働の生産物であるならば、一匹の鮭の価格は一磅ポンドではなく十六シリングとなり、そして、二匹の鮭ではなくて二匹半の鮭が一頭の鹿と交換して与えられるであろうが、しかし鹿の価格は以前と同様に引続き二磅ポンドであろう。同様に同一の資本及び労働をもって獲得し得る魚が減少するならば、魚は比較価値において騰貴するであろう。かくて魚は、その一定量を得るのにより多くのまたはより少い労働が必要とされるという理由のみによって、交換価値において騰落するであろう。そしてそれは、必要な労働量の増加または減少の比例以上には決して騰落し得ないであろう。
かくてもし吾々がそれによって他の貨物における変動を測り得る不変の標準を有っているとするならば、貨物が、仮定にあるような事情の下において生産されるとした時に、それらの貨物が永続的に騰貴し得る最高限度は、その生産に必要とされる附加的労働量に比例し、かつより以上の労働がその生産に必要とされない限り、それはいかなる程度にも騰貴し得ないことを、見出すであろう。労賃の騰貴は、貨物を、貨幣価値においても、またその生産に何らの附加的労働量を必要とせず、かつ同一比例の固定資本及び流動資本を、また同一耐久力の固定資本を、使用した所の、ある他の貨物との比較においても、その価値を騰貴せしめないであろう。もし他の貨物の生産により多くのまたはより少い労働が必要とされるならば、吾々の既に述べた如く、このことは直ちにその相対価値に変動を惹起すであろうが、しかしかかる変動は必要労働量の変動によるものであって、労賃の騰貴によるものではないのである。 
第四節 貨物の生産に投ぜられた労働の分量が
 その相対価値を左右するという原理は、
 機械その他の固定的かつ耐久的な資本の使用によって著しく修正される。

 

(一七)前節においては、吾々は、鹿及び鮭を殺すに必要な器具及び武器の耐久力は等しく、かつ同一労働量の結果であると仮定し、そして鹿及び鮭の相対価値における変動は、一にそれを獲得するに必要な労働量の変動に依存するものであることを見た、――しかし社会のあらゆる状態においては、種々なる事業に用いられる道具や器具や建物や機械は、耐久力の程度を異にし、そしてそれを生産するに種々異った労働量を必要とするであろう。労働を支持すべき資本と、道具や機械や建物に投下される資本との比例もまた、種々異って組合わされるであろう。固定資本の耐久度におけるかかる相違、及び二種類の資本が組合わされる比例のこの差異は、貨物の生産に必要な労働量の大小ということの他に、その相対価値を変動せしめる他の一原因を導入する、――この原因とは労働の価値における騰貴及び下落である。
労働者によって消費される食物及び衣服、その中で彼が働く建物、彼れの労働を助ける器具は、すべて、消耗すべき性質を有っている。しかしながらこれらの種々なる資本がもちこたえる時間には莫大な差異がある、すなわち蒸気機関は船舶よりも、船舶は労働者の衣服よりも、労働者の衣服は彼が消費する食物よりも、より長く保つであろう。
資本が速かに消耗ししばしば再生産される必要があるか、またはゆっくりと消費されるものであるかによって、それは流動資本または固定資本の部類に種別される(註)。高価な耐久的な建物や機械を有つ醸造業者は多量の固定資本を使用するといわれる。反対に、その資本が主として労賃の支払に用いられ、その労賃は建物及び機械よりもより消耗的な貨物たる食物及び衣服に費される所の、製靴業者は、その資本の大部分を流動資本として使用するといわれている。
(註)本質的ではなく、かつ境界線を正確に引き得ない所の、区別である。
流動資本は、極めて時を異にして循環すること、すなわちその使用者に囘収されるということもまた、観察されるべきである。播種のために農業者が購入した小麦は、パンを焼くためにパン焼業者が買い入れた小麦に対しては、比較的に固定資本である。一方はそれを地中に遺し、一年の間は何らの報酬も獲得し得ないが、他方は麦粉に挽かせパンとしてそれをその顧客に売り、そして彼は一週間の後には、同一の事を繰返すか、またはある他の仕事を始めるために、彼の資本を解放し得るのである。
かくて、二つの事業が同一量の資本を使用するかもしれぬが、しかし固定した部分と流動する部分とについては極めて種々に異って分割されもしよう。
一つの事業においては極めてわずかな資本が流動資本として、換言すれば労働を支持するために、用いられるにすぎず――すなわち資本は主として機械、器具、建物等に、すなわち比較的に固定的かつ耐久的な性質の資本に投ぜられるであろう。他の事業においては、同一量の資本が用いられるであろうが、しかしそれは主として労働の支持に用いられ、そして極めてわずかが、器具、機械、及び建物に投ぜられるであろう。労働の労賃の騰貴がかかる異った事情の下において生産される貨物に対して及ぼす影響は、異らざるを得ない。
更に、二人の製造業者が同一量の固定資本と同一量の流動資本とを用いるが、しかし彼らの固定資本の耐久力は極めて不等であることがあろう。一方は一〇、〇〇〇磅ポンドの価値の蒸気機関を有ち、他方は同じ価値の船舶を有つこともあろう。
もし人々が生産に何ら機械を用いずただ労働のみを用い、そしてその貨物を市場に齎すまでにすべて同一時間を要するとすれば、彼らの財貨の交換価値は用いられた労働の分量に正確に比例するであろう。
もし彼らが同一の価値を有ちかつ同一の耐久力を有つ固定資本を使用するならば、その時にもまた、生産された貨物の価値は同一であり、そしてそれはその生産に使用された労働量の大小に応じて変動するであろう。 
(一八)しかしたとえ、同様の事情の下において生産された貨物は、その一または他を生産するに必要な労働の分量の増加または減少を除くいかなる原因によっても、相互に対して変動しないであろうとはいえ、しかも同一の比例の量の固定資本をもって生産されない所の他のものに比較するならば、たとえそのいずれの貨物の生産に必要な労働量には増減がなくとも、私が先きに述べた他の原因、すなわち労働の価値の騰貴によってもまた変動するであろう。大麦及び燕麦は労賃がいかに変動するとも、相互に引続き同一の関係を維持するであろう。綿製品及び毛織布も、それがもし相互に正確に同様な事情の下において生産されるならば、前の場合と同様であろう、しかしながら労賃の騰貴または下落と共に、大麦は綿製品に比較して、また燕麦は毛織布に比較して、価値がより多くもまたはより少くもなるであろう。
二人の人が各々百名の人間を二台の機械の建造に一年間用い、そしてもう一人の人が同一数の人間を穀物の耕作に用いると仮定すれば、各々の機械は、その年の終りに、穀物と同一の価値を有つであろうが、それは、それらが各々同一の労働量によって生産されるであろうからである。この機械の一つの所有者が、翌年、百名の人間の助力によって、それを毛織布の製造に使用し、そしてもう一つの機械を所有する人もまた、同様に百名の人間の助力によって、彼れの機械を綿製品の製造に使用し、他方農業者は引続き以前と同様に百名の人間を穀物の耕作に雇っていると仮定せよ。第二年目中に、彼らはすべて同一の分量の労働を使用するであろう。しかし、毛織物業者並びにまた綿織物業者の有する財貨と機械との合計は、二百名の人間を一年間使用した労働の結果であり、またはむしろ百名の人々の二年間の労働の結果であろう。しかるに穀物は百名の人間の一年間の労働によって生産されるであろう、従ってもし穀物が五〇〇磅ポンドの価値であるとすれば、毛織物業者の機械と毛織布との合計は一、〇〇〇磅ポンドの価値でなければならず、そして綿織物業者の機械と綿製品もまた、穀物の価値の二倍でなければならない。しかしながらこれらのものは穀物の価値の二倍以上であろう、何故なれば、第一年目の毛織物業者及び綿織物業者の資本に対する利潤がその資本に附加されているが、しかるに農業者の利潤は費消されかつ享楽されてしまっているからである。かくして彼らの資本の耐久力の程度の異るがために、または同じことであるが、一群の貨物が市場に齎され得るまでに経過すべき時間のために、それらの価値は、正確にそれに投ぜられた労働の分量に比例しないであろう――すなわちそれらは二対一ではなく、最も価値の多いものが市場に齎され得るまでに経過しなければならぬより長い時間を償うために、幾らかそれよりもより多くなるであろう。
各労働者の労働に対し一年に五〇磅ポンドが支払われ、または五、〇〇〇磅ポンドの資本が使用され、そして利潤は一〇%であるとすれば、機械の各々並びに穀物の価値は、第一年目の終りに、五、五〇〇磅ポンドであろう。第二年目には、製造業者及び農業者は再び各々労働を支持するために五、〇〇〇磅ポンドを用い、従って再び彼らの財貨を五、五〇〇磅ポンドで売るであろうが、しかし機械を用いる者は、農業者と均衡を保つためには、啻に労働に使用された五、〇〇〇磅ポンドなる同額の資本に対して五、五〇〇磅ポンドを得なければならぬばかりでなく、更に機械に投ぜられた五、五〇〇磅ポンドに対する利潤として、より以上に五五〇磅ポンドの額を得なければならず、従って彼らの財貨は六、〇五〇磅ポンドで売れなければならない。しからばここに、年々彼らの貨物の生産に正確に同一の分量の労働を使用する資本家達があるが、しかも彼らの生産する財貨の価値は、その各々によって用いられる固定資本すなわち蓄積労働の分量の異るために、異っているのである。毛織布と綿製品との価値は同一であるが、それはこれらが同一の分量の労働と同一の分量の固定資本との生産物であるからである。しかし穀物の価値はこれらの貨物と同一ではないが、それは固定資本に関する限りにおいて、異る事情の下で生産されるからである。
しかし、それらの相対価値は、いかにして労働の価値における騰貴によって影響を蒙るであろうか? 毛織布及び綿製品の相対価値が何らの変化をも蒙らないであろうことは明かである、けだし仮定された事情の下においては、一方に影響を及ぼすものは他方にも等しく影響を及ぼさなければならぬからである。小麦及び大麦の相対価値もまた何らの変化も蒙らないであろう、けだしそれらは、固定資本及び流動資本の関係する限りにおいて同一の事情の下で生産されるからである。しかし毛織布または綿製品に対するその相対価値は、労働の騰貴によって変更されなければならない。
利潤の下落なくしては、労働の価値における騰貴はあり得ない。もし穀物が農業者と労働者との間に分たるべきであるとするならば、後者に与えられる割合が大きければ大きいほど、前者に残る所はわずかであろう。同様に、もし毛織布または綿製品が労働者とその雇傭者との間に分たれるとするならば、前者に与えられる比例が大きければ大きいほど、後者に残る所はわずかである。そこで労賃の騰貴により利潤が一〇%から九%に下落すると仮定すれば、製造業者は、その固定資本に対する利潤として、その財貨の共通の価格に(すなわち五、五〇〇磅ポンドに)五五磅ポンドを附加せずに、その額に九%すなわち四九五磅ポンドしか附加せず、従って価格は六、〇五〇磅ポンドではなくて五、九九五磅ポンドとなるであろう。穀物は引続き五、五〇〇磅ポンドで売れるであろうから、より以上の固定資本が使用された製造財貨は、穀物またはその他のより少い分量の固定資本が入込んでいる財貨に比較して、下落するであろう。労働の騰落による財貨の相対価値の変動の程度は、固定資本が使用された全資本に対して有つ比例に依存するであろう。極めて高価な機械により、または極めて高価な建物の中で、生産される所の、またはそれが市場に齎され得るまでに長い時間を必要とする所の、すべての貨物は、相対価値において下落するであろうが、しかるに、主として労働によって生産され、または速かに市場に齎されるであろう所の、すべてのものは、相対価値において騰貴するであろう。
しかしながら、読者は、貨物のこの変動原因は、その結果において比較的軽微であることを注意すべきである。利潤において一%の下落を惹起す如き労賃の騰貴があれば、私が仮定した事情の下で生産された財貨の相対価値は、わずか一%だけ変動する。それは利潤のかかる大下落があるのに、六、〇五〇磅ポンドから五、九九五磅ポンドに下落するに止る。労賃の騰貴によりこれらの財貨の相対価値に対し生み出され得る最大の影響といえども、六%または七%を超過し得ないであろう。けだし利潤はおそらくいかなる事情の下においてもかかる額以上の一般的なかつ永続的な下落を許し得ないであろうからである。
貨物の価値の変動の他の大原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の増減は、これと異る。もし穀物を生産するに百名ではなく八十名が必要とされるならば、穀物の価値は二〇%、すなわち五、五〇〇磅ポンドから四、四〇〇磅ポンドに下落するであろう。もし毛織布を生産するに、百名ではなく八十名の労働で十分であるならば、毛織布は六、〇五〇磅ポンドから四、九五〇磅ポンドに下落するであろう。大なる程度における永久的利潤率の変動は、多年の間においてのみ作用する原因の結果である。しかるに貨物を生産するに必要な労働の分量の変動は、日々起るものである。機械や道具や建物や原料の生産におけるあらゆる改良は、労働を節約し、吾々をしてかかる改良の加えられた貨物をより容易に生産することを得せしめ、従ってその価値が変更するのである。しからば貨物の価値の変動の原因を測定するに当って、労働の騰落によって生み出される結果を全く度外視するのは正しくないであろうが、それに多くの重要さを附するのも同等に正しくないであろう。従って本書の以下の部分においては、時に私はこの変化の原因にも触れはしようが、私は、貨物の相対価値に起るすべての大なる変化をもって、その時にそれを生産するために必要とされる労働の分量の大小によって生み出されたものと、考えるであろう。
その生産に投ぜられた労働の同一な諸貨物は、もしそれらが同一の時間で市場に齎され得ないならば、交換価値において異るであろうということは、ほとんどいうをまたない所である。
私が一貨物の生産に一年間一、〇〇〇磅ポンドの費用で二十名を雇い、そしてその年の終りに、再び翌年度のために更に一、〇〇〇磅ポンドの費用を出して、同じ貨物の仕上または完成に、二十名を雇い、そして私はそれを二年の終りに市場に齎すと仮定すれば、もし利潤が一〇%であるならば、私の貨物は二、三一〇磅ポンドで売れなければならない、けだし私は一年間一、〇〇〇磅ポンドの資本を用い、更に一年間二、一〇〇磅ポンドの資本を使用したからである。もう一人の人は、正確に同一の分量の労働を雇うけれども、しかし彼はそれをすべて第一年目に雇うのであり、すなわち彼は二、〇〇〇磅ポンドの費用で四十名を雇うのであって、第一年目の終りには彼はそれを一〇%の利潤を得て、すなわち二、二〇〇磅ポンドで売るのである。しからばここに、正確に同一の分量の労働が投ぜられていて、その一つは二、三一〇磅ポンドに売れ――他は二、二〇〇磅ポンドに売れる所の、二つの貨物があるわけである。
この場合は前の場合と異るようであるが、実際は同一である。双方の場合において、一方の貨物の価格がより高いのは、それが市場に齎され得るまでに経過しなければならない時がより長いのによる。前の場合においては、機械及び毛織布は、それらにわずか二倍の労働量が投ぜられているに過ぎないにもかかわらず、穀物の価値の二倍以上であった。第二の場合においては、一方の貨物はその生産により以上の労働が用いられていないにもかかわらず、他方よりも価値がより多い。この価値の相違は、双方の場合において、利潤が資本として蓄積されるのによるのであり、そして単に、利潤が留保された時間に対する正当な報償に過ぎないものである。
しからば、異る事業に用いられる資本が、固定資本と流動資本との種々な割合に分たれることは、労働がほとんどもっぱら生産に使用される際に普遍的に適用される所の法則、すなわち貨物は、その生産に投ぜられる労働の分量の増減がなければ、決して価値において変動しない、という法則に、かなりの修正を齎すように思われる。それは本節において、労働の分量に何らの変動なくとも、単にその価値の騰貴は、それらの生産に固定資本が用いられる所の財貨の交換価値の下落を惹起すであろうし、固定資本の量が多ければ多いほど、下落は大である、ということが示されているからである。 
第五節 価値は労賃の騰落と共に変動しないという原理は、
 資本の不等な耐久力、及び資本がその使用者に囘収される
 速度の不等なこと、によってもまた修正される。

 

(一九)前節において吾々は、二つの異れる職業における二つの相等しい資本について、固定資本及び流動資本の比例を不等なものと仮定したが、今度はそれらは同一の比例にあるが耐久力が不等である、と仮定しよう。固定資本の耐久力がより小となるに比例して、それは流動資本の性質に接近する。製造業者の資本を維持するためには、それはより短時間に消費され、かつその価値は再生産されるであろう。吾々はいま、一製造業において固定資本が重きをなすに比例して、労賃が騰貴する時には、その製造業において生産される貨物の価値は、流動資本が重きをなす製造業において生産される貨物の価値よりも、相対的により低い、ということを見た。固定資本の耐久力がより小となり、流動資本の性質に接近するに比例して、同一の結果が同一の原因によって生み出されるであろう。
もし固定資本が耐久的性質のものでないならば、それをその本来の能率状態を維持するためには、年々多量の労働を必要とするであろう、しかしそのために投ぜられた労働は、かかる労働に比例して一つの価値を有たねばならぬ製造物に真に費されたものと考え得るであろう。もし私が二〇、〇〇〇磅ポンドに値する一台の機械を有ち、それは極めてわずかの労働で貨物の生産をなし得るとし、かつもしかかる機械の損耗磨滅は僅少量であり、一般的利潤率は一〇%であるとするならば、私はその機械を使用したという理由で、遥かに二、〇〇〇磅ポンド以上の財貨の価格に附加されるべきことを、要求しないであろう。しかしもし機械の損耗磨滅が大きく、それを有効の状態に保っておくに必要な労働の分量が年々に五十名の労働に当るとすれば、私は、他の財貨の生産に五十名を使用し、かつ機械を全然使用しない所の、他の製造業者によって得られると等しい附加的価格を、私の財貨に対して要求するであろう。
しかし労働の労賃の騰貴は、急速に消費される機械によって生産される貨物と、遅々として消費される機械によって生産される貨物とに、等しくは影響を及ぼさないであろう。一方の生産においては、生産された貨物に多量の労働が引続き移転されるであろう。――他方においては、極めてわずかがかく移転されるに過ぎないであろう。労賃のあらゆる騰貴、または同じことであるが、利潤のあらゆる下落は、耐久的性質を有つ資本をもって生産された貨物の相対価値を下落せしめ、そして消耗的な資本をもって生産された貨物の相対価値を比例的に高めるであろう。
私は既に、固定資本は種々なる程度の耐久力を有つことを述べた、――今、ある特定の事業において用いられ得る一台の機械は一年間に百名の人間の仕事をなし、かつ一年間だけ持続するものと仮定せよ。また機械は、五、〇〇〇磅ポンドに値し、かつ年々百名の人間に支払われる労賃は五、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、製造業者にとってはこの機械を買うか人間を雇い入れるかは無関心事であろうことは、明かである。しかし労働が騰貴し従って一年間百人の労賃が五、五〇〇磅ポンドに上ると仮定すれば、製造業者は今や躊躇しないであろうことは明かである。機械を買いそして彼れの仕事を五、〇〇〇磅ポンドで済ませるのが彼れの利益であろう。しかし、労働が騰貴せる結果、機械は価格において騰貴し、すなわちそれもまた五、五〇〇磅ポンドに値しないであろうか? それは、もしいかなる資本もその製造に使用されず、そしてその製造者に支払われるべきいかなる利潤も無いならば、価格において騰貴するであろう。例えばもしこの機械が、各々五〇磅ポンドの労賃で一年間その製造に働く所の百名の人間の労働の生産物であり、従ってその価格は五、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、それらの労賃が五五磅ポンドに騰貴するならば、その価格は五、五〇〇磅ポンドになるであろうが、しかしこれはあり得ないことである。用いられるのは百名以下の人間である、しからざれば、五、〇〇〇磅ポンドの中から人間を雇傭した資本の利潤が支払われなければならぬから、それは五、〇〇〇磅ポンドで売れないはずである。そこで単に八十五名の人間が各々五〇磅ポンドすなわち一年につき、四、二五〇磅ポンドの費用で雇われ、そしてこの機械を売ったためにこれらの人々に前払された労賃以上に生ずる七五〇磅ポンドが、機械製造者の資本の利潤を構成していると仮定せよ。労賃が一〇%騰貴した時には、彼は四二五磅ポンドの附加的資本を用いるを余儀なくされ、従って彼は四、二五〇磅ポンドではなく四、六七五磅ポンドを用いるであろう。この資本に対して彼は、もし引続き彼れの機械を五、〇〇〇磅ポンドで売るならば、単に三二五磅ポンドの利潤を得るに過ぎないであろう。しかしこれがまさに、すべての製造業者及び資本家にとって事実である。労賃の騰貴は彼らすべてに影響を及ぼすのである。従ってもし機械の製造者が労賃の騰貴せる結果機械の価格を引上げるならば、異常な分量の資本がかかる機械の製造に用いられることとなり、ついにその価格は単に普通の利潤率を与えるに過ぎなくなるであろう(註)。かくて吾々は、労賃の騰貴せる結果、機械は価格において騰貴しないであろうということを、知るのである。
(註)吾々はここになぜ旧国は機械の使用を常に余儀なくされ、かつ新国は労働の使用を余儀なくされているかの理由を、知るのである。人間の生活資料を供給することが困難になるごとに労働は必然的に騰貴し、そして、労働の価格が騰貴するごとに機械の使用への新しい誘因が与えられる。人間の生活資料を供給することのこの困難は旧国においては常に作用しているが、新国においては、労賃が少しも騰貴せずに人口の極めて大なる増加が起り得よう。七百万、八百万、及び九百万の人間に食物を供給することは、二百万、三百万、及び四百万に食物を供給するのと同様に容易であろう。
しかしながら労賃の一般的騰貴の際に、彼れの貨物の生産費を増加せざるべき機械に頼り得る製造業者は、もし彼れが引続きその財貨に対して同一の価格を要求することが出来るならば、特殊の利益を享受するであろう。しかし吾々の既にみた如くに、彼はその貨物の価格を低下するを余儀なくされるであろう、しからざれば資本が彼れの事業に流入して来、ついに彼れの利潤は一般水準にまで下落するであろう。しからばかくの如くして公衆は機械によって利益を受けるのである、けだしこの沈黙せる作業者は、それが代位する労働と同一の貨幣価値を有っている時ですら、常にそれよりも遥かにより少い労働の生産物である。機械のはたらきによって、労賃を騰貴せしめる食料品の価格の騰貴は、より少数の人々にしか影響を及ぼさないであろう。それは、上例におけるが如く、百名ではなく八十五名に及び、そしてその結果たる節約は製造貨物の価格低減となって現われる。彼らによって製造された機械も貨物も真実価値において騰貴することはないが、しかし機械によって製造されるあらゆる貨物は下落し、そして機械の耐久力に比例して下落するのである。 
(二〇)しからば、次の如くわかるであろう、すなわち、未だ多くの機械や耐久的資本が用いられない社会の初期においては、等しい資本によって生産される貨物はほとんど等しい価値を有ち、そしてその生産に必要とされる労働の増減によってのみ、貨物は相互に相対的に騰落するであろう。しかしこれらの高価なかつ耐久的な器具が導入されて後は、等しい資本の使用によって生産された貨物は極めて不等な価値を有つであろう。そしてその生産に必要な労働の増減に従って、それらはなお相互に騰落を蒙るであろうけれども、それらは労賃及び利潤の騰落によってもまた、一つの他の変動――小さな変動ではあるが、――を蒙るであろう。五、〇〇〇磅ポンドに売れる財貨が、一〇、〇〇〇磅ポンドに売れる他の財貨が生産される所の資本と同一量の資本の、生産物であることもあろうから、その製造に対する利潤は同一であろう。しかしもし利潤率の騰落と共に財貨の価格が変動しなかったならば、それらの利潤は不等であろう。
次のこともまた明かであろう、すなわちある種の生産に用いられる資本の耐久力に比例して、その生産にかかる耐久的資本が用いられる貨物の相対価格は労賃と反比例して変動するであろう。労賃の騰貴する時にはそれは下落し、そして労賃の下落する時には騰貴するであろう。これに反し価格を測る媒介物よりも少い固定資本をもって、またはそれよりも耐久力の少い固定資本をもって、主として労働により生産されるものは、労賃の騰貴する時には騰貴し、そして労賃の下落する時に下落するであろう。 
第六節 価値の不変的尺度について

 

(二一)貨物が相対価値において変動した時には、そのいずれが真実価値において下落しまたいずれが騰貴したのかを確かめる手段を有つことが、望ましいであろう。そしてこのことは、それを順次に、それ自身他の貨物が蒙る変動を全く蒙らざるべきある不変的の価値の標準尺度に比較することによってのみなされ得るものである。かかる尺度を有つことは不可能であるが、それはけだし、それ自身、その価値を確かめようとする物と同一の変化を蒙らない貨物は、ないからである、換言すれば、その生産に要する労働の増減しないものはないからである。しかしこの媒介物の価値の変動の原因が除去されたとしても、――例えば吾々の貨幣の生産において、同一量の労働があらゆる時に必要とせらるべきであるということが、可能であるとしても、それはなお価値の完全な標準または不変的尺度ではないであろう、けだし私が既に説明せんと努めた如くに、貨幣を生産するに必要であろう所の固定資本と、その価値の変動を吾々が確かめようとする貨物を生産するに必要な固定資本との比例が異るがために、貨幣は労賃の騰落による相対的変動を蒙るであろうからである。それはまたその生産に用いられる固定資本と、それと比較さるべき貨物の生産に用いられる固定資本との耐久力の程度が異るがために、――すなわち一方を市場に齎すに必要な時間がその変動を決定しようとする他の貨物を市場に齎すに必要な時間よりも、より長くまたはより短いがために、労賃の騰落という同一の原因によって変動を蒙るであろう。あらゆるかかる事情は、考え得られるいかなる貨物をも、完全に正確な価値の尺度たるの資格を喪失せしめるのである。
例えばもし吾々が金を一標準と定めるとしても、それがあらゆる他の貨物と同一の事情の下で獲得され、従ってそれを生産するに労働と固定資本とを必要とする所の、一貨物たるに過ぎないことは、明かである。あらゆる他の貨物と同様に、労働の節約における改良はその生産に適用され、従って、その生産がいっそう増せるがためのみによって、それは他の物に対する相対価値において下落するであろう。
もし吾々がこの変動原因が除去されそして同一の分量の金を獲得するに同一の分量の労働が常に必要とせられるとしても、しかもなお金は、それによって吾々が正確にあらゆる他の物の変動を確め得る完全な価値の尺度では、あり得ないであろう。けだしそれはあらゆる他の物と正確に同一の固定資本及び流動資本の組合せをもってしても、または同一の耐久力を有つ固定資本をもってしても、生産されないであろうし、またそれが市場に齎され得るまでに、正確に同一の時間を必要としないであろうからである。それは、それ自身と正確に同一の事情の下で生産されるすべての物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしその他の物に対してはそうではない。例えばもし、吾々が毛織布及び綿製品を生産するに必要であると仮定したと同一の事情の下でそれが生産せられるならば、それはこれらの物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしより少いかより多いかの比例の固定資本をもって生産された穀物や石炭やその他の貨物に対してはそうではない、けだし吾々が示した如くに、永久的利潤率のあらゆる変動は、その生産に用いられる労働の分量の変動とは無関係に、あらゆるこれらの財貨の相対価値に、幾らかの影響を及ぼすであろうからである。もし金が穀物と同一の事情の下で生産されるとしても、その事情は決して変化しなくとも、それは、同一の理由によって、あらゆる時において毛織布及び綿製品の価値の完全な尺度ではないであろう。しからば、金にしても他のいかなる貨物にしても、あらゆる物に対する完全な価値尺度では決してあり得ない、しかし私は既に、利潤の変動による物の相対価格への影響は比較的軽微であり、最も重要な影響は生産に必要とされた労働の分量の変動によって生み出されることを、述べた。従ってもし吾々が、この重要な変動原因が金の生産から除去されたと仮定するならば、吾々はおそらく、理論上考え得る価値の標準尺度に最も近いものを所有することになろう。金は、大部分の貨物の生産に用いられる平均的分量に最も近接せる如き二種の資本の比例をもって生産された所の貨物と、考えられ得ないであろうか? これらの比例は、一はほとんど固定資本が用いられず、他はほとんど労働の用いられないという、二つの極端からほぼ等しい距離にあって、これらのものの正しい中項をなしてはいないであろうか?
しからばもし私自身が、不変的標準にかくも近い一標準を有つとするならば、その利益は、それで価格及び価値が測定される所の媒介物の価値におけるあり得べき変動を考えてあらゆる場合に当惑することなしに、他の物の変動について語り得るであろう、という点である。
しからば、本研究の目的を容易ならしめんがために、金で作られた貨幣は他の物の変動の大部分を同じく蒙ることは十分に認めはするけれども、――私は、それは不変であり、従って価格のすべての変動は、それにつき私が論じている貨物の価値のある変動によって惹起されたものと、仮定するであろう。
この問題を終る前に、アダム・スミス及び彼を祖述せるすべての学者は、私の知る所では一人の例外もなく、労働の価格の騰貴は一様にあらゆる貨物の価格の騰貴を随伴するであろうと主張したことを、述べるのが正当であろう。私は、かかる意見には何らの根拠もなく、労賃が騰貴する時には、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い固定資本をその生産に用いた貨物のみが騰貴し、またそれ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が下落するであろう、ということを、示すに成功したと考える。これに反し、もし労賃が下落すれば、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い比例の固定資本をその生産に用いた貨物のみは下落し、それ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が騰貴するであろう。
私にとってまた、一貨物はそれに一、〇〇〇磅ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられ、そして他の貨物はそれに二、〇〇〇磅ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられているという故をもって、従って一方は一、〇〇〇磅ポンドの価値を有ち、他方は二、〇〇〇磅ポンドの価値を有つであろう、と私は言ったのではなく、それらの価値は、相互に一に対する二であり、そしてかかる比例でそれは交換されるであろう、と言ったのであることも、注意しておく必要がある。これらの貨物の一方が一、一〇〇磅ポンドに売れ、そして他方が二、二〇〇磅ポンドに売れようと、または一方が一、五〇〇磅ポンドに売れ、そして他方が三、〇〇〇磅ポンドに売れようと、それはこの学説の真理に対しては少しも重要ではない。この問題は今これを研究しない。私は単に、それらの相対価値は、その生産に投ぜられた労働の相対的分量によって支配されるであろうということを、注意するだけである(註)。
(註)マルサス氏はこの学説について次の如く述べている、『実際吾々は勝手に、一貨物に用いられた労働をその真実価値と呼ぶことが出来る。しかしかくすることによって、吾々は、この言葉を、それが慣習的に用いられると異った意味に用いていることになる。吾々は、直ちに費用と価値という極めて重要な区別を混同することになり、そして実際上この区別に依存する所の富の生産に対する主たる刺戟を明かに説明することを、ほとんど不可能ならしめている。』(『経済学の諸原理』、一八二〇年、第二章第二節、六一頁――編者註)
マルサス氏は、一物の費用と価値とは同一でなければならぬというのが、私の学説の一部であると考えているように思われる――もしも彼が費用というのが、利潤を含む『生産費』の意味であるならば、その通りである。しかし右の章句においては、これは彼れの意味しない所であり、従って彼は明かには私を理解していないのである。  
第七節 それによって価格が常に表現される
 媒介物たる貨幣の価値における変動による、
 または貨幣が購買する貨物の価値における変動による、種々なる結果。

 

(二二)既に述べた如くに、他の物の価値の相対的変化の原因をより明かに指摘せんがために、私は、貨幣は価値において不変であると考える場合があろうけれども、財貨の価格が、私の既に言及した原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の異るによって変動することに伴う結果と、それが貨幣そのものの価値の変動によって変動することに伴う結果との相違を、注意することは有用であろう。
貨幣は、一つの可変的貨物であるから、貨幣労賃の騰貴はしばしば、貨幣価値の下落によって惹起されるであろう。この原因による労賃の騰貴は普あまねく、貨幣の貨物の価格の騰貴を伴うであろう、しかしかかる場合には、労働とすべての貨物とが相互の関係において変動しておらず、かつ変動が貨幣に限られていたことが、見出されるであろう。
貨幣は、外国から取得される貨物であり、あらゆる文明諸国間の交換の一般的媒介物であり、更に商業と機械とのあらゆる進歩と共に、また増加しつつある人口に対して食物及び必要品を獲得することがますます困難となるごとに、これらの諸国の間に分配される割合が絶えず変ることからして、不断の変化を蒙るのである。交換価値及び価格を左右する諸原理を述べるに当り、吾々は貨物自身に属する変動と、それによって価値が測られまたは価格が表現される所の媒介物の変動によって齎される変動とを、注意して区別しなければならぬ。 
(二三)貨幣の価値の変動による労賃の騰貴は、価格の上に一般的影響を生み出し、かつその理由によって、利潤の上には何らの真実の影響をも生み出さない。これに反し、労働者の報酬がより豊かになったとか、または労賃がそれに費される必要品の獲得が困難になったとかによる所の、労賃の騰貴は、若干の場合を除けば、価格を騰貴せしめるという結果は生じないが、利潤を低めるという大きな結果を有っている。一方の場合には、その国の年々の労働のより多くの部分が労働者の支持に向けられるのではないが、他方の場合にはより多くの部分がそれに向けられるのである。
吾々が地代、利潤、及び労賃の騰落について判断するのは、ある特定農場の土地の全生産物の、地主、資本家、及び労働者の三階級への分割によるべきであって、明かに可変的な媒介物で測られた生産物の価値によるべきではない。
吾々が正確に利潤、地代、及び労賃の率について判断し得るのは、各階級の獲得する生産物の絶対的分量によるのではなく、その生産物を獲得するに必要な労働量によるのである。機械や農業における諸改良によって全生産物は倍加されるかもしれないが、しかしもし労賃、地代、及び利潤もまた倍加されるならば、これらの三つは相互に以前と同一の比例を保ち、そのいずれも相対的に変化したとは言い得ないであろう。しかしもし労賃がこの増加の全部に与らず、それが倍加されずして単に半分増加されるに過ぎず、地代は倍加されずして単に四分の三増加されるに過ぎず、そして残りの増加が利潤に帰属したとすれば、思うに、地代と労賃とは下落したが利潤は騰貴したと言うのは私にとって正しいであろう。けだし、もし吾々が、それによってこの生産物の価値を測る所の不変的標準を有つとするならば、吾々は以前に与えられていたよりもより少い価値が労働者と地主との階級に帰属しより多くの価値が資本家階級に帰属したことを見出すべきであろうからである。例えば吾々は、貨物の絶対量は倍加したにもかかわらず、それが正確に以前と同一量の労働の生産物であることを見出すであろう。生産された百宛オンスの帽子、上衣、及び百クヲタアの穀物のうち、
労働者が以前に得た所は…………………………二五
地主は………………………………………………二五
そして資本家は……………………………………五〇
―――――― 一〇〇
であり、そしてもしこれらの貨物の分量が二倍となった後に、各一〇〇のうち、
労働者の得る所はわずかに………………………二二
地主は………………………………………………二二
そして資本家は……………………………………五六
―――――― 一〇〇
であるとすれば、その場合に私は、貨物が豊富な結果労働者及び地主に支払われる分量は二五対四四の比例で増加したであろうけれども、労賃及び地代は下落し利潤は騰貴したと言うべきである。労賃は、その真実価値によって、すなわちその生産に用いられる労働及び資本の分量によって、測られるべきであり、上衣か帽子か貨幣か穀物かの形におけるその名目価値によって測られるべきではない。私が今仮定した事情の下においては、貨物はその以前の価値の半分に下落したであろうし、そしてもし貨幣が変動しなかったならば、その以前の価格の半分にも下落したであろう。しからばもし、価値において変化しなかったこの媒介物で労働者の労賃が下落したことが見出されるならば、彼れの以前の労賃よりもより多くの廉価な貨物を与えるであろうからといって、それはやはり真実の下落であろう。
貨幣の価値の変動は、いかにそれが大であろうとも、利潤の率には何らの異動も生じない、けだし製造業者の財が一、〇〇〇磅ポンド磅ポンドから二、〇〇〇磅ポンドに、すなわち一〇〇%騰貴すると仮定しても、もし彼れの資本、――貨幣の変動は生産物の価値に及ぼすと同じだけの影響をそれに及ぼすが、――すなわち彼れの機械、建物、及び在庫品もまた一〇〇%騰貴するならば彼れの利潤率は同一であり、彼はその国の労働の生産物の同一の分量を支配し得べく、それ以上は支配し得ないであろう。
もし一定の価値の資本をもって、彼が、労働の節約によって、生産物の分量を倍加し得、そしてそれがその以前の価格の半分に下落しても、それは、それを生産した資本に対し以前と同一の比例を保ち、従って利潤は依然同一率にあるであろう。
もし、彼が同一の資本を用いて生産物の分量を倍加すると同時に、貨幣の価値が何らかの出来事によって半分に下落するならば、生産物は以前の二倍で売れるであろう。しかしその生産に用いられる資本もまた、その以前の貨幣価値の二倍となるであろう。従ってこの場合においてもまた、生産物の価値は、資本の価値に対し以前と同一の比例を保つであろう。そして生産物が倍加されたにもかかわらず、地代、労賃及び利潤はただ、この二倍の生産物がこれを分つ三階級の間に分割される比例が変動するにつれて、変動するに過ぎないであろう。 
第二章 地代について

 

(二四)しかしながら、土地の占有とその結果たる地代の発生とが、生産に必要な労働量とは無関係に、貨物の相対価値に変動を惹起すか否か、の問題が残っている。問題のこの部分を理解せんがためには、吾々は、地代の性質、及びその騰落を左右する法則を、研究しなければならない。
地代とは、土地の生産物の中、土壌の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して地主に支払われる所の部分である。
しかしながら、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同されている。そして、通俗の用語では、この言葉は、農業者によってその地主に年々支払われるものには、その何たるを問わず適用されている。もし、同一の面積を有ちかつ同一の自然的肥沃度を有つ二つの相隣れる農場のうち、一方は、農耕用建物について一切の利便を有ち、更にその上に適当に灌漑され、施肥され、そして都合よく籬まがきや柵や壁で区分されているが、しかるに他方は、これらの利便は何も有たないとすれば、一方の使用に対しては、他方の使用に対してよりも、より多くの報酬が当然支払われるであろう。しかも双方の場合にこの報酬は地代と呼ばれるであろう。しかし次のことは明かである、すなわち改良された農場に対して年々支払わるべき貨幣の一部分のみが、土壌の本来的なかつ不可壊的な力に対して与えられたものであり、その他の部分は、地質の改良のためにまた生産物を保全し貯蔵するに必要な建物の建造のために用いられた資本の使用に対して支払われたものであろう。アダム・スミスは時に私がそれに限定せんと欲する厳格な意味における地代について論じているが、しかしこの言葉が通常使用されている通俗の意味におけるそれを論ずることがより多い。彼は吾々に、ヨオロッパの南方諸国における木材に対する需要とその結果たる高き価格が、以前には地代を生じ得なかったノルウェイにおける森林に対して支払わるべき地代を齎した、と語っている。しかしながら、彼がかくの如く地代と呼ぶ所のものを支払った人は、その時地上に生長しているこの価値多い貨物を考慮してそれを支払ったのであり、そして彼は木材の売却によって、現実に利潤と共にそれを囘収したことは、明白ではないか? もし実際木材が伐り去られた後に、未来の需要を考えて木材またはその他の生産物を栽培する目的をもって、土地の使用に対してある報償が地主に支払われるならば、かかる報償は、土地の生産力に対して支払われるのであるから、正当に地代と呼ばれ得よう。しかし、アダム・スミスによって述べられている場合においては、報償は木材を伐り去りかつ売却する自由に対して支払われたのであって、それを栽培するの自由に対して支払われたのではない。彼は炭鉱の地代及び採石場の地代についても論じているが、これに対しても同一の議論が当てはまる、――すなわち鉱山または採石場に対し与えられる報償は、それから採掘され得る石炭または石材の価値に対して支払われるのであって、土地の本来的なかつ不可壊的な力とは何らの関係もない。これは、地代及び利潤に関する研究において極めて重要な区別である。けだし地代の増進を左右する所の法則は、利潤の増進を左右する法則とは大いに異っており、同一の方向に作用することは稀であることが、見出されるからである。あらゆる進歩せる国においては、地主に年々支払われるものは、地代及び利潤という両性質を兼ね有しているから、時には対立する原因の結果によって静止しており、また他の時には、これらの原因の一方または他方が優勢を占めるに従って増進または減退する。かくて本書の以下において、私が土地の地代を論ずる時は常に、土地の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して土地の所有者に支払われる報償について論じているものと、了解されんことを希望する。 
(二五)そこには豊饒にして肥沃な土地が豊富にあり、現実の人口を支えるためにはその極めて小部分が耕作される必要があるに過ぎぬか、または実にそれがその人口の自由にし得る資本で耕作され得るという所の、一国の最初の植民の際には、地代は無いであろう。けだし未だ占有されておらず、従って、それを耕さんと欲する何人もこれを自由に処分し得る所の、土地が豊富な量にある時には、土地の使用に対して何人も支払をしないであろうからである。
供給及び需要の普通の原理によって、空気や水の使用に対し、または無限に存在するある他の自然の賜物に対し、何物も支払われない訳を説明したと同一の理由で、かかる土地に対しては地代は支払われ得ないであろう。一定量の原料と、気圧や蒸気の伸縮力の助けによって、機関は仕事をし、そして極めて大きな程度に人間の労働を節約するであろう。しかしこれらの自然的補助物の使用に対してはいかなる料金も課せられない、それはけだしそれらが無尽蔵でありかつ万人の自由に為し得る所であるからである。同様に、醸造家や蒸酒家や染物屋は、彼らの貨物の生産のために、空気や水を不断に使用している。しかしその供給が無限であるから、それらのものは何らの価格も有たない(註)。もしすべての土地が同一の性質を有つならば、もしその量が無限であり、地質が一様であるならば、それが特殊な位置の利便を有たない限り、その使用に対しては、何らの料金も課せられ得ないであろう。しからば、地代がその使用に対し常に支払われるのは、ただ、土地の量が無限でなくそして地質が一様でないからであり、そして人口の増加につれて劣等の質または利便のより少い土地が耕作されるようになるからに他ならない。社会の進歩につれて、第二等の肥沃度の土地が耕作されるに至る時は、地代は直ちに第一等地に発生し、そしてその地代の額は、これら二つの土地部分の質の差違に依存するであろう。
(註)『土地は、吾々の既に見た如く、生産力を有つ唯一の自然的因子ではない。しかしそれは一群の人が他人を排して我が物とすることが出来、その結果として、彼らがその利益を占有することが出来る、唯一のまたはほとんど唯一の、自然的因子である。川や海の水もまた、吾々の機械を運転せしめ、吾々の船舶を浮べ、吾々の魚を養う力によって、生産力を有っている。吾々の風車を廻転させる風やまた太陽の熱でさえ、吾々のために働くものである。しかし幸にして、何人も「風と太陽とは私の物であり、従ってそれらが与える仕事に対して支払を得なければならない、」と言い得る者は未だなかった。』――ジー・セイ著、経済学、第二巻、一二四頁。
第三等地が耕作されるに至る時には、地代は直ちに第二等地に発生し、そしてそれは以前の如くにそれらの生産力によって左右される。同時に第一等地の地代は騰貴するであろう、けだしそれは常に、一定量の資本及び労働をもって両者が産出する生産物の差違だけ、第二等地の地代よりもより多くなければならぬからである。人口が増加するごとに、――これは一国をして、その食物の供給を増加し得しめるためにより劣等の土地に頼らざるを得ざらしめるであろうが、――地代はすべてのより肥沃な土地において騰貴するであろう。
かくて、土地――第一等地、第二等地、第三等地――が、等しい資本及び労働を用いて、小麦一〇〇、九〇、及び八〇クヲタアの純生産物を生産すると仮定せよ。人口に比較して肥沃な土地が豊富にあり、従って、第一等地の耕作を必要とするのみで足る所の、新しい国においては、総純生産物は耕作者に帰属し、そしてそれは彼が前払した資本の利潤たるものであろう。人口が、第二等地――それからは、労働者を支持した後に九〇クヲタアが獲得され得るに過ぎぬ、――の耕作を必要ならしめるほどに大いに増加するや否や、地代は第一等地に発生するであろう。けだしそうならなければ農業資本に対し二つの利潤率がなければならぬことになるか、あるいはある他の目的のために十クヲタアがまたは十クヲタアの価値が、第一等地の生産物から引去られなければならぬことになるからである。第一等地を、土地所有者が耕作しようとまたはある他の人が耕作しようと、この十クヲタアは等しく地代を形造るであろう。けだし第二等地の耕作者は地代として十クヲタアを支払って第一等地を耕作しようと、または何ら地代を支払わず引続き第二等地を耕作しようと、その資本をもって同一の結果を得るであろうからである。同様にして第三等地が耕作されるに至る時には第二等地の地代は十クヲタアで、または十クヲタアの価値で、なければならないが、しかるに第一等地の地代は二十クヲタアに騰貴するであろう、ということが証明され得よう。けだし第三等地のの耕作者は、第一等地の地代として二十クヲタアを支払おうと、第二等地の地代として十クヲタアを支払おうと、または全く地代を支払わずに第三等地を耕作しようと、同一の利潤を得るであろうからである。 
(二六)第二等地、第三等地、第四等地、または第五等地、または更に劣等な土地が耕作されるに先だって、資本が既に耕作されている土地の上により生産的に用いられ得るということは、しばしば、そして実に通常、起ることである。第一等地に用いられる最初の資本を倍加することにより、生産物は倍加されず、すなわち一〇〇クヲタアだけは増加されないであろうが、それは八十五クヲタアだけ増加され得、そしてこの量は同一の資本を第三等地に用いて獲得され得る量を超過することが、おそらく見出されるであろう。
かかる場合には資本はむしろ旧地に用いられ、そして等しく地代を作り出すであろう。けだし地代は常に、等量の二つの資本及び労働の使用によって得られた生産物の差額であるからである。もし一、〇〇〇磅ポンドの資本をもって一借地人が一〇〇クヲタアの小麦をその土地から得、そして第二の一、〇〇〇磅ポンドの資本の使用によって更に八十五クヲタアを、またはそれと等しい価値を、支払わしめる力を有つであろうが、それはけだし二つの利潤率は有り得ないからである。もしこの借地人が彼れの第二の一、〇〇〇磅ポンドに対する報酬における十五クヲタアの減少に満足するとするならば、それはより有利な用途がそれに対し見出され得ないからである。通常の利潤率はその比例にあるのであり、そして元の借地人が、この利潤率を超過するすべてを、彼がそれからそのものを得た所の土地の所有者に与えることを拒むとしても、ある他の者がこれを喜んで与えることが、見出されるであろう。
この場合にも他の場合にも、最後に用いられたる資本は何らの地代も支払わない。第一の一、〇〇〇磅ポンドのより大なる生産力に対しては、十五クヲタアが地代として支払われ、第二の一、〇〇〇磅ポンドの使用に対してはいかなる地代も全く支払われない。もし第三の一、〇〇〇磅ポンドが同一の土地に用いられ、七十五クヲタアの報酬を齎すならば、地代は第二の一、〇〇〇磅ポンドに対して支払われ、そしてそれはこれら両者の生産物の差違に、すなわち十クヲタアに等しいであろう。そして同時に、第一の一、〇〇〇磅ポンドに対する地代は十五クヲタアから二十五クヲタアに騰貴するであろう。しかるに最後の一、〇〇〇磅ポンドはいかなる地代も全く支払わないであろう。
しからば、もし良い土地が、増加しつつある人口に対する食物の生産が必要とするよりも遥かにより豊富な量において存在するならば、またはもし資本が報酬の減少を齎すことなくしてして旧地に無限に用いられ得るならば、地代の騰貴はあり得ないであろう。けだし、地代はあまねく、比例的な報酬の減少を伴う附加的労働量の使用から発生するものであるからである。 
(二七)最も肥沃にしてかつ最も位置の便利の良い土地が、第一に耕作されるであろう。そしてその生産物の交換価値は、あらゆる他の貨物の交換価値と同様に、それを生産し、それを市場に齎すに必要な、最初から最後までに種々なる形をとる所の、労働の全量によって、調整されるであろう。劣等の質の土地が耕作されるに至る時には、粗生生産物の交換価値は、それを生産するためにより多くの労働が必要であるために、騰貴するであろう。
すべての貨物の交換価値は、それが製造品であろうと、または鉱山の生産物であろうと、または土地の生産物であろうとに論なく、常に、極めて有利な、かつ生産の特殊便益を有つ者が独占的に享受している所の事情の下において、その生産に足りるであろう所の、比較的少量の、労働によって左右されるのではなく、かかる便益を有たず、引続き最も不利な事情――ここに最も不利な事情とは、必要とされる生産物量を供給するためにその下でなお生産を行うことの必要な、その最も不利な事情を意味する――の下においてそれを生産する者によって、その生産に対し必然的に投下される所の比較的多量の労働によって左右されるのである。
かくて、貧民が慈善家の基金で仕事に従事させられている慈善的施設においても、かかる仕事の生産物たる貨物の一般的価格は、これらの労働者に与えられた特殊便益によっては支配されずに、あらゆる他の製造業者が遭遇しなければならぬ一般的の通常のかつ自然的の困難によって支配されるであろう。もしこれらのめぐまれた労働者によってなされる供給が社会のすべての欲求する所と等しいならば、これらの便益を一つも享有しない製造業者は実際、全然市場から駆逐されるであろう。しかしもし彼が事業を継続するとするならば、それは、彼がそれから資本に対する通常のかつ一般的の利潤率を取得する、という条件の下においてのみであろう。そしてこのことは、彼れの貨物がその生産に投ぜられた労働量に比例する価格で売られる時にのみ、起り得ることであろう(註)。
(註)セイ氏は次の章句において、終局的に価格を左右する所のものは生産費であることを、忘れていないであろうか? 『土地に用いられる労働の生産物はこういう特性を有っている、すなわち、それはより稀少になったからとて、より高価にはならない、けだし人口は常に食物が減少すると同時に減少するからである。しかのみならず、穀物は、完全に耕作されている国よりも、未耕地の多い地方において、より高価であるとは、されていない。英国及びフランスは、現在よりも中世の方がより不完全に耕作されていた。両国は遥かにより少い粗生生産物を生産していた。それにもかかわらず、吾々が他の諸物の価値との比較によって判断し得るすべてから推せば、穀物はより高い価格では売られていなかった。生産物がより少なかったとしても、人口もまたそうであった。需要の弱小が供給の微弱を償っていた。』第二巻、三三八頁(編者註一)。セイ氏は、貨物の価格は労働の価格によって左右されるという意見に感銘し、そして正当に、すべての種類の慈善的施設は、人口をしからざればそうあるべき以上に増加せしめ、従って、労賃を低下せしめる所の、傾向を有つと推測しつつ、次の如く言う、『私は、英国から来る財貨の低廉なのは、一部分は、その国に存在する多くの慈善的施設に起因するものではないかと考える。』第二巻、二七七頁(編者註二)、これは、労賃が価格を左右すると主張する者にあっては、論理一貫せる意見である。
(編者註一)正確には、三三七頁、註二。
(編者註二)同頁、註一。
なるほど、最良の土地では、以前と同一の労働をもってなお以前と同一の生産物が得られるであろうが、しかしその価値は、肥沃度のより劣る土地に新しい労働及び資本を用いた者の得る報酬が減少した結果、高められるであろう。しからば、肥沃度が劣等地以上に有つ利益は決して失われず、単に耕作者または消費者から地主に移転されるに過ぎぬにもかかわらず、しかも劣等地にはより多くの労働が必要であり、そして吾々が粗生生産物の附加的供給を得ることが出来るのはただかかる土地からのみであるために、その生産物の比較価値は引続き永久的にその以前の水準以上にあり、かつそれをして、その生産にかかる附加的労働量を必要としない所の帽子、毛織布、靴、等々の、より多くと、交換せしめるであろう。
しからば粗生生産物が比較価値において騰貴する理由は、より多くの労働が、獲得される最後の部分の生産に用いられるからであって、地代が地主に支払われるからではない。穀物の価値は、何ら地代を支払わない所の、その等級の土地の上で、またはその部分の資本をもって、その生産に投ぜられた労働量によって左右されるのである。地代が支払われるから穀物が高いのではなくて、穀物が高いから地代が支払われるのである。従って、地主が彼らの地代の全部を抛棄しても穀価には何らの下落も起らないであろうと云われているのは、正当である。かかる方策は単にある農業者をして紳士の様な生活をすることを得しめるに過ぎず、最も生産力の少い耕作地で粗生生産物を生産するに必要な労働量を減少せしめないであろう。 
(二八)地代の形で土地が剰余を産出するという故をもってする、有用なる生産物のあらゆる他の源泉以上に、土地が有つ所の、得点ほど、普通に耳にするものはない。しかも土地が最も豊富であり、最も生産的であり、かつ最も肥沃である時には、それは何らの地代も生み出さない。そしてより肥沃な部分の本来的生産物の一部分が地代として分離されるのは、その力が衰え、そして労働に対する報酬としてより少ししか産出しなくなった時においてのみである。製造業者がそれによって援助される自然力に比較すれば欠点と云わるべき所の、土地のこの性質が、その特殊なる優越をなすものとして指摘され来っているのは、奇妙なことである。もし空気や水や蒸気の弾力性や気圧が種々なる品質を有っているならば、もしそれらは占有され得、かつ各品質は単に相当の分量に存在するに過ぎないならば、それらは、土地と同じく、逐次劣等の品質のものが使用されるに至るにつれて、賃料を与えるであろう。より劣れる品質のものが用いられるごとに、その製造にそれらが用いられた貨物の価値は、等量の労働の生産力がより小になるから、騰貴するであろう。人間は額に汗してより多くをなし、自然はより少ししかなさないであろう。そして土地は、その力が限られているという点について他に優越しはしなくなるであろう。
もし土地が地代という形で与える所の剰余生産物が一長所であるならば、年々、新しく造られた機械が旧いものよりも能率がより小になることが望ましい訳である。けだし、それは疑いもなく、啻にその機械のみならず更に王国内のあらゆる他の機械によって製造される財貨に、より大なる交換価値を与え、そして最も生産的な機械を所有するすべての者に賃料レントが支払われるであろうからである(註)。
(註)アダム・スミスは曰く、『農業においてもまた自然は人間と共に労働する。そしてその労働は何らの出費を要しないけれども、しかしその生産物は最も高価な労働者の生産物と同様にその価値を有つものである。』自然の労働が支払を受けるのはそれが多くをなすからではなく、それが少ししかしないからである。自然がその賜物を惜しむに比例して、それはその仕事に対してより大なる価格を要求する。それが寛大に多くを与える場合には、それは常に無償で働く。『農業において使用される労働家畜は、啻に、製造業における労働者の如く、彼ら自身の消費する所に、または彼らを用いる資本に、等しい価値を、その所有者の利潤と共に、再生産するのみならず、更に遥かにより大なる価値を再生産する。農業者の資本とそのすべての利潤以上に、彼らは規則正しく地主の地代の再生産を齎す。この地代は、その使用を地主が農業者に貸与する所の自然の力の生産物と考えられ得よう。その大小は、かかる力の想定された大いさにより、または土地の想定された自然のまたは改良された肥沃度による。人間のなせる所と看做され得るすべての物を控除または補償した後に残るものが、自然のなせる所である。それは総生産物の四分の一以下であることは稀でありしばしばその三分の一以上である。製造業において用いられる等量の生産的労働は、決してかくも大なる再生産を齎すことは出来ない。製造業においては自然は何事もなさず、人間がすべてをなす。そして再生産は常に、それを齎す因子の力に比例しなければならない。従って農業において用いられる資本は啻に製造業において用いられるいかなる等量の資本よりもより大なる生産的労働の分量を動かすのみならず、更にまたそれが用いる生産的労働の分量に比例して、それはその国の土地及び労働の年々の生産物に、その住民の真実の富及び収入に、遥かにより大なる価値を附加する。資本が使用され得るすべての方法の中で、それは社会にとり遥かに最も有利なものである。』第二編、第五頁。(訳者註――キャナン版、第一巻、三四三――三四四頁、傍点はリカアドウの施せるもの。)
自然は製造業においては人間に対して何事もなさないであろうか? 吾々の機械を動かし、かつ航海を助ける所の風や水の力は、何物でもないか? 吾々をして最も巨大な機関を動かし得せしめる気圧や蒸気の弾力性――それは自然の賜物ではないか? 金属を軟かにしまた熔解する際の可燃焼物の有つ諸結果や、染色及び醗酵の過程における大気の分解力の有つ諸結果については言わぬとしても。製造業において自然が人間にその補助を与えず、かつまたそれを寛大に無償で与えないという製造業は、これを挙げることが出来ない。
私が右にアダム・スミスから写し取った章句を論評するに当って、ビウキャナン氏は次の如く云う、『私は、第四巻に含まれている生産的労働及び不生産的労働に関する諸観察において、農業は他のいかなる種類の産業よりも国民的貯財に対し附加する所より大なるものではないことを、証明せんと努力した。地代の再生産をもって社会に対する極めて大なる利益であると論ずるに当って、スミス博士は、地代は高き価格の結果であり、かつ地主がかくの如くして利得する所は彼が社会全体を犠牲にして利得しているのであることを、考えていない。地代の再生産によって社会が絶対的に利得する所は何もない。一階級が他の階級を犠牲にして利得しているに過ぎない。自然は耕作過程において人間の勤労と協力する故に、農業は生産物を、従って地代を、生むという提議は、単なる空想である。地代が得られるのは、生産物からではなくて、その生産物が売られる価格からである。そしてこの価格が得られるのは、自然が生産において援助するからではなく、それが消費を生産に適合せしめる所の価格であるからである。』(編者註――ビウキャナン版『諸国民の富』第二巻、五五頁。) 
(二九)地代の騰貴は常に、増加しつつある国富の結果であり、その増加せる人口に対する食物供給の困難の結果である。それは富の徴候ではあるが、しかし決してその原因ではない。けだし富はしばしば、地代が静止的であるかまたは低下しつつある間にも、最も速かに増加するからである。地代は、自由に処分し得る土地の生産力が減退する際に、最も速かに増加する。富は、自由に処分し得る土地が最も肥沃であり、輸入が制限されること最も少く、かつ農業上の改良によって労働量の比較的増加なくして生産物が増加され得、従って地代の増進が遅々たる所の、国において、最も速かに増加するのである。
もし穀物の高き価格が、地代の結果であって原因でないとするならば、価格は地代の高低に従って比例的に影響され、そして地代は価格の一構成部分となるであろう。しかし、最大量の労働をもって生産された穀物が穀物の価格の支配者であり、そして地代は、毫もその価格の一構成部分として入り込まず、また入り込み得ないのである(註)。従ってアダム・スミスが、貨物の交換価値を左右した本来的規則、すなわち、それによって貨物が生産された比較的労働量が、土地の占有と地代の支払とによって、いやしくも変更され得る、と想像したのは、正確であり得ない。粗生原料品は大抵の貨物の構成に参加するが、しかし、その粗生原料品の価値は、穀物と同様に、最後に土地に使用されかつ地代を支払わない所の資本部分の生産性によって、左右され、従って地代は貨物の価格の一構成部分ではないのである。
(註)この原理を明瞭に理解することは、私の信ずる所によれば、経済学にとって最も重要なことである。 
(三〇)吾々は今まで、その土地が種々なる生産力を有っている国において、富及び人口の自然的増進が地代に及ぼす結果を、考察し来った。そして吾々は、より少い生産上の報酬をもって土地上に用いられることが必要となる所の、附加的資本部分が投ぜられるごとに、地代は騰貴するであろうということを見た。同一の原理よりして、土地に同一額の資本を用いることを不必要ならしめるべき、従って最後に用いられる部分をより生産的ならしめるべき、社会における何らかの事情は、地代を低めるであろう、ということになる。労働の支持に向けられた基金を大いに減少すべき一国の資本の大減少は、当然この結果を有つであろう。人口は、それを雇うべき基金によって自らを調整し、従って常に資本の増減と共に増減する。従って資本のあらゆる減少は必然的に、穀物に対する有効需要の減少、価格の下落、及び耕作の減少を伴う。資本の蓄積が地代を引上げるのとは反対の順序において、その減少は地代を低めるであろう。より生産的ならざる質の土地は順次に抛棄され、生産物の交換価値は下落し、そしてより優良な質の土地が最後に耕作される土地となり、かつ地代を支払わない土地となるであろう。 
(三一)しかしながら、一国の富及び人口が増加される時にも、もしその増加が、より痩せた土地を耕作するの必要を減少するか、またはより肥沃な部分の耕作に同一量の資本を投下する必要を減少するという、前と同一の結果を齎す如き、かかる顕著な農業上の進歩を伴うならば、同一の結果が生み出されるであろう。
もし一定の人口を支持するに一百万クヲタアの穀物が必要であり、そしてそれは第一等地、第二等地、第三等地において得られるとし、またもし後に一改良が発見され、それによってそれが、第三等地を用いずに第一等地及び第二等地で得られ得るに至ったとすれば、その直接の結果が地代の下落でなければならぬことは明かである。けだしこの際には、第三等地ではなく第二等地が、何らの地代をも支払わずに耕作されるであろうし、そして第一等地の地代は、第三等地と第一等地との生産物の差違ではなくして、単に第二等地と第一等地との差違に過ぎないであろうからである。人口が同一でありそしてそれが増加しなければ、より以上の穀物量に対する需要はあり得ない。第三等地に用いられていた資本及び労働は、社会にとり好ましい他の貨物の生産に向けられるであろうし、そして他の貨物を造る粗生原料品が、資本を地上により不利に用いるにあらざれば獲得され得ない場合の他は、――この場合には、第三等地が再び耕作されなければならぬ――地代を引上げるという結果を有ち得ないのである。
農業上の改良の結果、またはむしろその生産により少い労働が投ぜられるに至った結果たる、粗生生産物の相対価格における下落は、当然に蓄積の増加に導くべきことは、疑いもなく真実である、けだし資本の利潤は大いに増加されるであろうから。この蓄積は、労働に対する需要の増加に、労賃の騰貴に、人口の増加に、粗生生産物に対する需要の増大に、そして耕作の拡張に、導くであろう。しかしながら、地代が以前の高さになるのは、人口の増加の後のことであり、換言すれば第三等地が耕作されるに至って後のことである。それまでには、地代の積極的減少を伴う所の長い時期が経過していることであろう。
しかし、農業上の改良には二種ある、すなわち、土地の生産力を増加するものと、吾々をして機械の改良によってより少い労働でその生産物を獲得し得しめるものとである。これら両者は、共に粗生生産物の価格の下落に導く、これら両者は共に地代に影響を及ぼさない。もしそれらが粗生生産物の価格の下落を惹起さないならばそれは改良ではないであろう、けだし、以前に一貨物を生産するに要した労働量を減少することが、改良の本質であり、そしてこの減少はその価格または相対価値の下落なくしては起り得ないからである。
土地の生産力を増加した改良とは、より巧妙な輪作、あるいは肥料のより良き選択というが如きものである。これらの改良は、絶対的に吾々をして、より少量の土地から同一の生産物を獲得し得せしめる。もし蕪菁かぶらの栽培法の導入によって、私が、私の穀物の生産と並んで私の羊を飼い得るならば、羊が以前に飼われていた土地は不要に帰し、そして同一量の粗生生産物がより少量の土地を用いて得られることになる。もし私が、それによって私が一片の土地をして二〇%だけより多くの穀物を生産せしめ得るようにさせる所の、肥料を発見するならば、私は資本の少くとも一部分を、私の農場の最も不生産的な部分から引去り得よう。しかし私が前に観察したるが如くに、この際地代を低減するために土地の耕作を止める必要はない。この結果を齎すためには、同一の土地に、その齎す所の異る資本の諸部分が、逐次投ぜられており、そしてその齎す所の最小なる部分が引去られるだけで、十分である。もし蕪菁耕作の導入により、またはより有効な肥料の使用によって、私が、より少量の資本をもって、また逐次投ぜられる資本の諸部分の生産力の間の差違を紊みだすことなくして、同一の生産物を獲得し得るならば、私は地代を低めるであろう。けだし別のより生産的な部分が、その点からあらゆる他の部分が計算されるであろう所の、標準たるべき部分となるであろうからである。もし例えば、逐次投下される資本が、一〇〇、九〇、八〇、七〇を生産するならば、私がこれらの四部分を用いる間は、私の地代は六〇であり、すなわち、
七〇と一〇〇との差===三〇
七〇と九〇との差 ===二〇
七〇と八〇との差 ===一〇
――――― 六〇 }に等しく、他方生産物は三四〇、すなわち、
 一〇〇
 九〇
 八〇
 七〇
―――― 三四〇 }であろう、
そして私がこれらの部分を用いている間は、その各部分の生産物が等しい増加をなしても、地代は依然として同一であろう。もし生産物が、一〇〇、九〇、八〇、七〇ではなく、一二五、一一五、一〇五、九五に増加されたとしても、地代は依然として六〇であり、すなわち、
九五と一二五との差===三〇
九五と一一五との差===二〇
九五と一〇五との差===一〇
――――― 六〇 }に等しく、他方生産物は四四〇に、すなわち、
 一二五
 一一五
 一〇五
 九五
―――― 四四〇 }に増加されるであろう。
しかし、生産物のかかる増加があっても、需要の増加がなければ(註)、これだけの資本を土地に用いる動機は存在し得ないであろう。一部分は引去られ、従って資本の最後の部分は、九五ではなく一〇五を生産し、そして地代は三〇に、すなわち、
一〇五と一二五との差===二〇
一〇五と一一五との差===一〇
 ――――― 三〇 }に下落するであろう、
他方生産物はなお人口の欲求する所を満たすに足るであろう、けだし需要は単に三四〇クヲタアに過ぎないのに、それは三四五クヲタア、すなわち、
一二五
一一五
一〇五
―――― 三四五 }であろうから。
しかし、土地の貨幣地代は低めるであろうが、穀物地代は低めることなくして、生産物の相対価値を低める所の改良がある。かかる改良は土地の生産力を増加しないが、しかしそれは吾々をしてより少ない労働をもってその生産物を獲得し得せしめるものである。それは土地自身の耕作に向けられるよりはむしろ、土地に充用される資本の構成に向けられる。鍬や打穀機の如き農業器具の改良、耕作に用いられる馬の使用上の節約、及び獣医術の知識の進歩は、かかる性質のものである。より少い資本――それはより少い労働と同じことであるが――が土地に用いられるであろう。しかし同一の生産物を得るためには、より少い土地が耕作されるのでは足りない。しかしながら、この種の改良が穀物地代に影響を及ぼすか否かは、資本の種々なる部分の使用によって得られる生産物の差違が、増加したか、停止的であるか、または減少したかの問題に、依存しなければならない。もし同一の結果を各々与える所の五〇、六〇、七〇、八〇という資本の四部分が土地に使用され、そしてかかる資本の構成におけるある改良が私をして、その各々から、五を引去ることを得しめ、それがためにそれらが四五、五五、六五、及び七五となるならば、穀物地代には何らの変動も起らないであろう。しかしもしその改良が私をして、最も不生産的に使用されている資本部分の全部の節約をなし得せしめるというが如きものであるならば、穀物地代は直ちに下落するであろうが、それはけだし最も生産的な資本と最も不生産的な資本との差違が減少せしめられるからであり、そして地代を形造るものはこの差違であるからである。
(註)私は、農業におけるあらゆる種類の改良が地主に対して有する重要性を過少評価するものと、理解されざらんことを希望する、――その直接の結果は地代を低めることである。しかしそれは人口に対して大なる刺戟を与え、かつそれと同時に吾々をしてより少い労働でより貧弱な土地を耕作し得せしめるから、それは終局的には地主に対し大いに有利なものである。しかしながらそれまでには、この改良が彼に対し積極的に不利な時期が経過しなければならない。
これ以上例を列挙しなくとも、私は、同一のまたは新しい土地に、逐次用いられる資本部分から得られる生産物の不平等を減少せしめるものは何でも、地代を低下せしめる傾向があり、そしてこの不平等を増加せしめるものは何でも、必然的に反対の結果を生み、そして地代を引上げる傾向があることを、証明するに足るだけのことを、述べたと考える。
地主の地代について論ずるに当り、吾々はむしろそれを、ある一定の農場に投ぜられた一定の資本によって得られた生産物の一部分と看做し、その交換価値には少しも触れなかった。しかし生産の困難という同一の原因が、粗生生産物の交換価値を引上げ、かつまた地主に地代として支払われる粗生生産物のその部分をも引上げるのであるから、地主は生産の困難によって二重に利益を受けることは明かである。第一に、彼はより大なる分け前を得、そして第二にそれによって彼が支払を受ける貨物の価値が騰貴するのである(註)。
(註)このことを明瞭ならしめ、かつ穀物地代と貨幣地代とが変動する程度を示すために、次の如く仮定しよう。すなわち十名の人間の労働が一定の地質の土地において一八〇クヲタアの小麦を得、そしてその価値は一クヲタアにつき四磅ポンドすなわち七二〇磅ポンドであり、そして十名の附加された人間の労働は同一のまたは異る土地において、単に一七〇クヲタアしか余計に生産するに過ぎないとしよう。小麦は四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンスに、騰貴するであろう、けだし、170:180::£4:£4 4s. 8d. であるから、または一七〇クヲタアの生産において、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、他方の場合には単に九・四四名の労働が必要であるに過ぎぬのであるから、その騰貴は九・四四から一〇に、すなわち四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンスになるであろう。もし十名の人間が更に用いられ、そして収穫が
一六〇であるならば、価格は四磅ポンド一〇シリング〇ペンスに騰貴し、
一五〇であるならば、価格は四磅ポンド一六シリング〇ペンス、
一四〇であるならば、価格は五磅ポンド二シリング〇ペンスに騰貴するであろう。
さてもし、穀物が一クヲタアにつき四磅ポンドである時に、一八〇クヲタアを産出する土地に対し何らの地代も支払われないならば、単に一七〇が得られるに過ぎない時には、一〇クヲタアの価値が支払われるであろうが、それは四磅ポンド四シリング八ペンスならば四二磅ポンド七シリング六ペンスであろう。
一六〇が生産される時には、二〇クヲタア、すなわち四磅ポンド一〇シリングならば九〇磅ポンド。
一五〇が生産される時には、三〇クヲタア、すなわち四磅ポンド一六シリングならば一四四磅ポンド。
一四〇が生産される時には、四〇クヲタア、すなわち五磅ポンド二シリング一〇ペンスならば二〇五磅ポンド一三シリング四ペンス。
穀物地代は{一〇〇/二〇〇/三〇〇/四〇〇}の比例において、かつ貨幣地代は{一〇〇/二一二/三四〇/四八五}の比例において増加するであろう。 
第三章 鉱山の地代について

 

(三二)金属は、他の物と同様に、労働によって得られる。もちろん、自然がそれを生産するのではあるが、しかしそれを地球の内部から採掘し、そして吾々の使用に備えるのは、人間の労働である。
土地と同じく鉱山も一般にその所有者に地代を支払う、そして土地の地代と同じく、この地代は、その生産物の高き価格の結果であって決してその原因ではない。
もし、何人も占有し得る所の、等しく肥沃な鉱山が豊富にあるとすれば、それは地代を生じ得ないであろう。その生産物の価値は、鉱山から金属を採掘しそれを市場に齎すに必要な労働の分量に依存するであろう。
しかし等しい分量の労働をもって極めて異れる産物を与える所の、種々なる等級の鉱山がある。採掘されている最劣等の鉱山から生産された金属も、少くとも、啻にそれを採掘しその生産物を市場に齎すことに従事する者によって消費される所のあらゆる衣服、食物、その他の必要品を取得するに足るばかりではなく、更にまたこの企業を経営するに必要な資本を前貸する人に、一般通常の利潤を与えるに足る所の、交換価値を有たなければならぬ。何ら地代を支払わない最劣等の鉱山からの資本への報酬が、他のより生産的なすべての鉱山の地代を左右するであろう。この鉱山は通常の資本の利潤を生むものと仮定されている。この鉱山以上に他の鉱山が生産する所のすべては必然的に地代として所有者に支払われるであろう。この原理は、吾々が土地について既に述べた所と正確に同一であるから、それを更に敷衍する必要はなかろう。
粗生生産物及び製造貨物の価値を、左右すると同一の一般的規則が、金属にもまた適用され得るものであり、その価値は、利潤率にも労賃率にも、また鉱山に対して支払われる地代にも依存せず、金属を獲得し、それを市場に齎らすに必要な労働の全量によって定まるのであることを、注意すれば足るであろう。
あらゆる他の貨物と同様に、金属の価値は変化を蒙る。採鉱に用いられる器具及び機械に、改良がなされ、これによって等しく労働が節約されるかもしれず、新しいより生産的な鉱山が発見され、そこでは同一の労働をもって、より多くの金属が得られるかもしれず、またはそれを市場に齎す利便が増すかもしれない。これらの場合のいずれにおいても、金属は価値において下落し、従って他のより少い分量と交換されるであろう。他方において鉱山が採掘されなければならぬ深度の増大や、溜水や、その他の出来事によって惹起される所の、金属獲得の困難の増大のために、他の物と比較してその価値は、著しく騰貴することもあろう。
従って、いかに正直に一国の鋳貨がその本位に一致していようとも、金及び銀で造られた貨幣はなお価値における変動を蒙り、他の貨物と同様に、啻に偶然的な一時的な変動のみならず、更にまた永続的な自然的な変動をも蒙る、といわれているが、それは正当である。
アメリカの発見と、そこに多くある豊富な鉱山の発見によって、貴金属の自然価格に対し、極めて大きな影響が生み出された。この影響は、多くの者によって、未だ終っていないと想像されている。しかしながらおそらく、アメリカ発見の結果生じた所の、金属の価値に対するあらゆる影響は、疾とうに終ってしまっているであろう。そしてもし近年その価値において下落が起ったとすれば、それは鉱山採掘法における諸改良に帰せらるべきものである。
いかなる原因からそれが起ったにしろ、その影響は極めて緩慢でかつ徐々たるものであったために、金及び銀がすべての他の物の価値を評価する一般的媒介物であることには、ほとんど実際上の不便は感ぜられなかった。それは疑いもなく価値の可変的尺度ではあるが、おそらくこれよりも変動を蒙ることの少い貨物はないであろう。これらの金属が有つこの得点、及びその他の例えばその硬性、その展性、その可分性、その他多くの得点の故に、それは正当にも文明国の貨幣の標準として到る処で使用され来ったのである。
もし等しい分量の労働が、相等しい分量の固定資本をもって、あらゆる時において、地代を支払わない鉱山から等しい分量の金を取得し得るならば、金は事の性質上吾々が有ち得る限りでのほとんど不変的な価値尺度であろう。分量は実際需要につれて増加するであろうがしかしその価値は不変であろう。そしてそれはあらゆる他の物の価値の変動を測定するに、優れて良く適するであろう。私は既に本書の前の部分において、金はこの不変性を有つものと仮定したが、次の章においても私はこの仮定を続けるであろう。従って価格の変動について論ずる際には、その変動は常に貨物にあるものであり、決してそれが評価される所の媒介物には無いものであると、看做されるであろう。 
第四章 自然価格及び市場価格について

 

(三三)労働をもって貨物の価値の基礎となし、かつその生産に必要な労働の比較的分量をもって、相互の交換において与えらるべき財貨の各々の分量を決定する規則となすに際して、吾々は、貨物の実際価格、すなわち市場価格が、この、それらのものの第一次的かつ自然価格から、偶然的なかつ一時的な偏倚をすることを否定するものと、想像されてはならない。
通常の事態においては、かなり久しく、人類の欲望及び願望が要求する正確にその程度に、豊富に、引続き供給される貨物はなく、従って偶然的なかつ一時的な価格の変動を蒙らないものはない。
資本が、たまたま需要されている種々なる貨物の生産に対し、過不足なきちょうどその必要な分量において、正確に割当てられるのは、ただかかる変動の結果たるに過ぎない。価格の騰落と共に、利潤はその一般的水準以上に騰貴しまたはそれ以下に下落する、そして資本は、そこで変動が起った所の特定の職業に入り込むように刺戟されるか、またはそれから退去するように警告されるのである。
あらゆる者がその資本をその好む所に自由に用い得る間は、彼は当然に最も有利な職業をそのために求めるであろう。彼は当然に、彼れの資本を移せば一五%の利潤を獲得し得るならば、一〇%の利潤をもって満足しないであろう。より有利な事業に向わんがためにより不利益なものを棄てんとする、あらゆる資本使用者の側のこの不断の願望は、すべてのものの利潤率を均等ならしめ、もしくは、一人が他人に優れて有つべき、または有つと思わるべき所の、得点に対し、当事者の評価の上で補償するが如き比例に、利潤率を固定する、強い傾向を有っている。この変化が行われる過程を辿ることはおそらく極めて困難であろう。それはおそらく製造業者がその職業を絶対的には変更しないがただその職業に彼が投じている資本の分量を減少するということによって、行われるであろう。すべての富める国においては、金持階級と呼ばれるものを構成しているある数の人がいる。これらの人はいかなる事業にも従事せず、手形の割引や、または社会のより勤勉な部分に対する貸金に用いられている所の、彼らの貨幣の利子で生活している。銀行業者もまた同一の目的物に大資本を用いている。かくの如く用いられた資本は多額の流動資本を形造り、そしてその比例には大小があるが、一国のあらゆる種々なる事業によって用いられている。おそらくいかに富んでいても、その事業を彼自身の資本だけでなし得る範囲内にのみ限る製造業者はないであろう、彼は常にこの流動資本のある部分を有し、それは彼れの貨物に対する需要の活溌かっぱつ性に応じ増減しつつある。絹布に対する需要が増加し、毛織布に対するそれが減少する時には、毛織布業者は、彼れの資本と共に絹織業には移らずに、彼れの労働者の若干を解雇し、銀行業者や金持からの貸金に対する需要を止める。他方絹布製造業者の場合は反対である。彼はより多くの労働者を使用せんと欲し、かくて借入に対する彼れの動機は増加する。彼はより多くを借入れ、かくて資本は、一製造業者がその常職業を止める必要なしに、一職業から他のそれに移転される。吾々が大都市の市場に注目し、そしていかに規則正しく、それが、趣味の変遷や人口数の変化から起るあらゆる事情の下において、国内のまたは外国の貨物の必要な分量の供給を受け、しかも余りに豊富な供給による滞貨や供給が需要に等しくないことから起る著しく高い価格という諸結果をしばしば生ずることのないのを観察する時には、吾々は、資本を事業に、そのまさに必要とする分量において割当てる所の原理が、一般に想像されているよりもより活溌に働いていることを、認めなければならないのである。 
(三四)一資本家は、その資金に対して有利な用途を探し求めるに当り、一つの職業が他の職業以上に有つ所のすべての得点を、当然考慮に入れるであろう。従って彼は、一つの職業が他の職業以上に有つ所の、安固や清潔や容易やその他の実際のまたは想像上の得点を考慮して、その貨幣利潤の一部分を喜んで抛棄することもあろう。
もし、かかる事情についての考慮によって、資本の利潤が調整され、その結果一つの事業においては利潤は二〇%、ある他の事業においては二五%、またある他の事業においては三〇%となるならば、これらはおそらく引続き永久的に、この相対的差異を、そしてこの差異のみを、維持するであろう。けだしもし何らかの原因がこれらの事業の一つにおける利潤を一〇%だけ引上げたとしても、しかもかかる利潤は一時的であってまもなく再びその通常の地位に復帰するか、または他の職業の利潤が同一の比例において引上げられるであろうからである。
現在はこの記述の正当性に対する例外の一つであるように思われる。戦争の終結が、以前に存在したヨオロッパにおける職業の分割を大いに狂わしたために、あらゆる資本家は、なお未だ、現在必要になっている新しい分割において占むべき彼れの地位を発見していないのである。
すべての貨物がその自然価格にあり、従ってすべての職業における資本の利潤が正確に同一の率にあり、または当事者が所有しあるいは抛棄するある真実のまたは想像上の得点に、彼らの評価において、等しい額だけ、異なるに過ぎない、と仮定しよう。今、流行の変化が、絹布に対する需要を増加し、そして毛織物に対するそれを減少した、と仮定せよ。それらの自然価格すなわちその生産に必要な労働量は引続き不変であろうが、しかし絹布の市場価格は騰貴し、毛織物のそれは下落するであろう。従って絹布製造業者の利潤は一般的のかつ調整された利潤以上に、他方毛織物製造業者のそれはそれ以下に、なるであろう。啻に利潤のみならず労働者の労賃もまた、これらの職業において、影響を蒙るであろう。しかしながら、絹布に対するこの需要増加は、毛織物製造から絹布製造へ資本と労働とが移転することによって、直ちに供給されるであろう。その時には絹布及び毛織物の市場価格は再びその市場価格に接近し、かくて通常の利潤がこれらの貨物の各々の製造業者によって取得されるであろう。
かくして、貨物の市場価格が引続きある期間に亙ってその自然価格の遥か上または遥か下にあることを妨げるものは、あらゆる資本家がその資金をより不利な職業からより有利なそれに転じようとする願望である。貨物の生産に必要な労働に対する労賃と、用いられた資本をその本来的能率状態に置くために必要なすべての他の費用とを、支払った後に、残余の価値すなわち余剰があらゆる事業において使用された資本の価値に比例するように、貨物の可変的価値を調整するのは、この競争である。
『諸国民の富』の第七章(編者註一)において、この問題に関するすべてが最も巧みに取扱われている。資本の特定の用途において、偶発的原因によって、諸貨物の価格、並びに労働の労賃及び資本の利潤、の上に生み出されるが、貨物の一般的価格、一般的労賃、または一般的利潤には、――社会のあらゆる段階において平等に作用するから、――影響することのない、一時的諸結果を十分認めたのであるから、吾々は、これらの偶発的原因とは全然無関係な諸結果たる、自然価格、自然労賃及び自然利潤を左右する法則を取扱う間は、それを全然度外視するであろう(編者註二)。しからば貨物の交換価値すなわちある一貨物が有つ購買力について論ずるに当っては、私は常に、ある一時的なまたは偶発的な原因によって妨げられないならばそれが有するであろう所のその力を意味するのであり、そしてそれはその自然価格である。
(編者註一)第一巻。
(編者註二)『あなたは常に特定の変化の直接のかつ一時的の諸結果を心に画えがいているが、しかるに私はこれらの直接のかつ一時的の諸結果を全然度外視し、そして私の全注意を、それから結果するであろう所の永久的な事物の状態に固着させている。おそらくあなたはこれらの一時的諸結果を余りに高く評価し過ぎているが、しかるに私は余りにそれらを過少評価せんとする気になっているのである。』――マルサスへのリカアドウの書簡、一八一七年一月二十四日。書簡集、一二七頁。 
第五章 労賃について

 

(三五)労働は、売買され、かつ量において増減され得るすべての他の物と同じく、その自然価格とその市場価格とを有っている。労働の自然価格とは、労働者をして共に生存しかつその種族を増加も減少もせずに永続し得せしめるに必要な価格である。
労働者が、彼自身、及び労働者の数を維持するに必要であろう所の家族を、支持する力は、彼が労賃として受取る貨幣量には依存するものではなくて、その貨幣が購買するであろう所の、慣習により彼に不可欠となってなっている食物、必要品、及び便利品の量に依存するものである。従って労働の自然価格は、労働者及び彼れの家族の支持に必要とされる食物、必要品、及び便利品の価格に依存する。食物及び必要品の価格の騰貴と共に労働の自然価格は騰貴し、その価格の下落と共に、労働の自然価格は下落するであろう。
社会の進歩と共に、労働の自然価格は常に騰貴する傾向を有っているが、けだしそれによってその自然価格が左右される主たる貨物の一つが、その生産の困難の増大によって、より高くなる傾向を有つからである。しかしながら、農業における改良そこから食物が輸入される新市場の発見は、必要品の価格の騰貴への傾向を一時妨げ、そしてその自然価格を下落せしめることさえあるから、この同一の原因は労働の自然価格の上にそれに相応ずる結果を生み出すであろう。
粗生生産物及び労働を除くすべての貨物の自然価格は、富と人口との増進につれて、下落する傾向を有っている、けだし、一方においてそれは、それをもって造られる所の粗生原料の自然価格の騰貴によって、真実価格が騰貴しはするけれども、これは、機械の改良により、労働のより良き分割及び分配により、及び生産者の知識と技術と両者における熟練の増加によって、相殺されて余りあるからである。 
(三六)労働の市場価格とは、需要に対する供給の比例の自然的作用によって、労働に対して実際支払われる価格である。労働はそれが稀少な時に高く、そしてそれが豊富な時に低廉である。労働の市場価格がその自然価格からいかに離れようとも、それは、諸貨物と同様に、これに一致せんとする傾向を有っているのである。
労働者の境遇が繁栄なかつ幸福なものであり、彼が生活の必要品及び享楽品のより多くの分量をその力の中に支配し、従って健康なかつ数多き家族を養う力を有つのは、労働の市場価格がその自然価格に超過している時においてである。しかしながら、高き労賃が人口の増加に対し与える奨励によって、労働者数が増加される時には、労賃は再びその自然価格にまで下落し、そして事実反動によって、時にはそれ以下に下落するのである。 
(三七)労働の市場価格がその自然価格以下にある時には、労働者の境遇は最も悲惨である。その時には、貧困が彼らから、慣習が絶対必要品たらしめている慰楽物を奪ってしまう。労働の市場価格がその自然価格にまで騰貴し、そして労働者が労賃の自然率の与える相当の慰楽品を手に入れるようになるのは、彼らの窮乏が彼らの数を減じ、または労働に対する需要が増加した後のことでしかない。
その自然率に一致せんとする労賃の傾向にもかかわらず、その市場率は、進歩しつつある社会においては、不定の時期の間、絶えずそれ以上にあるであろう。けだし、増加資本が労働に対する新しい需要に与える刺戟が満たされるや否や、直ちに他の資本増加が同一の結果を生み出すからである。かくて資本の増加が漸次かつ不断であるならば、労働に対する需要は、人口の増加に対して連続的の刺戟を与えるであろう。
資本はその価値の騰貴と同時に分量において増加し得よう。以前よりもより多くの労働が附加的分量を生産するに必要とされると同じ時に、一国の食物及び衣服に附加がなされ得よう。その場合には啻に資本の分量のみならず更にその価値もまた増大するであろう。
または資本は、その価値が増加することなしに、、かつその価値が実際減少しつつある間にすら、増加し得よう。啻に一国の食物及び衣服に附加がなされ得るのみならず、更にその附加は、機械の援助によって、それを生産するに必要な労働の比例的分量の増加なくして、かつその絶対的の減少をすら伴って、なされ得よう。資本の量は増加するであろうが、しかるに、その全部の合計にしろ、またはその一部分単独にしろ、以前よりもより大なる価値を有たず、実際により少い価値を有つであろう。
第一の場合においては、常に食物、衣服、その他の必要品の価格に依存する労働の自然価格は、騰貴するであろう。第二の場合においては、それは引続き静止的であるかまたは下落するであろう。しかし双方の場合において、資本の増加に比例して労働に対する需要の増加があるであろうし、なさるべき仕事に比例してそれをなすべき人々に対する需要があるであろうから、労賃の市場率は騰貴するであろう。
双方の場合においてまた、労働の市場価格はその自然価格以上に騰貴するであろう。そして双方の場合において、それはその自然価格に一致せんとする傾向を有つであろうが、しかしそれは多くは改善されないであろう。けだし食物及び必要品の価格の騰貴は、彼れの労賃の騰貴の大部分を吸収してしまうであろうから。従って、労働の少しの供給は、または人口の僅少の増加は、市場価格をその時の騰貴した労働の自然価格にまでまもなく低下せしめるであろう。
第二の場合においては、労働者の境遇は極めて著しく改善せられるであろう。彼は、自分とその家族とが消費する貨物に対して、騰貴せる価格を支払うの必要なくして、かつおそらく下落せる価格をさえ支払って、騰貴せる貨幣労賃をば受取るであろう。そして労働の市場価格が再びその時の低きかつ下落せるその自然価格にまで下落するのは、人口に大なる増加が起って後のことであろう。
かくてしからば、社会の進歩ごとに、その資本の増加ごとに、労働の市場労賃は騰貴するであろう。しかしその騰貴が永続するか否かは、労働の自然価格もまた騰貴したか否かの問題に依存するであろう。そしてこの問題はまたも、それに労働の労賃が費される所の必要品の自然価格の騰貴に依存するであろう。
労働の自然価格は、食物及び必要品でもって測られた時ですら、絶対的に固定的であり恒久的であると考えてはならない。それは、同一国においても異なる時には変動し、そして異なる国においては極めて著しく異なっている(註)。それは本質的に人民の習癖及び慣習に依存する。英国の労働者は、もしその労賃が彼をして、馬鈴薯以外の食物を購買し得しめず、また土小屋よりも良い住宅に住み得しめないならば、それはその自然率以下にあり、そして少きに過ぎて家族を支持し得ない、と考えるであろう。しかもこれは、しばしば、十分であると看做されているのである。英国の小屋で今日享受されている便利品の多くは、吾々の歴史の初期においては贅沢品と考えられたことであろう(編者註)。
(註)『一国において不可欠な家屋及び衣服も、他の国においては決して必要ではないこともあろう。そしてヒンドスタンの労働者は、彼れの自然労賃として、ロシアの労働者を死から免れしめるに足らぬような被服の供給を受けているに過ぎぬとはいえ、元気一杯に働き続け得よう。同一の気候に位置する国においてさえ、異る生活習慣は、しばしば、自然的原因によって生み出されるものと同様に顕著な労働の自然価格における変動を惹起するであろう。』――アール・トランズ殿著『外国穀物貿易に関する一論』、六八頁。
この問題の全体はカアネル・トランズによって最もよく例証されている。
(編者註)この章句及びこれに類する他の章句は、常にまたはほとんど常に、彼らがリカアドウの労賃鉄則と名づけているものと嫌忌をもって語る人々によっては、忘れられている。しかしながらそれは最も重要なものである。
社会の進歩につれて、製造貨物は常に下落しそして粗生生産物は常に騰貴することによって、富める国においては、労働者は彼れの食物のわずかに少量を犠牲にすれば、彼れのすべての他の欲する所を豊富に備えることが出来る、というような、両者の価値の不釣合が遂に作られるのである。
貨幣価値の変動――それは必然的に貨幣労賃に影響を及ぼすが、しかし吾々は、貨幣は常に同一の価値を有つものと考えて来たから、ここでは何らの作用もないものと仮定して来た――を別とすれば、労賃は二つの原因によって騰落を蒙るように思われる、すなわち、
第一、労働者の供給及び需要。
第二、それに労働の労賃が費される貨物の価格。 
(三八)社会の異る段階においては、資本または労働を雇傭する手段の蓄積は、その速度の速いことも遅いこともあり、そしてそれはあらゆる場合において労働の生産力に依存しなければならない。労働の生産力は、肥沃な土地が豊富にある時に、一般に最大である。かかる時期においては蓄積はしばしば極めて速かであるために、労働者は資本と同一の速度で供給され得ないのである。
好都合な事情の下においては人口は二十五年で倍加し得ると計算されている。しかし、同様の好都合な事情の下においては、一国の全資本はおそらくより短い時期に倍加され得よう。その場合には、労賃は全期を通じて、騰貴する傾向を有つであろうが、けだし労働に対する需要が供給よりもなおより速かに増加するであろうからである。
遥かに文明の進んだ国の技術及び知識が導入された新植民地においては、資本はおそらく人間よりもより速かに増加する傾向を有つであろう。そしてもし労働者の欠乏がより人口稠密な国によって供給されないならば、この傾向は極めて著しく労働の価格を騰貴せしめるであろう。これらの国が人口稠密となり、そしてより悪い質の土地が耕作されるに至るに比例して、資本の増加への傾向は減少する、けだし現存の人口の欲望を満した後に残る剰余生産物は、必然的に、生産の容易さに、すなわち生産に使用される人数のより小なるに、比例しなければならぬからである。しからば、たとえ最も有利な事情の下においてはおそらく生産力は人口の増加力よりもなおより大であろうとはいえ、それは久しくそうではないであろう。けだし土地はその量が限られておりかつその質が異っているから、その上に用いられる資本全部が増加するごとに、生産率は減少するであろうが、しかし人口増加力は常に引続き同一であるからである。
肥沃な土地は豊富であるが、しかし、住民の無智、怠惰、及び野蛮のために彼らが欠乏及び饑饉のあらゆる害悪に曝されており、かつ人口が生活資料を圧迫しているといわれている所の国においては、粗生生産物の供給率が逓減するために過剰人口のあらゆる害悪が経験されている旧開国において必要なそれとは、極めて異る救治策が用いられなければならない。一方の場合においては、悪政、財産の不安固、及び人民のあらゆる階級における教育の欠乏から、害悪が発生するのである。より幸福にされんがためには、人口増加以上の資本の増加が不可避な結果であろうから、人民はただ、より良く統治されかつ教育される必要があるのみである。いかなる人口増加も多過ぎることは有り得ないが、それは生産力が更により大であるからである。他方の場合においては、人口はその支持に必要とされる基金よりもより速かに増加する。あらゆる勤労の努力も、人口増加率の減少を伴わぬ限り、生産が人口と歩調を共にし得ないから害悪を増加するであろう。
人口が生活資料を圧迫している時には、唯一の救治策は、人口の減少かまたは資本のより速かな蓄積かである。すべての肥沃な土地が既に耕作されている富める国においては、後者の救治策は極めて行いやすいわけでもなくまた極めて望ましいわけでもない、けだしその結果は、それが行われ過ぎるならば、すべての階級を等しく貧しくすることであろうからである。しかし肥沃な土地がなお未だ耕作されていないために豊富な生産手段が貯えられてある貧しい国においては、特にその結果は人民のすべての階級を向上せしめることにあるから、それは唯一の安全なかつ有効な害悪除去の方法である。
人道の友は、すべての国において、労働階級が愉楽品及び享楽品に対して嗜好を有ち、かつ彼らが、あらゆる法律上の手段によって、それらを獲得せんと努力するのを奨励されることを、希望せざるを得ない。これ以上の保証は過剰人口に対して有り得ない。労働階級が最少の欲望を有ちかつ最も低廉な食物で満足している国においては、人民は最大の不安と窮乏とに曝されている。彼らは災害から逃れる避難所を有たない。彼らはより低い地位に安全を求めることは出来ない。彼らの地位は既に極めて低いのでより低く落ちることもできない。彼らの主たる生存資料が少しでも欠乏する場合には、彼らが手にし得る代用品はほとんどなく、そしてその欠除は饑饉の害悪のほとんどすべてを伴うのである。 
(三九)社会の自然的進歩につれて、労働の労賃は、それが供給と需要とによって左右される限り、下落する傾向を有つであろう。けだし、労働者の供給は引続き同一率で増加するであろうが、他方彼らに対する需要はより遅い率で増加するであろうからである。例えばもし労賃が、二%の率における資本の年々の増加によって左右されているとするならば、それが単に一・二分の一%の率において蓄積されるに過ぎない時には、労賃は下落するであろう。それが単に一%または二分の一%の率において増加するに過ぎない時には労賃はより低く下落し、そして資本が停止的になるまで引続き下落するであろうが、その時には労賃もまた停止的となり、そしてわずかに現実の人口数を維持するに足るに過ぎないであろう。かかる事情の下においては、もし労賃が単に労働者の供給及び需要によって左右されるに過ぎなければ、それは下落するであろう、と私はいう。しかし吾々は、労賃は、それに労賃が費される貨物の価格によってもまた左右されることを忘れてはならない。
人口が増加するにつれて、かかる必要品はその生産により多くの労働が必要となるから、絶えず価格において騰貴しつつあるであろう。しからば、もし労働の貨幣労賃が下落し、他方それに労働の労賃が費されるあらゆる貨物が騰貴するならば、労働者は二重に影響を蒙り、そしてまもなく全然生存を奪われるであろう。従って労働の貨幣労賃は下落せずして騰貴するであろう、しかしそれは、労働者をして、慰楽品及び必要品の価格騰貴の前に彼が購入したと同一のそれらの貨物をば買い得しめるほど十分には騰貴しないであろう。もし彼れの年々の労賃が、以前には、二四磅ポンド、すなわち価格が一クヲタアにつき四磅ポンドの時に六クヲタアの穀物であったならば、穀物が一クヲタアにつき五磅ポンドに騰貴した時には、彼はおそらく単に五クヲタアの価値を受取るに過ぎないであろう。しかし五クヲタアは二五磅ポンドを要費するであろうし、従って彼は、その貨幣労賃においてある附加を受取るであろう。もっともこの附加をもってしても、彼は以前にその家庭において消費していたと同一量の穀物その他の貨物を手に入れることは出来ないであろうが。
しからば労働者は実際により悪い支払を受けるであろうにもかかわらず、しかも彼れの労賃のこの増加は必然的に製造業者の利潤を減少せしめるであろう。けだし彼れの財貨は決してより高い価格で売れはしないであろうが、しかもなおそれを生産する費用は増加されるであろうからである。しかしながら、このことは、吾々が利潤を左右する諸原理を検討する際に、考察するであろう。
しからば、地代を高めると同一の原因すなわち食物の同一量を同一比例の労働量をもって供給する困難の増加がまた、労賃をも高めることがわかる。従って、もし貨幣が不変的価値を有つならば、地代と労賃との両者は、富と人口との増進につれて騰貴する傾向を持つであろう。
しかし地代の騰貴と労賃の騰貴との間には、こういう本質的の差異がある。地代の貨幣価値における騰貴は生産物の分前の増加を伴う。啻に地主の貨幣地代がより大となるばかりでなく、更に彼れの穀物地代もまたより大となる。彼はより多くの穀物を得、かつその穀物の各一定分量は、価値が騰貴しなかったすべての他の財のより大なる分量と、交換されるであろう。労働者の運命は地主よりも不幸であろう。なるほど彼はより多くの貨幣労賃を受取るであろうが、しかし、彼れの穀物労賃は減少するであろう。そして啻に穀物に対する彼れの支配が減ずるばかりでなく、更に彼れの一般的境遇も、労賃の市場率をその自然率以上に支持することのより困難なことを見出すであろうから、また悪化するであろう。穀物の価格が一〇%騰貴するとしても、労賃は常に一〇%以下しか騰貴しないであろうが、しかし地代は常により以上騰貴するであろう。労働者の境遇は一般的に下落し、そして地主のそれは常に改善されるであろう。
小麦が一クヲタアについて四磅ポンドの時、労働者の労賃は一年二四磅ポンドまたは小麦六クヲタアの価値であると仮定し、また彼れの労賃の半ばは小麦に費され、そして他の半ば、すなわち一二磅ポンドは他の物に費されると仮定しよう。彼は、
小麦が{四磅ポンド四シリング/四磅ポンド一〇シリング/四磅ポンド一六シリング/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時に{二四磅ポンド一四シリング/二五磅ポンド一〇シリング/二六磅ポンド八シリング/二七磅ポンド八シリング六ペンス}を、または{五・八三クヲタア/五・六六クヲタア/五・五〇クヲタア/五・三三クヲタア}の価値を、受取るであろう。
彼はこれらの労賃を得ても、以前とちょうど同じに生活することは出来るが、より良くは生活し得ないであろう。けだし穀物が一クヲタアにつき四磅ポンドの時には、彼は穀物三クヲタアに対して、一クヲタアにつき四磅ポンドで
…………一二磅ポンド
そして他の物に
…………一二磅ポンド
―――
二四磅ポンドを費すであろう。
小麦が四磅ポンド四シリング八ペンスの時には、彼と彼れの家族とが消費する三クヲタアは、彼に
…………一二磅ポンド一四シリング
価格の変動しない他の物は
…………一二磅ポンド〇シリング
―――――――――
二四磅ポンド一四シリング費さしめるであろう。
四磅ポンド一〇シリングの時には、三クヲタアの小麦は
…………一三磅ポンド一〇シリング
そして他の物は
…………一二磅ポンド〇シリング
―――――――――
二五磅ポンド一〇シリング費さしめるであろう。
四磅ポンド一六シリングの時には、三クヲタアの小麦は
…………一四磅ポンド八シリング
そして他の物は
…………一二磅ポンド〇シリング
――――――――
二六磅ポンド八シリング
五磅ポンド二シリング一〇ペンスの時には、三クヲタアの小麦は
…………一五磅ポンド八シリング六ペンス
そして他の物は
…………一二磅ポンド〇シリング〇ペンス
――――――――――――
二七磅ポンド八シリング六ペンス費さしめるであろう。
穀物が高くなるに比例して、彼はより少い穀物労賃を受取るであろうが、しかし彼れの貨幣労賃は常に増加するであろう。他方彼れの享楽品は上の仮定によれば正確に同一であろう。しかし、粗生生産物が他の貨物の構成に参加するに比例してそれは価格において引上げられるであろうから、彼はそのあるものに対しより多くを支払わなければならぬであろう。彼れの茶や砂糖や石鹸や蝋燭や家賃はおそらく決してより高くはならないであろうけれども、彼はそのベイコンやチイズやバタや亜麻布や靴や毛織布に対して、より多くを支払うであろう。従って右の如き労賃の騰貴をもってしても、彼れの境遇は比較的にはより悪くなるであろう。 
(四〇)しかし私は、金すなわち貨幣の材料たる金属は労賃の変動した国の生産物である、という仮定の上で、価格に及ぼす労賃の影響を考察しつつあったし、また金は外国で生産された金属であるから、私が演繹した結論は事物の実情とほとんど一致しない、といわれるかもしれない。しかしながら、金が外国の生産物であるという事情は、議論の真理を無効ならしめることはないであろう、けだしそれが国内において見出されようともまた外国から輸入されようとも、結果は窮極的にしかも実に直接的にも同一であろうということが、証明され得ようからである。
労賃が騰貴する時には、それは一般に、富及び資本の増加が確実に貨物の生産増加を伴うべき労働に対する新需要を齎したからなのである。これらの増加せる貨物を流通させるためには、以前と同一の価格においてですら、より多くの貨幣が貨幣の材料であり、そして輸入によってのみ取得され得る所のこの外国貨物のより多くが、必要とされる。一貨物が以前よりもより多くの分量において必要とされる時には常に、その相対価値は、それでこの貨物の購買がなされる他の貨物に比較して騰貴する。もしより多くの帽子が求められる時には、その価格は騰貴し、そしてより多くの金が、それに対して与えられるであろう。もしより多くの金が必要とされるならば、金は価格において騰貴し、そして帽子は下落するであろうが、それは、その時には、帽子及び他のすべての物のより大なる分量が同一量の金を購買するために必要であろうからである。しかし仮定された場合において、労賃が騰貴するから貨物が騰貴するであろうというのは、明かな矛盾を肯定することになる。けだし吾々は第一に、金は需要の結果相対価値において騰貴するであろうと言い、そして第二に、それは物価が騰貴するから相対価値において下落するであろうと言っているが、これは互に全然両立し得ない二つの結果であるからである。価格において貨物が騰貴すると言うのは、相対価値において貨幣が下落すると言うのと同一である。けだし金の相対価値が測られるのは貨物によってであるから。しからばもしすべての貨物が価格において騰貴するならば、金は、これらの高価なる貨物を購買するために、外国から来ることは出来ないが、しかしそれは比較的により低廉な外国貨物の購買に用いるのが有利であるから、それに用いるために国内から出て行くであろう。しからば労賃の騰貴は、貨幣の材料たる金属が国内で生産されようとまたは外国で生産されようと、貨物の価格を引上げはしないであろうと思われる。すべての貨物は、貨幣の分量の附加なくしては同時に騰貴し得ない。この附加は、既に示した如くに、内国においても取得され得ず、また外国からも輸入され得ない。金のある附加量を外国から購買するためには、内国の貨物が高価でなく低廉でなければならぬ。金の輸入と、それで金が購買されまたは支払われるあらゆる国産貨物の価格騰貴とは、絶対的に両立し得ない二結果である。紙幣の広汎なる使用もこの問題を変更しはしない、けだし、紙幣は金の価値に一致するかまたは一致すべきであり、従ってその価値はこの金属の価値に影響する原因によってのみ影響されるからである。
しからばかかるものが、労賃を左右し、かつあらゆる社会の最大部分の幸福を支配する所の、法則である。あらゆる他の契約と同様に、労賃は市場の公正なかつ自由な競争に委ねらるべく、決して立法の干渉によって支配されてはならない。 
(四一)救貧法の明白なかつ直接的な傾向は、かかる明白な諸原理に全く反するものである。それは、立法者が慈悲深くも意図したが如くに、貧民の境遇を改善すべきものではなくして、富者と貧者との双方の境遇を悪化せしむべきものである。貧民を富ましめることはなくして、それは富者を貧しくせんとするものである。そして現在の法律の施行中は、貧民を維持するための基金は逓増的に増加して、ついにそれは国の純収入のすべてを、または少くとも公共の支出に対する国家自身の欠くべからざる必要を満たした後に国家が吾々に残す純収入のすべてを、吸収するのは、全く事理の当然である(註)。
(註)次のビウキャナン氏の章句に、私は、もしそれが窮乏の一時的状態を指すものであるならば、その限りにおいて同意する、すなわち、『労働者の境遇の大なる害悪は、食物の不足かまたは仕事の不足から起る貧困である。そしてあらゆる国において無数の法律が彼れの救済のために施行され来った。しかし立法が救済し得ない窮乏が社会状態にある。従って、行い得ないことを目指すがために真に吾々がなし得る善を見失わないために、その限界を知ることが有用である。』ビウキャナン、六一頁。
かかる法律の有害なる傾向は、マルサス氏の有為な手によって十分に展開されているから、もはや神秘ではない(編者註)。そしてあらゆる貧民の友は熱心にその廃止を希望しなければならない。しかしながら不幸にして、それは極めて古くから行われ来っており、かつ貧民の慣習はその作用に基いて形造られ来っているから、吾々の政治組織から安全にそれを取除くことは、最も注意深くかつ巧妙な処理を必要とする。この法律の廃止に最も賛成な人々は、その利益のためにこの法律が誤って設けられた所の者に対する、最も恐るべき惨苦を妨げるのが望ましいならば、その廃止は最も徐々たる順序によってなさるべきであることに、すべて一致している。
(編者註)『人口論』第三篇、第五、六、七章、第四篇、第八章。
貧民の慰楽と福祉とは、彼らの数の増加を規制し、かつ早婚や不用意な結婚を彼らの間で減少せしめるために、彼らの側での幾らかの注意か、立法者の側での幾らかの努力がなければ、永久に確保され得ないことは、疑を容れない真理である。救貧法の制度の作用はこれに正反対であった。それは抑制を余計のものとし、そして慎慮と勤労とによって得た労賃の一部分をそれに与えることによって、不慎慮を招いたのである(註)。
(註)この題目に関し、一七九六年以来下院において表明された知識の進歩は、救貧法に関する委員会の最近の報告と、一七九六年におけるピット氏の次の如き意見とを、対照することによって見られる如く、幸にして少からざるものがあった。
彼は曰く、『恥辱と軽蔑との理由ではなくして、正義と名誉との事柄たる、子だくさんの場合に、救済をしよう。このことは、大家族を呪詛たらしめずして祝福たらしめるであろう。そしてこのことは、自らの労働によって自らを養いうる人々と、多くの子供でその国を富ましめた後に生活維持に対する国家の援助を請求し得る人々との間に、適当な分界線を劃するであろう。』ハンサアド議会史、第三二巻、七一〇頁。
この害悪の性質が救治法を指示している。救貧法の範囲を漸次に縮小することによって、貧民に独立なる者の価値を印象づけることによって、彼らに、生活のためには組織的のまたは偶然の慈善に頼らずに彼ら自身の努力に頼らねばならぬこと、また慎慮と先見とは不必要な徳性でもなければ不利益な徳性でもないことを、教えることによって、吾々は順次により健全なより健康的な状態に接近するであろう。
救貧法の廃止をその終極目的としない救貧法修正案は、全然注意に値しない。そしていかにしてこの目的が最も安全にかつ同時に最少の暴力をもって達せられ得るかを指示し得る者こそが、貧民に対しかつ人道に対する最良の友である。害悪が軽減され得るのは、現在と異る方法で貧民が支持される基金を、徴収することによってではない。それは、啻に改良ではないのみならず、もしこの基金の額が増加せしめられるかまたはある最近の提議によってこの国全般から一般基金として賦課されるならば、吾々が除去されんことを望む所の災害の加重であろう。現在のその徴収方法及び使用方法は、その有害な結果を軽減するに役立って来た。各教区はそれ自身の貧民の支持のために別々の基金を徴収している。従って一般基金が全王国の貧民救済のために徴収される場合よりも、税金を低くしておくことがより有利でありかつより行いやすいこととなっている。一教区は、数百の他の教区がそれに参加している場合よりもはるかに、この税金の経済的な徴収をより利益あることとし、かつ節約の全部がそれ自身の利益になるであろうから救助を少ししか分配しないことをより利益あることとしているのである。
吾々は、救貧法が未だこの国の全純収入を吸収してしまっていないという事実を、この原因に帰しなければならぬ。それが驚くべく圧制的になっていないことの理由は、その適用が厳正であることにある。もし法律によって、生計に困っているあらゆる者に確実に生計を得しめ、しかも生活を相当に愉楽ならしめる程度に生計を得しめることが出来るならば、理論は吾々を導いて、他の租税を全部合せてもこの救貧税という単一の租税と比較して軽微なものであろうと、期待せしめるであろう。かかる法律が、富と力とを貧と弱とに変え、労働の努力を単なる生活資料供給の目的以外のあらゆる目的から引離し、すべての知的優越を無にし、精神を絶えず肉体的欲求物の供給に忙殺せしめ、ついに一切の階級を一般的貧困という悪疫にかからせる、という傾向のあることは、重力の原理と同様に確実である。幸にしてかかる法律は、労働維持のための基金が規則正しく増加し、かつ人口の増加が自然的に必要とされた所の、進歩的繁栄期に、行われ来った。しかしもし吾々の進歩がより遅くなるならば、もし吾々が静止的状態――吾々はかかる状態からはなお未だ遠く隔っていると私は信ずるが――に達するならば、その時にこの法律の有害な性質はより明かにかつ脅威的になり、またその時にはこの法律の廃止は多くのより以上の困難によって妨害されるであろう。 
第六章 利潤について

 

(四二)資本の利潤は、種々なる職業において、相互に一つの比例を保ち、かつすべて同一の程度にかつ同一の方向に変動する傾向を有つことが、説明されたから、利潤率の永続的変動、及びそれに従って起る利子率における永続的変動の原因は何であるか、を考察することが、吾々にとって残っていることになる。
吾々は、穀物の価格(註)が資本のうち地代を何ら支払わない部分をもってそれを生産するに必要な労働量、によって左右されることを、見た。吾々はまた、すべての製造貨物は、その生産に必要となる労働の大小に比例して、価格において騰落することも、見た。価格を左右する質(訳者註)の土地を耕作する農業者も財貨を製造する製造業者も、生産物の何らの部分をも地代として犠牲にしない。彼らの貨物の全価値は単に二つの部分に分たれるに過ぎない、すなわちその一は資本の利潤を成し、他は労働の労賃を成すのである。
(註)読者は、この主題をより明かならしめんがために、私が、貨幣をもって価値において不変なものと看做し、従って価格のあらゆる変動は貨物の価値における変動に帰せらるべきものと看做していることを、記憶せられんことを乞う。
(訳者註)『地質なる語は、原本第一版及び第二版の quality の訳語であるが、原本第三版には、これが quantity となっている。』――堀經夫博士訳書、一一〇頁。
穀物及び製造財貨が常に同一の価格で売れると仮定すれば、利潤は、労賃が低いか高いかに比例して高くあるいは低いであろう。しかし穀物が、それを生産するにより多くの労働が必要であるために、価格において騰貴したと仮定せよ。この原因は、その生産において何ら附加的労働量も必要とされない所の製造財貨の価格を騰貴せしめないであろう。しからば、もし労賃が引続き同一であるならば、製造業者の利潤は依然として同一であろう。しかし、もし労賃が穀物の騰貴と共に騰貴するならば、――このことは絶対に確実であるが――彼らの利潤は必然的に下落するであろう。
もし、製造業者が常に彼れの財貨を同一の貨幣額、例えば一、〇〇〇磅ポンドに対して、売るとするならば、彼れの利潤はそれらの財貨を製造するに必要な労働の価格に依存するであろう。彼が六〇〇磅ポンドを支払うに過ぎなかった時よりも、労賃が八〇〇磅ポンドに達した時の方が、彼れの利潤はより少いであろう。かくて労賃が騰貴するに比例して、利潤は下落するであろう。しかしもし粗生生産物の価格が騰貴するならば、農業者は労賃として追加額を支払わなければならなくとも、少くとも同一の利潤率を得ないであろうか? と問われるかもしれない。確かにそれは得られない、けだし彼は啻に製造業者と共に、彼が雇傭する各労働者に労賃の増加を支払わなければならないであろうのみならず、更に彼は地代を支払うか、または同一生産物を獲得するために労働者の附加数を雇傭するのいずれかを余儀なくされるであろうし、また粗生生産物の価格における騰貴は、この地代またはこの附加数に比例するに過ぎぬものであって、従って労賃の騰貴に対して彼に償いをしないであろうからである。
もし製造業者及び農業者の両者が十名の人間を用いるとすれば、労賃が一人当り一年間二四磅ポンドから二五磅ポンドに騰貴する場合には、その各々によって支払われる全額は二四〇磅ポンドではなく二五〇磅ポンドであろう。しかしながら、これが製造業者が同一分量の貨物を得るために支払うであろう所の附加の全部である。しかし新しい土地における農業者はおそらく、一名の附加的労働者を使用し、従って労賃として二五磅ポンドの附加額を支払うを余儀なくされるであろう。そして旧い土地における農業者は地代として二五磅ポンドという正確に同一の附加額の支払を余儀なくされるであろう。この附加的労働がなければ、穀物も騰貴しなかったであろうし、また地代も増加しなかったであろう。従って一方は労賃のためのみに二七五磅ポンドを支払わなければならず、他方は労賃と地代との合計のためにこの額を支払わなければならないであろう。各々は製造業者よりも二五磅ポンドだけより多く支払わなければならない。この後の二五磅ポンドを、農業者は粗生生産物の価格の附加によって償われ、従って彼れの利潤はなお製造業者の利潤と一致する。この命題は重要であるから、私はなお更に、その説明に努めるであろう。
吾々は既に、社会の初期においては、土地生産物の価値に対する地主及び労働者の両方の分前は僅少に過ぎないであろうし、かつそれは富の増進及び食物獲得の困難に比例して増加するであろうということを、証明した。吾々はまた、労働者の収得する価値は食物の高い価値によって増加されるであろうけれども、彼れの真実の分前は減少するであろうが、しかるに地主のそれは啻に価値において増加されるばかりでなく、更に分量においても増加されるであろう、ということを証明した。
地主及び労働者が支払を受けた後に残る土地の生産物の残りの分量は、必然的に農業者に帰属し、そして彼れの資本の利潤をなすものである。しかし、社会が進歩するにつれ全生産物に対する彼れの分前は減少するであろうけれども、しかもそれは価値において騰貴するであろうから、地主及び労働者と同様に彼もまた、それにもかかわらず、より多くの価値を受けるであろう、と主張されるかもしれない。
例えば、穀物が四磅ポンドから一〇磅ポンドに騰貴した時には、最良の土地から得られる一八〇クヲタアは七二〇磅ポンドではなく、一、八〇〇磅ポンドで売れ、従って地主及び労働者は地代及び労賃としてより多くの価値を得るということが証明されたとしても、しかも農業者の利潤の価値もまた増大されるであろう、といわれるかもしれない。しかしながらかかることは、私がいま次に説明を試みる如く、不可能なことである。
第一に、穀物の価格はただ、より劣等な品質の土地においてそれを栽培する困難の増加に比例して騰貴するに過ぎないであろう。
次のことは既に述べた所である、すなわち、もし十名の人間の労働が、一定の品質の土地において、一八〇クヲタアの小麦を獲得し、その価値が一クヲタアにつき四磅ポンド、すなわち七二〇磅ポンドであるとし、かつもし十名の附加された人間の労働が同一のまたはある他の土地において、更に加うるに一七〇クヲタアを生産するに過ぎないならば、170:180:£4:£4 4s. 8d. であるから小麦は四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンス(編者註)に騰貴するであろう。換言すれば、一七〇クヲタアの生産に対して、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、そして他方の場合には九・四四名のそれが必要であるに過ぎないから、騰貴は九・四四対一〇であり、または四磅ポンド対四磅ポンド四シリング八ペンスであろう。同様にして、もし十名の附加された人間の労働が一六〇クヲタアを生産するに過ぎなければ、価格は更に四磅ポンド一〇シリングに騰貴するであろうし、一五〇クヲタアならば、四磅ポンド一六シリングに騰貴するであろう、等々、ということが証明され得よう。
(編者註)概算すれば四磅ポンド四シリング八ペンス二分の一により近い。
しかし、地代を支払わない土地において一八〇クヲタアが生産され、かつその価格が一クヲタアについて四磅ポンドの時には、それは次の価格で売られる、
…………七二〇磅ポンド
そして地代を支払わない土地において一七〇クヲタアが生産され、かつ価格が四磅ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、それはなお次の価格で売られる、
…………七二〇磅ポンド
かくて四磅ポンド一〇シリングで一六〇クヲタアは次を生む、
…………七二〇磅ポンド
そして四磅ポンド一六シリングで一五〇クヲタアは同一の額を生む、
…………七二〇磅ポンド
さて、もしこれらの相等しい価値から、農業者がある時には四磅ポンドの小麦の価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされ、そして他の時にはより高い価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされるならば、彼れの利潤率は穀価の騰貴に比例して減少するであろう、ということは明かである。
従ってこの場合において、労働者の貨幣労賃を騰貴せしめる穀価の騰貴は農業者の利潤の貨幣価値を減少する、ということが明かに証明されている、と私は考えるのである。
しかし旧いかつより良い土地の農業者の場合も決してこれと少しも異る所はないであろう。彼もまた騰貴した労賃を支払わなければならず、かつ、その労賃はいかに高くとも、彼自身及び常に同数なる彼れの労働者の間に分割されるべき生産物の価値は、七二〇磅ポンド以上を保有しないであろう。従って彼らがより多くを得るに比例して彼はより少しを保有しなければならぬのである。
穀価が四磅ポンドであった時には全一八〇クヲタアは耕作者に帰属し、そして彼はそれを七二〇磅ポンドで売った。穀物が四磅ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、彼は地代としてその一八〇クヲタアから一〇クヲタアの価値を支払うを余儀なくされ、従って残りの一七〇クヲタアは彼に七二〇磅ポンドを与えるに過ぎなかった。それが更に四磅ポンド一〇シリングに騰貴した時には、彼は地代として二〇クヲタアを、あるいはその価値を支払い、従って一六〇クヲタアを保有したに過ぎず、それは七二〇磅ポンドという同一の額を与えたのである。
しからば次のことがわかるであろう、すなわち生産物の一定の附加量を得るためにより以上の労働と資本とを用いることが必要である結果として穀価がいかに騰貴しようとも、かかる騰貴は、附加的地代により、あるいは用いられる附加的労働により、価値において常に相殺されてしまうであろうから、従って、穀物が四磅ポンドに売れても四磅ポンド一〇シリングに売れてもまたは五磅ポンド二シリング一〇ペンスに売れても、農業者は、地代を支払った後彼れの手に残るものとしては、同一の真実価値を得るであろう。かくて吾々は、農業者に帰属する生産物が一八〇クヲタアであっても一七〇クヲタアであっても一六〇クヲタアであってもまたは一五〇クヲタアであっても、彼はそれに対し常に七二〇磅ポンドという同一額を得ることを知るが、それは価格が分量に反比例して騰貴するからである。
かくて地代は、思うに、常に消費者の負担となり決して農業者の負担にはならない、けだしもし彼れの農場の生産物が一様に一八〇クヲタアであるならば、価格の騰貴と共に、彼は自分自身に対しより少い分量の価値を保有し、彼れの地主にはより大なる分量の価値を与えるけれども、しかしこの控除は彼に常に七二〇磅ポンドという同一額を残すように行われるからである。
すべての場合において、七二〇磅ポンドという同一額が労賃と利潤とに分割されなければならぬこともまた、わかるであろう。もし土地からの粗生生産物の価値がこの価値を超過するならば、その額が幾何いくばくであろうと、それは地代に属する。もし何ら超過がないならば、地代はないであろう。労賃または利潤が騰貴しようと下落しようと、この両者が与えられなければならない原本はこの七二〇磅ポンドという額である。一方において利潤は労働者に絶対必要品を与えるに十分な額が残されないくらいにこの七二〇磅ポンドの中の多くを吸収してしまうほど騰貴することは出来ない。他方において労賃は、この額のうち利潤には何物も残さないというほどに騰貴することは出来ない。
かくて、あらゆる場合において、農業利潤並びに製造業利潤は、粗生生産物の価格の騰貴――もしそれが労賃の騰貴を伴うならば、――によって低下せしめられる(註)。もし農業者が、地代を支払った後彼れの手に残る穀物に対し何らの附加的価値をも得ず、もし製造業者が、彼が製造する財貨に対して何らの附加的価値をも得ず、またもし両者が労賃により大なる価値を支払うを余儀なくされるならば、労賃の騰貴と共に利潤は下落しなければならぬということ以上に明瞭に確証され得る事柄があろうか?
(註)読者は、季節の良否から、または人口の状態に対する突然の影響のために起る需要の増減から、発生する所の、偶然の変動は、吾々はこれを考慮外に置いていることを知っている。吾々は、穀物の自然的な恒常的な価格について論じているのであって、その偶然的な動揺的な価格について論じているのではない。
かくて農業者は、その地主の地代――それは常に生産物の価格によって左右され、そして常に消費者の負担に帰するものであるが――のいかなる部分をも支払いはしないけれども、しかも地代を低く保つことに、またはむしろ生産物の自然価格を低く保つことに、極めて明かな利害を有っているものである。粗生生産物の、及び粗生生産物が一構成部分として入り込んでいる物の、消費者として、彼は、あらゆる他の消費者と共通に価格を低く保つことに利害を有つであろう。しかし彼は、穀物の高い価格は労賃に影響を及ぼすが故に、それに最も重大な関係を有っているのである。穀価のあらゆる騰貴と共に、彼は、七二〇磅ポンドという等しくかつ変動しない額から、附加的額を労賃として、彼が常に用いるものと仮定されている十名の人間に支払わねばならぬであろう。吾々は労賃を論ずる際に、それは常に粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴することを見た。一一三頁において、計算のために仮定された基礎によれば、もし小麦が一クヲタアにつき四磅ポンドである時に、労賃が一年につき二四磅ポンドであるならば、次のことがわかるであろう。
小麦が{四磅ポンド四シリング八ペンス/四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四磅ポンド一六シリング〇ペンス/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労賃は{二四磅ポンド一四シリング〇ペンス/二五磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二六磅ポンド八シリング〇ペンス/二七磅ポンド八シリング六ペンス}であろう。
さて労働者と農業者との間に分配せらるべき七二〇磅ポンドなる不変の基金のうち、
小麦の価格が{四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四磅ポンド四シリング八ペンス/四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四磅ポンド一六シリング〇ペンス/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労働者は{二四〇磅ポンド〇シリング/二四七磅ポンド〇シリング/二五五磅ポンド〇シリング/二六四磅ポンド〇シリング/二七四磅ポンド五シリング}農業者は{四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/四四五磅ポンド一五シリング〇ペンス}を受取るであろう(註)。
そして農業者の最初の資本が三、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、彼れの資本の利潤は第一の場合には四八〇磅ポンドであるから、一六%の率にあろう。彼れの利潤が四七三磅ポンドに下落した時にはそれは一五・七%の率(編者註一)。
四六五磅ポンド………………………………………………一五・五%
四五六磅ポンド………………………………………………一五・二%
四五五磅ポンド………………………………………………一四・八%
であろう。
(註)一八〇クヲタアの穀物は、上記の価格の変動と共に、次の比例において、地主、農業者、及び労働者の間に分たれるであろう。
一クヲタアの価格/地代小麦で/利潤小麦で/労賃小麦で/合計
四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇クヲタア/六〇クヲタア}一八〇
四磅ポンド四シリング八ペンス/一〇クヲタア/一一一・七/五八・三
四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六
四磅ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五
五磅ポンド二シリング一〇ペンス/四〇/八六・七/五三・三
そして同一の事情の下において、貨幣地代、貨幣労賃、及び貨幣利潤は次の如くであろう。
一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計
四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド四シリング八ペンス/四二磅ポンド七シリング六ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四七磅ポンド〇シリング〇ペンス/七六二磅ポンド七シリング六ペンス
四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/二五五磅ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド一六シリング〇ペンス/一四四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/二六四磅ポンド〇シリング〇ペンス/八六四磅ポンド〇シリング〇ペンス
五磅ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五磅ポンド一三シリング四ペンス/四四五磅ポンド一五シリング〇ペンス/二七四磅ポンド五シリング〇ペンス/九二五磅ポンド一三シリング四ペンス(編者註二)
(編者註一)これは一五・八%であるべきである。それは正確には一五・七六である。
(編者註二)以上の表は一見そう見えるほど精密に正確なわけではない。与えられた二表の中の第二表では、合計は第二行と第五行とで不正確である。一クヲタアにつき四磅ポンド四シリング八ペンスでの一〇クヲタアの価格は、四二磅ポンド七シリング六ペンスではなく、四二磅ポンド六シリング八ペンスである。更に、クヲタア当り同価格で一八〇クヲタアは七六二磅ポンド七シリング六ペンスでは売れず、七六二磅ポンドに売れる。また、五磅ポンド二シリング一〇ペンスでの一八〇は九二五磅ポンド一〇シリングであって、九二五磅ポンド一三シリング四ペンスではない。修正し概数で現わせば表は次の如くである。――
一クヲタアの価格/小麦地代/小麦利潤/小麦労賃/合計
四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇/六〇/一八〇
四磅ポンド四シリング八ペンス/九・九二/一一一・七三/五八・三五/一八〇
四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六/一八〇
四磅ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五/一八〇
五磅ポンド二シリング一〇ペンス/一〇/三九・九七/八六・六九/五三・三四/一八〇
そしてもし貨幣で測られるならば。――
一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計
四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド四シリング八ペンス/四二磅ポンド〇シリング〇ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四七磅ポンド〇シリング〇ペンス/七六二磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/二五五磅ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド一六シリング〇ペンス/一四四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/二六四磅ポンド〇シリング〇ペンス/八六四磅ポンド〇シリング〇ペンス
五磅ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四四五磅ポンド一四シリング〇ペンス/二七四磅ポンド五シリング〇ペンス/九二五磅ポンド一〇シリング〇ペンス
しかし、利潤の率はなおより以上下落するであろうが、けだし農業者の資本は、――想起さるべきであるが――生産物の騰貴の結果すべて価格が騰貴するであろう所の、彼れの穀物や乾草堆、彼れの打穀しない小麦や大麦、彼れの馬や牛の如き粗生生産物から、大部分成っているからである。彼れの絶対利潤は、四八〇磅ポンドから四四五磅ポンド一五シリングに下落するであろう。しかしもし私が今述べた原因によって彼れの資本が三、〇〇〇磅ポンドから三、二〇〇に騰貴するならば、彼れの利潤の率は、穀物が五磅ポンド二シリング一〇ペンスである時には、一四%以下になるであろう。
もし製造業者もまたその業務に三、〇〇〇磅ポンドを使用していたとすれば、彼は、労賃の騰貴の結果、同一の業務を営んで行くことが出来るためには、その資本を増加するを余儀なくされるであろう。もし彼れの貨物が以前には七二〇磅ポンドで売れたとすれば、それは引続き同一の価格で売れるであろうが、しかし以前には二四〇磅ポンドであった労働の労賃は、穀物が五磅ポンド二シリング一〇ペンスの時には二七四磅ポンド五シリングに騰貴するであろう。第一の場合には、彼は、三〇〇〇磅ポンドに対する利潤として四八〇磅ポンドの残額を得るであろうが、第二の場合には、彼は、増加された資本に対し単に四四五磅ポンド一五シリングの利潤を得るに過ぎず、従って彼れの利潤は、農業者の変更された利潤率に一致するであろう。
粗生生産物の騰貴によってその価格が多かれ少かれ影響を蒙らない貨物はほとんどない、けだし土地からのある粗生原料品が大部分の貨物の構成に入り込むからである。綿製品や亜麻布や毛織布は、すべて小麦の騰貴と共に価格において騰貴するであろう。しかしそれらが騰貴したのは、それでそれらの物が作られる粗生原料品により多くの労働量が投ぜられたためであって、製造業者がこれらの貨物の製造に用いた労働者に対して彼がより多くを支払ったためではない。
あらゆる場合において、貨物が騰貴するのはそれにより多くの労働が投ぜられるからであって、それに投ぜられる労働がより高い価値にあるからではない。宝石や鉄や銀や銅の品物は、地表から得られる粗生生産物が何らその構成に入り込まないから騰貴しないであろう。 
(四三)私は貨幣労賃は粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴すべきことを異論のないことと認めているが、しかし、労働者はより少い享楽物で満足するかもしれないから、これは決して必然的帰結ではない、と言われるかもしれない。なるほど労賃は以前には高い水準にあったが、それは若干の低減に耐えることもあろう。もしそうであるならば利潤の下落は妨げられるであろう。しかし必要品の価格が徐々と騰貴しているのに労賃の貨幣価格は下落しまたは静止している、と考えることは不可能である。従って通常の事情の下においては、労賃の騰貴を惹起さずに、またはそれに先行されずに、必要品の価格が永久的に騰貴することはないということを、異論のないことと認め得よう。
もし、それに労働の労賃が費される所の、食物以外の他の必要品の価格に、騰貴が起ったとすれば、利潤の上に生み出される影響は、同一であるかまたはほとんど同一であったであろう。かかる必要品に対し騰貴せる価格を支払わねばならぬという労働者の必要は、彼をしてより多くの労賃を要求するを余儀なからしめるであろう。そして労賃を騰貴せしめるものはいかなるものも必然的に利潤を低減する。しかし、労働者が必要としない所の絹や天鵞絨ビロードや什器やその他の貨物が、それにより多くの労働が投ぜられる結果騰貴すると仮定すれば、このことは利潤に影響を及ぼさないであろうか? 確かに及ぼさない。けだし労賃の騰貴以外に何物も利潤に影響を及ぼし得ないが、絹や天鵞絨ビロードは労働者によって消費されず、従って労賃を騰貴せしめ得ないからである。
私は利潤に関し一般的に論じているのであることを了解してもらいたい。私は既に、貨物の市場価格は、その貨物に対する新しい需要が要求するよりもより少い分量において生産されることがあろうから、その自然価格または必要価格を超過することがあろう、と述べた、しかしながら、このことは単に一時的結果に過ぎない。その貨物の生産に用いられる資本に対する高い利潤は当然に資本をその事業に吸引するであろう。そして必要な資金が供給され、かつその貨物の分量が適当に増加されるや否や、その価格は下落し、そしてその事業の利潤は一般水準に一致するであろう。一般利潤率の下落は、特定職業の利潤の部分的騰貴と決して両立し得ないものではない。資本が一職業から他の職業に移転されるのは、利潤の不平等によってである。かくて、一般利潤が、労賃の騰貴と増加しつつある人口に必要品を供給する困難の増加との結果として、下落しつつあり、そして徐々により低い水準に落着きつつある間は、農業者の利潤は、ある短い時期の間、前の水準以上にあり得よう。外国貿易及び植民地貿易の特定の部門にもまた、ある時期の間、異常の奨励が与えられ得よう。しかしこの事実の認容は決して、利潤は労賃の高低に依存し、労賃は必要品の価格に、そして必要品の価格は主として食物の価格に依存する――けだしすべての他の必要品はほとんど限り無く増加され得ようから――という理論を、無効ならしめるものではない。
価格は常に、市場において変化し、そして第一に、需要と供給との比較的状態によって変動することを、想起せらるべきである。たとえ毛織布が一ヤアルにつき四〇シリングで供給され、かつ資本の日常利潤を与えることが出来るとしても、流行の一般的変化によりまたは突然に予想外にその需要を増加しまたはその供給を減少するある他の原因によって、それは六〇シリングまたは八〇シリングに騰貴するであろう。毛織布の製造者は一時の間異常の利潤を得るであろうが、しかし、資本は当然にその製造業に流入し、ついに供給と需要とは再びその正当な水準にあるようになり、その時には毛織布の価格は再びその自然価格または必要価格たる四〇シリングに下落するであろう。同様にして、穀物に対する需要の増加するごとに、それは農業者に一般利潤よりより以上を与えるほどに騰貴するであろう。もし豊富な沃土があるならば、必要な資本量がその生産に用いられた後は、穀物の価格は再びその以前の標準に下落し、そして利潤は依然の如くなるであろうが、しかしもし、豊富な沃土がなく、もしこの附加的分量を生産するに普通の分量以上の資本と労働とが必要とされるならば、穀物はその以前の水準にまで下落しないであろう。その自然価値は騰貴するであろう。そして農業者は、永続的により大なる利潤を取得することなく、必要品の騰貴により齎される労賃の騰貴の不可避的結果たる、減少せる率に満足するの余儀なき立場に立つであろう。 
(四四)しからば、利潤の自然的傾向は下落することである。けだし、社会及び富の進歩につれて、必要とされる食物の附加的分量はますますより多くの労働の犠牲によって得られるからである。利潤のこの傾向、すなわちいわばこの重力は、幸にして、しばしば、必要品の生産と関連せる機械の改良により、並びに吾々をして以前に必要とされた労働の一部分を不要にし得しめ、従って労働者の第一次的必要品の価格を引下げ得せしめる農学上の発見によって、妨げられている。しかしながら、必要品の価格と労働の労賃との騰貴は限られている。けだし労賃が(前に述べた場合における如く)農業者の全受取額たる七二〇磅ポンドに等しくなるや否や、蓄積は終らねばならず、またけだしいかなる資本もかかる時には何らの利潤をも生出し得ず、そして何らの附加的労働も需要され得ず、従って人口はその頂点に到達しているであろうからである。実際この時期の遥か以前に極めて低い利潤率がすべての蓄積を制止しているであろう、そして一国のほとんど全部の生産物は、労働者に支払った後に、土地の所有者及び十分の一税と租税との受取人の財産となるであろう。
かくて、前の極めて不完全な基礎を私の計算の根拠とするならば、次のことがわかるであろう。すなわち穀物が一クヲタアにつき二〇磅ポンドの時には国の全純所得は地主に帰属するであろうが、それはけだしその時には、本来一八〇クヲタアを生産するために必要であったと同一量の労働が三六クヲタアを生産するために必要となるであろう、何となれば、£20:£4::180:36 であるから。しからば一八〇クヲタアを生産する農業者は(もしかかる者がいるといると仮定すれば――というわけは、土地に用いられる旧資本と新資本とは、決して区別され得ないように混合されるであろうから)、
一八〇クヲタアを一クヲタア二〇磅ポンドで売るであろう、すなわち……三、六〇〇磅ポンド
一四四クヲタアの価値を地代として地主に、これは三六クヲタアと
一八〇クヲタアとの差である……………………………二、八八〇
―――――――――――
三六クヲタア七二〇
三六クヲタアの価値を十名の労働者に、……………………………………七二〇
 ―――――
かくて利潤としては何物も残さないであろう。
私はこの二磅ポンドなる価格において労働者は引続き毎年三クヲタアを消費すると仮定し……六〇磅ポンド
かつ他の貨物に彼らは次を費すと仮定した、…………………………………………………………………一二
 ―――――――――
各労働者に対し七二
従って十名の労働者は一年につき七二〇磅ポンドに値するであろう。
すべてのこれらの計算において、私は、単に原理を闡明せんめいしようと希望しているのであって、私の全基礎が勝手に仮定されているのであり、しかも単に例証のために過ぎないことを述べる必要はほとんどない。増加しつつある人口によって必要とされる穀物逐次の分量を獲得するに必要な労働者数の差違を説明する際に、労働者の家族が消費する分量、等々を、述べることで、私がいかに正確に叙述を始めようとも、その結果は、程度こそ異ろうが、原理においては同一であったであろう。私の目的は問題を簡単にすることであった、だから私は、労働者の食物以外の他の必要品の価格騰貴を考慮に入れなかったが、この増加は、それによってそれらが造られる粗生原料品の価値騰貴の結果であり、またもちろん労賃を更に騰貴せしめ利潤を低下せしめるものであろう。
私は既に、この価格の状態が永久的ならしめられる遥か前に、蓄積に対する動因はなくなるであろうが、それはけだし何人も、彼れの蓄積を生産的ならしめんと考えることなくして蓄積する者はなく、また蓄積が利潤に影響を及ぼすのは、それが生産的に用いられる時に限るからである、と述べた。動因がなければ蓄積はあり得ず、従ってかかる価格の状態は決して起り得ないであろう。農業者も、製造業者も、労働者が労賃なくしては生活し得ないと同様に、利潤なくしては生活し得ない。彼らの蓄積に対する動因は利潤が減ずるごとに減少し、そして、彼らの利潤が、彼らの労苦と彼らがその資本を生産的に用いるに当って必然的に遭遇しなければならぬ危険とに対して、彼らに適当な報償を与えない時には、全然止んでしまうであろう。
私は再び、私の計算において測ったよりも利潤率は遥かにより速かに下落するであろうが、それはけだし、生産物の価値が、仮定された事情の下において、私の述べた如くであるとするならば、農業者の資本の価値は、それが必然的に価値において騰貴した貨物の多くから成っていることによって、大いに増加せしめられているであろうからである、ということを、述べなければならない。穀物が四磅ポンドから一二磅ポンドに騰貴し得る前に、彼れの資本はおそらく交換価値において倍加され、そして、三、〇〇〇磅ポンドではなく六、〇〇〇磅ポンドに値するであろう。かくてもし彼れの利潤が、一八〇磅ポンド、または彼れの元の資本に対し六%であるならば、利潤はその時には実際三%よりもより高い率にはないであろう。けだし、六、〇〇〇磅ポンドに対する三%は一八〇磅ポンドであるから。そしてかかる条件においてのみ六、〇〇〇磅ポンドの貨幣をその懐中に有っている新農業者は農業に入り得るであろう。
多くの事業は同じ源泉から多かれ少かれある利益を得るであろう。醸造業者、酒類蒸溜業者、毛織物業者、亜麻布製造業者は、粗生原料品及び精製原料品の貯財の価値騰貴によって、その利潤の減少を一部分償われるであろう。しかし、金物や宝石やその他多くの貨物の製造業者、並びにその資本が一様に貨幣から成る者は、何らの補償もなくして、利潤率の全下落を蒙るであろう。
吾々はまた、土地に対する資本の蓄積と労賃の騰貴との結果、いかに資本の利潤率が減少しても、しかも利潤の総額は増加するであろうと、期待しなければならぬ。かくて、一〇〇、〇〇〇磅ポンドの蓄積が繰返されるたびに、利潤率は、二〇%から一九%に、一八%に、一七%にと、絶えず逓減する率で、下落すると仮定するならば、吾々は、かかる逐次の資本所有者が受取る利潤の全額は常に逓増して行き、すなわちそれは、資本が一〇〇、〇〇〇磅ポンドの時よりも二〇〇、〇〇〇磅ポンドの時の方がより大であり、三〇〇、〇〇〇磅ポンドの時は更により大である、等々、資本が増加するごとに、逓減的率においてではあるが、しかも増加して行くことと、期待しなければならぬ。しかしながら、この逓増は一定の期間だけ真実であるに過ぎぬ。かくて二〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%は、一〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%よりもより大である。しかし資本が多額にまで蓄積され、そして利潤が下落して後はより以上の蓄積は利潤の総額を減少する。かくて蓄積が一、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドであり、そして利潤が七%であると仮定すれば、利潤の全量は七〇、〇〇〇磅ポンドであろう。さてもし一〇〇、〇〇〇磅ポンドの資本の附加がこの一百万に対してなされ、そして利潤が六%に下落するならば、資本の全額は一、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから一、一〇〇、〇〇〇磅ポンドに増加されるであろうけれども、資本の所有者は、六六、〇〇〇磅ポンドすなわち四、〇〇〇磅ポンドだけ減少せるものを受取るであろう。 
(四五)しかしながら、資本がいやしくも何らかの利潤を生む限り、資本の蓄積があり得るからには、必ずそれは啻に生産物の増加のみならず価値の増加をも生むものである。一〇〇、〇〇〇磅ポンドの附加的資本を用いることによって、以前の資本のいかなる部分もより不生産的にはせしめられないであろう。国の土地と労働との生産物は増加しなければならず、そしてその価値は、以前の生産物量に対してなされた附加の価値だけ引上げられるのみならず、更にその最後の部分を生産する困難の増大によって土地の全生産物に与えられる新しい価値だけ引上げられるであろう。しかしながら、資本の蓄積が極めて大になる時には、この価値の騰貴にもかかわらず、それは、それは、以前よりも小なる価値が利潤に当てられ、他方地代及び労賃に向けられるものは増加されるというように、分配されるであろう。かくて資本に対して一〇〇、〇〇〇磅ポンドの附加がなされるごとに、二〇%から一九%に、一八%に、一七%に、一六%に、等と利潤率が下落するにつれて、年々得られた生産物は、量において増加し、それは二〇、〇〇〇磅ポンドから三九、〇〇〇磅ポンド以上に騰貴し、そして更に五七、〇〇〇磅ポンド以上に騰貴するであろう。そして、吾々が前に仮定した如くに、用いられる資本が一百万磅ポンドの時に、もし更に一〇〇、〇〇〇磅ポンドがそれに附加されかつ利潤の総額は以前よりも実際より低いとしても、それにもかかわらず六、〇〇〇以上が国の収入に附加されるであろうが、しかしそれが附加されるのは地主及び労働者の収入に対してであろう。彼らは附加的生産物よりもより多くを取得しそして彼らの地位によって、資本家の以前の利得をさえ侵し得るであろう。かくて、穀物の価格が一クヲタアにつき四磅ポンドであり、従って吾々の以前に計算した如くに、農業者が地代を支払った後彼れの手に残る七二〇磅ポンドごとにつき四八〇磅ポンドが彼れの手に留まり、そして二四〇磅ポンドが彼れの労働者に支払われるとせよ。価格が一クヲタアにつき六磅ポンドに騰貴する時には、彼はその労働者に三〇〇磅ポンドを支払いそして利潤としては単に四二〇磅ポンドをその手に留めるを余儀なくされるであろう。すなわち彼は、彼らをして以前とまさに同一量の必要品を消費し得せしめるために、彼らに三〇〇磅ポンドを支払うのを余儀なくされるであろう。さてもし用いられる資本が七二〇磅ポンドの十万倍七二、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドを生むほど大であるならば、小麦が一クヲタアにつき四磅ポンドである時は、利潤の総額は四八、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドであろう。そしてもしより大なる資本を用いることによって、小麦が六磅ポンドである時に、七二〇磅ポンドの一〇五、〇〇〇倍すなわち七五、六〇〇、〇〇〇磅ポンドが獲得されるならば、利潤は四八、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから四四、一〇〇、〇〇〇すなわち四二〇磅ポンドの一〇五、〇〇〇倍に下落し、そして労賃は二四、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから三一、五〇〇、〇〇〇磅ポンドに騰貴するであろう。労賃は資本に比例してより多くの労働者が用いられるであろうから騰貴するであろう。そして各労働者はより多くの貨幣労賃を受取るであろう。しかし労働者の境遇は、吾々の既に示した如くに、国の生産物のより少い分量しか彼が支配しない限り、より悪くなるであろう。唯一の真実の利得者は地主であろう。彼らはより高い地代を受取るであろうが、それはけだし第一に、生産物がより高い価値を有つであろうからであり、また第二に、彼らはその生産物の大いに増加された比例を得るであろうからである。
たとえより大なる価値が生産されたとしても、その価値の中から地代を支払って後に残るもののより大なる割合が生産者によって消費され、そして利潤を左右するものは、これでありかつこれのみである。土地が豊富に産出する間は、労賃は一時的に騰貴し、そして生産者は彼らの習慣となっている比例以上のものを消費し得よう。しかしかくて人口に対し与えらるべき刺戟は、急速に労働者を彼らの日常の消費にまで引下げるであろう。しかし貧弱な土地が耕作されるに至った時には、またはより以上の資本と労働とが旧い土地の上に投ぜられ、より少い生産物の報酬を齎す時には、その結果は永続的でなければならない。地代を支払った後に資本の所有者と労働者との間に分割されるべく残っている生産物部分のより大なる比例は後者に割当てられるであろう。各人はより少い絶対量を得るかもしれず、またおそらく得るであろう。しかし農業者の手に残る全生産物に比例してより多くの労働者が雇傭されるのであるから、全生産物のうちでより大なる部分の価値が労賃に吸収され、従ってより小なる部分の価値が利潤に向けられるであろう。このことは必然的に、土地の生産力を制限した自然の法則によって、永続的たらしめられるであろう。
かくて吾々はまたも、以前に吾々が樹立せんと企てたと同一の結論に到達する、――すなわち、すべての国及びすべての時において、利潤は、地代を生まないその土地においてまたはその資本をもって労働者に必要品を供給するに必要な労働量に依存する、ということこれである。しからば蓄積の結果は異る国においては異り、かつ主として土地の肥沃度に依存するであろう。その土地が貧しい質でありかつそこでは食物の輸入が禁止されている国が、いかに広大な面積を有とうとも、資本の最も適度な蓄積でさえ、利潤率の著しい減退と地代の急速な増加とを伴うであろう。そして反対に、小国ではあるが肥沃な国は、殊にもしそれが食物の輸入を自由に許すならば、利潤率の著しい減少も土地の著しい増加をも伴わずして、大なる資本を蓄積し得よう。労賃に関する章において吾々は、貨幣の本位たる金が我国の生産物であると仮定しても、またはそれが外国から輸入されると仮定しても、貨物の貨幣価格は労賃の騰貴によって騰貴せしめられないことを示さんと努めた。しかしもしそれがそうでないとしても、もし貨物の価格が永続的に高い労賃によって騰貴せしめられるとしても、高い労賃は常に、労働の雇傭者からその真実利潤の一部分を奪うことによって、彼らに影響を及ぼすと主張するこの命題は、その真実なることを害されないであろう。帽子製造業者と靴下製造業者と靴製造業者とが、彼らの貨物の特定分量の製造において各々一〇磅ポンドだけより多くの労賃を支払い、また帽子と靴下と靴との価格がこの製造業者に一〇磅ポンドを償うに足る額だけ騰貴したと仮定しても、彼らの境遇はかかる騰貴が何ら起らなかった場合よりもよりよいことは少しもないであろう。もしこの靴下製造業者が、彼れの靴下を一〇〇磅ポンドではなく一一〇磅ポンドで売ったとしても彼れの利潤は以前と正確に同一の貨幣額であろう。しかしながら彼はこの等しい額と交換に帽子や靴やその他のあらゆる貨物の十分の一だけより少い量を得、そして彼れの以前の貯蓄額をもっては騰貴せる労賃でより少い労働者しか用い得ずまた騰貴せる価格でより少い粗生原料品しか購買し得ないのであるから、彼はその貨幣利潤が実際額において減少し、そしてあらゆる物がその以前に留まっている場合よりもよりよい境遇にはいないであろう。かくて私は、第一に労賃の騰貴は貨物の価格を騰貴せしめないであろうが、しかし常に利潤を下落せしめるであろうということ、及び第二に、もしすべての貨物の価格が騰貴せしめられ得るとしても、しかも利潤に対する影響は同一であろうし、そして事実上、価格及び利潤を測定する媒介物の価値のみが下落せしめられるであろう、ということを、示さんと努めたのである。 
第七章 外国貿易について

 

(四六)いかなる外国貿易の拡張も、それは極めて有力に貨物量従って享楽品の数量を増加するに寄与するとはいえ、直ちに一国の価値額を増加することはないであろう(編者註)。すべての外国財貨の価値は、それと交換に与えられる我国の土地と労働との生産量の分量によって測られるのであるから、もし新市場の発見によって吾々が我国の財貨の一定量と交換して外国財貨の二倍の量を獲得するとしても、吾々は決してより大なる価値を有たないであろう。もし一、〇〇〇磅ポンドに当る英国財貨の販売によって、一商人が、英国市場において一、二〇〇磅ポンドで売ることが出来る外国財貨のある分量を獲得することが出来たとするならば、彼はその資本をかくの如く用いることによって二〇%の利潤を得るであろう。しかし彼れの利得にしろまたは輸入貨物の価値にしろ、取得される外国財貨の量が大なるか小なるかによって増減はされはしないであろう。例えば彼が二十五樽の葡萄酒を輸入しようとまたは五十樽を輸入しようと、もしある時には二十五樽が、また他の時には五十樽が、等しく一、二〇〇磅ポンドで売れるとしても、彼れの利益は何らの影響も蒙り得ないであろう。そのいずれの場合においても、同一の価値が英国に輸入されるであろう。もし五十樽が一、二〇〇磅ポンド以上に売れるならば、この商人個人の利潤は一般利潤率を超過するであろう、そして資本は当然にこの有利な事業に流入し、ついに葡萄酒の価格の下落が万事を以前の水準にまで齎すことであろう。
(編者註)この区別を十分に理解するためには、第二十章を参照せよ。
実に、外国貿易において特定商人が時に上げる大なる利潤は、その国における一般利潤率を高め、そして新しいかつ有利な外国貿易に携わるために資本を他の職業から引去ることは、一般に価格を高めかつそれによって利潤を増加するであろう、と主張され来っている。有力な権威者によって、より少い資本が、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴、等の製造に、必然的に向けられているならば、需要が引続き同一である間は、これらの貨物の価格は、農業者、帽子製造業者、織布業者、及び靴製造業者が外国商人と同様に利潤の増加を受けるに至るように、増加されるであろう、と云われている(註)。
(註)アダム・スミス、第一篇、第九章を見よ(訳者註――キャナン版第一巻九五頁)。
この議論を主張している者は、種々なる職業の利潤は相互に一致せんとする傾向があり、相共に増減する傾向がある、ということでは、私の云う所に一致する。吾々の相違点は次の一点に存する、すなわち彼らは、利潤の平等は利潤の一般的騰貴によって齎されるであろうと主張し、そして私は、有利な事業の利潤は急速に一般的水準に下降するであろうという意見なのである。
けだし第一に、私は、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴等の製造に、それらの貨物に対する需要が減少しない限り――そしてもし減少するならばその価格は騰貴しないであろう、――より少い資本が必然的に向けられるに至るべきことを、否定するからである。外国貨物の購買において、英国の土地及び労働の生産物の、同一の、より大なる、またはより小なる部分が、用いられるであろう。もし同一の分量がそれに用いられるならば、毛織布や靴や穀物や帽子に対しては以前と同一の需要が存在し、そして同一の資本部分がその生産に向けられるであろう。もし、外国貨物の価格がより低廉である結果として、英国の土地及び労働の年々の生産物より小なる部分が外国貨物の購買に当って用いられるならば、他の物の購買に対してはより多くが残るであろう。もし帽子、靴、穀物、等に対して以前よりもより大なる需要があるならば、――これは、外国貨物の消費者は彼らの自由に処分し得る収入の附加的部分を有つのであるから、あり得ることであろう、――それをもってより大なる価値の外国貨物が以前購買された所の資本もまた自由に処分し得ることとなる。従って穀物、靴、等に対する需要の増加と共に、供給の増加を達する手段もまた存在し、従って価格も利潤も永続的に騰貴することは出来ない。もし英国の土地及び労働の生産物のより多くが外国貨物の購買に用いられるならば、より少い額が他の物の購買に用いられ得るに過ぎず、従ってより少い帽子、靴、等が必要とされるであろう。資本が靴、帽子、等の生産から解放されると同時に、より多くが、それで外国貨物が購買される貨物の製造に用いられなければならない。従ってあらゆる場合において、外国及び内国の貨物に対する需要の合計は、価値に関する限りにおいて、国の収入及び資本によって限定される。もし一方が増加すれば他方は減少しなければならぬ。もし英国貨物の同一量と交換して輸入される葡萄酒の量が倍加されるならば、英国人は、彼らが以前に消費した二倍の量の葡萄酒を消費し得るか、または葡萄酒の同一量と英国貨物のより大なる分量とを消費し得る。もし私の収入が一、〇〇〇磅ポンドであり、それをもって私が年々一〇〇磅ポンドで葡萄酒一樽を、そして九〇〇磅ポンドで一定量の英国貨物を購買していたとするならば、葡萄酒が一樽につき五〇磅ポンドに下落した時には、私は支出しなかった五〇磅ポンドを、もう一樽の葡萄酒の購買に支出するかまたはより多くの英国貨物の購買に支出するであろう。もし私がより多くの葡萄酒を購買し、かつあらゆる葡萄酒飲用者が同様にしたならば、外国貿易は少しも乱されないであろう。英国貨物の同一分量が葡萄酒と交換に輸出され、そして吾々は葡萄酒の二倍の価値ではないが二倍の分量を受取るであろう。しかしもし私と他の者とが、以前と同一量の葡萄酒で満足するならば、より少い英国貨物が輸出され、そして葡萄酒飲用者は、以前に輸出されていた貨物を消費するか、または彼らが嗜好を有つある他のものを消費するであろう。その生産に必要とされる資本は、外国貿易から解放された資本によって供給されるであろう。
資本が蓄積される方法には、二つある、すなわち、それは収入の増加の結果として、または消費の減少の結果として貯蓄され得よう。もし私の利潤が一、〇〇〇磅ポンドから一、二〇〇磅ポンドに引上げられたが、私の支出は引続き同一であるならば、私は以前になしたよりも年々二〇〇磅ポンドだけより多く蓄積する、もし私が二〇〇磅ポンドを私の支出から節約するが、私の利潤は引続き同一であるならば、同一の結果が生み出され、すなわち一年につき二〇〇磅ポンドが私の資本に附加されるであろう。利潤が二〇%から四〇%に騰貴した後に葡萄酒を輸入した商人は、一、〇〇〇磅ポンドで彼れの英国財貨を購買せずして八五七磅ポンド二シリング一〇ペンスで購買しなければならぬが、これらの財貨と交換に輸入する葡萄酒は依然一、二〇〇磅ポンドで売っているのである。またはもし彼が引続きその英国財貨を一、〇〇〇磅ポンドで購買するならば彼れの葡萄酒の価格を一、四〇〇磅ポンドに引上げなければならない。彼はかくてその資本に対して二〇%ではなく四〇%の利潤を取得するであろう。もし、それに彼れの収入が費されるすべての貨物が低廉である結果、彼及びすべての他の消費者が、以前に費した一、〇〇〇磅ポンドごとに二〇〇磅ポンドの価値を節約し得るならば、彼らは国の真実の富をより有効に増加するであろう。一方の場合においては貯蓄は収入の増加の結果なされたものであり、他方の場合において支出の減少の結果なされたものであろう。
もし機械の導入により、収入がそれに費される貨物の大部分が価値において二〇%下落するならば、私は、私の収入が二〇%だけ増加したと同様に有効に貯蓄し得るであろう。しかし一方の場合においては利潤率は静止的であり、他方の場合においてはそれは二〇%騰貴せしめられているのである――もし低廉な外国財貨の導入により、私が二〇%だけ私の支出から節約し得るならば、その結果は、機会がその生産費を引下げた場合と正確に同一であろうが、しかし利潤は騰貴しないであろう。
従って、利潤率が騰貴するのは市場の拡張の結果ではない、たとえかかる拡張は貨物量を増加するには等しく有効であり、かつそれによって、吾々をして、労働の維持に向けられる基金、及びそれに労働が用いられる原料を増加し得しめるであろうとはいえ。吾々の享楽品が、労働のより良き分配により、また各国がその位置やその気候やその他の自然的なまたは人工的な利便のためにその生産に適当する貨物を生産することにより、かつそれを各国が他国の貨物と交換することにより、増加されることは、この享楽品が利潤率の騰貴によって増加されるのと同様に、人類の幸福にとり重要なことである。
利潤率は労賃の下落によってにあらずんば決して騰貴し得ず、かつそれに労賃が費される必要品の下落の結果としてにあらずんば労賃の永続的下落はあり得ないということを、本書全巻を通じて証明しようというのが、私の努力であった。従ってもし、外国貿易の拡張によりまたは機械の改良によって、労働者の食物及び必要品が低減せる価格で市場に齎され得るならば、利潤は騰貴するであろう。もし、吾々自身の穀物を栽培しまたは労働者の衣服その他の必要品を製造する代りに、吾々が、そこからより低廉な価格でそれを得ることの出来る新市場を発見するならば、労賃は下落しそして利潤は騰貴するであろう。しかしもし、外国商業の拡張によりまたは機械の改良によって、より低廉な率で取得される貨物が、もっぱら富者によって消費される貨物であるならば、利潤率には何らの変動も起らないであろう。葡萄酒や天鵞絨ビロードや絹やその他の高価な貨物が五〇%下落しても、労賃率は影響を受けず、従って利潤は引続き変動しないであろう。
かくて外国貿易は、それに収入が費される物の分量と種類とを増加し、そして貨物の豊富と低廉とによって、節約並びに資本の蓄積に対して刺戟を与えるから、一国にとり極めて有利ではあるが、輸入貨物がそれに労働の労賃が費される種類のものでない限り、資本の利潤を引上げる傾向を有たないであろう。
外国貿易についてなされた叙述は内国商業にも同様に妥当する。利潤率は、労働のより良き分配により、機械の発明により、道路及び運河の建設により、または財貨の製造か運搬かにおける労働を節約する手段によっては、決して増加されない。これらのものは価格に作用を及ぼす原因ではあり、そして必ずや消費者に極めて有利なものである、けだしそれは彼らをして、同一の労働をもって、または同一の労働の生産物の価値をもって、それに改良が加えられた貨物のより大なる分量を交換して取得し得せしめるからである。しかしそれは利潤に対しては何らの影響も及ぼさない。他方において、労働の労賃のあらゆる減少は利潤を高めるが、しかし貨物の価格に対しては何らの影響をも生み出さない。一方はすべての階級にとり有利であるが、それはすべての階級は消費者であるからである。他方は生産者にとり有利であるのみである。彼らはより多く利得する、しかしあらゆる物は引続きその以前の価格にあるのである。第一の場合においては彼らは以前と同じものを得る、しかしそれに彼らの利得が費されるあらゆる物は、交換価値において減少しているのである。 
(四七)一国における貨物の相対価値を左右すると同一の規則は、二つまたはそれ以上の国の間に交換される貨物の相対価値を左右しはしない。
完全な自由貿易の制度の下においては、各国は当然にその資本及び労働を各々にとり最も有利な職業に向ける。この個人的利益の追求は全体の普遍的幸福と驚嘆すべきほどに結びついている。勤労を刺戟し、器用さに報酬を与え、かつ自然の与える力を最も有効に使用することによって、それは最も有効にかつ最も経済的に労働を分配し、他方、生産物総量を増加することによって、それは一般的便益を公布し、そして利益と交通という一つの共通の紐帯によって、文明世界を通じて諸国民の普遍的社会を結成する。葡萄酒はフランス及びポルトガルにおいて造らるべく、穀物はアメリカ及びポウランドにおいて栽培さるべく、かつ金物その他の財貨は英国において製造せらるべきである、ということを決定する所のものは、この原理である。
同一国内においては、利潤は、一般的に言えば、常に同一の水準にあり、または資本の用途の安固と快適との大小に従って異るのみである。異れる国の間ではそうではない。
もしヨオクシアにおいて用いられている資本の利潤が、ロンドンにおいて用いられている資本のそれを超過するならば、資本は急速にロンドンからヨオクシアに移動し、そして利潤の平等が達せられるであろう。しかしもし資本及び人口の増加によって英国の土地における生産率の減少せる結果、労賃が騰貴しそして利潤が下落しても、資本及び人口が必然的に英国から、利潤のより高いオランダやスペインやロシアへ移動するということには、ならないであろう。
もしポルトガルが他国と何らの商業関係をも有たないならば、この国は、その資本及び勤労の大部分を、葡萄酒――それをもってこの国は他国の毛織布や金物を自国自身の使用のために購買するのであるが、――の生産に用いずに、その資本の一部をかかる貨物のの製造に向けざるを得ないであろうが、かくてこの国はおそらく質並びに量において劣れるものを取得することになろう。
この国が英国の毛織布と交換に与えるであろう葡萄酒の分量は、もし双方の貨物が英国において製造されるかまたは双方がポルトガルにおいて製造される場合の、その各々の生産に投ぜられる労働の各分量によっては、決定されない。
英国は、毛織布を生産するに一年間に一〇〇名の人間の労働を必要とする状態にあるであろう。そしてもしこの国が葡萄酒を造ろうと企てるならば、同一期間に一二〇名の人間の労働を必要とするであろう。英国は従って、葡萄酒を輸入し、そしてそれを毛織布の輸出によって購買するのが、その利益であることを見出すであろう。
ポルトガルにおいて葡萄酒を生産するには一年間に単に八〇名の労働を必要とするのに過ぎぬであろうし、また同一国において毛織布を生産するには、同一期間に九〇名の労働を必要とするであろう。従ってこの国にとっては、毛織布と交換に、葡萄酒を輸出するのが有利であろう。ポルトガルが輸入する貨物が、英国におけるよりそこでより少い労働をもって生産され得るにもかかわらず、この交換はなお行われるであろう。この国が九〇名の労働をもって毛織布を製造し得ても、この国はそれを生産するに一〇〇名の労働を必要とする国から、それを輸入するであろう、けだしこの国にとって、その資本の一部分を葡萄の栽培から毛織布の製造に移すことによって生産し得るよりもより多くの毛織布を英国から取得するであろうところの、葡萄酒の生産に、その資本を用いる方が、むしろ有利であるからである。
かくて英国は、八〇名の労働の生産物に対して、一〇〇名の労働の生産物を与えるであろう。かかる交換は同一国の個人の間では起り得ないであろう。一〇〇名の英国人の労働は、八〇名の英国人のそれに対して与えられ得ない、しかし一〇〇名の英国人の労働の生産物は、八〇名のポルトガル人の、六〇名のロシア人の、または一二〇名の東印度人の労働の生産物に対して、与えられ得よう。一国と多くの国との間のこの点に関する相違は、資本がより有利な職業を求めて一国から他国に移動する困難と、同一国において資本が常に一つの地方から他の地方に移る敏速さとを考慮すれば、容易に説明されるのである(註)。
(註)しからば、機械及び技術に極めて著しい便益を有し、従ってその隣国よりも極めてより少い労働をもって貨物を製造し得る国は、たとえその土地がより肥沃であり、そしてそこから穀物を輸入する国におけるよりも、より少い労働をもって穀物が栽培され得るとしても、その消費のために必要とされる穀物の一部分を製造貨物と引換に輸入するであろう。二名の人が共に靴と帽子とを造ることが出来、そして一方はこの両職業において他方に優越しているとし、ただし帽子を造る上では、彼はその競争者に単に五分の一すなわち二〇%優れているに過ぎず、そして靴を造る上では、彼は競争者に三三%優れているとする、――優越せる人はもっぱら靴の製造に従事し、そして劣れる人は帽子の製造に従事するというのが、双方の利益ではないであろうか?
英国の資本家と両国の消費者にとっては、かかる事情の下においては、葡萄酒と毛織布との双方がポルトガルにおいて造られ、従って毛織布の製造に用いられている英国の資本と労働とがその目的のためにポルトガルへ移されるのが、疑いもなく有利であろう。その場合には、これらの貨物の相対価値は、一方がヨオクシアの産物であり他方がロンドンの産物である場合と、同一の原理によって左右されるであろう。そしてあらゆる他の場合において、もし資本が最も有利に用いられ得る国へ自由に流入するならば、利潤率の差違はあり得ず、また貨物が売却されるべき種々なる市場へそれを運搬するに必要な労働量の附加以外の、貨物の真実価格すなわち労働価格の差違はあり得ないであろう。
しかしながら経験は、その所有者の直接的統制下にない時の資本の想像上のまたは真実の不安固と、並びにあらゆる人が自ら生れかつ諸関係を有っている国を棄てて彼れの固定せる習慣の一切を持ちながら異る政府と新しい法律とに身を委ねることを嫌う自然的性情は、資本の移出を妨げるものであることを、示している。かかる感情は、私はそれが弱められるのは遺憾なことと思うが大部分の財産家をして、外国民の間で彼らの富に対するより有利な用途を求めるよりもむしろ、自国内で低い利潤率に満足せしめるのである。 
(四八)金と銀は流通の一般的媒介物に選ばれているから、それらは商業上の競争によって、もしかかる金属が存在せずかつ諸国間の貿易が純粋に物々交換である場合に発生すべき自然的交易に適応する如き比例において、世界の種々なる国々の間に分配されている。
かくて毛織布は、ポルトガルにおいてはその輸出国において値するよりもより多くの金に対して売れない限り、ポルトガルに輸入され得ない。そして葡萄酒は、英国においてはそれがポルトガルにおいて値するよりもより多くに対して売れない限り、英国には輸入され得ない。もし貿易が純粋に物々交換であるならば、英国が葡萄を栽培するよりも毛織布を製造することによって、一定量の労働をもってより大なる分量の葡萄酒を取得するほどに毛織布を低廉に製造し得る間だけ、そしてまたポルトガルの産業が反対の結果を伴う間だけ、それは継続し得るであろう。さて英国が葡萄酒製造の一行程を発見し、そのためにそれを輸入するよりもそれを造った方がその利益となったと仮定しよう。この国は当然その資本の一部分を外国貿易から内国商業に移すであろう。この国は輸出のための毛織布の製造を止め、自ら葡萄酒を造るであろう。これらの貨物の貨幣価格はこれにつれて左右されるであろう。我国においては葡萄酒は下落するであろうが、毛織布はその以前の価格に止っているであろうし、またポルトガルにおいてはいずれの貨物の価格にも何らの変動も起らないであろう。毛織布は引続きある時期の間我国から輸出されるであろうが、それはけだしその価格が、我国よりもポルトガルにおいて引続きより高いからである。しかし葡萄酒の代りに貨幣がそれと交換に与えられついに我国における貨幣の蓄積と外国におけるその減少とが、両国における毛織布の相対価値に影響を及ぼし、ためにその輸出がもはや有利ではなくなるに至るであろう。もしも葡萄酒製造上の改良が極めて重要なる種類のものであるならば、両国にとり職業を交換することが有利となり、英国にとっては両国が消費するすべての葡萄酒を、ポルトガルにとっては両国が消費するすべての毛織布を、製造することが有利となるであろう。しかしこのことは、英国においては毛織布の価格を引上げポルトガルにおいてはそれを引下げるべき貴金属の新たな分配、によってのみなされるであろう。葡萄酒の相対価格はその製造上の改良から起る真実の利益の結果として英国において下落するであろう。換言すればその自然価格は下落するであろう。毛織布の相対価格は貨幣の蓄積により英国において騰貴するであろう。
かくて、英国における葡萄酒製造の改良の前に、葡萄酒の価格が我国において一樽につき五〇磅ポンドであり、そして一定分量の毛織布の価格が四五磅ポンドであり、他方ポルトガルにおいては、同一量の葡萄酒の価格は四五磅ポンドであり、そして同一量の毛織布のそれは五〇磅ポンドであると仮定すれば、葡萄酒は五磅ポンドの利潤をもってポルトガルから輸出され、そして毛織布は同一額の利潤をもって英国から輸出されるであろう。 
(四九)改良の後に、葡萄酒は英国において四五磅ポンドに下落し、毛織布は引続き同一の価格にあると仮定せよ。商業におけるあらゆる取引は独立の取引である。一商人が英国において毛織布を四五磅ポンドで買いかつポルトガルにおいてそれを通常の利潤をもって売ることが出来る間は、彼れは引続き英国からそれを輸出するであろう。彼れの営業は単に、英国の毛織布を購買し、そして彼がポルトガルの貨幣をもって買入れる為替手形でそれに対し支払をなすことである。彼れの取引は疑いもなく、彼がそれによってこの手形を取得し得る条件によって左右されるが、しかしその条件はその時彼に判っている。そして手形の市場価格、すなわち為替相場に影響を及ぼすべき原因は、彼れの関せぬ所である。
もし市場がポルトガルから英国への葡萄酒の輸出にとり有利であるならば、葡萄酒の輸出業者は手形の売手となり、その手形は毛織布の輸入業者かまたは、彼にその手形を売った人かによって、買われるであろう。かくして貨幣がそのいずれの国からも移動する必要なしに、各国の輸出業者はその財貨に対して支払を受けるであろう。相互に何らの直接的取引関係をも有たないのに、毛織布の輸入業者がポルトガルにおいて支払う貨幣は、ポルトガルの葡萄酒輸出業者に支払われるであろう。そして英国においては同一の手形の授受によって、毛織布の輸出業者は葡萄酒の輸入業者からその価値を受取る権限を与えられるであろう。
しかしもし葡萄酒の価格が、葡萄酒が全然英国に輸出され得ないという程度であっても、毛織布の輸入業者は等しく手形を買うであろう。しかしその手形の売手が、それによって彼が終局的に二国間の取引を決済し得る所の出合手形が市場に無いことを知っているから、その手形の価格はより高くなるであろう。彼は、英国の取引先をして自己が彼に権能を与えた支払の要求に対し支払し得せしめるために、取引先に実際に輸出しなければならないことを、知っているであろう、従って彼は、彼れの手形の価格の中に、彼れの正当にして普通なる利潤と共に、一切の諸掛を請求するであろう。
かくてもし英国宛手形に対するこの打歩が毛織布の輸入に対する利潤に等しいならば、この輸入はもちろん止むであろう。しかしもしこの手形に対する打歩が二%に過ぎず、英国における一〇〇磅ポンドの債務を支払い得るためにポルトガルにおいて一〇二磅ポンドを支払わなければならぬけれども、四五磅ポンドを費した毛織布が五〇磅ポンドで売れるならば、毛織布は輸入され、手形は買われ、そして貨幣は輸出され、ついにポルトガルにおける貨幣の減少と英国におけるその蓄積とがかかる取引を続けるのがもはや有利でなくなるような価格の状態を生み出すに至るであろう。
しかし一国における貨幣の減少と及び他国におけるその増加とは、一貨物の価格に影響するばかりでなく、すべての貨物の価格に影響を及ぼし、従って、葡萄酒と毛織布との双方の価格は英国において高められ、そして双方はポルトガルにおいて低下せしめられるであろう。毛織布の価格は、一方の国においては四五磅ポンド他方の国においては五〇磅ポンドであるのが、おそらくポルトガルにおいては四九磅ポンドまたは四八磅ポンドに下落し、また英国においては四六磅ポンドまたは四七磅ポンドに騰貴し、そして手形に対する打歩を支払った後にはその貨物の輸入を商人に誘うに足るほどの利潤を与えないであろう。
各国の貨幣が、有利な物々貿易を左右するに必要である如きかかる分量においてのみ、それに割当てられるのはかくの如くにしてである。英国は葡萄酒と交換に毛織布を輸出したが、それはかくすることによってその産業が英国にとりより生産的にされたからである。そしてポルトガルは毛織布を輸入し、そして葡萄酒を輸出したが、それはポルトガルの産業は葡萄酒を生産することによって両国にとってより有利に用いられ得たからである。 
(五〇)英国において毛織布を生産するに、またはポルトガルにおいて葡萄酒を生産するに、より多くの困難があるとせよ、あるいは英国において葡萄酒を生産するに、またはポルトガルにおいて毛織布を生産するに、より多くの利便があるとせよ、しかる時は貿易は直ちに止むであろう。
ポルトガルの事情には何らの変化も起らないが、しかし英国は、葡萄酒の製造にその労働をより生産的に用い得ることを見出したとすれば、直ちに二国間の物々貿易は変化する。啻にポルトガルからの葡萄酒の輸出が停止されるばかりでなく、更に貴金属の新しい分配が起り、そして英国の毛織布の輸入もまた妨げられる。
両国はおそらく、それ自身の葡萄酒とそれ自身の毛織布とを造るのが彼らの利益であることを見出すであろう、だが次の奇妙な結果が起ることであろう、すなわち英国においては、葡萄酒はより低廉になるであろうが毛織布は価格騰貴し、それに対し消費者はより多くを支払うであろう、しかるにポルトガルにおいては、毛織布と葡萄酒との両者の消費者はそれらの貨物をより低廉に購買し得るであろう。改良のなされた国においては価格は騰貴するであろう。何らの変化も起らなかったがしかし外国貿易の有利な部門を奪われた国においては価格は下落するであろう。
しかしながらこのことはポルトガルにとり単に見かけの上での利益に過ぎない、けだしその国において生産される毛織布と葡萄酒との分量の合計は減少されるであろうが、英国において生産される分量は増加されるであろうからである。貨幣は二国においてある程度においてその価値を変化するであろう。それは英国においては低められ、ポルトガルにおいては高められるであろう。貨幣で測ればポルトガルの全収入は減少し、同じ媒介物で測れば英国の全収入は増加するであろう。
かくて、ある国における製造業の改良は、世界の諸国民間の貴金属の分配を変更する傾向があるように思われる。それは、改良が行われる国における一般物価を引上げると同時に、貨物の分量を増加する傾向があるのである。 
(五一)問題を簡単にするために、私は、二国間の貿易は二つの貨物――葡萄酒と毛織布――に限られるものと仮定して来た。しかし多くのかつ種々なる財貨が輸出入品表にあることは、人の知る所である。一国から貨幣を引去りそれを他国において蓄積することによって、あらゆる貨物は価格において影響を蒙り、従って貨幣の他の遥かにより多くの貨物の輸出に奨励が与えられ、従ってこのことは、しからざれば起るものと期待すべきほどの大なる結果が二国における貨幣価値に起るのを、妨げるであろう。
技術及び機械における改良の他に、貿易の自然的通路に常に作用しており、かつ均衡及び貨幣の相対価値を乱す所の、種々なる他の原因がある。輸出奨励金または輸入奨励金、貨物に対する新しい租税は、時にはその直接のまた他の時にはその間接の作用によって、自然的物々貿易を紊みだし、かつその結果として、物価を商業の自然的通路に適応させるために貨幣を輸入しまたは輸出することを必要ならしめる。そしてこの結果は、啻に混乱原因が起った国においてのみならず、更にまたその程度は多かれ少かれ、商業界のあらゆる国においても、生み出されるのである。
このことはある程度において、異れる国において貨幣価値の異ることを説明するであろう。それは、内国貨物及び比較的小なる価値を有つものではあるが嵩高かさだかの貨物の価格が、他の原因とは無関係に、製造業の栄えている国においてより高い理由を吾々に説明するであろう。正確に同一の人口と等しい肥沃度の耕地の同一量とを有ち、また同一の農業知識を有つ、二国の中で、輸出貨物の製造により大なる熟練とより良い機械とが用いられている国においては粗生生産物の価格が最高であろう。利潤率はおそらくほとんど異らないであろう。けだし労働者の労賃または真実の報酬は両国において同一であろうからである。しかしこの労賃は粗生生産物と同様に、その技術と機械とに伴う利益によって豊富な貨幣がその財貨と交換して輸入される国においては、貨幣においてはより高く測られるであろう。
これら二国の中、もし一方はある質の財貨の製造に得点を有ち、そして他方はある他の質の財貨の製造に得点を有つとすれば、そのいずれにも多くの貴金属流入はないであろう。しかしもしそのいずれかの有つ得点が他方に甚しく優越するならば、この結果は避け得ないであろう。
本書の前の部分において吾々は、議論の便宜上、貨幣は常に引続き同一の価値を有つものと仮定した。吾々は今や貨幣の価値の通常の変動と全商業界に共通な変動との以外に、貨幣が特定の国において蒙る部分的変動もあることを説明しそして実際(編者註)、貨幣価値はそれが現在しかるが如くに、相対的課税に製造上の熟練に、気候や自然的産物やその他多くの原因に関する利便に、依存するものであるから、ある二国において決して同一ではないことを、説明しようと努めているのである。
(編者註)原書に to fact とあるのは in fact の誤植であろう。 
(五二)しかしながら、貨幣はかかる不断の変動を蒙り、従って大部分の国に共通な貨物の価格もまたかなりの相違を免れないであろうけれども、しかも貨幣の流入によっても流出によっても、利潤率には何らの結果も生み出されないであろう。資本は、流通の媒介物が増加されたからとて、増加されないであろう。もし農業者がその地主に支払う地代とその労働者に支払う労賃とが、ある国においては他国よりも二〇%だけより高く、またもし同時に、農業者の資本の名目価値が二〇%だけより多くなったとすれば、彼がその粗生生産物を二〇%だけ高く売っても、彼は正確に同一の利潤率を受取るであろう。
利潤は――これはいくら繰返しても繰返し過ぎるということはないが――労賃に、名目労賃でなく真実労賃に、労働者に年々支払われる貨幣量ではなくこの貨幣量を得るに必要な日労働数に依存する(訳者註)。従って労賃は二国において正確に同一であろう。これらの国の一方においては労働者は一週につき十シリングを受取り、他方において十二シリングを受取るとも、それは地代及び土地から得られる全生産物に対して同一の比例を有つであろう。
(訳者註)傍点は編者の施せる所である。
製造業がほとんど進歩しておらず、そしてすべての国の生産物がほとんど類似していて、嵩高なかつ最も有用な貨物から成っている所の、社会の初期の段階においては、異れる国における貨幣価値は、主として貴金属を供給する鉱山からのその距離によって左右されるであろう。しかし、社会の技術と改良とが進歩し、そして異る国民が特定の製造業において優越するに従って、距離はなお計算には入るであろうけれども、貴金属の価値は主としてそれらの製造業の優越によって左右されるであろう。
あらゆる国民が単に穀物や家畜や粗布のみを生産し、そして金がそれらの貨物を生産する国またはかかる国を征服している国から取得され得るのは、かかる貨物の輸出によってのみであると仮定するならば、金は当然に、英国におけるよりもポウランドにおいてより大なる交換価値を有つであろうが、それは穀物の如き嵩高な貨物をより遠い航海で送ることの費用のより大なるためであり、また金を金をポウランドへ送ることに伴う費用のより大なるためである。
金の価値のこの相違は、――または同じことであるが――この二国における穀価のこの相違は、英国において穀物を生産する便益が、土地のより大なる肥沃度と労働者の熟練及び器具における優越によって、ポウランドのそれよりも遥かにより以上であっても、なお存在するであろう。
しかしながらもしポウランドが最初にその製造業を改良するならば、もしこの国が、小なる容積中に大なる価値を含む所の一般に欲求される貨物を製造することに成功するならば、またはもしこの国のみが、一般に欲求されかつ他国が所有せぬある自然的生産物に恵まれているならば、この国は、この貨物と交換に金の附加的分量を取得するであろうが、それはこの国の穀物や家畜や粗布の価格に影響を及ぼすであろう。遠距離という不利益は、おそらく、大なる価値を有つ輸出貨物を有つという利益によって相殺されて余りあるであろう、そして貨幣は英国におけるよりもポウランドにおいて永続的により低い価値を有つであろう。もし反対に、技術及び機械の利益が英国によって所有されるならば、何故なにゆえに金がポウランドにおけるよりも英国においてより少い価値を有ち、かつ何故なにゆえに穀物や家畜や衣服が英国においてより高い価格にあるのかについての、もう一つの理由が、以前に存在した理由に附加されるであろう。
以上が世界の異る国における比較的貨幣価値を左右するただ二つの原因であると私は信ずる。けだし、課税は貨幣の平衡を攪乱するけれども、それは課税されている国から、熟練、勤労、及び気候に伴う利益のあるものを奪うことによって、攪乱するのであるからである。
貨幣の低き価値と、穀物その他の貨幣がそれと比較される貨物の高き価値とを、注意深く区別しようというのが、私の努力であった。この両者は、一般的には、同じことを意味するものと考えられ来った。しかし、穀物が一ブッシェルにつき五シリングから十シリングに騰貴する時には、それは貨幣価値の下落かまたは穀物の価値の騰貴かによるものであろうことは、明かである。かくて吾々は、増加しつつある人口を養わんがために逐次ますますより劣れる質の土地に頼らねばならぬ必要によって、穀物は他の物に対する相対価値において騰貴しなければならない、ということを見た。従ってもし引続き永続的に同一の価値を有つならば、穀物はかかる貨幣のより多くと交換され、換言すればそれは価格において騰貴するであろう。同一の穀価の騰貴は、吾々をして特殊の利便をもって貨物を造るを得せしめるべきような製造業の機械の改良によっても、惹起されるであろうが、それはけだし、貨幣の流入がその結果として起るであろうからである。それは価値において下落し、従ってより少い穀物と交換されるであろう。しかし穀物の高き価格の結果起る諸結果は、それが穀価の騰貴によって惹起された場合と貨幣価値の下落によって惹起された場合とでは、全然異っている。双方の場合において労賃の貨幣価格は騰貴するであろうが、しかしもしそれが貨幣価値の下落の結果であるならば、単に労賃及び穀物のみならず、更にすべての他の貨物も騰貴するであろう。製造業者は労賃としてより多くを支払わなければならぬとしても、彼れの製造財貨に対し彼はより多くを受取り、そして利潤率は依然影響を受けないであろう。しかし穀価の騰貴が生産の困難の結果である時には、利潤は下落するであろう、けだし製造業はより多くの労賃を支払うを余儀なくされ、そして彼れの製造貨物の価格の引上げによって補償を得ることが出来ないであろうから。 
(五三)鉱山採掘の便宜における進歩によって貴金属類がより少い労働をもって生産され得るに至るならば、貨幣価値は一般に下落するであろう。その時にはそれはすべての国においてより少い貨物と交換されるであろう。しかしある特定の国が製造業において優越し、そのためその国への貨幣の流入が惹起される時には、その国においては他の国におけるよりも貨幣はより低く、そして穀物及び労働の価格は相対的により高いであろう。
このより高い貨幣価値は為替相場によっては表示されないであろう。手形は、一つの国においては他国よりも穀物及び労働の価格が一〇%、二〇%、または三〇%だけより高くあっても、引続き額面で授受されるであろう。仮定された事情の下においてはかかる価格の差異は事理の当然であり、そして為替相場は、製造業に優越する国に十分な分量の貨幣が導入され、ためにその国の穀物及び労働の価格が引上げられる時においてのみ、平価にあり得るのである。もし外国が貨幣の輸出を禁止し、そしてかかる法律の遵守を強制することに成功するならば、その国は実際は、製造業国の穀物及び労働の価格騰貴を妨げ得るであろう。けだし、紙幣が用いられていないと仮定すれば、かくの如き騰貴は、貴金属の流入の後にのみ起り得るからである。しかしそれは為替相場がその国に著しく逆となるのを防ぎ得ないであろう。もし英国がこの製造業国であり、そして貨幣の輸入を妨げ得るとすれば、フランス、オランダ、及びスペインとの為替相場は、これらの国々に対して五%、一〇%、または二〇%逆になるであろう。
貨幣の流通が強制的に停止され、そして貨幣がその正当な水準に落着くことを妨げられる時には、いつでも、為替相場の起り得べき変動には限りがない。その結果は持参人の要求に応じて正金と兌換され得ない紙幣が強制的に流通せしめられる時に随伴するものと同様である。かかる通貨は必然的に、それが発行される国に限定される。すなわちそれは過多の時といえども、一般に他国へは普及され得ない。流通の水準が破壊され、そして為替相場は不可避的に、紙幣量が過剰なる国に対し逆となるであろう。貿易の流れが貨幣に国外流出の動因を与えた時に、もし強制的な手段により遁のがれ得ざる法律によって貨幣が一国に留置かれるならば、金属貨幣流通の結果も右の紙幣の場合と同様であろう。
各国がその当然有つべき貨幣量を正確に有っている時においても、多くの貨物についてそれは五%か一〇%かまたは二〇%も異っていようから、貨幣は実際その各々において同一の価値を有たないであろうが、しかし為替相場は平価であろう。英国における一〇〇磅ポンド、または一〇〇磅ポンドに含まれている銀は、フランスやスペインやオランダにおいて、一〇〇磅ポンドの手形、または同一量の銀を購買するであろう。
為替相場及び異る国における貨幣の比較価値を論ずるに当って、吾々は決して、その各国において貨物において評価された貨幣の価値に関説してはならない。為替相場は、穀物、毛織布、またはいかなる貨物において貨幣の比較価値を評価しても、確かめられるものではなく、それは一国の通貨の価値を他国の通貨において評価することによって確かめられるものである。
それはまた、それと両国に共通なある標準に比較することによっても、確かめられ得よう。もし一〇〇磅ポンドの英国宛手形がフランスかスペインにおいて、同額のハムブルグ宛手形が購買すると同一量の財貨を購買するならばハムブルグと英国との間の為替相場は平価である。しかしもし一三〇磅ポンドの英国宛手形が、一〇〇磅ポンドのハムブルグ宛手形と同じだけを購買するに過ぎないならば、為替相場は英国に対し三〇%逆である。
英国において一〇〇磅ポンドは、オランダにおいて一〇一磅ポンド、フランスにおいて一〇二磅ポンド、及びスペインにおいて一〇五磅ポンドを受取る権利、すなわち手形を購買し得よう。その場合には英国との為替相場は、オランダにとり一%逆、フランスにとり二%逆、そしてスペインにとり五%逆、と言われる。それは、これらの国においては通貨の水準が当然あるべきよりもより高いことを示すものであり、そして英国のそれは、これらの国から通貨を引出すかまたは英国の通貨を増加せしめることによって、直ちに平価に囘復されるであろう。
我国の通貨が最近十年間減価し、その間に為替相場は我国に二〇ないし三〇%逆となった、と主張した人々も、貨幣は一国において、種々なる貨物との比較において、他国におけるよりもより大なる価値を有ち得ないとは――彼らはかく主張したと非難されているが、――主張したのでは決してない。彼らは、一三〇磅ポンドが、ハムブルグまたはオランダの貨幣で評価して、一〇〇磅ポンドに含まれる地金よりもより多くの価値を有たない時には、それが減価せられざる限り、それは英国に留置され得ない、と主張したのである。
一三〇磅ポンドの純良な英国磅ポンド貨幣をハムブルグへ送ることによって、五磅ポンドの費用を要しても、私はハムブルグで一二五磅ポンドを得るであろう。しからばハムブルグにおいて一〇〇磅ポンドを私に与える手形に対し一三〇磅ポンドを支払うことを私に承諾せしめるものは、私の磅ポンドが純良な磅ポンド貨幣でないということ以外の理由で有り得ようか? ――私の磅ポンドは減価せられたのであり、その内在価値においてハムブルグの磅ポンド貨幣以下に低下せしめられたのであり、そしてもし実際五磅ポンドの費用でその地へ送られるならば一〇〇磅ポンドにしか売れぬであろう。金属磅ポンド貨幣をもってすれば私の一三〇磅ポンドはハムブルグにおいて私に一二五磅ポンドを与えるであろうが、しかし磅ポンド貨幣をもってすれば私は単に一〇〇磅ポンドを取得し得るに過ぎないということは、否定されていないが、しかし紙幣での一三〇磅ポンドは銀または金での一三〇磅ポンドと等しい価値を有つ、と主張されたのである。
ある人々は実際紙幣での一三〇磅ポンドは金属貨幣での一三〇磅ポンドと等しい価値を有たないと主張したが、それはより正当である。しかし彼らはその価値を変じたのは金属貨幣であって紙幣ではないと云った。彼らは、減価なる語の意味を実際の価格下落の場合に限定しようと欲し、そして貨幣の価値と法律によってそれを定める本位との比較的差違に限定しようとは欲しなかった。英国貨幣の一〇〇磅ポンドは以前にはハムブルグ貨幣の一〇〇磅ポンドと等しい価値を有ち、そしてこれを購買することが出来た。他のいかなる国においても、英国宛またはハムブルグ宛の一〇〇磅ポンド手形は、正確に同一量の貨物を購買することが出来た。近頃は同一の物を取得するために、ハムブルグはハムブルグ貨幣の一〇〇磅ポンドでそれを取得することが出来たのに、私は英国貨幣の一三〇磅ポンドを支払うを余儀なくされた。かくてもし英国の貨幣は以前と同一の価値を有つならば、ハムブルグの貨幣が価値において騰貴したのに相違ない。しかしどこにこのことの証拠があるか? 英国の貨幣が下落したのかまたはハムブルグの貨幣が騰貴したのかは、いかにして確かめらるべきであるか? このことを決定し得る標準は無い。それは証拠を許さない推測であり、そして積極的に肯定することもまた積極的に否定することも出来ない。世界の諸国民は、夙つとに早くから、誤りなくそれに頼り得る価値の標準は本来ないことを確信しているに相違なく、従って彼らは、大体において他のいかなる貨物よりも変動しないように彼らに思われた媒介物を、選んだのである。
法律が変更されるまで、そしてある他の貨物――その使用によって吾々が樹立した標準よりもより完全な標準を取得すべき所の貨物――が発見されるまで、吾々はこの標準に従わなければならない。金が我国においてもっぱら標準である間は、金が一般価値において騰貴すると下落するとにかかわらず、磅ポンド貨幣が本位たる金の五ペニウェイト三グレインと等しい価値を有たない時には、貨幣は減価されていることになるであろう。 
第八章 租税について

 

(五四)租税とは、一国の土地及び労働の生産物の中、政府の処分に委ねられた所の一部分であり、そして常に終局においては、一国の資本かまたは収入かから支払われるものである。
吾々は既にいかにして一国の資本が、その耐久性の多少に従って、固定資本かまたは流動資本かになることを示した。流動資本と固定資本との区別がどこから始まるかを、厳密に定義するのは困難であるが、それはけだし資本の耐久力にはほとんど無限の各程度があるからである。一国の食物は少くとも毎年一度は消費されかつ再生産される。労働者の衣服は、おそらく二年以内に消費されかつ再生産されはしないであろう。しかるに彼れの家屋や什器は十年または二十年の間耐えるものと計算されている。
一国の年々の生産がその年々の消費を代置して余りある時には、それはその資本を増加せしめると言われる。その年々の消費が少くともその年々の生産によって代置されない時には、それはその資本を減少すると言われる。従って資本は、生産の増加によりまたは不生産的消費の減少によって、増加され得よう。
もし政府の消費が附加的税の賦課によって増加された時に、人民の側における生産の増加かまたは消費の減少かがあるならば、租税は収入の負担する所となり、そして国民資本は何らの害を蒙らないであろう。しかしもし人民の側において生産の増加または不生産的消費の減少がないならば、租税は必然的に資本の負担する所となり、換言すれば、それは生産的消費に当てられた資金を害するであろう(註)。
(註)一国のすべての生産物は消費されるが、しかしそれが、再生産する者によって消費されるか、または他の価値を再生産しない者によって消費されるかは、想像し得る最大の相違をなすものであることを、理解しなければならない。吾々が、収入が貯えられそして資本に附加される、と言う時には、吾々の意味する所は、資本に附加されると言われる収入の部分が、不生産的労働者ではなく生産的労働者によって消費される、ということである。資本は非消費によって増加されると想像するよりもより大なる誤謬はあり得ない。もしも労働の価格が、資本の増加にもかかわらず、より多くの労働を雇い得ないほど騰貴したならば、私は、かかる資本の増加はなお不生産的に消費されるであろう、と言わなければならない。
一国の資本が減少するに比例して、その生産物は必然的に減少するであろう。従って、もし人民の側と政府の側とにおける同一の不生産的支出が続くのに、年々の再生産が不断に減少して行くならば、人民と国家との資源は加速度的に失われ、そして惨苦と破滅とがそれに随伴するであろう。
過去二十年間(編者註)における英国政府の莫大な支出にもかかわらず、人民の側における生産の増加がこれを償って余りあったことは、ほとんど疑い得ない。国民資本が啻に害されなかったのみならず、それはまた大いに増加され、そして人民の年々の収入は、その租税を支払った後にすら、おそらく、現在においては吾々の歴史のいかなる以前の時代におけるよりもより大であろう。
(編者註)一七九三――一八一五年。
この証拠として吾々は、人口の増加や、――農業の拡張や、――航海業及び製造業の増加や、――船渠の建造や、――多数の運河の開設や、並びに多くの他の費用を多く要する企業を、挙げ得ようが、そのすべては、資本及び年々の生産の両者の増加を示すものである。
しかしながらそれでもなお、租税がなければこの資本増加が遥かにより大であったであろうことは確実である。蓄積の力を減少せしめる傾向を有たない租税はない。すべての租税は資本か収入かの負担する所とならねばならない。もしそれが資本を蚕食するならば、それは、その程度に応じて国の生産的産業の範囲が常に左右されねばならぬ所の資金を比例的に減少しなければならない。そしてもしそれが収入の負担する所となるならば、それは蓄積を減少せしめるか、または、納税者をして、彼らの以前の生活の必要品及び奢侈品の不生産的消費をその租税の額だけ減少せしめることによって、この額を貯蓄せしめるか、でなければならない。ある租税は、かかる結果を、他の租税よりも、遥かにより大なる程度において産み出すであろう。しかし課税の大なる害悪は、その目的物の選択にあるよりは、全体としてのその結果の総額にあることが見出さるべきである。
租税は資本に課せられたという故をもって必然的に資本に対する租税であるわけではなく、また所得に課せられたという故をもって所得に対する租税であるわけでもない。もし私の一年一、〇〇〇磅ポンドの所得から、私が一〇〇磅ポンドを支払わせられても、私が残りの九〇〇磅ポンドの支出で満足するならば、それは真実に私の所得に対する租税であろうが、しかしもし私が引続き一、〇〇〇磅ポンドを支出するならば、それは資本に対する租税であろう。
そこから私の一、〇〇〇磅ポンドの所得が得られる資本が一〇、〇〇〇磅ポンドの価値を有つとすれば、資本に対する一%の租税は一〇〇磅ポンドであろう。しかしもし私が、この租税を支払った後に同様に、九〇〇磅ポンドの支出をもって満足するならば、私の資本は影響を受けないであろう。
生活上のその地位を維持し、かつその富を一度達せられた高さに維持せんとする、あらゆる人の有つ願望は、大抵資本に課せられたものでも所得に課せられたものでもその大抵の租税を、所得から支払わせるようにする。従って租税が増進するにつれまたは政府がその増加するにつれて、人民の年々の享楽は、彼らが比例的にその資本との所得とを増加し得ない限り、減少せしめられなければならない。 
(五五)人民の間にこのことをなさんとする志向を奨励し、そして常に資本の負担に帰すべき租税を決して賦課しないというのが、政府の政策でなければならない。けだしかくすることによって、それは労働の支持のための基金を害し、それによって国の将来の生産を減少せしめるからである。
英国においては、遺言検認税、遺贈税、及び死者より生者への財産の移転に影響を及ぼすあらゆる租税を課して、この政策を無視している。もし一、〇〇〇磅ポンドの遺産が一〇〇磅ポンドの租税を負担するならば、遺産相続人はその遺産を単に九〇〇磅ポンドと考えるに過ぎず、そして彼れの支出の中から、一〇〇磅ポンドの税を節約しようとする何らの特定の動機をも感ぜず、かくて国の資本は減少せしめられる。しかしもし彼が真実に一、〇〇〇磅ポンドを受取り、そして所得や葡萄酒や馬や僕婢に対する租税として、一〇〇磅ポンドを支払わしめられるならば、彼はおそらくその額だけ、その支出を減じまたはむしろ増加せしめなかったであろうし、そして国の資本は害されなかったであろう。
アダム・スミスは曰く、『死者から生者への財産の移転に対する租税は、終局的にかつ直接的に、財産が移転せられる人の負担する所となる。土地の売却に対する租税は全然売手の負担する所となる。売手はほとんど常に売却せねばならぬ地位にあるのであり、従って彼が得ることの出来るどんな価格でも受取らなければならない。買手はほとんど購買せねばならぬ地位にあるのではなく、従って彼は単に自己の好む価格を与えるに過ぎないであろう。彼は租税と価格とを合計して土地が幾干いくばくに値するかを考慮する。租税の方に多くを支払うを余儀なくされるほど、彼は価格の方により少く与える気になるであろう。従ってかかる租税はほとんど常に必要に迫られている人の負担する所となり、従って極めて惨酷にして圧制的でなければならない。』(編者註一)『印紙税及び借金証書と借金契約との登記に対する租税は、全然借手の負担する所となり、そして事実上常に彼によって支払われる。訴訟に対する同種の租税は原告の負担する所となる。それは両者にとって係争物の資本価値を減少せしめる。ある財産を獲得するに費用が多くかかればかかるほど、それが得られた時の純価値は少くなければならない。あらゆる種類の財産の移転に対するすべての租税は、それがその財産の資本価値を減少する限り、労働の支持に向けられた資金を減少する傾向がある。それらはすべて主権者の収入を増加せしめる多かれ少かれ浪費的な租税であるが、それは生産的労働者以外のものを支持しない国民資本を犠牲として、不生産的労働者以外の者を支持することの稀なものである。』(編者註二)
(編者註一)『諸国民の富』第五篇第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三四六頁)。
(編者註二)同上(訳者註――三四六――三四七頁)。
しかしこれは財産の移転に対する租税への唯一の反対論ではない。それは国民資本が社会に最も有利に分配されることを妨げるものである。一般的繁栄のためには、あらゆる種類の財産の移転及び交換にいかに便宜が与えられても多過ぎるということは無い、けだしあらゆる種類の資本が、国の生産を増加するためにそれを最もよく使用する者の手に入るようになるのは、かかる手段によるものであるからである。セイ氏は問う、『何故なにゆえに一個人はその土地を売らんと欲するのであるか? それは彼が、その資金がより生産的となるべき他の用途を考えているからである。何故に他の人はこの同じ土地を買わんと欲するのであるか? それは、彼に余りにわずかしか齎さず、または用途がなく、または彼がその使用を改善し得ると考える、ある資本を用いんがためである。この交換は一般所得を増加せしめるであろうが、それはけだしこれらの当事者の所得を増加せしめるからである。しかしもし、賦課がこの交換を妨げるほどに過大であるならば、それは一般所得のこの増加に対する障害である。』(編者註)しかしながらこれらの租税は容易に徴収される、そしてこのことは多くの人々によって、その有害な結果に対する幾らかの補償を与えるものと考えられるであろう。
(編者註)経済学、第三篇、第八章、三〇九頁。 
第九章 粗生生産物に対する租税

 

(五六)本書の前の部分において、私は、穀価は何ら地代を支払わない土地のみにおける、またはむしろ何ら地代を支払わない資本のみをもってする穀物の生産費によって左右される、という原則を、望むらくは満足に、樹立したから、生産費を増加せしめるものはいかなるものも価格を騰貴せしめるであろうし、それを減少せしめるものはいかなるものも価格を下落せしめるであろう、ということになるであろう。より貧弱な土地を耕作し、または既耕地へ一定の附加的資本を用いてより少い収穫を取得する必要は、粗生生産物の交換価値を不可避的に高めるであろう。耕作者をしてより少い生産費をもってその穀物を取得し得せしめるべき機械の発明は、その交換価値を必然的に低めるであろう。地租の形においてであろうと十分一税の形においてであろうとまたは取得された時に生産物に課せられる租税の形においてであろうと、とにかく耕作者に課せられるあらゆる租税は、粗生生産物の生産費を増加せしめ、従ってその価格を高めるであろう。
もし粗生生産物の価格が耕作者にその租税を補償するほど騰貴しないならば、彼は当然に、彼れの利潤が利潤の一般水準以下に低減せしめられた職業を、中止するであろう。このことは供給の減少を惹起し、ついに、以前通りの需要は、粗生生産物の耕作をして他の職業への資本投下と同様に有利ならしめる如くに、その価格を騰貴せしめるであろう。
価格の騰貴ということが、彼が租税を支払い、かつ彼れの資本をこのように用いることより通常のかつ一般の利潤を引続き得ることが出来る、唯一の手段である。彼は租税を彼れの地代から差引き、そして彼れの地主をしてそれを支払わしめることは出来ないであろうが、それはけだし彼は何ら地代を支払っていないからである。彼はそれを彼れの利潤から差引かないであろうが、それは、あらゆる他の職業がより大なる利潤を産出している時に彼が引続き小なる利潤を産出す職業に従事すべき理由はないからである。かくて、彼は租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げる力を有つであろうということは、疑問のあり得ぬ所である。
粗生生産物に対する租税は地主によって支払われることはないであろう。それは農業者によって支払われることはないであろう。それは消費者によって価格の騰貴により支払われるであろう。
地代は、同一のまたは異る質の土地に用いられた等量の労働と資本とによって取得せられた生産物の間の差違である、ということを想起してもらいたい。土地の貨幣地代と土地の穀物地代とは同一の比例において変動するものではない、ということもまた想起してもらいたい。
粗生生産物に対する租税、地租、または十分一税の場合には、土地の穀物地代は変動するであろうが、他方貨幣地代は引続き以前と同一であろう。
吾々が前に仮定した如くに、耕地は、三つの質を有ち、そして等しい額の資本をもって、
第一等地からは一八〇クヲタアの穀物が取得され、
第二等地からは一七〇クヲタアの穀物が取得され、
第三等地からは一六〇クヲタアの穀物が取得されるならば、
第一等地の地代は、第三等地と第一等地とのそれの差額たる二〇クヲタアであり、そして第二等地の地代は、第三等地と第二等地とのそれの差額たる一〇クヲタアであろうが、しかるに第三等地は何らの地代をも支払わないであろう。
さてもし穀価が一クヲタアにつき四磅ポンドであるならば、第一等地の貨幣地代は八〇磅ポンドであり、また第二等地のそれは四〇磅ポンドであろう。
一クヲタアにつき八シリングの租税が穀物に対し課せられたと仮定せよ。しかる時は価格は四磅ポンド八シリングに騰貴するであろう。そしてもし地主が以前と同一の穀物地代を取得するならば、第一等地の地代は八八磅ポンド、第二等地のそれは四四磅ポンドとなるであろう。しかし彼らは同一の穀物地代を取得しないであろう。租税は第二等地より第一等地の負担となる事より重く、また第三等地よりも第二等地の負担となる事より重いであろうが、けだしそれはより大なる分量の穀物に課せられるであろうから。価格を左右するのは第三等地における生産の困難である。そして穀物は第三等地に用いられる資本の利潤が資本の一般利潤と同一水準になるように四磅ポンド八シリングに騰貴するのである。
この三つの質の土地における生産物及び租税は次の如くであろう。
第一等地、一クヲタア四磅ポンド八シリングで一八〇クヲタアを産す……………………七九二磅ポンド
差引{一六・三の価値、
すなわち一八〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………七二磅ポンド
純穀物生産物一六三・七純貨幣生産物七二〇磅ポンド
第二等地、一クヲタア四磅ポンド八シリングで一七〇クヲタアを産す……………………七四八磅ポンド
差引{四磅ポンド八シリングで一五・四クヲタアの価値、
すなわち一七〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六八磅ポンド
純穀物生産物一五四・六純貨幣生産物六八〇磅ポンド
第三等地、四磅ポンド八シリングで一六〇クヲタアを産す…………………………………七〇四磅ポンド
差引{四磅ポンド八シリングで一四・五クヲタアの価値、
すなわち一六〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六四磅ポンド
純穀物生産物一四五・五純貨幣生産物六四〇磅ポンド
第一等地の貨幣地代は引続き八〇磅ポンドすなわち六四〇磅ポンドと七二〇磅ポンドとの差額であり、また第二等地のそれは四〇磅ポンドすなわち六四〇磅ポンドと六八〇磅ポンドとの差額であって、以前と正確に同一である。しかし穀物地代は、第一等地においては二〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一六三・七クヲタアとの差額たる一八・二クヲタアに、そして第二等地においてはそれは一〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一五四・六クヲタアとの差額たる九・一クヲタアに、減少されるであろう。
しからば穀物に対する租税は穀物の消費者の負担する所となり、そして租税に比例する程度だけその価値を他のすべての貨物に比較して高めるであろう。粗生生産物が他の貨物の構成に入り込むに比例して、それらの価値もまた、租税が他の原因によって相殺されない限り、高められるであろう。それらは事実間接に課税されることとなり、そしてその価値は租税に比例して騰貴するであろう。
しかしながら、粗生生産物及び労働者の必要品に対する租税は、もう一つの結果を有つであろう、――すなわちそれは労賃を高めるであろう。人口の原理の人類の増加に及ぼす結果によって、最下級の労賃は決して引続き、自然と習慣によって労働者の支持上必要となっている率の遥か上にあることはない。この階級は決して多額の課税を負担し得ない。従ってもし彼らが小麦に対して一クヲタアにつき更に八シリング支払わねばならず、そして他の必要品に対してあるより少い比例だけ更に支払わなければならないとすれば、彼らは以前と同一の労賃で生存しそして労働者の種族を維持することは出来ないであろう。労賃は不可避的にかつ必然的に騰貴するであろう。そしてそれが騰貴するに比例して利潤は下落するであろう。政府は、国内において消費されるすべての穀物に対し一クヲタアにつき八シリングの租税を受取るであろうが、その一部分は直接に穀物の消費者によって支払われ、他の部分は間接に労働を使用する人々によって支払われ、そして、労働に対する需要がその供給に比して増加したために、または労働者の必要とする食物及び必要品の獲得の困難が増加して行くために、労賃が騰貴した場合と同様に、利潤に影響を及ぼすであろう。 
(五七)租税が消費者に影響を及ぼす限りにおいて、それは平等な租税であるが、しかしそれが利潤に影響を及ぼす限りにおいて、それは偏頗へんぱな租税であろう。けだし、それは地主に対しても株主に対しても影響を及ぼさないであろうからであるが、その理由は、彼らは引続き、一方は以前と同一の貨幣地代を、また他方は以前と同一の貨幣配当を、受取るであろうからである。しからば土地の生産物に対する租税は、次の如く作用するであろう。
第一、それは租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げ、従って各消費者の消費に比例して彼れの負担する所となるであろう。
第二、それは労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げるであろう。
しからばかかる租税に対しては次の如き反対がなされ得よう。
第一、労働の労賃を引上げそして利潤を引下げることによって、それは不平等な租税であるが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を享受する者の所得を課税されぬままにしておくからである、ということ。
第二、穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に労働者は多くの惨苦を経験するであろうということ。
第三、労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠ひせきと同様の作用をすること。
第四、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って吾々は一般市場において外国製造業者に平等な条件で対抗し得ないであろうということ。 
(五八)労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げることによって、それは不平等な作用をするが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を課税されぬままにしておくからである、という第一の反対論に関しては、もしも租税の作用が不平等であるならば、立法府にとっては、土地の地代及び株式からの配当に直接に課税することによってそれを平等ならしめるべきである、と答え得よう。かくすることによって、所得税のすべての目的は、各人の私事に立入りかつ官吏に自由国の慣習と感情とに矛盾する権力を賦与するという忌わしい手段に頼るの不便なしに、達せられるであろう。 
(五九)穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に下層階級は多くの惨苦を経験するであろう、という第二の反対論に関しては、異る事情の下においては、労賃は極めて異る程度の速力をもって粗生生産物の価格に追従し、ある場合においては穀物の騰貴によっては労賃には何らの結果も起らず、他の場合においては労賃の騰貴は穀価の騰貴に先行し、更にある場合においては労賃に対する結果は遅く、また他の場合においては速い、と私は答える。
常に社会の進歩の特定状態を斟酌して、労働の価格を左右するものは必要品の価格である、と主張する人々は、必要品の価格の騰貴及び下落は、極めて徐々として労賃の騰貴及び下落を伴うであろうということを、余りに即座に同意してしまっているように思われる。食料品の高き価格は、各種各様の原因から起るであろうし、またそれに従って各種各様の結果を生み出すであろう。それは次の如き原因から起るであろう。
第一、供給の不足。
第二、結局においては生産費の増加を伴うべき徐々たる需要の増加から。
第三、貨幣価値の下落から。
第四、必要品に対する租税から。
これら四つの原因は、必要品の高き価格が労賃に及ぼす影響を研究した人々によっては、十分に弁別され分離されていない。吾々はこれらを各別に検討するであろう。
不作は食料の高き価格を齎すであろう、そしてこの高き価格は、それによって消費が供給の状態に一致せざるを得ざらしめられる唯一の手段である。もしすべての穀物購買者が富んでいるならば、価格は、いかなる程度にまでも騰貴し得ようが、しかしその結果には変りがないであろう。すなわち価格はついに、富める程度の最も少い者がその通常の消費量の一部分の使用を止めざるを得なくなるほど高くなるであろう。けだし消費の減少によってのみ、需要は供給の限界にまで引下げられ得るからである。かかる事情の下においては、救貧法の誤用によってしばしばなされているように貨幣労賃を食物の価格によって強制的に左右するという政策以上に、不合理な政策はあり得ない。かかる方策は労働者に対し何らの真実の救済をも与えるものではないが、けだし、その結果は穀価を更により以上騰貴せしめることであり、そしてついに彼はその消費を限られた供給に比例して制限せざるを得なくなるに相違ないからである。条理上不作による供給の不足は、有害かつ不賢明な干渉がなければ、労賃の騰貴を伴わないであろう。労賃の騰貴はそれを受取る者によっては単に名目的であるに過ぎない。それは穀物市場における競争を増加せしめ、そしてその終局的政策は穀物の栽培者と商人の利潤を高めることである。労働の労賃は実際は、必要品の供給と需要、及び労働の供給と需要との間の比例によって左右される。そして貨幣は単に労賃を言表わす媒介物または尺度であるに過ぎない。しからばこの場合においては、附加的食物の輸入によるかまたは最も有用な代用品の採用による他は、労働者の困厄は不可避的であり、そしていかなる立法も救済を与え得ないのである。
穀物の高き価格が需要増加の結果である時には、それは常に労賃の騰貴によって先行される、けだし需要は、その欲する物に対して支払うべき人民の資力の増加なくしては、増加し得ないからである。資本の蓄積は当然に、労働の雇傭者の間の競争を増加せしめ、そしてその結果たる労働の騰貴を惹起す。労賃の騰貴は、常に必ずしも直ちに食物に費されるとは限らず、最初には労働者の他の享楽に寄与せしめられる。しかしながら、彼れの境遇の改善は、彼を誘って結婚せしめ、またそれを可能ならしめる。しかる時は彼れの家族の支持のための食物に対する需要は当然に、彼れの労賃が一時費された他の享楽品に対する需要を排除する。かくて穀物は、それに対する支払の資力をより多く有つ者が社会にあるためそれに対する需要が増加するから、騰貴する。そして農業者の資本の利潤は一般水準以上に高められ、ついに必要な資本量がその生産に用いられるに至るであろう。このことが起った後に穀物が再びその以前の価格にまで下落するか、または引続き永続的により高くあるかは、それより穀物の分量増加が供給された土地の質に依存するであろう。もし、それが、最後に耕作された土地と同一の肥沃度を有つ土地から、またより大なる労働の支出なしに、得られるならば、価格はその以前の状態にまで下落するであろう。もしより貧しい土地からであるならば、それは引続き永続的により高いであろう。第一の場合の高き労賃は労働に対する需要の増加から起ったものである。それが結婚を奨励し子供を支持したが故にそれは労働の供給を増加するの結果を生み出したのである。しかしこの供給が得られた時には、もし穀物がその以前の価格まで下落したならば、労賃は再びその以前の価格にまで下落し、もし穀物の供給の増加が、より劣等の質の土地から生産せられたならば以前の価格よりより高い価格にまで下落するであろう。高き価格は決して豊富な供給と両立し得ないものではない。価格が永続的に高いのは、分量が不足であるからではなく、その生産費が増加したからである。人口に刺戟が与えられた時には、その場合に必要とされる以上の結果が生み出されるということは、実際一般に起る所である。人口は、労働に対する需要の増加にかかわらず、労働者を支持するための基金に対して資本の増加の前よりもより大なる比例を有つほどに増加され得ようし、また事実一般に増加されたのである。この場合には反動が起り、労賃はその自然的水準以下となり、そして供給と需要との間の通常の比例が囘復されるまでは引続きそれ以下にあるであろう。しからばこの場合においては、穀価の騰貴は労賃の騰貴によって先行され、従ってそれは労働者に何らの困厄をも蒙らせないのである。
鉱山からの貴金属の流入の結果たる、または銀行の特権の濫用による、貨幣価値の下落は、食物の価値騰貴に対するもう一つの原因である。しかしそれは生産される分量には何らの変動をも起さないであろう。それは労働者の数も彼らに対する需要も同一にしておく。けだし資本の増加も減少もないであろうからである。労働者に割当てられるべき必要品の分量は、労働の比較的需給に対する必要品の比較的需給に依存する。貨幣はそれによってこの分量が現わされる媒介に過ぎない。そしてこれらの両者のいずれもが変動していないから、労働者の真実の報酬は変動しないであろう。貨幣労賃は騰貴するであろうが、しかしそれは単に彼をして以前と同一の必要品量を手に入れることを得さしめるに過ぎないであろう。この原理を論難しようとする者は、何故なにゆえに、貨幣の増加は、分量の増加しなかった労働の価格をを騰貴せしめるという同一の結果を有たないかということを、説明すべきである、けだし彼らは、もし靴や帽子や穀物の分量が増加しなかったならば、それらの貨物の価格に対し、それは同一の結果を有つであろうということを、認めているからである。帽子と靴との相対的市場価値は、靴の需給と比較しての帽子の需給によって左右され、そして貨幣はこれらの貨物の価値を言い現わす媒介に過ぎない。もし靴が価格において二倍となるならば、帽子もまた価格において二倍となるであろう、そして両者は同一の相対価値を保持するであろう。同様に、もし穀物及び労働者のすべての必要品が価格において二倍となるならば、労働もまた価格において二倍となるであろう、そして必要品及び労働の通常の需給に対し何らの妨げも存しない間は、それらがその相対価値を保持しないという理由はあり得ないのである。
貨幣価値の下落も粗生生産物に対する租税も、その各々は価格を引上げるであろうが、粗生生産物の分量を、またはそれを購買することが出来、かつそれを消費せんと欲する者の数を、必然的に妨げるわけではないであろう。何故なにゆえに、一国の資本が不規則に増加する時に、労賃は騰貴するがしかるに穀価は静止しまたはより少い比例で騰貴するかを、そして何故なにゆえに、一国の資本が減少する時に、労賃は下落するがしかるに穀価は静止しまたは遥かにより少い比例で下落し、しかもこのことがかなりの期間そうであるかを、了解することは、極めて容易である。その理由は、労働は随意に増減し得ない貨物であるからである。もし需要に対し市場に余りに少い帽子しかないならば、価格は騰貴するであろうが、しかしそれは単に短い期間に過ぎない。けだし一年経てば、より多くの資本をその職業に用いることによって、帽子の分量がある適当な量だけ増加され、従ってその市場価格は久しくその自然価格を極めて甚しく超過し得ないからである。しかし人間の場合はこれと異る。人は彼らの数を、資本の増加がある時に一二年で増加することは出来ず、またその数を、資本が退歩的状態にある時に急速に減少することも出来ない。従って、人間の数は遅々として増加するが労働維持のための基金は速かに増減するのであるから、労働の価格が穀物及び必要品の価格によって正確に規制されるまでにはかなりの時の隔りがなければならない。しかし貨幣の下落、または穀物に対する租税の場合には、必ずしも労働の供給の超過もなく、需要の減退もなく、従って労働者が労賃の真実の減少を受けるという理由はあり得ぬのである。
穀物に対する租税は必ずしも穀物の分量を減少せしめず、ただその貨幣価格を騰貴せしめるに過ぎない。それは必ずしも労働の供給と比較しての需要を減少せしめない。しからば何故なにゆえにそれは労働者に支払われる分前を減少せしめなければならないか? それが労働者に与えられる分量を減少せしめるということを、換言すれば、租税が彼れの消費する穀物の価格を騰貴せしめると同一の比例においてそれは彼れの貨幣労賃を騰貴せしめるものではないということを、真実なりと仮定しよう。穀物の供給は需要を超過しないであろうか?――それは価格において下落しないであろうか? またかくて労働者は彼れの通常の分前を取得しないであろうか? かかる場合には実際、資本は農業から引き去られるであろう、けだしもし価格が租税の金額だけ騰貴しないならば、農業利潤は利潤の一般水準よりもより低くなるであろうし、そして資本はより有利な用途を探求するであろうからである。かくて問題の点たる粗生生産物に対する租税に関しては、粗生生産物の価格の騰貴と労働者の労賃の騰貴との間には、労働者に対して圧迫する時期はなく、従ってこの階級がある他の課税方法によって蒙る不便、換言すれば、租税が労働の支持のために向けられた基金を害し従って労働に対する需要を妨げまたは減少するかもしれぬという危険の他には、彼らは何らの不便をも蒙らないであろうと、私には思われるのである。 
(六〇)粗生生産物に対して課せられる租税に対する第三の反対論、すなわち労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠と同様の作用をする、という反対論に関しては、私は、本書の他の部分において、貯蓄は、生産からと同様に有効に支出から、利潤率の騰貴からと同様に有効に貨物の価値の下落から、なされ得ようことを、示さんと努めた。物価が引続き同一である時に私の利潤を一、〇〇〇磅ポンドから一、二〇〇磅ポンドに増加せしめることによって、私が貯蓄によって資本を増加する力は増加されるけれども、しかしこの力は、私の利潤は引続き以前と同一であるが貨物が価格において下落したために以前には一、〇〇〇磅ポンドで購買しただけの分量を八〇〇磅ポンドで取得し得るに至った場合ほどには、増加されないであろう。
さて、租税によって要求される額は徴収されなければならない、そこで問題は単にこの額は個人の利潤を減少せしめることによって個人から徴収せらるべきであるか、または彼らの利潤がそれに支出される貨物の価格を引上げることによって徴収せらるべきであるか、ということである。
課税はいずれの形においても諸害悪についての一選択であるに過ぎない。もしそれが利潤その他の所得の源泉に影響を及ぼさなければ、それは支出に影響を及ぼすに相違ない。そして負荷が平等に負担されかつ再生産を圧迫しない限り、それはいずれに賦課されても構わない。生産に対する租税または資本の利潤に対する租税は、直接に利潤に対し課せられようと、または土地あるいは土地の生産物に対して課税することにより、間接に課せられようとに論なく、他の租税以上にこの得点を有っている、すなわちすべての他の所得が課税されぬ限り、社会のいかなる階級もそれを免れ得ず、そして各人はその資力に応じて納税するのである。
支出に対する租税は吝嗇家りんしょくかが遁のがれるであろう。彼は毎年一〇、〇〇〇磅ポンドの所得を有ち、そして単に三〇〇磅ポンドを費すに過ぎないであろう。しかし直接的のものであろうと間接的のものであろうと利潤に対する租税からは、彼は遁れ得ない。彼は、その生産物の一部分、またはその一部分の価値を、抛棄して、納税することになるであろう、しからざれば生産に欠くべからざる必要品の価格の騰貴によって、彼は以前と同一の率で蓄積を続け得なくなるであろう。もちろん彼は同一の価値を有つ所得を得るであろうが、しかし彼は、労働に対する同一の支配力も有たず、またはそれにかかる労働が用いられ得る原料品の等しい分量に対する同一の支配力をも有たないであろう。
もし一国がすべての他国より孤立し、その隣国のいずれとも商業をしないならば、それは決してその租税のいかなる部分をも他国に転嫁し得ない。その土地と労働との生産物の一部分は、国家の用に供せられるであろう。そして私は、それが蓄積しかつ貯蓄する階級に対し不平等の圧迫を加えぬ限り、租税が利潤に課せられようと、農業貨物に課せられようと、または製造貨物に課せられようと、それはほとんどどうでもよいと考えざるを得ない。もし私の収入が一年につき一、〇〇〇磅ポンドであり、そして私は一〇〇磅ポンドに当る額の租税を支払わなければならぬとすれば、私がそれを私の収入から支払って九〇〇磅ポンドを手許に残そうと、または私の農業貨物または私の製造財貨に対し一〇〇磅ポンドだけより多く支払おうと、それはほとんどどうでもよいことである。もし一〇〇磅ポンドが国家の経費に対する私の正当なる割当であるならば、課税のなすべきことは、私をしてそれ以上でもそれ以下でもなくまさに一〇〇磅ポンドを確実に支払わしめることである。そしてそれは労賃か利潤かまたは粗生生産物に対する租税によって最も確実に行われ得るのである。 
(六一)第四のそして注意すべき最後の反対論は、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って、吾々は一般市場において外国製造業に平等な条件で対抗し得ないであろう、というのである。
第一に、穀物及びすべての内国貨物は、貴金属の流入なくしては価格において著しく高められ得ないであろう、けだし同一量の貨幣は高い価格においても低い価格の場合と同様に同一量の貨物を流通せしめ得ず、そして貴金属は決して高価な貨物をもっては購買され得ないであろうからである。より多くの金が必要とされる時には、それはそれと交換してより少い貨物ではなくより多くの貨物を与えることによって、取得されなければならない。貨幣の不足は紙幣によっても満みたされ得ないであろう、けだし貨物としての金の価値を左右するものは紙幣ではなく、紙幣の価値を左右するものは金であるからである。しかる時は金の価値が引下げられ得ない限り、減価されずして紙幣は流通に加えられ得ないであろう。そして金の価値が引下げられ得ないであろうことは、吾々が一貨物としての金の価値は、それと交換に外国人に与えられねばならぬ財貨の分量によって左右されなければならぬことを考える時に明かになる。金が低廉である時には貨物は高く、そして金が高い時には貨物は低廉であり、価格において下落する。さて外国人が彼らの金を通常よりもより安く売るべき原因は何ら示されていないのであるから、少しでも金の流入が起ろうとは思われない。かかる流入なくしては、その量の増加は、その価値の下落は、財貨の一般価格の騰貴は、あり得ないのである(註)。
(註)単に租税のみによって価格が騰貴した貨物が、その流通のためあるより多くの貨幣を必要とするか否かは、疑い得よう。私はそれを必要としないであろうと信ずる。
粗生生産物に対する租税の蓋然的結果は、粗生生産物の及び粗生生産物が入り込めるすべての貨物の価格を騰貴せしめることであろうが、しかしその程度は決して租税に比例しない。しかるに金属や土で造った物の如き何らの粗生生産物も入り込まぬ他の貨物は価値において下落するであろう。従って以前と同一量の貨幣が全流通に対し適当であるであろう。
すべての内国生産物の価格を高める結果を有つべき租税は、はなはだ短い期間を除けば輸出を阻害しないであろう。もしそれが国内で価格において高められるならばそれは実際直ちに有利に輸出されることを得ないであろう、けだしそれは国内において外国では免れている負担を蒙るからである。この租税はすべての国に一般でありかつ共通であるものではなくして、ある一単独国に限られている所の貨幣価値の変動と、同一の結果を生み出すであろう。もしも英国がその国であるとするならば、英国は売却することは出来ないかもしれぬが、購買することは出来るであろう、けだし輸入される貨物は価格において騰貴しないであろうからである。かかる事情の下においては、貨幣以外に何物も外国貨物と引換えに輸出され得ないであろうが、しかしこれは久しく続き得ない取引である。一国民はその貨幣を消尽してしまうことは出来ない、けだし一定量がその国民を去った後にはその残りのものの価値は騰貴し、そしてその結果として貨物の価格は、それが再び有利に輸出され得るように変動するであろうからである。従って貨幣が騰貴した時には吾々はもはや財貨と引換えにそれを輸出せずして、吾々はまずその原料たる粗生生産物の価格の騰貴によって価格が騰貴し次いで再び貨幣の輸出によって下落した所の製造品を、輸出するであろう。
しかし、貨幣が価値においてかくの如く騰貴した時には、それは内国貨物に関してと同様に外国貨物に関しても騰貴するであろうし、従って、外国財貨の輸入に対するあらゆる奨励が停止するであろう、という反対がなされるかもしれない。かくて吾々が外国において一〇〇磅ポンドを費しそして我国において一二〇磅ポンドに売れる財貨を輸入したと仮定するならば、貨幣価値が英国において騰貴せる結果それが単に一〇〇磅ポンドに売れるに過ぎなくなった時には、吾々はそれを輸入することを止めるであろう。しかしながらこのことは決して起り得ないであろう。一貨物を輸入することを吾々に決心せしめた動機はそれが外国においては相対的に低廉であることを発見したにある。それは外国でのその価格と内国でのその価格との比較である。もし一国が帽子を輸出し毛織布を輸入するとすれば、そうする理由は帽子を造ってそれを毛織布と交換することにより、毛織布を自国で造る場合よりもより多くの毛織布を取得することが出来るからである。もし粗生生産物の騰貴が帽子の製造における生産費の増加を齎すならば、それは毛織布の製造における費用の増加をも齎すであろう。従って、もし双方の貨物が国内において造られるならば、それらは双方共に騰貴するであろう。しかしながら一方は、吾々が輸入する貨物であるから、貨幣価値が騰貴した時にも、騰貴もしなければ下落もしないであろう。けだし下落せざることによって、それは輸出貨物に対するその自然的関係を恢復するであろうからである。粗生生産物の騰貴は帽子をして三〇シリングから三三シリングに、または一〇%騰貴せしめる。同一の原因はもし吾々が毛織布を製造していたならば、それを一ヤアルにつき二〇シリングから二二シリングに騰貴せしめるであろう。この騰貴は毛織布と帽子との関係を破壊するものではない。一箇の帽子は一ヤアル半の毛織布に値したし、また引続きそれに値する。しかしもし吾々が毛織布を輸入するならば、その価格はまず貨幣価値の下落によって影響を蒙らず、次いでその騰貴によって影響を蒙らずして、引続き一様に一ヤアルにつき二〇シリングであろう。しかるに三〇シリングから三三シリングに騰貴している帽子は再び三三シリングから三〇シリングに下落するであろう、そしてこの点において毛織布と帽子との間の関係は恢復されるであろう。
この問題の考察を簡単にするために、私は、粗生原料品の価値の騰貴は、すべての内国貨物に等しい割合で影響を及ぼすものであり、すなわちもし一貨物に対して及ぼす影響がそれを一〇%騰貴せしめることであるならば、それはすべての貨物を一〇%騰貴せしめるであろうと、仮定して来たが、しかし貨物の価値が粗生原料品及び労働から出来上っている割合は極めて異っており、またある貨物例えば金属から造られているすべてのものは、地表からの粗生生産物の騰貴によって影響を受けないであろうから、粗生生産物に対する租税によって貨物の価値に対し及ぼされる影響には各種各様の最大の種類があることは明かである。この影響が生み出される限り、それは特定貨物の輸出を奨励したり阻害したりし、そして疑いもなく、貨物の課税に伴うと同一の不便を伴うであろう。それは各々の価値の間の自然的関係を破壊するであろう。かくて一箇の帽子の自然価格は、一ヤアル半の毛織布と同一ではなくして、単に一ヤアル四分の一の価値を有つに過ぎないか、または一ヤアル四分の三の価値を有つことになり、従ってむしろ異る方向が外国貿易に対して与えられるであろう。すべてのこれらの不便はおそらく輸出品及び輸入品の価値に影響を及ぼさないであろう。それは単に全世界の資本の最上の分配を妨げるに過ぎないであろうが、かかる分配は、あらゆる貨物が人為的制限によって束縛されずに自由にその自然価格に落着くに委ねられる時に最も適宜に調整されるのである。
しからばたとえ我国自身の貨物の大抵のものの騰貴が、一時の間一般に輸出を妨げ、そして永続的に若干の貨物の輸出を妨げるとしても、それは外国貿易を大いに妨げることは出来ず、そして外国市場における競争に関する限りにおいては吾々を他に比較して不利益な地位に置くことはないであろう。 
第十章 地代に対する租税

 

(六二)地代に対する租税は地代にのみ影響を及ぼすであろう。それは全然地主の負担する所となり、そしていかなる消費者階級へも転嫁され得ないであろう。地主は、最も不生産的な耕地から得られる生産物とあらゆる他の質の土地とから得られるそれとの間の差違を不変にしておくであろうから、その地代を高め得ないであろう。第一、第二、及び第三の三種の土地が耕作されており、そして各々同一の労働をもって、一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアの小麦を産出する。しかし第三等地は何ら地代を支払わず、従って課税されない。かくて第二等地の地代は十クヲタアの価値を、また第一等地のそれは二十クヲタアの価値を、超過せしめられ得ない。かかる租税は粗生生産物の価格を高め得ないが、それは、第三等地の耕作者は地代もまた租税も支払わないから、彼は決して生産された貨物の価格を高め得ないからである。地代に対する租税は新しい土地の耕作を阻害しないであろう、けだしかかる土地は地代を支払わず、かつ課税されないであろうから。もし第四等地が耕作されるに至り、そして一五〇クヲタアを産出するとしても、いかなる租税もかかる土地に対して支払われないであろうが、しかしそれは第三等地に十クヲタアの地代を発生せしめ、かくて第三等地は租税を支払い始めるであろう。 
(六三)地代が構成されるにつれて地代に課せられる租税は、耕作を阻害するであろうが、けだしそれは地主の利潤に対する一租税となるであろうからである。土地の地代なる言葉は、私が他の場所で論じた如くに、農業者がその地主に支払う価値の全額に適用されているが、その一部のみが厳密には地代なのである。建物や造作、及び地主の支払うその他の費用は、厳密には農場の資本の一部をなし、そして地主によって供給されなければ借地人によって備えられねばならなかったものである。地代とは土地の使用に対しそして土地の使用に対してのみ、地主に支払われる額である。地代の名の下に支払われるより以上の額は建物等の使用に対するものであり、そして実際は地主の資本の利潤である。地代に課税する際には土地の使用に対し支払われる部分と、地主の資本の使用に対し支払われるそれとの間には、何らの区別もされないであろうから、租税の一部分は地主の利潤の負担する所となり、従って、粗生生産物の価格が騰貴しない限り、耕作を阻害するであろう。その使用に対しては何らの地代も支払われない土地においては、地主に対し彼れの建物の使用に対して、その名の下にある補償が与えられるであろう。粗生生産物が売られる価格が、啻にすべての通常の支出を支払うのみならず、更に租税というこの附加的支出を支払うまでは、これらの建物が建てられることもないであろうし、また粗生生産物がかかる土地に栽培されることもないであろう。租税のこの部分は地主の負担にも農業者の負担にも帰せず、粗生生産物の消費者の負担する所となる。
もしも租税が地代に課せられるならば、地主は直ちに、土地の使用に対して彼らに支払われるものと、建物の使用及び地主の資本によってなされた改良に対して支払われるものとを、弁別する方法を発見するであろうことは、ほとんど疑いはあり得ない。後者が家屋及び建物の賃料と呼ばれるに至るか、または耕作されるに至ったすべての新しい土地においては、地主によってではなく借地人によって、かかる建物が建てられかつ改良がなされるに至るかであろう。地主の資本が実に実際にはその目的のために用いられるであろう。名目上はそれは借地人によって費され、地主は、貸金の形かまたは借地期間に亘る年金の購買で、彼にその資を支給するのである。区別されていてもいなくとも、地主がこれらの種々なる目的物に対して受取る所の補償の性質の間に真実の差違がある。そして、土地の真実地代に対する租税は全然地主の負担する所となるが、地主が農場に投ぜられたその資本の使用に対して受取る補償に対する租税は、進歩的国家においては、粗生生産物の消費者の負担する所となることは、全く確実である。もし租税が地代に賦課され、そして現在借地人が地代の名の下に地主に支払う報償を区分する何らの方法も採用されないとしても、租税は、それが建物その他の造作に対する地代に関する限り、決してどんな短い間でも地主の負担する所とはならず、消費者の負担する所となるであろう。これらの建物等に投ぜられた資本は、資本の通常利潤を与えなければならない。しかしもしそれらの建物の費用が借地人の負担する所とならなければ、それは最後に耕作される土地においてこの利潤を与えないであろう。そしてもしそれが借地人の負担する所となるならば、借地人はそれを消費者に転嫁しない限り、彼れの資本の通常利潤を得なくなるであろう。 
第十一章 十分一税

 

(六四)十分一税は土地の総生産物に対する租税であり、そして粗生生産物に対する租税と同様に、全然消費者の負担する所となる。それは地代に対する租税が達しない土地に影響を及ぼす限りにおいてそれと異り、そしてこの地代に対する租税が変動せしめないであろう所の、粗生生産物の価格を引上げる。最も劣等の土地も、最良の土地と同様に、十分一税を、しかもそれらの土地から得られる生産物量に正確に比例して、支払う。従って十分一税は平等な租税である。
もしも最後の質の土地、すなわち何らの地代も支払わず穀価を左右するそれが、農業者に資本の通常利潤を与えるに足る分量を産出し、その時に小麦の価格が一クヲタアにつき四磅ポンドであるならば、価格は、十分一税が賦課された後に同一の利潤が取得され得る以前に、四磅ポンド八シリングに騰貴しなければならない、けだし小麦一クヲタアごとに耕作者は教会に八シリングを支払わなければならず、そしてもし彼が同一の利潤を得ないとすれば、彼が他の事業においてかかる利潤を得ることが出来る時にその職業を中止しないという理由はないからである。
十分一税と粗生生産物に対する租税との間の唯一の差違は、一方は可変的貨幣租税であり他方は定額貨幣租税であることである。穀物を生産する便宜が増加もせず減少もしない所の、社会の停止的状態においては、それらはその結果において正確に同一であろう、けだしかかる状態においては、穀物は不変的価格にあり、従って租税もまた不変であろうからである。退歩的状態か、または農業において大改良がなされ従って粗生生産物が他の物に比較して価値において下落するであろう所の状態かにおいては、十分一税は永続的貨幣租税よりもより軽い租税であろう。けだしもし穀価が四磅ポンドから三磅ポンドに下落するならば、租税は八シリングから六シリングに下落するであろうからである。社会の進歩的状態――しかも農業における何らの著しい改良もない状態――においては、穀価は騰貴し、そして十分一税は永続的貨幣租税よりもより重い租税となろう。もし穀物が四磅ポンドから五磅ポンドに騰貴するならば、同一の土地に対する十分一税は八シリングから十シリングに騰貴するであろう。
十分一税も貨幣租税も地主の貨幣地代には影響を及ぼさないであろうが、しかし両者は穀物地代には著しく影響を及ぼすであろう。吾々は既に、貨幣租税が穀物地代に影響する仕方を論じたが、同様な結果が十分一税によっても生み出さるべきことは等しく明かである。もし第一、第二、第三等地が各々一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアを生産するならば、地主は第一等地に対しては、二十クヲタア、また第二等地に対しては十クヲタアであろう。しかしそれらは十分一税を支払った後には、もはやこの比例を維持しないであろう。けだしもしその各々から十分の一が徴収されるならば、残りの生産物は一六二クヲタア、一四四クヲタアとなり、従って第一等地の穀物地代は一八クヲタアに、また第二等地のそれは九クヲタアに、減少させられるであろうからである。しかし穀価は四磅ポンドから四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに騰貴するであろう。けだし一四四クヲタアが四磅ポンドに対する割合は、一六〇クヲタアが四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに対する割合であるからである、従って貨幣地代は第一等地に対しては八〇磅ポンドであり(註一)、また第二等地に対して四〇磅ポンドであろうから(註二)、貨幣地代は引続き不変であろう。
(註一)四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで一八クヲタア
(註二)四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで九クヲタア
十分一税に対する主たる反対論は、それは永続的なかつ固定的な租税ではなくて、穀物を生産する困難が増加するに比例して価値において増加する、ということである。もしかかる困難が穀価を四磅ポンドならしめるならば租税は八シリングとなり、もしそれが穀価を五磅ポンドに増加するならば租税は一〇シリングとなり、そして六磅ポンドの時にはそれは一二シリングとなる。それは啻に価値において騰貴するのみならず、更にまた額において増加する。かくして第一等地が耕作された時には、租税は単に一八〇クヲタアに対して課せられるに過ぎず、第二等地が耕作された時には、それは 180+170 すなわち三五〇クヲタアに対して課せられ、そして第三等地が耕作された時には、180+170+160=510 クヲタアに対して課せられた。生産物が一百万クヲタアから二百万クヲタアに増加される時には、租税の額が一〇〇、〇〇〇クヲタアから二〇〇、〇〇〇に附加されるのみならず、更に第二の一百万を生産するに必要な労働の増加によって、粗生生産物の相対価値は増進せしめられ、その結果二〇〇、〇〇〇クヲタアは、量においては単に以前に支払われた一〇〇、〇〇〇クヲタアのそれの二倍に過ぎないが、しかも価値においては三倍であるであろう。
もし等しい価値が、教会のために、十分一税の増加と同様に耕作の困難に比例して増加する所のある他の手段によって、徴収されるならば、その結果は同一であろう、従って、それは土地から徴収される故に、ある他の方法によって徴収された場合の同額よりも、耕作をより多く阻害する、と想像するのは、誤りである。教会は双方の場合において、国の土地及び労働の純生産物の増加せる部分を不断に取得しつつあるであろう。社会の進歩しつつある状態においては、土地の純生産物は常にその総生産物に比例して逓減しつつある。しかし進歩的な国においても静止的な国においても、すべての租税が終局的に支払われるのは、国の総収入からである。総収入と共に増加しかつ純収入の負担とする所となる租税は、必然的に、極めて重荷的なかつ極めて堪え難い租税でなければならない。十分一税は、土地の総生産物の十分の一であり、その純生産物の十分の一ではなく、従って社会が富において進歩するにつれて、それは、総生産物については同一比例であるが、純生産物についてはますますより大なる比例とならなければならない。 
(六五)しかしながら、十分一税は、外国穀物の輸入が妨害されていない間は、内国穀物の栽培に課税することによって、それが輸入に対する奨励金として作用する限りにおいて、地主によって有害である、と考えられるであろう。そしてもし、地主を、かかる奨励金が促進するはずの土地に対する需要の減少の結果から、救済するために、輸入穀物もまた、国内で栽培される穀物と等しい程度において課税され、そして生産物が国家に支払われるならば、いかなる方策もより正当かつ公平ではあり得ないであろう。けだしこの租税によって国家に支払われるものはいかなるものも、政府の経費が必要ならしめる他の租税を減少せしめるに至るであろうからである。しかしもしかかる租税が単に教会に支払われる資金を増加することに向けられるならば、それは実際全体としては生産の全量を増加することは出来ようが、しかしそれは生産階級に割当てられた額の部分を減少するであろう。
もし毛織布の貿易が完全に自由に委ねられているならば、我国の製造業者達は、吾々が毛織物を輸入し得るよりもより低廉にそれを売却し得よう。もし租税が国内の毛織物製造業者に賦課され、そしてその輸入業者には賦課されないならば、資本は害を受けて毛織布の製造からある他の貨物の製造に追いやられるであろうが、それはけだし毛織布はその際には国内で製造され得るよりもより低廉に輸入され得ようからである。もし輸入毛織布もまた課税されるならば毛織布は再び国内において製造されるであろう。消費者は最初は国内において毛織布を買ったが、けだしそれが外国毛織布よりもより低廉であったからである。彼は次いで外国毛織布を買ったが、けだし課税された国内毛織布よりもそれは課税されずしてより低廉であったからである。彼は最後にそれを国内で買ったが、けだし内国及び外国の毛織布の双方が課税された時には内国のものがより低廉であったからである。彼がその毛織布に対し最大の価格を支払うのは最後の場合であるが、しかしすべての彼れの附加的支払は国家の利得となるのである。第二の場合においては、彼は第一の場合よりもより多く支払うが、しかし彼が附加的に支払うすべては、国家の受取る所とはならない、彼に課せられるのは生産の困難により惹起される増加価格である、けだし最も容易な生産の手段が、租税の束縛を受けて吾々から遠ざけられているからである。 
第十二章 地租

 

(六六)土地の地代に比例して賦課され、かつ地代の変動ごとに変動する地租は、結果において地代に対する課税である。そしてかかる租税は、何らの地代をも生じない土地には、または単に利潤のみを目的として土地の上に使用されかつ決して地代を支払わない所の資本の生産物にも、適用されないから、それは決して粗生生産物の価格に影響を及ぼさないであろうが、しかし全く地主の負担する所となるであろう。いかなる点においてもかかる租税は地代に対する租税と異らないであろう。しかしもし地租がすべての耕地に対して課せられるならば、それがいかに適当であろうとも、それは生産物に対する租税であり、従って生産物の価格を高めるであろう。もし第三等地が最後に耕作される土地であるならば、たとえそれは何らの地代をも支払わなくとも、それは、課税された後は、生産物の価格が租税の支払に応ずるために騰貴せざる限り、耕作され得ずかつ利潤の一般率を与え得ない。資本がその職業から抑留されて、ついに需要の結果、穀物価格が通常利潤を与えるに足るほど騰貴するに至るか、またはもし既にかかる土地に用いられているならば、それは、より有利な職業を求めてこの土地を去るか、であろう。この租税は地主には転嫁され得ない、けだし仮定によれば彼は何らの地代をも受取らないからである。かかる租税は、土地の質及びその生産物量に比例せしめられるべく、しかる時にはそれはいかなる点においても、十分一税と異らない。あるいはそれはあらゆる耕地――その地質がいかなるものであろうとも――に対するエーカア当りの固定的租税であろう。 
(六七)この最後の種類の地租は極めて不平等な租税であり、そしてアダム・スミス(編者註)によればすべての租税がそれに一致しなければならない租税一般に関する四公理の一つに反するであろう。この四公理は次の如くである。
一、『あらゆる国家の臣民は彼らの各々の能力に出来得る限り比例して政府の支持に寄与すべきである。
二、『各個人が支払わざるべからざる租税は確定的であるべく、恣意的であってはならない。
三、『あらゆる租税は、納税者にとりそれを支払うに最も便利なように思われる時または方法において、賦課せらるべきである。
四、『あらゆる租税は、それが国庫に齎す以上には出来るだけ少く人民の懐中から取り去りかつ出来るだけ少く人民の懐中以外にあらしめるように、工夫せらるべきである。』
(編者註)第五篇、第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三一〇――三一一頁)。
無差別的にかつその地質の区別を無視してあらゆる耕地に課せられる平等な地租は、最も悪質の土地の耕作者によって支払われる租税に比例して穀価を騰貴せしめるであろう。質を異にする土地は、同一の資本を用いて、極めて異る分量の粗生生産物を産出するであろう。もし、一定の資本をもって一千クヲタアの穀物を産する土地に、一〇〇磅ポンドの租税が課せられるならば、穀物は、農業者にこの租税を補償するために、一クヲタアにつき二シリング騰貴するであろう。しかし、より良き質の土地に同一の資本を用いれば、二、〇〇〇クヲタアが生産され得ようが、それは一クヲタアにつき二シリング騰貴した時には、二〇〇磅ポンドを与えるであろう。しかしながら、租税は双方の土地に平等に課せられるからより良い土地に対しても劣等の土地に対すると同様に一〇〇磅ポンドであろう、従って穀物の消費者は、啻に国家の必要費を支払うためにのみならず、更にまたその借地期限の間より良い土地の耕作者に一年につき一〇〇磅ポンドを与え、またその以後には地主の地代をその額だけ高めるために課税されるであろう。かくてこの種の租税はアダム・スミスの第四の公理に反するであろう、すなわち、それは、それが国庫に齎した額以上を人民の懐中以外にあらしめるであろう。革命前のフランスにおけるタイユはこの種の租税であった。平民の保有地のみが課税され、粗生生産物の価格は租税に比例して騰貴し、従ってその所有地の課税されなかった人々は彼らの地代の増加によって利益を受けた。粗生生産物に対する租税並びに十分一税は、この反対論から免れる。それらは、粗生生産物の価格を騰貴せしめるが、しかしそれらは、各々の質の土地に、その実際の生産物に比例して納税させ、そして生産力の最小なるものの生産物に比例しては納税させないのである。
アダム・スミスが地代についてとった特殊な見解からして、すなわち、あらゆる国において、何らの地代もそれに対して支払われない土地に多くの資本が投ぜられていることを、彼が観察しなかったことからして、彼は、土地に対するすべての租税は、それが地租または十分一税の形において土地そのものに対して賦課せられようと、または農業者の利潤から徴収されようと、すべて常に地主によって支払われるものであり、そして租税は一般に名目上借地人によって前払されてはいるが、すべての場合において地主が真実の納税者である、と結論した。彼は曰く、『土地の生産物に対する租税は実際においては地代に対する租税である。そしてそれは初めは農業者によって前払されるかもしれぬが、終局的には地主によって支払われる。生産物の一定部分が租税として払い出さるべき時には、農業者は出来るだけ詳しくこの部分の価値が年々幾何いくばくに上りそうであるかを計算し、そして彼が地主に対して支払うことを同意している地代をそれに比例して減額する。この種の地租たる教会十分一税が年々幾何に上りそうであるかをあらかじめ計算しない農業者はない。』(訳者註)農業者が彼れの農場の地代について彼れの地主と約定する時にあらゆる種類の蓋然的支出を計算することは疑いもなく真実である。そしてもし教会に支払われる十分一税に対し、または土地の生産物に対する租税に対して、彼がその農場の生産物の相対価値の騰貴によって補償されないならば、彼は当然にそれを彼れの地代から控除せんと努めるであろう。しかしまさにこれが、すなわち、彼は結局それを彼れの地代から控除するであろうか、または生産物の価格騰貴によって補償されるであろうか、ということが、論争のある問題なのである。既に述べた理由により、私は彼らが生産物の価格を引上げるであろうことを、従ってアダム・スミスはこの重要な問題について誤れる見解をとっていたことを、少しも疑い得ないのである。
(訳者註)キャナン版、第二巻、三二一頁。
スミス博士のこの主題に関する見解がおそらく彼をして次の如く述べしめた理由である、すなわち、『十分一税、及びこの種のあらゆる他の地租は、完全な平等の外観を有ちながら極めて不平等な租税であり、それは、生産物の一定分量も、事情の異る場合には、はなはだ異る分量の地代に相当するからである。』(訳者註)かかる租税は重さを異にして農業者または地主の異る階級の負担する所とはならないが、けだし彼らは共に粗生生産物の騰貴によって補償され、そして単に彼らが粗生生産物の消費者たるに比例してこの租税を納付するに過ぎないからである、ということを、私は説明せんと努力し来った。実に労賃が、そして労賃を通じて利潤率が、影響を蒙る故に、地主はかかる租税に対し彼らの十分な分前を納付せず特に免除された階級なのである。その基金が不十分なために租税を支払い得ない所の労働者の負担に課せられる租税部分が引き出されるのは、資本の利潤からである。この部分は資本の使用によりその所得を得るすべての者のもっぱら負担する所であり、従ってそれは毫も地主に影響を及ぼさない。
(訳者註)キャナン版、同上。 
(六八)十分一税及び土地と生産物とに対する租税に関するこの見解からして、それらは耕作を阻害しないと推論してはならぬ。極めて一般的に需要されているいかなる種類でもの貨物の交換価値を騰貴せしめるあらゆるものは、耕作及び生産の両者を阻害する傾向がある。しかしこれはあらゆる課税から免れ得ぬ害悪であり、そして吾々が今論じている特定の租税に限られるものではない。
このことはもちろん国家によって受領されかつ支出されるすべての租税に伴う不可避的な不利益と考え得よう。あらゆる新労働の一部分は今や国家の自由になし得る所となり、従って生産的に使用され得ない。この部分が極めて大となり、そのために、通常彼らの貯蓄によって国家の資本を増大する者の努力を刺戟するに足る剰余生産物が、残されなくなるであろう。課税は幸さいわいにして、未だいかなる自由国家においても、不断に年々その資本を減少せしめるほどに行われたことはない。かかる課税状態は久しく耐えられ得ないであろう。またはもし耐えられたとしても、それは極めて多くの国の年々の生産物を吸収し、ために最も広大なる範囲の窮乏、飢饉、及び人口減少を惹起すに至るであろう。
アダム・スミスは曰く、『大英国の地租の如くに、各地方において一定不変の標準によって課せられる地租は、その最初の設定の時には平等であっても、時を経るにつれ国の種々なる地方の耕作の改良または等閑の程度の不平等なのに従って、必然的に不平等になる。英国においては、種々なる州及び教区がウィリアム及メアリの第四年の法律によって地租の課せられた基準となった評価は、その最初の設定の時ですら、極めて不平等であった。従ってこの租税はそれだけ上述の四公理の第一のものに反するものである。それは他の三つには完全に合致する。それは完全に確実である。その租税の支払期が地代の支払期と同一であることは、納税者にとり最も便利である。地主がすべての場合において真実の納税者ではあるけれども、この租税は普通借地人によって前払され、地主は彼に対して地代の支払においてそれを差引かなければならないのである。』(訳者註)
(訳者註)キャナン版、三一三頁。
もし借地人によって租税が地主にではなく消費者に転嫁されるならば、しかる時は、もしそれが最初に不平等でないならば、それは決して不平等にはなり得ない。けだし生産物の価格は租税に比例して直ちに引上げられたのであり、そしてその故をもってその以後にもはや変化することはないであろうからである。もし不平等であるならば、私はそうであろうことを証明せんと試みたのであり、それは上述の第四の公理に反するであろうが、しかし第一の公理には反しないであろう。それは国庫に齎す額以上を人民の懐中から取り去るであろうが、しかしそれは不平等に納税者のある特定階級の負担する所とはならないであろう。セイ氏は、次の如く言う時に、英国の地租の性質及び結果を誤解しているように私には思われる、『多くの人は英国農業の大繁栄をこの固定的評価に帰している。それがこれにはなはだ多く寄与したことには、疑いは有り得ない。しかし小商人に向って次の如く云う政府には、吾々は何と云うべきであろうか、すなわち、「小さな資本をもって君は小さな商売を営んでいる、そしてその結果君の直接納税は極めて小である。資本を借り入れかつ蓄積せよ。君の商売が巨大な利潤を君に齎すように、それを拡張せよ、しかも君にはより多くの納税はさせないであろう。しかのみならず君の相続者が君の利潤を相続し、かつそれを更に増加せしめる時に、君の場合よりも彼らの場合にその評価をより高くはしないであろう。そして君の相続者はより多額の公の負担を負わせはしないであろう」と。
『疑いもなく、これは製造業及び取引に対して与えられる大なる奨励であろう。しかしそれは正当であろうか? それらの進歩はある他の代価によって得ることを得ないであろうか? 英国自身において、製造業及び商業はこの時期以来、かくも多くの差別待遇を受けることなくて、かえってより大なる進歩をすらなしはしなかったか? 一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加するとする。もし国家が彼からその増加された所得の五分の一を請求するとしても、彼れのより以上の努力を刺戟すべく四、〇〇〇フランの増加が残らないであろうか?』(編者註)
セイ氏は、『一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加する』(編者註)と想像している。しかし一地主は彼がそれを自身耕作せざる限り、彼れの勤勉や節倹や熟練を彼れの土地に用うべき何らの手段をも有たない。そしてその場合には彼が改良をなすのは資本家及び農業者たる資格においてであって、地主たる資格においてではない。まず彼れの農場に用いられる資本の分量を増加することなくして、彼が彼として有つ任意の特殊な熟練によってその生産物をかく増加し得ようとは考えられない。もし彼が資本を増加したとしても、彼れのより大なる収入は彼れの増加された資本に対して、あらゆる他の農業者の収入が彼らの資本に対すると同一な比例を保つであろう。
(編者註)『経済学』第三篇、第八章、三五三――四頁。
もし、セイ氏の教える所に従い、そして国家は農業者の増加せる所得の五分の一を請求すべきであるとするならば、それは農業者に対する局部的租税となり、彼らの利潤には影響を及ぼすけれども、他の職業の者の利潤には影響を及ぼさないであろう。この租税は、あらゆる土地によって、すなわち産出額の乏しい土地によっても産出額の多い土地によっても、支払われるであろう。そしてある土地においては、何らの地代も支払われていないのであるから、地代の低減によってのそれに対する補償はあり得ないであろう。利潤に対する局部的な租税は決してそれが課せられた事業の負担する所とはならない、けだし事業者は彼れの職業を中止するか、またはその租税に対して補償を受けるか、であろうからである。さて何らの地代をも支払わない者は、生産物の価格騰貴によってのみ補償され得る、かくてセイ氏の提議せる租税は消費者の負担する所となり、そして地主の負担にも農業者の負担にもならないであろう。
もしこの提議された租税が、土地から得られた総生産物の分量または価値の増加に比例して増加されるならば、それは十分一税と何ら異る所なく、そして等しく消費者に転嫁されるであろう。しからばそれが土地の総生産物の負担する所となろうとまたはその純生産物の負担する所となろうと、それは等しく消費に対する租税であり、そして単に粗生生産物に対する他の租税と同様な仕方で地主及び農業者に影響を及ぼすに過ぎないであろう。
もしいかなる種類の租税も土地に対して賦課されず、そして同一額がある他の手段によって徴収されたとしても、農業は少くとも実際に同じほど繁栄したであろう。けだし、土地に対するいかなる租税も農業に対する奨励であり得ることは不可能であるからである。適度な租税は大いに生産を妨げ得ないであろうし、またおそらく妨げないが、しかしそれは生産を奨励することは出来ない。英国政府はセイ氏が想像したような言葉は用いなかった。それは農業階級とその相続者とをあらゆる将来の課税から除外し、そして国家が必要とすべきそれ以上の資は他の社会階級から徴収するとは、約束しなかった。それは単に次の如く云ったに過ぎない、すなわち、『かくの如くして、吾々は、土地にこれ以上の負担をかけないであろう。しかし吾々は、君らをしてある他の形において国家の将来の必要費に対する君らの十分な割当額を支払わしめる最も完全なる自由を保留する』と。
物納租税または十分一税と正確に同一なる生産物の一定の比例の租税について、セイ氏は曰く、『この課税方法は最も公平であるように思われる。しかしながらこれよりも不公平なものはない。すなわちそれは全然生産者によってなされる前払を考慮せず、それは総収入に比例せしめられ、純収入には比例せしめられない。二人の農業者が異る種類の粗生生産物を耕作する。一人は中等の土地で穀物を耕作し、その支出は年々平均して八、〇〇〇フランに当る。彼れの土地から得られる粗生生産物は一二、〇〇〇フランで売れる。しかる時は彼は四、〇〇〇フランの純収入を得る。
『彼の隣人は牧場または森林地を有し、それは毎年同額の一二、〇〇〇フランを齎すが、しかし彼れの支出は単に二、〇〇〇フランに当るに過ぎない。従って彼は平均して一〇、〇〇〇フランの純収入を得る。
『一法律が、すべての土壌の果実の生産物の十二分の一を、それが何であろうとに論なく、実物で徴収すべきことを命ずるとする。第一の者からはこの法律の結果として一、〇〇〇フランの価値の穀物が徴収され、また第二の者からは同じく一、〇〇〇フランの価値を有つ枯草や家畜や木材が徴収される。そこで何事が起ったか? 一方からは、彼れの純所得、四、〇〇〇フランの、四分の一が徴収され、その所得が一〇、〇〇〇になる他方からは、わずかに十分の一が徴収されたに過ぎない。所得とは資本を正確にその以前の状態に囘復した後に残る純利潤である。一商人は、彼が一年の間になすすべての販売に等しい所得を得るか? 確かにそうではない。彼れの所得は単に、彼れの販売が彼れの前払を超過する額に当るに過ぎず、そして所得税を負担すべきものはこの超過額のみである。』(編者註)
(編者註)前掲書、三四四頁、三五〇頁。
上記の章句におけるセイ氏の誤謬は、これらの二つの農場の一方の生産物の価値が、資本を囘収した後に、他方の生産物の価値よりもより大であるから、その故に、耕作者の純所得はこの額だけ異るであろう、と想像していることにある。森林地の地主と借地人との純所得の合計は、穀物地の地主と借地人との純所得よりも遥かにより大であるかもしれない。しかしそれは地代の相違の故であって、利潤率の相違の故ではない。セイ氏は、これらの耕作者が支払わなければならぬ地代の量の異ることに関する考察を、全然省略したのである。同一の職業には二つの利潤率はあり得ず、従って、生産物の価値が資本に対し異る比例にある時には、異るべきものは地代であって利潤ではない。いかなる口実によって、八、〇〇〇フランの資本を有する他の人が四、〇〇〇フランを取得するに過ぎないのに二、〇〇〇フランの資本を有する人は、それを用いて一〇、〇〇〇フランの純利潤を取得することを許されるであろうか? セイ氏をして地代を適当に斟酌せしめよ。彼をして更に、かかる租税がこれらの異る種類の粗生生産物の価格に対して及ぼすべき影響を斟酌せしめよ、しからば、彼はそれは不平等な租税ではなく、更にまた、生産者自身はいかなる他の消費者階級とも異った方法では租税に貢献しないであろうということを、理解するであろう。 
第十三章 金に対する租税

 

(六九)貨物の価格騰貴は、課税または生産の困難の結果として、あらゆる場合において結局生ずるであろう。しかし市場価格が自然価格に一致するまでの時の隔りは、貨物の性質に、及びその量が減ぜられ得る難易に、依存しなければならぬ。もし課税された貨物の量が減少され得ないならば、もし例えば農業者または帽子製造業者の資本が他の職業へ向って引き去られ得ないならば、彼らの利潤が租税によって一般水準以下に低減されることは、少しも重大事ではないであろう。彼らの貨物に対する需要が増加しない限り、彼らは決して穀物及び帽子の市場価格をその騰貴したる自然価格にまで引上げ得ないであろう。その職業を去りかつその資本をより有利な事業に移転するという彼らの威嚇は、実行され得ない所の無益な脅迫と看做され、従って価格は生産の減少によって引上げられることはないであろう。しかしながらあらゆる種類の貨物はその量を減少し得、かつ資本はより不利な事業からより有利な事業に――その速度は異るが――移転され得る。特定の貨物の供給が生産者に対する不便を伴わずしてより容易に減少され得るに比例して、その価格は、その生産の困難が課税またはその他の手段によって増加された後に、より速かに騰貴するであろう。穀物はあらゆる者にとって不可欠の必要貨物であるから、租税の結果としてそれに対する需要に対してほとんど影響は起らないであろう、従って、たとえ生産者達が彼らの資本を土地から移転するのが極めて困難であるとしても、その供給はおそらく久しく過剰ではないであろう。この理由のために、穀物の価格は課税によって急速に高められ、そして農業者は租税を彼自身から消費者に転嫁し得るに至るであろう。
もし吾々に金を供給する鉱山が我国にあり、そしてもし金が課税されているとするならば、それはその分量が減少されるまでは他の物に対する相対価値において騰貴し得ないであろう。このことは、金がもっぱら貨幣として用いられる場合には、特にますます事実であろう。生産力の最も少い鉱山、何らの地代をも支払わない鉱山は、金の相対価値が租税に等しい額だけ騰貴するまでは一般利潤率を与え得ないから、もはや採掘され得ないことは、真実である。金の分量に従って貨幣の分量は徐々に減少されるであろう。それはある年には少し減少され、他の年には更にもう少し減少され、そしてついにその価値は租税に比例して騰貴せしめられるであろう。しかしそれまでの間は、所有者または保有者が租税を支払うであろうから、彼らが被害者であり、貨幣を使用した者は被害を蒙らないであろう。もし国内における小麦一、〇〇〇クヲタアごとに、及び将来における一、〇〇〇クヲタアごとに、政府が一〇〇クヲタアを租税として徴収するならば、残りの九〇〇クヲタアは、以前に一、〇〇〇クヲタアと交換されたと同一の分量の他の貨物と交換されるであろう。しかしもし同一のことが金に関して起るならば、すなわちもし現在国内にある貨幣一、〇〇〇磅ポンドごとに、または将来国内に齎さるべき一、〇〇〇磅ポンドごとに、政府が一〇〇磅ポンドを租税として徴収し得るならば、残りの九〇〇磅ポンドは、以前に九〇〇磅ポンドが購買した以上にはほとんど購買しないであろう。この租税は財産が貨幣から成る人の負担する所となり、そしてその量が、租税によって起ったその生産費の増加に比例して、減少されるまでは、引続きそうであろう。 
(七〇)このことはおそらく、他のいかなる貨物よりも貨幣として使用される金属に関して、特に事実であろう。けだし貨幣に対する需要は、衣服や食物に対する需要の如くに、一定分量に対するものではないからである。貨幣に対する需要は、全くその価値によって左右され、そしてその価値はその分量によって左右される。もし金が二倍の価値を有つならば、半分の分量が流通において同一の職能を果すであろうし、またもしそれが半分の価値を有つならば、二倍の分量が必要とされるであろう。もし穀物の市場価値が、課税または生産の困難によって、十分の一だけ騰貴せしめられるとしても、消費量に何らかの影響が惹起されるか否かは、疑わしいことである、けだしあらゆる者の欲望は一定量に対するものであり、従ってもし彼が購買の資力を有つならば、彼は引続き以前と同様に消費するであろうからである。しかし貨幣に対しては需要はその価値に正確に比例する。何人も彼を支えるために通常必要な穀物量の二倍を消費し得ないであろうが、しかし単に同一量の財貨を売買するに過ぎないあらゆる者は、この貨幣量の二倍、三倍、または何倍でもを、使用するを余儀なくされることもあろう。
私が今述べて来た議論は、貴金属類が貨幣として使用されかつ紙幣信用が樹立されていない社会状態にのみ、妥当するに過ぎない。金属金は、すべての他の貨物と同様に、その市場における価値を、結局それを生産する難易によって左右される。そしてたとえその耐久的性質とその分量を減少することの困難とによってそれはその市場価値の変動に容易に服せぬとはいえ、しかもこの困難はそれが貨幣として用いられるという事情によって大いに増加される。もし商業のみの目的のために用いられる市場における貨幣量が一〇、〇〇〇オンスであり、そして我国の製造業における消費が年々二、〇〇〇オンスであるならば、年々の供給を抑止することによって、一年にしてそれはその価値において四分の一すなわち二五%だけ騰貴するであろう。しかしそれが貨幣として用いられる結果として使用量が一〇〇、〇〇〇オンスであるならば、それは十年以内には価値において四分の一だけ騰貴することはないであろう。紙幣は分量において直ちに減少され得ようから、その価値は、たとえその本位は金であっても、もしその金属が流通の極めて小部分を形造ることによって貨幣と極めて軽微な関係しか有たぬ場合には、金属それ自身の価値と同様に速かに増加されるであろう。 
(七一)もし金が一国のみの生産物であり、かつそれが普遍的に貨幣として用いられるならば、かなりの多額の租税がそれに賦課され得、それが、人々が金を製造業において及び什器のために用いるに比例しての他は、いかなる国の負担する所ともならないことがあろう。貨幣として用いられる部分に対しては、多額の租税が収納されても、何人もそれを支払わないであろう。これは貨幣に特有な性質である。限られた量しか存在せずかつ競争によって増加され得ないすべての他の貨物は、その価値については、購買者の嗜好や気紛れや資力に依存している。しかし貨幣はいかなる国もそれを増加せんとする願望を有たずまたは必要を有たない貨物である。通貨を二千万使用することからは、一千万使用することから起る以上の利益はない。一国が絹または葡萄酒の独占権を有っていても、しかも気紛れや流行や嗜好のために、毛織布及びブランデイが好まれかつ代用されるであろう故に、絹製品及び葡萄酒の価値は下落するであろう。同一の結果は、金の使用が製造業に限られている限り、ある程度において金についても起り得よう。しかし貨幣は交換の一般的媒介物であるから、それに対する需要は決して選択事項でなく、常に必要事である。諸君は諸君の財貨と交換にそれを受取らなければならず、従ってもしその価値が下落するならば、外国貿易によって諸君が受取らせられる分量には限りがなく、またもしそれが騰貴するならば、諸君はいかなる減少にも服さなければならないのである。もちろん諸君は紙幣を代用し得ようが、しかしこれによって諸君は貨幣の分量を減少しないし、また減少し得ない、けだしその分量はそれと交換されるその本位の価値によって左右されるものであるからである。僅少な貨幣をもって貨物が購買される国からそれがより多くの貨幣に対して販売され得る国へと、貨物が輸出されるのを、諸君が妨げ得るのは、貨物の価値の騰貴によってのみであり、そしてこの騰貴は外国からの金属貨幣の輸入により、または国内における紙幣の創造または附加によってのみ、行われ得るものである。かくてもし、スペイン王が鉱山を独占的に所有すると仮定し、そして金のみが貨幣として用いられると仮定すれば彼が金に対し大なる租税を賦課するとするならば、彼はその自然価格を極めて多く引き上げるであろう。そしてヨオロッパにおけるその市場価格は、終局においてはスペイン領アメリカにおけるその自然価値によって左右されるのであるから、一定分量の金に対しヨオロッパによってより多くの貨物が与えられるであろう。しかし同一分量の金はアメリカにおいては生産されないであろう、けだしその価値は単にその生産費の増加の結果たる分量の減少に比例して増加されるに過ぎないからである。かくてアメリカにおいてはその輸出されたすべての金と交換に以前よりもより多くの財貨が取得されはしないであろう。そこでしからば、スペインとその植民地にとってどこに利益があるか? と問われ得よう。その利益はこういうことであろう、すなわち、もしより少い金が生産されるならば、より少い資本がその生産に用いられ、以前により大なる資本の使用によって取得されたと同一の価値を有つヨオロッパからの財貨が、より小なる資本の使用によって輸入され、従って鉱山から引き去られた資本の使用によって得られたすべての生産物は、スペインが租税の賦課によって得、かつそれが他のいかなる貨物の独占権の所有によってもかくも豊富にかつかくも確実に取得し得ないであろう所の、利益であろう。かかる租税からは、貨幣の関する限りにおいては、ヨオロッパの諸国民は何らの害をも蒙らないであろう。彼らは以前と同一の分量の財貨を有ち、従って同一の享楽手段を有つであろうが、しかしこれらの財貨は、貨幣価値が騰貴しているから、より少い分量の貨幣をもって流通されるであろう。
もし租税の結果として金の現在量の単に十分の一が鉱山から得られるに過ぎないとするならば、その十分の一は現在生産されている十分の一と等しい価値を有つであろう。しかしスペイン王は貴金属の鉱山を独占的に所有してはいない。そしてもし彼がそれを独占しているとしても、その所有による彼れの利益及び課税権力は大なり小なりの程度における紙幣の普遍的代用の結果として、ヨオロッパにおける需要と消費との制限によって、極めて著しく減ぜられるであろう。あらゆる貨物の市場価格と自然価格との一致は、あらゆる時において、供給が増減され得る容易さに依存する。金や家屋や労働や並びにその他の多くの物の場合には、ある事情の下においては、この結果は急速に齎され得ない。しかし帽子や靴や穀物や毛織布の如き、年々消費されかつ再生産される貨物の場合はこれと異る。それらは、必要の際には、減ぜられ得よう、そして供給がそれらの生産費の増加に比例して縮小されるまでの時の隔りは、長くあり得ないのである。
土地の表面からの粗生生産物に対する租税は、吾々の既に見た如くに、消費者の負担する所となり、そして毫も地代には影響を及ぼさないであろう。ただしそれが労働の維持のための基金を減少することによって、労賃を低め、人口を減じ、そして穀物に対する需要を減少する場合は、この限りではない。しかし金鉱の生産物に対する租税は、この金属の価値を騰貴せしめることによって、必然的にそれに対する需要を減じ、従って必然的に資本が用いられていた職業からその資本を排除しなければならない。しからば、金に対する租税から前述のすべての利益をスペインは得るであろうにもかかわらず、資本が引き去られた鉱山の所有者はすべての彼らの地位を失うであろう。これは個人に対する損失ではあろうが、しかし国民的損失ではないであろう。地代は富の創造ではなく単にその移転に過ぎないからである。スペイン王と、引続き採掘される鉱山の所有者は、相共に、啻に解放された資本が生産したすべてを受取るのみならず、更に他の所有者が失ったすべてをも受取るであろう。
第一等、第二等、及び第三等の質の鉱山が採掘されており、そして各々一〇〇、八〇、及び七〇封度ポンドの重量の金を生産し、従って第一等鉱山の地代は三十封度ポンドであり、第二鉱山のそれは十封度ポンドであると仮定せよ。今租税は採掘されている各鉱山に対して年々七十封度ポンドの金であり、従って第一等鉱山のみが有利に採掘され得ると仮定せよ。すべての地代が直ちに消失すべきことは明かである。租税の賦課以前には、第一等鉱山で生産された一〇〇封度ポンドの中から三十封度ポンドの地代が支払われ、そしてこの鉱山の採掘者は、最も生産力の小なる鉱山の生産物に等しい額たる七十封度ポンドを保有した。しからば第一等の鉱山の資本家の手に残るものの価値は、以前と同一でなければならず、しからざれば彼は資本の通常利潤を取得しないであろう。従って租税として、彼れの一〇〇封度ポンドの中から七〇封度ポンドを支払った後に、残りの三十封度ポンドの価値は以前の七十封度ポンドの価値と同じ大きさでなければならず、従って全百封度ポンドの価値は以前の二三三封度ポンドの価値と同じ大いさでなければならない。その価値はより高いかもしれないが、しかしそれはより低くはあり得ないであろう、しからざればこの鉱山ですら採掘されざるに至るであろう。それは独占貨物であるからその自然価値を超過し得るであろう、そしてその際には、それはその超過に等しい地代を支払うであろう。しかしながらそれがこの価値以下であるならば、何らの資金も鉱山に用いられないであろう。鉱山に用いられる労働と資本との三分の一と引替に、スペインは、以前と同一の、またはほとんど全く同一の分量の貨物と交換されるべきほどの金を取得するであろう。この国は鉱山から解放された三分の二のものの生産物だけより富むであろう。もし一〇〇封度ポンドの金の価値が以前に採掘された二五〇封度ポンドのそれに等しいとするならば、スペイン王の収得分たる彼れの七十封度ポンドは、以前の価値における一七五封度ポンドに等しいであろう。国王の租税の大部分は資本のより良き分配によって取得されるから、その小部分が彼自身の臣民の負担する所となるに過ぎないであろう。
スペインの計算書は次の如くなるであろう。
以前の生産額
金二五〇封度ポンド、その価値(仮定)…………毛織布一〇、〇〇〇ヤアル
新生産額
鉱山を中止せる二人の資本家により生産さる、金一四〇封度ポンドが以前に交換されたと同一の価値。その大いさは…………毛織布五、六〇〇ヤアル
第一等鉱山を採掘する資本家により生産さる、一対二・二分の一にて価値騰貴せる三十封度ポンドの金、従ってその現在価値は…………毛織布三、〇〇〇ヤアル
七十封度ポンドの王への租税、同じく一対二・二分の一にて価値騰貴、従ってその現在価値は…………毛織布七、〇〇〇ヤアル
一五、六〇〇
王の受取る七、〇〇〇のうち、スペインの臣民は一、四〇〇を納めるに過ぎず、そして五、六〇〇は、解放された資本によって齎された純利得であろう。
もし租税が、採掘鉱山についての固定額のものではなくして、その生産物の一定割合であるならば、生産量はその結果として直ちに減少されないであろう。もし各鉱山の産額の二分の一、四分の一、または三分の一が租税として徴収されても、それにもかかわらず彼らの鉱山をして以前と同様豊富に産出せしめるのが所有者の利益であろう。しかしもしその分量が減ぜられずして、単にその一部分が所有者から国王に移転されるに過ぎないならば、その価値は騰貴しないであろう。租税は、植民地の人民の負担する所となり、そして何らの利益も得られないであろう。この種の租税は、アダム・スミスが、粗生生産物に対する租税が土地の地代に及ぼすと想像した影響を有つであろう――すなわちそれは全然鉱山の地代の負担する所となるであろう。実にもしこれ以上もう少しく進められるならば、この租税は、啻に全地代を吸収するのみならず、鉱山の採掘者から資本の普通利潤を奪うこととなり、従って彼はその資本を金の生産から引き去るであろう。もしこれ以上、更にもう少し拡大されるならば、更により良い鉱山の地代は吸収され、そして資本は更にその上引き去られるであろう。かくて分量は不断に減少され、そしてその価値は高められ、そして吾々が指摘したと同一の結果が起るであろう。租税の一部はスペイン植民地の人民によって支払われ、そして他の部分は、交換の媒介物として用いられる用具の力を増大せしめることによって、生産物の新創造となるであろう。
金に対する租税には二種類あり、その一は流通している金の実際の分量に課せられるものであり、他方は鉱山から年々生産される分量に課せられるものである。両者は金の分量を減じて価値を騰貴せしめる傾向を有っている。しかしそのいずれによってもその分量が減少せしめられるまではその価値は騰貴せしめられないであろう、従ってかかる租税は、供給が減少せしめられるまではしばらくの間貨幣の所有者の負担する所となるであろうが、しかし終局的には、永続的に社会の負担する所となるべき部分は、地代の減少という形で鉱山の所有者によって、及び、金のうち、人類の享楽に寄与する貨物として用いられ流通用具として取除けられることのない部分の、購買者によって、支払われるであろう。 
第十四章 家屋に対する租税

 

(七二)金の他にもまた、急速にその量を減少させられ得ない他の貨物がある。従ってそれに対するいかなる租税も、価格の騰貴が需要を減少させるならば、所有者の負担となるであろう。
家屋に対する租税はこの種のものである。たとえ居住者に課せられても、それはしばしば家賃の減少によって、家主の負担する所となるであろう。土地の生産物は年々消費されかつ再生産され、そして他の多くの貨物も同様である。従ってそれらは急速に需要と同一水準に齎され得ようから、久しくその自然価格を越していることは出来ない。しかし家屋に対する租税は、借家人によって支払われる家賃の附加と考えてよかろうから、その傾向は、家屋の供給を減少することなくして同一の年家賃の家屋に対する需要を減少することであろう。従って家賃は下落し、そして租税の一部分は間接に家主によって支払われるであろう。 
(七三)アダム・スミスは曰く、『家屋の家賃は二つの部分に区別し得よう。その一方は極めて正当に建築物家賃と呼ばれ得ようし、他方は普通敷地地代と呼ばれている。建築物家賃は家屋の建築に費された資本の利子または利潤である。建築業者の職業を他の職業と同一水準に置くためには、この家賃は第一に、彼がその資本を良好な担保を取って貸附けた場合に、彼がその資本に対して得べきと同一の利子を支払うに足り、また第二に、家屋を絶えず修繕しておくことに、または同じことになるが、一定年限にそれを建築するに使用された資本を囘収するに足ることが、必要である。』(訳者註一)『もし金利に比例して、建築業者の職業が、ある時において、これよりも遥かにより大なる利潤を与えるならばそれは直ちに他の諸々の職業から極めて多くの資本を引去り、その結果この利潤をその正当な水準まで低下せしめるであろう。もしもそれがある時においてこれよりも遥かにより以下を与えるならば、他の職業は直ちにこの職業から多くの資本を引去り、その結果再びその利潤を高めるであろう。家屋の全家賃のうちこの正当な利潤を与えるに足る額を越えるすべては、当然に敷地地代に属する。そして土地の所有者と建築物の所有者とが、二人の異る人である場合には、それは大抵の場合において完全に前者に支払われる。大都市から遠く離れ、土地を広く選択し得る、田舎家屋にあっては、敷地地代は、家屋のある場所が農業に用いられた場合に支払う所以上ではほとんどなく、またはそれ以上では全くない。ある大都市の近郊における田舎の別墅べっしょにあっては、それは時に大いにより高く、そしてその特殊の便益または地の利はそこにおいてはしばしば極めて高い支払を受ける。敷地地代は一般に、首都において、また、取引や事業のためであろうと、娯楽や社交のためであろうと、または単なる虚栄や流行のためであろうと、その需要の理由が何であるかを問わず、とにかく家屋に対する需要の最大な首都の特殊部分において、最高である。』(訳者註二)家屋の家賃に対する租税は、居住者か土地地主かまたは建物家主かの負担となるであろう。普通の場合においては、全租税は直接的にかつ終局的に居住者によって支払われると推定し得よう。
(訳者註一)『諸国民の富』キャナン版、第二巻、三二四頁。
(訳者註二)同上、三二五頁。
もしこの租税が適量であり、そして国の事情によりその国が静止的かまたは進歩的かであるならば、家屋の居住者には、より悪い種類の家屋で満足しようという動機は、ほとんど起らないであろう。しかしもしこの租税が高いか、もしくはある他の事情が家屋に対する需要を減少するならば、家主の所得は下落するであろうが、けだし居住者は租税の一部を家賃の減少によって償われるであろうからである。しかしながら、租税のうち家賃の下落によって居住者が免れた部分が、いかなる割合において、建築物家賃と敷地地代との負担する所となるであろうかをいうことは困難である。最初にはおそらく双方が影響を蒙るであろう。しかし家屋は徐々としてではあるがしかし確実に破滅して行くものであるから、そして建築業者の利潤が一般水準にまで囘復されるまではそれ以上家屋は建築されないであろうから、建築物家賃はしばらくの後には、その自然価格にまで囘復されるであろう。建築業者は単に建物が存続する間家賃を受取るに過ぎないのであるから、最も不幸な事情の下においては、彼は、それ以上の期間、租税のいかなる部分をも支払い得ないであろう。
かくてこの租税の支払は終局的には居住者及び土地地主の負担する所となるであろう、しかし、『いかなる割合においてこの終局の支払が彼らの間に分たれるかは』とアダム・スミスは曰う、『これを確かめることは、おそらくは極めて容易ではない。この分割はおそらく、異る事情においては極めて異るであろう、そしてこの種の租税は、それらの異る事情に従って、家屋の住人と土地の所有者との双方に極めて不平等に影響を及ぼすであろう。』(註)
(註)第五篇、第二章(訳者註――キャナン版、三二六頁)。
アダム・スミスは敷地地代をもって特に適当な課税物件であると考えている。彼は曰く、『敷地地代及び通常の土地地代の両者は、所有者が多くの場合において、彼自身の配慮や注意を要せずして享受する収入の一種である。たとえこの収入の一部分が、国家経費を支払うために、彼から取去られたとしても、いかなる種類の産業もそれによっては阻害されないであろう。社会の土地及び労働の年々の生産物は、人民の大多数の真実の富及び収入は、かかる租税が課せられた後においてもその以前も同一であろう。従って敷地地代及び通常の土地地代はおそらく、それらに対して特殊の租税が課せられてもそれを最も良く負担し得るという種類の収入である。』(訳者註)これらの租税の結果がアダム・スミスの述べた如きものであろうことは、認めなければならない。しかし、もっぱら社会のある特定階級の収入にのみ課税するというのは、確かに極めて不正であろう。国家の負荷はすべての者がその資力に応じて負担しなければならない。これは、すべての課税を支配すべきものとしてアダム・スミスが挙げている四つの公理の一つである。賃料はしばしば、多年の辛苦の後にその利得を実現しそしてその財産や土地や家屋の購買に支出した人々に、帰属する。そして財産に不平等に課税することは、確かに、財産の安固という常に神聖に保たるべき原理の一侵害となるであろう。土地財産の移転が負っている印紙税がおそらくそれを最も生産的ならしめるべき人々へのその移転を著しく害しているのは、悲しむべきことである。そして土地が、適当な単一課税物件と看做されて、啻に、その課税の危険を償うために価格において低下せしめられるのみならず、更にその危険の不確定的性質と不確実な価値とに比例して、真面目な事業というよりは、賭博の性質をより多く有つ所の投機の恰好な目的物となることを、考えるならば、その場合土地を最も所有しそうな人は、おそらく、その土地を最も有利になるように使用する如き真面目な所有者の性質よりも、賭博者の性質をより多く有つ人であろう。
(訳者註)同上、三二八頁。 
第十五章 利潤に対する租税

 

(七四)一般に奢侈品と名づけられている貨物に対する租税は、それを使用する者のみの負担する所となる。葡萄酒に対する租税は葡萄酒の消費者によって支払われる。娯楽用馬匹ばひつまたは馬車に対する租税は、かかる享楽物を備えている者により、かつ彼らがそれらを備えている程度に正確に比例して、支払われる。しかし必要品に対する租税は必要品の消費者達に対し、彼らによって消費される分量に比例して影響するものではなく、しばしば遥かにより高い比例において影響する。穀物に対する租税は、既に述べた如くに、製造業者に対し、啻に彼及びその家族が穀物を消費するに比例して影響するのみならず、更にそれは資本の利潤率をも変更せしめ、従って彼れの所得にも影響する。労働の労賃を騰貴せしめるものは何でも資本の利潤を下落せしめ、従って、労働者によって消費されるいかなる貨物に対する租税も、すべて利潤率を下落せしめる傾向を持つものである。
帽子に対する租税は帽子の価格を騰貴せしめるであろう。靴に対する租税は靴の価格を騰貴せしめるであろう。もしそうでなければ租税は結局製造業者によって支払われるであろう。彼れの利潤は一般水準以下に下落しそして彼はその職業を中止するであろう。利潤に対する部分的租税は、それを負担する貨物の価格を騰貴せしめるであろう。例えば帽子製造業者の利潤に対する租税は帽子の価格を騰貴せしめるであろう。けだしもし彼れの利潤が課税され、そしていかなる他の職業のそれも課税されないならば、彼れの利潤は、彼がその帽子の価格を引上げない限り、一般利潤率以下となり、そして彼はその職業を中止して他の職業に赴くであろうからである。
同様にして農業者の利潤に対する租税は穀価を騰貴せしめるであろう。毛織物製造業者の利潤に対する租税は毛織布の価格を騰貴せしめるであろう。そして利潤に比例しての租税がすべての職業に賦課せられるならばあらゆる貨物は価格において騰貴せしめられるであろう。しかしもし吾々に我国の貨幣の本位を供給する鉱山が我国にあり、そして鉱山業者の利潤もまた課税されるならば、いかなる貨物の価格も騰貴せず、各人はその所得の等しい割合を与え、そして万事は以前の通りであろう。
もし貨幣が課税されず、従ってその価値を保持することが許されるが、しかるに他のあらゆる物は課税され、そして価値において騰貴せしめられるならば、各々同一の資本を使用しかつ同一の利潤を得ている帽子製造業者、農業者、及び毛織物製造業者は同一額の租税を支払うであろう。もし租税が一〇〇磅ポンドであるならば、帽子、毛織布、及び穀物は各々価値において一〇〇磅ポンドだけ騰貴せしめられるであろう。もし帽子製造業者が彼れの帽子によって一、〇〇〇磅ポンドではなく一、一〇〇磅ポンドを利得するとしても、彼は租税として政府に一〇〇磅ポンドを支払い従って依然彼自身の消費のための財貨に対し支出すべき一、〇〇〇磅ポンドを有つであろう。しかし毛織布、穀物、及びその他すべての貨物は同一の理由によって価格において騰貴せしめられるから、彼はその一、〇〇〇磅ポンドに対し以前に九一〇磅ポンドに対し取得した以上を取得しはせず、かくして彼はその支出を減少せしめて国家の緊急費に貢献するということになろう。彼は、租税の支払によって、国の土地と労働との生産物の一部分を彼自身では使用せずして、それを政府の処分に委ねることになるであろう。もし彼れの一、〇〇〇磅ポンドを支出せずして、それを彼れの資本に附加するならば、彼は労賃の騰貴及び粗生原料品と機械との費用の増加に際し、彼れの一、〇〇〇磅ポンドの貯蓄が以前の九一〇磅ポンドの貯蓄額以上に及ばぬことを見出すであろう。
もし貨幣が課税されるならば、またはもしある他の原因によってその価値が変動し、そしてすべての貨物が以前と正確に同一の価値に留まるならば、製造業者と農業者との利潤もまた以前と同一であり、それは引続き一、〇〇〇磅ポンドであろう。そして彼らは各々政府に対し一〇〇磅ポンドを支払わなければならぬであろうから、彼らはわずかに九〇〇磅ポンドを保持するに過ぎず、それは彼らがそれを生産的労働に支出しようとまたは不生産的労働に支出しようとに論なく、国の土地及び労働の生産物に対するより小なる支配権を彼らに与えるであろう。正確に彼らが失う所を政府は利得するであろう。第一の場合においては、納税者は一〇〇〇磅ポンドに対し、彼が以前に九一〇磅ポンドに対し得た所と同一の分量の財貨を得るであろう。第二の場合においては、彼は単に以前に九〇〇磅ポンドに対し得たと同じ額を得るに過ぎないであろうが、それはけだし財貨の価格は依然として不変であり、そして彼は単に九〇〇磅ポンドを支出し得るに過ぎないからである。このことは租税の額の相違から起るものである。第一の場合においてはそれは単に彼れの所得の十一分の一に過ぎない。第二の場合においてはそれは十分の一である。貨幣はこの二つの場合に異る価値を有っているのである。 
(七五)しかし、たとえ貨幣が課税されず、そして価値において変動しなければ、すべての貨物は価格において騰貴するであろうとはいえ、それらは同一の比例においては騰貴しないであろう。それらは課税の後には、課税の前に有っていたと同一の相対価値を相互に有たないであろう。本書の前の部分において、吾々は、固定資本及び流動資本への、またはむしろ耐久的資本及び消耗的資本への資本の分割が、貨物の価格に対して及ぼす結果を論じた。吾々は二人の製造業者が正確に同一額の資本を用い、そしてそれから正確に同一額の利潤を得ても、しかも彼らはその貨物を、彼らが使用する資本が消費されかつ再生産される速度の遅速に従って、極めて異る貨幣額に対して売るであろうということを、説明した。その一方は彼れの財貨を四、〇〇〇磅ポンドで売り、他方は、一〇、〇〇〇磅ポンドで売り、そして彼らは共に一〇、〇〇〇磅ポンドの資本を使用して二〇%の利潤すなわち二、〇〇〇磅ポンドを得ることもあろう。一方の資本は例えば、再生産さるべき二、〇〇〇磅ポンドの流動資本と、建物及び機械における八、〇〇〇磅ポンドの固定資本とから成るであろう。他方の資本はこれに反し、八、〇〇〇磅ポンドの流動資本と、建物及び機械におけるわずか二、〇〇〇磅ポンドの固定資本とから成るであろう。さてもしこれらの人の各々が彼れの所得に対する一〇%すなわち二〇〇〇磅ポンドを課税されるならば、一方はその事業をして一般利潤率を生ぜしめるために、彼れの財を一〇、〇〇〇磅ポンドから一〇、二〇〇磅ポンドに引き上げなければならない。他方もまた彼の財貨の価格を四、〇〇〇磅ポンドから四二〇〇磅ポンドに引き上げざるを得ないであろう。課税の前にはこれらの製造業者の一方によって売られた財貨は、他方の財貨よりも二倍半の価値を有っていた。課税の後にはそれは二・四二倍の価値を有つであろう。一方の種類は二%騰貴したであろう。他方は五%騰貴したのであろう。従って所得に課せられる租税は、貨幣が引続き価値において変動しない間は、貨物の相対価格及び価値を変動せしめるであろう。このことはまた、租税が利潤には課せられずに貨物そのものに課せられた場合にも、真実であろう。それらがその生産に用いられた資本の価値に比例して課税されるならば、その価値がどうであろうとも、それは平等に騰貴し、従って以前と同一の比例を保持しないであろう。一万磅ポンドから一万一千磅ポンドに騰貴した一貨物は、二、〇〇〇磅ポンドから三、〇〇〇磅ポンドに騰貴したもう一つの貨物に対して、以前と同一の関係を有たないであろう。もしかかる事情の下において、貨幣が、――いかなる原因から起ったものであろうと、――価値において騰貴するならば、それは同一の比例において貨物の価格に影響を及ぼすことはないであろう。一方の価格を一〇、二〇〇磅ポンドから一〇、〇〇〇磅ポンドに、すなわち二%弱下落せしめると同一の原因は、他方の価格を四、二〇〇磅ポンドから四、〇〇〇磅ポンドに、すなわち四%四分の三下落せしめるであろう。もし両者がこれを異るある比例で下落するならば、利潤は等しくないことになるであろう。けだし、それを等しくするためには、第一の貨物の価格が一〇、〇〇〇磅ポンドの時には第二の貨物の価格は四、〇〇〇磅ポンドでなければならず、そして第一のものの価格が一〇、二〇〇磅ポンドの時には他のものの価格は四、二〇〇磅ポンドでなければならない。
この事実の考察は、未だかつて言及されたことがないと私が信ずる一つの極めて重要な原則の理解に導くであろう。それはこうである、すなわち、何らの課税も存在しない国においては、稀少または豊富から生ずる貨幣価値の変動は、等しい比例において一切の貨物の価格に影響を及ぼすであろうし、もし一、〇〇〇磅ポンドの価値を有する貨物が一、二〇〇磅ポンドに騰貴しまたは八〇〇磅ポンドに下落するならば、一〇、〇〇〇磅ポンドの価値を有する貨物は一二、〇〇〇磅ポンドに騰貴しまたは八、〇〇〇磅ポンドに下落するであろうが、しかし価格が課税によって人為的に騰貴せしめられる国においては、流入による貨幣の豊富または外国の需要によるその輸出と、その結果たる稀少は、一切の貨物の価格に対し同一の比例において作用することはなく、それはあるものを五、六、または一二%騰貴または下落せしめ、他のものを三、四、または七%だけ騰貴または下落せしめるであろう、ということこれである。もし一国が課税されずそして貨幣が価値において下落するならば、あらゆる市場における貨幣の豊富は、その各々において同様の結果を生ずるであろう。もし肉が二〇%騰貴するならば、パン、麦酒ビール、靴、労働、及びあらゆる貨物もまた二〇%騰貴するであろう。各職業に同一の利潤率を確保するためにはそれらがそうなるべきことが必要である。しかしこれらの貨物のいずれかが課税されている時にはこのことはもはや真実ではない。もしその場合にはそれらがすべて貨幣価値の下落に比例して騰貴するならば、利潤は不平等になるであろう。課税貨物にあっては利潤は一般水準以上に高められ、そして資本は一職業から他の職業に移転されついに利潤の平衡が囘復されるに至るのであるが、このことは相対価格が変動した後にのみ起り得ることである。
この原則は、英蘭イングランド銀行兌換停止中における、貨幣価値の変動によって貨物の価格に対し生ぜしめられたといわれている種々なる結果を、説明するものではないであろうか? 紙幣流通が過剰であったために通貨がその期間減価された、と主張した人々に対しては、もしそれが事実であるならば、すべての貨物は同一の比例で騰貴すべきはずであった、という反対論がなされた。しかし多くの貨物は他のものよりも極めてより多く変動したことが見出され、そしてこのことからして、物価騰貴は貨物の価値に影響を及ぼす何ものかによるのであって、通貨の価値の変動によるのではないと、推論されたのである。しかしながら、吾々が今見た如くに、貨物が課税されている国においては、それは、通貨の価値の騰貴の結果であるにしても下落の結果であるにしても、必ずしもすべて同一の比例で価格が変動するものではないことが、分るのである。 
(七六)もし農業者の利潤を除きすべての職業の利潤が課税されるならば、粗生生産物を除くすべての財貨は貨幣価値において騰貴するであろう。農業者は以前と同一の穀物所得を得、そして彼れの穀物をもまた同一の貨幣価格で売るであろう。しかし彼は、穀物を除き彼が消費するすべての貨物に対して附加的価格を支払わざるを得ないであろうから、それは彼にとり一つの消費税であろう。彼はまた貨幣価値の変動によってもこの租税から免れないであろう。けだし貨幣価値の変動は、あらゆる課税貨物をその以前の価格にまで下落せしめるであろうが、しかし課税されないものはその以前の水準以下に下落すべく、従ってたとえ農業者は彼れの貨物を以前と同一の価格で購買するとしても、それらを購買すべき貨幣は減少しているであろうからである。
地主もまた正確に同一の地位にあるであろう、もしすべての(他の――編者挿入)諸貨物が価格において騰貴し、そして貨幣が依然同一の価値にあるならば、彼は以前と同一の穀物地代を、そして同一の貨幣地代を、得るであろう。そしてもしすべての(他の――同前)諸貨物が依然同一の価格にあるならば彼は同一の穀物地代を、より少い貨幣地代を、得るであろう。従っていずれの場合においても、たとえ彼れの所得が直接に課税されなくとも、彼は間接的に徴収される税金に貢献するであろう。
しかし農業者の利潤もまた課税されると仮定すれば、彼は他の職業者と同一の地位にあるであろう。彼れの粗生生産物は騰貴し、従って彼は、租税を支払った後に同一の貨幣収入を得るであろうが、しかし彼は、粗生生産物も含めての彼が消費するすべての貨物に対して附加的価格を支払うであろう。
しかしながら彼れの地主はその地位を異にするであろう、彼はその借地人の利潤に対する租税によって利益を受けるが、けだし彼は、彼れの必要とする製造貨物が騰貴した場合にこれを購買する際の附加的価格を償われるであろうからである。そしてもし貨幣価値の騰貴の結果として貨物がその以前の価格で売れているならば、彼は同一の貨幣収入を得るであろう。農業者の利潤に対する租税は、土地の総生産物に比例する租税ではなく、地代、労賃、その他すべての諸掛を支払って後のその純生産物に比例する租税である。第一、第二、及び第三等地なる、異る種類の土地の耕作者は、正確に同一の資本を使用するから、総生産物の分量がどうあろうとも、その一人は他の者よりもより多くの総生産物を得るであろうが、しかも彼らは正確に同一の利潤を得、従ってすべて同様に課税されるであろう。第一等地の総生産物は一八〇クヲタアであり、第二等地のそれは一七〇クヲタア、第三等地のそれは一六〇クヲタアであり、そしてその各々は一〇クヲタアの税を課せられると仮定すれば、租税を支払って後の第一等、第二等、及び第三等地の生産物の間の差違は以前と同一であろう。けだし、第一等地は一七〇クヲタア、第二等地は一六〇クヲタア、そして第三等地と第二等地との間の差違は一〇クヲタアであろうからである。もし、課税後に、穀物及びすべての他の貨物の価格が依然として以前と同一であるならば、穀物地代並びに貨幣地代は引続き不変であろう。しかしもし穀物及びすべての他の貨幣の価格が、租税の結果として騰貴するならば、貨幣地代もまた、同一の比例において騰貴するであろう。もし穀物地代が一クヲタアにつき四磅ポンドであるなら、第一等地の地代は八〇磅ポンドであり、また第二等地のそれは四〇磅ポンドであろう。しかし、もし穀物が五%だけ、すなわち四磅ポンド四シリング騰貴するならば、地代もまた五%騰貴するであろう、けだしこの際二〇クヲタアの穀物は八四磅ポンドに値し、そして一〇クヲタアは四二磅ポンドに値するからである。従ってあらゆる場合において地主はかかる租税によって影響を蒙らないであろう。資本の利潤に対する租税は常に穀物地代を依然不変のままにしておき、従って貨幣地代は穀価と共に変動する。しかし粗生生産物に対する租税または十分一税は決して穀物地代を不変のままにしておくことなく、しかし一般的に貨幣地代をして以前と同一ならしめておくのである。本書の他の部分において、私は、もし同一貨幣額の地租が、あらゆる種類の耕地に、肥沃度の相違を斟酌することなしに課せられるならば、それはより肥沃な土地の地主にとっては一つの利潤であろうからその作用は極めて不等であろうことを、述べた。それは最劣等の土地の農業者の荷になう負担に比例して穀価を騰貴せしめるであろう。しかしこの附加的価格はより良い土地により産出されるより多量の生産物もこれを得るのであるから、かかる土地の農業者はその借地期限の間利益を受け、そしてその後にはこの利益は地代増加の形において地主の手に入るであろう。農業者の利潤に対する平等な租税の結果は正確に同一である。もし貨幣が同一の価値を保持するならば、それは地主の貨幣地代を騰貴せしめる。しかしすべての他の職業の利潤が農業者の利潤と同様に課税され、従ってすべての財貨の価格が穀物の価格と同様に騰貴せしめられるのであるから、地主はそれだけの額をその地代を支出して得る財貨及び穀物の貨幣価格の増加によって失うのである。もし貨幣が価値において騰貴し、そしてすべての物が資本の利潤に対する課税の後にその以前の価格にまで下落するならば、地代もまた以前と同一であろう。地主は同一の貨幣地代を受取り、そしてそれを支出して得るすべての貨物をその以前の価格で取得するであろう。従ってあらゆる事情の下において彼は引続き租税を負担しないであろう(註)。
(註)農業者の利潤のみが課税され、そして他のいかなる資本家の利潤も課税されないということは、地主にとり極めて有利であろう。それは事実上一部分は国家の利益のため、また一部分は地主の利益のための、粗生生産物の消費者に対する租税であろう。
この事情は奇妙である。農業者の利潤に課税しても、農業者の利潤が租税から除外された場合以上には彼は負担を蒙らず、そして地主は、彼れの借地人の利潤が課税されることに決定的利害関係を有っているが、けだし彼自身が引続き真実に租税を負担しないのはこの条件の下においてのみであるからである。 
(七七)資本の利潤に対する租税は、もしすべての貨物がこの租税に比例して騰貴するものならば、たとえ株主の配当は引続き課税されなくとも、株主にもまた影響を及ぼすであろう。しかしもし、貨幣価値の変動によって、すべての貨物がその以前の価格にまで下落するものならば、株主はこの租税に何物をも支払わないであろう。彼は彼れのすべての貨物を同一の価格で購買するであろうが、しかもなお同一の貨幣配当を受取るであろう。 
(七八)一人の製造業者の利潤のみに課税することによって、彼れの財貨の価格が、彼をすべての他の製造業者と平等ならしめるために、騰貴するであろう、ということが承認され、また二人の製造業者の利潤に課税することによって、二種の財貨の価格が騰貴しなければならぬ、ということが承認されるならば、私は、吾々に貨幣を供給する鉱山が我国にありかつ引続き課税されていない限り、あらゆる製造業者の利潤に課税することによってあらゆる財貨の価格が騰貴するであろう、ということを、いかにして争い得るかがわからない。しかし貨幣または貨幣の本位は外国から輸入される貨物であるから、すべての財貨の価格は騰貴し得ないであろう。けだしかかる結果は貨幣の附加的分量なくしては起り得ず(註)、それは一〇二頁において説明された如くに高価な財貨と交換しては取得され得ないからである。しかしながらもしかかる騰貴が起り得たとしてもそれは外国貿易に力強い影響を与えるであろうから、それは永続的ではあり得ないであろう。輸入貨物と引替にかかる高価な財貨を輸出することは出来ないであろう、従って吾々は、売ることを止めたにもかかわらず、しばらくの間引続き買わなければならず、そして貨物の相対価値が依然とほとんど同一になるまで貨幣または地金を輸出しなければならないであろう。良く統制された利潤に対する租税は結局内国製及び外国製の貨物を、共に、租税が課せられる前にそれらが有っていたと同一の貨幣価格に恢復するであろうことは、私には絶対に確実であるように思われる。
(註)更に考察を加えた結果、もし貨物の価格が課税によって騰貴し、生産の困難によって騰貴したのでないならば、同一量の貨物を流通せしめるために、より多くの貨幣が必要とされるべきか否かを、私は疑う。一〇〇、〇〇〇クヲタアの穀物が一定の地方、一定の時に一クヲタアにつき四磅ポンドで売られ、そして一クヲタアにつき八シリングの直接税の結果として、穀物が四磅ポンド八シリングに騰貴すると仮定すれば、思うに、この穀物をこの騰貴せる価格において流通せしめるために必要な貨幣量は同一であって、より多くはないであろう。もし私が以前には一一クヲタアを四磅ポンドで購買しそして租税の結果として私の消費を一〇クヲタアに減少するの余儀なきに至るならば、私はすべての場合において私の穀物に対して四四磅ポンドを支払うであろうから、私はより多くの貨幣を必要としないであろう。公衆は実際十一分の一だけより少く消費し、そしてこの分量は政府によって消費されるであろう。それを購買するに必要な貨幣は租税の形において農業者達から受取らるべき一クヲタアにつき八シリングから徴収されるであろうが、しかし徴収額は同時に彼らにその穀物に対して支払われるであろう。従ってこの租税は事実上一つの物納租税であり、そしてより貨幣の用いられることを必要としないか、または必要とするものとしても、その分量は無視してもかまわぬほど少量である。
粗生生産物に対する租税、十分一税、労賃に対する、及び労働者の必要品に対する租税は、労賃を騰貴せしめることによって、利潤を下落せしめるであろうから、それらはすべて、たとえその程度は等しくなくとも、同一の結果を伴うであろう。
国内製造業を大いに進歩せしめる機械の発明は、常に、貨幣の相対価値を高め従ってその輸入を奨励する傾向を有っている。貨物の製造業者かまたは栽培業者かに対する一切の障害の増加たる一切の課税は、これに反し、貨幣の相対価値を低め従ってその輸出を奨励する傾向を有っているのである。 
第十六章 労賃に対する租税

 

(七九)労賃に対する租税は労賃を騰貴せしめ、従って資本の利潤率を低下せしめるであろう。吾々は既に、必要品に対する租税はその価格を騰貴せしめ、そして労賃の騰貴を伴うであろう、ということを見た。必要品に対する租税と労賃に対する租税との間の唯一の差異は、前者は必然的に必要品の価格の騰貴を伴うであろうが、しかし後者はそれを伴わないであろうということである。従って労賃に対する租税に対しては、株主も、地主も、または労働の雇傭主を除く他のいかなる階級も、納税しないであろう。労賃に対する租税は全然利潤に対する租税であり、必要品に対する租税は一部分は利潤に対する租税であり、そして一部分は富める消費者に対する租税である。しからばかかる租税から生ずべき窮極的の結果は、利潤に対する直接税から生ずるそれと正確に同一である。
アダム・スミスは曰く、『下級労働者階級の労賃は、どこにおいても必然的に、二つの異る事情、すなわち労働に対する需要及び食料品の通常価格または平均価格によって左右されるということを、私は第一篇において説明せんと努めた。労働に対する需要は、それがたまたま静止的であるかまたは減退しつつあるかに従って、またそれが、増加しつつある、静止的なる、または減退しつつある人口を必要とするに従って、労働者の生活資料を左右し、そしていかなる程度においてそれを豊富に、適当に、または稀少ならしめるかを決定する。食料品の通常価格または平均価格は、労働者をして、年々この豊富な適当なまたは稀少な生活資料を購買し得しめるために、彼に支払われねばならぬ貨幣量を決定する。従って労働に対する需要と食料品の価格が引続き同一である間は、労働の労賃に対する直接税は労賃をこの租税よりもややより高く騰貴せしめる以外の結果を有ち得ない。』(編者註)
(編者註)『諸国民の富』第五篇、第二章(訳者註――キャナン版、第二巻、三四八頁)。 
(八〇)ここにスミス博士によって展開されている命題に対して、ビウキャナン氏は二つの反対論を提出している。第一に彼は労働の貨幣労賃は食料品の価格によって左右されるということを否定する。また第二に彼は労働の労賃に対する租税は労働の価格を騰貴せしめるであろうということを否定する。第一の点については、ビウキャナン氏の議論は次の如くである、五九頁(編者註)『労働の労賃は、既に述べた所であるが、貨幣から成るものではなく、貨幣が購買する所のもの、すなわち食料品及びその他の必要品から成る。そして共通の貯財からの労働者への給与は常にその供給に比例するであろう。食料品が低廉にして豊富なる所では彼れの分前はより多くそしてそれが稀少にして高価なる所ではそれはより少いであろう。彼れの労賃は常に彼に正当な分前を与えるであろうが、、彼にそれ以上を与えることは出来ない。労働の貨幣価格は食料品の貨幣価格によって左右され、そして食料品が価格において騰貴する時には労賃はそれに比例して騰貴するというのは、実に、スミス博士及び大抵の他の論者の採る意見である。しかし労働の価格が食物の価格と何らの必然的な関聯をも有たないことは明かである。けだしそれは全然需要と比較しての労働者の供給に依存するからである。しかのみならず、食料品の高い価格は供給の不足の確実な徴候であり、そして事物の自然の行程において消費を妨げる目的をもって起るものであることを、考えなければならない。食物のより小なる供給が同一数の消費者に分たれるならば、明かに各人にはより小なる分前しか残らず、そして労働者は共通の欠乏に対する彼れの分前を負担しなければならない。この負担を平等に分配し、そして労働者が以前の如く自由に生活資料を消費するのを妨げるために、価格は騰貴するのである。しかし労賃は、彼が依然として、より稀少な貨物の中の同一分量を用い得るために、それと共に騰貴しなければならないように見える。そこでかくて自然は、まず最初には消費を減少せしめるために、食物の価格を騰貴せしめることにより、そして後には労働者に以前と同一の供給を与えるために、労賃を騰貴せしめることによって、自分自身の目的に逆行するものとして、現わされている。』
(編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、一八一四年、第四巻、五九――六〇頁。
ビウキャナン氏のこの議論には、真理と誤謬との大混同があるように私には思われる。食料品の高い価格は時に不足な供給によって齎されるという故をもって、ビウキャナン氏はそれをもって、不足な供給の確実な表示と想像している。彼は多くの原因から生じ得べきものを、ただ一つの原因に帰している。不足な供給の場合にはより小量が同一数の消費者の間に分たれそしてより小なる部分が各人に帰すべきことは、疑いもなく真実である。この欠乏を平等に分配し、そして労働者が生活資料を以前と同様に自由に消費するのを妨げるために、価格は騰貴する。従って不足な供給によって惹起される食料品の価格のいかなる騰貴も、必ずしも労働の貨幣労賃を騰貴せしめないであろうが、それは消費が遅滞されねばならぬからであるが、このことは消費者の購買力を減少することによってのみ果され得るということは、ビウキャナン氏に許されなければならない。しかし食料品の価格が不定の供給の不足によって騰貴するという故をもって、吾々は、ビウキャナン氏がなしたと思われる如くに、高い価格を伴う豊富な供給はあり得ないと結論することは決して許されないが、ここに高い価格とは、貨幣に関してのみならず、更に他のすべての物に関しての高い価格のことである。
常に終局的に貨物の市場価格を支配する所のその自然価格は生産の便宜に依存するが、しかし生産量はその便宜には比例しない。たとえ現在耕作されている土地は三世紀以前の耕地よりも遥かに劣り、従って生産の困難は増加されていても、何人が、現在の生産量が当時の生産量を極めて遥かに超過することを、疑い得ようか? 啻に高い価格が増加せる供給と両立し得るのみならず、またそれがこれと共に起らぬことは稀である。かくてもし、課税または生産の困難の結果、食料品の価格が騰貴しそしてその分量が減少されぬならば、労働の貨幣労賃は騰貴するであろう。けだしビウキャナン氏が正当に観察した如くに、『労働の労賃は貨幣には存せず、貨幣が購買する所のもの、すなわち食料品その他の必要品に存する。そして共通の貯財からの労働者への給与は常にその供給に比例するであろう』からである。 
(八一)労働の労賃に対する租税は労働の価格を騰貴せしめるか否かという第二の点に関して、ビウキャナン氏は曰く、『労働者が彼れの労働の正当な報償を受取った後に、彼が後に租税に支払わねばならぬものを、いかにして彼はその傭主やといぬしに求償し得ようか? かかる結論の正当なることを保証する法則または原則は世上にはない。労働者が彼れの労賃を受取った後は、それは彼自身の保有する所でありそして彼は出来る限り彼がその後に蒙るかもしれぬいかなる徴収の負担をも担わなければならない。けだし彼は、既に彼にその仕事の正常な価格を支払った者にその補償をなさしめる何らの方法をも有たないからである。』(編者註一)ビウキャナン氏は、大いに賞讃して人口に関するマルサス氏の著作から次の如き有能な章句を引用しているが、それは私には、完全に彼れの反対論に答うる所あるものと思われる。『労働の価格は、その自然的水準を見出すに委ねられている時には、食料品の供給とそれに対する需要との間の、消費せられるべき分量と消費者数との間の、関係を示す所の、極めて重要な政治的晴雨計である。そして、偶発的事情を別として平均をとるならば、それは更に、人口に関し社会の欲求する所を明瞭に示すものである。換言すれば、現在の人口を正確に維持するためには、一結婚に対し幾何の子供が必要であろうと、労働の価格は、労働維持のための真実の財本の状態が静止的であるか、進歩的であるか、または退歩的であるかに従って、この数をちょうど維持するに足るか、またはそれ以上であるか、またはそれ以下であろう。しかしながらそれをかかる見解において考えることなく、吾々は、それをもって吾々が恣ほしいままに引上げまたは引下げ得るもの、主として国王の治安判事に依存するものと、考えている。食料品の価格騰貴が供給に対して需要が余りに大なることを示している時に、労働者を以前と同一の境遇に置かんがために吾々は労働の価格を引上げる、換言すれば吾々は需要を増加する、そしてしかる後食料品の価格が引続き騰貴するのに大いに驚く。この場合に吾々の行為は、普通の晴雨計の水銀が暴風雨になっている時に、ある強制的圧力によってそれを快晴に引上げ、そしてしかる後に引続き降雨が続くのに大いに驚いているのと、極めて類似しているのである。』(編者註二)
(編者註一)同上、第三巻、三三八頁、註。
(編者註二)『人口論』第二巻、第三篇、第五章、一六五、一六六頁、(第三版)。
『労働の価格は人口に関し社会の欲求する所を明瞭に示すであろう、』それは、当該時に労働者の維持のための財本の状態が必要とする人口を支持するにちょうど足るであろう。もし労働者の労賃が以前にこの必要な人口を供給するに足るのみであったならば、それは課税後には、彼はその家族に対し費すべき同一の財本を有たないであろうから、その供給に不適当になるであろう。従って労働は、需要が継続するから、騰貴するであろうし、そして供給が妨げられないのは、価格の騰貴によってのみである。
帽子または麦芽が課税された時に騰貴するのを見るほど普通なことはない。それが、それが騰貴しなければ必要な供給が与えられないから、騰貴するのである。労賃が課税された時には労働についても同様であり、その価格はそれが騰貴しなければ必要な人口が維持されないから、騰貴するのである。ビウキャナン氏は、彼が次の如く言う時には、ここに主張されているすべてを認めているのではないか? 『もしも彼(労働者)が実際にわずかに単なる必要品を得るに過ぎぬまで落魄するならば、彼はその労賃をより以上減額されないであろう、けだし彼はかかる境遇においてはその種を継続し得ないであろうからである。』(編者註)国の事情によって、最低の労働者が、啻にその種の継続のみならず更にその増加が求められている、と仮定すれば、彼らの労賃はそれに従って左右されるであろう。もし租税が彼らからその労賃の一部を取去り、そして彼らを単なる必要品を得るに過ぎぬまでに落魄せしめるならば、彼らは必要とされる程度において増殖し得ようか?
(編者註)ビウキャナン版、第三巻、三三八頁、註。
課税貨物は、もしそれに対する需要が減少し、かつもし分量が低減せられ得ないならば、租税に比例して騰貴しないことは、疑いもなく真実である。もし金属貨幣が一般に使用されているならば、その価値はかなりの間、租税によって、租税の額に比例して、騰貴せしめられはしないであろう。けだしより高い価格においては、需要は減少せしめられ、その分量は減少せしめられないであろうからである。そして疑いもなく同一の原因はしばしば労働の労賃に影響する。労働者数は、彼らを雇傭すべき基金の増加または減少に比例して、急に増加または減少せしめられ得ない。しかし仮定された場合においては、労働に対する需要の必然的減少はなく、もし減少したとしても需要は租税に比例して減少しない。ビウキャナン氏は、租税によって徴収された基金は、労働者――もちろん不生産的労働者ではあるがしかもなお労働者である――の維持に政府によって用いられることを忘れているのである。もし労賃が課税されている時に労働が騰貴しないならば、労働に対する競争は著しく増加するであろう、けだしかかる租税に対しては何ものをも支払う必要のない資本所有者は、労働を雇傭するための同一基金を有っているのに、他方に租税を受取る政府は、同一の目的のための附加的基金を得るであろうからである。かくて政府と人民とは競争者となり、そして彼らの競争の結果は、労働の価格の騰貴である。単に同一数の人間が雇傭されるであろうが、しかし彼らは騰貴した労賃で雇傭されるであろう。
もし租税が直ちに資本家に賦課されていたならば、その労働の維持のための基金は、その目的のための政府の基金が増加したとまさに同一の程度において減少したであろう。従って労賃には騰貴はなかったであろう。けだしたとえ同一の需要があるとしても、同一の競争がないからである。もし租税が賦課せられた時に、政府が直ちにそれによる徴収高を補助金として外国に輸出するならば、従ってまたもしかかる基金が、例えば陸海軍人、等々の如き、英蘭イングランド労働者ではなく外国の労働者の維持に向けられるならば、実に労賃は課税されても、労働に対する需要は減少し、そして労賃は騰貴し得ないであろう。しかし、租税が消費貨物や資本の利潤に課せられ、またある他の方法で同一額がこの補助金を供給するために徴収される場合には、同一のことが起り、すなわちより少い労働しか国内で雇傭され得ないであろう。一方の場合においては労賃の騰貴は妨げられ、他方の場合においてはそれは絶対的に下落しなければならない。しかし労賃に対する租税の額が労働者から徴収された後に、彼らの雇傭者達に無償で支払われると仮定するならば、それは彼らの労働の維持のための貨幣基金を増加するであろうが、しかしそれは貨物も労働も増加せしめないであろう。従ってそれは労働の雇傭者の間の競争を増加せしめ、そしてこの租税は結局雇主にも労働者にも損失を齎さないであろう。主人は騰貴せる労働の価格を支払い、労働者の受取る附加的分量は政府に租税として支払われ、そして再び雇主達に返されるであろう。しかしながら、租税の徴収高は一般に浪費され、それは常に人民の慰楽と享楽とを犠牲として取得され、そして普通に、資本を減少せしめるかその蓄積を妨害するものであることを、忘れてはならない。資本を減少せしめることによって、それは労働の維持に当てられた真実の基金を減少し、従ってそれに対する真実の需要を減少せしめる傾向を有つ。かくて租税は一般には、それが国の真実の資本を害する限りにおいて、労働に対する需要を減少せしめ、従って、労賃は騰貴しても、それはこの租税に正確に等しい額だけ騰貴しないということは、労賃に対する租税の蓋然的な結果であるが、必然的なまたは特有な結果ではないのである。 
(八二)アダム・スミスは、吾々の見た如くに、労賃に対する租税の結果は、少くとも租税に等しい額だけ労賃を騰貴せしめるにあり、そして直接的ではないとしても終局的には労働の雇傭者によって支払われるであろう、ということを十分に認めていた。その限りでは吾々は完全に同意する。しかし、かかる租税のそれ以後の作用については、吾々はその見解を本質的に異にするのである。
アダム・スミスは曰く、『労働の労賃に対する直接税は、たとえ労働者はおそらくそれを彼れの手から支払うかもしれぬとはいえ、彼によって前払されるとさえ言うことは、正当ではあり得ぬであろう。少くとももし労働に対する需要と食料品の平均価格とが課税後もその以前と同一であるならば、あらゆるかかる場合においては、啻にこの租税のみならずまた租税以上のあるものが、彼を直接に使用する者によって実際前払されるであろう。この最終的支払は、場合の異なるにつれ異なる人々の負担する所となるであろう。かかる租税の齎すべき製造業労働の労賃の騰貴は、親方製造業者によって前払されるであろうが、彼らはそれを利潤と共に彼れの財貨の価格に添加する権能を有ちかつ添加せざるを得ないのである(編者註)。かかる租税が齎すべき農業労働の騰貴は、農業者によって前払されるであろうが、彼らは以前の同数の労働者を支持するために、より大なる資本を使用せざるを得ないであろう。このより大なる資本を、資本の通常利潤と共に、囘収せんがためには、土地の生産物のより大なる部分を、または同じことになるが、より大なる部分の価格を、彼がその手に留め、従って彼がより小なる地代を地主に支払うことが、必要である。この労賃騰貴の最終的支払は、この場合には、それを前払いした農業者の附加的利潤と共に、地主の負担する所となるであろう。あらゆる場合において、労働の労賃に対する直接税は、この租税収入に等しい額を、一部分は土地の地代に、そして一部分は消費貨物に、適当に賦課する場合に起るよりも、より大なる土地地代の減少と、より大なる製造財貨価格の騰貴とを、結局において惹起するであろう。』第三巻、三三七頁(訳者註)。この章句においては、農業者によって支払われる附加的労賃は、終局においては、減少せる地代を受取るべき地主の負担する所となるのであろうが、しかし、製造業者によって支払われる附加的労賃は、製造財貨の価格の騰貴を惹起し、従って、それらの貨物の消費者の負担する所となるであろう、ということが主張されているのである。
(編者註)ここに、省略された次の一文が続く、『従ってこの労賃騰貴の最終的支払は、親方製造業者の附加的利潤と共に、消費者の負担する所となるであろう。』
(訳者註)引用は正確ではない。キャナン版、第二巻、三四九頁。
さて、社会が地主、製造業者、農業者及び労働者から成ると仮定すれば、労働者がこの租税に対して補償を受けるであろうということは、認められている。――しかし誰によってか?――地主の負担する所とならない部分を誰が支払うであろうか?――製造業者はそのいかなる部分をも支払い得ないであろう。けだしもし彼らの貨物の価格が、彼らの支払う附加的労賃に比例して騰貴するならば、彼らは課税前よりもその以後においてはより良い地位にあることになろうからである。もし毛織布製造業者、帽子製造業者、靴製造業者、等が各々彼らの財貨の価格を一〇%だけ引上げ得るとするならば、――一〇%が彼らにその支払った附加的労賃を完全に補償するものと仮定して、――もしアダム・スミスの言う如くに、『彼らが附加的労賃を利潤と共に彼らの財貨の価格に添加する権能を有ちかつ添加せざるを得ない』ならば、彼らは相互の財貨を以前と同じ分量だけ各々消費することが出来、従って彼らは租税に対し何物をも支払わないであろう。もし毛織布製造業者が彼れの帽子と靴とに対してより多くを支払うとしても、彼はその毛織布に対してより多くを受取るであろうし、またもし帽子製造業者が彼れの毛織布と靴とに対してより多くを支払うとしても、彼はその帽子に対してより多くを受取るであろう。かくて彼らはすべての製造貨物を以前と同じだけの利益をもって購買し、博士の仮定であるが、穀物の価格は騰貴しないであろうし――スミス博士はそう仮定しているのであるが、――他方彼らはその購買に投ずべき附加額を有っているのであるから、彼らはかかる租税によって利益を受け、そして損害を蒙ることはないであろう。
かくて、もし労働者も製造業者もかかる租税に対して貢献せず、もし農業者もまた地代の下落によって補償されるならば、地主のみが、啻にその全重量を負担しなければならぬのみならず、また彼らは製造業者の利得の増加にも貢献しなければならない。しかしながら、このことをなすには、彼らはその国内のすべての製造貨物を消費しなければならない、けだしその全量に対して課せられる附加的価格は、製造業における労働者に本来的に課せられた租税以上ではほとんどないからである。
さて、毛織物製造業者、帽子製造業者、及びその他すべての製造業者が、相互の財貨の消費者であることは議論のない所であろう。あらゆる種類の労働者が石鹸や毛織布や靴や蝋燭やその他種々なる貨物を消費することは、議論のない所であろう。従ってかかる租税の全重量が地主のみの負担する所となるのは不可能である。
しかしもし労働者がこの租税の何らの部分も支払わず、しかも製造貨物が価格において騰貴するならば、労賃は、啻に彼らに租税を補償するためのみならず、更に製造必要品の価格騰貴をも補償するために、騰貴しなければならず、このことは、それが農業労働に影響を及ぼす限りにおいて、地代の下落の一つの新原因となり、そして、それが製造業労働に影響を及ぼす限りにおいて、財貨の価格におけるより以上の騰貴の原因となるであろう。財貨の価格のこの騰貴は再び労賃に作用し、そしてまず労賃の財貨に対する、次いで財貨の労賃に対する、作用及び反作用は、指示し得る限度なしに拡大されるであろう。この理論を支持する議論ははなはだ不合理な結論に導くから、この原理の全然弁護し得ないことが直ちにわかるであろう。
社会の自然的進歩と生産の逓増的困難とにつれての地代の騰貴及び必要品の騰貴とによって、資本の利潤と労働の労賃とに惹起されるすべての影響は、課税の結果たる労賃の騰貴によっても等しく起るであろう。従って労働者の諸々の享楽は、彼れの雇傭者のそれと同様に、この租税によって削減されるであろう。そして特にこの租税によってのみならず、これと等しい額を徴収するあらゆる他の租税によっても削減されるであろうが、けだしそれらはすべて労働の支持に向けられた基金を減少する傾向があるであろうからである。
アダム・スミスの誤謬は、第一には、農業者の支払うすべての租税は、地代の減額の形で、必然的に地主の負担する所とならねばならぬ、と想像することから生ずる。この問題に関しては、私は最も十分に私の意見を述べた、そして私は、多くの資本が何らの地代をも支払わぬ土地に使用されるから、また粗生生産物の価格を左右するものはこの資本によって取得される結果であるから、地代からは何らの減額もなされ得ないということが、従って労賃に対する租税については農業者には何らの補償もなされずまたはもしなされたとしても、それは粗生生産物の価格への附加によってなされなければならないということが、読者を満足せしめるほどに、説明されたと信ずる。
もし租税が農業者に対し不平等に圧迫を加えるならば、彼は、他の職業を営む者と同一の水準に立たんがために、粗生生産物の価格を引上げ得るであろう。しかし、いかなる他の職業に影響を及ぼすよりもより多く彼に影響を及ぼさない所の、労賃に対する租税は、粗生生産物の高き価格によっては、移転せしめられまたは補償され得ないであろう。けだし、彼を誘って穀物の価格を引上げしめると、すなわち租税に対する償いを彼に得せしめると、同一の理由が、毛織物製造業者を誘って毛織布の価格を引上げしめ、製靴業者、帽子製造業者、及び家具製造業者を誘って、靴、帽子、及び家具の価格を引上げしめるであろうからである。
もしも彼らがすべてその財貨の価格を、利潤と共に租税に対する償いを得るように、引き上げ得るならば、彼らはすべて相互の貨物の消費者であるから、この租税が決して支払われ得ないであろうことは明かである、なぜならば、もしすべての者が補償を受けているならば、何人が納税者なのであろうか?
しからば私は、労賃を騰貴せしめる結果を有つべき租税は、利潤の減少によって支払われ、従って労賃に対する租税は実際上利潤に対する租税であるということを、説明するに成功したと思う。
労働と資本との生産物の労賃及び利潤間の分割の原則は、私はそれを樹立せんと試みたのであるが、私には極めて確実に思われるから、直接の結果を除けば、資本の利潤が課税されても労働の労賃が課税されても、ほとんど大したことではないと私は思うのである。資本の利潤に対する課税によって、おそらく、労働の維持のための基金が増加する率は変動し、そして労賃は、高きに過ぎるために、その基金の状態に比例しなくなるであろう。労賃に対する課税によって、労働者に支払われる報酬もまた、低きに過ぎるために、その基金の状態に比例しなくなるであろう。一方の場合においては貨幣労賃の下落により、他方の場合においてはその騰貴によって、利潤と労賃との間の自然的平衡は恢復されるであろう。かくて労賃に対する租税は、地主の負担する所とならず、資本の利潤の負担する所となる。それは、『親方製造業者に、利潤と共にそれを彼れの財貨の価格に添加する権能を与えかつ添加せざるを得ざらしめる』ことはないが、それはけだし彼はその価格を増加し得ないであろうからである、従って、彼は全然かつ報償なしに自分でかかる租税を支払わなければならない(註)。
(註)セイ氏はこの問題に関する一般的意見を鵜呑みにしているように見える。穀物を論じて彼は曰く、『このことからして、その価格はすべての他の貨物の価格に影響を及ぼすということになる。農業者や製造業者やまたは商人は一定数の労働者を雇傭するが、この労働者はすべて、一定分量の穀物を消費しなければならぬ。もし穀物の価格が騰貴するならば、彼は、その生産物の価格をそれと等しい比例で引上げざるを得ない。』第一巻、二五五頁。 
(八三)もし労賃に対する租税の結果が、私の述べた如きものであるならば、それは、スミス博士によってそれに与えられた非難に値しないことになる。彼はかかる租税について曰く、『これらの租税及びその他の同じ種類のある租税は労働の価格を騰貴せしめることによって、オランダの製造業の最大部分を破壊したと言われている。これに類似の租税はそれほど重くはないが、ミラノ公国や、ジェノア共和国や、モデナ公国やパルマ、プラチェンティア、及びグァスタルラの諸公国や、法王領にある。やや著名なフランスのある学者は、他の租税に代うるにすべての租税の中で最も破壊的なこの租税をもってして、彼れの国の財政を改革せんと提議した。キケロは曰く、「非常に不合理な事柄にして時にある哲学者によって主張されなかったものはない。」』(訳者註一)また他の場所において彼は曰く、『必要品に対する租税は労働の労賃を騰貴せしめることによって、必然的にすべてのの製造品の価格を騰貴せしめ、従ってその販売及び消費の範囲を減少する傾向がある。』(訳者註二)たとえ、かかる租税は製造貨物の価格を騰貴せしめるというスミス博士の原則が正しいとしても、この租税はかかる非難には値しないであろう。けだし、かかる結果は単に一時的であり得るに過ぎず、そして吾々を外国貿易において、何らの不利益にも陥れないであろうからである。もしある原因が若干の製造貨物の価格を騰貴せしめるならば、それはその輸出を妨げ、または阻止するであろう。しかしもし同一の原因が一般的にすべてに対して作用するならば、その結果は単に名目的に過ぎず、そしてその相対価値にも影響を及ぼさねば、また物々交換――外国貿易も内国商業もすべての商業は実際物々交換であるが――に対する刺戟を何ら減少しもしないであろう。
(訳者註一)キャナン版、第二巻、三五九――三六〇頁。
(訳者註二)同上、三五七頁。
私は既に、ある原因がすべての貨物の価格を騰貴せしめる時には、その結果は貨幣価値の下落とほとんど同様であることを、証明せんと努めた。もし貨幣が価値において下落するならば、すべての貨物は価格において騰貴する。そしてもしこの結果が一国に限られるならば、それがその外国貿易に及ぼす影響は、一般課税によって惹起される貨物の価格騰貴と同一であろう。従って一国に限られた貨幣価値の下落から生ずる影響を検討する時には、吾々はまた一国に限られた貨物の価格騰貴から生ずる影響を検討しているわけである。実際、アダム・スミスはこの二つの場合の類似を十分知っており、そしてその輸出禁止の結果としてのスペインにおける貨幣のまたは彼れのいわゆる銀の価値の下落は、スペイン製造業及び外国貿易に極めて有害であることを、論理一貫して主張した。『しかし、特定国の特殊な地位かまたはその政治組織の結果たる銀価の下落が、単にその国に起るに過ぎないということは、極めて重大な事柄であり、それは何人かを真実により富ましめる傾向がある所かあらゆる者を真実により貧しからしめる傾向があるのである。この場合その国に特有な、すべての貨物の貨幣価格の騰貴は、その内部で行われているあらゆる種類の産業を多かれ少かれ阻害し、かつ外国国民をして、自国の労働者が提供し得るよりもより少量の銀に対してほとんどすべての種類の財貨を提供することによって、啻に外国市場だけではなく内国市場においてすらそれを下値に売るを得せしめる傾向を有っている。』第二巻、二七八頁。(訳者註)
(訳者註)キャナン版、第二巻、一二――三頁。
その量が人為的に豊富にさせられたことから起る所の、一国における銀の価値下落の有つ不利益の一つは、――そして私はその唯一のものと考えるが――スミス博士により能く説明されている。もしも金銀の取引が自由であるならば、『外国に出るべき金額は何物とも引換えられずに出ることはなく、同一の価値を有つある種の財貨を持ち込むであろう。かかる財貨もまた、すべてがその消費と引換えに何物をも生産しない怠惰な者によって消費せらるべき単なる奢侈品及び高価品であるわけではないであろう。怠惰な者の真の富と収入とは、この異常な金銀の輸出によっては増加されないであろうから、彼らの消費もまたそれによっては増加されないであろう。それらの財貨は、おそらくはその大部分、確実にはそのある部分は、彼らの消費の全価値を利潤と共に再生産すべき勤勉な者の雇傭と維持とのための、原料や道具や食料品から成っている。かくて社会の死せる貯財の一部分が生ける貯財に転化され、そして以前に用いられていた以上の分量の勤労を動かすであろう。』(訳者註)
(訳者註)同上、一四――五頁。
貨物の価格が騰貴せしめられるときに、課税か貴金属の流入かにより貴金属の自由貿易を許さないことによって、社会の死せる貯財の一部分は生ける資本に転化されるのを妨げられる、――より多量の勤労が用いられるのが妨げられる。しかしこれが害悪の全量であり、それは銀の輸出が許されまたは黙許されている国は少しも感じない害悪である。
諸国間の為替が平価にあるのは、事物の実状において諸国がその貨物の流通をなすに必要な通貨量を正確に有っている時に限られる。もし貴金属の取引が完全に自由であり、そして貨幣が何らの費用をも要せずして輸出され得るならば、為替はあらゆる国において平価以外には有り得ないであろう。もし貴金属の取引が完全に自由であり、その輸送の費用がかかってもそれが一般に流通に用いられるならば、為替はそのいずれの国においても、これらの費用だけ以上に平価から決して偏倚へんいし得ぬであろう。これらの原則は思うに今やどこにおいても異論のない所である。もしある国が、正金と交換されず従ってある固定的な本位によって左右されない紙幣を用いるならば、その国における為替は、その貨幣が、貨幣の取引が自由でありかつ貴金属類が貨幣としてかまたは貨幣の本位として用いられている場合に、一般的商業によってその国に割当てられた分量を超過して増加されると同一の比例で、平価から偏倚するであろう。
もし通商の一般的作用によって、既知の量目りょうめと品位とを有つ地金で作られた一千万磅ポンド貨が英国の持分であり、そして一千万の紙幣磅ポンドがそれに代えられるならば、為替には何らの影響も生み出されないであろう。しかしもし紙幣発行権の濫用によって、一千一百万磅ポンドが流通に用いられるならば、為替相場は英国にとり九%逆になるであろう。もし一千二百万が用いられるならば、為替相場は英国にとり一六%、そしてもし二千万ならば為替相場は五〇%逆になるであろう。しかしながらこの結果を生み出すためには、紙幣が用いられることは必要ではない。もし通商が自由であり、そして既知の量目と品位とを有つ貴金属類が貨幣としてかまたは貨幣の本位として用いられているならば流通したであろうよりも、より多量の磅ポンドを、流通界に保留するいかなる原因も、同一の結果を正確に生み出すであろう。貨幣の削減によって、各磅ポンドが法律上含有すべき分量の金または銀を含有していないと仮定すれば、それが削減されなかった場合よりもより多数のかかる磅ポンドが流通に用いられるであろう。もし各磅ポンドから十分の一が除かれるならば、一千万ではなく一千一百万のかかる磅ポンドが用いられるであろう。もし十分の二が除かれるならば、一千二百万が用いられるであろう。そしてもし二分の一が除かれるならば、三千万は過剰ではないことが見出されるであろう。もし一千万の代りにこの二千万が用いられるならば、英国におけるあらゆる貨物はその以前の価格の二倍に引上げられ、そして為替相場は英国にとり五〇%逆になるであろう。しかしこのことは外国貿易に何らの混乱をも惹起ひきおこさず、いかなる一貨物の製造を阻害することもないであろう。例えばもし毛織布が英国において一反につき二〇磅ポンドから四〇磅ポンドに騰貴したとしても、吾々はそれを騰貴前とまさに同様に自由にその以後も輸出するであろう。けだし五〇%の補償は為替において外国購買者になされ、その結果、彼れの貨幣二〇磅ポンドをもって、英国において四〇磅ポンドの負債を支払い得べき手形を彼は購買し得るであろうからである。同様にして、もし彼が、国内において二〇磅ポンドを費しそして英国において四〇磅ポンドで売れる貨物を輸出するとしても、彼は単に二〇磅ポンドを受取るに過ぎないであろう、けだし英国における四〇磅ポンドは外国宛の二〇磅ポンド手形を購買するに過ぎないからである。単に一千万が必要であるに過ぎぬ場合に、二千万をして強いて英国における流通の仕事を遂行せしめるいかなる原因によっても、同一の結果が生ずるであろう。もし貴金属の輸出禁止というが如き不合理な法律が施行され得、そしてかかる禁止の結果が一千万ではなく造幣早々の一千一百万の良質の磅ポンドを強いて流通せしめることであったならば、為替相場は英国にとり九%逆になり、一千二百万ならば一六%、二千万ならば五〇%、英国にとり逆になるであろう。しかし英国の製造業にはいかなる阻害も与えられないであろう。もし内国貨物が英国において高価に売られるならば、外国貨物も同様であろう。そして外国の輸入業者が、一方において、その貨物が高価な率で売られる時に、為替相場で補償を与えざるを得ず、そして英国の貨物を高い価格で購買せざるを得ない時に、同一の補償を受けるであろう限り、それらが高いか安いかは彼らにほとんど重要でないであろう。しからば、禁止法によって、しからざればそこに留まっていたはずのものよりもより多量の金及び銀を流通せしめておくことからして、一国に発生し得べき唯一の不利益は、その資本の一部分を生産的に使用せずして、不生産的に使用することによって、それが蒙るべき損失であろう。貨幣の形においてはこの資本は何らの利潤をも生産しない、それを費して得る原料品、機械、及び食物の形においては、それは収入を生産し、そして国家の富と資源とを附加するであろう。しからば私は、課税の結果たる貴金属類の比較的低価、または換言すれば、貨物の一般的高価は国家にとって何らの不利益でもないが、けだしその金属の一部分は輸出され、そのためにその価値は高められて、再び貨物の価格を下落せしめるであろうから、ということを、満足に説明したと思う。そして更に、もし金属が輸出されないならば、もし禁止法によってそれが国内に留められ得るならば、為替相場に対する影響が高き価格の影響を相殺するであろう、ということを。かくてもし必要品及び労賃に対する租税が、それに労働が投ぜられるすべての貨物の価格を騰貴せしめないならば、それはこの理由によっては否とされ得ない。そして更にそれはかかる結果を有つであろうという、アダム・スミスのなしている意見の根拠が十分であるとしても、それは決してその故をもって有害であることはないであろう。それは、他のいかなる種類の租税に対しても正当に主張し得べき理由以外の理由のためには、非難され得ないのである。
地主は地主としてはこの租税の負担から除外されるであろう。しかし彼らが園丁えんてい、僕婢ぼくひ、等を養うことによって、彼らの収入の支出上直接に労働を使用する限りにおいて、彼らはその作用を蒙るであろう。
『奢侈品に対する租税は、この課税された貨物の価格以外のいかなる他の貨物の価格をも騰貴せしめる傾向を有たない』ということは、疑いもなく真実である。しかし、『必要品に対する租税は、労働の労賃を騰貴せしめることによって、必然的にすべての製造貨物の価格を騰貴せしめる傾向を有っている』というのは真実ではない。『奢侈品に対する租税は、何らの補償もなく、終局的に課税された貨物の消費者によって支払われる。それは無差別にあらゆる種類の収入、労働の労賃、資本の利潤、及び土地の地代の負担する所となる』というのは真実である。しかし、『必要品に対する租税は、それが労働貧民に影響する限りにおいて、終局的に、一部分は地主によりその土地の地代によって、また一部分は地主であろうとその他の者であろうとに論なく、富める消費者により製造財貨の価格騰貴によって、支払われる』というのは真実ではない。けだしかかる租税が労働貧民に影響する限りにおいて、それはほとんど全部資本の利潤の減少によって支払われ、その単に一小部分のみが、各種の課税が齎す傾向がある労働に対する需要の減少によって、労働者自身によって支払われるであろうからである。 
(八四)スミス博士が『中流及び上流の人民は、もし彼ら自身の利益を理解するならば、常に、生活必要品に対するすべての租税に、並びに労働の労賃に対するすべての直接税に反対すべきである』という結論に達したのは、かかる租税の結果につき誤れる見解をいだいていた故である。この結論は次の如き彼れの推理から生ずる、すなわち、『これら両者を終局的に支払うものは全然彼ら自身であり、そして常にかなりの超過負担を蒙る。それは地主の最も重く負担する所となるが、彼らは常に二重の資格において支払うのである。すなわち、地主の資格においてはその地代の低減によって、また富める消費者の資格においてはその支出の増加によって。ある租税はある財貨の価格の中に時に四囘も五囘も繰返されかつ累積されるとの、サア・マシウ・デカアの観察は、生活必要品に対する租税に関しては、完全に正当である。例えば、皮革の価格では、自分自身の靴の皮革に対する租税のみならず、靴製造業者及び鞣革なめしがわ製造業者の靴に対するそれの一部分も、支払わなければならない。諸君は、それらの職人が諸君のための仕事に従事している間に消費する塩や石鹸や蝋燭に対する租税と、塩製造業者や石鹸製造業者や蝋燭製造業者が彼らのための仕事に従事している間に消費する皮革に対する租税とを、支払わなければならない。』
さてスミス博士は、鞣革製造業者や塩製造業者や石鹸製造業者や蝋燭製造業者は、そのいずれも、皮革や塩や石鹸や蝋燭に対する租税によって利益を享うけるであろうとは主張せず、また政府は課税以上には受取らないことは確かであるから、その租税が誰の負担する所となろうとも、公衆によってより以上の額が支払われ得ると考えることは不可能である。富める消費者は、貧しい消費者のために支払ってやるかもしれず、また実際支払うであろうが、しかし彼らは租税の全額以上には支払わないであろう。従って、『租税が四囘も五囘も繰返されかつ累積される』というのは事理に反する。
ある課税制度には欠陥があるかもしれず、国庫に入る以上のものが人民から徴収されるかもしれない、けだし一部分は、価格に及ぼすその影響の結果として、おそらく特殊の課税方法によって利益を蒙る者の受領する所となるかもしれぬからである。かかる租税は有害であり、奨励されてはならない。けだし、租税の作用が正当である時には、それはスミス博士のの公理の第一と一致し、そして国家に入る以上には出来るだけ少く人民から徴収する、ということは、一つの原理となされ得ようからである。セイ氏は曰く、『他の者は財政計画を立て、そしてその臣民に何らの負担をもかけずに君主の金庫を充す手段を提案する。しかし財政計画が商業的企業の性質を有たない限り、それは政府に、ある他の形においては、個人か政府自身かからそれが徴収する以上を与えることは出来ない。杖の一撃では、無から有を造ることは出来ない。いかなる方法である作用が隠蔽されようとも、いかなる形体を吾々が価値にとらしめても、いかなる変態を吾々がそれに経過させようとも、吾々が価値を手に入れ得るのは、それを創造してか、またはそれを他人から取ることによってかである。すべての財政計画の中で最良のものは、出来るだけ経費を支出しないことであり、またすべての租税の中で最良のものは、額の最少のものである。』(編者註)
(編者註)『経済学』第三篇、第八章、二九八頁。
スミス博士は、労働階級は国家の負担に対し大なる寄与をなし得ない、とどこまでも主張しているが、それは思うに正当な主張である。従って必要品または労賃に対する租税は、貧民から富者に転嫁されるであろう。しからばもしスミス博士の意味が、単に、この目的すなわち貧民から富者への租税の転嫁を成就するために、『ある租税はある財貨の価格の中に時に四囘も五囘も繰返されかつ累積される』というのであるならば、かかる租税はその故をもって非難してはならないはずである。
一人の富める消費者の正当な租税の分担額が一〇〇磅ポンドであり、かつ彼はそれを直接支払うものと仮定するならば、もし租税が所得や葡萄酒やまたはその他のある奢侈品に課せられるとすれば、彼は、必要品の課税によって、彼自身の及び彼れの家族の必要品の消費が関する限りにおいて、二五磅ポンドの支払を求められるに過ぎないならば、何らの損害をも蒙らないであろう。しかし労働者またはその雇傭者に、彼らが前払することを求められた租税を償うために、他の貨物に対して附加的価格を支払うことによって、この租税を三度繰返すことを求められるであろう。この場合においてすら、この推理は首尾一貫しない。けだし政府の求める以上のものが支払われないならば、富める消費者が一つの奢侈品に対して騰貴せる価格を支払うことによって直接にこの租税を支払おうと、または彼が消費する必要品その他の貨物に対して騰貴せる価格を支払うことによって間接にそれを支払おうと、それは彼にとってどれだけの重要なことであり得ようか? もし政府の受取る以上のものが人民によって支払われないならば、富める消費者は単に彼れの公正なる分前を支払うに過ぎないであろう。もしそれ以上のものが支払われるならば、アダム・スミスはそれを誰が取るかを説明すべきであった。しかし彼れの全議論は誤謬に基いている。けだし貨物の価格はかかる租税によって騰貴せしめられないからである。
セイ氏は、私が彼れの好著より引用した明白な原則を首尾一貫して固執しているとは、私には思われない。けだし彼はその次の頁において、課税を論じて次の如く言っているからである、すなわち、『もしそれが過度に失する時には、それはこの悲しむべき結果を齎し、国家を富ましめることなくして納税者からその富の一部分を奪う。もし吾々が、各人の消費力は、それが生産的なると否とを問わず、その所得によって制限されていることを考えるならば、これは吾々の理解し得ることである。しからば彼がその所得の一部分を奪われる時には、彼は必ずそれに比例してその消費を減少せざるを得ない。このことからして、彼がもはや消費せぬ財貨、特に租税が賦課せられている財貨に対する、需要の減少が起る。この需要の減少から生産の減少従って課税し得る貨物の減少という結果が起る。しからば、納税者はその享楽品の一部分を、生産者はその利潤の一部分を、そして国庫はその収入の一部分を、失うであろう。』(編者註)
(編者註)経済学、同上、三〇〇頁。
セイ氏は、革命前のフランスにおける塩税の例を引いているが、それは、彼の言う所によれば、塩の生産を二分の一だけ減少せしめた。しかしながらより少い塩が消費された場合には、より少い資本がそれを生産するに用いられたのである。従ってたとえ生産者は塩の生産に対してはより少い利潤を得たとはいえ、彼は他の物の生産に対してはより多くを得たであろう。もし一租税がいかに重かろうと、それが収入の負担する所となり、資本の負担する所とならないならば、それは需要を減少せしめず、単にその性質を変更するに過ぎない。それは政府をして、納税者が以前に消費していたと同じだけの、国の土地と労働の生産物とを消費し得せしめるものであって、それを過重に課することなくとも十分に大なる害悪である。もし私の所得が年々一、〇〇〇磅ポンドであり、そして租税として年々一〇〇磅ポンドを求められるならば、私は、以前に消費した財貨の分量の単に十分の九を需要し得るに過ぎぬけれども、しかし私は残りの十分の一を政府をして需要し得せしめる。もし課税された貨物が穀物であるならば、必ずしも穀物に対する私の需要が減少する必要はない、けだし私はむしろ穀物に対して年々一〇〇磅ポンドをより多く支払い、そして葡萄酒や家具やその他の奢侈品に対する需要を同額だけ削減することを、選ぶであろうから(註)。従って、葡萄酒製造業または家具製造業に用いられる資本は減少するであろうが、しかし政府の課した租税がそれに費される貨物の製造に用いられる資本は増加するであろう。
(註)セイ氏は曰く、『貨物の価格に附加される租税はその価格を騰貴せしめる。貨物の価格が騰貴するごとに、必然的に、それを騰貴し得る者の数、または少くとも彼らの消費する量は減少される。』これは決して必然的ではない。私は、もしパンが課税されても、パンの消費は、毛織布、葡萄酒または石鹸が課税された場合以上には、減少するであろうとは信じない。
セイ氏は、チュルゴオ氏が、パリにおいて、魚類に対する市場税(les droits d'entre et de halle sur la mare)を二分の一減ずることによって、その実収高を減少せしめなかったし、従って魚類の消費は倍加したに相違ない、と云っている。彼は、このことから推して、漁撈者及びこの職業に従事する者の利潤もまた倍加したに相違なく、かつ国の所得は、利潤の増加の全額だけ増加したに相違なく、また蓄積に刺戟を与えることによって、それは国家の富源を増加せしめたに相違ない、と云っている(註)。
(註)同じ著者の次の語は同様に誤謬であると私には思われる。『木綿に高い税が課せられるならば、木綿を基礎とするすべての財貨の生産は減少する。もしある特定の国において、木綿の種々なる製造業においてそれに加えられる総価値が一年一〇、〇〇〇万フランに上り、そして租税の結果が消費を二分の一に減少せしめるにあるとするならば、この税は、政府が受取る額に加うるに、年々五、〇〇〇万フランを、その国から奪うであろう。』(編者註、経済学、第二巻、三一四頁)
この租税の改正を命じた政策はこれを問題外とし、私はそれが蓄積に大なる刺戟を与えたか否かについて、疑いを有っている。もし漁撈者及び漁撈に従事する他の者の利潤が、魚類の消費が増加した結果倍加するならば、資本及び労働は、この特定の職業に用いられるために他の職業から引き去られたに相違ない。しかしかかる職業において資本及び労働は利潤を生み出していたのであるから、この利潤はそれが引き去られた時に抛棄されたに相違ない。この国の蓄積能力は、単に資本が新たに用いられた職業において取得される利潤と、資本が引き去られた職業において取得される利潤との差額だけ、増加したに過ぎないのである。
収入から徴収されようとまたは資本から徴収されようと、租税は国家の課税し得る貨物を減少せしめる。もし私が一〇〇磅ポンドの租税を支払うことによって、私自身でそれを費さずに、政府をしてこの額を費し得せしめたために、一〇〇磅ポンドを葡萄酒に費すことを止めるなら、一〇〇磅ポンドに値する財貨は必然的に課税し得る貨物の表の中から除かれる。もし一国の個人の収入が一、〇〇〇万であるならば、彼らは少くとも一、〇〇〇万に値する課税し得る貨物を有するであろう。もしその中のあるものに課税することによって、一百万が政府の処分の下に移されても、彼らの収入は名目上は依然一、〇〇〇万であろうが、しかし彼らは単に九百万に値する課税し得る貨物を有つに過ぎないであろう。いかなる事情の下においても、課税は、租税を窮極的に負担する者の享楽を奪わぬという場合はなく、また新たなる収入の蓄積以外に、それらの享楽を再び拡張し得る手段はないのである。
課税が平等に適用され、その結果すべての貨物の価値に同一の比例において作用し、しかもそれらの物を同一の相対価値に保持せしめるということは、あり得ない。それは、しばしば、その間接的結果のために、立法者の意図とははなはだ異る作用をする。吾々は既に、穀物及び粗生生産物に対する直接税の結果は、もし貨幣もまたその国内で生産されるのであるならば、粗生生産物がその構成に参加するに比例してすべての貨物の価格を騰貴せしめ、かつそれによってこれらの物の間に以前に存在した自然的関係を破壊するにあることを、知った。もう一つの結果は、それが労賃を騰貴せしめ利潤率を下落せしめることである。吾々はまた本書の他の部分において、労賃の騰貴と潤利の下落は、より大なる程度において固定資本を用いて生産される貨物の貨幣価格を下落せしめるという結果を有つことを知ったのである。 
(八五)一貨物が課税される時はそれはもはやそれほど有利に輸出され得ないということは、十分に理解されているから、しばしば戻税もどしぜいがその輸出に対して与えられ、また関税がその輸入に対して課せられる。もしかかる戻税及び関税が啻にかかる貨物そのものに対してのみならず、更にそれが間接に影響を与え得るすべてのものに対して、正確に課せられるならば、貴金属の価値には何らの変動も起らないであろう。吾々は、一貨物を、課税後も以前と同様に容易に輸出することが出来、また輸入に何らの特殊の便宜も与えられないから、貴金属が以前よりもより以上に輸出貨物表に入り込むことはないであろう。
すべての貨物の中、自然または技術の援助によって、特殊の便宜をもって生産されるものほど、課税に適当するものはおそらくないであろう。諸外国についていえば、かかる貨物は、その価格が投下労働量によって左右されずに、むしろ購買者の気紛れ、趣味、及び資力によって左右されるものの、種目の下に分類され得よう。もし英国が他国よりもより生産的な錫鉱を有ち、または優秀な機械及び燃料のため、綿製品の製造の特殊の便宜を有つとしても、錫及び綿製品の価格は、英国において、依然としてそれを生産するに必要な労働及び資本の比較的分量によって左右され、そして我国の商人の競争は、外国消費者に対してそれをほとんどより高価にしないであろう。これらの貨物の生産上での我国の利益は極めて決定的であるから、おそらくそれらの物は外国市場において、その消費を著しく減少せしめずに極めて著しい附加価値を有つであろう。これらの物は、国内において競争が自由である間は、その輸出に対する租税以外のいかなる他の手段によってもこの価格に達することを得ないであろう。この租税は全然外国の消費者の負担する所となり、そして英国政府の経費の一部分は、他国の土地及び労働に対する租税によって支弁されるであろう。現在英国民によって支払われ、そして英国政府の経費の補助に寄与している茶税は、もしそれが支那において茶の輸出に対して課せられるならば、支那政府の経費の支払に流用され得よう。
奢侈品に対する租税は、必要品に対する租税に比してある利益を有っている。それは一般に所得から支払われ、従って国の生産的資本を減少しない。もし葡萄酒が課税の結果として価格が大いに騰貴するならば、おそらくそれを購買し得るためにその資本に対し重大な侵害を加えるよりも、むしろ葡萄酒の飲用を止めるであろう。それは極めて価格と一致しているから、納税者は租税を支払っていることをほとんど自覚しない。しかしそれはその短所を有っている。第一にそれは決して資本には及ぼされ得ない、しかも若干の異常の場合には、資本さえも公共の緊急に寄与することが得策とされることがあり得よう。そして第二にこの租税は所得にさえも及ぼされ得ないであろうから、租税の額に関しての確実性がない。貯蓄を企てている人は、葡萄酒の飲用を止めて、葡萄酒に対する租税を免れるであろう。国の所得は減少されず、しかも国家は租税によって一シリングをも徴収し得ないであろう。
習慣によってその使用が愉楽となったものはいかなるものでも、これを放棄することは困難であり、そして極めて重い租税にもかかわらず引続き消費されるであろう。しかし、この放棄の困難にはその限界があり、そして経験は日々に課税の名目額の増加がしばしば徴税額を減少せしめることを説明している。ある人は、同一量の葡萄酒を、一本の価格が三シリング騰貴しても引続き飲用するであろうが、しかし彼は四シリングの騰貴額を支払うよりはむしろ葡萄酒の使用を中止するであろう。他の一人は甘んじて四シリングを支払うであろうが、しかし五シリングを支払うことは拒絶するであろう。同一のことは、奢侈品に対する他の租税について言い得よう。すなわち多くの者は一頭の馬が与えられる享楽に対して五磅ポンドの租税を支払うであろうが、しかし一〇磅ポンドまたは二〇磅ポンドは支払おうとはしないであろう。彼らが葡萄酒や馬の使用を止めるのは、彼らがより多くを支払い得ないからではなくより多くを支払いたくないからである。あらゆる人は心の中にその享楽の価値を測定するある標準を有っているが、しかしその標準は人間の性格と同様に各種各様である。多額の国債従ってまた莫大の租税を課すという有害な政策のためにその財政状態が極度に人為的となっている国は、この租税引上方法に伴う不便に特に曝されている。租税を携えて全奢侈品を一巡した後に、馬や馬車や葡萄酒や僕婢やその他すべての富者の享楽品に課税した後に、大臣は、『すべての財政計画の中で最上のものは少く支出することであり、そしてすべての租税の中で最良のものは額が最少のものである』というセイ氏の金言を無視して、所得税や財産税というが如きより直接的な租税に頼る気になるのである。 
第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税

 

(八六)穀物に対する租税が穀物の価格を騰貴せしめると同一の原則によって、ある他の貨物に対する租税はその貨物の価格を騰貴せしめるであろう。もし貨物が租税に等しい額だけ騰貴しないならば、それは生産者に彼が以前に得たと同一の利潤を与えず、そして彼はその資本をある他の職業に移すであろう。
それが必要品であろうと、奢侈品であろうと、すべての貨物に対する租税は、貨幣価値が不変である間は、その価格を少くとも租税に等しい額だけ高めるであろう(註)。労働者の製造必要品に対する租税は、必要品の中で第一のものでありかつ最も重要であるということによって他の必要品と異るに過ぎない所の穀物に対する租税と、同一の影響を労賃に対して有つであろう。そしてそれは資本の利潤及び外国貿易に対して正確に同一の影響を有つであろう。しかし奢侈品に対する租税は、その価格を騰貴せしめる以外に何らの影響を有たないであろう。それは全然その消費者の負担する所となり、そして労賃をも利潤をも下落せしめ得ないであろう。
(註)セイ氏は次の如く述べている、『製造業者は、その貨物に課せられた全租税を消費者をして支払わしめることは出来ない、けだし価格騰貴はその消費を減少せしめるからである。』もしこれが事実であり、消費が減少せしめられるならば、供給もまた速かに減少せしめられないであろうか? 製造業者はその利潤が一般水準以下にある時に、何故なにゆえにその職業を継続しなければならぬのであろうか? セイ氏はここでもまた、彼が他の場所で支持している次の如き学説を忘れているように思われる。すなわち、『生産費が、それ以下に貨物が長い期間に亘って下落し得ない価格を決定する、けだしその際には生産は中止されるかまたは減少されるからである。』第二巻、二六頁。
『しからば租税はこの場合には、一部分は、課税貨物に対しより多くを支払うを余儀なくされる消費者の負担する所となり、また一部分は租税を控除した後により少い額を受取る生産者の負担する所となる。国庫は、購買者が余分に支払う額、並びに生産者がその一部を犠牲として提供するを余儀なくされる利潤だけ、利得するであろう。それが射出する弾丸に作用すると同時にそれが反衝せしめる銃身に作用するというのが、火薬の力である。』第二巻、三三三頁。 
(八七)戦費を支弁する目的でまたは国家の通常の経費として、一国に賦課せられ、そして主として不生産的労働者の支持に当てられる所の、租税は、その国の生産的産業から徴収される。そしてかかる経費が節約され得るごとに納税者の資本は増加しないとしても、一般に所得は増加するであろう。一年間の戦費として二千万が公債によって調達される時には、その国民の生産資本から引き去られるのはその二千万である。この公債の利子を支払うために租税によって調達される年々の一百万は、単に、それを支払う者からそれを受取る者に、納税者から国家の債権者に、移転されるに過ぎないものである。真の経費は二千万であって、それに対して支払わるべき利子ではない(註)。利子が支払われようと支払われまいと、国はより富みもせずより貧しくもならないであろう。政府は二千万を租税の形で一時に要求したかもしれない。その場合には年々の租税を一百万に当るだけ引上げる必要はなかったであろう。しかしながら、このことは取引の性質を変えはしなかったであろう。一個人は、年々一〇〇磅ポンドの支払を要求されずして、時に二、〇〇〇磅ポンドを支払うを余儀なくされたであろう。より大なる額を彼自身の資金から割くよりもむしろ、この二、〇〇〇磅ポンドを借入れ、その債権者に利子として年々一〇〇磅ポンドを支払う方が、また彼の利益に適したかもしれない。一方の場合にはそれはAとBとの間の私的取引であるが、他方の場合には、政府がBに、等しくAによって支払わるべき利子の支払を保証するのである。もしこの取引が私的性質のものであったならば、それについては何らの公の記録も作られず、そしてAがBに対して忠実に彼れの契約を履行しようと、または不当にも年々一〇〇磅ポンドを彼自身の所有に保留しておこうと、それはこの国にとっては比較的にどうでもよい事柄であろう。国は契約の忠実な履行に一般的利害関係を有つであろうが、しかし国民的富に関しては、それは、AとBとの中うちいずれがこの一〇〇磅ポンドを最も生産的ならしめるかについてより以外には、何らの利害関係をも有っていない。しかしこの問題については、それは決定すべき権利もなければ能力もないであろう。もしAがそれを彼れの使用のために保留しておくならば、彼はそれを無益に消費するかもしれず、またもしそれがBに支払われるならば、彼はそれを彼れの資本に加え、それを生産的に用いるかもしれない、ということも有り得よう。そしてその反対もまた有り得よう。すなわちBはそれを浪費するかもしれず、またAはそれを生産的に用いるかもしれない。富のみを目的とするならば、Aがそれを支払うことも支払わぬことも、同等にまたはより以上に望ましいかもしれない。しかしより大なる功利たる正義及び誠実の権利は、より小なる功利のそれに従属すべく強制されてはならない。従ってもし国家の干渉が要求されるならば、裁判所はAを強制して彼れの契約を履行せしめるであろう。国家によって保証された債務はいかなる点においても上の取引と異る所はない。正義と誠実とは、国債の利子が引続き支払わるべきことを、及びその資本を一般的利益のために前払した者は便宜という口実の下にその正当な権利を抛棄すべく求められてはならないことを、要求するのである。
(註)『ムロンは曰く、一国民の負債は右手が左手に対する負債であり、それによって身体は弱められない、と。全体の富が未償還負債に対する利子支払によって減少されぬということは、真実である。利子は納税者の手から国家債権者へ移転する一価値である。それを蓄積しまたは消費するのが国家債権者であろうとまたは納税者であろうと、それは社会にとってほとんど大したことではないということには、私は同意する。しかし負債の元金――それはどうなったのであるか? それはもはや存在しない。公債に伴う消費は一資本を無くしてしまい、それはもはや収入を生み出さないであろう。社会は利子額を奪われはしないが、けだしそれは一方の手から他方の手に移るのであるからである。しかし、社会は破壊された資本からの収入を奪われている。この資本は、もし国家にそれを貸した人が生産的に使用したならば、同じく彼に一つの所得を齎したであろうが、しかしその所得は真実なる生産から得られたものであって、同胞二三の市民の懐中から供せられたものではなかったであろう。』セイ、第二巻、三五七頁、これは経済学の真精神で理解されかつ言い表わされている。
しかしこの考察を別にしても、政治的功利が政治的廉直を犠牲にして何物かを得るであろうということは、決して確実ではない。国債の利子の支払を免除された当事者が、それを当然受くべきものよりもより生産的に使用するであろうということには、決してならない。国債を破棄することによって、ある人の所得は一、〇〇〇磅ポンドから一、五〇〇磅ポンドに高められるかもしれないが、しかし他の人のそれは一、五〇〇磅ポンドから一、〇〇〇磅ポンドに低められるであろう。これらの二人の所得は今二、五〇〇磅ポンドであるが、その時にもそれはそれ以上ではないであろう。もし租税を徴収することが政府の目的であるならば、一方の場合には、他方の場合と正確に同一の課税し得る資本と所得とがあるであろう。しからば、一国が困窮せしめられるのは国債に対する利子の支払によってではなく、またそれが救済され得るのはその支払の免除によってではない。国民的資本が増加され得るのは、所得の貯蓄と支出上の節減とによってのみである。そして国債の破棄によっては、所得も増加せられず、また支出も減少されないであろう。国が貧窮化するのは、政府及び個人の浪費と負担とによってである。従って、公私の節約を助長せんがためのあらゆる方策は国の困窮を救済するであろう。しかし、真実の国民的困難が、正当にそれを負担すべき社会の一階級の肩から、あらゆる公平の原則に基いて彼らの分前以上負担すべきではない他の階級の肩に、それを転嫁することによって除去され得ると想像するのは、誤謬でありかつ妄想である。
上述せる所からして、私は借入金の方法をもって国家の非常費を支弁するに最もよく適合せるものと考えていると、推論されてはならない。それは吾々を、より不倹約ならしめるところの、――吾々をして自分の実情に盲目ならしめるところの、傾向ある方法である。もしある戦争の経費が年々四千万であり、かつある人がその年々の経費に対して寄与しなければならぬ分前が、一〇〇磅ポンドであるとすれば、彼は、一時にその分担の支払を求められる時には、速かに彼れの所得から一〇〇磅ポンドを貯蓄せんと努めるであろう。公債の方法によるならば、彼は単にこの一〇〇磅ポンドの利子、すなわち年々五磅ポンドの支払を求められるに過ぎず、そこで彼はその支出からこの五磅ポンドを貯蓄するをもって足ると考え、かくて彼は以前と同様に富んでいるという信念で自ら欺くのである。全国民は、かくの如く推理し行動することによって、単に四千万の利子すなわち二百万を貯蓄するに過ぎず、かくの如くして、四千万の資本が生産的に使用された場合に与える利子または利潤のすべてを失うのみならず、更に彼らの貯蓄額と支出額との差額たる三千八百万をも失うのである。もし、前述の如く、各人が自己の借金をして国家の緊急費に対してその全分前を寄与しなければならなかったのであるならば、戦争の終了するや否や、課税は止み、そして吾々は直ちに物価の自然的状態に復帰するであろう。Aは、彼れの私的の資金から、彼が戦争中にBから借入れた貨幣に対する利子を、彼をして戦費に対するその分前を支払い得せしめるために、Bに支払わなければならないかもしれないが、しかしこれは国民の与あずかり知る所ではないであろう。
大きな負債を累積した国は、最も不自然な地位に置かれる。そしてたとえ租税の額と労働の価格との騰貴とは、その国を、それらの租税を支払うという不可避的な不利益を除けば、諸外国との関係において、他の何らの不利益な地位にも置かないかもしれぬし、また置かないであろうと私は信ずるとはいえ、しかもこの負担から免れてこの支払を自分自身から他人に転嫁するのが、あらゆる納税者の利益となる。そして彼自身と彼れの資本とをかかる負担を免れる他国に移そうという誘惑はついに不可抗的のものとなり、そして彼の出生地との若き聯想の場面を去るに当って各人が感ずる当然の念を克服する。この不自然な制度に伴う困難に陥った国は、その負債を償還するに必要なその財産のある部分を犠牲にして、この困難から免れるのが賢明な遣り方である。一個人にとって賢明なことは一国民にとってもまた賢明なことである。五〇〇磅ポンドの所得を齎す一〇、〇〇〇磅ポンドを持ち、その中から年々一〇〇磅ポンドを負債の利子に支払わなければならない人は、真実には単に八、〇〇〇磅ポンドの財産を有つに過ぎず、そして彼が引続き年々一〇〇磅ポンドを支払おうと、または一時にただの一囘限り二、〇〇〇磅ポンドを支払おうと、その富の程度は同じであろう。しかし、この二、〇〇〇磅ポンドを取得するために彼が売らなければならぬ財産の買手はどこにいるであろうか? と問われる。その答は明白である。この二、〇〇〇磅ポンドを受取るべき国家債権者は、その貨幣の放資国を求めるであろう。そしてそれを地主または製造業者に貸付けるか、または彼らからその処分しなければならぬ財産の一部を購買する気になるであろう。かかる支払に対しては公債所有者達自身も大いに寄与するであろう。この計画はしばしば推奨され来ったものであるが、しかし吾々はそれを採用するに足る知識も有たなければまた勇気も有たない。しかしながら平和の時には、吾々の不断の努力は、戦争の間に契約された負債部分の返済に向けられねばならぬこと、また楽になりたいという誘惑や、現在の――そして望むらくは一時的の、困窮から逃れんとの願望のために、その大目的に対する吾々の注意を緩めてはならぬことが、承認されなければならない。
いかなる減債基金も、もしそれが歳出に対する歳入の超過から得られるのでないならば、負債を減少する目的に対しては有効であり得ない。この国の減債基金が単に名目的に過ぎないのは遺憾のことである。けだし支出に対する収入の超過は全くないからである。それは節約によって、その名の如きものに、すなわち真に有効な負債支払のための基金たらしめられなければならぬ。もし将来戦争の勃発せる際に、我国の負債が著しく減少せしめられていないならば、その全戦費は年々徴収される租税によって支弁されなければならぬか、しからざれば、その戦争の終了前ではないにしても、その終了の時に、吾々は国民的破産に陥らなければならぬかの、いずれかである。吾々は公債の著しい増加に堪え得ないであろうというのではない。一大国民の力に限界を置くことは困難であろう。しかし、個々人が、単に彼らの故国で生活するという特権に対して、永続的課税の形において甘んじて支払う価格には確かに限界があるのである(註)。
(註)『信用は一般的には、資本に、それが有用に用いられない人々を去って生産的たらしめられる人々に移るのを許すから、よいことである。すなわちそれは資本を、公債放資の如き、単に資本家にとって有用であるにすぎない用途から移転させ、それを産業に従事せる人々の手において生産的ならしめる。それはすべての資本の使用を便宜ならしめ、使用されない資本をなからしめる。』――『経済学』、四六三頁。第二巻、第四版――これはセイ氏の看過に相違ない。公債所有者の資本は決して生産的ならしめられ得るものではない、――それは事実上資本ではない。もし彼がその公債を売り、それに対して得た資本を生産的に使用するとすれば、彼はその公債の買手の資本を生産的用途より引離すことによってのみ、このことをなし得るのである。(編者註――この誤りは第五版で訂正された。第三巻、六〇頁。これは第三版にはなかったものである。第二巻、四四四頁。) 
(八八)一貨物が独占価格にある時には、それは消費者が喜んでそれを購買せんとする最高の価格にあるのである。貨物は、いかなる工夫によってもその分量が増加され得ない時にのみ、従って競争が全然一方の側に――すなわち買手の間に――ある時にのみ、独占価格にある。ある時期における独占価格は他の時期における独占的価格よりも遥かにより低いこともまたは高いこともあろう、けだし購買者の間における競争は、彼らの富及び彼らの嗜好や気紛れに依存しなければならぬからである。極めて限られた分量において生産される特殊の葡萄酒、及びその優越または稀少によって仮想的価値を得た美術品は、社会が富んでいるか貧しいか、それがかかる生産物を豊富にまたは稀少に所有しているか、またはそれが粗末な状態にあるか洗錬せんれんされた状態にあるか、に従って、通常労働の生産物の極めて異る分量に対して交換されるであろう。従って独占価格にある貨物の交換価値は、どこにおいても生産費によって左右されないのである。
粗生生産物は独占価格にはないが、けだし大麦及び小麦の市場価格は、毛織布及び亜麻布の市場価格と同様な程度にその生産費によって左右されるからである。唯一の差違はこうである、すなわち、農業に用いられる資本の一部分、換言すれば全然地代を支払わない部分が穀物の価格を左右するが、しかるに製造貨物の生産においては、資本のあらゆる部分の使用は同一の結果を齎し、そしていかなる部分も地代を支払わないから、あらゆる部分が等しく価格の規制者であるということである、すなわち穀物その他の粗生生産物もまた、より多くの資本の使用によって、量において増加せられ得、従ってそれは独占的価格にはないのである。買手の間におけると同様に売手の間にも競争がある。吾々の今まで論じていた稀少な葡萄酒や高価な美術品の生産においてはかかることは事実でない。その分量は増加され得ず、そしてその価格は購買者の力と意志の程度によってのみ制限される。かかる葡萄園の地代は、いかなる適当に指示し得る限界以上にも引上げられ得ようが、けだし他のいかなる土地もかかる葡萄酒を生産し得ないために、いかなる土地もかかる土地と競争せしめられ得ないからである。 
(八九)もちろん一国の穀物及び粗生生産物はしばらくの間は独占的価格で売られるかもしれない。しかし、より以上いかなる資本も有利に土地に使用され得ない時、従ってその生産物が増加され得ない時にのみ、それは永続的にそうあり得るに過ぎない。かかる時には、あらゆる耕地部分、及び土地に使用されているあらゆる資本部分は、地代を生むであろうが、それは実に収穫の差違に比例して異っているのである。かかる時にはまた、農業者に課せられるべきいかなる租税も地代の負担する所となり、消費者の負担する所とはならないであろう。彼はその穀物の価値を引上げ得ないが、けだし、仮定によれば、それは既に、買手がそれを買うであろう所のまたは買い得る所の最高価格にあるからである。彼は、他の資本家の得る利潤率以下の利潤では満足しないであろう、従って彼がなし得る唯一の選択は、地代を引上げさせるか、または彼れの職業を中止するかであろう。
ビウキャナン氏は、穀物及び粗生生産物は地代を産出するから、独占価格にあるものと、考えている。すなわち地代を産出するすべての貨物は独占状態にあるはずである、と彼は想像している。そしてこのことから彼は、粗生生産物に対するすべての租税は地主の負担する所となり、消費者の負担するところとはならない、と推論している。彼は曰く、『常に地代を与える穀物の価格は、いかなる点においてもその生産費によって影響されないから、それらの費用は地代から支払われなければならない。従ってそれが騰貴または下落する時には、その結果はより高いまたはより低い価格ではなくして、より高いまたはより低い地代である。かく観察すれば、農場の僕婢や馬匹やまたは農業機具に対するすべての租税は、実際には地租である。その負担は農業者の借地期間中は農業者の負担する所となり、そして借地契約が更新される時期になった時には地主の負担する所となる。同様にして、打穀機及び刈取機というが如き農業者の費用を節約するすべての改良された農耕器具、及び良い道路、運河、及び橋梁というが如き彼をしてより容易に市場に達せしめる一切のものは、穀物の原費は減少せしめるが、その市場価格は減少せしめない。従ってかかる改良によって節約されるものはすべて、地主に彼れの地代の一部として帰属するのである。』(編者註)
(編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、一八一四年、第四巻、『諸観察』、三七、三八頁。
もし吾々がビウキャナン氏に、彼の議論が挙よって樹たつ所の基礎、すなわち、穀物の価格は常に地代を生ずるということを譲歩するならば、彼が主張するすべての結果が当然それに随伴すべきことは明かである。しからば農業者に対する租税は、消費者の負担する所とはならずして、地代の負担する所となり、そして農耕上のすべての改良は地代を増加するであろう。しかし私は、一国がそのいかなる部分においても余す処なくしかも最高度に耕作される時までは、土地に用いられた資本の中に何らの地代をも生み出さない部分のあるということ、及び穀物の価格を左右するものはこの部分であり、その収穫は、製造業における如く、利潤及び労賃に分たれるということを、十分に明かならしめたと思う。かくて地代を与えない穀物の価格は、その生産によって影響されるのであるから、それらの費用は地代からは支払われない。従ってそれらの費用が増加する結果は、価格の騰貴であって、地代の下落ではない(註)。
(註)『製造業者は需要に比例してその生産物を増加せしめ、そして価格は下落する。しかし土地の生産物はそのようには増加され得ない。そして消費が供給を超過するのを妨げるためには、高い価格が必要である。』ビウキャナン、第四巻、四〇頁。ビウキャナン氏が、需要が増加しても土地の生産物は増加せしめられ得ないと真面目に主張することが出来るのは、果して可能であろうか?
粗生生産物に対する租税や地租や十分一税は、すべて土地の地代の負担する所となり、そして粗生生産物の消費者の負担する所とはならない、ということで全然一致するアダム・スミスとビウキャナン氏との両者が、それにもかかわらず、麦芽に対する租税は、麦酒ビールの消費者の負担する所となり、そして地主の地代の負担する所とはならないであろう、ということを認めているのは、注目すべきことである。アダム・スミスの議論は、麦芽に対する租税及び粗生生産物に対するあらゆる他の租税の問題について、私の懐いだいている見解の極めて優れた叙述であるから、私は読者の注意を惹くためにそれを提示せざるを得ない。
『大麦耕作地の地代及び利潤は、常に、他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地のそれとほとんど等しくなければならない。もしもそれがより少いならば、大麦地のある部分は直ちにある他の目的に向けられ、またもしそれがより多いならば、直ちにより多くの土地が大麦の栽培に向けられるであろう。ある特定の土地の生産物の通常価格が独占価格と呼ばれ得る価格にある時には、それに対する租税は必然的に、それを栽培する土地の地代及び利潤(註)を減少せしめる。そこで作る葡萄酒が、それが有効需要に対して不足しているために、その価格が、常に他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地の生産物に対する、自然的比例以上である所の、その貴重な葡萄園の生産物に対する租税は、必然的にそれらの葡萄園の地代及び利潤(註)を減少せしめるであろう。葡萄酒の価格は、既に通常市場に送り出される分量に対して手に入れ得る最高の価格であるから、それはその分量を減少せしめることなくしては引上げられ得ず、そしてその分量は更により大なる損失を伴わずしては減少され得ない。けだしそれらの土地は、ある他の等しく高価な生産物に向けられ得ないからである。従ってこの租税のすべては地代及び利潤(註)の、正当には葡萄園の地代の、負担する所となるであろう。』『しかし大麦の通常価格は決して独占価格であったことはない。そして大麦地の地代及び利潤が他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地のそれに対する自然的比例以上であったことは決してない。麦芽、麦酒ビール、及び強麦酒エイルに課せられた種々なる租税が大麦の価格を低めたことは決してなく、大麦地の地代及び利潤(註)を低減せしめたことは決してない。醸造業者に対する麦芽の価格は、絶えずそれに課せられた租税に比例して騰貴し来った。しかしそれらの租税並びに麦酒ビール及び強麦酒エイルに対する種々なる租税は、絶えずそれらの貨物の価格を騰貴せしめるか、または、同一のことに帰するが、消費者に対しそれらの貨物の品質を低下せしめるか、のいずれかであった。それらの租税の終局的支払は、消費者の絶えず負担する所となり、そして生産者の負担する所とはならなかった。』この章句についてビウキャナン氏は次の如く言う、『麦芽に対する租税は決して大麦の価格を低め得ないであろう。けだし大麦を麦芽にすることにより、それを麦芽にしないで売ることによって得られると同一の額が得られない限り、必要とされる分量は市場に齎されないであろうからである。従って麦芽の価格がそれに課せられた租税に比例して騰貴しなければならぬことは明かである。けだししからざれば需要は供給され得ないからである。しかしながら、大麦の価格は砂糖のそれとちょうど同程度で独占価格である。それら両者は地代を生み出し、そして両者の市場価格は等しくその原費とのすべての関係を失っているのである。』(編者註)
(註)私は『利潤』なる言葉が省かれていたことを望む。スミス博士は、これらの貴重なる葡萄園の借地人の利潤が、一般利潤率以上であると想像しているに相違ない。もしその利潤がそうでなかったならば、彼らはそれを地主か消費者かに転嫁し得ざる限り、租税を支払おうとはしないであろう。
(編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、第三巻、三六八頁註。
しからば麦芽に対する租税は麦芽の価格を騰貴せしめるであろうが、しかし麦芽がそれから造られる大麦に対する租税は大麦の価格を騰貴せしめないであろうし、従ってもし麦芽が課税されるならば、その租税は消費者によって支払われるであろうが、もし大麦が課税されるならば、地主の受取る地代は減少するであろうから地主がそれを支払うであろう、というのがビウキャナン氏の意見であるように思われる。かくてビウキャナン氏によれば、大麦は独占価格すなわち買手が喜んでそれに対し与えようとする最高の価格、にあるが、しかし大麦で造られた麦芽は独占価格になく、従ってそれは、それに対して課せらるべき租税に比例して引上げられ得るのである。麦芽に対する租税の結果に関するかかるビウキャナン氏の意見は、私には、彼がこれと同様な租税すなわちパンに対する租税について述べた意見と正反対であるように思われる。『パンに対する租税は窮極的に、価格の騰貴によってではなく地代の減少によって支払われるであろう。』(編者註)もし麦芽に対する租税が麦酒ビールの価格を騰貴せしめるならば、パンに対する租税はパンの価格を騰貴せしめなければならぬはずである。
(編者註)同上、三五五頁。
セイ氏の次の議論は、ビウキャナン氏のそれと同一の見解に基礎を置いている、『一片の土地が生産すべき葡萄酒または穀物の分量は、それに課せられる租税がどうであろうとも、引続きほとんど同一であろう。この租税は、その純生産物の、またはお好みならばその地代の、二分の一または四分の三をすら取り去るかもしれないが、しかもそれにもかかわらず、その土地はこの租税によって吸収されない二分の一または四分の一のために耕作されるであろう。地代すなわち地主の分前は、単に幾らかより低くなるに過ぎないであろう。このことの理由は、もし吾々が、仮定された場合においては、土地から取られる生産物の分量と市場に送られる分量とが、それにもかかわらず依然同一であるべきことを考察するならば、理解されるであろう。他方において、生産物に対する需要の基礎たる動機もまた、引続き同一である。
『さて、もし供給される生産物の分量と需要される分量とが、租税の新設または増加にもかかわらず、必然的に引続き同一であるならば、その生産物の価格は変動しないであろう。そして価格が変動しないならば、消費者はこの租税を少しも支払わないであろう。
『農業者すなわち労働及び資本を提供する者が地主と共に、この租税の負担を担うであろう、と言われるであろうか? 確かに言われない。けだしこの租税の事情は、貸付農場の数を減少せしめなかったし、また農業者の数も増加せしめなかったからである。この場合においてもまた、供給及び需要は依然同一であろうから、農場の地代もまた依然同じでなければならない。消費者をして単に租税の一部分を支払わしめ得るに過ぎない塩製造業者の例や、少しも償いを受け得ない地主の例は、経済学者に反対して、すべての租税は窮極的に消費者の負担する所となると主張する人々の、誤謬を証明している。』――第二巻、三三八頁。
もしも租税が『土地の純生産物の二分の一または四分の三すら取り去り、』しかも生産物の価格が騰貴しないならば、一定の収穫を得るためにより肥沃な土地よりも遥かにより大なる比例の労働を必要とする質の土地を占有して、極めて少額の地代を支払う農業者は、いかにして資本の通常利潤を取得し得るであろうか? たとえ全地代が免除されても、彼らは依然他の諸事業の利潤よりもより低い利潤を取得し、従って彼らがその生産物の価格を引上げ得ない限り、彼らはその土地の耕作を継続しないであろう。もしこの租税が農業者の負担する所となるならば、農場を賃借しようという農業者は減少し、またもしそれが地主の負担する所となるならば、多くの農場は、何らの地代をも与えないであろうから、全然賃貸されないであろう。しかし何らの地代をも支払わずに穀物を生産する者はいかなる資金からこの租税を支払うであろうか? この租税が消費者の負担する所とならねばならぬことは全く明かである。セイ氏が次の章句において述べている如きかかる土地は、いかにしてその生産物の二分の一または四分の三の租税を支払うであろうか?
『吾々はスコットランドにおいて、所有者によってかくの如くして耕作され他の何人によっても耕作され得ない瘠やせた土地を見る。かくてまた吾々は、合衆国の内部地方において、それより得られる収入のみでは所有者を維持するに足りない広大肥沃な土地を見る。これらの土地はそれにもかかわらず耕作されているが、しかしそれは所有者自身によってでなければならず、または換言すれば、彼をして相当に生活するを得せしめるためには、彼はほとんどまたは全くない所の地代に加えるに、彼れの資本及び勤労の利潤をもってしなければならない。土地は、耕作されても、いかなる農業者もそれに対して地代を払おうとはしない時には、地主に対して何らの収入をも産み出さないことはよく知られている。これはかかる土地は単にその耕作に必要な資本及び勤労の利潤を与えるに過ぎないということの一つの証拠である。』――セイ、第二巻、一二七頁(編者註)。
(編者註)『経済学』第二版、第二篇、第九章。 
第十八章 救貧税

 

(九〇)吾々は、粗生生産物及び農業者の利潤に対する租税は、粗生生産物の消費者の負担する所となるであろうが、それはけだし、農業者が価格の増加によって補償を受ける力を有たない限り、この租税は彼れの利潤を利潤の一般水準以下に低減し、そして彼をしてその資本をある他の職業に移転せしめるであろうから、ということを見た。吾々は、彼は、それを彼れの地代から控除することによって、租税を地主に転嫁し得ないであろうが、それはけだし何らの地代も支払わない農業者も、より良い土地の耕作者と等しく、それが粗生生産物に課せられようとまたは農業者の利潤に課せられようと、この租税を課せられるであろうから、ということもまた見た。私は、もし租税が一般的であり、そして製造業のものであろうと農業のものであろうと、平等にすべての利潤に影響を及ぼすならば、それは財貨の価格にも粗生生産物の価格にも影響を及ぼさず、直接的にも窮極においても生産者によって支払われるであろう、ということをも証明しようと企てた。地代に対する租税は地主のみの負担する所となり、そして決して借地人に転嫁せしめられ得ないであろうことも、述べられた。
救貧税は、すべてのこれらの性質を有する租税であり、そして事情の異るにつれて、粗生生産物及び財貨の消費者や、資本の利潤や、土地の地代の負担する所となる。それは農業者の利潤の特に重く負担する所となる租税であり、従って、粗生生産物の価格に影響を及ぼすものと考え得よう。それが製造業利潤及び農業利潤の平等に負担となる程度に従って、それは資本の利潤に対する一般的租税となり、そして粗生生産物及び製造品の価格には何らの変動をも惹起さないであろう。農業者が特に彼に影響を及ぼす租税の部分に対し、粗生生産物の価格を引上げることによって自身に補償し得ないのに比例して、それは地代に対する租税となり、そして地主によって支払われるであろう。しからば、ある特定の時における救貧税の作用を知るためには、吾々は、その時にそれが農業者と製造業者との利潤に影響するのが、平等な程度においてであるか、または不平等な程度においてであるかを、並びに農業者に粗生生産物の価格を引上げる力を与えるような事情になっているか否かを、確かめなければならない。 
(九一)救貧税は、農業者に、彼れの地代に比例して、賦課せらるべきである、と言われている。従って、極めて少額の地代を支払い、または全然地代を支払わない農業者は、少額の租税を支払うべきであり、または全然租税を支払わざるべきである。もしこれが事実であるならば、救貧税は、それが農業階級によって支払われる限り、全然地主の負担する所となり、そして粗生生産物の消費者には転嫁され得ないであろう。しかし私はそれは事実ではないと信ずる。救貧税は農業者が実際彼れの地主に支払う地代に従っては賦課されはしない。それは彼れの土地の年々の価値に比例せしめられるが、その年々の価値が地主の資本によって土地に与えられようと、あるいは借地人の資本によって与えられようと、それは問う所ではないのである。
もし二人の農業者が同一の教区において二つの異質の土地を賃借し、その一方は五〇エーカアの最も肥沃な土地に対し年々一〇〇磅ポンドの地代を支払い、そして他方は一〇〇エーカアの最も肥沃度の小なる土地に対して同一額の一〇〇磅ポンドを支払うならば、そのいずれもが土地の改良を企てなかった場合には、彼らは同一額の救貧税を支払うであろう。しかし、もし貧弱な土地の農業者が、極めて長期の借地契約を利用して、大なる費用をもって、施肥、灌漑、囲墻かこい等によって、彼れの土地の生産力を増進せしめる気になるならば、彼は、地主に支払われる実際の地代に比例してではなく、土地の実際の年々の価値に比例して、救貧税を納入するであろう。租税は地代に等しくもあろうし、またそれを超過しもしよう。しかしそれが事実そうであろうとなかろうと、租税のいかなる部分も地主によっては支払われないであろう。それはあらかじめ借地人によって計算されていたことであろう。そしてもし生産物の価格が、彼れのすべての費用、並びに救貧税に対するこの附加的出資を、彼に償うに足りないならば、彼れの改良はなされなかったことであろう。しからば、租税はこの場合には、消費者によって支払われることは、明かである。けだしもし何らの租税もなかったとしても、同一の改良がなされ、そして穀価がより低くとも、通常かつ一般利潤が使用資本に対し取得されたであろうからである。
もし地主が自身でかかる改良をなし、その結果として彼れの地代を一〇〇磅ポンドから五〇〇磅ポンドに引上げたとしても、それはこの問題には全然相違を起さないであろう。租税は等しく消費者に課せられるであろう。けだし地主が彼れの土地に多額の貨幣を投ずるか否かは、彼が土地に対する報償として受取る地代または地代と呼ばれるものに依存し、そしてこれは更に、穀物またはその他の粗生生産物の価格が、啻にこの附加的地代のみならず更にこの土地に課せられる租税に堪えるに足るほど高いということに、依存するであろうからである。もし同時にすべての製造業資本が、農業者または地主が土地改良のために投ずる資本と同一の比例で、救貧税に貢献するならば、それはもはや農業者または地主の資本の利潤に対する偏頗な租税ではなく、あらゆる生産者の資本に対する租税となるであろう。従ってそれはもはや粗生生産物の消費者にも地主にも転嫁され得ないであろう。農業者の利潤は、製造業者のそれ以上には、租税の影響を感じないであろう。そして前者は、後者と同様に、それを彼れの貨物の価格騰貴に対する理由として抗弁し得ないであろう。資本がある特定の職業に用いられるのを妨げるものは、利潤の絶対的下落ではなく相対的下落である。すなわち資本を一つの職業から他のそれに移動させるものは利潤の差違である。
しかしながら、救貧税の実状において、彼らの各々の利潤に比例して製造業者よりも遥かにより多額が農業者の負担する所となっており、農業者は彼が取得する実際の生産物に従って課税されるが、製造業者は、彼れの使用する機械や労働や資本の価値は顧慮する所なく、単にその中で彼が仕事をする建物の価値に従って課税されるに過ぎぬことが、認められなければならない。かかる事情からして、農業者はその生産物の価格をこの全差額だけ引上げ得るということになる。けだし、この租税は不平等にかつ特に彼れの利潤の負担する所となるから、粗生生産物の価格が引上げられぬ場合には、彼は、その資本をある他の職業に使用するよりもそれを土地に充用しようという動機が、減少するであろうからである。もし反対に、租税が農業者よりも製造業者のより重く負担する所となっていたならば、製造業者は、同一の事情の下において農業者が粗生生産物の価格を引上げ得たと同一の理由で、この差額だけ彼れの財貨の価格を引上げ得たであろう。従って、その農業を拡張しつつある社会においては、救貧税が特に重く土地の負担する所となっている時には、それは一部分は資本の利潤の減少という形において資本の使用者により、そして一部分は粗生生産物の価格騰貴の形においてその消費者によって、支払われるであろう。かかる事態においては、この租税は、ある事情の下において、地主達にとって有害であるよりもむしろ有利でさえあり得よう。けだしもし最劣等の土地の耕作者によって支払われる租税が、より肥沃な土地の耕作者によって支払われるそれよりも、取得される生産物の分量との比例においてより高いならば、すべての穀物に及ぶ穀価の騰貴は、後者にこの租税を償って余りあるであろうからである。この利益はその借地契約の継続期間中は彼らに続くであろうが、その後はその地主に移転されるであろう。これは進歩しつつある社会における救貧税の結果であろう。しかし静止的または退歩的な国においては、資本が土地から引去られ得ない限り、もし更に税金が貧民の支持のために賦課せられるならば、農業の負担する所となるその部分は、現在の借地期間中は農業者によって支払われるであろうが、しかしかかる借地契約の満了した時には、それはほとんど全く地主の負担する所となるであろう。以前の借地契約の継続期間中に、その土地の改良にその資本を支出した農業者は、もしその土地が依然彼れの手中にあるならば、土地がその改良によって得た新たな価値に応じてこの新租税を課せられ、そして彼れの利潤がそのために一般水準以下に低下しても、彼はその借地期間中この金額を支払わざるを得ないであろう。けだし彼が支出した資本は、到底それから引去られ得ない程度に合体していることが有り得るからである。実際、もし彼または彼れの地主(もし資本が彼によって支出されていたならば)がこの資本を引去ることが出来、かつそれによってこの土地の年々の価値を低減せしめることが出来るならば、この税はそれに比例して下落し、そして生産物は同時に減少するから、その価格は騰貴するであろう。彼はこの租税を消費者に課することによってその補償を得、従っていかなる部分も地代の負担する所とはならないであろう。しかしこれは少くとも、資本のある部分については不可能であり、従って、租税は、その比例において、農業者の借地期間中は彼らによって、またその満了後は地主によって、支払われるであろう。この附加的租税は、もしそれが特に荷重に製造業者の負担する所となるならば、――事実はそうなることはないが、――かかる事情の下においては、彼らの財貨の価格に附加されるであろう。けだし彼らの資本が容易に農業に移転され得る時に、彼らの利潤が一般利潤以下に低減されるべき理由はあり得ぬからである(註)。
(註)本書の前の部分において私は、正当に地代と呼ばるべき地代と、地主の資本がその借地人に与えた利潤に対して地代という名前で地主に支払われる報酬との間の、差異に注意した。しかし私はおそらく、この資本の適用される方法の異ることから生ずる差異を十分明かにしなかった。資本の一部分は、ひとたび農場の改良に費される時には、土地と不可分離に融合され、その生産力を増加せしめる傾向を有つから、その使用に対して地主に支払われる報酬は、厳密には地代の性質を有ち、地代に関するあらゆる法則に服するものである。それが地主の費用でなされようとまたは借地人の費用でなされようと、この改良は、第一に報酬がある他の等しい額の資本の投下によって挙げ得べき利潤と少くとも相等しいという強い蓋然性がない限り、企てられないであろう。しかしひとたび改良がなされた時には、取得された報酬はその後は常に全く地代の性質を有つに至り、かつ地代のあらゆる変動を蒙るであろう。しかしながらこれらの費用のあるものは、単に限られた期間だけ土地に利益を与えるに過ぎず、永久的にその生産力を増加せしめることはない。すなわち建物及びその他の消耗的な改良に投ぜられるならばそれは絶えず更新される必要があり、従って地主のためにその真実地代に対する何らの永続的附加をも獲得しないのである。 
第十九章 貿易路の急変について

 

(九二)大製造業国は、特に、資本が一つの職業から他の職業へと移転するために生ずる一時的の災難や事故に曝されている。農業生産物に対する需要は均一であり、それは流行や偏見や気紛れの影響を蒙らない。生命を維持するためには食物が必要であり、そして食物に対する需要はすべての時代、すべての国において継続しなければならない。製造品についてはこれと異る。ある特定の製造貨物に対する需要は、啻に購買者の欲望に支配されるのみならず、更に嗜好や気紛れにも支配される。新租税もまた、一国が特定貨物の製造において有っていた比較的な得点を破壊するかもしれず、または戦争の結果その運送上の船賃及び保険料が騰貴したために、それはもはや以前にそれが輸出された国の国産品と競争し得なくなるかもしれない。あらゆるかかる場合においては、著しき困苦とそして疑いもなくある損害を、かかる貨物の製造に従事する人々は経験するであろう。そしてこれは、啻にかかる変化の時においてのみならず、更に彼らが支配し得る資本及び労働を一つの職業から他の職業に移しつつある期間全体に亙って感ぜられるであろう。
かかる諸困難が発生したのみならず、更にその貨物が以前に輸出された国々においても、困苦は経験されるであろう。いかなる国も、輸出しない限り長く輸入することは出来ず、またいかなる国も輸入しない限り長く輸出することは出来ない。しからば、もしある国をして、外国貨物の平常量を輸入することを、永久的に妨げるある事情が起るならば、それは必然に平常輸出されていた貨物中の、あるものの製造を減少せしめるであろう。そして、同一額の資本が用いられていようから、その国の生産物の総価値はおそらくほとんど変動しないであろうとはいえ、しかもそれは同様に、豊富でかつ低廉ではないであろうし、また職業の変動によって著しい苦痛が経験されるであろう。もし一〇、〇〇〇磅ポンドを、輸出向綿製品の製造に用いることによって、年々、吾々が二、〇〇〇磅ポンドの価値ある絹靴下三、〇〇〇足を輸入するとし、そして外国貿易の中絶のために、吾々がこの資本を綿製品の製造から引去り、それを吾々自身靴下の製造に用いるを、余儀なくされたとしても、資本のいかなる部分も破壊されない限り、吾々は依然二、〇〇〇磅ポンドの価値を有つ靴下を取得するはずである。ただし吾々は三、〇〇〇足ではなく、単に二、五〇〇足を得るに過ぎぬであろう。資本を綿工業から靴下業に移転するに当って多くの困苦が経験されるかもしれない。しかし、たとえそれが吾々の年々の生産物の分量を、減少することがあるとしても、国民財産の価値を著しく害することはないであろう(註)。
(註)『商業は吾々をして、一貨物を、それが見出さるべき場所において取得し、それが消費せらるべき他の場所にそれを運送することを、得せしめる。従って、それは吾々に、その貨物の価値を、これらの場所の第一におけるその価格と第二におけるその価格との間の全差額だけ、増加する力を与えるものである。』セイ氏、第二巻、四五八頁。しかり、しかしいかにしてこの附加価値はそれに与えられるか? 第一に運送費を、第二に商人によってなされた資本の前貸に対する利潤を、生産費に附加することによって。その貨物の価値がより多くなるのは、あらゆる他の貨物がより多くの価値を有つに至ると同一の理由によるのであり、すなわちそれが消費者によって購買される前により多くの労働がその生産及び運送に投ぜられたが故に過ぎぬ。これは商業の持つ利益の一つとして挙げらるべきではない。この問題をより詳細に検討する時には、商業の有つ全利益は結局、それがより大なる価値ある物でなくより有用なる物をば獲得するの手段を与えることに、帰することが、見出されるであろう。
長い平和の後の戦争の開始または長い戦争の後の平和の開始は、一般に貿易上に大きな困苦を惹起す。それは諸国のそれぞれの資本が以前に投ぜられていた職業の性質を大なる程度に変化せしめ、そして資本が新しい諸事情が最も有利ならしめた地位に落着きつつある期間内は、多くの固定資本は用いられず、おそらくは全然失われ、そして労働者は十分の職業を得ない。この困苦の期間は、大抵の人がその長く慣れ来った資本用途を棄てるに当って感ずる嫌気の念の強さに応じて、長くも短くもあるであろう。それはまたしばしば、商業界における諸国家の間に広く存在する不合理な嫉妬が惹起す制限や禁止によって、長引かされるのである。 
(九三)貿易の激変から起る困苦は、しばしば、国民資本の減少や社会の退歩的状態に伴う所のそれと、誤られる。そして、これらのものを明確に区別するある標識を指示することは、おそらく困難であろう。
しかしながら、かかる困苦が戦争から平和への変化に直ちに随伴する時には、吾々はかかる原因の存在を知っているから、労働の維持のための基金が大いに害されたというよりはむしろ、その平常の通路から他に転ぜしめられたのであり、そして一時的の苦痛の後には国民は再び繁栄に向うものであると信ずるのをもって、合理的なりとするであろう。退歩的状態は常に不自然な社会状態であるということもまた記憶しなければならない。人は青年から壮年になり、次いで衰え、そして死ぬ。しかしそれは国民の発達過程ではない。最大活力の状態に達した時には、そのより以上の進歩は実際阻止されるかもしれないが、しかしその自然的傾向は、幾時代に亘り引続きその富と人口とを減少せしめずに維持するにあるのである。
大なる資本が機械に投ぜられている富みかつ力強い国においては、それに比して極めてより少い分量の固定資本と極めてより多い分量の流動資本が存在しており従ってより多くの仕事が人間の労働によってなされる所の貧しい国におけるよりも、貿易上の激変によってより多くの苦痛が経験されるであろう。それが投ぜられているある職業から流動資本を引去ることは、それから固定資本を引去ることほどに困難ではない。ある製造品のために作られた機械を他の製造品のために向け換えることはしばしば不可能であるが、しかし一つの職業における労働者の衣服や食物や住居は、他の職業における労働者の支持にも当てられ得、すなわち同一の労働者が、その職業は変化しても同一の食物や衣服や住居を受け得るのである。しかしながら、このことは富める国の甘受すべき一害悪であり、そしてそれに不平を云うのは、あたかも富有な商人が、その貧しい隣人の小屋はあらゆるかかる危険から免れているのに彼れの船だけは海難の危険に曝されている、ということを悲しむと同様に、不合理であろう。 
(九四)農業ですら、より劣れる程度でではあるが、この種の事故を免れることは出来ない。諸国間の通商を中絶せしめる商業国における戦争は、しばしば、穀物が僅小の費用で生産され得る国から、かかる有利な位置にない他の国へ輸出されることを妨げる。かかる事情の下においては、異常な資本量が農業に引去られ、そして以前の輸入国が外国の援助を失うに至る。戦争の終了と共に輸入に対する障害が除去され、そして国内耕作者にとって破滅的な競争が始はじまり、この耕作者はこの競争から、その資本の大部分を犠牲にすることなくしては退き得ない。国家の最良の政策は、国内耕作者に漸次に彼れの資本を土地から引去る機会を与えるために、限られた年数の間、外国穀物の輸入に対して、時々減額されて行く租税を課することであろう(註)。かくの如くすれば国はその資本を最も有利に分配しているわけではなかろうが、しかしその国が蒙る一時的租税は、その資本の分配が輸入停止の際に食物の供給を得るに当り極めて役立った特定階級の利益になるであろう。もしも危急の時期におけるかかる努力が、困難の終了の際の破滅の危険を伴うならば、資本はかかる職業を忌避するであろう。資本の通常利潤の他に、農業者は、急激な穀物の流入によって蒙る危険に対して補償されることを期待するであろう。従って供給を最も必要とした季節における消費者にとっての価格は、啻に国内において穀物の栽培費の騰貴のみならず、更に資本のかかる使用が曝されている特殊の危険に対して、価格において彼が支払わなければならぬ保険料だけ高められるであろう。かくて低廉な穀物の輸入を許すことは、それが資本のいかなる犠牲を払ってなされるとも、国にとってより多くの富を生産することになるにもかかわらず、数年の間はそれに輸入税を課するのがおそらく望ましいであろう。
(註)大英百科全書の補遺の最終巻の『穀物条例と貿易』なる項目中に、次のような立派な提議と考察とがある。『もし吾々がある将来の時期に吾々の歩を旧に戻そうと思うならば、我国の貧弱な土壌の耕作から資本を引去ってそれをより有利な職業に投ずる時を与えんがために、漸次に逓減する関税率が採用さるべきであろう。外国穀物が無税で輸入されるべき価格は、その現在の限度たる八〇シリングから年々一クヲタアにつき四シリングまたは五シリング減少し、ついにそれが五〇シリングに達せしめらるべきであろう。その時には港は安全に開かれ、制限制度は永久に廃止され得るであろう。この幸福な事件が起った時には、自然を強いる必要はもはやなくなるであろう。国の資本と企業とは、我国の自然的地位や国民性や政治的制度によって、吾々の卓越に適当する産業部門に向けられるであろう。ポウランドの穀物及びカロライナの原棉は、バアミンガムの器物及びグラスゴウのモスリンと交換されるであろう。真正なる商業精神、すなわち永久的に諸国民の繁栄を確保する精神は、独占という暗い浅薄な政策とは全然両立し得ない。地球上の諸国民は、同一王国の諸地方に類する、――自由にして束縛されざる交通が、そのいずれにおいても全般的並びに地方的な利益を齎すものである。』この全論文は極めて注目に値する。それは極めて教示に富み、上手に書かれ、そして、筆者がこの問題に完全に精通していることを示している。
地代の問題を検討するに当って、吾々は、穀物の供給の増加と、その結果たるその価格の下落とのあるごとに、資本がより貧弱な土地から引去られ、そして当該時に、何らの地代も支払わないより良い種類の土地が、穀物の自然価格を左右する標準になるということを、見出した。一クヲタアにつき四磅ポンドならば、より劣等な質の土地――第六等地と名附けよう――が耕作されるであろう。三磅ポンド一〇シリングならば第五等地、三磅ポンドならば第四等地が耕作され、以下これに準ずる。もし穀物が、永久的豊富の結果として、三磅ポンド一〇シリングに下落するならば、第六等地に投ぜられた資本は、投ぜられなくなるであろう。けだし、たとえ地代を支払わなくとも、それが一般利潤を取得し得るのは、穀物が四磅ポンドの時に限られるからである。従って資本は引去られ、それをもって、第六等地で栽培された穀物総量が購買され輸入されるべき貨物の製造に向けられるであろう。その資本はかかる用途において、その所有者に必然的により生産的であろう。しからざればそれは他の用途から引去られないであろう。けだし、もし彼が、その製造した貨物をもって穀物を購買することにより、彼が何らの地代を支払わない土地から得た以上の穀物を取得し得ないならば、その価格は四磅ポンド以下にはなり得ないからである。
しかしながら、資本は土地から引去られ得ず、それは土地から必然的に分離し得ない施肥、囲墻、灌漑等の如き、囘収し得ない支出形態をとっている、と云われ来っている。これは、ある程度において真実である。しかし牛、羊、乾草及び穀物の禾堆いなむら、荷車等から成る資本は引去られ得る。そして、穀価の低廉なるにもかかわらずこれらの物が引続き土地に使用さるべきか、またはこれらの物が売却されてその価値がある他の職業に移さるべきかは、常に計算上の問題となるのである。
しかしながら、事実は上述の如くであり、いかなる資本部分も引去られ得ないと仮定しよう(註)。農業者は引続き穀物を生産し、しかもいかなる価格でそれが売れようともまさに同一分量を生産するであろう。けだし、より少く生産することは彼れの利益で有り得ず、またもしその資本をかくの如く用いないならば、彼はそれから全く報酬を取得しないからである。穀物は輸入され得ないであろう、けだし彼はそれを全然売らないよりもむしろそれを三磅ポンド一〇シリング以下で売ろうと思うであろうし、しかも仮定によれば、輸入業者はこの価格以下でそれを売り得ないからである。かくしてこの質の土地を耕した農業者は疑いもなく彼らの生産する貨物の交換価値の下落によって損害を受けるとはいえ、――この国はそれによりいかにして影響されるであろうか? 吾々はあらゆる貨物の同一量を有っているはずであるが、しかし粗生生産物と穀物とは極めてより低廉な価格で売れるであろう。一国の資本はその国の貨物から成り、そしてこれらのものは以前と同一であろうから、再生産は同一の速度で進むであろう。しかしながら、この穀価の低廉は、当該時に何らの地代も支払っていない第五等地に、単に資本の通常利潤を与えるに過ぎず、そしてすべてのそれ以上の土地の地代は下落するであろう。労賃もまた下落し、そして利潤は騰貴するであろう。
(註)土地に固定されるに至った資本はいかなるものも、借地期限の満了の時には必然的に地主のものでなければならず借地人のものではない。地主がその土地を再び賃貸する際にこの資本に対して受ける所の報償はいかなるものも、地代の形において現われるであろう。しかし、もし一定の資本をもって、国内でこの土地で作られる以上の穀物が外国から取得され得るならば、いかなる地代も支払われないであろう。もし社会の事情が穀物の輸入を必要とし、そして一定の資本を用いて一、〇〇〇クヲタアが取得され得、かつまた同一額の資本を用いてこの土地が一、一〇〇クヲタアを産出するならば、一〇〇クヲタアは必然的に地代となるであろう。しかしもし一、二〇〇クヲタアが外国から得られるならば、この土地は廃耕されるであろう。けだしその場合にはそれは一般利潤率すら産出しないからである。しかし、土地に投ぜられた資本がいかに大であっても、このことは何らの不利益でもない。かかる資本は生産物を増大せしめる目的で費されたのである、――それが終局の目的であることを忘れてはならない。しからばその資本の半分の価値において下落しようとまたはたとえ皆無になろうと、それが生産物のより大なる年々の分量を取得し得るならば、それは社会にとっていかなる重要さを有ち得ようか? この場合において資本の損失を悲しむ者は、手段のために目的を犠牲にせんとするものである。
穀価がいかに低く下落しようとも、もし資本が土地から移転され得ず、かつ需要が増加しないならば輸入は全く起らないであろう。けだし以前と同一量が国内において生産されるであろうからである。生産物分割が異り、そしてある階級は利益を受け他の階級は損害を受けるであろうとはいえ、生産総額はまさに同一であり、そして国民は全体としてより富みもせずより貧しくもならないであろう。
しかし穀物の比較的低価から常に生ずる次の如き利益がある、――すなわち、現実の生産物の分割は、利潤なる名称の下に生産的階級に割当てられるものが増加し、地代なる名称の下に不生産的階級に割当てられるものが減少するに従って、労働の維持のための基金を増加する傾向が多くなるということ、これである。
たとえ、資本が土地から引去られ得ずして、そこで使用されなければならず、しからざれば全然使用され得ないとしても、このことは真実である。しかし、もし資本の大部分が引去られ得るならば――明かに引去られ得たが――それが引去られるのは、それが元の処に留まらしめられるよりも、それから引去られる方がより多くの物を所有主に産出する場合に限られるであろう。それが引去られるのは、それが他の処で所有主にも公衆にもより生産的に使用され得る場合に限られるであろう。所有主は土地から引離し得ざる彼れの資本部分を抛棄することを肯がえんずるが、けだし彼は、この資本部分を抛棄しない場合よりも、引去り得る部分をもって、より多くの価値とより多量の粗生生産物とを取得し得るからである。彼れの場合は、多くの費用を投じてその工場に機械を据附すえつけたが、この機械が後に至って更に新発明によって非常に改良されたために、彼が製造した貨物の価値が著しく下落するに至った人の場合と、まさに同様である。彼が古い機械を抛棄し、そして古いもののすべての価値を失いながら、より完全なるものを据附けるか、または引続き古いものの比較的弱い力を利用するかは、彼にとっては全然計算上の問題である。かかる事情の下において、それが古いものの価値を減少しまたは皆無にするという理由をもって、新しい機械の使用を断念せよと、誰が彼に勧告するであろうか? しかもこれが、穀物の輸入は農業者の資本中永久に土地に投ぜられた部分を減少しまたは皆無にするという理由をもって、その輸入を禁止せよと吾々に望む人々の議論なのである。彼らは、すべての通商の目的は生産を増加するにあり、かつ生産を増加することによってたとえ部分的損失は惹起されるにしても、一般的幸福は増加されるということを、知らないのである。彼らは、首尾一貫せんがためには、農業及び製造業におけるすべての改良及びすべての機械発明を阻止すべく努むべきである。けだしこれらの物は一般的豊富従ってまた一般的幸福に寄与するとはいえ、それはその採用の瞬間において、農業者及び製造業者の現存資本の一部分の価値を必ず減少または皆無ならしめるからである(註)。
(註)穀物の輸入制限の不得策を論ずる著作物中の最も優れたものの中に入れるべきは、トランズ大佐の『対外穀物貿易論』である。彼れの議論は未だ反駁されず、かつ反駁し得ないように、私には思われる。
農業は、他のすべての事業と同様にそして特に商業国においては、強い一刺戟を有つ作用に続いて反対の方向に起る反作用を蒙るものである。かくて、戦争が穀物の輸入を妨げる時には、その結果たるその高き価格は、農業への資本投下が与える大なる利潤のために、資本を土地に牽附ひきつける。このことはおそらくその国の需要が必要とする以上の資本を用いしめ、それ以上の粗生生産物を市場に齎しめるであろう。かかる場合においては、穀価は供給過剰の結果下落し、そして平均的需要と等しくされるまでは多くの農業上の困苦が生み出されるであろう。 
第二十章 価値及び富、両者の特性

 

(九五)アダム・スミスは曰く、『人は、彼が人生の必要品、便利品、及び娯楽品を享受することを得る程度に従って、富みまたは貧しいのである。』(編者註)
(編者註)第一巻、第五章(訳者註――キャナン版、第一巻、三二頁、ただし原文には『あらゆる人は、云々』とある。)
しからば、価値は本質的に富と異る、けだし価値は生産の量に依存するものではなくその難易に依存するからである。製造業における一百万人の労働は、常に同一の価値を生産するであろうが、しかし必ずしも同一の富を生産しはしないであろう。機械の発明により、熟練の進歩により、より良き分業により、またはより有利な交換がなされ得べき新市場の発見によって、一百万の人々は、、一つの社会状態において、他の状態において生産し得るであろう所の二倍または三倍の富を、すなわち『必要品、便利品、及び娯楽品』を生産し得るであろうが、しかし彼らはその故に価値に何物かを附加するということはないであろう、けだしあらゆる物は、それを生産する難易に比例して、換言すればその生産に用いられる労働量に比例して、価値において騰貴しまたは下落するのであるが故である。一定の資本をもって、一定数の人間の労働が一、〇〇〇足の靴下を生産していたと仮定し、そして機械の発明によって同一数の人間が二、〇〇〇足の靴下を生産することを得、または彼らは引続き一、〇〇〇足の靴下も生産し得かつ五〇〇箇の帽子を余分に生産し得ると仮定すれば、二、〇〇〇足の靴下の価値、または一、〇〇〇足の靴下と五〇〇箇の帽子との価値は、機械の採用以前における一、〇〇〇足の靴下の価値以上でも以下でもないであろう、けだしそれらは同一量の労働の生産物であるからである。しかし貨物の総量の価値はそれにもかかわらず減少されるであろう、けだし、たとえ改良の結果増加された生産物量の価値は、何らの改良も起らなかった場合に生産されていたであろう所のより少い分量が有っていた価値と正確に同一であろうとはいえ、その改良以前に製造された所のなお未だ消費されない部分の財貨にもまた、影響が及ぶからである。それらの財貨は、いちいち、改良のすべての便益の下で生産された財貨の水準にまで下落しなければならぬから、その価値は下落するであろう。そして社会は、貨物の分量が増加されたにもかかわらず、その富が増大されその享楽資料が増大されたにもかかわらず、より少量の価値しか有たぬであろう。不断に生産の便宜を増加せしめることによって、吾々は啻に国富を増加せしめるのみならず更に将来の生産力を増加せしめているとはいえ、吾々は、同一の手段によって、不断に、以前に生産された貨物のあるものの価値を減少せしめるのである。経済学上の誤謬の多くは、この問題に関する誤謬、すなわち富の増加と価値の増加とをもって同じことを意味すると考えることから、また何が、価値の標準尺度を成すかについての根拠なき観念から、生じたものである。 
(九六)ある人は貨幣をもって価値の一標準と考えている。そして彼によれば、一国民は、その有するすべての種類の貨物と交換され得る貨幣量の多少に比例して、富みまたは貧しくなるのである。他のものは、貨幣をもって交換の目的のための極めて便利な一媒介物ではあるが、しかしそれによって他物の価値を測定する適当な一尺度とは云えないとする。彼らによれば、価値の真実の尺度は穀物であり(註一)、そして一国は、その国の貨物と交換される穀物の多少に従って、富みまたは貧しいのである(註二)。更に他のものは、一国はそれが購買し得る労働量に従って富みまたは貧しいと考える。しかし何故なにゆえに金や穀物や労働は、石炭や鉄以上に、――毛織布や石鹸や蝋燭やその他の労働者の必要品以上に、――価値に標準尺度となるべきであるか? ――略言すれば、何故なにゆえにある貨物もしくはすべての貨物全体が、それ自身が価値において変動を蒙るのに、この標準となるべきであるか? 穀物は金と同じく生産の難易によって他物に比して一〇%、二〇%、または三〇%変動し得よう。何故なにゆえに吾々は、変動したのはこれらの他物であって、穀物ではない、と常に言わねばならぬのか? 常にその生産に骨折と労働との同一の犠牲を必要とする貨物のみが不変なのである。吾々はかかる貨物の存在を知らない。しかし吾々は、それを知っているかの如くに仮設的にそれについて論じてよかろう。そして在来採用され来ったすべての標準が絶対的に無能力なことを明確に示すことによって、斯学に関する吾々の知識を進めることが出来るであろう。しかし、これらのもののいずれかが価値の正しい標準であると仮定しても、しかもなお、富は価値に依存するものではないから、それは富の標準とはならないであろう。人は、彼が支配し得る必要品及び奢侈品の多少によって富みまたは貧しいのである。そしてその貨幣や穀物や労働に対する交換価値が高かろうと低かろうと、それらのものは等しくその所有者の享楽に寄与するであろう。貨物、すなわち人生の必要品、便宜品、及び享楽品の分量を減少することによって富を増加し得ると主張され来ったのは、価値と富との観念の混乱の結果である。もし価値が富の尺度であるならば、このことは否定し得ないが、けだし貨物の価値は稀少によって騰貴するからである。しかしもしアダム・スミスが正しいならば、もし富は必要品及び享楽品から成るならば、富は分量の減少によっては増加され得ないものである。
(註一)アダム・スミスは曰く、『貨物及び労働の真実価格と名目価格との間の区別は、単なる思弁上の事柄ではなく、時に実際上に極めて有用であろう。』私は彼に同意する。しかし労働及び貨物の真実価値は、アダム・スミスのいわゆる真実尺度たる所の財貨で測られた価格によって確められないことは、それが、彼のいわゆる名目尺度たる所の金及び銀で測られた価格によって確定されないのと同様である。労働者は、彼れの労賃が多量の労働の生産物を購買する場合にのみ、彼れの労働に対し真実に高い価格を支払われているのである。
(註二)その第一巻一〇八頁において、セイ氏は、『同一分量の銀は同一分量の穀物をを購買するであろうから、』銀は今日ルイ十四世の治下におけると同一の価値を有つと推論している。
稀少なる貨物を所有する人は、もしそれによって人生の必要品及び享楽品のより多くを支配し得るならば、より富んでいることは、真実である。しかし、各人の富の源泉たる一般的貯財は、ある個人が自分自身により多量を占有し得るに比例して必然的に減少しなければならない。
ロウダアデイル卿は曰く、水をして稀少ならしめ一個人に独占的に所有せしめるならば水は価値を有つであろうから、彼れの富は増加されるであろうし、またもし国富が個人の富の総計であるならば、同一の手段によって国民の富も増加されるであろう、と。疑いもなくこの個人の富は増加されるであろうが、しかし、単に以前には無償で得ていた水を得んがために、農業者は彼れの穀物の一部分を、靴製造業者は彼れの靴の一部分を売らなければならず、そしてすべての人は、彼らの所有物の一部分を抛棄しなければならないから、彼らはこの目的に当てざるを得ぬ貨物の全量だけより貧しくなり、そして水の所有者は彼らの損失の額だけ利益するのである。全社会は同一量の水と同一量の諸貨物とを得ているが、しかしそれらの物の分配は変っているのである。しかしながら、これは水の稀少よりはむしろその独占を仮定しているのである。もしそれが稀少であるならば、その国及び個々人は、その一享楽品の一部分を奪われるから、その富は実際減少するであろう。農業者は、啻に彼に取って必要または望ましい他の貨物に対して交換すべき穀物を有つことより少いのみならず、更に彼及び他のあらゆる個々人はその愉楽品中の最も欠くべからざるものの一つの享楽を削減されるであろう。啻に富の分配が異るに至るのみならず、また富が実際に失われるであろう。
しからば、すべての生活の必要品及び愉楽品の正しく同一量を所有する二国については、この二国は等しく富んでいると云い得ようが、しかしその各々の富の価値は、その生産の比較的難易によって定まるであろう。けだしもし一箇の改良された機械が、吾々をして労働を追加することなくして、一足ではなく二足の靴下を製造し得せしめるならば、一ヤアルの毛織布と交換して、二倍の分量が与えられるであろうからである。もし同様の改良が毛織布の製造においても行われるならば、靴下と毛織布とは以前と同一の比例で交換されるが、しかしこれら両者は価値において下落しているであろう。けだしこれを帽子や金やその他の一般貨物と交換するに当っては、以前の二倍量が与えられなければならぬからである。金その他のすべての貨物の生産にも改良を及ぼすならば、これらのものはすべてその以前の比例に復するであろう。二倍量の貨物が年々この国において生産されており、従って国の富は二倍となるであろうが、しかしこの富の価値は増加していないであろう。
アダム・スミスは、私が一再ならず指摘した富の正しい説明を与えたにもかかわらず、彼は後にこれを異って説明し、次の如く言っている、『人は、彼が購買し得る労働量に応じて、富みまたは貧しくなければならぬ。』さてこの説明は前のものと本質的に異り、そして確かに正しくない。けだし、鉱山がより生産的になり、ために金や銀がその生産の便宜の増大によって価値が下落すると仮定するならば、または天鵞絨ビロードが以前よりも遥かにより少い労働をもって製造されるに至り、ためにそれがその以前の価値の半分に下落すると仮定するならば、これらの貨物を購買したすべての者の富は増加されるからである。ある人は彼の皿の分量を増加し、他の人は二倍の分量の天鵞絨ビロードを購買するであろう。しかし、この附加せられた皿や天鵞絨ビロードを得ても、彼らは以前と同一の労働しか用い得ないであろう。けだし天鵞絨ビロードや皿の交換価値が下落するにつれて、彼らは一日の労働を購買するためにこの種の富をそれに比例してより多く手離さなければならぬからである。富はかくて、それが購買し得る労働量によっては測定され得ないのである。 
(九七)前述せる所からして、一国の富は二つの方法で増加され得べきことが分るであろう。すなわちそれは、より大なる部分の収入を生産的労働の維持に用いることによって増加され得よう、――これは、啻に貨物の総体の量を増加するのみならず、更にその価値をも増加するであろう。もしくはそれは、附加的労働量を用いることなしに同一量をより生産的ならしめることによって増加され得よう、――これは貨物の量を増加するであろうが、その価値は増加しないであろう。
第一の場合においては、一国は、啻に富んで来るのみならず、更にその富の価値も増加するであろう。それは節倹により、すなわち奢侈や享楽の対象物に対するその支出を減少することにより、そしてこれらの貯蓄を再生産に用いることにより、富んで来るであろう。
第二の場合においては、必ずしも、奢侈品及び享楽品に対する支出の減少も、用いられる生産的労働量の増加もなく、同一の労働をもってより多くのものが生産されるであろう。富は増加するが価値は増加しないであろう。富を増加せしめるこれら二つの方法の中うち、後者は、第一の方法には必ず伴わざるを得ない享楽品の欠乏及び減少なしに同一の結果を挙げる故に、それを選ばなければならぬ。資本とは、一国の富の中うち、将来の生産を目的として用いられる部分であり、そして富と同一の方法で増加せられ得る。附加的資本とは、それが技術及び機械の改良によって得られようとも、またはより多くの収入を再生産的に用いることによって得られようとも、将来の富の生産には等しく有効であろう。富は常に生産された貨物の分量に依存し、生産に使用される器具を獲得することの難易とは何らの関係も有たないからである。一定量の衣服及び食料品は、それが一〇〇名の労働によって生産されたのであろうと二〇〇名のそれによって生産されたものであろうとに論なく、常に同数の人間を維持し雇傭し、従って同一量の仕事をなさしめるであろう。しかしそれらの物は、もしその生産に二〇〇名が用いられたのであるならば、二倍の価値を有つであろう。 
(九八)セイ氏は、彼れの著『経済学』の第四版すなわち最近の版において訂正をなしたにもかかわらず、富と価値とに関するその定義は極めて誤っているように私には思われる。彼はこれら二つの語は同義であり、そして人は彼れの所有物の価値を増加し、多量の貨物を支配し得るに至るにつれて、富むと考えている。彼は曰く、『しからば所得の価値はもしそれが生産物のより大なる分量を――いかなる方法によろうとそれは重要ではないが――獲得し得るならば、その時に増加される。』セイ氏によれば、もし毛織布を生産する困難が二倍となり、その結果毛織布はそれと以前に交換された貨物の二倍量と交換されるに至るならば、その価値は二倍となるのである。これに対して私は全然同意する。しかし、もし諸貨物の生産にある特別な便宜があり、そして毛織布の生産は何らの困難の増加もなく、従って毛織布は前と同様に、二倍量の諸貨物と交換されるに至るならば、セイ氏は依然毛織布の価値は二倍となったというであろうが、しかるにこの問題に対する私の見解によれば、彼は、毛織布はその以前の価値を保ち、それらの特定の貨物が以前の価値の半分に下落したというべきである。セイ氏が、生産の便宜により、以前に一袋の穀物を生産したと同一の手段によって二袋のそれが生産され、従って各袋は以前の価値の半分に下落するであろうといいながら、しかも彼が、二袋の穀物と毛織布を交換する毛織布製造業者は、彼がその毛織布と交換して単に一袋の穀物を得たに過ぎなかった時の二倍の価値を取得するであろう、と主張する時に、彼は自家撞着に陥っているのでなければならぬ。もし二袋が以前の一袋の価値を有つならば、彼は明かに同一の価値を取得するに過ぎない、――もちろん彼は富の二倍量――効用の二倍量――アダム・スミスのいわゆる使用価値の二倍量を得るのであるが、しかし価値の二倍量を得るのではない。従ってセイ氏が価値、富、及び効用を同義語と考えているのは正当であり得ない。もちろんセイ氏の著書には、価値及び富の本質的差異について私が主張している学説を支持するために、安んじて引用し得る多くの部分があるが、しかし反対の学説が主張されている色々な他の章句もあることを、云わなければならない。私はこれらの諸章句を調和せしめることが出来ない。さればセイ氏がその著作の将来の版で、これらの考察に注意されるが如き場合には、私と同じく他の多くの人々が、彼れの見解を解釈せんと努めるに当って感ずる困難を、一掃するが如き説明を与えられんがために、私はこれらの章句を互に対照せしめてこれを指摘しておく。
一、二つの生産物の交換においては、吾々は単に事実上それらを創造するに役立った生産的勤労を交換しているに過ぎない。…………五〇四頁。
二、生産費から生ずるもの以外に真実の高価ということはない。真実に高価な物は、生産に多くを費されるものである。…………四九七頁。
三、一生産物を創造するために消費されなければならぬすべての生産的勤労の価値が、その生産物の生産費を構成する。…………五〇五頁。
四、一貨物に対する需要を決定するものは効用であるが、しかしその需要の範囲を限定するものはその生産費である。その効用がその価値を生産費の水準にまで高めない時には、その物はそれに要した費用に値しない。それは、生産的勤労がそれ以上の価値を有つ一貨物の創造に使用され得べかりしことの一証拠である。生産的基金の所有者、すなわち、労働、資本、または土地を処分し得る人々は、絶えず生産費と生産されたものの価値とを比較することに、または同じことに帰着するが、種々なる貨物の価値を相互に比較することに従事している。けだし生産費は一生産物を形成するに当って消費される生産的勤労の価値に他ならず、そして一生産的勤労の価値はその結果たる貨物の価値に他ならないからである。かくて一貨物の価値、一生産的勤労の価値、生産費の価値はすべて、あらゆる物がその自然的過程に委ねられている時には、同様な価値である。
五、所得の価値は、もしそれが生産物のより大なる分量を(いかなる方法によろうとそれは重要ではないが)獲得し得るならば、その時に増加される。
六、価格は諸物の価値の尺度であり、そしてその価値はその効用の尺度である。第二巻…………四頁。
七、自由に行われた交換は、吾々のいる時、所、及び社会状態において、人々が、交換される諸物に付与する価値を示す。…………四六六頁。
八、生産するということは、一物の効用を与えまたは増加せしめることによって、またかくして、その第一原因たる所の、それに対する需要を作り出すことによって、価値を創造することである。第二巻…………四八七頁。
九、効用が創造されて、一生産物が構成される。その結果たる交換価値は、この効用の尺度、行われた生産の尺度、たるに過ぎない。…………四九〇頁。
一〇、一特定国の人民が一生産物に見出す効用は、彼らがそれに対して与える価格による他に評価され得ない。…………五〇二頁。
一一、この価格は、その物が人々の判断において有する効用の尺度であり、彼らがそれを消費することから得る満足の尺度である、けだしもし、それが費さしめる価格で、彼らにより大なる満足を与える一効用を彼らが取得し得るならば、彼らはこの効用を消費することを択えらばないであろうから。…………五〇六頁。
一二、ある人が彼の処分せんと欲する貨物と交換に直ちに取得し得る他のすべての貨物の分量は、常に、一つの争い得ない価値である。…………第二巻、四頁。
もし生産費から生ずるもの以外に真実の高価ということがないならば(二、を見よ)、一貨物の生産費が増加しない場合に、いかにしてその価値は騰貴すると言えるか?(五、を見よ)、そしてそれは単に低廉な一貨物のより多くと、その生産費が減少した一貨物のより多くと、それが交換されるからであるか? 私が一封度ポンドの金に対し、一封度ポンドの鉄に対して与える二、〇〇〇倍の毛織布を与える時には、このことは、私が鉄に付与する効用の二、〇〇〇倍を金に付与することを証明するか? 確かに否。このことは、セイ氏が認めている如くに(四、を見よ)、単に金の生産費が鉄の生産費の二、〇〇〇倍なることを証明するに過ぎない。もしこの二金属の生産費が同一であるならば、私は両者に対して同一の価格を与えるであろう。しかしもし効用が価値の尺度であるならば、おそらく私は鉄に対してより多くを与えるであろう。種々なる貨物の価値を左右するものは、『絶えず生産費と生産されたものの価値とを比較することに従事している所の、』(四、を見よ)生産者の競争である。かくてもし私が一塊のパンに対して一シリングを、一ギニイに対して二一シリングを与えても、それは、これが私の評価におけるこれらのものの効用の比較的尺度である、ということを証明するものではない。
第四においてセイ氏は、私が価値に関して主張した学説をほとんど何らの変更もなく主張している。彼はそのいわゆる生産的勤労の中に、土地、資本、及び労働によって与えられた勤労を包含せしめているが、私のそれの中には、私は単に資本及び労働のみを包含せしめ、土地は全然除外している。吾々の差異は、地代に関する吾々の見解の異る所から起るのである。私は常に地代は部分的独占の結果であり、決して真実に価格を左右せず、むしろその結果であると考えている。たとえすべての地主が地代を抛棄しても、私は、土地において生産される貨物は低廉にはならないであろうという意見である、けだし、剰余生産物が資本の利潤を支払うに足るに過ぎないために、それに対し何らの地代も支払われずまたは支払われ得ない所の、土地において生産される同一貨物の一部分が、常にあるからである。
結論を下せば、貨物の真実の豊富と低廉によってすべての消費者階級に生ずる利益を高く評価せんとすることは、私はあえて人後に落ちるものではないけれども、私は、一貨物の価値を、それと交換される他の諸貨物の分量によって評価することには、セイ氏に同意することは出来ない。私は、極めて著名な学者、デステュト・ドゥ・トラアシイと同意見であるが、彼は曰く、『ある一物を測るということは、吾々が比較の標準として、単位として、採用する所の同一物の確定量と、それを比較することである。一つの長さ、一つの重さ、一つの価値を測るということ、すなわちそれを確かめるということは、これらのものが、メートル、グラム、フラン、一言もって云えば同一種類の単位を、幾倍含んでいるかを発見することである。』フランと測らるべき物とが、双方に共通なある他の尺度に還元され得ざる限り、フランは単にそれでフラン貨幣が造られている同一金属の一分量に対する尺度である他は、何物に対しても価値の尺度ではない。このことはなされ得ると私は思うが、けだしこれらは共に労働の結果であるからであり、従って労働は、それによってその相対価値と同様にその真実価値が評価され得る共通の尺度である。これもまた、幸にしてデステュト・ドゥ・トラアシイ氏の意見のように思われる(註)。彼は曰く、『吾々の肉体的精神的能力のみが吾々の本来的富であることは確実であるから、それらの能力の使用すなわちある種の労働が、吾々の唯一の本来的宝であり、そして吾々が富と呼ぶすべての物、すなわち最も必要なもの並びに最も純粋に快適なものが創造されるのは常にこの物の使用によってである。すべてのそれらの物のみがそれを創造した労働を代表するものであり、かつもしそれが一つの価値、または二つの別箇の価値をさえ有つならば、それらの物は、それが生ずる源たる労働の価値から得られ得るのみであるということもまた、確実である。』
(註)『観念学要論』、第四巻、九九頁――この書物において、ドゥ・トラアシイ氏は、経済学の一般原理に関する有用にしてかつ優れた論述をなしている、そして私は、彼が、彼れの権威をもって、『価値』、『富』及び『効用』なる言葉につきセイ氏が与えた定義を支持していることを、附記せざるを得ないのを、遺憾とするものである。
セイ氏は、アダム・スミスの大著の長所及び短所を論ずるに当って、『彼が人間の労働のみに、価値を生産する力を帰している』ことを、誤謬であるとして彼を非難している。『より正しい分析によれば、価値が、労働の活動またはむしろ人間の勤労と、並びに自然が提供する諸要素の活動及び資本の活動に、よるものなることが、吾々にわかる。彼はこの原理を知らなかったために、彼は富の生産における機械の影響に関する真の理論を樹立し得なかったのである。』
アダム・スミスの意見とは反対に、セイ氏は第四章において、時に人間の労働に代位されまた時には生産において人間と協力する所の、太陽、空気、気圧の如き、自然的要素によって貨物に与えられる価値について論じている(註)。しかしこれらの自然的要素は、貨物の使用価値を増加することは大であるとはいえ、いまセイ氏が論じつつある交換価値を決して増加せしめるものではない。機械の助力によりまたは自然科学の知識により、自然的要素をして以前に人間がなしていた仕事をなさしめるに至るや否や、かかる製品の交換価値はそれに従って下落する。もし十名の人が磨穀器を廻していたとし、そして風か水の助力によってこの十名の人間の労働が節約され得ることが見出されたならば、一部分磨穀器によってなされる仕事の生産物たる麦粉の価値は、節約された労働量に比例して直ちに下落するであろう。そしてこの十名の維持に向けられた基金は毫も害されていないから、社会は彼らの労働が生産し得べき貨物だけより富むこととなるであろう。セイ氏は常に、使用価値と交換価値との間にある本質的差異を看過しているのである。
(註)『金属を火によって熔解する方法を知った最初の人は、この過程によって、熔解された金属に附加される価値の創造者ではない。その価値は、この知識を利用した人々の資本及び勤労に附加せられた火の物理的作用の結果である。』
『この誤謬よりしてスミスは、すべての生産物の価値は、近時または往時の労働を代表する、または換言すれば、富は蓄積された労働に他ならない、という誤った結論を引出したが、このことからして、同様に誤った第二の推論によって、労働は富または生産物の価値の唯一の尺度である、という結論を引出している。』セイ氏が結論としたこの推論は、彼自身のものであってスミス博士のものではない。もし価値と富との間に何らの区別もなされないのであるならば、これは正しい、そしてセイ氏はこの章句において何らの区別もしていないのである。しかし富をもって、生活の必要品、便利品、及び享楽品の豊富より成ると定義したアダム・スミスは、機械及び自然的要素が一国の富を極めて増加せしめることを認めたとはいえ、彼は、それがかかる富の価値を幾らかでも増加せしめるということは、認めはしなかったであろう。
セイ氏は、すべての物の価値は人間の労働から得られると考えたために自然的要素及び機械によって貨物に与えられる価値を看過したといって、スミス博士を非難している。しかしこの非難が当っているとは思われない。けだしアダム・スミスはどこにおいてもこれらの自然的要素及び機械が吾々のためになす奉仕を過小評価してはおらず、ただ極めて正当に、それが貨物に附加する価値の性質を明かに区別しているのであるからである、――それは、生産物の分量を増加し、人間をより富ましめ、使用価値を附加することによって、吾々に役立つ。しかし、それはその仕事を無償でなすから、空気や熱や水の使用に対しては何物も支払われないから、それが吾々に与える助力は交換価値には何物をも附加しないのである。 
第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響

 

(九九)資本の利潤について与えられ来った説明からすれば、労賃の騰貴に対するある永続的原因がない限り、資本の蓄積は決して永続的に利潤を下落せしめないことが分るであろう。もし労働の維持のための基金が二倍、三倍、または四倍になっても、この基金によって雇傭さるべき必要な人数を得る困難は長くはないであろう。しかし国の食物を絶えず増加して行く困難が逓増して行くために、同一の価値を有つ基金はおそらく同一量の労働を維持しないであろう。もし労働者の必要品が常に同じく容易に増加され得るならば、資本がいかなる額まで蓄積されようとも、利潤率または労賃率には何らの永続的変動も起り得ないであろう。しかしながらアダム・スミスは、利潤下落の原因を一様に資本の蓄積及びその結果として起る競争に帰し、附加資本が用うべき労働者の附加数に対して食物を供給する困難が逓増することについて論及したことはかつてない。彼は曰く、『労賃を騰貴せしめる資本の増加は利潤を下落せしめる傾向がある。多くの富裕な商人の資本が同一の事業に向けられるときは、彼らの相互の競争は当然その利潤を下落せしめる傾向がある。そして同一の社会の中で営まれているすべての各様の事業において同様の資本の増加がある時には、同一の競争はそのすべての事業において同一の結果を生み出さなければならぬ。』アダム・スミスはここで労賃の騰貴について論じているが、しかしそれは、人口が増加する前に基金が増加することから起る所の一時的の騰貴についてである。そして彼は、資本によってなさるべき仕事が同一の比例で増加されることを、見ていないようである。しかしながらセイ氏は、需要は単に生産によって限定されているに過ぎないから、一国において用いられ得ない資本の額はないということを最も十分に説明したのである。 
(一〇〇)消費または売却せんとする目的なくして生産するものはない。そして直接彼に有用でありまたは将来の生産に寄与し得るある他の貨物を購買せんとする意図なくしては、人は決して売却しない。しからば、彼は、生産することによって、必然的に、彼自身の財貨の消費者となるか、またはある他人の財貨を、購買し消費するものとなるかである。他の財貨を所有するという彼れの目的を達するために、彼が最も有利に生産し得る貨物について、長い間十分の知識を有っていないということは、想像し得ない。従ってそれに対して需要の無い貨物を彼が引続き生産することはおそらくないであろう(註)。
(註)アダム・スミスはオランダを論じて、資本の蓄積とその結果あらゆる資本を有ち過ぎることによる利潤下落の一例を与えるものとしている。『そこでは政府は二%で借り、信用多き私人は三%で借りる。』しかしオランダは、それが消費するほとんどすべての穀物を輸入せざるを得ず、そして労働者の必要品に重税を課することによってこの国は労働の労賃を更に騰貴せしめた、ということを記憶しなければならない。かかる事実は、オランダにおける利潤率の低いことを十分に説明するであろう。
しからば、必要品騰貴の結果として、蓄積に対する動機がなくなるほど労働が騰貴し従って資本の利潤が極めてわずかしか残らないようになるまでは、生産的に使用され得ないほどの資本額が一国において蓄積されることは有り得ない(註一)。資本の利潤が高い間は、人は蓄積せんとする動機を有つであろう。人が満足されぬ熱望を有つ間は、彼はより多くの貨物に対して需要を有つであろう、そして彼がそれと引換に提供すべき何らかの新しい価値を有っている間は、それは有効需要であろう。もし年々一〇〇、〇〇〇磅ポンドを得ている人に一〇、〇〇〇磅ポンドが与えられるならば、それを金庫に蔵しまわずに、彼は、一〇、〇〇〇磅ポンドだけその支出を増加するか、それを自分自身で生産的に用いるか、または同じ目的のためにそれを他人に貸付けるであろう。そのいずれの場合においても、需要は異る物に向けられるけれども、需要は増加するであろう。もし彼が支出を増加するならば、その有効需要はおそらく、建物、什器、またはこれに類する享楽品に向うであろう。もし彼が一〇、〇〇〇磅ポンドを生産的に用いるならば、その有効需要は、新しい労働者を働かしむべき食物、衣服、及び粗生原料品に向うであろうが、しかしそれも依然として需要である(註二)。
(註一)次の語はセイ氏の原理と全く一致するであろうか? ――『自由にし得る資本が、それに対する用途の範囲に比較して豊富であればあるほど、資本の貸付に対する利子率は下落するであろう。』――第二巻、一〇八頁。もし資本がいかなる範囲にまでも一国によって用いられ得るならば、それに対する用途の範囲に比較してそれが豊富であるとは、どうして言われ得よう?
(註二)アダム・スミスは曰く、『ある特定産業部門の生産物が、その国の需要が必要とする所を超過するならば、剰余は海外に送られ、国内において需要のある何らかの物と交換されなければならない。かかる輸出なくしては、その国の生産的労働の一部分は停止しなければならず、そしてその年々の生産物の価値は減少しなければならない。大英国の土地及び労働は、内国市場の需要が必要とする以上穀物や羊毛や鉄器を一般に生産する。従ってそれらの物の剰余部分は海外に送られ、そして国内において需要のある所の何らかの物と交換されなければならない。この剰余が、それを生産する労働と費用とを償うに足る価値を獲得し得るのは、かかる輸出の手段によってのみである。』人は上記の章句からして、アダム・スミスは、吾々は穀物や羊毛品や鉄器の剰余を生産しなければならぬのであり、そしてそれを生産する資本はそれ以外には用いられ得ないと結論したものと、考えるに至るかもしれない。しかしながら、資本がいかに使用されるかは常に選択の問題であり、従って、長い間に亘っては、ある貨物の剰余は決してあり得ない。けだしもしそれがあるならば、それはその自然価格以下に下落し、そして資本はより有利な職業に移転されるからである。生産された財貨が、その価格によってはその生産費と市場への運送費との全部――通常利潤を含む――を償わない所の職業から、移転せんとする資本の傾向を、スミス博士よりもより十分にかつ見事に説明した論者はない。第一篇、第十五章を見よ。
生産物は常に生産物または勤労によって購買され、貨幣は単に交換が行われる媒介物に過ぎない。ある特定貨物が余りに生産され過ぎて、それに投ぜられた資本を償い得ないようなその供給過剰が市場に起り得よう。しかしすべての貨物に関してはかかることは起り得ない。穀物に対する需要はそれを食うべき口の数によって限定され、靴や上衣に対する需要はそれを着用する人の数によって限定される。しかし社会がまたは社会の一部分が、自ら消費し得または自ら消費せんと欲する程度の穀物量及び帽子や靴の数を有つことは有り得ても、自然または人為によって生産されるあらゆる貨物については同一のことは言い得ない。ある人々はもし葡萄酒を手に入れる資力があるならばそれをより多く消費するであろう。十分の葡萄酒を有っている他の人々は、その什器の分量を増加しまたはその品質を改善せんことを希望するであろう。他の人々は、その土地を飾り、またはその家屋を大きくしようと希望するであろう。これらのことの全部または一部をなしたいとの願望はあらゆる人の胸に植え付けられている。必要とされているのはその能力のみであり、そして生産の増加以外にはこの能力を与え得ない。もし私が自由に処分し得る食物及び必要品を有っているならば、私はまもなく、私に最も有用なまたは最も望ましい物の若干を所有せしめる労働者を手に入れることであろう。
かかる生産物の増加及びこれに伴って惹起される需要が利潤を下落せしめるか否かは、もっぱら労賃の騰貴に依存する。そして労賃の騰貴はある限られた期間を除けば、労働者の食物その他の必要品を生産する難易に依存する。私はある限られた期間を除けばと言うが、それはけだし、労働者の供給は、常に終局的には、彼らを支持する手段に比例するということよりもより十分に樹立された点はないからである。
食物の価格が低い場合の資本の蓄積が利潤の下落を伴い得る唯一の場合があるが、それは一時的であろう。そしてそれは労働の維持のための基金が人口よりも極めてより速かに増加する場合である。――その時には労賃は高く利潤は低いであろう。もしあらゆる人が奢侈品の使用を止め、蓄積のみを心がけるならば、直接的消費物たり得ない多量の必要品が生産されるであろう。数において極めて限定されている貨物についてすら疑いもなく普遍的供給過剰が起り得、従ってかかる貨物の追加量に対する需要も有り得ず、またより以上の資本の使用に対する利潤も有り得ないであろう。もし人々が消費することを止めるとすれば、彼らは生産することを止めるであろう。このことの承認は一般的原理を疑うゆえんではない。例えば英国の如き国においては、国の全資本及び労働を必要品のみの生産に向けようとする志向が起り得ると想像することは困難である。 
(一〇一)商人がその資本を外国貿易や運送業に用いるのは、常に選択の結果であって、止むを得ずなすのではない。すなわち、それは彼らの利潤が、内国商業よりもこの事業の方が幾分多いからである。
アダム・スミスは正当にも曰く、『食物に対する欲望は、あらゆる人間において、人類の胃の狭い受容力によって限定されているが、しかし建物や衣服や馬車や家具の如き便利品及び装飾品に対する欲望は、限度または一定の境界を有たないように思われる。』かくて自然はいかなる時にも農業に有利に用いられ得る資本額を必然的に限定したが、しかしそれは生活の『便利品及び装飾品』を獲得する上に用いられ得る資本額には、何らの制限も置かなかったのである。これらの満足を最も豊富に得ることが当面の目的であり、そして人々が、必要とする貨物やその代用品を国内において製造せずして外国貿易や運送業に従事するのは、それがこの目的をよりよく成就するからである。しかしながら、もし特殊な事情によって、資本を外国貿易や運送業に用いることを阻まれるならば、吾々は、その利益は減少しても、その資本を国内で用いるであろう。そして『建物や衣服や馬車や家具の如き便利品、装飾品』に対する欲望に何らの限度もない間は、それを生産すべき労働者を維持すべき吾々の力を束縛するものを除けば、その獲得に用いらるべき資本には何らの限界も有り得ないのである。
しかしながら、アダム・スミスは、運送業を論じて選択的のものではなく止むを得ないものであるとし、あたかもそれに用いられている資本は、それに用いられない場合には、無能力になるかの如くに、あたかも内国商業における資本は、量を限定されない場合には、流出し得るかの如くに、論じている。彼は曰く、『ある国の資本貯財が、特定国の消費額の供給に及び生産労働の支持にそれがすべて使用し尽されないほどに増加される時は、その剰余部分は当然に運送業に注ぎ込まれ、そして同じ任務を他の国々に対して果はたすに用いられる。』
『約九万六千ホグスヘッドの煙草たばこが、年々英国産業の剰余生産物の一部分で購買される。しかし大英国の需要はおそらく一万四千ホグスヘッド以上を必要としない。従ってもし残りの八万二千ホグスヘッドが、海外に送り出されて国内においてより需要のあるある物と交換され得ないならば、その輸入は直ちに止み、そしてそれと共に、この八万二千ホグスヘッドの煙草を年々購買すべき財貨の製造に現在用いられている大英国のすべての住民の生産的労働は止むであろう。』しかし大英国の生産的労働のこの部分は、国内においてより需要のあるある物を購買すべき何らかの他の種類の財貨の生産に用いられ得ないであろうか? そしてもしそれがなし得ないならば、吾々はその利益は減少するが、この生産労働を、国内において需要がある財貨の製造に、または少くともその何らかの代用品の製造に、用い得ないであろうか? もし吾々が天鵞絨ビロードを欲するならば、吾々は天鵞絨ビロードの製造を企て得ないであろうか、そしてもし吾々がそれをなし得ないならば、吾々は、より多くの毛織布、または吾々に望ましい何らかの他の物を製造し得ないであろうか?
吾々は貨物を製造しそれをもって外国で財貨を購買するが、それは国内で造り得るよりもより多量を取得し得るからである。吾々がこの貿易を奪われるならば、吾々は直ちに再び自らのために製造する。しかしこのアダム・スミスの意見は、この問題に関する彼れのすべての一般学説とは異っている。『もし一外国が一貨物を吾々に、吾々自身が造り得るよりもより低廉に供給し得るならば、吾々がある利益を得るような方法で用いられている吾々の勤労の生産物のある部分をもって、その国からそれを購買するに如しかず。一国の一般的勤労は常に、それを雇傭する資本に比例するから、かかることによっては減少されず、ただ最も有利に使用され得る方法を見出すに委ねられるであろう。』
また曰く、『従って自ら消費し得る以上の食物を支配する得る者は、常に、その剰余または同じことであるがその価格を、喜んで他の種類の欲望充足品と交換せんとしている。限定された欲望を充たした以上の余分は、到底充足され得ずかつ全く無限であるように思われる欲望の娯楽のために与えられる。貧民は食物を得んがために、富者のかかる嗜好を充すべく努力し、しかもそれをより確実に取得せんがために、彼らは互にその仕事の低廉と完全において競うのである。労働者の数は、食物量の増加すなわち土地の改良及び耕作の発展と共に増加する。そして彼らの業務の性質は極度の分業を許すから、彼らが仕上げ得る原料の分量は彼らの数以上の比例で増加する。従って人間の発明によって有用的にかまたは装飾的に建物や衣服や馬車や家具に用い得る所のあらゆる種類の原料に対する需要が起り、土殻中に包蔵される化石や鉱石、貴金属及び宝石に対する需要が起るのである。』
かくてこれらの事柄を承認すれば、需要には限度がなく、――資本が何らかの利潤を生み出している間は、資本の使用には限度がなく――かつ資本がいかに豊富になっても、労賃の騰貴の他には利潤の下落に対する相当の理由はない、ということになり、更に、労賃騰貴の唯一の適当かつ永続的な原因は、増加しつつある労働者数に対して食物及び必要品を支給する困難の逓増であると、附加し得よう。 
(一〇二)アダム・スミスは正当に、資本の利潤率を決定することは極めて困難であると述べた。『利潤は非常に変動しつつあり、ために、一職業においてさえ、また諸職業一般においてはなおいっそう、その平均率を述べることは困難であろう。それが以前に、または遠く隔った時期に、どれほどであったかを、少しでも正確に判断することは、全く不可能でなければならぬ。』しかも、貨幣の使用によって多くの収得が得られる時には、それに対して多くのものが与えられるべきことは明かであるから、彼は曰く、『市場利子率は吾々を導いて利潤率に関するある観念を構成せしめ、そして利子の発達史は、吾々に利潤の発達史を与えるであろう。』もしある長い時期に亘って市場利子率が正確に知られ得るならば、吾々は利潤の発達を測るかなりに正確な標準を得るはずである。
しかしすべての国において誤れる政策観念から、国家は法定率以上を得るすべての人々に荷重なかつ破滅的な罰金を課して、公平自由なる市場率に干渉を加え来った。すべての国において、これらの法律はおそらく潜くぐられているであろうが、しかし記録は、この点に関してほとんど何事も教えず、利子の市場率よりもはむしろその法定率を指示している。現時の戦争の間に、大蔵省証券及び海軍省証券割引率が極めて高く、ためにしばしばその購買者に、その貨幣に対し七、八%またはそれ以上の利率を与えた。政府は公債を六%以上の利子で募り、そして個人はしばしば間接に、貨幣の利子として一〇%以上のものを支払わざるを得なかったが、しかも同じ期間中に法定率は普あまねく五%であったのである。かくて固定的な法定率が市場率とかくも甚しく乖離し得ることを吾々が見出す以上、正確な知識を得るためには、固定的な法定率にはほとんど頼り得ぬものである。アダム・スミスはヘンリ八世の第三七年からジェイムズ一世の第二一年に至るまで、法定利率は引続き一〇%であったと吾々に告げている。王政復古後まもなくそれは六%に、そしてアンの第一二年の法律によってそれは五%に引下げられた。彼は、法定率は市場率に追従しそれに先行しはしなかったと考えている。アメリカ戦争の以前には政府は三%で起債し、そしてこの王国の首府その他多くの地方の信用ある人々は、三・五、四、また四・五%で借入れたのである。 
(一〇三)利子率は、窮極的にかつ永続的には利潤率によって支配されるとはいえ、しかも他の諸原因による一時的変動を蒙る。貨幣の分量と価値の変動ごとに貨物の価値は当然変動する。それはまた、吾々の既に証明した如くに、たとえ生産の難易の増減が起らなくとも、供給の需要に対する比例の変動によって変動する。財貨の市場価格が、供給の増加、需要の減少、または貨幣価値の騰貴によって下落する時には、製造業者は、完成貨物を極めて下落せる価格で売ることを喜ばないから、当然その異常な分量を蓄積する。彼れの通常の支払をなすためには、在来はその財貨の売却によってこの支払をなして来たのであるが、今や彼は信用借をなさんと努め、そしてしばしば騰貴せる利子率を与えざるを得なくなる。しかしこれは一時的に過ぎない。けだしこの製造業者の予期に十分な根拠があり、そしてその貨物の市場価格が騰貴するか、または彼が永続的に減少した需要しかないことを見出してもはや事物の成行に抵抗しなくなるからである。価格は下落しそして貨幣と利子は再びその真実価格を囘復するであろう。もし新しい鉱山の発見、銀行の濫用、その他の何らかの原因によって貨幣の分量が大いに増加するならば、その窮極の結果は、貨幣の増加量に比例して貨物の価格を騰貴せしめることである。しかしその間におそらく常に中間期があり、その間利子率にある影響が生み出されるであろう。
公債の価格は、利子率を判定すべき鞏固きょうこな標準ではない。戦時においては、株式市場は政府の間断なき公債を極めて多く負担するために、公債の価格は、新たな起債が行われるまでにその正当な水準に落着く暇がなく、またはそれは政治的事件の予想によって影響を蒙る。これに反して、平時においては、減債基金の作用、特定階級の人々がその資金を今まで慣れて来ており、安全と思われかつそこではその利子が最も規則的に支払われる所の職業以外のものに向け変えることについて感ずる嫌忌心が、公債の価格を引上げ、従ってかかる有価証券に対する利子率を一般市場率以下に引下げる。政府が異る有価証券に極めて異る利率を支払っていることも注意すべきである。五分利公債での一〇〇磅ポンドの資本が九五磅ポンドで売れている時に、一〇〇磅ポンドの大蔵省証券は時に一〇〇磅ポンド五シリングで売れるであろうが、この大蔵省証券に対しては、年々四磅ポンド一一シリング三ペンス以上の利子は支払われないのである。かくてこれらの有価証券の一方は購買者に上記の価格で五・四分の一%以上の利子を支払い、他方は四・四分の一%をほとんど越えない利子を支払うのみである。一定量のかかる大蔵省証券を銀行業者は安全なかつ売口のよい投資物として要求する。もしそれがこの需要を遥かに越えて増発されるならば、それはおそらく五分利公債よりも常にそれに比例してより大なる価格で売れるであろう。けだし、そのいずれも負債元金は、額面価格、すなわち一〇〇磅ポンドの公債に対する一〇〇磅ポンドの貨幣以外のものでは、決して償還されないからである。市場利率は四%に下落するかもしれない。その時には政府は、もし五分利公債の所持者が四%または五%以下のある低い利率を得ることに同意しないならば、彼に額面価格で償還するであろう。市場利率が一年三%以下に下落するに至るまでは、彼らは、三分利公債の所持者にかくの如くして償還することによって何らの利益をも得ないであろう。国債の利子を支払うために多額の貨幣が一年に四囘数日間流通界から引去られる。かかる貨幣需要は単に一時的に過ぎないから、物価に影響することは稀である。それは一般に高い利子率を支払うことによって避けられるのである(註)。
(註)セイ氏は曰く『すべての種類の公債は、資本または資本のある部分を、これを消費に向けるために生産的用途から引き去るという不便を伴う。そしてそれが、その政府が大なる信頼の念を起さしめない国において行われる時には、それは資本の利子を騰貴せしめるという新たな不便を有つことになる。七%または八%の利子を支払うのを辞さぬ借手が見出され得る時に、誰が年五%で農業や製造業や商業に貸付ける気になるであろう? 資本の利潤と呼ばれている種類の所得は、その場合、消費者の負担において騰貴するであろう。消費は生産物の価格の騰貴によって低減されるであろう。そして他の生産的勤労の需要は減少し、その受ける支払は減少するであろう。資本家達を除く全国民が、かかる事態により害を受けるであろう。』『信用の少い借手が七%または八%を与えようとする時に、誰が年五%で農業者や製造業者や商人に貸付ける気になるであろう?』という問に対しては、私は、あらゆる慎重なかつ合理的な人はその気になるであろう、と答える。貸手が異常な危険を冒す所で利子率が七%または八%であるからということは、かかる危険から確保されている場合にもそれが等しく高くなければならぬことの理由になろうか? セイ氏は利潤率は利子率に依存することを認めているが、しかしこのことから利子率が利潤率に依存するということにはならない。一方は原因であり他方は結果である。そしていかなる事情も両者をしてその位置を変えしめ得ないものである。 
第二十二章 輸出奨励金及び輸入禁止

 

(一〇四)穀物の輸出奨励金は外国消費者にとりその価格を低める傾向を有っているが、しかしそれは内国市場におけるその価格に対しては何らの永続的な影響も有たないものである。
資本の通常かつ一般的な利潤を与えるためには、穀価が英国において一クヲタアにつき四磅ポンドであるべきであると仮定すれば、それは、一クヲタアにつき三磅ポンド一五シリングで売られている外国には輸出され得ないであろう。しかしもしも一クヲタアにつき一〇シリングの奨励金が輸出に対し与えられるならば、それは外国市場において三磅ポンド一〇シリングで売られることができ、従って、穀物栽培者は、それを外国市場で三磅ポンド一〇シリングで売ろうとまたは内国市場において四磅ポンドで売ろうと、同一の利潤を得るであろう。
かくて英国穀物の価格を外国でその国の穀物生産費以下に低めるべき奨励金は、当然英国穀物に対する需要を拡張し、そして自国穀物に対する需要を減少せしめる。英国穀物に対するこの需要拡張は、一時内国市場においてその価格を高め、かつその期間中またこの奨励金が齎すべき傾向あるほどにそれが外国市場において下落することを妨げざるを得ない。しかし英国における穀物の市場価格にかくの如く作用する原因は、その自然価格またはその真実生産費には何らの影響をも及ぼさないであろう。穀物の栽培には、より多くの労働もまた、より多くの資本も必要とされず、従ってもし農業者の資本の利潤が以前には単に他の事業家の資本の利潤と等しいに過ぎなかったならば、それは価格の騰貴の後には、著しくそれ以上になるであろう。農業者の資本の利潤を騰貴せしめることにより、奨励金は農業に対する奨励として作用し、そして資本は、外国市場のための膨脹せる需要が供給されてしまうまでは、土地に用いられるために製造業から引き去られるであろうが、その時には穀価は内国市場において再びその自然価格、必要価格にまで下落し、利潤は再びその通常かつ慣習的な水準に下落するであろう。外国市場に影響を及ぼすこの穀物の供給増加は、またその輸出先の国の穀価を下落せしめ、そしてそれによって輸出業者の利潤を、彼が辛うじて取引をなし得る最低率に制限するであろう。
しからば、穀物の輸出奨励金の窮極的結果は、内国市場における価格を騰落せしめることではなくて、外国消費者にとっての穀価を、――もし穀物の価格が以前に内国市場よりも外国市場においてより低くなかった場合にはこの奨励金の金額だけ――そしてもし内国市場の価格が外国市場の価格以上であった場合にはそれよりもより少い程度に、――下落せしめることである。
エディンバラ評論の第五巻において穀物の輸出奨励金の問題を論じた一論者は、その外国及び内国の需要に対する影響を極めて明瞭に指摘している。彼はまた、それは輸出国における農業に刺戟を与えずにはおかないということを、正当に述べている。しかし彼はスミス博士及び思うに他の大抵の論者をこの問題に関し誤らせた共通の誤謬を鵜呑みにしているように思われる。彼は、穀物の価格は窮極的に労賃を左右するから、従ってそれはすべての他の貨物の価格を左右するであろうと想像している。彼は曰く、奨励金は、『農業の利潤を引上げることによって、耕作に対する刺戟として作用するであろう。国内の消費者達に対する穀価を騰貴せしめることによって、それはその間彼らの生活の必要品の購買力を減少し、かくて彼らの真実の富を削減するであろう。しかしながら、この最後の結果が一時的でなければならぬことは明かである。すなわち労働に従事する消費者の労賃は以前には競争によって調整されていたが、同じ原則は再び、労働の貨幣価格を、及びそれを通じて他の貨物のそれを、穀物の貨幣価格にまで騰貴せしめることによって、労賃を同一の率に調整するであろう。従って輸出奨励金は窮極的には内国市場における穀物の貨幣価格を騰貴せしめるであろう。しかしながら、それは直接的にではなく、外国市場における需要の拡張と、その結果たる内国における真実価格の騰貴という媒介を通じてである。そしてこの貨幣価格の騰貴は、それがひとたび他の貨物に伝播された時には、もちろん固定的となるであろう。』
しかしながら、もし私が、貨物の価格を騰貴せしめるものは労働の貨幣労賃ではなく、かかる騰貴は常に利潤に影響を及ぼすものである、ということを説明するに成功したとすれば、貨物の価格は奨励金の結果として騰貴するものではない、ということになるであろう。
しかし、海外よりの需要増加によって生じた穀価の一時的騰貴は、労働の貨幣価格には何らの影響をも及ぼさないであろう。穀物の騰貴は、以前にはもっぱら内国市場に向けられていた供給に対する競争によって齎される。利潤の騰貴により附加的資本は農業に用いられ、増加せる供給が得られることになる。
しかしそれが得られるまでは、消費を供給に比例せしめるために価格騰貴が絶対的に必要であるが、この騰貴は労賃の騰貴により相殺されるであろう。穀物の騰貴はその稀少の結果であり、そして国内購買者の需要が減少される方法である。もし労賃が騰貴するならば、競争は増加し、そして穀価のより以上の騰貴が必要となるであろう。奨励金の結果についてのこの記述において、穀物の市場価格が窮極的に支配される所のその他の自然価格を騰貴せしむべきものは何も起らないと仮定して来た。けだし一定の生産物を確保するためには土地である附加的労働が必要とされるとは仮定されなかったからであり、そしてこれのみがその自然価格を騰貴せしめ得るのである。もし毛織布の自然価格が一ヤアル二〇シリングであるならば、外国の需要の著しい増加は、その価格を二五シリングまたはそれ以上騰貴せしめるかもしれないが、しかしその時に毛織物製造業者の得る利潤は、資本をその方向に惹き附けずにはおかぬであろう、そして需要は二倍、三倍、あるいは四倍となっても、結局供給は得られ、毛織布は二〇シリングというその自然価格に下落するであろう。かくて、穀物の供給にあっても、年々吾々が二〇万、三〇万または八〇万クヲタアを輸出しても、それは窮極的に異れる労働量が生産に必要とならざる限り決して変化しない所のその自然価格において、生産されるであろう。 
(一〇五)おそらく、アダム・スミスの正当に著名な著作のいかなる部分においても、奨励金に関する章におけるほどその結論が反対を容れ得るものはない。第一に彼は穀物をもって輸出奨励金によってその生産の増加され得ない貨物であるとしている。彼は常に、それは実際に生産された分量にのみ影響を及ぼし、より以上の生産に対しては何らの刺戟でもないと想像している。彼は曰く、『豊作の年には、異常な輸出を惹起すことによって、それは必然的に内国市場における穀価を、当然下落すべき点以上に保っておく。不作の年には、奨励金はしばしば停止されるとはいえ、しかも豊作の年にそれが惹起す大なる輸出のために、しばしばある年の豊作が他の年の不作を救済するのを多かれ少かれ妨げなければならぬ。従って不作の年にも豊作の年にも、奨励金は穀物の貨幣価格を国内市場で奨励金がなければそうであったであろう点よりもいくらか高く引上げるという、傾向を有っている。』(註)
(註)他の場所において彼は曰く、『奨励金によっていかなる外国市場の拡張が起り得ようとも、それは、あらゆる特定の年において、全然内国市場を犠牲にして行われるものでなければならぬ。けだし奨励金によって輸出されそして奨励金なくしては輸出されなかった穀物の全部は、その貨物の消費を増加しその価格を下落せしめるために内国市場に留まったであろうからである。穀物奨励金並びにあらゆる他の輸出奨励金は、国民に二つの異れる租税を課することを注意すべきである。第一に奨励金を支払うために国民が納付せざるを得ぬ租税であり、そして第二に内国市場におけるこの貨物の価格騰貴によって生じ、かつ国民全体が穀物の購買者である故に、この特定貨物において国民の全体が支払わなければならぬ所の租税である。従ってこの特定貨物にあっては、この第二の租税がこの二つの中うち遥かに最も重いものである。』『従って第一の租税の支払のために彼らが納付する五シリングごとに、彼らは第二の租税の支払のために六磅ポンド四シリングを納付しなければならぬ。』『従って奨励金によって起る穀物の異常な輸出は啻にあらゆる特定の年において、それがちょうど外国の市場と消費を拡張するだけ、内国のそれを減少するのみならず、更に国の人口及び産業を制限することによって、その終局的傾向は内国市場の漸次的拡張を阻止し制限し、ひいては結局、穀物の全市場及び消費を増大するよりはむしろ減少せしめることである。』
アダム・スミスは、彼れの議論の正否が、『穀物の貨幣価格の』騰貴が、『その貨物を農業者にとりより有利ならしめることによって、必ずしもその生産を刺戟するものではない』かどうかという事実に、全然依存することを、十分に知っているように思われる。
彼は曰く、『もし奨励金の結果が、穀物の真実価格を騰貴せしめ、または農業者をして、その等量をもって、より多数の労働者を、それが豊富なると適度なるとまたは不十分なるとを問わず、他の労働者がその近隣で普通維持されていると同様に、維持し得せしめることであるならば、このことは起り得よう、と私は答える。』
もし労働者により穀物を除いては何物も消費されず、またもし彼が受取る分前がその生存が必要とする最低限であるならば、多少の根拠があるであろう――しかし、労働の貨幣労賃は時に全然騰貴せず、また穀物の貨幣価格の騰貴に比例しては決して騰貴するものではない、けだし穀物は、労働者の消費物の一重要部分であるとはいえ、しかし単にその一部分に過ぎないからである。もし彼れの労賃の半ばが穀物に費され、他の半ばが石鹸、蝋燭、薪炭、茶、砂糖、衣服等の何らの騰貴も起らないと仮定されている貨物に費されるならば、小麦が一ブッシェルにつき一六シリングの時に彼がその一ブッシェルの支払を受けるのは、価格が一ブッシェルにつき八シリングの時に二ブッシェルの支払を受けるのと全く同様であり、または貨幣で二四シリングの支払を受けるのは、以前に一六シリングの支払を受けるのと同様であることは、明かである。彼れの労賃は、たとえ穀物が一〇〇%だけ騰貴しても、単に五〇%だけ騰貴するに過ぎないであろう。従ってもし他の職業に対する利潤が引続き以前と同一であるならば、より多くの資本を土地に転向せしめる十分の動機があるであろう。しかしかかる労賃の騰貴はまた、製造業者を促してその資本を製造業から引去って土地に用いるに至らしめるであろう。けだし農業者はその貨物の価格をば一〇〇%だけ増加し、そしてその支払う労賃をば五〇%だけ増加せしめたに過ぎないのに、製造業者もまた労賃を五〇%だけ引上げざるを得ず、他方彼は生産費の増加に対し、その製造貨物の騰貴の形で何らの補償も受けず、従って資本は製造業から農業へ流入し、ついに供給が再び、穀価を一ブッシェルにつき八シリングに、労賃を一週につき一六シリングに下落せしめるであろうが、その時には製造業者は農業者と同一の利潤を得、そして資本の流れはいずれの方向へも向わなくなるであろう。これが事実上、穀物の耕作が常に拡張せられかつ市場の増加せる欲望が供給せられる仕方である。労働の維持のための基金は増加し、労賃は騰貴する。労働者の安楽な境遇は彼を促して結婚せしめる、――人口は増加し、穀物に対する需要はその価格を他の物に比して騰貴せしめる、――より多くの資本が農業に有利に用いられかつ引続きそれに流入し、ついに供給が需要に等しくなり、その時に価格は再び下落し、農業及び製造業の利潤は再び等しくなるのである。
しかし穀価の騰貴後に、労賃が静止的であったか、適度に増進したか、または著しく増進したかは、この問題にとり何ら重要ではない、けだし労賃は農業者と同様に製造業者によっても支払われ、従ってこの点において両者は穀価の騰貴によって等しい影響を受けるに違いないからである。しかし製造業者はその貨物を以前と同一の価格で売るのに、農業者はその貨物を騰貴せる価格で売る故に、彼らはその利潤においては不平等に影響を蒙る。しかしながら、常に資本を一つの用途から他の用途に移動せしめる誘因たるものは、利潤の不平等である。従って穀物の生産は増加し、貨物の製造は減少するであろう。諸製造品は騰貴しないであろうが、けだしその一供給が輸出穀物と引換えに得られるためにその製造が減少するからである。
奨励金は、もし穀価を騰貴せしめるならば、それを他の貨物の価格と比較して騰貴せしめるか、あるいはしからざるかである。もしこの肯定が真実であるならば、穀価が豊富な供給によって再び下落するまでは、農業者のより大なる利潤及び資本の移動に対する誘引を否定することは不可能である。もしそれが他の貨物に比較してそれを騰貴せしめないならば、租税支払という不便の以上に、内国消費者に対する害がどこにあるか? もしも製造業者がその穀物により大なる価格を支払うならば、彼は、彼れの穀物がそれで窮極的に購買される所の自分の貨物をそれで売るそのより大なる価格によって、償われるであろう。 
(一〇六)アダム・スミスの誤謬は、まさに、エディンバラ評論における論者のそれと同一の源泉から発している。けだしこの両者は、『穀物の貨幣価格がすべての他の国産貨物のそれを左右する』と考えているからである(註)。アダム・スミスは曰く、『それは労働の貨幣価格を左右する、そしてこの貨幣価格は常に、労働者をして、彼とその家族を、豊富にか適度にかまたはまたは乏しく、――社会の進歩的、停止的、または退歩的な諸事情のために彼れの雇傭者は彼をかように維持せざるを得ないのであるが、――維持するに足る分量の穀物を購買し得せしめるが如きものでなければならない。土地の粗生生産物の他のすべての部分の貨幣価格を左右することによって、それはほとんどすべての製造品の原料の貨幣価格を左右する。労働の貨幣価格を左右することによって、それは製造業技術と労働との貨幣価格を左右する。そして両者を左右することによって、それは完成製造品の貨幣価格を左右する。労働と、土地か労働かの生産物たるあらゆる物との貨幣価格は、必然的に、穀物の貨幣価格に比例して騰落しなければならない。』
(註)同一の意見をセイ氏は主張している。第二巻、三三五頁。
このアダム・スミスの意見を、私は前に反駁せんと企てた。貨物の価格の騰貴を穀価の騰貴の必然的結果と考えることにおいて、彼はあたかも、この増加せる費用を支払い得べき他の基金は存在しないが如くに考えている。利潤の減少は、貨物の価格を騰貴せしめることなくして、この基金を形造るのであるが、彼はこの利潤の考察を全然しなかった。もしこのスミス博士の意見が十分の根拠を有っているならば、利潤は、いかなる資本蓄積が起ろうとも決して真実には下落し得ないであろう。もし労賃が騰貴した時に、農業者がその穀価を引上げ得、かつ毛織物製造業者、帽子製造業者、靴製造業者、その他あらゆる製造業者もまた労賃の騰貴に比例してその財貨の価格を引上げ得るならば、貨幣で測ればすべて騰貴していようけれども、それは相互に相対的に引続き同一の価値を保有するであろう。これらの職業の各々は、以前の同一量の他のものの財貨を支配し得るであろうが、富を構成するものは財貨であり貨幣ではないのであるから、このことが彼らにとり重要なものたり得る唯一の事情である。そして粗生生産物及び財貨の価格の全騰貴は、その財産が金及び銀より成るか、またはその年々の所得が、地金の形においてであろうと貨幣の形においてであろうとかかる金属の確定量で支払われる人々を除く、他のいかなる人々にも有害ではないであろう。貨幣の使用が全然廃止され、すべての取引が物々交換によって行われると仮定しよう。かかる事情の下においては、穀物は他の物との交換価値において騰貴し得ようか? もし騰貴し得るならば、穀物の価値がすべての他の貨物の価値を左右するというのは真実でない。けだしそうあるためには、それらの物に対するその相対価値は変動してはならないからである。もし騰貴し得ないならば、穀物が、肥沃なまたは貧弱な土地において、多量のまたは少量の労働をもって、機械の援たすけをもってまたはこれなくして得られようとも、それは常に等量の他のすべての貨物と交換されるということが、主張されなければならない。
しかしながら、たとえアダム・スミスの一般的学説は私が今引用したばかりのものと一致するとはいえ、しかも彼れの著作の一箇所においては、彼は価値の性質につき正確な説明を与えているように思われることを、私は述べざるを得ない。彼は曰く、『金及び銀の価値と他のあらゆる種類の財貨のそれとの間の比例は、すべての場合において、一定量の金及び銀を市場に齎すに必要な労価量と、一定量の他のあらゆる種類の財貨をそこに齎すに必要なそれとの間の比例に依存する。』ここでは彼は、もし一種の財貨を齎すに必要な労価量にある増加が起ったのに、他方他の種類をそこへ齎すにはかかる増加が何ら起らないとすれば、第一の種類が相対価値において騰貴することを、十分に認めているではないか? もし毛織布か金かを市場に齎す以前と同一量の労働しか必要とされないならば、それらは相対価値において変動しないであろうが、しかしもし穀物及び靴を市場に齎すに必要な労働が増加するならば、穀物及び靴は、毛織布及び金で造られた貨幣に対して、その価値が騰貴しないであろうか? 
(一〇七)アダム・スミスは、更に、奨励金の結果は、貨幣価値の部分的下落を惹起すにあると考えている。彼は曰く、『鉱山の肥沃度の結果であり、かつ商業世界の大部分を通じて平等にまたはほとんど平等に作用しているところの銀価の下落は、ある特定国にとっては、ほとんど問題にならない事柄である。その結果たるすべての貨幣価格の騰貴は、それを受取るところの者を真実により富ましめるものではないが、また彼らを真実により貧しからしめるものでもない。一式の器物が真実により低廉になり、そしてあらゆる他の物は、正確に以前と同一の真実価値を有っているのである。』この観察は最も正しい。
『しかし、一の特定国の特殊の位置かまたはその政治組織かの結果であるために、単にその国にのみ起った所の銀価の下落は、極めて重大な事柄であり、それは何人かを真実により富ましめる傾向を有つ所か、あらゆる者を真実により貧しからしめる傾向を有っている。この場合その国に特有なすべての貨物の貨幣価格の騰貴は、その国内で営まれるあらゆる種類の産業を多かれ少かれ阻害する傾向を有ち、また外国諸国民をして、ほとんどすべての財貨をそれ自身の労働者がなす余裕を有ち得るよりもより少量の銀に対して提供することによって、それを啻に外国市場においてのみならず内国市場においてすら下値に売り得せしめる傾向を有っている。』
私は他の場所において、農業生産物と製造貨物とに影響を及ぼすべき貨幣価値の部分的下落は、おそらく永久的たり得ないことを、示さんと企てた。貨幣が部分的に下落すると言うのは、この意味において、すべての貨幣が高い価格にあると言うことである。しかし金及び銀が自由に最も低廉な市場において購買をなす間は、それは他国のより低廉な財貨を得るために輸出され、そしてその分量の減少は国内におけるその価値を増加せしめるであろう。貨物はその通常の水準に復帰し外国市場に適するものは以前の如くに輸出されるであろう。
従って奨励金は思うにこの理由に基いては反対せられ得ないのである。
しからばもし奨励金が他のすべての物に比して穀物の価値を騰貴せしめないならば、奨励金を支払うという不便以外には他のいかなる不便もそれに随伴しないであろうが、この不便は私は隠蔽しようとも過少評価しようとも欲しないのである。 
(一〇八)スミス博士は曰く、『穀物の輸入に対する高い関税とその輸出にに対する奨励金を設けることによって、田舎紳士は製造業の行為を模倣したように見えた。』同一の手段によって、両者はその財貨の価値を引上げようと努めた。『彼らはおそらく、自然が穀物とほとんどすべての他の財貨との間に設けた大きなかつ本質的な差異に留意しなかったであろう。上記の手段のいずれかによって、我が製造業がそれなくしてその財貨に対して取得し得たよりもややより高い価格で売り得た時には、啻にそれらの財貨の名目価格のみならずその真実価格も引上げられる。啻にそれらの製造業者の利潤、富及び収入が名目的に増加するのみならず真実にも増加する。――それらの製造業者は真実に奨励を受けるのである。しかし同様な施設によって、穀物の名目価格すなわち貨幣価格が引上げられる時には、その真実価格は引上げられず、我が農業者または田舎紳士の真実の富は増加せられず、穀物の栽培は奨励を受けない。事物の自然は穀物に、単にその貨幣価格を変動せしめることによっては変動せしめられ得ない一つの真実価値を刻印した。世界全体を通じて、その価値は、それが維持し得る労働量に等しいのである。』
私は既に、穀物の市場価格は、奨励金の結果需要が増加した場合には、必要な附加的供給が得られるまではその自然価格を超過し、またその時に至ればそれは再びその自然価格に下落するということを、説明せんと試みた。しかし穀物の自然価格は貨物の自然価格の如くに固定してはいない。けだし穀物に対してある大きな需要の増加があれば、一定量を生産するにより多くの労働が必要とされる劣等な品質の土地が耕作されなければならず、従って穀物の自然価格は騰貴するからである。従って穀物の輸出に対する継続的奨励金によって穀価の永久的騰貴の傾向が造られるであろうが、それは、私が他の場所で説明した如くに(註)、必ず地代を騰貴せしめるものである。かくて田舎紳士は、穀物輸入禁止及びその輸出に対する奨励金に、啻に一時的のみならずまた永久的の利益を有っているが、しかし製造業者は、貨物の輸入に対する高関税及びその輸出に対する奨励金を設けることに、何らの永久的な利益も有たない。彼らの利益は全然一時的である。
(註)地代についての章を参照。
製造品の輸出に対する奨励金は疑いもなく、スミス博士の主張する如くに、製造品の市場価格を騰貴せしめるであろうが、しかしそれはその自然価格を騰貴せしめはせぬであろう。二〇〇人の労働は、一〇〇人が以前に生産し得たこれらの財貨の二倍を生産するであろう。従って、必要な資本量が必要な製造品量を供給するに用いられる時は、それは再びその自然価格にまで下落し、そして高い市場価格から生ずるすべての利益はなくなるであろう。かくて製造業者が高い利潤を得るのは、単に貨物の市場価格の騰貴後附加的供給が得られるまでの中間期間に限る。けだし価格が低落するや否やその利潤は一般水準にまで下落するであろうからである。
従って私は、田舎紳士は穀物の輸入を禁止することに、製造業者が製造財貨の輸入を禁止することに有っているほどの大きな利益を有つものではない、というスミスの意見には同意せずして、彼らは遥かに優れた利益を有つものであると主張する。けだし製造業者の利益は単に一時的に過ぎないが、彼らの利益は永久的であるからである。スミス博士は、自然は穀物とその他の財貨との間に一つの大きなかつ本質的な差異を設けたと述べているが、しかしその事情からの正当な推理は、彼がそれから引出しているものの正反対である。けだし地代が創造されかつ田舎紳士が穀物の自然価格の騰貴に利益を有つのは、この差違によるからである。スミス博士は、製造業者の利益を田舎紳士の利益と比較せずにそれをその地主の利益とは極めて異るところの農業者の利益と比較すべきであった。製造業者はその貨物の自然価格の騰貴には何らの利益をも有たず、農業者もまた穀物またはその他の粗生生産物の自然価格の騰貴に何らの利益も有たないが、もっとも両階級はその生産物の市場価格が自然価格を超過している間は利益を受けるのである。これに反して地主は穀物の自然価格の騰貴に最も決定的な利益を有っている。けだし地代の騰貴は粗生生産物の生産の困難の不可避的結果であり、それなくしてはその自然価格は騰貴し得ないからである。さて穀物の輸出に対する奨励金と輸入の禁止とは需要を増加しそして吾々をしてより貧弱な土地の耕作をせしめるから、それは必然的に生産の困難の増加を惹起すのである。
製造品または穀物の輸入に対する高い関税またはその輸出に対する奨励金の唯一の影響は、資本の一部分を、それを求めるのが当然ではない用途に移転せしめることである。それは社会の一般資金の有害な分配を惹起す、――それは製造業者をして比較的により不利な職業を開始せしめまたは継続せしめる。損失額は一般資本のより不利な分配によって埋合うめあわされているから、それが内国から奪い去るすべてのものを外国に与えない故にそれは最悪の課税である。かくて、もし穀物が英国では四磅ポンドでありフランスでは三磅ポンド一五シリングであるならば、一〇シリングの奨励金は、結局、それをフランスにおいて三磅ポンド一〇シリングに下落せしめ、英国において四磅ポンドなる同一価格に維持するであろう。輸出される毎クヲタアに対して英国は一〇シリング租税を支払う。フランスに輸入される毎クヲタアに対してフランスは単に五シリングを利得するに過ぎず、従って一クヲタアにつき五シリングの価値が、おそらく穀物ではなく何らかの他の必要品または享楽品の生産を減少せしめる如き資金の分配によって、絶対的に世界から失われるのである。 
(一〇九)ビウキャナン氏は奨励金に関するスミス博士の議論の誤謬を認めたように思われ、私が引用した最後の章句について極めて思慮深く次の如く述べている。『自然は穀物に単にその貨幣価格を変動せしめることによっては変動せしめられ得ない真実の価値を刻印したと主張する場合、スミス博士はその使用価値をその交換価値と混同している。一ブッシェルの小麦は、豊富な時よりも稀少な時の方がより多数の奢侈品や便宜品と交換されるであろう。従って処分すべき食物の剰余を、穀物がより多量にある時よりも、より大なる価値の他の享楽品と交換するであろう。従ってもし奨励金は穀物の強制的輸出を惹起すとしても、それはまた真実の価格騰貴を惹起すことはないであろうと論ずるのは、無益である。』奨励金の問題のこの部分についてのビウキャナン氏の議論の全体は完全に明瞭でかつ十分であるように、私には思われる。
しかしながら、ビウキャナン氏は思うに、スミス博士または『エディンバラ評論』の論者と同じく、労働の価格の騰貴が製造貨物に対して及ぼす影響について、正しい意見を有っていない。私が他の場所で述べた所の彼れの特殊な見解からして、彼は、労働の価格は穀物と何らの関聯も有たず、従って穀物の真実価値は労働の価格に影響せずに騰貴し得るしまた騰貴するであろう、と考えている。しかしもし労働が影響されるならば、彼は、アダム・スミス及び『エディンバラ評論』の論者とともに、製造貨物の価格もまた騰貴すると主張するであろう。そしてしかる時には、いかにして彼がかかる穀物の騰貴を貨幣価値の下落から区別し、またはいかにして彼がスミス博士の結論以外の何らかの他の結論に達し得るのであるかが、私には判らない。『諸国民の富』の第一巻二七六頁への一つの註の中においてビウキャナン氏は曰く、『しかし穀価は土地の粗生生産物のすべての他の部分の貨幣価格を左右しない。それは金属類の価格も石炭、木材、石材等の如き種々なる有用物の価格も左右しない。そしてそれは労働の価格を左右しないから、それは諸製造品の価格を左右しない。従って奨励金は、それが穀価を騰貴せしめる限りにおいて、疑いもなく農業者に対する真実の利益である。従ってこの根拠に立ってはその政策は論議さるべきではない。穀価を騰貴せしめることによる農業に対するその奨励は、認めなければならない。かくて問題は、農業はかくの如くして奨励さるべきであるか否か? ということになる。』――かくてそれはビウキャナン氏によれば、労働の価格を騰貴せしめないから、農業者に対する真実の利益である。しかしもしそれが騰貴せしめるならば、それはすべての物の価格をそれに比例して騰貴せしめるであろうが、しかる時には、それは農業に対して何らの特定の奨励を与えないであろう。
しかしながら、何らかの貨物の輸出奨励金の傾向は、少しばかり貨幣価格を下落せしめるにあることを、認めなければならない。輸出を促進するものは何でも、一国に貨幣を蓄積する傾向があり、これに反して輸出を阻害するものは何でも、それを減少する傾向がある。課税の一般的影響は、課税貨物の価格を騰貴せしめることにより、輸出を減少し従って貨幣の流入を阻止する傾向があり、そして同一の原理によって奨励金は貨幣の流入を奨励するのである。このことは課税に対する一般的観察についてより十分に説明されてある。
重商主義の有害な影響はスミス博士によって十分に暴露された。その主義の全目的は、貨物の価格を、外国の競争を禁止することによって内国市場において騰貴せしめることであった。しかしこの主義は、社会の他のいかなる部分よりも農業階級により有害であるわけではなかった。資本がしからざれば流入しなかった通路に強いて赴かしめることによって、それは生産される貨物の全量を減少せしめた、価格は永久的により高くなったけれども、それは稀少によってではなく、生産の困難によって支持されたのである。従って、かかる貨物の売手はそれをより高い価格で売ったけれども、彼らは、資本の必要量がその生産に用いられた後は、それをより高い利潤で売ったのではないのである(註)。
(註)セイ氏は、国内の製造業者の利益は一時的のもの以上であると想像している。『一定の外国財貨の輸入を絶対的に禁止する所の政府は、かかる貨物を国内において生産する者の利益になるように、これらを消費する者を犠牲として、独占を樹立するのである。換言すれば、それを生産する所の国内の者は、それを売却する排他的特権を有っているから、その価格を自然価格以上に引上げ得よう。そして国内の消費者は、それを他の場所で取得し得ないから、それをより高い価格で購買せざるを得ない。』第一巻、二〇一頁。
しかし、彼らの同胞市民のあらゆる者がこの事業に入るのが自由である時に、いかに彼らはその財貨の市場価格を永久的にその自然価格以上に支持し得るか? 彼らは外国の競争に対しては保証されているが、内国の競争に対しては保証されていない。かかる独占――もしそれがこの名で呼ばれ得るならば、――からその国に生ずる真実の害悪は、かかる財貨の市場価格を騰貴せしめることにはなく、その真実価格、自然価格を騰貴せしめることにある。生産費を増加することによって、国の労働の一部分はより不生産的に用いられるのである。
製造業者自身も消費者としてかかる貨幣に対して附加的価格を支払わねばならなかった。従って『両者(組合法及び外国貨物の輸入に対する高き関税)によって惹起される価格の昇騰しょうとうはどこでも結局、国の地主、農業者によって支払われる』というのは正しくあり得ない。
外国穀物の輸入に対して同様の高い関税を課するために、今日紳士によってアダム・スミスの権威が引用されているから、この記述をなすのがいっそう必要となる。種々なる製造貨物の生産費従ってまた価格が、消費者に対し、商法上誤謬によって高められているから、我国は、正義を口実として、新たな誅求ちゅうきゅうに黙従もくじゅうすることを求められ来ったのである。吾々はすべて吾々の亜麻布やモスリンや綿布に対して附加的価格を支払っているから、吾々は吾々の穀物に対しても附加的価格を支払うのが正当であると考えられている。世界の労働の一般的分配において、吾々は生産物の最大量が、その労働の吾々の分前により、製造貨物において、取得されることを妨げ来ったから、吾々は更に、粗生生産物の供給における一般的労働の生産力を減少せしめることによって、自らを所罰しょばつすべきであろう、と。誤れる政策が吾々を誘って採用せしめた誤謬を認め、そして直ちに普遍的貿易の健全な原理への徐々たる復帰を開始するのが、遥かにより賢明であろう(註)。
(註)『種々なる勤労生産物のすべて及びあらゆる社会の欲望に適する商品を豊富に有つ英国の如き国を、稀少の可能性から保証するには、貿易の自由が要求されるのみである。地球上の諸国民は、そのいずれが飢餓に服すべきかを決定するために骰子さいころを投ずるようには命ぜられてはいない。世界には常に豊富な食物がある。不断の豊饒を享受するためには、吾々はただ、吾々の禁止や制限を撤廃し、そして神の慈悲深き智慧に逆うことを止めさえすればよい。』大英百科全書補遺、『穀物条例と貿易』の項。
セイ氏は曰く、『私は既に不適当にも貿易差額と呼ばれているものを論ずるに当って、もし貴金属を外国に輸出するのが何らかの他の財貨を輸出するよりも一商人の利益によりよく合するならば、国家はその市民を通じてのみ利得しまたは損失するのであるから、彼がそれを輸出することはまた国家の利益でもあり、そして外国貿易に関する事柄においては個人の利益に最もよく合するものがまた国家の利益にも最もよく合するのであり、従って個人が貴金属を輸出したいと思うのにそれに障害を作ったとて、それはただ彼らを強いて彼ら自身及び国家にとってより不利な何らかの他の貨物を代用せしめることとなるに過ぎぬということを、述べる機会を得た。しかしながら、私は外国貿易に関する事柄において言っているに過ぎないということが、注意されなければならぬ。けだし商人達が自国民との取引によって得る利潤は、植民地との排他的商業において得られるそれと同様に、国家にとっての利益では全くないからである。同一国の個人間の取引においては生産された効用の価値以外には何らの利得もない。』(註)第一巻、四〇一頁。私はここになされている内国商業の利潤と外国貿易の利潤との区別を了解し得ない。すべての商業の目的は生産物を増加することである。もし一樽の葡萄酒を購買するために、私は一〇〇日の労働の生産物の価値をもって買われる地金を輸出し得るが、しかし政府が、地金の輸出を禁止することによって、私に、一〇五日の労働の生産物の価値をもって買われる貨物をもって購買するを余儀なからしめるならば、五日の労働の生産物が私の、また私を通じて国家の、損失となるのである。しかしもしかかる取引が個人の間に同一国の異る地方において行われるならば、もし彼がそれをもって購買をなすべき貨物の選択につき全然束縛されないならば、個人、また個人を通じて国家の、両者に同一の利益が生じ、そしてもし政府により彼が最も不利益な貨物をもって購買をなすの余儀なきに至らされるならば、同一の不利益が生ずるであろう。もし製造業者が同一の資本をもって、石炭が稀少な処よりも石炭が豊富な処において、より多くの鉄を製し得るならば、国はその差額だけ利得するであろう。しかしもし石炭がどこにも豊富になく、そして彼が鉄を輸入し、そしてこの附加量を同一の資本及び労働をもってする貨物の製造によって取得し得るとすれば、同様に彼は鉄の附加量だけ自国を利するであろう。本書の第六章において私は、外国貿易であろうと内国商業であろうとすべての商業が有利であるのは、生産物の分量を増加せしめるからであり、生産物の価値を増加せしめるからではないということを、示さんと努めた。吾々が最も有利な内国商業及び外国貿易を営んでいようと、または禁止法によって束縛される結果として最も不利な商業をもって満足せざるを得なかろうと、吾々はより大なる価値を有たないであろう。利潤率と生産される価値とは同一であろう。その利益は常に、セイ氏が内国商業に限るものの如く思われる所のものと等しい。双方の場合において、生産された効用の価値ということ以外には何らの利得もないのである。
(註)次の章句は上に引用された章句と矛盾しないであろうか?『内国取引は(それは種々なる人の手にあるから)注意を惹くことはより少いとはいえ、最も重要である、ということの他に、それは最も有利でもある。内国取引において交換される貨物は必然的にその同じ国の生産物である。』第一巻、八四頁。
『最も有利な販売は一国がそれ自身に対してなす販売であって、その理由は、それは二つの価値すなわち販売される価値とそれで購買がなされる価値とがその国民によって生産されることなくしては起り得ないからである、ということを、英国政府は観察しなかった。』第一巻、二二一頁。
私は第二十六章においてこの意見の正当なるか否かを検討するであろう。 
第二十三章 生産奨励金について

 

(一一〇)資本の利潤、土地及び労働の年々の生産物の分割、及び製造品と粗生生産物との相対価格について、私が樹立せんと努め来った諸原理の適用を観察せんがために、粗生生産物及びその他の貨物の生産に対する奨励金の影響を考察することは、無益ではないであろう。第一に穀物の生産に対する奨励金を与えるために政府の用うべき資本を調達する目的をもって、すべての貨物の租税が課せられたと仮定しよう。かかる租税のいかなる部分も政府によって費されないであろうし、また人民の一階級より受領されたすべては他の階級に返付されるであろうから、国民は全体としてはかかる租税と奨励金とによってより富みもせずより貧しくもならないであろう。この資金を作り出す所のすべての貨物に対する租税が、課税貨物の価格を騰貴せしむべきことは、直ちに認められるであろう。従ってかかる貨物の消費者はすべてこの資金に貢献するであろう。換言すれば、その自然価格または必要価格が高められるから、その市場価格もまた高められるであろう。しかしかかる貨物の自然価格が高められると同一の理由によって、穀物の自然価格は引下げられるであろう。生産に奨励金が支払われる以前には、農業者はその穀物に対し、その地代及び出費を償いかつ彼らに一般利潤を与えるに必要な価格を得たが、奨励金の支払以後は、彼らは、穀価が少くとも奨励金に等しい額だけ下落しない限り、この率以上を受取るであろう。かくてこの租税と奨励金との結果は、貨物の価格を賦課された租税に等しい程度に騰貴せしめ、そして穀価を支払われた奨励金に等しい額だけ下落せしめることにあろう。農業と製造業との資本の分配には何らの永久的変動は起り得ないということも見られるであろうが、けだし資本額にも人口にも何らの変動がないからパンや製造品に対して正確に同一の需要があるからである。農業者の利潤は穀価の下落後は、一般水準以上では決してなく、また製造業者の利潤も製造財貨の騰貴後は、それ以下ではないであろう。かくして奨励金は、穀物の生産に用いられる資本を増加せしめるという結果を齎さず、また財貨の製造に用いられる資本を減ぜしめるという結果をも齎さないであろう。しかし地主の利益はいかに影響されるであろうか? 粗生生産物に対する租税が土地の貨幣地代はそのままにしておいてその穀物地代を下落せしめるのと同一の原理に基いて、租税の正反対物たる生産奨励金は、貨幣地代はそのままにしておいて穀物地代を騰貴せしめるであろう(註)。地主は同一の貨幣地代をもって、その製造財貨に対してはより大なる価格を支払わねばならず、その穀物に対してはより小なる価格を支払わねばならず、従って、彼はおそらくより富みもせずまたより貧しくもならないであろう。
(註)一七二―一七三頁を参照。 
(一一一)さてかかる方策が労働の労賃に何らかの影響を及ぼすか否かは、労働者が、貨物を購買する際にこの奨励金の結果として彼がその食物の価格の下落という形で受取るだけのものを租税に対して支払うか否か、という問題に依存するであろう。もしもこれら二つの分量が等しいならば、労賃は引続き不変であろうが、しかしもし課税貨物が労働者の消費するものでないならば、その労賃は下落し、彼れの雇傭者はこの差額だけ利得するであろう。しかしこれは彼れの雇傭者にとって何らの真実の利益でもない。それはもちろん労賃のあらゆる下落の必然的作用と同様に、彼れの利潤率を増加せしむべく作用するであろう。しかし労働者がこの奨励金を支払いかつ――記憶すべきであるが――徴収されねばならぬ基金に対して貢献する度が少いほど、彼れの雇傭者の貢献する度は多くならなければならない。換言すれば、彼は、この奨励金とより高い利潤率との両者の結果として受取るべきものを、その支出によってこの租税に貢献するであろう。彼は、啻に彼自身の租税分担のみならず更に彼れの労働者のそれに対する彼れの支払を償うために、より高い利潤率を得る。彼がその労働者の分担額に対して受取る報償は労賃の低減の形で、または同じことであるが利潤の増加の形で、現われる。彼自身ののそれに対する報償は、この奨励金により生ずる所の彼が消費する穀価の下落の形で、現われるのである。 
(一一二)ここで、穀物の真実労働価値すなわち自然価値の変動により利潤に対して齎される影響と、課税及び奨励金による貨物の相対価値の変動より利潤に対して齎される影響とを述べるのは、正当であろう。もし穀価がその労働価格における変動によって下落するならば、啻に資本の利潤率が変動するのみならず、資本家の境遇も改善されるであろう。より大なる利潤を得ながら彼は、それらの利潤をそれに費す目的物に対して、より多くを支払わねばならぬことはないであろうが、このことは、吾々が今見たように、下落が奨励金によって人為的に惹起された時には起らないのである。人間の消費の最も重要な目的物の一つを生産するにより少い労働が必要とされることから生ずる貨物の価値の真実の下落においては、労働はより生産的たらしめられている。同一の資本をもって同一の労働が雇傭され、そして諸生産物の増加がその結果である。かくて啻に利潤率が増加されるのみならず、それを取得する者の境遇も改善されるであろう。啻に各資本家がたとえ同一の貨幣資本を用いても、より大なる貨幣収入を得るのみならず、更に、その貨幣が支出される時には、それは彼により多額の貨物を齎し、彼れの享楽品は増大されるであろう。奨励金の場合には、彼が一貨物の下落によって得る利益を相殺すべく、ある他の貨物に対してそれに比例する以上の価格を支払うという不利益を有っている。彼は、このより高い価格を支払い得んがために、騰貴せる利潤率を得るのである。従って、彼れの真実の境遇は、たとえ悪化しないとしても、決して改善されない。彼はより高い利潤率を得るけれども、彼は国の土地及び労働の生産物のより多量を支配し得ない。穀物の価値の下落が自然的原因によって齎される時には、それは他の貨物の騰貴によって相殺されないが、これに反して、それはその製造に入り込む粗生原料品が下落するから下落するのである。しかし穀物の下落が人為的手段によって惹起される時には、それは常に何らかの他の貨物の価値の真実の騰貴によって相殺され、従ってもし穀物がより低廉に買われるならば、他の貨物はより高価に買われるのである。
かくてこのことは、必要品に対する租税は労賃を高め利潤率を低める故にそれによっては何ら特別の不利益が生じないことの、もう一つの証拠である。もちろん利潤は下落するが、しかしそれは単に労働者の租税分担額に等しいのみであり、この租税負担額はとにかく、彼れの雇傭者か、または労働者の仕事の生産物の消費者かによって、支払われなければならないのである。雇傭者の収入から年々五〇磅ポンドが控除されようと、または彼が消費する貨物の価格が五〇磅ポンド高められようと、それは彼または社会に対し、すべての他の階級に平等に影響すべき影響以外のいかなる影響をも及ぼし得ない。もしその貨物の価格がそれだけ高められるならば、吝嗇家は消費しないことによって租税を避け得よう。もしそれだけが間接にあらゆる者の収入から控除されるならば、彼れは公おおやけの負担に対するその正当な分前を支払うことを避け得ないのである。
かくて穀物の生産奨励金は、穀物を相対的に低廉にし製造品を相対的に高価にするとはいえ、国の土地及び労働の年々の生産物には何ら真実の影響を及ぼさないであろう。 
(一一三)しかし今、反対の方策が採られ、貨物の生産奨励金に対する資金を供給する目的をもって、穀物から租税が徴収されたと仮定しよう。
かかる場合においては、穀物が高価となり諸貨物が低廉となるべきことは明かである。もしも労働者が穀物の高価なることによって損害を受けるだけを諸貨物の廉価なることによって利得するならば、労働は引続き同一価格にあるであろうが、しかしもし彼がそうならないならば、労賃は騰貴して利潤は下落し、他方貨幣地代は引続き以前と同一であろう。利潤が下落するのは、吾々が今説明したように、この下落によって労働者の租税分担額が労働の雇傭者によって支払われるのであるからである。労賃の騰貴によって、労働者は穀物の騰貴せる価格という形で支払う所の租税に対して補償されるであろう。彼れの労賃を製造貨物には少しも支出しないことによって、彼は奨励金を少しも受取らないであろう。奨励金はすべて雇傭者によって受取られ、また租税は一部分被傭者によって支払われるであろう。労働者には、彼らに課せられたこの増加に対して、労賃の形において、補償がなされ、かくして利潤率は下落するであろう。この場合にもまた、国民的影響は何ら齎さない所の複雑な方策があるわけであろう。
この問題を考慮するに当って、吾々は故意に、外国貿易に対するかかる方策の影響を吾々の考慮の外に置いた。吾々はむしろ他国と全く商業的関係を有たない島国の場合を仮定して来た。吾々は、穀物及び諸貨物に対する国の需要は同一であろうから、この奨励金がいかなる方向を取ろうとも、資本を一つの職業から他のそれに移そうとする誘惑はないであろうということを見た。しかし、もし外国貿易がありしかもその貿易が自由であるならば、それはもはや事実ではなくなるであろう。諸貨物と穀物との相対価値を変更することによって、その自然価格に極めて有力な影響を及ぼすことによって、吾々はその自然価格が下落する貨物の輸出に有力な刺戟を与え、またその自然価格が騰貴する貨物の輸入に等しい刺戟を与えていることになるであろう、かくして、かかる財政方策は全く職業の自然分配を変更し、その結果は実に外国の利益となるが、しかしかかる不合理な政策を採用する国の破滅となるであろう。 
第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説

 

(一一四)アダム・スミスは曰く、『土地の生産物の中で、その通常価格がそれを市場に齎すに用いられなければならぬ資本並びにその通常利潤を償うに足る如き部分のみが、普通市場に齎され得る。もし通常価格がこれ以上であるならば、その剰余部分は当然に土地の地代に帰属するであろう。もしそれがこれ以上でないならば、その貨物は市場に齎され得てもそれは地主に何らの地代をも与え得ない。価格がそれ以上であるかないかは、需要に依存する。』
この章句は当然読者を導いて、この著者は地代の性質を誤解せず、そして彼は社会の必要がその耕作を要求する質の土地は、『その生産物の通常価格』に依存し『それが土地の耕作に用いられねばならぬ資本並びにその通常利潤を償うに足る』か否か、に依存することを知っていたに相違ない、と結論せしめるであろう。
しかし彼は、『土地の生産物中には、それに対する需要が常に、それを市場に齎すに足る程度よりもより大なる価格を生ぜしめるが如き大いさなければならぬある部分がある』という観念を採っており、そして彼は食物をもってかかる部分の一つと考えたのである。
彼は曰く、『土地は、ほとんどいかなる位置にあっても、食物を市場に齎すに必要なすべての労働を、この労働がかつて維持されたことのないほど最も豊かに維持するに足るよりも、より多量の食物を生産するものである。その剰余もまた常に、その労働を雇傭する資本並びにその利潤を償うに足るよりもより多い。従って常に若干のものが地主に対する地代として残るのである。』
しかしこれについて彼はいかなる証明を与えているか? ――次の主張以外にはない、すなわち『ノルウェイ及びスコットランドにおける最も不毛な沼地も家畜に対するある種類の牧草を生産するが、その牛乳及び繁殖は常に、啻に家畜を飼養するに必要なすべての労働を維持し、かつ農業者または牛群あるいは羊群の所有者に通常利潤を支払うのみならず、更に地主にあるわずかの地代を与えてなお余りがある。』さて私はこのことについて一つの疑うたがいを挟むことを許されるであろう。私は、今日でも最も未開のものから最も文明の進んだものに至るまでのあらゆる国において、土地に用いられた資本並びにその国の通常利潤を償うに足る価値を有つ生産物を産出し得ざるが如き質の土地があると信ずる。アメリカではこれが事実であることを吾々はすべて知っているが、しかもなお何人も、地代を左右する諸原理がアメリカとヨオロッパとで異っているとは主張しない。しかしもし英国が極めて耕作において進歩しているために、現在地代を与えない土地は少しも残っていないということが真実であっても、以前にはかかる土地が存在していたに相違ないということもまた同様に真実であろう。そしてそれが存在するか否かはこの問題にとって少しも需要ではない。けだしもし資本の囘収並びにその通常利潤しか産出しない土地において用いられる資本が大英国にあるならば、それが古い土地において用いられていようと新しい土地において用いられていようと同一であるからである。もし一農業者が七年または十四年の期限で借地を契約するならば、彼は現在の穀物及び粗生生産物の価格で、彼が支出せざるを得ぬ資本部分を囘収し、その地代を支払い、かつ一般利潤を取得し得るのを知っているから、一〇、〇〇〇磅ポンドの資本をそれに用いんと企て得よう。彼は最後の一、〇〇〇磅ポンドが資本の通常利潤を得られるほど生産的に用いられ得ない限り、一一、〇〇〇磅ポンドを用いることはしないであろう。彼れのこれを用いるか否かについての計算においては、彼は単に粗生生産物の価格がその出費と利潤を補償するに足るか否かを考察するに過ぎないが、それは彼は何らの附加的地代も支払う必要のないことを知っているからである。彼れの借地期限満了の際ですら、もし彼れの地主が、この一、〇〇〇磅ポンドの附加額が用いられたからといって地代を要求するならば、彼はこの附加額を引去るであろうから、彼れの地代は騰貴しないであろう。けだし仮定によれば、彼はそれを用いることによって、単に、何らかの他の資本の用途によって彼が取得し得る通常利潤を得るに過ぎないからである。従って粗生生産物の価格がより以上に騰貴しない限り、または同じことであるが、普通かつ一般的の利潤率が下落しない限り、彼はそれに対して地代を支払う余裕を有たぬのである。 
(一一五)もしアダム・スミスの明敏さがこの事実に向けられていたならば、彼は、地代が粗生生産物の価格の構成部分の一つであるとは主張しなかったであろう。けだし価格はどこでも、それに対して何らの地代も支払われないこの最終資本部分によって得られる報酬によって左右されるからである。もし彼がこの原理に考え及んでいたならば、彼は鉱山の地代と土地の地代とを左右する所の法則に区別を設けはしなかったであろう。
彼は曰く、『炭坑がある地代を与え得るか否かは、一部分はその肥沃度に、そして一部分はその位置に依存する。いかなる種類の鉱山も、一定量の労働によって――それから得られ得る鉱石量が、同一量の労働によって同一種類の他の鉱山の大部分から得られ得る所のもの以上であるか以下であるかに従って、肥沃であるとも貧弱であるとも言われよう。有利な位置にある若干の炭坑も貧弱であるために採掘され得ない。その生産物は出費を償わない。それは利潤もまた地代も与え得ない。その生産物が、辛うじて労働に支払をなしその通常利潤と共にその採掘に使用された資本を補償するに足る如き炭坑が若干ある。それはこの事業の企業者には若干の利潤を支払うが、しかし何らの地代をも地主に支払わない。それは、自分自身が企業者であるためにそれに用いる資本の通常利潤を得る地主以外の何人によっても、有利には採掘され得ない。スコットランドにおける多くの炭坑はかかる仕方で採掘されており、それ以外の仕方では採掘され得ない。地主は他の何人にも若干の地代を支払わずにそれを採掘することを許さないであろうし、また何人も少しでも地代を支払う余裕はないであろう。
『この同じ国の他の炭坑は、十分肥沃ではあるが、その位置のために採掘され得ない。採掘費を支弁するに足る鉱物量が、通常のまたは通常以下の労働量によって、その炭坑から採取され得ようが、しかし人口が稀薄であり、道路か水運かの無い内地地方においては、この分量が売捌うりさばかれ得ないであろう。』地代の全原理はここに見事にかつ明截めいせつに説明されており、そのあらゆる言葉は鉱山に対すると同様に土地に対しても適用され得る。しかも彼は主張する、『地上の地所においてはこれと異る。その生産物とその地代との両者の比例はその絶対的肥沃度に比例し、その相対的肥沃度には比例しない』と。しかし地代を与えない土地はないと仮定しよう。ある時は最劣等地に対する地代額は、資本の出費と資本の通常利潤を超過する生産物の価値とに、比例するであろう。かくて同一の原理がややより良い質を有ちまたはより有利な位置を有つ土地の地代を支配し、従ってこの土地の地代は、それよりも劣る土地の地代を、それが有つより優れた利益だけ超過するであろう。同一のことが第三等地の地代についても言い得、かくて最優等地に及ぶ。しからば、土地の地代として支払わるべき生産物部分を決定するものが土地の相対的肥沃度であるということは、鉱山の相対的肥沃度が鉱山地代として支払わるべきその生産物部分を決定するということと同様に、確実ではないか?
アダム・スミスが採掘費並びに用いられた資本の通常利潤を支弁するに足るのみであるためその所有者が採掘する他ないような若干の鉱山がある、ということを明言した以上、吾々は、すべての鉱山生産物の価格を左右するものはかかる特定の鉱山であるということを彼が承認するものと予期すべきであろう。もし古い鉱山が、必要とされる石炭量を供給するに足りないならば、石炭の価格は騰貴し、そして、新しくかつより劣れる鉱山の所有者が、その鉱山の採掘によって資本の普通利潤を取得し得ることを見出すに至るまでは、それは騰貴し続けるであろう。もしその鉱山がかなり豊富であるならば、彼れの資本をかくの如く使用するのが自分の利益となるに至るまでは、騰貴は甚はなはだしくはないであろう。しかし、もしそれがかなり豊富でないならば、価格は、その出費と資本の通常利潤とを支払うに足るだけの金銭を彼に与えるに至るまで騰貴しなければならないことは、明かである。かくて石炭の価格を左右するものは常に最も貧弱な鉱山であることがわかる。しかしながら、アダム・スミスは違った意見も有っている。すなわち曰く、『最も肥沃な炭坑はまた、その近隣のすべての他の炭坑の炭価を左右する。この炭坑の所有者と企業者とは、彼らのすべての隣人よりも下値に売ることによって、前者は彼がより大なる地代を取得することが出来、後者は彼がより大なる利潤を取得することが出来ることを見出す。彼らの隣人は、そう容易にそれに堪え得ず、それは彼らの地代と利潤とを常に減少せしめまた時にはそれを全然無くしてしまうとはいえ、直ちにそれと同一の価値で売らざるを得なくなる。若干の鉱山は全然抛棄され、他のものは地代を与え得ず、そして単に所有者によって採掘され得るのみである。』もし石炭に対する需要が減少するならば、またはもし新行程によって分量が増加されるならば、価格は下落し若干の鉱山は抛棄されるであろう。しかしあらゆる場合において価格は、地代を課せられることなくして採掘される鉱山の出費と利潤とを支払うに足らなければならない。従って価格を左右するものは最も貧弱な鉱山である。もちろん他の箇所においてはアダム・スミスはそう述べている、けだし彼は曰く、『ある長い期間に石炭が売られ得る最低の価格は、他のすべての貨物と同様に、その通常利潤と共に、石炭を市場に齎すに用いられねばならぬ資本を辛うじて囘収するに足る価格である。地主が何らの地代を得ず、彼が自分で採掘するか、それを全然放置しておく他ない炭坑においては、炭価は一般にほぼこの価格に近接していなければならない。』 
(一一六)しかし、同一の事情、すなわちいかなる原因から起るにしろ、何らの地代もなくまたは極めて僅少な地代しかない鉱山を抛棄せざるを得ざらしめる所の、石炭の豊富及びその結果たる低廉はもし粗生生産物が同じく豊富でありかつその結果として低廉であるならば、何らの地代もなくまたは極めて僅少な地代しかない土地の耕作を抛棄せざるを得ざらしめるであろう。例えばもし馬鈴薯が人民の一般のかつ普通の食物となるならば、――米がある国においてはそうである如くに――今日耕作されている土地の四分の一または二分の一はおそらく直ちに抛棄されるであろう。けだしもし、アダム・スミスの言う如くに、『一エーカアの馬鈴薯は固形食物六千封度ポンドすなわち一エーカアの小麦畑によって生産される分量の三倍を生産する』ならば、以前に小麦の耕作に用いられた土地において収穫され得た分量を消費するほどの人民の増加は、極めて長い間起り得ないからである。従って多くの土地は抛棄され地代は下落するであろう。そして同一分量の土地が耕作されそれに対して支払われる地代が以前の高さになり得るには、人口が二倍となりまたは三倍となることを要するであろう。
総生産物が、三百人を養うべき馬鈴薯から成ろうと単に百人を養うに過ぎない小麦から成ろうと、そのあるより大なる比例が地主に支払われることはないであろう。けだしもし労働者の労賃が主として馬鈴薯の価格によって左右され小麦の価格によっては左右されないならば、生産費は大いに減少され従って労働者に支払った後の全総生産物の比例は大いに増加するであろうけれども、しかもその附加的比例のいかなる部分も地代とはならず、全体が常に利潤となるからである、――常に労賃が下落するにつれて騰貴しかつそれが騰貴するにつれて下落するのであろうから。小麦が耕作されようと、馬鈴薯が耕作されようと、地代は同一の原理によって支配されるであろう、――それは常に、同一の土地かまたは異る質の土地において、等量の資本をもって得られる生産物量の差違に等しく、従って、同一の質の土地が耕作されその相対的肥沃度または相対的便益に何らの変動も起らない間は、地代は総生産物に対して常に同一の比例を保つであろう。
しかしながらアダム・スミスは、地主に帰する比例は生産費の減少によって増加し、従って地主の得る所は貧弱な生産物の場合よりも豊富な生産物の場合の方が、分量もより大であり割合もより大であろう、と主張している。彼は曰く、『米田は最も肥沃な麦畑よりも遥かにより多量の食物を生産する。毎年各々三十ブッシェルないし六十ブッシェルの二毛作が、一エーカアの通常の生産物であると云われている。従ってその耕作はより多くの労働を必要とするけれども、遥かにより多くの剰余がそのすべての労働を維持した後に残る。従って人々の普通のかつ愛好の植物性食物でありかつ耕作者達が主としてそれをもって維持されている所の米の産国においては、麦産国におけるよりも、このより大なる剰余のより大なる分前が地主に帰属するはずである。』
ビウキャナン氏も述べている、『麦よりも豊富に産出する何らかの他の生産物が人民の一般の食物となるとすれば、それが豊富になるに比例して地主の地代が増加すべきことは全く明かである。』
もし馬鈴薯が人民の一般の食物となるとすれば、地主は長い間地代の減少によって悩むであろう。彼らはおそらく現在受領しているだけの人間の生活資料を受領しないであろうが、他方その生活資料はその現在価値の三分の一に下落するであろう。しかし地主の地代の一部分がそれに費されるすべての製造貨物は、その原料たる粗生原料品の下落と、その時にその生産に当てらるべき土地の肥沃度の増加のみとから起る所の下落以外の下落を蒙らないであろう。
人口の増加よりして以前と同一の質の土地が耕作されるに至る時は、地主は啻に以前と同一比例の生産物を取得するばかりでなく更にそれはまた以前と同一の価値を有つであろう。かくて地代は以前と同一であろうが、しかしながら利潤は、食物の価格従ってまた労賃が大いに下落するであろうから、大いに騰貴するであろう。高い利潤は資本の蓄積に有利である。労働に対する需要は更に増加し、そして地主は土地に対する需要の増加によって永久的に利得するであろう。
もちろん同一の諸々の土地からかくも豊富な食物が生産され得る時には、それは極めてより高度に耕作され、従ってそれは社会の進歩につれて、以前よりも遥かにより高い地代を生じかつ遥かにより多くの人口を支持するであろう。このことは地主に対し必ず大いに有利であり、かつ本書が必ず樹立せんとする所の、すべての法外な利潤はその性質上短期間でしかないが、それはけだし、土壌の全剰余生産物は、蓄積を奨励するに足るほどの過度の利潤をさえ控除した後は、終局的に地主に帰さなければならぬから、という原理と一致するものである。
かくも豊富な生産物が惹起す如きかかる低廉な労働の価格と共に、啻に既に耕作されている土地が遥かにより多量の生産物を産出するのみならず、それは、大なる附加的資本をしてそこに使用し得しめ、またより大なる価値をしてそれから引去られ得しめ、そして同時に、極めて劣等な土地が高い利潤をもって耕作され得、その結果として地主並びに消費者の全階級は大いに利得を受けるのである。最も重要な消費物を生産する機械たる土地は改良され、そしてその仕事が需要されるにつれて良い報酬を受けるであろう。すべての利益は、最初の間は、労働者、資本家、及び消費者がこれを享受するが、しかし人口の増加につれて、それは次第に土地所有者に移転されるであろう。 
(一一七)社会が直接の利害関係を有ち地主が間接の利益関係を有っている所のかかる改良を別にすれば、地主の利益は常に消費者及び製造業者のそれと対立している。穀物は、単にそれを生産するに附加的労働が必要であるというだけの理由で、すなわちその生産費が増加したという理由で、永続的により高い価格にあり得る。同一の原因は常に地代を引上げる、従って穀物の生産に伴う費用の増加するのは地主の利益となる。しかしながら、これは消費者の利益ではない。彼にとっては、穀物が貨幣及び諸貨物に相対して低廉なことが望ましいが、それは穀物が購買されるのは常に諸貨物または貨幣であるからである。穀物価格が高いことは製造業者の利益でもないが、それはけだし、穀物の高い価格は高い労賃を惹起すが、しかし彼れの貨物の価格を高めはしないからである。かくて啻に彼れの貨物のより多くが、または同じことになるが、彼れの貨物のより多くの価値が、彼自身消費する穀物と引換に与えられなければならぬのみならず、更にまたより多くのものがまたはより多くのものの価値が、彼れの労働者に労賃として与えられなければならぬが、それに対しては彼は何らの補償をも得ないのである。従って地主を除くすべての階級は穀価の騰貴によって損害を蒙るであろう。地主と一般公衆との間の取引は、売手も買手も同様に利得すると言い得られる商売上の取引とは異り、損失は全然一方にまた利得は全然他方に帰するのである。そしてもし穀物が輸入によってより低廉に取得され得るならば、輸入しないために起る損失は、一方にとって、他方にとっての利得よりも遥かにより大である。
アダム・スミスは、貨幣価値の低いことと穀物の価値の高いこととの間に何らの区別もなさず、従って地主の利益は社会の他のものの利益と反するものではない、と推論している。第一の場合においては、貨幣がすべての貨物に比して低く、他の場合においては、穀物が諸貨物並びに貨幣に比してより高いのである。
アダム・スミスの次の記述は、低い貨幣価値には適用し得るが、しかしそれは高い穀物価値には全然適用し得ないものである。『もし(穀物の)輸入が常に自由であるならば、我国の農業者及び全紳士はおそらく、年々、輸入が大抵の時に事実上禁止されている現在において彼らが得るよりもより少い貨幣を、その穀物に比して得るであろうが、しかし彼らが得る貨幣はより多くの価値を有ち、すべての他の種類の財貨のより多くを購買し、そしてより多くの労働を雇傭するであろう。従って、彼らの真実の富、彼らの真実の収入は、たとえより少量の銀によって現わされるであろうとはいえ、現在におけると同一であろう。そして彼らは、現在耕作しているだけの穀物を耕作する能力を失わせられることも、これを阻害されることも、ないであろう。これに反し、穀物の貨幣価格の下落の結果たる銀の真実価値の騰貴は、すべての他の貨物の貨幣価格はやや下落せしめるから、それは、このことが起った国の産業に、すべての外国市場におけるある利益を与え、ひいてはその産業を奨励しかつ増加せしめる傾向がある。しかし穀物に対する内国市場の範囲は、それが栽培される国の一般産業または穀物と引換えに与えるために他の何物かを生産する人々の数に比例しなければならない。しかしあらゆる国において、内国市場は、穀物に対する最も手近なかつ最も便利な市場であると共に、また同様の穀物に対する最も大きなかつ最も重要な市場である。従って穀物の平均貨幣価格の下落の結果たる銀の真実価値の騰貴は、穀物に対する最も大きなかつ最も重要な市場を拡張し、ひいてはその栽培を阻害することなくこれを奨励する傾向を有つものである。』
金及び銀の豊富と低廉とより生ずる穀価の騰落は、地主にとっては何でもないことであるが、それはけだしまさにアダム・スミスの述べている如くに、あらゆる種類の生産物が平等にその影響を蒙るからである。しかし穀物の相対価格の騰貴は常に地主に極めて有利である。けだし第一に、それは彼にその地代としてより多量の穀物を与え、そして第二に、穀物の各等量について、彼はより多量の貨幣に対してのみならず貨幣が購買し得るあらゆる貨物のより多量に対しても支配権を有つからである。 
第二十五章 植民地貿易について

 

(一一八)アダム・スミスは、その植民地貿易に関する考察において、最も十分に、自由貿易の利益、及び植民地が母国によりその生産物を最も高価な市場で売り、その製造品及び必要品を最も低廉な市場で買うことを妨げられるに当り蒙る不公正を説明した。彼は、あらゆる国をしてその産業の生産物をその好む時と所とにおいて自由に交換せしめることによって、世界の労働の最良の分配が齎され、かつ人類生活の必要品及び享楽品の最大量が確保されることを説明した。
彼はまた、疑いもなく全体の利益を促進するこの通商の自由はまた各特定国のそれをも促進するものであり、またヨオロッパ諸国がその各々の植民地について採用した狭隘きょうあいな政策は、その利益が犠牲にされる植民地と同様に母国自身にとっても有害であることを説明せんと企てた。
彼は曰く、『植民地貿易の独占は、重商主義のすべての他の下賤なかつ悪性な方策と同様に、すべての他国の産業を抑圧するが、しかし主として植民地の産業を抑圧するものであり、それがその利益のために設けられた国の産業を少しも増加せしめず、かえってこれを減少せしめるのである。』
しかしながら彼れの主題のこの部分は、彼が植民地に対するこの制度の不公正を説明している場合の如くに明瞭にかつ確然と取扱われていないのである。 
(一一九)母国は時にその領有植民地に加える制限によって利得しないかどうかを、思うに、疑い得よう。例えばもし英国がフランスの植民地であるならば、フランスが織物や毛織布やまたはその他の貨物の輸出に対して英国の支払う重い奨励金によって利得することを誰が疑い得よう? 奨励金の問題を検討するに当って、穀物が我国において一クヲタアにつき四磅ポンドであると仮定して、吾々は、英国で一クヲタアにつき一〇シリングの奨励金が輸出に与えられるならば、穀物はフランスでは三磅ポンド一〇シリングに下落すべきことを知った。さてもし穀物がフランスで以前に一クヲタアにつき三磅ポンド一五シリングであったならば、フランスの消費者はすべての輸入穀物に対し一クヲタアにつき五シリングだけ利得したであろう。もしフランスにおける穀物の自然価格が以前に四磅ポンドであったならば、彼らは一クヲタアにつき一〇シリングという奨励金の全額を利得したであろう。フランスはかくの如く英国の蒙る損失だけ利得するであろう。すなわちフランスは英国が失ったものの単に一部分を利得するに過ぎぬのではなく、その全部を利得するのである。
しかしながら輸出奨励金は内国政策の一方策であって、母国によっては容易には課せられ得るものではないと言われるかもしれない。
もしジャメイカ及びオランダが各々生産する貨物を、英国の仲介なしに交換するのが、両国の利益に適合するならば、オランダとジャメイカの両国がこの交換を妨げられるために両国の利益が害されるべきことは全く確実ではある。しかしジャメイカがその財貨を英国に送り、そしてそこでそれをオランダの財貨と交換せざるを得ないならば、英国の資本または英国代理店が、しからざればそれが従事しなかった職業に用いられるであろう。それは、英国ではなくオランダ及びジャメイカによって支払われた奨励金によって、そこに誘致されるのである。
二国における労働の不利益な分配によって受ける損失は、その一方にとっては有利であるかもしれぬが、しかし他方は実際かかる分配によって起る損失以上のものを蒙る、ということは、アダム・スミス自身によって述べられている。そしてこのことは、もしそれが真実であるならば、植民地にとっては大いに有害な一方策は、母国にとっては部分的に有利であるかもしれぬことを、直ちに証明するであろう。
彼は通商条約を論じて曰く、『ある国民が条約によって自らを束縛し、ある外国からの一定の諸財貨の輸入を、他のすべての外国からの輸入は禁止しながら、許可し、またはある国の財貨を、他のすべての国の財貨には関税を課しながらこれを免除する時には、その通商がかくの如き特恵を受けている国または少くともその国の商人及び製造業者は、必然的に条約から大きな便益を得るに相違ない。かかる商人及び製造業者は、彼らに対してかくも寛大なこの国においては一種の独占を享受する。その国は、彼らの財貨に対するより広大なかつより有利な市場となる。より広大なというのは、、他の諸国民の財貨が排斥されまたはより重い関税を賦課されていて、彼らからより多量を購買するからであり、より有利なというのは、特恵国の商人はそこで一種の独占を享受していて、しばしばその財貨を、すべての他の国の自由競争に曝される場合よりもより高い価格で販売するからである。』
通商条約を締結している二国が母国とその植民地とであるとしよう、そして、アダム・スミスは明かに、母国はその植民地を圧迫することによって利益を享うけ得よう、としているのである。しかしながら、外国市場の独占が排他的一会社の手中にない限り、内国の購買者が貨物に支払う以上のものを外国の購買者が支払うことはなく、かかる双方の購買者が支払う価格は、それらの貨物が生産される国でのその自然価格と大して異ならないであろう、と云われるかもしれない。例えば英国は、通常の事情の下においては常に、フランスの財貨をフランスにおけるそれらの財貨の自然価格で買うことが出来、またフランスは英国の財貨を英国におけるその自然価格で買うという等しい特権を有っているであろう。しかしこれらの価格でならば条約がなくとも財貨は買われるであろう。しからば両当事国にとっていかなる利益または不利益を条約は有つのであるか?
輸入国にとってのこの条約の不利益はこうであろう。すなわちそれはその国をして、一貨物を、例えば英国からこの国がおそらくそれをある他の国の遥かにより低い自然価格で購買し得る時に、英国におけるその貨物の自然価格で購買せしめるであろう。かくてそれは一般資本の分配を不利益ならしめ、それは主として、条約により最も不生産的な市場で購買せざるを得ない国の負担する所となる。しかしそれは売手にある想像上の独占の故をもって何らの利益を与えるものではない。けだし彼は、自国人の競争によってその財貨をその自然価格以上に売るのを妨げられるからであるが、彼はそれを、彼がそれをフランス、スペイン、または西印度インドへ輸出しようとまたは国内消費のためにそれを売ろうと、この自然価格で販売するであろう。
しからば条約中の約定の利益はいかなるものであるか? それはこうである。すなわちかかる特定の財貨は、もし英国のみがこの特定の市場に供給するという特権を有つということがなかったならば、そこで輸出のために作られ得なかったであろうが、けだし自然価格のより低い国の競争が、それらの貨物を売却するすべての機会をこの国から奪っていたから、ということである。 
(一二〇)しかしながら、もし英国がその製造する何らかの他の財貨を、フランスの市場において、またはそれと等しい利益をもって何らかの他の市場において、同一額だけ確実に売却し得るならば、このことはほとんど大したことではなかったであろう。英国の目的は、例えば、五、〇〇〇磅ポンドの価値を有つある分量のフランスの葡萄酒を買うことである、――しからばこの国は、この目的のために五、〇〇〇磅ポンドを得んとしてどこかへその財貨を輸出するであろう。しかしもし貿易が自由であるならば、他国の競争のために、英国における毛織布の自然価格が英国に、毛織布の売却によって五、〇〇〇磅ポンドを取得せしめ、またかかる資本用途によって通常利潤を取得せしめ得るに足るほど低くあることが妨げられるであろう。かくて英国の勤労は何らかの他の貨物に用いられねばならない。しかし現在の貨幣価値において、それが他国の自然価格で売却し得る生産物は無いかもしれない。その結果はどうであろうか? 英国の葡萄酒飲用者はその葡萄酒に対して依然五、〇〇〇磅ポンドを喜んで与える、従って五、〇〇〇磅ポンドの貨幣がその目的のためにフランスへ輸出される。この貨幣の輸出によって、英国においてその価値は騰貴し、他国においては下落する。そしてそれと共に英国産業によって生産されるすべての貨物の自然価格もまた下落する。貨幣価値の騰貴は貨物の価格の下落と同じことである。五、〇〇〇磅ポンドを取得するために英国貨物が今や輸出されるであろう。けだしその下落せる自然価格でそれは今や他国の財貨と競争し得るからである。しかしながら、必要とされる五、〇〇〇磅ポンドを取得するためにより多くの財貨が低い価格で売られ、そしてこの額はそれが得られた時には、同一量の葡萄酒を取得しないであろう。けだし英国における貨幣の減少がその国における財貨の自然価格を下落せしめたのに、フランスにおける貨幣の増加はフランスにおける財貨及び葡萄酒の自然価格を騰貴せしめたが故である。かくて貿易が完全に自由である時には、英国が通商条約によって特恵を得ている時よりも、英国貨物と交換に、より少量の葡萄酒が輸入されるからである。しかしながら、利潤の率は変動していないであろう。貨幣はこの二国において相対価値において変動しており、そしてフランスの得る利益は、一定量のフランス財貨と交換に、より多量の英国財貨を得ることであるが、他方英国の蒙る損失は、一定分量の英国の財貨と交換により少量のフランス財貨を得ることにあるであろう。
かくて外国貿易は、束縛されようと奨励されようと自由であろうと、異る国における生産の比較的難易がどうであっても、常に継続するであろう。しかしそれは貨物がそれらの国で生産され得るその自然価格――自然価値ではない――を変動せしめることによってのみ左右され得、そしてこのことは貴金属の分配を変動せしめることによって成就されるのである。この説明は、貴金属の分配を変動せしめず従ってあらゆる処において貨物の自然価格及び市場価格を変動せしめない所の貨物の輸出入に対する租税や奨励金や禁止はないという、私が他の場所で述べた意見と一致するものである。
かくて植民地との貿易が、完全な自由貿易よりも植民地にとりより不利であると同時に母国にとりより有利であるように、調整され得ることは、明かである。その取引を特定の一店に限られるのが個人たる消費者にとって不利であると同じく、一特定国から購買するを余儀なからしめられることは消費者たる一国民にとって不利である。もしその店またはその国が必要とされる財貨を最も低廉に提供するならば、それは何らのかかる排他的特権なくしても財貨の販売を確保し得よう。そしてもしそれがより低廉に販売しないならば、一般的利益のために、それが他のものと等しい利益をもって営み得ない職業を継続するのを奨励されないようになろう。その店またはその販売国は職業の変更によって損失するかもしれないが、しかし一般的利益は、一般資本の最も生産的な分配すなわち普遍的な自由貿易によってこそ最も十分に確保されるのである。
貨物の生産費が増加しても、もしそれが第一必要品であるならば、必ずしもその消費は減少しないであろう。けだし購買者の一般的消費力がある一貨物の騰貴によって減少しても、しかも彼らはその生産費が騰貴しなかった所の何らかの他の貨物の消費を止め得るからである。その場合には、供給される分量と需要される分量とは以前と同一であろう。生産費のみが増加しているであろうが、しかも価格は、この騰貴せる貨物の生産者の利潤を他の職業から得られる利潤と等しからしめるために騰貴するであろうし、また騰貴しなければならぬ。
セイ氏は生産費が価格の基礎であることを認めているが、しかし彼はその書物の種々なる部分において、価格は需要供給の比例によって左右されると主張している。ある二貨物の相対価値の真実かつ窮極的規制はその生産費であり、生産され得べき各々の分量でもなく、また購買者の間の競争でもないのである。 
(一二一)アダム・スミスによれば、植民地貿易は、英国資本のみが用いられ得る事業であることのために、すべての他の職業の利潤率を騰貴せしめた。そして彼れの意見によれば、高い利潤は高い労賃と同様に、貨物の価格を騰貴せしめるから、植民地貿易の独占は――彼れの考えるに、――母国にとって有害であったが、けだしそれは製造貨物を他国と同様に低廉に売る力を減少せしめたからである。彼は曰く、『独占の結果として、植民地貿易の増加は、大英国が以前からなしていた貿易の方向を全く変動せしめたが、その増加はそれほど大ではなかった。第二に、この独占は必然的に、英国貿易のすべての各種部門における利潤率を、すべての国民が英国植民地に対して自由貿易を許されている場合に当然そうなるべき高さ以上に保つのに寄与したのである。』『しかしいかなる国においても通常利潤率をしからざる場合にそうあるべき以上に騰貴せしめるあらゆるものは、必然的に、その国をして、独占を有っていないあらゆる貿易部門において、絶対的並びに相対的不利益を蒙らしめる。それがこの国をして絶対的不利益を蒙らしめるというのは、けだしかかる貿易部門においては、その国の商人は彼らが自国に輸入する外国の財貨と彼らが外国に輸出する自国の財貨とを、しからざる場合に彼らが売るべき高さ以上に売ることなくしては、このより大なる利潤を獲得し得ないからである。彼ら自身の国は、しからざる場合よりも、より高く買いまたより高く売らなければならず、より少く買いまたより少く売らなければならず、より少く享受しまたより少く生産しなければならない。』
『我国の商人はしばしば、英国労働の労賃の高いことをもってその製造品が外国市場で売負かされる原因であると喞かこっているが、しかし彼らは高い資本の利潤率については何事も言わない。彼らは他人の法外な利潤を喞っているが、しかし自分自身のそれについては何も言わない。しかしながら英国資本の高い利潤は、英国製造品の価格を、多くの場合には英国労働の労賃の高いだけ、またある場合にはおそらくそれ以上、高めるに貢献しているかもしれない。』
私は、植民地貿易の独占は資本の方向を、しかもしばしば有害に、変更するであろうということを認める。しかし私が既に利潤の問題について述べた所から、一つの外国貿易から他のそれへのまたは内国商業より外国貿易へのいかなる変更も、私の意見によれば、利潤率には影響を及ぼし得ないことが、分るであろう。それによる害は、私が今述べたばかりのことであろう。すなわち、一般的資本及び勤労の分配が悪化し、従って生産が減少するであろう。貨物の自然価格は騰貴し、従って、消費者は同一の貨幣価値の購買をなし得るけれども、彼はより少量の貨物しか取得しないであろう。またそれが利潤を騰貴せしめるという影響をさえ有つとしても、価格は労賃によっても利潤によっても左右されないから、それは少しも価格を変動せしめないということも、分るであろう。
そして、アダム・スミスが、『貨物の価格または貨物と比較された金及び銀の価値は、一定量の金及び銀を市場へ齎すに必要な労働量と、一定量の何らかの他の種類の財貨をそこへ齎すに必要なそれとの間の、比例に依存する』と言う時に、彼はこの意見に同意しているではないか? 利潤が高かろうと低かろうと、または労賃が低かろうと高かろうと、この労働量は影響を蒙らないであろう。しからばいかにして価格は高い利潤によって高められ得るのであるか? 
第二十六章 総収入及び純収入について

 

(一二二)アダム・スミスは、常に、一国が大なる純所得よりはむしろ大なる総所得から得る利益を過大視している。彼は曰く、『一国のより大なる資本部分が農業に用いられるに比例して、それが国内において働かせる生産的労働量はより大となるであろう。その使用が社会の土地及び労働の年々の生産物に附加する価値も同様であろう。農業に次いで、製造業に用いられる資本が生産的労働の最大量を働かせ、そして年々の生産物に最大の価値を附加する。輸出業に用いられるそれは、これら三つのうち最小の結果しか有たない。』(註)
(註)セイ氏はアダム・スミスと同一の意見を有っている。『その国一般にとって最も生産的な資本の用途は、土地に投ぜられた資本に次いでは製造業及び国内商業のそれである。けだしそれは利潤がその国内で得られる産業を活動せしめるが、他方外国貿易に用いられる資本はすべての国の勤労と土地とをして無差別的に生産的ならしめるからである。
『一国民にとって最も不利な資本の用途は、一外国の生産物を他の外国へ輸送するそれである。』セイ、第二巻、一二〇頁。
このことをしばらく真実なりとしよう。もし一国が多量の生産的労働を用いようとまたはそれ以下の分量を用いようと、その純地代及び利潤の両者が同一であるならば、多量の生産的労働を用いる結果その国に起る利益はいかなるものであろう? あらゆる国の土地及び労働の全生産物は三部分に分たれ、その中うち一部分は労賃に、もう一つの部分は利潤に、そして残りの部分は地代に当てられる。租税または貯蓄のために控除がなされ得るのは最後の二つの部分からのみであり、最初のものは、適度である場合には、常に必要生産費をなしているのである(註)。その利潤が年々二、〇〇〇磅ポンドである所の二〇、〇〇〇磅ポンドの資本を有っている個人にとっては、あらゆる場合にその利潤が二、〇〇〇磅ポンド以下に減少しない限り、彼れの資本が百人を雇傭しようと一千人を雇傭しようと、生産された貨物が一〇、〇〇〇磅ポンドに売れようと二〇、〇〇〇磅ポンドに売れようと、全くどうでもよいことであろう。国民の真実の利益も同様ではないか? その純真実所得すなわちその地代及び利潤が同一である限り、国民が一千万の住民から成ろうと一千二百万の住民から成ろうと、大したことではない。国民が陸海軍及びすべての種類の不生産労働を支持する力はその純所得に比例しなければならず、その総所得には比例しない。もし五百万人が一千万人に必要なだけの食物や衣服を生産し得るならば、五百万人に対する食物及び衣服は純収入であろう。この同じ純収入を生産するに七百万人が必要とされるということ、すなわち一千二百万人に足る食物や衣服を生産するに七百万人が用いられるということは、国にとって何らかの利益であろうか? 五百万人の食物や衣服は依然として純収入であろう。より多数の人を雇傭することは、吾々をして我が陸海軍に一兵を加え得せしめもせず、また租税に一ギニイ余計に納め得しめもしないであろう。
(註)おそらくこれは余りに強く表現されている、けだし一般に絶対必要生産費以上のものが、労賃の名の下に労働者に割当てられているからである。その場合には、国の純生産物の一部分は労働者によって受領され、かつ彼によって貯蓄または支出され得る。またはそれは彼をして国の防禦に貢献し得しめるであろう。
アダム・スミスが最大量の勤労を動かす資本用途をもってよしとしているのは、大なる人口より生ずる何らかの想像上の利益、またはより多数の人類の享受し得べき幸福を根拠として云うのではなく、明かにそれが国力を増進するという根拠による(註)、けだし彼は曰く、『あらゆる国の富、及び力が富に依存する限りにおいてその力は、常に、その年々の生産物の価値に、すべての租税が窮極的にそこから支払わねばならぬ資金に、比例しなければならない。』と。しかしながら、租税支払能力は純収入に比例するものであり総収入に比例するものではないことは、明かでなければならない。
(註)セイ氏は私を全然誤解し、私がかくも多くの人類の幸福をどうでもよいことと考えたものと想像している。私がアダム・スミスの拠よって立つ特定の論拠に私の記述を限定していたことは、この本文が十分に示すものと私は考える。 
(一二三)すべての国への職業の分配において、より貧しい国民の資本は、多量の労働が国内で支持される職業に当然用いられるであろう、けだしかかる国においては、増加しつつある人口に対する食物及び必要品は最も容易に所得され得るからである。これに反し、食物が高価な富める国においては、資本は、貿易が自由な時には、最小量の労働が国内で維持されなければならぬ所の、運送業、遠隔外国貿易、及び高価な機械が必要とされる職業の如きへ、すなわち利潤が資本に比例して、用いられる労働量には比例しない職業へ、当然流入するであろう(註)。
(註)『自然的事態が資本を、最大の利潤の得られる職業へではなくて、その作用が社会に対し最も有利な職業へ、引寄せるのは、幸なことである。』――第一巻、一二二頁。セイ氏は、個人に対しては最も有利であるが、国家に対しては最も有利ではないこれらの職業はいかなるものであるかを、吾々に語っていない。もし資本は少いが肥沃な土地は豊富に有っている国が早くから外国貿易に従事していないならば、その理由は、それが個人に対して有利でなく、従って国家に対してもまた有利でないからである。
地代の性質からして、最後に耕作される土地を除くあらゆる土地での一定の農業資本は、製造業及び商業に用いられる等額の資本よりもより大なる労働量を動かすものであることは、私は認めるけれども、しかも私は、内国商業に従事する一資本の雇傭する労働量と、外国貿易に従事する等量の資本の雇傭する労働量とに、ある差異があるということは、認め得ない。
アダム・スミスは曰く、『スコットランドの製造品をロンドンへ送りそしてイングランドの穀物及び製造品をエディンバラへ持ち帰る資本は必然的に、かかる作用をなすごとに、共に大英国の農業または製造業に用いられていた二つの英国資本に代位する。
『国内消費のための外国財貨の購買に用いられる資本は、この購買が内国産業の生産物をもってなされる時には、また、かかる作用をなすごとに、二つの異る資本に代位するが、しかし単にその中の一つが内国産業を支持するに用いられているにすぎない。英国財貨をポルトガルへ送りそしてポルトガル財貨を大英国に持ち帰る資本は、かかる作用をなすごとに、一つの英国資本に代位するにすぎず、他方はポルトガルの資本である。従って、消費物の外国貿易の囘帰が内国商業の如くに早くとも、それに用いられる資本は、その国の産業または生産労働に対して、単に半分の奨励を与えるに過ぎないであろう。』
この議論は私には誤謬であるように思われる。けだし一つのポルトガル資本と一つの英国資本との二つの資本がスミス博士の想像している如くに使用されるとはいえ、なお内国商業に用いられるものの二倍の資本が外国貿易に用いられるからである。スコットランドは、亜麻布の製造に一千磅ポンドの資本を用い、それをイングランドで絹製品の製造に用いられる同様の資本の生産物と交換する、と仮定すれば、二千磅ポンドとそれに比例する労働量とが、この二国によって用いられるであろう。いまイングランドは、それが以前にスコットランドへ輸出していた絹製品に対して、ドイツからより多くの亜麻布を輸入し得ることを発見し、またスコットランドは、それが以前にイングランドから得ていたよりもより多くの絹製品をその亜麻布と引換にフランスから得ることが出来るということを発見すると仮定すれば、イングランドとスコットランドとは直ちに相互に取引することを止め、そして消費物の内国商業は消費物の外国貿易に変更されないであろうか? しかし、ドイツの資本とフランスの資本との二つの追加資本がこの取引に入り込むとはいえ、同一額のスコットランド及びイングランドの資本が引続き使用され、そしてそれはそれが内国商業に従事していた時と同一量の勤労を動かさないであろうか? 
第二十七章 通貨及び銀行について

 

(一二四)通貨に関しては既に極めて多く論ぜられ来っているから、かかる主題に注意を払うものの中うち、偏見を有つものの他は、その真実の諸原理を知らないものはない。従って私はただ、その量及び価値を左右する一般的諸法則のあるものを瞥見べっけんするに止めるであろう。
金及び銀は、すべての他の貨物と同様に、それを生産しかつ市場に齎すに必要な労働量に比例してのみ、価値を有つ。金は銀よりも約十五倍より高価であるが、それはそれに対する需要がより大であるからでもなく、また銀の供給が金のそれよりも十五倍より大であるからでもなくして、もっぱら、その一定量を獲得するに十五倍の労働量が必要であるからである。
一国において用いられ得る貨幣の量はその価値に依存しなければならぬ。すなわちもし貨物の流通のために単に金のみが用いられるならば、銀(のみ――編者挿入)が同一の目的に用いられる場合に必要な量のわずかに十五分の一の量が必要とされるであろう。
流通高は過剰になるほど豊富には決してなり得ない。けだしその価値を減少せしめることによって、同一の比例においてその分量は増加されるし、かつその価値を増加せしめることによって、その分量は減少されるからである。
国家が貨幣を鋳造しかつ何らの造幣料も課さない間は、貨幣は、等しい量目と品位とを有つ同一金属のある他の片と、同一の価値を有つであろう。しかしもし国家が鋳造料を課すならば、鋳造された貨幣片は一般に、課せられた全造幣料だけ鋳造されない金属片の価値を超過するであろうが、それはけだし、それを獲得するに、より多量の労働または同じことであるがより多量の労働の生産物の価値を必要とするからである。
国家のみが鋳造をする間は、この造幣料の賦課には何らの限界も有り得ない。けだし鋳貨の分量を制限すればそれは想像し得るいかなる価値にまでも高められ得るからである。 
(一二五)貨幣が流通するのはこの原理による。すなわち紙幣に対する賦課の全額は造幣料と考え得よう。それは何らの内在価値も有たないが、しかもその分量の制限によって、その交換価値は等しい名称を有つ鋳貨またはその鋳貨に含まれる地金と同一である。また同一の原則すなわちその分量の制限によって、削減された鋳貨ももしそれが法定の量目と品位とを有っている場合にはそれが有つべき価値で流通するであろうが、それが実際に含有する金属量の価値では流通しないであろう。従って英国造幣史において吾々は通貨がその削減と同一の比例で減価しなかったのを見出すのである。その理由は、それがその内在価値の減少に比例してその分量を増加されなかったことである(註)。
(註)私が金貨について言うことは何であろうとすべて、等しく銀貨にも適用し得る。しかしあらゆる場合において両者を挙げる必要はない。
紙幣の発行においては、分量制限の原則から生ずる結果を十分に銘記しておく以上に重要なことはない。五十年後には、今日銀行の理事及び大臣が、議会ででもまた議会の委員会ででも、英蘭イングランド銀行による銀行券の発行は、かかる銀行券の所持者の正金または地金との兌換請求権によって妨げられてはいないから、貨物や地金や外国為替の価格には何らの影響をも及ぼさずまた及ぼし得ないと、真面目に主張したということは、ほとんど信ぜられないであろう。
銀行の設立以後は国家は独占的貨幣鋳造権または発行権を有たない。通貨は、鋳貨によってと同様に有効に紙幣によって増加され得る。従って、国家がその貨幣を削減しその分量を制限するとしても、それはその価値を保持し得ないであろうが、けだし銀行は同じく全貨幣流通量を増加せしめる権能を有っているからである。
かかる原則によって、紙幣はその価値を確保するために正金で支払われなければならぬという必要はなく、本位として宣布された金属の価値に従って紙幣量が調節されねばならぬことが必要であるに過ぎない、ということが分るであろう。もし本位が一定の量目及び品位の金であるならば、紙幣は、金の価値の下落するごとに、またはその結果においては同じことであるが、財貨の価格の騰貴するごとに、増加され得よう。 
(一二六)スミス博士は曰く、『余りに多量の紙幣を発行し、その超過分は、金及び銀と兌換されるために絶えず囘帰しつつあったために、英蘭イングランド銀行は、引続き多年の間、一年八十万磅ポンドから一百万磅ポンドまたは平均約八十五万磅ポンドも、金を鋳造せざるを得なかった。この大なる鋳造のために、銀行はしばしば、金貨が数年前に陥った磨損しかつ下落した状態の結果として、地金を一オンスにつき四磅ポンドという高い価格で購買せざるを得ず、それをその後直ちに一オンスにつき三磅ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一で鋳貨として発行したために、かくて、かくも多額の鋳造に際し二%半ないし三%の損失を蒙ったのである。従って、銀行は何らの造幣料を支払わず、政府が当然にこの鋳造費を負担したとはいえ、この政府の寛裕かんゆうは銀行の出資を全然防ぐものではなかった。』
上述の原則に基いて、かくの如くして持込まれた紙幣を再発行せざることによって、低落せる金貨と新しい金貨との全通貨の価値は騰貴し、その時に銀行に対するすべての要求はなくなったということが、私には最も明かであると思われる。
しかしながらビウキャナン氏はこれと意見を異にする。けだし彼は曰く、『この時に銀行が負担した大なる出費は、スミス博士が想像していると思われる如くに、紙幣の不慎慮な発行によってではなく、削減された通貨の状態及びその結果たる地金の価格騰貴によって、惹起されたものである。銀行は――そう考えられるであろうが、――地金を鋳造のために造幣局に送る以外に、ギニイ貨を取得する方法を有たないから、常にその戻って来た銀行券と引換えに新鋳造ギニイ貨を発行せざるを得ず、そして通貨が量目において不足し、地金の価格がそれに比例して高い時には銀行からその紙幣と引換えにかかる量目の大なるギニイ貨を引出し、それを地金とし、そしてそれを利潤を得て銀行紙幣に対して売り、ギニイ貨の新たな供給を得んがために再びそれを銀行に戻し、このギニイ貨を再び熔解して売却するのが、有利となった。通貨の量目が不足している間は銀行はこの正金の流出を常に蒙らなければならない、けだしその時には容易なかつ確実な利潤が、紙幣と正金との不断の交換から生ずるからである。しかしながら、銀行がその時にその正金の流出によっていかなる不便や出費を蒙ろうと、その銀行券に対して貨幣を支払う義務を解除することが必要であるとは決して想像されなかったことを、述ぶべきであろう。』
ビウキャナン氏は明かに、全通貨は、必然的に、削減された貨幣の価値の水準にまで引下げなければならぬと考えている。しかし確かに、通貨の分量の減少によって、残っている全部は最良の貨幣の価値にまで引上げられ得るのである。
スミス博士は、植民地通貨に関するその議論の中で、自分自身の原理を忘れたように思われる。紙幣の減価をその分量の過大なるに帰せずして、彼は、植民地の保証が完全に確実であると仮定して、十五年後に支払わるべき一百磅ポンドは、同時に支払わるべき一百磅ポンドと等しい価値を有つか否かを問うている。私はもしそれが過重でないならば、しかりと答える。 
(一二七)しかしながら経済は、国家でも銀行でも無制限の紙幣発行権を有つ時には常にこれを濫用するの結果となったことを、示している。従ってあらゆる国家において、紙幣の発行は何らかの制限と統制との下にあるべきである。そしてその目的のためには、紙幣発行者をして、その銀行券を地金で支払う義務に服せしめるのが、最もよいように思われる。
〔『公衆を(註一)本位そのものが蒙るもの以外の通貨の価値の何らかの他の変動に対して確保し、同時に、最も出費が少くて済む媒介物をもって流通を行わしめる事は、通貨が齎され得る最も完全な状態を達成する事であり、そして吾々は銀行をしてその銀行券と引換えに、ギニイ貨幣の引渡ではなく造幣本位及び造幣価格での未鋳造の金または銀の引渡をなさしめる事によって、すべてのこれらの利益を所有する事となろうが、この方法によれば紙幣が地金の価値以下に下落する時には必ず地金の量の減少を伴うであろう。地金の価値以上への紙幣の騰貴を防ぐために銀行はまた紙幣を、一オンスにつき三磅ポンド一七シリングという価格で本位たる地金と引換えに与えざるを得ざらしめられるべきである。銀行に余りに多くの手数をかけないために、三磅ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一という造幣価格で紙幣と引換えに要求される金の分量、または三磅ポンド一七シリングで売られるべき分量は決して二十オンス以下であってはならない。換言すれば銀行は二十オンス以下ではない所のそれに提供された金のある分量を一オンスにつき三磅ポンド一七シリング(註二)で購買し、また要求される分量を三磅ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一で売却せざるを得ざらしめらるべきである。銀行がその紙幣量を左右する力を有っている間はかかる規定よりして銀行に起り得べき不便は何もあり得ないのである。
(註一)このパラグラフ及びそれ以下の括弧の終りに至るパラグラフは、著者が一八一六年に著わした、『経済的なかつ安全な通貨に対する諸提案』と題するパンフレットからの抜抄ばっしょうである。
(註二)ここに挙げた三磅ポンド一七シリングという価格は、もちろん、任意にきめた価格である。おそらくそれをややこれ以上にかややこれ以下にか定むべき十分なる理由があるであろう。三磅ポンド一七シリングときめたのは、単に、原理を説明せんがためである。この価格は、金の売却者にとり、それを造幣局へ持って行くよりもむしろそれを銀行に売却する方が利益となるようにきめるべきである。
同じ注意は二十オンスという特定量に対しても妥当する。それを十オンスまたは三十オンスにするのに十分の理由があるであろう。
『同時に、あらゆる種類の地金を輸出入するために最も完全な自由が与えられなければならぬ。かかる地金取引は、もし銀行が、流通している紙幣の絶対量を顧慮せずに、私がかくもしばしば挙げた指標すなわち本位たる地金の価格によって、その貸出及び紙幣発行を左右するならば、その数は極めて少いであろう。
『私が目指している目的は、もし銀行がその銀行券と引換えに造幣価格及び造幣標準で未鋳造地金を引渡すことを命ぜられているならば、十分に達せられるであろう。もっともこの場合、銀行は、特に造幣局が貨幣鋳造のために引続き公開されている場合には、銀行に提供されたいかなる分量の地金をも固定せらるべき価格で購買しなければならぬわけではない。けだしその規定は単に、貨幣価値が銀行が買入れるべき価格と売出すべき価格とのほんのわずかな差額以上に、地金価値から動くのを妨げるために云ったのに過ぎず、そしてそれはかくも望ましいものと認められている所の貨幣価値の斉一性へ接近することである。
『もし銀行が気紛れにその紙幣量を制限するならば、それはその価値を騰貴せしめ、そして金は、銀行が購入せんことを私が提案している限度以下に、下落するように思われるであろう。金は、その場合には、造幣局に運ばれ、そしてそこから返って来る貨幣は、流通貨幣に附加されて、その価値を下落せしめかつそれを再び本位に一致せしめる結果を有つであろう。しかし、それは、私が提案した手段によるほど安全にも経済的にもまた迅速にも行われないであろうが、この私の提案した手段に対しては、銀行は、他人をして鋳貨で流通貨幣を供給せしめるよりもむしろ紙幣でそれを供給するのが彼らの利益に合するから何らの反対も提起しないであろう。
『かかる制度の下において、かつかくの如く統制された通貨をもってすれば、銀行は、一般的パニックが国を襲い、そしてあらゆる者がその財産を実現しまたはこれを隠蔽いんぺいする最も便利な方法として貴金属を所有せんと望む所の異常の場合を除けば、何らの困惑をも蒙らないであろう。かかるパニックに対しては、いかなる制度によっても銀行は何らの安固をも有たない。まさにその性質そのものにより銀行は恐慌を蒙らなければならぬが、それはけだしいかなる時においても、かかる国の金持達が請求権を有するだけの正金または地金の量は、銀行にも国内にも有り得ないからである。もしあらゆる者が同じ日にその銀行からその預入残を引出すならば、今流通している銀行券の多数倍の分量でもかかる要求に応ずるに足りないであろう。この種のパニックが一七九七年の恐慌の原因であったのであり、想像されている如くに、銀行が当時政府に対してなした多額の融通がその原因であったのではない。その時に銀行も政府も悪い点はなかった。銀行取付を惹起したものは、社会の小心な一部の無根拠な恐怖の伝播であり、そして銀行が政府にいかなる融通もなさずそしてその現在の資本の二倍を所有していたとしても、それは等しく起ったことであろう。
『紙幣を発行するについての規則に対する銀行理事の周知の意見をもってすれば、彼らは、その力を大して慎重にもせずに行使したと言われ得よう。彼らが極度に注意して、彼ら自身の原理に随したがって行動したことは明かである。現在の法律状態においては、彼らは、何らの監督も受けず自ら適当と考えるいかなる程度にも流通貨幣を増減する力を有っているが、それは、国家自身にもまたその中のいかなる団体にも与えられるべきではない力である。けだし通貨の増減がもっぱら発行者達の意思に依存している時には、通貨の価値の斉一性に対しては何らの保証も有り得ないからである。銀行が流通貨幣を全く最も狭い限度にまで減少せしめる力を有っているということは、理事は無限にその分量を増加する力を有っていないということで理事と同意見の人によってすら、否定されないであろう。この力を公衆の利益を犠牲にして行使することが銀行の利益にも希望にも反するものであることは私は十分確信するとはいえ、しかも、私は、流通貨幣の突如たるかつ大なる減少並びにその大なる増加により起りもすべき悪結果を考慮する時には、国家が無造作にかくも恐るべき特権で銀行を武装したことを否とせざるを得ないのである。
『現金兌換の停止以前に地方銀行が蒙った不便は、時には、極めて大であったに相違ない。すべての危急の時期または予期された危急の時期には、地方銀行は、起り得る一切の緊急事変に応じ得んがためにギニイ貨を備えておかねばならなかったに相違ない。ギニイ貨は、かかる場合にはより多額の銀行券と引換えに英蘭イングランド銀行で得られ、そして費用と危険とを賭けて、ある信用ある代理人によって地方銀行に運ばれた。それがなすべき職務を果した後に、それは再びロンドンに戻り、そして、それが法定標準以下になってしまうような量目の減少を蒙っていなければ、ほとんど常にまたも英蘭イングランド銀行に貯蔵されたのである。
『もし今提議されている銀行券を地金で支払うという案が採用されるならば、この特権を地方銀行にまで拡張するかまたは英蘭イングランド銀行券を法貨とするかいずれかが必要であろうが、この後の場合には、地方銀行は、現在と同様に、要求される時にその銀行券を英蘭イングランド銀行券で支払わしめられるであろうから、地方銀行に関する法律には何らの変更もないであろう。
『転々する間に受けるにきまっている摩擦による量目の減少にギニイ貨を委ねないことによって生ずる節約、並びに運搬費の節約は、著しいであろう。しかし遥かに最大の利益は、少額の支払の関する限りにおいて、地方並びにロンドンの通貨の永久的供給が、はなはだ高価な媒介物たる金ではなく極めて低廉な媒介物たる紙でなされることから生じ、ひいては国をしてその額に当る資本の生産的使用によって取得され得べきすべての利潤を獲得するを得しめるであろう。ある特別の不利益がより低廉な媒介物の採用に伴生する傾向あることが指示され得ない限り、吾々は確かにかくも決定的な利益を拒否する権利はないはずである。』〕
通貨は、それが全然紙幣から成る時に、その最も完全な状態にあるのであるが、その紙幣とは、自らそれを代表するといっている金と等しい価値を有つ紙幣のことである。金に代えての紙の使用は最も費用を要する媒介物に代えるに最も低廉なるものをもってし、そして国をして、いかなる個人にも損失せしめずに、それが以前にこの目的に用いたすべての金を粗生原料品や器具や食物と交換し得せしめるが、これらの物の使用にによってその富もその享楽品も増加されるのである。 
(一二八)国民的見地からすれば、この良く調整された紙幣の発行者が政府であろうと銀行であろうと、それは何ら重要なことではなく、それがそのいずれによって発行されてもそれは全体として同等に富を生産するが、しかし個人の利益についてはそうではない。市場利子率が七%であり国家が年々ある特定の出費のために年々七〇、〇〇〇磅ポンドを必要とする国においては、その国の個人が年々この七〇、〇〇〇磅ポンドを支払うように課税されなければならぬか、または彼らが租税なくしてこれを調達し得るかは、彼らにとって重要な問題である。遠征隊を装備するに百万の貨幣が必要とされると仮定せよ。もし国家が百万の紙幣を発行し百万の鋳貨を排除するならば、遠征隊は人民に対し何らの負担を課することなくして装備されるであろうが、しかしもし銀行が百万の紙幣を発行してそれを政府に七%で貸付け、よってもって百万の鋳貨を排除するならば、国は年々七〇、〇〇〇磅ポンドという継続的租税を課せられるであろう。すなわち人民は租税を支払い、銀行はそれを受取り、そして社会はいずれの場合においてもその富の程度は以前と同一であろう。遠征隊は、我国の制度の改善によって、百万の価値を有つ資本を、鋳貨の形において不生産的ならしめておくことなく、これを貨物の形において生産的ならしめることによって、真実に装備されたのである。しかし利益は常に紙幣発行者に帰するであろう。そして国家は人民を代表するから、もし銀行ではなく国家が百万を発行していたならば、人民はこの租税を免れていたことであろう。
私は既に、もし紙幣発行権が濫用されないという完全な保証があるならば、誰によってそれが発行されるかは、全体としての国の富については何ら重要ではないということを観た。そして今私は、公衆は、発行者が国家であり商人や銀行業者の会社でないことに、直接の利益を有つことを示した。しかしながら危険は、この権能が銀行会社の手中にある場合よりも政府の手中にある場合の方がより濫用されやすい、ということである。会社は法律の統制に服することがより多く、そしてたとえ慎慮の限度を越えてその発行額が拡張するのがその利益であるとしても、それは地金または正金を請求する個人の権能によって制限され妨げられるであろう、と言われている。政府が貨幣発行の特権を有つ場合にはこの妨げは長くは尊重されず、政府は将来の安固よりもむしろ現在の便宜を考える傾きが有り過ぎ、従ってそれは、便宜という理由に名を藉かりて、その発行額を統制する妨げを除去せんとする気になり過ぎるかもしれない、と論ぜられている。
専断な政府の下においてはこの反対論は大きな力を有つであろうが、しかし開けた立法府を有つ自由な国においては、紙幣発行権は、所持人の意志に従って兌換するという必要な抑制の下にあって、その特別の目的のために任命された委員の手に安全に託され得、そして彼らは大臣の支配から全然独立せしめられることであろう。
減債基金は、単に議会に対してのみ責任を有つ委員によって管理され、そして彼らに委任された貨幣の投資は極めて規則正しく行われている。紙幣の発行が同様の管理の下に置かれた場合に、それがこれと等しく真面目に調整され得べきことを、疑うべきいかなる理由が有り得るであろうか? 
(一二九)紙幣の発行によって国家従ってまた公衆に対して生ずる利益は、公衆がその利子を支払う国債の一部分を無利子の負担たらしめるから、十分に明かであるが、しかもそれは、銀行紙幣の一部分の発行方法たる所の、商人が貨幣を借り、またその手形を割引いてもらうことを出来なくさせるから、商業に対し不利である、と言われるかもしれない。
しかしながらこれは、もし銀行が貨幣を貸さなければそれを借りることは出来ず、そして市場利子率及び利潤率は、貨幣の発行額とそれが発行される通路に依存するものである、と想像することである。しかし一国はその支払手段さえ有れば、毛織布や葡萄酒やその他の貨物に事欠かないと同じく、借手が十分の担保を提供しかつそれに対して喜んで市場利子率を支払う気ならば、貸付けらるべき貨幣にも事欠かないであろう。
本書の他の部分において、私は一貨幣の真実価値は、その生産者のある者の享受すべき偶然的便益でではなく、最も恵めぐまれない生産者の当面する真実の困難によって、左右されることを、説明せんと努めた。貨幣に対する利子についてもそうである。それは銀行が貸付けようとする率――それが五%であろうと四%であろうとまたは三%であろうと、――によってではなく、資本の使用によって作られ得、かつ貨幣の量または価値とは全然無関係の、利潤率によって、左右されるのである。銀行が百万を貸付けようと千万を貸付けようとまたは一億を貸付けようと、それは永久的には市場利子率を変動せしめはせず、単にそれがかくして発行した貨幣価値を変動せしめるのみであろう。一つの場合においては、同じ事業を営むために、他の場合に必要とさるべき貨幣よりも一〇倍または二〇倍より多くの貨幣が必要とされるかもしれない、かくて貨幣を銀行に借り入れんことを申込むことは、それの使用によって作られ得べき利潤の率と、銀行がそれを喜んで貸付けようとする率との間の比較に依存する。もしも銀行が市場利子率以下を課するならば、銀行の有つ貨幣額で貸付け得ないものはない、――もし銀行がその率以上を課するならば、浪費者や放蕩者の他は誰も銀行から借り入れないであろう。従って吾々は、市場利子率が、銀行が一律に貸出す率たる五%を超過する時には、割引課は貸付請求者によって包囲され、反対に市場率が一時的であるといえども五%である時には、この課の事務員には仕事がないことを見出すのである。
かくて過ぐる二十年の間、銀行が、貨幣をもって商人を援助することによって、商業にかくも多くの助力を与え来った、と言われている理由は、けだしその全期間に亘って、銀行が、市場利子率以下で、すなわち商人が他で借入れ得た率以下で、貨幣を貸付けたからである。しかし――私は告白するが、――このことは銀行なる制度の賛成論であるよりはむしろその反対論であるように、私には思われるのである。
毛織物業者の半分に市場価格以下で羊毛を規則的に供給すべき一制度については、吾々はこれを何と評すべきであろうか? それはいかなる利益を社会に対して有つであろうか? それは我国の取引を拡張しないであろうが、けだしそれが羊毛に対し市場価格を課したとしてもそれは等しく購買されたからである。それは消費者に対し毛織布の価格を低下せしめないが、それはけだしその価格は、前述の如くに、利益を受けること最も少き者にとってのその生産費によって左右されるからである。かくてその唯一の影響は、毛織物業者の一部分の利潤を通常利潤率以上に増加せしめることであろう。この制度はその公正な利潤を奪われ、そして社会の他の部分は同一の程度に利益を受けるであろう。さてかかるものがまさに我国の銀行制度の影響である。一利子率が、市場で借りられ得る率以下に決定されており、そして銀行は、この率で貸付けなければならず、しからざれば全然貸付けてはならないのである。銀行制度というものの性質からして、それはかくの如くして処分し得るに過ぎない大きな資金を有っている。そして我国の商人の一部分は、市場価格によってのみ影響されなければならぬ者よりより少い費用で、取引の用具を手に入れ得るために、不当に、そして国に対しては不利益になるように、利益を受けているのである。
全会社が営み得る全事業は、その資本、すなわち、生産に用いられる粗生原料品、機械、食物、船舶等、の分量に依存する。良く調整された紙幣が行われるに至った後は、これらは銀行業の作用によっては増加されも減少されもし得ない。かくてもし国家がその国の紙幣を発行するものとするならば、それが一枚の手形も割引かず一シリングを公衆に貸付けなくとも、吾々は同一量の粗生原料品や機械や食物や船舶を有っているはずであるから、取引額には何らの変動も起らないであろう。そしてまたおそらく、法定率が市場率以下である時には実際必ず法定率たる五%ではなく、貸手と借手との間の市場における公正な競争の結果たる六、七、または八%で、同額の貨幣が貸付けられ得よう。
アダム・スミスは、現金勘定によってなすべきスコットランド式資金融通方法が、イングランド式に勝ることから、商人が得る便益について、語っている。かかる現金勘定は、スコットランドの銀行業者がその顧客に、彼らのために彼が割引する手形を加えて、与える所の信用である。しかし銀行業者は、彼が貨幣を前貸してそれを一つの方法で流通界へ送出すに比例して、他の方法でそれだけを発行することを妨げられるのであるから、その便益が何であるかを認知することは困難である。もし全流通が単に百万の紙幣を支え得るに過ぎないならば、百万が流通されるに過ぎないであろう。そして銀行家にとっても商人にとっても、全体が手形の割引によって発行されるか、または、一部分がかくの如くして発行せられ、その残りがかかる現金勘定によって発行されるかは、少しも真実の重要性を有ち得ないのである。 
(一三〇)通貨として用いられる金銀二金属の問題について数語を費すことがおそらく必要であろうが、けだし特に、この問題は、多くの人の心において、簡単明瞭な通貨原理を混乱させるように思われるからである。スミス博士は曰く、『イングランドにおいては、金が貨幣に鋳造されて後久しい間金は法貨と看做されなかった。金及び銀の価値比例は、いかなる公の法律または布告によっても定められず、市場によって決定されるに委ねられていた。もし債務者が金での支払を申出たならば、債権者はかかる支払を全く拒絶するか、または彼とその債務者が同意し得るような金の評価で、それを受容し得たであろう。』
かかる事態においては、ギニイ貨は、金と銀との相対的市場価値の変動に全く依存して、時に二二シリングまたはそれ以上に通用し、また時に一八シリングまたはそれ以下に通用するかもしれないことは、明かである。銀の価値のあらゆる変動並びに金の価値のあらゆる変動もまた、金貨で計られるであろう、――あたかも銀が不変であり、そしてあたかも金のみが騰落を蒙るに過ぎないかの如くに見えるであろう。かくて一ギニイ貨が一八シリングではなく二二シリングに通用しても、金の価値が変動しなかったかもしれず、変動は全く銀に限られ従って二二シリングは以前に一八シリングが有した以上の価値を有たなかったのかもしれない。またこれに反し、全変動が金にあったのかもしれず、一八シリングに値したギニイ貨が二二シリングの価値に騰貴したのかもしれない。
もし吾々が今、この銀通貨が剽削ひょうさくによって削減されかつその分量も増加されたと仮定すれば、一ギニイ貨は三〇シリングに通用するかもしれない。けだしかかる削減された貨幣の三〇シリング中にある銀は、一ギニイ貨中にある金以上の価値は有たないかもしれぬからである。銀通貨をその造幣価値にまで恢復することによって銀貨は騰貴するであろう。しかし外見は金が下落したように見えるであろうが、それは一ギニイ貨はおそらく良質のシリング貨の二一と同一の価値しか有たないからである。
もし金もまた一法貨とされ、そしてあらゆる債務者は自由に、その債務を、その負う二一磅ポンドごとに四二〇シリングの銀貨または二〇ギニイの金貨を支払うことによって弁済し得るならば、彼は、最も安くその債務を弁済し得るに従ってそのいずれかで支払うであろう。もし五クヲタアの小麦をもって、彼が造幣局が二〇ギニイ金貨に鋳造すべき額の全地金を取得し得、また同じ小麦に対して、造幣局が彼に四三〇シリング銀貨に鋳造すべき額の銀地金を取得し得るならば、彼は銀で支払うことを選ぶであろうが、けだし彼はその債務をかくの如くして支払うことによって一〇シリングの利得者となるからである。しかしこれに反し、もし彼がその小麦をもって二〇ギニイ半の金貨に鋳造されるべき量の金を利得し得、そして四二〇シリングの銀貨に鋳造されるべき量の銀を取得し得るに過ぎないならば、彼は当然にその債務を金で支払うことを選ぶであろう。もし彼が取得し得る金の量が単に二〇ギニイの金貨に鋳造され得るに過ぎず、そしてその銀の量が四二〇シリングの銀貨に鋳造され得るならば、彼がその債務を支払うのが銀貨であろうと金貨であろうと彼にとっては全くどうでもよいことであろう。かくてそれは偶然事ではない。金が常に債務を支払う目的のために選ばれるのは、金が富国の流通を行うによりよく適するからではなく、単にそれで債務を支払うのが債務者の利益であるからである。
銀行の現金の兌換停止の年たる一七九七年以前の長い時期の間、金は銀に比較して極めて低廉であったために、英蘭イングランド銀行その他すべての債務者にとり、鋳造のためにそれを造幣局に運ぶ目的をもって、市場において銀ではなく金を買うのが、その利益に合したが、けだし彼らは金でその債務を弁済した方がより低廉に済んだからである。銀貨は、この時期の大部分の間、その価値が極めて削減されたが、しかしそれは稀少な程度に存在し、従って、私が前述した原理によって、その通用価値は決して下落しなかった。かくも削減されはしたけれども、金貨で支払うのが依然債務者の利益であった。もちろんもしこの削減された銀貨の量がベラ棒に大であり、またはもし造幣局がかかる削減された貨幣片を発行したのであるならば、この削減された貨幣で支払うのが債務者の利益であったかもしれないが、しかしその量は限られており、そしてその価値を保持しており、従って金が実際上通貨の真実の本位であったのである。
それがそうであったことはどこでも否定されていない。しかしそれは、銀は造幣標準に依って量目で計算せざる限り二五磅ポンド以上のいかなる債務に対しても法貨たらしめられないと宣言する法律によって、そうされたのであると主張されている。
しかしこの法律は、ある債務者がその債務を、その額がいかに大であろうと、造幣局から来たばかりの銀貨で支払うのを妨げはしなかった。債務者がこの金属で支払わなかったのは、偶然事ではなく強制事でもなくして、全く選択の結果である。銀を造幣局に持って行くのは彼れの利益には合せず、金をそこに持って行くのが彼れの利益に合したのである。もし、この削減された流通銀貨の分量がベラ棒に大であり、そしてまた法貨であるならば、おそらく一ギニイ貨が再び三〇シリングに値したであろうが、それはしかし削減されたシリング銀貨が価値において下落したのであり、ギニイ金貨が騰貴したのではないであろう。
かくてこの二つの金属の各々がいかなる額の債務に対しても等しく法貨である間は、吾々が、価値の主たる標準尺度の不断の変動を蒙ることは明かである。それは時に金であり、また時に銀であり、このことはこの二つの金属の相対価値の変動に全く依存する。そしてかかる時代には、標準ではない金属は熔解され、そして流通から引去られるが、それはけだしその価値は鋳貨の場合よりも地金の場合の方がより大であるからである。これは一つの不利益であり、それが除去されることは極めて望ましいことである。しかし改善は極めて遅々としているために、たとえロック氏によって反駁され得ざるほどに証明され、そして彼れの時代以来、貨幣の問題についてあらゆる学者により指摘されたとはいえ、一八一六年の議会会期までにはより良い制度がかつて採用されなかったが、その時に四〇シリング以上のいかなる額に対しても金のみが法貨であると法定されたのである。
スミス博士は、二つの金属を通貨として用い、また両者をいかなる額の債務に対しても法貨として用いることの結果を、十分知っていたようには思われない。けだし彼は曰く、『実際には、鋳貨としての種々な金属の価値の間に一つの規制された比例が継続している間は、最も貴重な金属の価値が金鋳貨の価値を左右する』と。彼れの時代には、金は債務者がその債務を支払うに適せる媒介物であったから、彼は、それがある固有の性質を有っておりそれによって当然それが銀貨の価値を左右したし、そしてまた常にこれを左右するであろう、と考えたのである。
一七七四年の金貨の改革に当って、造幣局から出て来たばかりの新ギニイ貨は、二十一箇の削減されたシリング銀貨と交換されるに過ぎなかった。しかし銀貨が正確に同一の状態にあった所の国王ウィリアムの治世においては、同じく新しい造幣局から出て来たばかりのギニイ貨は、二〇シリング銀貨と交換された。これについてビウキャナン氏は曰く、『かくてここに、普通の通貨理論が何らの説明を与えない最も特異な事実があるわけである。すなわちギニイ貨は、ある時には削減された銀貨でのその内在価値たる三〇シリングと交換されながら、後に至ってこの削減されたシリング銀貨の二十一箇と交換されたに過ぎない。これらの二つの異る時期の間にはスミス博士の仮説が何らの説明も与えない所の、通貨状態のある大変化が介在したに相違ないことは、明かである。』
述べられている二つの時期におけるギニイ貨の価値の相違を、削減された銀貨の流通量の相違に帰すれば、この困難は極めて簡単に解決され得るように、私には思われる。国王ウィリアムの治世においては金は法貨ではなく、単に伝統的な価値で通用していたに過ぎない。すべての巨額の支払はおそらく銀でなされたが、それは特に紙幣及び銀行業の作用が当時ほとんど理解されていなかったからである。この削減された銀貨の量は、削減されない貨幣のみが用いられた場合に流通界にあるべき銀貨の量を、超過し、従ってそれは削減されたと同様にまた減価した。しかしそれに続く所の、金が法貨であり銀行券もまた支払の用に当てられた時期においては、削減された銀貨の量は、削減された銀貨がない場合に流通すべかりし所の、造幣局から出て来たばかりの銀貨の量を超過しなかった。だから貨幣は削減されはしたけれども減価しなかったのである。ビウキャナン氏の説明はややこれと異る。彼は補助貨は減価しそうにもないが本位貨は減価すると考えている。国王ウィリアムの治世においては銀は本位貨であり、そのためにそれは減価した。一七七四年には、それは補助貨であり、従ってその価値を維持した。しかしながら、減価は、通貨が補助貨であるか本位貨であるかということには依存せず、それは全然その量が過剰であるということに依存するのである(註)。
(註)最近議会で、ロオダアデイル卿によって、現行の造幣規則をもってすれば英蘭イングランド銀行は正金でその銀行券を支払うことが出来ないであろうが、けだし二金属の相対価値は、その債務を金ではなく銀で支払うのがすべての債務者の利益であるというような高さにあるのに、他方法律は、銀行のすべての債権者に銀行券と引換えに金を要求する力を与えたがためである、と主張された。卿は、この金は有利に輸出され得ると考え、そしてもしそれが事実ならば、銀行は、供給を維持するために、不断にプレミアム附つきで金を購買しかつそれを平価で売らざるを得ない、と彼は主張している。もしあらゆる他の債務者が銀で支払い得るならばロオダアデイル卿は正しいであろうが、しかし債務者はその債務が四〇シリングを超過するならば、銀で支払い得ない。かくてこのことは流通している銀貨の額を制限するであろう。(もし政府が、それが便宜と考える時にはいつでも、その金属の鋳造を中止する力を保留しておかなかったならば。)けだしもし余りに多くの銀が鋳造されるならば、それは金に対する相対価値において下落し、そして何人も、そのより低い価値に対して補償がなされない限り、四〇シリングを超過する債務に対する支払においてそれを受入れぬであろうからである。一〇〇磅ポンドの債務を支払うためには百のソヴァレイン金貨か一〇〇磅ポンドに当る銀行券が必要であろうが、しかし、銀貨の流通額が余りに多い場合には、銀貨で一〇五磅ポンドが必要とされるであろう。かくて銀貨の分量の過剰に対しては二つの抑制がある、その第一は、政府がより以上の鋳造を妨げるためにいつでもなし得る直接的妨げであり、第二に、いかなる利害の動機も、何人をしても銀を造幣局に持ち運ばせない――たとえ彼にそれが出来ても――であろうが、けだしそれが鋳造されるとしてもそれはその造幣価値では通用せず、単にその市場価値で通用するに過ぎないからである。
適度の造幣料に対しては多くの反対はあり得ず、より少額の支払をなすための通貨に対するものについては特にそうである。貨幣は一般に造幣料の全額だけ価値において高まり、従ってそれは、貨幣の量が過剰でない間は、それを支払う者に決して影響を与えない租税である。しかしながら、紙幣制度が設けられている国においては、かかる紙幣の発行はその所持人の要求次第それを正金で支払う義務を有つとはいえ、しかも、彼らの銀行券も鋳貨も共に、紙幣の流通を制限する妨げが働かないうちに、唯一の法貨たる鋳貨に対する造幣料の全額だけ減価されるべきことを、述べなければならない。もし金貨の造幣料が例えば五%であるならば、通貨は、銀行券の濫発によってそれを地金に熔解するために鋳貨を要求するのが銀行券の所持人の利益となるに先立って、実際五%だけ減価されるであろうが、これは金貨に対して何らの造幣料もないか、または造幣料が課せられたとしても、銀行券の所持人がそれと引換えに、鋳貨ではなく地金を、三磅ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一の造幣価格で請求し得る場合には、吾々が決して曝されることなき減価である。かくて英蘭イングランド銀行が所持人の欲するままに、その銀行券を地金または鋳貨で支払うべく強制されていない限り、銀貨に対して六%すなわち一オンスにつき四ペンスの造幣料を課するが、しかし金は全然無料で造幣局に鋳造させるということを命ずる所の、最近の法律は、最も有効に通貨の不必要な変動を予防するであろうから、おそらく最も適当なものであろう。 
第二十八章 富国及び貧国における、金、穀物、
 及び労働の比較価値について

 

(一三一)アダム・スミスは曰く、『金及び銀は、すべての他の貨物と同様に、最高の価格がそれに支払われる市場を当然に求める。そしてこの最高の価格は、これを支払う余裕が最もある国においてあらゆる物に与えられる。労働はあらゆる物に対して支払われる窮極的価格であることを、記憶しなければならない。そして労働の報酬が等しくよい国においては、労働の貨幣価格は労働者の生活資料のそれに比例するであろう。しかし金及び銀は、貧国よりも富国において、生活資料の供給が相当でしかない国よりもそれを豊富に有っている国において、より多量の生活資料と当然交換されるであろう。』
しかし穀物は、金、銀、その他の物と同様に一貨物である。従ってもしすべての貨物が富国において高い交換価値を有つならば、穀物はそれから除外されるはずはない。従って吾々は、穀物は高価であるから多量の貨幣と交換されたのであり、また貨幣もそれが高価であるから多量の穀物と交換されたのであると、正しく言い得ようが、これは、穀物は同時に高価でありかつ低廉であると主張することである。富国は、食物供給の逓増的困難によって、貧国と同一の比率において人口が増加することを妨げられているということほど、経済学において十分に樹立され得る点はない。その困難は必然的に食物の相対価値を騰貴せしめ、その輸入に刺戟を与えねばならぬ。かくて貨幣、または金及び銀は、いかにして、貧国においてよりも富国においてより多くの穀物と交換され得るのであるか? 土地保有者が立法府を促して穀物の輸入を禁止せしめるのは、穀物の高価な富国においてのみである。アメリカまたはポウランドにおける、粗生生産物輸入禁止法を耳にしたものが、かつてあるか? ――自然は、それらの国におけるその生産の比較的内容なることによって、その輸入を有効に阻止したのである。
しからば、『もし穀物、及びその他の全然人間の勤労によって作られる如き野菜類を別とすれば、すべての他の種類の粗生生産物――家畜、家禽、すべての種類の獲物、地中の有用な化石や鉱石類等は、社会が発展するにつれて当然より高価になる。』ということはいかにして真実たり得ようか? 穀物と野菜類のみが何故なにゆえに除外されねばならぬのか? その全著作を通じてのスミス博士の誤謬は、穀価は不変であり、すべての他の物の価値は騰貴し得ようが、穀物の価値は決して騰貴し得ないと想像することにある。穀物は、彼によれば、常に同数の人間を養うから常に同一価値を有っているのである。同様に毛織布は常に同数の上衣を作るから常に同一価値を有っていると言い得よう。価値は養ったり着せたりする力といかなる関係を有ち得ようか? 
(一三二)穀物は、あらゆる他の貨物と同様に、あらゆる国において、その自然価格、すなわちその生産に必要でありそれが得られなければそれは耕作され得ない価格、を有っている。その市場価格を支配し、かつそれを外国に輸出する便否を決定するものは、この価格である。もし穀物の輸入が英国において禁止されるならば、その自然価格は英国においては一クヲタアにつき六磅ポンドに騰貴するかもしれぬが、他方それはフランスにおいては英国の価格の半ばに過ぎない。もしこの際輸入禁止が取除かれるならば、穀物は英国市場において、六磅ポンドと三磅ポンドとの間の一価格ではなく、窮極的にかつ永久的に、フランスの自然価格に、すなわち穀物が英国市場に供給され得かつフランスにおいて資本の通常利潤を与え得る価格に、下落するであろう。そして英国が十万クヲタアを消費しようと百万クヲタアを消費しようと、それはこの価格に止まるであろう。もし英国の需要が百万クヲタアであるならば、フランスが蒙る所のこの大なる供給をなすためにより劣等な質の土地に頼るという必要のために、自然価格はおそらくフランスにおいて騰貴するであろう。そしてこれはもちろん、英国における穀物価格にも影響を及ぼすであろう。私の主張するすべては、もし貨物が独占物でないならば、それらが輸入国において売られる価格を窮極的に左右するものは、輸出国におけるその自然価格である、ということである。
しかし、貨物の自然価格がその市場価格を窮極的に左右するという学説をかくも見事に主張したスミス博士は、市場価格が輸出国の自然価格によっても輸入国の自然価格によっても左右されないと考えられる場合を想定した。彼は曰く、『オランダかジェノア領かの真実の富を減少し、他方その住民数を同一ならしめるならば、それらが遠隔諸国から供給を受けるという力を減少するならば、穀価は、この衰退の原因またはその結果として必然的にそれに伴わざるを得ぬ所の銀の分量の減少と共に下落することなくして、饑饉ききん価格にまで騰貴するであろう。』
私にはその正反対のことが起るであろうと思われる、すなわちオランダ人またはジェノア人が一般に購買する力の減少は、しばらくの間穀価を、その輸出国並びにその輸入国において、その自然価格以下に引下げるかもしれぬが、しかしそれが穀価をこの価格以上に引上げ得るということは、全く不可能である。需要が増加され穀価がその以前の価格以上に騰貴し得るのは、オランダ人またはジェノア人の富を増加せしめることによってのみである。そしてこのことは、その供給を得るに当って新たな困難が起らない限り、極めて短い時間に起るであろう。
スミス博士は更にこの問題について曰く、『吾々が必要品を欠いている時には、吾々はすべての余計なものを手離さなければならないが、かかるものの価格は、それが富と繁栄の時には騰貴する如くに、貧困と窮乏の時には下落するのである。』これは疑いもなく真実である。しかも彼は続けて曰く、『必要品についてはこれと異る。その真実価格、すなわちそれが購買または支配し得る労働量は、貧困と窮乏の時には騰貴し、富と繁栄の時には下落するが、この富と繁栄の時は常に大豊富の時であって、それはけだししからざればそれは富と繁栄の時ではあり得ないからである。穀物は必要品であり、銀は単に余計物であるに過ぎない。』
互に何らの聯関も有たない二つの命題がここに提起されている。すなわちその一つは、想定された事情の下において穀物はより多くの労働を支配するということであって、争う余地のないことであり他方は穀物はより高い貨幣価格で売れ、すなわちそれはより多くの銀と交換されるということであって、私はこの後者は誤りであると主張する。もし穀物が同時に稀少であるならば、――もし平常の供給がなされなかったのであるならば、――これは真実であるかもしれない。しかしこの場合それは豊富である。日常以下の量が輸入されまたはそれ以上が必要とされるとは、されていない。穀物を購買するためにオランダ人またはジェノア人は貨幣を欲し、そしてこの貨幣を得るために彼らはその余計物を売らざるを得ない。下落するのはかかる余計物の市場価値及び市場価格である。しかし貨幣がそれらと比較して騰貴するように見える。しかしこれは穀物に対する需要を増加せしめる傾向を有たず、また貨幣価値を下落せしめる傾向も有たないであろう、この二つのことが穀物を騰貴せしめ得るただ二つの原因なのである。貨幣は信用欠除その他の原因によって、大いに需要され、従って穀物に比較して高価になるかもしれない。しかしいかなる正しい原則に拠よっても、かかる事情の下においては貨幣は低廉となり従って穀価は騰貴するであろう、ということは主張され得ないのである。
吾々が異る国の金、銀、その他の貨物の価値の高下を云う時には、吾々は常に、吾々がそれらを測定しているある媒介物を指示すべきであり、しからざればその命題にはいかなる観念をも附し得ない。かくて、金がスペインよりも英国においてより高価であると言われる時には、もしいかなる貨物も指示されないならば、この主張はいかなる観念を伝えるか? もし穀物や橄欖かんらんや葡萄酒や羊毛が英国よりもスペインにおいてより低廉な価格にあるならば、それらの貨物で測定すれば、金はスペインにおいてより高いのである。更にもし、鉄器や砂糖や毛織布等がスペインよりも英国においてより低廉な価格にあるならば、それらの貨物で測定すれば、金は英国においてより高いのである。かくして金は、観察者が金の価値を測定する媒介物として何を選ぶかに従って、スペインにおいてより高くもより低廉にも見えるのである。アダム・スミスは、穀物及び労働をもって普遍的価値尺度なりと刻印したから、当然それに対して金が交換される所のこれら二つの量によって、金の比較価値を測定するであろう。従って彼が二国における金の比較価値を論ずる時には、私は彼が穀物及び労働によって測定されたその価値を意味するものと理解する。 
(一三三)しかし吾々は、穀物で測定すれば、金は二つの国において極めて異る価値を有つであろうことを見た。私は、それは富国においては高いということを示さんと努力した。アダム・スミスの意見はこれと異る。すなわち彼は、穀物で測定された金の価値は富国において最も高いと考えている。しかしこれらの意見のいずれが正しいかをより以上に検討せずとも、そのいずれも、金は鉱山を所有する国において必ずしもより低くはないということ――これはアダム・スミスによって主張されている命題であるが、――を説明するに足るものである。英国が鉱山を所有し、そして金は富国において最も高い価値を有つものであるというアダム・スミスの意見が正しいと仮定すれば、金は当然に英国からすべて他国へその財貨と交換して流出するであろうけれども、それらの国よりも英国においては穀物及び労働と比較して金が必然的により低廉であるということにはならないであろう。しかしながら他の場所においてアダム・スミスは、スペイン及びポルトガルではヨオロッパの他の地方におけるよりも貴金属は必然的により低廉であるが、けだし両国は貴金属を生産する鉱山のほとんど独占的所有者であるから、と云っている。『封建制度がなお引続き存在しているポウランドは、今日、アメリカ発見以前の状態と同様に貧しい国である。しかしながら、ポウランドにおいてはヨオロッパの他の地方と同様に、穀物の貨幣価格は騰貴し、金属の真実価値は下落した。従ってその分量は、他の地方と同様にその国において、そして土地及び労働の年々の生産物とほとんど同一の比例で、増加したに相違ない。しかしながらこれらの金属量のかかる増加は、その年々の生産物を増加せしめず、この国の製造業や農業を改善しもしなければ、またその住民の境遇を改善しもしなかったように思われる。鉱山を所有する国たるスペイン及びポルトガルは、ポウランドに次いで、おそらくヨオロッパにおける二つの最も貧しい国である。しかしながら貴金属の価値は、啻に運賃及び保険料のみならず、更に貴金属の輸出が禁止されているかまたは関税を課せられているために密貿易の費用をも負担している所のヨオロッパの他の地方におけるよりも、スペイン及びポルトガルにおいてより低くなければならない。しかしながらそれらの国はヨオロッパの大部分よりもより貧しいのである。スペイン及びポルトガルにおいて封建制度が廃止されているとはいえ、その後を継いだものは遥かにより良い制度ではなかった。』
スミス博士の議論は思うにこうである。すなわち、金は、穀物で評価される時には、他の国におけるよりもスペインにおいてより低廉であり、そしてこのことの証明は、穀物を金の代償として他国がスペインに与えるということではなく、毛織布や砂糖や鉄器をこの金属の代償としてそれらの国が与えるということなのである。 
第二十九章 生産者によって支払われる租税

 

(一三四)セイ氏は、製造貨物に対する租税が、その製造過程の後期よりもむしろ初期に課せられた場合に起る不都合を、大いに誇大視している。貨物がその手を順次に通過する製造業者は、租税を前払しなければならない結果、より大なる資金を用いねばならず、このことはしばしばその資本と信用が極めて少い製造業者に対し、著しい困難を伴う、と彼は言っている。かかる考察に対してはいかなる反対論もなされ得ない。
彼が説いているもう一つの不都合は、租税の前払の結果、この前払に対する利潤もまた消費者に課せられなければならず、そしてこの附加的租税は国庫が何らの利益をも得ない所のものであるということである。
この後の反対論においては私はセイ氏に同意することは出来ない。国家は直ちに一、〇〇〇磅ポンドを徴収せんと欲し、そしてそれを製造業者に賦課したが、彼は十二箇月の間はそれをその完成貨物の消費者に転嫁し得ない、と吾々は仮定しよう。かかる十二箇月の遅延の結果として、彼は啻にこの租税額たる一、〇〇〇磅ポンドのみならず、更におそらく一、〇〇〇磅ポンド――一〇〇磅ポンドは前払された一、〇〇〇磅ポンドに対する利子である――の附加的価格を、その貨物に課せざるを得ない。しかし、消費者の支払う一〇〇磅ポンドというこの附加額に対する代償として、消費者は真実の利益を得るが、けだし政府が直ちに要求しまた結局彼が支払わなければならぬ租税の彼れの支払が、一年間延期されたことになるからである。従って一、〇〇〇磅ポンドを必要とした製造業者にそれを一〇%またはその他の協定せらるべき利率で貸付ける機会が、彼に与えられたのである。金利が一〇%の時に、一年の終りに支払わるべき一千百磅ポンドは、直ちに支払わるべき一、〇〇〇磅ポンド以上の価値は有たない。もしも政府がその租税の収納をその貨物の製造が完了するまで一年間延期するならば、政府はおそらく利附大蔵省証券を発行せざるを得ないであろうが、それは、消費者が価格において節約するだけのものを――その製造業者が租税の結果として彼自身の真実利得に加えもし得べかりし価格部分を除く――利子として支払うであろう。もしこの大蔵省証券の利子として政府が五%を支払ったとすれば、五〇磅ポンドの租税がそれを発行しないことによって節約される。もし製造業者が附加的資本を五%で借入れ、そして消費者に一〇%を課するならば、彼もまたその前払に対し、その日常利潤以上に五%を利得するであろう、従って製造業者も政府も共に消費者が支払う額を正確に利得しまたは節約することになるのである。 
(一三五)シモンド氏は、その名著『商業上の富について』において、セイ氏と同一の論法を辿って、一〇%なる適度の率の利潤を得ている一製造業者が本来的に支払う四、〇〇〇フランの租税は、もしこの製造貨物が単に五人の異る人々の手を経るのみであるならば、消費者にとり六、七三四フランに高められるであろうと計算した。この計算は次の仮定に基くものである。すなわち租税を最初に前払した者は、次の製造業者から四、四〇〇フランを受取り、そして彼はまたも次の者から四、八四〇フランを受取り、かくて各段階においてその価値に対する一〇%がそれに附加されるということである。これは、この租税の価値が、複利で、一年につき一〇%の率でではなくて、その進行の各段階において一〇%の絶対率で、蓄積されつつあることを、仮定するものである。ドゥ・シモンド氏のこの意見は、もしこの租税の最初の前払と課税貨物の消費者への売却との間に五箇年が経過するのであるならば、正しいであろう。しかしもし単に一年が経過するに過ぎないならば、二、七三四フランではなく四〇〇フランの報償が、この租税の前払に寄与したすべての者に、――その貨物が五人の製造業者の手を経ようと――五十人の手を経ようと――一年につき一〇%の率における利潤を与えるであろう。 
第三十章 需要及び供給の価格に及ぼす影響について

 

(一三六)貨物の価格を終局的に左右しなければならぬものは生産費であり、そして、しばしば言われ来った如くに、供給と需要との間の比例ではない。すなわち供給と需要との比例は、もちろん一時の間、需要の増減に従って貨物の供給が増減するまでは、その市場価格に影響を及ぼすかもしれぬが、しかしこの結果はただ短期間のものに過ぎないであろう。
帽子の生産費を減ずるならば、その価格は、需要が二倍、三倍、または四倍となっても、結局その新しい自然価格にまで下落するであろう。生命を保持するための食物や衣服の自然価格を減少することによって人々の生計費を減少するならば、労賃は労働者に対する需要が極めて著しく増加しても、結局下落するであろう。
貨物の価格は、もっぱら、供給の需要に対する比例、に依存するという意見は、経済学においてほとんど一つの公理となるに至り、そして斯学における多くの誤謬の根源となって来ている。ビウキャナン氏をして、労賃は食糧品の価格の騰落によっては影響されず、もっぱら労働の需要と供給とによって影響されると主張せしめ、また労働の労賃に対する租税は労賃を騰貴せしめないが、けだしそれは労働者に対する需要の供給に対する比例を変更しないからである、と主張せしめたものは、この意見である。 
(一三七)一貨物に対する需要は、その附加的分量が購買されまたは消費されないならば、増加すると言われ得ないが、しかもかかる事情の下において、その貨幣価値は騰貴するかもしれない。かくて、もし貨幣の価値が下落するならば、あらゆる貨物の価格は騰貴するであろうが、けだし、競争者達の各々は、その購買に当り以前よりもより多くの貨幣を喜んで支出するであろうからである。しかしその価格が一〇%または二〇%騰貴しても、もし以前よりもより多くが購買されないならば、おそらくは、その貨物の価格の変動がそれに対する需要の増加によって齎されたものであるとは、言い得ないであろう。その自然価格、その貨幣生産費は、真実に、変動した貨幣の価値によって変動したのであろう。需要には何らの増加もなくして、その貨物の価格は当然にその新しい価値に調整されるであろう。
セイ氏は曰く、『諸物はそれまでは下落し得るが、それ以下になれば生産が全然止るかまたは減少されるからそれ以下には下落し得ない最低価格を、生産費が決定することを、吾々は知った。』第二巻、二六頁。
彼は後に曰く、鉱山の発見以来金に対する需要は供給よりも更により大なる比例で増加したので、『財貨で測ったその価格は、十対一の比例では下落せずして、単に四対一の比例で下落したに過ぎなかった。』換言すれば、その自然価値の下落に比例しては下落せずして、供給が需要に超過したのに比例して下落した(註)。――『あらゆる貨物の価値は常に、需要に正比例し供給に反比例して騰貴する。』
(註)もし現実に存在すると同じ金及び銀の分量がありながら、これらの金属がただ什器や装飾品の製造にのみ用いられるならば、それは豊富となり、そして現在よりも極めてより低廉になるであろう。換言すれば、それを何らかの他種の財貨と交換するに当って、吾々は今に比例してそのより大なる分量を与えざるを得ないであろう。しかしこれらの金属の多量が貨幣として用いられており、しかもこの部分はそれ以外の目的には用いられていないから、家具や玉細工に用いるために残るものはより少い。さてこの稀少性がこれらの物の価値を増加するのである。――セイ、第二巻、三一六頁。なお七八頁の註を参照。
同一の意見はロオダアデイル伯によっても述べられている。
『あらゆる価値物が蒙る所の価値の変動については、もし吾々がしばらくの間、ある物が、あらゆる事情の下において等しい価値を常に有つように、内在的、固定的の価値を有つと仮定し得るならば、かかる固定的標準によって確かめられた所のすべての物の価値の度は、その物の分量とそれに対する需要との間の比例に応じて変動するであろう、そしてあらゆる貨物は、もちろん、四つの異る事情によりその変動を蒙るであろう。
一、『その分量の減少によってそれはその価値の増加を蒙るであろう。
二、『その分量の増加によってその価値の減少を蒙るであろう。
三、『需要の増加という事情によってそれはその価値の増大を蒙るであろう。
四、『需要の減少によってその価値は減少するであろう。
『しかしながら、いかなる貨物も、他の貨物の価値の尺度たる資格を有つように、固定的、内在的の価値を有ち得るものでないことは、明かに分るであろうから、人類は、価値の実際的尺度として、価値変動のただ四つの原因たるこれらの四つの変動源泉のいずれにも最も蒙りそうもないものを、選択させられるのである。
『従って普通の言葉で吾々がある貨物の価値を言い表わす時には、八つ異る事情の結果として、それはある時期には他の時期のそれと変化するであろう。
一、『吾々が価値を言い表わそうと思う貨物に関して、上述の四つの事情によって。
二、『吾々が価値の尺度として採用した貨物に関して、同じ四つの事情によって。』(註)
(註)『公共の富の性質及び起源に関する一研究』、一三頁。 
(一三八)これは独占貨物については真実であり、そして実際他のすべての貨物の市場価格についても限られた時期の間は真実である。もし帽子に対する需要が二倍となるならば、価格は直ちに騰貴するであろうが、しかし、帽子の生産費またはその自然価格が騰貴しない限り、その騰貴は単に一時的に過ぎないであろう。農業学におけるある大発見によりパンの自然価格が五〇%下落したとしても、需要は大いに増加しないであろうが、けだし何人も彼れの欲望を満足せしめるより以上を欲求しないであろうからである。そして需要が増加しないであろうから供給もまた増加しないであろう。けだし貨物は単にそれが生産され得るから供給されるのではなく、それに対する需要があるから生産されるのであるからである。かくてここに吾々は、供給と需要とがほとんど変化せず、またはそれが増加したとしても同じ比例で増加した場合を有つわけであるが、しかも貨幣の価値が引続き不変である時にもまた、パンの価格は五〇%下落することになるであろう。
個人かまたは会社かによって独占されている貨物は、ロオダアデイル卿が述べている法則に応じて変動する。すなわちそれは売手がその分量を増加するに比例して下落し、そして買手のこれを購買せんとする熱望に比例して騰貴する。その価格はその自然価値と何らの必然的関聯も有たない。しかし競争の対象となりかつその分量がいかなる程度にも増加され得る貨物の価格は、結局、需要と供給との状態ではなくて、その生産費の増減に、依存するであろう。 
第三十一章 機械について (編者註)

 

(編者註)本章は第一版にも第二版にも現われていない。
(一三九)本章において私は、機械が社会の異る階級の利益に及ぼす影響に関する研究に入るが、それは極めて重要な問題であり、そして何らかの確実なまたは満足な結果に導くが如くに研究されたことのないものであるように思われる問題である。この問題に関する私の意見を述べるのは私の義務となっていることより多いものであるが、けだしそれは、より以上考慮してみると、著しい変化を蒙っているからである。そして私は、機械に関して、私にとり撤囘しなければならぬ何事かを発表したとは思わぬが、しかも私は、現在誤謬であると考えている学説を、他の方法で支持したことがある。従って私の現在の見解を、それを抱懐ほうかいする私の理由と共に、検討に委ねるのが、私の義務となっているのである。
私がはじめて経済学の諸問題に注意を向けてより以来、私の意見は、労働を節約するという結果を有つ如き、生産部門への機械の採用は、一般的福祉であり、単に多くの場合に資本及び労働を一職業から他の職業に移動することに伴う不都合を随伴するに過ぎない、というにあった。地主が同一の貨幣地代を得る限り、彼らは、かかる地代を費して得る貨物のあるものの価格の下落によって利得し、そしてこの価格の下落は、必ずや機械の使用の結果でなければならないように、私には思われた。資本家もまた思うに、結局正確に同様にして利得するものであった。もちろん機械の発明をなし、また最初にそれを有用に用いた人は、一時多額の利潤を得ることによって、その上に利益を享受するであろう。しかし、機械が一般に使用されるようになるにつれて、生産された貨物の価格は、競争の影響により、その生産費にまで下落し、その時には資本家は以前と同一の貨幣利潤を得、そして、彼は、同一の貨幣収入をもってより多量の愉楽品及び享楽品を支配し得せしめられるために、一消費者として、単に一般的便益に参加するに過ぎないであろう。労働者階級もまた、機械の使用によって等しく利得するが、けだし彼らは同一の貨幣労賃をもってより多くの貨物を購買するの手段を有つからである、と私は考え、また私は、労賃の低落は全く起らないであろうが、けだし、資本家は、彼は新しいまたはとにかく異る貨物の生産に労働を雇傭せざるを得ないとはいえ、以前と同一分量の労働を需要しかつ雇傭する力を有つからである、と考えた。もし、機械の改良によって、同一分量の労働の使用をもって、靴下の分量が四倍とされ得、そして靴下に対する需要は単に二倍とされるに過ぎないならば、若干の労働者は必然的に靴下製造業から解雇されるであろう。しかし、彼らを雇傭していた資本は依然存在し、そしてそれを生産的に使用するのがその所有者の利益であるから、それは、社会にとり有用でありかつそれに対しては必ず需要がある所のある他の貨物の生産に雇傭されるであろう、と私には思われた、けだし私は、アダム・スミスの次の考察が真実であることを深く印象されていたしまた印象されているからである。すなわち、『食物に対する欲望は、人間の胃の狭小な受容力によって、あらゆる人において限定されているが、しかし建物や衣服や馬車や家具の如き便宜品及び及び装飾品に対する欲望には、何らの限界もなく一定の境界もないように思われる。』かくて以前と同一の労働に対する需要があり、そして労賃は少しも下落しないように、私には思われたから、私は、労働階級は他の諸階級と等しく、機械の使用より起る貨物の価格の一般的下落による便益に、参加するものと考えたのである。 
(一四〇)かかるものが私の意見であった。そしてそれは引続き、地主と資本家とに関する限りにおいては、変っていない。しかし私は今は、人間労働に対し機械を代えるのは、しばしば、労働者階級の利益に対し極めて有害であると確信している。
私の誤りは、社会の純所得が増加する時には常にその総所得もまた増加するという仮定に発したものであった。しかしながら、私は今は、地主と資本家とがその収入を得る一つの資金は増加するであろうが、しかるに労働階級が主として依存する他の資金は減少するであろう、と信ずべき理由を知る。従って、もし私が正しいならば、国の純収入を増加すると同一の原因が、同時に人口をして過剰ならしめ、そして労働者の境遇を悪化せしめるであろう、ということになるのである。
一資本家が二〇、〇〇〇磅ポンドの価値の資本を用い、そして彼は農業者と必需品の製造業者との事業を共に営むものと、吾々は仮定しよう。吾々は更に、この資本の中うち七、〇〇〇磅ポンドは、固定資本、すなわち建物、器具等に投ぜられ、そして残りの一三、〇〇〇磅ポンドは流動資本として労働の支持に用いられるものと仮定しよう。また利潤は一〇%であり、従ってその資本家の資本は毎年その本来の能率状態に置かれて二、〇〇〇磅ポンドの利潤を生むものと仮定しよう。
毎年この資本家は、一三、〇〇〇磅ポンドの価値を有つ食物及び必要品を所有して操作を開始し、そのすべてを一年間に自分自身の労働者に同じ金額の貨幣に対して売り、そして同一期間内に、彼は労働者に同額の貨幣を労賃として支払う。かくてその年の終りには、彼らは一五、〇〇〇磅ポンドの価値を有つ食物及び必要品を自己の所有に囘収し、その中うち二、〇〇〇磅ポンドは自分で消費し、または彼れの快楽及び満足に最も合致するように処分する。これらの生産物が関する限りにおいて、その年の総生産物は一五、〇〇〇磅ポンドであり、純生産物は二、〇〇〇磅ポンドである。今、次の年に資本家がその労働者の半分を機械の建造に用い、また他の半分を常の如くに食物及び必要品の生産に用いると仮定しよう。その年には彼は常の如くに労賃として一三、〇〇〇磅ポンドの額を支払い、またその労働者に食物及び必要品を同じ額だけ売るであろう。しかしその次の年にはどうなるであろうか?
機械が造られている間は、通常量の半分の食物及び必要品が取得されるに過ぎず、そしてそれは以前に生産された分量の半分の価値を有つに過ぎないであろう。機械は七、五〇〇磅ポンドの価値を有ち、食物及び必要品は七、五〇〇磅ポンドの価値を有ち、従って資本家の資本の大いさは以前と同一であろう。けだし彼はこれらの二つの価値の他に、七、〇〇〇磅ポンドに値する固定資本を有っており、全体として二〇、〇〇〇磅ポンドの資本と、二、〇〇〇磅ポンドの利潤となるからである。この後者の額を彼自身の出費として控除した後に、彼は爾後じごの操作を行うべき流動資本としては五、五〇〇磅ポンドを有するに過ぎないであろう。従って彼れの労働を雇傭する手段は、一三、〇〇〇磅ポンド対五、五〇〇磅ポンドの比例で減少し、その結果として、七、五〇〇磅ポンドによって以前に雇傭されていたすべての労働は過剰となるであろう。
この資本家が用い得る所の労働量の減少は、もちろん、機械の援助により、そしてその修繕のための控除をなした後、七、五〇〇磅ポンドに等しい価値を生み出さなければならない、それは流動資本を囘収し全資本に対し二、〇〇〇磅ポンドの利潤を得なければならない。しかしもしこのことがなされるならば、もし純所得が減少しないならば、総所得が三、〇〇〇磅ポンドの価値を有とうと、一〇、〇〇〇磅ポンドの価値を有とうと、または一五、〇〇〇磅ポンドの価値を有とうと、それはこの資本家にとっては何の関する所であろうか?
しからばこの場合には、純所得の価値は減少せず、その貨物購買力は大いに増加するであろうけれども、総生産物は、一五、〇〇〇磅ポンドの価値から、七、五〇〇磅ポンドの価値に下落しているであろう、そして人口を支持し労働を使用する力は、常に国民の総生産物に依存し、その純生産物には依存しないから、必然的に労働に対する需要は減少し、人口は過剰となり、そして労働階級の境遇は窮乏と貧困とのそれになるであろう。 
(一四一)しかしながら、資本を増加するために収入から貯蓄するの力は、純収入が資本家の欲求する所を充足する力に依存しなければならないから、必ずや、機械採用の結果たる貨物の価格の下落から、同一の欲求品を手に入れながら彼れの貯蓄力は増加する――収入を資本に転ずる便宜は増加する――という結果が起って来るであろう。しかし資本が増加するごとに彼はより多くの労働者を雇傭するであろう。従って最初に失業した者の一部分は後に雇傭されるであろう。そしてもし機械の使用の結果たる生産の増加が極めて大であるために、以前に総生産物の形で存在していたと同一量の食物及び必要品を純生産物の形で与えるならば、全人口を雇傭する能力は同一であり、従って何らの人口過剰も必然的に起るわけではないであろう。
私の証明せんと欲するすべては、機械の発明と使用とは総生産物の減少を伴うかもしれず、そしてそれが事実である時には常に、それは労働階級にとって有害であり、その理由は、彼らのある者は解雇され、そして人口はそれを雇傭すべき基金に比して過剰となるであろうから、ということである。
私が仮定して来た場合は私が選び得る最も簡単なものである。しかしもし吾々が、機械がある製造業――例えば毛織物業または木綿織物業――に用いられたとしても、それは結果において何らの相違も起さないであろう。もしそれが毛織物業であるならば、機械の採用後はより少なる毛織布が生産されるであろう。けだし多数の労働者に支払う目的で処分される分量の一部分は、彼らの雇傭者によって必要とされないからである。機械を使用する結果、単に消費された価値並びに全資本に対する利潤に等しい価値を再生産することが、彼にとり必要であろう。七、五〇〇磅ポンドが、一五、〇〇〇磅ポンドが以前になしたと同様に有効に、このことをなすであろうが、この場合は前の例といかなる点でも異らないからである。しかしながら、毛織布に対する需要の大いさは以前と同一であろう、と言われるかもしれず、またどこからこの供給が来るか、と問われるかもしれない。しかし誰によってこの毛織布は需要されるであろうか? 農業者達及び他の必要品生産者達――毛織布取得の手段としてこれらの必要品の生産にその資本を用いる農業者その他の必要品生産者によって、需要される。すなわち彼らは穀物及び必要品を毛織物業者に毛織布と引換えに与え、そして彼は、その雇傭する労働者に、その労働が彼に与えた所の毛織布と引換えにこれらのものを与えたのである。
この取引は今終りを告げるであろう。毛織物業者は、雇傭すべき人間はより少く処分すべき毛織布はより少いのであるから、食物及び衣服を求めないであろう。単に一目的を達する手段として必要品を生産したに過ぎない所の農業者その他の者は、その資本をかく用いることによってはもはや毛織布を取得し得ず、従って彼らは、自らその資本を毛織布の生産に用いるか、または真に求められている貨物が供給されるために他人にそれを貸付けるであろう。そして何人もそれに対し支払手段を有たず、またはそれに対し需要のない所のものは、生産されざるに至るであろう。かくてこのことは吾々を同一の結果に導くこととなる、労働に対する需要は減少し、労働の支持にとり必要な貨物は同じ程度に豊富には生産されないであろう。
もしかかる見解が正しいならばこういうことになる。すなわち第一、機械の発明及びその有用な使用は、たとえそれはまもなくして、その純生産物の価値を増加しないかもしれず、また増加しないであろうとはいえ、国の純生産物の増加に導くこと。
第二、一国の純生産物の増加は総生産物の減少と両立するものであり、そして、機械を用いんとする動機は、もしそれが純生産物を増加せしめるならば、たとえそれは総生産物の分量とその価値との双方を減少せしめるかもしれず、またしばしば減少せしめなければならぬとはいえ、常にその使用を保証するに足るものであること。
第三、機械の使用はしばしば労働者の利益に対し有害であるという、労働階級の抱いている意見は、偏見や誤謬に基くものではなく、経済学上の正しい諸原理に一致するものであること。
第四、もし機械の使用の結果たる生産手段の改良が、一国の純生産物を、総生産物を減少せしめないほどの程度において増加せしめるならば、(常に私は貨物の分量を意味し価値は意味しない、)すべての階級の境遇は改善されるであろう。地主と資本家とは、地代と利潤との増加によってではなく、同一の地代と利潤とを、価値が極めて下落した貨物に支出することから生ずる便益によって、利得するであろう、しかるに労働階級の境遇もまた著しく改善されるであろう、第一に、僕婢に対する需要の増加によって、第二に、かくも豊富な純生産物が与える所の、収入からの貯蓄に対する刺戟によって、そして第三には、彼らの労賃がそれに支出されるすべての消費物の価格の下落によって。 
(一四二)吾々の注意が今向けられて来た所の機械の発明と使用に関する考察とは別に、労働階級は、国の純所得が費される仕方について、たとえすべての場合においてそれは正当にそれを得る権利を有つ者の満足と享楽のために費されるとはいえ、少なからざる利害関係を有っている。
もし地主または資本家が、その収入を、昔の貴族と同様に、多勢の家来または僕婢の支持に費すならば、彼は、それは美しい衣服や高価な什具、馬に、または何らかの他の奢侈品の購買に、費す場合よりも遥かにより多くの労働に職業を与えるであろう。
双方の場合において、純収入は同一であり、総収入もまたそうであろうが、しかし前者は異る貨物に実現されるであろう。もし私の収入が一〇、〇〇〇磅ポンドであるならば、私がそれを美しい衣服や高価な什器に実現しようと、または同一の価値を有つ食物や衣服のある分量に実現しようとを問わず、ほとんど同一量の労働が雇傭されるであろう。しかしながら、もし私がその収入を第一群の貨物に実現するならば、その結果として、より以上の労働が雇傭されることはないであろう。――私は、私の什器や私の衣服を享楽し、そしてそれは終りを告げるであろう。しかし、もし私が、その収入を食物や衣服に実現し、そして私の願望が僕婢を雇傭するにあるならば、私が一〇、〇〇〇磅ポンドの私の収入をもって、あるいはそれが購買すべき食物や衣服をもって、僕婢として雇傭し得るすべての者が、労働者に対する以前の需要に附加されるはずであり、そしてこの附加は、ただ私がその収入をかくの如く費す方を選んだが故にのみ起るであろう。かくて労働者は労働に対する需要に利害関係を有っているから、彼らは当然、出来るだけ多くの収入が、奢侈品への支出から転向せしめられて僕婢の支持に費されることを望まなければならぬのである。
同様にして、戦争をしておりかつ大陸海軍を維持しなければならぬ国は、戦争が終りを告げかつ戦争の齎す所の年々の支出が止んだ時に、用いられるよりも、極めてより多くの人間を、用いるであろう。
もし私が、戦争の間に、五〇〇磅ポンドの租税――そしてそれは陸海軍人たる人々に支出されるものであるが――を求められないならば、私はおそらくその所得部分を、家具、衣服、書類等々に支出し、そしてそれがこれらのいずれの仕方で支出されようと、同一量の労働が生産に雇傭されるであろう。けだし陸海軍人の食物及び衣服は、それを生産するに、より奢侈的な貨物と同額の勤労を必要とするからである。しかし戦争の場合には陸海軍人たる人々に対する需要の増加があり、従って一国の収入よりして支持されその資本によっては支持されない戦争は、人口の増加に対して好都合なものである。
戦争の終結に当り、私の収入の一部分が私の所に戻って来、以前と同様に葡萄酒や什器やその他の奢侈品の購買に用いられるならば、それが以前に支持しかつ戦争が齎した所の人口は過剰となり、そしてそれが爾余じよの人口に及ぼす影響と両者の間の就職競争とによって、労賃の価値は下落せしめられ、労働階級の境遇は著しく悪化されるであろう。
一国の純収入の額の増加、またむしろその総収入の増加が、労働に対する需要の減少に伴う可能性について、注目すべきもう一つの場合がある、それは、馬の労働が人間のそれに代位せしめられる場合である。もしも私が私の農場に百名を用い、そして私が、これらの人々の中の五十名に与えられる食物が馬の支持に転向され得、しかも私に、馬の買入に要する資本の利子を控除した後に、より多量の粗生生産物の収穫を与えることを見出すならば、私にとっては、人間に代えるに馬をもってするのが有利であり、従って私はそうするであろう。しかしこのことは人々の利益とはならず、そして私の得る所得が私をして馬と人間との双方を用い得せしめるほどに増加されない限り、人口は過剰となり労働者の境遇は一般的に下落すべきことは明かである。彼がいかなる事情の下においても農業に雇傭され得ないことは明かである。しかしもし土地の生産物が、馬に代えるに人間をもってすることによって、増加されるならば、彼は、製造業に、または僕婢として、雇傭されるであろう。 
(一四三)私のなした叙述が、望むらくは、機械は奨励されてはならないという推論に導かざらんことを。原理を明かにせんがために、私は、改良された機械が突然に発明され、そして広汎に使用される、と仮定して来た。しかし事実は、これらの発明は徐々たるものであり、そして資本をその現実の用途から他へ転向せしめるよりはむしろ、節約されかつ蓄積された資本の用途を決定するに作用するのである。
資本と人口との増加ごとに、食物は、その生産の困難の増大によって、一般的に騰貴するであろう。食物の騰貴の結果は労賃の騰貴であり、そして労賃の騰貴ごとに、蓄積された資本が以前以上の比例において機械の使用に向うという傾向が起るであろう。機械と労働とは断たえず競争しており、そして前者はしばしば、労働が騰貴するまでは使用され得ないのである。
人間の食物の調達が容易なアメリカその他の多くの国においては、食物が高くその生産に多くの労働が費される英国における如くに、機械を用いんとする大なる誘引はほとんどない。労働を騰貴せしめると同一の原因は機械の価値を騰貴せしめず、従って資本の増加ごとにそのより大なる部分が機械に用いられる。労働に対する需要は資本の増加と共に引続き増加するであろうが、しかしその増加に比例しては増加しない。その比率は必然的に逓減的比率であろう(註)。
(註)『労働に対する需要は流動資本の増加に依存し、固定資本の増加には依存しない。これら二種類の資本の間の比例はすべての時、すべての国において同一であるということが真実であるならば、もちろん、雇傭労働者は国家の富に比例するということになる。しかしかかる状態は起りそうもない。技術が進歩し文明が拡大するにつれて、固定資本は流動資本に対しますますより大なる比例を有つに至る。英国モスリン一反の生産に用いられる固定資本額は、印度インドモスリンの同じ一反の生産に用いられるそれよりも少くとも百倍、おそらく千倍もより多いであろう。そして用いられる流動資本の比例は百倍または千倍より少いであろう。一定の事情の下においては、勤勉な人民の年々の貯蓄の全部が固定資本に附加され、その場合にそれは労働に対する需要を増加するという影響を少しも有たないであろう、と考えることは容易である。』
バアトン、『社会の労働階級の状態について』、一六頁
思うに、いかなる諸事情の下においても、資本の増加は労働に対する需要の増加を伴わないであろう、と考えることは容易でない。せいぜい言い得ることは、需要は逓減的比率にある、ということである。バアトン氏は上記の著書において、思うに、固定資本の分量の増加が労働階級の境遇に及ぼす影響のあるものについて、正しい見解をとっている。彼れの論文は多くの価値多い記述を有っている。
私は前に、貨物で測定された純所得の増加――それは常に機械の改良の結果であるが、――が新しい貯蓄と蓄積とに導くであろうということもまた述べた。かかる貯蓄は、記憶すべきことであるが、毎年のことであり、そしてまもなく、初めに機械の発明によって失われた総収入よりも遥かにより大なる基金を造り出すはずであるが、その時には、労働に対する需要の大きさは以前と同一になり、そして人民の境遇は、増加せる純収入がなお彼らをしてなすを得せしめる貯蓄の増加によって、更により以上改善されるであろう。
機械の使用は、一国家において、決して安全に阻まれ得ない、けだしもし我国において機械の使用が支えるべき最大の純収入を得ることが許されないならば、資本は海外に運ばれるからであり、そしてこのことは、機械の最も広汎な使用以上に重大な労働の需要に対する阻害であるに相違ない。何となれば、資本が我国において使用されている間は、それは労働に対する需要を創造するに相違ないからである。機械は人間の助力なくしては運転され得ず、それは彼らの労働の貢献なくしては製造され得ない。資本の一部分を改良された機械に投ずれば、労働に対する逓増的需要には減少が起るであろうが、それを他国に輸出すれば、需要は皆無に帰するであろう。
貨物の価格もまたその生産費によって左右される。改良された機械の使用によって貨物の生産費は減少され、従ってそれは外国市場においてより低廉な価格で売られ得る。しかしながらすべての他国が機械の使用を奨励しているのにこれを拒否するならば、自国の財貨の自然価格が他国の価値にまで下落するまで、外国の財貨と引換に貨幣を輸出せざるを得ないこととなる。かかる国々と交換をなすに当って、我国において二日の労働を費した貨物を、外国において一日の労働を費した貨物に対して与えることとなり、そしてこの不利益な交換は自己自身の行為の結果たるものである。けだし輸出されかつ二日の労働を費されている貨物は、隣国人がより賢明にその作用を専用した所の機械の使用を拒否しなかった場合には、単に一日の労働が費されたに過ぎなかったものであるからである。 
第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見

 

(一四四)地代の性質については本書の前の場所でかなり長く取扱ったけれども、しかも私は、私には誤っているように思われ、かつそれが今日のすべての人の中で、経済学のある部門が負うこと最も多き人の著作において見出されるためにより重要である所の、この問題に関するある意見に、触れるべきであると考える。マルサス氏の人口に関する試論について、私は賞讃の意を表現すべき機会がここに与えられたことを、幸福とする。この大著作に対する反対論者の攻撃は、単に彼れの強みを説明したに過ぎなかった。そして私は、その正当な名声は、この書がもって飾る所の経済学の進歩と共に拡がり行くことを確信するのである。マルサス氏はまた、地代に関する諸原理を十分に説明し、そしてそれは耕作されている種々なる土地の肥沃度または位置についての相対的便益に比例して騰落することを説明し、ひいては以前には全く知られていなかったかまたは極めて不完全にしか理解されていなかった地代の問題に関聯する多くの難点に、多くの光明を投じたのである。しかし彼は二三の誤謬に陥っているように思われるが、これを指摘することは彼が権威ある学者であるためにより必要であり、他方彼の性来の淡白のためにこのことはさほど不快ではなくなる。これらの誤謬の一つは、地代をもって、明かな利益でありかつ富の新創造である、と想像することにある。
私は地代に関するビウキャナン氏のすべての意見には同意しないが、しかし、マルサス氏によって彼れの著書から引用された章句中に現れているものには、全く同意する。従って私は、それに対するマルサス氏の評論には反対しなければならない。
『かく観ずれば、それ(地代)は、社会の資本に対する一般的附加をなすことは出来ない、けだし、問題の純剰余は一つの階級から他の階級に移転された収入に他ならないからであり、またそれがかく所有者を変えるというだけでは、租税を支払うべき何らの基金も発生し得ないことは、明かである。土地の生産物に対し支払う収入は、その生産物を購買する者の手中に既に存在している。そしてもし生計費がより低いならば、それは依然彼らの手中に止り、その手中において、あたかもより高い価格によってそれが地主の手に移転される時とまさに同様に、租税の支払に宛てられ得るであろう。』
粗生生産物と製造貨物との相違について種々なる考察をなした後、マルサス氏は問う、『しからば、ドゥ・シスモンディ氏と共に、地代をもって、純粋に名目的な価値を有つ唯一の労働生産物であり、そして売手が特別の特権の結果として取得する価格騰貴の単なる結果であると考えることは、可能であるか? またはビウキャナン氏と共に、それをもって、国民的富に対する何らの附加でもなく、単に、地主にとってのみ有利でありかつそれに比例して消費者にとっては有害な価値の移転に過ぎぬと考えることは、可能であるか?』(註)
(註)『地代の性質及び増進に関する研究』一五頁
私は地代を論ずる際に既にこの問題に関する私見を述べた、そしてここで更に私が附加せねばならぬことは、単に、地代は私が解する意味での価値の創造であるが富の創造ではない、ということだけである。もし穀価が、そのある部分を生産するの困難によって、一クヲタアにつき四磅ポンドから五磅ポンドに騰貴するならば、百万クヲタアは四、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドではなく五、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドの価値を有ち、そしてこの穀価は、啻により多くの貨幣と交換されるのみならず、またより多くのあらゆる他の貨物と交換されるであろうから、所有者はより多額の価値を得るであろう。そしてその結果として他の何人もより少い価値を有つことにはならないから、社会は全体としてより多くの価値を有するに至るのであり、そしてその意味において地代は価値の創造である。しかしこの価値は、それが社会の富、すなわち必要品、便宜品、及び享楽品に何物をも附加しない限りにおいて、名目的である。吾々は以前とまさに同一量の貨物を有ち――そしてより以上は有たない――そして同一の百万クヲタアの穀物を有つであろう。しかしそれが一クヲタアにつき四磅ポンドではなく五磅ポンドで評価される結果は、穀物及び諸貨物の価値の一部分を、その以前の所有者から地主に移転することとなるであろう。かくて地代は価値の創造であるが富の創造ではない。それは国の資源には何物をも附加せず、それは国をして陸海軍を維持し得せしめない。けだし、その土地がより優等の質であり、かつ地代を生み出さずに同一の資本を用い得る場合には、国ははじめてより多くの基金を自由に処分し得ることとなるのであるからである。
かくてシスモンディ氏及びビウキャナン氏が――というのは両者の意見は実質上同一であるから――地代をもって純粋に名目的な価値であるとし、かつ国民的富に対する何らの附加をもなすものではなくして、単に地主にとってのみ有利であり、それに比例して消費者にとっては有害な価値の移転に過ぎないとしたのは、正しかったと認められなければならない。 
(一四五)マルサス氏の『研究』の他の部分において彼は曰く、『地代の直接原因は、明かに、粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過である。』また他の場所において曰く、『粗生生産物の高い価格の原因は三つであると言い得よう、――
『第一に、かつ主として、それによって、土地の上に用いられる人間の支持のために必要とされるよりもより多量の生活の必要品を、土壌が生産せしめられ得るという、土壌の性質。
『第二、それ自身に対する需要を作り出し、または生産された必要品の分量に比例して需要者数を出現せしめ得るという、生活の必要品に特有な性質。
『そして第三、最も肥沃な土地の比較的稀少性。』
穀物の高い価格を論ずるに当り、マルサス氏は明かに、一クヲタアまたは一ブッシェルについての価格を意味せずして、むしろ全生産物が売れる価格が、その生産費――『その生産費』なる語には常に労賃並びに利潤が含まれる、――を越す超過を意味している。一クヲタアにつき三磅ポンド一〇シリングの穀物百五十クヲタアは、もし生産費が双方の場合において同一であるならば、四磅ポンドの穀物一、〇〇〇クヲタアよりもより大なる地代を地主に与えるのであろう。
かくて高い価格は、かかる表現がこの意味に用いられる場合には、地代の原因とは呼ばれ得ない。『地代の直接的原因は明かに、粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過である。』とは言われない、けだしその超過がそれ自身地代であるからである。地代をもってマルサス氏は、『全生産の価値の中うち、その種類の何たるかを問わずその土地の耕作に属するすべての出費――その中には、当該時の農業資本の日常かつ通常利潤率で測定された所の、投下資本の利潤が含まれる――が支払われた後に、土地の所有主に残る部分』と定義した。さてこの超過が売れる額が幾干であろうと、それは貨幣地代である。それはマルサス氏が、『粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過』という語で意味している所のものである。従って生産費に比較して粗生生産物の価格を高めるべき原因の研究においては、吾々は、地代を高めるべき原因を研究しているのである。 
(一四六)マルサス氏が挙げている地代の騰貴の第一原因、すなわち、『それによって、土地の上に用いられる人間の支持のために必要とされるよりもより多量の生活の必要品を、土壌が生産せしめられ得るという、土壌の性質』に関して彼は次の如き考察をなしている。『吾々はなお、何故なにゆえに消費と供給とが価格をかくも著しく生産費を超過せしめる如きものであるか、ということを知ろうと欲するが、その主たる原因は明かに生活の必要品を生産するに当っての土壌の肥沃度である。この豊饒を減少し、土壌の肥沃度を減少せよ、しからばこの超過は減少するであろう。それを更に減少せよ、しからばそれは消失するであろう。』しかり、必要品の超過は減少し消失するであろう、しかしそれが問題であるのではない。問題はその生産費以上に出ずるその価格超過が減少し消失するか否か、ということである。けだし貨幣地代はこのこと如何いかんに依存するからである。マルサス氏は次の推論においても正鵠を得ているであろうか? すなわち分量の超過が減少し消失するであろうから、従って『生産費を超過する生活必要品の高い価格の原因は、その稀少よりはむしろその豊富の中に、見出さるべきであり、そして、啻に人為的独占によって惹起された高い価格とは本質的に異るのみならず、更にまた、必然的独占物と呼ばれ得べき所の、食物に関係なき土地の特殊の生産物の高い価格とも本質的に異るものである』と。
土地の肥沃度及びその生産物の豊饒が、生産費を越すその価格の超過の減少、――換言すれば地代の減少、を伴うことなくして減少するという、事情はないであろうか? もしかかる事情があるならば、マルサス氏の命題は余りにも一般的に過ぎる。けだし彼は、地代は土地の肥沃度の増加につれて騰貴し、その肥沃度の減少につれて下落するということを、すべての事情の下において真実な一般的原理なりと述べているように、私には思われるからである。
もし、ある一定の農地について、土地が豊富に産出するに比例して、全生産物中のより大なる分量が地主に支払われるならば、マルサス氏は疑いもなく正しいであろう。しかしその反対が事実である。すなわち最も肥沃な土地のみが耕作されている時には、地主は全生産物の最小の比例と最小の価値とを受取り、そして全生産物に対する地主の分前も、彼れの受領する価値も、逓増的に増加するのは、より劣等な土地が、増加しつつある人口を養うために必要とされる時に限られるのである。
穀物に対する需要は百万クヲタアであり、そしてそれは実際に耕作に引入れられている土地の生産物であると仮定しよう。そこで、すべての土地の肥沃度が、このまさに同じ土地が九〇〇、〇〇〇クヲタアしか産出しないほどに減じたと仮定しよう。需要は百万クヲタアであるから、穀価は騰貴し、優等地が引続き百万クヲタアを生産していた場合よりも速かに、劣等地に必然的に頼らなければならない。しかし、地代騰貴の原因であり、かつ地主の受取る穀物量が減少しても地代を引上げるものは、この劣等地を耕作するという必要である。地代は、記憶すべきであるが、耕作地の絶対的肥沃度には比例せず、その相対的肥沃度に比例するものである。資本をより劣等な土地に駆るすべての原因は、優等地に対する地代を引上げるに相違ない。けだし地代の原因は、マルサス氏によってその第三命題において述べられている如くに、『最も肥沃な土地の比較的稀少性』であるからである。穀価は当然その最終部分を生産する困難と共に騰貴し、そして一特定農場において生産される全分量は減少しても、その価値は増加するであろう。しかし、労賃と利潤との合計は引続き常に同一の価値を有つために(註一)より肥沃な土地においては生産費は増加しないであろうから、生産費を越す価格の超過、または換言すれば地代は、資本、人口及び需要の大きな減少によって妨げられない限り、土地の肥沃度の減少と共に騰貴しなければならぬことは、明かである。かくてマルサス氏の命題が正しいとは思われない。すなわち地代は土地の肥沃度の増減と共に、直接的にかつ必然的に騰落するものではなく、その肥沃度の増加がそれをして、ある将来の時において、増加せる地代を支払い得せしめるに過ぎない。ほとんど肥沃度のない土地は決して何らの地代をも生じ得ない。適度の肥沃度を有つ土地は人口が増加するにつれて適度の地代をまた大なる肥沃度を有つ土地は高い地代を生ぜしめられ得よう。しかし高い地代を生じ得るということと実際にそれを支払うということとは、別物である。土地が適度の収穫を産出するよりも、土地が極めて肥沃な国における方が、地代がより低いこともあろう、けだし地代は絶対的肥沃度よりはむしろ相対的肥沃度に、――生産物の豊富よりはむしろその価値に、――比例するからである(註二)。
(註一)私は、穀物の生産にいかなる難易があろうとも、労賃と利潤との合計は同一の価値を有つということを説明せんと努めた。労賃が騰貴する時にはそれは常に利潤を犠牲にしてであり、またそれが下落する時には利潤は常に騰貴するのである。
(註二)マルサス氏は、最近の著作において、この章句で私が彼を誤解しているが、けだし彼は、地代は土地の肥沃度の増減と共に直接的にかつ必然的に騰落すると、言おうとはしているのでないから、と述べている。もしそうならば、私は確かに彼を誤解していた。マルサス氏の言葉は次の如くである、『この豊饒を減少し、土壌の肥沃度を減少せよ、しからばこの超過(地代)は減少するであろう。それを更に減少せよ、しからばそれは消失するであろう。』マルサス氏はその命題を条件的には述べず、絶対的に述べている。私は、土壌の肥沃度の減少は地代の増加と両立し得ない、と彼が主張しているように私に理解される所に、反対したのである。
マルサス氏は、自然的また必然的独占物と呼ばれ得る土地の、特殊の生産物を産出する土地に対する地代は、生活の必要品を産出する土地の地代を、左右するものとは本質的に異る原理によって左右される、と想像している。彼は高い地代の原因たるものは、前者にあってはその生産物の稀少性であるが、しかし同一の結果を生み出すものは、後者にあってはその豊饒性である、と考えているのである。
この区別はその根拠が十分であるとは、私には思われない。けだし、もし同時にこの特殊貨物に対する需要が増加するならば、その生産物の分量を増加することによって、穀物地の地代と同様に、稀少な葡萄酒を産出する土地の地代も、確かに増加され、そして同様な需要の増加がなければ、穀物の豊富な供給は、穀物地の地代を引上げずしてかえって下落せしめるであろうからである。地質がどうであろうとも、高い地代は生産物の高い価格に依存しなければならない。しかし高い価格が与えられているならば、地代は豊饒性に――稀少性ではなく――比例して高くなければならない。
吾々は、一貨物の需要される分量以上のものを永久的に生産する必要はない。もし偶然にあるより大なる分量が生産されるならば、それはその自然価格以下に下落し、従って生産費――その原費には資本の通常利潤を含む――を支払わず、かくて供給は妨げられ、ついに供給は需要に一致し、そして市場価格は自然価格にまで騰貴するに至るのである。
マルサス氏は、人口の一般的増加は、資本の増加、その結果たる労働に対する需要、及び労賃の騰貴によって、生ずるものであり、食物の生産は単にその需要の結果に過ぎない、とは考えずに、人口は単に以前からの食物の備えによってのみ増加され、――『それ自身に対する需要を創り出すものは食物である、』――結婚に対して奨励が与えられるのは、まず食物を備えることによってである、と考えるに、余りに心傾き過ぎているように、私には思われる。
労働者の境遇が改善されるのは、彼らにより多くの貨幣を、またはそれで労賃が支払われかつその価値が下落しなかった所の何らかの他の貨物を、与えることによってである。人口の増加と食物の増加とは、一般に高い労賃の結果ではあるが、その必然的な結果ではないであろう。労働者に支払われる価値の増加の結果としてのその境遇の改善は、必ずしも、彼をして結婚せしめ、家族を支える費用を負担せしめるものではない、――彼は、おそらくたぶん、その騰貴せる労賃の一部分を、食物及び必要品を豊富に手に入れるために用いるであろう、――しかし彼はその残りで、もしそれが好ましいならば、彼れの享楽に寄与し得べき何らかの貨物――椅子や卓子や鉄器またはより良い衣服や砂糖や煙草――を購買するであろう。かくて彼れの騰貴せる労賃の伴うものは、かかる貨物のある物に対する需要の増加に他ならないであろう。そして労働者の種は大いに増加されることはないであろうから、彼れの労賃は引続き永久的に高いであろう。しかし、これが高い労賃の結果であるにしても、しかも家庭の歓喜は極めて大であり、ために実際上、人口の増加が労働者の境遇の改善に随伴することは、常に見出される。そしてこれが事実であればこそ、前述の極めて些少の例外を除き、食物に対する新しい需要の増加が起るのである。しからばこの需要は資本及び人口の増加の結果ではあるが、しかしその原因ではない、――必要品の市場価格が自然価格に超過し、必要とされる食物量が生産されるのは、人民の支出がこの方向を取るが故に他ならない。そして労賃が再び下落するのは、人口が増加するが故である。
その結果が、穀物の市場価格がその自然価格以下に下落することであり、従ってまた利潤を一般率以下に減少されるために彼れの利潤の一部分が無くなることである時に、農業者は、現実に需要される以上の穀物を生産するいかなる動機を有ち得ようか? マルサス氏は曰く、『もし土地の最も重要な生産物たる生活の必要品が、その量の増加に比例せる需要の増加を造り出す性質を有たなかったならば、かかる量の増加はその交換価値の下落を惹起すであろう(註)。国の生産物がいかに豊富であろうと、その人口は依然停止しているであろう。そして比例的需要を伴わず、かつかかる事情の下において当然起るべき労働の穀物価格の著しい騰貴を伴う所の、この豊富は、粗生生産物の価格を、製造貨物の価格と同様に、生産費にまで下落せしめるであろう。』
(註)いかなる量の増加をマルサス氏は論じているのであるか? 誰がそれを生産することになっているのであるか? 増加された分量に対する何らの需要も存在しない中うちに、誰がそれを生産する動機を有ち得ようか?
粗生生産物の価格を生産費にまで下落せしめるであろうという。それはある時期の間、この価格の上または下にあるのであるか? マルサス氏自身が、決してそうはならないと述べているではないか? 彼は曰く、『私は少しく止って、穀物は、現実に生産された分量に関しては、製造貨物と同様に、その必要価格で売られるという学説を種々なる形で、読者に提示することを許されたい、けだし私は、これをもって、経済学者により、アダム・スミスにより、また粗生生産物は常に独占価格で売れるとなしているすべての論者によって、看過され来った所の、最も重要な真理であると考えるからである。』
『かくてあらゆる広大な国は、穀物及び粗生原料の生産のための、諸々の等級の機械を所有するものと、考え得よう。この等級の中には、啻にあらゆる国に豊富にある所のすべての貧弱な土地のみならず、更に良質の土地が段々と附加的生産物を強制される時に用いられるものと云い得る所の劣等な機械も、含むものである。粗生生産物の価格が引続き騰貴するにつれて、これらの劣等な機械は順次に運転せしめられ、そして粗生生産物の価格が引続き下落するにつれて、これらは順次に運転されなくなる。ここに用いた例証は、同時に、現実の生産物にとっての現実の穀価の必要条件及びある特定の製造貨物の価格の著しい下落と、粗生生産物の価格の著しい下落とに伴う結果の異ることを、示すに役立つものである。』(註)
(註)『一研究』、云々。『あらゆる進歩的国家においては、穀物の平均価格は決して、生産物の平均的増加を継続せしめるに必要な額以上にはならない。』『穀物条例の結果に関する諸観察』、一八一五年、二一頁。
『増加しつつある人口の欲望する所を供給するために、土地に新しい資本を用いるに当って、――この新しい資本が耕地を拡張するに用いられようと、または既耕地を改良するに用いられようと、――主要な問題は常に、この資本に対する希望収得に依存する。そして総利潤のいかなる部分も、かかる資本の用い方に対する動機を減少せしめることなしには、減少され得ない。農地のすべての必要費のそれに比例する下落によって十分にかつ直ちに相殺されない所のあらゆる価格下落、土地に対する租税、農業資本に対するあらゆる租税、農業者の必要品に対するあらゆる租税は、計算に現われて来るであろう。そしてもしこれらすべての費用を斟酌した後に、生産物の価格が、用いられた資本に対し一般利潤率によっての正当の報酬及び少くともその以前の状態における土地の地代に等しい地代を、残さないならば、計画された改良をなすに足る動機は存在し得ない。』『諸観察』二二頁。
いかにしてこれらの章句は、もし生活必要品が、その分量の増加に比例せる需要の増加を創造するという性質を有たないならば、その時には、そしてその時においてのみ、生産された豊富な分量は粗生生産物の価格を生産費にまで下落せしめるであろう、ということを主張する章句と、調和せしめらるべきであるか? もし穀物が決してその自然価格以下にないならば、それは決して現実の人口が彼ら自身の消費のために必要とする以上に豊富ではない。他人の消費に対してはいかなる貯蔵もなされ得ない。しかる時はそれはその低廉と豊富とによって人口に対する刺戟となることは決してあり得ない。穀物が生産され得るに比例して、労働者の労賃の騰貴は家族の維持力を増大するであろう。アメリカでは人口は急速に増加するが、それは食物が低廉な価格で生産され得るからであり、豊富な供給が事前になされているからではない。ヨオロッパでは人口は比較的緩慢に増加するが、それは食物が低廉な価格で生産され得ないからである。通常の事態においては、すべての貨物に対する需要はその供給に先行する。もし穀物が需要者を出現せしめ得ないならば、それは製造品と同様に、その生産価格にまで下落するであろう、と言うことによって、マルサス氏は、すべての地代が吸収されてしまうということを意味し得ない。けだし彼は自ら正当にも、もしすべての地代を地主が抛棄しても穀価は下落せず、けだし、地代は高い価格の結果であって原因ではなく、そして何らの地代も支払わずかつそこで産する穀物はその価格によって労賃及び利潤を囘収するに過ぎないという一地質の耕地があるからである、ということを述べているからである。
次の章句において、マルサス氏は、富める進歩的な国における粗生生産物の価格騰貴の原因についての有能な説明を与えているが、そのあらゆる言葉に私は同意する。しかし私には、それは、彼れの地代に関する試論において彼が支持している命題のあるものと相違しているように思われる。『私は次の如く述べるに何ら躊躇しない、すなわち、一国の通貨の不規則なことやその他の一時的な偶発的な諸事情を別にすれば、穀物の高い比較的貨幣価格の原因は、その高い比較的真実価格またはそれを生産するに用いられねばならぬ資本及び労働のより大なる分量であり、そして既に富みそして更に繁栄と人口とにおいて進展しつつある国において、穀物の真実価格がより高くかつ引続き騰貴しつつある理由は、不断により貧弱な土地、それを運転するにより大なる費用を要し従って国の粗生生産物の新しい附加はいずれもより大なる原費で購買されるということになる所の機械に、頼るという必要の中に、見出さるべきであり、略言すればそれは、穀物は、進歩的国家においては、実際の供給を産出するに必要な価格で売られるという重要な事実の中に見出さるべきであり、そしてこの供給はますます困難となって来るから、価格はそれに比例して騰貴する、ということこれである。』
ここでは正当にも、貨物の真実価格は、それを生産するに用いられねばならぬ労働及び資本(すなわち蓄積された労働)の分量の大小に依存する、と述べられている。真実価格はある者の主張している如くに、貨幣価値に依存するものではなく、また他の者の言っている如くに、穀物や労働やまたは何らかの他の貨物を単独に見、またはすべての貨物を全体として見て、それに対する価値に依存するものでもなく、マルサス氏が正当に言っている如くに、『それを生産するために用いられねばならぬ労働及び資本の分量の大(小)に依存する』のである。 
(一四七)地代の騰貴の原因の中に、マルサス氏は『労働の労賃を下落せしめる如き人口の増加』を挙げている。しかしもし、労働の労賃が下落するために資本の利潤が騰貴しかつそれらは合計して常に同一の価値を有つならば(註)、それは農業者と労働者との両者に割当てられる生産物の分量も、またその価値も減少せしめず、従って地主により大なる分量もより大なる価値も残さないであろうから、いかなる労賃の下落も地代を引上げることは出来ない。労賃として与えられるものが減少するに比例して、利潤として与えられるものは増加し、その反対も真である。この分割は地主のいかなる干渉もなしに、農業者とその労働者によって定められるであろう。そして実にそれはある分割が他のものよりも、新しい蓄積と土地に対するより以上の需要とに対して、より好都合であるという場合を除けば、地主が利害関係を有ち得ぬ事柄である。もしも労賃が下落するならば、利潤は騰貴するであろうが地代は騰貴しない。もし労賃が騰貴するならば、利潤は下落するであろうが、地代は下落しない。地代と労賃との騰貴及び利潤の下落は、一般に、同一の原因の――すなわち、食物に対する増加しつつある需要、それを生産するに必要とされる労働量の増加、およびその結果たるその高い価格の――不可避的な結果である。たとえ地主がその全地代を抛棄しても、労働者は毫も利得しないであろう。たとえ労働者がその全労賃を抛棄し得ても、地主はかかる事情から何らの利益をも得ないであろう。しかし双方の場合において、農業者は、両者が抛棄するすべてを受取りかつ保持するであろう。労働の下落は利潤を引上げる以外の何らの他の影響をも及ぼさない、ということを本書において説明するのが、私の努力であった。利潤のあらゆる騰貴は、資本の蓄積とより以上の増加に好都合であり、従っておそらくはたぶん、結局地代の増加に導くであろう。
(註)一一二、一一三頁。 
(一四八)地代騰貴のもう一つの原因は、マルサス氏によれば、『一定の収穫量を生産するに必要な労働者の数を減少する如き農業上の改良または努力の増加』である。この章句に対しては、土地の肥沃度の増加が地代の直接騰貴の原因であると論じている章句に対して、私が抱いたと同一の反対論を、私は抱いている。農業における改良も優れた肥沃度も、土地に、ある将来の時期により高い地代を生出す能力を与えるであろうが、それはけだし、食物の価格は同一であり、しかも大なる附加的分量があるからである。しかし人口の増加が同じ比例になるまでは、附加的食物量は必要とされず、従って地代は下落するが騰貴はしないであろう。その時に存在する事情の下においては消費され得べき分量は、より少数の労働者によってかまたはより少量の土地によって、供給され得ることとなり、粗生生産物の価格は下落し、そして資本は土地から引去られるであろう(註一)。より劣等な質の新しい土地に対する需要、または既耕地の相対的肥沃度に変動を惹起す如きある原因を除けば、いかなるものも地代を騰貴せしめ得ない(註二)。農業及び分業における改良はすべての土地に共通である。それはその各々から得られる粗生生産物の絶対量を増加するが、しかしおそらくは、以前にそれらの間に存在していた相対的比例を多くは紊みだしはしないであろう。
(註一)七三、七四頁を参照。
(註二)一定量の附加的資本が、何らの地代も支払われない新しい土地に用いられようと、または既に耕作されている土地に用いられようと、もし両者から取られる生産物が分量において正確に同一であるならば、粗生生産物の価格及び地代の騰貴に関する限りにおいては、同一の結果が随伴するであろう、ということは、あらゆる場合に述べる必要はないが、常に理解されていなければならぬ。五七頁を参照。
セイ氏は、本書の仏訳に対する彼れの註において、いかなる時においても地代を支払わない耕地は存在しないということを証明しようと努め、そしてこの点について確信を得た後に、彼は、かかる学説から結果するすべての結果を覆したと結論している。例えば彼は、私が穀物その他の粗生生産物に対する租税はその価格を騰貴せしめることによって消費者の負担する所となり地代の負担する所とはならないと云ったのは正しくない、と推論している。彼は、かかる租税は地代の負担する所とならなければならない、と主張している。しかしセイ氏は、この推論の正確なることを証する前に、また、何らの地代も支払われない土地に用いられる資本はないということを、証明しなければならない(この註の最初及び本書の五二――五三頁と五四頁とを参照)。しかるにこのことを彼はなそうとはしていない。彼れの註のいかなる部分においても彼はこの重要なる学説を反駁しておらず、留意さえしていない。仏訳。第二巻、一八二頁に対する彼れの註によれば、彼はこの学説が述べられていることさえ知っているとは思われない。 
(一四九)マルサス氏は、穀物は特殊の性質を有っており、ためにその生産は、すべての他の貨物の生産が奨励されると同一の手段によっては奨励され得ない、というスミス博士の議論の誤謬を、正当に評論した。彼は曰く、『多年の間を平均して、穀価が労働の価格に及ぼす力強い影響を、決して否定せんとするものではない。しかし、この影響が土地へのまたは土地からの資本の移動を妨げるが如きものではない――これこそが問題の点である、――ということは、労働が支払われかつ市場に齎される仕方を簡単に研究し、またアダム・スミスの命題を仮定すれば不可避的にそうならざるを得ぬ結論を考えれば、十分に明かならしめられるであろう。』(註)
(註)『穀物条例に関する諸観察』四頁
次いでマルサス氏は、進んで、需要と価格騰貴とは、ある他の貨物の需要と価格騰貴とがその生産を奨励すると同様に有効に、粗生原料品の生産を奨励するということを、説明している。私がこの見解に完全に同意するものなることは、奨励金の結果について私が前述せる所からして分るであろう。私はマルサス氏の『穀物条例に関する諸観察』と、『一意見の諸基礎』云々と題されている彼れの他のパムフレットで、いかに違った意味で真実価格なる言葉が用いられているかを示さんがために、前者からの章句を注意した。この章句においてマルサス氏は、『穀物の生産を奨励し得る所のものは、明かに真実価格の増加のみである』と吾々に告げているが、彼は明かに真実価格なる語によって、他のすべての物に相対するその価格の増加を、または換言すれば、その自然価格またはその生産費以上に出ずるその市場価格の騰貴を、意味しているのである。もしも真実価格なる語がかかることを意味するとするならば、私はそれをかくの如く名づけるのは適当であるとは思わないけれども、マルサス氏の意見は疑いもなく正しい。それのみが穀物の生産を奨励する所のものは、その市場価格の騰貴である。けだし、一貨物の生産の増加に対する唯一の大きな奨励は、その市場価値がその自然価値または必要価値を超過するということである、ということは、斉ひとしく真実な原理とされ得ようからである。
しかし、これは、マルサス氏が他の場合に、真実価格なる語に附している意味ではない。地代に関する試論においてマルサス氏は曰く、『増加しつつある穀物の真実価格なる語を、私は、国民的生産物に対してなされた最後の附加分を生産するに用いられた所の労働及び資本の真実の分量の意に用いる。』他の部分において、彼は曰く、『穀物の高い比較的真実価格の原因は、それを生産するに用いられなければならない所の資本及び労働のより大なる分量である。』(註)前章句において、吾々がこういう真実価格の定義と取換えると仮定すれば、それはこういう風にはならないであろうか?――すなわち『それのみが穀物の生産を奨励し得る所のものは、明かに、それを生産するに用いられなければならない労働及び資本の分量の増加である。』これは、穀物の生産を奨励する所のものは、明かに、その自然価格または必然価格の騰貴である。――これは維持し難い命題である。生産される分量に対し何らかの影響を及ぼすものは、穀物が生産され得る価格ではなく、それが売却され得る価格である。資本が土地に引寄せられまたは土地から追出されるのは、生産費以上にまたは以下に出ずるその価格の差額の程度に比例している。もしこの超過が農業資本に、資本の一般利潤以上のものを与える如きものであるならば、資本は土地に赴くであろう。もしそれ以下ならば、それは土地から引去られるであろう。
(註)本書が印刷に付されようとしている時、マルサス氏にこの章句を示した所が、彼は、これらの二つの場合に、彼はうっかりして、生産費の代りに真実価格という語を用いたのである、と述べた。私が既に述べた所からして、これら二つの場合に彼は真実価格なる語をその真実かつ正当な意味に用いたのであり、そして前の場合にのみそれが誤って用いられている、と私には思われることが、分るであろう。
かくて穀物の生産が奨励されるのは、その真実価格の変動によってではなくして、その市場価格における変動によってである。『より多くの資本と労働とが土地に引寄せられるのは、それを生産するにより多量の資本と労働とが用いられねばならないから(これはマルサス氏の正しい真実価格の定義である)』ではなくして、『市場価格がこのその真実価格以上に騰貴し、そして経費の増加にもかかわらず、土地の耕作をしてより有利な資本用途たらしめるからである。』 
(一五〇)アダム・スミスの価値の標準に対する、マルサス氏の次の考察は最も正しい。『アダム・スミスは、明かに、労働をもって価値の標準尺度とし、そして穀物をもって労働の尺度とする彼れの習慣よりして、この論脈に引入れられた。しかし、穀物が労働の極めて不正確な尺度であることは吾々自身の国の歴史が十分に証明するであろう。我国においては、労働は、穀物に比較して、啻に毎年ばかりでなく、更に毎世紀に、そして一〇年、二〇年、また三〇年間に亘って、極めて大なるかつ驚くべき変動を経験し来ったことが、見出されるであろう。そして労働もある他の貨物も、真実交換価値の正確な尺度となることは出来ないということは、今では経済学の最も争い得ない学説の一つであると考えられており、そして実際に、交換価値のまさにこの定義に随伴し来るものである。』
もし穀物も労働も真実交換価値の正確な尺度でないとするならば、――両者は明かに、そうではないが、――他のどの貨物がそうであるか? ――確かに何もない。かくしてもし貨物の真実価格という表現が何らかの意味を有つとするならば、それは、マルサス氏が地代に関する試論において述べている意味でなければならない、――すなわちそれは、貨物を生産するに必要な資本及び労働の比例的分量によって測定されなければならぬのである。
マルサス氏の『地代の性質に関する研究』において、彼は曰く、『一国の通貨の不規則なことや、その他の一時的な偶発的な諸事情を別にすれば、穀物の高い比較的貨幣価格の原因は、その高い比較的真実価格、またはそれを生産するに用いられねばならぬ資本及び労働のより大なる分量である。』(註)。
(註)四〇頁。
これは思うに、穀物であろうとまたはその他の何らかの貨物であろうと、その価格のすべての永久的変動の正確な説明である。一貨物の価格が永久的に騰貴し得るのは、より多量の資本及び労働がそれを生産するに用いられねばならぬからか、または貨幣の価値が下落したからであり、これに反し、その価格が下落し得るのは、より少量の資本及び労働がそれを生産するに用いられるからであるか、または貨幣の価格が騰貴したからである。
そのいずれかでなければならぬこれら二つの中うちの後者すなわち貨幣価値の変動から生ずる変動は、同時にすべての貨物に対し共通である。しかし前者の原因から生ずる変動は、その生産に必要とされる労働が増減した特定の貨物に限られている。穀物の自由輸入を許すことにより、または農業における改良によって、粗生生産物は下落するであろう。しかしいかなる他の貨物も、その構成に参加した粗生生産物の真実価値または生産費の下落に比例して下落する以外には、影響されないであろう。
マルサス氏は、この原理を認めているのであるから、思うに、国内におけるすべての貨物の全貨幣価値は穀価の下落に正確に比例して下落しなければならない、と矛盾なしに主張することは出来ない。もし国内において消費される穀価が一年につき一千万の価値を有ち、そして消費される製造貨物と外国貨物が二千万の価値を有し、合計三千万をなすならば、年々の支出は、穀物が五〇%だけ、すなわち一千万から五百万に、下落したから、一千五百万減少した、と推論するのは許され得ないであろう。
これらの製造品の構成に入込んだ粗生生産物の価値は、例えば、その全価値の二〇%を超過せず、従って製造貨物の価値の下落は、二千万から一千万へではなく、単に二千万から一千八百万へであるに過ぎないであろう。そして穀価の五〇%下落の後には、年々の支出の全額は、三千万から一千五百万へは下落せずして、三千万から二千三百万に下落するであろう(註)。
(註)製造品はもちろんかかる比例においては下落し得ないであろう、けだし仮定された事情の下においては、異れる国々の新しい貴金属分配が起るであろうからである。吾々の低廉な貨物は穀物及び金と引換えに輸出され、ついに金の蓄積がその価値を下落せしめ、かつ貨物の貨幣価格を騰貴せしめるに至るであろう。
もし穀物がかくの如く低廉であってもそれ以上の穀物及び貨物は消費されない、ということが可能であると仮定すれば、これこそがその価値であろうと私は思うのである。しかし、もはや耕作されないであろう所の土地で穀物の生産に資本を用いておったすべての者は、それを製造財貨の生産に用い得るし、またこれらの製造財貨のわずか一部分が外国穀物と引換えに与えられるに過ぎないであろう――けだしその他にどう仮定しても輸入と物価下落とによって何らの利益も得られないからである――から、吾々は、右の価値の上に、かくの如くにして生産されかつ輸出されはしなかった製造財貨の全量の附加的価値を有つわけであり、従って、穀物を含む国内のすべての貨物の真実の減少は、その貨幣価値においてすら、地代の下落による地主の損失に等しいに過ぎず、他方に享楽の目的物の分量は大いに増加するであろう。 
(一五一)粗生生産物の価値の下落の影響を、かくの如くは考えずに、――マルサス氏はその前の承認からすればそう考えなければならなかったはずであるが、――彼はそれをもって、貨幣価格の一〇〇%の騰貴と正確に同一のことと考え、従ってあたかもすべての貨物がその以前の価値の半分に下落するかの如くに論じているのである。
彼は曰く、『一七九四年に始まり一八一三年に終る二十年間には、一クヲタアについての英国穀物の平均価格は、ほぼ八十三シリングであり、一八一三年に終る十年間は、九十二シリングであり、そしてこの二十年の最後の五年間には、百八シリングであった。この二十年の間に、政府は五億近くの真実資本を借入れ、それに対し、減債基金を別としてほぼ平均して、約五%を支払う契約をした。しかしもし穀物が一クヲタアにつき五十シリングに下落し、そして他の貨物がそれに比例して下落するならば、政府は実際は約五%の利子の代りに、七、八、九%の利子を、そして最後の二億に対しては一〇%の利子を、支払うであろう。
『もしそれが誰によって支払わるべきであるかを考える必要がないならば、公債所有者に対するこの異常な寛大に対しては、私はいかなる反対もなそうとはしないであろう。そしてちょっと考えれば、それは社会の勤勉な階級及び地主によってのみ、すなわちその名目所得が価値の尺度の変動と共に変化すべき人々のすべてによって、支払われ得ることが、わかるであろう。かかる社会部分の名目収入は、最後の五年間の平均と比較すれば、半分だけ減少されるであろう。そしてこの名目上低減せる所得から彼らは同一名目額の租税を支払わなければならないであろう。』(註)
(註)『一意見の諸基礎』云々、三六頁。
第一に私は、全国の総所得の価値ですら、マルサス氏がここで主張している比例では減少するものではないということを、既に説明したと考える。穀物が五〇%だけ下落したから各人の総所得は価値において五〇%だけ低減する、ということにはならぬであろう(註)。彼れの純所得は実際価値において増加し得るであろう。
(註)マルサス氏は、同書の他の部分において、穀物が三三・三分の一%変動する時には貨物は二五または二〇%変動するものと想像している。
第二に、思うに読者は、増加された負担は、もし有るとしても、『地主及び社会の勤労的階級』のもっぱら負担する所とはならないという、私の意見に、同意するであろう。公債所有者は、彼れの支出によって、社会の他の階級と同一の仕方で、公の負担に対するその分担額を、寄与するのである。かくて貨幣が実際より価値多きものとなるならば、彼はより大なる価値を受取っても、彼はまたより大なる価値を租税に支払うこととなり、従って、利子の真実価値に対する全附加は、『地主及び勤労的階級』によって支払われるというのは、真実であり得ないのである。
しかしながら、マルサス氏の全議論は弱い基礎に樹たてられている。すなわちそれは、国の総所得が減少するから、従って純所得もまた同一の比例で減少しなければならぬと仮定している。必要品の真実価値の下落ごとに、労働の労賃は下落し資本の利潤は騰貴する、――換言すれば、一定の年々の価値の中うち、労働階級に支払われる部分が少なければ、その資金でこの階級を雇傭する者に支払われる部分は大である、――ということを証明するのが、本書の目的の一つであった。特定製造業において生産される貨物の価値は一、〇〇〇磅ポンドであり、そしてそれが労働者達は八〇〇磅ポンド雇傭者は二〇〇磅ポンドの比で両者の間に分割されると仮定しよう。もしもこの貨物の価値が九〇〇磅ポンドに下落し、そして必要品の下落の結果として一〇〇磅ポンドが労働の労賃から節約されるならば、雇傭者の純所得は毫も害されず、従って彼は価格の下落の後もその以前と全く容易に同額の租税を支払い得るであろう(註)。
(註)純生産物と総生産物とについてセイ氏は次の如く論じている。『生産された全価値は総生産物であり、この価値から生産費を控除したものが純生産物である。』第二巻、四九一頁。しからば、セイ氏によれば生産費は地代、労賃、及び利潤から成立っているから、純生産物はあり得ない。五〇八頁において彼は曰く、『生産物の価値、生産的労働の価値、生産費の価値は、物事がその自然的事態のままに委ねられている時にはいつでも、かくすべて同様な価値である。』全部を除くならば何も残らない。
すべての租税が支払われなければならぬのは社会の純収入からであるから、総収入と純収入とを明かに区別するのは重要である。国内のすべての貨物、すなわち一年間に市場に齎され得るすべての穀物、粗生生産物、製造貨物等が二千万の価値を有ち、そしてこの価値を手に入れんがためには一定数の人間の労働が必要であり、そしてこれらの労働者の絶対必要品は一千万の支出を必要とするものと仮定しよう。かかる社会の総収入は二千万であり、その純収入は一千万であると、私は言わなければならない。だがこの仮定からして、労働者はその労働に対して単に一千万を受取るに過ぎない、ということにはならない。彼らは、一千二百万、一千四百万、または一千五百万を受取り得よう。そしてその場合には、彼らは二百万、四百万、または五百万の純所得を得るであろう。残りは地主と資本家との間に分たれるであろう。しかし全純所得は一千万を超過しないであろう。かかる社会が租税に二百万を支払うものと仮定すれば、その純所得は八百万に減少するであろう。
今、貨幣が十分の一だけ価値がより多くなると仮定すれば、すべての貨物は下落し、そして労働の価格は下落し、――けだし労働者の絶対的必要品はこれらの貨物の一部をなしているからである、――従って総所得は一千八百万にまた純所得は九百万に、減少するであろう。もし租税が同一の比例において下落し、そして二百万ではなく単に一、八〇〇、〇〇〇が徴収されるに過ぎないならば、純所得は更に、以前に八百万が有っていたと正確に同一の価値たる七、二〇〇、〇〇〇に減少し、従って社会はかかることによっては利得もせずまた損失もしないであろう。しかし貨幣の騰貴以後にも以前と同様に二百万が租税として徴収されるならば、社会は一年につき二〇〇、〇〇〇だけより貧しくなり、その租税は実際には九分の一だけ高められたことになるであろう。貨幣の価値を変更することによって貨物の貨幣価値を変更し、しかも租税によって同一貨幣額を徴収することは、かくて疑いもなく、社会の負担を増加することになる。
しかし、一千万の純収入の中うち、地主は五百万を地代として受取り、そして生産の容易なるためまたは穀物の輸入によって、この財貨の必要労働原費が一百万だけ減少すると仮定すれば、地代は一百万だけ下落し、そして多量の貨物の価格もまた同一額だけ下落するであろうが、しかし純収入は以前と正確に同一であろう。総所得はなるほど単に一千九百万でもあり、そしてそれを手に入れんがための必要支出は九百万でもあろうが、しかし純所得は一千万であろう。さてこの減少せる総所得から二百万が租税として徴収されると仮定すれば社会は全体としてより富むであろうか、より貧しくなるであろうか? 確かにより富むであろう。けだし、その租税の支払以後にも、社会は、以前と同様に、八百万の純所得を有ち、それは量は増加したが価格は二〇対一九の比例で下落した貨物の購買に充てられるであろう。かくて啻に同一の課税が負担され得るのみならず、更にまたより大なる租税が負担され得、しかも人民大衆は便利品及び必要品の供給が改善され得るであろう。
もし社会の純所得が、同一の貨幣課税を支払った以後にも以前と同じ大いさであり、そして土地保有者の階級が地代の下落によって一百万を失うとすれば、他の生産的階級は物価の下落にもかかわらず増加せる貨幣所得を得るに相違ない。資本家はこの際に二重に利得するであろう。彼自身及び彼れの家族によって消費される穀物や肉は価格が下落し、また彼れの僕婢や園丁やその他すべての種類の労働者の労賃もまた、下落するであろう。彼れの牛馬は費用がよりかからなくなり、より少い出費で飼養されるであろう。粗生生産物がその価格の主要部分として入込むすべての貨物は下落するであろう。彼れの貨幣所得が増加されると同じ時に所得の支出に対してなされるこの貯蓄全額は、かくて彼に二重に有利となり、そして彼をして、啻に彼れの享楽品を増加せしめるのみならず、附加的租税――もしそれが要求されるならば――を負担し得せしめるであろう。同一の考察は農業者及びあらゆる種類の商人にも当てはまる。
しかし、資本家の所得は増加しないであろうし、地主の地代から控除された一百万は労働への附加的労賃として支払われるであろう! と云われるかもしれない。そうであるとしよう。しかしこのことは議論に何らの相違も起さないであろう。すなわち社会の状態は改善され、そしてそれは以前よりもより容易に同一の貨幣負担を担い得るであろう。それは単に、社会における他の階級、すなわち遥かに最も重要な階級、の境遇こそが、この新しい分配によって主として利益を受けるところのものである、という更により望ましいことを、証明するに過ぎないであろう。彼が九百万以上に受取るすべてのものは国の純所得の一部をなし、そしてそれを支出すれば、必ずその収入、その幸福、または勢力が増加されるのである。しからば純所得を諸君の意のままに分配せよ。一つの階級にわずかばかりより多く、そして他の階級にわずかばかりより少く与えよ、しかもそれによって諸君は純所得を減少せしめることはないであろう。より多量の貨物が――かかる貨物の総貨幣価値額は減少するであろうけれども――依然同一の労働をもって生産されるであろう。しかし国の純貨幣所得、すなわち租税が支払われ享楽品が取得される資金は、現実の人口を維持し、それに享楽品や奢侈品を供給し、かつ一定額の課税を支持するに、以前よりも遥かにより適するであろう。
公債所有者が穀物の価値の著しい下落によって利得することは疑い得ない。しかしもし他の何人も損害を蒙らないならば、それは穀物が高価ならしめられるの理由とはならない、けだし公債所有者の利得は国民的利得であり、そしてすべての他の利得と同様に、国の真実の富と力とを増加せしめるからである。もし彼らが不当に利得するならば、そのしかる程度を正確に確かむべきであり、しかる後その救済策を考案するのは立法府の仕事である。しかし単に公債所有者が不当な割前を得るという理由だけで、低廉な穀物と豊富な生産物とから生ずる大きな利益を得まいとするほどに、愚かな政策はあり得ない。
穀物の貨幣価値によって公債の利子を調節しようという試みはなされたことがない。もし正義と信実とがかかる調節を要求するならば、古い公債所有者には多額の債務を負っていることになる。けだし彼らは一世紀以上同一の貨幣利子を受取り来っているのに、穀物は価格においておそらく二倍となりあるいは三倍となっているからである(註)。
(註)マカロック氏は、見事な著書(『国債の利子を低減せる問題に関する一試論』――訳者註)において極めて力強く、国債に対する利子を下落せる穀物の価値に一致せしめるのが正当である、と主張している。彼は穀物の自由貿易に賛成しているが、しかし彼は、それは国家債権者に対する利子の減額を伴うべきである、と考えているのである。
しかし、公債所有者の境遇が、国の農業や製造業者やその他の資本家の境遇以上に、改善されると想像するのは、大きな誤謬である。それは実際上は改善を受けることより小であろう。
公債所有者は、疑いもなく、啻に粗生生産物と労働の価格が下落したばかりでなく、更に粗生生産物が一構成部分として入込んだ他の多くの物の価格を下落したのに、同一の貨幣利子を受取るであろう。しかしながら、このことは、私が今述べた如くに、同一の貨幣所得を支出すべき他のすべての者と共通に彼が享受する利益である。――すなわち彼れの貨幣所得は増加せず、農業者や製造業者やその他の労働雇傭者のそれは増加し、従って彼らは二重に利得するであろう。
労賃下落の結果たる利潤の騰貴によって資本家が利得すべきことが真実であるとしても、しかも彼らの所得はその貨物の貨幣価値の下落によって減少されよう、と云われるかもしれない。何がそれを下落せしめるはずであるか? 貨幣価値の変動ではない、けだし貨幣価値を変動せしめるものが何も起るとは仮定されていないから。その貨物を生産するのに必要な労働量の減少ではない。けだし、かかる原因は働かなかったし、またそれが実際働いたとしても、たとえそれは貨幣価格を下落せしめるかもしれぬとはいえ、貨幣利潤は下落せしめないであろうから。しかし貨物の原料となる粗生生産物は、価格において下落したと仮定されており、従って貨物はその故をもって下落するであろう。なるほどそれは下落するであろうが、しかしその下落は生産者の貨幣所得の減少を伴わないであろう。もし彼がその貨物をより少い貨幣に対して売るならば、それは、それを造る原料の一つが価値において下落したからに過ぎない。もし毛織物業者がその毛織物を、一、〇〇〇磅ポンドではなく九〇〇磅ポンドで売るとしても、それを造る羊毛が価値において一〇〇磅ポンドだけ下落するならば、彼れの所得は減少しはしないであろう。
マルサス氏は曰く、『なるほど進歩しつつある国の農業生産物に対する最後の附加は、大なる比例の地代を伴わず、そして、富める国が確実に一様の供給を得ることが出来る場合に、その国の穀物の一部を輸入するのがその国の利益になるのは、まさにこの事情の故である。しかし、もし外国穀物が国内において栽培され得る穀物より遥かにより低廉であり、ために外国穀物輸入のために無に帰する穀物の利潤及び地代に等しいほどである、というわけでないならば、すべての場合において、外国穀物の輸入は国民的利益とならないはずである。』――『諸基礎云々』、三六頁。
この考察においてマルサス氏は全く正しい。しかし輸入された穀物は、常に、『外国穀物輸入のために無に帰する穀物の利潤及び地代に等しいほどに、』国内で栽培され得る穀物よりもより低廉でなければならない。しからざれば、その輸入によって何人に対するいかなる利益も取得され得ないであろう。
地代は高い穀価の結果であるから、地代の喪失は低い価格の結果である。外国穀物は、決して、地代を与える如き内国穀物と競争することはない。価格の下落はあまねく地代に影響を及ぼし、ついに彼れの地代の全部が吸収されるに至るであろう。――もしそれが更により以上下落するならば、その価格は資本の通常利潤すら与えなくなるであろう。資本はその時には土地を去って他の職業に向かい、そして、その時には、――その時まではそうではないが、――以前にそこで栽培されていた穀物は輸入されるであろう。地代の喪失によって、価値は、すなわち評価された貨幣価値は、失われるであろうが、しかし富は利得されるであろう。粗生生産物及びその他の生産物の合計額は増加し、その生産の便宜の増大によって、それは、分量は増加するが、価値は減少するであろう。
二名の人が等しい資本を、――一方は農業に他方は製造業に用いるとせよ。農業における資本は一、二〇〇磅ポンドの年々の純価値を生産し、その中うち一、〇〇〇磅ポンドは利潤として手許に保留され、二〇〇磅ポンドは地代として支払われ、製造業における他方は単に一、〇〇〇磅ポンドの年々の価値を生産するに過ぎないとする。輸入によって、一、二〇〇磅ポンドを費した同一量の穀物が九五〇磅ポンドを費した貨物と引換えに獲得され得、そしてその結果農業に用いられた資本が、一、〇〇〇磅ポンドの価値を生産し得る製造業に転ぜられると仮定すれば、国の純収入はより小なる価値しか有たぬものとなり、それは二、二〇〇磅ポンドから二、〇〇〇磅ポンドに減少するであろうが、しかし啻にそれ自身の消費のための貨物及び穀物の量は同一であるのみならず、その製造品が外国に売られた価値と、そこから購買された穀物の価値との差額たる、五〇磅ポンドが購買すべきだけの附加が、なされるであろう。
さてこれがまさに、穀物の輸入が利益であるかまたはこれを栽培するのが利益であるか、ということに関する問題である。一定の資本の充用によって外国から得られる分量が、同一の資本が吾々をして国内で栽培し得せしめる分量を超過する――啻に農業者の分前に関する分量のみならず、更に地代として地主に支払われる分量を超過する――までは、それは決して輸入され得ないであろう。
マルサス氏は曰く、『製造業に用いられている生産的労働のいかなる等量も、決して、農業におけるが如き大なる再生産を惹起すことは出来ない、と正当にもアダム・スミスによって論ぜられている』と。もしアダム・スミスが価値を論じているのであるならば、彼は正しい。しかしもし彼が、富を論じているのであるならば、――これが重要な点である、――彼は誤っている。けだし彼自身富をもって、人生の必要品、便利品及び享楽品より成る、と定義しているからである。一組の必要品及び便利品は、他の組との比較を許さない。使用価値は何らかの既知の標準によって測定され得ない。それは異る人によっては異って評価されるのである。 
 
宇宙の始まり / スワンテ・アウグスト・アーレニウス

 

Svante August Arrhenius ( 寺田寅彦訳 )
目次

1 宇宙の生成に関する自然民の伝説
最低度の自然民には宇宙成立に関する伝説がない/原始物質は通例宇宙創造者より前からあると考えられた/多くの場合に水が原始物質と考えられた/インドの創造神話/渾沌/卵の神話/フィンランドの創造伝説/洪水伝説/創造期と破壊期/アメリカの創造伝説/オーストラリアの創造神話/科学の先駆者としての神話/伝説中の外国的分子
2 古代文化的国民の宇宙創造に関する諸伝説
カルデア人の創造伝説/その暦と占星術/ユダヤ人の創造説話、天と地に対する彼らの考え/エジプト人の観念/ヘシオドによるギリシア人の開闢論と、オヴィドのメタモルフォセスによるローマ人の開闢論
3 最も美しきまた最も深き考察より成れる天地創造の諸伝説
アメンホテプ王第四世/太陽礼拝/ツァラトゥストラの考え方/ペルシア宗派のいろいろな見方/宇宙進化の周期に関するインド人の考え/「虚無」からの創造/スカンジナビアの創造に関する詩
4 最古の天文観測
時間算定の実用価値/時の計測器としての太陰/時間計測の目的に他の天体使用/長い時間の諸周期/カルデア人の観測と測定/エジプト暦/エジプト天文学者の地位/ピラミッドの計量/支那人の宇宙観/道教/列子の見方/孔子の教え
5 ギリシアの哲学者と中世におけるその後継者
泰西の科学は特権僧侶階級の私有物/ギリシアの自然哲学者たち/タレース、アナキシメネス、アナキシマンドロス、ピタゴラス派/ヘラクリトス、エムペドクレス、アナキサゴラス、デモクリトス/自然科学に対するアテン人の嫌忌/プラトン、アリストテレス、ヒケタス、アルキメデス/アレキサンドリア学派/ユードキソス、エラトステネス、アリスタルコス、ヒッパルコス、ポセイドニオス/プトレマイオス/ローマ人/ルクレチウス/アラビア人の科学上の位置/科学に対する東洋人の冷淡/アルハーゼンの言明
6 新時代の曙光。生物を宿す世界の多様性
ラバヌス・マウルス/ロージャー・ベーコン/ニコラウス・クサヌス/レオナルド・ダ・ヴィンチ/コペルニクス/ジョルダノ・ブルノ/ティコ・ブラーヘ/占星術/ケプラー/ガリレオ/天文学に望遠鏡の導入/教会の迫害/デカルトの宇宙開闢論/渦動説/遊星の形成/地球の進化に関するライブニッツとステノ/デカルト及びニュートンに対するスウェデンボルグの地位/銀河の問題/他の世界の可住性に関する諸説/ピタゴラス、ブルノ/スウェデンボルグとカントの空想
7 ニュートンからラプラスまで。太陽系の力学とその創造に関する学説
ニュートンの重力の法則/彗星の行動/天体運動の起源に関するニュートンの意見に対しライブニッツの抗議/ビュッフォンの衝突説/冷却に関する彼の実験/ラプラスの批評/カントの宇宙開闢論/その弱点/土星環形成に関するカントの説/「地球環」の空想/銀河の問題についてカント及びライト/太陽の最期に関するカントの説/カントとラプラスとの宇宙開闢論の差異/ノルデンスキェルドとロッキャー並びにG・H・ダーウィンの微塵説/ラプラスの宇宙系/それに関する批評/星雲に関するハーシェルの研究/太陽系の安定度についてラプラス及びラグランジュ
8 天文学上におけるその後の重要なる諸発見。恒星の世界
恒星の固有運動/ハレー、ブラドリー、ハーシェルの研究/カプタインの仕事/恒星の視差/ベッセル/分光器による恒星速度の測定/太陽と他の太陽または恒星星雲との衝突/星団及び星雲の銀河に対する関係/天体の成分と我々の太陽の成分との合致/マクスウェルの説/輻射圧の意義/隕石/彗星/スキアパレリの仕事/ステファン及びウィーンの輻射の法則/雰囲気の意義/地球並びに太陽系中諸体の比重/光の速度/小遊星/二重星/シーの仕事/恒星の大きさ/恒星の流れ/恒星光度に関するカプタインの推算/二重星の離心的軌道/その説明/恒星の温度/太陽系における潮汐の作用/G・H・ダーウィンの研究/遊星の回転方向/ピッケリングの説/天体に関する我々の観念の正しさの蓋然性
9 宇宙開闢説におけるエネルギー観念の導入
太陽並びに恒星の輻射の原因に関する古代の諸説/マイヤー及びヘルムホルツの考え/リッターの研究/ガス状天体の温度/雰囲気の高さ/太陽の温度/エネルギー源としての太陽の収縮/天体がその雰囲気中のガスを保留し得る能力/ストーネー及びブライアンの仕事/天体間の衝突の結果に関するリッターの説/銀河の問題/星雲/恒星の進化期/太陽の消燼とその輻射の復活に関するカントの考え/デュ・プレルの叙述
10 開闢論における無限の観念
空間は無限で時は永久である/空間の無限性に関してリーマン及びヘルムホルツ/恒星の数は無限か/暗黒な天体や星雲が天空一面に輝くことを阻止する/物質の不滅/スピノザ及びスペンサーの説/ランドルトの実験/エネルギーの不滅/器械的熱学理論/この説の創設者等の説は哲学的基礎の上に立つものである/「熱的死」に関するクラウジウスの考え/死んだ太陽の覚醒に関するカント及びクロルの説/ハーバート・スペンサーの説/化学作用の意義、太陽内部の放射性物質と爆発性物質/天体内のヘリウム/地球の年齢/クラウジウスの説における誤謬/クラウジウスの学説に代わるもの/時間概念の進化/地球上に生命の成立/原始生成か、外からの移住か/難点/この問題に対する哲学者の態度/キューヴィエーの大変動説/これに関するフレッヒの意見/生物雑種の生成に関するロェブの研究/生命の消失に及ぼす温度の影響に関する新研究/原始生成説と萌芽汎在説との融和の可能性/無限の概念に関する哲学上並びに科学上の原理の比較/観念の自然淘汰 

 

先年私がスウェーデンの読者界のために著した一書『宇宙の成立』 “Das Werden der Welten”(〔Va:rldarnas Utveckling〕)が非常な好意をもって迎えられたのは誠に感謝に堪えない次第である。その結果として私は旧知あるいは未知の人々からいろいろな質問を受けることになった。これらの質問の多くは、現今に比べると昔は一般に甚だ多様であったところのいろいろの宇宙観の当否に関するものであった。これに答えるには、有史以前から既にとうにすべての思索者たちの興味を惹いていた宇宙進化の諸問題に関するいろいろな考え方の歴史的集成をすれば好都合なわけである。
ところが今度ある別な事情のために、ニュートンの出現以前に行われた宇宙開闢論的観念の歴史的発達を調べるような機縁に立至ったので、このついでにこの方面における私の知識を充実させれば、それによって古来各時代における宇宙関係諸問題に対する見解についての一つのまとまった概念を得ることが可能となった。この仕事は私にとっては多大な興味のあるものであったので、押し付けがましいようではあるが、恐らく一般読者においても、この方面に関する吾人の観照が、野蛮な自然民の当初の幼稚なまとまらない考え方から出発して現代の大規模な思想の殿堂に到達するまでに経由してきた道程について、多少の概念を得ることは望ましいであろうと信じるようになった。ヘッケル(〔Ha:ckel〕)が言っているように『ただそれの成り立ち(Werden)によってのみ、成ったもの(das Gewordene)が認識される。現象の真の理解を授けるものはただそれの発達の歴史だけである。』
この言葉には多少の誇張はある――たとえば現代の化学を理解するために昔の錬金術者のあらゆる空想を学び知ることは必要としない――しかしともかくも、過去における思考様式を知るということは、我々自身の時代の観照の仕方を見る上に多大の光明を与えるという効果があるのである。
最も興味のあるのは我々現在の観念の萌芽が最古の最不完全な概念形式の中に既に認められることである。これらの観念がその環境の影響を受けながら変遷してきた宿命的経路を追跡してみるとこれらがいかにいろいろの異説と闘ってきたかが分り、また一時はその生長を阻害されることがあっても、やがてまた勢いよく延び立って、その競争者等を日陰に隠し、結局ただ自己独りが生活能力をもつものだという表章を示してきたことを知るであろう。このような歴史的比較研究によって我々の現代の見解の如何に健全であるか、いかに信頼するに足るかということを一層痛切に感得することができるであろう。
この研究からまた現代における発達が未曾有の速度で進行しているということを認めて深き満足を味わうことができるであろう。まず約一〇万年の間人類は一種の精神的冬眠の状態にあったのでいかなる点でも現在の最未開な自然民俗に比べて相隔ることいくばくもない有様であった。いわゆる文化民俗の発達史が跨がっている一万年足らずの間における進歩はもちろん有史以前のそれに比べてははるかに著しいものにちがいない。中世においては、この時代の目標となるくらいに、文化関係の各方面における退歩がありはしたが、それにかかわらず過去一〇〇〇年の間における所得はその以前の有史時代全部を通じての所得に比べてはるかに顕著なものであると断言しても差支えはないであろう。最後にまた、今から一〇〇年以前におけるラプラス並びにウィリアム・ハーシェルの宇宙進化に関する卓抜な研究はしばらくおいて、ともかくも最近一〇〇年間のこの方面における収穫はその前の九〇〇年間のそれに比べて多大なものであるということは恐らく一般の承認するところであろうと思われる。単に器械的熱学理論がこの問題に応用されただけでも、それ以前一切の研究によって得られたと同じくらいの光明を得たと言ってもいいのであるが、その上に分光器の助けによって展開された広大な知識の領土に考え及び、またその後熱輻射や輻射圧や、豊富なるエネルギーの貯蔵庫たる放射性物質やこれらに関する諸法則の知識の導入などを考慮してみれば、天秤は当然最後の一世紀の勝利の方に傾くのである。もっともこのような比較をするには我々は余りに時代が近すぎる。そのために一〇〇年以前の世紀との比較に正鵠を失する恐れがないとは言われないが、しかしともかくも自然界に関する吾人の知識が今日におけるほど急激な進歩をしたことは未だかつてなかったということについてはいかなる科学者にも異議はあるまいと信ずるのである。
自然科学的認識(特に宇宙の問題の解釈におけるそれの有効な応用)の進歩がこれほどまで異常な急速度を示すに至るというのはいかにして可能であろうか。これに対する答はおよそ次のように言われるであろう。文化の最初の未明時代における人間は、もともと家族から発達したいわゆる種族の小さな範囲内に生活していた。それで一つ一つの種族が自分だけでこの広大な外界から獲得することのできた経験の総和は到底範囲の大きいものにはなり得なかった。そうして種族中で一番知恵のある人間がいわゆる「医術者」(Medizinmann)となってこの経験を利用し、それよって同族の人間を引回していた。彼のこの優越観の基礎となる知識の宝庫を一瞥することを許されるのはただ彼の最近親の親戚朋友だけであった。この宝庫が代々に持ち伝えられる間に次第に拡張されるにしてもそれはただ非常に緩徐にしか行われなかった。種族が合同して国家を形成する方が有利だということが分ってきた時代には事情はよほど改善されてきた。すなわち、知識の所有者等は団結して比較的大きな一つの僧侶階級を形成した。そうして彼らは実際本式の学校のようなものを設けて彼らの仲間入りをするものを教育し、古来の知恵を伝授したものらしい。そのうちにも文化は進んで経験の結果を文字で記録することができるようになってきた。しかしその文字の記録を作るのはなかなかの骨折りであったので、そういうものは僅少な数だけしかなく、寺院中に大事に秘蔵されていた。このようにして僧侶の知恵の宝物は割合に速やかに増加していったが、その中から一般民衆の間に漏れ広がったのは実に言うにも足りないわずかな小部分にすぎなかった。のみならず民衆の眼には博識ということは一種超自然的なもののようにしか見えないのであった。しかしそのうちにも偉大な進歩は遂げられた。そうした中でも最も先頭に進んでいたのは多分エジプトの僧侶たちであったらしく、彼らがギリシアの万有学者たちに自分たちの知識の大部分を教えたというのは疑いもないことである。そうして一時素晴らしい盛花期が出現した。その後に次いで来た深甚な沈退時代を見るにつけてもなおさら我々はこの隆盛期に対して完全な賛美を捧げないわけにはゆかないのである。この時代にはもはや文字記録は寺院僧侶という有権階級のみに限られた私有財産ではなくなって普通の人民階級中にも広がっていた。ただしそれは最富有な階級の間だけに限られてはいたのである。ローマとギリシアの国家の隆盛期には奴隷の数が人民の大多数を占めていたのであるが、彼らの中の少数な学識ある奴僕たとえば写字生のようなもの以外のものは精神文化の進歩を享受することを許されていなかった。特にまた、手工、従って実験的な仕事などをするのは自由人の体面に関わることであってただ奴隷にのみふさわしいものであるというような考えがあったことが不利な影響を生じたのであった。その後にまた自然探究の嫌いなアテンの哲学学派のために自然研究は多大の損害を被ることとなった。その上に彼らの教理はキリスト教寺院の管理者の手に渡って、そうしてほとんど現代までもその文化の進歩を阻害するような影響を及ぼしてきたのである。この悲しむべき没落期は新時代のはじめに人間の本性が再びその眠りから覚めるまで続いた。この時に至って印刷術というものが学問の婢僕として働くようになり、また実験的の仕事を軽侮するような有識者の考え方も跡を絶つようになった。しかし初めのうちはやはり昔からの先入的な意見の抵抗があり、またいろいろな研究者間に協力ということが欠けていたためにあまりはかばかしくはゆかなかった。その後この障害が消失し、同時にまた科学のために尽くす研究者の数も、彼らの利器の数も矢つぎ早に増加した。最近における大規模の進歩はかくして行われたのである。
我々は今『最上の世界』に住んでいるという人が折々ある。これについては余り確かな根拠からは何事も言い兼ねるのであるが、しかし我々は――少なくも科学者たちは――最上の時代に生活していると主張しても大丈夫である。それで我々は次のようなことを歌ったかの偉大なる自然と人間の精通者ゲーテとともに、未来は更に一層より善くなるばかりであろうという堅い希望を抱いても差支えはないであろう。
げに大なる歓びなれや、世々の精神に我を移し置きて、昔の賢人の考察の跡を尋ねみて、かくもうるわしくついに至りし道の果て見れば。  
ストックホルムにて   一九〇七年八月

ここで一言付加えておきたいことは、この改訂版で若干の補遺と修正を加えたことである。これはその後にこの方面に関して現われた文献と並びに個人的の示教によったものである。それらの示教に対してはここで特に深謝の意を表しておきたいと思う、また教養ある読者界がこの書中に取り扱われた諸種の問題に対して示された多大の興味は今度もなお減ずることなく持続することを敢て希望する次第である。また断っておきたいことは、死者並びに神々の住みかに関する諸問題である。これら問題に対する解答を与えるということが、ずっと古代の開闢論的宇宙像の形成には何らかの貢献をしたであろうし、従ってまたここでも問題とすべきではないかと考えさせるだけの理由もないではないが、しかしこの書では少しもこれらの点に立入らないことにした。これについては読者の多数からは了解してもらわれるであろうと信じる。これらの問題の考察は実際全然この書の目的とする科学的考究の圏外に属するものなのである。
ストックホルムにて  一九一〇年一〇月 
1 宇宙の生成に関する自然民の伝説

 

発達の最低段階にある民族はただその日その日に生きてゆくだけのものである。明日何事が起ろうが、また昨日何事が起ったにしたところが、それが何か特別なその日その日の暮らしむきに直接関係しない限り、彼らにとってそれは何らの興味もないことである。宇宙というものについて、あるいはその不断の進展について、何らかの考察をしてみるというようなこともなければまたこの地球の過去の状態がおよそいかなるものであったかということについて何らかの概念をもつということすら思いも寄らないのである。今でも互いに遠く隔った地球上のところどころに、このような低い程度の民族が現存している。たとえばブリントン博士(Du. Brinton)は、北米の氷海海岸に住むエスキモーが、世界の起源ということについて未だかつて考え及んだことすらなかったということを伝えている。同様にアルゼンチンのサンタ・フェー(〔Santa Fe'〕)にいる、昔は戦争好きで今は平和なインディアンの一族アビポン人(Abiponer)や、また南アフリカのブッシュメン族(〔Buschma:nner〕)もかつて宇宙開闢の問題に思い及んだことはないようである。
しかし、生活に必需なものを得るための闘争がそれほどにひどくない地方では、既に遠い昔から、地球の起源について、少し後れてはまた、天の起源――換言すればこの地球以外にある物象の起源――に関する疑問に逢着する。こういう場合には、たいてい、世界の起源について何かしら人間的な形を備えた考え方をしているのが通例である。すなわち、世界は何かの人間的な『者』によって製造されたと考えられているのである。この『者』は何かしらある材料を持合わしていて、それでこの世界を造り上げたというのである。世界が虚無から創造されるというような観念は一般には原始的な概念中にはなかったものらしく、これにはもっと高級な抽象能力が必要であったものと見える(注)。こういう考えの元祖はインドの哲学者たちであったらしく、それがブラーマ(すなわち、精霊)の伝説中に再現しているのを発見する。ブラーマは彼の観念の力によって原始の水を創造したというのである。同じ考えはまたペルシア、イスマエルの伝説にも現われ、ここでは世界は六つの時期に区切られて出発したことになっている。物質が何らかの非物質的なものから、ある意志の作用、ある命令、またはある観念によって生成し得るものであるという考えは、上記の伝説におけるものと同様に、『超自然的』あるいは『非自然的』と名づけてもしかるべきものである。これは物質の総量が不変であるという現代科学の立場と撞着するのみならず、また野蛮民等がその身辺から収集した原始的の経験とさえも融和しないものである。また実際多くの場合に、物質の永遠性という観念の方が、物質から世界を形成した人間的の創造者すなわち神が無窮の存在であるという考えよりも、もっと深いところに根源をもっているらしく見える。従ってその宇宙創造者は原始物質から生成したものと考えられているのが常例である。もちろんこのような宇宙始源に関する観念を形成しようとする最初の試みにおいて、余り筋道の立った高級なものを期待するわけにはゆかないのであるが、しかしかえってこれらの最も古い考え方の中に進化論(すなわち、本来行われ来った既知の諸自然力の影響の下に宇宙の諸過程が自然的に進展するという学説)の胚子のようなものが認められること、またこの進化論と反対に超自然的の力の作用を仮定するような、従って自然科学的考察の対象とはなり得ないような形而上学的宇宙創造論の胚子と言ったようなものが認められないということは観過し難い点である。
(注) オーストラリアの海岸に住む非常に文化の低い程度にある民俗ブーヌーロン(Bu-nu-rong)の言うところでは、鷲の形をして現われた神ブンジェル(Bun-jel)が世界を作ったことになっている。何者から作ったか、それは分らない。
かの偉大な哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)は進化という概念について次のように言っている。すなわち『進化とは非均等から均等へ、不定から決定へ、無秩序から秩序への変化である』というのである。もっともこの意見は全く正当ではない――特に分子の運動に関係しては――が、それでもこれは宇宙の進化に関するこの最初の概念に全然該当するものである。この概念はなおまたラプラスの仮説の一般に行われたために現代までも通用してきたものである。形態もなく、秩序もなく、全く均等な原始要素としては普通に水が考えられていた。最古からの経験によって洪水の際には泥土の層が沈澱することが知られており、この物はいろいろな築造の用途に都合の良い性質によって特別の注意を引かれていたものである。タレース(Thales)は、また実に(西暦紀元前約五五〇年)万物は水より成ると言っているのである。煮沸器内の水を煮詰めてしまうと、あとには水中に溶けていた塩類と、浮遊していた固体の微粒子から成る土壌様の皮殻を残すということの経験は恐らく既に早くからあったのであろう。
この考えを裏書するものとして引用してもよいかと思われるものは、後に述べるようなエジプト、カルデア、フィンランドの創造神話の外に、万物の起源に関するインドの物語の一つである。すなわち、それはリグヴェーダ(Rig-Veda)の第一〇巻目の中にある見事な一二九番の賛美歌で、訳してみるとこうである。
一つの「有」もなく一つの「非有」もなかった、空気で満たされた空間も、それを覆う天もなかった。
何物が動いていたか、そして何処に。動いていたのは誰であったか。
底なしの奈落を満たしていたのは水であったか。
死もなく、また永遠の生というものもなかった。
昼と夜との分ちも未だなかった。
ある一つの名のない「物」が深い溜息をしていた、その外にはこの宇宙の渾沌の中に何物もなかった。
そこには暗闇があった、そして暗闇に包まれて、形なき水が、広い世界があった、真空の中に介在する虚無の世界があった。
それでもその中の奥底には生命の微光の耀《かがよ》いはあった。
動いていた最初のものは欲求であった、それが生命の霊の最初の象徴であった、霊魂の奥底を探り求めた賢人等、彼らは「非有」と「有」との相関していることを知った。
とは言え、時の始めの物語を知る人があろうか。
この世界がいかにして創造されたかを誰が知っていよう。
その当時には一人の神もなかったのに。
何人も見なかったことを果して誰が語り伝えようか。
原始の夜の時代における世界の始まりはいかなるものであったか。
そもそもこれは創造されたものか、創造されたのではなかったのか。
誰か知っているものがあるか、ありとすれば、それは万有を見守る「彼」であるか、天の高きに坐す――否恐らく「彼」ですら知らないであろう。
この深きに徹した詩的の記述は本来原始民の口碑という部類に属すべきものではなく、むしろ甚だ高い発達の階級に相当するものである。しかしこの中に万物の始源として原始の水を持出したところは、疑いもなくインド民族の最古の自然観に根ざしていると思われる。
種々な開闢の物語の多数の中に繰返して現われる(中にも、カルデア及びこれと関連しているヘブライまたギリシアのそれにおいても)観念として注目すべきものは、一体ただ光明の欠如を意味するにすぎないと思われる暗黒あるいは夜をある実在的なものだとする観念である。「有」と「非有」とは一体正反対なものであるのを連関したもののように見なしている。ここでこのような考えの根底となっているのは疑いもなく、全然均等な渾沌の中にはいかなる物にもその周囲のものとの境界がなく、従って何物も存在しないという観念であろう。
通例無秩序の状態を名づけるのにギリシア語のカオス(Chaos)を用いるが、これは元来物質の至る所均等な分布を意味する。カントの宇宙開闢論もやはり、宇宙はその始め質点の完全に均等な渾沌的分布であったということから出発している。この原始状態はまたしばしば、たとえば日本の神話におけるごとく、原始エーテルという言語で言い表わされる。その神話にはこうある。『天と地とが未だ互いに分れていなかった昔にはただ原始エーテルがあったのみで、それはあたかも卵子のような混合物であった。清澄なものは軽いために浮び上がって天となった。重いもの濁ったものは水中に沈んでしかして地となった。』またもう一つの日本の伝説でタイラー(Tylor)の伝えているものによると、大地は始めには泥のように、また水に浮ぶ油のように粘流動性であった。『そのうちにこの物質の中からアシと名づけるイチハツあるいは葦のようなものが生長し、その中から地を作る神が現われ出た』というのである。
自然の生物界においては、一見生命のないような種子あるいは卵から有機生物が出てくる。この事実の観察からして、しばしば宇宙の起源には卵子がある重要な役目を務めたという観念が生じた。これは上述の日本の物語にもまたインド、支那、ポリネシア、フィンランド、エジプト、及びフェニシア伝説においてもそうである。
宇宙の生成に一つまたは数個の卵が主役を務めたということで始まるいろいろな創造伝説の中で最もよく知られており、また最もよく仕上げのかかっているのはフィンランドのそれである。それはロシアのアルハンゲルスク州に住む比較的未開なフィンランド種族の物語によって記録されている。この伝説によると『自然の貞淑な娘』であるところのイルマタール(Ilmatar)が蒼い空間の中に浮び漂うていた。そして折々気をかえるために海の波の上に下り立った、というのである。これで見ると海は始めから存在していたので、その上には広い空間があり、のみならずイルマタールがあり、彼女は自然の中から生れたものである。これはいろいろな野蛮民族に通有な考え方に該当しているのである。
そこでイルマタールは嵐に煽られて七〇〇年の間波の上を浮び歩いている。そこへ一羽の野鴨が波の上を飛んできてどこかへ巣を作ろうとして場所を捜す。イルマタールが水中から臑を出すと鴨がその上に金の卵を六つ生み、七番目には鉄の卵を生む。それから鴨は二日間それを抱いてあたためた後、イルマタールが動いたために卵は落ちて深海の底に陥る。
しかし卵は海の 水で砕けなかった、それは、これから天が 地が生れて出た。
卵の下の部分から 母なる低い地が生じ しかし卵の上の方から 高い天の堅めができた。
しかして残りの黄味は 日中を照らす太陽となり そして残った白味は 夜の冴えた月となった。
しかし卵の中でいろいろなものは 天の多くの星になった。
そうして卵で黒い部分は 風に吹かれる雪になった。
そこでイルマタールは海から上がり、そうして岬や島々や山々小山を作り出した。それから、賢い歌手で風の息子であるところのウェイネモェイネン(〔Wa:ina:mo:inen〕)を生んだ。ウェイネモェイネンは月と太陽の光輝を歓喜したが、しかし地上に植物の一つもないのはどうも本当でないと思った、そこで農業の神ペルレルヴォイネン(Pellervoinen)を呼び寄せ野に種を播かせた。野は生き生きした緑で覆われ、その中から樹々も生い出た。ただ樫樹だけは出なかった。これはその後に植えられたのである。しかるにこの樫は余りに大きく生長しすぎて太陽や月の光を遮り暗くするので伐り倒さなければならなかったというのである。
ここで見るようにこれらの話の運びの中で神々や人間、動物や植物が現われてくるが、これらがどこからどうして出てきたかについては何ら立入った説明の必要も考えられていない。この特徴はすべての創造伝説に典型的なものではあるが、このフィンランドの伝説ほどにこれが顕著に現われているのは珍しい。多分この伝説はその部分がそれぞれ違った人々によってでき上ったものらしく思われる。しかしこれらを批評的に取扱って一つのまとまった宇宙生成の伝説に仕立て上げようとしたものはなかった。言い換えればこれは畢竟伝説の形となって現われた自然児の詩にすぎないのであって理知に富む思索家の宇宙を系統化せんとする考えではないのである。
ヒルシュ(E. G. Hirsch)が言っている通り、『原始的の宇宙開闢論はいずれも民族的空想の偶発的産物であって、したがって非系統的である。それらは通例ただ神統学(Theogony)の一章、すなわち、神々の系図の物語であるにすぎない。』
諸方の民族の伝説中で大洪水の伝説が顕著な役目をつとめている。これには科学者の側からも多大の注意を向けられている。最もよく知られているのは聖書に記された大洪水で、この際に大地はことごとく水中に没し、最高の山頂でさえ一五エルレンの水底にあったことになっている。一八七〇年代のころにこれと全く同様な内容を楔形文字で記した物語が発見され、その中に英雄シト・ナピスティム(Sit-napistim)(すなわち、バビロン人のいわゆるクシスストロス Xisusthros)の名が出ていることが分って以来、このユダヤの伝説の源はアッシリアのものであると考えらるるに至った。ヘブライの本文に『大洪水を海より襲い来らしむべし』とあるところから、有名な地質学者ジュース(Suess 一八八三年)は、この大洪水が火山爆発に起因する津波によって惹起されたもので、この津波がペルシア湾からメソポタミアの低地の上を侵入していったものであろうと考えた。
リイム(I. Riem)は種々な民族の大洪水に関する伝説で各々独立に創作されたらしく思われるものを六八ほど収集した。この中でわずかに四つだけがヨーロッパの国民のものである。すなわち、ギリシアのデゥカリオンとピュルラ(Deukalion, Pyrrha)の伝説、エッダ(Edda)中の物語、リタウェン人(Littauer)の伝説及び北東ロシアに住むウォグーレン人(Wogulen)の伝説である。アフリカのが五、アジアのが一三、オーストラリア及びポリネシアが九、南北アメリカのが三七である。ニグロやカフィール族(Kaffer)の黒人やアラビア人はこの種の伝説を知らないのである。この大氾濫の原因について各種民族の伝うるところは甚だまちまちである。氷雪の融解によるとするもの(スカンジナビア人)、雨によるとするもの(アッシリア人)、降雪(山地インド人 Montagnais-Indianer)、支柱の折れたために天の墜落(支那)、水神の復仇(ソサイティー諸島 Gesellschaftsinseln)によるもの等いろいろある。中には洪水が幾度も繰返されたことになっているのもある。
たとえばプラトン(Plato)はティマイオス(〔Tima:os〕)の中で、あるエジプトの僧侶が、天の洪水は一定の周期で再帰するものだと彼に話したと記している。
通例天地創造の行為は単に物質の整頓であると考えられ、大多数の場合にはそれが地と原始水あるいは大洋との分離であったと考えられている(太平洋諸島中の若干の民族は地が大洋から漁獲されたと考えている)。それでその前の渾沌状態は氾濫すなわち、いわゆる『大洪水』によって生じたものであろうと考えられ、それがまた後に繰返されたものと考えられるのは、極めてありそうなことである。たとえばアリアン人種に属しないサンタレン人(Santalen)などがこれに類した考え方をしていたもののようである。
この考えはまた、近代の若干の学者によって唱えられたごとく、現在生物の生息する地球の部分は、いつかは一度荒廃して住まわれなくなってしまい、また後に再び生物の住みかとなるであろうという意見とも一致する。野蛮人の間では、この荒廃をきすものは水か火かあるいは風(しばしばまた神々の怒り)である。そうして後にまたこの土地が新たに発育し生命の住みかとなる。こういう輪廻は幾度も繰返されたと考えるのである。この考え方は、輓近の宇宙観は別として、なかなか広く拡がっているものであって、その最も顕著に表明されているものはインドの伝説中にも(プラナ Purana の諸書中に)、また後に再説すべき仏教哲学の中にも見出される。
宇宙の再生に関する教理は普通にまた一般に広く行われている霊魂の移転に関する教理と結び付けられているのが常であるが、ここではこの方の関係について立入る必要はあるまい。
アメリカの宇宙開闢神話は、恐らく旧世界とは没交渉にできたものと思われるのである格別の興味がある。ところがこれがまた旧世界の伝説と著しい肖似を示している。ただアメリカの伝説では動物の類が主要な役割をつとめている。大多数の狩猟民族と同様にアメリカ・インディアンもまた動物も自分らの同輩のように考えているのである。一体世界の製作者というのは、きまって土か泥を手近に備えていたもののようである。通例地は水から分れ出たことになっている。最も簡単な考え方によると、大洋の中の一つの小島がだんだんに大きくなってそれが世界になったということになっている。英領コロンビアのタクル人(Takullier)の観念は独特なものであって、すなわち、始めには水と一匹の麝香鼠の外には何もなかった。この麝香鼠が海底で食餌を求めていた。その間にこの鼠の口中に泥がたまったのを吐き出したのがだんだんに一つの島となり、それが生長してついに陸地となったというのである。もっと独特な神話はイロケース人(Irokesen)によって物語られている。すなわち、一人の女神が天国から投げ出されたのが海中に浮遊している亀の上に落ちてきた。そしてその亀が生長して陸地になったというのである。この亀は明らかに前述の神話における小さな大洋島に相当するものであり、女神の墜落はその島の生長を促す衝動になっているのである。ティンネーインド人(Tinneh-Indianer)の信ずるところでは一匹の犬があって、それはまた美しい若者の姿にもなることができた。その犬の身体が巨人のために引き裂かれて、それが今日世界にある種々の物象に化生したというのである。このごとく、世界が一人の人間あるいは動物の肢体から創造されたとする諸神話は最も多様な野蛮人のこの世界の起源に関する伝説中に見出されるのである。時には宇宙創造者は、たとえばウィンネバゴインド人(Winnebago-Indianer)の『キッチ、マニトゥ(Kitschi Manitou)』(偉大なる精霊)のように、自分の肢体の一部と一塊の土壌とから最初の人間を造り上げた。この神話はエヴァの創造に関するユダヤ人の伝説を思い出させるものであるが、とにかく明白に初めからこの土地が存在していたものと仮定されている。この点はナヴァヨインド人(Navajo-Indianer)、ディッガーインド人(〔Digger, Gra:ber-Indianer〕)またはグァテマラの原始住民の宇宙始源に関する物語においても同様である。
オーストラリアの原始住民は甚だ低級な文化の段階に立っている。一般には彼らは世界の始まりについて何らの考えをも構成しなかったように見える。彼らにとっては、大多数の未開民族の場合と同様に、天というものは、平坦な円板状の地を覆う固定的の穹窿である。ウォチョバルーク族(Wotjobaluk)の信ずるところでは、天は以前は地に密着して押しつけられていたので太陽はこの二つの間を運行することができなかったが、一羽の鵲が一本の長い棒によって天を空高く押し上げたのでようやく太陽が自由に運行するようになったのである。この甚だ幼稚な神話はこれに類似した古代エジプト人の神話のあるものを切実に想起させるのである(これについては更に後に述べる)。
上記の諸例から知らるるように、宇宙構成の原始的観念は宗教的の観念と密接に結合されている。野蛮人は、何でも動くもの、また何かの作用を及ぼす一切のものは、ある意志を賦与された精霊によって魂を持たされていると見なす。こういう見方を名づけてアニミスムス(Animismus 万物霊動観)という。『もしも一つの河流が一人の人間と同じように生命をもっているならば、自分一個の意志次第で、あるいは潅漑によって祝福をもたらすことも、また大洪水によって災害を生ずることもできるはずである。そうだとなれば、河がその水によって福を生ずるように彼を勧め、また災害の甚だしい洪水を控えてくれるように彼をなだめることが必要になってくる。』
野蛮な自然民はこの有力な精霊を魔法によって動かそうと試みる。その法術にかけては玄人であるところの医者または僧侶が他の人間には手の届かない知恵をもっているのである。現在我々が自然現象の研究によって得んとするもの、すなわち、自然力の利用ということを野蛮人は魔術によって獲んとするのである。それである点から見れば魔術は自然科学の先駆者であり、また魔術使用の基礎となる神話や伝説は種々の点で今日の自然科学上の理論に相当するものである。そこでアンドリウ・ラング(Andrew Lang)に言わせると、『諸神話は一方では原始的な宗教的観念に基づくと同時にまた他方では当て推量によって得られた原始的の科学に基づいたものである。』これらの推量なるものも多数の場合には、しょせん日常の観察に基づいたものであろうということは考えやすいことである、また実際いかなる観察に基因したかを推定することも困難でない場合がしばしばある。もっとも中には幾分偶然のおかげであった場合も多いであろう。
これらの神話は口碑によって草昧の時代から文化の進んだ時代まで保存されてきた。その間に次第に人間の教養は高くなってきても祖先伝来のこれらの考え方に対する畏敬の念は、これらの神話を改作したり、また進歩した観察と相容れないと思わるる部分を除去する障害となりがちであった。このことは次章に再説するヘシオド(Hesiod)及びオヴィド(Ovid)の記した宇宙開闢の叙述において特に明瞭に現われているのである。
時にはまたもう一つ他の影響があった。すなわち、野蛮人の伝説は通例高い教養のある、しかも特にそれに興味をもった人々によって描き出されている。それで全く無意識にその人たち自身の考え方が蛮人の簡単な物語の上に何らかの着色をする。そういうことはその伝説の中に何か明白な筋道の立ちにくい箇所のあるような場合に一層起りやすい、そういう時にはそれを記述する収集家はその辻褄を合わせようという気に誘われやすいからである。その収集家が人種の近親関係または他の理由からその自然民に対して特別好意ある見方をしている場合には特にそうである。こういう場合にはその記述は往々その野蛮人から借りてきたモティーヴで作り上げた美しい詩になってしまうのである。
もちろんそういうことは、何ら筆紙に書き残された典拠のない場合のことである。しかしそんなものの存するためにはかなり高い文化が必要であるから、野蛮人からそういうものが伝わろうとは思われない。それで記録によって伝わっている開闢観についてはもっと後に別に一節を設けて述べることとする。それらの中で特に吾人の注意を引く二つの部類がある、その一は吾人今日の文化の重要な部分をそこから継承した諸国民のものであり、その二は高級な理解力と考察の深さをもった他の民族のそれである。
この第一の部類は、後に古代の哲学者によりまたその後代の思索家によって追究され改造された考えと直接に連関しているものである。実際古代文化民族の宇宙開闢伝説の遺骸のようなものが現代の文明諸国民の宇宙観中の重要な部分となっているのである。
第二の部類のものは、科学の力によって非常に拡張された外界の知識から我々の導き出した考えと種々な点で相通ずるものがあるというところに主要な興味があるのである。 
2 古代文化的国民の宇宙創造に関する諸伝説

 

近代文明の淵源は古代のカルデアとエジプトであって、そこには約七千年の昔から保存された文化の記念物がかなり多量にある。もっともまだまだもっと古いほとんど五万年も昔の文化の遺跡が、南フランスや北部スペインの石灰洞の壁に描かれた、おもにマンモスや馴鹿や馬などの、着色画に残ってはいるが、しかしこの時代の芸術家の頭に往来していた夢は実にただ好もしい狩猟の獲物の上にあり、そして獲物が余分に多かったときに、それを分ち与える妻の上にも少しは及んだくらいのものであった。この『マグダレニアン時代』(Magdalenien Zeit)と名づけられた時代が現代の文明に及ぼした影響については何らの確信もないのであるが、これに反して、かのカルデア及びエジプトにおける古典的地盤の時代に遡ってこのような影響を求めてみると、得るところがなかなか多いのである。
『高きには天と名づくる何物もなく、下には地と呼ぶ何物もなかったときに、』すなわち、天地開闢以前に、カルデアの神話に従えば『ただこれらの父なるアプスー(Apsu 大洋)と、万物の母なるティアマート(Tiamat 渾沌)があるのみであった。』この大洋の水と渾沌とが交じり合い、その混合物の中に我々の世界の原始的要素が含まれていたので、その中から次第次第に生命が芽生えてきた。しかしてまた『その以前には創造されていなかった』神々も成り出で、しかして数多い子孫を生じた。ティアマートはこの神々の群衆が次第に自分の領域を我がもの顔に侵すのを見て、己が主権を擁護するために、人首牛身、犬身魚尾などという怪物どもの軍勢を作り集めた。神々は相談をしてこの怪物を勦滅《そうめつ》することに決議はしたが、誰も敢て手を下そうとするものがない中にただ一人知恵の神エア(Ea)の息子のマルドゥクがこれに応じた。ただし彼は勝ったときの賞として彼らに対する主権を与えるという約束を仲間の神々たちに求めた。事態切迫の際この望みは容れられたので、彼は弓と槍と稲妻という武器を提げてティアマートの在所を捜しあて、これに一つの網を投げかけた。ティアマートが巨口を開いてマルドゥクを飲もうとしたときに彼はその口と臓腑の中に暴風を投げ込んだ。その結果としてティアマートは破裂してしまった。ティアマートに従うものどもは恐れて逃げようとしたが捕らえられ枷をかけられてエアの神の玉座の前に引き出された。そこでマルドゥクは渾沌として乱れたティアマートの五体の変形を行った。すなわち、それを『干物にしようとするときに魚を割くように』二つに切り割いた。『そうして、その一半を高く吊るしたのが天となり、残る半分を脚下に広げたのが地となった。そうして、かようにして彼の造った世界がすなわち以来の人間のよく知る世界である。』
   第一図 電光を揮ってティアマートを殺すマルドゥク、大英博物館所蔵ニムロッドの浮彫の一部、フォーシェー・ギューダンの描図による。この図と次の第三図はマスペロの著書より。
マスペロの『古典的東洋民族の古代史』(〔Maspe'ros “Histoire ancienne des peuples de l'Orient classique”〕)の中にカルデア人の宇宙観を示す一つの絵がある(第二図)。地は八方大洋で取り囲まれた真ん中に高山のように聳え、その頂は雪に覆われ、そこからユーフラテス(Euphrat)河が源を発している。地はその周囲を一列の高い障壁で取り囲まれ、そして地とこの壁との中間のくぼみに何人も越えることのできない大洋がある、壁の向こう側には神々のために当てられた領域がある。壁の上にはこれを覆う穹窿《きゅうりゅう》すなわち天が安置されている、これはマルドゥクが堅硬な金属で造ったもので、昼間は太陽の光に輝いているが、夜は暗碧の地に星辰をちりばめた釣鐘に似ている。この穹窿の北の方の部分には、一つは東、一つは西に、都合二つの穴の明いた半円形の管が一本ある。朝になると太陽がその東の穴から出てきて、徐々に高く昇ってゆき、天の南を過ぎて西方の穴へと降ってゆき、そこへ届くのが夜の初めである。夜の間は太陽はこの管の中をたどっていって、翌朝になると再びその軌道の上に運行を始めるのである。マルドゥクは太陽の運行によって年序を定め、年を一二の月に分ち、毎月が一〇日すなわちデセードを三つずつもつことにした。それで一年が三六〇日になる。毎六年目に閏月が一つあてはさまることにしたので一年は平均するとやはり三六五日ということになったのである。
   第二図 カルデア人の宇宙観。フォーシェー・ギューダンの描図。中央に大陸が横たわり、それから四方に向かって高まり、いわゆる「世界の山」アララットになっている。大陸の周囲は大洋が取り巻きその向こう側に神々の住みかがある。『世界の山』の上には釣鐘形の天(マルドゥクが造った)が置かれてある。これが昼間は日光で輝き、夜は暗青色の地に星辰が散布される。北の方の部分には管が一本あってその二つの口が図に見えている。朝は太陽がその東の口から出て蒼穹に昇り、午後には再び沈下して夜になるとついに管の西口の中に入ってしまう。夜の間はこの管の中を押しすすみ翌朝になると、また再び東口に現われる。
カルデア人の文化は季節の交互変化と甚だ深い関係があるので、彼らは暦の計算を重要視した。始めには、多数の民族と同様に、算暦の基礎を太陰の運行においたものらしい。しかしそのうちに太陽の方がもっと重要な影響を及ぼすことに気付いたので、上記のごとき太陽年を採用した。それがマルドゥクの業績として伝えられたのであろう。その後、間もなく、星の位置を観測すると種々な季節を決定するのに特別有用であるということを発見した。季節は動植物界を支配する。しかるに人類の存続は結局全くこの有機界による。そういうわけで、結局星辰の力というものが過重視されるようになり、そのために爾後約二〇世紀の間、現代の始まりまでも自然研究の衝動を麻痺させるという甚だ有害な妄信を生ずるに至った。この教理はジュリアス・シーザーと同時代のディオドルス・シクルス(Diodorus Siculus)によって次のように述べられている。『彼ら(カルデア人)は長い年月の間星辰を注目してきて、しかしてあらゆる他国民よりも仔細にその運動と法則とを観察してきたおかげで、将来起るべきいろいろのことを人々に予言することができた。予言をしたり未来を左右したりするのに最も有効なものは、吾人が遊星と名づくる五つの星(水星、金星、火星、木星、土星)であると考えた。もっとも彼らはこれらの星を『通訳者』(Dolmetscher)という名で総称していた。――しかしこれらの星の軌道には、彼らのいうところでは、『助言する神々』と呼ばれる三〇の別の星がある。そのうちでの首座の神々として一二を選み、その一つ一つに一二ヶ月の一つと並びに黄道状態における十二宮星座の一つずつを配布した。これらの中を通って太陽太陰並びに五つの遊星が運行するものと彼らは信じていたのである。』
カルデアの僧侶たちの占星術はなかなか行届いたものであった。彼らは毎日の星の位置を精細に記録し、また直後の未来におけるその位置を算定することさえできた。いろいろの星はそれぞれ神々を代表し、あるいは全く神々そのものと見なされていた。それで誰でもいかなる神々が自分の生涯を支配しているかを知りたいと思う人は、星のことに明るい僧侶について、自分の誕生日における諸星の位置を尋ねる。そうして潤沢な見料と引換に、自分の運勢の大要を教わるのである。何か一つの企てをある決まった日に遂行しようという場合ならば、その成功の見込についてあらかじめ教えを受けることができた。もしこのカルデアの僧侶についてよほど善意な判断を下してみるとすれば、多分こういうふうに言われるであろう。すなわち、彼らの考えの基礎には、すべてのできごとは外界の条件の必然の結果として起るものである、という、今日でも一般に通用している確信があったのであろう。
しかしこの考えと編み交ぜられていたもう一つの考えは全く間違ったものであって、簡単な吟味にも堪えないものであった。すなわち、それは太陰や諸遊星の位置が自然界や人間界にかなりな影響を及ぼすと考えたことである。諸天体は神々であるとの信仰のために天文学は神様に関する教え、すなわち、宗教の一部になった。しかしてその修行はただ主宰の位置にある僧侶階級にのみ限られていた。誰でもこの僧侶階級の先入的な意見に疑いを挿むような者はこの僧侶たちと利害を同じうしていた主権者から最も苛酷な追究を受けた。この忌まわしい風習が一部分古典時代の民族に移り伝わり、そうして中世の半野蛮人において最も強く現われたのである。
カルデアの宇宙構成神話はまた他の方面から見ても吾人にとって重要な意義がある。すなわちそれは、少し違った形でユダヤ人によって採用され、従ってまたキリスト教徒に伝えられたからである。近代の研究において一般に認容されている宇宙創造伝説の推移に関する考えは、ドイツの読者間には『バベルとバイブル』(Babel und Bibel)という書物によって周知のことと思うから、ここではすべてをその書に譲りたいと思う。渾沌はユダヤ人にとってもやはり原始的のものであった。地は荒涼で空虚であった。しかして深きもの(すなわち、原始の水)の上には一面の闇があった。バビロニアの僧侶ベロスース(Berosus)の言葉として伝えられているところでは『始めにはすべてが闇と水であった』ことになっている。この深きものテホム(Tehom)というのがユダヤの宇宙創造の物語では人格視されており、また語源的にティアマートに相当している。その有り合わせた材料から神エロヒーム(Elohim)が天と地とを創造した(あるいは、本当の意味では、形成した)のである。
エロヒームは水を分けた。その上なるものは天の中に封じ込められ、しかしてその下なるものの中に地が置かれた。地は平坦、あるいは半球形であって、その水の上に浮んでいるものと考えられていた。その上方には不動な天の穹窿が横たわり、それに星辰が固定されていた。しかしこの天蓋までの高さは余り高いものではなく、鳥類はそこまで翔け昇り、それに沿うて飛行することができるのである。エノーク(Enoch)は、多くの星が地獄(Gehennas)の火に焼き尽くされたさまを叙している。それはエロヒームの神がこれらの星に光れと命じたときに光り始めなかったからである。このように星辰は『不逞の天使』すなわち、主上の神から排斥された神々であったのである。
カルデアの創世記物語とユダヤのそれとの相違する主要の点は、後者が一神的であるに反し前者が多神的であることである。ただし前者でも太陽神マルドゥクが万象並びにまた諸神の主権者として現われている点から見ればやはり一神的の傾向をも帯びている。
ユダヤの宇宙開闢説の中にはまた世界の卵という考えに関するフェニシアの創世伝説の痕跡のあることは『エロヒームの精霊が水の上に巣籠りした(〔bru:tete.〕 通例「浮揺していた」schwebte と訳してある)』という文句からうかがわれる。またマルドゥクとティアマートの争闘の物語の片影はヤフヴェ(Jahve)が海の怪物レヴィアターン(Leviathan)すなわち、ラハーブ(Rahab)を克服する伝説の中に認められる。宇宙開闢論の見地から見ると、ユダヤ、従ってキリスト教における世界の始源に関する表現には何ら特別優れた創意というものはないのである。
世界の始めに関するこの最初のカルデアの記述よりは幾分後になるが、それでもやはり随分古いものとしては、これに対応するエジプトのいろいろの物語である。中で最も重要な、ここでの問題に関する神話を、マスペロ(〔Maspe'ro〕)の集録によって紹介することとする。すなわち、当時『虚無』の概念はまだ抽象的なものにはなっていなかった。それで、「暗き水の中に」、形は渾沌たるものではあったがとにかく物質的な材料があった。そこで特別な首座の神様が――国が違えばこの神も一々違っているが――世界にありとあらゆる生物無生物を造り出した。その造り方は、その神の平生の仕事次第でいろいろであって、例えば織り出すとか、あるいは陶器の壷などのように旋盤の上でこねて造ったりしている。ナイル川のデルタの東部地方では創世記神話が最もよく発達していた。すなわち、始めには天(ヌイト Nuit)と地(シブ Sibu)とが互いにしっかりと絡み合って原始の水(ヌー Nu)の中に静止していた。創世の日に一つの新しい神シュー(Shu)が原始水から出現し、両手で天の女神ヌイトをかかえてさし上げた、それでこの女神は両手と両足――これが天の穹窿の四本柱である――を張って自分のからだを支え、それが星をちりばめた天穹となったのである(第三図)。
   第三図 シューの神がヌイト(天)とシブ(地)を分つ図。チューリン博物館所蔵のミイラの棺に描かれたものをフォーシェー・ギューダンの模写したもの。
そこでシブは植物の緑で覆われ、それから動物と人間が成り出でた。太陽神ラー(Ra)もまた原始水の中で一つの蓮華の莟の中に隠されていたが、創世の日にこの蓮の花弁が開きラーが出現して天における彼の座を占めた。このラーはしばしばシューと同一視せられたものである。太陽がヌイトとシブの上を照らしたので、そこで一列の神々たちが生れ、その中にはナイルの神のオシリスもいた。暖かい日光の下に、あらゆる生けるもの、すなわち、植物も動物も人間も発達した。ある二三の口碑によるとこれは温められたナイルの泥の中での一種の醗酵作用、すなわち、ある自生的過程によって起ったものとされており、この過程は歴史時代に至ってもまだ全く終っていなかったもののように考えられている。多くの人々の信じていたところでは、この最初の人間たち、すなわち、太陽の子供たちは完全なものであり幸福であった。そして後代のものは出来損なったものばかりで、本来の幸福を失ってしまったものである。またある人々の信じていたところでは、この最古の人間たちは動物のような性状のもので、まだ言語をもたず、ただ曲折のない音声で心持を表わしていたのを、トート(Thot)の神が初めてこれに言語と文字とを教えたということになっている。このように、ダーウィンの学説でさえも、ここに見らるるごとく、既にこの文化の幼年時代においてその先駆者をもっているのである。
   第四図 太陽神が創造の際開きかかった蓮華から出現する図。フォーシェー・ギューダンの描図。この神は頭上に神聖な蛇を乗せた太陽円盤の象徴を頂いている。蓮華と二つの莟とは一つの台から立上がっている、これは通例水盤の象徴であるがここでは暗黒な原始水ヌーをかたどっていると思われる。
古典時代における宇宙始源に関する観念は甚だ幼稚なものであった。ヘシオド(Hesiod 西暦紀元前約七〇〇年)が彼の神統記(Theogonie)及び『日々行事』(Werke und Tage)の中でギリシアの創世記神話を語っている。それによると、すべては渾沌をもって始まった。そのうちに地の女神ゲーア(〔Ga:a〕)が現われ、これが万物の母となった。同様にその息子の天の神ウラノス(Uranos)が通例万物の父と名づけられたものである。天と地とが神々の祖先だという考えは原始民族の間ではよくあることである。ここでこの初心な、子供らしい、また往々野蛮くさい詩を批評的に精査しても大した価値はないのであるから、これをフォッス(Voss)の訳した音律詩形で紹介することとしておく。すなわち、神統記、詩句一〇四―一三〇及び三六四―三七五にこうある。
幸いあれ、ツォイスの子らよ、美しき歌のしらべに、いざや、永遠に不死なる神々の聖族を讃めたたえよ。
地より、また星に輝く天より成り出で、暗く淋しき夜よりも。さてはまた海の潮に養われし神々の族をたたえよ。
始めに神々、かくて地の成り出でしことのさまを語れ、また河々の、果てなき波騒ぐ底ひなき海の、また輝く星の、遠く円かなる大空の始めはいかなりしぞ。
この中より萌え出でて善きものを授くる幸いある神々は、いかにその領土を分ち、その光栄を頒ちしか、またいかに九十九折なすオリンポスをここに求めしか、時の始めよりぞ、語れ、かの神々の中の一人が始めに生り出でしさまを。
見よ、すべての初めにありしものは渾沌にてありし、さどその後に広がれる地を生じ、永久の御座としてすべての永遠なる神たち、そは雪を冠らすオリンポスの峯に住む神の御座となりぬ。
遠く広がれる地の領土の裾なるタルタロスの闇も生じぬ。
やがてエロスはあらゆる美しさに飾られて永遠の神々の前に出できて、あらゆる人間にも永遠なる神々にも、静かに和らぎて胸の中深く、知恵と思慮ある決断をも馴らし従えぬ。
渾沌よりエレボス(注一)は生れ、暗き夜もまた生れ、やがて夜より※[さんずい+景+頁]気《エーテル》(注二)、と光の女神ヘメーラは生れぬ、両つながらエレボスの至愛の受胎によりて夜より生れたり。
されど地は最初に己が姿にかたどりて彼の星をちりばめし天を造り、そは隈なく地を覆い囲らして幸いある神々の動がぬ永久の御座とはなりぬ。
(注一) エレボス。原始の闇、陰影の領土。
(注二) エーテル。上層の純粋な天の気、後に宇宙エーテルとして、火、空気、土、水の外の第五の元素とされたもの。
次にゲーアは『沸き上る、荒涼な海』ポントス(Pontos)を生んだ。彼女とウラノスは六人の男子と六人の女子を生じた。それはいわゆるティタンたち(Titanen)で、すなわち『渦巻深き』大洋のオケアノス(Okeanos)、コイオス(Koios)(注一)とクレイオス(Kreios)(注二)ヤペツス(Japetus)(注三)、ヒュペリオン(Hyperion)(注四)、テイア(Theia)(注五)、レイア(Rheia)(注六)、ムネモシュネ(Mnemosyne)(注七)、テミース(Themis)(注八)、テティース(Thetis)、フォエベ(Phoebe)、及びクロノス(Kronos)(注九)、などその外にキュクロープたち(Zyklopen)(注一〇)などである。ここで、一部は多分ヘシオドのこしらえたと思われるいろいろな名前を目録のように詩句の形でならべたものを紹介しても余り興味はあるまい。――このような単純な詩の種類、すなわち、名前の創作といったようなものは北国民の詩スカルド(Skalden)にも普通である。――ただ星と風との生成に関する次の数行だけはここに掲げてもよいかと思う。
(注一) コイオス。多分光の神、これはヘシオドにだけ出てくる名である。
(注二) クレイオス。半神半人、ポントスの娘の一人、ユウリュビア(Eurybia)の婿である。
(注三) ヤペツス。神々の火を盗んで人類に与えたかのプロメテウス(Prometheus)の父。
(注四) この名の意味は『高く漂浪するもの』である。
(注五) 立派なものの意。
(注六)『神母』、これがすなわちツォイス(Zeus)の母であった。
(注七) 追憶の女神、歌謡の女神たちの母。
(注八) 秩序と徳行の女神。
(注九) 首座の神で、自分の子のツォイスに貶された。
(注一〇) アポローに殺された一つ目の巨人たち。
テイアは光り輝く太陽ヘリオスと太陰セレネを生みぬ、また曙の神エオスも。これらはあまねく地に住むものを照らし さては広く円かに覆える天に在す不死なる神をも照らしぬ。
これはかつてヒュペリオンの愛の力によりてテイアより生れぬ。
されど、クリオスはユウリュビアを娶りて力強き御子たち パルラス(Pallas)とアストレオス(〔Astra:os〕)(注一)を生みぬ、この高く秀でし女神は。
またペルセス(Perses)も、そは、別けて知恵優れし神なりき。
エオスはアストレオスと契りて、制し難き雄心に勇む風の神を生みぬ。
ゼフューロス(Zefyros)(注二)は灰色にものすさまじ、ボレアス(Boreas)(注三)は息吹きも暴し。
ノトス(Notos)(注四)は女神と男神の恋濃かに生みし子なればこそ。
また次に聖なる爽明の女神はフォスフォロス(Fosforos)(注五)を生みぬ。
天に瓔珞とかがやく星の数々も共に。
(注一) 天の神で風の神々の父。
(注二) 西風。
(注三) 北風。
(注四) 南風。
(注五) 暁の明星―金星(venus)。
『日々行事』(Werke und Tage)において、ヘシオドはいかにして人間が神々によって創造させられたかを述べている。始めには人間は善良で完全で幸福で、しかして豊富な地上の産物によって何の苦労もなく生活していた。その後にだんだんに堕落するようになったのである。
ギリシアの宇宙開闢説はローマ人によって踏襲されたが、しかしそのままで著しい発展はしなかった。オヴィドがその著メタモルフォセス(Metamorphoses)の中に述べているところによると始めにはただ秩序なき均等な渾沌、“rudis indigestaque moles”があった。それは土と水と空気との形のない混合物であった。自然《ナツール》が元素を分離した。すなわち、地を天(空気)と水から分ち、精微な空気(エーテル)を粗鬆な(普通の)空気から取り分けた。『重量のない』火は最高の天の区域に上昇した。重い土はやがて沈澱して水によって囲まれた。次に自然は湖水や河川、山、野、谷を地上に形成した。以前は渾沌の闇に隠されていた星も光り始め、そうして神々の住みかとなった。植物、動物、しかして最後に人類も創造された。彼らはそこで黄金時代の理想的の境地に生活していた。永遠の春の支配のもとに地は耕作を待たずして豊富な収穫を生じた(“Fruges tellus inarata ferebat”)。河々には神の美酒《ネクタール》と牛乳が流れ、槲樹からは蜂蜜が滴り落ちた。ジュピター(ツォイス)がサターン(クロノス)を貶してタルタロスに閉じ込めたときから、時代は前ほどに幸福でない白銀時代となり、既に冬や夏や秋が春と交代して現われるようになった。それで厳しい天候に堪えるために住家を建てる必要を生じた。すべてのものが悪くなったのが銅時代にはますます悪くなり、ついに恐ろしい鉄時代が来た。謙譲、忠誠、真実は地上から飛び去り、虚偽、暴戻《ぼうれい》、背信、そして飽くことを知らぬ黄金の欲望並びに最も粗野な罪悪の数々がとって代った。
   第五図 ギリシア神話における大河オケアノスの概念。
オヴィドの宇宙開闢説はヘシオドのといくらも違ったところはない。本来の稚拙な味は大部分失われ、そしてこれに代わって、実用的なローマ人の思考過程にふさわしいずっと生真面目な系統化が見えているのである。
部分的にはなかなか見事であると思われるオヴィドの叙述の見本を少しばかり、ブレ(Bulle)の翻訳したメタモルフォセス(『変相』)の中から下に紹介する。
海と陸の成りしときよりも前に 天がこの両つの上に高く広がりしときよりも古く 全世界はただ一様の姿を示しぬ、渾沌と名づくる荒涼なる混乱にてありし。
重きものの中に罪深く集いて隠れしは 後の世に起りし争闘の萌芽なりき。
日の神は未だその光を世に現わさず、フォエベの鎌はまだ望月と成らざりき。
地は未だ今のごとく、己と釣合いて空際に浮ばず またアムフィトリートの腕は未だ我が物と 遠く広がる国々の果てを抱かざりき。(注一)
空気あるところにはまた陸あり、陸にはまた 溢るる水ありて空気に光もなく 陸には立ち止まるべきわずかの場所もなく 水には泳ぐべき少しの流動さえなかりき。
いかなる物質にも常住の形はなく、何物も互いに意のままにならざりき。
一つの体内に柔と剛は戦い、寒は暖と、軽は重と争いぬ。
ただ、物の善き本性と 一つの神性とによりてこの醗酵は止みぬ。(注二)
陸と海、地と蒼穹とは分たれ、輝くエーテルと重き空気は分たれぬ。
かくて神がこの荒涼を分ちて 万物をその在所に置きしとき すべての中に一致と平和を作り出しぬ。
上に高く天の幕を張り巡らせし そは重量なき火の素質にてありき、下には深くやがてまた重く空気を伴いぬ。
更に深く沈みて粗なる質量より作られて 地はありぬ、その周囲には水を巡らしぬ。
かく神が物質を分ちしとき――そは誰なりしか――これに肢節を作り始めぬ。
これが均衡を得るためにまず 地を球形(注三)として空中に浮べたりき。
嵐に慄く海の潮を 次に湖沼を泉を河を造りぬ、河は谷に従い、岸の曲るに任せて流れぬ。
多くの流れは成りてその波は 海へと逆巻きて下り、多くの河は やがて再びまた地を呑み尽くし、また多くは勢いのままに溢れ漲り 渚は化して弓なりに広き湖となり 岸辺は波打ちぬ。神の定めに また谷々も広き野原も また岩山も緑茂る森も出できぬ。
神はまた天の左手の側に 二つの帯を作りまた右手に二つ 真ん中には火光に燃ゆる第五帯を作りまた 地にも同じく五つの帯の環を巡らしぬ。
中なる帯は暑さのために住み難く さらばとて外側の帯は氷雪の虐げあり、ただ残る二帯のみ暖と冷と 幸いあるほどに正しく交じり合えり。
空気はそのエーテルより重きことはなお 水の土よりも軽きがごとし、神はこれを雷電の座と定めければ、このときより 多くの人の心はそのために安からず恐れ悩めり。
また神は霧を撒き散らしまた霞と雲を 空中に播き、また稲妻を引連れて、風の軍勢はかしこに氷の息吹きと飛び行く、されど神はその止度なく暴るることは許さじ。
(注一) ここで海神ポセイドン(Poseidon)の配偶アムフィトリートが地の縁辺を腕で抱えるとあるところから見ると、オヴィドは地が球形でなくて円板の形をしていると考えていたことが分る。しかしオヴィドの時代に、教養ある人々の間には一般に地は球状をなすものと考えられていた。
(注二) この神は「温和な自然」である。Hanc deus et melior litem natura diremit.
(注三) この言語 orbis は本来円板の義で、後にはまた球の意にも使われた。
この次には各種の風とその出発点に関する記述があって、それからこの詩人は次のように続けている。
澄めるエーテル、そは明るき遠方に 重量なくまた地にあるごとき限界を知らず 昇りたり――エーテルに今は星も輝き初めぬ。
それまでは荒涼なる濁りの中に隠されし群も。
この数々の星にこそ人間の目は自ら 神々の顔と姿を認むるなれ。
この神々は生のすべてのいかなる部分にも 過ち犯すことなからんために、エーテルの中に光り浮ぶ。
かくて空気は鳥の住みかとなり 魚には海、他の生けるものには陸ありき。
ただ一つの存在、そは理性を享け有ちて すべての他のものの主たるべきものは 未だこの全眷屬の中にあらざりき、人だねの生れしまでは、そはこの世界を飾らんため(注) 恐らくは主の命により胚子より 形作られて、秩序をもたらすべき人類の生れしまでは。
恐らくはまた地の土の中にエーテルの 取り残されし一片の火花ありしか、この土を水に柔らげて神々の姿と容を プロメテウスの堅き手に作り上げしときに。
その外のあらゆる者は下なる地の方に 眼をこそ向くれ、その暇に人のみこそ振り仰ぎ その眼は高く永遠の星の宮居に、かくてぞ人のくらいは類いなきしるしなるらん。
あわれ黄金時代よ、その世は信心深き族の 何の拘束も知らず、罰というものの恐れもなく ただ己が心のままに振舞いてやがて善く正しかりき。
厳しき言葉に綴られし誡めの布告もなくて 自ら品よき習わしと秩序とは保たれぬ。
また判官の前に恐れかしこまる奴隷もなかりし。
人は未だ剣も鎧も知らず 喇叭も戦を呼ぶ角笛も人の世の外なりし。
未だ都を巡らす堀もなく 人はただ己に隣る世界の外を知らざりき。
檜の船は未だかつて浪路を凌がず、人は世界の果てを見んとて船材に斧を入るることもなかりき。
静かに平和に世はおさまりて 土はその収穫を稔れよと 鶴嘴と鋤とに打砕かるることもなかりき。
(注) “Sanctius his animal mentisque capacius altae-Deerat adhuc et quod dominari in cetera posset- Natus homo est.”
この後に来たのが白銀時代で、黄金時代の永久の春はやみ、ジュピターによって四季が作られた。人間は夏の焼くような暑さ、冬の凍てつく寒さを防ぐために隠れ家を求めることが必要となった。土地の天然の収穫で満足していられなくなったので人間は耕作の術を発明した。
世は三度めぐりて黄銅のときとなりぬ。
心荒々しく武器を取る手もいと疾く、されどなお無慚の心はなかりき。恥知る心、規律と正義の 失せ果てしは四度目の世となりしとき、そは鉄の時代、嘘と僞りの奴とて 掠め奪わん欲望に廉恥を忘れしときのことなり。
このときより腐れたる世界の暴力は 入りきぬ、詭計や陥穽も。
山の樅樹は斧に打たれて倒れ、作れる船の※[舟+縊のつくり]は知られざる海を進みゆく。
船夫は風に帆を張るすべを知れど 行方は何處とさだかには知り難し。
農夫は心して土地の仕切り定めぬ、さなくば光や空気と同じく持主は定め難からん。
今はこの土も鋤鍬の責苦のみか 人はその臓腑の奥までも掻きさぐりぬ。
宝を求めて人は穴を掘りぬ、最も深き縦坑に 悪きものを誘わんとて神の隠せし宝なり。
災いの種なる鉄は夜より現われ 更に深き災いと悩みをもたらして黄金も出できぬ。
これらとともに戦争は生れ 二つの金属はこれに武器を貸し与えぬ。
そは血潮に染みし手に打ち振られて鳴りひびきぬ。
世は掠奪に生き奪えるものを貪り食らいぬ。
かくて客人の命を奪う宿の主も 舅姑の生命に仇する婿も現われ、夫に慄く妻、妻に慄く夫も出できぬ。
兄弟の間にさえ友情は稀に、継子は継母に毒を飼われ、息子は父親の死ぬべき年を数う。
愛の神は死し、ついにアストレアは逃げ去りぬ。
神々の最後のもの、血を好むゲーアさえ。
ジュピターが大洪水を起してこの眷属を絶滅させ、後にデゥカリオン(Deukalion)とピュルラ(Pyrrha)とが生き残った。その前に二人はデゥカリオンの父なるプロメテウスの教えに従って一艘の小船を造ってあったので、それに乗って九日の間漂浪した後にパルナッソス(Parnassos)の山に流れ着いた。そこで二人が後向きに石を投げると、それが皆人間になった。他の万物は、日光が豊沃な川の泥を温めたときに自然に発生した、というのである。この伝説は大洪水に関する楔形文字で記された伝説や、聖書にあるノア(Noah)の物語やまた生物の起源に関するエジプトの神話と非常によく似たところがある。
神々の数はたくさんにあるが、それはほとんど全部余り栄えた役割は勤めていない。ただ神の名で呼ばれている『温柔な自然』がすべて全部を秩序立てまた支配しているのである。 
3 最も美しきまた最も深き考察より成れる天地創造の諸伝説

 

相当に開けていた諸民族もまた一般には前条に述べたような考えの立場に踏み止まっていた。耶蘇《ヤソ》の生れる前の時代においてローマは既に高い文化をもっていたにかかわらず、その当時にオヴィドが世界の起源について書いていることは、七〇〇年前にヘシオドの書いていることとほとんど同じことなのである。これから見るとこの永い年月の間において自然の研究は一歩も進まなかったかと思われるのであるが、もっとも、後に述べるように、この期間に多くの研究者、思索家の間には、この宇宙の謎に関する一つの考え方が次第に熟しつつあったので、その考えは今日我々の時代から見ても実に驚嘆すべきものであったのである。しかしこの研究の成果はただ若干の少数な選ばれたる頭脳の人々の間にのみ保留されていたようである。誰でも大衆に対して述べようという場合となると、国家の利害に対する責任上、数百年来の昔から伝わり、そして公認の宗教と合体し、従って神聖にして犯し難いものになっている在来の観念を唱道しなければならなかった。恐らくまた多くの人々は――ルクレチウスの想像によると――自然研究の諸結果は詩的の価値が余りに少ないと考えたのかも知れない。このように科学の成果が一般民衆の思考過程中に浸潤し得ないでいたということが、他のいかなる原因よりも以上に、古代の文化が野蛮人の侵入のためにあれほどまでにかたなしに破壊された原因となったのかも知れない。
また、多分、エジプト僧侶の中に若干の思索家があって、それらは前述のエジプトの創世伝説に現われたような原始的な立場をとうに脱却していたであろうと考えられる。しかし彼らはこの知識を厳重にただ自分らの階級の間にのみ保留し、それによって奴隷的な民衆に対する彼らの偉大な権力を獲得していたのである。
ところが、西暦紀元前約一四〇〇年ごろに、アメンホテプ四世(Amenhotep C)と名づくる開けた君主が現われて一大改革を施し、エジプト古来の宗教を改めて文化の進歩に適応させようとした。彼はかなり急進的の手段を採った。すなわち、古来の数限りもない神々の眷属は一切これを破棄し、唯一の神アテン(Aten)、すなわち、太陽神のみを認めようという宣言を下した。そして古い神々の殿堂を破壊し、また忌まわしい邪神の偶像に充たされたテーベ(Thebe)の旧都を移転してしまった。しかしそれがために当然彼は権勢に目のない僧侶たちから睨まれた。そして盲目な民衆もまた疑いもなく彼らの宗教上の導者たちに追従したに相違ない。それでこのせっかく強制的に行われた真理の発揚もこの賢王の死後跡方もなく消滅してしまった。しかしてその王婿アイ(Ai)は『余は余の軽侮する神々の前に膝を屈しなければならない』と歎ずるようなはめに立至ったのである。
アメンホテプ――またクト・エン・アテンス(Chut-en-atens)すなわち『日輪の光輝』――の宗教の偉大であった点は、天然の中で太陽を最高の位に置いたことである。これは吾人の今日の考えとほとんど一致する。地球上におけるあらゆる運動は、ただ僅少な潮汐の運動だけを除いて、全部そのエネルギーを太陽に仰いでいる。またラプラスの仮説から言っても、地球上のすべての物質は、ただその中の比較的僅少な分量が小さな隕石の形で天界から落下しただけで、他は全部その起源を太陽にもっている。それで、言わば、太陽は『すべての物の始源』であって、これは野蛮人の考えるように地上の物だけについてもそう言われ、また全太陽系についても言われ得ることである。以下に太陽神に対する美しい賛美歌を挙げる。ここではこの神はレー(Re)及びアトゥム(Atum)という二つの違った名で呼ばれている。
汝をこそ拝め、あわれ、レーの神の昇るとき、アトゥムの神の沈むとき。
汝は昇り、汝は昇る。汝は輝き、汝は輝く。
光の冠に、汝こそ神々の王なれ。
天の、地の君にて汝は在す。
汝は、かしこに高く星、ここに低く人の数々を作りぬ。
汝こそは、時の始めに既に在せし唯一の神なれ。
地の国々を汝は生み、国々の民を汝は作りぬ。
汝は大空の雨を、やがてニイルの流れを我らがために作り賜いぬ。
河々の水を汝は賜い、その中に住む生物を賜いぬ。
山々の尾根を連ねしは汝、かくて人類とこの地上の世を作りしは汝ぞありし。
ラプラスの仮説によっても、やはり、太陽がエジプト人の最も重要な星と見なしたもの、すなわち、遊星の創造者であると見なすことができる。もし遊星を神的存在であるとするならば、太陽は当然一番始めに存在した唯一の神と言ってもよいわけである。
それから一〇〇年ないし二〇〇年の後に現われたツァラトゥストラ(Zarathustra)の宇宙観は正にこのアメンホテプのそれを想出させるものである。この考えによると、無窮の往昔から、いわゆる渾沌に該当する、無限大の空間が存在し、また光と闇との権力が存在していた。そして、光の神なるオルムズド(Ormuzd)は当時有り合わせた材料によって、次のような順序で、万物を形成した。この順序を、バビロニア及びユダヤの伝説による創造の順序と比較してみよう。
  オルムズド          マルドゥク    エロヒーム(創世記、一)
1 アムシャスパンデン(注)   1 天       1 天
2 天              2 諸天体     2 地
3 太陽、太陰及び星       3 地       3 植物
4 火              4 植物      4 諸天体
5 水              5 動物      5 動物
6 地と生物           6 人間      6 人間
(注) アムシャスパンデン(Amschaspanden)はオルムズドに次いで最高位にある六つの神々である。彼らは一人一人重要な倫理的概念を代表している。
ツァラトゥストラの信徒にとっては、太陽が、最も重要な光として、その崇拝の主要な対象であったことは、ちょうどバビロニア人における太陽神マルドゥクと同様であった。他のいろいろの民族でもまた本能的に多神崇拝から太陽礼拝に移っていったので、その一例は日本人である。
時代の移るとともに、ペルシアにおけるツァラトゥストラの教えは変化を受け、数多の分派を生じた。その中で次第にツァラトゥストラの帰依者の大多数を従えるに至ったゼルヴァニート教の人たち(Zervaniten)の説いたところによると、世界を支配する原理は無窮の時“zervane akerene”であって、これから善(Ormuzd)の原理もまた悪(アフリメン Ahrimen)の原理も生じたというのである。
ツァラトゥストラの教理は回々教及びグノスチック教の要素と融合して更に別の分派を生じた。すなわち、イスマイリズム(Ismailismus)と称するものであって、一種の哲学的神秘主義の匂いをもったものである。その教えによると、世界の背後にはある捕えどころのない、名の付けようもない、無限の概念に該当する存在が控えている。この者に関しては我々は言うべき言葉を知らず、従ってまたこれを祈念し礼拝することもできない。この者から、一種の天然自然の必要によって、いわゆる放射(Emanationen)と称するものが順次に出てくる。すなわち(一)全理性(Allvernunft)、(二)全精神(Allseele)、(三)秩序なき原始物質、(四)空間、(五)時間及び(六)秩序組織の整えられた物質的の世界、この中の最高の位置に人間がいるのである。この宗教では物質、空間及び時間の方が、秩序立った組織を有し、従って知覚され得る感覚の世界よりももっと高級な存在価値のあるものとしようというのであるらしい。これはあたかも物質、空間及び時間を無限なりとする近代の考えに相当しているのである。またいわゆる全精神なるものにも同様な属性があるものとされている、これは同じ考えを生命の方へそのまま引き写しに持ち込んでいったものと見ることができよう。
ツァラトゥストラ教に従えば、アストヴァド・エレタ(Astvad-ereta)がすべての死者を呼びさまし、そしてすべてが幸福な状態に復するということになっている。イスマイル教徒に言わせると、この復活並びに最後の審判に関するゾロアスター教の教えは、単に宇宙系における周期的変転を表現する影像にすぎないというのである。この後者の考えはことによるとインド哲学の影響によって成立ったのかも知れないと思われる。
東洋の諸民族の中で、インド人はその古い宗教をもつ点で他民族の中に独自の地位にある。この宗教は永い間に僧侶階級によってだんだんに作り上げられ、永遠に関する一つの教理となった。この教理は哲学的に深遠な意義のあるものであり、また現代の自然科学研究の基礎を成す物質並びに勢力不滅の観念と本質的に該当し、また、その永遠に関する概念は現代の宇宙開闢説の主要な部分を成すものと同じである。
世界万有の中に不断の進化の行われているということは誰が見ても明らかである。それで、この進化は周期的に行われるものであって、何度となく同じことを繰返すものだということを仮定して、始めてこの世界の永遠性ということが了解される。昔のインドの哲学者らがこの過程をどういうふうに考えていたかということは次の物語から分るのである。
マヌ(Manu ヴェダの歌謡の中に現われるマヌは人類の元祖、すなわち、一種のノアである)はじっと考えに沈んでいた。そこへマハルキーン(Maharchien)がやってきて、恭しく御辞儀をしてこう言った。『主よ、もし御心に叶わば、どうか、物の始まりがいかなる法則によって起ったか。またそれが混じり合ってできた物はいかなる法則に支配されたか、こと細かに、順序を立てて御話して下さるように願います。主よ。この普遍な法則の始まり、それの意味またその結果を知っているのはあなたばかりであります。この根元の法則は捕えどころもなく、その及ぶ範囲も普通の常識ではとても測り知ることができません。ただヴェダであらせられるあなただけが御分りでありましょう。』これに対してこの全能なるものの賢い返答は次の通りであった。『では話して聞かそう。この世界はその昔暗黒に包まれて、捕えどころなく、物と物とを差別すべき目標もなかった。悟性によってその概念を得るということもできず、またそれを示現することもできず、全く眠りに沈んだような有様であった。この溶合の状態(宇宙はここでは完全に均質に溶け合った溶解物のように考えられているのである)がその終期に近づいたときに、主(ブラーマ Brahma)、すなわち、この世界の創造者でしかも吾人の官能には捕え難い主は、五つの元素と他の原始物質とによってこの世界を知覚し得るようにした。彼は至純な光で世を照らし闇を散らし、天然界の発展を始めさせた。彼は自己の観念の中に思い定めた上で、様々の創造物を自生的に発生させることとした。そして第一に水を創造し、その中に一つの種子を下ろした。この種子がだんだん生長して、黄金のように輝く卵となった。それは千筋の星の光のように光っていた。そしてそれから生れ出たのが、万物の始源たる、男性、ブラーマの形骸を備えた至高の存在であった。彼がこの卵の中で神の年の一年間(人間の年で数えると約三〇〇〇〇億年余)休息した後に、主はただ自分の観念の中でこの卵を二分し、それで天と地とを造った。そして両者の中間に気海と八つの星天(第六図、対一〇五頁)と及び水を容るべき測り難い空間を安置した。かくして、永遠の世界から生れたこの無常の世界が創造されたのである。』なお主なる彼はこの外にたくさんの神々と精霊と時期とを創造した。この永遠の存在にもまた同時にあらゆる生ける存在にも覚醒と安息との期間が交互に周期的にやってくる。人間界の一年は霊界の一日に当り、霊界の一二〇〇年(この毎年が人間の三六〇年を含む)が神界の一紀であり、この二千紀が一ブラーマ日に当る。この――八六億四〇〇〇万年の長きに当る――日の後半の間はブラーマもまたすべての生命も眠っている。しかして彼が眼を覚ますとそれからまたその創造欲を満足させるのである。この創造作業と世界破壊作業との行われる回数は無限である。そうしてこの永遠の存在なる神はこれをほとんど遊び仕事にやってのけるのである。
   第六図 プトレマイオスの宇宙系
このインド哲学の偉大な点は、永遠の概念の構成の当を得ている点である。すなわち、天然の進展に周期的交代すなわち輪廻があるとする点にある。もっともその他の点では、その考え方はペシミスティックである。すなわち、毎周期の進展は不断の後退であって、特に道徳的方面で堕落に向かうものと見なされているのである。
このペシミスティックな考え方は既に前述のエジプトの伝説にもあり、また元は人間に黄金時代があったとする古典的ギリシアの昔にもあったものであり、更にまた天上の楽園並びに罪過による失墜に関するカルデアの伝説にも見出さるるものであるが、これは自然の研究に基づいて構成された近代の進化論の学説とは甚だしく背馳する考えである。この説の先駆者とも見るべきものはエジプト伝説の中にもまたホーマーの中にもあるのであるが、これによると事物(人間)は次第次第に改善されていくのである。進化論によるとただ最も力強くかつ最も良く環境に適応するもののみが生存競争に堪え、従って絶えずますます生存に適する物が現われてくるというのである。
一つの観念、あるいは意志の働きが、何ら以前から存在するエネルギーあるいは物質を消費することなしに作業あるいは物質の生因となるという考え、換言すれば全くの虚無から本当の意味での創造が可能であるという考えの明白に表明されているのは前に紹介した物語が最初のものである。この信仰には以来多数の追従者ができた。しかして彼らはこの考えの方が、すべての民族に本来共通な、ただ改造のみが行われたという考えよりはるかに優れたものと考えた。しかしある物が虚無から生じ得るという(本文一〇頁を見よ)この考えは単に科学的のみならずまた哲学的の見地からも支持し難いものである。ここではただこの問題に関するスピノザとハーバート・スペンサーの意義明瞭な表出を挙げるだけで十分であると思う。すなわち、スピノザはその著倫理学(Ethik)の第三篇の緒言の中でこう言っている。『すべての出来事並びにすべての物の形の変転を支配する自然界の法則と規則は常にかつ至る所同一である。』スペンサーはその生物学原理(Principles of Biology 第一巻三三六及び三四四頁)において次のように言っている。『恐らく多くの人々は虚無からある新しい有機物が創造されると信じているであろう。もしそういうことがあるとすれば、それは物質の創造を仮定することで、これは全く考え難いことである。この仮定は結局虚無とある実在物との間にある関係が考えられるということを前提するもので、関係を考えようというその二つの部分の一方が欠如しているのである。こういう関係は全く無意味である。エネルギーの創造ということも物質の創造と同様にまた全く考え難いことである。』また『生物が創造されたという信仰は最も暗黒な時代の人類の間に成立った考えである。』もっともこの終りの判断は幾分修正を要するかも知れない。なぜかと言えば、虚無からの創造が可能であるという考えはかなり進んだ発達の段階において始めて現われたものであるからである。
あらゆる宇宙創造伝説中で最も立派に仕立て上げられているのは、不思議なことに、スカンジナビアの古代の民のそれである。これは奇妙なことと思われるかも知れない。しかしこの北方における我々の祖先が既に石器時代以来、すなわち、数千年間スカンジナビアに住居していたということ、また青銅器時代の遺物の発見されたものから考えても、この時代にスカンジナビアに特別な高級の文化の存在したことが分るということを忘れてはならない。それで疑いもなく彼らもまた古代の文化民族の種々の観念を継承し、かつ独自にそれを敷衍してきたものに相違ない。
古代のカルデア人とエジプト人の場合では、大概の原始民族の場合と同様に、水が最も主要な元素であって、固体の地はこれの対象として造られたものとなっているのであるが、我が北方民族の祖先の場合では、温熱が一番本質的なものであって、これの対象として寒冷が対立させられているのである。ところが温度というものは疑いもなく物理学的の世界で最も重要な役目を務めるものである。従ってこの北国人の宇宙創造説は自然界の真理という点から見て、これまでに述べたすべての説よりも傑出している。この伝説が我々の現今の考えといかに良く適合するかは実に驚くべきほどである。この説の中には東洋起源また古典時代の思想の継承と思われる成分も多数に見出されはするが、しかしこの北方の創造伝説の特徴と見るべきものは自然界の諸特性を異常に理知的に把握していることである。
この伝説を紹介するに当って私は主としてヴィクトル・リュドベルク(Viktor Rydberg)の『祖先の神話』(〔Go:ttersage der Va:ter〕)によることにする。我々の生息するこの世界は永遠に継続するものではない。これにはある始めがあった。そしてまたある終りがあるであろう。時の朝ぼらけには
砂もなく海もなく 冷たき波もなく またその上を覆う天もなかりき。
空間(ギンヌンガガップ Ginnungagap)があった。しかしてその北の方の部分に寒冷の泉が生じ、その付近を氷のような霧が包囲していた。――この地方をニーフェルハイム(Nifelheim 霧の世界)と名付けたのはそのためである――。また、この空間には温熱の泉、ウルド(Urd)が生じた。この二つの中間の真ん中に知恵の泉、ミーメス・ブルン(Mimes Brunn)が流れていた。ニーフェルハイムからは霧のような灰色をした寒冷の波が空間に流れ出し、そこでウルドの泉からの温熱の波と出合った。この二つの混合によって基礎物質が生成し、それからこの世界、またそのあとから神々や巨人たちが発生した。ミーメス・ブルンの横たわっている空虚の空間から人間の目には見えぬ世界の樹イュグドラジール(Yggdrasil)がその種子から生長し、その根は延びてこの三つの泉に達していた。
この伝説の偉大な点は、この生物の住家としての世界を温熱と寒冷の泉(太陽と雲霧とに相当する)に影響さるるとしたところにある。生物の生息する世界はこの二つの間に存し、生命はこの二つに依帰する、すなわち、現代の考え方に従えば、熱い太陽からの温熱の供給と、並びに寒冷な雲霧へのそれの流動に依帰するのである。
北方の伝説は、それから先では、一つの死体の肢節から世界が創造されたという普通の考え方に結び付いている。一つの神ウォータン(Wotan これはカルデアのマルドゥクに当る)が巨人イューメル(Ymer すなわち、ティアマートに当る)を殺し、その体躯から天と地を造りまたその血から大洋を造ったというのである。しかし、ここで北国民は一つの独創的な変更を加えている。すなわち、イューメルの五体が生命あるもののよりどころとなり得るためには、その前に一度微塵に粉砕されなければならなかった。その目的のために特別な洞窟仕掛の粉磨水車が造られ、これは寒冷の泉から来る水の力で運転され、その水は一つの溝渠を通って大洋の中へ流れ込むようになっていた。これは明らかに、水の作用によって堅い岩石が磨り削られて土壌と成る、いわゆる風化の現象を詩化して表現したものである。この大きな巨人的水車はまた天の蒼穹とその数々の恒星を回転させるためにも役立ったことになっているのである。
バビロニアの伝説では、体躯が魚で頭と腕と足は人の形を備えた海の怪物オアンネス(Oannes)が海の波から出現し、人間にあらゆる技芸や学術を教えた後に再び海中深く消えたというのであるが、それと同様にこの巨人的磨臼の石の火花から生れた、優しい金髪の若者の貌をした、驚くべく美しい火の神ハイムダル(Heimdall)が、小船に乗って人間界をおとずれ、そうして文明の祝福をもたらしたことになっている。この船で五穀の禾束や、いろいろの道具や、武器などが運ばれてきた。彼はだんだんに成人して人間の首長となり、発火錐で作った火を彼らに授け、また種々のルーネン(Runen)や芸術を教えた。農業、牧畜、鍛冶その他の手工、パン製造、それから建築術や狩猟やまた防御の術を授けた。彼は結婚の制を定め、国家の基礎を置き、また宗教を創設した。多年の賢明な治世の後にハイムダルがある冬の日に永遠の眠りについたときに、始めに彼を人間界に載せてきた小船が海岸で見出された。彼の恩を忘れぬ人間たちは、霜の花で飾られたこの小船にハイムダルの亡骸を収め、それに様々な高貴な鉄工品や金銀細工を満載した。小船は、始めに来たときと同じように、目に見えぬ橈の力で矢のように大海に乗り出して遠く水平線の彼方に消え失せた。そこでハイムダルは神々の宮居に迎えられ、そうして輝くような神の若者の姿に復活した。その後、彼の息子のスコェルド・ボルゲル(〔Sko:ld-Borger〕)が彼に次いで人間の首長となったのである。
スコェルド・ボルゲルの治世の間に世界は著しく悪くなってきた、そしてその末期に近いころに、光の神バルデル(Balder)の死に際会した。そのために恐ろしいフィムブルの冬(Fimbul-Winter)が襲来して、氷河と氷原がそれまでは人の住んでいた土地を覆い、氷を免れた部分では収穫はだんだんに乏しくなった。飢餓は人間を支配し彼らを駆って最も恐ろしい罪業に陥れた。『暴風時代』『斧と刀の時代』(Sturm-Zeit, Axt-und Messer-Zeit)という名で呼ばれる時代がこのときから始まった。北国人は剣戟を手にして彼らの近親民族をその住居から放逐したためにこれら民族はやむを得ず次第に南下して新しい住みかを求めなければならなかった。それからある時期の後に始めてこのフィムブルの冬が過ぎ去って氷雪が消え失せたというのである。
誰でも気の付く通り、この伝説は著しい気候の悪化、その結果として氷河が陸地を覆い、民族の移動の起ったことを最も如実に表現している。それで、北国人らが、いつかはまたもう一度フィムブルの冬が襲来して、彼らがラグナロク(Ragnarok)と名づけるところの没落期となるであろうと信じていたのは怪しむに足りない。この時代が近よると無秩序の不安な状態が再び立帰ってくるであろう。氷雪の国から巨人らが現われて神々の宮殿に攻め寄せ、人間は寒冷と飢餓と疫病と争闘のために死んでゆくであろう。太陽はそのときでもやはり同じ弧状の軌道を天上に描きはするが、その光輝は次第に薄らぐであろう。いよいよ巨人軍と神々との戦闘が始まると双方に夥しい戦没者ができる。そうしてかの火の神ハイムダルも瀕死の重傷を受けるであろう。すると太陽もまた光を失い、天の穹窿は割れ、地底の火を封じていた山嶽は破れ、火焔はこの戦場を包囲するであろう。この世界的大火災の跡から、新しく、より善く、麗しい緑で覆われた地が出現するであろう。ただミーメの泉の傍のホッドミンネの神苑(Hoddminnes Hain)だけがこの世界的の火災を免れるので、そこに隠れていた若干の神々と、人間の一対ライフトラーゼルとリーフ(Leiftraser und Lif)とだけが救われるであろう。この二人がこの地上に帰ってくる。地は労耕せずして豊富な収穫を生ずるので、何の苦労もない幸福な新時代が始まるであろう。
あるいは古代ギリシア、ローマ並びにキリスト教関係の説話からの影響を受けたかと思われるこの注意すべき伝説は、太陽が徐々に消え、そのために地球上の生物が減少するという近代の観念と全く一致している。太陽(神々)は寒冷の世界(巨人)すなわち、宇宙星雲及びその中に包有せらるる数多の消えた太陽と衝突するであろう。その衝突の際に地殻内に封じられた火焔が噴出しそのために地上は荒廃に帰する。しかしある時期の後にはまた新しい地が形成され、そして生命(神々)は宇宙空間にある不死の霊木イュグドラジール(Yggdrasil)から再び地上に広がるであろう。
この驚くべく美しい、しかもまた真実なエッダ(Edda)の世界伝説は、他の自然民族間に伝わったあらゆる同種類の伝説に比べてはるかに優れたものである。この美しいハイムダル伝説が暗示するように、最初の文明、並びにこれと一緒に、世界創造伝説の原始的要素が、外国、多分東洋から海を越えて渡来したものであることには疑いない。しかしいかなる創造伝説でも自然に対する見方の忠実さという点においてこの北方民族のそれに匹敵するものは一つもないであろう。
以上私は、自然現象の経過に関する知識を得るために直接観察の方法を講じるというようなことは何もしなかったような、そういう時代における自然の見方がいかなるものであったかを述べたつもりである。こういう時代には自然科学はおのずから神話の衣裳を着ている。もっと程度が高くなればそれは褶襞《しゅうへき》の多い哲学の外套を着ているのである。しかしひとたび人間が観察と経験の収集を始めるようになってくると事情は全く変ってくる。そうなるとたくさんの事実与件の、手の付けられぬ、一目に見渡せないような集団を簡単に把握し表現し得るような一般法則を求めるようになってくる。換言すれば、経験を有用ならしめるためには、理論家の、ものを系統化する作業の必要が痛切に感ぜられてくる。それでまず、最初の、多分余り正確でない法則が見付かったとすると、それによって試しに事柄の経過を予報してみる。そうしてその予言が正しいかどうかを検査するというようなことを始めることができる。そういうことをしているうちにそれら既定の法則、従って自然に対する認識がだんだんに改良されてゆくのである。
人間にとって特別に重要であるために最も周到な観察の目的物となるものはまず第一に時間の知識であった。そこから多分各種天体の本性に関する観念が生れ、これらを手近な地上の物体のそれと分りやすく比較するようになったものと思われる。このようにして次第に最も簡単な天文、物理及び化学的の概念が形成されたのである。こういう時代になると以前の時代におけるとは反対に、多様な考え方の中で最も秀でた代表的のもののみが挙げられ、そうしてこれら概念の発達を歴史的に通覧することができるようになってくるのである。
以下に述べる宇宙の見方は、これまで述べてきた神話時代に属するものと反対に、いずれも歴史時代に属するものである。 
4 最古の天文観測

 

開化程度の最も低い人間にとっては暦などというものの必要がなく、従ってまた時の尺度を自然界に求めようとする機縁にも接しないのである。最古の人間は疑いもなく狩猟と漁労によって生活していたであろう。ただ飢餓に迫られ、しかも狩猟の獲物の欠乏のために他の栄養物を求めるような場合に至って、そこで初めて草木の実や、食用に適する根の類をも珍重することを覚えたのであろう。もっともこれらはただ応急のものであって、多分主として婦人たちがそれで間に合わせなければならなかったかも知れない。男子らはその仕留めた野獣や魚の過剰なものよりしか婦人たちには与えなかったろうと思われるからである。それでこれら民族は野獣の放浪するに従って放浪しなければならなかった。そうして、ただ差し当ったその日その日の要求ということだけしか考えなかったのである。その後に人間がもう少し常住一様な栄養品の供給を確保するために、なかんずく必要な野獣を飼い馴らすことを覚えるようになっても、事情はまだ大して変らなかった。ところがこの獣類を飼養するには、季節に応じて変ってゆく牧場を絶えず新たに求める必要があるので、こういう遊牧民の居所は彼らの家畜によって定まることになっていった。決してその逆ではなかったのである。
しかし人口が増殖してきたために、気紛れでなしに本式に土地の耕作をする必要が起るとともに、事情は全くちがってきた。すなわち、固定した住居をもつ必要を生じ、また本来の目的とする収穫を得るための準備として一定の季節にいろいろな野良仕事をしなければならなくなった。しかるに季節の循環は地球に対する太陽の位置の変化によるのであるから、この変化を詳しく知ることが望ましくなってきた。そのうちに間もなく、季節によっていろいろな星の出没の時刻の違うことに気が付き、しかしてこれを正確に観察する方がずっと容易であることを知った。すでに古い昔から、新月と満月との規則正しい交代が、二九・五三日という短い周期で起るので、これが短い期間の時の決定に特に好都合なものとして人間の注意をひいたに相違ない。この周期に基づいて一月の長さを定め、端数を切り上げて三〇日とした。更にこの一ヶ月を各々一〇日ずつの三つの期間に区分した。一年の長さはほぼ一二ヶ月に当るので、最初はこれを三六〇日と定めたのであった。
最古の文明は、時の決定、すなわち、暦と最も密接な関係をもっている。この決定は非常に規則正しく復帰する各種の周期的現象に基づくものである。既に述べた通り、中でも太陰の光度の交互変化は自然民にとっては最も目に付きやすいものであった。それは比較的短い期間に同一の現象が立帰ってくるために特にそうであったのである。アリアン系の言語では、計量(Mass)、測定する(messen)及び太陰(Mond)の観念を表わす言葉は同一の語根からできている。梵語で太陰をマース(〔Ma^s〕)というが、これは計量者、計量器(der Messer)の意でラテンの月(mensis)及び計量器(mensura)と関係している。我々の国語でのこの言葉もやはり古くここから導かれてきたものである。すなわち、太陰はその規則正しくかつ観察に恰好な光度の輪回のために最初の測定術の出発点を与えた。一方また太陰は昔バビロニア人の間では神々の中での首長と見なされていたものである。ある古い楔形文字で記された古文書に、こんなことがある。
おお、シン(月神)の神よ、汝のみひとり高きよりの光を 汝こそ光を人の世に恵み給わめ、………
汝が光は、汝の初めの御子なるシャマシュ(太陽)の輝きのごとく麗わしく、汝が御前には神々も塵の中に横たわる。
おお汝よ、おお運命の支配者よ。
このシン(Sin)というのは月の神で、シャマシュ(Shamash)は太陽神である。紀元前二〇〇〇年ころに至って、初めて、以前にあの木星の支配者であったところの、バビロンでは特別に大事な神様マルドゥクが、シンやシャマシュに取って代わり、自ら太陽神として何よりも崇ばれるようになったのである。
もう少し長い周期が望ましくなってくるので、何かしら太陰周期すなわち、太陰の一ヶ月と関係の付けられるものを求めるようになった。そこで一ヶ年、すなわち、太陽の輪回を、近似的に一二ヶ月に等しいと定めた。古代メキシコ人の間に行われた、トナラマトル(Tonalamatl)と名づける二六〇日の珍しい周期はほとんど太陰月の九ヶ月(すなわち、二六五・七日)に等しい。これは多分二〇で割り切れるために二六〇日としたものであるらしい。
太陰が暦の決定に役に立つということが分ると同時に、これと同じ目的に役に立つような他の天体を求めるようになったのは当然のことである。この目的には金星は特に全くあつらえ向きにできていた。この星の光は強くて、暗夜には物の陰影を投げるほどであり、またその一周の周期はかなり短くてわずかに五八四日(すなわち、一・六年)である。文化の進歩するにつれて、数年という長さの期間で年代を数えるようになったころには、太陽の輪回八回が金星の周期の五倍にほとんど等しいという事実が非常に便利に感ぜられた。またメキシコ人はこれよりもずっと長い、一〇四太陽年という周期を設定した。これは一四六トナラマトル、あるいは金星周期の六五倍に当るのである。
上記三つの計測術の支配者とも言うべき天体は、いわゆる旧世界でも新世界でも、最古の文化民族の間で神々の中の首長として尊崇せられていた。バビロニア人はシン、シャマシュ及びイシュタール(Ishtar 金星に当るアスタルテ Astarte)の三神を仰いでいた。アラビア人は太陰(ワッド Wadd ホバル Hobal またはハウバス Haubas)を父として、太陽(シャムシュ Shamsh)を母、また金星(アッタール Atthar)をその子として礼拝した。アッシリアの諸王はその尊貴の表象として掛けていた首輪から三つの護符を胸に垂らしていたが、その一つは月の鎌の形をしており、第二のものは輻を具備した車輪か、あるいは十字(太陽の象徴)の形をしており、また第三のものは一つの輪で囲まれた星の形(金星の象徴)をしていた。
最古の文化民族の宗教は確かに、暦日の予算という、すなわち、最古の科学というべきものを神聖視し尊崇したところから発達したものと思われる。このようにして星の学問が始まって以来、次第に他の遊星も観察されまた神々の数に加えられるようになった。そしてこれら遊星の天上の位置を定めるために星辰を幾つかの星座に区分するようになった。その分け方となると、もはやバビロニア人の区分法とメキシコ人のそれとが全く一致するはずのないことは言うまでもない。
カルデア人が最古の規則正しい天文観察を行ったのは耶蘇《ヤソ》紀元前四〇〇〇年ないし五〇〇〇年前に遡るものと推測される。ローマ人やギリシア人の考えではこれが数十万年の昔にあったとさえされている。すなわち、かの大天文学者ヒッパルコス(Hipparchos)は二七万年、キケロ(Cicero)は四七万年という、もちろん甚だ荒唐なる推定をしているのである。
カリステネス(Kallistheness)はアリストテレスのために、紀元前二三〇〇年に亘るこの種の観測資料を収集した。カルデアの僧侶たちは毎夜の星辰の位置とその光輝の強弱を粘土版に記銘し、またこれらの星の出没並びに最も高くなるときの時刻をも合わせ記録した。いわゆる恒星は規則正しい運動をするから、その将来の位置を完全に正確に予言することができた。また太陽が一年の間に黄道に沿うて運行する時々の位置もまた特に規則正しく、すなわち、毎日約一度ずつ前進する。カルデア人が円周を三六〇度に分けたのは畢竟ここから起ったことである。その後になって、太陽は冬(近日期)は夏よりも早く動くということに気が付いたので、この不規則を勘定に入れるために、太陽は冬期は毎日一・〇一五九度。夏期はこれに反して毎日〇・九五二四度ずつの円弧を描いて進行するものであると仮定した。最も著名なバビロニアの星の研究者キディンヌ(Kidinnu)は紀元前第二世紀の初めごろの人であるが、彼は太陽の速度が月毎に変るという仮定をしてこの算暦法に重要な改良を加えた。彼は重要な観測を非常にたくさんに行った。彼がこの観測に基づいて作った太陰の運行に関する表は特別に正確なものである。
諸遊星の運行を予報する立派な暦表ができていて、その中のあるものは今日まで保存されている。たとえば紀元前五二三年の分がそうである。この暦を作るために使われた長い周期は、太陽とある遊星とが地球並びに相互に対して全く同じ位置に復帰するまでの期間である。たとえば八太陽年は金星の五周行に当る、従ってこの金星と太陽とに関する長周期は八年の長さをもっている。木星に関する同様の周期は八三太陽年である。それでこのような周期の間における当該遊星の位置を一度詳細に記しておけば、次の周期の間のその星の位置を完全に予報することができた。もっとも周期の長さが全く精密でないために少しの食違いがあるが、これは精細な観測に基づいた補正を加えることになっていたのである。
これらの周期中に最も重要なるものは太陰の運行に関するもので、これはメトンの周期(Metonische Periode)と名付けられていた。太陰が地球の周りを二三五回運行する期間が六九三九・六日に当り、これを一九年と比べるとその差は一日の一〇分一程度である。すなわち一九年経過すれば太陽と太陰との地球に対する位置はほとんど初めの状態に帰ってくる。それで一度月食があったとすれば、それから一九年後にまた同じ現象を期待することができる。この周期がバビロニア人の間に良く知られていたということは、クーグラー(Kugler)が紀元前四世紀の初めにおけるバビロニア時代の天文学上の計算によって確証した。この時代は、同じ周期がメトン(Meton 紀元前四三二年)によってギリシアに紹介されてから約五〇年後に当る。当時ギリシアとバビロンの間には、主にフェニシアを通じて、交通があるにはあったが、恐らくこの周期は両国で独立に見出されたものであろうと思われる。ミレトスのタレース(Thales von Milet)がバビロンの天文学の知識を得たのはやはりフェニシアを経てのものであったらしい。後年アレキサンドリアでギリシア人がバビロニアの科学を学んだのも同様であった。
日食についても同様であるが、この場合の予報はそれほど容易く確実にはできない。食の現象、特に日食はただに人間のみならずあらゆる生物に異常な深い印象を与えるものであるから、もし天文に通じた僧侶があって、この自然現象を正確に予言することができたとしたら、その人に対する一般の尊崇の念は甚だしく高まったに相違ない。日食が地球と太陽との中間における太陰の位置によるものであるということはよほどの昔から既に天文学者には明らかに分っていたはずである。このことを認めれば次にはまた、月食の起るのは太陰が地球の陰影の中に進入するためであるということに気が付く順序になるはずである。しかるに月面に投じた影の輪郭が円形であるから、従って地球は円いものであるという結論をしたに相違ない。ところが地球のどちら側が月に面していても月面における影は円形であるということから、更に進んで、地球は円板のようなものではなくて球形のものであるという結論を得たであろう。これらの観察の結果として、地球の形並びに地球が天体として太陽太陰に対する近親関係についても正しい観念を作り上げる端緒を得たわけである。カルデア人が地球大円周の長さの測定を行ったらしいと思われることがある。紀元前五世紀の人でアレキサンドリア出のギリシアの著者アキレス・タティオス(Achilles Tatios)の記したところによると、カルデア人はこういうことを主張していた。それは、もし少しも休むことなしに毎時間三〇スタディア(すなわち、約五キロメートル)の速度で歩きつづけることのできる人があったとしたら、一年で地球を一回りすることができるというのである。この見積りに従えば、地球の大円周の長さは四三八〇〇キロメートルになるが、これは実にほとんど正しいのである。
カルデア人の宇宙の構造に関する観念はこれ以上には進まなかったらしい。遊星の運動は実際ある点までは確かに規則正しいのであるが、しかしそれらの位置に関する一定の法則を設定することはできなかった。それでこれらの星は多分自由意志をもっており、その出現は人間の企図や出産、死亡またそれに次いで起る相続問題などに際して幸運あるいは不幸の兆を示すものと信じられていた。こういう吉凶の前兆は必ず事実となって現われるもので避けることは不可能であるが、しかし呪法や祈願や犠牲を捧げることによって幾分かその効果を柔らげ、ともかくも一寸延ばしにすることはできると考えられた。こういう方法を知っているものは天文に通じた僧侶だけであったので、彼らは王侯や人民に対して無上の権力を得るようになった。この信仰は実に今から数世紀前までも迷信的な人類を支配し、そのためにこれら輪廻現象の本然の解説の探求、従ってほとんどあらゆる科学的の研究を妨げたのである。
カルデア人が、もっと短い時間を測るに用いたものはクレプシュドラ(Clepsydra)と名付ける水時計と、それからポロス(Polos)と名づける日時計である。後者は一本の垂直な棒の下へその棒と同長の半径を有する凹半球に度盛をした盤を置いたものである。水時計は水かあるいは他の液体が大きな容器から一つの小さな穴を通じて流出するようになっており、その流出した液量を測って経過時間を測定するのであった。ポロスは南北の方位を定め、また冬期夏期における太陽の高度や世界の回転軸の位置を定め、また正午における陰影の長さから春分秋分の季節を定めるために使われた。メソポタミアの都市の廃墟で水晶のレンズが発見されたことから考えると、当時の学者は光学に関する知識もかなりにもっていたことが分かる。しかし外の学問の方面までも余り進んでいたわけではないらしい。
エジプトの伝説ではトート(Thot)の神が人間に天文、占筮と魔術、医療、文字、画法を教えたことになっている。太陽や遊星が十二宮の獣帯に各一〇日ずつに配された三六の星宿の間を縫うて運行する経路が図表中に記入され、そういうものが最も古い時代から太陽神ラー(Ra)の神殿に仕える僧侶たちによって集積された。後にはまた他の神々の神殿にも天文学者等が仕えるようになり、彼らは『夜の番人』として天界の現象を精確に観察しそれを記録する役目を務めた。彼らはちゃんとした星界図さえ作っていたので、それが彼らの図表と同様に一部分現在保存されている。エジプトでも暦法の基礎としてやはり一年は一二月、一ヶ月は三〇日より成るとしてある。歳の初めは今の八月に当る。一年を三六五日にするために歳の終りへもってきて『五日の剰余日』を置いた。太陽の一周行の期間は三六五日より五時間四分の三だけ長いから、だんだんと食違いができるので、時々、天体、特に『狼星』シリウスの観測によって修正を行っていた。
以上述べたことから考えてみると、エジプトの暦年はある点で我々現在のよりも優れていた。すなわち、毎月一様に三〇日という長さであったのに反して、我々の暦では二八日ないし三一日といういろいろな月の不合理な混乱が支配している。よく知られている通り、元来二月は三〇日であったのが、そのうちの一日を取り去り、それを、ジュリアス・シーザーの名誉のために七月(Juli)へ持って行ったのである。そこでオーガスタス大帝も負けてはならぬとばかり、二月から更にもう一日を引抜いて八月(August)へ持ってきた。後代のものの眼から見るとこの仕方は彼らのせっかくの目的とは反対の効果を招くことになってしまったのである。
太陽の周期が正しく三六五日でないために生ずる困難は時が進むに従って加わる。これを避けるために、エジプトでは、初めのうちは、折々に暦をずらせ狂わせて間に合わせていた。そうしてナイル河の氾濫期がちょうど歳の初めにくるように合わせたのである。しかしこの方法はかなり出任せであるので、プトレミー(Ptolemy)朝に至って閏年(四年目毎に三六六日の年)というものを定めた。この暦法の改正がローマでは少し後れて、ジュリアス・シーザーの命令で行われた。これにはギリシア-エジプト派の天文学者、ソシゲネス(Sosigenes)が参与したのである。それでこの改正暦のことをジュリアン暦と名づける。しかしこの暦も永い間には不完全なことが分ってくるので、紀元一五八二年に法王グレゴリー一三世の命令で更に新しい暦が設定された。この暦の誤差は三千年経ってわずかに一日となるだけである。
エジプトでは天文学者は非常な尊崇を受けていた。彼らは天文学の方ではカルデア人を凌駕するほどではなかったであろうが、彼らの知識はそれだけではなかった。その上に医術や化学を知っていてこれらの科学でははるかにカルデア人よりも進んでいたらしい。アジアの王侯たとえばバクタン(Bakhtan)王のごとき人々すら、わざわざエジプトの医師の処方を求めによこしたくらいである。後代にはまたペルシアの諸王も彼らの医学上の知識の助けを求めた。ホーマーはエジプトの医師を当代の最も熟達したものとして賞讃している。彼らの処方は今日でもかなりたくさんに残っている。彼らの医薬の処方や健康回復法の心得書のあるものはラテン語の詩句中にそのままの言語で出ており、これは中世における最高の医学専門学校であったサレルノ(Salerno)の大学で教授されたものである。そういうわけで部分的には民衆医術の中にも伝わり今日まで保存されてきたのである。彼らの用いた薬剤は、現今でも支那の薬屋で売っているような無気味な調剤とかなりよく似た品物であったらしい。
しかしあらゆるエジプトの学問のうちでも一番珍重されたのは占筮術と魔術であった。エジプトの学者たちは、ある一定の方式の呪文を唱えると河の水をその源へ逆流させ、太陽の運行を止めたりまた早めたり、またまじないを施した蝋製の人間や動物の姿を生かし動かすことができたとされている。彼らは宮廷に出入し、往々『天の秘密の司官』という官名で奉職していた。彼らの位階は近衛兵の司令官や枢密顧問官(『王室の秘密の司官』)と同様であった。そしてこれらの高官と同様に、階級の低い役人等とは反対に、王宮の中でサンダルを履いたまま歩くことを許され、またファラオの足でなくて膝に接吻してもいいという光栄を享楽していた。そしてこの大きな栄誉を担う人々の徽章として豹の毛皮(今ならヘルメリンの毛皮に当る)をまとうことを許されていたのである。
これらの学者たちには、およそ大概のことでできないということはないと、民衆が信じていたという証拠としてマスペロ(〔Maspe'ro〕)に従って次の物語をしよう。ケオプス王(Cheops)が彼らの一人に『お前は切り取った首を再び胴体につなぐことができるという話だが、それは本当か』と聞いた。その通りだと答えたので、ファラオは、その実験をさせるために牢屋から一人の囚人を連れてくるように命じた。すると、この宮廷占星官は、こういう実験に人間を使うのは惜しいことである、これには動物一匹あればたくさんである、という、甚だ人間味のある返答をした。そこで鵝鳥を一羽連れてきて、その首を切り放して室の一方に、その胴体を他方の側に置いた。占星官はかねて魔術書で学んでいた二三の呪文を唱えた。すると鵝鳥の胴体は首のある方へと飛び飛びをしながら動き始める、首の方でもまた胴の方へ動いてゆき、結局両方が一緒にくっついて、しかしてこの鵝鳥がガアガアと鳴き立てた。もちろん、たいていの伝説で御定まりのように、こういうことは三遍行われなければならないので、次には一羽のペリカン次には一頭の牡牛でこの術を行い、完全に成功してみせたというのである。王子たちのみならずファラオ自身も時々この宮中占星官から科学や魔術の教授を受けたという話である。
エジプト人は地中海から紅海へかけてかなり手広く航海を営んでいた。それには彼らの星学の知識が航路を定める役に立った。ホーマーがオディセイのカリュプソ(Kalypso)の島からコルフ(Korfu)への渡航を歌っているが、全くあの通りであった。疑いもなく当時は、ことにまだ十分な経験を得なかったころは、なるべく沿岸航路に限るようにしていたではあろうが、しかし時には嵐のために船が沖合へ流されるようなこともあったであろう。そういうときに航海者等は、陸地に近づくに従って海岸が次第に波の彼方から持上ってくるということや、また甲板で見るよりも帆柱の上で見た方が早く陸が見え初めるということを観察したに相違ない。同様にまた陸から見ている人には初めに船体の低い部分が海に隠れ最後に帆柱の先端が隠れることを知ったであろう。これらの事実から船乗りやまた海岸の住民らが、海面は中高に盛り上っており、多分球形をしているであろうという考えを抱くようになったのは明白である。
エジプト人がケオプスの大金字塔(紀元前約三〇〇〇年)を建築したとき、その設計のために、彼らの中でも最も優れた大知識にのみ知られていた科学的経験の一部を役立ててその跡を止めたという、スコットランドの星学者ピアッチ・スミス(Piazzi Smyth)の説は多くの自然科学者も同意したところである。この金字塔は、他の同種の建築物と同様に、その精密に正方形をした底面の辺が正しく東西にまた南北に向かうような位置に置かれていて、その誤差はわずかに七五〇分の一にすぎない。この金字塔は、緯度三〇度に甚だ近く、ただ二キロメートルだけ南に外れている。その北側の真ん中に入口があって、そこから長い、狭い、水平線に対して三〇度傾斜した通路に入る。従ってこの通路はほとんど地球の回転軸と並行していることになる。すなわち、この通路の長さの方向はちょうど天の極に向かう。しかも極は、大気による光線の屈折のためにわずかばかり実際よりも地平線に対して浮上って見えるから、なおさらちょうどよく極を指すことになるのである。それで、エジプト人が耶蘇紀元前ほとんど三〇〇〇年前に既にかなり進んだ数学並びに星学上の知識をもっていたということは、この通路の位置から見てもまた金字塔の辺の南北方位の正確さから考えても、疑いもないことである。しかしピアッチ・スミスとその賛成者たちの考えにはこの点について甚だしい誇張があるようである。この大金字塔の当初の高さは一四五メートル、またその四辺の周縁の全長が九三一メートルであった。この二つの数量の比は一対六・四二で、すなわち、円の半径と円周との長さの比、一対六・二八よりも約二パーセント強だけ小さい。このことからして、スミスは、金字塔の高さと周囲との比をもって円の半径と円周との比を表わそうとしたものであるということを、十分な根拠らしいものなしに結論している。ヤロリメク(Jarolimek)の調べたところによると、ケオプス金字塔の建築者は、その造営に当っていわゆる黄金截(〇・六一八)の比例を使ったらしいが、それにはともかくも一通りならぬ幾何学の知識がなくてはならないはずである。
我々が人間文化の最古の表象の跡を尋ねるような場合には、いつも、自然に支那の方に注目することになるのであるが、しかしかの国の思索家らは宇宙創造の問題に関しては割合に少ししか手を着けていない。孔夫子は紀元前五五一―四七八年の人であるが、彼自身に、自分はただ古い知識を集めただけだと断っている。彼は全く道徳問題だけを取扱って宇宙成立の問題というような非実用的な事柄に係わることは故意に避けたのである。紀元前六〇四年に生れて孔子と同時代であり道教の始祖となった老子の方にはいくらかの材料が見付かる。一体『道』とは何であるかということは余り簡単に説明ができない。近ごろ古代支那哲学の通覧を著わした鈴木の説に従えば『道は宇宙に形を与える原理であると同時に、また「天と地の未生以前に存在した渾沌たる組成のある物」、すなわち原始物質を意味するもののようである。』(この「 」の文句は老子の道徳教の第二五章の引用である。)『道』は『道路』の義であるが、しかし単に道路だけでなくまた『さまよう者』を意味する。道はあらゆる生あるものと生なきものの放浪すべき無窮の道路である。これは何ら他の物から成立ったのではなくそれ自身に永遠の物である。それはすべてであるが、しかしまた虚無でもある。それは天地万有の原因であり始源である。老子自身の言葉によれば『道は深く不可思議で、万有の始源である。道は静かに明らかで永遠に輝く一つの観念である。道は何者の子として生れたものか、私は知らない。彼は神(Ti)よりも以前からあったように見える。』『天地は不朽である。それは自分自身を作り出したものでもなく、また自身のために存在するものでもないからである。』道はまたしばしば玄妙中のまた玄妙なるものと名付けられる。この天地が不朽だとするその理由がまたよほど特別なものである。道は自分自体から生ぜられたものでないという命題を与えて、それからまずこれは絶滅することのできないものであるという結論を引き出すことができるというのである。
紀元前五世紀の道教学者列子は『始めに、一つの組織のない団塊、すなわち、渾沌があった。これは、後に形態、精神及び物質に進化し得る可能性を備えた混合物であった』と書いている。この哲学者は自分自身について次のような話をしている。『杞の国にある男があった。彼は天と地が崩壊するかも知れない、しかしてそれがために自分が破滅するかも知れないということを心配して寝食を廃するに至った。一人の友人がやってきて、こう言って彼を慰めた。「天地はただ一種の霊気の凝結したものにすぎない。しかして日月星辰はただこの霊気の中に輝く団塊である。これらが地上に墜ちたところで大した損害はないであろう。」こういって二人とも安心していた。ところが、この考えに対して長廬子という男が反対説を出した。その説によると、天地は実際にいつか一度は粉微塵に砕けなければならないというのである。この話を聞いたときに列子は大いに笑ってこう言った。天地が砕けるというのも、砕けないというのも、いずれも大きな間違いである。我々はそれを判断すべき手段を一切持っていない。……世界が破壊しようがしまいが、それは何も自分に関係したことではない。』鈴木が言っているように『支那人はギリシア人やインド人のように空想的《スペキュラティヴ》な性質ではない。彼らは決して物事を実用的道徳的に見ることを忘れない。彼らは、危なっかしい足元がやはり地上に縛られている癖に星の世界ばかり覗きたがるこれらの人を笑うであろう。』要するに支那人の万有に対する見方は古代ローマ人のと同じである。そうして孔子の教えの中にこの特徴が結晶しているのである。
こういう哲学的な霧中のまぼろしはこのくらいに切り上げてもいいと思う。これらは畢竟、前提なしの抽象的思索で宇宙の謎を解こうとしてもそれは不可能だということを示すだけである。
支那でも寺院に職を奉ずる天文学者らがいて、星の運行を追跡して日月食を予報する役目を司っていた。吾人の知る限りでは彼らの天文学は余り大して科学的に進んだものではなかったらしい。多分カルデア人が西洋の知識と接触する以前とほぼ同程度のものであったかと思われる。 
5 ギリシアの哲学者と中世におけるその後継者

 

エジプト、バビロニアのみならず一体に西方諸国の科学がついに民衆の共有物とならずにしまったのは非常な損失であった。もしこれがそうなっていたとしたら、これら国民の文化は疑いもなく今日我々が賛歎しているあの程度よりも一層高い程度に発達したであろうし、また我々の今日の文化もまたそれによって現在よりももっと優れたものになったかも知れない。
紀元前四〇〇年から六〇〇年に亘る、最古のギリシア文化の盛期における最も古い文化圏はエジプトであった。しかして、当代における最高の知識を修めようと思う若いギリシア人、タレース、ピタゴラス(Pythagoras)、デモクリトス(Demokrit)、ヘロドトス(Herodot)のごとき人々は皆このナイル河畔の古き国土をたずね、その知恵の泉を汲んで彼らの知識に対する渇きをいやそうとした。そうして古代における科学の最盛期というべきものはアレキサンドリアのプトレミー朝時代に当って見られる。ここでギリシア文化がこの古典的地盤の上でエジプト文化と融合されたのであった。
紀元前六四〇―五五〇年の人、ミレトスのタレースがあるとき日食を予言して世人の耳目を驚かしたという話が伝えられている。疑いもなく彼はこの日月食を算定するバビロニア人の技術をフェニシア人から学んだであろう。また彼がエジプト人から当代科学の諸学説を学んだという説もある。実際、万物の始源は水なりとする彼の学説は、世界の原始状態に関するエジプト人の観念に縁を引いているようである。このタレースの弟子であったと思われるアナキシマンドロス(Anaximandros 紀元前六一一―五四七年)は、各種元素より成る無限に広大な一団の渾沌たる混合物から無数の天体が生ぜられたと説いている。もう一人の哲学者アナキシメネス(Anaximenes 紀元前五〇〇年ころ)は、これもタレースと同じくいわゆるイオニア学派の人であるが、空気を始源元素であると考えた。彼はこの空気が密集して大地となったと考え、この大地は盤状のものであって、圧縮された空気の塊の上に安置されていると考えた。太陽も太陰も星もまた同様な形状をしたものであって、しかしてこれらが地の周囲を回っているとした。このアナキシメネスの説にはエジプト派の痕跡が全くない。
ピタゴラスは紀元前六世紀の後半(五六〇―四九〇年)の人でいわゆるピタゴラス学派の元祖であるが、この人となるとまたエジプトの学風の余弊がかなりに強くひびいているようである。彼はサモス(Samos)島に生れたが後に南イタリアのクロトン(Kroton)に移った。彼もエジプトの学者たちと同様に、自分の知識をただ弟子の間だけに秘伝するつもりであったが、弟子の方ではもっと西洋流の気分があったのでこれらの秘密をかまわず周囲に漏らし伝えた。これらの自然科学者の諸説(多くはフィロラオス Philolaos の説として伝えられたもの)については遺憾ながら原著は伝わらず、ただ二度あるいは三度他人の手を経たものしか知ることができない。これらの所伝によると、宇宙におけるあらゆるものの関係は数によって表わすことができる。そうしてそれには調和《ハルモニー》と名付ける一定の厳密な法則が存在している。この規則正しい関係があたかも種々な楽音の高さの間の関係と同様であるから、こう名付けたのである。宇宙はすべての方向に一様に広がっている。すなわち、一つの球である。その真ん中に中心の火があるが、我々はこれと反対側の地上にいるために火を見ることはできない。しかしその反映を太陽に見ることができる。この中心火の周囲を地球、太陰、太陽及び諸遊星が運行している。これらのものも地球と同じようなものでやはり雰囲気をもっているものと考えられるようになった。地球は円いもので、中心火のまわりを一日に一周する――すなわちどういう風にかとにかく自身の軸のまわりに二四時間に一回転する。同様に太陰は一ヶ月にその軌道を、太陽は一年の間にその軌道を一周するのである。これらの三つの天体の周期はかなり精密に知られていた。もしピタゴラス派の人々が、この中心火の代りに太陽を置き換えさえしたら、太陽系というもののかなり正しい概念が得られたに相違ない。恒星をちりばめた天球はどうかというと、これもまた巨大な中空の球であって同じ中心火のまわりを回っているものと考えられた。その上にまた地球が一日に自分の軸で一回転すると思ったのであるから最初の仮定は単に無駄であるばかりでなく、かえって全く矛盾することになるのである。
ピタゴラス派の学説は次第に進歩するとともにその明瞭の度を増した。現象の物理的原因にだんだん立ち入るようになった。エフェソス(Ephesos)のヘラクリトス(Heraklit 紀元前約五〇〇年)は何物も完全に不変ではないと説いた。シシリア人エムペドクレス(Empedokles 紀元前約四五〇年)は、何物でも虚無から実際に生成されること(すなわち、創造)はあり得ないということ、また物質的なものである以上何物でもそれを滅亡させることは不可能であるという、我々現代の考えと全く相当する定理に到達している。すべての物は土、空気、火及び水の四元素から成立つ。ある物体がなくなるように見えるのは、ただその物の組成(この四元素の混合関係)が変るためにすぎない、というのである。ペリクレス(Perikles)の師であったアナキサゴラス(Anaxagoras)は紀元前約五〇〇年に小アジアで生れ、ペルシア戦争後アテンに移った人であるが、彼は以上の考えを宇宙全体に適用し、すなわち、宇宙の永遠不滅を唱道した。原始の渾沌が次第に一定の形をもつようになった、太陽は巨大な灼熱された鉄塊であり、その他の星もやはり灼熱していた――それはエーテルとの摩擦のためであったというのである。アナキサゴラスはまた太陰にも生物が住んでいるという意見であった。また彼が、地球は諸天体の中で何ら特別に選ばれたる地位を占めるものでないという説の最初の言明をしているのは注意すべきことである。これは後代復興期の天文学者らによって唱えられた考えと非常に接近したものである。
プラトンやアリストテレスを読めば分る通り、アテン人は星を神様だと思っていたのであるから、アナキサゴラスは、彼の弟子クレアンテス(Kleanthes)の申立てによって、神の否認者として告訴され監獄へ投げ込まれ、あのソクラテスと同じ運命に陥るはずであったのをペリクレスの有力な仲介によってようやく免れることができた。そこで彼は用心のために亡命しランプサコス(Lampsakos)の地で一般の尊敬を受けつつ七二歳の寿を保った。アテンにおける最も優秀な人たちが彼らの哲学上の意見に対する刑罰(死罪)を免れるために次々に亡命したという史実を読んでみていると彼の賛歎されたアテンの文化というものがはなはだ妙なものに思われてくるのである。ソクラテスは亡命を恥としたために毒杯を飲み干さなければならなかった。彼の死後プラトンはその師と同じ厄運を免れるために一二年の歳月を異境に過ごさなければならなかった。それで彼の教えはピタゴラス派と同様イタリアで世に知られるようになった。プラトンの弟子のアリストテレスはあるデメーテル僧から神を冒涜したといって告訴され、大官アレオパガスから死刑を宣告されたが、際どくもユーボェア(〔Eubo:a〕)のカルキス(Chalkis)に逃れることを得て、そこに流謫の余生を送り六三歳で死んだ(紀元前三二二年)。神々の存在を否認したディアゴラス(Diagoras)もやはり死刑を宣告された後に亡命し、またかの哲学者プロタゴラス(Protagoras)もその著書は公衆の前で焼かれ、その身は国土から追われた。神々は自然力を人格化したものだと主張したプロディコス(Prodikos)は処刑された。――自由の本場として称えられてきたアテンがこういう有様であったのである。当時のアテン人の間には奴隷使役が広く行われていた。それで今日保存されている古代の文書の大部分も、遺憾ながら、そういう自然研究などには縁の薄い人々の手になったものである。思うに、当時アテンに在住していた哲学者らは、狂信的な多数者の迫害を避けるために、自分の所説に晦渋の衣を覆っていたものらしい。
エムペドクレスとアナキサゴラスの次にデモクリトス(Demokrit)が現われた。彼は後日我々の承継するに至った原子観念の始祖である。アナキサゴラスの生後約四〇年にトラキア(Thrakien)のアブデラ(Abdera)に生れ長寿を保って同地で死んだ。巨額の財産を相続したのを修学のための旅行に使用した。そして、彼自身の言うところによると、同時代の人で彼ほどに広く世界を見、彼ほどにいろいろな風土を体験し、また彼ほどに多くの哲学者に接したものは一人もなかった。幾何学上の作図や証明にかけては誰一人、しかもまた彼が満五ヶ年も師事していたエジプト数学者でさえも匹敵するものがなかった。彼は古代の思索者中での第一人者であったらしいが、しかし数多い彼の著述のうちで今日に伝わっているものはただわずかな断片にすぎない。彼の考えによると、原子は不断に運動をしており、また永遠不滅のものである。原子の結合によって万物が成立し、そうして万象は不変の自然法則によって支配される。また、デモクリトスの説では、太陽の大きさは莫大なものであり、また銀河は太陽と同様な星から成立っている。世界の数は無限であり、それらの世界は徐々に変遷しながら廃滅しまた再生する運命をもっている、というのである。ところが、このデモクリトスに至って他の哲学者からはとうに捨てられていた、大地は平坦で海に囲まれた円板だという考えが再現されているのである。
この哲学者に関して知られている事柄の大部分は、たとえばアリストテレス(紀元前三八五―三二三年)のごとく、彼の学説に反対したアテン派その他の学者らの仲介によるものである。ソクラテスなどは、天文学というものは到底理解ができないものである、こんなことにかかわり合っているのは愚かなことであると言っている。プラトン(紀元前四二八―三四七)はデモクリトスの七二種の著書を焼払いたいという希望を言明している。プラトンの自然科学の取扱い方は目的論的であって、我々の見地から言えば根本的に間違っている。一体彼がこの偉大な自然科学者デモクリトスの説を正当に理解し得たかどうか疑わしいと言われても仕方がない。当時の哲学は我々の目からは到底把握しがたい形而上学となってしまっていた。天が球のごとく丸く、星の軌道が円形であることの原因としてはたとえばアリストテレスはこう言っている。『天は神性を有する物体である。それゆえにこれらの属性をもつべきはずである。』彼はまた、遊星は運動器官をもたないから自分で動くことはできないと言っている。世界の中心点に位する大地が球形であるということは、彼もまた、月食のときに見える地球の影の形から正しく認めてはいたが、しかし地球が動いているという説には反対した。プラトンはまた地球が天界の中で最古の神的存在であると言っている。大先生たちがこういう意見を述べているくらいであるから、その余の人々から期待されることはたいてい想像ができるであろう。自然科学的の内容はなくていたずらに威圧的の言辞を重ねるのが一般の風潮であった。詭弁学者らはすべてのもの、各々のものを、何らの予備知識なしに証明するということを問題としていた。これらの哲学者の書物は中世に伝わり、そうしてほとんど神のごとく尊崇された。アリストテレスの諸説は全く間違のないものと見なされた。そうしてこれが中世における自然界の考え方の上に災の種を植付けた。――たとえばスコラ学派の奇妙な空想を見ただけでも分ることである――そうしてこれが科学的の考察方法に与えた深い影響は実に僅々数十年前までも一般に支配していたのである。
シラクス(Syrakus)とアレキサンドリア(Alexandria)における自然研究は、これから見るとずっと健全に発達していた。キケロ(Cicero)に従えば、シラクスのヒケタス(Hicetas)は、天は静止している、しかし地球が自軸の周りに回転していると主張したそうである。しかしこれ以上のことは伝わっていない。彼の偉大な同郷人アルキメデス(Archimedes 紀元前二八七―二一二年)についても伝わっていることは更に少ない。彼は平衡状態にある液体は球形となり、また一つの重心をもつことちょうど地球も同様であると説いた。この理由によって海面は平面ではないというのである。
地球の形とその宇宙における位置に関してついに明瞭な観念を得るに至ったのはアレキサンドリアの自然科学者の功に帰せられねばならない。クニドス(Knidos)のユウドキソス(Eudoxus 紀元前四〇九―三五六年)は初めエジプトで人に教えていたが、後にアテンで一学派を立てた人である。この人は遊星運動に関する一つのまとまった系統を立てた。エラトステネス(Eratosthenes 紀元前二七五―一九四年)はアレキサンドリアで、夏至と冬至の正午における太陽の高度を測定し、それを基にして南北回帰線間の距離が地球大円周の八三分の一一に当るということを算定した(この値は実際より約一パーセント強だけ大きい)。またアレキサンドリアとエジプトのシェナ(Syene)とで太陽の高度を測定し、両所間の緯度の差が地球周囲の約五〇分の一に等しいことを知った(この値は約一五パーセント小さすぎる)。この二ヶ所の距離を、駱駝を連れた隊商の旅行日数から推定し、それによって地球の円周を二五万スタディア(四二〇〇〇キロメートル)と算定した。これはかなり実際とよく合っている(アリストテレスは四〇万、アルキメデスは三〇万スタディアを得た、とあるが何を根拠にしての算定であるか分っていない)。ポセイドニオス(Poseidonios 紀元前一三五年シリアに生れ、同五一年ローマで死んだ)はアレキサンドリアで恒星カノプス(Canopus)の最大高度を測って七・五度を得た。ロドス(Rhodos)島ではこの星が最も高く上ったときにちょうど地平線上に来る。ところがロドスとアレキサンドリア間の距離はあるいは五〇〇〇あるいは三七五〇スタディアと言われていたので、これから計算して地球の周径は二四万、あるいは一八万スタディア(四万あるいは三万キロメートル)となった。
   第七図 エジプトのデンデラー(Denderah)の獣帯。西暦紀元の初めごろのもの。
アリスタルコス(Aristarchos 紀元前約二七〇年生)は食の観測と、太陰がちょうどその半面を照らされているときのその位置とから太陽と太陰との大きさを定めた。しかして太陰の直径としては地球直径の〇・三三(正当の値は〇・二七であるから、〇・三三にかなり近い)を得たが、しかし太陽の直径としては一九・一を得た(実は一〇八であるからアリスタルコスのこの値は余り小さすぎる)。
アレキサンドリア学派とは密接な関係のあったアルキメデスがアリスタルコスに関してこういっている。『彼は恒星及び太陽を静止するものと考え、地球は太陽を中心とする円形の軌道に沿うて運行すると仮定している。』プルターク(Plutarch)の著として誤伝されている一書によると、アリスタルコスは、天を不動とし、地球はその軸のまわりに自転しつつ黄道に沿うて太陽の周囲を運行すると説いたというので、神を冒涜するものとしてギリシアで告訴されたとある。恒星は太陽からばく大な距離にあると考えられていて、この書には七八万スタディアとなっている。――一三万キロメートル、すなわち、地球半径の二〇倍に当り、これは全く事実に合わない(アレキサンドリアのヒッパルコス(Hipparchos)紀元前約一九〇―一二五年――は古代天文観測者中の最も優秀な者であったが、この人は太陰の距離をほぼ正しく地球半径の五九倍と出している)。そうしておもしろいことには太陽の距離の方はほとんど正しく八〇四〇〇万スタディア(一三四六六六〇〇〇キロメートルに当る、実際は一四九五〇万キロメートル)となっている。ヒッパルコスの方は地球半径の一二〇〇倍という、すなわち、ずっと不当な値を出しているのである。ポセイドニオスは水時計の助けを借りて太陽の直径を測り、角度にして二八分という値を得、それから長さに換算して地球半径の七〇倍を得ている。これはいくらかよく合っている方である。彼はまた太陰が潮汐の現象の原因であるということも説いているのである。
これらの記事を読んでみると、アレキサンドリアにおけるギリシア人の天文学がいかに程度の高いものであったかということに驚かざるを得ない。しかるに他の方面の科学、特に物理化学の方の知識は到底これとは比較にならない劣等なものであった。アリスタルコスはコペルニクスに先立つことほとんど二〇〇〇年にして既にいわゆるコペルニクス説の系統の基礎をおいたのであるが彼の考えはいったんすっかり忘れられてしまった。彼の同時代の人々は彼の宣言した偉大な真理を正当に了解することができなかったのである。その著書アルマゲスト(Almagest 紀元一三〇年ころの著)によって天文学方面での唯一の権威となっていた――また優れた光学者でもあった――プトレマイオス(〔Ptolema:us〕)は、これに反して、地球は太陽系の中心にあり諸遊星も太陽もまた太陰もこの中心の周囲をいわゆるエピチケル形軌道を描いて運行すると考えたのである(第六図)。その後ローマ帝政の抑圧が世界を支配するようになって、科学にも悪い影響を及ぼした。ローマ人らは科学に対して何らの正当な理解がなかった。――彼らの眼をつけたのはただ直接の実利だけであった。ランゲ(F. A. Lange)はその著マテリアリズムの歴史中に次のように述べている。『彼らの宗教は深く迷信に根ざしていた。彼らの全公生活は迷信的な方式で規約されていた。伝統的な習俗を頑固に保守するローマ人には、芸術や科学は感興を刺激することが少なかった。まして自然そのものの本質に深く立入るようなことはなおさらそうであった。彼らの生活のこの実用的な傾向はまたすべての方面にも及んだ。……初めてギリシア人と接触して以来、数世紀の後までも、国民性の相違から来る忌避の感情が持続していた。』しかしギリシア国土の征服後掠奪された貴重な芸術品や書籍がたくさんにローマへ輸入され、またそれらと一緒に、この戦敗者ではあるが文化の方でははるかに優れた国民の種が入り込んできた。ローマ人中にもまた精選された分子はあったので、それらの人々はこの自分らよりも優れた教養に心を引かれ、しかしてそれを自分のものにしようと勉め、また昔の先覚者に倣おうと努力した。その一例としてはルクレチウス(Lucrez 紀元前九九―五五年)の驚嘆すべき詩『物の本性』(De Rerum Natura)がある。彼はこの書中にエピキュリアン派(Epicur)の人生哲学と、エムペドクレス及びデモクリトスの宇宙観自然観を賛美し唱道している、その中に物質の磁性に関する記事解説もある。これに関する彼の知識は多分デモクリトスから得たものらしい。このように、ギリシアの哲学ことにかの巨匠デモクリトスの哲学を賛美していた美なるものの愛好者中には、ポセイドニオスの弟子であったキケロ(Cicero 紀元前一〇六―四三年)もいた。また兄の方のプリニウス(Plinius 紀元二三―七九年)やセネカ(Seneca 紀元一二―六六年)もいた。
   第六図 プトレマイオスの宇宙系
しかしこれらの人々も結局はただ師匠を模倣するに止まっていた。ローマ人らは自分らに独特なものは何も持出さなかった。自然科学的教養はただ薄い仮漆にすぎなかったのである。そうして国民の先導者らは文化に対する最も野蛮な暴行を犯した。たとえばシーザーはアレキサンドリア市を占領した後でそこの図書館を焼払った。彼の後継者たる代々の皇帝はひたすらに狂気じみた享楽欲に耽溺の度を深めていった。こうして自然の研究者らは次第に跡を絶ってゆくのであった。キリスト教徒らはまた一層自然科学に無関心であった。シーザーから三〇〇年後に彼らは大僧正テオフィロス(Theophilos)の指図によっていったん復興されていたアレキサンドリアの図書館を掠奪し、更に三〇〇年後にはアラビアの酋長カリフ・オマール(Chalif Omar)がこの図書館のわずかに残存していた物を灰燼に委してしまった。もっともアラビア人らは、後に彼らの文化が洗練されるようになってからは、科学に対する趣味を生じ、そうして特にアレキサンドリア学派の著述、もちろん断片のようなものではあったが、それを収集するようになった。しかしアラビア人一般の心情は、元来異教に対して容赦のなかった僧侶らのために大分違った方へ導かれていたために、決して科学向きにはなっていなかった。そうして聖典コーランこそ完全に誤りのない典拠だということになっていたのである。しかし本来から言えばマホメットの教えは科学に対して敵意をもたないはずのものである。すなわち、この預言者が弟子たちにこう言ったという話がある。『知識の学問が全く滅亡される日が来れば、そのときにこの世の最後の日が来るであろう。』ハルン・アル・ラシード(Harun al Raschid)は東ローマ皇帝に哲学書の下賜を願った。その望みは快く聞き届けられたのでこの賢明な君主はこれらの書をことごとく翻訳させ、特にそれを読むための役人を定め、また外に三〇〇人以上の人々を遊歴のために派遣して知識を四方に求めさせた。その子アブダラー・アル・マムン(Abdallah al Mamuu)は古典的の手写本を求めて、それを翻訳し、図書館や学校を創設して民衆の教養の普及に努めた。紀元八二七年にはまたアラビア湾に臨むシンガール(Singar)の砂漠で、子午線測量を行わせ、一度の長さがアラビアの里程で五六・七里に当るという結果を得ている。遺憾ながらアラビアの一里は四〇〇〇エルレに当るというだけで、それ以上のことが知られていない。この子午線測量は前に述べたものよりはずっと優れたものであったのかも知れない。またこれと同時に赤道に対する黄道の傾斜角を測定した結果が二八度三五分となっている。
当時の最も顕著な天文学者はシリアの代官を務めていたアルバタニ(Albatani 約紀元八五〇―九二九年)であった。彼は一年の長さを算定して三六五日と五時間四六分二二秒とした(これは二分二四秒だけ短すぎる)。また諸遊星を観測しその結果から計算してそれらの星の軌道に関する立派な表を作った。この人より少し後れてペルシアにアブド・アル・ラフマン・アル・スフィ(Abd-al-rahman Al-Sufi 紀元九〇三−九八六年)がいた。彼は一〇二二個の星のカタローグを編成したが、彼のこの表はかのプトレマイオスのものよりもずっと価値の高いものとされ、彼我ともに古代から伝わったものの中で最も良いものとされている。彼はまた今日のいわゆる歳差《プレセッション》を六六年毎に角度一度の割だと推算している(七一年半が正しい)。
   第八・九・十・及び第十一図 四つの星座図――蛇遣い、大熊、オリオン、龍――アル・スフィの恒星表による。
これよりも以前に、メソポタミア生れのジャファル・アル・ソフィ(Dschafar al Sofi 七〇二―七六五年)という人が、化学の学問を従来考え及ばなかった程度に進歩させていた。彼はセヴィリア(Sevilla)の高等学校の教師として働いていたのである。
アル・マムンの後約一〇〇年を経て、バクダットにおけるカリフの権勢が地に堕ちて、アラビア文化の本場はスペインのコルドヴァ(Cordova)に移った。ハーケム(Hakem)第二世はこの地に(多分誇張されたとは思われる報告によると)蔵書六〇万巻を算する図書館を設立したことになっている。この時代にかの偉大なアラビア人の天文学者イブン・ユニス(Ibn Junis)が活動していてこの人はガリレオより六〇〇年余の昔既に時間の測定に振子を使った。彼はまた非常に有名な天文学上の表を算出している。これとほとんど同時代にまたアルハーゼン(Alhazen)が光学に関する大著述を出しているが、これは彼の先進者らがこの学問に関して仕遂げたすべてを凌駕したものと言われている。
紀元一二三六年にコルドヴァはスペイン人に侵略され、この有名な図書館の蔵書は次第に散逸した。そうして、それまで幾多のキリスト教徒らがそこから科学的の教養を汲んでいたところの文化の源泉は枯渇してしまったのである。
現代の回教国民その他の東方諸国民は、個人または国家にとって何ら実益のありそうにもないことにはかなり無関心である。こういう環境では科学の進歩は不可能である。著しい一例としては、トルコの法官《カディ》イマウム・アリ・ザデ(〔Imaum Ali Zade'〕)が、何か天界の驚異について彼に話したある西洋の天文学者に答えた言葉を挙げることができる。プロクトル(Proctor)に従えば、アリ・ザデは正にこう言ったそうである。『まあまあ、お前には何の係わりもない物を捜し求めるのは止したがよい。お前はよくこそ尋ねてきてくれた。が、もう平和に御帰りなさい。本当にいろいろのことを話してくれた。話す人は話す人で聞く人は聞く人で別々だから何も差支えないようなものであった。お前はお前の国の風習に従って、それからそれと遍歴しながらどこまで行っても結局得られぬ幸福で住みよい土地を求めて歩いているのだ。まあ、御聞きなさい。神の信仰に対抗するような学問など一体あるべきはずがない。神が世界を造ったのだ。その神と力比べしようとか天地創造の神秘をあばこうとか、そういうことをしていいものだろうか。この星は他の星の周囲を回るとか、かの星は尻尾を引いて動いていって、しかして何年経つとまた帰ってくるとか、そういうことを言っていいものかどうか。よしてもらいたい。星を造った神はまたそれを指導するのだ。私は神を賛美するだけだ。そうして自分に用のないものを得ようなどと努力はしない。お前はいろいろのことに通じているようだが、それはみんな私には何のかかわりもないことなのだ。』
これが東洋人独特の根本原理である。幸いに我々西方国民はこれとは違った考えをもっているのである。しかし、古代科学の遺物を我々のために保存し伝えてくれた中世のアラビア人らが、これとはまた一種全く違った考えをもっていたということは、かの有名なイブン・アル・ハイタム(Ibn al Haitam これは前記アルハーゼンと同人である。アイルハルト・ウィーデマン Eilhard Wiedemann の研究によると、この人は日食の観測に針孔暗箱《ロッホカメラ》を用いた。また一〇三九年ころに没したとある)の言った言葉からも明らかに知ることができる。すなわち、アラビアの物理学者中で最も優秀であった彼はこう言っている。『私はずっと若いころから真理の問題に関する人間の考え方を注意して見てきたが、各々の学派は銘々に自分らの意見を固執して他の派の考え方に反対している。私はそのいずれもを疑わないわけにはゆかなかった。真理はただ一つしかないはずである。それで私は真理の源を探求し始めた。そうして、現象の真の内容を発見するためにあらん限りの観察と努力を尽くした。そうした末に私はちょうどガレヌス(Galenus)がその医術書の第七巻に次のように書いている、あれとちょうど同じようになってしまった。すなわち、私は愚昧な民衆を見下し軽侮した。彼ら(彼らの考え方)などには頓着しないで、ひたすらに真理と知識の探求に努力した。そうして結局、この世で我々人間に賦与されたもののうちでこれに勝るものは他にはないということを確認するようになった。』このアラビアの学者の経験したところは、昔の学者に特有な大衆を軽視するという悪い傾向を除いては現時の科学者のそれと完全に一致するものである。しかし、このアリ・ザデとアルハーゼンとの考えの相違は、アルハーゼンの時代に満開の花盛りを示したかの回教文化がなにゆえに今日もはや新しい芽を出し得ないかという理由を明白に認めさせるものである。 
6 新時代の曙光。生物を宿す世界の多様性

 

ローマ人は科学に対して余り興味をもたなかったが、特に純理論的の諸問題に対してそうであった。彼らの仕事は主にギリシアの諸書の研究と注釈に限られていた。帝政時代の間に国民は急速に頽廃の道をたどったためにたださえ薄かった科学への興味はほとんど全く消滅した。それでローマ帝国の滅亡した際に征服者たるゲルマン民族の科学的興味を啓発するような成果の少なかったことは怪しむに足りない。それでもテオドリヒ王(〔Ko:nig Theodorich〕 四七五―五二六年)が科学を尊重しボエティウス(〔Boe:thius〕)という学者としきりに交際したという話がある。カール大帝もまた事情の許す限りにおいて学術の奨励を勉めた。その時代に、フルダの有名な寺院にラバヌス・マウルス(Rhabanus Maurus 七八八―八五六年)という博学な僧侶がいて、一種の百科全書のようなものを書いている。これを見るとおよそ当時西欧における学問的教養の程度の概念が得られる。これは、すべての物体は原子からできていること、地は円板の形をして世界の中央に位し大洋によって取り囲まれていること、この中心点のまわりを天がそれ自身の軸で回転していることが書いてある。
中世の僅少な学者の中で、特に当代に抜きんでたものとして、フランチスカーネル派の僧侶ロージャー・ベーコン(Roger Bacon 一二一四―一二九四年)を挙げることができる。彼は特に光学に関しては全く異常な知識をもっていて、既に望遠鏡の構造を予想していた。また珍しいほど偏見のない頭脳をもったドイツ人クサヌス(Cusanus トリール Trier の近くのクエス Cues で一四〇一年に生れ、トーディ Todi の大僧正になって一四六四年に死んだ)もまた当代に傑出した人であった。彼は、地は太陰よりは大きく太陽よりは小さい球形の天体で、自軸のまわりに回転し、自分では光らず、他の光を借りている、また空間中に静止してはいない、と説いている。彼は他の星にもまた生住者がいると考えた。物体は消滅することはない、ただその形態をいろいろ変えるだけであるとした。同様な考えはまたかの巨人的天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 一四五二―一五一九年)も述べている。彼は、月から地球を見れば地球から月を見たとほぼ同じように見えるだろうということ、また地球は太陽の軌道の中心にもいないしまた宇宙の中心にもいないと言っている。レオナルド・ダ・ヴィンチは、地球は自軸のまわりに回転していると考えた。彼もまたニコラウス・クサヌスと同様に、地球も他の遊星とほぼ同種の物質から成立っており、アリストテレスやまたずっと後にティコ・ブラーヘに至ってもまだそう言っていたように、他の星よりも粗悪な素材でできているなどというようなことはないという意見であった。レオナルドは重力についてもかなりはっきりした観念をもっていた。彼は、もし地球が破裂して多数の断片に分れたとしても、それらの破片は再び重心に向かって落ちかかってくる、しかして重心の前後の往復振動をするが、たびたび衝突した後に結局は再び平衡状態に復するだろうと言っている。彼の巧妙な論述の中でも最も目立ったものはかの燃焼現象に関する理論である。その説によると、燃焼の際には空気が消費される。また燃焼を支持することのできないような気体中では動物は生きていられないというのである。レオナルドは非常に優れたエンジニアであって、特に治水工事に長じていた。彼の手になった運河工事は今でもなお存して驚嘆の的となっているものである。
彼はまた流体静力学、静力学、航空学、透視法、波動学、色彩論に関する驚嘆すべき理論的の研究を残している。その上に彼は古今を通じての最も偉大な画家であり、彫刻家であり、まだおまけに築城師であり、また最も優雅な著作者でもあった。
この有力な人物は中世の僧侶たちとは余りにも型のちがったものであった。当時既に時代は一新しており、すなわち、レオナルドの生れたときには既に印刷術が発明されており、コロンブスは既にアメリカを発見していた。復興期の新気運は力強くみなぎり始めていたのである。しかもまだ教会改革に対する反動が思想の自由を抑制するには至らなかった時代なので、クサヌスやダ・ヴィンチは自由に拘束なく意見を発表することができた。その学説というのは、およそアリスタルコス―コペルニクスの説と同じであったが、ただ地球が太陽のまわりを回るのではないとした点だけが違っていた。この二人の一人は大僧正になり、一人は最も有力な王侯の寵を受けた(彼は芸術の愛好者フランシス一世に招かれてフランスに行き、その国のアムボアズ Amboise で死んだ)。当時派手好きの法王たちはミラン、フェララ、ネープルス等、また特にフロレンスの事業好きな諸公侯と競争して芸術と科学の保護奨励に勉めていた。シキスツス第五世は壮麗なヴァチカン宮の図書館を建設し充実した。新興の機運は正に熟していて、同時に既に始まっていた彼の残忍な宗教裁判《インクイジション》を先頭に立てた反動運動も、これを妨げることはできなかった。コペルニクス(Kopernikus 一四七三―一五四三年)はトルン(Thorn)に生れ、フラウエンブルク(Frauenburg)でカノニクス(Kanonikus)の僧職を勤めていたドイツ種の人であるが、彼は昔アレキサンドリアのプトレマイオス(〔Ptolema:us〕 約紀元二世紀)がその当時の天文学上の成果を記した著述を研究し、また自分でも観測を行った結果として、彼一流の系統(第一二図)を一つの仮説として構成した。この説を記述した著書は彼の死んだ年に発行されている。死んだおかげで彼は彼の熱心な信奉者ジョルダノ・ブルノ(Giordano Bruno イタリアのノラ Nola で生れたドミニカン僧侶)のような運命に遭うのを免れることができた。このブルノはその信条のために国を追われ、欧州の顕著な国々を遊歴しながらコペルニクスの説を弁護して歩いた。しかして、恒星もそれぞれ太陽と同様なもので、地球と同様な生住者のある遊星で囲まれていると説いた。彼はまた、太陽以外の星が自然と人間に大いなる影響を及ぼすというような、科学の発展に有害な占星学上の迷信に対しても痛烈な攻撃を加えた。
   第十二図 コペルニクスの太陽系図。彗星の軌道をも示す。現時の知識に相当する第十三図と比較せよ。
   第十三図 諸遊星とその衛星の運動方向を示す。太陽中心の北側の遠距離から見た形。真ん中が太陽、次が水星(Me)と金星(V)、それから地球(T)とその衛星(L)、その外側には火星(Ms)と二衛星、次には木星(J)とガリレオの発見した四衛星がある。近代になってから木星を巡る小衛星が更に三つ発見された。すべてこれらの天体は一番外側のものを除いては矢の示すように右旋すなわち時計の針と反対に回っている。一番外側に示すのは土星(S)でこれは九つの右旋する衛星――図にはただ一つを示す――と逆旋する一つの衛星、それはピッケリングの1898年の発見にかかるフォエベ(Phoebe)がいる。なおこの外にはハーシェルとルヴェリエとの発見した天王星と海王星がある。この二星の太陽からの距離は土星までの距離の約二倍と、三倍余とである。天王星には四つの衛星があるが、その軌道は黄道面にほとんど直角をなしている。その上に逆旋である。海王星には逆旋の衛星が一つある。天王、海王二遊星は右旋である。また火星と木星の軌道間にある多数の小遊星もやはり右旋である。
彼は、諸天体は無限に広がる透明なる流体エーテルの海の中に浮んでいると説いた。この説のために、またモーゼの行った奇蹟も実はただ自然の法則によったにすぎないと主張したために、とうとうヴェニスで捕縛せられ、ローマの宗教裁判に引き渡された上、そこでついに焚殺の刑を宣告された。刑の執行されたのはブルノが五二歳の春二月の一七日であった。当時アテンにおけると同じような精神がローマを支配していて、しかもそれが一層粗暴で残忍であったのである。要するにブルノの仕事の眼目はアリストテレスの哲学が科学的観照に及ぼす有害な影響を打破するというのであった。
宗教裁判の犠牲となって尊い血を流したのはこれが最後であって、これをもって旧時代の幕は下ろされたと言ってもよい。ケプラーまた特にガリレオの諸発見によって我々の知識は古代とは到底比較にならないほど本質的に重要な進歩を遂げるに至ったのである。
通例コペルニクスの考えは古代における先輩の考えとは全く独立なものであったように伝えられているが、これが間違いだということは、彼自身に次のように述べているのでも明らかである。すなわち、『私は天圏《スフェーレー》の円運動の計算に関するこれらの数理的学説の不確実な点について永い間考えてみた末に、これらの哲学者らがこの円運動について些細な点までもあれほど綿密に研究しておりながら、このあらゆる良匠中の最良にしてまた最も系統的な巨匠の手によって我等のために造られた宇宙機関の運動について何らの確実なものをも把握しなかったことに愛想を尽かすようになった。それで私は手の届く限りあらゆる哲学者の著書を新たに読み直し、そうして、もしやいつかの昔に誰かが、この数理学派の学徒が考えているとは違ったふうに天体運動を考えていた人がありはしないかを探索しようとして骨を折った。すると、まず第一に、キケロの書いたものの中にニケツス(Nicetus)またヒケタス(Hicetas)という人が、地球自身が運動していると信じていたということが見付かった。その後にまたプルタークを読んでみると、この外にも同様な意見をもっていたものが若干あることを知った。参照のためにここに彼の言葉を引用する、「しかしまた地球が動くと考える人々もあった。たとえばピタゴラス派のフィロラオス(Philolaos)は、地球も太陽太陰と同様に傾斜した軌道に沿うて中心火のまわりを運行していると言った。ポントスのヘラクリド(Heraklid von Pontus)とピタゴラス派のエクファントス(Ekphantus)の二人は、地球の進行運動は考えなかったが、しかし一種の車輪のような具合に、自身の中心のまわりに東西の方向に回転していると考えた。」こういうことが見付かったので私もまた地球の運動していることについて熟考してみるようになった。これは一見常識に反したことのように思われるが、しかし私の先輩たちが星辰の現象を説明するために勝手ないろいろの円運動を仮定している、あの自由さに想い及んだ末に、敢てこの考えを進めてみることにした。』コペルニクスはまた、既に前にアリスタルコスが考えたと同様に、地球の軌道は恒星の距離に比しては非常に小さいということも考えていたのである。
コペルニクスの死後間もなくティコ・ブラーヘ(Tycho Brahe)がショーネン(Schonen)の地に生れた。彼は若いときから非常な熱心をもって天文学を勉強していたが、あるとき日食皆既に遭って深い印象を受けたために更に熱心の度を加えるようになった。しかして多数の非常に綿密な測定を行った(主にフウェン Hven 島のウラニーンブルク Uranienburg の観測所で)。この測定はまた後日彼の共同研究者であったケプラー(Kepler)の観測の基礎を成したもので、また後世ベッセル(Bessel)をしてティコ・ブラーヘを『天文学者の王』と名付けさせた所以である。ティコはもう一遍地球を我々の遊星系の中心点へ引き戻した。しかして地球の周囲を太陽太陰が回るとし、また後には諸遊星も同様であると考え、恒星は緩やかに回る球形の殻に固着されているものと考え、そうして地球は二四時間に一回転すると考えたのである。このティコがいかに当時行われていた謬見にとらわれていたかということは、彼が人と決闘して鼻の尖端を切り落されたときに、これは彼の生れどきに星がこうなるべき運命を予言していたからだといってあきらめてしまったという一事からでも明らかである。また地球は恒星や諸遊星よりももっと粗大な物質からできている、そのために遊星系の中心に位しなければならないというその説もまた彼の考え方に特異な点である。しかし、コペルニクス系が、既に当時でも、ティコ・ブラーヘのそれに比して明らかに優っているものと考えられたことは、デカルトが特に力を入れて強調している通り『この方が著しく簡単で、また明瞭である』からである。いかに優れた観測の天才をもっていかに骨を折ってみても、理論上の問題に対して明晰で偏見なき洞察力が伴わなければ、比較的つまらない結果しか得られないものだということは、このティコが一つの適例を示すであろう。ティコは一六〇一年にプラーグで没した。
ティコ・ブラーヘはあらゆる先入謬見を執拗に固執しながら、また一方先入にとらわれない批判的検索を行うという、実に不思議な取り合わせを示している。惜しいことに彼の方法は古代バビロニア人の方法に類していて、結局古い不精密な観測を新しい未曾有の精密なもので置き換えたというだけで、それから何ら理論上の結論をも引き出さないで、それ切りになってしまったのである。彼はコペンハーゲン大学における彼の大演説の中で占星術に関する意見を述べているが、これは古代バビロニア流の占星術の面影を最も明瞭に伝えるものであり、我々には珍しくもまた不思議に思われるものであるから、有名なデンマークの史家トロェルス・ルンド(Troels Lund)の記すところによってここにその演説の一部の抜粋を試みようと思う。
ティコはこう言った。『星の影響を否定する者はまた神の全知と摂理を抗議するものでもあり、また最も明白な経験を否認するものである。神がこの燦然たる星辰に飾られた驚嘆すべき天界の精巧な仕掛けを全く何の役に立てる目的もなしに造ったと考えるのは実に不条理なことである。いかに愚鈍な人間のすることでも何かしら一つの目的はあるのである。これに対してある人は、天界はただ年月を知らせる時計にすぎないと答えるかもしれない。しかしそれだけならば太陽と太陰とだけあればたくさんである。それならば一体いかなる目的のために他の五つの遊星が各自別々の圏内に動いているのであろうか。歩みの遅い土星は一周に三〇年を要し、かの光り瞬く木星の軌道は一二年を要する。また二年を要する火星水星、それから太陽の侍女としてあるときは宵の明星あるときは暁の明星として輝くかの美しい金星などは何のためであるか。その上にまだ恒星の天圏が八つもあるのは何のためであろうか。またこれらの無数の恒星の中で最小なものでもその大きさは地球の若干倍、大きいものはその一〇〇倍以上もあることを忘れてはならない。しかもこれが何の考えも何の目的もなく神によって創造されたというのであるか。』
『諸天体はそれぞれある力の作用をもち、それを地球に及ぼしているということは、経験によって実証される。すなわち、太陽は四季の循環を生じる。太陰の盈虚に伴って動物の脳味噌、骨や樹の髄、蟹や蝸牛の肉が消長する。太陰は不可抗な力をもって潮汐の波を起こすが、太陽がこれを助長するときは増大し、これが反対に働くときはその力を弱められる。火星《マルス》と金星《ヴィーナス》が出会うと雨が降り、木星《ジュピター》と水星《マーキュリー》とが出くわせば雷電風雨となる。またもしこれらの遊星の出現が特定の恒星と一緒になるときにはその作用が一層強められる。湿潤をもたらすような遊星が、湿潤な星座に会合するとその結果として永い雨が続く。乾燥な遊星が暑い星座に集まれば甚だしい乾燥期が来る。これは日常の経験からよく分ることである。一五二四年にあんな雨が多かったのは、当時魚星座に著しい遊星の集合があったためである。一五四〇年には初めに牡羊座で日食が起り、次に天秤座で土星と火星の会合、次には獅子座で太陽と木星の会合があったが、この年の夏は珍しいほど暑気の劇烈な夏であった。また一五六三年に、土星と木星とが獅子座において、しかも蟹座のおぼろな諸星のすぐ近くで会合した、そのときにどんな影響があったかを忘れる人はあるまい。既に昔プトレマイオスはこれらの星が人を窒息させ、また疫病をもたらすものだとしているが、まさにその通りに、これに次ぐ年々の間欧州では疫病が猖獗を極めて数千の人がそのために墓穴に入ったではないか。』
『さて、星は人間にもまた直接の影響を及ぼすものであろうか。これはもちろんのことである。人間の体躯はかの四元素から組成されたものだから当然のことである。一人の人間の本質中に火熱性の元素、寒冷性、乾燥性、湿潤性等の元素がいかに混合されているか、その程度の差によってその人の情操、根性が定まり、また罹りやすい病もきまり、生死も定まるのである。このいろいろな混合の仕方は、出生の瞬間における諸星の位置によってその子供の上に印銘されるもので、一生の間変えることのできぬものである。子供の栄養と発育によって成熟はするが改造はできない。ある混合の仕方では生活が不可能になるような場合さえもある。そういう場合には子供は死んで産まれる。たとえば、太陰と太陽の位置が不利で、火星が昇りかけており、土星が十二獣帯の第八宮に坐するという場合には、子供はほとんどきまって死産である。一般に、太陽と太陰の合の場合、ことに太陰が太陽に近よりつつあるときに生れた子は虚弱で短命である。この厄運は他の星の有利な位置によって幾分か緩和されることはあるが、結局は必ず良くないにきまっている。このことは一般に周知のことであって既にアリストテレスが、太陽太陰の合に際して生れた者の身体は虚弱だと言っているのみならず、経験のある産婆や母親は、こういう場合に子供が生れると、その子の将来必ず虚弱であることを予想して不安な想いをするのである。この理由は容易に了解される。すなわち、人の知る通り、太陰はある異常な力をもっていて、生れた子供の体内の液体を支配する。それでもし太陰が生れたものの身体にその光を注いでやらないとその体内の液体が全く干上ってしまわなければならない。そうして多血性の性情とその良い効果はほとんど失われてしまわなければならないということは明らかである。またこの結果としてはいろいろの病気、たとえば肺癆《はいろう》、癩病のようなものが起る。特に土星と火星がその毒を混入するような位置にいるときはなおさらである。このような物理的関係は容易に了解することができるのである。』
『身体の各部分は一つ一つ特別な遊星に相応していて、たとえば温熱の源たる心臓は太陽に相応し、脳は太陰に、肝臓は木星に、腎臓は金星に、また黒い胆汁を蔵する脾臓は憂鬱の支配たる土星に、胆嚢は火星に、肺臓は水星に相応している。』
ティコ・ブラーヘは占星術の反対者に対して最期まで闘った。『これらの人々、特に神学者や哲学者らを寛恕すべき点があるとすれば、それは彼らがこの術(占星)について絶対に無知識であるということと、彼らが常識的な健全なる判断力を欠いていることである』と言っている。
以上は、中世を通じて行われ、ごく近いころまでもなお折々行われてきた目的論的の見方を筋道とした論法の好適例である。
ティコの観測の結果から正しい結論を引き出す使命はケプラー(Kepler 一五七一―一六三〇年)のために保留されていた。彼は諸遊星は各々楕円を描いて太陽の周囲を運行することを証明し、またその速度と太陽よりの距離との関係を示す法則を決定した。彼は初め当時全盛のワルレンスタインのためにその運勢を占う占星図を作製したのであるが(第十四図)、後にはついに占星学上の計算をすることを謝絶するに至ったということはケプラーのために特筆すべき事実である。それにかかわらず一方ではまた彼は自分の子供らの運勢をその生誕時の星宿の位置によって読み取ろうとしているのである。ケプラーの家族はプロテスタントの信徒であったためにいろいろの煩累に悩まされなければならなかった。
   第十四図 ケプラーの作ったワルレンスタインの運勢を占う占星図。
ケプラーの研究によって、天文学はアリスタルコス以来初めての目立った一大進歩を遂げたが、これは更にまたかの偉大なガリレオ(Galilei 一五六四―一六四二年)の諸発見によってその基礎を堅めるようになった。ガリレオはケプラーと文通していたのであるが、一五九七年のある手紙に自分は永い以前からコペルニクスの所説の賛成者であるということを書いている。一六〇四年に彼はオランダで発明された望遠鏡の話を聞き込んだ。そうして自分でそれを一本作り上げ、当時の有力な人々から多大な賞賛を受けた。そこでこの器械を以て天界を隈なく捜索して、肉眼では見られない星を多数に見付け出した。これで覗くと遊星は光った円板のように見えた。一六一〇年には木星を観測してこの遊星の衛星中の最大なもの四個を発見した。そうしてあたかも遊星が太陽を回ると同様な関係に、木星に近い衛星ほど回転速度が大きいことを見た。彼はこれらの衛星をトスカナ(Toscana)に君臨していた侯爵家の名に因んで『メディチ(Medici)の星』と名づけたのであるが、この衛星の運動の仕方が正しくコペルニクスの所説の重要なる証拠となることを認めた。彼はまた土星の形がときによって変化すること(この星を取巻く輪の位置による変化)、また金星(水星も同様であるが)が太陰と同様に鎌の形に見えることをも発見した。また太陽の黒点をも発見し(一六一一年)そうしてその運動の具合から、太陽もまた自軸のまわりに自転するものであると結論した。これらの発見は当時僧侶学校で教えられていたようなアリストテレスの学説とはすべて甚だしく相反するものであった。それでガリレオはローマへ行って親しく相手を説き付けるのが得策であると考えた。ところが相手の方では科学上の論議では勝てないものだから、ガリレオの説は犯すべからざる聖書の教えと矛盾するものだという一点張りで反対した。
ガリレオが公然とコペルニクスの信奉者であるということを告白しているのは太陽黒点のことを書いた一書において初めて(一六一三年)見られる。教会方面の権威者らも初めのうちは敢て彼に拘束を加えるようなことはなかったが、一六一四年に至って『神聖会議』の決議により、地球が公転自転と二様の運動をするというコペルニクスの説は聖書の記すところと撞着するということになった。もっともこのコペルニクスの説を一つの仮説として述べ、それを科学上の推論に応用するだけならば差支えはないが、しかしそれを真理と名付けることは禁ずるというのであった。
今日から考えるとこういうことは想像もし難いようであるが、その当時ではこれは全く普通のことであった。自分の主張していることを自分で信じているのではないとごく簡単に証言すればよいのであった。しかし実際は信じているのだということは誰でも知っていたのである。最も著しい例は、三〇年後(一六四四年)にデカルト(Descartes 一五九六―一六五〇年)が次のような宣言をしていることである。『世界が初めから全く完成した姿で創造されたということには少しも疑わない。太陽、地球、太陰及び諸星もそのときに成立し、また地上には植物の種子のみならず植物自身ができ、またアダムとイヴも子供として生れたのではなく、成長した大人として創造されたに相違はない。実際キリスト教の信仰はそう我々に教え、また我々の自然の常識からも容易に納得されるのである。しかし、それにもかかわらず、植物や人間の本性を正当に理解しようとするには、これらが最初から神の手で創造されたと考えてしまうよりも、種子からだんだんに発育してきたと考えてその発達の筋道を考察して見る方がはるかに有益で便利である。それで、もちろん実際は万物は上に述べたようにして成立したものだということをちゃんと承知しているとして、もし若干のごく簡単で分りやすい原理を考え出し、その助けによって星や地球やその他この世界で見られる万物が、すべて種子から発育してできたかも知れないということを示すことができたとしたならば、その方が、これら万物をただあるがままに記載するよりもはるかによく了解することができるだろう。今私はそういう原理を見付けたと信じるから、ここで簡単にそれを述べようと思う。』
当時の宗教裁判は蚤取眼で新思想や学説が正統の教理と撞着する点を捜し出そうとしていたから、その危険な陥穽を避ける必要上から、こういう不思議な態度をとるのもやむを得なかったのである。それでガリレオも七年間はおとなしくいたが、しかしとうとうジェシュイット教父のグラッシ(Grassi)と学説上の論争に引っかかった。グラッシはちゃんと正当に彗星を天体であると考えていたのに、ガリレオの方はこれが地上のものだという旧来の考えを守っていたのである。それでついにジェシュイット教徒はガリレオを告訴するに至ったので、彼は一六三三年に老齢と病気のために衰弱していたにかかわらずローマへ召喚され、宗教裁判の訊問に答えなければならなかった。彼はできる限り論争を避けようと務めたが結局やはり不名誉な禁錮の刑を宣告され、その上に地動説の否定を誓わさせられた。しかしてそれ以来、太陽系中における地球の位置に関するコペルニクス、ケプラー及びガリレオの著書は最高神聖の法門の権威によって禁制され、それが実に一八三五年までつづいたのである。
ガリレオはその著書の中でピタゴラス及びアリスタルコスが地球は太陽のまわりを回ると説いたことを引用している。彼は物体の運動に関する学説を発展させ、物体に力が働けばその運動に変化を生ずることを立証した。何らの力も働かなければ運動は何らの変化もなく持続するというのである。アリストテレスは墜落しつつある物体の背後には空気が押し込んできて物体の運動を早めると考えたが、ガリレオはこれに反して、空気はただ落体運動を妨げるだけだということを証明した。
コペルニクスの学説に対する教会の反抗はしかし結局は無効であった。デカルトは一刻も狐疑することなくコペルニクスの考えに賛成した。もちろんそのために彼は敵を得たが、しかし新教国たるオランダ及びスウェーデンに安全な逃げ場所を見出した。惜しいことには彼はスウェーデンへ来ると間もなく罹った病気のために倒れたのであった。コペルニクスの説いた通りすべての遊星は、太陽の北極の方から見ると右から左へ回っている。それと同様にまた太陰は地球を、ガリレオの発見した木星の衛星は木星を、また太陽黒点は太陽を回っている。その上にまたこれらのものはほとんど皆黄道の平面の上で回っている。この規則正しさを説明するためにデカルトは、ブルノと同様に、一種のエーテルの海を想像し、その中に諸遊星が浮んでいると考えた。デカルトはこのエーテルが太陽を中心としてそのまわりに渦巻のような運動をしており、そして諸遊星はこの運動に巻き込まれて、ちょうど枯葉が渦に巻かれて回るように回っているのだと信じていた。この考えは、諸遊星を神性あるものによってその軌道の上を動かされているというケプラーの考えに比べれば疑いもなくはるかに優れたものである。彗星は遊星とは違った運動をするが、これについてのデカルトの説は、これらもやはり天体であって、土星よりも外側を運行しているものだというのである。ところがティコ・ブラーヘは、彼の観測の証するところでは彗星は太陰軌道の外側を動きはするがしかし時々は金星や水星よりも遠くない距離に来ることがあると言っている。これについてデカルトは、ティコのこの観測はそういう結論をしてもいいほどに精確なものではなかったと主張している。
デカルトはモルス(Morus)への手紙の中でこう言っている。『我々は宇宙に限界があるということを観念の上で了解することができないから、宇宙の広がりは無限大だと言う。しかし空間の無限ということから時の無限ということの推論はできない。宇宙に終局があってはならないとしても神学者らはそれが無限の昔に成立したとは主張していない。』宇宙は物質を以て充たされている。それゆえにすべてのものは円形の環状軌道の上を運行しなければならない。神は物質とその運動とを創造した。宇宙には三つの元素がある。その第一は光の元素でこれから太陽と恒星が作られた。第二は透明な元素でこれから天が作られた。第三は暗く不透明でしかして光を反射する元素で、遊星や彗星はこれからできている。第一の元素は最小な粒子から、第三のものは最も粗大な分子からできている。
初めには物質はできるだけ均等に広がっていた。それが運動するためにいくつかの中心のまわりに環状軌道を描くようになり、その中心には発光物質が集まり、そのまわりを上記の第二第三の物質が旋転するようになった。それらの暗黒な物体の中で若干のものは運動が烈しく質量が大きくてこの旋渦の中心から非常に遠く離れてしまって、そのためにいかなる力もそれを控えることができなくなってしまった。こういうものが一つの渦から他の渦へと移ってゆく、これがすなわち、彗星である。これよりも質量が小さくまた速度の小さいもののうちで、同様な遠心力を有するものが一群となって、それが前記の第二の要素の一つとなった(この中で質量の最小な群が一番内側へ来た)。これがすなわち、遊星である。これら遊星の運動とはちがった運動をする物質粒の運動のために、遊星は西から東へ回るような回転運動を得た。
   第十五図及び第十六図 デカルトによる、地球半球の横断様式図。Iは地心で太陽と同じ物質でできている。初め地球は全部この物質でできていた。この物質の周囲を包んで太陽黒点に相当する。しかしもっと厚い殻Mがある。これができたために地球は光らなくなって一つの遊星となり太陽系旋渦に巻き込まれた。日光の作用によって空気Fと水Dとが分れ、最後には空気の中に石、土、砂等の固形の皮殻Eを析出した。これが現在の地殻である。この殻が図の2、3、4のようなところで破れて落ち込み、しかして下の図にあるような状態になった。それで水がしみ出して図の右と左の部分に示すように大洋を生じた。他のところでは1や4の示すように山岳を生じた。空気の一部分は山と地殻の下(たとえば図のF)に閉じ込められた。
最小な粒子の運動によって熱が生ずる。それは、一部は、日光がこの物質粒子に衝突するために生じ、また一部は、他の方法でもできる。この熱は我々の感覚に作用する。太陽や恒星に黒点が増すとその光は暗くなり、反対にこの黒点が消えると明るくなる。黒点の強さが消長すると一つの星の光力は減ったり増したりする、というのである。この、種々の星の光力の変化に対する説明は、ごく最近まで多数の天文学者によってそのままに受継がれてきたものである。
ときにはまた一つの恒星の周囲を回る上記第二種及び第一種の粒子から成る旋渦が、その近くにある他のいくつかの渦に吸込まれることがある。そのときにはこの渦の中心の恒星も一緒にもぎ取られて他のどれかの渦に引き込まれ、その中の彗星かあるいは遊星となるのである。
デカルトは、このように恒星から遊星に変る過渡の段階については、地球に関する記載中にこれよりも一層詳しく述べている。すなわち、地球も初めには第一種の元素からできていて、強大な渦に取り巻かれた太陽のようなものであったのが、だんだんに黒点に覆われ、それが一つに繋がって一種の皮殻となった。それで地球の灼熱した表面が冷却すると、もう渦の外の方の部分へ粒子を送り出すことができなくなるので、従ってこの渦動が次第に衰える。すると今までは灼熱した地球から出る粒子のために押戻されていた近所の他の渦からの粒子が押寄せてくる。そのために、この光の消えた地球は近所の太陽旋渦の中へ引込まれ、そうして一つの遊星になったのである。地球の心核はしかし灼熱状態を持続しながら第三種の粒子から成る固形の殻で包まれている。この殻の中には気層と水層とがありその上を固体の地殻が覆っている(第十五図及び第十六図)。この殻がしばしば破れて下の水層中に落ち込み、そのために水が地表に表われて大洋を作り、また破れた殻が山岳を生じる。水は脈管のように固体地殻の中を流動しているというのである。この考えは後にまた幾分敷衍された形でバーネット(Burnet)が説述した(一六八一年)ものである。
これが宇宙系に関するデカルトの考え方の大要である。諸恒星は我々の太陽系を取り巻く諸渦動のそれぞれの中心であるが、その距離が莫大であるために、それが運動していても、地球に対する位置は変るように見えないのである。
当時化学の進歩はまだ極めて幼稚なものであった。物体の種々な性質はそれを構成する最小粒子の形状によるものと信じられていた。デカルトはこれら粒子が大きいか小さいか、軽いか重いか丸いか角張っているか、卵形か円形か、あるいはまた分岐しているか平坦であるかによって、どういうふうに物の性質の相違が起るかということを、真に哲学者らしく徹底的細密に記述しているが、こういう事柄の煩わしい記述のために、せっかく彼の構成した系統の明瞭さがかえって著しく弱められているのである。
ニュートン(Newton)と同時代の偉人で、また彼の競争者であったライブニッツ(Leibniz 一六四六―一七一六年)は当時の科学雑誌『アクタ・エルディトルム』(Acta Eruditorum)誌上で一六八三年に発表した論文『プロトガィア』(Protogaea)中に地球の進化を論じているが、その所説は現今定説と考えられているものとかなりに一致している。当時一般に信ぜられていたところでは、既に昔の北国民の考えていたと同様に、地球はその最後の日には灼熱状態となって滅亡するだろうということになっていた。多分太陽が他の天体と衝突でもすればそうなるであろうと思われるのである。ところが、ライブニッツはデカルトと同様に地球の初期もまた強く灼熱された状態にあったと考えた。これが――ライブニッツの言葉によれば――燃料の欠乏のために消燼して地球はガラス状の皮殻で覆われ、そうしてそれまで蒸発していた水はその後にようやく凝結して海となった。このガラスのような皮殻から砂ができた。しかして――水と塩類との作用を受けて――その他の地層ができた。海は初め全地球を覆っていたから今日至る所で古昔の貝殻が発見される。地殻の陥落のために表面の高低ができて、その最も低い部分を大洋が占めることになったのである。
有名なデンマーク人ステノ(Steno 一六三一―一六八六年)の業績は、いったん世人から忘れられていたのを、一八三一年に至って初めてエリー・ド・ボーモン(Elie de Beaumont)によって紹介された。このステノの意見によると、水平な地層、特に水産動物の化石を含有するものは、もと水中で沈積したものと考えられなければならない。こういう地層がしばしばもとの水平な位置から隆起しているところから見ると、これは何か外力の作用によって起ったことに相違ない。ステノはその外力のうちでもなかんずく火山作用が最も著しい役目をつとめたものと考えた。
当時一般の考えでは地球の内部は水をもって満たされ、それが脈管を通じて大洋と連絡していると思われていた。デカルトの説の中にも既にそういう意味のことが暗示されている。この誤った考えの著しい代表者はウドワード(Woodward 一六六五―一七二二年)とウルバン・ヒエルネ(〔Urban Hja:rne〕 一七一二年)であった。この後者の説では地心の水は濃厚で濁っていて、しかして沸騰するほど熱いということになっている。
デカルトの考えは当代から非常な驚嘆をもって迎えられた。そして諸大学におけるアリストテレスの哲学に取って代ろうとする形勢を示した。この説はまたウプザラにおいても盛んな論争を惹起し、それが多分スウェーデンで科学の勃興を促す動機となったようである。宗教方面の人々はこの新説を教壇で宣伝することを妨圧しようと努めたが、これに対する政府の承認を得ることができなかった。
このデカルトの学説から強い刺激を受けた若い人々の中に、スウェデンボルク(Swedenborg)がいた。彼はデカルトの宇宙生成説にある変更を加えた。彼の説では太陽系のみならず原子までも、すべてのものが渦動からできているとする。万物はすべて唯一の様式に従って構成されているのであって、最も簡単な物質粒子は非物質的な点の渦動によって成立すると考えるのである。この考えは甚だ薄弱である。なぜかといえば、広がりをもたない一つの点がたとえどれほど急速に渦動をしても、それによっていくらかの空間を占有することはできないからである。スウェデンボルクは恐らくこの仮説によって、宇宙が虚無から成立したことを説明しようと試みたものらしい。彼は数学的の点は永劫の昔から存在しているという意味のことをしばしば言っているが、しかしこの点について徹底的に一貫してはいないで、ある箇所ではまたこれが創造されたものだとも言っているのである。スウェデンボルクの宇宙生成説がデカルトのと異なる主要な点は、遊星が外から太陽系の渦動中に迷い込んだものだとしないで、反対に太陽から放出されたものだとしたことである。スウェデンボルクの想像したところでは、太陽黒点がだんだんに増してついには太陽の光っている表面全体を暗くしてしまった。中に閉込められた火は膨張しようとして周囲の外殻を伸張したためについに殻が破れた。そうしてこの暗黒な外皮が太陽赤道のまわりに環状をなして集まった。渦動は止みなく旋転を続けているうちにこの固態の輪は破れて小片となり、それらが円く丸められて各々球形の質塊となり、種々の遊星、衛星(並びに太陽黒点)となったものである。このようにして一つの太陽がその殻を破裂させるとこれが急に我々の眼に見えるようになる。これがいわゆる『新星』の出現に相当するものであるとスウェデンボルクは考えた。
   第十七、十八、十九及び第二十図 スウェデンボルクの考えた、太陽旋渦から遊星系の生成。第十七図Sは太陽旋渦、ABCはそれを囲む球状の固形皮殻。これが破れて(十八図)渦の極からそれの赤道の方に落ちて赤道のまわりに一つの帯を作る(十九図)。OIKLM等は太陽物質より成る。最後にこの帯が破れてその部分から球状の遊星CFM等また衛星Dghkができる。遊星はSのまわりの渦動につれて旋転しているうちにあるところまで来ると周囲と均衡の位置に達する。
遊星や衛星は渦動につれて動いているうちにある位置に達するとその周囲を包んで回っているエーテルと釣合いの状態になる。ここまで来ると、この距離でほとんど円形の軌道を描きながら運行する。この関係はあたかも、空気中を上昇する軽い物体が、その周囲が自分と同じ比重であるようなところへ来て初めて落ち付くのと全く同様である。それでスウェデンボルクの考えに従えば一番比重の大きい遊星が一番内側に来るわけであるが、デカルトの考えだと最大質量を有する遊星が一番外側に来ることになるのである。
この二人の考えは、いずれも、いくらかはあたっているが、しかし全く正しくはないということは次の表(アメリカ人シー See の計算による)を見れば分る。
天体     半径      質量  平均距離   比重
太陽   109.100   332750.0000    0.00   0.256
水星    0.341      0.0224    0.39   0.564
金星    0.955      0.8150    0.72   0.936
地球    1.000      1.0000    1.00   1.000
太陰    0.273      0.0123    1.00   0.604
火星    0.536      0.1080    1.52   0.729
木星    11.130     317.7000    5.20   0.230
土星    9.350     95.1000    9.55   0.116
天王星   3.350     14.6000    19.22   0.390
海王星   3.430     17.2000    30.12   0.430
スウェデンボルクの著述中には概して我々今日の科学者には諒解し難いような晦渋曖昧な点が甚だ多い。彼は自分の書いていることを十分によく考え尽くしたのではあるまいという感じを読者に起させるのである。彼の『プリンキピア』(Principia)の終りにはこの渦動を数学的に表象している――すなわち、ここでは完全な明瞭を期待してもいいはずである。この渦の外側には自ら他の渦と区別するに足るべき判然たる境界があることになっている。ところで、スウェデンボルクは、この渦の外側の境界からの距離が1と2の比にあるような二つの遊星の速度の比は1と2でなければならない、と主張している。これから推論すると、遊星を中心に引く力は、この渦の外郭から遊星への距離に正比例し、太陽から遊星への距離に反比例することになる。しかしこの力は正しくニュートンの導いた通り太陽から遊星への距離の自乗に反比することいわゆる重力であるべきであって、すなわち、スウェデンボルクの所説は全く事実に合わないのである。しかしスウェデンボルクはニュートンの仕事を良く承知していたはずで、自著の中の所々で彼に対する賛美の辞を述べ『いくら褒めても褒め足りない』と言っている。それでスウェデンボルクは自説と、一般によく事実に相当するものと認められたニュートンの説との折合をつけるために、こう言っている。すなわち、この渦動が渦の外縁の方に行くほど増加するものとすれば、ちょうどニュートンの説のようになるというのである。しかしこれではニュートンの法則に従う遊星の運動とは全く合わないし、要するに全く不可解である。
スウェデンボルクの著書中に暗示されているところによると、彼の考えでは、銀河が眼に見える星の世界に対する役目は、あたかも太陽の回転軸が遊星系に対するのと同様である。従って数多の太陽は各自の遊星系を従えてこの銀河の真ん中を貫く大宇宙軸のまわりに群を成している。それで銀河は実は輪状であるがちょうど天上に半円形の帯のように見えることになる。このようにして、スウェデンボルクの考えたように、この銀河系をその唯一小部分とするような更に大なる系を考えることができるのである。後にライト(Wright)がまたこれと同様な考えをまとめ上げた(一七五〇年)。彼は多分スウェデンボルクの考えの筋道は知らなかったらしいが、銀河を太陽系に相当するものだと考えた。カント(Kant 一七五五年)も同様であったが、ライトの所説以上には大した新しいものは付加えなかった。またラムベール(Lambert)も同様であったが、彼は太陽がいくつも集まって星団となり、星団が集まって銀河その他になると考えた(一七六一年)。
そこで我々は、スウェデンボルクがニュートンを賛美しながら、なにゆえに彼の驚天動地の発見を自分の体系中に取り入れなかったかを疑わなければならない。これに対する答はこうである。すなわち、スウェデンボルクの頭には、宇宙間の万物は、大きいものも小さいものも、すべて画一的な設計に従って造られたものだという考えがすっかりしみ亘っていた。彼には天体相互の間に距離を隔てて働く作用を考えることは明らかに不可能だとしか思われなかった。それは、我々はどこでもそういう作用を経験しないからである。実際この点についての論難は種々の方面からニュートンの大発見に対して向けられ、ニュートン自身もまたそれに対して全く無関心ではなかったのである。そこでスウェデンボルクはデカルトの渦動説を取って自分の宇宙生成説の基礎としたのであるが、スウェデンボルクは自分の仮定が物理学的に不可能なこと、特にそれがニュートンの法則と全然相容れないものだということには少しも気が付かなかったように見える。これは実にスウェデンボルクの体系の重大な欠点であるが、しかし彼のこの体系の中には若干の健全な考えが含まれていて、これが後日他の人によって敷衍され発展されるようになったのである。
その中で特に著しいものは、遊星の生成は太陽に因るものであり、従って遊星は本来から太陽系に属するものだという仮定である。この考えは通例はカントのだとされているものである。しかしまた銀河は一つの大きな恒星系だという考えも、スウェデンボルク自身はわずかしか発展はさせなかったけれども、これもかなりに価値のあるものである。彼の考えの筋道の中で独特な点は、我々の太陽の近くに存する多くの太陽系の軸はすべてほとんど同じ方向を指していなければならない、としたことである。しかしこの方向が銀河の軸と並行でなければならないとしたのは必ずしも事実と合わない。それでも近ごろボーリン(Bohlin)の研究によると、我々に近い二重星の軌道面や、最大の(すなわち、最も近い)星雲の平均の平面が黄道とほぼ並行しているということが、ある度までは確からしい。ライト及びラムベールの考えたように銀河系の諸太陽についてもまた同様な規則正しさが存すると期待してもよいかも知れない。
ピタゴラスは彼の弟子たちに対して、他の遊星にもまた地球と同様に生息者がいると言明したと伝えられている。吾人の地球は宇宙の中心点ではないとするコペルニクスの学説が一般に承認されるようになってからは、当然の結果として他の世界もまた我々のと同様に生息者を有すると見なされるようになった。
ジョルダノ・ブルノもまたこの説を熱心に唱道した。この説は当時の神学者から見ると非常な危険思想であってその罪を贖うにはただ焚殺の刑あるのみと考えられたのである。ガリレオ及び他のコペルニクス説の信奉者等に対して教会を激昂させたものもやはり疑いもなく主として正にこの説のこの帰結であったのである。それにかかわらず、この説が普及してしまったころには、今度はまた反対の極端に走ってしまって、すべての天体には生物がいると考えられるようになった。そうしてそれら天体の上で物理的条件がはたして生物の生存に適するかどうかを深く追究しようとはしなかった。当時月の世界の住民に関するいろいろな空想が流行したと見えて、そういうものが通俗的な各種の描写の上に現われている。かの偉大な天文学者ウイリアム・ハーシェル(William Herschel)でさえ、太陽には住民があると信じ、また太陽黒点は、太陽の空に浮ぶ輝く雲の隙間から折々見える太陽の固形体の一部だと信じていたくらいである。この種の空想の中でも最も著しいものは恐らくスウェデンボルクの夢みた幻想であろう。スウェデンボルクは異常に正直な人であったので、彼が主張したことを実際に確信していたということには少しも疑いはないのである。彼の言うところによると、彼は他の世界の精霊や天使と交通していて、それらと数日、数週、ときとしては数ヶ月も一緒にいた。『私は彼らから彼らの住む世界についていろいろのことを聞いた、かなたの風俗習慣や宗教に関すること、それから他のいろいろな興味ある事柄の話を聞いた。このようにして私の知り得たすべてを私自身に見聞したことのような体裁で記述してみようと思う。』『このように大きな質量を有し、そのあるものは大きさにおいて我が地球を凌ぐようなこれらの遊星は、単に太陽のまわりを周行しその乏しい光でたった一つの地球を照らすというだけの目的で造られたものではなくて、外に別な目的があるであろうということを考えるのは合理的な結論である。』この考えをスウェデンボルクは他の世界の精霊から伝えられたことにしているが、これはしかしかなりに一般的な考えであって、天文学が他の学問よりも多く一般の興味を引くゆえんは疑いもなくまた主としてこの点に関係しているかと思われる。スウェデンボルクの精霊はまたこう言っている。『遊星は自軸のまわりに回転するために昼夜の別を生ずる。多くはまた衛星を伴っていてこれがちょうど我々の太陰が地球のまわりを回るように、遊星のまわりを回っている。』
遊星のうちでも土星は、『太陽から一番遠く離れていて、しかも非常に大きい輪をもっている。この輪がこの遊星に、反射された光ではあるが、多くの光を供給する。これらの事実を知っていて、そうして合理的にものを考える能力のある人ならば、どうしてこれらの天体に生住者がいないと主張することができようか。』『この精霊や天使等の間では、太陰やまた木星土星を巡る月、すなわち、衛星にも住民がいることは周知のことである。』その住民というのは知恵のある、人間と類似の存在であるとして記載されている。『誰でもこの精霊たちの話を聞けば、これらの天体に生息者のあることを疑うものはあるまい。なぜかといえば、これら天体は皆「地球」であり、そうして「地球」がある以上はそこに人間がなければならない。地球の存在する最後の目的は結局人間だからである。』スウェデンボルクはこのようにして、単に我々の太陽系に属する諸遊星に関してのみならず、また眼に見える宇宙の果てまでの間に介在する他の太陽を取り巻く生住者ある世界に関する知識を得た。彼の肉体がこの地球に止まっている間に彼の霊魂がそういう他の世界に行ってきたのである。また彼は我々の太陽が天上の他の諸太陽よりも大きいということを悟った。すなわち、彼が他の世界の遊星の一つから空を眺めたときに他の星よりも大きい一つの星を認め、そうして、それが我々の太陽だということを『天から』教えられたからである。彼はまたあるとき宇宙系中で最小だと称せられる遊星に行ったことがあるが、その周囲はわずかに五〇〇ドイツ哩(三七六〇キロメートル)にも足りなかったそうである。彼はまたしばしば他の遊星の動植物のことについても話している。
このごとき記述はスウェデンボルク時代の教養ある人士の間で一般に懐かれていた宇宙の概念の特徴を示すものと見ることができる。上記はプロクトル(Proctor)の著から引用したのであるが、この人も注意したように、この概念は現代の見方とは大分懸けはなれたものである。現に我々の太陽は確かにすべての恒星中の最大なものではない。またスウェデンボルクの挙げた遊星は決して宇宙間で最小のものでもない。紀元一八〇〇年以来発見された七〇〇の小遊星の中で最大なセレスは周囲二〇〇〇キロメートルであった。ヴェスタとパルラスはその半分にも足らず、またその光度から判断して最小のものとして知られているのは、周囲わずかに三〇キロメートルにも足りないらしいのである。
それにしてもスウェデンボルクが二九ヶ年交際していた精霊たちが誰一人これら小遊星のことを知らなかったというのはよほど不思議なことである。また彼らが土星を最外側の遊星だとしたのも間違っている。それは、その後に天王星と海王星(一七八一年と一八四六年)とが発見されたからである。もっとも天王星は実は一六九〇年、すなわち、スウェデンボルクの生れたころ(一六八八年)に、既にフラムステード(Flamsteed)によって観測されていた。それは肉眼にも見えていたので疑いもなく多数の人の眼に触れていたのであろうが、ただハーシェル以前には誰もそれが遊星であるとは思わなかったのである。
また、水星では太陽からの輻射が酷烈である(地球上よりも六・六倍ほど)のにかかわらず、その住民が安易な気候を享有していると主張しているのも大いに注意すべき点である。その理由は雰囲気の比重が小さいからだというのである。しかして稀薄な雰囲気が冷却作用をもつことを、スウェデンボルクは、高山では、たとえ熱帯地であっても、著しく寒冷だという事実から推論している。そういうことをスウェデンボルクが水星の住民に話してやったことになっている。彼らは余り知恵のない住民として記されているのである。今日我々の考えでは、水星の上で生物の存在は到底不可能としなければならない。
これから見ると、スウェデンボルクがその幻覚中に会談したと信じていた精霊や天使たちも、結局彼自身が既に知っていたことか、または確からしいと考えていたこと以外には何も教えることができなかったということが明白に分る。それで、この啓示によって授かった知識を現代の考えに照らしてみたときの誤謬は、そのままに当時の宇宙に対する全体の知識の誤謬を示すものである。それで私がここで精霊の所説に関するスウェデンボルクの報告を列挙したのは、ただ当時の学者が宇宙系をどういうふうに考えていたかを示すためであって、この顕著な一人物の深遠な、そして彼自身の信じるところでは、超自然的な方法で得た知識の概観を示そうとしたわけではないのである。
カントでさえ、多分スウェデンボルクの先例に刺激されたと見えて、その著『天界の理論』(Theorie des Himmels)中で、他の遊星にいる理性を備えた存在の属性に関して長々しい論弁を費やしているのもまた当時一般の傾向を示すものとして注意するに足りるのである。もっとも彼はただ太陽系だけを取り扱っている。しかして『この関係はある度まで信じるに足るものであって、決定的に確実という程度からもそれほど遠くないものである』と言っているが、これは遺憾ながら、彼には往々珍しくない批判力の鋭さの欠乏を示すものである。
すなわち、彼の説によると、諸遊星のうちで、太陽に近いものほど比重が大きいので(この仮定が既に間違っている)、太陽から遠い遊星であればあるほど、その遊星の生住者もまたその動植物も、それを構成する物質の性質は、それだけ、軽く細かなものでなければならない。同時にまた、太陽からの距離が大きいほど、これらのものの体躯の組織の弾性も増し、またその体躯の構造も便利にできていなければならない。同様にまた、これらのものの精神的の性能、特にその思考能力、理解の早さ、概念の鋭さ活発さ、連想の力、処理の早さ等、要するに天賦の完全さは、彼らの住所が太陽から遠いほど増加するはずである、というのである。
木星の一日はわずかに一〇時間である。これは『粗末な本性』を有する地球の住民にとっては十分な睡眠をするにも足りない時間である。そういう点から考えて彼は、上記のことは必然でなければならないとした。またスウェデンボルクのみならずカントの考えでも、太陽系の外方にある遊星に多数の衛星のあるのは、つまりそれら遊星の幸福な住民を喜ばせるためである。それはなぜかと言えば、彼らの間では恐らく美徳が無際限に行われていて、罪悪などというものはかつて知られていないからだというのである。
このようなことを書いているのを見ると、当代で最も偉大であったこの哲学者でも、なお同時代の学者間に一般に行われていた幼稚な形而上的でかつ目的論的な考え方から解放されることができなかったのである。すべてのものに便利ということを要求する目的論的の見方では、スウェデンボルクの言葉を借りて言えば、『人間が目的物であって、それぞれの地球はそのために存在する』ということになるのである。 
7 ニュートンからラプラスまで。太陽系の力学とその創造に関する学説

 

遊星運動の法則に関するケプラーの発見によって諸遊星の位置をある期間の以前に予報することができるようにはなった。しかしまだこれでは、いわば進歩の大連鎖の一節が欠けているようなものであった。しかしてそれを見付けるのにはニュートンを待たなければならなかった。彼はケプラーの三つの法則が、ただ一つの法則、すなわち、今日ニュートンの重力の法則としてよく知られている法則から演繹され得ることを証明した、この法則に従えば、二つの質量間に働く力はこれら質量の大きさに比例し相互距離の自乗に反比例するのである。当時既にガリレオ(Galilei)及びホイゲンス(Huyghens)の周到な計測によって地球表面における重力の大きさがよく知られていた。ニュートンの考えに従えば、これと同じ力、すなわち、地球の引力が太陰にも働き、そうしてそれをその軌道に拘束しているはずであるから、従って、太陰の距離における重力の強さは算定され、またそれを太陰軌道の曲率を決定するに必要な力と比較することができるはずである。それでニュートンは一六六六年にこの計算を試みたのであるが、余り良い結果を得ることができなかった。
ニュートンは――フェイー(Faye)も言っているように――この計算の結果がうまくなかったために重力の普遍的意義を疑うようになったではないかということも想像されなくはない。とにかく彼が、それきり一六八二年まで再びこの計算を試みなかったということは確実である。しかし、この年になって彼は地球の大きさに関する新しい材料を得たのでこれを使って計算を仕直し、そうして望み通りの結果を得た。当時この発見が現われるべき時機が熟し切っていたと思われるのは、ニュートンの同国人が四人までもほとんど彼に近いところまで漕ぎ付けていたことからも想像される。そのためもあろうが、とにかくこの発見はニュートンの同時代の学者のすべてから盛んに歓迎された。もっとも、遠距離にある物体間に力の作用があるということ、また遊星が真空の中を運行しているということを心に描くのはなかなか困難であった。しかしまた一方で、遊星の運動が非常に規則正しいから、いくら稀薄であるとしてもガス状のものの中を通っていると考えることは不可能であると思われた。のみならず空気の密度が高きに登るほど急激に減ずるということが気圧計の観測によって証明されたのであった。従って最早デカルトの渦動説は捨てなければならないことになった。すべての天体は、あの、円形とは甚だしくちがった形の軌道をとるために、甚だしくデカルトを困らせた彗星でさえも、すべてが厳密にニュートンの法則に従った軌道を運行していることになったのである。
遊星系内に行われている著しい規則正しさが強くニュートンの注意を引いた。すなわち、当時知られていた六つの遊星もまたその一〇個の衛星もいずれも同じ方向にその軌道を運行し、その軌道は皆ほとんど同一平面、すなわち、黄道面にあって、しかもいずれもほとんど円形だということである。彼は天体を引きずり動かす渦動の存在は信じなかったから、こういう特異な現象を説明するに苦しんだ。特に困難なのは、やはり太陽の引力によって軌道を定められているはずの彗星が、往々遊星と同方向には動かないということであった。それでニュートンは(何ら格別の理由はなかったが)遊星運動の規則正しさについては力学的の原因はあり得ないだろうという推定を下した。そうしてこう言っている。『そうではなくて、このように遊星が皆ほとんど円形軌道を運行し、そのために互いに遠く離れ合っていること、また多くの太陽が互いに十分遠く離れているために彼らの遊星が相互に擾乱を生ずる恐れのないこと、こういう驚嘆すべき機構は、何ものか一つの智恵ある全能なる存在によって生ぜられたものに相違ない。』ニュートンの考えでは、遊星はその創造に際してこうした運動の衝動を与えられたのである。この考え方は、実は説明というものではなくてその反対である。これに対してライブニッツは強硬に反対を唱えたが、それかと言って、彼もこの謎に対して何ら積極的の解答を与えることはできなかった。
これに対する説明を得んとして努力したらしい最初の人は『博物史』(Histoire naturelle 一七四五年)の多才なる著者として知られたビュッフォン(Buffon)であった。ビュッフォンはデカルトやスウェデンボルクの著述を知っていた。そうしてスウェデンボルクの考えたような太陽からの遊星の分離の仕方は物理的の立場から見て余り感心できないということを、正当に認知し、そうして別に新しい説明を求めた。彼はまず第一に、諸遊星の軌道面と黄道面との間の角が自然に、全く偶然に、七度半以内(すなわち、最大可能の傾斜角一八〇度の二四分の一)にあるという蓋然性は非常にわずか少なものであるということを強調した。
このことは前に既にベルヌーイ(Bernoulli)が指摘している。一つの遊星について偶然にこうなる確率はわずかに二四分の一である。それで当時知られた五個の遊星がことごとくそうであるという確率は24-5すなわち、約八〇〇万分の一という小さなものである。その上でまだ、当時知られていた限りのすべての衛星(土星に五個、木星に四個、それに地球の月と土星の輪がある)もまた黄道からわずかに外れた軌道を運行している。それでどうしても、何か必然そうなるべき力学的の理由を求めないわけには行かなくなってくるのである。
ビュッフォンは遊星の運動を説明するために次のような仮定をした。すなわち、これら遊星は太陽がある彗星と衝突したために生じたものである。その衝突の際に、太陽質量の約六五〇分の一だけが引きちぎられて横に投げ出され、それが諸遊星とその衛星とになった、というのである(第二十一図)。このようにほとんど切線的な衝突が実際に起り得るものだということは次の事実からも考えられた。すなわち、一六八〇年に現われた彗星の軌道をニュートンが算定したところによると太陽の輝いた表面からわずかに太陽半径の三分の一くらいの距離を通過した。それで予期のごとくこの彗星が二二五五年に再び帰って来るときには太陽の上に落ちかかるであろうということも十分に可能であると思われたからである。
   第二十一図 太陽と彗星の衝突(ビュッフォンの博物史中の銅版画)
この説に対して、それら衝突によって生じた破片が再び元の所に落ちはしないかという抗議があるかも知れない。これに対するビュッフォンの答は、彗星が太陽を横の方に押しやってしまい、また投げ出された物質の初めの軌道は後から投げ出された破片のために幾分か移動するから差支えはないというのである。後にこのビュッフォンの仮説を批判したラプラスはこの逃げ道を肯定している。ビュッフォンの考えは全く巧妙である。仮に一つの円い木板があるとして、これに鋭利な刃物を打ち込んで、第二十二図に示すように削り屑を飛び出させるとすれば、木片は矢で示す方向に回転するであろう。
   第二十二図
打ち出された削り屑もまた同じ方向に回転する、のみならず、刃物との摩擦のために右方に動く、すなわち、板の赤道の運動方向と同じ方向に並行して進む。大きな屑の破片と見なされる小破片は、もしその小破片と細い繊維ででも繋がっていればその周囲を同じ方向に旋転しなければならない。これと全く同様に、彗星が太陽の面に斜めに入り込んだ際に分離した太陽の破片はすべて同じ方向に回り、衝突後の太陽の赤道と同じような軌道を描くはずである。ビュッフォンは太陽を灼熱された固体であると考え、また地球と同じように雰囲気で囲まれていると考えた。小さい屑を大きい屑に繋ぐ繊維に相当するものが重力である。
ここまでは至極結構である。しかしビュッフォンは更に一歩を進めて次のように推論した。すなわち、比重の最小な破片は最大な速度を得る、従ってその軌道を曲げるような抑制を受けるまでには太陽から最も遠い距離まで投げ出されるというのである。彼は土星の比重が木星のよりも小さく、また木星のが地球のよりも小さいことを知っていたので、そこからして、遊星の比重はそれが太陽に近いほど一般に大きいと結論した。この結論はスウェデンボルクもしたものであり、また後にカントも再びしたものであるが、しかし我々の今日の知識とは全く合わないものである。また太陽から分離するときに最大な赤道速度を得たような破片は、また最も小破片すなわち、衛星を投げ出しやすいはずである。これはその当時の経験とは一致するが、今日の知識とは合わない。当時知られていたのは、ただ、木星の赤道速度が地球のそれよりも大きく、地球のが火星のよりも大きいということだけであった。当時木星の衛星四個、地球のが一個知られていたが、火星のは一つも知られていなかった。それで、五個の衛星を有する土星は最大の赤道速度をもつべきはずであると考えられた。しかるに今日では赤道速度による順位は木星、土星、地球、火星となり、それら各々の衛星の知られている数は、それぞれ七、一〇、一、二ということになり、従ってビュッフォンの言う順位はもはや適用しない。
ビュッフォンの考えでは、遊星は、衝突の際発生した多大の熱のために一度液化したが、その体積の小さいために急激に冷却したものであって、同様に太陽もまたいつかは冷却して光を失うであろう。種々の遊星はその大きさによってあるいは永くあるいは短い期間灼熱して光を放っていたものであろう。それで種々な大きさの鉄の球を灼熱してその冷却速度を測ってみた結果から、彼は次の結論を引き出してもいいと信じた。すなわち、地球が現在の温度まで冷却するには七五〇〇〇年を要し、太陰は一六〇〇〇年、木星は二〇万年、土星は一三一〇〇〇年を要した。太陽が冷却するまでには、木星の場合よりも約一〇倍の時間を要するであろう、というのである。
遊星が分離する際に太陽の雰囲気の中を通過している間に、そこから空気と水蒸気を持ち出した。そうしてこの蒸気から後に海ができた。地球の中心は速くに灼熱の状態を失っていなければならない。なぜかと言えば地心の火を養うべき空気が侵入することができないからである(この点はデカルト及びライブニッツと反対である)。しかしそれにかかわらず、ビュッフォンは、地球の温熱のただ二パーセントだけが太陽の輻射によって支給され、あとは皆地球自身の熱によるものと信じていた。地球は全部均等な比重を有しなければならない、さもなければその回転軸が対称的の位置になり得ない――しかるに地球の形は、地球と同じ回転速度を有する液体の球が取るべき形と全く同じ形をしているのである。地球はまた中空ではない、もしそうであったら、高山の上での重力は通常よりも大きくなければならない。
投げ出された破片の平均比重は太陽の比重とほとんど同じである。何となれば、この破片の総質量の大部分(約七五パーセント)を占める木星の比重はほとんど太陽のと同じで、その大きさにおいてその次に来る土星のは少し小さいのである。それ以内にある諸遊星の比重はこれに反して太陽のより少し大きい。これらの事実が彼の説を確かめるものと彼には思われた。しかし以上の二つの点に関して次のようなことを指摘することができる。すなわち、まず、もし地球内部の比重がその中心からの距離に応じて定まったある方式に従って内部に行くほど大きくなっているとしても、その回転軸はやはりその中心と両極を通るのである。それで地球の内部の比重はその外層のよりも大きいと仮定しても、それに対する反証は何もない。実際――今日我々の知る通り――この比重の比は二と一の割合になっているのである。次に、地球の冷却が、特に良く熱を導く鉄の球の場合のように急速であると考えるべきはずはない。それで地球内部には、何らの燃焼過程が行われなくとも、今でも灼熱状態が存していると考えることができる。最後に、今日我々の知るところでは、太陽も、また多分、木星以外の外側の諸遊星も、それから、内側の諸遊星の内部も、いずれもガス体であって、ビュッフォンの信じたように固体ではない。このような次第で、彼の論証の一部は根拠を失ってしまった。しかし後にカントの提出した説に比べるとこれでもまだ比較にならないほど良いのである。
ビュッフォンは真個の科学者自然探究者であって、その考察様式は今日の科学者のそれと同じである。彼は不幸にしてラプラスから、当を得ない批判を受けたために、彼の名の挙げられることはまれであり、これに反してカント、ラプラスの名のみが常に先頭に置かれている。しかし私の見るところでは、ビュッフォンの研究は、ことにそれがラプラスのよりも約五〇年ほど早かったことから言っても、とにかくもラプラスのと同等の価値を認めてもいいと思われる。そしてこのラプラスの方がまた彼のケーニヒスベルクの哲学者のよりははるかに優れているのである。
ビュッフォンは彼の時代の、筆数ばかり多くて一向要領を得ない宇宙創造論者に対して次のような言葉で、かなり辛辣なしかも当を得た批評をしている。『私でも、もし上に述べた意見をもっと長たらしく敷衍しようと思えば、バーネット(Burnet)やウィストン(Wiston)のように大きな書物を書けば書けないことはない。また一方で彼らのしたようにこれに数学的の衣裳を着せて貫目を付けようと思えばできないこともない。しかし仮説というものは、たとえそれがどれほど確からしいとしても、こういう何となくこけおどしの匂いのする道具で取扱うべきものではないと思う。』
ラプラスがこの系統に対して与えた批評には正当なものがある。そのためにビュッフォンの仮説が信用を失ったのは疑いもないことである。ビュッフォン自身こう言っている。もし地球上の一点から弾丸を打ち出すとすれば、それが閉鎖した曲線軌道を描く場合ならば再び元の出発点に帰ってくるであろう。すなわち、ただ短時間だけ(せいぜい一周期だけ)地球から離れていることになる。同様に太陽から飛び出した削り屑も太陽に戻らなければならない。それがそうならないのはいろいろな付加条件のせいである。これについて天体力学の方面における一大権威者たるラプラスはこう言っている。『種々の破片はそれが墜落する際に互いに衝突し、また互いに引力を及ぼすためにそれらの運動方向に変化を生じ、そのためにそれらの近日点(すなわち、軌道の上で太陽に最も近い点)は太陽から遠ざかることがあり得る。』それでここまではビュッフォンの考えは正しい。『しかし』と、ラプラスは続けて言う。『それならばそれらの軌道の離心率は甚だ大きいものでなくてはならない。少なくともそれらがすべてほとんど円形軌道をもつという蓋然性は非常に少ないであろうと思われる。』ビュッフォンも遊星軌道がほとんど円形であるということは多分知っていたに相違ないが、しかしこの規則正しさについては何の説明も与えていない。それで彼の系統を事実に相当させるためには著しい変更を加えなければならない。それにしてもラプラスが、ビュッフォンは彗星軌道の非常に離心的で細長いことを説明することができなかったろうと言っているのは了解に苦しむことである。実際ビュッフォンは決して(後にカントがしたように)彗星が太陽系に属するものとは仮定しなかったので、むしろラプラスと同様に外側の空間から迷い込んできたものと考えていたのである。そうだとすれば、ラプラスが証明したようにその軌道は著しく離心的でなければならないはずである。ビュッフォンはこの問題については余り深入りはしていない。しかしこれは彼の説の不完全な点であるとしても誤謬とすることはできないのである。
次にカントの仕事について述べようと思う。彼はビュッフォンより一二歳若く、しかもビュッフォンに刺激されてやった仕事であるが、ビュッフォンのとは到底比較に堪えないものだということは以下に記すところから分るであろうと思われる。カントは一七五五年に『自然史及び天界の理論』(Naturgesch chte und Theorie des Himmels)という一書を著したときは、わずかに三一歳の若者であって、哲学者としての光輝ある生活はまだ始まらないころであった。この書において彼はニュートンの研究の結果を応用して上記の問題を論じている。彼の考えによると天の空間は真空であって、遊星はデカルトの考えたように、一つの渦動に巻き動かされるということはない。その代りこれら遊星はいったん運行を始めれば、この真空な空間の中では何の動力を与えてやらなくてもその運行を続けるであろう。
それで、かつて一度は渦動が存在したが、それが諸遊星の運行を始めさせた後に消滅したと考えても差支えないではないか。カントはこういうふうに考えを進めて行った。これは良い考え方であって、ややアナキシマンドロスの考えに似たところがある(九八頁参照)。
カントはこう言っている。『それで私はこう仮定する。すなわち、現在、太陽、諸遊星及び彗星となっているすべての物質は、最初には、これら諸天体の現に運行している空間の中に拡散していた。』この微塵のような物質の中点、そこは今太陽のある点であるが、この点へ向けて残りの微粒子の引力が働いた。それでこの物質微粒子は、間もなく微塵体の中心に向かって落下し始める(この粒子を、カントは、固体か液体であると考えたようである。その中で比重の最大なものが太陽に落下する確率もまた最大であると言っているのである)。その墜落の途中で時々相互間の衝突が起り、そのために横に投げ飛ばされる。従って中点を取巻くような閉鎖軌道を運行するようになる。こういう軌道を動いている物体が更にまた幾度も互いに衝突する。そのために段々に軌道が整理され、その結果はすべてが円形軌道を同じ方向に同じ中心のまわりに回ることになる。また中心に向かって落下する一部の物体も、やはり同じ回転方向をもっているために、その衝突の結果として太陽もまた同じ方向に、自転するようになったのである。
しかし中心のまわりの分布が最初に均等であったのに、どうして最後に右から左へ回るような運動を生じたか、左から右へ回っても同じでありそうなのに、どうしてそうはならなかったか。昔アリストテレスは地球のまわりを諸天体が左から右へ回ると考えたのであるが、彼の考えではこの回転方向の方が典雅であり神性にふさわしいものと思われたためであった。カントもまたこの二つの方向の中で一方が優勢であるというふうに考えた。これはデカルトの仮定したように諸質点が当初からある特定の一点のまわりに一定の方向に渦動をしていたという場合に限って言われることである。カントはこの仮定はしなかったのであるから、彼の学説では特に一方に偏した回転方向をもつような遊星系の生成は不可能である。妙なことにはカントから一〇〇年後にかの大哲学者スペンサーがまたこれと同じ誤謬を犯しているのである。
更に、カントの考えでは、いったん渦動を始めた物質の中でも一番重いものが中心へ向かって一番早く落ちてくるので、結局の円運動をするようにならないうちに中心近くまで来てしまうという確率が一番大きい。こういう理由で、太陽に最も近い遊星の比重が最大でなければならぬというのである。これはスウェデンボルクもビュッフォンも唱えたことであるが、しかしこれは事実に合わない。カントはまた中心にある物体の比重はそのすぐ近くを回っている物体のそれよりも小さくなければならないと主張している。しかし実際は太陰は地球よりも比重が小さい。カントはもちろんこれを反対に考えていたのである。
そこでこのように太陽のまわりを回っている流星微塵環の中に所々に比重がよそより大きいところがあると、各環内の他の場所の物質がだんだんそこへ集中してくるはずである。このようにして遊星や彗星ができたのであろう。もしも、このようにだんだんに集団を作るような部分が完全に対称的に配置されているならば、これらが皆同一平面上にある以上は、すべての遊星が皆完全な円形軌道を取るようになるはずである。それでカントの考えでは、遊星軌道が円形でなくまた黄道面に対して傾斜しているのは、一番初めから対称の欠陥があったとして説明することができるというのである。しかし将来太陽となるべき中心点の周囲に物質が均等に分布していたという前提をしたのであるから、最初からこういう対称の欠乏がどうして存在したかを説明することはできない。また一方では、他の場所でこういう意味のことも言っている。すなわち、重力の弱いほど、すなわち、太陽から遊星までの距離が大きいほど、その遊星の軌道の離心率も大きくなければならないというのである。これは、カントの例証した通り、土星、木星、地球及び金星については適合する。しかし彼は水星と火星のことは何とも言っていない。ところがこの二星は、小遊星は別として、最大の離心率を有しているので、従って彼の系統には全く合わない。カントは、デカルトと同様に、彗星は土星の外側に位するものとし、その離心率の大きいのはそのためであると考えた。
この考えは、しかし、既に前にニュートン並びにハレー(Halley)も示したように全然事実と適合しないものである。それは、カントの考えに従えば彗星もまた土星よりも比重が小さくなければならないからである。(これは少なくとも彗星の中核については多分事実でない。)
以上述べたところから考えてみてもカントの宇宙開闢説の基礎には実際の関係とは一致しないような空想的な仮定がたくさんに入っていることが分るであろう。まだこの外にも同様な箇条を挙げればいくらも挙げられるのであるが、しかしそうしたところで別に大した興味はないからまずこのくらいにしておく。ただ一つ付記しておく必要のあることは、フェイー(Faye)が証明したように、もし一つの遊星がカントの言ったようにして一つの輪から変じて団塊となったとすればその回転方向は太陽のそれとは反対にならなければならず、従ってすべての(カント時代に知られていた)遊星に特有な回転方向は逆にならなければならない、ということである。
   第二十三図 遊星Pが、Pの下方にある或る中心点のまわりに回転する流星の流れから生成されんとしているさまを示す様式図である。中央の四つの矢はこの流れの中の各所の速度を示す。これは図のごとく下から上へ行くほど小さい。Pの下方の回転速度は上よりも大きいからいくつかの輪の流星が一所に集まってしまう場合には下の方の輪の速度が上の方のに勝つから従ってPは流星環の方向(右から左へ)とは反対の方向に(左から右へ)回転しなければならない。
第二十三図がこのような輪を表わすものとすると一番外側の微塵物質は、遊星運動の法則に従って内側にある太陽に近いものよりも小さな速度で通行する。従ってもしこのような微塵が集まって一団塊となるとすれば、その内側すなわち、太陽に面した方が、外側よりも急速に右から左へ動かなければならない。換言すればその遊星は左から右へ、すなわち、太陽並びに当時知られていた諸遊星と反対の方向に回ることになるのである。
カントは土星の輪の生成に関する力学的説明を与えているのであるが、それが我々の遊星系の生成に関してラプラスの与えた説明とかなりまで近く一致しているのは注意すべきことである。すなわち、始めに土星の全物質が広い区域に広がって、しかして軸のまわりに回転していたという仮定から出発している。それが次第に収縮していくうちにある微粒子は余りに大きな速度を得るために表面まで落下することができなくなる。そのために途中に取り残され、そうして環状に集まった衛星群となるというのである。彼はまた土星の衛星も多分同様にして成立し得たであろうと考えた。彼が太陽系の発生を論ずる場合にこういう始めからの回転は仮定しないでおいて、ここでそういうものを仮定していることから見ても、彼の考察の行き届いていないことが分かるのである。また彼の考えでは黄道光なるものは太陽のまわりに生じた薄い輪である。――すなわち、彼の考えによれば、この輪の最も内側にある粒子は元は諸遊星の赤道付近にあったのが、そこから飛び出して、その速度をそのままに保ちながら現在の空際に上昇したというので、これは直接に重力の法則に背反する。こういう考えは薄弱と言われても仕方がないのである。次に彼は輪の回転周期からして土星の赤道における速度を計算し、その自転周期を六時間二三分五三秒としている。彼はこの結果に対してよほど得意であったと見えて、この結果は『恐らく正真の科学の範囲内でのこの種の予言としては唯一のものである』と言っている。しかし土星の自転周期は実際は一〇時間一三分である。これに連関してカントはまたノアの洪水の説明をしようと試みている。これは当時の科学者らの間に大分もてはやされた問題であったのである。カントの説によれば、モーゼの書の第一巻すなわち創世記に『天蓋の下なる水』と記されているのは、多分地球を取り囲む、あたかも土星の輪のごとき『水蒸気』の環状分布を指すものである。この地球の輪は地球上を照らす役目をつとめるものであるが、また人間がこの特権を享有する価値のないようなことをした場合にはそれが洪水を起して刑罰を課する役にも立つものである。このような洪水はこの輪が急に地球上に落下する際に起るというのである。このように聖書や古典書中の諸伝説を自然科学的に説明しようとする努力は当時の科学的研究の中にしばしば見出されるものである。
   第二十四図 ラプラスの説によって星雲から輪の生ずる状を示す様式図。中心には中央体すなわち太陽があって星雲の冷却する際そのまわりに輪ができる。輪のある部分は破れている。またある輪では星雲物質の凝縮したところを示してある、これが後に遊星になるものである。「宇宙と人間」所載。
カントは一七五〇年にライト(Wright)の発表している一つの考えを採用した。それは、銀河の平均面は我々の遊星系の黄道面に相当するだろうということである。太陽のまわりを回る諸遊星が黄道の平面から余り遠く離れないと同様に、諸恒星も大多数は皆銀河の平均平面からわずかしか離れないような軌道の上を動いているであろう。これらの恒星は、その一員たる太陽をも含めて、皆一つの中心物体のまわりを運行しているはずであるが、その中心体の位置は未知である。しかしそれは多分観測によって決定することができるであろうというのである。ニーレン(〔Nyre'n〕)に従えば、ライトはこの説のすべての重要な諸点をカントと同じように明瞭に述べているそうである。
最後にカントはまた太陽の冷却に関する説を述べている。すなわち、空気が欠乏するために、また、燃え殻の灰が堆積するためにこの燃焼している天体(当時は普通にそう考えられていた)の火焔が消滅するというのである。
燃焼している間に、太陽の組成分中で最も揮発性のもの、また最も精微なものが失われる。そうして、そういうものが集まって微塵となり、この所在が黄道光を示すものと考えられる。カントは甚だ漠然と次のようなことを暗示している。すなわち、彼の設定した『太陽の滅亡の法則の中には、四散した微粒子の再度の集合の萌芽を含んでいる。たとえこの粒子はいったんは渾沌と混合してしまったとしても』とこう言うのである。この言葉や、また後に述べようとする彼の他の叙述から考えてみると、カントは、物質には一つの輪廻過程があって、あるときはそれが太陽に近く集合し、またあるときは再び四散して渾沌たる無秩序に帰ると考えていたらしい(一〇二頁デモクリトスの説参照)。
カントの宇宙開闢論もやはり、遊星系が宇宙微塵あるいは小流星群から進化したとする諸仮説中の一つである。この考えは後にノルデンスキェルド(〔Nordenskio:ld〕)及びロッキャー(Lockyer)によって採用され、そうしてダーウィン(Darwin)によって数学的に展開された。ダーウィンの示した結果によれば、こういう小さい物体の群は、いろいろの関係から見て、あたかも一つのガスの団塊と同様な性質をもっているのである。しかるにラプラスは、彼の『宇宙系』の巻末において太陽系の進化の器械的説明を試みるに当って以上の考えとは反対に、灼熱したガスの団塊を仮定して、そこから出発している。そうしてその団塊が初めから、その重心を通る一つの軸のまわりに右から左(北から見て)の方向に旋転運動を有したものと考えている。この点の相違は甚だ著しいものであるにかかわらずしばしば一般に観過されているのである。これは多分ツェルナー(〔Zo:llner〕)が『星雲説』に関して述べたことに帰因していると思われる。この著によって彼は『この仮説が、ラプラスではなくて、ドイツの哲学者たるカントによって基礎をおかれたものだという証拠を見せよう』としたのである。
ラプラスはこういうふうにその説を述べている。『我々の仮説によれば、太陽の原始状態はちょうど星雲と同様なものであった。望遠鏡で見ると(この点に関するハーシェルの研究参照、一八二頁)星雲には幾らか光った中核がありその周囲を一種の霧のようなものが取り囲んでいる。この霧が中核のまわりに凝縮するとそれが一つの恒星に変るのである。』『太陽は無限大に広がることはできない。回転によって生ずる遠心力がちょうど重力と釣合う点がその限界を決定する。』太陽のガス塊が冷却するために徐々に収縮すれば従ってこの遠心力が増大する。ケプラーの第二法則に従えば、各粒子が一秒間に描く円弧の大きさはその太陽中心からの距離に反比例する。それで、収縮の際に、遠心力は中心からの距離の三乗に反比例するのに対して中心に向かう重力の方は同じ量の自乗に反比例する。その結果として、この灼熱ガス塊の収縮に際して一つのガス状の円板が分離し、それがちょうど同じ距離にある一つの遊星のように太陽のまわりを運行する。そこで、ラプラスはまた次のように仮定した。この円板はいくつかの灼熱したガスの輪に分裂しその各々が一つの全体として回転し、そうして、それが冷却して固体また液体の輪となったというのである。
しかし、これは物理学的に不可能である。冷却の際に微細な塵の粒が析出すると、それはガスの中に浮游するであろう。ガスの冷却凝縮が進行するに従って多分これらの塵はだんだんに集合してもう少し大きい集団を作るであろう。このようにしてちょうどカントが土星について考えたと同じように一つの微塵の輪ができると考えられる。そうして、それがもしかたまって遊星になるとすればやはり実際とは反対の回転運動をすることになるであろう。のみならず、ストックウェル(Stockwell)及びニューカム(Newcomb)が示した通り、このようにただ一つの大きな団塊のできるということはなくて、土星の輪の中で回っていると同様な小さな隕石の群しかできないはずである。更にまたキルクウード(Kirkwood)に従えば、海王星の輪が一つの遊星に凝縮するには少なくとも一億二〇〇〇万年かかるというのである。
更にまた彼の説に従えば、すべての遊星の軌道は円形で同一平面上になければならないことになる。もっとも、これについてラプラスは『言うまでもなく、各輪の各部の比重や温度に著しい不同があったとすればこの軌道の偏差を説明することができるであろう』とは言っているが、しかし恐らくラプラス自身にもこの原因については余りはっきりした確信がなかったらしいということは、後でまた次のように言っていることからも推察される。すなわち、彗星(彼の考えではこれは太陽系に属しない)が近日点近くへ来たときに、そこに今正にできかかっている遊星に衝突し、そのためにその遊星軌道の偏差を生じた。またある他の彗星は、ガス塊の凝縮がほとんど完了した頃に太陽系に侵入してきた。しかして著しく速度を減殺されたために太陽系中に併合されてしまったが、それでもその著しく円形とはちがった長みのある軌道を保っている、というのである。
ラプラスの仮説に対する最も重大な異義として挙げられることは天王星及び海王星の衛星がその他の遊星の衛星と反対の方向に回っているという事実である。一八九八年にピッケリング(Pickering)の発見した土星の衛星フォエベも、また木星の衛星の一番外側のものもまた同様である。ただしこの二遊星に属する衛星のうちで内側にある他のものは皆普通の方向に回っているのである。
このようにして、ラプラスは、ビュッフォンの仮説に免れ難い困難(すなわち、軌道が円形に近いことを説明する)を避けることはできたが、その代りにまたこれに劣らぬ他の困難に逢着した。しかしラプラスの仮説は土星の輪の生成については非常に明瞭な考えを与えたものである。
ラプラスと同時代に英国にはハーシェルが活動していた。彼は大望遠鏡で星雲を研究した結果としてこれらの星雲は一種の進化の道程にあるものだという意見に到達した(一八一一年)。彼の観測した星雲の中に極めて漠然とした緑色がかった蛍光様の光を放つものがあった、これが原始状態であると彼は考えた。そうしてスペクトル分析の結果は彼の考えを確かめた。後にこの発光体はガス体、それは主に水素とヘリウム並びによそでは見られないネビュリウムと称する元素から成立しているということが分ってきた。ハーシェルはまた他の星雲についてその霧のようなものの真ん中にいくらか光の強い所のあるのを観測した。また他のものでは中にちゃんとした若干の恒星があることを認めることができた、のみならずまたあるものでは霧のような部分はほとんど全くなくなって一つの星団となっているものもあった。
この簡単ではあるが内容の甚だ大きい観測の結果は、かつては非常な驚嘆の的となったラプラスの仮説よりも、ずっとよく時の批評に堪えることができたのである。もっともラプラス自身にはその仮説を彼の仕事のうちの重要なものとは考えていなかったらしいということは、それを彼の古典的大著『宇宙体系』(〔Exposition du Syste`me du Monde〕)の最後に注のような形で出していることからも判断される。このことは彼のために一言断っておく必要があると思うのである。
この大著の中で彼は我々の遊星系の安定を論じて次の結論を得ている。『諸遊星の質量がどんなであっても、それらが皆同方向に、しかもまた相互にわずかにしか傾斜しないほとんど円形な軌道を動いているという、それだけの事実から自分はこういうことを証明することができた。すなわち、遊星軌道の永年変化は周期的であって、しかも狭い範囲内に限られているということである。従って遊星系はただある平均状態から周期的に変化してはいるが、しかしいつもほんのわずかしかそれから離れない。』彼はまた一日の長さが、耶蘇紀元前七二九年以来当時までの間に一〇〇分の一秒だけも変っていないということを証明している。
このごとくラプラスは、一部分はラグランジュ(Lagrange)の助けによって、太陽系の安定が驚くべく強固なものであるというニュートンの考えを更に深く追究し立証した。それでこの遊星系は永遠の存立を保証されたかのように見えるのであるが、しかしこの系においても、ともかくもある始めがあったということを仮定するとすれば、これに終りのないというのは、実に不思議なことと言わなければならない。
この点に関しては確かにカントの考えの方が正当である、それは少なくとも我々の現代の考えに相応するところがあるのである。 
8 天文学上におけるその後の重要なる諸発見。恒星の世界

 

ラプラスの前述の研究は我々の遊星系に限られていた。またスウェデンボルクやライトやカントもその他の天体についてはただ概括的な考えを述べているにすぎない。もっともライトが、銀河の諸星もまた我々の太陽も運動していると考えたのはなかんずく顕著なものであった。しかるにハーシェル(Herschel 一七三三―一八二二年)に至ってはばく大な恒星界全部を取って彼の研究範囲としたのである。これより先ハレー(Halley 一六五六―一七四二年)は彼の観測の結果から、若干の恒星は数世紀の間にはその位置を変ずること、そうしてわずかティコ・ブラーヘのときから一七世紀の終までの間にさえ既に位置の変化が認められるということを発見した。その後間もなくブラドリー(Bradley 一六九二―一七六二年)が従来には類のない精密な恒星表を編成した。ハーシェルはこの表の助けによって恒星の位置変化に関する研究をすることができたのであるが、その結果として、この位置変化がかなり著しい程度に生じていることを発見した。また諸恒星は天の一方の部分に向かって互いに近より、またそれと反対の点から互いに遠ざかるような運動をしていることを認めた。そうしてこの現象の説明として、物体の視角がその物に近寄る人にはだんだん大きくなり、遠ざかる人には小さくなるという事実を引用した。ここでその物体に相当するものは恒星間を連結する線なのである。ハーシェルはこの考えに基づいて太陽とこれに属する諸天体がいかなる点に向かって動いているかを決定することができた。
始めハレー、後にハーシェルによって認められた恒星のこの運動を名づけてその固有運動と称する。この運動を測定するには通例星空を背景としてそれに対する恒星の変位を測るのであるが、この際背景となる星空には非常に遠距離にあるたくさんの恒星が散布されており、それらの星の大多数はその距離の過大なためにその運動が認められないのである。
大発見というものは始めには大概抗議を受けるものである。人もあろうにベッセルのごとき人でさえ、ハーシェルの発見は疑わしいと言明した。これに反してアルゲランダー(Argelander)はハーシェルの説に賛同した。この人は、恒星の位置及び光度について綿密な測定をして偉大な功績を挙げた人である。そうして彼の説はこの方面におけるすべての後の研究者によって確かめられた。なかんずくカプタイン(Kapteyn)のごときはその著しいものである。以下に述べるところも一部分はこの人の叙述によることにする。
一八八頁図(第二十五図)は天の一部分、すなわち、三角、アンドロメダ、牡羊、及び魚の各星座付近における恒星の運動を示すものである。
   第二十五図
図の小黒圏は諸星の現在の位置を示す。この圏点から引いた直線はその星が最近三五〇〇年間に動いた軌道を示すものである。これから分る通り、三五〇〇年前にはこれらの星座はよほど今とはちがった形をしていたはずである。これら諸星の軌道は決して並行していないし、またその速度も決して一様でない。しかし、全体として見ると右上から斜めに左下に向かった方向が多いということだけは明らかに認められる。今これらのいろいろな方向の線を第二十六図のように、同一の点から引いてみると、この特に数多い方向が一層目立って認められる。この特異の方向を二重線の矢で示してある(第二十六図)。
   第二十六図
このような運動方向の『合成方向』を天球の上に記入すると第二十七図のようになる。これらの矢は皆天球上のある一点から輻射するように見える。この特殊な点を『皆向点』(Apex)と名付ける。この点は明らかに太陽の進行している目標点である。何となればすべての恒星はこの点から四方に遠ざかって行くように見えるからである。もっともこれはもちろん諸恒星の平均運動についてのみ言われることであって、各自の星の固有運動について言えばそれはこの平均とは多少ずつ皆違っているのである。これからも分る通り諸恒星もまた互いに相対的に運動しているので、恒星の群の中で特に太陽だけが運動しているのではない。
   第二十七図
カプタインによるこの図は非常に明瞭な観念を与えるものである。これを見ればハーシェルの考えの正しいということは到底否定することができない。太陽は天上の(A)点、すなわち、ヘルクレス星座中で、琴座との境界に近い一点に向かって進んでいる。そうしてこれと正反対の位置にある大犬星座から遠ざかりつつあるのである。
銀河中の諸恒星が――太陽系中の諸遊星のごとく――同一方向に動いているというライトの説は、シェーンフェルト(〔Scho:nfeld〕)並びにカプタインによって吟味せられた。しかしこのような規則的な運動をしているような形跡は見付けることができなかった。これに反してカプタインはこれとはちがったある規則正しさを認めた。すなわち、彼の見るところでは、これら恒星の固有運動は、二つの恒星群が存在することを暗示する。その一群はオリオン星座中のカイ(χ)星の方向に、他の一群はこれとほとんど正反対の方向に進んでいるように見えるというのである。なお、今後の研究によってこの規則正しさに関していろいろ新しい興味ある発見が現われることであろう。
この現象が一層著しい興味を引くようになったというのは、これによって、恒星が天球上を一年間に動く見掛け上の速度からして、その星の太陽からの距離を決定することができるようになったからである。アリスタルコス及びコペルニクスの説の通り地球は空間を動いているのであるから、一年中のある季節には他の季節におけるよりもある特定の恒星に近くなっているはずである。従って上に述べたと同様な現象が、ただし周期的ではあるが、認められるだろうと予期してもいいわけである。すなわち、多くの星の大きさが毎年一回ずつ大きくなったり小さくなったりするように見えるであろうという見込をつけても不都合はないはずである。
しかしこの期待はなかなか安易には満たされなかった。既にアリスタルコスはこの変化の見えないという事実から、諸恒星の距離は余りに大きいために、それが無限大であるように見え、従って星座の視角の年変化が到底認め得られないのであると考えた。コペルニクスもまた同じ意見であった。しかしティコ・ブラーヘにはこの考えが信じ難く思われた。そうして彼はこの事実をもって、地球は静止し宇宙の中点にあるという説の論拠としたのである。しかしその後、天文学者等はこの期待された現象を発見しようとしていよいよ熱心に努力をつづけていた。そうして、ついに一八三八年に至って、ベッセルが白鳥星座の第六一番と称する星が一年の周期でわずかな往復運動をしていることを確かめることに成功した。この運動からこの恒星の距離を算定することができたが、それは実にばく大なものであって、光線がこの星から太陽まで届くのに一〇年掛るということが分った。それでこの距離を表わすのに一〇光年という言葉を使う。一光年の距離は 9.5×10~12 すなわち、約一〇万億キロメートルであって、地球から太陽への距離の六三〇〇〇倍に当るのである。その後他の恒星の距離もますます精密な方法で測定されるようになった。ケンタウル星座のアルファ星が一番太陽に近いものとなっているが、それですら四・三光年の距離にある。シリウスも入れて八つの星の距離が一〇光年で、これらがまず近い方の星である。星空中で我々に近い部分では恒星間相互距離の平均は一〇光年より少し大きいくらいである。二〇光年以内の距離にある恒星が二八個、三〇光年以下のものが五八個だけ知られている。それで結局アリスタルコスとコペルニクスの考えが正しかったわけになり、従って地動説に対する最後の抗議が片付けられたわけである。さてこのようにして恒星の固有運動、すなわち、角速度が分り、また距離が分れば、それから容易にその実際の速度を計算することができる。ただし視線に対して直角の方向における分速度だけしか得られないのである。このようにして得られた速度の数例を挙げてみると、毎秒キロメートルを単位として、ヴェガが一〇、ケンタウル座のアルファ星が二三、カペルラが三五、白鳥座の六一番星が六〇、アルクトゥルスが四〇〇という数を示す。
それで、もし、視線の方向における恒星の速度をも知ることができれば、その星の運動を完全に決定することができるはずである。ところが、一八五九年以来応用され、恒星に関する天文学に根本的な改革を促したスペクトル分析は、またこの視線方向の速度の測定法を授けるに至った。これによって測定された上記五個の星のこの分速度は毎秒キロメートル単位で、−19,−20,+20,−62,−5 となる。ここで(+)記号は星が太陽から遠ざかることを示し(−)記号は近づきつつあることを示す。これらの数値が示す通り、恒星間の相対速度にはなかなか大きいものがあるのである。――地球の軌道上の速度は毎秒約三〇キロメートルであるから、これと比較することができよう。
視線の方向における恒星の運動が分ると、太陽が天のどの点に向かって近づきつつあるかということを算出することができる。この方がいわゆる固有運動から算定するよりも一層容易である。キャムベル(Campbell)はこういう計算を行ったがそのために彼はこういう仮定をした。すなわち、比較の基準となる諸恒星は、平均の上では静止している、換言すれば、これらの星の中で太陽に近づくものもあればまた同じ速度で遠ざかっているものもあるとする。そうして計算すると、太陽は彼の恒星固有運動から計算された点とほとんど同じ点に向かって毎秒二〇キロメートルの速度で空間の中を飛行しているという結果になる。これでみてもこれらの観測された現象に対する以上の説明が正しいということはもはや疑う余地のないことである。次に起ってくる最も興味のある問題は、太陽が常に天上の同一の点を目掛けて動いているか、すなわち、一直線に動いているか、あるいは少し曲った軌道を動いているかということである。もしその軌道の曲率の大きさが分れば、それからして太陽の軌道がいかなる力によって支配されているかを算定することができるはずである。しかしこの種の観測が始まって以来まだ余り時日がたたないから、今のところこの非常に重要な問題に対して何らの解答を与えることはできない。
しかし、ライトやカントが考えたように、すべての目の届く限りの恒星がある共通の大きな中心体のまわりを、遊星が太陽を回るように、回っているのではなくて、諸恒星相互の運動はかなりに不規則なものであるというだけは確実である。してみると、太陽がそういう冒険的に旅行をしているうちに、いつか一度はある恒星かあるいは星雲と衝突するようなことがないとは限らない。ただし太陽が自分と同じくらい大きい光った恒星と衝突するまでには約一〇兆年の旅を続けなければならない勘定である。もっともことによると空間中には冷却して光を失った恒星が、光っているものよりもずっと多数にあるかも知れないので、そうだとすると、この無事な旅行の期間は著しく短縮されるかも知れない。しかるに太陽がある星雲の中に進入するという機会の方は非常に多い。なぜかと言えば空間中にある星雲の数はかなり多いのみならず、またそれが星天の中を占める空間はなかなか大きなものでこれに比べては恒星の体積などは全く無に近いと言ってもいいほど小さなものだからである。
太陽が運行中にこのような星雲に出会って進行を阻止され、そのために灼熱される、するとそれがいわゆる新星と称するものになる。たとえば一九〇一年にペルセウス星座に突然出現したようなのがそれである。こういう説がしばしば称えられたものである。
この考えは特にゼーリーガー(Seeliger)によって発展されたものである。この説は衝突する星雲が比較的局部に集中されたものであった場合には疑いもなく適合する。たとえば遊星状星雲の場合には多分そうであろうと思われる。しかしこの考えは一般にすべての新星には適用されないように見える。少なくも従来詳しく研究された若干の場合から見てそう思われる。ペルセウス星座の新星の場合にはその出現後に一つの星雲が発見されたが、しかしその直径の視角は三〇分以上もあり、従ってその大きさはばく大なものであった。これは疑いもなく非常に広く拡散した稀薄な星雲の部類に属するものである。
一つの太陽型の恒星がある稀薄な星雲中に突入したときに何事が起るであろうかということは、星雲中における侵入者によって生じた道筋を示すウォルフ及びバーナード(Wolf und Barnard)の写真(『宇宙の成立』中の第五四図と第五五図)を見ればおおよその概念を得ることができるであろう。このような太陽が毎秒二八・三キロメートルの相対速度(注)で星雲中に進入するとすれば、それはその途上のすべての物質を薙ぎさらっていくのみならず、約一五〇〇万キロメートル以内のすべての物を掃除してゆくはずである。つまりそれだけの半径の溝渠を穿つわけになる。また相対速度が遅いほどこの溝は広くなるのである。しかるにウォルフ及びバーナードの写真に撮った物はその距離が余りに遠いために上述のような溝があってもそれは到底写真には現われないはずである。しかし実際の写真に現われた『道筋』は非常に顕著なものであってその大きさは上記の幾百倍のものであるとしなければならない。またこの写真で見るとこの侵入者のまわりにはばく大な広がりをもったかなり不規則な形をした星雲が取り囲んでいることが分る(近所にある恒星の写真像が皆規則正しい円盤の形をしているのと比較せよ)。これで見るとこの侵入者はこの稀薄な星雲の一部を、集中的な規則正しい星雲塊に変ずるものと思われる。その変化の過程については次のような具合に考えることができる。すなわち、まず、この稀薄な星雲の密度が侵入者の軌道の各々の側で一様でないと仮定する。これはもちろん一般にそうあるべきである。この侵入者の後側へすべての方向から落下してくる物質は互いに衝突してその運動は大部分相い消却してしまうのであるが、しかし密度が非対称的であるために若干の運動が残留し、そのためにこの落下した物質は侵入者のまわりを楕円形の軌道に沿うて動くようになる。このようにして星雲物質が集積されるために一種の巨大な環状星雲ができる。これが侵入者の軌道の付近の稀薄な星雲を掃除するのに役に立つのである。このように中心物体から著しい距離に星雲物質が拘留されるために温度の過大な上昇が妨げられる。もしそうでなかったとしたらこの侵入者は多分、彼のペルセウス星座のと同様な新星として強い光輝を発したであろうと思われる。薄く拡散した星雲中の物質は非常に稀薄なものでたまたまその中に侵入する物体があってもそれを灼熱させることはむずかしいように思われる。
(注) この数値はそれぞれ周囲に対して毎秒二〇キロメートルの速度で動いている太陽と星雲との間の蓋然値として得られたものである。キャムベルの測定では星雲の速度は太陽のと同じくらいである。
ただ、太陽がある他の太陽か、あるいは多分星雲中の特に集中した部分に侵入する場合に限って、それが新星として現われ、その光度は衝突以前に比べてもまたその後に衰えたときに比べても数百倍あるいは数千倍大きいものとなるであろう。
しかるにまた、星雲は太陽相互の衝突を早めることもできるように思われる。すなわち、星雲中には星空の各方面から隕石や彗星や特に宇宙微塵などのような多数の物質が迷い込んできてその中に集積する。これら天界の放浪者の質量は微小なものであるために皆星雲中に捕えられて残り、そこで上に凝縮する星雲物質とともに次第に大きな物体に成長し、そしてそれが収縮するために熱を生じて小さな恒星として光り始める。そのうちに漂浪する太陽が近所にやってきて衝突すると、その太陽から多量なガスが放出され、これが太陽の速度を減少させ、また星雲中の運動に対する抵抗を増加する。このようにして、あるいはまた非常に広く広がった星雲中を長く続けて放浪するために、太陽は星雲に捕獲されてしまう。それでこのようにある星雲中に入り込んだ太陽は、他のほとんど真空な空間中の特定な軌道を進んでいるものに比べると、同じ星雲中に捕われた他の太陽と衝突する機会がはるかに大きいわけである。
これら種々の理由から、太陽が他と衝突することなく自由に天空を漂浪し得る期間はずっと短く見積らなければならないことになる。前に計算したものの一〇〇分の一、すなわち約一〇〇〇万億年と見ても長すぎはしないであろう。もちろんこの数字は余り当てにはならないものであってただ一つの天体の寿命の概略の程度を示すにすぎないのである。
我らの太陽ぐらいの大きさの天体が二つ衝突した場合におよそいかなる事柄が起るであろうかということについては、著者の『宇宙の成立』中に詳しく述べておいた。互いに衝突する太陽から二つの猛烈なガスの流れが放出され、これが空間中にばく大な距離まで広がって、そうして、星雲に特有な二つ巴のような二重螺旋形を形成する。その噴出物質は主として最も凝縮しにくいガス体、特にヘリウムと水素、並びにまたそれよりは凝縮しやすい物質の微粒子からできている。これらは皆噴出の際に過大の速度を得たために、中心体の引力の余り利かなくなるほど遠い範囲に逸出してしまう。同時にその速度を失ってしまうために、長い間ほとんど位置を変えずに、螺旋状の形を保っているのである。これに反して、もっと小さい速度で放出された物質は再び元の噴出の場所に帰ってくる。その途中で、その後に放出されたもの、特にガス体に出逢う。これらの物質全体は結局は、中心体のまわりに広く広がった、固体並びに液体の微粒に満たされたガス星雲を形成する。同時にこの中心体は(かつてビュッフォンが想像したように)衝突によって激しい回転を生じているのである。一番内部の中心体は強く灼熱され、衝突前に比べると、著しくその体積を増している。そうして外側へ行くに従って、これを取巻いて渦動するガス塊へと徐々に移りゆくのである。
ラプラスが太陽系の始源となった元の星雲に対して抱いていた考えは正にこの通りであった。それで実際観測された事実に応ずるように適当にラプラスの説を修正すれば、今新たに星雲中で太陽系の進化が始まるとしたときそれがいかなる経過をとるかということの概念を描き出すことができる。そうして得られた新しい説はビュッフォンの説とラプラスの説とを適宜に混合したものとも見られるのである。
光輝の強い恒星アルクトゥルス(Arkturus)の速度は最も大きく毎秒約四〇〇キロメートルの割合で進行している。この星は太陽から約二〇〇光年の距離にあり、その送り出す光は太陽の光と非常によく似ている。従ってこの星の大きさはばく大なものであって、計算の結果では、多分太陽の五万倍もあるだろうと言われるくらいである。このような巨星が二つあって、それがアルクトゥルスと同様に大きな速度で相互に衝突したとしたらその結果がどうなるかを考えてみよう。噴出されるガスは一つの渦動となって広がってゆくであろうが、それは多分ほとんど同一平面内ですべての方向に無限に伸びてゆくであろう。銀河は多分このようにしてできたものであろうとも考えられるが、しかしこの銀河系には中心物体となるべきものが知られていない(後述リッターの説参照)のがこの説の難点となるわけである。幾百万年経過する間にはこのような巨大な星雲中に多数な小恒星が集積され、それらがまた互いに衝突して、そうして新しい渦動を生ずるはずである。ほとんどすべての新星は銀河の近くに出現するが、ここでは空間中の他の場所に比べると恒星間相互の距離が比較にならぬほど密接しているのである。新星が消えてしまった後では、ただ、一つのガス状星雲が見えるだけであるが、銀河付近にはこういうガス状星雲がやはり著しく集中しているのである。時の経過とともに星雲物質が、その中に入り込んだ微塵物質の上に再び集積されるとそれが星団になる。実際これも主としてこの同じ銀河区域に見られるのである。螺状星雲もそのスペクトルを検すると星団であることが分る。しかし距離が余り大きいためにその中の個々の星を認めることができないのである。この種の星雲は主に星の数の最も稀少な天の区域、すなわち、銀河からは最もはなれた銀河の極の方にある。この部分にはこの種のものが非常に多く、たとえば、ウォルフが、ベレニケ(Berenike)の髪毛と名づける星座の一局部を写したただ一枚の写真の中に一五二八個という多数の星雲を見付け出した。このうちの大多数は多分螺状星雲であると考えられる。
恒星の組成分に関する知識が得られるのは全くスペクトル分析のおかげである。その恒星という中には我々の太陽もその一つとして数えられているのである。ハーシェルは星雲をその外見上の進化の程度に従って分類したが、それと同様にして恒星もまず一番熱いもの(すなわち、輝線スペクトルを示すもの、従って、こういう星の前身と想像されるガス状星雲に最も近似したもの)から始めて、最後には既に消えかかっていると考えられる暗赤色のものに終るという等級を作ったのである。これらの光った星の次に来るのが暗黒な天体で、その中で最初に来るのはまだ固体の殻をもたないもの――木星は多分この種に属する――で、その次は地球のように固体の皮殻をかぶったものである(『宇宙の成立』一六七頁参照)。恒星中に最も多く現われる物質を列挙してみると次のようなものである。最も高温の星にはヘリウム、それに次いで高温で白色光を放つものには水素、中等程度の高温で黄色の光を放つ、たとえば我々の太陽のようなのではカルシウム、マグネシウム、鉄並びに他の金属元素が多く、最後に最も温度の低い赤色の星では炭素化合物なかんずくシアンが現われる。既に地球上で知られている組成物質以外のものはどの星にもないという説は当っていない。たとえばピッケリングはいろいろの星のスペクトルの中で、地球上のいかなる物質のそれとも違った線を発見した。もっともこの線は多分水素の出すものであろうという説があるが、しかし実験的に水素からこういう輻射を出せることはできなかった。太陽のスペクトル中にも従来知られた物質のスペクトル線のどれとも一致しない線がかなりたくさん見い出されている。やっと近ごろになって知られた線の中で最も重要なものはヘリウムの線である。そして多数の未知の線の中にはいわゆるコロニウムの線と称するのがある。これは太陽のコロナの内側の部分に特有なものである。しかし全体としてみれば星のスペクトル線の地上元素のそれとはかなりまでよく一致しているのは事実である。マクスウェルは一八七三年にこう言っている。『宇宙間にある恒星の存在を我々はその光の助けによって、そしてただそれによってのみ発見する。これらの星の相互の距離は余りに遠くていかなる物質的なものもかつて一つの星から他のものに移るということはあり得なかったであろう。それにかかわらず、この光の物語るところによってこれらの星が皆我々の地球上にあると同種の諸原子から成立っていることが分るのである。』
こう言っているこの学者が、しかも同じ年、星から星へ物質を輸送することの可能なある力――すなわち、輻射圧――の存在を予言しているのはいささか奇異の感じがある。それから三年後にバルトリ(Bartoli)は、ただに熱線や光線のみならず輻射エネルギーのあらゆる種類のものは皆圧力を及ぼすということを証明した。しかしこの新しい普遍的な力によって宇宙物理学的諸現象の説明を試みようとする人は案外になかったので、一九〇〇年に至って始めて私がこの問題に手をつけて、従来不可解と考えられていた各種多様の諸現象が、これによって非常に簡単に説明されるということを示したのである。
太陽雰囲気中で凝縮した液体の小さな滴は輻射圧の作用で太陽から追いやられ、そうして光の速度の幾パーセントかの速度で空間中を飛んでゆく。太陽よりも、もっと輻射の強い恒星(多数の恒星は、太陽のような黄色光ではなくて、白色光を放っており、従ってそれだけ輻射も強いと考えられるから、一般にその方が普通と考えられる)の場合には、この細滴の速度は更に一層大きくなり得るであろうが、しかしいずれにしても決して光の速度には届かないわけである。このようにして多くの太陽は無限の過去以来微粒子を放出している結果として彼ら相互の間に不断に物質の交換が行われる。そのために、最初は組成分に多少の差別があったとしても、それはとうの昔に均等になっていなければならないはずである。この場合にも、一般自然界に通有であるように、低温な物質、ここでは低温な恒星、が高温なものの方から、また大きい方が小さい方から養われ供給されるのである。
前に『宇宙の成立』九八頁にも暗示しておいたように、別世界から折々おとずれてくる不思議な使者、いわゆる隕石なるものは、あるいはこのように宇宙間に駆り出された細滴から成立したものかも知れない。隕石は全く特殊な構造と成分をもっていて、あらゆる地球上で知られた岩石の類とは本質的な差違を示しており、地球内部の液体の固まってできたいわゆる火成岩とも、また海水の作用で海底に堆積してできた水成岩とも全くちがったものである。隕石中にしばしばガラス質の粒の含まれていることから見ると、急激な冷却を受けたことが分る。また他の場合には大きな結晶を含んでいるから、これは永い間均等な高温度に曝されていたであろうと考えられる。また同じ隕石の二つの隣り合った破片を比べてみると組成や構造の著しい相違を示すことがある。これは隕石の素材が非常に多様な来歴をもつものであることを証明する。水や水化物(水を含む化合物)は少しも含まれていない。隕石の粒が形成されたと思われる太陽の付近では酸素と水素はまだ水となって結合していないであろうから、これは当然である。これに反して炭素水素の化合物が含まれているが、これは光の弱い恒星やまた太陽黒点中にしばしば現われるものである。また地球上では不安定で、水素と酸素を含まない雰囲気中にのみ成立し得るような塩化物、硫化物、燐化物を含んでいる。また一方隕石中には、地上の火成岩中に頻出する鉱物、すなわち、石英、正長石、酸性斜長石、雲母、角閃石、白榴石、霞石を含んでいない。これらは地球内部から来る熔岩からいわゆる分化作用によって生ずるものである。
この分化作用の起り得るためには多量な熔融塊の内部で永い間持続的に拡散が行われるという条件が必要である。従って小さな滴粒の中ではこれはできない。隕石のあらゆる特性、なかんずくしばしば見られる微粒状のいわゆるコンドリート構造と称するものなども、これが小さな液滴からできたものとすれば容易に説明される。時としてまた大きな結晶のあるわけは、何かある溶媒(たとえば鉄やニッケルに対する酸化炭素のごとき)が存在したためか、あるいはそういう隕石が長い間高温度に曝されたためかであろう。彗星が太陽に極めて近い所に来たような場合にはそういう高温度にさらされるわけである。この方面に関するスキアパレリ(Schiaparelli)の古典的な研究によると、彗星が分裂して隕石群に変るのは、特に近日点付近に多い現象だということが明らかになった。
太陽から放出された細滴は主に星雲の一番外側の部分に広く広がったガス体の中に集積し、そうして多くの場合に荷電されている宇宙微塵の作用で光を放つ、それが星雲に特有なガススペクトルを与えるのである。星雲内は至る所非常に寒冷であるので滴粒の表面には星雲ガス特に炭水化合物や酸化炭素の一部が凝縮する、そうして滴粒が互いに衝突するとそれが膠着してしまう。このようにして滴粒から次第に隕石に成長し、そうして空間中の旅を続けてゆくのである。
このように諸太陽は光圧のために微粒子を放出するために相互の物質を交換する以外に、また衝突の際に広く空間に飛散するガス塊の一部を互いに交換する。また星雲の外縁にあるガス分子が遠方の太陽から受取る輻射のために高速度を得てその星雲から離脱し空間に放出されるためにも諸太陽の間に物質の交換が起るのである(『宇宙の成立』一七五頁参照)。それで『物質的な何物も一つの恒星から他の恒星に移動することはできない』と言ったマクスウェルの言葉は、詳しい研究の結果から見ればもはや当てはまらなくなるものである。
最近二〇年間に熱輻射の本性に関する我々の知識は非常に豊富になった。その中でもステファン(Stefan)及びウィーン(Wien)の発見した法則は最も重要なものである。前者の法則によれば、外からの輻射を全く反射せずまた通過させない物体が自分自身で輻射する熱量はその物体の絶対温度(すなわち、摂氏零下二七三度を基点として数えた温度)の四乗に比例する。また後者の法則はこのような物体の出す全体の輻射が種々なスペクトルの色に相当する熱輻射のいろいろの種類からいかに構成されているかを教えるものである。前者の法則を使えば固体の皮殻をかぶっている遊星や衛星の温度を計算することができる。これを始めて計算したのがクリスチアンゼン(Christiansen)である。ある遊星あるいは衛星が太陽から受取っている熱量は知られている。しかして、これらの物体は固体の皮殻をもっているから、太陽から受取っているとほとんど同量の熱を天の空間に放散し、そうすることによってほとんど恒同な温度を保っている。しかるに、上記の法則によって物体の出す輻射とその温度との関係が規定されているから、従ってその温度を計算することができるわけである(『宇宙の成立』四二頁)。水星や太陰のように全く雰囲気をもたない遊星や衛星の場合にはこの計算によって完全に正しい数値が得られるのである。しかし、雰囲気の存在する場合にはこの関係はある点で少し変ってくるので、このことは既に十九世紀の初めにフリェー(Fourier)が指摘しているところである。その理由は、雰囲気がこれに入射する太陽の輻射を通過させる程度は暗黒物体の表面から出る熱輻射を通過させる程度と同一でなく、前者よりも後者が多いからである。これには雰囲気中の水蒸気と炭酸ガスが重要な役目をつとめるので、これについては既に各種の自著論文で詳細に論じておいた。大多数の地質学者の間で承認されている通り、過去の地質時代における生物の遺跡によって確証される地質時代の交代は主として大気中炭酸ガスの含有量の変化に帰因するものであって、これはまた当時における火山作用活動の強弱によって支配されたのである。
我々の遊星系に関する知識は、地球の重量の絶対値が測定され、それから容易にその比重が算出されるようになったために、更に著しく豊富の度を加えることとなった。この測定を最初に行ったのはキャヴェンディッシ(Cavendish 一七九八年)であった。彼は直径三〇センチメートルの大きな鉛の球が小さな振子の球に及ぼす引力を地球がこの振子球に及ぼす引力と比較した。その結果から出した地球の比重は五・四五となった。その後キャヴェンディッシの実験は多くの学者によって著しい改良を加えられて繰り返された。そうして最後の結果として得られた地球平均密度は五・五二である。しかるに地殻の外側の比重は約二・六(すなわち、普通岩石の比重)であることから考えると、地球の内部の比重はよほど大きいものとしなければ勘定が合わない。しかるに、鑿井《さくせい》内の温度が深さ一キロメートルを加える毎に約三〇度ずつ上昇することから推して、地下約五〇キロメートルの深さまで行けば地球内部は流動体となっていると仮定されるのであるが、これは地震波の伝播速度に関する観測の結果からも、また振子による重力測定の結果からも裏書きされる(『宇宙の成立』三三頁参照)。もっとずっと深く――約三〇〇キロメートルも――行けば、それ以下の地心全体はガス状態にあるかも知れない。しかし地心における非常な高圧のために、そこの物質の比重はそれが固体であるか液体またガス体にあるかにはほとんど無関係と考えてよい。しかしてこの際問題を決定するものはただ温度の高低である。それで、もし、太陽に最も近い遊星が、これと遠く離れた遊星よりもまた太陽自身よりも大きい平均密度をもつとすれば、それは多分前者が後者よりもずっと低い平均温度をもつためであり、また後者は多分(前者とは反対に)固体の皮殻をもたないであろうと考えられる。この後者のような天体の、表面と我々が称するものは、畢竟我々が望遠鏡でうかがい得る部分であって、その星の最外部に位する軽いガス層中に浮ぶ雲のようなものであると考えられる。地球の平均密度の大きいという事実は、その心殻が重い金属を含んでいることを暗示する。そうしてなかんずく鉄が――隕石や太陽におけると同様に――最重要な成分であろうと思われる根拠がある。
一六七五年に、パリで有名な天文学者カッシニ(Cassini)の助手を勤めていたデンマーク人ロェーマー(〔Ro:mer〕)が、天文学上重大な意義のある発見をした。すなわち、光の速度の測定を可能ならしめる一方法を案出した。彼はガリレオの発見した木星の衛星を観測した。この衛星は木星の陰影中に没すると暗くなるのであるが、この食現象は非常に精密に観測することができる。天体の一周行に要する周期は不変であるから、相次ぐ二つの食の間の時間は不変であるはずである。しかし実測の結果ではそうでないように見える。もし地球ができるだけ木星に接近した位置にあり、両遊星が静止していれば衛星の食は精密に同じ時間間隔たとえば一日と一八時間で繰返されるはずであるとする。そこでもし地球が一つの食の起った後直ちに地球軌道の反対の側に行ってしまったとすれば、当然また一日と一八時間後に起る食現象が、地球上でそれと認められるのは、ちょうど光が地球軌道の直径を通過するに要する時間だけ後れるわけである。これに要する時間は平均九九七秒である。これに対してロェーマーの実測した数値ははるかに大きなもの――一三二〇秒――であった。もちろん実際は一日と一八時間くらいの短時間に地球の進む道は所要の距離すなわち、軌道の半分に足りないことは明らかである。この地球半周行の間に、衛星自身の運動だけのためにも一〇五回の食が起るはずであるのを、その上に木星の運動があるために更に一一回余計の食が起る。しかし時間の差違の関係はこれでも同じことである。そこで、今もし、地球上で光の速度を測定することができれば、上記の食の時間の後れからして地球軌道の直径を算出することができるわけである。この種の測定中で最もよく知られたものは、フィゾー(Fizeau)、フーコー(Foucault)及びマイケルソン(Michelson)の実験である。これらの結果によれば、真空中における光の速度は毎秒三〇万キロメートルである。これから計算すると地球軌道の半径は一四九五〇万キロメートルとなる。一方で直接天文学的方法で測定された結果を比べるとほぼこれと一致するのである。
ラプラス時代以来二大遊星、すなわち、天王星(一七八一年)と海王星(一八四六年)が発見されまた火星と木星との中間に多数の小遊星が発見された(現在では約七〇〇個知られている)。その中の最初のものセレス(Ceres)は一八〇一年の一月一日にピアッツィ(Piazzi)によって見付けられた。これらの運動は皆右回りで、その軌道の傾斜は甚だ多様である。傾斜の最大なのは三四・八三度である。また軌道の離心率も甚だまちまちである(最大〇・三八三)。
特に興味の深いものはいわゆる二重星である。これについては初めハーシェル(W. Herschel)次にストルーヴェ(W. Struve)近ごろではシー(See)によって熱心に研究されたものである。そして多くの場合にこれら恒星の共有重心のまわりの運動を測定することができた。その結果からしてまたこの星の軌道の離心率を算定することも可能になってきた。近ごろになって恒星のスペクトルの研究から、大多数の恒星はあるときは前進しあるときは後退する往復運動を示していることが分った。このような場合にその軌道の離心率を決定することのできる場合もしばしばあった。そうして、我々の遊星の軌道がほぼ円形であるのに反して、これらの星はよほど違った形の軌道を描いていることが分った。これら恒星軌道の離心率の直接に観測されたものは〇・一三と〇・八二の間にあり平均値は約〇・四五(シーによる)になる。
スペクトルによって観測される二重星の離心率はやや小さく、ニューカムの教科書『通俗天文学』に挙げてある一八個について言えば〇と〇・五二の間にあり、平均値は〇・一八(注)である。
(注) シーのその後の算定では、以上二種の二重星について各々〇・五〇と〇・二二となっている。
若干の二重星ではその二つの物体の質量を決定することができた。太陽の質量を単位とすると、ケンタウル星座のアルファ星については一と一、天狼星シリウスでは二・二と一、プロキオンでは三・八と〇・八、蛇遣い星座の第七〇番星は一・四と〇・三四、ペガスス座の第八五番では二・一と一・二である。これらの数値からわかる通りこれらの恒星はほとんどすべて我々の太陽よりは大きい。また『スペクトル二重星』の観測の結果もやはり同様である。多くの場合に二つの恒星の一方は光輝が弱くて認められない。そういうのを名づけて『暗黒随伴体』という。甚だ珍しいのは変光星アルゴールであってこの星の質量は比較的小さく、そして時々暗黒随伴体で掩蔽される。アルゴールの直径は二一三万キロメートル、その随伴体のが一七〇万キロメートルと算定されている。すなわち、太陽の直径一三九一〇〇〇キロメートルに比して両方とも著しく大きい。それにかかわらずその周期から計算される質量は太陽のそれの〇・三六と〇・一九である。従ってこれらの比重は太陽のそれの〇・一にすぎないのである。
また別の変光星、ヘルクレス座のZ星は、ハルトウィク(Hartwig)の計算によると、二個の巨大な太陽より成り、両者は四五〇〇万キロメートルの距離を保って旋転しその直径はそれぞれ一五〇〇万キロメートル及び一二〇〇万キロメートル、その質量はそれぞれ太陽の一七四倍と九四倍を超過し、比重は〇・一三八と〇・一四六である。不思議なことには小さい暗黒な方の物体が大きい方とほとんど同じくらいの小さい比重をもっているのである。ペガスス座の二重星Uは、マイヤース(Myers)の研究によると、太陽の比重の〇・三くらいの平均比重をもっている。またロバート(Robert)の推算による、プッピス星座の二重星Vは太陽の三四八倍の質量をもっているが、その比重は太陽のそれのわずかに五〇分の一にすぎない。また有名な変光星、琴座のベータ星はマイヤースの計算では太陽の三〇倍の質量をもっているのにその比重は一六〇〇分の一にすぎない。
光輝の強いカノプス(これは天の南方にある)、リーゲル(オリオン座の)及びデネブ(白鳥座の)もまた太陽より数千倍大きいものと推定されている。
最近に発見された最重要な事実は、明らかに一つの団体に属すると思われる一群の恒星が天の一方にある共通な集合点に向かって、互いに並行な軌道を同様な速度で進行していることである。たとえばアルデバランと昴すなわちプレヤデスとの中にある牡牛座の多くの明るい星は互いに並行に東方に移動している。また同様に大熊星座のベータ、ガムマ、デルタ、エプシロン及びゼータの諸星は一群を成していていずれも同じ鳩座のガムマ星に向かって動いている。近ごろになってヘルツスプルング(Hertzsprung)はまた、これとは遠く離れた天空にある若干の恒星、なかんずくシリウスなどもやはり同一群に属するということを証明した。
このような『漂浪星群』についてその距離を算定することができる。すなわち、ポッツダムのルーデンドルフ(Ludendorff)は、上述の大熊星座の五星は太陽よりも六〇〇万倍の距離にあり、シリウスより一〇倍遠いという結果を得た。大熊星座の他の二つの明るい星、アルファとエータとは前とは別な天空上の一点(射手座の)に向かって動いているが、この二つの距離は前述の隣の諸星と同一である。これから計算するとこれらの星は平均して太陽よりも約八〇倍明るいということになる。その中最も明るいアルファ星は太陽の一二六倍に当る。この星は太陽と同じく黄色であってその大きさは太陽の約一〇〇〇倍に当ると思われる。しかし他の諸星はシリウスのように白色であって、到底上記の大きさには達しないであろうが、それでもとにかくシリウスよりは比較にならぬほど大きいものである。
これらの算定の結果はまだ全く決定的のものではないかも知れないが、しかしこれから明らかに次のようなことは証明される。すなわち、我々の太陽は質量から見ればむしろ恒星中でも小さい方であるということ、また太陽はその比重においてかなり高い程度に達しており、すなわち、星の進化の段階から見て比較的進んだ段階にあるということである。太陽が光輝の弱い星であるということは、諸恒星の距離が詳しく知られるにつれて明らかに認められてきた。もし太陽がアルクトゥルスあるいはベテルギュースと同じ距離にあったとしたら肉眼ではとても認められないであろう。一等星の距離の平均に相当する距離にあったとしたら、太陽はまず五等星くらい、すなわち、肉眼で見える中では最も光輝の弱いものに見えるであろう。
このように、我らの太陽がその同類中で比較的末席を占めているというのは、もちろん、我々が主として最も大きく最も光った星を調べたためだということにも帰因する。カプタイン(Kapteyn)はこの点を考慮に入れて釣合を取ろうと試みた。すなわち、彼は種々の光度――太陽の光度を単位として――の多数の恒星が、太陽を中心として五六〇光年を半径とする球内にいかに分布されているかを計算した。そうして次の結果を得た。
  光度                  星の数
一〇〇〇〇以上                 一
一〇〇〇〇ないし一〇〇〇           二六
一〇〇〇ないし一〇〇           一三〇〇
一〇〇ないし一〇            二二〇〇〇
一〇ないし一             一四〇〇〇〇
一ないし〇・一            四三〇〇〇〇
〇・一ないし〇・〇一         六五〇〇〇〇
この表は光力の減ずるに従って星の数が著しく増加することを示す。これから見ると暗黒な天体の数は光輝あるものの数をはるかに凌駕するであろうと考えないわけにはゆかなくなる。もっともこれらの暗い星は必ずしも質量が小さいとは限らないであろう。しかし最も明るい星はその容積が大きくまた高温度のためにその比重が甚だ小さいにかかわらず大きな質量をもつであろうと考えるのはむしろ穏当であろう。
二重星の軌道が遊星のそれとは反対に非常に離心的であるという事実は、我々の遊星系の著しい規則正しさがむしろ例外の場合だということの証拠とも見られる。しかしこれは決して必然な証拠にはならない。二星間の衝突の際に中心体の周囲に拡散する星雲状の円板は、一般には全質量のただの一小部分を成すにすぎない。中心体の外側の物質の大部分は、放出された微粒の速度のために、また一方高速度な分子の逸出のために空間に向かって飛散する、同時にこの旋転する円板は宇宙空間から輻射を受け取るために絶えず拡大される。今外部の宇宙空間から一物体がこの旋転する板中に陥入したとすれば、そこに二つの場合が起り得る。もしこの物体の質量が、たとえば彗星のように、板のに比べて小さいときには、物体は板によって円運動をするように強制される。そこで一つの遊星ができ、これはほとんど円形の軌道に沿って円板の平面内を運行するであろう。しかるに、もし侵入体が円板に比して大きい質量であった場合にはどうかというと、この物体の速度はやはり減殺され、そうして、ときにはこの星雲の中心体から再び離れ去ることができなくなる場合もあり得る。しかし円板物質のために侵入体の軌道はわずかしか変化しないから、その結果として軌道は甚だしく離心的となり、また軌道面の板面に対する傾斜角もいろいろ勝手になり得るわけである。この後の場合はちょうどラプラスの考えた太陽系に対する彗星の関係に相当する。これに反して上記二つの場合の最初のものでは新たにできた遊星の質量は比較的小さいからそれが冷却するために元来たださえ微弱な光力を速やかに減じ直接には認められなくなってしまう。また物体が小さいために光った中心体の運動に及ぼす影響も甚だ僅少であり、またこれのために生ずる往復運動もささいなものであって、それによって暗黒随伴星の存在を証し得るほどのものにはならないのである。こういう場合の方が、大きな天体の捕えられる場合よりも多数であろう。これは第一、小さな天体、たとえば彗星のようなものが比較的多数であることからそう思われる。『その数は海中の魚の数ほど多い』とケプラーが言っているくらいである。大きな天体はたいていの場合に星雲体を貫通して、しかも余り著しくその速度を減殺されずに更に宇宙の旅を続けることができるであろうと思われる。こういう普通の場合にはしかし我々の観測を免れるのである。大きな天体がその侵入によって生じた二重星の一員となるような場合には、それ以前から存在した遊星は多分非常に複雑な軌道を取るようになりがちであろうと思われる。
スペクトルの色と温度との関係を与えるウィーンの法則は恒星の温度の決定にも応用された。しかしこれを応用するには厳重な吟味をした上でなければならないというのは、我々の観測する星の光はその星の全輻射ではなくて、その外部雰囲気の吸収によって弱められたものだからである(『宇宙の成立』六四頁参照)。
星の温度は、また、その光のスペクトル線の強さからも判断される。ガスの吸収スペクトル中の多くの線は温度が昇るに従って強められ、またある他の線はかえって弱められる。ヘール(Hale)とその共同研究者等は、カリフォルニアのウィルソン山で金属のスペクトルを研究したが、それには一一〇ボルトの電圧で二アンペアと三〇アンペアと二通りの電流を通じた弧光の中でこれら金属を気化させた。この後者すなわち電流の強い方がもちろん温度が高い(その金属の尖端の間に通ずる火光放電の方が一層高温である)。それでこの方法によって温度の上昇に伴うスペクトル線の変化を確定することができた。その結果から、二つのスペクトルを比べると、どちらが高温に属するかということが言われるようになった。従ってたとえば一つの恒星あるいは太陽黒点上の光が太陽光面上に比べて高温であるかまた低温であるかを判断することができるようになったのである。ヘールの結果によれば、太陽黒点の光を吸収しているガスの温度は、太陽光面の光を吸収するものよりも低い。これは疑いもなく黒点上のガス体の密度が他所よりも大きいことによるのであろうが、しかしこれは黒点の基底の輻射層が、太陽の一体の光面の光を出す光球雲《フォトスフェアー》よりも低温だという証拠にはならない。ヘールの研究室で行われた比較研究の結果によると、アルクトゥルス、それよりもなおベテルギュースのスペクトルが太陽のスペクトルと相違する諸点がちょうど黒点のそれと同様である。従ってこれらの巨星、なかんずくベテルギュースの光を吸収するガスは太陽の光球雲よりも低温度にあることを推定することができる。しかしこれらの異常に巨大な星の輻射層の温度が太陽のそれよりも低いとは限らない。むしろこの場合には多分それと反対であって、その外側のガス被層の低温なのはこの光を吸収するガス体の比重の大きいためであるらしく思われる。
英国人G・H・ダーウィン(G. H. Darwin)がその古典的名著中に述べたように、遊星系の進化には潮汐の作用が多大の影響を及ぼしたに相違ない。彼の証明したところによると太陰は昔は多分地球から著しい近距離にあってしかしてこの両者は一つの運動系として四時間足らずの周期で回転していたものである。これがために潮汐作用は非常に強かったので地球の回転周期は次第に延長され、その際に消失する回転のエネルギーの一部は、太陰を徐々に現在の距離に持ってゆくために使われた。これと同様なわけで、太陽もその進化の初期に、まだその直径がずっと大きかったころにはその潮汐作用によって諸遊星に甚大な影響を及ぼしたであろう。なぜかと言えばこの作用の強さは直径の三乗に比例するからである。
この作用のために太陽も諸遊星もその自転速度を減じ、また諸遊星と太陽間の距離も変ったであろう。火星の衛星のうちでフォボスと称するものはその軌道の周期が火星の自転周期よりも短い。これは特異な現象であるが、ダーウィンはこれを次のように説明した。すなわち、火星の自転周期は以前は――ラプラスの仮説の通り――フォボスの公転よりも短かったのであるが、しかし太陽の潮汐作用のために長くなって、今では二四時間三七分となり、フォボスの周期七時間三九分に対して著しい長さになったというのである。土星の輪についても同様なことが言われる。この輪の最内側の微塵環の回転周期は五・六時間くらいであるのにこの遊星自身のそれは一〇時間と四分の一である。普通の仮定からすると、土星の太陽からの距離は余りに大きすぎるので火星の場合と同様な説明はここには適用されない。しかし、この最内側の土星環はだんだん遊星に接近したためにその回転速度を増したということも可能ではあるまいか。もし遊星にわずかな雰囲気の残余があってこれと環物質との間に摩擦があるとすれば、こういうことになったかも知れない。これはラプラス自身既に暗示したことであるが、後にウォルフ(C. Wolf)がこの説を継承した。
前に述べた通り、ラプラスの仮説の当面の難点は、この説によると、カントの場合も同様に、諸遊星の回転方向が太陽のそれと反対になり、いわゆる逆転とならなければならないと言うことである。ピッケリングはこれに対して次のように考えた。すなわち、すべての遊星は初めには実際逆転をしていたが(注)、しかし太陽の潮汐作用のためにこの運動を減殺され、ついにはいつも同じ側を太陽に向けるように、すなわち、右回りの回転をするようになり、その自転周期は公転周期と同一になった。その後に諸遊星がだんだん収縮したためにその自転が加速されるに至ったというのである。最外側の二遊星海王星と天王星とは太陽から余りの遠距離にあるために太陽の潮汐作用も非常に弱く、従ってこの作用が十分の効果を遂げないうちに収縮してしまい、ついに全くこの作用を受けなくなってしまったものである。これらの遊星の質量はその次の遊星すなわち土星の約六分の一にすぎないくらいであるから、その冷却もまた土星に比べてはるかに急激であったはずである。そういうわけでこの二星は一般の規則に外れたものとなった。土星については、その衛星中九番目のものヤペツスまでは右回りである。これは土星から三五〇万キロメートルの距離にある。これに反して、ピッケリングによって発見された第一〇番目の衛星フォエベは、これよりも三倍半の距離にあってその回転は逆転である。ピッケリングは、この衛星は土星自身がまだ逆転をしていた時代にできたものであろうと考えた。しかしこれの離心率が大きいこと(〇・二二)から考えるとむしろこれはこの遊星系の彗星に相当するものであって、この付近の星雲物質が既によほど稀薄になった頃になって土星の引力の領域に入り込んだものであると、こう考えた方がもっともらしく思われるのである。木星の衛星でもやはり一番外側のは逆転であるがそれ以内の遊星の衛星はすべて一般の規則通りである。
(注) 我々の説からみれば、最初の回転方向は、外界から侵入した最初の凝縮核の運動次第で任意なものと考えられる。
この章で述べてきた諸発見の大部分は、我々の太陽系以外の天体に関するものであった。強度の望遠鏡が使用されるようになり、ことに分光器(一八五九年以後)の助けを得るようになってから始めてこれらの極めて遠隔した物象の特異な性質に関して立ち入った研究をすることが可能となったわけである。それだのにデモクリトスは紀元前四〇〇年の昔既に銀河の諸星は我らの太陽と同様なものだと考えていた。また近世の初期にジョルダノ・ブルノは恒星を太陽としてその周囲を回る遊星を夢想していた。彼らがこういう考えを抱くに至ったのは、すべての科学者の研究に際して指針となる信念、すなわち、比較的未知なるものも、根本的には、我々の手近で詳しく研究されたものと同様であるという信念に追従したまでである。その後の経験はデモクリトスとブルノの考えの正当であることを示すと同時に、また上記の自然科学根本原理が一般に正しい結論に導くものだということを示した。それで諸恒星は我らの太陽と同じようなものであるが、ただあるものは我らの日の星より大きく、あるものは小さくまたあるものはもっと高温、あるものは寒冷なのである。
しかし、ハーシェルの発見したように、彼の研究した星雲中の多くのものは種々な点、たとえばその光やまたその広がり方において太陽とは相違している。これらの星雲は遠く広がった稀薄なガス塊から成り立っているのであるが我らの太陽系にはこれに類似のものは一つも存在しない。しかし彼はこれら星雲を他の類似の形成物と比較研究した結果として星雲と太陽との間の過渡形式と見られるべきものの系列を発見し、そこから、これらの多様な形式は天体の変化における進化の段階を示すものであるという結論に達した。
ラプラスの有名な太陽系の起源に関する仮説はその基礎の一部を上記の研究においている。その後に得られた非常に豊富な観測資料はすべての主要な点についてハーシェルの考えを確かめると同時に天体の本質に関する我々の観念を著しく明瞭にした。
疑いもなく我々は現在でもまだわずかに星の世界の知識の最初の略図を得たにすぎない。それで我々もまたデモクリトス、ブルノ、ハーシェル、ラプラス等と同様に、まだ研究の届かぬ空間も、根本的には、完備した器械の助けによって既にある度まで研究の届いた空間と同様であると仮定する外はない。多分将来における一層深い洞察の結果も、あらゆる主要の点においては我々の考えを確かめるであろうと信ぜられるが、またそれは同時に今日我々の夢想することもできないような新しい大胆な観念構成の可能性を産み出すであろう。そうして我々の知識は絶えず完成され、我々の考え方は先代の研究者の見い出したものから必然的論理的に構成の歩を進めてゆくであろう。皮相的な傍観者の眼には、一つの思考体系が現われると、他のものが転覆するように見えることが往々ある。そのために、科学研究の圏外にある人々からは、明解を求めんとする我々の努力は畢竟無駄であるという声を聞くことがしばしばある。しかし誰でも発達の経路を少し詳しく調べてみさえすれば、我々の知識は最初は目にも付かないような小さな種子からだんだん発育した威勢の良い大樹のようなものであることに気が付いて安心するであろう。樹の各部分ことに外側の枝葉の着物は不断に新たにされているにもかかわらず、樹は常に同じ一つの樹として生長し発育している。それと同様にまた我々の自然観についても、数百千年に亘るその枝葉の変遷の間に常に一貫して認められる指導観念のあることに気が付くであろう。 
9 宇宙開闢説におけるエネルギー観念の導入

 

ラプラスが太陽系の安定に関する古典的著述を完成して満悦の感に浸っていたときには、太陽は未来永劫不断にそれを巡る諸遊星に生命の光を注ぐであろうという希望に生きていたことであろう。彼には太陽系内における状態は常に現在とほぼ同様に持続するであろうと思われた。この偉大な天文学者も、また彼と同時代で恐らく一層偉大であったハーシェルでも、太陽の強大な不変な輻射に対して何らの説明を下そうとも思い及ばなかったのである。
しかし太陽の高温また恒星の灼熱の原因が何であるかという問題は十分研究の価値のあることである。既にアナキサゴラスは恒星の灼熱はエーテルとの摩擦によるものという考えを出している。更にライブニッツ及びカントは太陽の熱が燃焼によって持続されていると言明しており、またビュッフォンは遊星が灼熱状態から冷却してしまうまでの時間について注意すべき計算をしている。ラプラス自身でさえ、遊星を構成する物質は始めは灼熱されていて後に冷却したものだと仮定しているくらいである。
しかし、この種の観察が一つの安全な基礎を得るようになったのは、熱に関する器械的学説が現われて、前世紀の中ごろ、自然科学の各方面で着々成功を収めるようになってからのことである。この学説によれば、エネルギーもまた物質と同様に不滅である。物質の量の不変ということは、昔から宇宙進化の謎について考察したほどのすべての人によって暗黙のうちに仮定されたことであったが、一八世紀の終りに至ってラボアジェーによって始めて完全に正当なものとして証明されたのであった。
太陽は生命を養う光線を無限の空間に放散しているから、これによるエネルギーの消費を何らかの方法で補充しているか、さもなければ急速に冷却しなければならないはずである。しかし地質学者の教うるところではこの後者の方は事実と合わない。すなわち、幾十億年の昔から今日まで太陽の光熱はほとんどいつも同じ程度に豊富な恩恵を地球に授けてきたに相違ないと説くのである。それで、マイヤー(Mayer)はエネルギーの源の一つを隕石の落下に求めようという最初の試みをした後に、ヘルムホルツ(Helmholtz)が現われてこのマイヤーの考えを改良した。ヘルムホルツの考えでは、太陽の各部は次第にその中心に向かって落下するのでそのために熱が発生するというのである。この考えはこの問題の答解として最良で最も満足なものと考えられてきたが、現代に至って地質学上のいろいろの発見から、このエネルギーの源では到底不十分であるということが明白に見すかされるようになった(『宇宙の成立』第三章参照)。
この物理学的の問題は次第に多く注意を引くようになった。物体、特にガス体の、圧力並びに温度の変化に対する性能が次第に詳細に知られてくるに従って、天体の温度とその容積変化並びにその受取りまた放出する輻射によるエネルギーとの収支の関係もまた次第に精細に研究されるようになってきた。この方面に関する研究の中で最も顕著なのはリッター(Ritter)のである。これについては更に後に述べることとする。
天体の問題について、温度並びに重力の及ぼす純物理学的の変化に関して憶測を試みる際に、また一方で天体の諸成分間に可能な化学作用に及ぼす温度の影響に関する我々の知識をも借りてここに利用すれば本質的な参考となるわけであるが、我々は今正にそれをしようとしているのである。ヘルムホルツはただ純物理学的な過程のために遊離発生する比較的僅少なエネルギーのみを問題として、これよりはるかに有力な化学的過程によるエネルギーの源泉を閑却したためにそこに困難が残されていたのであるが、しかしこの場合における諸関係を十分に研究すれば多分この困難からの活路を見出すことができるであろう(これについては次章で更に述べる)。
重力の法則と物理的過程に際するエネルギー不滅の法則とを応用してどこまで行けるかということは、リッター(A. Ritter)のこの二原理を基礎とした非常に行届いた研究によって見ることができよう。彼はまた普通のガス態の法則がこの際適用するものと仮定したのであるが、しかし熱伝導と輻射とは余り重要でないものと見なしている。もっとも彼より八年前にレーン(Lane)がほぼ同様な研究をしているがこれはそれほど行届いたものではない。その後にケルヴィン卿(Lord Kelvin)や、シー(See)やまた特にエムデン博士(Dr. Emden 一九〇七)がこの問題の解決について有益な貢献をした。なかんずくこの最後の人のは数学的にこの問題を取り扱った大著であって、将来この方面の研究をする者にとって有益な参考となるものであろう。しかし物理的の点では彼の考えは余りリッター以上には及んでいない。輻射の影響については近ごろになってシュワルツシルト(Schwarzschild)の研究の結果がある。しかしここではただリッターの研究の主要な結果を述べるに止めようと思う。
リッターの考えでは、彼の仮定したような法則に従うガス塊は、一般にある限界によってその外側を限られ、そこでは温度が絶対零度まで降下しており、そこから内側へ行くほどだんだんに温度が高まり、そうして各点における温度は任意のガス塊が前記の限界からその点まで落下したときの温度と精密に同一であるというのである。これを分りやすくするために地球雰囲気の場合を例に取って考えてみよう。今地球表面の温度を摂氏一六度(絶対温度の二八九度)とする。これは実際地球上の平均温度である。すると、リッターの仮定に従えば、雰囲気の高さは二八・九キロメートルということになる。なぜかと言えば、今一キログラムの水が一キロメートルの高さから落ちるとすればその温度は 1000÷426 すなわち二・三五度だけ上昇する。ところが空気の比熱は〇・二三五である。それで一キログラムの水を〇・二三五度だけ温め得る熱量は、一キログラムの空気ならば一度だけ温度を高めることができる。従って、一キログラムの空気が一キロメートルの高さを落ちるとその温度は一〇度高くなる(ここでは、リッターの考えに従って等圧の場合の空気の比熱を使って計算した)。それゆえに気温が絶対零度から二八九度まで昇るためには二八・九キロメートルの高さから落ちるとしなければならない。従って地球表面から測った雰囲気の高さはちょうどそれだけである、というのである。
雰囲気がもし水素でできているとしたら、その比熱は三・四二であるからその高さは四二一キロメートルとなるであろう。同様にもし雰囲気が飽和水蒸気とその中に浮遊する水滴とで成り立っているとしてもその気層の高さはかなり著しいものになるであろう。なぜかと言えば、こういう混合物の温度を一度だけ上昇させるためには、ただ蒸気を温めるだけでなく、その上に水滴の蒸発に要する熱を供給しなければならないからである。すなわち、あたかもこのような混合物の比熱が比較的大きいものであると考えればよいことになる。リッターも計算した通り、地面の温度が〇度であるとすると、水蒸気でできた雰囲気の高さは三五〇キロメートルとなる。それで実際の場合において空気中にはその凝縮し難い成分以外に水蒸気と雲とを含んでいるために雰囲気の高さは前に計算した二八・九キロメートルよりも二キロメートルだけ大きく取らなければならないことになる。
しかるに、リッターの言う通り、この結果は全く事実に合わない。隕石の観測の結果から見ると地上二〇〇キロメートル以上の高さで光り始める場合がしばしばある――この灼熱して光るのは空気との摩擦の結果である。北光の弧光は空気中における放電によるものであるが、これの最高点は約四〇〇キロメートルの高さにある。また近年気球で観測された結果では、約一〇キロメートルの高さから以上は気温はほとんど均等であって、上方に行くに従って毎キロメートル一〇度ずつの減少を示すようなことはない(注)。
(注) このように温度が均一になり始める限界の高さは赤道地方では二〇キロメートル以上、中部ヨーロッパでは一一ないし一二キロメートル、また緯度七〇度付近では八キロメートルである。
リッターは彼の計算と事実との齟齬の原因を説明するために、非常に高い所では空気のガスが、ちょうど下層における水蒸気のように、凝縮して雲となり、その結果として著しく雰囲気の高さを増しているものと考えた(注)。しかし今日では、この凝縮は零下二〇〇度以上では起り得ないことが知られている。すなわち、気球が到達し得られるような高さで、そして温度の上方への減少がほとんど分らなくなる高さなどよりははるかに高い所でなくては起り得ないはずである。気象学者の中でもこの現象の説明はまだ一致していない。私自身の考えとしては大気中の炭酸ガスと水蒸気またあるいはオゾンによる熱輻射とその吸収とがこの際重要な役目をつとめているものと信じている。
(注) ゴルドハムマー(Goldhammer)の計算によると、窒素では六二キロメートル、酸素では七〇キロメートルとなる。
リッターは、更に、地球を貫通する幅広い竪穴を掘ったとしたら地球中心での気温がどれだけになるかを計算した。もちろんその際重力は竪穴内の深さとともに変化し地球中心では〇となるということを考慮に入れて計算した結果は、竪穴内の地心における温度は約三二〇〇〇度ということになった。なお彼のその後の計算では地球中心の温度は約一〇万度となっている。これから見てもガス状天体では中心に近づくに従って温度が増すということが了解されるであろう。しかるに地球は表面から四〇〇キロメートル以上の深さではきっとガス態にあると思われるから、この場合のリッターの計算はある程度までは当を得たものと考えられる。もっとも地球内にあるガスの比熱は、リッターの計算に用いたガス比熱よりは著しく大きいに相違ないから、地心の温度は彼の得た値よりもむしろ低くなるはずであって、たとえ化学作用のことを勘定に入れてみても彼の値の半分にも達しないかも知れないのである。一方で地心における圧力はというと、それは約三〇〇万気圧と推定されている。
次に太陽に関する考察に移ることとする。太陽の最外層における重力は地球のそれの二七・四倍であるから、もし太陽の雰囲気が空気でできているとしたら、その温度は高さ一キロメートルを下る毎に二七四度ずつ増すはずである。しかるに太陽の外側の雰囲気は主に水素から成立し、しかも、地球上では水素原子が二つずつ結合して一分子となっているのに反して太陽では一つ一つの原子に分離されているのである。単原子状態にある水素の比熱は、太陽表面におけるような高温度に於ては約一〇ですなわち〇度における空気の比熱の四二・五倍と見積られている。従って太陽の最高層における温度は一キロメートル昇る毎に約六・五度ずつ降るわけである。ところが太陽の光を放出しているかの太陽雲の温度は約七五〇〇度と推定されているから、それから推算すると、この光った雲以上の雰囲気の高さは約一二〇〇キロメートルに達しなければならないはずである。それにもかかわらず、ジュウェル(Jewell)が、太陽光球雲外側のガスに於ける吸収スペクトル線の位置から算定した結果で見ると、これだけ高い雰囲気の及ぼす圧力はわずかに約五ないし六気圧しかないことになる。もしこれが地球の上であったとしたらこの圧力は二七・四分の一、すなわち約〇・二〇気圧となるはずである。それで、太陽の光雲以上のガスの質量は、地球表面から一二キロメートル、すなわち、一番高い巻雲の浮んでいるくらいの高さ以上にある空気の質量よりも大きくはないのである。
太陽上層のいわゆる色球《クロモスフェア》、すなわち、太陽光雲の上にあって水素ガスに特有な薔薇紅色を呈しているガス層の高さを日食の際に測定した結果は約八〇〇〇キロメートルとなっていて、上に計算した数値の六倍以上になる。すなわち、地球の場合と同様に雰囲気の高さはリッターの計算から期待されるよりは数倍も高いという結果になるのである。
太陽の最外層の温度が零度あるいはそれ以下に降るであろうという仮定もまた妥当ではないと思われる。そこでは強い輻射を受けているからそれほどまで冷却するということは疑問であろう。太陽雰囲気のこの部分には凝縮によって生じた微粒が恐らく多量に存するであろうということは、太陽板面の周縁に近づくほど光輝が弱くなることから推定される。すなわち、縁に近いほどそれだけ厚い気層を光が通過してくると考えられるからである。これらの微滴粒は太陽体の輻射によって熱せられ、かくして得た高温度をその周囲のガスに付与するであろう。この点では地球の雰囲気にも同様なことがある、すなわち、多数の塵埃の粒が太陽からの輻射を吸収して約五〇ないし六〇度の温度となり、そうしてその温度をガスに分与するのである。それで両者いずれの場合でも、温度が高さとともに減ずる割合はリッターの計算したよりももっと少なくなるわけであり、従って雰囲気の高さもリッターの数字が示すよりも数倍高いのが本当であろうと思われる。
さて再びリッターの研究に立ち帰るのであるが、彼は球状のガス体星雲の表面から内部へ進むに従って温度、圧力及び比重がいかに変化すべきかを計算した。この計算をシュスター(A. Schuster)が少しばかり改算したものを、私は『宇宙の成立』の一七九頁に紹介しておいた。その結果によると、もし太陽内部が原子の状態にある水素ガスからできているものとすれば、その中心には約二五〇〇万度という温度が存することになり、そこの圧力は八五億気圧、比重は八・五(水を一として)となる勘定である。もっとも同書に掲げた表は、もし太陽が現在の半径の一〇倍を半径とする星雲に広げられたとしたらその中心点の温度が二五〇万度になるはずだということを示しているのであるが、しかしそういうものが太陽の実際の大きさまで収縮するとその重力は一対一〇〇の比に増大し従って深さ一キロメートルに対する温度増加率もまたこれに相当する割合で増すべきである。しかるに半径がもとの一〇分の一に減ずるからこの質塊の中心における温度はもとの値に対して一〇分の一の一〇〇倍となる。すなわち、星雲のときの一〇倍になるはずである。太陽の中心以外の他の点についても同様のことが言われるので、従って収縮の際における温度増加の結果として温度は半径に逆比例することになるのである。しかるに太陽を構成するガスは甚だしく圧縮された状態にあるのだから多分簡単なガス法則には従わないであろうと信ぜられるので、この理由から太陽内部の温度はリッターの考えたほど高いものではないと思われる。彼に従えば、もし太陽が鉄のガスでできていると仮定するとこの温度は一三億七五〇〇万度となるのである。太陽の収縮によって起る温度上昇の結果多量の熱を吸収するような化学作用が始まり、それによって再び温度の著しい低下が惹起されるのであろうと考えられる。それでまずざっと見積ったところで太陽の温度を平均一〇〇〇万度くらいと見てもよいかと思うのである(注)。
(注) しかしエクホルム(Ekholm)はもう少し小さい値五四〇万度を出した。
さて前述の星雲のようなガス団塊が収縮すると、前述の通りその温度が昇る。そうしてその上昇の際に、ヘルムホルツの考えたように収縮に伴って離遊してくる熱量の大部分は消費されることになる。仮に何らの化学作用が起らないとしてみても上記の値の八一%は加熱のために割当てられ、一九%だけがわずかに外方への輻射として残ることになる。もっともここでリッターは水素二原子より成る H2 について計算したのであるが、もし単原子のHだとすると輻射が五〇%に達することになる。この結果として言われることは、太陽は約五〇〇万年(後の場合ならば約一二〇〇万年)以上現在のままの輻射エネルギーを放出し続けることはできないということである。のみならず実際は太陽の輻射は過去において既に著しく減少したものと考えなければならない。もっともリッターももちろん地質学者の方では地球上における生物存在の期間に対してこれよりもずっと永い年数を要求しているということを承知していたであろうが、しかし彼もまた多くの物理学者と同様にヘルムホルツの考えた熱源が何よりも一番主要なものだと確信していたために地質学者らの推定の結果には余り重きをおかなかったのである。しかしその後に至って行われた諸研究の結果はかえって地球の年齢を地質学者の推定よりも更に長くするようなことになってきたのである。種々の地質時代に塩類の層が生成された際にそれがいかなる温度の下に行われたかに関するヴァントフ(van 't Hoff)の研究があるが、その結果から見ても、またそれらの時代における珊瑚礁の地理的分布の跡から見ても、地球上の気温並びに太陽の輻射は当時と今とでそれほど目立つように変っていないということが証明される。それで太陽の収縮に際して生ずる熱よりも、もっと多量な、またもっと変化の少ない熱量を供給するような熱源をどこかに求めることがぜひとも必要になってきた。この熱源は多分太陽が徐々に冷却する際に起る化学作用に帰すべきであろう。この作用の過程は太陽星雲の収縮する際には逆の方向に行われたはずであるから、それから考えると、この後者の収縮はリッターが考えたよりももっと急速に行われたはずだということになる。太陽が他の太陽と衝突した後広大な星雲片から現状までに収縮するまでに要した時間は、もしその輻射が昔も今も同強度であったとすれば、やっと一〇〇万年足らずの程度になる。しかし太陽はそれがまだ星雲状の段階にあった際に外界からの輻射を吸収することによってばく大なエネルギーの量を蓄蔵したに違いない。後にこの太陽の平均温度が下降し始めるようになってからこのエネルギーが熱量の消耗を補給するために徐々に使用され、そのおかげで温度もまた従って大きさもまた輻射も非常に永い時間ほとんど不変に保たれてきたのであろう。これと同じわけでまた星雲状段階の継続時間もリッターの計算から考えられるよりもはるかに永いものであったということになるのである。
リッターは更に計算の歩を進めて次のような場合をも論じている。すなわち、ある我らの地球と同様に表面が固結した天体があって、その雰囲気の高さが甚だ高く、もはやその中での重力を至る所同大と見なすことができないような場合である。この場合の計算の結果は、その天体の固態表面の温度がある一定の値を越えるとその雰囲気はもはや一定の限界をもつことができなくなり、ガスは散逸してしまうということになる。この計算を水素ガスに適用した結果として、もし太陰に水素の雰囲気があるとすると、それはその温度が常に零度以下八五度よりも低い場合に限って保有され得るということになった。ところが太陰表面の温度は平均してほぼ地球のそれに等しくまた最も温かい所では一五〇度にも達するのであるから、従って太陰には水素雰囲気はあり得ないということになる。同様にしてまたリッターは太陰の表面には水も存在し得ないということを示した。同様なことはまた、太陰よりも著しく小さい小遊星についても当然一層強い程度に適用されるのである。
リッターのこの方面の研究には多数の後継者があった。中でもジョンストーン・ストーネー(Johnstone Stoney)とブライアン(Bryan)が最も顕著な代表者であった。彼らは分子の運動速度に関する器械的ガス体論の仮定を基礎とした。ストーネーの結果だと地球はその雰囲気中に水素を保有し得ないことになるが、これはあるいは正しそうにも思われる。しかし彼の意見ではヘリウムもまたその運動速度の過大であるために地球のような小さな天体には永住しかねるべきだというのであるが、計算の結果はストーネーのこの考えに余り好都合ではないように見える。もっともこれに対しては地球がはるかな過去のある時代に、今に比べてはるかに高温でありまた巨大であった時分に、ヘリウムが既に地球雰囲気から逸散してしまったであろうということも考えられないことではない。
衝突の効果に関するリッターの研究は甚だ興味のあるものである。既にマイヤー(Mayer)が示した通り、ある一つの隕石がたとえば海王星あたりの非常な遠距離から、初速零で太陽に向かって墜落してくるとすると、これが太陽表面に届いたときの速度は毎秒六一八キロメートルを下らず、しかしてそのために隕石の質量一グラム毎に約四五〇〇万カロリーだけずつのエネルギーを太陽に貢献する勘定である。従ってもしも二個の太陽が衝突するとすれば当然非常な熱量を発生する。そうしてこの熱がかくして生じた新天体の膨張に使用され得るわけである。リッターの計算によると、もし二つの同大の天体が初速度零で無限大の距離から相互に墜落すれば、その際に生じる熱はこの二つのガス団塊を元の容積の四倍に膨張させるに十分である。衝突後の膨張が甚だしくなれば全質量が無限の空間中に拡散されるのであるが、この程度の膨張を生ずるためには、この二つの各々の初速度が毎秒三八〇キロメートルの程度でなければならない。かような速度は恒星にしてはとにかく過大だと思われようが、しかしカプタイン(Kapteyn)が鳩星座中に発見したある小さな八等星の速度はこれより大きく毎秒八〇〇キロメートル以上にも達するらしい。またかの巨星アルクトゥルスの毎秒四〇〇キロメートルにしてもやはり前記の速度を凌駕している。それにしてもかような大きな速度はやはり稀有の例外であるかも知れない。しかるにもしも太陽が尺度の比にして現在の一〇〇倍の大きさであってこれが同様なガス球と衝突したのだとすれば、その初速が毎秒わずかに三八キロメートルだけあれば、その結果は全質量を無限の空間まで拡散させるに十分である。そうしてそれはリッターのいわゆる『遠心的』星雲を形成して次第にますます膨張を続けつつ徐々に空間中に瀰散するであろう。『かの螺旋形星雲と称せられ、通例斜向の衝突の結果生じたものとして説明されているものも、多分この遠心系の一種と見なしてもいいものであろう。』この天体は本来はすべての方向に無限に拡散すべきであったろう。しかしこれが拡散の途中で出遭う微粒子のために運動を妨げられ、そのために進行を止めてしまったであろうということも考えられなくはない。環状星雲の生成も多分これと同様なふうに考えてよいであろう。クロル(Croll)によると、二つの天体の衝突の際に太陽の場合ほどの熱の発生を説明するためには毎秒一〇〇マイル(七四二キロメートル)の速度を要することになっているが、リッターに従えば何もそれほどの速度の必要はない。これについては特に次の点を考慮してみれば分る。すなわち、太陽と同質量を有し、しかもその一〇〇倍の半径を有する一つのガス星雲があったとすれば、それは別の同様な天体と衝突しなくても、ただそれが現在の太陽の大きさまで収縮するだけで光輝の強い白光星となるに十分な高温度を得るということである。
さて、もしも二つの天体衝突の際における速度が前記の特別な値よりも小さかったとするとその場合にはいわゆる求心系が生じる。すなわち、生じたガス球は次第に収縮して一つの恒星に成るのである。リッターの説によると、このような星はある平衡の位置に対して周期的に膨張しまた収縮することがあり得るので、彼はこれによって変光星の光の周期的変化を説明しようとした。しかし、思うに、かような脈動は輻射放出の結果として多分急速に阻止されてしまうであろう。のみならず、かような星の光度の変化は通例リッターの計算から考えられるようなそう規則正しいものではないのである。それでこの点に関する彼の意見はついに一般の承認を得るには至らなかった。
リッターはまた遠心系中にも所々に密集した所はでき得るのであろうと考え、それらが小さな恒星として認められるようになるであろうと考えた。星団はこのようにしてできたかも知れないのである。実際またかの螺状星雲は大部分かような星団からできていると考えられる根拠はあるのである。最後にリッターの持ち出した問題は、銀河も恐らく同様に一つの遠心系から形成された星団でありはしないかということである。しかるにこれに対する彼の説では、もしそうであったとすると銀河系がその付近一体に存する物質の量の主要な部分を占めるということは不可能だということになる。すなわち、衝突後に一つの遠心系を生ずるために必要なような大きな速度を得るためには、彼の考えでは、この二つの互いに衝突するガス団はあらかじめそれよりもずっと大きな質量の引力を受けなければならなかったはずであり、またその後にもやはりその引力の範囲に止まっていなければならないのである。
リッターの研究によれば、二つの光を失った太陽が互いに衝突した際に遠心系が形成されるということは、双方の太陽が異常な高速度を有しているという稀有な例外の場合に限って確実に起るのである。ところが実際上、太陽系の一部分、多分はその小さい方の部分が遠心系を作り残る主要部分が求心系を作ったという考えに矛盾するような事実はどこにも見当らない。こういう経過の方が正常であるということは既にずっと前に特記しておいた通りである。すなわち、遠心系は求心系を中心として一つの螺旋形星雲を形成し、そうしてその求心系はちょうどラプラスがガス状星雲から遊星系への変化について詳細に考究したのと同じようなふうにして徐々に形成されてゆくのである。
リッターはまた我々の太陽くらいの大きさの恒星がその進化の種々の段階において経過してきた時間を計算した。それには四つの期間を区別した。その第一期は星雲期に相応するものである。従ってこの星の温度は比較的低くて初めはいわゆる星雲型のスペクトルを示し、次では赤味がかった光を放つ。ロッキャー(Lockyer)その他の諸天文学者も理論上の根拠からこの考えを共にしているが、しかし観測の結果はこれに相応しない。星雲は水素とヘリウムの輝線スペクトルを示す。しかしまた多くの恒星はこれらの輝線を示し、従ってこの星雲に近似しているが、ただしその色は赤ではなくて白光を呈している。それであたかも、リッターが必要と考えたような星雲と白光星との中間段階(赤色光を放つ星雲状恒星)が欠如していると言ったような体裁である。しかしこれは、たとえそういう過渡的の形式のものがあるにはあっても、それが非常にまれであるということかも知れない(『宇宙の成立』一六七頁参照)。リッターもまたこの中間期の長さが白光星から赤光星への過渡期に比べて比較にならぬほど短かったと考えている。――ベテルギュースのように著しく光の強い赤色の星もあるにはあるがしかしこの赤い色はこの星の雰囲気かあるいはその付近にある微塵の吸収によるものと想像される(『宇宙の成立』六四頁及び一六三頁参照)。――輻射がその最大値に達するまでの第一期間の長さは一六〇〇万年に亘ると考えられる。
その後にも温度は上昇してゆく――ただしその輻射面が急速に減少するために全体の輻射は温度が上ってもこれとともに増すわけにゆかない――そうしてついに最高温度に達する。この期間は比較的短くわずかに四〇〇万年である。第三期にはこの星の光力は続いて減じ温度は降るのであるがこの期間に三八〇〇万年が経過する。そうしてその次に最後の第四期としてこの星の光らない消えた状態が非常に永く継続するというのである。これらの計算はすべて、太陽の熱はその収縮によってのみ発生するという仮定に基づいたものであって、そうしてこの仮定は多分かなり本質的に事実に合わないものだと思われる。それは、この場合に一番重要な役目をつとめるものは恐らく収縮ではなくて化学的の過程であろうと思われるからである。
リッターの計算の結果では、太陽がある遊星と衝突しても、それが既に光の消えた状態にあった場合にはそれによって再び新生命に目覚めるということはできないことになっている。それで遊星が太陽に墜落衝突することによって太陽系が再び覚醒するというカントの詩的な夢想は実現し難いようである。この有名な哲学者はこう言っている。『燃えない、また燃え切ってしまった物質、たとえば灰のようなものが表面に堆積し、最後にはまた空気が欠乏するために太陽には最後の日がくる。そうしてその火焔が一度消えてしまえば今まで全宇宙殿堂の光と生命の中心であった太陽の所在は永遠の闇が覆うであろう。いよいよ没落してしまうまでにはその火焔は幾度か新しい裂罅を開いて再び復活しようとあせり、多分幾度かは持ち直すこともあるであろう。これは二三の恒星が消失したりまた再現したりする事実を説明するかも知れない。』『神の製作物の偉大なものにさえも無常を認めたと言っても別に驚くには当らない。有限なるもの、始めあり根源あるもののすべてはそれ自身の中にその限定的な本質の表徴を備えている。それは滅亡――終局をもたなければならない。神の製作の完全性に現われた神の属性を賛美する人々の中でも最も優れたかのニュートンは、自然界の立派さに対する最も深い内察と同時に神の全能の示顕に対する最大の畏敬をもっていたのであるが、そのニュートンですら、運動の力学によって示された本来の趨向によってこの自然の没落の日のくることを予言しなければならなかった。』『永遠なるものの無限の経過にも、ついにはこの漸近的な減少の果てに、すべての活動が終熄してしまう最後の日が来ないわけにはゆかない。』
『さらばと言ってある一つの宇宙系が滅亡してもそれが自然界における実際の損失であると考えるには及ばない。この損失は他の場所における過剰によって償われるのである。』すなわち、カントの考えでは、銀河の中心体付近にある諸太陽が消燼する一方で、はるかに離れた宇宙星雲から新しい太陽が幾つも生れるので、生命の所在たる世界の総数は絶えず増加しようとしているというのである。それでも、カントにとっては、太陽とそれを取り巻く諸遊星がこの銀河の中央で未来永劫死んだままで止っていると考えるのはやはり遺憾に思われた。それは合理的な天然の施設の行き方と矛盾するように彼には思われるのであった。『しかしなお最後にここにもう一つの考え方があって、それは確からしくもあり、また神の製作の記述にふさわしいものでもあって、そうしてこの考え方が許されるのであったならば、自然の変化のかような記述によって生じる満足の念は愉悦の最高度に引き上げられるであろう。渾沌の中から整然たる秩序と巧妙な系統を作り出すだけの能力をもった自然が、その運動の減少のために陥った第二の渾沌状態から前と同様に再び建て直され最初の組織を更生するであろうと信ずることはできないであろうか。かつて拡散した物質の素材を動かしこれを整頓したところの弾条が、器械の止ったために、いったんは静止した後に、更に新たな力で再び運動を起すということはできないであろうか。――これは大して深く考えるまでもなく次のことを考慮してみれば容易に首肯されるであろう。すなわち、宇宙構造内における回転運動が末期に至って衰退しついには諸遊星も彗星もことごとく太陽に墜落衝突してしまう。するとこれらの夥しい巨大な団塊が混合するために太陽の火熱は莫大な増加を見るべきである。ことに、太陽系中でも遠距離にある諸球体は、我々の理論の証明した通り、全自然界中でも最も軽くまた最も火の生成に効果ある材料を含んでいるからなおさらそうである。』このようにして、材料の追加によって養われたために非常な勢いで燃え上る新しい太陽の火熱は、カントの考えでは、すべてを最初の状態に引き戻すに十分であって、これによってこの新しい渾沌から再び新しい遊星系が形成せられ得るというのである。もしこういう芸当が幾度も繰返して行われるものだとすれば、もっと大きな系、それに比べて我々の太陽系はほんの一部分にすぎないような銀河系でも、やはり同じようにして、あるいは静止しあるいはまた呼び覚まされて荒涼な空間中に新生命を付与するようになるであろう。『このごとくその死灰の中から再び甦生せんがためにのみ我と我が身を燃き尽くすこの自然の不死鳥(〔Pho:nix〕)の行方を時と空間の無限の果まで追跡してみれば、これらのすべてを考え合わせるところの霊性は深い驚嘆の淵に沈むであろう。』
当時はまだ器械的熱学理論は知られていなかった。それでカントはとうに太陽熱が燃焼(化学作用)によって保たれなければならないということをおぼろ気にでも予想していながら、一度燃え切ってしまった物質がまた何度も何度も燃え直して、幾度も新しいエネルギーを生ずるという仮定の矛盾には気がつかなかった。しかしこの美しい哲学的詩に物理学の尺度をあてがうのは穏当ではあるまい。カントでさえこの詩の美しさの余りにしばらくいつもの書きぶりを違えたのである。このカントの立派な創作は畢竟自然の永遠性に対する彼の熱烈な要求を表わすもので、しかもよほどまでは真理に近いものであるが、自然科学的批判の下にはいわゆる烏有に帰してしまうのである。我々がカントの宇宙開闢論の著述を賛美するのは物理学的見地から見てではなくて、むしろその企図の規模の偉大な点にある。この企図を細密に仕上げることはけだしカントの任ではなかったのである。
カントの考えをほとんどそのままに継承したのが心霊派哲学者のデュ・プレル(Du Prel 一八八二年)である。彼はしかしこれをもう少しやさしい形で表現し、またカント以後における天文学の著しい進歩の成果をも考慮に加え、そうしてまたカントの素朴な目的論的の見方を避けた。しかし、消燼した太陽に遊星を墜落衝突させ、それによって太陽を復活させたことは同様である。彼はこう言っている。『冷却したこの宇宙の死骸が、ついにはエーテルの抵抗のために無運動状態に移りゆくべき中心系と合体するまで、空間を通して幽霊のような歩みを続けるであろうとは考えられない。むしろ星団形成の根原となるべき原始星雲は一つの星団のすべての星が合致したもので、それらの運動が熱と光に変化しその結果としてすべての物質が再び星雲状態となるような温度を生じたと考えた方がよい。――ここで我々は仏教徒のいわゆるカルパス(Kalpas)の輪廻を思い出さないわけにはゆかない。それは実に一〇〇万年の何十億倍というような永い期間であって、宇宙が一時絶滅しては幾度となく相い次いでそういう輪廻を繰り返すものである。』しかし、――デュ・プレルの説では――更に詳しく考究してみると、全宇宙が同時に静止してしまうということはないので、ある場所で生命の消滅した所があれば他のどこかでは見事な生命の花が咲き盛っているということが分る。『ペネロペが昼間自分の織った織物を夜の間に解きほごすと同様に、自然もまた時々自分の制作したものを破壊する。そうしてその織物を完成しようという意思があるかどうか我々にはうかがい知ることができない。』
『壊滅の後に各々の星では新しく進化が始まる。そうして、過去の彼方に退場する宇宙諸天体を引っくるめた全歴史は、地球上の我々の立場からは回想することもできぬ深い闇に覆われてしまう。そうしていつの日になっても、我々とは違った人種、我々よりももっと高い使命をもった生物が地球の遺産を相続するようなことはないであろうし、また人間のこれまでに成就した何物もそのままに他の者の手に渡ることはないであろう。』このデュ・プレルもまたメードラー(〔Ma:dler〕)と同様にプレヤデスの七星(Plejaden 昴宿)が、宇宙中心系であって、我が太陽はその周囲を回っているものとした。しかしこの考えは後にペータース(A. F. Peters)の研究の結果から全く捨てられなければならなかった。
『このように、宇宙間には、重力による運動から熱へ、熱からまた空間運動へと無窮に変転を続けている。その変遷の途中のいろいろの諸相が相い並んで共存するのを見ることができる。すなわち、一方には火焔に包まれた天体の渾沌たる一群が光輝の絶頂で輝いているかと思うと、また一方では凋落しかかった星団があってその中に見える変光星は衰亡の近づいたことを示している。またその傍にはもう光を失った太陽が最後の努力でもう一度燃え上りそうして凍結の運命を免れようとしているのが見られる。またある場所では輪郭の明白な星雲球の中に、もう既に最初の太陽の萌芽が見え始めているかと思うと、他の方面では精緻な構造をもっていた諸太陽系が、再び不定型のガス団となって空間に拡散されている。しかも、この「自然」の仕事はちょうどかのシシフォス(Sisyphus)のそれのように、いつまでもいつまでも始めからやり直しやり直しされるのである。』
デュ・プレルは星雲から遊星系へ、また星団への進化を考究するに際してダーウィン流の見方を導入した。我々の遊星系の諸球体は実に驚嘆すべき安定度を享有している。それは彼らの軌道がほとんど同心円に近く、従って相互衝突の心配がないからである。しかしちょうどこういう都合の良い軌道の関係をもたなかった遊星があったとすればそれらは互いに衝突を来たし、その結果はもっと都合の良い軌道をもった新しい天体を作るか、さもなくば、結局また太陽に墜落し没入してしまったであろう。このようにして、衝突の保険のつかないような軌道を動いていた遊星はだんだんに除去され、そうして最後に現在の非常に『合目的』な系統ができ上った。この系統の余りに驚くべき安定度から、ニュートンは、何物か理性を備えたある存在が初めからこれらすべてを整理したものだという仮定を必要と考えたのであった。このデュ・プレルの思考の経路は甚だもっともらしく見えるのであるが実はカントの考えに近代的で、しかも特に美しく人好きのする衣裳を着せたにすぎないのである。
デュ・プレルの考えはまたルクレチウスが次の諸行を書き残した考えにも通じるものがある(『物の本性について』De Rerum Natura 巻一、一〇二一―一〇二八)。
『まことは、原始諸物資は何らの知恵ある考慮によってそれぞれ適宜の順序に排列されたものではなく、また相互の運動に関しても何らの予定計画があったわけではない。これらの多くのものは様々に変化し相互の衝突によって限りもなきあらゆる「すべて」に追いやられ結び合い、あらゆる運動あらゆる結合の限りを尽くしつつ、最後に到達した形態と位置が、今の眼前の創造物としての森羅万象の総和である。』
カントやデュ・プレルの考えたように諸遊星が将来その運動を阻止する抵抗のためにいつかは太陽に向かって墜落するものとしても、ローシュ(Roche)が証明したように、太陽からの距離を異にする各部分に及ぼす重力の作用の不同なために、たとえば太陽近くまで来るかのビエラ彗星(Bielas Komet)のごとき彗星と同様に破砕されるであろう。この破砕に当って疑いもなく猛烈な火山噴出が起りその結果として、当時太陽は既に消燼していてもそれにかかわらず、砕けた破片は一時灼熱状態に達するであろう。しかしこの灼熱による光は多分弱いものであって我々の遊星系外からは望見することのできない程度にすぎないであろう。しかしもしそのときに太陽がまだ光を失っていなかったとしたら、遊星は熔融して灼熱された粘撓性の質塊となるであろうから、余り激烈な変動を起さずに楽にその破片を分離することができるであろう。いずれにしても破砕された遊星は隕石塵のように静かに太陽に落下するので、そのために太陽の物理的状態に著しい変化を生じるようなことはないであろう。それで我々はカント並びにデュ・プレルの開闢論を嘆美はするが、その物理学的根拠を承認するわけにゆかない。彼らの体系は彼らが考えたとはどうにか違ったふうにして実現されなければならない。 
10 開闢論における無限の観念

 

以上の諸章では主として科学的な方面の問題を論じてきたが、ここでは少し方面をかえて、哲学的の問題、ことに無限の観念について述べようと思う。この問題の解釈については従来哲学者の貢献も甚だ多いのである。今、たとえばシリウスのごとき恒星がどれほど遠距離にあるとしても、それよりもなお遠い恒星がやはり存在する。そうして、もしある恒星が最遠で最後のものであると考えるとしても、その背後にはやはり空間のあるという考えが前提となっている。これはどこまで行っても同じことである。それで空間の際限が考えられないと同様にまた時の限界も考えることはできない。どれほど遠い昔に遡ってみても、やはりその以前にも時があったと考える外はない。同様にまた時の終局というものも考えることができない。換言すれば空間は無限であり時は永久である。
しかるに我々の思考力では無限の空間や無限の時間という観念を把握することがどうしてもできない。それでこそ人間はしばしば宇宙を有限と考え、時には初めのあるものと考えようと試みたであろう。これについては古代バビロニア人の考え方を挙げることができる。
空間は無限なように見えるけれども実は有限であり得るという意見は奇妙にもこれまでいろいろの人によって唱道された。その中に有名な数学者のリーマン(Riemann)のごときまた偉大な物理学者ヘルムホルツのような優れた頭脳の所有者もいた。地球が球形をしているために海面が曲って見え、数マイルの沖にある島を対岸から見ると浜辺は見えないで、高い所の樹の頂や岩などが見えるだけだということはよく知られたことである。しかし折々は大気が特殊な状態になるために島の浜辺までも対岸から見えるようになることがある。これは空気の密度が上層から下層へ増すその増し方が急なために光線があたかもプリズムを通るときのように曲るためである。このように気層密度の下方への増加が、特別な場合にちょうど好都合な状態になれば、地面に平行に発した光線が屈折されながら絶えず地面に平行しつづけ、そうして海面と同じ曲率をもって進むようになることも可能である。そこで、もしある人が地平線の方を見ようとすればその視線はぐるりと地球をひと回りする。そうして、言わば自分で自分の背中を眺めることができるわけである。もちろん実際は自分の姿を見付けることはできないであろうが、しかしこの人にとっては地球は、あるいは正しく言えば海面は、全く平板な、そうしてすべての方向に無限の遠方に広がる面であるように見えるであろう。
ここで我々は次のようなことを想像することができる。すなわち、光線が空間を通る際になんらかの原因で屈折するとする。そうしてたとえば真上を見ようと思うときにその視線は真っ直ぐに無限の上方に向かわないで地球のまわりに彎曲するために地球の反対側を見るようになる。もちろんこの場合でも我々は実際視線上に地球を目撃することはできないであろう。なぜかと言えば地球の反対側からの光が、そうして我々の目に達するまでに経過する道程は、我々の見るいかなる恒星の距離よりも遠いからである。しかしともかくもこの際光線が描くと考えられる円上の最も遠い点よりももっと遠くにある恒星はいかにしても我々に見えないであろうということはこれで容易に了解されるであろう。
かように我々はある一定の距離――もちろん非常に大きいがともかくも有限な距離――以内にあるような宇宙の一部分だけを見ている場合でも、我々のつもりでは、地球上からすべての方向に真っ直ぐに無限の空間をのぞいているように思われるであろう。それで、我々は空間が無限であると主張することはできないはずである。少なくとも我々の知覚の可能の範囲内ではそんなことは言われないわけである。
ヘルムホルツの考えによればここに考えたような可能性が実存するかどうかは天文学者の手によって検査することができるはずである。しかもこの考えは実際上恒星の観測とは符号し難いのである。しかしこのような検査は初めから不必要であろうと思われる。地球上でその表面に沿って光線の屈曲するのは、温度分布の関係から視線の上と下とで空気の密度と屈折率の差違のあるために生ずる現象であるが、光を運ぶエーテルの場合にはその密度や屈折率が光の放射方向に対していかなる向きにでも、少しでも不同を示すであろうと考えさせるような確証は一つも考えられないのである。それで、空間中で視線が徐々に曲るであろうという仮定は全く不自然なものである。従って、この考えは前世紀の中ごろしばらくの間は非常な注目をひいたけれどもその後は全く捨てられてしまった。ことにこの考えは科学的見地から見て新しいものを生み出すという生産能力が欠けていたからである。これに関して興味をもつ人はデンマーク人クローマン(Kroman)、米人スタロ(Stallo)並びに有名な仏国数学者ポアンカレ(〔Poincare'〕)の著書を見ればこの問題に関する総括的批判的の研究を見い出すであろう。ここではただこの古い考えの筋道だけを述べるに止めておく。
恒星の数が無限であるかどうかということも昔から論争の種であった。アナキシマンドロス、デモクリトス、スウェデンボルク及びカントはこれが無限であると考えた。しかしもし恒星がほぼ一様に空間中に分布されており、そうして我々の太陽付近に甚だしく集中しているのではないとしたらどうであるか、その場合には満天が恒星と同じ光輝で、多分太陽よりも強い光輝で照らされ、そうして地球上のすべてのものは焼き尽されてしまうであろう。我々の観測する諸恒星の温度は一般に太陽より高いのであるが、すべての天体の平均温度がそうであったとしたら、かくなる外はないのである。しかるに実際は地球が焼き尽くされないで済んでいるのはなぜか。この理由は二通りだけ考えられる。まず、恒星は我々の太陽の付近だけに集中していて、空間の彼方に遠ざかるほどまれになっているのかも知れない。不思議なことには、大概の天文学者はこの甚だ非哲学的な考えに傾いているように見える。しかしこの考えは輻射圧というものの存在が認められてからはもはや支持されなくなった。それは、たとえすべての太陽恒星がかつて一度はある一点、たとえば銀河の中心の付近に集中していたとしても無限な時の経過のうちにはこの圧力のために無際限の空間に撒き散らされてしまったはずだからである。
それでこの第一の理由がいけないとすればもう一つの仮定による外はない。すなわち、輻射線を発している諸恒星に比べて非常に低温度で、またばく大な広がりをもった暗黒な天体が多数に空間内に存在すると考える。すなわち、寒冷な星雲である。これは外から来る輻射熱を吸収して膨張し、そうして冷却するという奇妙な性質をもっている。膨張する際に最大の速度をもっているようなガス分子は弾き出され、その代りにこの星雲内部のもっと密集した部分からのガス質量が入れ代わる。このようにして外方へ流出するガスは付近にある恒星の上に集められ、エネルギーはだんだん多くこの流出ガスに集積され、同時にエントロピーは減少するというのである(『宇宙の成立』一七五頁参照)。
それでもはや無限空間中における恒星の数は無限であると考えるより外に道はないことになる。ところが、暗黒体に遮られ隠されているもの以外のすべての星を我々が現在知っているかと言うと決してそうではない。光学器械の能力が増すに従って次第に常に新しい宇宙空間が新しい恒星の大群を率いて我々の眼前に見参してくる。もっともこれらの恒星の増加は器械の能力で征服される空間の増加と同じ率にはならないでそれよりも著しく少ない割合で増してゆく。これは多分、少なくも一部は、暗黒体の掩蔽作用によるかも知れない。
物質界が不滅あるいは永遠であるという考えが、原始的民族の間にもおぼろ気ながら行われていたということは、彼らの神話の構成の中にうかがうことができる。一般に永遠の昔から存在する渾沌、もしくは原始の水と言ったようなものが仮定されているのが常である。この考えのもう少し熟したものがデモクリトス並びにエムペドクレスの哲学の帰結に導いたのである、ところが中世の間に、物質界はある創造所業によって虚無から成立したという形而上学的の考えが次第に勢力を得てきた。このような考えはデカルト――もっとも彼自身それを信じていたかどうかは不明であるが――にも、かの不朽のニュートンにも、またかの偉大な哲学者カントにも、またずっと後代ではフェイー(Faye)にもウォルフ(C. Wolf)にもうかがわれる。しかしともかくも物質はその全量を不変に保存しながら徐々に進化を経たものであるという主導的観念はあらゆる開闢論的叙説に共通である。それが突然に存在を開始したという仮定には奇妙な矛盾が含まれている。一体宇宙に関する諸問題を総てただ一人の力で解決しようというのは無理な話である。それで、ラプラスが、自分はただ宇宙進化のある特別な部分がいかに行われたかを示すにすぎないので、他の部分は他の研究者に任せると言っている、あの言葉の意味はよく分っている。しかしこういう明白な縄張りを守ることを忘れて超自然的な解説を敢てした人も少なくない。そういう人々は自然法則の不変(六九頁並びに注参照)という明白なスピノザの規準を見捨ててしまっているのである。スペンサー(Spencer)もこの点についてははっきりしていて『この可視世界に始めがあり終りがあるとはどうしても考えることはできない』と言っている(六九頁参照)。
(注) 大哲学者スピノザは一六三二年にアムステルダムに生れ一六七七年に同市で死んだ。彼の生涯の運命は彼時代以来文明の進歩がいかに甚だしいものであるかを証明すると思われるからここに簡単な物語を記しておこう。彼の両親はもとポルトガルのユダヤ人で、宗教裁判の追及を逃れてオランダに来た。この異常な天才をもった青年は当時のユダヤ教の教理に対する疑惑に堪えられなかったので、そのために同教徒仲間から虐待されていた。とうとう彼らはたくさんな賠償金まで出してうわべだけでもユダヤ教理を承認するように無理に説得しようと試みた。しかし彼はこの申し出を軽侮とともに一蹴したので、彼らはついに刺客の手で片付けようとさえした。そうして彼をユダヤ教徒仲間から駆逐したのである。その後は光学用のレンズを磨いたりして辛うじて生計を営みながら、彼の大規模の哲学的著述を創造した。
スペンサーがこれを書いたときには、既にエネルギー(当時は力と言っていた)の不滅説も、またラボアジェー(Lavoisier)の実験によって証明された物質不滅の法則も十分に承知していた。この物質不滅という考えは実はあらゆる時代に行われてきたのであるがしかしもとよりこれに関して何ら明瞭な考えはなかったのである。過去一〇年の間に、物質(重量で測られる)が破壊されることもあるいは可能ではないかという疑問が折々提出された。これに関する主要な仕事としては、ランドルト(Landolt)の行った二、三の非常に精密な実験がある。それは二つの物体が相互に化学的作用をする際にその全重量が果して不変であるかどうかを験しようというのであった。ランドルトは若干の場合に僅少な、しかし実験誤差よりはいくらか大きいくらいの変化を認めたのであるが、更に繰返し実験を続けた末に、この重量変化は単に見掛け上のものであり、実は化合作用の間に起る温度上昇が緩徐に終熄するためにそうなるのである。という意見に到達した。それで我々は十分完全な根拠をもって、化学者の多様な経験の結果は物質不滅という古来の哲学者の考えを確証すると明言することができるのである。
開闢論に関する問題を論ずるに当って物質が突然に成立したものと仮定する学者たちがいずれもその物質系統に時間的終局を認めないのは妙なことである。これは実に了解し難い自家撞着である。たとえば黄道の北側にある恒星の数は無限だが南側のは有限だと主張するのと同じくらい了解しにくい考えである。これに対してあるいは次のような異議を称える人があるかも知れない。すなわち、ある種の概念ではある一点からある一つの方向には無限を仮定するが、同点から反対の方向には全く継続がないと仮定する場合がある。たとえば温度は絶対零度から上方へは無制限であるのに、零度以下すなわち反対の方には温度は存在しない、これと同じことではないかというのである。
これに対しては次のように言われる。まず、負の方向に無限大の温度が存在するという仮定を含めるような温度の尺度を作ることは決して不可能ではない。それにはたとえば、摂氏零下二七三度から数えた温度の対数を取って、これを温度の示度とすればそれだけでもよいのである。しかし、また一方から考えると、温度なるものは分子のある運動に帰因するものと想像されており、負の方向へのある運動は正の方向への同じ運動と完全に同価値としなければならないので、この理由からして、絶対的無運動よりも以下の状態となるということは不可能である。これはちょうど負の質量というものを考えることができないと同様である。しかるに負の時(すなわち、過ぎ去った時)というものは考え得られるのみならずむしろ考えないわけにはゆかない。それだから、物質の未来における永遠性を口にしながら、過去におけるそれを言わないのは自家撞着の甚だしいものだというのである。
前に引用したスペンサーの所論の中にも言ってある通り、物質の創造を考えることが不可能なのと同様にまたエネルギー(力)の創造を考えることも不可能である。この点についても、自然科学によって諸概念がまだ精算されなかったころの哲学者の頭には曖昧な観念が浮動していた。デカルト、ビュッフォン、カントのみならず大概の古の開闢論者の著述の中にはエネルギーの不滅に関する暗い予感の痕跡といったようなものが見出されるのが常である。デカルト並びにカントは、太陽の灼熱状態が持続されるためにはどうしても何らかの火の存在が必要であることを述べている。そうしてこの火を燃やすには空気が必要欠くべからざるものと考えられていたのである。ビュッフォンはまた『やはり灼熱している他の諸太陽は我々の太陽から取っていると同じだけの光熱を送り返している』とさえ考えていた。すなわち、彼は一種の熱平衡を考えていたのであるが、惜しいことには、この関係についてこれ以上に立ち入った研究はしなかった。
この関係について始めてこれ以上の深い省察を仕遂げたのは前世紀の初めに現われた天才サディ・カルノー(Sadi Carnot)である。しかし彼の夭死のために彼の著述は一部分しか出版されず従って世に知られるに至らなかった。そうしてエネルギー不滅の原理はその後マイヤー(Mayer)、ジュール(Joule)、コールディング(Colding)によって再び新生に呼び覚まされ、そうしてヘルムホルツによって追究され完成されなければならなかった。注意すべきことはこの五人の中で最後の一人は数理的科学の十分な教養をもっていたが、いずれもとにかく職業的専門科学者ではなかったことである。カルノーとコールディングは工学者、マイヤーとヘルムホルツは医者、ジュールは麦酒醸造業者であった。それでこの発見に導いた根拠をよくよく調べてみると、それは主に哲学的なものであった。しかもこれらの新原理の開拓者等はその余りに自然哲学的な考えのために厳しい攻撃をさえ受けなければならなかったのである。科学者等はずっと以前から、熱が物体最小部分の運動に帰因するものであると考えていた。この考えはデカルト、ホイゲンス、ラボアジェーとラプラス、またルムフォード(Rumford)とデヴィー(Davy)によって言明されている。この考えに対立して、また熱は物質的なものであるという意見があった。器械的熱学理論の創立者は既にある度までかなり明瞭にこの理論構成の第一段階を把握していたのである。しかしカルノーの研究では熱機関の本性に関する考察が主要な役目を勤めている。その熱機関では熱が高温の物体から低温の物体に移ることによって仕事が成される。カルノーに従えば、一定の熱量が移動する際に、それが最大可能な仕事をするような具合に移動する場合には、その熱を伝える媒介物が何であっても、それには無関係に、ただその高温体と低温体の温度が不変に保たれる限りは、成される仕事の量はすべての場合に同一でなければならない。この原理はまた、『永久運動』(Perpetuum mobile)をする器械の構成は不可能である、という言葉で言い表わしてもよい。この言葉の中には、仕事というものは無償では得られないものだ、ということに対するこの工学者の堅い信念が現われているのである。マイヤーの論文の中には『虚無からは虚無しか出てこない』と言ったような文句がうようよするほどある。彼は頭から爪先まで仕事の実体性という観念に浸されていたのである。またコールディングは次のように言っている。『私はこう確信する。我々がここで有機界にも無機界にも、また植物界にも動物界にも、同様にまた無生の自然界にも出会う諸自然力は宇宙の初めから成立したのみならず、また創成当時に定められた方向へこの宇宙を進展させるために不断に今日まで作用しつづけてきたものである。』ジュールはある通俗講演の中で次のように言っている。『活力(vis viva)mv~2/2 の絶対的絶滅は決して起り得ないということは先験的に結論することができる。何とならば神の物質に付与したこれらの力が人間の手段で滅亡させられたりまた創成されようとは考えられないからである。』四、五年後れて現われたヘルムホルツの論文は今日から見れば実に物理学上の第一流の業績と見るべきものであるが、しかしその当時最高の専門雑誌であったところの『ポッゲンドルフス・アンナーレン』(Poggendorfs Annalen)へ掲載を拒まれた。これで見ると、当時の人がこの著述の物理学的の重要な意味を認めなくて、単に哲学的な論説としか見なさなかったことは明白である。ところが、この研究は最近半世紀の間において物理学のみならず化学更に生理学の方向においても行われた非常に多産的な革命の基礎となった。これによってエネルギーの不滅、永遠から永遠へのその存立ということは、あらゆる未来へかけて確立されたのである。
奇妙なことにはこの科学の一分派の発達はそれ自身の中に永劫の原理に対する否定の胚芽を含んでいるのである。熱学理論の帰結としては、熱は自分だけでは(すなわち、その際仕事が成されない限りは)いつでも高温物体から低温物体に移るはずである。従って、宇宙進化の徐々にたどり行く道程としては、あらゆるエネルギーが分子運動に変ってしまい、そうして全宇宙の温度差は全く平均されるような方向に向かわねばならないはずである。もしそうなってしまえば、分子運動以外のあらゆる運動は停止し、そうしてあらゆる生命は死滅してしまう。それこそインド哲学者の夢想した完全な涅槃である。クラウジウス(Clausius)はこの窮極状態を『熱的死』(〔Wa:rmetod〕)と名づけた。もし宇宙が真にこの熱的死に向かって急いでいたとすれば、無限の昔から成立していたはずの宇宙は、その無限の時間の間に、既にこの状態に達していなければならないはずである。しかるに我々の日常の経験するところから見るとこの現世界はまだこの悲運に出会っていない。それで当然の帰結として永劫観念は根拠のないものだということになり、宇宙は無限の過去から存在しているのではなくて、初まりがある、すなわち創成されたものでありその際に物質もエネルギーも成立したものであるということになるのである。ケルヴィン卿もまたこの熱的死の学説に重要な貢献をしたのであるが彼はこれをエネルギーの『散逸』(Zerstreuung Dissipation)と呼んでいる。これは器械的熱学論の基礎を成している永劫観念に全然矛盾するものである。それで我々は何とかしてこの困難を切り抜ける活路を求めなければならない。
宇宙がともかくもある進化をするということが疑いないことであって、しかもその進化が常に同じ方向に進行するとすれば、いつかはどうしてもその終局に達しなければならない。もし終局が来ないとすれば、それは、進化が最後の停止を狙っているのでなくて一種の往復運動のようなふうに行われているためだとする外はない。こういうふうな考え方の暗示のようなものが、もちろん甚だぼんやりしたものではあるが、既にデモクリトス(一〇三頁参照)にも、またカントにも見受けられる。カントは、燃え切った太陽が『渾沌と混淆する』ことによって、すなわち、太陽から放出された最も揮発性な最も微細な物質が、往昔の渾沌の死骸と思われる黄道光物質中に突入することによって『更新』するという考えを述べているのである。
カントは、次のような注目すべき考えを述べている。『もしもこのように創造物が空間的に無限であるとしたら、……、宇宙空間には無数の世界があり、そうして無終にこれらの住みかとなるであろう。』更にまた彼は、太陽が消燼してしまって、中心体(可視の星界にあると彼の仮定した)の周囲の諸世界は滅亡するが、ずっとそこから離れた遠方の所で再び生命を喚び覚まされ、かようにして生命の宿る世界の数は増すばかりであると言っている。『しかしかようにして死滅した世界の物質の始末は一体どうなるであろうか。かつて一度はこれほどまでに精巧な系統を整頓することのできた自然のことであるから、もう一度立上って、そうして、運動の消失したために陥ったこの新しい渾沌の中から甦生することも容易だろうと信じてもよくはないか。大して熟考するまでもなくこの考えは肯定されるであろう。』カントは、遊星並びに彗星が太陽に墜落衝突すればその際に生ずる高熱のために物質は再びあらゆる方向に放出される、そうしてその際に高熱は消失するので以前のと同種の新しい遊星系が形成される、というふうに考えた。これと同様にしていつか一度はこれより大規模な銀河系も衝突合体してそうして新たに作り直されるであろう。彼は、こういう過程は幾度となく繰り返され得るわけで、かくして『永遠な時を通じ、あらゆる空間を通じて至る所にこの驚異が行われるであろう』と信じていた。この大規模な空想には、しかし、物理学的の根拠が欠けている(二五一頁参照)。クロル(Croll 一八七七年)はこれに反して、原始的星雲が再生するためには消燼した二つの太陽が相互に衝突することが必要だと考えた。この考えはその後リッター、ケルツ(Kerz)、ブラウン(Braun)、ビッカートン(Bickerton)、エクホルム(Ekholm)等の諸学者によって追究されたのであるが、しかしこの考え方の帰結は、次のようになる。すなわち、全宇宙は結局『寒冷で暗黒なただ一塊の団塊になろう』としてその方へ歩みを進めているというのである。この必然の帰結を避けるためには、何か別に物質を離散させるような力を想像する必要がある。
この点について最も明瞭な意見を述べているのはハーバート・スペンサー(一八六四年)で、彼の考え方は次のようなものである。遊星系の進化には異種の力が協力していて、一方では物質を集合させ、他方ではこれを離散させようと勤めている。星雲から太陽、遊星及びその衛星へ推移するようなそういう特定の進化期間では、この集合させる方の諸力が勝っている。しかし、いつかある日には、この離散させる力の方が優勢を占めるようになり、そうして遊星系は、もともとそれから進化してきた昔の状態、すなわち稀薄な星雲状態に立帰るであろう。永い間集合的な諸力の支配を受けていた期間と入れ代って今度は離散的諸力の旺盛な永い期間が続く。『物質が集合すると運動の方は離散してしまう。運動が吸収され集積すると物質が飛散する。』『律動はあらゆる運動の特徴である。』スペンサーは明らかに、物質が集中する際はその相互接近のために位置のエネルギーが失われ、また物質が離散する際には再び位置のエネルギーが蓄積される。そうして運動のエネルギーではちょうどこれと反対の関係になると信じていたのである。ニーチェ(Nietzsche)もやはり同様な意見を述べたことがある。
スペンサーの所説は確かに大体においては正当である。しかし物理学者の方では、スペンサーの要求しているような離散的な力のいかなるものをも実際に見い出さなかったので、彼の言葉は誰も注意しないでそれ切りになっていた。しかし今日ではこういう力がよく知られている。すなわち、こういう力は主として爆発物類似の物体の中に蓄積されているのであって、こういうものが太陽内部の高熱高温のために形成されると考えられる。なおこれに加えて、星雲状態の時代においては稀薄なガス圏中の微塵が熱を吸収し、従ってその分子運動が増勢するためにこのガスは空間中のすべての方向に飛散する。そうしてそれが結局は近くにある重い質量、特に恒星のエネルギーを増すことになるのであろう。この過程は、何よりもまずいわゆるエントロピーの増大ということに主要な影響を及ぼすことになる。換言すれば、諸天体間での温度の平均を妨げ、そうして『熱的死』の到来を防御するという作用をするのである(『宇宙の成立』一七四―一九〇頁参照)。なおこれ以外にも、輻射圧なるものがあって、これも太陽から微塵を空気中に駆逐する作用をするのである。
エネルギー不滅という新しい概念を獲得した結果として科学者たちは全く新しいいろいろな問題を提供されることになった。まず、太陽が、あのようにエネルギーを浪費しているにも拘らず目立って冷却するような形跡を見せないのはなぜかという疑問を起さなければならなくなった。この疑問に対する答解としてマイヤーは早速、太陽の熱は太陽中に隕石の墜落することによって恒同に保たれるという仮定を出した。しかしこの勢力の源泉だけでは到底不十分であるということが、その後これに関して行われた討論の結果明らかになった(『宇宙の成立』六一頁参照)。ヘルムホルツはマイヤーの仮説に修整を加え、太陽の全質量がその中心に向かって落下する、すなわち、全体が収縮するために熱を生じると考えたが、これも同様に不十分である。このヘルムホルツの考えは通例、太陽が星雲のような状態から収縮してできたものであるというラプラスの仮説の最上の根拠とされているのである。しかしこの考えに従えば、太陽が現在のような強度で熱を輻射するようになって以来今日まで約二〇〇〇万年より多くは経過しなかったということになる。
しかしこれは、地質学者の推算に従えば、最古(カンブリア紀)の化石類が海底に沈積して以来今日までに経過したはずの時間と全然一致しない。すなわち、この方の推算では一億年ないし一〇億年かかったはずであり、そうして人類の出現以来約一〇万年たっているらしいのである。これが動機となって英国では地質学者と物理学者の間に激しい論争が起り、物理学者の中でも地質学者の方に加担する人々があった。この論争はしかし当然地質学者の勝利に終った。彼らがちゃんとした積極的な論拠を握っているのに対して、その反対者の方は、主として、太陽がかような事情の下にどこからどうしてそのエネルギーを得ているか了解ができないという消極的な論拠しか持ち出せなかったのである。私はこの問題に対する解釈の鍵として、一般化学作用はそれが高温で行われるほどますます多量の熱を発生し得るということを指摘しようとした。一例としてここに一グラムの氷の温度を零下一〇度から次第に高めてゆく場合にいかなる過程をとるかを考えてみる。零度になると融けて水になり、そのとき約八〇カロリーを消費する。一〇〇度では蒸発して約五四〇カロリーを消費する。更に高温になって約三〇〇〇度となると水蒸気は水素と酸素とに分解してそのために約三八〇〇カロリーの熱を使用する。しかるにこれだけでもう化学作用が終ったと考えるのは間違いであるかも知れない。何とならば、これ以上の高温度を得ようとしても我々の実験的手段では達することができないからである。しかし非常な高温度になれば水素も酸素も何十万カロリーを使用してそれぞれ原子状態に分解するであろうということは殆ど確実と思われるのである。そこで、原子というものはもはやそれ以上分解することのできないものである以上、これまでで、もうあらゆる化学的過程は終局したのだ、と多くの人は言うであろう。しかし科学はこれに答えて否という。原子はまた別に新しい結合を始めそうしてばく大の熱量を使用することになるかも知れない。ラジウムが不断に熱を発生するという事実をキュリー(Curie)が発見したのはようやく数年前のことであった。それ以来、ラジウム化合物はヘリウムを放出し、その際ラジウム一グラム毎に約二〇〇億カロリーの熱量を発生することが発見された。高温度においては、この過程がこれだけの途方もないエネルギーを消費して、逆の方向に行われなければならない。もっとも、この過程については極く最近にやっとその端緒を知ったばかりであるからこれに関してまだ十分明確なことは分っていないが、しかしともかくも、なお一層高温度においては、参与物質の毎グラムにつきなお一層著しく多量な熱量を消費するような化学作用が起るかも知れないということの蓋然性を否定するようなものは絶対に何もないのである。ラザフォード(Rutherford)及びラムゼー(Ramsay)の画期的な化学上の発見はこの方面の空想にかなり自由な余地を与えるものである。
放射性物質は常温では崩壊するが、高温度では、もしその崩壊によって生じた生産物が所要の分量だけ存在すれば、再びこれらの生産物から逆に合成される。温度が昇れば昇るほど、この崩壊の産物の量は減じ、そうして恰好な高温では殆どなくなってしまう。ストラット(Strutt)の研究によると、地表下約七〇キロメートルの深さにおいて達せられるくらいの比較的に低い温度において既にこういうことになるらしい。ストラットは地球の温度が内部に行くほど上昇する事実を、地球内に含有されたラジウムが徐々に崩壊することによって説明しようと試みた。彼は地殻を構成する普通の岩石中には一〇〇万立方キロメートル毎に平均八グラムのラジウムを含んでいるという結果を得た。そこで、もしも地球全体が平均してこれと同じ割合でラジウムを含んでいるとしたら、これが崩壊するために発生される熱は、地球が外方に熱を放出しているために失う熱の約三〇倍になる勘定である。ところが、ラジウムが地球の三〇分の一、すなわち七〇キロメートルの深さの最外層だけに含まれていると仮定するのもいかがわしいことである。それで、ずっと深い所へ行って、もしもそこにラジウムの崩壊産物が十分多量にあれば、それからラジウムが合成されるかも知れないという蓋然性も考慮に入れないわけにはゆかなくなる。上記の深さでは温度は約摂氏二〇〇〇度くらいである。もちろんまたある温度ではウラニウムもまたその崩壊産物――ラジウムもその一つであるが――から形成せられるであろう。こう考えてみると、摂氏六〇〇〇度以上の温度にある太陽の可視的な部分にラジウムの存在が見い出されないという事実もそう不思議とは思われなくなるのである。
ウラニウムは、常温では、その崩壊産物から目に見えるほど合成されるようなことはなくて、ラザフォードの測定した速度、すなわち、一〇億年で半減するような割合で崩壊してゆく。ラザフォードは、これから、一グラムのウラニウムから七六〇ミリメートルの圧力と零度におけるヘリウム一立方センチメートルを生ずるには一六〇〇万年かかるという結果を得た。ところがある鉱物フェルグソニート(Fergusonit)を調べてみるとその中に含まれたウラニウム一グラム毎に二六立方センチメートルずつのヘリウムが含まれている。これから計算してみると、この鉱物中のウラニウムは一六〇〇万年の二六倍、すなわち、四億一六〇〇万年の間崩壊をつづけてきたことになる。それでこの鉱物が地球内部から放出された灼熱した質塊から形成されて以来、これだけの長年月が経過したということになるのである(『宇宙の成立』三八頁参照)。
急激な噴火によって太陽から空間中に放出されそうして冷却した放射性物質の質塊は当然甚だ豊富にその放射線を発射するであろう。そうしてその中には非常に急速に崩壊するような、従って、もし地球上にかつてはあったとしても、もうとうに変化してしまったために、我々には知られていないような、そういう放射性化合物もあるかも知れない。新星の現われたときにその周囲にある星雲状の部分で著しい光線の吸収が観測されるが、これは単にその新星から放出された帯電微塵によるだけではなくて、このように急激に崩壊する放射性物質の輻射によるものであろうという想像は必ずしも蓋然性がないとは言われない。
新星が発光出現する際に形成される星雲は空間中の諸恒星からの輻射を吸収することによって、その中のヘリウムを失う、そうしてこのヘリウムは宇宙微塵に凝着して、再びもっと密度の大なる部分へと復帰してゆく。この部分では物質の密度を増すためにその温度が高まり、そうして強度な放射性物質が再び形成される。放射性でない、しかし爆発性の物質についても、これと同様なことが行われる。かようにして、星雲は単に輻射圧によって太陽から運ばれてそこに到達する微塵やその他一切の太陽から放出された物質を集積するばかりでなく、また同時に太陽が空間中に送出している一切の輻射のエネルギーをも収集する。この微塵並びにエネルギーの量はその後次第に星雲の中心体に最も近い部分、すなわち、その内部に集合して高温度をもつようになるであろう。そこでこれらのものは法外なエネルギーの放射性ないし爆発性物体に変化し、そうしてこの星雲が太陽に成って、周囲から受取るよりも多量のエネルギーを失うようになってくると、そのときにこれらの物体は温度が徐々に降るにつれてだんだんに崩壊してゆく。しかしそのエネルギーの貯蓄がばく大であるためにその冷却を適宜な程度に限定し、そうして一〇億年、あるいは恐らく一〇〇〇〇億年という永年月に亘ってほとんど不変な輻射を持続させるのである。
以上簡単に述べたような具合にして、宇宙間のエネルギーも物質も、ほんの露ばかりでも消失するということはない。太陽の失ったエネルギーは星雲に再現し、次に星雲がまた太陽の役目をつとめる順番が来る。かようにして物質は交互にエネルギーの収入と支出を繰返して止むときはない。これには星雲のうちで寒冷な部分にあるガス体と、そこに迷い込んできた太陽微塵とが、太陽の輻射で失われつつある莫大なエネルギーを取り込んでいればよい。最近数年の間に我々が放射性物質の性質について知り得ただけから考えても、極めて少量な物質の中にでも非常に多量なエネルギーを包蔵し得るものだということがわかるのである。
それで、太陽の内部はこの種の熱を貯蔵する非常に大きな倉庫であると考えなければならない。これが冷却している間は、それが収縮している際とは反対の方向の化学作用が進行し、毎グラムにつき幾万億カロリーという熱量を発生する。ところが太陽がその輻射によって一年間に失う熱量は太陽質量の一グラムにつき二カロリーの割合であるから、今後もまだまだ万億年くらいは現状をつづけるであろうし、また過去においても、地質学者が地球上における生物の存続期間と認めている一〇億年くらいの間には、太陽の輻射はいくらも目立って変るようなことなしに永く現状を続けてきたであろうということは明白である。従って、カムブリア紀の化石に痕跡を残している既知の生物中で最古のものは、今日とはそう大して著しくは違わない温度関係の下に生息していたに相違ない。しかもこれらの生物が既にあれほどまでの進化の程度に達している所からみると、始めて単細胞生物が地球上に定住して以来カムブリア紀までに経過した歳月は、少なくも同紀から近代までのそれと同じくらいであると考えても差支えはない。もっと古い地質学的の層位中に埋没された諸生物は、いかなる化石も保存されなかったほどに一時的なものであったか、それともまた、それらの地層が数百万年に亘って受け続けてきた高圧あるいは高温、もしくはその両方の作用の著しいために壊滅してしまったかであろう。
以上述べてきたようなわけで、宇宙進化の道程はただひたすらに避くべからざる熱的死を目指して進むのみだと主張するケルヴィン及びクラウジウスの考えとは反対に、宇宙を構成する各部分は周期的に交互に変転することができるということが分ったと思う。それで次には、最近にこの問題の討論に際して発表された若干の意見がいかなるものであるかを注目してみようと思う。これには下に述べるような図示的方法を利用することにする。また無限の宇宙全体に亘って考察を延長することはできないから我々の観察の届く限りの部分について考えることにする。もっとも部分と言ったところで、その大きさはばく大なもので、それが星雲、宇宙微塵、暗黒体、及び諸太陽から組立てられている有様は多分宇宙の他の等大の部分におけると大した相違はないと考えられる。それで、この部分について得た結論は、殆ど間違いなく宇宙の他の部分のどれにも、従ってまた無限空間全体にも適用して差支えはない。そこでまず考究すべきことは、今考えている空間中の温度がその平均温度からいかなる程度までの異同を示すかという全偏差の算定である。たとえば太陽の平均温度が一〇〇〇万度であるとする。そこで眼に見られる宇宙の部分内の物質の平均温度が一〇〇万度であるとすれば、この平均からの太陽温度の開き、すなわち偏差は九〇〇万度である。この数値に太陽の質量を乗じた積が、上記の全偏差への太陽の分担額である。しかし厳密に計算するためには太陽を二つの部分に分けて考えなければならない。すなわちその一つは内部でその温度は一〇〇万度以上であり、もう一つは外側の部分でこの温度はそれ以下である。そうして、この各々の部分につき、その質量と、平均温度(一〇〇万度)からの偏差の相乗積を求め、そうして、その二つの積の一つは正の量、一つは負であるが、それには構わずにその絶対値の総和を求めるのである。
星雲、たとえばオリオン星座の剣帯にある大星雲のようなものについても同様な計算をする。星雲は低温であるからこの場合には、上記の相乗積は疑いもなく負号をもつであろう。このような計算をすべての恒星、星雲、遊星並びに空間内に漂浪している微塵や隕石について行った後に、かくして得られた相乗積の総和を求める、この非常に大きい和をAと名づける。挿図において0と記した点が現在を示し、従って過去への時間は負、未来へは正の値で表わされる。
そこでどういうことになるか。まずクラウジウス流の考え方を追究してみよう。エントロピーの法則によれば温度は不断に平均状態に近付こうとする傾向をもっている。換言すれば上記の全偏差は今日ではAであるが明日はこれより小さくなり、そうしていつかは、たとえば一〇〇〇万年の後にはBまで減ってしまう。その以後もその過程はますます進行するが、しかし現在に比べると温度差が小さくなっているためにこの均等への進み方は多分今よりは緩徐に行われるであろう。すなわち、時間とともにAの変化する状を示す曲線はB点ではA点よりも緩い傾斜を示すであろう。しかしともかくもこの曲線は下降し、そうして平均温度からの全偏差はますます減少し、数学者の言葉で言えば漸近的に極限値の零に接近してゆく。十分永い時間さえたてばこの偏差は任意の小さな数値となることができ、換言すればこれは無限大の時間の後には零に等しくなるのである。
今度は時間を過去へ遡ってみる。前記の理由からA曲線は過去においては現在よりも急傾斜で上っていなければならない。ある特定な時期、仮に一〇〇〇万年前において全偏差の値がCであったとする。それよりもまだまだずっと遠い昔に遡って考えれば、Aより大きくて、およそ考え得られる限りの任意の大きい値に達するであろう。すなわち、数学者の言い方をすれば、無限大の時間以前には温度偏差は無限大であったと言われる。しかしそうであるためには、我々の可視宇宙の若干の部分が無限大の高温度をもっていたとする外はない。従ってまたその可視宇宙の平均温度も、更にまたそのエネルギーも無限大の時間の昔にはやはり無限大であったという結果になる。これはそれ自体において考え得べからざることである。のみならず一方で我々はこの宇宙の部分内のエネルギーがいかに大きくともともかくも有限な値をもっており、またこのエネルギーの量が不変であるということを知っている。それゆえに非常に永い過去にあらゆる任意の大数値以上であったというはずがないのである。
それでこの仮説は到底持ち切れないものである。二三の科学者は次のようにしてこの困難からの活路を求めた。すなわち、過去における温度の不同は現在よりは大きかったとしても、その不同の減じ方が今よりは緩やかであった、と言うよりもむしろあり得る限りの緩やかさであって、挿図の曲線のDAの部分に相当するものであったと、こう考えることもできはしないか。そうだとすると、温度偏差の速度は、最初のうちは無限に緩やかであるが、図のDの所で曲線はその当初の有限値からやや急に降り始め、そうして現在では更に急速度で進行しそうして次第に零に近よるであろう。すなわち、この世界は無限に永い間死んだような状態にあったのが、地質学上地層堆積物によって見当のつけられるような時代至って急に目覚ましい速度で進化し、そうしてその後は徐々に再び永遠の死の静寂に沈んでゆくというのである。しかしこれは第一常識的にも考えられないことであるのみならず、またあらゆる科学的考察にも背反する。そうしてクリスチアンゼン(Christiansen)の挙げた次の例に相当する。すなわち、ここに一塊の火薬が、永い間、見たところでは何の変化もしないで置かれてある。そこで、誰かがこの火薬に火をもってくるかあるいは落雷のためにこれが点火する。するとこれは一度に燃え上る。そうして以前にはあれほど極端に緩徐に行われていた変化は高温のために著しく速度を増し一秒の何分の一かの間に非常に急激な変化を完了する。その後数分間は、燃焼によって生じた物が空気中の湿気に接触するために緩やかな化学作用が継続するが、それが済めばもうこの進化は見掛け上終局する。この火薬の燃え上る一秒の分数は永久に対しては殆ど無に等しいもので、これがちょうど、我々がいくらかでも知っている宇宙進化の期間に相当するというのである。しかし熟考の末にこの説に賛成する科学者は恐らく一人もないであろう。この説にはなお次の困難がある。すなわち、化学者の教うるところでは、火薬は低温で貯蔵される際にも緩徐な変化を受け、到底実現し難い絶対零度に至って始めてその変化がなくなるからである。そうかと言ってまた、往昔は平均温度が非常に低かったために宇宙進化が非常に緩やかであったはずだと考えるわけにもゆかない。こういう仮定は全然根拠がないものである。これがためには証拠の代りに、クリスチアンゼンの言った通り『宇宙進化には本性未知のある作用が行われた』と仮定する外はない。『かような可能性は全然我々の経験の範囲外のものである。』こういうものを当てにしているわけにはゆかないのである。
エントロピーについてもまた同様な議論をすることができるし、またこちらが一層科学的に厳密な証明をすることができるが、ただ少し常識的に分りにくいだけである。宇宙進化に関してこれから得られる結果が全く前と同じになるということは容易に見通しがつくであろう。すなわち、我々の観察する宇宙空間部分の平均温度からの偏差は時間の経過に対して多分殆ど不変の値を保有してきたと思われる。太陽ではこの偏差は次第に減少するが、しかしそれは、一方でまた、星雲が恒星に変る際に起る温度上昇によって補充されるのである、同様なことはまたエントロピーの値についても言われる。すなわち、全体としては、この量もまたほとんど不変の値を保有するはずである。一方では太陽から寒冷な星雲への輻射のためにこの量は不断に増加しているが、他方ではまた星雲ガス中で最大速度を有する分子がこのガス団塊から逸出し、そうしてそれがもっと密度の大きい物質集団の上に集積するために、不断に減少するのである。
上記のごとく限られた宇宙部分の中から更にまた太陽系のような一小部分だけを取り離してみると、その中での平均温度は決して恒同ではなくて、現在では降下の傾向をもっている。この降下は、最後に太陽が消燼してしまえば、非常に緩徐になるであろうが、いつかまたこの消えた太陽が衝突のために星雲に変るような日が来れば、そのときは今と反対に温度の上昇する状態に変り、その上昇は、新しい太陽期の成立後もなおしばらく継続するであろう。
それで、それぞれ個々の太陽系については、宇宙の進化は不断に前進また後退し、すなわち、周期的交代を示すというスペンサーの考えが適用される。もっとも、この交代し方は律動的とは名づけ難いかも知れない。それは、この太陽の世界における交代の周期は、分子の往復運動のそれと同じくらいに不規則だからである。この周期の長さ、またその変化の経路は、他の物体――太陽あるいは分子――との予測し難い偶然な衝突によって決定され、しかもその衝突の仕方によって、いちいちその後の進化が影響されるのである。
時間の概念の漸次に変ってきた道程は奇妙なものである。カルデア人が三、四万年の昔に既に天文学的観測を行ったはずだということをキケロが推算したのは前に述べたが、これから見ても、昔の人々は何の躊躇もなくこの世界が非常に古くから存立していたという仮定をしたことがわかる。インドの哲学でもやはり世界の存在に対して永い時間を仮定している。中世に至ってはこの考え方は全然すたれてしまった。ラバヌス・マウルス(Rhabanus Maurus)はその大著『宇宙』“De universo”(九世紀の始めころ)の中に次の意見を述べている。すなわち、今日山の上の高所に発見される化石類は三回の世界的大洪水に帰因するものであって、その第一回はノア(Noah)のときに起り、第二回目はオグ王(Og)の治下長老ヤコブ並びにその仲間の時代に起り、最後の第三回目はモーゼ(Moses)とその時代仲間のアムフィトリオン(Amfitryon)のときに起った、というのである(アムフィトリオンは伝説的人物でペルセウス(Perseus)の孫に当る)。すなわち、世界の年齢は甚だ少なく見積られているのである、スナイダー(Snyder)が『世界の機械』(“The world's machine”)の中に報告しているところによると、シェークスピア(Shakespeare)やベーコン(Bacon)と同時代の大僧正アッシャー(Usher)が、ユダヤの物語に基づいて算定した結果では、この世界は耶蘇紀元前四〇〇四年の正月の最初の週間に創造されたことになっており、この算定数は現に今日まで英国の聖書に印刷されているのである。ビュッフォンはまた、地球が太陽から分離したときの灼熱状態から現在の温度に冷却するまでの時間を約七六〇〇〇年と推定している。ところがバビロニアやエジプトからの発掘物を研究した結果から、これらの地方では西暦紀元前七〇〇〇ないし一万年ころに既にかなり広く発展した文明の存在したことが証明される。南フランスやスペインにおけるいわゆるマグダレニアン時代(Magdalenien-Zeit)の洞穴で発見された非常に写実的な絵画の類は約五万年昔のものと推定されている。そうして、確かに人間の所産と考えられる物での最古の発見物は一〇万年前のものと推定されている。第三紀の終局後ヨーロッパの北部を襲った氷河期よりも前、またその経過中において既に人類が生息していたことは確実である。そうして最後に地質学者等の信ずるところでは、約一〇億年以前から既にかなり高度の進化状態にある生物が存在していたのであり、また一番初めに生物が地球上に現われたのは多分それの二倍の年数ほども昔のことであろうというのである。それでインドの哲学者等が地球上における生命の進化について想像したような長い年数に手の届くのは造作もないのである。
ここで起ってくる最後の問題は、一般生命の存在を考えるに当って、この永劫の概念をいかに応用すべきかということである。一般の化学者の考えでは、生物は今日でも行われているような物理的並びに化学的の力によって地球上に生成されたことになっている。この点についてはこの多数の人の考え方は野蛮民の考え方(第二章参照)と格別違ったところはないのである。しかしまた生命は宇宙空間から地球上へやってきたものだという学説がある。この考えは既に北方伝説において多数の神々と一対の人間とがミーメの泉(Mimes Brunn)の側の林苑(すなわち、宇宙空間に相当する所)からこの地上に移住してきたという物語にも現われているが、この説には有名な植物学者のフェルディナンド・コーン(Ferdinand Cohn)やまた恐らく現代の最大なる物理学者ケルヴィン卿のような顕著な賛成者を得た。この説には従来確かに大きな困難が付きまとっていたのであるが、私は輻射圧の推進力によって生命の萌芽が宇宙空間中を輸送されたという考えを入れてこの困難を取り去ろうと試みた。この説にはまだまだ克服すべき多大の困難があるにもかかわらず、それが多数の賛成者を得るに至ったというのは、畢竟、ほとんど年々のように向う見ずの人間が現われて、萌芽なしに無生の物質から生物を作り出すことにとうとう成功したというようなことを宣言するものがある、それをその都度いちいちその誤謬を摘発し説明するのにくたびれ果ててしまったためと考えられる。この問題はちょうど半世紀前における『永久運動』の問題とほぼ同じような段階にある。それで現在の形における『原始生成』の問題は昔の『永久運動』と同様に多分科学のプログラムから削除されてしまうにちがいないと思われる。それで結局、生命は宇宙空間、すなわち地球よりも前から生命を宿していた世界から地球上に渡来したものと考え、また物質やエネルギーと同様に生命もまた永遠なものであると、こう考えるより外に道はほとんどなくなってしまう。しかし少なくも現在のままでは、この生命の永遠性の証明が困難であるというのは、物質やエネルギーの場合に比べて、一つの本質的の差別があるためである。すなわち千差万別の形における生命を量的に測定することができないからである。見ただけでは生命が突然死滅してもその代りの生命が現われたとは証明できないようなことが実際にあるからである。――ビュッフォンは『生命原子』の不滅性に関してこれとはまたちがった独特の意見を唱道した。
生命の量的測定と言ったような驚天動地の発見は恐らく将来もできないであろうが、しかし、もし、自然界の永久の輪廻の間には、いつでも、どこかに、生命に都合のよい、従ってともかくも生物を宿しているような天体があるであろうと考えれば、生命の永久継続ということの観念を得るのは容易である。この生命萌芽汎在説(Die Lehre von der Panspermie)はおいおいに勝利を博するに至るであろうと想像するが、もしそうなれば、それから引き出される種々の有益な結論は恐らく生物科学の発達上重要な意義のあるものとなるであろう。それはあたかも物質不滅の学説が近代において精密科学の豊富な発達に非常な重要な役目をつとめたと同様なことになるであろう。
この考えから今すぐにでも言われる重要な結論はこうである。すなわち、宇宙間のあらゆる生物は皆親族関係にあるということ、またある一つの天体で生命の始まる場合には、知られている限りの最も低級な形から始めて、そうして進化の経過につれて次第に高級な形に成り上ってゆくはずだということである。事情いかんにかかわらず生命の物質的基礎はたんぱく質であるに相違ない。それで、たとえば太陽の上にも生物があると言ったような考えは永久に妄想の領土に放逐されるべきである。
哲学者は一般に生命永久継続説の信奉者であり、自生説の反対者であった。これはよく知られたことである。それでここにはただ、自然科学のすぐ近くまで肉迫していたと思われるかの大哲学者ハーバート・スペンサーの前記の所説(六九頁参照)に注意を促すに止めておく。彼はこれと同様なことをまた別の所で次のように言い表わしている。『彼ら(生物は無生物体あるいは虚無から成立し得ると主張する人々)に懇願したいのは、一体いかなる筋道によって新しい有機物が成立するかを詳細に説明してもらいたい。しかも必ず納得のゆくように説明してもらいたいということである。そうすれば彼らは、そういうふうのことまではまだ考え尽くさなかったということ、また到底それはできないことに気が付くであろう。』
キューヴィエーは生命創造論ではあらゆる他の人よりも先へ踏み出している。すなわち、彼もドルビニー(d'Orbigny)と同様に、ある大規模な自然界の革命が、彼の考えでは火山噴出があってその際にあらゆる生物が死滅し、そうしてこの絶滅したものに代って新しい種類のものが創造されたと考えた。この考えは今では全く見捨てられてしまっているが、しかし近ごろフレッヒ(Frech)が指摘したように、この考えの中にもまた一つの健全な核がある。すなわち、火山噴出の代りにいわゆる氷河期と名づけられる大規模の気候変化を持ってくれば救われるのである。この時期に多種の動物や植物は絶滅したが、その後間もなく寒冷が退却したときに、その期間中に発達しあるいは生き残っていたような新しい形態のものが豊富に現われてこれに代ったのである。
有名なドイツ出のアメリカ人で生理学者のジャック・ロェブ(Jacques Loeb)は海水の塩基度について学者の注意を促し、ある地質学的時期にはこれが雑種生物の発生に強い影響を及ぼし、従ってまた、雑種から生成するものとしばしば考えられている新種の発生にも影響し得るということを指摘した。普通の海水中では Strongylocentrotus purpuratus と名づけられるウニの卵は Asterias ochracea という海盤車の精虫では受胎しないことになっている。しかし四パーセントの苛性ソーダ溶液を三―四立方センチメートルだけ一リットルの海水中に混ずると、その中では反対に雑種の生成が顕著に成功する。そこで、空気中の炭酸含有量が少ない時代には海水の塩基度は増すはずであるから、生物界が著しく衰退していた氷河期に新しい形態のものが生成されたであろうということは余り無稽な想像ではあるまい。このようにして、再び温暖な気候が復帰したときに、氷河期の退いた後に開放された生息所の上で、これら新種族間に言わば一種の生存競争場が開かれることになった。そうしてそのために生活に最も良く適応するような形態の著しい発達を促したことは言うまでもない。
生命萌芽汎在説の問題に筆をおく前に、ここでこれと連関して、最近の実験的研究によって釈明されるようになった若干の事柄に触れておくのも無用ではあるまいと思う。
生物が輻射圧の助けを借りて一つの遊星からずっと遠方に隔絶した他の太陽系中の一つの遊星に移るということが可能であるためには、太陽系の境界以外の宇宙空間が至る所低温であり、そのために生命の機能が著しく低下し、そうしてそのために幾百万年の間生命が保存されるということが必要条件である。マードセン(Madsen)とニューマン(Nyman)、またパウル(Paul)とプラル(Prall)とは、生命の消滅に対する温度の影響に関して多数の非常に注目すべき実験を行った。前の二人は種々の温度で脾脱疽菌の対抗力を試験したが、低温度(たとえば氷室の中)では幾日もの間貯蔵しておいても大してその発芽能力を失うようなことはないが、一〇〇度においてはわずか数時間でことごとく死滅してしまう。ここで注目すべき事実は、この場合における温度の影響は他の生活機能の場合とほとんど同程度であって、すなわち、温度一〇度を増す毎に変化速度は約二倍半だけ増すということである。前に私が低温度における発芽能力の寿命に関する計算をしたときにはこの関係を基礎としたわけである。
この実験は零度以上の温度で行われたのであるが、パウルとプラルの方の実験の一部は液体空気の沸騰点(零下一九五度)で行われた。そうしてスタフィロコッケン(Staphylococcen 一種の黴菌)の植物状のもの(胞子ではなく)を、十分乾燥された状態で使用した。これは室温においては、約三日間にその半数だけが死滅するのであるが、液体空気の温度では、その生活能力は四ヶ月たっても目に立つほどは減退しない。このことは実に、極度な低温(諸太陽系間の宇宙空間においてはこの実験よりも一層そうである)は生命の維持に対して異常な保存作用を及ぼすということの最も好い証拠である。
なお、永久運動と原始生成との比較は、もう一つの方面に延長することができる。経験的知識からの避け難い帰結として我々は、永久運動によって仕事をさせることは地球上並びに太陽系におけるような事情の下には不可能であると考える外はない。しかし同時にまた、マクスウェルの案出したこの規則からの除外例が、星雲という、ある点では諸太陽と正反対の関係にある天体では顕著な役目を勤めるということも考えないわけにはゆかない。それで、いかなる点から判断しても、原始生成は現在の地球上ではできないし、また多分かなりまで今と同様な条件を備えていたと思われる過去にもできなかったであろうが、しかしこの現象が宇宙空間中のどこかの他の場所で、著しく違った物理的化学的関係の下に起り得るかも知れないということも想像されないことはない。この測るべからざる空間の中には疑いもなくそういうところがあるかもしくはあったと考えられるのである。原始生成の可能な一点あるいは諸点があればそこから生命が他の生息に適する諸天体へ広げられたであろう。それでこの原始生成という観念も、こういうふうに考えさえすれば、無限に多数としか思われない諸天体の一つ一つに、それぞれに特有な生物の種子が皆別々に発生したと想像するよりはずっともっともらしくなってくるのである。
また一方ではこういうことも明白である。それは、宇宙はこれを全体として引っくるめてみれば、無限の過去から存在し、またすべて現在と同様な諸条件に支配されていたのであるから、従ってまた生命も、すべて考え得られる限りの昔においてもやはり存在していたであろうということである。
この最後の章で述べたことから分るように、科学上の諸法則(エネルギー並びに物質不滅則のような)が方式的に設定される以前既に、これらの法則は、それが意識された程度こそまちまちではあったが、いろいろの哲学者の宇宙観の根底となっていたのである。ここで多分こういう抗議が出るかも知れない。すなわち、そんなことならば、むしろ始めからこれらの哲学者の直観的な考えを無条件に正当として承認した方が合理的ではないか、それがあとから科学者によって証明されるのをわざわざ待たなくてもよいではないかというのである。それも一応もっともな抗議ではあるが、実際はこのように後日正当として確認された哲学的の主張と同時にまたこれと正反対の意見が他の主要な思索者等によって熱心に主張され抗弁されたのであるから、結局はこういう科学的の検証が絶対に必要であったのである。
のみならずこのような哲学的の考え方と、後日それから導かれた科学上の法則との間には実は大きな懸隔があるのである。たとえばエンペドクレスあるいはデモクリトスが、当時の一般の意見に反して、物質は不滅なりと説いてはいるが、しかしこれを、彼ラボアジェーの、ある金属が空気中から酸素を取って重量を増す際、その増加は精密に金属と結合した酸素の重量に等しいということを実証したのと比較すると、その間に非常な相違がある。のみならず、このラボアジェーの実験は化学者の日常不断の経験によって補足されるのであって、物質不滅の説から導かれた結論に頼ってさえいれば決して間違いの起る気遣いはないのである。
デカルト、ライブニッツ並びにカントが太陽の徐々に燃え尽くすことに関して行った哲学的考察も、やはりエネルギーは虚無からは生成し得ないという概念をおぼろ気に暗示してはいるが、これについても同様なことが言われる。しかしマイヤー並びにジュールの研究によって、ある一定量のエネルギー(たとえば仕事としての)が消失すると同時に必ず同一量がある他の形で(たとえば熱として)現われるということが実証されてからこそはじめて、太陽のエネルギーの量は輻射のために不断に減ずる。従って、もし何らかの方法で補給されない限り結局は全部消耗してしまうはずだということを、安心して主張することができるようになったのである。それより以前では、ラプラスやハーシェルのような明敏な人々でも、今日一般の人がただ日常の経験によって直観的にそう考えていると同様に、太陽の輻射は、何か変ったことのない限り、未来永劫今のままで減少することなく持続するはずだという考えになんらの矛盾をも感じなかったのである。宇宙過程の不断の革新に関するカントの意見は非常に賞賛すべきものである――一般にそういうことになっている――が、しかしその考えの筋道にはエネルギー不滅の原理に撞着するものがある。同様なことはまたデュ・プレルの甚だ興味ある仮説についても言われるのである。
宇宙の過程は繰り返すというこの観念は、カントの場合ではある倫理学的原理に基づいている。すなわち、彼はこの宇宙はいつまでもどこまでも生命ある有機物の住みかであるという観念の中に『安堵』を感じた。のみならず、彼の考えでは、太陽が永久に消燼してしまうということは円満具足の神の本性に矛盾すると思われるのである。――スペンサーはこれよりはもう少し客観的な見地から出発している。すなわち、宇宙進化の過程はある特定の規律に従って行われると仮定してかかった。彼は宇宙が無限の過去以来存在しており――カントは創造されたと信じたに反して――また終局をももたぬという近代的な見地に立っていた。彼が物質の集中する時期と散逸する時期とが交互に来ると考えたのはインドにおける静止と発達の両時期の考えを思い出させるものがある。スペンサーはこう言っている。『太陽系は可動的平衡状態にある体系であって、その最後の分布状態においては、かつて自身にそこから発生してきたようなもとの稀薄な物質になってしまうであろう。』しかし当時は拡散を生ぜしめるような動力としてはニュートンの重力以外のものは知られなかったのであるから、このような散逸がいかにして起ったかについては何も述べていない。もっとも、スペンサーも天体間の衝突に言及してはいるが、これがこの拡散現象に対して何らかの意義あるものとは認めていなかったのである。もし何らの斥力もなかったとしたら、すべてのものは集中してしまったであろう。
輻射圧の概念が導入され、またある特定の場合におけるエントロピーの減少が証明されるようになってから、そこで始めて、天体の発達に前進的と後退的の推移があるという、インドの哲学者等が悠遠な昔から既に夢みていた観念を徹底的に追究することが可能となったのである。
観念についても生物と同じようなことがある。たくさんの種子が播かれるがその中のほんの少数のものが発芽する。そうしてそれから発育する生物の中でも多数は生存競争のために淘汰されただわずかな少数のものだけが生き残る。これと同様にしてまた、自然界に最も良く適応するような考えが選び出されたのである。学説などというものはせっかくできてもやがてまた放棄されるにきまったものであるから、こういうものに力を入れるのは全然無駄骨折りであるというような説を時々耳にすることがあるが、そういう人は、ものの進化発達ということに盲目な人である。今日行われている諸学説も、以上述べたことから了解されるであろうように、往々最古の時代に既に存在したことの確証されるような意見に基づいていることがある。しかしこれらも、もとはおぼろ気な想像から徐々に発達して、次第にその明瞭の度と適用の正しさとを増してきたものである。たとえばデカルトの渦動説でも、ニュートンが出てきて、空間中には、あると言われるほどの分量の物質は存在しないということを明確に証明すると同時に見捨てられてしまったが、しかしデカルトの抱いていた考えのうちのいろいろのものが今日でもなお生存能力を保留している。たとえば太陽系の進化の出発点たる星雲の当初からの回転運動に関する考えなどがそれである。同様にまた遊星が空間中から太陽系に迷い込んできたものだという彼の考えは、迷い込んできた彗星が遊星の形式に参与しまた遊星の運行に影響したというラプラスの考えの中に認識され、また太陽星雲から諸遊星が形成される際にその牽引の中心となった物は外界から来たものだという前記の想像の中にも認知されるのである。
それで、開闢論の問題に関する理論的の仕事は無駄骨折りであるとか、あるいはまた、昔の哲学者のあるものの既に言明している意見がかなりまで真実に近づいており、従って近代の開闢論中に再現されているわけであるから、それ以上に進むことはないであろうとか、こういう臆断ほど間違ったものはないのである。それどころではない、最近におけるこの方面の研究の発達は正にいかなる過去におけるよりも急速度で進行した。科学研究は現在その盛花期にあって、いかなる過去における盛況でも到底これとは比較することさえできない有様であるから、これはもとより当然のことと言わなければならない。
顧みて過去数世紀の経過の間に人道の発達もまたますます急速な歩を進めてきたことを知るのは誠に喜ばしいことである。これについては既に少なからざる実例を挙げてきた。全体の上から見れば、万有を包含する自然界に関する諸概念は自由と人間価値とに関する諸概念と常に同時に進みまた停止したということは否み難い事実である。これは畢竟人類が進歩するにつれて、種々な方面の文化が全体にその領土を拡張するということに帰因するのはもちろんであるが、しかしまたここにもう一つの事情が関係している。すなわち、目の届く限りの過去において、一般に科学者というものが常に人道の味方としてその擁護に務めてきたからである。これは既に前に述べたファラオ並びに奇蹟を見せるその宮廷占星術者との伝説の中にも自ら現われているのである。
自然が我々に提供する進化の無限の可能性を曇らぬ目で認め得るほどの人々は恐らく、自分のため、またその近親、朋友、同志あるいは同国人のみの利害のために、詭計あるいは暴力によって四海同胞たる人類を犠牲にするようなことをしようとはしないであろう。 
訳者付記

 

スワンテ・アウグスト・アーレニウス(Svante August Arrhenius)は一八五九年にウプザラの近くのある土地管理人の息子として生れた。ウプザラ大学で物理学を学び、後にストックホルム大学に移ってそこで溶液の電気伝導度、並びにその化学作用との関係について立ち入った研究をした。一八八七年に発表した電解の理論は真に画期的のものであって、言わば近代物理化学の始祖の一人としての彼の地位を決定するに至ったその基礎を成したものである。その間にドイツやオランダに遊歴して、オストワルト、ヴァントフ、ボルツマンのごとき大家と共同研究を続行しながら次第にこの基礎を固めていった。ギーセン大学からの招聘を辞退して一八九一年故国スウェーデンに帰り、ストックホルム工科大学の講師となり、後にそこの教授となった。一九〇五年にはまたベルリンからの招聘があったがこれも断った。同年にノーベル研究所長となり、一九二七年一〇月二日の最後の日に至るまでその職を保っていた。これより先一九〇三年に彼はその業績のために化学に関するノーベル賞を獲たのであるが、その他にも欧米の諸所の大学や学会から種々の栄誉ある賞や称号を授けられた。
溶液の研究は言わば彼の本筋の研究であって彼の世界的の地位を確保したのもまたこの研究であったことは疑いもないことであるが、しかし彼の研究的の趣味は実に広くいろいろの方面に亘っていた。この訳書の原書に示された宇宙開闢論に関しては遊星雰囲気の問題、太陽系生成の問題、輻射圧による生命萌芽移動の問題、また地球物理学方面では北光の成因、気温に及ぼす炭酸ガスの影響、その他各種自然現象の周期性等が彼の興味を引いた。その外にも生理学方面における定量的物理化学の応用、血清療法の理論及び実験的研究などもある。思うに彼は学界における一つの彗星のようなものであった。
訳者は一九一〇年夏ストックホルムに行ったついでをもって同市郊外電車のエキスペリメンタル・フェルデット停留場に近いノーベル研究所にこの非凡な学者を訪ねた。めったに人通りもない閑静な田舎の試作農場の畑には、珍しいことに、どうも煙草らしいものが作ってあったりした。その緑の園を美しい北国の夏の日が照らしていた。畑の草を取っている農夫と手まねで押問答した末に、やっとのことでこの世界に有名な研究所の所在を捜しあてて訪問すると、すぐプロフェッサー自身で出迎えて、そうして所内を案内してくれた。西洋人にしては短躯で童顔鶴髪、しかし肉つき豊かで、温乎として親しむべき好紳士であると思われた。住宅が研究所と全く一つの同じ建物の中にあって、そうして家庭とラボラトリーとが完全に融合しているのが何よりも羨ましく思われた。別刷などいろいろもらって、お茶に呼ばれてから、階上の露台へ出ると、そこは小口径の望遠鏡やトランシットなどが並べてあった。『これで a little astronomy もできるのです』と言って、にこやかな微笑をその童顔に浮ばせてみせた。真に学問を楽しむ人の標本をここに目のあたりに見る心持がしたのであった。
この現在の翻訳をするように勧められたときに訳者が喜んで引き受ける気になったのも、一つにはこの短時間の会見の今はなつかしい思い出が一つの動力としてはたらいたためである。訳しながらもは底本では「訳しながも」]時々この二〇年の昔に見た童顔に浮ぶ温雅な微笑を思い浮べるのであった。
この書の翻訳としては先に亡友一戸直蔵君の『宇宙開闢論史』がある。これは久しく絶版となっているのであるが、それにしてもともかくも現在の訳がいろいろな点でなるべくこの先駆者と違った特色をもつようにして、そうして両々相扶けて原著の全豹を伝え得るようにしたいと思って、そういう意識をもってこの仕事に取りかかった。
一番当惑したことは原著に引用されたインドや古典の詩歌の翻訳であった。原書のドイツ訳が既にオリジナルから必然的に懸け離れているであろうと思われるのを、更にもう一度日本語に意訳するのではどこまで離れてしまうか分らないであろうと思われた。それでできる限り原書ドイツ訳を逐語的に、そうしてできるだけ原書の詩一行分はやはり一行に訳するように努めた。その結果は見られる通りの甚だ拙劣で読みづらいものになってしまったのである。読者もしこの拙訳と同時にまた一戸君の書に採録された英訳や同君の達意の訳詩を参照されれば、より明らかに原詩の面影を髣髴させることを得られるであろうと思われるのである。
古事記や道徳教やの引用もわざとドイツ語をなるべく直訳した。そうした方が原著者の頭に映じたそれらの古典の面影を伝えるからである。訳しているうちに、時々『訳者注』を付加したいという衝動を感じた。一方では一般読者の理解を便にするための科学的注釈のようなものも付けたいのであるが、それよりも一層必要に感じたことは、原著の最後の改訂以来物理学天文学の方面における急速な進歩のために原著中の叙説に明らかに若干の修補を加えるか、少なくも注釈を付けなければならぬと思う箇所が気づかれるのであった。たとえば宇宙空間における光線の彎曲についてはアインシュタインの一般相対性原理の帰結について一言する方がよいと思われ、また宇宙の限界やエネルギーの変転の問題についてもその後に行われたいろいろの研究の大要を補った方がいいと思われるのであった。しかし熟考してみると、こういう注釈を合理的に全部に亘って遺漏なく付けるということはなかなか容易な業ではなく、また到底現訳者の任でもないことが分った。のみならずこの原著の本来の主旨が、著者の序文にも断ってある通り、歴史的の系統を追跡するにあるのであって、決して最新の学説を紹介するためではないのであるから、むしろここで下手な訳者注などを付けることは断念して、その代りにできる限り原著の面影をその純粋の姿において読者に伝えることに心を尽くした方が、少なくも現在の訳者には適当であると考えた次第である。しかし結果においてはやはり訳者の力の足りないために、この実に面白い書物の面白さの幾分をも伝え得ないであろうということを考えて切に読者の寛容を祈る次第である。
若干の訳述上の難点について、友人小宮豊隆君の示教を仰いだことについて、ここに改めて感謝の意を表しておきたいと思う。   昭和六年八月 本郷曙町に於て 寺田寅彦 
 

 

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